プロ棋士の桐山くんは伊地知姉妹に拾われました (あまざらし)
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第1章
0話 桐山零


 

『ゼロだってぇ──』

『──でも、ぴったりよねアナタに。だってそうでしょ』

 

『家も無い』

『家族も無い』

『友達も居無い』

 

『──ほらアナタの居場所なんて、この世のどこにも無いじゃない?』

 

『でも──』

 

 ◇ ◇ ◇

 

 高校一年の春休み。

 普段は生徒たちの談笑で賑やかな教室も、今日は先生とボクの二人。

 今の教室に音はなく、グラウンドから声出しする野球部員の声がよく聞こえてくる。

 

「桐山、もう演習は終わったか?」

「はい」

 

 採点の結果は問題なし。

 補習に一度出席することで、不足分の出席日数を補い、何とか担当教員から留年回避してもらった。

 この一年。先生から見れば、ボクの存在は仕事を増やすただの不良少年だったに違いない。

 

「お疲れ、桐山。別の高校でも頑張れよ」

「はい。先生、ありがとうございました」

 

(なんのために学校に通っているのだろう)

 

 思えば高校に進学することを決めたのは、ちょっとした意地だった。

 入学当初は環境が変われば何かが変わるかもと、少し期待したこともあった。

 しかし結局は普通の学生らしい生活に馴染めず、高校入学後の一年間はこれまでの中学三年間と大差なく。友達も出来できず、ひっそり学校に通う毎日だった。

 

 だからだろうか。

 一人暮らしを決め、引越しを決めた時には、家から近い別の高校へ転校することに躊躇いは全くなかった。

 

 そして今日。

 ボクは、下北沢に引っ越す。

 

 最初考えていた引越し先は中央区六月町だった。

 小さい頃、田舎にいたからだろうか。

 大きな川沿いの小さな町、六月町の景色が好きだった。

 それに将棋会館まで電車で一本で通うことが出来る。

 住むなら"六月町"、最初はそう思っていたんだ。

 

 ここに来るまでは。

 

『母さん昔ね、下北(ここ)に住んでいたのよ』

 

 今年の初め電車でぼんやり路線図を眺めていると、偶然目にした『下北沢駅』の文字。

 文字を見た瞬間、今までしまっていたおぼろげな記憶が蘇ってきた。

 あの日、家族4人で下北沢を散策した記憶が。

 

 ずいぶん昔のことだからもう記憶はほとんど残っていないと思ってた。

 

 けれど……

 坂を登ったあの時の景色が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってしまったから。

 

 音楽を始めとしたサブカルチャーと目まぐるしい都市開発が混ざりあった街。

 駅から道なりに進んでコンビニのある交差点を右に曲がり、急坂を登った先にある6階建てのマンション。

 603号室、そこがボクの新しい居場所。

 

 

 桐山零(きりやまれい) 16歳

 

 職業『プロ棋士』

 来月からB級2組 六段

 そして『高校二年生』になる。




桐山くん原作よりも強い設定(きらら世界補正?)

原作:一年遅れて高校入学 今作:留年せず高校二年生へ進級
原作:C級1組に残留 今作:B級2組へ昇級

音楽も将棋も共に詳しくはないですが、あまり違和感ないよう頑張りたい


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1話 優しい姉妹

「──お姉ちゃん! お店の前に倒れてる人がいる!」

「ほっとけ、ただの酔っぱらいだろ?」

「それはちょっとはくじょーな気が……。もしかして学生さんなのかな?」

 

 三月下旬。

 夜、先輩棋士の付き合いで無理やりお酒を飲まされ、何とか最寄り駅に辿り着いた帰り道。

 歩くこともままならなくなったボクは、朦朧とした意識の中、声を聞いた。

 

「おいお前っ大丈夫か!? 虹夏、水持ってるか」

「ちょっと待って──キミ大丈夫? はいっ、お水だよ。飲める? 家はどこなの?」

 

 ダメだ、思考が……呂律も回らない。

 まずは感謝を、あと、たぶん家は近いことを伝えないと。

 呻くような声しか出てこない己を恥じつつ顔を上げる。ぐらつきゆがんだ視界には閃光のような光の残像しか映し出されなかった。

 

「コイツまだ高校生か? まだ寒いし……仕方ない、歩かせるぞ。虹夏、お前も手伝え」

「う、うん!」

 

 突然の浮遊感がボクを襲う。

 しかし直後、目の前が急に真っ白になって、そこでボクの意識は途絶えた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 なんの曲だろう。薄暗く狭い部屋で音楽が流れている。

 懐かしい。ここはきっと家族で下北に寄った帰りに入ったカラオケボックスだ。

 

 父さんに母さん、妹のちひろとボク。

 あの時、家族全員でカラオケしたんだ。

 父さんとボクは流行に疎かったし母さんはとても歌が上手だったから、もっぱら母さん一人で選曲していたっけ。

 

 「ちひろ このお歌しってるよ!」

 「じゃあいっしょに歌いましょ」

 父さんは二人が歌うのを楽しそうに眺めていた。

 「お兄ちゃんも!」

 そう言ってちひろは小さな両手でマイクをかざす。

 ボクは旋律を思い出しながら、ちひろと一緒に歌った。

 

 ああ、こんな日常(まいにち)がずっと続けばいいのに……。

 日常?

 ボクの現実は、

 

 息が荒くなる。

 

 (飲酒運転のトラックの巻き添えですって……)

 (息子さんはどうなるのかしら)

 

 ボクの日常は、ある日いきなり引きちぎられるように唐突に終わった。

 遠足から戻ると、ボクの家族三人は冷たくてかたい、まだらのカタマリになっていた。

 

 

 

 鼓動が早まる。ああ、また夢か……。

 

 猛烈な頭痛で覚醒すると、知らない居間にボクはいた。

 鼻歌まじりの声とジューッと何かを炒める音が遠くから聞こえる。

 

「やっと起きたか」

「こ、ここは?」

 

「お前が酔いつぶれてた店の上のマンションだよ」

 20代くらいだろうか。

 ソファーで雑誌を広げつつ少し気だるそうな黄色い長髪の女性が答える。

 

「あ、起きたんだね、おはよう。でもキミっまだ未成年でしょ! だめだよー飲酒なんて」

 そして同じく金髪のテールを揺らし、右手にはお玉を、そして桃色のエプロンを身に着けた同年代の少女がボクを叱責するのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「どうかな」

 おいしい。

 お味噌汁に微かに生姜の風味が加わっていて酒で傷んだボクの胃に優しく染み渡った。

 

「おいしいです。その、虹夏さん」

「そっかそっかー素直な反応だとやっぱり嬉しいね!お姉ちゃんいつもそっけないんだもん」

「うるさい」

 

 目を覚ました後、ボクはおおよそ事態を把握した。

 昨晩酔いつぶれ倒れていたボクを見かけた二人は、親切にも家に上げてくれたらしい。

 ボクの記憶は残っておらず、かろうじて覚えているのはなんとか最寄り駅に着いて改札を出たところまでだった。

 

 ああ、最悪だ……。

 何度目かの謝罪をして、その度にボクは二人から「もういいよ」と呆れられた。

 そして助けてもらった上、更に朝食をいただくという恥の上塗りをしているのが今の状況だ。

 目の前に座る二人が根っからの善人であることが、より一層ボクの罪悪感を募らせる。

 

「桐山零くん……だったよね。──えっと零くんは高校生?」

「は、はい。四月から二年生に進級します」

 

 先程、二人から自己紹介をしてもらった。

 少し眠そうなお姉さんが伊地知星歌(いじちせいか)さん。

 

「じゃあ同い年だ! 高校はどこ? このあたり?」

 そして向かいの席で明るく話しかける少女が妹の伊地知虹夏(いじちにじか)さんだ。

 どうやら二人は少し年の離れた姉妹らしい。

 

「は、はい。ただ最近、下北沢に越してきて。四月から『下北沢高校』に転入します」

「ほう……」「へー」

 星歌さんと虹夏さんが互いに目を合わせ、姉妹揃って含んだ笑みを浮かべる。

 息のあった二人に血の繋がりと仲の良さを感じさせる。

 なぜだかボクの居心地は悪かったけれども。

 

「あ、あの……」

「あー、ごめんごめん。それにしてもなんでお酒なんか? 零くんそんなキャラじゃなさそうなのに。あっ、もしかして内なるロックに目覚めたとか?」

 

6九(ろっきゅー)

 

 鈍い頭の痛みを無視するように制御不能のまま、刹那に印象的な棋譜が脳内でいくつか浮かび上がる。その中で宗谷名人が前回の獅子王戦防衛を決めた盤面がクローズアップされた。

 やはり今でも印象的だからなのだろうか。あの瞬間をリアルタイムで観戦していた当時の衝撃が蘇る。

 

「零くん?」

 ろっく、ああロック。もしかして音楽の一つのジャンルのロックってことかも。

「あ、いえ。えっと……」

 

 そうしてボクは二人にたどたどしく昨日の不始末の詳細を語る。

 説明をするにつれ二人の表情はどんどん険しくなっていき、自分の声が細くなってしまうが、二人は最後まで静かに耳を傾けてくれた。

 

「何なのその先輩! ひどすぎるでしょ!!」

「おい桐山、そいつも高校生なのか? それとも大学生か?」

 

 一緒に飲んだ相手、それはボクと同じプロ棋士の先輩だ。

 でもボクは、その事実を正直に告げるのを躊躇った。

 この件が将棋連盟に発覚したら連盟や会長に迷惑をかけるかもしれないから。

 それにお世話になっていた幸田家にも……。

 

 いささか乱暴な言葉を次々繰り出す虹夏さんに、冷静な質問をしつつ威圧感が増す星歌さん。

 態度は違えど二人共、本気でボクを心配してくれているのが伝わってくる。

 初対面なのになんて優しい人達なのだろう。

 つい先程まで勝利に貪欲な特殊な環境に身を置いていたせいで、一層、新鮮な感覚だった。

 

 でも、ごめんなさい。

 

 そんな人達にボクはこれから『嘘』を付きます。

 

「その……年の離れた方でした」

「なんだ。煮え切らないな。そいつとはどんな関係なんだ?」

「……将棋の対局をした方です」

「しょーぎ? あのチェスとかオセロとかの?」

「は、はい。でも初めて会った方で、少し強引に誘われてしまい、連絡先も不明でして……」

 

 嘘だ。本当は昨日ボクが負かした対局相手とその棋士仲間だった。

 

「場所はどこかの将棋教室とかだろ? 受付で名簿を見せてもらえばわかるんじゃないか。お金とか大丈夫か? 警察に相談した方がいいだろ」

 大人である星歌さんの適切な提案がボクを苦しめる。

 

「は、はい。でもあの警察とかはその……終わったことなので。それよりお二人には本当にご迷惑おかけしてすみませんでした! なんとお詫びしてよいのか……」

 

「いいよ。まあ事情は分かったし。ただ次からは絶対に断れよ。桐山はお坊っちゃんみたいだから知らないだろうが、世の中には本当に酒癖の悪いクズってのはどこにでもいるんだ」

 

 そんなアドバイスと共に今日一番のため息をする星歌さん。

 何故だかとても実感がこもっていた。

 

「そうだ、折角だしお姉ちゃんお店手伝ってもらったら? 今日ちょっと忙しいって言ってたじゃん。あのね零くん! お姉ちゃんってね、こう見えて下にあるライブハウス『STARRY(スターリー)』の店長なのだよ!」

 虹夏さんは誇らしそうに星歌さんに向けて、ひらひらと両手を振る。

 

「こう見えては余計だ! あと無断で高校生働かせられないから」

「えー、私も高校生なんですけどー」

「お前は妹だろ」

 

 今日の手合いはない。

 昨日の飲み会を断りきれなかったのも、それが一因だった。

 

 ライブハウスの手伝い。

 バイトなんてほぼ未経験のボクにできるのだろうか? 

 でも、少しは役に立てるのなら……この二人に恩返しがしたい。

 そう思った。

 

 つばを飲み、直後に生じた二日酔いの痛みをボクは無理やりかき消す。

 

「あ、あの! ボクでよかったらお手伝いさせてください!」

 思ったよりも大きな声が出てしまって、二人が少し驚く。

 そして星歌さんは何度目かわからない困った顔を浮かべ、また一つため息をつく。

 

「わかった。じゃあ16時に店に来てくれ。それまでにその酒臭い服、着替えて来いよ」

 え? 臭い? 

 言われて気がつく微かに鼻を刺激するアルコールの臭い。そんなにひどかったのか。

「わっ、えっ、す、すみません! わかりました。よ、よろしくお願いします!」

 

「それと”親御さん”にちゃんと連絡しとけよ。気まずかったら私もフォローするけど」

「あ、それは大丈夫です。今はボク、”一人暮らし”なので」

 

 ボクは表情が固くならないよう注意して答えた。

 

「えっ」「……」

 二人は驚き、一瞬、言葉を失う。

 

「その、桐山のご両親は?」

「亡くなりました。でももう随分と昔のことなので」

 

 ボクはおかしな表情になっていないだろうか……。

 この話は少し苦手だ。だいたい同情され反応に困るから。

 

 でも、

 

「そっか……少し似てるね私達。うちもお姉ちゃんと”二人暮らし”みたいなもんだし」

 虹夏さんはカラッと笑うのだった。

「えっ……」

 予想外の返答で、今度はボクが言葉に詰まった。

 

「虹夏が9歳のときに母親が亡くなって。父親も……まあ、仕事が忙しくて家を空けててな」

 そう言って遠くを見つめる星歌さんは、少し寂しそうな面持ちだった。

 

 引っ越してからは食べることのなかった朝食。

 それも優しくてあたたかな食卓。

 それがボクと似た境遇だけどボクとは真逆な姉妹との、決して忘れることのない出会いだった。

 

 

 

「それにしても零くんって実はご近所さんだったんだねー」

「ええ、本当にご迷惑をおかけしました……」

 

 後ろからスマホを覗き込む虹夏さんが嬉しそうに話しかける。

 帰り際、現在地から引越し先を確認すると『STARRY』のすぐ近くだった。

 徒歩でおよそ3分とそこらだ。

 

 お昼まで厄介になるわけにはいかないので、二人と別れ一日振りに新居に戻る。

 にぎやかな家から一変し、途端、夢から覚めたような静寂がボクを襲った。

 

 シャワーを浴び服を着替え、時刻は11時を過ぎた頃。

 手合いがないのだから、当然予定もない。

 普段なら暇を潰すようにPCを起動して将棋の研究をするところだけど……約束まではまだ時間がありそうだし。

 

 ボクは簡単な準備を済ませ家を離れた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 三月町。

 そんな川沿いの穏やかな町にある老舗和菓子店『三日月堂』。

 

 棋士は職業柄、糖分を欲する。脳をフル稼働させるからだ。

 そういったこともあってか、三日月堂は棋士の間でも有名な和菓子屋さんらしい。

 ボクも昔仕事でお世話になった棋士に教えてもらって以来、リピートしている。

 

「いらっしゃいませ」

 店内のカウンターにいる”女将さん”に優しく迎えられた。

 定番の三日月焼や春らしい季節感のある桃色のお菓子がウインドウに並べられている。

 

 ライブハウスの店員さんって何人くらいなのかな。

 10人くらいは必要か? 

 悩んだ結果、余ったら将棋会館に持っていこうとボクは少し多めに購入することに決めた。

 

「すみません。三日月焼きを10個と春の和菓子のセットを1つお願いします」

「ありがとうございます。詰めますので少々お待ち下さいね」

 

 女将さんがお菓子を詰めていると、旦那さんと思われる男性が顔をのぞかせる。

 

「いらっしゃいませ。またありがとね」

「こんにちは。冬の和菓子も美味しかったです」

「それは良かった。春も自信作でね。また感想聞かせてね」

「あ、はい」

 

 世間話は苦手だ。

 だけど会話が弾まなくても許されるような、そんな和菓子屋独特のゆったりとした空間がボクは好きだった。

 

「お父さん、お母さん帰ったよー」

「あかり、おかえりなさい。早いわね」

「大学卒業するとやることもないからね。友達も今日は追いコンあるって言ってたから。あら、いらっしゃいませ。いつもありがとね」

「あ、はい。こんにちは」

 

 ”あかり”と呼ばれた女将さんの娘さんが気さくに話しかける。

 女将さんに似てとても優しい雰囲気の人だ。

 

 月に一度は来るから、顔を覚えられてしまったらしい。

 三人とも皆、満開の花のように幸せに満ちた笑顔。それが何故だかボクの目に焼き付く。

 

「おまたせしました。こちらから失礼しますね」

「ありがとうございます」

 

 三日月堂を後にし、腕時計を見る。

 時刻はもうすぐ15時。ボクは急いで手伝いへ向かった。




■桐山くんいない川本家はどうするんだよ!
→ この世界では最初から幸せな家庭にしました。おそらく一番の改変。

■『STARRY』前で酔いつぶれてたら美人姉妹に拾われましたとか許されるのかよ
→ 『3月のライオン』のストーリーを謎っただけという事実。さすがだ主人公。

■伊地知家の父親の扱い
→ 仕事忙しすぎて単身赴任もしくは別居という想定


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2話 STARRYと金欠少女

 ライブハウス『STARRY』の場所はわかりやすい。

 伊地知家の地下1Fにあるからだ。

 ただ問題が一つある。一見さんお断りの雰囲気を醸し出している点だ。

 仕事の都合で何度か訪れた一流のホテルや旅館とはまた違った、どこか重くて暗いそんな印象。

 もしかしたらボクがライブハウスという場所に初めて入る緊張がそうさせているのかもしれない。

 

 意を決して手を伸ばすと、ヒンヤリとした鉄の感触が伝わる。

 重い扉を引くと、受付近くにショートヘアの青い髪の少女が佇んでいた。スラッとしたシルエットからか少し大人びても見える。

 彼女はこちらを見るなり不思議そうな顔をする。

 

「誰? まだオープン前だよ」

「あの本日、手伝いに来ました桐山といいます」

 

「む、キミが虹夏が言ってた子?」

「あ、はい。そうだと思います」

 

「名前」「はい?」

 

「桐山……何?」

「すみません。桐山零といいます。本日はよろしくお願いします」

「”零”だね。わかったよろしく」

 

 そう言って彼女は右手を前に出す。

 握手かと思って荷物を左手に持ち変え、右手を前に出すが彼女は少し不満げだった。

 

「違う。それ」

 彼女が見つめるのは差し入れに持ってきた和菓子だった。

 

「あ、こちらですか。よかったら皆さんでどうぞ」

「零、ありがとう。私は山田(やまだ)リョウ。”リョウ”でいいよ」

 

「あ、はい。リョウさん、よろしく……って、えっ!!」

 リョウと名乗った子はお土産を開封するなり、両手でつかんだ和菓子をパクリと二つ平らげ、瞬時に目の前から消滅させた。

 

「ゴクリっ、おいしいねこれ。零、どうしたの?」

「”どうしたの?” じゃないでしょ! リョウ何やってんのー!」

 こちらに気づいた虹夏さんが、慌ててフォローに入るのだった。

 

「ごめんねーリョウは今日のバイトのシフトメンバーなんだけど……浪費家でいつも金欠なんだよ。あっ、でも根は悪い子じゃないから! 零くんもその、同い年だし仲良くしてあげて」

「零はイイ奴だね、私の勘はよく当たるから。わかった仲良くする」

「いや、リョウに言ってないんだってば!」

 

「はは、リョウさんは面白い方なんですね」

「まあね。それほどでもある」

「リョウは変わり者って言われるのと喜ぶんだよ」

「そんなことないし……」

 否定するリョウさんの顔を見るとどことなく嬉しそうだ。

 

「お前ら~ サボってるんじゃないぞ!」

 僕らの会話に気づいた星歌さんが注意することで、いったんこの場はお開きとなった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 皆で店内を清掃をした後、ボクは虹夏さんからドリンクコーナーの接客を教わった。

 ドリンクの種類は豊富だがよくあるパターンからボクは優先的に覚えていく。

 そうしてオペレーションを記憶していると、いつの間にか開店時間は過ぎたようだ。

 お客さんが続々と入店し始める。

 

 だいたい200人程度だろうか。

 小会場くらいの広さはあるこのライブハウスも今は手狭に感じる。

 今日は忙しい、そんな虹夏さんの予想通りお店は繁盛していた。

 

 更に時間が過ぎるとステージに人が集まり始め、それに反して、ボクの担当するドリンクコーナーは落ち着きを見せる。

 隣でサポートする虹夏さんは客足をうかがいつつ、場を和ませようと雑談をしてくれた。

 

「零くんってもしかしてバイト経験ある? 思ったより場慣れしてるよねー」

 

 バイト経験はほぼない。奨励会時代の記録係くらいだろうか。

 でも棋士の仕事は将棋を指すだけではない。将棋を通して様々な人と関わる機会がある。

 ボクはまだ学生だから経験は少ないけれど。それでも同年代と比べると多いのかもしれない。

 

「はい、少しですが」

「そっか……。ごめんね。零くん大変だろうに私、手伝わせちゃった……」

 虹夏さん、朝の話でボクのことお金のない苦学生だと勘違いしてそうだ。

 

「いえ、気にしないでください。今は支援もあってそこまで大変でもないので。それに今回はボクが手伝いたかったんですから!」

「そ、そっかそっか! ならよかったよー」

 ほっと胸を撫で下ろし、虹夏さんはステージの方を真剣な表情で見つめていた。

 

「実は私さ、最近リョウとバンドを組んだんだ」

「そうなんですね」

「うん。私はドラムでリョウはベースで──それにリョウのベース上手いんだよ。まぁ私はそこそこ……だけどさ。いつかメンバー集めてあのステージに立つのが目標なんだ!」

「いい目標ですね」

「う、うん。でさ、突然なんだけど……零くんって『ギター』とか興味ない?」

 

 ”ギター”

 今までボクが関わってこなかった分野だ。

 興味が無いといえば嘘になる。

 でもこれはそういう類の質問じゃない。

 

「すみませんがギターの知識は全然なくて。その、お役にたてないかと……」

「ゔっ、ダヨネー。そんな簡単に”天才”ギター少年は転がってないかぁー。いやでも実は”天才”ボーカリストだったりとか……」

 

 虹夏さんの期待した目に怖くなったボクは、瞬時に首を大きく横に振って断る。

 声が小さくなりがちなボクには、それこそ無理な気がしたから。

 

「あはは冗談冗談。私も歌下手だし、急にごめんね零くん」

「す、すみません虹夏さん。でも他のことなら手伝いますので……」

 

 バンドってお金かかるのかな? 

 なぜかお客さんと一緒に待機しているリョウさんを見つめながら、ボクは使い所がなく無駄に貯め込んだ貯金額を思い出す。

 

「ううん、でもありがとね。興味あったら零くんも楽器やってみようよ。私も協力するからさ」

「あ、はい。機会があれば」

「それ絶対やらない奴でしょー。そういえば零くん今更だけど”敬語”とかいらないよ。同い年じゃん!」

「えっ、はい。えーっと、わかった」

 

「うんうんその調子だよ、さてそろそろ始まるよ! このバンド評判なんだよねー。もう暇になるし零くんもお客さんとして楽しんでってね」

「はい。ありがとうございます」

「敬語」「あっ」

 

 ボクにとって初めてのライブ観戦。

 

 ライトが暗転する。

 ぽつぽつとまばらに聞こえる観客の声援と、周辺の静けさが昔見た花火大会を思い出させる。

 曲の開始ともにスポットライトがステージに点灯した。

 前に立つのは男性4人のバンド。そんな彼らの戦いの幕が上がった。

 

 正直、音の良し悪しはよくわからない。

 

 でも、そんなボクにでも伝わってくる1つのメッセージ。

 センターで歌い上げるギタリストも、それを支える奏者も”全力で”何かを僕らに届けようとしている。

 

 ああ、知ってる。

 ボクはこれに似た感覚を知っている。

 

 ふっと一人の人物が浮かび上がる。

 体調を崩しがちだけど、明るく前向きでふっくらとした体型の少年だ。

 昔からボクに全力でぶつかってくるアイツを何故か思い出した。

 

 アイツとの出会いは小学生だった。

 真夏の炎天下。デパートの屋上で実施された小学生の将棋大会で初めて対局した。

 あの日はお互いに満身創痍で。特にアイツは体調を崩しながらも粘り強く一歩も引かない戦いを繰り広げていたっけ……。

 

 アイツ、『二海堂晴信(にかいどうはるのぶ)』とボクはそろそろ再戦するかもしれない。

 実現すれば、プロになってからは”初対局”になる。

 

 獅子王戦6組ランキング戦。

 僕らは互いに勝利を積み上げトーナメントを進めている。

 先日勝利した二海堂に続き、次の対局でボクが勝ち進めば再戦となる。

 

 二海堂。

 ああ、ボクだって負けたくない。

 

 ”気迫”

 

 そんな文字が浮かび上がる彼らのライブだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「桐山、今日は助かった。もう帰って大丈夫だぞ」

 営業後の作業もつつがなく終了し、ボクはスタッフさんに挨拶をして帰ろうとしていた。

 

「えっ店長、今、桐山って……? やっぱキミ、まさか将棋の『プロ』の桐山零くんですか?」

 店長の隣に座る口元のピアスが特徴的な女性がこちらを見て驚く。どうやらボクのことを知っているみたいだ。

 

「プロってなんだ?」

「店長、知らないんですか? すごい有名じゃないですか。数年前とかニュースでよく取り上げられてましたよ。宗谷名人以来の中学生で将棋のプロ棋士になったって……」

 

「?」「?」「?」

 

 PAさんと呼ばれていた女性は周りに投げかけたが、反応は思わしくなった。

「ここ音楽オタクしかいないんでした……」

 

「えええええ! つまり零くんってギターじゃなくて『将棋』の天才少年だったってこと?」

「天才って訳じゃないけど。その、棋士の桐山です。ごめん……あまり知られたくなくて黙ってたんだ」

「許す。だから、これお願い」

 リョウさんはどこからともなく取り出したペンと色紙をボクに差し出す。

 

「サインですか?」

「うん。大丈夫、悪いようにはしないから。ふふふ」

「リョウ絶対何か企んでるでしょっ! 零くんも簡単に書いちゃダメだよ。あ、でも私もちょっと欲しいかも?」

 

「お前ら落ち着けって。大体わかったから今日はもう全員上がりな。悪いけど桐山。確認したいことあるから少し残ってて」

 

 スタッフはそれぞれ解散し、星歌さん、虹夏さん、ボクだけの3人だけ残され、

「じゃ帰るよ」

「は~い」

「えっ?」

 そして何故か再び、ボクは伊地知家にお邪魔する。

 

 皆で少し休んだ後、虹夏さんを手伝うためキッチンに向かい、遅めの夕食に取りかかった。調理の最中、カットした三人分の食材たちが色とりどりに並んでいる。いつもの味気ない食事とは違って豪勢で、ボクは懐かしくなった。

「意外でもないけど、零くんって料理出来たんだね」

「一人暮らしするために一通りは」

「でも、普段は全然料理してないって言ってたよねー」

「……うっ、はい」

 そんなボクの反応を見て、虹夏さんは少し呆れたように笑うのだった。

 

 

「零くんに手伝ってもらって助かっちゃったよー じゃ食べよう食べよう!」

「お前ら私を除け者にするな」

「だってお姉ちゃん料理すると怪我しちゃうし」

 星歌さん、ひょっとして料理苦手なのかな? 

 

「おい桐山、何か言いたいことでも?」

 うっ……ギロリとした目つきの星歌さんからすごい威圧、圧迫感が。

「い、いえ。その、いただきます」

「いただきますー」「ちぇっ、いただきます」

 

 食事をしながら、ボクは朝に黙っていた将棋棋士について二人に軽く説明する。

 そしてやはりというか、因果応報というか。

 ボクが付いた嘘はバレた。

 

「桐山、先輩っていうのはつまりそういうことか」

「そうです。将棋棋士の──あまり公に、連盟に隠したくて黙っていました」

「じゃあ誰かは把握してるんだな」

「はい、でも次からは必ず断ります」

「わかったわかった。ま、社会勉強になったと思って次から気をつけなよ」

「はい、ありがとうございます星歌さん」

 ボクが全て白状し、星歌さんはどこかスッキリしたように一つ頷く。

 

「お姉ちゃんこう見えて零くんのこと心配してるんだよー。ほらなんて言ったけ、ツンツンツンツンデレ? みたいな」

「虹夏うるさい」「痛っ!」

 

 朝と一緒だ。

 おいしい。

 言い合う姉妹を見つめながら、ボクはそんなことを思うのだった。

 

 

 

「桐山、一人暮らし大変だろ。仕事ない日はご飯でも食べに来なよ。まあ、材料費だけでも払ってくれればいいから」

 帰り際、星歌さんからの突然の提案。

 その純粋な好意を素直に受け取れずにボクは戸惑っていた。

 

「あっ、それ名案かも。零くん普段から全然栄養足りてなさそうだし、一緒に食事しようよ!」

「で、でも……」

「さっき零くんに嘘つかれて、私たち悲しかったな」

「ゔっ……」

 痛いところを虹夏さんは的確に付く。

 

「それに料理手伝ってくれたら私も助かっちゃうし。はい。じゃあ決定ってことでいいよね!」

「えっ、は、はい……」

 うんうんと満面の笑みで頷く虹夏さんの勢いに流されて了承してしまったが本当にいいのだろうか? 

 でもそうか。バンド練習や仕事をしつつ家事を両立させるのは二人にとっても負担なのかもしれない。ボクは一旦そう納得させた。

 

 帰り道。

 虹夏さんは飲み物を買うついでに途中まで見送るよと、ボクと二人、外を歩いていた。

 偶然にも人とすれ違うことはなく、通りを歩くのは僕たち二人だけ。

 ボクの少しの前を歩きながら、虹夏さんは無言で夜空を見上げている。

 真似るようにボクも上に目を向けると、明るい星たちが沈黙を包むように輝いていた。

 

 目的地の自販機の前で僕たちは立ち止る。

 自販機の光に照らされながら、虹夏さんはいつもの明るい表情でボクに尋ねる。

「零くんは何がいい? お給料は出せないけどちょっとしたバイト代ってことで。だから気にしないでね」

「……じゃあ、冷たいお茶で」

 断ることも出来ずボクは無難な選択をする。

 甘いものを頻繁に食べる棋士はお茶やコーヒーを持参する人も多い。

 ボクも例に漏れず市販のお茶を習慣的に飲んでいた。

 

「りょうかい! はいじゃあこれね」

「あ、ありがとう」

 

 お茶を受け取ると、少し間をおいて虹夏さんは先程の件に触れた。

「零くん、本当に遠慮しなくていいからね。多分さ、お姉ちゃんも私も味気ないんだよ。二人だけの食事って……」

 

 そして虹夏さんと別れボクは帰宅した。

 何時間過ぎても別れ際に彼女が見せた複雑な表情が、ボクの頭から離れなかった。

 

 

 

 翌朝。

 結局どうすべきか迷っていたら、虹夏さんからロインでメッセージが届く。

『先に朝ごはん作ってるねー』

『零くん 悪いんだけど豆腐切れてたから買ってきてもらっていい?』

 

 無視するわけにもいかないボクは、出かける準備を軽くして近くのコンビニに立ち寄り、急いで伊地知家に向かった。

 

「零、おはよう」

「えっ……リョウさん? はい、おはようございます」

 

 少し驚いたが、家に上がるとリビングのソファーでリョウさんがテレビを眺めくつろいでいた。虹夏さんは朝食の準備をしていて、星歌さんはまだ起きていないようだ。

 

「あ、零くんおはよっ。リョウもいるけどいいよね! ま、まぁリョウはいつも食べる専門なんだけどね……」

「は、はい。全然」

 

 話を聞くと金欠になりがちなリョウさんは、時々こうしてご飯を食べに来るらしい。二人は知らぬ間に今のような関係になっていたらしく、もう色々諦めたとのこと。

 

「まあ、リョウは”野良猫”で、零くんは”飼い猫”みたいなものなのかなー」

 猫? 虹夏さんはトレードマークのリボンを結びながら、そんなよくわからない例えをするのだった。




桐山くん伊地知家の飼い猫になる。


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3話 度重なる偶然

 四月になった。

 まだ春休みの真っ只中だけど本日は対局日。

 獅子王戦6組ランキング戦のトーナメント。

 この対局に勝てば次の獅子王戦トーナメントでボクは二海堂と対局する。

 

 僕たちプロ棋士は対局で勝つため、普段から研究を重ねる。

 研鑽し、歴代の棋譜やソフトを使いながら自分のものにする。

 その蓄えた知恵は、必ず対局で活きた。

 

 でも僕らは、最後までそれに頼りきることはできない。

 他の棋士たちも日々、研究を重ねて前に進んでしまうから。

 対局中、僕たちはいつか定跡を外れ、最後は自分の身一つで戦うことになる。

 

 これまでのボクはそんな身一つの状態で投げ出されると、いつも苦しみもがいていた。

 真っ暗い小さな部屋の中で、一人閉じ込められたように。

 そんな苦しみながら指した一手は、A級棋士のような力強く、深く鋭い読みに裏打ちされた将棋には通用しなかった。終盤になると、劣勢を強いられてきた。

 それが昨年度のボクだった。

 

 今日の対局も定跡を外れ、似た光景と遭遇した。

 でも何故かいつもと違っていて……。

 閉め切った暗い部屋から、幾つか答えとなる扉を提示してくれるような。

 そんなかつてない高揚感がボクをいざなった。

 

 終盤間近で長考したあの時、頭の中でおぼろげに描かれた終局図が、今まさに現実の盤面に配置された終局図と瓜二つに重なっている。

 

 そんな不思議な体験を、ボクは今日はじめて経験した。

 

 対局に勝利し検討を終えたボクは、先輩棋士の三角(みすみ)六段、通称スミスさんと帰り道で鉢合わせる。スミスさんは20代半ばの男性で赤い眼鏡と(あご)にひげ、髪を金色に染めた気さくで親切な先輩だ。

 

「なあ桐山、あのかわいい子ちゃん、今月のイベントも参加するって言ってたりした? ねぇ言ってた?」

 

 スミスさんが何かを期待した血走った目で凄んでくる。

 今月のイベントもスミスさん、参加するのかな? 

 将棋の気風と同じように気さくで軽やかな会話を好むスミスさんはファンにも人気が高そうだしな。根暗なボクとは違って……。

 

「かわいい子ちゃん?」

「先月のイベントにいた赤髪の子、お前が”ナンパ”してたあの子だよ」

「ナンパ? してませんよ、そんなこと」

 

 今年の三月初め。

 ボクはファンの方に揮毫(きごう)するイベントに参加していた。ボクが引っ越す前に参加した最後のイベントだ。それ以来、一人暮らしに慣れることを理由にイベントは基本断っている。

 

 参加した棋士は、ボクとスミスさんと女流棋士の三人。

 その時参加したお客さんの中の一人、赤い髪の女の子に揮毫したことを思い出す。

 確か名前は……

 

喜多(きた)ちゃんのことか」

「なんだよ桐山きゅ~ん、硬派を気取ってると思ってたけど名前しっかり覚えてるじゃない。くぅーズルいよなぁお前ばっかり。この天才少年め」

「いえ名前は別に……」

 あの日は参加者が比較的少なくて50人規模だった。

 だから多分だけど、顔と名前は全員覚えている。

 

 ただ印象の差異はどうしてもある。

『喜多ちゃんと呼んでください桐山先生!』とハキハキした口調で話しかけてきた少女は、確かに将棋ファンにしては珍しいから印象には残っていた。

 だからなのだろうか。

 スミスさんの言い分も完全には否定できなかった。

 

 話題の”喜多ちゃん”を一言で表すならキラキラした子だった。

 

 毎週恒例の日曜にテレビで放送される将棋トーナメントMHK杯。

 そのトーナメントに昨年度出場したボクの1回戦をたまたま観戦して将棋に興味を持ったらしく、以来、欠かさず応援してくれたとのこと。

 

「応援してますね! がんばってください」

 キタ~ンという効果音が今にも聞こえてくるような輝いた目をしていた。

 

「将棋は素人なんです」と恥ずかしそうに話していた彼女。

 将棋に詳しくないけど観戦が好きな人。いわゆる『観る将』というファンの方も多い。

 ルールは知らないけど棋士が好きだったり、食事に注目したり、ファンと言っても人によって様々。ボクは改めて将棋を指すだけが仕事じゃないんだなと感慨深くなる。

 

 将棋のことを話しても困らせるだけかなと思ったボクは、将棋以外に興味があることを尋ねてみた。

「私、”イソスタ”で投稿するのが好きなんです!」

「イソスタ?」

「あ、知りません? ちょっと待って下さいね!」

 そう言って彼女はスマホを取り出し、アプリの説明をしてくれた。

 

 どうやら彼女はイソスタというアプリでお友達と写真を共有するのが日課らしい。

「今回の色紙もバッチリ”映える”投稿しますね!」と悪気のない彼女の言葉から推測するに、おそらくボクが揮毫した色紙も、既にイソスタに掲載されてしまっているのだろう。

 スマホに表示された綺羅びやかな画像に紛れ、ボクの色紙が並ぶ絵を想像すると途端に恥ずかしくなったが、彼女が喜ぶ姿に何も言えず無理やり感情を押し殺していた記憶が蘇る。

 

 そういえば。

 

「私、ギターに挑戦しようと思ってて! だから桐山先生のお力を少しでも分けて欲しいなって……その、お願いしてもいいでしょうか」

 

 彼女が揮毫で選択した文字は『挑戦』だった。

 

「その子、忙しくなるって言ってましたスミスさん」

「なんだって! もしかしてお前、密かにロインで繋がっちゃってないだろうな桐山」

「いや知りませんから。彼女がイベントで言ってたんです。忙しくなるって」

 連絡先なんてボクは数えるほどしか知らない。

 ロインは幸田家以外だと二海堂くらいだ。

 

 でも最近、増えたんだ。

 虹夏さんと星歌さん、それとリョウさん。

 

 それにしてもギターか。

 最近、虹夏さんとリョウさんのバンド『結束バンド』にも進展があったらしい。バンド名が”ダサい”と虹夏さんは思っているらしく、「いつか絶対変えてやるー」ってたまに嘆いていたから、バンド名は仮決定らしいけど……。

 新たに”ギターボーカル”が加わって、ライブという目標に向かって日々邁進しているようだ。

 

 ボクをきっかけに将棋に興味を持ってくれた人がいたことに喜びつつも、バンドに熱中する彼女たちの気持ちもまた、この前のライブハウスのおかげか理解できる。

 そんな自分に少し驚いていた。

 

 あれ? 

 そういえば喜多ちゃんのイソスタのアカウント名、スマホを見せてもらった時に表示されていたような。

 確か……でも悪いよね。ボクはその事実を頭の隅に追いやるのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 転校初日。

 下北沢高校 2年B組

 

「お前ら静かにしろ。突然だが転校生だ」

 珍しいイベントに生徒たちは騒がしくなる。

 しかし先生は手慣れたものでクラスを簡単に諌めた。

 

「桐山入っていいぞ」

 

 ボクはゆっくりと教壇に上がり自己紹介をする。

「桐山零です。よろしくおねがいします」

 

 ざわざわっという音が交じる。

(あれっ、あの人……)

(ニュースで見たことあるかも)

(誰? 有名人?)

(えっ、知らないの? 確かほら……)

 

 前の学校、というより去年は全員が入学生だったことでボクに注目が集まらず、あまり正体を知られなかったが、転校生となる今年は様相が異なるみたいだ。

 き、気まずい……。

 

「あー、知っている人もいるかもしれないが、桐山は高校生ながら将棋の『プロ棋士』だ。学校側もサポートするが、学生との両立は大変だろうし平日の対局も多い。みんなフォローしてくれよ」

 

 するとかつてない驚きの反応がクラス内の各地で発生していた。

 

「ええっ!」

「やっぱ本物なのっ、テレビでみたことあるよ!?」

「後でサインもらえるかな……」

 

「お前ら気持ちはわかるが、今日は忙しいから後にしてくれ。えっと、桐山の席は空いてるそこの、おい、”伊地知!”手あげて」

 伊地知? 

 珍しい名前が重な……

 

「はいっ! 先生!」

 耳馴染みした声の先には今朝も顔を合わせた虹夏さんが金髪のサイドテールを大きく揺らし、満面の笑みでこちらに手を振っていた。

 まるで悪戯に成功した子供のような満面の笑みで。

 

「えええええっ!」

 ボクは今年一番の声で驚愕した。

 

「何だ? お前ら知り合いか?」

 先生の疑問にボクは縦にうなずくしか無かった。

 

 

 

「虹夏さん、まさか同じ高校だったなんて……」

「あはは。いやーごめんごめん。ちなみにリョウも同じクラスだよ、ほらっ」

 

 隣の席に座る虹夏さんが指差す先に、リョウさんは作戦成功と言いたげにぐっと親指を立てていた。

 

 偶然は重なるもの。

 ボクはそんなことを思うのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 転校してから一週間ほど過ぎたある日。

 転校直後だけは騒がしかったボクの周りも、皆慣れたのか一週間も経てば存在を忘れたように落ち着いていた。クラスには熱心な将棋ファンはいなかったようで、ときよりサインを強請られるか事務的な会話をするくらいのものだった。

 

 昼休み。

 虹夏さんが隣の席ということもあり、最近のボクは結束バンドの事情通になっていた。

 彼女の席がバンドのミーティング会場になるからだ。

 

「ねぇリョウ大変だよ! ロイン見た? あの子、今日も参加無理だって」

「いや今エネルギー補給してた。そっか、それは少しやっかい」

「初ライブまで残り3週間なのに合わせも出来ないのはなぁ はぁ」

 

 ため息交じりにサンドイッチをつまむ虹夏さん。

 どうやらここ数日の話を聞く限り、新しいギターボーカルの子と上手く連携できてないみたいだった。

 

「どうすればいいと思う? ねぇお願い零くん、タスケテよ~」

 えっ。

 助けを求めて潤んだ目をする虹夏さんは新鮮だった。

 どうやら思っていたより、事態は逼迫しているらしい。

 

「でも連絡は取れてるんだよね?」

「そうなんだけどね……でも今日はギターの調子が悪いんだって。ほらっ」

 

 見ても良いのだろうか、プライベートなものを。

 恐縮しつつ結束バンドのグループロインを見せてもらう。

『にじか』、『リョウ』、『喜多』という三人のアカウントだ。

 最初の二人は目の前にいるから、ギターボーカルの子が喜多に違いない。

 

 喜多? 

 あの赤髪の明るい女の子を思い出す。

 

 まさか……。

 でも何故か確信めいた予感が押し寄せる。

 そんな予感を一度無視して、ボクはロインの内容に集中する。

 

 どうやら喜多さんは弦が切れてしまい買い替えるとのことだった。

 実際、リョウさん曰くそういったことはよくあるらしい。

 

 ただこれで合同練習の欠席が3回目。

 リョウさんから”弦のスペックを持ってくるよ”とのフォローにも、喜多さんは”問題は弦だけじゃなさそう”と歯切れの悪い対応をしている。

 

 この状況に虹夏さんは「焦っちゃダメ、まだ大丈夫」と小さく口に出しつつも、そわそわしていた。

 まだ挽回できる。

 でもこのままだと結束バンドの初ライブが不甲斐ない結果になるかもと、不安が隠せない様子だ。

 

 そんな虹夏さんの不安を他所に、ボクの疑問だけは一瞬で解決してしまう。

 まずは出来ることからとアー写作成に乗り出した虹夏さんが画面に表示した写真。

 その写真に写っていたのは、まさにボクがあのイベントで出会った赤髪の少女”喜多ちゃん”だったのだから。

 

 ああ、偶然って怖い。

 ボクはボヤくしかなかった。

 

 

 その日の放課後、

 練習に向けて爽やかに去る二人を見送り、ボクは近くの秀華(しゅうか)高校に向かう。

 

 悪いとは思いつつ、喜多ちゃんのイソスタのアカウントを辿ると秀華高校の看板を背景に、友達と仲良く写っている1枚が見つかった。

 恐らくだが彼女は秀華高校に通う生徒なのだろう。

 

 もしかしたらもう帰っているかもしれないけれど……。

 

(ギターに挑戦しようと思ってて)

 喜多ちゃんが練習に参加出来ないのも何か深い事情があるのだろう。

 あの日の彼女の決意は嘘じゃない。そう思えたから。

 

 急ぎ足で移動していたからなのか、後、ものの数分で秀華高校にたどり着くところまで来てしまった。

 ここに来るまで、ボクは何度も引き返すことを考えた。

 でもその度にお昼の虹夏さんの”助けて”という言葉と、泣きそうな表情が忘れられず、結局歩みは止まらなかった。

 

 秀華高校も下校時刻は過ぎているようで、既に生徒の何人かとすれ違う。

 

 もう下校している可能性は高いので、ボクはあたりをきょろきょろしながら赤い髪の女の子を探していると、コツンと何か肩にぶつかった。誰かとぶつかってしまったようだ。

 

「あっ、す、すすみません。ゴメンナサイ、ゴメンナサイ

「いえ、こちらこそすみません。大丈夫でしたか?」

「は、はいぃ……。すみません、すみません

 

 消え入りそうな声で、何度も深く謝る桃色の髪の少女。歩いてきた方向から、恐らく彼女も秀華高校の生徒だろう。

 よく見ると全身もピンク色のジャージ姿でとても目立つ少女だった。

 そしてその子は慌ててその場から逃げるようにトコトコと走り去ってしまう。

 

 あれ? 

 先程、少女が居た付近にノートが落ちていた。

 拾い上げ表紙を確認すると、それはノートではなかった。

 

 ギタースコアと書かれた表紙、そして背表紙に”後藤ひとり”と女の子らしい丸み帯びた文字で名前が書かれたギターの教則本のようだ。

 その本は至る所に付箋をしていて、使い込んでいた。

 

 しまった……これぶつかった人の落とし物だ。

 ボクは既に走って見えなくなってしまった少女を追いかけようか迷っていると、

「ひょっとして先生、──桐山先生ですか?」

 赤い髪の女の子、”喜多ちゃん”と再会できてしまったのだった。

 制服姿で久しぶりの再会だったが、一見してすぐに彼女だと分かった。

 肩にかかるくらいの赤い髪を片側だけ軽く結んでいて、以前と変わらずとてもキレイな容姿だったから。

 

「はい。喜多ちゃん……ですよね」

「ええ。え、ウソ、嘘っ、先生が私の名前覚えてくれている!? あれっ、でもどうして先生がここに? それによく見たら先生が着てる制服って下高ですよね」

「実は少し困ってることがあって。その、もし時間があればでいいんですが……、よかったら少しお茶しませんか?」

 

 なぜ私なのかと不思議そうな顔しつつ、にこやかに頷く喜多ちゃんの反応にボクはひとまず安堵する。

 直後、安心して冷静になれたのか自分を改めて客観視すると、とたんに恥ずかしくなり、ボクの顔は焼けるように熱くなった。

 

 ”お前がナンパしてたあの子だよ”

 

 いつだったかのスミスさんの言葉を思い出す。

 これじゃ本当にただのナンパじゃないか。




桐山くん、ついに結束バンドのメンバー全員と出会う 前編

■喜多ちゃんと桐山くんの関係どうしよう…
→そうだよ、喜多ちゃんは桐山先生の大ファンなんだよ!(驚愕)
なら喜多ちゃんの過去回想シーンいつか書かないと…


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4話 ギター担当

 現在、喜多ちゃんとボクは駅前のスタパというカフェにいる。

 

『ペペロプリプリパピプペポ ペロペロパチーナのショートで』

 謎めいた呪文を唱えさくっと注文する喜多ちゃん。

 店員さんも似たような呪文を復唱している。

 ここはいったい……住む世界が違う異空間だった。

 

 ここは無理に冒険する必要はない。

 対するボクはメニューを眺め、無難なおすすめのコーヒーを細々と注文する。

 

「ここの新作頼んでみたかったんです。ありがとうございますね零先輩!」

「いや気にしないで。ボクが相談したかったんだから」

 

 ボクと喜多ちゃんが出会ったきっかけは、将棋棋士とそのファンという関係。そんな奇妙な間柄だけど、今は敬語をやめてもらっている。こちらが相談する側だからと説得して。

 

 向かいに座る喜多ちゃんは新作の春らしさ溢れるフラペチーノを口にしながら、キョロキョロと所在なさげにしていた。

 気の利いた会話もできないし時間もないことだし、ボクは早速、相談に移る。

 

「言いにくいんだけど実は、喜多ちゃんを探してたんだ」

「わ、私ですか!? なんでしょう! えっ、もしかしてリョウ先輩と桐山先生の娘になりたいのがバレたとか。でもまだ誰にも言ってないのに何で……

 

 うん、突然の切り出しに困惑するのは分かるよ。分かるけど……。

 もしかして喜多ちゃんって少し変わった子なのかな。

 小声で不穏な発言をする喜多ちゃんを訝しむ。

 

「”結束バンド”って知ってるよね?」

「ひゃっ。先輩が何故それを!」

 ボクはバンドメンバーに喜多ちゃんがいると知った経緯や、実は他のメンバーの虹夏さんやリョウさんと友人であることを説明する。

 

「今からでも練習参加しない? 虹夏さん達も心配してたよ」

 心配してたというより焦っていたが正解だけど。

 

「ご、ごめんなさい! 先輩の頼みでも、どーしても無理なんです。だって私──全くギター弾けないから!!」

 そして喜多ちゃんはポツリポツリと参加できない理由を話してくれた。

 ギターの練習を侮っていたこと。

 どれだけ練習してもボヨンとした低い変な音しかでないこと。

 本番まで時間がなく、自分でもどうすればいいか分からなくなってたこと。

 

「桐山先生にも応援してもらったのに……わたし……うっ、ぅぅ」

「え、嘘っ、な、泣かないで! どうしよう。ご、ごめんね! こちらこそ急に押しかけちゃってごめん! ボクのことなんて全然気にしなくていいから!」

 目の前で喜多ちゃんが泣き出し、ボクは慌てた。ひとまず泣き止んでもらわないと。

 

「で、でもギターってやっぱり難しい楽器なんだね。ボーカルだけ参加するじゃだめかな? 歌が上手なだけでも凄いことだと思うよ」

「でもその今更申し訳なくて……。リョウ先輩達には”ギターできます”って見栄を張ってバンド入れてもらったのに」

 そうだろうか。今日のあの様子なら、ボーカルいるだけでも虹夏さん相当喜びそうだけどね……。

 

 そっか彼女の問題は”ギターの上達”だったんだ。

 でもどうする? 勿論ボクは使い物にならないし。

 そうなるとやっぱりギター教室の先生に習うとかなのかな。

 

 いや保険を掛けるなら……。

 

「そういえばあの子」

「先輩、どうしたんですか?」

 キョトンとしている喜多ちゃんは、ひとまず泣き止んだようだ。

 ボクはホッとする。

 

「喜多ちゃんって”後藤ひとり”さんって人を知ってる? たぶん秀華高だと思うんだ」

「後藤さん、同じクラスにはいませんね」

 

「もしかしたら別の学年なのかも。今日はピンク色のジャージを着ていて特徴的な子だったんだけど」

 よくいる学生にしてはあまりに目立つ後藤ひとりさんの服装を説明すると、喜多ちゃんは何か思い当たる節があるようだった。

「あっ、一人心当たりあります。そういえば1年2組で噂になってたあの子、確か後藤さんって名前だったかも……。後藤さんがどうしたんです?」

 

 ボクはショルダーバッグから”後藤ひとり”と名前が書かれたギターの教則本を取り出し、喜多ちゃんに渡す。

 その本を拾ったこと。本には付箋がたくさん貼られていて使い込まれた様子から、恐らくその子はギターの演奏ができるに違いないという予測も加えて。

 

「将棋だって独学だけじゃ大変だし。その子にギター教えてもらうのはどうかな?」

 本を受け取った喜多ちゃんはやるべきことを理解したみたいだ。

 これまで精細を欠いていた彼女の瞳は”ポンっ”と点火したかの如く輝きを取り戻した。

 

「私、なんか希望が見えてきました! まずは明日この本を後藤さんに返すでしょ。そしてギター教えてもらえないか相談して……。よぉーし必ず渡すから待っててね、後藤さん!!」

 

 あの気の弱そうな子が後藤ひとりさんだとしたら、喜多ちゃんに頼まれたらきっと断れないだろうな。喜び立ち上がって、気力満タンになった喜多ちゃんを眺めつつ、ボクはそんな未来を想像する。

 

 ごめんね……後藤ひとりさん。でも喜多ちゃん悪い子じゃないから。

 ボクはやさしい詰将棋よりも簡単な未来を予見し、先に心の中で謝るのだった。

 

 

 

(Side:後藤ひとり)

 

「くちゅん、風邪かなぁ」

「でも風邪になったら明日休める……うへへ、いや、ダメダメ。私みたいなド陰キャは一日でも休んだらクラスに完全に置いてかれてしまう。まだ入学して一週間。これからが本番なんだから」

 物置部屋の中でひとり自問自答していた。

 

「それにしてもやっぱり見つからない……どこにいったんだろう」

 趣味の合う友達探しのために装備してきたバンドグッズづくしのバッグ。

 そこに入れたはず本が紛失してしまった。

 あああああ、完全に裏目ったああ。

 

「あの本、気に入ってたのになぁ。今月のお小遣いも残り厳しいし……今日も友達出来なかったし……」

 不幸が重なり、私はもう失意のどん底だった。

「それでは聞いてください。新曲『今日もひとりぼっち』」

 

「ひとりちゃん~ ごはんよー」

「はいー」

 

 そして私の何もなかった今日は終わりを告げる。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 次の日

 

『後藤さんとお話できました!』

 ロインで喜多ちゃんからメッセージを受け取る。

 

『先輩、後藤さんが”結束バンド”に加入してくれました! 一歩前進です!」

 そして数時間に渡る、流れるような追加報告で、ボクはおおよその経緯を理解した。

 

 喜多ちゃんのこれまでのメッセージを簡単にまとめると……。

 要は色々と課題は山積みだけど、ギター問題は解決したってことみたいだ。

 喜多ちゃんの持ってた楽器が多弦ベースだったり、3週間でギターを弾くのは難しいとか色々あったけれど。

 最終的に後藤ひとりさんがリードギター担当としてメンバーに加わって、4人で再スタートを切って結束バンドは順調に動き出せる……らしい。

 

 後藤ひとりさん、強引に誘われてなければいいけども……。

『心配無用です、ちゃ~んと後藤さん本人の同意を得ましたから!』

 喜多ちゃんのメッセージにはそう書かれてあるが、彼女の胸中まではボクにも分からなかった。

 

 最後に送られた結束バンド4人の写真。

 後藤さん一人だけが、”どんより”していたのが妙に気がかりだったから。

 他の3人は嬉しそうだったから余計にね。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 同じ日の18時頃。

 ボクは伊地知家の玄関前でインターホンを押して待機していた。

 

 照明と薄らかに残る陽の光が、見慣れたドアを照らしていた。

 そのドアの先から軽やかな足音が聞こえてくる。

 

 勢いよくドアが開いた。 

「待ってたよ零くん! ありがとね、ホントありがとね!」

 そしてボクの左手を両手で握りしめ、跳ねるように大きく腕を上下に揺らす虹夏さんに出迎えられる。

 扉が閉まっても、はしゃぐ彼女の声は、何気ない日常がまた戻ってくるようで、ボクは肩の力がスッと抜けた。

 

「リョウには喜多ちゃん用の簡単な譜面に作ってもらってー、喜多ちゃんには譜面できるまではボーカルに専念してもらってー、”ぼっちちゃん”がリードギターやってくれるでしょー。明日の合わせが楽しみだよー!」

 緊急招集された結束バンドの集まりは、さきほど解散したばかりのようだ。珍しく虹夏さんは未だに興奮冷めやらぬ様子で自分の世界に入りこんでいた。

 

 ボクにあんなに感謝するってことは、喜多ちゃんが「零先輩のお陰なんですっ!」とか話を盛ったのかな。

 実際に解決したのは後藤さんなんだけど……。思えば犯罪じみた行動をした自覚はあるので、深く追求して欲しくないくらいだった。

 

 ところで”ぼっちちゃん”って後藤さんの事だよね。

 気になったボクは、あだ名が”それで”問題ないのか確認したが、後藤さん本人には好評らしく虹夏さんが折れたそうだ。

 

 孤高の人なのかな。

 あの格好を着こなすくらいだ。

 彼女も何かこだわりがあるのかもしれない。

 

「そうだよ、功労者の零くんにぼっちちゃん紹介しないと! ってことで、明日練習するスタジオに遊びにおいでよっ」

 メンバーでもないボクは無関係だ。

 だから断ろうとした。

 

 でも嬉しそうな虹夏さんの顔を見て、そしてリョウさんと喜多ちゃんを思い出して。

 最後にあの子も加入すると聞いて。

 みんなの演奏を聴きたい好奇心で、どうにも断ることが出来なくて。

 明日の練習に、ボクはお邪魔することした。

 

『零、お土産よろしく』

 ボクが参加することを知ったリョウさんの要望も追加されたけど。

 

 ちなみに今日の伊地知家の夕飯は豪勢にピザの出前だった。

 まるで一家でお祝いでもするムードだ。

 今回は星歌さんのおごりらしく「桐山も気にしなくていいから」とごちそうになることに。

 

 少し驚いて星歌さんの方を向くと、

「な、なに?」と、テレた顔する星歌さんがいて。

 

「いえ、ありがとうございます星歌さん」

 ボクは仄かに胸がポカポカするような。

 そんな随分と懐かしい温もりを感じた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「ド下手だあああ」

「えええええー。そんなそんな……(私、ギターヒーローなのに。登録者3万人なのに……)

 

 翌日の合同練習の日。

 受付の優しげなお姉さんに案内され皆の居るスタジオに入ると、虹夏さんの嘆き声がスタジオ中に響いてきた。

 

 練習スタジオというと狭く密閉されたイメージだったが、ここは想像よりも広くて豪華だ。飲食OKのテーブルスペースもあり、ホテルのようにくつろげる部屋だった。

 

「お店の人がお姉ちゃんの知り合いで特別に安くしてもらっちゃったんだー」

 って虹夏さん言ってたけど、星歌さん事前に幾らか払ってるんじゃ……と怪しむくらいには豪勢だ。

 

 そしてあのジャージの子、後藤ひとりちゃんが放心状態になっていた。

「どうもプランクトン後藤でーす……」

「売れないお笑い芸人みたいなの出てきた! ごめんごめん。でも私だってそんなに上手くないしっ」

「私は上手い」

「リョウもややこしくしないで!」

「うっ……ごめんなさいごめんなさい」

「大丈夫だからー。だからゴミ箱から出てきてーぼっちちゃんー」

 

「私がギター下手なのは分かるけど。おかしいわね、後藤さん学校では上手だったのに……って、零先輩! こんにちは。どうですかね、私、バンド女子になってます?」

 元気にこちらへ駆けよる喜多ちゃん。

 可愛らしくポーズも様になってて、周辺もきらきら輝いてると錯覚しそうだった。

 

「こんにちは喜多ちゃん。青いギターとっても似合ってるね。リョウさんが貸してくれたんだっけ?」

「そうなんですよ! リョウ先輩はやっぱり素敵ですよね!」

「そ、そうだね。あ、みんなにお土産持ってきたんだけど……今大丈夫そう?」

「零、待ってた。問題ない。だから私に渡して」

「あ、リョウさん。今、渡しちゃいますね」

「きゃっ、リョウ先輩と零先輩が会話してる。ひょっとしてここは夢なのかしら……」

「私はミジンコミジンコです」

「おーい、ぼっちちゃんー。お願いだから戻ってきてー」

 

 初めて入ったスタジオ。

 それはとっても混沌とした空間でした。

 

「はじめまして。桐山零って言います。結束バンドの皆には名前で呼ばれてるから気軽に『零』って呼んでね。えっと、後藤ひとりちゃんだよね」

 事前に人見知りと聞いてはいたので、親しみやすさをボクは心がけたつもりだ。

「あ、あ、あ、あわわわ、あばば」

「ぼっちちゃんー」

 虹夏さんの呼び声に「はっ」とする後藤ひとりちゃん。

 

 この子はボクよりも人見知りなんだと再認識する。

 ボクだって初対面の人は苦手だけど、それ以上に相手が緊張しているお陰か、妙にリラックスしていた。

 

「えっと……そうです。後藤ひとり、です。(まだ結束バンドの皆ともロクに会話できないのに。いきなり男の人との会話とか、経験が、まだ経験値が足りてない……)

「えっと『後藤さん』がいいのかな?」

「あ、ゔぎゃ……」

「それとも喜多ちゃんと同学年らしいし『ひとりちゃん』?」

 

「ひゃ……(あれでも同年代の男子に名前呼びされるって……これって”相当!”陽キャなのでは……陽キャだ。これは間違いなく陽キャ!)。へへっ。えへへへへ」

「なんかぼっちちゃん嬉しそうだね」

「後藤さん嬉しそうね」

 名前呼びでいいのかな? 

 小声で呟く彼女の早口を全く聞き取れなかったボクは、周りの反応を信用することにした。 

 

「じゃあ、えっとよろしくね『ひとりちゃん』」

「は、はい、『ひとりちゃん』です! え、えっと……れ、『零さん』。へへっ(しかもお互いに名前呼びまでっ。もう私は只の陽キャじゃない……”スーパー陽キャ”。これはもう武道館ライブも満員御礼間違いなし!)でへへへへ」

 

「ぼっち面白いでしょ」

「ぼっちちゃん面白いよねー」

「うん、面白い子だね……」

 ボクはただ頷くしか無かった。

 不思議な子だ……。

 

「伊地知先輩、オリジナル曲ですか?」

「うん、せっかく4人になったしカバー曲だけじゃ味気ないかなって。ライブまではあと3週間あるし。2曲はカバー曲、1曲はオリジナル曲を出来たらなって思ったんだ」

「でも作詞作曲は、どなたが担当するんですか?」

「まずは作曲はリョウができるでしょ」

「リョウ先輩って作曲できるんですね! 流石です、すてきっ」

「まぁ朝飯前」

 と言ってお土産を頬張るリョウさん。

 

「で、作詞は、昨日、ぼっちちゃん禁句があるって言ってたし……。ぼっちちゃんに書いてもらおうかなって思ってるんだけど。どうかなぼっちちゃん。作詞お願いできるかな?」

「えっ……」

 

 ひとりちゃんは小さな声で何かと葛藤するように呟いていた。

「ぼっちちゃん?」

「──ぁ、はい。やります」

「ホントに! ありがとうね、ぼっちちゃん!」

 虹夏さんは喜んでいるけど大丈夫なのかな? 

 

「後藤さん平気? 私のギターの練習も見てるのに……」

「が、頑張ります! 任せてください!」

「そう、後藤さんって凄いのね!」

「うんうん。大役任せたよ! まっ、間に合わなそうなら元々予定してたカバー曲やればいいからね」

 

「で、虹夏は何やるの?」

「さてそれでは休憩終了! 零くんも来たことだし、もっかい通しで合わせてみようー!」

「露骨に話題そらした。まあ時間も勿体ないし。零はそこで聴いてなよ」

 リョウさんがカッコよくベースを肩に掛け、皆も演奏の準備を始める。

 

 皆が何をやっているのか全部は分からない。

 でも最高の演奏をするために、各々のルーティンがきっとあって。

 まるで扇子でリズムをとる棋士みたいだなとボクは思った。

 

 

「じゃあいくね!」という虹夏さんの合図で皆が構え、そして、あっという間に演奏が終わる。

 

 そしてすぐにボクの反応を気にする結束バンドのメンバー達。

 

「ベース最高だったでしょ」

 自分の演奏を褒めてほしそうなリョウさん。

 

「零くん、やっぱダメだったかな……」

 全体がバラバラだったことを察してか不安な虹夏さん。

 

「歌は何とかなったと思うんですが、どうでしょうか先輩?」

 ボーカルが気になってる喜多ちゃん。

 

「へへっ、へへへっ(私はスーパー陽キャ、私はウルトラ陽キャ)

 なぜか自信に満ち溢れたひとりちゃん。

 

 

『結束力ゼロだ……』

 まず思った”その”感想を、ボクは一度忘れることにした。

 

 全体の音はギクシャクしていたことは素人でもわかった。

 でもどんな曲かなんとなく伝わったし、個人に着目したら、意外と褒めるべき点もあるし。

 

 どうコメントすべきなのだろうか……。

 明日の対局の持ち時間を少し使ってでも、ボクはコメントを考えたかった。

 

 でもよかった。

 ”ひとりちゃん”

 ずっと下を向いて演奏してたけど、座っていたボクからは、楽しんでるように見えたから。

 

 

 

 

 そして時が経つのは早いもので、スタジオを離れる時間がやって来た。

「よーし、今日はみんなで新・結束バンド初練習のお祝いだー」

 

 そんな虹夏さんの発言に、

 

「今日は人と話しすぎたので帰ります」

「えっ」

 逃げるように走って帰るひとりちゃん。

 

「ごめん、ね、眠い……それじゃ」

「えっ」

 次いでテクテクと帰るリョウさん。

 

「き、喜多ちゃん?」

「伊地知先輩ごめんなさい! 私、リョウ先輩にもらった譜面でギターの練習しないと……」

「うっ それは確かに……」

「零先輩、伊地知先輩。それではお先に失礼します!」

 更にキタ~ンと元気に帰る喜多ちゃん。

 

 そして最後に、ボクと虹夏さんだけが残された。

 

「……結束力全然ない!」

 あ、それボクが言いたかったやつ。

 

「れ、零くんは……」

「ご、ごめんなさい虹夏さん。明日対局があって。だから帰って準備しないと……」

「もう、前途多難だ!!」

 

 こうして結束バンドは再始動した。




桐山くん、結束バンドの初演奏(スタジオ練習)を聴く。


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5話 小さな海

 恥ずかしい。

 恥ずかしい。

 恥ずかしい。

 

 恥ずかしくて、そして無念だ。

 

 ボクはなんてミスを犯してしまったんだ。

 

 気がついたらボクは一人、公園のベンチに腰掛け長時間、呆然としていた。

 週末の金曜日。

 公園の時計を確認すると16時を回っていた。

 社会人なら仕事の仕上げに奔走している頃だろう。

 

 思えば対局後どうやってここまで来たかも覚えてないや。

 冷静になって最初に戻ってきた記憶は、寝る前に対局相手の棋譜を再確認していた時のこと。

 でもその対策も全くの無意味に終わってしまった。

 なにせ一瞬で終わってしまったのだから。

 

「れ、零くん! こんな所でどうしたの? 今日は確か手合いだったよね」

「に、虹夏さん! ──ご、ごめんなさい!」

「えええっ零くん! な、なんで逃げるのーっ!? ちょっと待ってよー」

 

 予期せぬ虹夏さんとの出会いに戸惑い、咄嗟に全力で逃亡してしまう。

 合わす顔が無かった。

 今日はもう人と関わりたくなかった。

 何よりこれ以上、ボクの無様な姿を彼女に見せたくなくて。

 でも結局、こうして彼女から逃亡している自分が小さく感じた。

 

 虹夏さんの姿も見えなくなり、ボクは一度ゆっくり立ち止まる。

 肺が、足が、そして身体中が久々の全力疾走に悲鳴を上げていた。

 夕刻に空を飛ぶいつものカラスの鳴き声が、今日はボクを嘲っているようだった。

 

 まっすぐ部屋に帰ろう。

 そして今日は誰にも会わずに寝てしまおう。

 そんな後ろ向きな計画を立てて、やっとのことでマンションのエントランスに到着すると、

 

「やっぱりここだったー」

「に、虹夏さん! な、なんで……」

「私だって零くんより得意なことくらいあるって! 例えばこの街のショートカットなんてお手の物だし」

 

 どこか得意げな様子の虹夏さん。

 そして虹夏さんは離すまいとボクの腕を掴んで手を引く。

 

「そんな”一人にして”って雰囲気出された方がよっぽど気にしちゃうよ」

「えっ……」

「ちょっとこの”虹夏お姉さん”に話してみなさいって。そろそろメンバーの皆も来るだろうし、さぁ『STARRY』にレッツラゴー!!」

 

 虹夏さんとボクって同い年だよね? 

 そんな心を声を無視して、彼女はボクを連れ出す。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 本日の対局。聖竜戦の挑戦者決定戦リーグは、12人を2組に分けて、その中の6人総当たりで行われるリーグ戦だ。

 既に一敗しているボクはタイトル戦の挑戦者になるには崖っぷちの状況。

 今回選択した戦型は、昨晩練った対策通り、第一候補は角換わりだった。

 

 今思えば初参加となるリーグ戦の、しかもA級のトップ棋士相手だったから緊張していたのかもしれない。

 あるいは次の獅子王戦の対二海堂戦に意識が向いていたのかもしれない。

 今日の対策で少し寝不足だったからなのかもしれない。

 今となってはもうボクにも分からない。

 

 あの時のボクは、開始直前まで盤の前で正座し、集中していた。

「では始めてください」と案内が聞こえ、緊張を解く。

 どうやら対局時間になったようで、相手に一礼する。

 

 そして僕は迷うことなく初手『2六歩』を指した。

 

「えっ?」

 向かいから戸惑いの声が上がる。

 

「ん?」

「あ、あの、今日はこっちが先手だったような……」

 

(えっ……)

 ボクはその場で凍りついた。

 結果、対局相手の指摘通りだった。そのまま反則となりボクは敗北した。

 先手と後手を勘違いしたのだ。

 改めて対局表を確認すると、確かに今日のボクは後手番だった。

 

「へぇー、それって反則負けになっちゃうんだね」

「はい……」

「そっか”待った”とかやっぱり出来ないもんね」

「はい……」

「ひょっとして零くん疲れてる? 思えば私、昨日も連れ出しちゃったし」

「そ、そんなことはないです! 本当に、今回はボクが悪かっただけで……。本当に、本当にそんなことはないから!」

 

 虹夏さんに遠慮されることは避けたくて、何故か必死に否定してしまった。

 もしかしたら公園で彼女から咄嗟に逃げてしまったのも、それが原因だったのかもしれない。

 

「ならよかった……でも少し安心したよ。零くんはやっぱりプロなんだね!」

「え?」

 今日初めて近くで見た彼女の顔は、どこか納得した表情をしていた。

 

「普段すっごくおとなしいし優しいからさー。零くんの負けず嫌いな所、初めてみたよ」

「そ、そうかな?」

「そうだよ」

 虹夏さんは目に力が宿り、活気あふれた声で続けた。

 

「──次の対局は勝とうね零くん!」

 彼女の言葉は魔法みたいだ。

 だって不思議と次は勝てる気がするんだから。

 

「うん……次は絶対に勝つよ!」

「うんうん絶対だよ。あ、今更だけど勢いで連れてきちゃったけど大丈夫? やっぱり家に帰ってお勉強した方がいいのかな?」

「大丈夫、次の対局は期間が空くし……」

 

 それに次の対局は何年も前から知ってる因縁の相手だ。

 だからお互いの全力を出すだけ。

 

 ボクの次の対局相手、それは二海堂晴信だった。

 

 そしてコンビニで買った差し入れを片手に、僕たちは『STARRY』へ向かった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 『STARRY』に入店すると星歌さんが椅子に腰掛け、ジュースを飲んでいた。

 ボクを見た星歌さんは少し驚き、その後全て分かったような顔をする。

 今日の対局結果がバレていることを悟ったボクは、恥ずかしくなり、挨拶もそこそこに逃げるように控室に向かった。

 

 そして今、結束バンドの4人が揃って会話に花を咲かせている。

 

「やっぱり、ぼっちちゃんと零くんってちょっと似てるよね」

 この話題、実は昨日もボクが来る前にバンド内で少し話になったらしい。

 ボクを紹介する時、事前に”ぼっちちゃんを安心させるため”って虹夏さんは昨日言ってたけれど。

 実際に会ってみると、その判断は正しかったように思う。

 

「零くんも学校だと一人のこと多いもんね」

「はい。リョウさんと虹夏さん以外とはあまり話さないかな……。今は二人が同じクラスで昔よりずっとマシだけど。昔は誰とも会話してなかったし……」

 

「意外だったけど、やっぱり零さんは仲間かもしれない! た、確かにちょびっと似た雰囲気だし……」

 こちらを向くひとりちゃんの弾けそうなほど嬉しそうな表情。

 今まで長髪に隠れていた無垢な瞳が輝いてて、少し失礼かもしれないけどボクの妹みたいで、懐かしくて可愛らしかった。

 

 どうやら彼女もボクと同じで友達が少ないらしい。

 似た人を見つけ、喜んでいるのかもしれない。

 気持ちはわかる。学校にはあまり良い思い出が無かったから。

 

「不思議。零はイイ奴なのに」

「もしかしたら、みんな遠慮してるのかもねー」

「それ、ちょっと分かります。私も昔だったら、零先輩と同じクラスでも”気後れ”しちゃうかもしれません」

 

 

「気後れですか?」

 ぽかんと不思議そうな表情をするひとりちゃん。

 

「あれ? 零くんのこと、ぼっちちゃんにまだ言ってなかったかも。喜多ちゃんも話してない?」

「後藤さん、もしかして……零先輩のこと知らない?」

「えっ、えっ、知ってます……けど? 桐山零さんですよね? (もしかして私だけ仲間外れな何かがあるのでは……ト、トラウマが……)いぎゃああああ」

 

「まずい、ぼっちちゃんが溶けそう」

「溶ける?」

 溶けるって一体何っ? 

 でも向かいに座るひとりちゃんは、今にも人以外の何かに変化しそうだった。

 

「ぼっちちゃん大丈夫だから戻ってきてー。伝え忘れてただけだからー」

「は、はい。な、な、なんでしょう」

 ひとりちゃんが元に戻った……ように見えた。

 さ、錯覚だったのかな……。

 

「こほん、説明しましょう! 零先輩はね──実は、桐山零『先生』なのよ! 後藤さん!」

「先生?」

「そう、先輩は将棋の先生なの。将棋のプロ棋士で現在は六段。しかも史上5人目の中学生でプロ入りを果たした天才少年。将来は名人を約束された存在。それが桐山零先生なんです!」

「お~ありがとうね喜多ちゃん。詳しいね!」

「だって私、先生の大ファンですから!」

 

「そ、そうなんだ……って、あれ? ぼっちちゃーん」

「ぼっちが溶けた」

「(違う。この人も違う。私なんかと違ってもう自立できてるプロの人だ。メジャーデビューしてサクッと音楽チャートで世界4位とか獲得できちゃうようなプロなんだ……一瞬でもそんな凄い人と同類だと思った自分が憎い……)」

 

「ぼっちちゃーん」

「後藤さん!」

「やっぱぼっちは面白い」

 

 ひとりちゃんが溶けた。

 疲れてるのかな。

(ひょっとして零くん疲れてる?)

 虹夏さんの指摘、実は正しかったかもしれないと揺らぎ始めた。

 

 

 元に戻ったひとりちゃん。

 何かを聞きたくてタイミングを図るように、ちらちらとボクを見ている。

 

「あ、あの、零さんはもう自立してて。その……学校を辞めようと思ったことはないんですか?」

 

 ボクは言葉に詰まった。

 ひとりちゃんの質問。

 声は震えていて、でも真剣な質問だった。

 もしかしたら彼女は学校を辞めたいのかもしれない。

 

 答えは簡単だ。

 

「ある。何回も辞めようと思ったよ」

「じゃ、じゃ、じゃあなんで……」

 

 ”なんで学校を辞めないのか?”

 

 一つ呼吸する。

 他の三人も心配そうにこちらの様子を窺っていた。

 ボクはできるだけ落ちついた声で、惨めな過去を思い出しながら回答する。

 

「最初は意地だったんだ。中学は将棋ばっかりで友達に恵まれなかったから。高校に進学しない選択肢がまず浮かんだんだ。」

 

 淡々と話すボクに反し、周りの空気が重くなるのを感じ取った。

 ボクはそれでも構わず続ける。

 

「でもね、それでも進学したのは、多分、逃げなかったっていう”記憶”が欲しかったんだと思う。ボクだって”普通の人”と同じように高校を卒業出来たっていう証が」

 

 ひとりちゃんを見つめる。

 彼女はうつむき、表情は分からない。

 

「今の学校は少し楽しいけれど。それはきっと虹夏さんやリョウさんがいるからだと思うし……そう考えると偶然なんだよね」

 

 ひとりちゃんがゆっくり静かにこちらを向く。

 彼女の表情から気持ちは読み取れなかった。

 

「でも今の状況を克服したくて、勇気を出してるキミは凄いと思うから。今は上手くいかなくても、いつか何かの形で報われるとボクは思うよ」

 

 何より報われてほしいと思った。

 彼女も自分に似ているところがあるから。

 

「えっ……」

「それに今も学校で頼りになる人が傍にいると思うし」

 

 ボクは喜多ちゃんを見ると”任せてください!”とキラキラした目で彼女は頷く。

 

「ねぇ後藤さん! 私、クラスは違うけど、これからは遊びに行くわね。だって友達なんだからっ(キタ~ン)」

「う、うっ、め、目があああ。ま、まぶしすぎる! 陰キャには致死量の輝き……。それにもし私が近くにいたら喜多さんのお友達が隣にいるコイツ何者? って表情でこちらを蔑む未来が……やっぱ駄目っ……

 

 そして喜多ちゃんを直視した”ひとりちゃん”は──

 また溶けた。

 

「後藤さん! ねぇ後藤さん戻ってきて!」

 一人ぼっち仲間として、ボクはひとりちゃんを勇気付けようとして。

 そしてボクは失敗した。

 何がダメだったのだろうか……。

 

 ひとりちゃんが溶けた原因を考えようと思ったが、

「零くん!」

 突然、張り詰めた声で虹夏さんに呼びかけられボクは振り向く。

 

「学校、一緒に卒業しようね」

 その時の虹夏さんの言葉が、いつまでも耳に残っていた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「ゔぉ、おおお。これでいいんだ」

 再度、元に戻ったひとりちゃんはリョウさんに作詞の進捗を見てもらっている。

 

「は、はい。か、会心の出来です……」

「そう。ロックバンドにしては、このサインはちょっと子供っぽいと思う」

 違ったサインを見ていた。

 

「ご、ごめんなさい。や、やっぱり歌詞はもうちょっと練ってきます! (これ見せて冷たい反応されたら、いや気を遣われたら私っ……)わ、わっ」

 

 リョウさんから強引にノートを奪い取ったひとりちゃんはバランスを崩してしまい派手に転んでしまう。心配になってボクは立ち上がると、近くにいた結束バンドのメンバーがすぐに駆け寄っていた。どうやらケガはしてないようだ。

 

 安心したボクは、ひとりちゃんが落としたノートを取りに向かう。

 放物線を描いて落ちたノートは見開いていて、ページにはどうやら歌詞を書いた形跡がある。

 足を屈んで、伸ばしたボクの手が止まる。

 開かれたページには赤い線で大きく☓印に、『暗すぎる』と一言書かれてあった。

 

 これは……

 

 散々泣いて泣き腫らして 枯れた海が

 また今日も明日を 懲りずに探してる

 

 

 いつまで待っても 僕は 僕なんだよ

 変わらないのも 僕の 僕のせい

 それでも何か ちょっとちょっとでいい

 僕の光になって行き先を照らしてくれよ

 

「れ、零さん!」

 ひとりちゃんの焦る声が聞こえる。

 

「いい。すっごくいい。この歌詞、何かいい」

 ノートを拾うことを忘れ、ボクはひとりちゃんの歌詞に引き込まれた。

 

「あっ、そ、そのページは。違くて……。か、書きかけだし……。その、ちょっと暗いかなと思ってるんですけど」

 

「どれどれー、ホントだ! このページの歌詞、すっごくいいと思うよ! ぼっちちゃん」

「うん、ぼっちらしくて良いと思う。零みたいに刺さる人、きっと居るよ」

「すごいすごいっ良かったわね後藤さん! あ、私はここのフレーズ、とっても好きです!」

 

 ページの上には『小さな海』と書かれていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「ところで零先輩って今日対局でしたよね?」

「あ、えっと、そうだね……」

 

 結束バンドの話し合いも一段落して、思い出したように喜多ちゃんが尋ねてきた。ファンの前であの醜態を説明することは、どうやらボクの矮小なプライドが邪魔するらしい。

 

「その、早く終わったんだよ」

 ボクは適当に誤魔化すことにした。

 

「そうなんですか! 勝ったんですか? 先輩!」

 ”キターン!”という効果音が鳴り響くほど純粋な目を向けられ、ボクは乾いた笑いで返すしかなかった。

 

 ちなみにあの反則は、一般紙の記事になるほどの事件になっていたことを後に知る。

 

「おいっキリヤマ~、調子崩してない大丈夫? でもまっ、あの”伝説の放送事故”のお陰で将棋界は盛り上がったから! 災い転じて福となすってことかねー!」

 次の日、用事で立ち寄った将棋会館で神宮寺(じんぐうじ)会長と遭遇する。

 居心地の悪いボクとは対象的に、会長は話題ができて嬉しそうだった。

 しばらく会館には近づかないでおこう。

 ボクはそう心に決めた。

 

 更に週明けの学校でのこと。

 教室に入ると同級生の生暖かい視線がこちらに一斉に突き刺さる。

 もしかしてみんな、あの事件のこと知ってる? 

 

「仕方ないよ。だって私もニュースで見たもん。あ、そういえば今日結束バンドでね……」

 虹夏さんは気を使って別の話題に切り替え、

 

「零は大物だよ、ロックな人生ってそういうもの」

 リョウさんもクスクスと面白そうに笑っていた。

 このクラスにも、ボクの逃げ場はないらしい。

 

 ああ、前言撤回してもう学校中退しようかな……。

 ボクはひとりちゃんに大口を叩いたことを今更ながら後悔した。

 

 でもなぜか喜多ちゃんは「さすが零先輩! 規格外で素敵ですっ」と喜んでいた。

 ボクは喜多ちゃんを少し心配した。

 でもありがとね。




桐山くん盛大にやらかす。
この時の桐山くんはさぞ絶望したと思いますが、そういうのも人間らしいよねって思います。

今回の事件の聖竜戦は、
現実だと王位戦の挑戦者決定リーグなら先後確定してるみたいなので。
そちらが元ネタならという想定で…


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6話 ライバル

(Side:後藤ひとり)

 

 ここは狭くて薄暗い押入れの中。

 眠い、けど落ち着く。

 

 一度は暗すぎてボツにした”小さな海”。

 更に深みを持たせたくて、私は詞に肉付けをする。

 みんなに褒められたからツイツイ調子に乗ってしまった……。

 気がつけば時間を忘れて、私は土日を潰して作詞に没頭していた。

 

「で、でも……完成した」

 

 わ、私にしてはいい出来なのでは? 

 もう何百回と睨めっこしたツギハギになった歌詞のページを見て自分を褒める。

 

 詞って”不思議”だなぁ。

 完成したと思っても少し時間を置くと変えたくなったり。

 変えた箇所をやっぱり元に戻したり。

 

 明日、みんなに完成した歌詞を見せないといけない。

 だから私は最後に綺麗に清書する。

 前よりもっと褒めてもらいたいなぁと祈りながら。

 

 不思議といえば。

 

 ”桐山零さん”

 

 将棋のプロの凄い人。

 そして私と同じ痛みを経験していた人。

 でもやっぱり私なんかとは違ってて。

 

 彼も辛かったと告白していた学校生活。

 でも普通の人と同じように出来た証が欲しいからと、高校卒業のため学校に通っているという。

 

 今すぐにでも中退できる環境なのに……。

 私なら中退してギターでも弾いているだろうになぁ。

 

(逃げなかったっていう”記憶”が欲しかったんだと思う)

 

 薄暗い部屋に籠もる陰湿な私とは反対に、彼の言葉は一人現実に立ち向ってて、強くて眩しく思えて。

 仲間だと思っていた同士が、知らぬ間にどこか遠い存在になったような気がして。

 

 って、元々遠かったんだけどね。

 プロ棋士の人をなんで同類扱いしてるんだろう私。

 

 でも、羨ましいな。

 私なんかでも出来るのかな。

 

 ”楽しい学校生活”

 

 完成した歌詞を眺めると、どこか物足りなさを感じて。

 私は最後に一行加える。

 

 いつかまた遠くで会えたら手を振り返して

 

 よしこれで完成だ。

 

 あっ、もしもこの歌詞がキッカケで私の作詞の才能が開花して、あまつさえ結束バンドがメジャーデビューして、更に大ヒットしちゃったら……。

 

 そ、それに天才少年の零さんとも知り合いだし。

 10年後くらいには私達のスペシャル対談が組まれるかも! 

 

 ・

 ・

 ・

 

『今夜の超豪華スペシャル対談は、今や将棋界の顔! ”桐山名人”と』

『よろしくお願いします』

 

『結束バンドの天才ギタリストであり稀代のヒットメーカー! 作詞家の”後藤ひとり”さん』

『お願いします』

 

『このお二人でお送りいたしますー』

 

『まずは後藤さんから。桐山名人が結束バンドの大ファンというのは今や有名な話ですが、後藤さんは桐山名人とは古くからの知り合いだったとか?』

『ええ、零さんとは高校の頃からの友人でして。実は私が初めて作詞した時も、彼から感想をいただいたんです』

『ひとりさんは最初から才気あふれる方で、ボクもそれがキッカケで結束バンドの大ファンになったんですよ!』

『おおっ早速、後藤さんの天才的なマル秘エピソードが飛び出しましたね!』

『いえいえそんな……』

 

 でへへへへへへ。

 この路線も悪くないなぁ。

 

 私はそんな幸せな夢を見た。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 ボクがやらかしてから5日が過ぎた。

 

 朝のホームルームが終了すると、すぐに教室は喧騒さを取り戻す。

 授業開始の束の間、皆は友人と楽しげに談笑を交わしていた。

 

 ボクは基本的に一人だ。

 

 虹夏さんはリョウさんや離れた席の友人、時には他クラスに遊びに行くことも多い。

 一方のボクは、一人で詰将棋や次の対局者の棋譜を見ることが多い。

 特に対戦間近になると、もっぱら相手の研究をしていた。

 

 今日も事前にプリントしてきた二海堂の棋譜を眺めようしていた。

 そんな時だった。

 

「桐山くん、今日の1限の英語って宿題あるけどやった?」

「あ、はい。課題の箇所だけは聞いていたので」

「そっか。なら大丈夫だね。まぁ桐山くんは忘れても問題なさそうだけど、あの先生怖いからさ」

 

 一つ後ろの席に座る少年が、愛想よくボクに声をかける。

 彼の名前は後藤くん。

 

 後藤くんは成績が良く人望もあり、誰が見ても優秀な生徒だ。

 硬式野球部に在籍しているからか頭を丸めていて、そして真面目そうな眼鏡を掛けている。

 

 それに彼は野球部の次期キャプテン候補らしい。

 時より部員たちが、彼に雑談や相談しにくるから又聞きしてしまった。

 

 そんな後藤くんが何故かボクに話しかけてくれるようになった。

 ボクがやらかした”あの事件”の後から。

 大概が授業の課題や、野球部の悩みを話すくらいだけど。

 

 きっとあれだ。

 人望のある彼に、裏でこっそり先生からボクのサポートを頼まれている可能性が高い。学校生活があのミスに影響したのではないかと問題になったのかもしれない……。

 

 ああ、情けない。

 己が情けなけないよ。

 

「零、時間がない」

 思考を遮るように、突如ボクを呼ぶ女性の声が聞こえ顔を上げる。

 そこには英語の教科書とノートを持参し、眠そうな顔のリョウさんが正面に立っていた。

 

「ちょっと英語の宿題写させて」

「あ、はい。えっとこれです」

 急いでボクは机の引き出しから英語のノートを探し出し、リョウさんに手渡す。

 するとリョウさんは別人のような俊敏性を見せ、隣の虹夏さん席に我が物顔で着席。そのまま目にも留まらぬ速さで課題を埋めだす。

 ボクが転校してから、よくある光景だった。

 

「ちょっと零くん! リョウに甘すぎだよ」

 いつの間にか他のクラスから戻っていた虹夏さんが呆れ顔で笑う。

 

 でも虹夏さん。

 ボクが貸さなかったら虹夏さんがいつもリョウさんにノート貸してるよね……。僕たちはリョウさんを甘やかしていた。

 

「でも仕方ないか。リョウは作曲に集中してるからね」

「そうなんだ」

「うんっ! ”ぼっちちゃん”が歌詞完成させてくれて、リョウがビビッと来たらしくてね。もうすぐ曲が完成するんだってー。零くんも楽しみにしててよ! ねぇリョウ」

「うん、でも零にはまだ聴かせないから」

「な、なんで! 可哀想だよ!」

 

 まぁ、ボクはメンバーじゃないから。

 心なしか少し残念な自分がいた。

 

「折角だし曲はライブで聴いてよ。それも醍醐味だし」

 どうやらボクに曲を聴かせたくないって訳じゃないらしい。

 むしろリョウさんは自信をのぞかせていた。

 

 柄にもなくボクはワクワクしてしまって、

「うん、楽しみにしてる」

 ボクは二人に結束バンドのライブを見に行くことを約束したんだ。

 

 

 同じ日の下校中。

 珍しくボクはリョウさんと二人で歩いていた。

 大体ボク一人で帰るか、虹夏さんリョウさんの3人で一緒に帰ることが多いから。

 

 虹夏さんは星歌さんからの至急の買い出しで僕たちと別れ駅に向かっていた。いつもならリョウさんも虹夏さんに連れ添うのに。

 

「零、相談があるんだけど」

 そんな疑問を解決するように、ボクはリョウさんから相談を受ける。

 

 そして僕たちはニューオープンの小洒落た喫茶店に来ていた。

「ここのお店来てみたかったんだよね」

 そう言ってオムライスとハンバーグのセットという放課後にしては、あまりに重いメニューを頼むリョウさん。

 

 そういえば今日、リョウさんがお昼食べてる姿見なかったかも。

 一日中、リョウさんは作曲に没頭していたことを思い出す。

 

「零、この前のぼっちと郁代どう思った?」

 

 ”郁代”というのは喜多ちゃんの名前だ。

 喜多ちゃんが来てくれた将棋イベントで自己紹介してくれたが、本人は”喜多ちゃん”呼びが嬉しいとのことでボクはずっとそう呼んでいる。

 

 リョウさんの質問にイマイチ要領を得ないボクはどういうことかと尋ねる。

 

「今ちょっと曲作りで悩んでて。新曲、ギターだけのアルペジオから始めたいんだよね」

「そうなんですね」

「でも二人に出来るのか。まだちょっと不安でさ」

 

 ボクは彼女の質問の意図を理解した。

 

「そんな二人には大変なんですか?」

「”ぼっち”はなんとかなると思う。けど当日は分からないし。”郁代”はちょっと大変かも」

 なるほど。

 でもこの問題はボクは聞き役に徹するしかなさそうだ。

 なにせ音楽を熟知しているリョウさんが迷っているのだから。

 

「結束バンドの初ライブだし。失敗して解散することを考えると悩むんだよね」

 そう言って悩むリョウさんの姿はバンドへの愛が溢れていて。

 思わず口からストローを離し、ボクは口元が緩んだ。

 

「もし二人の演奏が失敗したら、本番はどうなるんです?」

「アカペラ」

「えっ?」

「冒頭は無伴奏で郁代が歌う。ま、でも……それはそれでロックか」

 

 リョウさんはスッキりしたように笑い、

「曲、仕上げられそうだから帰るよ。零ありがとね。新曲、期待しててよ」

 

 そしてリョウさんはご飯を平らげ立ち去る。ボクとお会計を残して。

 リョウさん……。

 でも何故か憎めないのだった。

 

 ちなみに後日、この件が星歌さんにバレて、リョウさんは土下座してボクにお金を払ってくれたのでした。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「待っていたぞ桐山、遅かったじゃないか」

 

 夜に自宅のマンションに戻ると、玄関に顔見知りがいた。

 二海堂晴信だ。

 

 背は小さめでふくよかな体型。

 実家は裕福だがそれを鼻にかけることはなく、将棋にひたむきな性格。

 腎臓が悪く通院しながらの棋士生活を送っている。

 そんな彼とボクは言わば昔からの腐れ縁だ。

 

 二海堂はエントランスの壁にもたれ掛かって、腕を組み、横目で不敵な笑みを浮かべる。

『ライバル登場! 次号へ続く』と週刊少年マンガの煽り文でも見えそうなポーズである。

 

 何をしに来たんだ。コイツ……。

 

「桐山、ようやく公の場で対局する日が来たな」

「なんでオマエがここにいるんだ? 二海堂」

「ふっ、まあ長話もなんだ……。ひとまず家に入ろうではないか我が親友よ!」

 

 いや、ここボクの家なんですけど? 

 

「だいたい、いつも一緒の花岡さんはどうしたんだよ」

「爺やか? 爺やは今はグリーン休暇中なのだ。我が二海堂家に勤めて45年。感謝を込めて80日間世界一周の旅を用意したぞ!」

 

 なんだって……。

 つまり今、コイツを止める奴は誰もいないってことじゃないか……。

 花岡さ~ん! 早く帰ってきてくださいー! 

 

 そんなボクの心の声を無視して、当然のようにボクの自宅に押し入る二海堂。

「恐ろしいほどに、何にもない部屋だな」

「まだ引っ越したばかりだから」

「そうかそうか。では今度、引っ越し祝いを送ろうではないか。そういえば布団は一つしかないのか? 今日は泊まるつもりだったのが……」

「あるわけ無いでしょ。一人暮らしなんだから」

 

 では”祝いの品”は決まったな、なんてアホなことを抜かす二海堂。

 さっさと追い返そう。

 そう思ったが、今回が引越し後の初めての来客だったこと思い出す。

 

 自分の部屋を見渡すと二海堂が愚痴るように、確かに誰かを呼ぶにはこの部屋は殺風景すぎる。

 冷蔵庫とその側にまだ封を切ってないダンボール。

 それに机の上に研究用の大きなPCとプリンター、布団が一つある。

 そんな部屋。

 

 最近、寝付きが悪いからようやくカーテンを買い揃えた。

 まだ最低限の生活より酷い有様だった。

 

 ふとボクはあの優しい姉妹を思い出した。

 あの二人だったらボクみたいに粗末な対応をせず、きっと持てなすんだろうな。

 

 お茶でも出すか……。

 ボクは初めての来客だからと飲み物を用意した。

 

「ところで桐山、見たぞあの”腑抜けた対局”。いや見たというもおかしな表現だったな。瞬きする間もなく終わってしまったからな!」

 ”はっはっはっ!”と軽快に笑うアイツに、一発も入れなかった自分を褒めてやりたい。

 

 もう反則負けしたあの時の記憶は殆どない。

 ない……

 次の瞬間、ボクが一手目を指した場面が勝手に蘇る。

 

 ”うわああああっ”と、叫びだしそうになる衝動を何とか抑える。

 マズイ、これトラウマになるかも。

 

「我がライバルとして大変に不名誉ではあるが、お前が反則だと分かった時の顔がネットでも評判でな! 話題性という面では抜群だったし、まぁ許そうではないか」

「ちょっ、やめなさいって!」

 恥ずかしいから。

 二海堂に向けられたスマホを見ると、

 

【悲報】先後を間違えて反則負けの桐山六段の変わり果てた姿www 04/15

1:名無しのまとめ

 伝説の放送事故(ABENA TV)

 

 反則が判明し魂が抜け落ちた桐山六段 xxxxximage.jpg

 

 

 そこにはセミの抜け殻のように脱力しているボクの画像があった。

 

 あれ、この顔どこか既視感がある。

 あ、わかった。

 この画像、結束バンドの集合写真で写ってた”ひとりちゃん”にちょっと似てるかも。

 ボクは少しだけ彼女と仲間意識が芽生えた。

 

「だいたい桐山。せっかくの公式戦で”兄者”との初対局。生涯のライバルと認めたお前と、大変なご恩がある兄者との対局だったのに。少しは兄者に申し訳ないとは思わないのか?」

「うっ……」

 

 ボクは何も言い返せなかった。

 

 ”兄者”とは島田開(しまだかい)八段のことだ。

 あの事件の被害者でもある。

 ほぼ不戦勝扱いで、さぞ不完全燃焼だったと思うから。

 島田さん。お互いの初対局が、あんなんで本当にすみませんでした。

 

 島田さんはA級棋士、つまり棋士の中でもトップクラスの実力者だ。

 派手さはないけれど、粘り強い棋風が持ち味の棋士という印象。

 そんな島田さんは二海堂と同じ師匠の門下。つまり二海堂にとって島田さんは兄弟子に当たる。

 

 ”兄者”という言葉から伝わるように、二海堂は島田さんを慕っていて。

 そして島田さんも”坊”と呼んで二海堂を可愛がっていた。

 ボクの”姉弟”弟子とは大違いだな。

 自分との境遇の違いに少し羨ましくなった。

 

「おい、聞いているのか桐山」

「うるさいなぁ。ボクだってやり直せるならやり直したいって!」

「おお、その言葉を待っていたんだ! じゃ、ちょっと指そうぜ桐山。弟弟子であるこの俺が相手になってやろう」

「えっ」

 

 突然の二海堂の提案にボクは戸惑う。

 二海堂は次のボクの対局相手でもあるからだ。一応。

 

 

「あっ桐山は後手番で一手損角換わり固定な」

「なんだよその注文」

 

 それにオマエだって、次の対局相手はボクだろ……。

 ただ二海堂がどれほど成長したのか探るのも悪くないなと思い、僕たちは結局将棋を指すことにしたのだった。

 

 夜の春風が心地よい。

 最低限に灯された部屋の電球と月明かりに照らされ、僕たちは無言で将棋を指し続ける。

 彼の注文通り、戦型を一手損角換わりにして。

 でも何も変わらない。

 昔から続く、あの頃と何も変わらない僕たちの姿がそこにはあった。

 

 形勢互角で終盤に差し掛かろうとしていた、そんな頃合い。

「なんだ桐山。別に調子はいいじゃないか」

 そう一言呟いてアイツは嬉しそうな顔で小さく頷く。

 

「では世話になったな! 良い気晴らしになった。続きは公の場でな。でも桐山、次の対局は同じミスをするんじゃないぞ!」

 

 言いたいことだけ言って、二海堂は去っていった。

 

 アイツ。いい所で対局を放置して帰るなよ……。

 

 でも。

 もしかしてボクのこと心配してたのかな。

 

 だからだろうか。

 勝手に乗り込んで一人満足して、自分勝手に去っていった彼にボクは文句を言うことが出来なかったんだ。




完全なるオリキャラ後藤くんは、ぼっちちゃんの兄ではないです。
次回は二海堂戦。
眠れなくてノリで投稿してしまう。


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7話 二海堂戦

 4月下旬。

 桜も散って、各々が新たな生活に慣れ始める頃。

 

 今日も朝の駅のホームは、人が行き交い騒々しい。

 ボクは対局へ向かうため、学校を休み一人電車で移動していた。

 

 列車は今日も多くの人を乗せて目的地へ向かう。

 車内は常に人でごった返しているし、みんな各々の時間を楽しんでいる。

 それが有象無象のようで、そしてボクもその仲間の一人として迎えられているようで。

 だからかボクには心地ち良かった。

 

 でもそれは偽りだってこともわかっているのだ。

 皆と同じ列車に乗っているのに。

 止まらぬ列車に一人で乗っているような気分に陥る。

 

 それは多分ボクが一人、道を外れてしまったから。

 

 プロへの道は乗ってしまったが最後、もう降りることはできない。

 負けて転がり落ちるまでは。

 

 それでも、

 

『いよいよ今日は対局だね 頑張ってね零くん! 応援してるよっ』

 

 朝届いたメッセージがボクのその寂しさを和らげてくれたんだ。

 

 

 

「おう桐山やっときたか」

「スミスさん、一砂(いっさ)さん。おはようございます」

 将棋会館で待っていたのは、仲良しコンビの先輩棋士二人だった。

 

「いいからちょっと見てみろって」

 スミスさんが対局室の襖を少し覗かせると、

 

 むっちりなボディで気合十分。

 そして何故か劇画チックな二海堂? がそこに居た。

 

「うらやましーなー桐山ァ。見ろよあの気迫。全部お前のためなんだぜ?」

 一砂さん……そうは言いますが。

 なんかもう二海堂の作画が変わってません? 

 一人だけ別の世界から来た作風の、ある意味”溶けたひとりちゃん”状態である。

 

「でも桐山。お前も今年一番のいい顔してると思うぜ!」

「えっ?」

「おっ、”いっちゃん”もそう思った? 俺もなんか今日の桐山、いつもよりビシッとしてるよなって」

「ま、あのミスを挽回しないとだからな。分かるぜ~桐山ァ!」

「そりゃそうだよな」

 あははは! と二人は周りを気にせず高らかに笑う。

 

 しばらく、からかわれそうだな。

 ボクは二人を無視して、さっさと対局室へ向かうことにした。

 

「遅いぞ」

「そっちが早いだけだろ、二海堂」

「そうか。まぁ気がはやってしまってな。さぁはじめようか」

 

 ボクと二海堂の対局が始まった。

 

『2五桂』

 ゆっくりとした流れから二海堂が仕掛ける。

 

【2四銀】『3五歩』【同銀】『1五歩』

 

 この前指したときから分かってはいたけど。

 二海堂強くなってる。

 じっくりと。でも揺るがないで攻めてきている。

 

 気つけば対局は中盤。

 ボクは思い出していた。初めて二海堂と対局したあの泥のような持久戦を。

 だから今回もそうなるんじゃ、という微かな直感。

 そんな読みは当たったようだ。

 盤にはお互いがじっくり腰を据えた、持久戦模様が広がっていた。

 

 選択が難しい場面で長考中の二海堂が突然、前傾姿勢を取る。

 まさか!? ──体調を崩したのかとボクは心配になると、二海堂はボクの気も知らず、真剣にブツブツと読み筋を辿っていた。

 

(まだ終わらない)

 

 むしろ……この圧力は。

 ボクが初めて観戦したライブのような。

 いや、あの時以上でボクに迫ってくる、目の前から発せられる凄まじい”気迫”。

 

 ああ、この執念がコイツの強さの根底なんだ。

 この時ボクは二海堂の強さの一端に触れた気がした。

 

 対局も終盤に差しかかり。

 静かで、それでいて張り詰めた部屋の空気の中。

 気がつけば残された対局は僕たち二人だけ。

 そこは狭い対局室に残された二人の呼吸音と駒音だけが響く、静かな世界だった。

 

 形勢はボクが優勢だ。

 でも二海堂も一歩も譲らず、不安定な戦況が続いている。

 

 でも、負けてやるつもりはない。

 

 そして僕たちの両者譲らない終わりの見えない持久戦は続き。

 結局、対局は夜にまで及んだ。

 

「ありません……負けました」

 最終的には詰みの形まで追い詰め、辛くもボクは勝利する。

 

 直後の感想戦。

 長期戦をまるで感じさせず、でも悔しさは隠さず熱心に検討する二海堂が目の前にいて。

 ああ、コイツも同じ道を進むんだなという当たり前の事実に気がついて、思わずボクの心は少し軽くなったんだ。 

 

 検討が終わり僕たちは対局室を後にする。

 もう遅いから寄り道することなく、二人で歩いてそのまま会館の出口まで辿り着いた。

 ただ先程から妙に歩みの遅い二海堂が気になって様子を見ると、対局室では元気だった二海堂の顔に、うっすら汗が浮き出ていた。よく見ると顔色も悪く、傍目でも明らかに体調を崩していそうだ。

 

「二海堂ッ!」

「これくらい大丈夫だ……って花岡?」

「お久しぶりです晴信様。そして桐山様」

 

 二海堂のお付きの花岡さん。

 世界一周の旅行中だったはずの彼が、なぜか会館前で待機していた。

 話を聞くと、どうやら旅行を中断して二海堂の元へ戻ってきたらしい。

 二海堂は花岡さんに連れられ、急いで病院へ向かった。

 

 冷たい夜風を肌で感じ、緊迫した一日が終わったことを実感した。

 

 そしてボクは一人、帰路につく。

 

「勝ったよ……虹夏さん」

 

 彼女との約束を守れた。

 その安心感なのか空を見上げると、半分に欠けた月がボクをささやかに祝福してくれたように思えた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「ありがとな桐山」

「いえ、今日はボクも暇だったので」

 

 今ボクは星歌さんが店長を務めるライブハウス『STARRY』の手伝いをしていた。

 

 結束バンドの初ライブまであと10日ほど。

 追い込みの時期という事もあり、虹夏さんたちは今日もスタジオ練習へ向かっているはずだ。

 

 熱心なバンド活動の弊害か。

 ライブハウスのバイトの欠員がどうしても生まれてしまうようで。

 二海堂との対局が終わり、久々に伊地知家にお邪魔になったボクがその話を聞き、手伝いを買って出たという流れだ。

 

 前回と同じように清掃をした後、ドリンクコーナーに向かう。

 ボクはそれしか出来ないので、思い出しながらの接客。

 あの事件の後、学校でもボクは妙に顔が広まってしまったから。

 今日の接客は少し心配したけれど、世間から見たらまだまだボクは無名なようでホッとした。

 

 前回と違い虹夏さんがいないドリンクコーナー。

 彼女がいなくても義務的にドリンクを受け取る客足は途絶えない。

 だから営業としては問題ないのだけれど……。

 

 でも、なぜか明るい彼女がいないだけで、この薄暗い空間が更に寂しく感じた。

 

 

「助かったよ桐山。今日は寄ってけよ、虹夏も帰って用意してるだろうし」

「は、はい。ありがとうございます」

 スタッフも慌ただしく解散し、ボクは星歌さんに連れられ今日も伊地知家にお世話になる。

 

「ただいまー」

「お姉ちゃんおかえりー」

 仕事を終え、僕たちが家にあがると遠くから虹夏さんの声がする。

 

「お邪魔します」というボクの何気ない一言に、

「今更、桐山の”お邪魔します”も何かヘンだな」

 横から星歌さんからの思いがけない指摘が入る。

 

「えっと……た、ただいま?」

 少し間を置いたボクの言葉に、星歌さんは柔らかな微笑みで”おかえり”と頷き「あ~、今日も疲れたー」とスタスタ奥へ進む。

 

『今はここが零の家なんだから。せめて”ただいま”くらいは言いなさい』

 一人残されたボクは、小さかった頃に諭された師匠の言葉が蘇っては頭に響いていた。

 

「もうすぐご飯できるから。零くんはくつろいでてよ!」

 虹夏さんにそう言われ、手持ち無沙汰になったボクはちょこんと居間のソファーに座る。

 

 耳を澄ませると、奥から料理中の虹夏さんがジューっと何かを炒める音。

 そして、隣にはリラックスしながら雑誌をめくる星歌さんが居た。

 

「ん? どうした?」

「いえ、なんでも……」

 

 そっか。もう一ヶ月経つんだ。

 ボクがこの家に初めて来て、そして二人に出会って迷惑をかけて、今日でちょうど一ヶ月なんだ。

 

 あの時は居場所のないボクでも一人暮らしさえすれば、自分の居場所が勝手に出来ると思っていた。

 でも結局何も変わらなくて。

 そんな時にたまたま二人と出会って、ボクは何かが変わってしまった。

 

 それが具体的に何なのかは、まだよく分かっていない。

 でも、ただ一つ予感していた。

 これは知ってしまったが最後、多分もう二度と元には戻れないものなんだっていう。

 不透明だけど明確な予感が。

 

 

 

「ええ~、5月6日って対局日なの! 零くん」

「は、はい」

 

 遅い夕食の後。

 実は今日の間ずっと言い出せず、虹夏さんに黙っていたことを告白する。

 バツが悪く学校では話せなくて、結局ここまで来てしまった。

 

 結束バンドの初ライブ日とボクの対局日が被ってしまったことを。

 

「初ライブ、零くんには来てもらいたかったのになぁ……」

「は、はい」

「桐山には大切な仕事があるんだから。仕方ないだろ」

 そんな星歌さんも、どこかテンションが低そうだった。

 

「でも対局は早めに終わって間に合うかもしれないので……。虹夏さん、それでもチケット買っていいのかな?」

「ホントに!? じゃあ今すぐチケット持ってくるね。ちょっと待っててー!」

「桐山、無理はするなよ」

「はい。頑張ります」

 

 どうやったらライブに間に合うのだろう。

 ライブは18時から。

 虹夏さん達の出番は最初だって言ってたし。

 対局の持ち時間は3時間で、夕食休憩もないから普通にやれば余裕はあるはずなんだ。

 でも、その日は玉将戦の1次予選の決勝だし、もし勝てたら取材も入る可能性が高い。

 そう考えると……。

 

「聞いちゃいない……」

 遠くからそんな星歌さんの呆れ声が聞こえた気がした。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「零、今大丈夫か?」

「はい、師匠」

 

 伊地知家から自宅に戻ってしばらくして。

 連盟から昨日届いた、対局表をぼんやりと眺めていた時。

 引越し後、初めて幸田師匠からロイン通話がかかって来た。

 

「零、今日の獅子王戦おめでとう。忙しくなるな」

「ありがとうございます。引き続き頑張ります」

 

 普段めったに来ない唐突な師匠からの通話。

 でもこのタイミングでかかって来た理由は、おそらく二つある。

 

「あと、この前のリーグ戦。あれは、なかなか派手にやらかしたな。そっちの生活は大丈夫かい?」

「は、はい。今はなんとか慣れました」

 一つ目は”あの件”を心配してのこと。

 

「もし一人暮らしが大変だったら、いつでも戻って来なさい。”香子(きょうこ)”も忙しくて帰ってこない日も多くてな。今は静かだから」

 

 将棋の師匠ではなく、娘の帰りを待つ父親の姿はどこか寂しげだった。

 ボクは「はい」と一言返し、回答を濁す。

 

 家族を失い、身寄りすらも定まってなかったボク。

 そんなボクに将棋のプロになるため、内弟子として長年に渡り幸田家に住まわせてもらった師匠への恩義。

 それは今だって片時も忘れることはない。

 

 それでも。

 ボクはもう、今更あの家に戻る資格はないだろう。

 

 師匠の柔らかな声を聞いて、ボクの小さかった頃の記憶が戻ってくる。

 

『零、普段の生活で師匠は堅苦しいから。お父さん、お母さんじゃダメか?』

 

 それは師匠の優しさだった。

 家族を失い、子供ながら身一つで投げ出されたボク。

 そんな難破船に一人で取り残されたような状況のボクを助け出すため、別の船に移るように提案してくた。そんな頼りになる大人らしい優しい言葉だった。

 

 でもその時のボクは、本当の家族を忘れられなくて。

 忘れることが出来なくて。

 

 難破船に一人で残ることを選んだんだ。

 

『ご、ごめんなさい──師匠。ごめんなさい』

『そうか、そうだよな。いいんだ零。お前の気持ちを汲んでやれなかった。ごめんな、私が悪かった』

 

 あの時のボクは、どうしても溢れる涙を止めることが出来なくて。

 師匠に優しくただ頭を撫でられながら、泣きやめ泣きやめと必死に心に向かって叫んでいたんだ。

 

「それと……」

 そして師匠が少し間を開けて言葉を紡ぐ。

 

 もう一つの理由。

 そして恐らくこちらが”本命”だ。

 

 右手に持っていた、一通の封筒。

 ボクはそれを思わず強く握りしめる。

 

「零、キミにも届いたかい」

「はい。連盟から昨日、日程が届きました」

「きっと6月だな……。楽しみだよ、まさか初めての対局が順位戦の初戦とはな」

「はいボクも……。その、よろしくお願いします」

 

 昨日、将棋連盟から届いた封筒の中身。

 それは近々行われるボクの対局予定日の知らせ。

 そして、6月から行われる順位戦の組み合わせ表だった。

 

 そう、B級2組順位戦。

 ボクの初戦の対局相手は、

 

幸田柾近(こうだまさちか) 八段』

 

 一人になったボクを匿ってくれた優しい人。

 そして、将棋のことだけは少し厳しいボクの師匠だ。




桐山くんvs二海堂

この物語のヒロインって”桐山くん”なのかもしれない……。
次回、初ライブ。


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8話 初ライブ

 今日は特別な一日だ。

 ボクの玉将戦の一次予選決勝の対局があって。

 そしてなにより、結束バンドの”初ライブ”があるから。

 

 本日の対局。

 数日前まで急戦模様の早仕掛けを目指して、ボクは早期決着できるプランで対局に臨むつもりだった。

 

 でも、

「私たちのために対局を疎かにしちゃダメだよ! 零くん」

 ボクの心を見透かしたような虹夏さんの一言で心を改めた。

 

 結果それが功を奏したのかもしれない。

 いつも以上に冷静に対応出来たボクは、危なげなく対局に勝利することが出来たのだから。

 

 でも弊害もあった。

 まずは予想よりも対局に時間をかけてしまったこと。

 そして予想通り、記者の方からの取材も受けざるを得なかったことだ。

 

 早る気持ちで会館を出る頃には17時を大幅に過ぎていた。

 

 やっぱり、少し遅れてしまいそうだ……。

 

 今日で5月の長期休暇も終わりに差しかかる。

 交通予想のMAPでは、一般道はUターンラッシュでどこも真っ赤に混雑していた。

 だからタクシーを利用するリスクは負えない。

 

 ボクは急いで電車に乗り込む。

 せめて結束バンドが最後に披露するオリジナル曲”小さな海”。

 リョウさんとも約束したあの曲だけは聴けますようにと願いながら。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「久しぶり桐山くん。急ぎなよ、虹夏ちゃん達もう始まってるよ」

「こんばんは! は、はいっ。チケットとドリンク代です」

『STARRY』を手伝った時、一緒に働いていた女性スタッフに案内されてボクはフロアへ急ぐ。

 

 階段を降りる途中で、すぐに客席の後方に佇む星歌さんを見つける。

 星歌さんは腕を組み、心配そうにステージを眺めていた。

 

 奥に進み、ステージに目を向けるとフロントの喜多ちゃんに強めのスポットライトが当たっている。そしてリョウさんと虹夏さんの二人にも。

 ステージに立つ皆は、バラバラの私服姿をしていた。

 

 あれ? ひとりちゃんはどこだろう。

 ひとまずボクは星歌さんの隣に向かうことにした。

 

 ちょうどカバー曲の演奏が終了して、ライブはMCの時間に入る所だった。

 

「桐山、虹夏たちの曲はまだだよ」

「よかった……ありがとうございます」

 

 ボクに気づいた星歌さんが小さな声で助言する。

 虹夏さんに教えてもらっていたライブの段取りを思い出す。

 今、MCだから次が最後の新曲か。

 

 危なかった……。

 

「ところで桐山、前の方でライブ見なくていいのか?」

「でも本当にライブを分かってる人は、後ろで目を瞑って音を聴くもんだってリョウさんが……」

「またアイツは。桐山はいいから前で虹夏たちを応援してやりなよ。その方がアイツらも喜ぶから」

 

 呆れ顔の星歌さんの助言に従って、ボクは前の方で応援することに。

「えっ、は、はい。じゃあ行ってきますね、星歌さん」

「行ってきな、ったく青春だな

 

 ボクは会場の隙間を通り抜け、軽々と移動する。

 お客さんは40,50人くらいかな。暗くて客層は不明だけど、なんとなく全員がステージに集中しているわけではなさそうだった。

 ボクはどこまで進んでいいのか分からず、中央少し前の目立たない位置で立ち止まる。

 

 ステージでは虹夏さんが新曲を披露する前のメンバー紹介をしていた。

 

 それにしても。あの完熟マンゴーのダンボールは一体……。

 ステージの右側。そこには人が入れるほどの特大ダンボールが設置されていた。

 こうして近づくと明らかに異質なその物体は、威圧的な存在感を放っている。

 

 あの位置は”ひとりちゃん”だよね……。

 でもいくらアガリ症でも、あれ被って演奏って逆にハードルが高いんじゃ。

 ボクはまだあれが置物の可能性を捨てきれなかった。

 

「えー、次にリードギターの後藤です」

 虹夏さんが”あの”完熟マンゴーに向かって紹介する。

 

「やっぱり”ひとりちゃん”なんだ!」

 

 盛り上がりの欠けた雰囲気の中、ボクの声がライブハウスに反響する。

 その声で結束バンドの皆がボクの存在に気づいてしまう。

 

「零くん!?」

「先輩間に合ったんですね!」

 ステージからマイク越しに通る二人の声が響く。リョウさんはスッと無言で右手を上げていた。

 

 直後、ボクは周囲から奇異の目で見るような視線を向けられた。

 その視線でボクがライブ進行の邪魔をしたことを理解する。

 

「あ、あの……。す、すみません。続けて下さい!」

「あ、あはは、ゴメンなさいー。えっと、では最後の曲は結束バンドのオリジナル曲でして……」

 

 虹夏さんが気を取り直し最後の曲を紹介する。

 そんな時だった。

 

 ステージ右に居座っていた完熟マンゴーのダンボールが突如、ガタガタと揺れ始める。

 客席からは、ちょっとしたホラーにも思えた。

 

 な、なんだ!? 

 ひとりちゃんどうしたの? 

 

「え、ぼっちちゃん?」

「後藤さん?」

 

 そして顔をのぞかせた勢いのまま、ダンボールを脱ぎ捨てジャージ姿の”ひとりちゃん”が登場した。 

 

 直後、ステージも客席も困惑でどよめく。

「えっ、人が出てきた……やっぱり中に人間入ってたんだね。なんか手品みたい」

「今どきのロックってこんな感じなのかな?」

「演出なのかな?」

「色物バンド……」

 

 困惑する客を他所にボクは”ひとりちゃん”を観察する。

 俯いて震えていて小さく見えて。

 それでもギターを握ることだけは忘れていなかった。

 

 これは演出なんかじゃない。

 彼女の性格から勇気を振り絞って、僕たちに向けて顔を出したんだって伝わった。

 

 ”頑張れ”

 

 心の中で何度もそう呟き、気づけばボクは更に前へとステージに近づいてしまっていた。

 そして一瞬だけ”ひとりちゃん”と視線が合う。

 ボクは彼女へ向けて”頑張れ”と一度、強く頷く。

 

「最後の曲は私たち結束バンドのオリジナル曲”小さな海”です。聞いて下さい」

 

 そして再びステージは闇に染まる。

 ついに結束バンドの初ライブ、最後の曲が始まる。

 

 暗闇と静寂が緊張を生み出す中、少しの間を挟み、ギターの二人にスポットライトが照らされる。

 

(この曲、ギターから始めたいんだよね)

 

 リョウさんの宣言通り、”小さな海”は二人のギターだけのアルペジオから旋律は奏でられた。

 まるでこの会場だけ時間の流れが遅くなったような、小さな水辺にいるようなイントロ。

 ひとりちゃんを見ると、ずっと下を向きながらもギターを弾く手だけは止めていなかった。

 

 あぁ また今日が終わっちゃうのか

 何か一つでも 僕を 変えられたかい? 

 

 そして必死にギターをなぞる喜多ちゃんの歌い出し。

 彼女の澄んだ声がライブハウス中に反響する。

 

 喜多ちゃん、演奏でも大きなミスはしていないようだ。

 たった3週間しか練習が出来なかったはずなのに。

 少し前までコードを押さえられないって嘆いていたはずなのに……。

 

 ギター二人の成長をまざまざと見せつけられ、更にリズム隊が加わる。

 リョウさんのベースと虹夏さんのドラムが加わることで、曲には安定感が生まれて、ぎゅっと音が引き締まっていた。

 

 そして四人の演奏が合わさり、待っていたとばかりにステージのライトは更に明るさを増す。

 その演出が闇の中に照らし出されたステージに、あの四人が、”結束バンド”が、確かに今ここに立っていることをボクに再認識させた。

 ボクはその事実に密かな感動を覚えていた。

 

 そんなボクの思いを余所に、四人はゆったりと慎重に一音一音を奏で続ける。

 

 簡単なことばっかりじゃ つまんないかも

 今よりも少しだけ 明るくなれたらいいな

 

 そして一気に曲調はアップテンポに変わる。

 そこからは時間があっという間に過ぎた。

 

 ボクはライブハウス特有の確かな音の圧力を感じながら、全身で浴びるように音を聴く。

 リョウさんが自信を持っていたのも分かる。

 

 いい曲だ。

 

 それにみんな、あの時より”上手くなっている”

 

 確かにまだまだ拙いし、間違えたと素人のボクでも分かる箇所もあった。

 でもボクが初練習で聴いたあの頃より、格段に四人が調和してて演奏が成長していた。

 

 将棋だって最初から強い人がいないように。

 バンド演奏だって最初から上手いグループはきっといないのだろう。

 そんな事は当たり前のように思える。

 

 でも誰が見ても違いが分かるほど成長するのは案外と難しい。それまでに挫折する人達だってきっといる。

 だから彼女たちが陰で努力していた姿をどうしても想像してしまうんだ。

 

 それでも不思議だな。

 人って、演奏ってこんなにも変われるんだ……。

 

 もしかしたらこの成長を知ってるのって、ボクだけなのかな? 

 そう思うと、ほんの少し勿体ない気持ちにもなった。

 

 それに一つ意外だったことがある。

 

 この曲の歌詞、

 

 散々雨に降られたって 笑っていられる

 君のこと 普通に羨ましいけど

 

 だんだん僕も君みたいに 強くなってさ

 今よりも少しだけ 素直に笑えますように

 

 いつかまた遠くで会えたら手を振り返して

 

 ボクが前に見た歌詞より、少しだけ前向きになっていたから。

 

 そして最後の曲が終わり、結束バンドの初ライブは終了した。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 ライブ直後。

「私はまだ仕事あるから、アイツらに渡してやれ」

 と星歌さんから差し入れの飲み物を受け取ったボクは、楽屋の様子をひっそり確認していた。

 

「いやぁ、最後は一応形にはなったけど演奏バラバラだったよね。私も結構ミスちゃったよー」

「それなら私なんて最初の曲、声が震えてましたし……」

「まぁ私は完璧だった」

「いやリョウもめっちゃミスってたでしょ! 最初の曲」

「うっ」

「でもリョウ先輩のミスはそれはそれで味がありますから! あっ、そういえば後藤さん! 最後ダンボールから出てきてくれましたよね!」

「うんうん。ぼっちちゃんも最後はちゃんとダンボールから出て演奏できて偉い偉い」

 

 結束バンドの皆が思い思いに健闘を称え合っているようだった。

 

「し、失礼します」

「零先輩!」「零くん!」「零それ差し入れ?」

 

 楽屋に入ると結束バンドのムードメーカー二人が元気よく声がけしてくれ、そしてリョウさんは目ざとく差し入れに気づく。

 

「あ、あの、ひとりちゃんは?」

「ん? ぼっちちゃんはねぇ、あっちだよ」

 

 虹夏さんが指差すのは楽屋にあるゴミ箱。

 どうやらひとりちゃんは、その中に潜んでいるらしかった。

 

「後藤さん緊張の許容量がオーバーして、しばらくあそこで充電が必要みたいなんです……」

「そ、そうなんだ……」

 ボクは反応に困った。

 

「零ところで演奏どうだった?」

 リョウさんは差し入れのジュースを一瞬で飲み干し、ライブの感想を興味津々で質問してきた。

 他二人も黙ってはいたが、ボクの反応が気になる様子。

 

「みんな輝いてて。その……上手く言葉に出来ないんですがスゴくよかったです」

 

 ボクの感想に虹夏さんも、リョウさんも、喜多ちゃんも目に見えて表情が明るくなった。

 そして”ひとりちゃん”も、ボクの話を聞いていたのかゴミ箱から少し顔を覗かせている。

 

「でも零。今日の私たちの演奏でその感想は、ちょっとセンスないよ」

「えっ」

 ボクの言葉に一瞬、嬉しい表情を見せたリョウさん。

 でも演奏自体はやはり納得いくものでは無かったらしい。

 

「ま、まぁちょっと分かるかも。零くん途中から来たみたいだからまだ良かったけど、前半とかホントお通夜だったもんねー」

「ええ、ライブってあんなに緊張するもんなんですね……」

 虹夏さんや喜多ちゃんの二人も、どちらかというとリョウさん寄りの意見のようだ。

 それでもボクは意見を変えるつもりは全く無かった。

 

「でもみんな初練習の時より急成長してて。ボクはその──今日のライブで結束バンドの”ファン”になりましたよ!」

 何故か過小評価する皆に、あの時の感動を伝えたくて、ボクは意地を張って食い下がってしまう。

 

「桐山先生が私たちのファン!? で、でも先輩。あの時の私って全くギターが弾けなかった頃ですよ! ……いえ、今もまだちゃんと弾けませんけれど」

「あっ、そっかそっか。零くんはあの時の演奏聞いてるからねー」

 

 そして少し悩んだ虹夏さんはポンと手を叩き、何か閃いたように続ける。

 

「そうだっ! じゃあ零くんには結束バンドのファン一号ならぬ、『ファン零号(ぜろごう)』の称号を与えちゃおう!」

「えっ」

 

「あっダメかな? ほらっ(れい)くんって『(ぜろ)』って名前だし、初ライブの前から応援してもらってるし。ぴったりかなーって。あれっ、ひょっとして私も毒されてるのか」

 

 もしかして私のセンスって”結束バンド”と同等なのではと悩む虹夏さん。

 そんな彼女に、ボクは何も返すことが出来なかった。

 

「零くん?」

 

 

『ゼロだってぇ──』

『──でも、ぴったりよねアナタに。だってそうでしょ』

『──アナタの居場所なんて、この世のどこにも無いじゃない?』

 

 ゼロと言われて、未だかつて嬉しいことなどなかった。

 ボクにとっての”ゼロ”は何も持って無い、侮辱の言葉だったから。

 

 だからだろうか。

 

 唐突に目から溢れ、落ち続ける涙をボクは止めることが出来なかったんだ。

 

「れ、零くん!? ゴメン! 本当にごめんね。やっぱり別の称号がいいよねっ。えっと──」

「違うんだ……」

 

 違うんだよ。虹夏さん。

 ああ、こうやってボクはいつも迷惑をかけてばかりだ。

 

 でも、

 

『キミ』と出会えて、『結束バンド』の皆と会えて、心から良かったと思えたから。

 

「嬉しいんだ。ありがとう虹夏さん」

 

 まだ心配そうにボクを見つめる彼女達に、

 

「今日からボクは結束バンドの『ファンゼロ号』だね」

 

 ボクは眼鏡を外し、止まらぬ涙を拭いながら、出来るだけ嬉しい気持ちが伝わったらいいなと言葉を返した。

 

「それならよかったよ。う、うん。よろしくね零くん!」

 

「虹夏が零を泣かせた……ヒドい」

「伊地知先輩なんてことをっ」

「……零さん?」

「いや違うんだって! ほらっ零くんも何か言ってよ!」

 

 今までのボクは何も持って無かった”ゼロ”だったけれど。

 

 この日、幸せな”ゼロ”を彼女たちから一つ貰ったんだ。

 




桐山くん涙する。

ひとまず一区切り。

異色なクロス作品なので投稿する前は正直不安でした。
ただどんなに不評でも、筆が遅くなろうとも、この話までは書こうと決意して始めた今回の物語。なんとか書き切れました。

思いの外、多くの反応をいただきの感謝の言葉が尽きません。
感想、評価、お気に入りなど沢山の反応が励みになりました。

続きは細かいプロットを固めたいので少し遅くなるかもしれません。
調子良ければ早くなるかもしれませんが…。
学園祭までは書けたらいいなぁ。その先は原作バレを考慮すると悩む所。


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第2章
9話 バイト


 ボクがまだ幸田家に内弟子していた時の事だ。

 7月のあの日は、息苦しい蒸し暑さと全てをかき消すような雷鳴が轟いていた。

 

『ゼロだってぇ──』

『──でも、ぴったりよねアナタに。だってそうでしょ』

『家も無い、家族も無い、友達も居無い』

『──アナタの居場所なんて、この世のどこにも無いじゃない?』

 

『でも──』

 

 ボクと姉弟子(きょうこ)は睨み合うように見つめ合って。

 でもその後、姉弟子は全てを諦めたような顔で、

 

『零。アナタはズルい奴よ』

『だってアナタは、アタシが一番欲しかったモノを持っているのだから』

『だから辞めるの──アタシは一番になりたいから』

 

 そう言い残し、ボクの部屋から立ち去り。

 次の日、姉弟子は自ら奨励会を退会した。

 

 そんな過去の出来事を今更ながらボクは思い出していた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 5月半ば。今日は陽気で過ごしやすい日だ。

 時より爽やかな風が吹き、等間隔で植えられた新緑の並木道も、どことなくボクを晴れやかな気持ちにさせてくれた。

 

 学校からの帰宅中。

 先程リョウさんと別れ、今はボクと虹夏さんの二人で歩いていて。

 虹夏さんは結束バンドの近況を楽しそうに語っていた。

 

「ひとりちゃんと喜多ちゃんが『STARRY』でバイトする?」

「うん、そろそろノルマ代を稼がないとダメだからね。明後日から参加してもらう予定なんだ」

 

 初ライブのため、直前まで練習に明け暮れていた結束バンドのみんな。

 その労いの意味も込めて、先週は各々のリフレッシュ期間に充ていたらしい。

 ただ虹夏さんは、そろそろバンド活動を再開させたいようだった。

 

 一方の先週のボクは、学校に行って、将棋の研究をして。

 学校に行って、将棋の研究をして……。

 思い返せば、さながら将棋ロボットのような生活だった。

 

 ああ、話が逸れてしまった。

 喜多ちゃんとひとりちゃんがバイトする件だ。

 

「喜多ちゃんはまだ分かるけど。ひとりちゃんはよく参加してくれたね」

「あー、まだ二人には伝えてないんだ。でもまあ、これから説得するから大丈夫だよー」

「えっ、それはちょっと急だし、確認は必要なんじゃ……」

 

 特にひとりちゃん。

 バイトの話なんてしたら全力で逃げ出しそうだけど。

 でも喜多ちゃんや虹夏さんに頼まれたら断れないか。

 ボクは不本意ながらひとりちゃんもバイトに参加する姿が想像できてしまうのであった。

 

「うっ、やっぱそうかなあ……。でも結束バンドをより成長させるには必要なことだし。きっと皆も納得してくれるって!」

「ということは、またライブやってくれるの?」

 

 ファンとしては気になる情報だった。

 

「勿論だよ! 夏にライブでしょ、あとデモ音源も配ってさ。冬にレコーディングもしたいなー……そして大目標は武道館ライブ! ってまだ全部仮目標なんだけどね」

 

 

 ”武道館”って高校野球なら甲子園みたいなものだよね? 

 

 でもそっか、またライブやってくれるんだ。

 今度は最初から全部、参加したいな。

 前回は対局もあって、途中参加だったのは残念だったから。

 

「ファンとしてライブ楽しみに待ってるね、虹夏さん」

「期待しててよ! そうだ、よかったら零くんも今日の結束バンドの集まりに参加しない?」

 

 虹夏さんは当然の事のように気軽にボクを誘う。

 

「ボクも?」

「ほらだって、ぼっちちゃんって零くんには懐いてそうだし。零くんからも説得してくれたらきっと喜んでバイト参加してくれるって」

 

 そうかな? 

 ひとりちゃんと今までまともに目が合ったことなんて、数えるほどしかないよ? 

 

「予定はないから集まりには参加はできるけど……」

「なら参加しようよ! ダメかな──”ファンゼロ号”さん?」

 

 虹夏さんは首を傾げて可愛らしくお願いする。

 まるでボクが”その言葉”に弱いことを知ってるかのように。

 

 でも結束バンドの役に立てるなら、それは喜ばしいことでもあるから。

 

「分かった。後でお邪魔させてもらうね」

「うん! じゃあすぐ『STARRY』に集合だよ。またね! 零くん」

 

 僕たちは虹夏さんの家の前で手を振り別れる。

 そしてボクは自宅へ戻り、『STARRY』へ向かうのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「バイト!」

 ひとりちゃんの今年一番の大声が遠くから聞こえた。

 虹夏さんがライブ参加のノルマ代が必要になることを説明しているようだ。

 

「お母さんが結婚資金に貯めてて……どうかこれでご勘弁を」

 ある意味予想通りだけど、ひとりちゃんが予想外の行動に出ていた。

 ひとりちゃんは豚の形の貯金箱を虹夏さんに献上していて。

 遠目でも彼女はやっぱりバイトをやりたくなさそうだった。

 

「ありがたく使わせてもらうよ」

「いや使わない使わない。そんな大切なもの」

「ねぇ後藤さん。一緒に頑張りましょうよ! きっと楽しいわよ」

 

 そんな皆のやり取りをボクは少し離れた場所で眺めていた。

 ボクだけ星歌さんに呼び出されていたからだ。

 結束バンドの皆も、おそらく面倒事だろうと察知してか、まるで近寄ってこない。

 

「それで何の話でしたっけ?」

「ん? そうだな。あー不躾な質問だが桐山ってどれくらい稼ぎがあるんだ?」

 

 ボソボソっと小さな声で星歌さんが質問してきた。

 お金の話題? バイトに関連するからだろうか? 

 

 ただ一言では説明が難しい。棋士は固定給のような制度もあるが、基本歩合制だ。

 それに個人事業主扱いのため不安定で人それぞれだろう。

 あまり人に話すことでもないので、ボクも小声で星歌さんの質問に答える。

 

「一応固定給みたいなものもあるのですが基本は対局によって変わります」

「ほう」

 星歌さんは続けろと説明を促す。

 

「えっと……ボーナスのような対局もあって、例えばちょうど次の対局に勝てば結構な額の賞金をいただけます」

 

 次のボクの対局は獅子王戦6組の決勝戦だった。

 

「どれくらいとか聞いていいのか?」

「えっと勝てたらこれくらいです」

 ボクは手のひらで数字の9を作る。

 

「1回で9万円くらい?」

「それにゼロが一つ付きますね」

 

 勝ったら優勝で90万、負けても準優勝だから20万のハズだ。

 仮に獅子王位を獲得した場合は4000万円を超える賞金となる。

 

 途端、星歌さんの顔色が変わる。

 更に隣で聞いていたPAさんの表情も……。

 

「それ1回でなのか?」

「まぁ、でも次回の対局は決勝戦で特別なので。その賞金の要素が大きいです」

 

 コイツ本当に高校生か? というボヤキが聞こえた気がした。

「おい桐山。今のアイツらに絶対、金銭面で手を貸すなよ」

「えっ ダメなんでしょうか?」

 

 あのままでは、ひとりちゃん可哀相だし。

 多少なら援助しても良いのでは? と思っていた所だった。

 

「バンド活動ってのはな。自分たちの力でゼロから周囲に実力を認められる必要があるんだ。ずっとお前の資金を当てにしたらアイツらが成長しないから。お前だってそれは本意ではないだろ」

 

 ボクのせいで結束バンドの成長を阻害することは、確かに避けたい。

 

「分かりました。でもファンとして常識の範囲なら問題ないですよね」

「勿論、そこまで咎める気はないよ」

「桐山くん。店長ってすごく過保護だと思いません?」

 

 面白おかしくPAさんは、星歌さんを茶化す。

 そういえば星歌さん。

 スタジオ練習とか、ボクのバイトのヘルプ依頼とか、先月も裏で結束バンドに加担してた疑惑もあったような。

 

 だから「確かに」とボクは思わず頷いて笑ってしまう。

「なっ……桐山、もうお前は行っていいから」

 

 恥ずかしそうに照れる星歌さんからボクは解放され、結束バンドの元へ戻るのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 結局ひとりちゃんは予想通りバイトから逃れることは出来なかったみたいだ。

 ボクが会話に加わった頃には、明後日のバイトに震えるひとりちゃんにはお構い無しで、結束バンドの皆は次の話題に移っていた。

 議題は、よりバンドらしくなるには? だった。

 

 そして懐が寒いからなのだろうか、今はグッズで収益化を目指そうとしていた。

 

「将棋のグッズってやっぱりサインとかなんだ」

「はい、揮毫といって毛筆で文字やサインを書くことが多くて。印刷のものとかもあるけど」

「私も持ってますよ。ちょっと待ってて下さい」

 

 そして喜多ちゃんはボクの色紙と一緒に写った猛烈に加工された写真を皆に見せる。

 うっ……それは。

 でも喜多ちゃんの技術力が高いからなのか、イソスタに並ぶ他の写真と見比べてもそれほど違和感が無かった。

「キレイな字だね。いいなぁ」と虹夏さん達が欲しがるくらいにはキラキラに誇張されていた。

 

「そうだ。じゃあこの只の結束バンドにサインをしよう。650円で」

「リョウ先輩のサインなら安い! 買います!」

「いやいやそれ、意味ないから……」

 

 喜多ちゃんはならばと思いついたように提案する。

「結束バンドのファンゼロ号。桐山零先生のサイングッズ。これは爆発的に売れること間違いなしですよ!」

「えっ、ボクのサイン?」

「だって零先輩、この前の対局だってOH! TUBEの生放送、リアルタイムで1万人は視聴者いましたし。新人王のときはテレビ放送もしてたじゃないですか」

 

 去年の新人王の記念対局。喜多ちゃんも見てたんだ。

 でもあれは、宗谷名人の人気が凄いからだしな……。

 

リアルタイムで1万人……。動画投稿してるだけの私がライブ配信しても絶対に1000人も来ないよね……アイデンティティが私のアイデンティティが

 

 話を聞いていたひとりちゃんは原因は分からないが潰れそうになっていた。

 

「ちょっと待った! それは認めません。あくまで零くんはファンなんだから。私たちだけの力で成長していかないと」

 虹夏さん……。

 ボクは虹夏の言葉に感心していた。

 星歌さん。虹夏さん達はきっと大丈夫です。

 ボクの資金なんか無くても、絶対にバンドを成長させていきますよ。

 

「虹夏の言う通り。それにガールズバンドに男の影があったらそれは破滅の予兆になる」

「確かにそういう話もあるけど。零くんなら大丈夫だよ」

「いや、この世に絶対はない。ちょっと二人来て」

 

 そうして喜多ちゃんとボクは呼び出され。

「わっ」「きゃっ」

 無理やり僕たちはくっつけられ、ツーショト写真をリョウさんに撮影される。

 

「ぼっち、これを見たまえ」

「うっ、この写真は……、この天元突破な陽キャ力は……、呪いが、呪いの呪詛が……、ロックバンドに煌めきなんて不要なんだ。この不条理な社会に一石を投じてこそロックな……

 ひとりちゃんは呻くように、呪文を唱えていた。

「うん、わかった。わかったから、ぼっちちゃん戻ってきてー。やっぱり零くんの力はお休みってことで。でも零くんは大丈夫だと思うんだけどなぁ」

 

 虹夏さんはこっちを向いて、屈託のない笑顔を振りまく。

 

 そもそもの彼女との出会いは、ボクが酔いつぶれた時だ。

 そして最近、ボクが泣いた時ですら傍にいたのは彼女だった。

 いつだってボクのダメなところを見せてしまっているから。

 

 多分、ボクは手のかかる弟みたいに思われてるんだろうな。

 目を合わせるのはバツが悪く、そして少し自分が情けなくなった。

 

「でも喜多ちゃんだけズルいよ零くん。私たちの分の揮毫は無理なの?」

「えっ」

 突然の虹夏さんのお願いに戸惑っていると、

「そう私にも書くべき」

 リョウさんも乗っかり、

「あ、あっ、わ、私も零さんのサイン欲しいかも……」

 ひとりちゃんまで!? 

 

 揮毫ならいいのかな?

 ボクは先程の星歌さんの警告を気にしていた。

 

「喜多ちゃんのはイベントで書いたものだし。じゃあ、みんなが夏のライブを成功させたらプレゼントするのはどうかな?」

「本当に? ダメ元だったのに、零くんいいの?」

「はい。でもプライベートなので。ちゃんとしたのは渡せないけど……」

「いいよいいよ! よーし俄然やる気が出てきたよ」

 

 別にそんなご利益(りやく)は無いんだけどな。ボクの揮毫。

 喜多ちゃんのギターだって、一度は挫折してたし。

 

「伊地知先輩、ちょっと待ってください! 私気づいてしまったんです」

「なになに。どうしたのかね、喜多博士」

 喜多ちゃんはかけてもない眼鏡をクイッとさせるポーズをする。

 

「桐山先生って実は六段に昇段されてから公式のイベントに一度も参加してないんですよ。しかも私の知る限り、近々の参加予定も無いんです。つまり、つまりですよ。もしこのまま桐山先生が昇段なんてしたら。私たちだけが桐山”六段”の揮毫をゲット出来るなんてこともあり得るわけです! これとってもレアですよ!」

「ほう、どれくらいになるの?」

 リョウさんも両目を$マークにしながら食いつく。

 

「大人気なのに学生だから唯でさえ数の少ない桐山先生ですよ。直筆の揮毫なら最低でも1万円はしますし……もしかして物によっては10万円くらいになるかも?」

 

 喜多ちゃんの一言で『STARRY』中に衝撃が走った。

 左右を見渡すとスタッフさん達も話を聞いていたのか凄い形相をしている。

 そして結束バンドの面々は、各々の妄想を膨らませているようだ。

 

「よーしみんな! 夏のライブ絶対成功させるよ、頑張るぞー」

「「「「おおおおー!」」」」

 

 虹夏さんの掛け声に呼応する結束バンド。

 未だかつて無い結束力をボクは見たのだった。

 

 うん。皆の役に立つなら何でもいいか。

 ボクは考えることを放棄したのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 翌日の夜。

 

『桐山零様 突然のお願いとなり大変申し訳ありませんが、明日、私は風邪を引くため、バイトを代わっていただけないでしょうか。この度の不始末はギターを担保に工面致します。何卒よろしくお願い申し上げます』

 

 ビジネスライクなメッセージがひとりちゃんから届く。

 ひとりちゃん、風邪引いちゃったのかな? 

 それにしては風邪を引くのが”未来のこと”で不思議な文面だけど。

 それも風邪が原因だろうと自分を納得させる。

 

 でもゴメンね。明日はボク、対局があるんだ……。

 その旨を彼女に返信する。

 

 すると即座に既読が付き、

『終わった。。。』

 なにやら不穏なメッセージが届いた。

 

『風邪引いたなら無理しちゃダメだよ。虹夏さんにはボクから連絡しておくから安静にしてね』

 ボクは返信する。

 一分ほど経過し、ひとりちゃんからまずは長文の謝罪文が。

 次に虹夏さんには黙ってて下さいと口止め依頼のメッセージが届いた。

 

 黙っておくのはいいけど……。

 でも風邪は引き始めが肝心とも言うし、無理はよくないと思うのだけど。

 

 念のため喜多ちゃんに『明日ひとりちゃんの調子が悪そうだったら無理させないで』とお願いする。

『任せてください!』と相変わらず頼りになる返信をボクは受け取りつつ、最近の喜多ちゃん、お守り役が板に付いてきたなと思うのだった。

 

 



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10話 風邪

 ひとりちゃん達の初バイトの日。

 

『先輩、今何処でしょうか? 助けてください! 後藤さんが、後藤さんが大変なんです!』

 

 時刻は22時半を回っている。

 対局帰り。ボクは最寄り駅である下北沢駅の改札を急いで通る。

 

 深夜の駅は人もまばら。

 急ぎ足で帰宅する背広姿のサラリーマン。

 ほろ酔い気分で駅を歩く大学生。

 

 喜多ちゃんからの緊急の連絡を受けたボクは、駅構内を捜索していた。

 

「零先輩! こっちです!」

 

 ボクを呼ぶ声がする先ではジャージ姿で辛そうに俯くピンク髪の女性と、その子を心配そうに看病する赤髪の女の子が。

 ひとりちゃんと、喜多ちゃんがいた。

 

 話を聞くと、二人の初バイトは多少のハプニングがありつつも無事に終了したようだ。

 問題はその帰り道。

 ひとりちゃんの体調が急変したらしい。

 

「喜多ちゃん。虹夏さんには連絡した?」

「はい、でも伊地知先輩もう寝てるのか反応はなくて……」

 既に深夜帯だ。

 虹夏さん達は、早めに休んでしまったのかもしれない。

 

 喜多ちゃんは持ち前の運動能力で、何とかひとりちゃんを休める場所まで運び出したはいいが、既に夜も遅く。

 その後、共通の知り合いに片っ端から連絡するも、運の悪いことに反応したのはボク一人だけだったらしい。

 

 ボクは息を整えつつベンチに腰掛け、ひとりちゃんを観察する。

 

 浅く早い呼吸音。寒そうに小刻みに震える体。

 薄っすら滲ませる額の汗。

 そしておでこを手に当てると、ボクの額よりも数段高い熱……。

 

 典型的な風邪の症状。

 

 意識はあるから重症ではなさそうだけど。

 やっぱり無理が祟ったのかな。

 でも、この時間だと普通の病院はやってないだろうし。

 

「ひとりちゃん。今日はもう遅いから、いったんボクの家で休んでもらってもいい?」

 

 苦しそうなひとりちゃんに問いかける。

 普段だと彼女は、即座に目を逸らす。

 だが今はそれすら出来ないほど辛そうだ。

 

「れ、れいさん? で、でもそれは……申し訳なく……」

「気にしなくていいから。解熱剤を飲んで、水分補給して安静にしようか。ボクが居て気が休めないなら、ボクは何処かホテルにでも泊まるから心配しないで」

 

「零先輩、私も心配ですから付き添います! ほら週末で明日は学校もお休みですから……それに桐山先生のご自宅ってどんな所か気になりますし

「え、親御さんは? 心配しない?」

「問題ありません! 友達の家に泊まるって連絡したら許可が降りましたから」

 

 そう言って僅かに目線を逸らす喜多ちゃん。

 

 本当なのかな……。

 何となく全てが真実ではなさそうな気がした。

 ボクが怪しんでいると、「ははは……」と乾いた笑いで喜多ちゃんは誤魔化そうとする。

 

 でも、今、喜多ちゃんが一緒にいてくれるのは凄い頼りになるし。

 ひとりちゃんも安心できるだろうから。

 仮に喜多ちゃんが怒られたら、事情を説明してボクも一緒に謝るしか無いか。

 

「わかった。じゃあ喜多ちゃんもお願いしていいかな」

「はい、任せて下さい!」

 バイト疲れを全く感じさせない”キタ~ン”とした表情で喜多ちゃんはガッツポーズする。

 

「じゃあ、ちょっとごめんね」

 ひとりちゃんを背負い、喜多ちゃんとボクの自宅へ向かった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 そして僕らは10分もかからず帰宅する。

 ボクの部屋は相変わらず殺風景だ。

 すぐにだだっ広い部屋に新品の布団を敷く。そして、喜多ちゃんの手も借りつつ、ひとりちゃんを横に寝かせ安静にさせた。

 

 まさか二海堂から先週届いた、引っ越し祝いの無駄にふかふかな布団がすぐに役立つとは……。

 アイツもたまには役に立つな……。

 ボクは二海堂を久々に褒め称えた。

 

 帰り道、『STARRY』の側に立ち寄ったが、案の定マンションの明かりは消えていて。

 虹夏さん達はもう寝ていそうだし。

 わざわざ起こすのは心苦しい。

 

「喜多ちゃん?」

 ボクの部屋を見渡していた喜多ちゃんは、どこか愕然とした表情で立ちすくんでいた。

 

「えっ、あ、そっか……先輩は男の子ですもんね。化粧品とか無いわよね。一応予備はあるけど、足りるかしら」

 ボクの言葉に”はっ”っとして、きょろきょろと部屋を移動する喜多ちゃんは、色々と物入りそうだ。

 

「ごめんね。ボクの部屋って全然物がなくて……後で足りない物とかコンビニでよければ買いに行こうか?」

「そんな私のことは気にしないで下さい! でも今度、色々プレゼントしますね! やっぱりイソスタだと食器は重要なんですよね」

 

 ハイテンションで喜多ちゃんは、次々と呪文のような商品紹介をする。

 どこか空回り気味な彼女の話を軽く聞きつつ、ボクは今後やるべき行動を頭の中で整理していた。

 

 まず最優先は、ひとりちゃんのご両親に風邪のこと連絡しないと……。

 

「喜多ちゃん。ひとりちゃんのご自宅の連絡先って知ってる? お家の人に事情を説明したいんだけど」

「うーん、流石に私もご自宅までは……」

 

 と、悩みつつも何か閃いた喜多ちゃんはひとりちゃんに寄り添う。

 

「ねぇ、後藤さん、ちょっと顔向けてもらっていい? うん、ありがとね」

 流れるように喜多ちゃんは、顔認証でひとりちゃんのスマホのロック解除をするのだった。

 

「先輩、きっとここです!」

 そして『自宅』と書かれたスマホ画面を誇らしげに見せる喜多ちゃん。

 

 うん、今は緊急事態だから……。

 ボクは彼女に感謝し、連絡を優先させるのであった。

 

「夜分遅くにすみません。後藤ひとりさんのご自宅でしょうか」

「はい。ひとりはうちの娘ですが……」

「ひとりさんの友人の桐山という者でして」

「えっと……新手の詐欺でしょうか? ひとりちゃんにそんな、友達だなんて……」

 まだ友人と名乗っただけなんですけど……。

 この段階で、詐欺を疑うようなやり取りあったかな? 

 

「えっと、ひとりちゃんのお母様ですよね。実はひとりちゃんが本日出勤したバイトの後、高熱を出して倒れてしまって……」

「まぁ、確かに昨日もあの子、変なことしてたから。えっ、少々お待ち下さいね。今代わります」

 

 そして、入れ替わるようにひとりちゃんのお父さんが電話口に出る。

「ウチの娘の命だけはどうか! お金なら幾らか用意するので……どうか命だけはお願いします!」

「いやだから、友達なんですって!」

 ボクは誘拐犯じゃないことを必死に弁明し、風邪を引いたひとりちゃんの状況を説明したのだった。

 

「ウチの娘が大変申し訳ない。今から桐山さんのご自宅に伺い、すぐ受け取りに参りますので」

 そんな郵便物を取りに行くみたいな表現しなくても……。

 先程までの娘の愛情は何処へやら。

 受け取り忘れの荷物を、コンビニで受け取りするようなテンションでお父さんは平謝りする。

 

 結局、車で1時間ほど費やし、ひとりちゃんのお父さんはボクの自宅へ迎えに来たのだった。

 

 そして現在、なぜかボクと喜多ちゃんも車に乗り後藤家へ向かっている。

「先輩! 後藤さんの家ってどんなところなのかしら。楽しみですね!」

「う、うん。でも流石に悪いんじゃ……」

「そんな桐山くん、いつでも大歓迎だよ! 感動だなぁ。ひとりにまさか、こんな親切なお友達がいるだなんて……」

 

 隣で運転しているひとりちゃんのお父さんは、うるっと目に涙を溜め、直ぐにでも泣き出しそうな雰囲気だ。

 あの……でも今は運転中なので、出来れば泣くのはご勘弁を。

 

 それに、横になってるあなたの娘さん。

 車が揺れる度に辛そうになっているのですが……。

 

 大丈夫なのかな? 

 一応解熱剤は飲んだから楽になってるはずだけど。

 ボクが助手席に。そして後部座席には、喜多ちゃんの膝枕で横になっているひとりちゃん。

 涙で運転が安定しないせいなのか、ひとりちゃんから「酔いそう……」とうわ言が聞こえたような気がしたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 僕たちが後藤家に到着する頃には、とうに日付は変わっていた。

 そして現在、ひとりちゃんはやっと自室に戻れて、安静にしてぐったりと眠っているようだ。

 

 一方の喜多ちゃんは真夜中とは思えないテンションで、ひとりママとの着せ替えショーを繰り広げていた。

 

「せ、先輩。これどうですかね?」

「喜多ちゃんもう深夜1時なのに元気だよね。でも、すごく可愛いくて、いいと思うよ」

「やった! じゃあこれにしますね。ママさん~! 私これにします!」

 

 淡い桃色でゆったりとしたルームウェアを着こなす喜多ちゃんはとても似合っていたし、ひとりママとの仲も良好そうで。まるで本当の親子のようだった。

 

 それでも、もうだいぶ遅い時間だ。

 祭りに終わりがあるように、突如、慣れきった一人だけの静けさが戻る。

 後は寝るだけとなったボクは、空いている客間に案内された。

 喜多ちゃんはひとりママと同じ部屋で寝るとのことだ。

 

 すぐには眠れないボクは、客間で仰向けになって一人知らない天井を見つめていた。

 

 そんな時、”トントン”っとノック音が聞こえる。

 誰だろう? 

 

「はい、どうぞ」

「来ちゃいました先輩。なんか今日、修学旅行みたいでワクワクしません?」

「喜多ちゃん、ひとりママのところで寝るって言ってなかった?」

「そ、そうなんですけど。なんか寝れなくって。ちょっとだけお話しましょうよ! ダメですかね?」

「いや大丈夫だよ。ボクもしばらく眠れそうになくて。少し分かるから」

 

 そして僕らは寝静まった家のリビングに移動してソファーに腰掛る。

 間接照明だけの薄暗い部屋。ボクの隣に座る喜多ちゃんは見たことのない表情をしていた。

 彼女は少し虚ろな目をしていて、だからか無言の間がやけに長く感じた。

 

「そうかなって思ってたんですが、先輩って一人暮らしだったんですね」

「え?」

「あ、その、私って先生の大ファンですから。そういう情報も知っていて……」

 

 遠慮がちに話す喜多ちゃん。

 その言葉でボクの境遇を彼女に知られていたことを察した。

 ボクの境遇はプロ入り当時、幾つかの記事で取り上げられたこともあった。

 会長が手を回して報道自体は無くなったが、今でもボクのことを調べれば知ることはさほど難しくないだろう。

 

「そっか喜多ちゃんは知ってたんだね。うん、去年までは師匠の所でお世話になってたけど今は一人暮らしだね」

 

 喜多ちゃんは笑うでもなく、泣くでもなく。

 複雑な感情を受け入れられないように無表情だった。

 

「先輩は……やっぱり”特別”なんですね」

「特別?」

「そうです。憧れるほど凄くて、特別なんです」

 

 言葉の意味とは裏腹に、その時の彼女の横顔はどこか悲しみを孕んだ感情が宿っているように思えた。

 

「よく分からないけど」

「ええ、多分それでいいんだと思います」

 

 ボクは彼女の言葉の意味を探っていると、

「しんみりさせちゃいましたね」と彼女は謝りこちらを向く。

 そして次の瞬間には、いつもの彼女らしい満面の笑みを見せる。

 

 それからの彼女は学校のことや、気になっているお店のこと、ボクの知らないバンド活動のことなど話題を絶やさず、そして笑顔も絶やさずお話する。

 

「そういえば私、先輩に感謝しないといけないんでした」

 突然思い出した顔をする喜多ちゃん。

 なんのことだろう。

 

「今日は喜多ちゃんのフォローがあったから。ボクの方が感謝したいくらいだけど……」

「あ、そういうことじゃなくて。今更ですけど、あのギターの件。逃げ出す寸前だった私を助けてくれたじゃないですか」

 ああ、あの件……。

 

「今の私って結束バンドに入って、後藤さんとも出会えて、先輩とも仲良くなれて。とっても幸せなんです。まるで夢のように。だからその、感謝したくて……ありがとうございますね」

「そっか、それはボクも良かったよ」

 

 でもね、喜多ちゃん。

 目を閉じて幸せそうな彼女を見てボクは思ったんだ。

 

 ボクも同じなんだ。

 キミはボクと違っていつも輝いていて。

 ボクに甘すぎるほど優しいし、失敗しても励ましてくれる。

 大ファンってことも、今でも不思議なくらいだけど。

 

 だから、

 

「ボクの方こそ。いつもありがとね喜多ちゃん」

 

 ボクの言葉に彼女からの反応は無い。

 数秒後にコトンと左肩が軽くぶつかり、そして温かな体温が伝わる。

 

 喜多ちゃん寝ちゃったのか。

 

 そうだよね。

 学校に行って、バイト勤めもして、ひとりちゃんの看病もして。

 とっても忙しかったんだから。

 

 ボクは彼女を起こさないように注意しながら掛布団を取りに戻る。

 

 ソファーで静かに眠る喜多ちゃんは小さくて可愛らしくて。何処からあの活力が生まれるのか分からなくて。

 ”どうか風邪は引かぬように”、と願ってボクは彼女に布団を被せる。

 

「今日はありがとね。おやすみなさい喜多ちゃん」

 

 そして、ボクは一人眠りに付いた。

 




実はリョウが医者の家のお嬢様という事実を桐山くんはまだ知らない。

設定変えたせいで喜多ちゃん想像以上のヒロイン力で困惑する。


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11話 後藤家

『お兄ちゃん! 起きて!』

 

 長野に住んでいた頃の日曜の朝。

 家族一緒に寝ていたはずの妹の”ちひろ”がボクの肩を揺らす。

 瞼を開けると、珍しく休日の両親はまだ深い息で眠っていた。

 

 居間に移動すると妹の好きなアニメ放送が終わり、暇になって遊び相手を探しに来たようだ。

 気まぐれで飽き性で、毎日興味が目移りする妹にボクは振り回されてばかりで。

 そんな昔は当たり前だった休日の一コマ。

 

 ああ、また夢だ。

 どうしてこんな懐かしい夢を見るんだろう……。

 

「お兄ちゃん、起きて! もうすぐご飯だって」

 

 後藤家に厄介になって、一夜を明かし。

 体の揺れを感じて目を覚ますと、亡くなった妹みたいな小さな女の子が目の前に現れた。

 

「ちひろ?」

「ちひろじゃないよ、”ふたり”だよ。この子は”ジミヘン”」

「ワン!」

 

 眼鏡を掛けて、焦点を合わせる。

 目を凝らすと、そこには”ひとりちゃん”そっくりの小さな女の子と、お供の犬が横にいて、ボクに朝を告げるのだった。

 

 後藤家の朝は賑やかだ。

 今日の朝食はひとりパパが担当している。手伝いを頑なに拒否されボクはソファーに腰掛けていた。

 ソファーの右側にボクが、左側には喜多ちゃんが、そして真ん中にひとりちゃんの妹の”ふたりちゃん”が座っている。

 

 ボクの隣に座っている二人はいつの間にか仲良しになっていた。

 朝から驚くほど元気な喜多ちゃんとふたりちゃんは、女の子らしい会話で盛り上がっている。

 

「ねぇお兄ちゃん。本当にお兄ちゃんもお姉ちゃんのお友達なの?」

「そうだよ。それにお姉ちゃんのバンドのファンでもあるんだ」

「え~、ウソだぁ。だって今までお姉ちゃん、お友達なんて誰も連れてこなかったんだよ」

 

 あまりにストレートなふたりちゃんの物言いにボクは驚く。

 思い返せば、昨日のひとりパパとママの反応から予想はしてたけれど。

 ひとりちゃんの後藤家での心象は、だいぶ辛辣のようだった。

 

「先輩、ふたりちゃん姉思いで可愛いですね」

「うん、とっても可愛いね」

 どの辺りが姉思いなのかは分からないがボクは同意する。

 

「えへへっ、えい!」

 その発言を聞いたふたりちゃんは、気まぐれな猫のようにボクの膝の上に飛び乗って座り込んだ。

 

「こらっふたり、行儀悪いから止めなさい。桐山くんごめんなさいね」

「いえボクは全然。ふたりちゃんは何が食べたいの?」

「えっとねー、卵焼きっ!」

「わかった、卵焼きだね」

 

 どうしてこの家はこんなに落ち着くんだろう。

 ふたりちゃんの食べ物を取り分けながら、ボクはこの酷く懐かしい雰囲気に流されそうになってしまって。

 

「せ、先輩、では私が先輩の分を取りますので! 何がご所望でしょうか」

「あ、ありがとう。えっと……」

 でも喜多ちゃんの普段どおりの発言で、すぐに現実に引き戻されたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「お母さん、ご飯はー」

 朝食を終え、食後のコーヒーをいただいてる時。

 風邪の症状から回復したのか、ひとりちゃんが元気な姿でいつものジャージを着て居間に降りてきた。

 

「後藤さん元気になったのね!」

「よかったね。ひとりちゃんおはよう」

 僕たちの挨拶に生返事をするひとりちゃん。

 

 しばらくの沈黙の後、

「えっ、え、え、え、な、なんで。えっ?」

 ひとりちゃんは僕たちを見て混乱する。

 

 風邪でひとりちゃんの記憶は曖昧だったのだろうか。

 喜多ちゃんから、事細かにこれまでの説明を受けている。

 時より顔色を青くしたり、赤くしたり色々な表情を見せ、最後には全てを思い出したひとりちゃん。

 迷うこと無く僕たちに土下座したのだった。

 

「もうそんな気にしなくていいわよ。ですよねっ零先輩!」

「うん。症状が軽くて良かったね」

「あ、そうだ。もうこんな時間に! あの、すみません! テレビお借りしても良いですか?」

「勿論よ、喜多ちゃん。好きに使ってちょうだいね」

「ありがとうございますママさん! 後藤さんも一緒に見ましょ! 今日は大注目で見逃せないんだから」

 了承を得た喜多ちゃんは、何か張り切っているようだ。

 

 ん? 

 大注目? 

 

 テレビのチャンネルが変わり、画面にはタイミングよく番組の切り替わったことを告げる和風の音楽とタイトルコールが流れる。

 

「MHK杯テレビ将棋トーナメント1回戦」

「本日の対局者は、昨年の新人王、”桐山零六段”と……」

 

 って、今日の放送ってボクの対局の日だったの!! 

 

「れ、零さんだ!」「お兄ちゃんだぁ!」

 

 帰っちゃダメかな……。

 妙に居心地が悪く、少し耳が熱くなるボクを他所に盛り上がる後藤家の子どもたち。

 

「桐山くん? なんで桐山くんがテレビに出てるの?」

「き、桐山くんって、あ、あの!? よく見たら本物だ!? す、凄い。ひとりは”あの”桐山くんと友達だったのか!」

 困惑するひとりママと、興奮気味のひとりパパが居るのだった。

 

「本日の解説役はこの方、『二海堂晴信四段』です!」

「よろしくお願いします」

 あの日の収録はイマイチ覚えていない。

 そういえば解説役が二海堂だったことを思い出して、既にボクは嫌な予感しかしなかった。

 

「なんかあの人、”ボドロ”みたいだね!」

「え? ボドロ?」

 

 ふたりちゃんは、意外にも二海堂の風体に興味津々の様子だ。

 ボドロってあの国民的人気アニメ映画のまんまるした森に住む知的生命体だよね。

 昔ボクも家族で見たことはあった。

 言われてみれば、ふっくらした体格は似ているような気はする。

 

「知らないの?」

「知ってる知ってる。ふたりちゃんは、”ボドロ”好き?」

「うん、好きー」

 純粋な笑顔でそう言われるとボクは何も答えることは出来ず。

 どうしてだかボクはアイツに敗北した気分に陥り、テレビの音や周りのボクを応援する歓声が一瞬、遠のいた。

 

 視線をテレビに戻し、対局はまだ序盤。

 だが、ボクが飛車を振ったところで二海堂の様子が一変する。

 

「あぁあああ、俺が解説の日に振りやがったな! テレビ放送だからってカッコつけんな桐山ァ!!」

「二海堂先生! そんな大声上げても対局者には聞こえてませんから」

「いいか桐山! それでも俺が認めた”心友(しんゆう)”なのか! 本当に誇れる一手だと思えるのか。勇猛果敢に新手に挑戦して、居飛車党を確固たる地位にしてこそのプロだと思わないのか!」

「二海堂四段! 落ち着いて下さい!」

 

 自分勝手な二海堂の物言いにボクはイラッとした。

「うるさいな二海堂っ! だいたいボクはオールラウンダーなんだよ! いいからこの後の候補手を解説しろよ。お前だって仕事放棄してるじゃないか! プロとして、ちゃんと仕事しろよ!」

 

「えっ、桐山先生が怒鳴ってるなんて。でも珍しくて素敵ですっ」

「まぁ、おとなしいと思ってたけど、やっぱり男の子なのね」

「うんうん、これも青春ってやつだよねぇ、ロックだよねぇー」

「あっ……」

 

 周りの反応にボクは”はっ”として、すぐソファーに座る。

 隣に目を向けると、ひとりちゃんは小刻みに震えている様子。

 

 もしかして怖がらせてしまったのだろうか。

「あ、あの、ごめんね。ひとりちゃん。いきなり大声出して……」

 

 そして突然、”ひとりちゃん”は立ち上がり、

 

「──れ、零さんの”ウソつき!”」

 

 普段出さない、かすれた声で叫び、居間から逃げるように彼女は飛び出す。

 

 『ウソつき!?』

 

 何のこと? 

 拒絶のショックだろうか。

 ボクは呆然とし、魂が抜け落ちた。

 

「せ、先輩が後藤さんみたいに! 戻ってきて下さい。先輩!」

「はっ」

 喜多ちゃんの声で何とか意識を取り戻す。

 だがまだ後遺症が残っているのか、思考がぼんやりする。

 それにしても一体なぜ? 

 

 ”心当たりが全くない” 

 

「私にもよく分からないのですが……先輩、後藤さんを頼みますね!」

「き、喜多ちゃん。ありがとう。ひとりちゃんの様子を見てくるよ」

 

 でも手がかりもないし、喜多ちゃんの助けも借りたい所だ。

 

「私はまだテレビで桐山先生の対局を応援しないといけないので!」

「えっ?」

 そう言葉を残し、即座にテレビにかじりつく喜多ちゃん。

 彼女の行動は、『プロ棋士桐山零』のファンとしては鑑なのだけど……。ボクは思わず呆気に取られてしまうのだった。

 

 

 

 ひとりママから「多分、自分の部屋に籠もっていると思うわ」と言われ、ボクは彼女の部屋をノックする。

 しかし反応がなかった。

 

「ひとりちゃん、入るね」

 一言注意して部屋に入るが、そこには誰もいない。

 

 別の部屋に居るのかと思ったが、耳を澄ますと押入れから何か声が聞こえる。

 

 あの中にいるのかな? 

 

ウソつき……やっぱり居るんだ。でも考えたら分かること。プロの人に居ないわけないんだ。ダメなのは、いつだって私だけ……。私、なんであんな叫んじゃったんだろ……。どうしよう、もう……

 

 押し入れから微かに聞こえる彼女の声。

 ボクは押し入れに近づき、彼女との対話を試みる。

 

「ひとりちゃん。よかったらお話出来ないかな」

「む、む、む、む、無理です」

 

 断りの言葉は返してくれるみたいだ。

 

「その、ひとりちゃんが何に怒っているのか。よく分からなくて。良かったらそれだけでも教えてくれないかな?」

 

 押入れから返答はない。

 馴染みある和室の畳に正座して、それから数分は経過しただろうか。

 押し入れからは音は聞こえなかった。

 ふと部屋を見ると、物が少なくて自分の家みたいだなと感想を抱きながら、ボクは動かず彼女の反応を待っていた。

 

 そして長い沈黙を破り、ひとりちゃんは押入れの襖を少し空ける。

 ボクの様子を窺うように、ちょこっと顔を出し、目を合わせてくれるのだった。

 

「あ、あ、あの人……”親友”って言ってました」

「親友?」

「零さん。虹夏ちゃんや私たち以外、友達居ないって言ってたから。その……」

 

 だからボクが”ウソを付いた”と思ったと。

 

 でもひとりちゃん。

 それは違う。

 

「違うよ。アイツは”親友”なんかじゃない」

「えっ」

 ボクの声色で苛立ちが伝わってしまったのだろうか。

 

 驚いたように目を見開くひとりちゃん。

 気づけば押入れの襖は空いており、彼女はのそっと押入れから出て、体育座りをしている。

 

「ほらいないかな? 目が会った瞬間に今日から俺たち”友達だ”って言うタイプの人。アイツは多分そんな感じなんだと思う」

「あっ……確かに。でもそういう人って知らぬ間に私の傍から居なくなるんですよね。すぐ他の友達の所に行くから。だからあの手の人は一瞬でも気を許したら最後……

 なにかトラウマスイッチが入ってしまったらしい。

 

「ひ、ひとりちゃん?」

「はっ、はい。す、すみません。……じゃ、じゃあ、零さんにとって”あの人”ってどういった関係なんですか?」

 

 ボクを見るひとりちゃんは興味のような、不安のような。

 なんとも言えない様子だ。

 

「アイツは腐れ縁で。上手く言えないけど、多分その……将棋の”ライバル”だよ」

 

 ボクは少し照れくささを感じつつ、彼女にそう告げたのだった。

 

「ライバル!?」

 直後、ひとりちゃんの大きな声が部屋に響く。

 

ライバルって最初は敵対心剥き出しだけど、さらなる強大な敵に立ち向かう時に、ちゃっかり主人公の元に駆けつけて助ける。あの”ライバル”!? そ、それはそれでダメだ! だって今は結束バンドのファンが1人増えてこれからだぜ! って時。このままでは次の敵を倒すため、『オレはコイツ(ライバル)と旅に出るんだ!』って零さんが旅立ってしまう……そうなったらファン0人に逆戻り。結束バンドは解散して、私は再びぼっち生活に……

 

 ひとりちゃんのボヤキが始まった……

 彼女の地雷をまた踏んでしまったのだろうか。

 

「あ、あの零さん。ちなみにもう”あの人”と戦ったりは……」

「うん先月、対局したよ」

「もう手遅れ!」

「なにが!?」

 

 結局ひとりちゃんを元に戻す頃には、ボクの対局の放送は終わっていたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 夕方、僕たちは後藤家の玄関でお別れの挨拶をしていた。

 

「お兄ちゃんと喜多ちゃんもう帰っちゃうの?」

「うん、今日は遊んでくれてありがとね」

 

「うっ、やっぱり私ここに住みます!」

 ただ喜多ちゃんは、ふたりちゃんの可愛さにノックダウン寸前のようで。

 

「ふたりが知らない間にあんなに仲良く……このままでは私の立場が……」

 そしてひとりちゃんも別の意味でノックダウンしそうになっていた。

 

「喜多ちゃん、冗談言ってないで皆に迷惑だから帰ろうか」

 だけどそんなボクの言葉に、後藤家の皆がすかさず反応するんだ。

 

「そんな迷惑だなんて。零くんも喜多ちゃんもまた来てね」

「そうそう。零くんは今度ふたりに将棋の英才教育してくれる約束だろ」

 

 その温かい言葉が愛おしくて。

 

「お兄ちゃん、喜多ちゃん。また今度、遊びに来てくれる?」

「ふたりちゃん絶対行くわね! ね、先輩。また来ましょう」

「うん、また来るね。ふたりちゃん。今度は将棋盤を持っていくから」

 

「零さん達がまた家に来てくれる? じゃ、じゃあ、あれですかね。”また明日”ってヤツですかね?」

「ご、ごめん、ひとりちゃん。明日は……ちょっと厳しいかな?」

 ニヤケ顔の彼女に申し訳ないけど断りを入れる。電車で片道2時間はね……。

 

 でもボクはそんな、玄関で手を振り別れた4人の姿が愛おしくて。

 

 

「先輩、後藤さんの家ってあの辺りですかね?」

 帰りの電車の中、楽しかった思い出語りのように喜多ちゃんが指差す先の景色をボクは眺めようとすると、

 

 西日が差し込んでいるからだろうか。

 陽の光が眩しくて、視界が歪み、ボクはその方角を直視出来なかったんだ。




前話の続き。元々はどちらも書く予定じゃなかったお話。
でも色んな人と関わる方が楽しめるかなと思い、書いてしまう。

さて、そろそろ虹夏ちゃんの出番を……


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12話 誕生日

『ぼっち・ざ・ろっく!』アニメ視聴”のみ”の方へ。
アニメ以降に登場する新キャラが出るので注意です。
ただ展開バレにはならないので、キャラバレを気にされる方のみ注意になるかと…


 後藤家に行った翌週。

 5月も間もなく終わり、過ごしやすい季節の短さを感じる。

 

「今週の日曜日ですか?」

「そう、桐山って予定空いてるの?」

「はい。その日の対局は無いです」

 

 学校から帰り、伊地知家の夕食の支度中。

 星歌さんが珍しく、突然ボクの予定を確認してきた。

 虹夏さんが席を外したタイミングを見計らってなのは、何か理由はあるのだろうか。

 

「今週の日曜、虹夏の誕生日なんだよ」

「え?」

 

 小さな声でボクに告げる星歌さん。

 知らなかった。

 妙に最近、星歌さんがコソコソしていたのはこの件が関係していたのか。

 ボクは不可解だった謎が一つ解けた。

 

「その日に何かお祝いするのでしょうか」

「そう”サプライズ”だ。だから桐山。日曜は虹夏を連れ出して、どこかで時間を潰してくれないか?」

 

 したり顔の星歌さん。

 どうやらボクは責任重大なミッションを任されてしまったらしい。

 

「わかりました。任せて下さい!」

 ボクは”喜多ちゃん”のように意気込む。

 その時の上機嫌な星歌さんが印象的だった。

 

 しかし次の日の下校中。

 今週の日曜日の予定を虹夏さんに確認すると、

 

「零くん、お姉ちゃんに頼まれたでしょ」

「え? ……一体、何のことでしょう」

 

 ジトーっとした目つきでボクを怪しむ虹夏さん。

 内心ドキッっとしながら、ボクははぐらかす。

 

「お姉ちゃんずっとソワソワしてるよね。お姉ちゃんがいくらサプライズ好きでも、あんなバレバレだとねぇー。私、今週ずっと知らないフリしててあげないと……」

 

 星歌さん。

 ごめんなさい。多分、もう全て虹夏さんにバレてます。

 

「そうだっ! じゃあその日にさ、アキバにあるドラム専門店に行ってみたいんだー。いいかな?」

「あ、はい」

 ボクはまるで”ひとりちゃん”のように、ただただ同意する。

 そして虹夏さんは、

「お店に気に入ったのあったら、誕生日プレゼント期待しちゃうね!」

 という言葉を付け加えるのだった。

 

 虹夏さん、ドラムが欲しいのかな?

 思えば虹夏さんの家には、ドラムが無かったはずだ。

 一度、伊地知家の部屋を案内してくれたことがある。その時も彼女の部屋には、ドラムは無くて、リョウさんの私物ばかりだったし……。

 将棋盤と違って大きくて嵩張るからだろうか。

 

 ドラムの値段ってどれくらいなのだろう。

 相場を調べると、ピンキリで、高いものだと少なくとも数十万はしそうだ。種類も生ドラムや電子ドラムだったり豊富で、詳しいことまでは調査しきれず。

 ボクは少し身構えつつ、当日までに備えておくことにした。

 

 そして当日まで楽しそうにサプライズ計画している星歌さんに、ボクは最後まで何も言うことは出来なかったんだ。

 

 ◇ ◇ ◇

 

(Side: 佐藤愛子(23歳))

 

 私はフリーライターの”ぽいずん♥やみ 17歳”。

 音楽を専門としたフリーライター、と言えば聞こえはいいが、実態はしょーもない三文記事ばかりがメインのしがないライター業だ。

 

 出来るなら私だって一流誌で今をときめくアーティスト特集したいわ! 

 

「佐藤さんー。ちょっとお客様見てもらっていい?」

「はぁい~、いまぁ行きます~」

 

 そんなわけで私は今、接客のアルバイト中だ。

 とてもじゃないがライター業だけで生活することは出来ない。

 

 秋葉原にあるドラム専門店。

 ドラム機材の品揃え豊富なこのお店で私はアルバイトしている。

 

 専門店だけあってプライベートで来店するドラマーも多い。

 ふふふ、偶然を装って人気バンドのドラマーに接触して、交流を深めて、ライター業でもそろそろ花を咲かせたいところだ。

 

 だがこれが難しい。

 ここ数ヶ月のアルバイトは空振りの連続だ。

 

 プライベートだと相手が警戒してるのもあるし。

 彼らにも既に信頼している慣れ親しんだ店員がいたりする。

 

 見た目は女子高生、いや”女子中学生”と言っても過言ではない私。

 だが店員としては些か、その幼い容姿は不安に見えるのかもしれない。

 

 くっ……

 この若すぎる美貌がまさか仇となるとは。

 

 だが、私は諦めたりはしない。

 一流ライター目指して、今日も粉骨砕身! 

 努力は報われるのだ。

 

 そう意気込んで、さてさて今日のお客は誰でしょうか? 

 と呼び出しのフロアに出向くと、

 

「店員さん? ですよねっ! このドラムスティックの感覚を試したいのですがー」

「どうぞどうぞ、こちらでお試しくださいー」

 

 待ち構えていた客は、高校生と思われる男女の二人。

 

 客は少女の方か。

 金髪で可愛らしい容姿。首元に目立つ赤い大きなリボン。

 明るい雰囲気で、人懐っこさを感じる少女は誰からも好かれそうだ。

 

 そして眼鏡を掛けた少年の方に目を向けると、

 中性的で整った顔立ち。

 大人しく真面目そうで、そしてどこか慣れない店に来て、あたふたと戸惑っている様子。

 

 なるほど彼氏は音楽の専門外か……。

 って、

 ここはデートスポットじゃねーぞっ! 

 

 私は内心で毒づきつつ。

 今日もハズレか……と気落ちする。

 ほどほどにオススメの商品買わせて、今日は帰ろう。

 

 それにこの二人は私の何かを……失われた青春を刺激する。

 

 でもあれ? この男の子。

 どこかで見たことがあるような……。

 

 少女が試しにスネアを何回か叩く。

 そして彼女は少し力を入れ、8ビートの基本的なリズムを刻む。

 

 へぇ。学生にしては良い勘してんじゃん。

 私はちょっと軽んじていた少女の評価を改めた。

 

 初心者のドラム捌きではない。

 むしろ若さにしては、実直にドラムに取り組んだ姿勢が見られたからだ。

 

「零くん! どうかな?」

「うん、すごい上手だけど、音の善し悪しはボクは詳しくないから……。スティックにも叩きやすさとかあるのかな?」

 

 ”零”と呼ばれた少年は、少女の演奏を大切な家族を見守るような、優しい目で見つめていた。

 

 

 零って、もしかして……。

『桐山零』

 

 桐山”きゅん”!? 

 

 プロ棋士の桐山きゅん! 

 なんで彼が”こんな”店にいる! 

 

 彼は、最近もすごく話題になっていたし。

 以前から、畑じゃない私でも顔と名前くらいは知っているくらいだ。

 

 ”桐山きゅん”は将棋抜きでも容姿も悪くないし、何より知的なイメージがあるから。

 若い世代や、その子や孫を持つ将棋ファンにも受けが良さそうだった。

 あとは何故か過激なファンが彼のことを”桐山きゅん”って、呼んでるくらいか。

 

 あれは一体、何目線なのか謎なんだけど……。

 でもそっちの呼び方がカワイイから、私も”桐山きゅん”って呼ぶから! えへへっ 

 

 私は別に将棋に詳しくない。

 だが”音楽”というのは、ごく当たり前に溢れているものだから。

 ライターとして、私は一般常識や日々のニュースをジャンル問わず出来る限り追うようにしている。そういう地道な所から、道が開けることもあると信じて。

 

 それにしても。

 もしかして私ってば、とんでもない”特大スクープ”現場を目撃してるのでは? 

 

『将棋界の期待の星に、熱愛発覚!?』

 

 電車の吊り革に某スキャンダル雑誌が喜々として掲載するシーンが目に浮かんだ。

 

 いや、まだ分からない。

 とりあえず探りますか……。

 

「あのぉ~、今使われているメーカーの新作が最近出まして。そちらと~ても評判良くてっ。お試ししてみますか~?」

「え、気になります!」

「はいっ、ではお持ちしますねぇ~ 彼女さん羨ましいですね♪ 今日は素敵な彼氏さんのプレゼントですかね?」

 

「えっ、あははー……彼氏ってそんな!? 仲のいい友達ですよー」

 一瞬呆気に取られ、すぐ頬を赤らめ照れた表情をする女の子。

 

 ほう……この感触。

 ”まだ”付き合ってはないのか? 

 

「えっそうなんですかぁ。でも残念です。今カップル割があって~、カップルの方限定でドラム関連商品が1割引きなんですけどぉ~」

 

 勿論そんなわけはない。

 大体なんだよ、”カップル割”って……。

 だが意地でも何か引き出さなければという、私のライターとしての使命感。

 ここは自腹も辞さない覚悟だ。

 

 桐山きゅんの恋愛事情とか、そこらの一般誌だって放って置かないぞ。

 

 目の前の二人。君たちのことだよ!? 

 もっと警戒してよ? 

 ”ほんわか”とした雰囲気で、私の気も知らず二人はヒソヒソと相談している。

 

「虹夏さん、別に割引くらい……今日はボクが払うんだし」

「だ、ダメだよ零くん! お金は大切にしないと。今は何かと高くなってるし。割引分で卵のパックも買えるんだから!」

 

 うん。聞こえてるんだよなぁ~。

 それにしても妙に所帯じみてるな、この虹夏ちゃんという女の子。

 ドラマーだから破天荒な子かと思ったけれど。

 先程の会話からもお金には堅実な性格を感じさせた。

 

 いや悪くない。

 こういう子なら悪くないぞ、桐山きゅん。

 というか私も養ってくれないかな……。

 

「あ、あの、やっぱりカップル割……使います!」

 恥ずかしそうな虹夏ちゃんを見て、私はからかいたくなった。

 

「あっ、やっぱり! お似合いなのでそうかなぁ~って。彼女さん恥ずかしかったんですかね。ねぇ彼氏さん」

「あ、はい」

 

 一方の桐山きゅんは、初めは緊張感が顔に出るも、どこか不思議そうな表情に変わる。

 やばっ、嘘がバレたか……。

 だが彼は続けざまに、予想外の衝撃発言をする。

 

「でも虹夏さん。このスティックだと高いやつでも5000円くらいだよ。今日ってドラムを買うんじゃないの?」

 

 えっ、ちょっと待って……聞いてないんですけどぉ~!! 

 はっ、桐山きゅんって絶対、お金持ちだよね。

 マズイ……。この子たち高校生だからって侮っていたけど。

 桐山きゅんは”ただの”高校生じゃない。

 

 あれ? この子、もしかして私より稼いでるのでは? 

 全然ある……。

 

 き、桐山きゅん?

 まだ彼女じゃないなら高級品買うわけじゃないよね、そうだよね? 

 50万とか言わないよね。私が一割負担とか破産しちゃいますから~。

 せめてエントリーモデルで頼むっ! 

 私は軽率な自分の行動を既に後悔していた。

 

「ドラム? 買わないよ? 零くんは知らないだろうけど、ドラムって結構高いし、それに扱いも大変なんだよっ!」

 

 あっぶねぇ~~。

 たらりと冷や汗が流れ、そして私は心の中で歓喜していた。

 ありがとう虹夏ちゃん! 君はなんてかわいい”天使”なのっ! 

 もう君たち付き合っちゃえ! お姉さん許しちゃうぞっ。あ、私はまだ17歳だけどね。

 

 だが彼女のその天使っぷりは、とどまる事を知らない。

 

「それにさ、折角なら次のライブに使える物。零くんにプレゼントして欲しいなって!」

 

 虹夏ちゃんは少しはにかんだ後、満面の笑みを桐山きゅんに見せていて。

 彼も一拍置いて、今日一番の温かな微笑みを彼女に返す。

 

 その瞬間、私は見てはいけないモノを見てしまった気がして。

 

 えっ? これで付き合ってないの? 

 本当に!? 

 私は疑うように二人を交互に見比べる。

 

 だがどこか二人には学生特有の甘酸っぱさよりは、妙な信頼関係を築いているように思えて。最初感じた嫉妬の海に溺れることはなかったのだった。

 

「そうでした! 割引の適応のため撮影協力だけお願いします~」

 

 虚言を吐いてツーショット写真を撮影したはいい。

 でも画面に写る桐山きゅんと天使な虹夏ちゃんが悲しむ姿を思い浮かべては、結局何も行動出来ず。

 

 本日の成果は300円を失い、そしてお会計の後、虹夏ちゃんに音楽ライター”ぽいずん♥やみ”の顔を紹介して名刺を忍ばせただけだ。

 虹夏ちゃんは下北の『STARRY』でバンド活動をしていて、名前は”結束バンド”だったかな。

 無名も無名だった。成果無し……。

 

 それしても危ういなぁ、あの子たち。

 

 私の杞憂に終わればいいと願う。

 

 彼らのあんな不用心で無防備な行動が、いつか仇になってしまわぬようにと。




桐山きゅん!
虹夏ちゃんの誕生日は5月29日。

通称『14歳さん』がまだ17歳だった頃。虹夏ちゃんも17歳になる。

次の話で煮詰まってるので、割りと好き勝手書いたこの話はもうズバッと投稿しちゃいます。


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13話 オーディション

 6月上旬の土曜日。その日は夕方から生憎の雨模様で。

 例年より低い気温のはずが、ジメッとしていて蒸し暑い日だった。

 

「オーディション?」

「そうだよ! お姉ちゃん意地悪なんだから」

「虹夏、またその話かよ……」

 

 夕げ時、虹夏さんは普段と違って不貞腐れていた。

 虹夏さんの誕生日を疑惑のサプライズでお祝いして、これからも仲睦まじい姉妹が続くのかと思っていた。

 そんな矢先、まさか一週間も経たずに、こんなに予想外に重苦しい食卓が出来上がるとは……。

 

 詳細を聞くと、めでたいことに”結束バンド”の新曲が完成し、星歌さんにライブ参加依頼をしたことがきっかけとなった。

 星歌さんは前回のライブの演奏だと、”結束バンド”は次のライブには出せないから、今度のオーディションで実力を見せろと課題を提示してきたらしい。

 だから虹夏さんたちは来週、新曲をオーディションで披露するようだ。

 

 そっか、前回の実力だと厳しいんだ。

 ボクは改めて音楽活動、そしてバンド活動の厳しさを知った。

 

「でも星歌さんの言うことも一理あるかも」

「えっ、零くんまで……ショックだよ」

「あっ……ご、ごめん」

 

 虹夏さんは思わぬ敵が増えてしまったと少し悲しんでいる。

 自分の中に潜む冷徹な部分が垣間見えたようで。

 両手で持っていたコップの水を飲んで、思わずため息をついた。

 

「ほう、桐山も案外分かってるじゃん。少しコレをやろう」

 一方でボクにおかずを分けてくれる星歌さん。

 って、星歌さん。その照り焼き、ボクが作ったやつなんですけど!

 ちょっと味付け甘かったかな……。

 

 でもライブハウスだって”慈善活動”ではないのだ。

 箱の基準に満たない。

 そう判断したなら、店長としてそのバンドをライブに参加させないことは当然の判断だ。

 だから星歌さんがもし結束バンドを現時点で”そう”判断していたのなら。その道のプロとしてきっと正しい評価なのだろう。

 

 でも、

 

「虹夏さん。結束バンドの皆なら、オーディションもきっと大丈夫だよ」

 

 ボクの強めの言葉に、虹夏さんは嬉しそうな反応をしてくれるけど、それでも少しまだ不安の余韻もあって。ちょっとでも自信を持って欲しくて、ボクは続ける。

 

「だってこの前のライブ。皆は数週間であんなに成長していたんだから」

 

 だからボクは強く信じて疑わない。

 あの頃よりも、更に成長している”結束バンド”を見せてくれることは。

 

 ならば後は”ファン”として祈るだけなんだ。

 どうか彼女たちが、合格の基準に到達していますようにと。

 

 彼女らを信じることしか出来ない、己の無力さに箸を握る力が強まる。

 

 そしてボクは、同時に思い出す。

 

 プロ棋士になるために身を置いていた奨励会の世界を。

 努力や才能、その他全てを引っくるめて”将棋の強さ”ただ一点で競うあの熾烈な世界のことを。

 

 いろんな記憶が錯綜する。

 数多の少年少女が挫折する姿や。

 そんな人達をボクはただ、見届けることしか出来なかったこと。

 

 何より惜しくも棋士になる道を自ら諦めた”香子さん”のことを。

 

 彼女が奨励会を退会する直前、鬼気迫る表情でボクと最後に対局した時、

 

 彼女の”詰みまで届け”と念を込めるように、力強く駒を打ち付け響かせたあの音を、

 

 ボクは思い出していたんだ。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 オーディションまで各々が不安な気持ちを抱え、結束バンドの皆は練習に励んでいた。

 一方、学校では先月行われた中間テストの結果がまとまり、通知表が渡される。

 

「零くんってやっぱ頭もいいんだねー」

「今回はなんとかなったみたい。でも、虹夏さんの方が点数いい科目もあるね」

「私はほら、勉強する時間あるからさ」

 

 その言葉はどこか謙遜している気がした。

 だって彼女は家事にバンド活動に、更にバイトに日々忙しいのだから。

 隣の虹夏さんは全く問題ない優秀な成績で。

 そしてボクも対局で欠席した1日以外は、さほど問題はなく。

 

 些細な問題があるとするなら、

 テスト返却の日と対局日が被った時に、ボクの答案が模範解答代わりに使われていたらしく、誤答の箇所が少し恥ずかしかったことくらいだろうか。

 

 そして大きな不安があるとするら、

 

「リョウこれって……」

「いっそ綺麗に揃えた方がロックかと思って」

 

 リョウさんのテスト結果が全ての科目で赤点になっていたことだろうか。

 

 作曲していた時期とテスト期間が一緒だったことも影響しているらしいけど。

 何故か猛烈な不安が押し寄せてきて、虹夏さんと一緒に期末テストに向けて対策を練ろうと話し合いになるのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 ”結束バンド”のオーディション当日。

 

 その日、ボクは対局だった。

 部外者だったのでオーディションには参加できないし、だから対局の有無なんて関係ないのだけれど。

 対局後にスマホを受け取った後の、電源の起動が心なしかいつもより遅く感じた。

 

 ボクがオーディションの”結果”を知ったのは対局後の夜。

 将棋会館から出て、足早に駅に向かう途中のことだ。

 

 スマホを起動するとロイン通知が一斉に流れ出し、お昼ごろに『合格』の連絡が結束バンドのメンバー全員からロインで届いていた。

 

 良かった……本当に。

 

 ボクが安心したのも束の間、どうやら皆の本題はその後のようだった。

 4人から同時にチケット購入の催促メッセージが届いていたからだ。

 えっと……結束感が有るのやら、無いのやら。

 

 ひとまず虹夏さんにどうすべきか相談すると、緊急でメンバー間で話し合いとなり。

 話し合いの結果、”ひとりちゃん”にボクのチケットが充てられることとなった。

 虹夏さんの言葉を借りるなら「”ぼっちちゃん”とっても頑張ったから!」らしい。

 

 他の思惑もありそうと脳裏に一瞬チラついたボクは、やはり酷いヤツなのかもしれない。

 

 帰りの電車内、突然、”ひとりちゃん”からメッセージが届く。

 チケット受け取りの件かと思ったが、悲壮感漂う『やっぱ犬はダメですよね……』というメッセージが。

 

 誤送信なのだろうか? 

 ふと後藤家の可愛らしい犬”ジミヘン”が思い浮かぶ。

 ジミヘンを頭数に入れたらチケットノルマ残り4枚は後藤家のみんなで確かに達成なんだけど……。

 まさかと思い直し、ボクは首を横に振り窓の外を眺める。

 

 それでも何故か”ひとりちゃん”の呻くような叫び声の幻聴がボクにも聞こえたような気がしたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 22時頃に最寄り駅に着くも、ボクはいつもの帰り道ではなく少し遠回りをしていた。

 あてもなく、ただただ思考停止して寄り道をする。

 

 思えばこの一週間は不思議な感覚だった。

 言葉にするなら緊張。それも対局では一度も感じたことがないモノをボクは抱え込んでいた。

 そこからようやく解放された自分に気づいて。

 

 でも、その残った火照りを冷ますように。

 ボクは行く当てもなく歩く。

 

 以前に居座ったことがある公園に偶然たどり着くと。

 そこには一人の少女がベンチに腰掛け、夜空を眺めていた。

 

「え、虹夏さん!?」

「零くん!? ど、どうしているの?」

 そ、それはこっちのセリフなんだけど……。

 

「ちょっと寄り道してて……かな?」

「いや、ビックリだよ」

 

 驚いたのはベンチから立ち上がった虹夏さんも同じようで。

 虹夏さんの長い髪が、生ぬるい夏の夜風になびいていた。

 

「その、虹夏さんは?」

「私はその、ちょっと眠れなくてさ」

 そう答えて笑う彼女は、どこか興奮と嬉しさを隠しきれず、いつも以上に目が輝いていた。

 

「あ、零くんも良かったらこれ付けなよ」

 そういって彼女はポケットからスプレーを取り出して、ボクの右腕にかける。

 心地よい彼女の香りに紛れ、独特な薬品の臭いが微かにボクの鼻を刺激する。

 

「これは?」

「虫よけスプレー! もう夏だよねぇ」

 虹夏さんの指示に従ってスプレーを浴びながら、ボクは外灯の光に無心で向かう虫たちを見つめる。

 

「ありがとう。その虹夏さん、改めてオーディションおめでとう」

「ありがとね。でもね、それだけじゃなくてね……」

 

 彼女はどこか勿体ぶるように、言葉を選ぶように続ける。

「”ぼっちちゃん”がね、大活躍だったんだよ」

「ひとりちゃん?」

「うん、詳しくは秘密の約束なんだけどね。期待しててよ、夏のライブ!」

 

 虹夏さんは右手に握りこぶしを作って自信をのぞかせる。

 そして、先程と同じように彼女は再び夜空を見上げた。

 

「私ね、夢があって」

「夢?」

「そう、夢があるんだ」

 

 虹夏さんは記憶を辿るように”夢”のことを話してくれた。

 彼女の母が亡くなって、星歌さんがバンドを辞めてまで虹夏さんのために『STARRY』を作ってくれたこと。

 だから”夢を諦めた”星歌さんの分まで、結束バンドを人気バンドにしたいこと。

 そして『STARRY』を今よりもっと有名にしたいことを。

 

「だからね。ぼっちちゃんのお陰で私の”夢”にまた一歩、近づいたんだ!」

「そっか」

 

 ”ひとりちゃん”そんなに頑張ったんだ。

 凄いな……素直に称賛すると共に、先程まで彼女に対して失礼な想像をしていた己を恥じる。

 そして何よりボク一人だけが、その場に取り残されたような。

 そんな感覚に陥った。

 

 今こうやって”ひとりちゃん”が、虹夏さんに希望の星と称されていて。

 リョウさんや喜多ちゃんも、今や結束バンドのメンバーとして欠かせない輝きを放っていて。

 

 じゃあ、ボクはいったい。

 キミの夢に、何をしてあげられるのだろう? 

 

 音楽の知識もまるで無い。

 楽器を弾くことも出来ない。

 ただ将棋を指すことしか出来ないボクに。

 

 みんなの成功をただ祈ることしか出来ないボクはいったい。

 

「零くん?」

「あ、その……ボクは何も出来てないなって。ただ皆を応援することしか出来ないから」

 

 虹夏さんが少し憤るように顔色を変え。

 そしてすぐに優しい表情に戻って、首を横に振る。

 

「そんなことないよ。だって”零くん”なんだよ! 喜多ちゃんを連れ戻したのも、ぼっちちゃんが加入してくれたきっかけも」

 

 でもそれは偶然だよ、というボクの思考を遮るように。

 更に虹夏さんは続ける。

 

「それに零くんが居てくれるとね。私、頑張れる気がするんだ! 零くんは将棋のプロになって、もう私の夢を実現してるみたいでさ……私も負けてられないなって」

「え?」

 

 そして思い出したような表情をして、虹夏さんは手を後ろに回し語りかける。

 

「そういえば前に零くんを”猫”みたいって言ったの覚えてる?」

 

 不思議だ。

 

「あれ案外当たってるのかも」

 

 いつもキミの言葉は、ボクの何かを揺り動かす。

 

「だって、零くんは私に幸せを呼んでくれる”招き猫”みたいなんだもん」

 

 屈託ないの無い笑顔を添えて告げるキミの声。

 それ以外の音が消えたように、ボクは幻聴した。

 

「だからさ。零くんにはね、これからも”結束バンド”のこと側で応援して欲しいな」

「……うん」

 

 キミの言葉に頷き、そしてボクは反芻するんだ。

 

 でも、やっぱりもっとキミの夢の力になりたいなって。

 

 そして”ボクの夢”って何なのだろうと。

 

 その日、見上げた夜空に浮かぶ少し雲のかかった満月は、穏やかな光を纏い、輝く星々に包まれていた。



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14話 幸田香子

(Side: 幸田香子)

 

 私は将棋の家の子に生まれた。

 棋士である父にとって全ての基準は将棋であり、だから娘である私も当然のように駒を持ち、将棋に打ち込むようになった。

 

 歯車が狂い始めたのは、”アイツ”が来てからだ。

 家族を失い、居場所も失ったアイツは、父に連れられ狂ったように将棋を指し続けていた。

 

 最初は私も急に出来た、”はじめての弟”みたいに可愛がろうと思っていた。

 でも私たちは何かと神経質な年頃だったし、それにアイツは私たち家族とは、常にどこか一線を引いていて。

 しかも4つも年上のアタシに、棋力を伸ばし着々と追いて来ていて。

 次第に苛立つことが多くなっていった。

 

 当然、私も負けたくないので抗った。

 だがその抵抗虚しく、とうとう私はアイツに初めて負けたのだ。

 高1の夏のことだ。

 

「負けたからって手を出すやつがあるか!」

 負けた悔しさで咄嗟にアイツの頬を叩いた私は、父にこっ酷く叱られた。

 

 でも、それでも怒りは収まらなかった。

 アイツに負けたことが悔しくて、そして何より勝てない己に無性に腹が立った。

 

 だから私はアイツに再戦を申し込んだ。

 2週間後に日付を指定して。

 

 再戦までの2週間は今でも振り返っても地獄のようだった。

 

 家でも学校でもどこでも将棋のことだけを考えて。

 食事すらまともに喉が通らなくなりそうになって、流石に周りからも心配された。

 でもそれほど真剣に打ち込んだのだ。

 

 アイツの癖や傾向を自分なりに分析して、研究して。

 その分だけアイツの怖さを知って、でも昔の私より強くなった自信を持てた気がした。

 

 再戦の日。

 盤面が複雑になれば、読みが深いアイツを相手取ることは不利だと思った私は、攻めの将棋を選ぶ。

 元々そのスタイルが性に合っていたことも起因していた。

 

 中盤で私は果敢に攻めて攻めて、実際いい所までは迫った感触はあった。

 でも、アイツは小学生離れした冷静な立ち回りで守りを固め、私の駒を捌き切り、結局敗れてしまった。

 

 この2週間の努力が報われず、自分の意思に反して思わず涙が溢れそうになったその瞬間。

 

「ここ。負け筋でした」

 アイツが指摘したのは、終盤に私が見逃していた手らしい。

 アイツが幾らか手を進めて、ようやく私にも勝ち筋が残っていた事を知る。

 

「いい対局でした。またやりたいです」

 

 お世辞ではないと、すぐわかった。

 何故なら盤の向いに座るアイツは、今までで一番楽しそうな顔をしていたのだから。

 でも私はこの時、悟ったのだ。

 

 ”この世界では一生、私は桐山零に勝てないのだと”

 

「零。アナタ、将棋以外に趣味はないの?」

「……無いです。ボクには将棋くらいしか」

 

 零は少し考えつつも、暗い顔して他に答えはないと返答する。

 

「何それ? まあ知っていたけれども。じゃあアナタの家族は?」

「えっ? そうですね。父さんは多趣味だったかも。ちひろ、妹はまだ小さかったから。あと、そうですね。母さんは歌が好きでした」

 

 最後に珍しく微笑んだアイツを見て。

 

「まあいいわ。じゃあね零」

 

 そう歌ね。

 

 一週間後、私は将棋を捨てた。

 捨てようとした。

 

 だが驚いたことに、辞める直前に父から一度引き止められたのだ。

「お前は努力次第ではまだプロになれる可能性がある」と。

 

 昔の自分なら嬉しさで飛び跳ねただろうその言葉を聞いても、今の私には何も響いてこなくて。

 破裂しそうで、ぐちゃぐちゃになった感情を押し込めて私は聞き返す。

 

「ねぇ父さん。なら頑張れば、零にも勝てるの?」と。

 

 その時、曖昧に笑った父の顔は今でもよく夢に出てくる。

 

 結局、父の反対を押し切って、私は”歌の道”に進む。

 別にアイツの言葉に流されたわけじゃない。

 

 たまたま駅前で路上ライブしていたバンドマンが、誰にも縛られず歌っている姿を見て、

 

『荒んだ私でも、歌なら自由になれるかもしれない』

 

 そう思ったから。

 

 結果、私は成功してしまった。

 駒を捨てるように、歌手の名を『香子』から『響子』に改めて。

 将棋と同じように、多くの人が夢を見ては散りゆく”歌”という分野で頭角を現した。

 

 昨年、デビューした勢いのまま、ストリーミングや配信も波に乗り。

 4月に出したアルバムは、2ヶ月経っても常にランキング上位をキープしている。

 

 当然、そのための努力はした。

 でも初めからある程度、普通の人より歌は上手かったと思う。

 出来るから練習に身が入り、さらに上を求めて上手くなり。

 そして答えのない”音楽の世界”に深く潜り込んでしまった。

 

 それを”才能”と言ってしまえばそれまでだ。

 

 それでも時々こうも思うのだ。

 望んだ才能を持たず、望まぬ才能を持ってしまった今の私は”何者”なのだろうかと。

 

 高校も途中で辞めバイトと掛け持ちして、通い始めた音楽スクール。

 そこは評判も良く、メジャーデビューしていた先輩も過去に在籍していたから私も選んだ。

 そんな場所に通う、目標を共にした同期の仲間たちが、私にも昔は居た。

 

 でも最初の一ヶ月で一人辞め。

 そして時が過ぎて、また一人、また一人とその道を去って行き。

 最初は全てを投げうって同じ道を志していたはずの同士達は数を減らす。

 

 運良く音楽事務所に所属し、そしてデビュー出来た子は私以外にも居た。

 だが”売れること”、そして”売れ続けること”は、それ以上に厳しくて。

 そして先月、最後の同期が道を閉ざし、気づけば私の周りには”誰も”居なくなっていた。

 

『ごめんね響子ちゃん。でもね、もうアナタと比較され続けるの辛いの。私はアナタみたいにはなれないから』

 

 辞める直前の同期の言葉を思い出す。

 ああ、私にもその気持ちがよく分かる。

 

 こんな今の状況で、時たま私は”アイツ”を思い出すようになった。

 今だったら分かってあげられたのだろうか。

 父に連れられ、一人寂しく盤に向い続ける”零の気持ち”が。

 彼の才能のせいで、周りから人が離れていった時の彼の寂しさが。

 

 でももう、全てが手遅れだ。

 私は将棋を離れてしまい、そして零が我が家に帰って来ることなど絶対にないのだから。

 

 

 今は、次の大型ライブに向けてのプロモーション撮影中。

 その束の間の休憩時間に、私はメイク直しをして貰いつつスマホで動画を眺めていた。

 

 オススメに私の曲をカバーしている”芋っぽい服装の女”のサムネイルが表示されている。

 顔は写っていないが概要には、学校中で人気者の高校生と書いてあった。

 この服装はあえてなのかしら?

 

 再生数だけに惹かれ期待せずに動画を再生すると、いい意味で期待を裏切るギターの表現力。

 技術が見た目に似合わずシッカリしていて。

 更に年相応の若々しい新しさも感じられて。

 

 その少女の演奏を聞くと、不思議とあの時の将棋盤で向かい合った”零”の顔が浮かぶのであった。

 

 ――アカウント名は『ギターヒーロー』

 

 この子と一緒に歌えば、私は何か成長出来ると思って。

 何よりも積み上げ抱え込んだ、このドス暗くて重い悩みが晴れるかもしれないと思って。

 

 衝動的に概要欄の連絡先にコンタクトすることにしたのだった。

 

 しかし、一週間経っても、

「なんなのあの芋娘! 全っっ然、返信寄越さないじゃない!!」

 あの少女から返信は来なかった。

 

 だが、それから更に一週間ほど時が過ぎて、

『大変光栄なお話をありがとうございます』

 返信が来た。

 

『ですが私は”結束バンドのギタリスト”として生きるため、折角のご指名ですが、辞退させていただきます』

 丁寧な断りの返信が。

 詳細を聞こうにも、追加の返答はなく。

 

 ”結束バンドのギタリスト”って何?

 

 調べると、ケーブルの結束バンドがまずヒットし。

 更に調べると、美容系のイソスタアカウントはヒットしたがそれしか出てこない。

 

 ま、体よく断られたってことね。

 きっとこれも私への”報い”なのだろう。

 

 あの時に零を叩いた右手の痛みがジリジリと蘇る。

 そして私は予定表を見つめる。

 

 明日は、父さんと零の対局日だ。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 『将棋』は”楽しい”かと問われて。

 

 ボクは『はい』と即答できない。

 むしろ苦しいことの方が多いから、『いいえ』なのかもしれない。

 

 でも、確かに楽しかった思い出もあるんだ。

 

 ボクが初めて将棋を楽しいと思ったのは、父がまだ生きていた頃。

 幸田師匠が、まだボクの師匠じゃなかった頃。

 

 師匠は時より家に遊びに来て、父と毎回、将棋を指していた。

 ある日、病院の急患で外出していた父の代わりに、ボクは師匠と対局してもらった。

 

 当時から運動も苦手で流行りから乗り遅れていたボクは、周りの同級生の会話に参加することは出来なくて。彼らの会話が異国語に思えて。

 

 でも、初めて師匠と対局した時、なぜか師匠が何を考えているのかストンとボクの頭に入ってきて。

 ボクが一手指すと、師匠はその一手に答えるようにパチンと指し返してくれて。

 

 家族以外では碌に会話も出来なかったボクにとって、それは不思議な体験で。

 でも僕たちは確かに将棋盤を挟んで会話が出来た気がしたんだ。

 

 それが凄く”楽しく”て。

 

 だからそれ以降、父の友達なのに、師匠が来るとボクはソワソワと嬉しくなったんだ。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 6月の下旬、順位戦B級2組 初戦

 今日の対局相手は『幸田柾近八段』

 ボクの師匠だ。

 

 外の暑さから隔離したように、冷房の効いた対局室。

 その冷気が、フル回転したボクの脳を冷却するように循環している。

 

 既に対局は終盤で、現在はボクの手番。

 本来なら長考する場面ではない。なのにボクは貴重な持ち時間を使い、次の一手に既に30分以上長考していた。

 

 形勢は多分ボクの優勢だ。

 このまま持ち駒の『金』で守りを固めれば、ボクの『玉』を詰ますには時間が掛かりそうだから。

 だから普通に考えたらそう指すべきなのに。

 

 ボクはその道に進めず立ち止まる。

 安全そうなその道は、ザラッとした嫌な予感がするのだ。

 今は無難でも進んだ先の先は崖で、気づけば後ろから喉元に刃を突きつけられるような嫌な感覚。

 

 だからボクは立ち止まって深く考える。すると別の手が浮かびだした。

 それも一つだけじゃなくて幾つも幾つも。

 何もない部屋に複数の扉がボクの前に現れるように。

 でもぱっと目についた扉の展開を予想しても、やっぱりどこか決め手に欠けて。

 

 やっぱり素直に指そう。

 ボクがそう思った瞬間、何か閃いたように、攻めっ気を思い出させるように、奥にあった一つの扉が光り出す。

 急いでそこに駆け寄ると、

 

 この手は……ひょっとするともう勝てる状況なのか?

 

 不思議と次の展開が気になる一手だった。

 少しでもミスするとボクの形勢が危うくなって、第一感では打ち捨ての無謀な手なんだけど。

 手を進めたら……。

 

 それに今ここで無難に指せば、もう二度とこの先の景色を見ることが出来ない気がした。

 だからボクは長考の末、発見してしまったこの扉から、もう目が離せなくなってしまって。

 

 途端に”楽しく”思えてしまって。

 

 その扉をこじ開けるように、ボクは『香』を握り締め、盤に打ち付けていた。

 ”守り”ではなく、”攻め”の一手を。

 

 そして予想した通り、その後は綱渡りの連続で。

 一手もミスすることが許されない、厳しい状況でボクは攻め続けて。

 

 でもその状況が、盤の変化が”楽しく”て。

 

「ああ無いな……負けました」

「ありがとうございます」

 

 最終的に、なんとかボクが勝利する。

 

 向いの師匠は沈黙している。

 でも負けたはずなのに、どこか晴れやかな表情をしていた。

 ボクが不思議に思っていると、

 

「零、あの香打ちは研究だったのか?」

「……いえ。でもふと閃いてしまって、指してました」

 

 ボクの言葉に師匠は懐かしそうに笑う。

 こんなに綻んだ顔の師匠を見たことは”幸田家”でも無かったかもしれない。

 

「そうか閃いてしまってか、血は争えないな」

「えっ」

 

 戸惑うボクを他所に、師匠は嬉しそうに語りかける。

 

「良い手だったな”零”。あと少し懐かしくてな。今日の終盤、お前の父さんと対局しているみたいだった」

「えっ?」

「あの場面、普通は守る一手だろ? プロなら負け筋を消すために堅実に固く守る。でも奨励会時代に桐山もよく、今みたいな場面で常識はずれの手に飛び込んでたよ。面白そうだからって」

 

 ああ、そうか。

 今更ながらボクは思い出す。

 

 師匠のこの笑顔。

 長野の家で父さんと指してた師匠は、よくこんな感じで笑っていたじゃないか。

 

 あの時のボクは、彼らと一緒に笑っていて。

 今のボクはどんな顔をしているのか、見当もつかないけれど。

 

 師匠から贈られたその言葉で、ボクは体の芯からホカホカとしていた。



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閑話 掲示板回

作者が掲示板ネタをやりたかっただけ。
苦手な方は読まなくてもストーリーには全く影響なしです。



【朗報】桐山六段やっぱり絶好調!今年度まだ1敗

 

1:名無しの獅子王 ID:ti2Sij8YX

なお1敗は伝説の反則

 

2:名無しの獅子王 ID:5o+O7BBTe

>>1 あんなん無効よ だから実質無敗

 

3:名無しの獅子王 ID:e+2UCqtof

A級の島田八段相手で後手番だし実際やっても厳しかったろ

 

4:名無しの獅子王 ID:GpWntV5Jl

桐山くんの魂抜け落ちた表情ホント好き

 

5:名無しの獅子王 ID:5XSUaq+rA

ホンマあれは伝説の放送事故だったw

 

6:名無しの獅子王 ID:tPncAli8q

名人なったらずっと語られるだろうな

 

7:名無しの獅子王 ID:EXC/hmPDJ

>>6 今でも語られてる定期

 

8:名無しの獅子王 ID:VN4PlelsK

あんときのABENA TVマジでお通夜だったなwwwww

会長もめっちゃ張り切ってたのに

 

9:名無しの獅子王 ID:nrUWOdhU3

ネットは祭りだったけどなw

 

10:名無しの獅子王 ID:6Tjppw2AD

>>1 当時リアルタイム視聴してて放送の先手後手が間違ってるのかと思ったよw

 

11:名無しの獅子王 ID:3vZuFG4IL

高校との両立無理なんじゃねって言われてたけどそっから無敗だしな

 

12:名無しの獅子王 ID:ruSU/vf+6

やっぱ中学生棋士は伊達じゃない

 

13:名無しの獅子王 ID:Q8kalo1Ve

もう聖竜戦のリーグ戦にいる時点で普通じゃないからな

 

14:名無しの獅子王 ID:bV4YeJPdU

A級とも普通にやりあってるしな

 

15:名無しの獅子王 ID:E7Nv6Ej0Y

流石にあの1敗がキツすぎて聖竜戦のタイトル挑戦は厳しかったな

 

16:名無しの獅子王 ID:Sz2S3BUKs

>>15 勝ってたら島田八段とプレーオフだったか

 

17:名無しの獅子王 ID:JObgAWRrf

タイトル戦で可能性あるのってあと何?

 

18:名無しの獅子王 ID:j2ADEoqbU

>>17 主要タイトルなら獅子王戦と玉将戦 それ以外だと新人王戦もか

獅子王戦は決勝トーナメントであと2人勝てば挑戦者だしあるかもな

 

19:名無しの獅子王 ID:4Ou6tmmiS

獅子王戦の次の相手島田八段じゃん

 

20:名無しの獅子王 ID:DpsHr4Fnu

>>19 桐山くんの天敵やん

 

21:名無しの獅子王 ID:bQym6IIEB

>>19 リベンジマッチ期待したいな

 

22:名無しの獅子王 ID:HoSpIuowF

獅子王戦もし島田八段に勝てても次は後藤九段だし厳しくない?

この前の対局でも負けてたし

やっぱA級棋士の壁は厚い 期待したいけどまだ早いっしょ

 

23:名無しの獅子王 ID:e6Du8KGmN

>>22 おいっ!スミス六段が勝ち上がるかもしれないだろ!

 

24:名無しの獅子王 ID:HoSpIuowF

>>23 でもあの強面の後藤九段に勝てるビジョンが見えないよ…

 

25:名無しの獅子王 ID:e6Du8KGmN

>>24 それはそう

 

26:名無しの獅子王 ID:Ov7swpQGQ

>>25 ( ;∀;)カナシイナー

 

27:名無しの獅子王 ID:lMEQDBCa9

でもタイトル戦出て欲しいよな

去年も桐山くんが新人王取った後の宗谷名人との記念対局めっちゃ盛り上がったもん

 

28:名無しの獅子王 ID:OAdtSH4tt

桐山くん負けはしたけど名勝負だったからな

 

29:名無しの獅子王 ID:WESgnoXrw

宗谷名人も楽しそうだったもんね

 

30:名無しの獅子王 ID:Nrm39WQfQ

将棋星人同士通じ合うもんがあるんだろ

 

31:名無しの獅子王 ID:WTSwJXJQs

>>30 まだ桐山くんは地球人だろ

 

32:名無しの獅子王 ID:tNhXrxOhv

>>31 っ 無言の感想戦

それにまだ高校生でこんだけ勝つのは地球人じゃ無理

 

33:名無しの獅子王 ID:379fUKPM3

宗谷名人のせいで感覚麻痺してるけど高校生で順位戦B2までストレートで昇級して魑魅魍魎の挑戦者リーグで勝ち越してるのホンマ草

 

34:名無しの獅子王 ID:aFf2qLxfb

>>33 しかも1敗は自滅

 

35:名無しの獅子王 ID:s7l70fOA4

>>34 やめたれww

 

36:名無しの獅子王 ID:pEST9Bl8i

プロ棋士やりながら高校通うってやっぱ俺らと頭の出来違うんだろうな

 

37:名無しの獅子王 ID:u76EC4b4L

>>36 お前と一緒にするな

 

38:名無しの獅子王 ID:+NSvpvSfj

>>36 しかも今進学校なんだろ どこだっけ?

 

39:名無しの獅子王 ID:AbeJj7831

>>38 たしか今年下高に転校したはず どっかでリークされてた

 

40:名無しの獅子王 ID:30iJeMVDW

>>39 ストーカーやめろや

 

41:名無しの獅子王 ID:AbeJj7831

>>40 オレじゃないやい!マスゴミに言え

 

42:名無しの獅子王 ID:EsNeJ3jJW

将棋ファンとしては野次馬気にせず頑張ってもらいたいところ

未来の名人やぞ

 

43:名無しの獅子王 ID:G1iXbL8Fs

>>42 会長も明らかに桐山くん大切にしてそうだもんな

 

44:名無しの獅子王 ID:hEBuwsuOa

>>43 記念対局の力の入れよう凄かったもんなww

 

45:名無しの獅子王 ID:fxre4MOmm

>>36 それに今頃きっと教室で美少女に囲まれてるよ

 

46:名無しの獅子王 ID:qb3kFtw5O

>>45 は? おいおい桐山ァ オレとの約束忘れたんか

 

47:名無しの獅子王 ID:gNTP0Egcx

>>45 ダウト 今桐山くんはオレの隣で詰将棋解いてるよ

 

48:名無しの獅子王 ID:ToXpKtxN2

確かに詰将棋は解いてそうw

 

49:名無しの獅子王 ID:GXk51JVfw

桐山きゅんは元気に将棋指してくれるならそれでええんや

 

50:名無しの獅子王 ID:KHQokozfQ

>>49 出たな過激派

 

51:名無しの獅子王 ID:3g1bwUBI+

まぁ何せよ今後が楽しみ

 

52:名無しの獅子王 ID:fJe1absaN

だな 次の獅子王戦が正念場

 

 



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15話 チケット

 順位戦の初戦が終わり7月。本格的な夏を迎える。

 

 学校では1学期末テストが開始され、クラスメイトの何人かは切迫した緊張感を漂わせていた。

 高校2年生の僕たちは進路の選択に迫られる時期で。今回の試験は大学への推薦に影響するから。

 推薦を考えている生徒にとっては数ある期末試験の一つと言えど、今回も手は抜けないのだと思う。

 

 一方のボクや虹夏さんも、ここ数週間は悪戦苦闘していた。

 ”リョウさん”のテスト対策に。

 

「リョウは一夜漬けタイプだから……」

 試験前、困り顔の虹夏さんの横で、ひたすら勉強に明け暮れたリョウさん。

 暗記系は覚える範囲が狭いからなんとかなった。でも、それ以外が一苦労で。

 数学は学び直す範囲を中学から精査して、なんとか対策はしたもののそれでも不安だった……。

 

 ただ、そんな不安も時間共に薄らぎ、本日はテスト最終日。

 

 リョウさん、赤点回避出来ていればいいのだけど。

 最後のテスト科目、英語の試験中にそんなことを考えながら、無情にも無機質なチャイムは鳴るのだった。

 

「はい、じゃあ後ろから集めてー」

 答案も回収され、これにて僕たちの期末試験は無事終了、

「桐山! 悪いがちょっと来てくれ!」……とはならず。

 

「は、はい!」

 ボクはすぐに教卓に向かい、

「すまんが来週の対局の予定日を教えてくれ」

 先生に来週の空いている日程を共有する。

 

 一方、周りの生徒たちは、明日からテスト休み期間になるからか既に解放感に満ちていた。

 明日以降は終業式のみ残っているけれど、生徒は基本的に登校不要の期間になる。

 つまり生徒の皆は夏休み開始に等しい状況だった。

 

 でも、ボクだけは来週も学校に登校する必要があって、その日程調整をしていた。

 ボクみたいに出席日数の危うい生徒は補填する目的で登校するからだ。

 

 これは仕方ないことだし、感謝すべきこと。

 先生の計らいに感謝しつつ、でも一人だけ仲間外れになってしまったような、そんな寂しさが押し寄せるのだった。

 

 

 そして、終業式を明日に控えたテスト休み期間の最終日。

「零、おはよう」

「え? おはようございます、リョウさん」

 教室に入ると、なぜかリョウさんが登校していた。

 

「ダメだった」

 ボクの疑問を解消するように、数学の赤点の答案をやり切った表情で見せつけるリョウさん。どうやらボクと同様に、彼女も今日招集されてしまったらしい。

 

 虹夏さん、やっぱりダメだったらしいです。

 試験初日だったのが厳しかったのかな。

 せめて後一日あれば……。

 

 補習の予定時刻になり、先生から今日の課題を説明される。

 その後、残された僕たち二人は、教室で贅沢に冷房を効かせながら、無言で数学の課題に黙々と取り組んでいた。

 

「終わった」

「え、もう?」

 

 数十分で課題を埋めたリョウさん。

 は、速い! 

 まだボクも半分しか解いてないのに。

 

 そして、その答案を眺めると、

「ぜ、全部正解してる!?」

「ふっ余裕。私、東大目指そうかな」

 

 少し目を離した隙にいつの間に”合格ハチマキ”を額に巻いているリョウさん。

 彼女に一体何が!? 

 学力が先週より段違いに上昇している。

 

 リョウさんって、もしかして天才? 

 

「そうだ、零」

「あ、はい」

「夏休みってさ、いつもより仕事は暇なの?」

 驚くボクを無視して、突然、勉強から話題が逸れる。

 

 学校がない分、確かにボクは暇だと思う。

 ただ今月は将棋の勉強に集中したかったから。

 

「今月末に大事な対局があって。ただその分、来月は余裕あると思います」

「そう、じゃあ来月にさ。私の家に来てくれない?」

 

 淡々とした口調で、突拍子もない提案をするリョウさん。

 数秒の沈黙の後、驚きながらもボクは来月、リョウさんの家に伺う約束をした。

 

 でも……

 その時の、何故かリョウさんの気の進まない様子が印象的だった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 夏休みになり、結束バンドは次のライブに向けて熱心に活動しているみたいだ。

 そして今日はボクもある計画を実行に移すため、みんなと久々に『STARRY』に来ていた。

 

「チケットを買いたい?」

「はい。ボクも結束バンドが参加する日の”売り込み”をやりたいので!」

 

 ボクが星歌さんに迫ると、珍しく星歌さんはたじろいでいる。

 でも結束バンドに貢献するため、ひいては”虹夏さんの夢”に貢献するため。

 自分でも出来そうなことから行動しないと。

 ボクは販売計画を全力でシミュレートしていた。

 

「ええっ! れ、零くん。む、無理はしなくていいんだよ? その、ライブに来てくれるだけで嬉しいんだからさ」

「いえ虹夏さん、微力ですが結束バンドのファン拡大に繋がると思うので!」

 

 不安そうな虹夏さんだが、安心してもらえるようにボクは説得する。

 それでも、どこか言い出し辛そうにしている虹夏さん。

 あっ、確かに普段のボクの学校生活を間近で見てると不安だろうけど。

 

 ボクは学校で”売り込み”するつもりはなかった。

 学生は金銭面では心もとないだろうし。それにもう下北沢高校では虹夏さんがある程度、友達にチケットを渡しているはずだ。リョウさんも多分同じだと思う。

 

 一方のボクは今の学校でも、悲しいほど友達は少ないから。

 唯一、会話する仲の後藤くんにライブ当日の予定を事前に確認したんだけど。

 彼も”部活”や”甲子園”と被るから厳しいって言ってたから。残念だけどやはり学校での販促はイマイチだ。

 

 でもね、虹夏さん。

 ボクはもう一つの”棋士”という職業があるんだ。

 

 もし将棋会館で毎日宣伝すれば、興味を持ってくれた人がチケットを購入してくれるかもしれない。

 それに一人はほぼ確定で来てくれる算段もあるし。脳裏に赤い眼鏡を掛けた、親切な先輩棋士の顔が思い浮かぶ。

 

「で、何枚欲しいんだ? 桐山」

 在籍する棋士は100人以上いて、半分売れたら最低50枚か。

 でも年齢層を考えると、半分は厳しいな。10人来てくれたら良い方かな。

 ただ会館に足を運ぶお客さんや将棋関係者もいるだろうし……。

 

「まず30枚くらいから……」

 

 ボクはライブハウスのチケット販売システムについてはある程度、調査していた。

 ノルマ以上売れたら、その売上の一部をバンドへ支払うのが基本らしいから。

 詳しいレートは星歌さんや虹夏さんと相談する必要があるけど。

 ボクがチケットを売るほど、結束バンドにはプラスになるはず。

 

 ひとまずチケットを買い取るため、ボクは財布から5万円を取り出す。

 

「30枚!? お、おいっ桐山! お前いったい何をやらかすつもりなんだ?」

 

 驚きあまり星歌さんの目が点になっていた。

 あれ、なんでそんなに驚いてるんだろう。

 

「だいたい箱のキャパってのがあるんだから……仕方ないな、はいこれ」

「えっ、5枚だけですか?」

 

 星歌さんが渡してくれたチケットの枚数は、ボクの要求よりかなり少ない。

 

「ひとまず桐山が信頼してる人にチケット渡しなよ。チケットにも限りがあるんだからさ」

「は、はい」

 

 あ、そうか。

『STARRY』のお客さんは多くて200人程度だ。

 もしかしたらチケットはもうある程度捌けてしまっているのかも。

 

 ああ、なんでボクはこんな初歩的なミスをしているんだ……。

 

 それでも5枚は少ない気がしたけど。

 でも渡されたチケットが少ないのも星歌さんのことだし、きっと何か意図があるのだろう。まずはここから信頼を勝ち取れってことなのかな。

 

「ま、頑張りなよ」

「はい、ありがとうございます星歌さん。頑張ります!」

 

 そしてボクが意気揚々とチケットを受け取った直後。

 僕たちの話を聞いていたのだろうか。

 

 ゴミ箱から飛び出したひとりちゃんが、猛ダッシュでこちらに急接近して、

「れ、零さん。あのその、チケットなら私のがあるので! よ、よかったらコチラをどうぞっ!」

 その勢いのまま90度にお辞儀してチケットをボクに差し出す。

 

「ぼっちちゃん! ダメだったら皆で協力するからさ。ぼっちちゃんも時間まだ残ってるし、もうちょっと頑張ろうよ……ねっ?」

 でも側にいた虹夏さんにすぐ待ったをかけられ、

 

「あ、あ、あ……」

「い、伊地知先輩っ。後藤さんが倒れて灰に!」

 そのまま突っ伏すように倒れ込み、即座に灰になるひとりちゃん。

 どうやら幾らボクが頑張ろうと、ひとりちゃんのチケットノルマが消えることはないらしい。

 ご、ごめんね。ひとりちゃん。

 

「ちっ、やはりダメか」

 手品のように右手で数枚のチケットを扇状に広げるリョウさん。

 どうやらリョウさんも同じ手を狙っていたらしかった。

 

 チケット販売ってもしかして思ったより大変なのかな? 

 皆の様子にボクは少し焦るのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 その後、ボクは虹夏さんたちと顔を合わせる機会は極端に少なくなった。

 

 獅子王戦で重要な対局が待っていたから。

 7月最後の日、ボクは獅子王戦で島田八段との対局を控えていた。

 ボクがあの反則で負けた対局相手の島田八段との再戦が。

 

「どうしても全力で挑みたい対局があるんです」

 ボクは虹夏さんと星歌さんにそう告げ、7月後半は自室でひたすら島田さんの棋譜で研究していた。

 

 今日も気づけば研究開始から10時間が経過していて、もう外も暗い。

 まともなご飯をまだ今日は何も食べていなかったので、流石にお腹が空いたボクは、お手軽なインスタント食品でエネルギーを摂取する。

 

 部屋で食べるインスタントが、こんなにも味気ないなんて。

 無くしてから気づくことが有るって言うけども。

 

 この数ヶ月、当たり前のように食卓に並んでいたあの温かな夕飯。

 やっぱりあれはボクにとって異端な事だったんだと思い知らされる。

 

 それに最近のボクは島田さんの研究を優先していたからだろうか。

 ボクは2日前、公式対局で久々に敗れた。

 

 でもボクはどうしても次の島田さんとの対局は全力で戦いたくて。

 今日も対島田さんの研究に明け暮れる。

 ご飯も食べ終え再び将棋の研究に戻ろうとした、そんな時。

 スマホからロイン通話が通知される。

 

「どうした二海堂」

「私の”心友”が負けたと聞いてな。最近、調子はどうだ桐山」

 

 どうやらボクが負けたことに対する状況確認らしい。

「べ、別に対局で負けることくらいあるだろ……」

 

 ボクが負けた日の対局相手は辻井九段。

 それも”いい日の辻井さん”に吹き飛ばされ、ボクは呆気なく負けたのだった。

 

「ところで二海堂。最近のお前、調子良いみたいだな」

「おっなんだなんだ知っていたのか! オマエもやっと”心友”らしくなったじゃないか。実はこの所、治療を変えてすこぶる健康でな。新人王戦も、このまま突き進んでオマエとも再戦するだろうから覚悟しとけよ」

「いやいや、別に”心友”なんて認めてないから。たまたま結果知ってただけですから!」

 

 新人王戦。確か二海堂とは、お互い勝ち進めば準決勝で対局する予定。

 でもそっか、二海堂、体調良くなったのか。

 彼の元気そうな声を聞いて、どこかボクは安心していた。

 

 ”ひとまず桐山が信頼してる人にチケット渡しなよ”

 

 そして、なぜか星歌さんの言葉を思い出す。

 チケットを渡す相手は島田さんとの対局の後に探そうと思っていたのに。

 急にあの時の星歌さんとの会話を思い出す自分に少し驚いていた。

 

「どうした桐山?」

「いやその……。話変わるんだけど二海堂って、音楽のライブとか興味ある?」

「ライブ? 確かに急だな。うむ、コンサートなら国内のおおよそ有名所は、爺やと共に鑑賞したことがあるぞ!」

 

 それ多分クラシックなやつだよね二海堂……。

 なんちゃら交響楽団的な。

 

「えっとロックバンドのライブなんだ。会場も200人程度の比較的狭い場所なんだけど。今度、そこで知り合いがライブやるんだよ。代金はいいからさ。体調に問題なくて興味あるなら二海堂も、一緒にどうかなと思って」

「おいオマエまさかこの前負けたの。そのバンドに熱上げてるからとかじゃ無いだろうな」

「なっ、ち、違うよ」

 

 ボクは少しドキリとしたけど。

 でもあの日の敗北は、”いい日の辻井さん”の好手にひたすら翻弄されて負けたというのが正しい。まだまだボクも研究不足だ。

 

「なんだ桐山、予想外に怪しいな? まっ、俺も棋譜を確認したけど、”あの調子のいい辻井さん”相手は流石に酷だったな……。分かった、じゃあこうしようじゃないか! 次の兄者との対局。オマエが兄者に見事勝利したなら、そのライブとやらに”参加”してやろうじゃないか。爺やと共にな!」

 

 驚くほどの好条件を二海堂が提示してくる。

 

「ほう言ったな二海堂。”二言はなし”だからな」

 

 今、研究に注力している島田さん相手に勝てたなら、チケット2枚も捌くことができる。

 そして二海堂、ついでにお前も結束バンドの”ファン”になってもらおうじゃないか。

 乗らない手はボクには無かった。

 

「それと桐山、もし負けたら今度お前の家で一日中『VS』だからな」

「ああ、いくらでもやってやるよ二海堂。じゃあボクは研究するから、またな」

「あっ! 待て桐山ァ! ホントに兄者に勝てると思って……」

 

 ボクは通話を切る。

 まぁ、重要な連絡ならきっとまた来るだろうし。

 そのうち将棋連盟で会ったときにでも聞けばいい。

 

 ”絶対、勝とう”

 

 ボクは決意を新たに研究に戻るのだった。



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16話 島田戦

 

 無数の水滴が全身を刺激する。

 

「まだ大丈夫、目が覚めてきた。ただ……」

 

 酷い吐き気だ。

 

 冷水のシャワー。

 どうにか鈍った思考を回復させたかったボクの苦し紛れな行動だった。

 

 ああ、全身が鉛のように重い。

 体の奥底から”休め”と警告されているみたいだ。

 

 でも時間が惜しい。ボクはそれを無視する。

 

 早々と着替えを済ませ急いで居間に戻ると、夜を告げる西日がベランダの窓から射しこむ。PCの前に戻り、ボクはディスプレイに映し出された棋譜を切り変えて、手を進めては思考する。

 

 ふっと気を緩めると季節外れの肌寒さがボクを襲う。外は既に夜になっていた。

 研究すると頭が熱くなるからと、空調の温度を低めに設定していたからだろうか。

 

 どこか生きた心地がしなかった。

 まるで光の届かない冷たい海の底にいるようで。

 ああ、いくら深く深く潜っても”答え”が見つからない。

 息苦しさの中で一人、海の奥底で藻掻くような、そんな錯覚。

 

 もう島田八段との対局は明後日なのに……。

 

 その事実に心臓が激しく波打つ。

 このままだと今日も無駄に時間が過ぎてしまう。全然集中できていない。

 そう、ボクは今、焦っていて……。

 そして何より”緊張”しているんだ。

 

 初めて対局した宗谷名人との記念対局でもこんなに緊張なんてしなかったのに。

 今思えば、あの時は抑えきれない高揚感が勝っていたんだ。

 でも今は違う。

 ボクはこの一週間、敗北した時のことばかり考えていた。

 

『絶対に勝たないといけないのに』

 

 時間は惜しい。でも風邪だけは避けないと。

 仕方なしにボクは立ち上がる選択をした。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 夏休みが始まり7月の下旬。

 ボクは虹夏さん達と会うことを暫く控え、将棋の研究に没頭していて。

 初めは島田八段の過去の棋譜を掻き集めて。どんなタイプなのか分析して。いつも通りのボクなりの研究のルーチンだった。

 

 今思うと夏休みでたっぷりと時間があったことが逆効果だったのかもしれない。

 島田八段が勝利した中から気になった棋譜を検討していた時だった。

 対局相手の敗着を見直していたんだ。仮にボクが対局相手ならどう指すのか。最善手を考える。別段オカシイことをしているつもりはなかった。

 

 それなのに。

 

 これは、いったいどの段階で劣勢になっていたんだろう。

 形勢が悪くなったと思ったところから、ボクは次の手を検討しては一手一手戻していく。

 

 しかし戻せども戻せども、島田八段への対策法は見えてこない。

 あの人は一体どこから……どこからこの局面を思い描いていたんだろう。

 

 そしてボクは思ってしまったんだ。

 果たして……ボクは勝てるのだろうか? 

 

『この人に』

 

 今までだってA級棋士と対局して、勝利した経験もそれなりにあった。

 でも、それは謙遜ではなく勢いで勝てていただけで。

 だからこうして長い時間を掛けて研究すると、嫌でも現実に直面してしまう。

 

 純粋な力量の差に。

 島田八段の一手一手の重みに。気の遠くなるような時間を費やした研究量に。

 A級棋士たちの凄みに。

 

 見えないゴールと、対局まで数週間という余りにも短い時間。

 それからはもうドツボにハマったように焦ってしまって。

 嫌な未来が頭からこびりついて離れなかった。

 

 ──”このままだとボクは負ける”

 

 ボクは空調の温度を調整して、息苦しさで深くため息をつく。

 PCのある机に戻り座ろうと椅子に手をやると、その奥にある引き出しに思わず目が向く。

 

 星歌さんから受け取った”結束バンドのチケット5枚”

 あれからまだ誰にも渡せていない。

 今そのチケットは上から2段目の引き出しに大切に保管してある。

 この一週間、鍵が掛かったようにボクはその引き出しを開けることが出来なかった。

 

 二海堂にあれだけ啖呵を切ったのに。

 この前ロインでの誘いを断って虹夏さん達とも会わずに研究に取り組んだのに。

 でもその結果、打ちひしがれているのが今のボクで。

 

 こんな甘い見通しで棋士として、やっていけるのだろうか。

 数日前にそんな己の情けなさから無意識に開いてしまった転職サイト。

 でも高校生は希望する募集要項から外れているものばかりだった。

 

 それに……分かっているんだ。

 現実逃避してもボクにはこの道しか無い。

 他の生き方なんて出来ない。

 一度決めた棋士の道から逃げることなど許されないのだ。

 

 不意に目から涙がこぼれ、眼鏡を外し手で拭う。

 結局、深夜になり今日も有用な研究成果は生まれず。

 身体の悲痛な訴えを渋々受け入れて、ボクは仮眠を取る。

 

 でもこのところ体を横にしても頭は休むことを拒むのだ。

 金縛りにあったように体は動かないのに、脳内は盤面を描きひたすら駒を動かす。

 何か対策が進むわけではない。でも少しでも足掻くようにと。

 

 そして夜が明け、無為な時間をあざ笑うように今日も寝不足の一日が始まる。

 眠れなかったこと、研究が進まなかったこと。

 小さな不安が度重なり、緊張が止まらない負の連鎖に陥る。

 

 そう、今のボクのコンディションは最悪だった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 昼過ぎ。

 

 ボクはコンビニに買い出しに向かっていた。

 引きこもっていたせいでネットで定期注文していた水がいつもより早く底をついたから。

 ここ数日は気が滅入るような灼熱の暑さで。まだ外を歩いて数分なのに、汗が止まりそうになかった。

 

 たった数分のコンビニですら辿り着けたことが奇跡に思える。

 やっぱり今日は休まないと。

 でも……きっと今日も眠れぬ夜を過ごすのだろう。

 

 今も休むことを知らない脳内に、そんな嫌な予感が高まる。

 ボクはもはや慣れつつあるこの習慣に諦めを感じつつ、コンビニのドリンクコーナーに向かっていた。

 そんな時だ。

 

 すれ違いざま”虹夏さん”を見た気がしたのだ。

 

 最初はもう疲れてついに幻覚でも見たのかと。

 そう思った。

 

 でも、

 

「れ、零くんがゾンビみたいになってる!」

 

 忘れられるはずもない、いつもの彼女のトーンで。

 声はまるで最大にボリュームを上げたスピーカーから聞こえたように鮮明で。

 その鮮やかな金髪の少女のことを間違えるはずもなかった。

 

 でも、久しぶりに会った虹夏さんは随分と慌てた素振りで。

 次々に繰り出される彼女の質問にボクは反射的に答えつつ、次第に自分でも何を言っているのか分からなくなって……。

 

 そしてボクはされるがままに虹夏さんに連行されたのだった。

 

「い、いただきます……」

「「いただきます」」

 

 島田さんとの再戦なんて明日に控えていないかのように温かみのある空間。

 ボクは二週間ぶりに伊地知家で少し早い夕食をいただいていた。

 

「零くんその様子だと胃も弱ってるよね……」

「あ、いえ、その本当にすみません」

 

 虹夏さんが消化に良い食事も用意してくれて。ボクはそんな感じでただひたすら謝っていた気がする。

 

 そういえば、ちゃんとした食事っていつ以来だっけ? 

 

 もう記憶が曖昧で。

 その日の虹夏さんや星歌さんと交わした言葉も正直、あまり覚えていなくて。

 でも、きっと呆れた表情だったんだろうな。

 

「食器はいいから! 零くんは横になってて!」

 そんな虹夏さんの一言に案内されるまま、ボクは居間の広いスペースに手早く敷かれた布団に横になって。

 

「おやすみ桐山」

 星歌さんの柔らかな言葉が聞こえると、ゆっくりと居間の光が暗く落された。

 

 ああ、そういえば酔っ払ってた時もボク、ここに寝ていたんだ。

 目を瞑ると、夕刻から降り出した雨の音が遠のき、そしてカチャカチャっと食器を洗う心地よい音も次第に聞こえなくなって。

 

 迷惑をかけて……ごめんなさい。

 虹夏さん、星歌さん。

 

 あれ? この香りどこかで。

 微かに虫除けスプレーの匂いがする。

 そうあの時の……。

 

 そしてボクは、久々に深い深い眠りについたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 熱を伴った陽の光で意識を取り戻す。

 外が明るい。

 

(もう朝?)

 

 少し焦ったボクは慌てて時間を確認するとまだ6時前。まだ手合いまでは余裕がありそうで一安心する。

 安堵すると鼻歌のような歌声が台所から聞こえた。

 

 虹夏さんの声だ。

 

 朝食の仕度かな? 

 台所に向かうと、少し暑そうな後ろ姿の彼女は集中しているからなのかボクに気付いていないみたいだ。

 

 あ、そうだ。

 昨日のこと謝らないと。

 

「虹夏さんおはようございます」

「えっ? あ、あはは。おはよー、ゴメンゴメン起こしちゃったね」

「いえ全然。こちらこそ昨日はすみません。その手伝います……今のはライブの曲ですか?」

 

 新曲は虹夏さんが歌うのかな? 

 もしかしたら聞いたら駄目だったのかも。

 

「いやいや違うよー好きな曲なんだ。だから口ずさんじゃった。えへへ……そ、その下手だったでしょ」

「いえそんな……キレイな声でした」

 

 どちらかと言うと可愛らしい歌声だったけれど。

 でも、本当に綺麗でもあったから。

 

 強く刻んでおこう 惨めな夜もバカ笑いも

 あのね、その後が言えなかった日も

 鳴り止まなくてなにが悪い 青春でなにが悪い

 

「良い歌詞ですね」

 

 何処か投げやりな歌詞。

 でも後先考えない自暴自棄にも思えるその歌に、今のボクは少し救われた気がしたから。

 

「おー同士だね! じゃあ後で曲、教えちゃうねっ」

 

 久々に見た虹夏さんの晴れやかな表情が、温かく余韻みたいに残った。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 その後は虹夏さんはライブに向けて練習へ、ボクは対局へ。それぞれの予定でお互いバタバタしてしまって。

 星歌さんには謝る時間も無く、ボクは自宅に戻って身支度をして将棋会館へ向かったんだ。今日は昨日までは止まらなかった脳内のシミュレートもピタッと止んで。

 今思うと不思議な感覚だった。

 

 会館に到着してからも、夢を見ているかのようにフワフワとしていて。

 対局前に島田さんとも軽い会話をしていたはずなんだけど。

 緊張していたのだろうか。その時の記憶は曖昧だった。

 

 開始10分前。

 先後だけは間違えない。

 それだけに集中。

 

 呪文のようにそう唱えていたら、予定時刻はあっけなく過ぎて始まった対局。

 

 数ヶ月ぶりのリベンジとなる対局は序盤からとにかくチグハグだった。

 想定した盤面にまるでならない。

 予想外の手ばかり指される。

 

 そしてある程度進んで冷静になったところで、島田さんの意図がようやく伝わった。

 多分これ、島田さんはボクの得意戦型で向かい受けようとしてたんだ。

 一方のボクは、島田さんの得意な型で合わせようとして。

 だからチグハグで。お互いが相手の得意な型で迎え撃とうとしていて。

 

 なんでこんなことになってるんだろう? 

 不思議だった。

 でも考えてみたらここ数週間、ボクは島田さんの研究ばっかりしていたから。対島田戦の幻想に引っ張られ過ぎてしまったのかもしれない。

 

 だからこの一局は噛み合わず赤信号で進まない車のような。

 そんな一局だった。

 

 初めて島田さんが長考したタイミング。ボクはこっそり正面の島田さん観察する。

 気だるそうにお茶を一口飲んでいた彼は、今はどんな気持ちなのだろうか。

 

 少し渋い表情で。でも少し気恥ずかしそうに見えたのはボクの勘違いだろうか。

 多分、勘違いだと思う。

 

 でも……。

 島田さん”も”ボクを相当研究していたことは伝わってきたから。

 トップ棋士の島田さんが。

 

 少し気恥ずかしさを伴いながらボクもお茶を一口含んだ。

 

(研究、無駄になってしまってごめんなさい)

 

 そう心の中で謝って。

 

 対局後、神宮寺会長が今日の対局の解説をしていた記事を閲覧すると、

「序盤はあれだね。お互い両思いなのにすれ違っている状態だねー いやぁ焼けるねえ」とコメントしていて。

 会長のニヤケ顔が目に浮かんだけれど、その表現が妙にシックリしてしまって文句も言えなかった。

 

 対局はその後、あまり前例のない手が続き混迷を極めたまま終盤に進んだ。

 振り返れば形勢はシーソーゲームのようにお互いに傾き合う危うい展開だった思う。そんな中、残り時間も少なくなり島田さんが最後に逃げ道を間違えて、そこをボクがなんとか逃さず153手で相手が投了。

 ボクが勝利し、獅子王戦トーナメント決勝に駒を進めた。

 

 対局直後の島田さんの言葉は印象的だった。

 

「桐山、なんか”また”お互い不完全燃焼だな」

「はい」と頷いて、間を置いてボクは目線を少し上げる。

 

 盤を見つめる視線は険しく、どこか悔しさを滲ませている正面の島田さん。

 でもすぐ考えがまとまったのか、彼の視線は緩み、力を抜いてこちらに目を向ける。

 僕たちの目線が一瞬合わさり、島田さんは思い出したように話しかけた。

 

「そういえば今日初めて桐山の顔をちゃんと見た気がするな。次も、楽しみにしてる」

 

 複雑な表情の中に見せる確かな島田さんの優しい笑みに、ボクはあれだけ渇望していた勝利の喜びよりも先に、何故かホッとしてしまったんだ。

 

「是非また。ボクも楽しみです」

 こうして、あれだけ迎えるのが苦痛だった今日はあっという間に終わった。

 

 

 その後、8月に入ってすぐ獅子王戦トーナメント決勝に進んだボクは後藤九段との対局を迎え。

 三番勝負の初戦。

 あっけなく初戦を落とし、ボクは黒星スタートとなった。




前半描写、少し多忙だった時に、今の心境もしかして小説に使えるかも! とハイになりちょびっと誇張しつつ書き出したはいいものの……すぐ力尽きて気力が出なくなり数ヶ月後やっと続きが書けました。


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17話 リョウの家

(Side: 山田リョウ)

 

 本当にあれは偶然だった。

 一学期の期末試験も終わって、補習期間までやることもなかった7月上旬。

 遅い朝食の後、私はテレビを付け適当にチャンネルを変えると将棋の番組をやっていて。

 

 知った顔がテレビに。そこには友人で栄えある結束バンド『ファンゼロ号』の桐山零、その人がテレビに出演していたのだ。

 ちなみに将棋のルールは全くわからない。

 謎だ。

 

 ただ少し見ていただけでも『歩』というのが雑魚なのはわかった。

 さっきから次々と攻撃されては退場しているから。

 しかし雑魚キャラが強キャラに一矢報いるというのは”物語の鉄板”。

 私は『歩』を応援することにした。

 

 因みに念を押すが私は将棋のルールを知らない。

 最後の駒が残るまで戦うデスゲームかと思っていたが、どうやら違うようだ。

 

 解説の話を聞くと零はトーナメントを一つ進めていて、今日の放送はそのトーナメントの2回戦らしい。

 

「ふーん。零、頑張ってるじゃん」

 思わず私がそうボヤいたのが聞こえたからだろうか。

 

「えっ、リョウはひょっとして桐山くんと知り合いなのかい?」

 父は動揺で、片手で持っていたコーヒーを少しこぼしてあたふたしていた。

 もしかして父は零のファンだったのだろうか。

 父が将棋好きだとは知らなかった。

 

「ふふっ、まぁね」

 

 ちなみに零のサインも予約中なのだよ。父よ。

 まぁそんなに欲しいなら、父に高く売りつけるのもアリかな。

 

 少し得意げに私が言葉を返すと、

「よかったら桐山くんを家に呼んでくれないかな? 彼に見せたいものがあるんだ」

 いつも父はぼんやりと明るく平和ボケしているのに。

 明日は雪でも降るんじゃないかってくらい、眼鏡越しに真剣な表情をする父がいて。

 仕方なく私は零を家に招待することになったんだ。

 

 後で分かったことだが、父は別に将棋ファンでも零のファンでもなかった。

 でも意外な共通点はあったんだ。

 

 そして補習の日、零も登校していたので約束を取り付け。

 

 8月の約束の日になった。

 

 その日はカフェに集合した私たち。

 お昼の夏野菜カレーを零にタカって……ごちそうになってから、自宅に戻る。

 私が虹夏以外に友達を連れてくるのは久々だったからだろうか。客間に零を通すと母が妙に張り切っていて。そして私たち4人は他愛も無い雑談をする。

 

 しかし、この異色な組み合わせ。

 居心地は悪いし、零には悪いが私は部屋へ退散しよう。

 そう思っていたが、タイミング悪く父に先手を取られてしまった。

 

「大学時代、桐山くんのお父さんとも仲良くてね。ちょっと待っててね」

 父はそう言って席を離れ、しばらくするとファイリングケースを携え戻ってきた。そのケースから大切そうに1本のDVDを取り出す。

 

 話によると、どうやら私の父と零のお父さんは同じ大学に通っていて。

 しかも同じ学科の先輩後輩だったらしいのだ。

 零のお父さんは父より一つ上の先輩で、大学時代は親切にしてもらっていたらしい。

 

「桐山先輩、あんまり執着しない方だったから、桐山くんも昔の映像とか見たこと無いんじゃないかな?」

「は、はい」

 ロボットのように大きく頷く零は、少し緊張しているようだった。

 まぁ家は無駄に広いからね。居づらいのはよく分かるよ零。

 その後、零の希望もあり私たちは昔の映像を見ることに。

 

「テープから焼いたものだから、映像は荒いかも」と父はDVDをセットして再生する。

「この映像なに?」

 スマホを操作するふりをしつつ無関心を装いつつ、そっけなく私は尋ねる。

 

「これは……先輩たちが大学卒業する前に開いたパーティかな? うちの旧家で集まったんだよ。この庭とかほら、リョウも見たことないかな? 小さい頃だったけど覚えてない?」

 

 嬉しそうに懐かしい話をする父。

 多分、曾祖父の家だ。相当広かったことだけは覚えている。

 昔、そこのお庭で花火をしたような。おぼろげな記憶だけど。

 曾祖父が亡くなって取り壊されて、今は飲食店になってたはずだ。

 

「──あまり覚えてない」

「リョウちゃん、あの頃まだ小さかったものねー」

 母が懐かしむように微笑む。

 母の言葉が少し照れくさくて。

 

 何より皆が無言で映像を眺めているのも気まずくて。

 やっぱり零を置いて自分の部屋に逃亡しようかな。

 このままだと昔の私の映像とか掘り出し兼ねない……。

 

「あ、桐山先輩だよ!」

 が、またしても父の言葉が私を引き止める。父は私の逃亡感知センサーでもあるのだろうか。

 向かいに座る父は眼鏡で表情は分からなかったがどこか嬉しそうだった。

 

 画面に注目すると、メガネを掛けた若い青年がアップになっている。

 

「うん父さんだ。でも若い」

 ボソリと呟く左隣に座る零。その横顔は大人びている普段の表情より少し幼く見えた。

 

「零とそっくりだね」

「そうかな?」

「うん似てる。メガネ掛けてるところとか」

「そ、そこっ!?」

 私が冗談を言うと、零はオーバーリアクションを取ってくれた。

 なんか妙に皆が物静かだから、空気を読んで私は場を和ませる。

 

「でも確かに桐山先輩と似てるかもねぇ」

 

 そして父がリモコンで早送りしつつ、要所要所で解説を挟み再生して。

 画面には衝撃映像が映し出されていた! 

 談笑する零のお父さんの隣に、美人な彼女らしき人物が微笑んでいるでないか。

 

 ああ……。零に父親の昔の女を見せるとは……。

 こういう時ってどう対応したらいいのか。

 って零のお母さんなんだ。

 

 なんでも零の両親は当時から付き合っていたらしい。

 父はそんな当時の彼らとの思い出話に花を咲かせていた。なんだ心配して損した。事前に話しなよ。そういう重要事項は。

 

 そして改めて私は一体何を見せられているんだろうか……。

 この罰ゲームはいつ終わるのかと放心していたら、唐突に私に馴染みある光景が広がる。

 零のお父さんがアンプにシールドを繋いでいる場面だ。

 

 あれ何年前のだろ。結構古そうだけど。

 私はスマホで当たりを付けて機種を特定する。

 73年製のMarshallかなぁ。ヴィンテージアンプ。

 うん、ヴィンテージ物に手を出すのも有りだ。

 

 次のMyNewGearに向けて欲しい物リストの更新をする。

 

 ギターのチューニングをしている零のお父さん。そろそろ何か演奏しそう。

 でも何をやるんだろう? 

 

 何十年も前で、そんなコアなとこは来ないだろうし。

 ふと気づけば、私は少し荒い映像に集中していた。

 

「零のお父さん、ギターやるの?」

「ああ、そうそう懐かしいなぁ。思い出したよ。桐山先輩、演奏してたなあ」

「母さん……」

 ステージでマイクの向きを微調整する女性ボーカルを見て零は呟く。

 改めて零のお母さんを見ると、セミロングの髪をストレートにしていて、端正な顔立ち。

 皆が口を揃えて美人と称するようなお姉さんだった。

 

 画面を見つめる零は、懐かしむような柔らかい表情で。

 初めて見る横顔だった。

 

 映像はゆったりと流れ、ギター担当の零のお父さんが会場へ挨拶をしている。

 やっぱバンドのMCはつまらない。

 会場はなんとなく笑いに包まれているが私は決して騙されない。

 ふふふ、私の持論は当たっていることが、また一つ証明されてしまったようだ。

 

 MCが終わり、そして優しい雰囲気のまま演奏は始まる。

 

 イントロで分かった。メジャーバンドのカバー曲だ。

 ベースラインが結構目立ってて。

 今は懐メロになるけど、当時は流行曲だったのかもしれない。

 

 お世辞抜きなら、正直、演奏は上手くない。

 リズム隊は安定してないし、ギターも何とか形になっている程度だ。

 技術は平凡で光るものは感じられない。

 

 それでも……。

 私たちみたいに、本気ではないのだろう。

 見知った仲でやるパーティの余興なら十分なレベルだった。

 

 それに古ぼけた映像からでも、皆が演奏を楽しんでいることは伝わる。

 そういう演奏ってやっぱり嫌いになれない。

 

 だがイントロが終わって歌い出し。

 空気が一変する。余興は終わりと告げるように。

 

 いい。

 零、キミのお母さんいい声してる。

 透き通る声だし、何より気持ちが乗ってて思いがこっちに届くみたい。

 

 ……でもまあ、結束バンドの方が上だよね? 

 何よりほら、ベースの安定感が違う。

 だよね零? 

 

 そう思って感想を求めようと、零の座る方を一瞥する。

 すると彼は一瞬も目を離すまいと、この前の将棋のように真剣な表情で画面を凝視していた。

 

 なぜ? 

 

 率直な感想を懐きつつ、ちらちらと零の様子を窺うも集中力が途切れる気配なく。一向にこちらを見向きもしない。

 そんな彼の態度に、なぜか私はふつふつと怒りにも似た形容し難い感情が芽生えだした。

 

 いや、認めようではないか。

 私は今、零の両親にメラメラと対抗心を燃やしていた。

 

 結束バンドの『ファンゼロ号』桐山零よ! 

 こっちを……こっちを見るんだ。戻って来い! 

 ひとまず念を送ってみるが当然ながら効果なし。

 

 ぐぬぬぬぬ……。

 

 お願い、戻って来ってきて零! 

 今、零が戻ってこなかったら、私たちとの(次のライブが成功した時の)約束はどうなっちゃうの? 

 まだ今だったら許してあげるから……

 …………

 ねぇあの初ライブの言葉は嘘だったの? 身内だからって贔屓は許さないんだからねっ! 

 

 そんな願いも虚しく零が離れファン0人となった結束バンド

 荒れるメンバー

 そして

 

 次回、結束バンド解散!

 

 さて

 

 頭の中で再生された何故か途中から嫉妬深い女みたいになった次回予告風ナレーションをポイッと投げ捨て、私も演奏に集中しよう。

 感想なんて後で聞けばいいや。

 

 それにもう、ラスサビだし。

 そろそろ演奏が終わっちゃう。

 途中ふざけてしまったが、終わると思うと少し惜しいな。

 

 それにしても改めて……。

 いい歌声。説得力があるというか、言葉に重みがあるというか。

 こうして寂しいがあっという間に演奏は終わってしまったのだった。

 

「まぁまぁかな」

 

 すまし顔で上から目線な感想を私は述べる。

 しかし誰からも返答はなく、見事スベったような重く静かな空気が私に突き刺さるのだった。

 なんだ? この空気……。

 

 直後、左隣に座る零から、すすり泣く声が聞こえる。

 

 えっ? 

 泣くほど感動する演奏だったと!? 

 

 衝撃と敗北感を覚えつつ、零に視線を向ける。すると大粒の涙をとめどなく流す零の姿が。

 

 零が……号泣してる? 

 不覚にも私は声を掛けられず一瞬戸惑った。彼の涙を見たのは初ライブ以来だったし。

 

「れ、零?」

「あっ、す、すみません」

「うん。全然大丈夫。大丈夫だよ。桐山くん」

 

 温かい父の言葉に彼は何度も「すみません」と謝っては涙を拭う。

 その後はしんみりとしてしまって。

 零が落ち着きを取り戻した後、思っていたよりも早くこの場は解散となったのだった。

 

「またいつでも来てね桐山くん。お菓子余らしてて、良かったら貰ってくれないかしら」

「え、いやあの……」

 

 零は恐縮しているが、こういう時の母は頑固だ。

 余った菓子折りを強引に持たされ、先程のDVDも一緒に持たされ、零はペコペコと何度もお辞儀しながら、

「そろそろ行こうか桐山くん」

「はい、すみません。では、リョウさんお邪魔しました」

「うん、またね零」

 忙しなく玄関の扉が閉まり、零は父の車で送られていったのだった。

 

「零、泣いてたね。びっくりしたよ」

「えっ? リョウちゃんもしかして知らなかったの? 桐山くんのご家族ね……彼が小さい頃に、交通事故で亡くなったのよ」

「えっ……」

「桐山くん、何か思い出しちゃったのかもね」

「そっか……」

 

 号泣していた先程の零を思い出す。

 まず気の毒に思う気持ちと。

 やっぱり悔しい気持ちも。そんな幾つもの感情が私の中で渦巻く。

 

 結束バンド(私たち)もいつか、あれ以上に感動させてやりたい。

 なんて思ったからなのかな。

 

 あとさ、虹夏。

 やっとわかったよ。

 

 虹夏があんなに零を気にかける理由が。

 

 零と出会ったばかりの頃。

 なぜ彼がよく虹夏の家に来てるのか不思議だったから。

 気になって私は虹夏に尋ねてみたんだ。

 

「虹夏、なんでよく零を家に上げてるの?」

「うーん……零くん、今一人暮らしで大変だからねっ!」

「えっ一人暮らしとか羨ましい……」

 

 思わず出た私の言葉に、

「もうリョウ! そういう考えなしの発言ダメだよー」

 そう言って虹夏は曖昧に笑っていたけど。

 

 そっか。私には両親が居て、過保護でとてもとても疎ましく思う事ばかりだけれど。

 零の両親はもう天国に行っちゃったんだね。

 

 それに零の両親が演奏していたあの時の歌。

 詞の解釈だって本来は違うはずなのに。

 今になって思えば、不思議と別の意味に思えて。

 

 あの演奏はそう、

 

 お星さまになって尚も、

 

 二人が時を超えて『零』を鼓舞する応援ソングに聞こえたような。

 

 そんな気がしたからだろうか。

 

 さようなら 会えなくなるけど

 さみしくなんかないよ

 

 そのうちきっと大きな声で笑える日が来るから

 

 動き出した僕の夢 高い山越えて

 

 星になれたらいいな

 虹になれたらいいな

 

 時刻は夜8時過ぎ。

 私はなんとなしに庭に出て夜空を見上げる。

 

 頭上に浮かぶ二つの星はとても綺麗で。

 少し視界がぼやけて、ゆっくりと星が首肯(うなず)いたんだ。




原作であまり登場しないキャラクターが多く、おまけ程度の予定でしたが、長くなってしまう。
歌は想像におまかせするか迷いましたが、載せたくなったので。
一例として「星になれたら」(タイトル似てる)

当時の両親は大学卒業間近を想定。
演奏時の彼らの『動き出した僕の夢』に答えはないけれど、おそらく彼ら自身の夢だったのかなと妄想してます。
でもあの日、零の境遇を知ったリョウにとっては、
彼の両親が願う『動き出した僕の夢』は、残された息子である桐山くんに聞こえるかもと思い、最後のシーンに。


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18話 後藤家再び

(Side:後藤ひとり)

 

『宇宙に果てはあるのでしょうか』

『観測可能な宇宙の直径は920億光年と言われています。ですがこれでも宇宙全体の大きさではないのです』

 

「じゃあ私はミジンコだ……」

 

 たまたま宇宙の動画を視聴していた。

 そんな時だ。襖がガタリっと大きな音を立てて、そして眩い光が私に射し込む。

 

「ひとりちゃん! また動画見て……。明日の準備するんじゃないの? 皆が来るんでしょ?」

「もう、わかってるってお母さん。ちょっと休憩してただけ」

 

 嘘だった。

 本当は緊張してて現実逃避で動画サイトを眺めていたんだ。

 残されたタイムリミットはもう24時間を切っている。

 明日の今頃、私の家に結束バンドの皆が遊びに来るのだから……。

 

 前回、零さんと喜多さんがウチに来たとき。あのときは、い、いきなりだったし。今回は心構えというか、心の準備が……。

 

「でもホントなのかしら。喜多ちゃんも来てくれるって?」

「う、うん。たぶんみんな来るって」

「それに桐山くんも来るんでしょ! お母さん楽しみだなー。ふたりちゃん、プロの先生に将棋の指導してもらえるなんて。ふふふ、将来はプロ棋士かしら」

 

 そう、零さんも一緒なんだ。

 キッカケは次の会議の場所をどこにするかと雑談していた時のことだ。

 

「いいなーいいなー二人とも。私もぼっちちゃんのお家、行ってみたいなあ」

 話が盛りに盛られた喜多さんによる私の家のエモいエピソード? を聞いて、虹夏ちゃんが羨ましそうにしていた。

 

 嫌な予感がする。

 そんな私の防衛本能も虹夏ちゃんフットワークの軽さの前では無力同然だった。

 

「ねぇ、次の会議。迷惑じゃなければでいいんだけど。もし良かったら、ぼっちちゃんのお家とか──駄目かな?」

 

 うっ、陰キャはお願い事を断れない。

 でも私も成長しているはず。だから頑張って断ろう、そう思った。

 あれ? それって成長しているのだろうか、私……。

 

 だが運の良いことに、私は天才的な言い訳を閃いてしまったのだ。

「あ、いや、でもその、我が家には5歳の妹がおりまして……。とても騒がしく会議の邪魔になってしまうかと」

「ふたりちゃん? その日だったら予定空いてるから、よかったら僕が皆の邪魔にならないようにふたりちゃんの面倒見てようか? ほら約束だったから。将棋を教えるの」

「えっ、零くんホント! じゃ、次回のバンドTシャツのイラスト考案会議はぼっちちゃんのお家ってことで問題ないよねっ!」

「え、あ、あのー」

 

 カンッ! カンッ! カンッ! 

『後藤ひとり! KO負けだぁ!』

 

 脳内で実況と効果音が響き渡る。

 渾身の私の言い訳ストレートパンチ。

 それを零さんが優しい眼差しで華麗に躱し、コンビネーションで虹夏ちゃんが見逃さずカウンターを決める。妄想の私は堪らずダウンした。視界も真っ白で燃え尽きてしまったようだ。

 

 いや当時の私も本当にダウンしていたかもしれない。

 だって途中から記憶が無かったし、意識が復活したらもう私の家に来る流れになってたし……。

 

 でも。

 楽しそうに話すバンドのみんなや、将棋を広められるかもと珍しくウキウキした零さん。そんな皆の様子に、今更無理ですなんてとてもじゃないけど断れるはずもなく……。

 

 でも家族が断るという隕石が落ちるレベルの微かな望みもあった。

 だが父も母も2人にまた会えると二つ返事で承諾し、「将棋! 将棋!」とふたりもスキップしていた。

 

 ああ、5歳の妹に嫉妬しそうだ。

 

 まだ5歳。

 

 将来はバラ色。

 陽キャにだってなれるし、プロミュージシャンだって、プロ棋士にだってなれるかもしれない。

 それに比べて私はミジンコ。

 

 ……そういう訳で今日に至るのだった。

 

「お姉ちゃんお昼だってー、ご飯だよー」

 

 そんなふたりの呼びかけを聞くまで、結局私は何も出来ず動かなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 8月を迎え季節はすっかり夏に。

 

(ふたりちゃんにはこれがいいかな?)

 

 将棋会館の売店にて。

 小さい子向けの将棋の駒をボクは手に取る。

 最近は初心者向けの商品も充実していて業界の努力を感じる。

 あとはそうだな。うん、入門書も買っておいた方がいいかな。

 ボクが目星の入門書に手を伸ばした所だった。

 

「うんうん、嬉しいぞ桐山。キミも将棋の普及の大切さを分かっているんだな!」

「え? 二海堂、早いじゃないか」

 

 待ち合わせまで20分は余裕があったはずだけど。

 振り返れば仁王立ちの二海堂がそこにいた。

 

「で、で? 誰に教えるんだ? よかったら手伝いたいんだが? ホントによければだけど」

 

 にこやかな二海堂は妙に乗り気だった。

 教える相手はひとりちゃんの妹、ふたりちゃんだ。

 結束バンドの皆が後藤家でTシャツのデザインを考えることになったらしく、その間、ボクがふたりちゃんに将棋を教えることになったのだ。

 この前、後藤家にお世話になったときの約束でもある。

 

 ひとまずボクは二海堂が後藤家に突撃した後の展開を妄想する。

 

(ボドロみたいだね)

 うん。あの時のふたりちゃんの反応なら、二海堂こときっと気に入ると思う。

 

(桐山くんのお仲間かい? ならオールオッケーだよ!)

(いつでもいらっしゃい)

 ひとりパパとママも快く迎えてくれるだろう。

 

 もしも問題があるとするなら……

(ム、ム、ム、ムリムリムリムリ)

 ボクは最後に難攻不落な後藤家の長女の顔が浮かんだ。

 

 無理無理と必死に拒否する空想上のひとりちゃんは、なぜか風船みたいに膨らんで……バンッと破裂音と一緒に砕け散ったのだった。

 

 な、なんだ今の妄想は……。

 でも突然知らない人が来客しても、ひとりちゃんは怖いだろうしな。

 だからボクはやんわり断ることにしたんだ。

 

「友達の妹さんだよ。でも予定は明日だし、二海堂も流石に急だろうから……」

「そう気にするな桐山! じいや、明日の予定は? そうかそうか。では全部キャンセルで!」

「畏まりました坊ちゃま」

「おいいい二海堂っ! 今、遠回しに断ったんですけど!? 花岡さんも急に予定変更して大丈夫なんですか? それに知らない人がいきなりきても、後藤家の皆がびっくりしちゃうでしょ」

 

(ひとりちゃんだけだろうけど)

 

「む、確かに先方に失礼があってはいけないな。ご家族の要望に答えるのもプロとしての努め。よし、じゃあ問題ないか念のため聞いてくれないか桐山」

「え?」

 

 そして当日。

 

「おはよう諸君! さて忘れ物はないか? じいや、では安全運転で頼むぞ!」

「はい坊ちゃま。皆さまも到着までは1時間は掛かります故、どうぞごゆるりとお寛ぎください」

 

 結束バンドからは喜多ちゃんと虹夏さんの二人。そしてボクと二海堂を乗せたリムジンは花岡さんの安全運転で軽快に進み始めたのだった。

 

「じぃやさん! ナビ任せて下さいね!」

 前方では助手席を買って出た喜多ちゃんが、既にこの状況に順応し朝とは思えない元気な様子でドライブを満喫していた。

 一方、後部座席の真ん中に座るボク。そしてその左隣に座る虹夏さんは、

 

「零くん何か飲む? 二海堂くんもどうぞー」

「ありがとうニジカ君。では、お茶をいただこうか」

「お茶ーっと、はいっ零くん。これ二海堂くんに渡したげてね」

「あっ、はい虹夏さん」

 

 あれ? 

 もう車内でボク以外はこの状況を受け入れてるの? 

 

「そういえばリョウ先輩も今日来ればよかったのに」

 

 ごく自然な喜多ちゃんの言葉。

 その言葉でボクの心臓の鼓動がドクンと大きく跳ねる。

 この前の号泣した時のことが嫌でもフラッシュバックするから。

 

 そういえばリョウさんは!? 

 あ、あれ? 

 もしかしてリョウさんが今日来ないのって、ボクが居て気まずから断ったとか? 

 

 そうだよね……。

 人様の家にお邪魔して親の昔の映像見て泣き出してすぐ帰るとか……迷惑すぎるでしょ。何やってるんだよボクは。

 あの日以降、特にリョウさんから何も反応はないけれど。

 バツの悪さはまだ残っていて。

 

「あーうん。誘ったんたんだけどね……。お婆ちゃんが今夜峠なんだって」

「え? リョウさんのお婆さんが!?」

「それ大丈夫なんですか!?」

 

 そわそわするボクと喜多ちゃんを他所に、虹夏さんは何故か悟りを開いたように落ち着き払っていた。

「あーダイジョブダイジョブ。お婆ちゃんの峠、今年で10回目だから」

「ん?」

 

 つまり嘘ってことかな? 

 そういえばこの前、リョウさんの家に犬も犬小屋も無かったけれど……。

 

「に、虹夏さん。じゃあリョウさんがこの前、愛犬のペスが手術するって教室で話していたのは……?」

「うん、それも嘘だね」

 

 リョウさん……。

 そして虹夏さんによるリョウさんの断る口実リストが披露され、先程の一瞬の気まずさが、夏の暑さと一緒に蒸発していったのだった。

 

 それにボクって結束バンドのライブ後も泣いてたし。

 今更かもしれない。情けないけれど。

 

 それにしても……

 今日、みんなは初めて出会ったはずなのに。

 

 明るくさと破天荒さがどこか似ている喜多ちゃんや二海堂も。

 面倒見が良くて時に強引な虹夏さんも。

 一歩引いた大人の花岡さんも。皆は遠慮なく普段通り上機嫌で。

 

 それにどこか安心しつつも、僕はチョット胸がつかえたような寂しさが抜けないまま後藤家までの快適なドライブは続くのだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 虹夏さんがインターフォンを鳴らし、暫くして扉が開いた。

 

「い、いえーい……ウェ、ウェルカム~」

 

 派手なクラッカー音が鳴り響く。

 玄関の先にはジャージにクラッカー、それに襷のような物とサングラスを身に着けたひとりちゃんに歓迎され。

 

「ひとりちゃん、遊んでないでみんなをリビングに案内なさい」

「は、はい……」

 

 再び僕は後藤家へやって来たのだった。

 

「キミが噂に聞くヒトリ君か。桐山の心の友と書いて”心友”の二海堂だ!」

「だ、だだだ誰? れ、れれれれ零さん!?」

 

 リビングで一休みする間、ひとりちゃんと初対面の二海堂が挨拶する。

 だが、ひとりちゃんにはまだ荷が重いようで即座にボクの後ろに隠れ震えていた。

 確かに二人は初対面だ。でもなんで彼女が二海堂を見る顔つきは、ホラー映画で亡霊に遭遇したみたいに恐怖に満ちているんだろう。

 

 そういえば昨日の電話に出たのはひとりママだったけど。

 もしかしてひとりちゃん。

 二海堂が来ること事前に聞いてない? 

 

 怪しむようにボクがひとりママを見ると、彼女は舌を出しイタズラ顔で笑いかける。

「桐山くんサプライズ大成功ねっ! 娘たちを驚かせようと思って黙っちゃった」

「うんうん、プロ将棋が二人揃って娘を指導してくれるなんて……。お父さん感激だなー」

「えっ、あのっサプライズって。もう片方の娘さん、ひとりちゃんが今にもショック死しそうなんですが!!」

 

 でもセミの抜け殻みたいに動かないひとりちゃんには、誰も何時もの事と気にも止めず会話は進んでしまい。

 

「久しぶりねっ、ふたりちゃん!」

「こ、この子が妹さん? かっ、かわいいー」

「こんにちは、ふたりだよ」

「うむフタリ君! ご丁寧にありがとう。ふふふふ、では早速参ろうかっ! フタリ君! 桐山!」

 

 予定通りボクと二海堂がふたりちゃんに将棋の指導を行い、結束バンドの皆はTシャツのイラスト案を会議することになるのだった。

 

 ボクは初め、知り合いの子に教えるとあって張り切っていたのだが……。どうやら自分は将棋の指導が下手らしい。

 

「なんだその取扱説明書みたいなルール説明は!」

 二海堂にそう評されるくらいに。

 

 代わりにやってみろと二海堂に喧嘩を吹っかけたまでは良かったが、彼はかわいい猫をモチーフにした入門書を自作で装丁して指導する熱意の持ち主で……。

 

 もうボロ負けだ。

 ただもっとすごい人がいた。

 

「ふたりちゃん。すごい、また正解だ」

 

 そう、生徒のふたりちゃんだ。

 物覚えがいいのだろうか。

 軽く二海堂との模擬戦をしていたら、齢5歳ながら的確に相手の急所を付くふたりちゃん。

 

 ボクは戦慄していた。

 この子は天才かもしれない──。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 小さい子の興味はすぐにうつろう。

 だから将棋教室はものの一時間で終わってしまった。

 

 その後、僕たちは居間でテレビを見たり、ふたりちゃんが好きな玩具を3人で遊んでいたり。もう何を遊んだか数え切れない程だったので時間は一瞬で過ぎていって。

 

 気がつけばお昼時。

 後藤家の皆は僕たちにお昼を用意してくれていて。それも大掛かりな。

 

 僕たちは夏らしくお庭で『流しそうめん』を食べることになったんだ。

 

「流しそうめんするならやっぱり『巨大い◯はす』ですよね先輩! 絶対映えますよ」

「……どういうこと? 喜多ちゃん」

「あーうん、メジャーデビューしてタイアップ貰った時の練習らしいからっ。気にしなくていいよー、零くん」

 

 喜多ちゃんの言葉は解読不能だったけど、流しそうめんって初めてかもしれない。

 

 先程、掬い取った麺。

 ボクは一休みするため縁側で座る。

 

 一口啜ると麺の冷たさが暑さを打ち消すようでかつて無いほど美味しく感じる。

 

 でも。

 それは、きっと味だけじゃなくて。

 

 庭先に目を向けると声も光景もカラフルで華やかで。

 

 冷ました麺を流すひとりパパが居て。

 あたたかな声でトッピングを補充するひとりママが居て。

 まるで兄弟のように一緒にお昼を食べるふたりちゃんと二海堂が居て。

 その二人になんとか接近しようと試みるひとりちゃんが居て。

 総ての麺を掬い上げ飛び跳ねて喜ぶ喜多ちゃんが居て。 

 

 そして、

 

「そーめんおいしいね零くん!」

「うん、オイシイ」

 

 隣に座って笑いかける虹夏さんが居るおかげなんだと。

 その事実にボクは気付いて、もう一口啜ったそーめんは格別に美味しかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 夜遅くなるのも悪いからと僕たちは再び花岡さんの車に乗った帰り道。

 心地よく振動する車に揺られ、結束バンドの二人はいつのまにか眠っていて。

 

 ボクと二海堂がいつもの将棋談義をしていたときだ。

 

「そういえば桐山、『チケット』は持ってきてるな」

「ああ、てか二海堂。昨日渡す予定だったのに、なんですぐ帰ったんだよ」

「うぬっ、フタリ君のために我が傑作本の用意をしようと思い立ってな。本来の目的を失念してしまったのだ」

「全く……」

 

 理由が理由だったのでボクは強く言い出すことも出来ず、2枚のチケットをバッグから取り出し。彼はそれを大切な宝物を預かったように受け取った。

 

「皆、善き人達だな。ライブ楽しみにしてる」

「うん」

 

 そして遠くを見つめる二海堂は続けた。

 

「あとな……次は勝てよ桐山」

「えっ」

「何をとぼけている。獅子王トーナメント決勝戦だよ!」

「ああ、後藤九段との……」

 

 一つ呼吸を置いて彼は言葉を強める。

 

「それと次は新人王戦だ。決勝で俺達は再戦するんだ桐山、そこで、次こそは俺がお前を倒すんだからなっ」

「ああ。でもボクも──負けるつもりはない」

 

 二海堂の視線がこちらに向く。その力強い瞳に思わず吸い込まれそうになった。それは棋士として戦い続ける狭き道のりを選んだ覚悟が見え隠れしていたから。

 

 沈黙する車内でウインカーの音が一定のリズムで鳴り響く。

 帰路を分かつように都内を走る無数の車から1台、僕たちの車は大通りを離れ裏道をつき進んだ。

 

 ライブの後、ボクには後藤九段との二度目の対局が待っている。



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