その鴉天狗は白かった (ドスみかん)
しおりを挟む

プロローグ:二対の風神少女

 

 

 何年前の話だろうか。幻想郷の人里でとある噂が立った。

 

 

 吉凶の白い翼を持つ鴉天狗。その鴉天狗に出会うことができたなら、その者は『決められた死を先送りにする』ことができるだろうと。よくある伝承だ。やれ、不老長寿の果実やら不老不死の妙薬やらの話は未だにこの幻想郷では事欠かない。何せ、この幻想郷は妖怪が闊歩している土地なのだ。

 大抵の妖怪から見れば、人間なんてモノは食事の対象。良くて格下の生物。その生き死に関心があるはずもない。そんな存在である妖怪が自分と出会った人間の寿命を伸ばしてくれるなど、おとぎ話も良いところだ。人里で暮らす殆どの人々は、白い鴉天狗の噂など全く信じていなかった。少なくともつい最近までは。

 

 

 

 夕暮れ時のある民家にて。うつらうつら、と家主の老婆が一人で居眠りをしていた頃。

 バサリ、と外から聴こえてきた翼の羽ばたく音に老婆は目を覚ます。ギシギシと軋む床板を踏みしめて何者かが家に入って来る。常人なら盗人の侵入を疑うところだろう。しかしその訪問者の顔を見た老婆は朗らかに笑った。

 

 

「おおっ、おみゃあさんかい。おかげさまで風邪も治ったよ。ありがとうなぁ」

「別に仕事だから助けただけよ。ほら、治ったなら早くお代を渡しなさい」

 

 

 ヒラリと一枚の白い羽が畳に落ちる。

 そこにいたのは妖怪だった。ただの妖怪ではない、幻想郷で最速の称号を誇る空の支配者『鴉天狗』。麻で拵えられた白い法衣に、頭巾(ときん)と呼ばれる多角形の小さな赤い帽子を頭に被る。その背中にはカラスの象徴たる黒い翼―――ではなく真っ白な翼をした少女が不機嫌そうに突っ立っていた。

 

 

「はいはい、お代だよ。そうだ刑香(けいか)ちゃん。ご飯食べて行かないかい? 沢山作り過ぎちゃってねぇ、婆やだけじゃ食べきれんのよ」

 

 

 人里のお金の入った巾着袋を手渡しながら、老婆は天狗の少女にそんな話をする。天狗の少女はピクリ、と眉を動かしたがそれ以外は無表情を決め込んでいる。ほほほ、と老婆が微笑む。

 

 

「じゃあ用意するからそこに座って待っててねぇ。今日は楽しい夕飯になりそうだよ」

「ちょっと、まだ私は食べていくなんて一言も………わかったわよ、世話になるわ。何をすればいいのか指示をちょうだい、手伝うから」

「あれま良い子だねぇ。ウチの孫の嫁に来ないかい?」

 

 

 老婆の戯れ言を聞き流し、鴉天狗の少女――刑香(けいか)は戸棚から出した皿をちゃぶ台に並べる。そして自身も包丁を持って台所に立つのだった。にんまりと微笑む老婆を鬱陶しそうに横目で睨みながら、流れる手捌きで食材を調理していった。

 こうして夕飯にありついた後、刑香は老婆の家を跡にする。立つ鳥後を濁さず、との諺(ことわざ)そのままに茶碗や湯飲みを洗ってから夕闇の中へ白い翼で飛び去っていった。

 

 その姿を老婆が見送った。急速に小さくなっていく白い姿を、目を細めながら見つめていた。

 

 

「今日は素敵な一日だったねえ。刑香ちゃんから貰った『あと一年』、こんな日が続くように有意義に使わないといけないねぇ。冥土の土産はステキな思い出がいっぱいあれば言うことなしさ」

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 白桃橋(はくとうばし)刑香(けいか)。

 それが白い翼を持つ鴉天狗の名前。十代中頃に見える背丈に白い山伏の衣装、セミロングに伸ばした髪の毛も雪のような白。そして、つり目が若干鋭い印象を与える少女だった。そんな刑香は白い翼を羽ばたかせ、隼よりも速く幻想郷の夕闇を飛ぶ。雲を切り裂き、風を置き去りにするハイスピード。別に急いで帰る用事があるわけではない、オンボロ小屋に帰ってすることなど掃除か寝るだけだ。それでも刑香はできるだけ速く空を駆ける。何かから逃げるように。その理由は、すぐにやってきた。

 

 

「あやややや、これはこれは刑香。お久しぶりですね、元気にしていましたか?」

 

 

 突然、風に乗って聞こえてきた声。緊張した刑香が振り向くとそこには自分と同じ山伏のような格好をした鴉天狗が飛んでいた。翼は闇夜の漆黒、滑らかな黒髪が風に揺れる。その姿を見た刑香は安心したように胸を撫で下ろす。そして黒い鴉天狗の少女はヒラヒラと手を振って刑香の隣を飛び始めた。規律を重んじる鴉天狗の組織にあってどこか飄々とした態度、刑香にとって心を許せる数少ない天狗であると同時にある意味で油断のならない相手。

 

 

「文(あや)じゃない、何の用? 見ての通りに私は急いでいるんだけど哨戒の途中なら早く任務に戻ったらどうなの?」

「あやや、そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。今の私は哨戒任務の途中ですけど、他の天狗はいません。それに私とあなたの仲なんですから少しくらい立ち話をしたってバチは当たりませんよ」

「それなら別にいいけど。山を追放された私なんかと口をきいていたら、あんたも上から睨まれるわよ。そんなに新聞のネタが欲しいの?」

 

 

 それはもう、と懐から取り出したネタ帳を構える姿は特ダネを求める記者そのものだ。この天狗の名前は射命丸(しゃめいまる)文(あや)、自作新聞『文文。新聞』の執筆に魂の一部を懸けているらしい鴉天狗。刑香は逞しい記者魂を見せるかつての同僚に脱力感を覚えた。仕方なく、今日の人里で仕入れた情報を提供することにする。文は細かいところまで言及してくるので正直なところ面倒くさいが、自分を見つけたのが文で良かったとも思う。

 

 他の生真面目な天狗だったら厄介事になっていたかもしれない。

 

 鴉天狗の組織は脱退者や追放された者に対して容赦がない。こんな縄張りの近くを飛行したと知られたら、下手をしなくても袋叩きにされていたかもしれない。刑香の自慢である飛行スピードをもってしても同族の鴉天狗から逃げ切るのは骨だ。特に目の前のブン屋からは逃げ切れる想像自体ができない。

 

 

「とある男が角生えた寺子屋教師に愛の告白をして頭突きされたとか、スキマ妖怪の式神が化け猫をマタタビを餌にして自分の式に勧誘してるだとか、博麗の死にかけ巫女がそろそろ代替わりしそうだとか色々聞いたけど?」

「相変わらず薮蛇っぽいネタが多いですねぇ………。とりあえず一番目のやつを尋ねていいですか?」

「いいわよ、ただし私も人づてだから過信しないでよ。えっとね」

 

 

 刑香はあまり他人と会話することが得意ではない。無愛想だし言葉づかいだって丁寧とはいえない自分と話をしたところで相手が楽しいこともないだろうと考えている。それに幼い頃から仲間内で冷遇されていた立場ゆえ、他人と接すること自体が不得手なのだ。

 

 ではなぜ、射命丸文の質問には答えているのか。

 その答えは簡単で、単に彼女の方が刑香よりも速く飛べるからに違いない。『風を操る程度の能力』。この力のお陰で文はこの幻想郷で最速の存在だ。ただですら韋駄天のごとき速さを誇る鴉天狗に『風を操る力』という補助ブースターが追加されているのだから最早どうしようもない。並の妖怪では視界にすら映らないだろう、それほどの超速度。障害物のない上空で彼女から無事に逃げ切るのは不可能に近い。そして総合的な戦闘力も同族である天狗内にあって文は頭一つ抜けている、彼女は強力な妖怪なのだ。

 

 まさか断ったところで戦闘になることは無いだろうが、元同僚かつ親友でもある文の頼みの一つや二つ聞いてやった方が無難だ。実は真剣に自分の話を聞いてくれる文と話している時間が好き、だとは口が裂けても伝えるつもりはない。

 

 

「―――ところで、相変わらずですね。まだ人里で医者の真似事を続けているんですか?」

「これしか稼ぐ方法がないのよ。妖怪相手に医者の真似事をしても代価を踏み倒されるのがオチよ。代価を払ってくれそうなプライドの高い上級妖怪はそもそも病気になんてならないし。今さらだけど、定期的に給与が払われてた組織のありがたみが身に染みるわ」

「ふーむ、しかし人里で暮らしているわけではないんですね。刑香の『能力』の有用性ならば人間を丸め込むのも楽勝でしょうに」

「うっさいわね。所詮、人間とは持ちつ持たれつの関係よ。だいたい自分たちの村に妖怪がいたら安心なんてできないでしょうが。私とアイツらはねぇ………」

「さっきまでは仲良く食事していたじゃないですか、ほらほら証拠の写真です」

「あっ、ちょっ、いつの間に!」

 

 

 先程の老婆と仲良くちゃぶ台を挟んで食事をする光景、それが写真にしっかりと写っていた。いつの間に撮影したのか、まさかとは思うが最初から後をつけられていたのかもしれない。だからコイツは油断ならないのよっ、と内心で叫びながらほんのりと赤い顔で刑香は文の手から写真を奪おうと手を伸ばす。しかし全て避けられてしまった。更に追いかけ回す刑香を余裕であしらいながら、ニヤニヤと文が笑う。

 

 

「無愛想な表情の一枚ですねえ、食事くらい楽しそうにすればいいでしょうに。おや、頬っぺたに御飯粒ついてますね」

「余計なお世話よっ。それを渡しなさい!」

「おお怖い怖い、鬼さんこちら~」

「ぜえぜえ、ふざけるなぁ………渡しなさいよぉ」

「相変わらず致命的なまでに体力ないですねぇ」

 

 

 数十秒の短い鬼ごっこは文の勝利に終わったようだ。肩で息をしている刑香を文は呆れた様子で『風』を起こして支えてやる。天狗のくせに、この体力の無さは雑魚妖怪並だ。よくもまあ、今まで生き残ってこれたものである。それも刑香の『能力』があったからこそ可能であったわけなのだが。涙目になっている友人に写真を手渡しながら、文は少しだけ真剣な顔で問いかける。

 

 

「あの人間、寿命はどのくらい残されているんですか?」

「ちょうど一年くらいよ。それ以上は『伸ばせない』。もう身体が限界ね、他にも似たような患者は多いけど」

「気に病んではいないようですね。うんうん、安心しました。刑香はすぐに鬱になりますから。はたての奴も心配してましたし、もちろん私も」

「別にあんた達がどう思おうと私には関係ないわよ。………今度、手紙書くからはたてに渡してくれる?」

「あやや、もちろんですよ。ところで私にはないんですか?」

「あんたとは今、話をしてるでしょうが」

 

 

 プイッと顔を背けてしまった刑香を風で支えながら、文はこっそりと苦笑する。素直でない友人が山を追放されてから五年。妖怪からすれば短くも長くもない時間、お互いに相変わらずのようだ。文は天狗としての任務と自作の新聞記者としての仕事をこなし、刑香は普通の医者が治せない病を抱える人間相手の医者をしている。住処こそ離れてしまったが心の距離は変わらない、それはきっと良いことなのだろう。

 

 

 しばらくして二羽の鴉天狗は別々の方向へと羽ばたいていった。

 

 黒い翼は鴉天狗の寝床である妖怪の山へ。

 白い翼はそこではない何処かへ。

 燃える夕日が煌々と明るく二人の翼を照らしていた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 さて、物語はここから始まる。

 時は未だ幻想郷に『弾幕ごっこ』なるルールのない時代、弱肉強食とも呼べる時代。紅魔館が移転してきていない時代、永遠亭が夢幻であった時代、守矢神社の二神が外界で信仰集めをしていた時代、先代巫女が現役であった時代。

 

 

 主人公は博麗の巫女ではなく、白黒の魔法使いでもなく、一羽の白い鴉天狗。その容姿から仲間たちに疎まれ、その能力から故郷である妖怪の山を追放され、それでも死にたくない故に生きる妖怪の少女。

 

 『死を遠ざける程度の能力』を持つ吉凶の白い翼。

 

 そんな白桃橋(はくとうばし)刑香(けいか)の物語はここから始まる。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一話:死を遠ざける程度の能力

 

 

 その子供は死にかけていた。

 昼は寺子屋と畑仕事に精を出し、夜は両親の内職を手伝った。自分を寺子屋に通わせてくれる両親に少しでも恩返しをしようと頑張ったのだ。それは生まれて初めて男として見せた意地でもあった。しかし、勤労な子供は流行り病に倒れてしまう。そして疲労の貯まっていた身体は大した抵抗もできずに衰弱していった。

 

 彼は高熱にうなされる。

 息が苦しい、手足が震える。もう駄目かもしれないと、熱に浮かされた頭でぼんやりと考えていた時だった。白い翼が視界に入ったのは。

 

 

「―――白いカ、ラス?」

 

 

 子供が寝ている布団の横に白い鴉がいた。お迎えだろうか、と混濁していく意識の中で覚悟する。どこかの国では死者を白いゾウが迎えに来るという話を先生から聞いたことがある、きっとそれと同じ類いに違いないと子供は両親と寺子屋の恩師に「さよなら」と心の中で別れを告げた。しかし―――。

 

 

 そっと真っ白な指が頬に触れた。

 ひんやりとした指が子供の熱を少しだけ和らげる。ぼんやりとお迎えの使者へと視線を移した子供が見たのは鴉ではなく、不機嫌そうな表情で自分を見下ろしている鴉天狗の少女だった。しかし寺子屋で先生から教わった烏天狗の姿とは幾分違う。黒い翼を羽ばたかせる幻想郷最速の妖怪。荒々しくも優雅な飛行を見せる大空の覇者として少年が想像していた姿とは違っていた。

 

 目の前で座っている鴉天狗の特徴は、一言で言うならば妖怪の持つ力強さとは真逆の存在だった。

 

 色素が抜け落ちたアルビノの白い肌、自分の頬に触れているのは白魚のように細い指。肩も華奢そのもので憂鬱そうな表情に猛る妖怪特有の熱はない。何というか、全体的に生命力が足りない。ただ―――。

 両目の碧眼、それだけは夏空の力強い青色だった。

 

 

「あんたはまだ死に追い付かれるには早いわ」

 

 

 指先から伝わってきたのは温かな波動。

 ゆっくりと押し寄せる波のように少年の身体に滲み込む妖気が、身体から『何か』を追い返していく。それに伴ってぼんやりとしていた少年の頭が冴えてくる、熱が下がってきたようだ。生命力を取り戻した身体がドクンドクンと脈を打つ。

 

 恐ろしい速さで回復していく体調。その様子を見守りながら鴉天狗の少女は、子供に触れた手のひらから妖気を出し続けていた。綺麗な妖怪だった、少年は鴉天狗を見つめる。しかし少年と目が合うとプイッと鴉天狗は目線を反らせてしまった。その対応に少しショックを受けた少年だったが、この言葉だけは伝えようと口を開いた。

 

 

「―――ありがとう」

 

「ふん、慧音の頼みを聞いてやっただけよ。後でお代も貰うし………だからお礼の言葉なんていらないわ。もう少し休んでなさい。私の能力じゃ病を完全に治すなんてできないんだから、また死にかけられたら迷惑だわ。ほら、そろそろぶり返してくるわよ」

 

 

 子供からのお礼に冷たく答えた鴉天狗。

 しかし、その態度とは裏腹に声色には気づかいが滲んでいた。そして鴉天狗の隣に心配そうな顔で座っている寺子屋の先生の存在に気がついた子供は安心して眠りに着いた。自分を救ってくれた白い烏天狗の姿を忘れることは生涯ないだろう、忘れたくない。そう、再び熱に浮かされてきた頭で思いながら。

 

 

 白い翼から抜けた羽が一枚、子供の枕元にヒラリと舞い落ちる。治療の終了を鴉天狗の少女が告げたのは、それから数秒後のことだった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「これでいいわ、後は本人の回復力次第。だいたい一週間以内に治れば問題ないはずよ。長引いたらもう一度私を呼びなさい。お代はそうね………野菜と味噌でいいわ。人里のお金なんてあんまり集めても意味ないし」

「すまない刑香。私の生徒が世話になった。本当にありがとう………ここまで体調を崩していたことに気がつかなかったなんてな。教師、失格かもしれないな」

 

 

 生徒への心配のあまりに情けない顔をしていたのは半獣半人。ハクタクなどという歴史ある妖怪の血筋であるくせに、やたらと人間と仲が良い彼女はお人好しの妖怪だ。そんな上白沢(かみしらさわ)慧音(けいね)は、人里の寺子屋教師だった。

 

 

「私たちだって妖怪の端くれよ? 脆弱な人間の体調変化に気づくなんて難しいわ。そんなに責任を感じる必要ないでしょ、何よりあんたが私を呼んだおかげで子供が助かったのだから、むしろ胸を張るべきよ」

「―――そうだな。まずはこの子が助かったことを喜ぶべきか、ありがとう刑香。ところでお代なのだが、味噌の代わりに醤油でもいいだろうか? 味噌は切らしていてな、すまない」

「こいつの治療費、あんたが払うの? こいつの親に請求するつもりだったんだけど」

「この子の母親は脚が不自由で働けない。だから家族自体が貧しくてね、そもそも人間の医者を呼ぶ余裕はなかった。もちろん私にもない。そこで近頃、人里で有名になった鴉天狗に頼らせてもらおうと思った訳なんだ」

「………まあ、別にいいけどね。あんたからの醤油でいいから寄越しなさい。こんな夜中に呼び出されて眠いのよ、さっさと家に帰るわ」

 

 慧音から野菜と醤油が入った包みを渡された後、足早に家を跡にして村の出口へと向かう。

 すぐに飛ばなかったのは人里で未だに刑香に対して不信感を持っている村人を刺激しないためだ。面倒くさい話だが、人間というのは弱いからこそ用心深く狡猾な連中が多い。この村にも妖怪である慧音や刑香をよく思わない者も少数だが存在している。まして余所者である自分は下手にそういった連中を刺激するのは避けた方が良いと刑香は考えていた。とはいえ昼間なら普通に飛んでいくので、微妙過ぎる配慮ということには二人とも気がつかなかった。

 

 

「でも人間相手に自分の知っていることを教えて生活費を稼げるなんてね。私も医者もどきと両立して寺子屋の教師にでもなろうかしら?」

「それはいいな、歓迎するよ。ならまずは私の助手をやってみないか?」

「冗談よ。私が人間相手に講釈を垂れるなんて笑えるわ」

「私は半分くらい本気だぞ。刑香には幻想郷の歴史についての知識もあるし、人間にも優しいからね、適正はある」

「私が優しいって、冗談でも笑えないわ。あんたなら分かってるでしょうに………私は優しくなんてない」

 

 

 他愛もない話をしながら暗くなった道を歩いていく二人。半年ほど前に出会ったばかりではあるが、人里ですれ違ったら挨拶をする程度には二人の関係は良好になっていた。人里に出入りし、尚且つ人間と対等に接する妖怪は珍しい。二人が仲良くなるのは予定調和のようなものだったのだろう。

 

 そして程なくして二人は村の外れに辿り着いた。

 じゃあね、と短い言葉だけ残して刑香は翼を広げて地面を蹴った。小さな砂塵が舞い、白い鴉天狗は瞬く間に夜空に溶け込んでいった。その姿を地面から見送った慧音はポツリと呟いた。

 

 

「優しくない、か。刑香、お前の他者への気づかいは冷遇され続けた組織の中でお前が身につけた処世術だろう。そんなことは私もお前自身も理解している。だがな」

 

 

 貧困な者からはお金ではなく別の物で支払いを許している刑香のソレは、優しさの一つだと思うのだ。まさに今日がそうであったように。

 それにしても、よく人里で買い物をしているくせに「人里のお金をあまり集めても意味がない」とは説得力のない話だ。まったく嘘が下手だな、と慧音は苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 

 ―――とある森の中にある寂れた神社。

 神社とは本来は妖怪を払う力を持つ場所だ。しかし人々に忘れられ信仰を集めることができなくなった神はその力を失い、神社は妖怪の入り込める所となる。刑香は妖怪の山を追われてから、この古い神社に寝泊まりしていた。渡り鳥が仮の住まいを作るような古い木造屋に、僅かな私物を持ち込んで暮らしている。

 

 帰宅した刑香は抱えていた荷物を放り出す。今日は疲れた。自慢の翼もヘロヘロで撓(しな)りがない。後で手入れをしようと思う。

 

 並みの鴉天狗より脆弱な自分の身体に多くの劣等感を持っている刑香だが、この翼だけは別だ。

 日月の光に美しく輝き、夕日に映える自慢の翼。他の鴉天狗は決して持ち得ない純白の羽。妖怪としての戦闘能力では敵わないが、この翼だけは文にさえ負けていないと思うのだ。

 

 

「………眠い、もう限界かも」

 

 

 しかし今は『能力』の余剰が磨り減ってヘトヘトだ、気分が悪い。翼の手入れは明日にしようと決めた。

 うん、頑張った。何せ今日一日で十人も治療したのだ。そのおかげで人里のお金と野菜、調味料だって手に入れた。しばらくは生活には困らないはずだ。真っ白な鈴懸(すずかけ)と赤い頭巾を脱ぎ捨てて、直接身に着けている肌着だけになる。刑香の色素の薄い肌が暗闇に浮かんだ。まだ未熟なはずの身体はどこか妖艶だった。

 そうこうしている内に、グラリと視界が傾く。

 

 

「『能力』が限界、今日は本当に疲れたわ………」

 

 

 敷かれた布団へ横になる。気をつけないと、自分が『死』に追い付かれてしまう。鴉天狗としては欠陥を持って生まれてしまった自分を支える力、それを他者に使い過ぎては余剰が無くなってしまう。その先には、まだ逝きたくない。死神の世話になるのは千年後くらいがいい、奴が自分を彼岸に連れていけるのかは知らないが。

 

 瞼(まぶた)が鉛のように重い、今夜はもうゆっくり休もう。深夜ということもあり、小さく空腹を訴える胃袋。それを無視して刑香はそっと目を閉じた。

 

 

 

 

 

「ようやく帰ってきたと思ったらもう眠るのかしら?」

「――――っ!?」

 

 

 瞬間、耳元に掛けられた声に跳ね起きる。そのまま総毛立つ感覚に従って、その場から飛び退いた。何者っ、と武器である錫杖を構えて翼を広げる。即座に臨戦体制を整えた刑香を、声の主は嘲笑う。まるで子供のやんちゃを微笑ましく見守る親のごとく穏やかに。

 

 

「あらら、そんなに警戒しちゃって。人里で噂されている烏天狗とは随分と違うみたいねぇ。もっとふてぶてしい娘を想像していたわ」

「いったい何処から、あんた何者?」

「こほん、では名乗りましょうか。私は八雲紫(ゆかり)、この幻想郷で賢者をやっている者よ」

「賢者ですって? なら、あんたがスキマ妖怪か。私の名前は「白桃橋刑香でしょう、名乗りはいらないわ。あなたに用があってきたんですもの」………そう、光栄だわ」

 

 

 今の今まで侵入者の気配はなかった。ここまで巨大な妖気を鴉天狗たる自分が感知しそこねるはずもない。会話をしながら刑香は八雲紫と名乗った妖怪を観察していた。

 

 ひしひしと感じる膨大な妖気の主。

 八雲紫は流れるような金髪を持ち、紫色のフリルドレスとふわふわしたリボン付き帽子を身につけた妖怪だった。上半身のみを何やら目玉模様が浮かび上がる裂け目から出して、こちらと会話している。恐らくは、これがスキマ妖怪の能力。先程はこの能力で突如として出現したのだろう。ならば気配など感知できるはずもない、八雲紫はまさにあの瞬間に初めて現れたのだから。激しく動悸する心臓の音を悟られぬように、刑香は堂々とした様子で口を開く。

 

 

「どういう噂があるのか知らないけど、百聞は一見にしかずってことね。―――そして、ここは私の縄張りよ。八雲紫、速やかに立ち去ってもらいましょうか。こんな深夜に訪ねてくるなんて礼儀がない。用があるなら明日に出直しなさい、さもなくば鴉天狗の力をその身に刻むことになるわよ」

 

 

 肌を針で刺す痛みを覚える莫大な妖気を全身で受けながら、刑香は錫杖を八雲紫へと突きつける。妖力からして遥か格上の存在なのは間違いないが、いざとなれば逃げ切る自信はある。何よりもこちらの都合も伺わずに深夜に訪ねてくるような妖怪相手へ下手に出るのは御免だ。そういう扱いは妖怪の山で飽き飽きしている。今の自分は組織に属さぬ自由の身なのだ。

 すると八雲紫は、どこからか扇子を取り出し広げていた。口元を隠しつつ、刑香の言葉に目を細める。

 

 

「まあ、血気盛んな妖怪がまだ幻想郷にいたのは嬉しいんだけど、小鳥のさえずりも時には耳障りねぇ。…………一匹天狗ごときが身の程を知りなさい。お前ごときに私が伺いを立てるなど必要ないわ」

「………っ!!」

 

 

 殺気一つに込められた妖力で骨が軋む錯覚すら覚える。何て妖怪だ、これは文でも相手をするのは難しいだろう。錫杖を取り落としそうになりながらも、刑香は圧力に耐えた。攻撃してきた瞬間に『能力』を発動して逃げる、縄張りと住居はまた見つければいい、そう決意して顔を上げる。すると何故か、八雲紫はニヤニヤと隠しきれない笑みを浮かべていた。殺気はすでに霧散していた、その様子を不気味に思いながらも刑香は言葉を紡ぐことにする。

 

 

「………何が可笑しいのよ。私を鳥鍋にする想像でもしているのかしら? 言っとくけど私は痩せているし、病弱だから美味くないわよ」

「安心しなさい、鴉料理は好きじゃないの。そうじゃなくて、あなたが想像よりも信頼が置けそうな鴉天狗だったから嬉しい誤算に喜んでいるの」

 

 

 何がだ、と刑香は頭を捻る。

 とりあえずこの妖怪は自分を鳥鍋にしに来たわけではないらしい。妖怪が妖怪を襲う理由など、縄張り争いか食料目当てかのどちらかだ。喰われる可能性は低くなった、それだけでも安心した。そして八雲紫は刑香に告げる。

 

 

「合格よ、したたかな天狗の連中は信用ならないから試してみたのだけど。あなたは普通の鴉天狗とはタイプが違うみたい。………あなたになら任せられる。明日、博麗神社に来なさい。あなたにやってもらうことがあるの」

 

 

 それだけ伝えると、八雲紫は目玉が浮かび上がる不気味な空間の隙間へと消えていった。大妖怪の気配が消失し、静寂を取り戻した夜の闇。緊張の糸が切れた刑香はドサリと畳へとうつ伏せに倒れ込んだ。

 

 

「何なのあの妖怪? 私を試したとか、何のために? それに博麗神社に来いってどういうことよ、あそこには妖怪退治の巫女がいるんでしょうが」

 

 

 博麗神社といえば、この幻想郷で唯一運営している神社だ。そこに住んでいるのは代々妖怪退治を生業とする『博麗の巫女』。血が繋がっているのかは不明だが世襲性で、妖怪を退治する力はとても強く、人里をむやみに襲う妖怪を討伐するプロフェッショナルらしいというのが刑香の持っている情報だ。

 

 何故そんなところに妖怪である自分に行けというのか、意味がわからない。というより行きたくない。

 

 しかし「来なければ殺す」、八雲紫には暗にそう言われた気がした。やはり断ったら鳥鍋にでもされるのだろうか、と本気で心配する。しかし真正直に行ったところで巫女に討伐されて鳥鍋にされる可能性もある。ものすごく嫌だ。

 

 

「どうしろって言うのよ」

 

 

 順風満帆だと思った日、それは一匹の大妖怪の介入により水泡に帰してしまったようだ。とりあえず現実から目をそらすために刑香は眠りについた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話:境界(スキマ)の大妖怪

 

 

 早朝、散々と悩んだ末に刑香は博麗神社に向かっていた。

 チュンチュンと雀たちが元気良く鳴き声を上げる空を、処刑台に向かう罪人のような気持ちで飛んでいた。ここまで不愉快な飛行は久しぶりだ。具体的には妖怪の山から追い出された時以来だ。一晩じっくり休んで、ある程度の体力は回復している。といっても大妖怪や博麗の巫女と一戦やりあうのは御免被りたい。こんなことなら昨日、張りきって人間を十人も治療するのではなかったと後悔するが後の祭りだ。そもそも刑香は頼まれたら断れない性分なので、八雲紫の襲撃を知っていたとしても結果はあまり変わらなかったかもしれない。

 

 

 そうして無駄なことを考えながら飛び続けること数分後、博麗神社が見えてきた。当然のこととして博麗神社と刑香の寝床は相当の距離がある。巫女と妖怪が仲良くするなどあり得ない上に、頼る仲間のいない一匹天狗たる刑香が博麗神社から離れた場所に住居を設けるのは当たり前だ。

 だが文には敵わないとはいえ、刑香は同族でも上位に入るほどの俊翼を誇っている。人間がよちよちと歩いて何時間かかる距離だろうと、刑香の翼ならば時間はかからない。それに雲を切り裂いて、高速で飛ぶのはとても気持ちがいいので好きだ。しかし今回に限るならもう少し時間をかけてもよかったかもしれないな、と刑香は後悔していた。

 

 

 

 

「あらあら、早かったのね。まだ日も昇りきっていないのに。まあもう少し遅かったら迎えに行くつもりだったのですけど」

 

 

 博麗神社の鳥居近くに降り立った刑香に声を掛けたのは、『妖怪の賢者』八雲紫。昨日と同じように扇子で口元を隠したポーズであったが、今回は全身をスキマから出していた。そして品があるのと同時に胡散臭い笑みを顔に貼り付けている。

 

 

「あんたの話が気になって他のことをする気にならないのよ。それに嫌なことは早めに終わらせるのが私の主義だし」

「そんなに警戒しなくても大丈夫よ~。あなたが他の人間にしているのと同じように『とある人物』を治療してくれればいいんだから」

「とある人物を、治療するだけ?」

 

 

 チョイチョイと紫が指差した先は神社の境内だった。

 ここまで来れば刑香にもその人物の検討はつく。恐る恐るといった様子で境内へ踏み入ってみると、縁側で紅白の衣装を着た巫女がお茶を啜っていた。そのまま目が合った。どうやら無口な女性らしく、巫女との出会いに固まってしまった刑香と合わせて無言が続く。そしてお互いに一言も発しないまま数秒間。ようやく刑香が口を開いた。

 

 

「あんた、死にかけているわね」

 

 

 この数秒で簡単に巫女の状態を観察した刑香は、目の前の巫女が『死』に追い付かれていることを確信した。無言でたたずむ巫女の鍛え上げられた無骨な身体は逞しくも美しかった。しかし逆に身体の内側、そこから感じる生命力はひどく弱々しい。原因は病か呪いか、それとも寿命か。いずれにしても長くはあるまい、刑香は心の中でそう診断を下す。どうやら噂は本当だったらしい、この巫女はもうすぐ死ぬ。

 「もういいかしら」と紫が刑香へと近づいて来た。

 

 

「彼女の寿命を伸ばせばいいのね?」

「ええ、その通り。彼女があと少しだけ生きられるようにして欲しいのよ。次の巫女がせめて結界を維持できるように成長するまでは必ず………多くは望みません」

 

 

 

 『幻想郷の守護者』、八雲紫は決意を秘めた瞳で刑香にそう告げた。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 ここ最近、八雲紫は焦っていた。

 きっかけは数ヶ月前、人里の医者から当代巫女の寿命が来たことを告げられてからだ。妖怪から負った身体的ダメージ、その身に受けた呪い、そして外界と幻想郷を隔てる博麗大結界を維持する負担に蝕まれ彼女の寿命は磨り減ってしまっていた。当代巫女は八雲紫の予想以上に、か弱い普通の人間だったのだ。

 

 しかし次代の巫女は修行中の身、歴代の誰よりも才能に溢れた少女だが今はまだ未熟過ぎる。とてもではないが当代巫女の代わりなど務まらない。適当な人物を拐って来て一時的な巫女代わりを作り出すことは可能だが、それでは本命である次代の巫女への継承に支障をきたす可能性があった。半端な人物に博麗大結界は任せたくない。次代の巫女に大きな期待を寄せている以上は、継承を完璧なものにするためにまだ当代巫女には死なれては困るのだ。

 

 手は尽くした。人里に留まらず妖怪からも巫女を治療できる医者を探し、式に命令して万病に効くという秘薬を片っ端から取り寄せさせた。しかしどれも結果は芳しくない、そうしている間にも当代巫女は顔には出さないが衰弱し続けていた。遂には雑魚妖怪の退治にすら影響がでるようになっていたのだ、それこそ刑香のような末端の妖怪の耳に入るほどに。若い頃は幻想郷を揺るがす大妖怪すら八雲紫と肩を並べて退治して見せた彼女が、こんなにも呆気なく死のうとしている。いよいよ後がなくなったと覚悟した時に、八雲紫はある噂を小耳に挟んだ。

 

 寿命を伸ばす力を持つ、吉凶の白い鴉天狗の噂。

 初めは眉唾物だった。組織に属し行動する鴉天狗が単独で、更には格下の生物と見下しているであろう人間を治療する。それは余りにも八雲紫の持つ知識にある鴉天狗像とはかけ離れていた。しかし、もはや僅かな望みであっても賭けるしかない。

 

 妖怪の賢者としてあるまじき、藁にもすがる思いで調べ尽くした結果、そこに求め続けた一筋の光明が射していることを知り歓喜する。

 

 『死を遠ざける程度の能力』。妖怪の山の鴉天狗どもを直々に問い詰めたところ、数年前に追放された者がその能力を持っていたことが判明した。八雲紫の友人である西行寺幽々子の持つ『死を操る程度の能力』とは真逆、死を先送りにする力を持つ鴉天狗の少女。

 

 

 

「これよ、これだわ! 藍、すぐにこの妖怪のいる場所を特定しなさい。私が直々に出向いて連れていくわ!」

 

 

 その時の八雲紫は素早かった。ものの数刻もしない内に白い鴉天狗の居住地を特定してきた優秀な式神、それを聞いて直ぐにスキマを使い林の中にたたずむ寂れた神社へと足を運んだ。

 

 幻想郷でまともに機能している神社は、博麗神社をおいて他にはない。その事実に違わず、その神社は形だけ残した廃屋だった。紫は扇子で口元を隠すいつものポーズで辺りを見回していた。部屋の隅に一式だけ布団が置かれている以外に生活感はない。後はその横に並べられている野菜やら調味料やらの食料が天狗の持ち物らしい。まるで妖怪らしさがない、人間が住んでいると言われたら信じてしまうだろう。鴉天狗ともあろう者が随分と質素なことだ、と思った。

 

 内密な話となるだろうから、鴉天狗が帰ってくるまでここで待っていよう、そう考えた紫は今日も結界の維持を優秀な式神に丸投げすることに決めた。

 そして―――。

 

 

「ようやく帰ってきたと思ったらもう眠るのかしら?」

 

 

 深夜に帰ってきて、そのまま布団へ横になった鴉天狗に話しかけた。耳元で言ったのは長時間待たされたことへの腹いせだ。白い鴉天狗は随分と驚いたようで、肌着のまま錫杖を構えて紫と向かい合った。表面は取り繕っているが動揺しているのが丸わかりだった。

 

 しばらくすると縄張りがどうとか、鴉天狗の力をその身に刻んでやるとか言い出したので少しだけ脅しておいた。最近の疲れのせいで思考が鈍り、誤って妖力を垂れ流しにしていたのは秘密だ。そして自分の妖力に怯えながら年頃の娘が肌着一つだけを身に付けて、必死に武器を構えて強がっているという様子を不覚にも可愛らしいと思ってしまったのも秘密だ。

 

 まあ、とりあえず要件は伝えたので良しとしよう。

 それに普通の天狗とは毛色が違うらしいということも判明したのだから悪くない成果だった。何せ天狗という連中は普段はヘコヘコしているくせにいつの間にか他者の弱みを握る。巧妙に実力を隠して大抵の場合では本気になることはない、といった面倒な気質を備えていることが多い。

 

 万が一にも巫女の治療に手を抜かれたり、巫女の治療を引き換えに後々に厄介な請求をされるのは困る。しかし天狗の組織から冷遇されて育ったらしい彼女は、そうした天狗の気質を良くも悪くも身に付けていなかった。それは今回の事態解決に際してとても都合が良かった。

 

 

 

 

 そんなこんなで翌日の早朝。

 白い鴉天狗が博麗神社に向かって飛び立ったということを式神から知らされ、もとい叩き起こされて身支度を数分で整えて彼女を澄ました顔で待ち伏せしていたわけだ。

 そして現在、内心で欠伸を噛み殺し、巫女の診察を終えたらしい彼女に話しかける。

 

 

「診察は終わったようね、巫女の身体はどうかしら?」

「かなり悪いわ、このままだと一週間と持たない。どうして、ここまでガタガタの身体で生活できているのか不思議で堪らない。人間とは思えなくて驚いたわ」

「………やはり、そうなのね。それで治療の方はどうかしら。もし必要なものがあるなら式に揃えさせるから早く教えなさい」

 

 

 巫女の寿命は間もなく尽きる、それが刑香の下した診察結果だった。だがそんなこと、八雲紫にはとっくに分かっていたことだ。必要な情報は巫女の治療が可能なのかどうか、それだけだ。博麗の巫女がこのまま死去してしまったら、幻想郷を支える要である博麗大結界が崩壊してしまうかもしれない。それは幻想郷の守護者たる八雲紫にとって自身の死よりも避けなければならないことだ。

 

 

「………寿命を伸ばすことは可能よ。でも普通の人間と同じ寿命を取り戻すなら、あの巫女に懸かっている負担みたいなモノを取り除かないと無理ね」

「もし負担を取り除かないのならば、残された時間はどれくらいあるのかしら?」

「だいたい一年と少しよ。それ以上はどうしようもない………な、何よ? そんなに目を見開いて………もしかして、失望したの?」

 

 

 あと一年。それを聞いた瞬間、八雲紫は脱力して倒れそうになった。刑香の力が期待はずれだったのではない。その示された時間は、充分過ぎる答えだったからだ。

 

 

 半年あれば、次代の巫女は結界の維持をモノにするだろう。

 

 

 刑香の示した残り時間は、それまで八雲紫が感じていた幻想郷崩壊の心配を吹き飛ばすに余りあった。ブーブー文句を垂れている次代の巫女の修行をゆっくりと確実なモノにできるだろう、そして友人である当代巫女との別れの時間だって作れるのだ。それはとても、とてもありがたいことだ。幻想郷の未来とは比べるべくもないが、友人との別れくらいは穏やかに済ませたい。

 心配そうな顔でこちらを伺っている鴉天狗に八雲紫は心から感謝した。足元を見られては厄介なので、巫女と博麗大結界の説明をしてやるつもりはないが。

 

 

「一年もあれば充分です。さあ、治療を始めてくださいな。頼みますわよ、白桃橋刑香」

「………私の名前、ようやく呼んでくれたわね。でもいいの? あの巫女に掛かっている負担を除かないと結局は一年しか持たないのよ?」

「もとより彼女も決意の上ですから」

「ふーん、そうなんだ」

 

 

 刑香はそれ以上の質問をしなかった。

 自分の患者が人間として許された寿命よりも、遥かに短い残り時間を選ぼうとしていることに。そして目の前の妖怪の賢者が悲しそうな顔で巫女の寿命を一年で充分だと言い切ったことにも。ただ頷いて、刑香は自分のやるべきことをするだけだ。その事務的な様子に八雲紫は自身の生真面目な式神を重ねて苦笑した。きっと、藍も同じような対応をしてくるだろうと刑香と姿を重ね合わせていた。

 

 

 そして治療が始まる。

 畳に寝そべった巫女の身体に触れた刑香の掌から妖力が流れ込んでいく。刑香の顔は真剣そのもので、発している妖力も相当のモノだった。それが乾いた砂に撒かれた水のごとく巫女の衰弱した身体に吸収されていく。それとともに巫女の青白かった顔色に血の気が戻っていく。巫女の内側から感じる霊力が増大したのも気のせいではなく、死にかけていた身体から感じるのは瑞々しい生命の息吹。

 

 その劇的な回復具合に八雲紫は驚愕していた。

 死の淵にいたはずの相手を最早、強制的とも言い表せる速度で生者の世界へと引き戻す。確かにこれは妖怪の山から追放させるのも理解できる。組織の調和を尊ぶ天狗どもにとって、この娘は同胞の命を繋ぐ幸運の翼であり、それ以上に災厄を招く厄介事の種だったのだろう。

 

 まず第一にこの能力、彼岸の連中が黙ってはいまい。

 閻魔から直々の許しを得ている幽々子ならいざ知らず、ただの妖怪が生命の『死』に干渉することは最大の禁忌の一つであることは間違いない。それは『境界を操る程度の能力』を持つ八雲紫でさえ踏み込めない領域だ。

 

 しかし、刑香の能力に問題があるのならとっくに何らかの処置が彼岸から下されているはずだ。それこそ死神が派遣され、刑香の魂を強制的に彼岸に連れていくかもしれない。あの四季映姫が黙っているはずがない。ならば逆に、刑香がこうして堂々と能力を行使している現状は連中から能力が黙認されていることの裏返しなのだろうか。それとも彼女らが手出しできない理由があるのか、それは八雲紫にもわからない。

 

 しばらく思考に沈んでいた紫だったが、治療を終えた刑香が振り返ると考えを中断した。いずれ調べておけば良い話なのだから。

 

 

「まあ、こんなものかしらね。私が能力を使うのを止めたら逆流が始まるけど、気をしっかり持つように巫女に伝えておいて」

「ちょっと刑香、『逆流』とはなんのことかしら?」

「私が遠ざけた死がまた追ってくるの。えーと、つまり何て説明すればいいのかしら? あとさりげなく私を名前の方で呼んだわね、紫」

「あら、私を呼び捨てにするの? やっぱり面白い娘ですこと、私の式の式になってみない?」

 

 

 八雲紫の冗談めかした提案に、一本歯の下駄をカランと鳴らして刑香は後ずさる。

 心底嫌そうな様子の鴉天狗に紫は小さく笑みを浮かべた。大妖怪たる自分と対等に話をしようとする者は少ない、最近は血気盛んな妖怪もとんと見なくなってしまった。そんな自分に対抗するように自分のことを「紫」と呼び捨てにしてきた刑香に八雲紫は微笑ましいものを感じていたのだ。

 

 

「ご遠慮させてもらうわ。代わりに化け猫を推薦してあげる、あなたの式神は猫好きらしいから」

「あら知ってたの? 藍ったら、いくら可愛らしいからって化け猫の妖怪を式神にするんだって言い張るのよねぇ。どうすればいいかしら」

「そんなの知らないわよ。少なくとも私は嫌よ」

「あんた、冷たいわね」

 

 

 刑香はハタハタと背中の翼をぎこちなく動かしながら会話に応じている。別に無理やりに式にしたりはしないのだから緊張する必要はないのだが。しかし扇子で口元を隠しながら意地悪く微笑んだ八雲紫は、この妖怪のことが少しだけ気に入っていた。彼女が望むなら式の式くらいにはしてやっても良いと思う程度には。またの機会に藍と引き合わせてみるのも面白そうだ。きっと仲良くなりそうな気がする。八雲紫は久しぶりに、明るい未来について楽しそうに思いを巡らせていた。

 

 

 それは当代巫女が亡くなり、次代の巫女がその跡を継ぐ一年前のことだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第0.5章『四季桃月報』
第三話:楽園の素敵な幼巫女


 

 

 個人新聞の発行。

 それは鴉天狗たちにとって組織内で自分の存在をアピールする手段であり、酒を飲み交わす最高の話の種であり、天狗としてのプライドを賭けた戦いでもある。

 

 末端の天狗たちからトップの大天狗たちに至るまで励む伝統、といえるほどの歴史はあったり無かったりするのだが、とりあえず天狗社会の文化の一つであることは疑いようがない。端的に表すならば、暇を持て余した天狗たちにとっての最大の娯楽、それが新聞作りなのだ。それぞれが自分の才能と技術、天狗によっては能力を使って思い思いの新聞を作成する。そして一年に何度か開かれる審査会での投票で順位が決まる、ということに天狗たちは年がら年中、熱を注いでいる。

 

 やれ『山の神』だの『空の支配者』だのと、ご立派な称号を持つ彼らも人間から見れば、妙なことに熱意を燃やす変わり者の集団であることに違いはない。妖怪と人間という種族の差を考えれば、ある程度の相互不理解は無理からぬ話ではあるが。

 

 

 

 そして、ここにも新聞作りに精を出す鴉天狗が一匹。

 白い鴉天狗、白桃橋刑香は住居である朽ちた神社の狭い部屋一面に広げられた写真とにらめっこをしていた。人里近くの野原から色々な妖怪の縄張りに至るまで様々な場所で撮影した写真たち。そこには親友である二人の鴉天狗と一緒に写ったものや、豊穣と紅葉を司る秋神の姉妹を撮ったもの等が混ざっていた。それらを一枚一枚、刑香は丁寧に吟味していく。

 

 

「うーん、この写真は構図がイマイチよね。でもこっちは迫力が足りない。あえて逆光の写真を使ってみるのも………いやいや、それはないわ」

「これでいいんじゃないかしら?」

「それは今回のテーマに合わないのよ。っていうか、いきなり現れないでよ。びっくりするじゃない、紫」

 

 

 ひょっこりとスキマから身を乗り出すスキマ妖怪、八雲紫。ほんの一瞬前には存在しなかった人物に話しかけられた刑香ではあったが、今回はあまり驚いていなかった。

 

 それもそのはずで、当代巫女の治療から既に三ヶ月が経過しているのだ。あの出来事で刑香を気に入ったらしいスキマ妖怪、そんな彼女は忘れた頃に突然訪ねて来ては刑香を驚かせていた。しかし、流石に何回もやられたら慣れる。相変わらず気配は微塵も感じないのだが、いちいち驚くのは馬鹿馬鹿しいので少なくとも表面上は驚かないようにしていた。

 

 そして、いつものように紫は口元を扇子で隠しながら刑香に話しかける。

 

 

「それにしても巫女の治療をしてもらった対価に、新聞印刷のツテを要求されるとは思ってもみなかったですわ。個人新聞にこだわるなんて刑香も何だかんだで天狗のようね」

「ちっちゃな頃から続けていたからね。鴉天狗にとっての新聞作りは自分の存在意義の一つなのよ。それこそ組織からハブられていた私にとってすら」

「さらりと自虐的ねぇ。まあ、いいのだけれど。それで、結局安定した印刷技術を持っていたのは天狗しかいなかったから私が大天狗にお願いすることになったのよねぇ。追放されている刑香に新聞作りだけは許してやりなさいって。結構苦労したのよ?」

「お願い、ねぇ。そんな穏やかなものじゃなかったような…………まあ、感謝しているわ。あんたのおかげで印刷だけはしてもらえることになったから、こうして新聞作りが再開できた。さすがに新聞大会には参加できないけど、そこまで望むのは贅沢よね」

 

 

 少しだけ残念そうに刑香が呟く。

 それを横目で見ながら紫は刑香が作成している途中の新聞を眺めていた。基本的に天狗の作る新聞は各々の好みによって内容に偏りがある。主にゴシップであったりゴシップであったり、ゴシップであったりと様々(?)だ。他にも記事の編集が上から目線だったり、出鱈目をこれみよがしに書きなぐったり、面白く記事にするために事実をねじ曲げたりするのは日常茶飯事だ。なので幻想郷では、天狗の新聞は信用性が薄いというのは常識とされている。

 

 

「それらに比べたら、あなたの作る新聞はマシな部類に入るわよねぇ。何せ四季の自然をテーマにした記事ばかり、だから『四季桃(しきとう)月報』。私はわりと好きでしてよ?」

「ありがとう紫、素直に嬉しいわ。私の新聞は文と、はたて以外の天狗には読んでもらえないし、かといって他の妖怪との個人的繋がりがあるわけでもない。だから妖怪の貴重な読者であるあんたの意見は参考にさせてもらっているわ」

「人間には好評じゃないの。あなたのお友達の『文々。新聞』と一緒に仲良く人里で読まれているわ。あくまでも天狗の新聞の中ではだけど」

「天狗全体の信頼性、低いわね」

「インパクト重視で書きなぐってたら、そりゃそうなるでしょう。事件が無ければ自分で事件を起こして記事にする傍迷惑な天狗もいるくらいなのだし、記事に信憑性を見出だすのは容易ではないわ。それで、これが今回の記事なのかしら?」

 

 

 『四季桃(しきとう)月報』。

 それが刑香の発行している新聞の名前。内容は季節感あふれる自然についての記事を掲載した月刊紙である。鴉天狗の飛行能力をフルに使って撮られた写真の数々は見る者を唸らせる迫力と美しさがある。他にもお花見スポットだとか草花を使った郷土料理といった情報が載せてあったりする。記事のインパクトや派手さが評価されがちであった天狗の新聞大会においては友人二名と共にランキング外の常連であったが、紫から評価するならば記事自体は良質だ。

 

 現在は人里で治療の仕事を続ける傍ら、患者やその家族に購読を勧めている。そのおかげでゼロスタートから着実に部数は増え続けていた。刑香の目の前にいる八雲紫も巫女の件以来、購読者の一人だ。紫の式神である藍も、新しく自分の式にした(ちぇん)のために購読している。文字に慣れさせるための音読教材にしているらしく、紫が寝ていると時々橙の微笑ましい声が聴こえてくることがあったりする。

 むむむ、と唸っていた刑香が立ち上がった。

 

 

「仕方ない、こうなったら新しい写真を撮りに行くしかないわ。今は秋だから、空から紅葉と滝のセットとかを撮れればいい記事ができそうね。タケノコとか山菜がよく採れる場所も調べて、紙面に載せたら喜ぶ人間もいるだろうし」

「あら、出かけるのならあの娘も連れていってくれないかしら?」

「あの娘って、霊夢のことよね。また私に子守りをさせる気なの? 一応、新聞作りは天狗としての仕事なんだけど」

 

 

 またスキマ妖怪の気まぐれか、と刑香が嫌そうな顔をする。紫はそんな鴉天狗を無視して話を続ける。

 

 

「あの娘、あなたの新聞を読んでから自分もこんな写真を撮りたいって言ってね。だからカメラを河童に作らせてプレゼントしたら凄く喜んでくれたのよ、とっても可愛いかったわ。というわけで取材ついでにカメラの使い方を教えてあげなさいな」

「まさか河童って、にとりの奴じゃないでしょうね。ほどほどにしてやりなさいよ、いい娘なんだから。………まったく紫って本当に勝手な大妖怪様よね。わかったわ、引き受ける。ただし相応の代金は貰うから」

「あらあら、子供の可愛らしいお願いに対価を求めるなんて世知辛い世の中ねぇ」

「霊夢から頼まれたなら無償で聞いてあげるわよ。でもこれは他でもないあんたからの頼みだからね。油断ならないし、タダで引き受けて痛い目に会いたくないのよ………あっ、やめっ、私の翼に触れるなぁ!」

 

 

 ツンツンした態度の鴉天狗。紫はその翼に唐突に指を突っ込んで、櫛を入れるように羽をときはじめた。軽くて艶やかでフワフワした羽は非常に気持ちがいい。最近の紫にとって藍の尻尾と並ぶ癒し道具だった。

 しばらく抵抗していた刑香だったが、やがて諦めたのか紫の好きなように翼を触らせている。時折、真っ赤な顔で「ひぅっ」と小さな悲鳴を上げて身体を震わせる刑香の様子に紫の嗜虐心が疼く。

 

 

「あなたの翼を触っていると羽布団が欲しくなるわ、純白でフカフカの特注品。いいわねぇ、とても寝心地が良さそうで」

「恐ろしいことを言うなぁっ! というか今すぐに私の翼を離せ、そして今後一切私に近づくなぁ!」

「やあねぇ、冗談よ。呑気にあなたの羽を集めていたら、布団にする量が貯まるまで三年くらい掛かりそうだもの。だから作るとしても枕だから安心しなさいな。それと、ここら辺が弱いみたいね」

「まったく安心できない………ひゃあっ!? わ、わかった、わかったから、タダで引き受けるから翼から手を離して!」

「ふふふ、あの子を宜しく頼むわね。刑香と遊ぶのを霊夢は楽しみにしてたのよ。あと、できれば羽毛枕もよろしくね?」

 

 

 自分の頼みが引き受けられたので紫は名残惜しそうに白い翼から手を離す。すると刑香は膝から崩れ落ちた、翼を弄られるのは余程の弱点らしい。そして荒い息づかいの中で刑香は羽毛枕の製作は本気らしい紫に危機感を抱いた。これからは夜道とスキマに注意しようと刑香は胸に誓う。

 

 

「交渉は成立、それじゃあ、あの娘を連れてくるわね。あの娘もきっと喜ぶから目一杯遊んであげなさいな。………あと、最近は色々と思い悩んでいるみたいだから少しだけ話し相手になってあげて」

「はぁ、はぁ…………。わ、わかったわよ。どうせ私に拒否権はないんでしょ。今から準備をするから、のんびり連れて来なさい」

「あら? 荷物なんて刑香の持ち物もカメラぐらいだろうし、今すぐ連れて来ても問題なんてないでしょう?」

「色々とあるのよ、私にも」

「…………ちなみに霊夢が好きなのは梅干しと鮭あたりよ。お弁当を作るならオススメかしらね。霊夢のこと、任せたわよ刑香」

 

 

 それだけ言い残してスキマが閉じる。まったく何であんなに勘が鋭いのか。持っていく弁当を作ろうとしていた心の内を読まれたようだ、刑香がため息を吐いた。

 

 

「まあいいか、あの子が来る前に手早く作ろうかな。それにしても、梅干しはともかく鮭なんてあるわけないし何か代わりのものを具にしないとね」

 

 

 そう呟くと刑香は袖をまくり、霊夢とのピクニックに持っていく弁当に入れるおにぎりを作ろうと小さな台所へと向かっていった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 霊夢は博麗神社における次代の巫女だ。

 少女は天才だった。巫女として生まれ持った才能は歴代最高、その力は八雲紫が太鼓判を押すほどであり、いずれは如何なる妖怪をも滅する妖怪退治の専門家となるだろう。まさに妖怪の天敵となるべくして生まれてきた人の子だった。

 

 

 しかし、何の因果か。そんな霊夢は近頃、一匹の妖怪にご執心だった。

 

 

 三ヶ月前、博麗の巫女としての修行を八雲紫の本拠地である境界(スキマ)内の修業場にて行っていた霊夢。その頃の八雲家はドロドロとした空気が川底の汚泥のように漂っていた。普段は鬱陶しいくらいに絡んでくる紫は寝る間も惜しんで何かを調べており、式神の藍も紫以上に多忙な仕事をこなしているようだった。

 

 その原因は博麗の当代巫女にあった。

 妖怪の賢者の予想よりも遥かに早く、巫女が寿命を迎えようとしていたからだ。結界の起点たる巫女がいなくなれば、博麗大結界はいずれ崩壊する。それは幻想郷の終焉を意味していた。しかし、次代の巫女たる霊夢は未だに修行中の身。如何に霊夢が天才であろうとも一人前になるには時間が足りなさ過ぎた。

 

 今までに見たこともない程に取り乱す紫、そんな主を必死にサポートして疲弊する藍。八雲の家は、ほんの数ヶ月だけ殺伐とした雰囲気に包まれていた。

 

 それが消えたのが三ヶ月前。

 霊夢の保護者顔したスキマ妖怪に余裕が戻り、藍が穏やかな表情で紫と霊夢に食事を作ってくれるようになった。霊夢は表情にこそ出さなかったが、あの時はとても安心したものだ。これで前のような生活に戻れる、鬱陶しいながらも優しい紫や、頑固だけど頼れる藍たちと暮らしていけると喜んだ。

 

 しかし、それが一匹の鴉天狗のおかげと知ってから悔しさを感じていたのも事実だった。紫たちのためにと、霊夢はあの数ヶ月必死に修行に打ち込んで一刻も早く一人前になろうとしていたのだ。感謝こそするものの、そんな自分の努力をある意味では無に帰した相手なのだ。

 この時点では、少なくとも霊夢は刑香にあまり良い感情は持っていなかった。

 

 

 しかし後日。

 スキマ妖怪にその鴉天狗と引き合わされた時、その姿を見上げた霊夢は言葉を失った。『死』に関わる能力を持ち、おまけに故郷から追放処分を受けた鴉天狗と紫から聞かされて霊夢は刑香を恐ろしげな風貌で想像していた。そんな霊夢の前に現れた白い鴉天狗の姿はとにかく、幼い霊夢を驚かせるのに余りあった。

 

 

 白桃橋刑香は美しい妖怪だった。

 紫や藍も目を引く美人に違いはないのだが、それとはタイプが違う。色素の抜け落ちた白い肌、雪風を封じ込めたかのような白銀の髪、瞳は澄んだ夏空の碧眼。それは透明な美しさとでもいうのだろうか、刑香は穢れを寄せ付けぬ輝きを持っていた。もし紫や藍の美貌を優美な花鳥風月の美しさに例えるならば、刑香は作り物めいた美しさ。それは美術品の類いに近い気がした。

 呆気に取られる霊夢を見下ろして刑香は口を開く。

 

 

「紫、この小さいのが次代の巫女なの? ………どうやらそのようね、この年齢で霊力は今代以上か。とんでもない後継者を見つけたようね。大したものだわ」

「うふふ、そんなに誉めても何も出ないわよ。さあさあ、お互いに自己紹介といきましょうか」

「何で私が巫女に挨拶なんて………まあいいか。こんにちは、私の名前は白桃橋刑香。種族は鴉天狗、今は人里で医者のようなことをしているわ。よろしく」

 

 

 そして、外見に目を奪われるだけではない。

 どこか冷めた様子の刑香に霊夢は共感を覚えていた。

 

 

「私は、霊夢」

 

 

 八雲紫が思わず苦笑するほど短い自己紹介。

 刑香は「そう」と一言だけ発して膝を折り、霊夢の目線の高さに自分の視線を合わせた。ちょうどお互いの顔が向かい合う。

 

 

「霊夢は何歳なの?」

「六歳だけど、あんたは?」

「九百は越えてると思うわ。一応、文と同い年ってことにしてるから」

「アヤって誰?」

「私の親友、私が認めるスゴい鴉天狗よ。私が認めてるっていうのは本人には内緒だけどね、恥ずかしいし」

「ふーん、あんたは……刑香はなにが好きなの?」

「そうね、私は…………」

 

 

 まるでお見合いのように交互に質問を交わす二人。それは人見知りで、言葉数が少ない霊夢に刑香が合わせているからに他ならない。どうやら霊夢のような子供の相手をするのに刑香は慣れているらしい。個性豊かな生徒が大勢いる寺子屋を訪問する機会が最近は増えているからだ。もちろん、主にお節介な半獣教師の差し金である。

 

 そして八雲紫の狙い通りに二人は段々と仲良くなっていった。

 必要以上はこちらに踏み込んで来ない刑香の性格は、ものぐさな霊夢とは相性が良かったのだ。それだけではなく普通の子供と同じように霊夢に接する刑香の態度も霊夢には心地よかった。それは刑香自身が幼い頃に仲間たちから腫れ物を触るような扱いをされていた経験から来ていたのだが。何はともあれ人里の人間から「次代の巫女様」と特別扱いをされていた霊夢にとって、刑香の隣が居心地の良い場所の一つとなるのに時間は掛からなかった。

 

 

 

 そして今。

 霊夢はスキマを通って刑香と合流していた。ごそごそと出発のための準備をしている刑香の背後から霊夢は、ふんわりと輝く純白の羽に霊夢は手を伸ばす。以前、紫が「あの羽を集めて布団か枕を作りたい」とか言っていたのを思い出して興味を惹かれたのだ。ちなみに式神の藍が虎視眈々と刑香の翼を狙っているのだが刑香は気がついているのだろうかと霊夢は心配する。そういえばこの間、手合わせと称した戦闘を刑香と藍は行っていたような気がする。

 霊夢は小さな手で、ぎゅっと翼を掴んだ。

 

 

「………ふかふか」

「ちょっと霊夢!? あ、やめっ…………っ!」

 

 

 肌触りは相変わらずだった。ふわふわした羽は柔らかく温かい。撫でていると心地よさに身体がむずむずしてくる。頭を突っ込んでみたいな、という普段は思い付かない考えすら霊夢の頭をよぎる。刑香が顔を真っ赤にして震えているが、刑香も気持ちいいのだろうか。それならばと撫で続ける。やはり良い手触りだ。

 

 確かにこれはいいものだ、霊夢は確信する。そして紫の枕が出来たら次は自分の分を作って貰おう、霊夢はそう思った。すると、ぐるりと振り向いた刑香からデコピンをされた、べしっと乾いた音が部屋に響いた。考えが口から漏れていたらしい。手加減はしてくれているので大して痛くない、霊夢はほんのりと赤くなったおでこを撫でる。

 

 

「下らないこと呟いてないで早く出発するわよ。ほら、来なさい霊夢。いつもみたいに抱えて飛ぶわ」

「うん」

 

 

 刑香は霊夢を細身な腕に抱え神社から出た、そのまま軽く合図をしてから真っ白な翼を広げる。ばさり、力強い羽ばたきは霊夢の両足をあっという間に地面から離れさせ遠ざけた。瞬きする間に霊夢は大空へと宙ぶらりんだ。霊夢を落とさないように刑香は、ぎゅっと両腕で霊夢を抱きしめる。刑香の寝床の神社は森の木々に紛れて見えなくなり、目の前には青い青い空がどこまでも広がっている。二人以外は誰もいない天空を抜ける風に霊夢は気持ち良さそうに目を細めた。

 

 

 空を飛ぶこと、それ自体は霊夢も得意だ。何せ、霊夢の能力は『空を飛ぶ程度の能力』なのだ。

 しかし刑香と出掛ける時はいつもこんな感じに抱っこされている。こうする方が速いからだ。それに自分で飛ばなくていいから楽だし、紫と違って刑香は後でからかったりはしない。なので、霊夢は普段なら断固として避けるであろう子供扱いの抱っこを特別に許していた。

 

 ぐんぐんと遠ざかる景色、やはり見渡す限り誰もいない空を二人で飛び続ける。刑香の少女らしい高めの声が霊夢の鼓膜を優しく震わせる。

 

 

「寒くない?」

「大丈夫、あったかいよ」

 

 

 時折、刑香とはそんな会話をするだけ。

 必要最小限の言葉を交わし、あとは流れに任せる。珍しいものを見つければ、刑香は高度を下げて霊夢に視認しやすくしてくれる。向かい風は天狗の妖力で防いでくれる、快適なお出かけだ。

 

 それは霊夢にとって妙に心地良い時間だった。大抵のことは独りでこなす霊夢が、今は逆に全てを刑香に依存している。それが何故か安心できる。幼い霊夢は時々、あることを思うことがある。

 

 

 ―――姉さんがいたら、こんな感じなのかな?

 

 

 それは大袈裟な例えだろう。たかが数ヶ月前に出会った妖怪相手にそんな親しみを持つなど、巫女としても失格かもしれない。しかし紫、藍、そして刑香、妖怪たちに囲まれて過ごす霊夢は、妖怪だから人間だからといった考えには拘らない。

 

 きっと将来はそういう巫女になるだろう。妖怪と人間との対立が和らいだ現代の幻想郷に相応しい、どちらにも平等に接する巫女に。言い換えれば、悪さをした場合にはどちらにも容赦しない巫女なのだが、やはりこの時代には相応しいだろう。しかし同時に『博麗の巫女』、その言葉は未だに幼い霊夢には重荷だった。

 

 

「ねえ、刑香」

「ん、どうしたの?」

「もっと高く飛んで欲しいの。雲より高く幻想郷全部を見渡せるくらいに」

「雲の上からは何も見えないと思うけど。でもいいわ、私の限界高度までできるだけ高く飛んであげる。怖かったら知らせなさいよ!」

 

 

 ぐんっ、と霊夢は重力に逆らう圧力を感じた。それをはね除けて白い翼はどんどんと高度を上げていく。霊夢は足元を見下ろす。そこに広がっているのは真っ白な雲ばかり、人里も妖怪の住む森や野原も見えはしない。

 一面に広がる白い世界で、刑香は滞空していた。

 

 

「まあ、雲の上なんてこんなものよ。どう満足した?」

「うーん、微妙。高い所からなら何でも見えると思ったのに、そうでもないのね。………巫女になってからも気をつけなくちゃ」

「幻想郷の全てを一人で見通すなんて不可能なんだから、普段はぐうたらな守護者でもいいと思うわよ。私が保証してあげる、人里の守護者だからって全てを背負う必要はないわ」

「………刑香は気づいてたんだ。私が、何に悩んでいたのか」

「紫の話から何となくね。大丈夫、あんたは強いわ。あと半年とちょっとで霊夢は博麗霊夢になる。それでも紫や藍、私がいなくなるわけじゃないんだから、堂々としてなさい」

「ありがと、刑香」

「紫にもお礼は言っときなさいよ。素直な言葉を伝えるのは霊夢には恥ずかしいかもしれないけど、きっと紫は喜ぶだろうから頑張りなさい」

「うん、頑張る」

 

 

 どうやら自分の悩みはお見通しだったらしい。

 もう少しだけこんな時間が続けばいいのに、霊夢は刑香から感じるぬくもりに身体を預けて、そう思った。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話:花鳥風月に舞う

戦闘シーンがあります。
苦手な方はご注意ください。


 

 

 秋深き幻想郷。

 とある山奥にて真っ赤に燃える紅葉の森、豪々と流れ落ちる清水の瀑布。耳を澄ませば滝のヒヤリとした音色が鼓膜を揺らし、目を開けば色鮮やかな紅色と黄金色が舞い踊る。

 

 白い鴉天狗と博麗の幼巫女はそんな秋真っ只中の自然の中にいた。霊夢は新品のカメラを両手でおぼつかなく構え、恐る恐るといった様子でカメラを滝に向けている。だが刑香が観察してみると、霊夢はレンズに指がくっついているわ、シャッターの場所がわからなくてオロオロと混乱し、挙げ句に腕もプルプルと震えていた。

 これは酷い、これではまともな写真を撮れるはずがない。どうやら紫はカメラの詳しい使い方までは教えていなかったらしい。まるで玩具を考えなしにプレゼントして孫の喜ぶ顔が見たかった祖母ね、などと紫本人に知られたらタダでは済まないことを刑香は考えていた。

 

 

 ――紫もカメラの使い方を詳しくは知らなかったから、私に霊夢を預けたのかな?

 

 

 だとしたら、面倒なことをしてくれたものである。霊夢と一緒にいる時間は嫌いではないのだが、自分と一緒にいて霊夢が喜んでくれているかがわからない。何せ自分は無愛想な天狗なのである。だからこそ刑香は霊夢や紫が実際として自分をどう思っているのかを考えると不安だし、他者との付き合い自体を面倒だと思うことすらある。しかし、霊夢や紫と一緒にいる時間も嫌いではないと思っている自分がいるのも事実なのだ。だから尚更、面倒くさいのだ。はっきりしない自分の心が刑香は嫌いなのだ。

 しかし今は曲がりなりにも紫に霊夢を任されている。ならば自分の悩みはさておき、頼まれたことを成し遂げるとしよう。それまでは霊夢を離れて見守っていた刑香は一旦、新聞のための撮影を止めてカメラ相手に悪戦苦闘する霊夢の元へ近づいていく。

 

 

「とりあえず私を手本にしなさい、カメラはこう構えるの。わかる?」

「こう?」

「そうよ、あとは足を肩幅くらいに開いて身体を安定させて、人差し指でシャッターを押す。そんな感じでオーケーよ」

 

 

 見よう見まねで刑香を手本にした霊夢がカメラを構え直す。そして、パシャリとフラッシュが焚かれる。どうやら上手くできたようだ。刑香が霊夢の頭を撫でる、パアッと霊夢の顔が明るくなった。

 

 

「上出来よ。初めてなのにやるじゃない、霊夢」

「うん、やっぱり刑香に頼んで良かった。紫ったらね、河童の説明書を藍に読ませて丸投げなんだもん。藍も機械には詳しくないし、色々とグダグダだったのよ」

「藍も苦労してるのね。それに比べてあのスキマは、いつもいつも他人に丸投げを………でも賢者の一人なのよね、あいつは」

 

 

 いい加減なようでいて、いざというときに頼りになる大妖怪。それが八雲紫の魅力なのだろう、少なくとも藍や霊夢にとっては。能ある鷹はなんとやら、なのだろうか。自分には真似できない在り方だと刑香は思った。少なくとも刑香は意図的に手を抜いて生きるなんて器用なことはできない。元より刑香にそんな余裕はない、一生懸命に生きていくので精一杯なのだ。しかし文なら、きっと八雲紫の生き方も理解できるだろうと刑香は思う。あの友は自分などより世渡りが巧いから。

 霊夢がぐいぐいと服の裾を引っ張って来た。どうやら思考に嵌りすぎていたらしい。くるる、と幼い巫女は可愛らしい腹の虫を鳴らしていた。

 

 

「刑香、疲れたから休もうよ。それにお腹すいた、もうお昼なんだからね」

「そうね。おにぎりを持ってきたから一緒に食べる?」

「うん!」

 

 

 

 苔むした手頃な岩を椅子の代わりにして座る二人。刑香が鞄から包みを出す。今朝に握ったおにぎりを包んだものだ。具には野菜の炒めもの、半熟卵、漬物などを入れてみた。幻想郷には海がないので鮭や昆布は手に入り難いのだ。霊夢は気に入ってくれるだろうか、と少しだけ不安な気持ちを織り混ぜながら刑香は包みの中身を開けて霊夢に見せた。

 霊夢は待ちきれないと言った様子だ。

 

 

「わぁ、凄くおいしそう。紫と違って刑香は何でも出来るのね?」

「何でもって、たかが握り飯でしょうに。よっぽど紫のヤツは料理ができないのね、そもそも藍がいる以上は料理する必要がないんでしょうけど。あと大抵のことは紫なら力づくで可能にするわよ」

「どれにしようかな」

「お好きにどうぞ?」

 

 

 自由に選ばせてあげよう、それがいいだろう。「これの具は?」とおにぎりを指差して質問する霊夢に刑香は「秘密」と答えた。中身は実際に食べてからのお楽しみだ、その方が食べる側も作った側も面白い。難しい顔をした霊夢は笹の葉に乗せられたおにぎりとにらめっこをしている。それを見て子供の頃に親友の二人とピクニックに来た記憶を刑香は思い出して苦笑する。

 あの時も刑香が弁当を用意していたのだが、いつの間にか文が妙な刺激物を混入したおにぎりを包みに紛れ込ませていた。そして、はたてと自分は見事にソレを食べて醜態を晒すことになった。その後で文をはたてと二人で追いかけ回したのもいい思い出だ。そんなことを、ぼんやりと思い出して刑香は紅葉舞う秋空を仰ぎ見る。

 

 それにしてもいい天気だ、刑香は秋晴れの澄み渡った空へと手を伸ばす。夏の名残と冬の気配、その両方を感じる季節は華やかながらも何処か寂しい。刑香の伸ばした真っ白な手に燃えるように赤い紅葉が舞い落ちた。それを優しく包み込むように手を閉じる。クシャリと小気味の良い音が掌に響いた。手を開いてみると、クシャクシャになった紅葉たちが花吹雪のように風に舞う。目を細めてそれを見送った刑香、白い髪が風に靡いた。

 

 おにぎりを食べている霊夢を見守りながら、刑香は文字通り自然と戯れていた。しかし、ふと小さな違和感を感じた。秋深き紅葉の中、今まで自分たち以外には誰もいなかったはずの空間に、ピクリと白髪から覗く耳が反応する。不穏な空気を纏う存在が近くにいることを鴉天狗の第六感が告げているのを感じた刑香は、そのまま下ろした手で武器の錫杖を握りしめた。わずかに鋭くなった刑香の眼が木々に隠れた遠方を睨んだ。

 

 

 どうやら自分たちの平穏を乱す馬鹿者がいるらしい。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 カメラの操作に夢中になっていたらお昼になっていたようだ。

 我ながら随分と熱心に励んだものだ、と霊夢はおにぎりを頬張りながら思った。少し小さめのおにぎりは霊夢にも食べやすい。多分、刑香は霊夢に合わせて握ったんだろう。言葉数は少なく不愛想な面もあるが基本的に刑香は気遣いができる妖怪だ。おにぎりに入っている具は、どれも丁寧に調理されたらしくシンプルながらも、とても美味だった。

 笹の葉で包まれたおにぎりをもう一つ刑香から受けとって霊夢はかじりつく。紫や藍が見れば「はしたない」と注意してくるだろうが、今ここには二人はいない。よほどのことでなければ刑香はそういったことには無頓着だ。よってお目付け役不在の霊夢は自由にのんびりと食事を楽しんでいた。ご飯粒のついた手を霊夢はペロペロと綺麗に舐める。

 

 

「刑香は食べないの?」

「ん、私のことは気にしなくていいわ。そもそも少食だから昼食はあんまり食べないの」

「むぐ………体力無いんだから、いっぱい食べなきゃ強くなれないよ?」

「余計なお世話」

 

 

 どうやら気に障ってしまったらしい。プイッと顔を背けられてしまった。刑香に体力がないのを心配したのは本心なのにな、と霊夢は思った。ますます不機嫌にしても酷いので声には出さない。

 しかし紫や藍のような大妖怪と比較するならいざ知れず、場合によっては霊夢より先にバテるほど刑香はスタミナがない。いくら霊夢が普通の人間でないにしろ、人間にすら劣るのでは身体が脆弱にも程がある。強力な種族である鴉天狗には普通ありえない話だ。それというのも刑香は『生まれつき』身体が弱い。スタミナだけではなく、病魔への抵抗力、傷の回復力すら同族とは比べものにならないほど弱い。本人曰く、本来なら雛鳥の段階で死んでいたはずだった。それを『能力』で補いながら刑香は命を繋いで来たらしい。

 

 白く美しい翼は忌子の証。長くは生きられぬ宿命を帯びた悲しき天狗、そんな幼子は大抵の場合には十を数える前に彼岸へと渡ることになる。本来ならそれが白い羽を持って生まれてきた刑香の運命でもあったのだ。しかし何の因果か幸運か、『死を遠ざける程度の能力』を持って生まれたために刑香は今日まで生き長らえている。

 

 

「刑香の能力って凄いね、色んな人を助けられるんだから。でも無理をしたらダメだからね?」

「あんたは私の保護者か。全くどいつもこいつも私を病人みたいに扱うんだから………っと、そろそろ痺れを切らせたか。霊夢、私の側から離れないで」

「え?」

 

 

 白い髪の隙間から見える刑香の耳がピクリと反応する、そして霊夢をふわりと抱き寄せた。一瞬呆けた霊夢だったが、自身の直感もまた危険の到来を告げているのを感じとり懐から妖怪退治用のお札を取り出した。

 何かが、潜んでいるのだ。じわりじわりと粗悪な殺気が二人に近づいてくる。紅葉の木々が揺れた。

 

 

「ヒト、ヒトヒトヒト。旨そう、旨そう、なら喰うべき。オレ間違ってない、オレ間違ってない」

「「―――――!」」

 

 

 紅葉舞い散る中に現れたのは巨大な人型の妖怪だった。薄汚れた泥色の肌と青白い剛爪、紅葉の木々よりも高く大きな巨体。立ち昇る妖気は低級妖怪のソレではない。霊夢の背中を冷たい汗が流れ落ちる。

 勝てない相手ではない。天才と称される霊夢なら勝ち目は十分にある、だてに紫や藍から巫女修行をさせられてはいないのだ。しかし戦える力を持っているのと、実際に妖怪退治を経験したことがない霊夢が満足にこの妖怪と戦えるのかは別の話だ。修行と実戦は違う、命のやり取りを行うなど幼い霊夢には早すぎる。そして巨大な妖怪が片言の人語で自分を喰いたいと言っている。その言葉が何度も頭の中で木霊する、霊夢の身体が僅かに震えた。

 

 

「刑香ぁ…………!」

 

 

 そっと刑香の影に隠れて服の裾を掴んだ。いつもは頼もしい刑香が酷くちっぽけな存在に感じられる。紅葉の木々を楽々と超える巨体を持つ妖怪と、十代半ばの背丈しかない刑香とでは同じ『妖怪』としてのカテゴリーでは計れない差異があるのだ。小鳥と熊が向かい合っているような様子だった。油断なく妖怪と向かい合う刑香は、そっと口を開く。

 

 

「安心して霊夢。大丈夫、私に任せなさい」

「刑香………ッ」

 

 

 刑香は霊夢を安心させるように頭を撫でた。そして霊夢がくすぐったそうにするのを見届けると、霊夢を庇う位置へと一歩踏み出した。自分を護るように広げられた真っ白な翼を目にした霊夢は心が落ち着いていくのを感じていた。大丈夫だ、刑香と一緒なら逃げ切れる。鴉天狗がそこらの妖怪に追い付かれるわけがない。自分を抱えて空へと飛び上がる、それで恐ろしい妖怪とはさよならだ。霊夢はそう思った。

 しかし―――。

 

 

「失せなさい」

 

 

 底冷えするような声が響いた、剣呑とした眼差しは刃のごとく鋭い。ピシリと霊夢の身体が硬直する。刑香が取った行動は霊夢の予想とは違っていた。自らが逃げるのではなく刑香はただ一言妖怪へと告げたのだ。「お前が、この場から去れ」と。

 妖怪が動きを止める。そして脂汗とシワだらけの醜悪な顔面を更に醜く歪めて笑う。小さな体躯で挑戦的な態度を見せる刑香を馬鹿にしたように嘲笑った。

 

 

「いつもヘコヘコしてる、天狗ごときが、生意気。その旨そうな小娘、渡せ。渡さないとお前も、喰う。でも鳥肉、口に合わない。まずい」

 

 

 どうやら威嚇が通じる相手ではないらしい。刑香を小馬鹿にした妖怪は霊夢へと手を伸ばす。そうはさせないと、霊夢を抱いてふわりと距離を取った刑香に妖怪はイラついた様子を見せた。抱えている霊夢が小さく震えているのを感じた刑香は決断する。霊夢とのピクニックを邪魔してくれた相手、よりにもよって刑香の前で『天狗』を侮辱した相手。ならば遠慮は不要だろう。刑香は霊夢を降ろし、武器である錫杖を構えて踏み出した。こうなれば言葉は無意味、妖怪らしく力で白黒つけるしかない、白黒つけなければならない。

 

 

「ちょっと待ってなさい、霊夢。すぐに終わらせるから」

「あっ、刑香だめ!」

 

 

 白い翼をはためかせ悠然と歩みだす刑香の山伏服を霊夢は慌てて掴む。霊夢は刑香がてっきり戦いを避けると思っていたのだ、それなのに刑香は戦いに挑もうといている。体格が違い過ぎる、あの丸太のような腕に殴られたら華奢な刑香の身体はバラバラにされるかもしれない。ならば刑香をこのまま行かせるべきではない、霊夢は刑香を踏み止まらせようとしていた。しかし、霊夢の心配を他所に呆れたように刑香はため息をつく。

 

 

「刑香、こんな奴と戦ったら殺される。おとなしく逃げようよ!」

「殺されるって、本気で言ってるの? あのねぇ、紫や藍相手なら確かに私は焼き鳥にされて喰われるでしょうけど、あの程度の妖怪相手に私がやられるとか。あんたは私を何だと………まあ、いい機会かもしれないわね。しっかり見てなさい私の力を、鴉天狗の力を」

 

 

 霊夢の手を振り払った直後、純白の翼が風を纏う。射命丸文ほどではないにしろ、鴉天狗たちは風を操る力を持っている。渦巻く大気に身を任せ、ぐっと刑香は地面を踏みしめた。そして髪を撫でる微風を霊夢が感じたのと、ほぼ同時に刑香の姿は消えていた。

 その一瞬に霊夢が目を見開くより速く、妖怪のひしゃげた悲鳴が耳に届く。

 

 

「―――――ゴボァァッツ!?」

 

 

 鴉天狗御用達の無駄に頑丈な一本歯下駄。

 そこから繰り出された強烈な蹴りが妖怪の顎に突き刺さっていた、巨体が浮き上がるほどの衝撃。即座に霊夢と妖怪の動体視力を上回るほどに加速した刑香が、自身より遥かに大きな妖怪を蹴り上げたのだ。妖怪の骨の軋む悲鳴が響く、軽いダメージではあるまい。まるで刑香の攻撃が見えなかった事実に、霊夢の心臓が激しく脈を打った。そして気づいた、刑香の戦う姿を霊夢は一度も目にしていなかったことを。練習試合とはいえ、あの藍と戦って大した傷を負わずに刑香は帰って来ていたことを。

 

 

「ごの、生意気だっ」

「遅いのよ」

 

 

 がむしゃらに妖怪が振るう腕は刑香の影すら捕らえられない。そもそも妖怪が蹴られたと認識した瞬間には刑香は妖怪の腕の届く範囲にいない。一発でも直撃を貰えば打たれ弱い刑香の身体は霊夢の想像通りに地に墜ちる、ならば一切の反撃を刑香は許さない。妖怪は鼻血をだくだくと流しながら困惑する。「何だコレは?」と、これがいつも自分との衝突を避けるために下手に出ていた天狗どもの仲間なのかと。

 妖怪の視界が上下に揺れた、また強烈な蹴りが叩き込まれたのだ。妖怪の牙が二、三本纏めて砕け散り、口から血泡と共に空気が押し出される。妖怪には刑香があの細身のどこからこんな攻撃を繰り出しているのか、わからない。何故己が小娘ごときに押されているのか、もっと分からない。

 既に朦朧とし始めた頭でふらついている妖怪を上空から見下ろす影、刑香は無表情で問いかける。

 

 

「何で、天狗たちがお前ごときにヘコヘコしていたと思う?」

「オレが、づよいがらだっ!!」

 

 

 血ヘドを吐きながら答える妖怪に白い鴉天狗は凍りつきそうな眼差しを向ける。そこには紫や霊夢と戯れていた時の緩んだ雰囲気はない。『妖怪』としての気を纏った白桃橋刑香が、そこにいた。どこか悲しそうに刑香は妖怪へと告げる。

 

 

「天狗はね、無駄な争いを避けるのよ。だからお前みたいな雑魚は相手にするだけ無駄だと判断された。始末する労力にすら見合わない妖怪と認識された。だから舌先三寸で丸め込むことにした、それだけよ。あんたは侮蔑されてたの」

「オレガ、ブベツ………ぶ、ぶざげるなぁっ!」

「格の違いもわからない哀れな妖怪。でも安心しなさい、『鬼』に喧嘩を挑んだ私も似たような大馬鹿者よ。だから私はお前を哀れまない。だから私は他の天狗と違って手は抜かない、それなりの本気で潰してやる」

 

 

 もう何度目なのか刑香の姿が消える。いや白い点が空を遠ざかっていくのが霊夢には見えた。妖怪は負傷した顎を守りながら周囲を血走った眼で見回している。あれで攻撃に備えているつもりなのかと、戦いを眺めていた霊夢は妖怪を哀れんだ。

 

 

「………速すぎる。こんなの、普通の妖怪はどうしようもない。私を抱えていた時、刑香は私を気遣ってゆっくり飛んでくれてたんだ」

 

 

 最初は唖然としていた霊夢だったがすでに動揺はない。刑香の強さを目の当たりにして、何故紫が藍を伴わせずに霊夢が刑香とのピクニックに行くことを許したのか理解した。紫や藍とは比べるべくもないが、それでも刑香は強い妖怪だったのだ。

 

 幻想郷で最強種の一つとされる『鬼』。彼らの盟友にして、彼らをして「強い種族」と認める上級妖怪『鴉天狗』。本気で戦って負ければ後がないからという理由で滅多なことでは本気を出さず、相手の顔色を伺いその裏を掻くことに長けた計算高き妖怪。されどその実力は伝承にて「古き山の神」と謳われる姿に相応しきものである。

 

 そんな伝承に反して脆弱な身体を持って生まれた刑香。しかし翼だけは、速さだけは鴉天狗の中でも射命丸文に次いで上位に名前を刻み込むだけの力がある。そのたった一つの輝きを最大限に活かして戦う、それが刑香の戦闘スタイルだ。天才と称される霊夢とは真逆、とはいかないまでも少ない手札にて相手を圧倒する戦い方は霊夢にとって目を引くものがあった。

 そこまで理解した上で霊夢は目の前の妖怪――未だに諦めずに拳を虚空に振るっている――を「馬鹿な奴」と再び哀れんだ。遥か上空から白い点がクルリと向きを変えて下降してきているのを霊夢は他人事のように見送る、決着の時だ。

 

 

「どごだあっ! どごに逃げやがっだが出でぎやがーーーー?!!」

 

 

 爆音が響き、滝壺が間欠泉のような飛沫を上げる。

 同時に霊夢の目の前から妖怪の姿は掻き消えていた。たった今、滝壺に叩き込まれた妖怪には何が起こったのか理解できなかったことだろう。

 

 しかし霊夢には見えていた。

 それは急降下からの加速を目一杯上乗せした、音速に近い速さからの破壊的な一撃。どうやら刑香は途中で速度をわざと落としたようだが、恐ろしい威力だった。吹き飛ばされた妖怪の悲鳴はなく打撃音すら後から追って聞こえて来た超速度。予想以上の威力に再び呆然とした様子の霊夢をそのままに刑香は警戒飛行を続ける。やがて滝壺から這い出た妖怪が戦意を喪失して、フラフラと逃げ出したのを確認すると刑香はほっと胸を撫で下ろした。命を奪わず、奪われずに済んだと安心したのだ。元々、あの妖怪と殺し合いをするつもりはなかったのだから。

 

 そして、今の一撃で痛めた右腕を悟られぬよう、気をつけながら霊夢の傍に降り立った。ギシリと身体の芯が軋むのを感じた、やはり自分の身体は脆弱なようだ。

 

 

「戦闘になったのは私のミス、謝るわ。………この百年で天狗の威光も墜ちたものね、以前なら私たちが一睨みすれば尻尾を巻いて逃げだしたのに。いやあの時は文とはたてが一緒だったっけ、なら私に威厳がないのかしら。困ったわね」

 

 

 あれだけ脅しておけば、あの妖怪も天狗の縄張りで悪さをすることはないだろう。それでも、もし今後も勘違いしたまま縄張りを荒らし鴉天狗たちの逆鱗に触れれば、翌日でもあの妖怪は山の入り口に生首を晒されることになる。残酷な話だが、それを天狗たちは躊躇わない。彼らは人間が思っているよりも遥かに冷徹だ、刑香は身を持って知っている。

 あの妖怪の歯を何本かへし折ったのは、警告としては少しやり過ぎたかもしれないが命を失うよりはマシだろう。繰り返すが、天狗たちは掟に背く者や縄張りを荒らす者に容赦しないのだ。今回のことで天狗を恐れてくれれば良し、あの妖怪も死なずにすむだろう。まあ、もしかしたら自分へ復讐に来るかもしれないが、その時も死なない程度に追い払ってやればいい。その程度の厄介事には慣れている、と刑香は何でもないことのように思った。

 

 

 

 口元に左手を当ててブツブツとそんなことを考えて呟く刑香に対して霊夢は無言のままだった。強いイメージなど欠片もなかった刑香の意外な強さを目の当たりにして驚いた、というのもある。しかしそれ以上に霊夢が今の刑香から目を離せなかった理由がもう一つあった。それを確かめるために霊夢はカメラを構える。

 そして妖怪同士の戦いを目撃し、姉のように慕う人物の妖怪としての一面を肌で感じ取った高揚感を胸に秘め、霊夢はそっとレンズを覗き込んだ。

 覗いたレンズに映るのは燃える紅葉の山を背負い、佇む一匹の白い鴉天狗。焼ける景色に浮かぶ真っ白な鴉の幻想風景。将来、妖怪退治の専門家になる幼い巫女は、今だけは一匹の妖怪に心を奪われる。

 

 パシャリ、無意識に霊夢は手に持ったカメラのシャッターを切った。

 

 

 

 

 後日発行された『四季桃(しきとう)月報』。

 そこには紅葉の山を背負う純白の鴉天狗、刑香の写真が掲載されていた。自分の写真を載せるなど普段の刑香なら全力で拒否することだったが、今回は撮影者の霊夢と面白がった紫に押し切られ記事の写真として採用していた。あくまでも今回だけの特別としてだ。後にも先にも、刑香が一人で写った写真が紙面に載せられたのはこの時だけだ。

 

 

 発行前、主に人里に購読者を持っている刑香は妖怪である自分の写真が掲載されたことで部数が落ち込むことを本気で心配していた。しかしその懸念を他所に、その月の四季桃月報は先月号と比べて二倍近くの売れ行きとなり新規講読者も幾らかゲットできたらしい。

 部数増加の要因が刑香の写真だったことはいうまでもない。口元に手を当てて物思いに耽る刑香、その姿は妖怪を吹き飛ばす際の攻撃で急加速したために衣服が乱れて、穢れのない艶やかな首元や滑らかな脚がいつもより大幅に見えていた。こういったことに鈍い刑香と、まだ幼い霊夢は気づいていなかったが何となく扇情的なワンショットだ。

 

 普段はツンケンしているくせに世話好きで、弄られると動揺して可愛らしい反応を示す天狗少女。そんなこんなで隠れた人気を誇っていた刑香のレアな写真が載っているということで、噂が噂を呼び人里で増刷を求める声が相次いだ。いつかの老婆と少年もこの新聞を購入していたらしい。いつの間にやら恥を掻かされていたことに刑香は気がつかなかったが、紫は全てを理解してこっそり笑っていた。

 知らない方が幸福なこともあるということだろう。しかし結局、その数日後に空で鉢合わせした射命丸文から当月号を片手にニヤニヤと指摘され恥ずかしい思いを刑香はすることになる。

 

 

 この元となった写真は数年後、白黒の魔法使いが博麗神社のタンスを漁って偶然発見することになる。古ぼけた写真に霊夢は、過ぎ去った子供時代を懐かしく思い出すことになるのだが、それは遠い未来のお話。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幻想郷縁起~白桃橋刑香について(挿絵あり)~

キャラクター紹介回となります。
最後尾に刑香のイラストを載せています。


 

 

 主人公/白桃橋刑香

 読み方/はくとうばし けいか

 種族/鴉天狗

 能力名/死を遠ざける程度の能力

 二つ名/吉凶の白い翼、人里に近くて遠い鴉天狗

 容姿/白い髪(セミロング)、夏空色の碧眼、色素の薄い肌、赤い頭巾、山伏の白い衣装、一本歯下駄、身体の起伏はフラット

 

 

 キャラクター/妖怪の山から追放されたはぐれ天狗。白い鴉天狗は災厄の前触れとして畏れられ、忌み嫌われる。刑香もそんな例に漏れず、基本的に仲間内でハブられて生きてきたので若干ひねくれている。天狗の伝統への理解が浅いため外敵と全力で戦い、自分より格上の妖怪に強気で当たるという天狗社会での世間知らず。

 執筆している新聞名は『四季桃(しきとう)月報』。四季折々の出来事や自然の美しさを天狗の飛行能力と見識を駆使して捉えている月刊新聞。現在、人里で慎ましやかな人気がある。名前に「四季」と入っているが、どこぞの閻魔様との関係は特にない。

 

 主なセリフ/「出て行きなさい、ここは私の縄張りよ。そう、従わないのね。なら全力で排除してやる」「ああっ、その写真はぁ! やめて文、それだけは………今すぐ捨てろぉ、このバカ鴉ーー!」「鬼が何だっていうの、いつまでも過去のしがらみに囚われている天狗ばかりだと思ったのかしら。―――正々堂々、勝負よ!(意識が戻ったのは三日後でした)」

 

 

 

 『死を遠ざける程度の能力』

 迫り来る死を先伸ばしにできる能力。当然のごとく病気治療に役立つが病の根本を取り除く力はなく、あくまでも死の運命を先伸ばしにするだけ。その間に本人が自力で回復できなければ結局死ぬ。あらゆる病、怪我から一時的に命を救うことができるが、その先は本人任せ。つまり長い目で見れば確実に助けられるわけではない。そのため刑香の二つ名は『吉凶の白い翼』。また戦闘への使用もできるらしい。

 尚、刑香は生まれつき虚弱な体質である。そのため普段からこの能力を使って身体の調子を整えている。他人を治療した後はかなり体力が減少してバテやすい。霊夢にすら劣るスタミナというのはこの状態の刑香のこと。能力名から西行寺幽々子の『死を操る程度の能力』に近い印象を受けるが、実は根っこの部分はかなり異質な違いがある。

 

 

 人間友好度:普通(人にも天狗にも変わらず接するため)

 危険度:高(鴉天狗なので一応)

 

 

 

◇◇◇

 

 射命丸文に尋ねてみた

「刑香ですか?」

「はい、羽毛が生えて以来の付き合いです。子供の頃は泣き虫で私の後ろを雛鳥みたいに付いてきてましたねぇ。妹ができたみたいで可愛かったですよ」

「そういえば、ここにその頃の写真がありますけど見ますか? …………では他言無用でお願いします 」

「ふふふっ、そうでしょうそうでしょう。可愛らしいでしょう。まあ今もツンデレやらクーデレやらで見ていて楽しいんですが、この時もいいですよねぇ」

「あれ、刑香? ど、どうしたんですか、そんなに怖い顔をして………あ、ちょっ、錫杖で殴られるのは流石に痛い。うぐっ、そっちがその気なら覚悟してもらいましょうか!」

(この後メチャクチャ喧嘩した)

 

 

 姫海棠はたてに尋ねてみた

「刑香の面白い話ねぇ………面白くはないけれど、こんな話はどう?」

「昔はあの娘、かなり荒れててね。昔といっても一時期なんだけど。それで里帰りしてきた鬼に喧嘩売ったことがあったのよ。『鴉天狗の誇り』がどうのってね」

「私や文以外の天狗からは、その………刑香はかなり冷たくされてたからさ。自分の存在を組織のみんなに証明したかったんだと思うんだ。自分は凄い鴉天狗なんだって」

「勝負の結果? 勝てるわけないでしょ、ボッコボコにされて三日三晩意識不明よ。文もあの時ばかりは泣きそうになってたわ。あの二人っていつも一緒だったし。いいわね、幼なじみっていうのは」

「何よ、別に羨ましいなんて思ってないんだから………!」

 

 

 

 伊吹萃香さまに尋ねてみる

「刑香? ああ、あの時の天狗か。中々に愉快な喧嘩をさせてもらったよ」

「さすが鴉天狗といえる速度だった。あそこまで本気の天狗と戦うのは久しぶりだったねぇ。中々に楽しめる戦いだった。何せ、私の放った必殺の攻撃が一切当たらないんだ。あれを紙一重で回避するアイツの姿は痛快で仕方なかったさ。ありゃあ能力も関係あるのかね。まあ、あっという間にガス欠になってたけど。ちょっと持久力が足りないかな」

「ん、また戦いたいな。勇儀に話してやったら随分と羨ましがってね、若い奴との喧嘩は酒の肴にも持ってこいなのさ」

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

このデザインは作者(ドスみかん)の個人的イメージを形にしたものです。今まで読者さん自身が築いてきたイメージがある場合はそちらをご優先ください。尚、サイトの都合上少し画質が劣化しています。

イラストレーター様のpixivページにて劣化が少ないバージョンをアップしていただきましたので、宜しければぜひご覧になってください。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

こちらは作者(ドスみかん)のイメージを形にしたわけではありませんが、とても素敵だなと感じたので載せさせていただきます。とある読者さんからの貰い物です。また違った刑香の姿を、宜しければぜひご覧になってください。




イラスト・キャラクターデザイン(一枚目):北澤様
pixivページ:
http://www.pixiv.net/member.php?id=1818789
イラストページ:
http://touch.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=49253354


イラスト・キャラクターデザイン(二枚目):びんかん様


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第1章『吸血鬼異変』
第五話:遠き西方の地より


初の主人公不在の回となります。
そして、カリスマを誇るあのお方が登場いたします。


 

 

 幻想郷から遠く離れた西洋の地。

 その地の何処かに広がる鬱蒼とした森を抜けた先に、幽玄と佇む紅い屋敷があった。外壁も屋根も全てが真紅に塗られた館。長い長い年月を重ねながらも決して朽ちぬ気品のある外観は、ここに住む長命なる者たちの存在そのものを体現しているようだった。

 

 ミルクを溢したかのように深い霧が立ち込める門を潜れば、鮮やかな花々に彩られた庭園が来訪者を迎え入れる。屋敷の主に用がある者は、そのまま館に入りエントランスを抜け、その奥にある階段を使い上階へと上がればいい。そこに屋敷の主の部屋がある。もし特に用がなく、ここを訪れたのならば屋敷に併設された『大図書館』へと足を運ぶのが良い。あらゆる時代、洋の東西、学問の種類に拘らずに集められた本たちが来館者を歓迎する。無限とも思える書籍たちは迷える者に生き方を変える切っ掛けの一つや二つは示してくれるはずだ。そこはまさに知識を求める者にとっての楽園だ。

 

 ただし図書館に辿り着けるかは、この屋敷の主が快く来訪者を迎え入れてくれるかどうかに懸かっている。そして、そんな奇跡はこの百年で一度も起こっていない。ここに迷い込んだ人間は血を抜かれ、妖怪は肉を裂かれ、屋敷の裏手にある共同墓地に葬られている。そこに例外はない。

 森に囲まれ霧に隠された紅い屋敷は外への拒絶に満ちていた。まるで屋敷の中にある何かを護るように、或いは何かを外に出さないように。

 

 

 

 

「首尾はどうかしら、パチェ?」

「まあまあよ」

 

 

 無限に近い数の蔵書が納められた大図書館。

 夜間ということもあり、屋敷の外と変わらない暗闇に満たされた室内。入り口から覗いただけでは一切の光が見えない。ここの地図を頭に入れている者でなければ、きっと迷子になってしまうだろう。そんな迷宮の中心、天井付近まで伸ばされた巨大な本棚に囲まれながらもある程度のスペースを保った隠れ家のような空間があった。そこで灯るのは小さな薄明るいランプ。まるで蛍のように仄かな光は、そこに置かれたテーブルと座る二人の少女を優しく照らしていた。そして二人の少女は紅茶とお茶菓子を囲んで何やら話し込んでいる。

 

 一人目の少女は、紫と薄紫の縦軸が入った寝間着のようなゆったりとした服を身につけた魔法使い。この図書館の主パチュリー・ノーリッジ。彼女は親友でもある屋敷の主から請け負った依頼の進み具合を本人に報告していた。連日に及ぶ作業によりパチュリーの顔は何処か疲れていたが、反して口調は楽しそうに弾んでいる。

 

 

「屋敷の転送準備、もうじき完成するわ。あとは機を伺うだけでいつでも跳ばせる。………ふふっ、こんな大魔術を使うのは本当に久しぶり。柄にもなく興奮させてもらったわ」

「ご苦労、パチェ。これで全ての準備は整った。いよいよ私たちの運命が動き出す、これでやっと『あの娘』の運命を変えられる」

 

 

 パチュリーからの報告を聞き、満足気に頷いたのは二人目の少女。

 青みがかった銀髪に深紅の瞳。ピンク色のナイトキャップと、同じくピンク色のふっくらしたワンピース調の服を身につけた十歳前後の幼い女の子。その背中からは黒い羽が生えている。刑香たち鴉天狗のような鳥類の羽ではなく、コウモリのような皮膜の張られた悪魔羽。そんな少女は会話のたびにキラリと光る牙を口から覗かせる。恐ろしげに尖った犬歯は獲物の首筋に突き立て血液を吸い出すことに適した形をしている。

 

 この屋敷、紅魔館の主レミリアは『吸血鬼』だった。恐ろしき伝説を持つ魔族の幼子は優雅に紅茶を傾ける。吸血鬼だからといって血液ばかりを口にしているわけではない。むしろ美食家たるレミリアは人間の血肉以外で好むモノが多くある、この紅茶もその一つだ。ティーカップから広がるベルガモットの落ち着いた香りがレミリアの鼻をくすぐる。少しばかり癖のある芳香も慣れた者からは心地よい。実に良い茶葉だ、レミリアは満足げに微笑む。しかしそれを楽しみながらもレミリアの真っ赤な瞳に映るのは、ここにはいない妹の存在だった。

 

 これからレミリアは己のため、そして妹のために一世一代の賭けに挑むのだ。失敗は許されない。その意気込む身体に宿るのは吸血鬼らしからぬ『熱』であった。今のレミリアからは、親友であるパチュリーすら思わず圧倒される濃密な気配を感じられた。ゆらゆらとランプの灯が揺れる。最初は乗り気でなかったパチュリーが紅魔館を幻想郷へ移転させるというレミリアの計画に賛同したのも、この気配に押されてのことだ。それは、この数百年久しく感じさせなかったレミリアの圧倒的な魔性の力。それは強大な妖怪、或いは悪魔にのみ許された力。自分と相対する対象を平伏させ従わせる『カリスマ』と呼ばれるものだった。パチュリーは自分に向けられたわけでもないソレに思わず身震いした。これが吸血鬼、これが自分の親友たるレミリアなのだと。

 

 齢五百というレミリアは、魑魅魍魎の世界では若輩者と侮られる程度の時間を生きた存在に過ぎない。しかし彼女の纏う威厳は、その身に宿る魔力は、その絶対的ともいえる能力は、遥か千年を越えて生きる大妖怪のソレと同格だった。平穏と安定を築き上げて百年近くが経過した今の幻想郷にこれ程若く、力に溢れた妖怪が果たして何人いるだろうか。レミリアの瞳が揺れる、その色は絵画に描かれる悪魔のごとき深く鮮やかな紅色。それは野望を秘めた瞳だった。

 

 

 この少女こそ幼き夜の王。

 かつて深淵の闇に君臨し、西洋世界を血に染め上げた誇り高き魔族。その生き残りにして正当なる末裔、スカーレット家の現当主。『永遠に紅い幼き月』の異名を取る吸血鬼、レミリア・スカーレット。この西方に広がる魔族界において彼女の名前を知らぬ者はいない。もしそんな輩がいたとするなら、東方からの流れ者かパチュリーのような図書館に年中引きこもっている変わり者くらいだろう。

 

 パチュリーは術式の描かれた魔導書を閉じ、眠そうな目を擦りながらレミリアが用意してくれた紅茶へと手を伸ばす。魔法使いに飲食は不要だが、何か胃に入れておかないと倒れそうだ。連日に渡って続いた転移魔法陣の作成は持病持ちのパチュリーには堪えたようだった。

 

 

「ゴホゴホッ、貴女の突然の決断は今に始まったことじゃないけど、今回ばかりは疲れたわ。まさか屋敷を丸ごと東方にある幻想郷に跳ばす準備をしろ、なんてね。面白そうだから協力したけど」

「ふふ、パチェには感謝しているわ。パチェがいなければこんな計画は実行できなかった。そして『流れ』を変えるには大きな変化が必要なの。特に今回は四百年以上も停滞している『あの娘』の運命を動かさなければならない、だから多少の無茶は必要不可欠なのよ」

 

 

 優雅に紅茶を傾けつつ語るレミリアにパチュリーは呆れたような表情を向けた。

 

 

「本当にレミィはフランに甘いわね。あなたでさえ、この間の満月の夜に暴走したあの娘のせいでバラバラにされたのよ? あの時は私や美鈴だって殺されかけた。正直なところ、あの娘は壊れてる。他でもない自分自身の能力に心を壊されてる、もう手遅れかもしれない。それでもあの娘の『運命』を幻想郷は変えられるとレミィは言うの?」

「ああ、その通りよ。私の『能力』がそう告げている。大丈夫、例え一筋の光明でも荊の道だってフランのためなら乗り越えてみせるわ。たった一人の血の繋がった家族なんだから」

「………まあ、私や美鈴は結局のところレミィに付いていくしかないんだけどね。この辺りにはこれ以上魔導を研鑽できるだけの希望はないし、むしろ幻想郷入りは私には都合が良かったかもしれないわ」

「私もフランのことを抜きにしたとしても、こんな場所はもう御免よ。私たちが幻想郷に引き寄せられるのは遅かれ早かれ、必ず訪れる運命だった」

 

 

 この館を囲む深い森を抜けた先、幾つかの山を越えた先には人間たちの大きな街が広がっている。年中を通して電灯の明かりが絶やされない大都会。闇に生きる吸血鬼の居場所はそこにない。文明に追いやられ、お伽噺として葬られた哀れな魔族はもはや童話や映画の中の悪者程度の存在でしかない。吸血鬼の象徴であった赤い月でさえ、この百年余りは自分たちを照らしていないようにレミリアは感じていた。

 ここでは駄目だ、このまま過ごしていては自分たちはいずれ消え去ってしまう。それに伴って不安定さを増した妹は自分自身を完全に壊してしまうだろう。レミリア自身と護るべき妹がやがて陥るであろう滅びの運命を、『死』の運命を塗り変えるような変化を求めてレミリアは紅魔館の幻想郷入りを決めたのだ。

 

 そしてパチュリーとしても幻想郷入りは大歓迎だ。『魔術』が『科学』に駆逐された時代、『闇』が『光』に埋め尽くされた時代。そのどちらにもパチュリーが求める魔導の答えは存在しない。なら、まだ見ぬ世界に希望を託した方がいくらか建設的だと思うのだ。

 

 

「ところで私は屋敷が転移した後も図書館に閉じこもっていていいの?」

「それは別に構わないわ。ネズミ、いや狐と白いカラスが図書館に侵入した際には戦ってもらうけどね、それ以外の侵入者は美鈴が追い返すから問題ないわ………というより、もう少しパチェは緊張してくれると思ったんだけど? これから私たちは東方の妖怪どもの楽園へ乗り込むのよ。少しくらい、いつもの冷静な表情を崩してくれてもいいじゃない。むー、つまらないわ」

「なに? レミィは私の動揺する顔を見たかったの? それこそ今更よ。言ったでしょう、貴女の我儘には慣れてるもの。例え月まで旅行に行きたいと言い出しても、今なら驚かない自信があるわ」

 

 

 いつもと変わらず余裕を感じられるパチュリー、それをもう一度確認したレミリアは笑う。それがパチュリーからレミリアに向けられた信頼によるものだと理解した上で、レミリアは良い友を持ったと自らの運命に感謝した。

 ふと、目をやった窓からは、いつもより明るい月の光が差し込んでいた。まるで自分たちを祝福するような満月の光にレミリアは苦笑する。何を今更、と。レミリアはそんな月へと愉快そうに愛おしそうに、期待に満ちた瞳で手を伸ばす。私たちの決断が吉と出るか凶と出るか、せいぜい夜空で見守っていろ、と心の中で悪態をつきながら。

 

 

「さあ、幻想郷の住人よ。我が運命のために踊ってもらうぞ。私たちが遥かなる未来を手にするための糧となるか、それとも私たちを滅ぼす十字架となるか試してやろう。愚かしい人間ども、そして牙を抜かれた哀れなる妖怪たちよ、私たちをせいぜい楽しませてくれ」

 

 

 紅魔館の主、レミリア・スカーレットは動き出す。

 十歳前後の少女に見える幼き容貌。それは名匠が丹精込めて拵えたビスク・ドールのごとく極めて繊細で可愛らしい。されどその身から発せられる魔性とも言うべき魔力は、凡庸な人間相手なら言葉を交わすだけで失神させてしまう程に強大だ。『運命を操る程度の能力』を持つ吸血鬼の少女は誰もが見惚れるような魅惑的な笑みを浮かべ、向かい合う大魔法使いへと仕上げの命令を下した。

 

 

「さて幻想郷に乗り込むとしようか、頼れる魔女殿」

「全て了解したわ、厄介な吸血鬼様」

 

 

 

 それから数日後の幻想郷、とある湖の畔に深紅の館が出現した。突如として結界を乗り越えて現れた新たな勢力、外からの侵入者を許した幻想郷は長年に渡り続いた安寧が根底から揺るがされることになる。まるで暴風に晒された湖面のごとく、妖怪たち最後の楽園は吸血鬼たちに翻弄されることになる。

 

 

 スカーレット・デビルの名と共に語り継がれ、幻想郷の歴史に深く刻まれることとなる『吸血鬼異変』はこうして始まりの時を迎えた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話:旧き時代の支配者たち

 

 

 紅葉舞い散る晩秋の幻想郷。

 それは人間、妖怪を問わずに一年で最も儚い美しさを、そして物寂しさを感じさせる季節であるだろう。短い栄華を樹上にて誇った紅葉が、今度は山の地表を黄金と深紅色の絨毯で埋め尽くす。その光景はやはり美しい。

 

 その日、刑香は寝床の古神社で翌月の『四季桃月報』のための編集作業を行っていた。今回は間違えても自分の写真を紙面に載せるつもりはない。だいたい、スタイル的に言うなら刑香よりも文やはたての方が優れているのだ。起伏に乏しい自分の写真を手に入れたからといって何になるのか、などと考えていた。異性関係の知識に疎い刑香には、まったくもって無駄な思考である。

 そんな刑香の隣では霊夢は寝転がっていた。最近は幻想郷で『とある異変』が発生している影響で、紫と藍が忙しい。なので太陽の出ている時間に霊夢は刑香のところに預けられている。ここにはお目付け役の藍はいない、つかの間の自由を満喫する霊夢は浜辺に打ち上げられた昆布のように畳の上でだらりと手足を投げ出して横になっていた。そして刑香は次号の執筆を進めながら、そんな霊夢の話相手を務めている。

 

 

「巫女は妖怪退治をするものだと思うの」

「正しい認識だと思うけど、それを鴉天狗である私に言うの?」

 

 

 刑香は霊夢の発言にかなり微妙な顔をした。正直なところ、今の言葉は妖怪が人間相手に「私は妖怪だから人間狩りをするのよ」と伝えるのと同義である。当然のこととして、それを聞いた人間は逃げ出すだろう。しばらく刑香が黙っていると霊夢は気がついたようで、手をブンブンと振って訂正した。

 

 

「ごめん、刑香じゃなくて悪い妖怪を退治するってこと。最近は人里を襲う奴もいるらしいから、私が巫女としての威厳を見せてやらないとって思ったのよ」

「要するに、またピクニックに行きたいってこと?」

「ちーがーうー! わざとでしょ、刑香!」

「ち、ちょっと危ないわよ!?」

 

 

 霊夢が不満そうな表情で刑香の背中に抱きついた。その衝撃で文字がずれそうになるのを刑香はギリギリで耐えた。今は次号の記事を纏めている途中なのだ。

 

 

「ピクニックじゃなくて妖怪退治。私は普段、紫や藍とも練習試合をしているのは刑香も知っているでしょ。だから実際に妖怪とも戦ってみたいの」

「安心しなさい、その二人は幻想郷最強のツートップだから。二人に相手してもらえるなら、そこらの野良妖怪と戦う必要はないわ」

「そうじゃなくて、実戦経験を積みたいのよ。………この間の刑香みたいに格好よく、戦って勝ってみたいの」

「私のは、そんなに上等な戦い方とは言えないわ。文の奴だったらゼロ距離から相手の顎を蹴り砕くくらいはするし、はたてだって私がやったみたいな高度からの加速は必要としない。私は色々と足りないものを速さで補填して戦って見せただけよ」

「………それが格好よく見えるのにな」

 

 

 ぼそり、とした霊夢の呟きは自分自身を卑下している刑香を責めるようだった。それに刑香は苦笑する。この幼い巫女とはずいぶん仲良くなったものだ。人間とここまで仲良くなったのは刑香にとって、これまでの生涯で初めてのことに違いない。さらさらと刑香は筆を走らせていく。

 

 

「ねーねー、刑香。私たちが力を合わせたらきっと余裕だよ。それに人里のみんなだって助けられる。だから妖怪退治に行こう?」

「私はむやみに危険な橋を渡らない主義なの、悪いわね。それに今は慧音が人里の護りを担当しているから、わざわざ私たちが出向く必要はないわ」

「つまんない」

 

 

 垂れかかってきた霊夢が刑香の白髪を弄くり始めた。感触から推測するに、どうやらツインテールにしようとしているらしい。余程へんちくりんな髪型にされない限り気にしない刑香は霊夢の好きにやらせている。

 

 

 「お客さん、どんな髪型にしましょうか?」

 「そうね、店員さんのオススメにして貰いましょうか?」

 「りょーかいだよ、刑香」

 

 

 せっかくなので、手元の引き出しから取り出した櫛と髪留めを霊夢に渡す。「わぁっ」と言ってくれたので、どうやら喜んでくれたらしい。自分の髪でよければ自由に扱ってくれて構わない、常識的な範囲でなら。しかしそれでも、再び霊夢が退屈する事態は避けられないだろう。

 

 

「………仕方ない、人里へ見回りに行きましょうか。それで途中に迷惑を働きそうな妖怪がいたら、私と一緒に懲らしめて追い払う。それでいい?」

「ほ、本当に? …………やったぁっ、藍から教えてもらった新しい術も試せる!」

 

 

 霊夢の顔が見る見る内に明るくなった。

 どうやら新しい術を自分に見せびらかしたかったようだ。刑香は「昔は自分もそうだったな」と微笑ましい気持ちになった。いつの時代も子供たちの考えることは可愛らしい。

 ただ生憎、自分に巫女の術の良し悪しはわからない。なので新術の完成度がどうであれ、「スゴい」と褒めてあげるべきだろう、と刑香はこっそり思った。そしてご褒美と称して霊夢を人里の甘味所へ連れて行ってあげるのもいいかもしれない。

 真っ白な髪に櫛を入れていく霊夢が少し不安そうな声で話しかける。

 

 

「でも、刑香。人間が襲われているのは事実なんでしょ、本当に私は妖怪退治をしなくていいの?」

「問題ないわ。そもそも紫と藍が動いているんだから、この異変はすぐに解決する。だから霊夢は戦う必要はないの」

「私は、か。…………まあいいけど」

 

 

 あまり納得してない霊夢の声。

 流石に鋭いようだ。今の異変が霊夢の手に余るからこそ関わらせないという理由は、この様子だとバレバレだろう。結界を破り侵入した西方の妖怪たち、紫が調べた所によるとその実力は本物らしい。それこそ紫や藍が迂闊に攻め込めない程度には。

 更に一部の妖怪たちは異変のドサクサに幻想郷のルールを破り、人里や他の妖怪の縄張りを襲っている。霊夢と刑香はのんびり過ごしているが、異変の混乱は幻想郷全土に広がっているのだ。何とか継承が終わる前に、当代巫女が寿命を終える前に異変を解決しなければならない。

 そして霊夢には話していないが紫は今日、そのための布石として妖怪の山へと出向いている。妖怪同士の協力体制を敷くためだ。ひたり、と刑香は筆を止める。

 

 

「紫、大丈夫なんでしょうね?」

 

 

 あのスキマ妖怪は果たして彼らを説得できるのだろうか。刑香の胸の内には心配と、かつての同胞たちへの恐れが渦巻いていた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 妖怪は普通『個』にて行動することが多い。

 煩わしい交遊関係などは最小限に、自身のやりたいように地上を闊歩する。それが長い時を生きる妖怪たちにとって最も楽な生き方だ。

 しかし、この幻想郷において天狗だけは一個体が強力な妖怪でありながら『軍』を形成する。そのため彼らの種族としての力は他の妖怪とは比較にならない。組織としての結束力で敵対者を駆逐し、縄張りを護り抜く。幻想郷において最大の勢力を誇る種族、それが天狗たちだった。

 

 

 

 

「つまりは天魔殿、天狗はこの異変に関しては協力しないと仰るのですか。突如として現れた紅い館、新参の妖怪どもに幻想郷の掟が犯されている火急の事態だというのに」

「そうは申しておりませぬ。我ら天狗は必要ならば、八雲殿に力をお貸しする心積もりです。しかしながら我らも『鬼』の方々から任されたこの山を不埒な者どもから身命を賭して護る使命があります故。八雲殿がどうしても、と仰るのならば戦力を貸すことを検討しないこともないのですが、な」

 

 

 刑香と霊夢が人里へと向かっていた頃。

 幻想郷の守護者、八雲紫は天狗たちの本拠地である妖怪の山を訪れていた。それも天狗の支配階級たる『鴉天狗』の長老たちと面会していた。場所は山の頂上に設けられた居住殿、そこに存在するのは遥かな古の世から変わらない純粋な東洋建築だった。敷地に設けられた池には太鼓橋がかかり、白砂が撒かれた庭園が広がる様子はとても趣がある。

 

 その奥の間にて会合に臨む八雲紫。

 彼女の目の前に居並ぶは、幾千年の時を重ねた大天狗たち。皆が黒々とした翼を誇らしげに広げ、堂々とした佇まいにて鎮座している。その中で、八雲紫と言葉を交わしているのはただ一人。紫はそんな老天狗に静かに、鋭い視線を送る。紫と正面から向き合っている者こそ鴉天狗たちの親玉、その名は天魔。

 

 正体は八雲紫と同じく、幻想郷に君臨する『妖怪の賢者』の一人である。

 紫にとって天魔は、幻想郷ができる前から長い付き合いのある相手だ。しかし未だに紫が天魔に対して心を許したことは一度もない、それほど老獪な男。刑香と初めて会った日に彼女を試すようなことをしたのも、元凶を辿れば目の前の老天狗のせいである。

 

 

「力を貸さぬ、とは申しておりませぬ。我ら天狗はそこまで狭い器ではない」

「しかし、あくまでも『協力』ではなく、力の『貸借』を貫かれるおつもりですのね?」

 

 

 紫は内心、大きな溜め息をついた。

 要約するなら、天狗たちが狙うのは八雲紫との対等な関係ではない。あくまでも自分たちが上、つまり『八雲紫が天狗組織に助けを求めた』という事実が欲しいのだ。そして、後々に多大な返礼を請求してくる腹積もりなのだろう。刑香との交流で薄れてしまっていたが、本来の天狗とはこういった妖怪だ。幻想郷の危機に直面してすら、そのスタンスは変わらない。

 

 

「ならば、せめて人里の護衛は我ら天狗にお任せくだされ。山の総力を挙げて人間たちを護りましょうぞ」

「それこそご冗談を」

 

 

 大方、人里への干渉を強める狙いだろう。

 幻想郷が隔離されるより昔、天狗は『神隠し』と称した人拐いを定期的に繰り返していた。人間たちに天狗の威厳、恐ろしさを刻み込むために。幻想郷が今の形となった後も、たびたび自分たちの権利として『神隠し』を認めるように八雲紫に訴えている。そんな連中に人里の警護を任せられるわけがない。

 

 

「天魔殿からの申し出、お気持ちだけ有り難く受け取らせていただきます。人里には頼れる伝手がありますから、ご心配はご無用ですわ」

「ほぉ、それは僥倖ですな。流石は八雲殿、人里にまで良い繋がりを持っておられる」

 

 

 上白沢慧音、人里に住む半獣半人の寺子屋教師。

 その正体は大陸に伝わる伝説の聖獣『白沢(ハクタク)』である。元々は純粋な人間で、後天的に妖怪の力を得たハーフ。そんな経緯を持つ彼女は常に人間の味方だ。紫は慧音と親しい刑香を通じて、既にその協力を取り付けている。人間からの信頼厚く、実力も伴う彼女なら人里の守護者に足り得る。異変が終息する瞬間まで、必ずや彼女は人里を護り抜くだろう。

 外面だけは好々爺の雰囲気を被った天魔が、残念そうに紫に告げる。

 

 

「ならば、我ら天狗がお役に立てることはありませんな。いやはや口惜しいことです。それでも八雲殿、我らは共に幻想郷に生きる者。何かありましたら、いつでも我ら天狗を『頼って』くだされ」

「ええ、天魔殿。『共に』幻想郷の危機に立ち向かいましょう」

 

 

 会合は終始、平行線だった。

 何の進展もない、悪戯に時間だけを浪費した。紫にとっては十分に予想できた結末だった。それにも関わらず失望を感じるのは、白い鴉天狗との出会いで天狗全般への理解を無意識に甘くしていたのかもしれない。あくまでも刑香が異端で実際の天狗たちとのやり取りなど、こんなものだ。

 実を結ばない会合はここで終わり、座敷から立ち上がった天魔が部下へと呼び掛ける。

 

 

「おい、射命丸。八雲殿を外までお連れしなさい」

「はっ、畏まりました。八雲殿、こちらへどうぞ」

 

 

 天魔の一言に、紫の背後に控えていた鴉天狗の少女が応じる。刑香がいつも身につけているモノと同じ白い天狗装束、その腰には妖刀と葉団扇が下げてある。それは天狗の完全武装だ。

 射命丸文は八雲紫を先導して、部屋を後にし出口まで歩いていく。ヒタヒタと長い廊下を歩く二人、会話はない。手持ちぶさたな紫は文の後ろ姿を眺めながら文の妖怪としての実力を測っていた。立ち振舞い、内に秘める妖怪としての気を。そして思わず、ため息が出そうになった。

 

 

「これはまた、並みの天狗とは文字通り桁外れね。天魔ったら、人手が足りない私へこんなに優秀な手駒を見せびらかすなんて、いつまでも子供みたいなマネをして………」

「八雲殿、どうかなさいましたか?」

「何でもないわ」

 

 

 結論から言えば先程の年老いた天狗どもと、この娘は妖怪としての格が違う。もし八雲紫があの場で大天狗たちに粗相を働いたとなれば、援軍が来るまで八雲紫を足止めする役割をこの娘は負っていたのだろう。それを命じた天魔の目利きは的確だ、この娘なら紫相手であったとしても時間稼ぎ程度なら難なくこなしただろう。紫が射命丸文から感じる張りのある妖力、何一つ曇りのない眼光は、どちらもうんざりする程に鋭い。なるほど、確かに刑香が認めるだけのことはある。将来が楽しみだ。

 興味を持った紫は周囲に他の天狗がいないのを確認してから、文に話しかけた。

 

 

「射命丸って言ったかしら? あなた、刑香と仲が良いみたいね。よく刑香があなたの話をしているわ」

「そうですか」

「あらら、思っていたよりお堅い娘ねぇ」

 

 

 陽気な天狗だと刑香から聞いていたのだが、どうやら公私のけじめは相当しっかりしているらしい。それに構わず、紫は更に会話を続ける。

 

 

「ここにいた頃の刑香はどんな天狗だったのかしら。刑香は友人の話をよくするけれど、それ以外は話したがらないのよ。良ければ、お友達のあなたが私に教えてくださらない?」

「私の口からは、何も語ることはございません」

「そう………まあいいでしょう。元々予想はしていたし大天狗の方々と実際にお会いして、それは確信に変わったわけですから」

 

 

 先程の会合で紫が驚いたことが一つある。

 それは数百年前より誰一人として、大天狗たちの顔ぶれが代わっていなかったことだ。いくら妖怪が長命といえども百年もあれば寿命を迎える者の一人や二人はいる、まして組織の上役の老体ともなれば確実に。しかし、大天狗たちはその全員が存命していた。これは異常だ、そしてその異常を成せる者の存在を紫は知っている。紫の脳裏を白い鴉天狗の姿がよぎった。恐らくは、そういうことなのだろう。

 

 紫は、先程まで話し合っていた大天狗たちの風貌を思い浮かべた。装束の隙間から見えた肌はグシャグシャにされた折り紙のように醜いシワだらけで、土色の皮膚は健常者のソレではない。落ち窪んだ眼は奈落の底のごとく陰惨な光を宿していた。恐らくは限界を越えて彼女の『能力』を自らの身に使わせたのだろう。

 

 

「『死』を遠ざけ、『生』にすがり付いた妖怪の辿った末路。哀れなものね、私には関係ないけれど」

 

 

 さて、交渉の甲斐なく協力要請は天狗から拒否されてしまった。

 八雲紫にとってこの状況はあまり芳しくない。しかし想定していなかったわけでもない。むしろ概ね予想通りだ、天狗たちは八雲紫の予想通りの輩だった。本当にそれだけのことだ。

 

 これで、八雲紫は手持ちの駒のみで紅い館の妖怪たちを打倒しなければならなくなった。命を奪うつもりはない、少し懲らしめて交渉の場に引きずり出すだけだ。しかし当然、それには適度な戦力が必要になる。

 八雲の主力である藍は確定、未熟な橙は戦力外。当代巫女はもはや戦える身体ではない、治療で限界まで伸ばした寿命が尽きかけている。そして霊夢は論外、未来の希望たる幼子をこんな異変で傷つけるわけにはいかない。実質、動けるのは自身と藍だけだ。これでは足りない。紅い館の連中には表向きだけでも決定的な敗北を与えて、幻想郷のルールに従うように促さなければならないのだ。

 

 ならば、刑香を手駒の一つに数えるか。

 鴉天狗としての強靭な肉体を持たないにも関わらず、刑香が藍との力試しで紫の予想を覆す結果をもたらしたのは事実だ。しかし、妖怪としての彼女はあまりにも脆い。果たして戦力として数えるべきか、無事に異変を乗り越えることができるのか。紫は悩んでいた。

 すると―――。

 

 

「刑香は、元気にしていますか?」

「あら?」

 

 

 ポツリと聞こえたのは、目の前を歩く天狗の声だった。

 思考に沈んでいた紫は意外な問いかけに少しだけ驚いて目を丸くした。黙りを決め込んでいた相手からの言葉に、紫は僅かに間を置いてから答える。

 

 

「ええ、とっても。霊夢とも仲良くしてもらってるから助かっているわ」

「そうですか。あの娘は昔から意地っ張りで、寂しがりやで、色々と面倒な娘ですけど…………とても、いい娘なんです。だから仲良くしてあげてください」

「あらあら、そんな話し方もできるのね」

 

 

 それは姉が、手のかかる妹を心配するような優しい声色だった。文が紫の方へと振り向く。もう二人は屋敷のある敷地の端まで到着していた、見送りはここまでだ。

 最後に文が紫へと頭を下げた。

 

 

「八雲殿、刑香をよろしくお願いします」

「任されましたわ、射命丸文。ふふ、刑香の他にも中々面白い天狗がいるものね」

 

 

 紫がかざした手に反応してスキマが開く。

 不気味な光が漏れ出すスキマへと足を踏み入れながら紫は微笑んだ。刑香だけを異端としていたが、訂正しておこう。どうやら天狗にも新しい世代が育っているようだ。

 

 

「さて、未来のために異変を解決するとしましょうか。とはいえ手駒が少なすぎるし、やっぱり刑香にも参加してもらうしかなさそうねぇ………うーん、どうしようかしら」

 

 

 再び悩むスキマ妖怪。

 しかし、やがて訪れる未来の幻想郷で霊夢や刑香、そして彼女たちがどういった活躍を見せるのか、八雲紫は少しだけ楽しみに感じていた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話:行雲流水を行く

 

 

 その日は酷い天気だった。

 空一面に広がる灰色の雲は大量の雨を地上へと、まんべんなく矢のように射ちつける。このところ干ばつに悩まされていた村人たちは大いなる自然の恵みに感謝しつつ、傷んだ屋根の雨漏りを心配し、妖怪たちは森や洞窟内で雨をやり過ごしているだろう。そんな悪天候の『上』を、白い翼が飛んでいたことに気がつけた者はいなかった。

 

 

「ずいぶんと厚い雲ね、博麗神社が見えないわよ」

 

 

 分厚い雲海を見下ろしながら、刑香は雲の上を飛んでいた。

 眼下を覆い尽くす黒雲は地上の景色を完全に遮断している。それでも純白の鴉天狗は青空を真っ直ぐに進む。地上は激しい雨だろうが、雲の上はある程度は快適だ。視界を遮る雨粒も、気の滅入る黒雲もここまでは届かない。刑香の白い翼に晩秋の優しげな日差しが降り注いでいた。いい天気だ。

 

 今、刑香は紫からの手紙で博麗神社へと呼び出されていた。何でも大切な話があるらしい。スキマではなく、わざわざ刑香を呼び寄せるあたり、他者に聞かれてはまずい話なのか、それとも無理難題を押し付ける下準備なのかはわからない。どちらにしても厄介な内容なのは間違いないだろう。

 

 

「っと、この辺よね?」

 

 

 鴉天狗としての直感を信じ、博麗神社とおぼしき所へと刑香は降下することを決めた。このまま雨雲を突き破れば、ずぶ濡れになってしまう。さすがに脆弱な自分でもその程度で風邪をひくことはないと信じたいが念のために風を操り、雨を弾きながら降下する。避けきれなかった雨粒が髪と頬を濡らすのを、鬱陶しく思いながら真っ暗な地上へと高度を下げていく。

 雲間を抜けた上空から見下ろすと、薄暗い中に神社の鳥居が見えた。どうやら降りるタイミングに問題はなかったらしい。そのまま纏った風で雨を弾きながら神社へと飛ぶ。

 

 

「…………ん、誰かいるわね」

 

 

 だんだんと近づいてくる鳥居。その側に人影がいるのに刑香は気づいた。八雲紫ではない。

 そして、その者は自分とは別の方法、恐らくは何らかの妖術を使用しているのだろう。そこだけ風が凪ぎ、一切の雨粒がよけていく様子は異様だ。ただ佇んでいるだけで放たれる圧倒的な存在感。その者の外見は青い法師服にナイトキャップ、そして背後には黄金の毛並み。

 今まさに水浸しにされつつある境内に、刑香は降り立った。一本歯下駄がパシャリ、と水たまりを散らす。目の前には、黄金に輝く九本の尻尾を持つ妖怪。

 

 

「久しぶりね、藍」

「よく来てくれたな、白桃橋」

 

 

 スキマ妖怪、八雲紫の右腕にして最強の式神。伝説中の伝説として語り継がれる『九尾の妖狐』の大妖怪。八雲藍がそこで待っていた。

 

 

 

 

 幻想郷の要の一つである博麗神社。

 巫女の治療のために定期的に訪問しているため、この神社にも馴染んだものだと思いながら刑香は藍から出されたお茶を啜る。患者である巫女は奥の部屋で眠っているが、その寝息は弱弱しい。刑香の見立てでは、彼女の時間はもう一週間と残されていない。その短い時間を彼女には、せめて穏やかに過ごして欲しい。それが巫女の親友である八雲紫の願いであることを刑香は理解している。

 だからこそ異変の早期解決のために「天狗組織を説得しに行く」と無茶なことを言っていた紫を刑香は止めなかった。八雲紫なら何とかしてしまうのではないかという淡い期待もあったからだ。しかしながら、やはり天狗からの答えは刑香の想像通りだったらしい。

 藍が知らせてくれた昨日の会合の結果に、刑香はため息をついた。それはかつての同僚たちへの失望ではなく、八雲紫でも駄目だったという事実への落胆だけだ。天狗の組織がどういうものかは、嫌というほど知っているのだから。

 

 

「………やっぱり失敗したのね。もしかして紫なら、って期待してたんだけど」

「紫様と言えど不可能なことはある。まして相手は誇り高くも狡猾な天狗たちなのだから、儘ならないこともあるさ」

「狡猾って、私も一応天狗なんだけど? …………似たようなやり取りを昨日、霊夢とした気がするわ」

「ふふ、ずいぶん霊夢と仲良くしてくれているようで助かっている。私はどうも幼子に優しくすることが不慣れでな、橙にも悲しい思いをさせていないか不安で………おっと、これは無駄な話だったな。それでは紫様からのお言葉を伝えよう」

 

 

 八雲藍。刑香との付き合いは八雲紫と比べれば短いものの、その生真面目な性格は刑香と相性が悪くない。刑香にとってはいちいち何かを企んでくる紫よりは話しやすい相手だ。故に刑香は特に構えることもなく、出されたお茶を啜っていた。藍が刑香の『能力』についての話を切り出すまでは。

 

 

「会合の際に目撃した天魔殿以外の大天狗たちの姿が異様なものであった、と紫様が仰られていた。その原因はお前の『能力』絡みで間違いないか?」

「………その通りだけど、それがどうしたの?」

「昨日、紫様は一つの疑問を持たれた。以前、お前は『当代巫女の寿命は一年程度しか延ばせない』と言ったな。しかし、一年という期間は能力の限界ではなく、お前自身が何らかの制限を設けているだけではないのか?」

「…………っ!?」

 

 

 びくり、と肩を震わせて刑香が動きを止める。

 隠しきれない動揺に夏空の碧眼が揺れた、その様子を眺めていた藍は確信する。刑香が能力を全開で使用すれば、当代巫女の寿命を今以上に延ばすことは可能だということだ。そのまま藍は話を続ける。

 

 

「ならば話は早い、当代巫女の寿命を更に延長して欲しい。もう少し時間があれば、紫様と私で紅い館を攻略する下準備が「断る」…………そうか、やはりな」

 

 

 それは比較的に温厚な性格をしている刑香から、初めて放たれた完全なる拒絶だった。予想はしていたとはいえ、中々に強い口調だ。後悔と怒り、様々な感情が今の刑香に渦巻いていることを藍は感じ取る。外では激しい風雨が神社の壁に叩きつけられ、縁側が軋んだ音を立てていた。まるで今の刑香の心を表すように。

 

 

「これ以上は絶対にオススメしない。巫女を『人間』として死なせてあげたいのなら、止めておいた方がいいわ。私の『死を遠ざける程度の能力』は、そんなに都合の良い力じゃないんだから」

「………全て理解した。これ以上は無粋だな、話題を変えよう。もう一つお前に頼まなければならないことがあるんだ」

 

 

 藍の目には、今の刑香が怯えているように見えた。

 大天狗たちの様子はまるで『生ける屍』のようだった、と主人からは聞いている。『生』に執着してしまった哀れな姿、そこに彼ら本来の妖怪としての格は無くなっていた。やがて迎えるはずだった『死』を否定され、ただ木偶のように生きる余白の生涯。生き恥を晒し続け、死の安らぎさえも程遠い。それは如何ほどの苦しみであろう。

 刑香はその事態を招いたことに罪の意識を感じているのかもしれない。そして、それは刑香が故郷を追放されたことと無関係ではないのだろう。刑香とそれなりに親しい者として、藍にも興味はある。

 しかしこれ以上は自分が踏み込むべき領域ではない、と藍は気持ちを切り替える。ここからが本題なのだ。

 

 

「私と紫様は今夜、紅い館へと攻め込む。しかし正直なところ戦力が足りていない。もう一つの頼みとは他でもない。白桃橋、お前の鴉天狗としての力を貸して欲しい」

「…………そっちもお断りするわ。あんた達のことは嫌いじゃないし困っているなら協力したいけど、あの屋敷に関わるのはいくらなんでも危険が多すぎる」

 

 

 刑香の口から出てきた言葉はまた拒絶だった。

 刑香は、一度だけ紅い屋敷へ偵察に行ったことがある。そして、あの屋敷から立ち昇る妖気があまりにも大きいことをすでに把握している。恐らくは西方世界の上位に君臨していた者たちがあの館の支配者なのだろう。つまり連中と戦うには、この異変に関わるには、刑香の場合は命を懸ける必要があるのだ。紫や藍のような大妖怪でない刑香は命くらい懸けなければ、あの屋敷の連中とは勝負にすらならない。

 

 もしこれが数百年の友である射命丸文と姫海棠はたてからの頼みであったなら、刑香は喜んで引き受けたはずだ。しかし紫や藍たちとはいくら親しくなったとはいえ、たかが一年程度の付き合いだ。それは刑香が命を懸けるには、とても足りないのだ。軽々しく命を懸けるような選択はできない。申し訳なさそうに答える刑香に対して、藍は「結論を急ぐな」と話を続ける。

 

 

「異変の首謀者と戦って欲しい、というわけではない。お前に任せたいのは私たちと共に屋敷の前まで行くことと、門番の妖怪を足止めすることだけだ」

「あれ、私に頼みたいのはそれだけなの?」

 

 

 拍子抜けした様子の刑香。無理もない、てっきり激戦に巻き込まれると思っていたところへ投下された依頼は「門番の足止め」のみ。その門番の妖怪も只者ではないのだろうが、倒さなくても良いのなら刑香は少なくとも負けはしない。刑香の『能力』はそういった戦いには極めて有効だ。命まで懸ける必要はないかもしれない、それならば話は別だ。

 

 

「紫様には異変の首謀者、つまり屋敷の主を下していただく。それが『幻想郷の守護者』としての責務だ。しかしその間、他の妖怪を私一人で受け持つのでは、万が一があるかもしれない。その可能性を無くしたいのだ」

「あんたが負けるような相手なら、幻想郷にいる大半の生物は木っ端微塵になると思うけどね。…………わかった、それなら引き受けてもいい」

「む、いいのか?」

 

 

 あっさりと協力を了承した刑香に、藍がその黄金の瞳を少しだけ見開いた。刑香はちゃぶ台に置いてある急須へと白い手を伸ばす。そして苦笑しながら、自分と藍の湯飲みへと残っていたお茶を注いだ。

 

 

「どうせ私の首を縦に振らせる交渉材料があるんでしょ? なら私が譲歩できる内容になった以上は長引かせるだけ無駄じゃない。確かにあんた達との付き合いは長くないけど、交渉事で私が勝てる相手じゃないってことくらい理解しているわ。だったら、あんたが私を脅す段階になる前に了承しておいた方がいいでしょ。お互いのためにも」

「そうか、ありがとう白桃橋」

 

 

 刑香の言葉を聞いて、藍は心から微笑んだ。『九尾の妖狐』などという伝説級の妖怪でありながら一人の妖怪の元に仕える変わり者。暖かな笑みを浮かべた藍を見て刑香が照れくさそうに顔を背ける。どうも真っ直ぐにお礼を述べられるのは慣れない。仕切り直すように藍へと話の続きを促すことにする。

 

 

「それで私は具体的に何をすればいいの?」

「紫様のスキマはあの屋敷内には繋げない。おまけに夜しか屋敷内には入れないように結界が張られているようだ。敵の思惑に乗るのは癪ではあるが、夜に畳み掛ける。一番最初に遭遇するであろう門番の相手をお前に頼みたい」

「そいつを足止めするのが私の役目か」

「足止めだけで構わないが、もしその妖怪を倒せたなら私たちの加勢に駆けつけてくれてもいい。敵の領域でお前だけが孤立するよりはマシだろう。ただし負けることだけは許されんぞ」

「鬼でも出ない限りは問題ないわ。萃香様が出て来たら逃げるけどね」

 

 

 どうやら求められることはそこまで大きくないようだった。要するに門番をしている妖怪相手に時間稼ぎをしていればいい。その間に紫と藍が異変の首謀者を潰す、それで終わりだ。

 

 

「………死ぬなよ、霊夢が悲しむ」

「それはあんたも同じでしょ………ってあんたは死なないか。でも、あんたにも何かあれば霊夢と橙が泣くわよ。気を付けなさい。ああ、それにね」

 

 

 武器である錫杖を掴んで刑香は立ち上がった。夏空の瞳が挑戦的に、黄金の瞳へと映り込む。

 

 

「―――例え誰であっても、私を死なせるのは骨が折れると思うけど?」

「全くもって、その通りだな」

 

 

 二匹の妖怪は不敵な笑みを浮かべる。

 時間制限付きであるが、生き残ることに関して刑香の『能力』は極めて強力無比だ。それを身を持って知っている藍は素直に刑香に同意した。そして刑香も藍の強さを知っている、この大妖怪が遅れを取る敵など幻想郷の内にも外にもそうそういるはずがないと。元々は紫によって引き合わされた二人。おまけに気まぐれに練習試合をやらされたりしたわけだが、全てはこの時のために八雲紫が仕組んだのではないかと思えてくる。

 

 

「とりあえず夜まで時間があるし、哨戒飛行にでも行って来るわ」

「ああ、気をつけてな」

 

 

 風雨を無視して刑香は縁側へと歩み出る。そのまま翼を広げ、一面に立ち込める真っ白な靄(もや)の中へと、刑香は溶けるように飛び去っていった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 同じ頃、レミリアは今日も今日で大図書館にいた。

 別にこの場所がお気に入り、というわけではない。友人兼話し相手であるパチュリーがなかなか図書館の外には出ないために仕方なく、自分が直々に出向いている、それだけだ。

 カツン、とレミリアは盤上にて駒を進める。それにパチュリーが顔をしかめた。

 

 

「相変わらず大胆な攻め方ね。そのくせ蜘蛛の巣みたいに、見え難くて厄介な罠を張ってくるから始末に負えないわ」

「くくく、我らの頭脳たる魔女殿ならばこの程度の窮地は余裕だろう?」

「ボードゲームの類いでレミィに勝てる存在は紅魔館にいないわよ………まったく、異変を起こしているのは私たちなのに、ずいぶんお気楽なものじゃない」

 

 

 レミリアは大図書館の一角でパチュリーとチェスに興じていた。本棚から広がる古いインクの匂いと少し埃っぽい空気がレミリアの鼻をくすぐる。それは決して不快ではない、むしろ落ち着く雰囲気があった。

 チェスの内容自体はレミリアが優勢、パチュリーは少なからず劣勢だった。元よりこの屋敷でレミリアにチェスで勝てる実力の持ち主はいない。いや一人だけ可能性を持つ者はいるのだが、その者は諸事情によって地下室に幽閉されている。

 とりあえずキングの駒を避難させて、チェックメイトを逃れるパチュリー。レミリアは愉快そうにその様子を眺めながら、敵陣へと駒の兵隊を進軍させていく。討ち取った駒を手中で弄りながら、レミリアは口を開いた。

 

 

「幻想郷は百年ばかりの平穏に慣れきっていた。それ自体に罪はない、平穏とは何よりも尊いものだから。………でも、その先が駄目だった。賢者たちは牙を抜かれた妖怪たちの弱体化や、人間と同レベルで管理された妖怪たちの不満から目を背け続けていたのだから、ね」

「あ、私のビショップが…………なるほど、レミィは幻想郷に積もり積もった不満という名前の導火線に火を付けたわけね」

 

 

 元々、現状への不満はかなり妖怪たちに蓄積していたのだろう。少し刺激しただけで彼らは内部での抗争を引き起こした。それはあまりにも脆い平穏だった。レミリアがそういった『運命』に干渉したのは事実だが、牙を抜かれていたはずの妖怪たちは想像を超えて暴れまわっている。それを煽動しているのが紅魔館、そろそろ賢者たちもレミリアたちへ何らかの対策を打ち出す頃だろう。

 

 

「今夜辺り、かしらね」

「どうしたのレミィ、あなたの番よ?」

「ん、ちょっと待って」

 

 

 レミリアは曇ったガラス窓へと視線を移す。

 シトシト、と降り続く雨は夕暮れ時には上がるだろう。雨雲が消えた後、空へと広がるのは真っ赤な満月の光のみ。それがレミリアには愉快で堪らない。その舞台は月光を力に変える吸血鬼にとっての、まさに独壇場だ。自分たちは最高の条件の下で、来訪者たちは最悪の状況で刃を交えることとなる。

 

 

「パチェ、今夜辺りに侵入者どもが来るわ。これまで私たちに挑んできた雑魚とは格の違う連中がね」

「連中からすれば、私たちこそが幻想郷への侵入者なのだと思うけど、まあ今更よね。そこそこの侵入者が来るなら美鈴にも知らせておいてあげないと、あとは屋敷の防衛システムを起動させておくわ」

「………もう一つ、やって欲しいことがあるの」

 

 

 そう言うとレミリアは一度も動かしていなかった、自軍のクイーンの駒に手をかけた。前後左右斜めの列、極めて広範囲のマスへと移動できる、チェスにおいて最強の駒。レミリアはクイーンを指先で掴み上げ、パチュリーに見せつけるようにして告げる。

 

 

「地下室の結界を解除する準備をしておきなさい。今回は『あの娘』を外に出してあげることにするわ」

 

 

 パチュリーは紅茶のカップを傾けていた手を、ピタリと止める。その顔に浮かんでいたのは僅かな驚愕と戸惑いだった。レミリアのクイーンにより自身がチェックメイトに追い込まれたことに対して、ではない。悔しいがレミリアとのチェスで負けることに慣れてしまった現状において、今更思いがけないチェックメイトに驚きはしない。

 チェスの内容ではなく満月の夜に『あの娘』を外に出す、というレミリアの発言に耳を疑ったのだ。

 

 

「………正気なの? 満月の夜に私たちは幾度となくあの娘に、あなたの妹に殺されかけたのよ。普段の彼女ならともかく、満月の下でのフランが正気を保っていられるわけがない。そんなことをすれば、紅魔館が内部から瓦解するわ」

「大丈夫よ、いつも通り全ては私に任せなさい。それにフランを完全に自由にさせるつもりはない。制限は付けるし、最後に結界を解除する判断は私が行うわ」

「…………はぁ、何を言っても無駄なようね。結局のところ、レミィは方針の全てを決めてから私に話を持ってくる。だから私が意見できることは少ないのよね。本当に厄介な吸血鬼様だこと」

「ふふん、それでも私の判断に誤りがあったことはないでしょう?」

 

 

 はいはい、とパチュリーは仕方なく頷いた。

 しかしながら、レミリアの計画が大筋で狂ったことはあまりない。ならば任せても大丈夫だろうという信頼が彼女にはある。とりあえずパチュリーは門番として頑張っているであろう美鈴に、連絡を入れようと通信魔法の準備を始めた。その際にチェス盤を片付けて本棚の端へと彼女にしてはそれを少しだけ乱暴に押し込む。記念すべき二十連敗には流石の冷静沈着なパチュリーも一欠片くらいはイライラしていたようだ。

 

 そんな負けず嫌いな親友を視界の隅に置きながら、レミリアは夕暮れの光が差し込んできた窓際を見つめていた。予定通りに雨は上がり雲は晴れた。やがて夜の帳は降り、月の光が満ちるだろう。それは吸血鬼の時間だ。

 

 

「今夜はとっても楽しい夜になりそうね」

 

 

 窓から外を伺うレミリアの紅い目には、遥か上空からこの屋敷を偵察している翼を持った妖怪が映っていた。

 

 

 ーーーさあ、来るがいい。幻想郷の守護者ども、私の手元にあるのはキング、クイーン、ビショップにナイト。残念ながら未だにルークはいない、しかしお前たちと遊ぶには十分だろう?

 

 

 レミリアは欠けた手札にて宣言した。

 やがて訪れる戦いの始まりを。

 

 

 

 




タイトル変更しました(8/11)。
旧タイトル『吸血鬼異変~幻想に生きる者たち~』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話:月華の舞踏会

戦闘描写があります。
苦手な方はご注意ください。


 

 

 ―――もう百年近くになるんですか、この屋敷の門番となってから。

 

 

 夜の帳が降りきった暗闇にて、紅魔館の門番は護るべき門を背にして佇んでいた。腰まで伸ばした見事な赤いストレートヘアに、落ち着いた深緑の華人服、そして同じ色の帽子には『龍』の文字が刻まれたエンブレム。その外見から如何にも大陸出身といった様子の人妖、紅美鈴(メイリン)は襲い来る眠気と戦いながら今夜に来るらしい来客に備えていた。「らしい」というのは一方的に主人が予言しているのであって、別にゲスト側からのアポイントがあったわけではない。主人、レミリアは稀にこういった『運命』の先読みとでもいうべき指示を出してくるのだ。そして大抵の場合、それは信頼に足る。だからこそ、今日は一睡もせずに美鈴は門前にて突っ立っている。

 

 それにしても自分が紅魔館の門番となってからもう少しで百年になる。その節目をまさか異国、いや異世界と表現してもよい場所で迎える羽目になるとは思わなかった。長き生涯、何があるのかわからないものである。美鈴としては愉快痛烈な生き方は嫌いではないので、これはこれで楽しませてもらっている。

 

 

「でもさすがに、一晩ずっと気を張っているのは疲れますねぇ。妖精メイドたちがもう少し使い物になってくれれば居眠りの一つもできるんですけど………望み薄ですよね」

 

 

 そもそも妖精たちは勝手気ままで仕事もお粗末なものだ。掃除はサボる、炊事は気分次第、そのため彼女たちの穴埋めに美鈴が駆り出されることも少なくない。これでは実質的に自分一人で紅魔館のメイド長と門番を兼任しているようなものである。体力自慢の自分とはいえ、よくもこんな忙しい生活を百年近くも続けられたものだと感心する。

 

 

「ふぁぁ、どこかに戦闘とメイド仕事を同時にこなせるメイドさんでも落ちてないですかねぇ。幻想郷に来てから門番としての仕事も増えてるし、このままだと身が持ちませんよ」

 

 

 紅魔館が幻想郷へと移転してから半月。

 主人であるレミリアたちは幻想郷を色々と掻き乱しているらしく、彼女らを討とうとする者が大幅に増えている。ある時は縄張りを追われた妖怪、その次は妖怪退治を生業とする特殊な人間。紅魔館へと攻め込もうとする者は後を絶たない。だが、誰一人としてレミリアに謁見できた者はいない、その全てを美鈴が打ち倒している。ある妖怪は牙を蹴り砕き、人間は腕をへし折ってお引き取り願った。命までは奪わない、その必要もない。自分はあくまでも門番であり、殺し屋とは違うのだから。

 

 

「たまには夜にぐっすり眠りたいなぁ。でも昼間に偵察に来ている妖怪がいたから今夜も手荒な来客があるか。まあ、仕事だからやりますけど」

 

 

 それに勘だが、偵察に飛んでいた妖怪は今までの侵入者とは格が違うような感じがした。姿自体は見えなかったし、妖気を計れたわけでもない。しかし武闘家として鍛えた勘だ、恐らく外れてはいまい。そこそこの強敵出現か、と期待する。格下相手と戦って、命を奪わない程度に手加減するのにも飽き飽きしていたところだ。まあ、もしかすれば自分の手に負えない怪物が現れるかもしれないが、それでも紅美鈴は自分のできることをすればそれでいい。外壁に背を預けていた美鈴は、ゆっくりと一歩踏み出した。

 

 

「出てきてもらえますか?」

「あらまあ、私のスキマの気配を感じ取っていたのかしら?」

 

 

 突然、目の前の空間にできた裂け目。

 不気味な眼が浮かび上がる穴の中は紫色に歪み、外とは異なる気に溢れている。そこから強大な妖力を発する存在が堂々と、しかし同時に貴婦人のように優雅な雰囲気を纏って現れた。どうやら化け物の方が現れたらしい、圧倒的な気配に美鈴が身を硬くする。

 

 

「こんばんは。失礼ですが招待状はおありで? 当方はアポイントのない方の敷地内への立ち入りをお断りしています」

「いやですわ、そんなものを持っている妖怪がこの幻想郷にいるわけがないでしょう? ―――そこをどきなさい、門番」

「慎んでお断りします。侵入者を素通りさせたとなっては門番をクビになっちゃいますから。それに私はお嬢様たちに危害を加えようとする者を、どんな理由があろうとも通すつもりはありません。これは私にとって絶対の誓いです」

「そう、外界からの新参者ふぜいがよく吠えたものね。ならこちらも幻想郷への侵入者には手厳しく対処することにしましょう。来なさい藍、刑香」

 

 

 スキマの妖怪が呼び掛けた瞬間、新たにできた空間の裂け目から二人の妖怪が現れた。二人はそれぞれがスキマ妖怪の左右へと降り立ち、主人を護るように美鈴へと向かい合った。一人は九本の尻尾を持つ狐妖怪、もう一人は真っ白な羽を持つ鳥の妖怪。いずれも今までの相手とは妖怪としての格が違う。これは参ったな、と内心で焦りを覚えた美鈴。すると、白い鳥の妖怪が口を開いた。

 

 

「そのカッコつけた台詞はどうかと思うわよ、まるで私まで紫の式みたいじゃないの」

「そういうな、紫様にも賢者としての体裁があるのだ。特にこういった場面では必要以上に威厳を示すことが重要だからな。ちなみに我々の配置も紫様の考案だ」

「藍~、余計なことを言わないの」

「はっ、申し訳ございません」

 

 

 微妙に空気が緩んだ。如何にも従者然として現れた二人だったが、身構えた美鈴の覚悟に反して何やら軽いやり取りを行っている。この三人の自然体は一体何なんだろう、仮にも敵の本拠地に踏み込む直前にも関わらずコレである。自分の実力を軽視しているわけでもなさそうな様子に美鈴が疑問符を浮かべた。

 

 

「だいたいね、何で不意討ちで門番を倒さないのよ。あんたのスキマなら屋敷内には入れないまでも、背後からあいつを消し炭にする隙くらいは作れたでしょうが」

「無理よ。だってあの中華妖怪が私の気配に反応してたもの。不意を討とうとしたら、逆にこっちの胴体に穴ができたかもしれないわ」

「あんたを貫通できる攻撃ってかなりの大技だと思うけど。溜め無しで放てるものかしら?」

「うふふ、乙女の柔肌だから傷つきやすいのよ」

「霊夢の攻撃でびくともしない肌のどこが柔肌なのよ、どこが」

「白桃橋、その辺りにしておけ。今は敵前だぞ」

 

 

 どんどん緩んでいく空気の中でも美鈴の集中力は高まっていた。それというのも後から現れた二人が要因だ。元々東洋の出身である美鈴は二人の正体を即座に見破っていたからだ、ほどよい緊張を感じて拳に力が入る。身体的特徴から従者たちは九尾の妖狐と鴉天狗に違いない。いずれも一流の妖怪、いや九尾に至っては伝説級の妖怪だ。二人の主らしきスキマ妖怪については種族が不明だが、従者のレベルからしても生易しい相手ではあるまい。中華風の服を着ているが、彼女も大陸出身なのだろうか。

 一対三、状況は不利。そしていつ戦いが始まってもおかしくない。ならば先手必勝あるのみ。美鈴は自身の『能力』を開放する。

 

 

「―――っ! 紫、藍、行きなさいっ!」

「させませんよ!」

 

 

 美鈴の『気』を敏感に感じ取ったらしい鴉天狗の少女が叫ぶ。それを合図に残りの二人が屋敷へと飛んだ。そうはさせじと美鈴は両手に集めた『気』を放つ。

 『気を操る程度の能力』、それが紅美鈴の持つ力だ。循環する気により身体を強化することに始まり、相手の気を読むことによるサーチ、果ては気を収束させての遠距離攻撃まで可能とする応用性の高い能力。

 

 虹色をした『気』の弾丸が二人の妖怪へと追いすがる。かなりの速度で飛んでいるが、それでも気弾の方が速い。すると鴉天狗の少女は翼を広げ美鈴の視界から消えていた。瞬間、周囲に響いた炸裂音。

 

 

「これはまた、厄介そうなスピードですね」

 

 

 鴉天狗の少女は二十を越える弾丸を全て先回りし、錫杖で叩き落としていた。ほぼ同じタイミングで破壊された気弾を察知した美鈴は僅かに驚きの反応を示した。中々の速度だ、レミリアと互角以上の勝負ができるかもしれない。

 

 

「どうやら先にあなたを倒さない限りは侵入者を追いかけることは儘ならないようですね」

「まあそうね。でも私の目的はあんたへの時間稼ぎなのよ、だから私と二人で夜のダンスパーティーとでも洒落込んでみない?」

「あはは、すみません。ダンスは苦手なんです。代わりに舞踊は得意なのでそれで手を打ってくれませんか、白い鴉天狗さん?」

「それは面白そうね、喜んで付き合うわ。ただし私は私らしくやらせてもらうけど。それと、私の名前は刑香よ。あんたの名前は?」

「私の名前は美鈴です。それでは時間も限られていますので刑香さん、いざ」

 

 

 お互いに名乗り合っての尋常の戦い。

 門番としての職務を考えるならば美鈴は一刻も早く二人を追わなければならない。これは幻想郷に来てからの初めての失態なのだ。しかし目の前にいる少女はいままでの木っ端な妖怪とは少しばかり格が違う。下手な隙を見せることは危険だ、と美鈴は判断した。ならばここで確実に潰すべきだ。美鈴は静かに『気』を高めていく。血液のように身体の隅々まで巡らせ、特に眼を重点的に身体能力を強化する。視力を強化したのは、まずはあの速さをどうにかするのが先決だからだ。刑香の翼が風を纏った。

 

 

「行くわよっ!」

「―――おおっ危ない!?」

 

 

 瞬きの間に刑香は美鈴の懐に入り込んでいた。まさに疾風のごとく、鴉天狗の速力は自分の予想を遥かに上回っていた。そのまま刑香から放たれた蹴りを上体を捻って回避する。反撃に移ろうとした時には既に刑香は美鈴の拳の届く範囲から飛び去っていた。「どこに行った?」と視界から消えた刑香を探す。

 

 

「ぐあっ!?」

 

 

 肩を切り裂かれた痛み。それを感じた瞬間、今度は脇腹を錫杖でぶん殴られ宙を舞っていた。その間も刑香は反撃を許さない、白い翼は上空へと離脱する。それを眼で追いながら、美鈴は背中から地面に叩きつけられた。明らかに刑香の速さに自分の身体がついていっていない。ここまで速い妖怪と戦うのは久しぶりで感覚を身体が取り戻せていないのだろう。拳が鈍っている。

 

 

 ―――でも、この眼は彼女を捉えている。

 

 

 不敵な笑みを浮かべる美鈴。

 確かに、今の美鈴は刑香の動きに対処が遅れている。だが美鈴の眼は音速に近い鴉天狗の姿をしっかりと捉えつつあった。ならば大丈夫、充分に勝機はあると美鈴は自分を落ち着かせる。『鴉天狗』は自分にとっては格上の妖怪だ。しかし妖怪としての格の違いを能力と鍛練にて凌駕する。それが紅美鈴の戦い方だ。鴉天狗の生まれ持った速さとて、乗り越えるべき壁の一つでしかない。ゆっくりと起き上がった美鈴に対して、刑香は錫杖を構えて次の攻撃に移ろうとしていた。次は一撃を入れて見せる、と美鈴が呼吸を整える。刑香が地面を蹴った。風を切り裂き、美鈴へと真っ直ぐに飛翔する鴉天狗。普通に対応していたのでは間に合わない。

 

 

 ―――正面、斜め上。今の私が負わされたダメージと錫杖のリーチを考えるなら!

 

 

 美鈴の磨き上げた武闘家としての勘が攻撃の位置を予測する。『気』を感知する能力がその移動の軌跡を頭に流し込んでくる。導かれるように美鈴は拳をその場所に打ち出した。

 ゴギィッ、骨を砕く音が暗闇を震わせた。美鈴の放ったカウンター気味の一撃は完璧なタイミングだった。刑香の攻撃の軌跡も、その速度も全てを見切った上で放たれた最高の一撃。美鈴の瞼には、刑香が血塗れになって地に転がる映像が流れていた。

 しかし―――。

 

 

「―――――!?」

 

 

 美鈴の拳が空を切った。それに驚愕を感じる前に二発、攻撃を受ける。一撃目、激痛が美鈴の右腕を襲った。ぐにゃりと腕が半端な位置から折れ曲がる、骨をへし折られた。二撃目、頭に被っていた龍の紋章がついた帽子が飛ばされた。軽い脳震盪に、ぐらりと傾く身体を気力で奮い立たせる。

 

 

「…………あれ、おかしいな?」

 

 

 「何をされた?」と美鈴は残った左腕で臨戦体制を維持しながら思考を回転させる。しかし答えなど決まっている、攻撃を受けたのだ。それも拳に手応えがないことから、こちらの攻撃は回避されてカウンターにカウンターを合わせられたことになる。だが妙だ、今の自分の攻撃は完全に決まったはずだった。美鈴の拳は、確かに白い鴉天狗の頭蓋を一撃の元に破壊したはずだったのだ。見切られたわけではない、直前までの刑香の行動から推測するに美鈴の動きを察知し反撃できたとは思えない。ならば美鈴の拳は偶然外れた、いや必然的に外されたのだ。油断なく構えを崩さない美鈴に、離れた位置まで引いていた刑香は腕を押さえながら口を開いた。

 

 

「参ったわ、今ので決める予定だったのに。あんた、どんだけ頑丈なのよ。こっちの腕が痺れたわ」

「私の能力は『気』を操って身体強化を行うことが一番得意ですからね。気弾を撃ち出す力、気配を読む力。いずれも自信がありますが、やはり頑丈さはそれ以上の長所です。………あなたの『能力』も厄介そうですね」

「ちょっと、そんな簡単に自分の能力の正体をバラしていいの?」

 

 

 いきなり妖怪にとっての生命線ともいえる『程度の能力』を公開した美鈴に刑香が不思議そうな顔をした。疑問符を浮かべる刑香を美鈴はじっと見つめる。その瞳には先程までの人懐っこい光はない、宿るのは武闘家としての真っ直ぐな眼差しだけだ。しばらく呆けていた刑香だったが、やがて事情を察したようで「お人好しに見えて、結構やり手みたいね」とため息をついた。どうやら思ったより門番は厄介な相手らしい。それは単純な戦闘力のことについてだけとは限らない。ならば仕方ない、とばかりに刑香は解説を始める。

 

 

「『死を遠ざける程度の能力』、それが私の力よ。この能力を使っている間は、私の命に関わるような攻撃は私に当たらなくなる。私に『死』をもたらす攻撃も存在も、私には触れられない。…………普段は人里で医者もどきをしてるけど、本来の使い方はこっちなのよね」

「なるほど、だから私の拳は空を切ったわけですか。納得しました。それにしてもアッサリと教えてくれましたね?」

「あんたが勝手にペラペラと自分の能力を解説して、次はあなたの番だ、みたいな顔をしてるからでしょ。まったく………でも悪いけどこの勝負は私の勝ちよ?」

「いやいや、まだ左腕が残ってます。勝負はこれからです」

 

 

 美鈴が右腕を失った時点で、勝負の流れは刑香へと完全に傾いていた。武闘家たる美鈴が片腕を失ったのだ、戦闘能力を大きく減退させられることは避けられない。只でさえ刑香のスピードに翻弄され、有効な攻撃方法が少なかったというのに片腕になったことで更に選択肢が狭まってしまったのだから。

 

 

「まさか、この程度の負傷で敗北を認めるほど私が弱い妖怪だと思いましたか?」

「………まだ勝利を宣言するような状況じゃないか。謝るわ、さっきの言葉は取り消す」

 

 

 ぐっと残った拳に力を入れ直す。美鈴は諦めていなかった。何故なら、よく目を凝らすと刑香の頬に薄い切り傷がついていたからだ。あれは自分の攻撃がかすっていた証拠だろう。恐らく『死を遠ざける力』も完全な回避性能を持つものではないのだ。ならば希望を紡ぐには充分過ぎる。そしてもう一つ。カウンターにカウンターを合わせるという、必殺のタイミングにも関わらず刑香が美鈴に与えたダメージは右腕一本と軽い脳震盪だけ。

 これがもし美鈴が攻撃側であったならば確実に相手の息の根を止めていただろう。例えその敵がレミリアクラスの怪物だったとしても身体を右腕ごと両断してみせたはずだ。つまり、刑香の攻撃には決定的に『重み』が足りていないのだ。いくら速さで勝られようとも早々に致命的な傷をもらうことはないと美鈴は判断した。ならば、希望どころか勝機も充分にあるはずだ。敵の攻撃を耐え抜いての勝利など、武闘家としての血がたぎるではないか。

 

 

「正直、幻想郷に来てから退屈していたのですが、貴女のような妖怪と出会えて良かった。手加減ばかりしていたら腕が鈍って仕方ない。だから、ここからが本番です」

「強い相手と戦いたいのなら、心当たりを何人か紹介するわよ。どいつもこいつも常識を欠落したみたいな強さだけどね」

「それは楽しみです。でもまずは」

 

 

 まずはこの勝負を制するとしよう。

 美鈴は構えを解いて左腕を身体の前に突き出した、本来なら両腕で行うのだが右腕は折られたので仕方ない。左手の拳を握り胸の前で――この地でいう『合掌』に似た――ポーズを取り、そのまま一礼する。それは美鈴の出身である大陸に伝わる挨拶、対等と認めた相手に行う礼儀の一つ。その意味を察した刑香が錫杖を地面へと突き刺し、空いた両手を合わせて美鈴と同じポーズを取った。刑香は大陸出身というわけではないが、ここは相手の示してくれた敬意に従うべきだ。

 

 

「紅魔館門番、紅美鈴です」

「鴉天狗の白桃橋刑香よ。本当は時間稼ぎだけで良かったんだけどあんたとの戦い、白黒つけるまで付き合ってあげる。ここからは私も全力でいく」

 

 

 再び名乗りを上げた両者。

 先程とは違うのは、目の前の妖怪を全力で持って倒すべき相手と見定めたこと。お互いが好敵手となり得るかは未だにわからない、どちらかはここで力尽きるかもしれない。しかしある程度の敬意を携えて戦うべき敵であることに違いはない。武器と拳を構え直した刑香と美鈴は油断なく相手を見据える。

 雲が去り、赤々とした月から漏れ出た光が静寂な湖畔を鮮血の滲んだような色へと染めていく。二人の妖怪から立ち昇る清廉とした妖気に吹かれて周囲の木々が枝葉を揺らす。時は満ちた、ここからが妖怪の戦いだ。

 

 

「それでは、いざ正々堂々」

「手加減無用の真剣勝負と」

「「いきましょうか!!」」

 

 

 同時に大地を蹴った二人。刑香は翼を広げ上空へと、美鈴は回避された拳を握り締め空へと退避した刑香を撃ち落とさんと気弾を放つ。再び戦いへと臨んだ両者。ここから先に行われるのは単なる命の奪い合いではない。刑香と美鈴、お互いの妖怪としての誇りを賭けた『決闘』が始まった。

 

 そしてまったく同じ頃。大図書館では藍とパチュリーが、紅魔館上空では紫とレミリアがそれぞれ戦闘を開始していた。半月続いた吸血鬼異変は今夜、一気に解決へと動いていくことになる。

 

 

 

 

「キヒヒッ、お姉様たち楽しそう」

 

 

 ギシリと、円満なる月の夜を奈落の底へと傾ける。

 たった一つの狂気を孕んで。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 ここは幻想郷の何処か。

 八雲紫のスキマを抜けた先に八雲邸は存在する。そこは幾重もの山々と結界に囲まれた、八雲紫と八雲藍のみが知る僻地。この幻想郷の全てを見下ろす、と豪語している天狗たちにすら見つからない秘境。

 この国に伝わる純建築で造られた外観なれど、屋敷内には八雲紫が世界中から気まぐれに集めた調度品が並べられている。南の果ての民族から貰ったらしい儀式用の長い鼻を持つ木製の仮面、アンデスの山々に伝わる民族衣装、手染めのタペストリー、琴に似た砂漠地帯の弦楽器などなど。全ては単なる趣味である。混沌を好む八雲紫らしい、様々な異国文化が混ざり合い、世界中の大地と風の匂いを感じる不思議な場所。

 

 『幻想郷は全てを受け入れる』、その理念を体現する彼女に相応しい屋敷なのかもしれない。そんな八雲紫の屋敷の居候、幼い巫女は縁側に座っていた。うつらうつら、と霊夢は眠そうに身体を前後へと揺らしていた。すると小さな足音が自分へと向かって来るのを感じて、そちらへ視線を移す。

 

 

「ねむれないんですか、巫女さま?」

「そうね」

 

 

 そこにいたのは小柄な猫の妖怪、橙(ちぇん)。

 フリル付きの赤いワンピース、頭にもこれまたフリル付きの緑色の帽子。彼女は八雲藍の式神、つまり『八雲紫の式の式』という少し特殊な立場の少女である。

 

 

「紫様たちのことが心配なんですか?」

「そうよ」

 

 

 二人のいる縁側の前に広がるのは枯山水の美しい庭園。毎日欠かさずに、藍が描き直す小石と白砂のキャンバスには、今宵は代わりに月光が波打っている。しかし風流な庭へ降り注ぐのは紅い月の光、それが『魔』を表すと言い伝えられているのを霊夢は知っている。嫌な予感がしていた、取り返しのつかない何かが起こりそうな予感に心がざわめく。そんな自分の不安を感じ取ったのか、ピョコピョコと橙の尻尾が振られていた。橙は恥ずかしそうに頬を染める。

 

 

「実は橙もです。紫様や藍様、刑香さんが負けるはずがないとわかっているのに不安で堪らないです」

「それにしては、さっきまで幸せそうな顔して眠ってたじゃない」

「三人を信じているから橙は今日、ぐっすり眠るんです。それで明日、帰ってきた三人に『おはようございます、お疲れさまでした』って言ってあげるんですよ」

 

 

 えっへん、とペタンコの胸を張る橙。彼女は八雲邸に住んでいるわけではない。今日だけは霊夢の話し相手としてここで寝泊まりしている。こう見えて単純な年齢だけなら霊夢より数倍は上なのだから、妖怪はわからないものだ。

 

 

「そう、でも私はこのまま起きているわ。悪い夢を見てしまいそうで寝るのが億劫なの」

「うーん、それなら巫女様。橙と一緒に、おはじきで朝まで遊びましょうよ。夜更かしは藍様に怒られちゃうけど、今日は特別です」

「いや私は…………まあいっか、やりましょう」

 

 

 バラバラと畳の上にばら蒔かれたガラス製のおはじき。以前、藍が計算の練習をさせるために人里で購入したモノだ。初めて主人から貰ったプレゼントということで、橙はそれをとても大切にしている。そんな宝物を出して来てくれたのだ、多少は彼女の心遣いの世話になろう。刑香だって、きっとそうするはずだ。そう思って、霊夢は橙とおはじきに興じることにした。

 

 

「えいっ!」

「あわわっ、巫女様お上手です!」

 

 

 霊夢の人差し指が弾いたおはじきが、別のおはじきを飛ばす。狙い、距離、力加減もバッチリだ。あっという間に二、三個を手中に納める。すると橙も負けじと奮闘するが、やはり人間の遊びでは霊夢の方が上手だ。じわじわと差をつけられていく。

 

 

「むむむ、どうしよう。ここから弾けばいけるかなぁ…………あれ、巫女様。それは刑香さんの羽?」

 

 

 ふと、橙は霊夢が白い羽を大事そうに持っているのに気がついた。お守り代わりに懐へと忍ばせていたのかもしれない。真っ白な羽から感じる微弱な妖力は間違いなく刑香のものだった。霊夢は橙の指摘に嬉しそうに話し出す。

 

 

「うん、貰ったの。この前、刑香の背中に抱きついた時にね、勢い余って翼を掴んじゃったの。その時にプチって」

「む、毟ったんですか。鳥の妖怪は羽にプライドがあるから、そんなことしちゃ駄目なんですよ!」

「仕方ないじゃない、わざとじゃないし。刑香だって謝ったら許してくれたわよ。涙目だったけど」

「泣かしてるじゃないですか」

 

 

 自分の主人か、そのまた主人が同じことをすれば、しばらくは口を利いてもらえない程度には刑香は怒るだろう。そんなことを考える橙を横目に、霊夢は自分の掌の上にある白い羽を見つめていた。この羽を本に挟む栞にしようか、それとも綺麗な石と合わせてアクセサリーにしようか。何に使うかはまだ決めていない。紫に相談すると「たくさん集めて枕」と言われたので、もう少し数を集めるべきかもしれない。再びおはじきに集中し始めた橙を見つめる霊夢に、先ほどまでの胸騒ぎはなくなっていた。なので、ゆっくりと紅い月へと視線をやった時だった。頭の中に、何者かの笑い声が響いたのは。

 

 

『キヒヒッ』

「――――何!?」

「ふぇ、巫女様どうしたんですか?」

 

 

 その瞬間、霊夢の才能の一つである『直感』が最大音量で警告を発していた。突然立ち上がった霊夢に驚いた顔をした橙には答えず、そのまま素足で庭へと降り立った。心臓の音がうるさい。

 

 

「ど、どうしたんですか?」

「…………すごく嫌な予感がする。これは、藍と刑香?」

「っ、巫女様、顔が真っ青です!」

 

 

 慌てふためく橙を手で制して霊夢はお札を取り出した。内側からなら、紫のスキマに干渉できる。ここから結界を繋げて脱出できる。どうせ今回の異変に関して置いてきぼりにされることは読んでいた、だから紫の術を解析しておいたのだ。

 

 

「ちょっと散歩に出かけてくるわ」

 

 

 幼い巫女は縁側から降り、暗闇へと踏み出した。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話:世界の全ては少女の掌の中にある

戦闘描写があります。
苦手な方はご注意ください。


 

 

 月光を浴びて、薄ぼんやりと輝く大図書館。

 ここではパチュリーと小悪魔が藍を迎え撃ち、つい先ほどまで激しい戦いが繰り広げられていた。獄炎が踊り、雷撃が走り、暴風が吹き荒れる。たった二人の戦いはまるで近代兵器の入り乱れる戦争のごとく、徹底的に辺り一面を破壊していた。図書館の本棚には自動再生の魔法を掛けてあるので暴れても問題はないとはいえ、あまりにも容赦がない。

 その戦場で、戦いの余波にて発生した埃まみれの空気を吸い込んだ図書館の主、パチュリーが苦しそうに咳き込んでいた。そんな彼女を助手である小悪魔が涙目で介抱している。

 

 

「げほっげほっ、さすがに限界、かも」

「ぱ、パチュリー様ぁ………」

 

 

 パチュリーの誇る七曜の魔法の威力は絶大だった。それは並の妖怪であるならば即座に蒸発、上級妖怪であっても一分と持たずに四肢を失わせるほど圧倒的なもの。どんな敵であったとしてもパチュリーならば最悪、火力に任せて焼き払うこともできたはずだ。流石はレミリア・スカーレットの親友といえるだろう。しかし今回ばかりは相手が悪かった。

 

 

「魔法使いにしては大したものだ、まさに人の身のままでは辿り着けぬ極致といったところだな。加えて東洋魔術を組み込んだ西洋術式にはこちらの想定を超えて苦戦させられた。…………だがここまでだ、もう私には通用しない」

「ごほごほっ………何でこんなのがスキマ妖怪とやらの式神をやっているのかしらね。それこそ国を滅ぼすレベルの化物じゃない」

「は、反則ですよぅ。こんな化け狐なんて………!」

 

 

 大魔法使いに対するは、七色の中にあって最も聡明ともいわれる『藍』をその名に与えられた九尾の妖狐。幻想郷の守護者たる八雲紫が使役する唯一無二の式、八雲藍。

 その扱う妖術はまさに複雑怪奇に過ぎた。呪術、妖術を初めとする東洋世界に伝わる魔法の大半に精通した藍。彼女により構築された術式はパチュリーのほぼ全ての魔法攻撃を押さえ込んでいた。術の速度、出力、どちらにおいても藍はパチュリーを上回っている。その証拠に藍は服の所々に血が滲む程度のダメージを受けてはいるものの、いずれの傷も戦闘続行に差し障りはない。

 

 一方のパチュリーも消費した魔力自体は多くない、そのため戦闘続行は可能に見えた。しかし先月の屋敷丸ごとの転移や、外にあるスキマ妖怪対策の結界維持のせいで蓄積された疲労が大きい。ただですら病弱なパチェリーの体調は最初からベッド直行の一歩手前まで悪化していた。気を抜けば今にもぶっ倒れそうだ。レミリアと違って、今夜はパチュリーにとって最悪のタイミングだったのだ。

 

 

「美鈴さんは何をやってるんですかぁ! パチュリー様はもう限界です、リミットブレイクですっ。ヘルプミーー!!」

「ずいぶんと賑やかな使い魔だな」

 

 

 小悪魔が悲鳴に似た声で門番に助けを求める。しかし距離の離れた図書館からでは、その嘆願は物理的に届かない。第一、今の美鈴に他人を助ける余裕はない。彼女は刑香との真剣勝負の真っ最中なのだから。

 

 

「こ、こうなったら私が相手です!」

「ほう、お前が私と戦うのか?」

 

 

 小さな黒翼を目一杯広げて小悪魔がパチュリーと藍の間に立ち塞がる。叶わぬと知りながら自分の主を震える身体で庇っている様子に、藍は式として共感を覚えていた。東洋も西洋も主人と従者の絆に違いはないようだと。しかし、だからといって戦いに情けは不要。藍は二人の意識を奪ってから拘束しようと考え、妖術を唱えながら近づいていく。カツコツと、藍の靴音が響く。

 

 

「どうした、来ないのか?」

「ち、チャンスを探っているだけです!」

 

 

 一歩一歩と進む藍に合わせて小悪魔は後退りを繰り返す、勝ち目なんてあるはずがない。主人が敵わない相手に、どうして雑用係の使い魔たる己が勝てるというのか。それでも小悪魔はこぼれ落ちそうになる涙を何とか耐えていた。全ては主であるパチュリーを信じているからだ、もう少しで『逆転の布石』が完成するはずなのだ。小悪魔の影で古びた魔導書を開き、消え去りそうな声で呪文を唱えるパチュリーのためにここは耐える。

 

 そして手を伸ばせば小悪魔の顔に触れることのできる距離にまで藍が接近した瞬間、遂にそれは完成した。藍の歩みが強制的に止められる。

 

 

「むっ、これは?」

「貴女の見立ての通り、私は東洋魔術にも精通しているの。そしてここは世界中の魔導書が集積された大図書館、私はその主。ならば、あなたみたいな妖獣に対抗する手段の一つや二つは思いつくわ!」

「なるほど陰陽道の呪術結界か。確かにこれは私とは相性が悪いな、身体が思うように動かない」

 

 

 藍を囲むように呪術札の結界が足元へと出現していた。丁寧に編み上げた呪術結界が青い光を放ちながら藍の動きを封じ込める。鎖のように藍の身体へと巻き付く封印札たち。これは東洋妖怪との戦いを意識して用意しておいた封印術、パチュリー自身の評価もまずまずの逸品だ。しかし、強力な呪詛が渦巻く中でも涼しい顔をしている藍にパチュリーが舌打ちをする。

 

 

「くっ、封じ切れない!?」

「生憎、この手の陰陽術は受け慣れているのでな。長く捕まっているつもりはない」

 

 

 呪術札が見る見るうちに黒ずんでいき、結界は悲鳴のような軋みを上げていく。霊夢の巫女修行を担当している藍にとって、この類いの封印術は見慣れたものだ。千年以上前に散々、腕利きの陰陽師と戦った経験もある。おまけに藍の妖力はパチュリーの想定より高すぎた。大した密度の術式ではあるのが、この程度では大妖怪たる藍を封じることはできない。それでも自分の動きを一時的にでも妨害したパチュリーに藍は心のなかで称賛を送った。大した奴だ、と。

 

 

「このぉっ! パチュリー様直伝の魔法を喰らえっ、ロイヤルフレアーー!」

「む?」

 

 

 小悪魔の両手から眩い炎が溢れ出す。こうなれば破れかぶれだと、パチュリーが扱う魔法とは威力が随分と下がるソレを藍へ向けて小悪魔は放った。妖精程度なら焼き払える程度の威力であるソレは、残念なことに藍に命中したところで大したダメージはないだろう、その程度の威力だ。

 しかしどうにも『あの娘』は心配性のようだ。やれやれと、藍は動けないながらも器用に肩を竦める。その耳には翼の羽ばたきが聴こえていた。

 

 藍の頭上を白い翼が駆け抜けた。そして白い鴉天狗は瞬く間に藍を護るように立ち塞がると、小悪魔の放った炎を手に持っていた錫杖で叩き落とす。小さな炎は簡単に薙ぎ払われて鎮火してしまった。やはり当たったところで大した威力はなかったようだ。そうこうしている内に結界を完全に解除した藍へと、刑香が振り返った。

 

 

「一応聞くけど、もしかしてピンチだった?」

「とりあえず感謝はしておくが、あの程度の炎で私が手傷を負うわけがないだろう。それよりも随分と合流が早いな、あの門番との戦いは時間稼ぎで良いはずだったんだが」

「もちろん最初はそのつもりだったんだけど、色々あってね。お互いに本気で戦うことになったの」

 

 

 美鈴との勝負を制してきた刑香は、河童製の錫杖を肩に担いで藍へと振り向いた。その姿に藍は僅かに驚く、刑香は頬にかすり傷を負っているだけではなかった。まずは、その両足から天狗のトレードマークの一つである一本歯下駄が無くなっていた。そして血の匂いが漂っている、その原因を見つけた藍が顔をしかめた。どうやら、美鈴との戦いは決して楽な決着を迎えなかったようだ。

 

 

「何よ、そんなに非難するような目付きをしなくていいじゃない。別にこれくらいなら一週間もあれば治るわ」

「日数の問題ではないだろう、白桃橋。やはりお前は無茶をする天狗だな」

 

 

 ひょこひょこと器用に右足だけでバランスを取っている刑香。その左足は流れ出す血で真っ赤に染まっていた。何とか美鈴との戦いには勝ったようだが、これは浅い傷ではないだろう。骨を折られたのか、肉を抉られたのかは不明だがとても痛々しい。一切の無駄がなく、しなやかで白磁のようだった足はボロボロになっていた。後にこれを見ることになる霊夢の悲しむ顔が藍の頭に浮かぶ。

 

 

「大方、門番の誘いに乗って『決闘』形式での戦いに応じたのだろう? 全力で戦うことがお前なりの相手への敬意の表し方だと私は知っている。しかし、あまり無茶はしてくれるな」

「私の身体のことは私が一番良く把握してるから大丈夫よ。こんな程度では死なないわ」

「なるほどな。…………なら、これより私と共に異変の首謀者のところへ行こう。異変の主と戦っている紫様に我々が加勢すれば敵は降伏するしかない、それで異変は終結だ。その後で、その足は医者に診てもらうんだぞ」

「あんたは私の保護者か。それで、その二人はどうするの?」

 

 

 刑香が振り向いた先には観念した様子の魔法使いと青い顔の小悪魔。

 小悪魔は自分のとっておきが刑香に防がれた時点でパチュリーの元へ逃げ帰っていた。パチュリーの影でぷるぷると震えている。そしてパチュリーはすでに魔導書を閉じて、降参とばかりに両手を上げていた。

 

 

「けほけほっ、参ったわ。最後にとっておいた結界も大した効果を及ぼせないみたいだし、その上で美鈴を倒した妖怪に合流されたら消耗した私と小悪魔に勝ち目なんてない」

「ほう、まだ魔力には余裕があるのだろう?」

「これ以上は身体の方が持たないわ。長く生きる魔法使いは引き際をわきまえているの」

「パチュリー様っ、これお薬です!」

 

 

 パチュリーから完全に敵意が無くなった。どうやらここでの戦いはここまでのようだ。すると小悪魔がいつの間に持ってきたのか、喘息の薬と水の入ったコップをパチュリーに手渡していた。仲の良い主従だ。それを横目に見ながら藍は刑香へと話しかける。

 

 

「その左足、お前の能力で癒せないのか?」

「『死を遠ざける程度の能力』は、死の可能性を回避するための力だからね。重傷で死にかけている身体を延命させるならともかく、本質的には治癒能力が備わってないのよ」

「ふむ、思ったより効果範囲は限定的なのか。なら仕方ない、この異変を終わらせてからゆっくり治療してもらうしかないな。それと飛行には問題ないか?」

「大丈夫よ。例え両足をもがれても、この翼があれば飛行には支障はないわ。妖怪としての私にもね」

「そういえばその翼がお前の誇りだったな」

 

 

 刑香は自慢げに翼を広げた。

 穢れ一つ寄せ付けぬ純白の翼は、漆黒の翼を持つ鴉天狗の中においての異質。数百年に一羽が生まれ、虚弱な身体故に例外なく幼少期に命を落とすとされる白い雛鳥。しかし約千年前、何の因果か死を回避する能力を持つ者が生まれ落ちた。それが白桃橋刑香だ。刑香にとって、この白い翼は自身を迫害に追い込んだ元凶にして、文やはたて達と友人になるきっかけをくれたもの。現在の刑香を形作る全てであり、鴉天狗の誰よりも美しいと自信を持てる誇りなのだ。

 

 

「ふふふ、触らせてあげようか? あんたの尻尾モフモフと引き換えでいいわよ」

「残念だがそんな暇はないな。だがまあ、帰ってからなら考えてやらんこともないぞ?」

「冗談のつもりだったんだけど意外に乗ってくるのね」

「安心しろ、こちらも冗談のつもりだ」

 

 

 しっぽモフモフはまたの機会にお預けか、と刑香は正直に頼めなくて内心落ち込んだ。しかし翼は自分にとって弱点のようなものだ。この間だって霊夢によって散々に触られたせいで力が抜けて、そのまま小さな子供である霊夢に押し倒されたのだ。やはり駄目だ。いくら藍の尻尾を触るためでも代償が大き過ぎる。だが、あの尻尾の誘惑も負けず劣らず大きい。

 

 

「ち、ちょっとー! 何をするんですかぁ!」

 

 

 自分の世界に没頭していた刑香は小悪魔の悲鳴でようやく我に帰った。見ると紫が使うのと同じようなスキマを藍が空間に作り出して、そこにパチュリーと小悪魔をぐいぐいと押し込んでいた。パチュリーはスキマに危険性がないことを見抜いているようで大人しくしているが、小悪魔はバタバタと暴れていた。

 

 

「いやー止めてくださいー! どうか命だけはぁ!」

「大人しくしろ、異変が終わるまでお前たちを閉じ込めておくだけだ。おそらくは数時間で解放することになる」

「あら、レミィをそんな短時間で倒せると思うなんて、おめでたい程の自信家ね。今回の異変の中で『ビショップ』に過ぎない私に勝った程度で………まあ、どうでもいいか。小悪魔、この狐の言う通りにしなさい。私たちは負けたのだから」

「は、はい。パチュリー様」

 

 

 そのままパチュリーと小悪魔を飲み込んでスキマは消失した。藍の言ったことに嘘はない、二人は翌朝には解放されるだろう。逆にいえば、それまで二人は戦闘に復帰することはない。これで敵の二人は無力化されたということになる。美鈴もここに押し込んでおいた方がいいだろうか、とスキマを目撃した刑香は考えていた。しかしすぐに「まあ、いいや」と忘れることにした。美鈴は性格的に放っておいても大丈夫だろう。

 

 

「よし、あとは異変の元凶を成敗するだけね。でも紫のことだからもう終わってるんじゃないかしら。のんびり飛んで行ってもいい気がするわ」

「確かに紫様なら問題ないと思うが、私たちが合流して異変の主が降伏する方が双方の受ける損害も少なくて済む。そうすれば事後処理の手間が省けるんだ、主に私のだが」

「あんたの手間が減るのね、どんだけ雑用を押し付けられてんのよ。藍が生真面目すぎるから、紫が次々と厄介事を任せてくるんじゃないの?」

 

 

 主従共々、信じがたい程に強いのだからもう少し余裕を持ってもいいと刑香は思う。まあ、紫の方はいつもムカつく程に余裕たっぷりなのだが。その顔をいつの日にか驚愕で歪めてやるのが刑香の野望の一つである。そして、藍との練習試合で既にそれを達成していたことを刑香が知ることはもう少し先のことだ。

 

 

「そもそも怪我を負ったのなら、先に離脱しても良かったんだぞ?」

「一度関わったんだから最後まで力になるわよ。途中で投げ出すなんて天狗としての矜持が傷つくような気がするし」

「そういうものか」

「多分、そういうものよ」

 

 

 いつも通りに軽い会話を交わす二人。

 この時、敵の主力である紅美鈴とパチュリー・ノーレッジを撃破した刑香と藍は気がつかなかった。お互いに自分に割り振られた相手を倒し、味方と合流したという何一つ不利なことのない現状が油断を招いていた。それが命取りになるとは知らずに。

 

 

 

「キヒヒッ」

 

 

 その時、小さな影が二人の背後にある本棚の後ろにいた。フリルつきの真紅の上着とミニスカート、目映い金髪の髪はサイドテールで纏めている可愛らしい少女。しかしその顔には隠しきれない狂気の笑みが浮かんでいた。そんな少女はこっそりと、友達にイタズラをする童女のごとく無邪気に『能力』を発動する準備を始める。

 

 

「えへへ、狐さんと鳥さん。すぐに壊れちゃいそうだなぁ、とっても楽しみっ」

 

 

 少女は静かに本棚から身を乗り出すと、その華奢に見える両腕を二人へ向けて突き出した。その掌は虚空を掴む。当然だ、そこには何もないのだから。しかし少女の赤く輝く瞳は二つの新しい玩具を、怪しい光と共に映し込んでいた。歪んだ笑顔が頬を染め、口からは可愛らしい牙が覗く。ゆっくりと狙いを定めて、自らの掌の中の『目(モノ)』を握り潰そうと少女は能力(チカラ)を込める。まだ、二人は気づいていない。かくれんぼは得意だ。

 

 

「………きゅっとして」

「「――――何!?」」

 

 

 その瞬間、異様な気配が広がった。

 思わず身震いする程の異常な気を感じた刑香と藍。二人の持つ妖怪としての本能が信じがたい程の寒気に侵食していく。「何かがいる」と、その感覚そのままに異常の元凶を探そうと周辺を見回した二人はすぐに一人の少女を見つけ出す。七色の宝石を羽にぶら下げた金髪の少女、吸血鬼の幼子を。その無邪気な笑みを目撃した二人を、ぞっとする感覚が包み込む。あまりにも異常な気配に総毛立った刑香が叫ぶ。

 

 

「―――藍っ、私の後ろに隠れて!」

 

 

 刑香は、その少女の『能力』から藍を庇うように飛び出した。両手と白い翼を広げて少女の視界に立ち塞がる。だが、全てはもう手遅れだ。一度、それが発動に漕ぎ着けてしまえば防ぐ手立てはない。西方世界にだって、そんな方法は存在しなかった。

 それに少女が握っている『目(モノ)』は一つではないのだ。例え一方の獲物が何らかの手段で仲間を護ろうとしても、その守護者ごと潰してしまえばいい。ニヤリと笑った吸血鬼の少女は二人に向けた『両手で』何かを握り潰すように掌を閉じた。

 

 

「…………ドカーーンッ!」

 

 

 『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。

 それは悪魔の妹、フランドール・スカーレットが誇る絶対の力。少女の在り方を歪めた全ての元凶にして、西方世界に君臨していた最強の力。『命』を握りつぶす悪夢の欠片であり、レミリアがフランドールを『クイーン』と定めた理由。

 

 その破滅の言霊が、二人に向けて紡がれた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「いやぁ、負けちゃいましたね」

 

 

 紅魔館の門番、紅美鈴は地面に倒れ伏していた。

 目立つ外傷は右腕と腹部の損傷くらいだが身体は動かない。その両手両足は巫女のお札で縛り上げられているのだ。刑香から受けた傷自体は既に立ち上がれる程度には回復しているとはいえ、お札のせいで美鈴の身体はピクリとも動かない。

 

 

「まさかこんなモノを持っているとは思わなかったな。というより、何でこんなものを持っていたんだろ。刑香さんには巫女の知り合いでもいたんですかね?」

 

 

 刑香の繰り出した最後の攻撃は、美鈴の目から評価しても素晴らしいモノだった。まさか致命傷を回避する能力を利用して『捨て身の一撃』を繰り出してくるとは思わなかった。遥かな上空から加速を付けた、カウンター覚悟の突進攻撃。それは上級の妖怪同士の戦いでは自滅にも等しき愚行のはずだった。しかし必死の行動も白桃橋刑香に限っては、必殺の一撃でしかない。自らの強さ、弱さを正しく理解した上での戦術。それは決して強い種族としては生まれなかった美鈴と、同じ所に根差した考えだ。ならば悪くない、清々しい敗北だった。ああいった決着は美鈴も好むところだ。そして次は負けない、そう美鈴は決意した。

 

 

「痛たたたたっ、動くと痺れる!?」

 

 

 美鈴の身体を縛るお札がビリビリと霊力を放つ。どうやらお札を作成した術者はかなり力の持ち主らしい。何とか解こうとしているのだが、まだ刑香から受けたダメージが残っている美鈴ではびくともしない。しばらく脱出を試みた後、「もう寝ていようかな」と芋虫状態で逞しいことを考え始めた美鈴。一見、呑気なように見えるが、それはレミリア達を信頼しているからこそである。しかし、何かが近づいて来る気配を感じて気を引き締め直した。

 ガサリ、と草むらが揺れる。

 

 

「これはこれは、人間の子供がこんなところへ何の用ですか?」

「あんた、この屋敷の妖怪よね。そこに落ちていた一本歯下駄が血濡れなのも、あんたの仕業なの?」

 

 

 草むらから出てきたのは紅白の黒髪巫女。

 少女は砕けた天狗の一本歯下駄を抱えていた。それは美鈴が最後の一撃で刑香の左足をへし折った際に粉砕したものだ。彼女の左足はしばらく使い物にならないだろう。自分も右腕を折られたので、これでおあいこだ。この子供は彼女の知己だろうか。幼い巫女から感じるのは、敵意をむき出しにした鋭い眼差し。それを受け流して美鈴はにっこりと柔らかい笑顔で問いかける。

 

 

「確かに刑香さんと戦ったのは私です、負けましたけどね。それで何の用ですか、小さな巫女さん?」

「じゃあ、私が感じた嫌な予感はあんたじゃないのか。そりゃそうか、あんたからは『狂気』を感じないし…………私はみんなを助けに来たの、ここを通してもらうわよ」

「ちょっと待ってください」

 

 

 呼び掛けに霊夢が立ち止まる。地面に転がりながら言うのは少しばかり情けないが、動けないのだから仕方ない。美鈴は霊夢に、ある取引を持ちかける。

 

 

「この拘束を解いてくれたら、通ってもいいですよ」

「はぁ? 縄を解いたら私や紫たちを追いかけて来るんでしょ、何でそんなことをしなくちゃいけないのよ」

「大丈夫、もう私は負けた存在ですから手出しはしません。ただ、このまま朝まで過ごすのが億劫なので解いて欲しいんです。代わりに刑香さんが向かった場所を教えてあげますよ」

 

 

 紅魔館は広い。手当たり次第に人物を探し回っていたのでは、それこそ日が昇ってしまう。霊夢は少し考える素振りを見せた後、美鈴へと近寄った。解除の呪文を唱えながら、そっと身体に触れる。

 

 

「…………はい、これでいいわ」

「おおっ、ありがとうございます」

 

 

 主である霊夢の命令。お札は仄かな光を放ち、ボロボロと紙切れに変わってしまった。ようやく自由になった身体で美鈴は伸びをする。のんびりとした様子の美鈴に対して、霊夢は最大限の警戒を覗かせている。当然だ、霊夢と美鈴は敵同士なのだから。いつでも反撃できるように身構えながら、早く刑香たちの居場所を教えろと霊夢は無言で要求している。

 

 

「刑香さんは大図書館へ向かいました。まだ一刻も経過してはいません。もしパチュリー様と戦っているなら、すぐに追い付けるはずです」

「………あんたはこれからどうすんの?」

「私は門番なので、ここにいますよ。すでに敗北した私がこれ以上、刑香さんや九尾様に挑むべきではありません。それが決闘のルールですから。まあ、それ以外の侵入者とは戦うかもしれませんけど。………気をつけてね、小さな巫女ちゃん」

「私の名前は霊夢よ、覚えておきなさい」

 

 

 それだけ言い残すと霊夢は門を乗り越えて、飛んで行ってしまった。その後ろ姿を見送りながら「間に合えばいいけど」と美鈴は呟いた。『気』で強化した聴力は、大図書館での戦いが決着したことを告げていた。もう戦闘音は殆ど聴こえてこない。きっと幼い巫女が到着する頃には全てが終わっているだろう。願わくば彼女の仲間たちが無事であることを祈ろう。むろん、その上でのパチュリーたちの勝利も。

 

 さわさわ、と目の前に広がる湖を風が渡ってくる。

 晩秋の涼しげな夜風が美鈴の赤髪を優しくなびかせた。それは戦闘で高ぶった心を落ち着かせてくれるようだった。落ちていた帽子を拾い上げる。夜空に浮かぶ月は美しく、ここは神秘の力が満ちている。人ならざる者たちにとって、幻想郷はまさに最後に残された楽園だった。

 良いところに来たものだ、と感慨深く思いながらも美鈴は自らに気合いを入れ直す。さあ、門番としての仕事を再開するとしよう。

 

 

「出てきなさい、あなたたちが昼間から紅魔館を見張っていたのは分かっています。私が感じた妖気も、お嬢様が目撃した姿も、刑香さんではなかった。なら、その正体はあなたたちですね?」

 

 

 美鈴は堂々とした態度で暗闇へと呼び掛ける。そして一瞬の間を置いて、その鼓膜を羽音が震わせた。暗闇に紛れてこちらを伺っていた存在が二羽、地面へと降り立った。それは黒い翼を持った妖怪たちだった。刑香と同じ装束に身を包み、妖刀と葉団扇を腰に下げた者たち。その瞳に友好の色はなく、霊夢から向けられたモノとは桁外れの強い敵意が宿っていた。

 二羽の『鴉天狗』たちは、無言で紅美鈴を睨んでいる。

 

 

「刑香さんは中々に面白い方でしたよ、翼の色はあなた方と違いますがね。彼女は妖怪としては少し珍しいくらい真っ直ぐな方でした。…………さて、同族であろうあなた達は紅魔館にどういった御用ですか?」

 

 

 

 黒い翼の鴉天狗たちに『ナイト』の駒、紅美鈴は穏やかに告げた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話:人の子はそれを『絆』と呼ぶ

戦闘描写及び残酷な描写があります。
苦手な方はご注意ください。


 

 

 長い長い時を、フランドールは生きてきた。

 その悠久の時を身体が、脳が、精神が消えて無くなりそうな暗闇の中で過ごしてきた。破壊の恐怖に怯えながら生きてきた。壊すのは自分であり、壊されるのは常に相手である。それ故に彼女を傷つける者はどこにもいなかった。しかし強大過ぎる能力は精神を蝕み、少女の望まぬ『死』をもたらした。

 自分は世界の全てを壊(ころ)すことができる。それを自覚した瞬間から、まるで世界をガラス細工のように脆く不安定な場所に感じてしまった。その先にあるのは言い表せない恐怖だけ、幼き吸血鬼の少女は何もかもを壊してしまう自分が怖くて仕方なかったのだ。

 

 

 だからフランドールは『壊れないモノ』が欲しかった。自分の恐ろしい能力でも決して壊れないモノを幼き吸血鬼は何百年も求め続けていた。

 

 

 しかし、そんな日々にも終わりは来た。

 壊して壊して壊し尽くす。そんな日々に慣れてしまったのは、いつからだろうか。時には妖精メイドを、時には侵入してきた妖怪を、物言わぬ欠片に変えた。その慣れは急速な精神の崩壊と安定を彼女にもたらした。鈍くなってしまった心に他者の悲鳴は響かない、悲しみの声は聞こえない。その静寂に惹かれて、少女の精神は紅い世界の最下層へ引き込まれていく。ずっと昔の月夜、遂にフランドールの心は折れた。

 

 

 ―――もう疲れたよ。ごめんなさい、お姉さま。

 

 

 能力の暴走を食い止めようと必死だったフランドールの努力はそこで潰えた。もう何十年、何百年前になるのかもわからない。ただ一つ言えることは、能力の暴走に身を任せている時だけは冷たい現実を忘れられるということだった。暴れた後に残るのは、刹那的な快楽と壊れたモノだけ。もう自分にはそれでよかったのだ。

 それでも妹を見捨てまいとしてくれる姉にだけは毎晩、フランドールは夢の中で謝っていた。いつも目覚めると枕が濡れているような気がする。しかし夢の中で何をしたところで現実は変わらない。

 

 

 ―――今日だって同じだ。

 

 

 レミリアが提案した紅魔館の幻想郷への移転。

 それ自体に興味はなかったし、レミリアもフランドールの意見などは求めなかった。だからいつも通り地下室に閉じこもっていた。しかし満月の浮かぶ今夜、侵入者の気配を感じたことにより能力が疼きだしたフランドールは地上へと出てきた。何故か、自分を閉じ込めておく結界は無くなっていた。

 そしてパチュリーと小悪魔が妙な空間に吸い込まれたところを目撃した。これで自分を止められる者はこの場にはいない、思う存分にこの能力を使えるだろう。標的は白い鳥の妖怪と九本の尻尾を持つ狐の妖怪だった、どちらも美しかった。そう、美しい妖怪たちだった。

 

 

「もう、壊れちゃったの?」

 

 

 どこか寂しそうな様子のフランドールが眺めた先に横たわっているのは、血溜まりに沈む二人の妖怪。青い衣を真っ赤に染め上げた狐妖怪と、白い翼を紅い血で濡らした鳥妖怪。侵入者たちを壊したというのに、自分が嬉しいのか悲しいのか、それすらもフランドールはわからない。ただ、狂気と空虚に満ちた笑みを浮かべるだけだ。さあ、姉と戦っている最後の一人も壊しに行こう。それで今夜は能力の疼きが治まるかもしれない。その後は、また地下室に閉じ籠ればいい。誰にも会わないように。

 そう思って、フランドールが宝石の羽を広げて飛び立つ、いや飛び立とうとした瞬間だった。

 

 

 

「余所見してんじゃないわよ、西洋妖怪」

「…………え?」

 

 

 一瞬だけ見えたのは白い翼、そして自分に向かってくる大量の紙切れ。

 それをフランドールが認識した瞬間にその紙切れ、霊夢製のお札が四肢に纏わりついた。美鈴の動きを封じ込めたモノと同じ麻痺と拘束の術式、強烈な呪符に縛られたフランドールはバランスを崩して床へと倒れ伏す。信じられないモノを見る表情で。

 

 

「あれ、あれ? あなた、何で?」

「能力の強制的な全力解放なんて久しぶりよ、それこそ萃香さま以来かも…………っ、一瞬だけど反動で意識が飛んでたわ。とりあえず、あんたはしばらくそのままで反省してなさい」

 

 

 刑香が身体を引きずるようにして血溜まりから立ち上がる。刑香にこびりついた紅色は全て、八雲藍の血だ。フランドールの能力の直撃こそ刑香は免れていたが、藍に当たった攻撃に巻き込まれて気を失っていたらしい。フランドールを呪符で封じた刑香は、美鈴に折られた左足を庇いながら藍の傍へと歩み寄る。点々と血の跡が続いた。

 

 

「藍、生きてる?」

「うぁ、白桃橋………か?」

「………その状態で無茶すると死ぬわよ、私の能力で『死』を遠ざけておくから回復に集中しなさい。あとは私が何とかする」

「ぐっ、すまないな。お前も余裕はないだろうに」

 

 

 重傷の藍へと治療を施す刑香。そこでフランドールはようやく、自分が誰一人壊しきれていなかったことに気づいた。特に白い鴉天狗、刑香の身体は最初にフランドールが目撃したままの姿だ。美鈴がつけた左足の傷しかない。そう、刑香はフランドールの力を受けて無傷だったのだ。

 

 フランドールの全身がざわりと総毛立つ。それは五百年近くの生涯で初めての経験だった。初めて自分の能力で傷を負わなかった相手、フランドールの力をはね除けた相手。その事実を認識した瞬間、喜びとも怒りとも知らぬ感情が胸の底から沸き上がる。そして、それに呼応するようにフランドールの身体から魔力が溢れだした。その動きを封じていたお札が急速に黒ずんでいく。ギシリ、と術式が悲鳴を上げるように軋んだ音を鳴らした。

 

 

「藍、一旦ここを脱出しましょ「逃がさない」…………!?」

 

 

 幽鬼のごとき雰囲気を纏い、立ち上がったフランドール。彼女を封じていたお札は黒い蒸気を発して燃え尽きていく。あまりにもフランドールの魔力が高すぎたのだ。霊夢渾身の呪符が灰に帰していく、その異常な様子を警戒した刑香が錫杖を構え直す。焦点の合わない視線を迷わせるフランドールの口から言葉が零れ落ちる。

 

 

「どうして壊れないの、確かに壊したのに。もう『壊れないモノ』は諦めたのにどうして今更、あなたみたいなのが現れたの?」

「………何を、言ってるの?」

「もう遅いの、もう要らない。私は世界の全てを壊せるならそれでいい、だからあなたは邪魔なのっ!」

 

 

 まるで自分に言い聞かせるように悲しげに、そして周りに当たり散らす子供のように幼い吸血鬼は叫んだ。真っ赤な瞳は狂気に揺れている、金色の髪は仄かな光を纏う。澄み切った魔力はまさに吸血鬼、西方世界の頂点に君臨する種族の一人は白い鴉天狗に向けて襲いかかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 油断は一瞬だったはずだ。

 敵の魔法使いと使い魔をスキマに閉じ込め、図書館から敵の姿が消えた。残っているのは紫と戦っている異変の主だけであり、紫が負けるなどとは刑香と藍は微塵も考えていなかった。だからこの異変はここまでだと、解決したものだと判断してしまった。そこで油断した、周囲への警戒を二人は緩めてしまった。

 

 その一瞬で藍が狂気に倒れた。あの瞬間に刑香が感じたのは、生まれて初めて感じるくらいの悪寒だった。まるで明確な『死』を突き付けられたかのような濃密な死の香り、その『破壊』の力はパチュリーの魔法ですら有効打を与えられなかった藍の護りの妖術を本人ごと粉砕した。直撃を受けたのが刑香だったのなら、間違いなく即死だっただろう。だからこそ『死を遠ざける程度の能力』が自動的に発動した、まさに命拾いそのものだ。

 

 しかし、その一方で刑香は藍を護ることが出来なかった。フランドールの能力は視界から対象を隠しただけでは防ぐことができなかったからだ。あの瞬間で正しい行動は刑香が藍に『死を遠ざける程度の能力』を使うことだった。そうすれば刑香の多大な負担と引き換えに藍は無傷で済んだはずだ、今の刑香にそんな余裕があったのなら。

 ともかく、そうして命を拾った刑香は現在、大図書館の虚空でフランドールと戦いを繰り広げていた。

 

 

「反省していなさいって言ったでしょ。聞き分けのない子供は嫌われるわよ!」

「いいよ、もう嫌われてるもの!」

「だったら好かれる努力をしてみたら?」

「それこそ余計なお世話だよ!」

 

 

 白い鴉天狗と紅い吸血鬼の空中戦。

 鋭い爪を振りかざすフランドールの攻撃を、刑香は錫杖で捌いていく。一撃ごとに薄い傷が入っていく錫杖を冷静に構えて、吸血鬼の攻撃を受け流す。そして無警戒に突っ込んできたフランドールの頭をそのまま錫杖で殴りつけた。ギシリ、という手応えが刑香の腕に伝わり、カウンターに近い打撃を受けたフランドールが垂直に地面へと衝突する。

 

 

「あははっ!! こんなの全然効かないよ、白い鳥さん!」

「っ、手加減なしでぶん殴ったのにダメージなしか」

「今度はこっちの番だねっ!」

 

 

 フランドールは無傷だった、やはり刑香には力が足りていない。そしてフランドールが空中の刑香へと右手を突き出した、再び強烈な寒気が刑香を襲う。回避行動に移ろうとして、軋みを上げ始めた自分の身体に刑香は舌打ちする。美鈴との決闘、能力の強制発動、藍への治療が自分の体力の大半を奪いさっている。フランドールの能力は疲労した身体ではかわせない。

 

 

「きゅっとして、ドカーンッ!!」

「――――ぐぁ!?」

 

 

 刑香の『能力』により逸らされた攻撃が、本棚を大きく爆散させる。それに巻き込まれ、バランスを崩した刑香が地面へと叩きつけられた。バラバラに撒き散らされた魔導書と共に床に刑香が倒れ込む。胸を打ち付けて荒い呼吸に苦しむ鴉天狗を見下ろしながら、床へと降り立つ吸血鬼。フランドールは落ちていた羽をひょいと拾い上げた。

 

 

「わぁ、キレイな羽。宝石箱にいれて宝物にしようかな、それともお姉様にプレゼント?」

「それは、光栄なこと、ね。羽なら、くれて、やるから………子供は明日に備え、て眠ること、をオススメするわ」

「もうバテたの? まだまだ、これからなのに」

 

 

 息も絶え絶えな様子でどうにか壁に寄りかかり、フランドールを睨む刑香。外傷は美鈴によって負わされた左足くらいなのだが、能力の連続使用で身体はガタガタだ。会話をしながらも必死に呼吸を整えることに専念する。クスクスと笑い声を漏らすフランドールが一歩ずつ、ゆっくりと近づいてくる。

 刑香は錫杖を持つ手が震えそうになるのを抑えつけ、怯えそうになる自分の心を叱咤する。幸い傷自体は戦闘に影響するものは少なく、翼は無傷、ならば仕切り直すことは不可能ではないはずだ。ようやく呼吸は整ってきた、勝負はこれからだ。

 

 

「行くわよ、ここからが「うん?」………え?」

 

 

 恐らく一気に距離を飛んで詰めたのだろう、目の前にフランドールの顔があった。それに思考が停止した瞬間、腹部を下から撃ち抜かれる衝撃が刑香を襲った。可愛らしいストラップシューズから繰り出されたフランドールの凶悪な蹴り、身体の芯がメキメキと嫌な音を立てる。

 

 

「~~~~っ!」

 

 

 その勢いを逆に利用して刑香は十数メートルはありそうな天井近くまで飛翔する。同時に、胃の中のモノが逆流してくるのを口を抑えて何とか耐える。口の中に血の味が広がった。おまけに重々しい痛みが腹部から這い上がってくるのを感じる。こちらは決して浅いダメージではない、間違いなく今後の戦闘にも影響するだろう。自分の不甲斐なさに、刑香はもう一度だけ舌打ちをする。

 

 

「さっきまでより、とっても遅いよ?」

「ごほごほっ………あんたの所の門番とも戦ったからね。連続の戦闘なんてスタミナが持たないわよ。ちょっとは察しなさい、チビッ娘吸血鬼」

「あははははっ、なら優しく壊してあげるね!」

「謹んでご遠慮させていただくわ!」

 

 

 再び空戦を繰り広げる両者。

 フランドールの攻撃はとても直線的だ。彼女の戦い方には美鈴のように巧みな武術はなく、パチュリーのように高尚な魔法技術は組み込まれていない。なので先程のように構えを解いていなければ、その攻撃を捌くこと自体は刑香にも容易だった。

 ただし一撃ごとに両手を痺れさせる彼女の怪力に目をつぶるならば。そして、それを無視できない故に単なる力で、生まれ持った妖怪としての差で、徐々に消耗した刑香は追い込まれていく。何よりも大図書館の狭い空中では美鈴の時のようにスピードによる撹乱ができない。これでは、まるで鳥籠だ。

 

 

「くっ、こんな空間じゃあ振り切れない!」

「どうして逃げるの? そんなんじゃ私を壊せないよ?」

 

 

 カクン、とフランドールが首を傾ける。

 戦いの始まりから今まで、刑香が積極的に攻撃したのは最初だけだ。それ以後は勝負を引き伸ばすように、回避に集中している。これでは自分を『壊す』ことなどできないというのにだ。それがフランドールには不思議で仕方なかった。負傷した腹部を手で押さえながら、刑香は不敵に笑う。

 

 

「私がするのは時間稼ぎだけよ。紫が駆けつけるまで私が持てばそれでいい、そうすれば私たちの勝ち。大妖怪、八雲紫ならあんたにも勝てる。他者の力をあてにするなんて情けない作戦だけどね」

「ふーん、信頼してるんだ。仲間のことを」

「さあね、とりあえずはもう少し私と鬼ごっこをしましょうか」

 

 

 このまま追いかけっこを続ければ、遠くない未来にスタミナの尽きた刑香はフランドールに捕まるだろう。そうなれば終わりだ、腕力に劣る刑香にフランドールの拘束から抜け出す方法はない。それは白桃橋刑香にとっての最期になる。それでも刑香は怯えを見せない。この程度、あの『小さな百鬼夜行』に挑んだ時と比べるなら窮地であっても死地ではないのだから。

 

 

「もう鬼ごっこは飽きちゃった。…………ねえ、白い鳥さんは知ってる? チェスの『クイーン』の駒はね、大抵一つのセットに予備が入っているの。ポーンが昇格すると必要になるから、いくつかスペアが用意してあるのよ」

「………そういえば、そうだったかもね」

 

 

 突然、チェスの話を始めたフランドール、それを疑問に思いながらも刑香はその話に付き合うことにした。これで平和的に時間が流れるのは刑香にとって都合が良かったからだ。しかし、ゆらりと自分の背後に現れた影に刑香は気がつかなかった。大図書館にいる敵がフランドールのみだと思い、目の前の幼い吸血鬼に全神経を集中していたからだ。そして、それは間違ってはいない。

 

 

「………でも残念だけど、チェスはあまりやったことがないわ。百年前に何回か、西方からの渡来人相手に遊んだくらいかしらね。幻想郷が今の形になる前だけど」

「そうなんだ、なら説明もしてあげるね」

「何の説明…………がっ!?」

「「こういうことだよ、白い鳥さん?」」

 

 

 突然、背後から聴こえてきた二つの声が刑香の鼓膜を震わせた。何故、この声が後ろからして来るのかと刑香は驚愕する。しかし刑香が振り返る前に、小さな手が刑香の白い髪を掴み上げた。そして翼も二人組に押さえつけられる。

 

 

「な、にっ!?」

 

 

 両翼を万力のような力で封じられ、バランスを崩して刑香は墜落する。そして、そのまま大理石の床に叩きつけられた。肺にダメージを負い、激しく咳き込む刑香。翼は何者かに抑えつけられたままで逃げられない。そして三人掛かりで刑香を空から引きずり降ろした犯人たちは、残酷な笑みを持って姿を晒した。

 

 

「げほっ…………こんなの、嘘でしょ?」

「「「嘘じゃないよ」」」

 

 

 刑香を見下ろしていたのは三人に増えたフランドールだった。三つ子と紹介されれば納得せざるを得ないであろう瓜二つの姿、だが発せられる魔力の波から三人が紛れもなくフランドール本人であることが刑香には理解できた。つまり、これは何らかの魔法の一種なのだろう。しかし理解できたところで襲ってくるのは絶望だけだ。一度捕まってしまえば、刑香の力ではフランドールを振り払えない。その事実に刑香が顔を青くするよりも早くギシリ、と翼が軋む音を上げた。

 

 

「…………何をするつもり?」

「やっと捕まえたのに、また飛ばれたら逃げられちゃうでしょ。だからね、飛べなくするの」

「―――っ! ち、ちょっと冗談よね?」

 

 

 フランドールが刑香の翼に掛ける力を増していく。

 「まさか」と、その意味することを理解した刑香の顔から血の気が引いた。この翼は鴉天狗としては出来損ないである刑香にとっての唯一の自慢だ。射命丸文や姫海棠はたてと親友になった切欠をくれたモノでもある。だから白桃橋刑香にとって、命の次に大切モノ。それを、まさか―――。

 

 バキィッ、何かがへし折れた音が大図書館に鳴り響いた。そして同時に絹を裂くような悲鳴が、響いた。

 

 

「まず片方っ、と」

「―――が、ぁあああああ!?」

 

 

 悪夢のような痛みに刑香が絶叫した。

 何とかこの状況から抜け出そうと暴れるが、フランドールの拘束はびくともしない。根元から折られた白い翼は痛々しく、引き抜かれた白い羽が雪のように舞う光景は美しかった。「きれい………」と、それを眺めていたフランドールは鴉天狗の少女からの抵抗が止んだのを感じて首を傾げた。今の痛みで力尽きたのだろうか。

 

 

「ねぇ、暴れなくていいの? こっちの翼も折っちゃうよ?」

「…………もう、好きにしなさい」

 

 

 ぐったりと糸の切れた人形のように刑香は脱力していた。無惨にも折られた翼、鈍痛を訴える腹部と血塗れの左足。刑香の身体はもう限界だった。そして、誇りである白い翼を折られた事実が唯一の支えであった精神力さえ奪い尽くしていた、命より少しだけ先に心が折れたのだ。

 そんな刑香へ「ふーん」と、つまらなさそうな表情をしたフランドール。白い翼に掛ける力が増していく、それに伴って刑香の残った片翼が骨の軋むような音を上げる。自分の終わりなど、まだまだ先だと考えていたのだが、どうやら死神の世話になるのは思ったより早かったらしい。そう覚悟を決めた刑香は瞳を閉じた。

 

 まさにその瞬間だった、翼を掴んだフランドールの動きがピタリと止まったのは。

 

 

 

「ん、あれ? 腕が動かない?」

 

 

 いつまでも襲って来ない痛みに、刑香が恐る恐る瞼を開ける。

 フランドールの動きが止まっていた、いや止められていた。刑香の翼をへし折らんとした腕を封じ込めていたのは青い光を放つ鎖、それは幾重ものお札で編み込まれた拘束術式。以前、刑香が『あの娘』をご褒美と称して甘味所へ行った日に目撃した術そのものだった。ならばその意味することは一つ、あの娘がすぐそこにいるとういうことだ。唖然とした刑香の耳に、聞き慣れた声が届く。

 

 

「絶対にみんなで帰ってくるって約束したのに、諦めるなんて酷いじゃない刑香。それに藍はどこなの?」

「ど、どうしてここに!?」

 

 

 大図書館の入り口に堂々と佇んでいたのは紅白の童女。とても不機嫌そうに、幼い巫女はお祓い棒とお札を持って佇んでいる。いつもの冷めた雰囲気はそこにない、少し赤みがかった瞳は静かな怒りに燃えていた。苦労して辿り着いた敵の本拠地で、初めに目撃したのがボロボロにされた刑香だった。そして自身の直感が藍もまた無事でないことを告げていたからだ。霊夢の瞳には、幼い吸血鬼に対する怒りが滲んでいた。

 

 

「っ、私のことはいいから藍を探しなさい!」

 

 

 自分のことは放っておけと、刑香が焦った様子で霊夢へと叫ぶ。

 ここにいるのは三人に増えたフランドール、それが分身か本物なのかは刑香にはわからない。だが、どのフランドールも吸血鬼としての力が恐らく本物なのは、感じる魔力から間違いない。いくら天才たる霊夢でも三人の吸血鬼を相手にするのは荷が重すぎる。

 もし先に刑香を助け出したとしても、瀕死に近い刑香と未熟な霊夢だけではフランドールたちにはきっと敵わない。何よりも今の刑香には霊夢を護る力はない。故に刑香は「自分を見捨てて逃げろ」と霊夢へ訴えたのだ。しかし霊夢は動かない。訝しげに自分を睨むフランドールたちの視線に身じろぎもしない。

 

 

「大丈夫だよ、刑香たちを助けたいって思っていたのは私だけじゃなかったみたいだから………本当は私一人で助けたかったんだけど、この場合は仕方ないよね」

「霊夢、何を言って…………?」

 

 

 余談だが八雲紫は妖怪の賢者であり、賢くしたたかだ。天魔を含めた大妖怪たちが彼女への協力を断ったのも『八雲紫が強い』ことに少なからず起因している。八雲ならば、この程度の異変は片手間に解決してしまうに違いない。下手に関わっては自分たちが厄介事を背負わされる危険がある。そう思ったからこそ、彼らは八雲紫を助けなかった。

 ならば、その逆の者にはどうであろうか。例えば決して強者とはいえないであろう白い鴉天狗の少女に手を差しのべる者は、果たして幻想郷に一人もいないのだろうか。答えは否だ。

 ふわり、と真っ黒な羽が舞い落ちた。

 

 

 

「あややや、天魔様からは偵察だけだと言われていたんですけど。幻想郷の未来を担う巫女殿のピンチなら、手を貸すしかないですよね」

「よく言うわよ、あの巫女が現れなくても何だかんだと理由を付けてアイツを助け出すつもりだったクセに。まあ、私は巫女なんて関係なくあの宝石羽の妖怪を蹴り飛ばすつもりだったけど」

 

 

 ゆっくりと虚空を舞い踊る黒い羽根、そして風に乗って聴こえて来た涼やかな声たち。

 刑香の心臓が大きく脈を打った。あり得ない、今のは幻聴だと刑香はその希望を否定する。こんな絶望的な状況へ『あの二人』が助けに来るなんてあり得ない。そんな都合のよいことがあるものかと、基本的に冷めた性格の刑香は信じることができない。しかし、そんな刑香の絶望を吹き飛ばす『風神』たちが霊夢の隣へと降り立った。

 

 

「だいたい六年ぶりくらいですかね。いやー、ホントに久しぶりですね」

「嘘つけ、この腹黒天狗。あんたは掟を破ってちょくちょくアイツと会ってたでしょ。私なんて本当に六年ぶりよ? こんな異変の最中に再会をするなら、こっそり会いに行けばよかったわ。そう思わない?」

 

 

 カランと、一本歯下駄が鳴る。そこにいたのは濡れ鴉のような艶やかな黒髪を肩口にまで伸ばした少女と、見事な茶髪を可愛らしくツインテールに結んだ少女。驚きで言葉が出ない刑香へと、おどけるように、しかし確かな親愛を込めて二人の『鴉天狗』たちは言葉を紡ぐ。哨戒などの任務時にしか身につけることのない天狗装束、腰から下げられた妖刀と葉団扇。

 それは大天狗たちに認められた鴉天狗のみに許された正式武装。それは、わざわざ日の落ちる前から紅魔館の周辺を見張っていた二人が念のためにと組織から失敬してきた装備一式だった。黒い鴉天狗の少女たち、射命丸文と姫海棠はたては白い鴉天狗の少女へと希望の言葉を紡ぐ。

 

 

「助けに来ましたよ、刑香」

「助けに来てやったわよ、刑香」

 

 

 それはきっと輝ける鬼の財宝よりも、長寿をもたらす天界の桃よりも尊きもの。例え、何があろうとも決して『壊せない』モノがこの世界には確かに存在する。『全てを壊す力』を持つ幼き吸血鬼の少女は紅い満月の微笑む夜、そのことを知る。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話:大切な貴女へ

戦闘描写があります。
苦手な方はご注意ください。


 

 

 夜明けが近い。

 白んでいく空が満月の闇夜を朝焼けへと描き変えていく。それに伴って月の魔力に突き動かされていたフランドールの狂気が薄れつつあった。いつもなら誰かを、何かをバラバラに壊して正気に戻っていた。しかし今夜は違う。『能力』を最大限に導入した全力での戦い、それにも関わらず誰も壊れていない。誰も壊していない。その事実にフランドールの心が不安と、かすかな喜びに揺れ始める。

 

 

「変われる、のかな?」

 

 

 もしこのまま夜が明けるならば、誰も壊さずに狂気が治まるのならば自分は変われるかもしれない。どこから出てきたのかもわからない、そんな思いにフランドールの心が揺れ動いていた。しかし勝負に手を抜くつもりはない、そんな器用なことはできない。

 フランドールの掌には太陽の熱、その紅い光は大図書館で踊る竜巻を焼き払う。フランドールは奥の手であった『魔剣レーヴァテイン』を振りかざしていた、いつもならば『能力』のみで決着が着くはずだった戦いに初めて使わされた切り札。姉レミリアの魔槍と対になる、真紅のレーザーを固めたような威力と輝きを放つ魔剣。それでも倒せない黒い鴉天狗たちにフランドールの鼓動が早まっていく。

 

 

「でりゃあぁぁぁああ!!」

「………え?」

 

 

 不意に後ろから聴こえていた声に間抜けな声を出してしまう。

 背後へと振り向く前に、自分の肩口へと突き刺さる妖刀。視界に踊ったのは風になびく茶髪のツインテールだった。ぐらりと身体が傾いていく、はたては袈裟斬りにフランドールをそのまま切り捨てた。傷は易々と心臓に達し、フランドールは致命傷を負う。しかし出血はない、『この身体』は一定のダメージを受ければ霧散するだけなのだから。

 

 

「まずは一人っ!」

 

 

 フランドールの『分身体』を切り捨てたはたては、即座にその場を離脱した。雄々しくも美しい翼を広げ、葉団扇の補助を受けた爆発的な加速で黒い閃光となる。そして、はたてが離脱した瞬間には鮮やかな炎がその場を通過した。フランドールの分身体は確認できたもので二体、はたてが倒したのとは別のモノが攻撃してきたのだろう。まさに紙一重での回避だった。

 

 

「こっちは子供の頃から『幻想郷最速』と鬼ごっこをしてんのよ。その程度の攻撃なんて当たらないっての」

 

 

 その言葉と裏腹にチリチリと髪の先から焦げた匂いがする。炎剣がかすっていたのだろう、あと数センチずれていたら顔に大火傷を負っていたかもしれない。しかし常人ならば臆するであろう恐怖もはたての心に焦りを生み出すことはない。胸の奥から沸き上がる怒りが、それ以外の感情を押し流してしまっているのだ。メラメラと燃え盛る心はその程度の恐怖で止められはしない。

 組織の上層部が語る「天狗としての矜持」「本気を見せぬことこそ華」に対して、はたては「そんなもの知ったことか」と妖力を解放する。渦巻く大気が彼女を取り囲み、生き残っていた本棚が軋みを上げる。『今どきの念写記者』、姫海棠はたては天狗としての全力を持って、もう一人の分身体へと隼のごとく急降下を仕掛ける。

 

 

「分身相手に手加減は一切してやらないから、せいぜい本気でかかって来なさい。そして友を傷つけられた天狗の怒りを知りなさい!」

 

 

 葉団扇は竜巻を生み、妖気渦巻く風の中心を飛ぶのは妖刀の輝きを爪のごとくに携えた黒い翼。

 その姿こそ鴉天狗、天つ風を率いて雲路を切り裂く『風神』にして古き山々に祀られし凶兆の者。鳥にして鳥にあらず、天狗にしてただの天狗にあらず。我らよりも高く幻想郷を見渡せる者はいない、我らよりも長く幻想郷を見守ってきた者はいない、と鴉天狗たちは語る。その古き誇りを胸に若き鴉天狗は空を駆け抜ける、全ては傷つき倒れた友のために。

 

 

◇◇◇

 

 

 激情に燃えるはたてが分身体と戦っている隣で、射命丸文はフランドールの本体との激しい攻防を繰り広げていた。黒翼と宝石羽は絡み合い、ぶつかり合っては火花を散らす。燃え盛る紅蓮の刃を流水のごとく滑らかに受け流す射命丸文。流石は鴉天狗の精鋭だけはある、その剣術は本物だ。はたて、刑香と比べるならば彼女の実力は頭一つどころか二つ、三つは抜けている。

 トップスピードのまま、黒い鴉天狗は稲妻のごとくに空を駆け上がる。暴風と火炎が激しく散る戦闘は、はたてに負けず劣らず苛烈だった。ただし、はたてと文の戦闘には明確な違いがある。それは文が極めて冷静であったことだ。

 

 

「えへへ、上手く避けるんだね」

「いやぁ、その剣をまともに浴びたら焼き鳥どころか消し炭にされちゃいますからねぇ。だから頑張って回避してるんですよ」

「顔色一つ変えてないくせに嘘ばっかり」

 

 

 この空間の全ては射命丸文の領域だ。

 『風を操る程度の能力』は密閉された空間では、外とはまた違う強さを誇る。すなわち空間内全ての大気のコントロールである。上へ下へと吹き荒れる強烈な乱気流に煽られ、更には視界を阻まれてフランドールは『能力』の狙いが定まらない。その空中で炎剣と妖刀がぶつかり合う。力任せにレーヴァテインを叩きつけるフランドールの攻撃をやはり文は妖刀でもって冷静に受け流していく。そして何回目かの接近戦で悲鳴を訴え始めた刀を見て、文は溜め息をついた。あまりの熱量に刃の一部が溶け出していたのだ。

 

 

「やれやれ、室町の世から伝わった秘蔵の妖刀がこれでは形無しです。後々に上層部から大目玉を喰らうのは避けられそうにありません、今から憂鬱です」

「ふーん、意外と冷静なんだ。私がボロボロにしちゃった白い鳥さんはお友達なんじゃないの?」

「刑香は大切な幼なじみです。少なくとも上からの命令を無視して駆けつけるくらいには大事な妹分ですよ。ですが、戦いの中に剥き出しの感情を持ってくるような迂闊さは私にはありません」

 

 

 もちろん嘘だ。本音を言うのならば刑香の翼をメチャクチャにした目の前の敵、フランドールの羽を同じようにへし折ってやりたい。煮え立つような怒りに心が震えている。もし刑香を痛め付けた相手が単なる野良妖怪であったならば迷いなく、そうしていた自信がある。

 

 しかし目の前にいるのは吸血鬼の幼子、これまでの言動を考えるに恐らくは世間知らずな子供なのだろう。そんな相手に報復を加えるのは、少しだけ気が引ける。そして「偵察までは許すが、この異変に深入りするな」という天魔の命令を自分たちは既に破っているのだ。ならばこの幼子に下手な傷を負わせること自体が懸命ではない。これ以上の異変への介入は不味い。それ故に射命丸文に求められるのはフランドールをできるだけ傷つけずに、尚且つ文自身も傷つかずに勝利することだ。強力な種族である吸血鬼相手にそれは何とも面倒くさい。

 

 すぐ隣の空間で「うりゃぁぁぁあ!!」と威勢よく分身体に斬りかかる友人に考えはないのだろう。暴れるだけ暴れて、その後の全てを自分に丸投げする腹積もりであるのは間違いない。普段は刑香と同じく冷めた性格のくせに、こういう場面では燃え盛る感情を表に出す。何百年も前からそういうところは相変わらずだ。

 

 

「まったく色々と面倒な戦いですねぇ。もし上層部から睨まれたら最悪の場合には追放もあり得るかもしれません。そうなれば刑香のボロ小屋にお世話になりましょうか、やれやれ」

 

 

 仮にそうなったとしても後悔はそれほどないだろう。例え、何があったとしても射命丸文は白桃橋刑香に無条件で味方する。その敵が誰であったとしても刑香を必ず助け出してみせる。もし立場が逆で、文が危機に陥ったのならば刑香は文を絶対に助けに来るだろう。それは砂糖を吐きそうなくらいに甘い、まったく天狗らしくない友情だ。だが、それを悪くないと感じる自分がいる。組織での体裁よりもこの関係を失いたくないから射命丸文は戦うのだ。

 

 

「きゅっとして…………!」

「おっと、その能力は見切り済みです!」

 

 

 フランドールが能力の照準を合わせようとする瞬間には、黒い鴉天狗の姿はそこにない。刑香とは違い、風陣に護られた文ならば回避方法はいくらでもある。超加速、風塵による目眩まし、術者自体を揺らして狙いを狂わせる。いずれにしても文に許されるのは一秒にも満たない対処時間だが、それだけあれば充分だ。『幻想郷最速』の称号は伊達ではないし酔狂でもない。音速にすら満たぬ程度の攻撃は射命丸文には届かない。

 

 

「あれ、どこにいったの?」

 

 

 あっという間に文はフランドールの視界から消える。そして幼い吸血鬼がキョロキョロと辺りを伺う様子を文は上空から見下ろしていた。

 

 

「さて、そろそろ仕掛けますか。双方ともに納得できる結末へとこの異変を導く。不肖ながら、この射命丸が船頭を務めてみせましょう」

 

 

 夜が明けつつあった。

 結界に護られながら、床に倒れ伏す白い鴉天狗の少女と彼女を介抱している幼い巫女を照らす光。そして大図書館の一角にて自己修復を終えて、ゆっくりと立ち上がった九尾の大妖怪に降り注ぐ暖かな熱。地平線の向こうから迫りつつあるのは太陽の気配、もうすぐ幻想郷に朝が訪れる。夜の終わりに合わせるかのように『吸血鬼異変』もまた終結の時を迎えていた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 同時刻、紅魔館の上空にて。

 そこに君臨していたのは二人の人ならざる者たちだった。一人は『妖怪の賢者』、八雲紫。そしてもう一人は紅い月を背にして羽ばたく幼き姿の吸血鬼、レミリア・スカーレット。幾千の時を経た大妖怪に対して吸血鬼はたがが五百年を生きた若輩者、されど満月の光が満ちる今この場においてレミリアは紫と相対することを許されていた。

 

 しかし、もはや両者の間に殺気はない。

 

 すでに二人の戦闘は終結していたからだ。ほぼ無傷で戦いを制した勝者は八雲紫、傷だらけの敗者はレミリア・スカーレット。『キング』同士の直接対決は八雲側に軍配が上がっていた。それは見るからに圧倒的で、完全なる勝利だったはずだ。それにも拘らず、紫の背中を冷たい汗が伝っていた。

 

 現在の両者の間に横たわる差は百年や二百年で埋められるものではない。しかし千年、二千年後はどうだ。この幼い吸血鬼は妖怪としての格も、身に秘めたカリスマ性も完全なものへと成長させるかもしれない。それどころか『妖怪の賢者』の一人に数えられる運命があるかもしれない。それは八雲紫にとって大きな脅威であると同時に、扱い方次第では幻想郷を良い方向へ導く役に立つ人物ということだ。

 

 これで紫はレミリアを無下には扱えなくなった。そうなると自らの敗北さえレミリアにとっては計画の一部だったのではないか、と紫は考え始めていた。幼き夜の支配者はまるでワイングラスを傾けるごとく優雅に紫へと語りかける。

 

 

「幻想郷に感謝するわ。これでXulescu(イクスレスク)のように、迷い続けて来たあの娘は自らの意思でようやく運命を歩き始めることができる」

「この異変の目的はたった一人の身内のためだったと? 随分と妹に甘いことね、紅魔館の当主殿」

 

 

 Xulescuとはルーマニア語で『名無しの誰か』という意味のある言葉。自分の意思で運命を歩けない者には相応しい名称、それをレミリアは愛しさを込めて発していた。その真紅の瞳に映っているのは妹である金色の吸血鬼なのだろう。あまりにも身勝手で、あまりにも優しい異変の首謀者へと紫は呆れたような表情をした。

 

 

「別にフランドールのためだけじゃないわ。これで私たち紅魔館は『妖怪の賢者』相手にも一夜を戦い抜く勢力だと幻想郷中に知らしめられた。この異変で私たちの幻想郷での立場は確立されたわ。此方としては大成功よ。…………今この場で貴女に私が始末される可能性もあるけどね、どうするの?」

「やめておくわ、貴女たちは新しい幻想郷に必要だもの。『あのルール』を普及されるために、これまでの慣習や常識に囚われない勢力の出現を私は待っていたのだから。…………もしかして、それも見越した上での幻想郷への移転騒動だったのかしら?」

「さあ、どうでしょうね」

 

 

 少しだけ語尾を強めた紫の問いかけに対して、レミリアは何処吹く風で首を傾けた。いくら敗北を受け入れたといっても『運命を操る程度の能力』を解説してやるつもりは毛頭ないらしい。しばらく顔を背けていると紫も諦めたのか、幼い吸血鬼から視線を外して戦いの余波を受けた地上へと目を移した。そこに広がるのは変わり果てた風景だ。

 

 

「少しばかり、やり過ぎたかしら?」

「これが少しなの?」

 

 

 思わず苦笑した両者。

 ひとまず屋敷を囲む広大な森の一部が無くなっているのは仕方ない。強大な妖怪同士がぶつかったのだから地形の一つや二つは変わる、それくらいは普通の光景だ。しかし湖に突き刺さっている『列車』たちは戦いの異様さを鮮明に物語っていた。スキマ妖怪が廃棄された路線ごと外界から呼び出した、一両あたり二十トンを越える合金の塊。それを時速にして三桁を越える速度にて紫は突撃させた、もちろん直撃した際の威力は語るまでもない。

 それらの物理兵器の殆ど全てをレミリアは魔槍グングニルで防御、もしくは両断していた。恐るべきは吸血鬼の怪力と飛行能力、そしてレミリアの冷静な戦略眼だろう。奇妙なオブジェが浮かぶ湖、そこに住む小妖怪や妖精にとってはいい迷惑である。そんな惨状を作り出した元凶であるレミリアもまた、紫から目を外して紅魔館へと真っ赤な視線を送っていた。彼女の読んだ『運命』の通りならば、フランドールはここで変わることができるのだ。

 

 

「敗北から学びなさい、私の愛しいフランドール。この世界はあなたの『能力』で壊せないものに溢れているということを、今度こそ自らの心臓に刻み込みなさい。そうすれば、きっと狂気なんかに負けない。だってあなたは私の妹なんだから」

 

 

 ここからは見えないはずの妹へ向けて、レミリアは微笑んだ。徐々に鎮火していく火柱は、まるで妹の狂気が消えていくようだ。きっとあの娘は生まれて始めての敗北に学ぶだろう。この世界は自分が思っているより強く、安心できる場所なのだと。そして、あの白い鴉天狗と同じように『壊れないもの』を既に自分が両手いっぱいに持っていることに気がつくだろう。あの娘を大切に思っている者はレミリアだけではない。

 故に、レミリアは幻想郷に感謝する。大切な妹を成長させてくれる、きっかけを与えてくれた楽園に礼を述べた。もっとも、狂気に打ち勝ったからといっても引きこもりの方は金髪の泥棒猫の登場まで治る予定はないようだ。まあ、そちらの方は気長に待つとしよう。

 

 

「ようやく紅魔館の全員でピクニックの一つでも出来そうね。ふふ、今から楽しみだわ」

 

 

 概ね計算通りに事が運んだレミリアは満足そうに笑う。それは先ほどまでの威厳に溢れた姿が嘘であったように、見た目相応の子供らしい無邪気な笑顔だった。そんなレミリアの姿に毒気を抜かれながらも、紫は少しだけ憂鬱な気分だった。それは参戦した二人の鴉天狗たち、文とはたてに原因がある。形はどうであれ、『天狗』の力を借りてしまったのだから。

 

 

「はぁ、あの二人が味方してくれたのは助かったけれど、これで天魔に借りを作ってしまったわね。あの老天狗がどんな要求をしてくるのか、今から頭が痛いわ」

 

 

 八雲紫は溜め息をついた。

 あの二人が自らの意思で助太刀したのか、それとも命令だったのかは紫には判別できない。だが天魔は『部下である』二人の少女たちが成したことを自分の手柄のようにするに違いない。それはとても面倒なことである。しかも間接的とはいえ藍の危機を見事に救われた以上、その要求は決して安くはないだろう。かなり吹っ掛けてくるに違いない。

 とりあえず紫は勝ち誇った顔で高笑いする天魔を頭の中で蹴り飛ばしたが、同時に一先ずは二羽の鴉天狗たちに感謝することにした。彼女らのお陰で八雲紫は自身の命の次に大切な藍を失わずに済んだのだ。それは本当に幸運だった、もちろん刑香を救ってくれたこともだ。

 

 

「あの鴉天狗たちが現れなかったら、この異変に『わざわざ刑香を参加させた』目的が水泡に帰してしまうところだったわ。まったく、刑香は門番の足止めだけで良かったのに紅魔館に侵入するし、切り札の藍は傷を負って倒れるなんて大誤算よ」

 

 

 すとん、と紫は自分のスキマに腰掛ける。

 「それは座れるのか?」と不思議そうな顔を向けてくるレミリアには答えずに、お気に入りの扇子を広げた。彼女も『能力』を秘密にしたのだから、その小さなお返しだ。太陽の昇り始めた地平線を見つめていた紫は眩しそうに目を細める。

 

 

「まあ、全体を眺めるならそこまで悪い結末ではないかしら。私の手勢は全員生存、それに霊夢も少しだけ成長できたみたいだし…………良しとしましょうか」

 

 

 それでは異変を終わらせるとしよう。後々のためにも、できるだけ穏やかに、救いを持って結末を迎えさせる必要がある。そのためにもう少しだけ彼女に頑張ってもらわなければならない、八雲紫が最も頼りにする妖怪たる彼女に。パチン、と紫は扇子を閉じた。

 

 

「藍、頼んだわよ」

『御意』

 

 

 頭に直接流れ込んできた式神の凛々しい声に、紫は満足そうに頷いた。祭囃子の音は静まりかえり、妖怪の時間である夜は終わる。まるで賑やかな宴を締め括るがごとくに『吸血鬼異変』は終結する。

 

 

 




先日、素敵な贈り物をいただきました。
活動報告に上げさせてもらっております、お時間があればお越しください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話:風光霽月に雨は上がる

 

 

 竜巻が舞い、炎が踊る。

 激しい空中戦を繰り広げる文とはたて、そんな親友たちの勇姿を刑香はぼんやりと見上げていた。夏空の碧眼は先程まで自分が戦っていた吸血鬼の少女と黒い鴉天狗たちを無意識に追いかけている。頭がくらくらする、ダメージと疲労で麻痺しているらしい。

 

 

「………あの娘、なかなかに痛めつけてくれたわね。身体のあちこちが軋んでいるわ、目は霞んでいるし最悪かも」

 

 

 美鈴、フランドールとの連戦のおかげで自分の身体はボロボロだ。脇腹、肺、翼、左足に負った傷は決して浅くない。しかし『あの時』はこんな程度の怪我ではすまなかった、鬼との戦いでもっと酷い怪我を負ったことがある。それでも生き残ったのだから、自分はまだこの程度の傷では死なないはずだと刑香は前向きに判断する。

 

 あれはもう、何百年前の話になるのだろう。何となく、刑香は自分の運命を変えた『あの出来事』を思い出していた。鴉天狗としての誇りを賭けて小さな鬼に戦いを挑んで敗北し、三日後に目を覚ました時に彼女から掛けられた言葉が頭によみがえる。

 

 

 

『おっ、目は覚めた? なら、お前の友に感謝しておきなよ。お前の容態が安定するまで徹夜で看病してくれてたんだからさ。まあ、今はそこでぐっすり寝てるけどね。………うん、中々に楽しめる勝負だった。並の鴉天狗ではこうならないさ、見事だったよ』

 

 

 

 ある意味で白桃橋刑香が生まれた日、『見事だった』と鬼から貰った賛辞は忘れない。彼女によって刑香は刑香らしく生きるための息吹を吹き込まれたのだから。彼女と出会ったことに感謝している。とはいえ、今から考えると『鬼』に喧嘩を売るなんて本当にどうかしていた。勝てるわけがないだろうに組織から冷遇されて自暴自棄に陥っていた自分は無謀な戦いに挑み、見事なまでに敗北したわけだ。そして今と同じように文とはたてに助けられた。そんな事実に刑香は苦笑する。

 

 

「………私は成長しないわね。また二人に助けられるなんて、萃香さまと戦った時から何も変わってない」

「ねえ、刑香。私もいるんだけど、というか一番に図書館へ乗り込んだのは私なのよ?」

「わかってる、霊夢もありがとね」

 

 

 刑香は頬を膨らませていた霊夢の頭を撫でようと手を伸ばす。疲労していた刑香は横になっているので、座っている霊夢の頭にはギリギリ届くくらいだった。真っ白な手が黒髪を優しく撫でつけた。そして何かを恐れているような霊夢の瞳へ、安心させるように刑香は笑いかける。

 

 

「霊夢、大丈夫だから安心しなさい。こんな傷で私は死なないわ。こう見えても人間よりは少しだけ頑丈にできてるんだから」

 

 

 穏やかに霊夢へと語りかけながら、綺麗な霊夢の黒髪に手櫛を通して整えていく刑香。ぎゅっと、霊夢は刑香の手を自分の両手で包み込んだ。頭を撫でられるのが嫌なわけではない、そんなことは紫や藍にも毎日されているのだから慣れている。

 

 

「刑香の手、冷たいよ?」

「大丈夫、大丈夫だから悲しまないで」

 

 不安で揺れる霊夢に刑香はもう一度微笑みかける。

 鋭すぎる直感を持つ故に、刑香の生命力が弱まっていることを霊夢は本能的に感じ取っていた。刑香の『死を遠ざける程度の能力』は正常に働いているが、身体が壊れかけているのだ。刑香は死にかけているのかもしれない、それを知ったからこそ霊夢は不安になっているのだ。しかし刑香の身体を一番正しく理解しているのは刑香自身だ。故に刑香は『能力』の余剰がある限りは自分は死なないということを、どうやって霊夢に伝えようかと悩んでいた。そんなところへ舞い降りてきた黒い翼、親友の一人が空から帰還した。

 

 

「ずいぶんと派手にやられたわね、刑香」

「見ての通りにボロボロよ、はたて。でも最初から疲労していなかったら、あの娘とだってもう少しマシな勝負ができたんだからね………勝てるかどうかは微妙だけど」

「はいはい、あんたは相変わらず負けず嫌いよね」

 

 

 妖刀を鞘に仕舞い、葉団扇を腰に下げた様子のはたて。どうやら戦闘は終了したようだ。髪と袖が焦げ付いている以外に目立った傷はなく、さすがに完全武装をしてきただけはある。

 そしてはたての手には古びた薬箱があった。どうやら戦闘前に隠していたものを回収して来たようだ。ありがたい、と刑香はソレに手を伸ばす。

 

 

「薬箱を貸して、自分でやるから」

「動くのもツラいくせに何言ってんのよ。ほらっ、傷を見せなさい」

「ちょ、あんたは手当てのやり方なんて知らないでしょ!?」

 

 

 戦闘部隊ではない上に年中引きこもりの天狗に傷の処置ができるとは思えない。だからこそ「自分でやる」と言った刑香、それを無視したはたては天狗特製の秘薬をいきなり刑香にぶっかけた。顔をひきつらせた刑香から、つーんとした生薬の匂いが漂う。もちろん、こんな使い方をする秘薬ではない。やっぱり応急処置の方法なんて知らなかったか、と頭から液体薬を掛けられた刑香が苦笑いをした。ポタポタと液体に濡れた様子を見た霊夢が笑う。

 

 

「ふふふ、ずぶ濡れだね刑香」

「はたて、あんたねぇ」

「え、薬ってとりあえず掛ければいいんじゃないの?」

「そんな大雑把な使用方法で傷が治るなら万能薬でしょうよ、あんたの持っているソレは」

 

 

 この盛大に間違った知識を吹き込んだのは文だろう。まあ、通常の鴉天狗ならいい加減な治療でも大抵の怪我は治るので問題はない。だが刑香はそんなに都合の良い身体ではないので処置はキチンとして欲しい。おまけにこの薬は目に染みる、大粒の涙が滲んできたのを隠すように刑香は顔を手で覆った。ひょっこりと霊夢が覗き込む。

 

 

「刑香、泣いているの?」

「…………ぐすっ、そうかもね。はたてに泣かされるなんて久しぶりよ」

「ちょっ、私は文に騙されただけで………だ、大丈夫なの刑香!?」

 

 

 わたわたと焦るはたてを見て刑香は霊夢と顔を見合わせて笑う。目に染みたのは事実なので、そのお返しだ。はたても自分がからかわれたことに気づいたようでちょっぴり不機嫌そうに顔を背ける。「ますます文に似てきちゃって…………」とぼやかれた言葉を刑香は聞こえないふりをした。

 

 

「さて、あとは文が勝ってくるのを待てばいいわけよね。薬箱を貸して、今度こそ自分で処置するから」

「はいはい、わかったわ。文のヤツが帰って来るまでに済ませなさいよ」

「ねぇ刑香と、はたてだっけ? ずいぶんと余裕そうだけど、もう一人の鴉天狗はそんなに強いの?」

 

 

 はたてが分身を倒したとはいえ、あの幼い吸血鬼の本体は未だに健在だ。それなのに何一つ気負った様子のない鴉天狗たちに霊夢は心配そうに声を掛けた。この中で霊夢だけが射命丸文の実力を知らないのだから無理もない。

 

 

「『幻想郷最速』の妖怪、それが射命丸文よ。幻想郷中を探してもアイツを撃ち墜とせる妖怪なんてそういない………何より私の憧れる鴉天狗なんだから、こんなところで負けてもらっちゃ困るわよ」

「刑香の憧れ、そういえば前に言ってたような…………?」

 

 

 こてん、と首をひねる霊夢。

 むむむ、と初めて刑香と出会った日のことを思い出そうとして可愛らしく頭を唸っている。その子供っぽい仕草に、刑香とはたてがこっそりと微笑んだ。

 

 

「まあ、要するに文が負けるはずがないってことだから安心しなさい。もう少ししたら紫も合流するだろうし、そろそろ藍も傷を癒して…………この状況、前にもどこかで?」

 

 

 ふと、刑香は既視感(デジャブ)を感じていた。

 つい先程にも同じ状況があったような気がする。仲間と合流して敵を制した状況で、何の問題もないと思っていた瞬間に全てをひっくり返された惨劇が刑香の脳裏をよぎる。

 

 カサリ、と乾いた音がした。

 はたてと霊夢の背後から聞こえた足音、二人と向かい合っている刑香の視界に偶然映った影。バラバラになった本のページを、白い落ち葉のように踏みしめた小さな姿。紅い瞳に金色の髪、そしてその『破壊の力』を携えた両手を此方に向けているフランドールがいた。

 

 

「―――何!?」

「…………きゅっとして」

 

 

 これも油断なのだろう。フランドールの本体は文と戦闘中で、二体の分身体ははたてが倒した。だから自分たちを襲う敵はもういないと、刑香たちは決めつけていた。

 だが、フランドールの分身の限界が二体だと誰が決めたというのだろう。刑香たちは『三体目』の出現を考えなかった。故に背後を取られている、気がついたのは刑香だけ。そして分身体の両腕は壊せない刑香ではなく、幼い巫女と黒い鴉天狗に向けられている。

 

 

「はたてっ、霊夢っ!!」

「「―――!?」」

 

 

 刑香が叫ぶ。

 しかし、はたてと霊夢の回避は間に合わない。フランドールの能力は既に霊夢とはたてを捉えているのだ。あとは、両手を握りしめて発動するだけ。八雲藍ですら重傷を負った『能力』の直撃を鴉天狗と人間の命が耐えられるはずがない。刑香の手元には惨劇を回避できる能力がある。しかしこれ以上の『死を遠ざける程度の能力』の使用は危険だった、自分の命を支えている余剰がなくなるかもしれない。それでも、だが―――。

 

 

「そんなこと、考えている場合じゃないわよ!」

「「―――刑香!?」」

 

 

 はたてと霊夢の腕を掴んで全力を持って発動させた能力。『死』を遠ざける力が『破壊』の力を退けんと二人を包み込む。放出された妖力は青い光として膜を形作った。同じ過ちは犯さない、藍の時もこうしていれば良かったのだ。

 

 

「―――ドカーン!!」

「………かはっ!?」

 

 

 効果は一度だけ、避死の光壁はフランドールの力を妨げて砕け散る。青い光が欠片となって舞う。今度こそ力を使い果たして倒れ伏せる刑香に冷めた視線を送りながら、フランドールは再び『能力』を発動しようと両手に力を込めた。何が起こったのか理解が追いつかず動きの止まった二人へ向けて、無慈悲に『破壊の力』を振るおうとする。その時だった。

 

 

 

「きゅっとして「悪いがそこまでだ」…………え?」

 

 

 倒れ伏した刑香の視界の端で九本の尻尾が揺れた。フランドールを取り囲んだのは黄金の輝きを放つ呪符たち、夜の妖怪を封じる『陽』の力を秘めた拘束術式。

 

 

「………遅いわよ、藍」

「すまないな、回復に時間を要した。…………あとは私と紫様に任せておけ、白桃橋」

「そ、う、なら任せ、たわ」

 

 

 傷を癒した八雲藍、彼女の黄金の瞳が自分を見つめる。藍がそう言うのなら大丈夫なのだろう、その言葉に安心しながら刑香はゆっくりと瞼を閉じる。目に大粒の涙を溜めて、自分の身体を揺する霊夢に「大丈夫」と掠れた声で呟きながら、刑香は意識を手放した。

 

 

 

『鬼の私に挑みかかるとは大した気迫だ、気に入ったよ。お前の名前は何て言うんだい…………なんだ、つまらない響きだね。よし、私の名から一字をやろう。これからお前は『刑香』と名乗りなよ』

 

 

 そういえば、あの戦いも最後はこうして意識を失っていたような気がする。吸血鬼異変における最後の瞬間、冷たい床の上でそんなことを刑香は思い出していた。

 

 

◇◇◇

 

 

 全力を尽くさなければ意味がない。

 もし自分の『破壊の力』を止められる運命があるのだとすれば、それはフランドールの全てを受け止めてくれる運命でなければならない。そうしないと確信できない、安心できない。悲しい吸血鬼の少女は壊れないモノを求める故に全力で彼女たちを壊すのだ。今も自分を囲む結界を破壊しようと、ぐっと掌へと力を込める。しかし―――。

 

 

「無駄だ、その結界は壊せん」

「…………うん、そうみたい」

 

 

 無機質な響きが込められた藍の言霊、硬直する自分の身体。

 フランドールの全身に降り注いだのは光、それは吸血鬼の天敵たる太陽の光線だった。あっという間に光輝く結界が自分を縛りつけていくのを分身体のフランドールは、諦めの感情を宿しながら眺めていた。幼い吸血鬼は知らなかったのだ。東方世界において、九尾の妖狐は『太陽』を司る化身とも伝えられていることを。

 

 

「あの傷からこんなに短時間で復帰しちゃうなんて、スゴいね。狐さんの方が白い鳥さんより強かったんだ?」

「私の名は藍だ。強さの話については否定しないが、私の回復が早期に完了したのは白桃橋………そこで寝ている白鳥のおかげだ。彼女の治療のおかげで自己修復で多少の無理を通すことができた」

 

 

 藍はフランドールの攻撃を受ける前の姿に戻っていた。身体の傷が消えているどころか、服に付着していたはずの血の跡さえ無くなっている。大した自己修復の力だった。チリチリと灰になっていく自分の身体を眺めながらフランドールはため息をついた。しかし内心はここ数百年、覚えのないくらいに安らかな気持ちが占めていた。

 

 

「………本物の『私』の戦いも終わっちゃったみたい。だからバイバイ、また遊んでね」

「やれやれ、子供なのか曲者なのか判断に困る吸血鬼たちだ。千年後は暗闇に溺れる愚者か、それともカンテラに光を灯す賢者なのか、実に厄介な姉妹だな」

 

 

 無邪気な表情で消えていくフランドールの分身に、藍は苦笑した。これほどの戦いを『遊び』と表現する豪胆さと無邪気さに、紫から伝わってきたレミリアと同じ気配を感じたからだ。主の見込み通り、ある意味で将来が楽しみな二人である。紫へと連絡をしようとしていると、終結したもう一つの戦場から近づいて来る羽音にピクリと帽子に隠れた狐耳が反応した。もう大図書館には燃え盛る炎も吹き荒れる風もない、全ての戦いは終結している。黒い羽音と一本歯下駄の着地音が空間に響く。

 

 

「…………さて、射命丸と言ったか?」

「はい、清く正しい射命丸と申します。以後お見知りおきを、八雲の式殿」

「は、離してよ………!」

「ダメです」

 

 

 上空から藍の前に降り立った文が抱えていたのは本物のフランドールだった、ジタバタと暴れてはいるが抵抗する力は弱々しい。どうやら魔力が尽きているようだ。フランドールが莫大な魔力を消費して発動させた炎剣、それを維持させ続けることによる魔力切れを文は狙ったからだ。それは何ということもない、単純明快な作戦。簡単なようでいて、その策を遂行するために妖刀を犠牲にし『炎剣を振るい続ければ射命丸文を倒せる』と思い込ませる等の心理的なやり取りがあったことを文は語らない。両者の間にあったのは純粋な力ではなく千年を越える年季の差だった。

 荒い呼吸の中で、フランドールは口を開く。

 

 

「誰も、壊せなかったんだ」

「そうです、あなたは刑香も式殿も、私たちのことも壊せなかった。敗北したんですよ、この幻想郷に」

「…………あはは、そっか壊せなかったんだ。なら、よかった」

「『良かった』とはどういう意味が…………なに!?」

 

 

 文が抱えていたフランドールの身体を突然現れたスキマが飲み込んだ。目玉の浮き出る不気味な空間から伸びてきた華奢な両腕が優しく抱きしめるように文から幼い吸血鬼を奪い去った。突拍子もない事態に驚いた後、「どこに消えた?」と周囲を警戒していた文の視界に映ったのは妹を大事そうに抱えるレミリアの姿だった。嫌われていると思っていた姉からの抱擁に、驚きで真っ赤な目を見開いたフランドールが問いかける。

 

 

「………お姉様、何で?」

「理解したでしょ、あなたの『能力』で世界の全てを壊せるなどという恐れが幻想であったということをね。この幻想郷は全てを受け入れてくれるらしいから、あなたの居場所だってきっと作れる。だから安心して眠りなさい。大好きよ、私のフラン」

 

 

 そっとフランの前髪を退かして、レミリアはその額に親愛のキスを落とす。くすぐったそうにしながら、フランは瞳を閉じた。先程までの狂気が嘘であったように安らかな笑顔を浮かべながら。

 

 

「どうやら終わったようね」

「紫様、何故レミリア・スカーレットが貴女のスキマから現れたのですか?」

 

 

 いつの間にか自分の隣にいた八雲紫へと藍は何でもないように話しかけた。自らの主人の神出鬼没っぷりは痛いほど経験済みだ、今さら突然現れたくらいで驚くわけもない。ゆったりとスキマに座ったまま、藍の主は胡散臭く微笑んでいる。

 

 

 「レミリア嬢が私、八雲紫との契約に従うと約束したからその見返りの一部としてスキマを使わせてあげたのよ。妹を救うために参上した姉、タイミングは最適だったでしょう?」

 「そのようですね、うんざりするほどに完璧でした」

 「どうやら霊夢と刑香も無事みたいだし、紅魔館の協力も取り付けた。なら異変の終結としては悪くないかもしれないわ。………刑香の方はしばらく療養が必要みたいだけどね」

 

 

 これは八雲紫の予想を越えた結末だ。

 もしかしたら刑香の友人である鴉天狗たちが参戦するかもしれないとは僅かながら想定していた。だが気がつけば幼い巫女までが参戦することになった。そして霊夢をここに導いた一因は間違いなく刑香だ、彼女は何事にも冷めた態度を崩さなかった霊夢を変えたのだ。その事実を加味した上で八雲紫は結論づける。やはり刑香は必要だ、といっても八雲紫にではない。刑香程度の妖怪が八雲紫に必要なわけではない、そうではなく『博麗霊夢』にとって必要な存在になると期待した。

 紫は足元に落ちていた白い羽を拾い上げる。

 

 

「そのことを考えるなら、刑香をこの異変に参加させたことは正解だったのでしょうね。これで彼女は『八雲』の保護下に入る、それなら霊夢の傍らにいても咎める者はいないでしょう」

 

 

 紫水晶のように美しい光を宿す八雲紫の瞳に移り込んでいるのは、傷つき倒れる白い鴉天狗の少女。

 鴉天狗たちや霊夢に看病されているが、折られた翼は痛々しく見ていられない。八雲紫とて心は痛む。だが、これで必要とした計画は完成した。『スペルカードルール』への移行のために紅魔館の協力を取り付け、紫と共に異変を戦った事実によって刑香が『八雲』の下に属していることを対外的に示した。おそらく刑香はうんざりとした顔をするのだろうが、それはそれである。

 

 

「さて、あとは天魔との会談をどう纏めるかを考えましょうか。追放された者への干渉をとやかく言う男ではないと思うけど、鴉天狗たちに助けられた事実もあることだし油断は禁物ねぇ」

 

 

 妖怪の賢者たる八雲紫は誰にも聞こえない程度の小声で呟いた。その双眸が怪しく輝いていたことを知る者は自身の式神だけであった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十三話:いつか儚き時に消ゆれども

 

 

 紅葉の季節が去った妖怪の山。

 あれほどに山一面を染め上げた紅蓮と黄金色は色褪せ、葉を落とした木々が肌寒そうに次なる季節を待っている。近づく冬の気配は人と妖怪たちを憂鬱にさせ一部の者―――冬の妖怪や妖精たち―――を活発化させていた。

 

 まさに晩秋、毎年繰り返されるとはいえ実りの時期を通りすぎた幻想郷はやはり物寂しい。肌寒い風の吹く中、妖怪の山の頂上にて一羽の老天狗が屋敷の縁側に座って酒を傾けていた。深い色合いの紫羽織がハタハタと秋風になびく。

 

 

「今宵は良い月よ。まことに独りで酒盛りをするのが惜しくなるほどに美しい月だわい」

 

 

 老天狗、天魔はなみなみと酒を注いだ酒器を口に運ぶ。月見酒とはまた風流なものだ、天狗の頂点に君臨する翁は深いシワの刻まれた顔を柔和に緩ませて澄みきった酒を飲み干していった。彼の手元には酒器が二組、用意してある。天魔は庭先で揺れるススキを見つめながら、ぽつりと呟いた。

 

 

「独り酒はこの年の爺には寂しくてな。よければ積もる話をしながら共にどうだ、お主からも話があるのだろう?」

 

 

 ズルリ、と天魔の呼び掛けに応えるように空間が歪んだ。平然とした老天狗を見下ろすように現れたのはスキマ妖怪。八雲紫は表面上だけは薄い笑みを貼り付けて、あくまでも優雅に庭園へと舞い降りた。縁側に直接現れなかったのは靴を履いていたことに気をつかったからだ。当然の礼儀として作法は弁えている。

 

 

「夜分遅くに失礼いたします、天魔殿。数日ぶりですわね、おかわりないようで安心しましたわ」

「………周りに部下はおらぬよ。その気に障る敬語は無用だ、八雲」

「あら、それなら話は早い。さっさと本題を話し合って陰気な屋敷から退散するとするわ、天魔」

 

 

 前回の会談で被っていた偽りの仮面を脱ぎ捨てた両者。

 二人の大妖怪は滲み出る敵意を隠しもせずに酒器を手渡し受け取った。今更、酒が入ったところで話が円滑に進むような関係ではないのだが、何もないよりはマシだろう。天狗製の強い酒を紫は一息に飲み干した。毒味はしない、そんな稚拙な策を八雲紫に対して弄する阿呆だったのならば、とっくに天魔は墓の下だ。

 

 喉を焼くような熱さに古い友の瓢箪から出る酒を思い出す。チラリと紫は酒瓶に目をやると『小鬼殺し』と書かれているのを発見した。

 

 

「何が『小鬼殺し』よ、萃香に言いつけてあげましょうか?」

「まさか、我らの大将の一人を『小鬼』などと無礼な名でお呼びするはずがなかろうに。それは別の下等な鬼のことよ」

「さて、どうでしょうね。天狗ほど信用ならない妖怪はいないでしょう。表面上はへりくだっているようでいて、蛇のごとくに狡猾で獅子のごとくに勇猛な妖怪があなたたち。…………最近はそんな考えも変わってきたのだけれど」

「なんだ、お主が訪れた理由はやはりあの『忌み子』か。ならまずはワシから尋ねよう。わざわざアヤツを異変に巻き込んだ理由は何だ。西洋妖怪を成敗するだけならばお主と式神だけでも充分に足りることであろう、何故あの忌み子を巻き込んだ?」

 

 

 問いを発しておきながら、天魔は視線を合わせることなく月を眺めている。その瞳に八雲紫は映っていない、ここではない何処かを見つめるような空虚さがあった。相変わらず何を考えているのか読み取ることが難しい。しかし特にその様子を気に留めることもなく、紫もまた盃に揺れる月を眺めながら口を開く。

 

「此度の異変であの娘は『八雲』のために戦った。その褒賞としてあの娘は『八雲』の保護下に入りました。故にこれから先、天狗から彼女への必要以上の干渉を拒否しますわ」

「くかかっ、何とも酷い女よ。『八雲』に属したということは、あの娘は永遠に『山』に戻る機会を失うということ。それを本人の了承なしに決定するとはな。我ら天狗を狡猾と言うが、なかなかどうしてお主も同じ輩であろうに」

「どのみち、あの娘が山に戻ることは不可能なのでしょう? あなたを除いた大天狗たちの惨状、それを招いた者を内部で処分しなかったのが不思議なくらい。………このままはぐれ天狗でいるよりは私の下にいた方が刑香には安全な選択よ」

「確かにそれもそうよな。…………それにしても刑香か。白桃橋刑(しおき)の奴は今、そう名乗っておるのだったな。まあ、その方がいい。彼岸の連中に与えられたままの名よりは『鬼』の加護がある方がよっぽど、良い」

 

 

 そう口にしながら、天魔は空に浮かぶ月へと腕を伸ばす。どこか諦めたような表情で、届くはずのない夜空を照らす月へとシワだらけの手をかざした。まるで隠居間近の老人のようだった、その様子を見た紫は酒の進みを止める。千年前より、百年前よりもあまりに覇気の衰えた宿敵の姿に思うところがあったのかもしれない。

 

 友も宿敵も皆が自分一人を残して老いてゆく、それはとても虚しいものだ。そんなことにはもう慣れたはずなのに、八雲紫の胸の奥を流れるスキマ風は決して止むことはない。しばらく沈黙を貫いていた天魔がしわがれた声を紡ぐ。

 

 

「良かろう、ひとまずはお主にアレを任せよう。如何様にも致せ、あと百年か二百年程度しかアレには時間が残されてはおらぬだろうがな。せいぜい利用すれば良い」

「そう、ありがたく頂戴するわ」

 

 

 思ったより、刑香に残された寿命は長くないらしい。その事実を紫とて予想していなかったわけではない。しかし思いの外、今の知らせは紫の心を打ち鐘のごとく鳴らしていた。『八雲紫に刑香程度の妖怪は必要ない』、それは賢者としての紫にとっての話。しかし単なる八雲紫にとってなら刑香は弄りがいのある小鳥であって、霊夢を任せるほどに信頼している娘だ。

 

 その刑香に残されたのはわずかに二百年、それは霊夢にとっては充分な時間であっても八雲紫にとって瞬きのほどに短い時間。やはり自分は寂しいと感じているのだろう。何だか久しぶりに白玉楼に行きたい、唯一の死なぬ友に会いたくなった。

 

 

「さて、そちらの議題が済んだところで今度はこちらの本題と参ろうか。此度の我ら天狗よりの助力、よもや善意などとは思っておるまいな。その対価をいただこうか?」

 

 

 ニヤリと、しんみりした空気を一刀両断した意地の悪い笑みの老天狗。

 前言撤回だ、コイツはあまり変わっていない。見慣れた憎たらしい笑みに、思わず酒器を握り潰しそうになったのをギリギリで耐える。心を落ち着かせるために紫は三日前と同じようにもう一度、頭の中で天魔の顔面を蹴り飛ばした。

 

 

「先立って手を貸さぬ、と宣言しておきながら何とも押し付けがましい話ですこと。それに射命丸と姫海棠の両名は命令ではなく自らの意思で刑香の元へ駆けつけたのでしょう。それを天狗そのものの手柄にするのかしら?」

「部下の上げた手柄は組織の成果でもある。個々で動くお主のような妖怪には理解し難いであろうな。ともかく『恩』は返して貰おう」

「本当に欲深いわね、そんなに人里への干渉を強めたいのかしら。現代の幻想郷で『神隠し』を認める土壌はないわ、諦めなさいな」

「違うっ、ワシが頼みたいのはそんなことではない!」

 

 

 それは強い否定を込めた声色、天魔の感情に応じるかのように夜風が鳴いた。

 カサカサと落ち葉を巻き上げた旋風に紛れて、柑橘系の甘美な匂いがすることに紫は気づく。それは縁側の隅に植えられていた金木犀(キンモクセイ)の香りだった。そういえば、この老天狗の妻が好きだったと聞いたことがある。最愛の伴侶を亡くして幾千年、未だに天魔は妻の面影を求め続けているのだろう。何とも寂しい余生だ。

 

 そんな老天狗は渋い顔をして、吐き出すように次の言葉を紡ぐ。それは八雲紫にすら予想できなかった内容であった。

 

 

「西行寺の娘と渡りをつけて欲しい。あやつの『死を操る程度の能力』で大天狗たちを避死の呪縛から解放してもらいたいのだ」

「…………あなた、自分が何を言っているのか理解しているのかしら。それではまるで」

「そうだ、ワシはこう言っているのだ。『我が盟友たちを彼岸に送って欲しい』とな。このまま生ける屍と化していたところで、アレらに望むべき未来はないのだ。故にこれを機に妖怪としての最期を迎えさせる、アレらに『死』を与える」

 

 

 それは身の毛のよだつ決断だった。幻想郷のあらゆる妖怪の中で、仲間意識が飛び抜けて強い鴉天狗の親玉から発せられた『同胞殺し』の依頼。その結論に至るまでに一体どれほどの葛藤があったのだろうか、天魔は爪が食い込むほどに握り拳を固めている。

 刑香のせいではなく大天狗たちの自業自得にしろ、その能力が天狗組織に残していった爪痕は想像よりも大きいらしい。信じられない言葉を聞いたと、紫がわずかに硬直する。

 

 

「天魔、あなたはそれでいいのかしら? そんなことをすれば、あなたは…………」

「そうよな、ワシは千年来の盟友たちを一度に全て失うこととなる。しかし、それが盟友たちにとっての最善ならばワシは決断せねばなるまいよ。何より死神も匙を投げたのだ、もはや西行寺に頼る以外に道もない」

「………ならば私が述べることは何もない。白玉楼へと赴き当主に話をつけてあげるわ。但し条件を付けましょう。天魔、あなたが私の創る『新たな幻想郷』に協力することよ」

「何だ、こちらがお主にしか頼れないと見るや否や条件を足してきたか。やはりお主も油断ならぬ狡猾者ではないか。…………だが承知した、ワシもその案には賛同しよう」

 

 

 八雲紫の追加した要求をあっさりと飲んだ天魔は、精神的に参っているのだろう。間もなく盟友たちが去り、天魔以外に天狗組織のトップはいなくなる。そこから生み出されるであろう面倒事は老骨には少々堪えるに違いない。

 

 しかしながら、ここで同情するような生易しい感情は賢者同士においては不要だ。慰めの言葉の一つもなく、紫は酒器を置いて縁側から立ち上がる。カコンと、ししおどしが来客を見送るように静寂とした空間を揺らした。

 

 

「これにて今夜は御暇(おいとま)しますわ。また後日、今度は白玉楼の当主を交えて話しましょう」

「ああ、せいぜい月に迷い込まぬように気をつけて帰るがいい」

 

 

 視線を合わせることもなく、天魔はただただ酒を傾ける。そしてスキマが開き、紫はその中へと足を踏み入れた。お互いに必要な言葉は尽くした、もう話すことは残っていない。

 幾千年を越えた付き合いであろうとも政敵同士に余計な世間話は不要なのだ。紫のスキマが閉じようとする瞬間、紫へ聞こえるか聞こえないかのタイミングで天魔は口を開いた。

 

 

「あの忌み子を手駒にするのなら、彼岸の連中に気を付けろ。特に四季映姫はあの能力を快く思ってはおらん」

 

 

 既にスキマは閉じられており、紫からの返答はなかった。まあ、耳に届かなかったのなら、それはそれでいい。所詮は気まぐれなのだから、そのぐらいがちょうど良い。

 それにしても小腹が空いた、団子でも酒の肴にしようかと天魔は縁側から立ち上がる。そして戸棚を漁りに行く前にもう一杯と、酒瓶へと手を伸ばすと違和感を感じた。首をかしげて見てみると縁側に置かれていたのは酒器が一つだけ、これは八雲紫が使っていたものである。肝心の酒瓶が、ない。

 

 

「くかかっ、やられたわい。誠に油断も隙もない奴よな!」

 

 

 天魔は可笑しげに腹を抱えて笑う。

 ここまで見事にやられたのは久しぶりだ。月の戦いに舌先三寸で巻き込まれた時も酷い目に会ったものだったが、やはり八雲紫と関わるとロクなことがない。しかし、同時に自分をここまでコケにするのは八雲紫をおいて他にはいない。それが可笑くて堪らないから天魔は笑う。

 

 そんな彼の傍らでは金木犀(キンモクセイ)が、枝をサワサワと揺らしていた。懐かしい香りが月夜の闇に広がったような気がした。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 冬が近いこともあり、寝坊した太陽がようやく地平線から顔を出しオレンジ色の光を地表に届ける朝焼けの時間。人里から離れた森、鴉天狗が住み着いてからは一時的に人の足が遠ざかっていた場所。しかし白い鴉天狗がほぼ無害で医者兼新聞記者を生業としていることが判明してからは、再び人里の人間がわりと頻繁に訪れる地となっている。

 

 そんな森にある廃れた神社の中で、刑香は小さな寝息を立てていた。左足には包帯が巻かれて、折れた翼には添え木があてがわれている。あれから三日、未だに白い鴉天狗の少女は眠り続けていた。傷よりも『能力』の使いすぎによる強制的な休眠状態、妖怪としての防衛本能が刑香の意識を奪っている。しかしそれも終わりのようだ。ようやく『能力』の余剰が回復したらしい。

 

 

「う、ん?」

「…………お、おはようございます」

 

 

 刑香が重たい瞼を開ける。

 すると目の前に射命丸文の顔があった。何というか近い、息が掛かりそうなくらいに近い。ちょうど刑香の顔を覗き込んでいたのか、おでこを合わせて熱を測っていたのかはわからないが近い。何故か固まっている親友に刑香は焦ることなく、言葉を投げ掛けることにした。

 

 

「…………夜這いの趣味があるなら、はたての方に行ってくれない?」

「生憎、そんな奇特な趣味は持ち合わせていません。三日三晩、寝ずに看病してくれた友人に対する第一声がソレというのは些か薄情ではありませんかね?」

「はいはい、ありがとうございました。感謝してるわ、射命丸さま」

「ならよろしい。………ふう、妙なタイミングで目を覚ますから柄にもなく焦ってしまいました。けれど、とりあえず熱は引いたみたいで安心しました」

 

 

 やはり熱を測っていたらしい。冗談はほどほどに文との軽いやり取りを済ませると、刑香は布団から起き上がる。まだ頭にはモヤが掛かったようにスッキリしないが、身体の方は問題なさそうだ。翼と左足以外の痛みは引いている。

 

 

「ていうか、あれから三日も経ったの?」

「だいたい三日です、お粥は食べられそうですか?」

 

 

 フランドールとの戦いの後、随分と長い時間を寝ていたらしい。だが、こうして無事に帰って来られたということは異変が紫の勝利に終わったことは間違いない。とりあえずは安心だ、ならば自分は傷を癒すことに専念すればいいだろう。そして食事を作ってくれるらしい文へと「ありがと」とお礼を言った。

 

 

「…………はたては帰ったの?」

「はたては巫女と一緒に川へ魚を取りに行きましたよ。今頃は葉団扇で竜巻よろしく川魚を巻き上げて、河童と一悶着起こしているかもしれませんね」

「また余計なことを吹き込んだんでしょ、アンタのせいで私やはたてが何度酷い目に会ったことか。………あれ、この服って?」

 

 

 気絶した時に身につけていた天狗装束ではなく、自分の衣服は寝間着になっていた。気を失っている間に着替えさせてくれたらしい、それに気づいたとたんに刑香は顔が熱くなるのを感じた。今さら照れるような関係ではないが、素肌やらを色々と見られたのは少しばかり恥ずかしい。

 チラリと伺ってみたところ、親友は背を向けてお粥を作っていたので助かった。こんな反応を見られたら絶対にからかって来るに決まっている、一時的な対処法として刑香は顔を隠そうと布団に潜り込んだ。

 

 

「それにしても、相変わらず細い身体ですねぇ。成長すべきところが全く成長してません。肌は相変わらず綺麗ですけど、ぺったんこ過ぎるのは色々と心配です」

「…………いつも思うんだけど、アンタは背中に目玉でも付いてるの?」

 

 

 どうやったのかは不明だが、文は刑香の反応をしっかりと察知していたらしい。そうでないなら、このタイミングで身体の話を切り出すはずがない。ひょこり、と布団から頭を出した刑香が勘が鋭すぎる親友へと呆れたような表情をした。

 

 

「ふふ、すみません。そろそろ刑香が寝間着に気づくだろうなぁ、と思っていたので」

「それって全てはアンタの予想通りだった、ってことよね。いつも通りとはいえ何だか釈然としないわ」

「まあまあ、千年前から私たちの関係はこんな感じだったじゃないですか。刑香もはたても弄ると楽しいので退屈しません、いやはや私は良い友を持ちました。おかげさまで楽しい思い出ばかりです」

「私の方は、はたてと一緒にアンタを追いかけ回す記憶ばっかりだけどね。ピクニックに行った時は特に」

「ふふ、そんなこともありましたね」

 

 

 他愛ない会話に興じながらもテキパキとネギを刻んでいく文。かまどにはパチパチと火が灯されていた。薪を糧に燃え上がる真っ赤な炎は料理にちょうど良い大きさだ。『風を操る程度の能力』で調整しているのだろう、便利な力だと刑香は思う。

 片手間に刑香をからかいながら手際よく準備を進める文。しかしお米を鍋に投入したところで、ここまで快活だったその声が少しだけ曇る。

 

 

「話を戻しますが、相変わらず刑香の身体が華奢過ぎるのは事実です。………吸血鬼の屋敷から運び出した時だって、あんまりに軽かったから驚きましたよ。ちゃんとご飯は食べてますか?」

「アンタは私の保護者か………心配しなくても一日二食きちんと食べてるわよ」

「今時、だいたいの人間は三食食べてますよ。江戸の世だってそうだったでしょうに、何でまたそんなに清貧な生活を送ってるんですか」

 

 

 半分心配、半分呆れといった様子の文。

 そんな彼女は徐々に沸いてきた鍋へ茶袋を投入する。木綿の袋に入れたお茶の葉と共に炊き上げる茶粥、お茶の香りと米の味がとても良い一品である。何でも平安の世から伝わるものらしい、あとは梅干しを加えたら完成だ。

 

 

「ん、いい匂い。………一日二食については仕方ないわ、それ以上は身体が受け付けないんだから。以前はそうでもなかったけど、ここ数十年は大体そんな感じだって文も知ってるでしょ」

「そう、でしたね。私としたことが忘却していました」

 

 

 文は別にそのことを忘れていた訳ではない。ただ心の片隅に追いやっていて、気がつかなかっただけだ。きっと刑香は自分より長く生きられない、その酷く冷たい事実が疎ましかったから忘れたふりをしていたのだ。

 人間から見るのなら自分たちは千年を生きた妖怪だ、もう充分な時を過ごしたように思われるかもしれない。然れど鴉天狗にとってはたった千年、まだまだ自分たちは若鳥でありこれからなのだ。ぐっ、と文の視線が鋭くなる。

 

 

「一つ提案があるのですが、聞いてもらえますか?」

「改まってどうしたのよ。もちろんいいけど?」

 

 

 何かを決意したような文の声色に、怪訝な表情を浮かべた刑香が向き直る。相変わらず背中を見せている文の表情は伺えない。しかし何か言いにくいことを話す時に文は、顔を見せない癖があるのを刑香は知っている。

 

 

「山や人里から離れて、昔みたいに三人でのんびりと過ごしませんか?」

「またその話? 文だけならともかく、はたてや私は元々戦闘部隊じゃないのよ。確実に精鋭どもから逃げ切れる保証があるのはアンタだけ、しかも幻想郷の何処に天狗の目の届かない場所があるっていうのよ。だから無理でしょう」

 

 

 それは三人での逃避行の提案だった。

 通常ならば驚愕するはずの内容にも刑香は顔色一つ変えずに応答した。何となく文の話し出す内容は読めていた、この話は別にこれが初めてという訳ではないからだ。刑香が山から追放されることが決まった時も似たような会話を二人はしている。

 そして当然、その時も刑香は文の申し出を断っている。裏切りを許さない天狗組織を許しもなく抜けるなど、悲惨な未来しかありえない。むしろ追放されて未だに安穏とした暮らしをしている刑香が特例なのだ。しかし文とて何の考えもなくこんな話をしているわけではない。

 

 

「地上との不可侵の取り決めがされた『地底』ならば追っ手も来ないでしょう。そこに逃げ込むことができれば、きっと何とかなります。私が何とかします」

「…………『旧地獄』に行くっていうの? それこそダメよ、危険すぎる。あそこは妖怪の天敵や怪物がいるって噂なのよ。だいたい文とはたては組織にいた方がいいに決まってるでしょうが。ありがたく気持ちだけ貰っとくわ」

 

 

 刑香はひらひらと手を振って文の提案を否決する。しがらみは多いが、組織というのは逆らわなければ居心地は悪くないものだ。特に安定した生活を続けるためには属していた方がいいに決まっている。

 それが文とはたてにとっての最善の選択だ、故に刑香は親友の申し出を受け入れることはない。そんな刑香へと文の声に素の感情が入り交じる。

 

 

「いいじゃないですか、百年や二百年くらいワガママを通しても。どうせ私やはたては千年も二千年も時間が有り余っているんです。刑香に残された時間を過ごすくらいは問題ありません」

「地底世界には『鬼』もいるらしいじゃないの、そんなところに飛んで行ったら三人揃って鳥鍋にされるわ。…………だいたい、私は二百年そこらで彼岸に渡るつもりはないから安心しなさいよ」

 

 

 ぎゅっと布団を握りしめる刑香。

 人間と同じように天狗は群れで生きている妖怪だ。本当は独りだと不安で仕方ないくせに強がりばかり、とそんな友の強情さに文は呆れる。でも刑香らしい答えだった、本当に彼女らしい。

 そんな変わらない親友に心のどこかで安心を覚えながら、文は出来上がったお粥を持って行く。布団の横にお盆を置き、白黒の鴉天狗たちは向かい合う。

 

 

「確かに私は心配しすぎたかもしれませんね。いやはや姉として可愛い妹分のことはいつまでも気になってしまうのですよ」

「誰がアンタの妹よ、本当に文は調子がいいんだから………でも心配してくれてありがとう、文」

「どういたしまして」

 

 

 この話はここで終わりにしよう、刑香と文は声に出さずに合意した。文としては、今朝にスキマ妖怪から聞かされた事実を刑香へ確かめたいと思っている。しかしそれを尋ねられることを刑香は望まない。ならもういいのだ。残り時間は百年以上ある、焦る必要はどこにもない。

 すると外から羽ばたき音と賑やかな話声が聞こえて来た。どうやら二人が帰って来たらしい。ガラリと扉が開き、茶髪のツインテールの鴉天狗と幼い巫女が飛び込んできた。怒号と共に。

 

 

「文ぁぁあ!! アンタ、『河童に許可は取ったから、葉団扇を使っても大丈夫です』って言ったでしょうがっ。その言葉を信じて竜巻を起こしたら河童が攻撃してきたじゃないのっ。天狗が河童に襲われるなんて前代未聞よ、このバカ鴉!」

「そうよっ。私まで川に沈められそうになったんだからね! ………あっ刑香、目が覚めたの!?」

 

 

 刑香が起き上がっていることに気づき、元気よく駆けてくる霊夢。びしょびしょに濡れた巫女服のままで刑香の胸へと飛び込んだ。体温の低い刑香の身体へと温かさと湿っぽさが伝わってくる。くすぐったい感情を誤魔化すために刑香が霊夢の頭をポンポンと軽く叩いた。

 

 

「おはようっ、刑香!」

「ん、おはよう霊夢。翼に触れるのはやめなさいよ?」

「おやおや、仲が良いですねぇ」

「ほんとにね」

 

 

 刑香が見上げると、文とはたてがニヤニヤ笑っていた。喧嘩はどうしたと、はたてを睨んでみるが微笑ましい顔をされたので視線を反らす。

 その頬はやはり赤かった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第1.5章『幻想晩秋宴』
第十四話:楽園の幼き魔法使い


 

 

 木枯らしの気配を感じる秋晴れの幻想郷。

 人里離れた森の中では地面に積もり積もった落ち葉から湿った匂いが立ち込め、吹き抜ける風は冷たく渇いていた。冬の足音が近づいてきている。秋神の姉妹からバトンを受け取った冬の妖怪が活動を始めたのかもしれない、そろそろ冬眠の準備をする生物や妖怪が現れるだろう。

 そんな森の中を一人の人間の少女が走っていた。息を乱しながら、自慢の金髪に引っ掛かる枝を乱暴に払い除けて少女は紅葉が色褪せた森を駆け抜ける。

 

 

「はぁはぁっ、くそっ…………しつこい奴だぜ」

 

 

 一旦、木の影に隠れながら珠のような汗を拭うのは五、六歳の女の子。勝ち気そうな瞳に男勝りな口調、そんな少女にはおてんば娘という言葉がよく似合う。

 

 

「ちっ、もう追いついて来たのか!」

 

 

 舌打ちをする少女、どうやら相手はこちらの正確な位置を嗅ぎ付けているらしい。ガサガサと森を踏み荒らす足音を耳にした少女は音の方向とは逆へと走っていく。

 

 どうして少女は逃げているのか、それを説明するためには少し時間を遡る。始まりはいつものように少女が箒で空を散歩していた時だった。その時に突然、真下から悲鳴が聴こえてきたために見てみると人里の大人たちが『とある妖怪』に襲われていた。そこへ少女が正義の味方よろしく助けに入ったのだ。結果として大人たちを逃がすことに成功したのだが、今度は自分が代わりに妖怪から追われる羽目になった。

 

 

「やっぱり、考えなしの人助けなんてやめておけば良かったぜ…………箒も無くすし最悪だ。何なんだよ、あんな見た目で空も飛べるなんて反則だろ」

 

 

 泣き言が口から零れ、後悔が胸を焦がす。走り過ぎて心臓が張り裂けそうだ、こんなことならやめておけば良かったかもしれない。しかしあの状況で大人たちを見捨てることは少女にはできなかった。普段は周りから「お調子者」だの「ひねくれている」だの言われているが、胸の奥底に確かな正義感と真っ直ぐな心を幼い少女は持っていた。

 

 

「あれ、ずいぶん開けた所に出たな。って、ひょっとして失敗したか!?」

 

 

 鬱蒼とした藪を抜けたら広場のような場所に出てしまった。子供の遊び場としては適しているだろう。しかし、ここには身を隠す障害物がない、逃げる側には不利でしかない。簡単に追跡側から見つかってしまうから。

 そして―――。

 

 

「キチキチキチキチキチキチ」

 

 

 即座に「引き返そう」と決断した少女の鼓膜を震わせたのは『声』ではなく不快な『音』。恐る恐る広場の反対側に目をやると、アイツが待ち受けていた。子供ながらに聡明である少女は気づいた、自分がうまく狩場に誘い込まれたことに。少女の視線の先では無数の脚を持った気味の悪い妖怪がとぐろを巻いていた。

 

 

「キチキチキチキチキチキチ」

「と、ともかく感動の再会ってやつじゃないのは確かだな。ちくしょう、虫のくせして利口じゃないか」

 

 

 少女のひきつった顔。

 少女から少し離れた場所にいたのは巨大なムカデの妖怪だった。ぐねぐねと動く触角と黒色に赤みが混ざった不気味な胴体、そこから蠢くのは千を越える足。興奮状態なのか、口からは毒液が溢れ出している。そんなグロテスク極まる妖怪が少女の視線の先にいた。

 

 

「あ、ははっ。参ったなぁ………」

 

 

 ゆっくりと這いずり近づいてくる大ムカデに、思わず乾いた笑みが少女から漏れる。あの妖怪は間違いなく自分を喰らうつもりなのだろう。そうでなくともアイツに何発か魔法で攻撃した自分を無傷で帰してくれるはずはない。もう、逃げ切れない。

 

 

「い、言っとくけど私の父親は結構スゴい人なんだからな。人里でみんなに慕われてて………私に何かあったら、こーりんだって黙ってないんだからな!」

 

 

 こうなれば助かる可能性のあるものは何でも利用してやると決意した少女、以前に盗賊を怯ませた言葉を投げかける。しかし人の言葉が通じるだけの知能は大ムカデにはない。それ以前に妖怪相手に『人』の権威は通用しないのだ、牽制を意に介せず自分を見下ろす位置にまで大ムカデはたどり着いてしまった。

 

 「もう駄目だ、喰われる」、そう思うと恐怖に身体がすくみ、カチカチと奥歯が鳴った。抵抗しようにも箒は無くし魔力も尽きている、これは年貢の納め時というやつなのかもしれない。じわりと涙で視界が滲み、震える唇から悲鳴のような声が押し出される。

 

 

「く、来るなよっ。来ないでよっ………お父さん、助け「そこのムカデ、私の縄張りで人間を襲うなんていい度胸してるじゃない」………え?」

 

 

 突如として響いた声に、大ムカデの動きが止まった。

 不気味な虫は、ぐるりと声の方へと濁った眼球を動かす。言葉を理解しているわけではない、ただ本能的に生物の出した音に反応しただけだ。自分から目を離したムカデ妖怪に安堵して、少女も声の主を探す。すると自分とムカデを挟んだちょうど反対側に白い翼の妖怪が立っていた。白い翼の妖怪はチラリと、こちらを一瞥してから大ムカデと向かい合う。

 

 

「異変に乗じて人里を襲っていた奴らの一匹ね。その様子だと人間だけじゃなく、この周辺の妖怪を喰らって力を蓄えたか………この数日で藍と一緒に何匹か倒したけど、まだ残ってたのね」

「キチキチキチキチキチキ」

「うるさいわよ」

 

 

 恐ろしげな大ムカデの歯音にも一切怯まない白い翼の少女は器用に右足一本でバランスを取っている。どうやら左足を負傷しているらしい。

 

 余談になるが妖怪が力を付ける一番の近道は、自分より強い妖怪を喰らうことである。しかしながら妖怪の力関係は非情であり、多くの場合には下位の妖怪は上位の妖怪と戦ったところで手も足も出ない。ならば弱者の取れる方法は奇襲、もしくは対象が負傷して弱ったところを狙うに限られる。事実として大ムカデもそうして力を付けてきた。だからこそ片足と片翼に包帯を巻いている『鴉天狗』を見た大ムカデは歓喜した。

 

 

「キチキチキチッ!!」

 

 

 人間の存在を忘れてしまったかのように触角をくねらせ、獲物を狙う低い姿勢で大ムカデが鴉天狗へと這いずり進む。普段ならば自らの全てが通用しない相手、幻想郷における上位妖怪の一種たる鴉天狗。その片翼と片足に手傷を負い、妖力を消耗しているであろう個体が目の前にいる。それは数十年に一度あるかないかの好機だった、アレを喰らえば妖力どころか言葉すら手に入れることができるだろう。空を飛べないのなら毒液で弱らせてから丸呑みにしてやれる。

 威勢良く向かってくるムカデ妖怪を冷めた視線で眺める鴉天狗の少女はため息をつく。うんざりとした表情だった。

 

 

「やっぱり私は甘く見られることが多いのか。………いよいよ文とはたてに効果的な威嚇の仕方でも教えてもらった方がいいかもしれないわね」

「お、おいっ。あんた、大丈夫なのか!?」

「また人間の子供に心配されてるし…………霊夢といい、何で人間が妖怪の身を案じるのよ。普通は逆でしょうに」

 

 

 しかし、ある意味で仕方がない。

 その真っ白な肌も、見るからに華奢な身体も、内側から穏やかに波打つ妖力すらも、彼女が簡単に壊れてしまいそうな印象を周りに与えるのだ。だから金髪の少女からも、ムカデ妖怪からも白い鴉天狗は強い妖怪には見えなかった。少なくとも一般的な妖怪の範疇からは、強い存在だとは判断されなかった。

 

 しかし何事にも例外はある。生まれもった種族差を武術と能力にて覆す紅美鈴しかり、絶対的な力を持ちながらも更に修行を重ねて陰陽術まで身につけた八雲藍しかり、上位の妖怪たちにとって体格や妖力の優位性はあくまでも一つの目安に過ぎない。

 それは白い鴉天狗にも当てはまる。夏空の碧眼は何一つ焦りを感じさせずに、迫り来る大ムカデをその瞳に映していた。

 

 

「キチキチキチ…………ブッ!!」

「うげっ、毒液か!?」

 

 

 鴉天狗に接近した大ムカデは先手必勝とばかりに毒液を放った。透明ながらも毒々しい液体は妖精程度ならば跡形もなく溶かしてしまうであろう溶解液、それを不意をつくタイミングで鴉天狗へと吹きかけた。距離的に避けられない、思わず人間の少女は目を閉じた。じゅわり、と草木の溶ける音が人間の少女の鼓膜を揺らす。固く閉じた瞳でもって少女は目の前の凄惨な光景を拒絶していた。きっと大ムカデは白い妖怪を喰らっているに違いないと思っていた。

 しかし―――。

 

 

 

「………それで、ここからどうするつもり?」

「キチキチ、キチ?」

 

 

 恐る恐る目を開けた少女の視界に映ったのは『葉団扇』を構えた鴉天狗。毒液は一滴たりとも彼女には届いていおらず、周囲の草花を枯らすのみに留まっていた。何が起こったのか少女にはわからない、しかし道具屋の娘としての勘が白い妖怪の持つ団扇を強力なアイテムであると告げていた。大ムカデが目に見えて怯んでいる。

 

 

「まあ、あんた相手くらいなら必要ないんだけど。せっかく観客もいることだし派手にいきましょうか」

 

 

 天に掲げられたのは八ツ手の葉団扇だった。

 持ち主の妖力を吸収して嵐へと変換する『風神』の証にして大天狗に認められた誉れ高き天狗の象徴。それは白い鴉天狗が「吸血鬼の屋敷で無くしたことにします」と大胆にも言い放った親友から譲り受けた山の秘宝の一つ。葉団扇は風を呼び、鴉天狗の少女を中心にして大気が渦巻く。この風陣が毒液ごときを通すわけがない。

 

 大ムカデは白い少女に追撃を仕掛けることはしなかった、それどころか無数の脚をくねらせ逃亡を始める。虫は鳥には勝てない、木っ端妖怪は天狗には勝てない。何よりも自分はあの白い鴉天狗に勝てないことを本能的に悟ったから。

 

 

「紫からの命令なの、悪いけど人を襲った妖怪をこのまま逃がすつもりはないわ。手加減してあげるから、雲路切り裂く風神の声に散りなさい」

 

 

 荒ぶる風が鴉天狗の白い髪を揺らす。

 彼女によって導かれる大気の脈動を金髪の少女、霧雨魔理沙は肌で感じていた。研ぎ澄まされた妖気に当てられて鼓動が早まっていく。そして振り下ろされた葉団扇、その嵐に木の葉のごとく吹き飛ばされる大ムカデの姿を魔理沙は目に焼き付ける。

 

 胸の中に感じた確かな熱、それは純粋な『力』への渇望だった。

 

 

◇◇◇

 

 

 

「まったく紫の奴め、私を式神か何かと勘違いしてるんじゃないかしら。人の子を助けながら幻想郷を回るなんて、私は慧音じゃないのに」

 

 

 森を突き抜けた竜巻が消え、泡を吹いて倒れてる大ムカデ。少なくない妖力の消耗に刑香は気だるさを覚えたが、まだ余裕はある。葉団扇を腰に下げ直して、懐から呪符を取り出すとムカデへ近づいた。

 

 現在、藍や刑香は吸血鬼異変を利用して暴れていた妖怪たちの鎮圧に動いている。つまりレミリアの起こした混乱に紛れて人里を襲っていた妖怪の討伐だ。しかも今回は紫からの頼みではなく『命令』である。いつの間にやら刑香は『八雲』の勢力の一員に数えられていたらしく回復しきっていない身体を押してまで幻想郷を見回っている。何故、はぐれ天狗である自分がそんな立ち位置になっているのか刑香には理解ができないが「なるようになるしかない」と諦めている。それがある意味で紫への信頼の裏返しでもあることに刑香は気がついていない。

 

 刑香は気を失っているムカデ妖怪を霊夢製のお札で丁寧に縛りあげていく。とりあえずは動きを封じてから後々に紫へと連絡して回収してもらう。面倒な作業であるが、命のやり取りをするよりは良い。最初からひび割れていたムカデの甲殻に怪訝な顔をしながら刑香はお札を貼っていく。

 

 

「よいしょっと、こんな感じでいいかしらね。あとは紫の判断に任せましょうか。…………それにしても大ムカデの甲殻に亀裂を入れる妖術を使うなんて、あんたは何者なの?」

「へ、私かよ?」

 

 

 ムカデを縛り終えた自分へ恐る恐るといった様子で近寄ってきた少女に刑香は話しかける。金髪の少女は白黒の魔女服に魔女帽子を被った姿という変わった格好だった。大ムカデから匂う魔力の残り香から判断して、この甲殻を叩き割ったのはこの娘に違いない。

 

 

「この硬度の殻をここまでにするなんて、そこらの妖怪にだってできることじゃない………その格好、もしかしてあんたは魔法使いなの?」

「おおっ、わかるのかよ! ………何だか嬉しいな、人里の連中は誰もこの格好の意味すら知らなかったんだ。さすがに妖怪は物知りだな」

 

 

 刑香は知識としてではなく、記憶として彼女たちを知っている。数百年前、大名たちが争う戦国の世で出会ったことがある。教会から海を越えて逃げてきた西洋魔法使いたち。彼女らは箒に乗り空を飛び、妙な妖術を使う連中だった。後々にこの島国にたどり着いた教会勢力に追われた彼女らは散り散りになって姿を消してしまったはずだ。

 目の前の少女は彼女らの子孫なのだろうか、と刑香は懐かしい記憶を手繰り寄せていた。残念ながらその予想は大きく外れているのだが刑香には知る由もない。

 

 

「ところでさ、私は帰る手段を無くしちゃってさ。だから、その、人里まで送ってくれないか?」

 

 

 もじもじと恥ずかしそうにエプロンのような布を掴む魔理沙、ふわふわした金髪と金色の瞳と合わさってその姿はとても可愛らしい。しかし、助けてもらった相手とはいえ初対面の妖怪を帰りの駕籠(かご)として頼りにするとは、外見とは裏腹にかなり肝の座った童女のようだ。

 

 

「元々そのつもりではあったんだけど、まさか先に言われるとは思わなかったわ。ずいぶんと度胸があるわね、天狗を前にして怖くないの?」

「怖いって、あんたのことを?」

「…………もう、いいわ」

 

 

 疑問符を浮かべる魔理沙から刑香は不機嫌そうに視線を外した。妖怪は人間から恐れられてこそ妖怪なのだ、そのため魔理沙の反応に少しだけショックを受けたらしい。

 ちなみに魔理沙が言い出さなくとも刑香は彼女を人里まで送るつもりだった。もう日が暮れる時間だ、人間の子供がこの辺りを彷徨いていては危ない。そんな刑香の了承を聞いた魔理沙は安心したようで、その場にポテンと座り込む。

 

 

「いやー、良かった良かった。ここから人里までは結構距離があるから断られたらどうしようかと思ったぜ」

「もし私が断ってたらどうしてたのよ?」

「そしたら代わりに箒を探すのを手伝ってもらうように可愛らしく頼むつもりだったよ」

「そんなことをしたら悪い妖怪に食べられるわよ?」

「大丈夫、私の目の前には白い翼のお人好しそうな妖怪しかいないからな」

 

 

 堂々としたやり取りを行う魔理沙に刑香は感心していた。少しばかり瞳には不安や怯えが残っているものの、まだ刑香のことをよく知らない人間がここまで堂々とした態度で交渉するとは大したものだ。

 おまけに魔理沙の手には大ムカデの毒液が入った試験管が握られている、おそらく魔法薬の研究に使うために採取したのだろう。さっきまで逃げ回っていたのに、転んでもタダで起きないとはこのことだ。刑香は魔理沙と視線の高さを合わせるために、その場でしゃがみこむ。

 

 

「ふふっ、やっぱり人の子は面白いわね。私は鴉天狗の白桃橋刑香、あんたの名前は何ていうの?」

「うん………じゃない。おうっ、私の名前は魔理沙、霧雨魔理沙だ。一応、これでも普通の魔法使いなんだぜ」

「その年であの甲殻をひび割れさせておいて、『普通の魔法使い』ね。今はそういうことにしておくわ。さて、それじゃあ早めに人里に向かうとしましょうか」

 

 

 そう言うと刑香は魔理沙を持ち上げる。霊夢にするのと同じ要領で幼い魔法使いを苦しくならないように優しく両腕でお腹のあたりから抱きしめた。ビクッと魔理沙がくすぐったそうに震えた。

 

 

「わわっ、なにするんだ!?」

「何って、のんきに歩いて向かったら日が完全に沈むじゃない。人間が夜に出歩くのは危険なんだし急がないとね、私も今夜は予定があるし」

「まさか、飛ぶのかよっ? 片方の翼はケガしてるんじゃないのか!?」

「片翼を失ったくらいで鴉天狗が飛べなくなるとでも思ってるの?」

 

 

 挑戦的な笑みと涼やかな声。ふわり、と宣言通りに片翼だけの力で魔理沙の両足は地面を離れた。

 元より幻想に生きる妖怪たちの翼は特殊だ。人間が誇らしげに自慢する『科学』などでは解析できない原理。妖力や妖術、妖怪としての特性に支えられた彼女らにとって、片翼であっても飛ぶことに長けた種族ならば飛行すること自体は決して不可能なことではない。スピード、バランス、飛行継続距離など様々な力が落ち込む代償は伴うが充分に可能なことである。

 

 

「おおっ、速い速いっ!」

 

 

 あっという間に遠ざかっていく下界の森。

 そのままオレンジ色の夕空へと二人は飛び込んだ。刑香に抱えられた魔理沙の瞳には燃えるような夕日が映り込み、金色を鮮やかなハチミツ色に染めている。キラキラした眼差しで魔理沙は次々と通りすぎていく雲や鳥を見つめては歓声をあげる。その姿は物静かな霊夢とは正反対で、騒がしく賑やかだった。

 

 

「いいなぁ、私も箒でこれくらい速く飛べるようになりたいぜ。箒にジェットエンジンってヤツを付けてくれるように父さんに頼んでみようかな。あれ? それは何なんだ?」

「ああ、これは昔の上司………じゃなくて、知り合いから貰ったお酒よ。今夜の催し物にちょうどいいと思ってね」

 

 

 好奇心が旺盛らしい魔理沙は刑香が腰に下げていた酒瓶に興味を持ったようだった。酒瓶には『華扇より』『茨木ノ枡薬酒』と書かれているのが見えた。おそらく刑香の言った知り合いの名前と酒銘だろう、と魔理沙は推測する。

 

 

「今夜、博麗神社で酒宴があるの。異変でぶつかった両陣営の仲直りのための宴がね。私も異変に参加した妖怪だから参加しないといけないのよ」

「異変って、西方から攻めてきた妖怪を『博麗の巫女』と幻想郷の妖怪たちの連合軍が倒したってやつか? って、刑香はそんなのに参戦してたのかよ!?」

「参戦よりも巻き込まれたっていう方が正確かもね。でも門番に左足を折られるし、やんちゃな吸血鬼には翼をメチャクチャにされるし災難だったわ。………化け物ばっかりだったから仕方ないけど」

「片翼片足に重傷を負って、それを災難の一言で済ませる刑香も別の意味でスゴいと思うんだけど。…………巫女は数日前まで敵同士だった奴らと酒盛りをするのか?」

 

 

 魔理沙は巫女が中心となって異変を解決したと思っているようだった。巫女が力ある妖怪たちと協力して異変を解決したという法螺話が人里で出回っているからだ。もちろん巫女とは霊夢のことではなく、当代巫女のことだ。

 

 『吸血鬼異変』は八雲紫の手によってそういった結末へと改変されて人里へ伝えられている。『彼女』の解決した最期の異変として、『彼女』が浮き世を去る理由として、八雲紫が用意したのだ。博麗の巫女は寿命ではなく、人々を護り代償として力尽きたという美談を残すために、そして更なる信仰を集めるために。

 それは幻想郷のために尽くしてきた彼女への餞別であり、彼女の跡を継ぐ霊夢への祝儀でもある。霊夢のためであるならば刑香としても異存はなかった。だから今ここで魔理沙の間違いを正すことはしない。

 

 

「私たち妖怪は長い時を生きなきゃならないから、いちいち恨みつらみを溜め込むわけにはいかないの。だから戦いの後には敵味方を隔てない酒宴が設けられて、それで一応の区切りにするのよ。決して記憶は忘れないまでも表面上は和解しましょうね、という感じでね」

「へえ、妖怪も色々とあるんだな。水に流すんじゃなくて、酒に流して仲直りするのか」

「あくまでも一部の慣習よ。私たち天狗は酒好きの『鬼』の支配下にあったから、そういう傾向が強いけど」

 

 

 魔理沙は興味津々といった様子で聞いている。

 たまに小さな足をパタつかせ、本心から刑香の話を楽しんでいた。表情が豊かで相槌も的確、魔理沙は話していて自分も相手も楽しくなるような女の子だった。そんな魔理沙の反応に刑香もうまく乗せられたのか、珍しく饒舌に色々な話を続けている。

 

 地平線へと真っ赤な夕日が沈んでいく。

 その色は燃え尽きんとしている『彼女』の命か、それとも彼岸の花の色なのか、はたまた幻想郷に訪れた代替わりの時を表しているのか。おそらく、その全てなのだろう。その光景に刑香はポツリと呟いた。

 

 

「いつの世も人の子はせわしないわね。その生き方も在り方も、寿命でさえ刹那的すぎる………もう少しのんびり生きられればいいのに」

「あれ、何の話だよ?」

「何でもないわ、それより次は何を話して欲しい?」

「じゃあ、さっき言ってた『オニ』って何なのか教えてくれよ」

「現代の人里には鬼の名前が残ってないのか。ずいぶんと幻想郷も変わったわね…………いいわよ鬼の危険性について詳しく教えてあげる、鬼っていうのはね」

 

 

 他愛もない話をしながら、一羽と一人の影は夕焼けの光の満ちる空を人里へと飛んでいった。まもなく日は寝静まり、月の微笑む夜が訪れる。月下に設けられたのは酒の席、集うは八雲と紅魔の軍勢、場所は幻想郷の境界たる博麗神社。

 

 一癖も二癖もありそうな妖怪たちによる宴会が始まろうとしていた。願わくば『彼女』にとっての最後の一夜が幸福なものであるように、と心の片隅で祈る鴉天狗の想いを乗せて夜の帳は降りてくる。

 

 晴れ渡った空に、きっと今夜は欠けた月がよく見えるだろう。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十五話:遥かなる夢想い、確かな幻想に散る

とある人物が亡くなる描写があります。
そのような内容が苦手な方はご注意ください。


 

 

 日が完全に沈んだ時間の博麗神社。

 そこは幻想郷と外の世界との境界線、どちらの世界にも属さない中立地帯にして存在の曖昧な場所。その境内では稀に外の世界から流れ着いた物品が落ちている不思議な現象が目撃されている。

 そんな神社は森に囲まれ、人里から訪れるには細い獣道を通るしかない。そのため参拝に来る人間は少なく、巫女がいるために妖怪の気配もない、静かで寂しい場所だった。少なくとも昨日までは。

 

 

 

「ちょっと待ちなさいよ、あんた!」

「へへーん、ここまで来てみな!」

「このっ、私のお菓子を返しなさい!」

 

 

 幼い子供二人の賑やかな声。

 黒髪の幼巫女と金髪の幼い魔法使いが神社の境内を走り回っていた。結局人里に帰らず、「面白そうだから」という理由で半ば無理やり刑香についてきた魔理沙。そんな彼女は色鮮やかな雛あられが入った袋を持って、霊夢から逃げ回っている。もともと霊夢が食べていたものを魔理沙が強奪し、可愛らしい鬼ごっこへと発展したのだ。

 地面に這い出した木の根っこを跳び越えて、草むらを掻い潜る。右へ左へと木々の間を逃げる魔理沙に、飛んで追いかける霊夢はなかなか追いつけない。しかし、その顔はどこか楽しそうだった。

 

 

「待ちなさいって言ってるでしょ、『魔理沙』!」

「へへっ…………なら捕まえてみろよ、『霊夢』!」

 

 

 初めて自分の名前が呼ばれたことに魔理沙が嬉しそうに答える。どうやら霊夢と仲良くなりたくて、イタズラに手を染めたようだ。そして作戦は成功したようで、先ほどまで「あんた」と呼びあっていた二人は今や「魔理沙」「霊夢」とお互いの名前を遠慮もなく口にしていた。

 チロチロと柔らかな光を放つ灯籠たちが夜の境内を浮かび上がらせている。儚いロウソクの火は控えめに辺りを照らし、最低限の光を持って薄明るい空間を作り出していた。二人の幼子はギリギリ足下が見える範囲を楽しそうに駆け回っていた。

 

 

「…………橙も連れてきてやれば良かったな。新しい友人を作れたかもしれん好機を逃してしまった。今からでも遅くはないだろうか、いやもう橙は寝ている時間か」

「まあまあ、また次の機会があるわよ。子供なんて何回か一緒に遊べばすぐに仲良くなるものだろうし。………そうよね、小悪魔?」

「なんで私に同意を求めるのですか!?」

 

 

 霊夢と魔理沙を眺めながら、藍はパチュリーや小悪魔たちと酒を飲み交わしていた。異変でぶつかった同士だが、理論派な藍とパチュリーの相性は良く、主人がいる以上は小悪魔も付き添っている。

 

 

「ふう、葡萄酒を口にするのは久しぶりだ。幻想郷でもブドウは採れるのだが、ワインに加工する習慣がないんだ。…………それにしても上質な一本だな」

「ご満足いただけたなら良かったわ。レミィのコレクションから何本か貰ってきた甲斐があるし。………多分、この瓶一本で外の世界では普通の人間が一年くらいは暮らしていけるくらいの値段はするわよ?」

「パチュリー様、お嬢様に許可なんて取ってましたっけ?」

「ないわよ、そんなの。これは今回の異変に付き合わされた報酬よ」

「私は知りませんからねっ。…………でもちょっとだけ私も飲んでいいですか?」

 

 

 どうやら無断で持ってきたらしいワインに舌鼓を打つパチュリーと藍。そして小悪魔もそれに便乗していた。

 

 

「紫様は留守だし今夜は私も加減せずに飲めそうだ。パチュリー、もう一本開けないか?」

「ふふふ、話がわかるじゃない。気に入ったわ、藍」

「はわわわわ…………!」

 

 

 紅魔館から提供された葡萄酒をグラスで傾ける藍の姿は何とも妖艶だ。普段の真面目な様子からは想像できないほどに、今の藍から立ち昇る色香には魔性の力が秘められている。パチュリーは平気そうにしている一方で、たまに従者の小悪魔は胸を押さえて何やら唸っている。

 

 

 そして他の参加者たち。

 レミリアは屋敷から連れてきた新しいメイドに自分の世話をさせながら、一人でグラスを傾けている。フランドールは参加を見送り、八雲紫はどこかへ消えてしまっている。何とも小規模な宴会だった。

 

 そして、そんな境内で白と赤、二人の妖怪は盃を交わしていた。スリット部分が大きく開いた大陸風の衣装を着た美鈴と、丈の短い天狗装束に身を包んだ刑香は桜の木を背にして座り込んでいた。花は咲いていない、晩秋に咲く桜もあるらしいが残念ながらここには植えられていない。故に二人の妖怪は花ではなく、お互いに交わす話を肴に酒を飲み交わす。

 

 

「えーっ、刑香さんは恋をしたことがないんですか!?」

「うっさいわね! ないものはないし、あんたに驚かれるのも心外よ。だいたい私たちは何でこんな話をしてるのよ」

 

 

 何故か突然に始められた色恋の話。大袈裟に驚く美鈴へと心の底から刑香は面倒くさそうに答えていた。しかし、その顔が赤いのはアルコールのせいだけではないだろう。経験はなくとも興味くらいはあるらしい。

 

 

「そりゃあ、古来から同性同士が集まったら一度は口にする話題と決まってますから。………それでは条件をさらに緩めてですね。例えばいいなぁ、とか思った異性は刑香さんにはいないんですか?」

「だから、私にそんな奴はいないわよ。周りの殆ど全ての天狗たちに冷遇されてたのに何をどうやって憧れろっていうのよ。…………でも私と違って、あんたは恋したことも、されたこともありそうね。美人だし」

「どうもありがとうございます。でも残念ながら私も恋やら愛とは縁がないんです。昔の私は言葉よりも拳で語るタイプでしたから」

 

 

 拳を握って腕を突き出す美鈴。

 軽い突きのはずが、刑香の耳には空気の切れる音がした。そこらの人間だったなら今の勢いだけで顎を割られているだろう。たった一人で紅魔館の門を護ってきた美鈴の実力に間違いはない。その拳で左足をへし折られたわけなので、刑香は苦笑いをせざるを得なかった。

 

 

「おまけに紅魔館に拾われてからも秘境みたいな場所で門番してましたから、友人すらこの百年の間は増えていません。…………で、話を戻しますけど刑香さんに恋愛経験がないとは正直なところ意外でした。如何にもそういった方面には隙だらけで、簡単に言い寄られそうなのに」

「性別問わずに仲間はほとんど私に近づいて来なかったからね。気軽に話ができるのは文とはたてしかいなかったし…………私が隙だらけって何のこと?」

 

 

 盃に口を付けつつ首を傾げる刑香に美鈴は曖昧に笑う。

 組織から冷遇されて育ってきた刑香は他者から向けられる敵意に対しては強いが、好意に対しては弱い。ちょっとした際にお礼を言われて照れるのはその証拠だ。だから計算高いはずの天狗としては異常なほどに絆されやすいのだ。紫の頼みで異変に参加したり、美鈴につられて自身の能力の詳細を明かすあたりに如実に表れている。つまり計算高い天狗としては致命的なまでに隙があるのだ。

 

 

「まあ、刑香さんのために紅魔館へ乗り込んでくる素敵なお友達もいることですし、そっち方面は大丈夫なんでしょうね」

「何の話?」

「いえいえ、何でもないですよ。ところで刑香さんの持ってきたソレは何というお酒なんですか?」

 

 

 あはは、と美鈴はもう一度曖昧に笑った。そして話題を変えようと刑香の脇に置かれていた酒瓶を指差す。刑香が大事そうにしていた小さな瓶、『茨木ノ枡薬酒』と書かれているソレが美鈴は気になっていたのだ。

 

 

「それはもしかして妖怪が造ったお酒ですか?」

「ご明察、これは鬼の秘宝の一つである『茨木の百薬枡』によって生まれる薬酒よ。飲めば傷の回復がたちどころに早まるの。ただし副作用が面倒だから山の霊水と混ぜて薄めているぶん、こっちは効果も半分以下なんだけど。…………まあ、一献ご賞味あれ」

 

 

 空になった美鈴の盃へと澄んだ薬酒が注がれる。

 天狗から鬼の酒をついでもらう、それは美鈴の長い生の中でも初めての経験だった。何となく得した気分で美鈴は酒を喉へと流し込んだ。そしてじんわりと胃のあたりから身体に広がっていく『力』を感じて感嘆の息を漏らす。

 

 

「こ、これは凄いですね。お酒の妖力があっという間に身体に溶け込んできます。何というか身体に染み込んで組織を妖力で活性化させて再生させている感じ、でしょうかね?」

「ん、そんなところ。便利な薬なんだけど飲みすぎると性格と身体が染められて本物の鬼になるらしいわ。これは薄めているから大丈夫だけど」

「へぇ~、面白いですねぇ」

 

 

 口をつければ万病を癒し、また一口飲めば剛力を得る神秘の薬酒。しかし、その代償として飲酒者は性格が変わり『鬼』のようになる。つまりは端的に言うならば気儘で自分勝手で、陽気な性格となるわけだ。更に飲み続ければ本物の鬼と化すと噂されている。

 過去の記憶から『茨木の百薬枡』の効果を正しく認識していた刑香は、だからこそ副作用を抑えるために霊水で薄めてから持参したのだ。この程度の純度ならば問題はない。

 そうしていると美鈴が何かを思い出したように立ち上がった。

 

 

「そうだ、刑香さんに紹介したい娘がいるんですよ。ちょっと待っててください、連れてくるので」

「それって吸血鬼………レミリアに付いてたメイド服の子供のこと? そういえば、あの娘って異変の時には見なかったわね」

「そうなんですよ。異変が終わってすぐにお嬢様が連れてきたんです、いや攫って来たのかも。…………ともかく、とてもいい娘なので屋敷の仕事が助かってます。ようやく私は悠々と昼寝ができそうなんですよ。それでは行ってきます」

 

 

 そう言い残し、美鈴はレミリアの元へと小走りで向かっていく。

 手持ち無沙汰になった刑香が、ちらりと霊夢たちの方へと視線を移す。すると魔理沙を追いかけていた霊夢が視線に気づいて手を振ってくれたので振り返す。「ふっ」と小さな笑いが込み上げてきた。木々の間を抜けてくる肌寒い風も、酔いが回り火照った身体にはちょうどいい。少しばかり帯を緩めて装束をはだけさす。

 

 

「…………ふふっ、いい風ね」

 

 

 わずかに露出させた肌を撫でる涼風が心地よい。盃を置いて、瞳を閉じた刑香はそれを全身で感じる。やはり自分は酔っているらしい。幻想郷屈指の酒豪である天狗に生まれておきながら、自分は大した酒の量も飲めない。だが、少ない量でほろ酔い状態になれるのだから悪くないと前向きに刑香は捉えている。

 

 夜の闇に浮かぶのは純白の鴉天狗。

 髪も肌も翼も白い、まるで泡沫の雪のごとくに。儚げな雰囲気と合わさって今の刑香にはどこか、誰にも悟られずに消えていく初雪のような、そんな穢れを知らない美しさがあった。

 

 

「刑香さーん、お待たせしました!」

 

 

 静寂を破った美鈴の声に、ゆっくりと刑香は瞳を開けた。レミリアの元から美鈴が帰ってきていた、その左手で小さな子供の手を引いている。近くまで来ると、その姿がはっきりと見えた。霊夢よりも少し高いくらいの背丈に西洋のメイド服を華麗に着こなした少女。

 

 

「こちらは刑香さん、私の友人みたいな方です。あなたから自己紹介してくださいね、咲夜ちゃん」

「…………ご紹介に預かりました、十六夜咲夜です」

 

 

 まず目に付いたのは、月の光を集めたかのような輝く銀髪だった。繊細な顔の造りを含めた少女の全身から感じるのはガラス細工のように透明な美、そして磨き上げられたサファイアのごとき青く鋭利な眼差しが刑香を射ぬく。それは人間としてはどこか浮世離れした容貌だった。幼いながらも、見る者に完璧な印象を与えるメイドが美鈴の隣に立っている。

 

 

「…………霊夢と魔理沙に続いて、また只者じゃなさそうな人の子が増えたわね」

 

 

 風に靡くのは理想的なプラチナブロンド、両側にある美鈴とお揃いの三つ編みが可愛らしい。その一方でこの子供から刑香は強者の気配を感じていた。

 

 どうして今日一日で自分の周りにこういった人間が二人も増えたのだろう、と刑香は本気で悩みつつあった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 博麗神社の裏手。

 静けさが宿る空間を見下ろすのは欠けた月明かり。縁側に腰かけていたのは八雲紫、そして当代巫女だった。ぼんやりと月を眺める巫女に対して、紫は天魔から失敬した『小鬼殺し』を盃に注ぐ。酒器は一組だけ、この巫女はあまり酒を飲まない。

 

 

「それにしても、せっかくの宴会なのに神社に集まったのがこれだけなんて…………貴女は少しばかり、孤高が過ぎるわね」

 

 

 異変関係者の出席は義務として、それ以外の者たちの参加も受け付けていたのだが、ついぞ飛び入り参加の者は現れなかった。それは巫女にも原因があった。寿命を燃やし尽くすまで妖怪をひたすらに滅し、人間を助け続けた当代巫女の生き様はあまりにも苛烈にして尖鋭に過ぎたのだ。その記憶は巫女に近寄りがたい印象を人里へと刻み込んでいた。

 その生き方には余白がなかった、戦いに明け暮れた彼女には他人の入り込めるスキマがなかったのだ。だから、当代巫女と親しいのはスキマを創り出せる妖怪たる八雲紫をおいて他には誰もいなかった。宴会だというのに、人影のまばらな境内がそれを証明している。

 

 

「まったく、もう少し貴女は余裕を持って生きるべきだったのよ。ほどほどに手を抜いて、気楽な巫女として長生きすれば良かった。霊夢が次代を継ぐのは、まだ何年も先だと思ってたのに」

 

 

 不機嫌そうに酒を傾ける紫。当代巫女は答えない。彼女はいつも聞き役だった、ただ八雲紫の話を聞いては頷くのだ。その時だけは修行も妖怪退治も休みにして、巫女は八雲紫とだけは穏やかな時間を過ごすのだ。当代巫女にとって八雲紫は唯一無二の友人だったから、そして八雲紫にとっても当代巫女はかけがえのない友だった。

 

 

「だいたいね、貴女は交遊関係が狭すぎるのよ。もっと人里と連携したら、容易に解決できた異変だって沢山あったでしょ。それを貴女は独りで背負い込んで………まったく信じられないわ」

 

 

 違う、自分はこんなことを巫女に伝えたいのではない。わかっていても紫は次々と湧いてくる言葉を抑えられずにいた。これが最期、刑香から紫たちへと贈られた『残り時間』なのだ。それなのに―――。

 

 

「貴女は、貴女はいつも黙っていて私には何一つ伝えずに飛び出していって、もう少し心配する私の身にも「ありがとう、紫」…………なりなさ、いな」

 

 

 ポツリと巫女の口から出てきたのは感謝だった。その言葉を最後に、巫女から『生気』が消える。刑香が施した『能力』が力を失ったのを紫も感じ取る。月が群雲の中へと紛れ、神社が暗闇に包まれる。

 

 

「…………ずるいわ。私が伝えようと思ってた言葉を先に言っちゃうなんて。でも、ありがとう。おやすみなさい」

 

 

 わずかに震える声が夜に響く。

 ああ、幾多の命を奪い続けた彼女の人生は決して善人のものではなかった。しかし見返りを求めずに、行き着く先も見据えずに、幻想郷のために歩み続けた生き様は見惚れるほどに清々しいものだった。それはきっと意味のある、人生だった。

 巫女の身体がぐらりと傾いた、その亡骸をスキマ妖怪はそっと引き寄せて抱きしめる。

 

 

「…………大好きよ、大好き」

 

 

 むずつく涙腺をぐっと耐えて、出来る限りの笑顔で巫女を胸の中で抱きしめた。この一年で痩せ細ってしまった巫女の身体、そして若くして白髪が混ざった黒髪を紫は宝物を扱うように撫でつけた。親愛の情は一筋の涙となり、頬を伝って流れ落ちる。

 

 

『いつの日か一人でも多くの人間が、妖怪が手を取り合って幸せに暮らせる、そんな幻想郷が欲しいんだ』

 

 

 いつの日だったか、巫女が紫へと語った胸の内、それは当時としては夢見がちな少女の願いだった。しかしその心は決して折れなかった、彼女のおかげで幻想郷はここまで安定した。その功績から少なくない大妖怪たちから一目置かれる唯一の人間、八雲紫の親友。そんな彼女は今、旅立った。あとは霊夢がその跡を継ぐだろう。だから心配はない、だから―――。

 

 

 

 

 

 

 

「別れの挨拶は済んだかい?」

「――――!」

 

 

 ざわりと総毛立つ感覚、夜風に燻るのは『死』の匂い。

 自分たち以外は誰もいなかった場所に、紫の『能力』で隔絶していたはずの空間へ、この場にいなかった第三者の声が響く。聞き覚えのあるソレに紫は跳ねる心臓を理性にて押さえつけて言葉を切り返す。

 

 

「あらあら、どこから沸いて出たのかしら?」

「おいおい、酷い言い草じゃないか。…………知ってるだろ、あたいの能力に『距離』は関係ない、その間に何があろうとも過程を飛ばして場所を繋げることができるんだ。まあ、今回は上司の力も借りたんだけどね」

 

 

 ゆらりと振り向いた八雲紫の瞳に映ったのは、人でも妖怪でもない異界の者。真っ赤な髪をツインテールに結び、身の丈にも及びそうな大鎌を担いだ長身の女。少しだけ着崩した青いワンピース調の着物は、あっけらかんとした彼女の性格を表しているようだった。

 

 

「やあ、しばらくだね。スキマの妖怪様」

 

 

 こちらを覗くのは彼岸の花のごとき深紅の瞳。

 『距離を操る程度の能力』、八雲紫にすら気配を読まれずにここまで接近できる方法は紫が知り得る限りはそれしかありえない。紫は頬を伝っていた一筋の涙を拭い去ってから彼女へと少しだけ刺を含ませた言葉を投げかける。

 

 

「久しいわね、あの口煩い閻魔は壮健でいるのかしら? できれば寝込んでいてくれると私も人里も静かでいいのだけれど」

「あははっ、ウチのボスは元気でやってるよ。また休みが取れたら人里にありがたい説教をしに来るんじゃないかな」

 

 

 けらけらと楽しそうに笑う姿には一切の影がなく、とても彼女が彼岸の使者だとは想像できない。しかし紫は気を引き締める。この女の後ろには『八雲紫にとっての天敵』がいるのだから。

 

 

「こういうのは本来、船頭であるあたいの役目じゃないんだけど。博麗の巫女ともなればお迎えも特別になるものらしいんだ。…………さて、表には『厄介な奴』もいるみたいだし。さっさと魂をいただいて帰ろうかな」

 

 

 ひたひたと彼女は近づいてくる。

 この一年、白い鴉天狗の少女がひたすらに遠ざてきたモノ。それは全ての命ある者たちにとっての畏怖すべき存在。

 

 

 『死神』、小野塚小町がそこにいた。

 

 

 

 

 




8月29日の活動報告にて、とある作者様からいただいた刑香の物語を載せさせてもらっております。お時間がある方は是非、お越しくださいね。

ー追記ー
『番外編』として、こちらにも掲載いたしました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十六話:無何有の彼岸より

 

 

 夜の闇を抜けて月と星空の明かりが博麗神社の影を震わせる。八雲紫の目の前で咲き誇るのは一輪の真っ赤な曼珠沙華(まんじゅしゃげ)。

 そんな彼女を取り巻くのはヒヤリとした冥府の風、八雲紫の視界に入り込むのは彼岸の花に似る鮮やかな髪と瞳の色。そして星の光を受けて煌めくは魂を焦がす魔鎌の刃。

 

 これが小野塚小町、これが『彼岸の使者』。くるくると器用に大鎌を弄びながら、死神は特に気負いする様子もなくスキマ妖怪の正面へと立っていた。

 

 

「まさか私の引いた境界を乗り越えて現れるなんて、驚いたわ。いつから死神はそんな器用なマネが出来るようになったのかしら?」

「あー、あれは私じゃなくて『あの方』の能力だよ。知ってるだろ、四季様には曖昧な存在や境界の類いの一切は通用しやしない。『白黒はっきりつける程度の能力』はアンタにとっては天敵そのものなんだろう?」

 

 

 四季映姫・ヤマザナドゥ。

 地獄の裁判長の一人にして、この幻想郷を担当する閻魔王。絶対的な善悪を持って死者を裁く彼女のやり方には、地獄の上役たる十王であろうとも異を唱えることは不可能であると噂されている。

 生前における善悪から、魂の貴賤に至るまでの一切を見通す彼女の前には『真実』以外の全ては存在しない。そんな彼女の持つ『白黒はっきりつける程度の能力』は、曖昧な境界を操る能力を持つ八雲紫には最悪の相性だ。

 

 それ故に四季映姫の部下である死神にも紫は強い警戒心を抱いていた。しかし肝心の死神は何を隠すでもなく、当たり前のように事実を語る。その姿はどこまでも自然体、その上で彼女から感じるのは微かな微かな『死』の気配。やはり単なる妖怪や人間とは一線を画する雰囲気を彼女たちは纏っているようだ。

 

 

「さぁて、手短にして帰ろうかな、あの娘に手を出されたら厄介だし。…………しかし意外だったね、あの娘の力を借りれば巫女の寿命を更に延ばせたはずだろう?」

「その代わりに巫女は人間ではなくなっていたでしょう? 友人である巫女に哀れな大天狗たちと同じ末路を辿らせるなんてありえないわ」

「そうだね、許された寿命を越えて『死を遠ざける程度の能力』を使われた者は輪廻から外れて魂を宿しただけの人形に成り果てる。…………それでも、日々の話相手くらいにはなるんじゃないかい?」

「なおさら論外よ。そんな下らないことのために彼女の魂を現世に留めるなんて、彼女への侮辱に等しい。そんなことは私自身が許さない」

 

 

 壊れ物を扱うように、巫女の亡骸を縁側へと寝かせた紫。巫女へと注がれる暖かな眼差しとは反対に、小町へと向けられている瞳は刃のごとくに鋭い。それは滅多なことでは他者に感情を悟らせぬ八雲紫らしくない姿だった。親友の死によって、他でもない自らの心に隙間が生まれているのだろう。

 

 

「…………それに、能力の発動を強制すれば刑香の心を踏みにじることになる。ただでさえ、大天狗たちへの後悔に苛まれているであろうあの娘にこれ以上の負担は掛けたくないの」

 

 

 吸血鬼異変にて大天狗たちのことを尋ねられた刑香は何かに怯える様子だったと、紫は藍から聞いている。それが大天狗たちを生ける屍へと追いやったことへの『罪』の意識なのか、それとも組織から能力発動を強制された過去への『恐怖』なのか。

 刑香の抱える傷がどちらにしろ、紫はそれを抉るつもりはない。すると、それまで黙って聞いていた小町が口を開いた。

 

 

「今回は、だろ? あんたが最優先するのは幻想郷の安定と発展、それを成し遂げるためならどんな犠牲も厭わない妖怪が八雲紫だろう」

「それが、どうかしたのかしら?」

「そのままの意味さ。計算高いあんたにとっては白い鴉天狗も、自身の式神も、その巫女の命さえも替えの利く『捨て駒』でしかないんじゃないのかい? 彼女たちの最期すら目的への『通過点』に過ぎないんじゃないのかい?」

 

 

「黙りなさい、一介の死神ごときが」

「----!?」

 

 

 

 その一瞬、スキマで区切られたこの空間が揺れた、足元が崩れ落ちたかのような幻覚に囚われて、たまらずに小町が膝をつく。それはかつて紫が刑香に向けたモノとは格の違う本物の怒りだった。不思議な輝きを放つ紫水晶のような瞳の中で見え隠れしているのは、冷静沈着な妖怪である八雲紫らしくない激情の炎。ぞっとする程に鋭利な妖気を浴びせられた死神がわずかに震える。

 

 

「お説教は貴女たち主従の得意分野でしょうけど、少しおしゃべりが過ぎるのではなくて? この八雲紫の心中を死神風情に答える必要はない、だから口を慎みなさいな」

「…………っ!!!」

 

 

 地獄の鬼族を遥かに上回る威圧感、骨の軋む錯覚すら覚える圧倒的な力。それを真正面から受けた小町の背中を氷のように冷たい汗が伝う。一度だけ本気で上司を怒らせたことがあるが、その時と同じくらいの恐怖を小町は感じていた。流石は『妖怪の賢者』の一人といえるだろう。

 しかし死神である己がいつまでも跪いてはいられない、ぐっと両脚に力を入れて小町は立ち上がる。

 

 

「…………さっきの発言は取り消すよ、すまないね。どうにも四季様の影響で説教くさくなっているみたいだ。あたいらしくもない」

「…………ふぅ、私こそごめんなさい、少しばかり頭に血が上がっていたみたい。でも、あなたも友人を失ったばかりのか弱い乙女にあんまり辛辣な言葉を突き刺すのは感心しないわね」

 

 

 うふふ、と微笑んで扇を広げる八雲紫。すでに殺気は霧散しているものの目は笑っていない。未だに油断すると頭から喰われそうな雰囲気を纏っている、しかし小町は胸を撫で下ろした、この程度の殺気ならば不機嫌な上司から浴びせられるものと大差ないので慣れている。それはそれで問題があるのだが。

 

 

「あんたが乙女なのかは判断できないけど、ともかくゴメンよ。刑(しおき)があんたの配下になったって小耳に挟んだからさ、少し気になってたんだ。よかったら教えて欲しい、あんたにとって刑は単なる駒なのかい?」

「あら、刑香のことを気に入っているのは本心よ。少なくとも式の式にしたいと思っているくらいにはね。それにしても天魔と同じく、あなたも刑香のことを刑(しおき)と呼ぶのかしら?」

「うん? そりゃあ、その名前を付けたのは…………いや何でもない。知らなくてもいい話さ」

 

 

 ふらりと死神が視線を送った先は神社の表、そこには鴉天狗の少女がいるだろう。「まあ、いずれはね」と呟いた小町、優しさと苦悩が入り混ざったような眼差しがそこにあった。その様子を眺めていた紫の脳裏に一つの可能性が芽生える。

 

 

「もしかして、刑香のもう一人の名付け親は………」

「おっと、勘違いしないでおくれよ。どういう事情があろうとあの鴉天狗を特別扱いするつもりはないんだ、あくまでも少しだけ気になっているだけさ。ああ、そろそろ巫女の魂を彼岸にお連れしないとね」

 

 

 フヨフヨと半透明の霊魂が小町の肩のあたりを漂っていた。紫へと別れを告げるように上下している彼女の魂、それは亡霊の友人に仕えている半人半霊の庭師とその孫娘の半霊にそっくりだった。

 ほとんどの魂はあのような形をしているのかもしれない。ひんやりとする魂を紫は名残惜しそうに両腕で抱きしめる、いよいよお別れだ。そうしていると、「うーん」と可愛らしく伸びをした小町が紫へと呼びかけた。

 

 

「さてと、そろそろ逝くよ。…………四季様の裁判が終結して、もし巫女が地獄行きでないなら白玉楼で一度だけ再会できるチャンスがあるかもしれない。あそこなら死者も元の姿でいられるから会話だってできる、頃合いをみて訪れてみなよ」

「…………あなたも大概なお人好しね。『全ての死者と生者に平等たれ』を規律としている彼岸の者らしくないわ」

「あははっ、これがあたいの性分なんだ。だから四季様にはお説教をされてばっかりさ、改めるつもりはないんだけどね」

 

 

 からからと朗らかに笑う小町、彼女は本当にお喋りで人間くさい死神だった。自分の信じる道を貫く姿はとても清々しく、接する者に裏表を感じさせない。だからこそ人里では少なくない人間たちが「三途の川を渡る時には彼女の舟に」と希望しているのだろう。紫としても少しだけ彼女のことを気に入ったので、さっきの礼にと酒瓶を小町へと手渡した。

 

 

「冥土への土産にこれを持って行きなさいな、あの閻魔でも酔い潰せる代物だから」

「おっ、悪いね。帰ったら四季様と一緒に飲ませてもらうよ。なになに…………『小鬼殺し』?」

 

 

 不思議そうな顔をしながらも酒瓶を受け取った小町。鬼でも天狗でも酔い潰せるであろう純度の酒、もう半分程度しか残っていないが死神と閻魔を二日酔いに悩ませるには十分だろう。

 なぜなら年中酔っ払っている鬼の酒を模倣して造られているのだから。ニヤニヤと愉快そうに笑う紫の内心までは死神にもわからない。「まあ、いっか」と不吉な酒銘についての考察を諦め、小町は嬉しそうにしてソレを仕舞い込んだ。

 

 

「じゃあ帰るよ、スキマの妖怪様。何なら今度はこっちに遊びに来なよ。四季様もあんたと『お話』をしたくていたくて堪らないらしいからね。あんたからの贈り物の酒は怪しむだろうけど」

「それならその酒は天狗からの贈り物だと伝えなさいな………あらら、せっかちな死神ね」

 

 

 どうやら『能力』を発動させたようだ。小野塚小町の姿は彼女が最初の一歩を踏み出した瞬間には消えていた。距離を無くして移動したのなら、今頃は妖怪の山の周辺にたどり着いているのかもしれない。まあ、紫の言葉は聴こえていたはずなので、二日酔いに苦しむであろう閻魔からの恨み事を天魔と分担することには成功した。天魔には悪いが、四季映姫に自分だけが目を付けられるのは面倒だったのだ。

 

 とはいえ、あの老天狗なら閻魔を酒で潰したことなど愉快な出来事として笑い飛ばすに違いない。あの男の本質は八雲紫と同じなのだから。

 

 

「もう冬なのね」

 

 

 見上げた空からは粉雪が降り注いでいる、吐いた息は煙のように白い。それは紫にとって最も厄介な季節が到来した証だった。急ぎ足で紫は巫女のいる縁側へと歩み寄る、こんな寒空の下に彼女を放り出してはおけない。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「初雪、か」

 

 

 チロチロと降り始めた雪へと刑香は手を伸ばす。

 鴉天狗の少女に捕まるのを避けるように舞い落ち、みぞれ混じりの初雪は刑香の持つ盃へと身を沈めた。雪が溶けていく様子をぼんやりと眺めてから刑香は透明な盃を飲み干した。何とも風流な姿だった。

 そんな刑香の隣では酔い潰れた美鈴が気持ちよさそうに眠っている。そして彼女を膝枕しながら、介抱しているのは幼いメイドの少女。どうやら二人は仲が良いらしい、羨ましいと刑香は思う。

 

 

「…………文、はたて、あんたたちは今何をしてるの?」

 

 

 刑香の口から零れたのは同族である二人の名前。そこにはこの宴会で親友たちに会えなかったことへの寂しさが滲んでいた。「異変の関係者は参加するように」という八雲紫の呼び掛けにも関わらず、射命丸文と姫海棠はたての二人は結局のところ姿を現さなかった。

 やはり組織から許しが出なかったのだろう。予想はしていたのだが、やはり刑香にとっての落胆は大きい。だからなのか、酔いが回って鈍くなった頭をよぎるのは数日前に文から掛けられた言葉だった。

 

 

『昔みたいに三人で暮らしませんか?』

 

 

 数日前に首を縦に振っていたのなら、きっと二人は自分と一緒にいてくれたはずだ。だが、刑香は親友たちのためにその申し出を断った。親友たちは山にいた方が幸せに暮らせると思っていたからこそ刑香に後悔はなかった、少なくともそれは普段の刑香らしい応答だった。

 

 だから今、「頷いておけば良かった」などと考えているのは酒で頭が緩んでいるからに違いない。きゅっと唇を噛み締める、しかしその碧眼にはうっすらと涙が滲んでいた。こんなことを考えるなんて本当に情けないと自分を責める刑香、そんな鴉天狗の少女に近づく小さな影が一つ。ピクリと、白い髪から見える耳が反応する。

 

 

「―――これが泣き上戸ってやつかしら?」

「別に、あくびが出ただけよ。…………何か用かしら、紅魔館のご当主様?」

「れ、レミリアお嬢様!?」

「構わないわ、咲夜。そのままでいい」

 

 

 突然とした主人の来訪に咲夜が慌てて立ち上がろうとする。それを手で制しながらレミリアは刑香を見下ろしていた。座り込んだままで刑香はその碧眼をレミリアの紅眼へと向ける。

 

 

「咲夜は美鈴に取られちゃったし、パチェと小悪魔は九尾と盛り上がってる、おまけにフランはいない。私一人で飲むのは退屈なのよ。だから付き合いなさい、鴉天狗」

「私は私で一人酒を楽しんでいたのだけど、あんたは他の連中と違って随分と横暴ね。友達無くすわよ、吸血鬼」

「おあいにく様、私の親友と部下は変わり者の集まりなの。私のワガママなんて何とも思わないわ。………隣、座るわよ?」

 

 

 レミリアは莚(むしろ)の上にちょこんと座る。藁を編んで作られた莚に、フリルの付いた洋服を着こなした吸血鬼が腰を下ろす姿は何か妙な感じがした。そして微かに漂う血の匂いに刑香は怪訝な顔をする。

 

 

「初めはあなたのことをスキマ妖怪の式だと思っていたのだけれど、単なる協力者だったのね。正直なところ意外だったわ、あのスキマは滅多なことじゃ他者を信頼しない妖怪に見えたから」

「さあ、どうでしょうね。まだ一年そこらしか一緒にいない私に紫の性格なんて計れないわよ。それと確かに『式の式』になってみないか、なんて誘われたこともあるけど今の自由を手放すつもりはないわ。…………しがらみはゴメンだもの」

「くくっ、同感ね。そんなものは十字架に括り付けて湖の底にでも沈めてしまえばいい。実際、下らない繋がりを断ち切って幻想郷に来てから私たちは自由に過ごせているし、本当にここに紅魔館を移転して良かったと思っているわ」

 

 

 スカーレット家の現当主。西方世界の行く末を左右する程の力と格式を持つ種族に生まれ落ちたレミリア、その華奢に見える双肩に掛かる重圧は相当なものだったのかもしれない。その重荷から解き放たれた今、レミリアを縛るものは何もない。幼い吸血鬼は優雅にワイングラスを傾けていた。

 

 月光を受けて艶めく肌は不思議な光沢を放ち、紅い宝石のような瞳は沈んだ闇夜にあって異質な存在感を秘めている。そして背中に生える蝙蝠に似た羽は、ビスクドールのごとく繊細な造りの外見と相まってレミリアに『夜の支配者』としての不思議な威厳を与えている。彼女ほど月が似合う化生はこの地上には存在しまいと刑香は思った。

 

 

「…………鴉天狗、翼の具合はどうなの?」

「だいたい九割方は治ったわ、この通りに」

 

 

 ばさりと刑香が真っ白な翼を広げる。包帯こそ巻いてあるものの、負傷した片翼に後遺症は見られない。異変以前と変わらない、美しい純白の羽がそこにあった。じっくりと眺めた後でレミリアは安心したように溜め息をついた。その様子から、刑香は自分から『あの娘』の話を切り出すことに決めた。すなわち刑香の翼をへし折った相手についてである。おそらくレミリアが自分を訪ねてきた理由はそれなのだろう。

 

 

「フランドールはどうしてるの?」

「あの娘は以前より見違えるほどに自分を制御できるようになったわ。幻想郷に来る前までは満月のたびに何かを壊さないと止まらなかった、けれど今は自制が利くようになったの。これなら、あと十年もすればお外に出してあげられそうよ」

「そう、良かったじゃない」

「随分とあっさりしてるわね…………ねえ、もしかしてあなたはフランのことを恨んでないの?」

 

 

 刑香の反応にレミリアが疑問を持った。誇りであるはずの翼を折られ、命を奪われかけて尚、フランドールに対しての暗い感情が刑香からは感じられなかったからだ。もしこれがレミリアだったのならば、誇りを汚した相手を生かしてはおかない。次の満月が輝く夜までには確実に始末しているだろう。

 

 

「そうね、今だって私はフランドールに対して怒りを感じてる。この翼は私にとって本当に大事なものなんだから…………でも恨みはしないわよ。だって異変の中での戦いの結果なんだし、私だってあの娘を錫杖で殴ったもの。お互い様よ」

「…………本気なの? フランの最後の攻撃を防いだ後、あなたは意識を失った。美鈴の能力で治療したから持ち直したけど、あなたは軽く死にかけたのよ?」

「それこそ死んでないんだから問題ないわ。だいたいね、私が鬼に喧嘩売った時なんて…………やめとく、思い出したくないし」

「いやいや、何があったのよ…………?」

 

 

 古き時代に神と讃えられ、時には災いだと罵られ、そうして妖怪たちは生きてきた。向けて向けられる恐れも恨みも全ては通り過ぎた道である。

 その争いの中で一時の怒りはあれど、そこに怨恨は残すべきではないことを彼ら、彼女らは理解している。重ねる年月に埋もれていくままに、人ならざる者たちはその出来事を幻とする。

 それは永い時を生きるが故の知恵であり、人間には計れない達観した考え方である。そして本来ならそれは洋の東西を問わない。

 

 

「ふーん、東方では考え方が違うのかしら。それとも貴族である私と土着の妖怪との差か…………まあいいか。とりあえず仲直りっていうことで宜しく頼むわよ、ケイカ。ところで『オニ』って何なの?」

「あんたも鬼を知らないのね。…………鬼がこの地上からいなくなって何百年も経つから仕方ないのかな。いや正確には『あの方』だけは残ってるけど」

 

 

 ちらりと刑香は酒瓶を見下ろす。視線の先にあるのは『茨木ノ枡薬酒』、その回復効果は素晴らしくお陰で刑香の身体は急速に回復できた。ならば後日、送り主へとお礼に行かなければならないだろう。

あの人物は鬼とは思えないほどに常識的な相手なのだが、鬼は鬼なので天狗が緊張するのは免れない。今から心労が溜まりそうだ。

 そんな刑香の心中など露も気にかけないレミリアは、機嫌が良さそうにワインを刑香へと進めてきた。

 

 

「それじゃあ、和解の第一歩としてワインはどうかしら。私のコレクションの一本を思いきって開けたモノなの、天狗の口に合うかはわからないけど」

「ありがと、そういうことなら喜んでいただくわ」

 

 

 仲間内では酒に強くないといっても流石は天狗、美鈴が潰れる量の酒を飲んだ後だというのに刑香はほとんど普段通りの様子でレミリアからグラスを受け取った。ちなみに刑香と美鈴の周りには空になった一升瓶がゴロゴロと転がっている、二時間近く休まず飲んでいたらしい。これで刑香は「あまり強くない部類」というのだから、平均レベルの天狗がどれ程の酒豪であるのか想像することすら恐ろしい。

 すると、レミリアから受け取ったワインを飲んだ刑香が激しくむせた。

 

 

「んぐっ!? げほっげほっ。この葡萄酒、血が混じってるじゃない!」

「………ぷっ、あははっ。引っ掛かったわね!」

 

 

 吸血鬼の好む血液入りのワインを飲まされたらしく、刑香が咳き込んだ。天狗全般としてはそうでもないのだが、刑香は血の味が苦手だ。一方のレミリアはイタズラの成功した童女のような笑顔を見せていた。先程までの威厳に満ちた様子が嘘であったかのような、まるで人間の子供のような姿で笑い転げている。

 

 

「…………レミリア、あんたねぇ」

「ようやく私の名前を呼んだわね、ケイカ」

「何? それが目的だったなら素直に言いなさい。わざわざ妙なモノを飲ませるんじゃないわよ、まったく」

「い、や、よ。こんなにも面白い反応が見れたんだから、こっちの運命の方がいいに決まってるじゃない」

 

 

 にっこりと柔らかに微笑む吸血鬼の少女。どうやら刑香に自分の名前を呼ばせたかったらしい。まるで別人のように感じる魔族のカリスマと見た目相応の純粋さ、レミリアの持つそれらは決して二重人格などではない。彼女にとってはどちらも表で、裏はない。それがレミリア・スカーレットという吸血鬼なのだろう。

 

 無邪気なレミリアに毒気を抜かれて、刑香は「今回だけは許してあげる」と苦笑した。何となくだが、美鈴や咲夜がレミリアに忠誠を誓っている理由がわかった気がした。この吸血鬼には上手く言い表せないが、人と妖怪を問わずに惹きつける『カリスマ性』がある。

 

 

 

 

「あらあら、刑香とレミリアは随分と仲良くなったみたいねぇ。嫉妬しちゃうわ」

「…………あんたもいきなり出てこないでよ。心臓が持たないわ、紫。だいたい私とレミリアの何に嫉妬するのよ、何に」

「スキマじゃない、何処行ってたの?」

 

 

 いつものように、いつの間にか隣に座っていた紫に刑香とレミリアは大して驚きもしない。八雲紫はそういう妖怪なのだと既に理解しているからだ。その冷静な対応に少しだけ紫はつまらなそうに扇を広げた。

そして主の合流に気がついた藍がパチュリーたちを引き連れて近づいて来る。酒樽を妖術で浮かして運んで来ているということは、どうやら皆で飲み直すつもりらしい。

 

 

「あちらの御用は済んだのですね、紫様。…………まだまだ御酒はあります故、彼女への弔いとして今夜は飲み明かすとしましょう。それを巫女も願っているはずです」

「そういうことだからレミィ、あんたも一緒に飲みなさいよ」

「パチュリー様たちと一緒にコレクションのワイン飲んじゃいましたっ、お嬢様ごめんなさぃぃ!」

「はいはい、別にいいからパチェと一緒にこっちに座りなさい」

 

 

 藍、パチュリー、小悪魔が思い思いの言葉と共に合流した。足取りがおぼつかないパチュリーを支えている小悪魔はレミリアに青い顔で謝罪している。

 結局、レミリア秘蔵のワインを一番消費したのは彼女だったらしい。もっとも、パチュリーたちがコレクションを持ち出したのはレミリアにはお見通しのことだったので特に罰則はなかったりする。

 そして大勢が集まってきた気配を感じて美鈴も目を覚ました。瞼を擦りながら咲夜の膝から頭を上げる。かなりの量を飲んでいたのだが、やはり妖怪だけあって復活は早い。

 

 

「………ふぁぁぁっ。あれ、ひょっとして私眠ってましたか?」

「そうよ、ようやく起きたのね。お嬢様のお世話を私に押しつけたくせにお酒を飲んで熟睡なんて、いいご身分じゃない」

「ああ、すみません。それと咲夜ちゃん。膝枕ありがとうございます」

「…………どういたしまして」

「ふふふ、咲夜ちゃんは優しいですねぇ」

 

 

 カチューシャを付けた銀髪を微笑みながら撫でる美鈴、完全な子供扱いに咲夜は不満そうだが仕方ない。如何に彼女とて妖怪と並ぶには少しばかり年月が足りていないのだから。

 

 刑香にレミリア、美鈴と咲夜、そしてパチュリーに小悪魔、最後に紫と藍。今回の宴会に参加している者たちの殆どが集結していた。再び始まる酒盛りの賑やかさに釣られて、境内をところ狭しと遊び回っていた二人組も興味を惹かれたようで近づいてくる。というよりは魔理沙が霊夢の手を握って引っ張っているようだった。

 

 

「おーい、刑香っ。ひょっとして二次会か?」

「ちょっと魔理沙、引っ張らないでよ。あと、さっき貸してあげた刑香の羽を返しなさい」

「えー、霊夢は刑香と仲良んだから頼んでもう一枚貰えばいいじゃないか。私なんて、ここに来るまでの間に何回も頼んだのにくれなかったんだぜ?」

「知らないわよ、ほら返しなさい」

 

 

 ガヤガヤと騒がしくなった境内。少人数とはいえ、人間と妖怪が集まる宴をぼんやりと眺めて刑香は盃を口へ運んでいた。ちらりと隣のスキマ妖怪へと視線を移す。

 

 

「こんなに賑やかな夜は初めてかも。…………ありがと、紫」

「あら、何か言った?」

「別に。あんたと出会ったせいで色々と巻き込まれる羽目になったことを愚痴っただけよ」

「本当にそれだけかしら、気になるわねぇ………」

 

 

 冬の訪れを告げる粉雪の舞う中で、白い鴉天狗の言葉は闇に溶けていく。その小さな感謝の言葉は紫には聞こえていなかった、しかし刑香の様子から何となく内容を察した紫は扇で表情を隠しつつ微笑んだ。それを見た刑香は耳まで真っ赤にしてしまい、霊夢と魔理沙のいる方へと逃げて行ってしまう。本当に見ていて飽きない娘だと紫はもう一度心から微笑んだ。

 

 

「霊夢に魔理沙っ、私と鬼遊びをして勝ったなら羽の一枚や二枚ぐらいだったらあげる。さあ、どうするの?」

「えっ、本当に? やるやる刑香、私やるわ!」

「もちろん私もやるぜっ。部屋に飾る以外でも、妖怪の羽なら魔法薬の研究にだって使えそうだしな!」

 

 

 どうやら紫への気恥ずかしさを誤魔化すために、刑香は霊夢たちと戯れることを決めたらしい。刑香は真っ白な翼を広げて上空へと飛翔する。そんな鴉天狗の少女を追いかける人の子が二人、新しい箒にまたがった魔理沙と能力で空を飛べる霊夢が同時に地面を蹴った。

 

 さて、翼が治ったとはいえ酒に酔った鴉天狗の少女が幼い巫女と魔法使いの二人組から無事に逃げ切ることができたのか。それとも捕まって羽を毟られて泣かされたのかは後日に語られることになるだろう。そして、もう一つ。

 

 

 

「ありがとう、か。私にはあなたからその言葉を貰う資格はあるのかしらね、刑香。…………でも今回の死神の態度ではっきりした。やはり彼岸は刑香と関わりがある。ならば調べてみる価値がある、あの四季映姫がどうして『死を遠ざける程度の能力』を持つ刑香を野放しにしているのかを」

 

 

 空へと舞い上がる三人の姿を見上げ、紫は誰にも聴こえない程度の音量で呟いた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十七話:人間と妖怪と

 

 

 先代巫女が亡くなった日から一ヶ月後。

 透明に冷えきった冬空の下、裸になった木々が身を震わせ枝を鳴らす。そんな凍える幻想郷、博麗神社の境内で一本歯下駄が凍りついた水溜まりを踏み締めた。

 

 パキパキとした心地よい音が鳴り響き、白い鴉天狗の少女は何気ない様子で砕けた水溜まりを見下ろしていた。蜘蛛の巣に似た模様を刻んだソレは本格的な冬の訪れを告げている。もう、こんなに寒い時期になったのかと刑香は少し憂鬱になる。自分の住居であるボロ屋はスキマ風が酷いのだ。毎年のことなのだが、もう少しマシな物件はないのかと思う。

 

 

「そろそろ今年も暖を用意しておかないと不味いかもね、天狗が風邪をひくなんて笑い者だし。…………いや、ひいたことあるけど」

 

 

 子供の頃、親友たち(主犯は文)の悪ふざけで真冬の川に落とされた記憶を思い出す。あの時は脚と翼が同時に痙攣して川底まで沈んだはずだ。懐かしい感覚も甦り、身体が震えてくる。

 いくら天狗とはいえ寒いものは寒いし、風邪をひく時はひく。しかし幼少時の思い出はともかく、ひとまずは現在の住居を何とかしなくては寝ている間に凍りつきそうだ。

 

 

「まあ、それは後でどうにかするとして今は…………よっと」

 

 

 ばさり、と翼を広げて神社の屋根へと飛び乗った。すると深く積もった雪に一本葉下駄が沈み込む、思わず脚を取られてしまうほどに雪が積もっていた。このままだと神社は重みに耐えかねて倒壊してしまうかもしれない。それでは困るのだ、ちなみに困るのは刑香ではなく持ち主の霊夢だったりする。

 

 

「こんな状態になるまで放置した上で私に押し付けるなんて…………仕方ないわね、別に私はいいんだけど」

 

 

 慎重に目標を定めて葉団扇を一閃させる。それに合わせて渦巻く大気が巻き起こり、屋根から雪を掬い上げるように吹き飛ばした。空中に投げ出された雪はサラサラと霧吹きを放ったように境内の空気を白く染めていく。結晶が日の光を受けて輝きを放つ光景が美しい。

 

 

「よし、かなり微調整ができるようになってきたわ。ムカデの時はやり過ぎたけど、これなら今後はもっと手加減もできそうね。紫や霊夢に頼まれなかったら妖怪退治なんて絶対にしないけど」

 

 

 肩に付いた雪を払い落として葉団扇を腰に下げ直す。

 先代巫女が亡くなり、霊夢が『博麗の巫女』となってから早いもので一ヵ月。それから刑香は週に二度だけ訪れて、霊夢の様子を見に来ている。回数的には少ないが、妖怪退治の巫女と退治される側の妖怪という関係である以上はこれくらいが丁度良いはずだと考えている。

 

 もう、彼女は単なる幼い子供ではないのだから。

 

 そのことを少しだけ寂しく感じながら神社の中へ入ると、建物の主が炬燵で丸くなっていた。大きなリボンで黒髪を纏めた紅白の巫女、『博麗霊夢』は刑香に気がつくと眠そうな眼を擦りながら頭だけをそちらに向ける。ふわふわした雰囲気から察するに、半分寝ぼけているようだ。

 

 

「ちょうどよかった刑香ぁ、私ね羽毛の枕が欲しいの。ふわふわで真っ白で、落ち着く匂いがするやつ。だって紫は持ってるのに私が持ってないのは不公平じゃない?」

「何で紫がそんなものを持ってるのよ!? …………まあ、それは春になったら問いただすとして霊夢は狐毛のマフラーで我慢しなさいよ。私の翼と違って、藍の尻尾は九本もあるんだから一本くらい剥げても問題ないわ。きっと最高の逸品ができるわよ?」

 

 

 今頃はぐっすりと冬眠しているであろう八雲紫。その使用している枕には刑香の羽が使われているらしい。その事実は白い鴉天狗にとっては寝耳に水であり、霊夢にとっては周知のことであったらしい。恐らく吸血鬼異変で落ちた羽を回収したのだろうが、じっくりと話をする必要がありそうだ。

 

 とりあえず今は沸き上がる感情を胸にしまい込み、刑香も炬燵へと両脚を突っ込んだ。中に炉が置かれた掘り炬燵、優しい熱を放つ炭火はじわじわと冷えきった脚を温めてくれる。ふぅ、と刑香は気持ち良さそうにため息をついた。ぼんやりとしていると、ゆらゆらと霊夢が隣へと移動して来た。

 

 

「マフラーは頼んでみたわ。でもそしたら藍が『私の尻尾は紫様の所有物だから、紫様に許可を取らないと駄目だ』って言ったのよ。だから春になったら紫に話してみる。きっと春になったら最高のマフラーが出来るわ、とっても楽しみ…………ふあぁっ、眠い」

「春になったらなんて言うあたりが、流石は藍かもね」

「何が?」

「こっちの話よ、こっちの話」

 

 

 藍の主人である紫が冬眠から目覚めるのは春、つまり梅や桜の花が美しい暖かな季節である。その頃には冬の防寒具を持つ必要はなくなる、そうなれば霊夢も狐毛のマフラーへの興味を無くして約束を忘れているだろう。故に、流石は藍だと刑香は感心していた。文字通りの子供騙しではあるが、こういった些事にも国を傾けた大妖怪の頭脳は伊達でないらしい。

 

 

「それにしても弛み過ぎなんじゃないの、霊夢。もう少ししっかりしなさいよ、あんたは博麗の巫女になったんでしょ?」

 

 

 初めて『四季桃月報』の取材へ一緒に出掛けた時は、あんなにも博麗の巫女になることを不安がっていたはずだ。あの頃と比べるなら今の霊夢は気を抜きすぎているように感じられた。これは巫女としてどうなのだろうかと刑香としては思わなくもない。

 

 

「えー、私は正式に『博麗』になったわけじゃないよ。春になったら継承式をするから、それまでは半人前の扱い。妖怪退治もしなくていいって藍から言われてるし、ぐーたら過ごしてもいいじゃない。そもそもやることないんだし」

「う、そう反論されると何も言えないわね。異変が解決してからは妖怪も大人しくなったから人里も平和だし。…………冬眠している紫はともかく、藍はどうしてるの?」

「忙しそうに飛び回ってるみたい、天狗や吸血鬼と話し合いをしなきゃいけないんだって。みんなで『とある勢力』を私の継承式に参列させるためとか、何とか」

「『八雲』に『天狗』、おまけに『紅魔館』が連名で呼び出そうとしている勢力? そんな大層な連中はこの地上には存在しないはずだけど」

 

 

 最も高きより幻想郷を見渡す鴉天狗たち。

 彼らの目と鼻が届かぬ場所はこの地上には存在しない。神出鬼没が代名詞である八雲紫の住居すらも、おおよその場所が天狗組織には特定されているというのが現状だ。つまりは天狗たちほど幻想郷の事情に通じている者はいないのだ。

 なので刑香も鴉天狗の端くれとして、幻想郷の勢力図は頭に入っている。一年ほど前、初対面の紫に対して名前と能力の断片だけで即座に『妖怪の賢者』と判断できたのも天狗としての知識ゆえだ。それ故に、刑香の知らない勢力があるというのはおかしい。

 

 

「それが何なのか藍も教えてくれなかったわ。刑香が聞けばいいんじゃない?」

「何だか嫌な予感がするから尋ねたくないのよ。…………私に面倒事を持ってくる紫は寝てるし大丈夫だと思うけど」

 

 

 炬燵に頬杖をつきながら思いを巡らせる。果たして藍たちが交渉を持ちかけようとしている相手はどこなのか。自分が知らない以上は少なくとも地上の勢力ではないはずだ、ならば『天界』か『彼岸』であろうか、しかしこの二つは地上とは遠すぎる。わざわざ霊夢の継承式に呼び寄せる相手だとは考えにくい。ならばと様々な候補を頭の中で検討しては消していく。

 

 

「うーん、藍たちが呼び寄せようとしているのは一体…………」

「ねぇ、刑香。難しい話は置いとこうよ。悩むくらいなら藍に尋ねた方が早いし、それに多分だけど今日明日に何かが起こることはないと思う」

「…………霊夢の直感がそう言っているなら、この件はここまでにしましょうか。なら次は、どうやって今年の冬を私が乗り切るかについてでも話してみる?」

「ぷっ、何よそれ」

 

 

 不意に掛けられた霊夢の声によって刑香は現実に戻された。どうやら思考に沈んでいたらしい。退屈そうに頬を膨らませていた幼い巫女を見て、とりあえず刑香は話題を変えようと試みた。

 

 

「だったらあんなボロ屋は捨ててさ、刑香もここに住もうよ。二人くらいなら暮らせるだけのスペースもあるし。…………ねえ、そうしよう?」

「それは、つまり家事当番を分担したいってこと? いくらなんでも、巫女が妖怪に洗濯や料理を押しつけるのはどうかと思うわよ。さっきの雪かきだって、本当は霊夢がしないといけないことなんだからね?」

「ちーがーうー! 刑香は私を何だと思っているの。雪かきは押し付けたけど、私はそれ以上の怠け者じゃないんだからっ。…………もう、誤魔化さないで答えてよ。私とここで一緒に暮らさない?」

「…………ありがと、その気持ちだけ受け取っておくわ。でも神社みたいな神域には妖怪を払う力が満ちている、だから私がここに住むのは無理なのよ。私の住居みたいに信仰が落ち込んだ場所なら平気なんだけどね」

「…………そう、なんだ」

 

 

 しゅん、と霊夢は落ち込んでしまった。

 ひとりぼっちで人里離れた神社に住まうことに、まだ心細さを感じているのだろう。炊事や掃除は一人でできるし、力のある巫女である霊夢は妖怪に襲われたとしても簡単に追い払える。巫女として霊夢は一人前だ。

 しかし、まだ幼さの残る彼女は「寂しさ」を訴える自分の心を御しきれていない。

 

 

「ねえ、霊夢」

「…………」

「ねえってば」

 

 

 さっきの提案は霊夢なりに精一杯の勇気を出したものだったのだろう。それを断られた巫女は、落ち込んで無口になってしまった。何度呼び掛けても反応をしてくれない。ならば、と刑香は霊夢が喜ぶであろう提案をすることにした。

 

 

「これから人里へ遊びに行かない?」

「…………………えっ、本当に!?」

 

 

 途端に霊夢は表情を明るくする。そんな様子を眺めながら、ずいぶんと人間に対して甘くなったものだと刑香は自分自身へ大いに呆れていた。

 

 妖怪と人間は同じ時間を生きられない、それなのに自分は霊夢に近づきすぎた。たった一年で正しい『距離感』を見失う程に心を許してしまった。いつの日にか別れの瞬間が来た時に、果たして自分はどういった顔をしているのだろう。ふと、親友を思い出す。

 

 

「ああ、そうか。あの時の文もこんな気持ちだったのか。私と別れることを恐れてくれていたから、残りの時間を地底で過ごそうなんて…………本当にこういうのは難儀な感情よね」

「えっと、何の話?」

「何でもないわ、早く行きましょうか」

 

 

 答えの出ないであろう問いを振り払い、白い鴉天狗は人里へと飛んだ。今日は空を漂う雲が厚そうだ。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 人里からも雄大な姿を見せる『妖怪の山』。そこは天狗、河童を始めとした様々な妖怪たちの住まう霊峰である。その山頂には天狗たちが居を構える集落があると人里には伝えられている。

 しかし天狗の集落に辿り着いた人間など、過去に一人も存在しない。それなのに話だけは存在するという不気味な矛盾を指摘する者は人里には誰もいない。全ては天狗たちの思惑なのだと他の妖怪たちは噂する。

 

 

 霊夢と刑香が人里巡りをしているのと同時刻。

 妖怪の山に存在する天狗の集落、その中心に建つ大きな屋敷の周りを天狗たちが緊張した面持ちで警護に当たっていた。そこは平安の屋敷をモデルにした建築だった。外郭である塀と堀を抱えて、幾重もの門を通り抜けると至る本殿という広大な造り。その威風は幻想郷屈指の勢力を誇る天狗たちの総本山に相応しい。

 

 

 嗅覚に優れた白狼天狗は地上を、風を聴く鴉天狗たちは上空を固める。天狗達からは妖精の一匹すら通さないという張りつめた雰囲気が漂っていた。それもそのはずで現在、彼らが護る屋敷では天狗の長老が会談を行っているのだ。もしその顔に泥を塗ってしまえば、自分たちの首が飛んでしまうかもしれない。それは御免であると、彼らはいつも以上に気合いを入れて領域を守護しているのだ。

 

 そんな厳戒体制の中で、最も重要であるはずの本殿の門を護っているのは三人の天狗少女たちだった。黒い翼を持つ鴉天狗が二羽と、白い犬耳を持つ白狼天狗が一匹、手持ちぶさたそうな様子で壁を背にして突っ立っていた。

 

 

「退屈な任務ですねぇ、はたて」

「文句言わないでよ、文」

「お二人とも私語は慎むべきかと」

「「うるさい、椛」」

「ぐっ、申し訳ありません」

 

 

 しゅん、と項垂れたのは白狼天狗の少女、犬走椛。彼女は天狗組織の中ではしたっぱで「任務に集中するべき」などと至極まっとうな意見を封殺されるあたりに椛の立場の弱さが如実に表れている。

 

 

「何で私たちまでこんなことをしてるのよ、ばっかばかしい。したっぱ天狗に全部やらせたらいいじゃない」

「吸血鬼と戦ったことがあるのは私たちしかいないんです。もしレミリアが何か妙なことをすれば対応しやすいように、という天魔様の判断なんでしょう。そこにいる椛はおまけですけど」

「…………そんな言い方しなくても良いでしょうに」

 

 

 悔しさに唇を噛み締める椛、その隣で呑気に会話を繰り広げているのは鴉天狗の二人組、射命丸文と姫海棠はたてである。そして刑香や霊夢といる時はそうでもないが、基本的に天狗である彼女たちは目下の者には辛辣である。まして椛は白狼天狗、明確な格下である彼女に二人からの言葉に遠慮は乗らない。

 

 

「ていうより、白狼天狗が吸血鬼に勝てるの?」

「まあ、無理でしょうね。空中戦に持ち込まれたなら蹴散らされるのがオチですし、地上でも吸血鬼の怪力に勝てるとは思えません」

「あー、やっぱり白狼天狗じゃそんなもんか」

「………………」

 

 

 白狼天狗を軽視するような彼女たちの言葉が頭に血を上らせるが、椛は何一つ言い返せない。鴉天狗に逆らうことは許されないのだ、妖怪の上下関係は人間のそれよりも厳しいのだから。

 おまけに文とはたては冷静に戦力を分析しているだけであって、そこに嘲りや嘘は含まれていない。彼女たちが言うのなら白狼天狗では吸血鬼に勝てないのだろう、本当に悔しい限りだ。どうにもならない現実に対して椛はため息をついた。

 

 

「早く終わらないかな、この任務…………」

 

 

 やっぱり鴉天狗は苦手だ。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 ツンとした寒さが鼻を刺す外とは違い、本殿の中は暖かい空気に満たされていた。暗闇の中で火鉢がパチパチと燃える。

 

 かつて大天狗たちが座していた上座には現在、強大な気配を持つ妖怪たちが腰を据えて会談に臨んでいた。チロチロと火を灯す行灯が、光の入らぬ室内を薄明かるく照らしている。

 その灯りに照らされて、背後の壁に浮かび上がる影は三つ。九本の尻尾を揺らす者、鳥の翼を持つ者、皮膜の羽を生やした者。それぞれが堂々とした様子でお互いに向かい合っている。

 

 

「さて、お二方。これで我が主から仰せつかったことは全てお伝えいたしました。何か疑問点などは御座いますか?」

 

 

 一人目はスキマ妖怪の式、八雲藍。彼女は冬眠中の主に代わり天狗の集落を訪れた。この会談を行うことを求めたのは彼女である。九本の尻尾が怪しく揺れる。

 

 

「腑に落ちぬ、という意味でなら腐るほどある。もちろん『スペルカードルール』などというモノにも、巫女の継承式を大がかりにする提案にも良い感情はない」

 

 

 二人目は天狗たちの長、天魔。八雲紫に拵えた借りを返すために今回の会談への参加を了承した老天狗である。元より八雲とは不仲な間柄ゆえに今も渋々といった様子で藍へと答えを返していた。艶のある黒翼が誇らしげに広げられる。

 

 

「ふぁぁ、そもそも私たち吸血鬼は夜行性なんだから話し合いがしたいなら夜に呼びなさい。その辺りから礼儀がなってないわよ、藍」

 

 

 そして三人目は紅魔館の主、レミリア・スカーレット。こちらも八雲への借りがあるために参加を強制された者である。昼夜逆転が基本である吸血鬼の少女は眠そうに欠伸に藍の質問に答える。皮膜の悪魔羽が可愛らしく揺れている。

 

 

「来るべき春に行われる霊夢の継承式において、有力な妖怪たちを一同に集めて新たなルールの始まりを宣言するのです。そうすることで『スペルカードルール』を幻想郷に根づかせる第一歩を踏み出すことができる。そうすれば、妖怪と人間の関係も変わるはずです」

「下らんよ、式殿。所詮は妖怪と人間だ、対等に渡り合うなど土台無理な話だとワシは思う。思想も、力も、寿命さえ、奴らと我ら妖怪とは何もかもが違いすぎる。八雲はそんなことも忘れたか」

 

 

 たった三人だけの会談ということもあり、天魔の声色には遠慮の文字が感じられない。しかし天魔の言うことは天狗の立場としては当然だった。この島国で最も人間という生物を認めていた『鬼』すらも人を見切り、去っていった時代が今この時だ。そしてその配下である彼らは、人間に何かを期待すること自体が鬼への不義理とさえ感じている。

 

 

「あら、刑香は人間の小娘たちと仲良くしているじゃない。それとも天狗は幼子の血肉が好きだから、あの娘は人間の子供をたぶらかしているのかしら?」

「…………レミリア嬢、白桃橋刑香は最早我らの同志ではない。いや元よりアヤツは異端者である故に天狗の範疇には馴染まぬよ。天狗は人間に恐れられ、祀られる存在でなければならん」

「私も人間と仲良しこよしなんて基本的には不可能だと思うわ。支配し支配される、それが妖怪と人間の関係でも構わない」

 

 

 レミリアとて人間に愛想を尽かして、この幻想郷へと足を踏み入れたのだ。人間はせいぜい血を提供する家畜、とまでは流石に思わないが連中との交流にまで興味はない。

 

 幻想郷縁起にて、レミリアは人間友好度『極低』、天魔は『最悪』と評されている。人間に駆逐され、おとぎ話の悪役にまで存在を貶められた吸血鬼。人間に縄張りたる山を踏み荒らされ、挙げ句に神性すら否定された天狗。種族としてなら両者とも人間への良い感情などは欠片も持っていないだろう。

 

 この会議の主催者である藍としては非常に頭の痛いメンバーであった。同時にこの面倒な会議を自分に丸投げした主人へと心の中で恨み言を呟いた。たかが三人なのに癖が強すぎる上に、人間に対して辛辣過ぎる。その現状へ本格的に頭を抱えつつある藍だったが、ここで援護の手が思わぬ所から上がった。レミリアが「でも」と話を続ける。

 

 

「…………でも何事にも例外は付き物よ。咲夜のように、その『能力』ゆえに人間から爪弾きにされて私たちの側に立つ者だっている。ならば私たちと人間を取り持つ、中立の存在だって生まれるかもしれない」

「ほう、レミリア嬢は八雲の提案に理解を示されるのか?」

 

 

 レミリアを突き動かしたのは新たな従者の存在だった。十六夜咲夜は人間たちの中に居場所を見出だせずレミリアの元へ転がり込んできた。その逆に、妖怪から追い立てられて人間に近づいたのが刑香だ。

 人間と妖怪、どちらの立場も理解できる者がいる。ならば両者の間に立つ者がいても不思議ではないはずだ。

 

 

「それに、妖怪の危機に駆けつける人間もいたじゃない。愚かにも単身で吸血鬼の館に乗り込んだ巫女がね。…………そうでしょう、藍?」

「ああ、その通りだ」

 

 

 レミリアは見ていた。翼を折られた鴉天狗と、破壊の力を受けて血塗れにされた妖狐を助けるために館へと乗り込んできた巫女の姿を見ていたのだ。

 従者と巫女、そして口には出さないが妖怪の宴に何の気負いもなく参加した魔法使いの少女。西方世界では決して見ることのできなかった人間、三人の存在がレミリアの心を動かしていた。

 

 藍の側へ味方したレミリア。人間を巡る議論の状況は二対一、ここで通常ならば流れは変わるはずだった。そうはさせじと老天狗の口許がつり上がる。

 

 

「だから私は全面的に八雲の案に賛成してあげる。幻想郷の未来に賭けてみたくなったから、だから天狗も賛同しなさいよ」

「くかかっ、残念だが、ワシはこの通りに老天狗でな。八雲の言う『新しい時代』とやらは信頼できん。まして新参者であるお主の考えなどは論外だ。まあ、西方出身の木っ端妖怪の思考などは元より理解する必要すらないがな」

 

「…………我ら吸血鬼を愚弄するのか、天狗?」

「むっ?」

 

 

 幼き吸血鬼から放たれたのは強大な魔力。それはチリチリと老天狗の肌を焼き、壁をひび割れさせる。その中にあるのは種族の誇りを踏みにじった者へのあまりにも鋭い殺気だった。風もなく蝋燭の火が消え去った後、暗闇に浮かぶのは魔性を込めた真っ赤な瞳。西方に君臨した最大の怪物が天狗の長老へと牙を向いていた。

 

 ここが天狗の本拠であることも、目の前にいるのがそのトップであることもレミリアを怯ませる十字架にはなり得ない。その堂々とした態度に、それまで氷のような無表情でレミリアを見つめていた天魔はようやく満足そうに頷いた。

 

 

「…………若いなレミリア嬢、しかし見込みはある。よかろう、今回はお主に免じて形ばかりの賛同をくれてやろう。お主らの好きに致すが良い」

「ふんっ、天狗ってのはもう少し愉快な妖怪だと思っていたのにとんだ性悪じゃないの。不愉快だわ」

 

 

 途端に殺気を霧散させるレミリア。自分の実力を試した天魔へ「べーっ」と舌を突き出す姿は子供っぽく可愛らしい。もし天魔が命令を下せばレミリアは二度と紅魔館へ帰れぬ身体になっていただろう。それを易々と為すだけの戦力がこの屋敷の周囲に配置されているのだ。その事実を理解しながら一歩も退かなかった覚悟をもって、天魔はレミリアを自らに意見する資格を持つ相手であると認めた。

 

 

「一度だけ許すわ。次に私を試すような真似をしたらその首を紅魔館の門に吊り下げる、そのことを魂の奥底に刻みなさい」

「くかかっ、ゆるりと肝に銘じておこう。血気盛んというのは若さの特権よな、実に羨ましいわい」

 

 

 古参と新参、東方と西方、老いた者と若き者。まったくの正反対に位置する二人は息の詰まるような攻防を繰り返す。そこへ、たまらずに藍が横槍を入れる。

 

 

「お二方、もう宜しいか。得心をしていただけたのならば、最後の議題へと移りたいのですが」

「あいわかった、続けられい」

「私も構わないわ」

 

 

 二人からの色好い返事に藍は胸を撫で下ろす。一時は戦闘すら覚悟しなければならない程の殺伐した空気だったのだ、まさに肝が冷えるとはこのことだ。しかし、今の衝突のおかげで天魔とレミリアはお互いを『ある程度の相手』だと認め合ったらしい。ならば、この進展は今後の会談にはプラスとして働くはずだ。

 

 

「最後の話とは他でもありません、此度の不参加者である『もう一人』についてです。彼女を我ら三人が連名にて呼び寄せるということでよろしいか?」

「異義無し、というよりソイツに興味がないわ」

「八雲が責任を取るのなら天狗としても異存はない」

「それでは、この書状に署名をお願い致します」

 

 

 レミリアと天魔の前に差し出されたのは一枚の書状、そこには既に『八雲紫』の名前が記されている。その隣に幼い吸血鬼は羽ペンで軽やかに『Remilia Scarlet』と署名する。それを眺めながら天魔は訝しげに口を開く。

 

 

「しかしな、奴等を地上に呼び寄せるなど容易ではなかろう。この数百年に渡ってまともな交流一つなかったのだぞ?」

「既に一ヶ月ほど前に八雲の名にて書状を送りましたが、音沙汰はありませんでした。『見事なまでに黙殺された』と眠りにつく前の紫様が嘆いておられました」

「書状を送った、ねぇ。どうせスキマの能力で一方的に押しつけただけなんでしょう? 私だったらそんな手紙は焼き捨てるわよ、せめて直接渡しに来いってね」

「はい、紫様の読みもその通りでした。ですから今回は書状を使者に持参させようと予定しています」

 

 

 前回、先代巫女が亡くなってすぐに八雲紫は『もう一人』に接触を試みた。されど結果は音沙汰なし、完全な黙殺であった。それはレミリアの読み通りにスキマを使って、こちらの顔も見せずに送りつけた書状なので仕方ないかもしれない。ともかく今度は真正面から挑む必要がある。ニヤリと天魔が意地悪く笑った。

 

 

「待たれい、それなら我ら天狗も一枚噛ませてもらおう。腕利きの者をお主らに同行させる。なにせ『あの場所』へと繋がる道は我が領域にあるのでな、異存はあるまい?」

「…………いいでしょう」

 

 

 その精鋭は八雲に対する監視役か、それとも『あの場所』で何らかの利を漁ることを狙っているのか。いずれにせよ、妖怪の山を一度通らなけれは辿り着けない場所である以上は条件を飲むしかない。せめて獅子心中の虫とならないことを藍は願った。そしてレミリアは、この段階に及んで野心を見え隠れさせる天魔へと呆れた表情をしている。

 

 

「まあ、何かあれば協力してあげるから元気出しなさいな、藍。それで肝心の使者は誰にするの?」

 

 

 宴会での交流もあり、今の紅魔館は八雲に対して悪い感情をあまり抱いていない。これも主人の戦術なのだとしたら抜け目のないことだ、と藍は思う。もっともレミリアはそれを看破した上で協力を申し出ている可能性があるが。

 

 

「私は雑務で地上を離れられないし、橙は未熟が過ぎ、紫様はお休みになられている。となれば八雲で動かせる駒は一人しかいないだろう?」

「あー、なるほどね」

 

 

 今の藍が頼れる妖怪は彼女しかいない。天魔が押しつけてきた監視役の天狗は気になるが、ここは白い鴉天狗に任せるしかないだろう。きっと紫も同じ選択をするはずであるし妥当な判断だ。

 しかしこの時、レミリアに向き合っていた藍は「やはりか」と漏らされた老天狗の呟きに気づけなかった。その口元が歪んでいたことにも。

 

 

「とはいえ、まだ刑香には何も話していない。おそらく、このことを伝えるのは前日になるだろうな」

「それはずいぶんと急な話になりそうね」

 

 

 申し訳ない話ではあるが、『あの妖怪』と接触するに当たっては余計な情報は持たない方がいい。故に刑香には事情を説明した後、出来るだけ早く書状を届けに向かってもらうことになるだろう。

 

 

「何をしているのよ、天狗。早く名を記しなさい、会議が終わらないじゃないの」

「おお、すまんすまん。少し考えを巡らせていてな」

 

 

 レミリアに急かされて天魔は筆を力強く走られる。見事な達筆で天狗の棟梁に受け継がれる名である『天魔』が誇らしげに書状に刻まれる。

 

 

「これで良いか、八雲の式よ」

「ありがとうございます」

 

 

 これで主から申し付けられた命令の第一段階はクリアしたと藍は内心で安堵する。あとはこれを『あの場所』へと刑香に運んで貰うだけだ、もちろん簡単にはいかないだろうが。

 

 ぐにゃりと空間が歪み、そこに二人がギリギリ通れる大きさのスキマが現れる。自身に付けられた式を通し、主の力の一端を借り受けて使用する移動専用のスキマ。感心した様子の天魔に背を向けて、藍とレミリアはそれに足を踏み入れた。

 

 

「それでは天魔殿、またお会いしましょう」

 

 

 二人を飲み込んで、目玉の浮かび上がる紫色の空間が閉じていく。やがて溶けるように消えたスキマを見送った天魔には何処か虚しさを感じさせる雰囲気があった。

 

 

「まさかスキマを使えるようになるとは式神めも成長したものよ。…………しかし組織にも属さず、勝手気ままな妖怪でありながら有能な後継者に恵まれるとは八雲はやはり疎ましい者よ。天狗の長であるワシの手元には、もはや対等な友も愛する妻も、大切だったはずの孫娘さえおらぬというのにな」

 

 

 自虐的な笑みは不思議と明るく、不気味なほどに穏やかだった。静まりかえった大部屋には天魔以外は誰もいない。大天狗たちが旅立ってから天狗の上層部は一人になった。将来を期待する天狗は何人かいるのだが、まだまだ若い。「そろそろ楽隠居を」と考えていたというのに、つくづく組織の長というのは楽な身分ではないらしい。

 

 

「さて、彼の地に向かうというのなら話は早い。天狗としても奴らとの関係は再生しておきたいところ、更に使者として白桃橋刑香を遣わすというのだから好都合よ。此度は貴様の計略を少しばかり利用させてもらうぞ、八雲の式よ」

 

 

 全ては己の野望、ではなく天狗組織のために。猛禽類のごとき鋭い瞳を研ぎ澄ます天魔、天狗の長老は静かに動き出す。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『番外編』
番外編その1~刑香の現代入り~


活動報告にて予告した通り、『番外編その1』『番外編その2』を投稿させていただきます。こちらのお話たちは『東方project~人生楽じゃなし~』を連載中である、ほり吉様から戴いた原案に自分が改訂を加えたものとなります。
とある事情により、幻想郷の『外』の世界へと飛ばされた東方キャラクターたちが奮闘する物語である『東方project~人生楽じゃなし~』。そこにもし、白い鴉天狗がいたらどうなっていたのか、というお話です。


注意事項を三点ほど。
①本編ストーリーとは関わりがありません。
②登場人物の性格(刑香含め)において『その鴉天狗は白かった』とは微妙な違いがあるかもしれません。
③舞台は幻想郷ではなく、現代です。そのような内容及び雰囲気が苦手な方はご注意ください。

寛大な心で目を通していただけると幸いです。


 

 家電量販店の活気ある店内。

 赤いベストを着た店員がピカピカに磨かれた廊下を行き交い。彼らの威勢の良い声が重なりあう。それは一人でも多くの老若男女を、つまりお客を迎え入れる声だった。

 並んだ棚には、いろいろな電化製品が並び。什器に掛けられた数々の小物を入れ替わり立ち代わり人々が眺めては去っていく。楽しそうに笑いながら、渋い顔をしながら、時には店員の案内を受けながら、とそれぞれの買い物を済ませていくのだ。

 どこにでもある休日の光景。両親が店員と話し込んでいる時間に退屈を感じた子供たちが人混みを縫っていくように走りまわり、そして「お行儀が悪い」と母親に注意される。それも良くある光景だった。

 

 その一角にあるカメラコーナー。展示された一眼レフ(レンズ付き)を手に取って、白桃橋刑香はレンズを覗き込んでいた。カメラを動かしては、そこから見える店内を覗き見る。そのたびに揺れ動く肩まで伸びている白い髪は傍目から見ても艶があり、照明の光で輝いていた。

 

 

 「……………」

 

 

 夢中になってカメラを弄くる白髪の少女。そんな彼女を通りかかる人は不思議そうな目で見るか、くすりと顔を綻ばせて通り過ぎていく。そんなことはこの『天狗』の少女には、わからない。

 刑香は白いブラウスの上に、丈の短い黒のカットソーを着ていた。下はデニムのショートパンツ、それに膝上までのニーソックスにブラウンのブーツ。この可愛らしい服装は数日前に同じ天狗仲間から「着せ替え」されて買ったものだった。かつて幻想郷では古めかしい天狗装束しか身につけなかった姿からは想像できない程の軽装だ。

 刑香は手に持っていたカメラを下ろした。碧眼が光り、じっとそのカメラを見つめる。彼女は少し難しい顔をして、チラリと棚に掛けられた値段表をもう一度だけ見る。

 

 ――128,999円! 今ならポイント12%!!

 

 

 「やっぱり高いわね。うん、本当に高い」

 

 

 刑香はあきらめ顔でカメラを棚に返した。本気で無理をすれば買えないほどの値段ではないが、それをすれば間違いなく今月はつらいだろう。諦め切れずに少し未練がましく、そのカメラを見やる。

 黒光りする重厚なボディと、綺麗に光るレンズ。そしてNICONの白いメーカー刻印がその造形にマッチしており、いっそ美しい。ブン屋である刑香はそれを見ているだけで、手にいれたくなってしまう。それでも未練を断ち切るようにその場から離れて、別のカメラを見に行く。

 

 しかし、ぐるぐるとカメラコーナーを回っていると、また「そのカメラ」の前に戻ってきてしまった。意図してのことではない。本当に何となくでしかなかった。それでまたなんとなく、サンプル写真が目に入ったので刑香は冊子を手に取った。カメラの横にカタログと一緒に置いてあるモノだ。そこには四季折々といった、写真が載っていた。

 

 鮮やかな春の桜。

 生命力に溢れた夏の青葉。

 美しくも儚き秋の椛。

 雪化粧に包まれた冬の菊。

 

 

 「………っ」

 

 

 ぱらぱらと写真をめくる。天狗である彼女が惚けてしまうほど美しい写真がそこにはあった。自然をモチーフにしたそれらは自分の「趣向」にも合致しており、心を揺らされてしまう。だがあの値段を思い出して、天狗少女ははっとした。

 

 

「な、何してるんだろ。………でも文のヤツもこれくらいのカメラを買ってたし、何より幻想郷では手に入らないだろうし。いや、それでもこの値段はちょっと」

 

 

 頭を振って、これからの生活費を自らの欲から防衛する刑香。しかし、それでもチラリと棚にあるカメラに目が惹き付けられてしまう。「まるで買って欲しそうにそこにある」などというのは、彼女の心が見せる幻想だろう。

 「もう一度だけ」とカタログを手に取り、じっくりと目を通していく。そんなことをするから心臓がどきどきして、欲しくてたまらなくなる。それでもこれを買えば、間違いないなく金欠になることは確定している。以前の刑香ならどうにでもなったが『天狗』としての力を失った今、金銭がなくなるのは不味い。

 

 刑香はカタログを棚に直すとぎゅぅと眼をつぶって、のろのろした動きでそこから離れ始める。日頃のアルバイトの傍らに野原に出ての写真撮りが彼女の趣味であり、そもそも「いいカメラ」が並べられた店に来たこと自体が間違いだったのかもしれない。

 

 

 「だめだぜー。下手だぜー。欲望の解放の仕方がなってないぜ!」

 

 

 少しおちゃらけた、いきなり掛けられた声に刑香は目を開ける。すると目の前には赤いベストを着た、くせのある金髪の少女が立っていた。大きな瞳を不敵に光らせて、店員らしくなく両手を組んで不遜な態度を貫いている。それは刑香と同じく幻想郷から『外』の世界に飛ばされた顔見知りだった。

 

 

「あんたは魔理………コソ泥じゃない。こんな所でも相変わらず盗み、もとい『死ぬまで借りる』をしているの? 気をつけないと警察とかいう奉行所に捕まるわよ?」

 

 

 金髪の少女はがくりと肩を落とす。がっかりしたというよりは、刑香の言葉に力が抜けたのだろう。彼女はごほんと一つ咳払いをすると、先ほどまで刑香の見ていたカメラを指さした。

 

 

「なんていうか、刑香こそ相変わらずな反応だな。子供の頃から私の扱いが変わってない気がするぜ。いやいや、私のことはさておきだ。…………欲しい物は欲しい時に買わないと後悔することになるもんだぜ?」

「まあ、確かにそうかもね……だけどこれは高いし」

 

 

 歯切れの悪い鴉天狗に金髪の少女はにやりと笑う。彼女の胸元にあるプレートには「霧雨魔理沙」と書かれていた。ちなみに霊夢の友人である彼女と刑香は十年近くの付き合いだ、今さら気を使う間柄ではない。それは魔理沙とて同じである、だからこそ彼女はお客であり、古い友人でもある刑香に軽い口調で話しかけている。そして言う。

 

 

「いや、刑香は後悔するぜ」

 

 

 魔理沙は断言した。

 

 

「私もいろんなものを集めているコレクターだからわかるけどな。本当にほしいものがあるのに買わなかったり、ぬす……ごほん、借りなかったら後で後悔してモヤモヤするもんだ」

「いや、私は別に…………その」

 

 

 刑香はなんとなく気恥ずかしくなってしまう。何が欲しい、これが欲しいという感情はつまるところ物欲である。知り合いにそれを指摘されると、なんだか恥ずかしくなってしまうのだ。だが魔理沙はそんな感情とは対極にある性格をしている、いつだって物欲には真向から正直である。故にここで白い鴉天狗を攻め立てる、全ては営業ノルマ達成のために。

 

 

「別に私だって、刑香が他のカメラを買うことには反対しないけど」

 

 

 魔理沙は「刑香が買う」ことを前提に話を始める、あくまで彼女は店員なのだ。そのハチミツ色の瞳は虎視眈々と、幼い頃から色々と自分の面倒を見てくれたはずの天狗の財布を狙う。

 

 

「でも、多分そのカメラはこいつよりは使いづらいと思うけどな。それに他のやつはこいつほど高くはないけど、普通に五万、六万はするぜ? 妥協までして、たいして安くもないものを買って後悔するくらいなら最初からこいつを買っていたほうがいい。私はそう思うけどな」

「ぐっ、そんなこと言ってもね。そもそもこれを買ったら一か月間どうやって暮らして行けっていうのよ。私は妖夢とかと違って1ヶ月に大した額を稼いでないの。おまけに保険料とかわけがわかんないものも引かれるし。まさか文みたいにスルメで一ヶ月過ごせっての?」

「いや、そんな具体的な情報はいらないんだが……でも、さっきサンプルを見てたじゃないか、それ」

 

 

 といいつつ、魔理沙は刑香の後ろにまわってサンプルを手に取る。そして一ページめくる。そこには雄大な渓流を写した写真があった。深い茂る緑の山と雄々しく流れゆく川、澄明な自然の息吹が太陽の下に輝くワンショット。幻想郷にある技術では、ここまで精巧な一枚は撮れない。

 

 

「これとかキレイだよな。このカメラがあれば、こんな写真がとれるんだなー」

 

 

 凄まじいほどわざとらしく、魔理沙は棒読みで語った。刑香はびくっと肩を震わせる。元々欲しい物を他人から良い品だと誉められると、さらに心の中で価値が上がるのだ。刑香は内心で冷や汗を流して、口を引き結ぶ。魔理沙の策に乗るつもりはない。

 

 

「いいカメラを買って、外に出たら楽しそうだと思わないか? なあ、刑香?」

「まあ、そうでしょうね。だから下がりなさい」

 

 

 グイグイ、と近づいて来る魔理沙。それに刑香は反応してしまった。霧雨魔理沙という蟻地獄に一歩入ってしまった。重ねて言うが彼女は店員である。故に魔理沙はここを勝負所にした。チャンスは上手く掴まなければチャンスではなくなるが、それを必ずモノにするのが魔理沙という少女だ。

 

 

「いいこと思い付いた! 今なら私が店長に掛け合って、値引きしてもらってもいいんだぜ?」

「は?」

 

 

 思わず間抜けな声が出る。天狗の精神力で誘惑を振り切り、立ち去ろうとしていた刑香はぱっと魔理沙へと振り返った。魔理沙はにっこり歯を見せて笑い、言う。

 

 

「ただし今日だけな!!」

「っ!? …………あ、あんたって娘は本当に何というか」

 

 

 刑香はこめかみに指をあてて、一歩下がる。冷静そうに見えるのだが「今日だけ」という言葉が、彼女の心に確実なダメージを与えていた。消費者心理をえぐる言葉は幻想郷で暮らしていた天狗には効果テキメンであった。長い命を持つ彼女たちにとって、今日限定などという一瞬の輝きは心惹かれる魔法の言葉なのかもしれない。

 

 

「さあっ、どうするんだ刑香?」

「う、でも本当にお金は今持ってないわよ。近くの銀行から下ろそうにも、この時間じゃ手数料取られるし。だからまたの機会に…………」

 

 

 最後の抵抗である。刑香はついに銀行の手数料数百円を盾にした。情けない話だが、もはや白い鴉天狗には他に有効な手札が残されていない。むろん魔理沙はその程度の手合いには慣れている。ラストスペルを切る瞬間がやってきた。

 

 

「ああ、大丈夫だ。デビットカード……つまり銀行のカードがあれば、レジで直接に引き落としできるからな! ポイントもそのままだ。手数料もとられないから――」

 

 

 魔理沙はこれ以上ないほどに笑顔をつくり、刑香に詰め寄る。いい笑顔のはずなのに、何処か影があるのはどうしてなのだろうか。この顔には見覚えがある、親友のブン屋が自分やはたてを丸め込もうとする時にする表情だ。罠だとわかっているのに断れない、あの笑顔だ。そっと魔理沙は刑香の肩に手を置いた。

 

 

「大丈夫、なんだぜ?」

「魔理沙、今のあんたはどこぞの悪魔よりも悪魔らしいと思うわよ?」

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 外の世界に飛ばされてから、刑香はルームシェアをして暮らしていた。つまり一人ではなく親友と同じ部屋で寝泊まりしているのだ。幻想郷では離れ離れだった幼なじみに「どうせなら一緒に暮らしません?」と言って貰ったことは、現代に飛ばされてからの数少ない幸福な出来事だったかもしれない。

 とても少女二人が暮らしているとは思えない程に簡素な部屋で、刑香はベッドに座ってうなだれていた。目の前には新品の箱があり。表面に「NICON」と書かれている。彼女は頭を抱えながら口を開ける。

 

 

「結局、買ってしまった。まさか魔理沙にいいようにやられるなんて…………その成長を喜べばいいのやら、悲しめばいいのやら」

 

 

 あとあと考えると、完全に口車に乗せられただけな気がしないでもない。しかも、有料の保障やフィルムなども魔理沙にあれこれ付けられてしまい、最終的には割引前の値段表通りの支払いになった。一応本体からは五千円ほどは値引きしてくれてはいるものの、口座から減った金額は正直なところ手痛い。いや、それどころか殆ど空っぽだ。

 

 

「あー、本当にこの一か月何を食べていこうかな……まあ、死なない程度に過ごすしかないんだけど」

 

 

 刑香は憂鬱そうな顔で箱を手に取り、開けてみる。そこには欲しかった黒いカメラがビニールに入っていた。レンズは外されていて別の袋に入っていて、箱自体は同じだ。

 知らず、少しだけ顔がにやけてしまう。ビニールからカメラの本体を慎重に取り出して、ずっしりした重みを楽しむ。それからレンズを取り出して手際よくはめていく。それから立ち上がって、周りをカメラ越しに見回していく。見慣れたはずの狭い部屋が何だか特別な景色に感じられた。

 

 しばらくそれを堪能してから刑香はカメラを下ろした。それからまた箱から別の何かを取り出してつけていく。それは首掛だった。純正なうえに、付属品なのでそうオシャレなものではないが、それでも彼女は黒くシンプルなデザインをなかなかに気に入った。元々、黒い色は好きなのだ。理由は秘密だが。

 

 ふと、部屋の箪笥の上にある古ぼけたカメラが視界に入り込んだ。それは幻想郷からずっと使ってきた河童製のレトロなカメラである。もちろんまだまだ現役で使っていくつもりだが、刑香はそれをあることに利用しようと思った。

 その『カメラ』も、そんなことは初めてだろう。

 

 刑香は新しいカメラにフィルムを入れた。入ってくる光をしぼりで手際よく調節して、いい写真を撮れるように集中する。それからレンズを覗き込んで、被写体にピントを合わす。

 彼女の部屋に、ぱしゃりと音がする。

 

 いい写真がとれた。刑香はそう確信して、箪笥の上にあるカメラ、いや相棒にふっと笑いかける。それは白い鴉天狗が、現代製の新しいカメラで撮影した最初の一枚であった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編その2~さざ波の向こうへ~

こちらのお話は『東方project~人生楽じゃなし~』を連載中である、ほり吉様から戴いた原案に自分が改訂を加えたものです。
とある事情により、幻想郷の『外』の世界へと飛ばされた東方キャラクターたちが奮闘する物語である『東方project~人生楽じゃなし~』。そこにもし、白い鴉天狗がいたらどうなっていたのか、というお話です。


注意事項を三点ほど。
①本編ストーリーとは関わりがありません。
②登場人物の性格(刑香含め)において『その鴉天狗は白かった』とは微妙な違いがあるかもしれません。
③舞台は幻想郷ではなく、現代です。そのような内容及び雰囲気が苦手な方はご注意ください。

寛大な心で目を通していただけると幸いです。


 

 それは太陽の光がアスファルトを焼くような、じりじりと暑い夏の日だった。

 

 長い長い舗装された道を一台の黒い原動付バイクが走っていく。乗っているのは白い髪の少女だったが、ヘルメットとゴーグルを被っているので顔は見えない。真っ白な髪が風に吹かれてパタパタと靡いていた。

 

 道の両側には木々が立ち並び、決して道端は広くないが車の通りはなかなかに多い。そして次々と少女を通り過ぎていく自動車たち、それは白髪の少女が律儀にも速度制限を守っているせいでもあった。周りの車はそんな少女を嘲笑うかのように原付を追い越していくが、当の本人は気にした様子もない。

 

 その少女はストライブのシャツの上から黒のトップスを着ていた。細身のラインにぴったりあった服はよく似合っていたが、この炎天下での長袖はとても暑そうでもあった。

 下はジーンズにブーツ。上の服装と合わせて評価しても、とてもすっきりした印象がある。しかし、やはり長い丈のそれは少女の雰囲気には似合っていてもこんな猛暑日に適した格好ではないだろう。

 

 それは少女もわかっていたが仕方ない。もしもの事故の時には長袖を着ておくのが、原動付バイクの鉄則だと親友から教えられたからだ。それにサンダルなどのつっかけも運転するときには好ましくない、という話なのでわざわざしっかりとしたブーツを履いている。

 

 バイクは陽炎の立ち上る道を遅いのか速いのか、ともかくそれなりの速度で走っていく。途中の交差点には「二段階右折」のマークがあったので、それもちゃんと守るためにウィンカーを点灯させて交差点に沿って方向を転換させる。なかなかのハンドル裁きだった。

 

 

「………ちょうどいい、かな?」

 

 

 どうやら少女は道の途中に何かを見つけたらしい。

 彼女はもう一度ウインカーを出して、その駐車場へとハンドルを切った。そこは何の変哲もないコンビニだった。看板には「AM/PN」と書かれていて、車もそれなりに止まっている。

 

 原付を邪魔にならないように端っこに停め、少女はヘルメットとゴーグルを取り去った。ぱさぁ、と白い髪が広がってきらきらと太陽の光を反射して輝いた。周囲を見やるのは真っ青な夏空を映し込んだ碧眼。

 それはこの国に暮らす人々の外見の範疇から大きく外れている姿だった。その異貌に少なくない人々が思わず立ち止まっては、真っ白な少女を目を奪われる。『あの地』の出身者は外見だけで人を惹き付ける力を持っているようだ。そして浮き世離れした姿の少女は原付に手をついて、ゆっくりと口を開けた。

 

 

「あ、っついわね………。アスファルトだか知らないけど照り返しが地面の比じゃないわ。いくら車輪が走りやすいからって、殆どの大地を岩で覆ったら井戸も枯れるだろうに。『外』に住む人の子は何を考えてるのよ…………もしかして阿呆なの?」

 

 

 それまでの雰囲気をぶち壊す言葉を放った白い少女、白桃橋刑香は汗でべとついた服の下に少しでも風を入れようと首元をぱたぱたと動かす。ただでさえ炎天下なのに、速度制限を守っていると三十キロしか出せないので風を受けられない。そのためシャツの下は汗でベタベタだった、身体に密着してくるので非常に気持ち悪い。

 外の世界は理不尽だ、ルールをしっかりと守っているというのにこのようなこともある。恨み言の一つでも言ってやりたいが、生憎なところ聞き役がいない。「なら仕方ない」と刑香はため息をついてからコンビニの中へと入っていった。

 駐車場での周りから向けられる好奇の視線には気づいていたが所詮は人間からの視線、いちいち気にするのも何だか馬鹿馬鹿しかった。物珍しく見られることは幻想郷でもよくあることだったから。

 

 

 

 

 

 

 冷房の効いた店内の涼しさに思わず目を細める。汗で濡れた服と身体の隙間に入り込んでくる冷風が心地よい。そのまま思考を停止させていると「いらっしゃいませ?」と声が聞こえてきた。入り口で立ち止まっていた刑香に店員が話しかけたのだ。なので少し恥ずかしげに顔を背けてから、店内の物色を始める。

 

 

「といっても、買う物は一つしかないんだけどね。魔理沙のおかげで手持ちのお金も少ないし。…………さて、どれにしよう?」

 

 

 飲み物のコーナーに並べられたペットボトルたちの前で刑香は顔をしかめた。さっさと決めるはずだったが、飲み物の種類が多すぎてどれを選ぼうか迷ってしまったのだ。現代製の色とりどりで洒落た銘柄のボトルたちが天狗少女を悩ませる。

 ちらりと映った視界の片隅にアルコール類もあったが、苦労して手にいれた免許を停止されたくないので選択肢にない。そもそも幻想郷にいた頃ならともかく、今の身体で酒を飲んでまともにアレを運転できるとは思えなかった。

 

 じっくりと思案してから、その中の一本を選び出す。青いパッケージをつけたそれは「アーク・エリア―ス」という、どこか神聖さを感じさせる名前のスポーツ飲料だった。

 

 そして刑香は手早く飲み物を持ってレジで会計を済ませると、すぐに店の外に出て行ってしまう。くぅと鳴るお腹が何かーーーレジ横にある香ばしい匂いの唐揚げや肉まんーーーに「反応」しては困る。この間の出来事のせいで財布にはお金が入っていない、つまり今の自分は金欠なのだから。

 

 兎にも角にも飲み物を手に入れた刑香はペットボトルの蓋を開けて口をつける。そのまま喉を鳴らして液体を流し込むと、身体の奥にまで心地よい清涼感が広がっていくかのようだった。すうっと火照りと暑さが引いていくのを感じる。

 

 

「……っ、よしっと」

 

 

 半分ほどを飲み終えてから原付の椅子を開け、そこにペットボトルを放り込んだ。むわっとした熱気が中から立ち込め、「直ぐに温くなりそうね………」と嫌な予感が頭をよぎる。ちなみに原付にある椅子の下は空洞になっていて刑香のバックなどはそこに収まっていた。

 そして、大切なカメラも入っている。

 

 

「そういえば、本来はここにヘルメットを入れるんだっけ?」

 

 

 そう、この空洞は別に荷物入れではなく「メットイン」というれっきとした名前があるらしい。まあ、そんなことを気にしている者は少ない。正直言えばほとんどの人にとってどうでもいいからだ。しかし、新聞記者をしていた刑香にとってはちょっと気になることだった。

 

 

 

 

 

 長い長い舗装された道を一台の黒い原動付バイクが走っていく。そこには白い髪の天狗少女が乗っていて、道の両側の並木道は相変わらずどこまでも続いている。それは先程までと変わらない景色だったが、陽の光を木々が遮って作りだす影のおかげで少しだけ涼しさを感じられる。

 

 もう一つ、変わったことがあった。

 それに気がついた刑香がアクセルを強めに回す、わずかに磯の香りがしてきたからだ。それは幻想郷では決して見ることができない巨大な『水たまり』の近くに来ていることを示していた。

 

 幻想郷にはなかった独特な匂いが刑香に、その存在自身が「自分は近くにあるぞ」と教えてくれているようだった。

 だんだんと聞こえてくるザザー、ザザーという小波の音が「ほら、もう少しだ」と励ましてくれる。

 こんな遠出をしてまで辿り着きたかった場所がすぐそこにある、そんな事実が胸を高鳴らせる。力強くエンジンを鳴らして走り抜ける並木道、そこに生える木々も少しずつ数を減らしていく。「まだだろうか」と刑香が不安に思った瞬間、並木の隙間から青い『何か』が見えてきた。

 

 

 少し先に木々の途切れている場所を見つけると、わずかに速度を上げる。エンジンがうなりをあげて、肌にあたる風が強くなった。しかし、横を車が追い抜いていくのでたいしたスピードではないらしい。それでも待ちきれない思いでバイクを急がせる。

 

 

「っ…………百年ぶりか、ずいぶんと懐かしいわ。潮の香りなんて本当に久しぶり、あの娘も連れてきてあげたら良かったかな」

 

 

 一瞬だけ強い光が刑香の瞳を眩ませる。

 そして次の瞬間には彼女の眼前に青い、蒼い海原が広がっていた。限りなく見渡せる、この世界でもっとも大きな『水たまり』がそこに合った。天狗少女は感動とも驚きとも取れる様子で、ゴーグルの下でぱちくりと眼をしばたかせる。感動がないといえば嘘になるだろう。この景色を見たのは久しぶりだった、本当に百年ぶりなのだ。

 

 非常識なまでに広大なソレ、地平線に横たわる大海が鴉天狗の心を弾ませる。陽の光を映した青い海面が、キラキラと輝いていている光景は綺麗だった。そして白い海鳥が自分の頭上を優雅に飛んでいく姿を羨ましそうに少女は見送った。

 

 

「もし飛べたなら海を見下ろせるのに、なんて考えるのは贅沢な悩みかな。…………あんたたち、せいぜい私の分まで頑張って空を舞いなさいよ」

 

 

 鳥たちの飛んでいく先に道はまだまだ続いている。刑香の目線の先には大きな『島』があった。

 島と言っても海に浮かぶのではなく砂浜でつながったそれは、舗装されたコンクリートの道が両岸を繋いでくれている。長い長い時間をかけて砂が運ばれては沈殿し、やがて陸続きとなったもの。難しい言葉で言えば陸繋島というらしいが、そんな過程はどうでも良いことだ。何百年単位で起こる出来事でも、千年を生きる天狗にとっては些末なことに違いないのだから。

 

 

 

 そのまま島への長い長い道を行く。自宅を出発してからかなりの距離を来ているが、そこは散々に見慣れている公道とは少しばかり違っていた。

 ここは海の上にある道なのだ。そしてそれは海の道、バイクの走る道の両側は小さな砂浜と大きな海原が広がっている。新聞に載せたいと思えるくらいに、美しい風景だった。

 

 なので今すぐにカメラを構えたかったが、それはできない。バイクを止められるところがないのだ。一応、道の端に寄せて停まれないことはない。しかし、それでは後ろからの車の邪魔になってしまう。不必要なことで人間とトラブルを起こすのは御免だ。とても面倒くさいのだ、後ろから追い越して来たワゴン車を避けながら真摯に思う。

 

 

 

「本当に賑やかな道ね、やっぱりこの景色があるから人の子も集まるのかな。………まあ、それはいいけど砂浜で遊んでいる人間の格好は理解できないわ。あんなに肌を露出させて、どうして平気なのよ」

 

 

 たまに砂浜で遊んでいる人々もいたが、彼女たちの身につけている水着というモノはどうも気恥ずかしい。最低限の布地だけで身体を堂々と晒して、どうして平気でいられるのか理解に苦しむ。自分がそんな格好になっている姿を想像するだけで顔が赤くなりそうだ。ぷいっ、と刑香は海辺で遊んでいる人間たちから目を反らした。

 

 

 やがて道は島へと上陸し、そこには「ようこそ」と書かれた看板が案山子のごとくに突っ立っている。

 海鳥と蝉の声が混じりあって、暑い日射しの中で気持ちよく耳に響いてきた。そして目的地に着いたことの安堵感が生まれたのか、お腹がまた小さく鳴り始める。どうやら今度は我慢が効かなさそうだ。

 

 そこは小さな港町のようでいて、暑い夏には格好の避暑地になっているのか人通りは多い。良い海産物が取れるのだろう、通りには磯の香りのする店が建ち並び、天狗の腹の虫を追い詰める。そんな中で多くの屋台が「ほたて網焼き!」という幟(のぼり)を立てているのに気がついた。

 

 

「はたて焼き? …………違った、ほたて焼きか。なんだか見た目がどろどろしているやつよね。あんなものを人の子はよく喜んで食べられるわね……」

 

 

 刑香は呆れたように呟いた。テレビで見たアレは何だかぬちゃぬちゃして、どう見てもゲテモノとしか見えなかった。おまけに友人の名前に似ているので意識的に敬遠している。刑香は元々、あまり貝が好きではない。

 

 しかしそろそろ限界だとお腹が訴えてくる上に、ちゃんとした食事所に行くお金もない。「まあ、物は試しか」と少女は原付を停めて、幟のある屋台に向かって歩き出した。ヘルメットとゴーグルを外しながら、友人に心の中で謝るのを忘れない。

 

 

 

 

 

「お、おいひ………………美味しいわね、うん」

 

 

 木陰になった石段に座って刑香はソレを口に運んでいた。彼女の手には紙の皿と割り箸がある。

 屋台で買ったらしい紙皿の上にはこんがり焼けて、しょうゆが垂らされた『ほたて』が四つ並んでいた。最初は五つセットだったのだが、一つは既に口の中だ。

 予想を越えた香ばしい味に驚かされ、「美味しい」を「おいひぃ」などと言ってしまった。すかさず今の間抜けな発言を誰かに聞かれていないか周りを確認する。どうやら誰もいないようだったので、ほっと胸を撫で下ろした。

 

 噛めば噛むほど肉汁ならぬ貝汁が口に広がっていくのを刑香は十分に味わってから咀嚼していく。

 一気に飲み込むと味わう時間と満腹感が減るというのはお金のない生活から学んだ知恵だった。特に今月は新型のカメラを魔理沙に買わされたので厳しい、おまけにルームシェアをしている親友が何やら使い込んで金欠になったらしく彼女から借りることもできない。

 

 

「まあ、いつも通り何とかするしかないか。まずは咲夜や美鈴あたりに相談してみようかな」

 

 

 人間の金銭に翻弄されるなど、仮にも鴉天狗である自分にとっては情けない話だ。しかし、なるようになるしかないのも事実なのだ。それを理解しているからこそ、こういった状況でも焦らない。「生きている限りはどうにでもなる」、それが『死』を遠ざける能力を持つ刑香の信条なのだ。なので、まずは頼れる紅魔館の二人にでも話を持ちかけてみようと思う。

 

 

 

 そして短い昼食を食べ終わった後は、予想通りに常温なっていた「アーク・エリア―ス」を一口だけ飲み、ほたての載っていた皿や割り箸をビニール袋に纏めてしまう。そこで刑香はようやく一息ついた。顔を上げてみると繁った葉の隙間から、太陽が自分を目映く照らしてくれていた。その漏れでる陽光を浴びて気持ち良さそうに空色の碧眼を細める。

 

 

「まずは何を撮ろうかな。やっぱり海が一番か」

 

 

 一人つぶやく。せっかく自分は街から離れたこの島に写真を撮りに来ているのだ。おまけに良いカメラを買ったのだから、良い場所で思う存分にとりたいと考えるのはブン屋として仕方のないことだろう。

 だがしかし、刑香は悩んでいた。とりあえず海を撮ることは決めたものの、どう撮るべきかを腕を組み頭をひねって考えていた。今日の記念すべき一枚目は、できることならピンとくるものがよかったからだ。ひんやりと苔むした石段に腰かけて、悩むこと数分後。

 

 

「…………そうだっ」

 

 

 何かを思いついたのか刑香は立ち上がった。

 

 

 

 

 

 海原を見渡す道の端に一台の黒い原動付バイクを停車させる。そこから見ると島『から』伸びる道が、刑香のもと来た土地につながってた。それはまるで白い橋のようだった。

 

 両側を海に囲まれた、砂とアスファルトの道。青い海の向こうの青い空が広がる、長い長い橋。滄海の向こうの蒼穹、羽を休めることなく飛んでいく海鳥達。そこはとても贅沢で美しい場所だった。

 刑香は自然というモノが好きだ。紅葉や湖は自分から意識的に離れていくことはなく、冷たい視線を向けてくることもない。だから刑香の取る写真には『誰か』が写ることは少ない。いや、かつて少なかったのだ。

 

 車が来ない隙を見計らって、道の真ん中に躍り出る。端からは慌てているようにも見えたが、手には黒光りする新しいカメラがしっかりと握られていた。刑香はちろりと唇を舐めて、道の真ん中でカメラを構える。

 

 

「うん、いい写真が取れた。今度は誰かを誘って来られたら…………いいかもね」

 

 

 白桃橋刑香の覗き込んだファインダーには、どこまでも広がる海とその上を走る真っ白な道があった。どこか不思議で、幻想郷では決して撮れないワンショット。その一枚に満足そうに頷きながら「次は誰と一緒に来ようかな」と刑香は楽しそうに呟いた。

 次に来た時には、そのカメラは『誰か』の姿を写しているのだろう。その表情はきっと笑っているに違いない。

 

 




本編は番外編後に更新予定です。
吸血鬼異変と同じく『序章』からスタートする長編となります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編その3~重なる灯火は暖かく~

番外編その3をその2の後ろに繋げました。
こちらのお話は『東方project~人生楽じゃなし~』を連載中である、ほり吉様から戴いた原案に自分が改訂を加えたものです。
とある事情により、幻想郷の『外』の世界へと飛ばされた東方の登場人物たちが奮闘する物語である『東方project~人生楽じゃなし~』。そこにもし、白い鴉天狗がいたらどうなっていたのか、というお話です。


注意事項を三点ほど。
①本編ストーリーとは関わりがありません。
②登場人物の性格(刑香含め)において『その鴉天狗は白かった』とは微妙な違いがあるかもしれません。
③舞台は幻想郷ではなく、現代です。そのような内容及び雰囲気が苦手な方はご注意ください。

寛大な心で目を通していただけると幸いです。


 

 それは冷たい空気の張りつめる初冬の候。

 曇天の空から降りてくる初雪がアスファルトに落ちては消えていく。かじかみそうな寒空の下でも人々は足を止めない。ただちょっと顔をあげてみたり、手の平をかざしてそこに降りてきた雪の冷たさを感じていた。

 

 駅前のロータリーに沿って多くの店が軒を連ねていた。雑居ビルの一階二階を借りて、きらびやかな看板をあげている店々は如何にも現代風といえるだろう。その前を歩く人々は電車に乗り遅れないように、そして暖かな何処かを目指すかのように行き交っている。そんな中に、白い少女は立っていた。

 

 

「うぅ…………き、今日も頑張らないとね」

 

 

 まだお昼を過ぎたくらいの時刻だというのに駅前の商店には仄かな明かりがともる。薄暗い雪空の下、きらきらと光る人口のライトが道を明るく照らし出していた。

 

 そしてガラス張りのパン屋では女性が焼きたてのパンの載せたトレイを持って、緑色の看板を掲げたコンビニから出てきた一人の男性の手には黒い缶コーヒーが下げられていた。暖かな空気がガラス越し、そしてスチール缶ごしに人々を温める。

 

 立ち並ぶ建物の中にはツリーが飾られているところが多い、近づいてくるクリスマスに向けて準備を進めて煎るのだろう。その天辺にあるサンタクロースの人形や電球の一つ一つが店内を華やかに彩っている。そこには寒さに負けない活気があった。もはや人の営みを止めることほど、この現代において難しいことはないだろう。

 

 

 そして、その人通りの中で一匹の『ポンデーらいおーん』がチラシを配っていた。

 

 

 無論中には誰かが入っている着ぐるみである。『彼女』はとあるドーナツ屋でアルバイトをしているのだ。

 どう猛な獅子を模したとは思えない可愛らしいボディライン、つぶらな瞳と猫のような口、それに首にかかっているのはドーナツに似せたわっかだ。

 その着ぐるみはロータリーの一角でせわしなく道行く人にチラシを配っていた。たまに通行人から「お店はどこですか?」と聞かれれば、声は出さずに指さして場所を教えてやる。もちろん相手もキグルミが話せないことを承知しているから、お礼を言っては立ち去っていく。

 

 

「…………こんな状態で知り合いに会ったら最悪ね」

 

 

 ぼそり、と何かを呟く声が漏れる。そしてお客を見送るポンデーらいおーん、可愛らしい動作で手を振るから道行く人々にクスリと笑われてしまう。しかし中に入っている少女は周りが見えていないので気がつかない。

 

 しばらくすると遠くから二人組の少女がロータリーを歩いてくるのが見えた。片方は黒髪を大きなリボンで結び、もう片方は黄金色の髪の毛をポニーテールにしている女の子。ただ、二人とも青い作業着を着ているので一見するだけでは少女とは分かりにくいかもしれない。

 

 

「さ、さむい。れ、れいむ……さ、さむいよぅ」

 

 

 がちがちと歯を鳴らしながら歩く金髪の少女。両手で体を包むようにしている仕草は本当に寒そうだ。一方でその隣を歩いていたもう一人の少女、霊夢はあまり寒さに堪えた様子はない。両手はポケットに突っ込んでいるものの、何でも無さそうな表情をしていた。

 

 

「ヤマメ、あんたは一応妖怪なんだから平気なんじゃないの?」

「そそそれ、か、かんけいないんじゃない? それに私は地底にいたから地上の寒さは苦手なん、だって」

「ああ、そうだったわね。家では炬燵でごろごろして、まったく動かないし。蜘蛛っていうより猫じゃないの?」

「うぅ…………化け猫になるのは、御免かな」

 

 

 金髪の少女、黒谷ヤマメはずずっと鼻を鳴らした。彼女は熱のこもる旧地獄にいたから地上の冬に慣れていないのだろう。妖怪としての力を失っている上に、防寒着を着ていない故になおさら寒そうである。逆に霊夢は幻想郷では冬だろうと巫女服で平然としていたのだから、作業服だけでも厚着のようなものだ。

 

 

「だ、だって寒いじゃない……! 霊夢こそ平気なの?」

「別に寒くないわけじゃないわ」

 

 

 霊夢の息が白く立ち上る、しかし表情はいつも通りだった。彼女は恨めしそうにしているヤマメをチラリと見て「仕方ない」とため息をついた。

 

 

「ほら、これでも掴んでなさい」

「わぷっ、何なのコレ!?」

 

 

 霊夢はポケットから片手を出して、そのままヤマメの顔に押し付けた。その手に握られていたのは一枚のホッカイロ、それを霊夢は土蜘蛛の頬に張り付けた。いきなりの行動に最初は面食らったヤマメだったが、その温かさをすぐに理解したようで自分から頬ずりをし始める。

 

 

「こんなのもってたんだ?」

「そうよ。ディカウントストアで安かったから買いだめしてんのよ。それをあげるからシャキッとしなさい」

「へーい」

 

 

 ヤマメは霊夢から受け取ったホッカイロを手の中で転がした。中に入った砂鉄がしゃりしゃりと音をたてては発熱する、それはまるで地底で上がる湯気のように熱い。ニヤニヤと土蜘蛛の少女は笑顔を溢す、そのまま頬に押し付けたりする様子を見るにカイロを気に入ったようだ。

 

 

「…………くしゅっ!」

 

 

 その一方で霊夢は少しだけ肌寒さを覚えていた。元々は自分の手にあったホッカイロを渡してしまったのだから、その落差を感じているのだろう。霊夢は先ほどのヤマメのように鼻を鳴らし、みっともなくないように鼻を擦ってから口を開いた。

 

 

「さて、ヤマメ。お昼を食べに来たわけだけど、行きたい所…………っ!?」

「………………」

 

 

 振り返った霊夢の真後ろに、そのポンデーらいおーんは立っていた。散々CMで目にした可愛い容姿も間近でみると迫力がある、つぶらな瞳も無機質な輝きを持ってこちらを見つめてくるのだから恐ろしい。そして何より距離が近い、近すぎる。

 

 

「うわぁっ!?」

「ひゃわっ!? な、なにこいつっ!」

 

 

 死角から音もなく、いきなり現れたポンデーらいおーんに面食らって巫女の少女は思わず後退る。そして霊夢をかばうようにヤマメもまた身構えた。いくら力を失ったとはいえ自分たちの背後を突けるなど、このキグルミは只者ではない。だが警戒する霊夢たちを一瞥した後、ポンデーらいおーんは無言で何かを差し出した。

 

 

「………………」

「な、何よ、それをくれるの?」

 

 

 モフモフの手には何枚かのチケットが握られていた。先ほどまで配っていた割引チケットとは明らかに『違う』ソレを、ポンデーらいおーんは霊夢へ受けとるように促している。微動だにしないキグルミを少しだけ不気味に思いながらも巫女の少女は、無生物の持つ紙の束へと手を伸ばす。

 

 

「…………まあ貰えるならもらうけどね、ありがと」

 

 

 正直なんのチケットかはわからないが霊夢はとりあえずいただくことにした。幻想郷から続く妙な貧乏性のせいかもしれないが、貰えるモノは貰う主義なのだ。ちらりとチケットを見るとドーナツ屋の名前と「一枚につき一個無料」と書かれているのに気づいた。

 はっとした顔でポンデーらいおーんを見上げる霊夢、すると黄色い獣はある方向を指差している。その先にあったのは「ミニ・スター・ドーナツ」、略してミスド。それはドーナツを小さな星としてイメージした看板を掲げる全国チェーン店である。

 

 ふと、霊夢の脳裏に白い少女の姿がよぎる。

 

 

「………ん、あれ? そう言えば刑香もドーナツ屋でバイトしているとか言ってたような?」

「ーーーー!!?」

 

 

 あからさまな反応だった。

 驚いたように身体を震えさせ、キグルミは気のせいか目線まで反らし始めた。それをヤマメは訝しげに眺めていたが面倒なので追及などしない。そんなことよりもさっき小さくお腹が鳴ったことに気が付かれずにほっとしていた。

 

 

「というわけでヤマメ、あそこでいいかしら」

「うーん、別にいいんじゃない?」

 

 

 お昼の場所にドーナツ屋を指定されたことにヤマメは特に考える様子もなく頷いた。その腕の時計は残り時間に余裕がないことを告げている、早くしないと工場の昼休みが終わってしまうのだ。このままでは昼食なしで午後からの作業に突入する羽目になる、それだけは絶対に嫌だった。

 

 

「…………っ!」

 

 

 その隙に自分たちの傍から足早に去っていくキグルミ、覚えのある気配を横目で追いながらヤマメは霊夢と一緒に歩き出す。

 

 

「あいつも大変だねぇ」

 

 

 ニヤニヤと可笑しそうに頬を緩ませて、土蜘蛛の少女は呟いた。これは良い土産話ができたかもしれない。

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 ポカポカと暖房の効いた店内、そこには大勢の人々が集まっていた。仕事の合間に来たのだろうスーツ姿の人間たち、それに主婦らしき女性たちが小さな子供を抱えて楽しげに談笑している。老若男女、幅広い年代の人間たちは土蜘蛛にとっては『極上の獲物』に違いない。

 

 

「…………もうどーでもいい事実だけどね。人間がいっぱいいるし、ここに来て最初の方は喜び勇んでいたんだけどなぁ。人間を襲おうとしてケーサツに補導されてからは全然楽しく思えないや」

「ここでは私が妖怪どもを叩きのめさなくていいから楽でいいわ、幻想郷にもアイツらがいればいいのに」

「そりゃないよ、博麗の巫女さま」

 

 

 店内の端の方にある席に座って、二人は向かい合う。その真ん中には山のようなドーナツが積まれたトレーと、白い湯気の立っているコーヒーカップが二つが置かれていた。

 ヤマメは「天子のフレンチ」なるドーナツを鷲掴みにしてかじりつく。チョコがたっぷりと塗られ、ふわふわした生地の中、真っ白な生クリームの詰まったソレは幻想郷にない珍品だ。そしてこれが中々に美味しいのだ。

 

 

 

「あー、あまいものを久しぶりに食べたよ」

「そういうことを言わないでよ…………ぷっ、まあいいや」

 

 

 どうにも悲しいことを言うヤマメ。だが、とても美味しそうに食べるので霊夢は思わず笑ってしまう。そして自分もてきとうにドーナツの山から一つとってかじる、見てみるとそれは丸い団子上の生地がリングのように連なったドーナツだった。

 

 

「これって、さっきのアイツが首にかけてたドーナツよね。ゲテモノかもしれないと疑ったけど意外にイケるじゃないの」

 

 

 ポンデーらいおーんの首輪を思い浮かべる霊夢。今でも寒い空の下で、この無料チケットを配っているのだろうかとしみじみ思う。実際には割引のチラシを配っているのだが、そんなことは霊夢にはわからない。

 巫女の娘が貰ったチケットは「店員に配られるボーナス」のようなものなのだ。だから彼女は『あの少女』から個人的にドーナツをもらっていることになるものの、それに気が付ける情報を彼女は持っていない。

 

 だが巫女としての『直感』が何かを告げている、あのキグルミと出会った時に感じた気配は覚えがある。しかし思考はそこで中断した、そうしている間にも土蜘蛛の少女がドーナツをがつがつと食べていたからだ。両手に違う別々のドーナツを持った土蜘蛛らしい豪快な食べ方、霊夢はそれを見て怒ったように口を開いた。

 

 

「ちょっとヤマメっ、あんた一人で食べる気なの!?」

「れいふがはやくたべばいかしぃようがいう」

「何言ってるのか分からないし…………あっ、待ちなさいよ!!」

 

 

 山のように積まれていたドーナツの半分はチケットだが、もう半分は霊夢とヤマメの割り勘である。口にドーナツを詰め込んで喋るヤマメ。それにわなわなと肩を震わせる霊夢だが、負けじと彼女も急いで食べ始める。

 

 

 そして同時刻、チラシ配りを終えたライオンが裏口から店に戻ってきていたことには流石の二人も気がつかなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

「「き、ぎもちわるい」」

 

 

 わずかに五分、その短い時間でドーナツは残らず食べ尽くされていた。しかし幾らなんでも多すぎたようで、その代わりに霊夢とヤマメは気分が悪そうにテーブルへと仲よく突っ伏している。小山のようにドーナツはあったのだ、一気に掻き込めば気分が悪くなるのも当然だろう。

 ヤマメに至ってはピクリとも動かない。さっきまでの無茶な食べっぷりは幻想郷での自分の食欲を過信していたのか、単に癖なのか。それとも食べられる時に詰め込むべきという、こちらに来てからの貧乏生活からくるものなのかもしれない。

 そんな土蜘蛛には目もくれず「うぅぅ」と気持ち悪そうに巫女の少女は唸っていた。すると、

 

 

 

「霊夢」

 

 

 

 ふわりとした風のささやきが鼓膜を揺らす。霊夢は小さく顔をあげたが、それだけでは相手の黒いシャツと前掛けしか見えなかった。しかしお腹が苦しいので顔を上げるは億劫だ。幸いにしてこの声には聞き覚えがある、だから相手の顔を確かめる必要などない。

 

 

「…………なんだ刑香じゃないの」

「なんだとは失礼ね、店内があたたかいからって寝ていたら風邪をひくわよ?」

 

 

 そこにいたのは霊夢の思った通り、鴉天狗の少女である白桃橋刑香であった。

 

 

「………………」

「ちょっと、聞いてるの?」

「あー、うん」

 

 

 霊夢は寝ているのではなく、気分が悪くて突っ伏しているのだ。だがそんなことは知らない刑香は霊夢を揺り動かす。

 

 

「疲れてるし気分が悪いのよ、もう少し寝かせといて………」

「幻想郷の顔である博麗の巫女がだらしのない姿を見せるものではないわ、だから起きなさい」

「うー、ここは幻想郷じゃないのに刑香はいつも通りよね」

 

 

 そこでようやく顔をあげて霊夢は相手の顔を見る。そこにはやはり見慣れた姿があった。

 透き通るように細くて白い髪と、そして「困った子」を優しげに見下ろす瞳。ただその眼差しには相手を小馬鹿にする影は映っていない、霊夢の姿のみを映す静かな光があるだけだった。子供の頃から慣れ親しんだ落ち着く色、どこか孤独な雰囲気を秘めた空の瞳。

 

 見慣れたはずの刑香の姿、それが何だか今の霊夢には可笑しかった。

 

 

「…………ふふっ、やっぱり刑香だった」

「どういう意味よ、それ?」

 

 

 首を傾げる刑香は幻想郷の天狗装束とは違い、ここの制服としてだろう黒いポロシャツと前掛けを付けていた。スッキリとしたデザインの服装は刑香にもよく似合っているし、首元に描かれたリボンの絵柄が可愛らしい。

 

 そして、頭の上には白いモコモコの縁を持つ赤い帽子。先っぽには丸い毛玉のような飾りが付いている、それは俗にいう「サンタ帽」である。

 だが、幻想郷の住民である霊夢にはぴんと来ない。可愛いことは認めるが。

 

 

「…………なにそれ?」

「この帽子のこと? 師走の終わりごろに民家に忍び込んでは足袋に物品をねじ込んで回る。そんな人間の帽子らしいけど、詳しいことは知らないわ」

「本当になんなのよ、それは」

 

 

 ますますわからないという顔をする霊夢。今の情報ではそいつが変質者としか思えない。まあ、どうでもいいことなので直ぐに頭の隅に追いやって体を起き上がらせる。別に眠たかったわけではないのだから。

 鴉天狗の少女もそれで巫女から手を離して、ふうと息を吐いた。その時サンタ帽が少しずれて片目を隠してきたので、ひょいっと片手で直す。

 

 

「この通り、あんまり仕事がしやすい恰好ではないけどね。頭巾と違って脱げやすいのはダメね」

「いや頭巾もどうかと思うけどさ、そんなに邪魔なら脱げばいいんじゃないの」

 

 

 ぶっきらぼうに言ってみると、刑香は「この子は……」とこめかみに手をやる。呆れているのではなく、困った子供を見守るように口許が少しだけ笑っていた。その様子はまるで妹が困ったことをしたときの姉のようで、霊夢としてはちょっとだけ気に入らない。頬をほんのわずかに大きくして、拗ねたようにそっぽを向いた。

 

 

「………………へぇ、これはまた」

 

 

 ヤマメはうっすらと目蓋を開けて二人を観察する。

 さっきから気が付いていたが、わざと『狸寝入り』ならぬ『土蜘蛛寝入り』をしていた。それというのも白い鴉天狗とはわずかに因縁のようなものがある。そして巫女の少女がいつもとは、その他の者に見せる態度とは、微妙に違うので興味深いのだ。少なくともヤマメは彼女のこんなに子供っぽい仕草を見たことはない。

 そうしていると霊夢は「あ、忘れてた」と何かを思い出したように声を出してから、刑香を見上げた。

 

 

「そういえば刑香、さっきはチケットありがと」

「はいはい、どういたしま…………っ!?」

 

 

 その一言で白い少女は凍りつく。決して知られたくなかったこと、天狗の威厳を保つために『アレ』の中に入っていたことは知られたくない。特に霊夢や魔理沙には絶対にごめんだ。

 

 

「…………さて、なんのことかしら?」

 

 

 目を背けてしらばっくれる白い鴉天狗を霊夢はじとっと見つめる。それは完全に疑っている眼差しで、刑香はその視線を受け流すように横を向いていた、澄んだ碧眼に浮かぶのは隠しきれない困惑だった。この天狗は嘘が苦手である。

 やっぱり、と霊夢は追及する。

 

 

「外で着ぐるみを着ていたのは、もしかして」

「わ、私は『ずっと』店の中にいたから知らないけど、あれは大変そうよね。天狗のやることじゃないから、もし当番で回ってきても断るだろうけど…………それに私はずっと店にいたわよ、他の子に尋ねればわかるはずだし」

「いつになく饒舌じゃない、ますます怪しいわ」

「っ…………本当に私はそんなことしてないわ」

 

 

 霊夢はさらに鋭い目つきで見つめ、刑香はいよいよ追い詰められた顔をしていた。助けを求めるように視線をさ迷わせるが、その先に仲間の店員たちはいない。「面白いことになってきた」とヤマメは聞き耳をたてて、相変わらずテーブルに突っ伏している。いつも冷めたところのある白い鴉天狗がここまで焦っている姿もまた珍しいからだ。

 

 

 そこで一旦、霊夢は眼をつむって肩をすくめた。こういう時の刑香は強情だ、真正面から攻めても決して認めることはないだろう。ならば絡めとる、と霊夢は一旦槍を納めることにした。

 

 

「ま、どうでもいいけどね。それよりも起きなさい、ヤマメ。いつまでも空寝をするもんじゃないわ」

「…………ふぁあ、良く寝たなぁ,」

 

 

 白々しい言葉が出た、呆れた様子の霊夢の目の前で起き上がってヤマメは眼をこすり大きく伸びをする。そして今刑香に気が付いたように。きょとんとした目で刑香を見ながら口を開いた。

 

 

「ああ、しばらくだね。あの時の傷は治ったみたいでよかったよ、三人とも酷かったからね。私が原因で死に追い付かれても目覚めが悪いし、本当に良かったよ」

「心にもないことを…………あんたが『あの方』を連れて来たおかげで酷い目に会ったわ。それと別に寝たふりなんてしなくてもいいのに、何かやましいことでもあったのかしら?」

「さてはて何のことかな?」

 

 

 先程までとは違う、熱を奪うような冷気が二人を中心に渦巻く。鴉天狗と土蜘蛛、『外』の世界に迷い込み力を失ったとはいえ妖怪は妖怪だ。刑香は「霊夢たちに手を出してないでしょうね」と土蜘蛛の少女へ警告する、そしてヤマメは殺気を何でもない顔で受け流す。

 そんな一触即発の空気を打ち破るように霊夢は言葉を挟んだ。

 

 

「ヤマメ、せっかくホッカイロをあげたけど、ちゃんと持ってるでしょうね?」

「えっ? 失くすわけないじゃない、こんな良いものをさ。ふふふ、温かいなぁ……」

 

 

 ヤマメはポケットからホッカイロを取り出した。それを握る手に力を入れているので、熱を「もらおう」と愛らしい仕草をしているように見えた。本人は無意識だろうが、そんな意外な一面を見せられて刑香もいつの間にか警戒を解いていた。それは巫女の少女としてはまさに狙い通りの展開だった。

 

 

「ポケットに入れたまま放置してたらすごく熱くなるから気を付けなさいよ。刑香、こいつホッカイロを気に入って頭に貼り付けたりしてたのよ」

「そんなことしてたかしら、頬ずりしてたのは見たけど…………っ、しまった!?」

 

「外で起こったことなのに何で知ってるのよ」

 

 

 やられたと口を塞ぐ刑香。しかしもう遅い、霊夢の疑問が確信に変わっている。対象が油断した瞬間に決定打を叩き込む、それは弾幕ごっこにも通じる戦法であるが見事に決められてしまった。こちらの世界に来てから随分と緩んでいたらしい自分の心に舌打ちをする。もはや何を言っても霊夢の考えを覆すことは難しいだろう、ならば自分のやることは一つだ。

 

 

「そろそろレジが混んできたから仕事に戻るわ」

「あっ、ちょっと待ってよ。そんなつもりじゃなかったの、だから刑香!」

 

 

 わざとらしく棒読みで言葉を発した後、そのまま踵を返してレジへと向かう。

 そう、最終手段とは逃げることである。少し情けない選択だが、刑香はどこぞのブン屋のように弁に長けているわけではない。これ以上ボロを出す前に退散した方が身のためだ。だが霊夢はそれに追いすがる、ガタリと立ち上がって逃げようとする白い鴉天狗の肩を掴む。

 

 

「さっきも言ったけどありがと、ドーナツ美味しかったわよ。それだけ伝えたかったの」

「…………さて、何のことかしらね」

「あー、この作戦もダメだったか。刑香も強情よね」

「霊夢、あんたねぇ」

 

 

 どうやら攻め方を変えて来たらしい霊夢に刑香は苦笑する。そこまでして自分があのキグルミに入っていたことを証明したいのかと思ったが、おそらく違うのだろう。霊夢にとって楽しみなのは会話そのもので、キグルミの中身の特定は話を続けるための種に過ぎないのだ。それは何とも微笑ましい事実かもしれない。

 しかし、楽しい時間とはあっという間に過ぎるものだ。

 

 

「あー、残念だけど霊夢。そろそろ私たちも戻らないとお昼休みが終わっちゃうよ?」

「え、もうそんな時間なの? …………それじゃあ仕方ないか。また電話してきてよね、刑香」

「別にいいけど、いつも私から掛けてるわね」

「こっちから掛けたら電話代かかるから、使用料がバカにならないのよ。覚妖怪もうるさいし」

「はいはい、わかったわ。また今夜にでも掛けさせてもらうわよ」

 

 

 名残惜しそうに店を出ていく巫女の少女と、少し残念そうに見送る鴉天狗の少女。結局、あのキグルミには誰が入っていたのか、そのことについて白い鴉天狗が口を割ることはなかったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな彼女たちをクスクスと笑いながら眺めていたのは二柱の少女たち。紅葉のように鮮やかな髪飾りをつけ、秋の朝焼けを思わせる金色の瞳をした鮮やかな少女。そして葡萄のついた赤帽子を身につけ、秋の夕焼けを思わせる赤色の瞳をした甘い匂いのする少女。

 

 

「あの子たち暖かいね、お姉ちゃん」

「そうね。皮肉にも幻想の枯れ果てた、この世界においてのみ私たちの時間は重なり合う。人間の、妖怪の、神の存在は対等になるの」

「そうだね。一時の夢幻なれど…………今だけは歩む道のりは同じになるわ。だから夢が覚めた先でも、彼女たちに安らぎが残ることを願おうよ」

 

 

 彼女たちは誰の目にも止まることなくドーナツを食べていた。人間と妖怪という相反する存在が他愛もない会話に興じる、そんな光景を彼女たちは興味深そうに眺めていたという。

 

 

 これは、とある冬にあった昼下がりのお話。

 

 

 

 




番外編後の本編にて、いよいよ天狗達にとっての天敵たる『あの種族』が登場します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2章『地底見聞録』
第十八話:楽園の表と裏に生きる者


 

 

 寺子屋、それは人里の子供たちが学問を習う施設である。元々は都市郡に端を発した後に、漁村や農村に広がっていった手習いの指南所。

 江戸の世にて最盛期を誇ったそれは、明治において世界から切り離された幻想郷において未だに現役であった。そして文字と算術が重きを占めるはずである旧き時代の学舎でありながら、主に『歴史』を教える寺子屋というのも存在している。

 

 人里巡りを楽しんだ後、刑香と霊夢はそんな少し変わった寺子屋に立ち寄っていた。

 

 

 

「ふふっ。それで巫女のご機嫌取りをするために、刑香は人里で物見遊山をすることになったのか。まさか人間の子供とそこまで仲良くなっているとは、少し前のお前からは信じられない話じゃないか」

「誰と仲良くするかなんて、私の自由なんだからほっときなさいよ」

 

 

 今日一日の話を聞いて、愉快そうに笑っている寺子屋教師に刑香は冷たい視線を送る。ちなみに慧音とは吸血鬼異変の際に、スキマ妖怪の中継ぎとして話をして以来だったりする。慧音は白い鴉天狗に向けて微笑んだ。

 

 

「しかし本当に良かったと思うよ。お前は基本的には優しい性格をしていたが、一定の距離より内には誰も立ち入らせない拒絶感があったからな」

「………むしろ今もそのつもりなんだけどね、文とはたて以外に全てを許したわけでもないし」

「いくらかマシになったという話さ。刑香は良い方向に変わってきていると私は思う。だからこそ、その巫女殿には感謝しなければならないな」

「そういうことは本人が起きている時に伝えなさいよ、あと毛布を貸してもらっていい?」

「ん? ああ、なるほどな」

 

 

 はしゃぎ疲れたのだろう、霊夢は鴉天狗の膝を枕代わりにして眠っていた。子供らしい高めの体温が布越しに伝わり、可愛らしい寝息が刑香の耳に聴こえてくる。ずいぶんと気持ち良さそうだ、良い夢を見ているのかもしれない。

 その口からヨダレが垂れているのは、とりあえず不問にしておこう。自分の装束は明日あたりに洗えばいい。そんなことを考えていると、足音を忍ばせて近づいてきた慧音が幼い巫女に毛布を被せた。自分は一言も「霊夢のために」とは発していないのに流石は寺子屋教師、子供の面倒を見ることは手慣れている。

 

 

「まだまだ子供だな、寝顔は私の生徒たちと変わらないよ。私の記憶が定かなら、幻想郷の歴史にここまで幼い巫女はいなかった」

「言っとくけど、この娘は並の妖怪が束になってきても無傷で勝てる程度には強いわよ。ひょっとしたら将来は『鬼』すらも退治できる巫女になるかもしれない…………なんて、天狗の私にすら思わせるほどにね」

「それはまた本当なのだとしたら大した素質だな。しかも鬼の盟友である天狗のお墨付き、それなら幻想郷の将来は安穏としたものなのかもしれないか」

 

「あんたの言うのは幻想郷じゃなくて人里の平穏でしょう、半妖のはぐれ者さん?」

「それはどうも、はぐれ天狗殿」

 

 

 くくっ、とお互いに小さな笑いをこぼし合う。半妖でありながら人里に住まう慧音と、天狗でありながら山から追放された刑香。そこに至るまでの過程は違えど、自分たちは変わり者の同志に違いない。

 慧音は毛布と一緒に持ってきた湯飲みを刑香に手渡した。中身は温かい柚子茶のようだ、柑橘類の豊かな香りが心地よい。

 

 

「…………改めて吸血鬼異変の時は世話になった。こちらとしても賢者の誰かに『人里を隠す』許可を貰いたいところだったんだ。お前が取り持ちをしてくれたお陰で助かったよ」

「あれは紫が言い出したから協力したの、あんたを推薦しただけの私にお礼は不要だと思うわよ?」

「妖怪の賢者に私を推薦とは、なかなか嬉しいことをしてくれたな。存外に私はお前から信頼されていたようだ、嬉しいよ」

「…………別に、そういうことにしておけば?」

 

 

 ぷいっ、と慧音から目線を反らす。

 感謝の気持ちを正面から語られるのは苦手だ。身構えがあれば大丈夫なのだが、今のは不意討ちだった。教師をしている慧音は他者の心を読み取ることに長けているのかもしれない。何だか悔しくなり、不機嫌そうに刑香は柚子茶をチビチビと飲み干していく。

 

 「どうしたんだ?」と不思議そうな表情でこちらを眺めている慧音の視線から逃げるように部屋を見回していく。すると片隅に布団が二組畳まれているのが目に入った。話題を反らすには使えそうだ。

 

 

「ねえ、何で布団が二組あるのよ。あんたは一人で寺子屋に住んでいるんじゃないの? ………そういえば一年くらい前に人間の男から求婚されたとか聞いたけど、まさか」

「ち、ちょっと待て! 何でその話を知っているんだっ。まさか新聞に載せたのか!?」

「いや、そもそも『四季桃月報』に載せられる記事じゃないし…………え、まさか本当に人間の男と?」

 

 

 先程までのクールな姿はどこへやら、完全に我を忘れて慌てふためく寺子屋教師。冗談のつもりだったのだが、予想を越えて話題を転がしてしまったらしい。そもそも『四季桃月報』にはゴシップネタは載せない上に、他人の「そういう話」に大して興味がない刑香にはどうでもよい話なのだが。

 しかし、このままだと渾身の頭突きをお見舞いされて記憶を消されそうな感じがする。それくらいの迫力が慧音からは漂っていた。そして身構えていると刑香は両肩を掴まれる、その衝撃で手に持っている湯飲みの中身が零れそうになるを何とか耐えた。

 

 

「違うんだっ、私は断じて不純な行為に手を染めてなどいない。だいたい、そういった申し出は全て断っているから大丈夫だ!」

「じ、冗談だから落ち着いて。新聞に載せるなんてしないわよ、それに『全て』ってことはあれ一つじゃなかったの?」

「………………二月に一度のペースで申し込まれた期間もあった。それでいい加減にイライラしていたし、あの夜は満月だったから気が立っていてな。つい、やってしまったんだ」

 

 

 何となく刑香は納得した。

 博識で物腰が柔らかくて、子供にも優しく接する美しい女性。そんな慧音は人里の男性たちから人気があって当然だろう。そして半分混じっている化生としての血も、妖怪などではなく『聖獣』由来の高貴なものだ。その力もまた、無意識に人間を惹き付ける魔香となっているのかもしれない。それに群がってしまった男衆、その結果が慧音からの頭突きだったわけだ。

 

 そしてしばらくの間、刑香に宥められた慧音はようやく落ち着きを取り戻したらしい。「すまない」と謝罪してから布団についての話を始める。

 

 

「つい最近に居候を拾ってな、それから週に何回か泊まりに来るようになったんだ。本人は『布団は要らない』なんて言い張っていたんだが、風邪をひくといけないから私が買い足しておいた。だから二組あるんだよ。…………言っておくが、そいつは女だぞ?」

「別に『女』を強調しなくてもいいわ、記事にしないんだから。………それにしても居候ねぇ。あんたは世話好きだからそういうのを拾うのは意外でもないけど、怪しい奴じゃないでしょうね?」

「何だ、心配してくれているのか? ありがとう、あいつはいい奴だよ。少し口調が荒っぽくて、色々と大雑把なところもあるけど根は優しい奴なんだ」

「………ふぅん、そうなんだ」

 

 

 優しげな光の宿った慧音の瞳。

 そこには生徒たちに向けるものと同じ、いや更に深い慈愛の感情があった。上白沢慧音は途方もなく長い時間、人間を見守りながら生きてきた。そんな彼女がここまで信頼している相手ならば、おそらく問題はあるまいと刑香は判断する。

 

 

「でも別にあんたを心配していたわけじゃないわ。どんな人間なのか気になっただけ、それだけよ。何でも良い方向に捉えるのは慧音の長所だけど、ほどほどにしなさい」

「ふふっ、そういうことにしておくよ」

「…………その笑みはなんなのよ、その笑みは」

 

 

 一年前の刑香なら、わざわざ他者を心配する言葉を口にすることはもっと少なかった。それにどこか刺があり、今以上にひねくれた言葉を投げかけていた。

 それが異変にて親友や霊夢に救われたからか、それとも宴で美鈴やレミリアと語り合ったからなのか。少しだけ素直になったような気がする、霊夢の相手をしている時の表情はとても優しかった。それを見抜いたからこそ慧音は微笑ましく思っていたのだ、やはり他者の成長を見守る役目は自分に合っていると思いながら。

 

 

「…………そういえば、あんたが求婚されたことを文に話したことがあったわ。哨戒帰りのあいつに偶然会ったから」

「ばっ、よりによって射命丸にか!?」

 

 

 生徒扱いに不服を感じた刑香からの小さな仕返し。眼に見えて焦りだした慧音を横目にしながら、湯飲みに口をつける。少し蜂蜜を垂らしてあるらしく、柚子茶は微かな甘味が柚子の酸味に混ざってちょうど良い具合だった。おかげで身体も温かくなってくる、気のせいか少しだけ眠くなってきた。しかし当然だが、そうしている間も慧音はグイグイと刑香に近づいてくる。

 

 

「姫海棠ならばともかく、あいつは不味いだろっ。これから百年くらいはこのネタで揺さぶられ続けるじゃないかっ」

「確かに文ならやりかねないわ、御愁傷様」

「わかっているなら忘れるように言ってくれ!」

「はいはい、今度ね」

「す、すぐに頼む」

 

 

 刑香と違って、あの黒い鴉天狗は美味しいネタを向こう百年は忘れまい。残念ながら手遅れなのだ、「少し悪いことをしたな」と心の奥で謝罪する。刑香と慧音、二人の言い争いは幼い巫女の安眠を妨害した後、件の居候が帰宅する時まで続いたらしい。

 

 

 それは何とも賑やかな人里の一幕だった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 幻想郷とは『外』から隔絶された世界である。

『外』の世界で否定され、夢幻に葬られた者たちが最後に辿り着く楽園。近代文明の届かぬこの地にて未だに妖怪は生き、神は存在し、妖精たちは舞い踊る。

 

 

 ―――幻想郷は全てを受け入れる。

 

 

 それが八雲紫を初めとした妖怪の賢者たちが掲げる理想であり、この幻想郷の基本原則でもある。しかし全ての妖怪やその他の存在が『表』の世界、つまりは『地上』に受け入れられるとは限らない。どこの世界にも嫌われ者はいる、それ故に流刑地とでも表現すべき場所が幻想郷にもある。

 

 

 その地の起こりは遥かな昔、とある妖怪が移り住んだことから始まった。かつて地上にてその妖怪たちは人を拐い、略奪し、悪逆を尽くしていた。

 

 それは自らが『退治される存在』になることで人間との胸のすくような決闘を求めたからだ。力を尽くし知略を駆使して自らに立ち向かう人の子たちの姿が好きだった、彼らの儚くも強く生き抜く姿を誰よりも愛していた。そして、かつては人間たちも『』へ畏れと憧れを持って接していた。対等にはなれずとも、共に歩む存在として彼らは認めあっていたのだ。

 

 しかし人間たちは変わってしまった。知略は策略となり、信頼は裏切りに塗り潰され、夜襲に奇襲、果ては酒や井戸に毒物を混ぜての騙し討ち。数百年に渡るそれらに失望し、地上から姿を消した。

 

 

 その妖怪こそが『鬼』。

 かつて幻想郷に君臨した最強の妖怪であり、天狗たちを支配下においた妖怪山の総大将。伝承によっては存在そのものが『死』であり、『異界の怪物』であり、逆に幸福と宝をもたらす者でもある。そして、そこに共通するのは絶対的な力であった。

 

 人間を見放した鬼たちが次の居住地と定めた場所こそ、幻想郷の地下に存在する『地底』世界であった。かつて『旧地獄』と呼ばれていたそこに街を作り上げた鬼、彼らこそが地底世界の基盤を形作った者たちであった。

 

 

 

 

 薄暗い地底世界の中心にそびえる『地霊殿』。

 西洋風に設計された建物は広大な土地を持つ地底に建てられたからなのか、地上に存在するどの建築物よりも巨大で雄々しい姿をしていた。周囲に広がる街をまるで城のように見下ろす姿は雄大にして威厳がある。

 

 

「ふう、これで今日の業務は終わりにしましょうか」

 

 

 その執務室にて、一人の小柄な少女が伸びをしていた。ようやく溜まっていた仕事が片付き、一服できそうなのだ。ちらりと窓越しに外を見ると真っ白な雪が地底の空を染めている。隙間から漏れだしてくる冷気に一度だけ身体を震わせて、少女はカップに残っていた温かい紅茶を飲み干した。

 

 この少女の名前は古明地さとり。

 この地霊殿の主であり、地底の顔役にして幻想郷で『最も恐れられる妖怪』の一人である。やや癖のある薄紫色のボブカットとルビーのような真紅の瞳、涼しげな水色の上着とセミロングスカートが幼い見た目と相まって可愛らしい印象を与えてくる。そして、ここにはもう一人の妖怪がいた。

 

 

「おう、仕事は終わったのかい?」

「まだ居たんですか、勇儀さん」

 

 

 来客用のソファーに寝転がっていたのは少しばかり大柄の女性だった。美しく輝く金髪と豊満な胸部が女らしい魅力を放っているが、その額から生えるのは真っ赤な一本角。よっこらしょ、と立ち上がった彼女は『鬼』だった。

 

 

「だから言ってるだろ。土地の権利が何だかんだっていう厄介事の仲裁を頼まれたんだが、私は小難しいことが苦手でね。ここは一つ、酒を奢るから助けてくれないかい?」

「街での揉め事はすべて貴女に一任しているじゃないですか、いつもみたいに豪快で乱暴な解決をしてください。私は一切責任を取りませんけど」

「ただの喧嘩だったら両成敗で決着がつくんだけどね、今回は駄目らしい。私の配下も頭の弱い連中ばかりだし、こういう時ばかりは天狗を何人か地上から連れてきていれば良かったと思うよ。…………いや、今からでも遅くないかねぇ?」

「止めてください、貴女は地上と戦争でも起こすつもりですか。わかりましたよ、私が出向きます。ただしお酒は要らないので、一つ貸しにしておきますからね」

「おっ、やってくれるか! ならいつもみたいに、一発スパッと解決してくれよ。鬼の名に懸けて借りは必ず返してやるからさ!」

 

 

 それだけ言うと鬼の女性は上機嫌に大口を開けて笑う。彼女の名前は星熊勇儀。かつて地上において『山の四天王』と謳われた最強の鬼の一角にして、白い鴉天狗の名付け親の一人である伊吹萃香の親友。この地底に歓楽街を築き上げた最大の功労者であり、さとりと同じく地底を代表する妖怪である。

 

 

「あー、ようやく肩の荷が降りたよ。くだらないことで酒が不味くなるところだった。いや、連中にとっては重要なことなんだろうが。どうも拳で砕けない問題はまどろっこしくていけないね」

「だからといって、何でも私に回してくるのは勘弁してください。私だって忙しいんですよ」

「悪い悪い、でもお前さんに任せるのが一番手っ取り早いんだ。心を読めるさとり妖怪が交渉事で遅れを取るなんてありえんだろう?」

「それは状況に依ります」

 

 

 ギョロリと、第三の目が勇儀を睨む。『さとり妖怪』、それが古明地さとりの妖怪としての種族名である。その名の通りに心を読む妖怪であり、その能力は人間に限らず妖怪や怨霊にすら極めて有効だとされている。

 そのため彼女はこの地底に渦巻く怨霊たちと灼熱地獄の管理を閻魔、四季映姫から任されている。つまり形式的にいうならば、地底世界の頂点に君臨する妖怪が彼女なのである。本人はその事実を心の底から迷惑がっているが。

 

 

「そもそも絶対に勝てる交渉なんてものはありません。あらかじめ王手までの道筋が用意されていて、椅子に座った瞬間にそれを見破っても状況の打開は困難でしょうから。要するに話し合いというのは始まる前から勝負が決まって…………」

「あー、わかったわかった。過大すぎる期待はしてくれるなってことだろう、それくらいは理解しているよ。お前の最善を尽くしてくれるなら、私は何一つ文句はないよ」

「それならいいですけど」

 

 

 この二人は特に仲が良いというわけではない。

 むしろ、相手を頼る時以外はお互いに顔を合わせないのだから良好な関係とは言い難い。しかしそこは陽気で義理堅い性格の鬼、何だかんだと理由をつけて勇儀は地霊殿を訪れている。一方のさとりも裏表が少なく、嘘を嫌う鬼と一緒にいることは不快ではない、人間と違って鬼は信頼できる存在だとさとりは考えていた。

 

 

「さとり、これは何なんだ?」

 

 

 書類が散乱している執務机。

 その中から、ひょいっと勇儀が掴み上げたのは真新しい封筒だった。すでに封が切られており、中身は何の変哲もない書状だったのだが、微かに懐かしい臭いがしたので気になったのだ。この懐かしいのは地上の匂いだと勇儀は首を傾げる。その疑問へ面倒くさそうにさとりが説明を始める。

 

 

「それは地上の賢者から送られてきたものです。中身を簡単に纏めるなら『博霊の巫女の継承式への参加』と『スペルカードルールへの賛同』を要求してきています。それも一方的に」

「巫女の継承式ってのはともかくとして、『スペルカードルール』ってのは何だい?」

「さあ? 詳しいことは地上にて話したいとのことですから何もわかりません。…………ああ、ちょうど良かった。暖炉の火が弱まっているみたいですね。それを薪と一緒に炉の中へ入れてしまってください」

「いいのかい? まあ、頼まれたならそうするが」

 

 

 勇儀は封筒を掴んで暖炉へ放り込む。 オレンジ色の炎が上質な紙をあっという間に蝕み、黒く燃やし尽くしていく。熱風に吹かれてパタパタと揺れる紙束はまるで、さとりの暴挙に対して「ふざけるな」と抗議しているようだった。炭へと変わっていく書状、炎の中で一瞬だけ『八雲紫』の署名が掠れて見えた気がした。

 

 

「伝えたいことがあるのなら、せめて使いを寄越しなさい。さとり妖怪が相手の顔も見ないで話を聞くわけがないでしょう」

 

 

 燃え尽きていく紙束へと、さとりは冷たく言い放つ。

 これは覚妖怪の性分なのだ、顔の見えない相手とは一切の話し合いができない。『心を読む程度の能力』などという便利極まりなく、厄介な力を持つ故に古明地さとりは『相手の心を読み取らないことには安心できない』のだ。執務机の上にいつの間にか置かれていた書状を読んで「はい、そうですか」とノコノコ地上へ向かうなど、あり得ない。

 

 妖怪の賢者が何故、こうも自分との接触を避けているかの理由はわかっている。心の内に読み取られたくない情報があることと、さとりの能力が『どの程度』まで働くものなのかを警戒しているのだろう。

 妖怪の賢者が隠したがる情報への興味など微塵もないというのに、昔から自分の預かり知らぬところで警戒され、敵視されるのは変わらない。さとりは深く溜め息を吐いた。

 

 

「おそらく次は使者を遣わしてくるでしょうね」

「ほう、地上からの客なんて久しぶりだねぇ。これは盛大にもてなすか、それとも早速借りを返すチャンスがやってきたかな?」

「………そうですね、相手がこちらに対して何らかの強硬策を行ってきた場合には貴女に頼ることにします。力ずくで不遜な妖怪たちを凪ぎ払ってください、『不可侵』の取り決めを破ったのは地上側なのですから遠慮は要りません」

 

 

 抑揚のない声と眠そうな半眼、されどそこには妖気が宿っていた。毒を染み込ませた刃のように言葉を操り、精神を抉り、トラウマを刺激し、心を喰らう化け物。それが覚妖怪の本質である。ちらりと、さとりは心配そうに勇儀を見上げた。

 

 

「言っておきますけど、やりすぎは駄目ですからね?」

「ああ、引き受けた、『鬼』の名において必ずやり遂げるさ。大船に乗ったつもりでいなよ!」

「ぶっ!?」

 

 

 勇儀に肩を叩かれた衝撃で倒れ込む、本人は軽くしたつもりなのだろう。がつんと膝を床で強く打ち付けてしまい、とても痛い。腹が立ったので「悪い悪い」と謝ってくる鬼をとりあえず無視しておくことにした。そのまま、ちらりと窓の外を眺める。

 

 真っ白な雪が街に降り注いでいた。どうして地底に雪がふるのかは定かではないが、やがて春には雪解け水となり地底の川を潤すだろう。先ほど、さとりが口にしていた紅茶の茶葉も元は地底で採れたものだ。地上とは別のサイクルが地底には根付いている。

 

 

「私たちには地上との繋がりなんて必要ないわ」

 

 

 人間にも妖怪にも疎まれた妖怪、地底以外に覚妖怪の居場所は存在しない。そんなことは痛いほどに理解している、だからこそ古明地さとりは地底以外の世界に興味はない。故に地霊殿の主は交流を拒むのだ。地底に異物を入れないために、自分と妹の居場所を護るために。

 

 

「…………こいし、あなたは今どこにいるの?」

 

 

 ぼんやりと開かれた真紅の瞳に熱はなく、どこまでも静かな光がそこには宿っていた。呟かれたのは大切な妹の名前、もう何年会っていないのか、それとも会っているのかすら分からない。それでも姉は妹の帰る場所を守り続けるのだ。

 

 

 それこそ、古明地さとりの存在理由の一つなのだから。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十九話:トリプルスポイラー

 

 

 寒々とした冬空が広がる幻想郷。

 空気は澄み渡り、弱々しくも暖かい光が地表に降り注ぐ午の刻。流れ行く雲は低く、夕暮れに一雨くるかもしれない微妙な空模様の下にて、白い鴉天狗は川縁に腰かけていた。その手には釣竿が握られている。

 

 

「ふあぁぁ……………。昨日は慧音のところの居候と飲み明かしたから、瞼が重いわ」

 

 

 欠伸を一つ、その身動きで釣竿の糸が揺れて小さな波が水面に広がった。すると狙っていた大物は身を翻して川底へと姿を隠してしまう。「あ、ちょっと!?」と焦る刑香だったが、もう遅い。

 

 

「あー、やっちゃった。しかも餌だけ持って行かれるなんて…………天狗にあるまじき不覚よね」

 

 

 残念そうに糸を手繰り寄せる刑香。

 その姿は真っ白な天狗装束に、ちょこんと頭に乗せられた真っ赤な頭巾という、いつも通りの堅苦しい格好だった。だが、私服をコレしか持っていないのだから仕方ない。

 

 それと魚には逃げられたが、別に生活が懸かっているわけではないので問題はなかったりする。本気で採りたいなら葉団扇を使って、川の水ごと魚を巻き上げればいいのだ。その方が時間も労力も掛からない。

 

 なら何故、刑香は魚釣りなどという非効率的なことをしているのか。その答えは単純明快で、単なる暇潰しだったりする。釣りは最近始めた趣味なのだ。

 

 冷たい水の中を鴨の親子が仲良さそうに泳いでいるのを横目に、釣竿を手入れする。数種類の竹を組み合わせた木製のソレは人里の道具屋で購入したものだ。中々に軽い上に、しなりが良いので気に入っている。

 

 

「よし、もう一度いきましょうか。…………何よ、あんた達もやってみる?」

 

 

 カァカァ、と鴉たちが刑香の周りに集まっていた。

 カチカチと嘴を鳴らして、まるで雛鳥のように刑香へと寄り添うカラス達。余談だが、幻想郷のカラス達は鴉天狗の使いをし、やがて才覚に恵まれた者は天狗の妖力に充てられて妖怪化する。つまりここにいるのは、刑香の妖力に惹き寄せられた者たちである。

 

 

「ほら、これをあげるから向こうに行ってなさい。あんまり大勢がいると魚が逃げるのよ」

 

 

 さっき釣れた魚を放り投げてやると、そちらへ飛んでいく鴉たち。何とも現金な奴らである。そして白い羽が雪の上に舞い落ちるのを、刑香は何となく眺めていた。それは自分の羽ではないのだから。

 

 刑香に仕えているのは真っ白な羽を持つ鴉たち、彼らもまた群れから追放された者達だった。主に似たのか、彼らは身体が弱い。そのため親友たちとは比べるべくもなく、貧弱な配下だと刑香は自笑している。もっとも別に困ることはないので、それなりに大事にしているのだが。

 

 

 

「寒いけど静かね。数十年ぶりだったけど、釣りも案外楽しいかもしれないわ。…………くしゅんっ」

 

 

 真っ白な息を吐いて、薄氷ができる温度を肌で感じながら震える。川のせせらぎは時の流れゆくままに、冷たく澄んだ水が対流していく。そして見上げれば雪雲の広がる空が碧眼に映り込む。

 

 

 そこは静かで冷たい、落ち着いた空間だった。

 

 

 

 

 

「釣れているか、白桃橋?」

 

 

 不意に聞こえてきた声が、冷え冷えとした静寂を打ち破る。ぴくん、と垂らされた糸が静かな水面に再び波紋を起こす。

 

 ――――カァカァ!?

 

 その声の主に驚き、白い鴉たちが慌てて飛び去っていく。後ろから投げ掛けられた声に、しかし刑香は振り向かない。声の主が誰なのか分かっているのだから問題ない、そのまま返事をする。

 

 

「その質問に答えるのなら『釣れていた』が正しいかもね。だって、あんたのせいで魚が一匹残らず逃げちゃったのよ?」

 

 

 魚は敏感な生物だ。彼らは水面近くにいる生物の姿や動き、それ以外にも様々な異常を感じ取っては川底や岩影に身を潜めてしまう。ましてや、大妖怪の気配を感じれば尚更だ。もう魚は一匹も見えなくなっていた。

 

 

「久しぶりね、藍」

 

 

 自身の隣に腰を下ろした八雲藍に、刑香は軽い挨拶を投げかけた。それに九尾の大妖怪は「ああ、久しいな」と、少し疲労の色を滲ませる声色で答える。

 

 

「すまんな、冬に入ってからはお前に霊夢の世話を押し付けている。私も顔を出したいのだが、結界の維持と紫様からの宿題で手一杯なんだ」

「別にいいわよ、霊夢の面倒を見るのは嫌いじゃないし。それに、これは私が勝手に世話を焼いているだけたから謝罪はいらないわ」

「そうか、なら礼をさせてくれ。ありがとう」

「お礼も要らないんだけど…………どういたしまして」

 

 

 藍は礼儀正しく一礼する。一方の刑香は紫からの『宿題』というのが引っ掛かりを覚えたが、わざと触れないことにした。聡明な藍のことだから、必要があるなら話してくるだろうと思ったからだ。

 

 

「でも、あまり甘やかすのも駄目だと思ったから回数は制限してるわよ?」

「何だ、そんなことをしていたのか。…………心配は要らん、むしろお前以外にあそこまで霊夢は甘えない。あの娘は賢いから頼りきりにしても良い存在というのが直感的に分かるのだろう」

 

 

 霊夢は『博麗の巫女』だ。

 博麗の巫女にとって人里の人々は護るべき存在であり、妖怪とは退治すべき対象である。そして親代わりだった八雲紫は人間ではなく妖怪側の守護者。八雲藍とて似たようなものだ。やがて二人と霊夢は少なからず袂を別つことになる、それを聡い彼女は直感的に理解しているのだろう。だからこそ、紫と藍には一定ラインより甘えられないし弱味を見せ難いのだろう。

 

 

「その点においてお前は違った。妖怪側から追放され、人間にも溶け込めない半端者。護るべき存在ではなく、討伐する対象とも言い切れない。だから霊夢にとって純粋に甘えることのできる対象なのだろう」

「…………そう、私みたいな境遇でも役に立つことはあるのね。甘やかしてもいいなら、もう少し頻繁に訪れてみるわ。なら今日の夕方にでも、手土産にウグイを持って行こうかな………………で、本題は何なの?」

 

 

 どこか嬉しそうな表情から一転、刑香は鋭い眼差しを藍へと向ける。霊夢の話をするためだけに、多忙な式神がわざわざ自分を訪れたと刑香は考えていない。良くも悪くも、合理化された思考を持つのが藍なのだ。そんな些細なことに時間を割くとは思えない。

 刑香の碧眼に金色の瞳が映り込む。その鋭い視線に藍は観念したように口を開けた。

 

 

「そうだな。こういったことは、はっきり伝えるべきなのだろう。………………『地底』に向かってくれないか、白桃橋」

「いや、物凄く嫌なんだけど」

「すまん、これは決定事項だ。既に天魔殿やレミリアにも話は通してある」

 

 

 とんでもないことを宣った式神狐。

『地底』とは、妖怪の山から繋がる地下世界のことである。そこには地上では受け入れられない妖怪や、それに類する存在が封じられている。『覚妖怪』『土蜘蛛』『橋姫』『鵺』、そして『鬼』。いずれも危険とされる妖怪たち、特に鬼は格が違う。そして天狗や河童ほど『鬼』に詳しい妖怪はいない。彼ら彼女らほど『鬼』を恐れる妖怪はいない。ゆえに、天狗である刑香が藍から「地底に行ってくれ」と申し入れられて色好い返事ができるはずもなかった。

 

 

「拒否権はないの?」

「………ないな」

 

 

 それなりに藍とは仲良くなったはずなのだが、やはり主人の命令遂行は絶対らしい。主から与えられた命令に一切の疑いを持たずに、ただ誠実確実にやり遂げるのが藍という式神だ。だからだろう、刑香を地底へ送り込むことへの詫びの気持ちはあっても、迷いは感じられない。

 

 どうやら吸血鬼異変の時と同じく、これは避けられないモノらしい。ならば刑香は諦めて受け入れるしかない。しかし「戦ってくれ」と言われていない以上、あの時と違って血生臭いことにはならないだろう。刑香はわざと楽観的に考えて、覚悟を固めることにした。

 

 

「…………いいわ、引き受けた。もし地底で鳥鍋にされたら化けて出てやるから、あんたも覚悟しておきなさいよ」

「くく、その時は亡霊のままで私の式神にしてやろう。橙の妹分が欲しかったところだからな」

「この私が橙の妹弟子にねぇ…………でも、それはそれで面白そうかもね」

 

 

 刑香と藍は冗談混じりに言葉を交わす。この一年でそれなりの信頼関係が二人の間にはできていた。だから今、お互いに相手を信頼することができたのだ。藍は刑香の帰還を、刑香は藍の采配を、それぞれ信じている。

 

 

「ところで、橙へのお土産に魚はどうかしら。今ならお安くしとくけど?」

「ありがとう、いただくよ。…………しかし鴉たちにやらなくていいのか?」

「主人を見捨てて逃げた連中にお恵みは要らないわ」

「ああ、確かにな」

 

 

 ちらりと上空を見上げると、慌てて戻ってくるカラス達の姿があった。どうやら自分の配下たちは食い意地が張っているらしい。刑香は藍と共に苦笑した。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 同時刻、雪化粧に染まる妖怪の山。

 その何処かに存在する天狗の隠れ里にて、とある天狗少女がうめき声を上げていた。

 

 

「駄目だぁ、ネタが浮かばないっ…………!」

 

 

 見事な茶髪をツインテールに結った鴉天狗、姫海棠はたては自宅にある執筆用の机の前で、悲鳴とも聞こえる声を漏らしていた。その背後ではガサガサとタンスを漁るような音がしているが、はたては気がつかない。

 

 

「いくら不定期だからって、もう三週間近くも新号を発行していないのはヤバいわ。ヤバすぎるわよ」

 

 

 はたてが悩んでいたのは、自作新聞『花果子念報』の執筆状況だった。彼女の周りにはクシャクシャにされた紙束が転がり、大きくバツ印の付けられた写真が放り出されている。

 

 

「吸血鬼異変が終結してからは大きな事件もないし、念写の対象がはっきり定まらないのが一番の原因よね。…………あー、もう。文と刑香は調子いいみたいだから、私だけ立ち止まってられないのになぁ」

 

 

 ぽてり、と机へと伏せって脱力する。こうしていると紙面から匂ってくる印刷墨の匂いは、とても落ち着くものがあった。そのままの姿勢で前方を向くと、机の隅に飾られた古ぼけた白黒写真が目に入った。『三羽鴉、参上』と題名が付けられたソレは、まだ幻想郷が開かれていた頃に親友たちと撮影したものだ。つまりは百年近くも前の年代物である。

 

 今よりも更に引きこもりがちであった自分を半ば無理やり、外の世界へ連れ出した時に親友たちが撮影した記念品。はたてを挟んで文と刑香が両側でポーズを取っていた。

 

 

「はぁ、あの時はカメラ一つに随分と興奮したものよね。…………刑香まで浮かれてたっけ、ピースなんてしちゃって可愛いもんね」

 

 

 ちょん、と写真に映っている刑香を指でつつく。

 久しぶりに外の世界へ触れた、あの時の感覚は今でも覚えている。考えてみれば新聞というものに興味を持ったのは、あの瞬間であったような気がする。

 ちなみに私物の写真はこれだけである。残りは全て記事に使うためのモノ、こんな自分を寂しい奴だと思ったことは一度や二度ではない。しかし元々、他者との付き合いは面倒なのだ。文と刑香がいることだし、これ以上の友人を別に欲しいとは思わない。

 

 

「博麗神社に飛んで行けば刑香も霊夢もいる、ネタもあるかもしれないのに…………はぁ、掟なんて面倒なだけじゃない」

 

 

 博麗の巫女との過度の接触を禁ずる、そんな細かな掟まで用意された天狗社会は息苦しい。『今どきの念写記者』の二つ名を持つ、はたてにとって妖怪の山は暮らしにくいのだ。引きこもりでありながら自由を愛する天狗。一見矛盾するような精神を持つのが姫海棠はたてという妖怪なのだ。

 

 

「うーん、やっぱり『文々。新聞』と『四季桃月報』に知名度で負けてるわよねぇ。…………私たちで人里の新しい講読者を開拓してる途中なのに、私の『花果子念報』だけ出遅れてるし」

 

 

 掟はさておき今は新聞の悩みが先だ。部数の推移を描いたメモを、はたては渋い顔で眺めている。人間との対立が緩和されつつある今、自分たち三人は人里への天狗新聞の普及を行っているのだ。発行部数の一番は刑香、それを猛烈に追い上げているのが文、そしてはたての順番だ。

 

 『念写をする程度の能力』、はたての作る記事には、新鮮味に欠けるという弱点を持つ念写が多用されている。

 念写に拘ることに意味はない、強いていうなら単なるプライドだ。そして念写では足りない部分を大量の資料から得た知識と、確かな筆力でカバーする。それが、はたてのやり方だった。

 

 しかし相手は手強い。人妖を問わずに集めた、賑やかなゴシップネタが一面を飾る『文々。新聞』。四季折々の幻想郷を一望できる記事を美しい写真で彩った『四季桃月報』。どちらも一筋縄ではいかない競争相手だ。

 

 

「ネタが欲しい、何か幻想郷中を驚愕させるようなのが。大事件とか幻の秘境とか、そういうのがいいわ。…………あれ、お煎餅がない?」

 

 

 空っぽになっていた煎餅入れに首を捻ったが、「まあ、いいか」と今後について考えを巡らせることにした。

 二人が意図的に避けている分野は確かにあるのだ。しかし、それは人喰いなどの殺生ネタだ。多用してしまっては殺伐とした新聞になってしまう、それで部数を稼げたとしても何か違う感じがするのだ。

 文と刑香は自分にとって最高の友だ。そして親友だから新聞作りにおいては好敵手でいたいのだ。だからこそ、正々堂々と勝負して追い抜かないと意味がない。

 

 

「うーん、でも秘境なんて幻想郷には残ってなさそうだし。むしろ人間にとっては天狗の集落が秘境よね、新聞に載せ…………たりしたら、読んだ人間が神隠しに合うか」

 

 

 どうやらネタ切れのようだった。

 そのまま机に伏せて唸っていると、翼の羽ばたく音が鼓膜を揺らす。そして数秒遅れてドアを開く音が聴こえてきた。冷たい北風が部屋に吹き込み、一枚の黒い羽が舞い上がる。自分の家をわざわざ訪ねてくる天狗を、はたては二人しか知らない。その内の一人は追放処分にされているのだから、可能性のあるのは一人だ。

 

 

「無用心ですねぇ、鍵が開いてるじゃないですか。最近は天狗の里で『物盗り』が出没してるんですから気をつけないと…………あややや、コレは散らかし過ぎでしょう」

 

 

 一本歯下駄を脱ぎ捨てて、室内に遠慮なく入って来たのはやはり射命丸文だった。任務中だったのだろうか、真っ白な天狗装束を身につけ、首にマフラーを巻いている姿は凛々しい。

 

 

「いや一応、鍵は閉めたはずなんだけど…………ちょっ、何よコレ!?」

「何か探してたんですか?」

「いや、何もしてないわよ」

 

 

 はたては部屋を見回して驚愕する。

 いつの間にか、タンスの中身が全て床へぶち撒けられていたのだ。服や書物、下着の類いに至るまで収納場所が片っ端から荒らされている。まさか新聞創作に夢中になっている間に賊が侵入したとでもいうのだろうか。

 

 

「…………もしかして、これが噂の『見えないイタズラ妖怪』ってやつ?」

「でしょうねぇ、まさか友人の家に現れるとは思いませんでした。近頃は人里よりも天狗の集落で被害が拡大していたみたいでしたけど。…………何か盗られてますか?」

「お煎餅くらいかな、ネタとしては寂しいわね」

 

 

 自分に降りかかった災難すらも、即座に記事のネタへと繋げようとするのはブン屋の性なのだろう。しかし物足りない。単なる物盗りの話なら、それこそ天狗の秘宝が盗まれたとか、天魔の羽が引っこ抜かれたくらいの衝撃がないと記事にはできない。ただし、その場合の犯人は翌日には神隠しに会うだろうから記事にするのは難しいだろう。特に後者は。

 

 

「まあ、このことは警務部隊に報告するとして…………こほん、新聞のネタになりそうな話があるんですけど聞きます?」

「えっ、ネタがあるの!?」

 

 

 突然もたらされた吉報に、はたてとしては藁にもすがる気持ちで飛び付いた。だからだろう、そこで文がニヤリと笑ったのを見逃してしまう。それが文字通りに地獄へと誘う片道切符であることに、はたては気づけなかった。

 

 

「そういえば、文。あんたなんで天狗装束なんか着てるのよ、今日は非番だと思ってたんだけど?」

「いえいえ、天魔様から野暮用を押し付けられましてね。こいつが本当に面倒な任務でして道連れ、もとい同行者が欲しかったんですよ…………さてと」

 

 

 軽く肩を叩かれた。何だか嫌な予感がしたのを感じ取ったが、もう遅い。

 

 

「天魔様からの命令です、『射命丸及び、その補助者は八雲の使者と共に地底へ向かえ。そして天狗からの書状を届けよ』」

「…………え?」

「実はコレ、極秘任務なんですよ。いやー、はたてが協力してくれるみたいで良かったです」

「いやいや、どういうことよ?」

「あややや、鈍いですねぇ。『極秘任務』なんです」

「ちょっと、文ぁぁ!?」

 

 

 嵌められたと言わんばかりに目を見開くはたて。

 極秘と銘打たれた任務内容を聞かされては、もう無関係ではいられない。つまりは協力を強制されたということだ。しかも行き先は『地底』、まともな天狗の感性からすれば足を踏み入れたいわけもない。

 

 

「嫌に決まってんでしょうが!」

「まあまあ、何かあれば私が護りますから大丈夫ですって。それに特別手当もたんまり出してくれます。ついでに吸血鬼異変で好き勝手した罰も帳消しになります、なかなか美味しい話でしょう?」

「うー、わかったわよ。納得はしてないけど、やってやろうじゃない…………ところで外は寒かったでしょ。お茶くらい出すから休んで行きなさいよ」

「おお、それならお邪魔しますね」

 

 

 まあ、いざとなればこのブン屋を盾にしてやろう。はたてはそう思った。そして急須を取りに台所へ向かう。その間に文は散らかった部屋の整理を始めていた。はたての考えていることくらい、文にはお見通しだ。そして文の考えていることは、はたてに見透かされている。深く語らずともお互いに通じ合う、そこには長い付き合いの親友らしいやり取りがあった。

 

 

「ふんふん、はたては勉強熱心なものですね。こんなに資料が山盛りに…………う、ん?」

 

 

 何かの気配を感じて、文が振り向いた。しかし部屋にいるのは自分一人、他には誰もいない。なので「気のせいか」と判断して整理を再開した。こっそりとライバル紙の情報を集めながら、文は資料を戻していった。相変わらず油断も隙もない天狗であった。

 

 

 

 

 そんな文へ微笑みかけてから、ゆっくり静かに『彼女』は天狗の家から退散する。

 

 

「久しぶりにお姉ちゃんに会いに行こうかな?」

 

 

 定期的に人里の民家へと侵入し、近頃は天狗の集落にまで足を運ぶようになったイタズラ娘。その犯人が『地底の妖怪』であることに気づいた者はいない。

 翡翠色が混じったセミロングの銀髪に、落ち着いた緑の瞳。フリルをあしらった洋服とスカート、その胸のあたりに浮かんでいるのは『第三の目』。この少女こそが地霊殿の主が心配してやまない最愛の妹であり、地底に存在するもう一人の覚妖怪。

 

 

 

 そう、古明地こいしは地上にいた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十話:如法暗夜に煌めく

 

 

 それは冷たい月明かりが零れ落ちる、透明な空気の漂う夜だった。広大な湖に立ち込めるのは音一つない暗闇、その湖畔には怪しい存在感を放つ吸血鬼の屋敷が存在している。

 

 明るいランプの光が灯った紅い館。わざわざ人里からこの土地を訪れる者はいない、いくら幻想郷といえども強大な力を持つ化生たちの住居に土足で立ち入る命知らずはいないのだ。

 

 

 

「ふんふーん、今夜はここにお邪魔しよっと。フランは元気にしてるかなぁ?」

 

 

 そんな屋敷の門を、無邪気な声とともに小さな影が飛び越えた。オシャレな鴉羽色の帽子を被った幼き妖怪、彼女に気づいた住民はいなかった。館の主を除くのならば。

 

 

 

 

 

 そして内部から続く階段を下った先、紅魔館には地下室がある。つい最近まで封じられていた少女のための軟禁場。そこではとある少女が退屈そうに過ごしていた。

 金砂の髪は可愛らしいサイドテールで纏められ、フリル付きの真っ赤な洋服とナイトキャップ。姉に似たビスクドールのごとき繊細な外見は、仕草こそ幼いながらも見る者を惹き付ける魔性があった。

 

 

 ――――♪

 

 

 年代物のオルゴールが優しく曲を刻む。古い童話集に収められた西方民謡を金属の音色が歌い上げていく。そのメロディーに耳を傾ける少女の背中には、七色の宝石をぶら下げた美しい羽。この少女の名前はフランドール・スカーレット、先の異変にて鴉天狗たちと一戦を交えた吸血鬼の少女である。

 

 

「うーん、退屈よ。…………お姉様は相変わらず忙しいみたいだし、パチェは図書館から出てこない。慢性的に暇だわ」

「私がいるじゃないですか、フラン様」

「だって美鈴はチェス弱すぎるんだもん、私だけクイーン抜きで時間制限つけても圧勝しちゃう。そんなのつまんない」

「うぅ、象棋(シャンチー)ならそこそこ打てるんですけど、西洋チェスは苦手なんですよ。そうだ、間を取って将棋なら…………駄目ですか」

 

 

 ぷいっと不機嫌そうに顔を背けたフランを見て、美鈴は苦笑した。異変を通して心の安定を取り戻したフラン、彼女の従者として美鈴はたびたび地下室に足を運んでいるのが現状だ。咲夜がメイドになって楽ができると思ったのだが、世の中上手くはいかないらしい。

 

 

「ふぁぁ、眠いですねぇ」

「吸血鬼は夜が昼間みたいなものだから、私は何ともないけどね。美鈴、やっぱり疲れてる?」

「いえいえ、大丈夫ですよ。昼寝をしながら門番してますから」

「それって大丈夫なの?」

「平気ですよ、私たちの力を幻想郷に広めた今となっては攻め込んでくる者なんていませんから」

 

 

 それに美鈴は寝ていようと無意識に『気』を察知できるのだ、問題はない。ちなみに地下からでも侵入者の感知はできる。なので美鈴はフランの相手をのんびりとしているわけだ。毎晩毎晩、チェスの練習相手にされては叩きのめられる日々であるのだが。

 

 元々、この紅魔館でフランドールはレミリアに唯一、チェスで対抗できる存在だった。そして狂気の収まったフランはレミリアそっくりの冷静で明晰な頭脳を遺憾なく発揮できるようになっている。

 

 

「………パチュリー様も悔しがってましたよ、油断していたところをフラン様がボロボロに負かすから」

「本気でやったら互角なのよ? 最初に私が完封勝利しちゃったのは慢心していたパチェが悪いわ」

「あははー、フラン様は容赦ないからなぁ」

 

 

 たまに手心を加えるレミリアと違って、まだまだ子供だ。そんなフランの私室は地下とは思えないほどにファンシーな内装に溢れていた。淡いピンク色の絨毯、レースを施された天蓋ベッド、その周りに並べられた沢山のぬいぐるみが本当に『純真な少女』を感じさせる。まるで昔話の妖精が住んでいそうな気配、不思議な暖かさに満ちた部屋だった。口には出さないが、美鈴もここにいるのが好きだったりする。

 

 

「うーん、お姉様の布陣へ切り込むにはコレのほうがいいかな。できればダブルチェックを仕掛けたいけど」

「ナイトを使えばどうですか?」

「それだと見え見えなの、お姉様は鋭いから見破られるわ。本物の預言者ばりに先読みがスゴいし………もしかして『能力』を使ってるのかなぁ?」

「いやいや、お嬢様はそんなことしませんよ。使ってるならパチュリー様が見抜いてるはずですし」

「それもそうね」

 

 

 カリカリと紙に戦術を纏めていくフランの姿には気品があった。その何気ない動作から感じさせるのは貴族令嬢としての雰囲気、やはり彼女はレミリア・スカーレットの妹なのだと美鈴は思う。

 

 そしてフランの手元にあるのは真っ白な羽と真っ黒な羽を上手く加工した羽ペン。あの異変の中で散らばっていた彼女たちの羽を一枚ずつ寄せ集めたモノ、それをフランは愛用していた。何かを思い出したかのように吸血鬼の少女はピタリと羽ペンを止めた。

 

 

「ねぇ、美鈴。白い鳥さんは元気だったんだよね?」

「はい、宴会で会った時には快方に向かっている様子でしたよ。あれから一ヶ月経ってますから、もう異変で受けた傷はすべて癒えているでしょうね」

「そうなんだ」

 

 

 フランは興味がなさそうに作業を再開する。

 果たしてどんな顔をすればいいのか、わからなかったからだ。いくら怪我が治ったからといって、それを負わせたフランの行いが消えるわけではない。モヤモヤする気持ちは変わらない。ならば今の問いに何の意味があったのだろう、自分がしたことながら釈然としないものをフランは感じていた。

 

 

「刑香さんは恨んだりしませんよ、他の二人だって話せばわかってくれます。彼女たちはそういう妖怪なんです。…………今度、私と一緒に会いに行きませんか?」

「ううん、遠慮する」

 

 

 三枚の羽はお互いに寄り添うように束ねられていた、まるであの三人のように。それを見つめる自分は彼女たちの関係が羨ましいのだと心の奥底では理解している。彼女たちの持つ『壊れないもの』が羨ましい。

 

 

「お姉様みたいな家族じゃなくて、美鈴みたいな仲間でもなくて『友達』。そんな繋がりもあるんだって教えられたの。………気を失った白い鳥さんを運び出した時、私を睨んでいた二人の顔はとっても怖かった。でも同時に羨ましかったの、本当にお互いを大事にしているって気持ちが伝わってきたから」

「フラン様………よく言えましたね、よしよし」

「ちょ、ちょっと頭を撫でないでよ!」

「いたぃ!?」

 

 

 ぺちんっ、と美鈴の手を払いのける。

 そして天井を見上げてみると、小さめのシャンデリアからお月様みたいな光が降り注いでいた。それに手を伸ばすが自分の掌には何もない、何でも破壊できるはずの能力はちっぽけな『悩み』すら壊せない。どうやら世界は思ったより壊せないモノに溢れていたらしい、かつて自分が抱いていた浅慮に溜め息が出そうになる。

 

 

「迷路ぐるぐる、答えは出ない。どうして私は悩むんだろう、どうして…………ああ、そっか」

 

 

 とある考えに至って納得する。

 自分は彼女たちに謝りたい、そして友達になりたいのだ。それは正しく子供っぽく純真な願いだった。あまりにも単純な答えを得て、フランは顔に熱が集まるのを止められない。可愛らしく頬を染める吸血鬼に門番はニヤニヤと優しい笑みを浮かべていた。

 

 その時、ガチャリとドアが開いた音にフランと美鈴は気がつかない。何者かの足音が響き、小さな影がフランへと近づいてくる。

 

 

「それならフラン様、私に任せてください。ちゃちゃっと仲直りのための機会を作って差し上げますよ!」

「だ、ダメよ! これは私の問題なんだもん、私が解決しなくちゃいけないの!」

「うーん、そういうところはフラン様もお嬢様に似て頑固ですねぇ。私としては、そういう子供っぽい姿も微笑ましくて好印象なわけですけど」

「むー、子供扱いは止めてよ。それにお姉様が頑固なわけないでしょっ、フランのお姉様は完璧なんだから!」

「そ、そうですね。レミリア様は完璧な方です、イタズラ好きで負けず嫌いなんてことは…………げふんげふん、それよりお友達が欲しいなら自分から一歩踏み出さないとダメですよ」

「言っとくけど、あれから私だってお友達を一人作ったんだからね。えーと…………あれ、誰だっけ?」

 

 

 フランは首を傾げる。

 そもそも百年単位で閉じ籠っていたのに、自分に知り合いなんていただろうか。しかし何だろう『誰か』いたような記憶がある。つい最近できた友達がいたような気がする頑張って「お友達になって」と申し込んだ相手がいたはずだ。確か名前は―――。

 

 

 

 

「やっほー、遊びに来たよ!」

 

 

 

 突然、抱きつかれた。

 背中から両腕で包み込むように『誰か』が自分に垂れかかっているのをフランは認識する。

 

 

「わひゃぁぁぁああっ!?」

「ふ、フラン様!?」

 

 

 そしてその瞬間に記憶が甦る。「ああ、そういう能力だったね」と幼いながらも聡明な頭脳は答えを弾き出していく。『無意識を操る程度の能力』は他人の認識を無効にする厄介極まりない力だったことを『所有者』と共にフランは思い出した。

 

 

「もー、こいしっ。びっくりしたじゃない!」

「あははっ、だとしたら大成功だよ!」

「ああ、こいしさんでしたか」

 

 

 背中からフランに抱きついてきた少女は、古明地こいし。フランドール・スカーレットにとって初めての『友人』であった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 妖怪の山。

 立ち込める闇夜に人の姿なく、幻想郷が不気味に静まり返る丑三つ時。雲の隙間を渡る星々の輝きが純白の翼と九本の尾を神秘的に彩り照らしていた。

 

 

「ねぇ、藍」

「なんだ、白桃橋」

「今更だけど、安請け合いしたことを凄く後悔してるわ。これは流石に酷いでしょ」

「………すまん、先の手紙のせいで随分と警戒されているらしい」

 

 

 空中に静止している二人の足元に広がるのは巨大な穴。宇宙の彼方から隕石が落ちて出来た、と言われたなら信じてしまうほどに巨大な空洞であった。油断でもしようものなら引きずりこまれてしまいそうな漆黒の縦穴、ここが地底への入り口である。その奥に何かが見える。

 

 

「あれって『土蜘蛛』の糸でしょ?」

「そうだな、おそらく奴らの巣だろう」

 

 

 怪しく光る二人の瞳。夏空の碧眼と金色の眼は人間では到底見通すことの叶わない漆黒の中身を把握していた。彼女たちの視界に映るのは、無数に張り巡らされて入り口を塞ぐ白い糸。ここまで巨大な空洞を封鎖しているのだから大したものだ。おかげで飛び越える隙間もない。

 

 

「………ともかくこれでは視界が悪くていかんな。少し離れていてくれ、白桃橋」

「明かりでも出してくれるの?」

「そんなところだ」

 

 

 刑香が距離を取ったのを確認し、藍は短い呪詛を唱える。

 そして出現したのは鎖状に連結された青白い狐火だった。それがまるで竜のように空洞をかけ下り、暗闇を掻き散らす。その光景は例えるなら天の川を間近で見ているような美しさと、心胆を冷やす怪しさが宿っていた。吹き上がる熱風を感じ、刑香は思わず息を飲む。

 

 

「改めて思い知らされたけど、あんたは格が違う妖怪ね。私なんかとは比較にならないわ」

「それにしては悔しそうな口調でもないな?」

「別に嫉妬したわけじゃないからね。ここ最近はあんたや紫、レミリアやフランドールみたいな格上ばっかりと出会ってたから慣れたわよ」

「それは良かった、これからも宜しく頼む」

「お手柔らかに頼むわ。…………あんたの馬鹿げた妖術でも底まで見えないのね、どんだけ深いのよコレ」

 

 

 藍の妖術でも旧地獄の底までは届かない。来る者を飲み込む奈落に光は満ちず、その代わりとして奥深くに『蜘蛛の巣』が照らされた。まずはアレを突破しないことには地底の責任者に会うなど永遠にできはしない。「さて、どうしたものか」と考えていると風を切り裂く音が刑香の鼓膜を揺らした。程なくして、闇夜に溶け込む二対の黒い翼が刑香と藍の前に現れた。

 

 

「八雲の式殿、そして刑香。お二方ともお集まりのようで何よりです」

「やっほー、刑香」

 

 

 少し形式ばった様子で射命丸文が、手を振って軽い挨拶とともに姫海棠はたてが飛来する。その身に纏うのはやはり真っ白な天狗装束、腰の部分には妖刀に葉団扇。前の異変時と同じ完全武装だった。ただし文の腰には二本の刀が差してある。

 

 その内の一本を鞘ごと引き抜いて、文はそれを刑香へと投げ渡す。

 

 

「それを念のために渡しておきます。さすがに錫杖で地底の妖怪を相手にするのは危ない、それに刑香は棒術より剣術の方が得意でしょう?」

「まあね、それならありがたく頂戴するわ」

「…………葉団扇と違って今回は貸すだけです、あなたに刀を持たせると不吉な予感がするので。特に『鬼』関連では」

「わかってるわよ、でも刀を持つなんて萃香様と戦った時以来だから上手く使えるかな」

 

 

 試しに妖刀を鞘から引き抜いた。

 よく研がれた刀身に曇りはなく、月の光を宿して仄かに灯る妖力はとても鋭い。それだけ確認した刑香は、再び妖刀を鞘へと戻してそのまま腰紐で固定する。その一連の動作は流れるようだった。少なくとも昨日今日、剣術を修めた程度のものではない。

 

 

「慣れているな、白桃橋」

「まあね、これでもそこそこ強かったんだから」

「天狗は源氏の武将に剣術を授けた妖怪だったな、それなら剣に長けているのも納得か」

 

 

 それでも少し意外そうな顔をした後、藍は鴉天狗たちへと口を開く。

 

 

「さて、これからお前たちには地底に赴いてもらうわけだ。しかし見ての通り、入り口は土蜘蛛たちの糸が張られて通れそうもない。まずは私の妖術で焼き払ってから突入してもらおうと思うわけだが、どうだ?」

 

 

 藍にとっては大した労力ではない。さっき放った狐火をそのまま土蜘蛛の巣にぶつけてしまえばいい。一撃で不足だというなら二撃、三撃と放てばいい。それ引き換え、鴉天狗の得意とする『風』や『斬撃』は蜘蛛の糸には相性が良くないだろう。

 まして妖怪である土蜘蛛の糸ともなれば、鋼鉄を越える頑丈さなのは確実だった。そのため藍は自分が焼き払うと申し出たのだ。

 しかし、黒い鴉天狗は頷かなかった。

 

 

「いえ、ここは私たち天狗の領域です。余所者にあまり大規模な術を使われるのは困るんですよ。代わりに強力な助っ人を用意しているので、お気遣いなく。…………椛、出てきなさい」

「初めから此方にいますよ、文さま」

 

 

 文たちを見上げる構図で、大洞窟の淵ギリギリに立っていたのは一匹の白狼天狗。フサフサした尻尾と白い狼耳が特徴的な彼女の名は犬走椛、文の部下である。

 

 

「久しぶり、椛」

「はい、お久しぶりです。刑香さま」

「あんたたちは相変わらず硬いわねぇ……」

 

 

 鴉天狗の短い挨拶に白狼の少女は言葉少なく一礼する。

 鴉天狗と白狼天狗という関係上、刑香と椛は特に親しい間柄というわけではなかった。せいぜいすれ違えば挨拶をする程度の仲、悪い感情はないが良い感情も特にはない。それゆえの事務的なやり取りに、はたては呆れた顔をした。

 

 

「そこの白狼、本当にお前一人で大丈夫なのか。土蜘蛛の巣はかなり頑強で複雑な構造だぞ?」

「…………問題ありません、たった今把握しましたから。この『眼』なら穴の底まで見透せます、あとは斬るだけですのでご安心を」

「なるほど『千里眼』持ちか。人手不足の八雲と違って、天魔殿は良い部下に恵まれているな」

 

 

 如何に深き闇の底であろうとも、『千里先を見通す程度の能力』を持つ椛には無意味だ。どれだけ広大な空間であろうとも、千里眼の前においてソレは小さな箱庭と変わらない。

 

 椛は頷いた。

 構造は把握した、あとは宣言の通りに斬るだけである。「果たして切り裂くことができるのか」などという不安は椛を見下ろす鴉天狗たちの胸には存在しない。射命丸文が鴉天狗の精鋭ならば、犬走椛は白狼天狗の精鋭だと信頼しているからだ。この程度、難なくこなさずに如何とする。

 

 

「では参ります」

「おいっ、正気なのか!?」

「まあまあ、椛は強いのでご心配なく」

 

 

 崖から足を踏み外した、その表現が正しいだろう。

 白狼の少女は頭から真っ逆さまに奈落の底へと身を投げた。藍が焦った様子で彼女を救おうと術を構成し始めたのを鴉天狗が押し止める。

 

 

 

「…………いつも見張っていた穴に自分が落ちるなんて思いませんでしたよ。まったく、文さまはいつもいつも面倒なことを私に押し付けるんだから」

 

 

 ぶつぶつと不満を口にしながら、白狼の少女は下へ下へと落ちていく。耳を鳴らす風の音がうるさい、ぐんぐんと速度が上がる。そして先には土蜘蛛の巣が待ち構えている、カチャリと鞘に手をかけた。この落下スピードならばかなりの威力が得られるに違いない。

 

 

「でも、これでは鋼鉄すら凌駕するという土蜘蛛の糸を斬るには不足。ただ落下するだけの速度と威力では足りないはず…………ならば!」

 

 

 ならばどうするのか、その難問に対して椛は『壁』を蹴ることで克服した。わずかな出っ張りに一本葉下駄を引っ掛け、真下へと岩壁を走って加速する。地を駆ける速度なら白狼天狗は鴉天狗よりも遥かに速い。地面へ両脚が付いているのなら、狼の牙が鴉の爪を大きく上回る。そしてそれは大地との関係が『縦』であろうと変わらない。椛は妖刀を引き抜いた。

 

 

「………でりゃぁぁああああ!!!」

 

 

 すれ違いざまに五閃。

 白狼の牙は見事に、自らの前に立ち塞がる邪魔者を切り裂いていた。ギシリと腕の筋肉が軋む音に舌打ちをする。されどそのまま複雑に入り組んだ蜘蛛の巣を一刀両断しながら落ちていく。そして僅かに数秒後、突如として巣が途切れたのを確認すると身体を無理やり反転させる。

 

 

「っ、ぐぅぅううう!!」

 

 

 硬い岩肌へと片腕を叩きつけ、そこへ爪を食い込ませながら強制的に落下速度を減速させる。ぶちぶちっ、と勢いよく筋繊維の千切れる音が伝わってくる。おまけに自慢の爪がひび割れたことを感じながらも、どうにか椛は暗い空間で静止した。

 

 決して軽いダメージではなかった。目一杯の加速を付けた負担、その速度で土蜘蛛の糸を切り裂いた際の反動、極めつけである無茶な減速による筋肉の断裂。しかしこの程度なら翌朝には治る、痛みはあるものの問題はない。

 

 自らの身を案じるよりも先に自分にはやるべきことがある。この成果を彼女たちに知らせなければならない。

 

 

「お三方っ、道は開きましたよ! ここより奥に土蜘蛛の姿あり、頭数は十二です! 決して油断なされぬよう、そして十分にお気をつけて!!」

 

 

 

 

 バサリ、と尖兵からの報告を受けた三羽の鴉天狗たちの翼が広げられる。それぞれが風を纏い、妖刀に手をかけて突入体制に入っていた。はたてと刑香は待っている、自分たちのリーダーが下す指示を。

 

 そして彼女たちの準備が整ったのを見計らった射命丸文は妖刀を抜き放つ。ゆっくりと、しかし堂々とした面持ちで輝く刃を奈落へと向けて文は高らかに宣言する。

 

 

「―――現在の時刻は丑三つ、これより任務を開始する。達成条件は書状の到達及び我々三名の生存、失敗条件は言うまでもない、か。…………さあ、続いてください。刑香、はたて!!」

「了解よ、文!」

「私も了解……………っ?」

 

 

 黒い翼が大空ではなく、地底を目指して飛び立つ。しかし、そこで刑香だけは立ち止まってしまった。足下から立ち昇る風に紛れて何だか懐かしい気配がしたのだ。むせかえるように甘い酒の匂いが一瞬だけ鼻をくすぐった。

 

 

「何してんの、大丈夫?」

「え、あ、ごめん!?」

「先に行くわ、刑香も後から追ってきてよ!」

 

 

 はたての声が刑香を我に返す。

 既に洞窟へと飛び込んだ文は椛のところまで進んでいる。早くも土蜘蛛たちとの戦闘が始まる可能性があった。あの文ならば心配はいらないはすだが、人数は多いに越したことはないだろう。「嫌な予感がする」と、どこか不安な気持ちを引きずりながらも刑香は再び飛び立とうと翼を広げる。

 

 その時だった。

 

 

 

「ちょっと待ってよ、刑香ぁぁあーーー!」

「この声って、まさか」

 

 

 

 こちらへと大急ぎで飛んでくる小さな紅白。その姿を目にした刑香は驚いた。今夜の出発は彼女には告げていない、それにも関わらずどうやって辿り着いたというのか。ぽふん、と胸に飛び込んできた霊夢を受け止めながら刑香は藍へと言葉をかける。

 

 

「まさか藍、あんたが?」

「さて、今夜の話を橙には話したが霊夢に話した覚えはないな」

「そんな話を橙が聞いたら、霊夢に知らせるに決まってるでしょうよ。あんたは本当に遠回りなことを……」

 

 

 しかし藍の気遣いはありがたかった。おかげで胸につかえていた何かが取れた気がしたのだ。こっそりと翼へ手を伸ばしていた霊夢を引き剥がしながら、刑香は藍へと心の中で礼を述べた。

 

 

「帰ってきたら触らしてあげるから、今は止めなさい」

「うん、約束だからね。いってらっしゃい、刑香」

「…………うん、いってきます」

 

 

 足下から聞こえてきた戦闘音、もう時間はない。だから出発の言葉は短く簡潔に、それでも気持ちだけは目一杯込めておく。最後に藍へと目配せした後、白い鴉天狗は空中を蹴った。

 

 

 今なら蛇でも鬼でも相手に出来そうだと思うのは、我ながら単純なのだろうか。刑香はそう自笑しながら地底の大穴へと脚を踏み入れた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十一話:秘めた夜の守歌

 

 

 古明地こいしがフランドール・スカーレットと出会ったのは単なる『偶然』だった。

 ある月夜、ふらりと立ち寄った湖の畔。そこには真紅の屋敷があり、自分を手招きしているように無人の門は開かれていた。そして誘い込まれるまま地下への階段を降りた先、分厚いトビラの向こう側にいたのは自分と同じくらいの背丈の女の子。気がついたら「こんばんは」と挨拶をしていた。たいそう驚いた表情をしていた彼女の顔を未だによく覚えている。

 

 それが古明地こいしとフランドール・スカーレットの『偶然』の出会いのはずだ。

 

 

 

 

「うーん、本当に偶然だったのかな、私とフランが出会ったのは…………誰かに謀られたような感じがするんだよねぇ」

「なら私は『運命』だと思うことにするわ、だってその方が素敵じゃない。あ、紅茶が切れちゃった。美鈴まだ戻って来ないのかなぁ………」

 

 

 空っぽになったティーポットを揺らして残念そうな顔をするフラン。ここにいない美鈴にはこいしの分のお茶とお菓子を持ってきてもらっている。彼女が階段を上がってからもう数十分は経ったはずなのだが、まだ帰ってくる気配はない。ひょっとしたら何か夜食を作ってくれているのかもしれない。

 

 

「ごめんね、せっかく来てくれたのにもてなしも出来なくて。こいしはお腹空いてない?」

「大丈夫、そんな気遣いは要らないよ。私はここにいるだけで満足だから」

 

 

 ころんとベットに寝転がる、こいしにとってフランの部屋は落ち着く空間だった。地下室の空気がどこか地底と似ているからなのか、それとも微かに匂う『狂気』のせいなのか。ともかく自分はフランへと無意識な親しみを感じていた。

 

 そんなことを考えながら、こいしは優雅に椅子へと腰掛けているフランを何ともなしに眺めていた。幼いながらもスラリと伸びた手足から始まる、精巧に形作られた外見は可愛らしさと美しさがまさに両立している。人を魅力し惹き付け、その血液を食事とする吸血鬼らしい姿だった。

 

 

「ほへぇ、本当にキレイだねぇ」

「なにが?」

「フランが」

「…………あ、ありがと。でもこいしも可愛いと思うわ」

「可愛いとキレイは別なんだって、お姉ちゃんが言ってた」

 

 

 真っ赤になるフランをじっと見つめる。何かに執着することのない自分が何度もここに足を運んでいるのは、きっとフランのことが好きだからだろう。

 もしかしたらフランの内に燃えたぎる『破壊』の力に惹かれたのかもしれない。『無意識』にすら恐怖を植え付けかねない絶対的な能力に、こいしの心が吸い寄せられたのかもしれない。こんなにも自分の心を惹き付ける相手など、今までは姉しかいなかったというのに。

 

 

「そういえば、フランにもお姉ちゃんがいるんだよね?」

「お、お姉ちゃん? …………ふふっお姉様、レミリアお姉様と呼ばないとダメよ。だってお姉様はとっても凄いんだから。西方に居た時も『スカーレット・デビル』なんて恐れられてたし、今だって幻想郷の賢者たちと対等にお話ができるくらい重要な地位にいるの」

 

 

 うっとりとフランは姉のことを自慢気に語る。

 それはまるで「私のお姉様が世界で一番なの」と言わんばかりの口調であった。こいしからすれば、それは黙っていられない話である。自分には『無意識を操る程度の能力』でも断ち切れなかった唯一の絆、世界で一番古明地こいしを大切に思ってくれている最愛の姉がいるのだ。例えフランの姉にだって負けたくはない。

 

 

「むー、私のお姉ちゃんだってエライもん。えーきに頼まれて地霊殿を立てたし、幻想郷で最強の妖怪と共存すらやってのけたの。それに私の能力を払い除けるくらい強い精神力を持っているんだから、フランのお姉ちゃんにも負けないわ」

「…………レミリアお姉様よりスゴい姉様なんているわけないわ、よく考えれば理解できることだもん」

「ううん、さとりお姉ちゃんの方がカンペキだよ」

 

 

 そこまで言うと二人は「うぅー」と小動物のように唸りながら顔を付き合わせる。お互いにとって心の拠り所となっている姉の名誉を守るためにも譲れない。ピンク色のクッションを抱えながら向かい合う様子は幼い少女そのものだった。

 

 

「だからレミリアお姉様の方がスゴいの!!」

「だってさとりお姉ちゃんだって負けてないもん!!」

 

 

 負けじと張り合う妹達。しかし当のレミリアは子供からの評価など気にも止めないだろうし、さとりは自身への外聞そのものに興味がない。つまりこの言い争いに意味はなく、どこまで行ってもフランとこいしだけの小さな喧嘩なのだ。そこに幼い二人は気がつかない。

 

 

「………要するに、こいしのお姉ちゃんは話し合いが得意なんでしょ。ならやっぱりレミリアお姉様の勝ちだわ。お姉様は交渉事にだって強いし、いざというときの戦闘に関する実力だって一流なんだから」

「ふふん、それこそ無理だよ。さとりお姉ちゃんに勝てるのは私だけだもん、心を読めるお姉ちゃんは他の誰にも倒せない。フランのお姉様だって勝てるわけないよ」

 

 

 心を読むことが『覚妖怪』に共通する能力である。

 相手の考えを見通すことによって、戦闘においては常に一歩先を制することができる。強大な妖怪同士の戦いにおいて、このアドバンテージはあまりにも大きい。こちらの攻撃は全て空振りに終わり、あちらの攻撃は全て防御をすり抜けてくることさえある。

 

 

「どうかな、お姉ちゃんには手の内が全部バレバレなんだから勝てないでしょ」

「…………言いたいことはそれだけかしら?」

 

 

 それでも勝ち誇ったようにフランは笑った。レミリアにはあの『能力』がある、たがらその程度でフランが敗北を認める理由にはならないのだ。

 

 

「心を読めるくらいが何よ、お姉様は『運命』を操れるの。たかが一歩先を読もうとも、お姉様はその先の先まで掌握している。一手先を読める程度の妖怪なんて指先一つで倒しちゃうんだから」

「そ、そんなことないもん。さとりお姉ちゃんなら心の奥に干渉して、相手の作戦を丸ごと見通せるはずだから………」

 

 

 空っぽの心に『熱』が戻ってくる。サードアイを閉じたことにより心を読む能力を失い、こいしは自分の心を閉ざしてしまった。だから今のこいしに残った感情は希薄であるはずなのだ。

 しかし何事にも例外がある、さとりの話題に対してだけは声にわずかな感情が甦った。唯一残った感情の回路、姉への想いがこいしに熱を一時的に取り戻させているのだろう。ギシリ、とサードアイが痛みを発した。

 

 

「フランの分からず屋っ!」

「どっちがよ、こいしの頑固者! …………あ、だったら私たちで決着付けてみようか。私たちが戦って勝利した方の姉が優秀っていうのはどう?」

「いいね、それ。わかりやすくてグッドだね、フラン」

 

 

 こいしはフランとお互いの手を取り合った。じわじわと漏れ出す心の痛み、じっくりとフランの瞳を見つめていると『心』の奥から何かが滲み出してくるのを感じた。キシキシと歯車が軋み始める音がするのは気のせいではないだろう。そして、それはフランも同じだ。

 

 

「きゅっとする鬼ごっこはどう?」

「永遠に見つからないかくれんぼがいいかも?」

 

「「それなら両方しようよ」」

 

 

 『狂気』が部屋を埋め尽くす。

 レミリアが判断したように、フランの精神を完全に安定させるにはあと十年近くが必要になる。異変の時よりも心の安定を取り戻したとはいえ、まだ早すぎたのだ。こいしの秘めた狂気に当てられてフランの狂気は再び顔を出してしまった。

 

 

「きひひ、楽しみだね」

「あはは、私もだよ」

 

 

 薪を放り込まれた暖炉のようにフランの精神が熱を帯びていく。感情の昂りに合わせて瞳は虹色の色彩を浮かび上がらせ、ぐつぐつと空気を脈動させる。そして灼熱の『狂気』が顔を覗かせた。

 一方のこいしも表情こそ相変わらずだが、その身からはフランと真逆の冷たい妖気が発せられていた。零度の『狂気』が部屋を深海のような静寂へと沈めていく。

 『動』と『静』、形こそ違えど強大な実力と狂気をその身に抱えた少女たち。そこに先程までの穏やかな雰囲気はない、微妙なバランスの上に成り立っていたソレは崩れてしまった。

 

 チリチリとした魔力と妖力が空気を焦がす。幻想郷においてもトップクラスであろうほどに凶悪な能力を持っている二人である。こんな所で暴れれば紅魔館そのものを傾けてしまうかもしれない。そんな事実も今の彼女たちには届かない。フランが宝石の羽を広げ、こいしが宙へと浮かび上がる。

 

 階段を急いで駆け降りてくる音が聞こえ、ドアが乱暴に開かれたのはまさにその時だった。

 

 

 

 

「私がちょっと留守にしていた間に何をしてるんですか、落ち着いてください二人とも!!」

 

 

 

 あわや大惨事が引き起こされる寸前、そんな空気に割って入ることのできる人物は一人だけ。紅美鈴は茶器とお茶菓子の乗った銀のトレイを掲げながら、こいしとフランの間に身体を滑り込ませていた。

 

 

「あっ、美鈴おそーい!」

「美味しそうな匂い、もしかして揚げ菓子?」

「そ、そうなんですよ。作るのに少々時間が掛かってしまいまして…………ふぅ、危なかった。本当に危なかったです」

 

 

 どうやら間に合ったらしい。お茶とお菓子の到着によって、あっという間に殺気を霧散させた二人に美鈴はほっと胸を撫で下ろした。

 正直なところ、今のは寿命が縮んだ。美鈴としてはフランが友達を得て楽しそうにしているのは歓迎すべきことだ。なのだが、いかんせん二人とも心にアンバランスな面がある上に、お互いの抱える狂気を増幅し合うので油断ができない。美鈴は思わずため息をついた。

 

 

「もう、気をつけてください。私がいなかったら、もう三度は決闘になっているんですよ。おまけにレミリアお嬢様にはお友達のことを秘密にしているんですよね、フラン様?」

「うぅ、お姉様の話題になったらつい熱が入っちゃったの。ごめんなさい、美鈴。だからお姉様には秘密にしてて………って、こいしも謝ってよ!」

「ふぇ?」

 

 

 正気を取り戻したフランが美鈴に謝っている間に、こいしはモゴモゴとお菓子を頬張っていた。まるで空に浮かぶ風船のように勝手気ままな友人の行動にフランは頬を膨らませる。

 

 

「もうっ、先に食べ始めてるし。私だって美鈴のお菓子は大好きなのにズルいわ!」

「ごめんごめん、美味しそうな匂いだったから無意識に手が伸びちゃったの」

「とりあえず『無意識』って言えば、何でも誤魔化せると思ってるでしょ。まあいいけど…………これ本当に美味しそう、何て名前のお菓子なの?」

 

 

 トレイに乗っていたのは、クッキーをグルグルとねじってから焼き上げたような独特の形をした揚げ菓子だった。こいしの言った通りに香ばしい風味と、表面に塗られたハチミツが口の中に広がり心地よい。美鈴は小さな急須からお茶を湯飲みに注ぎながら、フランへその料理について説明した。

 

 

「これは大陸の揚げ菓子、麻花(マーホア)です。簡単に説明するなら小麦粉をよくこねて、ねじって形を整えた後に油でカリカリに揚げたモノですね。今回はハチミツを使った蜜麻花を作ってみましたが、お口に合ったようで安心しました」

「へぇ、珍しいお菓子を作れるなんて門番さんはスゴいんだね」

「美鈴は大陸の文化に詳しいの、たまに変なカンポーを調合してパチェを怒らせたりするけど」

「カンポーって何?」

 

 

 美鈴から湯飲みを受け取りながら、こいしは首をひねる。カンポーではなく漢方薬のことなのだが、薬学に詳しくない二人にはわからない。ちなみに湯飲みの中に注がれていたのは青茶(チンチャア)、この国では烏龍茶と呼ばれるモノであった。上等なためか花の香りがする青茶を二人は揚げ菓子をお供にして飲み干していく。

 

 

「ねえねえフラン。私ね、天狗の集落に忍び込んだんだけど、その時のお話聞きたい?」

「天狗の集落に…………き、聞きたいっ!」

「ふっふっふっ、ならば教えてしんぜよう」

「なんかエラそう」

「えへへ、一度だけ言ってみたかったんだ」

 

 

 それは少女たちの秘密の夜会、甘い香りと楽しげな声が絶えないひと時がそこにはあった。美鈴も「ずっとこういう雰囲気だったらなぁ」と思いながら、優しい表情で彼女たちを見守っている。この様子ならもう今夜は暴走することはないだろう。しかしながら、楽しい時間というのは長く続かないものである。

 

 

「あっ、そうだ。フランに伝えなきゃいけないことがあったの忘れてたよ」

「え、なになに?」

 

 

 まさにその時だった。楽しげな雰囲気の中で、こいしが『そのこと』を何気なくフランに告げたのは。

 

 

 

「私、そろそろお家に帰ろうと思うの。だからもうフランと会えなくなると思うよ」

 

「………………え?」

 

 

 

 無意識の少女は何でもないことのように、空っぽの心で吸血鬼の友人に別れを告げた。呆然とするフランとは対称的に、こいしは今まで通りの笑顔で次のお菓子へと手を伸ばす。

 

 心を閉じた覚妖怪が『寂しさ』の感情を理解するのは困難だ、それは本当にとても難しいことだったのだ。友人の抱える闇を、フランは知ることになる。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 太古の時代から朝廷(にんげん)と争い続け、この国では『鬼』と並んで恐れられた古の妖怪。各地に残された風土記にて語られる伝説からは、人の姿をした妖怪とも妖の姿をした人間とも語り継がれている。後世にてその多くが武将たちに討ち取られてしまったが、少数の土蜘蛛たちは命を繋ぎ止め、今も幻想郷の地で生き続けている。

 

 鬼の顔と虎の胴体、そして蜘蛛の手足を持つ姿にて描かれた大妖怪。かつては名高い源氏の武将たちと戦を繰り返し、毒々しい呪いと病により多くの命を奪ったほどの化生である。

 

 

「かつて私たちは人の村々、広がる裾野を駆け抜け、八束の風土にて誰よりも畏れられていた。ニンゲンから大いに忌み嫌われていた。…………でも、それは今や昔の話」

 

 

 少女は囁くように自らの種族を語る。

 遥かな昔、土蜘蛛はニンゲンに敗北し妖怪になった。その恨みから人間を襲っていたが幻想郷に取り込まれ地底に幽閉されてからは変わってしまった。未だに好戦的な者たちは多けれど、かつてのような荒々しい気性や能力は鳴りを潜めてしまっている。きっと幻想郷に引き寄せられた時に土蜘蛛としての何かが変化してしまったのだろう。

 

 

「まあ、それはいいんだけど。私たちにはもう以前のような強さはない。どんな手段を使ってでも外敵を滅ぼしてきた、あの頃のような非情さは無くなってしまったわけなの」

「そーなんだね」

「それ自体に後悔はないんだけどね。ただ、こういう時は今の自分たちが恨めしくなっちゃうかな。ケンカじゃなくて戦いなのに、みんな勝手なことばっかりしてるし」

 

 

 ついさっき、巣に降り立ったのは『八雲』と『天魔』からの使命を帯びた鴉天狗たち。対して「地上から来る妖怪に茶々を入れたかった」だけの土蜘蛛たち。両陣営は戦闘に対する気構えが違いすぎた。鴉天狗たちは連携しながら戦っているというのに、土蜘蛛たちは各々バラバラに立ち向かっているだけなのだ。

 

 

「あーあ、ボッコボコだよ。よりにもよって地上から来たのが、組織行動の得意な鴉天狗じゃ仕方ないけど」

 

 

 次々と気絶させられていく『同胞』たちを見下ろす土蜘蛛の少女、黒谷ヤマメは退屈そうに呟いた。この少女は戦闘に加わっていない、こっそりと岩壁の窪みに身体を隠しているだけだ。そうでないと今頃は、鴉天狗のうちの誰かに気絶させられていたかもしれない。最初に巣を切り裂いた白狼天狗を見て待避していたのだが、どうやら正解だったらしい。

 

 

 

「天狗っていい思い出がないんだよね。怖い怖い、くわばらくわばら。…………あはは、土蜘蛛の私が厄除けのおまじないを唱えるなんて可笑しな話だね」

「そーだね。ぷぷっ、年寄りくさい…………わひゃぁぁっ、揺らさないでぇ!?」

 

 

 横にぶら下がっていた桶の中からバカにする声が聞こえたので、とりあえず上下に揺さぶっておいた。大きな木製の桶に入っているのは『釣瓶落とし』のキスメ、鬼火を操る妖怪の少女である。ヤマメとは仲の良い友人関係で、よくつるんでは暇を潰し合うのが日課である、

 

 

「うぅ、ひどいよー!」

「先に仕掛けたのはキスメでしょうが、まったくもう失礼するよ。私はまだまだうら若き乙女なんだから」

「とりあえずごめんなさい」

「よし、許す」

 

 

 そうしているとまた一匹、今度は少女たちの連携によって同胞が討ち取られているのが見えた。ヤマメが見下ろす先では、黒髪の鴉天狗の起こした突風に巻き上げられる男の姿があった。

 

 

「頼みましたよ、はたて!!」

「でりゃあぁぁ!!」

「―――ガ、アァァ!?」

 

 

 強烈な峰打ちが男に突き刺さる。黒髪の鴉天狗の持つ葉団扇から放たれた暴風に煽られ、バランスを崩した土蜘蛛への容赦ない一撃。抜刀していないのだから手加減はしているのだろうが、あれは並の妖怪なら真っ二つになる。ちなみに、気を失って落ちていく同胞はこれで六人目だ。

 

 

「…………うん、とっても強い。現代(いま)の私たちじゃ勝てないな、悔しいけど格上ってやつだ」

「勝てないのは悲しい?」

「ううん、悔しいけどこれが現実なんだから仕方ない。もう昔とは違う、天狗は手ぶらで戦って勝てる相手じゃなくなったわけだ。いや、連中は昔から強かったんだけどね。特に親玉が」

 

「ふーん、天狗の頭領なんて見たことないや。ところで目ん玉妖怪からの命令、守れそうもないけど怒られるかな?」

「どうだろ、アイツにとっては想定の範囲内かもね。地上からの侵入者を撃退しろなんて言ってたけど、私たちがバカ騒ぎしたいだけだってことも読んでるだろうし」

 

 

 さとりからの命令で自分たちはここに集結した。そして、この状況を見るに地上からの『脅威』がどの程度であるのかを測るための当て馬、それが今回の自分たちに与えられた役割だったらしい。それでも土蜘蛛たちは「酒と喧嘩は地底の華」と思ったからこそ、地上の妖怪にケンカを吹っ掛けに来た。勝ち負けには拘っていないのだ。

 

 

「まあ、利用されるのを知りながら喧嘩を楽しみに来た土蜘蛛の考えなんて、さとり妖怪には見透かされているに決まってるよ」

「たぶんそうだろうね、アイツにかかれば地底の全ては意のままだもん」

 

 

 心理戦を繰り広げて、古明地さとりに勝つことのできる者は地底に存在しない。当たり前だ、心を掌握する妖怪と対峙して万が一にも勝ち目があるわけもない。ならばこそ地底の妖怪たちは星熊勇儀よりも古明地さとりを恐れ、忌み嫌うのだ。

 そこでヤマメは思考を一旦打ち切った。戦闘中なのに今ここにいない人物のことを考えても仕方ないからだ。だからこそ仲間たちが押されている戦況を観察しているたのだが、そこで一つの発見があった。

 

 

「あ、特に厄介なのはアイツだ。とびっきりの厄除けの匂いがする。きっと私たちの『能力』が通じないのもあの白い奴のせいだよ。やっぱり天狗衆は層が厚いね、あんな奴もいるなんて」

「何だか楽しそうだね?」

「まあ、どうせなら楽しまないと勿体ないよ」

 

 

 ヤマメが面白そうに眺めているのは白い鴉天狗。

 戦闘力自体は他の二羽と比較するなら大したことはない。だが不快な気配がした、土蜘蛛の持つ『病気を操る程度の能力』を払いのける刑香の『能力』をヤマメは本能的に感じ取る。

 だからなのかその純白を地に墜としたいと土蜘蛛の牙が疼き出す。久方ぶりに沸き上がるそんな感情が堪らなく愉快だった。

 

 

「文っ、はたてっ!」

「げっ、もう時間切れですか!?」

「そろそろ見抜かれるわよ、気をつけて刑香!」

 

 

 三羽の鴉天狗たちが一旦集結する、そして白い鴉天狗に触れると直ぐにまた散開していった。先ほどから繰り返される、その行動に何かしらの意味があるのは明白だろう。恐らくは能力の一時的な譲渡か何か、それによって病を退けている。

 その『能力』が無ければ、致死性の感染症の一つや二つくらいはお見舞いできたというのが非常に残念だ。ヤマメがうんうんと納得していると、キスメが「でも」と首をひねる。

 

 

「でも、ヤマメや私が気付いたってことは他のみんなも勘づくんじゃない?」

「それはそうだろうね、ほら白い奴を狙い始めたよ」

 

 

 キスメの予想は当たっていたようで、残っていた土蜘蛛たちは一斉に白い鴉天狗へと牙を向いた。彼らの口から灰色の糸が吐き出される。能力を使用した影響からか、速度の鈍っていた少女の細身に糸が絡み付く。

 

 

「く、しまった!?」

「捕まえたぞっ、さらに動きを止めろ!」

 

 

 それと同時に二匹の土蜘蛛から灰色の糸が白い鴉天狗の腕と首に巻き付いていく。『病を防ぐ術』さえ潰してしまえば、鴉天狗たちに一矢報いることができるだろう。強靭なクモ糸が華奢な身体を逃すまいと締め付ける。ジタバタともがく少女だが、あれではもう逃げられない。そして、これは絶好のチャンスだ。

 

 

「~~~っ、はな、しなさい!」

「そりゃ無理な相談だ、誰がこの状況で解放するんだ、よっと!」

「っ、くぅ…………ぁ」

 

 

 ギシリと首に巻き付く糸を引き締める。白い少女は気丈に男たちを睨んでいるが、全身を絡めとる糸にはどうしようもない。そうしている間にも少女を窒息させようと男たちは糸を締め上げる。

 

 

「ねえ、キスメ」

「はいはい、ヤマメも行ってきなよ。蜘蛛の巣にかかった獲物はみんなで分けるんでしょ、私は待ってるからさ」

 

 

 「今なら狩れる」とヤマメは口元を歪ませた。残りの鴉天狗たちが救援に駆けつけようとしているのが見える。それでも頭上に陣取っている自分ならば白い鴉天狗の不意を突ける、その首に毒牙を突き刺せるはずだ。この絶好の好機を利用すれば、全体の流れを変えられるかもしれない。土蜘蛛の少女は初めて妖怪らしい笑みを浮かべて、ぐっと両足に力を巡らせ―――

 

 

「それじゃあ、ちょっと行ってく…………ぅわ!?」

 

 

 ―――ようとした瞬間だった。

 地上から迫ってくるモノの気配を察知できたのは幸運に過ぎなかった。それを回避するために身をよじったと同時に、透明な刃がヤマメの顔を掠めるように通り過ぎる。空気の振動に眼球が揺らされたのをはっきりとヤマメは感じ取った。

 

 

「あ、あぶなっ!?」

 

 

 咄嗟に身を引いたヤマメの目前を大きく駆け降りていったのは風神の刃。膨大な妖力を押し固めて放たれる鴉天狗たちの奥義の一つ。それは白い少女のいる側面まで接近すると直角に折れ曲がり、横から土蜘蛛の男たちを呑み込んだ。

 

 

「ガ、ガァァアアァァ……………ッ…!!?」

 

 

 男たちを取り込んだ竜巻から流れ出したのは悲鳴だった。さながら罪人の処刑を行うがごとく、鮮血をも巻き上げて深紅に染まった竜巻が舞う。程なくして血まみれで同胞たちが吐き出されるのをヤマメは呆然と見送った。

 ズタズタにされた男たちと、微塵に切り刻まれた土蜘蛛の糸が地の底へと墜ちていく。男たちは一切の抵抗を許されず意識を刈り取られ、鋼鉄をも凌駕する糸は完膚なきまでに断ち切られていた。それはあまりにも刹那的で、衝撃的な出来事だった。さすがのヤマメも顔を青くする。

 

 

「え、何が起こったのヤマメ?」

「っ、今のはここの鴉天狗たちじゃない。まさか別の誰かが『地上』から攻撃してきたっていうの!?」

 

 

 あり得ないとヤマメは可能性を否定する。

 ここから地上までどれだけの距離があると思っているのだ。数千年を生き抜いた大妖怪ならいざ知らず、そこいらの妖怪の攻撃が届くはずもない。だからこそ地上への空間を見上げた時、ヤマメの瞳は凍りついたように動きを止めた。

 

 

「う、そ」

 

 

 見上げた瞳に映ったのは黒い翼。遥かな地上の空にて、月の光を背負い佇んでいたのは、葉団扇を手にした一羽の鴉天狗だった。その猛禽の瞳は一切の闇を許さず、この地底の全てを見通すがごとくに輝きを放ち、深い紫色の羽織りは誇らしげに夜風に靡く。それはヤマメにとって見覚えのある姿でもある。

 

 

「お前、は……くっ………とっ…………ぅっ!?」

 

 

 鴉天狗を視認した瞬間からヤマメに襲いかかったのは息が詰まるような重圧。老いた風神の眼はじっとヤマメを見つめている、たったそれだけで周囲の空気が根こそぎ奪い取られたように呼吸ができない。

 

 

『手を出すな、土蜘蛛の小娘』

「は、ぇ?」

 

 

 豪雨のごとく降り注ぐ殺気に肺までもが凍りついていく、何か聞こえた気がしたが空耳に気をやっている余裕はない。そうしている間にも頭の中で警鐘が鳴り響き「あいつは駄目だ」と告げてくる。少しずつ視界が真っ白に染められていくのを感じて、ヤマメは全身から力が抜けるのを自覚した。

 

 

「…………ヤマメッ、ヤマメッ…………一体どうしたのっ、ヤマメッ!!」

「っ、ぶはぁっ!!」

「わひゃっ…………ほ、本当にどうしたの!?」

 

 

 意識を手放しかけたヤマメを救いだしたのは、キスメの声だった。ようやく途切れた緊張、それを合図にして肺一杯に空気を取り込む。一体いつから自分は息をしていなかったのだろう。そしてもう一度、おそるおそる地上を見上げると既に鴉天狗の姿は無くなっていた。

 

 

「いきなり固まっちゃったから、びっくりしたよ。何かあったの、ヤマメ?」

「…………き、キスメは何ともないの?」

「ん、何が?」

「う、ううん。キスメが無事でよかったよ」

 

 

 あれほどの殺気にも関わらず、キスメは異常を感じていなかったらしい。ならば今のは幻だったのだろうか、いやそんなはずはない。あの大妖怪の気配は本物だった、あの殺気に貫かれていた間に感じた精神の痛みは現実だった。カチカチと奥歯が震える。

 

 

 

「刑香っ、無事ですか!?」

「文のおかげで助かったわ、いつもありがと」

「へっ、何がですか?」

 

 

 糸から解放された白い鴉天狗が仲間に礼を言っている。さっきの攻撃は文という鴉天狗からの援護に見えるように、調節されて放たれていたからだろう。そうでなければ風刃を『直角に曲げて』横から叩きつける必要はない。それはあり得ない領域にまで研ぎ澄まされた風の支配力、大気の掌握である。それを理解したヤマメはあの光景が幻想でなかったことを確信する。

 しかし、その顔にあるのはすでに恐怖ではない。場違いなほどに明るい色がヤマメの表情を染めている。

 

 

「こんなの久しぶりかも…………ふ、ふふっ」

「何が嬉しいのか知らないけど、このままじゃあ不味いんじゃない?」

 

 

 芯まで冷たくなった身体を抱きしめて押し黙るヤマメに、桶の中からキスメが話しかける。こうしている間にも土蜘蛛たちがどんどん数を減らしているからだ。白い鴉天狗を潰す機会を失った彼らには、もはや勝ち目はない。

 

 

「これじゃ押し切られるのに時間は掛からないよ、どーするの?」

 

 

 のんきな声を上げるキスメを横目にしながらヤマメは考えを巡らせる。さとりからの命令は「地上からの侵入者の見極め」だった。それはもう十分だろう、鴉天狗たちはわざわざ土蜘蛛たちを峰打ちで倒しているのだ。少なくとも冷徹な侵略者ではない、この分だと本当に話し合いに来ただけかもしれない。

 

 

「それでも久しぶりに楽しくなりそうだよ、まさか天狗の長老が顔を出すなんて。…………日和見主義の天狗衆が私たちに直接絡んでくるなんてこの数百年で初めてなんだから」

 

 

 冷えきっていた身体の芯が発熱していく、心臓が力強い鼓動を刻み肉体を再び温めていく。「面白そうなことを見つけた」と、それだけでヤマメは、いや地底の妖怪たちは笑うことができるのだ。

 

 

「さぁて、この吉報をアイツらにも知らせに行こうかな。キスメ、あっちは頼んでもいい?」

「任された。パルスィに知らせるんだよね、全部オッケーだよ!」

 

 

 バイバイと手を振ってから、地の底へと桶と共に落下していくキスメ。もし落ちている間で戦闘に巻き込まれてたとしても彼女なら平気だろう、意外とあの桶は硬い。そしてヤマメは明るい笑顔を振り撒いた。

 

 

「楽園の裏側へようこそ、地上からの使者様たち。私たち一同を挙げて歓迎するよ。君たちがこの地底をどこまで掻き乱してくれるのか、楽しみにしているね」

 

 

 彼女たちの来訪はとても面白いことになるかもしれないし、ならないかもしれない。彼女たちがかつての上司相手にどこまでできるのかは不明だし、上司たちも彼女たちにどういう対応をするのかも予想できない。しかし、その出合い自体が数百年の退屈を紛らわせる。そういう期待が胸を膨らませるのだ。もう一度だけ鴉天狗たちを見下ろして、そっと抜け道からヤマメは脱出する。

 

 

 

 その向かう先には『鬼の都』があった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十二話:夢見るカラス

 

 

「うにゅ、キレイだなぁ」

 

 地上へと繋がる大空洞、その向こう側から星の光が零れ落ちてくる。舞い散る雪のような光が海底のごとき暗い闇に溶けていく世界の狭間が存在した。

 どこまでも続いている岩壁の窪みに出来たスキマ、そこに土蜘蛛の巣から頂戴した糸と藁を集めて巣を作る。そして暖かい寝床から遠い星空に想いを馳せる天体観測。それがお空こと、霊烏路空の密かな楽しみだった。

 

 

「よいしょ、よいしょ。うー、この姿は嫌いじゃないけど羽の手入れが面倒だよ!」

 

 

 今のお空は人の形を手にする前のカラスの姿で羽を休めていた。ふかふかの巣に大きなリボンを付けた黒い羽毛が座している姿はとても可愛らしい。子供っぽい仕草が更にそれを引き出していた。

 しばらく羽繕いを頑張っていたお空だったが「もういいや」と切りの良いところで中断してしまう。翼の手入れは何時でもできる、しかし目の前に広がる空は今しか見られないのだ。

 

 

「ご主人に怒られるかもしれないけど、いつか地上に行ってみたいなぁ。………灼熱地獄の炎なんかとは違う、あのポカポカした『太陽』にもっと近くで触れてみたいよ」

 

 

 地上から降り注ぐ光が好きだった。特に太陽の光は一番好き、こんな穴の底にまで届くほどに力強くて暖かくて優しい輝きがそこにある。『地獄鴉』という種族に生まれ、地上に行ったことがない故に強く憧れた。親友のお燐には笑われてしまったが「いつかアレを手に入れたい」というのが自分の夢である。

 カクン、とお空の頭が眠そうに傾いた。そして欠伸を一つ漏らす。

 

 

「ふぁぁっ、そろそろ眠ろうかなぁ………………うにゅ?」

 

 

 うつらうつらと、船を漕ぎ始めたカラス少女の耳に甲高い音が聴こえてきた。まるで金属同士を打ち合わせたかのような衝突音、お空は不思議そうな表情で土蜘蛛の巣を見上げる。

 

 

「ヤマメ達、こんな真夜中に何してるんだろ。宴会かな?」

 

 

 冷静に考えれば宴会から金属の打撃音が聞こえるわけもないのだが、眠気に襲われている地獄鴉の少女は気がつけなかった。

 間もなく続けて短い悲鳴が降り注ぐ。眠りこけた頭でそのまま上を眺めていると『何か』が降ってくるのが見えた。「うにゅ?」と、この時のお空は首を捻るしかなかった。

 

 次々と地面に落下してくる影、少しだけ呻き声を上げて彼らは気を失っていく。そこでようやくお空は事態を少しだけ悟った、落ちてきたのは土蜘蛛たちだったのだ。ボロボロになった姿を目にして、さすがに異常を感じ取ったお空が立ち上がる。

 

 

「み、みんなどうして…………何か来る!?」

 

 

 鼓膜を揺らしたのは風のざわめきと一歩歯下駄の音。

 呆然としているお空の前へと、瞬間的に三羽の妖怪が降り立った。鋭利な風を纏った姿はまるで風神、真っ黒なカラスの翼を持った妖怪たちが土蜘蛛たちを見下ろしている。最初は自分と同じ『地獄鴉』かと思った。しかし即座に妖怪としての直感がその淡い期待を否定したのでそのまま岩影に身を隠す。

 

 

「あの数にしては意外と楽だったわね。私はともかく、文とはたては殆ど無傷で突破できたんじゃないの?」

 

 

 装束に付いた汚れを落としながら、白い翼を持った妖怪がそんなことを口にする。不思議と良く通る声だった、透明な白さを含んだ響きがお空を惹き付ける。

 

 

「どう思う、文?」

「『死を遠ざける程度の能力』が相性バツグンでしたからねぇ。ただでさえ妖怪に利きづらい『病気を操る程度の能力』が私たちには一切通じなかったわけですし」

「でも土蜘蛛たちにも大した怪我は負わせてないから、お互いに良かったんじゃないかしら。あんたがやった何人かは重傷だろうけど」

「いやいや、ですからアレは私の仕業じゃないです。あー、それより一匹取り逃がしましたよね、桶みたいなのを抱えた土蜘蛛を」

「逃げる娘まで攻撃するのは天狗の誇りに反するわ」

「天狗の誇りは刑香の認識とは違うんですけどね」

 

 

「う、このカラス達まずいよ………」

 

 

 どうやら彼女たちは土蜘蛛の巣を突破してここに来た侵入者らしい。そして彼女たちの妖力は木っ端妖怪の放つモノではない、単なる地獄鴉である自分とは格が違うモノを感じる。おまけに身体中から微かに感じるお日様の匂いから、彼女たちは地上の妖怪に間違いない。主人が嫌う地上からの来訪者、これはお空にとっても無関係な事態ではない。

 

 

「さて、地霊殿はどっちですかね。さっさと書状を届けて帰りたいものです、鬼に出会う前に」

「文とはたてと私、三人なら鬼の一匹や二匹くらいどうにかなるんじゃないの?」

「私たちは戦いに来たわけじゃないですよ、それに大物が出てきたら三人掛かりでも返り討ちにされる危険があります。ならば戦闘は避けるのが吉でしょう、それ以外の雑魚は蹴散らしても構いませんけどね」

 

 

 心臓の鼓動が高鳴っていくのをお空は感じていた。特に三羽のうちで一番危険なのは真ん中にいる黒髪のカラスに間違いない。研ぎ澄まされた妖気は鋭く、魂が惹き付けられる程に強力だ。

 

 地底広しといえども、あのアヤとかいう妖怪と戦って『確実に』勝つことができそうなのはお空の知る限りで二人しかいない。一人目は鬼の大将たる星熊勇儀、そして二人目もまた―――。

 

 

「こ、こうしちゃいられない! ご主人に知らせないとっ…………」

 

 

 思考を中断してお空は急いで黒い翼を広げる。そして旧都の方へと歩き始めた彼女たちに遅れを取らないように、お空は巣から飛び出した。

 

 例え報告に行ったとしても、お空の頭では今の状況を上手く説明できないかもしれない。能天気でお調子者で複雑な思考のできない鳥頭、それが霊烏路空という少女なのだ。

 

 

「急がないと…………えーと、そうだ超特急!」

 

 

 そんなことはお空にはわからないし、元より余計なことを考える思考力はない。そう、馬鹿であるからこそお空は真っ直ぐで純粋なのだ。

 

 

「待っててね、さとり様!」

 

 

 だから少女は飛び立つ、全ては大好きなご主人のために。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 何だか知らないが気力だけは充実している。

 刑香は自身の内から感じるソレの正体に首をかしげていた。それというのも霊夢に見送られてから何だか調子がいいのだ。人の子の見送りくらいで気力が上下するなど、天狗としてはあるまじき話だろう。しかしそれも悪くないと思う自分に苦笑する。本当に白桃橋刑香は変わって、いや変えられてしまったらしい。

 

 

「せっかくだし、霊夢に何かお土産を買って帰ってあげようかな。地底にそういう物を売っている店があるのかは知らないけど」

「あやや、すっかり巫女にデレデレですねぇ。でも人間に入れ込むのは程々にしておかないと『別れ』がツラいですよ」

「………わかってるわよ、文のバカ」

 

 

 妖怪と人間には埋めようのない寿命の差が存在する。ここまで心を許してしまった霊夢、彼女との別れはいつか必ず訪れる。その時の悲しみは絆が深いほど大きくなるのだ。だからこそ「ほどほどにしておけ」と文は刑香を諌める、その様子は心配する姉と心配される妹に違いなかった。霊夢や魔理沙の前では年上ぶっている刑香も文には頭が上がらない。

 

 

「まあ、その話は帰ってからしましょうか。それよりも今は任務です。見てください、地底とは凄いところですよ。まさか地中の空がここまで広いとは思いませんでした」

「…………確かにね、おかげで土蜘蛛とも有利に戦えたわけだし」

 

 

 刑香たちの頭上に広がるのは夜のドーム、いざとなったら飛んで逃げることもできそうな高さと広さがある程だった。ここまでの空間ならば天気の変化すら地底にはあるのかもしれない。刑香の真っ白な手が星一つない地底の空へと伸びる。

 

 

「地下のはずなのに空気が澄んでいるなんて、何だか夢を見てる気分かも………こんなに空が遠いのに」

「随分と深くまで来ましたからねぇ。さすがは旧地獄、人間も妖怪も容易くは脱出できない構造になっているみたいですね、おお怖い怖い」

「それなら逃げ道の確認もしておかないとダメか、ここには『鬼』がいるって噂だし…………吸血鬼を倒せるアンタでも鬼は倒せないんでしょ?」

「いやいや、刑香は私を過大評価し過ぎです。フランドールには二人がかりで挑みましたし、まして鬼なんて並の天狗がどうこうできる相手じゃない。指先一つで地べたに墜とされてしまいます」

「あんたは『並の天狗』じゃないでしょう、精鋭中の精鋭が何言ってんのよ。だいだい私ですら鬼と戦って生き延びることができたんだから、あんたなら万が一の勝利もありえ…………んむっ?」

 

 

 会話の途中で押し黙る刑香。それは不意に文が人差し指で刑香の唇を塞いでしまったからだ。視線で抗議する刑香へと、小さな溜め息をついた文は優しく告げる。

 

 

「いいですか、天狗は原則的に『確実に勝てる勝負』か『本気を出さずに済む勝負』のみを行います。我々はそうでなければなりません。敗北してしまったり、手の内を全て晒してしまえば『後』がなくなってしまいます。そこらへんを履き違えてはダメですよ、刑香」

「む…………わかったわよ」

 

 

 少し不満そうにしながらも白い鴉天狗は了承する。その答えを聞いて「よし」と文は刑香の唇から指を除けた。それというのも刑香は『負けるかもしれない勝負』にも果敢に挑む傾向がある、とりわけ伊吹萃香との戦いがソレだ。

 天狗にそんな戦いがあってはならない、長い寿命を遂げるには弱者のみを打ちのめし強者を受け流す生き方が必要になる。しかし「そんなモノ知ったことか」と刑香やはたては切り捨てるだろう。天狗としては自由過ぎるところが二人にはある。まあ、だからこそ二人は射命丸文の親友に足り得るのだが。

 

 

「思考が逸れましたね。はたて、いつまでメモを取っているんですか、さっさと出発しますよ!」

「あっ、ちょっと待って! 何で地底なのに最低限の温度が保たれているのか、についての考察が纏まりそうなのよ。もう少しだけ!」

「ダメです、こうしている間にも地底妖怪が現れる可能性がありますから。…………まったく二人とも世話が焼けますね」

 

 

 びっしりと書かれたメモ帳。

 勉強熱心なのは良いことだが、今は時間が惜しい。文としては、できれば日の出までに地底を脱出したいくらいなのだ。レミリアたちの異変とは違って、文ですら勝てない相手がいるのだから手短に済ませたい。それなのに鬼と戦おうと提案したり時間を無駄遣いしたりと、昔から放っておけない親友たちは相変わらずである。何というか緊張感が足りない。

 

 

「だいたい、このチームのリーダーは刑香でしょう。私とはたては天狗衆から助っ人として派遣されたに過ぎないんですよ?」

「何をバカ鴉みたいなこと言ってるのよ。私たち三人が集まったらリーダーはあんたって決まってるじゃない。そうよね、はたて?」

「まあ、文って普段はバカ鴉だけどこういう時には頼りになるし。なんて言うか、結局のところ私たちはいつも通りって感じ?」

「に、二回もバカ鴉って言われたんですけど…………わかりましたよっ、私が引き受ければいいのでしょう!」

 

 

 しかし二人から頼られるのは悪くない、表面上は渋々ながらも文は役目を引き受けた。もちろん付き合いの長い二人には見透かされているわけだ。ニヤニヤとしながらはたてはメモ帳を広げる。そうこうしている間に考えが纏まったらしい。

 

 

「多分だけど地霊殿は向こうにあると思う。ここに来るまでに集めた資料によると地霊殿は『灼熱地獄』を管理するために建てられたらしいから。つまり…………」

「つまり、地底を暖めている熱源に近づいていれば到着するという訳ですか。流石ははたて、もしかして役に立つかもしれないと連れて来て良かったです」

「無理やり巻き込んだの間違いでしょうが、ぶっとばすわよ?」

「あやや、冗談ですよ」

 

 

 そして熱だけではない。太陽の光が届かないにも関わらず、この地底が仄かに明るいのは恐らく元地獄があった影響だろう。如何に地獄の鬼族であろうとも手元が見えなければ罪人を痛め付けることなどできまい。何らかの妖術か魔法、それとも地脈の影響なのか。ともかく地底全体に地上の太陽ではない、何かの光が降り注いでいる感覚があった。

 ブン屋の少女たちにとっても興味深い現象ではあるが、これ以上考えるのは時間の無駄だろう。

 

 

「出発しますが、ここから先は目立たないように歩いて行きますよ。土蜘蛛たちとの戦闘は仕方なかったにしても、これ以上は地底を刺激しないように進みます」

「異議なし」

「あ、私も異議なしってことで」

「よろしい。…………しかしまあ、はたての意見がなくとも私たちの進む方向は変わらなかったでしょうね。あっちに大きな街の明かりがあるわけですし」

「あー、ホントだ。ごめんね、文、刑香」

 

 

 文がひょいっと指差した先。

 灼熱地獄のあるだろう方向では提灯の明かりがチラチラと揺れている。黄色い街の光と赤い提灯の明かりが鮮やかに街の輪郭を浮かび上がらせているのだ。そこは鬼の作った楽園、きっと陽気な酒場街なのだろう。ここまで酒の匂いが漂って来ているくらいなのだから。

 

 

「ふふふ、お酒だけではなく良いネタの匂いもするから楽しみです」

「手短に終わらせてトンズラするんじゃなかったの?」

「お忘れですか、刑香。幻想郷最速たる射命丸にかかれば、任務の片手間に盗撮の一つや二つは容易いという事実を!」

「私はパスしとく、どうにも地底は私の新聞に載せられそうなネタが少なそうだし。ねえ、はたてはどうする?」

「スルーしないでください」

 

 

 肩透かしを喰らった黒いブン屋が項垂れる。

 それを更に受け流して、白いブン屋はもう一人の親友へと話しかけた。こういう時の文とは取り合うだけ面倒なだけなのだ。しかし、肝心のはたてから反応がない。この距離で聞こえていないわけでもないだろうと、怪訝に感じた刑香は親友の顔を覗き込む。

 

 

「はたて…………っ!?」

 

 

 その瞬間、ぞわりと刑香の胸に『黒い感情』が霧のように沸き立った。それは遥か昔に捨て去ったはずの情動、天狗として『欠陥品』であった自分と比べて『完璧な』天狗である二人に抱いていた邪な思い。これではまるで―――。

 

 

「―――くっ、何なのよコレは!? 」

「どうして、私の『花果子念報』の部数は伸びないのよ。誰よりも努力してるし記事だってアンタ達より上手にできてるのに」

 

 

 苦しげに声を絞り出した刑香に対して、はたての口から漏れ出していたのは独り言。しかも脈絡不明、どこから飛び出したのか分からない内容だった。その刺々しい声色は自分に向けられているわけでもないのに刑香の心をささくれさせる。すると息が楽になってきたのを感じ、冷静さを取り戻した刑香が口を開く。

 

 

「ちょっと、こんな時に何の話よ。別に売れ行きなんてどうでもいいでしょ、あんなに読み応えのある記事を書けるくせして…………」

「それでも読んでくれる天狗や人がいないと意味なんてないでしょ、バカじゃないの…………?」

 

 

 それを境にして少しずつ空気が淀んでいく。今まで清涼だった鴉天狗たちの風に『毒素』が注入されたかのごとく、刑香とはたての眼差しが暗い色に染められていく。妙な雰囲気を感じた文が止めようとするが、はたてが再び辛辣な言葉を投げつける。

 

 

「そもそも『四季桃月報』だって、誰一人として人物が映っていないような寂しい新聞のはずなのに。刑香の感性は確かに凄いと思うけど」

「…………私が妖怪や人間を撮らない理由は知ってるでしょ。あんたは便利な念写が使えるから他者と会う必要なんて無いんだろうけど、組織にも属しながら悠々自適の記者生活なんて羨ましいことね」

「私のことが羨ましいって冗談でしょ。刑香は組織からも抜け出せたから自由に空を飛べるくせに。くだらない掟に縛られている私とは違って、幻想郷のどこへだって行けるくせにっ…………妬ましいわ」

「いつ私がそんなことを望んだのよ、あんたは今でも組織のみんなと一緒にいる。いつも文と一緒にいるじゃないの、それがどれだけ私にとって…………妬ましいことか理解できる?」

 

「ちょ、何をしてるんですか二人とも!!?」

 

 

 カチリ、と気がつけば二人は妖刀に手を掛けていた。

 突然に起こった仲間割れ、驚いた文が刑香とはたての間へ身体を滑り込ませる。喧嘩ごときにいくらなんでも刃物を持ち出すのは不味い、それに今は任務中だ。こんなところで時間と体力を消耗するなんて馬鹿げている。

 

 

「あ、あなた達はいったい何を考えっ…………て?」

「そ、そのまま立ち塞がってて、文!」

「っ…………なにコレやっばいっ!」

 

 

 刑香とはたては、まるで何かに耐えるように自らの腕を押さえつけていた。妖刀を鞘から抜き放とうとする行動を自分で妨害しているのだ、それは奇妙に過ぎる光景だった。夏空の碧眼と夕焼けの紅眼に虚ろな光が混ざり込んでいることを見抜いた文は舌打ちする。

 

 

「くっ、どこからか『能力』持ちに攻撃されているということですかっ。…………ええいっ、あなた達は本当に世話が焼けます!」

「「あんたは偶然狙われなかっただけでしょ!!」」

「あややや、意外と余裕があるではないですか」

 

 

 せめてもの救いは二人の絆であろう。文を挟んでいるとはいえ、刑香とはたてはお互いを傷つけまいと踏み留まっている。これがもし単に任務で寄せ集められただけの集団であったなら、今ごろは同士討ちに陥っている可能性が高い。これはそういう能力だ。

 

 

「仕方ありません、そのままでいいので耳を貸してください。また刑香に負担を掛けますが、やられるよりはいいでしょう」

 

 

 全くもって、厄介かつ迷惑な能力を持つ妖怪が近くにいるらしい。即座に対応策を弾き出しながらも、射命丸文は内心で毒づいた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

「妬ましい、妬ましい、妬ましい。綺麗な羽も姿形も、沢山の知識も、あんた達が地上で暮らしている事実さえも、私の持ってない全てが妬ましい」

 

 

 何者かが言葉を吐いた。ギチギチと爪を噛み軋ませながら声の主は口元を三日月のように歪める。そこにいたのは病的なまでに白い肌と金色のショートボブ、ペルシャ調の優美な衣服に身を包んだ美しい少女だった。まるで寒さに震えるかのように少女は自らの身体を強く抱き締める。

 

 

「何もかもメチャクチャにしてあげる、絆も親愛も友情も塵一つ残してやるものか。………なんてね、ふふ」

 

 

 静かな翡翠色の瞳に宿る『嫉妬』の火炎がチロチロと燃え盛る。この少女は地と地の境界である『橋』を護る女神であり、人を呪う妖怪でもある希有な存在。

 

 そんな少女が放つのは、どこまでも連なり積み上げられた妬みの感情。他者の精神にまで到達するソレは最早『呪詛』に近い何かである。自分の能力を浴びて、仲間割れを起こしている鴉天狗の少女たちを見つめる顔には喜びが満ち溢れていた。

 信じていた者を裏切らせ、何もかもを失わせる。そういう光景を作り出すたびに地底と地上の抜け道を護る妖怪少女は暗く暗く、しかし地底の誰よりも可愛らしい笑顔で魅せるのだ。

 

 

 

「ああ、ツラくて悲しくて、とっても熱い。そんな素敵な激情はいかがかしら?」

 

 

 

 唄うがごとく軽やかに呪いの言葉を呟き捨てる。

 姿形は散る間際の花のように儚げなれど、その鋭利な刺には毒がある。この少女にとって視界に入るモノ全てが妬ましい、すなわち呪詛の対象であることは仕方のない事実である。

 

 

 『橋姫』、水橋パルスィはそういう妖怪なのだから。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十三話:真実のカケラは彼岸の先に

 

 

 しんしんと降り積もる雪景色に染まる妖怪の山。

 中腹の木々はすっかり冬めいて、その身を雪まじりの風に震えさせる。レティ・ホワイトロックが吹雪を吹かせる森の中に、ぽっかりと空いていたのは鬼の都へと通じる縦穴であった。まさに今、その淵に立って奈落を見下ろしていたのは一羽の老天狗。天魔は黒と白の少女たちが無事に地の底へ辿り着いたことを確認すると安心したように溜め息をついた。

 

 

「犬走よ。射命丸および姫海棠への支援、ご苦労であった。土蜘蛛の巣を切り裂くとは白狼にしては上々の働きぶりである、誉めてつかわそう」

「勿体ないお言葉でございます、長老様」

 

 

 深紫の羽織を纏った老天狗、天魔は犬走椛へと満足そうに告げる。白狼の少女は長老の前で膝をつき、その賛辞を受け取った。生真面目な椛は決して顔を上げない、自らと天魔の間にある身分差は絶対的ものなのだ。許しもなく長老の尊顔を拝することはありえない。厳格な主従関係がそこにはあった。しかし、それは天狗同士であるからこそ初めて当てはまる掟である。ここにいるのは天魔と椛だけではない。

 

 

「で、あんたが刑香を山から追い出した天狗なの?」

「人間のくせに、長老様へ向かって何という口の利き方をするんですか!」

「関係ないわよ、そんなの」

 

 

 そう、ここにいるのは天狗達だけではない。刑香たちを見送った八雲藍と博麗霊夢がいるのだ。特に幼い巫女は刺々しい口調で二人へと近づいてくる。子供ゆえの無謀さなのか自然体のままで一歩、また一歩と天魔の元へと歩みを進めていた。

 

 その行く手を遮るために椛は立ち上がる。そのまま腰に差した刀へと手を当てて、距離を詰めてくる巫女を警戒する体勢へと移っていた。それを見た八雲藍が霊夢を守らんと術札を取り出したのを、白狼の少女は視界の隅で把握する。だがその程度で臆するつもりはない、万に一つでも天魔の身に何かあってはならないのだ。小さく唸り声を上げて霊夢たちを威嚇する椛、そんな彼女に苦笑した天魔は「案ずるでない」と部下の隣へと並び立った。

 

 

「そう警戒するでない、犬走。…………そこな小童が今代の巫女か。どうして貴様が我らの領域に立ち入っておるのかは知らんが、名乗りも挙げずに話を進めるとは無礼であろう」

「どうせ私の素性なんて調べ終えてるくせに白々しいわね。あんたこそ、刑香たちが飛び去ってから突然やって来たくせして偉そうに」

「くかか、相手に知られておったとしても名乗りを上げるのは当然の礼儀であるぞ。まあ良い、今さら人間から礼を尽くされるなど期待してはおらん。………して、何用かな?」

 

 

 幼い子供と老いた妖怪の邂逅とは思えぬほどに、ピリピリとした緊張感が辺りを包み込んでいく。

 それは無理もない話だ。幻想郷を支える(かなめ)たる博麗の巫女と、勢力的には最大を誇る妖怪の長老とが対峙しているのだ。ここで何かが起これば、幻想郷のバランスが大なり小なり崩壊する事態に繋がりかねない。そんな場所に立っているにも関わらず、霊夢は不機嫌そうな表情を隠しもせずに天魔へ告げる。

 

 

「もう一度だけ尋ねるわ、刑香を追放したのはあんたなのね?」

「さてはて、刑香とは誰であったかの。………ああ、あの白い翼を持った娘のことか。歳を取ると物忘れが多くなってイカンな、すっかり失念していたわい」

「っ、何ですって!?」

「待て、霊夢。ここで揉め事を起こすのは不味い」

「離しなさいよっ、藍!」

「………巫女ともあろう人間があんな出来損ない一羽にずいぶんと執心しておるのか。アレもまだ使い道があったとはな、八雲にくれてやるとは惜しいことをした」

 

 

 その答えを聞いた霊夢は顔を怒りに染めていく。これ以上は聞くに堪えない、どうせこの老天狗は何を尋ねても同じような反応しか返さないに決まっている。巫女としての直感がそう言っている。だから踵を返して帰ろうとしたのだが、何故か藍が霊夢の腕を掴んでいた。その耳元で「あとは私に任せろ」と藍が呟く。

 

 

「天魔殿、今代の巫女が失礼をしました。見ての通り霊夢は未熟な身ゆえに、私が代わって謝罪いたしましょう」

「よかろう、ワシも遊びが過ぎたようだったのでな。式殿が申されるのなら先ほどの蛮行は全て不問としようではないか」

 

 

 どこまでも天魔自身を上においた言動、それに霊夢は不快感を覚える。これが刑香やはたて達、天狗の頂点に立つ妖怪なのかと疑問すら感じていた。ジロリとこちらを睨んでくる白狼天狗もそうだが、霊夢が今まで出会ってきた天狗たちとの差がありすぎた。

 

 

「しかし私も疑問に思っていることがあります」

「何ですかな、式殿?」

「簡単なことです。何故、貴方は白桃橋を助けたのですか?」

 

 

 藍が指摘したのは先の一撃、土蜘蛛の糸に捕らえられた白い少女を救うためにこの男が自ら葉団扇を使ったことだ。今や刑香は『八雲』側の妖怪であり、天魔が直々に手を貸す理由はない。ましてさっきの瞬間、藍もまた刑香を救おうと妖術を構えていたのだ。そんな自分を半ば押しのけるような形で助けに動いたのは、この男らしくない。

 

 

「加えて貴方がここに到着したのは彼女たちが飛び去った直後だった。ひょっとしたら貴方は彼女たちの出発を近くで見守っていたのではないですか?」

「くかかっ。これでまた一つ、八雲に貸しを作れると思ったまでよ。そうでなければ追放された小娘なぞにワシが手を貸す道理はない。あの白い娘の危機に駆けつけたように見えたのは、それこそ偶然であろうよ」

「それは違う。あの時の貴方はどこか焦るような表情でした。今まで私が見たこともないほどに激しく狼狽しておられた、まるで親が子を心配するように」

「…………何が言いたい、八雲の式よ」

 

 

 二人の会話を聞きながら、ごくりと霊夢は唾を飲み込む。

 初めからそうであったが、特に今の天魔からは好意的な色がまるで感じられない。ここに流れる夜風たちが彼へと味方するように渦を巻き、自分達を窒息させてしまいそうな拒絶感が大気に満ちている。紛れもなくこの老天狗は八雲紫と同格に近しい大妖怪、そして宿敵なのだと霊夢は認識を改めた。

 そんな幼い巫女を背中に庇いながら、藍は話を進めていく。

 

 

「ずいぶん前から仮説はありました。その全ては吸血鬼異変が終結した後、つまり我が主と貴方が盃を交わしてからです。その時の貴方の様子は不審であったと、紫さまは仰っておられました」

「あの夜は良い月が出ておったからな。月で散った息子たちを思い出し、懐かしき記憶に浸っておったのだ。そこに八雲が訪れて来たゆえに、不覚にも弱った姿を見せてしまった。それだけのことよ」

「『月面戦争』、貴方がその戦いでご子息を亡くされたことは私も存じております」

 

 

 八雲紫の主導で地上の妖怪たちが『月の都』に攻め入った『月面戦争』。それは輝ける月の財宝を手に入れようと画策した、当時の幻想郷最強を自負する化生たちが仕掛けた戦いだ。

 

 しかしその結果は無惨なものであったと聞く。

 月の民たちの持つ戦闘兵器は地上の比ではなく、また月のフィールドにて地上の妖怪が本来の力を出すことが出来るわけもなく。彼らは散々に打ち破られて、地上へと逃げ帰ることになったらしい。

 

 何一つ得るものはなく、数えきれない犠牲者を出しただけの戦争だった。八雲紫と共に意気揚々と攻め込んだ天魔も多くの部下を失い、跡継ぎである子息を失うことになった。

 

 

「ならば知っておろうが、ワシの血縁者は最早残っておらん。息子は名誉の討ち死にを遂げ、その直後に産まれた『孫娘』も生を受けてすぐに病で彼岸へ旅立った。そして、それが原因で息子の嫁までもが気を病んでこの世を去ったのだ」

 

 

 後悔に染まった瞳が八雲藍を射抜いていた。

 老天狗の胸中に渦巻いているのは八雲への恨みではなく、息子を救えなかった自分への怨恨だけであろう。その一瞬だけで藍は理解した、天魔がどうしようもなく孤独なことを。そしてその瞳は自分が初めて会った時の彼女に似ていた、まだ霊夢や自分たちとの親交がなかった頃の白い鴉天狗に。

 

 

「そうですね、確かに貴方に血縁者は残っていない。私も紫さまもそう考えていました。あの娘と貴方との関係を疑うまでは」

「ねえ、結局のところ藍は何が言いたいの?」

 

 

 話について来れない霊夢が藍の尻尾を引っ張る。黄金の毛並みは相変わらず美しく、毛の一本一本が柔らかい手触りで霊夢の冷えた手を温めてくれる。しかし、一人だけ会話に置いてきぼりにされるのは我慢ならないらしい。一瞬だけ戸惑った藍だったが、ぐっと霊夢を見据えて口を開いた。

 

 

「おそらく、白桃橋刑香は天魔殿の血縁者だ」

 

「………………え?」

 

 

 ぽかんとした表情の霊夢。

 文やはたて以外の天狗とは疎遠であったはずの刑香が、天狗の長老と縁のある者であったなど想像の外であった。まして自分が姉のごとく慕っている刑香と、ついさっき最低の評価を下してやった目の前の老天狗が家族などと予想外にも程がある。見ると白狼の少女も驚いた顔で天魔を見つめていた。

 

 

「て、天魔様、それは真なのでしょうか!?」

「うろたえるでないわ、犬走。全ては式殿の言った推測に過ぎん。…………しかし、あの出来損ないがワシの縁者とは大きく出たものよな」

「確たる証拠は何一つありませんが、外れてはいないと思っています」

「くかかっ、面白い作り話ではある。しかしな、仮にあの娘がワシの縁者であったのならば、その事実を八雲が把握しておらぬわけがない。あやつは幻想郷の全てを見通しておる、それはお主が一番よく理解しているはずであろう?」

「確かにそれは否定できません、ね…………」

 

 

 宿敵たる天魔唯一の血縁者。そんな存在がいるならば、他でもない八雲紫が知らないはずもない。もし知っていたならば、そもそも霊夢との交流を許していなかっただろう。主への絶対の信頼ゆえに、その事実が藍の言葉を詰まらせる。

 

 そして過去を語りたがらない刑香が他の天狗たちから良い扱いを受けていなかったことは想像に容易い。大天狗たちへの『能力』の強要についてもそうだ。

 仮に刑香が自らの血縁者であるのなら、天魔が黙って見過ごすだろうか。『家族』への執着が決して薄いとは思えない老天狗が果たして、刑香への仕打ちを放置するのであろうか。

 

 いずれの可能性に対しても、式としての頭脳は否定を繰り返す。ならば、刑香と天魔との関連性は八雲紫の勘違いであったのだろうか。いや、主を信じるのならば、それこそありえない。

 

 

「それならば、今回の協力に関して天狗側からあの二人を寄越したことについて説明を…………む、何だ?」

「藍っ、何か来るわよ!?」

 

 

 言葉を中断して、夜空を見上げた二人の目に映ったのは大きな黒雲。それを認識した瞬間には大量の羽ばたき音が鼓膜を揺らし、真っ黒な弾丸が空から落ちてきた。自分たちに向かってくるような何かの塊に、思わず霊夢が神符を取り出したのを藍が静かに制する。これに手を出す必要はない。

 

 

 

 ―――カァカァカァァァ!!!

 

 

 

 それはカラスの大群だった。

 一糸乱れぬ軍隊のような動きで、次々とカラス達は奈落の底へと飛び込んていく。霊夢は驚いていた、刑香が何羽かの白いカラスを使って情報収集をしている姿は記憶しているがこれは数が違いすぎる。そんな霊夢の姿を小馬鹿にしたように眺めていた天魔は愉快そうに笑みを浮かべる。

 

 

「射命丸め。確かに許可は与えたが、山に住んでいるカラス全てを動員するとは何とも豪快な娘よな。さては、さっそく地底で何かあったか」

「まさか、これが全て使い魔だっていうの?」

「如何にも我ら鴉天狗の眼と成り、耳と成る下僕たちよ。普段はここまでの数を同時に使役することはないが、なかなか壮観であろう?」

 

 

 何百羽というカラス達が暗闇へと吸い込まれていくのを四人は見送った。先ほどの天魔の話を信じるならば、どうやら地底で問題が発生したらしい。霊夢が心配そうに大穴を覗き込んでいる。一方の老天狗はもう用が済んだといわんばかりに翼を広げていた。

 

 

「さて、式殿。今宵の寒さは少しばかり老骨には堪えるのでな、これにてお暇させてもらおう」

「お待ちくださいっ、まだ射命丸と姫海棠を選んだ理由を伺っておりません!」

 

 

 深い紫色の羽織に積もった雪を払い落としながら、天魔は空へと舞い上がる。これ以上、藍や霊夢と話を続けるつもりはないらしい。しかし藍としては非常に困る、まだ問い掛けが終わっていないのだから。尚も食い下がろうとする藍、すると老天狗は「仕方ない」とばかりに言葉を置き土産とすることを決めた。

 

 

「あの『三羽鴉』を纏めて地底へ送り込んだのは、あの三人にしか導けぬ結末があったからだ。…………まあ、つまらん企てには違いない。あまりの他愛なさに、八雲が聞けば鼻で笑うであろうよ」

「あの三人でなければ辿り着けない結果ですか、それは何とも難解な………」

「ではな、式殿と巫女殿。せいぜい月へ迷い込まぬように気をつけて帰るが良い」

 

 

 『月に迷い込まないように』、それは天魔にとっての因縁の渦巻く言葉であった。老天狗は月を背景に飛び去っていく。そして護衛である椛もまた、長老に遅れまいと大地を蹴って空へと舞い上がり闇夜へと消えていった。

 

 

 

 

 

「結局、あしらわれてしまったか。やはり紫様でなければ天魔殿には勝てないか、舌戦とはいえ私も精進が足りないな」

 

 

 さて、と八雲藍は考えを巡らせる。

 射命丸文は天狗組織の中でも精鋭に属する少女であるが、別段彼女が最強というわけではない。単純な実力であるなら彼女と並ぶ者は極少数ながら存在するし、それに劣る姫海棠はたては言うまでもない。つまり刑香の親友である二人が今回の使者として選ばれるなど、こちらにとって都合が良すぎたのだ。

 

 だからこそ天魔が刑香を気遣ったのではないかと疑ったのだが、その答えは釈然としなかった。

 

 

「ねえねえ、本当にあの天狗が刑香のお爺ちゃんなの?」

「いや、あくまでも血縁者かもしれないという可能性だけだ。天魔殿に孫娘がいたことは分かっているが、亡くなったのも事実だろう。ならば白桃橋が直系でないのは確実だろうが…………しかし何かを見落としている気がする」

 

 

 藍の中で歯車が噛み合わない。

 何らかの決定的なピースが足りていないのだろう、ざりざりとしたノイズが思考回路を狂わせている。「むう」と首をひねる藍、その視界の隅で真っ赤な何かが揺れたのに気がついて目を止める。

 

 

 そこには真っ赤な一輪の花が咲いていた。

 

 

 岩壁のすぐ近くの草むらに季節外れの曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が咲いていた。それを見た瞬間、脳裏に浮かんだ『彼女ら』の姿と重なったのを藍は見逃さなかった。

 

 

「そうだった、奴らのことを失念していたな」

「えっ、何かわかったの?」

「いや少し違う、足りないピースを持っていそうな相手を見つけただけだ。…………確かに連中なら知っているかもしれない、『死を遠ざける程度の能力』を持つ白桃橋を放置している奴等なら」

 

 

 本来ならあまり深追いするつもりはなかったのだが、「ここまで来たら仕方ない」と八雲藍は決意した。主からの宿題もある、ここで動いてみるのも一興だろう。

 

 

「話を聞きに行ってみようか、彼女らのところへ」

 

 

 それは八雲紫がわざと開けなかった玉手箱。あの世界に隠されているのは刑香の過去に繋がる真実のカケラ。その果てにどんな事実が明らかになるのか、まだ八雲藍は知る由もない。

 

 

 

 彼岸花、それが曼珠沙華という花の別名である。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 人の子寝静まる丑三つ時。

 地上で降り始めた雪は白く白く、寒々とした冬空を染め上げていた。そして、まるで地上に呼応するかのように地底でも真っ白な雪が舞い散る。何故、空から最も離れた地の世界に雪が降るのかは誰にも分からない。

 

 そんなことは粉雪を邪魔だとばかりに払いのけて、空を駆け抜ける鴉天狗の少女達にとってはどうでもいい話だ。

 

 

 

 

「流石ね、私より速いじゃない。妬ましいわよ、刑香!」

「それはどうもっ。でも降下速度は私よりあんたの方が上でしょ。妬ましいかもね、はたて!」

 

 

 まるで白刃を突き立てるように、二羽の鴉天狗は複雑な軌道を描いて暗闇を切り裂いていく。刑香の手にあるのは使い慣れた錫杖、はたての握り締めるのは鋭く研ぎ澄まされた妖刀であった。

 

 

「お願いだから、この程度で墜ちないでよ」

「まだ体力に余裕はあるから、その心配は余計なお世話かもね」

 

 

 たまに言葉を交わしながら、白と黒の翼はお互いへと絡み合うように何度も何度もぶつかり合う。それは並みの妖怪ごときでは到底追えず、影を捉えることすら難しい超速度。彼女らこそ鴉天狗、雲の通い路を切り裂く流星にして幻想郷最速の妖怪である。

 

 

「まだまだ行くわよ、刑香!」

「くぅっ、もう少し手加減しなさいよ!!」

「できればやってるわ、よっ!」

 

 

 上へ上へと螺旋を紡ぎ出す白と黒、火花を散らして少女たちは旧地獄の空に舞う。

 そして、その衝突のたびに押されていくのは刑香の方だった。はたてからの一閃で弾き飛ばされては体勢を立て直すの繰り返し。それは別段はたてが天狗の中で怪力というわけではない。やれやれと茶髪の少女は首を振る。

 

 

「何ていうか、刑香は相変わらずの非力よね。木の葉を払ってんじゃないかってくらい軽いわ、そこいらの人間よりはマシだけど」

「っ…………うるさいわよ、黙りなさい」

「あーあ、あんたにしては飛ばしすぎよ。少しだけバテてんでしょ、そろそろ終わりにして…………なにいってんだろ、わたし」

 

 

 付き合いが長いゆえに、わずかな息切れを見抜かれていた。容赦ない友人の一撃で痺れた腕に、刑香は思わず舌打ちをする。やはり単純な身体能力では自分に勝ち目などない、どうにかして別の切り口を見つける必要がある。しかし、

 

 

『できるだけ時間を稼いでください、その間に私が術者を見つけ出して叩きます』

 

 

 もう一人の親友はそう言って飛び去った。どのような方法で文が元凶の妖怪を見つけるのかは知らないが、ここは彼女に頼るしかない。かろうじて自我を取り戻しつつ刑香に対して、はたては相変わらず『嫉妬』に囚われたままなのだ。このままお互いに傷つけあっては、敵の思う壺でしかない。

 そうしている間にもはたてが頭を押さえながら、苦しそうに言葉を絞り出す。

 

 

「…………っ、ごめん。もう手加減できないかも…………だから上手く避けてよ、刑香」

 

 

 震える手で葉団扇が掲げられる。

 はたてが刑香を圧倒すればするほど、それに比例して刑香の心には冷静さが戻ってきていた。恐らく『能力』の主は、より勝ち目のありそうな方に集中して呪詛を掛け直しているのだろう。はたてが刑香を墜とした後に、さらに文と潰し合わせるための布石を打っているのだ。

 

 

「はぁ、鬼がいるって聞いたから、もっと正々堂々と勝負してくる連中ばっかりだと思ってたんだけどね。地底の妖怪も色々みたいね、そりゃまあ当然だけど」

 

 

 しかし、夏空の碧眼に映るのは恐怖ではなく単なる呆れだった。そもそも刑香への影響を薄めたのが間違いなのだ。あまり長時間でないならば、刑香にとって時間稼ぎは不得手な策ではない。腕力もなく、脚力もない、体力すら貧弱な自分に許された戦い方が一つだけある。

 

 

「悪いけど、はたてには少しばかり痛い目に合ってもらうわよ。…………さて、今の状態のあんたは私について来られるかしら?」

 

 

 白い少女は挑発的に笑う。

 これまで手加減をしていたのは、何も姫海棠はたてだけではない。ばさりと刑香は真っ白な翼を誇らしげに広げ切った。その華奢な細身を包み込むのは冷たく澄んだ大気の流れ、増幅された風の勢いが白い髪を泳がせる。

 

 ここからが刑香が持つ妖怪としての本気。体力の消耗を度外視して紅美鈴を破った戦い、つまり決闘になるということだ。重々しい妖気が周囲をざわめかせ、二人の鴉天狗はお互いの得物を構えて相手の出方を伺っている。

 

 

 そして決闘の始まりだと言わんばかりに、はたてが葉団扇を振り降ろした瞬間に刑香もまた飛んだ。

 

 

 

「なーんてね」

「えっ、あ、刑香ぁ!?」

 

 

 前方ではなく、刑香はくるりと地面へ向けて降下した。頭を低く、一切の躊躇もなく身体を低空へと叩きつけ加速する。そのままほぼ全ての高度をスピードへと変換させ、地面スレスレに達するところで身体を無理やりに引き起こす。

 

 あまりにも鋭い気流をぶつけられた地面は砂煙を上げて、鴉天狗の少女を歓迎する。普通の人間ならば骨の一本や二本を折ってしまいそうな軌道を描いていく刑香だったが、そこは鴉天狗の末端に属する者として耐えきった。身体の芯から伝えられる警告代わりの痛み、それを思考の外へと追いやった刑香は更に葉団扇を使って地面と水平に加速していく。

 

 

「待ちなさいよっ、刑香!!」

「私がはたてや文を傷つけるわけないでしょうが…………そんなことをするくらいなら、鬼に喰われた方がマシよ」

 

 

 遥かな距離へ置き去りにされた友人は怒号を上げながら追ってくる、やはり完全に逃げ切るのは難しいらしい。おまけに葉団扇を使い続けるのは体力的にも厳しいので、すでにその補助はない。大きく突き放されていた漆黒の追跡者は少しずつ距離を詰めてきている。地面スレスレを飛んでいる自分はこのままでは上空を押さえられるだろう。

 

 

「けほっ、頭上の優位なんてくれてやるわ。元よりこの戦いの結末は相手を倒すことじゃなくて、時間稼ぎなんだから。私の役目なんて、ただ逃げ回っていればそれで良い」

 

 

 鴉天狗としての速度と、そして『死を遠ざける程度の能力』を十全に活かした回避力こそが白桃橋刑香にとっての最大の武器である。

 

 フランドールのように絶対的な突破力があるわけでも、八雲紫のように極めて広範囲に効果の及ぶ能力というわけでもない。しかし応用力はそれなりにある。致命的なダメージを退け、感染症や決められた死の運命さえ塗り替えてしまう、それは何者にも穢されることのない純白の力。

 

 これがある限り、刑香は決して墜とされることはない。分身を駆使したフランドールという例外はいたものの、体力さえ残っているならば二度とあんな無様は晒さない。

 

 

「とはいえ、あまり長くは持たないかもね」

 

 

 土蜘蛛たちとの戦いで消費してしまった分のスタミナは戻ってきていないし、はたてと刃を合わせるたびに刑香だけが体力を消耗する。親友たちのためなら何時間でも堪え忍んでやる心意気ではあるが、残念ながら気概だけで支えられるほど自分の身体は強くない。

 

 チリチリと胸を焼く痛みをはね除けて、刑香は速度を上げていく。

 

 首筋には糸で締め付けられた細く赤い傷跡が痛々しく残り、そして左腕の袖口からは血が滲んでいた。土蜘蛛たちとの戦いで負った傷は何一つ治癒していない。

 

 

「ちっ、もう追いついて来たのね。やっぱり葉団扇を使うか使わないかの速度は違い過ぎる…………!」

 

 

 いよいよ親友の影が地面に映り、悪意ある感情にまみれた妖刀が構えられる。空での戦いにおいて上を取られるということは致命的だ、その不利を背負ってまで距離を離したというのに時間稼ぎは失敗したらしい。これは血を見る戦いになるかもしれない、と刑香は覚悟した。

 

 

 

 カラスの大群が空を覆ったのは、そんな瞬間であった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十四話:心を汲みて高瀬さす

戦闘描写があります。
そういった内容が苦手な方はご注意を。


 

 

 ―――まったく、こんなに面倒くさい心の中は初めて見ましたよ。

 

 

 それはもう何百年も昔のこと。

 地底で最も嫌われ、恐れられていた妖怪は橋姫と顔を合わせた日にそう言った。何故二人が出会ったのかはわからない。孤独な妖怪同士が惹かれ合っただけかもしれないし、もしかしたらあの娘がパルスィを番人として利用しようとしていたのかもしれない。

 

 

 ―――あなたは誰にでも嫉妬できる、それはどんな相手からでも優れた長所を見つけ出せるということです。だからパルスィ、あなたは決して嫌われ者で終わる妖怪ではありません。その『心』に秘められた清らかさは私が保証します。

 

 

 水橋パルスィはあの時に掛けられた言葉を覚えている。地底に堕とされたことで護るべき橋を失い、当てもなく放浪していた自分、橋姫としての性質すら奪われたパルスィを救った少女のことは決して忘れない。

 

 古明地さとりは橋姫の閉ざされた心を確かに動かしたのだ。それから数百年、水橋パルスィはこうして地底と地上を繋ぐ道の番人として存在している。その全てのきっかけが古明地さとりとの出会いだと知る者は少ない。

 

 

 

 

「さとりも面倒なことを押しつけてきたわね。この私に頼るなんて、本当に厚顔で妬ましいヤツ」

 

 

 手摺に腰かけて、パルスィは遠くの空で戦う鴉天狗たちをつまらなさそうに眺めていた。ここはパルスィがさとりから預かった橋の上、ここから先は旧都へと続く道が何処までも延びており、この橋こそが地上と旧都の境界線でもある。

 

 

「さっさと墜ちればいいのにあの白いヤツはよく粘るわね。おまけに茶髪の方も全力を出せてないみたいだし、仲間意識って本当に邪魔だわ」

 

 

 確実に潰し合わせるなら、対象の『嫉妬』が増幅している頃合いを見計らって仕掛けなければならなかった。それなのに今回は半ば無理やり、あの娘たちの妬みの感情を呼び起こしただけなので効果が薄い。いつまでも終わらない同士討ちに、パルスィは煩わしそうに爪を噛みしめる。

 だが、パルスィが不機嫌なのは何もそれだけが原因ではない。大空を縦横無尽に飛び回る鴉天狗の少女たちを見つめるたびに、じっとりとした眼差しは影を増していく。

 

 

「ああもう、妬ましいっ。あんなに速く飛べるなんて妬ましいわ、風を操れるとか格好良くて妬ましいっ。あいつら戦いながら私に見せつけているんじゃないの!?」

「いや、あいつらはパルスィの能力に影響されて戦ってんじゃん。本当に絶好調だよね、久しぶりに地上からのお客が来て嬉しいの?」

「嬉しいわけないでしょ!」

 

 

 ケラケラと笑うキスメへ冷たい言葉を投げかけながら、パルスィは鴉天狗たちを油断なく観察していた。侵入者が来たのを知らせてくれたことには感謝しているが、正直なところキスメは鬱陶しい。土蜘蛛のヤマメと同じく、陽気で親しみやすく地底でも人気のあるコイツは自分とは反対側にいる妖怪だからだ。

 人間やよそ者に対しては凶暴で、しかもドクロ集めが趣味だったりする釣瓶落としだが、そんなことは地底に住む妖怪としては可愛らしい程度のものなので気にされていない。

 

 

「というか、よく引き受けたよね。地上に関わるなんてパルスィが一番嫌がることじゃなかったっけ?」

「仮にも私はここの番人よ、さとり妖怪からの頼みが無くてもよそ者は追い払うに決まってるでしょ」

「へーえ、私たちには『命令』だったのに、パルスィには『お願い』だったんだ。前から思ってたけどパルスィは覚妖怪と仲良しだよねぇ。ふーん、そうなんだ。…………って、きゃぁぁぁっ、桶を蹴らないでよ!?」

 

 

 頬をピンク色に染めたパルスィが桶をガンガンと蹴りつける。

 もしかしたら、あの時のさとりは心を読んで自分を惹き付ける言葉を並び立てただけかもしれない。しかし不思議なことに、そんな事実はどうでもよかった。今の自分に居場所と役割をくれた少女をパルスィは、ほんの少しだけ気に入っている。

 

 

「うぅ、酷いよぅ。…………ところで覚妖怪からは『追い返す』ように頼まれたんだよね、あれだと死んじゃうんじゃないの?」

「どちらかが落命したなら、その時はその時よ。そんな程度の妖怪を送り込んで来た地上が悪い、それこそ私の知ったことじゃないわ」

 

 

 この数年、さとりは元気がない。いや昔から覇気のようなモノは欠片も持っていなかったのだが、最近はますます倦怠感を帯びている。断じてアイツを「心配している」わけではない、しかしいつまでも暗い雰囲気でいられては面倒くさい。だからこそ、彼女の負担になりそうな侵入者はここで排除する。

 

 

「妹が行方不明なのは大変だろうけど、元気出しなさいよ。まったく世話が焼けるわね…………」

「あはは、だからお願いを引き受けたんだ。やっぱり優しいんだね、パルスィは」

「…………あんまり暗い顔をされると、鬱陶しいから協力してやってるだけよ。このくらいの厄介事は早めに払ってやらないと」

「はいはい、そうだよね」

 

 

 ニヤニヤと笑う釣瓶落としだが、パルスィはもう気にしないことにした。それよりも、さとりへと向けられる自分の感情に戸惑いを覚える自分がいる。このむず痒い心の痛みは何なのだろうか。だいたい察しているキスメは呆れた顔をしているが、パルスィは至って真剣だ。しばらくそうしていると、キスメに肩を揺らされた。

 

 

「ねえねえ、お取り込み中に失礼するよ。何だか空が暗いんだけど?」

「はぁ、地底の空が暗いのはいつものことでしょ…………う!?」

 

 

 

 ―――カァカァカァ、カァァァ!!

 

 

 

 空を覆い尽くす黒い影にパルスィは思わず舌打ちをした。

 思考に没頭しすぎて、気がつくのに遅れたらしい。そして何事にも危機感の薄いキスメは警戒に関しては当てにならないことを忘れていた。

 

 

「ちっ、こいつら地上のカラス連中じゃないのよ!」

「お空の仲間じゃなくて地上のカラスなんだ。へぇー、珍しいねぇ」

 

 

 呑気に空を見上げるキスメとは対照的に、パルスィは即座にその場から離れようと走り出す。カラスは鴉天狗たちの使い魔であり、その役割は概ね『偵察』と『哨戒』。ならば、自分たちを見つけた連中は必ず親玉を呼び寄せるだろう。

 

 

「キスメッ、あんたも早く逃げなさ…………遅かったか」

 

 

 橋の下に隠れようとしていたパルスィはピタリと立ち止まる。もう逃げる意味を失ったからだ。自分たちの目の前、いつの間にか舞い降りていた鴉天狗の少女から身もすくむ殺気がバラまかれている。

 

 

「こんばんは、地底の妖怪殿。私は清く正しい射命丸と申します、以後お見知りおきを」

 

 

 物腰は淑女然と、しかし周りに渦巻く妖気は吐き気がするほどの敵意に満ちている。

 真っ白な天狗装束には一つのシワもなく、土蜘蛛たちとの戦いを経たとは思えない。これは間違いなく組織において上位に名を刻む天狗だろう。パルスィが思わず身を固くする。

 

 

「さて、挨拶はほどほどに。私の大切な友人たちを元に戻して貰いましょうか。さもなくば、その腕を斬り落として五条渡りにでも送りましょうか?」

 

 

 強い光の宿った、真っ直ぐな瞳がこちらを射抜く。

 一刻も早く解除させようと、妖刀を構えてパルスィへと向ける姿は思ったよりも余裕が感じられない。よほど焦っているのだろう。友を心配するが故の行動、そこに込められているのは先ほどまで自分がさとりへと向けていた感情に似ているような気がした。

 

 

「ああ、なるほどね。私がさとりに抱いていたのはこんなにも単純な思いだったわけか」

「…………何のことかは理解しかねます。しかし無駄話をしている時間はありません、渋るならこちらも容赦はしませんよ」

「わかったわよ。どうせ目の前まで来られたら私の『能力』は大して役に立たないし」

 

 

 残念ながら、自分がさとりのために出来るのはここまでのようだ。だが構わない、これは『命令』ではなく『お願い』だったのだ。さとりもこれ以上のことを期待してはいまい、約束は果たしたのだから『能力』を解くとしよう。妖力を内へと封じ込め、広げていた呪詛を霧散させた。

 それを感じ取ったらしい鴉天狗が「やれやれです」と妖刀を鞘に納める。一件落着な雰囲気を見せた鴉天狗に、しかしパルスィは一石を投じてやることにした。

 

 

「でも残念だけど、あんたの友人たちの戦いはすでに終結してたみたいよ?」

「―――!?」

 

 

 明らかに動揺した文が振り向くと、すでに二羽の鴉天狗たちの姿は無くなっていた。パルスィが能力を解いたのはたった今、二人が刃を引いて空から地上に降りるのが早すぎる。だとすれば既に決着が付いていたということになる、どちらが相手を下しても勝利がない戦いに。

 

 

「さぁて、あの二人がどんな結末を迎えたのかを覗きに行ってみましょうか?」

「刑香、はたて…………まさかあなた達は」

 

 

 パルスィとしては転んでもタダで起きるつもりはない。顔色を青く染めている鴉天狗の少女を拝むくらいの仕返しは許されるだろう、橋姫はクスクスと笑う。

 

 

◇◇◇

 

 

 鴉天狗たちにとって『風』は使いなれた道具であり、決して裏切ることのない友である。

 攻撃に使うだけではなく、その身を護る鎧となり衣となる。空を駆ける際にはどれだけの速さで自分が飛んでいるのかを教えてくれる。それは大気の声を聞くなどという人理の及ばぬ領域、そんな者たちが幻想郷には確かに存在している。

 

 しかし今日だけは、その風の音をひどく耳障りに感じていた。まるで頭痛を訴えるように強くなっていく大気の嘶きは、自分への警告に満ちている。大切な『何か』を失ってしまうと必死になって呼び止めてくる。

 

 

「――――うるっさい、黙りなさいよ!!」

 

 

 その全てをはたては咆哮によって叩き伏せ、雪の散りゆく暗闇を飛び越えていく。とてつもなく不愉快な気分だった、一刻も早く『彼女』を空から斬り落とさなければならないと心が叫んでいる。その衝動に身を任せ、はたては目下を飛んでいる白い鴉天狗を睨み付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「待ってやってるんだから早く仕掛けて来なさいよっ、刑香!」

 

「いや、私から攻撃できるわけないでしょうが…………」

 

 

 激情を振りかざす友人から距離を取りながら、刑香は冷ややかな声音で呟いた。

 果たして自分を見下ろす顔に浮かんでいるのは怒りか憎悪か。いずれにしても、はたてが正気を失いかけているのは間違いない。

 ひとまずは高さの優位を奪い返そうと、刑香は葉団扇を地面へ向かって振るう。そして真下に叩き付けた風の跳ね返りを利用してスピードを保ちつつ、はたてのいる高度まで上昇をかけた。

 

 その時に背筋をヒヤリとさせたのは視界に映った刃の鋭い輝き、次の瞬間には甲高い音を鳴らして錫杖と妖刀が衝突した。勝てもしない力比べを挑むのはリスクが高い、しかし頭上を陣取られたままで戦うのも危険すぎる。それゆえに力の差で強引に押し込まれつつも刑香ははたてを気丈に迎え撃った。

 

 

「くっ、そんなに鍔迫り合いがしたかったのかしら?」

「あんたを確実に潰すために決まってるでしょ。せいぜい抵抗してみなさい、刑香」

「…………どうやら本格的にやられてるみたいね。なら私も手加減なしでいくわよ」

 

 

 そして再びぶつかり合う鴉天狗の少女たち。鈍い打撃音と鋭い斬撃音、どちらも譲ることなく何度も何度も空中で火花を散らす。しかしそのたびに突き飛ばされるのも体力を消耗していくのも刑香だけだ。おまけにこの相手では『回避』が思うように働かない。

 

 

「まずは一撃ねっ!」

「ぐっ、アンタはやっぱり当ててくるか。どいつもこいつも私の脚か肩を潰してくるんだから…………」

 

 

 何度目かの交差の後、妖刀の振るった一閃が真っ白な脚に赤い傷を走らせていた。流れ出る血液と痛みに顔を曇らせた刑香が距離を取っていくのを、はたては暗い笑みで追撃する。

 

 『死を遠ざける程度の能力』。それは使用者たる者を外界から守り、時には病魔をも退ける厄除けの力。この力はかつてフランドールの持つ『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』すら防ぎきっている。単純に考えるのなら大抵の攻撃を避けることのできる、ずいぶんと強力な能力だ。しかし、その詳細を知る親友たちにとっては必ずしもそうではない。

 

 

「あんたのソレは弱点だらけ。知ってるわよ、千年も一緒に飛んでいて気がつかないわけもない。致命に至らない程度の傷に対しての回避力は随分と落ちるんでしょ、刑香?」

 

 

 それこそが『死を遠ざける程度の能力』の穴、紅美鈴が刑香の片足をへし折ることができた理由であった。

 もし対峙しているのが他の相手だったのならば、八雲紫が相手でも十分な時間稼ぎを刑香は成し遂げただろう。

 しかし白桃橋刑香にとっての『天敵』は、自身にとって遥かに格上である八雲紫でも伊吹萃香でもない。恐れるべきは命綱たる『能力』の底を知る者たち、つまりは文とはたてこそが最も敵に回してはならない存在だったのだ。

 

 

「でりゃぁぁああ!!」

「くぅぅっ!!?」

 

 

 激情を乗せて放たれる幾重もの斬撃、それに晒され続ける錫杖はボロボロに崩れ落ちていく。いくら河童特性の合金であっても年月を経た妖刀に勝てるわけもない。「このままでは両断される」と判断した刑香は腰に差している妖刀に手を伸ばした。

 

 

「~~っ、そんなことできるわけない!」

 

 

 例え正気を失っているとしても、かけがえのない友へ刃を向ける。そんな非情さを刑香は持ち合わせていない。妖怪としての本能が警鐘を鳴らし始めたが、意図的に無視して妖刀から手を引っ込める。

 代わりに葉団扇へと手のひらをかざし、決して少なくない妖力を注ぎ込む。これ以上武器はもたず、この後のことを考えるなら体力も心許ない。ならば時間稼ぎではなく、この勝負自体をすぐにでも終結させるしかない。そっと刑香は胸元に手を当てた。

 

 

「ちょっとキツイけど、切り札の出し惜しみはしてられないわ」

 

 

 大木すら薙ぎ払う天狗の葉団扇は、一方で使用者の妖力を湯水のごとく消費し、油のように燃やし尽くす。通常の天狗ならば問題ないが、体力不足の白い鴉天狗にはツラい。もって数分といったところ、それで刑香の妖力は空にされるだろう。

 

 

「…………っ!!」

 

 

 真上から放たれた風の刃、その鋭い一撃をわざと急停止することで回避する。そして失った速度を取り戻すために葉団扇に叩き込んでいた妖力を解放しようとした瞬間、

 

 その時には既に、急降下を仕掛けていた茶髪の鴉天狗の刃が眼前にまで迫っていた。

 

 「加速は間に合わない」と舌打ちをした刑香がその斬撃を受け止める、亀裂が走った錫杖の表面を滑らせるようにして妖刀を受け流した。しかし、すかさず再び距離を取ろうとした自分の腕をはたてが掴み上げたことに驚愕する。

 

 

「しまっ…………!?」

「―――ようやく捕まえたわ、刑香」

 

 

 それは奇しくもフランドール・スカーレットとの戦いと同じ展開だった。連続での戦闘で体力を消耗したところを捉えられる。そして純粋に力で劣る刑香は一度捕まってしまえば相手から抜け出すことが難しい。つまり、

 

 

「これで私の勝ちよね、刑香?」

 

 

 はたてが嗜虐的な笑みで刑香を嘲笑った。

 幼い吸血鬼より優しく、しかし絶対的な腕力の差で白い鴉天狗を地へと引き摺り下ろそうと腕を引く。このまま地上に墜とされれば、最大の武器である『速さ』と『回避力』を失ってしまう。それはフランドールとの戦いと同じ結末を意味している。あの翼をへし折られた悪夢が再来する、それも今度は友人の手によってだ。恐怖に怯えたのか、刑香の碧眼がわずかに揺れる。

 

 しかし幸いにして掴まれているのは片腕だけ、もう一つの腕は無事だ。あまり考えたくないが、今のはたては刑香を壊してしまうことにしか意識を割いていない。ならば、隙をついて腰にある妖刀を掴めば状況の打破は可能だろう。操られている親友の腕を斬りつける覚悟があるのなら。

 

 

「…………まあ、それができるなら最初からしているか。本当に私は甘いわね、自分でも嫌になるくらいには」

 

「さぁて、到着したわよ」

 

 

 最後まで刀は抜けなかった。

 その結果として刑香は地面を背にして、正面からはたてに押さえつけられていた。そのまま両腕を頭の上で固定され、自分の背中と大地に挟まれた翼はもはや動かせない。「早くしなさいよ、文」と頭の中でもう一人の親友へ呼び掛けるものの、こちらを見下ろしてくる親友はまだ正気に戻る気配はない。しかし、刑香の首もとに添えられた妖刀はカタカタと震えていた。

 

 

「…………どうしたの、さっさとやらないの?」

「っ、っ、ぅ、うるさいわよ!!」

「いくら拘束されていても、私は『能力』が切れるまで死ぬことはない。だから一度や二度、その刀で首を斬りつけようとしても外れるだけよ。何度も繰り返すなら、いずれはこの首を落とせるだろうけど…………あんたがツラいわよ?」

「お、お願いだから、黙っててよ…………」

 

 

 あくまでも冷静に刑香は言葉を投げ掛けていく。

 そのたびに、はたては顔色を青ざめさせて刃を首もとから遠ざける。やはり完全に操られているわけではないらしい、『嫉妬』を『殺意』にまで変えることのできる能力には驚かされたが限界も見えてきた。じっと刑香が見つめていると、はたての動きに迷いが生じている。刃が首もとから離された時に、刑香はもう一度口を開いた。

 

 

「はたて、私たちがお互いに命の奪い合いをするなんて無理よ。だからこの手を放して」

「…………そ、そんなことない。首はあんたの顔が見えるから気になって斬れないだけだ、から」

 

「あっ、ちょっ、あんた一体何を!?」

 

 

 今度は刑香が動揺させられる番だった。

 突如として装束の帯を切り裂かれ、サラシの巻かれた刑香の胸部が丸見えにされる。わずかな膨らみを持った双丘は年頃の少女らしいものだろう。ひんやりとした刃を押し当てられながらも、刑香は顔を真っ赤に染め上げる。じたばたと暴れるが、それでも両腕の拘束は解けそうにない。

 

 

「こ、心臓(ここ)なら一刺しに出来そうね」

 

 

 トントンと、はたては刑香の左胸を刀の柄で叩く。

 これなら目を合わせずに、刑香の言葉に惑わされることもなく、致命傷を与えられるかもしれない。顔さえ視界に入らなければ何とかなる可能性はある。カチカチと鳴る奥歯を噛みしめながら妖刀の刃を真っ白なサラシへと押し当てる。

 

 

「ごめんね、刑香…………」

 

 

 その言葉を聞いて覚悟を決めたような表情をした刑香、そんな友を視界に映さないようにはたては刃を振り下ろす。続いたのは真っ赤な鮮血と小さな悲鳴、そして肉を切り裂く嫌な感触の―――はずだった。

 

 

 

「悪いけどフランドールにやられてから、私だって地上に墜とされた時の対策くらいはしてるわよ?」

 

 

 

 涙に濡れたはたての瞳に映っていたのは、止められた心臓への一刺しだった。

 振り下ろされた凶刃を防いだのは刑香の胸に巻かれていたサラシ、それはびっしりと裏に『霊術』の記された神符だった。そもそも吸血鬼異変でフランドールに捕まり、刑香は動きを封じられて翼をへし折られている。今回のはたてが取ってきた『死を遠ざける程度の能力』への対策はそれと同じものだったのだ。

 

 しかし同じ手に二度も三度もやられてやるほど刑香は甘くない。青く発光した神符たちが鴉天狗の少女へと襲い掛かる、それを妖刀で斬り払おうとするも逆に手足へと張り付かれていく。同時に込められた霊力が妖怪としての姫海棠はたてを鎖のような術式で封じ込め、一切の抵抗を許さない理不尽ともいえる術式で縛り上げていく。

 

 

「いっ、痛い!? 何よコレ!?」

「霊夢の作った『妖怪退治用』の護符よ。いくら鴉天狗だろうと少しの間、動きを封じるくらいは訳もない。おとなしく拘束されてなさい」

 

 

 一枚一枚に分離した神符が鴉天狗の少女を拘束する、丹念に動きを封じるソレは美鈴すらも脱出できなかった代物だ。これを確実にぶつけるために『わざと』捕まったのだが上手くいったようで安心した。何も覆うものが無くなった肌を隠しながら、刑香は立ち上がる。

 

 

「普段のあんたなら、これくらいは見切ってきたでしょうね。…………今回は私の勝ちよ、はたて」

 

 

 それはどこか申し訳なさそうな色を含んだ声だった。

 正気でない友人との望まぬ戦い、そんなものに勝ったところで何かしらの感慨があるはずもない。しかし結果として、はたてに大した怪我を負わせることもなく勝負を終結させることができた。「それくらいは誇ってもいいか」と刑香は心の中で少しだけ勝利を喜ぶことにする。

 

 

「まあ、あんたには大した怪我がなくて良かったわ」

 

 

 左脚から流れる血液は止まらずに、刑香の足元に赤々とした水溜まりを作っていた。刀の傷は思ったより深かったらしい、そして土蜘蛛から負わされた方も未だに癒えていない。昔はここまで脆くなかったというのに難儀な話だ。応急処置くらいはしておいた方が良さそうだと刑香は他人事のように溜め息をついた。

 

 

「…………これはもう、二百も残ってないかもね」

 

 

 ポツリと流れ出た言葉を聞き届ける者はおらず。文がパルスィの能力を停止させ、刑香たちと合流を果たしたのはこれから数分後のことになる。

 

 

 

 




今日もしくは明日に『番外編』としてお正月・大晦日のどちらかのお話を投稿します。
あくまでも予定となりますが、よろしければお越しください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大晦日特別編

このお話は『大晦日』の特別編となります。
時間軸は原作がスタートした以降、それがどのあたりなのかの想像は読者の皆さんにお任せいたします。
尚、前日に本編を更新しておりますのでお見逃しないようにご注意ください。

それでは原作時点での霊夢と刑香の物語、お楽しみいただけたのなら光栄です。



 

 

 お正月といえば、多くの参拝客が初詣のために訪れる時期である。しかしそこは『妖怪のたまり場』として有名となってしまった博麗神社。元旦にも関わらず閑古鳥が鳴いているのが毎年の常であった。

 

 だが今年は一味違う。地平線へと沈んでいくオレンジ色の太陽を睨みながら、巫女は力強く拳を突き上げた。

 

 

「今回のお正月こそは賽銭箱を溢れさせるくらいのお金を集めてみせるんだから!」

 

 

 気合い十分といった様子で、神社の主である霊夢は今年最後の夕日に誓いを立てる。赤みがかった黒い瞳に宿るのは、異変時にも発揮されなかった情熱である。

 

 そもそも安全がまるで保証されない獣道を抜けた先にあり、大勢の妖怪たちが集まる博麗神社。いくら腕利きの巫女がいるといっても、そんな所にまで新年早々訪れようという猛者は少ない。ゆえに生活費を最も楽に稼げるはずのお賽銭が手に入らないのも当然といえるだろう。

 この神社が霊夢のものになってから早十年、その間に霊夢が満足できる量のお賽銭が手に入った年は一度もなかった。

 

 

「ふふふ、でも今年は違うわ」

 

 

 大きなリボンを靡かせて、霊夢は上機嫌に境内を闊歩する。

 昨日までは一面の銀世界だった境内は石畳も石灯籠からもキレイに雪が落とされている。それだけではなく、人里から神社に続く道の雪すらも掻き分けておいたという徹底ぶり。参拝客を迎える準備は万端だ。

 

 神社に寄り付いてくる妖怪の方はどうにもならないが獣道にも神符をセットし、ともかく道中の安全は確保した。これならば賽銭箱の中身が例年と同じ寒さで終わることはないはずだ。思わずステップでも踏みたくなる完璧さだった。

 

 

 

「でも雪かきをしたのは霊夢じゃなくて私でしょ。葉団扇を使えば時間はかからないけど、けっこう体力を消耗するんだからね?」

 

 

 

 黒髪を冷たい風に遊ばせて歩いていた霊夢。そんな彼女へと降ってきたのは聞き慣れた声だった。霊夢が見上げた先、神社の鳥居の上に悠々と腰かけていたのは一羽の白い鴉天狗。

 

 

「それについては感謝してるわ。本当にありがと、刑香」

「どういたしまして。明日は人里から参拝客が大勢訪れるといいわね」

「うーん、参拝客よりもお賽銭をいくら入れて帰るかが大事なのよねぇ。その後はおみくじを引いてくれると尚良しだわ」

「………………まあ、ほどほどにね」

 

 

 少し困ったような、呆れたような表情でこちらを見下ろしている鴉天狗の名前は刑香。幼い頃に出会ってから、もう随分と長い付き合いになる妖怪である。黒い翼を誇るはずの鴉天狗に生まれながら、白い翼を持つ少女。

 

 その姿は初めて会った時から変わらない。透き通るような碧眼と白銀の髪、そして夕焼けの光に照らされた白い翼が不思議な輝きを放っていた。自分はずいぶんと大きくなってしまったが、彼女はあの日から何一つ変化しない、相変わらず綺麗な妖怪のままだった。

 

 

「ところで人里の患者からお酒を貰ったんだけど一緒にどうかしら?」

 

 

 そう言って刑香が指差したのは、鳥居の上に置かれた酒樽。ここまで風で持ち上げて運んで来たのだろう、葉団扇を振るうとそれが霊夢の目の前にドスンと着地を決めた。なかなかに大きな樽、これは呑み応えがありそうだと霊夢は満面の笑みで頷いた。

 

 

「もちろんご一緒するわ。さーて、今夜は豪勢にいきましょうか!」

 

 

 夜の帳が降りてきた幻想郷。残された時は少なく物寂しい気配の漂う年越しの夕暮れ。そんな中で今年最後のささやかな宴が始まろうとしていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 

「そもそもさ、今までの異変を解決できたのは誰のおかげだって話よ。私がいるから今の幻想郷が存在するといっても過言ではないわ。人里の奴らは感謝の気持ちが足りて…………」

「えーと四だから。ひー、ふー、みー、せっかく進んだのに、ひとマス戻るっていうのは何かシャクよね」

 

 

 ぬくぬくとした炬燵の上で繰り広げられているのは小さな双六。サイコロを振って出た目の数だけ自分の駒を進ませるという運任せの児戯なのだが、これが中々に面白い。

 かつて天狗たちの間でも賭け事の対象として大いに流行り、大天狗たちによって禁止令が出るまでになった遊戯である。この辺りの歴史は人間も妖怪も変わらない。

 

 

「ちょっと聞いてるのっ、刑香!?」

「はいはい、あんたの番だから早くしてね。…………うーん、どうも賭け事は苦手かもしれないわね。文にカモられて酷い目に会ったこともあるし」

 

 

 霊夢は不満そうな表情でサイコロを振る。もう相当の酒が回っているらしく顔が赤くなっていた。先ほどから会話内容は「人里の感謝が足りない」という愚痴ばかりになっており、そろそろ刑香にも適当に流されてしまっている。

 

 

「よしっ、相手を三マス戻すだってさ。覚悟しなさいよ、負けた方は甘味を奢るんだからね!」

「…………そんな約束あったかしら?」

「あー、今決めたから」

 

 

 出た『六』の分だけ駒を進ませると、ゴールはすぐそこだ。すでに半周近くの差が開いている以上、霊夢の勝利は確実だろう。この状況で賭け事を持ち込むとは中々のしたたかさだ。「まあ、いいか」と刑香は盃を持ち上げて、サイコロを振ることにした。真っ赤な一つ目の面が上を向いたのをうんざりした様子で刑香は見つめる。

 

 

「い、いち…………ごほん、ところで博麗の巫女は妖怪退治をしてその報酬で生活してきたんでしょう。人里に行って悪行を働いている妖怪がいるかどうか調べたら?」

 

 

 駒をひとマスだけ動かした先には『始めに戻る』と書かれているのが見える。これでは完全な敗北だ、刑香は震える手で駒をスタート地点に戻した。霊夢は哀れそうに自分を眺めているが甘んじて受けるしかない。賭け事に弱いのは昔からなのだから。

 

 

「んー、外は寒いから春になってからそうする。でも妖怪退治について、妖怪の刑香から指摘されるなんて複雑な気分だわ…………」

「そりゃあ、私を叩きのめしたとしても霊夢の手元に金銭は入らないからね。退治される理由がないから気楽なのよ、ほら」

「ん、ありがと」

 

 

 ひょいっ、と刑香は巫女へと皮を剥いたみかんを手渡した。それを口へと運びながら霊夢はのんびりと炬燵に頭を乗せる。ミカンを噛みしめて、くにゃりと歪んだ口元は何かを企んでいる表情をしていた。ひとまず双六はここまでだ、勝ちの決まった勝負に興味はない。霊夢はゆっくりと立ち上がる。

 

 

「…………ふふふ、良いことを思いついたわ。楽してお金を手に入れる方法をねっ!」

「へえ、それは是非ともご教示してもらいたいわね。私も興味があるわ………………あれ、どうしたの?」

 

 

 畳を踏みしめて近づいてきた霊夢に、刑香が怪訝な顔をした。ほんのりと赤い頬を隠しもせずに巫女の少女は刑香の隣へと入り込む。炬燵の一ヶ所に二人が並ぶのは少し狭い、仕方なく刑香が端に寄る。少し恥ずかしそうにしている巫女を見つめていると、ぐっと霊夢が目線を上げた時にお互いの目が合った。

 

 

「お年玉ちょーだい」

 

 

 にへら、と笑いながら両手を差し出してくる巫女の少女。それを見た刑香がガクンと肩を落とした。これは確実に酔っているのだろう、まさか妖怪相手に博麗の巫女がお年玉をねだるなんて面白い冗談だ。

 

 

「おあいにく様だけど、天狗にその類いの風習はないわ。どうしても欲しいなら慧音あたりに頼みなさいよ」

「あーあ、やっぱり失敗しちゃったか。残念ざんねん………………あははっ!」

 

 

 そのまま仰向けに倒れた霊夢。言葉とは裏腹に残念そうな様子は見られない、本当に単なる冗談だったのだろう。「まったくこの娘は………」と刑香は苦笑しながら酒を口にする。

 

 

「でもお賽銭くらいは入れてあげるから、ってちょっと霊夢?」

 

 

 妥協案を示す刑香だったが、肝心の巫女からの反応がない。まさかと思って視線を動かしてみると、可愛らしい寝息が聴こえてきた。盃を置いた刑香がその顔をそっと覗き込む。

 

 

「すぅ、すぅ…………んぅ?」

「こんなところで眠ったら風邪をひくじゃない。いくら巫女でもアンタは人間なんだから、キチンと布団で寝ていなさいよね」

 

 

 言うが早いか、ひょいと巫女の少女を持ち上げて運び出す。カクンと頭が揺れて黒髪が腕に垂れてきたのをくすぐったく思いながら、寝室にひかれていた布団へと霊夢を寝かせてやる。黒髪に手櫛を入れると、巫女の少女はくすぐったそうに顔を緩ませた。

 

 

「まだまだ子供だけど、それでも人の子の成長は早いものね」

 

 

 霊夢の評判は人里の住民からは良くないが、特別な人間や妖怪たちからはすこぶる上々だ。レミリアや文、そして紫や天魔、誰もがこの巫女の在り方に惹かれている。それは刑香とて例外ではない。

 

 幼い頃は自分の後をちょこちょこと付いて来ていた霊夢、しかし今は逆に自分がこの娘の魅力に引き寄せられている。もう大丈夫だ、この娘ならここから先の未来を一人でも力強く生きていけるだろう。それは少し寂しいような、悔しいような、しかし嬉しい成長だった。

 

 

「もうしばらくは一緒にいてあげた方がよさそうかな。だから来年もよろしくね、霊夢」

 

 

 言い終えると視界がクラリと歪んだ。酒は飲んだが天狗としては序の口程度だったはず、ならば人里での治療の疲れが出てきたらしい。年末だということで張り切りすぎたツケが今更になって襲いかかってきたのだろう。

 

 

「ーーーまあ、いいか」

 

 

 部屋の壁を背にして刑香は座り込む、どうやら思った以上に無理をしていたらしい。今日はここで一夜を過ごさせてもらうとしよう。ぐっすりと眠っている霊夢を一瞥すると、刑香は気を失うように意識を手放した。

 

 

◇◇◇

 

 

 霊夢が目を覚ましたのは、それから数時間後のことだった。冷え冷えとした空気に身震いをして、もう一度布団へと潜り込む。すっかり酔いは醒めていた。

 

 

「刑香?」

 

 

 暗闇の中でもはっきりと視界に映ったのは白い少女の姿。硬い壁を背にして苦しそうな寝息を立てる刑香の元へと、霊夢は布団を引きずりながら進んだ。

 

 

「うわっ、冷たいじゃない。また無茶したんでしょ、本当に仕方ないわね…………心配するじゃないの」

 

 

 触れた肌の温度はとても冷たかった。せめて新年を迎えたいと希望した患者や、その家族の願いを叶えるために『能力』を大きく消耗させてしまったのだろう。また今年も同じことを繰り返した訳か、と霊夢が呆れた顔をした。

 

 

「ほっとくわけにはいかないし、ウチには布団が一組しかないからなぁ。こうするのが一番よね?」

 

 

 そのまま自分と刑香を布団でくるんで、その冷たい身体を抱きしめてやる。この体勢で眠ることは難しいだろうが、これなら二人とも風邪をひくことはない。我ながら妙案だと満足げに頷いた霊夢、ゆらりと刑香が顔を近づけてきたことに気がついたのはその時だった。

 

 

「あったかぃ………」

「ちょ、刑香ぁ!?」

 

 

 弱っている時に甘えるような仕草をするのは人間も妖怪も変わらないらしい。自分を巻いている布団に頭を埋めて、刑香はこちらに身体を傾けてくる。サラサラした白い髪の感触を霊夢は胸元に感じ、起こさないよう慎重にその髪を撫でつけた。

 

 一本歯下駄を脱げば、もうほとんど刑香と霊夢の背の高さは変わらなくなった。もし妖怪とスペルカード抜きで戦うとしても、やはり霊夢は刑香よりも強い。幼い頃から自分を護ってくれた背中が思ったより小さくて、華奢であったことに気づいて驚いたのはいつのことだっただろうか。

 

 

「あ、除夜の鐘が聴こえる。もう一年が過ぎたのか、異変を何個か解決するだけの年だったわね………」

 

 

 鴉天狗の少女と布団にくるまって迎えた新年、冷たく澄んだ新しい夜を揺らしたのは除夜の鐘。今の幻想郷には主だった『寺』がないので大晦日にだけ鐘が人里で用意されて、鳴らされるのが恒例となっている。

 

 

「明けましておめでとう。今年もよろしくね、刑香」

 

 

 この幻想郷でも瞬く間に時間は過ぎていく。それでもお互いに寄り添い合って生きることができるなら、その生涯は寂しいものではない。長い旅路の果てに何が待っていようとも、永久に失われるものがあったとしても、ただお互いに見守り合うことができたなら行き着く先には大輪の華が咲くだろう。

 

 

 博麗の巫女はそのことを知っている。誰よりも中立でなければならない、何者にも染められない存在でなければならないはずの少女が仲間外れの鴉天狗との交流で得たのはそんな想いだった。

 

 

 冬が明ければ春となり、また色鮮やかな草花が芽吹くだろう、それはきっと美しい世界になる。花鳥風月のままに季節は巡り、人の理が及ぶことなく命は廻る、こうして幻想郷の新しい年は始まった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十五話:妖怪山の四天王

残酷な描写があります。
苦手な方はご注意ください。


 

 

 時は数百年前、場所は妖怪の山にある天狗の集落。

 すでに支配者たる『鬼』の姿なく、天狗が山の頂に立ち他の種族を見下ろして久しい時代のことだった。その中央にある長老の屋敷にて、幼い鴉天狗が上座にいる大天狗たちを睨み付けている。空色の瞳は激しい雨風を秘めたように波立ちて淀んだ黒を正面から射抜く。

 

 

「何度おっしゃられてもお受けすることはできません。『死を遠ざける程度の能力』をこれ以上使用するならば、あなた方は輪廻から逸脱した存在になる。天狗ですら無くなるのです」

「構わぬ、と言っているのが聞こえぬか? 」

「出来ない、と申し上げているのが聞こえませんか?」

 

 

 口を閉じさせろと、しわがれた声が響く。

 途端に少女は床に押さえつけられ手足を荒縄で縛られる。精一杯の抵抗をしてみせる幼い鴉天狗だったが、その身体を上から押さえつけているのは屈強な男天狗たちである。いくら暴れたところで拘束から逃れることなどできるはずがない、動きを完全に封じられるまで時間はかからなかった。

 

 

「っ…………は、放しなさいっ。私はもう『能力』をお前たちに喰い潰させるつもりはない、こんなことをしても無駄よ!」

「この期に及びて未だに考えは改まらぬか。あいにく今のワシらには貴様の戯れ言にかかずらっている時間がない。いつまでも『能力』の使用を躊躇うなら、致し方ない」

 

 

 振り下ろされたのは木製の警棒。

 重々しい打撃音と共に苦痛の声が上がる。今から行われるのは組織への確かな『従属』を少女に誓わせるための儀式である。鼻高天狗を模した面を付けた男たちは、翼を除く少女の全身を打ち据える。その身体に青あざが丹念に叩き込まれていく少女を憐れに思ったのか、紫色の羽織を着た老天狗が問いかける。

 

 

「我らの決定に従う気になったか、(しおき)?」

「ぐっ、それはもう私の名じゃない…………あの方から貰った私の名前は、がぁ!?」

「…………鬼に(かどわ)かさせれたか、勝手なことをするあの御仁にも困ったものだ。おかげでもう一度、こやつの心を折らねばならなくなった」

「っ、あぁぁぁっ!!?」

 

 

 悲鳴と共に白い羽が散る。

 もう何百年も昔、それは人の子にとっては歴史とすら言える年月を遡った先に起こったこと。こんなものは世界のどこにでもよくある、別に珍しくもない悲劇の一つでしかない。しかし、得てして悲劇というものは実際に経験した者にとっては地獄そのものである。

 

 

「っ…………っぅえ………げほっ、げほっ!!?」

 

 

 やがて白い少女が吐血し始めると一方的な暴力は止む。仮面の男天狗たちは指示を仰ぐように『その翁』へと向かい姿勢を正した。ここで死なせてしまっては意味がない。

 

 

「その小娘は『能力』ゆえに死にはせぬ、考えを改めるまで構わず続けよ。八雲や他勢力が不穏な動きを見せている今、たとえ一羽とて上役を欠くわけにはいかぬのだ」

「や、やめ…………」

 

 

 どこまでも冷徹な命令が下され、一方的な蹂躙は再開された。抵抗する少女を力ずくで押さえつけ、天狗たちは無言でその華奢な身体に苦痛と恐怖を深く深く埋め込んでいく。ここにいるのはそういったことを専門に扱う者たちである。

 

 白い少女が苦痛を訴えていた声は、もうすでに絹を裂くような悲鳴に変わっている。天井に木霊するのは少女が助けを求める声、そして身体を壊す音がそんな叫びすらも掻き消して空気を震わせる。それでも鴉天狗の少女は決して考えを改めることはなかった、強がりな性格はこの頃から変わっていなかったわけだ。

 

 

 刑香は、苦笑しながらその光景を見つめていた。

 

 

『ずいぶんと手加減がないものね。たかが小娘の意思を変えるためだけにこの仕打ちとは恐れ入るわ。長老にとっては、そんなにも組織の安定が大事だったわけなのね』

 

 

 これは単なる夢である。

 刑香は目の前で繰り広げられている映像をため息まじりに眺めていた。痛みに泣き叫ぶ声も、歯を喰い縛って耐える姿も、間違いなく自分のものであり他の誰のものでもない。

 どこまでいっても苦い記憶、そもそも組織の上役たちに逆らうなんて馬鹿なことをしたと呆れるべきだろう。だがあの時の決断に後悔はない、それまでは人形のように彼らに従っていた刑香が初めて大天狗たちへと叩きつけた自分の意思だった。『あの鬼』に名前と勇気を貰ったからこそ実行できた小さな抵抗だったのだ。

 

 

 ―――けい………ねて……、だいじょうぶ……!?

 

 

 まったくもって嫌な夢を観たものだ。痛めつけられる自分の姿など見たいわけもない、乗り越えたとはいえツラい記憶もまっぴら御免だ。どうにも運命とやらは少しばかり自分には厳しかったらしい。地上に戻ったらレミリアに文句を言ってみようと思う。

 

 

 ―――け、いか………起きて…………くださ…………!

 

 

 今度は先程とは別の声が鼓膜を揺らす。

 なので、このあたりで目を覚まそうと刑香は思った。意識を覚醒させようと抑えていた妖力を解放して身体を強制的に起こしにかかる。ぼんやりと風景が薄れて、夢の中から脱出しようとした時だった、大天狗たちの中心に座る男が苦しげに言葉を絞り出す。

 

 

(しおき)よ、無駄だというのが何故わからぬ。貴様が能力を使うまで懲罰は止まぬし、そもそも里にいる限り貴様の身柄は我らのモノだ。どうせ逃げられぬならば、これ以上の手傷を負う前に平伏せよ」

「――――あ、ぁぁぐぅ…………っ!」

「もうよかろう、もう十分であろう、もう理解したはずだ。だから許しを請うならば明瞭に申せ」

「ぜっ、たい…………いや」

「っ、今しばらく続けよ!」

 

 

 何故いまさらこんな夢を観たのかはわからない。されど全ての物事には意味がある、少なくとも自分はそう考えている。なので最後にもう一度だけ、その老天狗を視界に収めてから刑香は夢の世界を後にした。

 

 

 それは幻想郷が陸続きだった頃の記録。

 それは刑が刑香となった頃の記憶。

 それは白桃橋刑香がまだ、ただの刑香だった頃のお話。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「…………けほっ」

 

 

 冷たい夜風が仄かに熱い頬を撫でつけ、凍るような空気が肺を満たしていくのを感じた。少し咳き込んでから刑香は重たいまぶたを押し開ける。

 

 

「気がつきましたか、刑香?」

「うなされてたけど大丈夫なの? …………その、さっきはごめんね」

 

 

 やはり目の前にあったのは親友たちの顔、すっかり正気を取り戻したはたてと急いで駆けつけただろう文の二人がそこにいた。はたてを縛っていた霊符はどうやら文の妖刀によって斬り落とされたらしく、二羽の鴉天狗たちは岩を背にして眠っていた刑香を心配そうに見つめている。ぼんやりとした頭は未だに夢見心地で、そっと刑香は口元を動かした。

 

 

「んぅ…………くすぐったいよ、あや、ねぇ」

「「え?」」

 

 

 親友の手のひらが自分の頬に当てられていた、そこから伝わってくる温かな感情が冷えきった心に熱を灯す。先の悪夢を払拭してくれる温度が妙に心地よかったので刑香は頬っぺたを文の手へと擦りよせた。

 

 目が覚めたのはたっぷりと数秒後。「どう料理してやろうか」とニヤニヤ笑っている親友たちに気づいて、刑香は顔を真っ赤に染め上げたがもう遅い。

 

 

「ち、違うっ。私は寝惚けてたから…………っ、微笑ましい目で見るのは止めなさい!」

「あややや、ずいぶんと懐かしい姿を見せてもらいましたよ。昔はもっと素直に甘えてきたのに、最近は少しばかりひねくれてるので貴重なシーンでした」

「へー、ちっちゃな頃の刑香は甘えん坊だったんだ。私と仲良くなった時はすでに今と変わらなかったから意外だわ…………さっきはくすぐったかったのよね、刑香ちゃん?」

 

「ほ、本当に勘弁してよ…………」

「軽い冗談よ、冗談。ほら、手を貸すわ」

 

 

 はたてが差し伸べてくれた腕に掴まって起き上がる。その際に二人の顔を見ることはしなかった、さすがに子供扱いされるのは不服だったし、恥ずかしさで染まった頬を見られたくなかったからだ。

 

 ちなみに直接からかって来ない文、彼女の方が笑みは深い。きっと聡明な彼女は気づいていたのだろう、刑香は頭を抱える。昔の夢を見て心が弱っていたとはいえ、いまさら幼なじみを「あや姉」などと呼んでしまうとは不覚以外の何物でもない。失敗したと反省しながら刑香は痛みの引いた脚に力を入れて立ち上がった。その様子を心配そうに見つめながら、はたてが遠慮がちに言葉を紡ぐ。

 

 

「それで、その、私が斬った脚は大丈夫なの?」

「ええ、この通りに傷は塞がっているから心配ないわ」

「刑香にしては早い治癒力ですねぇ…………」

 

 

 血溜まりを作るほどに傷ついていた脚からの出血は止まっていた。それどころか身体には妖力が満ちている、これならまだ戦闘が控えていたとしても何とかなるだろう。それは白い少女にしては早すぎる回復力だった、それ故に親友たちは逆に心配した様子でこちらを観察していた。

 

 

「ああ、これを飲んだの。吸血鬼異変の後の宴会でも美鈴にご馳走したりしたんだけど、その濃縮版とでも言うべきなのかな」

 

 

 特に隠す理由もなかったので、刑香は酒の入った瓢箪(ひょうたん)を取り出した。「あんた達もいる?」と渡された文が試しに一口飲んでみたところ、みるみる表情の色が変わっていく。かつて一口分だけ飲む機会があったので気づけた、驚いた様子で黒い鴉天狗は口を開いた。

 

 

「これはまさか『茨木童子』様の薬酒、ですか?」

「正解よ。ちょっとお節介でお人好しな仙人様がいてね、その方のツテで手に入ったの。なかなか重宝してるわよ、物騒な目に会う最近は特に」

 

 

 山の四天王が一角、茨木童子。

 平安の旧き世において、文字通りの百鬼夜行を引き連れ京の都を荒らし回った鬼族の(かしら)の一人である。人間からは恐怖の権化として、妖怪からは敬畏の対象として称えられていた伝説の大妖怪。またの名を『羅城門の鬼』。

 文としては直接の面識がないものの、茨木童子は種族をまとめるカリスマ性に長け、思いやり深く理知的で、まさに理想的な大将であったと伝え聞かされている。

 

 

「ですが四天王の中でも彼女は誰よりも早く人間に失望し、もう千年以上前に幻想郷から姿を消したはずです。この酒もそこいらの仙人の手に入る逸品ではないはず、一体どうやって…………?」

「さあ、そこまでは教え…………まったく知らないわ」

 

 

 やはり隠し事や嘘は不得手らしい。少し焦った様子で誤魔化した刑香、しかし幸運にも二人が瓢箪に気を取られていたおかげで気づかれずに済んでいた。バレていたら事だったと、安心して刑香は胸を撫で下ろす。

 

 

「へーえ、これが茨木の百薬酒なのね?」

「こらこら、はたて。貴重なものですからむやみに飲むべきではありません」

 

 

 鬼の秘宝の一つである『茨木の百薬枡』。その枡に酒を注いで飲み干せば、あらゆる傷と病を癒すという伝承は天狗たちには余りにも有名であった。それ故に文やはたても、この酒についてだけは知っている。

 

 

「まあ、その話は帰ってからでいいじゃない。それより帯の代わりになるものを持ってない? 流石にこのままじゃ恥ずかしい…………あれ?」

 

 

 ふと見下ろすと深紫のマフラーが帯の代わりとして刑香の腰に巻かれていた。どうやら眠っている間に装束を整えられていたらしい。あの老天狗が羽織っていた色とは違って、マフラーからは心地よい温かさが感じられる。

 

 

「ありがと、文」

「どういたしまして、そのマフラーも刑香の役に立てたなら本望でしょう。実はある方からの貰い物ですから」

 

 

 首に巻いていたマフラーが無くなっていた文へと刑香はお礼を言った。フランドールとの戦いでもそうであったが、いつも先回りして助けてくれる文には感謝してもしきれない。いつの日にか恩を返さなければ、と思う。

 

 

「最初ははたてが『自分の帯を使って』と言い張っていたんですがねぇ。半裸で地底を行くのも可哀想かと思いまして私のマフラーを貸し出すことにしたんです」

「へー、はたては前を開けて歩きたかったんだ?」

「いや違うわよ!? 私が刑香の帯を斬ったんだから責任は取らないとダメだと思ったの。っていうか、私が肌を晒して歩きたいわけないでしょ!」

 

 

 上気させた顔を振って否定するはたて。

 もちろんこれは「刑香ちゃん」と言われた分の仕返しである。小さな復讐は成功したようで白い鴉天狗は「してやったり」と心のなかで笑う。

 見慣れぬ話し声が聞こえて来たのは、その時だった。

 

 

「妬ましいわ、あいつらの友情が本気で妬ましい。ふ、ふふっ、こんなに自分の意思で呪いを掛けたいと思ったのは久しぶりよ」

「相変わらずパルスィは絶好調だねぇ………くわばらくわばら」

 

「あー、あの二人のことを忘れてました」

 

 

 岩影にいたのは黒い感情を隠しもせずに放っている金髪少女と、桶の中に身を潜めている緑髪の少女。簡単に説明を始めた文によると、どうやら自分たちを望まぬ決闘に追い込んだ張本人らしい。しかし想像したより親しみやすそうだ。

 

 

「二人には人質兼道案内をお願いしました。なのでここからはスムーズに事が運ぶと思いますよ。無論、パルスィとキスメに対して油断は禁物ですが」

「アンタ達と戦う気はもう残ってないんだけどね、地底の連中がどうなろうと知ったことじゃないし。まあ、さとりの奴に危害を加えるなら別かもしれないけど」

 

 

 やれやれといった態度のパルスィ。

 翡翠の瞳が鴉天狗たちを覗いている、そこに敵意は欠片も感じられない。ひとまず刑香とはたては警戒を解いた、二人の様子を確認した文は葉団扇を旧都の方角へと向けて宣言する。

 

 

「ここから先はまさしく『鬼ヶ島』。されど私たちは一寸の小人ではなく、あしがら山の大男でもない、単なる天狗に過ぎません。ならば、『あの方々』との戦闘は絶対に避け、それでも衝突の危険性があるのなら即座に撤退することも胸に刻んでください」

「「了解」」

 

 

 目を凝らすと見えるのは橋姫の護っていた大橋、そこを越えた先に広がる旧都、そしてその中心にそびえる地霊殿。碁盤の目のように整理された都市区画は、おそらく建設主たちの趣味だろう。彼ら彼女らは自らが荒らし回った京の都を自らの手で復元してしまったのだ。

 震え出す身体を抱きしめて、刑香はぐっと都を直視する。

 

 

「はっ、鬼が何だってのよ。私と文、そして刑香がいるなら恐れるに足りないわ。まとめてぶっ飛ばしてやるんだから!」

「じゃあ鬼退治は、はたてに任せますね?」

「え、いや流石に一人は無理かも…………四道将軍だって犬とかキジを連れて戦ったわけだから私たちも三人でさ」

「えー、意外と自信ないんですね」

「うっさいわね!」

 

 

 緊張が漂ってきた場を和ませようと、わざと他愛もない会話を広げる親友たち。思わず込み上げてきた笑いを押し留めて刑香は肩を恐怖とは別の感情で震わせた。

 

 

 この二人となら大丈夫、そんな思いを抱いて進むことができそうだ。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 地底の一角に広がる『旧都』。

 この地底都市は古明地さとりの住居である『地霊殿』を中心に建築されている。正確には旧地獄の中心にあった灼熱地獄に蓋をするため、その真上に地霊殿が建てられたのだ。そこから上がる熱気と成仏できなかった怨霊の管理こそが、さとりが閻魔から課せられた使命であった。

 

 

 しゅんしゅん、と旧都の所々から漏れ出す湯気。ほのかに薫るのは硫黄の匂いと火山ガス、まるで人間たちが築く温泉街に似た雰囲気がここにはあった。この熱を効率的に伝えることで、太陽の光が届かない地下世界は繁栄を保っている。絶妙なバランスの上に成り立つそれを管理している覚妖怪の手腕は見事という他ないだろう。

 

 

 そして地底を語る上で外せないのがもう一つの種族。無限に広がる荒野に都市そのものを築き上げた化生たちである。街並みは無秩序のように見えて一定の法則を持ち、住み慣れた平安の都に似せて旧都を造り出した者こそが『鬼』。かつて幻想郷で最強と謳われた最高位の妖怪たちであった。

 

 

 

 

「うへぇ…………も、もう無理ですってば、オレはもうこれ以上は一滴だって呑めやしません!」

「何言ってんだい、まだまだこれからじゃあないか!」

 

 

 朱塗りの屋根が軒を連ねる歓楽街。

 その一郭に酒の匂いが軒先にまで染み出している宴会場があった。高価そうな酒器が散乱し、つまみに合いそうな料理がぶちまけられた店内。そこでは二本の青い角を生やした男が一本角の女性に絡まれて悲鳴をあげていた。「もう限界」だと言わんばかりに逃げ出そうとしているが、不満そうな女性がそれを許さない。

 

 

「お前、私が酌をしてやった酒が呑めないって言うのかい?」

「もう三日間ぶっ続けなんですよ。いい加減に勘弁してください、勇儀の姐さん!!」

 

 

 青年が懇願している相手は星熊勇儀。

 彼女は周囲から一段高く作られた上座に腰かけていた。そこは二人の鬼のみが座ることを許された特別な席である。青鬼の嘆きに勇儀は面倒くさそうに口を開く。

 

 

「期待していた地上からの使者は一向に姿を現さない、萃香や華扇の奴はもう数百年も音沙汰なしときたもんだ。いい加減に暇を通り越して苦痛なのさ、これはもう呑むしかないだろう?」

「…………へい、お付き合いします。ムシャクシャすることは呑んで忘れましょうや、星熊の大将」

 

 

 勇儀の向けた瞳は地獄の炎のごとき激しい赤。

 ジロリと睨まれたなら青年や他の鬼たちは従うしかない。妖怪の上下関係は絶対であるし、彼女に叶う妖怪など現在の地底には一人足りとも存在しないのだから仕方ない。やれやれと思いつつも部下の鬼たちは盃を交わしあった、宴会の再開である。それに満足した様子で大将と呼ばれた勇儀もまた顔を綻びさせて盃を傾ける。

 

 

「いいかお前ら、酒ってのはこう呑むんだよ!」

 

「おおっ、さすがは大将!」

「あいつが潰れたら次はアタイが勝負してやるよ!!」

「大将に挑む命知らずが出たぞっ、賭ける奴は今のウチだぁ!」

 

 

 やんややんやと思い思いの歓声を送る鬼たち。

 その中心で豪快な呑みっぷりをみせる彼女こそが鬼の四天王の星熊勇儀、またの名を『星熊童子』。

 

 その額の見事な一本角に刻まれているのは『妙見』の星、すなわち神格化された北極星を表す紋様である。夜空を支配する星々の王を自らの象徴たる一本角に煌めかせる大鬼、ならば彼女はまさしく鬼の頂点に君臨する一人に違いない。その事実として純粋な剛力においては鬼族の中にすら並ぶ者は存在しないとされる一番星、勇儀は絶大な力を持つ大妖怪であった。

 

 

「ぷはぁっ、これで七百五八杯目!! おい、次はお前の番だよ?」

「………………うぷっ、やっぱり無理っす。許してください、お願いしやす」

 

 

「やっぱり勇儀さんの呑みっぷりに勝てるのは伊吹の大将ぐらいだな、俺たちじゃあ何人束になろうと潰されちまうぜ」

「確かになぁ。だが、それでこそアタイたちの頭(かしら)ってもんさ!」

「がははっ、ちげえねぇ!」

 

 

 一升はありそうな盃を軽々と飲み干していく勇儀、その姿に送られる羨望の眼差しは絶えることはない。ちなみに彼女に酔い潰された鬼たちは男女問わずに幸せそうな顔でイビキをかいていた。酒の席で大将に挑んで敗北したことは彼らにとって名誉である。

 

 

「うおぉ、頭が痛ぇ…………それにしても伊吹の大将は何処に行ったんでしょうねぇ。最後に会ったのは『白い鴉天狗』がどうのって嬉しそうに話していた時でしたっけ?」

「そういえばそうだったねぇ。その鴉天狗に片目を潰されたとか、その褒美として名をくれてやったとか話していたねぇ。いやはや若いヤツと愉快な喧嘩をしたらしい、羨ましい限りだよ」

「あの萃香さんに手傷を負わせて生き残るなんて、大した天狗じゃないすか。俺だったら死神もびっくりのバラバラ遺体にされてますぜ…………でもまあ、四天王の手で彼岸に送られるなら本望ですけどね」

 

 

 青年は勇儀の隣にある空席を焦がれるように見つめる。

 そこに座す権利を持つ者こそ、もう一人の四天王『伊吹童子』。この島国において最も高名な妖怪の一体にして、またの名を『酒呑(しゅてん)童子』と呼ばれた鬼神である。

 

 実際の姿は幼く可愛らしい少女だったりするのだが、ともかく彼女が鬼の大将の一人であることには違いない。懐かしい仲間の名前を思いだした鬼たちの間に、しんみりとした空気が漂い出した。勇儀が盃をゆらゆらと揺らしながら、夜の闇に溶け込むような口調を溢す。

 

 

「どこに行ったのかねぇ、あいつは。もう何百年会ってないんだか、連絡くらい寄越せばいいのにさ」

「地上で面倒事が起こったとは聞きませんし、いったい全体どこに霧となって消えたのやら…………残念ながら予想もできやしませんね」

 

 

 底抜けに明るく天真爛漫で誰よりも残酷な、あの小さな鬼は地底を去った。「外に遊びに行く」と言ったきりその勇姿を見せなくなって幾星霜、だんだんと彼女の声を思い出せなくなってきた。青年は寂しそうに言葉を紡ぐ。

 

 

「ああ、萃香さんの酒が呑みてえなぁ。せめて『伊吹瓢』は地底に置いていってくれりゃあ良かったのに、そうすれば寂しさも紛れるってもんですよ」

「おいおい、ひょっとしてお前はアイツの酒が呑みたいだけじゃないのかい?」

「ありゃ、バレましたか…………って、いてぇ!!?」

 

「がはははっ、何だそりゃあ!!」

「伊吹の大将に言いつけてやるぜ!」

「いや、もう勇儀さんの手で埋められたから手打ちにしようや」

「まさに手打ちだな」

 

 

 どっと鬼たちが盃を片手に陽気な笑い声を放つ。特に大笑いした勇儀の肩叩きで青年は腰まで床に埋まってしまったが、そんな自分の姿を見て彼も笑いだす。分厚い床板を生身で貫くなど、並の妖怪であれば背骨を折られても不思議ではない。しかし無傷である。これが『鬼』、他のどんな妖怪よりも頑丈で容赦がなく最強の種族である伝説は幾年経ようとも揺るぎはしない。

 

 暖まる空気、笑い声の絶えない宴会場で鬼たちは今夜も語り明かし飲み明かす。それがこの数百年もの間、地底で続いてきた伝統であるのだから。

 

 

 

「相変わらず、鬼ってのは呑気でいいね」

「あん?」

 

 

 だが、どうやら今夜だけは違ったらしい。

 誰一人として気配を悟らせず、息を殺して天井に張り付いていたのは鬼ではない妖怪の少女。ふっくらした焦げ茶色のジャンパースカートはまるで蜘蛛の腹に似て、金色のポニーテールは糸のような繊細さが感じられた。

 

 

「何だ、ヤマメじゃないか」

「やっほー、しばらくだね」

 

 

 鬼たちを頭上から見下ろしていた土蜘蛛はヒラリと入り口の前に降り立った。そしてギシギシと傷んだ畳を踏み鳴らし、大胆にも酔いつぶれた鬼たちを踏みつけながら近づいてくる。足蹴にされた者は不機嫌そうに目覚めては「何だ、ヤマメちゃんか」と再び眠りについていく。彼ら相手にこんなことが出来るのは地底では極めて少ない。

 

 

「まさか白い鴉天狗があの萃香と関わりを持っていたなんて知らなかったよ。いや私には知る由がないけどさ」

「おやおや盗み聞きとは感心しないねぇ。だがよく来てくれた、歓迎するよ。とりあえず座ってくれ酒を出そう」

 

 

 親しげに言葉を交わす勇儀とヤマメ。

 人の世で幾重にも刻んできた罪、同じ源氏の武将から討伐された伝承、そして元人間であるという逸話まで通じる似た者同士。彼女たち土蜘蛛と鬼には切っても切れない絆が存在する、それ故に鬼の頭は土蜘蛛の少女を上機嫌に迎えたのだ。

 

 勇儀の前にちょこんと座り、並々と注がれた盃を受け取ったヤマメは少し口に含んでから鴉天狗について問いかける。

 

 

「で、そいつの名前はわかるの?」

「刑香だよ、刑香。ただし家名はなかったはずだから、そのままで姓名のはずだ。しきたりに煩いはずの鴉天狗のくせして名字がないとは珍しい話ではあるがね」

「ありゃりゃ、それは残念。もしかしたらアイツの関係者かと勘ぐってたのに家名無しか。まあ、いいや面白そうな火種には変わりない」

 

 

 獲物を狙う蜘蛛の牙がチロリと覗く。

 老天狗からは「手を出すな」と脅されたが、そんなモノはヤマメにとって逆効果である。藪をつついて出てきた蛇を丸呑みにする、それが旧き妖怪たちの気質そのものだ。だからこそ彼女たちは人間から徹底的に排斥されたのだ。

 土蜘蛛の少女は楽しげに口許を歪ませる。

 

 

「耳寄りの情報があるんだけど聞いてみるかい、鬼の大将さま?」

「そりゃあ、暇だからね。退屈な時間を潰せるのなら是非とも聞かせてもらおうじゃないか、勿体振らずに教えてくれよ」

 

 

 乗り気な鬼に対して、まるで巣に潜む主のごとく土蜘蛛の少女は不敵な笑みを見せる。その瞳に映るのは獲物を狙う光だ。それを訝しげに思いながらも勇儀はヤマメの話に耳を傾けることにした。

 

 

「そいつ今、地底に来てるよ」

 

 

 果たして、その時に鬼の大将が浮かべた表情はどんなものであったのか。盃を放り出し、がたりと立ち上がる様子を見れば一目瞭然であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十六話:まだふみも見ず天の橋立

 

 

 旧都の中心にそびえる地霊殿。

 それは地底では珍しい真っ白な外壁と、ステンドグラスがはめ込まれた天窓を持つ西方建築であった。そして無人の門を潜り抜け、赤と黒の市松模様のフロアを進んだ先に、さとりが執務用としている部屋が存在する。

 

 

「ーーーー以上が現在、地底で起こっている騒動の全てです。土蜘蛛の護りを突破し、おそらく橋姫を退けるであろう鴉天狗たちは『地上』と『地底』に何らかの繋がりを求めてくるかと思われます」

『数百年の沈黙を破るとは大きく出たもの、しかも八雲紫が眠っている冬に仕掛けてくるとは予想外でした』

「はぁ、正直なところ傍迷惑にも程があります。『スペルカードルール』も『博麗の巫女』も私にとっては、どうでも良いことなのですから」

 

 

 さとりは来客用のソファーにもたれ掛かる。

 図書館から借りてきた読みかけの本もそこそこに、地底の管理者はウンザリとした表情で報告を続けていた。

 

 そんな少女の目に映っているのは一体のビスクドール。通信機が内蔵されたソレは、何でも魔界にいる凄腕の人形師が作り上げた逸品らしい。まるで生きているかのような繊細な造形は見る者の心を掴んで離さない。あまりにも可愛らしい出来映えなので、さとりは部屋の装飾としても利用している。人形から相手の声がカタカタと漏れだした。

 

 

『ちなみに鬼族との関係は良好なのですね?』

「正確には勇儀との交流ですが、問題はないでしょう。基本的に鬼は自分たちの頭には逆らいませんから、勇儀と繋がりのある私をどうこうしようとは思わないはずです」

『正直なところ貴女に地底を任せたのは一種の賭けだったのですが、ここまで完璧に仕事をこなしてくれるとは嬉しい誤算でした』

「ハッキリ言ってくれますね」

『職業柄、嘘は嫌いですから』

 

 

 彼女の声が空間を伝って、暖炉の火をゆらゆらと揺らす。まるで自分の心のようだと、さとりは思った。何せ通信機の向こう側にいるのはこの千年余りで唯一、自分に『恐怖』を抱かせた存在であるのだから心が落ち着かない。

 

 かつて覗いた彼女の精神は、生き物が住めないほどに穢れがなく、不気味なまでの静けさを持つ白河の流れそのものだった。あれほど『覚妖怪』として読み取って後悔した心はない、恐ろしさを感じた精神はない。灰色を許さない魂は覚妖怪にすら取り憑くスキマを与えない。

 

 

「うにゅぅぅ、さとりさまぁ」

「くすぐったいから動かないで、お空」

 

 

 さとりは膝の上に黒髪の少女を乗せていた。そもそも部屋の主である自分が来客用のソファーに座っているのには理由がある。それというのも「大変だよ、さとり様!」と施錠された窓からペットが飛び込んできて、執務机をガラスと雪でメチャクチャにしたからだ。今は湯タンポ代わりにお空を膝に乗せ、酒を少しずつ呑んで暖を取っている。

 

 

「うにゅゅ…………さとり様は私が守るんだからぁ」

「嬉しい寝言をありがとね」

 

 

 (うつほ)の頭を優しく撫でる。

 結果的に、彼女のもたらした情報は何の役にも立たなかった。何せ先程までカラスの大群が地底の空を飛び回っていたのだ。地上から侵入者があったのは一目瞭然で、さとりは更に『鴉天狗』の仕業とまで見抜いていたのだ。なので、さとりはお空の気持ちだけを受け取っておいた。

 

 

「お空には感謝しましょう。おかげで貴女と繋がりのある白い鴉天狗が地底を訪れたことがわかりましたから」

『言っておきますが、彼女を救ったとて私への貸しにはなりませんよ』

「それは残念、貴女に恩を売りつける良い機会だと思ったのですが…………なんて冗談は終わりにして、そろそろ本題に入りましょうか。あの羅刹たちをどうしたら良いのでしょう?」

 

 

 小さな混乱が旧都に生じていた。

 三十騎もの鬼族が天下の往来を闊歩し、巨大な妖力を撒き散らしているのだ。「一体何事か」と顔を出した小妖怪は鬼の行列を見るや否や、たちまちに家の中へと引っ込んでいく。満月の満ち潮に引き寄せられる小枝のごとく、新月の引き潮に連れ去られる小石のように、妖怪たちは奔放されていた。鬼たちは移動しているだけなのだが、地底の管理者としては非常に迷惑な集団である。

 

 

「…………勇儀がいませんね?」

 

 

 (うつほ)の枕役をクッションに入れ替えた少女は窓の外を見下ろした。鬼夜行の先頭を行くのは、勇儀の側近の一人である青鬼の青年である。過去に覗いた記憶でわかったのは、友のために人里を襲い友に退治された変わり者。中々に出来た人格者であり勇儀からの信頼も厚い男だ、しかし肝心の大将がいない。

 

 

『地底の揉め事である以上は貴女に一任しています。必ずや静めなさい、そうすることで管理者としての責務を果たすのです』

「はぁ、また今宵も面倒なことになりそうです」

『それでは頼みましたよ』

 

 

 その一言を残し人形からの通信は途切れた。さとりはそれを視界の隅に追いやり、窓から迷い込んできた白雪を手にした盃で受け止める。ゆらゆらと溶けては沈んでいく雪の結晶をさとりは無表情で眺めていた。

 

 そもそもの始まりである土蜘蛛たちは『地上の本気』を確かめるために配置した。そして彼らを突破したということはそれなりの手練れを賢者たちは送り込んできたのだろう。地上が本腰を入れて来ているのが分かった以上、地底の管理者として相応の対応をせねばなるまい。

 

 

「あちら側の本気は見られたのだから、これ以上の戦闘は必要ないわ。今すぐ事態を火消しへと転がさなければ後々が面倒なことになる。…………それにしても一体誰が鬼たちを焚き付けたのかしら、お仕置きが必要ね」

 

 

 この地底を荒らす者はたとえ鬼であっても許すつもりはない。ここは妹の帰ってくる場所である、こいしの帰ってくる家を護るために姉は戦うのだ。じわりじわりと空間を蝕んでいくのは精神を犯す妖力、それは妖怪の少女が放つ静かな怒りであった。高まる心を抑えようと、さとりは冷えきった酒を口に含む。

 

 

「…………ふぅ、しかし鴉天狗とは懐かしい。あの嫌味な天狗は、白桃橋迦楼羅(かるら)は元気にしているのかしら?」

 

 

 最後までお互いに心を開かなかったとはいえ、旧知の間柄である。不意に思い出した懐かしい名前を肴にし、覚妖怪の少女は窓枠に腰掛けながら盃を傾けた。今夜は風が気持ち良い。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 随分と「らしくない」生き方をしてきたものだと文は今更のように考える。

 

 本来ならば、射命丸文という天狗は報道部隊にでも属して上からの命令を淡々とこなす天狗であったはずである。そして非番の日には誰かの秘密を暴いては記事にして、他の天狗達との付き合いも程々に、何を背負うこともなく気楽に生きて死んでいく。そんな生活を送っていたと思う。

 

 だが今の自分はどうだ。まずは戦闘部隊に所属し、その精鋭に登り詰めてしまった。ゴシップ新聞のはずが、それなりに真面目な内容を取り扱っては人里でライバル紙としのぎを削る日々を送っている。それはとても遣り甲斐のある、されど自分らしくない現状だった。

 

 そんな原因をつくったのは、自分の隣を歩いている白い鴉天狗にあることは明白だろう。出会った瞬間から射命丸文の運命を変えてしまった少女がここにいる。何だか癪だったので、とりあえずその羽に手を伸ばしてみることにした。びくりと刑香が身体を震わせる。

 

 

「わひゃぁ!? え、突然なにを…………ひぁっ!?」

「あー、相変わらず良い反応と手触りですねぇ。心が落ち着きます、すりすり」

「っ、放しなさい!」

「おっと危ない」

 

 

 振り回された錫杖を軽いステップを踏んで回避する。そのまま触っているとしばらくの間は抵抗されたが、やがて根負けしたらしくおとなしくなった。真っ赤に染まった頬で平気そうな表情を決め込んで、刑香はため息をつく。指を動かすたびに身体を震わせるくせに強がりは相変わらずだ。

 

 

「…………そ、そういえば、文とはたては何の目的でここに来たのよ。まさか本当に私の補助なんて任務を受けたわけじゃないんでしょ?」

「あややや、今更ですか」

「ようやく落ち着いた今だからこそ聞いて……ゃ…んのよ」

「うーん、これはどうしましょうか」

 

 

 別に教えても構わないだろうが、一応は『極秘』と銘打たれた任務である。果たして部外者である親友にバラしても良いものかと文は悩んだ。すると後ろの方で「私たちは長老様からの書状を届けに来たのよ」と、もう一人の親友が胸を張ってパルスィに口外していたので結局は話すことにした。

 

 

「私とはたての任務は八雲とは別に、天狗の書状を地底の管理者に渡すことです。ただその中身は知りません」

「へぇ、意外とまともな内容なのね。てっきり八雲の使いを地底の仕業に見せかけて葬るぐらいの企みがあると思ったんだけど」

「いくら私たちの翼が黒いといっても、任務までドス黒いわけないでしょう。大体それでは私が刑香を墜とすことになるじゃないですか。…………いっそ別の意味で堕としてしまいましょうか、うりうり」

「じ、冗談だからその手つきで触るのは止めてっ!」

 

 

 絡め取るように羽をまさぐる。もし「刑香やはたてを亡き者にせよ」などという命令を下されたなら、文は間違いなく組織を抜けるだろう。そのための覚悟が既にある、なのに「自分を墜とす任務じゃないのか」などと冗談混じりに言ってきた刑香に少しだけ腹が立った。

 腕力に任せて細い腰をホールドし、逃がさないように片腕で翼をくすぐり続けてやる。とっくに刑香は涙目になっていたが、罰なので手加減はしない。

 

 

「も、もう限界だかっ……らぁ……やめっ…………」

「ほれほれ、ここがいいんですか?」

「っ、いい加減にしろぉぉ!!」

「駄目です、まだまだ許しません」

 

 

「…………あれはスキンシップなの? どう見ても虐めてるようにしか思えないんだけど」

「どっちもよ。文って基本的にはいじめっ子だし、私もよくやられたわ」

「ほへぇ、融通の利かない連中かと思ってたけど鴉天狗も意外と面白いんだねぇ」

 

 

 はたてとパルスィ、そしてキスメは二人を呆れた様子で眺めていた。しかし一方的にやられている白い鴉天狗は何ともいじめがいのありそうな娘である。妖怪としての本能が疼き始めたパルスィだったが、とりあえずそれは後回しにすることに決めた。

 

 

「まあ、あんた達の実力がわかったからには、さとりはもう妖怪を送ったりはしないと思う。だから多少はふざけていても大丈夫じゃないかしら」

「へー、そんなの分かるんだ?」

「付き合いだけは長いからね、さとりの考えていることは何となく読めるのよ。心を覗ける覚妖怪は私じゃなくてアイツなのに可笑しな話よね」

 

 

 パルスィは嘘をついていない。さとりは「追い返せるなら追い返して欲しい」と頼んできた、ならばヤマメと自分を打ち破った者に対しては話を聞くことを予定しているのだろう。パルスィは肩をすくめた。

 

 

「…………とまあ、これは私の推測なんだけどね。でもそんなに外れてないと思うわ、信用ならないだろうけど」

「ううん、信じるわ。だって私もアイツらの考えてることなら大体読めるもん。友達ってそんなものよ」

「べ、べ、別に私とアイツは友達ってわけじゃ…………!」

「あー、パルスィが照れた…………いやぁぁぁ!?」

 

 

 再び桶を蹴り飛ばした後、はたてから顔を背けるパルスィ。少しピンク色に染められた頬はどこか嬉しそうだった。内心で色々と企んで警戒される文と、そもそも他者と距離を取りたがる刑香とは違い、自分の思いを真っ直ぐ伝える鴉天狗、それがはたてである。

 

 その裏表のないやり取りに、いつの間にかパルスィは警戒を解いていた。相変わらずじゃれあっている白と黒の鴉天狗を呆れたように眺めながら、茶髪の少女と会話を続ける。それは久しぶりに賑やかな時間だった。悪くないなどと思うほどに橋姫の少女はこの時間を楽しんでいた。

 

 

 しかしその数刻後、辿り着いた大橋の前でパルスィは立ち尽くすことになる。

 

 

 

 

「…………何よこれ?」

 

 

 そこはパルスィが縄張りとしている領域であり、普段から見慣れた場所のはずだった。しかし現在、辺り一面は濃い霧に覆われていた。まるで通る者を押し返そうという意思さえ感じさせる、それはパルスィでさえ経験したことのない光景であった。さっきまでの緩んだ雰囲気を一掃し、刑香と文が内部を探ろうと進み出る。

 

 

「ずいぶん濃い霧じゃない、まるで妖怪でも住んでいそうだわ。おお、怖い怖い…………なんちゃってね」

「私たちがそれを言いますか。まあ、ともかく様子を伺いましょう。それと場合によっては葉団扇で霧を払いますよ」

「しっ…………誰か来るわ」

 

 

 言うや否や、文よりも一歩前へと踏み出した刑香。その碧眼は鋭く細められ、鷹のごとき眼光で霧の向こうを睨めつけていた。その視線の先には一つの人影、編み笠を深く被った人物がヒタヒタとこちらに向かってきている。物乞いのようなボロを纏い、橋板を踏み軋ませて近づいてくるのは果たして何者であろうか。刑香が妖刀を引き抜く。

 

 

「そこで止まりなさい、あんたは何なの?」

 

 

 怪しく光る刃が人影を牽制する。

 こいつは只者ではない、天狗としての直感が告げていた。そして空色の瞳は目の前の人物に秘められた強大な力を見抜く、コイツの妖力は自分よりも大きい。

 言うまでもなくここは人が住まぬ地の底である。故に刑香は距離を保持したまま、人間の姿をした存在に「お前は何なのか」と尋ねたのだ。口許を歪める人影は鴉天狗の忠告を聞き入れて立ち止まる。

 

 

「これは妙なことを尋ねなさる。我らは元々『人』でもあり『妖』でもある、それを『何だ』と問われたのなら如何にして答えましょうや」

「『人』に化ける妖怪は多くいるわ、あの『お方』は人の皮を被り、京の都から姫君を拐ったと伝え聞く。…………だから、お前の中身の方は何かと聞いてるのよ」

 

 

 返された声は男のモノであった。ひとまず『名付け親』ではないらしく、白い少女は安心する。しかし油断はできない。まだこの存在の正体を見極めていないのだ、万一にも鴉天狗より格上の妖怪であったのなら厄介なことになる。妖刀の柄を強く握りながら、不安げな表情の刑香は更に言葉を繋げていく。

 

 

「その編み笠を外して顔を見せなさい。妙な真似をするなら斬り捨てる」

「へえ、天狗様の仰ることなら喜んで」

 

 

 薄気味悪い笑みを浮かべて、頭を隠すための笠へと手を伸ばした男。刑香と文はその動きから目を離さない、お互いに妖刀と葉団扇を構えながら男を見張っていた。ふいに、笠の縁を掴んだ彼がそれを刑香に向けて投げつけたのはその瞬間だった。ほんの僅かな刹那、白い少女の視界が遮られる。

 

 

「はっ、そんな怯えた顔してると拐いたくなるじゃねえかぁ!!」

「け、刑香っぁぁぁ!?」

 

 

 はたてが悲鳴のように叫ぶ。

 だがもう遅い。風を撒いて白い鴉天狗へと跳躍したのは青い二本角、 瞬く間に刑香を間合いへと捉えたのは『青鬼』だった。並の妖怪であったなら目で追うこともできぬ、あまりにも理不尽な脚力でもって鬼は少女の眼前へと迫っていた。青鬼の青年は、まず一番近くにいた白い鴉天狗から沈めることに決めていた。

 

 

「おぉぉぉぉぉ!!!」

 

 

 大地を踏み鳴らして放たれた鬼の拳。

 幻想郷最速を誇る鴉天狗のスピードは空中でこそ発揮されることを逆手に取った判断は見事であった。飛び立つ前なら捕まえられる。そしてその『必殺』の一撃が必ず外させる『能力』がなければ、青年の狙い通りに白い少女は絶命していたかもしれない。

 

 だがこの程度は刑香にとって危機ではない。頭を狙った青年の殴打は『能力』によって反らされ、白い髪を数本持っていくだけに修正させる。それに驚く間もなく青年を襲ったのは腕から伝わる激痛だった。

 

 

「っ、でりゃぁぁぁ!!」

 

 

 妖刀一閃、鬼の拳をかわした刑香はカウンターとして青年の腕を斬りつける。そのまま鬼の胴体を蹴りつけて、青年から距離を確保した。「やられた」と青鬼は白い鴉天狗を追いかけようとするが、今度は風に阻まれて動きを封じられる。見るともう一人の天狗少女がすでに葉団扇を降り下ろしていた。

 

 

「お、おお!?」

 

 

 腕を斬られ体勢を崩したタイミング、そこを見計らって文が起こした竜巻。これには流石の鬼も成す術がない。両脚を地面から引き剥がされた青年は、鴉天狗の主戦場たる空中へと引き上げられる。

 

 それでも何とか体勢を整えた青年は二羽の少女たちからの追撃に備え、傷ついた腕を奮い立たせる。そして「来るなら来い」とばかりに鴉天狗たちを視界に捉えていた。しかし刑香と文はニヤリと笑うだけである、怪訝に思った彼の鼓膜を揺らしたのは意識の外から聴こえてきたもう一羽の雄叫び。

 

 

「ぶっ飛びなさい、この野郎―――!!」

「そっちかよっ、ぐげぁ!!?」

 

 

 突き刺さったのは加速を上乗せした一本歯下駄、死角から青年に飛び蹴りを食らわせたのは茶髪の少女。そのまま葉団扇を空中に打ちつけ、はたては鬼を竜巻と共に水面へと叩き込む。青年が着弾した川から水柱が豪快に上がった。

 

 

「嘘でしょ、鬼をあんなに容易く追い払えるなんて…………っ!?」

「ありゃりゃ、鴉天狗って強いんだねぇ」

 

 

 その光景を唖然とした様子でパルスィとヤマメは見守っていた。突如として襲いかかってきた鬼にも驚いたが、それ以上に彼を撃退してしまった三羽への驚愕の念が隠せない。妖怪の格を覆したのは一糸乱れぬ連携攻撃、これが彼女たちの強さなのだろう。どうりで『嫉妬心を操る程度の能力』が効きづらいはずだとパルスィはそっと納得する。

 

 そして鬼を倒した今、間もなく霧は晴れ始めていた。あとは旧都への一本道を残すのみである。もう障害は残っていないだろうとパルスィは考えていた。しかし霧の払われた向こう岸から強い酒の匂いが流れてきたことを不審に思う。身体中を悪寒が走ったのと、その話し声が聞こえてきたのは同時だった。

 

 

 

 

 

 

 

「おーおー、嬢ちゃん達が勝っちまったぜ?」

「次はアタイが足止めをしようかね」

「沈んだアイツは大丈夫か」

「ヤマメちゃんが助けてくれるだろうよ」

 

 

 それは旧都で何度も耳にした者たちの声。

 パルスィは「まさか」と顔を青くした。程なくして濃霧が払われると、橋の向かい側に陣取っていた集団が(あらわ)になる。思い思いの盃を傾けながら、呑気に戦いを観戦していたのは『鬼』の軍勢であった。

 鬼たちは仲間がやられたというのに不穏な空気はなく、あくまでも自然体で向かい岸を完全に塞いでいる。

 

 

「文、これは不味いわ」

「わかってます、念のために撤退の準備をしてください。この軍勢は尋常のものではありません、もし彼らが仕掛けて来たなら私たちはひとたまりもない」

「いざとなったら私が時間を稼ぐ」

「…………そうですね、お願いします」

 

 

 文を庇うように踏み出した刑香。

 そんな親友の背中を見つめながら、文は冷静に現状を分析していた。確認した限りでは三十余りの鬼族がいる。こちらには人質として橋姫と釣瓶落としがいるとはいえ、鬼に対して有効なカードになるとは思えない。それに彼女らはむしろ獅子心中の虫である。隙があれば逃げ出して、地底側たるあちらに味方するだろう。

 

 鬼たちが仕掛けてくる気配はない。ならば今のうちに撤退を、と射命丸文の決意は早くも固まった。そっと指でサインを送り、二人の友人たちに指示を伝える。書状はここらに落としていけばいい。これ見よがしに放置しておけば、彼らに拾って読まれる可能性もあるだろう。運が良ければ彼らのトップに手渡されるかもしれない。ひとまずはそれで十分だ。

 

 刑香と文がそれぞれの書状を取りだし、地上へ向けて飛び去そうと翼を広げる。その時であった。

 

 

 

 

 

「――――よく来たね、お前たち」

 

 

「おお、ようやくか」

「待ちくたびれたぜ、なあ?」

「アタイはちと残念だよ、アイツらと戦えないし」

「てめえらっ、ぼーとしてないで大将に道を開けやがれ!」

 

 

 鬼たちの集団が二つに割れていく。現れたのは一人の鬼であった。背中に翼はなく、踏み鳴らすは二本歯下駄、それにも関わらず彼女はまるで大天狗たちと謁見しているかのような緊張感を刑香たちに植え付ける。絶対的な支配者の威光を纏いて、彼女は鴉天狗の少女たちを見据えた。

 

 そして土蜘蛛の少女によって川底から引き上げられた青鬼の青年は彼女の姿を見つけて苦笑いをする。

 

 

「げほっ…………まったくもって遅いっすよ。おかげで俺が足止めをすることになったじゃないですか、大将」

「悪い悪い、せっかくの来客なんだ。それなりの格好で出迎えなけりゃつまらんだろうと思ってね」

 

 

 

 それは鮮やかな紫染めの着物であった。

 紅葉が散りばめられた布地は晴れやかで、露出した肩からは艶かしい色香が溢れだす。針金のような金髪はこの世ならざる財宝の輝きを映し出していた。そして松明が燃え盛る瞳の赤色は今まで鴉天狗の少女たちが目にしてきた、どんな妖怪よりも熱く激しい。

 

 

「お互いに言いたいこともあるだろう、聞きたいこともあるだろう。だがまずは一つ『鬼退治』…………というのは妖怪同士では可笑しな話だねぇ。なら、」

 

 

 鴉天狗の少女たちは、いやパルスィやヤマメでさえも見惚れていた。あまりにも恐ろしく、逃れられぬほどに魂を惹き付ける『死』を象徴した存在に一時的にしろ目を奪われていた。口許を吊り上げた鬼は告げる。

 

 

「ここは一つ、派手に喧嘩をしようじゃないか」

 

 

 この島国に語り継がれる三大妖怪たる『天狗』と『河童』そして『鬼』。かつてその全てを従えた鬼の御大将。

 たとい幾年経ったとて、その脅威は忘れられるものでなし、天狗の少女たちは身を震わせて支配者を迎え入れる他にない。かの姿はどこまでも唯我独尊を貫きし豪快不遜な大妖怪、星熊勇儀はここに君臨する。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十七話:語られる怪力乱神、語られぬ片腕有角

 

 

 天狗の縄張りである妖怪の山。

 雄々しい木々に囲まれた中腹あたりには『とある方術』が施された場所がある。訪れる者をことごとく迷わせる樹海は、深い霧と木々の迷路によって天狗たちの目すらも欺き通す。ここは高名な隠者の砦、そして大天狗たちが黙認せざるを得ない『とある存在』が居を構える魔境である。

 

 

「くかかっ、ここで初めて貴女と再会した時は胆を潰したものだ。貴女が姿を眩ませて幾星霜、まさか我ら天狗の目と鼻の先に屋敷を構えておられるとは思いますまい。そうであろう、茨木華扇殿?」

「…………私をどなたかと勘違いしておられませんか、天狗の長老様?」

 

 

 曇りなき夜空に浮かぶ月の下、薄ぼんやりと照らされていたのは一軒の民家であった。天狗の縄張りから空間を隔絶した先にある、そこは『茨華仙(いばらかせん)』と名乗る人物が住まう場所であった。本人の真面目な性格を反映したように整頓された和室では、二人の人物が向かい合っている。

 

 黒い鴉の羽を持つ老天狗、ここを訪れた客人である天魔の前に座しているのは一人の少女。鮮やかな桃色の髪と大きめのシニョンキャップ、そして右腕全体に巻かれた包帯が特徴的な女仙人であった。以前から彼女を知っている天魔から言わせれば、その身には本来なら『無いはずの右腕』があり『頭にあるはずのモノ』がない妙な出で立ちである。

 

 

「つまらぬ話は控えましょうぞ。今宵のワシは単身であり、護衛は一羽とておりませぬ。ここでの会話が漏れることはない」

「ふう、それなら初めから言いなさい。何を企んでいるのか、昔からお前はわかりづらいんです。こんな夜分に訪れるのも含めて、お前は相変わらず私たちを心から敬っているわけじゃないみたいね。―――ほら、出がらしだけどお茶をどうぞ」

「たまには安い茶も悪くないですのぅ…………冗談です」

 

 

 出された湯飲みを天狗の長は恭しく受けとる。夜ということもあり、薄く煮出された緑茶がほのかな香りを放っているのに顔を綻ばせる。「彼女は昔からこの茶葉を好んでいたな」と懐かしく思いながらゆっくりと口を付けた。その様子を静かに見つめていた華仙は口を開く。

 

 

「…………大天狗たちは逝きましたか」

「ええ、西行寺の娘に送らせました。『死を遠ざける程度の能力』をはね除けるのには苦労したようですがの、流石は八雲の旧友なだけはある。『死を操る程度の能力』とは誠に恐ろしき力よ」

「ともかくこれで天狗の上役は天魔、お前だけになったということね。天狗組織の動揺は聴こえているわよ。こんなに山が騒がしいのは『月の戦い』で多くの精鋭を失って以来になるのかしら?」

「そうですな、あの時は多くの精鋭を失ったために我らは屋台骨から揺れておりました。あれから組織を建て直すのに千年、ようやく山は次世代に託せるまで落ち着きを取り戻したのです」

 

 

 開け放たれた円窓から差し込む月明かり、それは湯飲みの水面に映り込んでいた。憎々しげに夜空の欠片を見下ろした天魔は残った茶を飲み干す。あれから千年経った、されど息子を奪った月の民への怒りは収まるはずもない。まったくもって不愉快な光だ、特に満月が出る夜には酒を呑まずにはいられない。

 

 

「我が友、大天狗たちは己に課せられた役目を果たしました。その身を屍と化してまで組織を建て直すだけの時間を稼いでくれた、本当にようやってくれた。アヤツらにはいくら感謝しても足りませぬ」

 

 

 上役の会合には最早、天魔以外には誰もいない。たった一人でこの老天狗は組織を支えるために日々を奔走しているのだ。疲れた表情を隠しもしない天魔へと、しかし華仙は不満げに言葉を紡ぐ。

 

 

「…………もう一人への想いはどうなのよ。もう組織が落ち着いたのに、お前が犠牲にしてきた『あの娘』には真実を話してあげないのかしら?」

「アレは籠の外へと逃がしました、これからは何を知ることもなく生きるでしょう。あの子は二度とワシの元には戻らず、自由に幻想郷の空を行くのです。…………それで良い、せめて残りの時間をあの子にとって好きなように過ごさせてやりたい、それだけでワシに未練はありませぬ」

 

 

 かつて万里を焼き尽くすほどに強大であった、何者にも劣らぬ神格を誇っていた。そんな本来の力は見る影もない、一体この男の力は全盛期の何割にまで落ち込んでしまったのだろうか。そして妖怪や神が精神的な存在である以上、ここまで天魔を追い詰めた原因に『あの娘』が関係しているのは想像に難しくない。妖怪の弱点は精神的な傷であるのだから。

 

 その姿に華仙は怒りすら滲ませる。

 

 

「悪いことは言わないから手元を見つめ直しなさい。あの娘に全てを打ち明けなさい。さもなくばお前は自分自身を赦せない、その想いこそが自らを滅ぼしかけていると何故わからない」

「これはまた手厳しい。されど心配は無用、この程度で死を迎えるほど脆弱ではありませぬ。傷とはいずれ癒えるもの、我が力もやがては回復するはずです」

「お前のためではなく、あの娘のために言っている。もうお前たちに残された『時間』はそう多くないのよ、彼岸に招かれる前にあの娘に償いなさい。このままお前の独りよがりで永久(とわ)の離別に逃げ込むことは許さない」

「くかかっ、閻魔にも同じことを説法されたことがありますわい。あの者から『このままでは地獄行き』であると脅されました。しかしこれは我らの問題、たとえ貴女方の忠言とて易々と受け入れる謂れはない。…………さて、そろそろ御暇しましょうかの」

「………………分からず屋め、きっと後悔するわよ」

 

 

 華仙へと送られた言葉は拒絶の一色であった。

 大天狗たちの末路は確かに伝えた、ここを訪れた目的は果たせたと老天狗は立ち上がる。これ以上話し合ったところでお互いの主張はきっと平行線のままだろう。まだ何か言いたそうな仙人に心のなかで苦笑しながら、天魔は背後の扉へと手をかけた。ふと、真っ黒な翼が揺れる。

 

 

「そもそもワシなどの元に生まれたのが、アレにとって最大の不運だったのです。いっそ人の子として生まれていれば相応の愛情を受けて過ごすことができたでしょうに」

 

 

 心底バカバカしい考えだ、このような「仮」の話をして何になるというのか。普段の天魔なら決して声に出さぬ戯れ言であった。どうやら久しぶりにあの娘の姿を見ることができて心が緩んでいるらしい。雲の隙間からとはいえ、本当に久しぶりだったのだから。

 

 

「…………あの娘は自らを不幸などと本気で考えてはいないわ。確かに様々な苦難はあったけど、そう思わないだけのモノを彼女は得てきた。『人の子として生まれていれば』など、あの娘が歩んできた時間への侮辱でしかない。だから取り消しておきなさい」

「これは本当に手厳しいわい………………こりゃ本当に、手厳しい」

 

 

 華仙から返されたのは辛辣な言葉であった。

 妖怪は妖怪として生まれて死んでいく、それはレミリアにすら逃れられぬ運命である。そしてその宿命に抗って『仙人』となった華扇からの一言は精神に深く深く刺さるものだった。それに比べて、おのれの何と浅ましきことかと天魔は自らを恥じる。かすかに水滴で歪んだ視界に目を細め、老天狗はかつての上司へと一礼してから屋敷の外へと歩み出した。屋外にて身体を突き抜ける夜風はどこまでも冷たい。

 

 いつから自分たちの運命は狂ってしまったのだろうか。息子を亡くした時か、それともあの娘を一度失った時か、いや恐らくは『月の戦い』に赴いた瞬間が別れ目であったのだろう。そしてあの戦いに天狗を引き入れた張本人は――――。

 

 

「今更だ、こんなものは詮なき話であろうよ」

 

 

 老天狗は吐き捨てるように呟いた。たとえ全ての始まりが『あの妖怪』であったとしても、その後にあの娘を待ち受けていた苦難を紡いだのは間違いなく天魔である。それでも己の運命を狂わせた元凶が傍にいることをあの娘はきっと知らない、それで良いのだ。

 

 

「やれやれ、ワシも本格的に焼きが回ったか。神格の大部分を失って久しいが、ここまで老いを感じたのは初めてだ。つまらぬ昔話を思いだし、あまつさえ童子様相手に心情を吐露するなど愚かな話よ」

 

 

 一説によれば『童子』とは鬼神を表す言霊である。それを送られる対象は幻想郷といえど極少数、まして天狗の長老に敬意を払わされる存在など更に限られている。

 

 ―――大江の山を拠点に暴れまわった『伊吹の百鬼夜行』、その副首領格たる大妖怪に『茨木童子』という鬼がいた。

 

 もはや鬼そのものが忘れ去られた幻想郷において、語られることのない鬼の御大将。人間から鬼となった伝承を持つ妖怪と『茨華仙』には如何なる繋がりがあるのか、その真実を知る者は少ない。しばらく天魔は仙人の屋敷を見上げていたが、やがて深紫色の羽織を翻して歩き出そうとした。

 

 

「さて、帰路につくとするか………………何者だ?」

 

 

 風に乗って流れる甘い香り、それを感じた天魔は立ち止まる。『茨華仙』の屋敷は正しい順路で森を抜けなければ決して辿り着けない場所にある、華仙の施した方術が侵入者を拒絶しているのだ。そしてその道筋を知っているのは本人と、そのペットたちを除ければ天魔と白い少女のみである。故にここで自分たち以外の気配を感じるなどあってはならないことであった、本来ならば。

 

 

「…………まあ良いか、大したことでもあるまい」

 

 

 何気ない様子で天魔は『三人分』の足跡を見逃した。ついでに視界へと映っていた一団に老天狗は気づかぬふりをする。異常なレベルの認識阻害は天魔でさえ、風の流れを読まなければ対処ができなかったであろうが種さえわかっていれば何とかなる。

 

 

「さて、今宵は酒を呑んで寝るとしようか。伊吹の小鬼めを酔い潰すための酒があったはずじゃからな。…………それにしても小ガラスどもは無事に古明地さとりに会えるであろうか、彼の地には恐ろしい妖怪もいることじゃからなぁ。もしや救援が必要やもしれんのぅ」

 

 

 わざとらしく独り言を呟いてやると、小さな影たちは一目散に地底への入り口へ向かって飛んでいった。「やれやれ」と周辺を見回してみると施された方術は強引に『破壊』された上、どうやら自分が彼女らによって『無意識』に追跡されていたことを知って溜め息をつく。

 

 

「まったく、レミリア嬢も小酔な真似をしてくれる」

 

 

 願わくば届いてくれるなと祈った、伝わるはずのなかった想いは思わぬところで拾い上げられたらしい。しかし不思議と彼女らを止める気にはならなかった。やはり今夜は調子が悪い。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

「――――頼むから人の子みたいに逃げ出してくれるなよ。人間との鬼遊びならまだしも、天狗を地上まで追いかけ回すなんて滑稽にも程があるからねぇ」

 

「いいぞ大将ぉ!」

「綺麗所が三人か、これは良い肴になりそうだな」

「馬鹿野郎、大将を入れるから四人だろうが」

「アタイも混ざりたいねぇ、せいぜい頑張りなよ天狗ども!」

 

 

 手下たちの歓声を受けて二本歯下駄の音が響く。

 朱塗りの渡り橋を闊歩して、妖力のみで板を軋ませながら星熊勇儀は迫り来る。かつて感じた『鬼の四天王』と同格である覇気に、白い少女は後退しそうになる自らの身体を叱咤した。奥歯を噛み締めて何とか恐怖を押し留める、しかしそれ以上の行動ができない。話し合いのために少しでも時間を稼ぐ必要があるというのに身体がピクリとも動かない。

 

 

「な、何であんたが出て来てんよっ。さとりにコイツらの迎撃を任されていたのは土蜘蛛と私だけのはずでしょ!?」

 

 

 代わりに怒声を発したのはパルスィだった。はたてを後ろに庇いながら橋姫の少女は震えながら問いかける。地底の番人たる彼女も、鬼の集団と向かい合った経験はないのだろう。そんなパルスィの姿を真っ赤な瞳が捉えると、鬼の大将は親しい友に会ったかのように陽気な笑みを浮かべた。

 

 

「なんだ、誰かと思えばパルスィじゃないか。まあ確かに、私はさとりの奴に頼まれたわけじゃない。ヤマメから話を聞いて、楽しそうな喧嘩をみすみす逃すのは御免だから駆けつけただけさ」

「ヤマメめ、後で絞めてやる。…………何にせよここは私の縄張りよ、鬼であっても好き勝手にはさせないわ。あんた達はとっとと旧都に引っ込みなさい、この天狗たちは私が責任を持って地霊殿に送り届けるから」

「そうはいかないねぇ。初めはさとりの指示があるまで大人しくするつもりだったんだが、『萃香と戦って生き残った天狗が来ている』なんて聞いたからには黙っていられるわけもない。そこをどきな、パルスィ」

 

 

 鬼の歩みは止まらなかった、その変わらない速度を見てパルスィが悔しそうに押し黙る。もはや言葉で勇儀を止めることは不可能なのだと察したからだ。だが鬼とは元来こういうものである。何もかもを荒らし尽くす狼藉者であり、その傲慢さを貫き通す『力』を持った王者なのだ。その性質は一つの場所を護り続ける『橋姫』とは相容れない。

 

 そして誰もが言葉を無くして立ちすくむ中で、動いたのはたった一人だけ。ようやく緊張を解き、わずかに一歩だけ踏み込んだ刑香は勇儀へと向かい合う。空色の青と灼熱の赤、正反対の色を持つ瞳が交差した。

 

 

「つまり、あんたの目的は私一人ってわけ?」

「そういうことになる、強いていうなら私が戦ってみたいのはお前一人だよ。あの萃香とやり合って五体満足で生き残った妖怪なんて同じ四天王以外にはいなかったからねぇ、味見をしてみたくなったわけだ」

「…………それなら話は早い。いいわよ、少しの間だけ相手をしてあげる。だから残りの連中には手を出さないで、私が一人であんたと戦う」

「おいおい、ダチを庇うために単身で引き受けるってのかい。何とも気持ちのいい台詞を吐いてくれるじゃないか。随分と懐かしいよ、大昔の人間が聞かせてくれた言葉とそっくりだ」

 

 

 橋の真ん中で勇儀の歩みが止まり、笑った口から愉快そうに牙が覗く。萃香から受けた恐怖がよみがえるが、それでも眼差しだけは真っ直ぐに鬼を見据えてやる。強い意思を感じさせる空色の眼光にますます勇儀の笑みが深くなっていく。

 

 

「いいねぇ、中々どうして見てくれも中身も悪くない。もっとも萃香があんな自慢げに語っていた天狗なんだ、これくらいは当然かもしれないね」

「萃香さまのご友人にそう言ってもらえるなら嬉しいわ。さて、そういうことだからあんた達は先に行きなさい。ここは私が引き受けるから」

 

 

 振り返らずに刑香は文たちに告げた。

 この鬼が出てきた原因が自分にあるのなら、この相手は自分一人で対処する。それにフランドールに敗北を喫した紅魔館と違って屋外ならば、たとえ鬼が相手であっても易々と敗れることはないはずだ。

 自分が時間を稼いでいる間に文とはたてが旧都に到着して書状を届けるならそれで良し、万一敗れても鬼は決して約束を破らない。だから親友たちに危害を加えられることはない、その代わりとして自分は助からないだろうが仕方ない。

 

 

「こらっ、なーに勝手に決めてるんですか」

「あいたっ!?」

 

 

 覚悟を決めて妖刀を引き抜いたところで、コツンと頭を叩かれた。白い髪から真っ赤な頭巾がずり落ちそうになるのを押さえて背後へと振り向くと、不機嫌そうな表情をした文がいた。表面上はいつも通りの人懐っこそうな笑みを張り付けているが、目だけが笑っていない。これは本気で怒っている時の顔である。

 

 

「あ、文、一体なんで怒ってるの?」

「それは本気で言ってるんですか? …………はぁ、私たち三人のリーダーが射命丸文だと決めたのは刑香、あなたでしょう。ならばリーダーの指示に従いなさい」

「っ、ここに誰かが残って鬼と戦わないと先には進めない、もし逃げたりしたらアイツは地上まで追ってくるかもしれない。ならここは私が…………」

「あややや、刑香は私とはたてのことになると自分を蔑ろにしますからね。嬉しいことなのですが、時に危なっかしくて見てられないんですよ…………はたて、これをお願いします」

 

 

 言うが早いか、文は二組の書状をはたてへと放り投げた。その片方の巻物が見慣れたものだったので刑香が慌てて懐を探ると、いつの間に盗られたのか藍から預かった書状が無くなっていた。はたては八雲と天狗の両方の巻物を受けとると真っ黒な翼を広げる。

 

 

「ん、任された。それで私はさとりって奴にコレを届ければいいのね?」

「ええ、できれば地底のトップをそのまま引きずって来てください。この馬鹿げた喧嘩の仲裁を押し付けますので」

「りょーかいよ、それじゃあ文は刑香のお守りを頑張ってね。まあ慣れてるだろうけどさ」

 

「…………文、まさかここに残るつもり?」

「もちろん私も残りますよ、刑香一人では木っ端微塵にされるのがオチでしょうから。まあ、はたてがお使いを済ませてくるまでの時間稼ぎをするだけですけど」

 

 

 どうやら文もここに残ることに決めたらしい。はたてを先に行かせるのは、単純に自分の方が戦闘に長けているからだろう。本気になった射命丸文の実力は刑香やはたてより頭一つ抜けている。そっと肩を並べるように隣に来てくれた親友のおかげで、何だか心が軽くなった気持ちを刑香は感じていた。

 そして何かを考える素振りを見せていたパルスィがはたての傍へと歩み寄ったのはそんな時だった。

 

 

「待って、地霊殿なら私も付いて行くわ。さとりを説得するのを手伝ってあげる」

「へっ、何でそんなことしてくれるのよ?」

「それはほら…………気づかせてくれたお礼よお礼。あんた達を眺めているのもわりと楽しかったし、とっても妬ましいけど」

「ふーん何だかわからないけど、せっかくだしお願いしようかな。よし掴まりなさい、パルスィ!」

「ちょ、抱えるなぁ!?」

 

 

 まさに風のように、はたてはパルスィを抱えて飛び立った。垂直飛行で一気に高空へと駆け上がり、勇儀の頭上を遥かに越えて行く彼女に他の鬼たちも手を出さない。あっという間に旧都の方角へ消えていく少女たちを見送った、その後に残されたのは刑香と文の二人だけである。ちなみにキスメはいつの間にやら対岸のヤマメのところへと向かっていた。周囲を見回してから、溜め息混じりに白い少女は黒い少女へと視線を送った。

 

 

「…………結局、文は行かないのね」

「ええ、花一匁(はないちもんめ)は好きじゃないんです。誰か一人を売り渡して逃れる選択肢は最初からありませんよ。逆の立場なら刑香も同じことをするでしょう?」

「まあ、そうだけど。せっかく私が一人で引き受けるつもりだったのにきっと後悔するわよ。鬼の四天王はあんたより強いんだから」

「それでも友人を見捨てるよりはマシですよ。また見過ごして、萃香様の時みたいな結末を迎えるのはもう御免です」

「…………やっぱり文はお人好しすぎるわ」

「あなた達に対してだけですよ、刑香」

 

 

 白と黒の鴉天狗が並び立つ。片や組織から追放されたはぐれ者、片や上層部からの覚えも良い精鋭である。しかし羽の色も性格も、経歴も何一つ似通うところのない彼女たちは『友』であった。そんな会話に鬼の大将は黙って耳を傾けていた、少女たちの動作の一つ一つを眩しいものでも見るように目を細めて眺めている。

 

 

「で、結果的にはお前たち二人で私に挑むということでいいのかい?」

「不本意ながらそうです、せいぜい適当にあしらって地上へ帰るとしますよ。こんな喧嘩は一銭の得にもなりませんからねぇ」

「この私を『あしらう』か。そいつは大した自信なのか挑発か、どちらでも構わんが勝算はあるのかい。そこいらの天狗よりは楽しめそうだが、この星熊勇儀を相手取るにはちいとばかし足りないね」

 

 

 橋の真ん中で立ち止まっている勇儀との距離はそれなりにある。しかし嫌になるほど濃密な妖力は熱のごとくに大気を歪め、ただそこに立っているだけで威圧感が精神を削り取ってくる。こちらは二人、相手は一人、それは奇しくもフランドールとの戦いと同じ配置だと言うのに状況はまるで異なっていた。絶対的な能力を持ちながらも本人が振り回されていた幼子と、絶大な力を誇り正しく運用する歴戦の豪傑では比べ物にならないのは仕方ない。

 

 

「文、まずは私が先手を打つから援護を頼むわ」

「気を付けないと今度は翼をへし折られるだけでは済みませんよ?」

「縁起でもないことを思い出させないでよっ。もう、それであの方の『能力』は何なのよ」

「勇儀様の誇る力は『怪力乱神を持つ程度の能力』。鬼族の中でも最高の身体能力こそが能力の全てです、本当に一撃でも貰えば命に関わりますから回避は慎重にお願いします」

「了解、せいぜい気をつけるとしましょうか」

 

 

 コンコンと刑香は一本歯下駄を地面で鳴らす。

 元より悲観的な考えはない。パワー型ならスピードで翻弄してやればいいだけで、それは刑香にとっていつも通りの戦いなのだ。少なくとも萃香よりは随分楽に戦えるはずだ。何しろ彼女の能力は変幻自在、天地を我が物とするチカラだったのだから、

 

 

 

 

「相談は終わったのかい?」

「「――――!?」」

 

 

 だからこそ『力』のみで四天王の座に君臨する星熊勇儀の異常性に早くも気づかされることになった。

 髪を揺らした声へと、文と刑香は反射的に刀を振り抜いていた。血飛沫が上がった後、そこにいたのは腕を浅く斬られた勇儀である。いつの間に移動したというのか。一瞬で間合いを詰められたことに驚き、身体が硬直したところを二人して首を鷲掴みにされて持ち上げられる。

 

 

「い、いつの間に…………がぁ!?」

「…………あ、文っ、ぐぅっ!?」

「なんだ、もう始めてよかったのか?」

 

 

 まるで踏ん張りが効かなかった。刑香と文の抵抗など無かったかのように鬼は少女たちの身体を吊り上げる。じたばたと暴れるが鋼のような肉体は多少の蹴りではびくともしない。血の引いた表情で刑香は思い出した、伊吹萃香が見せた鬼の理不尽な強さを。

 

 かつて理性では説明のつかないものを人間たちは『怪力乱神を語らず』という言葉にて封じ込めた。ならば自らそれを名乗る鬼はそういった『怪異の権化』であることに刑香は気づく。ただ身体能力のみで伊吹萃香と同格の存在、それがどれだけ異常なことか。そして怪力が腕力のみであるとは限らない、速度を生み出す脚力もまた怪力の一部に他ならないのだ。

 

 「ああ、これは駄目かもしれない」と刑香は悟る。こうしているだけでも感じる妖怪としての格は先程の青鬼とは比べ物にならない。これは伊吹萃香と同じモノ、戦いを挑んではならない災いそのものだ。二人の少女を掴み上げた体勢そのままに、怪物は口を開いた。

 

 

「お前たち天狗には必要ないだろうが、やり合う前に改めて名乗っておこうかね。私は『山の四天王』の星熊勇儀、同族からは『力の勇儀』と渾名されているよ」

「っ、それは、どうも。私の名前は白桃橋刑香、伊吹萃香様から名を頂いた鴉天狗よ。とりあえずこの手を放しなさいっ!」

「私の方は射命丸文、特に名前に秘められた由縁は…………ぐぅっ、ありませんね」

 

 

 刑香は脚をバタつかせ、何度も鬼を蹴りつけるが鋼鉄のような身体は微塵も揺るがない。文もまた抵抗しているが抜け出せる気配はない、刑香とは違い並の妖怪を蹴り砕く一撃も鬼には効果が薄い。しかし文と一緒なら必ず勝機を掴めるはずだ。刑香は何とか文の身体に手を伸ばし『能力』を発動させる。その瞬間にぐんっと身体を引き寄せられた。

 

 

「さて、ここからが本格的な喧嘩の幕開けとしようじゃないか。せいぜい楽しませてくれよ、お前たち!!」

「ちょっと何を!?」

「するんですかぁ!?」

 

 

 凄まじい剛力を持って勇儀が成したのは、二人の少女たちを川に向かって投擲するという蛮行だった。風を撒き散らし、白と黒の影が闇夜を流れ落ちる。そして大砲の玉が着弾したかのような轟音が響いた後、朱色の大橋が水面へとバラバラに崩れ落ちていく。

 

 

 宣言通り、派手に打ち上げられたのは開戦を告げる狼煙代わりの一撃。ますます高くなる鬼たちの歓声を背景にして、空高く上がる二つの水柱が天狗と鬼の戦いの始まりを宣告した。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十八話:風神乱舞

戦闘シーン及び残酷な描写があります。
苦手な方はご注意ください。


 

 

 まさかいきなり水没させられるとは夢にも思わなかった。

 

 

 天狗装束がゆらゆらと膨らみ、服の下へと侵入してくる水は凍てつく寒さだった。おまけに橋へとぶつけられた衝撃で身体中が痛い、そして待ち受けている相手が堪らなく怖い。いっそのこと、このまま沈んでいってやろうかと思うほどに刑香の心はしぼんだ風船のように委縮していた。

 

 

 ――――いくら藍の頼みとはいえ、安請け合いするべきではなかった。寄りにもよって萃香さまと同格の四天王が出てくるなんて聞いてないわよ。

 

 

 もちろん本気で思っているわけではない。

 自分とて千年を生きる妖怪なのだから、このお役目に媚びりついた『危険』の香りには気づいていた。敵わない妖怪がいるかもしれない、それでも自分を対等に見てくれる彼女に良い格好をしたくて無理をしたのだ。しかし結果はこの様である、これでは勝負にすらなっていない。

 魂まで凍えてしまいそうな地底の川の中で、気がつけば刑香は水面から注ぐ光へと手を伸ばしていた。こんな自分の帰りを待ってくれているあの子供へと指先を伸ばしていた。しばらくそうしていると唐突にその手を掴まれる。

 

 

 ――――いつまでも何をしてるんですか、あなたは!

 

 

 ぼんやりと頭を動かすと何かを口走っている文と目線が合う。言葉は泡になって消えていくが、自分を叱っていることは何となく理解できた。唇を動かして「ごめん」とだけ伝える、するとコツンと額を叩かれた。しっかりしろと言っているらしい。なので今度は「ありがと」と刑香は口にした、こんなところで心折れている場合ではないことを親友は思い出させてくれたのだ。空色の瞳に光が戻る。

 

 幸いにしてスキマ妖怪ではなく鬼が相手なら『有効打』は一つだけある。かつて名付け親の片目を潰した戦い方ならば勝機はある。とはいえアレは中々に危険な賭けだ、果たして自分は地上まで生きて帰れるのだろうか。それだけが不安だったが、まあ今回は文も一緒なのだから何とかなるだろう。

 

 文がわざと刑香にも見えるように葉団扇を構える。どうやら脱出するつもりらしい、もう少し息は続くのだが仕方ない。カラスの行水は早いと相場が決まっているのだから、手早くここから抜け出すとしよう。水中で起こされた竜巻は渦潮を逆再生したかのごとくに二人の身体を上へ上へと押し上げる。激しいはずなのに優しく自分を包んでくれる波に刑香は少しだけ微笑んだ。やはり友の作り出す流れは水であろうとも気持ちが良い。

 

 

 

 

「おおっ、待ってたよ!!」

 

「できれば帰ってて欲しかったけどね」

「まったくもって同感です」

 

 

 水面から立ち昇った竜巻は少女たちを川から弾き出す、白と黒の翼を広げて大空へと舞い戻った二人。そんな彼女たちを待ち受けていたのは喜色満面、たくましい両腕を広げた勇儀であった。美しい紫染めの着物を靡かせた鬼の大将は好戦的な笑みで二人を見上げている。

 すると突如として勇儀のいる周辺が暗くなった。ギシギシと何かの軋む音、そして小さな木片が幾つも空中から零れ落ちてくる。それは黒い鴉天狗がついでに水中から引き揚げた物体が作り出した影であった。

 

 

「挨拶代わりの品としては悪くない、寄越しな」

「お気に召したようで何よりです」

 

 

 『風を操る程度の能力』で文が持ち上げたのは巨大な橋の残骸だった。立派な朱塗りの手摺から橋板、支柱に至るまでを根こそぎ引き抜いた、ついさっきまで橋姫の縄張りだった大橋である。大量の水と一体になった材木たちは博麗神社くらいなら余裕で押し潰せる質量を持っていた。

 容赦なく文は葉団扇を降り下ろし、その塊を勇儀へと投げつける。川から共に吸い上げられた水は豪雨として、鮮やかな橋の残骸は槍として鬼へと降り注いだ。

 

 

「オオオオオォォォァアア!!!」

 

 

 それを勇儀は右腕の一撃で木っ端微塵にうち砕く。ただの一撃で雨は霧散し風は止み、橋姫の呪いのかかった橋の姿は藻屑と消えた。そして遅れてやってきた轟音が空気を揺らす、わずかに残った水しぶきを鬼の大将は気持ち良さそうに受け止めた。濡れた金髪をかき揚げてまたもや獰猛に笑う。

 

 しかしこの程度では鬼に通じないことは天狗にとって百も承知の事実だ。今の攻防の隙間を縫って、本命である刑香は鬼の背後へと回り込んでいた。橋姫には悪いと思うが文の作戦である、彼女の縄張りを完膚無きまでに破壊してしまったことに謝罪しながらも「今ならいける」と刑香は地表スレスレを駆ける。

 秒にも満たない世界で、急速に鬼の背中が迫ってくる。その交差の刹那、刑香は妖刀を振り抜いた。上がった血飛沫は二つ、すれ違った瞬間に大きく体制を崩した刑香が半ば強引に身体を起こして高度を確保する。

 

 

「ぐっ、随分と深く持っていかれたわね…………」

 

 

 鋭い刃物で抉られたように肩から走る傷を刑香は押さえていた。反射的に勇儀が出した指先に触れてしまったのだ、それだけで皮膚を裂かれてしまった事実に胸が冷たくなる。おまけに刀を持つ腕も痺れていた、鋼鉄を撫でたような感覚が走り抜けては刑香の腕を麻痺させる。

 鬼の身体は土蜘蛛の糸よりも頑強らしい、思わず刑香は舌打ちをする。やはり真正面から挑んでいたのでは負ける、一癖ある戦法を取るしかない。

 

 

「準備は整いました、行きますよ刑香!」

「頼んだわよ、文!」

 

 

 この空域を支配下に治めた文が葉団扇を振るう。次の瞬間には竜巻を横倒しにしたような、自然界ではありえない風が渦巻き始めた。乾いた地表から舞い上がった砂塵は勇儀の姿を覆い隠し、逆にあちらからは二人の姿を完全に遮断する。

 だが刑香と文は勇儀のいる正確な位置がわかっていた。『風神』としての側面を持つ鴉天狗として、如何なる嵐の中であろうとも標的を感知できないなど有り得ない。

 ゆえに白と黒の少女は気負うことなく、荒れ狂う地表を見下ろしていた。

 

 

「はたてが帰って来るまで、このまま渦の中に閉じ込めておきませんか?」

「それまであの方が大人しくしていると思う?」

「いやー、とても想像できません。飽きたらすぐに竜巻を引き千切って出てくるでしょうね」

「だったら私たちがやることは一つじゃないのかしら」

「…………まあ、どのみちある程度の戦闘は必要ですね」

 

 

 傷口に包帯をきつく巻きつけた刑香は鋭い眼差しで親友を見つめ、それに応えるように文も纏う空気を一変させる。天が高く地が低い、それは古より覆せぬ理である。されど自分たちは天狗である、地に這いつくばるなど性に合わない。ならば頭上に君臨する存在があるなら爪を立てて引きずり下ろすのも一興か。若き鴉天狗の少女たちは刃を振りかざす。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「なんだったんだろうねぇ。刑香に斬られた後、少し手足の動きが鈍くなったような気がするが…………こいつぁ、刃に毒でも塗ってあったのかね?」

 

 

 やれやれと痺れの抜けてきた肩を回して佇む勇儀、その周囲を分厚い風の層が取り囲んでいた。

 吹き荒れる砂塵は目と耳を同時に潰し、鴉天狗たちの姿は欠片ほどもわからない。並の妖怪なら引き千切られるであろう殺伐とした暴風の中にあっても鬼の身体はびくともしない。この程度の攻撃では傷一つとて負わせられるものかと鋼の肉体はせせら笑うが、その一方で勇儀の精神は弾んでいた。

 

 

「大したもんだ、これほどの風を操っていた天狗は天魔の爺以外にはとんと知らないねぇ。まあ、アイツの風刃は更に格上だろうが…………しかし射命丸とかいったか、あの若さでこれならいずれ天魔にまで届くかもしれんな」

 

 

 いつしか三人の喧嘩を眺めている鬼たちは活気づいていた。酒を傾ける手は止まり、鴉天狗の少女たちの姿を捉える瞳には熱が満ちている。そこにはもう勝負を茶化すような様子はない。そんな変化を感じとりながら、勇儀は満足そうに頷いた。取り敢えずは酒宴を切り上げて喧嘩を吹っ掛けにきた価値はあったらしい。

 

 そして迫り来る白い鴉天狗の気配を察知して剛脚に力を込める。姿は見えない音は聴こえない、されど鍛え上げた直感が告げている。高度の全てをスピードへと昇華させたであろう相手に対して、判断に費やせる時間はまさに一瞬だった。

 獲物を仕留めんとする猛禽類のように、闇夜を往く流星のように、遥かな上空より降下してきたであろう刑香の一撃を勇儀は紙一重で避けきった。しかし同時に突き出した拳は何もない宙を切る。

 

 

「はははっ、この砂塵で私の視覚と聴覚を封じた上での一撃離脱か! なかなか良い戦法を取るじゃないか、お前たち!!」

 

 

 突き出した剛の拳は空気を破裂されたが、白い鴉天狗には掠りもしなかった。破壊のチカラが凝縮された大砲じみた強打、どんなに軽くても当たれば一撃で仕留められる危険性がある。それを理解しているからこそ天狗たちは一撃離脱を選択したのだろう。実に賢い選択だと勇儀は彼女たちを褒めた。

 

 白い翼が巧みな軌道を描き砂塵へと消えていく、そして黒い翼が操る風は視界と聴覚を容赦なく潰してくる。少しばかり物足りないが、これは見事な連携であった。おまけに加速力ではなく、刑香のトップスピードは勇儀が今まで目にしてきた妖怪の中でも恐らく最速の部類に属している。如何に鬼が瞬発力に優れていようとも一度空へと逃がしてしまえば、易々と捕まる速さではない。『並』の鬼ならば。

 

 

「上々、悪くないがこの勇儀には少々足りんなぁ!!」

 

 

 大股の一歩、渾身の力で地面を踏み鳴らす。

 瞬間、辺りを蹂躙していた竜巻はひしゃげたように形を変えた。蜘蛛の巣のごとく砕け散った大地から伝わる余波、それだけで天狗の風が払い除けられる。一時的に晴れ渡った空、されど標的を捉えるには十分過ぎる時間である。鬼の大将は再び急降下を仕掛けていた刑香の姿を確かに視認した。そのまま驚異的な脚力で上空へと跳ぶ。

 

 

「よう」

「え…………な、んで!?」

 

 

 白い少女が勇儀を認識したのは、すでに鬼が殴打の動作に入っていた時であった。かつて四天王にやられた恐怖からか身をすくませた少女は避けられない、回避が間に合わない。剛腕から繰り出された鬼の拳が刑香の腹に突き刺さった。

 

 

「―――っが!!?」

 

 

 何かを叩き潰した感覚が勇儀へと伝わってきた。少女の口から吹き出した大量の血液が顔にかかったのを、鬼は舌で舐めとりながら追撃に入る。萃香のお気に入りということて手加減はしてやるが、それ以上の気を使ってやるつもりはない。この程度で壊れてしまうならそれまでの天狗であったまで、友の目利きが誤っていただけだ。

 

 腹にめり込んだ拳でそのまま装束を掴んで白い鴉天狗を引き寄せる。血に染められて今にも死にそうな表情をした刑香は、せめてもの抵抗として鬼の腕へと妖刀を突き刺すがまるで効いていない。たった一撃で死に体である、友の片目を潰せたのは偶然だったのだろうか。非力な少女へとつまらなさそうに勇儀は拳を降り下ろそうとした。

 

 だがトドメになるはずの拳は繰り出されなかった。腕が痺れて動かないのだ、この戦いが始まってから勇儀は初めて眉を潜める。どういうことだ、と刑香を掴みつつ考えるがわからない。そうしていると今度は背中から痛みを感じた、もう一人の存在を忘れていたらしい。

 

 

「刑香を離してもらいましょうか、いや今すぐ離しなさい!!」

「なんだ、お前の方がこいつより強いのか。この私が目で追えない天狗なんて久しい…………おお?」

 

 

 妖刀を鬼の背中に突き刺した文、そちらへと勇儀が意識を取られた間に装束を破いて刑香が脱出する。身体を折り曲げて腹部を押さえながら、どうにか真っ白な翼を広げて滞空する。口から喉につかえていた血塊を吐き捨てて刑香は勇儀を睨み付けた。

 

 

「加減なんて厄介なことしてくれてんじゃないわよ、おかげで能力が上手く働かなかったわ。鬼なら考えもなしに拳を振るいなさい」

「いやいや、すまないね。お前は萃香のお気に入りだ。壊さないように喧嘩しようと思ったんだが、そこまで脆いとは予想外だった。私の力じゃあ、どんなに優しく小突いても壊してしまうらしい」

「…………っ、本当にね。吸血鬼の蹴りより数倍エグいわ」

 

 

 悪態をついた白い少女はどこから取り出したのか古びた瓢箪に唇をつける。そして何度も咳き込みながら透明な液体を喉の奥へと流し込んでいく。間もなくいくらか傷の癒えた刑香は空になった瓢箪を投げ捨てた。

 

 

「そいつは『茨木の百薬枡』で出来た酒かい? まさか萃香だけじゃなく華扇の奴とも繋がりがあるとは、つくづく鬼と縁のある天狗らしい」

「そのたびに死にかけてるからまったく嬉しくないけどね。ちなみに四天王に会ったのはあんたで三人目よ、このまま四人全員と関係を築いてみようかしら…………けほっ」

 

 

 白い少女は軽く咳き込む。

 あの酒は量を飲まなければ完全に傷を癒すことはできない。瓢箪に詰まっている程度の量では内臓の損壊までは治せない。それにも関わらず平然としているのは単なる演技だろう、確実にダメージは刻まれている。震える指先と異常な汗の量がここからでも感じられた。

 

 もう一発入れてみるか、と勇儀は拳を握り直す。すると竜巻が己の周りを取り囲んだ。自然ではありえない風向きと重量を持った風に視界を塞がれながらも、勇儀は「またそれか」と呆れ果てた。ならば何度でもこの自慢の拳で打ち破ってやろう、そう思い地面へと降り立った。大地を踏みしめる時にこそ鬼の剛腕は最大の威力を発揮する。

 

 

「やれやれ、まどろっこしい砂塵に隠れながらの一撃離脱はもう通じないことが理解できないか。――仲間の負傷で焦りでも生じたのなら、そろそろ潮時かね」

 

 

 既に攻撃のタイミングは掴んだ。おまけに負傷したことで白い少女はスピードが落ちているだろう、満身創痍の鴉天狗を捉えることなど造作もない。次に彼女が砂塵の向こうから仕掛けてきたなら全てが終わる。もしそうなら残念だ。

 

 思った通りに楽しめたが、期待以上のモノはない喧嘩だった。当たり前のように勇儀が勝ち、誰もが予想したように鴉天狗の少女たちは大敗する。やはり萃香は遊び半分に相手をして、不意を突かれて片目を潰されたに違いない。

 

 空気を震わせる風の音を聞き取った勇儀が拳を構える。先程までと同じ高度、速度と軌道で繰り出される鴉天狗の一撃へと鬼は適切なパワーを込めた迎撃砲を用意していた。もはや回避の必要性はない、大樹のように大地に根差した体勢から繰り出すのは訣別の一撃に他ならない。寄りにもよって真正面から突っ込んでくる刑香に失望を覚えながら、勇儀は砂塵に踏み込みをかけた。

 

 

「残念だよ、あの萃香が名をくれてやった天狗がどんなもんかと思ったがこの程度………………ごっ!?」

 

 

 命を刈り取る『死』の一撃が届く前、勇儀の頭に渾身の膝蹴りが打ち込まれた。真正面の刑香に対して真横から叩き込まれたそれは、恐ろしい程の速度が上乗せされたことで鬼のそれにも匹敵する威力だった。ここにきて初めて勇儀の口から赤い液体が飛ぶ。

 

 そのまま―――鬼の隙を突いた射命丸文は―――勇儀に密着するように身体を滑り込ませ、葉団扇を全力で発動させた。足下から吹き上げる爆風が強大な鬼の肉体を地面から引き剥がし上空へと叩き上げる。

 

 

「ぐっ、お前たち最初からこれを狙ってたのかい?」

 

 

 黒い方の鴉天狗は竜巻の操作に集中せねばならぬと勘違いしていた、大気を掌握しながらこの娘は別の行動ができたのだ。乱回転する視界の中で上下左右を鬼は一時的に見失う。天下無双の鬼の大将が竜巻の中でバランスを保てず、今この瞬間だけは守りが崩れていた。

 初めからあの二人は勇儀を無防備な状態で空中へと巻き上げることを狙っていたのだ。わざと刑香を『囮』にして攻撃のタイミングを測らせ、本命たる文の奇襲で流れを掌握する。それが彼女たちの作戦であった。

 

 

「脚の一本でも斬り払って大人しくしててもらいましょうか!!」

 

 

 勇儀を吹き上げた場所から直線的に黒い少女が迫っていた。だが甘い、反撃のしづらい足下から振りかぶられた妖刀を二本歯下駄で受け止める。そのまま焦った表情をした少女の背中へと蹴りを打ち込んだ。

 大した威力は出なかったが十分だったらしく、黒い羽を散らした鴉天狗がきりもみして地面に叩きつけられ粉塵を上げた。そして白い少女を見失っていたことに気づいた勇儀は、直感に従って後ろへと拳を振り抜いた。

 

 

「~~~っ、ケモノ並の勘をしてるじゃない。でももらったわ!」

 

 

 翼を掠めた拳が白い羽を数本散らす。それでも刑香に直撃しなかったのは恐らく『能力』のおかげだろう。ともかく刑香は鬼の攻撃をかわし、その懐に入り込んでいた。両の拳は防御に間に合わず蹴りを繰り出すには体勢が悪い。これが最後の好機だろう、刑香は勇儀の首を両断せんと妖刀を一閃させた。

 

 しかしそこは理不尽の権化たる鬼、ガチンと音がしてその刃は止められた。腕ではなく、脚でもない、凄まじい力で白い少女の得物は押し返される。この喧嘩が始まって何度目になるのか刑香が驚愕する、四肢の使えない勇儀が取ったのは『歯』で刃を受け止めることだった。

 

 それだけではなく鬼の牙が、あろうことか妖刀の刃へと食い込んでいた。ガラスのように広がっていくひび割れは儚い希望を表すようで、人の技術が生み、天狗が鍛えた名刀が鬼の牙によって粉々に噛み砕かれた。こんな理不尽さえ通してしまうのが鬼の力であるのだ。

 

 

「今度こそ終わりになるかい、刑香」

「あ、そ、そんな…………」

 

 

 武器を失い呆然とする少女へと勇儀が告げた。そのまま抵抗を許さずに刑香の身体を抱き寄せる、がっちりと腰を抑え込まれては少女に逃れる術はない。もうこの少女の『壊しかた』は覚えた、勇儀は決して愚鈍な妖怪ではない。ここまで戦えば刑香の能力が何であるかの推測くらいはできる。

 恐らくは『致命傷を避ける能力』なのだろう、死ぬ攻撃が当たらないならギリギリの力に抑えてゆっくり壊していけばいい。能力の正体が割れてしまえばそこまでだ、華奢な身体を折らない程度に締め上げる。

 

 

「……か………はぁ…………ぁ」

「さてと、じゃあ眠っときな。もし生き残ったなら応急処置くらいは手下にさせておくからさ」

 

 

 加減しているというのに折ってしまいそうな脆い身体、これで鬼と戦っていたとは少しばかり驚きだ。それに最後の一撃は思ったより楽しめた、これなら萃香が戻ってきた時に面白い話ができそうだと勇儀は満足していた。鬼とそれ以外の存在との差、それを考えるならこの結果は上等だ。

 白い少女の傷痕と口から真っ赤な液体が溢れ出す、それはまるで体内に残った血を絞り出すようだった。激痛に涙を浮かべる少女へとある種の愛おしさを込めて、勇儀は両腕の力を増していく。

 

 

 

「おーおー、どうやら決着らしい」

「大将相手になかなか頑張ったじゃねえか」

「アタイならもう少し戦えた、かもしれないけどね」

「よくやったぞ、嬢ちゃんよぅ!」

 

「アイツらも気が早いな、だがまあ間違っちゃあいない。これで喧嘩は終わりだろうよ」

「…………それは、本当に気が早い、んじゃな……ぃ……の?」

「そうだったらいいねぇ」

「ぁ、あぁぁぁぁっ!!?」

 

 

 今回ばかりは刑香の悲鳴は本物だった、これ以上のダメージは本当に耐えられない。『能力』がある限り死なないかもしれないが体感的にはもはや自分の身体は限界だった。痛覚すら薄れていく『死』の気配が自分を覆っていくのを感じる。だがそれでも刑香は諦めていなかった、来るとわかっていたからだ。もっとも信頼する友の『風』が。

 

 その瞬間、鋭く研がれた旋風が鬼の腕を斬り刻んだ。骨にまで届こうかという深手により血が噴水のように迸る。ただの風にしてはあまりにも過ぎた威力だった、不可解なくらいの切れ味に勇儀が眉を潜めて攻撃の出所を探ろうとする。いや視線を移そうとして首が動かないことに気がついた。

 

 

「んぁ…………っ、なんだぃコレはぁ?」

「ようやく、効いてきたみたい、ね。抱きついてくれた、から萃香様の時より……も早かったわ、星熊の………大将さま?」

「ど、いぅこ、だ?」

 

 

 全身へと回る痺れが舌の動きすら固めてしまう。これは明らかな『毒』だった、それも星熊勇儀の身体をガチガチに封じ込めてしまうなど相当なものに間違いない。かつて人間の武将たちに仕組まれた毒薬が脳裏をよぎったが、あれは易々と手に入らない霊薬である。そうしていると、力の抜け落ちた勇儀の腕から白い少女がひらりと抜け出した。

 

 

「っ…………私の力は『死を遠ざける程度の能力』。本来はせいぜい回避に使うのが精一杯だけど、相手が『特定』の存在ならこのチカラは攻撃に転じさせることができる。そう、あんた達みたいに『死』を源流に持つ妖怪にはね」

 

 

 古い説によるなら鬼とは元来『この世ならざるもの』であり『生と死の境界に存在するもの』とされる。だから鬼のチカラを封じたというのか、そんな『能力』などありえるのか、今度は勇儀の顔が驚きに染められた。

 そして刑香の手には砕かれた妖刀ではなく、錫杖が握られていた。腕を斬り刻んだ風に乗せて黒い少女が送り届けたのだろう。

 白かった天狗装束は血で真っ赤に染められ、自らの白髪さえも赤く濡らした少女。そんな彼女から放たれた錫杖が勇儀の視界を半分奪い去る、遅れてやってくる痛みによって『片目』を潰されたことに勇儀は気づいた。

 

 

「ぁ、――――ガァァァァァアアアア!!!」

 

 

 眼球を串刺した錫杖を握り締め、言葉を紡げない勇儀が吼える。鬼の雄叫びは地底の空を、橋姫の川を、大地を揺るがし旧都へと伝わるほどであった。それは動きを封じられた鬼の大将が繰り出せる唯一の攻撃であった。押し寄せる大気の津波はそれだけで城を抉る威力がある。

 

 破滅的な音波の収まった先には何もない空が残った、そこにある何もかもを吹き飛ばすはずの鬼声はしかし鴉天狗を仕留めるには至らなかった。当たらなければ、あらゆる攻撃は意味を成さない。すでに間合いから離脱し、遥かな上空から少女たちは鬼を見下ろしていた。

 

 

「「墜ち(てください)なさい!!」」

 

 

 八ツ手の葉団扇は風神のふいご。

 上空に陣取っていた黒と白の鴉天狗たちから落とされたのは爆発的な嵐の塊。踏ん張りが効かない空中で、まして身体に痺れが回った状態で耐えられるわけがない。

 そういえばヤマメも「とびっきりの厄除けの匂いがする」と言っていたことを勇儀は思い出す。極一部の妖怪や彼岸の連中にとってはまさに天敵たる『能力』だ。

 

 

『この目は若い天狗にくれてやったのさ。…………いや嘘は良くないね。実のところ見事にしてやられたんだよ』

『お前さんが本気で片目を潰されたってのかい?』

『そうさ、その褒美に名を付けてやったんだ。天狗だけどアイツは面白いヤツだったよ、アイツを心配して駆けつけた二羽もいい奴らだった。新しい風ってのはいつも気持ちがいい、お前も喧嘩してみればわかるさ』

 

「…………なるほどお前さんが不覚を取った理由がようやくわかった。だが確かにこれは悪くない気分だよ、萃香」

 

 

 古来より『説明のつかない災害』を人ならざる怪異の仕業として人々は恐れ続けてきた。そういった神仏への畏怖が形を成した妖怪、それが『天狗』である。お互いを支えるように並び立つ少女たちの姿を見送りながら勇儀が思い出したのは、懐かしい友と交わした会話の一場面であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十九話:あの夜の結末がここにある

 

 

 強度を失った鬼の身体が大地へと叩きつけられ、空中と地面を何度もバウンドする。

 鴉天狗二羽から振るわれた圧倒的な風量は『死を遠ざける程度の能力』によって弱体化した勇儀へ多大なダメージを与えていた。呻き声一つ漏らさずに大の字で倒れ伏す鬼の御大将。

 対岸から観戦していた彼女の部下たちは凍りついたように動かない。幻想郷にて最強を誇る種族『鬼』、その大将が敗北した。あってはならない事態に大半の鬼たちは固まっていた。

 

 

 

 そして、その戦いの全てを遠い地上から観戦していた者たちがいる。

 埃っぽい闇の中で揺れるのは小さなランプの光。迷宮のように入り組んだ本棚の中央で四人の少女たちがテーブルを囲んでいた。そして目の前に映し出される映像に赤い眼差しを送るのは幼い姿の吸血鬼、青みがかった銀髪の少女はミュージカルを観賞した後のように優雅な様子で役者たちを褒め称える。

 

 

「パーフェクトよ、刑香。射命丸の助けが大きかったとはいえ、まさか鬼神相手に勝ち星を上げるなんて想像できなかった。私ですらも届かない『運命』をお前は手繰りよせたのよ。最高の戯曲だったと誉めてあげる」

 

 

 アンティークチェアに腰掛けて、レミリア・スカーレットは白い鴉天狗へと拍手を送る。

 その一方でテーブルに置かれた紅茶はすっかり冷えていた、あまりにも戦いを観賞するのに夢中になっていたからだ。レミリアらしくないミスである。しかしそんなモノが気にならない程に幼い吸血鬼は上機嫌だった。

 わずかに紅潮した頬を隠しもせず、興奮から床に届かない足をぶらつかせる。見た目相応の子供のような振る舞いを見て、向かい側に座っていたパチュリーが溜め息をついた。

 

 

「レミィ、少しは落ち着いたらどう?」

「ふふん、これが冷静でいられるもんか。前々から怪しいと思っていたけど今回ので確信したわ。刑香の持つ『死を遠ざける程度の能力』は私の能力と根っ子の部分が少し似ている、そんな素晴らしい運命(じじつ)を見つけたの!」

「それは良かったわね」

 

 

 興味なさそうにパチュリーは再び手元の本へと視線を落とした。ノリの悪い友人にレミリアは不満そうだったが、このことを知るのにパチュリーに色々と負担をかけたのだから文句も言いづらい。

 レミリアはテーブルの上に展開されている光魔法を眺めた。まるで外の世界の電子機器のごとく鮮明に、パチュリーの魔法は刑香たちの様子を映し出している。もし外の人間がいたなら驚くだろう、テーブルの上に置かれているのは画面のないテレビジョンなのだ。

 

 高価なテーブルに惜し気もなく刻まれた魔法陣は、禁じられた地底の光景をかすめ取っていた。パチュリーが読書を続けながら、片手間に行っているのは大魔法使いの名に恥じぬ術式であった。かつて八雲藍には敗北を晒したが、そもそも彼女は戦闘特化の魔法使いではない。圧倒的なまでの応用力こそが彼女の真価であり、レミリアが親友と認める理由なのだ。

 

 

「むー、つまらないわ。私だけ盛り上がってバカみたい、パチェは感情の起伏が足りないわ。もっと美鈴みたいに泣き笑いを激しくしなさい、そして私を楽しませなさいよ」

「別にレミィはピエロが欲しくて私を手元に置いているわけじゃないでしょう。退屈でけっこうよ、聞き分けなさい」

「う、うー、パチェが冷たい…………」

 

 

 八雲紫や刑香たちに見せていた威厳は何処へやら、レミリアはしょんぼりと項垂れてしまった。図書館に暗い沈黙が訪れる。あまりにも静かになってしまった親友が気になって、パチュリーはのっそりと本から顔を上げる。すると子供らしからぬ妖艶な笑みがそこにあった。テーブルから乗り出したレミリアが可愛らしい牙を見せて笑っている。

 

 

「あら、心配してくれたのかしら?」

「ばかじゃないの」

「そういうところが好きよ、魔法使い様」

「私は苦手よ、吸血鬼様」

 

「……………………」

「……………………」

 

 

 微笑ましいやり取りをする二人。

 その背後には咲夜と小悪魔がそれぞれ仕えていた。本館の一切を取り仕切るメイド長と、そして図書館の膨大な蔵書を管理する使い魔。そんな彼女たちは、自らの主人の会話に対して不動と無言を貫いている。忠実であるからこそ主の会話には許可なく立ち入らない。

 しばらくパチュリーをからかっていたレミリア、すると何かに気づいたように映像へと視線を戻した。そして咲夜に指示を出して新しい紅茶と菓子をパチュリーの分も用意させる。どうしたのかとパチュリーが尋ねようとすると、レミリアはそのまま手で制した。まるで芝居を観に来た劇場内で「静かにしろ」と注意するような仕草だった。

 

 

「ああ、最高の舞台だったわ。だけど残念ね刑香、役者に許されたインターバルは短いの。貴女たちは立ち上がらなければならない。だってもう第二幕が始まってしまうもの」

「レミィ、あなたは何を言ってるの…………まさか!?」

 

 

 レミリアの言葉を受け、驚いた表情で映像へと目をやるパチュリー。その視線の先には、ひび割れた大地に手をついてゆっくりと立ち上がる鬼の姿があった。

 

 

 まだこの運命は終わらない。

 

 

◇◇◇

 

 

「大丈夫ですか、刑香?」

「これが無事に見えるなら医者に行くことをオススメするわ。その時はついでに私も連れて行ってくれるとありがたいわね」

「あやや、それだけ話せれば十分です。死にかけていると思いましたが意外と元気そうですね。薬酒のおかげでしょうか?」

「…………そうね。そうかも、しれないわ」

 

 

 文は刑香の肩を支えながら、ゆっくりと地面へと降下する。そして大地に足が付くと身体に負荷をかけないように慎重に座らせる。鬼の拳を受け、身体を締め上げられていたので心配していたが、どうやら思ったより刑香は大丈夫らしい。しっかりした受け答えを返してくるので安心した。

 

 ちらりと後方を振り返ると、手足を投げ出し倒れ伏している勇儀が見える。それを確認して文は「信じられない」と漏らしそうになった言葉を飲み込んだ。まさか勝てるとは思わなかった、はたてが帰ってくるまで動きを封じられたなら御の字だったのだ。

 しかし刑香の能力によって鬼の耐久力を弱めたところを、二人がかりの最大風量で叩き潰すという策略が上手く決まった。いや決まってしまった。一介の天狗風情が鬼の四天王を打倒するなど信じがたい偉業である。

 

 

「私とあんたが一緒だったんだから当然よ。私だけでも萃香様から生き残れたんだから、二人なら勝つ希望くらいあったわよ。…………あんた、まさか翼を怪我したの?」

「ええ、あと内臓も数ヶ所やられてます。刑香ほどではないでしょうが、これ以上の戦闘は結構厳しいですね。おー、いてて…………」

 

 

 勇儀から受けた蹴りは幻想郷最速である文の片翼を損傷させていた。まだ飛べないわけではないが、これ以上勇儀の攻撃をかわすのは困難になっていただろう。踏ん張りの効かない空中で蹴られたというのに恐ろしい威力だった。そんな翼を刑香が優しく撫でる。

 

 

「ここから帰ったらちゃんと直しなさいよ。私の翼なんかより綺麗なんだから。本当に、キレイな漆黒なんだからさ…………!?」

「ありがとうございます、でも刑香の羽もキレイですから自信を持って…………あやや、どうしました?」

 

 

「―――そんな、バカな、ありえない、わよ」

 

 

 空色の瞳が恐怖に染まる。

 震える刑香の呟きが他愛もない会話を終わらせた。己の背後へと視線を送ったまま瞳を凍りつかせた刑香、それにつられて文が振り向いた。白い友人が『何』を見たのか、文は嫌な予感を覚えながらも確認するしかない。何が起こったのかは、わかっていた。

 

 土を踏みしめる音が鼓膜に刻まれる。金色の髪が視界に映り込む。赤い一本角から血を滴らせながらも、しっかりとした足取りで彼女は起き上がった。着ていた深紫の着物はボロボロで、破れた袖部分を折れた二本歯下駄と共に投げ捨てる。

 

 

「…………この私が天狗にしてやられたのは天魔のジジイ以来だよ。お前たちの攻撃は随分と効いた。うん、大したもんだ。もう少し威力があったなら、このまましばらく寝ていたかもしれないね」

「っ、やはりこの程度では倒せませんか」

「そんな、萃香様にやったよりも強力に叩き込んだのに立ち上がるなんて」

 

 

 星熊勇儀は立ち上がってしまった。

 ふらついた様子もなく、堂々とした立ち振舞いは戦いが始まる前と何一つ変わっていない。にわかに鬼たちの声援が大きくなった。誰もが「やはり星熊勇儀の敗北などあり得ない」と自分たちの大将への絶対的な信頼を再燃させる。

 

 もしかしたら『怪力乱神』を持つ勇儀には、刑香の能力は相性が良くなかったのかもしれない。その証拠に、すでに勇儀は鬼としてのチカラを取り戻しているように感じられた。大気に満ちる妖気は幾分か弱まっているが、致命的な弱体化とは思えない。ちらりと旧都の方へと文は目をやった。はたてが帰ってくる気配はしない。ならば時間稼ぎを続けるしかない。勇儀を倒せないまでも、もう少しだけ戦いを引き伸ばす。

 

 

「仕方ない、もう少しだけ時間を稼ぎますよ。ツラいでしょうがあなたも立ってください。さあ、刑香…………刑香?」

 

 

 フラフラであろう刑香が立ち上がるのを手伝おうと腕を引っ張るが、友人は動かない。どうしたのだろうと文は首を傾げるが、刑香の姿を確認してその理由をすぐに察することになる。足元にドス黒い血溜まりが広がっていたのだ。

 

 

「ごめん、口と喉は華扇様のお酒のおかげで動かせるけど手足がもう動かせないの。…………身体の中もぐちゃぐちゃで、まともな場所の方が少ないわ。本当に、ごめん」

「ぁ、ぁあ、刑香…………もうあなたは」

 

 

 もう立ち上がる余力すら刑香には残っていなかったのだ。土蜘蛛、はたて、そして勇儀との連戦は確実に少女の身を削り取っていた。もともと持久力に優れない彼女がここまで持っただけでも奇跡なのだ。そして今までは勇儀を倒せたと思ったからこそ、文に余計な心配をかけないように平気な顔をしていたのだろう。

 

 そして手傷を負わせたとはいえ、勇儀は荷物を抱えて戦える相手ではない。まして動けない友人を護りながら戦うなんて不可能だ。いや、それどころか一刻も早く治療をしなければ刑香は手遅れになるかもしれない深手だ。吸血鬼異変で受けた傷を越えてしまっている。だが、地底のどこに傷の手当てのできる妖怪がいるのか。近づいてくる鬼の足音、思わず刑香を守ろうと冷たい身体を抱きしめた。

 

 

「こうなったのは私の力不足よ。だからあんただけでも逃げなさい、文」

「また、そんな馬鹿なことを」

「バカって何よ」

「あなたは本当に、馬鹿です」

 

 

 先ほどから文の天狗として冷静な部分が刑香を「切り捨てろ」と訴えている。それを察した刑香が文に逃げろと告げたのだろう。作戦の要であった刑香の能力が役目を果たせなかったのだ、その責任を取るのは当然だと言わんばかりに「見捨てろ」と口にする。

 

 勝手な理屈ではない、『組織』としては妥当な判断だ。助かりそうもない一人を捨てて、もう一人が助かる確率を上げる。しかし刑香の身体から震えが伝わってくる、これでは逃げ出せるわけがない。千年分の友情はそんなに安くはない、見捨てるなどあり得ない。「置いていくものか」と意思を込めて、鉄の匂いのする赤く染まった白髪を優しく撫でる。するとピクリと反応した刑香が弱々しく言葉を漏らした。

 

 

「ごめん。やっぱり一緒にいてくれると助かる、かも…………本当にごめんなさい。ごめんなさい、文ねえ」

「バカですねぇ。今さら見捨てられる仲なら、吸血鬼異変であなたを助けるために命令違反はしませんよ。私はこっそり八雲紫にあなたを頼むと伝えたりもしてたんですよ。嫌だ、と言われても離れませんから安心してください」

 

 

 寄り添うように座り込む白と黒の鴉天狗たち。彼女たちに近づいていく鬼の歩みは、まるで死神の足音に似ていた。二人の少女たちは立ち上がることもできずに、鬼へと視線を向けることもできない。もう手段が尽きたのだ。

 

 

 

 それは、やはり絶望的な状況だった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「さて、このままでは敗北は必至ね。万策尽きた者は紅に沈み、その想いと全ては勝者の蹂躙の下に晒される。戦いとはそんなものよ、あなたが翼を折られた『あの夜』と同じように」

 

 

 レミリアは温かい紅茶を口に含む。

 ほんのりと柑橘類の香りがするアールグレイは最近のお気に入りである。新しい従者もお茶を淹れるのが上手くなったとレミリアは満足に頷いた。咲夜は西方から取り寄せた上質なベルガモットの特徴を良く活かしている。

 

 そして紅茶を楽しんだ後、空になったカップをレミリアは手放した。代わりとして掌に浮かばせたのは真紅色の魔力。そこから伸びる無数の糸はお互いに絡み合い、丸い渦を巻いていく。小さな星の群れにも見えるそれは『運命』を調律する魔力の塊、レミリア・スカーレットの誇る『能力』そのものだった。

 

 

「だが、ここで終幕というのは風情がない。当たり前のように強者が勝ち、弱者が負けるのは見せ物として成り立たない。それに私はお前たちに借りがある、フランを名無しの誰か(イクスレスク)から救い出してくれた恩がある」

 

 

 指揮棒を振るうがごとく、レミリアが指を動かすと紅い運命の糸がわずかに方向性を変えていく。大きな流れを読み取り小さな改編を繰り返し、最後に思い描いたものに近い結末を手にする。それが『運命を操る程度の能力』の一つの形である。

 

 今宵のために布石は打ってきた。

 美鈴をフランの付き人とすることで紅魔館の門を開け放ち、わざと『侵入者』を見逃し続けた。

 地底の者と接触させることにより、フランに外の世界へ踏み出すきっかけを与えた。

 天狗の長を尾行させて白い少女の真実を盗み聞きさせることにも成功した。

 

 

 ――――まあ、何かあれば協力してあげるから元気出しなさいな、藍。それで肝心の使者は誰にするの?

 

 

 あの会談で藍にしてやった約束をここで果たす。全てはレミリア・スカーレットが思い描いた未来を手にするために。最後の仕上げとして全魔力をかけて、この『偶然』を確約された必然へと昇華させる。

 

 

「―――鬼も天狗も、今宵だけは我が手の上にて舞い踊れ。レミリア・スカーレットの名の元に、お前たちの運命を統括する。ぐっ…………、精一杯の援護はしてあげるから状況をひっくり返してみせなさい!!」

 

 

 八雲の任務を利用せんとするのは天狗だけではない、この吸血鬼の少女もまた今回の騒動に便乗しようと時を伺っていたのだ。残っていた魔力の大半を叩き込み、レミリアは運命を組み換える。紅い魔光が図書館を照らし出し、紅魔館の外まで輝きが放たれた。

 

 光が収まると、脱力したようにレミリアは椅子へと身体を預けた。彼女を気遣ってパチュリーが毛布をかけると彼女へ微笑みかける。そして「せいぜい頑張りなさい」とレミリアは映像に向けて呟いて、テーブルへと視線を下ろした。やれることはやった、あとは本人たち次第だろう。

 

 

 映像の映し出されるテーブルに置かれていたのはクイーンとナイトの駒、そして造形のされていない『のっぺらぼう』の駒であった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 砂に染み込んでいく赤い水溜まりは脈打ち、ぼろぼろに破れた着物の隙間からは熱気が立ち昇っていた。だが、チカラの何割かは既に取り戻している。燃え上がる己の双眸の先にいるのは、満身創痍の鴉天狗たち。

 

 

「信じてたぜ、大将ォォ!」

「大将、負けないでくれぇ!!」

「アタイたちの存在意義をっ、アタイたちの誇りを守ってくれ!!」

 

「あー、わかってるよ。まったく五月蝿いねぇ…………だが悪くないよ、お前たち」

 

 

 割れんばかりの歓声を上げる部下に半分呆れながら、星熊勇儀は一歩また一歩と足を進めていく。その心中には少なくない後悔があった。さっきまでの戦いで、もう少しで少女たちを死なせるところだったのだ。これは喧嘩であったはずなのに命のやり取りをしてしまった。

 本当に鬼というものは抑制が効かないと苦笑する、少し熱せられただけで喧嘩を『決闘』にしてしまった。そしてもう一つ厄介なことがある。

 

 

「ここで私が戦いを止めちまったら、星熊勇儀は負けたことになりそうだねぇ。こいつらは死なせたくないが、『そいつ』は頂けない、私に今さら敗北は許されない」

 

 

 刑香と文が持っていた唯一の勝ち目を潰した今、勇儀の勝利は揺るがない。瀕死の刑香と負傷した文には抵抗する力がほとんどない。しかし喧嘩を終わらせられるか、と問われればそれは否である。

 

 二人は勇儀に一矢報いてしまった、それが事態を複雑にしている。ここで「天晴れ見事」とでも言ってしまえば勇儀が『勝ちを譲った』ではなく『敗北を認めた』という形になってしまう、かもしれない。それが勇儀には許されない。

 

 

「大将ーーー!」

「必ず立つって信じてましたぜぇぇ!!」

「アタイら鬼の力を見せてやってよ、大将ォ!!」

 

 

 別に自分の名に傷が付くのは構わない、そんなものには今さら何の価値も感じない。かつて鬼の首を取って手柄を挙げたがる人間を惹き付けるのには、役立ったが今の時代では無用の長物だ。

 

 そうではなく勇儀を突き動かしているのはもっと単純な理由である。星熊勇儀は鬼の大将として、配下の者たちの信頼を裏切れないのだ。人間に失望した己に従ってこんな地底にまで付いてきた馬鹿者たち、その根底にあるのは常に鬼らしく存在する勇儀への信頼と羨望である。彼ら彼女らのためにも、こんな形での幕引きなど出来るはずがない。

 

 

「ちょっと待ってくれよ、大将!!」

「そこをどきな、魁青(かいせい)

 

 

 そんな勇儀の歩みを止めたのは青鬼の青年であった。

 三羽鴉によって川に放り込まれていたが、どうやらヤマメに引き揚げられたらしい。ずぶ濡れの着物と腕には土蜘蛛の糸が付着していた。

 

 

「あの嬢ちゃんたちの様子が見えねえのかよっ。これ以上は死んじまう、喧嘩はここまでだろ!!」

「そういうわけにはいかないのさ。私たちにもメンツがある、ここまで格下の妖怪に怪我させられたのなら最後までやり通す義務ってやつがあるのさ」

 

 

 やはりこの青鬼は優しすぎる。

 傷ついた天狗たちを守ろうとする、鬼らしくない青年に勇儀は心の奥底で苦笑した。地底の住民にも好かれているお人好し、だからこそ側近として重用している。だがこの場において彼の優しさは邪魔な代物でしかない。

 

 

「っ、本気で言ってんのかよ。勇儀の姐さん」

「ああ、本気も本気、大真面目さ。ここに来て日の浅いお前さんには理解しがたいだろうが、私たちにも退けない時があるんだよ。―――いってぇな」

「お、おいっ、大丈夫なのか!?」

 

 

 目を串刺していた錫杖を力任せに引き抜く。

 当然だが左目はまったく見えなくなっていた。それだけではなく頭に染み渡った『避死』の力が勇儀の身体をまだ痺れさせる。これほどまでの毒は大江山を離れるきっかけになった事件で盛られたモノ以来である。

 どうやらあの白い鴉天狗は特定の相手に対しては、極めて有効なジョーカーになる素質を持っているらしい。どうして伊吹萃香が天狗の一羽ごときに目玉を潰されたのか、よくわかった。

 

 

「すまないね、魁青」

「なにを…………ごがぁ!!?」

 

 

 尚も何か言いたそうな青鬼を殴り飛ばす。

 軽い裏拳にも関わらず青年は川へと弾き落とされた。大きな水柱を上げる橋姫の水面へ視線も移さずに勇儀は進む。まだこの喧嘩の落とし所を見出だせない、手下たちの声援に押し出された身体は止まらずに少女たちを間合いに捉えてしまった。

 血まみれの白い少女を抱きしめる黒い少女、文は勇儀の姿を見てどこか諦めた表情をしていた。勇儀は残念そうに顔を歪める。せめて旧都まで逃げてくれれば、この喧嘩が収まる可能性があるというのに儘ならないものだ。あの少女ならば、きっとこの喧嘩を収める知恵を持っている。

 

 

「…………悪いね。こいつは紛れもなく私の失態さ。熱が入り過ぎて加減を誤ったことも、お前さん達の反撃で手傷を負って喧嘩を続けなけりゃならないのも。だから私を恨んでくれて構わない。私からは、せめてもの手向けとして派手に逝かせてやることにするよ」

 

 

 これは『とっておき』だ。

 今まで同族以外に放ったことはないし、気安く使ってはならないものだ。しかし自分はこの鴉天狗たちを気に入った、この少女たちへの決別になら惜しくはない。これは全て自分の勝手な感情である、ここにきて勇儀は初めて『技』の構えを見せた。『三歩』の下にあらゆる敵を必ず葬り去るという、その必殺の一撃の名は、

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――焼き払え、レーヴァテイン」

 

 

 大地を灼熱の炎が走った。

 鈴を転がしたような声が響き、紅蓮の壁が天狗と鬼を分断するように燃え上がる。かつてこの地を覆っていた地獄の息吹きにも似た猛炎は蛇のような巧みさで、勇儀の身体を押し戻す。これは勇儀の『奥義』ではない。その場にいる鬼たちは「何事だ」と少し驚いた様子で火元を探す。天を焦がす熱量は自然発生するようなものではないのだ。元凶は、すぐに見つかった。

 

 

「変わった羽の嬢ちゃんだね。この私が見たことない妖怪なんて、お前さんは何者だい?」

 

 

 勇儀が見上げた先に、この戦場を一望できる空中にいたのは三つの影。その中心にいる少女が手にするのは真紅のレーザーを押し固めたように輝く炎の魔剣、『宝石の羽』を広げた少女は強い決意を秘めた瞳で鬼を見下ろしていた。

 

 

「あ、あんたは…………!?」

「あ、あややや、これはこれは…………」

 

 

 遅れてその姿を確認した刑香は驚きで言葉も出ない。かつて自分に絶望を与えた宝石の輝き、なぜ彼女がここにいるというのか、なぜ自分たちを護ったのか理解が及ばない。宝石羽の少女はそんな白い鴉天狗にニコリと微笑んだ、まるで待ち望んだ再会を喜ぶように。

 

 

「久しぶりだね白い鳥さん。そしてそのお友達の黒い鳥さん。あなた達といっぱいお話して、たくさん謝りたいと思ってたのよ。伝えたいこともあるし…………でも、まずは――――!」

 

 

 かつて吸血鬼異変では白い鴉天狗を助けようと、幼い巫女と二羽の鴉天狗たちが駆けつけた。それは少女たちの確かな絆が成した運命であった、たった一度の奇跡であったはずだった。故にこれから繰り広げられる全ては吸血鬼異変の焼き回し、場所を変えて役者を変えて『あの瞬間』は再現される。

 

 

「みんなを助けに来たよ!」

 

 

 フランドール・スカーレットはここに参戦する。

 決して独りではない。少女の傍らには初めて出来た友と心優しき従者、古明地こいしと紅美鈴が共にいる。くるくると愉快そうに回るこいしと、苦笑いしながらフランに立ち並ぶ美鈴はそれぞれの想いを胸に鬼へと向かい合う。

 

 

「あははっ、鬼と戦おうなんてフランは面白いね!」

「まさか幻想郷に鬼の生き残りがいたとは凄まじい。ですがフラン様が命ずるのなら、必ずや打ち砕いてみせましょう」

 

 

 レミリアの幻想郷への移住は、その大部分がフランドールのためであった。

 それを考えるなら、紅魔館により引き起こされた『吸血鬼異変』。あの異変の中心にいたのは姉ではなく妹の方だったのかもしれない。姉の祈りは愛する妹を囲む世界の壁を壊し、フランドールに『外』への関心を呼び覚ます。

 

 そして今夜、再び姉に背中を押された少女は勇気を持って地底の底へと小さな冒険を果たした。その先にいたのは再会を待ち望んでいた鴉天狗たち、傷つき倒れた彼女らを救えるのは自分しかいない。

 きっと全てはこの時のためだったのだろう。何もかもを『壊す側』から大切なものを『守る側』へと、フランドールは一歩を踏み出したのだ。

 

 

 

 今ここに、吸血鬼異変は本当の終わりを迎える。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十話:風姿は応として見えず

 

 

 時は数ヶ月前にさかのぼる。

 その始まりは満月の笑う夜、どしゃ降りの雨が降る日だった。レミリアの起こした吸血鬼異変からしばらくした後、フランドールは相変わらず湿った地下室で過ごしていた。染み一つない清潔なシーツの上でパチュリーに借りた書物を読み漁るのが最近の日課である。

 お気に入りの物語のページをめくっては、そこに書かれた一説を自分の言葉と交えて口にする。

 

 

「キラキラ光るのはコウモリの羽、私の羽は違うけどキラキラするのは同じはず。一体私は何してる? 銀製トレイの隣で横になる、空を飛ぶ夢にも飽きちゃった…………なーんちゃって」

 

 

 小さな詩人はため息を一つ、甘い香りの吐息は浮かんで消える。宝石の羽をバタつかせて、不機嫌そうに女の子はお盆に乗ったクッキーをひとかじり。ぽふぽふとシーツを蹴っては退屈な眼差しを宙に泳がせた。

 

 

「うー、暇だわ。お姉様はチェスをしてくれないし、パチェはいつもの通りに本の虫、美鈴はお菓子を作りに行っている。狂気に身を任せない退屈がこんなに苦痛だなんて思ってもみなかったなぁ。…………でも、これはステキ」

 

 

 伸ばした腕の先、ちっちゃな手のひらには三枚の羽。天井に吊るされたシャンデリアの光へと、宝物を晒してみる。優しく握られた三枚の羽は『三羽鴉』たちのものだった。真っ黒な羽は闇夜のごとく、少し茶色の混じった羽は暖炉のように。そして光の当て具合によっては、仄かに『金色』が透ける白い羽。

 

 これらは自分を狂気から解放してくれた恩人たちのモノ、彼女たちの絆はフランに大切なモノを想い出させてくれた。また会いたい、でもそれ以上に『彼女たちのような友達』が欲しいとフランは今日も夢見ていた。

 そうしていると地下室の分厚い扉が開く。

 

 

「あ、美鈴おそいよぉ…………」

『えへへ、こんばんは。ちょっとだけ雨宿りさせてね』

「…………あ、れ?」

 

 

 唐突に迷い込んできたのは、可愛らしい濡れ鼠。お気に入りの物語になぞらえるなら、時計を抱えたウサギ。

 てっきり美鈴が帰ってきたと思っていたフランドールはしばし固まる。侵入者はびしょびしょの鴉羽色の帽子を放り投げ、遠慮もなく翡翠の髪をベッドシーツで拭き始めた。雨水と泥まみれにされていく自分の寝具。あまりにも堂々とした少女の蛮行にフランは驚きつつ、だがレミリアに見習った優雅さを忘れないように問いかける。

 

 

「誰なの、あなた?」

『あれれ、あなたには私のことが見えてるの? 私の声が聞こえてるの?』

「何言ってるの、当たり前でしょ。うーん、何だか面倒な『能力』を使ってるね。ぼんやりして姿が薄れてるや」

 

 

 その少女に対して違和感はあった。

 何というか存在が希薄なのだ。認識を妨げるというよりは、自らへの干渉そのものを無効化する『能力』だろうか。

 だが普通では見えない『目』を見切り破壊するフランには、『瞳』を閉じて得たこいしの能力は通じにくかった。意識で捉えられないなら、能力での照準で捉えればいいのだ。少しでも気を抜けば見失いそうだが。クスクスと笑みを漏らした少女、古明地こいしの姿が鮮明になっていく。

 

 

「…………うん、地上に来てから初めてだよ。あなたみたいな存在に出会ったのは。少し驚いちゃった、私を見つけられる妖怪がお姉ちゃん以外にもいるんだってね」

「あなたにもお姉様がいるの?」

「いるよ、とってもステキなお姉ちゃんがね」

 

 

 

 

 これが二人の出会い。

 優秀な姉たちに心配されて、閉じ籠って生きてきた少女たち。鏡に映ったかのように正反対なようでいて、そっくりで困った妹たち。美鈴をフランが説き伏せたことで、こいしは頻繁に訪ねてくるようになる。二人が仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。

 

 

「あっ、そのヨーカンは私のだよ!?」

「ふふん、早い者勝ちだもん。フランが遅いから悪いんだよ、べーっ」

「こいしのバカーーー!」

「あっ、ちょっとフラン様っ。能力使うのはダメですよ!!?」

 

 

 そうして繰り返される秘密のティータイム。

 狂った帽子の少女、うたたね好きの門番、ならばフランは三月兎のマーチヘアー。なんて愉快なメンバーだろう、と吸血鬼の少女は心を弾ませた。美鈴の用意してくれる珍しいお菓子も、答えのないなぞなぞも、終わることのないお茶会を彩るデコレーション。

 こいしを通じてフランは『友人』というものを理解し始めることになる、書物や伝え聞いた話ではなく生身の経験として。

 

 

「私、そろそろお家に帰ろうと思うの。だからもうフランと会えなくなると思うよ」

「…………だったら私も行くわ、こいしが来れないなら私が会いに行けばいいんだもん。だからまず、こいしのお家に案内してよ」

「ふ、フラン様、本気ですか!?」

 

 

 そんな矢先、こいしが別れを切り出した。

 ならばとフランは決断する。ため息を飲み込んで了承してくれた美鈴を巻き込んで、フランドールは数百年ぶりに屋敷の外に出た。四百年ぶりの外界、月の光がよく身体に馴染む夜の空。肺一杯に吸い込んだ空気が冷たく染み渡り、気持ちが良かったのを覚えている。

 

 そして道すがら、老天狗から話を盗み聞きして白い鴉天狗のことを知った。とても苦くて、ほんの少しだけ甘い過去の話。伝えなければならないと思った。

 

 

「ふふふっ、ここまで来るのに色々あったなぁ」

 

 

 そこまでの出来事を思い返してフランは瞼を開ける。

 とても気分が良い。物語の中心にいるような感覚に従って、ステップを踏むように心が弾む。しかし内心は浮かれる一方で、判断は姉であるレミリアに習って冷静に下さなければならない。

 

 

「美鈴、まずは二人の治療をお願い。あなたの『気』なら応急処置はできるでしょ、その間に私が時間稼ぎをしてあげる。大丈夫、壊さないように気をつけるから」

 

 

 燃え盛る炎に護られている鴉天狗の少女たち。

 一本歯下駄を履いた両足を投げ出し、文と刑香は動かない。白い少女は重い傷を負って身動きが取れず、黒い少女はそんな友人を抱きしめて座り込んでいた。考えるまでもなく、まずは刑香を回復させなければならない。そのためには美鈴のチカラが必要になる。

 

 

「…………了解、ですが別の意味で気をつけてください。鬼族は天狗すら支配する大妖怪です。正直なところ、そのトップともなればレミリアお嬢様やフラン様でも、勝つのは非常に困難でしょう。私が駆けつけるまでは無理をしないでください」

「うん、ありがとう。いざとなったら美鈴のことも頼りにするよ」

「フラン様が独りで背負う必要はないんです。それだけは胸に刻んでいてくださいね、それでは行って来ます!」

 

 

 フランの返事を聞き届けた美鈴はニコリと笑顔を見せて、空中から飛び降りる。きっと彼女なら大丈夫だろう、必ずや文と刑香を回復させてくれるはずだ。自分は自分の役目を果たせばいいと、フランはレーヴァテインを構え直した。

 

 ストラップシューズの向こう、見下ろす先にいるのは鬼の大将。美しい意匠の着物はボロボロで、紅葉の刺繍がなされた袖はなくなり、あちこちが土まみれだった。その一本角からは黒い血が滴り落ちて地面を濡らす。

 決して浅くない損傷を負いながら、それでもチカラが衰えた印象は感じられない。それは今までフランが目にした存在の中で、最も雄々しい姿であった。勇儀は牙を剥き出しにしてフランへと獰猛に笑う。

 

 

「この戦局で救援とは悪くない、いやむしろ最高のタイミングだ。ありがとよ、お嬢ちゃん」

「えっと、どういたしまして?」

 

 

 鬼から伝えられたのは感謝の言葉。

 拍子抜けのような感覚だったが、きっと彼女にも何か事情があるのだろうと気を引き締める。それにどんな理由があろうとも、お気に入りの鴉天狗たちを傷つけられてフランはご機嫌ナナメである。ぎゅっと華奢な拳をフランは力強く握りしめた。

 

 

「こいしは危ないから離れてて…………って、どこいったのよ!?」

 

 

 こいしはいなくなっていた。風船のように自由な友人だとは思っていたが、風にでも流されたのかと本気で疑いたくなる。別に戦力として期待していたわけではない、それでも友人が一言も掛けずにいなくなったのにショックを受ける。気を取り直すために咳払いをして、フランは勇儀へと向き直った。

 

 あとは勇気を出して挑むとしよう、その先に望んだ運命があると信じて。

 

 

「じゃあ始めるね。鬼さんこちら手の鳴る方へ。三月兎(マーチヘア)のお茶会はもう終わり、冷たいスキマ風はミルクに溶かして、温かい結末を目指しましょう」

「くくっ、ここは不思議の国でもなんでもないよ。忘れ去られたこの世の果てさ。心臓の女王はいやしないが、代わりに鬼がいる。良いとこ育ちの嬢ちゃんが来るところじゃない」

「あははっ、西方(こちら)の物語もご存知なんてステキだね。でもハートのクイーンは私なの、わがままで子供っぽくて何でも自分の思い通りにしないと気がすまない。全部さらってハッピーエンドにしてみせる」

「なら、そのためのチカラがここでは必要さ。嬢ちゃんには、それをやり遂げる覚悟があるのかい?」

 

 

 できるなら相手を壊すのではなく、制する戦いが望ましいと幼い吸血鬼は考える。奇しくも『スペルカードルール』にも似通った形、それは吸血鬼異変で射命丸文が見せつけた結末から少女は学んでいた。

 

 

「『一度やり始めたことは、終わりまでやり続ければいい。そして結果を待てばいい』―――じゃあ、いくよ鬼のお姉様!」

 

 

 大切な記憶は見えずとも心の中に刻まれている。

 三羽の天狗たちの舞った光景、彼女らを羨んだ気持ちは尚も熱く篤く。空の彼方に浮かぶ月はあの日と何一つ変わらずとも、焦がれるような想いは確かにここにある。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 状況は刻一刻と変化していた。

 圧倒的な力を見せつけた鬼の御大将、そんな彼女に一矢報いた鴉天狗の少女たち。されど屈強なる鬼は屈することなく立ち上がり、ここぞというタイミングで紅魔の主は運命の指揮棒を振り下ろした。

 そして参戦したのは三人の強者たち。フランドールに美鈴、こいしは天秤を再び押し戻して均衡させる。どうやら鴉天狗の少女たちは助かったらしい。

 

 口元から流れる血を拭いながら、刑香はぼんやりと燃え盛る空を瞳に映していた。熱っぽい頭と冷えきった身体は異常なまでの眠気を訴えるが、状況が状況なので耐えるしかない。そんな自分をあやすように髪を撫でる文、装束が血で汚れるのも構わないらしく刑香を離さない。

 

 

「なんで逃げなかったのよ。もしフランドールが来なかったら、文まで死んでたかもしれないのに」

「じゃあ、似たような状況で私やはたてが『逃げて』と言ったら刑香は一人で逃げましたか? きっと逃げないでしょう、それと同じことですよ」

「…………バカばっかりね」

「ええ、まったくです。私たち三人は天狗失格の大馬鹿者でしょう、だからこそ親友なんていう面倒な関係を続けているんですよ。………………さてはて本格的に始まりましたね、彼女たちの戦闘が」

 

 

 響き渡るのは戦闘音。

 幼い吸血鬼と百戦錬磨の大鬼、その戦いが始まったようだ。蛇のごとく空中を走る炎を、鬼は拳で打ち砕く。そして吸血鬼の幼子は慎重に、距離を保ちながら迎え撃つ。その戦場は少しずつここから離れるように小さくなっていく。

 どうやら危機は去ったらしい。それでも立ち上がることができず、刑香は文に抱きしめられていた。懐かしい匂いと柔らかな感触、伝わってくる体温がとても心地よい。そろそろ顔が赤くなりそうだ。

 

 

「とりあえず離しなさい」

「あ、ようやく恥ずかしくなってきましたか。ふふふ、可愛いものですねぇ。よしよし、お姉ちゃんがぎゅーとしてあげ…………いたぃ!?」

 

 

 身体の方はまともに動かないので、代わりに寺子屋教師から直伝された頭突きを文へと叩き込む。鼻を目掛けて振りかぶった一発は見事にダメージを与えていた。のけぞった文から解放された刑香は、ぺたんとお尻を地面につけて脱力する。その一方で、涙を浮かべて黒い鴉天狗は顔を押さえている。

 

 

「わ、私も怪我人なのに酷いですよ!?」

「こっちの方が大怪我よっ、メチャクチャ痛いんだから抱きしめないで!」

 

 

 とにかく今は身体中が痛いのだ。そこを抱きしめられたままでは、たまったものではない。幼い頃からの経験上、刑香は痛みそのものには慣れている。しかし殊更に苦痛を与えられて喜ぶような趣味は持っていない。それなのに身体を両腕で包み込んでくる友人には手痛いオシオキをせざるを得ない。

 

 

「どうやら思ったより元気そうですね。ご無事でなにより、刑香さん、射命丸さん」

 

 

 文と刑香の前に誰かが降り立った。

 腰まで伸ばした色鮮やかな紅髪。そして淡い緑色の華人服をなびかせるのは、かつて刑香が戦って激闘を演じた門番である。紅のナイト、紅美鈴は鴉天狗の少女たちへ朗らかに笑った。刑香はそんな彼女へと空色の視線を送る。

 

 

「何であんたが地底にいるのか、なんて野暮な質問よね。こんな都合の良い展開は前回の異変だけで十分。…………どうせレミリアの差し金でしょ?」

「あはは、恐らくそうでしょうねぇ。お嬢様のやることは私には想像がつきませんが、刑香さんの読みは当たっていると思いますよ。だってフラン様が楽しそうにしてますから」

「鬼の総大将との戦いを楽しむなんて、あの娘は相変わらずね。私の翼をへし折った時と同じじゃない」

「…………いいえ、フラン様はお変わりになられましたよ。楽しげに戦っているのは貴女たちの助けになれるからです。まあ、その説明は追々致しましょう。まずは治療を始めないと」

 

 

 そのまま動けない白い少女を横へと寝かし、美鈴はその隣に座り込む。自分の右手を刑香の腹部へ置いて、左手はわずかな膨らみを持った胸へと押し付けた。くすぐったそうにする刑香。

 この二つの箇所は『内丹術(ないたんじゅつ)』における『丹田(たんでん)』の位置である。仙人となることを究極の理想とする道教に伝わる旧き技法の一つ、つまりは『気』が集まるとされる気功である。

 

 

「は、恥ずかしい位置ね。その、左とか」

「あはは、すみません。でも変な意味はありません。それに前回の異変の時にも同じ治療をしているので多目にみてくださいね。―――始めます」

 

 

 そして美鈴は『気をつかう程度の能力』を発動させる。暖炉に薪をくべるように、弱りきった刑香の身体へと『気』を送り込んで活性化させていく。

 内丹術とは純粋な気を循環させることで損耗した心身を逆行させ、回復させる道教の養生術とされる。美鈴の手のひらから溢れ出すのは虹色の気。刑香の蒼白だった肌色に赤みが戻っていくのを見て、文が安心したようにため息をついた。

 

 

「素晴らしい術です、門番さん。前回の異変でも刑香を治療してもらいましたが、まさかまたお世話になるとは思いませんでしたよ。あ、私の翼もいいですか?」

「刑香さんの治療が終わったらいいですよ。この治療法って自分には使いにくいんで、戦闘ではあんまり役に立たないんですよね。使っている間は無防備ですし」

 

 

 気の流れを操り、身体能力を強化する。それだけではなく感知を行うことも、治療すらこなせる万能型。さすがはレミリアが集めた紅魔館の軍勢である、一人一人の能力の応用性が広い。そう分析しながら、文はそっと美鈴の背後へと回り込んでいた。

 文は異変の後に催された宴会には参加していなかった、それゆえに紅魔館の者への信頼は低い。親友の命を預けている以上、怪しげな行動は一つとして見逃せない。そんな用心深い親友を安心さえようと、刑香は苦笑しながら起き上がった。

 

 

「けっこう楽になってきたわ。まだ中身はボロボロだけど何とか動けそうよ、ありがと」

「…………身体の負傷は前回よりも酷いものの、能力の消耗は以前より軽いものでした。刑香さんにとっては、身体の傷よりも能力の消耗の方が致命的ということでしょうか」

「さあね、あんたとフランドールに根こそぎ能力を削り取られたのは事実だけど。それと異変の終盤で私が意識を失った半分はあんたが原因よ?」

「あはは、ほとんど答えじゃないですか。でもアレは良い勝負でした、できればまた再戦を願いたいものです…………あれ、そのお札はあの時のモノとは違いますね」

 

 

 ふと、着崩れた刑香の胸元から見えていた紙切れに美鈴が気がついた。治療を続けつつ器用に指だけ動かして、美鈴はそれをつまみ上げる。その時に少女の膨らみをふにふにと刺激してしまったが、治療に支障はない。「ひゃっ?」と小さな悲鳴が聴こえたような気がするので、とりあえず後で謝ろうと思う。

 

 焼き焦げたように黒ずんでいたのは護符であった。打たれている術式は旧いお守りを改造したもの、それが古い狐文字で記されていた。おそらく八雲藍の作品だろう。この少女は伝説の九尾殿にも心配されているらしい、或いは刑香をここへ送り込んだことへの贖罪の一部なのだろうか。

 

 

「…………情けないわね。それなりに必死で過ごしてきたつもりなのに、私は結局のところ誰かの手を焼かせてるわけよ。非力な私じゃあ、仕方ないんだけれど」

「刑香さん…………」

 

 

 刑香は自笑していた。

 文とはたて、そして藍に霊夢。それぞれの助けのおかげで地底世界まで来ることができた、きっと自分一人では困難だっただろう。別に悔しいと思っているわけではない、そこまで刑香は子供のような考えを持っていない。ただ何一つ彼女らに返してやれない自分の無力さが情けないのだ。

 

 

「そんなことはないですよ、刑香さんが皆さんを結び付けたんです。だから誰もが力を貸してくれるんですよ」

「突然何を言ってんのよ、あんたは。組織から追い出されて何の権限もない、能力は酷使できないし、まして戦闘だってそこまで強くない。こんな私に何ができるってのよ」

「確かにこういうのは、自分では気がつかないものですね。あの巫女ちゃんがいたら大きな声で説明してくれそうですけど」

 

 

 確かに刑香は強大なチカラを持っているわけでも、特別な妖怪というわけでもない。しかし鋭い感性を持った霊夢が心を許した妖怪は、八雲紫や藍を除けば極めて少ない。

 多くの同族から利用され、逃れようもない生涯を歩んできた白い鴉天狗。それ故か流れるままに物事を受け入れる、どこか孤独な香りのする風のような生き方。彼女を囲む者たちはその姿に心を許しているのしれない。大きな魅力で惹き付けるのではなく、どこか一緒にいて安心できる相手。それを言葉で説明するのは難しい。

 

 

「あなたはそのまま生きてください、死に追いつかれる最期の瞬間まで生き抜いてください。それがきっと、あなたを支えてきた方々に対して義理を果たしたことになるでしょうから」

「………………ごめん、話が見えないかも」

「あー、今はわからなくていいんです。むしろ理解できないように言いましたからね。…………えーと、それよりフラン様なんですけど。刑香さんはフラン様を恨んではいないんですよね?」

 

 

 あからさまな話題変更だった。

 じろりと夏空の碧眼が訝しげに細められたが、美鈴は気にしない。場の流れをスルーするのも気を操るものの特技、なのかもしれない。しばらくにらみ合いを続けていたが、やがて諦めたように目線を反らした。

 

 

「最初から恨んでないわよ。宴会でもお互い様だって言ったじゃない、だいたいこんな程度でいちいち根に持つような生き方はしてないわ。そんなことしたら過去から何人を恨まないといけないか。わかったもんじゃないし面倒よ、面倒」

「さらっと暗いこと言いますよね、刑香さんって」

「あやや、事実ですから仕方ないですねぇ。上層部からの扱いは酷いものでしたし…………まあ、たくましい子に育ってくれてお姉ちゃんは嬉しいですよ」

 

 

 あれから数ヶ月、宴にも参加できずにいたフランドール。ようやく刑香との間にあったわだかまりを溶かせるかと美鈴は思ったのだが、最初からそんなものはなかったらしい。遠くの空で燃え盛る紅蓮の炎、フランがもう一度鴉天狗たちと向き合える瞬間は目の前にあった。

 

 

「射命丸さんの翼への処置を終えたら、私はフラン様の助太刀に参ります」

「なら私たちも行くわ、文」

「え、まあ見たところ戦場は旧都へと広がっているようですね。どのみち地霊殿には行かなければなりませんし、少しだけならお付き合いしますよ」

 

 

 次第に旧都へと近づきつつある戦火。

 三人が呟いた声は、風の中へと消えていった。そしていよいよ地底の物語は終盤戦に突入する。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十一話:されど花に伝う

戦闘描写があります。
苦手な方はご注意ください。


 

 

 旧都の中心にそびえる地霊殿。

 その一室には冷たく澄んだ空気が満ちていた。割れた窓ガラスから吹き込む風は雪を帯びて、さとりの執務室を白い冬色に染めていく。滑らかなウッドテーブルに置かれたカップからは紅茶の湯気が立ち、しっとりとした寒さと静けさが宿る空間がそこには広がっていた。

 

 

「だからっ、早く鬼どもを止めてって頼んでるのよ! ゴタゴタ言わずに喧嘩の仲裁くらいしなさいっ。アンタが地底では一番偉いんでしょ、さとり妖怪!」

「できません」

「ふっ、ふざけてんじゃないわよ!!」

 

 

 そんな静寂を打ち破るのは少女の怒号。

 吐く息は真っ白ながらも熱を持ち、その瞳は激情に燃えていた。先程から何一つ進まない交渉に、はたては我慢の限界だと言わんばかりに怒りをぶちまける。その隣に座っていたパルスィは、真逆のゆったりとした口調で茶髪の鴉天狗をたしなめた。

 

 

「はたて、落ち着きなさい。紅茶でも飲んだらどうかしら?」

「あのねぇ、のんびり飲んでいられるわけないでしょ。こうしている間にもアイツらが危ないかもしれないんだから」

「だから冷静になりなさい。感情をむき出しにしたら、さとりの思う壺よ。あいつはアンタを揺さぶって心のスキマを暴こうとしてる、さっきから教えてるでしょ」

「それは、わかってるけど」

「なら冷静になるよう努めるべきよ、はぁ…………」

 

 

 そのままパルスィは向かい側へ座るピンク髪の少女へとため息をついた。猫と鴉の模様がついたマグカップを持ち上げるさとりは無表情で、はたてとパルスィの話には耳を傾けようとしない。その一方で、胸元に浮かぶサードアイは鋭い眼差しで二人を覗き込んでいた。完全に警戒されている。

 

 そして問題はそれだけではない。

 はたては上層部を相手取る文や、組織を敵に回して生きてきた刑香とは違う。交渉やら腹の探り合いというものが、どうしようもなく苦手なのだ。それは引きこもりであったがための弱点、さとりはその心の隙間を正確に突き崩している。それでもはたては負けじと説得を試みようとするが。

 

 

「でも、」

「鬼たちとの関係が悪化することは、地上との揉め事以上に避けなければなりません。私は基本的に彼ら彼女らの機嫌を損ねることには手を出しません。ですから喧嘩の仲立ちはしません」

「だったら、」

「不可能です。鬼の喧嘩に割って入り無事でいられる者など地底にはいません。故に紹介も出来ませんし、そんな時間もありません。諦めて下さい」

「う、うぐぐ…………こんの、頑固ピンクようか」

「安い挑発もまた無意味です」

 

 

 形にする前に言葉をむしり取られていく。

 はたては唇を噛み締める。『心を読む程度の能力』がここまで厄介だと思わなかった。これでは会話にならない、いや向こうは会話をする気がないのだろう。こちらの言葉を抑え込むような話し方は不快の一言に尽きる。いっそのこと無理やり連れていこうと思ったが、済んでのところで持ちこたえた。それでは意味がない。

 

 手詰まりだ。悔しそうにはたてが握りこぶしを固める。一方のさとりはペットたちの柄が描かれたカップの表面を指で伝いながら、こちらへ視線も合わせずに追撃をかけてくる。

 

 

「そもそも書状はこうして私が受け取りました。もう地上へお帰りになればどうですか?」

「バカじゃないの。文と刑香が鬼と戦ってんのよ、アイツらを助けないと帰れるわけないじゃない。天狗は仲間を大切にする妖怪なんだから」

「これは可笑しなことを口にしますね。『一』より『群』の生存を、『個』より『組織』の存続を優先するのが天狗でしょう。あなたは任務を果たした、ならば残りの二人は必要な犠牲だと割り切ってしまえば済む話のはずです」

「何、ですって?」

 

 

 それはあからさまな挑発だった。

 だが親友を見捨てることなど出来るわけがない、さとりの狙い通りに鴉天狗の少女は憤ってしまう。あの二人を見捨てて自分一人だけで帰るなんてあり得ないのだ。山の組織に馴染めず、閉じ籠ってばかりだった自分を連れ出してくれたのは文と刑香。今だってそうだ、あの二人を失ってしまえば自分は―――。

 

 

「『また独りぼっちになっちゃう』ですか?」

「――――!!」

「ふふっ、あなたたちの間にあるのはずいぶんと強い友情ですね。まあ、天狗としては失格でしょうが誰もが妬ましく思うほどに強固な繋がり。だからこそ、失うことが恐ろしい」

「あんたには、関係ないわ」

 

 

 ぬるりとした妖気が染み込んでくる。

 心を読み取りトラウマを抉り、獲物の精神を喰らうのが覚妖怪の本質である。声のトーン、タイミング、相手が持つ精神の波長に合わせて毒液を流し込む。ありふれた単語、使い古された言葉でさえも、さとりの口から放たれたならば急所を穿つ毒矢と化すだろう。その証拠に鴉天狗の少女からは動揺の色が透けて見えた。さとりはテーブルへと身を乗り出すと、サードアイで鴉天狗の少女を捉える。

 

 

「あの二人を死なせてしまえば、あなたの居場所は無くなってしまう。引きこもりで激情家、天狗らしからぬ精神を内に秘めた、そんなあなたを受け入れてくれる同族はあの二人しかいないから」

「っ、そうね、そうかもしれない。認めるわ、だからこそ私はあんたにアイツらを助けてくれって頼んでいるのよ」

「なぜ見捨てないのですか。…………伊吹萃香と出会った時、すでに白い方を一度『見捨てて』いるのでしょう。今さら一羽も二羽も同じだと、そうは思いませんか?」

「―――っ、私たちの思い出を踏みにじるのも大概にしなさいっ。覚妖怪ごときが!!」

 

「だから落ち着きなさいって、はたて。さとりもコイツを虐めるのはそこそこで遠慮しなさいよ」

 

 

 腰の妖刀にまで伸びたはたての腕をパルスィが抑えつける。ここで斬りかかってしまえば話し合いは終わりだ、さとりは交渉を打ち切って堂々と二人を追い出すだろう。それに正面から攻撃しても絶対に当たらない。すらりとした脚を組んで、さとりの少女は眠そうな半眼で鴉天狗を見据えていた。

 

 

「…………はたて、あなたのような妖怪は嫌いではありません。この私を相手にして見え見えの策略を弄し、媚びへつらう愚か者達よりずっと好ましい。友を想う心も、それに伴う激情も、私のサードアイにはとても美しい景色として映るのです。ですが、あなたの交渉術は子供のそれですね」

「う、やばい泣きそう…………」

「ちょっ、はたて!?」

 

 

 とりあえず上げて落とされた。そろそろ限界らしい鴉天狗は机に突っ伏してしまった。文と刑香が戦い始めてから、注がれてきた言霊の刃が心を弱らせている。茶髪のツインテールが弱々しくテーブルの上で項垂れていた。そんな様子を眺めながら申し訳なさそうに、さとりが呟く。

 

 

「…………それにスペルカードルールなどという奇妙なモノのために、私が地上に赴くのも御免です。もう私は人間にも地上の妖怪にも関わりたくないんです。お願いですから私たちには触れずに、どうぞ地上は地上で好きにしてください」

「そーいえばアンタも引きこもりよね」

「うるさいですよ、パルスィ」

 

 

 さとりの前には八雲からの書状が広げられていた。これははたてが刑香から託されたものである。しかし結果は見ての通り、紫、天魔、レミリアの連名ですら地霊殿の主を動かすことはできなかった。それは当然で、そもそも地上を嫌っている少女へ賢者たちの持つ権威は届かないのだ。残りの一通は天魔個人からの書状であるが、そちらも望み薄だろう。

 

 

「このままじゃ、アイツらが」

 

 

 それでもはたては身体を引き起こす。

 心はカラカラに渇いていて、おまけに時間がない。聡明な文が三人がかりで鬼と戦わずに、はたてを先に行かせた理由はわかっている。わざわざ戦力を分散させる愚を犯したのは、つまりは『三人』でも勇儀に勝てないと判断した結果だろう。ならば早く戦いを終わらせなければならない、そのためにさとりを連れて行かなければならない。何よりも優先しなければならないことだ、何故なら、

 

 

「射命丸文と白桃橋刑香は、私の大切な親友なんだから…………!」

 

「ちょっと待ってください」

 

 

 予想だにしていなかった名前を聞いて、驚いたさとりは思わず声を上げる。その拍子にティーカップが指から滑り落ちるのにも意識を移せず、愛用のカップが床に衝突して粉々に砕け散った。ペット達からの贈り物だったのだが、今のさとりには気にしている余裕がない。バラバラに砕けた破片は無機質な輝きを放つばかりである。

 

 

「白桃橋、刑香? 白い鴉天狗の家名が『白桃橋』だとあなたは言ったのですか?」

「ふぇ? そうだけど、それが何なのよ。…………ぐすっ、あんたには関係ないでしょ」

「関係ない? あなたは本気でそう思って、いるようですね。そんな馬鹿な…………白桃橋 迦楼羅(かるら)の血縁者が閻魔の言っていた鴉天狗なんて…………ありえない、です」

「…………さとり?」

 

 

 ゆらゆらと揺らめくサードアイの瞳。

 湖面に小石を投げ込んだように波立つ心。初めて動揺を見せるさとりに、はたてとパルスィは首を傾けた。良くわからない、白い鴉天狗の名前がどうしたというのか。そもそも刑香に身内はいないはずなのだ、いたのなら上層部たちから彼女を救っていただろう。それに『 迦楼羅(かるら)』というのも聞いたことのない天狗の名前である。すでに故人なのだろうか。

 

 

「姫海棠はたて、あなたは本当に知らないのですね。だとしたら何とも可笑しな話です。白桃橋迦楼羅といえばあなたたち天狗の『頭領』の御名であるというのに」

「あんたこそ知らないの? 私たち天狗の長は『天魔』のジジイよ、カルラなんて名前じゃない。しかもそれが刑香と同じ家名なんて笑えるわ。あの子がどれだけ組織から酷い目に会わされてきたか、私の記憶から読み取ったくせに」

「それは違います、あなたは少々誤解している。確かに白桃橋刑香の扱いには疑問が残りますが、『天魔』とはそもそも天狗の長としての…………いえ時間がない、今は止めておきましょう」

 

 

 何やら含みのある言葉を口にすると、さとりはソファーから立ち上がった。折れそうなくらい華奢な脚、そして履かれたスリッパが床でぺたんと可愛らしい音を鳴らす。交渉が始まってから微動だにしなかった少女が動いた、そんな光景を意外そうに見守る二人を置いてドアの前まで歩みを進める。そして優しく澄んだ声で、さとりは愛するペットの名前を呼んだ。

 

 

「お空、来なさ、ぶっ!?」

「待ってました、さとり様!!」

 

 

 勢いよく開いたドアに顔を打ちつける。

 さとりは堪らずに鼻を押さえて屈んでしまう。どうやら空は主人が心配で、部屋のすぐ外で控えていたらしい。それは主人思いで良いことなのだが、何事もタイミングは重要だ。この一撃で、先程までの妖怪としての古明地さとりの面目を丸ごと叩き潰してしまった。かっこよく呼び出そうとしたのに大失敗である。

 

 

「うにゅ、さとり様どうしたの?」

「…………何でもないから気にしないで、本当に何でもないわ。とりあえずお空、あなたの翼を貸しなさい。今から勇儀の元まで急行します。そして喧嘩を収めたら地上に向かう。それで文句はないでしょう、鴉天狗」

「え、もちろん。どういう風の吹き回しなのかは気になるけど、それは聞かないでおく。あと顔は大丈夫?」

「お礼も哀れみも要りません。私はただ古い知り合いと話をしなければならないと思っただけですから、私に家族や友人の大切さを偉そうに説いていたあの天狗に」

 

 

 さとりの変化に戸惑いつつも、はたてとパルスィは安堵する。これで戦いを止めることができるかもしれない、文と刑香を助けることができるかもしれないと。だがその時、さとりがどんな表情をしていたのか、二人は気づいていなかった。唯一それを察した空が、主人の手を心配そうに握りしめる。

 

 

「さとり様、かなしいの?」

「…………少し時の流れを感じただけですよ。私は変わりません、いつまでもあなた達とあの子を大切に思い続けるから安心してね」

「うにゅ?」

 

 

 どこか寂しそうに空の黒髪を撫でる。

 その瞳に浮かぶのは失望の色であった。さとりが妹やペットたちを何よりも大切に思う心、それと同じものを持っていたはずの『あの男』はもはや変わってしまったらしい。彼の変化が少女には堪らなく虚しかったのだ。

 あの『金色』の羽を持つ鴉天狗はどうしてしまったのだろうか、さとりには答えは出せない。なぜならさとりは『月の都』での戦いがあったのを知らない。多くの妖怪たちが命を落とした出来事を知る前に、山から離れて地底に来たのだから。

 

 

 旧都で巨大な火柱が上がり、さとりが思考を中断することになったのはその数秒後であった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 灼熱地獄の上に、さとりの住居は存在している。そして地霊殿を中心にして、この都を東西に貫く大通りによって旧都は物流の流れを作り出している。これは平安の世にあった京の都と同じ構造、そこには鬼たちの不器用な想いが込められていた。かつて絆を結んだ人間という種族との、彼らはまだ絆を求めているのだ。

 そんな旧都の街道をフランドールは、縦横無尽に飛び抜ける。

 

 

 ―――日の傾く時、ぬめらかなトーヴは螺旋の角にて一面に穴を掘るだろう。

 

 

 穴だらけになった大地が悲鳴のように歌う。

 地表から立ち昇るのは硫黄混じりの匂い。温泉に独特なそれをフランは少し不快に思いながら、飛んできた巨大な『物体』を回避した。風切り音を鳴らした後、ティーカップのように地面で粉々に砕け散ったのは二階建ての家屋。まるで野菜のように家々を基盤ごと、一本角の鬼は引っこ抜いて投げてくる。豪快すぎる鬼へ呆れた顔を向けてフランは地面に降り立った。

 

 

「ずいぶんと品のない戦い方をするのね。まるでトロールかゴーレムのよう、それは力に任せた美しくない蹂躙なんだよ?」

「妖怪の戦いに『美しさ』を求めるのは、どうかと思うけどねぇ?」

「これからはきっと必要になるの。だってレミリアお姉様が言ってたんだから、相手を美しく制する戦いが主流になるんだってね。…………そろそろ鬼ごっこにも飽きちゃった。この戦いに終止符を打ちましょう」

「――――!?」

 

 

 言い知れぬ悪寒、それを感じた勇儀が身構える。

 フランが突き出した左手に視線を釘付けにされ、ここ数百年は覚えのない寒気が全身を覆う。鬼の肉体をも壊せる『何か』がフランの手のひらへと収まっていた。それはフランの切り札である『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』を発動させるのに必須たる世界の急所。危険性を理解した勇儀が突進してくるが、もう遅い。完全に壊さないように手加減しながら、フランはその『目』を握り潰す。

 

 

「きゅっとして………………ドカーン!!」

 

 

 大気を揺らしたのは破裂音。

 フランの能力は相手を必ず破壊する、例えそれが九尾の妖狐であろうとも鬼の大将であろうともだ。西方に君臨した最悪のチカラにして、満月の下でのレミリアすら打倒しうる最強の能力。ゆえに対象を捉えて発動させれば勝負は確定する。唯一の例外は白桃橋刑香のみ、フランは勝利を確信していた。

 

 

 だからだろう、倒したと確信していた勇儀の重々しい拳をフランは避けられなかった。

 

 

「―――――か、はぁっ!!?」

 

 

 小さな身体を走り抜ける衝撃。

 恐ろしいほどの腕力に押し出され、そのまま砲弾のような勢いで背後にあった茶屋にフランは突っ込んだ。茶色い茅葺きの屋根を突き抜け、机と椅子を粉砕して壁へと身体を打ち付けられる。

 信じられないが能力が避けられたらしいと、咳き込みながらフランは状況を分析する。身体の至るところに砕けた木材が突き刺さり、血と痛みに涙が流れ落ちる。埃っぽい空気を肺一杯に吸い込みながら、フランはぼんやりと霞む視界から勇儀の姿を探した。すると思いもよらぬ光景に言葉がこぼれ落ちる。

 

 

「それ、白い鳥さんの『能力』じゃない。何で鬼のお姉様が持ってるの…………けほっ」

 

 

 勇儀の身体から空色の妖力が漏れだしていた。ホタルのように儚いソレは、かつて刑香がフランの能力を防いだ光そのもの。見間違いではないだろう。『破壊のチカラ』を外すことができるのは、フランの知る限り『死を遠ざける程度の能力』しかありえないのだから。

 

 

「ん、こいつは刑香のヤツに仕込まれたものだよ。鬼である私には『死』を排除するチカラは毒みたいなもんだからね。それでさっき喰らったわけだが、どうやら役にも立つらしい」

「痛っ…………ずるいよ、そんなの」

 

 

 皮肉にも勇儀の力を封じるための策が、フランを妨害してしまった。運命の巡り合わせが悪かったと言ってしまえばそこまでだろうが、あまりにも酷い偶然だ。立ち上がれないフランは、あっという間に近づいてきた勇儀によって間合いを詰められる。二本歯下駄が床に散らばる屋根材を踏み砕く。

 

 震えるような威圧感を感じ、フランは悟った。

 どうして鴉天狗の少女たちが二人がかりでボロボロにされていたのか。それは簡単な話だった、星熊勇儀という鬼はそういう化け物なのだ。あらゆる力、戦う舞台、偶然の幸運に至るまで全てを味方につけて暴れまわる。それが彼女だったのだ。とある詩がフランの頭の中に響き渡る。

 

 

 ―――喰らいつく(あご)が引きちぎる、引き掴む鉤爪(かぎづめ)が抉り裂く。

 

 

 物語で語られた存在のように、自分などより恐ろしい怪物がいた。その事実にフランは心の奥底で微笑んだ。自分は本当に何も知らなかった、レミリアの言う通りに世界はどうしようもなく広かったのだ。ここまで来て良かったと思う。

 ひとしきり納得した後で、念のために用意しておいた『備え』を使うことを決める。にやり、とフランはイタズラを仕掛けた子供のように口角を吊り上げた。

 

 

「きひひっ、クロッケーの球みたいに飛ばされちゃった。そういうのはハリネズミの役割なのに、吸血鬼を使うなんて可笑しいわ。そのおかげで私はボロボロ、ここまでみたい」

「おいおい、手加減してやったのに諦めるのかい。もう少し根性を見せてみなよ、せっかく旧都まで来たんだ。しばらくすればアイツが喧嘩を止めにくる、その後で観光でもしていきな」

「もう無理だよ、脚も羽も折れちゃった。これじゃクイーンだって動けない、だから私は取られた駒なの。でもね、勘違いしないで『この私』がここまでなのよ?」

「どういうことだ…………お、何だい?」

 

 

 謎かけにも似たフランの言葉、それを考える素振りを見せた勇儀の目の前でフランの身体が霧になっていく。驚いて手を出した鬼だったが、雲を掴むようにフランは消滅した。

 まさか死んじまったのか、と固い表情で勇儀が茶屋の中を見回した。鴉天狗の少女たちとは違い、今回はできる限りの手加減を施していたのだ。それにも関わらず少女は命を落とした、その事実にしばし愕然とする。だが、空気が焦げる匂いが鼻をくすぐった。

 

 

「「「きひひっ、鬼さんこちら。私は一人取られたけれど、クイーンにはスペアがあるものよ!」」」

 

「こいつは、驚いたねぇ。お前さんは四つ子だった、なんてあるわけないな…………西方妖怪にここまで器用な分身を見せられるとは参ったね」

 

 

 じりじりと大気が焼ける音がする。

 黄昏に染まる旧都の空、そこには三人に増えたフランドールがいた。魔力の大きさも姿形も瓜二つ、本物と違わぬ魔術によって作られた分身である。前回の異変で刑香を捕らえてその翼をへし折り、そして文とはたてを同時に相手取ったフランの隠し玉。初めから勇儀と戦っていたのは分身であり、用心深く本体は控えていたのだ。

 まだフランは傷一つ負っていない。

 

 

「そうら、その手に持っているモノを使いな。心配することはないさ、街は燃やしたらまた作り直せばいい。この地底でのゴタゴタの始末は私たちが引き受けてやるから遠慮はいらない」

「「「なら遠慮なく、焼き尽くせ『レーヴァテイン』!!」」」

 

 

 降り下ろされた『三本』の魔剣。

 灼熱地獄の釜が開いたのだろうか。見る者にそう思わせる程に、焼けつく太陽が花火のように弾けては炎を撒き散らす。住民はすべて避難しているとはいえ、あまりにも容赦なく三ッ首の蛇が大通りを飲み込んでいく。並の妖怪では一瞬で灰にされる火力、だがそれでも鬼の大将は倒れなかった。黄昏に燃える大地の中で、青い光が彼女を護る。

 

 

 ―――かくて恐ろしき想いに立ち止まりし時、その瞳を夕焼け色に燃やしたる正体不明。 風切り音を鳴らして、いと深き森の移ろいをへし折りて、憤怒と共に迫り来たらん!

 

 

 ふと脳裏を巡るのはお気に入りの物語。

 フランの目に映ったのは、夕焼けの炎を掻き分けて韋駄天のように駆ける羅刹の姿。三方から吹き出る炎に身を焼かれながらもフランの分身を潰さんと跳躍する。そしてロクな抵抗もできず、爪で引き裂かれて一人目の分身が消される。その圧倒的な勇猛さに目を奪われ、幼い吸血鬼は空中で立ちすんでいた。

 

 

「あなた、まるで正体不明(ジャバウォック)みたい…………」

 

 

 ジャバウォックとは西方世界で語り継がれる『正体不明の怪物』。フランは正体不明の怪物と説明不能の妖怪とを結びつけた、そしてその例えは言い得て妙であるだろう。

 物語の化け物は理解できないから恐ろしいのだ。理不尽なまでに強く、あまりにも野蛮で、ため息が出るほど強大な存在、そんな妖怪が目の前で暴れている。これを怪物と言わずして何とする。

 

 しかも、である。願わくば間違いであって欲しいが、勇儀はフランが攻撃を当てるたびに『速く』なっている。想像に過ぎないが、おそらく刑香の『能力』が攻撃を受けるたびに『消費』されることで、勇儀に鬼としてのチカラが戻ってきているのだろう。そんなものは反則だとフランは思う。

 

 

「状況は不利ね。私の『能力』は当たらない、他の攻撃は当てるたびに相手を強くしてしまう。なら鬼のお姉様にチカラが戻る以上のダメージを叩き込んで、動きを鈍らせるしかない。…………そういうのって、できる?」

 

 

 流れ落ちる汗を拭っていると最後の分身が潰された。恐ろしいほど呆気なく拳のひと振りでバラバラにされてしまう。これで一対一になるのなら、フランにとってチェックメイトに近いものがあるだろう。頼みの『能力』が通用しないなら吸血鬼の再生能力を持ってしても、やがては押し切られる。だがフランに焦りはない、もう自分は独りではないのだから。

 

 

「美鈴、できるかな?」

 

「フラン様のご命令なら、この身に代えてやり遂げましょう。少しばかり援護は欲しいですけどね」

「なら私の『能力』で補助してあげるわ。二回、三回くらいなら『死』を外せるでしょうし」

「えーと、私も手伝わないと駄目ですか?」

「頼りにしてるわよ、あや姉?」

「あややや…………そういう使い方は卑怯です」

 

 

 そう、フランドールはもう独りではない。

 消えてしまった分身たちの代わりに三つの影。見慣れた門番の少女、そして黒と白の翼が、幼い吸血鬼を中心に集まっていた。最低限の魔力を温存しつつ、フランは時間を十分に稼ぐことができたようだ。

 

 

「くっ、あっはっはっ、大したもんじゃないか! この星熊勇儀を相手にまだ立ち向かってくる、しかもお互いのために死地に乗り込む気概を魅せるたぁ。お前さん達、まるで人の子みたいな絆を持ってるね」

 

 

 勇儀はあっけらかんと笑っていた。

 どこから出したのか、大きな盃で酒を傾ける。炎の中で渇いた喉を潤しているのだろう。ひょっとしたらフランの分身を潰していったのは、本体を見切った上でだったのかもしれない。かなり追い詰めたはずだが、まだこの鬼には余裕がある。

 

 

「大将、町の連中の避難は済みましたぜぇ」

「旧都を直すのはアタイらも手伝う。だから豪快にやってくれよ!」

「ついでに魁青のヤツも回収しておきやしたから、ご心配なく!!」

「多分まったく心配してねえだろうな」

 

 

 刑香たちと同じく追い付いてきた鬼たちが、口々に勇儀へと歓声を飛ばす。そこには先程までの悲痛な叫びはない。かつての人との絆は絶えて久しいが、今は似た想いを持つ者たちが現れた。

 鬼を打倒せんと団結して立ち向かう、その間に妖怪と人間の壁はない。ならばこれは妖怪同士の争いではなく久方ぶりの『鬼退治』。そう思いたくなる程に、彼女たちの姿は好ましいものだった。

 

 夜明けが近い。太陽の光が届かない地底において、妖怪たちは本能的に朝の気配を感じていた。日の出にはまだ早い、しかし月は消え始めている。もうすぐ夜が明けて、妖怪の時間は終わるのだ。

 

 

『頑張ってね、フラン』

 

 

 そして姿は見えずとも、道端に咲く花のように少女はそこにいた。

 鴉羽色の帽子に翡翠の髪、古明地こいしは数年ぶりの旧都にて、たった一人の友人の戦いを無感動に見届ける。そっと瓦にお尻を下ろして脚を伸ばす。ここへと接近してくる姉の妖気を感じ取りながら、こいしは気持ち良さそうに温風へと目を細めていた。

 

 

 やはりこの都は騒々しくも温かい。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間:その祈りは来訪の風に誘われて

 

 

 幻想郷から遠く離れた『外』の世界。

 そこは妖怪が忘れられ、神々の廃れた場所であった。人間たちは自らが持つ科学の力を使い、今日も今日とて天狗なき山を削り、河童のいない河を汚していくだろう。誰にも咎められることなく、何者をも畏れずに彼らは世界を蝕み続けている。

 

 かつてレミリアに幻想郷への移住を決意させたのは、そんな人間の世界への失望だった。幻想の絶えた現代、もう彼女たちの生きる場所はそこにない。悪魔は物語の中に、妖怪は伝記の中に追いやられ、姿形を保つことはできない。これは『神々』でさえ逃れられない運命だった。

 

 

 

 

「すーわこさま、かーなこさまー。早苗は、今日も無事に学校から帰りましたよーー!」

 

 

 夕暮れの光が満ちる林の中を、五、六才ほどの女の子が走っている。カンカンと石畳をシューズで蹴りながら、少女は元気いっぱいに白い息を吐き出した。みずみずしい若草色の髪と、光の加減によっては青にも緑にも見える不思議な瞳の輝きを持つ女の子。彼女の名前は、東風谷早苗といった。

 

 

「あっ、さーなーえー。おっかえり~!」

「ただいまです、諏訪子さまっ!」

 

 

 灰色の鳥居をくぐり神社に帰ってきた早苗を、何とも間延びした声が呼び止める。

 境内にある小さな池の側に座っていた少女が、ぴょんぴょんと軽いステップで跳んでくる。そして嬉しそうに早苗へ抱きついた。木漏れ日を集めたように淡い光を放つ金色の髪、そして中央の尖った奇妙な帽子をかぶった幼い姿の『神様』。

 

 

「ただいまです、諏訪子さま。今日もご機嫌麗しゅうございます!」

「おお~、そんな言葉も知ってるなんて早苗は賢いなぁ。さすがは私たち自慢の風祝だよ、よしよーし」

 

 

 大して背丈も変わらないというのに、幼い姿の神様は爪先立ちをしてまで早苗の頭を撫でてくれた。この少女こそが洩屋諏訪子、この神社に祀られている土着神であり、早苗の遠い先祖に当たる存在である。もう一方の神様と共に、生まれてから両親よりも長く早苗の側にいてくれる大切な家族だ。

 ちなみに諏訪子は子供である早苗に合わせて、わざと幼い子供の姿をしているらしい。八百万の神である彼女にとって、姿形は重要なものではない。

 

 

「あれ、諏訪子さま。今日はみんな一緒にお外で遊んでくれる約束でしたよね。神奈子さまはどちらですか?」

「うーん、神奈子はちょっと急な訪問者の相手で忙しいんだよねぇ。先約も無しで来やがって迷惑な奴らだよ。早苗には悪いけど、遊ぶのはソイツらが帰った後にしてくれない?」

「お、お客様ですか!?」

「あー、うー、…………アレらも一応はお客様かねぇ。さい銭も信仰も、まるで期待できやしないけど」

 

 

 諏訪子は困ったように視線を反らしたが、早苗にはそんなことは気にならなかった。それもそのはずで、この神社に『神の姿が見える』者が訪れたのは初めてのことなのだ。興奮しているのだろう、紅潮した顔で諏訪子へと詰め寄る。一方の諏訪子はしまったな、といった様子でたじろいだ。

 

 

「も、もしかして他所の神様がお越しになったとか。だとしたら、わざわざお二人に会いに来たんですよね!?」

「まあ、アレらも一応神格は持ってるね。それに私たちに会いに来たってのも当たってるよ。そうでなけりゃ、こんな廃れた所に『私たちが見える存在』が来るなんてあり得ない」

 

 

 かつて祟り神であるミシャグジ達を束ね、この地を治めた洩矢諏訪子は衰えた。もはや彼女へと信仰を捧げる者はおらず、人間によって支えられ人間を治めるはずの神はその存在を揺るがされている。

 ここも諏訪子の伝説を思うなら、あまりにも寂れた(やしろ)があるだけだ。本当に何もない場所である、その現状を何とかしたいと早苗は思い続けていた。だからこそ今回の出来事は、その第一歩になるかもしれないのだ。

 

 

「わ、私もお会いしたいですっ。お二人の風祝としてご挨拶をして、守屋神社の信仰を少しでも獲得しないとっ。何なら奪い取ります!」

「いやいや、アイツらはむしろ私たちにとっては敵…………あー、行っちゃったか。あの猪突猛進ぶりは私より神奈子のヤツに似てるなぁ、血は繋がってないはずなのに不思議だねぇ」

 

「待っててくださいよ、お客様っ。そして必ずや貴女たちからの信仰ゲットです!」

 

 

 遠回しで「やめておきなさい」と伝えようとしたが、そんな思いは早苗には届かなかったらしい。小さな巫女は白い装束をひらひらと靡かせて、社の方へと走り込んでいった。常識的に考えれば、神が神を信仰するなど意味が通らないのだが、あの子には関係ないらしい。果たして幼いからなのか、それが早苗の性格なのかは諏訪子にもわからない。

 

 やれやれと首を振った諏訪子は歩き出した。神奈子がいるので万が一にも早苗に危険はないと思うが、相手が相手だ。自分ものんびり合流してやるとしよう。

 

 ふと見上げた先では咲きかけた梅の花が、そんな自分へと笑いかけていた。今日もいい天気だ、襲いかかる強烈な眠気を頭の隅へと追いやって諏訪子は微笑んだ。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 この守矢神社には二柱の神がいる。

 まずは『(こん)』を司る力を持った洩矢諏訪子。本来のここの持ち主にして祟り神を統括する旧き神、遥かな古代に起こった大戦に破れて国を奪われた逸話を持つ存在。

 そしてもう一柱は『(けん)』を創造する力を持ち、かつてはこの広い大和でも屈指の霊格を誇っていた武勇の神。遥かな古代に起こった大戦に勝利し国を奪い取った逸話を持つ存在。

 

 

「…………つまり、その幻想郷とやらに行けば、私たちの現状を変えられるというのか?」

 

 

 古びた部屋で、八坂神奈子は来客たちをもてなしていた。蛇が絡まったような形をした、巨大なしめ縄を背負う姿はまるで日輪のごとく、来訪者二人の前にある。古来より神は天上から他の者たちを見渡すという、ゆえに神奈子はその基本に乗っ取って『彼女たち』を上座から見下ろしていた。

 

 むせ返るような酒の匂いが部屋に充満している。

 空気を吸い込んだだけで酔い潰れてしまう程に、強く濃い霧のような酒気。例え天狗であっても、ここにいれば雰囲気だけで酔いが回るかもしれない。だがその中心で大きな瓢箪を傾けるのは、意外なことに可愛らしい女の子であった。

 

 

「まあ、そのあたりの詳細は紫とかに聞いてみないとわかんないさ。私はあくまでアンタらに話をしてきて欲しいと頼まれただけだからねぇ」

 

 

 にんまりと牙を見せつけて、神奈子へと対峙する少女。頭にはその小柄な体格とは不釣り合いなまでに、巨大な二本角が生えていた。あまりにも見事なその角は、それだけで彼女が高名な『鬼』の一人であることを示している。ここは幻想郷から離れた外の世界である、例え鬼であってもそう易々と実体を保つことのできない場所のはずだ。

 それにも関わらずこの鬼は、自らの『能力』によって幻想郷にいる時と変わらぬ大妖怪としての格を維持している。それもそのはずで彼女こそが千年前、大江の山を拠点にして暴れまわった『伊吹の百鬼夜行』が総大将なのだから当然であった。

 

 いまや幻想郷中を探しても姿はなく、どこかしらで暴れた痕跡もなし。まるで霞のように消えてしまったと、もっぱらの噂であった四天王の一人。伊吹萃香は『外』の世界にいた。

 

 

「さて、私たちはもう行くよ。要件は伝えたし、あとはアンタらの決意次第だ。これ以上、私があれこれ言うのは野暮ってもんだろうさ。実は佐渡の方にも用があるんでね、さっさと済ませたいんだ」

 

 

 かれこれ幻想郷を離れて数十年になるだろうか。星熊勇儀でさえも「懐かしい」と感じるようになる時が過ぎていた。そろそろ帰ろうかと萃香は思い始めている。頼まれた役目はあとひとつ、ここでの話は終わりだとばかりに膝を叩いて立ち上がった。一方で佐渡という単語について、神奈子は興味深そうに口を開く。

 

 

「佐渡ということは、ムジナの総元締めのところだね。それはまた、えらく遠いじゃないか。もう出発してから随分と経つのだろう、そろそろ幻想郷とやらが恋しくないのかい。なあ、伊吹の」

「地底暮らしに戻ったとしても、やるのは喧嘩と酒だけさ。今頃はどうせ勇儀のヤツも暇してるだろうし、急いで帰ることはない。そんな生活より、外の世界はなかなかどうしてマシなもんだよ。銘酒巡りと観光ついでに、ふらっと友人の頼みを聞いてやればいいんだからね」

「そいつは何とも気楽な旅だ。ここから動けない私にとっては羨ましい限りだよ。信仰の衰えた神ってのは、境内から外に出るのがやっとだってのにね」

「あははっ、そいつは嫉妬させちまったかな?」

 

 

 萃香は笑いながら、フラフラと床を踏みしめる。腕にぶら下げられた三角の飾りが、振り子のように揺れている。また深酒を煽ったのだろう、足取りが危なっかしくて堪らない。そんな萃香へと肩を貸したのは、傍に控えていたもう一人の鬼だった。

 

 

「大丈夫っすか、伊吹の大将。よければアタシに掴まってくださいなっと」

 

 

 萃香より背の高い赤鬼は、屈むようにして己の大将を支える。健康そうな小麦色の肌、そして現代風のショートデニムとニットの上着が、どこかボーイッシュな印象を与える鬼の少女。その赤髪から突き出しているのは実に鬼らしく、萃香ほどではないにしろ立派な二本角だった。呆れた様子で、赤鬼の少女は萃香へと口を尖らせる。

 

 

「いくらなんでも飲み過ぎですよ。信仰無くして落ちぶれているとはいえ、軍神の前で酔っぱらうなんて命知らずにも程がありますって」

「だーいじょうぶ。この程度で私は倒れやしないし、負けもしない。わかってるだろう、赤瑛(せきえい)

「へいへーい、伊吹の大将が素面でいるなんて想像もできませんからね。その規格外の実力も含めて、この数年でもう慣れました」

 

 

 いくら鬼とはいえ、昼間っから泥酔している親分に思うところがないわけではない。しかし萃香は遥かな昔からこうだというので、付き合いの短い自分が説得しても無駄だろうと諦めている。だが、この匂いは強烈だ。萃香の吐いた息に思わず少女は端正な顔をしかめる。

 

 

「うわっ、メチャクチャお酒くさっ!? 昼間っから酒気を漂わせるとか、色々とぶっちぎり過ぎる幼女ですね。って、しまった」

「ふ、ふふ、誰が幼女だって。せっかく拾ってやったのに、やっぱりここに捨てちまおうかなぁ?」

「やだなぁ、鬼の格に身体の大きさなんて些細な問題じゃないですか。消えかけていたアタシを、萃香さまは大きな器で助けてくれましたもんね。いよっ、四天王の筆頭っ! …………ちらっ」

「ちらっ、じゃないだろ。まったくお前は相方とは真逆の性格だねぇ。敬意とか畏怖とかがまるで分かってない。まあ、だからこそ妖怪の掟を破ってまで、人間に近づくことを望んだんだろうけどさ」

 

 

 まさに慇懃無礼。赤瑛はどこぞの青鬼の青年とは、正反対にいそうな雰囲気を持った快活な少女だった。この世界に出てきて偶然拾ってやった同族に、萃香はやれやれと苦笑する。地底で待っている連中への、いい土産ができたものだと思う。ちろりと舌を出して謝る赤瑛の姿を横目にしていると、あの青鬼が泣いて喜ぶ顔が萃香の頭に浮かんだ。こういう出会いがあるから、旅は止められない。

 

 

「いっとくが幻想郷に帰るのはあと十年後くらいだ。それまでは荷物持ちとしても、話し相手としても頑張ってもらうからね?」

「楽しみは後に取っておく派なので、アタシは大丈夫ですよ。黙って居なくなった相方への愚痴を考えながらお供させていただきます、たっぷりネッチョリと」

「あー、そういう痴話喧嘩は私のいないところで頼むよ。さて、今度こそ私たちはこれで失礼するよ。また会おう、八坂の軍神」

 

 

 萃香が妖気を発すると、たちまち二人の鬼が霧になって消えていく。

 小さな鬼の『能力』は現代においてさえ、圧倒的な力を有しているようだ。幻想の枯渇しかけた世界においても、密度を上げることで自分たちの実体を思うがままに保っている。世界の法則にも干渉し得るチカラ、これが鬼の頂点にいる妖怪かと神奈子は驚いた。

 

 

「ああ、ところで伊吹の」

「なんだい?」

 

 

 すっかり彼女らの姿が白くなって、向こう側が透けて見える程になった頃、神奈子は唐突に口を開いた。小さな鬼を一目見た瞬間から、疑問に思っていたことがある。万が一にも、その『話題』に触れたことで機嫌を損ねてしまおうと、このタイミングならば大丈夫だろう。

 

 

「その目はどうしたんだい。見たところ呪詛を受けたわけでもなく、真新しい傷ってわけでもない。治そうと思えば治せるだろう?」

 

 

 しなやかな指が、小さな鬼の顔面へと向けられる。一度も開かれなかった左目、神奈子はそれが光を失っていることを見抜いていた。何故そうなったかの原因に興味はないし、妖怪同士の争いであろうことは理解できる。わからないのはただ一つ、いつでも癒やすことのできるだろうその傷を、どうして治さないのかだ。

 

 

「昔、若い天狗にやられてね。この片目はソイツに預けてるんだ。また必ずこの世で落ち合おうって誓いの証さ。私とそいつだけの約束が込められてる。どうだい、羨ましいだろう?」

「はっ、そいつは酔狂なことだ」

 

 

 楽しそうに隻眼の小鬼は言った。

 そのまま風に散らさせて、鬼たちの形が虚空に溶けていくのを神奈子は静かに見送る。やがて立ち込めていた酒の匂いまで綺麗さっぱりと、今までの出来事が夢であったように二人の化生は消え去っていた。賑やかな来客の去った後に残されたのは、鬱々とした静寂だけ。

 

 

「………………幻想郷、いいなぁ」

 

 

 そこにポツリと漏らされた神奈子の声の響きは、まるで恋をしたように熱を帯びていた。萃香たちと言葉を交わしていた時の『神』としての話し方は既に手放している。

 

 どうやら不覚にも、先ほどの鬼の言葉を羨ましく思ってしまったようだ。少しだけ顔を赤くした神奈子は、正直な自分の心へと苦笑せざるを得なかった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「何だか怖いお客様でしたね、諏訪子さま。鬼が本当にいるなんてミラクルです、こうなると天狗や河童もいるのでしょうか。それらを成敗すれば信仰も…………」

 

 

 神奈子と鬼の会話、その一部始終を早苗はこっそりと障子の向こうから聴いていた。まさか神社を訪れた来客が妖怪だとは思わなかった、それも鬼神である『伊吹童子』である。それを諏訪子から諭されて、怖くなったので幼い風祝は部屋の外から中を伺っていた。

 

 

「………………諏訪子さ、ま?」

「う、ぅぅん?」

「もー、起きてください!」

「あうっ、うるさいよぅ。わかったから耳元で怒鳴るのはやめてよね」

 

 

 諏訪子はうたた寝をしていた。

 ふと目を離すと彼女は眠りに落ちていることがよくある。神奈子曰く、最近はこんなことが増えているそうだ。もともと純粋な信仰から自我を得て生まれた諏訪子は、信仰を失ってしまえば神奈子よりも神格を保つことが難しい。近い将来に自然そのものへと帰っていくと、本人がそう言っていた。

 

 

「ふみゅ、ごめんなさい…………早苗のこと、キライになりました?」

「えへへ~、私の子孫はかわいいなぁ。大丈夫だよ。どんなことがあっても、私はいつまでもお前たちのことを愛しているからね。大好きだよ、早苗」

 

 

 まだ早苗にはわからない。『自然に帰ること』が神にとっての『死』であることが、そしてそれを受け入れて良しとする諏訪子の持つ心の強さがわからない。祟り神として畏れられた威光のすべてを能力の大半とともに失って、情けなく生き永らえた。それでも自分は子孫たちを見守り続けたと、諏訪子は胸を張って最期を迎えるだろう。

 

 その覚悟は、やはり幼い早苗にはわからなかった。だが頭で理解できずとも早苗の心は決まっている。

 

 

「私も大好きですよ、諏訪子さま」

 

 

 この家族を心から愛していると、それだけは自分で理解できている。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 そんな早苗と諏訪子のやり取りを、神奈子は黙って聞いていた。先程の位置から一歩も動かずに、人を遥かに越えた聴力のみで音を感じとる。その表情は微笑んでいるようで、とても固いものだった。再び『神』としての顔をした神奈子は、眼差しを鋭利に細めていく。

 

 

「幻想郷に行けば、私の神格は戻るだろう。ついでに諏訪子のヤツも助かるかもしれないな。その代償として、こちらの世界を捨てなければならないが」

 

 

 神奈子は諦めていない。

 必ずや失った力は取り戻す、このまま現世で干からびて消えていくなんて真っ平御免だ。そして幾千年の時を共に過ごした相方を、諏訪子を諦めることも出来はしない。伴侶のように付き添って来た友を、例え本人が納得しているからといって手放してやるものか。

 

 幻想郷への移住、スキマ妖怪とやらの策略に乗るのはシャクだが今は仕方ない。妖怪の山というところに降り立つことを許可するという話を聞かされた。ならば十中八九、コイツにとって都合の悪い連中がそこにいるのだろう。ならば自分たちと潰し合わせるのが魂胆であろうか。危険な橋渡りであることは間違いない、総じて妖怪とはそういう企みをするものである。

 

 

「だが、他に妙案があるわけでもない。そして何よりもスキマ妖怪とやらが、この八坂神奈子を利用しようというのなら不届き千万。その企みを正面から打ち砕いてやらねばなるまい」

 

 

 それに早苗はこのまま現世で暮らしていても、やがて大きな壁にぶつかるだろう。他人には見えないものが見えて、自分にだけは特別な能力が宿っている。それは優越感とも劣等感とも違う、ただ人の輪に入れなくなる孤独につながるだけだ。ならば、彼女もまた神奈子が救わなければならない存在に他ならない。それは神奈子が神であるが故に。

 

 

「待っていろ、幻想の生きる楽園よ。いずれの日にか、この八坂神奈子が御自ら渡って行ってやろうぞ。それまで首を洗って待っているがいい。私たちの居場所を必ずや、そこに創ってみせよう」

 

 

 この世界を捨てる覚悟を、早苗が出せるようになるまで待とう。諏訪子が消えていなくなるまでなら待ってやろう。そうして最高の時が満ちるのを見極めてから動くのだ。八坂神奈子はそう決めて、不敵に笑う。

 

 それは守矢神社が、幻想郷の結界を飛び越えてくる『風神録』より十年も前のこと。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十二話:紅血に問えば

戦闘描写があります。
苦手な方はご注意ください。


 

 

 家々の軒先に吊るされた光が揺れる。

 風に流されて火の粉が舞い踊り、黒煙にまみれた旧都の中央通り。闇夜を照らすはずの赤提灯は炎に飲まれて墜ちていく。大火だというのに火消しの一人も駆けつけず、一帯はオレンジ色の熱に溢れていた。

 

 住民の避難は完了し、壊れた家屋は全て鬼が建て直すという前提の下。持てる限りの妖気を振り絞り、邪魔な瓦礫を踏み潰し、炎の壁さえ飛び越えて、戦闘を繰り広げるのは五つの影。

 

 一人は星熊勇儀。云わずと知れた鬼の四天王であり、さとりと並び旧都を取り締まる元締めの大妖怪。いつもなら服にシワ一つ拵えずに喧嘩を制する彼女だが、今やフランドールの炎に焼かれた一張羅の着物はボロボロだった。

 ここに来て上半身には、胸に巻かれたサラシだけ。激しい動きと共にその豊かな胸部が揺れ、力強くも美しい肢体を惜しげもなく晒していた。だが格好など些細なことだと、勇儀は満面の笑みで拳を振るう。

 

 

「だぁぁぁぁ!!」

「――――ッ!!」

「覇ァッッ!!」

「てりゃぁぁぁ!!」

 

 

 そして鬼と対峙するのは四人。

 白黒の鴉天狗と紅美鈴、そしてフランドール。彼女たちは指し示したような連携で着実に鬼へとダメージを与えていく。弱体化しているとはいえ一撃必殺、そんな大妖の攻撃をかわしては果敢に挑みかかる。錫杖と妖刀、従手と炎剣が『鬼退治』を成し遂げんと唸りをあげる。

 

 しかし流石は『伊吹の百鬼夜行』にて首領格の一人として君臨した星熊勇儀。並の妖怪なら一度の交差で落命するような猛攻を力任せに乗り越える。天狗の刃は爪で受け止め、錫杖と従手は四肢を振るって凪ぎ払う。空を走る炎剣の熱さえも驚異的な腕力でもって消し飛ばす。その戦いぶりは文字通り鬼神のごとくであった。

 

 

「オオオオオォォ、ラァァァァァア!!!」

 

 

 心の底から愉快そうな雄叫び。

 道端にあった露店を鞠のように蹴り飛ばす。家々から大黒柱を引っこ抜き、使い捨ての金棒として振り回す。手下たちの声援を背景に、勇儀は旧都の真ん中で暴れまわっていた。

 

 刑香から受けた『能力』の縛りが消えかけていることもあって、もはや自身を止めるものは何もない。おまけに旧都はどれだけ破壊しようとも、鬼が総出で取り掛かれば半月もしないうちに復興可能。加減は無用である。

 

 さとりが来れば喧嘩は終わるだろう。橋姫の縄張りから旧都にまで戦場を移した理由は、彼女に喧嘩の仲裁を任せるためであったのだ。だからこそ、それまでは全力で楽しまなければならない。どこまでも傍迷惑で、誰よりも自分勝手で、何よりも華がある、そんな妖怪こそが自分たち。こんな戦いはいつ以来だろう、懐かしい友の顔が頭をよぎる。

 

 

「こいつを楽しまなくちゃ、鬼なんて名乗れやしない。そうだろうっ、萃香ァァ!!」

 

 

 世界のどこかにいる友へ向けて、勇儀は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。「羨ましいだろう」「早く帰って来い」と様々な想いを込めて、鬼の大将は懐かしき友の名を呼んだ。彼女は一体どこにいるのだろう、この戦いの熱気は届いているだろうか。できるなら彼女に伝わっていてくれ、そう願う勇儀は大地を蹴る両脚に更なる力を宿す。

 

 

「――――きゅっとして」

「そいつはもう見切ったさ、嬢ちゃん!!」

「きゃっ!?」

 

 

 真紅の炎を突っ切り、その先にいた吸血鬼の頭を鷲掴みにする。天上に浮かぶ月のように輝く金髪、それをナイトキャップの上から押さえ込んだ。握り潰さない程度の力で身体ごと持ち上げると、辛そうな表情をした幼子の顔があった。初めて会った時の荒々しい魔力は鳴りを潜め、何かに耐えるような様子であった。もう限界なのだろうか。

 

 

「っ、その子から手を離しなさい!!!」

 

 

 幼い吸血鬼を救おうと、突っ込んできたのは刑香。急降下による加速を上乗せした白い流星、それは一切の躊躇なく勇儀の背中へと突き刺さる。空を駆け下ることで生み出された捨て身の一撃、ギシリと背骨から悲鳴が伝わってきた勇儀は思わず身体を傾けた。刑香の攻撃だけは鬼の防御を貫いてくる。

 

 

「ーーーーまだ、まだァァァァ!!!」

 

 

 ぐらりと倒れそうになった身体を気合いで支えなおし、勇儀は背後に向けて回転した。片手で捕まえているフランドールを利用して遠心力をひねり出す。まだ白い少女は回避のための距離を取れていない。更に勢いを付けた素足の踏み込みを上乗せして、勇儀は渾身の力でフランドールを刑香へと投げつけた。

 

 

「が、はぁっ!?」

 

 

 射出された弓矢のように吹き飛ばされる二人。遅れて大砲が着弾したような音が聞こえてきた。民家を二、三軒ぶち破った先から爆発したような煙が上がったが、彼女たちへと目をくれてやる暇はない。

 

 

「こ、のっ、よくもフラン様を!!」

「無茶ばかりして、本当にあの子はっ!!」

 

 

 左右から勇儀を挟撃せんと迫り来る紅と黒。

 黒の鴉天狗と紅の武闘家は身震いする程の殺気と妖力を立ち上らせて、風刃と気拳を冴え渡らせていた。大切なものを持つ生き物は強い、そこに人間と妖怪の区別はない。それを理解しているからこそ勇儀は両腕を広げて二人を迎え撃つ。敵討ちでも構わない、もう少しだけ楽しませてくれと笑うのだ。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 くすんだ視界が暗闇に迷う。

 ぼんやりと天井を見上げる刑香、その胸の上ではフランドールが気を失い倒れていた。はらりはらりと前髪が垂れてきたのを鬱陶しく思いながらも、どうやら自分は店に突っ込んだらしいことを白い少女は理解する。

 

 フランドールを落とさないように、ゆっくりと床に手を付くと、そこには花札やサイコロが散乱していた。妖怪の山では禁止されたが、ここでは博打が未だに流行っているらしい。せっかく見つけた店、しかしコレを霊夢へのお土産にするのは無理がありそうだ。博麗の巫女が博打打ちなんて笑えないし、将来的には賭け事の苦手な自分が霊夢にむしられる可能性がある。それは恐ろしいことだ。

 

 

「痛っ、ぅぅ…………とんっでもない腕力ね。私の『能力』で何割かを抑えているはずなのに、こんな距離を飛ばされるなんて本物の化け物じゃない。あんたは大丈夫なの、フランドール?」

 

 

 刑香を下敷きにする体勢で倒れている幼い吸血鬼。

 勇儀に二人まとめて吹き飛ばされた際に、とりあえず庇ったので大した怪我はしていないはずだ。なのに様子がおかしい。身体にぴたりと引っ付いた吸血鬼の少女から小刻みな震えが伝わってくるので刑香は怪訝に思った。まるで何かに怯えるように、フランドールは青白い顔を上げる。

 

 

「あんまり、大丈夫じゃないかも」

「フランドール…………?」

 

 

 怪しい光を宿した双眸がそこにあった。

 夜空から零れ落ちる月影のような、レミリアにも劣らない魔性の瞳。キラリと口から覗く牙も気のせいか飢えて見えた。身の危険を感じ取った刑香は目線だけは反らさずに、そっと武器である錫杖を手繰り寄せる。

 

 

「そういえば、あんたには聞きたかったことがあるのよ。例え私の能力が妨げになっていたとしても、あんたなら強引に破れたはず。どうして、あんたは一人で勇儀様を倒さなかったのかしら?」

「…………違うよ、倒せなかっただけ。あれが今の私にとっての、ベストだったの」

 

 

 熱に浮かされたように荒い呼吸が聞こえる。

 真っ黒な魔力がコウモリのように羽ばたき、薄暗い室内を満たしていく。やはり前回の異変で感じたものと同じだと刑香は確信する。駄々をこねた子供のように何もかもを破壊してしまう『狂気』の欠片が漏れ出していた。

 

 吸血鬼異変の後、レミリアは「フランを外に出すのは十年先になる」と言っていた。あの言葉が正しかったのだとすれば、まだフランドールは『能力』を制御しきれていないことになる。警戒心を高めていく刑香の前で、フランドールは自笑気味に呟いた。

 

 

「きっと昔の私みたいに暴れたら、一人であの鬼のお姉様を倒せたかも。でもね、でも、それをすると私は私でなくなるの。魔力を使い過ぎたら、また自分を見失っちゃう」

「魔力を消費したことで『狂気』を抑えることが出来なくなった、ってところかしら。…………くすぐったいから止めて欲しいんだけど」

「えへへ、美味しいそうな匂いがするよ」

 

 

 うっとりとした表情で、フランは頬擦りをしていた。ここまでの戦闘で血に染まった刑香の髪、その匂いにつられて吸血鬼の本能が目覚めたのだろうか。人間ではなく妖怪の血でも飢えた吸血鬼にはある程度の魅力を持って映るらしい。さてどうしたものか、と刑香はフランに襲われながら策を考えていた。

 

 

「…………ねえ、私に血を吸われるかもしれないんだよ。何で白い鳥さんは怖がらないの?」

「今のあんたなら怖がる理由はないわ。翼をへし折りたいわけでもなく、ただ血を吸うかどうかだけ。そんなの大したことないわよ」

「あはは、変なの。でも怖がらないでくれて、嬉しいよ」

 

 

 チロリと出された可愛い舌が髪にこびり付いた血を舐めとっていく。それをくすぐったいと思ったが、刑香はフランを引き離すことはしなかった。魔力を消耗したフランの本能が血を求めているのなら、好きにやらせてしまえばいい。そうすれば正気を取り戻してくれるはずなのだ。

 

 だからこそ首筋へと当てられたフランの柔らかな唇にも、黙って瞳を閉じることにした。戸惑いがあるのだろう、幼い吸血鬼は迷子のように牙を揺らしている。その頭を自分の首筋へと刑香は押さえつけた。死なない程度なら構わない。

 

 

「こうしててあげるから、さっさと済ませなさい。その様子だと誰かから直接血を吸うのは慣れてないんでしょ?」

「…………ありがとう、ケイカ」

「どういたしまして、フラン」

 

 

 くすりと微笑んだフランは、その小さな牙を白い肌に沈み込ませる。迷うことなく血管を捉え、血を吸い上げる音がトクントクンと刑香の鼓膜を揺らし始めた。正直なところ、刑香とて吸血に恐怖を感じないわけではない。だが狂気に耐えるフランの表情は、今まで刑香が治療してきた人間の子供と変わらなかった。不安と希望が混ざった純真な眼差し、そんなものを見せられては断れない。

 

 

「…………こんな子を私は『怪物』扱いしていたわけか。紛いなりにも千年を生きる天狗らしくない、情けない話よね」

「ん、んむ~?」

「何でもないわ。あんたのことを誤解していたから反省していただけよ、フラン」

 

 

 正面から首に噛みつかれているので、お互いの表情は見えない。不安そうな声をあげたフランを落ち着かせようとナイトキャップの上から優しく頭を撫でる。吸血を通して妖力と体力が奪われていくのを感じた。

 

 

「思ったより吸われていく量は多くない、これならフランが回復すれば私も戦闘に復帰することができそうね。それまで文と美鈴が無事ならいいけど」

 

 

 果たして自分たちは勝てるのだろうか。

 この期に及んで決定打はなく、文の剣術も美鈴の武術も彼女を倒せる域までは届かない。唯一の希望は『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』なのだが、それを刑香の能力が邪魔してしまっている。一方で『死を遠ざける程度の能力』が無ければ、勇儀は本来の力を取り戻してしまう。

 

 

「これは賭けをするしかないのかも。散々アイツらにカモにされた思い出しかないし、霊夢はともかく魔理沙あたりには将来確実に負けそうな私が博打とか…………度胸試しくらいはしておこうかな?」

 

 

 なるべく小さな動きで、落ちていた花札の一枚を拾おうと手を伸ばす。ここらで一つ、自分の勝負運を占ってみるのも悪くないと思ったからだ。基準としては高得点かどうか、つまり『鶴』や『月』であれば良い結果としよう。さて、どんなものかと埃まみれの絵柄を確認しようとした。

 

 

 身体の異変に気付いたのは、その瞬間だった。

 

 

 どんよりとした生暖かい感覚が首筋から広がり、体内にこびりついていく。元々は低い体温が無理やり押し上げられ、その熱が刑香の思考を焦がし始める。

 

 

「…………んむ、む」

「っ、何よコレ、は…………!?」

 

 

 とても気持ち悪い感覚が全身を蝕む。

 ギシリと歯を噛み締めて耐えるが、そんな刑香を嘲笑うように熱が身体の奥に張り付いて燻り続ける。この妙な『毒』の原因は考えるまでもない。咄嗟にフランの肩を掴んで引き離そうとする。

 

 その際に指の間からこぼれ落ち、花札がカツンと乾いた音を立てた。それは『霜月の素札』であった。色鮮やかな草花や鳥獣が描かれる花札にあって異質な黒と赤だけの絵柄。何ということもない一点札であるが、特定のルールでのみ名称が追加される一枚。

 

 

 その名は『鬼札』、一説によると『噛みつく』という意味があるジョーカーである。吸血鬼の苦手な雨を象徴する柳と、天狗の天敵たる鬼の絵柄を併せ持つカード。今の刑香にとっては皮肉そのものであった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 人にて人ならず、鳥にて鳥ならず。深山幽谷を翼にて飛び、歯下駄にて走るもの。不浄を嫌い、聖域を守護する者、それが天狗である。

 そして穢れなき少女の血は、吸血鬼にとって甘露とされる。白い鴉天狗の首筋に唇を当てるフランにとっても、それは変わらない。

 

 

「くっ…………何で、こんな…………!?」

「…………んむ?」

 

 

 血液を舌の上で転がしてから飲み下す。

 その中でフランは気づいた、この少女には何か『別のモノ』が微かに混じっている。グラスのワインに一滴だけブランデーを落としたような香りの違い。しかし決定的な差をもたらすモノ、新雪のような清らかさを持つ力が宿っている。それを踏み穢したいと思わせるだけの魅力もあった。

 

 

「く、うぅぁ……やっ……やあっ!? …………ふ、フラン、一旦離れなさい!!」

 

 

 脚をじたばたさせて暴れる刑香。

 それを押さえつけてフランは吸血を続ける。首に噛みついた牙から感じるのは、白い少女に火照りが広がっていること。普段は冷めている彼女の理性を自分からの熱が溶かしているのだろう。

 フランの両肩を掴んで引き剥がそうとする刑香だが、腕は震えるばかりで力が入っていない。「もうちょっとで抵抗も無くなりそう」と考えて吸血に集中していたフランは、刑香が錫杖を振り上げていることに気づけなかった。

 

 

「――――い、いい加減にしろぉぉ!」

「ふぎゅっ!?」

 

 

 杖が思いきり降り下ろされ、踏まれた小猫のような声をあげてしまう。その拍子に首から牙が離れ、刑香はそのままフランを引き剥がす。今までのやり取りで装束が乱れて露になった肌を赤い糸に似た血液が流れていく。フランにも見せないように装束を正していく刑香、そこには吸血鬼を惹き付ける初々しい匂いが漂っていた。

 あっという間に肌を隠し、帯を巻き直した刑香を物欲しそうに見つめる。もう少し吸っていても良かったと思うのだ。

 

 

「…………残りは文かはたてに貰いなさい。私からはこれが限界よ。まさか吸血鬼にこんな能力があるなんて思わなかった、大したものね」

「えへへ、ありがと。私とお姉様は吸血した相手を従わせるチカラがあるの。だって何度も獲物を捕まえるより、自分から来てくれた方が楽でしょ?」

「まあ、天狗も恩恵をもたらす代わりに人間から生け贄を受け取ってたらしいし。どこも似たようなことをしてるのかしらね。うぅ、まだ身体が火照ってる…………」

 

 

 

 フランたちは遠い西方からやって来た魔物である。この幻想郷で彼女たちを詳しく知るのは紅魔館の住人以外には存在しない。刑香とて吸血鬼の特性を知らなかったから、あんなに容易く身を許したのだろう。

 しかも体力の低下した今の刑香は、フランの催眠に押し切られそうになっていた。下手をすればそのまま『眷属』にされていたかもしれない、例えフランにその気が無くとも。そんなことを知る由もない刑香は震える脚を叱咤して立ち上がる。

 

 

「はあ、せっかく色々と考えていたのに、さっきのやつで全部吹き飛んだわ。そろそろ文と美鈴がヤバいだろうし、もう私かフランのどちらかに賭けて勇儀様を叩くしかないか…………」

「私の能力か刑香の能力で勝負を決めるってこと?」

「そういうことになるわ。フランの『破壊』と私の『避死』は同時には効かないなら、一方に集中するしかない」

 

 

 それは簡潔な答えだった。

 双方が成り立たないなら、片方を諦めるしかない。フランの『一撃』に全てを賭けるのか、刑香による『持久戦』を続けるのか。単純であると同時に、どちらに転ぶとしても分の悪い賭けには違いない。

 

 だが、フランとしてはどちらでも構わない。

 血を吸って回復した今なら、自分が中心になる作戦でもサポート役に徹する作戦でも対応できる。それに「ケイカ」と白い少女を呼ぶことに成功したフランに、もはや怖いものなどない。あと二人のことも「アヤ」「ハタテ」と呼ばせてもらうのが当面の最大目標である。楽しげに肩を揺らすフラン、その様子を眺めていた刑香は決断する。

 

 

「やっぱり満身創痍の私よりフランの方が可能性は高そうね。あんたが『能力』を発動するのに掛かる時間はどれくらい?」

「私にコインを託すんだね。私の能力は対象の『目』を把握して、それから『目』を握り潰すことによって発動するの。前者に三秒、完全に壊さない手加減をするなら後者に五秒くらい必要だよ」

「合計で八秒くらいか、厳しいわね」

「うん、あの鬼さん相手には難しいね。鬼のお姉様はもう私の能力にかかる手間を見切ってる、さっきの攻防でもそれは明らかだったわ」

 

 

 こうしている間にも、街道からは剣撃と打撃のぶつかる音が響いている。文と美鈴は時間を稼いでくれ、そのおかげでフランの回復に成功し策も作り出せた。今度は自分たちが助ける番である。

 

 頭上からは燃えるような太陽の気配、まさに地上では夜の帳が取り払われたのだろう。これ以上の長期戦はフランに無駄な体力を消耗させてしまう。それを本能的に悟った刑香は白く華奢な腕を振り上げる、その手にあるのは八ツ手の葉団扇。渦巻く旋風に装束をなびかせて、夏空の碧眼を持つ白い少女は宣言する。

 

 

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、あんたが能力を使う 隙は私が必ず作ってみせる。だからもう一度だけ手を貸して、フラン」

「うん、うんっ。何度でも力になってあげる!」

 

 

 広げられた鴉天狗の翼。

 薄暗い闇の広がる室内においても、汚れなき純白はフランの瞳の奥にその姿を焼きつける。かつてフランがへし折ってしまった彼女の誇り、あれから数え切れない後悔と憧れを抱いてきた想いの先。それが今、目の前にある。

 

 我慢ができなくなったので、手を伸ばして翼に触れてみる。「ひゃっ!?」と刑香が可愛らしい悲鳴をあげたが、振り払われなかったので触り続ける。ふわふわで毛布よりも柔らかな白い羽、顔を埋めて眠ってしまいたい心地よさがあった。これで枕やベッドを作ったらどんなにいいだろう。しつこく堪能しているとデコピンをされた。

 

 

「あ、痛っ!?」

「ふざけてないで行くわよ。…………というより、それ以上触られたら腰が抜けるわ」

「うー、残念」

 

 

 ここまで幾多の艱難辛苦を乗り越えて、ようやく辿り着いた鬼の都。その先にあったものが敗北ではつまらない、どうせなら勝利を掴むとしよう。

 満身創痍であろう刑香がどういった方法を使って勇儀を足止めするのか。果たして本当にフランが能力を発動させる時間を稼ぐことができるのか。そんなことはフランには分からない。それでも、

 

 

「勝つよ、ケイカ」

「当たり前でしょ、フラン」

 

 

 ぎゅっと手を握ってくれる白い少女を信じていた、それだけで負ける気はしないから不思議である。だからフランドール・スカーレットは心の底から笑う、月光ではなく春の日射しのような笑顔で幼い吸血鬼は微笑んだ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十三話:華山に帰し、桃林に放つ

戦闘描写があります。
苦手な方はご注意ください。


 

 

 ―――思い出しますね、レミリアお嬢様と初めて出会った時のことを。

 

 

 鬼との戦いの最中、美鈴は己が仕える主人のことを考えていた。あれは酷い出会いであった、幼い姿の少女から一方的に「私の下僕になれ」と言われた時は耳を疑ったものだ。当然のごとく断った後、叩きのめされて紅魔館に連行されたことは今では笑い話である。

 運命を操り、こちらの手の内を遥か高みより見透かす絶対的な支配者、レミリア・スカーレット。そんな彼女曰く「美鈴を身内にするのに一番近道だった」ということで叩きのめされたのだから、本当に『理不尽』な経験だった。

 

 何故、そんなことを思い出しているのか。答えは簡単だ、今まさに戦っている相手がレミリアと同じく『理不尽』な存在だからに他ならない。レミリアのような能力は持っておらず、ただ大地に脚をつけて万物を打ち砕く『力』の化身。極められた怪力乱神、これを化け物と呼ばずしてどうするのだ。そう断言できるだけの存在だった。

 

 

 右腕はすでに使い物にならなくなっている。腹部にも二、三発喰らって胃の中身をぶちまけそうだ。ふらつく身体は限界を訴えている、それでも気持ちだけは前へ前へと勇み出た。この『化物』を打ち倒せと、妖怪としての魂が吼えるのだ。

 

 

「覇ッ!!!」

「――――っ、ぐぉぉ!!?」

 

 

 お互いの袖が触れてしまいそうな至近での肉弾戦。

 掌打を幾度となく叩き込んでも鬼は倒れない。一発一発に練り込んだ必殺の『気』が内臓を焼いているはずである。それなのに勇儀は獣のような笑みで戦いを続けている。正気の沙汰とは思えない、いやこの相手に常識は通用しないのだ。折れた右腕を庇いながら左の肘打ちで鬼を衝く。

 

 いくら攻撃しても倒せない怪物に主人の姿を重ねる。大陸を放浪していた美鈴を、素晴らしいくらいの力ずくで紅魔館へ引き入れた張本人。ワガママで、子供っぽくて、それでも魅力に溢れた『運命』を操る吸血鬼。レミリアの場合は再生による無効化だったが、美鈴の攻撃を受けて倒れないという意味では勇儀も変わらない。

 

 

「―――痛っ!?」

「悪いね、こっちも余裕がないんだよ」

 

 

 避けそこなった鬼の爪に脇腹を切り裂かれる。

 拳ではなく爪まで使ったのは、本当に余裕がなくなっている証拠だろう。なりふり構わない攻撃を繰り出したのは追い込まれている証明である。しかし美鈴の背に冷たい汗が流れた。

 傷はあまりにも深く、そして位置が悪かった。わずかに美鈴の動きが鈍くなる。勇儀の爪が抉ったのは身体の内側にある『丹田』だった。偶然なのだとしたら、何という執念だろうか。美鈴は苦々しげに思いながら、勇儀の顔面を殴り飛ばした。

 

 

「貴女の、ような化け物は、お嬢様以来です…………!」

「そいつは、あの金髪の嬢ちゃんのことかい?」

「いいえ、あの方の姉君、紅魔館の当主様……です!!」

 

 

 拳の応酬を繰り返し、わずかな言葉を交わす。

 やはり気の集まる『丹田』を損傷させられては、能力の出力が落ちるのは避けられない。残った左腕からひしゃげた音が聞こえた。今までは技で身体能力の差を誤魔化してきたが、それも限界だ。苦労して維持してきた均衡が崩れ去っていく。

 金属のように重い勇儀の一撃を受け流す、手のひらが削られたが気にしている余裕はない。鋭さを増す猛打によって一歩、また一歩と後ろに押しやられる。これは不味い。

 

 

「っ、本当に、私がどれだけ『技』を磨いても、それを容易く打ち破ってくる。幸運や偶然さえ味方につけて…………貴女たちは本当に、理不尽です。『紅砲』!!」

 

 

 踏み込んでの『気』を込めたショートアッパー、それを勇儀の顎を打ち抜かん速度で叩き入れる。そして脳を揺らされて動きの鈍った勇儀へと連打を叩き込む。一撃、また一撃と『気』による灼熱は鬼の皮膚をすり抜け、骨を通り抜け、中身を焼いているはずだ。どんなに防御の硬い相手であろうとも倒せるはずなのだ。

 それでも両腕を盾にして、美鈴の絶え間ない連撃に耐える勇儀へと「ここで決める」と拳を叩き入れる。

 

 不意に、視界が揺れた。

 

 

「あ、れ…………?」

 

 

 腹の底から沸き上がってくる血塊を抑え込む。ゆっくりと視線を下げると、腹にめり込んだ鬼の脚があった。まさか、あの状態で反撃できるとは思わなかった。それを理解するのに数秒、全身から力が抜け落ちて膝をつくのには更に数秒。歯を食い縛り、何とか立ち上がろうとするが身体はピクリとも動かない。どうやら負けてしまったらしい。

 そんな門番を見下ろす勇儀は手刀を振り上げる、それを遮ろうと乱入してきたのは黒い翼だった。

 

 

「時間稼ぎありがとうございます、門番さん。ふふふ、あとの美味しい所は私に任せてくださいね」

 

 

 頭巾を飛ばされ、血に濡れた黒髪。

 刃の欠けた妖刀で射命丸文は鬼を押し返す。調子の良いことを宣っているが、フランと刑香が脱落した後に彼女もまた勇儀によって殴り飛ばされている。美鈴による応急処置があっても、痛めた翼で全力を出せるわけがない。最大の武器であるスピードを失った彼女では鬼の四天王と渡り合うのは不可能だ。

 風を纏いて地面を駆け、不安定な一本歯下駄から読めない斬撃を繰り返す射命丸。天狗独特の剣術は美しくも、見事なものだった。次々に勇儀に切り傷を与えていく。だが決定打には届かない。立ち上がれない美鈴は悔しそうにその場で拳を握る。

 

 

「あと一歩、あと一手で打ち勝てる。それなのに私たちの手札は尽きたのか…………申し訳ありません、お嬢様」

 

 

 「もしこの場にレミリアがいたなら」と思わずそう考えてしまう。きっと彼女ならば、どんなに細い可能性であろうともこの状況を打倒する結末を導き出したはずだ。あらゆる策を講じ、敵と味方すべての駒を利用して、成し遂げたはずだ。自分が初めて「仕えたい」と思った吸血鬼、レミリア・スカーレットならば。

 バキリ、と刃と希望の砕ける音が響いた。

 

 

「あの子を…………る任務、果たせず、申し訳……天魔さま」

 

 

 折れた妖刀と共に、文が投げ出される。

 ちょうど自分の隣へと倒れた天狗へ美鈴は力無く頭を傾けた。真っ白な装束は半分近くが剥ぎ取られ、大きく肌が露出している文。直接巻かれたサラシの上からは、発育の良い身体のラインがはっきりと分かる。胸を上下させて荒い呼吸をしているので、弱っているのは演技ではないのだろう。

 もう一度視線を戻すと、勇儀がこちらへ向かってくるのが見えた。折れた刃の突き刺さった左足を引きずりながら、怪物は迫り来る。

 

 

「ここまで、ですか」

 

 

 傷の回復に全力を尽くしていた美鈴だったが、到底間に合わないと静かに目を閉じた。地面を踏みしめる音、立ち昇る妖気がピリピリと肌を痺れさせる。それでも敗者は黙って、その結末を受け入れるしかない。

 

 

 

 

 

 

「まだ諦めるには早いわ、美鈴」

 

 

 幼い声が鬼の足音を止める。

 破壊されずに生き残った木造家屋の上で、その吸血鬼は古びた瓦を踏みつけて立っていた。虹色に輝く宝石の羽を広げて、少女は深紅の瞳を瞬かせる。この数ヶ月、レミリアに申し付けられて美鈴が身の回りの世話をしてきた妹君。

 四百年近くを地下室で過ごしたせいで、レミリアよりも更に幼い性質を持つ金髪の吸血鬼。見慣れたはずの姿に、今だけは目を奪われた。そして心に浮かんだ言葉が口からこぼれ落ちる。

 

 

「――――レミリアお嬢様?」

 

 

 飲み干せなかった血液がこぼれて、真っ赤に染まったワンピース。全身からは瑞々しい血の匂い、その瞳は闇夜の紅い月、身に纏う空気は見る者を支配するカリスマの色。フランの姿は美鈴が恐れ憧れた『スカーレット・デビル』に近いものがあった。妙な話ではあるが、紅美鈴はこの時初めてフランがレミリアの妹であった事実を思い知る。

 刑香との間で何かあったのだろうか、この短い時間でフランが変わった理由はそれしかない。

 

 フランの隣に立つ白い鴉天狗へと、美鈴は無言で頭を下げた。残された一手、あとは彼女たちに任せよう。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 我ながら、ひどい状態だと思う。

 骨も、筋肉も、臓腑に至るまで、自分の身体は余すことなく悲鳴を上げている。おまけに隣にいる吸血鬼に血と妖力を吸い取られた後だ、正直なところ布団で横になりたい。そろそろ帰りたいと刑香は溜め息をついた。

 だが、傷つき倒れた親友の姿が目に入っては仕方がない。やはり覚悟を決めて立ち向かわなければならない。眠りに落ちそうな精神を気力で奮い立たせ、肉体の痛みはフランから注入された媚薬の毒で誤魔化した。もう少しだけなら何とか立っていられそうだ。

 

 

「分からないねぇ。どうして今の瞬間に不意を打たなかったんだい。少なくともお前さんの方はもう限界だろう。これ以上私と戦える余力はない、それなのに真正面から来るとは可笑しな奴らだ」

 

 

 鬼の大将は脚に刺さった刃を抜きながら、刑香へと語りかけた。その距離はざっと見積もって七丈(二十メートル)以上あるが、彼女がやろうと思えば即座に詰め寄られる程度である。勇儀はその位置から一歩も動かず、燃え上がる瞳の赤色で刑香たちを捉えていた。その傍では黒い鴉天狗と紅の門番が倒れている。見る限りは重傷ではあるが、どうやら無事ではあるらしい。

 刑香はほっと胸を撫で下ろし、鬼へと返答する。

 

 

「何で不意討ちをしなかったか、なんて簡単なことよ。あんたとの戦いにはっきりと『白黒つける』ために決まってるでしょ。ここまで私たちはボロボロにされたんだから、完璧な勝利で収めないと気が済まない」

「へぇ、言うじゃないか。どうにも説教くさい奴と似たセリフではあるが気に入った。…………せいぜい頑張って私を食い止めてみな。さもなくば、私は能力が発動する前に吸血鬼の嬢ちゃんを潰しちまうよ?」

「言われるまでもないわよ、必ずあんたは私が止める」

 

 

 策は見抜かれているらしい。

 当然といえば当然か、自分たちと勇儀の間にあるのは一直線に伸びた街道なのだ。フランの能力を察している勇儀にとって想像は容易い。鬼の頭目の一人として、千年を越えて生きてきた星熊童子は決して愚鈍な妖怪ではない。つまりフランの能力が発動するまでの時間を刑香が稼げれば刑香たちの勝ちとなり、その逆なら勇儀の勝ちとなる。何とも分かりやすい賭けである。

 

 

「く、くっ、はははっ、いいだろう。喧嘩の締めとしては小気味いい。何より心意気が気に入った。勝負を決める大一番、お前さんが私を止めたらお前たちの勝ちだ。その名に恥じない戦いを見せてみな!!」

「…………私は自分の名前に誇りも情も感じていない、いずれ『裁かれる』なんて意味は足枷でしかないわ。そして私には家族がいない、なら家名にも意味なんてない。だから、萃香さまから貰った『香』の一文字だけを賭けてあげる」

 

 

 刑香は一本歯下駄を脱ぎ捨てた。

 天狗のトレードマークの一つがカランコロンと屋根から転がり落ちていく。それには目もくれず、白い足袋だけで茶色の粘土瓦を踏みしめる。やることは変わらない、いつも通りに最高速で飛び立つだけだ。それで勇儀からフランを守る、少しばかりタイミングが面倒だが何とかするしかない。

 

 

「うー、そろそろ初めてもいい?」

「いいわよ、やっちゃいなさい。鬼は私が何とかしてみせるから頼んだわよ」

「わひゃっ!?」

 

 

 眠たそうに目を擦っていたフランの金髪をワシャワシャと少しだけ乱暴に撫でる。夜明けが訪れたことで睡魔が襲って来ている。日の光が届かない地底なら太陽に焼かれる心配はなくとも、夜の支配者たる身体は活動を緩めているのだろう。だが、もう少しだけ頑張ってもらわなければならない。

 天狗最速の刃でも、紅魔最高の技でも仕留めるには足りなかった妖怪山の四天王。あれを打倒するには刑香だけでは届かず、フランの力が必要不可欠なのだ。

 

 

「じゃあ始めるよ。負けないでね、刑香」

「善処するわ」

 

 

 幼子の掌に真紅の魔力が浮かぶ。

 そこから伸びる無数の糸は、お互いに絡み合いながら丸い球体を形成していく。真っ赤な流れは『運命』に逆らうように中心に向かって渦を巻き、そして開いた黒い闇へと収束する。星空の何もかもを飲み込む底無しの穴がフランの掌で形を成していく。それこそがフランの持つ『破壊』のチカラ、世界の急所たる『目』を吸い寄せて、握り潰すことで隕石すら崩壊させる禁忌の能力。

 

 興味深い光景だが、残念なことに見届けている暇はなさそうだ。刑香は葉団扇へと残りわずかな妖力を注ぎ込む。そして天狗の秘宝は脈動し、そよ風で持ち主を包み込んだ。頼りないほどに弱い風、出力は足りていないが今はこれで限界だ。

 

 やれやれと溜め息をついてから、空色の瞳は鬼の方へと向けられる。文から片足に傷を負わされているにも関わらず、もう鬼との距離はなくなっていた。錫杖を構えて番人のようにフランを守る鴉天狗へと、勇儀は疾風のごとくに跳躍する。

 文と美鈴の元から、わずかに二秒足らずで屋根に着地した勇儀は白い少女へと襲いかかる。その顔は楽しげだったが、大した武器を持っていない刑香を侮っていた。それこそが天狗の策略だと知らずに。

 

 

「…………ああ、勘違いしているようだけど。私は別にあんたを『攻撃』しなくてもいいのよ?」

 

 

 唯一の武器、錫杖を勇儀の目の前で放り出す。

 その瞬間、どう自分を迎え撃つのかと身構えていた勇儀の思考が一瞬止まる。あまりにも無謀な行動に突き出された拳は精細を欠き、それを掻い潜った刑香は正面から身体に抱きついた。驚いた表情の勇儀へとイタズラが成功した子供のように笑う。

 

 

「その顔が見たかったのよ、勇儀さま」

 

 

 葉団扇に込めた妖力を丸ごと解放する。

 気流の全てを足元に叩きつけ、鬼の踏ん張りを粘土瓦から引き剥がす。刑香を殴ろうとする拳は青い光に阻まれ届かない、鬼はなす術なく空中へと押し上げられる。初めから刑香はこれを狙っていた、瀕死の状態なら大抵の攻撃は当たらないのだから。これで最後だと刑香は厄を打ち払う白羽の矢のように鬼を抱え、気流に任せて垂直に飛翔する。

 

 

「―――ああ、こいつは参ったねぇ」

 

 

 間もなく約束の八秒。

 勇儀の穏やかな呟き声が鼓膜を濡らしたのは、フランの能力が完成したのと同時だった。密着した相手から伝わってきた破壊の振動、何かが弾けた音が響いた。顔を上げて確認しなくても分かる、勇儀の身体から力が抜け落ちていく。自分たちは勝ったのだ。

 しかし勝利を感じる間もなく、葉団扇の効果が切れた。ただでさえ妖力が少なかったのに、よくここまで持ったものである。まさか旧都を一望できる高さまで、上がれるとは思わなかった。

 

 これは、予想していなかった。

 

 

「ちょっとヤバい、かも」

 

 

 もう飛ぶ力も残っていない。

 勇儀の身体を手放した刑香は、真っ白な翼を揺らしながら墜ちていく。今回はへし折られていないが、妖力がほとんど残っていない。これでは天下の鴉天狗とて空を飛ぶことなど出来ない。だんだんと速度は加速して止まりそうもない。

 ゴウゴウと吹き続ける大気の風が妙に心地よかった。文や美鈴を護りきれた、それと比べれば落下など些細なことである。まあ、死にはしないだろう。死ぬほど痛いかもしれないが仕方ない、刑香は観念して瞳を閉じた。

 

 

 

 茶色の閃光が駆け抜けたのは、そんな瞬間だった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 背中に腕を回し、その降下の速度に合わせつつ衝撃を軽減する。なるべく負担を掛けないように、はたては白い少女を器用に回収した。そしてツインテールを風に揺らしながら空中で静止する。「あー、ありがと」などと安心したように脱力した刑香へと、はたては沸き上がった感情をぶちまける。

 

 

「飛べなくなるまで消耗するなんて、どこまで無茶やらかしてんのよっ。このバカ鴉!!!」

「いや、その、はたて?」

 

 

 第一声は心配ではなく、罵倒の言葉。

 キョトンとした表情の刑香だが、その身体はボロボロだ。血を流し過ぎて装束は大部分が赤に染まり、こうして抱えているだけでも、消え去りそうな妖力が弱々しく伝わってくる。綺麗な白い肌には幾つもの青アザが目立ち、一本歯下駄さえ無くした姿は痛々しい。

 ここまで追い詰められても平気な顔を取り繕っているのだから、なおさら腹が立つ。間に合わなかった自分自身のことも合わせて感情が抑えきれない。さとりに心を抉られたせいなのか、様々な想いが滲み出てくる。はたての瞳から涙が心の欠片と共にこぼれ落ちていった。

 

 

「あ、あんた達のこと、メチャクチャ心配したんだからねっ。ううっ、バカァッ!!」

「ちょっ、合流して突然怒ったり泣いたり、本当にどうしたの!?」

 

 

「…………よければ、その続きは私の目の届かない所でお願いします。嫌いな心情ではありませんが、覗いていてむず痒いのも事実です」

「うにゅ、アレってさとり様のせいじゃないの?」

 

 

 白い親友をお姫様だっこしたまま、はたてはコロコロと感情を変えていく。そんな彼女に混乱した刑香が「どうしたのか?」と問いかけるが、まるで会話にならない。その乱れた雰囲気を一刀両断したのは冷めた声と、間延びした声だった。恥ずかしい場面を見られたと、はたては赤い頬のまま振り返る。

 

 

「もう朝ですね、おはようございます」

「…………何だろう、いらっときたわ」

「それは良かった、心が読み取りやすくて助かります」

 

 

 浮かんでいたのは、古明地さとりだった。両脇をペットのお空に荷物よろしく抱えられた姿は実に子供っぽい。こちらと目が合うと露骨に目線を反らしてくるが、サードアイだけはしっかりと向けてくる。心を覗いているのだろう、油断も隙もない少女である。さとりは咳払いをして会話を再開する。

 

 

「あなた達には驚かされました。まさか、あの星熊勇儀を打ち破ってしまうとは…………この旧都が建てられて以来、彼女が鬼の四天王でない者に敗れるなど初めてのことです」

 

 

 すらりとした指が示す先。

 今度こそ手足を投げ出して倒れているのは一本角の大妖怪。少しずつ高度を下げていると、その姿がはっきりと見えてきた。小さな隕石が落ちたかのように砕けた大地、そこに広がる赤い水溜まり、微動だにしない彼女の様子から、フランの一撃は決定打になったことが分かる。

 死んではいないだろう。そうなるようにフランは手加減をすると言っていた。「大将っ!!」と彼女の元へと駆けつける部下の鬼たちに後は任せても大丈夫のはずだ。さとりは刑香に向き直る。

 

 

「天晴れ見事、勇儀に代わって私からこの言葉を送りましょう。旧都の損害は…………まあ、鬼と土蜘蛛に何とかさせます。あなたたち天狗に吹っ掛けるわけにもいきませんし」

「あんた、誰よ?」

「これは申し遅れました。私は古明地さとり、この旧都つまりは旧灼熱地獄の管理をしています。以後お見知りおきを、白桃橋刑香。…………はぁ、しかし最悪です」

 

 

 刑香への返事もそこそこに、さとりは憂鬱そうな瞳で半壊した旧都を見下ろしている。建物の多くが炎に焼かれ、あるいは怪力と竜巻でひっくり返された。竜でも暴れたのかと思えるほどの惨状である。

 鬼や土蜘蛛を動員すれば再建に時間はかからないだろうが、事の顛末を上司へと報告しなければならない。ここまで被害が出たのだ、あの長いお説教は免れないだろう。はたてに抱えられた刑香の方へと、どんよりとした目を向ける。

 

 

「あなた、迦楼羅(かるら)とあまり似ていませんね」

「…………会話の方向性が掴めないんだけど。それに誰よ、知らない奴と比べられて似てるも似てないも意味が分からないわ」

「ああ、気にしないでください。これは、」

 

 

 気だるげなサードアイは刑香の心を映し込む。

 その記憶を簡単に読み取ったさとりは、やはり溜め息まじりに白い少女を見つめる。イマイチ成り立たない会話をする相手に、刑香は面倒くさそうにしているが別に問題はない。幾つかの言葉をぶつけて、あとは相手の反応を心から読み取ればコミュニケーションは成り立つのだ。それは一方的で、とても身勝手な覚妖怪のやり方である。

 

 

「単なる独り言ですから」

 

 

 これは『厄介』だ。

 さとりは覗き見た心の中身から、そう判断せざるを得なかった。この白い少女は本当に何も知らない、知らないように育てられたのだろう。八雲紫、四季映姫、伊吹萃香、そして迦楼羅。よくもまあ、これだけの厄介者たちに囲まれながら生き延びたものである。

 

 一度、地上に足を運んで情報を集めた方が良さそうだ。薄明かりに包まれる地底の空で、さとりはそんなことを考えていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十四話:彼岸寄港に声を聞く

 

 

 カラカラと地霊殿の上で、底抜けに明るい声が響く。朝露を乗せた風に吹かれ、血よりも赤い髪が遊ぶように揺れていた。成人男性の背丈にも及ぶ鎌を担ぎ上げ、屋根瓦に腰掛けている存在。静かな色を秘めた青のロングスカートと、腰に巻き付けた三途の川の渡し賃『六道銭』が特徴的な少女は笑う。

 

 

「まったく肝が冷えたよ。あそこまで恐ろしい鬼は地獄にだっていやしないってのに、よくぞ打ち勝った。いやぁ、見事なもんだ」

 

 

 妖怪でも人間でもない者、小野塚小町は見晴らしのよくなった街を眼下に据えていた。だが言葉とは裏腹にその赤い瞳には彼女らしい暖かな光が宿っておらず、複雑そうな表情で緋色の瞳を細めていく。手に持った魔鎌が生き物のように冷たい脈動を繰り返し、魔刃の先が鴉天狗の少女たちを捉えて揺らぐことはない。

 

 

「かなり消耗してるみたいだねぇ。おまけに、いつも邪魔をする射命丸はお疲れの様子で残りは事情を知らない連中ばかり。まあ、一応コイツは絶好のチャンスってわけだ」

 

 

 自然の規律を侵して寿命を伸ばすのは大罪である。この世界に張り巡らされた輪廻の摂理に逆らい、その命だけが生き永らえる。そんな不平等を彼岸の者たちは認めない、認めてはならない。だから小町はここにいる。

 

 

「普段の私たちは一切として、あんたに手を出せない。だけどそこまで弱っているなら話は別さ。確率は五分五分だろうが、今なら魂にだって刃は届くかもしれない」

 

 

 古びた草履は一切の音を立てず、瞬きの一つもなく、世の理から外れた死神は立ち上がる。死を払い除ける少女のチカラ、たかが数年間の寿命を伸ばすなら問題はあまりなかった。

 しかし彼女は罪を犯した、大天狗たちの寿命を摂理を越えて伸ばしてしまった。例えそれが望まぬこと、何者かに強制されたことだとしても、それは後々の裁きで考慮するべき事柄である。一度、その魂を彼岸に連れていくことには変わりない。その未来を見透していたからこそ、あの上司は彼女に『刑』という一文字を送ったのだから。

 

 

「…………くくっ、なーんてね。どのみち何百年も先になるわけでもなし、罪を裁くのは今じゃなくても構わない。またそういうことにしておくよ、(しおき)

 

 

 剣呑とした空気はどこへやら小町は苦笑する。

 そもそも自分は三途の川の橋渡しであり、魂の回収は専門外だ。上司から「様子を見てきなさい」と命令されたから来たものの、実のところ魂の回収は言い渡されていない。いや任務にはしっかり含まれているのだろうが、気づかないふりをしようと思う。クスクスと小町は上司の仏頂面を思い出して笑った。

 

 本当に職務に対して忠実なお方だと思う。こんなにも自分はあの少女に対して非情になり切れないというのに、あの方には迷いがない。ぞっとするほどに鋭利な眼差しで、また魂の回収に失敗した自分を叱るのだろう。せいぜい開き直って面白おかしく、あの子たちの戦いの結末を伝えてやろう。

 

 いつまで見逃してもらえるのか分からないが、まだあの娘にはこちら側に来て欲しくない。八雲紫に語った言葉とは真逆、それが彼女と関わりを持ってしまった小町が持ちえる特別な望みである。それは射命丸や姫海棠の抱くような友情ではない、その想いはまるで――――。

 

 

 

 

「結局手は出さないの、死神さん?」

 

 

 

 

 今回も出さないことにした、そう手を振って小町は『距離を操る程度の能力』を発動させる。最初の一歩を踏み出した瞬間、鎌を担いだ少女の姿は消失していた。残されたのはわずかな花の香り、そして能力のために消費された妖気の気配のみ。立つ鳥よりも、亡霊よりも、死神は足跡を残して逝くことはない。小野塚小町がここにいた事実を知るのは、たった一人の女の子だけ。

 

 

「…………なーんだ。戦うなら首だけ落としてエントランスに飾ろうと思ったのに、つまんないなぁ」

 

 

 友人の戦いを部外者に妨害させないために見張っていた女の子。死神相手に物騒なことを口にしてから、三つの眼を持つ少女は放っていた妖気を引っ込めた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 妖怪の身は砂に似ている。

 はたと気づけば風に散り、跡には灰すら残らない。何故我らは産まれたのか、どうして生きているのか。問いかけども答える者はおらず、ただ人の幻想に満たされ、人の現実に焼かれて消えていく。時が来たなら滅びを受け入れるという、その儚き運命からは彼女たち天狗さえ逃れることはできない。

 

 しかし、時として抗わなければならないこともある。例えば重傷の身体を力一杯、抱きしめられた時などは。

 

 

「刑香、ホントに無事でよかったぁぁぁっ!!」

「――――っ、ぃぃたあっ!!?」

「えぐっ、文のヤツは八つ裂きにしても死なないだろうけどアンタの方は本当に心配だったんだからぁ、あだっ?」

 

 

 またこのパターンか。

 自分を力の限り抱きしめてくるはたてへと、とりあえず刑香は渾身の頭突きをお見舞いした。ガツンとした衝撃で目眩がしたが、内臓がボロボロの身体を抱擁させるよりはマシである。よほど上手く頭突きが決まったらしく、茶髪の鴉天狗は鼻を抑えてうずくまっていた。刑香はため息混じりに問いかける。

 

 

「さとり妖怪にやられた影響だと思うけど、さっきから行動がチグハグじゃない。まったくもう、それでどう少しは落ち着いた?」

「うぐ、ぐ、ありがと刑香。おかげで気持ちの整理ができそう、かも…………頭突きってこんなに強烈なんだっけ?」

「文字通りの先生がいるからね。私も随分と喰らったわ」

 

 

 冗談を交わす刑香だが、その身体には焼けるような痛みが広がっていた。感覚をマヒさせていた媚薬の効果が切れてしまったのだ。火照りも収まってくれたが、今だけはもう少し続いていても良かったと思う。いっそのこと、もう一度吸血されてみようか。しかし美鈴に背負われているフランを見て刑香はそんな考えを改める。

 

 

「ねんねんころりよぉ、おころりよぅ…………この国の子守唄は確かこんな歌詞だったと思いますよ、フラン様」

「うん、いいよ。続けて美鈴……」

 

 

 母にすがる幼子のように門番の優しい背中で丸くなる幼い吸血鬼。だらりと投げ出された手足は細く、そして規則正しい寝息はとても可愛らしい。朝方まで暴れて疲れてしまったのだろう。美鈴が優しげな声色で子守唄を歌っているものだから親子にすら見えてくる。

 

 ふと、あの歌を誰かに歌ってもらったような記憶が頭をよぎる。親無し子であるはずの自分なのに不思議なことだ。きっと思い違いだろう、刑香は寂しそうに空色の視線を姉代わりの天狗へと移すことにした。

 

 

「ん、うぅぅん…………」

「文、あんたまで寝てるのね」

 

 

 壁を背にして文は寝息を立てていた。

 彼女がここまで無防備に眠っている姿は久しぶりに見る。勇儀の相手を一番長くこなしていたのが文なので、無理もない話ではあった。屈んで覗き込んでみると、任務をやり遂げて気の緩んだ顔がそこにあった。だが反対に刑香は顔をしかめていく、その空色の瞳は射命丸文の翼へと向けられていた。

 

 

「何が痛めたよ。折れてるじゃない、あんたの翼。だから途中から飛ばずに戦ってたのね、幻想郷最速の韋駄天もそんな状態じゃあ鬼に勝てるわけないのにさ」

 

 

 勇儀に蹴られた時に痛めた、と言っていた翼は根元から折れ曲がっていた。よくもまあ、この状態で戦いを続けられたものであると感心する。吸血鬼異変にて翼を折られた時点で諦めてしまった白桃橋刑香と、翼を折られて尚立ち向かった射命丸文。

 両者の間に存在するのは埋めようのない力の差ではない。ただ親友の命を背負っていたか、いなかったかの違いだけ。やはり自分たち三人のリーダーは文をおいて他にはいないと刑香は思う。

 起こさないように黒髪を優しく撫でる。手櫛を通してこびりついた血の塊を落として、乱れた一本一本を整えていく。そして飛ばされた頭巾は見つからなかったので、代わりに自分のものを外して付けておいた。

 

 

「これで良しっと。リーダーがみっともない姿だと私たちが馬鹿みたいだから特別にね。うん、今回だけよ」

 

 

 頭巾を譲ってしまい、一本歯下駄も失って、現在天狗らしさが欠けている白い少女。そんな刑香は眠り続ける文の格好を正していく。なんだかんだで憧れている天狗が彼女なのだ、目標とする相手がみすぼらしい姿でいるのは好むところではない。

 いつの間にか立ち直っていた天狗、はたては呆れた表情をしている。

 

 

「あんた達って、やっぱり似てるわ。前回の異変で刑香が倒れた時さ、文も同じように服装整えたり手櫛を髪に通したりしてたもん」

「へぇ、そうなのね」

「そうそう、私が一旦山に帰ってた間もべったり刑香に付いてたんだから。そのあとに包帯代えたり着替えさせたりとかは私と交代でしてたけどね。って、あんた顔が赤いけど照れてる?」

「そ、それよりも鬼から貰ったコレはどうするの。言っとくけど持って帰ると酷いわよ」

 

 

 露骨な話題の変更だった。

 二人の目の前に積み上げられているのは、鬼が集めた財宝たち。大判小判に宝剣宝槍、金色の織物、朱塗りの名器がうんざりする程に輝きを放っていた。これらは全て「大将に勝ったお前さん達に」と鬼が差し出してきたものだ。人間ならば目も眩むばかりの価値を持つ秘宝だらけである。人里に持って帰ったならば城を建て、新しい国の基礎を築けるだけの富をもたらす。それほどの財貨であった。

 

 しかし、刑香たちの反応は思いの外冷ややかなもの。刑香とはたては財宝に興味を持てず、美鈴はそういった物欲がなく、フランはそもそもスカーレット家の令嬢である。ここにいる全員は別に財宝が欲しいから鬼と戦ったわけではなく、まして金に困っているわけでもないのだ。むしろ、これを持って帰れば面倒なことになることに刑香は気づいていた。

 

 

「文とはたてだけならともかく、八雲側の私や紅魔館の二人が関わってるんだから三つの陣営がいざこざを起こすに決まってるわ」

「分け前を巡ってトップ同士が衝突ねぇ。でも『鬼』の宝だから私たちの上が拘るのは理解できるけどさ、八雲紫やレミリアがわざわざ動くの?」

「敵対する相手の嫌がることには積極的になる。組織なんてそんなものよ、レミリアは興味本意で首を突っ込んで来そうだけど」

「あー、お偉いさんにケンカされると私たちにまで火の粉が飛んでくるから面倒ね。それなら今使えるものだけ貰っとこうかなっと」

 

 

 ガチャガチャと財宝の山を掻き分けていく茶髪の天狗。積まれた金貨や銀貨が崩れ落ち、絹の織物が地面で砂まみれになっていく。あとで鬼に返すと言っているのに随分と粗っぽく扱ってくれる。しかし注意する気にもならなかったので、刑香は苦笑いをしつつも好きにさせておくことにした。この上下関係を気にしない性格がこの天狗の魅力であるのだから。そんな刑香の心中を知ってか知らずか、はたては宝探し気分で古びた壺を財宝から掘り出していた。

 

 

「よっと、『河童の秘薬』を見つけたから塗ってあげるわ。天狗製じゃないのはちょっと不安だけど」

「そんなものまで含まれてたってことは、この山は妖怪、人間問わずに鬼が略奪して集めた財宝ってことかしら。それ、呪われてないでしょうね?」

「仮にそうだとしても、あんたに呪いは効果薄いから大丈夫よ。多分」

 

 

 開封された薬壺から漂うのは河童の血と妖力の香り。これは彼女らに頼んだところで譲ってもらえる秘薬ではない、おそらく鬼が略奪した品だろう。そう考えると財宝の中には天狗から強奪した物も含まれているのではないだろうか。ますます危険な代物に見えてくる、刑香は軽い頭痛を感じ始めていた。しかし、はたてに天狗装束を掴まれたことで正気に戻る。何をするつもりだろうか。

 

 

「なんで私の装束を捲り上げてるのよ」

「薬を塗るのに邪魔だからに決まってるでしょ。ほらほら、隠してあげるからグダグタ言わずにさっさと脱ぎなさい」

 

 

 ここは天下の往来である。

 住民は残らず避難して影も形もないが、周りに身を隠すものもない。それに今はさとりの指示を受けて、鬼たちが復興活動の真っ只中なのだ。建物の残骸を一軒丸ごと担いで行く者、未だに炎が残る地帯を素足で鎮火させていく者、早くも家屋を建て直している者までいる。普段は酒と喧嘩しかしない種族とは思えない手際の良さ、残念なことに彼らのほとんどは男性であった。帯をはずしてくる親友の動きを全力で阻止する。

 

 

「せめて建物の中とか、人目のない場所があるはずなのに。なんでこんな見晴らしの良いところで裸にならなきゃ…………ほ、ほんとにやる気なの?」

「無事な家屋がどこにあるのよ、どれも崩れそうな燃え残りばかりじゃない。さっさと処置をしておかないと、あんたは『能力』が削られていく一方でしょうが」

 

 

 シュルシュルと帯を外されて奪われた時、刑香は早々に諦めそうになった。はたては一度言い出したら聞かないところがある。一応は翼を広げて周囲から身を隠してくれるのは助かるが、屋根の上に登って作業している鬼からは丸見えだ。文に助けてもらおうとも考えたが、こんなことのために彼女の眠りを妨げたくはない。それに面白がって向こうに加勢する可能性がある。べったりと両手に塗り薬を付けて詰め寄ってくる友人が、少しだけ鬼に見えた。

 

 

「さあさあ、あんたのためなんだから諦めなさい。それとも脱がせて欲しいわけ?」

「…………いつかやり返してやるから、覚えておきなさいよ。絶対にお返ししてやるから、十年以内くらいには必ず」

 

 

 もう観念した方がよさそうだ。肩から装束をストンと落として、上半身だけを晒すことにした。今はサラシを巻いていないので、申し訳程度に胸だけは腕で隠しておく。周囲から瓦礫を運ぶ音や金槌を打つ音が消えて、代わりにヒソヒソと何かを呟く声が聞こえているのは気のせいだろう。そうに決まっている、刑香は地面を見つめて現実から逃げることにした。

 

 

「へー、刑香はやっぱり綺麗よね。文はあんたのことを可愛い系みたいに言ってるけど、私は綺麗系だと思うかな」

「そんなことないから、はやく終わらせてよ。無闇やたらに肌を見られるのは好きじゃないわ」

 

 

 その真っ白な肌に走るのは赤い切り傷や青い痣。やはり身体が真っ白なだけあって、他の者より怪我が痛々しく目立つ。その傷の上から、はたては念入りに透明な薬を塗り込んでいく。千切れた腕を繋げることすらできる河童の秘薬を使ったなら、外側にある大半の傷はこれで治るはずだ。

 

 

「ところでさ、刑香は自分が産まれた時のことは覚えてる?」

「…………うぅ、また妙な質問をしてくるわね。私は小さい頃のことは覚えてないの、物心ついたら山で暮らしてたから。というより身元がはっきりしてるのって、私たちの中だと文くらいじゃないの?」

「そう言われたらそっか、アイツはカラスから天狗になった部類だもんね。ゴメン、変なこと尋ねたわ。おりゃっ!」

「ぃ、痛ぁぁぁっ!?」

 

 

 また薬をべったりと付けて、それを正面から白い肌に塗り込んでいく。しかし腰のあたりから徐々に上へと手のひらを上げていくと嫌がられたので、そこから先は刑香本人に任せることにする。とはいえサラシがないので、平らな胸を隠すので刑香は精一杯らしい。なので、はたては自分たちを覗いている鬼たちを追い払うことにする。さとりから聞いた話はまた後で文を交えて相談すればいい。薬を塗り込んだ箇所に包帯を巻いたあげた後、茶髪の天狗は葉団扇と妖刀を掴んで大地を蹴った。完全武装で鬼を払う、覗きに容赦は無用だろう。

 

 

「そういえば、私ってどうやって産まれたんだろ…………?」

 

 

 不届きな鬼たちを吹き飛ばしていく親友を見上げながら、刑香はポツリと呟いた。

 

 妖怪には様々なルーツが存在する。元人間だったもの、旧き神が堕ちたもの、自然そのものが形を成したもの。

 それは天狗とて同じである。深山にて神通力を身につけ変じた者、元はカラスや狼であった者、そして天狗から産まれた天狗など、その誕生の道筋は一つではない。ならば自分はどのように生まれ落ちたのか、その問いが刑香の心に疑念を募らせていた。

 

 唯一思い出せるのは耳の奥で、波のように揺れる先程の子守唄。川のせせらぎに紛れては消えていく女性の声、これは誰なのだろう。とても優しい声で自分のために歌ってくれているのは、一体何者なのだろうか。

 

 

 おぼろ気な記憶を辿ろうとした刑香だったが、はたと己の現状を思い出す。まずは服を着ることにしよう、このままでは恥ずかしくて堪ったものではない。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 傍迷惑な喧嘩の幕は閉じた。

 土蜘蛛が焚き付け、鬼の四天王が乗ることで引き起こされた戦い。それは天狗と吸血鬼、そして名もなき門番が打ち勝つという異色の結末を迎えた。

 

 その被害は大きい。

 旧都を一文字に貫く大通りは瓦礫に溢れて、未だに白い煙を上げている箇所もある。こうなると灼熱地獄のフタが開いてしまったのかと思えてくる、それほどにふざけた景色が広がっている。そして壊された建物の中には有力な妖怪たちの持ち家が含まれていた。なので鬼たちが建て直しに奔走する中、パルスィは鬼のような形相で元凶の土蜘蛛を締め上げていた。

 

 

「ヤマメぇっ、私の橋どうしてくれるのよ!!」

「痛い痛い痛いっ、それ痛いからっ!!?」

「しかも私の家までぶっ壊れてるじゃないっ。あんた、私に恨みでもあるの!? 私はありまくりよ、妬むどころか頭から爪先まで呪ってやろうかしらねぇっ!」

「ちょ、待って、何か物凄く頭が熱いんだけど!?」

 

 

 首を鷲掴みにしてヤマメを振り回している姿は冷めたパルスィの性格からは想像もできない。

 しかし、ヤマメはこの喧嘩を引き起こしたある意味の元凶である。そのせいでパルスィの橋は水没したのだから怒りは当然だ。さらに旧都を見回してみると、あろうことか家までぺしゃんこにされていた。勇儀が柱を引っこ抜いて潰れた建物の一つに入っていたのだ。それを見て、パルスィの堪忍袋の緒は派手に切れた。

 

 

「き、キスメッ、助けてよぉ!!」

「ごめん、ちょっと無理」

「うひゃぁぁっ…………おおぉぅっ!?」

 

 

 勇儀に悪気はなかったし、鬼という種族の理不尽さはパルスィも知っている。彼女らに謝罪を求めても無駄である、ならば怒りの全ては大元の土蜘蛛に向かうしかない。よほど頭に来ているのだろう、すでに泣き顔になっているヤマメを壁に追い詰めて何らかの呪詛を呟いている。それでも本気で能力を使っていないあたりは手加減しているとも言えるかもしれない。

 その光景をチラリと見ていたさとりは、ヤマメへの仕置きはパルスィに任せようと決断した。とばっちりを受けては敵わない。

 

 

「随分と、騒がしいねぇ」

「呆れますね、まだ口が利けるのですか。街をこんなにした罰として、できれば彼岸に片足を突っ込んでいて欲しいものです。三途の川までピクニックはいかがですか、鬼の大将さん」

「く、はっ…………笑わせないでくれよ、相変わらず冷たい奴だ。重傷の顔見知りにかける一言目がそれとは、この勇儀よりも鬼らしくて恐れ入る」

 

 

 さとりの眼下には鬼たちによって手当てをされた勇儀が寝転がっていた。腹に溜まった血は全て吐き捨てて、ぽんやりと隻眼で周囲を見つめる鬼の御大将。その刀傷や打撲には薬と包帯が、気と能力によるダメージには別の秘薬が施されている。部下たちの処置は意外にも的確なものであった、おそらく元人間の鬼が混ざっているためだろう。まあ、さとりとしても勇儀に死んで欲しいわけではないので助かった。

 

 

「私が欠片でも仲が良いと見なしているのは、そこで土蜘蛛を振り回している橋姫だけですよ。もっとも彼女が私をどう思っているのか分かりませんが」

「お前が『分からない』とは珍しいねぇ、確かめるのが怖いのか? 友人なんてのは自分がそう思ったら相手がどう考えていようが関係ないもんさ。だからお前とパルスィは友だよ、私が保証して…………ごほっ!!」

 

「だ、大丈夫か大将!?」

「俺は目玉だろうが腕だろうが、大将のためなら惜しくねえぞ!」

「それならアタイは角と内臓をくれてやるさ、だから生きてくれ大将ぉっ!」

 

 

 駆けつけた部下たちが勇儀を介抱する、随分と慕われているものだ。肝心の勇儀には「さっさと作業に戻りな」と追い払われているが。そんな様子を眺めながら地霊殿の主は交わした言葉の意味を考えていた。

 

 こちらが見なせば『友』となる、それは何とも身勝手な話。一方的に喧嘩を売って、傷つけ合い、暴れまわって、そして戦いが収まれば敵意を捨てて相手を友として扱う。そこに他者の意見は必要なく、全ての基準は自分の中にある。サードアイで覗いてみた彼女たちの精神はどこまでも純粋だった。さとりは少しだけ口許を緩ませる。

 

 

「ふ、ふふっ、その論理だと如何なる妖怪や人間とも友達になれるじゃないですか。私でも地底に住む全ての者と友人関係になれそうです。まあ、そんなにいても邪魔ですけど」

「おいおい、最後の一言が余計じゃないかい?」

「うるさいですよ、鬼の頭目さん」

 

 

 きっと今日の喧嘩は語り継がれるだろう。旧都の住人たちの手で脚色され、いずれは地底の歴史となる。星熊勇儀の伝説、その一つとなって光輝くことになる。それは敗北であろうとも関係はない、それもまた彼女の武勇伝となって受け入れられる。そうして鬼はますます住民の恐れと羨望を集めていくのだ。

 その生き方には裏表がなく、いつも華々しく大勢の心を惹き付けて離さない。彼女たちの起こす快活劇の前ではどんな舞台演者も霞んでしまうことだろう、だからこそ無法者だらけの地底で慕われる。

 

 

「さとりの姐さん、こいつは何処に運びましょうか?」

「ああ、その柱たちは一旦あちらの広場に集めてください。あとで別の建物の補修に使います」

「了解ッス」

 

 

 二階分はあるだろう巨大な柱を数本まとめて担いだ魁青が通り過ぎていく。

 彼は勇儀が気を利かせて、さとりの補助役に指名した青鬼の青年。基本的に鬼たちは自分の命令など聞くわけがないのだから助かった。あの青鬼は数少ない、さとりの話が通じる相手である。彼を選んでくれたあたりに、鬼の棟梁としての勇儀の判断力が伺えた。さとりは『再建用』と銘打たれた見取り図と旧都を見比べながら、魁青を通して他の鬼へと指示を広げていく。

 

 

「建て直しに使うための設計図とは、随分と準備がいいねぇ。もしかして今日、地底がこうなる運命だったことを見通していたのかい?」

「正直なところ、いつかやるだろうなと考えていました。それが昨夜とは思いませんでしたけどね、運命なんて上等なものではありませんよ」

「なら見事に私はお前の期待に応えたってことだな。どうだい記念に酒でも呑まないかい…………いっ、傷を蹴るのは反則だろう!?」

「私、けっこう怒ってますよ?」

 

 

 快活に笑おうとした勇儀を爪先で蹴りあげる。

 内臓の半数近くが『破壊』されているという話だったので、脇腹を狙ったのだが見事に痛がってくれた。初めて復讐に成功した気分である、精神が少しだけ晴れやかになったのを感じた。その様子を見て震えだした鬼どもを無視して、さとりは歩き出す。しかし爪先を痛めてしまったらしくその足取りは覚束ない、思わぬ鬼の反撃に涙が出そうだった。

 

 

「まあ、あとは土蜘蛛を加えれば旧都の方はどうにかなりそうですね。さしあたって残りの問題は彼女たちの治療と、地上にいる賢者たちとの会合ですか。後者はとても不愉快ですが、仕方ない」

 

 

 姫海棠はたてとの約束通り、地霊殿の小さな主は地上を訪れるつもりだった。あちらが地底に歩み寄ってきている以上、一度話を聞いてやった方がいい。それから関係を変えるのか、変えないのかを判断するべきだ。

 

 

「明日にでもスペルカードルールについて、これからの幻想郷について冗談混じりに意見を交わすとしましょうか。その間、使者の皆さんには温泉でも堪能してもらえばいいですかね。傷にも効果がありますし」

 

「も、勘弁して……」

「ふ、ふふふ、その表情は悪くないわ。もう少し遊びましょうよ、ヤマメ」

 

 

 ぶつぶつと独り言を呟きながら覚妖怪の少女は、土蜘蛛を追い詰めている橋姫へと近づいていく。お供にパルスィを連れて行こうと思ったのだ。どうやって話しかけようか、不審に思われたりしないだろうか。自分の隣にフワフワと風船のように浮かぶ少女には気づかずに、そんなことを考えていた。

 

 そして鴉羽色の帽子を被った少女は翡翠の瞳を瞬かせ、そっとピンク色の唇を姉の耳元へ近づける。

 

 

「頑張ってね、お姉ちゃん」

 

 

 その声が果たして届いたのかは、また別のお話。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十五話:星々は流れ流れて、巡り会う

 

 

 あの喧嘩から一日が経過した。

 建て直しの音が鳴り止むことのない旧都、鬼と土蜘蛛たちは昼夜を問わずに働かされている。不満だらけの妖怪たちだが、さとりの指示の下で街並みはわずか一晩で見違えるほどに再興していた。

 金棒の代わりにトンカチを振るう鬼、糸をクレーン代わりに利用されている土蜘蛛。彼らは口々に「何でさとり妖怪の命令なんか……」と愚痴垂れているが、古明地さとりの背後には勇儀がいるのだから仕方ない。この地底において上下関係は絶対なのだ。

 

 

 

 

「不満とついでに汗水垂らして、大妖怪たちは働かされているのでしょうねぇ。のんびりと湯治にいそしむ我々と違って大変そうです」

「今更だけど、そもそも鬼と戦う必要はなかったのよね。…………ヤマメとかいう土蜘蛛め、覚えてなさいよ」

 

 

 さとりに勧められて辿り着いた地霊殿。

 白と黒の天狗少女、刑香と文はその敷地内に湧いている温泉でのんびりと身体を休めていた。先に二人だけで来たのだが、そこは昨日の激闘がウソのように静かな空間だった。

 

 どこからか迷い込んできた雪の花弁を、白い少女は盃一つにて受け止める。透明で冷たい氷の子供は水面を揺らして、そのまま酒の波へと遊ぶように溶けていく。

 

 そんな雪の欠片を見送ってから、刑香は盃を傾けた。喉を焦がす鬼自慢の酒、普段なら遠慮するコレも冬空の下で飲むには丁度いい。霧のような湯気が辺りを覆い、身体を温かな熱が満たしていた。

 

 

「…………悪くない、かもね」

「ええ、本当に極楽ですねぇ」

 

 

 ゆるんだ表情の文が同意する。

 見上げた先には星の流れぬ空、日と月の移ろわぬ地底の天井。光一つない夜空が広がっているが、たまには黒の一色に彩られた酒の席も悪くはない。乳白色の湯船に肩まで浸かり、空を仰ぎながら刑香はため息をついた。

 

 きっと人間には『毒』だろう。

 妖気の溶け込んだ乳白色の湯は肌によく馴染み、ぬるりと纏わりついてきた。熱い源泉が温泉の真ん中から吹き出しており、周囲に設置された竹筒からは冷水が注がれている。各自でちょうど良いと思える境界を見つけて座り込むことができる構造らしい。それはありがたいのだが、体温の低い自分は一番ぬるい外側にいるだけで十分だ。岩場に背を預けて湯につかる。

 

 

 ―――天晴れ見事、御大将。

 

 

 今の旧都は、そんな勇儀の武勇伝で持ち切りらしい。

 地底の新聞らしきモノには『五対一、多勢に無勢にても一歩も引かず』という見出しと共に勇儀が写真入りで載せられていた。どちらが喧嘩を制したのか書いていないし、このタイトルでは分からないだろう。どうやら地霊殿の主が手を回したらしい。鬼の頭目に勝ったという話が広まれば、余計な騒ぎを生んでしまう。それを避けるため、そして喧嘩っ早い連中から刑香たちの身の安全を護るためである。

 

 

「まあ、喧嘩の勝敗が知られていようが知られていまいが、どうでもいい話よね」

「同感です。鬼の四天王と戦っただけでも災難なのに、その上で勝利したなどという噂が広まっては二次災害を引き起こしそうです」

「勝っても負けてもロクなことがないわね。本当に損したわ、こんなに傷だらけにされるし」

「そのわりには嬉しそうですよ。ひょっとして萃香様に負けた時から引きずっていた悩みの種、ようやく断ち切れましたか、刑香?」

 

 

 聞こえないふりをして、刑香は温泉を見回した。

 竹を重ねた壁に囲まれていて、まったく景色は見えない。しかし風情を補うために、壁に沿って花を咲かせる樹が何本も植えられていた。季節によって香る花が変わる、趣味の良い露天風呂であった。「帰る前に取材しておこう」と刑香は心に決める。そしてフランや美鈴、はたて達もそろそろ合流するだろうなと両腕を上げて伸びをした。ニヤニヤと怪しい笑みを浮かべて、文が口を開く。その目線は首より下に向けられている。

 

 

「少しは成長しました?」

「見ての通りよ、見ての通り。情けないくらいに変わってないだろうけど、何なら計測してみる?」

「あやや、それなら遠慮なく隅々までじっくりと…………あ痛っ!?」

「冗談に決まってるでしょうが!」

 

 

 妙な手の動きで近づいて来た親友を蹴り飛ばし、刑香は湯に浸かる。汗ばんだ肩は火照り、真っ白な肌は人並みの熱を宿していた。昨日は痛みで眠ることさえ困難だったが、温泉から染み込んでくる妖力のおかげで随分と良くなった気がする。中身はともかく外側の傷は癒えてきた。身体に巻かれた包帯を外して岩の上に乗せていく、白く濁った湯に隠れるようにして全てを取り終えた。

 

 ちらりと隣の親友へと視線を移してみると、気持ちよさそうに湯船に半身を浮かべていた。力加減はしたのでダメージはなかったようだ。眠っているかのように目を閉じて静かな呼吸を繰り返す文、そんな油断しきった姿が可笑しくて刑香は思わず声をかける。

 

 

「ねえ、文」

「何ですか、刑香?」

「呼んでみただけよ」

「そうですか」

 

 

 短い返答だけをして、再び赤い瞳を閉じる文。

 昨日の騒然とした戦いが嘘のように穏やかな時間が流れている、それを刑香は全身で感じていた。胸元を流れていく水滴がくすぐったいので、そのまま首元まで浸かることにする。まるで夏の日差しを浴びているかのような暖かさだった。しばらくそうしていると、刑香は真っ赤な椿の花が顔のすぐ横を漂っているのに気づく。

 

 その花をお湯ごと掬い取る。

 顔を近づけると良い香りが頭の芯にまで届き、鮮やかな色合いが目に染みる、見事な椿であった。『死』に関する言い伝えを擁している花、まるで首を刈られるように落下する姿が不気味に思われたためだろう。古に生きた者たちは死神の気配を一輪の花に感じたのだ。

 

 だが『死を遠ざける程度の能力』を持つ刑香には通じるはずもない。掌から水面に戻したソレを黒い友人の方へ、ゆらりゆらりと押し流す。それに合わせて言葉を紡ぐ。

 

 

巨勢山(こせやま)の、つらつら椿、つらつらに」

 

 

 春に咲く椿を褒め称える万葉歌。

 白い少女に風流な歌を結びつけられ、温かな波に乗って進む一輪の花。風に揺られて流される、香り立つ手紙を黒い少女は優しい手付きで掬い上げた。どうやら眠ってはいなかったらしい、文は少し考える素振りを見せてから返歌を添える。

 

 

「見つつ(しの)はな、巨勢の春野を」

 

 

 そして花の舟を今度は刑香の方へと流し返した。

 遥かな古を生きた人間が読んだ歌、そんなものを覚えている者は天狗社会にも少ないだろう。『四季桃月報』を書いているだけあって、刑香はそういった四季の歌にも詳しいらしい。妹分からの小さな挑戦をいなした文は「まだまだ負けませんよ」と笑う。言葉遊びもたまには愉快なものだ。

 

 心も身体も解きほぐされている、今なら話せるかもしれないと刑香は判断した。空色の瞳を曇らせつつ、昨日から心につかえている言葉を吐き出す。

 

 

「文は、天狗として産まれる前の記憶はある?」

「…………どうしたのですか、急に?」

 

 

 僅かな沈黙を挟んで、黒髪の少女は問い返す。その瞳には警戒するような色がある。それは親友としてではなく、たまに見せる組織の一員としての顔つきだった。穏やかな気配が鋭く切り替わったのを感じつつ、刑香は続ける。

 

 

「もしかして誰かの使い魔だったとか?」

「さあ、どうでしょうか。そうかもしれないし違うかもしれない。謎が多い女ほどモテるという話なので、秘密にさせて欲しいところですねぇ」

「ふーん、やっぱり誤魔化すんだ」

 

 

 単なるカラスから変じた天狗にしては、射命丸文は優秀すぎる。『幻想郷最速』の鴉天狗、並の鬼相手なら単独で打ち破ってしまう戦闘能力、天魔の側近にまで登り詰めた手腕。いずれも凡俗な天狗とは一線を画している。もしかしたら天狗に変じる前は、高名な妖怪の『使い魔カラス』だったのかもしれないと刑香は疑っていた。どうして自分に話してくれないのかを含めて。

 

 

「教えてくれないの?」

「まだ秘密です。まだ知る必要はありませんよ」

「そっか、ならいいわ」

 

 

 やんわりと拒否されてしまった。

 「これ以上は立ち入るな」と暗に示されているのだろう、しかしこの話の本題はここからだ。濡れた白髪を後ろに流して刑香は真っ直ぐと文を見つめた。立ち込める白い(もや)に遮られて尚、青々とした光を宿す夏空の碧眼が文を射抜く。

 

 

「私の場合はね、何だか記憶が『遠い』のよ。確かにあるはずなのに手を伸ばしても届かない、もどかしくて嫌になるわ。どんなに頑張っても霞んだままだから、今までは気にしないようにしてきたんだけどね」

「思い出せないのではなく、『遠い』と来ましたか」

「もしかしたら誰かの『能力』に妨害されているのかもね。まあ、わざわざ私にそんなことをする理由は分からないけど」

「頭の中を弄られているかもしれないのに、相変わらず普段通りですねぇ。その冷めたところは刑香の長所なのでしょうが…………それで、私に何を尋ねたいのですか?」

 

 

 記憶の奥底には、波の打ち寄せる音と子守唄。

 ぼんやりと浮かぶ情景は心もとない。資料のような紙切れが山積みにされた部屋、向こう岸が見えない川、それらが煙のように揺れては消えていく。昔から気になっていたが、組織での扱いや追放された後のゴタゴタで考える暇がなかったのだ。しかし昨日、はたてから『自分と同じ家名を持つ存在』について尋ねられたことで興味は再燃した。

 

 

「白桃橋迦楼羅(かるら)、この天狗に覚えはない?」

「……どこでその名を知ったんですか」

「はたてよ、はたて。アイツもさとり妖怪から聞いたみたいだけどね。アンタは組織で顔が広いでしょ、ちょっと探してみてくれないかしら?」

「…………」

 

 

 親友からの答えは沈黙だった。

 その赤い視線は虚空をさ迷い、口元は固く閉ざされている。その仕草は『何か』を知っている証であり、それは何かを深く考えている時に彼女がする癖であった。ため息を吐きつつ、手持ちぶさたな刑香は鬼の酒を煽った。彼女を困らせるつもりはなかったというのに、これは失策だったかもしれない。そうして少しばかり俯いていたが、パシャパシャと誰かが近づいてくる音を聞いて顔を上げる。

 

 

 

「お二人とも、その話はまた後日にしてもらえませんか。どのみち二人だけでどうにかできる事柄ではありませんよ、根が深すぎます。火種をまいた私が言うのも難ですけどね」

 

 

 

 沈黙を破って介入してきたのは古明地さとり。

 どうやら一部始終を眺めていたらしい。あまりにも無配慮な少女へと鴉天狗たちが渋い顔をする。初めて会った時もそうであったが、この妖怪は空気や流れを断ち切ることをわざとしている気がする。刑香はタオルがしっかりと巻かれたさとりへと、心底面倒くさそうな視線を向ける。一方のさとりは刑香と文を交互に見比べてから、安心したように微笑んだ。

 

 

「良かった、ある程度は回復しましたか。なら貴女たちにお話があります。あの子を連れて帰ってきてくれたお礼もありますし、まずは私の提案を聞いてもらえませんか?」

 

 

 タオルで桃色の髪を纏めた少女。

 昨日までの影が差した表情はなく、幾分か和らいだ笑顔がそこにあった。良いことがあったらしい、何年も離ればなれだった家族と再会したと聞いた。それは家族のいない刑香としては、羨ましい限りの話だった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 正直にいうならば、古明地さとりは少女たちに目を奪われていた。なかなか出ていかなかった理由、それは二人をゆっくりと眺めていたかったからでもある。同性に対してそういう趣味はない、それでも二人には地霊殿の主を惹き付けるだけの魅力があった。

 

 

 ――きっちりと装束を着込んでいる時も思いましたが、こうして一糸纏わぬ姿を見てみると尚更ですね。

 

 

 さとりとは違い起伏に富んだ身体に、スラリと伸びた四肢。濡れ鴉のように魅惑的な黒髪を持つ射命丸文。

 白く澄みきった肌と髪色。そして華奢ではあるが決して弱々しくはない、しなやかな身体つきをした白桃橋刑香。

 

 

「ふふっ、あなた達のような天狗になら、人間たちは喜んで『神隠し』に合うでしょう。妖怪ではなく天女とさえ誤解するかもしれません。天人の実物はともかくとして、あなた達は魅力的ですね」

 

「どうでもいい世辞は要らないわ、要件を言いなさい」

「まったくです、照れるじゃないですか」

 

 

 空色と赤色、二羽分の双眸がさとりを貫く。

 冷たい眼差しという訳ではない、だが友人に向ける親しみの感情は込められていない。先程まで可愛らしく談笑していたのを眺めていたので、今さら取り繕ったところで効果はなかったりする。まだ冗談を言っている黒い少女を睨む白い少女、さとりは彼女を視界に収めて今度は怪しげに微笑んだ。

 

 

「今回のことで、私は地上との連絡役が必要だと痛感しました。そして昨日、あの鬼族から信頼を獲得した者たちがここにいる。単刀直入に言いましょう、三羽でこのまま地底に留まるつもりはありませんか?」

「つまり、あんたの部下になれってこと?」

「山から追われたあなたにとっては、悪い話でないはずです。そのまま地上にいても、あなたは他の二人と一緒には過ごせないのでしょう?」

「…………それは、そうかもね」

 

 

 それは願ってもない申し出だった。

 吸血鬼異変が終結し、傷つき倒れた刑香が目を覚ましたあの日に文が口にしたおとぎ話。また昔のように三人一緒にいられる方法、それが『地底で暮らすこと』だったのだ。ここなら天狗衆の力は及ばない、地上の賢者たちも易々と手を出せない。地底は追われた者たちにとっての楽園だ。

 

 

「もちろん山と八雲のトップには私と勇儀から話を通しておきますし、この地底での身分も保証します。私の配下でかつ勇儀の友として扱われるなら、何一つとして不自由のない生活が可能でしょう」

「あややや、随分とこちらに都合の良い話ですね」

「あなた達を評価している証ですよ。そして白桃橋刑香にとって、このまま地上で暮らすのは危険なのではないですか?」

「…………それは、そうかもしれません」

 

 

 揺れ動く二人の心が、さとりには分かる。

 幻想郷最大の勢力から目をつけられている刑香。いくら八雲紫の加護があろうとも、その隙をついて『神隠し』に会わないとも限らない。彼女の微妙な立場から考えるに、再び組織へ連れ戻されれば今まで以上に厄介なことになるのは想像に難くない。

 それに親友たちとの平穏な暮らしを何よりも望む文。以前から彼女は『地底への移住』を考えていた、残された時間を大切に生きていくための場所を求めていた。さとりの申し出はその全てを叶えるだけの希望がある。

 だから断られる理由などない。

 

 

「遠慮するわ」

 

 

 その予想を打ち砕き、白い少女は否定の言葉を古明地さとりへとぶつけた。わざとらしく、さとりは首を傾げる。

 

 

「白桃橋刑香、あなたには良い話だと思いますが?」

「私はともかく、文とはたては地上で暮らしてした方がいいに決まってるわ。わざわざお日様から距離を置く必要なんてない。それにね、もう私は八雲紫に味方することを約束したのよ。だから、悪いわね」

「それは残念です」

 

 

 はっきりとした口調だった。

 まだ心が波立っているにも関わらず、刑香は目の前にぶら下げられた希望を遠ざける。予想外というわけではい、『そういう可能性』もさとりは考えていた。友人二人を巻き込みたくないという想い、そして自分を必要としてくれた妖怪への義理。それらが刑香一人の希望を上回っただけのこと。

 

 さとりはサードアイの瞳を細めた。姫海棠はたてもそうだったが、この鴉天狗たちの心は覗いていて、むず痒いほどに真っ直ぐだ。それはきっと三羽同士の間だけ、それでも三羽だったからこそ今の姿があるのだろう。パルスィでなくても妬ましくなるほどに。

 

 

「答えは出たようですね、ならばこの件は終わりにします。ああ、ですが私が地上に行く際には道案内を頼みますよ。賢者たちが集まる場所なんて知りませんから」

 

 

 伝えるべきことは伝えたので、さとりは二人から離れていく。これ以上はこちらが耐えきれない、彼女たちの心を見ていると思わず頬が緩んでしまう。そして同時に、その繋がりを掻き乱したくなる衝動に駆られるのだ。実に妖怪らしい欲望、浅はかな思念を押さえ込んだ地霊殿の主は「困ったものです」と苦笑した。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 あとはお二人でお楽しみくださいと、ありがたい言葉を残して地霊殿の主は離れていった。そして白黒の少女たちの間に再び静寂が訪れる。

 

 

「ごめん、文」

「謝る必要はありませんよ、刑香」

 

 

 お互いの名を呼ぶ。

 それだけで自分たちは通じ合える、そんな気がしていた。文は刑香の決定に何一つ異議を挟むことはなく、刑香は「迦楼羅(かるら)」という天狗について文を問い詰めることはしない。お互いへの信頼が勝っている故に、これより深く追及する必要性を感じない。やはりこの友人の隣は心地よい、文は刑香へと肩を寄せた。

 

 

「何よ?」

「さっきの申し出を断った理由には、博麗霊夢のことも含んでいたりしますか?」

「否定はしないわ、私の帰りを待ってくれている子を裏切ることはできないし。だってあんな風に『いってらっしゃい』なんて言われたの、初めてだったんだから」

「ああ、まさか千年来の親友を、出会って一年足らずの人間に盗られるなんて。この射命丸文が生きてきた限りで最大の不覚です」

 

「…………別にあんたを蔑ろにしたわけじゃないから」

「あ、珍しくデレました?」

「うるさいわよ、千年来の親友さん」

 

 

 くくくっ、とお互いに笑う。

 のぼせた頭に鬼の酒、浮かぶ景色は椿の香り。からかい合って支え合って、飛んで歩いてきた千年間。途中ではたてが加わり、最近はスキマ妖怪や博麗の巫女がやってきた。そして今度は紅魔館や地底の者とも繋がり、二人だけの輪は随分と賑やかになったものだ。

 

 もうすでに折り返し地点は過ぎた。少なくとも刑香にとって残り時間はあまりない、文も何となく感じていた。そのまま『死』を受け入れるのか、それとも足掻くのかは刑香次第だ。自分は望まれるままに手を貸そう。天界の桃、仙術や不死の霊薬など、寿命を延ばす方法はいくらでもあるのだから。

 

 そんなことを考えていると、脱衣場の方が騒がしくなってきた。勢いよく引き戸を開いて、他の妖怪たちが合流してくる。先頭はやはり茶髪の天狗だった。

 

 

「文も刑香も、私を置いて先に行くなんて酷いじゃないっ。確かに地霊殿を探検したかったのは私だけどさ、無視するのは酷いでしょ!」

「ま、まあまあ、姫海棠さん。刑香さんと射命丸さんは鬼との喧嘩でお疲れでしたから」

「ねー、美鈴、これがお風呂なの? どこで薪を燃やしてるのかなぁ?」

「この温泉は地獄から涌き出てくるものだから薪は要らないよ、普段はお空が管理してるんだけどね。あっ、お姉ちゃーんっ!」

「こらっ、こいし。きちんとタオルを巻きなさい!」

 

 

 近づいてくる賑やかな四人組と迎える姉が一人。

 整然とした空気は破られ、ここからは騒がしくなるだろう。やれやれと文が肩をすくめていると刑香が赤い盃を持ち上げた、そしてこちらへと視線を寄越してくる。「なるほど」とそれを察した文も同じように自分の盃を掲げた。夏空の碧眼と夕焼け色の赤眼が交差する。

 

 

「あんたがいなかったら、私はきっと何一つ得られなかった。貴女がいたから仲間ができた、今まで生きて来られた。まあ、イタズラは勘弁だし私への秘密も多いみたいだけど」

「私はあなたと出会わなくても、独りで生きて来られたでしょう。しかし貴女との時間は私にかけがえのないモノをもたらしてくれました。まあ、厄介ごとも山のようにありますが」

 

「でも、ともかく」

「ええ、ひとまずは」

 

「「この得難き友に感謝を」」

 

 

 カシャンとぶつかり合う盃が、自分たちを祝福するように音を響かせた。お互いが口にするのは地底の銘酒、それを刑香も文も朱色に染めた頬で飲み交わす。そして即座に顔を背ける白い鴉天狗、どうやら自分から仕向けたくせに照れたらしい。

 

 

 今日はよくデレてくれますねぇ、そんなことを考えながら射命丸文は優しげな表情で微笑んだ。

 

 

 




このたび、ほりごたつ様執筆の『東方狸囃子』にて刑香が登場する番外編を掲載していただきました。
ご興味を持たれた読者さんでお時間がある方は、よろしければ足をお運びください。そしてお手数ではありますが、その際の注意事項を四つほど。


①あくまでも本編ストーリーとの関わりのないパラレルワールドのお話となります。
②世界観は『その鴉天狗は白かった』ではなく『東方狸囃子』となります。文章自体もドスみかん作ではなく、ほりごたつ様作となります(一度チェックはさせていただいております)。
③オリジナルキャラクター同士が出会う場面もあります。個人的には両作品を尊重した良いお話だと思っておりますが、この手のコラボを苦手とする読者さんはご注意ください。
④ほのぼの要素がメインの日常系のお話です。



それでは、暖かい目で読んでいただけたなら幸いです。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十六話:千里同風にあらずして

 

 

 遠い遠い祭囃子の音。

 さざ波のように押し寄せては、和太鼓と竹笛が賑やかに旧都を満たす。道行く誰も彼もが、その音色に惹き寄せられていた。そんな華やかな雰囲気の中、白い鴉天狗は喉が焼けるような熱さを秘めた酒を呑み下す。それは傷の痛みを誤魔化すためであった。

 

 

「相変わらずとんでもない度数だけど、慣れたらそれなりに呑めそう。…………そんなわけないか、けほっ」

 

 

 苦しげに咳き込む刑香。

 往来にある店、その縁側に少女は腰掛けていた。このあたりは喧嘩の中心になった街道から、地霊殿を挟んだちょうど反対側に当たる。運の良いことに被害はここまで届かなかったらしく、ほとんどの街並みは無傷であった。

 

 

 ――思ったより復興には時間がかかりそうです。あなたたちは街を歩き回ってヒマを潰してください。ケンカの記念として祭が行われているので、見物にはちょうどいいでしょう。

 

 

 そんなありがたい言葉を送ってきた地霊殿の主。相変わらず眠そうな表情で、古明地さとりは事務的に刑香たちへと『観光』を進めた。正直なところ、復興の指揮を取るのに刑香たちが邪魔だったのだろう。

 

 

「けほっごほっ…………。さ、幸いにして、遊ぶための資金には困ってないから良かったわ。本当に文の悪知恵には助けられたかもね」

 

 

 夏空の瞳に光る雨粒が一つ。

 それを拭った刑香は、落ち着いた鴉羽色の浴衣をそよ風に波立たせていた。袖口には星の刺繍が刻まれ、白を際立たせる『黒』に染められた新品の浴衣。

 

 これは旧都にて買ったモノで、鬼によって血塗れにされた天狗装束の代わりである。上質な絹と高価な金糸の細工は見事で、貧乏天狗の手の届くような一品でないことは明らかだった。では、どうやって入手したのか。

 もちろん鬼の財宝を使ったのだ。あれは結局、文の提案である「地霊殿に丸ごと預ける」が採用されることになった。こうして旧都に置いておけば、地上の賢者たちが関わることは難しくなる。あとは訪れる時にだけ引き出せば、何百年でも遊んで暮らせる額の貯蓄の出来上がりである。

 

 さとりは死ぬほど迷惑そうな顔をしていたが、フランとこいしが押し切った。その一連の流れは子供をたぶらかしたブン屋の策略であることを刑香は知っている。

 

 

「あんなに黒い笑みを浮かべたアイツは久しぶりに見たわ。相変わらず悪知恵とイタズラ心は健在なんだから…………。ねえ、あんたもそう思わない?」

 

 

 何気ない呟き声に「カァ」と返事が被せられる。声の主は白いカラス、それは刑香の使い魔であった。温泉の取材をするため、地上に置いてきたカメラが必要だったので使い魔に知らせて持って来させたのだ。それから任務が終わっても、中々地上に帰ろうとしないのがコイツであった。刑香は呆れた表情で話しかける。

 

 

「あんたも物好きね、こんなところにいても仕方ないでしょうに。まあ、好きにしたらいいけど」

 

 

 のんびりとカラスは地面をつついている。

 そんな姿を横目で眺めながら、カメラを手に取った。すでに地霊殿の温泉についての取材は終えたので、あとは帰って中身を現像するだけである。磨きあげたレンズは氷のように透き通って見え、良い記事が書けそうな予感がした。

 

 

「忘れられた地底の世界、その果てには椿の咲き誇る秘湯があった…………なんてね。あとはタイトルを決めて、使う写真を選べば完成かな」

 

 

 何者をも拒み続けた旧地獄。

 ここへ足を踏み入れることができない読者たちのために、『四季桃月報』は語るのだ。きっと新聞を読んだ人間たちは、一人一人違った反応を見せてくれるだろう。それが楽しみで仕方ない、そう期待しながら一本歯下駄をぶらぶらと揺らす。

 

 地底の淀みを打ち払うような純白を持つ吉凶の鴉天狗。その無垢な色は、どこか浮き世を離れた不吉な気配さえ漂わせていた。少なくない妖怪たちが往来の真ん中で立ち止まり、品定めするように刑香を見つめてくる。しかし寄り付く者は一人もいない。「勇儀の片目を潰した」ことが知られてしまっているらしい。珍しく恐れられるというのは悪くない気分であった。

 

 

「目はヨイチの『半』。こちらに賭けたのは私だけ、ということでまた一人勝ちですね!」

 

「…………美鈴って、あんな特技もあったのね」

 

 

 店の奥から美鈴の声が聞こえてくる。

 そちらに視線を移してみると、花札やサイコロが畳の上に置かれていた。ここは酒と煙草の匂いがする者たちが集う所、要するに賭博場であった。その中にあって、髪を結い上げ、浴衣の袖を捲ってサイコロを振る美鈴。物腰が柔らかいことを除けば、その姿はどう見ても博打打ちの姉御だった。

 

 

「花札も私の勝ちですね。さあさあっ、きっちりと掛け金を回収しますよ。あ、一文無しの方は着ているモノを脱いでくださいね」

 

「ぐおぉっ、マジなのか!?」

「身ぐるみ剥がすたぁ、人の良さそうな見かけによらず容赦がないぜ……」

「も、もう一回だっ。いいだろ、(ホン)の姉ちゃん!」

 

 

 満面の笑みを浮かべる門番に対して、他の者たちは悲鳴に似た叫びをあげている。連戦連勝、美鈴は今まで向かうところ敵無しであった。『気を使う程度の能力』は、その場の気配を読み取ることも可能なのかもしれない。これならレミリアと組めば無敵の勝負師になれるだろう。

 

 

「姉ちゃん、あんた強いなぁ……」

「まだまだですよ。大陸を放浪していた頃の私はこんなものではありませんでした。ようやく勘を取り戻して来たところです」

「げ、マジかよ」

「王朝が滅びては内乱を繰り返す炎の大地、そんなところを何百年も生き抜いてきましたからねぇ。気まぐれにシルクロードを横断した時に、お嬢様に見つけられたわけですが……。(ウェイ)(さあ)、続きといきましょうかっ!」

 

 

 小銭や財布、着物に至るまで美鈴の元に積み上げられていく戦利品。鬼の宝があるというのに、また金銭を増やしてどうするつもりなのだろう。本人が楽しそうなので良しとするかと刑香が苦笑する。すると、こちらの視線に気づいた門番が、子供のように無邪気な笑顔で振り向いた。

 

 

「刑香さーんっ、一緒にやりませんかっ?」

「博打は昔から苦手なのよ。お金にしても羽にしても、(むし)られるのは好きじゃないから遠慮しとくわ」

「えー、私がいるから大丈夫ですよ!」

「あんたに毟られそうなのよ」

 

 

 ヒラヒラと手を振って断る刑香。

 少し残念そうにした門番だが、すぐに地底の妖怪たちへの略奪を再開する。辞めてよかった、紅魔館の連中に賭け事を挑んではいけないと心に刻み込む。

 ちなみに文ははたてと話があるらしく、ここにはいない。おそらく『どこまで知ったのか』を、文がはたてに問い詰めているのだろう。自分に関することだというのに、仲間外れにされるとは皮肉なことだ。それを表すように刑香の唇は不満気に結ばれていた。

 

 

「そもそも私に身内がいたなら、どうして今まで助けてくれなかったのよ。大天狗たちに能力を削り取られた時も、追放された時も出てこなかった。ふざけてるとしか思えないわ。…………って、どうしたの?」

 

 

 不意に白いカラスが頭に飛び乗ってきた。そして、しきりに羽を擦り寄せてくる。頭を撫でて慰めているつもりだろうか。試しに(くちばし)を触ってやると気持ち良さそうに「カァ」と一声だけ鳴いた。何だか気持ちが落ち着いてきた気がする。

 

 

「へぇー、とっても懐かれてるんだ」

 

 

 こちらを眺めていたのは金髪の吸血鬼。

 そちらに視線を移してみると、いつもの赤いワンピースではなく、桃色の浴衣を纏ったフランがいた。それは茶色のウサギが刺繍された、可愛らしい子供用の絹織りであった。七五三を祝われている子供のようにも思える。

 

 

「ああ、それにしたのね。可愛いし似合ってると思うわよ、フラン」

「えへへ、ありがとう。ケイカも素敵だね。白いウサギが暗闇にうっかり迷い込んだように見えるよ」

「それは誉め言葉なのかしら?」

「どうだろ?」

 

 

 くるくると回る幼い吸血鬼。

 服と一緒に買ったらしい二本歯下駄で、危なっかしく跳ねるようにステップを踏む。街を散策するのは初めての経験らしく、フランはかなり浮かれてしまっている。

 保護者である美鈴はまだまだ勝負の真っ最中だ。自分が一緒に回ってもいいが、やはりフランは紅魔館の仲間といた方がいいだろう。そう考えて「少しだけ待ちましょうか」と刑香は自分の隣を指差した。それに素直に従って、金色の吸血鬼がちょこんと座る。

 

 

「茶色の兎なんて、ずいぶんと珍しい絵柄ね。普通は白が多いんじゃないかしら?」

「これは三月兎(マーチヘア)、終わらないお茶会の開催者。まだまだ狂ってる私にはぴったりの模様だから、茶色のウサギにしてみたの」

「狂ったお茶会って、たしか西方の童話に登場するヤツだったかな」

 

 

 不思議の国だったか鏡の国だったか、そんな物語があったはずだ。人間たちがやり取りする舶来品の中に、童話本が混ざっていたのを覚えている。そしてそれを三羽でこっそり盗み出したのも懐かしい思い出だ。そんな刑香へと「やっぱり物知りだね」と、フランは嬉しそうに口を開く。

 

 

「…………時間の止まった庭園で、狂ったお茶会は繰り返される。参加するのは、心の欠けた帽子屋と、眠りこけたネズミ、そして狂った三月兎のマーチヘア」

「あんた達に似てるかもね。こいしが帽子屋、美鈴はネズミ、それにフランは兎に当てはまるでしょ?」

「うん、びっくりするくらいだよ。でも私はハートのクイーンと二役だったりするから単純じゃないけど」

「女王と兎を独り占めしてるのね。別にいいけど欲張りは程々にしなさいよ、お嬢様」

「吸血鬼は欲望に忠実だからいいのっ、そういう苦言はむしろ誉め言葉として受けとっちゃうわ」

 

 

 淡い金髪が風に遊ぶ。

 精巧に作られた人形のごとき美しさを持つ姉妹、将来的には一つ一つの動作が人々を釘付けにしてしまう魔性を手に入れるかもしれない。もちろん未来は誰にも分からないので、確定ではないが未来が楽しみな二人である。

 

 

「ねえねえケイカ。その頭の上に乗ってるカラスはやっぱり使い魔なの?」

「…………そういえば、コイツがいることを忘れてたわ。主人の頭に乗っかるなんていい度胸よね」

 

 

 頭上の真っ白な塊は眠りこけている。

 天狗の鋭い聴覚には、静かに寝息を立てているカラスの音が聞こえていた。叩き起こす気にもならなかったので、そっとしておくことにする。するとフランが縁側に下駄のままで立ち上がり、手を伸ばして羽を触り始めた。

 

 

「うー、あんまり気持ちよくないなぁ。この子は刑香たちとは違って普通のカラスと変わらないや。…………わっ、起きた!?」

「ほどほどにしてやりなさいね、ほどほどに」

「逃げられちゃった。ちょっと臆病だけど、ちゃんと使い魔のお仕事はできてるの?」

 

 

 少し乱暴に感じたのだろう。

 幼い吸血鬼の指をついばみ、白いカラスは主を盾にするように反対側へと飛び降りた。こっそり刑香の影からカラスを覗こうとするフランへと嘴を鳴らして威嚇する。やれやれ、と刑香はため息をついた。

 

 

「私の使い魔はね、私が雛鳥から育てた連中なのよ。ただ羽が白いだけなのに群れを追われた子、他人事とは思えないから拾ってやってるの。あまり仕事をさせていないわね」

「つまり、この子にとってはケイカがお母さんなんだね。だからかなぁ、ぴったりと刑香にくっついてて可愛いよ」

「残念ながら母親の気持ちになったことはないわ、多分ね。それに私はどちらかというと、母親より姉の呼び方が…………何でもない、忘れて」

 

 

 このカラスも、いつか天狗としての『人型』を手に入れるかもしれない。その時は自分と同じ白い翼の鴉天狗になるのだろうか。その時、この子は自分のことを何と呼んでくれるのであろうか。そんな未来を少しだけ見てみたい気もした、きっと暖かな光景がそこにはある。間に合うだろうか、間に合えばいいのにと思う。

 

 どこか寂しそうな様子の刑香につられて、フランは『あの話』を切り出す。

 

 

「聞いてケイカ。ここに来るまでに私が見てきたことを、聞いて欲しいの」

「……何を見たの?」

「刑香のお爺さん、だと思う。全部は聞こえなかったけど、そんな感じの会話だったはずなの」

「そう」

 

 

 それは地底に来る道中にて。

 こいしの『能力』を使ってフランは美鈴と隠れつつ、地底に繋がる大穴を目指していた時のこと。ふいに感じた大きな妖気にフランがつられ、美鈴のおかげもあって、辿り着いたのは仙人の住む家。そこで耳にしたのは、『刑香の身内』に関することだったのだ。それは再会してからずっとフランが伝えたかったことである。記憶のピースを拾い集めながら、幼子は言葉を紡ぎだす。

 

 

「『センニン』っていう人と、お爺さんの天狗が一緒にお茶してたの。それでお爺さんが安い茶葉をからかって、ピンクの人が怒ってて」

「そこまででいいわよ」

「むぐ?」

 

 

 真っ白な指がフランの口をふさいだ。

 まだ話し始めてから数秒しか経っていないが、もういいと刑香は止めさせてしまう。フランが視線で抗議してきたので指を離したが、続きをさせるつもりはない。

 

 

「アイツが『立ち入るな』って、暗に警告してきた程の内容なのよ。知ったところでいきなり斬り倒されることはないだろうけど、私が知るべきことじゃないわ」

「……どうして、聞いてくれないの?」

「どうしてもよ、世の中には知らなくていいこともあるの。でも、ありがとフラン」

 

 

 フランにお礼を言う一方で、「不味いことになった」と刑香は思っていた。頭が高速で回転しているのだ。わずかな情報の欠片を思考の糸で繋ぎとめ、 欠片の間に空いたスキマを幾重もの予測で縫い合わせていた。考えないようにしているのだが、鴉天狗として生まれもった頭脳は勝手に答えへと向かっていて止まらない。

 

 

 センニンは『仙人』のことだろう。

 紅魔館にいたフラン達が地底に来るまでに通り、仙人が暮らしているのは『妖怪の山』をおいて他にはない。

 ならば仙人は『茨華扇』に間違いない。

 そしてあの茨華扇をからかい、対等に話ができる可能性のある老天狗は恐らく、一人だけ。

 

 

 そこまで思考を進めて動きを止める。

 辿り着いた答えは、あまりにバカバカしいモノであった。わずかな雰囲気の変化を感じ取って、心配そうに主人を青い瞳で見上げる使い魔カラス。その頭を撫でながら刑香はフランへと問いかけた。

 

 

「ごめん一つだけ教えて、その天狗はもしかして」

 

 

 文には怒られそうだが、ここまで導き出してしまったなら仕方がない。もはや知らぬ存ぜぬでは通せない、刑香は少しばかりの後悔と共にその事実へと向かい合う。そんな自分を空から見張っていた黒いカラス、あれは文の使い魔ではない。また『連中』に目を付けられてしまったらしい。フランに思うところはないが、面倒事を呼び込んでしまった予感がする。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 地上の空を撫でる春の気配。

 とある甘味屋で大人用の椅子に浅く腰かけている少女。金髪の魔法使いは面白くなさそうに、床へと届かない足をぶらつかせていた。

 目の前には、たっぷりの小豆を甘く煮込んだ善財(ぜんざい)。最近嵌まっている店の定番だ。いつもなら舌鼓の一つでも打ち、さっさと美味しく頂いている。だが今日はそんな気分になれなかった。それは向かい側の席に座っている同い年の少女のせいである。

 

 

「おい、霊夢。せっかく私が奢ってやるんだぜ。だから私のためにも楽しそうに食べるべきだ、そんな不機嫌な顔をするもんじゃない」

「せっかく私は気持ちよく昼寝してたのよ。それをあんたが無理やり連れ出したんでしょうが」

「刑香が地底に行ってから、お前はずっと引きこもってるからな。あのままだとカビが生えそうだったから連れてきてやったんだ」

 

 

 霧雨魔理沙には、一人の友人がいる。

 全てはムカデ妖怪から村人を助け出した時に始まった。そいつが執拗に魔理沙を狙ってきたため箒を失い、もう少しで喰われそうになった。そこを白い鴉天狗に助けられ、その後に出会ったのが博麗霊夢という少女であった。それからというもの、何となくこの巫女と気が合った魔理沙は頻繁に神社を訪れるようになっている。

 

 

「人間からカビが生えるわけないでしょうがっ!」

「言葉のあやだよ。夜は神社でぐっすり、昼は刑香の小屋でぐーたら、そんな生活を続けてたら体にも良くないぜ?」

「……心配なんだから、仕方ないじゃない。他の二人、特に黒いのは何しても死ななさそうだけど刑香は『能力』が切れたら簡単に命を落としちゃうんだし」

「それでも私たち人間よりはずっと頑丈なんだ、心配しても始まらないぜ」

「……それは、そうかもしれないけど」

 

 

 心ここにあらずといった表情の巫女。

 これは重症だなと他人事のように思った魔理沙は小ぶりのレンゲで、甘く煮込まれた小豆を口に運んでいた。今はこんな感じだが、普段の霊夢はもっと只者ではない雰囲気を纏っている。このままでは面白くないので、景気付けにイタズラするとしよう。

 

 

「そういえば、刑香のヤツが求婚されたらしいな」

「だ、誰からよ!!?」

「うわぁぁっ、急に身を乗り出すなよっ!?」

「さっさと教えなさい、吐きなさい!」

 

 

 ここまで反応するとは思わなかった。

 テーブルを土足で踏みつけ、霊夢は魔理沙の襟首をつかみ上げてくる。もうしばらく続けていれば、騒ぎに気づいた店員が飛んでくるだろう。それはこちらも望むところではない。

 

 

「まあまあ、落ち着けって。寺子屋の教師もやたら執拗に求婚されてたじゃないか。それと同じことだよ」

 

 

 妖怪というのは見た目が優れている者、有り体に言ってしまえば可愛らしいか美しい者が多い。人間を浚うには不気味な容姿よりも、向こうから近づいてくるような魅力ある外見の方が便利なのだろう。人外の存在に心を奪われる人の話は古来からよくあるが、それは幻想郷でも変わらない。

 

 

「刑香たちは人里に頻繁に出入りするんだ。そういう話があっても可笑しなことじゃないぜ?」

「ってことは、はたてと文もされてるのよね?」

「いや、私が調べたところによると刑香だけだな。他の二人は『山』に属してるから、迂闊に手を出した奴は神隠しになるかもしれないだろ。それに比べて刑香はフリーだからな、男たちも手を出しやすいんだろうさ」

「な、何よそれ聞いてないわ。帰って来たら、しっかり話してもらわないと……!」

 

 

 どうやら上手くいったらしい。

 まだ気だるげな様子ではあるものの、スイッチは入れ替わった。まずは腹ごしらえとばかりに、幼い巫女は餡蜜を平らげていく。ちなみに先程の話は真っ赤なウソではないが、真実をすべて話したわけではない。

 

 そもそも人間の男からの誘いをあの刑香が受けるわけがない。はぐれ天狗としての生涯を送ってきたにも関わらず、天狗であることに誇りを持つ変わり者。それが彼女なのだ。男たちの方も半ば冗談半分に持ちかけたに過ぎない、ここ幻想郷では『妖怪は人間の敵』なのだから。わなわなと震える霊夢はまだ気づいていない。そんな様子を眺めていた魔理沙だったが、楽しくなってきたのでもう少し遊んでみることにした。

 

 

「そういえば鴉天狗はどっちなんだろうな。カラスだからあっちなのか、それとも人の形をしているからこっちなのか。興味深い話だと思わないか?」

「…………どういう意味?」

「あ、えっと……ぁ、あの」

 

 

 魔理沙の消え去りそうな声。

 昼間からそれを説明するのは恥ずかしい。自分で切り出しておきながら、あたふたと頬を赤くする。態度では大人ぶっているが魔理沙は純真な少女なのだ。

 

 

「わ、分からないなら刑香に聞いてみればいいと思うぜ。なにせ本人が鴉天狗なんだからな。それがいい、絶対そうするべきだと思う!」

 

 

 火照った顔で魔理沙が弾き出した答え。それはここにいない白い鴉天狗にとって実に傍迷惑な一言であった。

 

 

「…………あんた、また何か企んでるわね。まあいいや、刑香に聞いてみれば分かるだろうから今は見逃してあげる。言っとくけど私に恥をかかせたら、魔理沙はお空の星の仲間入りよ」

「こ、怖いこと言うなよ。友達である霊夢に恥ずかしい思いをさせるわけないじゃないか。私は友情に熱い女になりたいと思っているんだぜ?」

 

「思ってるだけ?」

「今はそんなところだ」

「ぷっ、何よそれ」

 

 

 ようやく笑みを漏らし始めた霊夢。

 本調子に戻ったらしい、小さな巫女はいつも通りの雰囲気で魔理沙へと視線を寄越してきた。どこか浮き世離れしているような、不思議な輝きを秘めるのは赤みがかった黒い瞳。それは幼い魔法使いが好きな色だった。

 

 

「でも鴉天狗のことなら、はたてや文に聞いてもいいんじゃないの?」

「そいつらも何度か人里で見たことあるな。うーん、茶色のは大丈夫そうだけど、黒いのは逆にこっちが危なそうだ。やっぱり刑香が一番オススメだと思うぜ」

「オススメの意味が分からないわ。まあいいけどさ」

 

 

 これは面白い反応が見られそうだ。

 白い鴉天狗の慌てふためく姿を想像して、魔理沙は緩みそうになる頬を何とか抑える。勘のよい霊夢にはもう気づかれているかもしれない、その時は上手く誘導してやらなければならないだろう。どちらにしろ面白そうだ。

 

 これは幼き日の二人。

 白い鴉天狗をダシにして巫女を焚き付ける魔理沙と、そんな魔法使いを怪しむ霊夢。後に『妖怪退治の専門家』とまで呼ばれるようになる、そんな二人の何気ない一日である。今日も人里は平和であった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十七話:その心の求める先に

 

 

 天狗は極めて閉鎖的な種族である。

 同じ山に暮らす河童たちでさえ、誤って縄張りに踏み込めば命の保証はない。それほどに部外者や他種族への風当たりは強く、天狗同士での上下関係は更に厳しい。この百年において外敵よりも『仲間』に討たれる天狗の数の方が多いのだ。

 天狗という種族が幻想郷で最大勢力を保ち続ける裏には、溢れんばかりの闇と犠牲者たちが存在している。

 

 

「――以上が、地底で起こった事柄のあらましとなります。そして」

 

 

 ここは天狗の長老が住まう館。

 その座敷の奥で黒い翼の少女、射命丸文は地底についての報告を行っていた。どこまでも鋭く研ぎ澄まされた妖力は『三羽鴉』として親友たちと戯れている少女とは一戦を画している。若くして登り詰めた天狗の精鋭としての地位、彼女のそれは偽りではないのだ。

 

 そして隣にはガチガチに身を固めたツインテールの天狗、はたてが正座している。文はともかく彼女はこういう場には不慣れらしい。そんな親友を庇うように、黒い鴉天狗は一人で報告を続ける。

 

 

「我々は紅魔館の助力を受けて鬼を撃退し、古明地さとりからは地上へ出向くという約定を取り付けています。これは八雲だけでは不可能だったでしょう、我々が手を貸したからこその成果だと思います。そして誰一人欠けることなく帰還した次第です」

 

 

 上質な藺草(いぐさ)が香り立つ中、深々と頭を下げる鴉天狗の少女たち。日の光を嫌うように、襖が何重にも閉め切られた屋敷の奥部屋に彼女たちはいた。普段は長老が寝起きをするだけの場所なのだが、『とある事情』から今日は昼間に使われている。

 

 

「一人も欠けることなく、とは八雲の使者についても言えることか?」

 

 

 それまで無言であった部屋の主、天魔はぽつりと呟いた。

 

 

「はい、その通りです。あの者も無事に帰還しております、深手は負いましたが命に別状はないでしょう」

「それは残念だ。できれば八雲の勢力を少しでも削っておきたかった。いっそのこと鬼か土蜘蛛の仕業に見せかけて、貴様がアレを斬り落としてしまえば良かったものを」

「申し訳ありません」

 

 

 老天狗は少女たちへ視線を寄越さない。その手元には将棋盤、天魔はまるで報告に興味がないように髭を触りつつ駒を動かしていた。

 ドス黒い感情が胸の内を焦がすのを感じて、はたては歯を食い縛る。よりにもよって文に向かって親友の刑香を斬れと、この長老は命じたのだ。

 

 

「射命丸よ、その謝罪はどちらに対してだ。ワシの意図を汲めなかったことか、それともアレを斬ること自体ができぬということか?」

「両方です」

「いいか、アレは八雲に取り入ったのだ。おまけに近頃は博麗の巫女にも媚びておるようではないか、まさに天狗の面汚しよ。次は誤らず始末しておけ」

 

「っ、この、耄碌(もうろく)じじい…………もがっ!?」

「耐えなさい、はたて」

 

 

 どうせ我慢の糸が切れるだろうと思っていたらしい。文の行動は速かった。あっという間にツインテールの天狗を片手で黙らせる。ここで天魔を侮辱することは命に関わるほどの不敬なのだ、斬り捨てられても文句を言えない。「妙な真似をするな」と黒い少女が冷たく目線だけで警告する。

 

 

「ほうほう、姫海棠。何か申すことがあるようだな。さてはて貴様は地底で何を知って、何を思った?」

 

「決まってるでしょ、お前がとんだ下種天狗だったことよっ。よくも私たちを千年も騙して…………ふざけるなぁ!!」

「やめなさいっ、はたて!」

「離しなさいよ文、コイツだけは許せないっ!」

「っ、失礼しました天魔様。我らはこれにて下がらせていただきます。ほら、早く来なさい」

 

 

 このままだと友人は長老の逆鱗に触れる。それを恐れたのだろう。黒い少女ははたてを羽交い締めにして、部屋から引っ張り出していった。任務を果たしてきたとは思えない有り様である、そんな茶番劇を愉快そうに天魔は眺めていた。そして、

 

 

「…………アレは、良い友を持った」

 

 

 この男が微かに口元を緩めていたことに、二人の少女が気づくことは永遠になかった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「くくっ、わざとあんなことを言ったのでしょう? 思ってもないくせに酷い男ね。安い挑発にかかった天狗も悪いのだけど」

 

 

 将棋盤を挟んで向かい合う相手。

 まるでいない者として扱われていた少女は、あの二人が去ったことでようやく言葉を発する。悪魔羽を揺らしながら、レミリア・スカーレットは口元を歪ませていた。そもそも、この真っ暗な部屋は日光の苦手な彼女のために用意されたものである。

 

 

「あなたはさぞ残念だったでしょうね。せっかく『チャンス』をあげたのに三羽鴉たちは地底に留まらなかったんだから」

「……なるほど、ワシの目論見はその『能力』で筒抜けらしい。お主のような吸血鬼がいるのなら、これからの幻想郷は安泰とはいかんだろうな」

「そうでもないわ、牙が抜けるくらいの平穏は私としても好むところよ。少なくとも当面はおとなしくしてるわ」

 

 

 会話を続けながらレミリアは思考を巡らせる。真紅の瞳でボードを一望し、歩兵を相手陣地へと進めた。これはポーンと似た役割を持つ駒らしい。将棋はほとんどやったことがないのだが、今のところは自分の優勢で運んでいる。

 

 

「話を戻すわよ。あんたが託した天狗からの書状には大方、『三羽鴉を地底に置くように』という一文が入っていたんでしょう。そうでないと古明地さとりがあんな申し出をしないはずよ」

 

 

 どうやらチェスを元にした戦術がうまく機能しているようだ、自分のターンを終えたレミリアは視線を上げた。それに対して天魔は将棋から目を離さない。

 

 

「そこまで見抜いておるのか。まさか地底まで把握するとは、お主の『能力』は誠に強力無比であるな」

「いや、さすがにそれは無理。今回はパチェの魔法で覗いてただけよ。そしたら地霊殿の主があんなことを言い出すんだから驚いたわ。フランまで帰って来なくなったら困るもの」

「くかかっ、お主は本当に妹に甘いのう。まあ、ワシもあの話を風呂場で切り出すとは思わんかった。そういう意味ではワシも驚かされた側ではあるな」

「…………うん?」

 

 

 ぴたりとレミリアが動きを止めた。

 さとりが話をしていたのが『風呂場』だとレミリアは一言も発していない、それなのにこの男は正確に場所を言い当ててきたのだ。それの意味するところを理解して、紅魔の令嬢は冷たい眼差しを向ける。

 

 

「あんた、温泉を覗いてたの?」

「…………さてはて、何のことであろうな」

「天狗はあんたの部下だからともかく、あそこにはフランも後から来たわけよね。まさか私の妹を」

 

 

 露骨に目線を反らす老天狗。

 その頃にはレミリアの眼差しは穢らわしいモノを見るソレに変わっていた。自分が覗くのは好きだが他者が同じことをするのを嫌う、そういう自分勝手さがこの少女の性格の一つである。

 

 

「待て待て不埒な目的ではない、ただ必要であったから使い魔を放っていたに過ぎん。それにワシが目にしたのは古明地さとりとの会話までだ」

「へえ、それはそれは。黒いのはともかく、白いのを観察して鼻の下を伸ばしていたなんて、妖怪としてもアウトよ?」

「その流れでワシをアレと結びつけるのか」

「冗談よ、冗談」

 

 

 真っ赤な瞳がカンテラのように揺れる。

 そしてレミリアが指揮した『飛車』は、遂に相手の陣へと踏み込んでいた。ルールに従って飛車は『竜王』の駒と成り、その力を高めていく。手堅い守りと攻めを両立した吸血鬼の戦術は初心者とは思えない程に完成されていた。天魔でさえ唸りそうになる布陣である。

 

 

「それはともかく、お前はアイツの名前を口にしてあげないのね。どうして呼んであげないのか理由があるのかしら? ……さあ、王手(チェック)よ」

「ほう」

 

 

 既にレミリアの牙は王将(キング)を捉えていた。

 かなりの犠牲を払ったが、もう少しでチェックメイトに持ち込める。そこでレミリアは一息入れるために伸びをする。かれこれ一時間はこうしているのだ、凝り固まった身体は疲労を覚え始めている。だが、そのおかげで盤上にある駒は半数以下にまで減っているのでゲームは終わりに近い。

 悔しげに肩を震わせる天魔に対して、余裕たっぷりに少女は微笑んだ。

 

 

「さて約束よ、私が勝ったなら真実をもらうわ。お前の正体とアイツの過去を教え……」

「まだまだ勝敗を分けるには早すぎる。東方の駒遊びには西方にない規定があるのだ、このようにな」

「えっ、何それ!?」

 

 

 将棋において全ての駒が無くなることはない。

 それはそうだろう、相手から奪ったものを手駒として使えるルールがある。なので天魔は当たり前のようにレミリアから奪った駒を盤上へと指し出した。そして守りに片寄っていた布陣を大きく攻撃型へと変じていく。肩を震わせていたのは、ルールを知らなかった少女をバカにして笑っていたのだ。

 

 チェスでは無敗の少女も、相手がこの老天狗ではどうしようもない。『運命』を読もうとしても『先』が見えない程に追い詰められている。こんなことは初めての経験である。焦り出した少女を満足気に見下しながら、天狗の長老が憎たらしげに微笑んだ。

 

 

「くかかっ、まだまだ戦術が青いな。例え運命を読めたとしても、そこから広がる枝葉を全て切り取られては意味がなかろう。十手先であろうと二十手先であろうと、一つ一つ丁寧に潰してやろう」

「ま、待った、今の無し!」

「どこで覚えたかは知らんが、そんな規定はない」

 

 

 天魔はすでに『運命を操る程度の能力』について大筋の分析を終えていた。何のことはない、部下を使った諜報と先の異変の分析、そして天魔自身が今まで培ってきた数千年を越える経験が答えを弾き出したのだ。

 

 おそらくレミリアの持つのは『不可能を可能にする』のではなく、『極めて低い可能性を実現できる』能力なのだろう。多くの下準備(レール)を敷くことを前提に、思い描いた運命(ターミナル)へと対象(トレイン)を導くチカラ。極めて強力だが、分かってしまえば対策は容易い。

 

 

「う、うー、何よ何よ散々じゃないこれ……」

「脆いなレミリア嬢、しかし初見にてここまで指せるとは大したものだ。うむ、誉めてやろうではないか」

「……スキマ妖怪があんたを毛嫌いする理由がよくわかった気がするわ。最後の最後で全てひっくり返して嘲笑うとか、性格がイヤらしいのよ!」

「くかかっ、これが楽しくて辞められんのだ。八雲にも随分と辛酸を舐めさせてやったわい」

 

 

 もはやレミリアの布陣は崩壊している、ここからの逆転は厳しいだろう。それどころか戦闘もせずに『能力』を打ち破られた。これが八雲紫に並び立つ大妖怪なのだ、真紅の瞳は困惑に揺れていた。

 

 

「……まさか『運命を操る程度の能力』を、全てではないにしろ見抜かれるとは思わなかった。とんでもない妖怪ね、あんたは」

「お主が持つ能力の正体くらいは察しが付くわい。あまり年長者を侮るな。それでどうするのだ。もう勝ち目はあるまい、ここらで投了しておくか?」

「そうね、仕方ない。あと何手かだけ指して気が済んだなら降参(リザイン)するわ」

 

 

 そう言って進ませた竜王で香車を奪い取る。

 今更そんなものを取っても意味はない。首を傾げる天魔だったが、自分の手元から香車が一つもなくなったことからその意味を察する。そのまま次のターンで王手をかけられたレミリアは敗北したが、まだ話は終わらないようだ。天魔が深いため息をつく。

 

 

「伝えたいことがあるなら言霊に込めるが良い、ここはお主の国ではないのだ。言葉にて語れ、西方の支配者よ」

「…………中身のない宝石箱に価値がないように、空っぽの鳥かごを大事に抱えていても虚しいだけよ。私が伝えたいことなんて、それくらい」

 

 

 暗闇に浮かぶ真っ赤な月光が二つ。

 どこか憂いを宿して輝いている化生の瞳。それだけで感傷に浸るほど天魔は甘くない、だが目を離す気にもならなかった。レミリアはわずかに躊躇するような素振りを見せてから口を開く。

 

 

「地底にて因果の砂は満たされてしまった。できるなら自らの手でひっくり返すことをオススメするわ、あなたがやらないなら私がやる」

「驚いたな、アレにそこまで目を掛けているのか。せいぜい面白半分に手を出していると考えていたのだが、どこにお主を惹き付ける要因がある?」

「勘違いしないで、私はただフランのことでアイツに借りがあるだけよ。特別な思い入れなんてないわ」

「…………そうか」

 

 

 老天狗は思わず目を細めた。

 八雲の式神、山の仙人、博麗の巫女、そして西方の吸血鬼。追放されてから彼女が得た繋がり、そこから生じた想いが確かにある。それは全くもって喜ばしきことであると天魔は心の奥底で微笑んだ。やはりあの娘を外に出して正解だったらしい。

 

 

「私はフランや美鈴とは違う。できるならこれ以上、あんた達に肩入れしたくない。これはあんた達の解決するべき問題で、たかだか数ヶ月の付き合いである私が手を出すべきではないもの」

「…………そうか、その気遣いに感謝だけはしておこう。お主はまだまだ若い、せいぜいワシや八雲のようにならんようにな」

 

「ふんっ、余計なお世話よ。それと次があるならチェスで勝負しましょう、叩き潰してあげるから」

 

 

 べー、と銀髪の少女は可愛らしく舌を出す。

 そして同時にその身体が霞み始めた、自身が持つ特性の一つである『霧状化』を使ったのだ。まるで伊吹萃香の『能力』のように霧として身体が霧散していく。そしてその姿が掻き消えた時、そこに残ったのは老天狗が一羽だけ。広い部屋は静寂に包まれていた。

 

 

「…………あんな小娘に諭されるとは、そろそろ本格的に隠居せねばならんな。それに腰が痛くて敵わん、このまま醜態を見せては他の七柱に示しがつかぬわい」

 

 

 トントンと背中を叩いて老天狗は立ち上がる。

 そのまま障子を開け放ち庭に出てみると、キンモクセイの枝葉が風に揺れていた。秋にオレンジ色の花を付ける庭樹、それは妻が好いていた樹であった。「自分の名前の響きと同じだから好きよ」と澄ました顔で語る姿が脳裏に甦る。思えば恥ずかしがって、あまり笑った顔を見せぬ娘であった。

 

 

「アレはお前によく似ている、名前はともかく姿形は驚くほどにそっくりだ。地底に向かうところを見物していたが、どうやら性格まで似てきたらしい。なあ、ケイカ」

 

 

 誰もいない空間で名前を呼ぶ。

 共に過ごせた時間はあまりにも短かったが、彼女が隣にいて本当に幸せであったことを覚えている。あまりにも儚く逝ってしまった伴侶の姿を探して、真っ青な空を見上げた。そこには高く高く白い雲が浮かんでいるだけで、他には何もない。それが妙に悲しくて、老天狗は言葉を返すはずもない青空へと話しかけた。

 

 

「もはや『延命』の能力は持たんだろう、それはワシが一番よく分かっている。だから時間はないのは正しい。だが、それでもワシはお前に真実を打ち明ける決心がつかんのだ。すまぬ、刑香」

 

 

 浮き雲に白い翼が重なって見え、老天狗は目を細める。

 自分は憎まれても仕方ないことをしてきた。それでも彼女が生まれた日に、心の底から喜んだことを覚えている。その命が零れ落ちた日に、涙が渇れるまで泣いたことを覚えている。老天狗はシワだらけの掌を眩しい太陽にかざした。

 

 

 まだ何一つ思い出を作っていなかった。

 まだ一言も愛していると伝えていなかった。

 まだ一文字とて名前を与えても、いなかった。

 

 

 それどころか組織のために道具として利用したのだ。種族を治める長としては仕方なかったとはいえ、そんなものは言い訳になるはずもない。どんな理由があろうとも下種な行いは下種でしかないのだ。だからもう諦めなければならないはずだった。

 

 それなのに名前を聞くたびに、翼の色がちらつくたびに思い知らされてしまう。『能力』もそうだが、彼女は確かに己と愛する妻の血を継いでいる。たった一人の血族と共に過ごせぬとは、自業自得ながら何という運命だろう。

 

 

 

 どこまでも広がる幻想郷の空を一度たりとも、彼女と共に飛んだことはない。

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 森の中にある白い鴉天狗の住居。

 インクと森林の匂いが混じり合う古びた神社、そこで博麗の巫女がミノムシのように布団を被っていた。あちこちが傷んだ部屋は冷たく澄んだ空気に満ちて、少女は憎らしげにスキマだらけの壁を見つめている。

 

 

「……さむい、何でこんなにスキマ風が強いのよ。ちゃんと直して行きなさいよ、魔理沙のバカ」

 

 

 この三日ほど、霊夢は魔理沙と二人してここで遊んでいた。床に脱ぎ捨てられた白黒の魔女服や、ゴチャゴチャと置かれた魔法器具は友人の持ち物である。他には謎の液体が畳を七色に染めているのが強烈だが、壁がボロボロになっているのが一番問題だ。これはさすがに刑香でも怒るだろうな、と霊夢は素知らぬ顔で考える。

 

 

「まあ、ほとんど魔理沙のせいだけどね。アイツがここで魔法の実験なんてしてるから、失敗やら爆発で色々なものを壊しちゃったんだし」

 

 

 たったの数日間でこの有り様である。

 白黒の魔法使いはここを秘密基地か何かと勘違いしているようだ。自分の家で魔法を使うと白い目で見られるので、色々と自由にできる場所が欲しかったのだろう。刑香が留守にしてからやりたい放題だ。はー、と霊夢は手に白い息をかける。

 

 

「ああ、さむいさむい」

 

 

 くるりと刑香の布団で丸くなる。

 心地よい香りが染み付いていた。人間の汗のように不快なものではなく、妖怪らしくもない透き通るような香り。スキマ主従のように人を惹き付ける妖艶なものとは違うが、こうしていると心がとても落ち着いた。早く帰ってこないだろうかと、鼻をぐりぐりと枕へ押し付ける。

 

 

「……ぷは、カメラを使い魔が持って行ったから戦闘は終わったわよね。そろそろ帰ってきそうな気がするのになぁ、何やってんだろ。魔理沙も一旦家に帰っちゃったし、つまらないわ」

 

 

 寝返りを打つと黒髪が顔にかかってくる。

 少し鬱陶しかったが、わざわざ払う気にもならなかった。そして白い鴉天狗は帰って来ない、金髪の魔法使いも訪れて来ない。おまけに吸血鬼異変が片付いたばかりなので巫女としての仕事もない、なので霊夢はとても退屈だった。遊び相手が欲しいところである。

 

 

 ――おおっ、食べ物もあるから泊まっていけそうだぜ。なっ、霊夢!

 

 

 そう言って部屋の隅に置かれた米や野菜を、満面の笑みで指差していた魔理沙。それは刑香の持ち物だったのだが、地底に出発してから明らかに量が減っていた。つまり手を出されたわけであるが、その下手人もここにはいない。跳ねるような口調で霊夢へと言葉を紡いでいた白黒の少女、彼女は家族の元へ里帰りしてしまっていた。

 

 

「ふわぁぁ…………。眠いなぁ、もう」

 

 

 温かい布団に身体を預けてあくびをする。

 横になっていると、机の上に置かれている古ぼけた写真立てが視界に映り込んできた。キメ顔、ドヤ顔、ツン顔の鴉天狗たちが思い思いにポーズを決めている。黒色と茶色、そして白色のカラスたちは実に仲がよさそうだ。

 

 

「…………何だかんだで刑香が持っている中で、誰かと一緒に映った写真はアレしかないのよね。やっぱりあの二人は特別なんだろうな。千年も一緒にいたんだから当たり前だけど」

 

 

 博麗霊夢は特別な存在である。

 幻想郷の巫女であり、結界の管理者にして、人間と妖怪とを結ぶ架け橋になるべき者。将来的には霊夢がいなければ幻想郷は立ち行かなくなるだろう。考えれば考えるほどに、代わりのいない娘であり特別な立場にいる少女。

 

 それなのに、どうして一羽の鴉天狗にここまで入れ込んでいるのか。霊夢自身にも分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「私の布団で何やってるのよ、霊夢」

「――――!?」

 

 

 突然、真上から降ってきた声。

 困ったような色を滲ませたそれに、うとうとしていた霊夢は飛び起きる。いつの間に部屋の中へ入ってきていたのだろうか、さっきの独り言を聞かれていただろうか。そんな驚きや心配をはね除けて、幼い巫女は子供らしい笑顔で声の主へと飛びついた。

 

 

「おかえりっ、刑香!」

「あ、えっと…………その、ただいま」

 

 

 どこか照れた様子の刑香がそこにいた。純白の翼と夏空の碧眼は見慣れた輝きで、その身に纏う雰囲気も何一つ変わっていない。枕にしていたように霊夢は刑香へと顔をぐりぐり押し付ける。雪と血の混ざった匂いがしていた、また大きな怪我を負ったのだろう。

 一方の刑香はまさか匂いを嗅がれているとは気づいておらず、少しだけ頬を染めて霊夢の黒髪を撫でていた。

 

 

「やっぱり正面から『いってらっしゃい』とか『おかえり』って言われると恥ずかしいものね。何て言うか胸の辺りがくすぐったいわ。ありがと、霊夢」

「ふふ、どういたしまして。期待通りの反応で嬉しいわ」

「なによ、もしかして私の反応を楽しんでたの? まったく仕方ないわね。それで、霊夢はこんなところで何してるの?」

「たまたま寄ってみただけ、そろそろ刑香が帰ってきそうな気がしたからね。私がここにいるのは偶然よ」

 

 

 さらりと嘘をつく霊夢。

 本当はここ数日間、暇に任せてここに通い詰めていたとは言えない。何だか恥ずかしいし、このままでは住居を荒らした容疑をかけられそうなのだ。しらばっくれる少女に対して、白い鴉天狗は貯めていたはずの食料を指差した。

 

 

「ねえ、あそこに置いてあった蓄えが減ってるんだけど、ネズミにでもかじられたのかしら?」

「そ、そうかも。白黒のでっかいネズミが出たのよ。とっても大食らいだったのね。うん、間違いない」

「減った量から察するに、だいたい人間の子供が二人で三日分ってところかしら。そうなると白黒だけじゃなくて紅白のネズミもいたかもね、霊夢?」

「う、うん、いたかも。…………ご、ごめんなさい」

「正直でよろしい」

 

 

 あっという間に見抜かれてしまった。野菜や米を使ったのが魔理沙なのは間違いないが、それで作った料理は二人で食べていた。だから刑香の言う通りネズミは二人で当たっているのだ。

 あっさりと認めた霊夢へと、刑香は「仕方ないわね」とため息をついた。そして七色に変わってしまった床の一部や実験器具を面倒くさそうに眺めている。

 

 

「これはまた派手にやってくれたわね。一応ここは鴉天狗の巣なんだから怖がりなさいよ。まあ、やってしまったのは仕方ない。どうやって片付けるか考えるわよ」

「魔理沙に全部やらせればいいんじゃない?」

「私も手伝えば数刻で終わるだろうし、あの子だけだと大変でしょ。……なんで笑ってるのよ、霊夢?」

「何でもないよ」

 

 

 人に縄張りを侵された妖怪が真っ先に行うのは、本来ならその人間への制裁である。妖怪は人間に恐れられてこその妖怪なのだから当然だ。天狗の領域に手を出した者の頭から下が無くなって帰ってきた、なんて話は珍しくない。

 それなのに刑香は『仕返し』よりも目の前の『掃除』を優先していた。そこに霊夢は可笑しさを感じてしまっている。人間だってこの惨状を見れば、まずはお転婆娘に拳骨の一つでも落としに行くだろう。甘いのか優しいのか、それとも子供への怒り方を知らないのか。いずれにしても、

 

 

「本当に刑香って変な妖怪よね」

「私の印象は何でもいいけど、掃除は手伝いなさいよ。あとでお駄賃代わりにお土産をあげるから」

「へー、お土産なんて買ってくれてたんだ。あれ、でも鬼の都の品物なんだよね。地上に持って来て大丈夫?」

「単なる双六盤よ。結局のところ博打に使うものしか売ってなかったから選ぶのに苦労したわ。正月か大晦日にでも遊べばいいんじゃない?」

「それなら毎年勝負しようね。それと……」

 

 

 さっきの答えが分かった気がした。

 結局のところ、自分はこの鴉天狗に少しばかり甘えているのだ。人間でありながら人里には住めない少女と、天狗でありながら故郷を追われた少女。人間らしくない人間と妖怪らしくない妖怪。そこに共通点を見つけたのか、それとも別の何かに惹かれたのか。はっきりしないが、他愛ない会話の中で霊夢はようやく理解した。

 

 

「私、刑香のことがけっこう好きみたい」

 

 

 それだけ伝えると気恥ずかしさで、霊夢は頬を染めて俯いた。しかし畳を見つめていても、いつまで経っても刑香からの返事はない。聞こえていないのだろうかと思い、そっと顔をあげてみる。

 

 

「な、なな、…………何を、言って?」

「私より真っ赤だよ、刑香」

「う、うるさいわね……。びっくりしただけよ!」

 

 

 耳まで真っ赤にした鴉天狗がそこにいた。

 そういえば正面切って好意をぶつけられるのは、彼女の一番の弱点だった。こちらに背を向けて肩を震わせているのは照れを隠しているのだろうか。この反応を見るためにもう一度言ってみてもいいかもしれない。そんなことを考えながら霊夢は真っ白な翼へと抱きついた。

 

 

 

 十数年後、博麗神社には二組の写真立てが飾られることになる。一つは白黒の魔法使い、悪魔のメイド、半霊の剣士、そして風祝の少女たちが映ったモノ。そしてその隣に置かれた二つ目は、幼い頃の自分と白い鴉天狗が並んで撮られた写真であった。

 本来歩むはずだった歴史よりも少しだけ、博麗の巫女には大切なものが増えたのだ。

 

 

 それはまだ遠い未来のお話。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『番外編②』
番外編その4~秋風のエピソード~


活動報告にて予告させていただいた通りに、番外編を投稿します。
こちらのお話は『東方project~人生楽じゃなし~』を連載中である、ほり吉様から戴いた原案に自分が改訂を加えたものです。
とある事情により、幻想郷の『外』の世界へと飛ばされた東方キャラクターたちが奮闘する物語である『東方project~人生楽じゃなし~』。そこにもし、白い鴉天狗がいたらどうなっていたのか、というお話です。


注意事項を三点ほど。
①本編ストーリーとは関わりがありません。
②登場人物の性格(刑香含め)において『その鴉天狗は白かった』とは微妙な違いがあるかもしれません。
③舞台は幻想郷ではなく、現代です。そのような内容及び雰囲気が苦手な方はご注意ください。

尚、今回は三話構成となります。前編、中編、後編を二日に一回程度にて更新を予定しております。
寛大な心で目を通していただけると幸いです。



 

 とあるスーパーマーケットの中で、少女は迷っていた。

 道を間違えたわけではない、何を買うべきなのかに迷っているのだ。彼女の周りを片手に買い物かごを持った年配の女性が通り過ぎる、その際に興味深そうに少女を見つめていた。それを少女は青い瞳で見て、すぐに視線を戻す。こういう扱いには慣れているのだ。

 

 

 ーーさかなさかなさかなー、よりもにくぅぅ

 

 

 天井に付けられたスピーカーから奇妙な音楽が流れていた。白い少女はそれを聞いて首を傾げる、相変わらず『外の世界』は意味が分からない。ちょうど彼女の横が魚コーナーだったが、買う気が起きない。いや、あの歌詞で魚を買いたくなる者がいるのだろうか。

 

 食品コーナーを眺めながら、かつかつとブーツを鳴らす。手に持った空っぽの買い物カゴを揺らして、足取りは軽やかに、ただし表情は不機嫌そうに少女は歩いていた。

 

 白い半袖のカットソーから見えるのは華奢そうな腕。ゆったりしていてシンプルなデザインだったが、胸元のささやかなフリルが少し可愛らしい。下は細い身体にピッタリと張り付いた深い藍のデニム。そして茶色のブーツが似合っている。

 

 

 ーーあらら、綺麗な子ね。

 ーーちょっと変わってるけど。

 ーーきっと外人さんよ。

 

 

 ひたすらに白い少女。透き通るようなその色は、すれ違う人々の眼を一瞬だけでも奪っていく。同じ妖怪ならともかく、そこいらの人間と比べるには少女はあまりにも異質に過ぎた。これは幻想郷の他の出身者にも言えることである。

 そんなことは気にも止めず、白桃橋刑香はきょろきょろと何かを探していた。周りの視線には気づいているが意識していても仕方がない、そう諦めている。

 

 

「さて、何を買っていこうかな。アイツはこのごろ碌なものを食べてないみたいだし、それなりのモノを作ってやらないと……」

 

 

 誰に言うでもなく呟く刑香。彼女がここに来た理由は今夜の飲み会のための買い出しだった。

 自分も含めて友人達は酒豪であり、天狗とはそういう妖怪なのだ。だから定期的に飲み会をして情報交換を行ったり、この世界に来てからの不満をぶつけ合ったりしている。そのためには、どんな種類のお酒を選ぶのかが重要になるわけだが、今の刑香が悩んでいることはそれではない。お酒のお供に何を持っていこうかと迷っているのだ。

 

 どうしてか人の影のないウインナーの試食コーナーを抜けて、お菓子の並ぶ陳列棚を物色する。

 そこには「サキイカ」や「ピーナッツ」などが置かれていた。お酒の当てにもなりそうなコレらは大人が食べることも多いらしい。使えるかもしれないと立ち止まり、一つ手に取った。

 

 それは「甘ェ栗」というふざけたパッケージに入った栗である。幻想郷とは違い、外の世界では栗をわざわざ蒸す必要がなく、そもそも皮をむく必要もない。ありふれた商品だが、感覚が千年以上も前で止まっている刑香は珍しいと感じていた。

 

 

「ふむ、これは楽でいいかもね。別に大した労力ってわけじゃないけど、初めから加工されているならありがたいわ。あっちのはどうかしら?」

 

 

 栗を持ったまま、ひょいと別の商品を手に取る。それは小さな棒の入ったパック、芋ケンピだった。砂糖などを使ったお菓子だが、幻想郷では砂糖の量産が難しい為のであまり見られない品である。

 その二つを見比べつつ、少し眉をしかめる。どうにも地味なお菓子を取るあたりは堅実な性格ゆえかもしれない。はたてならハバネロのチップスを、文ならチョコレートクッキーあたりを選ぶだろう。刑香は小さくため息を吐いて両方を棚へと戻した。

 

 

「何か違うわね。別に問題はないかもしれないけど、こういう出来合いを買うのは気に入らないわ。手を抜いてるみたいだし、それに……」

 

 

 それに気になるのは友人である射命丸文。

 この頃、あの少女はまともな食事をしていない。この間は一枚のトーストを分割して、弁当用とおやつ用などと言いながら食べていた。「悩みがあるなら相談に乗るけど?」と心の底から尋ねたくなった。どうせ原因は金欠なのだろうし、自分もおいそれと貸せるほどにお金の余裕はない。それに刑香から文は受け取らないに決まっている。

 

 

「だったらいっそ…………。うん、それがいいかもね」

 

 

 トーストを思いだしてピンときた。ここの物がしっくりこないなら自分で料理しまえばいい。そう結論付けて踵を返す。

 

 まず向かったのは調味料のコーナー。そこからオリーブオイルを手に取って、買い物かごに放り込む。それからバターを見つけて同じようにカゴに入れていく。もちろんこれだけでは足りない。

 次に向かったのは野菜コーナーだった。そこで手に入れたのはパセリ、玉ねぎそしてニンニク。だんだんと手にかかったカゴが重さを増していく、カートを持ってくれば良かったかもしれない。

 それでも天狗の意地を見せて別の場所へと脚を向ける。まだまだ買う物があるのだ。

 

 

「おつりとレシートのお返しです、お確かめください」

「ん、ありがと」

 

 

 一杯になった買い物かごを会計に回す。そこにはビールやチューハイ、その他にも清酒の缶や先ほど入れた料理の材料などが入っていた。そして、かごから飛び出ている食材が一つある。硬そうな皮をした小麦色のパンだった。

 

 それはフランスパン、彼女の作るお酒の肴のメインになる材料なのだった。

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 刑香の住んでいる場所はマンションの一室である。元々が山小屋のような場所で住んでいたことを思えば、随分と生活水準は上がったように思える。ここに行きつくまでは苦労がそれなりにあったが、悪くない苦労だったと思う。ちなみにルームシェアをしていて、相方はまだ戻ってきていない。

 

 部屋にはベッドと簡素な作りの机が一つずつ、そしてタンスが置かれただけだ。装飾と言えばタンスの上に敷かれたハンカチ、その上に乗った古ぼけたカメラが一つくらい。必要なものしか置かれていない居住空間、それは幻想郷で生きていた頃と変わらない。

 

 

「よっと、このままだと料理するのに邪魔だからね」

 

 

 机の上に置いていた黒いヘアゴムを取って、口にくわえる。そのまま両手を後ろにまわして髪を束ねてからヘアゴムで纏めてしまう。それは短いポニーテールだった。そして余った髪を左右に分けてから、刑香は机の引き出しを開けた。

 入っていたのは『今日の料理』という色あせた料理本。中古を買ってきたので少しばかりオンボロだった。それをバラパラとめくる。

 

 

「こっちに来て読書量が増えたような気がするけど、料理本とかの本が多い気がするわ。別にいいんだけど、天狗としては何だか複雑よね。…………霊夢か魔理沙に何か作ってあげようかしら」

 

 

 

 そんなことを呟いて台所へ向かう。

 使った後はそれなりに整理するので、キッチンの台は良く片付いていた。そこまで調理スペースは広くないが、磨かれたステンレスの表面はきらきらと照明を反射している。

 

 置かれているのは、ぎっしりと物の詰まったビニール袋。その中からお酒を出して冷蔵庫に入れていく。先に退けておかないと、このままでは料理の邪魔になる。ビニール袋を片付けてから黒いエプロンを身につけた。

 

 

「よし、始めましょうか」

 

 

 手を洗って取り出したのはまな板と包丁。それにボールなどの道具。全てピカピカである、まさか中古品や百円均一でそろえたとは思われないだろう。特に包丁は昔使っていた妖刀に比べればナマクラもいいところであるが、半日かけて磨き抜いた。どうにか使えるナマクラになったので悪くないと刑香は思っていた。

 

 まず刃の餌食になったのはフランスパン。粉を出しながらも、鮮やかな手並みで分断していく。そして切り分けた一部にオイルを塗って、その上にパセリを載せる。それからオーブントースターに入れた。

 

 火を起こさなくとも熱を使った調理ができるとは、本当に便利な世の中である。これは殆どの幻想郷の住民たちが思ったことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「っ、どんな野菜よ、これは」

 

 

 玉ねぎの皮むきは何度やっても涙が出てくる。絶対に他人がいる場所では料理できそうにない。まさか天狗ともあろう自分が野菜に泣かされるとは思ってもみなかった。流し台に敷いた新聞紙の上に皮を落としていくのに惹かれて、涙も零れ落ちていく。こんな姿は誰にも見せられそうもない。

 

 これが終われば次はみじん切り。

 球体のモノを切るのは中々難しい。まな板の上で小気味よい音を立て、半分にされた玉ねぎがコロンと転がった。そのうちの片方を脇に置き、もう片方に手際よく切れ込みを入れていく。こうしておけば簡単に切れる、このあたりの調理法は他の野菜と大差はない。

 

 トトトッと包丁を動かし、端から微塵にしていく。みずみずしい音が響き、玉ねぎは透明な欠片へと変えられていく。それは鮮やかな手並みであった、しかし刑香はーー。

 

 

「…………う、なんでこんなに、眼にしみ、るのよ……バカ」

 

 

 そろそろ本気で泣いていた。どうやら空色の瞳は雨模様のようで、ぽろぽろと小雨がまな板に降り注ぐ。

 玉ねぎは幻想郷が隔離された後、外の世界で本格的に広まった野菜である。なので幻想郷では珍しく、人里に出入りしている刑香でも料理したことはない。ネギなら扱うが、残念なことに種類が違う。実のところ涙を抑える方法はあるのだが、さすがに刑香が知る由もない。

 

 そのままニンニクもみじん切りにしてしまう。まな板に玉ねぎとニンニクのかけらが並んだとき、ようやく刑香は濡れたタオルで顔を拭き取った。こういうことは一気に済ませた方がいいのだ。

 

 

「後はバターと一緒にフライパンに入れて、焦がさない程度の火力でじっくりと炒めればいいわ」

 

 

 フライパンで良い音を立てる食材たち。それを見守りながらフライパンを動かしていく刑香。なんとなくつま先でトントンと拍子を取ってみたり、片手で髪を触ってみたりする。正直にいえば手持無沙汰だった、今回作る料理はそう難しい物ではないのだ。

 

 そうして出来上がったのはバターでとろりとした元野菜たち、これはメインというわけではない。少し冷やしてからタッパーに入れていると「チーン」と何かが鳴る音が聞こえた。

 

 

「っと、焼き上がったみたいね。タイミングも悪くないわ」

 

 

 オーブントースターのタイマーが「0」になっているのを確認する。ガチャリと開けた先、熱々の空気が満たされた中には小さく切り分けられたフランスパン。小麦色から少しだけ濃くなった皮が香ばしい匂いを放っていた。

 

 それらをパンを皿に乗せていくと香ばしい匂いがしていた。しかしまだ食べる段階ではない。ここから冷やして水分を蒸発させる必要があるのだ。あとは時間の流れに任せておけばいいだろう。

 下準備はここまでだ、なので刑香はエプロンを脱いで部屋に持っていく。しばらくして戻ってきた手には一冊の文庫本があった。

 

 

「さてと、借りた本でも読もうかな。貸し出しカードを作るのには苦労したけど、タダで本が借りられるとは素晴らしいわね。…………どこぞの貸本屋が潰れるんじゃないかしら?」

 

 

 ブックカバーがされているので表紙はわからない。しかし分厚い表紙からして、あまり楽しく読むものではなさそうだ。実際のところ何となく選んだ本である。白い少女はリビングのソファーに腰かけて、それをぱらぱらとめくり始めた。

 

 静かな時間が過ぎていく。

 誰もいない香り立つ部屋の中で本を読み進める。単に作った物を冷やすための時間なので、そう長い間ではないだろう。それでも心安らぐ穏やかな時がそこにある、刑香はこういう時間が好きだった。

 

 そんな短い休息の後、ぱたんと本を閉じる。そのまま皿の上で放置していたパンへと近づいて手に取った。随分と硬くなった感触がある。かじってみると外側はカリカリで口の中に入った中身はふかふかしている、このままでも美味しい。

 

 

「うん、これなら大丈夫そう。物珍しいだけの舶来品と思っていたけど、パンもなかなか美味しいものね」

 

 

 そしてスプーンでパンに何かを付けていく。オリーブオイルで良い色に焼けたフランスパンに塗るのは、ガーリックを中心としたペーストだった。さっき泣かされた玉ねぎとニンニクを炒めて作ったモノだ。刑香はそれを塗り終わると、小麦色のパンを口に持っていく。

 

 さくっ、小気味よい音がした。

 

 

「うん。まあ多分、私にしては上出来じゃないかしら?」

 

 

 それを味わってから飲み込んだ後、ぺろりと舌で指を舐め取る。少しだけ満足げにしているのに言葉は素直ではない。こうして刑香お手製の『ガーリック・トースト』は出来上がった。

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 準備が終わったのは、月の微笑む夜が広がる時間帯になっていた。飲み会の場所ははたての家ということらしい、しばらくすれば文も仕事から帰って合流するだろう。そんなことを考えながら刑香は駐輪場へと脚を向ける。

 手に持っているのはバスケット。もちろん先程作った料理が入っている。友人たちの評価が気になるところだが、悪くはならないはずだと思う。

 

 空は電気を落としたように暗く、秋草の隙間からは虫の声が聞こえてくる。幻想郷ほどではないが現代でも秋の虫たちは涼やかな鳴き声で夜を彩っていた。わずかな間だけ立ち止まって耳を澄ました、キンモクセイの香りを乗せた夜風が顔を撫でる。

 

 

「…………やっぱり秋はいいものね。過ぎ去った夏と近づく冬の気配、物寂しい風が吹くのに命が溢れてる。こうしているだけで、気持ちいい」

 

 

 空を見上げると秋風が空色の瞳を靡かせ、白い髪をゆらゆらと揺らす。雲間から降り注ぐ月光は、全ての生き物たちに微笑みかけているように見えた。来るべき冬への残酷さを滲ませながら。

 

 あまりにも空へと気を取られていたので、段差に足が引っかかった。つんのめって「わっ」と声を上げる。転びはしなかったが、ばっと刑香は周りを見回した。幸いにして誰もいない。バツの悪そうな顔をしながら、ほっと胸をなでおろす。空を飛んでいれば、こんなことにはならなかった。その事実を恨めしく思う。

 そう今の自分には翼がないのだ。

 

 

「……早く行かないとね。あいつらも待ってるだろうから、急ごうかしら」

 

 

 誰に言っているのか独り言を呟きつつ、駐輪場に置いてあった自分の原動機付き自転車にまたがった。ヘルメットをしっかりとかぶって、バックを座席の下に滑り込ませる。そうしてマンションから一台の原付が夜道に繰り出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「楽しそうだね、刑香?」

 

 

 そんな光景をただ見ていたのは、月光が作り出すマンションの影に隠れていた少女が一人。しー、と指を唇に当てて微笑んだ少女はサードアイを揺らして闇に溶けていった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編その5~ある月の夜の天狗会~

活動報告にて予告させていただいた通りに、番外編『中編』を投稿します。

こちらのお話は『東方project~人生楽じゃなし~』を連載中である、ほり吉様から戴いた原案に自分が改訂を加えたものです。
とある事情により、幻想郷の『外』の世界へと飛ばされた東方キャラクターたちが奮闘する物語である『東方project~人生楽じゃなし~』。そこにもし、白い鴉天狗がいたらどうなっていたのか、というお話です。


注意事項を三点ほど。
①本編ストーリーとは関わりがありません。
②登場人物の性格(刑香含め)において『その鴉天狗は白かった』とは微妙な違いがあるかもしれません。
③舞台は幻想郷ではなく、現代です。そのような内容及び雰囲気が苦手な方はご注意ください。

尚、今回は三話構成となります。
寛大な心で目を通していただけると幸いです。


 

 はたての家、マンションはここからすぐの所にある。刑香の家から見ても10分程度で着く。それというのも、基本的に幻想郷の少女達は近場に固まって住んでいるのだ。下手に離れると現代の知識がない彼女達の暮らしは立ち行かなくなる。

特に河童から離れるとまずい、連中はここの生活の『生命線』を握っている。天狗である自分や文に強気で当たってくる河童は初めて見た。

 

 

「ああ、いたいた。別に外で待ってなくてもいいのに、どうしたのかしら」

 

 

 マンションが見えてきたあたりで刑香は呟いた。その前には見慣れた人影、いや天狗影が立っていた。白いパーカーを着て、黒い短めのスカートとニーソックスを身に付けている少女。それは当然、はたてである。

 彼女は先ほどの刑香と同じようにマンションの入り口に背を預けて、空を見上げていた。ポケットに手を突っ込みながら、くしゅんと可愛らしいくしゃみをする。

 

 原付の速度を緩めて近づいていく。ツインテールの天狗も気が付いたようで、片手を振って挨拶してくる。その手前で原付を停止させ、刑香はスタンドを立てた。

 

 

「どうしたのよ、はたて。わざわざ出迎えなんてアンタらしくないわね」

「あれ、文から行ってないの?」

「えっと何が?」

「ほらあの文章を送るアプリのことよ。いやそれよりも文が場所の変更を一方的に言ってきたから、一緒に行こうと……。あ、いや。刑香が迷うといけないから待っていてあげてたの、それだけ!」

 

 

 しどろもどろになりつつ説明する茶色の親友。刑香は心の中で「あぷり?」などと思いつつも、恥ずかしがって強がる少女の姿に苦笑してしまう。「一緒に行こう」、確かにその一言は意外と照れるものだ。ここは合わせておこう、刑香は少しだけ考えてから口を開いた。

 

 

「いつものことながら文のヤツは勝手よね。はたてが待っててくれなかったら、私だけ待ちぼうけだったわ」

「そ、そうよねっ。本当にアイツは自分一人で何でも決めちゃうんだから、振り回される私たちの身にもなれっての!」

 

「だからありがと、はたて」

「…………どういたしました」

 

 

 つんとした表情でそっぽを向く茶色い天狗。その口元が少しだけニヤけているが、刑香は気づかないふりをした。この少女も自分と同じく真正面からの好意に弱い。お互いに良い友人を持ったものである。

 

 そしてマンションに原付を置いて、二人は歩き出す。

 何となく歩いていきたかったのだ。電柱が同じくらいの間隔で置かれ、ギリギリ足もとが見えるくらいの明るさがそこにはある。

 ここに比べて妖怪の山は暗かった、ほのかに光が見えても夜雀の屋台くらいだったのだ。ちなみに電柱には「求人、パン工場!」と張り紙がしてあったり、近くの診療所やら葬式場やらの広告が載っている。どこの人間も商売には余念がないらしい、それが可笑しくて刑香は内心で苦笑していた。

 

 

「そういえば宴会場はどこになったの?」

「町外れの公園だってさ、何でそんなところなのかは分からないけど」

「公園って、食べ物とか飲み物はどうするのよ。それ以外にも敷き物とか明かりも必要だし」

「さあ、文が何とかするんじゃない?」

 

 

 「チューハイあるかなぁ」とはたてが気楽にぼやいている。刑香は文が用意することに多少の不安を覚えたが、まあ大丈夫だろうと思考を打ち切った。何かしらの企みはあるだろうが、まさか宴会そのものを台無しにすることはしないはずだ。

 そんなこんなで二人の少女は黙々とあるいていく。両天狗ともあまり口数は多くないが、別に会話がなくても気不味くなることはない。その程度を気にする仲でもないのだ。

 

 

「でもさ、何で公園なんだろ。刑香はわかる?」

「いや私もアイツの企みは分からないわよ、普段考えてることなら何となく分かるけど」

「アンタに分からないならお手上げね」

 

 

 わざわざ公園に集まる理由については首をかしげるしかない。だが考えても答えは出ない、見当もつかないままである。なので刑香は、せめて手に持ったバスケットの中身が無駄にならなければいいなと思うことにした。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 けっこう歩いた。文の指定した公園に着く頃には、はたてはパーカーを脱いで小脇に抱えていた。その下には背中に「絆」と書かれた妙な黒シャツを着ている。せっかくお洒落な格好をしてもアンダーがそれでは画竜点睛を欠いているな、と刑香はどうでもいいことを考えていた。

 

 自分も少し体が火照ってきた気がするが、ちょうど良い運動になった。それに大して厚着をしていないことも幸いして、脱がなくて済みそうだ。公園に入った時に足元で「くしゃり」と音がした、脚をどけて見てみるとそこにあったのは、少しくすんでいる紅葉だった。

 

 

「ここって、もしかして……」

「どうしたの、刑香?」

 

 

 ざわざわと木々の囁きが聴こえてくる。

 ここは小さな丘と池がある町外れの公園だった。電燈は一本もなく遊具は一つもない。豊かな緑を育む丘と公園を分断している池から、魚の跳ねる音が静かな空気によく響いた。少し物寂しい気配のする場所だ。

 

 そして公園の真ん中には、スーツを着た黒髪の少女が立っていた。線の細いスーツ姿は彼女に良く似合っていて、やはり凛々しさがあるように思える。そんな少女は二人を見つけると、にんまり笑って口を開いた。

 

 

「来ましたねっ。刑香、はやて!!」

「私の名前で遊ぶなっ。はやてとかホタテとか、いい加減にしなさいよ!!」

「ホタテは私のせいだわ、ごめん」

 

 

 もちろん、その正体は清く正しい天狗こと射命丸文であった。スーツ姿なのは仕事帰りだからだろう。殆どの少女達がバイトで食いつないでいることを考えると、スーツを着る仕事、しかも記者をしている彼女は稀有である。そうなる為に並々ならぬ努力があったし、才能も三羽の中では一番あった。その影で犠牲にされた少女もいたが、気にしてはならない。

 

 いきなり挑発してきた文に刑香は呆れて、はたては食って掛かる。文はどうどうと茶色い友人を抑えてから、両手を組んで仁王立ちした。とても偉そうである。

 

 

「いやぁ。二人とも遅いから迷子になっているかと思いましたよ。飛べないから探しにもいけないですし、少しだけ心配しました」

「たかがこんな距離で迷子になるわけないでしょう。というか、私にきちんと連絡しなさいよ。何を企んでいるかは知らないけど」

 

 

 そもそもギリギリに変更をすれば、少々時間がかかることは分かっていたはずだ。いや違うと刑香は考える。もしかして文は時間稼ぎをしていたのかもしれない、さすがに自分に連絡を回していなかったことは解せない。

 ただ肝心の文がニヤニヤして見つめてきたので、その理由だけでも尋ねることにした。

 

 

「なによ、アプリってヤツが分からなかった私をバカにしてるの? まあ、知らなかったのは事実だから仕方ないけどね」

「いえいえ、そんなことではありませんよ。ただ暗い公園にいる刑香を見ていると懐かしい記憶が甦ったんです」

 

 

 文は眼を虚空に向け、そしてそのまま声音を変えて呟いた。

 

 

「あやねぇ~あやね。ここどこ~、まってよぉ、あやね~」

「っ!?」

 

 

 びくっと刑香が震えながら後ずさる。強烈に記憶がフラッシュバックしてきた、覚えがあるなんてものではない。しかし頬を紅く染めても、あくまで冷静に努めることにする。ここで食ってかかれば文の思う壺である。だが、いくつかの反論はぶつけてしまう。

 

 

「い、いつの話してんのよ。そんなの千年前の話じゃない。雛鳥時代の私の話を、いまさら持ってきたところで…………」

「つい最近のことですよ」

「いや嘘を言うのは勘弁しなさいよ、本当に……」

 

 

 くっくと文は笑っていた。過去の話をここぞとばかりに蒸し返す親友はいたずらっぽく笑う。刑香はそれを見て、ふと幼い頃に同じような顔で文が笑っていたような気がした。どうやら子供の頃から自分たちの関係は変わらないらしい。なるほど、それなら最近と言われても仕方ない。全て繋がっているのだから。

 

 だが、同時にはっと気づく。今の表情を昔と重ねられるということは『昔も同じようにからかわれた』ということである。そちらの関係性もあんまり変わっていないような気がして、かくっと刑香は肩を落とした。そろそろ逆転させたいものである。

 

 

「……ちょっと、あんた達。私と出会うより前の話をするのは控えなさいよ、私だけ疎外感がひどいんだからね」

 

 

 はたては置いてけぼりにされたようで、少し不満げに口を挟んだ。その様子に刑香も文も少しだけ微笑んだ、それを見て更に不機嫌になったはたては文を睨みつける。もちろん照れ隠しである。

 

 

「結局のところ、文はなんで私たちを呼び出したのよ。明かりもないし遊具もない、まさかこんな所で飲み会をするんじゃないでしょうね?」

「こんな所? ふふ、はたてもまだまだ甘いですね」

「…………はあ?」

 

 

 何言ってるんだコイツ、そういう眼差しをする茶髪の鴉天狗。黒い少女は自信たっぷりにクルリと後ろを向く、その顔には何かを企む色があった。

 

 

「こんなに良いところはありませんよ」

 

 

 はたては刑香と顔を見合わせた。意味が分からない、目の前に広がるのは薄暗い公園だけである。夜風に秋草が流され、鈴虫の声が聞こえるのは風流と言えばそうだろう。だがそれは別にここでなくても良い、マンションの傍でも十分である。そんな二人の心を見透かすように文はニヤリと口角を吊り上げた。

 

 

「あやや、そうですか。まだ二人にはわかりませんか…………それじゃあこれならどうですか?」

 

 

 すうと手を上げて文はパチンと指を鳴らす、水面に波紋を立てるように、鳴り広がっていく高い音。おそらく合図なのだろう、何が始まるのかと白と茶の鴉天狗たちが身構える。だが、数秒経っても変化は起きなかった。あたりを警戒していた二人が拍子抜けして脱力する。文がわずかに狼狽えていた。

 

 

「あ、あれ?」

「何やってんのよ」

「い、いや違うんです。打ち合わせではこのタイミングで…………ああ、もう!」

 

 仕方ないと言わんばかりに、ぱんぱーんと手柏手を鳴らす文。「まだやるつもりか」と二人が半ば呆れ始めた、その瞬間であった。

 

 

 

 鮮やかな光が公園を包み込む。

 

 

 

 一瞬、はたてだけでなく刑香も何が起こったかわからなかった。ただ言えるのは、二人が眼を開けた時には目の前の光景が様変わりしていたことだった。

 

 丘が紅葉に埋め尽くされていた。その木々の下にはボール程度の丸い電燈がいくつも置かれ、それが紅葉の色を下から浮かび上がらせている。ライトアップと言えばわかりやすいだろう。池の周りをぐるりと囲むように紅葉した木々が、歓喜するように枝を鳴らす。

 

 その葉は数千枚はありそうだった。不思議と一枚一枚がくっきりと見え、枝から離れてひらひらと宙を舞っては地面へと降りていく。そして木々の下に敷き詰められた赤い絨毯の一部になり、「くしゃり」と敷き詰められるのだ。

 

 その光景を背にしながら、いつの間にか文は池の前にいた。ライトアップされた紅の色を背負いながら、彼女は振り向く。

 

 

「これでもご不満ですか、お二人とも?」

 

 

 後ろから光を受けているからか、文の影は黒い。ただ、その赤い目と満足げな笑みは見慣れた物だけに刑香にはよくわかった。「してやったり」という表情、イタズラに成功した子供のような輝きは千年経とうと、変わりはしない。固まってしまったはたての代わりに刑香は口を開いた。

 

 

「不満なんてあるわけないじゃない、あんた最高よ」

 

 

 それは良かった、と勝ち誇った文がもう一度微笑んだ。そして少しだけ文は目を反らす、よく眺めると顔を染めて照れていた。こっちの天狗も、真っ直ぐに気持ちを伝えられるのに慣れていないのだ。どうやら自分たちは三羽とも似た者同士らしい。刑香は文へと近づいていく。

 

 

「でもこの光は一体どうやったの?」

「むふふ、それは頼れるしたっぱを導入したんですよ」

「いやそれも意味が…………そこにいるのは誰?」

 

 

「ご無沙汰しております、刑香様」

 

 

 がさがさと草むらを掻き分けて、白い髪をした少女がひょっこり顔を出してきた。眼は少し眠たげだが、本当に眠いのではなくイライラしているだけである。葉っぱを払いのけて出てきた彼女はブルーの作業着を着ていた。白髪赤目の少女は刑香に向かい合って、恭しくその場で跪いてきた。

 

 

「久しぶりね、あんたも元気だった?」

「はい、おかげさまで壮健で過ごしております。刑香様もお変わりないようで安心致しました」

 

 

 犬走椛はそう言って深々と頭を下げた。そこで刑香にはカラクリが解けた、文の合図で電燈をつけたのは彼女だったのだろう。相変わらず主君に使える武士のように、椛は片膝を立てて跪いている。

 

 

「相変わらずね、私なんかを相手にそこまで畏まる必要はないわ。……立っていいわよ」

 

 

 刑香はそう言葉を返した。椛は固い態度を崩すことなく立ち上がり、さりげなく体から葉っぱを落とす。隠れていたからか、ちょっと服も汚れている。

 

 

「今回はそこのアヤサマから要望を受けて馳せ参じた次第にございます。そんな申し出は本来なら踏み倒すところなのですが、貴女とはたて様の名前を出されたので仕方なく……」

「そんなことよりご苦労様でした、椛!」

「はい、ありがとうございますアヤサマ」

 

 

 強引に話を打ち切った文をジトリとした眼差しで椛は見つめていた。元々あまり仲が良くない二人である。白狼の方は何か釈然としない物を感じているのかもしれない、だが天狗組織は基本的に上の言うことには絶対服従なので仕方ない。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編その6~その絆は見えずとも~

活動報告にて予告させていただいた通りに、番外編『後編』を投稿します。

こちらのお話は『東方project~人生楽じゃなし~』を連載中である、ほり吉様から戴いた原案に自分が改訂を加えたものです。
とある事情により、幻想郷の『外』の世界へと飛ばされた東方キャラクターたちが奮闘する物語である『東方project~人生楽じゃなし~』。そこにもし、白い鴉天狗がいたらどうなっていたのか、というお話です。


注意事項を三点ほど。
①本編ストーリーとは関わりがありません。
②登場人物の性格(刑香含め)において『その鴉天狗は白かった』とは微妙な違いがあるかもしれません。
③舞台は幻想郷ではなく、現代です。そのような内容及び雰囲気が苦手な方はご注意ください。

尚、今回は後半が本作初の一人称(誰なのかはご想像にお任せ致します)となっています。あくまでも番外編のみの書式ですが、苦手な方はご注意ください。
寛大な心で目を通していただけると幸いです。


 

 ぺたりと座る丘の上。

 すでに紅葉の絨毯がそこにはあるので、敷物は要らなかった。刑香はそれを一枚だけ手に取って、くるくると指で弄ぶ。憎らしいくらい鮮やかに色づいた落ち葉である。流れてきた風に紅葉を乗せ手放してから、何となく顔を上げる。

 

 

「幻想郷ではあり得ない景観ね。自然の営みからは外れてるけど悪くない。今も昔も人の子が成すことは、私たち妖怪には思い至らないことが多いあるわけか……」

 

 

 艶やかな葉の表面が光を反射していた。

 椛の持ってきた照明で下から照らされた紅い木々が、美しく夜に咲いている。暗い海に浮かぶ紅葉の舟は、風に揺られて枝を鳴らし、人工の月明かりに葉を瞬かせる。明暗のはっきりと別れる唐紅(からくれない)は妖怪の心にさえ波紋をもたらしていた。

 

 さあさあと寄せる秋風のさざなみに刑香はゆっくりと瞳を閉じる。体を動かすと、くしゃりとまた音が鳴った。白い少女は身体の全てで自然の息吹を感じていた。

 

 

 

 

「うーん、文も刑香も基本的には清酒よね。そうなると私はこっちを飲んだ方がいいのかな?」

「……まったく、あのカラスは私を何だと思ってるんだ。こっちに来てからは山での身分なんて関係ないのに、使いっ走りだなんて」

『へー、お酒が一杯あるねぇ』

 

 

 彼女の仲間がいるのは少し離れた場所。

 椛がよろよろとふらつきながら持ってきたクーラーボックス、その中身をはたてが吟味していた。白狼の少女は肩を自分で揉みながら、ぶつくさと何かを言っている。おそらく腹黒い天狗への不満であろう。そしてもう一人、誰かの声が鼓膜を揺らしたが誰も気にしなかった。

 

 そんな中で眼を閉じた刑香の後ろには、ニヤニヤと忍び寄る黒い影がいた。いつも通りに何かを企んでいる顔でビール缶を持っている。一歩また一歩と、ゆっくり刑香に近づいていく。よく冷えた飲み物を持っているので、何をする気なのかは説明するまでもないだろう。

 

 

「言っとくけど気づいてるわよ?」

「えっ」

 

 

 刑香は眼を閉じたまま牽制する。どうせキンキンに冷えたソレを、顔か首に押し付ける気だったのだろう。振り向くまでもない、ここは眼を閉じていても耳の奥へと響く『音』に満ちている。どんなにこっそり近寄ってきても足元の紅葉が丁寧に「教えてくれる」のだ。

 

 

「あやや、今回はイタズラ失敗ですね」

「心臓に悪いから急なイタズラは止めなさいよ。いつも言ってるでしょ」

「刑香もはたても面白かわいい反応をしてくれますからね。なかなか我慢できないんですよ、これが」

 

 

 じとりとした空色の視線などお構い無しに、文は刑香の横に座った。そんな親友へと呆れたように刑香はため息をつく。せっかく良い場所をセッティングしてくれているというのに、この付き合いの長い友人はいけしゃあしゃあとイタズラを仕掛けてくる。これではお礼を言うタイミングが掴めない。

 

 

「はあ、言っとくけど何度仕掛けても無駄だからね。葉っぱを踏んで来れば音が聞こえるし、それに……」

「そうですかー、それは残念残念…………隙ありっ!」

「わ、ひゃっ!?」

 

 

 びくっと体を震わせてのけぞる刑香。

 文がビール缶を刑香のほっぺたにくっつけた。冷たい感覚が頬にいきなり広がる。この友人はバレた上でいたずらを強行したのだ。思わず身を引こうとしてバランスを崩した刑香、すると今度はその首元へと冷たい缶を押し付けられる。

 

 

「やっ、ちょっと、しつこいわよっ!?」

「ええではないかええではないか」

「何よそれ!?」

 

 

 紅葉の上で、じゃれついている二人の少女たち。白い鴉天狗の反応をしばらく堪能してから身を離した文は楽しそうに笑った。

 

 

「ふふ、こういうのは久しぶりです。子供の頃はよくやってましたよね、二人で後々はたてに仕掛けてみませんか?」

「……残念ながらあんたへの仕返しが先だわ。ちょっと待ってなさい、お酒取ってくるから」

「ここにあるではないですか」

「そういう意味じゃないわよ、わかってるくせに」

 

 

 尚もビール缶を頬に押し付けてくる文は優しく笑う。そのまま刑香にそれを手渡してきた。

 そして紅葉の舞う空を見上げ始める文。タイミングを外され、刑香は怒るに怒れない。苦笑しつつ「ありがとう」とお礼を伝える、どうにもこの親友には敵わない。

 

 黒い空を舞台に紅葉が踊る、燃えるような紅色は彼らの命の輝きそのものである。二人並んだ天狗の周りを彩る様に、かつての『山の神』を崇めるように舞い散っていく。刑香も文も、手にある缶の蓋を開けなかった。

 

 

「なーに二人で黄昏れてんのよ」

 

 

 そこにやってきたもう一人の友人。髪を手で払いながら、はたては二人の間に腰を下ろした。手に持っているのは『凍結』と書かれたチューハイである。静かな雰囲気を一変させるように、彼女は遠慮なくプシュッとソレを開けた。そして飲むのではなく、手に持った缶を掲げる。きょとんとはたてを見つめる刑香と文。

 

 

「何よ別におかしいことはないわ、乾杯くらいするんでしょ?」

「ああ、そういうことですか」

「なるほどね」

 

 

 はたては不機嫌そうにしているが、付き合いの長い二人にはわかる。要するに真正面から言うのが恥ずかしいから、ぶすっとしているのだ。二人は眼を見合わせてから缶を開けた。小気味よい音がする。

 それで乾杯をしようとしたが、刑香がふと気が付く。少し離れた場所で椛が立っているのだ。三羽の輪には加わらず、彼女は真面目な顔でこちらを見ているだけだ。

 

 

「どうしたのよ、あんたはこっちに来ないの?」

「あっ、いえ私は、その……」

 

 

 何か遠慮しているらしい。椛は前々から刑香へは堅苦しい感じがしていたが、それはこっちに来てからも変わらない。「ふむ」と刑香は考える。ならば逆にそれを利用してやればいいだろう、やり方は簡単である。

 

 

「それなら私達からの『命令』っていうのはどうかしら。まあ、指示を聞くのかは自由だけど」

「……どのようなご命令でしょうか」

「私達と同席してくれないかしら、犬走椛」

「貴女とはたて様が仰るならばそのように」

 

 

 素直に従う白狼の少女だが、今のは正直なところは『命令』ではなく『お願い』の類いだった。どうやら性格的に白い少女は強制を行えないらしい。だが生真面目な椛はクーラーボックスからてきとうな飲み物を取り出して、こそこそと近寄ってきた。

 

 

「それでは失礼いたします」

 

 

 すとんと三羽鴉の隣に座る。それを文がニヤニヤして見ていたが、黒い少女に対して椛は完全に無表情だった。反応したら色々な方面からイジられるからだ。だから腹黒い天狗から全力で顔をそむけた。

 車座で座る天狗達ともう一人。秋風が流れる空の下、紅葉が燃える草の上、涼しげな闇の中で、人ならざる少女達は秋夜の公園で声を合わせた。

 

 

『かんぱーい』

 

 

 カンっと五人分の音が鳴る。

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 夜の帳が深まっていく、暗い空に星々が小さく瞬く、街外れに広がる静かな夜がそこにはあった。

 ただ、今宵に限って星は脇役らしい。私たちの見上げた先には美しく輝いている季節の欠片たち。赤でも黄色でも、彼らは鮮やかに身を震わせては光に踊る。

 

 風が吹けばひらひらと空を舞う、無ければすとんと落ちてくる。まるで個性を主張するかのように「どうだっ」と一枚一枚の葉っぱが紅い空の舞台から、思い思いに降りてくるのだ。

 それを白い髪の、私ではない白い髪の少女が手で掴もうとして、ひらりと葉から避けられてしまう。

 

 

 むうと唸る白狼天狗。

 

 

 それを見て笑い声が起きる。やはり中心にいるのは黒い髪の少女だった、お酒が入って桃色に染まる頬、それは天狗としてはあるまじき姿。なのかもしれないが、この世界では直ぐに酔ってしまうので仕方ない。それが楽しいのだろう。

 

 見本を見せましょうと黒い少女は立ち上がる。「ほっ」という可愛らしい掛け声を上げて、あっという間に一枚の紅葉を手に取った。鮮やかな手並みだった。やはり彼女はなんでも卒なくできると、こんなことからも思ってしまう。

 そして私の方を見て得意気に笑うのだ。その表情は昔から変わらない。つられて私も楽しくなってきた、見慣れているはずなのに不思議だ。

 

 そう思っていると、横から茶髪の少女が肩を叩いてくる。そちらに目を向けると、お酒の缶を両腕一杯に抱えていた。「どれを飲む?」と聞いてきてくれた。全て果実酒なのはどうかと思うけど、私はありがたくその中から選ぶことにした。

 

 

 

 

 

 そこで私はパンを作ってきたのを思い出す。

 バスケットを手に持って黒い少女に声をかける。彼女は白い髪の天狗と何か言い争っていたが、どうせ大したことではないだろう。その証拠に何か企んでいるような、いや、誰かをからかってやろうというあの笑いを射命丸文はしていた。

 まあ、お腹に何かを入れれば、眠くなって少しは大人しくなるかもしれない。

 

 

「いや違うか、この時の私は恥ずかしかっただけよね。それが何故なのかはわからないし、今思い出してもどうしてなのか理解できないけど」

 

 

 ただ、バスケットの中身を三人に見せた時に小さな歓声がこの紅葉の森に響いたことだけは嬉しかった。それだけは酔ってても忘れていない。

 

 

「駄目ね、これじゃあ口調が普通すぎる気がするわ。現代カラクリって便利だけど、油断すると文章が崩れてしまうみたいね。……えっと修正のボタンはどれだっけ?」

 

 

 あの夜はそれからも永かった、いやそうあって欲しかったのかもしれない。

 ライトアップされた紅葉の降る幻想的な場所、それなのに私たちが話したのは他愛もないことばかり。どこそこのスーパーの話、仕事の話、今手に持っているお酒の話。とりとめのない話も、騒がしい笑い声も、不思議と耳には心地よい。いつの間にか私も笑っていた、思わずほんの少しだけ。

 

 

 そんな時、アイツにパシャりとやられた。

 

 

 音がした方を見ると、デジタルカメラが私に向けられていたのだ。それはこの間、私が貸してやったヤツだ。真新しいフレームも磨き抜かれたレンズも間違いない。

 そしてカメラを構えた文は自分の顔を指でつついている。そこでようやく私は気がついた、のんきにパンをかじって笑っている瞬間を写されたのだ。

 

 今思うと恥ずかしい。少し酔っていて油断した。あんなものを広められては恥である。立ち上がってカメラを回収しようとしたが、文はあっという間に逃げていく。韋駄天ここに現れり、それくらい足が速い。

 

 そうして始まったのは追いかけっこ。少し足元がふらついたが、お互いに条件は同じだ。クシャリと落ち葉を踏みながら、空も飛ばない鬼遊びをすることになった。

 

 逃げる文は楽しそうだった。木の裏に逃げてみたり、私の脇をひょいと通り抜けてみたりと素早い。酔った私では少し捕まえられそうにない、流石は幻想郷最速だと思う。よくよく考えると子供の遊びなのに理不尽なことだ。

 しかし日ごろの人徳、天狗徳がないからだろう。少し声をかけただけで、はたてと椛が協力してくれた。特に椛のやる気は相当だった、あの目は本気だ。どれだけ日頃の鬱憤が貯まっているのか。

 

 

「まあ、そのまま三人で追い回したわけだけど。やっぱり速いのよね。小さな頃のまま、文はあやねぇのままで。…………もう絶対これは人に見せられる日記じゃないわ。書き終わったら封印決定ね」

 

 

 はたてが後ろに回りこんだが、文はそれを避けて空いたスペースに逃げる。

 そこに突っ込んだのは椛。お酒に強いのか、あまり飲んでいなかったのか動きにキレがあった。猟犬のごとき鋭い眼光で文に飛びかかったが、何かに躓いたらしく頭から地面に転んでしまう。小石にでも引っ掛かったのだろうか、とても痛そうだった。

 

 だが、二人が塞いだおかげで逃げる方向は予測できた。その先に私はいたのだ。逃げてくる文と向き合った時、彼女の口元がつり上がっているのが見えた。だいたいあんな顔をしている時はろくなことを考えていない。

 すっと重心を落として、私の脇を通り抜けようとした黒い親友。裏をかかれた私だったが、バランスを無視して文へと飛びついた。そのまま身体に抱き付くようにして押し倒す。ほとんど体当たりのようなものだ。

 

 

 捕まってしまいました、文は笑い出す。

 それに対して「久しぶりに勝った」と私は満足感に浸ってスーツから手を離した。胸の鼓動がうるさいので、少し休もうと紅葉の上で寝転がることにする。

 まあ、私は油断していたのだ。横を見ると文も同じような格好をしていたのもあって、私はそれ以上の警戒をしていなかった。

 すっと私の首に回された腕、もう一方はカメラを向けてきていた。そして文は私の頬に自分の頬をくっつけてきて、こう言ったのだ。

 

 

 

 はいチーズです。

 

 

 

 あの時の私はどんな顔をしていたのだろうか。あの意地悪な姉は見せてくれなかったので、分からない。

 

 

 

 

 




次回からは新章『映月天狗抄(予定タイトル)』を開始します。
妖怪の山とそれに関わる人物たちをを中心にした物語になる予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3章『天狗映山抄』
第三十八話:八雲立つ


 

 

 目の前にある巨大な水槽に少女は心奪われていた。

 空を泳ぐように、キラキラ光る魚の群れが頭上を通過していく。本来なら海でしか生きられないはずの彼らは、人間の御技によって設けられた『世界』の中で命を繋いでいる。ここは海から遠く離れた陸地なのに、神様の決めた掟に逆らって人々は容易く禁忌を犯すのだ。

 

 

 ーーでもやっぱり落ち着くかも、やっぱり『境界(スキマ)』だからかな?

 

 

 個人的にこういう場所は好きだ。

 『俗世』と『神域』を分ける神社の鳥居も、『空』と『陸』を分ける高い山の上も同じくらい好きだ。そこには『世界』を分断する小さな小さな境界があるから。黒と紫色が混ざったような亀裂がそこかしこに広がっている。

 自分の顔が薄く映ったガラス板に、金色の髪の少女は手をついた。ふわふわしたナイトキャップと紫色のワンピースが空調の風に吹かれる。とても落ち着いた雰囲気のある少女だった。

 

 

「聞いてるのっ、ねえったら…………メリーッ!!」

「ひゃわっ!?」

 

 

 急に肩を揺らされて少女は飛び上がる。

 その瞬間、視界に浮かんでいたスキマは消えて精神が現実へと引き戻された。あれほど見えていた境界の溝が消え失せる。そのまま鼓動がうるさい胸を押さえて振り向くと、不機嫌そうな顔をした友人が立っていた。深呼吸をしてから、メリーと呼ばれた少女は口を開く。

 

 

「……どうしたの、蓮子?」

「どうしたもこうしたもないわよっ、私がちょっと目を離した隙にあんたがいなくなったんでしょ!」

 

 

 気がつくと周りの景色が変わっていた。

 最初にいた入り口から随分と離れている。友人と一緒にいたつもりが、どうやら自分だけふらふらと歩いていたらしい。隣の水槽ではメジロザメがこちらを鼻で笑うように通り過ぎて行った。

 とりあえず謝ってみようとするが友人、宇佐見蓮子は許してくれそうもない。白いリボンの付いた中折れ帽子に、同じく白いブラウスと黒いスカート。出で立ちは可愛らしいのに、活発な印象からどこかボーイッシュな雰囲気を持つ黒髪少女。そんな蓮子は少しだけ口を尖らせる。

 

 

「私たちは『秘封倶楽部(くらぶ)』の活動でここに来てるのよ。私たちは二人で一つなのにメリーだけで先に行くなんて酷いじゃない」

「ご、ごめん。こういう所に来るとつい……」

「悪いと思っているならよろしい、今回は許してあげるわ。で、何か見つけたの?」

 

 

 蓮子がコツンと水槽を叩いてみるとハリセンボンが膨らんだ。空気や水を取り込むことで身体を風船のように肥大させる珍しい習性を持つ魚である。そのユーモラスな姿を眺めることで、黒髪の少女は少し機嫌を良くしたらしい。メリーに対する口調が和らいでいる。

 

 自分たちは大学の霊能力者サークルである『秘封倶楽部』の活動としてここに来た。部員は二人だけの小規模サークルで、普段は授業の合間にお茶をして長々と役に立ちそうもない話をする集まりである。今日の水族館への遠出だって、蓮子の思い付きでしかない。メリーは首を横に振る。

 

 

「ううん、ここは違うみたい。確かに『切れ目』はあるけれど、他の場所と変わらない大きさだわ。これじゃ二人が通るのは無理ね」

 

 

 人間であるはずのメリーには『境界を見る程度の能力』が備わっている。その紫水晶のように綺麗な光を宿した瞳には、世界の境界(スキマ)が見えている。微かな切れ目であったり、大きな断絶であったり、それは多種多様な形で瞳に映る。

 

 

「そっかー、やっぱり普通の水族館じゃダメよね。ううむ、我ながら時間の無駄だったかなぁ?」

「そうでもないよ、私は蓮子とここに来られて楽しいもの」

 

 

 なら良かったと蓮子が顔を赤くした。

 ガラスを一枚隔てて、その背後には泡沫の世界が広がっている。海の一部を切り取ってきたように青い水底で泳ぎ回る魚たち、敷き詰められた白砂の上で休んでいる者もいる。生存競争から離脱した彼らは外敵に襲われる危険がない代わりに、ここでは歯車の壊れた時間が流れている。黒髪の少女は帽子を押さえながらガラスを覗き込んだ。

 

 

「ここには絶滅危惧種も沢山いるわけだけど、彼らは望んだわけでもなく、ただ生かされているだけなんだから残酷なもんだよね」

「そうかな、私は綺麗だと思うよ。自然の生態系から切り離されたからこそ、彼らには別の自由が示されている。確かに狭い水槽だけど、そこには小さな世界があるもの」

「見解の相違ね、そういうのは嫌いじゃないわ。でも私的には不自然な営みは間違っている気がするのよねぇ。現代人が言っていいセリフでもないけど……」

 

 

 それはきっと正しい。自分たちの目の前に広がるのは作られた世界、美しくも残酷な檻なのだ。だが、それを理解しながらもメリーは『美しい』と感じている。一切の妥協なく組み上げられた計算式に支えられたモノは心に響いてくる。もし自分も『同じモノ』を作れたなら、どんなに良いだろうか。

 ひたりと水槽のガラスに触れてみた掌に温度はなく、ただひたすらに伝わる感覚は空虚だった。そんなメリーから蓮子は「やれやれ……」と視線を反らした。

 

 

「いつになったら『幻想郷』への手掛かりが掴めることやら。大学で見つけた文献とメリーの夢はドンピシャだと思ったんだけどなぁ」

「ほとんど手掛かりがないんだから仕方ないわ。私たちは私たちらしく、のんびり行きましょう?」

 

 

 ここではない何処かには『霊能力者』や『人ならざる者』が住む世界がある。大学の資料室から見つけた古びた文献にはそう書かれていた。それは誰にも読まれずに埃を被っていた名前すらないメモ帳だった。なにせ自称超能力者だの、眠っている間は結界を越えられるだの、妖怪と戦って勝利したなどと書かれた何者かの自伝である。妄想の類いだと判断されて本棚の一番奥に押し込まれていたのだ。

 

 しかし普通の人間には何てこともない資料も、理解できる者が見れば価値は劇的に変わる。何せメリーと蓮子は両者ともが、世間一般で言うところの『霊能力者』なのである。二人は即座に書かれていることが本物だと見切った。

 そして境界の向こうには『幻想郷』が存在するという仮定を元に、あらゆる角度からの考察を二人はもう数ヶ月も続けている。

 

 

「それにしても、メリーと違って私の『能力』はあんまり役に立ちそうもないわ。迷子になった時は便利なんだけどさ」

「あはは、蓮子のチカラは現在地が分かるってヤツだもんね。そのくせ待ち合わせには絶対遅れて来るけど…………今日は二時間くらい待たされたし」

「ごめんごめん、何か奢るから許してよ。えーと、手始めにあそこの自販機でジュースはどうかしら?」

「しょうがないから勘弁してあげるわ。今回が最後だからね」

 

 

 これで通算四十七回目の『最後』になる。それを考えるにメリーはこの友人に甘いらしい。「さあさあ」と背中を押し始めた蓮子は本当に調子のよい少女だと思う。

 左右を水とガラスに挟まれた薄暗い廊下を歩いていく。平日ということもあり、自分たち以外に来館者はいない。余分な人影はなくコツコツと響くブーツ以外に音もない、今だけは二人の貸し切りだ。少しだけ贅沢な気分になった。

 

 

「そうだ、ちょうどお昼になったことだし蓮子の奢りでランチにしましょうよ。ほら、近くの大学に有名な所があるじゃない?」

「げっ、あそこの店に行くつもりでしょ。止めてっ、フレンチなんて高くて私の財布が死んじゃう!」

「あー、聞こえませーん」

「ちょっとメリー!?」

 

 

 半分冗談、半分本気。そんな灰色の笑い話を繰り返しながら、二人は自販機にたどり着いた。もちろんコレも蓮子の奢りである。何てことのないドリンク類でも、タダだと考えると嬉しく思えてしまうのは何故だろう。

 

 上機嫌で飲み物を吟味するメリーに対して、蓮子はさっきの話を本気にしたらしく財布の中身を確認していた。「さすがにフランス料理は冗談なのに」と金髪の少女は心の中で笑うが、訂正はしない。しばらくは悩んでいた方が良い薬になる。

 端から飲料を視線でなぞっていると、不意にメリーの動きが止まった。

 

 

「まだ寒いのにこんなのも売ってるのね」

 

 

 冷たいコーヒー缶のディスプレイを指先でなぞる。ほんの数日前まで自販機は温かい飲み物しか売ってなかったはずなのに、少し商品が入れ替えられていた 。赤いボタンが青いボタンへと、たったそれだけの変化だった。

 なのに胸のうちへ冷たいスキマ風が流れて来るような気がした。ぼんやりと何かを思い出すように、少女はここではない何処かへと心を移す。何故こんな気分になるのだろう、しばらく悩んでからメリーは答えに辿り着く。

 

 

「そうか、もう冬が終わるのね」

「……どうしたの、メリー?」

 

 

 季節は変わり、春が来る。

 たったそれだけの話なのに、ひどく寂しい気持ちがするのは何故だろうか。何でもないわ、そう友人に伝えようとしても唇は動かなかった。ぼやけた視界は、短い『夢』の終わりを告げている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはようございます、紫様」

 

 

 控えていた式神が目覚めた主へと頭を下げた。

 それにチラリとだけ視線をやったスキマ妖怪、八雲紫はゆっくりと布団から起き上がる。ここは外の世界で忘れられた者たちが集う場所、妖怪たちの楽園ともされる『幻想郷』。その何処かに存在する八雲邸にて、主たる大妖怪は暗闇を見つめていた。

 

 まだ意識がはっきりしない。妖力は安定せずに波紋を広げ、思考は泥沼に沈んだ車輪のように動かなかった。冬眠から覚めた時はいつもこうだ。重々しい眠気が残っていて身動きが取れない、もう暫く結界の管理は藍に任せた方が良さそうである。

 

 

「…………眠っている間に悲しい夢でも見られましたか、我が主」

 

 

 藍に問いかけられて初めて気づく。涙の細い筋が自分の頬を流れ落ちていた。

 

 遠い過去のような、

 近い未来のような、

 己のことのような、

 他人のことのような

 そんな不思議な夢を見ていた気がする。

 

 

「もう覚えてないわ」

「そうですか」

 

 

 あれは一体、誰だったのだろうか。思い出そうにも思い出せず紫水晶のように美しい瞳は天井を見上げる。心ここにあらず、そんな主人へと狐耳の従者は優しく微笑んだ。

 

 

「もうお昼です。食事の準備は出来ておりますから、眠気覚ましと思って居間へお越しください」

「ありがとう。冬の間は大丈夫だったかしら、あなたにはいつも負担を掛けるわね」

「私は貴女の式ですから、お気になさらず。私の身体も心も、未来と過去さえも御身と共に」

 

 

 藍の力強い言葉に涙を拭う。

 どうして泣いていたのか、どうして悲しかったのか。まるで思い出せないので、その感情を雑念と見なして切り捨てる。胸には虚しさが残ったが不足はない。こんなにも愛しい式が側にいてくれるのだから、それ以外のことなど大したことではない。

 

 

「藍、少し後ろを向きなさい」

「はい、如何なるご命令でもお受け致しま…………ちょっと紫様?」

「うーん、もふもふぅぅ」

 

 

 式神の尻尾に頭を埋める、九本の尾はどれもフカフカで極上の毛並みだ。藍は困った子供を見るような視線を送ってくるが、知ったことではない。

 このままだと二度寝してしまいそうな気持ちよさだ。片手には白い羽の詰まった枕を持っているのだからすぐにでも可能だ。よし寝ようと思った紫へと、そうはさせじと藍が話しかける。

 

 

「起きてください、実は紫様にご報告しなければならないことがあるんです」

「地底のことかしら、それともあの娘のこと?」

「恐らく両方かと思います。そちらについては、お昼を召し上がりつつお聞きくださればと…………だから離してください!」

「やーよ、もうちょっと」

 

 

 駄々っ子のような抗議の声が響く。

 まだ寝ぼけているのだろう、これでは賢者の称号が形無しである。完全復活にはまだ時間がかかりそうだと溜め息をつきながら藍は大人しくしていることを決めた。主のわがままに付き合うのも式の務めなのだから。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 梅の匂いが香る空の下。

 刑香たちが地底から帰ってきて一週間が経ち、幻想郷には春の欠片が漂っていた。まだまだ弱々しい日射しだが、それは地面の雪を溶かして命を芽吹かせるには十分だった。青々とした草花が茂り、冬の妖怪は姿を消し始めている。天狗の山から始まった景色の変化は、その麓にある『玄武の沢』にまで広がっていた。

 

 多角に削り取られたような柱が、スキマなく立ち並ぶ岩壁に守られた場所。ここには大きな川が流れている。妖怪の山から這い出した深緑の木々が水に恵みを与え、大きな滝を上流に持つために川は豊かな水量を保ち続ける。谷底に広がる清流は、まさに水を好む妖怪たちの楽園であった。

 そしてそんな玄武の沢を支配している妖怪こそが『河童』なのである。

 

 

「おいおい、これは妖気を纏ってるじゃないか。いったい何をしたのさ、打ち出してから数年しか経っていない錫杖が妖力を持つなんて…………鬼か竜の目玉でも突っついたのかい?」

「まあ、外れてはいないわね」

 

 

 河童の少女、河城にとりは首を傾げていた。甲羅代わりの大きなリュックサックを岩場の上に置いて、ポケットから取り出した工具で錫杖をコツンと叩いてみる。反発するように立ち昇る気配は間違いなく、妖刀や妖槍の持つ『妖気』に他ならなかった。

 自分が作ったモノなので、材料や構造は全て把握している。だからこそ錫杖の変化は予想外であった、いくら天狗の手にあるからといって数年で妖刀と互角の力を持つなど不可能だ。しかしそれ以上に有り得ない話へと、にとりは首を振る。

 

 

「いやいやいや、滅多なことを言うもんじゃないよ。鬼がそこらをウロウロしていて堪るもんか、連中は地面の底に封じられたんだよ。恐ろしい恐ろしい、くわばらくわばら……」

「実際会ってみたら愉快な連中だったわよ。萃香様よりは話ができる鬼も多かったし、速攻で喧嘩売ってきた勇儀様はともかくとしてね」

「……ひょっとしてマジで鬼の目玉を抉ったの、刑香?」

 

 

 にとりは白い鴉天狗、白桃橋刑香へと恐る恐る事の真相を尋ねていた。

 この天狗とはそれなりに長い付き合いだ、犬走椛には負けるがそれでも百年くらいは経つだろう。友人というわけではないが、それなりに信頼できる商売相手として細く長く付き合っている相手である。

 

 また錫杖がひび割れたから直して欲しい、今回の刑香はそんなことを言って訪ねて来た。だから実物を見せてもらったのだが、同時に聞いてはいけない情報を知ってしまった気がする。鬼と戦った経緯など危ない香りしかしない。出来れば聞きたくないのだが、白い鴉天狗は少し得意気に話を続けてくる。

 

 

「ちょっと地底に出向いてたのよ、そこで鬼の四天王に喧嘩を売られてね。最初は死ぬかと思ったんけど色々あって四人がかりで倒したの、あれはここ千年あまりで一番の白星かもしれないわ」

「た、倒した? …………へ、へぇ、それは凄まじいね。とても信じられないや」

「うん、本当に信じられないわ」

 

 

 珍しく楽しげな白い鴉天狗。

 基本的にこの少女が僅かなりとも笑顔を見せる相手は、にとりの知る限り二人しかいない。なのに自分に対して、こんな表情をしてくるということは本当に嬉しいのだろう。鬼、それも四天王を倒したのは本当のことなのかもしれない。

 夏空を映した碧眼はそんな少女の心を表すかのように明るい光を宿していた。しかし、河童の少女の心は穏やかではない。

 

 

「待って待って、それは私が聞いても大丈夫な話なんだよね!? 何だかスゴく危ない気がするよ!」

「問題ないわ、大事なところはボヤかして言葉にしてるから。それに大した機密じゃないわよ?」

「私は八雲の内部事情には関わりたくないんだ。ただでさえ天狗からの締め付けが最近は強くなってきてるし、この上で八雲にまで巻き込まれるのは御免だよ」

「私のせいで巻き込まれたなら護ってあげるわよ、勝手に巻き込まれたなら知らないけど…………それより天狗がどうかしたの?」

 

 

 神妙な顔つきに変わった刑香を見て、にとりは少しだけ意外だと思っていた。

 近頃はスキマ妖怪の一派に加わったとか、巫女の式神にされたとか、刑香には良からぬ噂がある。天狗たちの間では「裏切り者」扱いされていて、河童の間でも良い話は聞かなくなっているのだ。だが、この様子だと刑香は八雲に深く関わっているわけではないのかもしれない。

 だとしたら天狗の次は八雲に、また都合良く利用されているのだろうか。本人は何とも思っていないようだが、端から見れば彼女はどこに行っても「役に立つ道具」である。憐れむつもりはないが、少しだけ同情はしている。

 

 

「まあ、鬼や天狗から道具扱いされてきた河童が言えたことじゃないけどね。道具仲間として仲良くしようね、刑香」

「……あんた、また面倒なこと考えてるわね。私のことはいいから今の山について教えなさいよ」

「はいはい、実は天狗社会が動揺していてね。規律が乱れてるんだ。組織の命令に逆らおうとする連中、果てには人里との盟約を破って人を浚おうとした奴まで現れてる。まあ、寸前で取り押さえられたけど」

「……酷いわね、少し前なら考えられなかった。でもどうしてそんなことに?」

「これまた噂だけど、大天狗たちが亡くなったらしいんだ。今は天魔様が御一人で上役をこなしているから、手が回らないとかね。ほいっと、この錫杖は返すよ」

 

 

 点検を終えた錫杖を刑香へと投げ渡す。くるくる回転しながら飛んできたソレを白い少女は難なく受け止めた。

 

 全ての始まりは吸血鬼異変が収まった時にある。あの辺りから山は騒がしくなった、堤防に出来た亀裂から水が流れ出るように少しずつ、若い天狗の一部が暴れ出したのだ。様々な不満があったのだろう、それに同調するように参加する天狗が現れて騒動は今も水面下で続いている。

 

 

「長老様もご高齢だからねぇ、天狗じゃなくても山の行く末は気になっているさ。誘拐未遂があったせいで、人里なんて最近は山に踏み込まないようにお触れが出ているくらいだ」

「……人の子が山に入って樹を伐採したり、食料を調達するのは天狗が黙認していただけだからね。彼らの気が変わってしまったなら、人間が山にいるのは危ないわ」

「そういうこと。私たち河童の中にもいるんだよ、天狗の集落に近づいて斬られた可哀想な子がね。まったく光学迷彩使っても白狼の鼻は誤魔化せないから嫌になるよね」

「あんた達は自業自得でしょ、天狗の里を見張ろうとするなんて、次は首が飛ぶわよ」

「あははっ、ちょっと監視カメラを設置しようと思っただけなのになぁ」

 

 

 鬼がいない今、この山の進む方向性を決めるのは天狗だ。それなのに彼らの社会は揺らいでいる、だからこそ監視カメラを付けて何か面倒なことがあった時に備えようと思ったのに上手くいかないものだ。儲け話にも繋がったかもしれないのに残念だ。にとりが「次は上手くやるさ」と笑うので、刑香はそれに呆れてしまう。

 得てして河童とは、こういう妖怪なのだ。

 

 

「それにしても大天狗たちが亡くなったのね。私が施してやった『能力』はまだ続いていたはずだけど、どうやって命を断ったのかしら」

「どうだろうねぇ。確かに刑香の『死を遠ざける程度の能力』を消し去って命を断つなんて、並大抵のことじゃないと思うけどさ」

「天狗の中に『死』に関連する能力持ちはいなかったはずだし、外部から呼び寄せたのかもね。まあ、この話はいいわ。山の動揺はいつまで続きそうか分かる?」

「新聞に載せて人間たちに知らせてやるつもりなの? 相変わらず素直じゃないくせにお人好しだねぇ。そんな生き方してたらいつか本当に喰われるよ、いろんな意味でね」

「その時はその時よ」

 

 

 にとりは思う。

 どこか冷めている性格、基本的には他者の定めた秩序に従おうとする姿勢を持つ鴉天狗。組織から追放された時も復讐なんてものは考えず、その後に現れた八雲紫に取り込まれる形で別の勢力へと属している。今までも組織から利用され捨てられて、今度は八雲に使われているのだ。それほどの『利用価値』があるのだろう、どこにも刑香の逃げ場はない。

 

 

「難儀なものだね。便利な能力を持って天狗様に生まれたのに、こんな目に会うんだから分からないもんだ」

「別に後悔はしてないわ、私が選んだ生き方なんだから。…………でもそうね、次があるなら平凡な河童に生まれるのも面白そうかしら」

「へぇ、そりゃあいい。河童一の技術者である私の弟子としてこき使ってあげるよ、今なら三食きゅうり付きだけどどうだい?」

「生憎とまだ天狗だし、河童の労働基準は分からないわよ」

「くくっ、そりゃそうだ」

 

 

 思わず純真な笑みをこぼす河童の少女。

 一方の刑香は笑ってこそいないが、空色の眼差しが少しだけ柔らかくなっていた。流れる川のせせらぎは溶け出した雪を乗せて輝いている、山の若葉は清々しい空気を吐き出して谷を満たしてくれていた。

 頭のてっぺんを隠す帽子を被り直す河童、白い翼を広げる鴉天狗。春の日射しに手をかざしながら、二人の妖怪少女は日向ぼっこをしているようにも見えた。しばらく黙った後、にとりはポツリと呟く。

 

 

「でも、自分を利用しようとする輩には本当に気をつけな。前に片翼を折られたのも八雲紫に関わったからなんだからさ。今回も内臓をやられて、まだ完治していないんでしょ」

「…………分かってるわよ、今日はえらくお節介ね。そんなに客がいなくなるのが困るのかしら?」

「そりゃ誤解だよ、私はただ人里や博麗の巫女との繋がりを持っている天狗様にこれからも宜しくしたいだけ。単なるお客じゃなくて商売相手、この違いは大きいよ」

「そこは『心配してる』って言いなさいよ。河童って相変わらず腹黒いわね」

「天狗様には負けるさ」

 

 

 事実として、天狗たちほど権謀術数に長けた妖怪も珍しいだろう。その上で鬼が『盟友』と認める実力を個体として持ち、集団行動を基礎としているとは恐ろしい。この幻想郷において、最も敵に回してはいけない種族が彼ら彼女らなのだ。

 河童でさえ天狗には滅多なことでは逆らわないし関わらない。にとりが仲良くしている天狗も、文と刑香とはたての三羽鴉、そして白狼の椛くらいなものだ。このところ他の天狗達から依頼されることも増えたが、どいつもこいつも河童を見下した連中ばかりで鬱陶しいものだと感じている。

 

 

「さてと、そろそろ神社に行こうかしら。今日はありがとね、にとり」

「どういたしまして、代金はツケにしておくよ。次にまとめて払ってね、払えなかったら着ている装束を剥いじゃうかも」

「いや、今回は何も直してもらってないわよ?」

「鑑定料だよ、鑑定料。さっきの錫杖が妖気を発し始めてるって教えてあげたじゃん」

「…………セコいわね、別にいいけど」

 

 

 じゃあね、と翼を羽ばたかせて空へと吸い込まれていく刑香。青空に白い翼はよく映える、まるで真っ白な雲が移動するかのように少女は春風に乗って飛んでいった。

 次はどんな厄介事を持ってくるのか楽しみだ、にとりは岩場から立ち上がり背伸びをする。湖のように静かな光を秘めた青髪が風に揺れ、胸元に縛り付けた鍵が鳴る。朗らかに笑った後、少女は川へと歩いて行った。

 

 

「ああ、久しぶりに良い風だったな」

 

 

 ぽちゃんと谷底に響いた水の音。

 そこには河童の姿はなく、ただ水面がゆらゆらと波打っているだけだった。空には幾重にも白が重なった八雲が流れる春先の頃、これは穏やかで何でもない天狗と河童の一幕である。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十九話:妖怪と人間と

 

 

 その山には死の気配が漂っていた。

 カラカラに渇いた喉で一人の少年が、湿った森の空気を吸い込みながら走る。今にも力が抜けてしまいそうな身体は頼りなく、棒のような脚に感覚はなかった。それでも生きたいならば、一歩でも遠くへと少年は逃げなければならなかった。

 そうしている間にも震えは止まらない、自分を襲ってきた『妖怪』たちの声が脳裏から離れないのだ。

 

 

――久方ぶりの『供物』よな

――天魔様に見つかる前に喰らってしまおうぞ。見張りの白狼にはシカ肉とでも誤魔化しておけば良い

 

「ひ、ひぃぃぃ…………っ」

 

 

 恐ろしさで脚がもつれそうになる。

 薬草を摘んでいた自分を拐おうとしたのは『鴉天狗』だった。この山を支配する種族にして、高速の翼で空を切り裂き、一撃の元に獲物を仕留める上位妖怪。ただの人間が襲われて生きているなんて奇跡的である。

 

 辺り一帯の空気は刺々しく、森の木々は怯えるよに静まり返っていた。憐れな人の子が泣きながら走る音だけが、何にも邪魔されず木霊している。彼は冥界でも迷い込んでしまったのだろうか。

 

 

「て、天狗様…………何で、何でこんなことをっ」

 

 

 傷だらけの顔で少年は叫ぶ。

 今、妖怪の山が危険な状態であるのは聞いていた。『山に入るべからず』という注意書きが、天狗たちの新聞でも宣伝されていた。しかし病弱な家族のために、どうしても少年には薬の材料が必要だったのだ。

 何度も自分を止めようとしてくれた恩師の顔が頭に浮かぶ。

 

 

――いくらお前が病弱なご両親のために、薬の材料を集めたいと言っても連中は見逃してくれないぞ。今の天狗たちは平気でお前の命を狩り取るだろう。だから山に入るのは止めるんだ

 

「っ、そんなことない、天狗様はそんなことしないって信じてたのにっ!」

 

 

 かつて少年は白い鴉天狗に命を救われた。そしてその日から『天狗』とは心優しい妖怪であると考えてしまったのだ。どこか清らかで儚げな少女、そんな刑香を天狗一般の基準にしてしまった。もちろん白桃橋刑香とて、無条件に誰かを救うことはないのだが。

 それがこの様である。清浄な雰囲気のあった白い鴉天狗とは真逆、人間を『供物』として捉える妖怪に追われている。闇夜の翼も血の滲んだ赤い瞳も、命の恩人とは似ても似つかない。あれは化け物だ。

 

 裏切られたような気持ちが湧き上がっていた。あの白い鴉天狗も里の外で出会ったなら自分を喰らおうとしたのだろうか、人間を喰らっているのだろうか。信じたくない、しかし逃れられない『死』が残酷に現実を語っている。そこまで考えて脚は唐突に止まった。

 

 ぼろぼろの草鞋が切り立った岩を踏みつける。

 

 

「あ、そんな…………行き止まりなんて」

 

 

 目の前には切り立った崖と、大きな音を立てて流れ落ちる滝。六角の柱が重なるように整えられた岸壁は清々しく、その周りを深い森が囲んでいる。走り回っている間に山の奥地まで来てしまったようだ。

 もう逃げられないだろう。背後の森から獣のような何かが近づいており、空では漆黒の翼が獲物を探し回っている。虚ろな瞳で笑いながら幼い少年は一歩前に踏み出した、そこに道はない。

 

 

「願わくば花の下にて春死なん、だったかな。ごめんなさい先生。どうせ死ぬならせめて『あの天狗様』の作ってる新聞の写真みたいに綺麗な自然の中で、逝かせてください…………」

 

 

 喰われるくらいなら、滝壺の下にでも沈んでしまおう。この景色を目に焼き付けながら、石ころのように墜ちていこう。人里の寺子屋でも優秀な成績を修めている秀才、そんな彼はゆっくりと『死』の淵から身を投げ出した。

 空中で何が出来るわけでもない。一直線に真っ白な泡を浮かべる滝の口へと吸い込まれていく。程なく鳴り響いた音、水底に沈んだ身体が見つかることはないだろう。そうして少年の魂はこの世から旅立つことになった。

 

 

 

 

 

「待ちなさいよ、このぉぉぉっ!!!」

「ぐぇぇっ!?」

 

 

 身を投げ出した瞬間にその手を一人の少女が掴んでいなかったならば、そうなっていたはずだ。肩が外れそうな勢いで少年は死の淵から引き上げられる。

 

 

「……あー、もう。新聞で警告された途端にコレなんだから、本当に人里の連中は油断できないわね。妖精よりバカなんじゃないの?」

「え、あれ?」

 

 

 ミノムシのように吊り下げられ、そのまま誰かに腕を引っ張られている。ぐらぐらと揺れる視界の下では、滝が恐ろしい叫びをあげていた。まるで自分を引きずり込もうとする冥界の口である。全身から汗が吹き出すのを感じながら、おそるおそる少年は顔を上げた。自分を助けてくれた相手に「もしかして」と淡い期待を込めながら。

 

 

「人里から捜索願いが出ていたわよ。まったく、今の山は天狗どもが暴れていて危険だって新聞に書いてあったでしょ。妖怪は人を簡単に喰らうのよ。まあ、この私が間に合ったから良かったけどね」

「あ、ありがとうございます…………巫女さま」

 

 

 そこにいたのは紅白の少女だった。

 いつか見た夏空の碧眼ではなく、赤みがかった黒い瞳が自分を見つめている。大きなリボンで可愛らしく結ばれているのは白ではなく黒い髪、そして天狗装束ではなく肩の部分が露出した巫女服。なかなかに特徴的な格好をした当代の巫女、その名を博麗霊夢という。

 

 

「さてと、私の他にもう一人がアンタを探してるからね。そっちと合流してから人里に帰るわよ」

「はい……ご迷惑をおかけしました」

「何だか元気ないわね。この私が助けてやったんだから、もっと喜びなさいよ」

「はい、ごめんなさい……」

 

 

 ぽっかりと心の奥には穴が空いていた。

 結局のところ人間を救うのは人間だけ、そんな『当たり前の事実』を少年は思い知らされたのだ。一年前、白い鴉天狗に出会った時の記憶が色褪せていく。命の代わりに大事な何かを失って、少年は力無く空中で項垂れていた。

 

 一方の霊夢はそんな子供の様子には目もくれず、周囲を警戒していた。迂闊に地面へ降りてしまえば白狼天狗に嗅ぎ付けられ、かといって上空に留まれば鴉天狗に発見されてしまう。この山は霊夢にさえ危険過ぎるのだ。お祓い棒を握る手はじっとりと汗ばんでいた。そして張り巡らせた五感で、微かな妖気を感じとり霊夢は目を見開く。

 

 

「っ、何か近づいてくるわ。鴉天狗だったら二人で逃げ切るのは無理、アンタを河童のアジトに放り込むから覚悟しておきなさい」

「ちょっ、河童って大丈夫なんですか!?」

「人間のことを『盟友』なんて呼んでるし、運が良ければ助けてくれるかもね。悪ければ尻子玉を抜かれるだろうけど、それはそれで優しくしてくれるでしょ」

「ものすごく嫌ですよ!?」

 

 

 二人の真下には『玄武の沢』が広がっている。

 六角の石柱で囲まれた谷を流れる小さな河、そのまま下っていけば人里に出られるはずだ。落下では死なないだろうから、あとは幸運を祈るしかない。

 そして凄まじい速さで迫って来るのは黒い点。白狼ではない、鴉天狗の方に見つけられてしまった。少年は苦笑いをするしかない。

 

 

「か、覚悟を決めたので手を離してください。天狗に喰われるくらいなら河童に尻子玉を抜かれた方がマシ、だと思います!」

「……さっきのは冗談よ。一羽なら何とかなるかもしれないから黙ってなさい」

「っ、ありがとうございます……巫女さま」

 

 

 まだ霊夢はそこまで非情になれない。

 お祓い棒を一振りすると、青い輝きが二人の周りに集まっていく。光の粒一つ一つが霊力の塊にして、妖怪を払う力を持っている。蛍のように舞う光はあっという間に収束し結界を作り出す。

 黒い刃が『突き刺さった』ソレは、並の妖怪を一切寄せ付けないだけの強度を持つ。結界をいとも容易く貫き、鼻の頭をかすってきた妖刀の(きっさき)に少年は息を飲んだ。

 

 

「ほうほう、これはこれは巫女殿。お会いできて光栄にございます」

 

 

 そこにあったのは猛禽の眼光。分厚い結界を挟んで羽ばたいているのは鴉天狗の若い男であった。妖刀を結界に差し込みながら、翼ある妖怪は焦る巫女を見つめて胡散臭げに笑っている。

 

 

「……あ、危なっ。加速込みとはいえ、私の結界に一撃で穴を空けるなんて恐ろしいわね。ぞっとしないわ」

「これは申し訳ない。当方は探し物の途中でありまして、巫女殿をくせ者と見誤ってしまったようです。重ねて謝罪いたしましょう」

 

 

 男から放たれる妖力は大きく、身体の隅々から放たれる生命力は白い少女の比ではない。少なくともこんな存在感を持つ妖怪を少年は知らないし、その赤い眼差しに好意的な光は欠片も宿っていない。こいつは人間を見下している、そう確信させるだけの雰囲気を持つ男は、太い指で少年を指差した。

 

 

「ああ、巫女殿が『拾って』くださったのですか。それは我々に捧げられた供物でして、よろしければお渡し願えますかな?」

「寝言は寝て言いなさい。縄張りに踏み込まれただけで人間をエサにしていいわけないでしょ。このまま退治されたくないなら大人しく巣に帰りなさい!」

「ほぅ、この私を退治する? これはこれは冗談がお上手であられる」

「アンタもね、思わず鼻で笑いそうになったわ」

 

 

 作り笑いを顔に張り付ける両者。

 天狗の方は結界を抉じ開けようと妖力を高めており、巫女の方は結界を破られまいと霊力を注ぎ込んでいる。会話を続けながらも相手を説得する気はお互いにない。ここにいるのは妖怪と妖怪退治屋、ならば次の行動は決まっているのだ。そして軋み始めた結界は、勝負がどちらに傾いているかを示している。苦々しい顔をする巫女に対して、黒い鴉天狗は醜悪な笑みを隠しもしない。

 

 

「ともかくそれは我らの獲物だ。返してもらおう」

「幻想郷の住人を襲うなんて許されるわけない。まさか賢者たちの取り決めを破るっての?」

「非常時ゆえに多少の荒事は仕方がない。人を喰らい早急に力を付けねばならん、さすれば大天狗の座を我がモノにできるのだ!」

「あ、ヤバい、限界かも…………ぐっ、きゃあ!?」

 

 

 結界のスキマに左右の腕を突き刺し、そこから無理やりに引きちぎる。完全な力技で鴉天狗は幼い巫女の結界を打ち破っていた。いかに霊夢が未熟だとしても恐ろしいまでの執念である。ガラスの砕ける音が響いた後、少年を放り出して巫女が吹き飛ばされる。

 

 霊夢の手を離れて再び落下していく少年を、勝ち誇った顔で鴉天狗は追いかける。その際に、キラリと上空から何かが急降下してくることには気が付かない。人間の恐怖に染まった顔をゆっくりと堪能してから、男は日に焼けた腕を伸ばした。

 

 

「近いうちに賢者たちが集まる会合もある、そこまでに我が名を上げれば『天魔』への昇格も……」

「理由は結構だけど、私たち天狗が『人喰い』に走るのはあまり上等な手段ではないと思うわよ?」

「――――何奴、ぅっ!?」

 

 

 振り向いた顔面を殴り飛ばしたのは、錫杖の一撃。

 獲物にありつける瞬間を狙われ、まともに頭を打ち据えられた男は呆気なく意識を刈り取られる。随分と情けない声を残して、暗転した視界のまま滝壺の中へと飛び込んでいった。まもなくドンと高い高い水柱が立ち上がる、落下の加速を緩めなかったからだろう。

 

 

「まだ『死』に追い付かれるのは早いわよ」

 

 

 そして白い手が少年の腕を掴み取る。そのまま出来るだけ負担をかけないように速度を落としてから、その身体を抱き上げた。そのまま数秒かけて水面ぎりぎりで二人は停止する。そこまで来て、ようやく恐怖から解放された少年は固く閉じていた瞳を開けて、相手を確認する。

 目の前にあったのは真っ白な翼だった。

 

 

「て、天狗様…………?」

「かなり慎重に減速してみたけど身体の方は平気かしら、どこか折れたり潰れたりしてない?」

「は、い。大丈夫だと思い、ます」

「なら良かったわ」

 

 

 そこにいたのは、白桃橋刑香であった。

 色素が抜け落ちたように白い肌と純白の髪、その背中に生える真っ白な翼が特徴的な少女。どこか浮き世離れしたような、存在そのものが『白』を現す妖怪が自分を抱えてくれていた。チラリと向けられた夏空の碧眼はあの日のままで、そこだけは生命力に溢れた輝きを秘めている。

 

 

「霊夢っ、そっちも大丈夫なの?」

「な、何とか怪我はしてないわ。結界を破られたくらいだし。でも刑香がもっと早く助けてくれれば良かったのにぃ……」

「ごめんごめん、あの瞬間を狙って叩き潰すのが最善だったのよ。正面から鴉天狗と戦っても、今の私たちじゃキツイからね。不意討ちも立派な戦術よ」

 

 

 春の日射しを受けて輝く白。

 それを眺めていると、いつの間にか身体から畏れが抜け落ちていた。伝わってくる妖気が『死』の恐怖を遠ざけてくれているのだ。ようやく少年の表情に色が戻り、それを見届けてから刑香が小さく笑った。

 

 

「もう大丈夫そうね」

「はい、ありがとうございます!」

「あんた私に助けられた時より嬉しそうじゃない。別にいいけど、何だか巫女としては不満だわ」

「あ、ごめんなさい」

「ふーんだ」

「ほら、さっさと帰るわよ。あんたも霊夢も積もる話はあとにしなさい」

 

 

 そして三人は人里へ飛び立った。

 足元で流れていく景色、頬を撫でる風は年頃の少年には堪らないモノのはずだ。それなのに少年は早まっていく心臓の鼓動を抑えることで精一杯だった。まったく空が視界に入らず、白い少女の横顔をじっと見つめている。

 腕の中から伝わる体温、柔らかい感触、それらに胸が締め付けられていく。そして博識な少年は『その感情』の正体を知っていた、我慢ができずに緊張した唇で問いかける。

 

 

「てん……刑香様」

「私なんかに『様』は要らないわ。それでどうしたの?」

「に、人間のことはどう思われますか?」

「それなりに好きだし、それなりに嫌いでもあるわ。天狗と同じようにね」

「あ、いえ、そうではなくて刑香さんは人間の男性と……」

「なによ?」

 

 

 不思議そうに首を傾ける刑香。

 どうやら伝わっていないらしい。更に踏み込もうかと思ったが、少年は「何でもないです」と口を閉ざすことにした。落ち着いて見渡すと、ここは雲海が広がる空の上である。吹き抜ける風も足元でうごめく雲も、人間の住む地上とは違う。自分の手を握ってくれた少女はこの世界の住人なのだ。見ている景色が違いすぎる、きっとこの想いが届くことは永遠にないだろう。

 

 

「ああ、慧音先生の言う通りでした。初めての気持ちはこんなにも、ほろ苦いんですね」

 

 

 少年は気持ちよさそうに、頬を撫でる風に目を(つむ)っていた。この日の思い出を忘れることは生涯ないだろう、そんな確信にも似た想いを抱きながら。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

「本当に、本当にありがとう。お前たちが動いてくれなかったら、あの子は今頃喰われていただろう。私は教師失格だな……」

 

 

 夕暮れの光に染められた人里。

 少年を家まで送り届けてから、刑香と霊夢は寺子屋へと足を運んでいた。そして今、目の前では少年の恩師である上白沢慧音が泣き出しそうな表情で礼を述べている。おそらく少年の身を一番案じていたのは、この半人半獣のお人好し教師だったのだろう。

 

 

「今回のことは私にも原因があるし、あんただけが気に病む必要はないわよ。生徒が無事だったんだから笑ったらどうなの、上白沢先生?」

「そ、そうだな…………あの子が元気に帰って来たんだ。いつまでもメソメソしていては助けてくれたお前たちにも悪いからな。うん、何とか成りそうだよ」

「相変わらず人間のことが好きよね、あんたは」

 

 

 呆れた様子で刑香は呟いた。

 同じように人里に出入りしている人外仲間でも、刑香と慧音の間には少しばかりの距離がある。明らかに人間側に味方する慧音に対して、刑香は天狗にも人間にも『平等』に接するだけだ。どちらかを特別視することはなく、さっきの少年にしても頼まれたから助けたに過ぎない。

 

 冷たいように見えるが無理もない。刑香にしてみれば、人間も『死を遠ざける程度の能力』を目当てに近づいてくる点では妖怪と変わらない。他の天狗たちのように悪意はなくても、そこには越えられない壁がある。

 

 

「見て見て刑香っ、謝礼としてこんなに貰っちゃった。これなら今週は楽が出来そう!」

「なら神社に集まってくる私のカラスを食材として追いかけ回すのは止めなさいよ、冗談に見えないから」

「えへへ、分かってるわよ」

「まったく、ホントでしょうね?」

 

 

 だからこそ刑香が信頼できる対象は『能力』を求めてこない相手に限られる。例えば射命丸文、姫海棠はたてが当てはまり、最近では博麗霊夢が加わった。巫女の少女に刑香がとても甘いのは、そういう理由がある。

 

 

「そういえば初めて大きな依頼をこなしたのよね、おめでとう」

「うん、手伝ってくれてありがと」

「どういたしまして」

 

 

 人里の代表からお礼として渡された巾着袋は、紙幣や硬貨で膨らんでいる。満足そうな笑顔を浮かべながら、ぐりぐりと霊夢は頭を装束に押し付けて来る。一体何をしているんだろ、と刑香は疑問に思ったが楽しそうなので放っておくことにした。きっと何かの遊びなのだろう。

 

 

「お前たちの新聞からの情報も、人里では随分と助かっているよ」

「にとりから聞いたことを紙面に載せただけだし、大したことはしてないわよ?」

「他の二羽も似たようなことを言っていたよ。だが、お前たち天狗が警告してくれたからこそ、皆が山に入るのに慎重になってくれているんだ。ありがとう」

「……それは良かったわ」

 

 

 部屋に射し込んでいた夕日の光が途切れていく。

 地平線の向こうから迫ってくるのは夜の幕、まもなく人間の里は暗闇に包まれる。こっそりと軒先に止まっていた白いカラス達が翼を広げて飛び立っていく、どうやら寺子屋を覗いていたらしい。やれやれと刑香はそんな使い魔たちを見送った。

 

 

「そろそろ巣作りの時期だろうから、さっさと相手を探しに行けばいいのに……育て方を間違えたかしら」

「まだまだカラス妖怪として幼いんだろう、そう急かすものじゃないさ。お前だってまだ(つが)いを持つ気はないんだろ?」

「そ、そういえば、文の新聞にはアンタの愉快な記事がまた載っていたわね。今度は道具屋の店主と……」

「か、からかったことは謝るから『文々。新聞』の話は止めてくれっ。アレは誤解なんだっ!」

 

 

 相変わらず寺子屋教師はこっちのネタで揺さぶるのが効果的らしい。上手く話を反らすことができた。しかし伴侶を持つのかなどと言われ、色々と想像してしまった刑香は少し赤くなった顔で俯いた。

 

 

「……何の話?」

「霊夢は知らなくて大丈夫よ」

「ふーん」

 

 

 教師も天狗も頬を染めて黙り込んでいた。

 そうしている間にも老若男女の区別なく、人々は街中から姿を消していく。誰もが戸締まりをして閉じ籠り、朝まで外を出歩くことはない。妖怪の時間が訪れたのだ。あまねく闇が(いざな)われ、ぽっかりと浮かぶ月だけが人里を見守る宵の刻。今夜は『満月』である。

 

 そんな空を障子のスキマから眺めていたが、目の前の人物の変化に気がついて刑香は視線をそちらへ向ける。ゴトリ、と慧音の頭から多角形の帽子がずり落ちた。そして震えながら自分の身体を力強く抱きしめる、流れ出る汗はまるで何かに耐えるように見えた。

 突然の異変、穏やかだった教師が苦しむ姿に霊夢が心配そうな声をかける。

 

 

「ね、ねえ、どうしたのよ?」

「く、うぅぅぅ…………ぁぁっ!!」

「刑香っ、何だか慧音の様子がおかしいっ!」

「こっちに来て、慧音は大丈夫だから」

 

 

 丸い月から降り注ぐ光が溶けんでいく。

 青みがかった銀色の髪に、神秘的な『緑』が入り込む。そして慧音が身につけていたフリル付きのワンピースまでが深緑の光に染められていく、溢れ出るチカラが衣服の性質を変えてしまったのだ。

 部屋に満たされていくのは清らかな気配、それに妖怪である刑香は少しだけ表情を歪ませる。呆然とする霊夢の前で、半人半獣は人から『伝説の聖獣』への変化を完了していた。

 

 

「あー、巫女殿には初めましてと言った方が良いのだろうか。これは満月の晩だけ私が取る『ワーハクタク』としての姿だよ。以後お見知りおきを」

「え、え?」

 

 

 霊夢の足元に転がっている帽子、その代わりに慧音の頭から生えているのは大きな二本角だった。彼女から感じるのは妖怪のような邪悪さではなく、見つめているだけで心を浄化してくれる神聖な力。腰まで流れる深い緑色の髪は絹のようで、背後に揺れるのはフサフサした毛並みの尻尾。そこに人間としての寺子屋教師の面影はない。

 困惑した様子で霊夢は刑香に引っ付いていた。

 

 

「ど、どういうことなのよ刑香……?」

「何だ巫女殿には説明していなかったのか、事前に教えておかないとはお前らしくもないな」

「子供を見つけるのに時間がかかり過ぎたのよ。あんたに用があるのは私だけだったからね」

「なるほど『今』の私に用事があるのか……。それなら今夜は二人とも泊まっていくのはどうだろう、居候が留守にしていて布団が余っているんだ」

 

 

 ハクタクとは大陸に伝わる聖獣の名である。

 人の言葉を理解する高い知能を持ち、ひとたび出会えば子孫代々までの繁栄が約束されるとされる伝説の獣。幾多の病を払い、妖怪を滅する力を持つハクタクの能力と人間の心を受け継ぐハーフ。それが『人里の守護者』、上白沢慧音の正体であった。

 

 

「あんたがいいなら喜んで付き合うわ」

「私は刑香がいて夕飯がタダで食べられるなら」

「決まりだな。本来なら満月の夜は色々と忙しいのだが、まあ十年に一度くらいは呑みながら片手間の作業も悪くない」

「教師がそれでいいのかしら?」

「今の私はハクタクだからな、多少は多目にみてくれると助かる」

 

 

 月の光が零れ落ちる夜のこと。

 人里の一郭にて開かれたのは小さな宴会。天狗と教師が料理を作り、出来上がると巫女のいる食卓に付く。

 人にも妖怪にも属さない人間と、山を追われた鴉天狗、そして半獣半人の寺子屋教師。それぞれがはぐれ者で、それぞれが半端者、そんな立場にある者たちが他愛もない話で盛り上がる。

 

 

 穏やかな夜の時間が始まった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十話:オン・ガルダヤ・ソワカ

 

 

 ひっそりと静まり返る人里にて。

 傾く満月は山へと差し掛かり、餅をつく兎は雲隠れ、人の影なし宵の刻。(かすみ)を抱いた春風が、ゆらりゆらりと障子のスキマから流れては白い翼を揺らしていた。心地よい空気の中、刑香はわずかに赤い頬で盃を傾ける。

 

 

「何だか悪いわね。満月の夜に忙しいのは知ってたけど、尋ねておきたいことがあったのよ」

「気にしないでくれ。雑談を交わしながら仕事をするのも、たまには良いものだからな。もう少ししたら一服するよ、お前の頼みはその時に聞こうじゃないか」

 

 

 さらさらと走る筆の音。

 酒の注がれた器には口を付けず、半獣の教師は歴史書の編纂(へんさん)を行っていた。一つ一つ、魂を込めるように紙面へと文字を踊らせる。こうして百年もの間、慧音は幻想郷の歩みを書き残し続けているのだ。その作業をのんびり眺めていた刑香が口を開く。

 

 

「本当にアンタは『人里の守護者』に相応しいわね。そこそこ強いし、霊夢の仕事が減るのも納得よ」

「そ、それはすまない。困っている人がいると落ち着いていられないんだ、巫女殿の邪魔をしていたなら謝罪させてもらう」

「……冗談よ、本当にお人好しよね。あの居候といい私といい、アンタがそんなのだから厄介者を呼び寄せるってこと分かってるの?」

 

 

 ほどけた雲の間から淡い月光が降り注ぎ、その灯りを頼りにして筆は進んでいく。ほとんど手元が見えない中での執筆なので気を抜くことができない。それにも関わらず慧音は苦笑せざるを得なかった。あの少女と刑香のことを厄介などと考えたこともないのだ。聞き分けの悪い生徒たちの方がよっぽど扱いが難しい。

 部屋の隅に積まれた予備の布団を慧音は指差した。

 

 

「アイツはいい奴だよ。少し事情が複雑なだけで、私が見習いたいくらいに根は真っ直ぐだ。もちろんお前もだぞ刑香。というより、そろそろ人里に移り住んでみたらどうだ?」

「あんたねぇ、人の子が鴉天狗に襲われたばかりなのよ。それなのに私を人里に住まわせるなんて……ひょっとして私が鴉天狗だってことを忘れてるんじゃないの?」

「そんなわけないだろう。ただお前が考えているよりも、お前は人里に受け入れられているんだ。刑香の治療を必要としている病人も大勢いる、だから……」

 

「……悪いわね、この『死を遠ざける程度の能力』は人間の傍に置いていいものじゃない。それ一本だけ、貰うわよ」

 

 

 ふわりと風が吹いた。

 その涼やかな夜風の調べは、慧音の元から一輪の花を刑香の手のひらへと運ぶ。それは随分前に慧音が生徒たちから貰った花束の生き残りであった。摘んできてから時間が経っているので寿命を迎えかけ、本来なら黄色である花はもはや茶色へと変色してしまっている。それでも捨てられなくて、そのまま机の水差しに生けていたモノだ。

 

 ゆっくりと白い指が花弁を撫でる。その瞬間から時間が巻き戻されるように、触れた部分が鮮やかな黄色へと変わっていく。やがて花は再び咲き誇り、(しな)びた茎は潤いを取り戻す。それは輪廻の流れを遡り、あらゆる生命を救うチカラ。相変わらず見事な能力だと、慧音はその光景に見惚れていた。そんなハクタク教師へと、憂鬱な光を宿した空色の瞳が向けられる。

 

 

「この『能力』は便利だけど、使い方を誤れば相手を生ける屍に変えてしまうわ。私は二度と大天狗たちのような失敗をするわけにはいかないのよ」

「それが、人里に住まない理由なのか?」

「理解してくれて嬉しいわ、ほら」

 

 

 刑香から手渡された花は生命力に溢れていた。ハクタクである慧音にも『病除』の能力は備わっているが、やはり根本的に何かが違う。刑香の持つ『延命』の能力はそんなに生易しいものではないのだ。それを考えてみると、刑香がどうして『人里から近くて遠い鴉天狗』などと呼ばれるのかが分かってくる。

 

 

「そうだな、確かに人間は『死』に敏感だ。それこそお前を捕らえてでも、能力の使用を強要する輩が現れるかもしれない。長寿は人間なら誰もが求める夢の一つだからな……」

「この能力は要らない邪念を呼び寄せることが多いのよ。私はその願いを否定しないし(さげす)みもしないけど、お互いのためにも一定距離は必要よ」

 

 

 不老長寿とは人々の野望である。

 洋の東西を問わず多くの者が追い求め、果てなき冒険を繰り広げた。そんな歴史を慧音は知っている。地平線の向こう、水平線の彼方までも探し続けた『延命』の手段、それが目の前にあったなら人々はどうするだろうか。きっと手に入れるための手段は選ばない。

 刑香が自分以外の存在から距離を置くのはそういった理由がある。

 

 

「難儀なものだな、天狗殿?」

「お互い様でしょ、ハクタクさま? 」

 

 

 考えてみれば慧音とて、苦労話ならば誰にも負けない自信がある。半人半獣として生きてきた中には苦難の一つや二つは日常茶飯事だったのだ。ならば同情するべきではない、ここは笑って見せるくらいが丁度いい。

 

 

「くしゅんっ」

「……少し寒かったのかしら、仕方ないわね」

「霊夢には私の布団は薄かったのかもしれないな、ちょっと待っててくれ…………刑香?」

 

 

 もう一人の参加者である幼い巫女は、白い少女の隣で丸くなっていた。まだ春の始まりである。夜の冷気と春の暖気が混じる風は人間の身には厳しいようだ。そんな少女へと真っ白な翼が毛布のように被せられ、手触りの良い羽に霊夢が頬を緩ませていた。伝わる体温も心も温かなモノに違いない。

 天狗と人間、種族の違う彼女たちが姉妹のように接するとは微笑ましいものである。しばらく眺めていたかったが、コホンと咳払いをしてから慧音は視線を戻す。

 

 

「本当に、全ての天狗がお前や射命丸のようだったらと思うよ。そうすれば人里とも……いや射命丸はダメだ、私が酷いことになる」

「言っとくけど、私も文も人喰いを是とする妖怪なのよ。天狗が起こした『神隠し』の歴史は知っているでしょ」

「……そう、だったな。今の私が歴史を語られるとは情けない。しかし、お前たちを見ていると忘れてしまいそうになるのも事実だよ。それに神隠しは人喰いとは違うのだろう?」

 

 

 妖怪は人の畏れから生まれ成長する存在である。だからこそ、より多くの人々から畏れられるために妖怪たちは人間を喰らい、拐うことで人の心を掻き乱すのだ。かつて天狗たちも人の子供を拐っては、数ヶ月後に帰すという『神隠し』を行っていた。

 

 

「『組織』としての神隠しと、『個』としての人喰いは別なのよ。今回の男は自分の力を付けるために人間を襲っていた、あの様子だと子供が家に帰されることはなかったでしょうね」

「妖力を付けるなら、人間を喰らうのが天狗としても一番簡単なやり方なのか。刑香、もしかしたらお前も……」

「勘違いしてもらっても困るけど、私は人喰いはしないわよ。弱い者苛めをしているみたいで嫌だし、そういう趣味もないからね。たまに私より強い人間もいるけど」

 

 

 ひらひらと手を振って刑香は『人喰い』を遠ざける。

 そこに嘘偽りは無さそうだ。実力が足りないなら他で補って乗り越える、そうして刑香は今まで生き残ってきた。能力と速度だけを武器にして、あの星熊勇儀との戦いからも帰ってきている。「信じてくれなくていいけどね」と付け加えた白い少女へと、慧音はいつの間にか笑みを浮かべていた。

 

 

「まあ、刑香が人喰いをしようものなら博麗の巫女が黙っていないな。鬼のような形相と霊力でお前を止めにくるだろうさ」

「それは怖いわね、せいぜい怒らせないように気を付けるわ。……この子を悲しませるのも嫌だし」

 

 

 霊夢を見守る眼差しは穏やかだった。

 かつて宿っていた冷たい光は無くなり、今の瞳からは暖かな光が滲んでいるように見える。おそらく親友にのみ向けていた感情を他の存在にも注ぐだけの余裕が出来たのだろう。それはこの一年あまりで出会った者たちのおかげであろう。

 だか、残念ながら嬉しい変化ばかりではない。刑香のことは喜ばしいが、妖怪の山で起こっている事態は慧音の頭を悩ますのに十分すぎた。

 

 

「上役たちが亡くなったということは次に『大天狗』となる者たち次第で、人里への対応が変わるかもしれないな」

「私が滝壺に叩き込んだヤツみたいなのが選ばれたら最悪でしょうね。人間が山へ立ち入ることを徹底的に取り締まるかもしれないわ」

「薬草や山菜、果実などは山に頼っている部分もあるんだ。それでは人々の暮らしが立ち行かなくなってしまう。人里に味方してくれる大天狗が選ばれないだろうか?」

 

 

 この幻想郷に『山』はあそこしかないのだ。

 食料だけではなく、火を起こすための木材や猟師たちの獲物は主に『妖怪の山』に依存している。その場所を支配している天狗との関係が途絶えてしまえば、これまで何とかやってきた人々の多くが路頭に迷ってしまう。人里の守護者たる慧音としては、見過ごすことのできない問題である。

 しかし刑香の答えは否であった。

 

 

「わざわざ天狗は人間に味方なんてしないわよ。だって他種族のために尽くす物好きは人間にも少ないでしょ。それと同じことよ」

「……ふぅ、今悩んでいても仕方なさそうだな。ようやく今宵の仕事も片付いた、これからお前の頼みを聞こうじゃないか」

「ああ、ようやく終わったの?」

 

 

 休まず進んでいた筆が止まっている。インクの匂いが鼻をくすぐる部屋の中で、ハクタク教師は「やれやれ」と背伸びをした。その間も深い森のように独特な輝きを秘めた双眸は白い少女を捉えて放さない。

 

 

「とはいえ今の私に尋ねることがあるとすれば、ただ一つだろう。正直なところお前が尋ねてくるのはもう少し先になると思っていたが……地底で何かを知ったのか?」

「やっぱり、あんたは全部知ってたのね」

「許してくれとは言わないさ。だが私とて自分の『能力』を隠していたわけではないだろう?」

 

 

 カタリと書棚が揺れる。

 座ったまま慧音が何もない空間に触れると、そこから整然と並べられた黒い『何か』が流れ出してきた。くるくると巻物のようにハクタク教師を取り囲んでいくのは、墨で描かれた文字の濁流。まるで部屋の全てを用紙とするように、どこまでも繋がった文章が呪術のごとく壁や天井を染め上げる。

 洪水のように暴れまわる文字の波、それを背景にして淡い光を放つ知恵の聖獣は白い少女に問いかける。

 

 

「さあ、お前は何を教えて欲しい? 何を調べて欲しいんだ?」

 

 

 歴史の千里を照らすハクタクのチカラ。

 満月の間のみ上白沢慧音が持つのは『歴史を創る程度の能力』。人と妖怪の永き歩みを知る聖獣は、今宵のみ幻想郷で起こった『あらゆる歴史』を把握し、形にする力を手に入れる。そこには人以外の、つまり天狗組織の歴史も含まれる。単なるしたっぱ天狗であったなら名は残されていないだろう、しかし上層部に関わる情報となれば話は別だ。

 

 

「『天魔』の正体と、そして白桃橋 迦楼羅(かるら)という天狗について教えて欲しいのよ。できるかしら、大陸の聖獣さま?」

 

 

 イタズラが成功したように微笑む寺子屋教師へと、白い少女は正面からその言葉を投げつけた。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「何処行ったのかしら、もう蓮子ったら……」

 

 

 視界にくすぶる線香の白い煙。

 湿った木と草の匂いが漂う寺社の中、紫色のワンピースを身につけた少女は歩いていた。目の前には千を越える仏像たち、人々の祈りを満たしたような気配を押し退けて進む。今日も今日とて、サークルの活動でここまで来たのだが相方が行方不明である。さっきから探しているのに、なかなか見つからない。どこまで行っても終わらない回廊は足が擦りきれてしまいそうで、『三十三間』の名に恥じない長さであった。

 

 

「うぅ、いつも私を置いてきぼりにして消えちゃうんたから…………でも水族館の件があるから五分五分かなぁ」

 

 

 心細そうに言葉を漏らす。

 あらゆる音が溶けていく、湖面へ石を投げ入れたように飲み込まれていく空間。ここは不気味なほどに静かであった。亀裂の走る柱と仏像たちが視界に映る、刻まれた歴史は無言で自分を見つめてくる。

 そのくすんだ輝きが語るのは、滅びかけた教え。人間の闇を照らさんと歩み続けた彼らの生涯、多くの人々を救った術が失われることを嘆いているのだろうか。そうして生まれた幻想と現実の境界線は、この場所に大きなスキマを幾つも作り出していた。

 

 

 畏れるように、

 恋をするように、

 マエリベリー・ハーンは脚を止める。

 

 

 だからだろう、メリーは自分の後ろから忍び寄る影に気づかなかった。そっと彼女へと近づいた人影は、悪い笑みを浮かべながら『あるモノ』を少女の頬へと押し付けた。

 

 

「スキあり、おりゃっ!」

「わ、ひゃわぁーーっ!!?」

 

 

 それは冷たい缶コーヒーだった。

 自販機から購入されたばかりの冷気が襲いかかり、驚いて可愛らしい悲鳴があげる。「大成功」とばかりに笑い出す下手人への恥ずかしさと怒りから、メリーは夕日色に染まった顔で振り返った。

 

 

「びっくりするじゃないっ。何するのよ、蓮子っ!」

「いやー、ごめんごめん。またメリーが夢の彼方に旅立ってたからさ。呼び戻すのに丁度いいかも、なんて思ったのよ。ほら、目が覚めたでしょ?」

「言いわけないでしょ!」

「まあまあ、それはあげるから許してよ」

 

 

 にひひ、と笑っていたのは黒帽子の少女。

 宇佐見蓮子はビニール袋を持って、機嫌がよさそうに立っていた。どうやらお土産を買い込んで来たらしい。売店はこの先にしかないので、蓮子は買い物をしてから順路を逆行してきたことになる。派手にルール違反を犯したにも関わらず、自由気ままな友人はドヤ顔である。ため息をつくメリーに反して、とても楽しそうに二つのアクセサリーを差し出してきた。

 

 

「へっへー、珍しい御守りを買っちゃったわ。災いが起きた時に身代わりになってくれるんだってさ、いいでしょ。こっちはメリーの分ね」

「頭痛封じの御守りなんてあるんだ。……念のために言っとくけど、水族館で私が倒れたのはそれが原因じゃないからね?」

「分かってる分かってる。けどせっかく買ったんだから受け取ってね。ほいっと」

「あっ、ちょっと勝手に……もう」

 

 

 あっという間に御守りをカバンに結ばれてしまう。少し強引なのでメリーは頬を膨らませる。しかし蓮子なりにメリーの体調を心配してくれているのだろう。いつも決して言葉にはせずに、この友人は自分を気遣ってくれる。そっとメリーは心の中で感謝した。

 

 

「ところで調査はどんな感じなの? 今回は思いきって歴史あるお寺まで足を運んでみたけど、成果はあったのかしら?」

「うーん、何だか冬が明けてから調子が悪いわ。以前ならはっきりと見えたスキマが霞んでいるし、見つけられる数も少なくなってるみたいなのよ。ごめんね、蓮子」

 

 

 わずかではあるが冬の頃と比べて『能力』が衰えている。まるで重なっていた歯車がズレてしまったような感覚だった。申し訳なさそうに俯く紫色の少女、その額を黒帽子の少女はぺしんと叩く。

 

 

「そういえば、ここにある仏像は一体一体の表情が違うらしいわよ。どうせならメリーそっくりな顔を見つけてやろうかしら」

「へ、ちょっと蓮子?」

「ふふふ、メリー似の顔を拝んでやるから覚悟しなさい!」

「そ、それなら私は蓮子みたいな顔をしてる仏像を探してお経を唱えてあげるんだから!」

「よし、ならば競争あるのみよ!」

 

 

 トントンと小太鼓を奏でるように、軽快なリズムで二人は床板を踏み鳴らす。お互いの顔そっくりな木像を探しながら歩いていくのは面白い。薄暗い部屋のはずなのに気分は軽やかになっていた。沈みかけた雰囲気を一変させて掬い上げる、蓮子にはそういう才能がある。

 友人の背中を見つめながら、くすくすと金髪の少女は笑みを溢していた。

 

 

「メリー顔が見つからないなぁ。ねえねえ、もうちょっと探検したらお昼食べに行かない? お店の下調べは入念にしてきたから抜かりはないわ」

「まさか今日も遅れて来たのはそれを調べていたからじゃないよね。それならまたお昼を奢ってもらっちゃおうかなぁ…………あれ?」

 

 

 ひたりとメリーは脚を止める。

 爪先が痙攣するような痛みと、そして襟首を引き寄せられるような力を感じた。その感覚に従うままに視線を向けた先、そこには一体の仏像があった。まるで極楽と俗世を線引きする番人のごとき威風、重々しく鈍い輝きがメリーの前に立ちはだかっている。

他の像とは明らかに違う、唯一『翼』を持つという異質な外見がメリーの精神を捉えて離さなかった。まるで金縛りにあったようだ。

 そんなメリーを蓮子は現実へと引き戻す。

 

 

「お、お昼はもう駄目だからねっ。冗談半分に私の財布をぺちゃんこにしたフレンチ事件は忘れないわ!」

「っ、蓮子……?」

「とにかくフレンチは駄目よ、あれは洒落にならなかったんだから!」

 

 

 ガクガクと肩を揺らされて意識が復活する。

 激しく脈を打つ心臓、凍りつく肺、それらを解きほぐすように浅い呼吸を繰り返す。ほんの数秒でメリーは平静を取り戻していた。ゆっくり息を吸ってから蓮子へと返答する。

 

 

「でも足りない分は貸してあげたじゃない、それに今日の活動費用だって私持ちなんだからね。ちゃんと返してよ、利息込みで」

「うー、また今度返すわよ。お母さんから仕送りが届いたらすぐにでも突き返して…………ちょっと待って、利息って何?」

「ハーン銀行はトイチなのよ?」

「やーめーてーよ、そういうのは!」

 

 

 ひとまずランチ論争は後回しにして、まずはこの仏像を調べなければならないだろう。ここに来て初めて『当たり』を見つけたのだ。

 

 

「蓮子、この像が怪しいかもしれないわ。お昼は私が奢ってあげるから、これを調べるのを手伝って」

「この年で借金はしたく…………え、そうなの?」

 

 

 厳めしい表情で横笛を吹きながら、恐ろしげな瞳を向けてくる木造の像。注意深く近づいてみると、武人と鳥を混ぜたようなユニークな姿をしていた。無礼ではあるが翼を持った妖怪を連想させる。「何の妖怪だったかな?」と顎に手を当てて、メリーは古い文献を頭の中で洗っていく。順番にページを捲るように、一つ一つの種族を検討する。

 一方、蓮子はさっさと思考を放棄してパンフレットを捲っていた。それに少しだけむっとしたメリーが口を開く。

 

 

「ちょっと蓮子、まだ検証の途中なのに調べちゃうの? 印象が固定されるから良くないし、こういうのは真っ白な視点から見つめないと本質が分からないわよ?」

「前知識もなしに仏像やお寺を拝んでいても、浮かぶモノは少ないわ。そこに込められた歴史や経緯を知っているからこそ見えるモノもあるものよ」

「見解の相違だね、そういうの嫌いじゃないけど」

「ぷくくっ…………そうね、私もそう思うわ」

 

 

 それは水族館と同じ問答だった。

 物事に対する考え方はそれぞれ、捉え方もそれぞれである。生まれながらに人間の思考は自由なものであり、そこに善悪はあっても貴賤はない。もちろん自分たちの間だけでの取り決めだ、それくらいメリーと蓮子はお互いの感性を尊重している。すれ違う思考の中にあっても二人の間にスキマは生じない、それは学生としては実に良い友人関係だった。

 よくやく手元の資料を調べ終えた蓮子は顔を上げる。

 

 

「これは『天竜八部衆』の一柱を模した仏像ね。病魔を退け厄を払い、煩悩さえも消し去ってしまう、そんなご利益一杯のお方みたいよ」

「へえー、そんなに凄い存在なんだ。そうだ、蓮子も百八個くらい煩悩を消してもらったらどうかしら?」

「まさかこの流れで私叩きがくるとは思わなかったわ。侮れないわね、親友」

「どういたしまして、説明の続きをよろしくね」

 

 

 紫水晶のような瞳が鋭いものに変わっていく。

 この像の周辺だけはスキマが見えない。まるで『能力』が拒絶されているような異様な気配、それをメリーは険しい表情で見つめていた。きっとこの像には何かがあるという、漠然とした確信が胸の奥で燻っている。いや、もしかしたらこのモデルの存在と何らかの因縁があるのかもしれない。

 

 

「オン・ガルダヤ・ソワカ。人間を蝕むあらゆる悪を喰い尽くし、金色の翼を持つという鳥頭人身の者。その名はーーーー」

 

 

 謳うように説明を読み上げる蓮子。

 どこか清らかな声は耳によく馴染み、巫女が神託を口にするようだった。勿体ぶるような口調だが、不思議と嫌みは感じない。メリーは静かにその言霊を聞いていた。そのまま蓮子は高らかに告げる。

 

 

「その御名は 迦楼羅王(かるらおう)。司るのは寿命を延ばすというチカラ。つまりは『死を遠ざける能力』を備えた仏法の強力な守護神よ」

 

 

 その時、外と内でカチリと歯車が合わさることになる。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一周年記念(挿絵あり)~白黒カラス~

 活動報告で予告させていただいた通りに、今回のお話は『一周年』の特別編となります。
 『その鴉天狗は白かった』が始まったのが2014年の7月下旬、少し遅れながらとなりますが一つの記念として投稿させていただきます。時間軸は本編と同じ頃、二人の天狗少女の物語です。
 そして今回のお話の最後に挿し絵を入れさせてもらっています、そちらもご覧になっていただけたなら嬉しく思う次第です。


 

 

 端的にいうなら、刑香は追われていた。

 妖怪の山で取材をしていた際に、最も厄介な相手に見つかってしまったのだ。良い写真が撮れて少しだけ喜んでいたというのに、とんだ災難である。空色の瞳で距離を計りながら、刑香は木々の間を跳ねるように飛び抜けていく。

 

 

「ぴったり追って来てるわね、これは逃げ切れないかも……」

 

 

 白い髪から覗くのは尖った耳。

 天狗の聴覚は背後から迫る『何者か』を捉えていた。斜面の起伏に合わせて滑るように、装束が砂や泥で汚れるのも気にせずに、地面ぎりぎりを飛んでいるというのに引き離せない。

 いつもならとっくに振り払っている頃である。鴉天狗の中でも、刑香は空を行く速度だけは上位にいるのだ。万全の状態でここまで接戦に持ち込まれたのは、山を抜けてから初めてのことである。いっそのこと迎え撃とうかと考え始めた矢先、

 

 

 

 その背中には既に黒い鴉天狗が回り込んでいた。

 

 

「逃がさんぞ、小娘」

「な、あり得な…………ぐっ!?」

 

 

 くぐもった声が鼓膜を揺らした。それに驚く間もなく、そのまま背後から身体を拘束され、力強い腕が腰に回される。それだけではなく、蜘蛛の糸のごとく粘ついた風に白い翼を絡め取られていた。非力な手足では大した抵抗もできず、あっという間に空高く身体を吊り下げられる。

 わざと身体を密着させるように、何者かは自分の方へ引き寄せながら抑えつけてくる。どういうつもりかは知らないが、かなり不快だ。

 

 

「このっ、離しなさい!」

 

 

 ぬるりとした妖気が纏わりつく。

 相手の息が後ろ髪を撫でるほど距離が近い、それなのに顔は見えない。後ろにいるのが男か女かさえ分からないが、このままだと不味い。同族から受けていた恐怖を思い出した身体が凍りついていくのを感じる。

 黒い鴉天狗は刑香を逃がさないように、空中で抑えつけていた。自分の姿が見えないように注意を払いながら、じっくりと妖気で精神を削っていく。次第に抵抗を諦めていく白い少女を眺めつつ、ニヤニヤと口元を綻びさせていた。小さく震え始めた刑香の耳元へと、口から覗く牙を近づける。

 

 

 

 

 

 

「鬼ごっこは私の勝ちですね、刑香」

「…………ちょっと冗談が過ぎるんじゃないの? 本気で蹴り飛ばしてやろうかと思ったわよ、文」

 

 

 途端に緊張の糸が断ち切れる。

 イタズラっぽい視線で刑香を覗いていたのは、見慣れた友人であった。つまりは射命丸文である。それが分かった時点で刑香は手足を投げ出して脱力する、自分から羽ばたく必要がないのだ。抑えつけてきた腕力が、優しく抱きしめる力に変わっていた。もう抵抗するのも馬鹿らしい。

 

 

「こういうイタズラは久しぶりですねぇ。昔は鬼のふりをして追いかけたこともありましたっけ?」

「河童の光学スーツで、萃香様に姿を変えて追ってくるとか反則よ。あれは心臓が止まるかと思ったわ」

「その時は三途の川で死神を叩きのめして、あなたの魂を迎えに行ってあげますからご心配なく」

「自分で送り込んで送り返してたら世話ないわ」

 

 

 さっきの意趣返しとして全ての体重を預けてやるが、如何せん軽すぎたらしい。そんな反抗には目もくれず、黒い鴉天狗は上機嫌に刑香のことを観察していた。一応、怪我をさせていないかは気になるようだ。

 

 

「あやや、よく見ると装束が血の跡と繕い跡だらけじゃないですか。露出が多いだの、皺になってるだの、身なりに煩いあなたらしくもないですね」

「この一年は色々あったじゃない。レミリアの異変で血塗れになったし、地底で勇儀様と戦った時だってボロボロにされたからこの様よ」

「ああ、そういえば天狗の装束は人里では手に入りませんね。刑香は追放されてから、ずっと同じモノを身につけているわけですか…………ふむ」

 

 

 白く清められているはずの天狗装束は、所々がほつれて細かな汚れが目立っていた。水浴びをする時に一緒に洗ったりもするのだが、これくらいが限界なのだ。すると文は何事かを考え始めていた。

 

 

「いつまで抱えてるのよ、そろそろ放しなさい」

「あやや、もう少しいいじゃないですか」

「よくないわ……恥ずかしいじゃない」

 

 

 後ろから抱きつかれている姿を誰かに見られるのは御免である。優しくお腹のあたりに回されている文の腕を、ゆっくりと引き剥がす。唯でさえ身体に触れられるのは苦手なのだ。例え同性であっても、ここまで密着されると心が落ち着かない。

 名残惜しそうに指が一本一本離れていく。背中から文の体温を感じなくなると、ようやく刑香は乱れていた呼吸を整えた。そして自由になった身体で振り返ってみる。

 

 そこには私服を身につけている天狗少女、どうやら今日は非番だったらしい。風に揺れるフリルの付いた黒色スカート、眩い白の半袖シャツ、そして一本歯の革ブーツが上手く組み合わされていた。外の世界で流行している服装らしく、はたても似た服を持っている。見慣れた装束も凛々しいが、こちらも実に魅力的だと思う。

 

 

「うん、そっちの服も似合ってるわね」

「あやや、そう言われると照れますね。ありがとうございます、これはお気に入りの意匠なんですよ。同じモノを何着か持っています」

「はたても同じような服を持ってたわね。……私はともかく二人はそういう服もぴったりね」

「いやいや、刑香だって着てみれば絶対に…………あ、いいこと思いつきました」

 

 

 何か思い付いた様子で、口角を吊り上げる腹黒天狗。そんな笑みを隠すように後ろを向いた動作から、「これは碌なことを考えてないな」と刑香は確信する。伊達に千年以上も長々と友人をしていないのだ、厄介なことを仕掛けてくる前触れくらいは見分けがつく。油断すると赤っ恥をかかされるだろう、とりあえず錫杖を握りしめておくことにした。

 すると考えが纏まったらしい文が振り返る。

 

 

「あなたに私が持っている予備の装束を譲りましょう。物を大切にするのは美徳ですが、そこまでオンボロになってしまっては見目が良くありませんからね」

「……それは助かるわ、ありがと」

「いえいえ、可愛い妹分のためならお安いご用ですよ。それでは一つ、私は自宅まで取りに行って来るので刑香は神社で待っていてくださいね!」

「あ、ちょっと……」

 

 

 風陣一閃。

 八ツ手の葉団扇を降り下ろすと、瞬きの間に黒い流星が山の方へと消えていった。その拍子に舞い上げられた花弁が空中に踊り、白い少女はそれを掌で受け止める。それを見つめながら面倒なことになりそうだと、刑香はため息をついた。暖かな日射しを浴びることで咲いた桃色の花びらは春の香り、もう梅が咲く季節になったのだ。

 

 

「せっかく長閑(のどか)な一日だったのに、随分と騒がしい奴に会ったものね……別に嫌じゃないけど」

 

 

 イタズラかセクハラか。

 今度は何をされるのだろうと半ば諦めつつ、刑香は手に乗っていた梅の花弁を風に流した。薄く桃色に染まった春の欠片は、くるくると渦を巻くように雲のスキマへと吸い込まれていく。

 陽光は遮られることなく地表に降り注ぎ、真っ青な空で白い翼が羽ばたいた。耳を澄ませば鳥たちのさえずりが聴こえてくるようで気持ちがいい。しばらく休んでから紅魔館に用事を済ませに行こう。あの『姉』の気紛れに付き合うのはそれからでも遅くはない。

 

 

 それくらい今日は良い天気なのだ。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 射命丸文にとって、白桃橋刑香とはどんな存在なのか。

 

 これが改めて考えてみると難しい。幼なじみであり、親友であり、妹分であり、様々な感情が混ざり合っている相手なのだ。あの少女を救うためなら文は迷わず命を懸けるし、刑香とて立場が逆なら同じことをするだろう。

 

 一方で翼の色は白と黒、両の瞳は蒼と紅、はぐれ天狗と精鋭天狗という駆け離れっぷりである。素直でない所は似た者同士だが、基本的に共通する性質はない。それでも心は通じているし、どちらかが欠けた幻想郷など考えられない。

 

 親友という言葉では足りない気がする、かといって代わりの表現も見つからない。だから射命丸文は、自分にとって白桃橋刑香がどんな存在なのかを一言で表せないのだ。

 

 

 

 

「あやや、思ったより時間がかかりました。やはり一番新しいヤツを贈りたいですし……刑香は待っていてくれてますかね?」

 

 

 射命丸文が降り立ったのは、人里離れた林の中にある古びた神社だった。

 ここは組織を追放された刑香が住み着いている場所である。数年前まで荒れ放題だったのだが、壁や屋根は丁寧に補修されている。ほどほどに雑草も抜かれて、枯れ葉も掃除されているのだから真面目なものだ。所々が割れた石畳を、文は一本歯のブーツで景気よく踏み鳴らして進む。

 

 博麗神社とは比較するべくもなく狭い境内。信仰は廃れ神々は去り、ここに住み着いた天狗の少女が主となってから早数年。すっかり妖怪神社と化したらしく、人気はない。しかし、それでも訪れる者を追い返す妖気は感じないのだから何とも刑香らしい。

 

 

「まあ、訪問客を歓迎するような気配でもないんですけどね。あの子は他者とあまり積極的に関わっていくタイプじゃないですし、できれば帰って欲しいって妖気でしょうか」

 

 

 境内にある梅の木からは爽やかな香りが広がっている。『桜は花を、梅は匂いを愛でるべし』と古来より伝えられる格言であるが、なるほど良いものである。

 その木の周辺で咲き誇っているのは、名も知れぬ小さな花たち。雑草に紛れる黄色や桃色が春を告げている。他愛もない草花なれど心に染みる気がする、恐らくわざと残しているのだろう。

 周囲に他の家々はなく妖怪の気配もしない、夕焼けに照らされる林の中はどこか物寂しい雰囲気が漂っていた。それも含めて刑香らしいと、神社の襖に手をかけながら千年来の親友は思う。

 

 

「あやや、まだ帰っていないようですね」

 

 

 遠慮なく開け放った部屋には誰もいなかった、ひとまずブーツを縁側で脱いでから上がっておく。新聞の執筆をしていたらしく、机の上には鮮やかな花の写真たちが広げられていた。ライバル紙の情報ということで「どれどれ」と文が覗き込む。

 中でも目に付いたのは博麗神社の『臥龍梅(がりゅうばい)』、恐らく次の一面に使うつもりなのだろう。アングルも見事だが、被写体も素晴らしい枝振りである。

 

 

「私が来ることは分かっていたでしょうに。商売敵にこんなものを見せるなんて無用心ですねぇ、信用してくれているのは嬉しいですけど」

 

 

 少しばかり照れくさいと感じながらも、抱えていた風呂敷を床に置く。新品の装束と『あるモノ』を入れている包みである。

 そのまま待っているのも暇なので、机周りを物色してみようと歩き出す。すると目に入ったのは湯飲みと急須が乗ったお盆、わざと目立つように部屋の真ん中に置かれていた。珍しく刑香の方からイタズラを仕掛けてきたのだろうか。怪しく思いながらも近づいてみた。

 

 

「まあ、そんなわけないですよね。いただきます」

 

 

 確認することもなく急須の中身を傾ける。すっかり冷えきっていたが、こぽこぽと豊かな新緑の液体が湯飲みに注がれていった。口を付けてみると苦味の強い茶葉だった、高いものではないのだろう。しかし用意しておいてくれた気遣いは嬉しく思う。わざわざ二つ置かれた湯飲みがその証拠である。

 この数年、刑香やはたての存在が自分の中で大きくなっていくのを感じていた。(うるお)されているのは、きっと喉だけではない。

 

 

「……私は変わりませんね。あの子の周りは賑やかになったというのに、私には未だに刑香とはたてしか信頼できる仲間がいないようです。もちろん二人もいるだけ幸せなんですけど」

 

 

 賑やかになった部屋を見回してみる。

 まずは虹色に染まっている床の一部、これは道具屋の幼い魔法使いがやらかしたらしい。続けて壁際の棚には心配性な茶髪天狗が持ってきた薬箱、河童の少女が調整した一眼レフのカメラ、寺子屋お墨付きの教本、そして巫女特製の御札が並べられている。これらは山を追放されてから刑香が手に入れた繋がりだ。

 あの少女が自分の手から離れてしまったようで、心の奥から一抹の寂しさが湧き上がってくる。

 

 

「やれやれ、何だか眠くなってきました。ちょっとの間だけ横になっていたいですねぇ。刑香が帰って来ないとアレも渡せませんし……ほんの少しだけ」

 

 

 吹き込んで来る風は春の夕暮れ。

 柔らかな熱を含んだ微風(そよかぜ)に、段々と瞼が重くなっていく。しばらく刑香が帰ってくる予感はないし、休んでいてもいいだろう。

 持ってきた風呂敷包みには、新品の天狗装束ともう一つの服。それを刑香に着せてやるのが楽しみだ、きっと恥ずかしがるだろうが似合うに違いない。そんなことを考えながら横になった黒い鴉天狗の少女は、いつの間にか小さな寝息を立てていた。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

「確かにお茶は用意してたし、休んでいても構わなかったんだけど……まさか眠っているなんて思わなかったわ。疲れてたのかしら?」

 

 

 ようやく所用を済ませて帰宅した刑香。

 夕暮れが落ちた空の下、外界には星の泳ぐ青い夜が広がっている。そんな静かな夜を真っ白な翼で揺らして、一本歯下駄を鳴らしつつ降り立った境内。部屋に上がって襖を開けてみると親友が眠りこけていた。

 布団を使うこともなく、畳の上で寝転がっている天狗の少女。膝上までのスカートと半袖シャツでは寒かったのだろうか、自分の翼を布団代わりにして身体を温めていた。いつもなら誰かが近づけば目を覚ますのだが、今日は起きる様子がない。

 

 

「せっかく紅魔館で上等なぶどう酒を分けてもらったんだけど、この分だとコルクを抜くのは夜中になりそうね……」

 

 

 久しぶりに親友が訪れてくる夜。

 少しばかり張り切って、レミリアからワインを貰ってきたのだ。古めかしいラベルが剥がれかけ、如何にも年代物に見える硝子ボトル。フランのお礼にと当主が自分のコレクションから選んでくれた逸品だ。「スカーレット」と外来の言葉で銘打たれているので、ひょっとしたら自作品なのかもしれない。

 

 どんな味か楽しみである。独りで飲むつもりはないので、文の目覚めを待つとしよう。それまでに夕餉の一つでも作っておくのも良いが、果たして野菜の煮物はワインに合うのだろうか。それとも油が多少あるので、天ぷらにするのも一興だろうか。刑香は頭を悩ませていた。

 

 

「まあ、ともかく作ってみましょうか。合うなら合うでいいし、合わなければ別々に味わえばいい話よね…………何よこれ?」

 

 

 台所に向かおうとした際に見つけたのは、足元に置かれた風呂敷包み。

 随分と大きいので不審な気配を感じたが、そういえば予備の装束をくれると言っていた。まだ文が寝息を立てているのを確かめつつ、刑香は包みをほどいていく。あの時の親友が見せた様子から、何となく中身の察しはついている。どうせ装束だけではないのだろう。

 

 そして出てきたのは真っ白な天狗装束と、射命丸文の私服だった。フリル付きのスカートと、リボンタイをあしらった半袖シャツ、そして一本歯のブーツが可愛らしい。どうしてこれが入っていたのかなど、考えるまでもない。

 

 

「新しい装束をあげる代わりにこれを着なさい……とでも言うつもりだったのでしょうね。まあ、これくらいなら引き受けてあげてもいいけど…………文は、もうしばらく寝てるかな?」

 

 

 少し悩んでから刑香は帯に手をかけた。

 どうせ着せられるなら自分から着た方が良い。着替えている途中で、平坦だの何だのと変にからかってくるに決まっている。思い通りにはならないわよ、と眠っている文にチロリと舌を出してやる。

 

 二人だけの部屋に衣擦れの音が響く。

 さらさらと帯を解き、手慣れた仕草で装束をほどくように脱いでいく。そして部分ごとに文の持ってきた服へと衣を代えていく。さすがに眠っている友人の隣で、丸ごと脱いでから着直す度胸は刑香にはない。温泉ならともかく部屋の中で、そういう格好を一方的に見られるのは恥ずかしい。

 半袖シャツに腕を通しつつ、不満を口にする。

 

 

「まったく、お揃いとか幼子の姉妹みたいじゃない。絶対狙ってるでしょ、本当に素直じゃないんだから困った姉ね……」

 

 

 孤独に慣れた日々を変えてくれた相手。

 そんな文のことを刑香は『家族』のようだと思っている。いくら他に交流が増えても、刑香にとって射命丸文はやはり特別な存在なのだ。もっとも気恥ずかしくて一生、言葉にはできないだろう。

 

 そして数分後、姉が起き出すまでに着替えは完了することになる。そこから「写真を撮る」「撮らない」という言い争いに発展することになったのだが、それは別のお話。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 




イラスト・キャラクターデザイン(刑香):北澤様
pixivページ:http://touch.pixiv.net/member_illust.php?id=1818789

今回のイラストは依頼という形で描いてもらっています。後日、イラストレーター様のpixivページにて劣化が少ないバージョンをアップしていただく予定です、宜しければぜひご覧になってください。

そして、こちらはおまけとして


【挿絵表示】


こっそり撮影していた色々と黒い少女のワンシーン。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十一話:雨の天道

 

 

 漂うのは泣き出した空の香り。

 人里に降り注ぐ雨は、しんみりと寺子屋の屋根を打ち鳴らしていた。カンカンと拍子を取るように木々や小石を楽器代わりにして遊び回っているのだ。空の息づかいが鼓膜を満たしていく心地は悪くない、刑香はそう思う。

 

 そのおかげか重い真実が告げられているというのに、心は不思議なほどに落ち着いていた。安らかな寝息をたてている霊夢を優しく撫でながら、目の前のハクタク教師から紡がれる真実に刑香は耳を傾ける。

 

 

「『天竜八部衆』とは、仏法を守護する者たちの総称だ。それぞれが圧倒的な力を行使することで仏の教えと人々を護り、そして‥‥」

「その中に名を刻んでいる一柱こそが『迦楼羅(かるら)王』ってわけか。………まさか仏法に話が繋がるとは想像もしなかったわ。かなり面倒なことに私は首を突っ込んでるみたいね」

「その辺りは覚悟してもらうしかないな。お前が考えているよりこの問題はずっと複雑なものなんだ。ここからが本題だ、付いて来てくれ」

 

 

 慧音は指先で空間をなぞる。

 そして虚空から取り出された巻物たちが、また新たに部屋を埋め尽くしていく。蛇のごとき書物たちは床と天井を這い回り、このままだと畳の目まで埋め尽くしてしまいそうだ。千年以上をまとめて閲覧しているとはいえ、溺れてしまいそうな量である。

 これは十年かけても読みきれないだろう、流石に辟易としてきた刑香がため息をついた。すると霊夢が目を擦りながら起き上がる。

 

 

「ぅん……どうしたの、刑香?」

「ああ、起きたの?」

 

 

 眠っていても気配を感じ取ったのだろう。ハクタクの能力であっても、それが人外のモノであることには変わりない。鋭い感覚を持つ巫女には耳障りだったに違いない。

 うつらうつらと幼い巫女は両手をさ迷わせる。そのまま寄りかかって来たので身体を刑香が抱きとめた。そしてやんわりと布団へ幼い少女を押し戻す。

 

 

「ちょ、けいか‥‥?」

「まだ月は南の空にあるから、外は子の刻限を回ったばかりよ。人間が目を覚ますには早すぎるわ、良い子だから眠っていなさい。‥‥起きてるつもりなの?」

「ふぁ‥‥何だか重要な話をしてるみたいだし、私だけ除け者は嫌だからね。うわ‥‥寒いじゃない」

 

 

 瞼を擦りながら刑香の隣にちょこんと座る霊夢。

 かろうじて意識はあるようだが、身体はゆらゆらと舟を漕ぎ始めていて危なっかしい。仕方ないとばかりに白い翼が少女を肩から包み込む。

 

 

「ほら、もう少し近くに来なさい」

「ん、ありがと‥‥」

 

 

 あまり身体を密着させるのは好きではないし、自慢の翼を毛布代わりにされるのも不本意だ。しかし霊夢に風邪を引かせるわけにもいかない。少しばかり不服そうな表情で鴉天狗は巫女と肩を寄せあうことにする。そんな一連の流れを眺めていた寺子屋教師は、堪えきれずに小さく吹き出した。

 

 

「ふふっ、お前たちは本当に微笑ましいな。こちらまで心が暖かくなるよ、いっそのことお前は霊夢の式神にでも成ったらどうだ?」

「お断りするわ。山で散々に道具扱いされたからそういう立場はもう御免だし‥‥‥そういう関係はもう要らないの、例えこの子でもね」

「くすぐったいわ、刑香」

 

 

 幼い黒髪を白い指が溶かしていく。細い手櫛はゆったりと流され、それに合わせて霊夢は頭を揺らしていた。とても機嫌良さそうである。

 この巫女を支える存在の一人として、刑香は必要かもしれないと慧音は思う。幻想郷のために、白い少女には霊夢の式になってでも傍にいて欲しい。そこまで考えてコホンと咳払いをする。こういったことは自分が立ち入るべきではなく、あくまでも本人達の問題であるべきだ。

 

 

「何やら話が逸れてしまったな。確か天竜八部衆のことまで話したか、ならばそろそろ核心に触れるはずだ。ここからはお前の疑問も晴れるだろう」

「てんりゅーはちぶ‥‥‥‥何それ?」

「途中で起きてきたアンタには後で説明するわ」

 

「察しのいいお前のことだ。天魔殿との関係について自分なりの考えは持って来たのだろう? ならば私は結論から述べさせてもらう」

 

 

 そう言って深緑の瞳は部屋を見渡していく。

 ここに満ちた文字たちは幻想郷の歴史そのものである。大結界に閉ざされる前から続いていた世界の歩み、幾千年と続いてきた人間と妖怪の争いが記されている。そしてその底にあるのは埋もれた想い、その忘れ去られた儚さを聖なる獣人は歌い上げるのだ。

 

 

「『天魔』とは、天狗の長老が代々受け継いでいく号であって本人の真名ではない。歴代の長がそうであったように、あの方にも自身の名はある。当代の真名こそが、迦楼羅だ」

「‥‥それは分かってる。私が知りたいのは、あの方が私とどういう関係があるのかよ。続きを話して」

「……ああ、お前が期待する私の役目は答え合わせだったな。すまない、話を続けよう」

 

 

 気がつくと雨は大降りになっていた。

 軒先に置かれたバケツは怒り狂ったように鳴り叫び、真っ白な霧が外界を塞いでいる。一寸先も見通せず、水飛沫(しぶき)が跳ね返る音だけが荒れた波のように耳を浸していた。これ以上は口にするなと、まるで空から警告されているようだ。それに構わず慧音は結論を紡ぎだしていく。

 

 

「かつて人々から守り神として祀られた迦楼羅王。そんな彼が現在、天狗の棟梁となっている理由までは分からない。しかし彼は妖怪に身をやつしてまで、大天狗たちと共に現在にまで連なる天狗の組織を創り上げている」

 

 

 大陸にて黄金の霊鳥として崇められ、現在も少なくない国々で信仰を保っている人の守護者。それが迦楼羅という存在であり、この島国では鴉天狗の祖として扱われている節すらある。紛れもない神霊、もしくは最上位の大妖怪なのだ。

 

 慧音は刑香のことを高く評価している。天狗であるが故に頭の回転は早く、その思考は並の妖怪とは比較にならない程に冷静だ。飄々としながらも恐ろしく頭のキレる射命丸文、その妹分としても申し分ない。だがそれでも天魔とは格が違いすぎていた。並みの天狗相手にも苦戦する刑香と天魔では余りにかけ離れ過ぎている。

 

 

「その途中で、彼はある天狗と結ばれたと歴史書には記されている。その奥方の家名こそが『白桃橋』、つまり天魔殿の真名は白桃橋迦楼羅。あの方は紛れもなくお前の肉親だよ。刑香」

 

「‥‥何とも実感の湧かない話ね。私にはそんな大層なチカラは何処にも宿っていないわよ?」

「いや、延命の加護は迦楼羅王が誇るとされるご利益の一つだ。一介の鴉天狗に過ぎないお前が持つには異質すぎる『能力』は、恐らく遺伝によるモノだろう」

「そう、なのね」

 

 

 ちろちろと蝋燭の炎が揺れる。

 他に灯りはなく、部屋に広がる文字たちは渦を巻き続けていた。黒い蛇がうごめいているかのような気配と、紙の擦れる音だけが響く空間は不気味すらである。だが、その中にあっても空色の瞳が陰ることはない。正面から射抜いて来るのだから、この少女はやはり真っ直ぐだと聖なる獣人は微笑んでいた。

 

 

「これでお前は天魔殿との繋がりを得た。私が天狗たちに証言したなら、お前は連中にとって無視出来ない存在となるだろう。何せたった一人残った長老家の跡継ぎなのだから‥‥さあ、お前はここからどうする?」

 

 

 涼やかな声が夜の湿った空気を押し退ける。凛とした気配が部屋を満たし、蝋燭から放たれる光が深緑の瞳に溶け込んでいた。煌々と森を染める色の正体は果たして、朝焼けなのか夕焼けなのか。真意を見極めようと、ハクタクの深い眼差しが白い少女に注がれていた。

 そんな慧音に対して、刑香は肩を竦めて苦笑する。

 

 

「‥‥どうもしないわ、私はここに真相を確かめに来ただけだって伝えたでしょ。この話はこれで終わりよ」

「何だ、随分と平坦な反応だな。激怒するなり悲観するなり想像していたんだが‥‥お前は今まで肉親から裏切られ続けてきたことになるんだぞ?」

「だから何よ、それで私が復讐に走るとでも思ったの? 勝てやしないでしょ、天魔様どころか文あたりに弾き返されて終わりよ。そもそもしないけど」

 

 

 それは予想していた反応ではなかった。

 親類の存在を知ったというのに喜びはなく、そんな相手から裏切られたことへの怒りや悲しみもない。むしろ真相を知っても厄介事程度にしか捉えていない、ある意味ではいつもの刑香らしい反応であった。少なくとも表面上はそう見える。

 

 

「そもそも私は別に家族が欲しいわけじゃない。腐れ縁から大切な間柄になった二人もいるし、最近は紅魔館の連中とも知り合えたし、それに人里にだって知りあいはそれなりにいるわ」

「‥‥いや刑香、お前は」

「地底では勇儀様や古明地姉妹とも知り合えたし、だから私は別に‥‥こんな」

 

 

 それでも瞳の奥深く、そこには冬空を連想させるような物寂しさが宿っているのに慧音は気づいていた。自分に言い聞かせるように言葉を形にし続ける刑香。そんな白い少女の頬にひたりと小さな手が触れる。悲しげな顔をした霊夢が空色の瞳を覗き込んでいた。

 

 

「ねぇ、刑香」

「何よ、どうしたの霊夢?」

 

 

 

「どうして泣いてるの?」

 

 

 

 真っ白な頬には一筋の雫が走っていた。

 霊夢の一言を合図に、ガラスにかかった小雨が流れ落ちるように透明な粒たちが一つ二つと頬を伝っていく。黙ったまま見守る霊夢と慧音に背を向けることもしない、夏空の碧眼はただ静かに涙を零していた。どうして自分の頬が濡れているのか理解できないという様子で、少し驚きつつ刑香はその水滴をぬぐい去る。

 異変が起きたのは、その時だった。

 

 

「お、おいっ!?」

「刑香っ!?」

 

 

 ガクンと傾いた視界、突如としてバランスを失った少女の身体が『真下』に引き込まれる。そこには目玉の浮かぶ不気味な空間、これは『あの妖怪』の能力であると刑香は瞬時に確信する。油断した瞬間を狙われたらしい。霊夢と慧音からあっという間に引き離され、

 

 

 気がつけば空の上に放り出されていた。

 

 

 波立つ銀の雲海で白翼を羽ばたかせて滞空する。

 のびやかに降り注ぐ春の月光は、怯えが来るほど鮮明に千里の先を照らし出していた。やれやれと周囲を見回して刑香は嘆息する、どうやら一瞬のうちに人里から雲の上にまで飛ばされたらしい。こんなことが出来るのは、自分が知る限りで一人だけである。

 

 足元には雨の匂いを漂わせる雲が浮かび、くすんだ銀色の海がどこまでも広がっている。位置的にはちょうど妖怪の山の上辺りであろうか、そんな世界で刑香を待ち受けていたのは一人の大妖怪。その眼差しに身体の芯が凍りつく。

 

 

「本当に久しぶりね。元気にしてたかしら、刑香」

「っ、紫‥‥!」

 

 

 まるで波間に浮かぶ小舟に腰かけるようにして、八雲紫は三日月型のスキマで空に浮かんでいた。

 冬は眠りについていたため、刑香とは数ヵ月ぶりの再会である。普段の言動を考えるに、挨拶代わりのイタズラでここまで転移させたのだろうか。しかし伝わってくる妖力は呆れるほど大きく、鬼の四天王と比較しても遜色はない程のモノ。これは冗談の類いではない。

 

 

「あら警戒しているようだけど、どうしたのかしら?」

 

 

 扇子で口元を隠しつつ、向けられる紫水晶のような瞳は美しく。そこから放たれる光に込められているのは鋭く冷たい感情だった。初めて会った時と同じ、敵意を秘めた瞳が注がれていることに初めから刑香は気づいていた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 陽光の届かぬ大地の底、無人の野が横たわる中心に『旧都』はそびえ立っている。

 

 

「も、もう無理だって。勘弁してくれよ大将!」

 

 

 赤い提灯がゆらりゆらりと闇を照らし、一見華やかに映る歓楽の街。賑やかな声が絶え間なく響いているが、それに惹かれて迂闊に足を踏み入れてはならない。強力な妖怪たちが居を構えるここは部外者にとっては帰らずの都である。鬼や土蜘蛛、橋姫や覚妖怪と出会って五体満足でいられる幸運にはそう恵まれない。

 先の事件において鴉天狗の少女たちが全員で帰還できたのは、実の所はそこそこの偉業であった。

 

 

「もう限界だって? 何言ってんだ魁青、まだ十を越えたばかりじゃないか。こんな程度で弱音を上げるなんざ、その角は飾りかい?」

「いや普通の酒器ならいざ知れず、酒樽で十越えはキツいッスよ!?」

 

 

 灼熱地獄を管理する『地霊殿』の近くにあるからか、この辺りは暖かな熱に恵まれている。そのため地上を追放され、或いは人間に見切りをつけた多くの妖怪たちが集まり、旧地獄を建て直して都にしたという経緯がある。この間の喧嘩で少しばかり街は破壊されたが、鬼を中心とした妖怪たちはすでに旧都を修復していた。この都を丸ごと作り上げた者にとって、半壊からの修理など容易いことだったのだろう。

 そしてその際に酒の匂いと湯気の漂う居住区には、荒々しい活気に包まれた鬼の酒場が新しく建てられていた。

 

 

「魁青の野郎が白旗上げたぞっ、これで大将の十人抜きだぁ!」

「すげぇっ、流石は姐さん!!」

「今度はアタイの番さ。その次はヤマメちゃんも参加してみるかい?」

「全力で遠慮しとく」

 

 

 そこで繰り広げられていた鬼の大宴会を、土蜘蛛の少女は白けた様子で眺めていた。大の字で倒れた青鬼を見下ろしながら、鬼の大将は愉快そうに笑い声を上げている。だがそれにも愉快な気分になれない。なみなみと注がれた盃に映るのは、少女の不機嫌そうな表情ばかりであった。そんなヤマメへ勇儀が話しかける。

 

 

「何だい、珍しくお前は乗り気じゃないね。どうかしたのかい、ヤマメ?」

「どうもこうもないよ。さっき、さとりのヤツに『地上へ一緒に行きたいなぁ』って可愛らしく頼んだんだ。そしたら『僧侶に化けるならいいですよ』だってさ!」

「あっはっはっ、さとりのヤツも毒舌だねぇ。遠回しに断るにしても、もう少し言い様があるだろうに」

 

 

 遠い平安の世において、土蜘蛛は僧侶に化けて『とある武将』に近づいたことがある。その際に正体を見破られ、彼の部下によって仲間だけでなく巣まで焼き払われた経験があるのだ。以降、土蜘蛛たちは僧侶に身を変えることを避けている。別に変化できないわけではないが、何となく嫌なのだ。

 

 

「あの根暗妖怪め。せっかく久しぶりの地上で獲物を味わえると思ったのに‥‥」

「そんなこと考えているから手痛く断られたんだろうさ。さとりとパルスィは無事に地上へ向かったのかい?」

「さっき私たちの巣を通過していったよ、今頃はお迎えに来た天狗どもと落ち合ってんじゃないの? うぅー、病で死にかけの人間一人二人なら構わないと思ったのにな。口減らしだって大歓迎なのに」

 

 

 名残惜しそうにヤマメは盃を傾ける。

 この地底での生活に不満はないが妖怪である以上は、百年に一度くらい人里にちょっかいを出したくなるのだ。人間から畏れられるという妖怪の本質、それを確認したくなるのを誰が止められようか。ただ土蜘蛛の場合はそれで村が一つ消えることになるので、さとりからは断固拒否されたわけだ。『病を操る能力』は伊達ではない。

 

 虚しく喉を降りるのは濁り酒。

 ほんのりと舌触りは甘く、強い度数は酔いを誘ってくれる。流石は鬼の御用達の一つ、良い酒である。それで少しだけ機嫌を持ち直したヤマメは「最近ツイてないなぁ‥‥」と呟きながら、胸元から白い羽を取り出していた。キラキラと静かな光を放つそれは前回の騒動で拾った戦利品である。

 

 

「この間だって、あの三羽を勇儀が叩きのめしてからが私にとって本番だったんだよ。死にかけのアイツらに牙を突き立てて楽しもうと思ってたのにさ。まさか鬼の大将が負けちゃうんだから、上手くいかないもんだ」

「お前、そんな理由で私を焚き付けたのかい。ロクでもない上に油断ならないヤツだ」

「ふふっ、それにしては口元が笑ってるよ?」

 

 

 別段、珍しい話ではない。人間を喰らって力を付けるのと同じように、妖怪を喰らって妖怪は力を付けることができる。弱ったところを狙って強い者の血肉を狙うのは効率的なのだ。特にヤマメは白い鴉天狗には執着している、天魔が関わっているなど面白そうで仕方がない。

 藪をつついて蛇を出し、それを丸呑みにしてやるのは地底ではよくある娯楽なのだ。

 

 

「地上に行くついでに、白いのにも挨拶しておきたかったんだけどね。あんなに面白い境遇のヤツは久しぶりだよ」

「その口調だと、お前さんは刑香の裏事情に気づいていたのかい?」

「ああ、天魔との繋がりのこと? そりゃ気づくでしょ、私たちみたいな旧い妖怪は忘れようにも忘れられないよ。だってアイツは‥‥」

 

「おーい、ヤマメちゃん。こっちで一緒に呑まないか。サービスするぜっ!」

「ぶっ飛ばすぞ馬鹿野郎、ヤマメちゃんは俺らと一緒に呑むんだよ!」

「男どもは鬱陶しいだろうし、アタイの所に来なよ!」

 

 

 次々とヤマメを呼ぶ鬼たち。それぞれが酒瓶ではなく酒樽を片手にして誘っているのだから恐ろしい。嬉しそうな顔を張り付けながら「今日は遠慮しておく」と少女は全力で首を振った。鬼の酒に付き合うと明日に地獄を見ることになる。

 地上では嫌われ者のヤマメだが、その明るい性格もあって地底ではアイドルのような存在だったりする。しつこい部下たちを「話の邪魔だよ」と鬼の大将が追い払っていく。小突いただけで同族が壁を突き破っていくのだから、相変わらずの金剛力である。向かいの店から轟音が聞こえてきた。

 

 

「あはは‥‥もう傷は治ったみたいだね」

「あんなモンはとっくに全快してるよ。吸血鬼のお嬢ちゃんから貰った内臓破壊は強烈だったが、三日もあれば問題ない」

「でもアイツに潰された目も治しちゃうとは思わなかったよ、萃香みたいに残しておかないんだ?」

 

 

 白い少女に抉られた目は既に再生を果たしていた。光を失っていた水晶には松明のような炎が燃え盛っている。睨まれただけで大半の人間が失神するという、それほどの妖気を感じさせる鬼の双眸である。

 そんな無双の眼光を恥ずかしそうにヤマメから外しながら、勇儀は返しの言葉を酒の代わりとして口にする。

 

 

「それは萃香のヤツが先約だからね。私が真似しちまったら、再会した時に格好がつかんだろう?」

「なーんだ、友人への見栄を優先したわけか。鬼の大将さまも可愛いところあるじゃん」

「あっはっはっ、要するにそういうことさ。ほらほら、まだ日の出まで十分あるからジャンジャン呑みな!」

 

 

 少しだけ照れた顔で酒を促す勇儀。彼女にも色々とあるのだろう、しかし鬼の面子というものは土蜘蛛であるヤマメにはあまり理解できてなかったりする。自由気ままに暴れまわっていた自分たちに、見栄だとかそういうものは馴染みが薄い。そのまま続けられても面倒なので、話題を変えるとしよう。

 

「そういえば、さとりが言ってたんだけど天狗たちが内部で揉めているんだってさ。どうやら大天狗が亡くなった跡目争いらしいよ」

「その話は聞いてる、私の所にも天狗から『後ろ楯になって欲しい』だの『名前だけ貸してくれ』だのといった寝言が届いてるからね」

「あー、ひょっとして今宵の酒と肴は天狗連中からの貢ぎ物だったりするの?」

 

 

 ちらりと奥の座敷を見てみると、目に飛び込んでくるのは大量に積まれた酒樽と食糧の山。これらが全て貢ぎ物だとすれば大したものだ。一部の天狗はかつての上司である『鬼』の力を頼んでいるらしい。ついこの間まで百年単位で交流が途切れていたというのに、虫の良い話である。

 ちなみに勇儀は送り主に力添えしてやる気は毛頭ない。鬼の力を求めるなら、まずは本人が乗り込んでくることが鬼に対する最低限の礼儀なのだ。どの天狗も部下に使いっ走りをさせるばかりでは呆れるしかない。

 

 

「あまりにも連日で鬱陶しいもんだから、私の方から一人推薦しておくことにしたよ。これで少しは落ち着くだろうねぇ」

「ありゃりゃ、絞れるだけ絞ってから断れば良かったのに。‥‥それで結局、勇儀は誰を押してやったの?」

「ん、ああ、一筆書いたヤツを丁度さとりに持たせてるよ。アイツが山まで届けてくれるだろうからね、それで私が推薦してやったのは‥‥」

 

 

 気がつけば、期待に満ちた目で土蜘蛛の少女は一本角の鬼を見上げていた。星熊勇儀の後ろ楯を得たならば、その者は大きく大天狗の座に近づくことができるであろうからだ。ヤマメとしても誰が選ばれるのかに興味があった。

 かつての大天狗たちは、土蜘蛛の目からも痺れるほどの化け物揃いだったのだ。

 

 源氏の若き天才に兵法を叩き込み歴史を動かした者、

 陰陽師のひしめく京の都を怒気のままに焼き払った者、

 飢餓に苦しんだこの島全土の人々を神通力にて救った者、

 そこらの妖怪には不可能な、輝かしい逸話が彼らには山ほどあった。

 

 山の神たる天狗衆を取り纏めていた八人の大天狗。晩年には失われてしまったとはいえ彼らの『格』は誰から見ても本物だった。深山幽谷、人知の届かぬ深き山々を統べて、幽玄なる谷々を一本歯にて駆けた者。彼らの後任ともなれば当然、それに劣らぬ怪物がーー。

 

 

 

 

「私は刑香を推薦してやったよ」

 

「‥‥‥‥‥‥は?」

 

 

 盃が手を離れて床に落ちる。

 最初は耳がおかしくなったかと疑った。次に冗談を言われているのだと思った。ぽかんとしたヤマメへと、してやったりと鬼の頭目は笑う。少しずつ言葉が頭に染み込んでくるにつれて、土蜘蛛の少女の顔は驚愕の色を浮かべ始めることになる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間:佐渡の狸囃子

活動報告にて予告させていただいた通りに、今回の幕間には別の東方二次作品からちょっとしたゲストに登場していただいています。

注意事項を三点ほど。
①刑香とその人物、双方の主人公同士の接触はありません。
②ちょっとしたゲスト出演です、その少女が大きくストーリーに関わるわけではありません。
③このような企画内容及び雰囲気が苦手な方はご注意ください。

寛大な心で目を通していただけると幸いです。


 

 

 幻想郷を遠く離れて幾千里。

 山を越え海を渡った先の先、四十九里の波の上に『佐渡の島』は浮かんでいる。草花に恵まれた山脈が広がり、その頂上ではお月様が腰を下ろして笑っていた。人里の灯りが少ないこともあり、美しい稲穂の色をした月光はまんべんなく地表を撫でつける。

 

 どこか寂しい雰囲気を漂わせた離れの島。しかし江戸の世では砂金の一大産地として知られ、お偉い将軍様の天下を支え続けた柱の一つであった。やがて鉱山は閉鎖されてしまったが、この島に生まれた文化は今でも細々と受け継がれている。そして、そこには『とある妖怪』の楽園としての側面も含まれていた。

 

 

 

 

 

「お、おぬし、一体何を!?」

「気にするなって、ちょっとした景気付けだ!!」

 

 

 のどかな島に轟音が鳴り響いたのは、ちょうど草木も眠る真夜中であった。

 

 天を揺るがすような衝撃は大地を駆け巡り、小さな村々を夢の世界から叩き起こす。前後左右も分からぬまま次々と目を覚まし、人々は「地震だ」「いや落雷だ」と外へ飛び出していく。大地の芯を揺るがしたような振動に、人間たちは慌てふためき大騒ぎを始めていた。

 しかし家の外に出てみれば、いつもと変わらぬ風景がそこにある。お山は変わらず、海は静かな波を起こし、電子機器からもこれといった報道はない。それ故に多くの者が一先ずの安堵を浮かべていく。だが、

 

 

『な、なんじゃアレは!?』

『お前さん、何を言って…』

『二ツ岩じゃ、大明神さまが怒っておるっ!!』

 

 

 幾人かの瞳に映っていたもの。

 辛うじて霊感を持っていた者が見つけてしまったのは、頭から二本の角を生やした化け物であった。

 月明かりを遮る雲を『腕』で貫き、佐渡の大地に両の『脚』を突き立てる。その姿たるや遥かな昔に天地を分けたという伝説の巨人のごとくに。

 そんな神威を纏った存在が、人里を離れた山の麓で暴れているのを一部の人間たちは真っ青な顔で眺めていた。わずか数分でその影は何事も無かったかのように消えていくのだが、この騒動は『二ツ岩の祟り』と語り継がれていくことになる。

 

 

 

 

 

「だぁーッ、止めじゃ止めじゃ!」

「何だい、もう変化の種は品切れかい?」

 

 

 身体を霧散させながら、主犯である伊吹萃香はつまらなさそうに呟いた。

 凝縮していた妖気を放出することで、山のように巨大な肉体を普段の大きさに戻していく。わずか数秒で大鬼の姿は消え失せて、辺りには夜の静けさが戻っていった。星熊勇儀と同格の力を誇る少女が持つのは『密と疎を操る程度の能力』というものである。

 かつて空に浮かぶ月を砕いたとされ、鬼族の中でも別格とされるチカラ。それは人間たちを震え上がらせた『伊吹百鬼夜行』の総大将に相応しいものだろう。しかし、そんな少女に対峙しているのは、これまた同族の中では別格と祀られる存在である。

 

 

「他人の縄張りじゃからと好き放題に暴れよって……後で島民から噂されるのはワシなんじゃぞ」

「あっはっは、悪い悪い。でも妖怪としての格を確かめるなら拳をぶつけ合ったほうが早いだろう?」

「まあ、迎え撃ったワシにも落ち度はあるか。やれやれ……」

 

 

 困ったように周りを見回して煙管をふかす。

 鬼の一撃で木々は根元からへし折られ、周囲の山肌は竜巻に襲われたよりも酷い状態だ。それを一瞥して溜息をつく女狸の名は二ツ岩マミゾウ、この佐渡を纏め上げる化け狸の総大将である。

 

 

「それなりに本気で殴ったんだけど、まさか無傷で防がれるとは思わなかったよ。流石は二ツ岩、大したもんだ」

「阿呆、あんな大振りの一撃が当たるわけないじゃろ。わざと避けさせておいてよく言うわい」

 

 

 もう一つ、狸の大将は溜め息をつく。

 あれだけの爆音の中心にいたというのに、その着物には埃一つ付いていない。ひび割れた地面をサラリと草履で踏みしめて、煙管(キセル)に溜まった灰を夜の大気へと流していく。その動作は自然そのもので、とても鬼の四天王を前にしているとは思えない。並みの妖怪には不可能だ。

 

 

「…伊吹童子、お主が来た理由はだいたい想像が付いとる。スキマ妖怪とやらの使いじゃろ?」

「ありゃ、紫のことを知ってたのかい?」

「幻想郷への招待状、それを発行しておるのがスキマ妖怪だと聞いた。そんな噂をここ百年は耳にしておるよ。もっとも何のためにかは知らんし、鬼が使者として来るというのも初耳じゃがな」

 

 

 あまり知られていないが、この島国で『化け狸』は由緒正しき名門妖怪の一派である。その上位にいる個体ともなれば天狗や鬼にさえ、妖怪としての格は劣らない。まして伊吹萃香の目の前にいるのは化け狸の中でも特別な存在なのだ。

 遠からん者は音に聞け,近くば寄って目にも見よ。信仰の廃れた現代においても、未だに多くの人間から祀られる佐渡の国の守り神。

 彼女こそが『二ツ岩』の大明神。妖怪の身でありながら土地神として敬われるまでになった、化け狸の最高位の一人である。

 

 

「忘れられた妖怪にとっての楽園、それは結構なことじゃがワシはまだ個として存在を保てる。ご足労は痛み入るが、お誘いは無駄足じゃったな」

「ふーん、そこそこ信仰を維持してるみたいだねぇ。残念だよ。それじゃ改めて、もうひと勝負しようじゃないか」

「喧嘩はワシの負けでいいわい……だがお主はワシら化け狸を甘く見すぎておるぞい。いくら鬼であっても、慢心というのは容易く足下を崩すもの。ほれ、あの赤鬼のように」

「へ……アイツ何してんの!?」

 

 

 思わず構えを崩してしまう小さな鬼神。

 ついっとマミゾウが煙管を向けた先には、縄で縛られた赤鬼の少女が転がっていたのだ。どうやら自分がマミゾウの相手をしている間に、手下か何かによって捕らえられてしまったたらしい。呼び掛けてもピクリと動かない。どうせ搦め手で捕まったのだろう、どこまで間抜けなのかと萃香は頭を抱えたくなった。

 

 

「さてはて、どうするかの?」

 

 

 月が満ちる刻の中で「これ以上戦うつもりはない」と、二ツ岩は言外にて語っていた。にんまりと緩められた茶色の瞳がと注がれているのが分かる。少し悩んでから隻眼の鬼は仕方ないと両手を上げた。

 

 

「分かった分かった、名残惜しいが喧嘩はここまでにするよ。そもそもお前を無理やり連れ去るつもりはないんだ。守矢の神々と会った時もそうだったからね」

「本当じゃろうな?」

「鬼に二言はないよ。ほんのちょっぴり、あるかもだけど今はない。だから赤瑛のヤツを解放してやってくれ、そいつは地底への土産でもあるんだ」

「そうかそうか、その言葉を聞いて安心したわい……しかし残念じゃが、お前さんの部下を解放することはできんのぅ」

 

 

 すると鬼の少女が疑問を挟む間もなく、赤瑛の身体が煙に包まれた。それに驚きつつも、萃香は再び拳を握りしめる。天狗たち程ではないか、鬼もそれなりに仲間への情は厚い。そんな萃香の思いとは裏腹にモウモウとした蒸気の中へと、赤鬼は溶けるように消えていく。

 

 

「二ツ岩っ、お前は私の手下に何をして…!」

「何のことやら、お前さんのお仲間は初めからここにはおらんよ。……ご苦労、アヤメ」

 

「ーーお安い御用よ、姐さん」

 

 

 煙の中から聞こえたのは見知らぬ少女の声。

 それを合図にしたかのように、立ち込める煙は収束して人影を作り出していく。唖然とする鬼の視界の中で、舞っているのは木の葉たち。しばらくして人影となった煙が地面を蹴って、クルクルと回転しながらマミゾウの隣に着地した。灰色の立派な一本尾を揺らしながら、その人物は萃香へと銀縁のメガネを向ける。

 

 

「鬼さんに化けるなんて、本当に久しぶりで緊張しちゃったわ。最近は人間か草木に変化するしかないんだから駄目ね」

 

 

 そこにいたのは鬼ではなく、狸妖怪の少女だった。

 灰色の髪と尻尾の毛並みは、雪を含んだ雲のよう。そして腰の辺りには金貸し用の帳簿をぶら下げて、右肩には酒の音が響く徳利(とっくり)を掛けている。その姿はマミゾウと同じ、古式ゆかしき狸の正装であった。恐らく二ツ岩の配下の者だろう。

 呆気に取られた萃香に対して、マミゾウは可笑しげに口元を緩めている。

 

 

「お前さんの部下、あの赤鬼は捕まっておらんよ。ちょいと山の中で迷子になってもらっただけじゃ。鬼と喧嘩するのは面倒故に、一つ芝居を打たせてもらったぞい。くくっ、鬼に二言は無いんじゃろ?」

「お前、それは卑怯じゃないか…」

 

 

 力無く言葉を紡ぐ鬼神の少女。

 これで終わりだと宣言してしまった手前、いくら不完全燃焼でも喧嘩を続けることはできない。嘘をつくことを鬼は何より嫌うのだ。鬼の中では異端とされる萃香も、この掟を進んで破りたいわけではない。「やられた」とばかりに小さな鬼神は空を見上げて座り込む。

 

 

「さて、実のところ今宵は祭りの日でな。お主らの話は後々にして、ひとまずはワシの神社で一献どうじゃ?」

「……天晴れ見事、やられたよ」

 

 

 喧嘩は制したが、まんまと化かされた。

 鬼にとっての勝利は相手を捩じ伏せることだが、狸にとっては化かし化かされることが勝敗の決め手である。つまり、この化け狸は双方を勝たせた上で勝負を丸く収めたことになる。見事な手腕だ、それを理解した故に萃香は苦笑するしかなかった。

 

 ならば狸の宴会、喜んで参加させてもらうとしよう。そう笑い飛ばしながら、鬼の大将は狸の大将が差し出してきた手を取った。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「だーかーらーっ、アタシは思うのよ。アイツは一言足りないんじゃないかってさ、黙っていなくなるとか格好つけすぎでしょ!」

「はいはい、そうね。でも男には妙な意地があるものよ。あんたのことが大切だったからこそ、泣き顔も見せずにいなくなったんじゃないかしら?」

「そ、そうかな‥‥泣いたのは主にアタシの方だけど、ひっく」

 

「何やってんだい、赤瑛のヤツ…」

 

 

 場所は移り変わって神社の境内。

 親分たちから離れて酒盛りしている赤鬼と灰色狸から、呆れたように萃香は目線を外す。ちなみに周囲を見渡せばあっちも化け狸、こっちも化け狸である。これほどの妖怪が一同に介している光景は現代では珍しい。

 神社の縁側に腰掛け、庭の灯籠にもたれ掛け、思い思いに酒と料理を味わう狸たちは楽しげだ。萃香はそんな彼らを眺めつつ、マミゾウと酒を呑み交わしていた。

 

 

「随分と盛況じゃないか。料理も旨いし酒も上々、どいつもこいつも心から楽しそうと来たもんだ」

「そりゃ祭りじゃからな。誰もが冬の間に抑えていた羽目を外したくもなるじゃろて。ほれ、もう一杯」

「ん、ありがと……しかし春先だってのに食い物の祭りとはねぇ。何て名前なんだい?」

「名前なんてありゃせんよ。ただ過ぎ去る冬を惜しみ、蓄えていた冬越えの蓄えを処分してしまうだけの行事じゃからな。おかげで皆、加減知らずに楽しんどるわい」

 

 

 元々は神社への奉納品だろうか。

 湯気をあげる(たら)やニシンの大鍋、冬野菜の煮物、佐渡の清水で造られた酒はまだまだある。そして祭りは舌を楽しませるだけではない。桜透かしの柄をした行灯(あんどん)が置かれ、妖術で浮かんだ提灯が舞い踊り、地面と夜空が美しく照らされていた。荒々しい鬼の宴とは違う、木の葉と共に踊るような狸の宴会がここにある。これは良いものだと小さな鬼神が笑った。

 

 

「なかなかどうして、化け狸も気に入ったよ。コイツらは全員お前の子分なのかい?」

「…ここにいる者の多くはお山を追われたか、祀られていた社を失って流れ着いた者たちじゃよ。さっきお主を化かした、アヤメの奴も火山の噴火で自分の神社を村ごと無くしとる」

「なるほどね、そういう連中をお前が守っているってわけか。そりゃ幻想郷には来られないはずだ」

 

 

 これだけの同胞を集めて世話しているとは、マミゾウの器は大したものである。行き場を失った同族を救い、人間たちと良い関係を築いているのだ。ここにいる手下を引き連れて幻想郷に移ってきたなら、『妖怪の賢者』に名乗りをあげることもできるかもしれない。

 そこまで考えていると、萃香は自分が知らず苦笑いをしていることに気づいた。そんな鬼の様子を不審に思ったマミゾウが横顔を覗き込んでくる。

 

 

「どうしたんじゃ、伊吹童子?」

「私のことは萃香でいいよ、その呼ばれ方はどうにもムズ痒いんだ。……私は何もかも投げ出しちまったからね、少しだけお前が羨ましいと思ったのさ。同族や人の子と上手くやってるマミゾウがね」

「何を気にかけることもないお主の方がワシには羨ましいがの。おお、あまり多くのモノを背負うと肩が凝って仕方がないわい」

「おいおい、あまり茶化すもんじゃないよ」

 

 

 わざとらしく年寄りのように、肩をポンポンと叩いてみせるマミゾウ。そこに嫌味はない、それでも小さな鬼神は思わずにはいられない。

 

 騙し討ちによって人間たちから退治された『鬼』、化かし化かされ人間たちに受け入れられた『化け狸』。両者には何故ここまでの違いが生まれてしまったのか。少なくとも人間をより愛していたのは鬼族であったはずなのに皮肉なものである。今では山も天狗に任せて、鬼は人のいない地底に引きこもってしまっている。

 そういえばアイツは元気でやってるだろうか、と萃香は怪力乱神の鬼を思い出しつつ盃を傾けた。

 

 

「……そろそろ博麗の巫女が代替わりするはずだから、そっちに期待しておこうかな。いや、もう新しい巫女になってるかもしれないね」

「巫女が何なのかは知らんが、あまり人間に入れ込まぬ方が良いじゃろて。ワシらとは生きてる時間が違いすぎる、寿命を延ばす方法でもあるのなら別じゃが」

「延命のチカラか。……心当たりは一人いるんだけど、肝心の人間がいないんじゃ意味がないね」

 

 

 無くした隻眼にヒタリと指を当てる。

 治そうと思えばいつでも治せるが、せっかくなので潰れたままにしている。触ってみると未だに熱を帯びているかのように脈動している。あの戦いの記憶がそう感じさせているのだろう。思わず口元から牙が覗く。

 夏空の碧眼を持つ少女、己の全てをかけて鬼たる自分に立ち向かってきた変わり者。今はどんな風を纏っているだろうか、久しぶりに顔を見たくなってくる。新しい巫女とあの少女、二つも楽しみが出来てしまった。

 

 

「い、伊吹の大将っ。ちょっといいですか!?」

「どうしたんだい、赤瑛?」

 

 

 焦った様子で近寄ってくる手下の鬼に首を傾げながら、萃香は考えを打ち切った。目の前には現代風のショートデニムとニットの上着、どこかボーイッシュな印象を持つ赤い髪の少女。こう見えて相方の青鬼より強かったりする、そんな赤瑛は青い顔で小さな親分に詰め寄ってきていた。

 

 

「ち、地底って所には女の鬼も大勢いるんですか?」

「大勢じゃないが…まあ、男女半々ってところかな。元締めをやってる勇儀も女だし。それがどうかしたのかい?」

「うぅ、萃香様と同格の方なら超美人に違いないよ…。やっぱりヤバイよねぇ、アヤメちゃんの言う通りかもしれない……もうそうならアイツ絶対ぶっ飛ばしてやる」

 

 

 頭を抱えて大袈裟に項垂れる鬼の少女。

 その背後では灰色の狸少女、囃子方(はやしかた)アヤメがニヤニヤと笑っている。これは化け狸から赤瑛が何か吹き込まれたのだろう。悪く言えば単純で、良く言えば純粋な鬼の少女が彼女なのだ。そうでなければ絵本になどなっていなかったはずだ。本当に騙されやすいお人好しな鬼だと、萃香は面倒くさそうに目線を反らすことにした。

 

 

「……大将、提案なんですけど十年後と言わず、今すぐ幻想郷に向かいましょう!!」

「はぁ?」

 

 

 何やら言い争いに発展しそうな二人の鬼。そんな少女たちを横目にして、ひょいっとマミゾウは灰色の娘に耳打ちする。

 

 

「アヤメ、あの赤鬼に何を吹き込んだんじゃ?」

「ちょっと現実を教えてあげただけよ、姐さん。何百年も男は一人の女を待ってくれないわよって。そしたら随分焦っちゃうんだから可愛いわね」

「本当にお前はそういう方面の話が好きじゃのう」

 

 

 三味線の音色が風となり、小太鼓は波となりて夜の静寂を打ち揺らす。ひとまず腹が膨れた狸たちが演奏を始めていた。北と南の花が咲き乱れ、あまりの美しさに渡り鳥が惚れて留まるという『花の島』という別名。淡い桃色の雪割草が花開き、白い絨毯のような野花が月の光に輝いていた。そんな中を鬼の少女たちは駆けていく。

 

 

「あと十年は遊ぶって決めてるから駄目だっ!」

「そう言わずに一日だけでいいですから、アイツの顔を見るだけですから……ねぇ、大将ぅぅ!」

「うがーッ、鬱陶しいよ!!」

 

「青春じゃのぅ」

「焚き付けたのはアタシだけど、それは違うと思うわ」

 

 

 鬼ごっこを始めた鬼の少女たち。

 走って跳んで逃げて、たまに殴り合いながら萃香と赤瑛は境内を駆け巡る。そんな二人を眺めながら頬笑むのは化け狸の二人、そして気がつくと他の狸たちも笑っていた。鬼たちの足音に合わせつつ三味線は奏でられ、太鼓は叩かれる。満月の下、大地の上にて妖怪たちの宴は更けていく。

 

 そうして今宵、珍しいお客を交えて生み出された狸囃子は広々と島中に響き渡っていくことになった。翌日、多くの島民が二ツ岩の神社を訪れることになるが、そこに残っていたのは大量の木の葉と強烈な酒の匂いだけであったという。

 

 

 

 

 

 




以下、今回の幕間についての後書きとなります。
この度はほりごたつ様の執筆されている物語である『東方狸囃子』より、主人公の囃子方アヤメさんに少しだけ登場していただきました。
赤瑛との会話でも示されたように話し上手で聞き上手、時には相手を化かして楽しんだり、そんな狸の少女です。

あちらにも刑香が登場する番外編が掲載されておりますので、ご興味のある方は是非ご覧になってくださいね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十二話:境界の夜が降りてくる

 

 

「刑香っ!?」

 

 

 突如として現れた空間の裂け目。

 目の前で白い少女が飲み込まれていくのを慧音は半ば呆然と見送った。そして不気味な目玉の浮かぶスキマは、刑香を回収すると溶けるように消えていく。後には何一つ残らず、まるで『神隠し』に会ったかのごとき光景だった。聖なる半獣は床を殴り付ける。

 

 

「っ、まだ八雲殿は眠っている時期のはずだ。どうして今年に限って目を覚まして……!」

 

 

 正直に言うなら油断していた。

 まだスキマ妖怪は眠っているはずだと自分は思い込んでいたのだ。本格的な春が訪れる前に真実を話すことで『時間』を用意する、そして刑香が事実を受け入れるための猶予を作り出すという目論みは外れてしまった。

 「どうすればいい」と慧音は考えを巡らせる。まさか世間話をするために刑香が連れ去られたわけもない。ならば追いかけるべきだ、どうやって追いかけるのか。そのための方法が思い付かない。

 

 途方に暮れるハクタク教師に対して、即座に動いたのは霊夢だった。紫と刑香、彼女たち二人と親しい少女は勢いよく机を叩いて立ち上がる。

 

 

「何してんのよっ、このまま二人を放っておくつもりなの!?」

「し、しかし今のスキマが八雲殿の邸宅に繋がっていたのなら手が出せない。あの方の住居を知っているのは本人と式殿だけだ、私たちではどうすることも」

「……私がここにいたわけだから、刑香が送られたのは紫の家ではないと思う。私がその気になればアイツの家を探せないことはないし、それをアイツは嫌がるだろうから候補にはならないわ」

 

 

 それでも鴉天狗一羽を探すには幻想郷は広すぎる。二人がかりで右往左往している間に日が昇ってしまうだろう。きっと間に合わない、そんな可能性を慧音は敢えて口にしなかった。

 

 床や天井を埋め尽くしていた文字たちが巻物の中へと戻っていく。そして中身を回収したモノから次々と慧音は『自分』の中へと送還していく、山ほどあった書物が姿を消すのに時間はかからなかった。欠けたピースをはめ込むように吸収し、ものの数秒でそれらを終えて聖なる半人は溜め息をもらした。

 ふたたび静寂が訪れた室内には、ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りだけが漂っている。そんな暗闇の中で決意を秘めた深緑の瞳が霊夢を見上げていた。

 

 

「ひとまず私は人手を集めてくるよ、事情を話せば助けてくれるヤツがいるんだ。それに文やはたてなら、事情を話せば必ず力になってくれるだろうしな」

「……私は妖気の跡を探してみるわ。やったことはないけど、何とか痕跡を繋いで紫を追いかけてみる。そっちは任せたわよ!」

 

 

 言うが早いが、どしゃ降りの外へと飛び出していく幼い巫女。よほど白い鴉天狗のことが心配なのか、もしくは八雲紫のためなのか。きっと両方なのだろう、誰だって大切な相手同士が争うなら放っておけない。それはとても純粋な感情だ。

 

 それを見届けてから雨天の下へ慧音もまた踏み出した。

 激しさを増す雨粒が降り注ぎ、重々しく服に染み込んでくる。心を落ち着かせるために、聖なる半獣は光一つない夜空を見上げて瞳を濡らした。分厚い雲に隠れ、せっかくの満月は視界に入らない。

 

 

「かつて八雲殿は幻想郷の安定のために『月面戦争』を引き起こした。あれは多くの妖怪たち、天狗たちが命を落とした戦いの元凶だ。ならば……刑香と八雲殿がこうなるのは必然だったのだろう」

 

 

 そういえばと思い、縁側に戻ってみる。

 そこにあったのは新調したばかりで傷一つない朱色の下駄、もちろん刑香のものである。部屋の中で跳ばされたので白い少女は足袋のままだった。風邪を引かせる前に合流するとしよう、その下駄を抱え込んで慧音は地面を蹴る。

 

 水溜まりで跳ね返る雨の(ささや)き、そして荒々しく吹き荒れる風をかき分けてハクタク教師は妖怪の山へと飛び立っていった。

 

 

◇◇◇

 

 

 ああ、嫌な予感ほど当たってしまうものだ。

 

 

 小さな失望を感じながら、八雲紫は自分のスキマに腰かけていた。ここは銀色の月光が空から溢れんばかりに降り注ぎ、足下で広がる雲を輝かせている空の王国。何物にも遮られずに吹き抜ける風は、スキマ妖怪の豊かな金髪をなびかせていた。だが、涼やかな大気にも賢者の憂鬱を晴らす力はない。

 

 

 ーーありがと、紫

 ーーありがとう、か。私にはあなたからその言葉を貰う資格はあるのかしらね

 

 

 あの日、宴会で天狗の少女が口にしてくれたお礼の言葉。それを自分は素直に受け取ることができなかった。思えば、あの頃から八雲紫は白桃橋刑香のことを疑っていたのだろう。

 

 あれほどの『能力』を持っていながら、つい最近まで自分にさえその存在を知られていなかった少女。天魔が見せた妙な反応、彼岸との浅からぬ因縁。それらは極めて小さな疑念なれど、妖怪の賢者を警戒させるのには十分であった。きっと出会った瞬間から、最初から自分はあの少女を疑っていたのだ。そして今宵、ハクタクの話によって疑いは確信に変わった。

 美しい蒔絵の施された黒色の扇子を広げつつ、ゆっくりと八雲紫は言葉を紡ぎ始めた。

 

 

「してやられたわ、まさかあなたが天魔の血族だったなんてね。ある程度の予測はしていたとはいえ、ここまでとは信じられなかった。この私が裏を掻かれたのは久しぶりよ」

「なるほど……慧音との会話を盗み聞きしてたわけか。あまり良い趣味とは言えないんじゃないかしら、妖怪の賢者さま?」

 

 

 返ってきたのは冷ややかな声。

 あまねく星の光が広がっては、淡い色が波立つ雲上の海原。地上では激しい雨が降り注いでいるようだが、ここでは静かな空間が広がっている。そんな幻想の世界で羽ばたいているのは、たった一人の少女だけ。

 翼は相変わらずの純白で、夏空色の瞳に宿っているのは真っ直ぐな光。数ヶ月ぶりの再会となるが、鴉天狗らしくない雰囲気に変わりはないようだ。

 

 ただ、少しだけ赤く染まった頬から流れ落ちている涙だけは以前の少女らしくなかった。それが気に食わなかったので紫はハンカチを取り出して近づいていく。ふわふわとスキマが移動して刑香の目の前へと到着する。

 

 

「妖怪がそう簡単に涙を見せるものではないわ。いつも平静を保とうと心掛けている貴女らしくもない」

「余計なお世話よ、これは無意識で……ちょっと」

「ほら、動かないで」

 

 

 言葉を遮るように刑香の顔に触れる。

 敵意はそのままにも関わらず、白い少女は抵抗しなかった。信頼してくれているのだろうか、布切れで少女の涙を拭い去っていく。知らず知らずのうちに少しだけ自分の敵意は和らいでいた。ふわりと真っ白な頬に指を伝わせる。

 

 

「……妖気の感覚からして孫娘ってところかしら。子なら容易く見破れたのだけど、さすがに二世代経ていると気づけないものね。全然似てないわよ、あなた達」

「そこは笑ってしまうくらい同感ね」

「世界というのは理不尽なものね。冬の間に調べておくように藍へ命令しておいたのだけど、こんなことなら曖昧なままにしておくべきだったかしら」

「無理でしょ、あんたの性格的にそんなことは出来ないわ」

 

 

 八雲紫と天魔との因縁は深い。

 他にも敵がいなかったわけではないが、何か行動を起こせば最後の最後にお互いが立ちはだかることを繰り返して数百年。理知的で無駄にぶつかることはなく、実力的にも渡り合うことのできる両者。良く言えば好敵手と呼べる関係だろうが、もう終わりにしなければならない。懐かしむようにスキマの賢者は語る。

 

 

「幻想郷が閉ざされると私たちの衝突は増えていった。妖怪を支える人間の数は限られ、土地も狭くなってしまったのだから当然ね。そろそろ私たちはお互いに決着をつけなければならないのよ。手を貸しなさい、刑香」

 

 

 これから大天狗が新しく選ばれたとしても、そう簡単に組織は安定しないだろう。ここを突いて動乱を起こせば、天狗たちの勢力を弱めることができるかもしれない。今回のように人里を危険にさらす可能性を減らせるだろう、それは幻想郷の未来には必要なことだ。刑香は警戒するように眼差しを鋭くする。

 

 

「山には私の友人や顔見知りが暮らしているわ。あんたが天魔様と争うのは止めないけど、アイツらを巻き込むことに協力なんて出来ない。他を当たりなさい」

「……初めて会った時にも同じようなことを言ったかしら。あなたの意思は関係ないの。悪いことは言わないから、ただ首を縦に振りなさい」

「あの時も言ったでしょう、お断りよ」

 

 

 そもそも二人の出会いは『先代の巫女を延命させるため』に、紫が刑香を探し求めたことから始まっている。しかも刑香は否応なしに、紫へと協力させられているのだ。今更考えるまでもなく、最初から自分たち二人は利用する側とされる側。歪んだ形での出合いはここに来て、決定的な亀裂を生み出そうとしていた。

 

 

「人間の里を狙っている妖怪は数知れず、その中でも一番厄介なのが天狗なのよ。ここで(くさび)を打ち込んでおかないと将来的に手遅れになるかもしれないわ。多少の犠牲も恨みも覚悟の上、あなたは黙って私に従いなさい」

 

 

 紫とて刑香と無理に対立したいわけではない。しかし一部の天狗たちが人里の支配を目論んでいる以上、それを防ぐためにも刑香の存在は無視できないのだ。最後に残った長老の血筋、ただ八雲の元にいるだけで天狗たちの組織を揺るがすことができる存在。幾らでも使い道はある。

 

 

「結局、あんたも天魔様と同じなのね。私を便利な道具としか見ていないわ」

「……そうね、端から見ればそうかもしれないわね」

 

 

 少しだけ悲しげな顔をした刑香から、ふわりと紫は距離を開ける。そして今まで発していた敵意を霧散させた。そして、何事かの言霊を呟くと手のひらに魔方陣を浮かび上がらせる。高度な術式が込められた妖怪の法、それは『式』と呼ばれるものであった。

 

 

「ならば私の家族(しき)になりなさい、白桃橋刑香。使い捨ての駒ではなく私の式神(かぞく)になるのよ。報酬というわけではないけれど、きっと八雲の名を背負うことは貴女のためになる」

 

 

 天狗の情報網は広い。いつか刑香の出自が知られる日も来るだろう、そうなれば結局のところは争いの火種になってしまう。八雲紫の式神となるのは、この少女を同族から護ることに繋がる。それに今まで以上に人里からの信頼を得ることで、霊夢の側にいることも容易になるだろう。本来なら九尾のような規格外の妖怪にしか、紫は複雑な式を施さない。そのことを考えるなら、これは破格の話であるはずだ。

 しかし、刑香は首を横に振る。

 

 

「そう、やっぱりそうなのね」

「ありがと、紫。もし嘘だったとしても家族にしてくれるっていうのは……本当に嬉しかったわ。それが例え私を利用するための手段だとしてもね」

 

 

 それは否定の言葉だった。

 妖怪の山には文やはたて、にとり達が暮らしている。友人や顔見知りを巻き込むなど、刑香が受け入れるはずがない。この天狗少女がこういう選択をするのは分かっていた、だからこそ紫は初めから落胆を感じていたのだ。もう以前のような気楽な関係には戻れないだろう、その確信があったから。

 さっさと力ずくでねじ伏せて、身体に式を打ち込んでしまおう。そう判断した紫は指先でスキマを開こうとして、

 

 

 

「ねえ、知ってたかしら。私、あんたのことけっこう好きだったのよ?」

 

 

 

 白い少女の笑みに思わず手を止める。

 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。零れそうになる言葉を押し留め、それでも緩んでしまった口元を悟られないように扇子を広げる。「この関係をもう少しだけ続けていたかった」などという、自分らしくない感情は境界線を引いて遮断した。

 主従の関係となった後も、自分たちは今まで通りにいられるだろうか。そんなことを思ってしまう程度には、自分もこの少女に惹かれている。そのことをようやく自覚した。だからこそ早く終わらせてしまおうと決意する。

 

 

「……地底では鬼の四天王に勝利したらしいわね、素直に驚いたわ。でもだからといって、あなた一人では私に勝てない。先程の提案を受け入れようが拒否しようが、あなたの辿る道筋はまったく同じなのよ」

「それはどうかしら。ここは空の上、同じ道なんて辿る方が難しい。それともアンタは私に必ず勝てると思っているの?」

 

「そんなの当たり前でしょう」

 

 

 莫大な妖気に呼応して、空全体が脈打った。

 自分たちを囲むように、次々とスキマが開かれていく。そこから射出されたのは細い鉄柱、それらがスキマとスキマを縫い合わせるように走らされる。二本ずつ平行に設置され、月光を受けて輝く鉄の橋が架けられていく。あっという間に、数十の鉄橋が設計図を辿るかのように精密さで張り巡らされていた。スキマ妖怪は告げる。

 

 

「さあ、せいぜい上手く避けなさい。これは私のお気に入りの術ではあるけど加減が出来ないの、死なれては困るから死なないようにしなさい」

 

 

 それらは外の世界で『レール』と呼ばれるものであった。カタカタと振動を始めたレール達は『何か大きなモノ』が近づいてきていることを知らせている。耳を澄ませていた刑香へと、機械音がスキマの奥から迫ってきた。身構えた鴉天狗の少女を不意に人工の光が照らし出す。

 

 

「なんでこんなものが……って、何よコレ?」

「あなたの知識だと蒸気機関止まりだろうし、この子たちの仕組みを解説するのは難しそうね。とりあえずこの技の名前を教えてあげるなら」

 

 

 古びた警笛が鳴り響き、錆びた車輪が火花を散らす。外で忘れられた文明の遺物が、一斉にスキマから姿を現した。

 

 それは一両あたり二十トンを越える重さで走る化け物のような金属の塊、

 それは現代において『列車』と呼ばれるカラクリ細工、

 それは吸血鬼異変でレミリア・スカーレットを打ち破った八雲紫の鬼札。

 

 

「ぶらり廃駅下車の旅」

 

 

 ごうごうと空を満たしていく風の音。

 心の奥底でほんの少しだけ、刑香へと期待の欠片を持っている自分がいる。そのことに紫本人も気づかぬまま、二人の戦いは始まった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「……まったく、せっかく地上まで出てきたというのに酷い天気ですね。私から誘っておいてすみません、パルスィ」

「別にいいわよ、月見のために来たわけでもないんだし。でも地上はやっぱり綺麗で妬ましいわ」

 

 

 豪雨に見舞われる妖怪の山の中腹。

 流れる泥と水で山道はぬかるみ、真っ白な幕を引いたように視界は塞がれていた。うんざりしてしまう空模様の下で、三人はのんびりと雨宿りをしていた。広く枝を伸ばした大樹の下で、身を寄せ合うのは三人の妖怪少女たち。そのうちの一人、古明地さとりは面倒くさそうに濡れた髪から透明な雨粒を払っていた。

 

 

「地底から出てきた途端にコレとは巡り合わせが悪い。せっかく『スペルカード』とやらの話し合いのために上がってきたのに、出鼻を挫かれた気分です」

「さとりは満月を楽しみにしてたっけ。まあ、私は久しぶりの地上の雨も新鮮でいいと思うけど」

「……嫉妬の妖怪である貴女は、何にでも良いところを見つけられますからね。ある意味では、あなたこそ最も前向きな妖怪なのかもしれません」

 

 

 そう言って地霊殿の主は肩を竦めた。

 わざわざ月齢を計算して来たというのに、楽しみにしていた満月は灰色の雲に隠され、代わりに迎えてくれたのは冷たい雨である。上機嫌なパルスィに対して、さとりは少しばかり憂鬱だった。

 そんな少女の鼓膜をカシャリという機械音が揺らす。何事かと視線を移してみると、さとりに携帯型のカメラが差し出される。小さな画面には溢れんばかりに巨大な月が表示されていた。

 

 

「ほら、満月を見たいんでしょ?」

「えっと、ありがとうございます……はたてさん」

「呼び捨てでいいわよ。あ、パルスィも見る?」

 

 

 そう言って笑顔を向けてきたのは姫海棠はたて。

 今回、自分たちを案内するように命令されている少女である。立場的にはそんな大役を任されることはありえないのだが、地底での功績が評価されたらしい。はたては天狗独特の高慢さがないので、さとりとしては良い案内役に当たったと思っている。

 

 そして視線を落としてみると、カメラの画面には春の満月が写し出されていた。灰色の雲を泡立たせる月光が降り注ぐ空、百年前と変わらない美しさがそこにはある。桃色髪の少女は思わず顔を綻ばせた。

 

 

「……綺麗ですね」

「そりゃそうでしょ、私が撮ってあげたんだから。けっこう人里で私の風景写真は人気なのよ。さすがに刑香には負けるけど」

 

 

 はたての持つのは『念写をする程度の能力』。

 千里眼すら越える範囲から対象を捉え、それを映像化してしまうというチカラである。戦闘ではあまり役立たないが、この幻想郷の広さ程度なら丸ごとカバーができるのだから恐ろしい。単なる情報収集であれば、はたての実力は天狗の中でも群を抜いている。口元を手で隠しながら、覚妖怪の少女はくすくすと笑う。

 

 

「ふふっ、はたてと私が組めば賢者たちの弱みすら握れるかもしれません。軽い下剋上くらいはできるでしょうね……お一つ如何ですか?」

「うーん、偉くなりたいわけじゃないし面倒くさそう。私じゃなくてパルスィと一緒にやってみたら?」

「やるわけないじゃない、というより何で私を巻き込むのよ。火遊びに興じられるほど子供じゃないわ」

 

 

 知られたくないことから優先して読み取っていく覚妖怪、いつでもどこでも隠し撮りが可能な鴉天狗。近くにいようと離れていようと秘密を暴かれるという、ある意味で最悪の組み合わせかもしれない。それに引きこもり同士なので、性格的な部分もそれなりに相性が良かったたりする。

 地底の嫌われ者どころか、幻想郷一の嫌われ者を目指せそうである。ろくでもない話題を変更するために、パルスィは写真を指差した。

 

 

「はたて、ここにある黒い点みたいなモノは何なの?」

「あー、それは鳥か妖怪だと思う。さっきの念写はそのまま今夜の月を写したから、月に重なって飛んでたヤツが入っちゃったのよ」

「へぇ、念写も万能じゃないのね」

 

 

 はたてが見せてくれた携帯写真、そこに写っていた大きな満月に黒い点のようなものが入り込んでいた。シミのように見えるモノが二つ、これでは新聞用の写真として使えない。自分が動かなくていい念写といえども、他の二羽にも負けない苦労はあるようだ。

 

 さとりは写真について話を始める少女たちへと微笑んでから、空を見上げた。

 分厚い灰色の雲がどこまでも続いている夜の空。少しずつ雲のスキマから月光が漏れ出しては、光の筋が地表へと降り注いでいた。地底に押し込められて長い月日が経ってしまったが、地上はやはり美しい。できれば、もう少し雨の音を聞いていたいと思う。しかし、

 

 

 ーー追え追えっ、これ以上は進ませるな!

 

 

 何者かが近づいてくる気配がした。

 黙ったまま、さとりはサードアイに妖力を集中させる。微かに伝わってくる血の匂いに、はたてとパルスィも気づいたらしい。お互いに頷き合ってから、三人は周囲を警戒し始める。

 しかし草むらを踏み分ける音はせず、木々を揺らすような音もない。ならば地上を移動しているわけではない、三つの視線が頭上へと向けられる。

 

 何かがぶつかったような衝撃と、「あだっ!?」と蛙が潰されたような悲鳴が樹の上から聴こえてきたのは、その瞬間だった。

 

 

「ーーーーっ、うがぁぁっ!!?」

 

 

 バキバキと枝をへし折って二本の角を生やした女性が落ちてきた。橋姫がさとりを庇うようにして前に出ると、はたてが更に二人を護るように翼を広げる。腰に差した妖刀に指を絡ませ、一本歯下駄でぬかるんだ地面を踏みしめる。いつでも斬りかかれる体勢で、ツインテールの鴉天狗は相手の出方を伺っていた。しかし、よろめいて立ち上がるその姿を見て少女は驚いたように声を漏らす。

 

 

「あんた、寺子屋の教師じゃない。こんなところで何やってんのよ?」

「っ、ちょうど良かった。お前と射命丸のヤツを、探していたんだ。助けて、くれ」

「ちょ、どうしたのよっ、その傷は………慧音!?」

 

 

 深緑のワンピースを真っ赤に染めて、右足を引きずった慧音がそこにいた。見るからにボロボロで大きく消耗している、いつも寺子屋で教鞭を振るう彼女からは想像できない姿だった。「知り合いですか?」と尋ねてくる覚妖怪には答えずに、はたては倒れそうな慧音に走り寄る。そしてハクタクの肩を支えつつ、その背後にいた者たちに叫んだ。

 

 

「コイツは人里の守護者よ、手を出すことは禁じられているはずよね。それなのに何してんのよ、椛!!」

「……侵入者です。我々の制止を振り切ってまで、山に踏み入ったのだから同情の余地はありません。掟通りなら斬り捨てても問題はないでしょう。その者をこちらに渡してください、はたて様」

 

 

 白い天狗たちが雨の中に立ち並んでいた。

 同じ色でも刑香のような儚さはなく、あるのは牙の輝きに似た鋭い白銀の毛並み。そして鮮血のように赤い眼光は、闇を射抜いて三人の少女に突き刺さっていた。彼女らの名は『白狼天狗』、はたて達のような鴉天狗の支配下にいる荒事専門の天狗たちである。その一人、犬走椛は妖刀を構えたまま慧音を睨んでいた。

 ハクタクは荒い息で言葉を絞り出す。

 

 

「すまん……助けてくれ」

「た、助けてくれなんて言われても、アンタが無断侵入してきたのが理由ならどうしようもないじゃない」

「私のことじゃない。刑香を、だ」

「何を言って……ちょっと待って、それって刑香の一本歯下駄よね」

 

 

 慧音が大事そうに抱えていたのは、見覚えのある一本歯下駄だった。紅魔館や地底での戦いで割れてしまい、その代わりに自分が送った新品のモノだ。何でそれを寺子屋教師が持っているのか、いやそれより刑香に何があったというのか。はたては脱力している慧音に問いかけようとする。

 

 

「ああ、なるほど。白桃橋刑香がスキマ妖怪に拐われたのですか。一刻を争うからこそ、白狼たちの警備を強行突破して来た。……なかなか無茶をしますね、その覚悟自体は好ましいものですが」

「……刑香様が?」

 

 

 その言葉を遮ったのは、さとりだった。

 片方の目は閉じられて、サードアイから底無しの光が覗いている。既に心を読んでいるらしく、状況の把握が早い。そして、さとりに気づいた白狼たちの眼光が鋭さを増していた。妖怪の山はかつて古明地姉妹が暮らした場所であり、彼女たちの『能力』についての情報が最も残っているのだ。椛が一人でさとりの傍へと歩み寄る。

 

 

「古明地さとり、その話は本当なのか?」

「ええ、彼女の記憶が間違っていないのなら真実でしょう。ただし私が正しく伝えていたのなら、ですがね。信じるのかは自由ですよ、犬走椛」

「……くっ、この天邪鬼め。これだから覚妖怪は信用できないんだ」

 

「どうしたんですか、犬走隊長?」

「隊長?」

 

 

 やはり面倒なことになった。

 さとりが心配していたことは現実のモノになってしまったようだ。あの娘は妖怪としての強さはそこそこでも、血筋は火種そのものだ。本来なら、全くもって関わり合いになりたくない相手である。

 しかし刑香には自分とて用がある。それに間接的とはいえ、こいしが地底に帰ってくる切っ掛けを作ってくれた恩がある相手なのだ。ならば、やることは一つだろう。

 

 

「や、ヤバイじゃないのよっ。刑香のヤツを探して……いやそれより文に連絡しないと!?」

「落ち着きなさいよ、はたて!」

「お前たち、至急本部に伝令を走らせろっ。いや私が天魔様のお屋敷に行くべきか……しかし白狼の身では」

 

 

 やれやれと溜め息をついてから、古明地さとりは周囲の妖怪たちへとサードアイを向けることにした。ほどほどに心を抉って、まずはこの場の収拾をつけるとしよう。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十三話:神隠しの境界線

 

 

 波立つ雲を白い翼が駆け抜ける。

 夜空を往く風を読み、刑香は一息に限界速度まで加速していく。自分と紫との間に横たわっているのは月明かりに満ちた雲海だけではない。彼我の差は絶対的で、白桃橋刑香が八雲紫に勝てる可能性など極わずか。それを誰よりも理解しているからこそ初めから全力を尽くす。

 

 蜘蛛の巣のごとく張り巡らされるのは銀の路、その両端には洞窟のように暗闇を抱くスキマ。それらを渡りて鋼鉄のカラクリ達が轟き吼える。

 すでに始まりの警笛は吹き鳴らされた、あまり考えを纏めている余裕は無さそうだ。まずは小手調べに錆だらけの列車が走り来る。大気の乱れを感じ取り、刑香はそのまま本能に従って身体を横へ滑らせた。

 

 

「ーーーこの程度の速度なら、当たらないわ」

 

 

 思ったより回避は容易かった。金属のレールを打つ衝撃が空気にヒビを入れ、風を切り裂きながら車両がすれ違っていく。重々しい車輪から想像するに、一撃でも喰らえば致命傷になり得るだろう。そんな予感が頭を過ぎるが、それでも当たらなければ意味はない。

 スキマから光が見えて二秒、列車に距離を詰められるまでに三秒。他の妖怪ならともかく、これだけあれば避けることは可能だ。頭を下げ、空気抵抗を抑えて前へ前へと白い双翼は躍り出る。

 

 

「幻想郷最速の種族を舐めるんじゃないわよ、紫!」

 

 

 向かう先は銀色に輝く賢者の城。

 幾重にも入り組んだ廃線に囲まれた中心部、その場所を空色の眼差しは鋭く見据えて飛ぶ。大気の悲鳴が聴こえる、女王には近づけさせまいと列車たちが行く手を阻む、その全てを白い翼は流麗な軌道で飛び越えていく。

 

 出来れば戦いたくはない。しかし逃げると分かっている相手を逃がすほど、八雲紫は甘くない。それを理解しているからこそ、逃亡は刑香の選択肢には入らなかった。最後に突撃してきたのは「急行」と文字が書かれた列車、その屋根を踏みつけて一気に八雲紫の眼前へと白い少女は跳んだ。

 

 

「とりあえず先手は貰うわよ!」

「先手も何も、私はあなたと近接戦をするつもりはないの」

 

 

 渾身の力を込めた錫杖が空を切る。

 髪先を掠めるようなタイミングで、紫は腰掛けていたスキマへと沈み込んだ。逃がすまいとする刑香をあざ笑うように、そのまま金色の髪が不気味な空間に溶けるように消えていく。

 

 

「ーーラプラスの魔」

 

 

 同時に、頭上から熱線が飛来した。

 青空と夕焼けを足し合わせたような紫色をしたソレは、嫌というほど妖力を収束された流星の弾丸。まともな回避は間に合わないと判断した刑香は翼を折りたたみ、その光と光の隙間に身体をねじ込んだ。

 肌を舐めるような距離を灼熱が通り過ぎる。『能力』が発動したのを感じつつ、刑香は重い身体を引きずって再び翼で上昇をかけた。今のは危なかったと、刑香は焼かれた装束の袖を冷静に破り捨てる。

 

 

「距離は詰められないし、姿を眩ませて射撃されるし……やりにくい。賢者様の戦い方はこんなに嫌らしいものなのかしら」

 

 

 絶対的な力で正面から叩き潰してくる星熊勇儀やフランドールとは真逆。八雲紫は徹底してこちらを絡め取り、理論的に追い詰めてくる。それが刑香にはやり辛い。これでは『死を遠ざける程度の能力』を活かした、一撃離脱やカウンターといった戦法が取れないのだ。明らかに対策を講じられてしまっている。

 それでも空で負けるわけにはいかない。刑香は尚も続く攻撃を紙一重で避けつつ紫を探す。最速を誇る鴉天狗たちの中でも上位に入る速力、それこそが刑香の数少ない誇りなのだ。この程度で墜とされてなるものかと、葉団扇に白い指を絡ませて妖力を注ぎ込む。

 

 

「……っ、思ったよりキツイわね。これは」

 

 

 口元からは真っ赤な血が溢れていた。

 地底で内臓に受けた傷が傷んできているらしい。にとりから指摘された通り、外見は何ともなくても中身はまだ完治には程遠い。少しずつ底無し沼に沈んでいくような疲労感が全身を包んでいくのを精神力で払い除ける。

 

 休んではいられない、もう既に追撃の熱線が上空で輝いているのだ。じんわりと生命力を帯びた熱を伝えてくる錫杖を握りしめて、せいぜい立ち向かうとしよう。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 さめざめと夜の空が泣いている。

 せっかくの満月だというのに空には叢雲が立ち込めて、地上には月光の代わりに雨が降り注いでいた。激しい雨音は湖の畔に立つ紅魔館、スカーレット姉妹の居城を打ち鳴らす。

 吸血鬼には流水を渡れない弱点があるため、自分の主人たちはさぞや機嫌を悪くしていることだろう。大量の水が屋根から流れ落ちていく様子を眺めつつ、門ではなく軒先で雨宿りしている美鈴はそんなことを考えていた。

 

 

「雨、車軸の如しとは良く言ったもの。本当に雨足から車輪の(いなな)きが聴こえてきそうですねぇ。まあ、別の音も鼓膜を揺らしているわけですが……」

 

 

 この雨の中でもはっきりと聞こえてくる轟音。

 大図書館の方から、まるで落雷が連続で突き刺さっているかのような衝撃が伝わってきている。もう小一時間程になる、まだ遊んでいるのだろうか。「私は止めましたからね」と内心で呟いて、紅魔の門番はのんびりと腕を組んで空からの侵入者を見張る作業を再開した。

 

 

 

 

 

「きゃはははははっ、キュッとして―――!」

「あはははっ、当たらないもん!」

 

 

 魔法図書館を揺るがす二人の妖怪少女。

 ここには貴重なグリモワールから一般的な書籍まで、洋の東西を問わずに先代当主が収集した本たちが貯蔵されている。それは失われた禁書や焚書も含まれ、世の魔法使いたちが千年をかけて求めるモノまで存在する。ここは西方の名門、スカーレット家の誇る知識の泉なのだ。

 いつもはパチュリーと小悪魔が静かに過ごしている場所なのだが、どうやら今夜は違うらしい。

 

 

「ドカーンッ!!」

 

 

 フランドールが拳を握りしめるたびに本棚は爆散し、こいしは笑いながら破片を掻い潜る。そんな戦いがもう一時間は続いていた。

 空間に染み渡るのは、燃え盛るような『狂気』と凍りつくような『狂気』。満月の魔力にあてられた吸血鬼と、そんな少女に影響された覚妖怪がお互いを灰にせんと暴れまわる。『破壊』と『無意識』が純粋さを持って、お互いの存在を削り合っているのだから恐ろしいものだ。

 パチュリーはそう他人事のように考えていた。

 

 

「このままだと図書館に大穴が空きそうだわ、そうなれば先代から受け継いできた知識の泉が干上がってしまうかも。そろそろ二人に制裁を入れてくれないかしら、当主様?」

「どうせ本棚や書物には再生魔法をかけてあるんだからいいじゃない。一つ二つ穴が空いた程度で干上がる泉ではないでしょう。放っておきなさい、パチェ」

 

 

 魔法陣が描かれた円卓に着きながらパチュリー・ノーリッジは目の前の惨状からひたすらに目を逸らしていた。吸血鬼異変の時もそうだったが、どうして自分の領域がこうも荒らされるのか理解できない。空中で暴れ回る二人を視界に入れないようにしながら、大図書館の主は深い溜め息をついていた。

 

 

「はぁ……引きこもりがちな妹を運動させたいなら、ピクニックにでも連れて行きなさいよ。わざわざ満月の夜に友人と潰し合いをさせるなんて野蛮すぎるわ」

「いや、吸血鬼にピクニックを勧めるのはどうなのよ。それこそ野蛮で残酷な提案だわ」

「レミィは日傘一つで日光を防ぐじゃないの、ドラキュラの弱点無視じゃない。……そんなことより本当に止めないと一方が死ぬわよ、アレ」

 

「フランッ、今度は私からいくよ〜!」

 

 

 ハート型の妖力弾がフランを狙って打ち出される。

 初めの数発こそ避けたものの、残りをまともに受けて吸血鬼の少女が燃え上がった。手足をバタつかせて炎を払い落とすフランドールだが、明らかにダメージを受けて動きが鈍くなっている。

 

 吸血鬼を真正面から消し炭にできる火力、あんなものを覚妖怪が持つはずがない。心を読んでトラウマを刺激することこそが彼女らの本領であって、純粋な力比べは不得手なはずだ。しかし古明地こいしだけは違うとパチュリーはこの光景から推測する。

 

 

「哀れなものね。サードアイを使わないからこそ、その『余剰』の妖力を攻撃に回せる。それであのフランと互角に戦えるのは驚きだけど、妖怪としての本質が壊れているわ」

「くくっ、壊すのならフランの専売特許ね。地底で暴れた時とは違って、今夜みたいな満月の下だとまだまだお転婆なんだもの。妹同士、良い友達になれたみたいで嬉しいわ」

 

 

 にんまりと笑っている吸血鬼の姉。

 アンティークの椅子に腰掛けて、レミリアは楽しげに妹の姿を眺めていた。テーブルの周りには結界が張り巡らせてあり、ここだけは被害が及ばないようになっている。それがコロッセオの観客席にでも座っている気分になり落ち着かない、パチュリーは複雑な表情でレミリアに視線を送っていた。真紅の瞳が歪む。

 

 

「大丈夫よ、パチェ。あの二人の戦いは激しく不毛なの。一方は認識できないが故に攻撃が当たらず、一方は不死身を滅する手立てがない。本気を出すならともかく、今の二人なら決着は付かないわ」

「……貴女がそう言うなら、そういうことにしておきましょうか。別に心配なんてしていないけど」

 

 

 そうしている間にもフランドールは炎剣でハートの弾幕を焼き払っていた。また幾つかの弾が当たっているが、吸血鬼の再生力なら問題はないだろう。残酷なほどに無邪気な笑みで、友人を焼き尽くそうと飛び回っている悪魔の妹。こいしが来てくれて本当に助かったとパチュリーは思う、あの状態のフランドールを相手にせずに済んだ。このまま夜明けまで暴れていてくれれば、ありがたい。

 

 

「……レミィ、もう一つの戦いはどうするの?」

 

 

 その言葉に青みがかった銀髪が揺れる。しばらくの間をおいてからレミリアは答えた。

 

 

「言ったでしょう、これ以上は関わらない」

「死ぬわよ、あの白い妖怪」

「死なないさ、そんな運命はどこにもない」

「そうね、私にも何一つ見えないわ」

 

 

 二人の間に置かれているのは水晶玉と砂時計。

 水晶玉には何も映っていない、ひたすらに光のノイズを吐き出すだけである。いくら覗いても無機質な透明さを伝えてくるばかりだ。そこには先程まで寺子屋の様子が映し出されていたのだが、白い少女がスキマに呑み込まれてからは映像が途切れてしまった。コツンと、パチュリーは役立たずなクリスタルを指先で弾く。

 

 

「残念ながら、私でもあの鴉天狗が連れていかれた場所は探せない。貴女に言われた通りにこの数日間、ずっと監視していたんだけどね。あんな風に急な奇襲をかけられたんじゃ、お手上げよ」

 

 

 大魔法使いの声色は冷めきっていた。

 パチュリーとしては、白い少女がどうなろうと興味はない。あくまで刑香に拘っているのはフランと美鈴、そしてレミリアだけなのだ。二度だけ顔を合わせたことはあるが、それだけの相手にいちいち情を持つような甘さはパチュリーにはない。そんな少女に対して、吸血鬼の少女は口を尖らせる。

 

 

「……スキマの判断は見事だったわ。こんな雨じゃ私とフランは思うように動けないし、天狗たちの索敵能力も半減してしまうもの。急に動いたんじゃない、アイツは初めから計画していたのよ」

 

 

 降り注ぐ雨は吸血鬼の姉妹を封じ込め、白狼天狗の鼻を潰し、鴉天狗の視界さえ大きく削っている。今夜だけは、あの娘に手を貸してくれる可能性のある者たちが尽く力を発揮できないのだ。今宵だけは戦いに邪魔が入る可能性は極めて低くなる。八雲紫の判断は恐ろしいほどに冷静で、驚くほどに思い切ったものだった。苦々しそうな表情を隠しもしないレミリアに対して、パチュリーは涼しげに言葉を紡いでいく。

 

 

「手を貸したくて仕方がない、今の貴女はそんな顔をしているわよ。随分とご執心なことね。それなのにどうして、貴女は手をこまねいているのかしら?」

「言ったでしょ、私とアイツらは出会って半年程度しか経っていないのよ。部外者がこれ以上、刑香や天魔の運命に関与するべきじゃないわ」

「それはそれは、ずいぶんと古典的で模範的な解答ね。まるで、あらかじめ準備されていたように完璧な響きだわ」

 

 

 天魔との会談において、確かにレミリアは「たかが半年そこらの付き合いの自分が関わるべきではない」と告げていた。それ自体は至極まともで、礼節に則ったものだろう。しかし紅魔の当主らしくない言葉であった、この少女はもっと自分勝手な存在のはずだ。

 パチュリーはそっと円卓に置かれた砂時計をひっくり返す。

 

 

「そういえば貴女はこの幻想郷に来る前に一回、そして地底の件で二回、大きく運命の流れを組み変えていたわよね」

「……何よ、もう気づいたの?」

「当たり前でしょう、何百年一緒にいたと思っているのよ」

 

 

 サラサラと砂時計から音がする。

 上部に溜まった紅い砂が零れ落ち、少しずつ底へと積って小さな山を形作っていく。親友が嘘をついていることに、初めからパチュリーは気づいていた。天魔との会談ではああ言ったものの、本心ではこの状況を引っ掻き回したいに決まっているのだ。ならば、どうして動かないのか。その答えも既に出ていた。

 

 

「……もう余力がないんでしょ。運命干渉なんて、並の魔法使いなら一発で廃人になるレベルの荒事よ。それを何度も繰り返していたら、いくら吸血鬼でも平気でいられるわけがないわ」

「あら、そうでもないわよ。あと一ヶ月もあれば完全に回復できたし……でも、やっぱりスキマには先手を打たれてしまったわ」

 

 

 そうして落ち着かないのか、レミリアは小さな足をぶらつかせる。悔しそうな様子と相まって、まるで幼い子供のようだ。西方で恐れられた吸血鬼とは思えない仕草にパチュリーは人知れず微笑んでいた。

 そのまま二人で沈黙していると、紅い砂時計は動きを終わらせる。上部は何もなく空っぽで、下部には紅い欠片の集まった山が出来ていた。今のレミリアのようであると、それを眺めつつ魔法使いの少女は口を開く。

 

 

「ねえ、ワガママで欲張りな夜の王。確かに現状の貴女は蚊帳の外、どうあってもプレイヤーにはなれないわ」

 

 

 数百年の親友へ、知識の魔法使いは語りかける。

 

 

「でも貴女の築き上げた運命の流れは確かにここにある。たまには自ら操るのではなく、流れに身を任せてみなさい。七曜の魔女からのありがたいアドバイスよ」

「……そんなの、わかってるわよ」

「でも忘れかけていたでしょ?」

「ふんっ」

 

 

 それっきりテーブルに顔を伏せてレミリアは黙り込んでしまった。ナイトキャップに似た帽子と銀色の髪がテーブルを擦っている。そんな久しく見せる可愛らしい姿に癒されながら、パチュリーは手元に水晶玉を引き寄せた。そして短い呪文を唱えると、湖面に波が立つごとく透明な世界に色が宿っていく。

 

 そこに映し出されたのはもう一人の覚妖怪、古明地さとり。白狼天狗たちを取りまとめ、山を登っている少女の姿だった。そして紅白の巫女が妖怪の山へ飛んでいく様子や、茶髪の鴉天狗が黒髪の鴉天狗と合流する映像も浮かび上がっている。

 

 

「まあ、こうして眺めるくらいは良いんじゃない? あの鴉天狗のために少なくない人数が動いているみたいだし、彼女たちの活躍を観戦するとしましょう」

「……映像をこっちにも回しなさい」

 

 

 テーブルから頭を上げて、レミリアは水晶玉を覗き込む。手は貸せない、しかし見守るくらいはしてやろうと二人の西方妖怪は事の成り行きを見つめていた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「そろそろ諦めてくれると助かるのだけど、そうもいかないようね。諦めの悪いところは祖父譲りなのかしら?」

 

 

 夜風に波立つ豊かな金髪をかき上げる。

 紫は少しだけ刑香より星に遠い高度、つまりその下に浮遊していた。空中での戦いにおいては相手より高空にいた方が有利になるとも言われているが、それは八雲紫にだけは当てはまらない。スキマを使えば相手との上下など、いつでも逆転させられるのだ。

 

 

「……張り巡らせた路線で飛行区域を制限し、威力を弱めた光線で上下左右から対象を包み込むように焼き払う。それでさっさと『能力』の余剰を削り落とせると思っていたのだけど、これは」

 

 

 頭上を旋回する白い少女を見上げながら、膨大な妖力をスキマへと集め、ほどほどに収束させてから撃ち出していく。青白い尾を引いて、それらは一射一射が流星のように降り注ぐ。例え翼を持つ妖怪であろうと、これを何度も躱すのは非常に困難だ。

 そのはずなのにーー。

 

 

「でりゃぁぁぁあああっ!!」

「この私が見くびっていた、ということかしら?」

 

 

 その白い装束を血に染めながら、こちらに急降下を仕掛けてくる少女。その姿を視界に収めて八雲紫は静かに瞳を細めていく。

 

 紫には二つほど誤算があった。

 一つは『死を遠ざける程度の能力』が思ったより強力なチカラであったこと。先代巫女を治療した時から、あの能力は『死』そのものに干渉することで延命効果を得るものだと考えていた。だが今ここに至って、その推測が不十分であったと確信させられる。

 

 

「死への干渉だけではない。それだけなら私の攻撃をここまで(かわ)せる理由になり得ない、ならば『死を遠ざける程度の能力』を構成する要素は最低でもまだ一つある」

 

 

 脳裏に浮かんだのは、前回の異変にて打倒した真紅の吸血鬼の姿。

 彼女はとても面倒な相手だった。正しき怪物としての身体機能、人ならざる思考速度、そして何よりも『運命を操る程度の能力』。結果的には勝利できたものの、もう一度戦いたい相手ではない。自分の望んだ運命を引き寄せるチカラは、それ程までに強力なものであったのだ。

 

 妖力のレーザーが刑香を迎え撃つ。

 緻密に計算された配置に抜けられる隙間など無いはずである。しかし白い少女は幾重もの光条を掻い潜る、わずかな誤差で生じた弾幕の綻びを正確に突いてきているのだ。一度なら説明できるが、それを何度も繰り返されるのはいくらなんでも異常だった。計算式にノイズが紛れ込んでいる。

 

 

「でもそのお陰で気づけたわ、あなたの能力はレミリアと似たようなモノが混ざっている」

 

 

 死という概念を遠ざけると同時に、そこに至る可能性にも干渉するチカラ。死の未来に向かう選択肢を潰し、その人物の世界を改変する限定的な『運命干渉』。それこそが『死を遠ざける程度の能力』に秘められた真価なのだろう。それなら能力を使用した後に刑香が大きく消耗することにも頷ける。世界や運命に干渉するなど、神か神に類する存在以外が行って良いことではない。

 

 

「まあ、私が言えたことではないのだけれどね。この幻想的とて小さな世界なのだから……そう、小さな小さな私の水族館」

 

 

 あと少しで刑香の攻撃が届くタイミング。

 そこで再び紫は身体をスキマに沈み込ませ、次の瞬間には別の場所に移動する。また両者の距離は広がってしまった。これで何回目だろうか、それでも白い少女に諦めた様子はない。震える手で葉団扇を構えている。

 

 

「っ……、『風神一閃』!!」

 

 

 風の塊が雲海に叩きつけられ、真っ白な竜巻が発生する。雲を巻き上げて、こちらの視界を塞ごうとしたのだろう。しかしーー。

 

 

「それも無駄よ、刑香」

「ーーーーっ、ぁっ!?」

 

 

 別の方向から灼熱が刑香の脇腹を通り過ぎていった。

 声にならない悲鳴を漏らし、血が蒸発する匂いを帯びて鴉天狗の少女が落下していく。『能力』が発動しなかったということは致命傷ではないだろう、しかし軽い傷でもなさそうだ。そのまま白い少女はレールの上にその身を叩きつけられた。

 流れ出る血で金属製の線路が鮮やかな赤に染まる。ここに来て、紫はようやく砲撃を停止させた。

 

 

「参った、わね。視界は……封じたはず、なんだけど、どうし……て」

 

 

 息も絶え絶えに問いかける刑香。

 とっくに限界だったのだろう。手足は脱力し、立ち上がることさえ危ういように思えた。何となくスキマの賢者は投げかけられた問いに答えてやることにする。

 自分も線路に降り立ち、そして人の頭部ほどもありそうな大きさの目玉をスキマから転がり出した。

 

 

「ラプラスの魔、それは因果律の終着点と呼ばれるもの。物理学の世界においては『全てを知る者』とも言われる存在よ。これはそこまで大仰なモノではない式神もどきだけどね、さっき雲の中に潜めておいたの」

「私が雲を巻き上げるのも、想定済みだったわけか。さすがに、腹立たしいかも、ね……」

 

 

 これはスキマに浮かんでいる目玉の一部。刑香が雲の中に逃げることを予測して、巨大な眼球を落としておいた。視界を大幅に広げることで、相手の死角を突くことを可能にする。戦闘だけではなく幻想郷中を見張る際にも利用している術式の一つ、そのため『全てを知る者』というのも大仰な名前ではない。

 ちなみに寺子屋を盗み見していたのもコレである。

 

 

「もうその傷では逃げ続けられないでしょう。おとなしく投降しなさいな」

「うるさいわね、逃げるつもりはない、わよ。どうせ逃げられるようには……してない、んでしょ?」

「もちろんよ、この一帯には何重にも結界を張ってあるわ。あなた程度では解くのは無理ね」

「やっぱり、逃げなかった私の判断は正し、かったわけか……くぅ」

 

 

 カシャリと線路の上に刑香は立ち上がる。

 やはり地底で受けた傷が完治していないらしい。勇儀に殴り潰された臓器の一部がまた傷ついてしまったのだろう。流れ出る血と共に、少女から妖力が急速に失われていく気配を感じた。傷口を抑えながら刑香は呼吸だけでも整える。

 

 

「っ、正直なところ参ったわ。勇儀様よりはマシかと思っていたのに、いざ戦ってみたら大差ないじゃない。鬼の四天王と互角とか本当に何の妖怪なのよ、アンタは」

「一応、スキマ妖怪ってことにはしているけど……。何の妖怪だったのか、そうでなかったのかは忘れてしまいましたわ」

 

 

 腕力は鬼に及ぶべくもなく、速度は鴉天狗に劣り、妖力とて幻想郷随一というわけではない。だが幻想郷の大賢者、八雲紫の実力はそういったモノでは計れない。

 恐ろしいほど緻密に計算され、組み立てられ、実行される幾多の戦術は

 

 粘ついた蜘蛛の巣に似て、

 頑強な檻のごとくに、

 出口のない迷宮のように、

 

 決して相手を逃さない。

 だからこそ鬼の四天王と同格かそれ以上、単なる力や速力を超えた何かであらゆる他の存在を圧倒する。血に染まった足袋でレールを踏みしめて、何とか身体を支える刑香に向けて八雲紫は告げる。

 

 

「もう終わりにしましょうか、刑香」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十四話:ロストファンタジア

 

 

 夕暮れの光に浮かぶ桜と月が揺らめく。

 (ほの)かな月光に彩られた花吹雪は妖しげに、沈みゆく太陽の残り香に浸りながら燃えていた。そうして紫紺(しこん)に染まる空が妖怪の山を深く深く、夕闇の底へと導いていく。これより始まるのは妖怪の時間である。賑やかな昼は地平線を通り過ぎ、静かな夜がやってくる夕の刻。

 

 ーーーこれより語られるのは二つの世界が混じり合う、あったかもしれない世界の一幕。それは薄く隔たれた『境界』を越えた先、一片の夢幻(ゆめまぼろし)が紛れ込んだ偽りの物語となるのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 その日、天狗の里の中心にある天魔の屋敷に一つの影が降り立っていた。手を伸ばせば指先が届いてしまいそうな雲が浮かび、桜の花びらが視界に舞う庭園。足下から立ち込める淡い草木の匂いが鼻先を掠めていくのも心地よい。

 

 

「葉桜も良いものだけれど、やはり花は咲いている姿こそ愛でるもの。散る姿もまた美しいとはいえ、桜が終わる時期は毎年のことながら物寂しいものねぇ」

 

 

 そう言って、八雲紫は満開の桜を見上げていた。

 地面に敷かれているのは花の絨毯(じゅうたん)、所々に混じっている素朴な草木もまた花を咲かせている。久しぶりに足を踏み入れたのだが、相変わらず趣味の良い庭園である。春の野山を思わせるような空気を舌の上で転がしながら、スキマ妖怪は微笑んだ。

 そして影法師が一つ、自分へと伸びていたことに気づいて口を開く。

 

 

「あら、いらしていたのですか?」

 

 

 後ろを取られたのは久しぶりだ。その事実に少なからず驚いて、しかしそれを悟らせないよう優雅に振り向いた。風に持ち上げられて金髪がふわりとなびき、それを見届けてから声の主は深々と頭を下げる。

 

 

「お久しぶりです、八雲殿」

「ええ、久しいですわね」

 

 

 そこにいたのは若々しい鴉天狗の男。どこかで見た深紫の羽織を装束の上から重ね、浮かべている表情からは穏やかな雰囲気が漂っていた。そして頭を上げてから自分を見つめてくるのは夏空を思わせる碧眼だった。扇子で口元を隠しながら、紫はにこやかに男へと向かい合う。

 

 

「久しいですわね、お変わりないようで安心しましたわ。いえ貴方が『お役目』を継いで千年の節目ですし、お世辞でもますますご立派になられたと言うべきかしら?」

 

 

 西に傾いた太陽に『黄金』が混じり合う。

 夕日を背にした鴉天狗の背中から生えているのは、眩い金色(こんじき)の双翼。恐ろしいくらいに神々しく、人妖を問わずに惹きつける輝きを秘めた色であった。その光に思わず目を細めた紫に気を使ったのか、男は少しばかり身体をずらす。

 

 

「父上に比べればまだまだ若輩者、どちらでも貴女のお好きになさってください。元より同じ『賢者』とはいえ、八雲殿と同格でいるなどと自惚れてはおりませぬ」

「うふふ、相変わらず天狗らしくない謙虚さですわね。そういう姿勢は好ましく思います、本当に貴方のお父上とは大違い。ええ、本当に」

「くくっ、父上は貴女と競うのが生き甲斐のようなモノなのです。これからも程々に相手をしてやってくだされば私も助かります」

 

 

 溢れるのは影のない快活な笑み、そこにはカラスというよりは雀や鳩のような愛嬌がある。からかうと面白い反応を見せてくれるし、時には冗談にも乗ってくる。それでいて、この男は九尾である八雲藍すら凌ぐ妖力を秘めているのだ。桜の舞い散る中、そんな相手と何でもない言葉を交わしているのだから平和なものだと紫は思う。

 さて、今日ここを訪れた理由を果たすとしよう。

 

 

 

「在位千年、(つつし)んでお(よろこ)び申し上げますわ。天魔殿」

 

 

 

 この男の名は『天魔』という。

 この妖怪の山を本拠とする天狗たちの長老にして、幻想郷にて賢者の一人に数えられる大妖怪。それでも驕ることなく、河童や他の妖怪たちにも敬意を込めて接するという珍しい天狗でもあった。誰を貶めることもなく、何を蔑むこともない、その在り方は好ましく、紫としても友人である幽々子の次の次くらいには信頼している相手だ。

 

 

「天魔殿、新しい風と古い風を調和させた貴方の手腕には感謝しております。だからこそ幻想郷は千年もの間、大きな戦いは何一つ起こらなかった。なればこそ八雲として、貴方の節目を心からお祝い致しましょう」

「紫様からそんな言葉を受け取れるとは……今宵は雨でも降りそうだ。くくっ、急いで屋敷の雨戸を閉めさせねばなりますまい」

「……こういう皮肉はアイツそっくりよねぇ」

 

 

 今夜は大規模な宴が催される。

 この天狗が『天魔』の号を継いでからちょうど千年の記念すべき日、その式典に紫を含めた幻想郷の有力者たちが招待されているのだ。こちらへどうぞと、天魔は夕日色に燃える庭を横切って屋敷へと紫を案内していく。

 一本歯下駄が乾いた音を鳴らし、地面に落ちていた花弁たちが宙に巻き上げられた。夕焼け空は春の欠片を透けるように照らし出し、まるで火の粉を見ているように桜の花が輝き出す。わざわざ歩きながら天魔は風を操ってくれているらしい。客人を楽しませるために、風と花で彩られた庭園は彼を含めて風流なものである。

 

 そして屋敷まで辿り着いた二人を出迎えたのは、黒い翼の老天狗だった。

 

 

「ーーー来たか、八雲よ」

 

 

 紫にとっての宿敵にして好敵手、もう千年以上も争い続けてきた因縁深い存在がそこにいた。猛禽のごとき鋭い眼光はそのままに、だがその肩にいつも掛けていた深い紫色の羽織はなくなっている。だからだろうか、その姿は少し痩せたように見えた。

 

 

「あら、迦楼羅じゃない。後継者が立派に育ってたから忘れていたわ、まだ生きてたのね?」

「ようやっと倅が一人前になりおったのでな。この身は晴れて楽隠居、ここからが楽しい天狗生の始まりじゃわい。まだまだ狐めが未熟な貴様はうらやましかろうて」

 

「……父上、それは藍殿に失礼でしょう。彼女はいずれ八雲の名を継ぐ一流の式神です」

「真実であろう息子よ。そこのスキマ妖怪が未だに現役でいるのがその証拠であるぞ」

 

 

 先代天魔、迦楼羅(かるら)はカラカラと笑っていた。

 仏法の守り神でありながら、妖怪である天狗の長として組織を纏め上げていた元賢者。千年前に『天魔』の号を息子に譲り渡してからは、もっぱら若鳥たちを育てるのに精を出しているらしい。

 ここ百年ばかりは表舞台に出ることもなく、最後に八雲紫と直接争ったのは二百年前の昔話になっていた。彼の特徴であった紫の羽織も現在は息子に譲られて、天魔の証として双肩で揺らめいていた。

 それに少しだけ寂しさを感じないこともない。

 

 

「……私もそろそろ藍に全部押し付けてやろうかしらね。そして一日中布団で寝転がりながらスキマで幻想郷を見守るのは素敵かもしれないわね。まあ、まだ私の手でやることがあるのだけれど」

「ほう、何を企んでおる。天狗に関わらぬことならワシにも話してみるが良いぞ、暇つぶし程度に手伝ってやらんこともない」

「なら昔みたいに一つ悪巧みといきましょうか?」

 

 

 賢者と元賢者は怪しげに視線を交わす。

 どうやら物足りなさを感じていたのはお互い様であるらしい。宿敵ではなく好敵手として、自分たちはまだ在り続けていけそうだ。

 そして妙な展開になったものだと若き天魔だけが困惑した表情を見せていた。悪巧みを始めた二人へ下手に口を挟むわけにもいかず立ち尽くすしかない。そんな不穏な空間へと軽やかな歯下駄の音が近づいてくる。

 

 

「こんなところで何してんのよ、お父様」

 

「残念ながら私にも分からないんだよ」

「嫌ですわ天魔殿、愉快なピクニックの打ち合わせではないですか」

「くかかっ、確かに楽しげな企みには違いない」

 

「いやこの忙しい時に何してんのよ、まとめて馬鹿じゃないの?」

 

 

 涼やかな声が三人に容赦なく突き刺さる。

 天狗の長老と元長老、そしてスキマの賢者にここまで遠慮のない言葉をかけられる者はそういない。すっかり夕闇に包まれた屋敷の縁側に、はらりと落ちたのは純白の羽だった。そこにいたのは清められた天狗装束に、静かな青色の羽織を重ねた白い少女。

 

 

「もう人里の代表者も集まってるわ。それに向こうで白狼たちから支度について話があるみたい。私だって忙しいんだからさっさと動いてよ、お祖父様もね」

「う、すまん。いつもながら私より娘であるお前の方がしっかりしていて助かる……母さんに似たのかなぁ」

「ほら、スキマは私が適当に相手しておくからお父様はさっさと行く。お祖父様も手伝ってよ」

 

「分かった分かった。すまない八雲殿、私はこれにて……父上も行きますよ」

「む、孫から頼まれたのなら仕方ない。後のことはまた後日話し合おうぞ、八雲」

 

 

 白い少女に急かされて、苦笑した天魔と老天狗が足早に離れていく。

 基本的に天狗社会では、年長者に逆らうことは許されないのだが、人間と同じく父親や祖父たちは娘に弱いらしい。まして一人娘ともなれば尚更だ、きっと目に入れても痛くないというヤツだろう。それが可笑しくて緩んだ口元を紫はそっと隠すことにした。

 将来的にはこの少女自身か、もしくは少女の(つがい)となった者が次代の『天魔』となる。しかし可愛がられているこの状況ではまだまだ遠い話に違いない。ジロリと空色の眼差しで睨まれたので、そこで思考を中断する。

 

 

「お父様を困らせて遊ぶのは程々にしておきなさいよ。こっちも暇じゃないんだから」

「ふふっ、大所帯のまとめ役は大変ねぇ。私のように個で動く妖怪には預かり知らぬ分野だけど、身分があるせいで色々と思い通りにならないことも多いのでしょう?」

「別にこのお役目に不満はないし、不足もないわ。強いていうなら、友人が出来にくいのだけは困ったものかもね」

 

 

 家族には恵まれているが、それ以外はいつも独りきり。たまに会うことのある自分と話すことをこの少女が楽しみにしていることも紫は知っていた。何せ幻想郷にて最大勢力の跡取り娘、近づける者は限られている。友人など簡単に出来るはずもないのだ。そんな天狗少女の心のうちを読んだ紫はポツリと呟いた。

 

 

「茶飲み友達ならここにいるでしょう、刑香?」

「考えてあげないこともないわ」

 

 

 悩みを打ち明けたのが恥ずかしくなったのか。

 ほのかに赤く染まった頬で少女は視線を外す、その仕草が可愛らしくて思わず手を伸ばした。しかし頬に触れそうになったところではたき落とされたので断念する。

 二人の間には芳しい若葉の匂いと、伸びきった木々の影が横たわっていた。山の空気は夕焼けの熱を帯び、白い翼は傾く春の太陽に美しく照らされている。草木が夕日になびき、寝床に向かう鳥たちが歌う、ただひたすら穏やかな光景が広がっていた。

 

 

「…………で、この茶番劇はいつまで続くのかしら?」

「あら、もう気づいてしまったのね。もう少しの間だけ溺れていれば良かったのに」

「ここでの私の名前は『刑香』じゃないのよ。そりゃそうよね、鬼の四天王との繋がりもないんだから」

 

 

 これは既に失われた可能性だ。

 忘れられたものの集う幻想郷にも、拾われることのない泡沫の夢。白い天狗少女が歩んでいたかもしれない未来であり、それを世界と世界を隔てる『境界線』を紫が操ることで体験しているのだ。

 幻想郷は全てを受け入れる、だが既に失われてしまったモノは二度と戻って来ない。それはとても、残酷な話である。

 

 

「早く戻しなさい。少なくとも私たちは今、こうして呑気な会話をできるような状況ではないはずよ」

「そうね。夢は認識してしまえばそこで終わり、目が覚めた先には剥き出しの現実が残るだけですもの。それでは、名残惜しいですがこれにて閉幕と致しましょう」

 

 

 もう一度だけ刑香の横顔を眺めてから、八雲紫はゆっくりと瞳を閉じた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 その昔、月面戦争と呼ばれる出来事があった。湖に映った月に飛び込むことで、地上の妖怪たちが遥かな『月の都』に攻め入ったという千年以上も前の語り草。

 圧倒的なチカラを誇る月の民たちにより、多くの名立たる大妖怪たちは露と消え、特に天狗は組織そのものが大打撃を受けることになる。命を落とした者の中には、次代を支えるはずだった天魔の息子も含まれていたのだ。

 

 

「月の住人が強かっただけではない。世界が変われば在り方も変わる、だからこそ地上の者は月の世界では月の民には敵わない。そんな当たり前のことさえ失念していたが故に妖怪たちは大敗したのですわ」

 

 

 呉越同舟、妖怪たちは敵も味方も巻き込んで泥舟に足を踏み入れた。かくして旧い勢力は一掃されて、大して損害を受けなかった新しい強者は勢力を伸ばしていく。特に種族を持たなかった『スキマ妖怪』の名は大きく知れ渡ることになる。月に至る道を用意した者、つまり月面戦争を導いた主犯として。

 

 涼やかな月光を浴びながら、歪んでいく口元。その視線の先では、紅に染まった白い少女が座り込んでいた。腹部から流れ出した血糊は金属製のレールにへばりつき、本来は銀色であるはずの線路を真っ赤に濡らしている。眠気を払うように頭を振りながら、刑香は言葉を紡ぐ。

 

 

「ぐぅ……結局のところ、私は幻覚を見せられていたってことかしら?」

「あれは紛れもなく現実よ。ほんの少しだけ私が境界に穴を空けて、貴女にも覗かせてあげた世界の向こう側。つまりここには存在し得ないもう一つの可能性、なのかもしれないわ」

「それなら、あの金色の天狗は私の……なるほどね」

 

 

 傷口を抑えながら刑香は立ち上がる。

 紫としては当てるつもりなどなかったのだが、先程の熱線はまともに腹部を貫いてしまっていた。夜風に乗るのは血肉の焼ける匂い、内臓まで届く傷を負わせたのは疑いようもない。美しい桜の花びら模様をあしらった扇子で口元を隠しつつ、紫は言葉を紡ぎ出す。

 

 

「あの戦いで少なくない天狗たちが命を落とした。そしてその中には天魔の息子、貴女の父親も含まれていたの。私が知ったのは随分と時が過ぎてからだけれど」

「……だからどうしたのよ、その話で私が呪詛の一つでも吐くと思っているの?」

「ええ、思っているわ。だって誰だってそうなるでしょうから」

 

 

 それでも刑香からは怒りや憎しみといった感情は伝わって来ない。線路に降り立った紫は一歩また一歩と、その上を進んでいく。傾いた月は真珠のように冷たく、青い星々は澄んだ光で自分たち二人を照らしてくれている。憎らしいぐらいに透明な夜であった。

 

 

「刑香、本来なら貴女は長老家の跡取り娘として何不自由ない生涯を送るはずだった。家族に囲まれて、やがては天狗の長となる未来もあったでしょう。その運命を歪めてしまった原因の一端が私にもあるはずよ」

 

 

 この千年あまりの天狗社会に何があったのかは分からないし、知る気もない。しかし目の前にいる白い少女が歩むことになった苦難の旅路、その出発点となったのは恐らく八雲紫なのだろう。月面戦争の切欠を作り出し、彼女の父親を死に至らしめ、挙句にこうして対立している。とどのつまり、自分たちは最初から『敵』であったのだ。

 

 

「……バカバカしい夢想話かと思っていたけれど、ここまではっきり見せられたのなら信じてやるわ。アンタが余計なことをしなければ、私は能力を利用されることも山から追われることもなかった」

「そうでしょうね」

「人里で医者の真似事をする必要も、無理をおして異変に参戦する必要もなかったのよね」

「ええ、その通りよ」

 

 

 挙げていけばキリがないだろう。

 それだけの因縁が自分たちの間にはあったのだ。錫杖を頼りにして身体を支えている刑香の胸へ白魚のような紫の指が触れる。そのまま言霊が唱えられ、青白い『術式』の光が少女の装束に染み込んでいく。もう戦う力は残っていないのか、刑香からの抵抗はない。せいぜい今は恨んでくれればいい、どうせ式神にした後なら記憶の一つや二つはいつでも書き換えられるのだから。

 

 

「でもアンタがいなければ、私はアイツらと友人になんて成れなかった。家族はいても、文とはたてがいないなんて運命だったんでしょうね」

「……さあ、どうかしら」

「それにあの子、霊夢とも出会えなかった。だから私は感謝こそしないけれどアンタを恨みもしてやらない……ざまぁみなさい、スキマ妖怪」

 

 

 研ぎ澄まされた月光に浸されて純白の翼が輝く。

 かすかに混じった『黄金』の色に魅せられて、少し返答が遅れてしまう。呪いの一つでも投げかけられると思っていた、だがこの鴉天狗にはそういった言の葉は似合わないらしい。別の形で出会えていたならと思わないこともない。

 

 

「私もあなたみたいな妖怪、けっこう好きだったわ」

 

 

 何割かの本心を込めてそう告げると、その拍子に刑香に腕を掴まれた。どうやらまだ諦めていないらしく、引き剥がすつもりのようだ。既に契約のための妖力は身体に馴染んでいっている、非力な少女にはどうしようもないだろう。このままある程度まで術式を埋め込んでしまえば、後はどうにでもなる。

 ギシリと掴まれた腕から痛みが伝わってきたのは、そう考えていた時だった。

 

 

「くっ、刑香、あなた一体何を?」

「もう勝ったつもりでいるようだけど……っ、そろそろ反撃させてもらうわよ」

 

 

 軋み始めた腕にスキマ妖怪が顔をしかめる。

 天狗でありながら大した腕力を持っていない刑香は、速度を上乗せすることでの戦い方を主にしている。だからこそ触れ合うほどに接近してしまえば、その攻撃の殆どを無力化できる。なら掴まれた腕から感じる痛みは何なのかと紫が困惑する。

 それはもう一つの誤算、眠りに着いていた冬の間に白い鴉天狗へと託されたチカラが原因だった。逃がすまいと紫を捉えながら、刑香が小さな笑みを浮かべる。

 

 

「ようやく捕まえてやったんだから、せいぜい覚悟しなさい。……そのアンタに似合わない表情を殴り飛ばしてやるんだから」

 

 

 河童の少女が指摘したことは正しい。鬼の四天王、星熊勇儀の誇る力の欠片が確かに宿っていたのだ。白桃橋刑香の持つ錫杖に。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編〜お正月特別編2〜

活動報告にて予告させていただいた通りに、お正月の番外編を投稿します。
こちらのお話は『東方project~人生楽じゃなし~』を連載中である、ほり吉様から戴いた原案に自分が改訂を加えたものです。
とある事情により、幻想郷の『外』の世界へと飛ばされた東方キャラクターたちが奮闘する物語である『東方project~人生楽じゃなし~』。そこにもし、白い鴉天狗がいたらどうなっていたのか、というお話です。


注意事項を三点ほど。
①本編ストーリーとは関わりがありません。
②登場人物の性格(刑香含め)において『その鴉天狗は白かった』とは微妙な違いがあるかもしれません。
③舞台は幻想郷ではなく、現代です。そのような内容及び雰囲気が苦手な方はご注意ください。

寛大な心で目を通していただけると幸いです。
本編も近日中に更新予定です。



 

 

 ーーーそれは粉雪の舞い散る冬の寒い日のこと。

 

 

 ほんのりとエアコンが効いたマンションのリビングで一人の少女がくつろいでいた。ふかふかとしたソファに腰掛けて、すうすうと小さな寝息を立てている。ソファという名前だが、その見た目は大きなクッションに近い。ダークブラウンの表面に腰を下ろすとずぶずぶと身体が沈み込む、そんなもの。

 商品名は『人がダメになるソファー』だとか。事実としてこの少女も身体を沈めたまま、胸元に文庫本を載せて安心した表情で眼をつぶっていた。いつの間にか眠ってしまったのだろう、小さく上下する胸と静かな呼吸だけがそこにある。

 

 お正月を迎えたばかりの澄んだ空気は爽やかで、部屋が暖かいのもまた眠気を誘う。幻想郷では考えられないくらいにこちらの世界にある家の気密性は高いのだ。外からの冷気は室内に入りにくく、中の温まった空気が出ていきにくい。コンコンと穏やかな音を立てている天井のエアコンが部屋の温度を調節してくれていた。

 

 そんな環境だからだろう。一月を数日過ぎ、春がまだ遠くで手を振る冬空の下だというのに少女の服装は薄手そのものだった。白いブラウスの上に、丈の短い黒のカットソーを羽織っているだけなのだ。胸元にちょっとだけ見えるブラウスにはフリルが付いていて可愛らしい。そしてデニムのショートパンツに、膝上までのニーソックスもまた冬の格好とは思えない。その程度でも十分に暖かいらしい。

 

 

「ん、むぅ‥‥‥‥いつの間にか、寝てたみたいね」

 

 

 少女が身体を起こすとトレードマークである純白の髪がさらりと揺れる。その拍子に文庫本が胸元から床に落ちて音を立ててしまう、これでどこまで読んでいたのかよくわからなくなってしまったと刑香はため息をついた。とりあえず本を手に取りバラバラとめくってみるが、どうにもページを思い出せない。素直に諦めて本棚へと戻すことにした。

 そうして時計を見れば、長針の示しているのは午前十時ほど。一通り家事をこなしてから二度寝してしまったが、まだ今日という日は折り返しを過ぎてはいない。もふもふとソファにもたれ掛っていると、また夢の世界にひき込まれてしまいそうになる。うつらうつらと空色の瞳が揺らめく。

 

 

「いつまでもこうしていると一日が終わりそうね。そろそろ、いかない、と」

 

 

 ソファの誘惑をどうにか振り払って少女は立ち上がる。今日は霊夢と約束があるのだ。そうたいした用事ではないし、向こうに伝えている時間もお昼頃としか決めていない。だが、それでも早めに行動するに越したことはないだろう。

 冷蔵庫から麦茶を出して飲むと、少しだけ頭が冴えたような気がした。コップを洗い場に置いてから出掛ける準備を始めることにする。

 しかし支度といっても簡単なモノで、ハンガーに掛けていた腰丈までの黒いウールのコートを羽織るくらいだったりする。厚めの生地のそれは雪の降る真冬にぴったりのデザインだ。前のボタンをしっかり留めて、部屋に置いてある姿見に自分を映してみる。

 

 

「別におかしな所はないはずよね?」

 

 

 防寒をしているくせにショートパンツ、可笑しな所があるとすればこちらの世界の人間たちが寒い日でもこんな恰好をしていることだろう。もちろんそんな恰好を真似ている自分自身も大概だろうなと、刑香は苦笑する。

 天狗は寒さに強い種族だ。夏だろうと冬だろうと、極寒の空を飛翔するからには人間よりも身体に熱を保っていなければならない。そのせいもあってだろう、他の幻想郷から来た面々より自分たちは寒さに対しての感覚が甘い。一例を上げるなら、黒い翼の親友は雪降る日に半そでにマフラーという摩訶不思議な格好をしていたこともある。無論、その後で風邪をひきかけていだが。

 

 

「‥‥‥‥よし」

 

 

 その場でふわりと身体を翻し、フローリングを靴下で滑ってみる。鏡の中の自分に一人で納得してみてから刑香はその格好で外出することにした。

 

 

 ーーーそして辿り着いた、そのアパートは白かった。

 

 

 「白かった」という言い方はつまり過去であり、昔々のお話のこと。今では壁の一部は崩れてかけており、灰を被ったように色褪せている。エントランスなどというお洒落な響きのモノはなく、二階建てのアパートには木でできたドアが並んでいる簡素な建物だ。

 

 茶色く錆びた階段を上がる刑香。外に付けられたために屋根はなく、雨に降られるままの野ざらしのステップ。今は雪が積もっており、朝の冷気によって透明に凍り付いていた。シャリシャリという音を鳴らしつつ、背中にバックを背負う少女は白い息を吐く。

 いつも来ても古いアパートだと思う。もう一度、はぁと息を吐くと、白く染まった大気がぼんやりと浮かんでは消えていく。そしてようやく目的の部屋の前まで辿り着いたが、ドアに飾ってある表札らしきものの前で刑香は立ち止まる。奇怪な文字らしき何かが書いてあったからだ。

 

 

「何て読むのよコレ、さるの? ってことはあの娘が書いたみたいね‥‥」

 

 

 実際合っているのかは分からないが、解読できたのはそれだけだった。大体の目星を付けてからドアノブを手に取る。氷のような金属の冷たさが手のひらに広がっていくのを感じる。

 鍵は貰っているのでそのまま開けても良いだろう。しかし何となくドアをノックしてみることにした。ゴソゴソと音がしてから、しばらくするとドアの向こうから伝わってきたのは「けいか?」と聞きなれた声が一つ。

 雪の降る中、そっと刑香も相手を呟いた。

 

 

「霊夢、開けていい?」

『あ、ちょ、ちょっと待って!』

 

 

 ばたばたと中で音が聞こえてきた。何をやっているのかは知らないが、自分の声のせいで慌て出した霊夢のことが可笑しくて口元が少しだけ緩んでいくのが分かる。何だか久しぶりにからかってみたくなった。

 

 

「もういいかしら、開けるわよ?」

『も、もう少し……』

「寒いんだけど」

『あ、あと十秒くらいっ!』

 

 

 本当に何をしているのだろう。両手をこすり合わせて、はぁと今度は手のひらに息を吐く。やはり歩いているとそうでもないが、止まっていると寒く感じる。翼があったなら羽毛で暖まることもできたのに、と何もない背中をさすってみた。随分と馴れたとはいえ、まだ少しだけ寂しさがある。

 

 

『よ、よしっ。もう大丈夫!』

「入るわよ‥‥‥?」

 

 

 そう聞こえた瞬間にドアを開けようとするが、ガツンと何かにぶつかり動かない。荷物を玄関に置いてあるのかと思い、もう一度力を込めて押してみる。今度はゴツンと何かを突き飛ばしたような感触がしたのでそのままゆっくりと押してみると、すんなりと開いた。

 

 三畳一間というアパートは狭い。

 ドアを開いただけで見渡せてしまうのだから、ここに五人以上が住んでいるとは信じがたい事実だ。部屋の真ん中にはこじんまりとコタツが置かれており、その前には赤みがかった瞳をした黒髪の少女が突っ立っていた。いつもつけている紅白の服の代わりに、落ち着いた紫の生地に紅葉を描いたちゃんちゃんこ。リボンは家だから付けていないようで、きめ細やかな黒髪は肩へとゆったりと流れている。なかなか新鮮な格好だ。

 

 そしてその横に座っているのは、淡い青髪をした長身の女性。その名は上白沢慧音という。霊夢の同居人であり、刑香にとって天狗以外では数少ない友人でもある。しかし、いつも聡明なはずの慧音は何故か片手にみかんの一切れをもったまま固まっていた。

 引き攣った顔をしている慧音を見ながら、刑香は白い眉をひそめる。

 

 

「‥‥‥何かあったのかしら?」

「え、あ、いや、何かというか」

 

 

 曖昧な言葉を返してくれたが、微妙な表情は変わらない。霊夢に至っては何かを堪えるように口を抑えて眼をそらしている。何がそんなに愉快なのか分からない。どこか鬱々とした声が聴こえてきたのは、刑香がもう一度疑問を口にしようとした瞬間だった。

 

 

「まあ、二人の反応も当然でしょうね」

「ーーーーっ」

 

 

 びくりとして隣へ視線を移す。

 そこにいたのは桃色の髪をショートカットにした小柄な少女だった。赤くなった額を撫でながら、じっとりとした目つきでこちらを睨んでいる。『もう一つの目玉』こそ今は持っていないが、沈んだ夕日に似た色の瞳は見間違えるはずもない。

 彼女の名は古明地さとり、刑香とは少しばかり因縁のある妖怪の少女である。心を読み取り、その傷を広げては相手を苦しめるという油断ならない種族。しかし心の深淵を覗くはずのさとりの眼は今、それ以外の物を訴えていた。

 

 そういえば、さっきドアを開けるときに「何か」に当たったような気がしたのを刑香は思い出す。そこまで理解したなら後は簡単だ。

 つまり、ぶつけた「何か」はさとりだったのだろう。それで一部始終を見ていた慧音はあんな表情をしていたわけだ。

 一方の霊夢は堪えきれないようで吹き出した。

 

 

「何やってんのよ刑香もさとりも‥‥‥ぷっ、あははっ、ホントに馬鹿みたいよ」

「笑い事じゃありません、私は額が割れるかと思ったんですから」

「わ、悪いわね。わざとじゃないのよ」

「今のがわざとだったら後ろから足を蹴り飛ばしています……今回だけですからね、白桃橋刑香」

 

 

 桜色の唇からため息を一つだけ漏らし、さとりは離れていく。こちらの世界に来てからはこのアパートの住人の一人となり、ペットたちの代わりに幼い妖精や妖怪を世話しているらしい。そのあたりの趣向は地霊殿にいた頃と変わらない、幼子や妖獣たちの持つ純粋な心に弱いのは相変わらずだ。

 もっとも、振り返った時に見えた「祭」の文字。そんなものが背中に刻まれた上着はどう見てもリサイクルショップなどで購入した余りものである。

 

 

 どうやら色々と妥協してはいるようである。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 冷気から逃れるように、もぞもぞと白い少女は炬燵の布団に潜り込んでいた。

 

 じんわりとした熱が染み渡る。太ももが暖められる感触に「ん」と身をこわばらせてから、刑香は少しだけ力の抜けた顔を浮かべていた。室内に入ったは良いものの、このアパートの場合は普通に寒い。壁が薄いどころか、スキマ風が吹き込んでくるのだから酷いものである。そんな刑香へと対面にいた霊夢が声を掛ける。

 

 

「さっきは言えなかったけど、明けましておめでとう。今年もよろしく頼むわよ、刑香」

「ん…………おめでとう」

「絶対に聞いてなかったでしょ」

 

 

 どうやらこたつの暖かさに早くも憑りつかれてしまったらしい。わずかに不満そうな顔をする霊夢と、眠そうにしている刑香。そんな微笑ましい二人を見守りつつ、慧音は綺麗に剥いた蜜柑を勧める。

 

 

「ほら、良かったらどうだ?」

「ありがと、でも今は遠慮しとくわ」

「私もこの間から嫌というほど食べてるし」

「そうか、それではコレは私が貰っておこう」

 

 

 それだけ呟くと、目線を部屋の隅に置かれたテレビに向ける。画面に一本の黒い線が入っているのは、不具合だろうか。それでも教育をテーマにした番組を聖獣の教師は熱心に見つめていた。こちらの世界の知識は幻想郷に帰れたなら役立つかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていた刑香だったが、しばらくすると何気なく口を開いた。

 

 

「それで霊夢、今日は何の用なの?」

 

「あー、別に大した用事じゃないんだけど、お餅がね」

「オモチって、あのお餅のこと?」

「そう、お餅よ」

「‥‥‥?」

 

 

 霊夢の答えは要領を得ない。どうして『餅』のために自分が呼び出されたのか、刑香には分からない。それだけ伝えると、霊夢はなんでもなさそうな顔をしながらテレビを見つめている。そこまで眺めてから仕方ない、と慧音が苦笑しながら代わりに説明を開始する。

 

 

「実は元日に餅つき大会があったんだ。それで若いのが参加してくれたのが嬉しかったのか、ご近所から餅を大量に貰ってな。これの量が量なので我々だけでは食べきれない、お前もよかったら食べるのを手伝って行って欲しい」

「なんだそんなこと‥‥‥でも、ここには食い意地の張った連中が大勢いるでしょ。さっきの表札を書いた妖精とかチビ妖怪とか」

 

 

 このアパートの住人は霊夢達だけではない。他の同居人はいずれも騒がしい面々で、遊び回るのが仕事ような子供たち。今いないのは神社あたりへ遊びに行っているからだろう、きっと沢山走り回ってお腹を空かせて帰ってくる。そんな彼女たちが一斉にかかれば大抵の量はどうにか出来る気がする。慧音が感心したように続ける。

 

 

「やっぱりお前は鋭いな、刑香。まあ、分かってやってくれ。餅うんぬんは建前で本当は霊夢がお前と一緒に正月を過ごしたかったん、だァッ!?」

 

 

 その瞬間、ガコンと炬燵が揺れる。そして半獣教師が小さくうめき声を上げ、頭から思いっきりテーブルに突っ伏した。視線だけはテレビへ向けたままで、恐ろしい表情を浮かべている巫女を見てみれば炬燵の下で何が起きたのかは明白である。

 窓の外へと顔を背けて霊夢は口を開いた。

 

 

「言っとくけど私はただ、お餅が余ったから誰かに食べてもらおうと思っただけよ。あんまり時間が経つと固くなっちゃうでしょ。だから誰でもよくて‥‥‥いや良くないけど、特別な意味はどこにも‥‥‥」

 

 

 必死すぎて殆ど自白だった。耳をうっすらと赤く染めた巫女は顔を見られないように刑香とは視線を合わせない。さて、どうしたものかと考えてみるが自分の取るべき道は一つである。未だにうずくまっている慧音とアイコンタクトを交わしてから、刑香は素直でない少女が望んでいるであろう答えを用意することにした。

 

 

「ならお邪魔しようかしら。せっかくのお正月だし、明日とか明後日も来ていい?」

「もちろん、いいわよ」

 

 

 わずかに頬が上がり、拳を握りしめる巫女。色々とバレバレである。そうして一つの約束が結ばれた頃、どことなく甘い匂いが漂ってきた。

 台所でさとりが何かを煮込んでいるらしい。桃色のエプロンと三角巾を身につけて、背丈が足りないので台に乗っている姿は料理を手伝っている子供にしか見えない。寒さ対策として履いたスリッパはリラックスした熊の毛が編み込まれて、とても温かそうだ。

 上機嫌な霊夢はそんな小さな料理人を急かしだす。

 

 

「ほらほら、さとり。もうそろそろいいんじゃないの?」

「もう少しだから待ってください」

「お姉ちゃんっ、もう私はお腹ペコペコだよ!」

「待ってこいし……って、いきなり現れるからアナタの分がないわ」

「えー」

 

 

 冗談よ、と一言呟いた少女の手によって机に並べられたお椀は五つ。赤い器に満たされた黒い小豆は海のようで、ぷかぷかと白いお餠は砂浜で出来た島のように浮かんでいた。暖かい湯気がほのかに立ち昇り、部屋の冷たい空気を少しだけ甘い香りで染めている。それは、美味しそうなおしるこだった。

 満面の笑みでこいしが姉に抱きついた。

 

 

「‥‥‥何ですか、刑香?」

「アンタって相変わらず甘いわね」

「私は甘党なので」

「心を読めなくても、そういう意味じゃないって分かって言ってるでしょ。別にいいけどね」

 

 

 あまり突っつくと自分と文、自分と霊夢の関係に茶々を入れられそうである。『妹』に甘いのはみんなお互い様なのかもしれない。目の前には湯気をたてるお汁粉が一つ、とりあえずそちらに刑香は視線を移すことにした。面倒なことになる可能性のある話には踏み込まない方がいい。

 

 

「それじゃあ、いただきましょうか」

 

 

 箸で餅を摘まんでみると妙に柔らかい。方法は分からないが下ごしらえをした上で調理したのだろう。意外とこの覚妖怪は料理にも拘っているのかもしれない。ふぅと息で冷ましてから、真っ白なお餅の端を軽くくわえてやる。そしてそのまま千切ろうとすると、

 予想以上に餅がみょーんと伸びた。

 

 

「ん‥‥ぅ、むぅぅ?」

 

 

 お椀まで伸びる白いお餠。ちぎろうとお椀を下げながら、あごを上げてみるがその程度ではダメらしい。ここまで来て噛みちぎるというのも負けた気がする。なので更に引っ張っているが、やはり切れなかった。

 

 それはどこか子供のような仕草で、向かいに座っている霊夢の肩が震えていたのに刑香は気付かなかった。巫女が声を上げないのは気遣いなのか、いつも冷静な白い姉の珍しい姿をもう少し見ていたかったからなのかはわからない。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 カチカチと時計が刻を刻み、少しずつ年始の暖かな時間が過ぎていく。

 こたつを囲む五人の少女たちだったが小さな机なのめ、時には机の下でお互いの脚が当たってしまうこともある。しかし彼女たちはそんなことを気にしないし、気兼ねもしない。

 

 熱いお餅を細かく箸で千切って、慧音は丁寧に口へと運んでいく。先に食べ方を示してくれた天狗がいたので、同じ轍を踏むことはしない。一方のさとりはお椀を持ちながら思考に更けるかのように片目を閉じていた、次に作る際の工夫を考えているのかもしれない。その隣では、姉のエプロンを掴みながら満足そうに眠る少女の呼吸が聞こえている。

 

 

「ねえ、ちょっといい?」

 

 

 そんな中で霊夢だけがぽつりと呟いた。口にしたのはそれっきりで、誰に向けて言ったのかもはっきりしない宛名忘れの言葉を静かな空間へと一つ落とす。こんなものはきっと普通なら伝わらないだろう。しかしーーー。

 

 

「なによ、どうしたの霊夢?」

 

 

 すぐに夏空のような蒼い瞳が霊夢へと向けられていた。眠そうな様子でテーブルから顔を上げて当たり前のように、刑香は霊夢の言葉に反応してくれていた。

 それがむず痒くて、巫女の少女は照れたように視線を逸らす。ちくりと刑香の脚に何かが当たったのは、その数秒後だった。そして二人の視線が合うと、今度ははっきりと霊夢は見つめてくる。それを疑問に思いながらも、刑香は布団をめくってみた。

 

 

「ねぇ‥‥‥コレ、ひょっとして私が貰っていいの?」

 

 

 足元にあったのは小さな紙袋だった。手で掴んでみると中には布のような物が入っていると感触で分かる。もう一度、刑香は霊夢を見てみた。そこにあるのは分かりやすいくらいの仏頂面で、幼い頃から変わらない照れ隠しの仕草だった。そして霊夢が小さく頷いた。

 それを見届けてから、そっと抱きしめるように刑香は紙袋を胸元に引き寄せる。

 

 

「開けても、いいかしら?」

「う、うん」

 

 

 短い問いは短く返され、ゆっくりとリボンが解かれていく。そっぽを向いたふりをしながら、チラチラとその様子を伺っている霊夢。さとりと慧音は特に何も言わない。当たり前だが同居人の二人は、巫女の少女が何かを用意していたのは最初から知っていたのだ。

 

 丁寧に紙袋の口に貼ってあったシールが外される。そして中から取り出されたのは、赤い毛糸のマフラーだった。ふんわりした手触りとちょっと厚めなそれは暖かそうで、所々に手縫いの跡がある。

 ほつれながらもやり直したであろう痕跡を指でなぞってから白い少女はマフラーに顔を埋めた。そうして肌触りを確かめているようなふりをして表情を隠す。小さく震えているのは笑っているのか、それとも泣いているのだろうか。それは誰にも分からなかった。

 

 

 

「本当にありがとう、霊夢」

 

 

 

 びくりと霊夢の体が動き、眼を見開いた瞬間に顔が真っ赤に染まっていく。

 

 

「刑香って、いつも寒そうな格好してるでしょ。だから久しぶりに編み物をしたくなって‥‥何か違うわね。そうじゃなくて偶然、手元に布と糸があったから」

 

「素直じゃないな、霊夢のヤツは」

「ええ、まったくです。サードアイが無くとも、今考えていることが手に取るように分かります」

 

「ちょっと、あんまり煩いと退治するわよアンタたち!」

 

 

 不意に賑やかになっていく室内で、刑香はマフラーに顔を埋めたまま何かを呟いた。周りの者たちには聞こえず、言葉はマフラーに染み込んでいく。そんな白い少女をいつの間にか見つめていた少女は、にっこりと無意識の瞳で微笑んだ。

 

 

「さっそく付けてみたらどう?」

「‥‥‥そうね、うん。せっかくだし」

 

 

 ゆっくりとプレゼントから顔を離す。そうして首に巻かれたマフラーは大きめで、今まで冷たかった首元をすっぽりと覆ってくれていた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

「少しねむたくなってきたわ」

「駄目よ、こたつで寝ると起きた時がツライんだからね」

「そうだぞ、やめておいた方がいい。私もよく寝てしまうんだが、起きてみると寒気がするんだ。眠たくなるのはわかるがオススメは‥‥‥ん、どうしたんだ刑香?」

「真面目なアンタも昼寝するんだなって思ったのよ」

「それはまあ、たまにな」

 

「お茶が入りましたよ、刑香はこのマグカップでいいですか?」

「別になんでもいいわ。って何よこの柄は?」

「私が選んだわけではないです、景品とやらで貰いました」

 

「ところで刑香、今度またどこかに行くの? この前は近くの島まで言ったらしいけど、ほたてでも食べた?」

「それって夏の話じゃない。冬にあの乗り物はさむいのよね。ついこないだまで空を飛んでてもそんなこと感じなかったのに、難儀な話よ」

「遠出はいいが事故には気を付けろよ。あと、酒を呑んで運転してしまうと罰金を驚くほど取られるらしい」

 

「一番外に出るのは霊夢ですから、あなたが一番気を付けてくださいね」

「じゃあ事故に合わないためにも仕事を辞めていい?」

「駄目に決まっているでしょう、そんなことをしたらあなたの姉代わりの天狗の財布からその分の穴埋めをしてもらいます」

「いや、私もそんなに手持ちはないわよ」

 

「‥‥こいしがいませんね。しっかりお椀の中身は食べているんですが、あの子はまったくもう」

「少しは姉として厳しく教育してやったらいいんじゃないの、アンタは少し妹に甘すぎるわよ?」

「それはアナタにだけは言われたくないです。そうでしょう、霊夢」

「なんで私にふるのよ。教育に関することなら本職のヤツに尋ねなさいよ」

「……」

 

「慧音?」

「あ? ああ、ちょっとねてたようだ。すまない」

「べつにいいわよ。寝ても。それより刑香‥‥」

「……」

 

「刑香も慧音も限界のようですね」

「もう、仕方ないわね」

 

 

 

 そうして、どれくらい時間がたったのかはわからない。

 すっかり外は暗くなり、夕暮れの過ぎ去った空がワインカラーの静寂に包まれていた頃。窓ガラスが白く曇り、五人分の呼吸と体温でよどんでしまった空気が少しだけ重くのしかかる部屋の中にて刑香は目覚めた。

 

 

「う、ん……?」

 

 

 その際に背中から毛布がずり落ちる。部屋を満たす空気は冷たく相変わらず寒々しい部屋だと感じたが、首元に宿った暖かさに気がついた。

 

 

「そっか、あの子からマフラー貰ったんだった」

 

 

 マフラーを掴んでそう口にする刑香の声は少しだけ弾んでいた。顔を上げて、目の前にいるであろう霊夢を見る。しかし、そこには誰もいない。

 

 

「なんだ、そこにいたのね」

 

 

 立ち上がってみると、こたつを囲むように寝そべって寝ている霊夢と慧音とさとりを見つけた。こたつの布団をかぶって寝ているので、こちらが座ったままでは見えなかったのだ。どうしてか、ほっとしたような溜め息が漏れた。

 

 足音を立てないように近づいてみると、巫女の少女は座布団を枕にすやすやと眠っていた。自分が眠ってしまってから、霊夢もしばらくして横になったのだろう。

 ちょっと考えてからカメラをバッグから取り出してみる。こういう写真は刑香も「姉」に撮られたことがある。こんどは自分が「妹」にやってやろうと思ったのだ。

 寝息を立てている巫女の横で、白い少女はカメラのシャッターを切った。

 

 

 少女がフラッシュを消し忘れていたことに気づくのは、その一秒後のこと。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 




イラスト・キャラクターデザイン:北澤様
特別協力:ほり吉さん
pixivページ(北澤様):
http://www.pixiv.net/member.php?id=1818789


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十五話:秘封幻想郷

 

 

 孤独な月が宵の空に浮かんでいた。

 暗く沈んだ闇にたった一人で輝く姿は、まるで目的地を見失った舟のように寂しげだ。こぼれ落ちた光は砕けたガラスの欠片のごとく、冷たくも美しい光沢を持って静かな夜へと沈み込んでいく。

 

 古来より昼の象徴たる太陽に対して、月は『魔性』の証とも伝えられてきた。

 

 その加護を一身に預かったのは力を使い果たした白い鴉天狗の方であった。空っぽになった妖力が回復していく。それは干上がった喉をわずかに潤してくれる水滴ののように微々たるモノ、そんな弱々しいチカラが肌を濡らしているのを感じた刑香は紫の腕を掴みつつ苦笑する。

 

 

「月の光が妖力を秘めているなんて言っても、それだけの回復量なんて本来は大したことない。それを頼みにしてしまう私は、笑っちゃいそうなくらいにカラカラでフラフラってわけよね」

 

 

 霞んでしまった視界は船酔いをしてしまったように右へ左へとグラついている。妖力が尽きかけているからなのか、それとも身体の方が限界なのかまでは分からない。息をするのも億劫で、心臓は弱々しく脈を打つ。

 霊夢はどうしているだろうか、あんな別れ方をしたのだから早く戻ってやらなければ心配させてしまう。そして戦闘中にこんなことを考えるくらい頭も回っていない。

 

 

「でも、ようやく全部終わりに出来そうよ。手持ちのチカラを全部、全部、喰わせてやったコイツで‥‥‥‥あんたに一矢報いてやるんだから」

 

 

 北極星に似た蒼い輝きが錫杖から吐き出される。

 それと共に発せられた熱は荒々しい息吹となって、雲間を怖ろしげに波立たせていた。周囲を満たしていくのは生命力に溢れた脈動と暴力的な怪異の波動。かつて地底で感じたそれは紛れもなく、星熊勇儀の持つ『怪力乱心を操る程度の能力』の欠片であった。

 

 ここに来て、初めてスキマ妖怪は冷静な表情を崩していた。掴まれている腕を振り払おうとするが、逃がすまいと刑香は更に強く握りしめる。ここを逃せばもはや勝ち目はない。もう『死を遠ざける程度の能力』を維持させるための妖力さえ、不足しているのだから。

 刑香の状態を見抜いたスキマ妖怪は少しだけ驚いたように声を上げる。

 

 

「貴女、残っていた妖力のほとんどを錫杖に注いだのね。そんなことをしたら、身体を維持するための『能力』が保てなくなることは自分がよく理解しているでしょう?」

「だって無茶の一つや二つ、重ねてやらないと届かないでしょう? 私なんかの攻撃をアンタに届かせるには、これくらいのことはしなけりゃならないって、わかってたもの」

「そんな理由で貴女は‥‥‥ぐ、ぅっ!?」

 

 

 ミシミシと軋んでいく腕に、紫が苦悶の表情を浮かべていく。ここまで近づいてしまったのは失策だった、列車も熱線もお互いの距離が近すぎては使えない。それでも八雲紫には幾らでも攻撃手段はある。しかし『死にかけた』刑香が相手では取れる手段が殆どない。どれも威力があって死なせてしまう。

 そこまで思考を進めてから、紫はため息をつくように言葉を吐き出した。痛覚を『能力』で一時的に遮断し、表情に余裕が戻っている。

 

 

「藍からの報告で星熊勇儀を下したことは聞いていたけど、それが原因で河童ごときの打った錫杖が妖力を得ていたなんて‥‥‥思いませんでしたわ」

 

 

 古来より妖刀は『呪い』によって産まれ落ちてきた。

 元は名刀であったものが鬼を始めとする大妖怪の血肉を浴びることで呪詛を帯び、その性質を変貌させるのだ。逸話に残る数々の妖刀はそうすることで誕生してきた。『伊吹ノ百鬼夜行』の副首領、茨木童子の片腕を切り落とした『鬼切』などはその筆頭である。

 

 ならば同じく鬼神である星熊勇儀の眼球を深々と抉った刑香の錫杖はどうなるのか。

 

 単なる金属の入れ物に『鬼のチカラ』を芽生えさせていても不思議ではないだろう。その証拠に錫杖は闇を払う月明かりのごとく妖力を湧き上がらせ、まるで青い蛇のように刑香の腕へと巻き付いている。その光景を観察してからスキマ妖怪は目を細めた。

 

 

大峰(おおみね)前鬼坊(ぜんきぼう)、かつて鬼神でありながら天狗になったという『大天狗』の一人。その伝説が示すのは、鬼のチカラと天狗の身体は相性が悪くはないということ。‥‥‥とはいえ、鬼の錫杖をここまで簡単に使いこなすなんて信じがたいわ」

「生憎と鬼のチカラを体内に取り込んだのは初めてじゃないの、そりゃ馴染むのも早いわよ」

「ふ、ふふっ、そういえば貴女は茨木の百薬枡も口にしていたわね。鬼や私と縁があるのは天魔の血筋だからかしら」

 

 

 磨き抜かれた水晶玉のように美しい紫色の瞳。

 月光が映り込み、まるで本物の宝石のように複雑な光沢を揺らめかせるソレが刑香へと向けられていた。だが、その瞳の奥にはどこか遠くを見つめている光がある。権謀術数を良しとするスキマ妖怪らしくない『後悔』を映した心の隙間。

 

 別の世界を見せてきた先程の行為もそうだが、もしかしたら紫は自分を恨んでほしいと思っているのかもしれない。その意図を理解しながらも、刑香はその願いを叶えてやることはできない。その答えとして、思いっきり一歩を踏み出した。

 

 

「いちいち恨んでいたら埒が明かないわ。まして『あったかもしれない世界』のことで思い悩むなんてバカバカしい。‥‥‥でも私も随分と傷めつけられたわけだし、仕返しとして一発だけ殴らせなさいよっ!!」

 

 

 憎しみの代わりにくれてやるのは、全力で振りかぶったこの一閃。白い少女は今までの因縁の全てを吹き飛ばすつもりで、スキマの賢者へと渾身の力を込めた錫杖を叩きつけた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「ーーー以上が、白桃橋刑香について判明した事実です。私見になりますが、あの娘が天魔殿の血族という可能性は十分にあるかと思われます」

 

 

 少しばかり時は遡り、長かった冬がようやく終わりを迎えようとしていた日。鳥たちのさえずりが幻想郷を満たし、冷たさを残した氷雪を溶かしていく陽射しの中。観念して布団から這い出てきた己の主へと、八雲藍は粛々と報告を行っていた。アクビをしている主を横目にして式神は話を続ける。

 

 

「彼岸の者へ探りを入れましょうか?」

「止めておきなさい。あの説教臭い閻魔もそうだけど、死神の方もアレでいて厄介な性格ですから無駄でしょうから‥‥‥ふぁぁ、ねむいわー」

「紫様‥‥」

 

 

 どうやら主人はまだ本調子ではないらしい。

 枝毛があちこちに跳ねている金の長髪、涙が浮かんでいる瞳は二度寝をしたくてたまらないように見えた。くすりと式は心の中で微笑んだ。そんな主が封印されているかのように眠り続けていた冬の間に、この幻想郷には様々なことがあった。

 

 

「ともかくお御髪(みぐし)()かしますから、あちらを向いてください」

「えぇ、まだいいわよ」

「そう言って布団に戻ろうとしても駄目です」

 

 

 ぐるりと後ろを向かせて、乱れた髪に櫛を通していく。ゆったりとした長髪のスキマからは色白のうなじが丸見えで、時々漏らされる吐息の一つに至るまでが艶やかだった。傾国の美女さえ惑わしてしまいそうな色気を主から感じつつ、毛先の一本一本を丁寧な手つきで整えていく。

 主には秘密だが、この一年に一度しかない時間が藍としては嫌いではない。

 

 

「‥‥白桃橋刑香を我が八雲の式として迎えます」

「そうですか」

「多少の抵抗は予想されるでしょうが、私が出向けばどうにでもなる。我が式、あなたもそのつもりとして備えておきなさい」

「承知致しました」

 

 

 主人の言葉には少しだけ躊躇(ためら)いが混ざっていたことに式神は気づいていた。いつもなら感情を読み取らせない八雲紫の声に潜んだ雑音は、微かな違和感と共に鼓膜を揺らす。それでも藍は全てを受け入れるだけだ。主が決断したのなら、式神である自分は従うだけで良い。自分の考えがどうであろうと、相手が誰であろうとも拒絶するのは望ましくない。

だから、今から口にするのは決して異議などではないはすだ。

 

 

「しかし、白桃橋はあまり強力な妖怪というわけではありません。術式を乗せたところで戦力強化はそこまで望めないのでは?」

「‥‥もちろん戦力としてではなく、その身体に流れる血だけを利用させてもらうだけよ。本当に天魔の血族であるのなら、天狗たちの組織を内紛に追い込むことが出来るかもしれない。分かってくれるかしら、藍?」

「そうですね、理解しました」

 

 

 分かりきった答えが返ってくる。人の世でも妖の世でも、後継者一人のために国そのものが燃え上がるなど別段珍しい話でもない。財産か名誉か、はたまた権力か。それらは羽虫を惹きつける炎のように、多くの愚か者たちを焚きつけてきた。その浅ましさに八雲藍は大いに覚えがある。

 そういった争いの起こし方と、そういった者たちの末路を誰よりも詳しく知っている。どうすればいいかなど分かりきっている、それなのに自分は尋ねてしまった。薄暗い闇を照らす九本の尾は左右へと揺れ、灼けるような黄金の瞳は鋭く細められていく。

 

 

「大天狗の候補者争いに白桃橋を絡ませ、そこを足掛かりにして我らが介入するのですね。確かにそれならば山の組織に一波乱起こせるやもしれません」

「やっぱりあの娘をこれ以上利用するのは反対かしら? わざわざアナタが『異議』を挟むなんて久しぶりでしょう」

「‥‥いえ、私はそんなことは」

 

 

 どうやら自分が一番、自分の感情について分かっていなかったらしい。吸血鬼異変ではフランドールの奇襲で致命傷を負ったところを助けられ、地底への手紙を届ける依頼も見事にやり遂げてくれた。それなりの借りがある相手で性格の相性も悪くない、それなりに会話も弾む。ならば情の一つや二つ沸いてくるのは自然なことなのだと胸のうちで苦笑する。紛れもなく、八雲藍は親愛のような感情をあの鴉天狗に抱いているのだ。

 しかし、それでもーーー。

 

 

「私は式神ですよ、主人(あなた)のお側に仕えること以上に幸福なことはありません。どうかご命令を、我が主」

 

 

 そう言って、九尾の妖狐は微笑んだ。

 何人もの人間の王を骨抜きにし、人の世を乱した伝説の大妖怪。強すぎる妖力は同族を遠ざけ、妖獣であるが故に人にも受け入れられることは無かった。それ故に財宝も権力も地位も、何もかもを手に入れておきながら空っぽだった心。そんな自分に居場所を与え、心のスキマを埋めてくれたのが八雲紫である。この主のためならば、自分は何を犠牲にしても構わない。

 

 もう少しで『友人』となれそうな白い少女との繋がりさえ切り捨ててみせる。そう決意を見せた自分に対して、ほんの僅かに残念そうな表情を覗かせた主の顔に藍は気がつかないふりをした。

 

 

 

 

 

 

 

「ーーーーやはりお前は大したヤツだな、『刑香』」

 

 

 そして月下の雲上にて、藍は己の主を受け止める。

 白い少女が放った一撃は、防御のために張った結界を根こそぎ喰い破って八雲紫へと届いていた。ナイトキャップに似た帽子は吹き飛ばされ、豊かな金髪からは流血が滴り落ちる。どうやら頭に攻撃が入ったようで、主人は身体を藍の腕に預けたまま動かない。気を失っているのだろうか。

 元々、冬眠から目覚めたばかりで本調子ではなかった。特に精神は別人と思えるほどに弱まっていたし、妖力も多少は制限があっただろう。それでも、よくもまあ一矢報いたものだと思う。九尾たる自分でさえ極めて困難なことを、あの少女は成したのだ。

純白の翼は月明かりに照らされて、淡い黄金に輝いていた。しばらくその姿を視界に捉えてから、藍は静かに語り出す。

 

 

「仲間に助けられ、友に導かれ、仇敵に見染められ、お前はここにいる。なるほど確かに独りでは非力そのものだが、他から光を受けて輝く姿は月にぞ似る。お前の在り方は妖怪としては異端ではあるが、眩しいな」

 

 

 ただあるだけで輝く太陽のごとき翼を持った父親や祖父とは違い、自らだけでは輝けぬ月のように白い翼を持って生まれてきた少女。その腰には文とはたてから託された葉団扇、胸元には霊夢から送られた博麗の護符、そして片腕には河童の錫杖と宿った鬼のチカラ。それらは困難を乗り越えて多くの者たちを味方に付けた証である。そして、それこそが白桃橋刑香の在り方なのだろう。

 願わくば、自分もその中にいたかったかもしれない。そんな気の迷いを再び切り捨てて、藍は空中を指でなぞって術式を結ぶ。

 

 

「ーーーー来い、橙!」

「ニャッ!」

 

 

 呼びかけに応じて、開かれたスキマから一匹の黒猫が躍り出る。そしてクルクルと空中で回転し、四足の獣は姿を変化させつつ九尾の隣へとしなやかに着地した。八雲藍とお揃いの帽子と、赤いワンピースから覗く二本に裂けた尾が特徴的な式神少女。

 

 

「はいっ、藍さま!」

 

 

 化け猫の式、(ちぇん)がそこにいた。

 吸血鬼異変でも、霊夢と一緒に留守番をさせられていたくらいには未熟で大切にされている九尾の式。『四季桃月報』を読み書きの教材として藍が使ったこともあり、刑香とも顔なじみである。九尾の妖狐は主を抱えたままでしゃがみ込んだ、黄金の瞳が幼い少女を優しげに映す。

 

 

「しばらくお前に紫様を預ける、全霊を持ってお守りして差し上げるんだぞ。こっちの戦いは私が引き継ぐ」

「え、でも‥‥‥わかり、ました」

「すまないな」

 

 

 ボロボロの刑香を目にして、辛そうな表情を見せたが橙はすぐに主人の命令を実行する。藍が抱えていた紫を託されて、緊張しながらその身体に触れていた。背丈に差があり過ぎるので子猫は、主人の主を上半身だけ背負って支える。それを見届けてから九尾は白い鴉天狗へと向かい合った。

 

 

「さて、待たせてしまったな。ここからは私がお前の相手をしよう、刑香」

「上等じゃない、主従共々ふっ飛ばしてやるんだから‥‥‥覚悟しなさいよ」

 

 

 片腕は力無くぶら下がり、妖力もほとんど感じなくなっている刑香。さっきの一撃の反動で肩が砕けてしまったのだろう。紫の結界を打ち砕くほどの腕力を華奢な身体に乗せたのだから無理もない。鬼のチカラは鬼の強靭な肉体にあって、初めて全力で運用できるのだ。これでは勝負にならないだろう、そんなことを藍は考える。

 

 

 この空間を隔離していた結界に亀裂が走ったのは、そんな妖狐の指先が術式を結ぼうとした瞬間だった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「やっぱり、天狗の妖気を追いかけてみても結局はここに着くだけね」

 

 

 空中に静止しながら、幼い巫女は肩を落としていた。

 どうにか気配を追ってたどり着いたのは妖怪の山、周りには白い鴉天狗の気配は欠片もなかった。雨は降り止まず、水を吸った前髪が顔にへばりついてくる。鬱陶しいとばかりに、結界を張ることで雨粒を打ち払う。

 

 やれやれと、そのまま霊夢は周囲を見渡しながら空中での雨宿りを始めることにした。

 勢いよく寺子屋を飛び出して来たまでは良かったが、こうも天候が悪くては刑香を探すどころではない。それに何度やり直しても、この山にいる他の天狗たちの妖気に惹きつけられてしまう。だが、しばらく考え込んでから霊夢は人並外れた直感で一つの推論に思い至る。

 

 

「もしかしたら、紫と刑香はこの山の周辺にいるんじゃないの? それなら私がここに惹きつけられるのも納得がいくわ」

 

 

 灰色の空から降る雨粒は、これでもかと言わんばかりに視界を覆い隠している。時折、ホタルの光よりも頼りない月光が漏れ出るだけの暗闇の世界が目の前に広がっている。もちろん周囲には白い翼とスキマ妖怪の姿はない。それでも間違ってはいないはずだと、巫女の勘は告げている。

 こういう時は考えるよりも感じるままに、ただ行動あるのみだ。結果は後から付いてくる。

 

 

『そーなのかー』

『いやぁぁああっ、何なのよコイツはーーー!?』

『は、早く走って逃げましょう!!』

 

「…………ちっ、こんな時に」

 

 

 降りしきる雨の中から、聴こえてきた声は三つ。即座に少女の瞳は足元に広がる山へと向けられ、そのまま何かを探すように視線が動いていく。どこにいるのかと、僅かな妖気と気配だけを頼りにして広大な夜の森を感覚だけを使って捜索する。

 目的のモノはすぐに見つかった。

 

 

「こんな時間に『人間』がこんな所を出歩くなんて、喰ってくださいって言ってるみたいなモノじゃない。せっかく新聞で人里へ注意喚起してもらったのに無駄だったのかしら。よりにもよって忙しい時に‥‥‥」

 

 

 面倒そうな様子で頭をかく霊夢。

 辺り一面はとっぷり暮れた闇の中、足元にあるのは鬱蒼とした深い木々の森。視覚はまるで役に立たず、聴力は雨音で遮られている。妖怪であるならともかく、人の子では何かを見つけるなど不可能なはずだ。

 何も見えてはいない、何も聴こえては来ない、しかし幼い博麗の巫女は暗い森の中で逃げ惑う『人影』を感知していた。ここまで来るともはや理論では成り立たない、そんなモノはこの少女には通用しない。

 雨水で濡れたお祓い棒を一閃し、霊夢は一直線に空から地面へと降下した。

 

 

『食べていい人間は珍しいの、だから大切にいただきま‥‥‥‥ふぇ?』

「ーーー待ちなさい」

 

 

 踏みつけた水たまりが飛沫を上げる。

 木を背中にして追い詰められていた人間は二人、それを追いやっていたのは小柄の妖怪だった。その間に霊夢は泥水を跳ね飛ばしながら着地する。そのまま素早く御札を取り出して周囲へと浮遊させ、少女は戦闘態勢を整える。鴉天狗との戦いでは不覚をとったが、もうあんな醜態を繰り返すつもりはない。

 それに対して、黄色い髪をした妖怪はコテンと首を傾けた、その仕草は幼い風貌と相まって脅威をまるで感じない。

 

 

「どうして邪魔をするの、博麗の巫女?」

 

 

 人喰い妖怪、ルーミアは鮮血のように赤い瞳を丸くする。敵意はなく、かといって友好的な色も宿っていない視線。背丈は今の霊夢と同じかそれよりも低く、妖力も紫や藍とは比べるまでもなく小さい相手。身につけた白黒の洋服とスカートや、頭にリボンのように結びつけられた御札のこともあって人里の子供たちと同じくらいの年齢に見える。

 

 

「逆にどうして邪魔されないと思ったのよ。流石に目の前で人喰いをやられたら目覚めが悪いわ、さっさと去りなさい」

「そーなのかー」

 

 

 そんなルーミアの周囲を黒いモヤが覆っていく。

 ここは星空は厚い雲に覆い隠され、光がほとんど無い山林の中である。その夜を暗闇よりも更に濃い『闇』が上から塗りつぶしていく。コイツはそこそこ有名な『闇を操る程度の能力』を持つ人喰い妖怪である。まず戦闘になったとしても負けることはないだろうが、霊夢は油断なく霊力を高めていく。

 背後にいた人間たちから悲鳴が上がったのは、そんな緊迫した空気が漂い始めた頃だった。

 

 

「ど、どうしようっ、あの紅白の子供も私たちをパクっとやっちゃう感じの妖怪なのかしら!?」

「どう見てもここはヒーローが駆けつけてくれたシーンに決まってるでしょ、不吉な例えは止めてよっ!」

 

 

 僅かな会話にどうしようもない違和感を覚えた。

 基本的に紅白の巫女服は『博麗の巫女』が代々受け継いできたもので、自分を知らない幻想郷の住民は一人もいない。妖怪に襲われていた人間が霊夢の姿を目撃したなら、その者は「助かった」と安堵する。それが普通の反応だ。

 それなのに今、自分の後ろにいる人間たちは博麗の巫女を妖怪と見なすような言葉を吐いた。幻想郷にて暮らしている人間ならば決して口にしないことを。ならば考えるまでもなく、自分が助けようとした者たちはーーー。

 

 

「アンタたち、外来人ね」

 

 

 振り返った霊夢の瞳に映り込んだのは二人組の少女たち。

 紫色のワンピースを身に身を包んだ大人しげな娘と、そして白と黒を基調とした洋服と帽子を身につけた茶髪娘だった。雨に打たれて水浸しの泥まみれ、それでも二人の服装は人里で暮らす住人たちとは比べ物にならない程に高価そうに見える。これなら別に助けなくても良かったかもしれない、と霊夢は気の抜けた溜め息をついた。

 

 

 

「お寺にいたはずなのに私たちどうして森の中で迷子になってるのよ、メリー!?」

「私だって知らないわよ蓮子!」

 

 

 いつの間にか雨は止んでいた。霊夢が博麗の巫女となってからの初めての幻想郷への迷い人。何かの拍子に境目の結界を踏み越え、或いは『導かれ』て招かれた厄介者。

 

 幻想を暴きし者たち秘封倶楽部、マリエベリー・ハーンと宇佐見蓮子は今ここに幻想入りを果たす。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十六話:その導きは星辰の下に

 

 

 遠く耳鳴りが、木霊(こだま)している。

 

 痛いくらいに全身を打ち付ける雨粒の中、舗装(ほそう)されていない剥き出しの地面の上に自分は立っている。狂った狼のように叫び続ける木々の音、靴を呑み込む泥の路。まるで悪い夢のような光景だ、どうしようもなくマエリベリー・ハーンは途方に暮れていた。

 夜の大気は肌を冷たく刺しては荒れ狂い、風雨を避けるための人工物はどこにもない。大都会で暮らし慣れていた人間にとって、ここはあまりにも現実離れした空間である。

 

 

「ここは、何処なの‥‥‥?」

 

 

 ぼんやりとした声が夜風に(さら)われて砕かれる。頭痛のような耳鳴りは酷くなり、熱に浮かされたように思考がかき乱されていく。この雨のせいで風邪を引いてしまったのかもしれない、メリーは頭を押さえて立ちすくむ。ちょっとだけ泣いてしまいそうだ。そんな弱気な少女に代わって、隣にいる友人が白い息と共に言葉を吐き出す。その瞳にはメリーとは違う熱が宿っているように見えた。

 

 

「ねぇ、メリー。今の今まで私たちはお寺にいたはずよね。間違えても登山なんてしていなかった、そうよね?」

「‥‥‥ええ、私たちはランチに何を食べるのかを話しながら仏像を眺めていたはずよ。少なくとも山に踏み込んだ覚えはないし、夕暮れを通り越して夜になるほど、無邪気に会話を楽しんでいたわけでもなかったわ」

「そうよね、そう、よね」

 

 

 帽子を押さえながら、蓮子は弾んだ声を漏らす。

 化学物質で汚染も洗浄もされていない雨が打ちつけられ、豊かな土の香りが立ち昇る地面。人の手が入れられた痕跡はなく、のびのびと枝を伸ばしている大樹たち。そして街灯の一つ存在しない自然は身震いするほどに澄み切った暗闇を生み出している。それらは自分という存在が呑み込まれてしまいそうな恐怖さえ、感じさせた。

 ここはきっと恐ろしい場所、人間が踏み入れてはならない領域だ。小さく震えたメリーは蓮子の上着を掴もうと手を伸ばす。

 

 

「ねぇ、蓮子。ここはもしかしたら‥‥」

「メリー、あそこの木の下に誰かいる。原住民に違いないわ、話を聞きに行くわよ!」

「あ、ちょっと待って‥‥‥待ってよっ!」

 

 

 もう少しで届きそうなタイミングで、何かを見つけたらしい友人が歩き出してしまった。伸ばした指先は虚しく空を切り、こちらを振り返ることなく蓮子は進んでいく。そんな後ろ姿を眺めつつ、メリーは震える自分の身体を抱きしめた。冬の雨で濡れた服はとても冷たく、心まで凍てついてしまいそうだ。赤くなってしまった手のひらに、はぁと息を吐いてからメリーは友人の後に続いた。

 親友は木の下にいた少女へと遠慮なく話しかけている。

 

 

「おーい、そこのお嬢さんっ。ここが何処なのか教えてくれないかしらーー?」

「わはー?」

 

 

 どこか場違いな存在がそこにいた。

 こんな暗闇の中、雨宿りをしていたのは小さな女の子。十歳にも満たないくらいの背丈と、黄色い髪を結んだ赤いリボンが幼い印象を与えてくる。わずかに驚いた表情を見せてから、少女は曖昧な笑みを浮かべ始めた。親とはぐれた迷子だろうか、しかしワンピース姿でこんな山に来るのは妙だ。そんな疑問を痛む頭で思い浮かべたメリーだが、ズンズンと蓮子が女の子へと近づいていくので後を任せることにした。

 

 

「いやー、突然ごめんね。ちょっとお姉さん達さ、道に迷っちゃったみたいなのよ。よければここが何処なのか教えてくれないかしら?」

「お前たち天狗にでも拐われて来たのか?」

「なるほど、確かに鴉天狗と関係のある仏像を見ていた身としてはあり得ない話じゃないかもね。ところでお嬢ちゃんのお名前は何ていうの?」

「私はルーミア」

 

 

 ルーミア、それは『光の芸術』を意味する言葉。

 左右も分からず暗闇の中へ放り出された自分たちにとって、この少女と出会えたのは確かに光明なのかもしれない。そんな救いを感じさせる名前だった、コテンとルーミアは可愛らしく首を傾ける。

 そんな少女へと手を振ってから、メリーは力無く大樹に寄りかかった。雨に濡れて体温は下がっているはずなのに身体の中には熱が溜まっている。情報収集は友人に任せよう、気怠さに耐えられそうもない。風邪をひいてしまったのかもしれないわね、と頭上を見上げて額を押さえた。

 隣では蓮子とルーミアが会話を続けている。

 

 

「つまりルーミアちゃんの話を纏めると、ここは天狗の支配する『妖怪の山』ってことなのかしら?」

「うん」

「うーん、確かノートにも書いてあったわよね。天狗の住む山の話と、山を治める『天魔』って天狗の親玉の話があったはず。なら私たちは探し続けた『幻想郷』にいるということになるけど、どうして突然入り込めたのかしら?」

「ねぇ‥‥‥蓮子、私、もう‥」

「分かってるわ、メリー。おぶってでも二人一緒に山を降りるから安心しなさい、絶対に大丈夫だから‥‥ルーミアちゃん、この山を降りるにはどうしたらいい?」

 

 

 体調が悪いことに気づいてくれていた。

 決して見捨てない、その想いの込められた一言にほんのりと心が暖かくなったのは秘密だ。自分が逆の立場だったら同じ言葉を送れただろうか、きっとあんなに自信満々には口に出来なかったと思う。

 うさぎの薬売りにも会えそうねと二人は冗談めかして笑い合った。そうと決まれば道案内を頼むとしよう、蓮子はしゃがんでルーミアと目線の高さを合わせる。この方が小さな子供は話しやすいのだ。

 

 

「ルーミアちゃん、人里にはどうやって」

「そろそろいただきますをしていいのかぁ?」

「ーーーーッ!?」

 

 

 ぞっとする寒気を感じて、蓮子はルーミアから弾けるように距離を取った。実際の温度ではない、少女の纏っていた気配が大きく変わったのだ。毒薬を投げ入れられたような痺れ、刃物を首に突きつけられたような殺気、それが周囲の空気を汚染していく。

 闇を射抜くのは深紅の瞳孔、そもそも少女の視線には『人間が人間に向ける感情』が載っていない。あるのは棚に並んだお菓子の品定めをするように楽しげな光だけだ。それに気づいた瞬間、けたたましい警報が二人の脳内へと鳴り響いた。

 

 

 ーーーここがルーミアの言う通りに天狗の住まう危険な場所であるならば、どうして『当の本人』は平気な顔をしていられるのか。

 

 

 そんな当たり前の疑問が湧き上がり、二人は押し流されるようにお互いの手を取って雨の中へと駆け出していた。まだ寒さの残る春先である、冷たい雫はまぶたを貫いて眼球にまで染み渡ってくる。視界はぼやけるし、手足から感覚があっという間に奪われてしまう。せめて雨が止むまではあの場から動くべきではなかっただろう。それでも二人に立ち止まることは許されない。

 

 

「逃げるのか、そーなのかー」

「いやぁぁああっ、何なのよコイツはーーー!?」

「は、早く走って逃げましょう!!」

「もう全速力で走ってるわよ!!」

 

 

 地面に足をつけることなく、迫ってくるルーミア。

 どうして気付かなかったと二人は自分自身へと悪態をつく。どこの世界に大雨の夜に、こんな山をワンピース姿で登る幼子がいるというのだ。しかし逃げ出すのが遅れたのは仕方ないといえば仕方ない。いくら幻想郷について調べていたといっても、自分たちはまだ実際に会ったことがなかったのだ。

 上空から追いかけてくる少女の姿を見て、二人は心の中で愚痴る。いきなり『妖怪』に襲われるなど、予想出来るわけがないだろう。

 

 

「しんどいかもしれないけど、しっかり付いてきてよメリー!」

「う、うん!」

「わはー?」

 

 

 木々の間を縫うように蓮子がメリーを誘導しながら走り抜ける。二人の姿を見失い、ルーミアが困惑して速度を落とした。相手が空から来るのなら枝葉に紛れればいい、そうすれば空から追跡されても競り勝てる可能性はある。子供の頃に誰もが経験した鬼ごっこにおいて鬼を巻くコツの一つ、それは鬼の目を(くら)ませることに違いない。ここが奥深い山ということもあり、少しずつルーミアから距離を話していく二人。突き出た枝に引っかかれて腕は傷だらけ、何度も足を取られて転びそうにもなる。しかし、これなら逃げ切れるかもしれないとメリーは思った。

 前を走っていた蓮子が悲鳴を上げたのは、その瞬間だった。

 

 

「ぃ、痛った、ぁぁぁぁっ!!?」

「きゃ、ぁっ!?」

 

 

 悲痛な声を上げて前方へと倒れ込む蓮子。

 鉄臭い液体が飛び散り、巻き込まれたメリーも地面へと全身を打ち付けた。泥を拭って顔を上げてみると、蓮子は脚を押さえたまま動かない。歯を食いしばって痛みを封じ込めているようだった。今の衝撃で骨を折ってしまったのかもしれない、メリーはよろめく身体で立ち上がる。

 黒いモヤが立ち込めてきたのは、ちょうど蓮子を助け起こそうとした時だった。

 

 

「‥‥もう、追いついてきたのね」

「うん」

 

 

 自分たちを取り巻いた不自然なモヤ、形を持たない黒い霧が渦巻きながら人形へと固まっていく。見つめていると気のせいか息まで苦しくなってきた。そんなメリーの目の前で、ルーミアは海から上がってきた子供のように黒い闇をしたたらせて裸足で歩み出る。遅れて黒いワンピースが少女の身体を包んでいく。

 飴玉を頬張るように、ルーミアは口の中で何かを踊らせてからコクリと喉を鳴らす。それが済むと両手を合わせて無邪気な笑みを浮かべた。

 

 

「まずは少しだけ、ご馳走さまなの」

「‥‥お腹が空いているなら手持ちのお菓子をあげましょうか?」

「そうなのかー、なら食後の楽しみができたの。でも、こういう包み紙は不味いから要らない」

「っ!?」

 

 

 吐き出されたのは白い布。

 唾液でべとべとになり、所々が黒く変色した切れ端がメリーの足元へと落ちた。何だろう、見たところは服の切れ端に思えるが詳しくは分からない。そもそも、そんなものに気を取られている場合でもないだろう。ちらりと親友の方へと視線を動かしてみるが、まだ蓮子は痛そうに地面にうずくまっていた。よほど深く脚を切ってしまったのだろうか、そんな植物や石は無かったと思うのだが。

 そこまで考えてから、どっと冷たい汗が背中を流れ落ちる。

 

 

「ちょっと待って‥‥‥まさか蓮子、あなたの怪我って!?」

 

 

 妖怪の少女から後ずさりをしたメリーは親友の身体を思いっきり引き寄せた。そして友人の傷を確かめると、まるで獣に噛みつかれたように歪(いびつ)な牙の痕が膝下にある。ちろりと唇を舐めるルーミアの様子から確信する、さっきの布切れは食いちぎられた靴下だ。蓮子は直接触れられることもなく身体の一部を喰われていたのだ。おぞましい寒気がメリーを襲う。

 暗闇そのものが自在に動く手足であり、獲物を仕留める牙となる。そんな存在こそが『闇を操る程度の能力』を持つ、常闇の妖怪ルーミア。単なる人の子が抗うには少しばかり困難に過ぎる。夜という時間の中、こんなモノからどうやって逃げ切れというのか。

 涙を浮かべた蓮子が口を開く。

 

 

「ふ、ふふっ、やばいわよ。私たちの冒険はここで終わってしまうのかしら。どう思う、賢者メリー?」

「冗談が言えるようなら大丈夫そうね、まだ街に帰ってセーブする余力くらいはあるはずよ。ユーシャ蓮子さま」

「ははっ、違いないわ。でも、脱出用のアイテムくらい欲しいところ、ね。まだ動けるなら早く一人で逃げなさい」

「そんなのはお断り‥‥あ、結構言えるものみたい」

 

 

 小さく「馬鹿メリー」と呟かれたが後悔はない。

 どうやら自分たちは正反対なようでいて、似た者同士であるらしい。決して見捨てないという一言は蓮子から送られ、今はメリーから返された。後ずさりを繰り返し、遂に背中を大樹の幹にぶつけた自分たち。その視界を濃厚な闇が塗りつぶしていく。完全に景色が見えなくなってから、ぬるりと舌で舐められたような感触が首筋を伝う。ああ、これは駄目そうだと感じたのは果たして二人のどちらであっただろうか。

 クスクスと無邪気な笑みを顔に貼り付け、常闇の娘は夜を背景にして舞い踊る。その姿はもはや人の子たちからは見えていない。

 

 

「食べていい人間は珍しいの。だから大切にいただきま‥‥‥」

 

 

 赤い双眸は光のない海に堕とされた不知火のごとく。

 すでに闇へ囚われた少女たちの視界には映らない、だが『何か』から見られているという感覚だけは伝わる。それこそが妖怪の原点、いいようのない恐怖こそ人の子が妖怪を生み出した感情なのだ。

 可愛らしい八重歯を見せて、ルーミアは「大切にいただきます」と両手を合わせた。そして闇が少女たちを包もうとして、

 

 

 

 

 

「ーーー待ちなさい」

 

 

 

 

 閃光のごとき紅白が舞い降りた。

 ルーミアの時を遥かに上回り、空気が変わる。夜が明けて朝が訪れたかのように、劇的な変動が周囲を染め直す。人の子の危機に駆けつけたのは、人の守護者。お祓い棒が一閃されると、たちまちに周囲を淀ませていた妖気が取り払われていく。

 そしてメリーと蓮子の視覚は息を吹き返す。見回した風景には何でもない雨の森が映り込み、夜目はもう十分なまでに暗闇へと馴染んでいた。時間を巻き戻したかのような光景である。思わず涙がこぼれ落ちる。そして平穏を取り戻した二人へ不機嫌そうに言霊を投げかけてきたのは、不吉を払う紅白の巫女。

 

 

「アンタたち、外来人ね」

 

 

 その呆れたような表情と僅かな熱を帯びた焦げ茶色の瞳を、マリエベリー・ハーンはきっと一生忘れない。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「ああ、なるほど‥‥‥そういうことなのね」

 

 

 錆びついた天井が視界一面に広がる中、八雲紫は静かに白い吐息を漏らしていた。

 頭痛が酷いが、気持ちいいくらいに思考は纏まっている。刑香との戦いで自分があそこまで心乱されることになった理由と、たかが錫杖の一撃で結界を破られた原因に納得がいった。普段の自分ならば有り得なかった失態の数々はまるで人間の少女のような甘さと弱さ、その不可解な全てに答えが出揃ったのだ。横になったままで手のひらを窓辺の月にかざす。

 わずかながら妖力が回復したのを確認して、紫はため息をついた。

 

 

「今しがた何者かが幻想郷に入り込んだのは分かっていた。単なる迷い人ならば私にこれほどの影響を与えるはずもなかったけれど‥‥‥ああ、まさか『こんなこと』がありえるなんて思いもしなかったわ」

 

 

 そっと指先で虚空をなぞり、境界の線を引いてやる。それだけで頭を悩ませていた痛みと熱は消え去った。代わりに大切な扉の鍵を無くしてしまったかのような虚しさが心を吹き抜けていく。

 古きに生きる妖怪が『過去』に追いつかれた、そんなことは通常なら有り得ない。だが八雲紫は少しばかり特殊だ。捨て去ったはずの思い出は色鮮やかに甦り、忘れていたはずの記憶がから浮上する。これまで多くの出会いがあり、多くの別れがあった。だが始まりは『あの巫女』との繋がりだったのだ。忘れないと思っていたのに、こんなにも人の記憶は脆い。

 

 

「ゆ、紫さまっ。お目覚めになられたのですか!?」

 

 

 傾く思考を中断させたのは、開け放たれた窓から飛び込んできた見慣れた式神。茶色の毛並みと赤いワンピース、二本に分かれた尻尾が特徴的な娘が目の前でしなやかに四足で着地を決める。そして化け猫の少女、橙は心配そうな様子で主人の主人の元へと駆け寄ってきた。

 

 

「お体は大丈夫ですかっ!? あと紫さまの帽子を探してたんですけど見つからなくて、それに藍さまが‥‥‥むぐっ!?」

「もう少し静かな声を紡ぎなさい、せっかくの静かな夜なのだから」 

「ふ、ぁ‥‥ぃ」

 

 

 柔らかな指先が子猫の唇へと当てられた。

 寝起きの頭に次々と要件を叩きつけられるのはあまり気分が良いものではない。顔を真っ赤にして黙り込む橙を横目にしながら、紫はゆっくりと起き上がった。冷たい風が窓辺から入り込んで黄金の髪を波立たせる。ベッドの隣に備え付けられた鏡に映った姿には、帽子が無かった。そういえば、白い鴉天狗にやられたのを思い出す。

 

 ここはスキマから呼び出した列車の一つ、それも寝台特急の一室らしい。アンティークの家具が並べられ、小さな洗面台まで備え付けられている。外の世界を散策していた時、気まぐれに頂戴しておいた珍品だ。まさか自分が眠ることになるとは予想しなかったが。

 恐らく主人の主人を外に寝かせるわけにもいかないと考えて、橙がここまで運んできたのだろう。弾力のあるベッドに腰掛けながら「悪くない判断ね」と紫は呟いた。

 そのまま視線を何気なく窓の外へと向けてみる。月下の舞台では白い流星と黄金の太陽が、未だにぶつかり合っていた。

 

 

「まだ戦っているのね。藍の実力ならすぐにでも決着がつくはずなのに‥‥橙、どうしてなのか分かるかしら?」

「‥‥藍さまは刑香さんをなるべく傷つけないように、戦っているんだと思います。本気になれないから、まだ決着がつかないのではないでしょうか?」

 

 

 明らかに今の刑香は、白狼にも劣る速度しか出せていない。それでも九尾の式が攻め切れないでいるのは、傍目から見ている分には藍が手を抜いているようにも思える。しかしそうではないのだと、スキマの賢者は首を横に振る。

 

 

「『死を遠ざける程度の能力』は刑香が死に瀕するほどに回避率が上がっていく。あそこまで弱ってしまえば、殆どの攻撃は当たらなくなるのよ。だから藍は攻めあぐねているのでしょうね」

「じゃあ刑香さんはもう‥‥」

「安心しなさいな、そうなる前に決着はつくだろうから。あんなものは蝋燭の火が消える寸前に燃え上がるような一過性のものよ」

「でも藍さまは刑香さんと‥‥‥え、わひゃっ、紫しゃま!?」

 

 

 言い終わる前に、しなやかな両腕が幼い式神少女を包み込んでいた。

 

 

「今夜だけよ、少しの間だけおとなしくしていなさい。さっきまで私の帽子を探しに行ってくれていたお礼よ」

「は、はいぃぃ‥‥」

 

 

 膝の上に乗せた橙の身体を抱きしめる。

 すると二本の尻尾が左右へ行ったり来たりと揺れ動き、緊張しているのか猫耳がへにゃりと折れた。布越しに感じる体温は冷たい、こうなるまで帽子を探していたのだろう。お腹のあたりに腕を回しつつ、身体を温めてやる。本当に藍は良い式を持ったものだと少しだけ嬉しく思う。『優しさ』は術式としては打ち込めない、少しずつ学んで自分のモノにしていくしかないモノだ。だからこそ、それを最初から持つ妖怪は式神にするには最適なのだ。

 

 

「私は心の底でもう一人、式神が欲しかっただけなのかもしれないわね。ツンツンしているけどあの娘、羽も含めて本当に温かいもの‥‥」

「何のことですか、紫さま?」

「何でもないわ、千年に一度くらいの与太話よ。またいつか語ってあげるから、今宵のうちは泡沫の闇に溶かして忘れてしまいなさいな‥‥あら?」

 

 

 氷の華が春の日差しで溶かされて散るように、一枚また一枚と透明な花びらが窓枠へと舞い落ちてくるのに気がついた。手のひらで掴んでみると、どうやら空から剥がれた結界の残骸のようだった。先ほどまで『境界を操る程度の能力』が不安定だった影響だろう。このあたりを囲んでいた障壁の一部に亀裂が入ったらしい。

 ランプの火だけがゆらゆらと揺れ、カチコチと古時計が針を刻む夜の世界。星が語りかける静かな時間がここにある。しかし、そんな静寂はやはり長くは続かないだろう。なにせ侵入者を防ぐための防壁が崩れているのだ。間もなくして、何者かの気配を感じた猫耳がぴくんと立ちあがる。

 

 

「紫さま、ドアの外から足音が一つ。ゆるやかな速さでこっちに近づいてきてるみたいです。藍さまや刑香さんのモノでは‥‥ないです」

「あら、意外と早かったわね。刑香の妖気を辿れないように、敢えて鴉天狗の住処である妖怪の山の上空に陣取っていたのだけれど」

 

 

 古びた廊下を鳴らす靴の音色。橙の言う通りに数は一つ、聴こえるのは一本歯下駄の音ではないので寺子屋の教師かもしれない。彼女とていきなり目の前で知人を誘拐されれば黙っているわけもない。他の可能性としては霊夢だが、あの娘はまだここには来られないはずだ。

 様々な憶測を立てて、対策を組み立てていく頭脳。そんな紫にはお構いなく気配は部屋の前まで到着ていた。そして小刻みに戸を叩く音が三回、どうぞと促してやると扉が開かれた。その向こうにいたのは意外な人物だった。

 

 

「‥‥初めまして、スキマの賢者。頼んでもいないのに地上へとご招待いただき光栄の極みです」

 

 

 開いたドアの向こうから現れたのは、眠たげな瞳をした少女。そのまま拍子抜けするほど穏やかに一礼する。桃色のセミロングスカートの端を少しだけつまみ上げる一連の動作は、柔らかな物腰の淑女のようだった。そして夕焼けを連想させる瞳はある種のカリスマ性さえ感じさせる。噂されているような名ばかりの支配者とは思えない雰囲気である。

 そこにいたのは地霊殿の主、古明地さとり。

 

 

「意外な顔が来たものね。射命丸や姫海棠でもなく、霊夢や慧音でもない。あの娘と特別縁深くもない、地底のひねくれ者が先駆けて現れるとは思わなかったわ」

「ひねくれ者はお互い様でしょう、八雲紫。それに私は白桃橋刑香とはともかく、その祖父との因縁はそれなりにあります。部外者扱いはやめさない」

「それは失礼。ところで、どうやってここまで来たのかしら?」

「もちろん飛んできました」

「今のはそういう問いかけではないわ、どうやって『この場所』が分かったのかという話よ。それぐらい分かっているでしょう?」

「さて、どうでしょうか」

 

 

 のらりくらいと言葉が受け流されていく。

 胸元にあるサードアイがこの瞬間もこちらの思考を読んでいるのは分かっている。ならばこの娘は相手の求めることや言いたいことを理解した上で、会話を転がしているのだ。とても不快なことではあるが、紫とていちいち怒りを感じるほど狭量でもない。しばらくしてため息をついたのは、さとりの方だった。面倒なことに関わってしまったと、口に出さなくても嫌そうな目つきがそう語っている。

 

 

「はぁ、これ以上は言葉として紡ぐまでもないでしょう。このタイミングで貴女の前に私が現れた。ならば心を読めない妖怪であろうとも推測はできる、私の目的は火を見るよりも明らかです」

「いくら心を覗いたところで、火中に放り込まれた竹が爆ぜる方向さえ予測できない覚妖怪が大きく出たものね」

「ええ、まったくもってその通り。ですがたったソレだけの能力を恐れて、使いの天狗を地底に寄越したのはあなたです」

「理由ならありましたわよ?」

 

 

 ただ思考を覗かれるだけなら構わないが、もし博麗大結界の仕組みを持っていかれるなら酷いことになる。八雲紫の持つ秘術の悉く、洗いざらいを奪い取られるかもしれない。さとりを地上に召集しようとした折には、そんな警戒心がスキマの賢者を地上に縫い止めた。

 冬の間に行われた三羽鴉による地底録は、そもそも古明地さとりという一人の妖怪が原因で紡がれた物語であった。そんな思考を読んたのか、気だるげな様子で少女は語る。

 

 

「最初はここに来るつもりなどありませんでした、地上の揉め事に私が関わる義理などない。しかし、白桃橋刑香のことについて私は天魔に問いたださなければならない。どうして彼がこんな未来を選んだのか、その心の深きを」

「これからアナタは何をするつもりかしら?」

「この戦いを止めます、あの白い鴉天狗をまだ八雲の手に委ねるわけにはいかない。曖昧なまま、境界線の上に寝そべったままで終わらせてはならないこともある」

 

 

 それは不可能だ。さきほどの刑香には不覚を取ったが八雲紫はこの幻想郷でも指折りの大妖怪である。その実力は鬼の四天王に勝るとも劣らず、まして九尾の妖狐まで護衛として付いているのだから隙がない。どうやっても古明地さとりが勝てる相手ではない、まだ刑香の方がマシである。それが分からないわけでもあるまい、紫が呆れたように口を開いた。

 

 

「私や藍を止められるとでも思っているの? それとも地底から鬼の一匹でも用心棒として連れて来ているのかしら。大して違いはないけれど‥‥‥」

「ご心配なく」

 

 

 その時、ふわりと風が吹いた。

 それまでカーテンを揺らめかせていた窓辺のそよ風は突風に変わり、星明かりにほのめく窓ガラスを小さく打ち鳴らす。そして小石をぶつけられるような音が列車の床から伝わってきた。窓の外では雲が渦巻き、形を変えていっている。これは鴉天狗の妖力だ。

 すぐに紫の頭に思い浮かんだのは射命丸文と姫海棠はたて、あの二人が近づいてきているということ。ここに来る前に古明地さとりが話をつけておいたのだろう、あの二人なら「刑香が危ない」とでも伝えれば協力してくれる。しかし鴉天狗の小娘たちが加わったくらいで揺らぐほど八雲紫は弱くない。まとめて押し潰してしまえるだろう。

 まあ、この短時間で用意できる戦力などその程度だ。さとり一人であったなら、そうであっただろう。

 

 

 

 

「ーーーー私たち、星熊勇儀及び古明地さとりは連名にて、白桃橋刑香を『大天狗』に推薦する」

 

 

 

 

 

 大きく風の向きが変わった。

 地底の少女が取り出していたのは、星の文様が刻まれた書簡。にじみ出る妖気は確かめるまでもなく、旧友の鬼と同じだけの格を持つ四天王のモノであった。すでに開封されているらしく、そこに封蝋(ふうろう)はない。

 まるで合図をしたかのように数え切れない羽ばたきが夜の空を満たしたのは、唖然とした紫が何事かを口にしようとした瞬間だった。

 

 

「そういえば、言い忘れていたことがありました。私は初めからこの辺りにあなた達がいることを知っていました、助けに来るのが遅れたのは『彼ら』に話を通していたからに他なりません」

 

 

 地底の少女は一枚の写真をかざす。

 それは空が見えないと残念がっていた少女のために、撮影された大きな満月。はたての能力で先ほど撮られたものである。その中心には光を遮るように入り込んでいる黒点二つ。よく見なければ分からないが人の形で、それは紫と刑香であった。こんな偶然もあるのかと八雲紫が驚愕する。

 そうしている間にも羽が舞い散り、一本歯下駄がレールを踏み鳴らす。黒い鴉たちと白い狼たちが次々と雲を突き破って姿を現していく。一人一人が上級妖怪、この幻想郷で最大の勢力を誇る『天狗』がそこにいる。そして、さとりは穏やかな笑みを浮かべていた。

 

 

「かつての上役である鬼からのお墨付きを得た、そんな少女を見捨てることなど許されない。そんな天狗社会の上下関係を利用させていただきました、白桃橋刑香はもはや『山』と無関係の天狗ではありません」

 

 

 さとりの言葉に従うかのように百に届こうかという大軍勢の天狗たちが、瞬きの間に天上の月を覆い隠す。それは千年もの間、固まっていた時間が動き出した証。白い鴉天狗と山の長老との繋がりに火が灯った瞬間でもあった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十七話︰徒花とは成らずして

 

 

 スキマ妖怪が戦場を離れてそれなりの時間が経った。

 藍と刑香の戦力差は圧倒的で、しかも刑香は手負いの身。本来なら早々に勝負が着いていたはずだ。だが、二人の戦闘はまだ続いている。辺り一面には青白い狐火が押し寄せ、天つ風がそれを押し返さんと吹き荒れる。巨大な火の粉はデタラメな気流に乗って、舞い散る花びらのように燃え盛っている。静かな宵の空は、妖怪たちによって炎と風の舞い散る舞台へと変貌していた。

 

 

「で、りゃぁぁぁっ!!」

「来いっ、我が従者!」

 

 

 襲い来る炎を風で散らした刑香は、最高速度で錫杖を藍へと振りかぶる。だが、迎え撃つ九尾の手にあった神符、そこから這い出してきた『腕』に切っ先を弾き返された。傷ついた全身へと衝撃が走り抜ける。ブチブチと傷口から漏れ出た嫌な音、すぐに真っ赤な血がにじみ出てきた。

 

 

「い、っ‥‥‥くぅ‥」

 

 

 苦悶の声を漏らして即座に離脱する。

 ちらりと見えたのは、ぼんやりとした輪郭を持った『何か』だった。あまり悠長に確認してもいられない。痛む身体にムチを打って、どうにか速度を保ちながらバランスの崩れた体勢を引き戻す。ふらつく視界の中で見えたのは、先ほど亡霊のようだと思っていた何かが実体化していく光景だった。そして現れたのは、天狗である自分が最も恐れる存在。地底でも出会った脅威に声が震えだす。

 

 

「ここに来て、鬼な、んて‥‥‥」

「ああ、残念ながらその通りだよ。式神(ちぇん)ではなく、我が道具()である個体の一つ。その名はーーー」

 

 

 八雲藍を守るように立ちはだかる、たくましい二本の角を生やした怪物(おに)

 その名を『前鬼』、陰陽道において主を守る呪術の一つである。元々は妖怪退治のための秘術で、少なくとも妖怪が使っていいものではない。しかし八雲紫がそうであるように、式神である藍も習得しているのだろう。もしかすれば、鬼の亡骸そのものを素材にしている個体なのかもしれない。

 だとしたら無理だ。いくら鬼神である星熊勇儀のチカラが後押ししてくれているとはいえ、妖力が尽きかけた片腕の自分がコイツを倒せるわけがない。ギシリ、と鬼が筋肉を軋ませる音に思考が鈍る。

 

 

「こ、の‥‥‥‥‥くっ!?」

 

 

 背後から感じたのはぞっとするような殺気。本能的に軌道を修正した途端、そのままだと頭があったであろう位置を丸太のような豪腕が撃ち抜いた。それも近距離だ、掠めた拍子に純白の髪が二、三本、宙を舞う。大きく体勢が崩れ、巻き込まれるように錫杖が手から投げ出された。

 回収している余裕はない。また血の滲み出てきた脇腹を抑えつつ、敵の姿を確認しようと旋回する。視界に入ってきたのはもう一匹の『鬼』であった。うんざりした表情をした刑香へと、少し意外そうな様子で藍が口を開く。

 

 

「お前らしくもないが、どうやら知らなかったらしいな。前鬼と後鬼、この者たちは『二匹』いてこその術式だ。片方を従えているなら、その片割れが必ずいる。こんな程度で驚いているようでは、これより先は身が持たないぞ」

「っ、そんなこと知らないわよ。そもそも妖怪退治の術式を、どうして妖怪であるアンタたちがここまで使いこなして‥‥」

「これが八雲だからだ。私と紫様が織り成す幻想郷の一大勢力、妖怪でありながら妖怪を滅する術を持つが故に、我らは幻想郷の守護者足り得る」

「妖怪に馴染まず、かといって人里に深く関わることもない。アンタたちって本当に境界線の上にいるのね。それって、とても孤独なことだと思うけど」

「‥‥‥そうかも、しれないな。ああ、きっとそうだ」

 

 

 二匹の鬼が無言で立ちはだかった。

 前鬼と後鬼、それぞれが生前は名のある妖怪だったのだろう。亡者となって衰えているにも関わらず、伝わってくる妖力は並の天狗よりも格上だ。しかも小枝を弄ぶように、後鬼はこちらから奪い取った錫杖を手のひらの上で転がしていた。

 一手、また一手と追い込まれているのが分かる。それを如実に感じつつも、腰に差していた葉団扇へ刑香は手をかける。錫杖が奪われ、もう武器はこれしか残っていない。

 

 

「だからこそ紫様はお前を求めたのかもしれない、妖怪からも人間からも等しく距離をおいていたお前をな‥‥。このあたりで投了してみる気はないか、白桃橋?」

「ここまで来てそれはないわよ、それに紫にはアンタがいるし橙もいる。十分満たされているじゃない、そこに私は必要ない。そんなことはアンタが一番分かっているんじゃないの?」

「さて、どうかな。私の真意はどうあれ私たちに勝てなければ結果は同じだ。秘策の一つや二つは思いついてくれたか?」

「んなもんあったら苦労しないわよ」

 

 

 口ではそう言ってみる刑香だが、目の前の鬼だけなら倒す方法はある。

 勇儀と戦った時のように『死を遠ざける程度の能力』を流し込んでやればいいのだ。どこまで効くのかは流石にわからないが、少なくとも動きは封じられるだろう。そうすれば藍一人の攻撃をかわしつつ離脱できる。余力があれば、の話だが。

 それが無い以上は時間稼ぎに徹するべきだ。この周囲を覆っていた結界が崩れてきている今なら、逃げるための隙を見つけるまで粘ればいい。もしくはその前に慧音や霊夢、彼女らが呼び寄せた助けが来るかもしれない。しかし、そんな作戦を許すほど藍は甘くない。じっとりとした汗が首筋から流れてくるのを感じて刑香は「やっぱり見抜かれているみたいね」と呟いた。

 

 

「いくらでも会話には興じてやろう。しかし残念だが、こうしているだけでも戦局は私に傾くぞ」

「くっ、少しは手加減しなさいよ‥‥」

 

 

 狐火が夜の空を太陽の光で染め上げる。

 あまりにも膨大な熱に天狗装束からは白煙が上がっていた。汗ばんだサラシが胸元にへばりついて気持ちが悪い、こうしているだけで体力を奪われる。どうやら時間を引き延ばすだけでは意味がないらしい。

 妖怪でありながら、太陽の化身としての側面を持つ『九尾の妖狐』。そのチカラは夜を棲家とする妖怪たちにとって天敵だ。この周囲を覆い尽くす炎によって、更にチカラを絞り取られていくのが分かる。

 じわじわと眼球から水分が蒸発していくのを感じて、刑香の身体がフラつく。空での戦いで視力を奪われるのは致命的である、ひとまずは逃げるしかない。

 

 

「どうした、私は別に戦わなくてもいいのだが?」

「このままだと焼き鳥どころか干物になるでしょうがっ!」

 

 

 吸血鬼異変において、あらゆる属性を使いこなす魔法使いさえ打ち破ってみせた藍。しかし、彼女の戦い方は力押しに頼ることが意外にも多い。

 油断しているわけではないし、まして手を抜いているわけでもない。熟慮の結果として、藍はそうしている。

 ただ単に策を(ろう)するだけの必要性がない。圧倒的なチカラによる蹂躙、それだけで効率よく勝利を収められるのだから。

 

 

「これだから大妖怪って奴らは‥‥‥‥」

 

 

 思わず舌打ちをしてしまう。

 考えてみればフランドール、勇儀など今まで出会った大妖怪たちも同じだった。ただチカラを振るうだけで勝利する、その過程には一切の曇りがない。彼女らのソレは刑香ではいくら手を伸ばしても届かない領域だ。

 津波のごとく狐火が押し寄せ、牙をむき出しにした二匹の鬼が襲ってくる現状。正面から相手取るのは不可能である。雲海ギリギリを飛行していた刑香は葉団扇に妖力を流し込んで、振り向きざまに風の塊を藍の真下へと叩きつけた。

 

 

「まだ妖力が残っていたか‥‥!?」

「出し惜しみをしていられる状況じゃ、ないからね。かなり苦しいけどくれてやるわ」

 

 

 雲を利用した目くらまし。

 降り注ぐ狐火をも巻き込んで、小さな竜巻が九尾の狐へと食らいつく。雨雲を吸い上げて黒く染まった風たちがうねりを上げて藍を飲み込んだ。こんなモノで足止めできるとは思わないが、視覚くらいは封じられたはずだ。

 

 

「私の錫杖、返してもらうわよ!!」

 

 

 狙いは錫杖を持っている後鬼。

 急降下した先、レールへと降り立つと足袋から白い煙が吹き上がった。周りに浮かぶ炎によって金属の路線はうんざりするほどの高温になっている。はっきりと伝わってきたのは肉が焼ける感覚、あまりの痛みに足元が揺らいだ。だが、そのまま弱々しい掌底を鬼の腹へと叩き込む。

 

 

『ォ、ォオオオオオオッ!!?』

「悪いけど‥‥鬼と戦うのは馴れたものなのよ。鬼神さまのチカラさえ大きく削ぎ落とした私の能力、果たして鬼の亡骸なんかに耐えられるかしら、ねっ!」

 

 

 この世のモノとも思えない怨嗟の声。

 体内へと注がれた『死を遠ざける程度の能力』が鬼の肉体を打ち崩す。伊吹萃香と星熊勇儀、鬼の四天王でさえ身を焼かれたチカラに並の鬼が抵抗できるわけもなし。胴体から急速に広がった崩壊は止まることなく、それだけで後鬼は悲鳴一つあげずにその身を霧散させていった。

 だが鬼には鬼の矜持があるのだろう。せめて最後の拳をと、鬼は大きく肺を膨らませて全身の筋肉を脈動させた。

 

 

「‥‥‥させるわけにはいかないわ」

『ォ、ア?』

 

 

 剥き出しの喉元へと白い手刀が突き刺さる。

 能力のおかげで脆くなっていた皮膚だ。すんなりと指先から手のひらまでが鬼の肉体に入り込む。噴き出す血潮で紅く染まりながらも刑香はトドメとして更に能力を注ぎ込んだ。脱力し鬼の身体は灰となり、風に散る。最後まで残った目玉だけが恨みがましく少女を睨みつけ、やがて諦めたのか赤く爆ぜた。

 

 

「けほっ‥‥ここからどうしようかしら」

 

 

 その最期を見届けた空色の瞳に勝利の喜びはない。曇りなき色の少女が振り向いた先には、同胞を消されて復讐に燃える鬼。そして刑香が取り戻そうとした錫杖を、先にスキマで回収していた藍がいた。

 

 

 状況は、相変わらず絶望的である。

 

 

◇◇◇

 

 

「私が手こずったアイツをここまで簡単に‥‥見事なものね。実力以上、期待以上、彼女にしてみれば信じられないくらいの善戦じゃないかしら?」

 

 

 紅魔の大図書館。

 ゆったりと椅子に腰掛けながら、パチュリーは称賛の言葉を口にしていた。置かれた水晶玉には、どうにか鬼を撃退した白い少女の姿が映っている。先ほどまでは妨害されていたが、あちらの結界にヒビが入ったおかげで繋がったらしい。テーブルに刻まれた『遠見』の魔法陣は淡く輝きながら、中心に置かれた水晶玉へと映像を送り続けている。

 だが、まさかあの少女が八雲紫を一時的にでも、撤退に追い込むとは思わなかった。未だに信じられない気分である。テーブルを挟んだ正面、上機嫌そうに紅茶を口にしている吸血鬼へとパチュリーは怪訝そうな視線を投げかける。

 

 

「いつも以上に目つきが悪いわね。寝不足かしら、魔法使い様?」

「スキマの主従を相手にして、果たしてあの鴉天狗はここまで戦えるものかしら。もしかしなくとも誰かが、こっそり援護しているのではないのか。そういう仮説を立ててしまうのは自然だと思わない、レミィ?」

「ぷっ‥く‥‥‥‥あはははっ、それって本気で言っているのかしらっ? いやアナタはこういうジョークは思いつかない、大真面目で言っているに決まっているわよね!」

 

 

 テーブルの下で脚をバタつかせるレミリア。

 よほど可笑しかったのだろう。両手でお腹を抱えたまま、顔を伏せて子供のように笑い転げていた。そこまでされる意味が分からないと、パチュリーは首を傾げる。自分は何か可笑しなことを言ったのだろうか。目元に浮かんだ涙を拭いながらレミリアが起き上がったのは、それからたっぷり数秒後のことだった。

 

 

「あー、お腹痛い。アナタにこういう形で不意打ちを喰らわされたのな初めてね。油断していたわ」

「狙ってやったことでもないし、別に嬉しくも何ともないわね。意図せぬ結果というものは、現実にも魔法にも余計なモノだもの。それより鴉天狗をどうやって援護したのか教えなさいよ」

「今回に限って私は何もしてないわ。言ったでしょう、魔力に余裕がないの。今の私には運命操作が不可能なのはパチェだって知っているでしょう?」

 

 

 レミリアは嘘をついていない。

 親友なのだ、それくらいは分かっている。だがそれでも、あの娘がたった一人で八雲紫を撃退したなどと信じられるわけもない。吸血鬼異変において、レミリア・スカーレットさえ打ち破ってみせた幻想郷の大賢者。そんな化け物がパチュリーにとっての八雲紫のイメージだ。

 おまけに次はあの九尾と戦っている。先の異変で自分が大敗した相手で、伝説にて語られる九尾の狐。少なくともあの娘はそんな化け物たちと渡り合えるような天狗には見えなかった。

 

 

「でも、少なくない人妖のチカラを借りながらもあの鴉天狗は乗り越えてしまった。これでますます事態は混迷へと向かうでしょうね。何せ、この幻想郷で頂点に立つ存在の一人に一矢報いてしまったのだから」

「それでいいわ、千年分の遅れを取り戻すんだから引き寄せる運命の糸は多い方がいい。あの二人を同じ境界線に並べるためには、現状をかき乱す嵐はより大きく吹き荒れた方が良い」

 

 

 どこか遠くを見つめる二人の瞳。

 チェスで最初のポーンを動かした瞬間から、そのまま終局までの何千通りもの結果を一望してしまう。そんな先読みの紅い眼差し。きっと今、幼い吸血鬼には様々な運命へと繋がる選択肢が見えていることだろう。

 何千通りの理論から、蓄積された経験と知識で一筋の真実を導き出す。そこまでの過程を良しとする深い紫の眼差し。間違いなく、魔法使いの少女には最も困難な運命へと繋がる選択肢が見えているのだろう。

 

 テーブルの上では先ほどひっくり返した砂時計の砂が尽きようとしていた。さらさらと流れ落ちていく赤い粒子は上部にはもう殆ど残っていない。そのなだらかな表面を指先でパチュリーが撫でていると、レミリアが身体を乗り出して水晶玉をのぞき込んでいた。

 

 

 ーーどうやら、そろそろ時間切れのようね。ならばここからが運命の曲がり角、あなたの選択肢は果たしてどんな未来に繋がっているのかしら?

 

 

 そう心の中で呟いたパチュリーの視線の先。

 映像の中、白い花が散るように鴉天狗の少女が暗闇を裂いて墜ちていく。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 プツリと糸が切れた。

 少々思うところはあるが、表現としては適切だろうと藍は考える。本当に突然だった、まるで操り手を失った人形のように墜ちていく鴉天狗。スキマで拾い上げようとも考えたが、在りもしない罠の可能性が頭をよぎり間に合わなかった。そのまま線路の上へと受け身も取らずに身体を叩きつけ、刑香は二回三回とバウンドして白い羽を散らしていた。あまりにも無様、巣から落ちた雛鳥のごとき落下である。

 

 

「‥‥‥おい、白桃橋?」

 

 

 レールの上に倒れたまま白い少女は動かない。

 純白の翼は横たわり、手足を投げ出して立ち上がる気配すらなかった。「まさか」と血の気が引いたが、仰向けに倒れているために見える胸がわずかに上下しているのを確認して藍は安堵する。そして同時に感じたのは小さな失望だった。

 

 

「ここまで、か。しかし私たちを相手にして、よくぞここまで耐えたものだ。そう、私はお前を褒めるべきなのだろうな‥‥」

 

 

 思ったよりも長引いた。

 それが式神、八雲藍の抱いた率直な感想だった。自分たち主従を相手にして無事でいられる妖怪など、この地上には存在しない。まして刑香は紫との戦闘で消耗していた、ならばとっくに決着がついていて当然なのだ。

 

 だが、藍個人としての想いは違う。手元には黒ずんだ神符が残り、そこに後鬼はもういない。大量に霊力を注いでやれば元に戻せるが、修復には数日かかるだろう。ここまで見事にやられてしまったのは久しぶりだ。だからこそ必要以上に期待してしまった。もしかすれば、と思ってしまったのだ。

 ため息をついて合図をすると、前鬼が刑香へと近づいていく。

 

 

「妙な抵抗をされても面倒なのでな。すまんが、全ての武具は外されてもらう」

「‥‥‥はな、しなさいよ」

 

 

 乱暴に少女を持ち上げる鬼。

 あっという間に腰に差してあった葉団扇が弾き飛ばされ、刑香が持っていた最後の武器が雲の下へと沈んでいく。そしてその衝撃で帯が解けて装束が前開きになる。サラシ以外は何も身に着けていない純白の肌、相変わらず死の穢れも生の汚れも感じられない。魔性と呼ぶには清らかすぎて、かといって神仏の神聖さに近いわけでもない。なるほど、これでは天狗社会で良い扱いは受けられなかっただろう。

 大抵の場合、異端な存在というものは冷遇されるか、祀り上げられるかの二択なのだ。刑香はただ前者であっただけのこと、別に珍しい話ではない。

 

 

「ひとまずはこれにて閉幕だろう。早く紫様と合流しなければな。くれぐれも白桃橋のことは丁重に扱えよ‥‥‥前鬼?」

 

 

 鬼からの返事は、来なかった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「ーーーーこいしのバカッ、あのケーキは私のだって言ってたじゃない!」

「ごめんごめん、美味しそうだったから無意識に食べちゃった」

「うー、まさか何でも無意識だって言えば許されると思ってないわよね?」

「気のせいじゃないかなぁ」

 

 

 徹底的に破壊された本棚たち。

 数時間に及んだ壊す少女と壊れた少女との決闘はようやく終わりを迎えていた。つまらない理由から火のついたケンカだったが、結果はやはりレミリアの言っていたように痛み分けで鎮火したらしい。

 フランの『能力』は、こいしの『能力』を捉えきれず。かといって、こいしにフランを倒すだけの決め手はない。本気で戦えば決着はつくのだろうが、二人がそこまで熱くなるだけの理由もなかった。初めから遊びの一環だったのだろう。

 

 

「こっちと違ってあの二人は平和そうでいいわね、パチェ」

「そうね。じゃれついているのが瓦礫の上で無く、瓦礫が私の本棚でなかったのなら、さぞや心温まる絵面だったでしょうね。あまりの感動で涙が出てきそうだわ」

「魔女の目にも涙ってヤツかしら?」

「それをいうなら鬼の目よ‥‥‥はぁ」

 

 

 パチュリーがため息混じりに一言二言、呪文を唱えると図書館の再生が開始された。床に散らばっていたページたちはくるくると空中へと舞い上がりながら元の姿へと収束し、そうして修復された本たちはパズルのピースをはめ込むように自分の棚へと収まっていく。粉々になったモノであっても完全な形を取り戻させてしまうのだから、時間を巻き戻すのと大差がない。

 これだけでも、並の魔法使いでは一生辿り着けない領域である。そんな光景の中で無感動にパチュリーはレミリアへと、冷めた視線を傾けた。

 

 

「‥‥それで、どうするつもり?」

「別に何もしないわ。事の成り行きをただひたすらに、私は紅茶片手に観戦するだけよ」

「運命の袋小路は通り過ぎ、次なる道は示された。けれどもあの白い鴉天狗が本当に大天狗となるのか、それともイカロスの翼となってしまうのか、私にはまるで予測できないわ」

 

 

 それを聞いて小さく肩を竦めた幼い吸血鬼。

 銀色の髪を揺らし、紅茶のカップをコトリと置いて紅魔の主はため息をつく。もし大天狗となるならば、白い少女は本来の運命を取り戻せる。晴れて故郷へと戻り、何不自由ない生活が約束されるだろう。だが、組織の重役となってしまえば今までのような自由は許されなくなる。

 逆に、大天狗となる道を選ばないなら、あの老天狗との繋がりを修復するチャンスは二度と訪れない。

 

 

「どちらの運命も私の瞳には映っているわ、おそらくパチェも同じでしょう。どちらの未来を選んだとしても『別れ』が必ず待ち受けているってこともね‥‥‥まあ、古明地さとりは良くも悪くもやってくれたわ」

 

 

 もし今までと変わらないことを望むなら、

 白桃橋刑香を救い出すのは彼女の仲間たちで無ければならない。そうすればバカな騒ぎはここまでで、あとは吸血鬼異変や地底の喧嘩と同じような結末を辿る。八雲紫の企みは失敗し、胡散臭い笑みとともにスキマ妖怪は今回の騒動を誤魔化すだろう。元の生活に戻るにはそれしかない。

 

 そしてカタカタと震えだした水晶玉には、身体を両断される哀れな鬼の姿が映し出されていた。さて、どちらに転ぶのかとレミリアは送られてくる映像へと紅い瞳を瞬かせる。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 仕方ない、仕方なかったのだ。

 

 

 そう何度も心の中で呟く。

 かつての上役だった連中からの書状には『あの娘を大天狗に推薦する』という、頭を何かにぶつけたとしか思えない内容が書いてあった。若い天狗たちは先走っているようだが、古い組織の上層部にいくら欠員が出来ようとも後任は初めから決まっているものだ。家柄であったり、地位であったり、そういったモノで新しい大天狗たちは選出される。

 あくまでも勇儀に使いを送ったのは、顔を立ててやったに過ぎない。鬼が他種族の権力争いに興味を示すはずがないと高をくくっていたのだ。それなのに封を開けてみれば、思ってもみない名前が飛び出した。

 

 

 ーーーその手紙に名のある天狗は先ほど、スキマ妖怪に拐われたそうです。

 

 

 続けて告げられた古明地さとりの言葉。

 ただですら平静を欠いていた精神はそれで決壊した。ここまで動揺したのは跡取りを失って以来かもしれない。そこからは流れるように物事は進んだ。有無を言わせず部下たちをかき集め、鴉と白狼を問わずに腕利きの者たちを捜索へと根こそぎ動員する。

 途中、山に人間の娘たちが侵入したという知らせが入ったが無視した。そんなものに時間を消費している余裕はなかったからだ。「わざわざ追放者を助ける価値があるのか」と疑問を挟んできた者は、鬼からの書簡を理由にして黙らせた。そして手を尽くしても見つからず、徐々に焦りを感じ始めた頃に上空からわずかな気配を掴み取る。

 部下の制止を振り切って、老骨に鞭打って全力で空を駆け昇った。そして、

 

 

「ーーーーその娘に手を触れるでないわ!!!」

 

 

 男は一刀のもとに鬼を斬り伏せた。

 切っ先は止められることなく強靭な身体を両断し、そのまま迷いなく鞘へと収められる。『死を遠ざける程度の能力』の大部分を譲り渡したとはいえ、これくらいは可能だ。驚愕に表情を歪める鬼にくれてやる視線はなく、一切の戸惑いなく伸ばされた腕は投げ出された白い少女を抱きとめる。

 あまりにも軽く細い身体だった。傷だらけで血まみれで酷い有り様だ、しかし確かに生きている。それだけの事実が、どうしようもなく心を満たしていくのを感じた。

 

 

「やはり、来られましたか」

 

 

 そう口にしたのは八雲藍。

 仇敵の式神にして、本来なら跡取りと良き好敵手となっていたであろう存在。待っていたと言わんばかりの口調に、しかし男は何一つ言葉を返さなかった。老いた瞳は抱えられた少女から離れない。恐る恐るといった様子で空色の眼差しが向けられるのを、男はじっと見つめていた。ああ、こんなに近くでこの娘と目があったのは初めてかもしれない。

 

 

「‥‥‥天魔、さま」

「うむ」

 

 

 妖怪の山を支配する高位の妖怪、幻想郷における最大勢力である天狗。その上役たる八大天狗の総元締めにして、かつて天竜八部衆に名を連ねた仏法の守り神。この身を表す言葉は数あれど、この瞬間に名乗るべき名は一つだけ。

 

 

「今だけは白桃橋迦楼羅と呼ぶがいい」

 

 

 白い少女に向けて、老天狗はそう呟いた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十八話︰上下天光の名月夜

 

 

「刑香、本当にお前はあの娘に、お前の祖母に良く似ておるよ‥‥‥ケイカ」

 

 

 繊細で慈しむような瞳が、そこにあった。

 天狗たちを支配する大妖怪としての、あの絶対的な威厳に満ちた眼差しはどこにもない。目の前にあるのはどこまでも澄んだ色で、今にも泣き出しそうな光を宿した眼差し。その表情が嫌というほど胸を揺さぶってくる。紫の見せた夢の世界、あったかもしれない未来の光景と老天狗が重なっていく。

 

 どうして今更、そんな瞳を向けてくるのか。

 どうしてもっと早く見せてくれなかったのか。

 どうして最初からそうあってくれなかったのか。

 怒りより憎しみより、狂おしいほどの哀しみが沸き上がってくる胸を刑香は押さえ込む。

 

 

「天魔、さま?」

「うむ」

「迦楼羅さま?」

「‥うむ」

「お祖父様、なの?」

「‥‥う、む」

 

 

 答えに詰まる老天狗。

 それでも遠慮するように吐き出されたのは、紛れもなく肯定の一言だった。それっきり喉がしめつけられたかのように、刑香は続く言葉を失った。失われた時間はあまりにも長く、代わりに与えられた時間はひどく冷たいものだった。二人の親友たちがいなければ、とっくに自分は駄目になっていただろう。

 この男は鴉のように狡猾で、狼のように獰猛だった。無理やりに使わされた『死を遠ざける程度の能力』の反動で、どれだけ自分は寿命を失ったか分からない。もはや恨んでも仕方ない、だから憎悪は欠片も抱いていない。しかし、だからといって決して許せるものでもない。

 

 

「ーーーーこのぉっ!」

「ぐおわっ!?」

 

 

 ドンッ、と拳を老天狗の胸板に叩きつける。

 何度も何度も、抗議するように残り少ない腕力を振るう。気の利いた言葉なんて浮かんでこない、かといって恨み言を口にすることも出来なかった。あんな顔を見せられては出来るはずがない、千年分のお返しがこれっぽちしか許されないなんて本当に理不尽だ。

 自分ほどではないが痩せた身体だった。何度も死線を乗り越え、酷使し続けたのだろう。刑香の力でも多少は効いているらしく漏らされたのはうめき声。果たして衰えているのは肉体なのか、それとも痛むのは心の方なのか。どちらにせよ抵抗は一切なく、天魔は甘んじて刑香の殴打を受け入れていた。しばらくして息を切らした少女が顔を上げる。

 

 

「慧音から、アンタの真名を聞いて、それから色々とぶつけてやりたい言葉を用意、してたのに‥‥はぁ、駄目ね、一つも出てこないわ」

「そうか、ワシもじゃよ」

「‥‥まったく、今まで、本当に色々と疲れたわ。山では散々だったし、ようやく自由になったらなったで、どうして私なんかが、次々と大妖怪を相手取らなきゃ、ならないのよ」

「すまぬ」 

「今更謝らないで」

 

 

 言葉が続かない、緊張の糸が切れたせいだろう。

 今までこの老天狗の近くにいて、安心を覚えたことなどないというのに可笑しな話だ。今は心が穏やかになっていくのを感じる。そういえば肉体の方も随分と楽になっている気がする。

 確認してみると、いつの間にか全身から傷が消えていた。妖力もかなりの量が戻ってきており、能力も問題なく使用できそうだ。回復したというより、これは外部から治療されたといった方が正しいのだろう。その証拠に、老天狗の掌から膨大なチカラが自分へと流れ込んできていた。カチリと歯車がはめ込まれたように、身体の中で何かが回りだす。

 

 

「どうじゃ、少しは持ち直したかの?」

「‥‥何したのよ?」

「ワシの方に残しておいた『死を遠ざける程度の能力』をお前に移し替えた。これまで不安定だったお前のチカラも、これで少しは使い物になるじゃろうて」

「そんなことをしてアンタは、あなたは大丈夫なの?」

「ワシの心配は要らん。元よりお前のように能力が無ければ死に追いつかれるような存在でもないからの。この能力はお前が持っているが良い」

 

 

 長い年月を重ねたシワだらけの腕。

 刑香を抱きかかえながら、そんな手が純白の髪を優しく撫でつける。どこか遠慮するような手つきは少しだけ焦れったくて不器用だ。もし知り合いが見ていたのなら、刑香が霊夢の頭を撫でてやる時と似ていると指摘していただろう。性別も違えば、年齢も遠く離れている、妖怪としてもアチラは元神霊でコチラは殆ど単なる鴉天狗。それなのに、何気ない仕草は瓜二つとまではいかなくても何処か似ている。

 二人を観察していた藍だけが、そのことに気づいて小さく微笑んでいた。天魔がゆっくりとそんな式神へと向き直る。

 

 

「さて、待たせたな八雲の式よ。しかし随分と余裕だったではないか、ワシがこやつを治療している間に撃ち込んで来ないとは思わなかったぞ。手心でも加えたか?」

「いえ、あなたを通してしまった結界の穴を防ぐことに夢中で、貴方を仕留めるような隙があったとは気づきませんでした。それは惜しいことをしました」

「くかかっ、道理で口うるさい部下たちが昇って来ないわけよな。お主も気が利くようになったではないか、まるでスキマ妖怪のような演出をしてくれる」

 

 

 愉快そうに天魔が笑う。

 すぐにでも追いついてくると思っていた部下たちは足止めを食らっていたらしい。八雲藍がしばらく結界で押し留めていたおかげで、今この空には自分たちしかいない。だからこそ腕の中の少女を回復させることが出来たし、わずかだが言葉を交わすこともできた。「せいぜい感謝してやる」と天魔は藍へと心の中で礼を言った。

 しかしそれも終わりだ。雲の下から聴こえてくるのは風のざわめきと一本歯下駄の音。結界を破った部下たちが間もなくここへ押し寄せるだろう。刑香を抱えているところを他の天狗どもに見られるのは不味い。ひとまず腕の中から降ろしていいかと、天魔は語りかけた。

 

 

「飛べるか?」

「嫌よ、飛んでやらない」

「そのようなことを言うでない、このままでは多くの者たちに我らの繋がりが知られようぞ。そうなってしまえば、お前は‥‥」

「それでもいいって言ってるのよ。いい加減にお互い、逃げるのは止めにしましょう」

「‥‥」

 

 

 本当に良いのかと目線で問いかけると、夏空の碧眼は力強い光を返してきた。山の外に多くの仲間たちを持ったこの娘にとって、自分との関係は重荷でしかない。知られてしまえば後戻りはできず、その先にあるのは一本の細道だけだ。多少の違いはあれど行き着く果てはおそらくカゴの鳥。たった一人の爺のことなど忘れて、外の世界で生きて欲しいと思う。

 この少女はそれでも構わないという、いや乗り越えるつもりなのかもしれない。ならば自分も覚悟を決めねばならぬだろう。深く息を吸い込んでから老天狗は、その漆黒の翼をゆっくりと羽ばたかせた。

 雲上を遥かに超えて浮かぶ月、かつて息子が散っていった都があそこにある。跡取りが健在であったなら、自分たちは上手くやっていただろう。二人仲良く縁側で笑い合っていたかもしれない。云わば、アレは自分たちの運命を狂わせた分岐点。そんな月から降り注ぐ光の粒は、純白の翼を美しく輝かせている。

 しばらくして老天狗は力強く頷いた。

 

 

「‥‥承知した、今度こそワシはお前のチカラとなろう。だが、なればこそ自分の翼で飛ぶがいい。ワシに支えられたままでは格好がつかんだろう。まずは形だけでもワシと並び立ってみよ」

「そうね、そうするわ」

「ああ‥‥うむ、アレだ、気をつけるのだぞ」

「何によ、何に」

「風が冷たいだろう」

「いきなり過保護になったわね‥‥」

 

 

 翼を広げて老天狗の隣で刑香は羽ばたいた。

 次の瞬間には雲が引き裂かれ、次々と黒白の天狗たちが姿を現していく。そのまま二人を八雲藍から護るような位置で白狼天狗が前衛へ、鴉天狗が後衛へと展開していく。一糸乱れぬ風のようにレールを切断しては、狐火を薙ぎ払う。金属の塊と灼熱の炎が粉々にされていったのは、あっという間の出来事だった。

 そして彼らは誰からの指示もなく、陣を築き上げていく。一人一人が幻想郷でも上位の実力者、そんな妖怪のみで構成された布陣はそれだけで強固な結界のようなモノ。こうなってしまっては、八雲藍ですら迂闊に手を出せはしないだろう。

 その最前線で睨みを効かせているのは、柳葉刀(りゅうようとう)を勇ましく振りかざした白狼の少女。犬走椛は八雲藍と相対していた。

 

 

「指先一つでも妙な動きを見せたなら、この剣にて即座に斬り捨てる。せいぜい大人しくしてもらおうか、八雲の式殿」

「刑香たちが地底に出発した際に顔を合わせた娘か、だとしたら会うのは二度目だな。以前よりも血の気が多い眼差しだが、やはり剣を構えると違うのか?」

「下っ端は下っ端らしく、目の前の敵に食らいつくのみ。その在り方に不満はあれど、刃に感情を乗せるべきではないでしょう。ただ‥‥」

 

 

 真っ赤に染まった紅葉(こうよう)の瞳が九尾を射抜く。

 その実力を買われ、時には天魔の護衛として駆り出されることもあった椛。彼女もまた白い少女と老天狗との秘密を知ることになった一人である。慧音から話を聞いてすぐに山の警備を放り出し、白狼の中では誰よりも早く部隊を引き連れて刑香を探していた。どこか嬉しそうな様子で、そんな白狼の少女は耳を動かす。

 

 

「ただこういう場面では、どうも胸が高鳴りますね」

「修行不足だな、お互いに」

「ええ、そのようです」

 

 

 そう言って笑みを浮かべる二人。

 一触即発、今にも戦闘が始まりそうな緊迫した状況。だが、事情を知っている者とそうでない者には見える風景は異なるものだ。二人の繰り広げる親しみを込めた会話に部下たちが困惑する中、椛はちらりと後ろを振り返る。

 白狼と鴉天狗に護られた陣の中心、そこには普段からは想像もできぬ程に柔らかな表情をした天魔がいる。先ほどまでの鬼気迫る雰囲気が嘘のようだ。そんな光景を見つめるだけで悪くない気持ちになる。

 

 そして、天魔の肩には深紫の羽織が見当たらない。アレは上地と下地を合わせて織り上げる技法で仕上げられた一品物だ。わざと上地を薄くすることで下地から家紋を透かして見せる技法もまた用いられ、いつしか天魔の証として見られるようになった羽織である。

 それが今、白い鴉天狗の肩に掛けられている事実に椛以外の天狗たちがざわめき立っていく。

 

 

「‥‥思った以上に視線が痛いわね。この羽織は私が着たら不味かったんじゃないの?」

「くかかっ、この程度で参っていてはこの先が思いやられるぞ。ともかくお前は胸を張っていればそれでいい、あとは勝手に事が運ぶだろう」

「何か考えがあるの?」

「地底から客が来ている、お前もさぞや驚くだろう」

 

 

 刑香の肩で揺れている天魔の羽織。

 度重なる戦闘でボロボロになった天狗装束の上から、老天狗が自ら被せてやったモノである。天魔が常に身につけていたため神聖視され、いつしか他の天狗たちは似たものを決して作成しなくなった。云わば、それは天狗の長老の証でもあったはずだ。

 何故、それをあのような小娘に許したのかと天狗たちに動揺が広がっていく。ほとんどの者は「白桃橋刑香を探し出し、その上で丁重に保護せよ」とだけ命令を受けたに過ぎない。その先にある真実を知らされている者や、辿り着いた者は本当にわずかである。

 疑問に思えど説明はなく、長老は白い小娘と親しげに何事かを話し合っている。まるで自分たちは目に入っていないかのようだ。それに痺れを切らして、一部の天狗が天魔へと言葉を投げかけようとした。

 だが、

 

 

 

「その必要はまるでありませんよ」

「ええ、まったく無いでしょうね」

 

 

 

 まだ口にしていない言葉が遮られる。

 一斉に天狗たちが視線を向けた先、現れたのは目玉の浮かんだ不気味な空間だった。この幻想郷で長く過ごしている妖怪なら、誰もが知っているであろうスキマ妖怪の移動手段。そして式神である藍がすでに目の前にいる以上、そこから現れるのは八雲紫しか有り得ない。だが、スキマから歩み出てきた影は二つ。

 一人は八雲紫、そしてもう一人は桃色の髪をした小柄な少女。明らかに地上の者とは違う妖気、胸元にぶらさげられたサードアイが目を引く。その姿を目にした瞬間、天狗たちは顔をしかめた。

 

 

「アレは覚妖怪、ではないか」

「数百年も顔を見せなかった奴がいまさら何故、スキマ妖怪と共に現れる?」

「恐れ多くも地底の代表として、天魔様に謁見したという話は聞いていたが‥‥よもや此度の騒ぎを起こした元凶ではなかろうな」

「妹共々、つくづくと疎ましい姉妹だ」

 

「うふふっ、天狗たちから私以上に疎まれている妖怪なんて中々いませんわよ?」

「余計なお世話です、あと心の中でまで同じ言葉を繰り返すのは止めなさい。不愉快ですよ、八雲紫」

 

 

 見たくないモノを見てしまったと言わんばかりで、その上を飛び交うのは嫌悪を宿した言の葉。どんなにサードアイで見回しても、あるのは敵意が殆どだ。冷たい視線を浴びせかけられる中で、古明地さとりは「やれやれ」とため息をつく。余計なモノを視界に入れないように片目を閉じつつ、サードアイだけを白い鴉天狗へと動かした。

 

 

「しばらくぶりですね、白桃橋刑香」

「‥‥そんなに久しぶりって訳でもないわよ」

「いえ、ここまで状況が変わってしまっては地底での出来事を遠い過去だと感じても無理はないでしょう。少なくとも私の知る貴女はこんな騒動の中心になるような存在ではなかったですから」

 

 

 そう言って、古明地さとりは微笑んだ。

 そんな少女からは地底で会った時のような、陰惨とした影が少しだけ薄れていた。フランから聞いた話では妹と再会できたらしいのでそれが原因なのだろう。しかし、こんな敵意の満ちた中で涼しい顔をしていられるとは大したものだ。寄る夜風が肌に痛い、凍てつくような視線のいくらかが自分へと向けられている。それだけでも心が冷たくなるというのに、さとりは動じていない。

 だが向けられていない眼差しもあることに刑香は気づいていた。唯一、八雲紫だけは刑香を一瞥もしていない。

 

 

「司会役はお任せしますわよ?」

「最初からそのつもりです」

 

 

 さとりが取り出したのは鬼の書簡。

 すでに封は切られており、天魔のみが目を通し、そして紫に内容が伝えられたモノ。この場を収めるためには、さとりがもう一働きする必要があった。このままでは八雲と天狗、幻想郷でも屈指の勢力が衝突することにもなりかねないのだ。両陣営の及ぼす波紋は地底にまで伸びるだろう、それは地底の主として見過ごせる話ではない。

 

 

「さて、皆さま。望む望まぬに関わらず、暫しのご清聴をよろしくお願い致します」

 

 

 それに、妹と再会する切欠をくれた恩人たちを見捨てられるほど古明地さとりは薄情者ではないのだ。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「妖気の感触からして、このあたり‥‥‥!」

 

 

 灰色の雲を切り裂き、紅白の影が空の上を目指していた。

 さきほど頭上から感じた妖力の気配、それは探し続けていた妖怪たちの手掛かりだった。唐突に妖気だけが現れたということは結界を張り巡らせて、こちらの知覚をすり抜けていたのだろう。その術式が綻んだことで、はっきりと伝わってきたのは彼女たちの位置そのもの。場所さえ分かれば話は早い。

 

 

『ーーーあぁ、やられたみたい。容赦の無さは先代そっくりかもね、あなた』

 

 

 まずは迷い人を襲っていた妖怪を叩きのめした。

 強力な能力を持っていたわけでもなし、全力を振るった霊夢の前にルーミアは呆気なく敗れ去る。木に縛り付けられた常闇の少女は諦めたような表情で一言二言つぶやいて、だらりと手足をぶら下げた。その際に見せた雰囲気は、それまでの子供らしいモノとは一変していたが、時間がないので捨て置くことに決める。

 

 

『じゃ、私は急いでるから』

『ちょっ、このまま置いていくの!?』

『不安ならコレでも持ってて、結構強力なヤツだからあまり触らないで足元にでも広げといて』

 

 

 助け出した人間たちには護符を渡しておいた。

 結界と合わせておいたので、しばらくは大丈夫だろう。黒髪の少女の怪我はそこまで酷いものではなかったし、金髪の少女に至ってはほぼ無傷。身の安全さえ確保できたなら急いで人里に案内する必要はないはずだ。悪いが、今の自分にはやらなければならないことがある。

 

 

「まってて、刑香‥‥‥!」

 

 

 飛びつづていると雨が晴れ、雲のスキマから月光が霞んで見えた。

 結界で身を守りながらの上昇とはいえ、夜の空は容赦なく身体の芯を冷やしていく。雨粒のしたたる巫女服と、ずぶ濡れの黒髪には小さな氷が出来ていた。いつか白い鴉天狗と共に飛んだ秋晴れの空、ピクニックに出かけた日の思い出が心をよぎる。震えの止まらない身体を自分の腕で抱きしめながら、巫女の少女は飛ぶ。

 あの日のように、これからも一緒に幻想郷の空を見渡したい。たったそれだけの願いのために、自分は必死になっている。それは何て笑える話だろう。

 

 

「まったく可笑しな話、この私がどうしてここまでしてるんだか。やっぱり傷つけ合っているのが紫と刑香だからかな?」

 

 

 あの二人は少しばかり特別だ。

 守るべき人里の人間たちとは違い、魔理沙のような友人とも違う。もっと親密な感情を抱いている自分がいる。巫女として望ましくないことだろうが、今更なので見逃して欲しいと思う。一度でも大切だと思ってしまったのだ、どうしようもない。

 雨雲の中、自分の直感を信じて突き進む。更なる高空から伝わってきたのは刑香とは別の天狗の気配だった、もしかしたら二人が襲われているのかもしれない。大抵の相手を返り討ちにできる紫はともかく、刑香には複数の天狗と戦えるような力はない。嫌な予感がする。陰陽玉を周囲に浮かべ、霊夢は最大の警戒をもって最後の雲海を突き破った。

 

 

「紫っ、刑香っ、二人ともだい‥‥」

「ーーー以上、私たち地底は白桃橋刑香を次期上役、つまり大天狗へと推薦します。これは私、古明地さとりと星熊勇儀、双方の合意によりもたらされた最終的な決定です」

「‥‥じょうぶ?」

 

 

 静かな声が夜風に乗る。

 まず目に入ったのは、信じられない程に集結した天狗の大軍勢だった。鋭い牙をチラつかせた白狼たちが剣と盾を構えて周囲を固め、その後ろでは鴉天狗たちが風をまとった葉団扇を携えている。周囲を覆っているのは吐き気がするほどに濃い妖気、並の妖怪退治屋では意識を丸ごと刈り取られているだろう。コレはさすがに多すぎると霊夢が身構えた。だが天狗たちは誰一人として、こちらへ振り向きさえしない。

 それどころか、一部の天狗たちは何事かを呟き合っていた。

 

 

「ただでさえ大天狗の選出は難航しているというのに‥‥また鬼の気まぐれに振り回されるのか」

「よりにもよって追放された小娘を推薦してくるとは、勇儀様にも困ったものよ」

「いや、果たして本当に気まぐれか?」

「あの小娘がひょっとしたら天魔様の、ということか? ‥‥まさかな」

 

 

 その表情は苦々しげであったり、不敵な笑みを浮かべていたりと様々だ。しかしロクでもない内容であろうことは幼い霊夢にも理解はできた。口々に漏らされるのは暗い影が差した言葉たち、そこには自分たちの身を案じる以外の感情が載っていない。だが、そんな天狗たちの視線を辿った先、その中心に探し続けていた相手の片方がいるのを霊夢は発見した。ようやく白い翼を見つけて霊夢はほっと胸を撫で下ろす。

 

 

「よかった、刑香は無事みたいね」

「ふふっ、安心したかしら?」

「アンタも無事みたいでよかったわ、紫」

 

 

 ふわりと背中を包んだのは柔らかな感触。

 スキマから半身を乗り出した紫が、いつものように霊夢を抱きしめる。あまり心配はしていなかったが、こちらもやはり無事だったらしい。両腕から伝わってくる温かさに目を細めた霊夢はため息をつく。二人とも大事には至っていないと分かって、気が抜けてしまったようだ。

 

 しかし周囲はそうでもない。さとりが間に立っているおかげで戦闘自体は抑えられているものの、険悪な雰囲気は隠しようもなかった。そもそも、ここにいる多くの者たちは任務の詳細を知らされていないのだ。スキマ妖怪に拐われた白い鴉天狗を探せと命令されただけである。

 非番の者まで夜中にたたき起こされて、駆けつけてみれば、下位も下位の身分である小娘が天魔から直々に保護されている。おまけに鬼から『大天狗』への推薦を貰っていたなどと聞かされて納得できるわけがないのだ。

 今も凍てつくような視線が白い少女へと注がれている。

 

 

「大丈夫か、刑香?」

「平気よ、同族から向けられる悪意には馴れてるもの。これくらい何ともないわ」

 

 

 状況が飲み込めない。

 てっきり戦闘が行われるかと思えば、天狗たちとはにらみ合い。しかも初めて見る桃色髪の妖怪が口にしているのは『刑香を大天狗へと推薦する』という話。二人の無事を確認して安心していたが、段々と今いる状況が理解できないものであることに霊夢は気づく。何があったというのだろうか、背中に垂れかかってくる紫へと問いかける。

 

 

「ねぇ、これってどんな状況なの?」

「うーん、霊夢に説明するのは難しいかしらねぇ。でもたった一つだけ言えるとしたら、少しだけあなたは『遅かった』わ」

「なにがよ?」

 

 

 見たところ戦火が上がるようには思えない。

 それなら、いつものように紫がこの場を言い包めて霊夢や刑香を連れて撤退すればいい。どうして自分へと「遅かった」と手遅れのようなことを言ってくるのか分からない。少しだけ寂しそうな眼差しを紫が刑香へと向けているのかも理解ができなかった。そういえば、どうして刑香は天狗たちに囲まれているのだろうか。これでは自分は近づけない、触れられない。

 そんな困惑する巫女を一瞥して、天魔は口を開いた。

 

 

「‥‥八雲殿、この娘はこちらで預からせて貰う。これから要人となる可能性のある者を山の外に置いておくことは出来ん、異論はあるまいな」

「そうなる前に、刑香をこちら側に式神として引き入れたかったのだけどね。いえ、本当はこうなるのが正しいのかしら‥‥‥異論はありませんわ、天魔殿」

「ちょっと、待って、待ってよ‥‥‥何言ってんのよ!?」

 

 

 ごめんなさい、と聴こえてきた気がした。

 そしてその瞬間、足元の雲が吹き飛ばされる。晴れ渡った空には、取り残された雫が浮かんでは月光に輝いていた。まるで濡れたガラスのテーブルに光が反射されているかのように美しい光景が広がっている。

 止風雨の加護、それは迦楼羅王が持つとされる能力の一つである。妖怪の山一帯だけとはいえ、ここまで完全に雨雲を払えるとは凄まじい。上下天光、足元と頭上にはあまねく光が満ちている。そんな中で純白の少女だけは真っ直ぐに霊夢の瞳を見つめていた。

 何かを言おうとしたが、何を言えばいいのか霊夢には分からない。そうしている間にも紫と天魔の話はまとまっていく。

 

 

「まさか大天狗に勧められる程の娘とは知らず、無礼を働いてしまいましたわ。八雲として謝罪します」

「うむ、その件については我らも今宵知ったことよ。鬼の気まぐれもある、今回ばかりは致し方あるまい。娘も無事ゆえ特に天狗として言及はせぬよ」

「ええ、それではご機嫌よう」

「ああ、また会おう」

 

 

 気づくと藍に手を引かれていた。

 その隣には橙が涙をうっすらと浮かべて立っている、もしかしたら先にこうなると話を聞かされていたのかもしれない。紫が天魔へと優雅な動作で一礼し、そして三人を包むようにスキマを開く。その様子を見つめていた刑香は少しだけ寂しそうに微笑んだ。

 

 

「少しの間だけお別れよ。約束破ってごめんね、霊夢」

 

 

 最後に自分は何を伝えようとしたのだろう。

深紫の羽織を揺らした少女へと、何かを叫ぼうとした瞬間にスキマは閉じられた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十九話:別れ霜は香れども

 

 

 長い長い、夜が明けた。

 雲一つない空を染め直すのは、おぼろげな暁の薄明かり。夢の続きを促すような宵のまどろみが西の彼方へと押し流され、遅れるようにして爽やかな風が地上を吹き抜けた。小さな草花の芽吹く野原を揺らした朝の兆しは緩やかに幻想郷を満たしていく。

 幻想郷に住まう人間たちの朝は早い。水くみに畑仕事、炊事などの仕事は幾らでもある。人里にはぽつりぽつりと人影が現れ始めていた。何ということもない。

 妖の刻は終わり、今日もまた人の時間が巡ってきたのだ。

 

 

 

 

「‥‥‥そうか、アイツはここに帰って来ないんだな」

 

 

 うららかな日の光が差し込む寺子屋。

 涼やかな空気の中、頭に包帯を巻いた慧音はそう口にしていた。それは宵が地平の彼方に沈み、満月が空から消えた朝の刻。すでに一ヶ月に一晩だけのハクタクとしての能力は内側に潜んでしまっていた。

 昨夜、白狼たちから受けた傷は思ったより深い。一晩で全快とはならなかったようで、身体のアチコチには生々しい傷が残っている。完全に人の姿へと戻ってしまった以上、治癒力も大きく落ちた。あとは人間としての体力で回復していくしかない。そんなハクタク教師の隣には、紅白の少女が座っていた。

 

 

「お別れだって‥‥‥ごめんねって‥‥‥刑香が、言ったの。私、ちょっとだけ遅かったみたいで、わたしは‥」

「霊夢、お前は本当に頑張った。だからそんなに思いつめる必要はない‥‥ああ、違うな。お前はこんな言葉を欲しがっているはずがないのに‥」

 

 

 この身体では今日の授業は行なえそうもなく、寺子屋の軒先には「本日休校」の札が掛けられていた。傷の痛みに耐えながら慧音は布団から起き上がる。教師業は休むつもりだが、目の前で項垂れている幼い子供を放ってはおけない。

 

 

「‥‥参ったよ、昨日の今日でお前たち二人の泣き顔を見ることになるなんてな。私はまだまだ未熟者らしい」

 

 

 昨夜は空色の瞳で、今は赤みがかった黒い瞳。

 まさか顔見知りの涙を二日続けて流させることになるとは思わなかった。いつもの強気な巫女はどこかへやら、手のひらで目元を隠しながら霊夢は涙をこぼしている。

 正直に言うのなら、慧音はいつか二人に別れが来る可能性は予想していた。人間と妖怪、巫女と鴉天狗では立場が違いすぎる。いずれは霊夢が一人前の巫女になり、刑香がそれを感じ取って身を引く未来もあるだろうと。

 だがこんなにも早く、その時が訪れるとは思っていなかった。明らかに原因の一端は自分にある。

 

 

「‥‥すまない、私が迂闊だった。状況を見誤った、時期も逸していた。そのせいでアイツの過去を八雲殿に知られ、アイツと天狗の間にあった因縁まで再燃させてしまった。お前と刑香が別れることになった元凶は、私だ」

「‥‥‥あんたのせいじゃないわ、きっと紫のせいでも天魔のせいでもない。刑香が今まで抱えてきたものが表面化しただけ、いつか、遅かれ早かれ必ずこうなっていた‥‥‥はずだもん」

「霊夢‥‥」

 

 

 紅白の少女は強がって微笑んだ。

 確かに、今回のことは避けられない出来事であっただろう。地底にいる連中もそうだが、旧い妖怪たちの中には刑香の正体に気づいている者もいた。だから慧音が明らかにしなくとも、近い将来にはこうなっていただろう。それが分かっているから、霊夢は無理に自分を納得させようとしているのだ。

 この二人はもっと別の形で出会うべきだったのかもしれない。刑香が人間であったのなら、霊夢が天狗であったなら、姉妹のような関係になれただろう。そうでなくても巫女でなく、天魔の血縁でなかっただけでも、もっと穏やかな未来があったはずだ。

 窓の外へ視線を移すと、春の日差しの中で妖怪の山が白く輝いているのが見えた。上手くいかないものだな、と慧音は苦笑する。

 

 

「こうしていても仕方ない、とりあえず情報を集めてみよう。私は射命丸と姫海棠に話を聞いてみるとするよ。そろそろ次の新聞を届けにくる時期だからな。霊夢、お前も三羽鴉の発行する新聞のどれかは取っているだろう?」

「‥‥あの三人、じゃなくて三羽も妖怪だから監視の意味を込めて全員の新聞を見せてもらっているわ。人里に広める以上は巫女として手抜きはしてないわ。一応ね」

「くくっ、意外と厳格なのがお前らしい。特に四季桃月報には私はよく世話になっているよ。内容が授業にちょうど良いからな」

 

 

 幻想郷の自然などを中心に書かれた四季桃月報。

 発行頻度はひと月に一回程度で少ないが、幻想郷の自然についての記事は完成度が高い。草花の芽吹く春、深緑の薫る夏、紅葉の舞う秋、白い雪の眠る冬が鴉天狗ならではのカメラワークで収められている。その他にも地底の温泉を描いた記事もあったはずだ。過去の号は寺子屋の倉庫で多くが保管されている。派手さはあまり無いが内容は堅実で、記者本人の性格もあって人気はそれなりにある。

 ぐしぐしと手のひらで、霊夢は赤くなった両目をこすった。

 

 

「紫は私のために刑香を式神にして、八雲の勢力に取り込むつもりだったんだって教えてくれたわ。でも刑香の意志も関係なく、そんなことをするなんて間違ってると私は思ったのよ‥‥でも、ね」

 

 

 あの時、夏空色の瞳には決意があった。

 はっきりと霊夢を見据えて告げられたのは惜別の言葉。少なくとも問題が解決するまで、刑香は帰って来ないつもりだろう。しかし天魔との血縁が発覚し、大天狗へ選出され、それに伴って身に降りかかるであろう困難は多い。全て解決するのはいつになるのだろうか。

 数ヶ月後なのか、半年後なのか。それとも数年後かもしれないし、ひょっとしたら数十年後という可能性もある。人間と天狗の寿命の差は大きい。

 もう会えないかもしれない、そんな考えが涙腺を緩ませていく。頬を伝った涙がこぼれ落ち、畳を濡らす。

 

 

「私‥‥‥刑香が式神になっちゃってたら良かった、なんて今は思ってる。紫の作戦通りにそうなっていたら、ずっと一緒に、いられたんじゃないか、ってさ」

「霊夢」

「っ、私、自分勝手よね‥‥こんなのだから刑香も呆れて離れていったのかしら」

「落ち着け、博麗の巫女殿」

 

 

 包帯だらけの両腕が霊夢を引き寄せる。

 消毒のために染み込ませた酒の匂いが鼻をつく。伝わってくるのは刑香とは違う温かな感覚だった。まだ傷が痛むのに、慧音は苦悶の表情を浮かべながら霊夢を抱きしめてくれていた。すすり泣く声が止むまで背中を優しく撫で続けるハクタクの教師。しばらくして頭が冷えた少女が「もう大丈夫」と腕の中でつぶやくと、慧音はゆっくりと頷いた。

 そして無防備な霊夢の脇へと指が忍びこんだのは、その時だった。

 

 

「ーーーえ、なに、わひゃぁぁっ!?」

「あの刑香がそんな理由でいなくなるわけがないだろうっ。そんな下らない妄想をして、子供がいつまでも深刻な顔をするんじゃない!」

「ちょ、何すんのよーーッ。そこは弱いっ、弱いから!!?」

 

 

 真っ赤な顔で暴れる霊夢。

 そして部屋を満たしていくのは、幼い少女の笑い声。バタバタと手足を振り回すが、構わずに慧音はくすぐりを続ける。そして息切れを起こす直前、ようやく開放された霊夢はそのまま後ろへ力無く尻もちをついた。呼吸を整えながら、巫女はじろりとハクタク教師を睨みつける。

 

 

「はぁ、はぁ‥‥慧音、あんたねぇ」

「落ち込んだ時は思いっきり笑ってみると良い。どうだ、少しは気分が良くなったか?」

「こんな子供みたいな方法で何かが変わるわけないでしょ、私は巫女なのよっ!」

「少なくともお前はまだまだ子供だよ。形式的なものとはいえ、お前が正式に『博麗の巫女』として任命される式典だってまだ先だ。ひとまず刑香のことは私に任せて、そちらへの準備でもしておいたらどうだ?」

「今はそんなのに時間を使っていられるわけ‥‥」

「藍殿と刑香が苦労して整えてくれた、お前のための舞台なんだろう?」

「それはそうだけどさ‥‥何よ、大人ぶっちゃってさ」

 

 

 刑香が地底を訪れた理由。

 それは地底の代表者、古明地さとりを博麗の式典に『招待』するためだった。今は妖怪の山にいるようだが、いずれはさとりも神社に出向いてくるだろう。他にも八雲紫やレミリアを始めとする大妖怪たちが出席する。

 本来は巫女が代替わりしただけなら、ここまで大勢の有力者たちを集める必要はなかった。しかし今回だけは違う。

 

 これまでの幻想郷の形を変えてしまうルールが、その場にて話し合われる。

 

 命の奪い合いを『遊び』へと、実力よりも『美しさ』を重視し、そして肉体的な決闘を『精神的な勝負』へと変化させる。それこそが霊夢と紫が考案した『スペルカードルール』である。この幻想郷の存続のための話し合いに、有力者たちが集結するのだ。それがどうしたのかと口を尖らせる霊夢へと、慧音は続きを口にする。

 

 

「当たり前だが、式典には幻想郷最大の勢力である『天狗』たちも招かれている。それも天魔殿か、もしくは『大天狗』が出席する可能性は高い」

「‥‥そういうことね」

「ああ、上役が出てくるなら刑香にたどり着くチャンスはある。だから霊夢、今は博麗の巫女としてその日に備えてくれ。もちろん情報を集めるのもいいがな」

「うん、分かった。ひとまずは『そういうこと』にしてあげる」

 

 

 刑香が山に帰ったといっても、自分たちとの繋がりまで無くなったわけではない。今まで共にあった時間はここにある、それを灯りとすれば刑香へと続く道の一つくらいは見えてくるはずだ。まあ、あの刑香がこのまま大天狗を目指すかどうかは疑問は残る。あの白い鴉天狗は権力には殆ど関心がないだろうから。

 

 

「よーし、待ってなさいよ。絶対に手掛かりを掴んでやるんだから!!」

 

 

 腕を振り上げる幼い巫女は、ともかくやる気になったらしい。ひとまず文かはたてを取っ捕まえて情報を絞り出してやる、と恐ろしいことを言っているが慧音は気にしないことにした。元気になってくれたなら、それでいいと思いながら。

 

 その時、ぱさりと羽音が小さく空気を震わせた。

 

 そして軒先に止まっていた白いカラスが、妖怪の山に向けて飛んでいく。二人のやり取りを、空色の瞳をした使い魔が見守っていたことに霊夢と慧音は気づかなかった。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 いつの時代か、何処の場所か、何者かは書き残す。

 

 

『遥かに遠く遠く、人の及ばぬところ』

『夢か現か、妖怪が住まう幻想の(さと)

『現実に生きる愚者とは決して相容れず、外から招かれるは夢に沈む賢者のみ』

『七つ不思議の果ての果て、深い神秘の底にこそ幻想郷は存在する』

 

 

「‥‥何のことはないわ、よくある法螺話ね」

 

 

 古びたメモ帳は閉じられる。

 それは科学万能が掲げられて久しい現代において、あまりにも馬鹿げた妄想。この本も大学の寂れた研究室、その奥にあった本棚から出土した品である。まったく手入れもされておらず、崩れた表紙からは作者名が分からない。中身だって日焼けしており、読めなくなっているページも珍しくない。自分たちの入学が一年遅れていたら廃棄されていてもおかしくなかった。

 そうでなくても常人が手に取ったのなら、次の動作でゴミ箱に放り込まれている。まともな人間にとっての価値なんて一銭とてない、これは文字通りに無意味な書物なのだから。

 

 

「じゃあ、『まともでない人間』にとってコレはどう映るのかしらね?」

 

 

 古びたページを細い指が愛おしげに撫でる。

 そして快活な雰囲気をした黒髪の少女は片足をかばいながら、畳を踏みしめて立ち上がった。白い包帯が巻いてある下には、くっきりとした歯形が残っている。少女は昨日、まさに妖怪によって襲われたのだ。

 だがそんな宇佐見蓮子はプレゼントを貰ったばかりの子供のように、メモ帳を頭上に掲げて飛び跳ねていた。その表情に憂鬱そうな影は何一つ見られない。

 

 

「車も道路も高層ビルもない風景、そして妖怪やら空飛ぶ巫女がいるビックリ世界。ふ、ふふっ、私たち秘封倶楽部はついに『幻想郷』に辿り着いたのよ!」

「そうだと思うけど‥‥怪我したのに元気過ぎない?」

「仕方ないじゃない、こんなに楽しい気持ちはメリーと出会って以来なんだからさ。喜んでおかないと損よ、損。見たかっ、私たちを馬鹿にした科学サークルの部長め!」

「あ、それは同感」

 

 

 部屋の(ふすま)を開け放つ。

 流れ込んでくる自然の風とまばゆい陽光は、自分たちが今まで感じたことが無いほどに爽やかなモノ。サワサワと神社を囲む森が枝を鳴らし、所々から漏れ出した木漏れ日が地面に影絵を作り出す。都会では味わえない朝の気配がここにある、もはや自分たちの世界では失われた何かがここには息づいていた。そう、はっきりと分かるのだ。

 深呼吸をして、満面の笑みで蓮子はメリーへと微笑んだ。

 

 

「はしゃぎすぎている自覚はあるわ。でもね、こういう時は思いっきり騒いで笑ってやればいいのよ。メリーは思考タイプ過ぎるわ」

「まだ帰る方法も分からないのに‥‥ふふっ、蓮子といると退屈しないわ」

「でしょ? せいぜい感謝しなさいな」

「ぷっ、あははっ、もう蓮子ったら調子に乗らないのっ」

 

 

 つられてメリーも笑い出す。この親友と一緒なら、どうにか成りそうだと思えてくるから馬鹿らしいと思う。でも確かにここまで二人で辿り着いたのだ、なら二人で帰る方法をのんびりと探せばいい。今だけはそう考えていても良いだろう。

 

 

「確か、博麗神社だっけ?」

「そうね、ここの名前はそれで合ってるはずよ。私たちを助けてくれた巫女さんがそう言ってたんだし」

「あの子、メチャクチャ強かったよねー。ルーミアっていう妖怪が手も足も出ないんだもん。私は怪我の痛みのせいでボンヤリだけど、メリーはしっかり見てたんでしょ?」

「うん、凄かった‥‥けど、ちょっと怖いくらいだったかも」

 

 

 ルーミアから救い出されたメリーと蓮子だが、二人をここまで運ぶと紅白の巫女はどこかへ飛んでいってしまった。薬箱が置いてあったので、とりあえず蓮子の手当てはできたが何というか投げやりな対応だとメリーは思う。それほどに急がなければならない用があったのだろうか。

 それなりに大きな境内と本殿を持ち、周囲を木々に囲また神社はどこか陸の孤島のよう。この神社には人間も他の存在も、まとめて遠ざけようとするチカラがある。

 

 

「‥‥楽園の巫女様、か」

「ん? 何か言ったかしら、メリー?」

「何でもないわ、多分ね」

「それならいいけどさ‥‥おっと、こっちのタンスに新聞があったわ。ささやかな情報収集と行きましょうか」

「えっと、やり過ぎじゃない?」

「いいのいいの。後で直しておけばいいのよ」

 

 

 家主のいない隙に、手当たり次第に捜索をかける親友。後で元に戻しておけば大丈夫というのが本人の言い分らしいが、バレなければ何をしてもいいわけではないとメリーは思う。いつの間にか畳の上には紅白の巫女服や下着、何かの御札までぶちまけられている。

 これは触っても大丈夫なのだろうか。それにこれらをすべて元通りに片付けることが出来るのか。適当にタンスへ詰め込みでもしたら、持ち主からこっぴどく怒られるに決まってる。

 だが、蓮子はまるで気にしていないようだ。手にした新聞の束をメリーの方に手渡してきた。

 

 

「なになに、『文々。新聞』と『花果子念報』に『四季桃月報』か。それにしても三紙も取ってるなんてねぇ。私たちを助けてくれた子は随分な情報通みたいよ」

「うーん、何だか別の目的があるような気がするけど‥‥」

「まあ、とりあえず読んでみれば分かるわ。私はこっちの二紙に目を通してみるから、メリーはそっちの新聞をお願いね」

「はいはい、りょーかいよ」

 

 

 気のない返事をして、それをテーブルに広げる。

 上質な紙面はしっとりとした指ざわりで、インクのシミが一つも見当たらない。どうやら印刷技術は進んでいるらしい。この世界の雰囲気からして、せいぜい普及していても活版印刷くらいのモノかと思っていた。だが、この分だとオフセット印刷も使用されているのかもしれない。結論として、この世界の者たちの技術力は高い。そして肝心の中身の方だが、なかなかこちらも興味深そうだ。紫色の瞳が細められていく。

 

 

「四季の移ろいを捉えているのね。そして撮影者は常に一人で、自然の中に溶け込んでシャッターを切ってる。でも段々とそうではなくなってる‥‥のかしら?」

 

 

 徐々に色鮮やかになっていく写真。

 まるで記者である人物の心の変化を表しているようだった。美しくも寂しげだった風景には、新しくなるにつれて繊細な感情が多く見えてくる。はっきりと分かるわけではない、なんとなく感じられるくらいの変化である。どんな記者なのだろうと気になった。感受性が豊かでそのくせ控えめな性格、男性よりは女性の可能性が高そうだ。

 そんな役に立ちそうもないことを考えながら、ページをめくる指先は進んでいく。純白の翼をした少女の写真が目に入ってきた時、メリーの手は止まった。

 

 

「山伏に似た装束と頭巾、そして背中に生えた翼と錫杖。この娘ってひょっとして‥‥」

「何か見つけたの?」

「これよこれ」

「‥‥お手柄よ、メリー。これって鴉天狗でしょ」

 

 

 タイトルは『花鳥風月に舞う』。 

 これまでの四季桃月報の中で唯一、被写体として誰かが写っている号であった。燃えるような紅葉の舞う中、浮かび上がる純白の双翼。どこか浮世離れした美しさと、そして微かな畏怖のようなモノが感じられる一枚だ。ルーミアという少女もそうだったが、妖怪というのはこんなにも存在を目に焼き付いてくるのだろうか。

 トレードマークの帽子を手の甲で持ち上げ、蓮子が新聞を覗き込んだ。

 

 

「うーん、普通のカラスっていうのは黒いものだけどさ。その娘は違うのね、実際の鴉天狗はみんな白いのかしら?」

「‥‥どうかしら、そもそも白い生物は『吉凶』の象徴よ。古来から信仰の対象となっていたこともあるし、むしろ妖怪よりは神仏に近い感じだと思うんだけど」

「白ヘビとかが有名よね。まあ、わざわざ写真に撮られているってことは珍しい個体なのかもしれないわ。だとしたらスクープなのかも」

 

「綺麗な写真だしちょっと欲しいわ。こっそり切り抜いたらあの巫女の子は怒るかしら。どう思う、メリー?」

「そ、それは止めといた方がいいと思う。この新聞の記者に会えた時に一部貰えばどう?」

 

 

 自分たちが読んでいる新聞の記者が、写真に映っている本人だと二人は気づかない。明らかに空から撮影された写真もあるのだが、先に霊夢が空を飛んでいるのを見ているので疑問とはならないのだ。メリーと蓮子の中では、幻想郷の人間は誰しも飛行ができる存在になりつつあったりする。人里の住人が聞けば、全力で首を横に振るだろう。

 

 

「こっちの文々。新聞では『寺子屋の教師が男からプロポーズ、結婚間近!?』なんて記事があるわ。こういう地域密着型の内容から考えると、やっぱり幻想郷はそんなに広くないんでしょうね」

「それに政治関係のネタもないわ、蓮子。情報が規制されているか、それとも為政者が人里にいないのかもしれない」

「なるほどね、その可能性もあるわ」

 

 

 二人の推理は鮮やかだった。

 畳の上やテーブルに置かれている新聞はあまり量がない。それぞれの発行は多くても一週間単位、刑香の新聞にいたっては一ヶ月に一度だけなのだ。たったそれだけの記事から、秘封倶楽部は真実から決して遠くない情報を引き出していく。

 これまでも不足した資料で活動を続けてきた二人、推理力は常人より磨かれているのだろう。やがて、蓮子とメリーの瞳は『ある記事』でピタリと止まった。

 

 

「『山に立ち入るべからず』か、紙の状態からして一番新しいのがコレよね。そんなに古いものでも無さそうよ、せいぜいこの一ヶ月に発行されたものかしら?」

「ねぇ、それより三紙が同じような内容で一面記事を組んでるわよ。もしかしなくても、昨夜の私たちは思ったより危ない状況だったんじゃない?」

「山って、私たちが迷い込んでいた所以外には無さそうだもんねぇ‥‥」

 

 

 そのまま無言で顔を見合わせる二人。

 異口同音、三つの新聞は口々に「山への注意」を語っていた。理由は詳しく書いていないが、天狗の組織で何かがあったと(ほの)めかされている。山には天狗が住んでいて、その天狗たちには何かが起こっている。二人に分かるのはそこまでだ。

 これ以上は無理ね、と布団へ倒れ込む蓮子。あとは紅白の少女が帰ってきてから色々と質問すればいい。ルーミアに破かれた靴下は脱ぎ捨てているので、素足のまま掛け布団へと潜り込んだ。

 二人とも昨日の大雨に打たれたせいで私服はずぶ濡れだ。着ているモノはお互いに真っ白な寝間着である。神社のタンスから出てきたもので、巫女の少女の母親のものかもしれないと二人は考えている。

 もぞもぞと布団の中で動いていた蓮子は、しばらくして頭だけを出して口を開いた。

 

 

「まあ、ここには妖怪も来ないだろうから、のんびりしましょうか。お腹すいたし。あ、私は足を怪我してるから片付けるのはよろしく、メリー」

「もちろんダメ、新聞をたたむくらいなら座りながら出来るでしょ。ほらほら、起きないとメリー銀行の利子がまた上がるわよ?」

「げっ、アレって冗談じゃなかったの!?」

 

 

 ここに跳ばされる前にあったランチ騒動。

 結局、蓮子はメリーにお昼代を出してもらっている。それ自体は大した金額ではなかったのだが、メリーが冗談半分に設定した利子はトイチである。ちなみに意味は「十日で一割」で、紛れもない暴利だったりする。

 もちろん悪ふざけというのは分かっているのだが、メリーは一度怒らせるとかなり怖い。普段ふわふわしている人物が本気で激怒した時の衝撃はとんでもないことを蓮子は知っている。しずしずと起き上がって、片付けを手伝うことにする。

 だが開けっ放しの襖から見える空に何かを見つけた瞬間、少女は動きを止めた。

 

 

「ちょっと蓮子、お腹すいているのは私だって同じなんだからね。まじめに‥‥」

「いやいや、メリー。空から何か来てるわよ?」

「あの子が帰ってきたんじゃないの?」

 

 

 鳥居の向こう側に小さな人影が着地するのが、蓮子には見えていた。そしてその人物は腕いっぱいの大きなカゴのようなモノを抱えながら、こちらへ可愛らしく走ってくる。背丈は似ているが、服装がかなり違う。とんがり帽子やフリルの白黒スカート、そして箒にまたがった姿はまるでーーー。

 

 

「よっ、霊夢! この私が遊びに来てやったぜー!」

 

 

 まばゆい金髪が朝の日差しに照らされる。

 ハチミツ色の瞳と明るい声色、それは夜を吹き飛ばす太陽のように輝いていた。抱えているのは沢山のお菓子が詰まったバスケット、友人と一緒に食べようと持ってきたのだ。金髪とスカートを風になびかせて、魔法使いの少女は縁側へと上がり込む。そこで、ようやく部屋に見慣れない二人組がいたことに気づいて首を傾げた。

 

 

「‥‥お前らは霊夢のお客さんか?」

 

 

 幼い新緑が境内に芽吹く頃。

 夜の雨が降りしきる中で、白い鴉天狗は巫女の傍を離れていった。それとまるで入れ替わるように、霧雨魔理沙は博麗神社を訪れることになる。それはどこか甘い香りのする霜が立ち込める春の朝のこと。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十話:朝ぼらけの未来予報

 

 

 期待外れはつまらない、しかし予想が外れるのは面白い。不確実な要素を取り除いて生まれた必然よりも、自らが好むところは確固たる未来を打ち砕いてしまうような偶然性。そんなことばかりに惹かれる自分は変わっているのだろう、ならば人の道をほんの少しくらい外れても仕方ない。そう結論付けた。

 

 

 ーーー幼い少女は聡明にして早計であった。故に蔵の奥で眠っていた魔導書(グリモア)を開くことに、戸惑いはなく。

 

 

 いつの間にか魔道を志していた、いつの日にか日常を捨て去るだろうと予感する。親不孝者だと後ろ指をさされて生きていく、誰かに迷惑をかけ続けた果てに自分は死ぬのだろう。それでもきっと後悔はしない、胸に宿った炎は決して消えはしないはずだ。今のまま人並みの暮らしに甘んじることにこそ、悔恨の念は宿るに違いない。

 

 

 ーーー幼い魔法使いは大胆にして小心であった。いつも心の奥底で両親へと謝罪の言葉を口にする。

 

 

 魔導の書は密やかに、寺子屋の教科書で隠しつつ。店の折れた箒をこっそり魔法の箒へと。人里を度々抜け出しては空を飛び回り、帰りは人里の外れから徒歩にて戻る。魔法の練習は欠かさなかった、特に同い年の巫女の少女と出会ってからは熱が入っていた。心のタガが外れたように魔導に打ち込んだ少女は、半人前の魔法使いとなる。

 結局のところ、霧雨魔理沙という少女は凡庸でありながら誰よりも非凡であった。

 

 

 

 

「つまり、私たちは単純にこの場所にワープしたわけではないって話よ。ここまで来たら、時間そのものにズレがあっても不思議じゃないと思うわ。どう思うかしら、メリー博士?」

「それはホーキングが唱えたっていう、時間の矢の逆転説のことかしら。でもアレは随分前に本人が否定しているはずだけどね、助手の蓮子さん」

「ニュートリノに質量が発見されたのは、そのすぐ後よ。まだまだオカルトの領域だけど、時間の逆流は観測上ありえると私は思う。‥‥ところでこのお煎餅、イケるわね」

「うーん、でも結局のところは根拠が何もないのよねぇ。助手の蓮子さん、分析を続けてください。あ、こっちのお饅頭もおいしいわよ」

 

 

 難解な言葉がそびえ立つ会話。

 やれやれと観衆になりながら、博麗神社の一室で魔理沙は溜息をつく。霊夢と一緒に食べるはずだった和菓子たちを口にしながら、よく分からない話を繰り広げている見知らぬ二人組。話を聞く限り、彼女たちは外から迷い込んだ『迷い人』らしい。空腹を訴えていたので、手持ちの食糧を振る舞ってやったのだ。

 しかし、そのお礼が自分を置いてけぼりにしての『オカルト話』とは納得いかない。不満げに頬を膨らませてから、魔理沙は二人の会話へと言葉を滑り込ませる。

 

 

「あー、つまり‥‥アンタらは別の時代から来たかもしれないってことだよな!」

「そうね、そんな感じのことを今の私と蓮子は推定してる‥‥かな」

「っていうか、今の話が断片的でも分かるって魔理沙ちゃんってスゴイわね」

 

 

 たまにいるのだ。幻想郷を囲む『博麗大結界』を何らかの形で通り抜けて、コチラ側の世界に来る人間が。その大半は事故のようなモノで、迷い込んですぐ妖怪に喰われる者も多い。なにせ幻想郷の人間ではない存在、外の人間は妖怪たちにとって『襲っても構わない対象』とされているのだ。さっき聞いた話では、この二人もしっかりと襲われたらしい。

 よくもまあ、無事に生き延びたものである。魔理沙は自分の頭を撫でてくる少女たちを冷めた目で見つめていた。

 

 

「うーん、魔理沙ちゃんって可愛いし賢いわね。もう少し年が上だったら、秘封倶楽部の後輩として勧誘していたところよ」

「もう蓮子ったら‥‥わぁ、とっても髪の毛ふわふわで羨ましいなぁ」

「だぁーっ、あんまり撫でるなぁ! 何が悲しくてお菓子を驕ってやってるのに、訳わからんオカルト話を聞かされながら頭を触られなきゃならないんだよ!」

 

 

 外界の面白い話を聞けるかもしれない。

 そんな期待を込めて、持参していた食糧を振る舞ったというのにその結果がコレである。聞けばこの二人、昨日の夜から何も口にしていなかったらしかった。それに井戸の使い方も知らなかったせいで、神社に避難してからも水さえ飲めずにいたらしい。それなりに参っていたのだろう。そこに食事を提供したことで、二人だけの議論へのめり込む体力を与えてしまったのだろう。

 

 

「あははっ、それにしても『オカルト』かぁ。確かに進みすぎた科学は魔法と変わらない、昔からそう言われていた通りなのかもね。今は月旅行さえ出来る時代なんだし」

「一部のお金持ちだけだけどね」

「う‥‥‥まあ、そうだけどさ」

 

 

 メリーのツッコミに押し黙る蓮子。

 その脚に巻かれた包帯からは微弱な妖気が漂っていた。おそらく二人を襲ったのはルーミアだろうと、魔理沙は当たりをつける。『闇を操る程度の能力』を持つ常闇の少女、正直なところ強そうな能力名のわりには大して脅威でもない妖怪である。だがそれも幻想郷の定義で見た場合の話で、普通の人間が襲われたならひとたまりもない。

 

 

「‥‥ルーミアの奴はここ最近、よく見かけるようになった妖怪なんだ。妖怪の山に迷い込んでアイツに噛み付かれただけなら、アンタらはかなり運がいいぜ」

「いやいや、とんでもなく怖かったわよ。空飛んで追いかけてくるし、いきなり食いつかれる、かじられる。本当に命の危機だったんだからさ。幸運だったなんて、ありえな‥‥」

「アイツは人食い妖怪だ。いつも笑顔だし人懐っこい性格をしてるから、危険性は低い方だけどやっぱり喰われる時は喰われるよ。霊夢が来なかったら今頃、二人揃ってバラバラだったんだぜ?」

「っ‥‥‥!」

「それにあの山には、もっと恐ろしい奴らがいるしな」

 

 

 山岳信仰が根強く残り、未だに人跡未踏の地が数多く存在するとされる霊峰。巨木は神霊の拠り所で、深い御山は畏敬の象徴、そしてその守護者として天狗衆。連中は誇り高く、人間に対して容赦がない。あの山は人里の暮らしには無くてはならない恵みの場であるが、同時にこの幻想郷でも屈指の危険地帯である。

 許しもなく奥地に立ち入れば、山の入り口に首を晒されることになりかねない。それは外界から偶然迷い込んだ人間であっても例外ではない。

 話を聞いて口元を引きつらせる蓮子とメリー、そんな二人を見て魔理沙はもう一度だけ肩を竦めた。

 

 

「この幻想郷で怒らせてはいけない存在、その一、二を争うのが天狗衆なんだよ。連中にケンカを売ると冗談じゃ済まされない、だから人里でも『一部』を覗いて天狗っていう妖怪はかなり恐れられてる」

 

 

 この話は全て大人たちからの受け売りだ。

 実際に確かめたわけではないし、確かめる気もない。物心ついた頃から危険な妖怪やら場所については教えこまれてきたのだ。そんな連中にわざわざ近づくほど馬鹿でもない。だが『あの三羽』のような例外がいることも、魔理沙は知っている。

 少し前に自分がムカデのような妖怪に襲われていた時、あっという間に助けてくれた白い翼の少女。纏うは天狗風、起こすは竜巻。『あの頃』の自分では到底かなわないであろうチカラの持ち主だった。それでも本人曰く「他の二人は私よりも強いわよ」とのことなので、まったく恐ろしい話である。

 残念そうに新聞を広げる蓮子、一面記事に載っているのは白い鴉天狗の写真である。

 

 

「そっか危険なのかぁ。でもこんなにキレイなら、ちょっと会ってみたかったかもね。メリー、あなたもそう思うでしょ‥‥‥メリー?」

「あ、ごめんなさい。ちょっと思いついたことがあったから考え込んでたの」

 

 

 それっきり黙り込む金髪紫眼。

 何事かを熟考しているらしい。その瞳に映るのは、昼と夜の境目に浮かぶような不可思議な紫色だ。どちらかといえば人間よりも『アチラ側』、出会った当初からそんな気配を感じさせてくる。気のせいだろうか、ほんの少しだけ妙な雰囲気がある少女であった。悩むように視線を泳がせると、メリーは言葉の続きをゆっくりと口にする。

 

 

「オン・ガルダヤ・ソワカ。これは私たちが幻想郷に踏み入れる直前に、あなたが唱えた真言よ。意味するとこほは天竜八部衆の一柱、有翼の守護者である迦楼羅王」

「そういえば仏像の前でそんな話をしていたっけ。延命のチカラを持った仏法の神様のことよね。でも、それがどうかしたの?」

「忘れたの? 迦楼羅王は『鴉天狗』のルーツとなったとされる存在の一つよ。私たちが跳ばされる前の地点も、そして跳ばされた先も天狗たちに関わりのある場所だった。これは、果たして偶然なのかしら?」

「‥‥あ」

 

 

 思わず唖然とした声を上げた蓮子。

 それは誰でもいづれは思い至るであろう、極めて単純な結論であった。天狗にこそ自分たちが『幻想入り』した原因があるのではないか、よくよく過程を思い出せばすぐにでも思いついていたはずだ。やはり浮かれていたのだろう、幻想郷のことを調べることに集中していて、ここから帰る方法にはイマイチ考えが及んでいなかった。

 その時、魔理沙はイタズラっぽく口元を綻ばせる。ようやく自分にも参加できそうな話になったからだ。

 

 

「何だか知らないが、天狗に会いたいなら一人だけ心当たりがいるぜ。良かったらソイツの寝床まで案内しようか?」

「うそっ、魔理沙ちゃんって天狗の知り合いがいるの?」

「ふふんっ、私は顔が広いんだ」

 

 

 まあ人里ではそれなりに有名な天狗なので誰でも知っているのだが、それは黙っていることにする。

 なにはともあれ面白くなってきた。どうせこの二人だけでは人里すらまともに歩けないだろうし、誰かが付いていった方がいいだろう。せいぜい見返りを期待しつつ人助けをしてみようかと、魔理沙は魔女帽子を被り直した。

 

 

「でも、魔理沙ちゃんは巫女の子に会いにここへ来たんじゃないの?」

「ここにアイツがいないなら、今言った天狗の所にいる可能性が高いんだよ。巫女と妖怪なのにアイツらはかなり仲良いからさ。それと『ちゃん』付けは止めてくれよ。これでも私はーーー」

 

 

 パチンと指を鳴らす。

 すると縁側に放り出していた箒が動き出し、独りでに飛び立って手の平に収まった。穏やかな風が枝々をしならせ、フリルの付いた魔女服をなびかせる。「おおっ!」と上がった二人分の歓声に気を良くして、魔理沙はそのままスカートのポケットから試験官を取り出した。鮮やかな金平糖のようなカケラが詰まったそれは昨日作ったばかりの新薬。爪先で弾くようにして栓を開封し、中身を宙へとばらまいた。

 

 

「私はこれでも『魔法使い』なんだからな」

 

 

 好きな魔法は『光』と『熱』。

 空気と反応して刹那に燃え上がり、星のごとくに輝きを放つ魔力の結晶たち。それらが地面に着く前にガラス玉のように砕け散る姿はまるで流星のよう。その美しさに言葉を失う二人組へと、太陽を背にして笑いかけた。

 向かう先、寂れた神社にはもう白い少女がいないことを魔理沙はまだ知る由もない。

 

 

◇◇◇

 

 

 雄大な姿を見せる妖怪の山。

 まるで幻想郷の空を支える柱のようでいて、それは各勢力を結ぶ起点の一つ。山の何処かにあるという大穴からは『地底』に、裏側に拓けた中道の道からは『三途の川』へ、そして遥かな空の果ては『天界』へと繋がっているとされる。

 中腹以降には人の手が加えられた痕跡はなく、立ち入ることの叶わぬ聖域。天狗や河童、そして鬼族。多くの上級妖怪たちを惹きつけてきた深き御山である。幻想の息づく時代は終わり、外の世界は完全なる人の歴史を迎えて久しく。だが例え、人の子が地上を支配しようとも決して失われない世界がここにある。

 妖怪の山はそんな幻想郷の象徴の一つでもあった。

 

 

「では、ここより我ら白狼天狗がお供致します故」

「ご安心なされよ、お三方」

「貴女方は大切な客人、くれぐれも我らから離れること無きよう」

 

 

 霊峰の何処かに存在する天狗の里。

 ちょうど魔理沙たちが神社を出立したのと同じ頃。大勢の天狗たちに囲まれながら、里の中心へと向かっていく『ある一団』の姿があった。周囲の天狗は警護というよりは監視、よそ者の行動を制限するための役割を全うする。一切の物見遊山を許さず、寄り道をさせず、何一つとして里の情報を持ち帰らせはしないための監視役。

 金銀で装飾された刀剣を帯び、艷やかな装束を身につけた天狗たち。その装備はどれもが儀礼用で、つまりは種族としてのチカラを客人へと暗に示すためのモノ。

 何とも嫌な歓迎の仕方であると、さとりは辟易として空を仰いでいた。

 

 

「ええ、私たち地底よりも遥かに恵まれた暮らしをしているのは理解できました。それをわざわざ見せつけてくるあたり、天狗らしい嫌味にあふれています」

「そう言ってやるな、これは天狗全体ではなく以前までの上役たちの意志だろう。いずれは変化していくさ」

「‥‥あの娘に期待でもしているのですか?」

「さあ、自分でも分からないんだコレが」

 

 

 さとりの言葉に苦笑する藍。

 そこにいたのは冬に行われていた会合に、古明地さとりを加えた面子だった。海を越えた大陸や、時を渡った平安の世に人間社会を大きく揺るがした伝説を持つ九尾の狐、歴史は浅いものの西洋世界において知らぬ者なき夜の支配者である吸血鬼。そして深き山に住みて精神を抉り心を喰らうという妖怪さとり。それぞれが強力な妖怪であり、何らかの勢力を代表する実力者である。

 

 

「ここは相変わらず、疲れますね」

「そうかしら、私は落ち着くけどね。地霊殿の主ともあろうものが情けないんじゃない?」

「私はあなたのように衆目を集めたがる妖怪ではありませんからね、紅魔館の主さん」

 

 

 すぐ隣を歩いていたレミリアへと、さとりは煩わしげに視線を向ける。

 恐ろしいほどに色素の抜けた肌の色、そして紅い宝石のような双眸はおよそ日差しの下には不釣り合いだ。蒼銀の髪は済んだ夜空を思わせ、背中の羽は西方のお伽話に出てくる悪魔そのもの。まるでガラスで作られた人形のように繊細な美しさを持つ少女、それが古明地さとりが肉眼にて抱いたレミリアに対する印象であった。しかし、この吸血鬼の中身がそんな生易しいものでない。

 鈍い輝きで、サードアイはレミリアを見据えていた。

 

 

「そういう意味ではないわ、特権階級っていうのはこうでなければならないということよ。下々の者たちと分かたれてこそ、高貴な家門は誇れるものだもの」

「それは本気で‥‥言っているようですね。ならば私たちの間には超えられない認識の壁があるのでしょう、ミス・スカーレット」

「気軽にレミリアと呼びなさい。妹同士が友達なんだから、姉同士だって仲良くするべきだと思わないかしら?」

「考えさせてください」

「ふふっ、それは残念」

 

 

 くるくると太陽を遮るための日傘が回る。

 話しかけられて心底迷惑そうな顔をする自分へと、紅魔の王はイタズラっぽく微笑んでくる。少しだけ意外だったのは、自分と仲良くなりたいと言っているのが偽りではないということ。この吸血鬼は本気でそう思っているし、サードアイではそれ以外の感情は読み取れない。分からない、レミリアは純真無垢なフランドールとは違うはずだ。覚妖怪の厄介な性質を正しく理解した上で近づこうとする、どうしてーーー。

 

 

「『八雲』より、八雲の式神であられる八雲藍様。ご到着!」

「『紅魔館』より、スカーレット当主レミリア・スカーレット様。ご到着!」

「『地底』より、星熊勇儀様の名代として古明地さとり様。ご到着!」

 

 

 猛々しい声を張り上げる護衛の天狗たち。

 その迫力に押されて思考が途切れ、意識が現実へと戻された。どうやら目的地に着いてしまったらしく、一際大きな屋敷の前で一団は立ち止まる。そして自分たち三人だけを門の正面へと残し、天狗たちが左右へと分かれていく。彼らはこれより先の立ち入りを許されていない、進むことの出来るのは客人のみである。周囲を何重もの壁と堀に囲まれ、まるで砦のような印象さえ受ける邸宅は『天魔』の屋敷。

 ガタリ、と内側から閂(かんぬき)が外される。そして重々しい音を上げて門が開いていく。目の前に広がっていたのは美しい庭園であった。

 

 

「枯山水と苔の絨毯、上下二段に渡る庭園とは見事なものですね。数百年ぶりですが、やはり天魔にはこの方面のセンスがあります。これだけは好印象です、これだけは」

「花鳥風月を愛でる、本当にこういう所だけはアイツの祖父なだけはあるわよねぇ。その他は大して似てないのに」

「くくっ、あれであの二人は似ている所が多いぞ。よく観察してみればお前たちにも分かるさ」

 

 

 容赦のない二人にもう一度苦笑する藍。

 昨夜は雨に見舞われていたこともあり、神秘的な輝きが朝の空気へ滲んでいく。湿った草木の匂いが爽やかな風に乗せられて、ゆらゆらと妖怪少女たちへと流れ込む。

 風と光に満ちた空間、渇きと水に彩られた庭園はやはり美しかった。

 門番の鴉天狗たちが恭しく一礼し、三人を招き入れる。そんな彼らには目もくれず、さとりは独り言を口にしていた。

 

 

「遥かな千年(ちとせ)を越えて、その名を轟かせてきた仏法の守護者。そんな彼が今や仏敵である『天魔』として、天狗たちから祀られているとは皮肉なものですね」

 

 

 あれではチカラが衰えるのも仕方ない。

 信仰を得られない神は存在を揺るがされ、やがては消えていく。あの男の場合は『天魔』として扱われること自体にも問題がある。本来の伝承とはまるで正反対、そんな誤った信仰を受け続ければ果たしてどうなってしまうのか。結果は火を見るより明らかだろう、それを分かった上でそうしているのだから救いようがない。

 そこまで考えてたところで、恐ろしい殺気を感じて思考を止める。しわがれた声が響く。

 

 

「不要なことに思いを馳せるのは止めておけ」

「‥‥‥そんなに恐ろしい殺気をぶつけるのは止めてください。ええ、確かに今回の会合には無関係なことではありますが」

 

 

 あの男の内側を読んではいけない。

 胸元のサードアイを守るように、さとりは華奢な指先を絡ませた。心を覗くというのは、相手の精神に入り込むということである。怒りに狂った心なら熱が、絶望に満ちた心なら冷たさが伝わってくるもの。庭園を抜けた先に待ち受けていた老天狗、今の天魔が抱いている感情をまともに見てしまうのは有毒に違いない。

 やはり白い鴉天狗の件、怒っているのだろう。仕方なかったとはいえ、自分は天魔との関係をバラしてしまったのだから。

 気を使った藍がさとりを隠すように踏み出した。

 

 

「‥‥各々方、思うところはおありでしょう。しかし今は心の奥にしまい込み、早めに本題を始めるとしましょう。これからの幻想郷の姿を決定づける会合を、博麗の巫女と我ら八雲が形作った『命名決闘法』について」

 

 

 ここに集まったのは八雲、天狗、紅魔館、そして地底の代表者たち。未だに『天界』や『冥界』、『彼岸』などの勢力は顔を見せず。しかし地上に関わることを避ける天界は元より参加するまでもなく、冥界の姫君は八雲と浅くない親交があり、そして彼岸は現世での取り決めには干渉を避けている。つまり実質的には幻想郷の将来を決定づけるに、最低限足りるだけの面々が集まっていた。

 

 もちろん例外はあり、

 迷いの竹林の奥地に千年近く前から存在しながらも、感知されることのなかった月の頭脳率いる『永遠亭』。

 妖怪と人間、その共存を謳いながらも志半ばで魔界に封印された仏教勢力。人間を辞めた尼僧と妖怪から神となった本尊が率いる『命蓮寺』。

 天界にて暮らす天人でありながら、退屈から地上への興味を抱きつつある『とある少女』。

 

 その他にも個人で絶大なチカラを持つ妖怪たちが少数ながら存在するのもまた事実である。それでも四人目が加わったことにより、振り子の振れ幅は大きくなった。ここでの結論はやがて時間をかけて、さざ波のごとく幻想郷中に広まることだろう。

 

 

 それは、霊夢が正式に『博麗の巫女』となる数週間前のこと。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十一話︰夢の通い路を見つめては

 

 

 ある日、その神社は通り雨に襲われていた。

 

 空を埋め尽くすのは春の片雲。

 押し出された透明な水滴には、もはや凍えるような冬の名残りはない。雨粒は若葉へと青々しく降り注ぎ、ゆるやかな千鳥足で地面を黒く濡らしていく。太陽の見えぬ空模様は寂しげだが、肌を撫でる大気は暖かな気配に満ちていた。ぬるい温度の雨は厳しい自然の中にあってどこか優しく穏やかだ。

 

 

「あっ、ちょっ、急に降り出すんじゃないわよ!?」

 

 

 田畑には必須な天候で、飲み水確保のためにも重要な役割を果たす雨天。旧きより人々を支え続けてきた自然の恵みだが、前触れのないモノとなると非常に厄介なものである。

 どうやら今回はそちらに当てはまったらしい。急いで母屋の雨戸を閉めるために、神社の主はパタパタと縁側を走り回っていた。鬼ごっこをするように、雨粒たちは巫女の先回りをしては母屋を水浸しにしていく。しばらくして全ての戸を閉じ終えた頃、結局のところ廊下は水浸しになっていた。その惨状に霊夢は床を拭きながら溜め息をつく。

 

 

「せっかく溜まっていた洗濯物を干したのに台無しじゃない。また洗い直さないといけないなんて‥‥‥本当に面倒くさい」

 

 

 そう愚痴ってから雑巾をバケツに放り込む。

 雨戸を打ち付ける風雨はかなり激しく、もう裏に干していた洗濯物は諦めた方が良さそうだ。取り込みに行ったところでズブ濡れの手遅れだろう。おまけに立ち上がろうとすると水を含んだ髪が首へまとわりついてきた。とても鬱陶しかったので、やれやれと霊夢はリボンを解くことにする。

 

 

「それにしても参ったわね、それじゃ今日の寝間着も無いじゃないの。こんなことなら晴れの日にちょくちょく洗っておくべきだったなぁ‥‥‥忠言は耳に逆らう、本当にその通りだったみたい」

 

 

 本当に役に立つ忠告や言葉は受け入れがたいという格言であり、そのありがたさを今更に痛感する。大した損をしたわけでもなし、明日が晴れになれば取り返しが付く程度のことではある。しかし一週間分の洗濯が無駄になったことは、ものぐさな霊夢にとって大問題だ。それなりに苦労したので地味に挫けてしまいそうである。

 

 

「とりあえずの対処作として、晴れてから魔理沙に服を借りに行こうかな。身長はあまり変わらないから入るはずだし‥‥でもアイツの寝巻って思ったより子供っぽいのよねぇ」

 

 

 記憶違いでなければ、とても可愛らしい桃色だったような気がする。だが他に当てもないし、あの娘は気前が良いので嫌な顔一つせずに貸してくれそうではある。何より背に腹は代えられない。つらつらとそんなことを考えながら廊下を歩いていた霊夢は、ようやく辿り着いた部屋の前へと辿り着いていた。そして障子へと手をかけようとした時、中から覚えのある気配を感じて口元を緩ませる。

 

 

「もうっ、来てたのなら雨戸を閉めるのを手伝ってよ。気まぐれな天気のせいで、廊下がずぶ濡れになっちゃったじゃない!」

「悪いわね。コレを取り込んでいたから、そこまで手が回らなかったわ。髪を拭いてあげるから許してくれないかしら、霊夢?」

「それなら特別に勘弁してあげる」

 

 

 それは良かった、と目の前の来客は微笑んだ。

 その傍らにはこんもりとした衣服の山。紅白の巫女服から、寝間着や下着に至るまでが丁寧に折り畳まれている。それは諦めていたはずの洗濯物である、どうやら雨が降る前に回収してくれていたらしい。これなら白黒の魔法使いに頭を下げずに済みそうだ。

 そして霊夢は当たり前のように来客の膝の上へと腰を落とした。顔を上げてみると澄み切った空色の瞳が少しだけ困ったような光を浮かべている。それでもこの少女が「退いてくれ」と言わないのは分かっていた。

 

 

「ちょうど近くを通りかかって良かったわ。空の上を飛んでいたら、分厚い雨雲がこっちに向かっているのが見えたから心配‥‥‥ちょっとだけ気になったのよ。だから念のために先回りしておいたの」

「ありがと、刑香」

 

 

 名前を口にするのが、ひどく懐かしい気がした。

 昨日会ったばかりなのにもう随分と昔のように感じる。包むように髪を拭いてくれる手つきも何一つ変わらない、それなのに可笑しなことだと思う。うん、いつも通りだ。昨日も今日もこれからもこんな何気ない日々が続いていく。それが嬉しくて、緩みそうになった頬を慌てて引き締める。

 

 

「‥‥‥この時期の雨は『催花雨(さいかう)』っていうのよ、霊夢は知っているかしら?」

 

 

 刑香が静かに口を開いたのは、霊夢がそんなことを考えていた時だった。

 

 

「まだ(つぼみ)のままでいる草花たちに春が来たことを知らせ、開花の時期を告げるという意味が込められている春空の言葉。この雨が上がった後には、きっと蕾たちが綺麗に花を咲かせてくれるでしょうね」

「‥‥‥何が言いたいの?」

「ほら、そんなに不安そうな顔をするものじゃないわ‥‥‥大丈夫だから」

 

 

 ふわりと純白の双翼が被せられる。

 幼子をあやすように両側から身体を温めてくれる羽は柔らかだった、心地さに身を任せて霊夢は目をつぶる。しばらくそうしていると、髪を拭いていた刑香の手が止まった。

 

 

「だいたいこんな感じかしらね。あとは葉団扇の風で乾かして最後にしましょうか、ちょっと離れてくれる?」

「別に、そこまでしてくれなくていい」

「人間の髪は傷みやすいのよ。せっかくキレイな黒髪なんだから、しっかりと手入れくらいはしておいたらどう‥‥‥‥霊夢?」

「やだ」

 

 

 言葉を遮るように身体を傾けた。

 そのまま後頭部をぐりぐりと鴉天狗の胸に押し付ける。「どうしたの?」と尋ねられても答えずに、同じことを繰り返す。頑なにそうしていると、ため息と共に華奢な腕が後ろから霊夢を抱きしめた。また困らせてしまったが、刑香が相手ならこれくらいは構わない。もう少しだけこのままで、そう霊夢は願う。

 それっきり会話は途切れてしまう。雨の音に耳を澄ませながら、のどかな時間は過ぎていく。分け合った体温が眠気を誘い、段々とまぶたが重くなってくる。ぼんやりとした視界は霞がかかったように白んできていた。

 ああ、もう『終わり』が近いのかと霊夢は名残惜しそうに項垂れた。

 

 

「ねぇ、刑香。約束してほしいの」

「いきなりどうしたのよ?」

「刑香はずっとそのままでいて。もし単なる『白桃橋刑香』でなくなっても、そのままでいて欲しい」

「さて、どうかしら。ここから先は私だってどうなるのか分からないわ、そもそも果たせるかも分からない約束をするべきじゃ‥‥」

「私は今のままの刑香が好き」

「そっか‥‥‥博麗の巫女さまの頼みなら仕方ないかな、せいぜい善処してみるわ」

「ありがと」

 

 

 ほのかに顔を赤く染める刑香。

 やはり色白なので分かりやすい。本人は自分のことを表情に出にくい性格だと思っているらしいが、これでは丸わかりである。いくら表情を固めてしまおうと、赤くなった頬を見れば一目瞭然なのだ。やはりこの鴉天狗は可愛らしいところが少なくない。

 

 

「ねぇ、刑香」

「今度はなに?」

 

 

 願わくば、この思い出の一つ一つが色あせてしまわないよう。小さく心の奥底で呟いてから幼い巫女はもう一度、はっきりとその言葉を口にする。

 

 

「例えどれだけの日々が過ぎ去ろうと、どれだけの年月が積み上げられようとも必ず‥‥‥博麗の巫女として、私はもう一度あなたに会いに行く」

 

 

 甘えてばかりなのはここまでだ。

 吸血鬼異変や地底への使者役、紫や刑香は何度も幻想郷のために戦ってくれた。本来なら博麗の巫女がこなすはずだったお役目を、まだ未熟な霊夢の代わりに彼女たちはこなしてくれた。そして何度も傷ついてくれたのだ。

 別れは確かに辛い。だが何時までも落ち込んではいられない、いるつもりもない。身体の奥底から湧き上がってくるのは、これまでより少しだけ大きくなった霊力。巫女としての決意が一歩前へと進んだことで、それに牽引されて霊的な能力もまた成長したのかもしれない。

 

 きっと博麗霊夢にとっての『催花雨(さいかう)』は、昨夜の別れそのものだったのだろう。

 

 やがて雨は上がり、花を咲かせなければならない時が来る。今の自分にとってそれは一人前の巫女として認められる儀礼の日。刑香たちが命がけで用意してくれた晴れ舞台だ、絶対に失敗は許されない。

 

 

「じゃあね、刑香」

 

 

 随分とあっさりとした言葉、それを合図に世界が崩れていく。雨の音色は遠く遠く、部屋の景色はまどろみの彼方に、そして白い鴉天狗の姿は記憶へと溶けていった。ゆっくりと意識が浮上していく感覚、その中で幼い巫女は幻想(ゆめ)に別れを告げる。そしてーーーー。

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥‥‥ん、寝ちゃってたのね」

 

 

 目覚めてすぐ視界に入ってきたのは見慣れた天井だった。

 古びた木目は一部がひび割れて、自分の神社よりも随分とおんぼろな造り。それなりに掃除が行き届いていようとも建物自体が古い。雨漏りだけはしないように手を加えたと刑香は話していたが、少なくとも自分なら毎日ここで寝泊まりするのは御免である。それでも気にせずに生活していたのだから、今から考えると清貧という言葉がぴったりな天狗だったと思う。

 しかしそんな白い少女は、もうここにはいない。

 

 

「慧音と話をしてから『修行』をしてたんだけど、徹夜で疲れてたからなぁ‥‥‥少しだけ仮眠を取ろうとしてやっちゃったわ」

 

 

 まあいいや、と布団に包まる霊夢。

 枕に顔を埋めると、ひどく落ち着ける匂いがした。このまま目を閉じたら夢の続きを見られるだろうか、それならもう一眠りしてみる価値があるのではないかと思わなくもない。明るい日の光を鬱陶しく思い、更に布団の中へと潜り込む。

 ここは刑香が過ごしていた廃神社で、これは刑香が使っていた布団である。この中に潜っていると、降り積もったばかりの雪に似た匂いが鼻をくすぐってくれる。これのおかげで夢を見られたのかもしれない、ころんと寝返りを打ちながらそんなことを考えていた。

 

 

「ふぁ、まだ眠いわね。やっぱりもう一眠りしてから再開しよう‥‥ん?」

 

 

 その時、不意に直感が働いた。

 締め切られた障子の向こう、空から『何か』が近づいてくる気配を察したのだ。地面を歩いて来ない、ということは人間よりは妖怪の可能性が高いだろう。もぞもぞと布団から這い出して、机の上に置いていた御札を掴み取る。

 しかし、つい昨日まで天狗の住んでいた場所に近づいてくるとは妙な話である。治療を求めにきた人間ならともかく、それ以外の連中が自分から近寄ってくるだろうか。いくら戦闘に長けていないといっても、刑香はアレでも上級妖怪である。そこらの野良妖怪が喧嘩を売って勝てる相手ではない。

 ともかく叩き返してやろう、そう霊夢が思った瞬間だった。絹を裂くような三人分の悲鳴が嫌というほど聞こえてきたのは。

 

 

「い、ゃぁぁぁぁっ、ぶつかるわよぉぉぉーーー!!?」

「っていうかっ、そもそも空飛ぶ箒にブレーキなんてあるのーーー!!?」

「あ、あるけど全然効かないんだよっ!?」

 

「『二重結界・反転』」

 

 

 冷静に放たれた巫女の言霊。

 三人乗りの箒が斜め上から突っ込んできたのは、それとほぼ同時だった。結構な速度と重量だったが、問題はない。護符の効果を反転させ、即席で築き上げたのは本来の用途から大きく外れた『結界』。着弾時の衝撃を外へと逃がす術式を当てはめることで、壁そのものを緩衝材として発動させる。

 重ね合わせた布団に突っ込んだように、三つの影は身体を結界へめり込ませる。そうして速度の大部分を失った後、外へと転がり落ちた。どうやら無事だったらしく、三人はすぐに立ち上がる。

 

 

「うぅ‥‥‥いつもは一人乗りだから重量オーバーってやつを失念してた。し、死ぬかと思ったぜ」

「だ、だから言ったじゃない。メリーが乗ったあたりで箒から変な音がしてたって!」

「ちょっと、蓮子。その言い方だと私だけが重いみたいに感じるんだけど?」

「でもぶっちゃけメリーは私よりちょっとだけ重‥‥‥あ、嘘、ゴメンっ、冗談だから!」

 

 

 それにしても夢の余韻が見事に台無しだ。

 知らない連中だったら無視しても良いのだが、聞き覚えがありすぎる声である。具体的にはちょくちょく神社に遊びに来る白黒の魔法使い、それとさっきまで共に行動していた変な二人組。どういう理由で結びついて、三人一組でここに降ってきたのだろう。霊夢は結界を解いてから、侵入者たちを白けた眼差しで見下ろしていた。

 

 

「で、どういうつもりなのよ、魔理沙?」

「よっ、博麗神社にいないと思ったらここにいたのかよ。どうするもこうするも刑香に会いに来たに決まってるだろ。アイツはどこに行ったんだ、霊夢?」

「‥‥‥あんたって本当に、何というか」

 

 

 やってきたのは魔理沙、蓮子、そしてメリーの三人組だった。出来れば夢の続きを見たいところなのだが、騒がしくなりそうでは仕方ない。溜め息をつきながら、霊夢は三人組を見回した。

 

 

 さて、どこから話せば良いのだろう。

 

 

◇◇◇

 

 

 大きな転換点が迫っていた。

 これまでの妖怪と人間、その双方の在り方を大きく変えてしまうかもしれない変革である。その発端の一つはレミリア・スカーレットの引き起こした『吸血鬼異変』。紅魔館という西方の一大勢力が現れ、少なくない者たちが吸血鬼の配下へと成り果てたという異変。混乱そのものは八雲紫を中心とした妖怪勢力により解決されたが、永らく平穏の真っ只中にあった幻想郷に与えた影響は深刻であった。

 それは今回の混乱が、単純に『吸血鬼』が強大な妖怪だったというだけの理由には収まらなかったからだ。そもそも当主にして最大の脅威であったレミリアは、八雲紫との一戦以外では表立って戦ってすらいない。それでも多くの妖怪たちはあの脅威に対抗することさえ出来なかった。

 それこそが幻想郷の抱える根本的な問題が、野ざらしにされた瞬間だったのだ。

 

 

「この幻想郷において、妖怪と人間は共に欠けてはならない存在です。どちらか一方のバランスが崩れてしまえば、この世界は崩壊の道を辿ってしまう。故に双方の距離は近すぎず遠すぎず、そう在らなければならなかった。これは先刻承知の事実でしょう、少なくともここにいる皆様方にとっては」

 

 

 八雲藍は語る。

 人間と妖怪が共にあってこそ、幻想郷の安寧は保たれる。だからこそ双方は対立しながらも、全面的な衝突をある程度は避けてきた。その結果として幻想郷が誕生してから、一部の例外を除けば妖怪が人間を襲うことも、妖怪が妖怪を襲うことも以前より少なくなっていたのである。それこそ天狗たちがわざわざ『神隠し』を要求するほどに、人は妖との距離を見失っていた。

 

 

「だが飼い馴らされた者の牙が誰かに届くことはない。研がれなくなった精神が何かを成すこともない。私が来た頃の幻想郷はそんな妖怪たちに溢れていたわ、もちろん今もね」

 

 

 レミリアはあざ笑う。

 妖怪の衰退は賢者たちの想像を越えていた、少なくとも野良妖怪たちは誰一人として紅魔館に対抗できなかったのだ。吸血鬼異変は『八雲』と『天狗』が介入することで収束したが、それでも八雲藍は一時的にしろフランドールに倒され、刑香に至っては重傷を負った。それは幻想郷の要であるはずの上位妖怪でさえ苦戦したということで、賢者たちの受けた衝撃はあまりにも大きかった。

 

 

「今回は何とかなったが、次はどうなるか分からない。事実として外の世界で強大なチカラを維持している神霊や妖怪はまだいますし、幻想郷の各所‥‥‥例えば地底でも多くの『封印された者たち』が眠っています」

 

 

 さとりは無表情で告げる。

 このままではいけない、いずれ更なる脅威が現れるかもしれない。妖怪がチカラを取り戻す必要があった、そしてそのためにはどうしたら良いのかを賢者たちは話し合った。しかし結論としては「妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する」という原則を復活させる以外になかった。

 しかし、ここで当然のごとく問題が生じる。積極的な命の奪い合いは幻想郷のバランスを崩してしまう。妖怪からの襲撃も、人間からの退治も、出来る限り双方の数を減らさない方法にて行わなければならない。大きく矛盾していた、それは少なくなくともこれまでのやり方では成し得ない道である。

 

 

「故に以前より八雲と博麗の巫女が考案していた『命名決闘法』を採用し、これにて双方の争いを解決することとす。あくまでも平和的に児戯のごとく、実力主義を排して美しさを重視する弾幕合戦‥‥‥‥くかかっ、有用性は認めるが何度聞いてもくだらんものよな」

 

 

 天魔は冷ややかに笑う。

 人間と妖怪には埋めがたいチカラの差がある、そのままで決闘は成り立たない。双方が平等な戦いをするためにはそれなりの『ルール』が必要となる。妖怪が人間に合わせてやらなければならないのだ。肉体的な強さを放棄して精神的な勝負へとかじを切り、死なない程度に技を競い合う。

 命を賭けないがゆえに妖怪は『異変』を起こしやすく、人間は『退治』がしやすくなる。それこそが『命名決闘法』、つまりは『スペルカードルール』の導入が検討されている理由なのだ。

 

 

「これは必ずや幻想郷を救うはずだと、我ら八雲は考えております。御三方、賛否をお聞かせ願いたく思います」

「私の考えは前回と同じ。概ね賛成だし、このまま施行するのも悪くないと思うわよ。紅魔館は『スペルカードルール』を支持するわ」

「待ってください。そもそも地底の代表である私は前回の会合に参加していません。今初めて説明を受けたばかりで、おいそれと結論は出せません」

「くかかっ、我ら天狗も協力はしてやるが、だからといって手放しで賛成してやる気はない。ワシの首を縦に振らせられるかは貴様次第だ」

 

 

 悪くない反応に人知れず胸を撫で下ろす藍。

 レミリアは協力的で、天魔も条件次第では賛成側に回るという口ぶりだ。唯一気になるのはさとりであるが、彼女からも強い拒否感は感じられない。普通に考えるならば、そう時間もかからない内に会議は纏まるだろう。

 しかし、ここにいる四人は誰もがひと癖もふた癖もある上級妖怪。彼ら彼女らは自らの勢力を代表する者としての責務も負っている。ならば幻想郷の未来を決める席にて、少しでも自分たちにとって優位な条件を引き出そうとするのは自明の理であった。

 八雲藍は静かにその黄金の瞳を細める。長い話し合いになる、明晰な頭脳にはどこか確信めいた予感が浮かんでいた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十二話︰鳥辺山の煙は遠くあれ

 

 

 春霞(はるがすみ)たなびく宵の空。

 帯状になって妖怪の山を覆っているのは、真っ白な大気の渦である。いつもなら幻想郷のどこからでも一望できる霊峰は今、春風の御神が着崩れさせた白い帯に煙らされて姿を隠してしまっていた。

 とっぷりと暮れた空は暗闇に沈み、そこに揺蕩う月は真珠色。砂浜に押し寄せる波のように、まばゆい月光もまた静寂に浸っている。深い御山のいずこか、人の届かぬ聖域にあるという天狗の里は寝静まりかえる。前日から続いていた会談が一旦解散し、張り詰めていた緊張の糸は切れていた。妖怪である彼らにも休息は必要である。

 もう、辺りはすっかり夜なのだから。

 

 

「‥‥流石に暗いわね。そんなに夜目が効くわけじゃないし、一応注意しておこうかしら」

 

 

 渡り廊下を歩く少女は、そう呟いた。

 庭園にて燃え盛る松明(たいまつ)の影、距離を空けて立てられた炎の明かりは不知火(しらぬい)のように揺れ動く。自分以外に誰もいない空間の闇にあって、その光は少しだけ不気味であった。まるでこの世とあの世の境目にいるかのような錯覚を感じてしまう。

 別にそんなもので怯えるような性格はしていない。だが、ここまで広い屋敷の中に独りでいると心細さの一つくらいは覚えてしまうらしい。ここ最近は感じることのなかった感情が胸の中で膨らんでいく。

 孤独とは、こんなにも虚しいものであったのだ。

 

 

「駄目ね。ほんの二日だけ顔見知りに会わなかっただけなのに、ここまで心がざわつくなんて思わなかった。‥‥‥私も随分と弱くなってしまったものよね、後悔はないけれど」

 

 

 雲間から降り注ぐ月明かり。

 黒い闇の中にあって、はっきりと純白の翼が浮かび上がった。煌めく星空をその瞳に映しつつ、鴉天狗の少女は長い長い廊下をどこまでも進んでいく。

 その姿はいつもの天狗装束で、祖父から贈られた山ほどの着物やら髪飾りの類いは何一つとして身につけていない。普段と変わらない簡素な服装には、相変わらず遊びがなかった。

 しかし、本人としてはこの方が落ち着くのだから仕方がない。着飾るなんて経験をしたことは殆ど無いのだし、馴れないことはしない。だが一着だけ、どうしても拒否できなかったモノもある。

 

 

「‥‥やっぱりコレも断れば良かったかしら。かなり高そうな生地だし落ち着かないわ。こんなものは私が身につけるより、紫とか藍の方がよっぽど似合いそうよ」

 

 

 涼やかな夜風になびく紫の羽織。

 長老家の家紋が縫い込まれているコレだけは、どうしても祖父が引かなかった。滑らかな手触りは絹に似て、一方で月の薄明かりに透けるような美しさを持つ上質な布。何となくだが、コレ一枚で数ヶ月は人里で生活できるくらいの値が付きそうだ。

 先日の事件はすでに広まってしまっているらしく、たまに屋敷内で同族たちに出会おうものなら彼らは恐ろしいくらいに跪いてくる。山から追われた時とは大違いである。あの頃の見下すような視線と、吐き捨てるような言葉の数々はどこへ行ったのかと思ってしまう。

 

 

「まあ、別に同族からの評価なんて私はどちらでも構わなかったんだけどね。こうも扱いが変わるとなると‥‥ようやく着いたわね」

 

 

 

 庭園を横切るように設置された渡り廊下、それを進んだ先にある離れの建物に部屋は用意されている。

 本殿が藍やレミリア、さとり達の会議に使用されているため彼女らと出会わないようにとの配慮らしい。どうやら祖父が気を使ってくれたようだ。他の二人はともかく藍と顔を合わせるのは少々気まずかったので、正直なところありがたかった。自分は彼女の主である紫の頭を殴り飛ばしているのだ。さて、どうしたものだろうか。

 やれやれと障子を空けて部屋へと入ることにした。

 

 

 

 

 

「ーーーーどうやら身体の調子は戻ったようですね」

 

 

 聞こえてきたのは馴染み深い響き。

 それが鼓膜を揺らすと同時に、死角から伸びてきた腕に抱きしめられた。最初から部屋で待ち受けていたらしく、こちらにとっては完全な不意打ちである。腰からお腹へと回された腕に身体を優しく引き寄せられる。

 抵抗はしない、後ろにいるのが誰なのかは分かっていた。小さな頃からずっと傍にいてくれた姉のような存在がここにいる。

 ゆっくりとその腕を掴んでから、静かに刑香は口を開く。

 

 

「二日も放置するなんて酷いじゃない。もっと早く会いに来てくれても良かったんじゃないの?」

「仕方ないじゃないですか。例の会談のせいで私も色々と忙しかったんですよ、これでも頑張って最速でお役目を切り上げてきたんです」

「ふーん」

「あやや、機嫌を直してください」

 

 

 ひょいっと顔を覗かせてきた文。

 光の加減によって濃くも淡くもなる赤い瞳が丸みを帯びて、こちらを見つめている。肩に触れるくらいの黒髪は真っ白な天狗装束によく映え、そしてちらりと視界を掠める美しい双翼は暗闇の中にあって不思議な存在感があった。千年もの間、自分と一緒にいてくれた親友は変わらぬ暖かさで微笑んだ。

 そして、もう一人。

 

 

「っ、刑香ぁぁぁっ!!」

「ーーーぶっ!?」

「スキマ妖怪に狙われたって聞いて‥‥流石のアンタでも本当に今度こそ駄目かもって、すごく心配したんだからぁっ!!」

「ちょ、はたて‥‥‥痛い痛い、わよ!」

 

 

 正面から突っ込んできた茶髪の天狗少女。

 背後が文で塞がっていたため、こちらは速度を緩めずに胸を強打してきた。結果的に頭突きのようになった一撃に肺から空気が押し出される。思わず膝を折りそうになったが、後ろから文に支えられていたので何とか踏み留まった。そうしている間にも正面からぐりぐりと、はたては頭を押し付けてくる。

 

 

「心配してるなら、友人の身体をもうちょっと気づかいなさいよ!」

「あいたぁ!?」

 

 

 ミシミシと骨が軋み出したところで、はたての脳天に手刀を振り下ろした。スキマ主従から受けた傷は殆ど完治しているが、天狗の腕力で締め付けられるのは遠慮したい。というか地底でも似たようなことがあった気がする。

 とても良い音がした後、頭を押さえて親友がのけぞった。すると背後から笑い声が聞こえてくる、黒い方の親友が忍び笑いを我慢できなくなったらしい。

 

 

「くくっ、やっぱりこうなりましたか」

「アンタたちに本気で抱きしめられたら、骨の一本くらいはへし折れるわよ。いい加減に手加減してほしいわ」

「相変わらずの脆さですねぇ。今までのアナタと大して変わってないようで安心しました。天魔様から譲られたのは『死を遠ざける程度の能力』の残りだけのようですね」

 

 

 仏教における守護神の一柱、迦楼羅(かるら)王。

 司るとされるチカラは幅広く、一例として挙げるだけでも『降魔』や『病除』、『祈雨』と『止風雨』、そして『延命』と数多い。加えて肉体は屈強で他神との戦いにおいては敗北知らず、その勇猛さは剛力無双の霊鳥とも語られる。

 全くもって、自分ごときと血縁があるとは思えない怪物ぶりだと刑香は思う。もし、そんなチカラが自分にあったのならレミリアや勇儀、八雲紫とさえ一騎討ちが出来るに違いない。だが、それは後にも先にも不可能だ。

 

 

「私には天魔様‥‥お祖父様のチカラを丸ごと受け継げるような器はないわ。せいぜいが今持っている『延命』と、多くて『あと一つ』くらいが限界でしょうね」

「まあ、刑香は刑香ですからねぇ。むしろ『死を遠ざける程度の能力』を完全に受け入れることが出来るようになっただけ成長したものです」

「前々から思ってたけどさ‥‥アンタは私のことをどこまで知ってるのよ?」

「あっ、それは私も気になるわ。何で文って刑香のことにそこまで詳しいのよ。いくらあのジジイの側近やってるっていっても、おいそれと教えてくれる話じゃないでしょ?」

 

 

 渡り廊下に少女たちの声が木霊する。

 そして親友の手をそっと外し、くるりと刑香が文の抱擁から脱出して向かい合った。はたてもその隣に並び立つ。二人の抱いた疑問は当然だ、二人と文との間には大きな溝がある。心のではない、単純に所持している情報の量に差があり過ぎるのだ。しかも刑香の事情を知っているのは天魔を除いて他にはなく、だがあの老天狗から簡単に聞き出せるとも思えない。どうして射命丸文が、このことに詳しいのかが説明できないのだ。

 

 

「このことに関して話せることはありませんよ。私は天魔様から刑香のことを聞いたわけではありません。初めから『ある程度』は知っていました‥‥‥だから」

「もういいわよ、無理に聞き出すつもりはないし」

「‥‥‥そう、ですか」

 

 

 刑香からの追求はそこまでだった。

 無闇に迫ったところで、どのみち文が口を割ることはない。そんなことは今までの付き合いから理解しているし、話せないなら無理やり聞き出すつもりはない。ふざけているようでいて頭脳明晰、柔軟なようでいて一線を越えてしまえば融通が効かない。良くも悪くも、自分と違って射命丸文は天狗らしい天狗である。

 少しホッとしたような様子の文を横目に、刑香とはたては話し合う。

 

 

「ねぇ、刑香は心当たりとかないの?」

「華扇様あたりとか、どうかしら」

「うーん、あのピンクの仙人は無いんじゃない。しっかりしてるように見えて色々と抜けてるし」

「そんなこと言ってるとまた説教されるわよ‥‥」

 

 

 片腕有角の仙人、茨木華扇。

 山から追われた後も、何かと世話を焼いてくれた恩人だ。あの人ならば、自分の過去を知っていても不思議はないと刑香は思う。今は仙人として山のどこかで暮らしているが、かつては天狗の組織にも影響力を持っていた人物なのだ。天魔との繋がりがある上に、伊吹萃香とも旧知の仲なのだ。せっかく山に帰ってきたのだから、一度会いに行っても良いかもしれない。

 

 

「ほらほら、もう見張りの交代をする時間です。考察の続きはまた今度にしましょう」

 

 

 月の位置を確認して文がそう告げる。どうやら随分と話し込んでいたらしい。三羽を静かに見守っていた月は傾き、すでに夜の半分が過ぎていた。

 名残惜しそうに二人へ空色の瞳を向ける刑香。すると庭園の池で鯉が跳ね、起こった小さな波紋が水面を伝わっていく。やがて水音が沈み、それっきり木々の葉音すら凪いだ空間でたたずむ三羽の少女たち。

 時間の止まってしまったような空間が横たわる、そんな静寂に包まれた夜。月が微笑む宵の下、それぞれの異なる瞳の色が星々のように瞬く。しばらくそうしていると心の奥に何かが灯るような感覚がしてくる。いつの間にか、ぼんやりとした暖かさが胸を満たしていた。

 

 

「ん、それじゃあ‥‥また明日ね、二人とも」

「ええ、また明日会いましょう」

「次はお茶菓子でも持ってくるわ、刑香」

 

 

 バイバイと手を振って親友たちが帰っていく。

 いくらか寂しさは残るものの、さっきまで感じていた孤独感は殆ど無くなっていた。徐々に離れていく足音に耳を澄ませ、刑香は障子に背中を預けて庭園へと瞳を向ける。

 昼は日の光が枝葉の間から差し込み、夜には星明かりが苔の上で転がり踊るという祖父自慢の庭。透明な水で満たされた池には小さな花弁が浮かび、泳ぐ鯉たちは紅白の錦(にしき)模様。これだけでも立派な庭園だというのに、別の場所には桜やキンモクセイを植えた区画もあるというのだから驚きだ。

 ゆらゆらと銀色の三日月が池に映っている。

 

 

 

 

 

「そろそろ出てくればどう?」

「おや、気づいてたのかい」

 

 

 

 

 

 誰もいないはずの庭園から返答があった。

 いくつも植えられた木々の影、そこから漂うのは『死』の気配。池の水にキラリと反射されていた三日月の輝きは、魂を刈り取る銀の刃。視界に人影はなく、五感によって感知できる要素もなく、射命丸文にすら悟らせなかったほどの隠密性。

 だが、刑香は初めから気づいていた。文やはたてより索敵能力があるわけではない、勘が鋭いわけでもない。だが『死を遠ざける程度の能力』を持つが故に『死に関係する連中』の気配にだけは敏感なのだ。

 長老家に張り巡らされた、あらゆる防壁とあらゆる警備。その全てを当たり前のようにすり抜けて『その少女』は現れる。

 

 

「あー、今のお前さんとアタイは初対面ってことになるのかねぇ。少し寂しい気もするが仕事だから仕方ない。まあ、それでも敢えてこう言わせてもらおうかな‥‥‥久しいね、刑(しおき)」

 

 

 宵闇に浮かぶのは死を運ぶ銀の大鎌。

 苔石を踏みしめる草履は血のように赤く、ツインテールとして結ばれた髪色はそれより更に鮮やかな彼岸の花の色。着物の帯に巻かれた『六道銭』は三途の川をつなぐ舟頭の証であり、肩に担いだ鎌は種族そのものを表す特徴の一つ。どうやって天魔の屋敷の警備をすり抜けてきたのかは知らない、だがこの連中なら不可能なことではない。

 

 

「私に何の用かしら、小野塚小町?」

 

 

 親しげに話しかける死神に対して、白い少女は冷たい眼差しで応じていた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「ねぇ、刑香がいつも通りで良かったわね」

「‥‥何の話ですか?」

 

 

 庭園で左右を挟まれた渡りの廊下にて。

 刑香の部屋から離れ、本殿へと向かっている途中ではたては切り出した。それは自分たちが『わざわざ自分たちが刑香の部屋に先回りしていた理由』である。露骨に目線を逸らす文は珍しく分かりやすい反応をしていた。冷やかしがいがありそうだと、はたては口元を緩ませる。

 

 

「へーえ、アイツと再会するまでは『嫌われたに決まってるのに、会いに行く勇気なんてありません!』なんて情けないことを言ってたのに?」

「そ、それは言わない約束でしたよね!?」

「だから刑香の前では黙ってたじゃない、アイツの前では格好つけたいんでしょ? まあ、こんな理由で会いに行くのが二日も遅れたなんて知られたら幻滅されるかもだけど」

「ぜ、絶対にあの娘には秘密にしてくださいよ。後生ですから」

 

 

 本当ならもっと早く会いに行けたはずだった。

 お役目があるとはいえ、天魔に話をしておけば融通をつけてくれるに決まっている。会いに行けなかったのは時間がなかったからではなく、文の決意が遅れていたから。千年もの間、真相を知っていながら隠していたことで刑香から恨まれるのではないかと、そのことを射命丸文は恐れたが故だった。

 はたてからすれば、この上なく馬鹿らしい理由である。

 

 

「アンタの予想に反して、刑香のヤツは全然怒らなかったわね。私からすれば予想通りなんだけどさ。むしろ刑香が罵倒してくれていれば、アンタは気が楽だったかもしれないわね」

「否定は、出来ません」

「逆に考えてみなさいっての。もしアンタと刑香の立場が反対だったとして、文は刑香を恨んだりするの?」

「そんなことは‥‥‥しませんね」

「ふーん」

 

 

 黙って顔を見つめてやることにした。

 じっとりとした目線で眺めていると、しばらくしてから文が気まずそうに視線を下げた。答えなんて分かりきっているのに、珍しくウジウジと考え込んでいるようだ。普段の鬱陶しいくらいの明るさが嘘のようである。

 繊細そうな光を宿した赤い瞳、その眼差しは今だけは白い少女とどことなく似ていた。昔からこの二人は不意によく似た雰囲気を纏うことがある。これは恐らく自分だけが気づいた事実だろうと、はたては思う。

 

 

「アンタ達がそんな理由でお互いを嫌いになるなんて有り得ないっての。自信を持ちなさいよ、刑香はアンタの妹分なんでしょ? もしそれでも不安なら‥‥‥」

 

 

 この二日間、文が一睡もしていないことは知っている。かなり疲労が溜まっているのもお見通しだ。普段は三羽の中でまとめ役になることの多い文だが、はたてはその頭をまるで子供をあやすように撫でつけた。

 

 

「こんな時ぐらい私を頼りなさい、リーダー」

 

 

 そう満面の笑みで告げた。

 そもそも文は無茶をしすぎなのだ。特に勇儀との戦いでは時間を稼ぐだけと言いながら結局、はたてが駆けつけた時には勝負が付いてしまっていた。いつも勝手に先へと行ってしまう文、自分はその背中について行くことが殆どだった気がする。だからこそ世界が広がった、こんな時ぐらいは支える側に回ってやろうと思う。

 すると、顔を赤くした文が口元を押さえながら肩を震わせていた。

 

 

「‥‥‥これは、参りましたね。下手をしたら惚れていたかもしれない殺し文句でした」

「はぐらかしてんじゃないわよ、こっちは大まじめだったのにさ。まあ、冗談が言えるようなら、もう大丈夫そうね。ひとまず安心したわ」

「はい、心配かけました。考えてみれば、私が何をしたところであの娘が私を嫌いになるなんて有り得ませんよね!」

 

 

 何でも、というのは言い過ぎだと思う。

 正直なところ素っ裸の写真でも盗撮して、そのまま新聞の一面に載せてバラまいてやれば、刑香からは平手打ちと共に絶交を叩きつけられそうな気がする。まあ、ありえない話なので黙っていることにした。ここで自分たちが交わしていたのはそういう話ではないだろう、わざわざ要らぬツッコミを入れるのも野暮だ。

 

 

「‥‥‥っていうか、文って『使い魔』から天狗になった部類よね。もしかして、あのジジイに仕えていたカラスだったりしたんじゃないの?」

「へ?」

 

 

 これは先程の続きである。

 刑香は深く問いかけなかったが自分は別だ。いちいち親友の事情を気遣ったりしないし、多少は種を明かしてもらわなければ納得できない。自分や刑香とは違い、身元が最初からはっきりしていた文。もし元々が天魔の使い魔であったのなら、さっきの疑問は氷解する。天魔から直接的に刑香の事情を聞いて、そのまま何らかの理由で親しくなったという説明がつくのだ。

 というよりは、少なくとも自分にはそれ以外の選択肢が見当たらない。使い魔ごときの出身にして幻想郷最速、おまけに鴉天狗の中では最精鋭。そして天魔から腹心として重用されているのだから、その関係を疑うのは当然だ。

 少なくとも的外れではあるまいと思う、しかし文から返ってきた反応は否定一色だった。

 

 

「いいえ、残念ながら違います。私は天魔様の使い魔であったことは一度もありませんよ」

「‥‥本当でしょうね?」

「そもそもさっきも言ったじゃないですか、私は『天魔様から刑香の秘密を聞いたわけではない』と」

「でもアンタの話を聞く限りは‥‥」

 

「ーーー阿呆め、こやつのような融通の効かぬ小娘をワシが使い魔にするわけが無かろうが」

 

 

 鼓膜に突き刺さるしわがれた声色。

 振り返った先に仁王立ちしていたのは、今の今まで噂されていた張本人。白い少女に唯一残った血縁者、白桃橋迦楼羅であった。どこか憑き物が落ちたような表情に以前のような影はなく、厳しいながらも落ち着いた雰囲気が漂っている。小さく舌打ちをしてから、はたては老天狗へと視線を投げかけた。

 

 

「いくら長老とはいえ、断りもなく女の子の話に立ち入るのは良くないんじゃないかしら?」

「たわけ、そのようなことは色気の一つも覚えてから口にするがいい。貴様らのような小娘が何を言ったところで、使い魔カラスどもの無意味な朝の合唱と何も変わらんわい。ところで、今の舌打ちはワシに向けたものか?」

「だったら何よ?」

 

 

 こちらを見下すような視線は変わらず、舌に乗せられる言葉は辛辣。やはり刑香との血縁があるとは思えない、どう見てもコイツは対極にいる存在だ。窪んだ瞳から感じるのは奈落のごとき底知れなさ、全身から放たれる圧迫感は鬼の四天王にさえ勝るとも劣らない。

 高まる心音と喉の干上がる痛みを感じ、はたては奥歯を噛み締める。そのまま負けてなるものかと天狗の長老と睨み合う、しばらくして先に折れてみせたのは天魔の方であった。

 

 

「くかかっ、まあ良かろう。今夜は少し寝つけなくてな、丁度よい、貴様らがワシの晩酌に付き合えば此度の無礼は許してやろう」

「刑香と呑めばいいじゃない、そのつもりでここまで歩いて来たんじゃないの? どうせアンタもこの二日間、一度もアイツと会ってないんでしょ」 

「ワシにも心の準備というものは要る、我らは離れた時間があまりにも長すぎる。‥‥‥だからこそ話を聞かせてくれ、お主らとアヤツとの間にあった、ワシの知らぬ物語を出来るだけ詳しく話して欲しい」

「ーーー!」

 

 

 そんな目もできるのかと思った。

 先程とはまるで違う嫌味のない眼差し、晴れ渡った空のように真っ直ぐな光があった。天魔としてではなく、刑香の祖父としてのモノなのだろう。はたては老天狗への認識を少しだけ改めることにした。

 そして庭に立てられた松明がパチリと音を立て、それを合図にしたかのように文がはたてを庇うように前に出た。

 

 

「さて、私たち三羽鴉の数百年を一夜で話し尽くすことは出来そうもありません。それこそ千夜を越えるだけの時間が必要ともなるでしょう。なので天魔様も承知の上で耳を傾けてくださいますよう、お願い致します」

「構わん、この身が泡沫の夢に沈むまでの肴とするとしよう。気長に聞いていく、一つ一つゆるりと話せ」

「畏まりました。それでは先にお部屋に帰っていてください。我らは後から参上致しますので」

「む、このまま共に向かえば良かろう。何か支障でもあるのか?」

 

 

 少しだけ怪訝な表情を浮かべた天魔。

 文が何事かを耳打ちすると、仕方がないとばかりに溜め息をついてからこの場を跡にした。「あまり長くは待たせるな」という命令を残して、老天狗は廊下の先の本殿へと消えてく。残されたのは天狗少女が二人だけ。

 首を傾げるはたてへと、文は笑みを浮かべながら振り向いた。

 

 

「‥‥‥はたては『使い魔カラス』が天狗になったとして、その子をどう扱いますか?」

「ヤブから棒に何よ、そりゃ使い魔は使い魔じゃないかしら。いくら天狗になっても所詮は手下、もしくは下僕として扱う連中の方が多数でしょうね」

 

 

 わざわざ二人きりになって話すことなのだろうか。

 そう感じたが声には出さなかった、この聡明な友人には何らかの考えがあるはずだ。夜風が黒髪をなびかせ、文は涼しげに目を細めた。そして言葉を拾い集めるように、最速の少女は続きを紡ぎ始める。

 

 

「そうですね、それが普通なんです。使い魔ごときに情はいらず、同族に変じたとて道具として使い捨てればいい。私もカラス時代はそう思っていましたし、大して雇い主に期待もしていませんでした。実際に使い魔になるまでは」

「‥‥?」

「天狗になったばかりの私を大切に育ててくれた夫婦がいたんです。まるで娘のように接してくれ、家族のように扱ってくれた。あの方々から頂いた幸福と思い出は感謝なんて言葉では言い尽くせません。もう、千年も昔になりますが」

 

 

 遠い過去へと思いを馳せる文はとても楽しげで、同時にとても寂しそうだった。おそらく育ての親となった大天狗の話なのだろうと、はたては推測する。長年、刑香と一緒になって気になっていた文の過去を知る手がかりになるのは間違いない。だが、どうしてそんな話を今する必要があったのだろうかと首を傾げそうになるのも事実だ。

 はたての心を見透かしたように、黒髪の親友は続きを口にした。

 

 

「ええ、何でもない話です。忘れてください」

 

 

 くるりと文が背を向けて歩き出す。

 結局のところ、黒髪の少女が多くを語ることはなく、茶髪の少女がその心中を察することもなく。言葉は風に乗り、宵闇の果てへと消えていった。跡に残るのは黒い羽が一枚、ひらりと舞ってはたての足元へと落ちる。

 

 

 それは銀の鎌のきらめく宵の刻のこと。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十三話:花の色は映りにけりな

 

 

 ーーー懐かしい夢を見た。

 

 

 まだ幻想郷が博麗大結界によって隔離される以前、まだ人間たちが神や妖怪を畏れていた時代があった。生と死の境界は曖昧で、此岸と彼岸を分かつ三途の川のあまりにも浅きこと。流行病を防ぐ術はなく、天候に一喜一憂する人々は人ならざる存在に怯えていた。

 

 まこと良き時代であった。

 世継ぎとなるべき息子は存命しており、信頼するに足る大天狗たちに二心無く、己もまた霊力が満ちていた。ただ一つの気がかりは初孫の顔をまだ拝んでいないことくらい。息子が祝言をあげてからというもの、ついつい夫婦のそちらの暮らしについて尋ねては渋い顔で怒られる日々を過ごしていた。

 

 いずれ全てを取り零すことになろうとも、光の記憶は色褪せることなく心に残り続ける。そのことに人も妖怪も、神さえも違いはない。

 その夜、老いた鴉天狗は夢を見た。静まり返った夜闇の中、二人の少女たちが語る思い出話に耳を傾けながら夢を見た。

 これは、千年程前に遡る物語。

 

 

 

 

 

「長老様、朝早くから失礼致します」

 

 

 

 

 

 あれは日も完全に昇りきっていない早朝のこと。

 柚子色をした陽光が障子をすり抜けて、畳を明るく染め始める頃。涼しげな風と暖かな光の混在する朝の空気は爽やかなもので、妖怪の山にある天魔の屋敷もまた心を澄み渡らせるような雰囲気に包まれていた。一方でこちらの返事を聞く前に勢い良く開かれた障子の音は、そんな風情を台無しにするものである。

 

 溜め息をつきながら、天魔はそれまで綴っていた書簡を袖口へとしまい込んだ。そしてゆっくりと座していた書机から立ち上がる。ジロリと鋭い眼差しで睨みつけた先にいたのは、両腕に大量の資料を抱えた女天狗だった。

 

 

圻羽(キシハ)よ、せめて中にいる者が返事をしてから戸に手をかけるべきであろう。しかも貴様、ワシの部屋の障子を足で開けるとは無礼だと思わぬのか」

「申し訳ありません。両手が巻物で塞がっていたので仕方なくやってしまいました。あ、ちなみにコレは天魔様から頼まれていた資料ですから」

「はぁ‥‥‥もう良い、そこの書棚に積んでおけ」

「はい、了解です」

 

 

 長老の私室に備え付けられた障子を足の指で掴んで開けてきた豪快な無礼者、この女天狗の名は『圻羽(キシハ)』といった。

 腰まで届く美しい黒髪と、夏の朝焼けを思わせる真っ赤な瞳を持つ鴉天狗。非常に頭が回るため、わざわざ天魔が側においている側近の一人だ。仕事は出来るものの、組織のしきたりや規則を軽んじる一面があった。困ったものだと天魔が煩わしそうに目を細めていく。しかし不意に鼻を掠めてきた『血の匂い』、そして天狗装束がわずかに赤い染みで汚れていたことに気づくと、ゆっくり口を開いた。

 

 

「なるほど、その書類は事後報告のためのものであったか。随分と早かったな、あと数日はかかると思っておったぞ」

「それは私を舐め過ぎです、あんな低級妖怪なんて物の数ではありませんよ。問答無用かつ一撃のもとに首を飛ばしてやりました。『最速』の名は伊達ではありませぬ故」

「そうか、何よりだ。これで北西方面の露払いはほぼ完了したようなものであろう。くかかっ、八雲も悔しがっておろうな」

「うーん、それはどうでしょうねぇ。悔しがる素振りを見せてきたところで本心からのモノなのか、こちらを謀ろうとしているのか私では判別つきませんし」

 

 

 そう言って手際よく書棚を整理していく。

 数日前、コイツには敵対する妖怪への対処を命じていた。どうやら同時に終わらせてきたらしく、香ってくる返り血の匂いからして全て斬り捨てたのだろう。声色からも敵に対する容赦は一切感じられない。恐らくは言葉の通りに一瞬で相手の首を斬り落とし、その魂を黄泉送りにしたのだろう。流石は妖怪の山にて『最速』と称えられる女天狗なだけはある。

 非常に朝から気分が良い、その働きに免じて先程のことを水に流してやろうと心に決めた。そんなことを考えていると、部屋へと差し込む別の影があることに天魔は気づく。チラリと視線を移してみると、半開きになった障子へ隠れるようにして立っていたのは幼い鴉天狗の娘であった。

 

 

「む、圻羽(キシハ)よ。初めて見る顔であるが、そこにいる小童めは貴様の手の者か?」

「あー、やっぱり付いて来てましたかぁ。向こうで待っているように伝えたんですがね。仕方ない‥‥‥‥ほら、こっちにおいで」

「‥‥‥ごめんなさい」

 

 

 書棚の整理を後回しにして、やれやれと圻羽が屈んで両腕を広げた。すると小さな黒い少女は頼りない足取りで天魔の隣を通り過ぎ、ぽすんと女天狗の胸元へと飛び込んだ。そのまま圻羽に抱き上げられると、しっかり背中へと可愛らしい腕を回してしがみついた。頭を撫でられるたびに小さな黒い翼がぱさりと揺れる。まるで生まれたばかりの雛鳥のようだと、天魔はその様子をしげしげと眺めていた。

 

 

「この子は先日、ようやく天狗に変じてくれた私の『使い魔カラス』なんですよ。ちょっとだけ甘えたがり屋で、なかなか私から離れてくれないんですよねぇ」

「ほう、貴様の使い魔であったのか。しかし少しばかり幼なすぎる、それでは哨戒にすら使えまいよ。万が一、任務の妨げになるなら早めに『処分』しておけ」

「そんなことしません。そもそも私は使い魔たちを『道具』として扱ったことはありませんから、この子だって今までと同じく大切に育てます。処分などとは二度と口にせぬようお願い致します」

「ふん、まあ良かろう。どのみちワシが口出しすることではないからの‥‥だが周囲の目には気をつけるが良い、たかが使い魔上がりの小娘に甘くするようでは『家名』が軽んじられる」

「こっそり大切にしますのでご安心を」

 

 

 好きにしろ、と老天狗は切り捨てる。

 それを了承と取ったようで圻羽は黒い少女へと微笑みかけていた。まるで母親のようである。貴様は子育てなどしたことなど無かろうと、天魔は呆れたように視線を反らした。まあ、この子育て経験がいずれ活きることもあるだろう。いずれ本物の子を成した時に手慣れているなら越したことはない。

 だが、やはり言いたいことはある。

 

 

「もう貴様は『ワシの一族の者』となったのだぞ。少しは自覚を持たねば夫の方も苦労しようぞ。分かっておるのか、白桃橋圻羽」

 

 

 千年前、妖怪の山にて『最速』と噂され、多くの者たちから恐れられていた女天狗。型に()まらぬ自由な気質と、常に他者の先をいく明晰な頭脳。そして何よりも『漆黒の翼』と『真っ赤な瞳』。やがて一人娘を授かることになる圻羽だが、その娘は母親に似ることは無かった。一緒に過ごした時間があまりにも短かったのだ。

 その代わり、彼女の面影は別の少女へと受け継がれていくことになる。

 

 

「はいはい、分かってますよ、お固いお固いお義父さま。そんなに怖い顔をしないでください。ねー、文ちゃん」

「‥‥‥あやや」

 

 

 それは古い記憶、白い少女ではなく黒い少女が大切にしていたであろう思い出の一幕。

 射命丸文が白桃橋刑香に対して、まるで『姉妹』のように接してきた本当の理由。

 それは遠い遠い水平線の彼方、その向こうに霞み続けている真実の欠片。

 

 

 

 

 

 

 

「というわけで、苦労して私たちは舶来由来のカメラを人里から入手したわけです。そうして撮った写真は三人ともまだ持って‥‥‥って聞いてましたか、天魔様?」

「うむ、うむ?」

「絶対に聞いてなかったわよ、文」

 

 

 そこで夢は覚めた。

 懐かしき光景は目蓋(まぶた)の奥へと消え去り、代わりに視界に上書きされたのは月光満ちる夜の(とばり)。どうやら眠ってしまっていたようだ、ぼんやりと霞みかがった目を擦りながら欠伸を一つ。じとりとした視線をした二羽がこちらを見ているが、気がつかないふりを通すことにした。

 文とはたての視線がかなり痛い。

 

 確かにいくらでも付き合うとは言ったのだ。しかし会合が終わった後に『とりあえず直近の百年分』を意気揚々と、夜通し語ろうとした小娘たちに思うところはあって然るべきだろう。辟易とすることはないし、孫娘とその友人たちとの物語は傾聴する価値があった。事実として最初の頃は柄にもなく、目を輝かせて聴いていたような気がする。

 だが、何事にも限界はある。せめてもう少し分割して話すことは出来なかったのだろうか、こっちは仕事を終えたばかりの年寄りなのだ。

 

 

「すまんな、ワシも疲れていたらしい」

「あ、いえ、私も嬉しくて先走りすぎました。‥‥‥もうお休みになられますか?」

「いや、そのまま続きを頼む。明日にはその話を手土産にしてアヤツと‥‥‥我が孫娘との他愛もない会話に挑戦する心積もりでな」

「そうですか。では、ゆっくりと耳に馴染むように語りましょう。次の話はお願いして良いですか、はたて」

「はいはい、分かったわ」

 

 

 文が目配せすると、今度ははたてが語り出す。

 単調な口調ではなく、抑揚をつけて三羽の過去を紡ぎ出していく。眠気を払うための配慮なのだろう。時には強く、時には弱く、また緩急をつけて語り手は物語の一幕を描き出す。これなら朝まで何とか耐えられそうである。ちらりと射命丸の方を見つめてみると、こちらも姫海棠へと耳を傾けて瞳を閉じていた。

 まるで雛鳥のように、ぴったりと主人の後ろに付いていたコイツも随分と成長したものだと思う。だが育ての親が刑香の母親であることを本人に伝えていないとも聞いた。

 

 

 文が刑香と『本当の姉妹』として見ることが出来る間柄であることを決して語らない。

 

 

 この娘にも何か考えがあるのだろう、老天狗は用意していた酒を傾ける。『小鬼殺し』と銘打たれたソレは貴重な酒虫を使って製造されたもので、鬼の秘宝の一つである『伊吹瓢』を参考にしている高級品だ。少々度数は高いが、味の方は鬼の四天王が太鼓判を押すほどに素晴らしい。

 星々の光で波立つ盃に迷い込んだ夜風が、周囲に芳醇な匂いを立ち昇らせる。月が映り込んだ酒精の水面はどこまでも透明だ。風雅というには些か俗世に染まっているが、それでも今宵はとても良い気分である。ほんのりと甘く酔いが回った思考は、このところの疲れを忘れさせてくれた。

 

 

 

 今宵は、良い月が見える。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 真珠を思わせる深更の月。

 それは松明の中心から炎をひと掬いして、宵空の真ん中にぽとりと落としたかのようだった。地表へと零れる光は繊細で、か弱い花弁が散るようにさめざめと降り注ぐ。春先の不安定な気候を表すような月は叢雲に揺れながら、今宵も天上から地表を見下ろしている。

 千年前に起こった『月面戦争』。その舞台となり多くの月兎と妖怪たちが散っていった、痛ましくも美しき月の都がそこにある。白桃橋刑香と幾人かの大妖怪たちの運命を狂わせることになった禁忌の地だ。

 そんな星空の下で空色の瞳は瞬いた。強い妖気を漂わせた双眸は冷ややかに『こちら』へと向けられている。

 

 

「よくもまあ、ここまで入り込めたものね。周囲を取り囲んでいる結界と白狼の小隊はどうしたのよ。例え紫のヤツだって、この屋敷には簡単に侵入できないはずなのに」

「それはそれ、他の連中ならともかく、私にとって障害なんてあってないようなものさ。厄介な見回りや結界がある空間は丸ごと『省いて』移動しちまえばいい、私のチカラにこの手の守りは意味を成さない」

 

 

 その視線の先にて月を見上げているのは、波打つ夜に漕ぎ出した三途の河の船頭。小町はどこまでも自然体のまま背中を木の幹に預けて、磨き抜かれた鏡のような星空を瞳に映していた。夜風に乱れる真っ赤な髪は草花のようでいて、立ち姿は彼岸の花のごとく。畏まった様子一つない死神の姿は星々の下にあって、どこか風流ささえ感じさせた。

 

 夜風に乗って白い煙が立ち昇っていく。

 それは水底の(あぶく)のように、自分の持つ煙管(キセル)から溢れているのを小町はのんびりと見送った。「サボリ厳禁」と妙に達筆な文字で掘られているのは、信頼する上司から贈られたものだからだ。思えば『あの方』との付き合いも随分と長いものとなった。お互いに足りないモノを補うようにして、気づけば千年を優に越えて自分たちは幻想郷を裏方として支え続けている。少しくらい感慨に浸るのも無理はない。

 

 

「おっと、悪いね。こういう匂いは好みじゃ無かったかい?」

 

 

 白い少女がその端正な眉を潜めているのを見て、小町は煙管から唇を離す。月下に映える純白の双翼がぱさりと羽ばたき、星明かりを宿した空色の瞳が瞬いていた。混沌を良しとする妖怪の中にあって、異色とも言える澄み切った妖気は相変わらずだ。あまり近づいてはいけない、この娘と距離を詰めるだけで致命傷を負ってしまう。鬼でさえ、一時的にしろチカラの大半を封じられたのだ。『死』に直結した存在である自分などひとたまりもない。

 

 

「別に煙の匂いが嫌いなわけじゃないわ、好きでもないけどね。そうじゃなくて、前にも似たような匂いを感じたような気がして不思議だったのよ」

「‥‥‥そうかい。でも気を使わせても何だし、とりあえず煙の方は遠ざけておこうかなっと」

 

 

 ささくれだった寂しさを圧し殺す。

 何気ない様子を気取りながら、指先で煙管を撫でてやる。すると立ち昇っていた白い煙は消え失せ、周囲を漂っていた匂いもまた薄まっていく。少しだけ『距離』を操ったのだ。手元から流されるはずだった白煙は、遥かな上空へと直接流されていく。この能力の使い道は本人が移動するだけに留まらない。仕事場である河の長さを変えたり、さっきのように邪魔なモノがある場所を省いて空間同士を繋げることも出来る。

 そして、誰かからの補助があれば『記憶』を遠ざけることさえ可能となるのだ。

 

 

「それにしても、文から聞いていた通りに厄介そうなチカラね。全ての死神がそんなチカラを持っているなら防ぎようがないわ。地の果てまで逃げようと、如何なる結界や守りを築こうとアンタたちはただの一歩でそれを踏み越えてくる」

「大天狗様からお褒めの言葉をいただけるとはね。一介の死神としては光栄の限りだ」

「別に褒めちゃいないわよ。生きとし生ける者は死神の鎌からは決して逃れられない。それこそ私の『死を遠ざける程度の能力』でも無ければ、アンタたちの歩みは絶対に阻めない。それが面倒だって言ってるの。あと、私はまだ大天狗じゃないから」

 

 

 そう言う少女の肩には紫の羽織。

 移ろいゆく鮮やかな花の色、もしくは昼と夜が混ざり合った夕暮れの色をした長老家の証。その胸元には八ツ手の葉団扇を模した家紋が縫われている、当然だが血族以外で身につけることを許されない一品である。これ一枚で内紛すら起こる可能性がある。

 そんな羽織を身に纏いながらも白い少女は変わらない。何でもないことのように小町の皮肉を聞き流し、そして真っ白な髪を夜風に靡かせている。空色の瞳は涼しげで、その在り方はどこまでも自然体だった。

 もう一度、煙管を吹かしてから死神は言葉を続ける。

 

 

「しっかし、随分と無茶をやらかしたみたいだねぇ。紅い吸血鬼に地底の鬼、そして今回はスキマの大賢者ときたもんだ。その全てから狙われて生き残ったとはまったくもって驚くよ」

「そりゃどうも、お褒めに預かり光栄よ?」

「私なら最初で手足もがれて、次の鬼にバラバラにされて終わりだっただろうねぇ。本当にあんたは強くなったよ、(しおき)

「別に私が強くなったわけじゃない。戦いのたびに誰かから助けられてどうにか乗り越えて来ただけよ」

「くくっ、それを『強くなった』と私は言ってるんだ」

「‥‥‥?」

 

 

 吸血鬼異変や地底での一件、ついでにスキマ妖怪との決闘。この一年余りで刑香を襲った災難は数知れず、しかし少女はその全てを退けてしまった。以前の彼女ならば決して乗り越えられなかったはずだ。狭い組織の中で友人二人だけに心を許していた白桃橋刑香では、今ここには辿り着けなかっただろう。多くの仲間たちを手に入れたこと、それは『強さ』と同義である。

 実際のところ、自分は随分と安心していたのだ。山から離れ、人里にて知人を増やし、博麗の巫女やスキマ妖怪、紅魔館とも繋がりを持った、これでもう『大丈夫』だと思っていた。この娘は自由にやっていけると確信していた、それなのにーーーー。

 真っ白な煙を吐き出して、小町は「やれやれ」と深い溜め息をつく。

 

 

「それなのに、どうして戻ってきちまったんだい?」

「理由が知りたいの? 私と天魔様との関係なんて、その様子だとアンタ達には筒抜けだと思っていたんだけど」

「あんたと天魔が血族であることは最初から知ってたさ。そのあたりの事情については幻想郷の誰より、私や『あの御方』が詳しく把握しているからね」

「『あの御方』って‥‥‥まさか」

 

 

 妙な引っかかりを覚えたらしい天狗少女。

 死神が敬意を払う相手というものは非常に限られており、まして『拓落失路』などという二つ名を持つ自分。出世などというモノに興味はなく、どこまでも自由な船頭を気取った変わり者。そんな者が明確に敬意を払うのは地獄広しといえども、たった一人だけだ。恐らくはそこから気づかれたのだろう。

 彼岸の桜が舞い散る法廷、地獄の是非曲直庁(ぜひきょくちょくちょう)における幻想郷担当の閻魔王。彼女の前にてあらゆる弁明、まやかしは意味を成さず。決して揺るがぬ絶対的な善悪基準を持って、死者たちの魂を裁き続ける孤高の者。この世界で唯一、絶対に小町が頭の上がらない相手。その名はーーー。

 

 

「四季映姫ヤマザナドゥ、か」

「さすがに鋭いね、正解だよ」

「よりにもよって、私はそんな大物にまで目を付けられているのね。‥‥‥そろそろ嫌になってきたわ」

「スキマ妖怪や鬼の四天王から喧嘩を売られたことのある娘が言うべき台詞じゃあ無いよ。今更その上に、私や閻魔様が増えたって構いやしないだろう?」

「構うに決まってるでしょ!」

「く、くくっ、やっぱりそうかい」

 

 

 苦笑つつ煙管から口を離す小町。

 その動作と共に、彼岸の花に似た紅色の瞳は細められていく。下げられた煙管から、とっくに火の気配は消えていた。

 

 

「話を戻そうか。そもそも妖怪の山からアンタを追い出したのは、あの老天狗に残った最後の良心だった。せめて最期に孫を自由な空へと解き放ってやりたいっていう、身勝手でどうしようもない罪滅ぼしだったんだ」

「‥‥‥お祖父様の想いは理解しているわ、納得はしていないけどね」

「このままアンタは大天狗となるだろう、もしかしたら『その先』にも進めるかもしれない。それこそ八雲紫さえ脅かすほどのチカラを手に入れることになる、アンタの運命を狂わせたアイツをね」

 

 

 そっと小町は魔鎌の柄を握りしめた。

 魂を刈り取るための曲線は、淡い月光を受けて鈍い輝きを放っている。刃先からにじみ出る濃厚な死の気配、怪しげに変わった周囲の気を感じとって白い少女が警戒を高めていく。腰に差した妖刀に刑香は手をかけていた。

 

 

「何よ、ここに来たのは私の魂を回収するためだったの? それならそうと言いなさい、初めから言葉ではなく刃を交わすべきだったわ」

「いや魂を連れて逝くのは、基本的に私の仕事じゃない。博麗の巫女のような存在ならともかく、あんたを迎えに来たりはしないさ。私はあくまでも三途の川渡しだ」

「‥‥なら、その物騒な得物から手を離しなさい」

 

 

 殺気はなくとも眼差しは鋭く。

 月光の下にて、二人の人外は対峙した。このまま小町が切り込んだところで『死を遠ざける程度の能力』が発動する。妖力に余裕がある限りは致命傷を負うことはなく、あらゆる死を跳ね返すチカラ。妙な話だが、致命傷となる首に刃を這わせるより手足でも斬り落としにかかった方が有効だろう。

 限界まで張り詰めた空気の中、小町が一歩踏み出した。

 

 

「ーーー多くの妖怪たちが命を散らした『月面戦争』、あの出来事により幻想郷の勢力図は大きく塗り替えられた。旧き者が滅び去り、その代わりにスキマ妖怪のような連中が中心へと躍り出ることになったんだ。謂わば、現在に繋がる基盤があの時に出来上がったんだよ」

「知ってるわ。そこで私の両親が亡くなったことも、ついでに『月面戦争』を起こす切っ掛けを提供したのが紫だってこともね」

 

 

 あの頃、地上には力を持て余した妖怪が大勢いた。

 鬼や天狗のみならず、かつて大妖怪として名を馳せていた蟲妖怪を始めとした者たち。群雄割拠という言葉では生温い、まさに一騎当千と言える種族が溢れていたのだ。それがたった一夜にして消えることになると、一体誰が予測出来ただろうか。

 多くを失い、何一つ得るものの無い戦いだった。月では地上の妖怪は全力を出すことも出来ず、彼ら彼女らは殆ど一方的に敗れ去った。これを節目にして、一気に幻想郷は形作られていくことになる。

 

 

「なら、スキマ妖怪がわざと『勝ち目のない』戦いに天狗を含めた妖怪たちを導いたことも知っているかい?」

「‥‥‥邪魔な勢力を削り取るため、月の都を利用したってこと?」

「そうだ、戦い方によっては勝ち目があったかもしれない。それを意図的により多くの犠牲が出るように誘導した。初めから全てはアイツの計画通りだったんだ」

 

 

 青白い妖気が染み込み、端々から魔鎌には凍りついたような霜が広がっていく。『死を遠ざける程度の能力』は物質にさえ有効らしい。この僅かな間に魂を刈り取り死をもたらす刃はチカラを失い、使い物にならなくなっていた。同時に、ぐらりと小町の身体がよろめく。

 

 

「っ、近づいただけでここまで、キツイのかい‥‥」

「‥‥‥お祖父様から延命のチカラを完全に移してもらったからね。今の私は『死』と関わりのあるアンタみたいな存在に対しては毒そのものよ。ちょっと、大丈夫なの?」

「な、何とかね。しかし、コレは天人や仙人どもよりも性質が悪そうだ。修行や仙丹を必要とせず、アンタに頼むだけで単なる人間でさえ私たち死神を遠ざけることが出来るようになる。このチカラを使えば、人里くらい明日にでも支配できるだろうねぇ」

 

 

 風雨や雷、木々や獣などを、時に人は神として『信仰』してきた。そして様々な理由こそあれ、その想いの根底にあるのが『死』への恐怖であることは間違ってはいないだろう。自然現象を畏れ、自然そのものに神々の姿を幻視する。それこそが人々を長く支配してきた信仰の始まりだ、そして白桃橋刑香のチカラはそういった対象と成り得るだろう。

 妖怪の山にいた頃は一部の天狗たちにのみ能力は利用された。追放されてからは人里の人間たちを個別に治療するくらいで、刑香の性格と相まって信仰まで集める形とは成らなかった。だが組織の後押しがあり、天魔から完全にチカラを譲られたなら話は別だ。それこそ人里はすぐにでも天狗の支配に屈してしまうだろう。人間は『死』の恐怖を捨てられない。

 

 

「‥‥‥いや、そんな面倒なことするわけないでしょ。つまらない理由のために霊夢や紫と対立することになるのは御免こうむるわ」

「博麗の巫女はともかく、八雲紫はあんたから両親を奪って巣から突き落とした張本人だ」

「でもアイツのおかげで文やはたてと親友になれた、霊夢たちとも出会えたわ。それに紫は私をどうこうしようと思って月面戦争を起こしたわけじゃないし‥‥って、同じような会話を藍ともしたわね」

「そうかい‥‥‥そう、かい」

 

 

 少女の言葉に偽りは無かった。

 それまで虐げられていた者が大きな力を手に入れる。すると不思議なくらいに復讐へ走った人間がいた、憎悪に囚われた妖怪がいた。それはある意味では当然のことで、生ある限り逃れることの難しい宿命である。だが果てに待ち受けるのは常に自らの破滅と空しい最期、彼らを乗せた舟がいつまでも向こう岸に辿り着けなかったことを小町は未だに覚えている。

 この白い天狗少女に、自分はそんな結末を迎えて欲しくなかった。だからこそ真意を確かめようと急いで駆けつけたのだがどうやら必要無かったらしい。

 生命力に溢れた夏空の瞳は、真っ直ぐにこちらを見つめている。これなら、きっと大丈夫だ。

 

 

「ふふっ、その様子なら心配は要らなさそうだ。あの方もさぞや安心されるだろうねぇ」

「なんで閻魔が安心するのよ」

「さて、何故だろうねぇ。それよりもう一つの用事を済ませるとしようか。あんたと天魔の爺さん宛に『コレ』を預かってきててね‥‥‥そらっ、受け取ってくれ!」

「っ、ちょっと待ちなさ‥‥!?」

 

 

 (ふところ)から取り出した包みを投げ渡す。

 本当はもう少しゆっくり話をしたかったが、仕方ない。流石の自分でも天狗たちに囲まれてしまったら振り切るのは不可能だ、その前にここから(いとま)するとしよう。刑香が何とか包みを受け取ったのを確認してから、小町は軽やかに地面を蹴った。 

 

 

「じゃあね、(しおき)。次に会うのは恐らく十年後ってところだろうが、それまで達者で過ごしなよ。私もあんたの一人目の『名付け親』もあんたの歩みを見守っている。せいぜい悔いなき時間を送っておくれ」

「あっ、ちょっと待っ‥‥‥」

 

 

 返事は聞かなかった。

 瞬きの間に景色は移り変わり、もう視界には深い森しか映っていない。どうやら無事に天狗の里を抜け出せたらしい。一際大きな樹木の下に、荒い呼吸を繰り返しながら小町は腰を下ろした。

 やはりあの少女の傍にいるのは身体が保たないようだ。死神ともあろう者が情けないものだと苦笑する。胸元を探って煙管を取り出すと震える手で火を入れた。ようやく一息付けた気がする。身体はひどく重かったが、精神はこの上ないくらい軽い。汗を拭うこともせずに小町は口元を綻ばせた。

 

 

「貴女が名前を付けた子は立派になりましたよ、四季様」

 

 

 その言葉に応えるように、鏡のような銀色の輝きが一瞬だけ瞬いた。それを見届けてから小町はずるずると背中を木に預けて横になる。少しだけ休んでいくとしよう、今夜はこんなにも月が美しいのだから。

 そう、安心した顔で死神の少女は眠りについた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十四話︰恋し少女たちのダイアログ

 

 

 詳しくは知らないが、この少女は幻想郷から遠く離れた西方の地からやって来たらしい。

 

 平穏な空を切り裂く稲妻のごとく、草花を引きちぎる嵐のように紅い吸血鬼は現れた。幼い姿をした魔は瞬く間に幻想郷を掻き乱し、人妖を問わず多くの者たちを混迷の渦に叩き込んだ。そして仮初めの平穏に溺れていた妖怪たちに『恐怖されるもの』としての本質を思い出させたという。

 主犯となった者はわずかに四人、たったそれだけの人数でスキマの賢者すら動かしてしまった。にわかには信じられない話だ。ここしばらく八雲紫をそこまで追い込んだ者は、天狗の長老を除いて存在しない。少なくとも薄暗い地底に住まう自分などには、到底真似できそうもないし、真似する気にもならない。本来なら、是が非でもお近づきになりたくない相手である。

 

 

「それで私に何の用でしょうか、紅魔の主?」

 

 

 地底の主は静かに呟く。

 テーブルを挟んで向かい合うのは、いずれも幼い姿をした人ならざる存在。美しい木目のアンティークボードを眼下に収めて、瞬くのは冷めた深紅と輝かしい真紅。似ているようで正反対な色を宿した双眸(そうぼう)は、それぞれが恐ろしいほどの鋭さに満ちていた。しかし問いに対する反応は無く、その代わりに盤上にいた黒のポーンが前進して高らかな音が響く。どうやら答える気はないらしい、サードアイを使ってもチェスの戦術で埋め尽くされている思考しか読み取れない。

 

 ため息を付きつつ、さとりは無表情でゲームの盤上を見渡した。並んでいるのは磨き抜かれた黒と白、艷やかなオニキスで形作られたチェスピースたち。触れた指先から伝わってくる感触は素晴らしく、コレ一つ取っても目の前の少女が持つ財力と家の格式が伺えた。白のポーンを摘み上げて黒の陣地手前まで進ませる。それは自身の駒を捨て石にするかのような配置で、守りを考えない無謀な采配にも見えた。

 だが、レミリアは愉快そうに口元を歪ませる。

 

 

「まさかこの私にキングス・ギャンビットを仕掛けて来るなんてね。チェスに慣れていないくせして大胆不敵、なかなか堂々としているじゃない。私の記憶から使えそうな戦術でも読み取ったの?」

「否定はしません、何せチェスなんて久しく打っていませんでしたので」

 

 

 ここは紅魔館、レミリアの寝室。

 外部の者が入り込んだのなら即座に容赦のない制裁が下されるらしく、紅魔館でも指折りに物騒な場所。何故こんなところにいるのだろうと、地底の少女は頭とサードアイを抱えたくなった。ついさっきまで自分は妖怪の山で会合に出席していたのだ。それなのに『あの老天狗』が会議の一時解散を提案したことで、この厄介な事態は引き起こされた。

 

 

 ーーーふむ、それでは一旦ここらで休息を挟むとしようではないか。各々方、現状を自らの部下たちと話し合う時間も必要であろう。何せ、幻想郷の未来を決めてしまう会合ゆえに慎重に進めねば、な?

 

 

 あの時、天狗の長老はそう語って席を立った。

 確かに八雲藍は自らの主に、レミリアは親友の魔法使いにそれぞれ話を伝えて意見を求める必要もあったかもしれない。なので表面的には老天狗の言ったことは間違ってはいなかった。だが、藍やレミリアが言い出すならともかく天魔からその提案をする理由はない。悪くいえば独裁者で部下との話し合いなど不要で、かといって他の参加者にそこまで気を使う男でもないのだ。藍もレミリアも不気味なものを見る目をしていたのを覚えている。

 唯一、サードアイを持つさとりには天魔の本心が透けて見えていた。しかし、その理由が「孫娘と話をする時間が欲しい」だったので頬を引き攣らせながら黙りを決め込むしかなかったのだ。まあ、それはいいだろう。

 

 

 ーーー会議の再開は三日後なのよね、それなら古明地さとりは紅魔館で預かることにするわ!

 

 

 問題はそれを絶好の機会と判断したレミリアによって自分が山から連れ出されたことだ。吸血鬼の怪力に逆らえるはずもなく、引きずられるように空を飛んで紅魔館の門を潜らされている。

 鮮やかな花々に彩られた庭園に毒気を抜かれたまでは良かった。門番が大切に育てている花壇は『気』を使った農法により外の草花とは比べるべくもなく美しかった。レミリア曰く、幻想郷に来てから屋敷に飾られる花瓶はますます華やかになったらしい。固く閉ざされているはずの入り口だというのに、随分と柔らかな雰囲気があるのは門番の人柄のおかげなのだろう。

 

 

 ーーー何そいつ? 違うわよ、(さとり)妖怪だということは分かってる。そうじゃなくて何で知識を掠め取る妖怪が大図書館にいるのかを聞いてるのよ

 

 ーーーへぇ、レミリアお嬢様がお友達を連れてくるなんて珍しいですね。パチュリー様以外では久しぶりにお目にかかりましたよ

 

 

 次に連れて行かれた大図書館は酷かった。

 引きこもりの魔女から露骨に嫌な顔をされ、その傍に控えていた使い魔からは物珍しそうな視線を向けられる。どうやら了承を取っていなかったらしく、紫色の少女の眼差しはとても冷たい。おまけに、さとりは埃っぽい空気に咳が止まらなかった。

 

 

 ーーー私とさとりはまだ友達じゃないわ、正しくは友達候補ってやつかしら。ああ、もちろんパチェには大親友って地位を用意してあげるから嫉妬しなくても大丈夫よ?

 

 ーーーそれは安心したわ、とってもね

 

 

 にっこりと微笑んだパチュリー。

 だからさっさと出ていけ、そんな抗議の雰囲気が笑顔から漏れ出していた。殺気をさらりと受け流し、レミリアは置いてけぼりにされた自分の手を引いて屋敷の奥へと進んでいく。エントランスを抜け、その奥にある階段を使い上階へと進んだ先にこの部屋はあった。

 

 金糸で装飾された天蓋付きのベッドに、深い焦げ茶色をしたマホガニー製のチェスト。他にもアンティークの家具が数点置いてあり、全体的に落ち着いた気品を漂わせるクラシカルな寝室だった。ベッドの上に備え付けられた巨大な棺桶にさえ目を瞑れば、かなり良い趣味をしていると思う。そんな部屋の中でチェスボードを前にして、二人はゲームに興じている。しかし雰囲気に反して、さとりの心の中は落ち着かない。

 

 

「というか、パルスィも一緒に来たはずなんですが彼女は何処に?」

「アンタに付いてきてたヤツなら、ウチの門番にまかせているわ。この屋敷内にいるから安心しなさい。ちょっとの間だけ、アンタと一対一で話をしたかったから引き離させてもらったの」

「そうですか。なら尚更、私の質問には答えてください。一体どういった理由で私をここに連れ込んだのですか?」

「だから最初から言ってるでしょ」

 

 

 カタリ、と白のビショップが倒れる。

 お互いのサイドテーブルには、すでに討ち取った駒がいくつも並んでいた。さとりの仕掛けた『キングス・ギャンビット』はオープニングからの攻撃に優れた戦術であり、レミリアもそれに乗ってきた。チェスボードの上はさながら激戦地である。

 対戦相手の手のうちを丸裸にするさとりと、何十手先の運命を洞察して流れを絡め取るレミリア。普段なら早々に勝負を決めにかかる両者なのだが、今回だけはお互いに攻めきれない。小手先の読みはあっという間に崩されて吸血鬼の少女には届かず、かといって何十手先に用意したチェックメイトは覚妖怪の少女によって悠々と回避される。

 まるで悪質な迷路にでも入り込んでしまったかのように、二人の少女たちの勝負は混迷を極めていた。

 

 

「はぁ、心を読める相手というのは面倒ね。直前まで思考を反らして、アンタが回避出来ないタイミングで奇襲をかければ何とかなるなんて思ったけど」

「運命を操るというのも厄介ですよ。一つ一つ読み解いていこうとしても、何百と枝分かれした未来の全ては読みきれない」

「この勝負、引き分け(ステイルメイト)でいいかしら?」

「私もそれがいいかと思います」

 

 

 まだ動かせるピースはある、このままプレイヤーを交代したのなら幾らでもゲームを続けられるだろう。しかし少女たちの間では、もうこの勝負はドローと決まっていた。もし続ければお互いの駒がキングのみになるまで泥仕合が続くだろうと、さとりとレミリアは確信したのだ。

 かつて行われたこいしとフランドールの姉論争。どちらの姉が強いのか、凄いのか、はたまた格好いいのかという議論があったが結局のところ勝敗は灰色となってしまった。

 

 

「まさか戦略ゲームで私がここまで苦戦する時が来るとは驚きです」

「私だって思いもしなかったわ」

「……ふ、ふふっ」

「く、くくっ」

 

 

 笑みを浮かべながら少女二人は椅子にもたれ掛かる。

 心地よい疲れだった。おもむろにレミリアが指を鳴らすと、現れたメイド姿の妖精が二組のグラスに真っ赤なワインを注いでいく。じっくりと熟成されたブドウ酒の匂いが空気を甘く歪め、ガラスの器の中で紅い布地のような波がゆらゆらと揺れる。そのうちの一つをこちらへと差し出した。

 

 

「うちのフランがお世話になったわね、おかげであの娘の世界は広がった。本当はアナタの妹にお礼を言うべきなのだろうけど、あいにくと話が通じないから姉の方に感謝を伝えておくわ」

「……それはご丁寧にありがとうございます」

 

 

 警戒しながらグラスへと手を伸ばす。

 触れ合った指は冷たく、小説で読んだとおりに吸血鬼は体温が低いことに少しだけ感動する。そんな自分の姿を映していた紅い月のような瞳に何だか笑われているような気がして視線を外す。そして心を落ち着けるためにもワインを口に含んだ。毒は仕込まれていないらしく、舌の上で転がしてから喉の奥へと流し込む。顔を反らしながらもサードアイで心の水底を覗いていくのは怠らない。しかし、いくら潜ろうとも自分が警戒したような思考は何も読み取れなかった。レミリアには敵意がない。

 

 

「よく分かりませんね。本当に友好関係を結ぶなんて理由のためだけに、貴女は私をここに招き入れたというのですか?」

「最初からそう言ってるでしょ。もちろん友達になりたいってだけじゃないけれど、それでも私がアンタに伝えた言葉に嘘はないわ」

 

 

 そう言ってレミリアは右手を差し出した。

 外界から来て日が浅い紅魔館が、幻想郷の有力者とコネクションを築きたいためというのなら話は分かる。他から孤立した地底のような勢力は、そういった話には好都合だからだ。実際に紅魔館の主にもそういった考えは存在する。

 しかし古明地さとりと仲良くしたいという目的も嘘ではない。それも妹同士が友達なのだから、姉同士も友仲良くするべきだという一方的な理由だ。

 

 

 ーーー友人なんてのは自分がそう思ったら相手がどう考えていようが関係ないもんさ

 

 

 鬼の大将が告げてきた言葉が甦る、なるほど確かにそうなのかもしれない。それに、こいしの繋いでくれた縁なら大事に使わせてもらわないと妹にも悪い。こんな事態なのだし、地上への繋がりは多少持っていた方がいい。そこまで『言い訳』を並べてから、さとりは苦笑しながらレミリアの手を取った。

 

 

「よろしくお願いします、レミリア」

「……うん、よろしくね、さとり」

 

 

 照れたような顔を隠しもせずに、二人の少女たちは握手を交わす。

 それは朝の訪れる数分前のこと。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 死神との邂逅から数刻後。

 闇を払うように陽光は昇り、山際がまばゆく白んでゆく朝ぼらけ。涼やかな空気に冷やされた木の葉は、露の中から透明な雫を拾い上げて輝いていた。死と対極にあるかのような爽やかな陽射し、肌寒くも優しげな春の大気が新しい日の始まりを告げているのだ。ここ天狗の里、天魔の屋敷にも、そんな朝の訪れは当たり前のようにやってきた。

 庭に設置してあった松明はすっかり燃え尽き、たまに吹く風に灰がパラパラと舞い落ちる。一晩中、暗闇を照らし続けた焔は役目を終えて眠りにつき、反対に眠りから覚めるように草花がゆっくりと太陽に向けて背を延ばしていた。注がれる暖かな光に純白の羽根が輝く。

 ぼんやりと縁側に腰掛けて、鴉天狗の少女は物思いに耽っていた。

 

 

「私にとって一人目の名付け親、つまり『刑』の文字をくれた相手が彼岸にいる。……あそこの住人でなんて鬼か死神、もしくはアイツくらいしかいないじゃない」

 

 

 死神の言葉が頭から離れなかった。

 小町が去ってからというもの、告げられた言葉についてずっと考えを巡らせている。おかげで昨夜は一睡もしていないので少しばかり目蓋が重い。しかし何度思考を繰り返したところで、いくら考えたところで辿り着く結論は一つだ。

 

 恐らく死神が告げてきた名付け親とは『あの人物』のことなのだろう。

 

 考えれば考えるほど数奇な巡り合わせだ。命あるものが縁を持つ相手ではなく、死して初めて出会うような存在。幻想郷ではたまに人里へ説教に来ているらしいが、本来ならそういうモノのはずだ。彼岸の住人の中でも特筆ものの怪物だ、鬼や天狗さえあの人物の前では霞んでしまう。

 

 

「まあ、あまり考えても仕方ないわね。いつか嫌でも出会う機会があるのだろうし、詳しくはその時にでも問い詰めましょうか。アイツの言うことには、十年後にまた来るらしいから」

 

 

 清々しい山の空気が庭を彩っていた。

 巣を飛び立っていく鳥たちの声に耳を傾けながら、刑香は気持ち良さそうに身体を風に寄せる。空色の瞳に映るのは春の陽射し、それを座ったまま全身で浴びていると低い体温が少しだけ上がってくるような気がした。ふと、指で輪っかを作ってかざしてみると金色の陽光が指の間から通り抜けてくる。夢の中で見た父の翼のような輝きに少女は知らず知らずのうちに固くなった心を解かしていた。

 

 十年後という言葉が何を意味しているのかは、何となく分かっている。死神に言われるまでもない、自分のことなのだから当たり前だ。こうなると地底で感じていた嫌な予感も外れてはいなかったのだろう。それでも今は、

 

 

「もう少しだけ頑張ってみようかな、って思うのよね」

 

 

 以前の自分なら諦めていた、きっと未練の一つも抱かずに死神の言葉を受け入れていたはずだ。だが今は少しばかり惜しいと感じている。まだやらなければならないことがあるし、一緒にいたい仲間たちがいる。

 縁側に降り立った白いカラスに、刑香は優しげに微笑みかけた。

 

 

「しっかりと修行を頑張っているみたいね。次に会う時が楽しみだわ、霊夢」

 

 

 カァカァと、純白の使い魔が神社の様子を語っていた。その眼差しは主人と同じ空の色、ただし刑香とは違って僅かに紅の混ざった色をしていた。夏よりも紅葉の舞う秋空を思わせる瞳である。そっと指先で羽を撫でてやると、クチバシで甘噛みしてきたので好きなようにさせてやる。

 だがしばらくして廊下の奥から見知った気配が近付いてきたので、手を引っ込めることにした。足音を殺して、息を潜め、妖気すら隠した黒い少女が背後へと忍び寄る。

 

 

「けーいーかっ、おはようございますぅ!」

「アンタお酒臭いわね………ひゃ、ぁあっ!?」

「そう、この控えめな大きさが良いんですっ、あの方はそれが分かってない! 検証のためにもうちょっと、こにょままでお願いしま………本気で痛いっ!?」

「どこ触ってんのよっ、この酩酊(めいてい)ガラス!」

 

 

 わざと気が付かないふりをしてやったところ、背中から覆い被さってきた黒い方の親友。そこまでなら構わなかった。お互いの顔がくっついてしまいような距離まで詰めきて、酒精の匂いを漂わせてきたのも別にいい。しかし両手の所業は見逃せなかった。温泉の時もそうだったが、そもそも文の方が大きいのに触れてくるなんて何の意味があるのか理解できない。なので抗議の意思も乗せて思いっきり肘打ちを叩き込んでやった。小さな呻き声を上げる黒い少女。

 

 

「ちょ、夜通し呑んだ後にコレは洒落になりません!」

「だったら自分のやつにしなさいよ、そっちの方が触り心地も良いでしょうが」

「……小さいのにも需要はあるんですよ?」

「心の底から興味がないわ」

 

 

 急所は外しておいたので、あまり効いていないようだ。

 脱力するふりをして文の身体がもたれ掛かってきた、見たところ着ている装束も昨日のままなので風呂さえ入っていないらしい。まさか独り酒をしたわけでもないだろうから、もう一人の親友あたりでも巻き込んだのだろう。少しだけ羨ましい、自分のことも誘ってくれたら良かったのにと思わないこともない。

 ツンとした様子で白い少女は口を開いた。

 

 

「私が面倒臭いヤツと話をしていた時に、どうやらアンタは酒盛りをしていたらしいわね」

「仕方ないじゃないですか、はたてと一緒にいたところを天魔様から誘われたんです。主に刑香のことについての相談でもあったので、本人を呼ぶ訳にもいかなかったですし」

「……一体何を話してたの?」

 

 

 また厄介事が出てきたのだろうかと不安になる。自分がもう一度、この山で過ごしていくには問題も多いのだ。大天狗のこともそうであるし、スキマ妖怪と繋がりがあったことも、あまり良い方向には働かない。今はまだ情報を集めているであろう対抗勢力はおとなしいが、いずれは何らかの行動を起こしてくるはずだ。そのことについて、天魔から忠告があったのかもしれない。そう考えていた刑香だったが、文は緩んだ表情で話を続ける。

 

 

「はい、とりあえず刑香の幼少期あたりを私が、あとは『三羽鴉』と名乗った頃をはたてが、それぞれ語り明かしました。いやぁ、あんなに愉快そうに部下の話を聴く天魔様は初めて見ましたよ」

「そっか、アンタ達が楽しそうならそれでいいわ」

 

 

 本当に宴会だったらしい。

 刑香には知る由もないが、昨夜まで文も悩みを抱えていた。それは「妹分に嫌われたかもしれない」という本人からすれば心配無用なものだったのだが、文にとっては何より重いもの。はたての助言もあって解消できたのは良かったが、勢いに任せて潰れるまで呑んでしまったのだ。赤い双眸は微睡みの中に浸かっていて、聡明な射命丸文にしては珍しい姿である。しかも『面倒臭いヤツ』と侵入者に関する単語を、わざと刑香が出しても無反応だったのだから相当だ。

 

 

「……けいかぁ」

「ん、どうしたの?」

「今度こそ、ずっと一緒、ですからね」

 

 

 黒い少女から吐息が一つ。

 それっきり反応は無くなり、くたりと身体を預けて文は動かなくなった。規則正しい寝息が髪を揺らしてくるので少しだけくすぐったい。だがそれ以上にくすぐったいのは心の方だったりする。その証拠に白い少女は頬を夕日のように赤く染めていた。

 

 

「今度こそって、……もう千年近くも一緒にいたじゃない。いい加減に私なんか放っておけばいいのに、物好きよねアンタも」

 

 

 どうしてこの友人は自分と一緒にいてくれるのだろう。いくら幼馴染といっても限度があるし、ここまで厄介事を背負った自分の側にいてくれる理由が見当たらない。天魔の孫だと知っていたからではないだろう、文は出世に興味がある天狗ではない。

 雪解けが始まったとはいえまだ冷たい風が吹いた、すると純白の翼が親友を布団代わりに包み込んだ。ふるり、と黒い少女は身体を震わせる。

 

 

「置いて、いないで……キシハ、さま」

「何よ、さっきまでのは私のことじゃなかったの?」

「やくそく、したのに……私ずっと、まってた、のに」

「…………誰かは知らないけど、文からここまで求められるなんて幸せものね。でもね、ずっと一緒にはいられないわよ。きっとこの世界ってそういうふうに出来てるのだろうから、それが誰であってもね」

 

 

 空色の瞳は曇りなく、

 告げられる言葉には偽りなく、

 死を遠ざける少女は残酷であろう事実を口にする。

 我儘を言う子供を叱るような響きがそこにはあった。

 閉じられた赤い眼から流れ落ちる一筋の雫、夢見の戯言はたちまち風に紛れて消えていく。そして「ごめんね」と白い少女は親友の頬を伝う涙を拭いつつ、謝罪の言葉を紡ぎ出す。

 

 

「キシハって天狗の代わりにはなれないけど、たまには甘えさせてあげるわよ。……お姉ちゃん、なんてね」

 

 

 白桃橋圻羽との思い出は黒い少女の胸深く。それでも二人の在り方は『姉妹』のように見えた。それは初めからそうであったかのように自然なもののようだった。すると主人に構ってもらえず、白いカラスが不満そうな鳴き声を上げる。そんな使い魔を宥(なだ)めながら、とても穏やかな朝に刑香は苦笑した。

 

 

「さて、どうしようかな?」

 

 

 それこそ手鞠歌を口ずさんでしまうくらい楽しげに、恋をするかのように白い少女は幻想郷の空へと想いを馳せる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十五話:迎えの灯は不知火に似て

 

 

 カチコチと無機質な音が一日を刻んでいく。

 脈打つ黒色の短針は白い長針を追いかけるように、せわしなく動き続けていた。追いついては追い越して、重なっては離れていく二本の針たち。同じ動力源によって稼働し、同じ盤上にいるにも関わらず混じり合うのは僅かな時間だけで、すぐにお互いの距離は再び離れていく。

 時を告げる盤上では、そんな物語が無限に紡がれているのだ。留まることを知らぬ河川の水のように、形を変え続ける大空の雲のように、時間の流れとは掴みどころがない。

 これ一つ取っても浪漫な詩が描けそうだと、理知的な少女はそんなことを考えていた。

 

 

「もちろん文学よりも実益、今は本来の使い方が優先されるわけだけどね。アンティークショップで買った時計が役に立つ場面が来るなんて思ってもみなかったわ」

 

 

 日の光を浴びて輝くのは銀色の懐中時計。

 幻想郷では珍品として扱われているコレは、自分たちの時代では半ば化石と見做されている骨董品の一つである。秘封倶楽部の活動をしている中で、たまたま巡り合った店で購入した逸品だ。あの時はメンテナンス不足のせいでまともに動く状態ではなかったのだが、おかげで値切り倒すことに成功した。修理には苦労したが、結果として財布にも活動費にも優しい取引となったのだから満足だ。鬱々とした表情をしていた眼鏡の店主のことは、今はもう忘却したことにしている。

 

 

「あの妙な雰囲気のお店の名前、何だったかなぁ。確か、こーりん……まあ、いいや」

 

 

 穏やかな陽射しに恵まれた博麗神社にて、面倒な思考を放り出して宇佐見蓮子は空を見上げていた。

 境内を吹き抜ける風は爽やかでそんな空気を肺一杯に吸い込みながら背伸びをする。太陽に映える白いブラウスと赤いネクタイ、そして黒いスカートはようやく乾いた一張羅。こちらの世界に来てすぐに大雨に打たれて、ずぶ濡れになった時はどうしようかと思っていた。しかし、薬剤や機械に頼らない自然乾燥も馬鹿には出来ないらしい。暖かな匂いのする衣服に頷いてからもう一度、蓮子は時間を確認する。

 

 

「随分と遅いわね、とっくに人里からメリーが帰ってきてもいい頃合いなのに……やっぱり私が行くべきだったかしら」

 

 

 明け方に相棒である少女が神社を立ってから、既に数時間が経過していた。ここから目的の場所まではそう距離があるわけではないらしいし、そろそろ姿を見せてくれないと心配になってくる。一応は道案内として魔理沙が同行してくれているのだが、妖怪にでも襲われたらどうなるのだろうか。いや考えるのはよそうと思う、どのみち通信手段がないので気長に待つしかないのだ。そう自分に言い聞かせて神社の階段へと座り込むことにした。そして気を紛らわせるために考えを別方向へと巡らせる。

 

 

「……こっちに来てから数日経つけど、未だに私たち秘封倶楽部が『幻想入り』した経緯は不明。お寺にいたはずが、前触れもなく山の中に放り出されていた。でも大勢の人が訪れるような観光スポットでそんなことあるかしら、あの場所で行方不明者が出たなんて聞いたことがないわ」

 

 

 一瞬だけ意識が飛んで目を開けると山の中、そこで凍りつくように冷たい雨に打たれていた。よくあるフィクションのように怪しげな声が頭の中に響いてきたり、謎の案内人が現れることも無い。本当に『何も無い』のだ。ならば誰かの思惑によるモノではなく、事故のような現象に巻き込まれたと結論付けるべきなのだろう。

 

 

「でもそれだと何かが引っかかるのよね……」

 

 

 自分たちが山道で逃げ惑っている間に、上空では大きな戦いがあったらしい。幼い巫女に聞いた話だと妖怪のボスの一人が名も無い妖怪に敗北したという。それはある意味では幻想郷の一大事だったはずだ。

 確証も証拠もあったものではないが、もしかしたら自分たちがここに迷い込んだのは『その戦い』に関係があるのではないかと思えて仕方がないのだ。だが霊夢に尋ねてみても、それ以上は口を噤んでしまう。話したくない理由があるのか、部外者に話してはならない掟があるのかは聞くつもりはない。どちらにしようと情報不足で、このままでは手も足も出やしないのだ。「参ったなぁ」と流石の蓮子も溜め息をつく。

 

 

「ーーー何が参ったよ。暇なら家事の一つくらい手伝ったらどうなの、蓮子?」

「う、ひゃっ!?」

 

 

 階段から転げ落ちそうになったのを、蓮子はギリギリで踏み留まる。一つ下の段を片足で踏みしめて、ぐらりと傾いた身体の向きを修正した。急いで振り返ってみると、そこにはここ数日で見慣れた顔がある。幼いわりには妙に大人びた雰囲気がある不思議な少女で、あの雨の山で妖怪ルーミアから自分たちを救ってくれた恩人だ。そんな博麗霊夢は箒を片手にして突っ立っていた。

 

 

「え、えーと……ちなみにどこから聞いてたの?」

「アンタが独り言を始めたあたりからよ。別に盗み聞きするつもりは無かったんだけど、引き返すのも面倒だったからね。ほら、雑巾を貸してあげるから掃除を手伝いなさい」

 

 

 グイグイと押し付けられる布切れ。

 寝食を提供してもらっているのだから、当然だが断るわけにはいかない。しかし掃除を手伝うくらいなら、もうしばらく神社の着物を借りれば良かったかもしれない。せっかく洗って乾かしたのにまた服が汚れそうだ、とりあえず腕まくりだけでもしておくことにする。

 

 

「よいしょっと。まずはどこから掃除すれば良いのかしら、霊夢お嬢様?」

「そうね、それなら私と一緒に本殿に行きましょうか。……あと私を茶化す分には良いけど、魔理沙にはその呼び方を使わないようにね」

「やっぱり魔理沙ちゃんって、どこかの御令嬢だったりするの?」

「推測なら勝手にどうぞ、詮索は受け付けないわ。ほら、アンタは手の届く範囲でそっちをお願い」

 

 

 まずは柱を軽く拭いてみる。あまり汚れている印象はなかったので雑巾の裏側を確認してみると、ほとんど黒ずんでいなかった。こまめに掃除はしているようで、これなら手間は少なく済みそうだ。もしかしたら気分転換のために掃除へ誘ってくれたのかもしれない。

 

 

「霊夢ちゃんって何だかんだで優しいよね。良いお母さんとかお姉さんにお世話してもらってたんじゃない?」

「……そうね、否定はしないわ」

 

 

 続いて賽銭箱の蓋を開ける。

 錆びた音が響いて、鼻を掠めてきたのは古い木材の匂い。こちらの世界に来る前の仏閣を思い出してしまいそうだ、ずらりと並んだ仏像が壮観だったような気がする。そして底に入っていた数枚の小銭を避けるようにして埃や木の葉を取り除いていく。あまり儲かっているように見えないのは、こんな僻地にあるせいなのだろう。人里から神社までの道で妖怪に襲われる危険性があるという立地上、お参りに来る人間が少なくなるのは当然である。

 

 

「ここまで広い神社を一人で管理するのは厳しいんじゃない? 掃除するだけでも日が暮れちゃうでしょ」

「毎日少しずつやれば案外と苦にならないものよ、それにいつもは手伝ってくれる妖か……人がいたからね」

「それって魔理沙ちゃんのこと?」

「アイツは掃除なんて手伝わないわ。魔理沙が持つのは掃き掃除用じゃなくて空飛ぶ箒だけよ。掃除なんてやらせたら、きっと屋根の上でサボるに決まってるもん」

 

 

 恐らくあの少女は裕福な家庭の子供なのだろうと、蓮子は予想している。科学技術が発達していない幻想郷において、子供が重要な労働力とみなされているのは想像に固くはない。言い方は悪いが、家の手伝いをすることもなく出歩いている魔理沙が名家の娘であろうことは、何日か共に過ごせば気づいてしまうのだ。

 幼い少女の家庭事情に踏み込むのは褒められたことでないのは間違いない。しかし今はどんな情報でも集めておきたいのだから勘弁して欲しいと思う。しかし、そんな思考は本殿の床下を覗き込むと同時に途切れることになる。

 

 

「……猫がいるわね、ちょっと驚いちゃったわ」

 

 

 暗い空間に潜んでいたのは、真っ黒な毛並みをした小さな黒い猫。日向ぼっこにでも飽きて潜り込んで来たのだろうか。突然現れた蓮子に対して、幼い姿の猫は後ろ足で奥へ奥へと後退していく。鋭く引き締められた眼差しから察するに、怯えているというよりは警戒しているといった様子だった。ひょっとしたらネズミ対策として神社が飼っている猫なのかもしれないと、しゃがみ込んで蓮子は静かに腕を伸ばす。

 

 

「ほらほら、おいでー」

 

 

 話しかけるように優しく呼びかける、だが黒いモフモフは全く意に返さないようだ。文字通りにそっぽを向いてその場を動かない。何となく舐められている気がして更に腕を突っ込んでみるが、到底届きそうもなかった。そんなことをしばらく続けていると、耳元で砂利を踏みしめる音が聞こえてきたので顔を上げる。すると不審者を見つけたような表情を隠しもせずに、幼い巫女がこちらを見下ろしていた。

 

 

「這いつくばって何してんのよ、ネズミでもいたの?」

「どちらかと言えばその逆かな。ねぇ、この神社は猫を飼っていたりする?」

「ないない、世話するのが面倒くさいわよ。飼うとしたら自分で掃除と洗濯ができて、人の言葉が理解できるくらい利口なのが必須。あと私の部屋は広くないから図体の小さいヤツがいいわね」

「おおぅ……宣言通りにこれっぽっちも世話するつもりがないじゃん。その条件満たすのって、もう小さな人間くらいだと思うんだけど?」

「ああ、小人が当てはまるのか。だったら制限を更に足しとこうかしら。まあ……それはともかくとして黒いチビ猫がそこにいるんじゃないの?」

 

 

 ひょいっと隣にしゃがみ込んできた霊夢。

 すると子猫は驚いたように目を見開いてから、そっと立ち上がる。そして一声も発することなく、こちらへと進んできた。警戒するような気配はすでに無く、足早に床下の暗闇から歩み出てくる黒い猫。チャンスとばかりに蓮子が抱き上げようとすると、何故かそのまま幼い巫女の肩へと飛び乗ってしまった。

 

 

「ご主人様は元気なのかしら、橙?」

「みぃ」

「その仔、チェンっていうんだ。少し変わってるわね。どちらかというと大陸で付けられそうな名前だし、飼い主さんは外国の出身なの?」

「そう言われると大陸にいたことがあるとか言っていたような気がするわ。昔はやんちゃだったらしいから一つや二つは国を滅ぼしてたかもしれないわね」

「どういう飼い主なのそれ!?」

 

 

 そんなことを話していると、不意に橙と呼ばれた黒猫が霊夢の耳元に顔を近づける。そのまま小さな口を動かしている様子は、まるで幼い少女たちがひそひそ話をするかのような仕草に見えた。何事かを考えるように目を瞑っていた霊夢だったが、しばらくして納得したように頷く。

 

 

「ちょくちょく来る白いカラスもそうだけどさ、どちらも過保護なんだかそうじゃないんだかね。……調子が悪いのは分かるけど、少しくらい顔をみせなさいって伝えてくれる?」

「にゃ」

「それじゃあ、もう私は大丈夫だからアイツの所に帰りなさい。蓮子とメリーもわざわざ監視するほど怪しい連中じゃないわ。だから紫にも心配しないように伝えてあげて」

 

 

 最後にコツンと額を合わせ合うと、巫女の腕の中から抜け出した黒い猫は地面に降り立った。そして名残惜しそうに一声鳴いてから、ゆっくりと神社の出口へと進んでいく。その様子が余りにも人間じみているので、蓮子はこっそりと霊夢へ問いかける。

 

 

「もしかして幻想郷の猫は人間の言葉が分かるの?」

「そんなわけないでしょ、猫は猫よ。人間の言葉なんて理解できないわ」

「だったら何で霊夢ちゃんは……ああ、そういうこと」

 

 

 頬を引きつらせる人間の少女。

 黒猫の後ろ姿には黒い『二本』の尻尾がゆらゆらと揺れていたのだ。幻想郷の猫は成長すると二尾になる、などということはない。複数に別れた尾は魔性の証、古来より恐れられてきた妖怪の一つである『化け猫』もしくは『猫又』。それが八雲藍の愛猫、橙の正体である。

 どうして巫女が妖怪と仲良くしているのかは聞かない方が良さそうだと懸命な少女は口をつぐむ。しかし見逃せない『モノ』が視界に映った瞬間、そんな考えは霧散することとなる。

 

 

「アイツは藍の式神でね。いつもは山にある棲み家で暮らしているんだけど、たまに………蓮子!?」

 

 

 鼓膜を揺らすのは幼い巫女の声

 それが意識に反映されるよりも早く、蓮子は走り出していた。ルーミアに噛じられた足はまだ治っていないが、それでも少しくらいなら何とかなる。痛みを熱く訴えてくる患部を無視して、強い反発を返す石畳を蹴った。そして半ば飛び込むような姿勢で橙へと手を伸ばす。妖怪少女が『入り込もう』としていたモノに対して蓮子の瞳は釘付けにされていた。

 

 

「それはメリーの『境界』じゃないのよっ!」

 

 

 そこに広がっているのは、目玉の浮かんだ紫色の不気味な裂け目。それは親友がノートに描いて見せてくれたこともある、自分たちが現実と幻想の『境界』だと仮定していたモノ。どうしてあの黒猫はそこに入って行こうとしているのか、霊夢が初めから知っていたような反応をしていたのは何故か。そんなことはどうでも良かった、ずっと謎だったモノを紐解く鍵がそこにある。それは宇佐見蓮子が突き動かされるには、十分過ぎるほどの理由だった。

 

 そして指先がスキマに触れた瞬間、宇佐見蓮子という存在は切り取られるように博麗神社から消失することになる。地面の上で光を放つ銀色の懐中時計だけを残して。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「ーーーそれでは昨晩、我が屋敷に死神めが忍び込んでいたというのだな。しかもお主に会いに来たなどと……何故すぐにワシへと知らせなんだ、刑香?」

 

 

 同じ頃、昼下がりの人里にて。

 幻想郷ならば何処にでもあるような定食屋での一幕。特に儲かっているわけでも、かといって閑古鳥が鳴いているわけでもない。そんな良くも悪くも普通の店で、一人の老人が困惑のあまりに肩を揺らしていた。懐の深さを感じさせる声色はどこまでも穏やかで、いかにもご隠居といった雰囲気を感じさせる男性だ。

 そんな彼へと向けられるのは透くような空色の瞳。人里では珍しい純白の髪をした少女が湯呑みを持ちながら、老いた男へと静かな言葉を紡いでいく。

 

 

「じゃあ、試しに尋ねるんだけど仮に報告したらどうしてたの?」

「決まっておろう。ワシの許しも無く屋敷に立ち入ったことを死神めに心底後悔させてやったところだ。即座に白狼による追跡隊を結成させて、草の根分けても見つけ出してだな……」

「……だから今まで黙ってたのよ、厳格で残酷なお祖父様。山で彼岸の連中と一戦交えてどうする気なの?」

 

 

 呆れたように白い少女、刑香は溜め息をついた。

 やはり小町が訪れたことを天魔の耳に入れなかったのは正解だったらしい。もし報告していれば、天魔は自らの誇りに賭けて彼女を追わねばならなかっただろう。長老への不敬は天狗という種族そのものへの侮辱だ。だからこそ天魔は屋敷への侵入という、自らへの無礼を働いた者を必ずや捕まえねばならない。

 それを防ぐためには、こうするしかなかったのだ。もし自分一人が天魔から何らかの罰を下されても受け入れるくらいの覚悟が刑香にはある。

 だが、しばらく沈黙していた老天狗が口にしたのは意外な言葉だった。

 

 

「……やすやすと死神に侵入されたことは見逃せない事実だが、それはこれから対策をすれば良い。そして射命丸と姫海棠にお主の監視を命じておく故に、これからは屋敷内であろうとも独りになることは許さぬ。それを此度のお主への罰としよう」

「いや、むしろ願ってもない処遇なんだけど……随分と甘い処分じゃない。片翼くらいは折られても文句を言えないと思ってたわよ」

「くかかっ、そんな罰を下した日にはワシは自分の首をへし折っておるかもしれぬな。案ずるでない、未だに信用は出来ぬだろうが今のワシは刑香、お主の味方としてここにいる」

 

 

 そう言って、老天狗は愉快そうに破顔した。

 その姿は白髪混じりの長髪に、どこにでもいるであろう黒い双眼と翼のない背中。紺色の着物はゆるりと着流して、同じ染め色の羽織を肩に掛けていた。。まさか天狗の親玉が人里に来たなどと知られるわけにはいかないので、そのための変装である。

 そして刑香の方も、今は天狗ではなく人間の少女のような格好だ。淡い色合いをした桜色の着物はとても春らしく、繊細に縫い込まれている刺繍は桃の花。純白の髪と相まって、その見目はまるで雪の下に眠っていた蕾が空へと芽吹いたようであった。

 

 

「……それにしても私が人里に行きたいって頼んだら、すぐに許可してくれるなんて意外だったわ。てっきり断られると思ってたんだから」

「どのみちワシが許さなくとも、お主は一人でも山を抜け出そうとするじゃろう。射命丸と姫海棠が助力すればどうにでもなるであろうよ、あやつらの天狗としての能力は周囲が評価する以上に高い」

「二人に迷惑は掛けないわよ、やるなら私一人で……っていうか、それ以上に長老様がこんな所まで来て良かったの?」

 

 

 ここは天狗の里でなく人里なのだ。

 他の妖怪に襲われる危険性を考えるならば、天魔は里の外に出るべきではないだろう。まして滅多に姿を現わさぬほどに用心深く、それでいて組織内部の情報を余すことなく把握する。闇に潜みて忍び寄る影のようだと、同族から恐れられる天魔である。それが孫娘と一緒に人里を訪れているなど他の天狗が知ったら卒倒するかもしれない。

 

 

「射命丸の阿呆は酔い潰れて使えぬし、姫海棠は護衛としては頼りなかろう。さりとて犬走には別の任務を与えておるし、他の連中は信用ならぬ。なに案ずるでない、ワシがいる以上は注意を払う妖怪なぞ八雲の奴くらいのものだ」

「紫と同じくらい強そうな奴らも何人かいるけどね、たまに花屋に来るアイツとか」

「お主の思い浮かべた連中はそもそもワシと対立してくることはなかろう。戦闘にならぬ相手を頭数に加える必要がどこにある。ともかくワシがいるのだから一切の心配事は不要だ、お主はお主のしたいように振る舞えばそれで良い」

「ありがと、お祖父様。治療が済んだとはいえ、どうしても患者たちの様子が気にかかってたの。それにあんな別れ方をした慧音にもせめて置き手紙くらいは残しておきたかったから……感謝するわ」

 

 

 山へ戻ることを決めた時、簡単には来れないと思っていた。はぐれ天狗でなく、下っぱ天狗でもない、長老家の跡継ぎになってしまった以上は今までのように好き勝手は出来ない。本来ならば、しばらく機会はなかったはずだ。

 

 

「ふむ、己の信義を貫く在り方は好ましい。だが刑香よ、甘さや優しさはいずれ自らの身を焼くことにも繋がる。そこのところを忘れるでないぞ」

「残念だけど、これが私の生き方だからご忠告は頭に留めておくだけになりそうよ。炎が身を焼くのなら、そんなモノは葉団扇で消し飛ばしてやるだけだもの」

「……そのあたりの強情さは母譲りやもしれぬな。アヤツもワシの言うことには従わなんだ。特に使い魔のカラスを己の子供として育てるなどと言い出したのを止めようとした時には、随分とそっぽを向かれたものよ」

 

 

 困ったように肩をすくめる老天狗だったが、緩んだ口元は嬉しそうだった。顔さえ覚えていない母親だが、どうやら随分と天魔を困らせていたらしい。

 祖父が無理をしているのは分かっている。山が騒がしいこの時期に長老が組織を留守にするなど好ましくない、こうしている僅かな時間でさえも気が気でないだろう。それでも彼に頼るしかないのだ、今の自分はひどく無力なのだから。

 

 

「お母様にも使い魔がいたんだ……その子も今は鴉天狗として山にいるの?」

「ああ、達者にしておる。お主とは比べ物にならんほどに融通が効かぬ石頭で、尚且つ優秀すぎて扱いづらい天狗として成長しおったわい」

「ふーん、ちょっと会ってみたいかな。相手が嫌がらなければ、だけどね」

「なれば本人に伝えておいてやろう。お主がどうしても会いたがっているとな。くかかっ、そうなるとあの阿呆がどんな顔をしてくるのか今から楽しみじゃわい!」

 

 

 そよぐ陽の光に老いた笑顔が映える。

 まだ自分たちの間には多くのわだかまりが存在している。祖父から受けた仕打ちの痛みは決して忘れられるようなものではないし、天魔も己がしたことを忘れたわけではないだろう。和解はしたものの、お互いに古傷へと触れるのを避けている。何でも無い会話に今までのゴタゴタを溶かして誤魔化しているのだ。

 そんな自分たちの関係であるが今はそれでいい、一歩ずつ愚直に進もうと思う。過去を無かったことには出来ないし、これから歩むことになる未来もまた過去の上に積み重なるモノに過ぎないのだから。

 

 

「何にせよ、ゆっくり考えていきましょうか」

「む、何の話だ?」

「ああ、死神から置き土産を貰ったんだけど、すっかり忘れてたって話よ。アイツの言うにはお祖父様宛らしいから、ここで渡しておくわね」

「そんなものがあるのなら、それこそ早めに報告して欲しいものだが……考えてみればお主は組織というものを分かっておらんのか。少しずつで構わぬから慣れるようにの」

「善処するわ」

 

 

 渋い顔をした祖父に苦笑する。

 天狗の里にいた頃は友人たち以外からは爪弾きにされていたし、追放されてからは単独行動。考えてみれば、自分はそういった類のしがらみとは無縁だった。上から哨戒任務をさせられたことも数えるほどしかないのだ。とはいえ文やはたても、命令無視を平然とやらかしてしまうあたり組織に属していようがいまいが関係ない気がする。

 

 

「これはまた、珍妙なものを持ち込んできたな」

 

 

 死神の包みを開けてみると出てきたのは、小さな赤い『御守り』だった。真ん中に大きく書かれている『頭痛封じ』などという祈り文句が変わっている。霊力が宿っていないので、恐らくは形だけを真似して作られた庶民向けの売り物なのだろう。鬼が出るか蛇が出るかと身構えていた天魔はあからさまに興味を失くし、出来の悪い冗談を見るような目で御守り袋を見つめていた。

 

 

「なるほどな、何のチカラも宿っていないときたか。確かにこれならお主が報告を怠るのも無理はない、今回は不問としよう。死神めもどういう意図でこんなものを持ってきたのか……」

「お祖父様にも覚えがないの?」

「有るには有るが……いや、しかしのぅ」

 

 

 少なくとも刑香にはコレにどんな意味があるかは分からなかった。死神から渡されたので詳しい出どころは不明で、誰が作ったのかも知り得ない。だが、天魔なら何らかの心当たりがあると思っていた。

 そもそも『モノ』というものは、見る者によってその価値や意味を変える。作られた過程であったり、これまでに誰の手を渡ってきたのかなどだ。つまり単なる御守りに過ぎないコレも、見る者が見れば何らかの意味がある。そう判断して刑香は祖父に意見を求めたのだが、どうやら当てが外れたようだ。考え込む素振りを見せる天魔も心当たりはあるものの、何故コレがここにあるのかまでは分からないようである。

 

 

「お祖父様にも分からないなら、コレをどうして死神が持って来たのかをもう一度考えてみる必要がーーー」

 

 

 

「ーーーそれって、私が落とした御守りじゃ?」

 

 

 

 いつから、そこにいたのだろうか。

 声のした方向へ振り向くと、見慣れぬ人間の少女が不思議そうな表情を浮かべて佇んでいた。気配を感じなかったというよりは感覚をすり抜けられたような感触がある。まるで初めからそこにいたかのように、紫色のワンピースを着た人の子は机の上の御守りを見つめていた。

 警戒するような素振りを見せる祖父を隠すように、刑香は立ち上がって少女と向かい合う。

 

 

「知人から譲ってもらったモノなんだけど、まさか落とし物だったなんてね。アンタの持ち物だっていうのなら、もちろん返却させてもらうわ」

「あ、ありがとうございます」

「ところで名前、一応教えてもらってもいいかしら?」

 

 

 先程から刑香と天魔が話していたのは、死神やら天狗の組織のこと。当たり前だが、この二人は誰が聞いているのか分からない状態でそんなことを口にするほど不用心な性格をしていない。今の今まで二人が座っていた席の周りに人影はなく、聞き耳を立てるような不届き者はいなかったのだ。自分たちの周囲には天魔が『人払いの結界』を張っていたのだから。

 それを当然のようにすり抜けてきた者、そんな人間を刑香は油断なく見つめていた。

 

 

「私は……八雲メリーと申します」

 

 

 告げられたのは偽りの名。

 古来より名前を知られるということは、すなわち呪術の対象となる危険性を有していた。曲がりなりにも妖怪やその周辺のことを調べていた人間の少女は結界を張っていた二人組を警戒していたのだ。故に見知らぬ相手から名前を尋ねられて、自らの名前を偽ることにする。親友が付けてくれた愛称、そして実在した作家の家名を借りて偽名を用意した。その『八雲』という名が、この幻想郷にて『どんな意味』を持つのか知らぬままに名乗ってしまったのだ。

 

 

 その少女の名は、マエリベリー・ハーンという。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十六話:月に八雲、花には天狗風

 

 

 天狗でさえ辿り着けぬとされる空の果て、死神ですら届かぬ地の果てにスキマの賢者の住まう屋敷は存在するという。

 世界の境目に建つとされ、泡沫(ほうまつ)の夢が揺らめき続ける。外界から切り取られ、主人から許された者以外が辿り着くことはないという桃源の園にも似た場所。

 所在が完全に秘匿(ひとく)されることにより、その一帯は極めて安全な場所と化していた。天狗のような大勢による警備は必要なく、ただ『外敵に知られない』ということが何よりも堅固な守りとなる。それは自然界において最も理想的で原始的であろうカタチ、その無駄のない在り方は訪れる者に美しさすら感じさせるはずだ。

 そんな屋敷に今、一人の少女が投げ出されていた。

 

 

「ーーーふぎゃっ!?」

 

 

 尻尾を踏まれた子猫のような悲鳴。

 異物を吐き出すようにスキマから放り出され、蓮子は嫌というほど床に背中から打ちつけられていた。その痛みで可愛らしい声を上げた後、腰のあたりを押さえてうずくまる。幻想郷に来てから自分ばかりが痛い目を見ている気がすると、怪我らしい怪我をしていない親友の顔を思い浮かべながら少女はじんわりと涙を滲ませる。

 

 

「う、ぐぐっ、空飛ぶ人喰い少女から始まって、今回はコレかぁ。幻想郷は、私か私のご先祖様に恨みでも、あるのかしらね」

 

 

 周囲の景色は分かりやすいくらいに一変していた。

 神社とは打って変わって、蓮子がいるのはどこかの室内。柔らかな暗闇の広がる(たたみ)部屋であった。とりあえず手足が付いていることを確かめてから、ほっと溜め息をつく。幻想郷に来た時点で瞬間移動は経験済みなのだが、やはり身体の一部が置き去りにされていないかは気になってしまう。ようやく腰から痛みが引いてきたので、よろけながらも蓮子は立ち上がる。

 

 

「……あの橙っていう猫を追いかけて飛び込んだ先が、まさか想像通りに別空間と繋がっているなんてね。前回は実感が無かったけど、今回はばっちりと体験したわ。かつて、キップ・ソーンが描いたワームホールは地上に存在していたのよ」

 

 

 思い出したのは興味本位で読んだ学術書。

 この原理をまとめて学会にでも発表すれば、間違いなく表彰物だろう。空飛ぶ妖怪がいた時点で科学も何もあったものでは無いのだが、それでも往年(おうねん)の学者たちが追い求めていた答えの一つがここにある。ムズムズとした感覚が胸から湧き上がってくるのを抑えきれず、ポケットから時計を探す。今の時刻だけでも書き留めておかなければ落ち着かないというものである。ひょっとしなくても、人類として極めて貴重な体験が出来たのだから。

 随分と立ち直りか早い自覚はあるのだが、それが相方と比べての自分の長所なのだから仕方ない。

 

 

「って、さっきの拍子に落としたのかな?」

 

 

 しかしお気に入りの懐中時計は見当たらなかった。

 直前までは手元にあったので、あの空間に飛び込んだ衝撃で落としてしまったのだろう。我ながら後先を考えない突撃だったのだから、これくらいは当然かもしれない。ひとまず時間を確かめるのは諦めた方が良さそうだ。柔らかなインクの匂いが鼻先を掠めるのを感じながら部屋を見回していく。

 家具といえるものはちゃぶ台が一つだけ、そこに乗せられているのも古めかしい硯箱(すずりばこ)や新聞くらいのモノ。何とも質素な部屋で、少なくとも誰かが生活しているような痕跡は感じられない。恐らくは書斎か何かなのだろう、とりあえず置かれていた新聞を手に取ってみる。

 

 

「『四季桃月報』か、確か神社にも何部か置いてあったわね。わりと幻想郷ではポピュラーな新聞なのかしら。それとも購読者と巡り合う偶然が続いているだけなのか……まあ、いずれにしろ決めつけるのは早計ね」

 

 

 これは霊夢も愛読しているタイトルだ。

 幻想郷の自然を取り上げた月刊誌で、ゴシップ紙ようなインパクトはないが鮮やかな四季の記事が特徴の新聞。神社においてあったモノには全て目を通してきたので、蓮子もそれなりに詳しく知っている。幻想郷において情報を伝える主な手段の一つであるのなら、読んでおいて損はないと思ったからだ。時として情報は何よりも強力な武器となり、知識は身を守る盾となる。まして見知らぬ土地にいるのなら、言わずもがなであった。

 高鳴る心臓と高揚していく心、今はともかく謎の空間に入り込めたことを祝うとしよう。新聞を元の位置に戻し、帽子を軽く押さえて蓮子はニヤリと笑う。

 

 

「私が見間違えるはずがないわ、アレはメリーの能力で現れる空間の裂け目と同じだったもの。絶対に手がかりを見つけてやるわ。秘封倶楽部が一員、この宇佐見蓮子がね」

 

 

 勢いよく部屋の襖を開け放つ。

 目の前に現れた廊下はどこまでも続いているように見える底知れなさがあった。灯りが無いために先は見えず、冷たい床の感触が靴下を包み込む。その様子に一抹の不安を感じてしまいそうになる。だがそれ以上の好奇心を胸に一歩を踏み出すことにした。

 残された新聞の表紙に書かれた執筆者の名前、白桃橋刑香。その本人がまさにこの時、秘封倶楽部のもう一人の少女と出会っているとは思いもしないままに。

 

 

◇◇◇

 

 

 それは客寄せの声が賑やかに響く人里の昼下がり。

 大通りでは今日も今日とて、仕事も程々に立ち寄る人間たちで溢れていた。晴れ晴れとした空が広がり、今日も今日とて商売日和。多くの店が軒を連ねる一本通りには溢れんばかりのモノが集められていた。ここで手に入らぬモノは無いと人里の権力者たちが口を揃えて言うほどの品揃え。頼もしく景気の良い言葉であると人々は笑う。しかし、それはつまりここに無いモノは人里の何処に行こうと入手できないという皮肉であることを彼らは知る由もない。

 人ならざる者が主導権を握る幻想郷、普通の人間たちが手に入られるモノというのは限られているのだ。どれほど賑やかであろうと栄えていようと、全ては賢者たちの手の平の上。妖怪と親しい者たちは栄え、そうでない者は『普通』に時を過ごしていく。生きるために必要なモノは揃うのだ、明日も明後日も普通の暮らしを送っていくことに何も問題はないのだから。

 

 

「アイツ、私がちょっと目を離した隙に何処へ行ったんだよ?」

 

 

 思えば自分が魔道を志したのは、そんな日常が気に食わなかったからなのかもしれない。魔法の箒に跨り、ハチミツ色をした髪を風にあずけて魔理沙は人里を見下ろしていた。普段はこんな誰かに見られる可能性のあるところを飛んだりはしない。万が一にも目撃されて父に告げ口されてしまえば拳骨モノなのだ。兄として慕っていた男性が独立した今、あの店に自分を庇ってくれる存在はいないのだから。

 

 

「よっと、こうして太陽を背にしておけばそう簡単にバレることもないだろ。あとはコイツでさっさとメリーを見つけてやらないとな」

 

 

 だが今は人探しの真っ最中、地上をノコノコ歩いて探すよりはこっちの方が早い。白黒の魔女服をはためかせ取り出した大きな二つの筒をくっつけたような道具。それは光の屈折を利用し、遠くの景色を大きく映すというカラクリ。つまるところは双眼鏡であった。

 玄武の沢で手に入れた品で、昼寝中の河童の荷物から拝借したモノだ。そのことを話すと霊夢からは冷めた眼差しで泥棒扱いされたが、『奪った』のではなく『死ぬまで借りた』のだから悪くはないと魔理沙は開き直っている。

 

 

「霊夢のやつ、刑香や藍が来なくなってから雰囲気が変わったよなぁ。ちょっと前まで私と同じくらいだったのに、今月か来月には巫女を正式に襲名するっていうし……私も、そろそろ決断しないと」

 

 

 自由でいられる時間というのは短い。

 特に自分の場合はそこそこ裕福な家に生まれたが故に、許婚やら家督やらが押し付けられる日はそう遠くない。そうして少しずつ背中が重くなり、やがては空を飛ぶことも出来なくなるのだろう。父には悪いが、その未来を霧雨魔理沙は受け入れるつもりはない。出会ってから、いつも自分の視界には紅白の少女がいるのだから。

 今回だって、間接的には霊夢のためにここまで来ていたりする。

 

 

「……メリーが所持品を換金したいなんて頼んでくるから、私が霊夢の代わりに人里まで案内したのにさ。まさか置いていかれるとは思わなかった。アイツを一人にしたなんて、霊夢に知られたら怒られそうだぜ」

 

 

 ひとまずの活動資金を得たい二人組。

 しかし部外者である少女たちが人里で雇ってもらえるわけもなく、かといって恩人である霊夢から借りるというのも無理な話。なので結論として、あの二人は外の世界から持ち込んだ私物を売ることに決めたらしい。

 本やノート、万年筆やハンカチは思ったより上質な品だったようでメリーはそれなりの金額を受け取っていた。しばらく生活する分には問題ないだろう。

 ここまで連れてきた見返りとして、魔理沙としてはそのお金で甘味をご馳走してもらおうと考えていた。それなのに迷子になられるとは計画が台無しである。

 

 

「まあ、そんな遠くには行ってないだろうし気長に探そうかな。まさか建物の中にいることも無いだろうし、そのうち見つかるだろ」

 

 

 円を描くように幼い魔法使いは箒を走らせる。

 とりあえず人里にいるなら大丈夫だろうと、双眼鏡の使い心地を確かめるように覗き込む。大きな文字で「にとり」と書かれた胴体、その隣にある歯車を回して視界を調節していく。誰も彼もが同じように店に立ち寄り、そして買い物を済ませていく様子ばかりが映る。もし流れに身を任せて成長したら、自分もこんな風に生きていくのだろうか。穏やかで代わり映えのしない日々、それはそれでどんな未来となるのだろう。しばらくして心地良い春風に少しだけ眠気を感じて、魔理沙はのんびりと欠伸を漏らしていた。

 

 

 

 

 

 

「ーーーー貴様、八雲と名乗ったか?」

 

 

 これまでの人生で選択肢を誤ったことはある。

 近道しようとした道が工事中だったり、言葉が足りなかったばかりに友人を傷つけてしまったこと。詳しく覚えてはいないが、中には取り返しの付かないモノもあったはずだ。

 過去をやり直したいと考えたことも一度や二度ではないだろう。しかし時間を逆行させる術は無く、選んでしまった過程と結果は変えられない。それは現実において当然のことであるし、仕方のないことだと思っていた。

 しかし今だけは、この瞬間だけは数秒前の自分に戻りたいとマエリベリー・ハーンは切実に願ってしまう。

 

 

「ワシの前で『その名』を口にしたということは、そういうことであろうよ。誠に貴様らはワシの心休まる時間というものを、片っ端から踏みにじるのを好むと見える。実に、実に、不愉快なことよな」

 

 

 迂闊だったとは思う。

 案内役だった少女と離れ離れになった矢先、自分が感じたのは結界の気配。それに引き寄せられるように足を進ませて、気がつけばこの店に辿り着いていた。

 そして生きているかのように熱く脈動する結界に心を奪われ、どうやったかは分からないが通り抜けてしまったのだ。更には『身に覚えのあるお守り』を持っていたということで、その先にいた二人へと考えもなしに声を掛けてしまった。普段の自分からは考えられないほどの選択ミスだ。

 こちらを憤怒の煮えたぎる眼で突き刺す古老の男、その鋭利な眼差しに身体の震えが止まらない。

 

 

「ぁぁ……く……ぅ、ぁ?」

「どうした、黙っているばかりでは話が進まぬだろう。八雲メリーと言ったか、小娘。貴様の主人から言伝があるなら早く口にせよ。何らかの命令を請け負っておるなら実行に移すと良い。無論、それをワシが見逃してやるとは限らぬがな」

 

 

 濃密な死の気配と重苦しい妖気はルーミアの比ではない。目線一つ、呼吸一つで人間の命など吹き消してしまうであろう気配に老人は充ち満ちていた。愚か者を裁かんとする旧き神のごとく、目の前の男が発する妖気はあまりにも絶大だった。指先から心臓にまで容赦なく染み込んでくる冷たい何かが痺れるような悪寒と共に肺を凍らせ、霧に覆われるごとく視界が光を奪われていく。

 

 きっとコレは錯覚なのだろう、それでも呼吸さえ上手くできない。

 

 今まで出会ってきた妖怪たちが赤子と思えてしまうほどの絶対的な格の差。こんなものに普通の人間が耐え切れるはずもない。とっぷりと夜が暮れたかのように五感を断ち切られ、半ば諦めるようにしてメリーは意識の薄れた身体を手放した。ゆっくりと傾いていく身体に覆い被さるのは暗い海に沈むような死の気配、足掻くことも出来ずに呼吸は完全に止まる。

 

 

「ーーーやりすぎよ、お祖父様」

 

 

 そんな自分を誰かが受け止めてくれた。

 そして青白い光がよぎったかと思うと、その瞬間から身体の感覚がわずかに戻ってくるのを感じた。全身から伝わってくる温かな熱によって意識をゆっくりと引き上げられていく。

 

 

「か、はっ……けほっ、げほげほっ!!?」

 

 

 咳き込んでは苦しげに呼吸を繰り返す。

 満たしていた重々しい空気を吐き出して、肺が新しい酸素を取り込んでいく。もう少しで窒息していたかもしれない、目から零れ落ちる涙を拭う気力は残っていなかった。震える腕でメリーは誰かに縋り付く。

 無理もない話だ、これまで安全な世界で生きてきた人の子が『神仏』の怒りに真正面から晒されたのだ。人々を虐げる悪龍を喰らい、魔を払うとされる勇猛なる迦楼羅王(かるらおう)。その神威は衰えこそすれ、単なる人間が相対するにはあまりにも強大過ぎた。少女の頬から絶え間なく涙が滴り落ちていく。

 

 

「はっ、はっ……はぁ…っ」

「それでいいわ、今のアンタは大きな妖気を吸い込んで全身が硬直してるのよ。少しだけ手伝ってあげるから落ち着いて、ゆっくりと息を吐きなさい。大丈夫、私がこうしている限り『死』に囚われる心配なんていらないから」

 

 

 脱力した身体を預けたままで、言われた通りに深呼吸をする。それこそ肺が破れるのを恐れるかのように慎重に、そうしていると少しずつ正常な感覚が戻ってくる。凍りついていた思考は氷解し、全身に重々しく絡みついていた何かが遠ざかっていくのを感じる。たっぷりと数十秒を過ぎると、ようやく心が落ち着いてきたのを自覚する。そしてそれを皮切りにしてメリーはギクリと鼓動を跳ね上げた。『どんな相手』にしがみついているのかを思い出したのだ。

 倒れ込んだところを受け止められたので、立ち位置はちょうど正面同士。そしてお互いに相手の背中へと腕を回している、つまり抱きつくような形で自分は身体を接しているのだ。そこから少女らしい柔らかな感触が伝わってくる。

 

 

「ん、そろそろ大丈夫そうね。ほんの少しだけ私のチカラを注いでおいたから、しばらくは違和感があるかもしれないわ。害はないから安心しなさいな」

 

 

 あまりにも近いところにあった白い少女の碧眼。どこか儚げな純白の外見とは真逆で、力強さを見る者に与える輝かしい夏空の色。まるで意図的に神様がその部分だけパーツを間違えたようで、ミスマッチのはずなのにコントラストがとても美しかった。ドクンと心臓が強く脈を打ったのを感じる。

 

 

「あ、わわっ、ごめんなさい!」

「別に謝る必要はないんだけど……」

 

 

 その眼差しに見つめられて、弾けるようにして距離を取った。まだ身体に残る少女の温もりに今度は別の原因で心臓が高なっていくのが分かる。吊り橋効果というものが心理学には存在するが、きっとそうに違いない。以前に蓮子からも何度か感じさせられたことがあるのだから。

 そんな自分の感情など何処吹く風とばかりに、こちらへ背を向けて白い少女は老いた男と向かい合う。

 

 

「まだ正体のはっきりしない相手にやりすぎよ、お祖父様。あのままだと本当に命を落としていたわ。八雲だと言っただけで、ここまでする必要はないんじゃないの?」

「この幻想郷において『八雲』を名乗る者は、八雲紫とその式神以外に存在せぬ。妖怪はおろか人間もまた一人残らず、その名が持つ重みを知っているのだ。まさか、その小娘が意図せずして八雲の姓を口にしたわけでもあるまいよ」

「この子からは妖気を感じないわ、いくらなんでも名乗っただけで八雲の式神なんていう予測は乱暴なんじゃないかしら。まあ、周囲にあった結界を越えてきたわけだから警戒するのは当然か……そのあたりのカラクリを聞かせてもらっても良い?」

 

 

 白い少女の視線がメリーへと向けられる。やはり問題は自分が「八雲」と名乗ってしまったことと、結界を通り抜けてしまったことに起因しているらしい。後者の方は不味いことをしてしまったという自覚もあるのだが、前者の方は身に覚えが無さすぎる。たまたま考えついた偽名が、幻想郷においては特別な意味を持つ家名だった。そんなものは予想のしようがない、傍迷惑な偶然もあるものだとメリーは心の中で深いため息をつく。

 

 

「……先日、私は外の世界から幻想郷に跳ばされてきました。今は友人と共に博麗神社でお世話になっている身ですが、此度は用事があり人里にまで降りてきました。結界を抜けた方法については、自分でも分かりません」

「ワシの術式を無力化させておいて『分からぬ』とはどういう腹づもりだ、そのような言葉を信用できると思うて……」

「私は信じるわ、とりあえず最低限は信頼できるだけの理由もあるからね。だからこの場は矛先を収めてもらっていいかしら、お祖父様」

「……あとで理由を聞かせてもらうぞ」

 

 

 渋々と怒りを収める天魔。

 意外とあっさりと認められたことに頭を傾げそうになっているメリーは知る由もないが、刑香だけはメリーのことを最初から把握していた。この数日、たびたび博麗神社に『白いカラス』の使い魔を飛ばしていたのだ。神社で過ごしているメリーと蓮子のことも知っていて当たり前である。元々は霊夢の様子を見守るためだったが、思わぬところで線が繋がるものだと刑香は思う。

 

 

「それでも、このまま帰してあげることは出来ないわ。紫ほどではないにしろ、お祖父様の強力な結界を通り抜けてきた人間を見逃すなんて流石にあり得ない」

「っ、やっぱり貴方たちは妖怪なんですね」

「別に取って喰おうって訳じゃないわ。ただもう少しだけお話に付き合って欲しいだけよ。だから奥へどうぞ、歓迎するわ。遠く幻想郷の外からお越しの稀人(まれびと)さん?」

 

 

 自分から離れておきながら虫の良い話だと思う。それでもやはり放ってはおけない。結界を破るかもしれない能力を持つ人間を無視するわけにはいかないのだ。幻想郷のためでもある、自分のためでもある、だが何よりもあの少女を傷つける可能性がある故に。そこまで考えてから白い少女は苦笑する。過保護だと分かっていてもこればかりはどうしようもないのだ。

 

 

 やはり白桃橋刑香は、これからも博麗霊夢の味方でいたいのだから。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「まったく、気になって覗いてみれば随分な状況ね。人里で天狗の長と出くわすなんて、何百年生きていてもあることでは無いというのに、あの老天狗も随分と甘くなってしまった」

 

 

 千年近くも対立してきた憎き敵同士。

 ひたすらにお互いを敵視し、時には和解した裏で相手の寝首を掻く機会を伺い続けた自分たち。お互いの出方も考え方も企みも、すっかり押さえてしまったと思っていた。きっとそれは過信ではなく事実だったはずだ。

 

 しかし、あの老天狗はこうして人里に降りてきた。人間の住処を自らが訪れるなど、以前の天魔なら絶対にありえないことである。そしてその原因は考えるまでもないだろう。スキマに映り込む白い少女へと、八雲紫は一抹の寂しさを込めて微笑んだ。

 

 

「ーーーさて、あちらは刑香に任せるとして、こちらはどう扱ったものかしら?」

 

 

 しなやかな指先が虚空を裂く。

 新しく開かれたスキマには、襖や障子を豪快に開け放っていく黒髪の少女の姿があった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十七話:秘封ノ奇縁譚

 

 

 どこまでも続く終わりの見えない回廊。

 響く足音はたちまちに暗闇へと吸い込まれ、視界は塗り潰されたかのように暗い。向かう方角は定まらず、次第に進んだ距離さえ曖昧となっていく。歩けば歩くほど、走れば走るほど自分が何処にいるのか分からなくなる。大して入り組んでいるわけでもないのに、建物内部はまるで迷路のような異様な雰囲気を纏っていた。

 

 

「とうなってんのよ、この屋敷の構造はぁーー!?」

 

 

 走りながら声を張り上げる蓮子。

 最初は鬼が出るか蛇が出るか、それとも神か天狗でも顔を出すのかと半ば期待しながら探索を始めた。しかし何かと出くわすことは無く、それどころか一緒に屋敷へと来たはずの黒猫の行方すら掴めない。自分以外の動く気配がしない空間というモノは予想を越えて不気味だった。

 そもそも自分が神社から何処に跳ばされて来たかも分からない。まさか室内に繋がっているとは予想しなかった見通しの甘さが原因だ。月か星が見えていれば位置を『測る』ことも出来る、そんな自分の『能力』を過信しすぎてしまった。

 

 

「おりゃぁぁぁっ!!」

 

 

 気合一閃とばかりに襖を開け放つ。

 正直なところ他人の家でやるには乱暴すぎる行為だが、今はそんなことも言っていられない。宇佐見蓮子の『能力』は月から現在位置を、星から現在時刻を割り出すというモノ。つまり空を見上げることさえ出来れば、それなりに状況の整理が可能なのだ。ここが幻想郷のどこにあり、霊夢と別れてから何時間経ったのかを計算できる。いや、正しくは気持ちの整理ができると言った方が良いのかもしれない。

 先ほどから感じる、水槽に閉じ込められたかのような閉塞感。胸焼けを起こしそうなコレを払うために是非とも一度頭の中をすっきりさせたいのだ。場所が分かったとしても自分一人の力では帰れないだろう、まして時刻が分かったところで何とする。だが立ち止まっているのは性分に合わない。故に前へ前へと進む少女は、しかし開け放った障子の向こう側が外に繋がっていないことを確認して、がっくりと肩を落とした。

 

 

「……また、こんな感じなわけ?」

 

 

 これで何度目か、もはや苛立ちも感じない。

 自分の眼前に広がっているのは外界の景色ではなく、紫色をした半透明な壁であった。ぴったりと張り付くようにして立ち塞がるコレは、恐らく『結界』というモノなのだろう。出来の良いパズルのようにはめ込まれた障壁にはアリの這い出る隙間も見当たらない。

 単に侵入者を逃さないための策なのか、それとも屋敷の主がこちらの『能力』を知っているのか。できることなら前者であって欲しいが、わざわざ視界を封じるために色付きの壁を用意するあたり後者なのかもしれない。

 その場に腰を下ろして、蓮子はやれやれと天井を見上げた。

 

 

「おっかしいわね、幻想郷に来てから私の能力のことを軽々しく口外した覚えはないんだけどなぁ。もしかして、ここの主人が私の知り合いとかじゃないでしょうね……」

 

 

 学校の友人が全ての元凶だった、それはそれはドラマチックな展開だろう。使い古された配役であるが、やはり王道は好ましいに違いない。まあ、そんなことが現実としてあるわけもないかと蓮子は帽子を深く被り直した。目元を隠すようにしながら、ゆっくりと座ったままの姿勢で深呼吸を一つ。

 

 

「ともかく、最初にいた部屋から出ることは出来た。こちらの動きが完全に封じられているわけでは無さそうだし、少なくとも前に進む道は用意されているか。でも、これは参ったわね」

 

 

 手足を縛られはしなかったものの、外に出ようとすると道を塞がれる。侵入者を外に出したくない、というのもあるだろう。しかし、それなら『最初の部屋から出さなければ良かった』はずだ。わざわざ屋敷内を怪しい部外者に歩かせる理由がない。

 今までは気づかないふりをしていたが、それも限界だ。ここまでされて何一つ疑問を表情に出さない愚鈍を演じられるほど、蓮子は役者ではない。

 自分が誘導されていることに、本当はとっくに気づいていた。

 

 

「……こうなったら、お望み通りに進んでやろうじゃない。虎穴に入らずんば虎子を得ず、ここまで来たのなら子虎どころか親虎のいるところまで脚を踏み入れる」

 

 

 意を決して少女は立ち上がる。

 どのみち先へと進めないなら、相手の思惑にかかったフリをするしかない。反撃の機会があるとすれば、それからだろう。それに何となくだが命までは取られないであろうという予想もある。霊夢と仲良くしていた黒猫を追って自分はここに来た。あの幼い巫女が人間の味方である以上、少なくとも人間を頭から喰らうような存在がここに住んでいるとは考えにくい。そうやって自分を納得させつつ、蓮子は聞き分けなく震える腕を軽く叱咤した。

 

 

「情けないけど、やっぱり私には相方がいないと駄目みたい。メリーはもう人里から神社に帰ってきてるかしら、心配させたくないから早く戻らなくちゃね」

 

 

 いつも隣にいて当たり前の少女がいない。

 手を伸ばした先に繋ぐ相手がいない、それだけのことが心の動きを鈍らせる。ルーミアに追いかけられた時だって、ここまで不安な気持ちにはならなかったはずだ。夢中になってメリーの手を引いて林の中を駆け抜けていた、あちらの方が状況は差し迫っていたというのに可笑しなことだ。気がつくと蓮子は少しだけ微笑んでいた。

 

 

「何だか、少しずつ内装が変わってきてるわね」

 

 

 段々と景色が変わっていく。部屋そのものは古式ゆかしき書斎や寝室であるが、置かれている調度品があまりにも特徴的だった。畳の上にはアヒルやカンガルーを模した木彫り人形が無造作に置かれ、壁には色鮮やかな絵画が飾られている。そして何故か部屋の真ん中には満天の星空模様を刻んだポールが突き刺さっていた。

 あまりに統一感のない風景だったこともあり、思わず蓮子は苦笑いを浮かべてしまう。

 

 

「どこかの民族の工芸品よね、コレ。抽象性を重視した彫刻、神話を視覚から伝えるアクリル画、そして世界のどこかの星祭りで使われていたらしき柱。国も地域もバラバラで、世界を歩いて旅しながら集めたような品揃えじゃない……いい趣味してるわ」

 

 

 信仰は消え失せ、神威が認識されなくなって幾星霜。

 かつて神を讃えたはずの祭具たちだが、もはや外の世界での扱いはインテリア以外の何物でもない。作成方法は受け継がれ、現物が保存されていようとも在り方そのものが変わってしまった。例え未だに道具として使われていようとも、彼らもまた忘れられたモノたちに違いはない。そっと触ってみると、じんわりとした温かい熱が伝わってきたのが印象的だった。

 

 そして何の法則もなく脈絡もなく、部屋ごとに屋敷はその表情を変えていく。遠い雪国から砂漠の村落、高地に住む羊飼いから海に生きる孤島の民に至るまで、長い時間をかけて人々が育んできたモノがそこにはあった。本当に世界中を旅しているような気分にさせられる。もっと続きを見ていたいという好奇心に突き動かされて、いつの間にか蓮子の身体の震えは止まっていた。

 そして、どれくらいの時間が経ったのだろう。

 

 

「……誰かいるわね」

 

 

 そんな夢見の気持ちが一段落した頃。

 あれほど配置されていたモノが見当たらない、殺風景な部屋へと蓮子は通されていた。さらに隣へと繋がっているであろう襖には散りゆく桜が描かれているだけで、他には何もない。

 

 この向こうに屋敷の主人がいるのだろう。

 

 確たる証拠などない、漠然とした予感だけが告げていた。胸の中では警鐘が痛いくらいに鳴っている、この場において確信を持つにはそれだけで十分だった。よし、と頷いてから扉に手をかける。

 ぐっと力を入れて引くと、予想していたより簡単に最後の障子は開いた。

 

 

「あらあら、ようやくご到着のようね?」

 

 

 鈴の音のごとく可憐な声だった。

 その主が敷かれた布団から上半身だけを起こす姿を視界にて捉える。血色の良くない顔色と気怠げな様子は隠しようもなく、布団の上に座ったまま蓮子を手招きしてくる金髪の美しい女性がそこにいた。ルーミアのような幼くも異質性を持った相手を想像していただけに、意表をつかれて蓮子は立ちすくむ。

 そんな人間のことを愉快に思ったのか、屋敷の主人は口元を押さえて軽く微笑んでいた。敵意など微塵も感じられない雰囲気に少女はほっと胸を撫で下ろす。

 

 

「ーーーーようこそ、私の幻想郷へ」

 

 

 その相手の警戒を緩める動作そのものが既に罠であることに蓮子は気付けなかった。この部屋に繋がっていた扉がいつの間にか消えてしまっていたこととに、蓮子が気づくのは数十秒ほど後のこと。

 

 

◇◇◇

 

 

 人間たちの賑わいが花咲く里の昼下がり。

 軒下で草花が壁づたいにツルを伸ばし、瓦の上では小鳥たちがのんびりと羽を休めていた。流れゆく空に雨の気配はなく、ただ日光だけが降り注ぐ空模様。舞い上がる薄桃色の花びらは地に帰るには早いようで、風に乗って陽射しを浴びる。あちらでもこちらでも冬の名残りは遠くなり、目につくモノ全てに春の息吹が転がっていた。風が脈打つように暖かな空気を運んでくる小春日和、そんな気候が幻想郷の全てを覆っているようだ。

 本当に良い天気である。これで厄介事が舞い込んで来なければ言うことは無かったろうに、と天狗少女は窓からそよいでくる春風に真っ白な髪を遊ばせる。

 

 

「つまり、この子は外から迷い込んだ人間なのよ。どのような経緯かは知らないけれど、博麗大結界を通り抜けて幻想郷に迷い込んだ異邦人。旧い言葉でいうなら、稀人(まれびと)ってところかしら?」

「……なるほどな、それなら幻想郷の道理を知らぬのも無理はないか。幻想郷が閉ざされて以来、ワシがこうして外界の者と顔を合わせるのは久方ぶりとなる。よくもまあ、このような所まで跳ばされて来たものよな」

「好きで来たわけじゃないと思うけどね……」

 

 

 他の客が寄り付かないように、結界で覆われた奥の間にて座っている天狗が二羽と人間が一人。人里にある店で行われているのは、天狗と人間の少女による世にも珍しい会談であった。

 敵意の混じる視線を投げかける天魔のせいで、メリーは黙り込んだまま動かない。一応の説明を刑香がしたとはいえ、結局のところ「その小娘が外界から来たくらいは信じてやろう」というのが老天狗の答えであるようだ。そしてメリーにしても「取って喰うつもりはない」などという刑香たちの言葉を真正面から信じられるわけもない。お互いへの不信は晴れず、刑香を挟むことで辛うじて同席している有り様である。

 

 

「もしや数日前の夜、部下からの報告にあった山への侵入者というのは貴様か?」

「えっと……それは多分私たち、です」

「ふん、あの時は八雲めから刑香を救い出すことを何よりも優先しておったからな。故に取るに足らぬと捨て置いたが、本来ならば相応の報いを与えていただろう。運が良かったな、小娘よ」

「……ちょっと、この子を怖がらせるのも程々にしてよ、お祖父様」

 

 

 心底不愉快だという視線を隠しもしない祖父。

 そうして威圧されればされるだけ、メリーは刑香との距離を詰めてきていた。先ほど失神する一歩手前まで天魔によって追い込まれ、そこを刑香によって助けられたことが要因なのは言うまでもない。草むらに身を潜める野うさぎのごとく、金髪の少女は白い天狗少女に身を寄せていた。

 華奢な少女たちの肩と肩がぶつかり、髪と髪の触れ合う距離。基本的に他人から触れられることを苦手とする刑香である、メリーから密着されたことで真っ白な頬をほのかに赤く染めていた。その様子を見て、無言で天魔は握っていた湯呑みを軋ませる。

 

 

「少しばかり、近すぎはせぬか?」

「別にこれくらいは気にしないわよ」

「うぬ……しかしだな、刑香よ」

 

 

 少しだけ呆れたように空色の瞳が細められる。

 人間ごときが孫娘と並んで座っていることが致命的に気に食わないと、天魔は考えているのだろう。しかし刑香はそんな祖父の思いを理解した上で、今この場においては自重して欲しいと切り捨てていた。だいたい、誰のせいでメリーが自分にべったりとしてきていると思っているのか。全てが天魔の責任というつもりはないが、それでも殆どは天魔の責任である。

 そんな中、それまで黙り込んでいた人間の少女がようやく口を開く。

 

 

「……ケイカってことは、もしかしてアナタが『四季桃月報』に著者として名前のあった白桃橋刑香さん、なんですか?」

「そうだけど……って、何で知ってるの?」

 

 

 ここで自分の発行している新聞の名前がここで出てくるとは思わなかった。一瞬反応が遅れてしまう刑香だったが、神社に過去号をいくらか持って行っていたことをすぐに思い出す。恐らく、この娘はそれを見つけて読んだのだろうと当たりを付けた。そしてそれは間違え手いない。

 

 

「なるほどね。さっぱりしてる霊夢のことだから、読んだ後はさっさと捨てているかと思ってたんだけど……まだ手元に置いてくれているみたいで嬉しいわ」

「捨てるどころか、一部ずつ大切に霊夢ちゃんは保管していましたよ。特に白い鴉天狗の載った号のことは『私が撮ったんだから』なんて得意げに話して……どうかしましたか?」

「……何でもないから気にしないで」

 

 

 赤くなった顔を隠そうと視線を逸らす。

 霊夢がカメラに興味を持ってから、初めてキレイに撮れた写真がアレだったのだ。紅葉の中に浮かぶ純白の翼、つまり刑香である。せっかくなので新聞に使ってみたのだが、冷静に考えると自分の新聞に自分の映っている写真を載せてしまっていた。

 何故かあの号で部数が大きく伸びるし、しばらく文やはたてからも随分とからかわれている。元は自分の不注意が原因なので、刑香としては後悔はしないまでも思うところが多すぎた。

 今となっては二人にとって思い出の一枚になったとはいえ、やはり恥ずかしいモノは恥ずかしいのだ。あの号のことを霊夢以外が面と向かって話すのは止めて欲しい。

 落ち着かない気持ちを誤魔化すように、刑香は前髪を指先で弄ぶ。意図的にやっているわけではないのだろうが、今の会話でかなり調子が狂ってしまった。どうやって結界を抜けてきたのか、どうして偽名に八雲を選んだのかを問いただそうと思っていたのに情けない。こんな緩んでしまった心ではどうにも上手く出来そうもない。

 ちらりと祖父へ助けを求めると、承知したと言わんばかりに天魔は言葉を紡ぐ。

 

 

「話を戻すがの。恐らくその小娘は『境界を幻視()る目』を持っておる。ワシの結界を抜けて来たのも僅かな綻びを見つけ出し、そこに身体を挿し込んで来たのであろう。通常なら不可能な方法だ」

「それなら、どうしてメリーはそんな芸当を出来たのかしら?」

「常人には不可能だろうが、そのあたりは能力の精度次第であろうよ。ここまでの精密さを持つのは八雲紫くらいだと思っておったのだがな。八雲メリー、八雲か……その名にどのような経緯があれ、その名はいずれ『現実』のモノとなるのやもしれぬ」

 

 

 老いた瞳の向こう側には、八雲という忌むべき名を名乗った人間の小娘。全体的に紫を基調とした服装と、滑らかな金色の髪が長年の宿敵を連想させるため老天狗の眼差しは厳しくなるばかりであった。

 

 

「しかし、腑に落ちぬこともある。貴様のチカラは結界を幻視()るに過ぎぬ。それで幻想郷へ、つまり博麗大結界を跳び越えて来たとしても『時間』がここまでズレるのは些かおかしい」

「……何の話ですか?」

「気づいておらんのか、いや無理もなかろう。そもそも同じ時間軸においても幻想郷と外界は隔絶とされた在り方の違いがある。こちらに来たところで、並の知覚では変化を認識できまい」

 

 

 メリーから視線を外し、空になった湯呑みを天魔はぼんやりと眺めていた。そして底に残された茶葉が寂しげに横たわっていることを確認してから、ふわりと手をかざす。するとそれらは藁に火をつけたように勢い良く燃え上がっていく。小さな小さな火である、それが次々と湯呑みから宙へと飛び立ち、そのまま燃え尽きる。

 そうして産まれた灰色の煙たちが天魔の指に纏わりつく。そして天魔がメリーの持ち物だという御守りを摘み上げると、形を持たぬはずの火煙は明確な意思を持つかのように渦を巻き、何かの姿を成していった。

 呆然とするメリーの目の前で、それらはやがて『あの仏閣』にいた時の二人を映した光景へと変わっていった。

 

 

「貴様は恐らく、ワシに所縁のある場所から幻想郷に跳ばされてきたのだろう。ならば死神がコレをワシに渡してきたことにも合点はいくというもの、こうなってしまえば貴様らを元いた場所に戻せるのはワシか八雲くらいであろうからな」

 

 

 そう言った天狗の長は用済みだとばかりに煙を払う。

 再び高鳴ってきた鼓動を抑えるように、胸に手を当てたメリーを横目にして天魔は刑香へと視線を動かしていた。そしてその瞳に驚嘆の色があることを確認して、僅かに口元を綻ばせる。ようやく孫娘へ良い格好が出来たといわんばかりに、その表情には祖父らしい感情が見え隠れしていた。

 

 

「どうして……時間まで私たちは越えてきたなんて」

「夢見であれば、このようなことは珍しいことではないのだが現実としては稀有である。しかし貴様らは二人で幻想郷(ここ)に来たという。ならば、もう一人の小娘が『時間』や『場所』を計測()る瞳を持っておるのではないか?」

「っ、その通りです。私の親友が『その目』を持っています。でもだからといって、どうして私たちは幻想郷に!?」

「手段が判明したのであれば簡単な話だ、貴様ら二人はそのチカラを都合よく『何者か』に利用されたのであろう。せいぜい心すると良い。此度の貴様らの旅路、行きは容易であったが帰りは随分と難儀なものとなる」

 

 

 かつて人々をあまねく守護した神は語る。

 そこにはもはや蔑むような眼差しはなく、ただ人間を試すような強い意志があった。幸せに過ごす者に神はいらぬ、真に神へと祈るのは大きな困難に直面した者だけである。故に天魔、迦楼羅王はメリーへと興味を示していた。これが正しく仏門の守護者であった頃の祖父が纏っていた威光なのだろうと、その血を引く白い少女は思う。

 

 

「……このままお祖父様がメリーたちを元いた世界に帰して解決、という話でも無さそうね。何か問題があるんでしょう?」

「そもそも帰路が開けぬのだ。この魔除けには確かに小娘がいた場所が刻まれておるが、あくまでもコレが示しておるのは位置だけだ。こやつらがいた時間までは分からん。他に『時』を示すようなモノがあれば別だが……いや、それがあったとしてもワシは人間に協力はせぬ」

「ああ、やっぱり人間のことが嫌い?」

「それもあるが……千年を妖怪として過ごしている身としては今更、こやつらに手を貸すのは己の矜持が赦さぬ。つまらん意地とでも思ってくれて構わぬよ」

 

 

 これは紫に頼るしかなさそうだと刑香は判断する。

 その結論を天魔は言葉にしないし、そして自分もまた指摘することは避けることにした。祖父にとって己に出来ないから八雲紫に頼れなどとは口が裂けても言えぬことなのだ。この前の決闘によって一度は対立したものの、すでに紫と和解した刑香とは違う。

 八雲紫と天魔が過去を清算することなど有り得ないし、分かり合うことをお互いに望まないだろう。もう全てが遅すぎるのだ。天魔は息子夫婦を失い、そして口には出さなかったが紫も同じだけのものを天魔に奪われているはずだ。積もり積もった年月は足枷のごとく、聡明な賢者たちさえ過去へと縛り付ける。

 メリーたちを元の世界へ帰すだけではない。スペルカードルールが実現するためにも、決して避けて通れない天狗と八雲の協力体制。それを成功させるには古株の二人だけでは難しいのかもしれない。

 

 

「難儀なものね、あっちもこっちも問題だらけみたい」

 

 

 外から聞こえてくるのは幼き子供たちの笑い声。輝く太陽は空の上にて一休み、暖められた風が花びらを運んでくる小春日和。うつらうつらと眠気を誘う日なれど、一部の者たちの安息は未だに遠く霞んでいる。

 どうしたものかと刑香は窓から漏れ出す穏やかな陽射しを見つめていた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「私から教えられるのは、これくらいかしらね。何か質問があれば受け付けるわよ、宇佐見蓮子?」

 

 

 さらりと着物の袖を鳴らす八雲の賢者。

 虚空に浮かんでいたスキマが閉ざされ、映し出されていた映像が消えていく。それは同時刻に天魔がやってみせたものと内容的には変わらないものであった。古めかしい寺院にて、ある仏像の前で会話を繰り広げていたのは紛れもなく秘封の二人である。そしてその後すぐに、二つの人影が吸い込まれるように消失するところまでを八雲紫は蓮子へと目撃させていた。

 それはまるで、その仏像が(かたど)った存在によって拐われたかのよう。つまり見た目としては『神隠し』の現場そのものであった。

 

 

「……つまり、私たちは幻想郷に迷い込んだだけじゃなくて時間旅行までしていたってことか。しかも簡単には帰れない。だって何処から来たのかが分からないから、幻想郷の人たちも私たちを何処に返せばいいのか分からない。つまりはそういうことね」

「あまり悲観的な顔をしていないわね?」

「そりゃそうよ。誰だか分からない相手にこんなモノを見せられたからって、それを丸ごと信じて絶望するほど私は素直な性格をしていないわ。それに真実であったとしても時間跳躍については、まったく想像していなかったわけでもない。私を泣かせるには力不足よ」

「ふふっ、強がりで言っているわけでないとしたら大した先見性ね。その頭脳だけは素直に称賛してあげましょう」

「そりゃどうも」

 

 

 元々入り口があった壁を背にして身構える。

 先程まで存在していた出入り口がまるごと消失した、それに気づいたのが数分前だ。まんまと自分はしてやられたらしい。ここに一歩踏み入れた時とは違い、目の前にいる女性からは底知れない気配ばかりが漂ってくる。それらはまるで静まり返る海を連想させ、大きな嵐がやってくる前触れのような不気味にうねる恐怖を植え付けてきた。

 ああ、これはない。いくら友達想いの自分とはいえ、メリーと変わって欲しいくらいである。今頃は神社に帰り着いてのんびりしているだろうし、まさか同じような妖怪と出食わしていることもあるまい。少しだけでいいので、立場を入れ替えて欲しいものだ。悪いとは思いつつも、蓮子は半ば本気でそんなことを考えてしまっていた。

 だがスキマの賢者はそんな少女の思考など意に返さず、更に決定的な一言を告げる。

 

 

「結論から言えば、今の私ではアナタたちを元いた場所に帰すことは出来ないわ」

 

 

 憐れな者を見つめるような紫水晶の瞳。

 神隠しの主犯とさえ恐れられる八雲紫、その『境界を操る能力』こそが二人を帰還させるために最も重要な鍵であった。モノとモノの境目を自在に操ることで、空間と空間を繋げるというチカラ。それは条件さえ整えば、遥かな月の都にさえ届くとされた。云わば最も頼りになるはずの道しるべだったのだ。

 しかし八雲紫は一時的にしろ、そのチカラの少なくない部分を失っていた。会合の出席や結界の管理は藍に任せ、霊夢の見守りさえ橙に頼る始末。今もどうにか布団から上半身だけを起き上がらせているのだ。そこにはレミリアや刑香との戦いでみせた大妖怪、八雲紫の姿はどこにもない。

 

 

「……何だか分からないけど、あなたが駄目なら別の誰かに頼むから問題ないわ」

 

 

 そう短く答える蓮子はスキマの賢者の言葉に込められた事の深刻性を知る由もなかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十八話:紅魔の心臓

 

 

 湖の畔に佇む紅魔館。

 澄んだ水面に映る姿は、その名の通りに真紅の薔薇のごとく。独特の重みを感じさせるレンガと石造りの外観は木造を基本とする幻想郷の建築様式とは一線を画す。眺めるだけなら美しく、迂闊に近づけば棘が刺さるだけでは済まされない。幻想入りしたばかりの頃は、そのように妖怪たちにさえ怖れられていた場所である。

 しかし現在は観光地の一つとして周囲の住民たちからは見られているらしい。イタズラ好きな妖精たちが穏やかな気質の門番と戯れて、物好きな一部の人間たちがこっそりと真昼に訪れては妖しくも美しい建築様式に目を楽しませる湖畔の館。『幻想郷はすべてを受け入れる』という賢者の格言に漏れることなく、今やこの世界の一員として西方からの来訪者は認識されていた。

 

 

「ふわぁぁ…………よく寝ました」

 

 

 そんな屋敷にて、地底の少女は目を覚ます。

 昨夜は遅くまでチェスに興じていたので随分と長く眠ってしまったと、さとりはベッドから起き上がる。窓を塞ぐ分厚いカーテンから太陽は感じられず、その一方で体内時計が今は昼だと告げている不思議な感覚。吸血鬼の部屋ということもあり、完全に遮光された空間は静かな暗闇で満ちていた。人里離れた林の中を思わせるような静寂に包まれながら、「ああ、完全に寝過ごした」と少女は吐息を漏らす。

 湖に近いからだろうか、空気は冬の井戸水のごとくに冷たい。吐く息もうっすら白く、頬が赤く染まるばかりである。部屋の温度に軽く震えてから、さとりは温もりが手招きするベッドへともう一度潜り込んだ。身体を包みこんでくれる柔らかな感触がすぐに眠気を誘ってくる、このまま目を瞑ってしまえば心地良く夢へと落ちていけるだろう。しかし、そんな誘惑に耐えながら顔ごと視線を反対側へ向けた。

 

 

「………まだ眠っているみたいですね」

「う、ん……」

 

 

 応えるように寝返りを打つ銀髪の吸血鬼。

 さらりとした衣擦れの音が鼓膜を濡らし、その拍子に幼さを隠しもしない姿が丸見えとなる。純白の枕へと小さな頭を沈ませて、レミリアは小さな胸を上下させていた。よく眠っているようだ、可愛らしい寝顔を見せられたせいで口元が緩んでいくのが自分でも分かる。

 てっきり吸血鬼は棺桶で眠ると思っていたのだが、そうでもないらしい。気分次第で棺桶でもベッドでも横になるし、なんなら棺桶をベッドの上に置くのもアリだと他ならぬ本人が言っていた。事実は小説よりも奇なりというが、本当にその通りであるらしい。

 

 

「こうしていると、良く出来た人形のようですね。あの自信に満ちた声が聴けないのは、ほんの少しだけ残念ですが静かなのは良いことで、す?」

 

 

 どうして『残念』などと自分は口にしたのだろう。

 眠っている相手というのは良い。思考が停止しているため心に澱みがなく、覗き込んだとしても悪意という毒針に刺されることがない。白状してしまうなら、夢に旅立っている相手と接するのが一番やりやすい。おぞましい心の中を見続けるというのは端的に言って疲れるからだ。それなのにーーー。

 

 

「私も少しだけ変わったのかもしれませんね。あの子たちがあまりにも楽しそうだったから、今さら友人を増やしたいなんて可笑しな話です。純真で誇り高く、真実を見通すチカラを持ちながらも子供のように目の前の物事を楽しむことができる。よりにもよって、私とは正反対な貴女となんて……」

 

 

 以前までの自分はここまで他者に関心を持っていなかった。だがあの勇儀を相手にして一歩も引かなかった少女たちと出会ったせいで、おかしくなってしまったのかもしれない。

 レミリアの『運命を操る程度の能力』は、さとりの『心を読む程度の能力』にとって厄介な敵である。昨夜のチェスのように、目の前にある思考を読み取ったところで枝分かれした全ての事象には対処しきれない。戦闘になったところで負けるつもりはないが、他の妖怪を相手にするよりは確実に手こずるだろう。

 古明地さとりにとって、心を読み切れない存在というのは最も警戒しなければならないはずなのだ。それなのに同じ寝床で眠るなんて無防備に過ぎる。知らず知らずのうちに、さとりはレミリアの青みがかったレミリアの銀髪に手を伸ばしていた。それはまるで答えを求めるように、

 

 

「きゃっ!?」

 

 

 驚くだけの時間も与えられずに腕を人外の力で掴まれる。そして有無を言わせず身体を引き寄せられて、そのまま覆い被さるようにベッドに抑え付けられた。目と鼻の先には、血に濡れたルビーの輝きを放つ吸血鬼の瞳がある。まさかとは思うが、今の今まで起きていたというのかと息を呑む。サードアイで心の動きを覗いていたというのに、まったく気づけなかったのだ。警鐘を鳴らすように心臓の鼓動が早まっていく。

 

 

「おはよう、まだ忌々しい太陽が昇っている時刻にご苦労なことね。地面の下で暮らしていると昼夜の逆転を気にしなくていいのかしら?」

「妖怪だからといって、皆が夜に活動するわけではありません。確かに妖力的には夜間の方が満たされているでしょうが、それなりに強力な妖怪ならば人間を襲うのに時と場所を選ぶ必要はないでしょう」

「ふーん、確かに太陽が苦手でない妖怪ならあり得る話ね。それでアンタは昼間に私を襲ってきたと」

「そういう理由で手を出したわけでは……。ただ貴女の寝顔にペット達を思い出したので、こっそり頭を撫でようとしただけです」

「ほほう、ペットねぇ」

 

 

 ゆっくりと細められた紅い双眸。

 ペットと同列に扱われたことが不満らしい。瞳は妖しげに揺らめき、口元からは尖った牙が見え隠れしていた。

 このまま血を吸われるなら吸われるで構わない。短時間なら催眠の効果が薄いことは刑香からの話で分かっているし、それ以上を許さなければいいだけの話だ。食事の最中ならば気が緩む、そうすれば深く心の奥を覗き込むことができる。その隙に、どうやってサードアイのチカラから逃れていたのかを押さえておきたい。

 しかし、しばらくレミリアの顔を見つめていても牙が近づいてくることはなかった。

 

 

「……心を読めなくても、アンタの考えていることくらいお見通しよ。牙を首筋へ突き立てたと思ったら、逆に心臓を掴まれていたなんて笑い話にもならないわ」

「さて、何のことでしょうか」

「さっきより目付きが鋭いわよ、アンタって思っていたより顔に出るみたいね。血液はまたの機会に頂くことにするわ」

「……ニンニクでも食べておきましょうか」

「いやそれは冗談でも止めなさいよ、喉が焼けるわ。くくっ、吸血鬼に押し倒されて平然としているなんて可笑しなヤツね。話していて飽きないかも」

 

 

 先刻までの雰囲気はどこへやら。

 今のやり取りが気に入ったらしい。少なくともレミリアの胸中から不快感を催しているような色は消えている。可愛らしいアクビを漏らしてから、羽のように軽やかな動作で少女は床へと降り立った。その刹那にサードアイにノイズが流れ込んだのを、さとりは見逃さない。

 レミリアの思考は読みづらい理由が分かった。チェスと同じだ、ずっと先の枝分かれした未来で頭の中を満たしている。恐らく読心を妨げるために『能力』でわざとしているのであろう。よくもまあこんな状態で当たり前のように会話が出来るものである。そこらの妖怪ならば負荷で思考回路が焼き切れる。

 

 

「アンタは妖怪の山にいたことがあるのよね、なら……」

「私が白桃橋刑香のことを知ったのはつい最近です。少なくとも私のような者には存在すら秘されていた節がありましたので」

「尋ねる前から答えを言うのは止めなさいよ。淑女なら言葉を嗜むべきだわ」

「すみません、ですが心を読んではいませんよ。その切り出し方であれば、後に続く質問くらい予測できたので」

「……ふーん、アンタって別にその目が無くても交渉事とか得意そうだもんね。賢いヤツは好きよ、敵であっても味方であっても退屈せずに済むもの」

 

 

 自らの思考に負荷をかけてまで、この少女には読み取られたくないことがあるらしい。緩慢な動きでレミリアは寝具の脇にかけていた白いショールを肩にかける。そして窓際まで近づき、窓を塞ぐカーテンを指先で波立たせた。わずかに漏れてきた日光が少女の肌を焦がす、美しい白磁の指は枯れた植物のような風貌へと変わっていた。そんな炭化した皮膚が瞬時に再生していくのを見つめながら吸血鬼の少女は口を開く。

 

 

「結局のところ、前の会談では大したことは纏まらなかったわ。イタズラに時間を空費した、私たちの要望は決して衝突していたわけではないのに」

「内容ではなく、向かい合う面子の問題です。やはり八雲と天魔がおとなしく手を取り合うなんて無理があります。あの勢力は千年以上も対立し、お互いに多大な犠牲を出しています。口では新しい幻想郷のために協力すると言っていますが、お互いの背負った因縁が動きを鈍らせているのでしょう」

「でも博麗の巫女が正式に代替わりするのは、この春なのよ。そのための準備もあるだろうし、ちまちまやっていたんじゃ間に合わないわ。下手をすれば今代の巫女ではなく、次代へと延期されてしまうかもしれない。それは私の望むところではないし……それだけは避けてみせなければならない」

 

 

 恐ろしいほどに鋭い真紅の双眸。

 この吸血鬼の少女もまた、大きな重荷を背負っているようだ。西方から屋敷と身内だけで味方が一人もいない幻想郷に殴り込み、実力にモノを言わせて現状の地位を勝ち取った。しかも当時はフランドールが狂気に囚われていたというのに、それすらも異変を通じて解決してしまったのだ。偶然を偶然のままとはせず、能力を使うことで必然にまで昇華させて運命を切り拓く。それは、まるで槍の如く鋭利な生き方だ。

 

 

「あまり無茶をすれば折れてしまいますよ。大丈夫です、あの場に集った誰もがウチに秘める想いは変わらない。八雲も、地底も、紅魔館も、そして妖怪の山も、自分たちにとって大切な誰かが少しでも幸福に生きられるようにと願っています。貴女一人が思い詰める必要はないのです」

「……そうかしら、それにしては中身が薄かったわよ。あんなのはアンタを交えたことで、改めて顔合わせをしたに過ぎないわ。幾重もの言葉は踊れども、決めるべきことは何一つとして形を成していない。アンタたちはアレね、前置きや腹の探り合いが長すぎるわ。さっさと本音をぶつけ合いなさいよ」

「……それを貴女が言いますか」

 

 

 今もレミリアの心はノイズが立ち込めて読める状況ではない。蟻のごとく細かい字が目の前でうごめいているような感覚だ。少しばかり無理をすれば読み取ることもできるのだが、鬼族と対して変わらない怪力を持つという吸血鬼の前で意識をそちらに割くべきではない。首を傾げてくるレミリアへと、さとりは不満そうな口調で告げる。

 

 

「レミリア、貴女とて考えていることを残らず表に出しているわけではないでしょう。先程から貴女の思考を読み取ろうとしていますが、能力を使って隠蔽されている。覚妖怪には正しい対処なのですが、その状態を維持しておいて他者には本音で話すべきだと言うのはどうかと思います」

 

 

 自分という妖怪に心を読ませないのはいい。

 嘘をつかれるのも、影で罵倒されるのも慣れている。今更それで傷つくほど古明地さとりは弱い精神をしていない。しかし他の妖怪ならばともかく、目の前の少女がこんな下らない嘘を口にするのはあまり好ましく思えないのだ。

 そんなことを考えている自体、己がレミリアを特別視していると地霊殿の主は気づけない。

 

 

「してないわよ、そんなこと?」

「何のことですか」

「だから、アンタの能力を防ぐために『運命を操る程度の能力』を使っているってやつでしょ。何でわざわざ心を読まれないために、私がそこまでする必要があるのよ」

「……え?」

「私はただ、『能力』で気に入った結末を探していただけ。その最中にアンタが心を読んできて勝手に勘違いしたわけよ。まあ、来賓の前で別のことを考えていた私にも非はあるのでしょうけどね……ほら、そんなに見たいなら見せてやるわよ」

 

 

 合図を送るように指を鳴らすレミリア。

 サードアイの視界を埋め尽くしていたノイズが消え去ったのは、その刹那のこと。嵐が去ったようにレミリアの心象が鮮明に映り込んできた。『運命を操る程度の能力』を制限したのだろう、情報量が少なくなったことで見通しが格段に良くなっていく。そして晴れた先に見えた映像に、さとりは第三の目ではなく自らの瞳を見開いた。

 それは恐らく遠くない未来のこと、春の花が咲き誇る神社にて二つの影が立ち並ぶ。金糸で飾られた紅白の巫女服を身に着けた神聖なる少女と、美しい紫色に染められた羽織がはためく白い鴉天狗の娘。彼女らによって幻想郷における『新しいルール』が宣言される儀式の執り行われている光景であった。

 

 

「さて、刑香だけだと不安だから例のごとく私も手を貸してやるつもりなのだけど……この運命を掴むためにアンタも協力してくれるかしら、古明地さとり?」

「……まずは地霊殿に使いを送らなければなりませんね、あの少女たちから『預かっていたアレら』が役に立ちます。あとは元凶である勇儀にも連絡を入れておきましょうか。その他のことについては後ほど話し合うということで良いですね?」

「悪くないわ。切れるカードは私よりアンタの方が多いから、せいぜい頼りにさせてもらう。スペルカードルールだけじゃない、話の分かる大天狗が地底としても一人くらいは欲しいところでしょ?」

「ええ、それは魅力的な提案です」

 

 

 くすりと微笑んでから「それではまた後で」と口にする地霊殿の主、それに繋げるように「それじゃあね」と、紅魔館の主は心の中で返事をする。そして怪しげな企みを胸のうちに隠しつつ、レミリアは部屋を後にした。

 その姿をのんびりと見送ってから、さとりは部屋のカーテンを開く。湖を越えた先の先、妖怪の山はここからでも視界に映り込む。その頂に細くたなびいている白い雲があの娘の翼のように見える。

 知らなかった、地上の晴れた空はこんなにも綺麗だったのか。それを何ともなしに確認してから、地底の少女もまた部屋を後にすることにした。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「…………何が可笑しいの?」

 

 

 スキマの賢者の居宅、その寝室にて宇佐見蓮子は刺すような言葉を紡ぎ出していた。その視線が向けられる先では金髪の女性が口元を押さえながら身体を震わせている。先程までは穏やかな口調と柔らかな態度は淑女然としていたのを覚えている。しかし今はまるで性格が反転してしまったかのように、妖怪そのものの雰囲気が漂っていた。上手くいえないが、本能的に身構えてしまう胡散臭さがある。

 

 

「ふふっ、『別の誰かに頼む』なんて答えが帰ってくるとは思いませんでしたわ。何も知らないが故の言葉なのでしょうけど、たまには予想外の返答をされるのも刺激的があって悪くないものね」

「そりゃどうも」

「ですがそれは叶いませんわ。チカラを持つ者たちの中で、アナタたちを元の世界に戻すために協力する物好きなんていないでしょうから」

 

 

 酷い言葉だった、出口を求める相手に出口がないことを告げている。しかし、わざわざ反応を返してやる筋合いは蓮子にはない。

 

 

「ーーーあまり悲観してはいないようね?」

「しつこいわね、誰とも知らない相手からそんな言葉をぶつけられたところでビクともしないわよ。ご忠告は痛み入るけど絶望するのも希望を抱くのも所詮は主観的な感情に過ぎないわ、私が最後に信じるモノは私が決める」

「そう、どこまでもアナタらしい答えが返ってきて安心したわ。やっぱり蓮子は蓮子なのね」

「…………私たち、何処かで会ったことがあった?」

「どうかしら。もしかしたら過去か未来か、はたまた夢か現かも分からない混沌とした世界で出逢ったことがあるのかもしれませんわ」

 

 

 煙に巻くように会話は一度途切れる。

 蓮子からしてみれば完全に初対面のはずの相手、しかし紫の口調からはお互いが旧知の間柄であるかのごとき響きがあった。しかし外の世界から来た自分に妖怪の知り合いなどいるはずもなく、夢の中で出逢うとすれば自分よりもメリーの方だろう。また冷やかされているのだろうか、それなら何のためだと蓮子は考えを巡らせていく。

 そんな人間の少女へと八雲紫は微笑んだ。

 

 

「学業は大変かしら?」

「……そうでもないわ、どの科目もそこまで難しいと感じたことはないし」

「部活動は順調なの?」

「大学では不良サークル扱いされていたけど、今回の幻想入りで絶好調になったわ。次の文化祭では目にモノ見せてやれそうよ」

「学生生活は、楽しい?」

「苦労も多いけど、メリーと一緒なら何があっても楽しい思い出にするつもりよ。幻想郷のこともね」

「……そう」

 

 

 一つ一つを噛みしめるように、人間の少女からの答えを八雲紫は受け止めていく。そして布団から立ち上がることもせずに、座ったままの姿勢でスキマの賢者は静かに天井を見上げていた。遠い星空を望遠鏡で覗き込む少女のように、深い紫色をした瞳はここではない何処かに想いを馳せる。

 

 

「それは良かった……ええ、それはきっと何より幸福な時間ですわ」

 

 

 視界がずるり、と沈み込んだのはその時だ。

 驚いて視線を下げると、不気味な空間に身体が腰まで呑み込まれていた。ここに来る時に飛び込んだ時と同じモノだと気づくのに時間はかからなかった。中に浮かんだ目玉が太ももに触れてきて気持ちが悪い、ジタバタと暴れてみるが下半身は完全に沈み込んでしまった。

 底なし沼に沈むように、自分の身体が取り込まれていく光景に顔から血が引いていく。

 

 

「なっ、ちょっとコレはどういう……!?」

「いずれ元の世界には戻れるわ。『あの土壇場』で私の能力を妨害することで刑香を勝たせる、というのがアナタたちが幻想入りした理由の大半。役目を終えたならば演者は舞台から立ち去るのが道理でしょう?」

「くっ、この、自分だけ話したいだけ話すなんて……ずるいでしょ!」

「とりあえず神社まではスキマで送り返して差し上げますわ。そこから先は部外者らしく、相方と気の向くままに過ごしなさいな。そのうちに『向こう』からお迎えが来るはずよ」

 

 

 じゃあね、また夢の中で会いましょう。

 そんな言葉を残して、その妖怪は見慣れた少女のように微笑んだ。それが宇佐見蓮子が八雲紫と邂逅した短い時間における最後の瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ーーーだから言ったでしょ、どうせ紫に追い返されるだろうからお茶でも啜りながら待ってれば良かったのよ。いきなりスキマに飛び込むなんて馬鹿じゃないの?」

「おいおい、蓮子がスキマに入り込んだのはお前の責任でもあるんじゃないか?」

「うっ……でも刑香くらいの速度でも無い限り、あんなの止めようがないじゃない」

 

 

 穏やかな風が頬を撫でる。

 暗闇から一転して、瞼を透かしてくる太陽の灯火に誘われて蓮子はゆっくりと瞳を見開いた。眠りを覚ますような白い陽射しに目を細めながら、自分を心配そうに眺めていた二人の少女たちの姿を見つける。

 

 

「どうやらお目覚めみたいね、ひと足先に人里から帰ってきたメリーが心配してるわよ」

「スキマの屋敷がどんな感じだったのか、あとで教えてくれよ。楽しみにしてるぜ?」

 

 

 紅白の巫女は呆れたように、白黒の魔法使いは面白そうに蓮子を見下ろしている。周りを見てみると博麗神社の境内だった、あの女性は言っていた通り元の場所まで帰してくれたらしい。ぼんやりしていると「ほら、さっさと立ちなさい」と霊夢に腕を掴まれる。思ったよりしっかりした力で引き起こされ、まだ夢を見ているような心地で立ち上がった。お礼を言おうと思ったがすぐに顔を背けられてしまう、ひょっとしなくても虫の居所が悪いのかもしれない。

 

 

「で、紫から手掛かりの一つくらいは得られたの?」

「それって、紫色の瞳をした金髪の人のことよね。それなら『放っておけば帰れる』みたいなことを言われたわ。本当だったら気が楽だけど、信じていいのかな?」

「まあ、アイツの言うことは疑い半分くらいに受け止めておいたら問題ないわ。ただし嘘をついていたとしても、何らかの意味はあるだろうから内容自体は覚えておいた方が良いかもね。……それはともかく、何で私の会いたい相手にアンタたちが立て続けに出会ってるのよ。納得がいかないわ」

 

 

 不機嫌ここに極まれり。

 むすっと頬を膨らませて、霊夢はこちらに背を向けて行ってしまった。どうして怒っているのか分からないので、これだと謝りようもない。ちらりと隣にいる少女へと視線で助けを求めると、仕方ないと言わんばかりに魔理沙は霊夢のあとを追いかけていく。とりあえず機嫌を治してもらってから事情を尋ねようと思う。それより今は優先したいことがあるのだ。

 

 

「まったく、みんな勝手なモノよね」

 

 

 最後に紫から見せられた表情が頭から離れない。

 あの目はきっと自分を見ていたのではない、宇佐見蓮子の姿に『誰か』を重ねていたのだろう。それが何なのかは分からないし、これからも知る機会はないような気がする。結局のところ八雲紫がどのような妖怪なのか、その正体に辿り着くことはなかった。けれど今はそれでいいと蓮子は思う。

 

 

「…………また、いつか」

 

 

 吹き抜ける風に言葉の舟を乗せる。

 空気の流れは渦巻くように、くるくると木の葉を巻き込みながら空高く昇っていった。やがて風だったものが青と白が混ざりあった春の空へと呑み込まれていく。それを確認してから、蓮子はメリーの待つ母屋へと進んでいった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十九話:停雲落月に面影を知る

 

 

 見渡す限りに氷粒を含んだ雲が広がる遥かな天上。

 灰色の雪原は塞き止められた水のごとくに空を覆い、地上には雪の花飛沫が舞っている。近づいた春をまた押し返すような天候は、季節の狭間が見せる気紛れだ。

 そんな雲の上へと一人の妖怪少女が飛翔していた。その出で立ちは天狗装束の上に厚手の上着を羽織り、首にはマフラーという防寒に徹したモノ。葉団扇を使って邪魔な雲を払いつつ、少女は上へ上へと空気の壁を突き破っていく。そして、ようやく雲の層を抜けたようで満天の星空が囁く月夜の舞台へ躍り出る。艷やかな黒髪にこびり付いた氷を落としながら、射命丸文は真っ白な息を吐いた。

 

 

「……気持ちの整理はしていたつもりなのですが、実際に『この時』が来てしまうとあの子が遠くに行ってしまうようで寂しいものがありますね」

 

 

 マフラーから漏れる言葉が夜闇へ消えていく。

 それでいい、誰に聞かせようというわけではないのだ。言葉にしておかないと自分の心が苦しかった、ただそれだけのことである。

 

 天魔と刑香がマエリベリー・ハーンと接触した日から、既に数日が流れていた。

 

 一本歯下駄を揺らして、黒い少女は器用に飛行したままで仰向けになる。何も知らない月の光は今宵も美しかった、雲の上にいるので興醒めな叢雲は一つもない。だが心に迷いのある今夜だけは、その輝きが疎ましく感じられる。

 凍えんばかりの風が吹き抜け、パタパタと靡く羽織と寒さが身体を震わせる夜天の刻。雲が邪魔をして地上の様子は見えそうもないが、天狗の里では小さな騒ぎが起こっているかもしれない。何せ今宵の主役がいなくなったのだ、あの老天狗に至っては青筋を立てているに違いない。まあ、しばらくしたら戻るだろうから勘弁しておいて欲しいとマフラーの下で苦笑した。

 風の変化を感じ取り、文が即座に身体を起こしたのはその瞬間だった。真下から飛び出してきた白い影、その鋭さを秘めた突進をいなしながら葉団扇で受け止める。

 

 

「流石ね、文」

「……視力の利かない雲の中から奇襲をかけて来たのは悪くない判断です。飛行音を自然の風で誤魔化そうと思ったのも見事。しかし残念ながら私には通用しませんよ、刑香」

 

 

 足下から突き出してきた錫杖が目と鼻の先で停止する。ちらりと視線を送ってみると、攻撃を防がれて少しだけ悔しそうにする妹分の顔が見えた。仕掛けてきたのはこれで三度目になる、そのいずれも己に攻撃をかすらせることすら出来ていないのが現状だ。腕に込めるチカラを強めて、徐々に錫杖を押し返していく。こちらが片腕に対してあちらは両腕なのだが、腕力の差は埋めようがない。それでも負けじと純白の少女は翼を羽ばたかせる。

 

 

「ぐ、ぅぅぅ……っ」

「速度はともかく非力なのは相変わらずですね。アナタは天狗どころか、状況によっては人間の男にさえ抑え込まれます。故に鍔迫り合いは避けるようにと、ちゃんと昔に教えたはずでしょう?」

「舐めるんじゃ、ないわよ!」

 

 

 煌めく錫杖から発せられる鬼の闘気。

 白い少女の妖気を喰らい、片鱗を現したのは鬼の四天王が誇る『怪力乱神』。力のみで他の四天王と並び称される星熊勇儀、地底での戦いの際に彼女の目玉を抉ったことで生まれ落ちた魔杖が吼える。あの八雲紫にさえ深手を与えたのだから、その威力は折り紙付きだ。割れんばかりに葉団扇へと叩きつけられた一撃が文を上空へと吹き飛ばす。

 痺れるような衝撃が腕から背骨まで伝わってきたことに、小さな驚きを感じながら黒い少女は一度距離を取った。

 

 

「なるほど、とりあえず非力だという問題は解決していますか。その錫杖のチカラがあれば大抵の相手は一撃で昏倒させられるでしょうね」

「…………少しは、やるもんでしょ?」

「ええ、連続で使用できるかはさておき、有効な手札が増えるのは良いことです」

 

 

 この少女は強くなっている。

 錫杖のことだけではなく天魔から『死を遠ざける程度の能力』を完全に譲渡されたことにより、妖力が安定してきている。弱点は弱点のままだし、相変わらず危なっかしいことに変わりはない。だが少なくとも今の刑香なら、並の天狗が相手であれば正面から勝つことも難しくないだろう。だらりと垂れ下がった肩を抑えながら、苦しそうに息をしている状態に目を瞑るならば。

 

 

「まったくもって無茶をしてくれますね。いつもいつも、アナタが怪我をするたびに心配する私の身にもなってください」

「ふふっ、ありがと。でも今だけは手加減なしでかかって来て欲しいんだけどね。そうでないと修練にならないでしょ、それとも今のがアンタの本気なのかしら。もう少しで手が届きそうよ」

「……ほほう」

 

 

 珍しく挑発的な空色の眼差し。

 稽古を付けて欲しい、この少女はそう言って自分に挑んできた。久しぶりに手合わせをしたかったのか、それとも気分転換の相手が欲しかったのかは知らない。一つだけ自分が言えるのは、負傷した肩をすぐにでも手当させて欲しいくらいだ。あまり刑香が傷つく姿は見たくない、地底での戦いを乗り越えてから更にその思いは強くなった。

 そんな自分の気持ちを見透かしたように、白い少女は星の光に艶めく錫杖を向ける。

 

 

「私だって、アンタやはたてが怪我をするところなんて見たくない。鬼のいると分かっていた地底にさえ、私を心配して二人とも付いてきてくれた。そのことについては感謝してる、これからも、きっとアンタたちは何処に行こうと私を助けてくれるのでしょうね」

「逆の立場なら刑香だってそうするでしょう?」

「そうね、だからこそ……いつまでも護られているわけにはいかないわ。ここから先は特にね」

 

 

 深紫の羽織が月明かりにざわめく。

 天狗なら誰もが持って生まれてくるはずの腕力や体力面において、この白い少女は種族の平均値から格段に劣る。故にその不足を別の何かによって埋め合わせなければならない。本来なら治療用である『死を遠ざける程度の能力』を戦闘に活かし、一撃離脱を基本とした戦法もその一つだ。相手からのカウンターを度外視した突進や打撃は初見の敵ならば、まず対処は難しいだろう。

 紅魔の門番や地底の妖怪と渡り合えたのが証拠だ。数少ない手札を有効に使うことで、己より格上の相手を打倒する。それは人間や妖怪を問わずに理想とする在り方だろう。

 

 

「それで私に挑んできたわけですか、もう世話を焼かれるだけの存在ではないと主張するために?」

「………パルスィの能力に当てられていたとはいえ、はたてとは何とか戦えた。勝ったとは思っていないけど、少なくとも負けてはいないわ。だからーー」

「ふふっ、そういう他者ばかり気遣うところは『あの方』にそっくりですね。普段のつれない態度は母親似なのに、ちらほら見せるお人好しな性格は間違いなく御父様に瓜二つです。輝ける金色の翼を持つ者、お懐かしい若頭様も彼岸でさぞやお喜びでしょう」

「文、それってどういう……?」

 

 

 負けられない理由ができた。

 刑香がどう思っているのかは知らないが、親代わりであった夫妻が亡くなってから射命丸文にとっての家族といえる者はいない。当然ながら天魔は使い魔カラスであった文を一族に迎えるつもりなど毛頭なく、ただ使える駒として手元に置いていた。そこに主従以上の何かを感じたことはない。だからこそ血の繋がりもない、たった一人の家族と言えなくもない妹分の世話くらい好きなだけ焼かせろというものである。この立ち位置だけは何者にも譲るつもりはないし、手放すつもりもない。

 思わず口が滑ってしまったことを誤魔化すように、葉団扇に少なくない妖力を叩き込む。

 

 

「ちょっと待って、もしかしてお母様の使い魔カラスって……」

「話はここまでです、残りは私に勝てたなら聞かせてあげますよ。もっとも、アナタにそれが出来るならですが」

「っ、はやっ!?」

 

 

 雪風にマフラーをなびかせる幻想郷最速。

 瞬きの間など生温い、目を凝らしていたところで並の妖怪では影すら捉えられぬ絶影。反撃を警戒して距離を取っていた白い少女が、防御のために構えていた錫杖の上から速度を乗せた蹴りを叩き込む。鬼の拳に殴られたかのような衝撃と重みに刑香がたまらずに弾け飛ぶ。

 

 

「さあ、手加減してあげるから全力でかかってきなさい!」

 

 

 白い羽を散らしながら、即座に態勢を整えてきた少女。そんな妹分へと今度はこちらから挑発的に微笑んだ。ただの刑香と踊れる舞台は今宵が最後、ならば少々情熱的に振る舞ってやるとしよう。幻想郷最速の風がどのような鋭さを、速さを、想いを秘めているのかを見せるとしよう。

 小雨のように光が流れ落ちる月下にて、射命丸文は葉団扇を振り下ろした。

 

 

◇◇◇

 

 

 幻想郷にてそびえ立つ妖怪の山。

 リリーホワイトが春の訪れを告げて回っているものの、この山に限っていうならば冬の名残りは色濃い。山頂には行き場を失った雪雲が集い、中腹より上に登ったならば河に氷の塊が流れている有り様であった。人間ならばひと時もせぬウチに凍えてしまうのであろう、銀色に輝く死の霊峰がそこにある。

 気候以外も平穏とは言いづらい、それというのも支配者である天狗が不穏な動きを見せていることにある。今までは人間たちが禁を侵して、妖怪の山に入り込んだとしても天狗の縄張りに足を踏み入れない限りは不問としていた。そのおかげで人里には山で採れる作物や獣肉、木材など多くの恵みがもたらされていたのだ。この幻想郷における最大の山地は、妖怪だけではなく人々にとっても無くてはならない場所だ。

 

 だが、先代の大天狗たちが逝去したことにより状況は一変する。

 

 不問とはつまり、敢えて口出しをしなかっただけである。山を預かる種族として人間ごときに領域を穢されるのは我慢ならないが、幻想郷のためには人間たちの生活を支えてやらなければならない。故に天狗たちは許すのではなく、意図的に無視するという形で人々の入山を『ある程度の深さ』まで認めていたのだ。口約束すら存在しないというのだから、人里の存亡は極めて微妙なバランスの上で成り立っていた。

 

 

「詰まるところ大天狗という重しが転がり落ちたせいで、それまで抑え込んでいた不満やら鬱憤が漏れ出したのです。人間たちを入山させるべきではない、山に入れるとしても、代償として『供物』を出させるべきだという考えの者たちは未だに存在します」

 

 

 桃色の花吹雪が舞う屋敷にて、その少女は呟いた。

 残雪厳しい深山であったが、ここだけは冬の気配がまるで感じられない。妖怪の山にあるにも関わらず、空と大地が直接繋がっていない。難解な道を辿りに辿って突き当たる、明らかに周辺から秘された空間。珍しい動物から妖獣に至るまでが主人からの庇護の元で安寧に暮らし、穏やかな天候と豊かな自然に恵まれた桃源郷。

 この屋敷こそが人間の味方であるはずの仙人でありながら、妖怪の山に住まう変わり種。『片腕有角の仙人』の二つ名を持つ茨華仙、その人であった。

 

 

「天狗というのは強大な種族です。群れとしての力はいうまでもなく個としても……鬼ほどではありませんが、妖怪として高位にいるのは疑いようもない。このままでは予期せぬ混乱が起こるでしょう。天狗だけではなく、この山そのもの、或いは幻想郷全土に衰退を招いてしまう」

 

 

 桃色の唇が言の葉を紡ぐ。

 単なる予測ではない、すでに被害が出てしまっている。警告を破り侵入した人間の少年が天狗に襲われる事件があった。結果としてこの少年は博麗の巫女と白い鴉天狗によって救い出されて事なきを得たのだが、この出来事が人里に与えた影響は少なくない。もはや人里の住民は滅多なことでは妖怪の山に立ち入らないだろう、これから本格的な春になるというのに山の恵みを受けられないのは大きすぎる痛手である。

 すぐに飢えることはないだろうし、この状況が続いたとしても天魔を除いた妖怪の賢者たちが対策を打つだろう。外の世界から物品を仕入れ、それとなく人里に流せばいい。しかし長引けば、今まで妖怪の山に立ち入ることで働いていた木こりや猟師は別の商いを見つけなければならない。そうなれば後々に妖怪の山が元の状態へ戻ったとしても、破壊された人里の暮らしは元に戻らない。

 

 

「そうなる前に一刻も早く新たな大天狗を選び、積み重なったイザコザを清算しなければならない。願わくば、それが『あの娘』に課せられた使命であればと私は思っています」

 

 

 説法をするかのように清廉なる口調。

 長い時代を駆け抜けた仙人の声には思わず聞き入ってしまうだけの深みがあった。座敷で向かい合わせに胡座をかいている相手へと華扇は粛々と語りかける。

 地上からの使者に打ち破られたという旧き友。にわかには信じられない話だが、考えてみればあの少女は萃香に真正面から喧嘩を売って生き残ったこともあった。ならば、この結果もある意味では必然だったのかもしれない。本人は嬉しくないだろうが、鬼との厄介な良縁に恵まれていることは間違いない。

 

 

「アンタはそこまで考えていたのかしら?」

「いやいや、使命とは生真面目なアンタらしい物言いだねぇ。生憎だが私にそういう考えはまるで無いよ、ただ面白そうだったからアイツを『推薦』してやったまでのことさ」

 

 

 濃い酒気が漂っていた。

 生物が口に出来る限界を度外視した濃度、強い甘さと苦味が混ざりあった匂いが充満している。そんな空気の中で昼飯に作ってやった握り飯を口に運びながら、鋭さを宿した金髪の女性はそれを獣肉と一緒に噛みしめる。

 纏う気配は人間のそれではなく、歩くだけで地面がひび割れる強大な妖気。双眼は燃え盛る炉心のごとき赤、そして額には天に輝く星を刻んだ一本角。他を隔絶する強さを持つ鬼族の中でも更に別格、かつて大江山を中心に都を襲い尽くした百鬼夜行の頭の一人。妖怪と人、その双方の伝説にて鬼神として怖れられた大妖怪。

 旧都の支配者、星熊勇儀がそこにいた。

 

 

「……まったく、アンタのことだから考え無しで推薦状をしたためたんじゃないかと思っていたけど当たってたかぁ。今の山は鬼が支配していた頃とは事情が違うんだから、迂闊に天狗たちに口を出すべきじゃないわ」

「お前さんは相変わらず真面目だねぇ。ちょっと茶々を入れてやっただけだろうに」

「立場ってもんを考えなさい。そもそもアンタと萃香の軽率な行動のせいで、昔から私がどれだけ割を食って来たと思ってんのよ。地底での一件で大怪我したっていうし、アンタらに私は振り回されっぱなしね」

 

 

 そいつはすまん、と大口を開けて笑う怪力乱心。

 尖った牙が白銀に輝き、傷一つない顔から地底であった戦いの傷跡は見当たらない。白い少女に潰された片目もすっかり癒えたようだ、外見からはあそこまで大きな怪我を負っていたとは想像できなかった。

 そのことを確認して安心したように華扇は溜め息をつく。風の噂で『地底の鬼』が鴉天狗と吸血鬼の一行に敗れたと聞いてから、少しだけ気がかりだったのだ。万が一にも勇儀が死ぬことはないと思っていた。そうなるには自分たちは歳月を重ね過ぎたし、今更そんな救いは許されない。退治されることなく朽ちていく、忘れられていくことこそが己らには相応しい。願わくば『その時』が我らに等しく訪れんことを、と桃色の仙人は祈ってきた。

 噂を耳にした時、自分は友の死を恐れたのではない。友に『置いていかれる』ことを恐れたのだと、華仙は罪深い己の心を恥じた。

 

 

「心配かけさせるんじゃないわよ」

「悪い悪い、久しぶりに愉快な戦いだったんだ。喧嘩から始まって鬼退治、贅沢を言うなら相手は人間が一番なんだが、ああいう気持ちの良い性格をした妖怪たちが相手なら些細な不満も引っ込むってね。思わず鬼が本気になっちまうのも仕方ないだろう?」

「はーぁ、これだもんなぁ。コイツは……」

 

 

 普段の仙人然とした口調はどこへやら。

 誰かを教え導く者としてではなく、親しき友へ向ける顔をして華仙はもう一度溜め息をつくことにした。この山に住まう者で鬼の四天王である勇儀と対等に話ができる者はそう多くない。ごく一部の妖怪や神などの例外的な存在だけである。絶大なチカラを持つ、かつての支配者相手では誰だって臆してしまうのが自然なのだ。事実として、勇儀はこの山に帰ってきてから華仙の屋敷に辿り着くまで出会った妖怪たちから会話を投げかけられた覚えはない。

 それが当然の反応だとは思うが、実につまらない連中である。暇潰しがてら旧友を訪れた自分の選択は誤っていなかったらしいと、怪力乱心の鬼は仙人が呆れながらも口元を緩めているのを見て自らも口元を吊り上げる。

 

 

「正直なところ地底での喧嘩、お前さんも羨ましかったんじゃかいのかい?」

「冗談、私は争い事を好まない仙人なんだもの。血みどろの殴り合いや斬り合いなんて御免被るわ……まあ、避けて通れないなら話は別だけど」

 

 

 澄んだ桜色の瞳、その奥でちろりと苛烈な炎が揺らめいた。それは穏やかな春の陽射しが唐突に火の気を纏ったかのように、見る者を否応なしに惹き付ける『魔』の気配。すぐに霧散させて包帯を巻いた右腕で茶を淹れ始めるあたり、戯れのつもりなのだろう。

 もしくは相変わらず鬼でいる星熊勇儀への当てつけなのか、いずれにしろ衰えてはいないらしい。まさか仙人になっているとは知らなかったので、道中で驚いたものだが中身はそこまで変わっていないようで安心した。

 

 

「それにしても、あんなに興味を失っていた地上に来るなんてどういう風の吹き回しなの? 旧都の酒を呑み尽くして調達にでも来たのかしら」

「おいおい、それなら手下に行かせるさ。いや地上で暴れると面倒だから土蜘蛛に頼んで……アイツらも人間のいる地上に出すと不味いか。それなら魁青あたりに任せれば良さそうだ」

「カイセイ? ここに来て新しい配下が増えるなんて珍しいわね、多分私が知らない鬼よ」

「それなら今度会わせてやるよ、喧嘩はあまり強くないが気の回る奴でそこそこ助かってる。お前さんならすぐに仲良くなれそうな気がするねぇ。ああ、それと私が地底から上がってきたのは荷物の運搬をさとりに頼まれたからだよ」

「……あの地霊殿の主から?」

 

 

 あの引きこもりが鬼を頼み事をするとは驚きだ。

 勇儀は誰に対しても開放的だが、さとりは閉鎖的な性格だったはずだ。しばらく行かない間に地底も色々と変わってしまったのかもしれない。

 おまけに勇儀が言うには、その地霊殿の主から知らせを貰い『何か』を持って来たとのことである。恐らく部屋の片隅に置かれている巨大な木箱のことなのだろうが、疑念は膨れるばかりだ。しかし今の自分は地底に属していない身分である、果たしてその中身を尋ねて良いものかと迷いもある。そんな華仙の気持ちを察したのか、何気なく勇儀は口を開く。

 

 

「そういや忘れてたねぇ。私の一存で刑香達にくれてやったんだが、アレはお前さん達と共に集めたモノでもあった。惜しくはないだろうが、説明も無しっていうのは悪いことをしたか」

「……何のこと?」

「ああ、つまりだ。私が運んで来たのは『コイツら』なんだよ。この間の喧嘩で私に勝った褒美としてくれてやったんだが、持って帰ると面倒なことになると置いていかれちまってねぇ。これでめでたくお役御免だ」

 

 

 勇儀の背丈ほども積み上がった大荷物。

 それを横倒しにして中身をぶちまける。すでに自らの物ではないと口外したにしては扱いが荒いが、そのあたりは鬼なので仕方がない。絶大な身体能力と引き換えに細かいことは気にできない種族なのだ。

 転がり出てきたのは縄で固定された漆塗りの美術品や、銀貨や金貨を始めとした貨幣、そして妖気を纏った武具などであった。確かに執着はまるでないものの、どれもこれも懐かしさを感じさせられるモノである。華仙はその一つ、古めかしい鞘に納められた刀剣を手に取った。元々は由緒正しき名刀でありながら鬼の血を喰らったばかりに呪われ、以後は妖刀として世に残ることになった逸品である。まさか、またお目にかかるとは思わなかった。

 無くした右腕が、ざわめく気がする。

 

 

「……これは、萃香が百鬼夜行を率いていた頃に人の都から奪い取ってきた財宝よね」

「誰かさんが羅城門に陣取っていた時のモノもあるかねぇ。いずれにしろ私たちが散々に鬼らしいことをしていた時代の名残りさ。いつか首を取られる瞬間のために集めておいたが、もう私たちを退治しにくる人間もいなくなってしまった。それなら、いっそのこと次代の連中に役立ててもらいたくてね」

 

 

 埃を被り、誇りが失せた金銀財宝。

 かつて奪いに奪い、集めに集め、襲い尽くして積み上げたお宝たち。宝が欲しいなら挑むがいい、名誉を望むならば奮い立って来るがいいと、口々に鬼たちが人に呼びかけた旧き時代。いずれ自分たちを打倒する者のために用意した褒美、魂を燃やして挑んでくるであろう者に報いるためのモノだったはずだ。

 しかし時は流れて幾星霜、もはや鬼の宝としての意味を成さず、ただ地底の酒場にて置き捨てられるばかりの長物と成り果てた。これから先、人間が鬼に挑むことはないだろう、鬼退治がお伽噺の向こう側へと忘れられて何百年も経ってしまったのだ。

 このあたりが、幕の引き際だ。

 

 

「それでコレをあの子たちにあげるわけね。いいんじゃないの、少なくとも私は賛成してあげる、きっと萃香の奴も同じことを言うんじゃないかしら。あの子を気に入ってたみたいだし」

「これから大天狗になるにしろ、ならないにしろだ。あのジジイの身内として天狗の里で生きていくなら資産は多いほどいい。連中は人間を見下すくせに、人間みたいに同族を貶すところもあるからねぇ。そんな下らないモノからアイツらを護るための力になるだろうさ」

「でも、駆けつけるなら急いだ方がいいわね」

「……ん、そいつはどういう意味だい?」

 

 

 首を傾げる一本角。

 それには見て見ぬふりをして、片腕有角の仙人は丸窓から山頂へと桃色の眼差しを向ける。ここは方術で暖かい気候を保っているが天狗の里はさぞや寒かろう。舞う雪はどこまでも純白で、あの少女の翼もまた透けるように白い。それは魑魅魍魎の蠢く、この御山に最も相応しくない色でもある。だからこそ、これまで妖怪の山に足りていなかった何かを埋めてくれるかもしれないとも期待する。

 

 

「…………今頃はきっと、覚悟を決めて辿り着いている頃でしょうから」

 

 

 茨華仙はそう山頂を見上げながら呟いた。

 零れ落ちんばかりの星々が輝く空、傾いた月は西へと沈みかけている。やがて太陽が昇ることだろう、そうして幻想郷に新しい朝が訪れてくれることを『妖怪の味方』である少女は願っている。

 

 

◇◇◇

 

 

「……アンタ達って、たまに物凄い馬鹿よね」

 

 

 同時刻、天狗の里を行く鴉天狗の三人組。

 随分と妖力を消耗したように見える親友たちへと、姫海棠はたては呆れたような視線を向けていた。今日は忙しくなるというのに、文と刑香は稽古と称して力比べをしていたというのだ。何処に行ったのかと里中を探し回り、もしかしたら拐われたのではないかと天魔に報告へ行くことも考えていた自分の心配は何だったのだろう。しかも気まずそうに目線を逸してくるのは白い少女で、いつも巻き込む側である黒い少女は今回に限っては巻き込まれた側であるらしい。

 ふむ、と頷いてから刑香の頭を撫でつける。わざと髪を乱すように手を動かしてみるが、特に抵抗はない。

 

 

「アンタが文に勝てるわけないでしょ。まさかだけど、地底で私に勝てたから文にも勝ち目があるとでも思ったの?」

「……そんなに自惚れていないわよ。はたてに勝てたのだって、パルスィの能力にアンタが操られていたからなんだし。だからアレは無効試合、アンタは私なんかに負けてないわ」

「変なところで刑香って律儀よねー。そういえば、まだ胸のサラシに霊夢の御札を忍ばせていたりするの?」

「は、はたて、何を……ひゃわっ!?」

 

 

 冗談交じりに胸の位置あたりを探ってみる。

 装束の上からだと分かりにくいものの、小さな膨らみを感じられる親友の身体。昔から思っていたが大きさとしては文、自分、刑香の順になるらしい。とりあえず一人には勝ったと両手から実感を得ながら更に指を進めてみる。サラシのあたりに御札は無さそうである、やはり妖怪退治の道具を胸元に潜ませるのは良くないからだろうか。すると流石の刑香も怒ったらしく、程よい力で手首を掴まれて引き離された。

 

 

「……霊夢の神符はあまり長いこと肌に触れさせていると私にも毒なのよ。だから地底の場合みたいに戦いになるって分かっている時しか持ち歩いていないわ。あと、アンタまで文みたいな真似はやめてよね」

「ごめんごめん。たまには私もやってみたいな、なんて思ったの。いやー、なかなか楽しいわね」

「よし、次はアンタがやってきたら錫杖でぶん殴るわ」

 

「つまり私なら良いということで………あだっ!?」

「んなわけないでしょうが!!」

 

 

 スキをついて抱きついた文へ肘打ちをかます刑香。

 一連の流れはいつも通りに、何百年も繰り返してきたモノと変わらない。本当は思慮深い性格のくせにお調子者を演じた文が場をかき乱して、本当は嬉しいくせに渋々という顔で刑香が相手をして、そして自分はそんな二人だけだった輪を三人へと広げるのだ。私も混ぜなさいと、はたても刑香へと抱きついた。

 

 

「あ、アンタたち、本当にいつもいつも……!」

「刑香、私は貴女のことが大好きです」

「へー、気が合うわね。私も刑香のことが大好きなのよ」

 

 

 後ろから文が、はたてが前から抱きしめる。

 いつもは逃げようとする刑香も逃げ場を塞がれてはどうしようもない。どんどん触れ合った面積の体温が上がっていくのが分かる、耳もこれ以上ないくらいに朱色に染まっている。それは自分も同じなのだが、たまにはこんな恥ずかしい友情の確認も悪くないだろう。ジタバタと小さく抵抗をしていた初心な親友もやがて諦めたのか、くたりと脱力してされるがままとなる。

 敵わないのは当たり前、刑香にとっての天敵は星熊勇儀でも八雲紫でもなく自分たち二人なのだ。最も付き合いが長く、実力と手の内を知り尽くした自分たちは刑香にまず負けることがない。

 

 

「いくらでも世話を焼かせなさいよ。刑香のお守りくらいで倒れるほど、私も文も弱くない。やたらめったら軽いアンタを背負ったところで飛べなくなるような翼はしてないわ」

「それに、です。刑香は独りだとあまり強くはありませんが、アナタが今まで得てきた多くの人妖との繋がりは天狗の誰よりも強い。群を成して力とする、それこそ私たち天狗という妖怪。刑香の在り方は天狗の誰よりも正しいのです」

「………、ーーーー」

 

 

 その時、ぽつりと漏らされた言葉。

 わざと聞き取られないようにしたのだろう。刑香が唇を震わせて発せられた単語は砂糖の欠片のごとく、静かに大気の水面へと溶けていった。しかし身を寄せ合っていた自分たちには丸聞こえである、刑香を間にしながら文と一緒に笑いを堪えて震えてしまう。それは無いだろう、いくらなんでも卑怯なくらいに可愛らしい。コレは墓の下まで持っていくことにする、他の誰かに聞かせるには惜しいと二人は目線で合図を交わした。

 

 そろそろ、時間だ。

 

 三人が辿り着いていたのは古びた楼閣。

 天魔の屋敷には劣るものの、荘厳な門構えを持ちながら計り知れない歴史の刻まれた上役たちの会議場である。外に見張りはいない、警備の手があるのは門より内。ここより先には先代の大天狗たち亡き今、現在の天狗社会の重責を担っている全ての者が集結していることだろう。旧都を遥かに凌いで余りある妖気が渦巻いては、ぶつかり合って異界のごとき気配を漂わせている。スキマの大妖怪、八雲紫でさえ手を焼いた化生たちが待ち構えている。

 そっと、二人の少女たちは親友から身を離した。

 

 

「あーあ、一人だけ出世するなんてズルいわね。ここは出世払いってやつに期待させてもらおうかしら」

「さあ、私たちはここまでです。行って来なさい、新しい『大天狗』さま」

「ええ、行ってくるわ」

 

 

 二羽の天狗少女たちは黙ってその背中を押す。

 邪気を払い不老長寿をもたらす伝説に恵まれた果実である桃、しかしその花は同時に恋や愛などにまつわる花言葉にも縁深い。開かれていく門から溢れ出してくるのは邪な気配ばかり、ここから先は鬼退治よりも厄介な難題が待ち受けているかもしれない。それでも恐れることなく、刑香は門の内側へと足を踏み入れた。

 

 

 これより継承の儀が、執り行われる。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十話:はぐれ天狗の道しるべ

 

 

 月光が雲の隙間から漏れ出していた。

 まだ灰色の雪風が舞う季節である。西に傾いた月が寒々しい輝きを紡いでは、空を燻らせる雲を透かして地上へと光を落とす。それは地上に届く前に消えてしまうような儚きモノで、たまゆらに凍える冬の欠片たち。日の出は未だに遠く、夜明けはもう少し先にある。

 しかし頼りない光量であろうとも、零れ落ちる月明かり。それは洞窟を照らす松明のように、白い少女の視界をかろうじて確保していた。

 

 門の内側に踏み込んだ刑香は、念のためにと用心しながら周囲を見回していく。嫌な気配のする宵闇である。山にいた頃に何度も感じさせられた、暗く重々しい漆黒が身体中にのしかかってくる。夜は夜で変わらぬはずなのに、門を潜った途端に視野が狭まっていた。別に鳥目というわけでない、夜雀の歌でも流れない限りは視力に不足はないはずだ。小さな光量しかないとはいえ、この空色の瞳は人間とは比べ物にならないほどに闇に強い。

 

 

 ーーーかごめかごめ、籠の中の鳥は

 

 

 何も見えない、不快な汗が滲んでくる。

 ここは天魔の屋敷ではなく、親友たちも傍にはいない。山に帰ってきてから、初めて味方のいないところで独りきりになった。それがここまで心細いことだと思わなかった、恐ろしいとは思わなかった。自覚させられてしまう、白桃橋刑香が鬼族の次に苦手とする妖怪は『天狗』なのだ。

 

 

 ーーーいついつ出やる、夜明けの晩に鶴と亀が滑った

 

 

 どうして帰ってきてしまったのか。

 あの死神が口にした言葉が頭の中で反響する。この息苦しさも視界の狭さも、心に迷いが残っているのが原因なのだろうか。そんなことは無いと思っていたのだが、存外にも傷跡が疼いてしまっているらしい。もちろん肉体ではなく精神的なものだ。ぼんやりとした少女の碧眼が闇夜を映すようになるまで、数十秒もの時間を要してしまった。

 そして、ようやく正面からの気配に気づく。

 

 

「……お待ちしておりました、刑香様」

 

 

 己とは違う質感の白い髪をした少女。

 身に纏う装束は鴉天狗のモノとは細部が異なり、黒に紅白の入り混じった鮮やかな色彩。剣を振るい易いようにするためなのか、大きく肩の部分が露出していた。見方によっては少しばかり扇情的に見えなくもない格好であるが、これが彼女らの正装である。

 地上を駆ける者と空を翔ける者、その両者の間にある戦闘法の違い。それが端的に表されているのだろう。ともく紅葉が散りばめた雅やかなスカートを揺らしながら、規則的な呼吸と足取りで白狼の少女は刑香の前に立っていた。

 

 

「顔色が優れませんね、大丈夫ですか?」

「大丈夫とは口が裂けても言えないかな。今からでも引き返したくて堪らないわ。碌でもない目に合いそうな予感が嫌でも伝わってくるから」

「まあ、あまり歓迎される風でないのは間違いないでしょう。私とて経緯を知らなければ首を傾げる決定です、ほんの少し前まで追放されていた者が『大天狗』になるなど……いえ、私ごときが言及することではありませんね。御無礼をお許しください」

「率直な意見で感謝するわ。籠の鳥が自分から籠の中に戻ってきたばかりか、種族の上役になろうとしている。自分でやっておいて何だけど、コレって凄まじい下克上よね。天邪鬼あたりの妖怪に紹介してやったら喜びそうな物語に違いないわ」

「そこまで冗談を言えるようなら、きっと大丈夫です。出席予定者はまだ半数しか到着されていませんが、貴女から指示された通りに()()()は整っています。なので、このまま大広間までご案内致しますね」

 

 

 相変わらずお役目に忠実らしい。

 妖怪の山における哨戒役たる白狼天狗、その中でもそれなりの家柄と高い実力に恵まれた少女。お互いにあまり接点の無い相手だった。せいぜいが出会ったら軽く挨拶をするくらい、面と向かって言葉を交わした記憶も殆ど無い。椛が天魔の護衛をしていたということさえ、最近になって知ったのだ。

 足元を濡らす雪を踏み固め、先導する少女に従って楼閣へと歩みを進める。一歩内部へと踏み込むと不気味な風が頬を撫でた、こんなに淀んだ風を感じたのはいつ以来だろう。思わず立ち止まると、椛から視線で急かされたのでまた歩き出す。そして廊下を進んでいくと『その場所』はすぐに見つかった。

 

 

 ーーー後ろの正面だぁれ?

 

 

 蛍火のごとくに行灯が集う場所。

 菜種の油をふんだんに使った炎が、ちろちろと闇を溶かしている。青々しい松を描いた障壁画と、金銀で贅沢に拵えられた飾り金具が光に浮かび上がり、絢爛とした雰囲気を醸し出す大広間。その一つ一つが人間たちの世界では失われたとされる著名な美術品だ。戦乱に巻き込まれる前に人間の手で寄贈されたか、それとも何らかの代償として捧げられたか、理由は様々だろう。いずれにしろ穏便な手段で集められたモノではないらしい、ここは怨霊の類いの気が濃すぎる。

 

 

 多くの目玉が、こちらを向いていた。

 

 

 能面のごとき無の表情で、黒い群れが自分を観察している。老いた者、そうでない者、男も女も区別なく、様々な『同族』たちがここに集結していた。こちらの到着した気配を読んでいたのだろう、初めから全員が入り口へと眼球を固定していた。

 座敷に腰を下ろしているのは、妖怪の山が進む方向を決めるだけの決定権を持った高位の天狗たち。彼らと目線を合わしているだけで、底知れぬ何かが足元の影から這い上がってくるのを感じる。

 しかし翼をばさりと羽ばたかせて、刑香はその気配を追い払う。この程度の威圧感は鬼の四天王と比べれば、どうということはない。顔は動かさず目の動きだけで人数を確認してみたが、三十はいそうだ。よくもまあ、ここまで頭数を揃えてくれたものである。

 

 

『ほれ、おいでなさったぞ』

『誠に白い翼であったとは、なんでまたあのような奇異な姿でお生まれなさったのか。まるで白狼のようではないか、情けない』

『そも、天魔様の隠し子の噂は後を絶たなんだ。もっぱら射命丸が()()()()()()()()()思っておったが、まさかお孫様がおられるとはな』

 

「……刑香様、どうか周りに余計な気をやらず進んでください。貴女の座すのはこの儀礼の場において、天魔様に次ぐ上席です。私もそこまでお供致します」

 

 

 唇を動かさずに言葉を紡ぐ椛。

 本来ならば、椛はこの大広間まで刑香を送るまでが役目だった。本心では一刻も早くここを去りたいだろう。普段から鴉天狗を良く思わない少女にとっては、この場所は苦痛でしかないはずだ。だが、刑香に掛かる負担を減らそうと同行してくれている。

 扇子で口元を隠して小声でやり取りをしては、しげしげと見世物を眺めるように自分たちを見つめている者たち。場違いな少女二人はさぞ滑稽な存在であるのだろう、その中に好意的なモノは一つも存在しない。

 

 

「なかなか酷い扱いね。お祖父様の威厳だけじゃどうしようもないのかしら」

「ここにいる者たちは先代の大天狗様たちの一族や眷属たちです。天魔様ご本人にならともかく、何の地位にも付いていない刑香様に対する敬意は期待できません」

「なるほど、私を道具として扱っていた連中の身内なら納得だわ。天狗の中でもとびきりに厄介な連中を集めてくれたようね」

 

 

 今、この場で初めて刑香を目にした者もいるだろう。

 今まで組織内で重役にも付いておらず、どの程度の実力があるのかも分かっていない元追放者。そんな小娘が突如として、天魔の血族ということが明かされ、おまけに大天狗となることが決まってしまった。これまで権力争いをしてきた者たちにとって、さぞや面白くないだろう。壁に延びた影までもが、少女たちを嘲笑うように揺れていた。

 深く息をしてから、刑香は椛の言っていた上座とやらの前で立ち止まる。ここに集まった全ての天狗たちを見渡せるように一段高く作られた上段之間。つまり向こうからも座った者を視界に捉えることの出来る位置である。

 何というか、すごく座りたくない。

 

 

「…………なんで権力者ってヤツは、どいつもこいつも高いところが好きなんだか。こればっかりは分かり合えそうもないわね」

「同感です」

 

 

 通常ならば長たる『天魔』のみが座す場所だ。

 しかし今回だけは例外が設けられており、その血族である刑香もまた座るようにと指示されているのだ。正直なところ、こういうのは苦手だ。どちらかといえば壁際にでも背中を預けて、余計な喧騒に巻き込まれぬように振る舞うのがいつもの自分だろう。しかし己が主役である此度の席ばかりはそれが許されるわけもない。

 覚悟を決めて上段へと昇り、天魔が座るのであろう位置の斜め後ろへと進む。そして突き刺さる視線を煩わしく思いながらも、そのあたりで腰を下ろすことにした。

 

 

『いやしかし、翼や髪の色はともかくとして、姿形はなかなかにお美しい。もう少し己が若ければと後悔してしまいそうですわい』

『見目については圻羽(きしは)様の血であろう、それより妖力が貧弱すぎるのは問題だ。あれでは射命丸が隠し子である噂が真実である方が幾分マシであった』

『それよな、あの娘ならば妖力も実力も申し分ない。性格には多少、それなり……いや、かなりの難があるが』

 

 

 わざと聴こえるように言っているのだろうか。

 どちらにせよ、聴こえても問題がないと思われているのは間違いない。行灯の火が揺らめき、空色の瞳に夕暮れのような影を作り出していく。ここまで軽んじられるとは思わなかったと、刑香は内心で深い溜め息をついていた。無理もない話だというのは理解できる、ここにいる連中は『八大天狗』の氏族たちなのだから。

 

 

 平安の世にて、京の都に大火を引き起こしたとされる災厄の化身。極めて多くの眷属を従えた姿は伝承として語り継がれ、現在でも能楽の一つとして演じられる『愛宕山(あたごやま)太郎坊(たろうぼう)』。

 

 ある源氏の若武者に剣術を授け、人の歴史を動かした無双の武芸者。伝承の残る地では本尊の一つとして祀られており、その信仰は神仏にすら劣らぬ『鞍馬山(くらまやま)僧正坊(そうじょうぼう)』。

 

 ある時代を襲った大凶作の際に方術を駆使して、多くの人々を飢えから救ったという守り神。不動明王の化身の一つとされ、数々の妖術や忍術を人間に授けたとされる『飯綱(いずな)三郎(さぶろう)』。

 

 

 全員が紛れもない大妖怪だった。

 これで八の中の三、残りの五人もまた規格外の実力を持つ大天狗。かつて月の戦で負った傷が癒えず、刑香の『死を遠ざける程度の能力』で延命し続けた者たち。恨み事こそあるものの、彼らの妖怪としての格は本物であった。既に本人たちは亡くなっており、ここにいるのは彼らの親族や眷属たちである。それでも鬼と大して変わらぬほどの妖力を感じさせてくるため、大変息苦しくて仕方がない。

 

 

『しかし貧相な身体よな、あれでお世継ぎに恵まれるのか不安だ。もう少し肉付きが良い娘であれば、まだ良かったのだが』

『なに、貴殿には関わりのない話だ、あの小娘は我が息子の誰かと婚礼を挙げさせる。そうすれば次代の天魔は我らの一族から選ばれるであろう?』

『抜け駆けは絶対に許さんぞ』

 

「……少し騒がしいわよ、いい加減に黙りなさいな」

 

 

 下卑た思惑を言霊の刃が両断した。

 ざわめきは水を打ったように静まり返り、白い少女から発せられた一言に黒い翼たちが一斉に目を見開く。名門たる彼らに向けて「黙れ」などと口にする者は天魔を除いて他にいない。困惑を顕にして、彼らはまるで亡霊でも見るかのように刑香へと赤い眼差しを送っていた。

 

 

「黙って聞いていれば、流石に言いたい放題に過ぎるでしょう。生憎だけど私はまだ誰とも……その、え、縁組みをするつもりはないわよ」

「そこは緊張するんですね」

「椛、うるさい」

 

 

 群れの長へ取り入るにはどうすれば良いか。

 その答えは自らが権力者の『親類となる』ということである。古来より人の子が繰り返し行ってきた方法、それは一部の妖怪においても当てはまる。今までは取れぬ手段であった。天魔の一人息子は命を落とし、天魔は高齢である上に亡き妻を非常に愛していた。下手に色話でも持ちかけようものなら、不興を買ってしまう。

 もはや誰もが諦めていた道であった、しかしそれを成せる鍵が不意に目の前へ現れた。降って湧いた存在を利用しようと、ここに集まった者たちは必死なのだ。下手をすれば長老家の一員となれる『最後の好機』なのだから。

 

 

 もし八雲紫の策略がなければ、

 父母が生きていれば、

 初めから長老家の跡取りとして成長していれば、

 こんなことにはならなかった。

 

 

 千年という月日を埋める術はなく、ざわめく闇の中に取り残されていた。彼らだけに非があるわけではない、この山において白桃橋刑香という天狗はあまりにも信頼を預けられるだけの素地がないのだ。あまりにも彼らに示せるチカラが少なすぎる。天狗としてではなく、自分が未だに道具として見られるであろうことも分かっていた。

 

 

『何という、あれでは射命丸と変わらぬではないか。もう少し聞き分けの良い娘であるという話であったが』

『おとなしく婿を取っておれば楽であろうに、どうして大天狗の地位を欲するのか不可解極まる』

 

「文と変わらないっていうのは、褒め言葉としてありがたく受け取っておくわ。実力不足なのは承知の上だし、未熟なのも覚悟の上、それでも私のことをアンタたちに認めさせてみせる」

 

 

 純白の翼は光を失わなかった。

 数十の視線が突き刺さるが、こういうのは怖気づいた方の負けだ。自分などより大天狗に相応しい者がいることは分かっている。それでも白桃橋刑香でなければ、出来ないこともあるのだから譲れない。自分も天狗なのだ、たまには同族相手に尊大な態度で挑んでみるとしよう。天狗らしく、たまには()()()()()()()()も成功させてみるとしよう。

 そっと、刑香は椛にだけ伝わるように呟いた。

 

 

「しっかりと入り口は閉まってるわね?」

「ええ、間違いなく施錠してあります。行灯に注いである油も匂いからして通常よりかなり多いものかと」

「上々ね……それじゃあ始めましょうか」

「はい、貴女の御心のままに」

 

 

 心を落ち着けるために、深く深く呼吸を繰り返す。祖父からやり方は聞いている、『コレ』を扱うには心に悩みなきことが何より重要であると。思い出す、メリーと名乗った少女との席で祖父がやってみせた光景を出来るだけ鮮明に。

 

 

「私にはお祖父様のチカラを丸ごと受け継げるような器はない。だから迦楼羅王(かるらおう)の跡継ぎにはなれない。けれど……」

 

 

 その瞬間、行灯の炎が消えた。

 風の仕業ではない、油もまだ残っている。それにも関わらず光が掬い取られたかのごとく、室内から明かりが消失した事実に天狗たちが首を傾げた。そして、仕方なく部下へと新しい火種を持ってくるように命令を下す。いや、命令しようとして彼らは動きを止めることになる。

 輝くような黄金の焔が、いつの間にか行灯の中で燃え盛っていたのだ。再び広間に灯りが戻ってくる、しかし今度は光量が多すぎる。

 

 

 ーーー私には天魔様‥‥お祖父様のチカラを丸ごと受け継げるような器はないわ。せいぜいが今持っている『延命』と、多くて『あと一つ』くらいが限界でしょうね

 

 

 かつて自分はそう言った。

 祖父が司るとされるチカラは一つ一つが極めて強大だ。屈強な肉体を持つ迦楼羅王ならともかく、その全ては一介の鴉天狗に扱える代物ではない。故に少女は悟ったのだ、自分が受け継ぐことの出来るのは『せいぜいが二つ』までだと。つまり裏を返してみれば『あと一つ』は余裕があるということである。

 山吹よりも濃い色をした焔が、透かし紙を溶かして立ち上がる。行灯を喰らうようにして、しかし床も行灯自体も何一つとして燃やすことなく、焔は天井へと輝くツルを伸ばしていく。物質を焦がす匂いはなく、熱を感じさせることはなく、まばゆい光を放つばかりの不可思議な火焔が立ち昇る。

 それを見て、特に年長であった男が悲鳴のような声を張り上げた。

 

 

「は、離れよっ、離れよと言っているっ! その焔に断じてに触れてはならぬぞっ、それは天魔様の御力だ!!」

 

 

 白い少女がその身に宿すことを選んだチカラ。それは人々を襲う悪蛇を祓う聖なる陽炎、龍をも灼いたとされる霊鳥の絶対的な切り札。仮に天魔の全盛期ともなれば天狗といえども、ひとたまりもないだろう。籠の中の鳥が本当はどちらだったのか、施錠された密室に集められた者たちは嫌でも思い知ることとなる。

 

 

 その御名を『迦楼羅焔(かるらえん)』という。

 

 

◇◇◇

 

 

「っ、あああ、あ、貴女様たちは!?」

 

 

 その男は痙攣したように言葉を上擦らせていた。

 天狗の里の入り口にて、何百年もの長きに渡って門番を務めた白狼天狗の青年である。自分の守る門から侵入者を許したことは一度もなく、職務に忠実な熱血漢。生真面目なところで馬が合い、犬走椛とも将棋を指す程度の仲であったりする。そんな青年であるのだが、今宵ばかりはツキがなかった。いや(ツキ)は空に浮かんでいるのだが、少なくとも幸運のウサギが彼の前から尻尾を振って雲隠れしたのは間違いない。

 

 

「まったく、アンタって鬼は本当に……ああ、もう!」

「あっはっはっ、そう愚痴るべきじゃないさ。せっかくの取り繕った仙人面が台無しじゃないかい」

「全部アンタのせいでしょうが! まさか天狗たちに何一つとして連絡を入れずに里まで突き進むなんて……少しは刑香にやられて大人しくなったかと思ったら、相変わらずの大馬鹿じゃないの!」

 

「ぁぁあ、あ……童子様、どうしてここに?」

 

 

 目の前にいるのは、巨大な怪異。

 地底に姿を消して数百年、ただの一度も地上に姿を見せることのなかったとされてきた鬼の一族。その棟梁の一人、紛れもない鬼神が雄々しい牙を見せつけて笑っている。何がどうして、そんな存在がここに現れたのか皆目検討も付かない。白状するなら悪夢以外の何でもない、というより本当に吐きそうだ。

 

 

「どうしてかって? 決まっているだろ、私が推してやったヤツが大天狗として選ばれるっていうから、祝いに来てやったのさ。せっかくの土産もあることだし、どいつもこいつも巻き込んで朝まで呑み明かそうじゃないか!」

「し、しかし本日は来客があるとの連絡は受けておりませぬ。赦しのない者を門より内に入れるわけには……上に報告してきますので、しばし時間を」

「おいおい、私が通せと言っているんだ。おとなしく退いときな、坊主?」

 

 

 一本角の大鬼が眼光を細める。

 ああ、思い出してきたと青年は目眩を覚えた。こちらの事情も世の道理も、何一つとして通用しない天災のごとき上司様。昔もこうやって、無理を通されたと当時のことが鮮明に甦ってきた。

 向かい合うだけで冥界に迷い込んだような死の錯覚を、恐怖という形で脳裏へと刻んでくる彼女の名前は星熊勇儀。かつて妖怪の山に君臨した偉大なる主の一人である。天狗に河童、覚に土蜘蛛、様々な妖怪たちを従えて百鬼夜行を作り上げた大妖怪。なるほど、このお方から見れば己など小童に過ぎぬであろうと青年は震えながらも納得した。

 気がつけば無意識の内に、身体が門番としてのお役目を放棄していた。よろよろと腰を抜かした己を踏み越え、厳重に閉じられていた門が呆気なく鬼によって開かれていく。

 

 

「悪いねぇ、あとで天魔には私から説明しておいてやるから気にしなくていい。華扇、お前さんも乗りかかった舟だ。最後まで付いてくるかい?」

「何が乗りかかった舟よ。無理やり搭乗させたのはアンタでしょ。三途の川にいる死神だって、こんな強引な仕事はしないわ。でも……心配だから同行はしてあげる」

「よし来た、そうと決まれば…………ん、結界まで張ってあるのかい?」

「そ、それはスキマの賢者対策の………あ、ちょっと、それだけは駄目ですよぉっ!?」

 

 

 幾重もの方術が施されている門の内側。

 幻想郷を自由に移動できる八雲紫、あの賢者に侵入を許さぬための防壁である。それは結界に長けた『飯綱三郎』の一族によって施された強固な守り。遠い昔に人間たちへと妖術を授けたとされる大天狗であり、その眷属たちによる術式は美しく結界を形作っていた。そこに鬼神は何ともなしに爪を捩じ込んだのだ。

 

 

「ーーーーぉぉおおおおおっ!!!」

 

 

 数秒と時間はかからなかった。

 何の工夫もなく、術式の解読もなく、指先のチカラだけで結界が粉々に砕かれる。風に舞い散っていく妖力の欠片を青年は呆然と見送った。あり得ない話だ、しかし目の前で確かに起こった事実だ。数日がかりで天狗が編んだ結界を物理的なチカラだけで砕くなど、もはや意味が分からない。それを当然のように受け止めて、里の内部へと進んでいく勇儀と華扇を呼び止める胆力は白狼の男には残っていなかった。

 頭を掻きむしりながら、怒りとも悲しみともつかぬ声を漏らす。

 

 

「あーあ、やっちまったなぁ。これで今月は減給確実だよ。犬走隊長にも怒られそう……いや、あの人は怒らないよな」

 

 

 地底での戦いのことは聞いている。

 あの白い鴉天狗とその一団が、鬼の四天王の一人を打ち破ったという話だ。このことについて里の天狗たちの反応は二つに一つ、噂そのものを妄言として捉えるか、鬼の四天王が落ちぶれたと見なしていた。だが、そのどちらも誤っていたのを青年は確信する。

 星熊勇儀は弱体化などしていないし、そんな鬼神を間違いなく打ち負かしたのだ。そうでなければ、こうして本物がわざわざ訪ねてくるわけがない。

 自分には出来るだろうか、いや勝負にもならないだろう。腕力も妖力も、速度でさえ遥かに上回る相手に挑むなどバカバカしい。次代の大天狗として名乗りを上げている連中も同じようなものだろう。

 

 

「あはは、は、すげぇなぁ……あんな相手に『あの方々』は勝ったのか。惚れちまいそうだよ、まったく」

 

 

 そのまま刀を放り投げて寝転んだ。

 里から悲鳴が聞こえてくる、突如として現れた鬼の姿に面食らっているのだろう。門で止められなかった己の失態である、きっと上司から嫌味を言われるのは間違いない。しかし、今は門番としての責務がどうでも良く感じられた。

 

 

「そういえば隊長、なんであんなに油やら藁を継承の儀式に集めるように言ってたんだろ。松明を焚くにしては多かったような……かがり火でもするのかねぇ」

 

 

 どのみち鬼まで呼び寄せてしまうようでは、他の天狗に勝ち目はなさそうだ。きっとあの白い鴉天狗は大天狗となるのだろう、漠然とした予感が胸をよぎる。

 気のせいだろうか、随分と懐かしい焔の香りが風に乗ってやってきていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十一話:天狗抄

 

 

「あーあ。刑香ったら、珍しく派手にやらかしているじゃない。収拾付けるの大変よ、アレ」

 

 

 煌々と瞬くのは焦げ茶色の瞳。

 空の闇を喰らうがごとく、焔が屋敷から立ち昇っている光景を少女はじっと見つめている。恐ろしいほど疾い火の回りは、ものの数秒で建物全体を呑み込んでいた。ここまでくると自然の火災ではありえない速度だが、しかし仮にも神威の宿る焔だと考えると妙に納得してしまう。黄金と白が混じった焔は不安定ながらも不思議な輝きで天狗の少女を魅了する。

 (まぶた)を貫くような光量は心の奥底に熱い何かとなって降り積もっていく。きっと自分は彼岸に渡るその時まで、この夜を忘れることはないだろう。そんな漠然とした予感が胸をよぎる。

 ちらりと隣へ視線を送ってやると、文もまた眩しそうに屋敷を見つめていた。

 

 

「これで、いいんですよ。どのみち尋常の方法に頼っていたのでは、あそこに集まった連中を納得させることなんて出来ません。多少乱暴でも、より明確に大天狗に相応しい『器』を示してやるしかないんです」

「上手く言えないんだけど……それってさ、刑香らしくないわよね。アイツって、どちらかというと厄介事に巻き込まれて、嫌々協力させられたり従ってきた感じだから力を見せつけるなんて苦手分野でしょ」

「そうですよねぇ……。大天狗たちから能力使用を強制させられたり、吸血鬼異変に巻き込まれたり、地底に手紙を届けに行かされたり。あの子の大まかな歩みの殆どは『誰かから強制された』ものでしたから」

 

 

 光と熱が黒い闇を焼き捨てていく。

 天魔のモノは黄金一色であったらしいが、刑香が操る焔には少なからず白い炎が息づいていた。目を覚ますような明るさだが、よく目を凝らしてみると夏の雲間から陽光が射し込んできたかのような暖かさがある。しかし時々、息継ぎをするかのように勢いが弱まっていた。やはり苦しいのだろうか、刑香の手持ちの妖力でここまでの熱量を維持するのは難しいはずだ。

 

 

「アイツ、大丈夫かしら……ねぇ、文」

「駄目です」

「まだ何も言ってないでしょ!?」

「ここはあの子が私たちへ頼ることなく、切り抜けなければならないと説明したはずでしょう。というか、私だって我慢しているんですから少しは耐えなさいよっ!」

「だって心配で仕方ないんだもん!」

 

 

 刑香だからではない、中に入ったのが文だったとしても同じことを思ったはずだ。一応、椛が護衛に付いているとはいえ待ち受けている連中が連中なのだ。幻想郷における上級妖怪である天狗の中でも別格、八大天狗の身内や眷属たち。万が一にも何かが起これば刑香と椛だけでは対処できない。まともな思考で考えるならば、はたてと文の付き添いは必須だったはずだ。

 しかし、今回だけはそうもいかなかった。

 

 

「天狗の中には刑香に味方してくれる者は殆どいません。仮に天魔様が呼びかけたなら賛同者は幾らでも出て来るでしょうが、それは天魔様への好意であって刑香へのモノではない」

「だからこそ、あの連中には『私たち』抜きにして刑香そのものを認めさせなければならないわけかぁ。一応、頭では理解してるつもりなんだけどね……」

「ええ、本当にもどかしいことですが」

 

 

 鋭さを増していく文の眼光。

 先程から一歩も動かず、赤い双眸はひたすら屋敷を睨みつけていた。その鋭い眼差しにぞっとしてしまいそうになる。もし刑香に何かあれば、間違いなくこの黒い翼は災厄をもたらす嵐となるだろう。それくらい文は刑香を大切にしているし、刑香だって立場が逆なら同じことをしかねない。冷静なようでいて譲れない一線においては二人とも直情的なのだ。

 今も硬く握りしめている友人の拳を、はたてはおもむろに手の平で包み込む。そして伝わってきた微かな震えに「不安なのはお互い様らしい」と苦笑した。そんな自分たちの心境を表すように月の光が二人分の翼をゆらゆらと照らしてくる。湖面で踊る木の葉のごとく、天狗の少女たちの心は揺れていた。

 

 

「……先日、いつまでも一緒にいたいと寝ぼけながら伝えたところ、刑香から『永遠なんてない』と突き放されましてね。そのせいで、随分と焦っているのかもしれません」

「アイツらしいわね。寿命を延ばせるからこそ、誰よりも生命の限界ってやつを知ってる刑香らしい台詞。瞳は夏空だけど、冬を思わせる純白の鴉天狗らしい対応じゃない。でも、アイツがそんな厳しい言葉を吐くなんて珍しいわね?」

「まあ、状況が状況だったので……おっと?」

 

 

 唐突に会話を打ち切った文。

 ぐらりと一本歯下駄を傾けて、おどけるようにして立っていた場所から身を引いた。小石にでも躓いたのかと思ったのだが、すぐに鼓膜を揺らしてきた地鳴りのような足音から事情を察する。思ったより早かったなと、はたては焔光を散らす屋敷から背後へと視線を移す。この気配を忘れるはずもない、地底で散々に文と刑香を痛めつけてくれた化け物なのだ。

 力任せに大地を踏み砕く音、裂かれるような風の悲鳴が耳に痛い。そして漆黒の空から影が一つ、砲弾のごとく降ってくるのを二人は無言で眺めていた。

 

 

「よう、少しばかり遅れてすまないねぇ!」

 

 

 両脚を地面に打ち込みながら、豪快に着地を決める山の元覇者。見覚えがあり過ぎる一本角を月光に艶めかせ、美丈夫といってもよい出で立ちの女鬼がこちらへと笑いかけていた。そして所々汚れてしまった服から土埃を払いつつ、一本歯の下駄を鳴らして大江山に君臨した主の一人は燃え盛る屋敷を一瞥する。

 

 

「華扇も一緒にいたんだけど、ちょっと天狗共の説得を任せて来ちまってねぇ。まあ、すぐに合流すると思うが……ともかく『アイツ』がどこにいるのか手短に教えてもらえるかい?」

 

 

 宝の入った箱を乱暴に地面へと放り投げ、星熊勇儀は地獄の炎のごとく真っ赤な瞳を煌めかせた。

 

 

◇◇◇

 

 

 その神格の名を『不動明王』という。

 破壊と救済、対極とも思える属性を併せ持つ激しき炎のごとき怒りの化身。仏法に仇なす者を圧倒的な神力で葬り去り、一方で帰依する者全てを守護する者。その司るとされる力は極めて強大で、かの五大明王の中でも抜きん出ると謳われている。幻想の途絶えた外界においてさえ、未だに多くの信仰を集め続ける存在であることからもその神力は疑いようもない。

 

 そして、そんな不動明王が背負う『焔』こそが迦楼羅焔(かるらえん)

 

 一切の邪悪を灼き尽くす明王の威光を体現したチカラであり、それはしばしば迦楼羅王そのものと同一視される。つまりは現天魔、白桃橋迦楼羅(かるら)の持つ神性の具現(ぐげん)こそが『この焔』なのだ。その神聖な能力を目の前の小娘が使ってしまった、その事実を噛み締めながら天狗の一人が呆然と呟く。

 

 

「これは、天魔様の御力そのもの……いや妖気も色も違う、のか?」

 

 

 金と白の入り混じった炎熱に包まれる楼閣。

 天井にまで燃え広がった灼熱は留まることを知らず、広間に集まった妖怪を一人残らず呑み込まんと勢いを増していく。その輝きを注意深く観察しながら天狗たちは考えていた。これは天魔の操る神力ではない、伝わってくる妖力も違う上に長老が使う焔は黄金の一色であったのだ。

 逆にいえば、これは『間違いなく』白桃橋刑香が繰り出してきた焔ということになる。天魔の能力を不完全ながらも継承したというのだろうか、有り得ないことだ。

 焔が揺らめくたびに、集まった者たちの心を大きく揺るがしていく。しかし老獪な者たちは焦りの感情を(つゆ)も見せず、白い少女へと再び(あざけ)るような言葉を投げかけた。

 

 

「ほうほう、これはこれは大したもの、余興としては大したものではないですか」

「流石は天魔様の血筋なだけはあるようだ。もっとも、あの方の焔はこの程度ではありませんなんだがな」

「天晴見事、貴女様は紛れもなく天魔殿のお孫様であらせられるようだ。して、このようなモノを我々に見せつけてどうするおつもりかな?」

 

 

 白い火の粉が羽ばたくように散った。

 所詮は血を継いだだけであって、祖父のチカラの大部分を受け継げなかった半端者。それがここにいる天狗たちの刑香に対する評価であった。おまけに妖力は並以下、妖怪としての実力は射命丸文にすら及ばず、天魔から授かったチカラは『死を遠ざける程度の能力』のみである。

 その場に来る前に、誰もが白い鴉天狗のことを『担ぎ上げる対象』から『利用する道具』へと認識を改めていた。それも「容姿がそれなりに整っていた娘であることは唯一の救いであった」と嘲笑しながらだ。

 役立たずであろうと天魔の血縁だ、上手く丸め込んでしまえば己の権力基盤を安定させることくらいはできる。せいぜい使える物であってくれと見下した。

 その狙いが大きく外れることになるなど、誰が予想出来ただろう。

 

 

「『死を遠ざける程度の能力』と違って、こっちは予備みたいなモノになりそうだけどね。まあ、私のチカラには相違ないでしょう。組み合わせがどこぞの竹林で出会った白髪の蓬莱人みたいで、悪くないわ」

 

 

 夏空色の瞳に揺らめく陽炎。

 そこには獣のような獰猛な鋭さは無く、猛禽のごとき勇猛さもない。ただただ見る者を惹き付ける白い熱が宿るばかり、それなのに誰一人として視線を外せなかった。よく目を凝らした者は、その翼に金色の羽が輝いていることに気づけただろう。

 光の加減で見え隠れするのは、以前にフランドールが気づいたモノ。かつて彼らの長老たる老天狗が誇っていた双翼の色、それが僅かながら刑香にも遺伝しているのだ。輝く焔は壁や天井を焦がすことなく渦を巻き、主たる少女を守るように脈動していた。

 

 

「本当は『大天狗』になるつもりなんて無かったんだけど悪いわね。こっちにも譲れない事情がある、席を一ついただくわ」

 

 

 自信に満ちた少女の顔、それを見て彼らは本能的に感じ取る。皮算用は煙と共に消え失せ、ここに自分たちの企みは塵芥(ちりあくた)と化したのだと。しかし欲は止まらない。

 

 

「それを我らが承認するとお思いか、貴女を大天狗にしたところで我らにどんな益があるというのか」

「血筋以外、何も持っておらぬ貴女が大天狗となることを支持する者がどこにいる。そんな者は天魔様と、貴女のご友人くらいのものでしょう。それでは何も出来ますまい。おとなしく我らの指示に従うのが懸命ではありませんかな?」

 

 

 焔に撒かれながらも余裕を崩さない。

 内心ではもう理解しているのだ、この少女は自分たちに従うつもりがないことを。それでも手を引かない、ここでこの娘を諦めるのは非常に惜しい。それに天魔が一向に姿を見せぬというのもある、刑香がどのように窮地を乗り切るかを試しているのではないか。それで大天狗の器として相応しいかどうかを判断するつもりなのだと彼らはあらぬことを期待する。

 

 

「我ら天の狗、人にて人ならず」

「鳥にて鳥ならず、足手は人、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」

「深山の守り主にして、天の魔を頂に祀る者」

「個を個とせず、風を束ねて嵐とする。幻想の郷を誰よりも長く見守ってきた妖(あやかし)、孤高でありながら群をなすことこそ我らの強さ」

「刑香様、貴女にはまだその資格がない」

 

 

 降る言霊に宿るは歴史の重み。

 この国における三大妖怪の一たる天狗。人間と敵として神として、時と場所により善とも悪とも語られてきた旧き存在。そんな種族の上に立つ地位である大天狗の名は軽いものではないのだ。

 

 しかし今の彼らは、心の底から刑香に資格がないと思っているわけではない。

 

 この焔は紛れもなく天魔の操っていたチカラであるし、噂によると吸血鬼異変を解決に導くために尽力し、八雲や人里からそれなりの信頼を得ているという。しかも地底では星熊勇儀との戦いから生き残り、大天狗への推薦状まで受け取っている。

 初めは信じていなかったが、ここまでの胆力を見せられれば真実なのだと納得するしかない。ならば、あとは自分たちが後ろ盾にでもなれば大天狗として就任するための問題は無くなるだろう。しかし認めたくないという思いが強い、あと一歩が踏み出せない。

 そんな天狗たちへと刑香は珍しく、実に天狗らしい黒さの滲む笑みを浮かべた。

 

 

「へぇ、つまりその条件を満たせばいいわけか。なるほどね。個を群とする、集団の力こそが妖怪の山を貫く原則にして天狗の不文律。なら……私も『その証』を示してやるまでよ」

 

 

 その台詞に何を莫迦なと彼らは嘲笑う。

 せいぜいが三人、それが刑香の集められるであろう味方の頭数だ。射命丸文、姫海棠はたて、そして今も少女の傍に控える犬走椛。天魔の威光に頼らずに従ってくれるのはそれだけだろう。

 子供の遊びではないのだ、その程度の人数で足りないことくらいは分かっているはずだ。それとも外から河童や人間でも招いてみるつもりなのか、有象無象をいくら呼び寄せたところで何になる。この決定を覆せるだけの力のある者がどこにいる。

 しかも周囲を自ら焔で閉ざしてしまっているのだ、天狗たちは笑うのを通り越して呆れてしまっていた。天魔の宿敵たる『あの女』でもない限り、空間を越えて駆けつけることなどーーー。

 

 

 

 

「ーーー遅くなって済まなかった、白桃橋」

 

 

 

 

 聞き覚えのある声に空気が凍りつく。

 身を震わせる怖気が、刑香と椛を除いた天狗たちに襲い掛かったのはその瞬間だった。じわりと莫大な妖力が(にじ)み、白い炎がその形を崩す。閉ざされた部屋である故に、本来なら空気の流動はほとんど無い。されど火炎は姿を変える、新たなる来客を迎え入れるために。

 虚空に現れた空間の裂け目、それは天狗以外の行う神隠し。幻想郷では『スキマ』と呼ばれる、最高位の能力の一つである。そして、そこから降り立った人物へと刑香は親しげに言葉を紡ぎ出す。

 

 

「少し遅いわ、何してたのよ」

「ようやく鬼が結界を壊してくれてな。口惜しいことだが、あれだけは私が手を出すわけにはいかなかったんだ。私が破ったとなっては、この後の始末が一層面倒になってしまう。まあ、結果としては悪くないタイミングで参上できたようだが……」

 

 

 焔に映える紺碧の法衣。

 天狗たちにとって覚えのある姿だった、ここにいてはならぬ存在だった。焦りを含んだ天狗たちの目線が、先を争うように一点へと集中していく。いつの間にそこへ立っていたというのか、などという疑問は彼女には通用しない。スミレのような紫色に藍色が混ざった空間の歪みを背にして、周囲の焔にも劣らぬ黄金の毛並みを(かがや)かせた九つ尾の大妖狐がそこにいる。

 

 

「よく来てくれたわね、八雲の式殿」

「くくっ、間に合って何よりだよ。新たな大天狗殿」

 

 

 スキマ妖怪の式神、八雲藍。

 天魔の宿敵である八雲紫が唯一、その家名を名乗ることを許した使い魔。その高い実力と能力から『八雲』の跡継ぎと目される存在でもある。しかし紫と天魔、お互いの長が対立している以上は藍と刑香もまた敵同士となるべき間柄だ。それがまるで対等の友人であるかのように言葉を交わしている。

 もちろん刑香と藍との間には未だに埋めようのない実力差が存在する。だが今の二人にはそんな『些細なこと』は関係がない。呆然としている天狗たちは、あまりの事態に言葉が思いつかない。暫くの間を挟み、その中の一人が震えるようにしてようやく口を開いた。

 

 

「こ、これはこれは八雲の式殿……いかなる用向きですかな。今は大事な取り決めをしている最中でしてな、貴女様がここにいることが知れると天魔様だけではない、里の者たちにも多大なる混乱がーーー」

「これだけの神力に囲まれていては、如何に強大な妖力であろうとも外から感知することは難しいでしょう。万が一、気づかれたとしても今の里は『別の存在』のせいで、それどころではありませんよ」

「っ、この燃え盛る鳥籠はそのための仕掛けか!?」

 

 

 長老から受け継いだチカラの片鱗。

 それを見せることで、継承を自分たちに認めさせようとしたと天狗たちは解釈していた。その思考は決して的外れではなかったが、中心を射抜いていたわけでもない、

 楼閣を覆う黄金の殻は、内部で起こっていることを外へと漏らさないための防壁。光は光によって呑み込まれ、生半可な透視能力は弾き返される。音が漏れ出すわけもなく、焔を突っ切っての侵入もまた難しい。

 まだ上手く制御できないがために、刑香は椛に頼んであちこちに油を仕込んで燃え広がる範囲を固定させている。それが功を奏し、完全とはいかないまでも周辺からこの空間を遠ざけてしまうことに成功していた。

 奇しくもそれは八雲紫が得意とする術式、空間を繋げる閉ざすはスキマの賢者の専門分野である。黒い翼たちの反応を面白そうに眺めた後、金の狐目は刑香へと視線を移す。

 

 

「さて、それでは手短に済ませようか。連中も散々待たされてご立腹だろうからな」

「……ちゃんと全員来てくれるのかしら?」

「里を騒がせていた連中も回収して、もう中に放り込んである。心配は不要だ、刑香」

 

 

 指揮をするかのように指先を踊らせる式神。

 その間にも金色の輝きは空気を(いぶ)し、壁や天井を傷つけることなく這い回る。恐らくだが、この白炎が混じった焔は、本来の威力には届かぬ代わりに焚く対象を選ぶことの出来るのだろう。

 広間に施された彫刻や飾られた美術品を焦がすことなく、堅固な(ろう)を創り出している。充満する熱が肌を乾燥させては舌先を焼いていく。改めて彼らは実感する。やはりこの少女は祖父とは違う、己の敵を悉く焼き尽くさんとする激情が感じられない。空色の瞳に映るのは、夏空を思わせる暖かな太陽の横顔ばかりだ。

 

 

「……当たり前でしょう。まったく同じ精神をしている者など有り得ません。血縁があろうと、種族が同一であろうとも他者と己は違うモノ。心の在り方が千差万別なのは当然です。まあ、良くも悪くもですが」

 

 

 控えめな着地音と共に、物憂げな声が聞こえた。

 

 

「だからこそ、誇れる強さというのも個人によって異なる。枝分かれした旅路の果てに得ることになる答え、それが各々違うモノであるのは当然のこと。私はどちらも否定しないけれど、好みの問題ならば刑香の選んだ運命の力に興味を惹かれるわ」

 

 

 皮膜の羽ばたきと共に、尊大な声が響いた。

 

 

「天魔の爺は強かった、それこそ私たち四天王と真っ向勝負が出来るくらいにはな。だが一度も全力で戦ったことは無かったし、当然だが負けたこともなかった。あれから幾星霜、まさかその孫娘と全力で戦って負かされる日が来るとはねぇ」

「そして鬼退治の報酬は抱えきれない程の財宝と、天下に轟く名声と決まっています。そのどちらも受け取らなかった刑香には、せめて私たちから追い風を送るとしましょうか。まあ、今の私は鬼ではなく仙人ですけどね」

 

 

 鮮やかな鎖の()が二つ鳴き、快活な声が木霊した。

 

 

 言葉を失うとはこのことだ。

 八雲藍が創り出したスキマ、そこから現れた影は四つ。

 気怠げにサードアイを浮遊させた地底の主、悪魔羽を羽ばたかせた貴族然とした夜の王、床を踏み抜かんばかりに豪快な一本角の化生、そして礼節を欠かさぬ物言いをする片腕の仙人。その全員が幻想郷にて名を轟かせる高位の妖怪、もしくは最高位の大妖怪である。微動だにせず硬直する天狗たちには目をくれず、彼女たちは各々の速度で白い少女の側へと移動していく。

 

 

「個を群となす、それこそ天狗という妖怪のチカラ。それを持たぬ者に大天狗の資格はないと……確かにアンタたちはそう言ったわね?」

 

 

 白い少女の言葉に反応を返せる者はいない。

 あまりにも壮観たる顔ぶれだった。引いては押し寄せる浜風のごとく、満ちた妖力の波は大海に攫われていた遠い記憶を打ち上げていく。あれは誰の語っていた理想であったか。

 天狗だけでなく、多くの妖怪が手を取り合うような楽園を作りたい。例え腹に一物やニ物あろうとも、根底では幻想郷のために協力を惜しまぬような勢力図を目指す。そんな甘ったれた幻想を夢見ていた若者がいたはずだ。あの男が月から帰って来なくなって、千年の月日が経ってしまった。

 

 

「ならば、これが今の私が見せることの出来る全力よ」

 

 

 これは偶然なのだろうか。

 きっとこの少女は気づいてはいないのだろう、身内との繋がりを重視する天狗という種族において『外』との絆を持つ存在は稀少だ。基本的には同族とのやり取りだけで全てが完結する、山の外にあるモノで天狗が執着するのは人里くらいなのだ。鬼の支配には下っていたが、天狗は他種族と交わる必要がない。それは山にいた頃の白い少女とて変わらなかったはずだ。山を出る二年前程まで、そうだったはずだ。

 

 

 幻想郷のもう一つの世界である地底。その管理者にして閻魔王との橋渡し、古明地さとり。

 遥かな西方から来たという新興勢力。精鋭の集う紅魔館の当主であるレミリア・スカーレット。

 かつて妖怪の山に君臨していた鬼族が長の一人、剛力の化身として怖れられた星熊勇儀。

 この妖怪の山に住まう仙人。素性不明でありながらも、絶大な力を感じさせる片腕の仙人、茨華仙。

 そして天魔の宿敵たる八雲紫の右腕。幻想郷最強の妖獣であり管理者の一人、八雲藍。

 

 

 純粋に協力するため、もしくは借りを返すため、或いは何かを期待して集まった幻想郷でも屈指の大妖たち。しかし一つだけ全員に共通しているのは、白い少女がいたから駆けつけたということだけ。

 

 この二年あまりで白桃橋刑香が入れたもの、誇れるもの。それは多くの人妖たちとの出会い、そのものである。現在の幻想郷における有力者、そしてかつての上司というオマケ付き。

 この面子を前にして刑香を「大天狗とする利点がない」と口に出来る者は、この広間にはいない。ある者は血の気の引いた顔で、ある者は高揚した様子で、またある者は無表情で、深々と(こうべ)を垂れる。

 そして程なくして、『その決議』が採られることとなった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十ニ話:いつか遠い空を思い出す

 

 

 白雲を抱いた新緑の霊峰。

 雪の気配は遠ざかり、外界から見上げる姿はいくらか緑豊かなものとなったようである。(うぐいす)が花咲く枝々を飛び回り、朝ぼらけの空から降り注ぐ陽射しが山道を暖かな色に染めていく早春の頃。

凍える風は地平の彼方に、雪の白雲は空の向こうへと霧散した。獣たちが眠りから覚め、まだ寂しさの残る原っぱを駆け巡る。そんな季節の訪れた妖怪の山では、何かを打ち付けるような音が遠く遠く響いていた。

 

 

「おーい、こっちを手伝ってくれんか!」

「人手が足りねえんだ、ちょっと待ってろ!」

 

 

 そこにいたのは頭に手ぬぐいを巻いた者たち。

 氷雪が解けた地面を踏みしめ、男たちは緩んだ足場に気をつけながら斧を振りかぶっていた。生命力に溢れた木々は冬を越せども雄大で、刃を弾き返さんばかりに強靭である。汗を拭っては竹筒に入った水で喉を潤し、少しずつ少しずつ切り込みを深くしていく。ここ数ヶ月で鈍ってしまった身体を恨めしく思いながら、彼らは作業へ没頭していた。

 ようやく大樹が傾いたのは、作業を始めてから半刻が過ぎた頃である。だが職人としての勘が鈍っていたのだろう、思わぬ方向へと樹木は倒れ込んでいった。

 

 

「お、おいっ、お嬢ちゃん危ねえぞ!」

 

 

 景気良い音を立てて迫っていく影。

 その真下にいたのは銀色の髪をした少女だった。悲鳴のような男たちの声に反応して、娘は自身の頭上をぼんやりと見上げる。もし下敷きにでもなれば、死は免れないだろう。しかし少女は自らに直面した危機を認識すると、何でもないかのように軽い跳躍で飛び退いた。

まさに紙一重、袖をかすめる距離で通り過ぎた巨木が地面とぶつかり轟音を響かせる。それは単なる人間の枠に収まらぬほどに、あまりにも命知らずな対応であった。

 

 

「だ、大丈夫かよ!!?」

「問題ないよ、これくらいじゃ私は死ねないから」

 

 

 無事だった少女に男たちはますます心配そうな声をあげたが、当の本人はどこ吹く風である。何でもないことのように伸びをしながら、友人である寺子屋の教師へと笑顔で振り向いていた。

 

 

「これで七本目だね、慧音」

「ああ、お疲れ。急にこんなことを頼んでしまって済まなかったな」

「良いって、居候させてもらってるんだからさ。たまには恩返しもしないとね」

 

 

 たき火のように赤い瞳が印象深い少女。

 数々の護符が施された衣服と、見た目にそぐわぬ肝の座り方が浮世離れした雰囲気を手放さない。草木の香る山風になびくのは、癖のない実直な銀の髪。そして竹を割ったような快活さと、どこか孤高な雰囲気が混ざり合って異質さを漂わせている。この者の名前は藤原妹紅(もこう)、慧音の友人にして腕利きの妖怪退治屋であった。

 

 

「思ったより平穏に終わったね。一羽や二羽くらいは襲ってくるかと思ってたんだけど、こっちを見張っているような気配だけで姿も見せやしない。少し前の混乱が嘘のようだよ、何企んでいるんだか」

「しかし、そのおかげで里の者たちも例年通りの暮らしを送れそうだ。こうして山に入れたというだけでも収穫だよ。どういう狙いがあるのかは分からないが、ひとまずは感謝しなくてはな」

「はいはい、慧音はマジメだねぇ」

 

 

 長い髪を鬱陶しそうに纏めていく妹紅。

 もちろんだが木こりで生計を立てているわけではない。慧音の頼みで、ここにいる人間たちを護衛していただけだ。つい最近まで山の支配者である天狗たちの内部抗争により、ここは幻想郷でも随一の危険地帯と化していたのだ。それこそ迂闊に立ち入ろうものなら、自分でさえ帰って来られるか分からなかった。そんな場所に、慧音が里の人間たちを引き連れていくと言ってきた時は耳を疑ったものだ。

 この山が嘘のように静まり返っている現状を肌身で感じてさえ、妹紅はまだ疑い半分であった。ちらりと慧音へと視線を移す。

 

 

 ーーー本日より人間の入山を一部に限り、許可する

 

 

 短い言葉で綴られた天狗からの書簡。

 前触れもなく、それが寺子屋の戸口に捩じ込まれていたらしい。そこには最近の入山禁止の理由、つまりは大天狗たちが亡くなったこと、その後任を決めるためにイザコザが起こっていたことなどが大まかに纏められていた。内部事情を詳しく説明するようなモノでは無かったが、どうして一部の天狗が人間を襲ったのかの理由は最低限ながらも解説されているらしい。

 

 

「……だとしてもさぁ。それだけを頼りにして、慎重派の慧音がここに立ち入るなんて意外だったよ。罠だとは考えなかったの?」

「いや、実は書簡が届いてから何度かは自分で入山してみたんだ。それで山全体が落ち着いていることに気づいてな、中身が嘘ではないと判断した」

「つまり、また一人で無茶したわけだ」

 

 

 呆れたように言葉を紡ぐ妹紅。

 別の場所では、山菜取りを行う者や鳥獣を追いかける猟師の姿もある。それぞれが山を頼りにして生活を営んできた里人たちで、遅れを少しでも取り返そうと奮闘していた。お人好しのハクタク教師は、彼らのために一刻も早く情報の正否を確かめる必要があったのだろう。まったく、毎度毎度心配させられる身にもなって欲しいところである。

 ともかく今のところは、全員の首が繋がったままで帰れそうだ。

 

 

「つい最近にも大怪我したばかりだろ。あの時はスキマ妖怪に『アイツ』が連れ去られたっていうけど、慧音はもう少し自分の命を大事にした方がいい」

「あれは私のせいで引き起こされた事態だった。私が誰よりも解決のために奔走しなければならないのは当然だろう?」

 

 

 さわさわと枝葉が囁きかけてくる。

 ここはまだ人里から程近い距離、天狗の主要な縄張りからは離れた場所にある。千年ぶりに空席となった大天狗の座、それを手に入れようと画策した者たちによる勢力争い。その火種は大きく飛び火してしまい、人間さえ巻き込む山火事となった。ああなってしまっては、例え博麗の巫女であっても解決するのは難しい。そのことが嫌というほど理解できた事件であった。幻想郷の歴史には『異変』として残らない、きっと後世の人々は『些細な出来事』として捉えるだろう。

 しかし紛れもなく、これもまた幻想郷を揺るがす大事件には相違なかった。

 

 

「……そして、それが落ち着いたということは新しい大天狗が決まったということなのだろうな。そんな騒動の中で故郷へと帰ったお前はどうしているんだ、刑香?」

 

 

 虚空へと話しかける慧音。

 こうして持ち帰られた山の恵みは、人々の暮らしに雪解けをもたらしていくだろう。水面に広がった波紋がやがて弱まっていくように、幻想郷もまた元の静けさを取り戻す。青々とした芽吹きの季節が目の前に横たわっている、ようやく雲が晴れたはずなのだ。しかし、慧音は悩ましげに葉影の天を仰いでいる。

 

 

「けーねは、まだアイツのことを気にしてるの?」

「……否定はしない」

「私が聞いた限り、慧音に責任はないよ。スキマの賢者は切れ者だったんだし、遅かれ早かれ同じことになっていた。あの真っ白い鴉天狗もお前のことは恨んでないよ、多分ね」

 

 

 水筒に口を付けつつ妹紅は呟いた。

 目線を合わせることもなく、投げかけられた言葉を慧音の足元に転がしていく。しばらくして残った水を頭からかぶり、退治屋の少女は濡れた服を春風にそよがせる。そして川遊びをしてきた少年のように頭を振るい、その口をもう一度開いた。

 

 

「アイツは長老の孫だったんだろ、それなら他の天狗どもだって手荒には扱えないはずだ。少なくとも酷い目には会っていないと思うけどね」

「だが、身分のある者にはある者なりの苦しみがあるだろう。特に一人だけの孫娘となれば尚更のはずだ。妹紅、お前の生家にも同じような柵(しがらみ)はあったんじゃないか?」

「さあね、そんな昔のことは忘れたよ」

 

 

「おーいっ、先生!」

「こっちは終わった、そろそろ飯にしないか!」

「妹紅さん、こっちに来て湯を沸かしてくれないかい?」

 

 

 気落ちした二人の周りに集まってきた人々。

 つい最近まで暗い表情で塞ぎ込んでいたのだが、すっかり活力を取り戻していた。そんな彼らに笑顔で呼びかけられ、沈みかけた心が押し上げられるのを感じた。心配も後悔も今はよそう、人々の前で無様な姿は見せられない。もう少しだけ頑張ろうと、慧音は人知れず唇を噛み締めていた。そんな時だった、自分と人々との間に妹紅が割り込んできたのは。

 

 

「よしっ、今日の作業はここまでにしようか! まだ山が落ち着いて間もないんだ、あまり長居しない方が懸命だろうさ。私は『死んでも帰れる』けど、アンタたちはそうじゃないだろ?」

 

「そりゃそうか、天狗様に目をつけられる前に帰った方が良さそうってもんか」

「何事も程々が一番ってことさな、死んじまったら元も子もない。飯は帰ってから食うとするかね」

「そういえば刑香ちゃんも最近見ねえなぁ。どうしちまったんだ……」

 

「それじゃあ撤収だ、撤収!」

 

 

 急かすように呼びかけられ道具や荷物を纏めて、人々は帰郷の準備に入っていく。伐り倒した材木は重すぎるので、また明日にでも出直して裁断することになる。今日は足取りも軽く、里まで帰ることができそうだ。ぽかんとした寺子屋教師を置いてけぼりにして、本日の作業はこれまでと相成った。何か言いたそうな慧音の肩を叩いて、妹紅は告げる。

 

 

「昼過ぎから神社で『儀式』があるんだろ。こいつらは私が責任もって送り届けるから、慧音は早めに帰って準備しておきなよ。教え子ではないとはいえ、あの巫女のことだって生徒みたいに思っているんでしょ?」

「……すまないな、感謝する」

 

 

 その心遣いに慧音はせめてもの礼を口にする。

 気にするなと言うように言葉少なく、不老の少女は帰り支度をする人々の輪に混ざっていった。さっぱりとした気質と懐の深さ、そして風来人のような身の軽さが藤原妹紅という少女だ。言っては難だが男として産まれていたなら、さぞや女から淡い想いを向けられていたに違いないと慧音は苦笑する。まあ自分としては、妹紅のそんなところを好ましく思っているのだが。

 

 

「さて、せっかくのお言葉だ。ありがたく頂戴するとしようか」

 

 

 風穏やかにして、雲は高し。

 桃の花弁が舞う初春の頃、幻想の郷は大きな変化を迎えることとなる。一つは人里に多大な影響をもたらす妖怪の山、その支配者たる天狗たちに新たな上役が現れたこと。そしてもう一つは、この小さな世界を支える守り人の役割が幼い少女へと受け継がれることだ。歴史を紡ぐ聖獣はそっと目を閉じる、きっと今日のことは自分の記す物語において最も重要な部分となるのだろうと半ば確信に満ちた思いが胸に染み渡ってきていた。

 

 

 もう一つの継承が、博麗神社にて行われる。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 幻想郷は大別して『人』と『人ならざる者』によって成り立つ世界だ。

 もちろん、ここでいう『人ならざる』とは動物や虫を指しているわけではない。それは古来より伝えられ、現代においては消滅しかけている神話や伝承の化身たち。つまりは妖怪や妖精、或いは何らかの信仰で神と祀られる超常の存在を指すのである。人々から畏れられては敬われ、その営みには必ずといって影がチラついていた。昼は人間のモノ、夜は妖怪の領域、それが世界の不文律であったのだ。

 しかし文明の光が闇を照らし出して以降、その影は薄れ続けている。

 

 

「幻想郷はそういった『消えゆく者たち』のための楽園なのよ。ここでは妖怪こそが中心で、あくまでも人間はオマケというのが正しいのかもしれないわ。まあ、それでも人にとって一方に悪いことばっかりじゃないって紫は言ってたけどね」

 

 

 博麗の巫女はそう語る。

 まだ幼い少女には知る由もないが、利点の一つとして外の世界で頻発する人間同士の戦乱が起きないということがある。単純に人数が大規模な争いを生むまでもないということもあるが、それ以上に人外の存在である妖怪や神々が人間を戦いから遠ざけている。摂理の中心が人でなく、その上位に何者かがいるという観念は人間の欲望に一定の制御を与えているのだ。

 

 

「まあ、人間っていうのは強欲な生き物だからな。神様なり妖怪なりの目がないと、たちまちに山も川も喰い尽くすだろうさ。そうして人間同士で争って自滅する、そこまでの流れは確実だ。代表として私が保証してやろう」

「一体いつからアンタが人類代表になったのよ、魔理沙」

 

 

 ため息をつく紅白の少女。

 ここは幻想郷と外界の狭間(はざま)に建つとされる『博麗神社』。特別な場所だらけの幻想郷において更に特別な場所で、妖怪はもちろん人間でさえも必要以上は近づこうとしない。しかし管理者が今代の巫女になってからというもの、すでに一部の妖怪や人間が入り浸っているようであった。ちゃぶ台に腰を下ろしながら、饅頭を口へと放り込む金髪少女に遠慮は見当たらない。

 

 

「それは今日の儀礼に参列してくれる相手に渡すための饅頭よ、この罰当たり」

「自分の分を先に貰っているだけさ。今日は私だって参列者の一人なんだぜ?」

「だから今日はおめかししているわけか」

 

 

 本日は白黒でない魔法使い。癖っぽい髪の毛を丁寧に編み上げて、鮮やかな華の咲いた着物に袖を通した姿は名家の令嬢そのものだった。

 

 

「まあ、そうやってると魔理沙もお嬢様って感じよね。紅魔館の吸血鬼が纏っていた、上流階級の雰囲気ってやつは見当たらないけど」

「こほん……それは心外ですわね。私だってやろうと思えば、いつでも立ち振る舞いくらいは『それらしく』出来ましてよ?」

「口元に食べカスが付いてるわよ、お嬢さま」

「ぷっ、ははっ!」

 

 

 そうして愉快そうにお腹のあたりを押さえて仰向けに寝転ぶ魔理沙。袴が捲れ上がって、健康的な脚が丸見えになるも気にする様子はない。やはりお嬢様を演じている姿より、普段の魔理沙の方が好ましいと霊夢は思った。

 

 

「分かっていると思うけど、今日の参列者は人間だけじゃないわよ。例の決闘法、スペルカードルールの布告のために妖怪がかなり集まる予定なんだから気をつけなさい」

「……神社に妖怪が集まるのか。私は別にいいけど親父は嫌がりそうだな、そういうの」

 

 

 仕方ないことだと肩を竦める霊夢。

 これは妖怪と人間双方の実力者たちが公に認めなければならないのだ。此度の『博麗継承ノ儀』は、現在の幻想郷を変えるために異質なモノになるのは間違いない。

 

 

「参列する妖怪の中には、魔理沙の顔見知りだと紫とレミリアがいるわ。地底はどうだか分からないけど、妖怪の山からは天魔が代表として顔を見せるでしょうね」

「……そいつは残念だな」

「何のことやら」

 

 

 表情には出ていないが、霊夢が落ち込んでいるのは明らかだった。あの雨の日から白い鴉天狗の姿はどこにもない、人里の患者たちや新聞の購読者のところにも訪れてはいないらしい。たまに真っ白な雲を見上げている霊夢はあの純白の翼を今も無意識に探しているのだろう。頑張っていこうとは決めたものの、やはり一抹の寂しさは誤魔化せはしない。魔理沙とて、もし兄代わりの人物がいなくなれば同じように悩むはずだ。

 そんな魔理沙へと霊夢は唐突に口を開く。

 

 

「言っとくけど私は忙しいんだから自分の身は自分で護りなさいよ。アンタみたいに好奇心旺盛で不用心なヤツは妖怪にとって、絶好の獲物なんだから」

「おいおい、いくらなんでも神社で人間が襲われることはないだろ?」

「さあ、どうかしらね。人間もそれなりの人数が集まるから一人くらい消えても、誰がやったのか分からないんじゃない?」

 

 

 それを聞いて口元を引き攣らせる。

 少し考えれば嘘だと分かりそうなものだが、純粋な魔女は信じてしまったらしい。この神社で人攫いなぞしようものなら、即座に霊夢か八雲紫あたりから鉄槌が下されるだろう。そんな危険すぎる橋を渡るくらいなら、妖怪にとっては来るか来ないか分からない外来人でも気長に待っていた方がマシなのだ。

 

 

「そ、そういえばメリーと蓮子はどこ行ったんだ?」

「あの二人は人里よ。ぼちぼち帰れる算段がついたらしいから、このところは思い出作りに勤しんでいるわ」

「へぇー、そうだったのか」

「もうすぐ帰れるって、怪しげな金髪女から聞いたらしいのよ。十中八九、紫だろうから信頼していいんじゃないかしら。アイツはこういうことに関しては、あんまり嘘つかないし」

「……ちょっと寂しくなるな」

 

 

 否定はしないと霊夢は苦笑する。

 紫と刑香が訪れなくなって一ヶ月、その穴を埋め合わせるかのように居候していたのがメリーと蓮子だ。火も起こせないような非常識っぷりに、初めは面倒だったが数日もすれば馴れてしまうもの。今ではそれなりに家事も任せられるし、自分としても二人のいることが日常になりつつある。メリーと蓮子が帰ってしまえば、この神社でまた一人きりの生活を送ることになるだろう。それは、それなりに堪えるかもしれない。

 

 

「まあ、こうして私が毎日のように来てやるから元気だせって」

「で、元気の代わりに私にはお茶を出せってこと?」

「出がらしの茶くらいは期待してもいいだろ?」

「まあ、それでいいならご馳走してあげるわ。本当はお賽銭をもらうところなんだからね……っと、ようやく来たみたいよ」

 

 

 和やかだった空気が断ち切れる。

 神社の木々がざわめき、かすかに妖気の滲んだのを霊夢は見逃さない。巫女としての霊感が確かに来訪者の存在を感じ取っていた。そして魔理沙も少しだけ遅れて妖力を知覚したようで帽子を深く被り直して、その縁を強く握りしめていた。先程の脅しが効いているらしい、少しだけ悪いことをしたかもしれない。やれやれと、幼い巫女は立ち上がる。

 

 

「お、おいっ、霊夢……」

「気にするような妖気じゃないわよ、だいたいが顔見知りみたいだから」

 

 

 焦って止めようとする友人の手を振り払い、霊夢は部屋を後にする。到着した連中はどいつもこいつも知った気配ばかりで、必要以上に身構える必要はどこにもない。

 

 そして玄関まで出ると、視界に入ったのは真っ赤な下駄。

 

 それは見事な朱色に塗られながらも、あちこちが欠け落ちてしまっている古い一本歯下駄。あの別れの日に刑香が寺子屋に置き忘れていったモノだ。足の大きさが合わないので履こうとは思わない。いつか返す時が来ると信じて、奥に仕舞い込まず玄関に置いている。しばらく下駄を見つめてから、深く深呼吸をした霊夢は扉を開け放つ。

 

 

「よく来てくれたわね。博麗の巫女として、とりあえず歓迎するわ」

 

「……繰り返すんだけど、私を呼びたいなら夜にしなさいよ。太陽が出ている空の下で活動するなんて不健康極まりないわ」

「お前には悪いが、私は良い天気になったと思う。目出度い日に雨天なんていうのは格好が付かない。そうだろう、人里の守護者殿?」

「ああ、同感だよ。歴代の巫女たちの継承もこんな晴天の下で行われていることが多かった。きっと長い旅になるだろう。せめて船出くらいは穏やかな方がいい、八雲の式殿」

 

 

 太陽の輝く空は晴天白日。

 およそ妖怪には似つかわしくない光の下、その者たちは一堂に会していた。弱点である日光を防ぐための傘を広げた悪魔羽の少女、黄金の九つ尾が眩い太陽の妖獣、そして青みがかった髪と知的な瞳を持つ人里の守護者。

 全員が見知った顔であり、緊張する必要はどこにもない。

 だが、顔見知りでありながらも険悪な間柄である者が一人だけ。純白と対極にある漆黒の翼、そして空の碧とは真逆の真っ赤な眼光をした老天狗がそこにいた。その姿を見た霊夢は、残念そうに肩を落とす。

 

 

「……何とも、予想の外にある反応をしてくる奴よな。ワシに差し向かえば、恐怖する者も嫌悪を浮かべる者もいる。その反応自体は千差万別であったが、貴様のように『失望』してくるというのは初めてだ」

 

 

 興味深そうに首を傾げる天狗の長老。

 顎を擦りながら、天魔は幼い巫女へと穏やかな眼差しを注いでいた。体格は一ヶ月前より痩せており、左手には漆塗りの杖が握られている。以前までの威圧感が薄まり、幾分か柔らかい雰囲気になったように感じた。それら氷雪に閉ざされていた厳冬が、春の陽射しで溶け始めたかのよう。

 

 

「アヤツはこの儀礼に参加せぬよ、博麗の巫女」

 

 

 ふわりと暖かな風が、石畳に転がっていた小さな花弁たちを舞い上げる。くるくると渦を巻きながら立ち昇っていく薄桃色のそれらを見送りながら、霊夢は真っ白な陽光に目を細めた。

 

 

 ーーーしばらく会わないうちに立派になったわね、霊夢

 

 

 光に羽ばたく白い双翼。

 澄んだ空色の瞳でうっすらと微笑みかけ、名前を呼んでくれる。自分は胸を張って、ここ数週間でどれだけ巫女として成長したのかを語り聞かせている。そんな幻想を、霊夢は夢に見た。

 もしかしたら『山』の代表として、今日この日に神社を訪れてくるかもしれない。会いに来てくれるのではないかと心の奥底で期待していた。しかし現実は甘くないようで、その姿はどこにもない。それはそうだろう、今頃はあちらも忙しくしているに決まっている。今回は『あの鴉天狗』がどうしているのかを、祖父である天魔に尋ねるくらいが丁度いい。

 くるりと来客へと背を向けて、霊夢は先導するように歩き出す。

 

 

「さてと、お日様が苦手なヤツもいることだし本殿に移動しましょうか。そこで紫が来るのを待てばいいわ。それで妖怪側の参加者は全員だろうし、あとは人里の連中が集まるのを待てば……!?」

「おい、霊夢?」

 

 

 鼻先を掠めた花の香りに立ち止まる。

 微かに感じた妖気に引っ張られるように、ふらりと霊夢はあらぬ方向へ一歩を踏み出した。その気配が伝わってきたのは神社の裏手にある森、この香りもそこから流れてきている。向かうべきだと、巫女としての直感が告げていた。

 

 

「っ、ごめん! ちょっとだけ離れるわ!!」

「ちょ、おいっ、霊夢!?」

「悪いけど、一足先に本殿で待ってて!」

 

 

 壊してしまいそうな勢いで戸口を開け、玄関へ飛び込んだ。そして脇に置いてあった一本歯下駄を抱え込んで、再び外へと走り出す。

 

 

「この、妖気は……きっと!」

 

 

 心臓の音がうるさい。

 飛ぶことを忘れるくらい焦っていたので、何度も小石に躓きそうになる。それでも身体は止まらなかった。この下駄を返すだけのはずだ、そんなに長い別れがあったわけでもない。なのに直感が告げているのだ、ここで駆けつけないと自分は必ず後悔すると。

 裏手の森へと突き当り、木々に沿って走る。そして自分を待つように佇んでいた『純白』を見つけたのは数十秒後のことだった。

 しかしーーー。

 

 

「……もう来たんですか、霊夢」

 

 

 そこに目的の鴉天狗の姿は無かった。

 カチカチと嘴を鳴らしながら、その少女の掌からクルミを食べる白いカラス。何度か目にしたことがある刑香の使い魔がそこにいた。妖怪の世界において、主従というモノは妖力を似通わせている場合が多い。先ほどの気配はカラスから放たれていたものであったようだ。急速に心が冷めていくのを感じる。

 

 

「あの子でなくてすみませんね、こちらにも事情がありますので」

「何の用よ、文」

「頼まれごとですよ、刑香から言伝を預かってきました。まずはアナタの晴れ舞台に駆けつけられないことへのお詫び、そして……」

 

 

 木漏れ日が地面にさわめく牛の刻。

 そんな巫女の様子には眉一つ動かさず、射命丸文は腕にとまっているカラスの頭を撫でつける。漆黒の翼を持つ少女は、あの夜の顛末を告げるため静かに紅白の巫女に向かい合った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十三話:浄頗梨審判

 

 

 花煙る空に覆われた妖怪の山。

 雪風の遠ざかった山麓(さんろく)に染みていくのは、清らかな雪解け水。混じりなく透き通る水流は小川をやがて作り出し、幻想郷を潤すことだろう。赤子のような流れが山肌を下り、若草に彩られた野を横切っていく。たまに透明な水泡が弾けては、砕けた氷のような輝きを持って寒々とした季節の名残を伝えていた。

 

 広がる林は薄暗く、樹木のスキマから降り注ぐ陽光だけがヒラヒラと踊っている幻想の山。砕けた硝子(がらす)のような光が樹木に遊ぶ中、どこからともなく幼い音色が木霊した。

 

 

「ねぇねぇ、知ってる?」

 

 

 旅人がいたなら立ち止まっていただろう。

 辺りを見回したとしても影はなく、過ぎ去る風にぶつかって雪のごとく舞い散るのは童女たちの(ささや)く声。その正体は花を咲かせた樹木の上、暖かな春に誘われて寝床から起き出してきた妖精たちであった。碌でもないイタズラを仕掛けられることもあるのだが、それでも彼女らの姿は山の雰囲気を和らげる。人でも妖怪でもない自然の愛し子たちは、新緑の色をした森の光を一身に浴びていた。

 

 

「私たちが眠っている間に天狗たちに動きがあったらしいの、なんでも大天狗が遂に出揃ったらしいわ」

「へぇ、何だかんだで随分とかかったね。前任のお爺ちゃん達が亡くなってから、何度も季節が変わっちゃってるわ」

「みんなでジャンケンすれば済むのにねぇ」

 

 

 妖精たちの知性は高くなく、天狗どころか人間にすら及ばない。この山を住処としている者もいるのだが、天狗の動向にあまり関心は無さそうだ。どのみち幻想郷にいる限りは『死』とは無縁の少女たちである。天狗から襲われても命を落とすことはなく、白い鴉天狗のチカラを持ってしても寿命を延ばすことはできない。自然体のまま生きる彼女たちにとって全ては、人里の童たちが(まり)遊びをするのと変わらないのだ。

 今度は青い妖精が仲間たちの輪に加わった。

 

 

「なになに、何の話?」

 

「あ、チルノちゃんだ!」

「チルノちゃんはおバカだから、こういう話は分かんないと思う」

「だよねー、チルノちゃんだもの」

 

「なんでアタイだけ!?」

 

 

 この山でまだ雪の残る場所がある。

 人の手届かぬ幽谷の彼方、この地に住まう妖精でさえ触れられぬ天狗の隠れ里。高い標高と幾重もの妖術で守られているおかげで、正確な位置を知るのは同族ぐらいのもの。勇儀の手によって破られた結界の修復は済まされてしまっているので、すでに八雲紫でさえ簡単に侵入することはできない。だからこそ、天狗ほどではないがゴシップ好きの妖精たちは口々に噂するのだ。

 やれ、山のような大男が選ばれただの、鷹みたいな顔をした女天狗に違いないだの。尾ひれや胸びれは当たり前、時にはトビウオの翼さえ貼り付けられて話は軽やかに飛躍していく。

 

 

「きっと新しい大天狗は、古道具屋の店主みたいな理屈っぽい奴よ。たまに鼻高々だし、むしろアイツが大天狗?」

「それならまだ良いけど、花の妖怪みたいに私たちを容赦なく吹き飛ばす奴だったら嫌だなぁ。もしアイツが大天狗になったら、あれの名前は天狗ビームになるの?」

「ふ、ふーんだ、みんな遅れてるわね。アタイは誰が大天狗になったのか知ってるんだから!」

 

 

 雪解けの水に遊ぶ氷精の足先。

 すると冬が息を吹き替えしたかのように、水は真っ白な華を咲かせながら凍りついていった。真っ青なワンピースに、空に透けるような青髪と美しい氷の羽根。自称『最強』の妖精であるチルノは、ついつい悔しくてでまかせを口にしまっていた。

 

 

「えっ、チルノちゃん知ってるの!?」

「夏日で溶けかけた氷みたいな頭だと思ってたのに、実は物知りだったんだ!」

 

 

 話の流れからすれば嘘と分かりそうなもの。

 しかしそこは妖精たち、たちまち綻びてしまいそうな氷精の虚勢を頭から信じていた。春の陽射しに似たキラキラとした目を向けられて、チルノは「やってしまった」と内心で頭を抱える。何気にまたヒドいことを言われているのだが、そちらに反応をする余裕はなかった。

 

 

「そ、そうっ、今朝、白狼天狗たちが立ち話をしているのを盗み聞きしてやったのよ!」

「へぇー、それで誰が選ばれたの?」

「勿体ぶらないで教えてよ、チルノちゃん!」

 

 

 そんな重要なことを、白狼たちが道端で話すはずはない。しかし妖精たちに天狗の機微は分からない。にわかに騒がしくなった仲間の妖精たちに、チルノは居心地の悪さを存分に感じさせられることになった。もちろん天狗の内部事情のことなど知っているわけもなく、むしろ大天狗がどうのというのは今日初めて耳にしたくらいだ。ここで引くわけにもいかず、チルノは続きを紡いでいく。

 

 

「き、聞いて驚くわよ。流石のアタイだって、初めは信じられない気持ちで胸が一杯だったんだから」

 

 

 ともかく適当な名前を出して誤魔化そう。

 どうせ明日には忘れている、それが氷精の導いた答えであった。皮肉なことに妖精の記憶力がどの程度のモノなのかは、他ならぬチルノ自身が知っている。こんな他愛もない話は、これから霧の湖にいって水遊びでもすれば全員の頭から流れ落ちていくはずだ。

 

 

「で、新しい大天狗は誰なの?」

「あ、それはね……げ、ちょっと待ってね」

 

 

 だが、ここで困ったことが起きた。

 自分には天狗の知り合いが殆どいないのだ。そもそも天狗というのは誇り高い妖怪で、同時に高慢な者が少なくない。どこにでもいる妖精に名乗ったり、まともに言葉を交わそうする変わり者は珍しい。子供のように遊び回る自分たちを鼻で笑って飛び去るか、邪魔なら葉団扇で吹き飛ばしてくる。せめて一羽くらいは名前を言っておかないと、この場を乗り切れない。

 その時、ふと頭をよぎったのは燃えるような紅葉の輝きの中に浮かんでいた純白の双翼だった。ずっと前に人里で拾った新聞に載っていた写真を、氷精の少女は思い出したのだ。

 

 

「………そう、あの白いヤツ。白い翼の天狗が選ばれたって言ってたわ!」

 

 

 無意識に声には力が入っていた。

 その拍子に脚を浸けていた小さな水流が凍りつく、気持ちが昂ぶっていたからだろう。透明な氷の華は小さな草花を閉じ込めて、色付きの硝子細工のように艶めいていた。ここに趣きの分かる人間か妖怪でもいれば、一時にしろ目を奪われていたかもしれない。だが、そこは妖精同士である。

 

 

「えー、それってあの弱っちそうな鴉天狗でしょ」

「山の妖怪に襲われても逃げてばっかりだったよ。それなら、まだ古道具屋の……リンリンだっけ、の方が信じられるわ」

「水遊びしてるところを見たことあるけど、妖力もそこまで無いし身体も貧相だったしぃ。チルノちゃん、仲間外れにされて悔しいから嘘付いてるんじゃないの?」

「ち、違うもん!」

 

 

 空に架かる虹も水面を跳ねる光も、彼女たちの心を惑わせることはない。自然の一部であるが故に、いちいち何かを思うことがないのだろう。良くも悪くも妖精ほど純真な存在は幻想郷にいない。木々の上で少女たちは、無邪気に氷精を嘲笑っている。

 

 こんなことなら、初めから白状しておけば良かった。

 

 それとも白いのではなく、一緒にいる黒い方の天狗を引き合いに出しておけば良かったのだろうか。しかし黒い鴉天狗なんてのは当たり前で、咄嗟に特徴が思い浮かぶのが白い方だったのだ。それがまさか、妖精からここまで評価が低いとは思ってもみなかった。これはもう謝ってしまった方がいいかもしれない。

 しかし騒がしい『何か』が樹木の上、その先に広がる春の空から狙い澄ましたかのように降ってきたのは、その瞬間だった。

 

 

「……ぎゃうっ!?」

「ち、チルノちゃん!?」

 

 

 枝をへし折る音が頭上を叩いたかと思えば、チルノは何者かに下敷きにされていた。その時にカエルが潰されたような悲鳴を上げてしまい、周りの妖精たちの笑みがますます深いモノになっていく。抗議の声をあげようとしても、肺が圧迫されていて言葉になりそうもない。そんなチルノには気がつかず、妖精をお尻の下に敷いた『何者』かは頭を押さえながら口を開いた。

 

 

「い、たたっ……何よ、二人がかりなんだから少しくらい手加減してくれてもいいじゃない」

「む、ぐーー!」

「って、チルノじゃない。ごめんなさい、すぐ退くわ」

 

 

 すぐに助け起こされるチルノ。

 そこで初めて、自分の上から降ってきた者が誰であったのかを知ることになった。森の光を受けて、いつか新聞で見た写真とは印象の違う純白の翼がそこにある。藍色のガラスを溶かして、丸く固めたような碧眼がチルノを見つめていた。似ているようで自分とは違う色に、妙な気恥ずかしさを感じて目を背けてしまう。

 

 

「べ、別に、これくらいアタイは何でも……」

「ちょっと刑香、アレくらいは回避してくれないと文とは勝負にもならないわよ!」

「ーーー刑香さまっ、お怪我はありませんか!?」

 

 

 チルノの言葉を遮った二つの影。

 凍りついていた水たまりを踏み砕き、突き刺すような着地を決めた一本歯下駄。二人の天狗がチルノたちを挟むような位置で降り立っていた。周囲にいた仲間の妖精たちは事態を見守るために木々の影へと身を潜め、急に三人の天狗に囲まれる形になった状況。人間なら震え上がり、妖怪でも緊張の一つでもしようもの。しかしチルノは臆することもなく、目の前にいる白い鴉天狗の袖を掴んでいた。

 

 

「ねぇねぇ、白いの。どうして空から降ってきたのよ?」

「白いのって……まあ、いいか。ちょっと何百年ぶりかの『特訓』をしてるところよ。どうにも畑違い、いや『空違い』の勝負をする必要があるみたいだから」

「……ふーん?」

 

 

 よく分からなかった。

 空は空であって、頭の上に広がっているモノ以外にないはずだ。昼と夜なら光の色は変わるだろうが、この鴉天狗が言っているのはそういうことではない気がする。そこらの人間なら何気なく聞き流していたかもしれない刑香の言葉のはずだが、氷の妖精には妙に引っかかっていた。しかし、詳しく尋ねようとしたところで椛が代わりに口を開く。

 

 

「刑香さま、残念ですがお時間です。間もなく会同が始まりますので、里までご帰還ください」

「もうそんな時間なの?」

「ええ、夜明け前からよくぞここまで続けたものです。博麗神社には射命丸さまが行ってくださりましたし、あとは夜を待てば良いかと」

 

 

 太陽の位置を見極める白狼の目は鋭い。少しだけ不満そうな顔をした刑香だったが、やがて諦めた様子で首を縦に振る。

 

 

「仕方ないわね、まだ完成には程遠いけど文なら上手く合わせてくれるでしょ。二人とも付き合ってくれてありがと」

「はいはい、これくらいでお礼を言ってたらキリがないわよ。せっかくなんだから、刑香はもう少し偉そうにしてみれば?」

「少なくともアンタたちには、借りが多すぎて出来そうもないわ。だいたい、そういうのが嫌だから『命令』じゃなくて『お願い』したのよ」

「ま、刑香が『らしく』するなんて想像も出来ないけどさ。……ひとまず特訓は終わり、これから里に帰るなら格好だけでもソレっぽくしなさいな」

 

 

 会話についていけず首をひねるチルノ。

 そんな氷精の青髪を軽く撫でながら、刑香ははたてから丁寧に折り畳んだ布地を受け取った。装束に付いていた枝や葉を払い落とし、純白の髪を自らが起こした風で洗う。そして刑香が『それ』を羽織ったところで、茶髪の少女はからかうように声をかけた。

 

 

 

 

「ーーーさっさと戻るわよ、大天狗さま」

 

 

 

 

 たなびく長老家の家紋。

 刑香の天狗装束は土埃で汚れていたが、羽織がそれを覆い隠す。妖怪の時間である夜の闇と、人の暮らす昼の光を合わせたような紫の羽織。スミレの花よりも濃いソレは、相容れぬモノ同士を繋ぐような色であった。チルノは知る由もないが、深い紫は天魔と八雲紫の因縁を表している。それも、もはや過去のモノとなりつつあることも妖精たちが知ることはないだろう。

 

 

「だい、てんぐ?」

「……色々と事情があってね。やらなきゃいけないことがあるから、そのために上役の席を一つ頂戴することにしたのよ」

「ふーん?」

 

 

 やはり意味は分からなかった。

 組織においての権力争いや、権謀術数などは陽気な妖精には未来永劫に無縁なモノだ。背負う羽根の色と同じくらいに純粋な心を持つ氷の少女は、首を傾げることしかできない。少し考えようともしたが、答えに辿り着けそうもないので諦めることにした。それでもこれだけは伝えておこうと思ったのは、その純真さ故だろう。

 複雑な表情をしていた刑香に、チルノは笑みを向けた。

 

 

「良かったじゃない、白いの」

 

 

 ばさりと広げられた純白の翼。

 驚いたように瞳を広げた白い少女から答えが返ってきたのは、数秒の空白を挟んだ後だった。

 

 

「……そうね、良かったと思えるように頑張ってみようかな。少しだけ迷いもあったんだけど、アンタのおかげで何だか吹っ切れた気がするわ。ありがと、チルノ」

 

 

 そのやり取りを最後にして、三人の天狗たちは離れていくことになる。刑香の言葉に込められた意思をチルノが知ることはやはり無いだろうし、もう思い出すこともないだろう。それよりも草影から飛び出してきた仲間たちから散々に詰め寄られることの方が氷の少女には大事なことだったのだから。

 

 

◇◇◇

 

 

「ええ、そうです。白桃橋刑香は無事に大天狗として選ばれました。これならば、もう二度と山を追い出されることはないでしょう」

 

 

 さとりは『その人物』のことが苦手である。

 天魔のように嫌味しかない面倒な相手でも、星熊勇儀のように嫌味の通じぬ面倒くさい相手だからというわけでもない。苦手としているのは、その能力がまさに覚妖怪にとって『天敵』であるからだ。

 

 

「天狗の長老は己の過去と向き合う覚悟を決めましたか。結果として、幻想郷そのものも悪くない方向へ向かいつつある。あの鴉天狗が橋渡しとなったなら、天狗と八雲紫の確執が解ける日も来るでしょう」

「まあ、そのあたりの事情は私には与り知らぬところですが……」

「そのような言い方は感心しません。如何に地底で生きる妖怪といっても、幻想郷の行く末は無関係ではない」

 

 

 無機質な声が壁に反射する。

 ガラス細工の人形が話しているかのごとく、まったく感情の乗らぬ透き通った空気の波。美しい声であったが、さとりにとっては何よりも恐ろしい響きであった。本来なら言葉とは自らの心を映すモノなのだが、この存在から感情という概念を読み取ったことは一度もない。妖怪であろうと人間であろうと、今まで古明地さとりの瞳を逃れられる心を持つ者など存在しなかった。

 ただ、目の前にいる一人を除いては。

 

 

「ともかくご苦労でした、地霊殿の主」

「いえ、仕事ですからね……お気になさらず、四季映姫・ヤマザナドゥ様」

 

 

 ここは魂の流れ着く場所。

 命の灯火が揺らめく旅路を辿りたどり、その最期を迎えて初めて至る輪廻の結び目。死神の鎌が導き、死出の舟が繋げる生命の終わりの地である。冷え冷えとする大気によって肌から生気を引き剥がされ、さとりはその感覚に身体を震えわせた。旧地獄に住む妖怪である自分でさえ、好き好んで訪れたい場所ではない。それもそのはずで、ここは『是非曲直庁(ぜひきょくちょくちょう)』という裁判所であり地獄への入り口なのだから。

 

 

「そんなに緊張せずとも、アナタを地獄に落としはしません。少なくとも、今はまだその時ではない」

「いずれは地獄行きということじゃないですか!? 人間を襲うこともなく、私は慎ましく生きているつもりなのですが」

「外界との接触を断ち、ペットたちと屋敷に閉じこもる生活を善行とは呼べないでしょう。そもそも人間を襲うのは妖怪の視点から見れば『善行』です。その逆を悪行というつもりはありませんが、どちらでもない怠惰自体が罪なのは疑いようもない」

 

 

 言い返したいことは山ほどあるが、ここは口を噤むしかない。この少女と言い争いをすることほど、無益なことは退廃的な地底にすら無い。サードアイを持たずして全ての嘘を見破り、何者にも干渉されぬ絶対的な精神。地獄の裁判長相手に、あらゆる反論は無意味に過ぎる。交渉という交渉は通じず、決して意見を曲げることがないのだ。

 この幻想郷を担当する閻魔王、四季映姫・ヤマザナドゥがそこにいる。

 

 

「はぁ……貴女との会話は得難いモノではあるのですが疲れます。こんなことなら無理をしてでも、レミリアと一緒に博麗神社に行くべきでした」

「後の祭りですね、諦めなさい」

 

 

 黒塗りの執務机と椅子が軋んだ。

 目の前で悠然と座っているだけだが、放たれている気配は八雲紫や天魔すら凌いでいる。目を合わせることすらツライ、ひたすら床を見つめていたい気分だ。部屋を見まわしてみても、家具らしい家具は机と椅子を除けば小さな棚くらい。その上にはビロードの髪をした小柄な人形が飾られているが、アレはさとりの部屋に置いてあるモノと同じ通信用である。目線をやったところで、面白く感じられるはずもなかった。

 

 

「話さなければならないことが山のようにあります。せっかくの機会ですから聞いていきなさい。そう、アナタは他者への興味が薄すぎる」

 

 

 よし、逃げようと心に決めた。

 ここに来れば必ずといっていいほど、ありがたい話が待っている。彼岸からの土産だと言わんばかりに、延々と現世での行いについて閻魔から説教されるのだ。金箔に彩られた悔悟の棒は主人のやる気に反応したのか、活き活きと輝いている。昔は使い捨ての木簡だったが、再利用が出来るようにと幾分か丈夫になったソレが憎らしく感じる。

 それが掲げられた瞬間、さとりは弾かれるように椅子から立ち上がった。

 

 

「その話はまた後日に伺います。今日は急いで紅魔館まで戻らなければなりませんので、申し訳ありませんが失礼します」

「どうやら嘘ではないようですね、ならば気をつけて帰りなさい。小町に舟を用意させてあります」

「……お気遣い感謝します」

 

 

 思ったより簡単に開放されたことに、若干の違和感を覚えつつ地霊殿の主は閻魔へと一礼する。そして、この部屋からさっさとお暇するために足早に歩き出した。だが『これだけ』は伝えておこうと、ドアに手を掛けてから振り向くことにする。

 

 

「あまり『こちら側』に干渉されるのは、閻魔として好ましくないのでは?」

「……さて、どの話のことでしょうか」

「全てですよ。白桃橋刑香が八雲紫に勝利できたのは、外部からの干渉があったからです。そして、それは同時に現れた外からの迷い人が関係しているのでしょう。長い付き合いです、心を読めずとも私に隠せるとお思いでしたか?」

 

 

 会話はそれっきりだった。

 さとりが去った後に残されたのは微かな妖気だけ。あとは時計が針を打つ音ばかりが部屋に満ちている。多忙なはずの閻魔は何をするでもなく、客人の出ていったドアを静かに見つめていた。深い森に湧く泉のように、澄み切った光をした瞳には、生者には映らぬ何かが揺らめいているようだ。時計の針がたっぷりと三周ほどしてから、ゆったりとした動作で映姫は机の引き出しを開けた。

 

 

「思わぬところで、弱みを握られましたか」

 

 

 取り出されたのは銀色の手鏡。

 彼岸花や桜の花弁が彫られた優美ながらも、不吉な雰囲気を漂わせるソレは『浄頗梨(じょうはり)の鏡』。地獄の裁定者たる閻魔のみが持つとされ、対象となる人物の過去を余さず暴くとされるもの。その表面に映姫が触れると、まるで湖面のような波紋が鏡面を揺らしていく。

 そして、数秒後には鏡は『ある二人組』の姿を鮮やかに映し出していた。

 

 

ーーーねぇねぇ、ここなんだけど鍵が開いてるのよ。ちょっと覗いて写真取るだけなら、住職さんも許してくれるって

ーーー絶対に怒られるから止めた方が……もうっ、大学に苦情を淹れられても知らないわよ!?

 

 

 古めかしい仏閣で騒がしくしている少女たち。

 一人は茶髪に鴉羽色の帽子を被り、真っ白なシャツと黒いスカートを穿いた快活な娘。もう一人は金髪に白のナイトキャップ、そして自らの双眸と同じ色をしたワンピースを身に着けた理知的な娘。どちらも幻想郷の者ではなく外の世界、しかも『ズレた時間軸』に生きる少女たちである。

 もう一度、映姫が鏡面を撫でると二人の姿が溶けるように消えていく。そして次の映像で、少女たちはどしゃ降りの山奥に放り出されていた。

 

 

「まったく、黒幕などと馴れぬ役割を演じるものではありませんね。いずれ幻想郷に迷い込む運命であったとはいえ、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンには悪いことをしました」

 

 

 また上書きされた鏡の映像。

 そこには博麗神社で向かい合う巫女と、黒い鴉天狗の少女が映されている。口元の動きから何を話しているのか大凡の検討はつく。恐らくは大天狗の件と、今夜に行われるであろう『最初の決闘』についてなのだろう。幼い巫女はその言葉一つ一つに驚いたり笑ったりと、大げさとも思える反応を返していた。

 

 

「さて、これで本来の流れには戻せました。……あとは名付け親の責任を果たさなければなりませんね、アナタは何も覚えてはいないのでしょうが」

 

 

 砂時計をひっくり返したかのように。

 霊夢と文が映っていた映像から、八雲紫と白桃橋刑香との決闘。そして地底でのフランドールと紅美鈴、三羽鴉と星熊勇儀の戦いへと。それが終わると今度は八雲紫がレミリア、文とはたてがフランドールと向かい合っていた。刑香の翼がへし折られる凄惨な映像も、流れていく。

 

 やがて鏡は映し出す、物語の始まりを。

 

 八雲紫と刑香の出会い、更には妖怪の山から追放された日さえ遡る。茨木華扇に気に入られ、伊吹萃香の片目を奪った戦い。果てには姫海棠はたてとの出会いにまで、鏡は辿り着いていた。そして最後に刑香にとっての一番古い親友、射命丸文が映ったところで映像は途切れることとなる。

 

 

「浄玻璃の鏡は、生者を裁くために存在します。本来ならば、対象が生まれてから死ぬまでを暴きだす。しかし、この鴉天狗の場合はーーー」

 

 

 一度は砂嵐となっていた鏡面上。

 そこへと唐突に映り込んだのは映姫と小町、そして『幼い鴉天狗』がこの部屋で戯れている姿であった。これは八雲紫や伊吹萃香でさえ知らないこと、あの純白の少女の始まりを知る者はあまりに少ない。

 

 

 しばらくそれを眺めてから、閻魔はため息をついて鏡を机の中へと仕舞い込むことにした。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十四話:旅立ちのスピカ

 

 

 高らかな音色は神楽鈴(かぐらすず)

 穢れを祓うソレは、古来より神懸かりのための儀式の一部であった。神職にある者が己の身体に神を宿し、人ならざる者と人との橋渡しとなる。外の世界では形骸化し、喪われてしまった神聖な在り方である。幻想を泡沫の夢とし、現実を確固たる真実とする世界。

 かつて魔術の一部でしかなかった科学のみを振りかざす人間に、幻想へと触れる術はないのだから仕方のないこと。しかし、博麗大結界を挟んだ内の世界、この幻想郷では『巫女』という存在は正しく現役であった。

 

 

 流石は博麗の巫女様だと、誰かが感嘆するように呟いた。

 

 

 人々が見つめるのは小さな舞台。

 そこで紅白の袖を広げて、空間を色づかせているのは一人の少女。まるで遊ぶようにして舞いを奏でては、雅やかな気質を放っていく紅と白。十分すぎるほどに大きな足場で繰り広げられる舞踊は、ささやく風のごとくに流麗だった。これは継承の儀、これまで仮の立場であった少女が『博麗』となるための儀式である。白い鴉天狗に遅れること数日、幼い巫女もまた一歩を踏み出したのだ。

 参列者の大半は人里の有力者たちで、誰もが新たな守護者となる少女のことを期待と不安の入り混じった心で見守っている。

 

 

「‥‥‥霊夢のヤツ、舞踏の練習なんて殆どしてなかったくせにメチャクチャ上手いじゃないか。やっぱり才能ってやつは不公平だぜ」

 

 

 観衆の中、不満そうな声を漏らす者が一人。

 神社の森が霊気に震え、周りの人々は残らず巫女に畏敬の念を向けている。その中で唯一、霧雨魔理沙は人間に向ける感情を霊夢に抱いていた。

 ちょっと立ち上がって歩いていけば、舞台に上がれば手の届くような位置。たったそれだけのはずなのに、自分と霊夢との間に横たわる距離があまりにも遠い。そのことが、酷く不快だった。

 

 

「魔理沙、黙って巫女様の舞いを見ていなさい」

「分かってるよ、親父」

「この場だけでも御父様と呼びなさい」

「分かったわ、御父様」

 

 

 隣の父に諭されて口をつぐむ名家の令嬢。

 日の光に輝く金髪を結い上げた少女は、いつもの白黒ではない鮮やかな着物を風に遊ばせていた。忠告されて数秒は不満そうに友人の舞いを見つめることにしたが、やはり退屈だった。すぐに父親の顔を盗み見る作業へと移ることにする。

 眉間に刻まれたシワは如何にも神経質そうで、痩せた頬は弱々しさより先に厳格な雰囲気を思わせる。人里で名を知らぬ者はおらず、多くの人々から尊敬の念を抱かれている名士。打算的で無駄なことを嫌い、それ以上に妖怪や怪異を嫌う。誰よりも幻想郷の人間らしい人間だった。

 つまり、霧雨魔理沙にとっては何者よりも退屈な相手である。

 

 

「‥‥‥‥‥やっぱり暇だな、よーし」

 

 

 するりと取り出したのは中身の波打つ小瓶。

 それを父親から見えないようにして袖口で開封して、呪文を一言二言と口にする。瓶の中身は一瞬で沸騰したかのように泡立つと、その量をたちまちに減らしていった。そして底に刻まれていた『熱』の魔法陣が顔を覗かせた頃に、儀式の最中にも関わらず魔理沙は大胆に立ち上がった。

 

 

「よっと‥‥‥‥黙ってアイツの晴れ姿を見ているのも悪くないんだけどなぁ。せっかく『面白そうな連中』が集まってんだ、あっち側に行かないと魔法使いの名が廃るってもんだぜ」

 

 

 イタズラ好きな笑みを漏らしながら、人間たちの集まっている場所から離れていく。父親や他の者たちが騒ぎ立てる様子はない。初めて使う魔法だったが、上手くいったらしい。精神に負荷をかけない術式にしたので、あまり長くは持たないが暇つぶしをするくらいの時間は稼げるだろう。きっと父親の隣には、彼にしか幻視()えない愛娘がお行儀良く座っているに違いない。

 やがて目的の場所が近づくと、こちらに気づいた赤髪の女性が目を丸くする。

 

 

「あれ、どうしたんですか。もしかして迷子だったりします、魔理沙さん?」

「いやいや、この広さと人数程度で迷うほど子供でもないぜ。退屈しのぎに会いに来たんだよ、美鈴」

 

 

 たどり着いたのは『もう一つの勢力』。

 目も眩むような金髪と藍色の瞳をした美しい女性、その傍らに座る幼い黒髪の式神。

 青みがかった銀髪と血の輝きを秘めた紅い瞳をした令嬢、主を守護する燃える赤髪の門番。

 そして、その二組には及ばずとも人知の届かぬチカラを備えた大勢の怪異たちが首を揃えている。そう、ここは妖怪たちのために設けられた座敷であった。

 

 

「あまり私たちの席に近づくのは良くないと思いますよ。人里のお偉い方々は私たちの正体にも気づいておられるでしょうから」

「認識をずらす魔法をたっぷりと撒いてきた。そのあたりの対策に抜かりはないぜ?」

「うわぁ、さすがは霊夢さんの友人なだけありますねぇ。パチュリー様が聞いたら苦笑いしそうです‥‥‥」

「まあ、気にするなって。それよりちょっと詰めてくれ、私もここで霊夢を見守るよ」

 

 

 若干引いている美鈴だったが、身体をズラして魔理沙の座れる場所を確保してくれた。刑香のようにツンツンしているわけではないが、お人好しな雰囲気が似ている。前に宴会で見かけた時に仲が良さそうだったが、こういう所が似た者同士なのでお互いに相性が良いのかもしれない。

 頭の奥を痺れさせるような声がしたのは、そんなことを考えている時だった。

 

 

「ーーーちょっと美鈴、ここは人ならざる者のいる領域よ。ただの人間がいるべき場所ではないわ」

 

 

 頭の奥底に突き刺さる鋭い響きがやってきたのは、美鈴を挟んだ隣側。もう腰を下ろしていた魔理沙は身をかがめるようにして、そっと門番を壁にして声の主がいる方を覗き込んだ。一瞬だけ絡み合っただけだというのに、真紅の視線に気圧されてしまう。その際に喉の奥から小さな悲鳴が湧き出してきたのを、すんでのところで噛み砕いて口を開く。

 

 

「っ、な、何だよ。わ、私がここにいて駄目な理由でもあるのかよ‥‥?」

「この幻想郷のルールとして望ましくないと言っているのよ。妖怪の領域に人間があまり近づくべきではない、少なくとも表向きは『そういうモノ』なのでしょう?」

 

 

 冷え切った瞳で告げるのは、レミリア・スカーレット。先の異変、つまりは『吸血鬼異変』を起こした張本人で、八雲紫や刑香たちによって敗北した魔族である。

 物心ついた頃から、ずっと平穏であったはずの幻想郷を初めて掻き乱した存在。しばらくは大人しくしているだろうと霊夢は語っていたが、その事実にやはり畏怖の一つくらいは覚えてしまう。そんな魔理沙を観察するように揺らめいていた紅い眼差しは、やがて興味を失ったようで巫女のいる舞台へと戻された。

 

 

「気にしないでください、魔理沙さん。ああ見えて、お嬢様も心配して言っているんです」

「何で私が人間の心配なんて‥‥‥‥ああ、でも確かに広義的には間違ってないから否定はしないでおこうかしら」

「アンタが私を気遣う理由こそ見当たらないんだが」

 

 

 相変わらず真紅の瞳は霊夢だけに向けられている。

 それでも多少の意識は割いてくれたらしく、レミリアは答えの代わりに掌を魔理沙の視界に入るように晒してきた。制止するような動作からするに、黙っていろということだろうか。これでは父親からされたことと変わらないではないかと、幼い魔法使いはがっくりと肩を落とした。結局、誰もが魔理沙を『そちら側』へ踏み込ませまいと邪魔をするのだ。

 しかし、次にレミリアが口にしたのは思いも寄らぬ言葉だった。

 

 

「顔を上げなさいな、未だに銀の靴さえ持たない人の子よ。こんな程度でへこたれるなんて、臆病風に吹かれた獅子よりも情けない」

「‥‥‥‥それなら、勇気の心を欠片でもいいから恵んで欲しいもんだ。無いなら額に祝福のキスでも構わないぜ?」

「あら、西洋の物語にも通じているなんて博識ね。気に入ったわ、少しだけアナタへ肩入れしてやることにしましょうか」

 

 

 どうして物語の話などしたのだろうか。

 ああ、そういえば自分が妖怪やら巫女やらと本格的に関わり始めたのは刑香がキッカケだと思い出す。あの物語の序章は竜巻からだったが、霧雨魔理沙の場合は天狗風だった。そんなことに引っ掛けて西方の童話のことなど出してきたのだろうか。だとしたら、レミリアは随分と少女らしいところのある吸血鬼らしい。その事実が魔理沙の心を氷解させる。

 

 

「旅立つ気があるなら、もう覚悟を決めなさい。アナタなら分かっていると思うけど、人間が生き方を選べる時間は長くない。これ以上延ばしてしまうと、残してしまうモノの重みに潰されてしまう」

「それは、レミリアの経験則なのか?」

「五百年近くも生きていると、色々あるものよ。今だって私たちは故郷を捨てて幻想郷にいるし、ルーマニアに置いてきた財産は決して軽くない。刑香もそうだったけど、選択を迫られるのが人間だけだと思わないことね」

 

 

 何かを失う代わりに未来を求めて飛び立つ。

 その一連の流れは、人間であろうと妖怪であろうと変わりはない。妖怪としてではない、これは長く生きた先達として助言だ。ああ、そうだと魔理沙は改めて理解する。悩んでいる暇なんて、『普通の人間』である自分にはこれっぽっちも無かったのだ。

 

 

「はっ、わかったよ。霊夢や刑香、あとはレミリアと同じように私だって覚悟を決めてやる」

「あら、このまま人里で暮せば安定した人生を送れると思うわよ?」

「ここでそんなこと言うのかよ。……でも、そっちの方が私にとって幸せな人生だったりするのか?」

「ぷっ、くくっ。何を言うかと思えば……それは悪魔に尋ねることじゃないわね。何十年か費やして自分自身で確かめなさいな」

 

 

 春の太陽を遮る日傘の下、紅い悪魔が不意をつかれて笑い出す。悪魔である自分がそんな質問をぶつられるとは思わなかったのだろう。運命を操る吸血鬼の少女は愉快そうに表情を崩しながら、初めて霧雨魔理沙をはっきりと見つめていた。

 

 

「親不孝な娘ね。唆した私が言うのも難だけど、きっと傍から見れば最低の選択よ」

「軽蔑される覚悟は出来てるさ。それでも私の生き方は私が決める」

「軽蔑なんてしないわよ、少なくとも『こちら側』の連中はね」

「そりゃ良かった………それだけ分かれば十分だ」

 

 

 この瞬間のことは忘れない。

 後から思い出してみると、随分と短いやり取りだったと未来の自分は驚くのだろう。霊夢や紫ではなく、最後に背中を押してくれたのが吸血鬼だという事実も合わせて。どのみち早いか遅いか、その二択だったとは思う。御礼の一つも告げず、少女は立ち上がる。

 

 

「さて、一足先に家へ帰るよ。親父や使用人たちに気づかれる前に準備をしないといけないからな」

「……そう、きっと何度も後悔することになるでしょうね。同じだけ良かったと思うこともある。アナタの旅立ちに月明かりの輝くことを祈りましょう」

「くく、魔法使いの旅立ちには最高の言葉だぜ」

 

 

 レミリアの言葉に今度は魔理沙がニヤリと笑った。

 悪魔に幸運を祈られるなんて、ただの人間ならば縁起でもないことだ。向こうにとって予想通りの答えだったようで、紅い吸血鬼はヒラヒラと手を振っていた。二人の会話に黙って耳を傾けていた美鈴が「頑張ってくださいね」と小さく口にしたのを皮切りに、幼い魔法使いは歩き出した。

 

 

「ーーーそれでは、この瞬間より幻想郷における異変解決をあまねく『命名決闘法』、『スペルカードルール』に則ることを宣言します」

 

 

 霊夢の言葉と拍手の音が聞こえる。

 祭事の舞いが終わったのだろう、しかし振り向いてやる気はない。今までは、ここが魔理沙の非日常だった。博麗の巫女やスキマ妖怪、鴉天狗と会うことのできる場所。これからは、それを『日常』にしなければならない。こんな時のために父親宛の書き置きは用意してあるが、荷物を纏めるのは時間がかかる。

 

 

「待ってろよ、霊夢」

 

 

 あとは当面の寝床だが、それは空いてる小屋に覚えがあるので問題なさそうだ。

 

 

◇◇◇

 

 

「ーーーそれでは、珍妙なカラクリで我らの里を覗いていた河童への処罰は貴方様が行うと?」

 

 

 妖怪山の奥深く、音に聞こえし天狗の隠れ里。

 そこは山霧に覆われ、春の水滴に濡れた木々が枝をしならせる幽谷(ゆうこく)(その)。幻想郷で唯一の御山において、その支配者として君臨する者たちの住居である。

 群れを作る妖怪というのは珍しく、それも自分たちで独立した『社会』を形作るとなれば極少数に限られる。集団であることの不自由を許容できる精神性と、多勢であることを利点にできる高い知性を持ち併せた妖怪であること。そして集団を導く、強大な能力を持った頭目がいることが最低条件となるからだ。

 

 

「ええ、何か問題でもあるかしら?」

「あの河童め、河城にとりと貴方様は親しき仲だと(うかが)っております。まさか今回の沙汰に手心を加えるつもりではありますまいな?」

「顔見知りというのは不利に働くばかりではないわ。それに重い罰を課して事を荒立たせるよりも、二度と起こさないように釘を刺す方が肝要でしょう」

 

 

 里の中央に置かれた会議場。

 他種族の妖怪たちは当然として、鴉天狗たちも理由がなければ立ち入ることなど出来るはずもない禁制の領域。かつては八人の大天狗、そして種族の長である天魔によって重要な会合が行われていた場所である。天魔を除く上役たちが彼岸の向こうへと旅立った後、ここでは彼らの一族による権力争いが繰り広げられていた。決まるモノも決まらず、そこには時間ばかりを空費する日々があったのだ。

 

 

「ふむ…………まあ、大した話でもないですからな。わざわざ貴女様が気に掛けることに目を瞑るなら、我らから特に異論はごさいません」

「なら、この話は私が預かるわ。河童たちへの沙汰も追って検討しておく。あの娘に手を出すことも、これ以上の詮索も一切許さない」

「御心のままに、白桃橋様」

 

 

 その状況に雪解けが訪れたのは、つい最近のこと。氷を溶かすには幾分白く、それでいて夏空の瞳を持つ少女が大天狗に選ばれてからだ。緩やかにではあるものの、妖怪の山に活気が戻ってきている。

 強い妖力を誇っていたわけでも、組織の上層部との繋がりを保持していたわけでもない。戦闘に関する能力は高くなく、頭の回転にしても『スキマの賢者』や『傾国の大妖狐』といった規格外の者たちには及ばない。そんな小娘が大天狗に選ばれたところで長続きするはずがない、それが天魔を除いた上層部の見立てであったにも関わらず見事と言える働きだった。

 

 

「ところで、勇儀様に壊された結界の改修は進んでいるのでしょうか。アレはスキマ妖怪、つまりは八雲紫の侵入を防ぐために重要な……」

「それなら二日もあれば元通りに出来るそうよ。それに今は博麗の継承式が行われたばかり、紫が大きなことをする可能性は低い。何かあっても私が相手するから、アンタたちが心配することじゃないわ」

 

 

 長老の選択は間違っていなかったのかもしれない。

 この新米の大天狗は決して弱くはないし、頭の回転も想像していたよりも相当早い。しかも対立する意見を軽視することなく、どの程度で妥協してみせれば遺恨を残さないのかが分かっている。まだまだ甘いところが多いものの、なかなかどうして(まつりごと)における最低限の舵取りは出来ているのだ。射命丸あたりの入れ知恵もあるだろうが、ある程度は初めから『為政者としての才覚』を持っていたのだろう。

 

 

「それじゃあ今回の議題は以上、これにて解散としましょう」

「ーーー承知致しました」

 

 

 終了を宣言する白い大天狗。

 それに返答すると同時に、天狗たちが一斉に(こうべ)()れる。このような形で自分たちより遥かに年下の小娘に敬意を示すのは、彼らにとって好むところではない。それでも純白の少女が広間から去るまでの間、誰一人として顔を上げることも(しか)めることもなかった。

少なくとも無闇に敵対するよりは恭順(きょうじゅん)した方が良い、そう思わせるだけの強い輝きを、あの瞳は持ち合わせていたのだから。

 油断ならない娘であるが、信頼できる娘なのかもしれない。天狗たちは主のいなくなった上座を、複雑な眼差しで睨めつけていた。

 

 

 

 

 

「やれやれ、まだまだ御山は寒いものね。麓は雪解けが訪れているようだけど、このあたりはまだ道半ばってところかしら」

 

 

 夜は妖怪の時間である。

 周囲はとっぷり闇に沈み、光源となるものは夜空に浮かんだ月と星空のみ。とても視界の全てを照らすような力はない。手元のお盆には淹れたてのお茶が入った急須、こぼさないように少女は気をつけて廊下を進む。天魔が秘蔵していた茶葉を惜しげもなく使ってやったので、風味は保証付きという代物だ。

湯呑みは二つ用意したし、これから向かう部屋にいる相手と味わうのが楽しみである。

 

 

饅頭(まんじゅう)も美味しそうなヤツを頂戴してきたことだし、良い夜を過ごせそうね。まったくもう『あの子』の頼みとはいえ、こういう役回りは疲れるわ」

 

 

 やがて辿り着いた部屋。

 古い木の匂いがする建物は長老の屋敷とは比べるべくもなく、こじんまりとしたモノ。天狗の里では珍しくもなく、人里にあったとしても目に止まるような華美な雰囲気は欠片もない。長老邸の端に立つここは、とてもではないが『大天狗』が住居にしているとは思えない物寂しい雰囲気が漂っていた。喉の調子を整えるように咳払いをしてから、白い少女は廊下と部屋を区切る障子に手をかける。

 

 

「ーーー入るわよ」

 

 

 まず己を迎えてくれたのは、山のような書類だった。

 部屋に備え付けられた棚に入り切らず、この数日間で詰め込まれたモノが溢れに溢れている。まるで床が浸水しているような始末だ、足の踏み場もありはしない。飛んでしまえば移動に問題ないとはいえ、流石に酷い有様である。お盆の中身を零さないようにして、辺りを見回していく。しばらくして、巻き物や書類が小さく動いているのを発見する。

 

 

「ああ、そっちにいたのね。同じ色をしているから分からなかったわ」

 

 

 本人が紙と同じくらい白いので見つけにくかったが、どうにか見つけることが出来た。そちらへと忍び寄り、見下ろした視線の先には自分の両腕を枕代わりにして突っ伏している天狗少女の顔があった。小さな寝息が聞こえてくるのを確認してから、少女は己に掛かっていた『妖術』を解く。

 純白の髪はあっという間に(うるわ)しい漆黒へと変わり、空色の瞳は妖しくも凛々しい深紅の輝きに染め上げられる。まるで鍍金(めっき)が剥がされていくように、気配そのものが塗り替えられていく。数秒としないうちに、白い少女としての面影は消え失せていた。

 

 

「……ん、ああ、帰ってきてたんだ。おかえりなさい」

「あやや、こんなところで寝ていると風邪をひきますよ。休みたいなら布団を敷いてあげますから、そっちに移りなさい」

「せっかくだけど遠慮しておくわ。今から横になると、きっと朝まで起きられないだろうから。そんなことより会議はどうだったの、にとりの件は解決してくれた?」

「私にかかれば当然ですよ。いやー、私の活躍をアナタにも見せたかったですねぇ、刑香」

 

 

 白から黒へと変化した双翼。

 それまで身に着けていた深紫の羽織を外しながら、射命丸文は得意気に口元を緩ませていた。その胸元には梵字(ぼんじ)の描かれた御札がチラついている。墨痕(ぼっこん)鮮やかに『変化(へんげ)』と銘打たれたソレは、仏道の中でも極めて高位の者によって作成された術具だ。やれやれといった様子で座り込むと、文はそのまま刑香へともたれ掛かる。

 

 

「天魔様の術は予想以上でした、あの数の天狗にバレませんでしたよ。この効力ならば、しばらく私がアナタの姿で会議に参加することも可能でしょう。ふふ、刑香に連中の相手はまだ早すぎますからねぇ」

「……悪いわね、重たい役目を背負わせてしまって」

「私とアナタの仲なんです、このくらいは構いませんよ。それより、はたてとの特訓は如何でしたか?」

「勝負としては負け越しだったけど上出来よ。これなら本気のアンタと戦っても、即座に撃墜されることはないでしょうね」

「手加減はしてあげますから、せいぜい良い勝負を演じてくれると助かりますよ…………ふぁ、眠い」

 

 

 流石に少し疲れた。

 昼間は霊夢への伝言のために神社へ、その後は一癖も二癖もある連中を相手にしての会議。例の訓練をしていた刑香も疲労が溜まっているようだが、こちらはこちらで消耗が激しい。やろうと思えば徹底的に説き伏せることも出来たかもしれないが、それをやってしまうと禍根を残す。後々に刑香が大天狗としてやっていく際の敵を作ってしまうのは避けたかったのだ。

 刑香を助けるためでなければ、是非ともお断りしたい役回りである。

 

 

「……お互いに今夜は『あと一仕事』残っているわけだけど飛べそう?」

「少しだけ休みましょう。私は一戦やるだけで終わりですが、特に刑香は二戦もこなさなければならないでしょう?」

「……分かった、小休止を入れてから向かいましょうか。戦っている最中に力尽きて墜落なんて笑い話にもならないわ」

 

 

 それではお茶にするとしよう。

 あの博麗の巫女と会うのも悪くはないが、今はそこまで魅力を感じる話し相手ではないのだ。将来性には恵まれていそうなので、もしかしたら歴代の中で最も面白い巫女になるかもしれない。自分とはたて以外に心を開かなかった刑香を、あそこまで惹きつけたことが何よりの証拠だ。

 だが未来は未来、現在は現在だ。目の前にいる妹分との過ごす時間の方が心安らぐ。湯気の立つ急須から注がれたお茶は二つ、その片方を刑香へと手渡した。相槌も目配せもなく、コツンと自分たちは湯呑みで乾杯する。

 

 

「『アレ』のことなのだけど、枚数は三枚でどうかしら?」

「四枚でも五枚でもご自由に、私はアナタに合わせます」

「むぅ‥‥‥‥随分と余裕じゃない」

「実際余裕ですからねぇ、負ける要素が見当たりません」

「へぇ、そこまで言われると本気で勝ちに行く必要がありそうね。元より手を抜いてあげるつもりは無かったけど、文字通りの全力で相手してあげる」

 

 

 今日は宵闇が深い。

 まるで光届かぬ洞窟の底に迷い込んだかのように、漆黒の空が彼方まで広がっていた。そして開けっ放しになった障子から眺める星々は色とりどりのガラス玉のごとく、一面に散りばめられている。澄んだ空気は呼吸するたびに、少しずつ頭を冴え渡らさていく。もう一度だけ、ぬくもりを感じようと刑香へと身体を傾けると小さな笑い声が鼓膜を満たす。

 どれだけそうしていただろう、気がつくと刑香もウトウトと夢見の舟を漕いでいた。その手元には妖力で編まれた『カード』が三枚、それぞれには三羽鴉の共同で考えられた『スペル』が刻まれている。いつの間にか疲労は遠のいており、文が起き上がると刑香もまた目を擦りながら立ち上がる。お互いに目配せをして頷きあう、準備は整ったようだ。

 

 

「さあ、行くわよ文」

「ええ、行きましょう刑香」

 

 

 静まり返った宵闇の空へと、白黒の天狗少女たちは翼を広げて飛び立っていく。これは後々に『幻想郷縁起』にて語られることとなる幻想郷の転換点。この世界の行く先を決定付けることとなった一夜、少女たちによる演目の幕が華々しく上がろうとしていた。

 

 

 ーーーさあ、幻想郷で初となる『弾幕ごっこ』を始めましょう

 

 

 遠い遠い何処かで、誰かが呟き声が闇夜へと溶けていく。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十五話:少女たちは幻想のままに

 

 

 夕暮れに映える人里の家々。

 連なる建物が地面を黒く染めていく様は、まるで水の入ったタライをひっくり返したかのよう。閉門を告げる鐘が重々しく鳴り響き、それまで開け放たれていた門が締め切られる。これより来たるは(あやかし)の刻、人里の外と内は分離されて昼に生きる者たちは夜へ備えることとなる。

 外堀と外壁で囲まれた集落は、しかしながら低級の妖怪ですら侵入は容易いだろう。このような護りでは、空飛ぶ妖精たちすら塞き止められない。故に人々が無事に夜を乗り越えられる要因は、別にある。

 

 

「旦那様っ、お嬢様が屋敷の何処にもおられません!!」

「心配です、もう日暮れが訪れているというのに………」

 

 

 家人が騒ぎ立てる声で、男は現実へと引き戻される。その手には書き置きとみられる手紙が握られており、男はいつもより更に無表情な顔でソレを見つめていた。

 一向に反応を示さない主人、彼にしては珍しい様子に家人たちが押し黙っていく。たった一枚の紙切れを読むことに、彼がここまで時間を要するはずがないのだ。

 

 

「ーーーもう良い、アイツのことは探さなくていい。それより直に日が暮れてしまう、夕餉(ゆうげ)晩酌(ばんしゃく)の用意を急いでくれ」

「だ、旦那さま!?」

 

 

 手紙を容赦なく破り捨てた男。

 白の混じった頭髪と深いシワの刻まれた顔から伝わってくる感情は何もない。怒りを抱いているのか、呆れているのかも分からない。手紙に書かれている詳細は分からないが、大筋ならば他の者にも察しはつく。自らの娘からの絶縁状、そんなものを叩きつけられて平気な親はいるまい。

 万が一の飛び火を恐れた下女たちは蜘蛛の子を散らすように仕事へ戻り、下働きの小僧共もまた急いで主人の視界から立ち去っていく。

 

 

「……あの馬鹿娘め、これだと野盗に入られたのと変わらんだろう。もう少し手心を加えてくれても良いだろうに」

 

 

 外から吹き込む春風が冷たい。

 もぬけの殻になってしまった一人娘の部屋は、思ってもみないほど広かった。目ぼしき調度品や金目のモノは根こそぎ持ち去られ、どこか寒々しさすら感じられる。

 値の張るモノだけ運び出すとは、よくもまあやってくれたものである。貰えるモノは貰っておく、そのあたりは商人である己の娘ということなのだろうか。

 娘がいなくなったこと気づいたのは、巫女の継承式が終わってからのことだ。いつまでもお行儀良く沈黙している様子に妙なものを感じ、肩に手を置こうと思ったらすり抜けた。やられたと気づいてしまえば、話は早い。自分で自分の頬を思いっきり殴りつけてやれば、半人前の魔女がかけた幻術を解くには十分であった。

 

 

「……魔法と妖怪どもに、娘を取られてしまった。ろくでなしの男のところへ嫁に行かれた気分と、似たようなモノなんだろうな」

「ご愁傷様です、霧雨のご主人」

「何だ、お前も来てたのか?」

 

 

 夕日に延びる影一つ。

 家人たちが去ってしまった場にて、(たたず)む男がもう一人。沈む夕日に染められて、オレンジ色に輝いている銀髪。なかなかに整った顔立ちと男性らしい体格、柔らかな物腰とどこか影のある言動。それらは修行時代に多くの女性を惹きつけたものに間違いなかった。

 恐らくは魔理沙の行方不明に混乱した家の者たちが、わざわざ呼び寄せたのだろう。己の不甲斐なさから何と声を掛けたものかも一旦躊躇ったものの、とりあえずと霧雨の主人は謝罪の言葉を口にすることにした。

 

 

「すまない、ウチの娘のことで迷惑をかけてしまった。お前の店からは距離があるというのに、よく駆けつけてくれたものだ」

「構いませんよ。それに魔理沙のことで迷惑を被るのは、これからでしょう。今後の僕は『頼まれていた』通りにしていればいいですね?」

 

 

 男の名は森近霖之助といった。

 つい最近まで、ここ霧雨道具店にて見習い修行をしていた者で形式的には己の弟子に当たる存在である。楕円をした眼鏡の奥から覗く双眸(そうぼう)は金色をしており、わずかに妖気を帯びていた。

 

 

「アイツは私に似て頑固者だ、きっと困ったことが起きても私を頼って来ることはない。だから、その時はお前が力になってやって欲しい」

「言われずとも、そうさせていただきますよ。しかし、思ったより家を出るのが早かったじゃないですか。喧嘩でもしましたか?」

「そんなものは日常茶飯事だ、決め手になったとは思えんな」

 

 

 まだ十にも届かぬ幼子(おさなご)

 独り立ちするのは、まだ数年後かと思っていたところへ今回の出来事は霖之助にとっても寝耳に水だった。おかげで店に鍵をかけてくるのを忘れてしまったので、今頃は妖精たちにイタズラ大作戦を敢行されているかもしれない。

 

 

「まあ、いつの日か来ると分かっていたことだ。星は夜でこそ輝ける、私のように昼の生き方しか知らぬ男が父親では退屈だろう」

「心中お察しします」

「それは私のか、それとも魔理沙の心のことか?」

「どちらもですよ。人間の視点ならば貴方の親心を好ましいと思いますし、妖怪ならば魔理沙の選択を非難する気にはならない。なにせご存知のとおり僕は半妖ですからね、師匠」

 

 

 知的な光が眼鏡の奥で輝いていた。

 平坦ながらも落ち着いた声は、なだらかな丘を流れる清流を思わせる。見た目は人間の青年だが、その身体には妖怪の血が半分宿っている半人半妖。

 だからだろう、この男は閻魔を除けば誰よりも中立で冷静な視点を持っている。この男を独り立ちさせるのは、もう少し後にすれば良かったかもしれない。そうすれば、きっと魔理沙はーーー。

 ぱたぱたと廊下を向かってくる足音が聞こえてきたのは、そんなことを考えていた時だった。

 

 

「どうやら夕餉の支度ができたらしい。もし暇なら晩酌まで付き合ってくれないか?」

「せっかくのお誘いなのですが、個人的にヤケ酒は好みませんね」

「ヤケ酒をするのは私だけで、お前はタダ酒を愉しめば良いだろう」

「くくっ、流石は口がお達者だ。それなら是非、ご一緒させてください。今宵は『星』が綺麗な夜になりそうですから、酒をお供にして眺めたいと思っていたところです」

 

 

 さてはそれが狙いで駆けつけたのか。

 ジロリと睨めつけるが、当の本人は知らぬ顔である。軽く頭を小突いてやろうかと思ったが、痛がるフリをするだけなので止めた。これからも魔理沙の現況報告として、度々訪れてくることだろう。どうやら娘が独り立ちしてからも、悩みの種が尽きることは無いようだ。

 肩を落としつつ、霧雨の主人は小さく口元を緩ませる。夕日はまもなく燃え尽きる、茜色をした空は男の横顔を照らしつつ輝いていた。

 

 

◇◇◇

 

 

「いよーしっ、今日からここが私の仮住まいだ!」

 

 

 同時刻、とある森の小屋にて。

 父親たちの心配は露知らず、魔理沙は実家から持ち込んだ品々をぶち撒けていた。この時のために貯め込んでいた魔石や魔法薬、父親から貰った装飾品。いざという時は売り払えば、それなりの値段にはなると豪語するモノばかりだ。基本的に浪費家な自分である、金銭の蓄えはあまり多くないのだ。

 

 

「どうせなら親父みたく店をやるのも悪くないな。霧雨道具店、魔理沙よろず屋……よし、霧雨魔法店にしよう」

 

 

 ちなみに食料や寝具の類いは一つも持ってきていない、持って来る必要が無かったからだ。ここに来れば多少の蓄えがあることは分かっていたし、むしろ実家から持ち出せる荷物を増やすにはコレが正解だった。雨風を凌げて、家賃は要らず、食事も自炊可能。我ながら良い物件を見つけておいたものだと、魔理沙は満足そうに頷いた。

 

 

「くっくっくっ、しばらく家主は戻らないだろうからな。住まなくなった家は荒れやすいというし、ここは私が住んで管理してやろうじゃないか!」

 

 

 傷んだ畳へと寝転がる魔理沙。

 初めての冒険に出たような表情は、年頃の少女そのものだ。仰向けになると目についたのは、何度も雨漏りを修理した天井。ごろりと身体を横に向けると、可笑しな虹色の染みがへばりついた壁がある。どれも見知ったものである。それが何故か面白くて、小さく噴き出してから魔理沙は起き上がった。

 

 

「そういや、私が魔法を暴発させて付けた汚れだったなぁ。あの時は流石に怒られたっけ」

 

 

 部屋を歩き回ってみると思った通り、食料は置きっぱなしだった。味噌や米、そして乾燥させた川魚やら野菜が丁寧に保存されている。これだけあれば、ここでの生活に馴れるまでの数日間は腹の心配をする必要はなさそうだ。その間に暮らしの基盤を整えるとしよう。

 他にも何かないかと、書棚を漁ってみるが出てきたのは紙とインクぐらい。やはりというか、金目のモノは一つもありはしない。何度も注ぎ足されて、すっかりラベルの取れたインク瓶を手にする。かつての家主らしい香りを残した品々に、じんわりと胸の奥が暖かくなる気がした。

 

 

「しばらく世話になるぜ、刑香」

 

 

 ここは、あの白い天狗少女が住居にしていた神社である。インクと森の匂いが混ざった部屋は持ち主がいた頃と何も変わっていない。綺麗に折り畳まれた布団からはお日様の香りが漂っていた。まだ刑香が去って日の浅いこともあるのだが、今にも玄関から帰ってきそうな気配がある。

 しかし、あの鴉天狗が帰って来ないだろうことも魔理沙には分かっていた。

 

 

「寝床はあるし、食料も一週間分くらいの備蓄はありそうだな。勝手にいただくことになるけど刑香のことだし、とやかく言ってくることも無いだろ」

 

 

 言い訳はこんなところで完了だ。

 いずれ駄目になるモノなら、少しと言わずに丸ごと頂いてしまっても文句はないだろう。部屋の天井をぶち抜かれても許してくれるようなお人好しが、こんな程度で怒るとも思えない。恐らくは大丈夫だという結論に落ち着いた。

 赤く塗られた空が紫色に染まり、やがて周囲から光が消えていく。もうじきに日が沈むだろう、そして人の時間は終わりを告げるのだ。実家から持ち出したランプを魔法で灯しながら、幼い少女は小さく身震いをした。

 

 

「……まさか妖怪が襲って来ることはないと思いたいが、念のために用心くらいはしないとな」

 

 

 爪の先で散った火花。

 ランプに炎を点けるくらいなら、今の自分にも容易い。しかし妖怪避けの備えはどうだろうと不安がよぎる。刑香が地底に旅立っていた頃、霊夢と一緒にここで一晩を明かしたことはある。

 しかし独りで過ごしたことはないのだ。暗い風に煽られて、木々のざわめく音が妙にうるさい。ガラス越しの灯火は水面を泳ぐ魚の背中のように、ゆらゆらとした光で魔理沙の心を揺らしている。

 心臓はゆっくりと鼓動を速め、汗が背中から滴り落ちた。大丈夫なはずだという自信が、正体不明の恐怖に蝕まれていく。

 

 

「だぁーっ、やめだやめだ! そもそも一日くらい眠らなくても死にやしないっての。こうなったら、誰にも咎められないで魔法の研究を一晩中してやるぜ!!」

 

 

 結論として、魔理沙の心配は杞憂に終わることとなる。そもそも他の妖怪たちが、かつて天狗のいた住居に踏み入るわけがなかったのだ。単体での戦闘力は言うまでもなく、手を出せば確実に他の天狗からも敵対行動を取られる。八雲紫のような存在ならばいざ知らず、並の妖怪や人間が天狗から狙われて生き残る術はない。それは意図せずして、刑香が残した天狗の加護であった。

 しかも今夜に限り、少女を妖怪の脅威から遠ざける要因はもう一つある。

 

 

「ーーー何だ、この気配?」

 

 

 ぴたりと動きを止める魔法使い。

 伝わってきたのは花火の開くような音と、鼓膜の表面だけを震わせる柔らかな波。集中しなければ感知できないほど幽かな妖気が、遠い空から流れてきていた。恐らくは妖怪同士の縄張り争い、距離から察するに自分には関係なさそうな戦いである。なので初めは無視を決め込もうとしたのだが、魔理沙は次第に耳を傾けていく。

 

 

「妙だな、どうして決着しないんだ。妖怪にしろ人間にしろ、こんなに長々と戦うわけが…………ちょっと待てっ、まさか!?」

 

 

 ドクンと心臓が脈動した。

 今日、行われていた継承の儀を思い出したからだ。霊夢が何のために妖怪を招いてまで儀を行ったのか。いや、そもそも計画したのは八雲紫だと言っていたような気もするが今は置いておこう。重要なのは、あの瞬間から幻想郷に『とある変化』がもたらされたということだ。 

 脱ぎ捨てていた魔女帽を拾い上げ、慌てるようにして魔理沙は駆け出した。少々乱暴に靴を履きつつ、最後は踏みつけるようにして足を通した。そうして外へ転がり出た白黒の魔法使いは、そのまま箒に跨って空へと飛翔する。

 

 

「アレは妖怪の山の周辺あたりか。近づきすぎると天狗から目をつけられちまうな……いや、戦っているのが『アイツ』なら問題ないか?」

 

 

 耳元を吹き抜ける宵の風。

 まだ距離があるので、聞こえるのは風の吐息ばかりだ。足元に広がっていた森はすでに無く、箒は平地を飛んでいる。もう少しだ、もう少しで見えるはずだと弾む胸を抑えつける。速く速くと急かすように柄の部分を踵で叩いてやると、心無しか速度が上がったような気がした。

 

 白黒の魔法使いを祝福するかのように空は輝きを増していく。星降る幻想郷の屋根、微笑みを絶やさない月から注がれる魔力が周囲を淡く照らしていた。

 

 

「ーーーーそういうお祭りは、この私を誘ってからにするべきだぜ!!」

 

 

 赤い輝きと空色の光が交差する華の乱舞、幻想郷で初めての本格的な『決闘』。それを未来の妖怪退治屋が目撃するのは数十秒後のこと。

 

 

◇◇◇

 

 

 ーーーその夜のことを、幻想郷の住人たちは忘れないでしょう。

 

 

 春空の映る湖面のような静寂(せいじゃく)、そして丁寧に何度も塗り直したかのように澄み渡る闇の(とばり)。ぽっかりと穴が空いたような星々のスキマ、宙を舞う煌めく月光がどこまでも流れ落ちていく。それは、とても晴れやかな夜だった。

 

 星々は語り合うように瞬き、月がそんな彼女らを見守っている。涼やかになびくのは名も無き草花で、寝静まる木々は艷やかに葉を濡らす。空も地上も幻想(ゆめ)に浸っては穏やかな吐息を繰り返す、そこにはやはり静寂以外の言葉は似合わない。

 

 

「そんな夜だからこそ、幻想郷を大きく変えるには相応しい時間となるでしょう」

 

 

 目玉の浮かぶ空間に腰掛けた美しい賢者は、いつも通りに怪しげな笑みを浮かべていた。そして手に持った優美な扇子をおもむろに広げると、その紫水晶に輝く瞳で軽やかに空を見渡していく。何かを探すように宙を探っていた視線はやがて目的のモノを見つけたようで、満足げに細められる。

 闇夜に包まれる妖怪の山から、風に乗って聞こえてくる風切り音が二つ。

 

 

「さあ、任せましたわよ。旧きを護るために新しい風を、そして新しきを招くために旧き者が風を導かなければならない。その役目を、此度ばかりは貴女たちに託しましょう」

 

 

 開幕を告げるように八雲紫は言の葉を紡ぎ出す。

 するとその声を聞き届けたかのように、一対の閃光は絡み合うように飛翔する。そしてギリギリ地上から視認可能な高度まで上昇すると、花が開くように相手とは逆方向へと空を滑っていく。二つの影は十分な距離を取ったあたりで減速し、そのまま対空する。

 全ては暗い闇の中でのことである、ここまでの出来事は一人の見物人以外に悟られることはなかった。忍んでいるわけではない、ただ下準備を知らせる必要が無かっただけだ。地上にいる者たち、天上にいる者たちには、これから始まる饗宴だけを楽しんでもらえればそれでいい。

 翼を雄々しく広げた少女たちは頷き合い、そしていよいよ『宣言』を交わす。

 

 

「お互いに『枚数』は五、分かっているとは思うけど手加減無しで行くわよ」

「それなら私も今回ばっかりは、手を抜いてあげませんよ。先手は譲ってあげます、だから遠慮なく来なさいっ!」

「言われずとも、そのつもりだから安心しなさいよ……まずはこれでいきましょうか、風符『風神一扇』!」

 

 

 幻想郷の空の真ん中、見渡す限りの星空のステージ。

 その暗くも美しいキャンパスを彩るように『鮮やかな光』が現れたのはその瞬間だった。天上にそびえる星々さえ上回り、夜空に咲いた輝かしき大輪の花。その煌めきに導かれて、夢現に沈んでいた住人たちは一人また一人と夢の世界から目覚めて空を見上げていく。

 

 紅魔館のバルコニーでは、吸血鬼の主と親友の大魔法使いがワインを傾けていた。

 白玉楼の縁側では、亡霊の姫君と半霊の従者が空を映したスキマを覗き込んでいた。

 迷いの竹林では、不老不死の者たちが薬師の作った望遠鏡というモノを掲げていた。

 妖怪の山では、待ちかねたと嬉しげに騒ぎ立てる者、苦々しい顔をする者が記念の酒宴を行っていた。

 そして人里では人々が子供のように楽しげな眼差しで、二羽の妖怪たちの姿を眺めている。 

 

 

 それは空を目一杯使った真剣な『御遊び』。煌めく青い光は流れ星のように、弾ける赤は花火のごとく。鴉天狗の少女たちは悠々とそれらを掻い潜り、またお互いに弾幕を放っていく。それは見る者を楽しくさせるような、誘っているような、楽しげな『闘い』だった。

 美しさに意味を、相手を傷つけるよりも魅せることに重点を。かつて命懸けであった決闘を『美しさを競う闘い』へと変化させるという、これからの時代に相応しい新たなルールがそこにある。

 

 

「考えてみれば、あの夜が全ての始まりだったのかもね」

 

 

 後に博麗の巫女は語る。

 スペルカードルールが地上はおろか、地底や天界にまで広がったのはこの夜が境だったのだろうと。変わり者の人間と妖怪たちが同じ場所で盃を片手に騒ぎ合う。一昔前では有り得ない、そんな間抜けながらも心地良い酒宴の最中。幾つ目かも分からない異変を解決した博麗の巫女は、夜空を見上げて静かに微笑んでいた。

 

 

 そんな少女たちの未来へと繋がる、これは幻想郷のプロローグ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十六話:月明かりのリコリス

 

 

 泡立つ雲間に影は蒼かった。

 満天の星空から散りばめられる光が雲の明暗をより深く刻んでいく雲海面。月は華のごとく咲き誇り、夜は冷たい水滴のように肌を濡らしていく。そして立ち込める静かな闇は、絹織りのように滑らかな肌触りで肢体へとまとわりついてくる。

 

 轟々と叫ぶ風の音に耳を澄ませながら、刑香はゆっくりと瞳を開いた。

 

 

「はたてと椛のおかげで、少しは善戦できてるみたいで良かったわ‥‥‥っと、気を抜いてられないか」

 

 

 聴こえてきた風の爆ぜる音を頼りにして、くるりと身体を反転させる。そして弾幕のスキマへと身体を滑り込ませると、そのまま螺旋を描くようにして降下した。身体をかすめるようにして過ぎ去っていく妖力弾だったが、そのいずれにも恐怖は感じない。頭の中で思い描いたとおりの回避ができているからだ。少しばかり身体の反応は鈍いものの、攻撃にさえ転じなければ対応は可能だろう。

 

 

「‥‥‥良かった、これならあの子に翼くらいは貸してあげられそうね」

 

 

 遮蔽物一つない天空の舞台。

 足元にも頭上にも、己を遮るモノは何もない。妖力は血液のごとく翼を巡り、胸の内側では心臓のように『あの焔』が脈動している。吹き付ける夜風で袖は膨らみ、月明かりが純白の髪を青白く輝かせる。身体に疲れは溜まっているものの心は軽い。身体を落ち着かせるために呼吸を一つ、それだけで空色の瞳は深みを取り戻していく。

 そして、そんな少女へと語りかける影もまた一つ。

 

 

「翼を貸すとは、何ともアナタらしい言葉ですねぇ。こういう時は手とか肩とか、胸やらを貸してやると口にするのが普通でしょう、刑香?」

「‥‥アンタと違って私は非力なのよ。手にしろ肩にしろ、あの子を支えるには役不足。それなら、貸し出せるのは翼くらいしかないでしょう?」

 

 

 繰り広げられる異色の攻防。

 それは一対の風神少女たちによる『弾幕ごっこ』。昼間に霊夢が宣言した新たな決闘法、それを幻想郷中にあまねく広げるための次なる一手。誰もが自分本位で、自由気ままな幻想郷(らくえん)幻想(ようかい)達。彼女らを振り向かせるには、賢者たちの権威だけでは不足だろうと予測されたがこその対策。説得した程度で話に乗ってくるはずもない妖怪や妖精たち、そんな彼女らを惹き付けるための祭囃子。それがこの決闘の意義であった。

 

 

「あやや、刑香の胸は殆どペッタンコですからねぇ。枕くらいにはできますが、それはそれで膝の方が‥‥‥おっと、危ない」

「単なる比喩を詳しく解説するのは止めなさいよ!?」

「まあまあ、そういうのが好きな殿方もそこそこいるので大丈夫ですよ。もっとも、いい加減な男だったら私が追い払いますがね。こんな感じで!」

「まったくもって興味ない、けどね!!」

 

 

 風に乗せたのは(つぶて)の軍勢。

 それを葉団扇の動きに合わせて、夜空へと散りばめる文。『風神一扇』は文字通りに扇を振るうような、或いは扇そのものに似た弾幕を放つスペルカードである。風を操る鴉天狗としてのチカラを表したソレは、まさに彼女に相応しいスペルだろう。

 しかし元々は文が考えたのを、先ほど刑香が拝借しているモノでもある。性能はあちらの方が高いとはいえ、使い手ならば攻略法もお手のもの。木の葉吹雪を思わせる光弾を最小限の動きで躱していく刑香。危なげなく全てを回避したのは、それから数十秒後のことだった。ほんの少しだけ得意げな笑みを浮かべ、攻守交代だと刑香はカードを袖口から引き出す。

 黒い少女の姿が視界から消失したのは、そんな一瞬の隙を突いてのことだった。

 

 

「風神『風神木の葉隠れ』」

「ーーーーぁ、いたぁっ!?」

 

 

 咄嗟に回避へと移ったのは正しかった。

 その肩を直撃したのは、生い茂る草木の色を宿した妖力弾。『風を操る程度の能力』を上乗せした超加速からの奇襲は、同じ鴉天狗でさえ目視するのが難しい。宣言しようとしたカードを取りこぼし、それが雲間へと消えていくのを見送る暇もない。

 取られたのは上空、押し付けられたのは低空。迫り来る弾幕自体は速くないが、位置取りが悪すぎた。これは自身を中心にして、全方位へと弾幕を撒くスペルカードである。術者は視認できず、ただ舞い散る葉のみが視界を覆う。その様子は森の木々に潜みて人々を幻惑したという、木ノ葉天狗のごとくにて。

 

 

「くっ‥‥‥結構痛いんだけど、これって本当に人の子と手合わせするための決闘法なのよね?」

「さすがに身体強化なり魔法防御なりは必要でしょうねぇ。私たちと戦うような人間なら、そのあたりの備え程度は可能だと信じておくこともしましょう」

「そうなると対戦相手にあらかじめ私の『能力』を使っておくことも考えておこうかな」

 

 

 連続してのスペルカードの使用。

 禁止されているわけではないので、むしろ油断してしまった己にこそ非がある。授業料が肩一つで済んだのも幸運だったと考えるしかない。血は出ていないし、骨にも異常はない。ただ大いに痺れるだけだ、痛みはあれど戦闘に支障はない。ぷらぷらと腕を振って感覚を確かめてから、刑香は腰に差していた葉団扇を引き抜いた。

 

 

ーーーねぇねぇ、屋台休むから私たちも遊ばない?

ーーーおお、そーなのかー

 

ーーー将棋の代わりに一戦どうだい?

ーーー最初からそのつもりで誘いに来たんだ

 

ーーー私たちもやろうよ、お姉ちゃん!

ーーーいや、アナタと戦うと心が読めないし‥‥。わ、分かったから無言で襲ってくるのはやめなさい!?

 

 

 光が泡立つ御山の空。

 黒い翼は闇に紛れ、白い翼は雲にまぎれて夜空を駆る。まばゆい弾幕は観る者を惹きつけては、その心に仄かな熱を宿していく。やがて儚げな輝きは少しずつ大きくなり、小川が漏れ出すように山の周囲へと広がっていた。

 月と星が語るのみだった幻想郷の夜、そこに生じた変化は留まらず。まるで蛍の飛び交う季節が、春を追い越して駆けつけたかのように。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 妖怪たちが闊歩する幻想の刻。

 耳をすませば草原の声が、肌に意識をやれば湖面の澄んだ震えが伝わってくる。闇は闇のままに、どこまでも黒の一色で水底に沈むような夜がどこまでも横たわっている。そのおかけで心には波一つなく、月光の下だというのに『能力』は落ち着いていた。

 

 文明という光が眠りを乱し、月夜を喰らっていた『故郷』とは似ても似つかない。夜に星を眺め、月に魔性を抱く、そんな当たり前が当たり前としてここにはあった。遥かなルーマニアの地は遠くかすみ、今や極東の地に鎮座している紅いお屋敷。その上空でフランドール・スカーレットは瞳を瞬かせていた。

 

 

「……キレイなお月さま、こんなに近くで眺められる日が来るなんて思ってもみなかったわ。昼間は身を焦がす太陽に怯えて、夜は心を狂わせる月を怖れる毎日だったもの」

 

 

 声一つに影二つ。

 胸元に手を添えながら、フランは宝石の羽をチラつかせる。このところは屋敷に閉じこもりがちだったので、久々の外出は気分がいい。こいしと戯れているのも楽しかったが、やはり吸血鬼は月夜に出歩くのが最も健康的なのだ。亡き父と母も、今より更に幼かった自分と姉を連れて夜に散歩するのが趣味だった気がする。

 故郷を離れて幾千里、幸せだった日の思い出は変わらずに、幻想郷の地で自分たち姉妹は何とか生きている。父と母は喜んでくれるだろうかとフランは思いを馳せた。すると何故か嬉しくなってきたので、背後にいた姉へと妹は微笑みかける。

 

 

「夜のお散歩は楽しいね、お姉様」

「ええ、そうね。誰かさんがうっかりチェス盤を叩き割った事実を忘れることが出来たなら更に楽しめそうよ、フラン」

 

 

 不満そうに羽を広げている姉。

 つい先ほどまでバルコニーで仲良くチェスをしていたのだが、飽きたので自分が姉を連れ出したのだ。負けが込んでいたのと、チェックを掛けられたのがいけなかった。ちょっと白熱してしまって、姉のキングをチェス盤ごと『きゅっとして』しまったのだ。物理的に崩御させられた王様は粉々の姿で床の上、主を失った家臣たちはテーブルの下で途方に暮れて転がっていた。今頃は美鈴かパチェリーが掃除してくれているだろう。

 

 

「ご、ごめんなさい……」

「まあ、反省しているなら次に活かしなさい。むしろ吹き飛んだのがチェス盤とワイングラスだけでよかったわ」

 

 

 ひらひらと手を振るレミリア。

 子供っぽい仕草は、姉が周りを和ませるためにする癖である。紅魔館の当主としての顔、やんちゃなお嬢様としての顔、そして吸血鬼としての顔。それらを使い分けた立ち振る舞いで、姉は紅魔館をまとめている。美鈴も空気を読むのは上手いが、本気を出した姉はそれ以上なのかもしれない。

 今の紅魔館のメンバーは、それぞれが『一人』で生きようと思えば生きることのできる妖怪ばかり。パチュリーも美鈴も小悪魔も、別段ここに拘る必要はどこにもない。やろうと思えば、どこでだって生きていけるのだ。それでも同じ時を過ごし続けているのは、姉のカリスマによるところが大きいのだろう。レミリアに惹きつけられて、皆がここにいる。

 

 

「ねぇ、お姉様」

「どうかしたの、言っとくけどチェス盤の修理代は来月分のおこづかいから差し引くからね?」

「ーーーえいっ!」

「わっ、ちょっとフラン‥‥!?」

 

 

 自分と背丈の変わらない姉。

 それなのに多くのモノを背負ってくれているレミリアへとフランは抱きついた。初めは驚いた反応を見せたが、すぐに柔らかく頭を撫でてくれる。ちらりと見上げた表情は優しげに目を細めて、フランを慈しむものだった。この顔だけは自分だけのもの、唯一の肉親である妹に向けられるものだ。

 衣服から漂ってきた甘い香水の匂いがくすぐったい。そういえば、文が刑香に見せる顔つきもこんな感じだった気がする。本当はあの二人も姉妹だったりするのだろうか。まさかね、とフランは笑う。

 

 

「始まってるね、弾幕ごっこ」

「そのようね」

「天狗さん達は平気かな?」

「刑香がいるんだから、最悪でも死にはしないわよ。まあ、仮に人間があの高さから落っこちたら『どんな形で』延命するのかは気になるけどね」

 

 

 円を描くように光が踊っていた。

 街の灯りは好きに成れなかったが、こちらは別だ。妖力で作り出した光弾は戦いを観戦しているというよりは、花火を見物するのに似た感覚がする。

 あらかじめレミリアから話はあったので、ある程度の想像はしていた。しかし、やはりというか実際に見ると印象は随分異なってくるものだ。

 

 

「……きれいだね、お姉様。まるでお星さまが降りてきたみたい」

「天狗は流れ星や彗星に例えられることもある妖怪だそうよ。貴女の感じた印象は的確ね」

「へぇ、そうなんだ‥‥」

 

 

 二羽へと向けられた掌。

 ここから妖怪の山までは、それなりの距離がある。指の間を行き来する小さな光、遊ぶような天狗たちは楽しそうだった。流石にここからは能力も届きそうもない。いや発動するつもりはないのだが、一応は自分で自分に制御をかけるのを忘れない。以前よりコントロールが利くようになったとはいえ、こいしと遊んでいる時にしても不安は拭えなかった。今までのようにチカラを振りかざす限りは、いつか綻びが生じるだろう。

 ぐりぐりと姉に頭を押し付けながら、フランは纏まらない考えを口にする。

 

 

「ねぇねぇ、お姉様はどっちが勝つと思う?」

「九割五分で射命丸が制するでしょうね。刑香に出来て、射命丸に出来ないことは殆どないわ。そもそも相性が悪すぎるのよ、あの二人」

「あー、確かにそうかも」

 

 

 ゆらりと光を宿す宝石羽。

 自分を取り戻すキッカケをくれた天狗たち、そのうちの二人が勝負をするとフランが耳にしたのは今朝のこと。『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』を初めて回避した刑香と、消耗していたとはいえフランドールを真っ向から制してみせた文。どちらも願わくば、また手合わせしたいと思う相手である。飛び回るのは好きだし、妖力をぶつけ合う感覚も幼い吸血鬼の好むところなのだ。

 加減を誤れば『壊して』しまうかもしれないという懸念はあったが、そんな不安をスペルカードルールは溶かしてくれた。天狗たちの戦いを見つめていると、ウズウズと握りしめた手に力がこもってくる。

 

 

「アレなら私でも遊べるかな?」

「そうね、弾幕ごっこなら貴女でも相手を壊さなくて済むでしょうね」

 

 

 既に準備はしているし、練習だって美鈴のおかげでバッチリだと思う。少なくとも紅魔館でレミリア以外に負ける気はまったくしない。ぐっとポケットに手を潜ませながら、フランは緊張していた呼吸を整える。その中には、何枚かの『カード』が入っていた。美鈴に手伝ってもらい、丸一日かけて完成したフランだけのスペルが手の内にある。

 

 

「お姉様、私たちも………」

「見なさい、フラン」

 

 

 レミリアの指差した先。

 それは夜に沈む湖上、つまりは紅魔館のすぐ向かいであった。刑香たちに気を取られて気が付かなかったが、そこでも『弾幕ごっこ』が繰り広げられていた。ふわりと漂ってきた冷気が、そこにいる者が誰なのかを隠すことなく主張している。

 

 

ーーーほらほらっ、次行くよ! しっかり回避してよね、大ちゃん!

ーーーちょ、ちょっと待ってったらチルノちゃん!?

 

 

 目を凝らすと視えてきたのは、小さな妖精の姿。幼い少女たちが湖面を軽やかに滑っていくのは、蝶が花畑で遊ぶよう。二人の天狗少女たちに比べれば、子供の真似事のような駆け引きだ。しかし、そんなことはお構いなしに二人の妖精は楽しそうにキャンディ色の弾幕を振り撒いている。

 

 

「ほら、あっちでもやってるみたいよ。あの天狗二羽に触発されて血の気の多い連中や、祭り好きな奴らが騒ぎ立てているのでしょうね」

 

 

 あちこちで弾ける光の玉。

 玄武の沢、人里外れの林や平野、果ては迷いの竹林でも泡沫のような弾幕が現れては消えるを繰り返していた。少しずつ賑やかになる祭囃子のように、店先に掲げられる提灯のように、その数は徐々に数を増していく。

 そしてその光景をレミリアもどこか愉しそうに眺めている。口元から尖った牙がチラつき、うずうずと腕組みをしている手にも力が籠もっていた。

 それが自分とそっくりで、思わず吹き出しそうになった。口を押さえて耐えていると姉が何を考えているのかが、手に取るように分かってしまう。

 

 

「お姉様、私とスペルカードで勝負よ!」

 

 

 今度ははっきり言えた。

 手作りのスペルカードを勢い良く取り出して、レミリアから見えるように決闘を宣言する。そんな妹の行動に初めは目を丸くしたレミリアだったが、しばらくすると愉快そうに口角を吊り上げた。高まる魔力の波は了承したという返事なのだろう。紅魔の主のかざした掌に集まっていく紅い光はやがて結晶となり、カードの姿へと形を変えた。

 

 

「いいわね、やりましょう。でも手加減はしないわよ。せいぜいチェスと同じ末路を辿らないように、思考を深めなさい」

「むぅ、今度は私がチェックメイトを叩きつけてやるんだから覚悟してよね。………始めましょう、レミリアお姉様!」

 

 

 咲き誇るクランベリー。

 瑞々しい木々は使い魔たち、彼らから放たれる弾幕は収穫される果実のごとく。まずは小手調べ、この程度で苦戦するような姉ではないことは分かっている。軽々と回避しては、果実を摘むようにしてレミリアは魔力弾を爪で切り落とていく。

 

 

「こんなにも良い月なんだもの」

「長い夜にしないと勿体無いね!」

 

 

 あちらこちらで妖怪たちが遊ぶ宵闇。

 それをまるで『異変』のようだと呟いたのは、誰だっただろうか。これは異変のようでいて、そうでもない夢幻の一夜舞台。幻想郷に新たなルールを芽吹かせる種を運ぶための旋風(つむじかぜ)。後々に稗田の当主によって『天狗映山抄』と名付けられることとなる、何とも騒がしい過去と未来の境界線となる物語。

 

 

◇◇◇

 

 

「軽くいなしてあげるつもりだったのですが、ここまで付いてくるとは思いませんでした‥‥‥‥‥。随分と強くなりましたねぇ、刑香」

「これっぽっちも全力じゃないくせに、どの口が言ってんのよ。どうせなら、このまま勝たせてくれると嬉しいんだけど?」

「あやや、私にも意地がありますからねぇ。アナタの成長を喜ぶのと勝ちを譲るのは別のお話です」

「へぇ、それは何に対する意地なのかしら?」

 

 

 交差した錫杖と葉団扇。

 ギシリと、お互いの得物が重々しく軋みを上げる。交差するのは赤と空の眼差し、うちに秘めたのは冷静と情熱。艷やかな漆黒と清らかな純白を羽ばたかせ、鴉天狗の少女たちはお互いへと不敵な笑みを浮かべていた。

 押し合いはほぼ互角、但しそれは文が片腕で刑香が両腕であるからに他ならない。単純な筋力の差は歴然で、もし黒い少女が本気で応じれば即座に均衡は崩れるだろう。以前のことを考えるなら、それでも格段の進歩ではある。

 鬼神のチカラを宿した錫杖が刑香の弱点であった非力さを大きく補っているのだ。八雲紫と戦った時は制御が出来ず、使えば使うだけ主の身体を自壊させるという碌でも無い代物だったはず。それが改善されているということは、この短い期間で出力を抑える術を学んだのだろう。相変わらず妙なところで器用なことをするものだと、文は刑香の成長を素直に喜んでいた。

 

 

「古来より、鬼の血が染み込んだ武具は使い手に破滅をもたらしてきました。本来なら呪いの品もいいところなんです。そんなモノを好んで使うのは、今となっては物好きな退治屋くらいだと思いますよ?」

「それなりに長い付き合いのある錫杖だもの、多少のことで捨てるわけにはいかないじゃない。それに私に呪いやら毒は通じないのは知ってるでしょ?」

「そうですね、アナタには土蜘蛛の毒も橋姫の精神汚染も届かなかった。『死を遠ざける程度の能力』が大抵の厄災を撥ね退けるのは、ここで語るまでもありません」

 

 

 災いを祓う純白の鴉天狗。

 人も人ならざる者も分け隔てなく延命させ、大抵の呪術や毒を寄せ付けない。地底においてもヤマメの『病気を操る程度の能力』、パルスィの『嫉妬心を操る程度の能力』の効果を阻害していた。未だに大天狗として力不足なのは否めないものの、地底の妖怪たちと対等に渡り合える能力を持つのは大きな長所となる。加えて星熊勇儀のチカラを断片的にしろ使えるのならば、組織内で刑香を正面から軽んじる者はいないはずだ。

 

 

「便利な能力ではなく、鬼族や地底の者に対抗できる能力と見なされれば‥‥‥‥少しは安心できるかもしれませんね」

「戦闘中に何の話よ?」

「アナタが大天狗としてやっていけるかという話ですよ。もちろん、私やはたての支えがある前提ですけどね」

 

 

 これならば上等だろう。

 いくら天魔の後押しがあるとはいえ、天狗も妖怪である以上は弱者には従わない。いざとなれば自分がまた刑香に変装して、適当な同族でも叩きのめそうかと思っていたのだが、その必要はなさそうだ。今の刑香ならば、他の天狗どもから『便利な駒』扱いはともかく、『道具』として扱われる可能性は低くなるだろう。弾幕ごっこを利用して現在の実力を確かめておいて正解だった。自分とて、刑香のためにも無用な争いに足を突っ込むつもりはない。

 

 

「ようやく下っ端天狗の平均値を超えたといった程度ですが、ひとまずは上出来です」

「私の実力不足で申し訳ないんだけど、その程度でいいわけ?」

「天魔様の焔や錫杖の全力での解放、その他諸々を除いての評価です。その条件でコレなら十分すぎるでしょう。そんなことより‥‥‥‥‥気づいていますか?」

「ん、まあね」

 

 

 空から見渡した下界の姿。

 自分たちが山を飛び立った時は、明かり一つなかったはずの幻想郷。そんな世界が今や多くの灯火に覆われていた。面白そうだからと誘いに乗った者、そんな騒がしい連中を追い払うために応じた者、はたまた別の思惑がある者。幻想の郷で妖怪や妖精が住むとされる場所で、ところ狭しと弾幕ごっこが行われているのだ。八雲の主従が事前に『仕込み』をしたとは耳にしていたが、随分と順調に進んだものである。

 

 

「ここまでの規模となると、最初は物見遊山だった人里も大騒ぎでしょうね。妖怪の山だけだった光が、あれよあれよという間に幻想郷一面にまで広がってしまったんですから」

妖怪同士(あいつら)は遊んでいるだけとはいえ、人の子なら一撃で昏倒させるだけの弾幕だからね。人里の住人からすれば気が気でないかもしれないわ‥‥‥‥」

「とはいえ、今宵ばかりは耐えてもらうしかないのも事実ですよ。怯える以上の害もないのですから、アナタが心配する必要はありません」

 

 

 かくして目的は果たされた。

 これは幻想郷にいる妖怪連中に、『スペルカード』の有用性と関心を植え付けるための決闘。それ故に最低限の駆け引きを演じれば良く、自分たちは勝つ必要も負ける必要もない。あとは乗ってきた連中に任せておけば、朝まで祭りは続くだろう。それを山に帰ってから、縁側で盃でも片手に見物していればいいのだ。

 しかし刑香が錫杖を下げなかったので、やれやれと文もまた葉団扇を構え直す。

 

 

「せっかくなんだし、最後まで付き合ってくれると嬉しいわ。アンタが嫌じゃなければ、決着をつけてみたいとすら思ってる」

「まあ、そう言うと思っていましたよ。別に私としてもこのまま付き合うのは、やぶさかではありません。妹の成長を推し量るのは姉の役目ですからねぇ、もちろん負けませんけど」

「‥‥‥‥ちょっと、さっきアンタが言っていた『意地』っていうのは姉貴分として負けられないって意味なわけ?」

「あやや、バレてしまいましたか」

 

 

 隠すつもりもなかったくせに。

 そう口にしてから刑香は風を斬るようにして錫杖を一閃する。断ち切れた風はたちまちに蒼い妖力を帯び、真っ白な掌へと集束していた。周囲の大気は小さな渦を巻き、降る月光すらも呑み込んでいるようである。そよ風のような空気の流れは少しずつ大きくなり、徐々に熱を帯びていく。

 

 

「それじゃあ、せっかくだからその胸を借りようかしら。せいぜい付き合ってよね、文ねぇ」

「最後のところ、もう一度言ってくれたら嬉しいですねぇ」

「私に勝ったなら幾らでも」

「よーし、久しぶりに全力を見せてあげましょう」

「やる気になったようで何よりね。それじゃあ、行くわよ!」

 

 

 薪の弾けるような音が響いた。

 蒼かった妖力は太陽のような黄金(こがね)色へと変質し、暗闇を焚いて燃え上がる。こうして直接見るのは、刑香が大天狗となった会議以来であろうか。焔の大きさは自分や刑香の身体の半分もないのに、炎熱は果てしなく。その昔に多くの人々を護り抜いた彼女の祖父から譲られたチカラである。

 そして錫杖を握っている手には、新しいカードの姿。なるほど次に来るのが刑香の切り札であるらしい。鴉天狗としてではない能力をカタチにしたスペルならば、己とて初見での対応は難しくなるだろう。面白いじゃないですか、と射命丸文は初めて好戦的に笑う。

 しかしーーーー。

 

 

 

「ーーー随分と派手に暴れてくれたわね、二人とも?」

 

 

 

 

 幻想郷中で起こった弾幕ごっこ。

 これからは日常となる光景だろうが、今宵はまだ非日常の出来事。自分たちだけなら良かったのだが、ここまでの大事となったのならば『動かなければならない者』がいる。例え、全てが予定調和であり計画的であったとしても人々の不安を取り除くために飛ばなければならない者がいる。すぐそこまで迫っていた『その者』の霊気を感じ取り、射命丸文はどこか名残惜しそうに葉団扇を引っ込めた。

 

 

「あやや、もう駆けつけたんですか。ちょっとばかり約束の刻限より早いのでは?」

「えーと、思ったより‥‥‥そうっ、思ったより大事になってるから急いできたのよ!」

 

 

 幼いながらも自信に溢れた声。

 その響きだけで、弾幕ごっこを通じて鋭敏になっていた感覚が揺らいでいく。張り詰めていた妖力は霧散し、ただただ心臓の音が大きくなっていくのを感じた。声の主は自分のすぐ後ろ、にやにやと笑っている文のことを気にする余裕はない。「まさか」と淡い期待を抱きつつ、同時に湧き上がる「そんなわけない」と逸る気持ちを抑えながら振り向いた。

 

 

「この騒ぎの元凶はアンタたち二人よね。おかげさまで人里は蜂の巣を突いたように大混乱、妖怪たちも各々好き放題に飛び回ってて、幻想郷中が騒がしくって仕方ないわ」

 

 

 宵闇にあって鮮やかな紅白の色。

 赤みがかった茶色の眼差しが真っ直ぐに自分へと向けられている。あまり長く離れていたわけではない、それなのに酷く懐かしさを覚えてしまう。こみ上げてくる感情を表に出すわけにもいかず、刑香は少女の口にする言葉の続きを待った。

 

 

「ーーー人里の守護者たる博麗の当代巫女、博麗霊夢としてこの混乱は放っておけない。せいぜい覚悟してよね、刑香!」

 

 

 澄み切った視線は変わらずに。

 たった一ヶ月と少し、離れた期間は短けれど十年は経ってしまったような気がする。この再会は予想していなかったし、文から聞いてもいなかった。よくも黙っていたなと睨んでみても、「なんのことやら」と黒い翼の姉は呆けたふりをするばかり。この一件が終わった後で、抱えきれないくらいのお礼を伝えようと刑香は心に決める。

 

 

「ーーーここは我らの領域、妖怪の山の上空よ。踏み入るというのなら御山の守護を務める大天狗が一人、白桃橋刑香が受けて立つ。手加減してあげるから、せいぜい全力でかかってきなさい、霊夢!」

「ええっ、三日くらいは神社でお説教するから山には帰さないんだから!!」

 

 

 人間と妖怪、巫女と鴉天狗。

 妖怪を惹き付ける才能を持った人間の少女と、人間を救うチカラを持った妖怪の少女。きっと出会いは偶然でも、この再会は必然だったのだろう。

 盃から酒が溢れていくように月から光が流れ落ち、木漏れ日のように優しく輝く星辰の下。祭り屋台が立ち並ぶがごとく賑やかな地上と、紫陽花のように染まる雲の上。再会を祝した少女たちの弾幕ごっこは華やかに空へと舞い遊ぶ。

 

 

 二人の瞳が少しだけ濡れているように見えたのは、きっと射命丸文の見間違いではないのだろう。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十七話:旅の終わり

 

 

「ーーーよぅしっ、こんなところね」

 

 

 季節外れの蛍火舞う幻想郷。

 あちらこちらで放たれる弾幕は景気よく、輝きに惹かれて誰もが空を見上げる夜八つ。このままでは明日の仕事は寝ぼけ眼と相成るが、妖怪の仕業なら仕方ない。親方や店主も許してくれるだろう、仕方ないったら仕方ない。そんなことを考えて、人里の者たちは老いも若きも妖怪たちの決闘を眺めていた。

 しかし所離れて幻想郷の東端、暗い林道を抜けた先にある博麗神社。とっぷりと沈んだ暗闇は海のようで、目が馴れなければ、開いているのか瞑っているのか分からない。そこには普段と同じ、静かな闇夜が満ちていた。

 

 

「メリー、そっちは準備できた?」

「ええ、ばっちり。人里で物々交換してきた商品も、霊夢ちゃんから貰った御札もカバンに入ってる」

「よしっ、それじゃあ立つ鳥跡を濁さず。可愛い巫女さまが留守の間にお掃除も済ませたことだし、そろそろ出立しましょうか」

 

 

 青白い灯りが照らす本殿にて。

 薬売りが使うような籠を背負い、立ち上がったのは見慣れぬ格好をした二人の少女。一人は黒髪に烏羽色の帽子を被った快活そうな娘で、もう一人は金髪で紫色のワンピースを身に着けた温和そうな娘。奇妙な出で立ちは人里の者ではなく、かといって妖力や霊力も感じられぬ異端者。それもそのはずで、この少女たちは幾重にも張り巡らされた壁を越えて、幻想郷を訪れた『稀人(まれびと)』。つまりは幻想郷にとっての正真正銘の余所者であった。

 

 

「いやー、冷静に考えると色々あったわねぇ」

「冷静に考えなくとも、まともな現代人が一生のうちで味わう臨死体験を三人分以上は経験した気がするわ‥‥‥」

「大丈夫よ、幻想郷を追いかけている時点で私たちってまともじゃなかったし。そういう『普通』の基準は当てはまらないわ」

「死にそうになる回数だけは、常人と同じくらいでお願いしたいわね」

 

 

 気がつくと妖怪の闊歩(かっぽ)する世界にいた自分たち。

 ほんの一ヶ月程度のはずだが、ここにいた時間は随分と濃密だった。まさか単なる神社巡りが、歴史学者と民俗学者あたりが泣いて喜ぶ体験ツアーへと変わってしまうなんて出発前に想像できるはずもない。

 元の世界で騒ぎの一つでも起こっているじゃないだろうかと蓮子は思う。大学の講義は多少すっぽかしても大丈夫だが、家を丸一ヶ月も空けたとなると誰かが警察に相談くらいはしていても不思議ではない。地元に残してきた家族とか、同じ講義を受けているクラスメイトにも一人くらいはお節介を焼いてくれる者もいるだろう。

 

 

「‥‥‥いざ帰れるとなると、やっぱり名残惜しいわね」

「うん、とっても楽しかった。次はいつ訪れられるのか、そもそも来る方法があるのかすら分からない。けれど‥‥‥‥私はそれで良いんじゃないかって思うわ、蓮子」

「幻想は幻想のままに、そういうロマンチックな理由なら私も同意よ」

 

 

 そう言って、蓮子はメリーの手を取った。

 もし簡単に幻想郷へと来る方法があるのなら、それはきっと素晴らしいことなのだろう。しかし『次はいつ来られるか分からない』、それもまた良いと思うのだ。簡単に訪れることが出来ないからこそ、やがてこの思い出は研ぎ澄まされ無二の輝きを放つのだ。

 考えていることは同じなようで、ぎゅっとメリーも手を握り返してきた。

 

 

「一応、目標は達成したけれど秘封倶楽部の活動はこれからよ。まずは帰ってから、これまでの体験をまとめなきゃね!」

「それよりも、蓮子はまずサボっていた授業のレポートを書いた方がいいんじゃないの?」

「だ、大丈夫よ。ちゃんと考えて自主休講してるんだもん、単位取得に抜かりはないわ。メリーこそ平気なわけ?」

「私は基本的にサボタージュしないもの。一ヶ月離れたところで、出席日数もレポートも安全圏よ」

「私の親友が優等生過ぎてズルいー!」

 

 

 わざとらしく崩れ落ちてみる。

 幻想郷で繰り広げられる場違いなキャンパストーク、首を傾げるものはここにはいない。何か反応を返してくれそうなのは、縁側に座り込んでいる小さな猫くらいのものである。

 黒真珠のような瞳に真っ赤な虹彩が揺らめく、美しい瞳をした黒猫だ。仕切りに話しかけてみたものの、まるで相手にされず無視されること半刻。そもそも猫へ大真面目に話しかけること自体、どうかしているとメリーから指摘されたのが数分前。自分としては言いたいこともあるのだが、結局は諦めて荷支度を続けることになったのだ。別に、この黒猫が化け猫だと自分が指摘したとして何か状況が変わるものでもないだろう。

 

 

「そろそろかしら、蓮子?」

「うん、約束の時間はもうすぐそこよ。何とか間に合ったみたいで良かったわ。ポラリスは私たちの世界と変わらずに、ならば他の星との位置取りも大きく変わらない」

 

 

 星空を見上げる双眸(そうぼう)の輝き。

 自らの頭脳を量子論の父、プランク並だと例える少女。宇佐見蓮子にとっては星空そのものが時計盤となる。星の位置関係から導き出される時刻は外れたことがなく、恐ろしいほどに正確だ。幻想郷の住人でさえ、星空から時計と寸分変わらぬ時刻を推定できる者など殆どいない。下手をしなくとも、天文学者顔負けの星読みをやってのける蓮子に敵う者は過去にも未来にもいないだろう。

 

 

「ーーーもう、幻想郷を立つ準備は済んだのか?」

 

 

 覚えのない声が鼓膜を震わせたのは、蓮子の瞳が北極星(ポラリス)を捉えていた時だ。縁側に揺らめく影は、さっきまで座り込んでいた黒猫のモノでは無くなっていた。明らかに人を形どった影法師が怪しげに二人の足元まで延びている。不意を突かれ、二人は慌てて視線を向けた。

 

 

「ああ、すまない。単なる人間と話をするのは久しぶりでな。わざと気配を流しておくのを忘れていた、驚かせてしまったことは謝罪しよう」

「「ーーーーッ!?」」

 

 

 その瞬間、心臓が凍りつくような感覚があった。磨き抜かれたナイフよりも鋭い輝きを秘めた金の瞳、それに見つめられるだけで身体が言うことを聞かない。妖術を受けたわけではない、それは素人である蓮子にも分かっていた。それなのに眼球から指先の動きに至るまで、目の前の女性から目を離せないのだ。ただ『在る』だけで、人間を釘付けにしてしまうチカラ、それは古くより『魔性』と呼ばれる。

 そんな二人を観察しながら、金髪金目の女性が怪しげに笑った。

 

 

「私の名は八雲藍、お前たちにとっては単なる水先案内人だ。覚えてもらう必要はないのだが、一応は礼儀として名乗っておこう」

 

 

 月光を遮る九つの尻尾。

 丁寧に整えられた毛並みの一本一本が、光沢を持って輝いている。そして藍色をした導師服は大陸を思わせる意匠に彩られ、自らの出自を強調しているようだった。怪異について欠片でも学んだことのある者ならば、誰もが知っているであろう大妖怪がそこにいる。

 正確な種族の分からぬルーミアや紫、そして翼を見せることのなかった天魔と刑香。あの四人とは違い、蓮子とメリーにとって初めて出会う『判別できる妖怪』だった。

 

 

「‥‥‥八雲さ、ん。貴女が私とメリーを幻想郷に招き入れた犯人なの?」

「すまないが、私のことは『藍』か『八雲の式』と呼んでほしい。その名を貰ってから久しいものの、やはり未熟者ゆえ家名だと気後れするのでな」

「じゃあ、藍さんで」

「いいだろう、先程の質問に答えるとするなら答えは否だ。今回の顛末を語るべき黒幕はそもそも幻想郷にはいない」

 

 

 藍と名乗った伝説の九つ尾。

 妖怪の中でも群を抜いた知名度を誇り、数々の国を傾けたとされる大妖怪である。自分のような小娘が気安く話しかけたなら、たちまち石にでも変えられそうだと思ったのだが杞憂だったらしい。ほっと心の中で蓮子は胸を撫で下ろす。

 そんな少女の心中を知ってか知らずか、八雲藍は視線を足元の黒猫へと移していた。そして扱いなれたように黒猫を抱き上げてから、今度はメリーへと金色の瞳を向ける。ゆらゆらと月のような光が揺らめく眼差し、何かを測られているような気がしてメリーが不安そうに口を開く。

 

 

「えっと、何でしょう?」

「いや、お前がある御方と少しだけ似ていた気がしてな。それだけで他意はない、気にしないでくれると助かる」

「私と似ている妖怪がいるんですか‥‥?」

「あっ、見て見て、メリー!」

 

 

 妖怪の知り合いと似ているというのは、なかなかに珍しい経験かもしれない。詳しく尋ねたいとも思ったが、それは隣にいた友人によって阻まれる。藍の存在感のせいか、今まで気づけなかった空模様。流星二つだけだった夜のキャンバスが、いつの間にやら幾多もの星々に彩られる星空に変わっていたのだ。ささやかなプラネタリウムが上映されているかのように、星の海が暗い世界に波打っている。

 その光景に、メリーの心臓が一際大きく跳ねた。

 

 

「これは凄いわね」

「ーーー綺麗、この時から『私』はこんな世界を求めて、ずっとずっと‥‥‥‥ずっと、何だっけ?」

「感動のあまり独り言かしら、マエリベリー先生?」

「そう、そうかもしれないわ。独り言のようで『二人』いるかもしれないけれど、ともかく私の言葉なのは変わらないわ」

「‥‥‥どういうこと?」

 

 

 一瞬、レンズを通したかのように目の前の世界が遠ざかった。目眩(めまい)を起こしたのとは違う、まるで自分とは別の誰かの視点に立ったかのよう。幻想郷に来てからというもの、定期的に同じような感覚に襲われている。ぼんやりと蓮子を見つめる紫色の虹彩には時折、深い湖のごとき影が見え隠れしていた。

 

 この世界を、まるで『水槽』のようだとメリーは思う。

 

 闇に弾けては消える光の粒子は水中の泡沫、それを放つ妖怪や妖精たちは美しい魚たち、そして幻想郷を閉ざす大結界はガラス板のよう。いつかの水族館で絶滅した生き物たちを見た、外から隔絶された空間を眺めた、それを美しいと感じたのと同じ感覚なのだ。

 そして気づいてしまったのだ。マエリベリー・ハーンにとって、この幻想郷は『あの水族館』で思い描いていたとおりの楽園であること。もしこの世界を創った者がいるのなら、その者はメリーと全く同じ視点を持っているであろうこと。

 それは、つまりーーー。

 

 

「時間だ、向こうの世界へと繋がるスキマを解錠しよう」

 

 

 ザラついた空気が捲き取られる。

 楕円をなぞるように青白い炎が燃え上がり、焼き切れた虚空の向こうに現れたのは紫に染まった異空間。見開かれた目玉が浮かび上がり、不気味な雰囲気漂わせた『スキマ』があった。

 そして微かに鼻をついて来たのは、自然に囲まれた幻想郷とは異なる空気の匂い。隠しようもない科学の足跡と爪痕の刻まれた懐かしき世界の気配だった。これを潜れば帰れるのは何となく理解できる、しかし蓮子は首を傾げざるを得ない。

 

 

「でもさ、向こうに帰るのは難しいだろうって話だったわよ。メリーの出会ったっていうお爺さんとお孫さんの二人組が間違ってたってことかしら?」

「ああ、一人は天魔殿と刑香に会っていたのだったな。あの御仁から『お主らが来た時代が分からぬから帰せない』とでも言われたか?」

「メリーだけじゃないわ。私の方は紫って人から『私の能力では戻せない』って話をされたわよ」

「くく‥‥‥なるほどな」

 

 

 ゆったりとした袖で口元を隠す藍。

 それは人間の小娘に感心しているようも、嘲笑っているようにも見える仕草だった。メリーと蓮子は自分たちの出会った八雲紫と天魔が、目の前の九尾より強大な妖怪だと知っていたわけではない。しかし、無意識にあの二人が幻想郷でも屈指の実力者であることは見通していた。故に億せず会話をすることができていた。

 

 

「紫様は『自分』では戻せないが、『向こう』から呼び戻せないとは言っていないだろう?」

「ああ、そういうこと。随分と回りくどいというか、物事の裏側に手を回すのが得意そうな人よね」

「狐の私が言うのも妙な話だが、あの御仁は狸の類いなのでな。言葉を交わすなら、その裏側まで目を通してみなければ化かされる。さあ、一つ目の疑問が氷解したところでコレは返しておこう」

「ーーーこれ、私の時計じゃないの!」

 

 

 手渡された銀の懐中時計。

 冷たい感触は変わらず、カチコチと時を刻んでいる秒針が鈍い輝きを放っていた。昔、いつの間にか迷い込んだ古道具屋にて購入したアンティークである。実用性はともかくとして、変な愛着が出てしまって使い続けている品だ。電波という概念のない幻想郷に来てからはアナログで重宝していたのだが、スキマに飛び込んだ拍子に失くしたはずだった。まじまじと自分の時計を見つめる蓮子に藍は告げる。

 

 

「それが二つ目の答えだ。恐らくはかつて『時間に干渉する能力』を持つ者が身に着けていたモノだろう。お前たちのいた時間軸を記録しているはずだ」

「スキマってやつに飛び込んだ時、完璧に失くしたと思ってたわ。へぇ、コレが鍵だったんだ?」

「どうやってお前たちの世界に、それが流れ着いたのかは知らない。だが、いつか夢で出逢うことがあるのなら元の主に礼の一つでもしてやれば喜ぶだろう」

 

 

 魔除けの象徴たる銀製の時計。

 古くより怪物退治や悪霊払いに効果があると信仰されてきた金属であり、吸血鬼に致命傷を与えることができるのは有名な話だろう。一方で黄金が太陽を象徴されるのと同じように、銀は月に深い関わりを持っている。そんなこんなで吸血鬼とは、避けられつつ求められる複雑な相性だったりもする。もしかしたら、かつての所持主はヴァンパイアと因縁のある人物であったのかもしれない。

 その真偽を確かめる時間がないのは、蓮子にとって極めて残念な事実である。スキマは完全に開いてしまい、元いた世界へと自分たちを誘っていた。覚悟して一歩踏み出すと、自分たちを囲むようにして足元から霧が立ち上る。上下が喪失していく感覚と、遅れてやってくる浮遊感は幻想郷に来た時と同じものだ。

 

 

「れ、蓮子、ちょっと抱きついてもいい?」

「いいわよ。あーあ、私たちの訪問録はもう終わりってわけかぁ。死ぬかと思ったこともあったけど、全体的には悪くなかったかしらね?」

「‥‥‥うん、私は楽しかったと思ってるわ」

 

 

 ぎゅっと掴んできたメリーの腕。

 こうしているだけなのに、とても頼もしく感じるのは何故だろうと思う。八雲藍に対しても物怖じすることなく、スキマに呑み込まれそうになっている今も震えないでいられている。耳元に甘い吐息が被さったのは、そんな時だった。口づけを落とすように妖艶な言霊が蓮子の鼓膜だけを震わせる。

 

 

「ーーーいつの日にか、マエリベリー・ハーンには例えようもないほど巨大な困難が立ちはだかるでしょう。そして宇佐見蓮子、貴女は北極星を見失わぬ者だ。願わくば、彼女にとっての羅針盤であることを」

 

 

 はっとして顔を上げる。

 もう幻想郷との繋がりは希薄になりつつあった。夢から覚める直前のように、辺りは真っ白な光に包まれている。隣にいるはずのメリーから離れないために、ますます強く腕を掴むので精一杯だ。それでも、やっとのことで目を凝らしてやると、藍が微笑みながら頭を垂れる光景が見えた気がした。大妖怪が人間ごときに敬意を示す、そんな信じられない光景が見えたような気がしたのだ。

 

 

「ですが決して挫けぬよう。さすれば放浪の果てに、必ずや理想へと辿り着けるはずです。またお会いしましょう、我が‥‥‥じ」

 

 

 夢はここで終わり。

 秘封を暴く二人組の物語は、一つの結末を迎える。結界の境目である博麗神社、そして旧き神々の眠る仏閣を渡すスキマが帰り道。行きはよいよい、帰りは怖いと童謡は語る。しかし導くのがスキマ妖怪の式ならば、天神さまの道とて恐れる必要はない。

 八雲紫と白桃橋刑香、二人の妖怪を救うために送り込まれた少女たち。御役目は来た瞬間には満たされており、そのあとの一ヶ月は報酬のようなもの。願わくば、穏やかな日々が少しでも長く二人に続くことを。

 

 それが決して果たされぬ祈りであることを知ってながら、二人の姿が消えるまで八雲藍は願い続けていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 朝焼けの広がる幻想郷。

 月は地平へと追いやられ、水に溶ける砂糖のように太陽が空をオレンジ色に染めていく頃。この世界を一望することのできる神社に、二つの影が降り立っていた。小さな花が散り、黄色い風が吹き抜けてゆく石畳。人里から隔てられた場所に位置する博麗神社の境内は、朝の陽射しを余すことなく受けて輝いていた。

 

 

「結局、朝までかかっちゃったわ。途中から魔理沙まで乱入してきてメチャクチャにされるし」

「悪い悪い、あんなに派手なことされたら黙って見てられなかったんだ。怒るなって、お詫びに朝飯作ってやるからさ」

「それだと食材は私持ちなんじゃないのよ。今日は当てがあるからいいけど、普段は遠慮しなさいよね」

 

 

 若干警戒しながら友人を睨む紅白巫女。

 これまでも同じ手を使われて、勝手に野菜やら米やらを二人分消費する破目になったのは一度や二度ではないのだ。じとりとした視線をぶつける霊夢だが、魔理沙は気にした様子もない。

 

 

「まあまあ、一緒に戦った仲だろ。結果的には勝てなかったわけだけど、二人がかりで善戦したじゃないか」

「途中から『観ているだけでは退屈なので』とかいって、黒い方も参戦してきて見事に逆転されたけどね。私一人なら勝ってたかもしれないのに」

「う‥‥‥‥それは私のせいじゃないと思うんだが」

「あーあ、代わりにアンタを三日間通してお説教してやろうかしら。まったくもう、おかげで計画が狂っちゃったじゃない」

 

 

 早朝の大気が眩しい。

 白砂を撒いたような空はとても爽やかだった。何かが始まりそうな気配の漂う朝ぼらけ。胸いっぱいに吸い込んだ空気は少しだけ冷たくて、顔を洗った時のように眠気を払ってくれる。

 そのまま深呼吸をしていると、神社から人の気配がしないことに霊夢は気づく。この一ヶ月ほど、早朝から起き出しては神社の物置やらを漁っていた二人組。たまに自分や魔理沙に運ばれて、人里に降りて散策することもあった。しかし、そのまま里で宿泊することはなかったし、夜中から日の出にかけては境内にいるはずだ。 

 

 

「そ、それにしても私のスペルカードもなかなかだったろ。こんなこともあろうかと、前から準備しておいたんだぜ?」

「はいはい、星型の弾幕がとっても可愛かったわよ。意外と乙女な魔法使いよね、アンタは」

「お、乙女って‥‥‥‥悪い気はしないけど、そこは禍々しいとか美しいとかだな」

 

 

 きっと無事に帰れたのだろう。

 祭りの日にひっそりと立ち去るなんて、洒落た旅立ちをしてくれたものである。春風に掃かれた石畳を踏みしめて、少しだけ歩みを早めてで自室へと向かう。その間も昨夜の興奮冷めやまぬ魔理沙が話しかけてきたが、あまり耳に入ってはこない。そして辿り着いた自室の前、呼吸を整えてから襖に手をかけた。

 

 

「なぁ、聞いてるのかよ。さっきから反応が薄いぜ、霊夢?」

「ちょっと考え事をしてたのよ。それも今、終わったけどね」

 

 

 きちんと畳まれた三人分の布団。

 怪しげなカラクリや二人が人里で買い集めていた物はどこにもなく、塵一つなく掃除された部屋がそこにあった。開かれた襖から射し込む朝の光が、誰もいない空間を虚しく照らしている。いつかこんな日が来るのは分かっていたし、それが遠くないことも理解していた。別に悲しさを感じるようなこともない、ほんの少しだけ寂しいだけだ。

 

 

「‥‥‥‥‥何だ、メリーと蓮子は帰ったのか」

「ん、そうみたいね。宿代でも置いていってくれれば御の字だったんだけど、どうやら無いみたい」

「書き置きっぽいヤツなら、ちゃぶ台の上にあるぜ?」

 

 

 白黒の魔法使いが指差した先。

 見つけて欲しいと言わんばかりに、真っ白な手紙が陽射しに当てられて輝いている。ご丁寧に『霊夢ちゃんへ』と小さな子供に向けたような字で書かれていた。幻想郷では存在しないくらい上質な紙に、毛筆では不可能であろう細かな文字。表紙はともかくとして、それ以外は外来人らしさが滲み出ていた。そういえば、この一ヶ月ずっと子供扱いしてきたなと今更ながらに思い出してしまう。

 本当に変な二人組だったと、霊夢は苦笑しつつ手紙をタンスへと仕舞いこんだ。

 

 

「何だ、読まないのか?」

「今日は止めとくわ。色々なことがあったし、もう少し落ち着いてから目を通すことにする。全部が全部、まとめて受け入れられるほど私も出来ちゃいないのよ」

「ふーん、流石のお前も疲れたみたいだな。それなら今日はゆっくり休むとしようぜ、『アイツ』もそろそろ来るだろうし‥‥‥‥‥おっと、噂をすればだな」

 

 

 咲き始めた桜の花が揺れる。

 わずかに散った花弁を巻き込んで、吹くは春風の調べ。暖色をした草花が笑うようにして、新葉を鳴らしている。その中に紛れ、一際高く響いた下駄の音が新たな来訪者の訪れを告げていた。

 太陽を背にして、延びる延びる黒い影。人の形を保ちながらも明らかに異なる一対の翼が作り出す輪郭が、振り向かずとも誰が訪れたのかを教えてくれる。わざわざ背後を確認することはしなかった。もう少し、もう少しで、待ち望んでいた声が聞こえてくるはずだと霊夢は心を弾ませる。そして、ゆっくりと近づいてきた影の主は言葉を紡ぎ出した。

 

 

「やっぱり見事なモノね。妖怪の山よりも、幻想郷の何処よりもこの神社の桜が美しいと思うもの」

「‥‥‥‥‥ふふん、花が咲くのに間に合って良かったわね。誰よりも早くお花見が出来るじゃない」

「そうね。そのための食材も持ってきたことだし、さっそく準備を始めましょうか。手伝ってくれるなら嬉しいかな、霊夢」

「うん、分かってる」

 

 

 舞うは真っ白な羽根と花びら。

 それらが石畳を飛び越して、芽吹いた草花のひょっこり顔を出す砂利の上に転がっていく。春一番はすでに遠く、梅の季節も過ぎ去って、桜の蕾が花開く時期がやってきた。この神社は正式に霊夢のモノとなり、スペルカードルールは施行されている。色々なことが目まぐるしく動いた一ヶ月だった。

 それでも、白桃橋刑香は何一つ変わらぬ姿でそこにいる。

 

 

「採れたての山菜に果物、あとは干した茸と川魚。天狗(うち)の集落で買い込んだモノだけど、別に妖気は宿ってないから安心していいわ」

「へぇ、天狗産の食材なんて珍しくていいじゃないか。それじゃあ、私は炬燵(こたつ)を温めておくから二人で仲良く料理してていいぜ」

「サボる気まんまんじゃない。朝ごはん作ってくれる約束は何処いったのよ、魔理沙」

「私はお前や刑香と違って、普通の可愛い人間だからな。徹夜しちまったら、早急に眠って体力回復に努める必要があるんだぜ。な、刑香?」

「ん、それなら霊夢も魔理沙も一緒に休んでていいわよ。台所だけ貸してくれたら、私がやっておくわ」

 

 

 籠から溢れんばかりの食材たち。

 それを抱えながら、白い鴉天狗は慣れた様子で台所へと向かっていく。手伝おうとした霊夢だったが、刑香がそっと微笑んで「大丈夫」と言ったので後ろ姿を見送ることになった。早くも炬燵に火を入れて、くったりと脱力している魔理沙を横目にしつつ自分も座ることにする。

 炬燵布団から伝わってくる熱が心地よく、夜通しで空を飛んだせいで冷えた身体がじんわりと温めまっていく。

 

 

「‥‥‥‥‥‥はぁー、ようやく一件落着、初めて落ち着けた気がするわ」

「紫もそのうち顔を出すだろうし、これで全部元通りってところだな」

「ううん、元通りにはならないわよ。私は正式な巫女になったし、刑香は大天狗になった、アンタだって独り立ちしたんでしょ。同じように見えて、私たちはみんな少しだけ変わったわ」

「それはそれは、これからが楽しみじゃないか」

 

 

 やっぱり手伝おうと立ち上がる霊夢。

 そんな自分のことを見送りつつ、魔理沙はうつ伏せで眠り始めていた。とりあえず放っておこうと、役立たずの友人は視界の外へと追い出しておく。そして足音を忍ばせて、気づかないフリをしていた刑香へと後ろから抱きついた。

 

 

「危ないから、そういうのは料理中は止めてくれると助かるわ」

「それじゃ、後でもう一回やることにするわ」

「ん、別に構わないけど翼はお手柔らかにね」

 

 

 この変化はきっと、いつの日にか更に大きな変化へと結びつくのだろう。少なくとも自分たちは一歩を踏み出したのだ、この先の地面が同じである保証がどこにある。されど、そんな当人たちにとっての大事件など我知らずとばかりに季節は巡っていく。水凍る冬は暦の裏側へと隠れ、うららかな風で袖口を暖めてくれる春がどこまでも幻想郷を覆っている。

 今はこの平穏を抱きしめていよう、そう思いながら霊夢は白い鴉天狗の翼へと顔を(うず)めていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十八話︰いつかの空へサヨナラを

 

 

 ーーー願わくば、彼女にとっての羅針盤であることを

 

 

 大妖狐から告げられた言葉。

 それは意外にも自分たち、正確にはメリーの行く末を心配するかのようなモノだった。何故、出会ったばかりの人間をそこまで気にかけるのか。良からぬ企みでもあるのかもしれないと身構えるくらいの疑念はあった。しかし山麓から顔を出した暁の光が大地に照り返しているかのような黄金の瞳、あの眼差しに嘘偽りは一つもない。言葉の意味は分からずとも、頷いて返答するくらいは構わないだろうと蓮子は思ったのだ。

 

 だが、それも先程までのお話。

 

 足元から崩れ落ちた空間はどこまでも暗く、何も見えず何も聴こえず。取り合ったメリーの手から伝わってくる感覚だけが、己の生きている実感だった。時々、目の前を通り過ぎていく黒い泡。気になって触ってやろうかと思ったが、水圧にやられたかのように手足は動かせない。沈んでいっているような、浮上しているような、矛盾した体感が同時に押し寄せて脳を掻き乱していく。

 

 あの九尾によって落とされた空間には、ひたすらに虚無な世界が広がっていた。スキマを覗いた時には、大して離れていないと思っていた世界の境界線は果てしなく遠かったようだ。不快ではないが、不安は果てしない。しっかりとメリーの手を握りしめながら、蓮子は圧し潰されそうな心を何とか正常に保っていた。しかしーーー。

 

 

「ーーーっ、っ、ごぼッ!!?」

 

 

 襲ってきたのは重々しい水圧。

 いや、ここは水の中ではないので単純な圧力というべきなのだろうか。ともかく肺から空気が締め出されていく苦しみと、それに遅れて指先から痺れが回ってきた。本当に溺れているようだ、もがこうとしても身体がまともに動かせない。

 幻想郷に放り出された前後の記憶は残っていないが、来た時も同じ苦しみを味わったのだろうか。それなら気絶していた方がよっぽど幸せだ。もしかしたら『何者か』が気を利かせて、そうしていたのかもしれない。今回もそうしてくれれば良かったのにと、ここにいない九尾の妖狐に向けて心の中で不満を叩きつけるしかなかった。

 沈んで沈んで、浮かんで浮かんで、自分が漂流物にでもなったかのような不安が胸を満たす。そうして、どのくらいの時間が経ったのだろうか。

 トンネルを抜ける瞬間のように視界は白け、それは唐突にやってきた。

 

 

「‥‥‥‥もしもし、こんなところで眠っていたら風邪を引きますよ。体調が悪いなら薬師の所にご案内致しますので申し付けてください、可愛らしいお嬢さま方」

 

 

 鼓膜をくすぐる誰かの声。

 背中とお尻に伝わる硬い感覚からして、自分が座り込んでいることだけは把握できた。しかし視界は水滴に覆われたガラスのように、ぼんやりとして定まらない。よほど呆けた顔をしていたのだろう、声の主は心配するようにして己のことを覗き込んできた。

 

 

「まるで眠っていたかのような表情をされておられる、春の陽気にでも当てられましたか?」

「ああ、えっと‥‥‥‥‥すみません、ここって何処でしたっけ?」

「可笑しなことを尋ねられますね。ここは妙法院、その一部です。知らずに建物内部まで訪れる方がいるとは思えませんが‥‥‥」

 

 

 まだ覚醒からは程遠い思考。

 立ち上がることはおろか、現状を把握するだけの行動もすぐには起こせなかった。長いこと正座を続けて、急に動こうとしたかのような感覚だ。それでもここが幻想郷に跳ばされる直前にいた場所、三十三間の名で著名な寺だということは理解できていた。歴史を重ねてきた木々の匂いと、多くの守り神たちを型どった木像の気配がある。まさか妖怪に襲われることもないだろうと、落ち着いて深呼吸を繰り返す。

 そうして少しずつ鮮明になっていく視界だったが、映り込んだのは寺に不釣り合いな金色の髪をした男性だった。一方で服装は真っ白な袈裟と簡素な法衣なのだから、髪色とは見事なまでのアンバランスだ。様子からして寺の関係者なのだろうが、どちらかといえば海外からの観光客が仮装したといった方が信じてしまいそうな出で立ちである。

 極めて失礼なことを考えていた蓮子へと柔らかな微笑を浮かべつつ、男はそっと手を差し伸べた。

 

 

「拝観時間は間もなく終了します。よろしければ、お連れ様と一緒に出口までお送りしましょうか?」

「ち、ちょっと待ってください。すぐに立てると思うので‥‥‥‥うわぁ、ひっどいわね、コレ」

 

 

 ようやく戻ってきた視力。

 薄暗い光が屋内を見回して悪態をついてしまう。それもそのはずで、通路には二人が買い占めた古物(せんりひん)たちが所狭しと散乱していた。古書に始まり、筆記具や着物、果ては保存食に至るまで集めに集めた幻想郷の資料集である。幸いにして破損しているものはないようだが、明らかに寺の土産物ではない品々を順路にぶちまけている自分たちは不審すぎた。無言で見つめてくる仏像たちの視線も、心なしか痛いものが混じっている。

 目の前にいる雄々しい翼を生やした仏教の守り神、迦楼羅王の像に至っては特に厳しい目つきで蓮子を射抜いていた。

 

 

「あはは、すぐに片付けますので‥‥‥‥メリー、そっちも生きてる?」

「う‥‥‥‥な、何とか生きてるみたいよ。あの地獄に落ちていくような感覚は一生ごめんだけどね」

「なら本当に地獄へ落ちないように、さっそく善行を積んでおきましょうか。とっとと片付けないと後ろから別の観光客に蹴っ飛ばされるわよ」

 

 

 荷物と一緒に転がっていたメリー。

 どうやら無事に帰って来られたみたいで一安心だ。振り返ってみれば妖怪の山へ放り出された行きに比べれば、多少の苦痛を加味したとしても上等な帰路であった。ぐらつく頭を支えるようにして、蓮子はメリーと共に立ち上がる。ズレていた鴉羽色の帽子を直しつつ、もう一度周囲を確認してみる。

 通行人はいない、すぐに荷物を退けてしまえば面倒事は少なく済むだろう。目の前の男性からは、こちらを心配する気配しか感じない。自分たち二人がスキマから現れた決定的な瞬間は見られていないと考えていい。しかし、どう見ても不審な自分たちを疑い始めるのは遠くないだろう。一刻も早く、この場から早く離れるべきだ。

 

 

「‥‥‥メリー、とりあえず早急に荷物を纏め直しましょう。私の部屋にでも押し込めて、明日にでも大学の部室に持っていけばいいわ」

「了解よ、ここからだと確かに蓮子の家の方が近いものね。一旦はそちらを倉庫にしましょう」

「入り口まで私も荷運びを手伝いますよ。ここで通りがかったのも何かの縁、貴女方を助けるようにという仏様からのお言葉でしょう」

「あ、えっと、ありがとうございます‥‥‥」

 

 

 そう言って作業を始める二人と一人。

 転がっているのは青々とした匂いがする竹筆や笛、著者不明の掛け軸、何に使うか分からない御札などだ。普通の人間ならば、価値を見出すような代物ではないだろう。しかし、この世界にあるモノは客観的な基準だけで全ての価値が決まるわけではない。幻想郷にあったというだけで、この散らばっている品々は秘封倶楽部にとっては掛け替えのない財宝。それを一つ、一つ、思い出を確かめるようにして二人は大切に拾い集めていく。

 静かな軋みをあげる社殿の回廊、外から射し込むオレンジ色の夕日が何故か目に痛かった。ここは幻想郷ではない、元の世界に戻ってきたはずだ。だから命の危険はないし、今夜からは文明に護られた快適な生活が待っているだろう。

 だが、胸の底から湧き上がる感情は喜びよりも寂しさの方が強かった。あんなに刺激的な経験はもう出来ないかもしれないと、虚しさも合わせて心の中を冷やしていく。そんな意気消沈する自分へ硯箱を押し付けてきたのは、唇をきゅっと結んだメリーだった。

 

 

「ほら、部長さん。部室に帰ったら今回の探索についてのレポートを纏めるんでしょ。記憶が薄れる前に全部書き残さないといけないんだから、立ち止まっている暇なんてないわよ」

「うん、そうよね‥‥‥‥‥‥また忙しくなるかしら」

「あと出席日数が足りそうもない講義が一つ、二つ、私の知る限りは三つくらいあったかしら。落第回避のためのレポートと教授への言い訳作りも大変そうね?」

「今言うことなの、ソレ!!?」

 

 

 ガツンと迫ってきた現実に打ちのめされる。

 優しい言葉による励ましだけでなく、気の置けない友人はお尻を蹴り上げることも忘れない。頭を撫でられたと思ったら、そのまま電柱に頭をぶつけた気分だった。ちなみにメリーは一ヶ月そこら休んでいたところで単位習得に支障はない。

 遅刻癖のせいで授業を定期的にすっぽかす自分とは、全く置かれている状況が違うのである。せっかくの余韻を吹き飛ばしてくれた天狗風ならぬメリー風、蓮子はどんよりと友人を見つめるしかできなかった。

 そうこうしている間に、散らかっていた品々は綺麗に整頓されていく。幻想郷から送り返されたばかりで、まともに頭の回らなかった蓮子とメリー。二人に代わって結局、殆どは男性が片付けてしまった。

 

 

「‥‥‥これで全部でしょうか、割れ物が無かったので思ったより早かったですね」

「ありがとうございます‥‥‥‥えっと、私が蓮子でこっちはメリーって言います、そちらのお名前は?」

「そうですね、私は彗焔(すいえん)と呼ばれて『いた』者です。覚えていてもらえるなら光栄ですよ。また、いつの日にかお会いしましょう」

 

 

 一礼した後、振り向くことなく去っていく彗焔と名乗った男性。出口とは反対側にゆっくりと歩く姿は、やがて黄昏の光に溶けるように消えていった。そして、程なくして男性が去った方角から観光客が次々と通路へと溢れてくる。観光バスでも到着したのだろう、風変わりな男とのやり取りは騒然とした空気に飲まれて二人の記憶から薄れていった。

 

 

「まずは大学の研究室に荷物を置いて来ないとね。今日って何曜日なのかしら、蓮子?」

「うーん、まだ星が見える時間じゃないのよねぇ。端末は充電が切れてるし、向こうに跳ばされてからの日数も計算してなかったから今日が何曜日かなんてお手上げよ」

「それなら、せめて日曜じゃないことを祈りましょうか」

 

 

 他愛ない会話を交わしながら歩き始める少女たち。

 幻想郷では沈みかけた夕日は怪異の刻を告げる鐘であったが、ここでは夜もまた人間の時間である。昼も夜も活動する人々は闇を恐れなくなって久しい、それが異常なことだと改めて気づけたことも大きな発見なのだろう。きっとしばらくは、ちょっとしたことであの紅白の幼巫女と過ごした日々を振り返る。

 やがて思い出は記憶になり、記憶は記録になる。段々と色褪せていく写真のように、この一ヶ月の出来事を懐かしく思う日もやって来る。また幻想郷に足を踏み入れる機会があるのかは分からない、今回の訪問もひょっとしたら『本来はあり得なかった』奇跡なのかもしれない。

 

 

「ねぇ、メリー」

「なに、蓮子」

 

 

 だからこそ思うのだ。

 数式で世界の大部分を説明できるようになった時代、怪異と謎が枯れ果てた時代。そんな中で秘められたモノ、封じられたモノを探そうとした自分たちの活動は決して間違っていなかった。まだ世界には説明できないことで満ちている。セピア色に薄れていく記憶に寄り添いながら、それだけで自分たちは秘封倶楽部らしく生きていけるのだ。

 

 

「楽しかったわね、幻想郷!」

「ええ、とっても!」

 

 

 南北にのびる内陣の柱間は三十三、天龍八部の聖なる領域。こちらの時間で数えるならば一ヶ月ぶりに、少女たちは建物の外へと踏み出した。夕暮れの影は静かに木々を染め上げ、焼け落ちるような光が枝々から零れ落ちていく。それは一つの冒険の終わりを告げるかのように、一つの物語の幕が引かれたかのように赤く紅く。

 

 

 この半年後、二人は幻想郷についての情報を纏め上げて一冊の本を作ることになる。『燕石博物誌』と名付けられた書物が再び一波乱を引き起こすのだが、それはまた別のお話。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 太陽の残滓が沈む山際。

 蝋燭(ろうそく)の火が消えるようにして、地平線へと日輪が没する頃。すでに人間の住む都市は灯りを振り撒き、訪れる闇夜を追い払うかのごとくに光を垂れ流していた。かつて多くの妖怪たちで賑わった京の都も随分と様変わりしてしまったものだと苦笑してしまう。神でなく、月人ですらない者たちが光の都を創り出すなど己の生前では考えられなかった偉業である。

 

 

「願わくば、その叡智(えいち)が彼ら自身を焼き尽くすことの無きように。年若き少女たちの未来と合わせて、人ならぬ我が身で人のように祈るとしましょう」

 

 

 まるで神仏に対するように、先程の男は合掌していた。

 すでに拝観時間は過ぎてしまっており、正門は閉ざされている。脇を通り過ぎるのは寺の関係者たちと、清掃を行う雇われの業者たち。その誰一人として彼を気にかけた様子はない。見えない何かに相対するように、人の子たちは男性の存在を認識することなく己の作業に勤しんでいた。

 そんな人々を慈しむように瞳を細めた後、男は腕を延ばして大きく背伸びをした。ようやく溜まっていた仕事を片付けたかのような仕草、夕日に延びる影は穏やかなものだった。しばらくすると人影が一つだけ、他の者とは違うゆったりとした歩みで近づいてくるのを男は柔らかな笑みで迎える。

 

 

「ああ、色々とお願いを聞いてもらい感謝の言葉もありません。何も持ち合わせていない身の上ではありますが、この御礼はいずれ必ず」

「お気遣いなさらず、今回のことは私にも関わりのあることです。利害が一致したから手を携えたまでであって、我らの間に貸し借りはありません」

「くくっ、それは良かった。実のところ、今回の報酬に何を要求されるのかと戦々恐々としておりました故。改めて肩の荷が降りた気分ですよ、八雲殿」

 

 

 日の光よりも眩しき黄金の色。

 出で立ちは何処か懐かしさを感じさせる大陸の導師服。八雲と呼ばれた女性、その瞳孔の奥には知的な輝きが灯っていた。背後に揺れる空間の歪みは彼女が彼女であることの証であり、特異な妖怪としての現れでもある。幻想郷において『スキマの賢者』して名を連ねる大妖怪がそこにいた。

 あの二人と出会わないように時間をズラして来たのだろう、少しだけ居心地が悪そうに周囲を見回している。そして、少女たちがいないことを確認すると安心したように賢者は溜息を漏らした。

 

 

「やれやれ、我らの目的はコレで果たされたと思っていいのでしょうか。どうにも私には不安が残ります、彗焔(すいえん)殿」

「これ以上は閻魔様との約定に反してしまいましょう。心配なさらずとも、貴女の記憶のとおりに八雲と天狗は手を携えて幻想郷を支えていくことでしょう。きっと大丈夫、私は残された者たちを信じております故」

 

 

 (かかと)で地面を叩くこと一度。

 その途端に巻き起こされたのは、現代ではあり得ない妖力の奔流。コインの裏と表を返すかのように、夕暮れ時の薄暗がりが神々しい光で染め直されていく。たちまち二人を除いて境内から人影は消え失せ、まるで夢に堕ちたかのようにあらゆる喧騒が切り離される。やがて湖のごとく静まり返った空間に現れたのは、もう一つの黄金色の輝きであった。

 相変わらず大した権能だと、スキマの賢者は感心したように眉を持ち上げる。ただの一呼吸で創り出された神域は中々のモノで、こんなものを幻想の薄れた現代世界で構築できる存在は極めて限られる。それは目の前にいる者が、その類まれなる一柱に名を刻む神格であることを証明していた。

 翼の色は日輪のごとく、髪は砂金のように、そして夏空に似た輝きを宿した碧眼をした大天狗。懐かしき大妖怪がそこにいた。

 

 

「白桃橋彗焔、貴方がそう仰るならば私も信じましょう」

「それはそれは‥‥‥‥貴女に信頼してもらえるのならば我が言霊にも、まだ幾ばくかの意味があるのやもしれませんね」

 

 

 暖かな笑みをたたえた男。

 秘封倶楽部が幻想郷へ至るための路を拓き、時間跳躍さえ引き起こした今回の事件における要因の一人。形ばかりの人間の衣を脱ぎ捨てて、白桃橋刑香の父にあたる存在は顕現していた。かつて月の民との戦いで命を落とし、一人娘を残して此岸を去ったはずの半神半妖。失われたはずの霊核は永き時を経て形を取り戻し、自身の領域内でのみ姿を保つことを可能にしていた。半身だけとはいえ、神霊であるが故に結ばれた奇跡である。

 

 

「ところで『懐中時計』は貴女にお返しすれば良いのでしょうか。あまり褒められたことではありませんが、彼女らの荷物から失礼しておきましたので」

「ええ、私が元の持ち主に渡しておきます。なにぶん借り物なもので、万が一にも紛失してしまっては持ち主に申し訳が立ちません」

「四季様は森近殿を通じて、コレを二人に持たせたと仰っていました。あの御方の睨んだとおり、それが無ければ私と貴女でも彼女らの帰路を拓いてやることは不可能だったでしょう」

 

 

 彗焔から手渡された銀時計。

 年月を経ながらも未だに時を刻む文字盤、そこには何度も修理された痕跡が刻まれていた。かつての持ち主が肌見放さず身につけていた影響なのか、微かではあるが『時間に干渉する能力』を秘めたマジックアイテム。幼き夜の王、レミリアが今は何よりも大切にしているモノだ。それこそ本来ならば、他人へ託すことなど絶対にあり得なかっただろう。

 

 

「とても良い品です。材質も意匠も、そして込められた想いもまた尊い。よほど大切に作られ、大切に扱われてきたのでしょう」

「『賢者の一人』が、かつて己の従者へと送ったものです。その者が亡くなってからは常に手元に置いていたそうですが、今回は無理を言って借り受けました」

「紅魔の賢者、ここまで噂は届いています。あの娘と良い関係を築いてくれた御方だとか」

 

 

 どこか寂しげに目を細める彗焔。

 夏空を思わせる碧眼は、記憶にある白い少女のモノと同じ色。穏やかな雰囲気や敵意を微塵も感じさせない物腰は、やはり二人が親子なのだとスキマの賢者に実感させていた。

 

 

「しかし彗焔殿、貴方は‥‥‥‥貴方は『あの子』というばかりで、刑香の名前を口にしないのですね」

「ははっ‥‥‥‥やはり八雲殿にはお見通しでしたか。そうですね、あの子の名であることは分かっています。‥‥‥‥ですが私とあの子の母は、我が子に名前すら付けてやれなかった。その名を口にすることで当たり前の事実を自覚させられるのが、少しばかり苦しいのです」

「彗焔殿‥‥‥‥」

 

 

 考えてみれば当たり前のことだ。

 自らの娘の顔を見ることなく、そして一度たりとも抱き上げることなく、名前を付けてやることも出来なかった。生まれる前から我が子を愛していた親にとって、それはどれ程の仕打ちであるのだろうか。そして、その原因の一つとなったのは己である。

 八雲紫が引き起こした月面戦争、地上の妖怪たちを焚きつけて月へと攻め入った事件が全ての始まり。幻想郷に溢れた強者たちの矛を新たな地へと向け、スキマ妖怪は月の都を奪うように唆した。しかし鳥が水の中で無力なように、魚が空で呼吸できぬように、妖怪たちが月の守護者に勝てる道理はなく。多くが討ち取られ、それを機にして現在の幻想郷に至る勢力図が創られたのだ。それも、八雲紫が望んだ通りのバランスで。

 

 

「恨んでおりましょう、我ら八雲のことを」

「さて、恨んでないと言えば嘘になってしまう。この身は仏の眷属の一柱であっても、仏ではありませぬ故。誰かを憎み、何かに憤怒するという感情もまた健在なのですから」

 

 

 うっすらと空に浮かぶ影。

 金色の鴉天狗の背後に見える月が目に痛い。あれは初めから敗北ありき、勝つ気など毛頭ない戦争であった。障害となる妖怪を他者に排除させる、そのために月の民すら八雲は利用したのである。もし本気で勝つつもりであったなら、それなりの『戦術』を立てていただろう。月の守護者たちにも、決定的な弱点の一つくらいは存在しているのだから。

 その片棒を担いだ己が、目の前の御仁と今更どんな言葉を交わせようか。彗焔の姿が薄れ始めたのは、スキマの賢者が返答を考えあぐねていた時であった。

 

 

「‥‥‥‥ですので、その問いには答えず逝きましょう。貴女たちがいなければ、あの子の生きる幻想郷はそもそも存在しなかったかもしれません。恨み言を口にするのもまた、心苦しい」

「‥‥‥‥‥貴方は幻想郷に来るつもりはなかったのですか。その気になれば、天魔として返り咲くことも可能であったでしょう」

「この身は、この夕暮れと同じく。燃え残った残滓に過ぎず、過去の幻影そのものです。せいぜい我が娘の足元を照らす光になれれば‥‥‥いえ、私はたった一度でいいから刑香の父親らしいことを‥‥‥‥」

 

 

 言葉が紡がれたのは、そこまでだった。

 風に吹かれた砂絵のように、その神霊は形を失っていく。秘封倶楽部を呼び戻すための起点、天魔との繋がりを利用した境界点。その役割を果たしたことで蓄えていた妖力は底をつき、霊格を保っていた器が消えかけているのだろう。少しだけ名残惜しそうに、しかし満足したような表情で彗焔は夏空色の瞳を閉じた。

 そして地平線から射し込む日の光が途切れる頃には、その姿は影も形も無くなっていた。(おもむ)ろに西の空から吹き抜けた風に帽子を飛ばされ、スキマの賢者は空を見る。夕闇に吸い込まれていく真っ白な布地を、金色の瞳は黙って見つめていた。

 

 

「ーーー結局、貴方はどこまでもアイツの父親で在りたかったのですね‥‥‥‥どうか彼の想いと私の償いがあの頃のお前に届くように祈ろう、刑香」

 

 

 夕暮れの過ぎた境内に揺れる九本の尻尾。

 蝋燭を吹き消したように暗くなった境内には、弾き出されていた人々の賑わいが戻っていた。それらから見つかる前に人間へと化け、賢者は灰色の砂利を踏みしめて裏門へと歩き出す。あれなら素直に非難された方が幾ばくか気が楽になっただろう。しかし金色の鴉天狗が浮かべた最期の表情は、惚れ惚れするほど美しいものだった。だから、きっとこれで良かったのだ。

 遠い記憶にある友の顔を思い出して『スキマの賢者』、八雲藍は微笑んだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

お正月特別編

このお話は『お正月』の特別編となります。
時間軸は原作がスタートした以降、それがどのあたりなのかの想像は読者の皆さんにお任せいたします。

それでは原作時点での霊夢と刑香の物語、お楽しみいただけたのなら光栄です。




 

 

 お正月といえば、多くの参拝客が初詣のために訪れる時期である。これから始まる長い一年、その年が良いものであることを祈願するために神前へと参る人々で賑わう。神棚に飾っていた古い御札は奉納し、絵馬や破魔矢を買い求めては、下駄と鈴の音を響かせる。普段は『妖怪のたまり場』として有名になってしまった博麗神社において、縁日を除けば正月は多くの参拝客で賑わう数少ない吉日であった。

 

 

「よーしっ、今年こそはお賽銭ザクザクで、おみくじとかの売り物もガッポリ売り捌く元旦にするわよ!」

 

 

両腕を振り上げて、雄々しく宣誓するのは紅白の巫女。

既に地平線から日は昇り、晴天白日にして風は穏やかだ。境内に雪はまるで残っておらず、それどころか人里からの林道に至るまで除雪済みという用意周到ぶり。ここまでお膳立てしておけば、去年を超えるだけの参拝者は見込めるはずだと胸を張る。ならば、少しくらい期待してもお釣りが出るだろう。神酒や正月の肴を多めに買い込んで金欠になっている霊夢は例年通りの皮算用を弾き出していた。

そんな博麗の巫女に対して、冷めた眼差しを送っていたのは純白の鴉天狗。

 

 

「‥‥‥毎年思っていたんだけど、年を追うごとに私の負担が増えているのは気のせいかしら?」

「気のせい気のせい、ちょっとお店を任せるくらいだから変わらないわよ。今年もありがとね、刑香」

「去年は人里から神社までの雪かき、一昨年は更に境内の雪かきだったわよね。とうとう今年は自分まで巫女服になるなんて想像も‥‥‥‥してないわけじゃなかったけど、実際に直面すると衝撃的ね」

 

 

そう言って肩を落とす刑香。

いつもの天狗装束を霊夢によって力づくで着替えさせられたのが、ほんの半刻前。一応は妖怪なので腕力的に抵抗するのは可能だったりするのだが、いつものようになされるがままだった。翼はしっかりと隠蔽して、妖気も消してしまっているので顔見知りでもない限りは天狗とは気づかないだろう。

千年も生きていると様々なことを否応なしに経験するものだが、さすがに巫女服を身に着けたのは今回が初めてである。来年は何を任されるのか、今から気になってしまいそうだ。

 

 

「それで今年の私は何をすればいいのかしら、博麗の巫女様?」

「えーと、形香には売り子をお願いしたいのよ。私は神事とか見回りで忙しくて、いつもお店を回せてなかったからね。そのあたりを今回は改善していこうと思ったの」

「つまり私が御札とか破魔矢を売ればいいってことよね。でも、それって妖怪が扱っても大丈夫なの?」

「鴉天狗に有効打を与えられる霊具なんて限られてるし、素人相手にそこまで強力なモノは渡さないわ。売り物はせいぜいが気持ちだけ祈りを込めた模造品ね。だから刑香が触れても問題ないわよ?」

 

 

どうせ縁起物なので、効果のほどはそんなもの。もし霊夢が全力で御札を作ったところで、他人が使いこなせるわけもないので商売としては確かに問題ないのだろう。しかし、刑香が気になったのは仮にも妖怪対策である代物を『妖怪』が売り捌いていいのかということである。だが肝心の霊夢が気にした様子もなさそうなので、これ以上は追求しても無駄そうだ。少し思うところはあるものの、今回ばかりは博麗神社の祭神にも見逃してもらうとしよう。

 

 

「形香が売ってくれるなら、目標達成は間違いなしよね。これで次の縁日の開催資金も集まりそう。ふふふっ、期待してるわよ!」

「最善は尽くすけど、その目標額がどの程度なのかは聞かないでおくわ‥‥‥」

 

 

こんもりと売り物が山のように積まれた屋台に、うんざりとした眼差しを向ける刑香。やたらと去年の末から霊夢が何かを縫っているのは知っていたが、この在庫を全力で作っていたらしい。幾ら何でも多すぎる、訪れた参拝者一人一人に必ず売りつける目算なのだろうか。日を跨いだところで痛むものではないので、残ったモノは次回に売ればいいというのは分かるが。

近いうちに、にとりへ商売の秘訣を聞いておこうと心に誓う。これはキチンと忠告しておかないと、そう遠くないウチに火傷しような予感がする。まさか霊夢が火傷どころか境内で火災を引き起こすことになろうとは、さすがの白い少女も思っていなかった。

 

 

「さあっ、売って売って売りまくるわよ!」

 

 

満面の笑みをした霊夢。

異変では妖怪たちを震え上がらせる巫女の無邪気な様子に、刑香は言いかけていた言葉を飲み込んだ。まあ、せっかくのお正月なのだから少しくらい我儘を聞いてあげてもバチはあたるまい。あまり残ってしまうようなら、また自分が協力して売って回ればいい。今年もそうやって自分への言い訳を考えつつ、白い天狗少女は苦笑した。

 

 

◇◇◇

 

 

「あやや、何処に行ったのかと思えば博麗神社で巫女のマネごとですか。かなり面白‥‥‥‥‥もとい、興味深いことになってますね」

「何だか刑香も大変よね。えーと、どうせだから安全祈願の御守りを一つ貰っとくわ」

「それでは、私は写真を一枚貰っときますね!」

「あ、それなら私も後で貰おっと」

 

「アンタたちねぇ‥‥‥‥」

 

 

光を放つカメラが眩しい。

決意から数分後、訪れた顔見知りのせいで早くも心労が溜まってきていた。山の仕事は終わらせてきている上に、自分が博麗神社に出入りしているのは天狗たちの間では周知の事実なので同族相手に悪びれる必要はない。しかし、この二人にとっては関係のないことで友人という立ち位置だからこそ厄介なこともある。パシャリと輝くレンズに収められた紅白衣装のおのれの姿。あのカメラの中身をそのままにしておくと、明日にでも先程の写真が幻想郷中にバラまかれる危険があった。

頬が引き攣りそうになるのを抑えながら、慎重に刑香は文への言葉を紡ぎ出す。

 

 

「当神社では撮影は禁止よ。だから、その写真を‥‥‥」

「おっと、このボロ神社にそんな規定はないでしょうに。心配しなくても巫女の装束は似合ってますよ、ちょっとサイズが小さいせいで脚の露出が高いところも含めて」

「どこ撮ってるのよ!? ともかくカメラを寄越しなさい!!」

 

 

慌てて手を延ばす刑香。

しかし、やはり一筋縄ではいかない曲者カラス。ひらりと躱して宙へと舞い上がり、白い妹分が追って来ようと翼を出そうとするや否や怪しげな笑みを一つ。こちらを眼下に収めながら、さっと鳥居の方を指差した。すると刑香は悔しそうに翼を仕舞い込んでしまう。鬼さんこちら手の鳴る方へ、そんなことを口ずさんで文はニヤニヤと口元を愉快そうに歪ませていた。

そんな不思議なやり取りに首を傾げていたのは茶髪の天狗少女。しかし、その尖った耳に石段を上がる足音が聞こえてくると納得したように手を合わせた。そして、そっと後退してから余所見をしている刑香へとカメラを構える。

 

 

「ああ、なるほどね。今日の刑香は鴉天狗じゃなくて、あくまでも人間のフリをしてなきゃいけないわけか」

「‥‥‥‥‥まあ、そうなるわね」

「ぼちぼち参拝客も近づいているみたいだし、連中の前で間違っても翼なんて出せないってことよね‥‥‥‥‥えいっ」

「はたてっ!?」

 

 

カメラのフラッシュ二つ目。

そろそろ人里からの第一陣が到着するのだろう。それに意識を向けたスキを突かれ、今度ははたてからシャッター音。黒いのはともかく、もう一人には大して注意を払っていなかった刑香。すかさず空中へ飛び上がった親友を半ば呆れたように空色の瞳で見送しかなかった。

 

 

「ごめんねー、刑香。文も私も新聞で博麗神社の宣伝をしてたのよ。その分の宣伝料として、この写真はいただいておくわ」

「そういうことですねぇ。ではでは、アナタも良いお正月を!」

「ちょっ、待ちなさいよっ、二人とも!?」

 

 

冬空に消えていくカラス二羽。

いつもなら即座に追いかけてやるところなのだが、すぐそこまで参拝客が来ているのに店番を放り出すわけにもいかず。ちらちらと本殿の方を見てみるが、霊夢の姿はない。あの二人のことなので直ぐにでも新聞に載せられて発刊されてるか、知り合いに満遍なく配られる可能性大である。しばらくは話の種にされること請け合いだろう。新年早々、とんだお年玉を貰ったものである。

椅子に腰掛けて、刑香は仕方ないとばかりに二人の去った空を見上げていた。

 

 

「あー、もう、わざわざ来てくれたのは嬉しいけどさ。まったく‥‥‥‥‥霊夢にしてもそうだけど、今年もアンタたちといると退屈しなさそうよ」

 

 

ちらちらと舞う雪が透明に輝いている大空がそこにある。

何にも遮られず、空を見上げて見渡すことのできる境内。頬に付いて解けていく氷の結晶を冷たく感じつつ、刑香は白い息を吐いた。年が明けたところで、急激に何かが変わるわけでもなく、冬風の匂いは去年のままだ。しかし新年を迎えて大人たちは浮足立ち、子供たちは楽しげに通りを走り回っている。

それは人里も天狗の里も変わりなく、かくいう自分も未明まで天狗衆の儀礼に参加してきているのだ。真っ白な空は一年の始まりに相応しく、揚げられた凧と弾幕ごっこが賑やかに香るお正月。

紅白巫女になるのは少しばかり意外だったが、これはこれで新年を祝うには面白い出来事なのだろう。

 

 

「今年もよろしく頼むわね、幻想郷?」

 

 

凍える寒さは雪風と共に。

きらめく季節の欠片たちは、そんな鴉天狗の声など聞こえぬとばかりにキラキラと舞い踊っていく。勝手気ままな妖怪と神々の住まう幻想の郷、旧き秩序と脅威が作り出す人ならざる者の楽園。外の世界では当たり前とされるモノはなく、代わりにかつて当たり前と思われていた懐かしさが芽吹く異界の地。そんな幻想郷で、自分は今年も生きていく。

 

 

これは、初日の出が昇った後にあったかもしれない少女たちの一幕。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十九話︰凱風快晴の瞳にて

そろそろ原作時間の物語へと移る予定です。


 

 

ーーーこの手は、穏やかな日常に届いたのだろうか。

 

 

 朝が影も形もなくなった頃合いのこと。

 薄い桃色をした雲は空高く、暖められた空気が流れる牛の刻。桜の木がそよ風に吹かれ、枝々のスキマから揺れていたのは黄金(こがね)色をした太陽。サワサワと音を鳴らす葉を鮮やかな黄緑色をしたメジロが行き来しては、耳障りの良い(さえず)りを落としていく昼下がり。開け放たれた障子から見える空は、湖のように爽やかな青色がどこまでも広がっている。空から大地に至るまで陽だまりに包まれた幻想郷の春がそこにはあった。

 そんな中で、紅白の少女は目を覚ます。

 

 

「ん、ふぁぁ…………我ながらよく寝たわね」

 

 

 黒髪を揺らす風をくすぐったく思いつつ、ゆっくりと布団の中で目を開けた霊夢。もう睡眠は十分なはずだが、寝すぎてしまったのか身体の動きが鈍い。欠伸をするのも億劫で、ぼんやりと壁を見つめているだけで時間が過ぎ去っていきそうだった。赤みがかった黒い瞳は目一杯の眠気を揺蕩えていて、心地よい布団の温もりに抗うことは出来そうもない。もう少しだけ、もう少しだけと寝具に首まで潜り込む。そのまま目を閉じてしまっても良かったのだが、少し確かめておきたいこともある。せめてもの抵抗として、もぞもぞと脚を動かしてから頭だけを隣の布団に向けた。

 

 

「‥‥‥‥よし、やっぱり夢じゃない」

 

 

 そこには静かな寝息を立てる天狗少女の姿。

 昨日の再会が幻想でなかったことに、霊夢は静かな安堵を滲ませる。弾幕ごっこでは負けてしまったが、刑香を連れ戻す目的は無事に達成できた。色素の感じられない髪は出会った頃のままで、障子のスキマから射し込む光を受けて淡い輝きを放っている。夏空を映し込んだ碧眼は閉じられており、安らかな寝息が聴こえてきていた。昨日の弾幕ごっこで妖力を少なからず消耗したのだろう、まったく寝覚める様子はない。

 

 

 なので、こっそりと布団に潜り込むのは簡単だった。

 

 

 紫と藍にはやったことがあるものの、それ以外の相手にしたのは初めてだ。もぞもぞと刑香の隣へと忍び寄り、大胆にも向かい合うようにして横になる。チラリと顔を上げると、涼やかな刑香の寝顔がそこにはあった。考えてみれば翼を触るために背中から抱きつくことが多かったので、自分たちが正面から引っ付くのは珍しい。天狗少女の体温が布越しに共に伝わってくると、霊夢は安心して溜息をつく。

 やっぱり夢じゃない、そんな当たり前の言葉を胸のうちで繰り返してしまう。誰かに目撃でもされれば赤面ものの行動だが、不思議とそれでもいいと思えてくる。だからだろう、ぼんやりと空色の瞳が開かれたことに気づくのが遅れてしまった。

 

 

「………何してるのよ、霊夢?」

「け、刑香!? えっと、その……お手洗いに行ってたら、その間に布団が冷えちゃったの。だから刑香の布団にしばらくお邪魔しようかなって」

「それは別にいいんだけど、二人が入るには少し狭いわよ。私があっちのを使うから、こっちは霊夢がこのまま使いなさいな。それなら寒くないでしょ?」

「ち、ちょっと待った!?」

 

 

 咄嗟に白い少女を引き止める。

 このまま移動されれば、今の言葉が嘘だったとバレてしまう。今の今まで自分が入っていたのだから布団が冷たくなっているわけがないのである。それに今はこのままでいたい、あのピクニックの日に抱えられて空を飛んだ時のことを思い出せるから。

 しかし、それをそのまま伝えるのは何というか、そこそこの勇気がいることだったらしい。口元を強く結んだまま、じっと空色の瞳を見つめ続けるしかできない。刑香が全てを察して口を開いたのは、それからたっぷりと十数秒後のことであった。

 

 

 

「‥‥‥‥‥少し狭いだろうけど、詰めれば何とかなるでしょ。霊夢がそうしたいなら私は構わないわ」

「うん、ありがと!」

 

 

 ぽふんと枕に頭を戻す鴉天狗。

 本当は刑香が『誰かに触れられること』を不得手としているのを霊夢は知っている。幼い頃に受けた傷なのか、それとも別の原因があるのかは分からない。きっと尋ねたとしても誤魔化されるのだろうし、きっと刑香も自分に知られたいとは思っていない。何も言わず、さらさらと頭に触れてくれる手が心地良かった。やがて夕闇が迫ってくるだろうが、今日は境内の掃除もしていない。刑香にしても、任じられたばかりの大天狗のお役目はどうなったのだろう。

 

 

「‥‥‥‥どうか良い夢を、博麗の巫女さま」

 

 

 その言葉に安心して瞳を閉じる。

 先代の巫女から見れば信じられない光景であっただろう。誑かしたわけでもなく、誑かされたわけでもない。それなのに妖怪と人が一緒になって同じ布団で眠っているなどーーーきっと、お伽噺ほどにも信じられなかったに違いない。

 そんな光景が日常となっていく、この神社と霊夢を中心として描かれる物語はすぐそこまで迫ってきていた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 宵の月が近く、昼の日差しは遠くなる逢魔が時。

 葡萄のような色をした夕暮れが空を染め上げ、障子越しに射し込んでくる光は芳(かぐわ)しい夜の香りに満ちていた。花火を打ち上げたかのように華々しいスペルカードの決闘から、あと数刻もすれば丸一日経ったことになる。結局は勝敗がつかなかった文との弾幕ごっこと、何とか勝利を収めた霊夢との弾幕ごっこ。それは誇りと技量を惜しみなく出し合った決闘もどき。瞼を閉じれば光舞う光景が蘇り、身体を掠めるスペルに胸の奥がそっと熱くなる。

 正直なところ、己にはあまり有利なルールではないというのは理解した。『死を遠ざける程度の能力』は致命となる攻撃でしか発動せず、妖力に恵まれていない自分では多くの弾幕を放つこともできない。攻守ともに今までの戦闘経験が活かしにくく、次に霊夢と戦っても勝てないだろう。だが「それも悪くない」と、空色の瞳は隣で眠りこける幼子を見守っていた。

 

 

「本音を言うとね、再会するのはもう少しだけ先にするつもりだったのよ。私が大天狗としての務めを果たせるようになったら、大手を振って会いに行くつもりだったから。それなのに‥‥‥まさか霊夢の方から飛び込んでくるなんて思わなかったわ」

 

 

 緩んだ口元で眠っている黒髪の巫女。

 こちらの胸に顔を埋めるようにして、すうすうと寝息を立てていた。ぴったりと離れないようにしている姿は、巣立ち前の雛鳥を連想させる。とはいえ、もう霊夢はそこらの妖怪では太刀打ちできぬ程度には強い。精神とて幼い子供とは思えぬほどに成長しているし、そもそも初めから独りで生きていける程度には気丈だったと思う。だから『このように振る舞っている』のは、純粋に甘えているだけなのだろう。

 

 

「‥‥‥‥‥心を許してくれるのは嬉しいのだけど、流石にちょっとむず痒い距離感ね」

 

 

 ほんの少しだけ身体を動かそうかと思ったが、起こしてしまいそうなので止めておく。かつての己が今の光景を見たら何を思うだろうかと苦笑してしまいそうだった。こうしていることを欠片も不快とは思わないし、むしろ不思議な心地よさはある。しかし、情けないことに落ち着いて睡魔に身を任せることは出来なさそうだ。

 

 

「‥‥‥‥‥むにゃ」

「それにしても‥‥‥‥妖怪のために飛んでくる巫女なんて、前代未聞よね。まあ、私も変わり者には違いないのだけれどアンタはそれ以上だと思うわよ?」

 

 

 ささやくように語りかける。

 聴かせるつもりはない、故にこれはただの独り言だ。誰に届くこともなく空気へと溶けていく音の波。宵闇に覆われて光が失われていく境内にあって、妖怪と人間の少女たちが静かに身を寄せ合う。夏でないため虫たちの声は聞こえず、秋ではない故にススキ穂の波打つ音も聴こえない。冬の残り香を運ぶ風と春の月光だけが、たまに木々を揺らす青い夜が横たわっている。

 

 

「昨日の今日で静かなものね。あれだけ騒いだのだから、今はどいつもこいつも身体を休めている頃合いかしら」

 

 

 霊夢の黒髪に手櫛を通していく。

 こうしていると、やはり自分は『黒』という色が好きなのだと改めて思う。もし己の翼が『白』ではなく、『黒』であったなら未来はどうなっていたのだろう。きっと鬼と二度も戦って死にかけることもなかっただろうし、この巫女と出会うこともなかったかもしれない。果たしてどちらが自分にとって良かったのだろうか。そんな考えが胸を掠めていったのを馬鹿馬鹿しいと一蹴する。きっとコレは天秤に掛けるようなことではないのだろう、至るべくして至った今に不満などあるはずもない。

 もぞもぞと霊夢が身じろぎしたので、「ごめんね」と小さく呟いてから刑香は黒髪から手を引くことにした。

 

 

「さて、そろそろ夕食の準備くらいはしておきたいのだけど‥‥‥」

 

 

 すっかり日が傾いてから暫く経った。

 月はすでに燦然と空で輝いており、夜空から降る光が障子の張り紙から透けている。朝から眠っていたので二人揃って昼も食べていないのだ、夕餉はそれなりのものを用意しておいた方が望ましいだろう。そう思ってはいるのだが、ぴったりと霊夢が引っ付いているので動けそうもない。目を覚ましてからいつかのピクニックのように、簡単なおにぎりでも握るのがいいかもしれない。

 

 

「あの時は何を作ってたかな。野菜の炒めものや漬物あたりを詰めてたような‥‥‥…ん、流石に冷えてきたか」

 

 

 首元にもたれかかってくる空気が冷たかった。

 眠ったままの霊夢が小さく身体を震わせる、外からのスキマ風が部屋の気温を下げているのだ。二人分の体温で暖められた寝具といえど万全とはいいがたい、そもそも刑香の体温は人間よりも若干低いのだから尚更だ。風邪を引くことはないだろうが、あまり寝心地は良くないだろう。

 夕食のこともあるので霊夢を起こしてしまうのも選択肢の一つではあったのだが、随分と心地よさそうにしているので躊躇してしまう。少し考えてから、刑香は『そのチカラ』を使うことにした。

 部屋の隅におかれた火鉢がパチリと小気味良い音を立てたのは、それから数秒後のこと。

 

 

「オン・ガルダヤ・ソワカ。こんな使い方をしたなんて知られたら、お祖父様に何て言われることやら……こればっかりは反省しないけどね」

 

 

 そこに灯っていたのは黄金の焔。

 蝋燭の灯よりも小さな輝きが、小さく小さく灰の中で息づいていた。火鉢の中に炭はなく、火種となる木片すら無い。それでも導かれるように焔はゆったりとした歩みで白い灰を取り込みながら、その身を大きく成長させていく。しばらくすると鋳造したばかりの小判のような輝きを放つ焔が部屋を暖かな熱で覆っていた。

 

 天魔から受け継ぎ、刑香が大天狗となる決め手となった『迦楼羅焔』。本来ならば邪なる者を焼き祓い、竜すら喰らう神炎である。元が仏神の持ち物だけあって、使用者に十分な妖力があれば他の神霊に対抗できるだけのチカラが宿るのだろう。そんなものを暖房代わりに使ったなど、山の天狗たちが知れば卒倒してしまうかもしれない。まあ、今は見られていないのだから構わないだろうと、段々と上がってきた室温を感じつつ白い少女は満足そうに頷いた。

 その時だった、部屋に射し込んでいた月の光に『人影』が浮かんだのは。

 

 

 

 

「ーーーその焔に、そんな使い方があるなんて驚いたわ」

 

 

 

 気品の込められた声が頭の芯に響く。

 見慣れた紫紺を思わせる装束も、怪しげな瞳の輝きも見えず。その輪郭だけが月に照らされ、障子越しに影となっている。遅れて伝わってくる『大妖怪』としての強大な妖力がその存在を主張していた。鼓膜を揺らしてくる音色から敵意は感じられないので、ここで一戦やらかすつもりはないようだ。立ち上がって縁側に出ようとも考えたが、ぎゅっと胸元の霊夢が抱きつく力を強めてきたので横になったまま口を開くことにする。

 

 

「ーーーあれから一ヶ月は経ってるわよ、随分と久しぶりじゃない。もう会いに来ないつもりかと思っていたんだから」

「誤解のないように言っておくけれど、意図的に避けていたわけではないわ。ただ、動けないだけの理由があったから来られなかった。それだけのことですわ」

「まあ、嫌われたわけじゃないなら安心したわ。お互いに傷を負ったし、傷つけられた。それなのに宴の一つもなくそれっきりなのだから、次に顔を合わせたらまた血みどろの決闘になるんじゃないかとヒヤヒヤしていたところよ」

 

 

 両者の間に剣呑な空気は微塵もなかった。

 式神にしようとした側と、されそうになった側。おまけに刑香は八雲紫にとって宿敵である天魔の身内で、紫は白桃橋刑香にとって両親の仇である。それでもお互いから敵意や悪意は欠片も感じられず、むしろ『あの夜』を迎える前より穏やかな気配を漂わせていた。そうして、純白の大天狗とスキマの賢者は壁一枚を隔てたまま言葉を交わす。

 

 

「随分と遅れましたが、まずは大天狗への就任を祝福しましょう。噂によると、私やレミリアのような外部の者との交渉役、そして人里の守護職を兼任することになったそうね?」

「そんな井戸端会議を聞いてきたみたいな口調で、こっちの機密を仕入れてくるんだから油断ならないわね‥‥‥‥まったくアンタは。既に知られてるみたいだから白状するけど、その言うとおりよ」

 

 

 大天狗としての刑香の御役目など、まだ文とはたてくらいしか知らないはずの情報である。それを当たり前のように語ってくるとは、コイツの情報網はどうなっているのか。刑香としては声を大にして問い詰めたいところだが、今更な気もするので自重する。

 

 

「妥当と言えば妥当でしょう。アナタは天狗社会の内実に詳しくないのだから、自ずとそういった役割を担うであろうことは予測済みでしたわ」

「天狗の中にはアンタやレミリア、慧音とまともに話が出来るヤツがいないのよ。そのせいで無用な対立を招いてしまうこともあったから、これからは私みたいな役割の天狗も必要らしいわ」

「あの老天狗にしては悪くない選択をしたものね。アナタが相手であるならば心を許す者や譲歩する者だっているでしょうから、きっと妖怪の山との対立は今よりも少なくなるでしょう」

 

 

 障子から漏れ出すスキマ風。

 それは春を迎えておきながら、取り残された雪のように冷たかった。外にいる紫に部屋へ入ってきて話せばいいのにと思わないわけではない。だが本人が何も言わないのなら、こちらから勧めるべきではないのだろう。まだ顔を合わせたくないからこそ、こうしているだろうから。やがて月が雲に隠れ、紫の影が闇へと消えていった。

 

 

「それでは、私はこれにてお暇しますわ」

「‥‥‥‥結局、アンタは自分の手を煩わせずに目的を達したということよね。スペルカードは幻想郷に普及し、私はアンタ達と妖怪の山を繋ぐパイプ役になる。これじゃあ、アンタの一人勝ちじゃない」

「うふふ、そのあたりは年季の違いと諦めなさいな。また近日中に会うのを楽しみにしているわ」

「ん、それじゃあね。また必ず会いましょう、紫」

「………怨敵を焼き祓うための焔を、誰かに暖を取らせるために使う。その在り方をゆめゆめ無くすことのないよう、貴女が貴女で在り続けることを願います」

「私はこんな鴉天狗だもの。これはきっと死ぬまで変わらないと思うから、安心しなさいな」

 

 

 それっきり会話は途切れた。

 気配はスルリと消え去り、雲が晴れた後もそこに人影は無くなっていた。もうスキマに入ったのだろう、相変わらず神出鬼没を絵に書いたような妖怪である。交わした言葉は決して多くはなかったが、次に会う時には以前と同じような関係へと近づいていることを期待するとしよう。万が一、戦うようなことがあったとしても先刻のとおりにスペルカードでの決闘になるので命のやり取りをする心配はないだろうが。

 そこまで思考を整理してから、刑香は意識を布団の中へと戻す。

 

 

「終わったわよ、霊夢」

「……うん」

 

 

 ずっと自分の寝間着を握っていた幼い少女。

 途中から起きていたのは気づいていたし、こちらに勘付かれていたことも分かっていたのだろう。声をかけると、ゆっくりと目尻の赤く染まった顔を見せてくれた。その様子からすると、やはり心配させてしまったようだ。火鉢に揺らめく鴉天狗の炎が反射して、巫女の潤んだ瞳を輝かせている。見られたくなかったのだろう、すぐに顔を布団で隠してしまったので刑香も視線をそらす。

 そして言葉を発することなく、霊夢を優しく抱きしめた。夕食はもう少し先でいいだろう、今はこうしている時間の方がきっと大切なのだと思いながら。

 これは代替わりを果たした博麗の巫女が初めて解決したとされる一連の出来事、主な舞台が妖怪の山であったことから『御山異変』と呼ばれることとなる。まるで山に光が反射するかのような一夜限りの弾幕ごっこは、新たな時代を映し出す鏡のようだったと人里では語り継がれることとなる。

 しかしその影に白い鴉天狗と紅白の巫女の絆があったことを知る者は、あまりにも少ない。

 

 

 

 これは、博麗霊夢の幼い頃にあったかもしれない物語。

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 




今回は挿し絵があります。
刑香(大天狗バージョン)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間︰色鮮やかなる雲煙過眼

お久しぶりです。
幕間となりますが、試運転までに投稿させていただきますね。


 

 

ーー物事には必ず始まりというものが存在する。

 

 

生き物は母から産まれた瞬間に、焔は種火が息づいた刹那に、物語は最初の一文字が描かれる時に。それ故、妖怪にも『その時』は存在する。『己』の場合は唐突なもので、気がつくと大きな大河を眺めるようにして座り込んでいたのが始まりだったと思う。

付喪神のように道具から変化したわけではない、一部の魔女たちのように人間から成ったわけではない、白い翼の少女のように両親から産まれたわけでもない。

 

単なる偶然か運命に導かれての必然か。これといった産声を上げることもなく、誰かに祝われることもなく。ともかく己という妖怪は、もう思い出せない遠い昔に広い大陸の何処かにて生まれたのである。

 

生を受けてから、しばらくは戦いに明け暮れる日々だった。

別に手先が不器用というわけではないし、やろうと思えば『能力』で風水師や気功師の真似事もできただろう。しかし、そこは自分も生まれたぱかりの妖怪だったためか、血気盛んな方へと走っていってしまったわけだ。人間と殴り合ったところで負けるわけもなく、槍や弓矢で刺された程度で死ぬこともない。戦には事欠かない土地柄だったこともあり、何十年かはそうやって暇を潰して暮らしていた。

 

しかし、ある時から戦いへの情熱は失せてしまった。今でも原因は分からない。あれほど拳を振るっていたというのに飽きてしまったのか、それともようやく罪の意識でも芽生えたのか。願わくば、後者であって欲しいと今では思う。

 

そして自分のような種族も不確かな妖怪は、産まれた土地を離れたところで大きな制約が生じるわけでもない。あっさりと故郷を離れてしまうという選択肢に、何一つとして後悔はなかった。

 

数年くらいだっただろうか。

放浪した末に辿り着いたのは後々に絹の道と呼ばれることになる通商路の一つであり、ここで何故か自分は砂漠で道案内なんてことをしようと決めたのだ。単に砂漠に潜む盗賊よりも、活気に満ちた商人たちが好きだったからという理由だけだ。思えば、この頃に一番多くの人々と出会ったような気がする。

 

 

ーーーやがて海路が確立されたことで、賑やかだった路が廃れて見る影もなくなるまで。ほんの数百年の賑やかな思い出だ。

 

 

その後は、西の国まで行ってみようと思った。

かつて自分が見送ってきた彼らのように、自分もまた長い旅に出ようと決めたのだ。あれは希望に胸膨らませた出立で、何一つ見通しも立っていなかったけれど、砂漠の星空のように清々しいものだったことを覚えている。

あとから考えると、これも今の主人が『能力』で仕組んでいたのかもしれないのだが、考えても仕方のないことだろう。あの時の気持ちに嘘はないのだから、それだけで十分なのだ。

 

道中の言葉は旅人たちから教わったモノが役に立った。お金は常に不足していたが、そもそも地面で横になったところで野盗や飢えにやられることもない。せいぜいが立ち寄る街の名物を食べ歩く時に使うくらいなのだから、さしたる問題でもなかった。延々と何年、何十年と徒歩で旅を続ける。

出会いは無数にあり、当然ながら別れも同じ数だけあった。時には余所者として追い払われたりもしたし、若い青年に恋文を届けられて苦笑いしたこともある。

数えきれない都市を訪れた。建築物は泥を固めたモノから木造やレンガまで、生活の糧となる放牧や栽培も多種多様。どれも見たことのない人間たちの姿だった。自分が見送ってきた商人たちの子孫も、あの中に一人くらいいたのかもしれない。

永い永い時間を掛けて、長い長い旅をした。まるで何かに惹かれるように西へ西へと。

 

 

そして、旅路の果てに自分は遂に『紅い運命』と出会ったのだ。

 

 

あれは満月の夜、人里離れた廃れた教会でのこと。

その建物に住んでいた人間は絶えて久しかったようだが、まだまだ屋根と壁は朽ちていなかったので一夜の宿として利用していたのだ。古びた宗教画の飾られた礼拝堂、かつて信者たちが祈りを捧げていたであろうベンチで横になって目を瞑る。異国の神々に見張られているかのような雰囲気は落ち着かなかったが、その程度で眠れなくなるほど繊細な神経はしていなかった。やがて半刻もしないうちに、自分は緩やかに意識を闇に沈めていた。

変化があったのは、夜が日付を跨いだ頃のこと。

 

 

「………随分と、デカイのが来てますね。縄張りにでも入り込んでしまったのか、それとも単に餌を求めているのか。いずれにしても、戦闘は避けられそうもない」

 

 

教会の入り口に張り巡らせていた『気』から伝わってくる『震え』が侵入者の到来を告げている。瞳をゆっくりと開くと、音を立てずにベンチから起き上がった。近づいてくる気配は一つ、されど妖力は一級品で文字通りに一騎当千といったところ。硬い石の床を叩くのは、高いヒールの靴音。気配を隠すつもりはないらしい。まるで散歩でもするかのように軽快な足取りで何者かは近づいてくる。距離が縮まるにつれて、絶大なまでの『チカラ』が壁と天井を独りでに軋ませていく。

そして、ひび割れた天井から降り注ぐ月光の下、悠然と気高き夜の支配者は姿を現した。

 

 

「ご機嫌よう、良い月ね」

 

 

夜にあって僅かな光で輝きを放つ蒼銀の髪。

レースを施された優美なドレスから覗くのは、星空に透けるかのような白磁の肌。ただ立っているだけだというのに気品のようなモノを感じさせる佇まい。そして、何よりも鮮血のごとくに染まった真紅の瞳。そのいずれもが己の今まで出会ったことのある妖怪とはかけ離れていた。武器もなければ、妖気も漂わせてはいない、そこにいたのは何処までも少女然とした化生であったのだ。

 

 

「ちょっと、この私が挨拶しているのよ。恭しく従順に、かつ早急に返事を口にするのがマナーではないかしら?」

「…………これは失礼しました、私は美鈴と申します。東の国からの単なる旅人ですよ。よろしければ、貴女の名前をお尋ねしても?」

「まだ駄目よ。西の事情に疎いアナタは私の名前を聞いたところで、その重みが理解できないでしょう。それなら、まず私のチカラを見せた方が話も早そうだから」

「それはどういう意味でしょうか」

 

 

夜風に転がる鈴の音のごとく。

その少女の声は穏やかに鼓膜を揺らし、知らぬ間に警戒を緩めてしまうほどで心地良いものであった。恐らくは『魅了』の力を宿しているのだろう。この娘は相手を油断させて喰らう妖怪なのだと拳を固く握りしめる。それを見て、魔性の主は愉快そうに顔を歪めていった。

 

 

「そうね、それでいいわ。この程度の術中にまんまと囚われるようなら『要らない』もの。そして、魅了に気づいたからといって性急に反撃してくるわけでもない。ええ、アナタは合格よ」

「どうも、それでは帰ってもらえると…………」

「だから私の下僕になりなさい」

「………え?」

 

 

この言葉は流石に予想していなかった。

過ごしてきた時間が時間だけに、罵倒を投げかけられたことは数あれど軍門に下れと言われたのは初めてのパターンである。いや、目の間の少女にとってはそもそも相手を貶しめるつもりもないのだろう。他者が己にかしずくのは当たり前のことであって、支配者として命令を下しただけのこと。別にこれくらいで怒りを覚えるような己ではないのだが、少なくとも会ったばかりの相手に従属せよなどという類のモノを了承できるはずもない。

 

 

「謹んでお断りします。私は誰かの配下となることも、誰かを傘下にすることも永劫ありません。根無しの草こそ我が生き様、故に私が私である限りは貴女の提案を受け入れることはありえない」

「根を張らず、葉を広げぬ植物が花を咲かせることはないわ。東方からの旅路は心躍るものだったのでしょう。であれば、その思い出を糧として、そろそろ腰を落ち着かせてなさい。私の傍でね」

「っ、来ますか!」

 

 

大気を焦げつかせていく紅い魔力。

その全ての威圧感は美鈴一人に向けられており、教会の周囲には殆ど漏れ出していない。はっきりと可視化するほどに凝縮されたチカラの波は、幼い少女から放たれているとは思えぬほど異質なまでに精錬されていた。『気を使う程度の能力』を持つ自分であっても、これと同じ大きさの妖力をここまで完璧に制御することは果たして可能だろうか。

強大なチカラを持ち、それを正しく運用する敵。久方ぶりの格上の種族との戦い、どこか高鳴る胸の鼓動に気づかないふりをして己は地面を蹴る。

 

そして次の瞬間には、美鈴は銀髪の少女を拳の間合いへと捉えていた。

 

狙うは一撃致命、気を足裏と大地に集中させて弾くようにして身体を押し出す技法。故郷にて身につけた武術の一つ、届かぬはずの距離を縮めて己を相手の懐に潜り込ませる。その名を『縮地』という絶技が夜の王の隙を突き穿つ。僅かに目を見開いた少女の顔が見えた、この好機を逃すつもりはない。

 

 

「『螺光歩』!!」

 

 

全力で振り抜いた拳。

直線の移動に伴う速度を、余すことなく乗せた一撃。完全に虚を突いたであろう剛拳は少女の胸元へと吸い込まれるように引き寄せられ、そしてーーー。

 

 

「ーーー終わりです」

 

 

その肉体を貫いていた。

全霊を乗せた掌打は少女の皮膚を容易く引き裂き、肉を抉り取り、骨を打ち砕く。吹き出す冷たい血液が腕を伝い、赤い美鈴の衣服を紅く染め上げていく。衝撃波が背中から通り過ぎ、少女の後ろにあるガラス窓が弾け飛んでいた。

狙ったのは、大抵の妖怪でも致命傷となる心臓だ。そして己の拳は確実にソレを破壊している。相手が手の内を晒す前にケリをつけるというのは、定石通りの戦法なのだが上手くいったらしい。小さく安堵のため息をつき、ゆっくりと少女の身体から腕を引き抜こうとした。

 

 

「ーーーへぇ、ここまで肉体を損壊させられたのは初めてよ」

「な、ぁ!?」

 

 

愉快そうに歪められた少女の口元。

致命傷を与えたはずの相手が平然と言葉を発した事実に戦慄する。己の右腕は尚も少女の心臓を貫いており、今も割れた水風船のように冷え切った血液が傷口から流れ出ているのだ。これは幻影でもなければ妖術でもない、それなのに大穴が空いたまま目の前の存在は動いている。腕を引き抜き、すばやく少女から距離を取るために後ろへと跳躍した。

ありえない、と心の奥底で驚愕する。

 

 

「ーーーああ、さっきの拳打はひょっとして『毒手』だったのかしら? ダメージと同時に傷口へ気を流し込んで、受け手の肉体再生を阻害するとかいう東方の戦闘技法。ふぅん、それなら穴が塞がらないのも道理ね」

 

 

敵を内部から破壊する気功の極意。

基本的に多少の傷ならば回復してしまう妖怪に対して、美鈴が使用している対処法。相手の損壊箇所に気を叩き込むことで、妖力の流れを乱して回復を阻害することが可能となる。故に心臓やその周辺に喰らわせたなら、大抵の敵は倒すか行動不能にできるはずなのだ。

だが、まさか『傷を治すことなく』行動してくる敵がいるとは思わなかった。次の一手を考える美鈴へと、血塗れの怪物が笑いかけてくる。

 

 

「少しだけ待ちなさい、流石にこの状態で決闘を続けるのは優雅じゃないわ」

 

 

ズルリと少女の傷口を紅い魔力が覆っていく。

治すことは諦めて、とりあえず塞ぐことにしたらしい。出血は即座に止まり、衣服を濡らしていた紅色もまた抜け落ちるようにして地面へと流れ落ちていく。そして数秒も経たぬうちに外見は美鈴からの一撃を受ける前まで巻き戻されていた。その胸に空いた衣服と身体の穴を除けば、であるが。

教会に飾られた天使の宗教画、そこに朽ちたステンドグラスから月光が零れている。神の福音を聖なる預言者に告げに来た瞬間とされる絵画であるが、気のせいか描かれている天使たちが怯えているように見えた。呼吸をするごとに、教会に満ちた闇夜の気配が濃くなるのを感じる。やがて、ぞっとするほどの魔力が大気と余すことなく混ざり合い、遂に幼き姿の怪異は口を開く。

 

 

「『スピア・ザ・グングニル』」

 

 

夜の月が、吸血鬼へと微笑みかけていた。

少女が指を鳴らすと先ほど地面を染めた血液が渦を巻き、月光を帯びてその手に集まっていく。収束する血と魔力は意思を持っているかのように、武器の形へと変化していく。やがて幼き少女には巨大過ぎるほどの紅槍が姿を現していた。

 

 

「さてと、美鈴……。こんなにも月が紅いのだから、本気で相手をしてあげる。せっかくだし、私をもう少しだけ楽しませてみなさい。私が名前を名乗りたくなるくらいにね」

 

 

顔を引き攣らせた己へと下された絶対命令。

黒い翼を広げて、吸血鬼の少女は戯れるように迫りくる。必殺の槍たるグングニルは、ただ通過するだけで触れてすらいない教会の壁を崩落させていく。速力も腕力も、妖力さえ遥かに上回る。おまけにこちらの攻撃は不死の肉体に阻まれるという八方塞がり。後にも先にも、本気で逃げ出したいと美鈴に思わせた戦いはコレだけであった。

 

 

満天の星空が輝く下、こうして紅魔の主と門番は主従関係を結ぶことになる。

 

 

◇◇◇

 

 

「ーーーというのが、私とレミリアお嬢様との出会いです。この後、ボコボコにされた私が当時の紅魔館に引きずられて行きまして、そのまま部下になった感じですねぇ」

「いや、何て言うか。聞いているだけでも凄まじい出来事ね。単なる殺し合いからの誘拐じゃない、ソレ」

 

 

紅魔館のテラスにて、門番の昔話に苦笑いを返す白い少女。

今日はレミリアとの会合があったので、そのついでに美鈴と話をしていたところ昔話に花が咲いた。二人の掛ける木製のテーブルの上には、大陸の名産品である茶葉を使った紅茶が何種類も置かれている。庭師も兼任している美鈴が丹精に育てた西方の草花が咲き誇る花壇で採れたお茶の香りは、時間が経つのを忘れてしまいそうだ。

まあ、話の後半が血生臭すぎて、すっかり現実に引き戻されてしまったわけなのだが。

そんな刑香を見つめながら、いつもの笑顔で美鈴は話を続ける。

 

 

「いやー、あの時のお嬢様は今より戦い馴れてなかったので酷い目に会いました。逆に言えば、本気に近い状態のお嬢様と戦えたわけなので得をしたとも言えますけどね」

「つまり、戦闘経験があまり無かったレミリアが手加減の仕方が分からなかったってこと?」

「そういうことですね。グングニルで四肢の二つを持っていかれましたし、蹴られて内臓やら骨も次々と潰されましたよ。刑香さんもいないのに、あの状態でよく生き長らえたものです」

「多分、攻撃は本気だったけど戦闘自体は死なない程度で止めたんでしょうね。なんとなくだけど、そんな気がするわ」

「あー、そう言われると死ぬ一歩手前でしたね」

 

 

ヘラヘラとした美鈴はまったく気にしていないようだし、レミリアにも考えはあったのだろう。しかし、それにしても今の二人しか知らない自分には信じられない話である。恐らくは、レミリアの胸をぶち抜いた頃の美鈴は今ほど相手に手心を加える妖怪ではなかったのだろう。そして、レミリアもまた戦闘において相手に合わせて加減が出来るほど器用でもなかったのだ。つくづく、吸血鬼異変で戦ったのが今の二人で良かったと思う。『死を遠ざける程度の能力』があるので、自分は致命傷を貰うことはないものの手足の一本くらいは跳ね飛ばされていたかもしれない。

やれやれと思いながら、刑香は空になったカップを机に置いた。

 

 

「………ところで、その子もひょっとして攫ってきたのかしら?」

 

 

赤髪の門番が座る席の後ろ側。

気配を殺して控えていたのは、銀髪碧眼のメイド少女。見た目は幼い人間の童女だが、どことなく研がれたばかりの刀身を思わせる鋭利な雰囲気がある。子供ながらに妖怪退治屋のようなことを生業としてきたのかもしれない、もしくはもっと『血生臭いモノ』だろう。吸血鬼異変にはいなかった新顔であり、その後に紅魔館の一員にしたとレミリアが以前に語っていたはずだ。吸血鬼と魔法使い、妖怪に妖精しかいない屋敷で唯一人の人間というのはあまりにも異質である。

 

 

「ーーー咲夜は拾ってあげたの、私から攫いに行ったわけではないわ。むしろ、そういうのは天狗の領分なんじゃないかしら。ねぇ、大天狗さん?」

「残念ながら幻想郷で人攫いはご法度よ、紅魔の主さま?」

 

 

頭上から掛けられたのは、悪戯心を込めた幼い声色。

すると咲夜と呼ばれた少女はふわりとスカートを摘み上げ、二階のバルコニーから庭先へ降り立ってきた己の主へと軽く一礼した。次の瞬間には刑香の隣に椅子が一つ増えており、ご丁寧にティーカップとクッキーまでもが用意されていた。まるで魔法でも使ったかのような出来事であるが、この少女にとっては当たり前のこと。『時間を操る程度の能力』を持つ紅魔の新たな一員、十六夜咲夜の動きを捉えることは不可能に近い。そんな従者の姿を一瞥してから、レミリア・スカーレットは上機嫌な様子で席へと腰掛けた。

 

 

「美鈴から始めて、これでようやく何百年も思い描いていた盤面が整ったわ。前回の異変では咲夜がいなかったし、クイーンがお転婆過ぎてゲームどころじゃなかったもの」

「アンタが王で、美鈴が騎士、パチュリーが僧侶、フランドールが女王だったかしら。チェスのルールに従うなら、咲夜は……」

「ルーク、つまりは塔もしくは城よ。王と女王に次ぐ価値を持つ大駒、チェスにおいて最後まで王を護る側近。私がこの子に期待する役目はそんなところね。ふふん、次の異変が楽しみだわ」

「別に起こすのは構わないけど、程々でお願いしたいところね……。あまり人里や御山に被害が出たら、その埋め合わせが大変なのよ」

 

 

それも面白そうだとレミリアは笑う。

どうやら自重を求めるのは望み薄のようである。しかし、この吸血鬼の場合は引き起こす出来事に大抵は何らかの意味がある。悪戯に異変を勃発させることはないだろうと刑香は思う。チラリと美鈴へと視線を送ると、こちらの考えを見透かしたように笑顔で頷いていた。

さらりと紅色の髪が風に踊る。かつては大陸中を放浪していたという色鮮やかな門番。どこまでも広がる荒涼とした世界を旅した過去は遠い時間の向こう、今は紅魔館を囲む庭園を歩き回るのが日課であるらしい。

 

軽い気持ちで刑香が尋ねてみたのが始まり。

しかし、そこは何百年と生きてきた妖怪の身の上話。彼女が紅魔館に招かれるまでの歩んだ道程はとても興味深いものだった。それは縄張りを持つ妖怪であるが故に、あまり山から離れたことのない己にとっては得難いモノでもある。また機会があれば、他の顔見知りにも同じ話を持ちかけてもいいかもしれない。もちろん、相手が快く了承してくれればであるが。

すっかり冷めてしまった紅茶を、澄んだ空色の瞳で眺めながら刑香はそんなことを考えていた。

 

 

これは、紅魔のお人好しな門番が白い天狗少女に話してくれた遠い遠い思い出話。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。