隻眼の信濃さんが不器用可愛い (コロリエル)
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1.誰の涙も見たくない

 

「北中出身、信濃 咲です……趣味は読書……よろしく、お願いします」

 

 

 

 窓際の後ろの席という最高の席を引き当てた俺は、これからの高校生活が素晴らしいものになるだろうという期待で胸を躍らせていた。

 知らない土地、知らない学校、知らないクラスメイト。不安も当然あるが、幸先のいいスタートは切れそうである。

 

 そして、隣の美少女だ。最高じゃないか。

 

 

 

「読書好きなんだね。どんな本読むの?」

「…………」

 

 

 

 全く反応してくれない。最高だ。

 俺──黒澤 奏の呼びかけをサラリとスルーした信濃さんは、様々な意味で目を引いていた。

 周りと比べても頭一つ低い身長。地毛なのか少し色褪せたような色味の茶髪は、あまり手入れされていないのか少し荒れている。

 

 そして何より、左眼を隠すように着けられた眼帯。

 

 過去に何かありましたと言わんばかりの彼女は、やはり皆の注目の的。しかし、皆距離感を掴みかねているのか、はたまた面倒事に巻き込まれたくないのか、彼女に話しかけようとする人物は居なかった。

 

 入学式後のホームルーム。その自己紹介タイムを妨げないよう小声で彼女に語りかける。

 

 

 

「あ、俺は黒澤。黒澤 奏。これから一年間よろしく。まぁ、三ヶ月くらいで席替えだろうけどさ」

「…………」

 

 

 

 やはり聞いてくれない。ちらりとも見てくれない。そもそも左眼に眼帯を着けてるから、彼女の左側に座る俺の事なんて本当の意味で視界にすら入っていないのだろう。

 四百人近くいる同級生の中で偶然にも隣同士になれたのだ。折角だから友人とまでは行かなくとも、多少の談笑くらいはできる仲になりたいものだ。

 

 ……が、こうも無視を決め込まれると、如何ともし難い。

 

 

 

「俺この辺の出身じゃないからさー。知ってる人、だーれも居ないのよ。良ければ仲良くして欲しいなーって」

「……他の人が自己紹介してるんだから、聞いた方が良いんじゃない?」

「……そっすね」

 

 

 

 やっと会話出来た、と思ったら帰ってきたのは苦言だった。しかも正論だから言い返すこともできない。

 手強いなぁ、と苦笑いを浮かべながら、俺は彼女との会話とも言えない会話を終える。

 

 彼女との初コミュニケーションは完全に失敗。これは手強いなぁと一人笑う。

 

 さてはてこれからどう接していけば良いのかと、頭を悩ませていたのが、今から三十分前の話。

 

 

 

「あー、君……黒澤くんって言ったっけ?」

「お、矢掛くん。どうしたの?」

 

 

 

 僕の席から見て対角線の席の矢掛くんが、ホームルーム後にわざわざ僕の席まで訪れてきてくれた。出身校は信濃さんと同じ北中らしい。

 ちらりと横目で隣の席を見てみる。信濃さんはホームルームが終わるや否やさっさと帰ってしまった。

 

 少しだけ目を見開いた矢掛くんだったが、軽く咳払いをした後に口を開く。

 

 

 

「その……信濃さんのことなんだけどね。あまり刺激しない方が……」

「刺激ってそんな……俺は会話しようとしただけだよ?」

「それはそうだけど……」

「ふぅん……何があったかは知らないけど、忠告ありがとな。んじゃ、俺は軽く学校を探検してから帰るけど、矢掛くんはどうする?」

「いや……僕はもう帰るよ」

 

 

 

 そっか、じゃあなと挨拶を交わした俺は、来る時に比べて少しだけ分厚くなった通学カバンを背負い教室を離れる。

 

 ──アニメや漫画でよくあるベタな忠告を優しい同級生から受けたのが、今から十分前の話。

 

 

 

「ふんふふーん……あれ? 信濃さん? こんなとこで何してるんだ?」

 

 

 

 ──部室棟の探検中に、何故か先に教室を出たはずの信濃さんの背中を見かけ、興味本位で声を掛けようと足の回転を早めたのが、三十秒前の話。

 

 

 

「やっほ、信濃さん。部室棟で何してるの?」

「…………くろ、さき……くん?」

 

 

 

 ──本来なら、名前の間違いを訂正した方がいいのだろう。

 しかし、振り返った彼女の顔を見た時、それまでのどこか浮ついた気分は一瞬にして霧散してしまった。

 彼女が先程まで確かに装着していた眼帯の紐が切れてしまっていた。

 泣きそうになりながら左目を隠し、何処か焦燥したように目を見開いて歩く彼女は、痛がっているようにはとても見えなくて──先月まで通っていた中学校の同級生の姿が、重なった。

 

 

 

「……信濃さん。これ被ってて」

「へ……わわっ」

 

 

 

 脱いだ自分のブレザーをパサりと頭から被せる。人通りが少ないとはいえ、そのままの状態で歩き回るのは少し目立つ。

 彼女の顔が隠れたことを確認した俺は、彼女の腕を取って歩き始める。先程通ってきた廊下に、空き教室があった。そこに避難しよう。

 

 

 

「ごめんね、信濃さん。嫌かもしれないけど、今の信濃さんを放っておくことは出来ない」

 

 

 

 物珍しそうに俺たちを見る生徒たちを無視しつつ、俺は空き教室に入り、適当な椅子を引っ張り出す。

 そこに彼女を座らせる。カーテンも閉ざし、外から見えないようにするのも忘れない。

 

 

 

「あー……眼帯の紐、切れちゃったの? 替えとかある?」

「え、っと……鞄の、中に」

「じゃ、ここで付け替えなよ。俺帰るから」

「……聞かないの? その……目のこと」

「泣いてる女の子に追い打ちするような趣味は持ち合わせてないんだ、俺」

 

 

 

 じゃ、また明日と俺は彼女に背を向け、教室を後にする。

 

 後者を後にし通学路を半分ほど歩いたところで、そういえばブレザーを彼女に預けたままだったなと思い出したのだった。

 

 

 

 



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2.感謝の言葉は身に染みる

 

 

 ブレザーを信濃さんに被せてそのまま帰った昨日。つまり今日はブレザー無しで登校しなければならない訳で。

 

 

 

「……四月とはいえ、朝はまだ肌寒いんだよなぁ……」

 

 

 

 ぶるりと身震いをしながら歩く廊下。学校指定のシャツ姿の俺の事へ向けられる視線を感じながら、昨日の出来事に思いを馳せる。

 もう少し優しく誘導してあげた方が良かったのではないだろうか。そもそも男の上着を頭から被せられるなんて不快ではなかっただろうか。手、強く引きすぎた気もする……そんな後悔を胸に歩く朝は、なんとも憂鬱。ワイヤレスイヤホンから流れてくるお気に入りのJPOPも、俺の気持ちを上向かせてはくれそうにない。とりあえず聞いておけば無理矢理テンションがぶち上げられるこのプレイリストが無意味なのだ、今俺は相当落ち込んでいるのだろう。

 

 しかし、歩み続けていたらいつか目的地に着くのは当然のこと。いつの間にやら自分の教室の前まで来てしまっていた。

 

 

 

「はぁ……ういっすー」

 

 

 

 小さくため息を噛み殺しながら、昨日と同じように気さくに挨拶しながら扉を開ける。教室には既に半分ほど生徒が居て、みな思い思いに過ごしていた。

 

 信濃さんは──どうやらまだ来ていないみたいだった。

 

 

 

「お、おはよう黒澤くん……なんで上着着てないの?」

「おはよー矢掛くん……これには深い訳があってね……色々あったんだよ」

「へぇ……鳥の糞でも喰らったの?」

「ははは……そういうわけじゃないよ」

 

 

 

 とうとうブレザーについて言及してくる人が出てきた。

 

 昨日軽く会話をしただけなのに話しかけてくれるなんていい人だな、なんて思いながら矢掛くんに軽く笑いかける。

 

 

 

「……おはよう、くろさきくん」

 

 

 

 

 そんな俺の背中に投げかけられた、小さな声。

 

 交わした会話の量は少ないが、それでも昨日の今日で忘れることなんてできない女の子の声の主を確認するように振り返る。

 

 案の定、そこに居たのは現在の俺の悩みの種が、学校指定のカバンとなぜか紙袋を手にしていた。

 

 何故か何人かの生徒──矢掛くんを含む──がこちらを驚いたように振り返っていたが、それについて言及するのはまた後にしておこう。

 

 

 

「おはよう、信濃さん。昨日は大丈夫だった?」

「……うん。これ」

 

 

 

 信濃さんが差し出してきた紙袋を受け取る。中身に目を向けると、きちんと折りたたまれた学校指定のブレザー。

 それが誰のものかなんて、聞くまでもなかった。

 

 

 

「どうってことないよ。役に立てたのなら光栄だよ」

「…………………………………………ありがとう」

 

 

 

 たっぷり十秒かけて、まるで絞り出したかのように感謝の言葉が紡がれた。

 

 信濃さんはその一言を告げると、まるで逃げるように自分の席へと足早に移動していった。取り残された俺。そんな俺を見つめる人物たち……全員、北中出身と昨日の自己紹介で口にしていた生徒だった。

 

 それには当然、昨日俺に優しい忠告をしてくれた矢掛くんも含まれていた。

 

 

 

「……後で説明した方がいいか?」

「お願いできるかな……ちょっと、いやかなり、混乱してる」

 

 

 

 ありえないものを見るような目をしている矢掛くんにそう告げ、俺は自分の席へと向かう。渡された紙袋からブレザーを取り出して羽織る。

 ふわりと香った消臭剤の匂い。ポケットに入れていたお気に入りのハンカチは、きちんとアイロンがけまでされていた。

 

 信濃さんに目を向けると、信濃さんはブックカバーがかけられた文庫本を読んでいた……時折、こちらの様子を伺うように視線を向けてきていたが。

 

 

 

「…………何の本、読んでるの?」

「太宰」

「太宰かぁ。羅生門とか?」

「それは芥川。これは人間失格」

「ほー……太宰にしても芥川にしても、読んだことないなぁ。面白い?」

「面白い。でも、難しい」

「難しい……理解するのが?」

「言葉が。もう少し分かりやすい言葉で書けばいいのに」

「ふうん。俺も読んでみようかなぁ」

「心配しなくても、現代文の教科書に載ってる」

「じゃ、それを見てみて決めるよ。邪魔してごめんね」

「構わない」

 

 

 

 昨日の会話がボウリング玉だとすれば、今日は床に落としたバドミントンの羽くらいは会話が弾んでいた。

 彼女が気分を害していないことを確認した俺は、彼女の読書の邪魔をしちゃ悪いと紙袋をしまおうとする──ところで、紙袋の中にまだ何か入っていることに気付いた。

 

 それを手に取った時……思わず笑みがこぼれてしまった。

 

 

 

「……お茶、ありがとう」

「…………ん」

 

 

 

 ホットのお茶の蓋を開けながら、信濃さんにお礼を言う。

 

 ぶっきらぼうに反応した彼女の表情は、眼帯に隠されて見えなかった。

 



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3.尋問は得意じゃない

 

「さて、教えてもらおうか」

「……それは良いんだけどさ」

 

 

 

 昼休み。給食という尊い存在とお別れした俺の手を取ったのは、何よりも慣れ親しんだお袋の味。

 俺は意気揚々と母さんが早起きして作ってくれたお弁当を食べようと弁当箱を取り出したところで、矢掛くんから声をかけられてしまった。

 

 今朝の件だろう。説明すると言ってしまった以上、その約束は果たさなければならない……幸い信濃さんは昼休みが始まると、すぐに教室を後にしていた。先ほど図書館に行きたいと言っていたので、恐らくそれが目的だろう。

 

 

 

「なんか……多くない?」

「そりゃあそうさ! 北中出身なら、今回の一件を見逃すわけには行かないんだ!」

 

 

 

 我らが一年三組の北中出身生徒六名に加え、他のクラスからもちらほらと来ているようだった。

 十人程度の男女に席を囲まれる……中々迫力のある光景に少し気圧される。

 

 

 

「信濃さんが誰かとまともに会話をするところなんて、僕たち北中出身の人は見たことがない。黒澤くんがどんな事をしたのか、聞かせてもらおうか」

「まぁいいけどさ……」

 

 

 

 なんで尋問みたいなことされてるんだ、と零しそうになるところをぐっと押さえ、俺は昨日の出来事を簡単に説明する。

 その中で、彼女が涙を流していたことは話さない。自分が泣いていた話なんて、吹聴されたっていい気にはならない。

 

 一通り俺の説明を聞いた彼らは、皆神妙な面持ちでこちらを見つめていた……困惑していた、という方が正しいのだろうか。

 

 

 

「……それで? 君は彼女の左目を見たのかい?」

「見てないよ……何があるのか知らないけど、見られたくないから隠してるんだろう?」

「気にならないの?」

「気になるけど……俺の好奇心より、相手の気持ちだろう?」

「……なんで、助けたの? 信濃さん、冷たいのに」

「冷たくされたから助けない、なんて考えたこともないね」

 

 

 

 そんな人間だったら、俺はあの親友を助けられなかったし……とは、言わない。自分語りは、嫌われる原因の一つだ。言ったとしても彼らには伝わらないだろうし。

 

 一つ一つ、彼らの疑問を晴らすように質問に即答していく。尋問みたいだ、なんて考えていたが、これは紛れもない、尋問そのものだった。

 空気が、どこか重い。俺を取り囲む彼らに同級生をからかおうというような意図は全く感じられない。むしろ、品定めをされているような気分だった。

 

 何も悪いことはしていないんだけどな……もし信濃さんに話しかけること自体が悪だ、なんて言われたら、流石に怒ってしまうかもしれない。

 

 

「……なんで、君は、彼女と会話ができたんだ」

 

 

 最後に、全員の気持ちを代弁するかのように矢掛くんが吐き出された言葉。

 

 どこか羨望するかのような面持ちの彼らを見て、俺は少しだけ思考を巡らせた。

 

 しかし──答えは、結局出てこなかった。

 

 

 

「……ごめん、心当たりがない」

 

 

 

 俺の行動の何かが彼女に響いたのだろう。それは違いない。違いない、が……なんだったのかは、彼女にしか分からない。

 俺は彼女の顔を──あの泣き顔以外、ほとんど見ていないのだ。自分が見ようともしなかった上に、それを隠したからなのだが……そのせいで彼女の感情の起伏を感じ取れなかった。

 

 だから、知らない。分からない。見当もつかない。

 

 そう答えるしかなかったのだが……どうやら彼らは、納得していないようで。

 

 

 

「……そんなわけ──っ!」

「……邪魔」

 

 

 

 一人の女子が声を上げようとしたその時、話しかけにくいであろうこの集団にぴしゃりと言い切る存在が現れた。

 ヒートアップしかけた空気を一瞬でキンキンになるまで冷やした張本人は、相変わらず一切表情を変えていなかった。

 

 

 

「あれ、信濃さん。おかえり。図書館はどうだった?」

「中々。暇は潰せそう」

 

 

 

 それは何よりだよ、と彼女に微笑みかける。どこか満足げに頷いた彼女は、まるで俺の周りの人間がそこに存在しないかのように自分の席に歩み寄る。

 

 彼女の席の周辺に立っていた彼らは、それだけでまるで蜘蛛の子を散らすかのように立ち去って行った。唯一残ったのは、発起人となった矢掛くんだけだった。

 

 

 

「……ごめん、黒澤くん。熱くなりすぎた」

「気にしてないよ……それに、今後も気にしない。君達にとっては、それくらい重要な事なんだろう?」

 

 

 

 その言葉に安心したのか、ばつが悪そうな顔をしていた彼はほっとしたように表情を緩め、ありがとうと俺に告げて自分の席に戻っていった。

 残された、俺と信濃さん。

 

 これは、俺が想像した以上に彼女たちの周りに起きている問題は根深いのだろうなと考えながら彼女の様子を伺う。

 

 

 

「黒澤くん。ついてきて」

「……どこに?」

「昨日の教室。ご飯も持って来て」

「仰せのままに」

 

 

 

 特に誰からも昼食を共に食べようと誘われていなかったので、二つ返事で了承して見せる。

 わざわざ場所を変えてくれるのはありがたい。先ほどの一件で、教室には少し居づらい。

 

 足早に教室から出ていく俺たち二人。背中に感じる視線の数々が、今の俺たちへの評価なのだろうと、高校生活二日目にして気が重くなりそうだった。

 

 

 

「……嫌なら、断ればいい」

 

 

 

 そんな俺の気苦労を感じたのか、信濃さんがこちらに顔を向けることなくこちらに声をかける。

 

 ──信濃さん。やっぱり君、結構いい子だよね。

 

 なんて事は口に出さず、俺は彼女に並び、にこりと笑いかける。

 

 

 

「嫌じゃないさ。嫌ならちゃんと断る男だよ、俺は」

「そう……なら、いい」

 

 

 

 初めて、彼女の右側を歩く。

 

 いつもの無表情……のはずなのに、どこか嬉しそうに見えるのは、流石に俺の勘違いなのだろう。

 

 



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4.友人とは尊きものである

 

「──信濃 咲。出身は北中」

「うん。いい名前だよね」

「趣味は読書。古典からライトノベルまで幅広く読む」

「今日も太宰読んでたね」

「好きな物はハンバーグ。この世でいちばん美味しい食べ物もハンバーグ」

「美味しいよね、ハンバーグ」

「嫌いなものはとうもろこし。存在が理解できない」

「ファミレスでハンバーグ頼むとき、大変そうだね」

 

 

 ──なんなんだ、これ。

 

 流石にそう思わざるを得ない。目の前で何の説明もなく自己紹介を始めたクラスメイトに相槌を打つ。二人きりの空き教室は昼休みの喧騒からは遠く離れており、淡々と彼女の声だけが響いていた。

 机を合わせて向かい合う俺と信濃さん。机の上に広げられたお弁当が二つ。俺のものより一回り小さいそれからタコさんウインナーをパクリと食べた彼女は、丁寧に咀嚼した後、飲み込む。

 

 

「じゃあ、どうぞ」

「……あ、何? これってお互いに自己紹介していく流れなの?」

「そう。お互いのことを知ることは大事」

 

 

 じっと、彼女に見つめられる。美人というのは怖いもので、無表情でじっと見つめられると思わず身震いしてしまいそうになるほど迫力がすごい。

 これは何を言っても無駄だろう──そう判断した俺は箸を置いた。

 

 

「俺は黒澤 奏。出身は岡山。親の仕事の関係でこっちに引っ越してきた」

「うん」

「趣味はギター。人生の半分以上を注ぎ込んできてる。引っ越しの関係で、元居たバンドからは脱退したけどね」

「うん」

「……好物は魚介類全般。特に牡蠣が大好き。カキフライなら永遠に食べられる。岡山って実は牡蠣の生産量全国三位なんだよ」

「うん」

「…………苦手なものはキノコ。見た目がもう食欲を無くす見た目してる」

「うん」

 

 

 なぜだろう。すっごく虚しい。

 

 俺が喋る、彼女が頷く。俺が喋る、彼女が頷く。

 

 単純なこの繰り返し。会話をしているという感覚はない。信濃さんなんかノート取り始めたし、これじゃまるで面接……ノート?

 

 先ほどまでお弁当と水筒しかなかった机の上に広げられたノートと、右手に握られたシャーペン。まっさらなノートの一ページ目の一番上には、『黒澤 奏くんについて』という綺麗な文字が大きめに書かれていた。

 

 

「……それ、何?」

「黒澤くんノート」

「うんごめん、名称じゃなくてどういうものなのか詳細が聞きたい」

「黒澤くんのことを書くノート」

「Hey,Saki! なんでそのノートに俺のことを書くのか教えて!」

「あなたのことを理解するため」

 

 

 情報整理は、推理小説を読むとき役に立つ……そういう彼女は、俺から目を逸らし、ノートにひたすら文字を書き込んでいく──その手を、俺は止めた。

 少しだけ眉を顰めた彼女に睨まれる。が、ここはしっかり言わなければならないだろうと、俺は彼女に向けて笑顔を向ける。

 

 

「俺のこと知ろうとしてくれるのはありがたいけどさ……そのノートの中に、俺は居るの?」

「……!」

「俺は、ここだよ? ノートを取るなとは言わないけどさ……もうちょっと俺の方見てほしいかな」

 

 

 しばし、俺の顔と彼女の手を止めている俺の手を見比べた彼女は……ペンから手を離し、ノートをぱたんと閉じた。

 それを見届けた俺が彼女の手を離すと、信濃さんはペンを持っていた右手で再び箸を持ち直す。

 

 不機嫌そうには……なっていない、と思う。先ほど顰めていた眉は元通りになっているから、多分。

 

 やはり、彼女は大前提として人と会話するのが苦手なのだろう。自己紹介にしろ相槌にしろノートにしろ、ぎこちなさがあったり的外れな行動が散見される。

 

 それでも、彼女が俺とコミュニケーションをしようとしてくれているのは、そんなに悪い気分ではない、が……やはり、どうしても気になってしまう。

 

 

「ねぇ、信濃さん。信濃さんは何で、俺のことをそんなに知りたいの?」

 

 

 ただ、隣の席だっただけ。

 

 ただ、泣いている彼女を助けただけ。

 

 それだけなのに、彼女はやけに俺のことを気にしているし、距離を詰めようとしている。それだけならまだどうとも思わないが、それにしては俺以外との接し方が冷たすぎる。

 なぜ、俺だけなのか。

 

 俺の言葉に真剣さを感じたのか、信濃さんは言葉を選ぶかのように視線を巡らせた後……ゆっくりと、自分の左目……そこを覆っている眼帯を手で押さえる。

 

 

「黒澤くんは……私のこれを、隠してくれた。誰にも見せたくない、これを」

 

 

 ──あの時の判断は、間違ってなかったんだ。

 

 それを彼女の口から聞けたことで一つ、俺の中に渦巻いていたモヤが綺麗に晴れる。朝は肌寒かったし同級生に囲まれる市で気苦労の多い一日だったが、ここにきてようやく報われた気分だった。

 

 

「それに、聞いてこなかった。私のこれの事を……そんな人、初めてだった」

 

 

 どれだけ、彼女にとってその眼帯の下に隠されたものが地雷なのか。どうやら、俺が想像しているよりずっと重大なようだった。

 信濃さんの表情は変わらない。真一文字に結ばれた口、一切逸らされない瞳。

 およそ他人に何かを伝えようとする人間の表情とは思えないが……それでも俺は彼女の伝えたいことを取り逃すまいと注視する。

 

 

「だから、黒澤くんと一緒に居たい。私のこれを知ろうともしないのに、それでも私と仲良くしてくれようとした黒澤くんと」

 

 

 ──友達に、なって欲しいの。

 

 淡々と紡がれた言葉。その最後にふと零れた、より一層小さな呟き。それが本音だというのは、すぐに理解できた。

 

 

「勿論だよ。これからもよろしくね」

 

 

 その俺の言葉に、何処か安堵したかのように肩の力を抜いていた。

 

 一口、卵焼きを口に運ぶ。我が家にしては珍しい砂糖入りのそれは、想像以上に甘く、慌ててお茶に手を付けた。

 



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5.放課後デートに行きましょう

 

「信濃さん。放課後は何か予定ある?」

 

 

 昼休みに並んで教室を出て並んで教室に帰ってきた男女二人。

 

 本来であれば帰ってくるなり質問攻めにされてもおかしくはない。しかし、入学二日目で距離感を掴みかねているという点と、昼休み開始直後にちょっとした騒動を起こした二人であるという点。

 それもあってか、教室に帰ってきてもあまり話しかけられるということもなく、穏やかで眠たい午後を過ごした……その放課後。

 

 HRを終わらせた我がクラスはクラスメイト達が皆思い思いの行動をしていた。俺は終わるなり、荷物を纏めていた信濃さんに話しかける。

 晴れて友人同士となったのだ。何かしらのアクションはしよう……そう考えての質問だった。

 

 

「特に。部活も興味無いし」

「じゃあ、帰りにどっか寄ってかない? 俺この辺の地理に詳しくなくてさ。どこに何があるかざっくり知りたいのよ」

「構わない。本屋だけ寄らせて」

「りょーかい」

 

 

 昨日と比べてみても、相当心を許してくれているのだろう。話しかけてみても(比較的)話しやすくなっている。これは大きな進歩だ。

 しかし、高校生活初めての友人が女子(めちゃくちゃ可愛い)かつ、明らかに何かしらを抱えてる人だとは夢にも思わなかった。それこそ、席が前後の男子辺りが相場が決まっていそうなものだが。

 

 

「なぁなぁ、お二人さん! それ、俺もついていっていいかい?」

 

 

 それこそ、昨日から俺に話しかけようとうずうずしていた前の席の男子とか──。

 

 席を立ち、そそくさと教室を後にしようとしたところで突然話しかけられた。声をかけてきた男子は、俺の前の席に鎮座していた……木谷裕也だったかな。かなり背の高い、バレーボール部入部希望だったはずだ。

 

 

「木谷くん……えっと、俺は構わないんだけど……」

「…………………………………………………………」

「はははっ……すっげぇ嫌そう……」

 

 

 喜怒哀楽は一応存在しているらしい信濃さん。目を細め眉間に皺を寄せ、俺の背後に隠れるようにしながら木谷くんを見ていた。

 折角話しかけてくれたんだ、ここで無下にするのも申し訳ない。しかし、この背中に隠れた小動物をどうしたらいいものか。

 

 

「んー……ま、今日は二人でのんびりデートしてきなよ。俺のことは気にせずにさ!」

「いいの? ……ごめんな」

「謝んなって! どうせ席も前後だし、話すこともあるだろ! じゃ、お先に失礼!」

 

 

 俺の困惑に気付いてか、また今度と手を挙げて立ち去る木谷くん。快活な笑顔と気遣い、優しい人なんだろうな、きっと。

 

 これは明日あたりにフォローしておかなきゃな、と考えていると、きゅっと制服の裾を引っ張る存在。

 

 

「……ごめん」

「俺は気にしてないよ。それでも申し訳ないって思うなら、明日木谷くんに謝ったらいいよ」

「……頑張ってみる」

 

 

 ただでさえ小柄な彼女が俯いてしまったら、俺からは彼女の表情は伺えない。まず間違いなくその表情筋は仕事をしていないのだろうけど。

 だけど、彼女にはきちんと喜怒哀楽が存在している。今だって木谷くんに申し訳ないとは思っている訳だし。

 

 

「ま、折角木谷くんが気を使ってくれたんだ。めいいっぱい楽しもうよ」

「……街の把握が目的じゃないの?」

「それもあるけどさ。折角できた友達と仲を深めたいじゃない」

「……やることは変わらない」

「旅行のガイドさんと友達とじゃ、見える景色も違うものだよ」

 

 

 からからと笑いながら、カバンを持って教室を後にする。ちらちらとこちらを見てくる目線が若干煩わしいが、無視。流石に今日はもう関わりたくない。

 俺の後ろをてくてくと小さな歩幅でついてくる信濃さん。廊下に出たタイミングで、彼女のスピードに合わせようとする。

 

 それでも、信濃さんは俺の後ろに回る。

 

 

「……あの、なぜ後ろを?」

「横に広がったら邪魔じゃない」

「あぁ……信濃さん、本当にいい子だね」

「そんなわけない。いい子ってのは、いつもニコニコ笑顔を浮かべて、物腰柔らかで、宿題を毎日真面目に提出するような人のことだよ……私みたいな女じゃない」

 

 

 初めて彼女が饒舌に語ったのかと思えば、その内容は何処か僻みを感じさせる独白だった。

 お礼も言える、気遣いもできる、反省もできる。そんな子がいい子じゃない訳ないだろう……そう否定したかったが、何を言っても聞き入れてくれなさそうな雰囲気が彼女にはあった。

 想像以上に自己評価低いな、信濃さん……と思いながら辿り着いた昇降口。買ったばかりの固いローファーを履く。これまでスニーカーだったから、どうにも慣れそうにない。

 

 

「じゃあ、まずは書店に行こっか? 歩いてどれくらい?」

「五分くらい。学校から西に向かって真っ直ぐ」

「あれま、家とは反対方向か……ま、今日は遅くなるって言ってたし、大丈夫か。信濃さんは? 門限とかある?」

「無い。ただ、あまり遅いと、伯父さんが心配する」

「…………伯父さん?」

 

 

 父親や母親ではなく、伯父。

 

 それに疑問を抱くなという方が無理な話だ。事実、恥ずかしい話だが俺は家に帰れば母親が居て弟と妹が居て、夜には父親が帰ってくるという、幸せな環境だったからだ。

 

 そうじゃない家庭のことなんて、画面や紙面の向こう側の話だった。

 

 

「伯父さん。訳あって、伯父さんの家に住まわせてもらってる」

「……そっか。なら、あんまり遅くならないようにしなきゃね」

 

 

 これもあまり踏み込まない方が良いだろう……そう感じた俺は、深堀せずにさっくりと話を終わらせる。

 

 ──後に、ここで彼女の家庭事情について踏み込まないで良かったと、心の底から感じるような出来事と遭遇することになるのだが、それはまだ先の話。

 



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6.お家に帰ろう

 

 

 信濃さんとの放課後街探検……見る人によっては放課後デートだと言われかねないそれは、思いの他順調だった。

 

 信濃さんの行きつけの本屋は電子書籍全盛の時代にしては相当繁盛している人気店らしく、商品がかなり充実していた。

 趣味がギターだと言ったのを覚えていてくれたのか、少し遠い場所にあった楽器店も案内してくれた。店主さんも優しそうで、暫くはこの店にお世話になることになりそうだ。

 他にも、帰り道に寄りやすいファミレスやファストフード店など、使用頻度の多そうな場所をいくつか紹介してもらった。個人的には、岡山には数店舗しか存在せず行ったことのないチェーン店があって、かなりテンションが上がった。ここのドリアが美味しいという話は、風の噂で聞いていた。今度食べてみよう。

 

 そして、現在夕方六時前。流石にそろそろ帰路につかねば不味い時間帯になってきた。

 

 というわけで、今俺たちは談笑(傍から見れば、無表情塩対応の女の子とそれに話しかける空回り気味の男の子)しながら帰路についていた。幸いなことに、俺の家と彼女の家は同じ方向だった。

 

 

「今日はありがとね。急にお願いしたのに……」

「構わない。私も本屋に寄りたかった」

 

 

 見せつけるように手にしたエコバックを持ち上げる信濃さん。三冊ほどの本を購入していたが、ジャンルはラノベ、漫画、時代文庫とバラバラだった。流石入学二日目に太宰を教室で開く読書家。

 

 

「違う。本の虫」

「大差ないでしょ……いや、何心読んでるの?」

「黒澤くんのことなら、大体わかる」

「出会って二日でベストフレンドかー。きっと世界平和は目の前だね」

「人類が消えてなくなる方がまだ早い」

「発想が闇落ちした天使じゃん」

 

 

 どうやら、信濃さんは思いの外冗談の言える口らしい。惜しむべきは、軽口を叩いている時ですら表情が変わらないから、一見すると本気なんじゃないかと思ってしまうところか。

 しかし、本当に感情が見えにくい。不快を感じた時は分かりやすいのだが、それ以外は本当に見えない。

 

 むむむ、と彼女の横顔を覗き込もうとするが……頭一個以上違う背丈の差が、簡単にさせてくれない。本当に小さいな信濃さん。下手したら140センチ台なんじゃないだろうか?

 

 

「……何。じろじろ見て」

「いやぁ……荷物重たくないかなって」

「本三冊だけ。重いわけない」

 

 

 咄嗟のごまかしは上手くできたようで、信濃さんは見せつけるようにエコバックをダンベルを持ち上げるかのように何度か持ち上げようとしていた。

 その手が、俺の右手にぶつかる。

 

 

「あっ……ごめん」

「大丈夫だよ。痛くもなかったし………………そっちも、大丈夫?」

 

 

『やっぱり、距離感掴みづらいの?』……そう口にしようとして、やめる。

 片目で見た世界は遠近感が測りにくい、という話は聞いたことがあるし、自分でも試したことがある。何故か信濃さんは、そんな世界で生きている。

 

 自ら閉じたのか、閉ざされてしまったのか。

 

 真偽のほどは分からない……いや、恐らくこうだろうと考えられるが。だからといって、触れるわけにはいかない。

 

 そこに触れないから、俺は彼女と話せるようになったのだから。

 

 喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込む。

 

 

「大丈夫……それじゃ、私の家ここだから」

「へっ…………ここ?」

「ここ」

 

 

 信濃さんがここ、と指さしたマンション。何故か、非常に見覚えがあった……それこそ、今朝とか。

 

 こんな偶然あるんだ、と思わず吹き出してしまう。

 

 

「はははっ……なーんだ、信濃さん、同じマンションの住民だったんだ!」

「えっ……何階?」

「四階。403号室! 信濃さんは?」

「私は……五階の507号室」

「そっかそっか! じゃあ、送り迎えもし易いね! あ、じゃあ明日は一緒に登校しよっか! いつも何時くらいに家出てる?」

「落ち着いて」

 

 

 思わぬ幸運に舞い上がっていた俺の心を、信濃さんの一言が急速に冷やした。顔がさあっと青くなっていく感覚。

 やらかした──そう気付いた俺は、どう彼女に謝罪すべきか必死に考え始める。

 

 

「もう一回、落ち着いて……この世の終わりみたいな顔してる」

 

 

 ぺし、と肩を優しく叩かれる。

 

 思考の海に落ちかけていた俺を引きずり上げてくれた信濃さんは──微かに、本当に微かに、笑っていた。

 

 

「別に、嫌だなんて言ってない。言うつもりもない」

「…………よ、よかったぁ…………嫌われたかと」

「嫌わない。嫌う意味がない……明日は、朝七時四十五分に、入口で」

 

 

 じゃあ、また明日。今日はありがとう。

 

 淡々と、しかし確かにそう口にした信濃さんは、そのまま俺を置いてマンションの正面玄関をくぐる。

 取り残された俺は、そんな彼女の背中をぼうっと眺めていたが……やがて正気に戻る。

 

 

「……信濃さん、やっぱり君、すっごい良い子だよ……」

 

 

 夕焼けに照らされた彼女の微笑を思い出す。

 

 あんな風に優しく笑える女の子が、良い子じゃないわけないだろう……そんな俺の呟きは、背後の道路を通っていくトラックの音に完全にかき消されていた。

 




第一章を設定するとするなら、ここまでですかね。

信濃さんがデレるボタン


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7.妹と弟と親友と

 

「──って感じだったかな」

「つーくん! かな兄に春が来たー!」

「落ち浮いてしーちゃん。どうせいつもの人たらしだって……いつか刺されるんだから」

「うん、つーは俺のこともうちょっと信じてくれてもいいんじゃないかなぁ」

 

 

 ソファに座った俺の太ももに乗っかる、二つの頭。

 

 俺の双子の妹と弟……黒澤栞と黒澤紬。風呂上がりにソファでのんびりしていると、とてとてと歩み寄ってきた二人。それぞれ俺の右足と左足を枕にしながら高校がどんな場所なのかを聞いてきた。

 現在中一のしーとつー。早くも高校がどんなものか気になるらしい。君たちも俺と同じように新しく生活が始まったばかりなのに。

 

 

「でもでも! 高校での初めてのお友達が女の人だよ?」

「まぁ、何したらそうなるんだって話だよな......ナンパした?」

「俺、自分のこと硬派な人間だと思ってたんだけどなぁ......」

「硬派な人はそんなにペラペラ喋んない!」

「おっふ」

 

 

 一見人懐っこくて無邪気な性格のしーだが、無邪気であるがゆえに人の心を容赦なく抉る一言を発する。それでよくダメージを受けるものだ。まだ岡山に居た時も、ちょっかいをかけてきた男子相手に「えー、そんなことしかできないなんて、つまんないね!」などと言って怒らせたとか。

 つー? 典型的な内弁慶です。外では借りてきた猫より大人しいです。

 

 

「で? 兄さんが気にしてるってことは、なんかあるの?」

「分かんない……けど、まぁ、同中の人たちとは上手く行ってなかったみたい」

 

 

 正直、信濃さんと仲良くしていくことはそこまで難しいとは思っていない。彼女の場合はクリティカルな部分……左眼と、恐らく両親のことに踏み込まなければコミュニケーションは可能だ。

 問題があるとすれば、北中の人たち。信濃さんに対してのあの異常なまでの執着心。一体何が彼らをああさせたのか、ちょっと理解できない。

 

 今後学校生活を送っていく中で、彼らとの衝突は避けられないだろう。俺はまだいい。明らかに彼らのことを嫌っている信濃さんが心配だ。

 

 軽く思考していると、突然下から伸びてきた手に両頬をむにっと摘まれる。

 

 下を見ると、しーとつーが手を伸ばし、それぞれ右頬と左頬を摘まんでいた。

 

 

「かな兄、顔怖くなってるよ!」

「かな兄がそんな顔して良いことあった? 笑ってけよ」

 

 

 しーは満面の、つーは微かな。

 

 それぞれの自然な笑顔。

 

 それを見ると、なんだか心配事が全部どうとでもなりそうな気持ちになってくる。他の兄と呼ばれる人種がどうかは分からないが、俺はこの二人の笑顔にとんでもないほどの元気を貰っている。

 わしゃわしゃと、二人の頭を撫でる。キャーと嬉しそうに悲鳴を上げるしー、辞めろよと悪態をつくつー。

 

 

「ありがとな、二人とも。なあに、アイツをどん底から救えたんだ。信濃さんだって助け出せる」

 

 

 アイツ、と言う言葉とともに、俺はスマホを取り出す。引っ越し前に初めて手に入れたスマホ、連絡アプリの友達欄はそんなに多くない。

 

 その中で、家族以外で最も多く会話している友達が一人。中学の三年間で、最も俺が話し、俺が気にかけた人間。

 

 

「そっちは今日入学式だったんだろ、どうだった? っと……」

「あ、きょーくん? 何か言ってる?」

「落ち着け、今メッセ送ったばっかだって……お?」

 

 

 メッセージを送って数秒。既読が着いたそのスマホに着信が入った。案の定、相手は今まさに話題に上がっていた人物……漣 恭介だった。

 二人に目配せをした俺は、スマホをローテーブルの上に置き、スピーカーモードにしたうえで通話を開始させる。

 

 

『もしもし? かなで──』

「やっほー!!!!! きょーくん、ひさしぶりー!!!」

『わっ!? ……びっくりしたぁ……久しぶりだね、栞ちゃん』

「しーちゃん、うるさい……お久しぶりです、恭介さん。お元気ですか?」

『お、紬くんも居るんだね。こっちは元気だよ。入学式も終わったし』

「変わりないようで良かったよ、恭介」

『ははは……こっちのセリフだよ、奏』

 

 

 漣 恭介。

 岡山に居た時、突然転校してきた彼は、入学時点で目で見てわかるほど憔悴しきっており、今のように気軽に話せるような状態ではなかった。

 

 そこで知り合った俺と他数名で彼のことを必死に励まし、元気づけ、バカみたいに遊び、一緒にバンドを始め、彼の身に降りかかった過去の不幸を乗り越える手伝いをした。

 

 その結果、恭介は何とか自分の過去に折り合いを付け、普通に生きることができるようになっていた。今こうして、兄弟込みで穏やかに会話できるくらいには。

 

 

『そっちはどう? たしか、入学式は昨日だったよね?』

「おーう。友人もできて楽しく過ごせそうだよ」

「きょーくん聞いて! そのお友達、女の子なんだって!」

「おい、しーちゃん……」

『へぇ……ついに奏にも春が来たのかぁ……』

「お前らなんなの? なんでそんなに友達が女の子ってだけでそんなに恋愛につなげたがるの?」

 

 

 電話口越しに聞こえてくる笑い声を聞きながら、恭介の精神が俺が居なくても安定しているというその事実に一人安堵しているのだった。

 

 明日は、信濃さんと一緒に登校。早寝しないとなぁと思いつつも、恭介との会話に花を咲かせた。

 



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8.朝一番最初に会う友人

オリジナル日刊ランキング載ってました。ありがとうございます。


 

 

 朝7時半。

 

 いつもより明らかに早いこの時間に、びっしり制服を着込んでスマホ片手にマンション入口前に仁王立ちしてる男子が一人。

 

 ──俺である。

 

 

「......早く来すぎた」

 

 

 一緒に登校しようと約束した次の日。6時というあまりにも早い時間に目が覚めた俺。二度寝を決め込もうにも完全に眼が冴えてしまっていた。結局母さんと一緒に朝食と俺の分の弁当の作成を手伝い、一通りの準備を終えたのが7時25分。

 結果、いつもよりも圧倒的に早い時間に家を出てしまった。当然、そんな時間に家を出たのだから、待ち合わせ場所に相手が来ているわけ無い。

 

 つまり、絶賛待ちぼうけ。

 

 

「はぁ……暇だ……」

 

 

 ぼそりと呟き、誕生日に買ってもらったワイヤレスイヤホンを装備。見た目の良さが3上がって、注意力が2下がった。

 壁にもたれかかり、お気に入りの曲を詰め込んだリストを再生。これ聞いとけばとりあえず大丈夫。

 

 

「……おはよう」

「へっ……」

 

 

 貧弱なノイズキャンセリングを貫通して聞こえてくる声。慌ててイヤホンを外して顔を上げると、そこにあった仏頂面。

 

 

「お、おはよう信濃さん。どうしたの? まだ待ち合わせ迄時間があると思うんだけど……」

「こっちのセリフ」

「それ、は……はは、なんか早起きしちゃってさ。やることもないし、早く来ちゃったんだ」

 

 

 ここで、「女の子を待たせるわけにはいかないだろう?」なんて言っても良いかもしれないが、恐らく信濃さんにはこれっぽっちも響かない気がしたので、正直に言うことにした。

 そう、と素っ気なく答えた信濃さんは、そのまま振り返ってマンションの入口へ向けて歩き始める。出発するということなのだろうか、慌ててその背中に追いつき、隣に並ぶ。彼女の顔が見えるように、右側に。

 

 

「そ、そういう信濃さんは? なんで早く来たのさ」

「……悪い?」

「そんなわけないよ。ただ、もし俺が時間ギリギリに来たら、信濃さん待ちぼうけだったよ?」

 

 

 そこまで話したところで、それまで前を見てこちらをちらりとも見てこなかった信濃さんが、初めて横目で俺に視線を向けた。

 

 

「黒澤くんなら、絶対に10分前には来る。待たせるくらいなら、私が待ちたい」

 

 

 それだけ、と言い切った信濃さんは、再び前に向き直る。

 

 ──いくら何でも、俺のこと信じすぎやしないか?

 

 少し……いや、かなり信濃さんのことが心配になる。もしあの朝信濃さんの手を取ったのが、下心満載の人間だったら? 悪意を巧妙に隠せる人間だったら?

 ありえない、なんてことはありえないのがこの世界。

 

 自分で言うのも変な話だが、俺でよかった。

 

 

「そう……ありがとね。でも、このままだと結構早く着いちゃうね……着いたらどうする? 授業の予習でもする?」

「昨日の夜やった。本読む」

「そっか……偉いね、きちんと予習して」

「別に」

 

 

 相変わらず、お世辞にも会話が弾んでいるとは言えない。初日の信濃さんと比較すればこれでも弾んでいるが、世間一般の友人同士の会話としては落第点もいいとこだろう。

 これでいい、と言われればそれまでだ。実際信濃さんが現状それ以上を望んでいるとは思えない。

 

 だけど、折角早起きして待ち合わせまでして一緒に登校しているんだ。もう少しコミュニケーションしたい。

 

 

「そういえばさ、明日休みじゃん? 休みの日は何かしてるの?」

「図書館に居たり勉強したり。明日は図書館に行く予定」

「それさ、俺も一緒に行っていいかい?」

「……構わない。けど、きっと、つまらない」

 

 

 意外だった。少し思考したとはいえ、許可が下りるとは思わなかった。てっきり、昨日のように嫌な顔をするものだと思っていたのだから。

 心の中で小さくガッツポーズをしつつ、しーやつーに向けるような柔らかな笑顔を浮かべて見せる。

 

 

「大丈夫。休日に友達と会って何処かに行くってのが目的だから、それがどこでもいいんだよ」

「…………そう。なら、明日。十時にマンションの入口」

「りょーかい。じゃあさ、ついでに連絡先交換しない?」

「構わない」

 

 

 すっとスマホを取り出す信濃さん。透明のケースに入った、特にアクセサリーもついてなければデコレーションもされていないシンプルなデザインのそれ。

 俺もスマホを取り出し、立ち止まって作業すること数十秒。

 

 通話アプリの一番上に、新しく追加された『信濃咲』という名前の友達。

 

 

「よし、これでおっけい。ありがとね、信濃さん」

「構わない」

 

 

 高校に入ってから初めての友人である信濃さんは、高校に入って初めて連絡先を交換した人にもなった。

 まだまだ寂しい画面の電源を落とし、ポケットに仕舞い込む。高校卒業までに、これがどれだけ増えるのだろうかと期待を膨らませる。

 

 そこで、仕舞ったばかりのスマホがピコンと音を立てた。ごめんと一言断ってから、スマホの電源を入れ直す。

 

 ──思わず、笑ってしまった。

 

 

「……こちらこそ、よろしくね、信濃さん」

「……スマホで返信して」

 

 

 ぷいっとそっぽを向く信濃さん。その手には俺との会話履歴の残った通話アプリの画面が開かれていた。

 



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9.持つべきものはなんだろう

 

「それで? 昨日はどうだったのよ」

「別に君が期待しているような事は無いよ……まだ知り合って三日だしさ」

 

 

 三時間目の体育。体操服に着替えるために更衣室に来た俺に話しかけてきたのは、昨日放課後に話しかけてきた木谷くんだった。

 俺に話しかけてくる数少ない人間の一人。若干居づらさを感じていたがこれでだいぶマシになった。

 

 着替えを先に終わらせていた木谷くんは、スマホを弄りながら適当に会話を振ってくる。邪推されるのもめんどくさいので、事実を端的に告げながらちらりと彼に目を向ける。

 バレー部に早速入部したという木谷くん、やはりかなり背が高い。目測だが、軽く180センチは超えていそうだ。全運動部男子が望みそうである。正直俺も羨ましいって思ってる。

 

 俺の回答に、木谷くんは一切信じていないといった感じでにやにやと笑顔を浮かべていた。

 

 

「またまたぁ。実際、黒澤くんと信濃さんのこと、皆どんな関係なのか気になってるんだぜ? 昨日あんな騒ぎも起こしてたし」

「巻き込まれ事故なんだけどなぁ……聞いてたでしょ? 困ってた信濃さんを助けただけ……それで仲良くなっただけだよ」

「ふぅん……で? 信濃さんってどんな子なの?」

 

 

 どんな子。

 

 あまりにも抽象的な質問に少し考えながら、ジャージのファスナーを上げる。サイズ合わせで着てから久しぶりに袖を通したが、若干大きい。頼むから成長してくれよ、俺の肉体。目標、175センチ。

 体育館シューズを持った俺は、そのまま木谷くんと共に更衣室を出る。

 

 

「優しい子だよ。口下手なだけで気配りもできる。ぶっきらぼうなところもちょっとあるけど、慣れれば案外話してて楽しいよ」

 

 

 率直な感想はこんなところ。少なくとも、第一印象が良くないだけで、一度話すようになってしまえば普通に仲良くできると思う。

 

 最大の問題は、その「一度話すようになる」のハードルがあまりにも高いことぐらいだ。俺だって初日のあの事件が無ければ今でも邪険にされていただろう。

 誰とも知らない男子相手だと、昨日のような反応になるのだ。相当難易度が高いだろう。

 

 

「──へぇ、お前が噂の黒澤か」

 

 

 背中から投げられたそれは、聞いた事の無い女の子の、中々にドスの利いた声。

 

 

「……えっと、どなたでしょうか?」

 

 

 振り返ったそこに立っていたのは、あまりにも目立つ金髪の少女。ここの校則が緩いから許されているのだろう。

 一度見た顔なら忘れない俺が知らないということは、別のクラスなのだろう……昨日の昼休みにも見ていないけど、恐らく北中の卒業生で間違いないだろう。

 

 

「四組の赤嶺瑠璃。察しの通り北中出身。ああ、勘違いするな? アタシは信濃には一切興味ないから、心配しなくていい」

「あ、あぁ……えっと、どうも? それで……何の御用で?」

 

 

 見れば、彼女も体操服姿。体育は三組四組の合同だという話は聞いていた。他に女子の姿は見えない。

 赤嶺さんは俺の顔をじっと見たかと思うと、ふむ、と勝手に納得したかのような声を出す。

 

 

「なあに、あの信濃が興味を持ったヤツってのがどんなのか気になってな……見た感じ、女殴らないタイプの優男って感じだな」

「女を殴る人は優男なんかじゃないでしょ。そもそも……俺と信濃さんが仲良くなったのは、偶然だよ」

 

 

 ニヤリと、ニヒルな笑みを浮かべる赤嶺さん。これまであまり関わりのなかったタイプの女の子だな、と身構える。

 

 

「偶然、ねぇ……アンタさ、相当お人好しだな。無視しても良かっただろうに」

「それこそ論外だね。余計なお世話と言われても、やらなかったら絶対後悔してた」

 

 

 少しだけ、自分の声色が意図せず冷たくなってしまった。

 

 俺にとってどうしても譲れないし変えられそうにない部分だ。ここを捻じ曲げるとなると、それこそ自分自身の否定になってしまう。

 

 優しい人になりたいんだ、俺は。例え相手が俺のことが大嫌いな人であっても。

 

 俺の言葉を受けて、赤嶺さんは一瞬目を丸くしたが……すぐに満足そうな笑顔を浮かべていた。

 

 

「いやあ、今時居るんだね。こんな少年漫画の主人公みたいなヤツ……嫌いじゃないぜ?」

「そりゃあどうも……俺もできることなら嫌われたくなんかないからね」

「無理だろ。アタシ以外の北中出身は、アンタにいろいろと思うとこがありそうだしな」

「勘弁してよ……」

「ま、なんかあったら、話ぐらいはしてやるぜ?」

 

 

 んじゃ、邪魔して悪かったな……そう言い残した赤嶺さんは、鼻歌交じりにその場を後にした。

 謎の緊張感から解放された俺は、小さくため息を吐く。中々の威圧感を持つ子だったな、なんて考える俺と、信濃さんの中学生時代を知ることができるじゃん! と浮かれる俺が居た。

 

 

「黒澤くんや......よくあんなのと真正面から会話できるな......俺小便チビりそうになったぞ?」

「男子高校生、よく耐えた......普通にいい人だったじゃない。俺は俺の事を好意的に見てくれる人のことが好きだよ」

 

 

 だからと言って俺の事を嫌う人を嫌うかと言われれば答えはノーだけど。

 だって、優しい人になりたいから。

 

 

「......北中、めんどくさそうだな」

「まぁ......俺は信濃さんと仲良くするだけだよ」

「呼んだ?」

 

 

 本日二度目の、背中から投げかけられる声。今回はきちんと聞き覚えのある声だった。

 振り返ると、何故かまだ制服姿のままの信濃さんが、何冊かの本と筆記用具を持っていた。何処か面倒くさそうな雰囲気を醸し出している。

 

 

「呼んだわけじゃないけど......信濃さん、なんで制服なの?」

「参加しない」

「あー......なるほどね」

 

 

 ううん、反応しづらいな。片目の状態で運動するのが危ないという話なのだろう。だが、触れられない。

 

 と、どんな反応をしようか考えていたのだが、信濃さんが紡いだ言葉は俺の予想とは違うものだった。

 

 

「身体、弱いから。動くと色々痛い」

「へ? 大丈夫なの?」

「動かなければ問題無い。先行く」

 

 

 それだけ話した信濃さんは、颯爽と立ち去っていく。

 取り残された俺と木谷くん。

 

 

「......なぁ、もしかしなくても、信濃さんって、なんかとんでもないもの抱えてる?」

「間違いなくね......どうにかしてあげたいんだけどなぁ」

「......相談くらいなら乗るぜ?」

「......ありがとう」

 

 

 厄介なのに絡まれたな、と言わんばかりの哀れみの目線を投げかけてくる木谷くん。

 別に気が重い訳では無いのだけど、それでもその優しさが身に染みるようだった。

 

 

 

 



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10.苦手なものは人それぞれ

 

 

「信濃さん。明日のことなんだけどさ......10時ってことだけど、お昼はどうするの?」

 

 

 毎日のように来ている空き教室。そこでお弁当を広げながら談笑をしている俺と信濃さん。

 教室を出る時に木谷くんは生暖かい目で見てくるし、北中出身は複雑な面持ちで見てくるし、他の人たちは面白そうなものを見る目で見てくる。

 そんな目線が俺と信濃さんが会話する度に投げかけられてくるのだ。昼休み位はのんびりゆっくりしたい。

 

 そこで俺は、朝約束した明日の図書館デートの詳細について踏み込む。昨日教えてもらったファミレスとか良いんじゃないだろうか。

 

 

「…………? 食べないけど」

「…………はい?」

 

 

 だから、信濃さんからの返答に思わず首を傾げてしまった。さも当たり前であるかのように答えられても、流石に受け入れられない。

 

 俺の困惑に気付いたのか、信濃さんは口の中に入っていた食べ物をこきゅんと飲み込む。

 

 

「一食くらいなら問題ない。図書館から食事しに外に出るのは効率悪い。どうせ午後も図書館」

「いやいやいやいや……」

「いあいあ?」

「違うよ?」

 

 

 冒涜的な何かに話を持っていかれたが、そこはしかと止めておく。誤魔化されるわけにも行かないのだ、これに関しては。

 ついさっきの体育の前に身体が丈夫ではないと言う話を聞いたばかりなのだ。流石に見逃すわけにもいかない。

 

 

「流石に何かは食べようよ……というか、俺も居るんだからさ」

「じゃあ、黒澤くんだけ何処かに食べに行けばいい。私は構わない」

「あのさぁ……それじゃあ一緒に出掛ける意味が……」

 

 

 やはりこの子、人付き合いが苦手とかそういう次元の話じゃない。根本的に他人というものを自分の中に落とし込めてない。

 これは流石に不味い。この先生きていく上で非常に不味い。なんだかんだ、この世界は他人が居ないと生きていけない構造をしているのだ。

 

 しばし思考を巡らせた後に、自分の弁当箱を見る。そして閃いた。

 

 

「じゃあさ、信濃さん。俺が昼飯作ってくるよ。そうすれば態々図書館を離れなくても、外に出るだけで食べれるじゃん?」

 

 

 幸い、母親に変わり料理をすることも多々あったし、親父とともに休日に凝った料理をすることもある。しーやつーとホットケーキ祭りをしたこともある。

 一般的な男子高校生よりは料理ができる自信がある。なら、軽く食べれる何かでも持っていけば大丈夫だろう。

 

 

「……それは、流石に申し訳ない」

「じゃあ、外に食べに行く?」

「……コンビニのおにぎりとかでいい。買っていく」

「そんなのお兄さんが認めません……そして異論は認めません!」

 

 

 経験上、こういう時は多少ゴリ押した方がいい。

 これから俺が行うのは、彼女の大規模な意識改革。「君のことを心配する人間が近くに居るんだよ」ということをしっかりと認識させねば。

 実際問題、平気で一食抜こうかと考えてる子をほっとくなんて、他の誰でもない、俺が嫌だ。

 

 

「……なんで?」

「俺はお節介焼きなの。知らなかった?」

「……メリットが無い」

「世の中はね、メリットデメリットだけじゃないんだ。なんて……同い年のやつが言っても説得力なんか皆無だよね」

 

 

 親父からの受け売りなんだよね、とおどけてみせる。実際、親父からの受け売りだ。

 

『損得だけで動かないから、人間はめんどくさくて面白いんだよ』

 

 なんて、しんどそうに笑ってた親父。多分、会社で何か辛いことがあったんだろうな、という想像はできたが、親父はその辛さを教訓として俺たちに出力し続けてきた。

 俺やしーやつーが親父を尊敬している一番の要因だ。

 

 

「……じゃあ、黒澤くんはメリットデメリット抜きで私と話してくれてるの?」

「友情に損得なんてないよ。俺がしたいと思ったからね。で、なんか嫌いな物は……とうもろこしって言ってたよね。他になんかある?」

 

 

 以前の自己紹介の時に言っていた。彩り感覚で入れることもあるけど、使わなければ使わない食材で助かった。

 信濃さんは思考を巡らすように俯いていたが、やがて言いにくそうにゆっくりと口を開く。

 

 

「......ぴ」

「ぴ?」

「ピーマンも......苦手......」

「......りょーかい」

 

 

 俺よく表情筋を緩めなかった。自分で自分を褒めてやろう。

 

 ピーマンダメって、流石にそれは可愛すぎる。クールな女の子がダメってギャップがね、ちょっと、やばいね。

 恥ずかしかったのかな、ピーマン苦手だって言うの。確かにネタにされそうだもんね、高校生でピーマンダメって。

 

 耐えろ俺。ここはビシッと決めるところだ。ニヤけるな、笑うな、吹き出すな。

 

 

「......材料費、出させて」

「ん? 別に大丈夫だよ......って言っても、たぶん納得しないよね、信濃さん」

「しない。する訳ない。流石に申し訳ない」

「だよね。そうだなぁ......300円くらい貰おうかな? あ、不味かったら言ってね?」

「......不味かったとしても、きちんと貰ってもらうから」

 

 

 どこか不貞腐れたように、信濃さんは言う。

 

 これは意地でも美味いもん作らないとな、と頭の中でレシピを考え始めるのだった。

 



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11.せめて、俺の周りだけでも

昨日の昼、オリジナル日刊ランキング1位になってました。本当にありがとうございます。


 

「という訳でお母様。この私めのために明日の弁当作りを手伝ってはくれませんでしょうか! 家事手伝い何でもします!」

「あらー、昨日言ってたお友達の子に作ってあげるの? わかったわ、ビシバシ行くからね!」

 

 

 そんなやり取りの末、朝六時に起きてお弁当作って(帰り道の途中で、信濃さん用のお弁当箱を買った。流石にしーに貸してとは言えなかった)、つーやしーや親父に味見して貰った。準備万端でやってくるはマンション入口。

 

 この前と同じように、本来の集合時間より30分早い9時30分には来ていた。女の子を待たせるなど、言語道断だと家族全員からアドバイスされた結果である。

 

 

「......腕時計、やっぱり慣れないな」

 

 

 巻いてけ、と一言だけ言って昔使ってたという腕時計を押し付けてきた親父。

 押し返す意味もなかったので左腕に着けたのだが、ずっとお袋がニヤニヤと笑顔を浮かべていた。一体なんだったんだ、あれ。

 銀色のどこのメーカーか分からない、シンプルな時計盤のもの。特別高そうにも見えないし、そんなものを貸すとも思えない。

 

 まぁこれに関しては帰ってから聞き出すか......と、ため息を一つ吐き、スマホの連絡アプリを起動する。確認するのは、もちろん信濃さんとの会話履歴だ。

 

 

「......ううん、素っ気ない」

 

 

 スタンプが無いのはまだいい。返信もきちんとあるからそこは問題ない。

 

 問題は、相変わらずの文章の短さ。話してる時ですら短いのだが、おそらく文章の方が短い可能性がある。ほとんど単語でしか返答されていない。

 おはよう今日いい天気だねと送れば、おはようのみ。集合は十時でよかったよねと送れば、そうとのみ。何か持ってくものとかあるかと聞けば、特にとのみ。

 

 いやもう今更だけどさぁ……と思わなくもない。言わないけど。言ったら喧嘩だけど。俺だって喧嘩したいわけではない。機嫌を損ねたいわけでもない。

 

 だけど、もうちょっと増やしてもらいたい。流石にこれでは信濃さんが無口で内気で通話アプリ上でもそっけないと思われかねない。まぁ、(俺以外に対しては)間違いではないのだが。

 

 

「……これはなぁ、流石になぁ……ううん、どうしたものか……」

「何が?」

「へうっ」

 

 

 なっさけない声を上げながら、意識が現実世界へと引き戻される。

 顔を上げると、真正面から俺の顔を見上げる信濃さんの姿。

 

 しかし、信濃さんは毎回俺の不意をついてくる。これは信濃さんが気配を消すのが上手いのか、はたまた俺が注意力散漫なだけなのか。真相は未だに分からない。

 

 スマホをしまい、ごほんと咳払いを一つして笑顔を浮かべる。

 

 

「おはよう、信濃さん......なんで制服なの?」

「楽」

 

 

 額に手を当て、目を閉じ天を仰ぐ。そうでもしないと全身の力が抜け切ってしまいそうだった。

 過去最短の返答をしてくれた信濃さんは、昨日から何も変わらない制服姿。持ってるカバンだけが学校指定のものからシンプルなトートバッグに変わっているくらい。それ以外はなにも変わらない。

 

 私服の俺と、制服の彼女。

 

 アンバランスここに極まれりだった。アンバランスって極まるんだね、初めて知ったよ。

 

 

「............黒澤くん?」

「あぁ、ごめん......なんか空回っちゃった気がして......」

「大丈夫。しっかりカッコイイ」

「あはは......ありがとう......そっちも、可愛いよ? 似合ってる」

 

 

 制服姿の女子に似合ってるなんて言う日が来るとは思わなかった。まして休日、図書館デート前。

 流れで口にしてしまったが、実際問題彼女の制服姿はとても絵になる。彼女が小柄な割に目を引くのは眼帯のせいというのもあるだろうが、それに半分隠された整った顔立ちが大きいだろう。

 

 なんて彼女のことを眺めていたら、信濃さんが軽く目を見開いて、俺の事を見上げていた。これは、驚いているのだろうか。

 

 

「........................可愛い、わけ、ない。私、なんて……こんな、だし」

 

 

 左眼を押さえながらの、小さな声だった。

 いつもの淡々とした様子ではなく、絞り出された言葉の弱々しさに、何故だか胸が締め付けられる。小柄な彼女が、さらに小柄に見える。

 

 やはり信濃さんはちょっと……いや、かなり自己評価が低い。自分に自信がないなんてレベルじゃなく、もっと……下手したら、存在する意味がない、くらいに思っていそうな。

 彼女がこうなってしまった原因は他にあるのだろうが、彼女がこんなに素っ気ないのはこの性格が原因だろう。じゃあ、まずはそこからどうにかしていこう。

 

 

「可愛いよ、信濃さんは。自信持っていい。俺、冗談は言うけど嘘は言わないんだ」

 

 

 信濃さんの両肩に手を置き、その目を真っ直ぐ見る。その瞳には、俺の姿だけが映りこんでいた。

 

 

「君はいい子だし優しい子だし可愛い素敵な女の子だよ。君はまだそれに気付いてないかもしれないけど、これからそれを自覚してもらうから」

「……な、んで…………」

「……過度なネガティブは、君を不幸にする。俺はね、俺の周りの人間だけでも幸せになって欲しいんだよ」

 

 

 ──君にも、幸せになって欲しいんだ。

 

 そう言葉にした時、信濃さんの目が一層見開かれ……背中から、非常に聞き覚えのある……具体的には中学一年生女子の悲鳴が聞こえてきた。

 

 

「かな兄カッコいいー!! さっすが私の大好きなかな兄!」

「ちょ、しーちゃん声がおっきい……あ…………どうも。お邪魔してます」

 

 

 ギギギ、と錆びついたロボットの首のようにカクカクとした動きしかしない首をそちらに向ける。

 エレベーターの入り口から俺たちを眺める男女。腕を組んで仲が良さそうなそっくりな二人組。女の子は顔を赤くしながらキャーキャー歓声を上げ、男の子はそんな女の子を落ち着かせながらぺこりと挨拶していた。

 

 俺の最愛の(しー)(つー)である。

 

 

「…………いつ、から」

「え? 『おはよう、信濃さん』から。かな兄、財布忘れてたから買い物ついでに届けようと思ったんだけど……」

「あぁ、ありがとう…………最初からじゃねぇか……」

 

 

 自分の恥ずかしい行動を指摘され、顔の温度が急上昇していくのが分かる。思わずその場にしゃがみ込み、顔を押さえ俯いてしまう。

 

 

「あ、あなたが信濃さん? 私は黒澤 栞! お兄ちゃんの妹です! こっちは紬! 私の双子の弟です!」

「どうも……その、あれだよ。いつか誰かから刺されないようにね?」

「あ、どうも……信濃、咲です」

 

 

 何故か信濃さんとしーとつーがお互いに自己紹介を始めていたが、そんなものを見る余裕、俺にはなかった。

 

 ──この時、信濃さんがどんな顔をしていたのか、見ることは当然できなかった。

 



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12.反省も後悔もきちんとする

 

「…………その」

「構わない」

「えっと……」

「構わない」

「……あの」

「構わない」

「まだ何も言ってないんだけど……せめて何か言わせて……」

 

 

 彼女お得意の返事を三連投。どこか語気が強いと感じるのは、きっと気のせいではないだろう。

 

 所変わって、ここは図書館。俺が岡山にいた時に時々通っていた図書館とは、広さも貯蔵量も綺麗さも設備も何もかもが上の図書館だった。都会凄い。普通に館内に飲食コーナーがあるのびっくりなんだけど。

 そこの一階。小説やエッセイなどが置いてあるコーナーの窓際。窓に向かって設置された机に並んで座る。

 入るなり信濃さんはすたすたと奥まで入っていき、何冊かの本を持った状態で流れるように今の席に座っていた。慌ててその左隣に腰かけたが、先ほどの出来事などまるで無かったかのように振舞う彼女に、流石に困惑してしまう。

 

 あの後、しーとつーは二人で仲良く買い物に行った。あの二人、双子ということもあってか恐らく世間一般的な姉弟と比べても仲がいい。余程のことがない限りずっと一緒にいる。

 

 あの二人にはいつまでもあのままでいてほしいな……という兄の虚しい思いは置いといて、信濃さんである。

 

 

「黒澤くんの考えも理解した。弟さんと妹さんも迷惑ではなかった。謝ることはない」

「いやもうぶっちゃけるんだけどさ? もうね、はっずかしいたりゃありゃしないのよ。正直今信濃さんの顔見るとさっきの痴態を思い出しちゃってダメなのよ」

 

 

 キザすぎる。勢いで口にしたとはいえ、あまりにもキツイ。こんな感じで後で恥ずかしさに身を焦がすことになるのだから、後先考えずその場の感情だけで話さないようにしてたのに。

 

 信濃さんと同じように持ってきた小説を脇に避け、机に突っ伏す。あれから小一時間ほど経ったが、未だに顔から熱が引かない。

 

 

「そう......意外。黒澤くんって、いい意味で昔の事を振り返らない人だと思ってた」

「ポジティブなのと、反省しないのは別だよ......反省するから、俺たちは成長出来るんだよ。人間は過去から学ぶことで種の存続と繁栄をしてきたんだから」

「また主語が大きい」

「でも、事実だよ?」

「......それは、そう」

 

 

 結局これも、親父からの受け売りだけどさーと、首だけ信濃さんの方を向けてへにゃりと笑ってみせる。前を向いたままだったので、教室と同じような構図だった。意外と姿勢良いな、信濃さん。

 

『良かったな、今失敗して。これで次は同じ失敗をせずにすむ』

 

 幼い時、親父やしーやつーと一緒にお袋の誕生日に出す料理の試作をしている時の話だ。シュークリームを作る時に生地がきちんと膨らむか不安になってしまい、オーブンを開けてしまった。結果ヘニャヘニャの生地が出来上がってしまい、泣きかけてた俺たちに親父が言った言葉だ。

 

 その甲斐あってか、今ではシュークリームは俺の得意料理の一つになった。

 

 

「だから、俺は自分の行いをよく思い返すんだけど......その度にこんな感じになる」

「難儀」

「難儀だよ......」

「じゃあ......お願い。私のために、胸を張って」

 

 

 胸ポケットに入れてた栞(木製。そんなのあるんだ)を読んでいた本に挟んで閉じる。そのまま俺の方へ向き直る。

 

 右眼が見えた。優しく、細められていた。

 

 

「あの言葉......私は、嬉しかった」

 

 

 その言葉に、思わず息を飲んだ。

 

 言葉を選ぶかのように、慎重に、ゆっくりと口を動かす信濃さん。

 

 

「私に幸せになって欲しいって言ってくれたの、お父さんと、お母さんと、伯父さんだけだった。そんな言葉を、出会って四日の人から言われた──黒澤くんが、言ってくれた」

 

 

 初めて、彼女の口から両親のことを聞いた。

 彼女にとって、両親がどんな人なのか想像しかできないが......口振りからしても、表情からしても、きっと優しい人なのだろうと想像するのは難しくない。

 

 きっと、伯父さんも合わせて彼女にとって大切な人たち。彼女は、そんな人たちと同列に俺を並べた。

 

 

「だから、そんなに自分を卑下しないで欲しい。その言葉に、私は、喜んだのだから」

「......分かった。ありがとう、信濃さん」

「......こっちの、台詞」

 

 

 構わない、では無い彼女の返答に思わず笑みが零れてしまう。

 そうだ。あの言葉に嘘は無い。森羅万象に誓ってそう言える。

 

 覚悟は決めたんだ。確かにあの発言は恥ずかしいものだったが、それを背負い込んでみせよう。

 

 俺は、信濃さんを、幸せにするんだ。

 

 

「じゃあ......早速一個、幸せを運んでみせましょう......飲食スペース、行かない?」

 

 

 俺は自前のバッグの口を開け、中に入れてたふたつの包みをちらりと見せる。

 それを見た信濃さんは、マナーモードに設定していたスマホの画面を付け、時間を確認。現在、11時45分。いいくらいの時間だろう。

 

 

「構わない。本返してくる......私がやるから、先に行って席取っておいて」

「あら、それは有難い。じゃ、これお願いします」

「構わない」

 

 

 信濃さんに俺が持ってきてた本を手渡す。午後からちゃんと読まないとな、とその本のタイトルをきちんと覚えておく。

 

 あの夏目漱石の『こころ』が、何故か目に入ってきた。

 

 



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13.食事は美味しく楽しく頂きます

 

 

「............」

「............」

「........................」

「........................」

 

 

 ........................。

 

 

「「................................................」」

 

 

 沈黙。

 

 俺と信濃さんの間に流れているのは、何処か重苦しい雰囲気。元々あまり喋る方ではない信濃さんだが、お喋りであることを自覚している俺がここまで喋らないのは中々ない。自分で言うのもおかしいが、喋ることがアイデンティティみたいな人間なのだ、俺は。

 

 さて、そんな黙り切った俺と信濃さんの間にあるのは、何も重苦しい雰囲気だけではない。向かい合った俺たちの間にあるのは、ふたつの包み。

 

 ──俺のお手製弁当である。

 

 

「......開ける」

「......うん」

 

 

 移動した飲食スペースにて、俺と信濃さんは運命の一瞬を迎えようとしていた。

 

 信濃さんに俺の弁当を食べてもらう──聞く人が聞いたら、何運命の一瞬などと大袈裟に言っているのだと鼻で笑われるかもしれない。が、俺にとっては受験の時より緊張する一時。

 

 ゆっくりと、信濃さんの手元に置いてある包みが彼女の手によって解かれていく。姿を現した、シンプルなお弁当箱。銀色の箱が、かぱっと開かれる。

 

 

「…………わあ」

 

 

 いつも信濃さんが食べてるお弁当と同じくらいの大きさのお弁当箱に、ゴマ塩を振った白ご飯。いつも以上に気合を入れた焼きムラのないだし巻き卵に、好物だと話していたハンバーグ。彩りに入れたブロッコリーと花の形に切った人参。

 見た目はいい。持ってくる途中で傾いていなかったのも一安心。後は味が受け入れられるかどうかである。

 

 

「……頂きます」

「……どうぞ」

 

 

 きちんと両手を合わせ、目を閉じる信濃さん。箸を手に取り、さぁ緊張の一瞬。信濃さんが真っ先に手を付けたのは、やはりハンバーグだった。

 

 一口大に箸で切り分けたそれを、信濃さんはゆっくりと口に運ぶ。

 

 

「…………お」

「お?」

「おいしい…………!」

 

 

 ──後に、ずっと後……それこそ、墓石に入るその瞬間まで、この時の光景を忘れることはなかった。

 

 ずっと無表情で、無感情で、時々見せるのは不満顔だったり驚きだったりと、正の感情は見えなかった信濃さん。

 

 そんな彼女が今、目をきらきらと輝かせていた。おいしいと、俺が作ったハンバーグをもぐもぐと食べ進めていた。

 

 本当に、嬉しそうに。

 

 

「…………はああああああああああああああっ…………よかったあ…………」

 

 

 思わず大きくため息。そのままずるりとずり落ちる。行儀が悪いと言われても仕方ない体勢だが、朝から気を張っていたのだ、ちょっと許してほしい。

 もぐもぐと、一心不乱に箸を進める信濃さん。口いっぱいに食べる様子は、まるで小動物のようだった。

 

 

「ん……これ、わざわざ冷えた時に美味しいハンバーグを作った?」

「ああ、よくわかったね。お袋に手伝ってもらってさ、いろいろ教えてもらったんだ」

「そう……やっぱり、黒澤くんは凄い」

 

 

 ──凄い。

 

 あまりにも自然に出てきたその言葉が、もうどうしようもなく嬉しかった。頑張って作った料理を美味しい美味しいと食べてくれることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。

 そもそも、家族以外の誰かに料理を振舞うという行為自体が初めてだった。それがここまで喜ばれるとなると、早寝早起き頑張った甲斐があった。

 

 これは帰りにお袋にデザート買わないとなぁ……と思いながら、一心不乱に食べ進める信濃さんを眺める。

 

 

「喜んでくれてよかったよ……」

「……黒澤くん、嬉しい?」

「そりゃあね……昼ご飯いらないって言ってた人が、俺の弁当美味い美味いって言ってくれてるんだから……」

「こんなご飯なら、毎日食べたい」

「あはは……んっ!?」

 

 

 あまりにも自然に出てきた彼女のセリフ。思わず反応がワンテンポ遅れた。地元では(しーやつーから)ツッコミの天才とまで言われた俺としては、かなりの失態である。

 

 毎日食べたい。これ以上ないくらいの誉め言葉であることは間違いないし、きっと信濃さんは全く何の意識もなく口にしたのだろう。

 

 だけど、それは、流石に、心臓に悪い。

 

 

「……? 黒澤くん?」

「へ、あ、いや、なんでもない……うん……なんでもないんだ……」

 

 

 狼狽した俺の様子に首を傾げる信濃さん。

 

 君、さっき漱石の三四郎読んでたよね? 確か恋愛小説だったよね? あれかい、君は月が綺麗だったってさらりと行ってしまうタイプか。

 

 これは早いとこ慣れないとなぁ……と、俺は自分の弁当箱を開ける。

 

 

「……黒澤くん、お弁当大きい」

「ん? そりゃあ……これくらい食べないと足りないからね」

「そう……いっぱい食べたら、おっきくなれるかな」

「……………………ごめん、断言できない」

 

 

 自分の頭のてっぺんをぽんぽんと叩きながら、自分の弁当箱と俺の弁当箱を交互に見る。

 

 もし……もし二回目以降があったら、カルシウムとたんぱく質がしっかりと採れるメニューにしよう、と心に誓った。

 

 

 



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14.また来週

引っ越し作業に殺されてました。

業務連絡:なろう、カクヨムに投稿始めました。そっちでも読んでくれると嬉しいです。

なろう:https://ncode.syosetu.com/n9641ic/
カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16817330654417779762


 

「いやあ……こんなに本読んだの久しぶりだ……」

「ん、楽しめた」

 

 

 夕焼けが茜色に染まるアスファルトの上を並んで歩く帰り道。

 日常生活を送る上で目にする活字の量を遥かに超え摂取した俺は若干疲れ気味。一方信濃さんはそんな一日に満足だったのか、心做しか足取りが軽かった。

 

 表情こそ、大きく変わることは決してない。だけど、ちゃんと見ればちゃんと彼女は感情表現している。今は、それなりに機嫌がよさそうだ。

 

 

「信濃さんさ、毎週図書館に行ってるの?」

「行ってる。今日は本ばっかり読んだけど、課題のある日は課題したりする」

「なーるほど......ん、ってことは来週も行くの?」

「その予定」

「ほーん......じゃあ、来週のメニュー今から考えとかないとなぁ......」

 

 

 毎週ハンバーグ! というのは流石に飽きが来るかもしれない。カロリー気にするかもしれないし、あっさり食べれるもの......それでいてご飯のおかずに良さそうなもの......。

 これはお袋からまた伝授してもらう必要があるかな、と顎に手を当て笑ってしまう。楽しくなってきたぜ。

 

 

「え......来週?」

「ん、へ、あ......あー、ごめん。来週もついてく気満々だったや。流石に迷惑だよね」

 

 

 きょとんとした表情で信濃さんから見つめられた。まるで俺の発言が変だったみたいに、こてんと首を傾げていた。

 一体何をと考えたところで、俺があまりにも自然に来週も信濃さんと共に過ごそうとしていた事実に気付く。

 

 若干の羞恥で、頬が熱くなるのを感じる。今なら、夕焼けに照らされてるからバレることは無いだろう。でも、思わず口元を隠すように右手を当ててしまう。

 

 

「......構わない」

 

 

 ふいっと顔を前に向けた信濃さんが、ぼそりと呟いた。車の音に掻き消されそうになったその声を、俺はしかと拾い上げていた。

 思わず立ち止まる。つられて信濃さんも立ち止まり、こちらを振り返る。彼女の色素の薄い茶色の髪に夕焼けが反射して、きらきらと輝いていた。

 

 

「迷惑じゃない。邪魔もしてない。お弁当は美味しい。断る理由が無い」

 

 

 矢継ぎ早に捲し立ててくる信濃さんはちょっと珍しい。どことなく、必死というか、躍起になっているように見える。

 しばし、二人の間の会話が無くなる。近くにある公園から聞こえる子供たちの声が、やけに大きく感じた。

 

 

「……えっと、だから、あの………………来週も、一緒に、居たい」

 

 

 普段ははっきりとした物言いをする信濃さんが、しどろもどろになりながら一歩踏み込んでいた。

 思わず目をぱちくりと瞬きする。一歩二歩と信濃さんに近付き、彼女の目の前に立つ。

 

 

「……いい、の?」

「そう言ってる……その方が、幸せ」

 

 

 ──私を、幸せにするって言った。

 

 表情こそ変わらないが、胸に手を当て、真っ直ぐ俺を見上げていた。いつもいつも、信濃さんの視線は真っ直ぐだった。

 

 逸らしてはいけない──そう感じた俺は、信濃さんの顔をじっと見つめる。その顔からは、感情を伺うことは出来そうにない。

 

 

「……素直だね、信濃さん」

「思ったことを口にしただけ」

「ははは……分かった。来週も同じように図書館で──」

「──黒澤くんの! ……行きたい、場所に」

 

 

 俺の言葉に被せるように発せられた信濃さんの言葉は、これまでで一番の声量だった。

 

 近くを通り過ぎようとしていた中年男性が、一瞬こちらに目を向け……微笑ましそうな目線を向けてきていた。

 

 

「ここ数日、私ばかり良くしてもらってる」

「そんな……俺は別に……」

「友達、なら……お互いに、平等」

 

 

 これは……親父の言葉だったか、お袋の言葉だったかは忘れた。『他人にした分相手が何かしたいと言ってきたら、素直に受け取れ。それが友人なら、なおさら。逆に、何もしてこない相手と付き合うときは気を付けろ』……要するに、相手の気遣いも受け取らないと、関係が対等な物では無くなるという話だ。

 

 彼女がどんな気持ちで提案したかは、推測の域を出ない。だけど、それが俺を気遣っての物なのは明白で……それが、単純に嬉しかった。

 

 

「そっか……うん、そうだよね。じゃあ、来週は、そうだなぁ……この前の街案内の続きでもしてくれないかな? まだまだ面白そうな所一杯あるし」

「……じゃあ行きたい場所、決めといて」

「わかった……お昼は、何がいい?」

「ハンバーグ。絶対に入れて」

「気に入ってくれたんだね。りょーかいっ!」

 

 

 スマホのカレンダーアプリを開き、来週の同じ曜日に予定を入れる。『信濃さんとお出かけデート』と入れておく。

 

 これは明日からの一週間も気合い入れて頑張らないとな、と一人意気込んでいた。

 



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15.そういう性格、性質

 

 

「たーだいまっと……あれ、しーとつーは?」

「あらおかえり。二人なら昼ごはんの後遊びに行ったわよ?」

「ホント仲良いよなぁあの二人……そこが最高に可愛いんだけど」

「ねー」

「仲がいいのは良い事だ」

 

 

 信濃さんを無事に送り届けた俺は、その足で自分たち家族が住む部屋へと帰っていた。親父とお袋は居たが、最愛の双子の姿は見えなかった。

 相変わらず仲良しだなぁ、と三人でうんうんと頷く。キッチンで晩御飯の準備をしているお袋に断りを入れ、自分と信濃さんの弁当箱を流しに置く。晩御飯を終えたタイミングで洗わせてもらおう。

 余談だが、信濃さんは弁当箱をきちんと洗って返すと言ってくれたが、どうせ来週も使うからと言うと納得してもらった。やっぱり、信濃さんはいい子だ。ちょぉっと口下手なだけで。

 

 

「お袋様、まじでありがとうございました。信濃さんにも喜んでいただけました」

「あらそう! それは良かったわ……流石お父さんを射止めたレシピなだけあるわね!」

「おい、その話は……」

 

 

 ソファで何やらパソコンをカタカタ叩いていた親父が思わず振り返る。しかし、お袋はそんな親父を完全に無視して話を続ける。

 こういう時のお袋は無敵だ。虹色に輝くとか星を振りまくとかBGMが変わるとかはしないけど、大体の存在を轢き殺してくる。

 

 一番被害を受けるのは、親父だ。

 

 

「高校の二年生の時にね? 初デートに張り切ってお弁当を持って行ったのよ。その時に入れてたのが、ハンバーグだったの。もう本当に美味しい美味しいって食べてね……お弁当作る度に、ハンバーグ入れてくれないかって、申し訳なさそうに聞いてたのよ? 本当に可愛かったわぁあの時のお父さん」

「……親父、どんまい」

「気にするな。どうせお前もこうなる。うちの家系の男は、基本的に尻に敷かれるんだ」

 

 

 歴史が証明してる、と親父はどこか遠い目で西の方を見つめる。恐らく、岡山の実家に目を向けているのだろう。そういえば、じいちゃんもばあちゃんに頭が上がってなかったっけ。

 

 俺も将来、そうなるのだろうかと思わず苦笑い。そんな未来、想像もできそうにないが。

 

 

「そういえば……親父。腕時計サンキューな」

 

 

 そう言いながら俺は、朝親父から渡された腕時計を外し親父に差し出す。

 なんだかんだ、時間を確認するためにスマホではなく腕時計で済ませられたのは大きかった。人と話す時にスマホを触るのは、あまり気が進まない人間なのだ、俺は。

 

 親父はじっと、その腕時計を見つめていた。やがて、ゆっくりと首を横に振る。

 

 

「お前が使え。俺よりお前が付ける方がいい」

「へ? そりゃあ有難いが……そもそもなんでこれ渡してきた?」

 

 

 俺の疑問に、親父は沈黙した。答える気は無いのだろう。

 しかし……残念ながらここには、親父の人生に寄り添い生きてきた人間が居た。

 

 

「その腕時計はねぇ、お父さんが私との初デートの時につけてきた腕時計なのよ」

 

 

 天を仰ぐ親父。大変嬉しそうに笑うお袋。

 勝者と敗者がはっきりと別れた所で、お袋は洗い物の手を止める。笑っちゃうくらいニコニコだ。

 

 

「なるほど? その時のデートが上手く行ったもんだから、ゲン担ぎに俺にさせた、と……」

「それ以上はやめてくれ。俺だってダメージは食らうんだ」

 

 

 パタン、とノートパソコンを閉じた。降参だ、と言わんばかりに足を投げ出す。

 

 どう反応すればいいのだろうか。父親と母親のデート事情に対する語彙を俺は持ち合わせていない。親父をフォローするにしても、下手したら俺もお袋からロックオンされかねない。

 

 

「……いいか、奏」

「あ、はい。なんでしょうか?」

 

 

 不意に、親父が立ち上がって俺の方へと歩み寄ってきた。両肩に手を置き、いつにも増して真剣な表情だ。

 

 

「恋人が出来たら連れてきなさい。全力で歓迎するから」

「何囲おうとしてるの……別に信濃さんはそんなんじゃない……恭介と同じようなものだよ」

 

 

 恭介。

 

 その単語に、親父は勿論、お袋も表情を変えた。心配するような、不安なような。

 

 

「心配しないで……って言っても、無駄だよな、うん」

「当たり前だ。親ってのは、無条件で子供が心配なもんだ」

「たとえ鬱陶しいって思われても、ね」

 

 

 当然だ、親父とお袋の心配も。恭介を助けるために、散々無茶をしたし傷つきもした。

 そんな俺の様子を見てきたんだ。心配するなって方が無理だ。俺だってしーやつーが同じように無理しようとしてたら、心配するに決まってる。

 

 

「……ありがとう。でも……」

「『止められない』だろ?」

「ほんっと、誰に似たのかしら……」

「……ごめん」

 

 

 無理なのだ。追い詰められたような顔や、諦めたような顔を見てしまったら。

 無理なのだ。他人の心の闇の一端に触れてしまったら。

 

 お節介だと、迷惑だと言われても、引き上げてしまいたくなる。身体が動く。

 

 

「謝るな。胸を張れ。それはできることじゃない」

「そうそう。あ、でも嫌がることだけはしちゃダメよ?」

「……うん。分かってるよ」

 

 

 優しい両親を持ったと、自分でも思う。最近までは、これが普通だと思っていた。

 

 だけど、そうじゃない人がいる。俺が当たり前に享受してきたものが当たり前じゃなかった人が。

 

 親友に、できたばかりの女友達。

 

 

「……分かってる」

 

 

 幸せにする。

 

 その言葉の意味を、今一度考える必要がありそうだ。

 



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16.優男と眼帯少女と金髪少女

 

 

 

「よぉ、優男。ちょっとツラ貸せ」

「だってさ」

「......ええ?」

 

 

 休み明けの月曜日。信濃さんと並んで登校して、他愛のない話をしていた時だった。

 

 朝の8時5分前。まだまだ教室内に人が揃っていない状態だ。特に何もすることの無い俺は、ぼーっと教科書類を眺めていた。そんな突然俺に話しかけてくる二人組。

 

 

「えっと......赤嶺さん? と木谷くん。なしたよ?」

「いやぁ、なんか黒澤くんに会いたいって言ってたから、連れてきた」

「そういう事。おい、ちょっと世間話してかないか? 別に取って食わねぇから......なぁお嬢サマ? ちょっとコイツ借りていいか?」

「......構わない。黒澤くんは私のものでは無い」

 

 

 赤嶺さんが黙々と読書を続ける信濃さんにニヤリと笑いかける。ちらりと一瞥してみたが、赤嶺さんの存在を確認するとすぐに読書に戻る。相変わらず読書家だ。しかし、今日のチョイスは中々謎だ。なんなんだ『歯ブラシ大全』って。

 決まりだな、と赤嶺さんが笑う。まぁ何もやること無かったから良いかと、ガタリと席を立つ──その時、俺たち......正確には、俺と赤嶺さんを射抜く目線に気付く。

 

 一瞬だけ、周りを見渡す。別のクラスの、しかも金髪で目立つ赤嶺さんが入ってきているということもあり注目自体は集めていた。しかし、その中でも特異な目線を向ける同級生......北中出身の方々。

 

 

「あー......木谷くんはどうするの?」

「んー? 俺はいいや。まだ今日のログボ貰ってねぇんだ」

 

 

 木谷くんが離れていく。その後ろ姿に一人安堵。

 北中のいざこざに木谷くんまで巻き込みたくは無い。いつか話を付けなきゃいけないとは思っているのだが、如何せん北中の人たちに囲まれて尋問を受けた日から、彼らとの距離がどうしても遠くなっている。

 

 俺悪くないよなぁ……とは思いつつ、こちらからアクションを取った方がいいのかもと頭を捻る。とりあえず今は、赤嶺さんの件が先だ。

 

 

「そっか。じゃあ……行こっか?」

「あぁ。場所は任せる」

「じゃあ空き教室……いや、屋上行こうか」

 

 

 いつもの空き教室と一瞬思ったが、信濃さんが物凄い顔をしたので止めておく。どうやらあそこは信濃さんのテリトリーとなってしまっているらしい。

 学校の屋上。入学初日に確認したが、この学校では屋上への侵入が許されているようで、鍵は空いていた。あそこなら今の時間、誰か別の人間が来るということはないだろう。

 俺の言葉に頷いた赤嶺さんは、そのまま踵を返して歩き出す。信濃さんと木谷くんに行ってくるねと言葉を残して、その後を着いていく。

 

 

「しっかし、本当に信濃と仲がいいんだな。うちのクラスの同中の奴らが、一緒に登下校してるとこ見たって噂してたぜ?」

「あぁ……ホントすごい偶然なんだけどさ、住んでるマンションが同じなんだよ」

「それで毎日送り迎えってか? 殊勝なことで」

「それはどうも」

 

 

 廊下を歩いていると、信濃さんと共に歩く時のように視線を感じた。無論それは俺に向けてというより、その隣……赤嶺さんへと向けられるものだった。

 信濃さんとは系統が違うが、彼女もまた人の目を引く美少女。しかも目立つ金髪とくれば、人の目線を一身に集めるのは火を見るよりも明らか。

 

 彼女たちは人から見られることに慣れているようだが、俺はそうでもない。

 降り注がれる目線を耐え、歩くこと暫く。ようやくたどり着いた屋上は、心地い良い風が吹いていた。

 

 

「さて、と……どんな話なのかな?」

「単刀直入に聞こう。信濃の昔話を聞きたいか?」

「……聞きたいと言えば聞きたいけど……うん。そうだね……有難い申し出だけど、やめておくよ」

 

 

 俺が特に悩む様子もなく決断をしたことに、赤嶺さんはピクリと眉を動かす。理由を言ってみろ、とばかりに首を傾げるので、ゆっくりと自分の心を言葉にしていく。

 

 

「そりゃあ、知りたいとも思ったし、前に赤嶺さんと会った時は、信濃さんの昔話が聞ける! って嬉しかった。けど……まだ早い」

「早い、ねぇ……」

「そう。それに嫌だろう? 出会って数日の男が、自分の昔の話を知ってたら」

 

 

 違いない、と赤嶺さんが笑う。俺も笑みを浮かべてみせる。

 なんか凄い勢いで距離を詰めてるから勘違いしてしまいそうになるが、出会って一週間弱だ。来週末のデートの約束まで取り付けているものの、だ。

 

 どこに彼女の地雷があるか分からない現状、慎重に行くに越したことはない。

 

 

「やっぱりお前、おもしれーヤツだな。男子高校生なんて、股間と脳みそ直列に繋がってるやつしか居ないと思ってたのに」

「こらっ、まだお日様が出たばかりでしょ。せめて放課後にしなさい。それに、そうじゃない男の子だって居るかもしれないでしょ」

「へぇ、お前は?」

「……ノーコメントで」

 

 

 世の男子をフォローするついでに俺自身の保身に走るつもりだったが、どストレートに突っ込まれては口をつぐむしかなかった。

 嘘はつきたくない。たとえ俺自身が不利益を被ることになっても。

 笑いたきゃ笑え。俺は街中で可愛い女の子見かけたら目で追っちゃう普通の男子高校生なんだ。

 

 全てを受け入れる体勢に入った俺を見た赤嶺さんは、高らかに笑った。

 

 

「いやぁ、気に入った気に入った! おい、スマホ出せ。連絡先交換するぞ。うちのクラスつまんねーやつばっかでさ、退屈なんだよ。暇な時話し相手になりやがれ」

「え、あ、はい。ウェルカムウェルカム」

 

 

 スマホを取り出した赤嶺さんにならって、俺もスマホを出す。マナーモードにしていたスマホにはメッセージが来ていた。

 

 そのメッセージを見た時──思わず目を見開いた。

 

 

「…………」

「どうした?」

「……信濃さんから」

 

 

 たった一文。その一文をどう噛み砕いていいか、図りかねていた。

 

 

『赤嶺さんは、信頼できる』

 

 

 その一文と赤嶺さんの顔を交互に見比べる。

 申し訳ないが、どうにも接点が見えそうにない二人だった。

 

 

 



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17.人の噂話は程々に

新社会人になりました。週一、二更新できるよう頑張ります。


 

「あの、信濃さん。赤嶺さんとはどういう関係で?」

「同じ中学校」

「……………………」

「……………………」

「……………………え、それだけ?」

「それだけ」

「そうか……そうかぁ…………」

 

 

 赤嶺さんと別れて、帰ってきた我らが教室。

 澄まし顔で読書を続けていた信濃さんに、単刀直入に赤嶺さんとの関係を聞いた結果が、これである。俺に一体どうしろと言うんだ。

 

 

「じゃあさ、なんで信頼してるの?」

「赤嶺さんは、聞かない」

「聞かない? …………あぁ、そういう事」

 

 

 恐らく、彼女が他人に求める最低限にして最上級の条件。それが『左眼について聞かない』。

 これを守らないとそもそも会話の土俵に立てないし、これさえ守れば信頼するとまで言って貰える。

 

 申し訳ないが、歪であると言わざるを得ない。自分が普通だとアピールするつもりは無いが、少なくとも彼女が歪んでいるのに違いは無い。

 

 

「ま、それならそれでいいや……知らない人に着いていっちゃダメだからね?」

「……黒澤くんは?」

「………………うーん」

 

 

 そうだよね。俺、出会って一週間だもんね、当然知らない人判定にもなるよね。

 どう反応したら良いものかと頭を悩ませていると、信濃さんは読んでいた本に栞を挟み、こちらに身体ごと向き直る。

 

 

「ごめん。黒澤くんは別。黒澤くんは優しいから」

「あーいや、謝らないで……俺も言い方が悪かったよ」

 

 

 二人でぺこり、頭を下げ合う。これでこの件に関してはおしまい。

 しかし、と俺は背筋を伸ばす。色々と疑問点が解決されていないことに違いはないんだ。

 

 

「じゃあさ、赤嶺さんがどんな人なのかは教えて貰ってもいいかな?」

「……赤嶺さんは、一人だった」

 

 

 ちらり、と時計に目を向けた信濃さんは、そのまま目線をこちらに戻してきた。

 

 

「私と同じように、一人。でも、私の一人と、赤嶺さんの一人は、違う」

「……つまり?」

「赤嶺さんは、私とは違って、根本的に他人に興味が無い。一人でもいい、じゃなくて、一人がいい、って思ってる」

「……孤独を好んでる、ってこと?」

「そう」

 

 

 なるほど、と腕を組む。正直、赤嶺さんに対する印象は補填されていない。信濃さんからの印象と俺の印象に差異はほぼない。

 俺が納得したのは、信濃さんの孤独に対する捉え方についてだ。

 信濃さんは一人になりたくて孤独を選んでいる訳では無い──これが知れただけでも、上々だ。

 

 しかし、赤嶺さんについては何も理解が進んでいない。

 

 

「それじゃあ……なんで赤嶺さんは、俺に話しかけて来たんだ?」

「さあ。一目惚れでもしたんじゃない?」

「だったら、俺はなんて罪作りな男なんだっ……俺にはギターっていう心に決めた恋人が居るのに……!」

「……そう言えば、黒澤くんってギタリストだったね」

「おっと? 忘れられてた?」

 

 

 確かに前に彼女の前でギターの話をしたのは放課後デート以来だが……そんなに忘れられる程印象なかっただろうか。割と熱く語ったつもりなんだが。

 首を傾げた俺を見て、信濃さんはそっぽを向いた。

 

 

「私の中のギタリストは、黒澤くんみたいに美味しいハンバーグ作らないし、女の子に対して誠実に接しない」

「世界中の美味しいハンバーグ作るギタリストと女の子に対して誠実なギタリストに謝った方がいいよ……多分、居るはずだから」

 

 

 照れ隠しにツッコミを入れる。べた褒めされるのにはどうも慣れない。

 信濃さんの言葉はどれもこれも良くも悪くもストレートだ。曲げることも比喩することもオブラートに包むこともない。

 いいとこではあるが、いい事ばかりでは無い。いつかやんわりオブラートの練習をしてもらおうかな。

 

 

「まぁそれは置いといて……流石に一目惚れとかじゃなさそうだけどなぁ」

「どうだろ。黒澤くんカッコイイし」

「……ど、どうも」

 

 

 オブラートの練習をしてもらおう。絶対。これに付き合ってたら身が持たない。

 今度は俺が顔を逸らす。顔が熱いぜ、こんちくしょう。嬉しいけどさ。

 

 ごほん、とわざとらしく咳払いをひとつ。ここはカウンターと行こうではないか。やられっぱなしは性にあわない。

 

 

「そんなこと言ったら、信濃さんだって可愛いじゃん。一目惚れする人絶対居るよ?」

「ありがとう」

「…………」

「…………」

「……え、それだけ?」

「それだけ」

「そうか……そうかぁ…………!」

 

 

 撃沈。完敗。

 

 全く意に返さない信濃さんに天を仰ぐ。そうだよ、信濃さんは俺の小っ恥ずかしいありとあらゆる発言に対して無表情で返してきているんだ。今更可愛いって言われた程度で、その表情筋が動くとは思えない。

 

 

「……どうしたの」

「なんでもない……あ、先生来た」

 

 

 諦めの境地に達したところで、担任の先生がやって来た。あと二分でHRだ。

 予習のために机の上に広げていた教科書類を片付け、黒板に向き直ると、そこには後ろ向きでこちらを見てくる男子生徒。

 

 

「……木谷くん。もしかしてずっとこっち見てた?」

「うん。見てた」

「せめて話しかけてきてよ……」

「だってすっげぇ仲良さそうに話すからさぁ……入るに入れなかったんだよ……!」

「……なんかごめん」

 

 

 約一名が悲しい気持ちに包まれた状態で、無情にも予鈴が鳴り響く。

 

 今日も一日が始まった。

 



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18.三人目

 昼休み。早速信濃さんと共にいつもの教室へ向かおうとお弁当をカバンから出しているところで、元気よく振り返ってきた木谷くんが口を開いた。

 

 

「なぁ黒澤くんや! 一緒に春高バレーのオレンジコートを目指さないか?」

「それ、クラス中の男子に行って回ってるよね……残念だけど、俺部活に入るつもりはないんだよ」

 

 

 がっくりと肩を落とす木谷くん。申し訳ないが、俺は高校でも帰宅部でいるつもりだ。

 そう言えば、信濃さんは部活とか考えているのだろうか。少なくとも、運動部はありえないだろう。

 

 

「信濃さんは? 部活なんか入るの?」

「入るわけない。運動部なんて論外」

「ぐふっ」

 

 

 信濃さんの言葉で、木谷くんが不必要な精神的ダメージを負っていた。信濃さんが身体弱いって話聞いてたはずなのに。

 完全にノックアウトされた木谷くんには目もくれず、お弁当箱を持ってそそくさと出ていってしまった。何気に、それなりに珍しい俺以外の人間と信濃さんが会話を交わすシーンだ……三秒で終わったが。

 

 

「……まぁ、その、どんまい。明日はきっといい事あるよ」

「憐れむなぁ……惨めになるだろぉ……!」

 

 

 木谷くんに一言告げ、信濃さんの背中を追う。

 追いつき、並ぶ。今日は左側。こっちの方が、彼女の死角を補い易い。

 

 信濃さんの綺麗な目が見えないのは少し残念だが、安全には変えられない。信濃さんには廊下の窓側を歩いてもらうのが、最近の通例だった。

 

 

「信濃さんってさ、ずっと帰宅部だったの?」

「そう」

「んとなると……委員会とかは? 図書委員とか」

「私は本が好きなんじゃなくて、本を読むのが好き」

「あー……なるほど」

 

 

 図書委員になってしまったら、本には触れるのに読まない時間が増えてもどかしい……こんな所だろうか。

 推察に過ぎないが、そこまで的外れでもないだろう結論を持って歩を進める……その中で通り過ぎたりすれ違う生徒たちの目線が俺の隣へと集まる。

 

 やはり、信濃さんへの目線は凄い。そろそろ慣れて欲しい、と思わなくも無いが、これはもう暫く続くのだろう。自分も若干諦めの境地に入りかけている。

 

 

「お、黒澤……と、信濃か。本当に仲良いんだなお前ら。どこ行くんだ?」

 

 

 さて、高校内での俺の交友関係で、俺を苗字で呼び捨てにする女の子は一人しかいない。

 案の定、女子トイレから出てきて俺に声をかけてきたのは、今朝話したばかりの赤嶺さんだった。

 

 周囲からの注目度がさらに上昇する。恐らく学年内でもトップクラスに目を惹く二人。それが一堂に会したのだから、当然と言えば当然。

 

 

「あー…………教室じゃ人目が気になるからさ、空き教室でお昼を食べてくるんだ」

 

 

 そんな場に巻き込まれた哀れな仔羊ことこの俺黒澤奏は、正直に答えても大丈夫かどうか信濃さんにアイコンタクトで確認を取る。こくりと頷いたのを確認した俺は、手に持った弁当箱を眼前に掲げて見せる。今日は俺が作った弁当だ。そこそこ自信作だ。

 ほーん、と俺と信濃さんとを交互に見比べる赤嶺さんは、やがてにやりと笑って見せた。

 

 

「なぁ、アタシも一緒に行っていいか?」

 

 

 さて、どうしたものか。

 

 俺個人としては全然問題ない。余程相手をするのがしんどい人からサシで食べようと頼まれでもしない限りは、ある程度場を持たせることはできる。

 

 つまるところ、俺の隣に立つ信濃さんに全権が委ねられている。しかし、朝は俺が赤嶺さんとの密談場所に使おうとしたら物凄い顔をしていた訳だし、望みは薄そうだ。

 

 

「──構わない」

 

 

 そう高を括っていたから、信濃さんの返答には本当に驚かされた。

 赤嶺さんはそんな信濃さんの返答に一瞬だけ眉を上げて見せたが、はっ、と笑い捨てた。

 

 

「わーった。先に行ってろ」

 

 

 そのまますたすたと自分の教室へと入っていった彼女の背中を見送り、俺は信濃さんの顔を覗き込む。赤嶺さんが入っていった教室の扉へと目線が向けられていた。

 

 

「……いいの?」

「大丈夫。私が居るから」

「……えっと、自分が居ない時にあの教室を使われるのが嫌なの?」

「そう」

 

 

 基準が分かんない。流石にこれは理解出来そうにない。

 確かにあの教室は長いこと使われている様子もない。おそらく俺たちが久しぶりの使用者なのだろう。最初に入った時は少し埃っぽかった。

 

 だけど、なぜそんなに拘るのかが分からない。

 

 

「……分かった。嫌なら仕方ないよね」

 

 

 しかし、飲み込んでみせる。

 

 感情の部分はどうしようもない。俺がおかしいと理解できないと言ったところで、信濃さんが嫌なことに変わりは無い。

 他人の嫌がることをしない。小学生の時に散々教えられたことだ。

 

 

「さてと、それじゃあ行きますか」

「ん」

 

 

 そんな些細なことより、この後訪れる信濃さんと赤嶺さんとの昼食……それの方がどうにも気がかりで、気が落ち込みそうになると同時に、胸が踊る。

 信濃さんと赤嶺さんがどんな会話を交わすのかに、純粋に興味が湧く。タイプが完全に違う二人のマッチアップ。果たしてどんな化学反応を起こしてくれるのだろうか。

 

 ──なんて現実逃避をしながら、信濃さんがお弁当箱と共に持ち出していた本に目を向ける。

 活字ばかり読んでいた彼女にしては珍しく、長期連載されている少年漫画の最新刊が握られていた。

 

 

「……赤嶺さん何処で食べてるか分からないよね」

「……ちょっと探してくるね」

 

 

 ──なお、空き教室に辿り着いたタイミングで赤嶺さんに集合場所を伝えていない事に気付き、来た道を戻ることになった。

 

 

 



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19.恩人と玩具

なんか新社会人になってからの方が小説書いてる気がする。


 

 

「しっかし、意外とおっちょこちょいなんだな。迎えに来たのは中々ポイント高ぇが、連絡先交換してんだから連絡くれれば良かったのに」

 

 

 迎えに行った赤嶺さんが、完全に頭の中から抜け落ちていたスマホの存在を思い出させてくれた。

 IT社会に生きる若者として有るまじき姿を晒し意気消沈した俺とひとしきり笑ってご機嫌な赤嶺さんは、二人揃っていつもの空き教室へと入る。

 

 

「来たよー……お、机用意してくれたんだ。ありがとう」

「構わない」

「悪いねぇ。しかし……こんな使われてなさそうな教室見つけるとは、運がいいな」

 

 

 ホントだよ、と肩をすくめる。赤嶺さんには入口から見て奥の席、その前に向かい合わせで置いてある机にそれぞれ俺と信濃さんが座る。

 この場合の上座下座ってどうなるんだろうか、とぼんやり考えながら弁当箱を机の上にセット。赤嶺さんも机の上にコンビニの焼きそばパンとサラダを置いていた。

 

 

「しかし……あの信濃がダチと、しかも野郎と一緒にメシねぇ……最初聞いた時はなんかの間違いかと思ったぜ?」

「黒澤くんがいい人なのが悪い。そういう赤嶺さんこそ、他人に興味を持つなんて珍しい」

「そこの男が面白いのが悪い」

「え、俺ぇ?」

 

 

 全ての責任を押し付けられ狼狽する。こっちは自分のポリシーに則って毎日を必死に生きてるだけだと言うのに、何が悪いというのだ。

 別に不快になった訳ではないので、わざとらしく首を傾げながら二人の顔をキョロキョロと交互に見てみる。信濃さんは全く反応してくれないが、赤嶺さんがくっくっと笑ってくれたので良しとしよう。

 

 

「ま、黒澤はほっといてさっさと食おうぜ? 時間は限られてんだからさ」

「そうね。食べるよ、黒澤くん」

「あ、はい……頂きます……」

 

 

 俺の頂きますにならい、二人も小さく頂きますと復唱。そのまま自分の昼食に手をつけ始める。今日のメインは、時間が無かったので手抜きの冷凍唐揚げだ。これが中々美味いんだ。食品メーカー各社に感謝。

 

 ──さて、なんの話題を振ろうか。

 

 もぐもぐとサラダから食べる赤嶺さんとひょいっとタコさんウィンナーを食べる信濃さん。この二人の共通の話題から入るのが丸い訳だが……俺の知る共通の話題は、二人が同中である事くらいか。

 

 

「二人って同中なんだよね? 北中ってどんなんなの?」

「ん? あー……そういやこの辺の人間じゃねぇんだっけか」

「そうなんよ。岡山のクソ田舎から来た田舎者じゃけん、この辺のことなんも知らんのよ」

 

 

 おぉ、と感心した様子の赤嶺さん。ちなみにこれ以上キツい方言になると、最早若者には判別不可能だ。

 それじゃあ説明しないとな、と赤嶺さんはごくんと口の中のサラダを飲み込む。

 

 

「北中は……まぁそんなに特色があるってわけでも無いな。あ、バドは滅茶苦茶強い。全国区の強豪だな……そんくらい」

「ふぅん? 学力はどんなもんなん?」

「中の上。その中でも学力高い人だけ、ここに来てる。この学校偏差値高いし」

 

 

 それは痛感した。ここの入学試験滅茶苦茶難しかった。流石私立の進学校である。

 

 

「でも、信濃はその中でも特に頭良かったよな。統一模試百位以内とかだったろ?」

「え! 凄い……」

「凄くない。まだ上に八十人くらい居る」

 

 

 謙遜……では無いのだろう。数十万人に勝っているという自信より、八十人に負けてるという劣等感を抱く。

 向上心があっていいと、人は褒めるのだろう。確かに成長しようとする気概は、褒められて然るべきだ。

 

 

「信濃さんは凄いよ。それだけ頑張ったんだよね」

 

 

 だから俺は、結果ではなく努力を褒める。結果ばかり見られる世界、俺くらいは頑張ってるところを褒めたって許されるだろう。

 

 

「ありがとう」

 

 

 感謝の言葉の後に、お茶を啜る。少し大きなカップを両手で持つと、まるで小動物が餌を食べてるみたいでなんとも愛らしい。

 

 

「……へぇ?」

 

 

 そんな俺たちの様子を、面白いものを見るかのような目で見てきていた赤嶺さんが、頬杖をついて信濃さんに笑いかけていた。

 その視線に気付いた信濃さんが目を向ける。二人の視線が交わる。

 

 

「……信濃。コイツの言葉は随分素直に受け取るんだな。アイツらとは大違いだな」

「当たり前。黒澤くんは信用できる」

「なんだ? こいつがツラ良くて人当たりが良いからか?」

 

 

 踏み込む。容赦無く、遠慮無く。

 そこに思いやりや気遣いなんてものは感じられない。ただ自分が知りたいからという、素直な感情が見え隠れしていた。

 

 ──ある意味、羨ましい。

 

 信濃さんは、そんな赤嶺さんから一切目を逸らさなかった。

 

 

「黒澤くんは、隠した。私の眼を周りから」

 

 

 信濃さんが発した言葉は、たったそれだけ。

 だが、赤嶺さんは全て合点がいったと言わんばかりに目を閉じ天を仰いでいた。

 

 

「……黒澤。素直に答えろ……信濃の左眼、知りたくないのか?」

「知りたいさ。でも、信濃さんはそれを望んでいない。なら聞く気は微塵もない」

 

 

 当たり前だろう? と同意を求めるように語りかける。

 赤嶺さんは──それはそれは、高らかに笑った。

 

 

「ははははははっ! いやぁ……かっこいいねぇ……やっぱりお前、最高だよ」

 

 

 ──俺の赤嶺さんに対する印象は、どこか大人びた、達観したような目をする女の子だった。

 だけど、今。彼女の目は爛々と輝いていた──まるで、親に買って貰ったゲームが面白かった子供みたいな、純粋な瞳だった。

 

 昼休みは、まだ半分も終わってない。

 

 

 



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20.迷惑

 

 

「いったいどういうことなの!?」

 

 

 教室に響く女の子の、悲鳴にも似た甲高い叫び声が耳を襲う。

 目の前で俺に向かって形相で迫るのは、先週俺と信濃さんの関係を迫った時に最後、声を上げようとした人だった。彼女以外にも、所謂北中出身者──全員女子──が、俺の机の周りを取り囲んでいた。

 

 

「えっと……赤嶺さんのこと……だよね」

「それ以外にあると思う!? 朝だけじゃなく、昼まで一緒って!」

 

 

 参ったな、と内心では思いつつ表情は崩さない。ここで反応してしまうと、一気に崩れてしまいそうだ。普段より一層気を張りつめているな、と他人事のように自己を省みていた。

 きっかけは、昼休みの最後──三人で並んで空き教室を出て、三人で並んで教室に帰っている所だった。

 

 行きはバラバラだったから誰にも目撃されていなかったが、帰りは一堂に会してしまっていたのが不味かった。二人の相手に気を取られて周りが疎かになっていた──というのは、言い訳に過ぎないだろう。

 

 案の定、北中出身の人達がそれを目撃した。してしまった。

 

 自分の教室に戻って行った赤嶺さん、図書室へと向かった信濃さん──残された俺に、注目の的が集まってしまうのは当然だろう。

 案の定、自分の席に戻ってみると彼女たちが俺の席の前に仁王立ちしていた。それを見て表情を変えなかったのは、流石に褒めていただきたい。

 

 

「信濃さんだけじゃなく、赤嶺さんまで!? あんた、一体何したのよ!」

「そんな事言われてもなぁ……赤嶺さんの方から話しかけてきたんだよ」

 

 

 今回も俺は、事実のみを言うのみ。自分で言いたくはないが、かなり温厚な性格の俺が機嫌を損ねているくらい、この状況に疲弊している。

 どうやら、北中の人たちにとって赤嶺さんと話すことは信濃さんと友人になるくらい大きな出来事らしい。俺にとっては何が大事足りえるのか全く理解できないが。

 

 しかし、それで納得するようなら、彼女たちはわざわざ隣の教室まで人目を気にせず乗り込んだりしない。

 案の定、俺の机に手をついて身を乗り出してくる。制汗剤の匂いが、少しキツい。

 

 

「いい加減にして!! なんで出会って一週間のあなたが、信濃さんや赤嶺さんと話せるの!! 私たちは三年かけてもできなかったのに!!」

 

 

 ──知らないよ!! 君たちの問題だろ!!!

 

 叫んでしまいたかった。非難してしまいたかった。指摘してしまいたかった。

 だけど、何を言っても聞き入れてくれそうにない絶望感を感じてしまっていた俺は、何も喋れなかった。

 

 

 

「──そういうトコだろ」

 

 

 いよいよ手が付けられなくなってきたその時、俺に救いの手を差し伸べてくれたのは、丁度教室に帰ってきた木谷くんだった。

 普段は朗らかな笑顔を浮かべている彼が、今は眉を潜め、彼女たちをその長身から見下ろしている。かなりの威圧感だ。

 

 たじろぐ彼女たちを他所に、木谷くんはフンと鼻を鳴らす。

 

 

「高校生にもなって他人の迷惑も考えられねぇ人間だ。どうせ信濃さんや赤嶺さんにも迷惑がられてるんだろ。黒澤くんだって可哀そうだよ、ただ皆に優しくしてるだけで厄介なのに絡まれて……」

「なっ……あんたは関係ないでしょ!」

「あ? てめぇらが占拠してるその席、誰ンだと思ってんだ? あぁ?」

 

 

 最早苛立ちを隠そうともしない木谷くんは、女子生徒の前に立ち腰に手を当てメンチを切る。

 凡そ一般人が醸し出すとは思えないほどの威圧感を出す木谷くんに、完全に委縮してしまい何も喋れなくなった女子生徒。

 そんな彼女たちを一頻り睨みつけた木谷くんは、わざとらしく大きなため息を吐く。

 

 

「さっさとどけ。俺たちの時間を浪費させるな」

 

 

 最後にひと睨み。何も言葉を喋れなくなった彼女たちは、逃げるように教室を後にして行った。

 彼女たちが廊下に出た途端、教室からは拍手が上がった。主に、木谷くんと同じ中学の人達だろうか。それ以外の人たちも、皆晴れやかな表情をしていた。

 

 

「よく言った、木谷!」

「この前からめんどくさかったんだよアイツら!」

「黒澤も気にすんなよ! ちゃんと見てっからな!」

「なんかあったら言ってよね!」

 

 

 木谷くんを賞賛する声と、俺を擁護する声が半々くらい。

 その声に軽く手を挙げて反応した木谷くんは、自分の席に横向きでドカッと座った。

 

 

「……ごめんね、木谷くん。迷惑かけて」

「いやいや、別に黒澤には怒ってねぇって。なーんにも悪くないんだし。それより、他に聞きたい言葉があるかなー俺は」

 

 

 先程までの怖い顔から一変、にかっと快活な笑顔を浮かべて見せてくれる。

 その笑顔に安心した俺は、ようやく安堵のため息をついた。朝から張りつめていた緊張感が、ようやく解れた。

 

 

「そうだね……ありがとう。木谷くん」

「いいってことよ。ま、マジでなんかあったら言えよ? 事情は詳しく知らねぇけど、話くらいならいつでも聞くぜ?」

「それは心強い。頼りにさせてもらうよ」

 

 

 幾分か気が紛れるのを感じながら、深く椅子に腰かける。

 

 昼休みは、もうすぐ終わる。

 

 



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21.変わってきた日常

シン仮面ライダー観てきました。めっちゃ良かった。


 

 

 昼食の場に赤嶺さんが加わってから、早くも一週間が経過した。

 最初はあの一日だけかと思っていたのだが、ずっとお昼になると空き教室に足を運び続け、俺たちと共に昼食を食べていた。

 

 最初こそ戸惑っていたが、信濃さんがすんなり受け入れていたので俺も何も言わずに過ごしていた。

 

 

「信濃。お前んクラス英語先進んでたよな。小テストどんなだったよ」

「問題集の15ページが中心。それ以上は言わない」

「十分だ」

 

 

 意外だったのは、信濃さんと赤嶺さんが想像以上に話しているという事だろうか。

 信濃さんは言わずもがな、信濃さんに興味はないと口を零していた赤嶺さんだ。会話が弾むとは思えなかったが、雑談から授業の内容まで、本当に色々と話している。

 

 大体が赤嶺さんから会話を始めていて、信濃さんからは全く話しかけていないのはご愛嬌だ。

 

 

「……んだよ。アタシが信濃に話しかけちゃ悪いってのか?」

「そんな事言わないよ。ただ、ちゃんと話しかけるんだなぁって」

「そりゃあ、信濃は真面目だからな。疑問にはきちんと答えてくれるからそれなりに信用してるんだぜ?」

 

 

 などと赤嶺さんは口にしていた。しかし、彼女はやはり知らないのだろう。信濃さんが俺と赤嶺さん以外から話しかけられた時の塩対応を。

 先程の会話だったら、自分で見れば? ……この一言で終了だ。信濃さんの優しさは、限られた人にのみだ。

 

 自分がそんな特別枠に入っているとは露知らず、呑気に問題集を眺め始める。お気に入りなのか、今日のお昼も焼きそばパンだった。

 

 

「そういやよ」

 

 

 教科書に目を向けたまま、赤嶺さんがなんてことない様子で話し始めた。

 

 

「黒澤ってさ、アタシら以外にダチいるのか? なんかずっとここ居るけど」

「あー……うん、大丈夫。ちゃんと居るよ。ほら、この前うちのクラスに来た時赤嶺さんを案内してた背の高い……」

「あのデカブツか」

「木谷くんね?」

 

 

 何度か名前を言っているはずなのに、一向に他人の名前を覚えようとしない赤嶺さん。本当に興味無いらしく、担任の名前すら覚えていなかったのは流石に衝撃的だった。

 申し訳ないが、どうやって日常生活を送ってきたのか知りたい。それなりに支障が出ると思うのだが。

 

 

「まぁ、それなら何よりだ。アタシや信濃に付き合ってばっかだからアタシら以外のダチが居ないか心配だったんだよ」

「そりゃあどうも。だけど、そうだね……うちのクラス、今雰囲気最悪なんだよね……」

 

 

 結論から言うと、今クラス内は俺を擁護する側と北中側で完全に二分されていた。もっと言えば、北中かそうでないかで、である。

『北中で何があったか知らないし信濃は確かに無口だが、それはそれとして北中の連中は面倒臭い』……これが共通認識として広まってしまったのだ。そのせいで、北中の人達の扱いが雑になりつつある。

 

 正直、ここまでの大事になるとは思わなかった。まさかここまでになるほど彼らが信濃さんと赤嶺さんにお熱だとは。

 

 どうしたものか、と気が重くなる。そうなってしまった原因の一人としては、かなり息苦しい。

 

 

「どうでもいいじゃねぇか。お前を嫌うのは北中のつまんねー奴らばかりなんだしよ」

「容赦無いね……」

「だってそうだろ? お前を嫌う理由は嫉妬位しかねぇよ」

 

 

 そもそも嫌われたく無いんだけどなぁ……と窓の外に目を向ける。生憎の雨模様。今頃外には色とりどりの傘が咲き誇っているのだろうか。

 ぱたん、と本の閉じる音が響く。当然、発生源には黙々と読書を続けていた信濃さん。

 本を置き、じっとこちらを見据える彼女。

 

 

「私は黒澤くんが好き」

 

 

 ──後に。本当に後に。

 

 この事を目撃者である赤嶺さんは「あの時の奏の顔を写真に残さなかったのがアタシの人生での一番の汚点だった」と、本当に、本当に悔しそうに話していた。

 

 当人である俺は、あまりの衝撃に世界中の音という音が全て遮断され、世界中で信濃さん以外を認識できなくなっていた。

 

 

「……? 黒澤くん?」

「え、あっ、その、えっと、うん、あの、ね? ん? あ? え?」

「くっくっくっ……たはははははっ……信濃、それだとただの告白だぜ?」

 

 

 赤嶺さんからの指摘を受け、信濃さんは顎に手を当て目線を泳がせる。やがて、あぁ、と小さく声を出す。

 

 

「それは違う。ただ、私は黒澤くんの味方だよって伝えたかっただけ」

「あぁ、そう……そうだよね……そうに決まってるよね……」

 

 

 齢十五。遂に俺にも春が来たかと勘違いしてしまうところだった。

 冷静に考えれば、こんな状況で突然愛の告白など有り得るはずもないのだが、経験不足の男子高校生にそんな脳みそあるはずもなかった。

 

 

「だけど、確かに黒澤くんのことは好ましく思ってる」

「……ん?」

「話していて心地良いし、何より楽しい」

「んん!?」

「こんな人が隣にいてくれたら、どれだけ幸せか」

「へうっ!?」

「今後ともずっと友人として仲良くして貰えるなら、嬉しい」

「あぁ……友人として、ね……それは勿論だよ、信濃さん」

 

 

 再び、上げて落とされる。最早わざとやってるのではないかと言うくらい、丁寧に丁寧に持ち上げて、ぱっと落とされた。

 お昼休みの空き教室には、赤嶺さんの笑い声が響き渡っていた。

 

 

 



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22.ゴールデンウィークは目前に

 

「ごおおおおおおおおおおるでんっ、ういいいいいいいいいいいいいいいいいっくっっっっっっっっ!!!」

「木谷くん、声が大きい……」

 

 

 入学から一ヶ月。

 

 山あり谷あり笑いあり涙ありの高校生活をスタートさせた俺たち新入生。格段に難しくなった勉強に何とかついて行く生活だ。

 そんな俺たちが待ちわびたゴールデンウィークが遂にやって来た。今年は完璧。九日間の大型連休だ。

 それに伴い課題もしっかりと提出されている。連休明け二週間で中間テストだ。勉強はしっかりしておこう。

 

 学校全体が休み前のテンションに当てられていた。事実、目の前の木谷くんは放課後になるや否や感情を爆発させていた。

 

 

「だってよ! 連休だぜ連休! うちは三泊四日で合宿だぜ合宿! もう楽しみで仕方ねぇよ!」

「いいじゃん合宿。バレー漬け生活、楽しんでね」

「おうっ! 黒澤くんはどうするんだ?」

「なーんにも決まってない」

 

 

 中学時代なら、それこそ友人たちと共にセッション漬けの生活だったのだろう。しかし、今はフリーの身。

 ギターの練習はずっと続けているが、身が入らないのも事実だった。しかし、予定も何も決まっていない。

 

 

「はぇー……後半だったら俺空いてるから、連絡くれればすっ飛んでくぜ!」

「それはありがたい。頼らせてもらうよ」

 

 

 とは言ったものの、予定を入れる予定はあるのだ。

 まず、最近遊んでやれてなかったしーとつーをたっぷり可愛がる。これは最重要課題だ。

 そして、隣の眼帯っ子だ。

 

 

「さて、と……それじゃあ信濃さん、帰ろっか?」

「ん」

「相変わらず仲良いなぁ……今日は赤嶺さんは?」

「なんか用事があるから二人で帰ってくれってさ」

 

 

 赤嶺さんの行動基準は未だに掴めていない。朝何故か俺の席に鎮座していて顔だけ見て帰って行ったり、三人で帰っていたのにいつの間にか消えていたり。

 気まぐれ、なのだろうおそらく。そういうことにしておかないと、説明ができないのだ。

 

 そんな赤嶺さんが、珍しく昼休みにきちんと伝えてきたのだ。多少面食らったが、追求する前にさっさと立ち去ってしまったので本意は聞けていない。

 

 

「じゃ、また遅くとも休み明けに」

「おーう。信濃さんもじゃーねー」

「……………………………………ん。また」

 

 

 最近、信濃さん自身に起こった変化。

 

 それは、木谷くんに対してリアクションを取るようになった事だ。

 言葉数は最底辺にも満たないほどだが、彼女がきちんと反応を示す数少ない人間に木谷くんは追加された。

 

 大きな変化だ。あわよくば、このまま最低限のコミュニケーションが取れるようになってくれることを祈ろう。木谷くんなら、信濃さんを傷付けることもないだろう。

 

 

「信濃さん。今日はどこか行くとこは?」

「無い」

「おっけ」

 

 

 信濃さんとの短い確認を済ませ、歩みを進める。さて、どこで切り出そうかと頭を捻る。

 毎週末、信濃さんとのデートを重ねる中でどうしても気がかりだったことが一つ。それを解決するためにも、ゴールデンウィークに彼女を誘って出かけたい訳だ。

 

 悩んでても仕方ないので、周りから人が居なくなったタイミング……校門から出て暫くした所で話しかけよう。

 

 

「黒澤くん。明日は用事ある?」

「へっ? な、無いけど……」

「じゃあ明日。黒澤くんの行きたい所に行こう」

 

 

 と思っていたのに、信濃さんがあっさりとそんな提案をしてきた。

 こちらを見上げる信濃さん。身長差があるから、首が痛そうだ。

 

 

「……いいの?」

「むしろ行きたい。私の行きたい所ばかり行ってるから」

 

 

 痛い所をつかれた。

 

 この三週間ほど、毎週彼女と出かけてこそいるものの、それは全て図書館だったり本屋だったりと、信濃さんが行きやすいところを中心に足を運んでいた。

 

 

「……じゃあ、そうだな……アウトレットがあったよね。あそこで信濃さんの私服を買おうか」

 

 

 だから、ずっと行きたかった場所を提示する。

 

 毎回デートの度に彼女は制服でやって来ていた。悪いとは言わないが、流石に持ってないのは不味いだろう。

 俺の発言に、珍しく表情を崩す信濃さん。眉をひそめて首を傾げる──疑問、だろうか。

 

 

「なんで? 制服でいい」

「俺が見たい」

「……本買う方が良い」

「俺が買う。誕生日プレゼントだとでも思っててよ……何日か知らないけど」

「申し訳なさすぎる。貰ってばかり」

「言ったでしょう? 幸せにするって……その一環だと思って、協力してほしいな」

 

 

 ダメかな? と屈みこんで笑いかける。ダメだと言われたら仕方ない、別のプランを考えよう。

 しばしそのまま見つめ合っていたが……やがて、信濃さんが静かに目を閉じた。

 

 

「分かった。明日、いつもの時間にロビーで」

「……! ありがとう、信濃さん!」

「構わない」

 

 

 それだけ言った信濃さんは、前を向き直る。

 無茶を押し通したのだ。明日はしっかりとコーディネートしなくちゃな、と気合いを入れ直す。しーのファッション誌を貸してもらおうと、頭の中の予定表にしかと書き込んだ。

 

 

 



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23.田舎者にはキツイ電車乗り換え

 

 

 

 

「さて信濃さん。お恥ずかしい話なのだが、岡山の田舎に難易度の高い乗り換えなんてものも存在しない。なんなら、電車じゃなくて気車が走ってるとこもある」

「きしゃ? 蒸気?」

「あぁ……気動車って言って、ディーゼルエンジンなんだよ」

「へぇ……知らなかった」

 

 

 翌日。俺と信濃さんは約束通り朝十時にロビーに集合していた。いつも通り制服を見に包んだ信濃さんに、身の丈話がてら雑談スタート。話題が尽きることはない、話せと言われたら何日でも話続けられるのが俺の特技だ。

 ちなみに、気動車が走っているのもマジだし、路線図は簡単。下手すりゃ一両編成だ。大阪から越してきた恭介は、「なんでバスが線路を走ってるの?」と口にしていた。田舎舐めとんのか。

 

 岡山舐めんな。岡山市は意外と都会なんだぞ。東京様や神奈川様、大阪様の足元にも及びませんが。

 

 

「つまり、何が言いたいの?」

「アウトレットに行こうと言い出したのはわたくしめですが、辿り着ける気がしません。案内してくださいお願いします都会怖いです」

「分かった」

 

 

 家で路線図を眺めていた時、あまりにも複雑に入り組みすぎて訳が分からなかった。私鉄やらなんやら乗り換えが訳わかんない。そもそも電車の席がまっすぐ前向いてないのがおかしい。席数少なすぎるよ。

 

 出張経験が何度かあって都会にも出たことがある親父はともかく、俺やしーやつーは何にも理解できなかった。

 

 

「ごめん……いつか必ず理解してみせるから……」

「私も理解できてないから、多分無理」

「まじか……生粋の都会っ子でも無理なのか……」

「あ、話してなかった。私、ここの生まれじゃないよ」

 

 

 突然明かされる衝撃の事実。

 

 あまりにも慣れた様子で歩いていくもんだから、生まれも育ちもここだと勘違いしていた。

 

 

「元々山梨に居た。中学で伯父さんと一緒に暮らすようになってから、こっちに来た」

「へえぇ……山梨。富士山?」

「そう、富士山」

「でかかった?」

「でかかった」

 

 

 でかかったのかー、そうかー、一度見てみないなー。

 

 ……ますます信濃さんの昔話が気になる。割と、真面目に、気になる。

 北中でのいざこざはおそらく彼女の本質では無い。北中に入学した時にはすでに、彼女はこうなっていたのだろう。

 

 つまり、彼女の原点は……山梨時代。小学生の時。

 まだ両親と暮らしていたであろう時。

 

 

「んじゃあ、案内よろしくね、信濃さん」

「任された」

 

 

 いつか、彼女の口から聞きたい。聞かせて欲しい。

 

 でも今はいい。

 

 

「じゃあ、よろしく」

「ん」

 

 

 いつか。

 

 

 

 

 

 

────────駅────────

 

 

 

 

 

 

 

 おかしいだろ人の量。世界にこんなに人間が居るなんておかしいよ。俺の世界に人間はこんなに居ない。

 

 

「黒澤くん。顔怖い」

「…………はっ!」

 

 

 意識が遠くに行っていた。危ない危ない。

 田舎者からすると、まず徒歩十五分なんて移動をしない。基本的に自転車か車だ。電車なんて余程の距離の移動でない限り使わない。

 つまり、徒歩十五分歩いて駅まで来て、そこから数キロ先のアウトレットに行くなんて、普通なら車で一気に行くか自転車でダチとともに喋りながら出かける距離。

 

 

「都会怖い……なんでみんなそんなすいすい歩けるの……みんな歩くの速いし……」

「慣れ。私も最初そうだった」

 

 

 つまり、もう俺は若干疲れてきている。都会の人、みんな健脚が過ぎる。

 信濃さんは相変わらず涼しい顔で、スマホをポチポチと触っていた。

 

 

「じゃ、行こうか」

「え? 切符買わないの?」

「え? 切符買うの?」

「え?」

「え?」

 

 

 言い忘れてた。電車通学通勤なんて基本しないから、交通系ICカードなんてもの持ってるわけない。

 かなり間。周りを通る人達が、迷惑そうに俺たちを避けていく。

 

 

「……券売機でICカード買えるから、買って。一々切符買われたら、迷惑」

「はい……買い方教えて下さい……」

「本当はスマホにアプリ入れて欲しいけど……時間が勿体ない」

「了解です……発行代は?」

「五百円」

「はい……」

 

 

 いつも切符を買っている券売機。そこで初めてICカードを発券した。ついでに、千円分チャージ。

 その時の様子は割愛させてもらおう。お恥ずかしながら、機械は少し苦手だ。

 

 そして、遂に手に入れたICカード。

 

 

「うわぁ……都会の人っぽい!」

「その感想が田舎の人っぽい」

「ぐふっ」

 

 

 今日の一撃はかなり鋭い。視線もいつもよりじとっとしている。

 前々から感じていたが、信濃さんは負の感情に関してはかなり素直に出る気がする。木谷くんに初めて話しかけられた時しかり、涙を流していた時しかり。

 

 また笑顔を見たいものだ。それが今日だと、嬉しいな。

 

 

「と、ともかく……これで電車に乗れるぜ!」

「そうね。じゃあ行こう」

「お、乗り気だねぇ」

「当然。黒澤くんとのデートだし」

「おうふ」

 

 

 ましてや、照れ顔なんていつになったら見れるのだろうか。そもそも照れることがあるのだろうか。

 勝手にダメージを食らっていた俺に首を傾げる信濃さんからは、とてもじゃないがそんな姿はイメージできそうにない。

 

 

 

 



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24.向き不向き

「……え、これでにーきゅっぱ!!? やっす!!」

「アウトレットなんてそういうもの」

「はえー……俺てっきりただのショッピングモールの類かと」

「ならショッピングモールって呼ぶ」

「……そうだね!」

 

 

 ようやくたどり着いたアウトレットにて、俺は数々の商品に目を向けていた。

 値段、安い。質、良い。デザイン、良い……のも、ある。

 楽しい。見てるだけで超楽しい。

 

 

「うーん……これは買いすぎちゃいそうな……じゃない、信濃さんの服を買いに来たんだ……」

 

 

 スマホを取り出し、昨日必死に勉強してまとめたメモを取り出す。

 いくつか考えてきたコーディネートに近い服を見繕って、実際に組み合わせて調整してみよう。

 

 

「んじゃあ、実際に試着してもらおうかな。まずは、そうだな……ん?」

 

 

 目当ての服を見つけたので、着てもらおうとしたところで、近くに信濃さんが居ないことに気付く。

 周りを見渡すと、すぐに見つけた。何やら、とある服をじっと見つめていた。

 茶色を基調としたワンピース。全体的にシックなデザインだ。下に着るシャツとリボンタイもセットになっていた。

 

 そのワンピースを、じっと見つめていたが……やがて、ひとつため息をつき、こちらに向き直る。

 

 

「……信濃さん。そのワンピースが気になるの?」

「……大丈夫。私には似合わない」

「そんなわけない。絶対似合う」

「いや……サイズ」

 

 

 言われてから、ハッとした。

 

 彼女の背はかなり低い。普通のサイズでは大きすぎてしまう。

 完全に失念していた。下手したら、ここにサイズがない可能性すらある。

 

 

「気にしないで。いつもの事」

「……ごめん」

「大丈夫」

「でも……諦めたくは、無いなぁ」

 

 

 どうしようもないと言えばそれまでだろう。背なんて、どうしようも無いものの典型だろう。それで夢を諦めたやつだって居る。

 でも、それで気になった服を着れないなんて、悲しすぎる。

 

 

「……さてと、店員さん! ちょっと良いですか?」

「はい! 何でしょうか?」

「このワンピースなんですけど……彼女の背にあったサイズのものって有りますかね?」

「そうですね……確認してきますので差し支え無ければ、身長を教えて貰ってもよろしいですか?」

「へ、え、っと……143センチ、です……」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 

 

 近くにいた店員さんに話しかけ、確認してもらう。

 しかし、信濃さんって143センチなんだ。本当に小さいんだな。

 

 

「さてと、無かったとしたら……最悪他の店だな……」

「……よく店員さんと話せる」

「ん? 何が?」

「私には、そんな風に初対面の人に話しかけるなんて出来ない」

「あぁ……別に気にしなくていいんじゃない? このご時世、最悪店に行かなくても買い物できるし」

 

 

 便利な世の中になったもので、家に居ながら買い物ができる。こんな便利な世の中を作ってくれた天才と、それを支える人々に感謝。

 それはそれとして、店先に出向いての買い物はやはりいい物だ。何か困ったことがあった時に店員さんに相談しやすい。今回だってそうだ。

 

 各々自分に合った買い物スタイルで行けばいい。

 

 

「お待たせいたしました! 丁度こちら、お子様とのペアルック用でご用意していたものがございました! 試着なさいますか?」

「本当ですか! ありがとうございます! ほら、信濃さんっ」

 

 

 やがて、店員さんが店の奥から戻ってきた。手には先程まで信濃さんの目を奪っていたワンピースの、一回り小さいサイズ。

 受け取った信濃さんが、それをまじまじと見つめる。少しだけ、本当に少しだけ、目が迷っているように見えた。

 

 

「大丈夫。見るのは俺と、店員のお姉さんだけだよ」

「……黒澤くん、だけがいい。それなら、着てみたい」

 

 

 人見知りだと、笑わない。信濃さんにとって、おそらくそれが何より重大で、行動原理になっているから。

 店員さんに目配せをする。にこりと営業スマイル──とは思えないくらい優しい笑みを浮かべてくれた彼女は、何かありましたらお声がけ下さいと一言残して、持ち場に戻って行った。

 

 

「んじゃ、試着室に行ってみよっか」

「……ん」

 

 

 信濃さんから鞄を受け取り(これまた学校指定の通学鞄だった)、試着室の中に入っていく信濃さんを見送る。カーテンが閉められ、彼女の姿が消える。

 

 そのすぐ近くの壁に背を預ける。ワイヤレスイヤホンを付けようかと一瞬考えて、やめる。もし信濃さんが話しかけてきて、気付かないなんてことにはなりたくない。

 

 

「……黒澤くん、ありがとう」

「お、どしたどした?」

 

 

 危惧していた通り、カーテンの向こうから信濃さんの声が聞こえてきた。

 彼女が最近よく口にする言葉。それがありがとうだ。彼女はよく、俺にその言葉を伝えてくる。

 

 感謝されるのは悪い気分では無い。

 

 

「私一人だったら、これを着れなかった──黒澤くんが、居たから」

「どういたしまして。着終わったら言ってね。あ、なんか困ったことがあっても!」

「……ん」

 

 

 カーテンの向こうから聞こえてくる声は、いつもより少しだけ小さくて、いつもと同じように起伏は無い。

 でも、嬉しいんだろうなということだけは、何故かひしひしと伝わってきた。

 

 

 

 



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25.お人形さん

 

 

 大前提だが、信濃さんはマジでほんとにすっごい可愛い。

 小動物のように小柄な体躯、もふもふな癖のある茶色の髪、病弱にも見える白い肌に少し切れ長の瞳。

 眼帯という特殊なアイテムが無くてもきっと他の人の目を独り占めしていたであろう信濃さん。自分を着飾るということにとことん無頓着だったからこそ、そこまで目立っていなかったと言うだけだ。

 

 俺の個人的な意見にはなってしまうが、俺がこれまで出会ってきた中で一番可愛いと思ったのは、間違いなく信濃さんだ。

 

 そんな彼女が、彼女に非常によく似合うワンピースを身に纏ったら、どうなる?

 

 

「終わった」

「お、どれど……れ…………」

 

 

 試着室の中でワンピースのスカートを軽く摘む信濃さんを見た時、俺は全ての語彙を失ってしまった。

 心臓が飛び跳ね、目線が信濃さんから話せなくなってしまった。お世辞でも褒め言葉がすらすら出てくる口が、何も語らない。

 

 結論から言ってしまうと、ぼっけぇ破壊力。

 まるで絵本の中から出てきてしまったのではないかと思ってしまうくらい。不思議の国のアリスから出てきたアリスのよう。

 身体の小ささも相まって、まるで大きなお人形さんのよう。

 

 これを見ているのが、俺だけで良かったような、こんなに可愛い信濃さんをもっと皆に見てもらいたいような。

 

 

「…………く、黒澤くん?」

「へ、あ、ごめん…………その、すっごい、可愛いよ。うん、すごい、似合ってる」

 

 

 思わずしどろもどろになってしまう。普段はすらすら語れるこの口が、シンプルな賛辞しか出てこない。

 それくらい、信濃さんが可愛い。表に出したら、百人中九十五人は振り返るほどだ。

 

 髪のセットもスキンケアもしてなくてこれだ。本気でメイクアップしたらと考えると恐ろしい。本人にその気があるかどうかはさておきだが。

 

 

「……黒澤くん、顔真っ赤」

「あー……やっぱり? うん、ちょっと、すごい」

 

 

 自分でも薄々感づいていたが、やはり顔が熱い。

 どんなにグラマラスなおねーさんに話しかけられても何ともなかったのに、何故かこの着飾った信濃さんを見ていると心臓が締め付けられる。

 

 ──これ、本当にまずいかもしれない。

 

 

「……勘違いするな。黒澤奏」

 

 

 小さく、誰にも聞こえないよう口の中で呟く。

 信濃さんが俺に求めているのはその関係じゃない。あくまで理解者。あくまで友達。そこを履き違えちゃいけない。俺は、いい人になりたいんだ。いい人で居たいんだ。

 

 小さく、小さく呼吸を整える。目を閉じ、思考を整える。

 

 ──よし、もう大丈夫。

 

 目を開け、信濃さんに笑いかける。

 

 

「信濃さん、サイズがあって良かったね。どうする? 買っちゃう?」

「買う。このまま着てく」

「りょーかい。それじゃあ、店員さん呼んでくるね。大丈夫かな?」

「……頑張る」

 

 

 信濃さんの了承を得てから、店員さんに声を掛ける。

 試着室の中に佇む信濃さんを見た店員さんまでもが彼女に見惚れてしまうというちょっとしたハプニングこそあったものの、値札を切って貰って会計に進む。

 

 値札の値段は、想像よりちょっぴり高い程度。このくらいなら全然出せる。

 

 

「……私が出す。出させて。」

「信濃さん……気持ちだけ貰っとく……じゃ、納得しなさそうだね……半分ずつ、でどうかな?」

「お願い。後で出す」

 

 

 いいもの見れたし、感謝の意味も込めて財布を引っ込めてもらおうと思ったけど、いつにも増して真剣な表情で腕を掴まれては折れざるを得ない。

 とりあえず全額出して後で貰うという形で納得してもらった。

 

 店員さんににこやかに送り出された俺たちは、そのままその店を後にする。

 

 

「……少し、歩きにくい」

「ロングスカートみたいなものだからね。危ないからゆっくり行こうか」

「ありがとう……財布しまわないで。お金」

「はは、忘れてくれなかったか」

「忘れない」

 

 

 このまま言われなければ黙ってお昼と思ってたけど、流石しっかり者の信濃さん。

 半額のお金を受け取った俺は、今度こそ財布をカバンにしまう。一円単位まできっちりと渡されてしまった。

 

 

「ありがとう、黒澤くん。今度から週末のデートはこれを着てくる」

「そんなに気に入ったの? なら良かったよ」

「気に入ったのは、そっち」

 

 

 ぴっ、とまっすぐ指を刺される。刺された胸の中心が、小さく跳ねた。

 

 

「黒澤くんが好きそうだから。制服よりこっちの方を着る」

 

 

 勘違いするな。と再び強く決意を抱く。これは、信濃さんが優しいからだ。

 

 

「それはありがたい。毎週末が楽しみだよ……さてと、移動やらなんやらで結構時間使っちゃったね。どうする? 少し早いけどお昼にする?」

「……そうする。パスタがいい」

「りょーかいっ! 来る途中に美味しそうなお店、あったよね。あそこにしよっか」

「構わない」

 

 

 そんな胸の中を、話を逸らすことで無理やり押し付ける。

 若干不自然だったと思ったが、信濃さんはそんな俺に何も言わなかった。

 

 大丈夫。今日はもう大丈夫。

 

 ここからお昼を食べるために店を移動するまで、頭の中をその言葉で埋めつくしていた。

 



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26.次の約束

 

「……疲れた」

「あはは、そりゃああんなに動き回ったらね……しんどくない?」

「大丈夫。そっちは?」

「もーまんたい」

 

 

 日が長くなってきて、夕方と言われる時間になっても暗くならなくなってきている。

 少し影が伸びたくらいの時間。俺たち二人は住処の街に帰ってきていた。

 服も買った。お昼も食べて、俺が行きたいところに言って欲しいと言われたので、少し悩んだ後で新しい文具を探すために雑貨屋をハシゴした。

 俺の隣には、学生鞄を持ったワンピース姿の信濃さん。これまで制服姿の彼女と外出していたせいかあまり意識はしてこなかったが、いざ私服を身に纏った彼女と共に遊ぶと、正真正銘「デート」なのだと強く意識させられた。

 

 

「……そういえば、こういう服の洗濯ってどうすれば良いんだろう」

 

 

 首を傾げながら、自分のワンピースをまじまじと見つめる信濃さん。

 確かに、ファッションに疎かったらその辺の知識はなくても仕方ないよな、と俺は家での家事を思い出す。

 

 

「あーそれ? 洗濯表示確認して洗濯機行けるようならネットに入れて洗濯かなぁ。あと、困ったらおしゃれ着用洗剤を使ったらいいよ。分かんなかったら……人類の叡智に頼ればいい」

 

 

 ひらひらと、手に持ったスマホを見せる。正しく使えば俺たちの生活を豊かにしてくれるこの文明の利器。頼らない選択肢はない。俺が使いこなせているのかと聞かれたら、頷くことはできそうにないが。

 信濃さんはふむと頷いたかと思うと、自らのスマホのメモアプリに何やら文字を打ち込んでいた。おそらく、俺の言葉を忘れないようにするためだろう。マメな子だ。

 

 

「……本当にその服、気に入ってくれたんだね」

「気に入った。大切にしたい」

 

 

 ここまで喜んでくれるのなら、もう少し早く誘っても良かったかな、なんて少しだけ後悔。

 だけど、どこかうきうきな様子で隣を歩く信濃さんを見たら、杞憂だと割り切れる。

 

 

「それは良かった。じゃあ、次遊びに行く時はそれ着て来てくれるのかな?」

「勿論。むしろ、ゴールデンウィーク中にもう一度デートに行きたい」

「お、乗り気じゃない。俺もまだ予定埋まってないし……そうだな……3日後とかどう?」

「問題ない。ちょっと遠くの図書館に行きたい」

「良いね。お昼は……俺のお弁当で、どう? 安上がりだし」

 

 

 お弁当。

 

 その単語に分かりやすく反応した信濃さんは、分かりやすく表情が明るくなった。

 毎回毎回、本当に楽しみにしてくれてるし、食べる時も本当に美味しそうに食べてくれている。作り手としてはこんなに嬉しいことはない。

 

 今日はよく知らない場所に行くということもあり出先で済ませる話にしたが、若干落ち込んでいたくらいだ。

 

 

「……ハンバーグ、食べたい」

「ははっ、本当に好きだね、ハンバーグ」

「黒澤くんのハンバーグが好き。世界で一番美味しい」

「……そこまで言われると、さすがに照れるなぁ」

 

 

 最近、信濃さんが好意だったり謝意だったりの伝え方があまりにも真っ直ぐ過ぎて狼狽えてしまう。

 毎回毎回、勘違いしてしまいそうになる。男子高校生なんて、女の子からちょっと優しくされるだけで簡単に勘違いしてしまうチョロい生命体なのだ。

 

 そうはなりたくないものだ。

 

 

「ま、それじゃあ今回も頑張って作るよ。ハンバーグ以外は?」

「……そう言えば、この前入れてくれてたきゅうりとキャベツの浅漬け。本当に美味しかった。手間じゃなければ、また食べたい」

「おっけい。浅漬けね」

 

 

 ありがとう、食品メーカーの浅漬けの素。信濃さんの胃袋をがっちり掴みましたよ。

 確かに美味しい。あれメインで食べたくなるくらい美味しい。それはそれとして、若干悔しいのは何故だろうか。

 

 

「さて、と……それじゃあ、今日は楽しかったよ。また3日後、だね」

「……こっちも。楽しかった。服、本当にありがとう……くしゅんっ」

 

 

 マンションの入り口の別れ際。最後に一言二言会話を交わそうとしたら、信濃さんが可愛いくしゃみを一つ。

 少し薄い生地のワンピース。身体が冷えてしまったのだろうか。

 

 俺は信濃さんをそこに待たせ、近くにある自販機からホットのココアを買い、その手に握らせる。

 

 

「はいこれ。身体冷やしちゃったかな。帰ったらしっかり暖まってね」

「……毎回思うけど、黒澤くんの優しさはちょっとすごい」

「だって……その方が嬉しいでしょ?」

「それは……そうだけど」

 

 

 しばし俺と自分の手の中のココアを見比べていた信濃さんは、やがて俺がココアを買った自販機に向かう。

 スマホをかざして何かを買ったかと思うと、それを俺に向かって差し出してくる。

 

 入学式の次の日に買ってくれたものと同じ、ホットのお茶だった。

 

 

「……お返し。受け取ってくれたら、私も嬉しい」

「それじゃあ、喜んで貰おうかな。ありがとう、信濃さん」

「……ん。じゃあ、また今度」

「うん。また今度」

 

 

 小さく手を振った信濃さんが、一人先に階段を登っていく。

 その背中を見送った俺は、早速そのお茶の蓋を開け、息を吹きかけて冷ましながら一口。

 

 

「……熱いなぁ、やっぱり」

 

 

 四月末。日が沈んできたとはいえ、熱いお茶は少し季節外れだった。

 

 



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27.約束なんかより

お気に入り1000件ありがとうございます。


 

「……お、今日は俺が先か」

 

 

 3日後。約束の時間の三十分前。マンションのエントランスホール。

 

 いつもならとっくに来ている信濃さんだが、今日は珍しく俺の方が先に来た。

 思わず呟いてしまうくらいには珍しい。俺が信濃さんより先に到着したことは、片手で数えられるくらいしかない。その時も、五分と待たずに信濃さんがやってきて、負けたと言わんばかりにムッとしていた。

 

 今回もそのパターンかな、と壁に背を預ける。どうせすぐ来るだろうと、ワイヤレスイヤホンは装備しない。

 

 

「信濃さん、今日はあのワンピース着てくるのかぁ……」

 

 

 脳裏に思い浮かぶのは、3日前の試着室。

 あまりの破壊力に一目惚れならぬ二十目惚れしてしまいそうになったあの事件。この3日間、思い出す度に悶えていたが、何とか克服した……筈である。

 

 今日はスマートにエスコートするんだと息巻いて開けた玄関。お弁当を忘れていたことに一歩目で気付き、Uターンしたのはご愛嬌ということで許されないだろうか。

 

 

「……大丈夫。俺、いい人になりたいから」

 

 

 人生の中で、一番自分に言い聞かせてきた言葉を再び言い聞かせる。

 今日はもう大丈夫。これで戦える。

 

 

「……にしたって、遅いな信濃さん……」

 

 

 待ちぼうけ初めて十五分。約束の時間まで、残り十五分。

 流石にここまで遅いのは初めてだ。本来ならこの時間に来ても十二分に早いのだろうが、信濃さんにしては遅すぎる。

 

 連絡を入れた方が良いだろうか──そう考え始めていた時、エレベーターの扉が開いた。

 

 

「お、はっ、よう……おそくっ、なった」

「そんな、全然待って無いよ。おはよう、しなの、さん……信濃さん?」

 

 

 俺の目の前に現れた信濃さんの様子は、一目見て普通では無いと分かるほどだった。

 綺麗なワンピースとは裏腹に、それを身に包む彼女はあまりにもくたびれていた……いや、くたびれたなんて言葉では言い表せないほど、弱りきっていた。

 

 病的にまで白かった肌は赤く火照り、じっとりと脂汗を浮かべていた。顔は苦痛に歪められており、その足取りはふらふらと危なっかしい。

 

 

「……信濃さん。大丈夫……じゃないよね」

「大丈夫……けほっ、けほっ……たまに、こうなる……いつもの、こと……」

「そんなにしんどそうなのに、大丈夫なわけ無いよ」

 

 

 彼女のそばに駆け寄り、身体を支える。何とか一人で立とうとする信濃さんだったが、やがて俺に身体を預けてくる。

 触れ合った身体の熱さ。明らかに発熱している。

 

 

「信濃さん。その身体で出かけるのは流石に見逃せない。今日は家でゆっくりした方がいい」

「やだっ……!」

 

 

 掠れた声で、苦しみながら、それでも信濃さんは俺の胸元の服を掴む。

 どこか大人びた彼女が、初めて子供のように声を上げた。俺を見上げる瞳は、どこか怯えているようにも見えた。

 

 

「約束したっ……この服を着て、デートにいくって……!」

 

 

 まるで、今日このまま家に帰ったら、俺がどこかに逃げていってしまうと言わんばかりに。

 

 そんな彼女を見て……先程まで心の中に残っていた下心が、全て消えていった。

 

 

「ごめん、信濃さん……本当に嫌だったら、殴ってくれ」

「へっ……わっ」

 

 

 信濃さんの膝を抱えあげ、背中に腕を回して抱き上げる。

 所謂お姫様抱っこ。一昨日中学生のしーにもやって見せたが、それよりもずっとずっと、軽かった。

 

 

「ごめん、信濃さん。約束なんかより、君のことが心配なんだよ」

 

 

 抱き上げた俺は、そのままエレベーターへと歩く。先程信濃さんが乗ってきたエレベーターが、そのままそこに残っていたのでそれに乗る。

 

 最初こそ身体を強ばらせていた信濃さんだったが、本当に無茶をしていたのだろう。やがてぐったりとこちらに身体を預けてきた。

 

 

「確か……五階の507号室だったね。家の人は?」

「……伯父さんは……居る。けど……すぐ出かけるって……」

「そっか……」

 

 

 息苦しそうに答える信濃さんを、揺らさないようにしながらエレベーターのボタンを押す。

 待つことしばらく。ようやくエレベーターが五階に到達した。

 

 開く扉。その先に一人の中年男性が立っていた。

 

 

「おっと失礼……咲!? どうしたんだ!?」

 

 

 横抱きにされた信濃さんを見て、彼は驚愕の表情を浮かべていた。

 優しそうな人だ。白髪が混じりつつある頭髪は綺麗に整えられており、ジャケットにスラックスのオフィスカジュアルがカッコよく決まるイケてるおじ様。

 

 なるほど。この人が信濃さんが言う伯父さんか。

 

 

「信濃さん……咲さんの伯父さんですよね。友人の黒澤奏と申します。いつもお世話になってます」

「あ、あぁ……そうか、君が黒澤くんか……咲から話は聞いてるよ。私は信濃 賢治。彼女の保護者だ」

「賢治さんですね。実は、今日咲さんと出掛ける約束をしていたのですが、体調がかなり悪そうでして……家まで送り届けようと」

 

 

 幸い、同じマンションに住んでいるのでと締めくくると、彼は抱えられたままの信濃さんの顔を覗き込む。

 それに気付いた信濃さんが、ゆっくりと辛そうに目を開く。

 

 

「……今日朝ごはん要らないって言ってたのは、体調悪いの隠すため、か……そう言えば、朝からずっと部屋に篭ってたな」

「……ごめん、伯父さん……約束、破りたく……なかったの……」

「怒ってないさ。そうか……そんなに君と遊びたかったのか……」

 

 

 その言葉通り、賢治さんの表情は穏やかなものだった。まるで、我が子の成長を目の当たりにした親のよう。

 

 よくしーやつーを似たような表情で見つめる親父やお袋の姿を見かける。恐らく、俺にも同じ表情をしているのだろう。

 

 ──あぁ彼はちゃんと『親』なんだ。

 

 その事実が、何故か嬉しかった。

 

 

「……奏くん。これから私は少し出掛けなければならない。と言っても、二、三時間……昼には帰ってくるつもりだ」

「? はぁ……」

「それまで、咲の看病を頼めないだろうか?」

「…………へ?」

 

 

 そんな信濃さんの『親』の提案に、俺はただ目を丸くするしか無かった。

 

 両手にのしかかる信濃さんの重さが、増したような気がした。

 

 

 



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28.それだけで

この作品には、明確なテーマソングがあります。


 

 通された部屋の中は、俺たち一家が住んでいる間取りとそう変わらなかった。

 家族五人で住んで丁度いいくらいの部屋。二人で暮らす信濃さんたちは持て余さないかと勝手に不安を募らせる。

 

 出かける予定だったとのことで、部屋の中の電気は全て消されていた。信濃さんを壁や扉や家具にぶつけないよう、慎重に運んでいく。

 

 

「信濃さん。部屋どこかな?」

「……そこの、扉」

「これだね……お邪魔しても、大丈夫?」

「……かまわ、ない」

 

 

 しんどそうな信濃さんに喋らせてしまうのは心苦しいが、少しだけ頑張ってもらって部屋の場所を聞き出す。

 教えて貰った扉。信濃さんに許しを得て、扉を開ける。

 

 ──図書室かと、思った。

 

 

「うわぁ……すっごい……これ全部、信濃さんの本?」

「そう……収まりきらないから、もう一部屋丸々……ある」

 

 

 壁中に設置された本棚。その全てに様々な種類の本が種類ごとに並べられていて、起き切れていない本が一部床に積んである。

 何より特異なのが、その他の家具がベッドとシンプルな机、椅子しかない。クローゼットすらないので、本当に私服は持っていないのだろう……今身につけている、ワンピース以外。

 

 俺はひとまず信濃さんをベッドに下ろし寝かせる。彼女のお腹が、苦しそうに上下していた。

 

 

「さて、と……シワになっちゃうから、着替えた方が良いかな。寝巻きは……これ?」

「そ、れ……今日の夜、着るの……」

「ん。じゃあ外に居るから、着替えが終わったら呼んでよ。あ、脱いだワンピースは俺が掛けとくから、置いといて」

「…………わか、った」

 

 

 そう言い残して、俺は部屋の外へと出る。

 

 賢治さんから許可は貰っているので、必要なものを揃えにいく。とりあえず、体温計と……飲み物があれば良いだろうか?

 体温計は個別で場所を聞いていたので、リビングのペン立ての中に刺さってあるのを回収。その足でキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける。

 ストックしてあると言っていたスポーツドリンクを取り出し、棚にしまってあった彼女のものだという赤みがかったガラス製のコップを取り出す。

 

 とくとくと注ぎ、一旦ダイニングテーブルの上に。

 

 

「信濃さん? 着替え終わったかな?」

「……おわってる」

「分かった。入るね……お、可愛いパジャマだね」

 

 

 パジャマ姿の信濃さん。私服は持っていないと言っていた割にそのパジャマはフリルをあしらった白色ワンピースタイプの可愛らしいデザイン。

 先程まで着ていたワンピースは、しんどいにも関わらずハンガーに吊るされ、壁のハングバーに掛けられていた。

 

 椅子借りるね、と一言口にし、椅子をベッドの傍にまで持ってきて座る。サイドテーブルが無いので、コップは一旦机の上だ。

 

 

「さて、と……たーいーおーんーけーいー!」

「……どこで見つけたの」

「あぁ、賢治さんが場所教えてくれてさ。とりあえず測ろっか……ま、三八度三分位はあるかな」

 

 

 ほら、と彼女の脇に挟ませる。暫くして、静かな部屋の中に電子音が響く。

 

 

「……八度五分」

「うーん、想像より高いなぁ……とりあえず、スポドリ飲んで。はい、これ」

「ありがとう」

 

 

 緩慢な動きで起き上がった彼女は、俺から受け取ったコップからちびちびとスポドリを飲んでいく。よほど喉が乾いていたのか、全部飲み干しそうな勢いだが……半分ほどのところで、止める。

 

 

「残りは少しずつね。まだ冷たいし、急に飲んだらお腹壊しちゃうよ?」

「……そうする」

 

 

 彼女から受け取ったコップを、机の上に戻す。

 振り返ると、信濃さんは座った状態のまま、ガックリと項垂れていた。

 

 

「……本当に、ごめん、なさい」

 

 

 やがて、信濃さんが本当に小さな声で謝罪の言葉を紡ぎ始める。

 風邪のせいで潤んでいたと思っていた瞳から、ぽろぽろと涙が零れていた。

 

 信濃さんの涙を見るのは、二回目だ。初めて出会った日の、あの時以来。

 

 

「やくそくっ……まもれっ、なかったっ……せっかく、くろさわくんがっ……! おべんとうまで、つくってくれてるのに…………!」

 

 

 伸ばされた手が、俺の服の裾を掴む。

 縋るようなその目が、まるで幼い子供のようだった。

 

 いつもの冷静な様子は何処にもない。溢れる気持ちを必死に俺に伝えようとしていた。

 

 

「いつも……わがままばっかりのわたしなのに……めいわくかけてばっかりのわたしなのにつ……めんどうなせいかくのわたしなのにいっ……ほんとうに、ごめんっ…………」

 

 

 ──きらわ、ないで。

 

 

 その一言を口にした途端、信濃さんはしゃくり上げるように泣き始めてしまった。

 顔を上げることも出来ず、堪えようとしているのだろうが、涙が止まる気配はない。

 

 体調を崩したことが……いや、俺との約束を守れなかったことが、本当に許されないことだと思い込んでいるようだ。

 

 だけど──信濃さんの手は、俺の服の端を握りしめたままだった。

 

 それだけで、十分だった。

 

 

「──信濃さん」

「────へ」

 

 

 伸ばされた手を引き寄せ、彼女の体を引き寄せ、そのまま彼女の背に手を回す。

 優しく抱き締める胸の中。信濃さんの嗚咽が、ピタリと止んだ。

 

 

 



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29.涙

 この部屋の中には、自発的に音を出すものが一切存在しない。

 オーディオ機器はもちろん、時計すら存在しない。聞こえてくるのは、俺と信濃さん、二人分の呼吸の音のみ。

 

 俺の呼吸は、ゆっくり、穏やか。信濃さんの呼吸は、未だにしゃくり上げるよう。まずは、これを落ち着かせることから始めよう。

 

 

「しーなーのーさんっ。まずはゆっくり、息を吸ってー……吐いてー」

 

 

 背中に回した手で、彼女の背中を優しくさする。しーやつーが風邪をひいた時のように、優しく、優しく、優しく。

 薄い体だ。強く抱き締めたら壊れてしまいそうな細さ。この体も、中の魂も、今相当参ってしまっている。

 

 ならもう、その手を取るしかない。俺は、そういう風にできてしまっているんだ。

 

 俺の行動に暫く固まってしまっていた信濃さんだが、やがて俺の言葉通りゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐く。

 

 

「そうそう、ゆっくり、ゆっくりね……そのまま、俺の話を聞いてくれるかな?」

「……うん」

 

 

 ただ抱き締められているだけだった信濃さんが、俺の胸元をきゅっと握ってくる。先程までと同じように、遠慮がちに。

 

 

「おっけい、ありがとうね。じゃあまずは、そうだな……信濃さん、君は自分のことを勘違いしちゃってる」

 

 

 ゆらゆら、左右に小さく揺れる。小さい時お袋に泣きついた時、こんな感じでゆらゆら揺れているのが心地よかった記憶を頼りに。

 信濃さんの呼吸が、安定してくる。まだ涙は出ているようだけど、少しだけ落ち着いてくれたみたいで一安心。

 

 

「君はね、すっごく優しい人なんだよ? 気遣いできるし、周りをよく見てるし……あ、それこそ二日目のお茶。あれ本当に嬉しかったんだよ? まだ朝は寒い時期だったし、あのお茶、本当に美味しかったよ」

「……そんなの、当然」

「君にとってはね。でも、俺はそれを優しさと受け取ったんだ。だから俺は何度でも言うよ。君は、優しい、いい人だよ」

 

 

 子供をあやす様に、彼女の中に俺の声を響かせるように一つ一つ言葉を伝える。

 今の俺の穏やかな心情を彼女に余すことなく伝えるように、ゆっくり、丁寧に、慎重に。

 

 

「それと、君は自分が俺に迷惑かけてるって言ってたけどね? 人って、生きてるだけで他人に迷惑を掛けちゃうんだ。俺だって、いっぱい沢山の人に迷惑をかけながら生きてきた」

 

 

 当たり前の話だ。授業、仕事、買い物、サービス、インフラ……全てに他人が絡み、他人が居ない世界は、きっとずっと厳しい。

 俺も、信濃さんも。しーもつーも親父もお袋も。赤嶺さんも木谷くんも矢掛くんも恭介も。みんなみんな、人に迷惑かけながら生きている。

 

 

「大切なのは、それをきちんと知っておくこと。だから君は、俺にいっぱい迷惑かけて良いんだよ」

「……でも、申し訳ない」

「大丈夫。君が喜んでくれたら、それで十分だよ」

 

 

 嘘偽り、一切無し。俺は、どうしても嘘をつくのが苦手だ。だから、どうしても言葉が直線になってしまう。

 それで苦労したことも勿論あるけど、こういう時は、この性質で良かったと心から思う。

 

 

「……なんでっ」

 

 

 信濃さんの声が、上擦る。

 

 先程まで落ち着いていた呼吸が乱れ始める。少しずつ声が震え始める。

 

 顔を上げる信濃さん。涙でボロボロの顔。普段の無表情からは想像もつかないくらい、感情が溢れ出た顔。

 

 

「なんでっ、くろさわくんわっ、そんなにっ……やさしいのぉ……! くろさわくんなら、もっと、いっぱい、たのしく、すごせるっ……のにぃ…………!」

 

 

 綺麗な瞳。それを埋め尽くす涙を、そっと指で拭き取る。

 

 なんで。

 

 その疑問の答えは、もうとっくに出ている。

 

 

「言っただろう? 君を幸せにするって」

 

 

 初めてのデートの日の言葉。

 

 あれ以来、あの言葉をいい意味でも悪い意味でも、忘れたことは一度もない。

 そのために俺は、ここに来たんだ……それくらいの気持ちで、俺は信濃さんと交流を深めている。

 

 恥ずかしかったし、何口走ってんだとも思ったが、それはそれとして、俺は信濃さんを幸せにしたい。

 

 その気持ちは、ずっと変えない。

 

 

「誰かと楽しいことをしたいんじゃない。君と……信濃咲と、楽しいことをしたい。信濃咲を楽しませたい……そのために俺は頑張るんだ」

 

 

 ──だから、こうやって君を抱き締めるんだ。

 

 少しだけ、ほんの少しだけ力を込めて彼女を抱き締める。

 言葉は尽くした。あとは……この胸の中の小さな女の子が、どう受け取るか。

 

 

「……あり、がとう…………っ!」

 

 

 絞り出したような、掠れた、必死な、夢中な、縋るような。

 

 これまで聞いたどんな彼女の言葉よりも、ずっとずっと気持ちが溢れてくる一言。

 

 それだけで、救われたような気がした。

 

 

「わたしをっ…………ひっぐ…………たすけてくれて…………ぐすっ…………ともだちになってくれてっ…………ありがとうっ」

「どういたしまして。こっちこそ、ありがとう。俺の手を取ってくれて」

「そんなのっ……当たり前……!」

 

 

 信濃さんの涙は、結局減らないまま。

 

 だけど、この涙は、きっと……いや、間違いなく悪いものじゃないから。

 

 俺はその涙を、止めようとはしなかった。

 

 

 



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30.変容

 

「ありがとう、奏くん。無茶を言ってしまったね」

「いえ……このくらいどうってことないですよ。あの状態の咲さんをほっとくのは心苦しいですし」

「そうか……咲は?」

「ぐっすり寝てます。相当しんどかったんでしょうね……少し話したら、寝ちゃいました」

 

 

 お昼前。俺は信濃家のリビングにあるテーブルについていた……目の前には、用事を済ませて帰ってきた賢治さん。

 余程急いだのか、帰ってきた時は汗だくだった。俺の言葉に安心した賢治さんは、酷く安心したように気を抜いていた。

 

 

「……そうか。良かった……知っているかもしれないが、咲はそんなに身体が強くなくてね……よく体調を崩してしまうんだ」

「そうだったんですか……」

 

 

 そんな素振りが体育に参加しないって事くらいしか見ていなかったが、賢治さんが気を揉むくらいには深刻な問題なのだろう。

 本当に、その現場に立ち会えて良かった。そういう意味では、彼女が体調を崩したのが今日だったのは不幸中の幸いだっただろう……信濃さんからすれば、それどころじゃなかったのだろうが。

 

 賢治さんから出されたお茶をぐいっと飲み干す。多分、ちょっといい値段のお茶パックを使った麦茶だ。香ばしさが違う。

 

 

「とりあえず、スポーツドリンク飲ませて食べたいって言ってたゼリーを食べさせました。薬はまだです……すいません、看病らしい看病出来なくて」

「いや、十分だよ……言い訳になってしまうが、仕事が忙しくて咲が体調を崩した時に中々傍に居てやれなくてね……君が居てくれて本当に良かった」

 

 

 改めて、ありがとう。

 

 そう言って深々と頭を下げる賢治さんは、どこからどう見ても父親の姿をしていた。

 慌てて頭を上げてもらう。俺は当たり前のことをやったに過ぎない。

 

 

「……その、一応聞かせて欲しいんだが……君は、咲のなんなんだ?」

「友人です。それ以上でもそれ以下でも無いですよ」

 

 

 嘘偽りの無い言葉だが、賢治さんは俺の事を値踏みするかのような目線を一瞬寄こしてきた。

 しかし、本当に一瞬だけ。直ぐに人の良さげな優しい瞳に早変わり。

 

 少し肝が冷えたが、何も間違ったことは言ってないので胸を張る。男は度胸だ。

 

 

「そうか……いやすまない。咲には友人と言える友人が居たことが無くてね……疑ってしまった」

「無理もないですよ。大切な娘さんですもんね」

「…………娘、か。咲がどう思ってるかは分からないけどな」

 

 

 どこか寂しそうに、微笑む賢治さん。

 

 その苦しそうな表情が、先程まで俺の目の前で大泣きしていた信濃さんに被る。

 やはり、血の繋がりを感じる。それが直接のものでなくても、確実に信濃さんには賢治さんと同じ血が流れている。

 

 

「俺から見たら、賢治さんはどう見ても娘想いの親ですよ」

「ありがとう、そう言って貰えると嬉しいよ」

「……それじゃあ、俺はこの辺でお暇しますね。お茶、ありがとうございました。咲さんのこと、お願いします。あ、これ……今日咲さん用に作ったお弁当です。悪くなっちゃうんで、お昼にどうぞ」

 

 

 反応から見て、相当彼の中で凝り固まっているのだろうと予測できたので一旦引く。

 信濃さんを幸せにするのなら、彼の心中も改善しなければならないだろう。だけどそれは、また別の機会だ。

 

 鞄の中から信濃さん用のお弁当箱を取り出し、机の上にことりと置く。立ち上がり、ぺこりと一礼。そのままリビングから出ようとする。

 

 

「──聞かないのかい? 私たちの……咲の、昔のことを」

「聞きません」

 

 

 最後に、賢治さんから声を掛けられたので、振り返って一言。

 

 

「それは、咲さんが語ってくれるまで、俺からは聞きません。咲さんが語らないなら、俺は一生知らないままでも大丈夫です」

 

 

 少しだけ変容した決意を残し、俺はリビングを後にする。

 

 靴を履き、お邪魔しましたと言い残して、信濃家を後にする。その足で階段を使い、自分たちの家へ。

 

 

「……ただいまー」

「あれ? かな兄お帰り! 早かったね! 信濃さんとのデートは?」

「信濃さん体調崩しちゃってさ。家まで送り届けてたんだ」

 

 

 とたぱたと、奥からしーがかけてきたのでふんわりと抱きとめる。こてんと首を傾げるので、頭を撫でながら答える。

 

 そっかー……早く元気になるといいね! とにっこりと笑ったしーを引き剥がす。

 

 

「さて、と……時間も出来たし、ちょっと勉強してくる。飯は……弁当処理するから、呼ばないでくれ」

「そう? 分かった! おかーさーん!」

 

 

 そのままキッチンへとかけていったしーを見送り、洗面台でしっかり手洗いうがい。ハンドソープたっぷり、うがい薬しっかり。

 新しいタオルで手を拭き、その足で自分の部屋へ。

 暗い部屋に入り、扉を閉め……ベッドにダイブ。

 

 枕に顔を埋め、思い切り息を吸う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「かっこつけすぎだおれのあほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっ!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悶えた。

 

 転がりまくった。

 

 ベッドボコスカ殴った。

 

 シャツを脱ぎ捨て上裸になった。

 

 もう一回ベッドに飛び込み、手足をバタバタさせた。

 

 

「なんなん!? なに急に抱き締めてるん!? 順序もへったくれもあったもんじゃないじゃん! いくらなんでも色々すっ飛ばしすぎじゃし、紳士的じゃないじゃろ!? 流石にあやし方子供向けすぎじゃん! 相手同い年だぞ!? しーやつーじゃ無いんだぞ!? 調子乗りすぎじゃあほー! こんなの漫画の中の主人公だけで十分なんじゃぼけぇ! 俺は黒澤奏! どこにでもいる普通の男子高校生なーんーよ! 身の丈にあった接し方せぇやマジで! 信濃さんは俺の彼女でも恋人でも伴侶でもないんじゃあほぉ!! 嫁入り前の娘さんに何してんじゃぼけぇ!!!」

「うるせぇ!!! やる事やって後悔してるんじゃないよこの天然たらしクソボケ兄貴!!!」

 

 

 俺の魂の叫びは、ブチ切れたつーの怒号が聞こえてくるまで続いたのだった。

 

 

 



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31.明けて

 ゴールデンウィークの残り数日。まるで抜け殻のようにただ課題をしてしーやつーの遊び相手をしていたら、あっという間に過ぎていった。

 遂にやってきた登校日。学校に行きたくないと布団にしがみつくしーを叩き起こし、寝ぼけてトイレと言いながら風呂に入ろうとするつーを引き留め、お袋のお弁当作りを手伝い、親父と共に洗い物をしているうちに、いつも家を出る時間が来てしまった。

 

 

「……相変わらず、文章が短いなぁ……だいぶましになってきたけどさ」

 

 

 立ち上げたスマホのメッセージアプリには、今朝来ていたメッセージ……「いつものところで待ってる」というシンプルなメッセージが表示されていた。これは、俺がこの3日間常に考え続けていた人──信濃さんからのものだった。

 

 あれ以来──信濃さんを看病したあの日以来、信濃さんとは一度も会っていない。それどころか、メッセージアプリでのやり取りもしていない。何か用事があるときでもそうじゃないときでも、普段から俺から会話を始めていたので、当然といえば当然だ。だって、俺から話しかけていないのだから。信濃さんから話しかけてくることは、あまりない。

 

 だけど、毎朝一緒に学校に行くのは日課になっていて。しかも珍しく信濃さんからメッセージが来ていて。その上で待ってるなんて言われてしまっては、覚悟を決めざるを得ないわけで。

 

 お袋が作ってくれたお弁当を鞄に入れて、行ってきますと家を出る。エレベーターではなく、階段で。

 一段一段下りながら、呼吸を整えていく。いつも通りができているのか、一段ごとに不安になりながら。

 

 そして、一階。エントランス。

 

 

「……おはよう」

 

 

 いつも通り、彼女はいた。眼帯を左眼につけ、表情一つ変えないまま壁に背を預けていた。両手にはカバーが掛けられた文庫本が握られていて、俺に気づいた彼女はその本を鞄にしまう。

 いつも通りの涼しげな表情に、ほっと胸を撫でおろす。元気になったみたいで本当に良かった。

 軽く手を挙げながら、彼女のそばへと歩み寄る。

 

 

「おはよう、信濃さん。体調、大丈夫?」

「大丈夫。もう元気……心配してくれて、ありがとう」

「そっか……よかったぁ」

 

 

 安心して笑顔を浮かべていると、信濃さんは本をしまったばかりの鞄の中から、何やら小さな手のひらサイズの紙袋を二つ、取り出した。

 そのうちの一つ……青色のリボンシールが貼られたそれを、俺に向かって差し出してきた。

 

 

「これ、伯父さんから。この前のお礼だって」

「そんな……わざわざ……って、これ……多くない?」

 

 

 ぎゅうぎゅうのぱんぱんに個包装のお菓子が詰め込まれた紙袋。詰め込まれすぎて、紙袋がかなりのメタボになっていた。

 甘いものは大好きだから困るものではないけど、その量には困惑せざるを得なかった。

 

 

「それで……これが、私から。この前のお礼」

 

 

 俺の困惑を他所に彼女が手渡してきたのは、ピンク色のリボンシールが貼られた紙袋。先程のものは違って、かなりのスレンダー体型だった。

 受け取ってみると、中には細長い箱が一つ、入っていた。信濃さんに目配せしてみると、頷いてくれたので遠慮なく中身を取り出す。

 

 

「これは……ボールペン?」

 

 

しっかりとした紙のパッケージに描かれていたのは、黒を基調としたシンプルなデザインのボールペン。赤青黒の三色が使えるらしい。

一目見ただけで、俺が普段使っている一本150円の三色ボールペンとは比べ物にならないほどいい品だってことが見て取れた。

 

 

「こういう時、何を渡せばいいか分からなかった。要らなかったら、他の人にでも渡して」

 

 

 表情が、少し変わった。昨日見た、不安そうに揺れる瞳。落ち着きなく胸元のリボンを触る右手。

 

 ──あれ、ここまで分かりやすかったっけ。

 

 そう思わずには居られないほど、今の信濃さんからは感情がこれでもかと読み取れる。

 違和感こそ覚えたが、今俺がすべきなのはそれの究明なんかじゃない。不安を……おそらく、俺が想像している以上の様々な不安を抱えてここまでやってきた、眼帯少女の対応だ。

 

 

「要らないわけないよ。ありがとう、信濃さん。大切に使わせてもらうよ」

「……! ありがとう」

 

 

 そう言って彼女は、確かに笑った。

 僅かな変化だった。一般人と比べたら、微笑と言われるようなもの。でも、見た人が確実に笑顔を浮かべたと認識するくらいには、はっきりとした笑顔。

 一瞬、呆気にとられた。その笑顔が、あまりにも自然で、可愛くて、綺麗だったから。

 

 

「……うん、やっぱりその顔がいいや」

 

 

 結局、笑顔が一番なんだ。

 怒りも苦しみも悲しみも、必要ないわけじゃない。その人の人生を豊かにする、大事な感情。なくなっちゃいけない、大切なモノ。

 それでもやっぱり、笑っている人が一番かっこいいし、一番可愛いし、一番美しいし、一番強い。

 

 だから俺も、口角を上げて見せる。これでもう、無敵なんだ。

 

 

「さてと! それじゃあ行きますか! もうすぐテスト週間だし、勉強頑張らないとね! 張り切っていこう!」

「当然」

 

 

 元気よく、エントランスを出ていつもの通学路を歩く。俺が車道側、信濃さんが、建物側。

 

 雲一つない澄み渡る青空が、俺たちの頭上にどこまでも続いていた。

 

 

 



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32.天才とは

 

 テスト。

 

 それはくたばるべきものである。

 

 

「へぇ、いい子ちゃんなお前でもそんなこと言うんだな」

「簡単に心を読まないでよ……そりゃあ、俺だって一般的な高校生だもん。テストなんて大嫌いで、この世から消えてしまえばいいって思ってるよ」

「ま、そうだな……お前は普通の高校生じゃないと思うけどな」

 

 

 昼休み。いつもの空き教室。お花を摘みにいった信濃さんを除いた二人……俺と赤嶺さんが、二週間後に待ち構えている中間テストについて話をしていた。

 進学校として有名なこの高校のテストだ。それなりのレベルの問題が出ると思っておいて間違いないだろう。

 

 今から気が重くなる。勉強はしておいた方が後々のためになるというのは親父やお袋を見ていたら分かるけど、それはそうとして面倒くさい。

 

 

「俺は普通の男子高校生ですよぅ。ちょっとギターが好きな男の子ですよぅ」

「普通の高校生は信濃と近付けねぇし、アタシに気に入られねぇよ」

「んな自分を特異点みたいな言い方……」

 

 

 あってるけど、とは口に出さない。

 

 信濃さんと赤嶺さんは、やはり特殊な人種と言わざるを得ない。こんな人たち、これまでの人生で見たことない……嘘ついた。恭介が居たわ。あいつもとんでもない特異点だったわ。

 

 

「まぁそれは置いといて……勉強なら、それこそ信濃に教えて貰えばいいじゃねぇか。アイツが勉強出来んの、知ってるだろ?」

「本当にやばかったら泣きつくよ……そういう赤嶺さんはどうなのさ」

「教科書一回見たから大丈夫」

 

 

 あっけらかんと言う赤嶺さん。そんな訳あるか、と俺は自習用に持ってきていた数学の教科書を引っ張り出す。

 パラパラとページをめくり、後半の方……まだまだ勉強していない三角関数のページを開く。

 

 

「それじゃあ……」

「その辺のページなら三角関数だな。何ページだ?」

「……102ページ」

「じゃあ、正弦定理についてだな。外接円を持つ三角形において、辺の長さ割るその反対にある角のsinの値が、外接円の直径と等しくなるって定理だ」

「……どんな記憶力してるの」

「一度見たら大体覚えれる。そんで二度と忘れない。便利な脳みそだよ」

 

 

 全学生が羨むような脳みそだ。俺からしても羨ましすぎて目が眩む。

 さらりと言ってのけるからなんてことない技術であるかのように聞こえかねないが、言ってる内容は本当にとんでもない。

 

 前々から感じていたが、やっぱり赤嶺さんは、ちょっと……いや、かなりスペック高い。勉強だけで言ったら、信濃さんと同等……下手したらそれ以上かもしれない。

 

 

「ま、なんにせよアタシは程々にしておくつもりだよ。変にいい成績取っちまうと目ぇ付けられちまうからな」

「そんな、頑張れば高得点取れるみたいな言い方……」

「ま、アタシに勉強教えてもらおうとか思うなよ? 丸暗記すればいい、の一言で終わりだ」

 

 

 丸暗記しても、それを活かす頭がなかったら意味が無いしな……そう言い切った赤嶺さんは大きな口を開けて焼きそばパンにかぶりつく。あまりにも豪快なので、見ていて少し気持ちいい。

 小さく、ばれないように溜め息。生憎俺の脳みそはそんな都合のいいように出来ていないので、地道に覚えて必死に活用方法を考えるしかない。

 

 あきらめて教科書読み込んで例題解きまくるか……そう結論を出したところで、がらがらと教室の扉が開き、信濃さんが入ってきた。

 

 

「ただいま」

「おう信濃。お前普段どんな勉強してんだ?」

「……教科書を読み込む。例題解く。参考書と照らし合わせて確認。練習問題解く。自分の中に落とし込む」

「そうだよね……基本はそうだよねぇ……!」

 

 

 俺がおかしいわけではなかった事実に一安心。

 何のことやら、といった感じで首を傾げていた信濃さんだったが……赤嶺さんの顔を見て納得したように溜め息。

 

 

「安心して黒澤くん。赤嶺さんの脳みそが凄いだけだから」

「お、珍しく褒めてくれるじゃないの」

「事実を言っただけ。だから、気にしないほうがいい。こんなの、例外中の例外」

「おい聞いたか黒澤! こいつアタシのことこんなの呼ばわりしたぞ!」

「いや、笑いながら言われても……」

 

 

 なぜか嬉しそうにケラケラ笑う赤嶺さん。なぜか言ってやったぜと言わんばかりに胸を張る信濃さん。

 最近……そう、本当に最近。ゴールデンウイーク明けから、この教室は意外と賑やかになってきている。

 理由は単純。信濃さんが雑談に乗ってくるようになってきたから。普段は俺と赤嶺さんが話して、話題が尽きたら終わり。信濃さんは基本的にずっと読書。たまに話しかけても、一言二言。

 それが今では、こんな感じで会話に乗ってくる。二人ならすぐ終わる会話も、三人となるとかなり盛り上がる。

 いい変化ではあるのだろう。多分。相手がある意味劇薬であると言わざるを得ない赤嶺さんであることを除けば。

 

 

「なかなかひどいこと言うじゃねぇか。なぁ、黒澤ぁ。アタシは劇薬なんて、言うようになったじゃないか」

「だからなんで心が読めるの……」

「だから言った。こんなの、例外中の例外」

 

 

 怒っちゃねぇよ! と高らかに笑う赤嶺さん。呆れる信濃さん、げんなりする俺。

 

 これが、最近のいつもの光景になっていた。疲れはするけど、ちゃんと楽しいから、まぁ、いっか。

 

 予鈴が鳴るまで、あと五分。

 

 



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33.学生の本分

「信濃さんっ! 勉強教えてください!」

 

 

 無理だった。

 テスト勉強を開始して3日。昔から苦手な英語が本格的にやばいと悟った俺は、朝の登校中に信濃さんに頭を下げていた。

 マジでほんと、英語だけは昔からダメ。しかし、大学受験とやらは理系だろうが文系だろうが英語は必須とのことらしく、勉強しないわけにはいかない。

 

 一人でうんうん唸っていたが、これはもう誰かに教えを乞わないと無理だとなり、一番接点がありかつ勉強ができると噂の信濃さんに助けを求めた。

 

 

「……意外。黒澤くん、何でもできると思ってた」

「俺はそんなスーパーヒーローじゃないよ……できないことだってたくさんあるよ」

 

 

 スーパーヒーローですら、できないことが沢山あるんだ。その辺にいる男子高校生である俺にできないことなんて、それこそ山のようにある。

 でも、できないをできないままで終わらせたくないという気持ちももちろん持っている。だからこそ英語の勉強を頑張ろうとしているのだ。

 

 それはそれとして、キノコだけは絶対に食べないが。

 

 

「……ろ……く……、わ……の、ひ…………」

「ん? なんか言った?」

「……英語……教えれるって言った」

「ほんとかい!?」

「……っ、いつもの、お礼……それくらい、構わない」

 

 

 思わず隣を歩く信濃さんに向かって身を乗り出してしまう。一瞬、その目が驚いたかのように見開かれたが……すぐに、いつも通り、元通り。

 

 

「で、どこで教えればいいの? お昼……だけじゃないよね」

「そうなんだよね……できれば放課後とか、休みの日にも教えてもらいたいしなぁ……」

 

 

 テスト週間なのだ。普段よりもしっかりと勉学に身を置くのはもちろん、ある程度集中できる環境を作り出すことも重要。

 俺から頼み込んでいるのだ。俺が場所の提案をしなければ。

 

 

「……放課後は、いつもの教室でいいとしてー……休みは、いつもの図書館?」

「おすすめしない。テスト週間は人が増える。騒がしい」

「そっかぁ……人が少ないところがいいよね……」

 

 

 そうなると、ファミレスは論外。信濃さんはそもそも静かな場所が好きだ。

 そういえば、休日も学校の自習室は使えるという話だった気がする……けど、休みの日まで制服を着て学校に来たくはないので、これも却下。

 

 あーでもない、こーでもないと頭を捻っているうちに……一つ、妙案を思いついた。

 

 

「そうだ。俺の家でやる?」

「……………………え」

「あそこなら……いや、ダメだ……つーは兎も角、しーは絶対騒ぐ……ごめん、やっぱなし」

 

 

 妙案だと思っていたものは、穴ぽこだらけのひどい案。どう考えたって「かな兄が女の子連れてきたー!」と騒ぐに決まっている。そのまましーのおもちゃコースだ。

 

 さて、どうしようか。流石に信濃さん家では難易度が高すぎる。どうしたものか。

 

 

「──行きたい」

 

 

 再び頭を捻ろうとしていたところに投げかけられた言葉は、本当に予想外のもので。

 それこそ、立ち止まって俺の服の裾を掴んだ信濃さんに驚いて立ち止まるくらい。

 

 俺を見上げる信濃さんは、少し怯えたように眉を八の字にしていた。

 

 

「……煩くてもいいから、行きたい」

「……いいの?」

「構わない。なんなら、妹さんと弟さんに勉強教えてもいい」

「そ、そこまでは流石に申し訳ないって!」

「──だって」

 

 

 四月までの信濃さんなら、考えられない行動だ。

 こんな風に微かとはいえ感情を表に出して、自分の気持ちを口にしようとするなんて。

 

 

「いつも、黒澤くんには良くしてもらってる。こんな事ぐらいでしか、お返しできない」

 

 

 そして、こんな風にこれまでを変えようとしている女の子の必死な提案を、誰が拒否できるものか。

 

 俺は裾を掴んでいる信濃さんの手を取り、笑いかけてみせる。

 

 

「分かった。そこまで言うなら俺の家でやろっか。お昼は……うん、うちのお袋に言って、信濃さんの分も用意してもらうよ」

「そ、それこそ申し訳ない……!」

「いやいや、家に来てもらうのにご飯用意して貰ったりなんかしたら、それこそ親父とお袋からどやされるよ。多分話をしたら勝手に用意すると思うし、そこは気にしないでよ。大丈夫、お袋は俺の料理の師匠だから、味は保証するよ」

「……分かった」

 

 

 渋々といった様子で引き下がったが、その口角が少しだけ上がっているのを見逃さない。

 美味しいものが好きな信濃さん。きっとお袋の料理も美味しそうに食べてくれるだろう。

 

 

「それじゃあ、土曜日の朝10時くらいに俺の部屋に来てよ」

「分かった。楽しみにしてる」

「りょーかい。それじゃ、行こっか」

「ん」

 

 

 話がまとまったところで、一歩目を踏み出そう……と、したところで、謎の歩きにくさを感じる。

 一歩踏み出した瞬間に、右手が後ろ引っ張られる。見てみると、右手が何かを掴んでいた。

 

 ──そう、先程信濃さんの手を掴んで、そのまま彼女と手を繋いだままだった。

 

 

「あ、ごめん信濃さん。握ったままだったや」

 

 

 ごめんごめん、と彼女の手を離す。信濃さんのことはお姫様抱っこしたり抱き締めたりともう散々色々やって来たが、だからといって手を握ることが許されるとは思えない。

 

 

「…………構わない」

 

 

 いつも通りのセリフを口にした信濃さんだったが、その表情はどこか拗ねたように見えた。

 機嫌損ねちゃったかな、なんて思いながら彼女の歩幅に合わせて登校を再開した。

 

 

 



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34.奏くん

 

「……というわけで、土曜日に家に信濃さんを呼んでよろしいでしょうか」

「好物ハンバーグって言ってたわね。土曜のお昼はハンバーグね!」

「え、信濃さんうちに来るの!? 色々お話聞きたい!」

「勉強会なんだから我慢しなよ……眼帯のこと、絶対聞くなよ?」

「奏、信濃さんの好みもっと聞いておけ。飲み物お菓子揃えてくるから」

 

 などと、家族からの熱い賛同を得ることができた。こういう時、家族仲がいいのは本当に助かる。

 という訳で、万全の受け入れ態勢を準備して迎えた土曜日。

 

 

「なんでしーはクラッカー持ってるの?」

「歓迎しようと!」

「しまえ」

 

 

 そわそわと落ち着きのない様子で玄関付近をウロチョロするしー(クラッカー装備)をリビングに押し戻す。

 もう少しお淑やかになってくれると、こちらとしても安心して見ていられるのだが、そんなことできるわけもない。

 斜に構えすぎているつーと足して二で割れば、丁度良さげになりそうだが……いやはや、面白いものだ。

 

 そんなこんな、妹とじゃれて待つこと五分後。予定時間の、五分前。呼び鈴の電子音が、部屋に響いた。

 来た! と勢いよく立ち上がろうとしたしーを抑え、インターホンを押す。

 

 

「はーい、どちら様ですかー?」

『信濃です……来ました』

「はいな。ちょっと待っててね」

 

 

 インターホンから離れ、まっすぐ玄関へ。

 

 チェーンを外し、開錠し、ゆっくりと扉を開ける。

 

 

「おはよう、信濃さん。うん、やっぱりそのワンピース、よく似合ってるよ」

「……おはよう、黒澤くん。黒澤くんも、うん、かっこいい」

「はは、ありがとう」

 

 

 ゴールデンウイークのデートで買ったワンピースに身を包んだ信濃さんが、手に学校指定の鞄と、大きめの紙袋を持った状態で立っていた。

 未だにこの姿の彼女を見ると少しだけ胸が高鳴る。しかし、それを表に出すほど軟なメンタルのつもりはない。

 

 

「ささ、上がって上がって。あ、鞄持とうか?」

「構わない……お邪魔、します」

 

 

 どこか緊張した面持ちの信濃さんは、ゆっくりと家の敷居を跨ぐ。

 ゆっくりと靴を脱ぎ、家に上がる。そのまま彼女の先を歩き、リビングの扉を開ける。

 

 

「あ、こんにちはっ、信濃さん! お久しぶりですっ! 栞ですっ!! お洋服、とっても可愛いですっ!!!」

 

 

 開けた途端、しーがソファから立ち上がって信濃さんの前までやってきて、にっこり笑顔。人懐っこさの塊のようなしー。ほとんど初対面のような相手にも臆さず話しかけられるのは、流石としか言いようがない。可愛いやつだ。

 

 

「しー、五月蠅い……っ! ど、どうも信濃さん。紬です」

 

 

 そんなしーを宥めるように後ろからひょこり顔を出すつー。内弁慶のつーは、他人が居ると借りてきた猫のように大人しくなる。可愛いやつだ。

 

 

「お、久しぶりです……信濃咲です……お邪魔します」

 

 

 そして、そんな双子二人に挨拶されて気圧されている信濃さん。確かに、傍から見たらそっくりな顔面つよつよ少年少女から話しかけられた状態。そりゃあ気圧される。

 頭の中の赤嶺さんが「ブラコンシスコン拗らせすぎだろ」とからかってきたが、全部しーとつーが可愛いのが悪い。

 

 

「あらあら、貴女が信濃さんね。奏の母です。いつも奏がお世話になってます。ふふっ、お人形さんみたいね」

 

 

 我が家族による波状攻撃は終わらない。洗い物をしていたお袋が、手を拭きながら信濃さんに近づく。

 信濃さんは可愛いもの好きのお袋のお眼鏡に叶ったらしく、随分とご機嫌な様子だ。確かに、信濃さんは文句なしに可愛い。

 

 

「ど、どうも……信濃、咲です……いつも黒澤くんには、お世話になってます……これ、つまらないものですが」

「あらあら、わざわざありがとうね。でも、その言い方だと普段から私たちもお世話してるみたいじゃない」

「へっ」

「そうですよ! ここにいるのは黒澤ばかりですよ!」

「母さん……しー……」

 

 

 信濃さんから紙袋を受け取った後、一瞬だけ悪い顔を覗かせたお袋。そんなお袋の意図に一切気付かず、素直に同調するしー。そんな二人を止めようとするつー。

 助け舟を出そうか、なんて一瞬考えたが、少し考えるように下を向いた信濃さんは……やがて、いつも通りの無表情で、俺の目を射抜いた。

 

 

「……奏くんには、いつも凄くお世話になってます」

 

 

 ずきゅん。

 

 視線だけでなく、心臓も射抜かれた。これで一切表情を変えない俺、天才かもしれない。いったいどこに使う才能なのかと聞かれたら、まぁ答えられないが。

 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ硬直してしまったが、すぐに取り繕う。

 

 

「はーい、いつもお世話になってお世話をかけられてる奏くんですよー……とりあえず座ってよ、咲さん」

 

 

 なんて、意趣返しではないが信濃さんのことも名前で呼んでみる。最も、彼女の名前はゴールデンウイークの時、賢治さんと遭遇した時に呼んでいるので効果はないだろうが。

 

 

「……その前に、トイレ貸してもらいたい」

「ん、そう? じゃあ……しー、お願いできる?」

「了解しました! ほら、咲さんこっち!」

 

 

 案の定、信濃さんの表情を変えることはできなかった。しーの後を追ってトイレに向かう彼女の背中を見送る。

 

 

「……マジか、この人」

「……すごいわよ、ねぇ?」

「んあ? どったの、二人とも」

「いや……死んじゃえって思ってる」

「なんで!?」

 

 

 なぜかつーから、すっごい厳しい一言をもらった。

 

 

「……あれ、なんで皆立ってるの」

「遅せぇよ……」

 

 

 そして、すっかり出遅れた親父が、立ちっぱなしの俺たちを見て首を傾げていた。

 

 

 




【お知らせ】
明日はグリッドマンユニバースの裕六二次創作書くので投稿お休みします。多分pixivに投稿するので、良かったら見てね。


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35.勉強会

 

 なんだかんだありながら、開催された勉強会。

 

 リビングのテーブルに四人で座り、黙々とペンを動かす。俺と信濃さんが隣同士、しーとつーが対面に座っている。

 約束通り、俺は英語の文法書を開いている。根本的な文法があやふやだから英文も読むのに苦労しているんだ、という信濃さんのご指摘の元、文法の問題を必死に解いている。

 なお、大前提として単語は覚えておいてという話を事前にされていたので、今日までに範囲内の単語は頭に叩き込んで来ていた。暗記自体は苦手ではないが、暗記という行為自体はそんなに好きじゃない。

 

 

「単語が分からなくて読めないのは、論外……最悪単語が分かれば、話のニュアンスは分かる」

「なるほど……ちなみに信濃さんは、どれくらい覚えてるのかな?」

「さあ? でも、この単語帳に載ってる単語なら分かる」

 

 

 そう言って信濃さんが鞄から取り出した単語帳には、『大学入試頻出3200』の文字が。

 つまり、信濃さんは単純計算で3200語は暗記しているということになる。

 そんな馬鹿な、と信濃さんから単語帳を受け取った俺は、適当なページを開く。赤シートで意味の方を隠して、信濃さんに見せる。

 

 

「えーっと……これは? 読み方が分かんない……」

「jurisdiction。管轄、司法権、裁判権、支配、権限」

「はい、疑ってすいませんでした」

 

 

 完敗です、とハンズアップ。なるほど、統一模試百位以内の実力か、これが。

 なんで俺の周りの女子は勉強面で凄いんだろう。それなりにできる自信はあったのだけれど、こんなものを見せられたら心が折れそうだ。

 

 大人しく文法書に向き直る。嘆いたって仕方ない、やるしかないんだ、結局。

 

 

「咲さん咲さん! ちょっといいですかっ?」

「何」

「この問題なんですけど……どうしても答えが合わないんです!」

「見せて…………ここ。符号が変わってる」

「え? うわっ、ホントだ……」

「よくあるミス。だからこそ注意。一個間違えたら確実に失点する」

「はいっ、ありがとうございます!」

 

 

 すっかり信濃さんに懐いたしーは、目の前の席ということもあり積極的に質問を投げかけていた。ケアレスミスだったとしてもきちんと答え、アドバイスも残す信濃さんは中々様になっている。

 あんなに会話すること自体を嫌っていた人とは思えない変化だ。人の成長というか、変化は早いものだ。

 

 

「……あの、ところで信濃さん」

「何」

「その……近く、ないっすか?」

「……そう?」

「はい、その……近いっす」

 

 

 隣の椅子に座る信濃さん。その距離が、明らかに近い。

 俺がペンを持った腕を机の上に置いたら、彼女の腕に当たってしまいそうになるくらい近い。なんなら、何回か当たった。そのたびに謝っているが、彼女は距離を離そうとはしない。

 これが制服姿だったら、多少意識するくらいで済んだだろう。しかし今、彼女は黒澤奏特攻であるワンピース姿。

 

 もうね、よくないっすよ。こんなん。俺、男子高校生。俺、DK。

 

 

「でも、栞さんと紬くんは、もっと近い」

「あれはあの二人が特殊なんです。双子だし」

「仲がいいのね」

「ほんと、仲がいいんすよ」

 

 

 左利きのしーと右利きのつー。

 利き腕が外になるように二人が座るので、本当にお互いぴっとりくっついて勉強している。その隙間、紙一枚すら入らないくらいの圧倒的密着。

 

 

「この方が落ち着きますから!」

「……まぁ、それは、そう、ですね」

 

 

 にひー、と笑いながらつーの肩に頬をほっぺすりすり。照れながら、しかしまんざらでもない様子でそれを受け入れていた。

 その言葉通り、二人は本当に常に一緒にいる。家にいる間はトイレと風呂以外……それこそ、布団の中まで一緒だ。間違いなく、世間一般の双子と比べても仲が良すぎる二人だ。

 そんな距離感がおかしい双子と比べたら、俺たちの距離なんて三千里。

 

 ただし、ここで重要なのは比較ではなく俺の心情である。ちょっと、落ち着かない。

 

 

「だから、気のせい」

「そう、かも……知れないですけどね?」

「気のせい」

「いやあの、あれと比べたらって話で、一般的にはこの距離感は」

「気のせい」

「あの、しなのさ」

「気のせい」

「…………」

「気のせい」

「ハイ……」

 

 

 ごり押しされた。

普段の信濃さんからはあまり感じない圧を感じた。こちらに一切顔を向けないので、眼帯姿しか見えないのもまた圧を感じた要因だろう。

 そこまで言われてしまえば、もう俺から言い返すことは何もない。大人しく目の前の英文に向き直る。

 

 

「……しー、言いたいことあるのかもしれないけど、絶対にだめだからね」

「えー、良いと思うけどなぁ、ちょっとくらい」

「だーめ。もし言ったら、今日一緒に寝てやんない」

「分かりました! お口チャックします!」

「……なんなの、君たち」

 

 

 そんな俺を見て何か言いたそうにそわそわするしーを、つーが宥める。

 その内容を問いただそうかと一瞬考えたが、二人が仲良く勉強し始めたので言及するタイミングを逃してしまった。

 

 のけ者にされた感は否めないが、それにつっかかる気は失せてしまったので、大人しく勉強に戻ることにした。

 

 



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36.かっこいい人

 

「……あの、何か手伝います」

「いいのよ座ってて! お客様に手伝わせるなんてできないわよー。はいしー、これ持ってって。つーはご飯ついで!」

「はーい!」

「うん」

 

 

 てきぱきと指示を出すお袋と、それの手伝いをするしーとつー。

 そんな彼らを見て何か手伝おうと立ち上がろうとした信濃さんを、お袋は手で制した。それから俺にバチコンとウインクひとつ。

 

 準備はしてやるから、咲ちゃんの話し相手になってやりな。洗い物は任せたわよ──こんなところだろう。おーけーりょーかいと、ぐっと親指を立てて横に座る信濃さんの顔を覗き込む。

 

 

「ま、そーゆー事だから、俺とお話しませんか? 退屈はさせないよ?」

「そもそも、黒澤くんと話してて退屈と思ったことがない」

「おうふ」

 

 

 久しぶりに食らった信濃さんの火の玉ストレート。

 色々と拗れている筈なのにこういう感情表現の言葉はストレートだから心臓に良くない。そろそろ慣れよと、と思われるかもしれないが、本当に唐突だから身構えようが無い。

 

 さて、どんな話題を振ろうか……そう考えていた所で、リビングに入ってくる人物が一人。

 

 

「あ、もう飯の時間か……時計見てなかった」

「親父。何してたんだ?」

「仕事の資料作り……休みくらい休ませろってよ……あ、君が信濃さんか。奏の父です。いつも奏が世話になってます」

「あ、どうも……信濃咲です。こちらこそ、奏くん、には……お世話になってます」

 

 

 ぺこり、ぺこり、二人が同時に頭を下げる。

 そのまま顔を上げた親父が、お袋にアイコンタクト。にっこりと笑顔を浮かべたお袋に一つ頷き、そのまま信濃さんの前の席に腰を下ろす。

 

 

「さて、と……信濃さん。まず先に一つ、伝えとかなければならないことがある」

「……なんで、しょうか」

 

 

 真剣な表情で人差し指を一本立てた親父。真剣な表情で信濃さんを見つめ……やがて、ぼそりと呟いた。

 

 

「──奏のどこに惚れたんだ?」

「うんごめん。信濃さんちょぉっと目閉じて貰ってていいかな? 今からこの平和な食卓を血の海に染めて見せるからね」

「兎に角優しくて細かい気遣いもできて、一つ一つの所作から人の良さが滲み出てて、オマケにかっこいいところです」

「信濃さん!? 何真面目に答えてるの?」

 

 

 ふざけた様子の親父。そんな親父を真っ直ぐ見つめ、バカ正直に答える信濃さん。

 頬が熱くなるのを感じるが、そんなことよりツッコミが先だ。

 

 ところで、オマケにかっこいいはワンチャン悪口なのでは?

 

 

「そうかそうか! 俺が言うのもなんだが、奏は中々優良物件だからな! いい男捕まえたな!」

「はい。こんなにいい人、私には勿体ないくらいです」

「そうだろうそうだろう! いやぁ、めでたいめでたい!」

「分かってるよね!? 親父も信濃さんも絶対分かってるよね!? 信濃さんちょっとニヤけてるよね!? 君の珍しい笑顔をこんなところで見せないでよ! つー! 爆笑すんな!」

 

 

 俺の不幸が大好きなつー、動けなくなるほどの大爆笑。

 そして、滅多に見せない口角の上がった顔を見せてくれる信濃さん。俺、信濃さんの笑顔って片手で数えるくらいしか見たことないのに、こんなことで見るとは思いもしなかった。

 

 いや、こんなことで笑ってくれるくらいにはメンタルが上向いていると考えた方が良いだろうか。

 

 

「さて、冗談はこれくらいにして」

「はい。楽しかったです」

「勘弁してくれ……」

「何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってくれ。俺たちにできることなら、全力で応えて見せよう」

 

 

 椅子にもたれ掛かり楽な体勢になった親父が、先程までのいたずらをした子供のような笑顔ではなく、大人がうかべる控えめな笑みを信濃さんに向ける。

 話の空気が変わったことを察知した俺たちは、佇まいを直して親父の話に耳を傾ける。

 

 

「君が過去にどんな目にあったのかは知らない。君がどんなもので構成されているかなんて分かるはずもない」

 

 

 柔らかな雰囲気を醸し出しているにも関わらず、その言葉には聞かせる力を感じさせる。

 こういう時の親父の言葉は、覚えておいた方がいい。今までの経験上、糧になることを言う。

 

 

「だが、君がまだ15の子供で、大人に甘えるべき存在であることに変わりは無い。何かあったら、すぐに信頼出来る大人に助けを求めてくれ。俺達も、『信頼出来る大人』足り得るよう、全力を尽くす」

 

 

 それが、大人の使命さ。

 

 そう言い残し、親父は席を立ちお袋の手伝いに入る。

 

 ──やっぱり、遠いなぁ。

 

 自分の目標の一人がまだまだ遠い場所にいることを再認識し、頬をかく。いつか俺も、あんな大人になれるのだろうか。

 

 

「あーでも、信濃さん」

 

 

 少し自暴自棄になりかけていたところで、親父がキッチンの向こうから信濃さんに声をかける。

 隣に佇むお袋としー、つーもこちらを見てきていた。

 

 

「君が真っ先に助けを求めるべきなのは、隣に居る頼れるナイスガイさ」

 

 

 ぴしり。

 

 親父が俺を指さし、ニヤリと口角を上げた。

 その言葉に思わず胸が詰まりそうになり、誤魔化すように信濃さんの方に顔を向ける。

 

 

「勿論です」

 

 

 信濃さんは、親父の目を真っ直ぐ見つめていた。

 彼女の表情は、やはり眼帯に隠れて分かりづらかった。

 

 

「奏くんは、私を幸せにするって言ってくれましたから」

 

 

 初めて、信濃さんのことを。

 

 かっこいいと、思った。

 

 

 

 



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37.幸せだと思う

 

「今日はありがとうございました」

 

 

 夕方五時。ほぼ一日かけた勉強会もようやく終わり、信濃さんは玄関で靴を履いて俺たちを見上げていた。手には、お袋が持たせた紙袋……中身は確かチーズケーキだったはず……が握られていた。

 お見送りにはうちの家族全員がやってきていた。

 

 

「こちらこそ! お勉強教えてくれて、ありがとうございましたっ!」

「その、参考に、なりました」

 

 

 ぺこりと、九十度のお辞儀をするしー。恥ずかし気に、会釈程度に頭をさげるつー。なんだかんだ、二人とも信濃さんに懐いているようで安心したし、信濃さんも二人とコミュニケーションが取れていて安心した。

 

 

「また気軽に来てくれて構わないわよ? 今度はチーズインハンバーグにするから!」

「はい。ぜひお願いします……って、あ、その、お構いなく……」

 

 

 昼食で自分が作ったハンバーグを本当においしそうに食べてくれたことが本当にうれしかったのか、お袋は次に信濃さんがうちに来るときもハンバーグを御馳走するつもりらしい。

 大好物、しかもチーズ入りという甘美な響きに食い気味に答えた信濃さんがったが、恥ずかしかったのか当たり障りのない言葉で訂正する。

 

 

「……頑張ってな」

「……はい」

 

 

 言葉少なめに、一言だけ口にした親父。なにを、とはあえて言わなかった。

 

 みんなが挨拶をし終えてことを確認した俺は、最後に何をしゃべろうか、頭を働かせていた。

 

 

「──奏くん。来て」

 

 

 だから、そんな信濃さんの言い分に……俺はただ、頷くしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────

 

 

 

 

 

 

 

 住んでいるマンションから、最寄りの公園。いつもここで遊んでいる子供たちの姿も、世間話に花を咲かせているおばさまの皆様もいない、静かな公園。

 

 二人で並んで、ブランコに腰掛ける。小学生以来に座るそれは、高校生の俺が座ってもびくともしないくらい頑丈だったが、横幅は割とギリギリだった。

 

 

「……今日は、ありがとう。誘ってくれて」

「あ、うん……こちらこそ、勉強教えてくれてありがとう。おかげで、何とかなりそうだよ」

「それなら、よかった。栞ちゃんと紬くんも、力になれて良かった」

「あー……それも込みで、ありがとう」

「構わない」

 

 

 他愛無い会話。この程度の会話なら、別にわざわざ俺を呼び出さなくてもできる。

 なぜ、俺がここに呼び出されたのか。それについてだけ思考を巡らせながら、彼女との会話に花を咲かせていた。

 

 

「……名前」

 

 

 やがて、信濃さんが切り出す、小さな一言。

 

 

「私の名前、呼んで、欲しい」

「……? 信濃さん?」

「……違う」

 

 

 彼女の名前を、呼んでみた。しかし、信濃さんは首を横に振る。

 彼女の目が、こちらを射抜く。期待に満ちたその目。分かってくれと言わんばかりの目。

 その目で全てを察した俺は、軽く微笑みながら彼女の目を見つめる。

 

 

「どうしたの、咲さん」

「……今度から、そう呼んで」

「ははっ、ちょっと恥ずかしいな……でも、うん、咲さんがいいなら」

「私も、奏くんって呼ぶから」

「りょーかい。まさか、そのために俺を呼び出したのかい?」

「それもある。でも、もう一個話がある」

 

 

 信濃さん──いや、咲さんは立ち上がると、俺の目の前に歩み寄る。普段は見上げてくる彼女が見下ろしてくるというのが、なんだかとても新鮮だった。

 夕焼けに染まった彼女の顔。眼帯をつけているから、いまだに一度も素顔を見たことのない彼女の顔。

 

 

「──私、世界に私の味方が、伯父さんしかいないってずっと思ってた」

 

 

 さらり。

 

 なんてことないように言ってのけたその言葉が、いったいどれほど悲しいものなのか。彼女は理解しているのだろうか。

 世界で、味方が、たった一人。それ以外は、全員無関係か、敵。そんなに心苦しく、寂しいことがあっていいはずがない。

 

 

「……なんで、奏くんがそんなに悲しそうな顔するの」

「だ、って……そんなの、あんまりじゃないか。咲さんが、どんな辛い目に遭ってきたか、分かんないけど……あっていいはずがない」

「……でも、今はそう思ってない」

 

 

 かがみこんだ咲さんが、俺の手を取る。いつも通り、俺が見下ろし、咲さんが見上げる形。

 柔らかい、穏やかな笑みを浮かべている咲さんが、そこにいた。

 

 

「栞ちゃんが、紬くんが、お母様が、お父様が……奏くんが、いる。これだけで、単純計算で元の、六倍」

 

 

 初めて出会った時の咲さんと比べて、今の彼女には未だに影がある。他人に対する不信感、自分への嫌悪感、そして過去への執着。

 それらは何も解決していないけど……それでも、あの時の咲さんと比べて、今の彼女の表情は、穏やかで、柔らかくて──それこそ、幸せそう、だった。

 

 

「奏くんが話しかけてくれたから、私を助けてくれたから……私と、約束してくれたから。そう思えてる。だから、その、えっと……」

 

 

 ──今、私は、間違いなく、幸せ、だと思う。

 

 風に乗って俺の耳に届いた、確証のない言葉。

 

 

「……じゃあ、まだだよ。まだ君はこれから、もっともっと幸せになれる。今の比なんかじゃないくらいに」

「うん」

「だから、覚悟しといてよね? きっと……泣いちゃうくらい、幸せにしてみせるんだから」

「うん……よろしくね、奏くん」

「あぁ、こちらこそ……気を付けて、帰ってね」

「うん。それじゃあ、また、週明け」

「うん、じゃあね」

 

 

 立ち上がった彼女の背を見送る。普段ならエントランスまで見送るのだが……今、彼女の背を追うことは、今の俺にはできそうになかった。

 声、震えてなかったかな。我慢、できてたかな。かっこいい俺で、いられたかな。

 

 咲さんの背中が見えなくなってきたころ、俺は俯く。これなら、誰にも、見えやしない。

 

 

「……まだ、早いって。まだ……実感できてなさそうだったじゃん、咲さん。まだまだ、こんなもんじゃない。もっと、もっ、と……辛いこと、苦しいこと、いっぱいあった分、楽しいことで、埋め尽くして……っ」

 

 

 だから、今のこれは、誰も、知らない。

 

 知っているのは、俺と……今にも沈みそうな、夕焼けだけだ。

 

 



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38.スロットじゃないんだよ、テストって

ゴールデンウィーク、たっぷり休みました。

ペースは落としますが、ちょっとずつ再開していきます。


「……おお、予想より取れてる」

 

 

 乗り越えたテスト週間。手元に返却されてきた解答用紙に書かれた点数は、概ね80点超え。満足のいく内容だし、これなら親父やお袋に見せても問題ない点数であろう。

 特に物理。93点はかなり嬉しい。ここまでくると、残りの7点がもったいないくらいだ。それに、しな……咲さんに教えてもらった英語も82点。俺からすればこれ以上ないくらいの高得点だ。

 

 

「咲さん! 咲さんに教えてもらったとこ、きちんとできたよ!」

「そう。良かった」

 

 

 俺が見せた答案用紙に一通り目を通した咲さんは、満足のいく結果だったのか口元に微かな笑みを浮かべながら頷いていた。

 その様子にほっと胸を撫でおろす。せっかく咲さんに教えてもらったのだ、良い点数を取らないと咲さんに申し訳がない。

 

 

「ところで、咲さんはどうだった?」

「ん」

 

 

 俺の質問に信濃さんは、持っていた答案用紙を手渡すことで回答してきた。

 

 100、100、100、100、100……どの解答用紙にも、大きな花丸が書かれていた。完全無欠、全教科満点。文句のつけようもない、完璧な解答用紙が、俺の手の中にあった。

 

 

「……高校のテストって、満点取れるもんなんだね」

「取れるもん」

「凄いね……本当に勉強、頑張ってきたんだね」

 

 

 さも当然と言わんばかりに話を終わらせようとした信濃さんだったが、これは流石に褒められてしかるべきだろう。それだけ勉強を常日頃から頑張って、何の取りこぼしもなく知識として蓄えてきた結果が、この解答用紙なのだ。

 俺が褒めなきゃ、あと褒めてくれるのは賢治さんだけだ。ならもう、全力で褒めちぎろう。

 

 

「そんなことない……ほかに、何もしてなかっただけ」

「でも、これはきちんとやってきてたじゃない。お昼休みとか本読んでる以外は教科書開いてたし……その成果が出たんだよ。ほら、もっと胸を張っていいって」

「え……えっへん……?」

 

 

 えっへん。

 

 そう言いながら咲さんは腰に手を当て、控えめに状態を逸らしていた。表情はきょとんとして、若干首を傾げながら。

 ごめん、流石に言わせてもらうけど、可愛すぎる。なんだよえっへんって。えっへんって。咲さん、流石に可愛すぎる。

 

 

「そうそう。咲さんは凄い。頑張った。偉い」

 

 

 そんなあほみたいな心情を一切表に出さないよう、鉄仮面のように崩れぬ笑顔で咲さんを褒め称える。

 

 

「……か、帰ろう」

 

 

 耐えきれなくなったのか、恥ずかしさが込み上げてきたのか。信濃さんは俺から解答用紙を取り上げると、自分の鞄の中に入れ始めた。

 俺もそんな彼女に倣い、解答用紙をクリアファイルに入れて鞄に詰め込む。

 

 

「……で、そこで灰になってる木谷くん。大丈夫?」

「……英語が……赤……」

「……ドンマイ」

「……………………ドンマイ」

 

 

 完全に燃え尽きてしまっている木谷くんに、俺は憐れむような眼で、咲さんは珍獣を見るような眼でそれぞれ慰める。咲さん、今まで赤点を取る知り合いが居なかったんだろうな。

 そんな木谷くんを教室に残し、俺と咲さんは一緒に教室を出る。いつもの下校風景だ。

 

 

「よ。お疲れさん」

 

 

 そして、大体三回に一回くらい、俺たちを待ち構えている金髪少女とエンカウントする。

 教室の扉のすぐ横の壁に背を預け、こちらに向けて手を振る赤嶺さん。その表情は良くも悪くも、テストからの解放感を全く感じさせない、いつも通りの薄ら笑い。

 

 

「お疲れ、赤嶺さん。そっちはテスト、どうだったの?」

「はいこれ。いやー、苦戦したよホントに」

 

 

 ケラケラと笑いながら答案用紙を手渡してくる赤嶺さん。その顔からは、いたずらが上手くいった子供のような無邪気さが垣間見えた。

 咲さんと二人で、その点数を一枚一枚確認していく。

 

 そして、一言。

 

 

「何やってるの?」

「何って……全部77点にしただけだけど?」

 

 

 77、77、77、77、77……全部、77点。

 

 

「ま、まさか……テストの点数、全部調整したの……!?」

「おう。いやー、今回は中々難しかったよ」

「……数学、部分点利用して調整してる……相変わらず」

 

 

 俺の横から答案を見ていた咲さんが、本当に呆れた様子で赤嶺さんを見つめていた。

 つまり彼女は、これまでのテストでもこんな感じの調整をしてきたというわけで。

 つまりそれは、答えを完璧に導き出せるだけでなく、どう間違えればどう減点されるかも完全に理解しているということで。

 

 

「……咲さん、もしかしてだけど」

「もしかしなくても、赤嶺さんは、ばかだよ」

「失礼な。天才って呼んでくれよ、さーき?」

「嫌だ。本当の天才は、自分を天才って言わない」

 

 

 それもそうか! と高らかに笑う赤嶺さん。確かに、赤嶺さんはばかだろう。おおばかだろう。

 

 自分の才能を、そんなしょうもないことに使う、おおばかだ。

 

 

「……もったいない、って思うのは……押しつけか」

 

 

 考えてしまう。これほどの能力を持った人が、まっとうに努力をしたらどうなるのか。どこまで行けてしまうのか。大学教授? 官僚? 政治家? 他にも一杯。

 でも、それを赤嶺さんが望まないのなら。俺のこの感想は、彼女にとっては邪魔以外の何物でもない。

 

 だから俺は、苦笑を浮かべる程度に押しとどめる。

 

 

「……赤嶺さん……いったい将来何になりたいのさ……」

 

 

 それでも、どうしても聞きたかった疑問が、勝手に口から出て行ってしまう。

 一瞬、俺のそんな質問にきょとんと眼を丸くした赤嶺さんだったが……やがて、それはそれはいい笑顔で、堂々と、胸を張って言った。

 

 

「──漫画家!」

 

 

 天才だと、素直に思った。

 



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39.出張

 

「え? 賢治さんが出張? いつから?」

「六月頭から、二週間」

「それは……まずいね」

 

 

 梅雨が間近の五月下旬。生憎の雨模様となった帰り路を帰る俺と咲さん。青い傘とビニール傘が二つ、歩道に並んで咲いていた。

 そんな中、咲さんから唐突に告げられた話は、それなりの一大事。

 

 賢治さんと二人で暮らしている咲さん。その状態で賢治さんが出張ということは、当然咲さんは一人になってしまうわけで。

 

 

「流石に女の子一人は見過ごせないなぁ……」

「大丈夫。いつものこと」

「そうかもしれないけどさ……心配するよ、やっぱり」

 

 

 もしも何かあってしまったら、咲さんが辛い思いをしてしまうし、賢治さんも悲しむ。無論、俺も。

 なにもなかったのは、これまでが幸運だったから。これから先も、同じとは限らない。単純に咲さんが心配すぎる。

 

 となると、何かしら動いた方がいいのではないかと考えてしまう単純思考。俺はちょっとごめんと咲さんに断りを入れて、スマホを取り出す。

 

 

「えーっと………………よし、これでいいかな」

「……誰に連絡入れたの?」

「ん? 賢治さん」

「……いつの間に伯父さんと連絡先交換したの?」

「そりゃあ、咲さんを家まで送って看病した日」

 

 

 何かあった時用と連絡先を交換しておいたのが功を成した。が、咲さんはどこか不満気だ。

 育ての親と友人が連絡を取り合っていたら、確かにいい気はしないかもしれない。だけど、今回ばかりはその不機嫌をフォローする気はない。

 

 

「お、返信早い…………うんうん、なるほどなるほど……了解しましたっと……あとはうちの親にっと…………うっわ、返信はっや……あー、うん、そうだよね……そう言うよね……よしっ、咲さん!」

「……何」

「今、賢治さんとうちの親両方から許可をいただきましたが……賢治さんが居ない二週間は、うちで生活してもらっても大丈夫です!」

 

 

 雨粒に塗れた傘に遮られて咲さんの表情は確認できないが、おそらく困惑しているのだろうということは空気感で察知することができた。

 ので、俺はそのまま説明を続ける。

 

 

「それこそ、朝ご飯お弁当晩ご飯、お風呂に睡眠場所、全部オールオッケー! あ、賢治さんからだ……えっと……うん、ご飯だけは絶対に面倒見てくれって言われたので、三食だけは必ず黒澤家のお世話になること!」

「……なんで?」

「えー、賢治さんからのタレコミですが……咲さん、ほっといたら一日中本読んで、それこそご飯とか食べないらしいじゃないですか。そんなのダメ! 絶対ダメ!」

 

 

『飯をちゃんと食わない奴が語る幸せなんて、俺は絶対に認めない。旨いもの腹一杯食って、安心できる寝床で寝て……それが出来た上で、初めて見つけるものが幸せなんだよ』

 

 苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てられた親父の一言。仕事で出会った人のことだろうか、珍しく家で落ち込んでいた親父のその一言は、やけに脳にこびり付いていた。

 それ以来、俺たち三兄弟は何があっても三食きちんと食べて、夜はちゃんと寝る生活を続けている。

 

 

「いいかい? 咲さん。今君のことを心配してくれる人は、賢治さん以外に五人います! そして、君に何かあった時に悲しむ人間も、賢治さん以外に五人います!」

 

 

 五、ということを強調するように、右手を大きく開いて前に突き出す。五人というのは勿論、俺たち一家のことだ。

 

 もう俺たちは他人なんかじゃないのだ。

 

 

「たとえ余計なお世話だって言われても、ご飯だけは絶対、ぜぇったい食べて貰うからね!」

「……流石に、申し訳ない」

「大丈夫! 賢治さんが、うちの両親に生活費を出したいって言ってるから!」

「……でも」

「大丈夫! 君のことを鬱陶しく思う人は居ないから!」

「……じゃあ、お世話になる」

 

 

 大分渋っていた咲さんだったが、力説の末説得に成功した。これでひとまず安心だ。

 俺は軽くかがみ、傘に隠れた咲さんの顔を覗き込み……にっこりと、笑顔を浮かべて見せる。

 

 

「うんっ。二週間、よろしくね、咲さん」

「だけど、寝床はどうするの」

「あぁ、それは……しーのベッド使えばいいよ。今使ってないし」

「なんで?」

「中学生になったタイミングでさ、二人別々のベッドを用意したんだけどさ……同じ布団じゃないと寝れなかったみたいで。今でもつーのベッドで二人で寝てるから、しーのベッドが空いてるんだよ」

 

 

 今でも忘れない、目の下に濃いクマを浮かべてリビングにやってきた二人の姿。流石にあんな状態になった二人を引きはがす気にはなれず、その日の夜から同じベッドで寝るようになった。

 おかげで、完全に空いているベッドが一つ。そこで寝て貰えば大丈夫だろう。

 

 

「……あの二人、ちょっと心配になるくらい一緒に居る」

「まあ、いつかは離れなきゃいけないのかなぁとは思ってるっぽいけどね……ま、寝床に関しては心配しなくていいよ」

「分かった……じゃあ、またその時はお世話になる」

「りょーかい」

 

 

 ──この時、俺は一切気付いてなかった。

 

 咲さんを心配するあまり、「この後家に咲さんが居る生活を二週間送る」という事実がいったいどれほど重大なことなのかに。

 

 それに気づくのは、六月二日……咲さんが家に来た、初日の夜のことだった。

 



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40.おもい

 

「ところで……最近北中の奴らはどうなのよ?」

 

 

 翌日。いつも通り咲さんと肩を並べて登校したすぐ後。図書室に向かった彼女を見送った俺に話しかけてきたのは、やはり木谷くんだった。

 彼が居るおかげで、俺はこのクラスの友人が咲さんだけになってしまうという悲しき事態にならずに済んでいる。本当にありがたい。

 

 

「ぜーんぜん?」

「マジで? 信濃さんのこと下の名前で呼び始めてからも?」

「うん……正直、何かあると思ってたんだけどね……」

 

 

 木谷くんが彼らを牽制したあの日から、北中の面々は基本大人しい。

 おかげで毎日少しの視線を気にするだけで済むようになったが……それはそれとして拍子抜けだ。

 

 こちらとしては、彼らの誤解や偏見を解消したいと思っているから、交流が無くなるというのは流石に避けたい。

 

 

「いいことなんじゃねぇの?」

「いいことだけど……北中の人達だって、色々あったのかなって思うと……どうにかしたいなぁ」

「……前々から思ってたけどさ、黒澤くんってお人好しすぎるよな」

「まぁ……それはそういう性質だとしか……」

「……性格じゃなく?」

「うん。性質……毎回毎回、余計なお節介かなって帰ってから反省しまくりだよ」

 

 

 俺は根っからの善人ではない。悪人では無いが、ヒーローでもない。

 ただ善人であろうとし続けるだけの人間。俺の根っこは、その辺にいる普通の男子高校生で、物語の主人公になれるような存在では無い。

 

 だから、性格ではなく性質。人間性ではなく生き方。

 

 

「別にいいんじゃねぇの? 実際、信濃さんは楽しそうだし」

「そうだけどさぁ……当然、咲さんは幸せにするよ? でもさぁ……だからって北中の人達が不快であり続けるってのは違うよ……」

「……あのさ、一個だけ聞いていいか?」

「なに?」

「……信濃のこと好きなの?」

 

 

 どきり、と心臓が跳ねた。

 しかし、そこは鉄仮面奏くん。動揺するなんて初歩的なミスをするわけも無い。

 

 

「……さぁ?」

「さぁ? って……あんなに毎日一緒に居るのに?」

「毎日一緒に居るのに」

「──嘘だぜ、それ」

「うわっ!? って、赤嶺さん? いつの間に……」

 

 

 突然掛けられた声に驚いて右を向くと、信濃さんの席に足を組んで腰をかけている赤嶺さんの姿。

 いつも通りの軽薄な笑みを浮かべた彼女は、頬杖を付いて俺の顔を覗き込んでいた。

 

 

「そいつ、完全に信濃に惚れてるぜ?」

「……あの、赤嶺さん? ある事ない事吹き込まないで貰えますか?」

「別に全部事実だから問題ないだろ。ってか、あの距離感で惚れてないなんて言われても、信じてやんねーよ。大体、お前は保留にするとしても……信濃は、絶対お前に惚れてるだろ」

「……」

 

 

 それはそう、としか言えなかった。

 

 俺はアニメによくある鈍感系主人公でもないし、人の気持ちが読めない人間でもない。

 咲さんが俺に抱いている感情の大きさくらい、理解しているつもりだ。

 それが、ただの友情なんかじゃ収まらないことになっているくらい。

 

 

「……少なくとも、まだだよ」

 

 

 観念した俺は、小さな声で呟く。

 

 いつもなら、咲さんが帰ってくるまであと五分くらい。なら、ここで話してもその途中で帰ってくるということは無いだろう。

 椅子に深く腰掛け、窓の外に目を向ける。

 

 

「まだ……咲さんの過去に関しては、何も解決してない。まだ、囚われている……今の状態で俺が彼女の気持ちに応えたら、彼女の世界は狭いままだよ。そんなの……危うい」

「危うい?」

「依存先が少ないと、その依存先が消えた時……また入学式の時の『信濃さん』に逆戻りだよ」

 

 

 世界に一人しか味方が居ないと思い込んでいた時代の彼女。

 もし、あの時賢治さんが咲さんの目の前から消えるようなことがあれば? 咲さんのことを大切にしていなかったら?

 

 もしかしたら、咲さんは……精神が壊れるだけならまだいい。下手すれば、この世に居なかったかもしれない。

 

 今の咲さんの依存先は、勿論賢治さんと、俺、そして読書。まだまだ少ない。少なすぎる。

 

 

「だから、まずは依存先を増やす。友人、趣味、仕事、遊び……沢山増やして、健全な精神を育む。勿論、健全な精神は健全な肉体に宿るって言うから、ご飯もきっちり食べてもらって……精神面がきちんと安定してから、彼女に過去と向き合ってもらって……きちんと彼女を、幸せにしてからだよ。俺の気持ちなんて、その後の後」

 

 

 あの日……咲さんのことを抱きしめたあの日から、ずっとずっと考えていたことを、初めて言語化して他人に聞かせた。

 これで正しいのかなんて分からない。もしかしたらお門違いのことを考えているのかもしれないし、それこそ咲さんにとっては余計なお世話なのかもしれない。

 

 だけど、約束したから。

 

 

「約束したから。咲さんを、幸せにするって」

 

 

 語り終えた俺は、ちらりと二人の表情を見てみる。

 木谷くんは、俺の発言に圧倒されたのか、背筋が伸び目を見開いていた。

 赤嶺さんも目を見開いていたが……それはそれは嬉しそうに、満面の笑みを口元に浮かべていた。

 

 

「……重いねぇ」

 

 

 赤嶺さんの一言が、全てだった。

 



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41.今更

 

 

「…………あのさ、つー」

「なしたよ」

「……もしかしてさ、これから二週間咲さんがウチに出入りするってこと?」

「何を今更……バカなの?」

 

 

 決意を友人たちに語った夕方。早速その決意が揺らぎそうな大事件がすぐ目の前に迫っていた。

 自宅のリビングにて、俺とつーは向かい合わせに座って黙々と課題を進めていた。しーも一緒にやっていたのだが、今は花を摘みに行っていた。

 

 そんなわけで、男二人。ある意味一番相談しやすい家族であるつーに話を持ちかけていた。

 

 

「どうせ後先考えずに突っ走ったんでしょまた……他人のためって考えたら本当に周りが見えないというか……」

「そんなの分かりきってるけどさぁ……ねぇ?」

「ねぇ? って言われてもさ……」

 

 

 分かりやすくわざとらしく、大きな大きなため息を吐き出すつー。一言二言文句を言いそうになってしまうが、情けないことを言っている自覚はあるので口を閉ざす。

 あの時……咲さんに提案した時は本当に何も思っていなかった。咲さんが一人だと危ないしなにかあってからでは遅い。それならウチに……本当に、ただ純粋に心配していた。

 

 勿論、今でも心配なのだ。だが、それはそれとして仲のいい同級生と共に生活するというのはやはり、その、ヤバい。

 

 

「そう言えば……信濃さんはどこで寝てもらうの?」

「あー、しーが今ベッド使ってないだろ? そこ使わせてもらえばって思ってたんだけど……」

「……流石にダメじゃね? 兄さんがしーのベッド使って、信濃さんに兄さんのベッド使ってもらえば? 布団は交換しといてさ」

「そうするか。んじゃ、咲さんが来る前に……」

 

 

 がたり、ピンポーン。

 

 俺が席を立つのと、家の中に電子音が響くのは同時だった。

 間抜けな格好で立ち尽くしていたがつーにさっさと行ってこいと背中を押され、てくてくとインターホンを押す。

 

 

「はいはーい? どちら様ですかー?」

『咲です。来ました』

「ん。ちょっと待っててね」

 

 

 インターホンから聞こえてくる女の子の声を聞き、俺は少しだけ早足で玄関へと向かう。

 チェーンを外し、鍵を開け、そのままゆっくりと扉を開ける。

 

 

「さっきぶりだね、咲さん。あれ、制服のままなんだ?」

「部屋着持ってないから……お邪魔します」

 

 

 5月の勉強会以来に我が黒澤家の敷居を跨いだ咲さんは、前回とは違い制服姿でのご登場だ。少し大きめのカバンには、一通りの生活用品が入っているのだろうか。

 そう言えば、彼女の部屋にあった服は制服とパジャマと、俺が買った服だけだ。今度は部屋着を贈ろう、と頭のノートにメモっておく。

 

 どうぞどうぞ、と彼女を家に上げ、そのまま奥に向かってもらう。綺麗に揃えられた学校指定のローファーをちらりと見て、鍵を閉めてチェーンを装着。そのままリビングに向かうと、咲さんがつーと対面していた。

 

 

「……ど、どうも」

「お邪魔します。暫くお世話になります」

「いえ、お構いなく……」

 

 

 ミスター内弁慶、つー。全く会話が続かない。

 しーはしーでコミュニケーション能力に若干の問題があるが、つーはつーで大変そうだ。

 

 俺の目線に気付いたのか、きっと睨み付けてくるつーに笑いかけてやる。いい練習だ、ちょっとはしーに任せず会話を頑張れ。

 

 

「……兄さん。部屋に案内したげて。兄さんの部屋に」

「え」

「ん、それもそうだな。じゃ咲さん、こっち」

「え」

 

 

 さぁさぁどうぞこちらへと言わんばかりに、咲さんの背中を押して俺の部屋へと案内する。

『掃除はしろ。心の余裕ができる』という親父の教えに倣い、毎日綺麗にしている俺の部屋。この部屋に友人を招くのは勿論初めてだし、女の子を招き入れるなど、当然、初めてで。

 

 

「とりあえずこの部屋使ってよ。あ、ベッドは後で布団交換しとくから。流石に俺がいつも寝てるベッド使わせる訳にはいかないしね」

「……それは、そう」

「じゃあ、荷解きでもしといてよ。俺ちょっとつーに用事あるから」

 

 

 自分の部屋の真ん中に、何が起きたか理解していない顔をした、眼帯美少女が佇んでいる。

 この光景を目と脳裏に焼き付けた俺は、そのまま彼女を置いて扉を閉め、リビングへ。

 

 そして、リビングに居るつーに向けて一言。

 

 

「ヤバい。俺の部屋に咲さんが居るんだけど!?」

「落ち着けばーか」

「落ち着け? 落ち着けるわけないでしょ!? 無理だってこんなの!」

 

 

 何度でも言うが、俺は普通の男子高校生だ。

 仲のいい女子が自分の部屋に居る。なんならそこでしばらく生活をする。

 

 無理だ。冷静になんてなれるはずない。

 

 

「どうしよう!? 俺どーすればいいの!?」

「押し倒せ。自分の女にしてしまえば、下手に照れることもねーだろ」

「おいコラ男子中学生! その情報はお前の年齢に開示されてない!」

「兄さんの年齢にだって開示されてませんけどぉー? なんで兄さんは知ってるんですかぁー?」

「俺はお兄ちゃんだからだ! お兄ちゃんは凄いんだぞ!」

「そりゃあ兄さんは凄いけどさ!」

「そうだろう! 兄ちゃん凄いだろ!」

「おう! すっげぇ凄い!」

「「……………………あれ?」」

 

 

 何やら途中から口論の方向性が変化してきたところで、俺とつーは正気に戻って首を傾げる。

 

 黒澤家の喧嘩は、発生こそするものの毒にも薬にもならないようなものが殆どなのであった。

 

 

 



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42.可愛くなる努力

お待たせしてすいませんでした。ようやく時間が出来たので、リハビリしながら少しづつ再開していきます。


 

 

「……咲さん。ごめん」

「……どうしたの急に」

「なんか、色々と」

 

 

 自分の部屋にて荷解きをしている咲さん。その中に置いてあったシャンプーとボディーソープを見て思わず胸を撫で下ろしていた。

 昔、恭介の家に泊まった時の話だが、恭介は髪も体も顔も全て固形石鹸一つで洗っていた。

 精神的にしんどい思いをしている人間は、身の回りに無頓着になりやすいという話は親父から聞いていた。実際問題咲さんは服を殆ど持たないなど当てはまっていたが、シャンプーなどは使ってくれているようで安心した。

 

 が。

 

 

「……リンスやコンディショナーは?」

「無い」

「……洗顔フォームは?」

「無い」

「……化粧水や乳液は?」

「無い」

「……自前のドライヤーは?」

「無い」

 

 

 そりゃあ髪も痛むなと一人納得する。よくよく見てみれば、彼女が持ってきたシャンプーは男物の安物。せっかく綺麗な色をしているのに。というか、洗顔フォーム使わずにこの肌のツヤハリは凄い。

 しかし、俺の目の前でその辺を疎かになどさせない。

 

 

「よし、とりあえず今日はしーの使って下さい。使い方が分からなかったらしーに教えて貰って下さい」

「構わない」

「構うよ。せっかく綺麗な髪の色してるのに蔑ろにしたら。きちんとお手入れすればもっと可愛くなるのに」

「……別に、誰にでも可愛いって思われたいわけじゃない」

 

 

 どこか不貞腐れたように顔を背ける咲さん。

 俺は床に腰を下ろしていた彼女の隣にしゃがみこみ、彼女の髪の毛をひと房持ち上げてみせる。

 

 

「じゃあ、俺は?」

 

 

 自分でも、鳥肌が立つ言い方だ。仕草といい言動といい、相手が相手なら彼女も冷たい目線を投げかけるのだろう。

 でも、今彼女の目の前にいるのは、俺。

 

 

「……自惚れ奏くん」

「あれ、そうなの? いやぁ、てっきり……」

「……間違いじゃ、ない」

 

 

 ふいっと顔を逸らし、自分のカバンを覗き込むように俯く咲さん。

 分かりやすい反応に少しだけ笑みが溢れてしまう。こんなの、勘違いするなという方が無理な話だ。

 

 そして恐らく、いや間違いなくこれは勘違いなんかじゃない。

 

 

「そういうわけだから、きちんとお手入れ頑張っていこう! もっと可愛くなろう! って言っても、俺は女の子のオシャレにあんまり詳しくないから……それこそしーに教えてもらうことになるかな?」

 

 

 そんな自分の邪な考えを払うように、よっこいせと立ち上がり、そのままリビングに居るであろうしーに事情を説明しよう……と扉に向かったところで、バァン! と勢いよく開かれた扉。

 

 

「咲さん! こんにちは!!」

「あっぶな……おい、しー。扉はゆっくり開けなよ?」

「はーいっ! 今日からしばらくよろしくお願いします!」

「え、あ、いや、こちらこそよろしくお願いします」

 

 

 相変わらずのしーの勢いにタジタジの咲さんに苦笑いしていると、床の上に置かれたシャンプーを見かけたしーがんー? と首をひねり、咲さんの横にしゃがむ。

 両手にそれぞれシャンプーとボディーソープを持ち、交互に見比べたしーは、そのまま咲さんの顔を覗き込む。

 

 

「…………えっと、栞ちゃん?」

「…………咲さん。今日は私のシャンプーリンス諸々使って下さい。こんなもん使っちゃダメです。かな兄、明日私が言ったシャンプーとか買ってきて」

「おう。ハナからそのつもりだ」

 

 

 こんなもん呼ばわりしたシャンプーとボディーソープを取り上げ、胸の前でばってんを作るしー。

 流石の咲さんも困惑顔でしーを見上げる。最近、咲さんの表情がだいぶ豊かになってきて俺としては非常に喜ばしい。喜怒哀楽はどれも欠けちゃダメな大切な感情だ。しっかり育んでいこう。

 

 それじゃ、これは没収です! と先後に大きく言い残したしーは、そのままばびゅんと俺の部屋から立ち去って行った。相変わらず行動の全てが騒がしい妹だと笑う。

 

 

「ま、しーもああ言ってるし、遠慮しないでよ」

「……前から、思ってたけどさ」

 

 

 ふと、しーが出て行った扉を眺めていた咲さんが、そのままの体勢でぽつぽつと呟き始めた。

 

 

「栞ちゃんって……可愛いね」

「うん、そうだね」

「自信満々に言うね……」

「そりゃまぁ、兄バカだって言われてもおかしくないとは思うけどさ……アイツはさ、可愛くなる努力をきちんとしてるんだよ」

 

 

 朝。毎朝少し早起きしてランニングを15分。

 朝ごはんをしっかり食べて、洗顔と保湿をしっかりと。髪の毛弄って、バッチリ決めて学校へ。

 学校が終わって帰ってきたら、しっかり晩御飯を食べて軽く筋トレ。風呂でのスキンケアも忘れない。

 夜更かしはしないように、10時になったらぐっすりと。少ないお小遣いは、自分の身だしなみに使う。

 

 

「そんなの、可愛くなるに決まってるよ」

「……なんで?」

「自分が可愛いと、気分が上がるからだってさ。モテたいとかじゃないあたり、しーらしいよ」

「……私も、あぁなれるかな」

「なれるよ。咲さんは、努力できる人間だから」

 

 

 ……じゃあ、ちょっとだけ、頑張ってみる。

 

 そう言った咲さんは、いつもより少し、可愛く見えた。

 



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43.可愛くなる努力要らないんじゃない?

 

 

「……」

「……」

 

 

 ぼっけぇ見られてる。

 

 風呂上がりの咲さんと俺。特にすることも無かったので二人で並んでソファに座ってテレビを見ていた……が、咲さんはテレビには目もくれず、じっと俺の横顔を見つめてきていた。

 風呂上がりぽっかぽかの咲さん。しーからシャンプーリンス等々を借りて使い方の指導、更にはスキンケアにドライヤーまでバッチリな咲さん。

 

 正直、可愛すぎて顔を合わせられない。

 

 今更ながら、湯上りの異性の同級生が手を伸ばせば届く距離にいるというだけでもうかなり真面目にやばい。

 

 

「……あの、咲さん。そんなに見られると恥ずかしいのですが」

 

 

 堪らず俺は咲さんの方には目を向けずに、寧ろ反対側に顔を背ける。

 後頭部に突き刺さる視線を感じる。咲さん以外にも、仕事終わりの1杯を楽しむ親父やその親父の子守りを立派にこなしているつーの視線などなど。

 

 

「……今日、シャンプー頑張った」

「…………ん?」

 

 

 唐突。

 

 咲さんの言動は割と脈絡が無く話の繋がりが見えてこないことが多いが、今回もその例に漏れず頑張った報告。

 脳が理解する前に、きゅ、と服の裾を引っ張られる感覚。この場で引っ張る存在など、1人しか居ない。

 

 

「生まれて初めてリンスとコンディショナー使った」

「……はい」

「体も、なんかモコモコの泡が作れるので洗った」

「…………ハイ」

「湯船に浸かって温まった後で、洗顔した」

「……………………」

「栞ちゃんから借りた化粧水と美容液と、あと乳液も付けた」

「…………えっ、と」

 

 

 咲さんがどんな思いで自分の風呂での行動を口にしているのかは、既に察してしまった。

 

 しかし、まぁ。

 

 ここはリビング。家族団欒の場で。これまでみたいに2人っきりという訳では無く、俺の家族が見ている場で。

 

 

「……私、頑張って、可愛くなろうと、してる」

「…………」

「……私、多分、さっきより、可愛くなってる」

 

 

 天を仰ぎ、両手で顔を覆った。

 

 まず一つ。俺は今非常に感動していた。

 あれほどまでに自分に無頓着だった咲さんが、これほどまでに自分の身なりに気を使おうと気を吐いていることに。咲さん、休みの日に昼食抜くとか平気でしようとしてたし、私服なんて持ってなかったのだ。大きな進歩だ。

 

 そして、もう一つ。

 

 ──流石に言動が可愛すぎて口元がにやける。

 

 

「……あの、ですね。咲さん。その、俺もね? お風呂上がりの咲さん可愛いなーとは思ったり、している、訳でして」

「うん」

「でもー、そのー、ですね? あの、貴方様の後ろにですね? 俺の最愛の弟と、プリン体ゼロとか健康気にしてるんだか気にしてないんだかよくわかんないやっすい発泡酒しか楽しみのない、仕事終わりの親父が居るんですよ」

「つーと俺の差酷すぎだろ」

 

 

 何やら外野からヤジが飛んできたが、全て無視。

 俺の様子のおかしさに首を傾げた咲さん。ここまで言っても分からないのなら、もう素直に口にするしかない──観念するしかなかった。

 

 

「その、つまりですね……恥ずかしいんですよ」

 

 

 このカミングアウト自体に羞恥を感じてしまっている俺は、自分の膝に肘を置いて頬杖。

 申し訳ないが、余計咲さんの顔が見れない。なんだかんだ咲さんに対しては恥ずかしい言動をしてきた自覚はあるが、流石に家族が直視している前でする勇気は無い。

 

 

「……良かった」

 

 

 そういう意味では、彼女はある意味図太いのだろう。

 俺が恥ずかしがっていることも、俺の家族が後ろに控えていることも気にせず、彼女はほっと胸を撫で下ろしていた。

 

 

「ちゃんと、可愛いんだ」

 

 

 ふふっ、と頬を緩める咲さん。

 

 思わず彼女の微笑みを直視してしまった俺は……ゆっくりその場から立ち上がり、親父とつーが座るテーブルに相席する。

 親父がツマミにしてたコンビニのタコの唐揚げを一つ強奪し、口に運ぶ。タコの確かな歯ごたえと香ばしい香り──こんな時、もう少し歳をとってたら酒の1杯でも流し込んでいたのだろうか。

 

 

「……」

 

 

 最早何も喋れなくなってしまった俺は、味が薄くなりつつあるタコの唐揚げを無限に咀嚼する。

 むぐむぐ、と口を動かしながら、耐えきれなくなった俺は熱くなっていく頬を隠すように机に伏せる。

 ぽん、と隣に座るつーが俺の背中を撫で、ぽん、と対面に座る親父が俺の頭に手を置いた。

 

 

「……天然たらしクソボケ兄貴が返り討ちに合うことなんてあるんだな」

「まぁ、その……黒澤家の男は尻に敷かれる運命なんだ。気にするな」

 

 

 普段なら煽りの一つでも入れてくるはずの親父とつーから慰められた俺は、ごくりとタコの唐揚げを飲み込む。

 

 美味しいな、タコの唐揚げ。

 

 

「……あの、奏くん……?」

「あー、咲さん。気にしてやんな。咲さんが可愛すぎておかしくなりかけてるだけだから」

「そうですか……なら、よかった」

「……すげぇ」

 

 

 思わずつーがボソリと呟いたその一言が、全ての結論であった。

 

 

「おっふろ上がったよー! ……ってあれ? なにこの状況」

「お、しーいい所に。ちょっと咲さんと部屋で遊んできなさい」

「りょーかーい! 咲さん咲さん、恋バナしよ恋バナ!」

「へ、ちょ……わー…………」

 

 

 きゃー!! と無駄にテンションを上げたしーに連行されて行った咲さんを見送った俺たち。

 

 

「……あれは、苦労するな……色んな意味で」

「頑張れよ」

「アイ……」

 

 

 未だに頬の熱が引かない俺は、机に突っ伏したまま力無く返事するしか無かった。

 

 

 



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44.寝落ち通話

 

 

 

 あの後──何故か頬を真っ赤にして戻ってきたしー。

 どんな話をしたんだ、と尋ねてみると「かな兄、頑張って……」と珍しく元気無く答えられてしまった。

 

 ──咲さん、どんだけ惚気けたんすか。

 

 思わず得体の知れないものを見る目で咲さんを見下ろしてしまったが、当の本人はどこか満足気に鼻を鳴らすのみ。

 後でしーをフォローするとして、もう既に時刻は10時半。

 しーは既に船を漕ぎ始めているし、つーもどこか眠そうだ。そして、俺も正直眠たくなってきた。

 

 

「くぁ………眠い」

「……まだ10時半」

「いつも11時位には寝るからね……咲さんは、まだ大丈夫そうだね」

「今日はまだ眠くない」

 

 

 実際咲さんのお目目はぱっちり。布団に入ったとしても寝れないだろう。

 我らが黒澤家は夜に弱く朝に強い。皆基本的に日を跨ぐまで起きられないし、朝はわりとすんなり起きれる。大晦日なんてみんなうつらうつらしながら年明けの瞬間を踏み越えようとしている。

 

 読み進めていた文庫本をぱたんと閉じた咲さん。そのまま脇に置いていた2冊目の本に手を伸ばす。

 

 

「そういえば、咲さんはいつも何時くらいに寝てるの?」

「分からない」

「……」

「いつも気がついたら寝てる。2時とか、3時とかだった覚えはある」

「咲さん。寝よう。早寝早起き頑張ろう」

 

 

 問題を1つ片付けたと思ったらまた出てくる問題。

 流石に一日の睡眠時間が6時間未満なのは見過ごせない。寝ないなんて論外──食にも無頓着で睡眠も短い。彼女が小柄で細身だった要因の一つだろう。

 

 

「……やだ」

 

 

 珍しく、明確な否定の言葉が咲さんから飛び出した。

 有無を言わさぬその態度に、少しだけ面食らってしまう。なんだかんだこれまでは傾聴はしてくれていたので、本当に驚いてしまった。

 

 

「い、や……寝なきゃダメだよ。身体にも悪いし……」

「やだ」

「……なんでか、聞かせてもらってもいいかな? 話せるなら、だけど……」

 

 

 このままでは埒が明かないと、俺はアプローチを変えていくことにした。

 咲さんは2冊目の文庫本を読み進めようとしていたが、ぱたんと閉じて顔を上げた。

 

 

「……怖い。寝るのが。起きるのが」

 

 

 ぽつり。一言。

 

 普通なら、可愛らしいとか微笑ましいとか、そういう感想が出てくるのだろう。実際、しーとつーが5歳くらいの頃に、夜が怖いと俺の布団に潜り込んできた時は、尊さでどうにかなりそうだった。

 しかし──眼帯の紐が切れてしまった時のように、今にも泣き出してしまいそうな表情で言われてしまったら、そんなこと、できるわけもない。

 

 そして何より──起きるのも、怖い。

 

 咲さんが咲さんたらしめる、その一端なのだろう、睡眠が。

 

 

「……怖い、か……じゃあさ、寝落ち通話でもする? ついでにモーニングコールもしてあげるよ」

 

 

 ──ここで俺が取れる選択肢はいくつかあった。

 これは後になって痛感したのだが……この時の俺のこの選択肢は、紛うことなきパーフェクトコミュニケーションだった。彼女との長い付き合いの中でも、会心の返答だった。

 

 

「……同じ屋根の下なのに?」

「ほら、一人になりたい時ってあるじゃん……ね?」

 

 

 ぱちこり、と左目でウインクしてみせる。

 それだけで察したのか、咲さんはあぁ、と声を零した。

 

 

「……まぁ、やるだけやってみようよ」

「……それくらいなら。私が寝そうに無かったら、先に寝ても良いから」

「はいよ」

 

 

 ──という会話をしたのが、およそ20分前。

 この後俺と咲さんは寝る支度を終わらせて、咲さんは俺の部屋へ、俺はしーとつーの部屋の使ってないベットに寝転んだ。

 

 しーとつーは既にすっかり夢の中。抱き合って眠る2人を起こさないように小声で話さなければ……と、布団の中で通話を始める。

 

 

「もしもし……聴こえる?」

『うん、聴こえる』

 

 

 ワイヤレスイヤホンから聞こえてくるひそひそ声。

 寝転んでいるからだろうか、すこし普段とは違う声色の咲さんの声。

 

 どきりと胸が高鳴るが、軽く咳払いで追い払う。

 

 

「布団大丈夫? 寝にくかったりしない?」

『問題ない。部屋中から奏くんの匂いがするくらい』

「……あ、そっすか……」

『大丈夫。いい匂い。落ち着く』

「あ、りがとう……」

 

 

 相変わらず、狙ってるのか素なのか(おそらく素)分からない咲さんの殺し文句。

 動揺するな、寝れなくなるぞと自分に気合を入れてリラックス。なんだか矛盾してるような気もするけど、気にしたら負けだ。

 

 

「さて、と……寝落ち通話ってのも難しい話だけどさ、取り敢えず咲さんは本読まないでね? で、目を瞑って……俺の声に意識を集中してね?」

『……』

「大丈夫。怖くなったら、こっちの部屋に来て起こしてくれたっていい」

『……じゃあ、信じる』

「ありがとう、咲さん……じゃあ、まずはゆっくり、息を吸うところから」

 

 

 木谷くんが最近ハマっていると言うASMR。前聞いたそれみたいな感じで、ゆっくりと寝かしつけるように。

 

 

「ゆっくり、すって……苦しくないくらいまですってー……肩の力を抜きながら、ゆっくり、はいてー……うん、

上手。もう一回……すってー…………今度は、おなかの力を抜きながら、はいてー……」

 

 

 こうして、全身の力を抜いていくように呼吸するよう指示をしていく……と、俺の呼吸の指示無しで聞こえてくる、彼女の呼吸音。

 ん? と首を傾げていると……やがてそれは規則正しいゆったりとしたリズムになった。

 

 

「…………咲さん?」

『…………すぅ…………すぅ…………』

 

 

 ──寝た!? 寝るの怖いとか言ってたのに、こんなあっさり!?

 

 思わず叫びそうになってしまったが、折角寝た咲さんも隣で寝るしーとつーを起こす訳にもいかない。

 

 釈然としない気持ちを抱えたまま通話を切ろうとして──何となく、そのままにしておき、目を閉じた。

 

 明日の起床予定は6時半から7時。咲さんより早く起きてモーニングコールをするために、さっさと眠ることにした。

 

 

 



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45.モーニングコール

息抜き作品投稿してました。よろしければ息抜きにどうぞ。

https://syosetu.org/novel/327171/


 

 むくり、とアラームも無しに目が覚めたのは6時。

 隣のベッドですやすや眠るしーと、しーに布団を持っていかれ寒そうに震えるつーの姿を確認。

 軽く伸びをしてベッドから降りて、自分が使っていた布団をつーに被せる。

 

 さて、今日も一日頑張ろう──そう思いながらスマホを付けようとする。

 

 

「ん? 通話中…………あー、そうだった」

 

 

 通話中になっていた画面を見て、昨日の出来事を思い出した俺。

 7時間近い通話時間。寝る時に外していたワイヤレスイヤホンを付け直して音声を聞いてみると、未だに聞こえてくる穏やかな寝息。

 

 スマホを持った俺はそっと部屋から出て、誰も居ないリビングへ。お袋もそろそろ起きてくるだろうが、今は1人きりだ。

 

 

「……起こそうか、どうしようか」

 

 

 モーニングコールする、という話は昨日したが、時間については『奏くんが起きた時にして』と言われていた。

 しかし、一般的には早い時間であるこの時間。ここまですやすやと寝ているのを起こすのも忍びない。

 

 

『…………んっ…………んー…………』

「…………これ、心臓に悪いな」

 

 

 許可が出ているとはいえ、同級生の寝息を聞いているというのは流石に年頃の男子高校生には刺激が悪い。

 

 ──起こすか。起こせって言われてたし。

 

 優しさと約束を天秤にかけて約束を取った俺は、コップに1杯水を入れて一気飲み。そして、んんっ、と軽く咳払い。

 あーあー、あめんぼあかいなあいうえお、と滑舌チェック。

 

 

「さーきーさーんっ。おっはよー。朝だよー」

『…………んー…………んぁ…………かなで、くん…………?』

「うん。君の友達の奏くんだよー。よく眠れたかな?」

『…………うん』

「準備できたら、リビングに来なよ。待ってるから」

『…………わかった…………おはよう…………』

 

 

 ぽろん、と電子音を立てて通話が切れる。

 暫く沈黙したスマホを眺めていたが……朝ごはんの準備でもするか、とスマホをポケットにしまって鍋に水を張る。味噌汁でも作っておこう。

 弁当用の卵焼きとウインナーもついでに焼いて……野菜は作り置きのきんぴらごぼうでも入れればいいか、と鍋に顆粒出汁を入れながら思考を働かせる。

 

 ──寝起きの咲さんの声、めっちゃぽやぽやだったなー。

 

 なんて惚けた考えが、寝起きの頭を支配する。咲さんめっちゃ声可愛い。

 ふんふふん、と気分よく鼻歌を歌いながら鍋にわかめと切ったネギ、豆腐を入れる。後は味噌を溶かして完成だ。

 

 お玉にすくった味噌を少しずつ溶かしていると、とてとてという家族のものでは無い足音。

 

 

「…………いい匂い」

「おはよう、咲さん。よく寝れた?」

「…………うん」

 

 

 まだ若干眠いのか、目が開き切っていない咲さん。そのままこちらへ寄って来たかと思うと、俺が使ったばかりのコップを手に取る。

 使っていい? と聞かれたので洗ってからならと答える。こくり、と頷いた咲さんは丁寧に洗剤で洗った後、1杯分の水をくぴくぴ飲む。

 

 

「……こんなにぐっすり寝たの、久しぶり」

「そう? なら良かった」

「……なんか、奏くんの声聞いてたら、凄い落ち着いた。寝ても大丈夫って、思えた」

「…………へぇ。あ、味噌汁味見してみる?」

「…………ん」

 

 

 小皿にすくった味噌汁を手渡す。ふぅふぅと息を吹きかけて冷ます咲さんを眺めながら、ひとり安堵する。

 自分の選択肢が間違っていなかったこと、咲さんが安心して眠れたこと、これで咲さんの健康状態がさらに上向くだろうということ。

 

 健全な魂は健全な肉体に宿る。更に1歩前進と言って間違いないだろう。

 

 

「…………美味しい」

「ん、良かった。じゃあ味噌汁はこれで完成っと。後はー……」

「……何か、手伝わせて」

「んー……じゃあ、みんなの分の飲み物お願いしていいかな? 親父がブラックコーヒー、俺とお袋がカフェオレで、しーとつーは牛乳ね」

「……分かった」

 

 

 戸棚にあるマグカップを出してもらい、どれが誰のマグカップが指示していく……所で、咲さんのマグカップが無いことに気付いた。

 ちょっと待っててね、と戸棚の奥から使われていないマグカップを取り出す。

 

 

「これ、取り敢えず咲さんの」

「ありがとう……何飲もう」

「一応、紅茶やココアもあるけど……」

「……奏くんと、同じのにしよっと」

 

 

 キッチンに置いていたインスタントコーヒーの蓋をパカリと開けた咲さん。

 ううん、悩んだ挙句わざわざ奏くんと同じのにしよっと言う……あざとい。可愛い。

 

 朝から既にもう幸せになりつつある。今日が最高の一日になる予感を感じながら、俺は冷蔵庫の中身を確認する。

 

 

「あら、咲ちゃんおはよう! ありがとうね、手伝ってくれて!」

「おはようございます、お母様」

「あらあら、まだ気が早いわよー。奏もおはよう。ありがとね」

「ん、咲さんおはよう」

「ふぁあああぁ…………おはよー…………ございます」

「おっはよーございます! 咲さん」

 

 

 やがて、数分後に起きてきたお袋と、その後に起きてきた親父やしーやつーと共に、テキパキと朝食の準備。

 

 俺の家族に囲まれて居る咲さんを眺めて、なんだか心の奥が擽ったかった。

 

 

 



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46.バレちった

 

 

 ──さて、あたり前田のクラッカーだが、この後俺と咲さんは登校する。

 俺の家に咲さんが寝泊まりするという話は誰にも共有していない、し……するつもりもない。変に詮索されるのも嫌だし。

 まぁ、俺たちが言いふらさなければ誰にもバレることは無いはずなのだ。元々毎朝並んで登校してるし、そもそも住んでいるマンションが同じなのだ。もし仮にバレるとしたら、それこそ俺と咲さんが同じマンションの一室から出てくる瞬間を目撃されるくらいだ。

 

 ──そう、バレないと、思い込んでた。

 

 

「……ん?」

 

 

 お昼休み、空き教室。いつも通り俺と咲さんと赤嶺さんの3人でお昼ご飯。

 

 そんな中、焼きそばパンを頬張ってた赤嶺さんが、俺と咲さんの弁当に目を向けた。

 俺の弁当箱、咲さんの弁当箱。俺の顔、咲さんの顔とみて……ふむ、と一言。

 

 

「…………黒澤。お前信濃の弁当作ってんのか」

「んぐっ」

 

 

 忘れていたのだ。赤嶺という人物が良くも悪くも天才であるということを。

 思わぬ指摘に思わず咳き込みかけてしまう。慌てて水筒のお茶をくいっと飲み、事なきを得る。

 咲さんは相も変わらず一心不乱にお弁当(生産者:お袋、俺)を食べていた。美味しそうに食べてくれて嬉しい限りである。

 

 

「……まぁ、ね。たまーにだけど」

 

 

 大ボラ吹いた。毎週遊びに行くたびに作ってるし、今朝なんか朝ごはんまで食べさせてる。

 でもほら、嘘は言ってない。作ってあげてることは否定しなかったし。

 

 

「違う。毎週作ってもらってる」

 

 

 しかし、そんな俺の思惑は信濃咲という可愛い存在によって木っ端微塵に吹き飛んだ。

 ため息をグッと堪えた俺は、対面に座る咲さんの肩に手を置いた。

 

 

「…………咲さん。これから人の言葉の裏に隠された意図を読み取る練習をしよう。はてさて問題だ。俺は何故事実を隠そうとしたでしょうか?」

「恥ずかしかったから。別に赤嶺さんなら気付いてもおかしく無いし、私は問題ない」

「んー……んんー…………んー!」

 

 

 意図を読み取った上で無視をされているのは完全に想定外だった。コミュニケーション能力は確かに足りていないけど、決して基礎スペックが悪い訳じゃないからできない訳では無い。

 

 1人悶えていると、そんな俺たちを見てニヤニヤと笑みを浮かべる赤嶺さんが口を開いた。

 

 

「いいか信濃。みんながみんなお前みたいに感受性が乏しい訳じゃあないんだ。些細なことをうじうじ気にして、夜寝る直前に1人で反省会しちまうんだよ」

「成程。奏くんはしっかり反省する人だし……赤嶺さんは毎晩ぐっすり眠ってそう」

「そうそう……おいこら」

「事実」

「だなぁ」

 

 

 ケラケラと笑う赤嶺さん。小さく笑う咲さん。咲さんの笑顔は可愛いなぁ。

 笑っている内容が自分たちのコミュニケーション不足なのが笑えない。というか、2人とも仲良いね。そして赤嶺さん、しれっと俺をディスったね。

 

 

「はぁ……確かに俺は気にしすぎるきらいがあるけどさ……」

「実際気にしすぎだと思うぜ? 人は思ったより自分に対して興味無いもんだぜ?」

「それは赤の他人に対してでしょ……自意識過剰だけど、俺に興味津々じゃん」

「まぁな。面白いし」

 

 

 何が面白いんだよ、と心の中で小さく呟く。俺は一般的な男子高校生だ。

 ……いや、この2人と関わっている時点で、そうとは言えないのだろうか? 申し訳ないが、咲さんにしろ赤嶺さんにしろ、様々な面で逸脱してしまっている。

 

 退屈はしないだろうな、今後の高校生活。と今更ながら感じていた。入学してまだ2ヶ月だが、かなり濃く刺激的な毎日を送っている。

 

 

「……奏くん。お母様から。今日スーパー卵が特売」

 

 

 と、ここで何やら通知が来ていたスマホを見ていた咲さんがそんなことを呟いた。

 ここで俺が考え事さえしていなければ、まだここからどうにでも──ならない気もするけど──なったのだが、俺にそんな余裕は無かった。

 

 

「ん、あー……おひとり様1パックのやつかー。そうだね、帰りによっ、て……………………」

 

 

 自らの失態に気付き、言葉を失う俺。あ、と小さく言葉をこぼした咲さん。

 そして、本当に……本当に面白そうなものを見つけた子供のように目を輝かせる赤嶺さん。

 

 次の瞬間、口を三日月のようにゆがませた赤嶺さんが、俯いた俺を覗き込んできた。

 

 

「くろさわぁ? しなのぉ? 何お前ら、同棲してんの? なんで黒澤のお母様から信濃に連絡あんのよ? えぇ?」

 

 

 もうダメだと、喜色に染まった赤嶺さんの声色から察する。もはや誤魔化しも惑わしも戯言も通用しなくなってしまった。

 

 

「まじほんと何でだよ…………あーもう、全部話そう、もう! しゃーねぇ! 咲さんの伯父さんが出張で居ないから、帰ってくるまでウチに来てもらってるの! 女の子一人だと危ないから!」

「はへー、成程成程……カッコイイねぇ」

「もちろん。奏くんはカッコイイ」

 

 

 ふんす、と謎に胸を張る咲さん。いや本当になんで?

 

 この後、赤嶺さんに絶対に他の人に言いふらさないよう頼み込んだが……特に何も詮索することなく、案外あっさりと承諾してもらったことが救いだった。

 

 お袋には通話アプリでしっかりと言い聞かせた、が……「どんまい」スタンプ一つで済まされ、流石にやり場のない怒りが身を焦がした。

 

 

 

 



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47.地雷

【宣伝】
友人が作成している作品がアルファポリス様で連載開始しました。よろしければ見てやって下さい。

誰何の夢から覚める時
https://www.alphapolis.co.jp/novel/747400081/429834135



 

 

 さて、事の発端は咲さんが家に泊まり始めてから1週間が経った土曜日の事だった。

 

 本来であれば図書館デートのために準備を済ませているはずなのだが、暫く雨が酷いと天気予報のお兄さんが言っていた。

 流石に天気が悪いのに態々外に行くのもどうなのかという話になり、昨日のうちから今日は家で過ごそうと決めていた。

 

 というわけで、俺は部屋着。咲さんは服が無かったので学校指定のジャージを着ていた。

 

 

「……暇だなぁ」

「…………そう」

 

 

 真面目な学生を演じている俺と、単純に学力が高いから時間が掛からない咲さん。課題なんてものは金曜日の夜に全部終わらせている。

 結果、ソファでダラダラしている位しかやることが無くなっていた。それは咲さんも同じ。

 

 ただ──咲さんの様子が、少しだけおかしかった。

 

 兆候自体は3日前ほどからあったのだが、日が進むにつれ考え込むことが増え、ぼーっとすることが増えていた。それだけならいいのだが、顔が強ばっているし眉間に皺を寄せている。

 

 どうしたのか、と思いつつも触れられずにいた、土曜日の昼下がり。

 

 

「……梅雨って、やだよね。洗濯は乾かないし、外には出られない」

「……気分もへこむ」

「早く梅雨明けしないかなぁ……夏の方が好き。誕生日近いし」

「……誕生日」

 

 

 ──何やらピクリと反応した咲さんに、おや? と思わず視線をそちらに向ける。

 そう言えば、咲さんの誕生日を知らなかった。最初の自己紹介の時も、誕生日については言及していなかった。

 

 

「そう言えば、咲さん誕生日いつ? 俺は7月13日」

「……………………明日」

「……………………………………え」

 

 

 さらり、と告げられた事実に目を見開く。

 明日。日曜日。誕生日。16歳の、誕生日。

 

 

「ほんとっ!? じゃあ、お祝い──」

「──いらない」

 

 

 ──浅はかだと笑って欲しい話だが。

 

 俺にとって誕生日とは、正真正銘のお祝いであり、その人が産まれてきたこと産まれてきてくれたことを感謝し祝う事が当然だと思ってきた。

 

 だからこそ、我が家では誕生日はやはり特別で、大切で、尊いものだった。

 

 ──それが咲さんにとっても同じだと、思い込んでいた。

 

 

「……え」

 

 

 最近和らいでいた態度が豹変し、まるで出会った時の頃のような──いや、それ以上の冷たさを孕んだ声。

 それに思わず息を飲む。

 

 そんな俺の様子を見て、しまった、とでも言わんばかりに顔を青くした咲さんだったが……ふいと顔を逸らし、そのままソファから立ち上がる。

 

 

「……ごめん。ちょっと、部屋に行く」

「……う、ん……こっちこそ、その……ごめん」

「……奏くんは、悪くない」

 

 

 俺にとって幸いだったのは、俺に背を向けての咲さんの声色が柔らかくなっている事だった。

 すたすたと立ち去っていく咲さんを見送った俺は、深いため息とともにソファに1人で寝転ぶ。

 

 ──こんなところに地雷があると思わないじゃん。

 

 誰に言い訳するでもなく、俺は心の中で小さく呟いた。

 

 

「……これ、俺、どうするべきだ?」

 

 

 正直──踏み込んでいいのかどうか、分からなくなっていた。

 明らかにあの反応は──左眼と同等か、それ以上に大きな何かを抱えている。

 

 左眼の件は、偶然たまたまパーフェクトコミュニケーションができて、それ以降俺が一切触れていないからどうにかなっているだけで──例えば今から眼帯引っぺがしたりしたら、咲さんは本当に終わる。俺との関係だけでなく、心が。

 

 それと同じくらいの見えてしまった地雷となると──流石に、困る。

 

 

「あー……手段自体は、ある、けどさぁ」

 

 

 途方に暮れていた時、スマホに来ていた連絡──賢治さんからの連絡を見て、悪い考えが過ぎる。

 

 簡単だ。今賢治さんに聞けば完全解答がすぐに得られる、が……啖呵をきった手前、はばかられる。

 

 

「はぁ……なになに……賢治さん、遅いよ…………」

 

 

 賢治さんからの連絡はずばり、『明日は咲の誕生日なのだが、本人は触れてほしくないから話を振らないで欲しい』というものだった。

 流石に賢治さんに『すいません。話の流れで振っちゃいました』と連絡すると、既読が着いた瞬間に鳴り響く着信音。相手は当然、賢治さん。

 

 

「すいませんでした」

 

 

 通話を開始すると同時の謝罪。しかし、謝らないでくれと焦った様子の賢治さんに声をかけられる。

 

 

『……これに関しては伝えてなかった私が悪かった。本当にすまなかった……どうだった、咲は』

「……一瞬だけ、出会った時みたいに冷たい態度で、お祝いはいらない、と。今は使ってもらってる部屋に帰ってます」

『……その程度、なのかい? 以前は、話を振られるだけで泣き出していたんだがな……』

 

 

 ……喉の奥まで出てきた、「何があったんですか」という言葉を無理矢理飲み込む。

 尋常ではない。何があったらそんな状態になるんだ。PTSDとか、そういう話じゃないか。

 

 言葉に詰まっていると、電話の向こうの賢治さんが、気合を入れたように、よし、と呟いた。

 

 

『……済まない。少し咲と話してくる……奏くん。私は……君を信じるよ』

「え、あ、ちょっと…………切れちゃった」

 

 

 通話が終わったスマホを握り締め、途方に暮れる俺。

 結局、自分の部屋に咲さんがいる都合上リビングに居るしか無くなった俺は、今日一日寝るまでをリビングで過ごすこととなった──リビングにゲーム機と勉強道具を置いておいて良かったと、割と真面目に考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──その夜。

 

 

「──奏、くん」

 

 

 晩御飯を食べ風呂に入り、何処かぎくしゃくとした雰囲気に気付いているはずなのに触れてこない家族に心の中で感謝しつつ、もう寝ようかと考えていた時。

 昼から最低限の会話しかしていなかった咲さんから、不意に話しかけられた。

 

 

 

「話が、あるの……2人きりで、話したい」

「……へ」

 

 

 いつもより真剣さを感じさせる咲さんの表情は怯えきっているようにも──覚悟を決めているようにも、見えた。

 

 

 



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48.私の名前は

 

 自分の部屋に入ることに緊張するなんてこと、基本的には無い。

 世界で一番安心できる場所で、自分のために存在している場所。そこに足を踏み入れることはごくごく当たり前で、何かを意識するなんてことは無い。

 

 だけど、今。

 

 自分の名前が書かれたネームプレートがぶら下がる扉の前。俺は立ち尽くしていた。

 

 現在時刻、11時半。早寝早起きを信条に掲げている俺にとって、普段ならもうとっくに眠っている時間だが、眠気なんてものが入る隙間がないくらい、これから起こるであろう出来事に身構えていた。

 1つ、大きく深呼吸した俺は、ノック3回。

 

 

『……どうぞ』

 

 

 中から聞こえてきた声に従い、扉をゆっくりと開ける。

 見慣れた勉強机。相棒とも言えるエレキギター。趣味や勉強で埋め尽くされた小さな本棚。お気に入りの服が沢山入ったクローゼット。そして、ベッド。

 

 何もかも俺の部屋の筈なのに、ベッドの上に座る咲さんのせいで、圧倒的なアウェイ感。

 

 

「……顔、強ばってる」

「そうかな……いや、そうだね、うん」

「……座ってよ」

 

 

 ぽんぽん、と咲さんが叩くのは自分の隣。椅子に座ろうかとも考えたが、咲さんが──覚悟を決めたかのような目で俺を見つめるものだから。

 よっこいせ、と咲さんの右隣に腰を下ろす。拳一個分の隙間は、この2ヶ月で詰めてきた距離。

 

 

「……昼はごめん。酷い態度とった」

「それは……俺のほうこそ」

「謝らないで」

 

 

 ごめん、と口にしようとしたところで咲さんが遮る。

 

 

「奏くんは、何も悪くない。私が言ってなかったから。何も知らなかったから。なのに、あんな態度取った、私が、悪いから」

「…………分かった」

「……そう、知らないんだよ。奏くんは」

 

 

 俯き床を眺める横顔。

 これまでの咲さんには無かった、後悔するかのような、懺悔するかのような雰囲気に思わず息を飲む。

 

 

「奏くんは何も知らないのに、私のために色々してくれた。私の事を知ろうとしないでくれた。私を傷付けないために、私を救うために……私は、救われてる。今こうしている間にも」

 

 

 だけど、と咲さんはすっと立ち上がり、俺の前に立つ。

 小柄な身体だ。座った俺が少し顔を上げるだけで、ふたつとひとつが交わる。

 

 

「……私は、奏くんの優しさに、甘えてた。奏くんは、ずっと待っててくれたのに……情けなかった」

「…………咲、さん」

「……でも、今日で、終わり。話す。聞いて欲しい。他の人には、無理だけど……奏くんには、聞いて欲しい。知って欲しい。私の、全部を」

 

 

 ──私が、誕生日、大嫌いな理由。

 

 くるり、俺に背を向ける。小さい背中だ……いや、背中だけじゃない。何もかも、彼女は小さい。

 

 ──その小さな背に、両肩に。何を背負い何に呪われているのか。

 

 

「……俺、は……たとえ君の身に何が起きていたのかを、知っても……君を、幸せに、するよ。してみせる」

 

 

 そんな月並みな言葉しか言えない自分が、悔しかった。

 もっと気の利いた言葉とか、もっと彼女の自信を肯定してあげられるような言葉を彼女の心に届けたかった。

 

 だけど、俺の言葉を聞いた咲さんの両肩から、少しだけ力が抜けたのを見て……少しだけ、安心した。良かった、今の俺のぎこち無い言葉は、きちんと咲さんに届いていた。

 

 

「……やっぱり、私、奏くんに会えて──本当に良かった」

 

 

 ぱさり。

 

 

 咲さんの言葉が終わると同時に、床になにか軽いものが落ちた音がした。

 音のした方──咲さんの足元へと目を向けると、そこには──眼帯。

 

 ──がん、たい?

 

 目に入った情報を脳が理解し、それの意味を理解した俺は咲さんを見上げる。

 

 

「……咲、さん?」

「──入学式の日、奏くんに隠してもらったこと、本当に嬉しかった」

 

 

 ──咲さんの体が、こちらへ向き直る。

 

 

「何も聞かないでくれたこと、本当に助かった」

 

 

 ──咲さんの顔が、こちらを向く。

 

 

「──もう、奏くんの前では、隠さない」

 

 

 ──初めて見る、彼女の素顔。

 

 

「──察してたかも、しれないけど」

 

 

 頑なに隠されてきたその眼帯の下──まるで紛い物のように綺麗な、碧い瞳。

 

 思わず息を飲んだ俺の意識を戻したのは、他の誰でもない、咲さんの声。

 

 

「──明日は、私の誕生日──そして、色々なものを、失った日」

 

 

 ──1つ、と指を折る。

 

 

「私の、左眼」

 

 

 ──2つ、と指を折る。

 

 

「私の、両親」

 

 

 ──3つ、と指を折る。

 

 

「私の、夢」

 

 

 指折り数え、その右手をじっと見つめた咲さんは──今にも泣きそうな顔で。だけど決して、涙を流すことなく、その双眸で俺を見た。

 

 

「──私の名前は、信濃 咲」

 

 

 ──そして、彼女は語り出す。

 

 

「生まれは山梨。小学生時代まで山梨にいて──こう見えても、昔は体を動かすことが大好きだった。空手の全国大会にも出場してた」

 

 

 俺が知らない、彼女の物語。

 

 

「だけど──忘れもしない、誕生日」

 

 

 信濃 咲が、俺の知る信濃 咲になるまでの物語。

 

 

「私の人生は──180度、変わった」

 

 

 ピクリとも動かない左眼と、ぐちゃぐちゃになった感情に歪む右眼。ちぐはぐで歪になってしまった、その理由。

 

 

「──どうか、最後まで、聞いて欲しい」

 

 

 ──途中止めには、できそうにない。

 

 

 

 



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49.Unhappy Birthday

 

 

 その日は、私の誕生日だった。しかも、その日は土曜日で……お父さんもお母さんも、両方とも仕事が休みだった。優しい両親だったよ。頑張ったことをきちんと褒めてくれて、悪いことした私をきちんと叱って……ちゃんと、愛されてた。

 それで、さ。前々から私が行きたいって思ってた、遊園地に連れて行ってもらった。

 

 凄く、楽しかった。朝から夕方まで、右を見ても左を見ても、大好きなもので溢れてて、楽しいアトラクションに乗って、マスコットキャラクターに抱きついて、写真を撮って……帰りたくないって思うくらい、楽しかった。

 

 それだけでも最高の誕生日だったのに、最後にその遊園地のマスコットキャラクターのぬいぐるみまで買ってもらって……大切にするって、抱き締めながら帰りの車に乗ってた。

 

 

『お父さん! お母さん! 今日はすっごく楽しかった! ありがとう!』

 

 

 今思えば、当時の私は、凄い元気な子だった。休み時間になれば外に出てドッジボールしたり、勉強より体育の方が好きだったり、空手は楽しかったなぁ……将来は、空手の師範代とかになりたいって思ってた。

 お父さんとお母さんも、その日はずっと嬉しそうだった。本当に、幸せそうに、私を見てた。

 

 

『そっかぁ。それは良かったよ』

『ぬいぐるみ、大切にするのよ?』

『うんっ! 毎日一緒に寝るっ!』

 

 

 乗ってた車が、丁度信号に掛かったタイミングで、助手席のお母さんがこっちに顔を向けた。そのまま私の頭を撫でようとしたんだと思う。こっちに手を向けて来て、私は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──世界が、爆発したのかと、思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 凄い衝撃がして、左眼が物凄く熱くなって、身体中が痛くて、呼吸が苦しくて……ガソリンと血の匂いがした所で、私、気を失った。

 

 目を覚ました時には、病院。随分とやつれた伯父さんが、私が目を覚ました瞬間に泣き出して……何が何だか、分からなかった。

 

 

『あぁ…………よかった……咲っ…………目を覚ましてっ…………』

『…………おじ、さん…………?』

『そうだっ…………賢治伯父さんだ……っ! あれから、お前は一週間も寝たきりで…………っ!』

 

 

 ……私が目を覚ましたのは、誕生日から一週間後の土曜日。まる一週間寝たきりだったらしいの。その間、一番近くに住んでた伯父さんが毎日お見舞いに来てくれてたらしいの。昔から、優しい伯父さんだった。

 ボロボロ泣き出した伯父さんがナースコールを押して、看護婦さん達が来るまでの間に……伯父さんに、聞いた。

 

 

『おじさん…………おとーさんと、おかーさんは?』

『……っ』

 

 

 ──私、あの時の伯父さんの顔、一生忘れないと思う。

 言わなければならない、でも、どう伝えれば私を少しでも傷付けずに済むか……そんなことを考えてた。

 

 ──それだけで、分かってしまった。

 

 けど、認めたくなかった。そんな訳ないって思ってた。お父さんとお母さんなら、絶対大丈夫だって、思ってた。

 

 

 ──即死だった、らしい。

 

 

 運転中に心臓発作を起こした運転手が運転していたトラックが突っ込んで来たらしい。運転手は事故発生の瞬間には死んでたらしい。誕生日プレゼント、全部燃えたらしいよ。買ってもらったぬいぐるみも、一緒に。

 で、私が意識を取り戻した時には、もうお父さんもお母さんも骨だけになって、山梨の私の家のお墓の中。

 

 ……嘘だって、叫びたかった。でも、絶対に嘘を吐かない伯父さんが、顔をぐちゃぐちゃにして言うものだから……本当なんだって、分かった。

 

 ──その日からの病院での生活は、ずっと苦しかった。

 

 私、なんでも死んでてもおかしくない怪我だったらしいんだよね。何故か生き延びて、今もこうして過ごせてるけど……その時に、運動厳禁って言われた。

 次、何かあったら、今度は車椅子生活かもしれない……そう言われたら、大好きだった空手は、諦めるしか無かった。

 

 それに、左眼も無くしていたし。

 

 

 ……私の左眼に刺さったの、お母さんの手らしいよ。撫でようとしてた。

 

 

 それで、今は義眼を入れてるんだけど……碧色にしてもらったのは、お父さんが、碧色好きだったから。

 伯父さんやお医者さんは、最初右眼と同じ色にしろって説得してたけど……あの時の私、今よりも塞ぎ込んでたから。結局、伯父さん達が折れた。

 

 その後、運転手の遺族の方が謝罪しに来てたけど……よく覚えてない。漣って、名乗ってた気がする。その人は悪くない、なんなら運転手の人も悪くないのに、なんで謝ってるんだろうって、思ってた。どこに怒りをぶつければいいのか、分からなかった。

 

 何とかリハビリを終わらせて、学校に行くようになったけど……それまで仲の良かった友達が、凄く気を使うようになって。

 

 元気が取り柄みたいだった私を、腫れ物に振れるように扱って。

 

 これまでの私が、もうここに居ないことを──そこで初めて、実感した。

 

 

 ──だから、私は、誕生日が嫌い。

 

 

 信濃 咲(わたし)が、信濃 咲(わたし)じゃなくなったから。

 

 大好きな家族も、自分も無くして……残ったのは、なんで生きてるのか分からない、信濃 咲(にせもの)

 

 

 私は、誕生日が嫌い。でも、それ以上に──私が、嫌い。

 

 

 

 ──だから私は、左眼を隠した。嫌いな私の、象徴だから。

 

 

 ──それから、私は伯父さんに引き取られた。そのまま中学からこっちに移り住んで……今。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──私は、(ヒーロー)と、出逢った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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50.Happy Rebirthday

 

 

 ──苦しい、独白だっただろう。

 

 それでも、咲さんは全てを話し切った。途中何度も使えながら、震えながら、えずきながら、涙を流しながら……それでも、話し切った。

 

 ──両親がこの世にいないのかもしれないとは、考えが及んでいた。有り得る可能性の一つだと。

 

 しかし……あまりにも、重い。

 

 当時小学生の少女が背負うには、あまりにも重い。

 

 両親も夢もそれまでの生活も全て無くして、自分自身すら本質から変化してしまって。

 

 歪むに決まってる。壊れてもおかしくない。人生なんて滅茶苦茶だろう。

 

 どれほど──どれほど辛い人生だったのだろう。想像すら、できそうにない。できるわけがない。俺は咲さんでは無いから。

 

 

「……わた、しは……わたしが、きらい」

 

 

 だけど、今もう立てなくなってその場にへたりこんだ咲さんが、今にも消えてしまいそうだったから。

 どこにもぶつけることのできない怒りを、不器用に自分に向けているから。

 ──苦しくても辛くても掘り起こしたくなくても、それでも話してくれたから。

 

 ここからは、俺が頑張る番だと、震える身体に鞭を打ち、気合を入れる。

 

 

「咲さん」

 

 

 ベッドから腰を下ろし、床に座り込む咲さんを優しく抱き締める。

 これまでのような拒否は無く、自然と俺の背中に添えられる彼女の腕。堪らない愛おしさを感じながらも、彼女の頭を優しく撫でる。最近キチンと手入れしているからか、以前よりも髪がさらさらと触り心地が良い。

 

 

「ありがとう。君の……君の一番大切な話を教えてくれて、本当にありがとう。凄いよ。そんな風に自分の思い出したくもない昔の話を話せるなんて、できることじゃない」

「それ、は……奏くん、だったから……奏くんだったから、話せた」

「それでも、だよ。君のこれまでを考えたら……どれほどの覚悟だったか」

 

 

 ──嬉しい、と思うのは、酷いだろうか。彼女の過去を話させて、より傷ついている彼女を見て。

 普通に考えたら、酷い男だ。女の子を泣かせて、傷つけて。でも、これが咲さんが先に進むために必要なことなら。俺はいくら非難されても構わない。

 

 

「咲さん。俺は……咲さんが自分を嫌うそれ以上に、君のことを愛するよ。たとえ君が、わがままになっても、臆病になっても、元気一杯になっても。咲さんが……信濃 咲だから」

「……っ」

「俺が咲さんを幸せにしたいのは、咲さんが可愛いからでも、優しいからでも、読書好きだからでもない。君が、君だから幸せにしたいんだ」

 

 

 時計の針が、てっぺんを超える。

 

 今日は、咲さんの、誕生日。咲さんが嫌いで嫌いで仕方ない、彼女の人生が滅茶苦茶になった日。

 

 

「咲さんは、誕生日が嫌いだ。自分のことも、嫌い。だけど、そんな嫌いな咲さんのことを、全部全部、好きだからさ……どうか、そんな大好きな君が生まれてきた今日この日を、祝わせて欲しい」

 

 

 ──エゴかもしれないが。

 

 それでも、誕生日はやっぱり祝福されて欲しい。させて欲しい。その人がこの世に生まれてきてくれたことを祝いたい。

 嫌ならそれでいい。俺は今後一生、咲さんの誕生日を祝わないし、話にも出さない。

 だけど、咲さんが許してくれるなら──。

 

 

「……わた、し」

 

 

 腕の中、いつもよりも小さく感じる咲さん。彼女の腕の力が、僅かに強くなった。

 力強いとは言えないその控えめな力。昔の彼女がどれほど力強かったのかは、今では分からない。

 

 

「……いつもなら、誕生日の話をされるだけで、嫌な気分になってた。けど……奏くんと話してる時は、いつもより、大丈夫、だった」

「……咲さん」

「だから……お願い」

 

 

 ──私を、幸せにして。

 

 縋るような、祈るようなその言葉。

 

 俺は咲さんの両肩を掴み、目を合わせる。

 初めてまじまじと見つめる彼女の素顔。初めて、彼女の顔が、綺麗だと思った。

 

 

「……咲さん。誕生日、おめでとう。生まれてきてくれて、本当にありがとう」

「……あ、り、がとう」

 

 

 自然と出てきた祝いの言葉。咲さんは、目線を泳がせ、自分の胸に手を当て……そして、微かに微笑んだ。

 

 

「……大丈夫、ちゃんと、嬉しいよ」

 

 

 ──その笑顔は、どこか憑き物が落ちたようにも見えて。

 確かに、彼女が先に進めた証だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──すぅすぅと、ベッドでぐっすりと眠る咲さん。

 やはり精神的にかなり疲れたのだろう。少し話した後、すぐに眠りについてしまった。起こさないように咲さんをベッドに寝かせた俺は、暫くその寝顔を見つめていたが……やがて、よろよろと部屋を後にする。

 

 そのままリビングに向かい、ソファに深く腰かけ、たっぷりとため息。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──俺、ちゃんと、笑えていただろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 必死に抑えていた動悸が止まらない。吐き気が込み上げてくる。身体の震えが止まらない。

 そんなことあっていいはずが無いと、俺は自分の耳を疑った。だが、咲さんの滑舌ははっきりとしていたし、時期的にも場所的にも辻褄が合うし、何より嘘である理由がどこにも無い。

 荒くなる呼吸に耐えきれず、ソファに寝転び胸を抑える。目の前がぐるぐるする。頭の中もぐるぐるして、上下左右が曖昧になる。

 

 

「……なんだよ、それ……そんなことあっていいはずがねぇだろ……!」

 

 

 ──まさか。

 

 

「おかしいだろ……どんな偶然だよっ……最早運命ってか? ……呪うぞ、ちくしょう」

 

 

 ──咲さんの両親を死なせた運転手が。

 

 

「……どうすりゃ、いいんだよ」

 

 

 ──俺の親友、漣 恭介の、親父さんだっただなんて。

 

 

 



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51.新しい朝

新年明けましておめでとうございます。今年もこの作品をよろしくお願いいたします。


 

 ──朝。

 

 結局あの後一睡もできなかった俺は、ぐるぐると巡る思考の波に身を任せながらソファに寝転がっていた。

 久しぶりの感覚だ。ここまで苦しんでるのは恭介と二人で恭介の親父さんの墓参りに行った時以来かもしれない。

 全身を襲う無力感と、罪悪感。罪悪感を抱いてしまうことにすら罪悪感を抱く、最悪の状態。

 

 恐らく……咲さんへの対応は間違えてはいない。恐らく今回の一件で彼女は大きく前に進めたはずだ。かなり恥ずかしい発言もしたが、咲さんの反応を見る限り大丈夫そうだ。あの安心しきった穏やかな素顔は、見ていて惚れ惚れする。

 

 しかし、俺は知ってしまっている。俺の救った親友の父親が、俺が救おうとしている好きな人の両親を死なせてしまったという事実。

 

 

「……キッツいなぁ、これ」

 

 

 大前提、登場人物は誰も悪くない。恭介の親父さんの死因は急性の心臓発作。事故とは全く関係ないところで命を落としてしまっている。

 部外者だからこんなことが言えるのだが、不幸な事故なのだ。恭介の親父さんも恭介も咲さんも、皆が皆悪くなんてない。

 

 ──だけど、俺は全て知っているから。

 

 だから、苦しい。だから、ずっと悩んでいる。それこそ、一睡もできないほどに。

 

 誰に相談できようか。咲さんは俺のことを信用してくれて、それで俺には知ってもらいたいと思って覚悟を決めてくれたんだ。それなのに俺が苦しい、それだけで誰かに相談なんて、不誠実だろう。

 

 

「……大丈夫。いつも通り……いける」

 

 

 自分を落ち着かせるための言葉も、お気に入りのJPOPも何も意味をなさない。

 

 今日は日曜日。今日は、咲さんの誕生日。

 

 

「……お、おはよう。奏くん」

 

 

 暫く、何をするでもなかった俺に声を掛けてきたのは、本日の主役。

 

 顔だけそちらに向けてみると、いつも通り眼帯を着けていた咲さんの姿。泣きはらしたまま眠ってしまったからか、若干目元が赤い。

 しかし、その顔は晴れやか。血色も良く、ぐっすり眠れたことは明らかだった。

 

 しかし、何故か、いつもより目線が泳いでいた。普段真っ直ぐこちらを見据える咲さんにしては、本当に珍しい。

 

 ……心なしか、顔が赤く見えるのは、その、気のせいでは無いんだろう。

 

 

「おはよう、咲さん。良く寝れた?」

 

 

 いつも通り、笑顔を浮かべられているか分からないが、それでもぎこちなくても俺は笑みを作る。

 ばちり、と目線が交わったかと思うと……咲さんの顔が、まるで弾かれたかのように俺から逸らされた。

 気のせいではないと言い切れるくらい上気した頬。耳まで赤くなるほど紅潮している彼女を見て……全てを察する。

 

 

 ──完全に、俺に惚れてる、これ。

 

 

「……咲さん、改めて、誕生日おめでとう。プレゼントは用意できてないけど……何かしてほしいこととかあったら、言ってほしいな」

 

 

 満更でもないし、正直嬉しい。本来なら飛び跳ねてしまいそうな程には嬉しいのだが、今そんなことできるはずもない。そんな精神状態じゃない。

 

 胸の奥がずっと締め付けられているような感覚を無視しながら、普段の俺が言いそうなセリフを咲さんに投げかける。ぴくり、と肩が震えたかと思うと、咲さんはおずおずとこちらの表情を窺う。

 

 

「……えっ、と。その……な、何でもいいの?」

「んー、命とか、5000兆円とか、そういう逸脱したのは無しね?」

 

 

 じゃあ、と咲さんが目を閉じて思案した後、とてとてと俺に近づいてきたかと思うと……ぎゅっと、俺の身体に抱き着いてきた。

 普段の彼女と比べてもかなり積極的なその行動にあっけに取られていると、おずおずと背中に回された腕に力が入る。

 

 

「……抱き、締めて。ぎゅー、って」

 

 

 ──可愛すぎて、倒れるかと思った。

 

 寝不足かつ衝撃の事実にやられたメンタル。そんなところにこんな世界で一番可愛いんじゃないかという行動を見せつけられて、よく耐えた俺。

 

 逆に、メンタルやられてたから耐えられたのかもしれない。俺に抱き着いてきた咲さんの身体が明らかに熱くなっていくのを感じながら、その細い体躯を優しく抱き締める。

 

 

「お易い御用だよ、咲さん……珍しいね」

「……その……えっと、私も、よ、よく分かんないんだけど……奏くんを見た時、抱きしめて欲しくて、苦しくなって……怖く、なった」

 

 

 ──やっぱりこの子、これまで全く自覚してなかったな。

 

 はっきり言わせてもらおう。咲さんが俺の事を好きなのはだいぶ前から分かってた。しかし、どうにも咲さんはそれを自覚してなかったのだろう。

 

 そして今。完全に自分の感情を理解してしまった結果。これまで自分の感情を押し殺してきた彼女にとって、その激情はあまりにも劇物。

 

 

「大丈夫。俺はどこにも行かないよ。言っただろう? 君を幸せにするって」

「……う、ん……」

 

 

 覚悟決めろ、黒澤 奏。彼女をこうしたのは、他の誰でもない、お前だ。

 知っていようが知ってなかろうが、お前がやることはこの女の子を責任もって幸せにすることだけだ。

 

 寝不足の頭で咲さんを抱き締めながら、俺は覚悟を決める。

 

 ──その後、賢治さんから、『もし咲が前に進めたのなら、私たちの家の、私の部屋。そこのクローゼットを開けて欲しい』というメッセージが来るまで、俺たちは抱き合っていた。家族が起きてこなくて、本当に良かった。

 

 

 



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52.5個

 

「……えっと、俺も着いてきて良かったの?」 

「構わない。伯父さんがその連絡をしたのは、奏くんだから」

 

 

 あれから、朝食を食べて身支度を軽くした俺たちは、その足で咲さんの部屋へと向かった。

 朝は焦った。特に何も話していないのに、親父は咲さんの心境の変化を一目で見抜いていた。

 あの様子だと、俺が本調子でない事は見抜かれているだろう……昔から、親父には隠し事ができない。

 

 それでも、何も言わなかったのは優しさか。

 

 

「……なら、行こっか」

「うん」

 

 

 咲さんが体調を崩したあの日以来の、彼女の家。その中の、賢治さんの部屋。許可を得ている俺たちは、その扉をゆっくりと開ける。

 咲さんの部屋ほどでは無いが、物の少ないシンプルな部屋だ。ベッドと少し大きめのPCデスク、本棚に、クローゼット。

 

 俺と咲さんは、そのクローゼットの前に立つ。

 

 

「……何があるんだろうね」

「さぁ……まぁ、私に関するなにか……ぐらいしか分からないけど」

 

 

 2人きり、という事もあり彼女は眼帯を外していた。透き通るような碧は、いつ見ても目が覚めるような違和感。

 何も映さないその瞳。だけど、その双眸はしかとクローゼットの扉を見据えていた。

 

 やがて、意を決したように扉に手を掛けた咲さんは、そのまま扉を開く。

 

 

「……服が、いっぱい」

「いや……むしろ少ない位じゃないかな? シンプルなデザインの服ばかりだ……あ、でもセンスいい」

 

 

 ぱっと見た感じ、奇抜なデザインの服や古着のようなものは持っていないようだ。しかし、全体的に洗練されたデザインの服が多く、落ち着いた大人コーデには困らないだろう。

 こんな服が似合う大人になりたいな、なんて数十年後の想像をしながら視線を下に落として──息を飲んだ。

 

 咲さんもほぼ同時にそれを見つけたようで、その目を大きく見開いた。

 

 

「…………プレゼント、ボックス?」

 

 

 そこにあったのは、色とりどりな大小様々な、5個のプレゼントボックス。

 どれも丁寧にラッピングされているが、買った時期がバラバラなのか、少し包装紙が破れていたり、中には色褪せている物もあった。

 

 それが何を意味しているのか……語るまでも無かった。

 

 震えながらゆっくりと膝を付いた咲さんは、その中でも1番古そうな箱を手に取る。ゆっくりと、しかし丁寧にリボンを解き、包装紙を剥がす。

 

 数年ぶりに外気に触れた外箱。白いそれをゆっくりと開けてみると、中に座っていたのは、1匹のテディベア。

 

 

「……っ」

 

 

 そのまま咲さんは、一つ一つ箱を開けていく。

 

 少し角が破れたプレゼントボックスからは、可愛らしい猫のポーチ。小物入れに使うと、日常生活が楽しくなりそうだ。

 少しくたびれプレゼントボックスからは、オシャレなデザインの長財布。カバンから出す度に、テンションが少し上がりそう。

 少し表面にシワがあるプレゼントボックスからは、白と若草色を基調とした、花のデザインの可愛らしいブックカバー。咲さんがよく読む文庫サイズだ。

 そして……まるで最近用意されたかのような新しいプレゼントボックスからは、革製の栞。『S.S.』の刻印が誰を指しているのかは、言うまでもない。

 

 

「…………咲さん。君は──今すぐ、賢治さんに電話するべきだ」

 

 

 普段の俺ならしないような、強い口調。

 断言する。咲さんは今すぐ賢治さんと話さなきゃならない。

 

 咲さんが賢治さんに恩を感じているのは傍目から見ても分かる。それはこの短い付き合いの俺でも分かる。

 賢治さんが咲さんを大切に思っているのは傍から見ても分かる。それはこの短い付き合いの俺でも分かる。そして、咲さんがそれを理解していることも。

 

 ──だけど、賢治さんは、それを理解していない。

 

 そんなの、あんまりだ。

 

 

「賢治さんも、ずっと祝いたかったんだよ。それこそ、その日からずっと。だけど、君の心を守るために。それでも……いつか、いつか君が前を向ける日。それまで祝えなかった誕生日を祝うために」

「……おじ、さん」

「君自身の口で、伝えるべきだ。前を向けたよって。プレゼントありがとうって。大好きだよって……想いは、気持ちは、感情は。言葉にしないと何も伝わらない」

 

 

 テディベアをぎゅっと胸に抱いた咲さん。ここ2日で急激な感情の起伏に襲われている彼女。

 昨日は、彼女に寄り添った。だけど、これは、背中を押すだけ。

 

 これは、俺の入るべき問題では無い。咲さんが真正面から向き合うべきだ。

 

 

「……あい、たい」

 

 

 激情が落ちる音が、ぽたぽたと。

 

 

「おじさんに……あいたい」

 

 

 賢治さんからの愛を確かに受け取った彼女は、たった一言。静かに呟いた。

 まるで、小さな子供の、可愛らしいわがままのように。

 

 

「……賢治さんに、言ってみなよ。きっと、応えてくれる」

「でもっ……迷惑、だよ……っ」

「大丈夫。俺を……いや、賢治さんを信じなよ」

 

 

 きっと……いつもの咲さんなら、我慢できたのだろう。

 だけど、今の彼女は、(けんじさん)からの5年分の愛を受け取ったばかりで。

 蓋をされていた情緒が、この2日で急激に育まれているこの現状。

 

 ──咲さんは、ゆっくりとスマホを取り出し……震える指先で、賢治さんに、メッセージを1つ。

 

 

『あいたい』

 

 

 静かに打ち込んだ咲さんは、意を決したように送信ボタンを押した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『すぐ行く』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう賢治さんから返信が来たのは、たったの十数秒後だった。

 

 

 

 

 



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53.父親

 

 

 5時間。

 

 賢治さんの出張先からここに来るまで、どんなに急いでもそれくらいかかるらしい。気軽に行き来することなんて出来ないくらい、遠い距離。俺たち子供にとっては、行くだけでも中々覚悟のいる距離。

 

 ──それでも、賢治さんは帰ってきた。

 

 汗だくになって肩で息をして、膝に手を着いて。50歳近い彼には苦しかったはずだ。

 

 彼がここまで必死になってやって来たのは──彼の咲さんを見る目を見てきた俺には、手に取るようにわかった。

 

 

「……おじ、さん」

 

 

 あの後──俺と咲さんは、賢治さんと咲さんの家で、のんびり時間を過ごしていた。そわそわと落ち着かない彼女と共に、本を読んだりテレビを見たり。賢治さんとの思い出話を聞いてみたり。どの思い出も大切そうに、懐かしむように語る咲さんは、確かに愛されて来たことが分かった。時々泣きそうになる彼女を慰めたりもして。

 5時間。ゆっくりと彼女の緊張を解してきたがやはり、ぴしりと固まってしまった。

 

 そりゃそうなるよな、と彼女を見て口元が緩む。昔、母の日にカーネーションを買ってきたしーとつーが、お袋に渡そうとしている直前のような、緊張した面持ち──家族に感謝を告げるのって、愛しているって伝えるって、やっぱり、気恥ずかしい。けど、大切なことだ。

 

 

「咲……」

 

 

 賢治さんは、咲さんの顔を見て──分かりやすく泣きそうに顔を歪めていた。

 これまで頑なに他人の前で着け続けていた眼帯を、俺の前で外しているから。綺麗な碧が、部屋の中できらりと輝いている。

 

 お互い、名前を呼びあっただけ。だけど、そのやり取りだけで──ここからは、俺が居てはいけないのだと、嫌でも分かる。

 

 

「……んじゃ、あとは二人で。咲さん。話したいこと、いっぱい話しなよ」

 

 

 ぽん、と咲さんの背中を軽く叩いた後、賢治さんの横を通って立ち去る。家族の時間に、俺は邪魔者だ。

 

 

「……奏君」

 

 

 ふと、背中越しに聞こえてくる賢治さんの声に足を止める。声は震えていて、どんな顔をしているのかは、見るまでもない。

 だからこそ俺は背を向けたまま、彼の言葉を待つ──その顔を見ていいのは、咲さんだけだから。

 

 

「どれだけ言葉を尽くしても、伝えきれないだろうから、簡単に一言だけ言わせてくれ──本当に、本当に…………ありがとう」

「──どういたしまして、です。時間の許す限り……語ってください」

 

 

 そう言い残して、俺は去る。ばたん、と咲さんの家の扉を閉めて、しばらくその扉を眺めて……そのまま立ち去る。

 ここに来た時はまだまだ太陽は登っているところだったが、今は既にてっぺんを超えようとしている。

 

 俺はその足で階段を下り、自分の家へ。ただいまと一言、大きめの声で。

 

 

「よう、おかえり」

 

 

 出迎えてくれたのは、親父だった。簡単に一言、ボソリと呟いたかと思うと、ソファに座れと促してくる。テレビの画面に映るのは、最近流行りの格闘ゲーム。

 俺はそのまま横に座り、コントローラーを持つ。親父はどこからか調達してきていたアケコン……ゲーセンとかのアーケードゲームに付いているようなコントローラーを膝に置く。親父、ガチすぎる。

 

 親父が白い道着の主人公キャラ、俺が緑色の野生児キャラを選択して、対戦開始。

 

 

「……咲さんはどうだ?」

「今賢治さんと話してるとこ。居ちゃいけないだろうなって」

「まーな。って、スラばっか打ってんじゃねぇ」

「そっちが弾ばっか撃つからだろーが」

 

 

 画面の中のキャラは激しい戦いを繰り広げているが、俺と親父の会話は穏やかなものだ。

 画面端に追い込まれた俺のキャラが、最後は投げられて1本先取は親父。そのまま次のラウンドが始まる。

 

 

「……その様子だと、咲さんは相当前に進めたみたいだな」

「あぁ……まだまだ咲さんの世界は狭いから、もっと色んなものに触れて貰わないと……なっ!」

 

 

 このラウンドを取られたら負けの俺は、必殺技ゲージをフルに使って放つ超必殺技を親父のキャラに叩き込む。何とかラウンドを取り返したが、状況は不利。

 淡々と始まるファイナルラウンド。下手な攻撃を喰らわないよう、慎重に立ち回る。

 

 

「そりゃあよかった。ま、お前がなんで今日夜更かし気味で覚悟決めた顔してんのかは聞かねぇが……俺からは一言だけ」

「……なんだよ」

「爪はちゃんと切れよ。あと、まだ孫の顔見せるのは早いからな」

 

 

 殴った。ゲームの中ではなく、俺の拳で、親父を。

 深々とボディに突き刺さる俺の拳。呻き声を上げながら、しかしコントローラーから手を離さない親父。画面の中では親父のキャラが俺のキャラに超必殺技のアッパーを叩き込んで、試合終了。勝利画面で背中を見せていた。

 

 

「親父。確かに咲さんは間違いなく俺の事好きだよ? それに気付いてない俺じゃないし、ぶっちゃけ俺も好きだからその内そーゆー関係になるぞ? だからって高校生の息子15歳に言ってんじゃねぇ」

「おまっ……ボディをグーはダメだろ……家庭内暴力だっ……」

「効いてねぇ癖に……腹筋バッキバキの癖に」

 

 

 付き合ってられるかと、コントローラーを置いた俺は自分の部屋に向かう。流石に眠たいので、軽く昼寝をしよう。

 

 

「奏」

「……なんだよ」

「乗り越えろよ」

 

 

 ……最初からそう言えよ。

 

 悪態をつくことも出来たが、おうと一言返してリビングを後にした。

 

 

 



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54.分かりやすい子

 

 

「……なぁ、黒澤さんや」

「どったの、木谷くん」

「……気の所為じゃなければなのですが、信濃さん、なんか変わった?」

 

 

 翌日。普通に学校。

 

 咲さんはあの後賢治さんとたっぷり4時間腹を割って話し合っていた。その後仕事のために帰らなければならない賢治さんを見送った後戻ってきたのだが、その顔は憑き物が落ちたかのように晴れやかだった。

 まるで見違えたかのように顔つきが明るくなり、表情も柔らかくなっていた。初めてであった時と比べたら、一目瞭然なほどだ。

 

 まぁつまり、他人からしてもその変化は明らかなのだ。

 

 いつも通り二人で登校してきた俺たちを見たクラスメイトが、ちょっとザワついたくらいだ。

 代表して、という訳では無いだろうが、俺の前の席の木谷くんが質問を投げかけてくる。咲さんは例によって例の如く、図書室に向かっていた。

 

 

「うんまぁ……そうなのかな?」

 

 

 あくまでとぼけてみせる。俺は知らないていなのだ。

 

 

「いやだって……信濃さんが黒澤を見る目……こんな言い方したらあれだけど、その、らぶだったぞ?」

「……………………ん?」

 

 

 あれ、そっち?

 

 指ハートを作り、頬を引き攣らせた木谷くん。

 あー、と顔には出さず1人納得。そうだよね、そんなこともあったよね。土日は色々ありすぎて、その辺の記憶彼方に飛んでたや。

 そうじゃん。今の咲さん自覚しちゃった恋する乙女じゃん。そりゃあ表情も柔らかくなるし顔つきも明るくなるじゃん。

 

 

「……土日、なんかあったろ」

「……まだ、カレカノの関係では無いよ」

 

 

 色々と良くしてもらってる木谷くんに嘘をつくのは心苦しかったので、一言。

 その瞬間、ざっと教室を見渡してみる。俺と木谷くんの会話に耳を傾ける人も居た。北中の人達が、その中で半分。

 

 そして、分かりやすくほっとした表情を浮かべた人が、1人。

 パチリと目が合ったかと思うと、その人物は弾かれたかのように目を逸らした。

 

 

「……はぁ」

 

 

 性格が悪いことを思ってしまうが……正直、今の咲さんが俺以外の人間に心を奪われる可能性は極めて低い。

 入学から今日まで山あり谷あり、彼女自身の根幹を揺るがすような交流をしてきた俺と、拒絶に近い感情を持たれてしまっている北中の方々。

 

 なのに、そんな俺がまだ彼女と恋人でないと聞いて、胸を撫で下ろしてしまう。恋は盲目、とはよく言ったものだ。もしかしたら、気付いていないだけで俺も盲目になっているのかもしれない。

 

 まぁ、俺のやることは変わらない。

 

 

「……なぁ、木谷くんや。今日の放課後、部活無かったらどっか行こうよ」

「ん? 今日は部活無いから別に構わないけど……信濃さんは?」

「無論、咲さんにも来てもらうよ。あと、そうだなぁ……赤嶺さんにも来てもらうかな」

「…………え?」

 

 

 俺のやることは、咲さんの世界を広げること。

 

 彼女に、普通の高校生らしい遊びを教えてしまおう。俺と咲さんだけではいつも通りだし、赤嶺さんだけを混ぜても彼女にとっては安心出来る人との合流で終わってしまう。

 

 木谷くんなら、問題無いだろう。今の所咲さんの地雷に触れるような事はしないし、最悪眼のことと、家族のことに関しては釘を刺しておけばいい。

 

 

「ほら、前俺言ったじゃん? 咲さんの依存先を増やすって。期待してるぜ? 木谷くん」

「……重いっての……別に構わねぇけどよぉ……何する気だ?」

「ほら、木谷くんこの前の中間テストで赤点あったでしょ? 学年1位の咲さんに、勉強教えて貰いたくない?」

「……………………あー、ファミレスでいいか?」

 

 

 よし、と小さくガッツポーズ。誰だって成績が良いに超したことは無いわけで、木谷くんもその例に漏れない。しかも相手が全科目満点の学年1位相手となると乗ってくるだろう。

 あとは、俺が咲さんと赤嶺さんを誘うだけだ。お袋に今日の晩御飯は要らないと伝えるのも忘れちゃダメだ。

 

 

「アタシは別に構わないぜ? っつっても、勉強する事なんかねぇけどな」

「よし、あとは咲さんから許可もらってー…………おはよう、赤嶺さん」

「うわびっくりした!」

 

 

 あまりにも自然に会話に混ざってくるもんだから、反応が遅れてしまった。木谷くんが飛び跳ねるのも無理は無い。

 

 よっ、とへらへら笑いながら片手を上げる赤嶺さん。

 神出鬼没、とはよく言ったものだ。本当に気が付いたら傍にいるし、気が付いたら居なくなっている。

 

 

「そりゃあ赤嶺さんは勉強要らないだろうけどさ……楽しそうだろ?」

「黒澤や信濃がファミレスで勉強してるのは見てて楽しそうだが……こいつはどうだろうな?」

「だから俺は木谷だっての……割と話してるんだから、そろそろ名前覚えてくんない?」

 

 

 俺そんなに影薄いかなぁ、と悲しそうな顔をする木谷くんの肩をぽんぽんと叩く。

 大丈夫。そこに関しては赤嶺さんがちょっとおかしいだけだから。

 

 

「……おはよう。赤嶺さん」

 

 

 そんなこんな話していたら、やがて咲さんが図書室から帰ってきた。手には借りてきたのだろうか、何冊か本が握られていた。

 

 そんな咲さんを見た赤嶺さんは、へぇ、と一言。

 

 

「なぁ信濃。今日の放課後ファミレス行こうぜ? 黒澤や木谷も一緒によ」

 

 

 そして、俺が切り出そうとしていた放課後の件を、赤嶺さんがなんて事ない様子でさらりと語り出した。

 一瞬、目を見開いた咲さんは、俺を見て、木谷くんを見て、木谷くんをじっと見て。

 

 少しだけ考えた咲さんは、こくりと小さく頷いた。

 

 

 



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55.呼び方

 

 

 いつも通りと言えばいつも通り、強いて言えば午後の授業でうたた寝しかけて、咲さんに突っつかれたくらいしか特筆するべきことの無い一日を過ごした。

 そして放課後。俺たち4人は前に俺と咲さん、後ろに赤嶺さんと木谷くんという並びで歩道を歩いていた。

 目的地は、学校から歩いて5分のファミレス。地元岡山には存在しなかったチェーン店だ。正確に言えば存在したのだが、岡山に行かないと存在しなかった(※ここで言う「岡山に行く」とは岡山市へ行く、という意味である。以前赤嶺さんに癖で話してたら何言ってるんだと突っ込まれた)。

 

 ……しかし、目立つ集団だなと、残りの3人を見て感じる。

 

 1人は小さな眼帯美少女、1人は金髪美少女、1人はでかい。なんだかこの3人に囲まれていると、俺まで目立つ側になってしまった感覚がする。1人浮いてるという意味で。

 

 

 

「そーいや赤嶺さんよ。赤嶺さんは勉強どんなもんなん? 勉強要らねぇって言ってたから、賢いんだとは思うけど……」

「教科書読めば大丈夫だぜ? だから参考にしなさんな」

「あー……俺は真面目に勉強するしかないのかぁ……勉強せずに暮らしたい……課題と定期テストが恨めしい……」

「んな事言って。この学校に入れてるってことはそれなりにできたんだろ?」

「中学ではそりゃあ上の方だったよ。でもよ、俺よりできるやつがゴロゴロいるんだよこの学校……自信無くすよなぁ」

「まー、赤取らない程度には頑張れ。この学校でそれだけできてたらどっかの大学には行けるさ」

 

 

 意外だったのは、赤嶺さんと木谷くんの会話が思いの外弾んでいる、ということだった。木谷くんがコミュ力高いのは分かってたが、まさか赤嶺さんが普通に会話するとは思っていなかった。未だに木谷くんの名前覚えていないのに。

 

 そんなことを考えていたら、俺の思考を見透かしたのか、赤嶺さんがふっ、笑う。

 

 

「なんだよ黒澤。アタシとでかいのが喋ってるのが珍しいか?」

「うん。意外」

「あの……名前……」

「アタシだって会話はできるぜ? やらないだけで」

「あー……うん、分かった」

 

 

 相変わらず名前を呼んで貰えずでかいの呼ばわりの木谷くんに心の中で合掌しつつ、赤嶺さんの言葉に頷く。

 赤嶺さんは天才だ。コミュニケーションを取らないだけで、コミュニケーションの真似事ぐらいなら他愛も無いのだろう。

 

 これで夢は漫画家。勿体ないと思うのは何様だという話だが、どうしても思ってしまう。将来とんでもない漫画家になっている可能性は、十二分にあるだろうが。

 

 

「……私や奏くんとの会話は、そっちから話しかけてくる癖に」

 

 

 そんな中、先程まで1人黙っていた咲さんが、ぽそりと一言。

 最近分かりやすくなってきていた咲さんの表情だが、その表情は少し分かりずらい。

 むすっとしたような、それでいて口元が緩んでいるような、そんな感じ。

 

 赤嶺さんはその表情にぴくりと眉を動かしたかと思うと、いつもより少しだけ爽やかな笑顔。

 

 

「そりゃあ、お前と黒澤は面白いからな。特に、今のお前はもっと面白い」

「…………?」

「ちょっと耳貸せ」

 

 

 なんの事やら、と首を傾げた咲さんの肩を抱き(身長差があるので、咲さんの体がすっぽり隠れてしまった)、その耳元で何かを囁く赤嶺さん。

 

 次の瞬間──それはそれは綺麗に顔を真っ赤にした咲さんが、驚愕の表情で赤嶺さんを、そして俺を見る。

 

 赤嶺さんが何を呟いたのか、大体想像は付く。今の彼女が顔を赤くする要因なんて、俺しかいない。

 

 やがて、りんごみたいに赤い顔のままキッと赤嶺さんを睨みつける。全然怖くなかった。

 

 

「……赤嶺さん」

「おお、怖い怖い。まー、なんだかんだ昔馴染みだ、アタシは応援してるぜ────咲」

 

 

 最後に一つ、さらりと爆弾発言を言ってのけた赤嶺さんは、先程とは別の意味で驚いている咲さんに微笑みかけて、先行ってるぜと足取り軽く駆け出していった。

 

 呆気に取られた俺と咲さん。彼女の笑顔が、これまでのどれよりも晴れやかで、嬉しそうな笑顔だったから。

 男の一人や二人、簡単に落とせてしまいそうなほどの、魅力的な微笑みだった。

 

 

「……赤嶺さん、あんな風に笑うんだ」

「……だね。びっくりした」

「なんだよ、酷い言いようだな。あっちの笑顔の方が俺は好きだぞ? いつもより良い笑顔じゃねぇか」

「そりゃあそうだけど……」

 

 

 これまで、散々達観したかのような態度を取り続けてきていた赤嶺さんだ。

 あんな……友人の恋心の目覚めを祝福するかのような笑顔を浮かべるようには、とても思えなかった。

 

 ……これは、赤嶺さんへの評価を改めた方がいいのかもしれない。

 

 もしかしたら、彼女は咲さんを観察対象では無く──普通に、友人として見ているのかもしれない。

 

 

「……伯父さん以外から呼び捨てにされたの、初めてかも」

 

 

 咲さんのそんな呟きの中に、戸惑いこそあれど、不快感は一切無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで、俺もそろそろ黒澤の事奏って呼んでいい?」

「全然いいよ。こちらこそ呼ばせてもらうよ、裕也」

「あいよ、奏」

 

 

 なんとなく、俺と木谷くん……裕也とも、そんな会話を交わしていた。

 

 

 



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