草神と行くテイワット (ぶれーくだうん)
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[原作二年前] モンドへの旅路
1. 神との出会い


 

 呼ばれた気がした。

 次に、何故呼ばれたのか?と疑問を持った。

 

 そして気づいた。

 ここはどこだ、俺は何をしている?

 自分が起きているのか寝ているのか、それすら分からない。

 なので現状を知る手がかりとして、呼び声へと意識を向けた。

 

 

 

 

「ここはどこだ?」

 状況確認のために声を出す。

「おーい。誰かいないか?」

 誰かに呼ばれていた気がしたのだが、返事は無い。

 

 あらためて周囲を見渡すと、大きなホールの中心に球体状の小部屋があり、自分はその小部屋に閉じ込められているらしい。

 気づいたら俺はこの小部屋の真ん中で座り込んでいたので、この奇妙な造りの部屋の出入口がどこであるかは分からない。

 

 目前に広がる小部屋の壁を強く叩いてみる。

 しかし透明であるにも関わらず、割れる様子はまったくない。

 どうしたものか。

 

 ひとまず無駄なあがきを諦めておもむろに上を向く。

「うぉ!」

 そこには女の子が浮かんでいた。

 

 

 不安定な球状の足場の上でどうにか立ち上がり、その彼女の顔を見上げる。

 白を基調に緑色の入った色合いの、どこか神々しいほどの美しさをもつ少女だ。

 どうやら直立不動の姿勢のまま空中に浮かび眠っているらしい。

 

「こんにちはー」

 恐る恐る声を掛けてみたが返事は無い。

「……生きてるのか?」

 

 言葉に反応がないので目の前に浮かぶ両脚を叩いてみるが、ペチペチ、ペチペチと柔らかな脚を叩けど、やはり返事は無い。

 体温があるように思えるけれども、これはただの人形なのだろうか?

 

 脚を掴み引っ張ってみると、空中に浮かぶ体は簡単に引き寄せることができた。

 床に座りその体を触ってみるとやはり暖かい。

 大きさは両腕の中に抱え込めるほどであり、人形としては大きいが、人としてならばかなり小柄な、子供程度の身体だ。

 

 先端が緑に色づいた真っ白な髪を、不思議な髪飾りでサイドテールにまとめている。

 顔の造りは頬が丸く子供っぽいものの、口元は整っていてまつ毛も長い。

 

 眼球を見れば人形かどうかの判別材料になるだろうか?

 顔を覗き込むようにして、瞼へと指を伸ばした。

 

 突如、その瞼が開く。

 

 ぞわりとした。

 何か得体の知れないものと目が合った気がした。

 

「うぉあ!!」「え? きゃあ!」

 思わずその少女の体を投げ捨てると、放り出された彼女は小さく悲鳴を上げる。

 俺は後ろ手に這って必死に距離を取りながら彼女を見据えた。

 

 くるりと空中で姿勢を正したその少女は、驚いた顔を浮かべつつ、こちらへと向き直り声を掛けてくる。

「あら、こんなところにお客様とは珍しいわね」

 こいつはいったいなんだ?

 

 

「驚かせてしまったようだけれども、わたくしもとても驚いたのよ? ……本当に、どうしてこの籠の中に入っているのかしら?」

 未だバクバクと鳴り続ける心臓を落ちつかせ、対話の意味を考えようと頭を動かす。

「……俺もそれは分からない。気づいたらここにいた。それだけだ」

 

「あら、それはおかしいわ。この中へ出入りするには装置を解除するしかないもの。教令院が無意味にそのようなことを許すはずがないのだから、もし許すならばそれは何かとても重要な意味があるはずなの。……あなたは一体なにもの?」

 白い髪をした人形のような少女が、心の奥を見通そうとするような真っすぐな眼差しで問いかけてくる。

 

「なにものかと言われても一般人としか答えようがないな」

 そう答えて言葉を区切るが、彼女の警戒したような目線は変わらない。

「……むしろ聞きたいのはこっちのほうだ。あんたはなんだ? 大根の化け物かなにかか?」

 

「大根?」

 少女は首を傾げ指を口元に当てて考え込んだ。

「なぜそう思ったのかはまったく、ええ、まったく理解できないけれども。わたくしはナヒーダ。決して大根の化け物などではないわ」

 超然とした雰囲気を持っているにも関わらず、彼女のその感情の動きは人間じみているようで少し拗ねたような様子を見せる。

 

「きみが大根かどうかは置いておいて「大根ではないわ」……ここはどこだ?」

 拗ねた様子を見せてはいるものの、その代わりに警戒した眼差しは緩んでいた。

 最初に互いの間に走っていた緊張感はもはや失われたらしい。

 そして床に座り込むこちらに合わせて、彼女もまたペタリと床に座るような姿勢を取る。

 

 

「あなたが知っているかは分からないけど、ここはスラサタンナ聖処と呼ばれる場所よ。スメールの都市であるスメールシティにある、わたくしのおうち」

「家? ここが?」

 周りを見渡しても到底ひとが住めるような場所には見えない。

 やはり大根の付喪神かなにかなのだろうか?

 

「まあいい。とりあえずここを出たいんだけど、どっから出ればいいんだ?」

「出ることは難しいわ」

 思わず『は?』と声が漏れてしまう。

「出ることが難しいってどういうことだよ」

 

「そのままの意味よ。装置を解除しないことには出ることも入ることもできないのだけれど、わたくしにはこれを解除することはできない」

「それなら俺はどうやってここに入ったんだ?」

「わたくしが聞きたいわ。あなたはなぜ、どうやってここに入ったのかしら?」

「俺に聞かれても困るんだが」

 心底不思議そうな顔で見つめられても本当に困る。

 

「じゃあ今はそれも置いておこう。きみは食べ物とかはどうしてるんだ?」

「生まれてこのかた食べたことがないわね」

「やっぱり大根の化け物じゃねーか」

 その言葉で不貞腐れたらしく、彼女は目を閉じてそっぽを向き、空中で不貞寝を始めた。

 

 俺はそれを無視して本格的に壁と向き合う。

 こんなところで餓死なんて冗談じゃない。

 危機感に突き動かされるままに、力いっぱい腕を壁に叩きつけた。

「いってぇ……」

「なにをしているのよ」

 気づけば不貞腐れていたはずのナヒーダが呆れた顔で隣に座っている。

 

「そういえば人は食べるものがないと死んでしまうのだったわね。……わかったわ。わたくしに任せなさい」

 その言葉を聞いた直後に強烈な眠気が襲ってくる。

「あなたはこの籠が開くときまで眠りにつくの。それがたとえ数百数千年後だとしても、眠っている限りあなたは命を保つはずよ」

 意識が朦朧として現実感が失われゆく。

 

「……おやすみなさい。わたくしの初めてのお友達」

 寂しそうな、名残惜しそうな声が遠く響いた。

 

 

 

 

 

 気づけば冷たい床の上で、なにか暖かいものを抱きしめて眠っていた。

 どれほどの時間が経ったかは分からない。

 徐々に覚醒する意識の中で、何があったのかを思い出す。

 

 重い瞼を少し開けて周囲を見渡すと、記憶の中と周囲の状況が異なる。

 どうやら広いホールの中央にある小部屋、それを支える柱の根本で横になっているらしい。

 

「あら。目が覚めたのね」

 腕の中から声がした。

 目を向ければナヒーダと名乗った生き物が腕の中で丸くなっている。

 

 起き上がってもう一度周囲を見渡してみれば、やはり俺は今、脱出不能かと思われたあの小部屋の外に居た。

「いったい何があったんだ?」

「あなたはいわゆる転移と呼ばれる現象を引き起こせるみたい。せいぜいキノシシの寝返りほどの距離が限界のようだけれども、それは賞賛されるべき能力よ」

 転移、つまりはワープか。

 

「正確に言えば転移ではなく、情報化や偏在化とでも言うべき能力かしら。あなたはわたくしの肉体を含めた周囲の存在を情報へと変換し、別の地点で情報から質量へと再変換したの。それも神の力をも超えて。とても驚いたわ」

 

 彼女は説明を続ける。

 情報化、偏在化、転移、どこか聞き覚えが……、あぁ原理的には量子テレポーテーションが近いのだろう。

 

 

「そして落下したのよ」

「落下?」

「ええ。わたくしが理解した限りでは、あなたの転移はわずかな距離を移動する程度の力でしかない。せいぜいが壁の向こう側へすり抜ける程度ね。であれば当然落ちるでしょ?」

「まあここみたいに壁の先が高所ならな」

 俺は先ほど居た小部屋を見上げるが、落下したら痛いだけでは済まなそうな高さがある。

 

「だからわたくしが受け止めたのよ。命の恩人ね」

「どうやって?」

「こうやってよ」

 ナヒーダが手を伸ばすと、床から植物が生えた。

 妖怪だけあって、とんでもない能力を持っているようだ。

 

「ではなぜ、きみは俺の腕の中で寝てたんだ?」

「もしまた転移が起きて、それがより大きな距離を跨ぐものであったら困るでしょ? だからわたくしもまた一緒に飛べるよう、最初と同じ条件を再現していたに過ぎないわ」

「いやおかしくないか? それはつまり最初の条件、最初に転移が起きる瞬間に俺の腕の中に居たということだ。しかしその時点では転移について知らないはずでは」

 

「……わたくしはわたくし自身の体で人と触れ合ったことがとても少ないの」

 彼女は超然とした態度でさも当然のごとく言葉を吐くが。

 

「だからわたくしは"人のぬくもり"と呼ばれるものに対する学術的興味からあなたの腕の中に潜ったの。なにかおかしいかしら?」

「つまりボッチで寂しかったということだな」

 その顔は赤らんでいる。

「もう少し言い方を考えてくれないかしら」

 

 

 

 状況確認のための会話を終え、立ち上がって身支度を整えた。

「逃げるのならば夜が明ける前にするべきね」

 彼女が何やら意識を集中すると、球体に穴が生じてそこから植物のツタが入り、中でナヒーダそっくりの彫像を作り出す。

 

「本格的に調べられた場合はバレてしまうでしょうけれども、そのようなことにはならないでしょうね。わたくしに求められるものなどなにもないのだから」

 祈るようなポーズで能力を行使していたナヒーダが振り返る。

「さあ行きましょ。時間は待ってはくれないわ」

 

 

「静かにね」

 巨大な扉を僅かに開いて外に出れば、そこは何百メートルもあるんじゃないかという巨木の上だった。

 俺たちは巨木の裏へと回ると、彼女が壁から生やした植物を階段代わりにして断崖を降りていく。

 巡回する兵士も流石に壁を歩いて降りる人間が居るとは思っていないらしい。

 

 吹き抜ける風は鼻いっぱいに森林の香りを運んでくる。

 隣を歩くナヒーダへ目を向ければ、彼女は夜風になびく白い髪を手で抑えながら、未知なる世界へ踏み出したかのように目を輝かせていた。

「いい風ね。こんなにも世界が素晴らしいだなんて思わなかった」

 

 地上に近づくにつれて、改めて今いる場所の高さを自覚する。

「流石にこの高さはやばくないか?」

「あら、意外に怖がりなのね」

「こんな吹きさらしの高所を命綱も無しで降りるなんて、普通にゾッとするだろ!」

「ふふっ。仕方ないわね。手をつなぎましょ?」

 小さな手が差し出された。

 

 

 手をつなぐと身長差で歩きづらくて余計に怖い。

 息も絶え絶えに彼女について歩くことしばらく、無事に街の外へたどり着いた。

 

「街から出たはいいけどどこへ向かえばいいんだろうな」

「そうね。まずは東へ向かいましょうか」

 高く上がった月の位置から東と思われる方向を眺めるが、街灯もなく真っ暗でなにも分からない。

 

「大丈夫。わたくしを信じなさい」

 迷いもなく足を踏み出したナヒーダに従って、暗闇へと歩き出す。

 

 



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2. あるひ森のなか

 ナヒーダと共に道なき道を進んでいく。

「あら、おかしいわね。もうそろそろ道に出てもいい頃合いなのだけど」

 

「つまり迷子ということだな。わりと洒落にならないのでは?」

「あっ、あそこにも暝彩鳥が居るわ。あの子はどんな言葉を知っているのかしら。はやく行きましょう!」

「待て! さっきもそうやって鳥を追いかけまわして同じところをグルグル回っただろ!」

 

「君たち、ちょっと待って」

 聞き覚えのない声が聞こえた。

 大きな獣耳をつけた男性が茂みから出てくる。

「碌な装備も無しにどうしたんだい? しかもこんな夜更けにだ。流石にそんな無茶は看過できない。早く街に戻るんだ」

 

 

 ナヒーダへ目配せをすると、意を察して彼女が前に出た。

「わたくしたちは教令院の学生なのだけれど、論文の締め切りが近いから、急いで森の調査をして璃月へ辿りつかなければならないの」

「それは締め切り間近まで気を抜いていた君たちが悪い。準備も無しに森へ立ち入っていい理由にならないよ」

 

「ごめんなさい。でもわたくしたちは行かなければならないの。その理由、教令院に居たことのあるならばわかるわよね?」

 獣耳の男性は彼女の眼差しを見て、考え込むように押し黙る。

「……どうしてもなのかい?」

「ええ、どうしてもよ」

 

「じゃあガンダルヴァー村までは僕について歩くこと。勝手にはぐれないように。いいね?」

 

 教令院とやらが締め切りに命を掛ける必要があるほど厳しい場所なのか、それともその裏に別の理由があると察したのか。

 そのどちらであるかは判断つかないが、どうにか切り抜けたようだ。

 

 

 

 三人で森を行く。ときおり果物が成っているので、そのいくつかを収穫しながら。

 さきほど出会った男性はティナリと言って、レンジャー長という森林管理を行う役職についているらしい。

 彼は役職名が示すようにこの土地について詳しく、迷うことなく進んでいく。

 

「こうして眺めると、完全に異世界だな。なんだよキノコンって」

「あら、キノコンを知らなかったのかしら」

「基本的にキノコと呼ばれるような菌類に、動き回る種類は居ないはずだ」

「見識が狭いのね」

 一言で、バッサリと切られた。

 

 俺たち二人は、彼の後ろをあれこれと問答しながら歩いている。

 大根の妖怪と思しき彼女との会話は案外面白く、新しいものを見つけると多彩な知識をひけらかしながら説明してくれる。

 ただ惜しむべきは、彼女は異様に好奇心が強いために、新しいものを見つける度に詳しく観察しようと足を止めてしまうことだろう。

 

 

「まだまだ距離がある。今日はここで野宿しよう。火を起こすからちょっと待ってね」

 ティナリは周囲から木枝を集めてそれを組み上げ、手早く焚火の準備をする。

 

「さすがにゆっくり過ぎたんじゃないか? ことあるごとに立ち止まって観察してるわけだし」

「民ひとりひとりが見識を深めることはその個人の人生のためだけでなく、社会全体のためにもなるの。だから決して無駄ではないわ」

 

「たしかに無駄ではない。無駄でないが、しかしそれは必ずしも必要であることを意味しないだろ。特に急を要する時節においては」

「だめよ。朝日が溶ける内に砂漠を渡ろうと急いだ者は、高く上がった日に焼かれるの。急いでいるときこそキノコンのごとく歩くことが大切よ」

 彼女の言っていることは、時々よく分からない。

 

 そしてしばらくすれば焚火の準備が終わり、火を見守るティナリに声を掛ける。

「そういえば、璃月まではあとどれくらいなんだ?」

「璃月港までなら普通に歩いて五日ほどだけど、今日のペースだと倍はかかるね」

 

「歩く場合のルートは何種類かあるのか?」

「大きく分けて考えるなら、層岩巨淵を通過するか、それとも迂回するかの二つだね。ただ迂回する場合は魔物が多く生息する地域を通ることになるからおすすめしない。一方で層岩巨淵を通過する場合も盗賊被害が多いから決して安全ではないよ」

「となると、比較的マシな層岩巨淵を通過するものと考えておいた方がいいか」

 

「いや、君たち二人だとそれも現実的ではないと思う。少し時間とお金はかかるけどオルモス港から船に乗るのが一番安全だ」

「あら。この子はともかく、わたくしは盗賊程度に後れを取るほどには弱くはないわよ?」

「俺は戦力外だから完全にこいつ頼りだな」

 

 ティナリは少し考え込んで。

「ふむ、じゃあテストをしようか。明日この付近にいる宝盗団を倒してみて、もし危ういと判断したら君たちだけでの璃月行きは諦めて貰うよ」

 

 

 

 焚火を囲むようにして皆で夕飯を取った。

「夕食はこの果実だけか」

「あら、それ以外に何か収穫したかしら?」

「確かにしてないけど、飯が甘いものだけというのはちょっと拒否感が……」

 

「なぜ? 空腹を満たせればそれで十分ではないのかしら」

「甘味だけでは栄養素が足りないし、味気ない」

「そうね。栄養素と呼ばれるものは生物に重要とされているわ。でも一日二日偏った生活をした程度で影響がでるわけではないでしょ?」

 

 今日歩いてきた中で知ったことの一つが、ナヒーダは見かけに反して知識があるので、下手なことを言えばこのように反論されるということだ。

 

「運動をする場合には肉や魚などのタンパク質を取らなければ筋肉が衰えるはず。日夜歩き通そうとしてる今は偏った食事は避けた方が無難だろ?」

「それもそうね。じゃあ明日は少し動物を獲りましょうか」

 とっさの口先で連日甘味という地獄は回避したが、今日の食事が果物オンリーであることには変わりない。

 甘さに負けて若干食欲が失せつつも、明日何があるか分からないので少しでも動けるようにと果実を腹に押し込む。

 

「君たちはモラは十分にある? 層岩巨淵は動植物が少ないから、今日みたいに食事の現地調達は難しいよ。万が一に備えてガンダルヴァー村で携帯食を買えないのなら、しばらく村にとどまって食糧費くらいは稼いでおくべきだ」

「モラ? お金のことか?」

 ナヒーダに目線を向けると顔を横に振り、それをみたティナリが「ダメみたいだね」とこぼした。

「君たちは装備もお金も持ってないんだね。レンジャー長としては説教をしたいのだけれど、何か事情がありそうだ。やめておくよ」

 

 

 食後は焚火の周りで横になる。

 ティナリは弓を抱え、耳をピコピコと動かして周囲を警戒しながら目を閉じていて、ナヒーダは両手を組み瞑想している。

 

「ふぅ。こんなところかしら」

「何してたんだ?」

「ふふっ。スメール中をみていたのよ」

 こういう不思議ちゃん系の発言が、本当にそういう能力を持っていそうでちょっと怖い。

 

「じゃあ寝ましょ」

 先に目を閉じていたらナヒーダが腕の中に入ってきた。

 

「場所は十分にあるんだから寄り添って寝る必要はないだろ!」

「あら。今あなたの能力を制御できるのはわたくしだけよ? 目覚めが土の下でも気にしないというのであれば構わないけれど」

 そう言われるともう反論できない。

 

 すまし顔のナヒーダが腕の中で猫のように丸くなり、『暖かいわ』と小さく言う。

「おやすみなさい。いい夢を見ましょうね」

 

 しばらく眠れないでいたが、眠れないことを察したナヒーダが能力をつかったらしく強烈な睡魔で眠りに落ちる。

 

 

 

 ノイズが走る。

 日本語、英語、中国語、スペイン語。

 無数の情報が駆け抜けていく。

 

 誰かがそれを驚愕しながら眺めている。

 

 小さな手はそれらに触れ……。

 

 

 

 

 翌日、目が覚めると既に日は登っていて、既に起きたらしいティナリが弓の点検をしていた。

 ナヒーダはまだ寝ていたが、軽く揺さぶるとすぐに目を開ける。

「知らなかったわ、わたくしがこんなにお寝坊さんだなんて。これも自分の身体でなければ分からないことね」

 

 彼女も起きたので皆で朝食の果物を食べ、支度をして出発する。

「さあ行きましょう。この世界にあるほとんどのものは待ってはくれないの」

「寝坊して言うな」

 意気揚々としていた姿は、恥ずかしそうに萎びていった。

 

 

 ティナリの案内でしばらく歩くと、数人のゴロツキがたむろしている場所へと辿り着いた。

「さあ、あれが昨日言ったテストの内容だ。彼らを簡単に蹴散らせるようでなければ層岩巨淵は越えられないよ」

「腕の見せ所ね」

 

 ゴロツキへ向かって歩くナヒーダを見送って、俺はティナリの横で待っていようとしていたが、彼女はそれを見咎めるように振り返った。

「あら。女性を矢面にだして、自分は草スライムのごとく隠れているのかしら」

「俺、死ぬ。あれボウガンじゃん。俺、普通に死ぬ」

「仕方ないわね」

 

 ナヒーダがウサギのようなぬいぐるみを投げよこしてくる。

「それは周囲の状況を自動で認識し、致死的攻撃に対して防御をしてくれる端末。命の心配はしなくてもいいわ」

「こいつがねぇ……」

 

 そうこうする間に、ナヒーダは無造作にゴロツキたちへと歩み寄っていく。

 俺は前に突き出したぬいぐるみを盾にしながら、万が一のときに彼女を守れるように横に並び立つ。

 そしてナヒーダが腕を振るうと、一瞬でゴロツキたち全員がツルに覆われて吹き飛んだ。

 

「えぇ……。俺、要らなかったじゃん」

「ふふっ。わたくしはあなたの勇気を試したのよ」

 楽しそうに笑う姿は可愛らしくも恐ろしい。

 

「うん。そのくらいの強さがあれば大丈夫だね。合格だよ」

 

 弓を構え見守っていたティナリは盗賊たちの後始末を始める。

 武装解除された盗賊たちは彼の説教を受けた後、足早に逃げていった。

 拠点に残されていた物資は戦利品として確保してしまう。

 

 

 

「このぬいぐるみはどうすればいいんだ? まさか抱えて歩く必要があるとは言わないよな」

「あなたのポケットには高度な情報端末が入っているわよね。それをかしなさい」

 

 スマホをナヒーダへ渡すと、ぬいぐるみがスマホへと吸い込まれていった。

「はい。これでいいでしょ?」

 返されたスマホの画面にはウサギもどきのマークが映っている。

 

「ちなみに元あったデータは全部消えたからね」

「はぁ!? なにしてくれてんだ!」

 起動ボタンを押してもなんの反応もない。

 項垂れる俺を見てナヒーダは楽し気に笑っていた。

 

「大丈夫よ。データはまた集めればいいわ。左上にあるカメラアイコンを押してみて」

 言われるがままにアイコンをタップすると、カメラモードが起動した。

 

「ちょっと恥ずかしいけれど。はい!」

 カメラの前でナヒーダがポーズを取る。写真を取れということらしい。

 俺は画角を調整して、美しい森林を背景に入れて彼女を撮影した。

「次はみんなで取りましょ!」

 スマホを石に立て掛けて三人でポーズを取る。

 

 写真を確認すると、一人楽し気なナヒーダと、やや仏頂面な二人が映っていた。

「完璧ね!」

 それを見て満足した彼女からスマホを受け取ると、ナヒーダは満足げな様子で見当違いの方向へと歩き出し、すぐさまティナリに止められた。

 

 

「方向感覚というのは想像以上に大切なのね。これも記憶すべき発見だわ」

 何も懲りてない彼女を連れて先を進む。

 

「今日中には村に着くと思うけど、層岩巨淵へと進む前にきちんと食糧は準備して貰うからね。当然、無料ではない」

「層岩巨淵にはさっきみたいな盗賊が居るんだろ? 多少は食料を持ってたし、ああいったやつらを狩りながら進むのはどうだ」

「そんな野蛮な計画は許可できないよ。都合よく襲ってくる訳ではないし、必ず食料を持っている訳でもない」

 

 ティナリは今一度、真剣な表情で問いかけてくる。

「あの宝盗団から奪ったモラで最低限の食料は買えると思うけど、本当に最低限だからね。本格的に迷ったらアウトだと考えた方がいい。それでも行くのかい?」

「ああ。どうしても、行かなくてはならないらしいからな」

 

 



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3. ガンダルヴァー村を通過

 ここまでの道程でティナリが持つ弓で仕留めた鶏肉を十分に食べることができた。

 そして彼の案内により、夕方前にはガンダルヴァー村へとたどり着く。

 

 崖の上から巨大な木と一体化したツリーハウス群を見下ろした。

「これが村なのか」

 古代遺跡と言われても信じてしまいそうなほどに、建築と樹木が調和して溶け込んでいる。

 というかもはや文明崩壊後の世界と言われても違和感がない。

 

「じゃあ僕はここまでだ。君たちなら大丈夫だとは思うけど、決して気を抜かないでね」

 

 彼は急ぎ早に去っていく。

 恐らく無理してでも俺たちのために時間を割いてくれていたのだろう。

 その姿を見送ってから、俺たちは崖沿いを迂回して村へと降りる。

 

「とりあえず体を洗いたいな。汗でベトベトだ」

 この土地は温度も湿度も高いため、少し動くだけでも汗ばんでしまう。

「人は不自由ね」

「妖怪には分からんだろうな、この悩みは」

 

 

 村へ入る前に、まずは村の近くの川で適当に体を洗うことにした。

 上半身を脱ぎ捨てて軽く水でゆすぎつつ身体を拭う。

 

「あら。どうしたのかしら?」

「……流石にガン見されてると不愉快なんだけど」

 ナヒーダが川辺に座り込み、両手を頬に当てた姿でジッとこちらを観察している。

 まるで珍獣でも眺めるような表情だった。

 

「でも面白いもの。続けてちょうだい」

「続けてちょうだい、じゃねーよ!」

 小柄な彼女を抱え上げ、川へと投げ込んだ。

 驚いた顔をして綺麗に飛んでいく。

 

 背中から水に落ちた彼女は、全身をずぶ濡れにして立ち上がる。

「ふふっ。水遊びね。覚悟はいいかしら?」

 水中から大きな葉が現れて水を跳ね上げ、大量の水が降り注ぐ。

「ちょっまて、それはズルくね!」

「ズルくないわ!」

 

 逃げるナヒーダを捕まえて、もう一度放り投げる。

 今度は驚きではなく楽し気な顔で水面へと落ちていった。

 

 

 

 しばらく二人で遊んだ結果、村に着くときにはすでに傾いていた日が、今度は完全に沈み始めている。

「もう日が落ちるし、これ絶対乾かないよな」

「そうね。なら炎元素を探しましょ。……ただ、その前に」

 

 ナヒーダに乞われるがままツーショット写真を撮ると、そこには夕日に照らされて、ずぶ濡れの二人が楽し気に笑う姿が映っていた。

「ふふっ。また大切な記録が増えたわ!」

 

 

 ずぶ濡れのまま二人で村の道を登っていく。

 明かりの灯った家々は幻想的で、昼間は樹木に飲み込まれてしまいそうなほどか細い印象だったそれらが、夜間には文明の営みと人の強さを主張する。

 それは寒村などではなく、確かな温かみを持つ場所だった。

 

 村の中腹で焚火を借りて近寄ると、異様と言えるほどの速さでみるみるうちに服が乾いていく。

 これを例えるならば『チリ紙に火が付いたかのように水が抜けていく』とでも言うべき現象だろう。

 

「おー、面白いけど不思議だ」

「蒸発反応よ。これは相手が悪いと命を落とすから気を付けてね」

「は? そんなもの試させるな!」

 服が乾いたことを確認しつつ、体に異変が無いかを確かめた。

 

「ボーっと眺めてるけどそっちは乾かさなくていいのか?」

「わたくしは炎元素と相性が悪いもの。うっかりすると燃え上がってしまうわ」

「大根属性というやつ?」

 

「あら、あなたを燃やすこともできるわよ?」

 にっこりと笑いかけてくる。これが目が笑っていないというやつだな。

 

 

 服を乾かしたあとは、そのまま村はずれへ降りて一泊。

 他にも同じように寝転んでいる人々が居て、聞けば商人やら冒険者やらをやっているらしい。

 

 やはり今日もナヒーダは祈りを捧げ、それが終わると腕の中に潜り込んでくる。

「あれ、湿ってない」

「草元素を使えば水元素を消費できるもの。安心した?」

「それはつまり、俺は無駄に命を危険に晒したってことでは」

「でも学びは大切よ」

 

 ここは少し水場に近いために気温が低く肌寒い。

 仕方なくナヒーダを暖房代わりに抱きしめて眠る。

 

 

 

 頭の中にノイズが走る。

 無数の情報が駆けていく。

 

 

 

 

 翌日、ティナリの言に従って必要なものを買い、層岩巨淵へ向けて出発した。

 携帯食、飲み水、それらを容れる鞄に、あとは消毒用のちょっとした薬など雑貨類。

 この携帯食料は保存が効くというよりも、むしろ軽量で嵩張らないのが特徴だ。

 

 左右に目を向ければ人よりも大きな花が咲き、崖の合間で薄暗い道を植物性の街灯が照らす。

 そして、やがて道は小川と合流し、そのふちに沿って歩けば洞窟へと至る。

 

「これは、木なのか。すごい大きさだな」

 洞窟の入口は巨木の樹洞によって出来ていた。

 この木は横向きに伸びていることから、これは恐らくとてつもなく大きな樹木の根が腐り、中が空洞となったのだろう。

 

 樹洞を抜けると洞窟は広くなった。

 巨木の根と岩盤を苔が覆い、抱えるほどの木の実でできた街灯がそれらを照らしている。

 

 ペチペチとした裸足に近い足音と、グラスハープのような不思議な音が反響する。

 ナヒーダは小走りという程ではないものの、足早に先へと進んでいて、鼻歌を歌いながらひとり楽しそうにしていた。

 その姿はまるで初めての遠足にでも出かけているかのようだ。

 

 

 そこからさらにしばらく進むと風景が変わり、壁を這う根が減って人工の柱が天井を支えるようになる。

 ところどころでは天井から漏れ出した地下水が地面に溜まり、非常に歩きづらい。

 

「この橋って落ちかけてないか?」

「ええ、そうね。長くは持たないと思うわ。まるで風を吸い込んだ風スライムね」

 床を踏み抜かぬよう橋の梁を注意して渡り、さらに先へと進む。

 するとようやく出口が見えてきた。

 

 

 洞窟を超えると、高層ビルと見間違うような巨岩が視界の限りそびえ立っていた。

 それだけ聞くと殺風景のようであり、実際に見ても殺風景に近いと言ってよいのだろうが、しかし岩々に負けぬよう育つ桃色の樹木が彩りを添えている。

 一言でいえば、水墨画のような、寂しくも落ち着いた美しさを持つ景色だ。

 

 風景に感動しているらしいナヒーダを後ろから眺める。

 高所特有の絶え間ない風が、白地に緑色の入った髪を揺らす。

「わたくしがこの足で外の地を踏む時が来るなんて、信じられなかったわ」

 

 彼女は振り返って笑った。

「今日はわたくしにとって記念すべき日よ。……いえ、今日もというべきね」

 彼女の身長はせいぜいがこちらの胸元程度の高さであり、目線を下げなければその頭の上を素通りしてしまうほどである。

 しかしそのどこか愁いを帯びた姿は、その小さな身体に収まりきらないほどの大きなものを感じさせた。

 

「……そうか、なら記録しておかないとな」

 スマホを足元の岩に立て掛けて彼女の横に立つと、風で乱れたその頭をグシャグシャと撫でる。

 そうして撮れた写真には、愁いなど忘れたかのように、驚きで間抜け面を晒すナヒーダが映っていた。

 

 

 

 さて、ここからが層岩巨淵の本命だ。

 ここはとんでもない大きさと高低差を誇るとされていて、璃月港までの道のりの内で唯一かつ最大の難所。

 ティナリによれば、ここを越えられるかどうかが俺たちの旅の可否を決めるらしい。

 

 まずは洞窟の目の前に張ってある吊り橋を渡る。

 

「この橋も落ちそうだけど、さっきの洞窟内の橋より遥かに高いから怖さも段違いだ」

「怖がりね」

「まあ高所恐怖症なのかもな。とはいえ、一般人がこういった高所をまったく怖がらないかと言えば違うと思うけど」

「ふふっ、そうね」

 見るものすべてが面白い、とでもいうような彼女は相変わらず楽し気に突き進んでいく。

 

 

 木でできたウッドデッキ状の道を進むと、視界が開けてその全貌が見える。

 ビル群がごとき無数の巨岩に囲まれた風景も絶景だったが、いま見ている景色の壮大さの前では霞むだろう。

 

「この地形は数千年前に天星が落ちたことによってできたものなの」

「これ丸々がひとつのクレーターってことか。すごいな」

「またここはモラクスと若陀龍王が戦いを繰り広げた地でもあるの。みて、あそこは岩壁が大きく崩れて無くなっているでしょ? あれは戦いの痕跡よ」

「規模がデカすぎて怪獣が歩いたみたいな有り様だなあ」

 

「見えている範囲だけではないわ。地下にも広い空間が広がっているわよ」

「へぇ、そうなのか。ちょっと見てみたいな」

「ええ、できればいつか探検してみたいわ」

「広大な地下空間は浪漫があるよな。今は余裕があるわけじゃないけど、次の機会があれば行ってみようぜ」

 

 

 改めて目前の風景を眺めた。

「しっかし、ここからどう進むんだろう?」

 目の前には貨物用にロープウェイの様なものが渡されているが、それ以外は何もなく、ここは断崖絶壁の行き止まりとなっている。

 

「そこにある荷車を使って向こうへ渡るのよ」

「うええ。やはりこれで渡るのか……」

 どうやらこのロープウェイを使って、もはや下を覗きたくないレベルの高さを崖から崖へ渡るらしい。

 

「大丈夫よ。落ちたら助けてあげるから」

「例え助けられるとしてもバンジージャンプは勘弁して欲しい」

 

 

 百メートルは優に超えるだろう高さを風に煽られながら荷車で渡り、北崖側へと迂回する。

 何故北へ迂回するかと言えば、眼下に見える谷底は到底通ろうと思えないほどに深いためだ。

 もし谷底を通って直進しようとするならば、迂回によって増える距離以上を昇り降りすることになるだろう。

 当然、登るのも降りるのも歩くより時間が掛かる。

 

 崖を渡ったあと、さらに崖沿いを歩いて数時間。

 このとてつもなくデカいクレーターはまだまだ先が続くにもかかわらず、徐々に天候が悪くなってくる。

「これは少し急がないとやばい」

 もし雨が降ったら足を踏み外す自信がある。その場合、この高さから転げ落ちればもはや死体が原型を留めすらしないだろう。

 

「もうそろそろ鉱区のはずなのだけれど、おかしいわね。人が見当たらないわ」

「そういえばさっきの荷車の近辺にも人影が無かったな」

 

 そしてついに、予定には組み込まれてない雨が降り出した。

 

 



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4. 層岩巨淵で足止め

 土砂降りの雨。

 崖沿いに進めるだけ進んでみたが、これ以上は進めそうにない。

「この雨だと足場どころか土砂崩れが怖いな。今日は進むのは無理そうだ。さきほど通り過ぎた小屋へ戻ろう」

 

「そうね、急ぎましょ。じゃないと、頭にキノコが生えるわよ」

「生えねーよ!」

 

 

 

 小屋の隅から一枚の毛布を見つけ、二人で包まる。

 想定外の降雨量によって床は軽く浸水していて、壁際の箱の上に座り込むのがやっとの惨状。

 ナヒーダの能力で水を枯らせるとはいえど、雨で気温も下がっているので今夜はこのまま眠るしかない。

 

 肩を寄せ合った彼女が、声を掛けてきた。

「ねえ、あなたのことについて聞いていいかしら?」

「しばらく動けそうもないし、別にいいぞ」

 

 そして俺は一通りの自分の経歴を語る。

 こちらとは常識が異なるようなので、詳しくは語らず、分かりやすく言い換えながら。

 日本人としてであれば特に代わり映えのない、ごく普通の人生だ。

「……それで、気づいたらあの場所に居たってわけだな」

 

 

 ナヒーダは真剣な顔で考え込み、次のように述べた。

「世界と世界の距離とは近いようで遠い、遠いようで近いもの。あなたの能力が持つ偏在性は、世界を隔てる壁と相性が良いみたいね。厚くもあり薄くもあるそれを、望むがままに解釈できるのだから」

 

「つまりはどういうことだ?」

「寝て起きたら元の世界へと戻っている可能性も十分にあるわ」

「それはいい知らせだが、せっかくだからもう少しこの世界を見て回りたい」

 

 未知にあふれた異世界というものは、少し歩くだけでも探検心がくすぐられる。

 どうせ元居た場所へ戻るにしても、どのような世界だったのかぐらいは知っておきたい。

 

「大丈夫よ。わたくしが許可するまでは戻らせないわ」

「許可が必要なのか」

 わざとらしく呆れて言えば、ナヒーダは"ふふっ"と楽し気に微笑む。

「あなたの能力は眠りを通して行使されるの。だからわたくしが居る限りはその力を制御することができる」

 

「眠りを通してねえ」

 起きている間に利用できないなら、それは意識的に利用できないということであって、実質としてこの能力は無用の長物だろう。

 案外に実用性の無いものであることが判明し、少し気落ちした。

 

 

 

「次はそっちについて聞いてもいいか?」

「面白いものなど何もないわよ? それでもいいのなら」

 ナヒーダも経歴について語り始める。

 見た目に反した落ち着いた声で。

 

「わたくしの過去はとても単調なものなの。それこそ聞いているうちに、風を吸った風スライムみたいにあくびが抑えきれなくなってしまうわ。それでもいいのなら」

 

 わたくしはスメールの現在の神、クラクサナリデビ。

 前代の神であるマハールッカデヴァータの後任としてこの世に生まれた。

 スメールの民はわたくしに知恵の神としての立場を求めた。

 

 しかし、わたくしはそれに答えることができなかった。

 ……わたくしには彼女に及ぶような英知はなかったから。

 失望した賢者たちはわたくしを檻の中に閉じ込めた。

 

 

 わたくしはずっと籠の中に居た。

 

 わたくしに唯一あったものは夢だった。

 アーカーシャという機械を通して学んだ知識が、夢を彩ってくれた。

 

 初めて暝彩鳥が夢に出てきた時には、それは翼を広げずに、切り株に止まった姿勢のまま空を飛び回った。

 その光景はとても奇妙なもので、そのことから翼という器官の用途を理解し、夢の中の暝彩鳥は羽ばたくことができるようになった。

 

 そして知識が増えるに従って、夢は精巧で賑やかなものとなっていった。

 わたくしの夢はどのようなものでも再現できた。

 でも唯一、どれほど知識を増やそうとも、人だけは居なかった。

 いくら動植物で賑やかになろうとも、それは寂しく人情味のないものでありつづけた。

 

 

「わたくしは自らの足で旅をすることを夢見ていたわ。だから、わたくしを籠から連れ出してくれた、それを叶えてくれたあなたには、とても感謝しているの」

 寄り添って座ったまま、こちらを真っすぐに見上げてくる。

 その表情は好奇心に溢れた楽し気なものではなく、むしろ慈愛に溢れたような、そしてホッと安心したかのような落ち着いた笑みだった。

 

「もしよければあなたのこれからの物語。そのすべてをわたくしにも感じさせてちょうだい」

 

 まるで告白染みた重い言葉だと思うが、彼女の境遇を思えば言葉が重くなるのは当然だろう。

「さっき語ったように、俺にはこの世界についてはなんの知識もないからな。ガイド役として導いてくれると助かるよ」

 彼女はそれを聞くと『やはり、あなたにはわたくしが必要ね』とおどけて笑う。

 

「でも、ガイド役としては役者不足かも。わたくしは知識があるだけで、実際に行ったことがあるわけではないから」

「いいや、最高のガイドだよ。おかげであの檻を脱出してここまで来れた」

「でも」

「大丈夫だ。実践が足りないというなら一緒に学んでいけばいい」

 

「……そうね。あなたがそう言うなら、わたくしも一緒に学んでみたいわ」

 彼女は頭を預け、その小さな身を寄せた。

 その後も俺たちは他愛もない会話を続け、箱に腰かけたまま、二人で寄り添って眠る。

 

 

 

 

 雨は翌日も、そのさらに翌日にまでも降り続いた。

「……もう食料が無いな」

 重くて保存の利きにくい生鮮類は初日に、軽くて保存の利く携帯食は昨日と、今日の朝昼で食べ尽くす。

 

 ここの地形は、比較的マシなルートを選んだにもかかわらず想像以上に昇り降りが多く、その運動量を補うために予想より消費した。

 必ずしも糧食を必要としないナヒーダは絶食して彼女の分を譲ってくれたが、もともと食の太くない彼女の分は購入した量からして少なく、大勢には影響がない。

 

「無理してでも進むしかないか」

 怖いのは体力を失った状態で何らかの危機に陥ることだ。

 それよりかは、十分な体力のある内に前進した方がいいかもしれない。

 

 彼女が人間性をうまく理解できないことだとか、それでもどうにか寄り添おうと努力していることだとか。

 ここに足止めされている数日、互いに様々なことを話した。

 そうして理解が進んだおかげで、彼女への信用は以前よりも深まっている。

 

「最悪の時は任せた」

「ええ、わたくしに任せなさい」

 

 

 意を決して小屋から出ようと荷造りをしている途中。

「まって、誰かが来るわ」

 雨音に交じって人の走る音が聞こえ、それが小屋の扉を開いた。

 フードを被っているのでその顔は見えない。

 

「よかった。無事だったんだね」

 聞き覚えのある声だった。

「ティナリ!」

 

 

 

 小屋に入った彼は水を払ってフードを脱ぐ。

「君たちが賢明でよかったよ。ここに居なかったら引き返す予定だったんだ」

 そして彼は背負った荷物から、十分な食料と、予備の衣服を渡してくれた。

 

「こんな雨の中駆けずり回るだなんて、レンジャーって凄いんだな。心から尊敬するぜ」

「ええ。わたくしもあなたのその崇高な在り方を尊敬する」

「僕が君たちの旅程に口を出したんだから、その責任を取るのは当たり前さ」

 ティナリはさも当然とばかりに言う。

 

「僕はこれで失礼する。この雨だ。救助が必要な人はまだまだ居るんだ」

 

 ナヒーダは祈りを捧げるようにして、声を掛けた。

「あなたにはきっと草神の加護があるわ」

「ははっ。うん、そうだといいな。ありがとう」

 その後すぐに、ティナリは雨の中を走り去っていった。

 

 

 ダボっとしたTシャツと、紐で縛るタイプの脛出しズボン。それが二人分。

 やや大きめなのは、小さくて着れないということが万が一にも無いようにだろう。

 実用重視なのは彼らしい。

 

 俺たちは受け取った衣服に着替えると、また木箱に二人で座り込む。

 

「スメールは死域と呼ばれるものに浸食されている。でもそれに対抗して今でも活気を保って居られるのはレンジャー長たちの働きがあってこそ。ティナリはその中でも特にずば抜けた存在なの」

 

「災害の中を走り回るんだから勇気があるし、勇気だけじゃなく危険を乗り越えるだけの知恵もあるんだろうな」

「ええ、そうよ。彼らは世界を旅したリシュボラン虎のように、勇敢で聡明なの」

 

 "リシュボラン"の意味は分からないが、世界を旅した虎という例えは何となく理解できる。

「ふふっ。スメールシティからここまででリシュボラン虎には出会わなかったものね。風に吹かれたスミレウリみたいに不思議そうな表情をしているわよ」

 

 今日もよもやま話で暇を潰し、雨音を子守唄に眠った。

 

 

 

 

 翌日。長かった雨が上がる。

 

 相変わらず人が見当たらない鉱区を歩き通す。

 大雨の影響で地面は不安定だが、数時間ほど歩けばトロッコ用の線路と共にきちんと整備された道が現れ、そこからは不安もなく安定して進んでいった。

 

 線路の終点の先、木で整えられた坂道を登ると、ようやく層岩巨淵の出口へとたどり着く。

 そこには簡素ながらもしっかりとした造りの建造物が建ち並んでいて、開拓村のような様相を呈している。

 

 俺たちは村入口の見晴らしのいい高台から、ここまでの軌跡を眺めた。

 そこにあるのは、平地ならまだしも、人が通れるとは思えないような起伏だ。

「洞窟があったのは対岸のあの辺りだな。よくこの道のりを歩いてきたもんだ」

 

「思っていたよりもずっと時間が掛かった。旅にはこんなアクシデントも付き物なのね」

「まあ、ほんと何とか無事に通過できてよかったよなあ」

「彼には感謝しないといけないわ」

「次に会うのが何時になるかは分からないけど、あらためて礼を言いに行かないとな」

 

 そのまま、綺麗に晴れた満点の星空の下で眠りについた。

 

 



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5. 璃沙郊の事件

 翌日、出発前に村の住人と情報交換を行う。

 やはり先の大雨の被害は甚大で、あちらこちらで土砂崩れが起きたらしい。

 

 あと鉱区に人が見当たらなかったのは、層岩巨淵の穴の下、地下鉱区で異常な鉱石が発掘されたせいとのことだ。

 鉱夫たちが『願いの石』と呼ぶその鉱石が見つかると、黒い泥が湧き広がり、鉱夫の精神に異常をきたした。

 そのような事件があったために鉱夫には七星という権力者から避難命令が出ていて、『近々には鉱山が封鎖されるかもしれない』という話まである。

 

 

 村を出発して層岩巨淵出口への坂を登っていく途中、一休みして振り返ると見事な景色が目に入った。

 妙に付き合いの長くなったこの風景とも今日でお別れだ。

 

「やっぱり自分の目で見てこそ、世界の美しさを感じられるわ」

 ナヒーダは吹き抜ける風を浴び、手で髪を抑えつつ遠くを眺めた。

 その横で俺は、たまには自撮り以外もいいかなと、普通に写真を撮る。

 

「わたくしも撮りなさい!」

 すると、無理やりフレームに入り込んでくる。

 しかし映りこむには身長が足りないので、猫が伸びをするかのように両手を伸ばして妨害してきた。

「はいはい」

 少し下がってしゃがみ込み、嬉しそうにポーズを取る彼女を撮影する。

 

 

 門構えがごとき巨岩の隙間を抜けて璃沙郊と呼ばれる区域へ入ると、まるで先ほどまでが嘘だったかのように多様な動植物が出迎えた。

「えいっ!」

 ナヒーダの掛け声と共に植物が鳥を捉え、即座に締め上げる。

 

 彼女は動植物の知識が深く、パっと周りを眺めるだけで食べることのできる動植物を直ぐに見つける。

 それらを適当に鍋にするだけでもおいしい食事となるのでかなり助かった。

 

「自然の神というから動物にも優しいのかと思ったが、案外シビアなんだな」

「あら、自然というものは案外残酷なものよ。それにわたくしはあくまでも草の神。自然の神とはちょっと違うわ」

 

 

 

 小休止がてら周りの生き物を観察して立ち止まりつつ、璃月港へ向けて歩いていく。

 一度ナヒーダが立ち止まるとしばらく動こうとしないが、それがちょうどいい休憩時間となっている。

 

 しゃがみ込んで花を眺める彼女の後方で、草原に座り周囲を見渡す。

「んっ?」

 やや離れた場所に、黒い仮面を付け、赤いフードを被った人型のナニカが浮かんでいる。

 目が合ったかと思えば次の瞬間には見失ってしまった。

 

「Hu hu hu hu hu」

 気づけばそいつは背後に居た。

 

 

「下がりなさい!」

 ナヒーダがツタで拘束するがすぐに燃やされる。

「ちょっと相性が悪いみたいね」

 

 俺は素早く荷物を整えて彼女のそばに立つ。

 黒い仮面、赤いローブ、謎の杖。それに加えて、そいつは赤いバリアを纏っている。

 ツタが燃え上がったことから、あれに触れることは避けた方がよさそうだ。

 

 これ見よがしに魔術師がその杖を振る。

 まずい気がして身構えると、杖から炎が噴き出した。

 

「ナヒーダ!」

 彼女を抱え上げて逃げる。

 地面が燃える。耐え難い熱気の中を走る。

 スマホからウサギもどきが現れたが、燃焼して消えていった。

 

 背中に火を吹き付けられる。

 彼女を抱きしめ、自分の背を盾にして炎から守りつつ走り続ける。

 胸元に抱いた彼女は何かを叫んでいるが、全力で走っているために途切れ途切れに聞こえて聞き取れない。

 

 背後からは地面から何かがせりあがるような音が聞こえ、そして遮られるかのように背後から熱さが消えた。

 おそらくナヒーダが足止めをしてくれているのだろう。

 ただ、それを確認するような余裕はなく、ひたすらに走り続ける。

 

 

 

「バカね。わたくしなら大丈夫なのに」

 文句を言いつつも大人しく抱かれていた彼女を降ろす。

 

 道に沿って走った結果、安全だと思う頃には、水場のある大きなトンネルに辿り着いていた。

「今日はここで野宿だな」

 背中部分が焼け落ちた衣服を脱ぎ、元の衣服に着替えようとする。

 

「っ!?」

 息をのむ声が聞こえた。

 背中の火傷を直に目にして大きなショックを受けたらしい。

「……ごめんなさい。わたくしのせいだわ」

 

 ナヒーダは涙をこぼし、服の裾を握りしめて立ち尽くす。

 その頭を撫でると、彼女は顔を埋めるようにして身を寄せた。

 

「俺が勝手にやったことだから気にするな」

 そう、無理を承知で声を掛け、軽く抱きとめて落ち着くのを待つ。

 

 

 食料の入っていたバッグは落としてしまった。

 周辺で見つけたわずかな材料で軽く食事を取ると、傷を癒すためにも早めに横になる。

 

「早く寝なさい」

 心配げに寄ってきた彼女がそう言って頭を撫でると、急に眠気が襲ってくる。

 

 

 今日はノイズ掛かった夢を見ることはなかった。

 

 

 

 

 翌日、目が覚めると、珍しくナヒーダが先に起きていた。

 

「目が覚めたのね。痛みは大丈夫? 無理をしては駄目よ? 辛かったら言いなさい?」

 背中には何やら葉が貼ってあり、その下には薬が塗ってある。

 流石に火傷を負うなどとは思っておらずガンダルヴァー村では薬を買っていなかったはずだ。

 

 ペタペタと背中を確認していたら彼女に手を掴まれた。

「あまり触ってはだめ。それはわたくしが調合した薬よ。……長年使われている物だもの、効果は確かなはず。忘れず毎晩貼り替えて」

 どうやら看病してくれていたらしい。予備の薬を渡される。

 もしかしたら早起きなのではなく、ずっと眠らずに居たのかもしれない。

 

 

「あの、聞いてもいいかしら」

 用意されていた朝飯を食べていると、おずおずとした様子でナヒーダが声を掛けてくる。

 彼女はなぜか、カメラの構図を決めるかのように両手を使って"指カメラ"のポーズをしていた。

 

「なぜわたくしを置いて逃げなかったの?」

 理由は幾つか浮かぶが、一番しっくりとくる答えは。

「俺はきみのことを仲間だと思ってる。仲間を置いて逃げるなんて流石にできないだろ」

 

「……わたくしのことは嫌いになった?」

「嫌いになるわけない」

 この質問には即答できる。

 

 その言葉を聞いて、安堵したかのように指カメラを解く。

 何らかの攻撃準備であるかのようにもみえたが、もし回答を間違えたら一体なにをされていたのだろうか。

 

 

 

 身支度をして歩き出した。

 ナヒーダが観察のために立ち止まることが無くなったためにスイスイと進む。

 

 しばらくすると道の脇にある池でスライムが繁殖していた。

 それを見つけた彼女は「丁度いいわ」と言うと、スマホを取り出すように指示してきた。

「端末を起動して、あの水スライムを倒してみて」

「わかった」

 

 とりあえずあのウサギもどきを使って戦えということなのだろう。

 スライムへ向けて歩み寄る。

「待ちなさい! わたくしから離れてはだめ」

 しかし、手を掴んで引き留められた。

 小さく柔らかい手が、離さないと言わんばかりに強く握りしめてくる。

 

「へいへい」

 この距離で届くのか不安に思いつつも、スマホ画面に映るウサギもどきのアイコンをタップする。

 するとウサギもどきが飛び出し、勝手にスライムへと跳ね寄っていき、マシンガンの如く緑色の光弾を吐き出して敵を倒す。

 思った以上に強かった。

 

「これで水元素を取得できたわ。次は水が出ることをイメージしながら、その情報端末を振ってみて」

 言われるがままスマホを振るうと、バケツをひっくり返したかのようにバシャリと水が飛んでいく。

 

「わずかな量だけれど、元素を保持できるようにしたの」

「おお、つまりは俺にも魔法を扱えるようにしたってことか。すごいじゃないか」

「戦闘力があるわけではないから無茶はしないで。あくまでもこれは元素から身を守るためのものよ」

 

 さらっと流してるけどこれ、精神感応で動作してる点もとんでもない技術だと思う。科学技術で再現しようとしたらどれだけの手間が掛かることやら。

 ただし、イメージがあやふやだったり混乱している際にもこいつがまともに動作するかは疑問だが。

 

 その後は歩きながら使い方の詳しい説明、というかもはや注意事項、を聞く。

 

 

 一通りの説明が終わったあとは、無言で歩く。

 昨日までと違って見知らぬ動植物に見向きもしないので、明らかに異様な雰囲気だった。

 『あれはなんだ?』と話を振れば答えてくれるものの、好奇心が鳴りを潜めている。

 俺は心の中で溜息を吐き、時間が解決してくれなかったらどうしようかと悩みつつ道を進む。

 

 由来の気になる廃墟、廃村や、二体の巨像。

 さらには宙に浮かんだ城。

 

 本来であればもう少し楽しい旅路だったんだが、仕方もない。

 

 



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6. 璃月港での出会い

 日暮れ時。大きな橋を渡ると、ついに璃月港へと到着した。

 広大で発展した都市。

 スメールシティも見事だったが、人間の営み、人の造る建築様式としてはこちらの方が上かもしれない。

 

 『今後どうするか?』と、彼女に問いかける。

 

 ここまでの旅路はこの璃月港を目的地としていたので、ここから先の予定を俺は知らない。

「万が一、賢者たちに見つかることを考えるなら、念のためにモンドまで進みましょう」

 考え込みながらそういった彼女は、しかし真剣な様子から不安げな様子へと表情を変え、こちらを見た。

 

「いえ、正直に言うわ。モンドまで行ってみたいの。……一緒に行きましょ?」

 小さなワガママを口に出せる程度には気分が回復してきたらしい。

 それを嬉しく思い、快諾する。

 

 

 

「あれは」

 橋の先の広場、その目の前の開けた食事処に差し掛かると、ナヒーダが声を上げる。

 テラス席では背の高く、整った身なりをした男性が食事をしていた。

 

「おや、聡明そうなお嬢さんだ」

「初めまして、といったほうがいいわね」

 二人で歩み寄ると向こうから声を掛けてきた。

 

「共に食事でもどうだ? モラは気にしなくていい」

 彼は空いた席を手で示して俺たちに着席を促す。

 特に警戒するでもなく席に着いた彼女に続いて、俺も腰を降ろした。

 

 

 鍾離と名乗った彼とナヒーダの会話を聞く限り、彼もまた神のひと柱であるらしい。

 神同士の会話になんて口を挟む気にもなれなかったので、俺は聞き役に徹する。

 

「……それは稀有なことだな。少し聞いてみたいことができた」

 ナヒーダがここまでの旅路を語り、それを聞いた鍾離さんは、その重厚な眼差しをこちらへ向けた。

 

「人であるお前に問おう」

 俺を見据えて。

「お前にとって彼女はどのような存在だ?」

「親友であり、悪友」

 

 遊び友達のような、でも命を預けあっているような。

 そんな不思議な関係を例えるなら親友や悪友だろうと思う。

 

 納得したのか、それともしないのかは分からないが、彼は次の質問を述べた。

 

「人でないお前に問おう」

 今度はナヒーダを見据えて。

「お前にとって彼はどのような存在だ?」

「掛け替えのない人よ」

 

 その言葉にどれだけの意味が込められているのか。

 共にした経験を思えば決して軽すぎるようなものではないと思うが、時間にしてみれば、ましてや数百年を生きたという彼女にとっては、それは短いものだろうし。

 

「ふむ」

 俺たちの返答を聞いた彼は、目を閉じて少し考え込む。

「お前たちは得難い関係を手にしたのだな」

 そして彼は、若者を見守るかのように柔らかい眼差しを向けた。

 

 どこか羨ましいものを見るようで、どこか懐かしいものを見るようで。

 神の心を推し量るなど俺にできはしないが、兎角それは人間味のあるものだと感じた。

 

 

 ナヒーダが注文した皿が来る。

 メニューを見て『名前を知らなかったから』という理由で選んだ問題作だ。

 どうやら期間限定のオリジナル料理らしい。

 

「ん? ああ、この料理はお前たちだけで食べるといい」

「えっと、やっぱりわたくしは遠慮しておこうかしら。この子が食べてくれるわ」

「え、俺海鮮ニガテなんだけど」

 

 海鮮料理の前に、海鮮嫌いが三人。

 仕方ないので取り皿で三分割して食べる。

 

「うむ。この種の魚の持つ臭みをここまで完璧に消すとは、まさに職人技だ。よければ俺の分も食べるといい」

「この味はとても繊細で筆舌に尽くし難い見事さね。よければわたくしのも食べていいわよ」

「俺は遠慮しておく。臭みが消えてても見た目と食感で魚の匂いを思い出すんだよなあ」

 

 

 

 食後に口直しに茶を飲むと、鍾離さんと別れた。

 鍾離さんは店員に「今日の食事は往生堂につけておいてくれ」と一言。

 手慣れていて、何をするにしても余裕と落ち着きがある。

 

「あの人、格好いいな。まさに頼れる年長者という感じだ」

「そうね。彼は責任をもってこの街を治めてみせている。契約を重んじ、見事な秩序を敷いてみせたその手腕はわたくしも見習いたいと思っているの」

 

 腹ごなしに軽く歩きつつ、様々な感想を語り合う。

 街へ到着したとはいえ、金などないので当然野宿だ。

 『モンドへ進む』という方針は決まったので、明日出発することを考えてモンド方面へ歩きつつ、街を観光する。

 

 

 日の暮れた街は無数の灯りに彩られ煌びやかであり、行き交う人々の多さもあってとても賑やかだ。

 幻想的とも言える造りの街並みもあり、テーマパークに迷い込んだかのように思えてくる。

 

 中心街は高所に通路や橋の張り巡らされた複雑な造りとなっていて、俺たちは特に理由もなく通路を登って、二人で自撮りをする。

 歩き回る内に夜も深くなっていくが、街の喧騒はとどまることが無い。

 

 

「おっ、あれは港か」

 この中心街のさらに中心とおぼしき大きな広場からは、広く開けた道が海へと向かって伸びている。

 

「夜の海は見通せない深淵そのもの。決して近づいてはいけないわ」

「怖がりだな」

 夜の海といっても、港は十分以上の街明かりによって照らされていて、周辺には未だ作業し続けている人たちも多いために例え転落しようともすぐに助けが入るだろう。

 

 その道を通って港へと降りれば、大きな塔が二つ海中からそびえ立ち、海に対する巨大な門となっている。

 提灯によって飾られたあれは、港へと帰ってくる船を歓迎するためのものなのだろうか。

 

 海に近づこうとしないナヒーダを説得し、海門を背景に二人で写真を撮る。

 そこには不安げにしがみ付く彼女の姿がしっかりと記録されていた。

 

 

 港のデッキはその下が荷下ろし場となっていて、雨を凌げるそこは人々の溜まり場でもある。

「今日はここで寝よう」

 そう言うと、本気で嫌そうな顔をしつつも、夜遅いこともあり彼女は渋々と従った。

 

 巨大な荷物を風よけとして利用し、壁際にもたれ掛かるようにして休む。

 ナヒーダは抱きつくようにして腕の中へ潜り込むと、海を見るのも嫌とでも言いたげに顔を埋めてきた。

 意外な一面を見てしまったという驚きと、寝床を探すのが面倒だったとはいえ悪いことをしたかな、という後ろめたさから、子供をあやすようにゆっくりと背を撫でてみる。

 

 撫でられて落ち着いたのか、しがみ付く力は弱くなった。

 潮騒の音に混じって遠く聞こえる街の喧騒は、相も変わらず賑やかだ。

 

 

 うつらうつらと、船を漕ぐ。

「ほら、横になりなさい」

 誰かに頭を撫でられる。

「貼り替えるよう言ったのに……」

 

 

 

 喧騒は遠くなる。

 そしてまた、ノイズ交じりの夢を見た。

 

 

 

 

 翌日、壁にもたれていたはずだが、気づけばナヒーダを抱えたまま横になっていた。

 眠気を堪え、欠伸をしながら目を開けると、周囲が煩いからかナヒーダもすぐに目を覚ます。

 まだ夜が明けて早いはずだが、港はもう行き交う人々で賑わっている。

 

 昨日の道中でもぎ取っておいたリンゴを朝飯として齧っていると、眠たげなナヒーダが『わたくしにも』と言って口を開けて待っているので、眠気覚まし代わりに彼女にもひとくち齧らせてやる。

 

「疑念に思うんだが、神に睡眠は必要なのか?」

「睡眠自体は必要としないけれども、眠ることはできるわ。そして一度眠りにつけば、人と同じく、眠ろうとする信号が体を制御するの。だから、習慣づけた睡眠時間より早く起きれば眠気を感じるものなのよ」

 欠伸をかみ殺しながらも、そう解説してくれた。

 

 

 荷下ろし場から港へ上がれば、ひっきりなしに船が行き交う様子が見える。

「これは煩いわけだ」

 運び込まれた物品はその場で露天商によって売り出されたり、街へ運ばれていったりと大忙し。

 

 そんな様子を横目に見つつ、俺たちはモンドへ向けて璃月港を出発する。

 

 

 

 璃月港の出入口はモンド側にも大きな橋が弓なりに架かっている。

 橋の先にある大きな鳥居のようなものをくぐると、もうそこは天衡山の麓。

 つまり港町を出た瞬間からずっと、天衡山の峠にまで続く登山が始まる。

 

 峠道なので山頂までは行かない。

 ぱっと見だと、天衡山の標高の半分より下の辺りまで登るだけだ。

 

 その道は石畳で綺麗に整備されていて、特に斜度の急な場所には階段まである。

「疲れた! 休憩しよう」

 しかしこれは登山であることに違いないので、休みなしで歩くと滅茶苦茶疲れる。

 

 

 道から外れ大きな岩の上に腰かけて、遠のいた街を見下ろす。

 

「大丈夫? お水は要るかしら?」

 ナヒーダは体力はあるものの筋力自体はさほどなので、水筒などの限られた荷物だけを持ってもらっている。

「おっ、サンキュ!」

 小さな水筒を飲み干すと、すぐさま彼女は植物で地下水を汲み上げて補填した。

 

「もっと要る?」

「いや、大丈夫」

 

 火照った体を冷やすため、片膝を立てて、斜面を吹き上がる海風を浴びる。

 補填の終わった彼女も、ちょこちょこと歩いて隣に座った。

 

 

 日差しの暖かさと風の心地よさにウトウトしていると、気づけば膝にナヒーダの頭が乗っていた。

 長い耳を折りたたむように曲げて眠る彼女は、どうやらこの心地よさに負けたらしい。

 風の凪ぐ合間に耳を澄ませば、クゥクゥと、可愛らしい寝息が聞こえる。

 その姿を写真に残した。

 

 

 

 彼女が昼寝から覚めるまでしばらく休憩し、そしてその後も山道を登り続けると、ようやく峠へと辿り着く。

 頭上では左右の崖の間にとんでもない大きさの岩が挟まっていて、それが橋のごとく左右を繋いでいた。

 峠を越えたすぐ先には、道に面するように、落ち着いた小さな村が広がっている。

 

「ここから先は帰離原。かつて都として栄えていた場所。石書集録によれば、石門、つまりモンドとの境までずっと町や田園が続いていたらしいわ。

 しかしそれほど栄えたこの地も、魔神戦争によって荒廃した。モラクスは残った民を引き連れて天衡山を南へ渡り、今の璃月港を築いたのよ」

「おー、そんな歴史があったのか」

 

 そして妙にワクワクした様子のナヒーダが次のような提案をしてきた。

「雀を捕まえてみましょう。もしかしたら果物の味がするかもしれないわ」

「食べるところが少ないからやめておこうぜ」

 

 きっと変な書物にでも影響されたのだろう。

 

 



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7. 望舒旅館に宿泊

 村を抜けたすぐ先で野宿をした翌日、今日は帰離原を進んでいく。

 昨日は登り、今日は下り。

 進むとはいっても、今日一日は天衡山峠からの下山で終わるだろう。

 

 なお昨夜は、背中の治療を忘れていたことをナヒーダに叱られた。

 

 

 璃月港側である南斜面と比べ、北斜面はだいぶ緩やかとなっていて歩きやすく、おやつ時となる頃には帰離原の中央付近にまで到着した。

 街道のすぐ脇には頑丈そうな岩で造られていただろう遺跡があり、塀は崩れてしまっているものの、その門構えは残っている。

 

「道沿いに遺跡があるのかあ。まあ元々は都だったと言うんだし、交通に便利な場所に昔の建物があるのは当たり前か」

「ここだけではなく、帰離原の至るところに遺跡が残っているわ。……ねぇ、ちょっと見ていきましょう?」

 ナヒーダはその丸く大きな瞳を輝かせていた。

 

 

「今の街道が昔と同じ位置だと仮定するなら、きっとここが正門なんだろうな」

 

 苔むした石橋を渡ってすぐ。目につく中でもひときわ大きな遺跡。

 その分厚い石でできた門をくぐった先には、広大な敷地と、分厚い石壁でできていただろう建物跡がそびえている。

 

「立派な壁が何重にも聳え立っているが、この位置は帰離原の中央付近であるはずだし、これはお城だったのか?」

「ええ、その可能性は大いにあるわね」

「……しっかし、やけに盗賊が多い」

「彼らは財宝の収集を目的とした盗賊組織だもの。それこそ水に魚が居るようなものよ」

 

 盗賊を蹴散らしながら、遺構の四隅にある石碑などを探索し、そのまま遺跡で野宿した。

 

 

 

 

 そして翌日も、モンド方面へ向かいつつ、遺跡を見て回る。

 今日は帰離原を抜けて、中間目的地である望舒旅館まで行く予定だ。

 

 深そうな円形の池へ差し掛かったとき、それを興味深げに見ていたナヒーダが何かに気づいた。

「水中に幾つか宝箱があるわね。ひとつ引き上げてみましょ」

 そう言うと、植物のツタで何か大きなものを引っ張り上げる。

 

「なんか豪華な宝箱だな。本物の宝箱なんて初めて見た」

「開けてみていいかしら」

 ナヒーダが目を輝かせて言う。

 

 

 重厚で重苦しい音を奏でて宝箱の蓋が開く。

「結構お金が入ってるのか。これならしばらくは楽ができそうだ」

 

「わたくしはもっと歴史的な遺物を期待していたのだけれど」

「たしかに昔の書籍だとか刀剣だとかも浪漫溢れてて嬉しいよな。でも水に沈んでいたわけだし、痛んでしまうことを考えればお金でよかったんじゃないか?」

「そうかもしれないけれども、水辺に水キノコンが居なければ拍子抜けよ! ……あら?」

 

「どうしたんだ?」

「これをみて」

 ドーム状の円盤が地面に埋め込まれている。

 

「どうも、あの宝箱は謎解きの報酬として用意されたみたいね。帰終と呼ばれる魔神の残した四つの忠言、『知で教え、徳で約束し、骨を固く、心を一つ』。それを刻んだ四つの遺跡を巡り、ここへ集うように書かれているの」

 

「そうなのか。ちょっと悪いことをした」

「でもいいんじゃないかしら。もうこれを残した人は亡くなっているはずだもの」

「まあ、完全に滅び去ってしまっているからなぁ」

 

 せめてもと、残りの宝箱には手を付けなかった。

 その後は路肩の花畑、ナヒーダの身長ほどの高さがある、に彼女が飛び込んだせいで姿を見失いかけたぐらいで、無事に旅館へと辿り着く。

 

 

 

 大きな岩盤、および大きな樹木と一体化するようにそびえ立つ旅館。

 その根本とでも言うべき最下層部はウッドデッキとなっていて、オープンテラス式の食事処が営業している。

 

「先に部屋を確保してから食事にしよう」

 俺はそう言って食事を見送った。しかし。

「せっかくなのだから歩いて登りましょう」

 この一言により、とんでもない高さを歩いて登ることとなった。

 

 

「これは……登山では?」

 巨大水車の横を通り、まだ辿り着かぬ頭上を眺める。

 距離はないが斜度がキツイ。

 

 そうやって無駄に辛い思いをしながら登り切った先は大きな展望台となっていた。

 北西に広がる水面。仙人が居ると言われても納得できるような山々。

 ナヒーダが『わぁ!』と子供っぽい歓声をあげているが、俺も同じ声を出しそうなほど美しい風景だった。

 

 宿泊の受付を済ませて階段を登ると、今度は逆側の展望台、南東に開けた場所からの景色を楽しむ。

「あれが孤雲閣よ。特徴的な針状の崖は、モラクスが魔神オセルと戦った際に使用した武器そのものと言われているわ」

 ナヒーダはひと際楽し気に目を輝かせて解説してくれる。

 

 

 

 日が暮れるまで周囲を眺めてから、最後に最上階、空へ触れられそうなほどの高所にある、小さな広場へと上がった。

 しかし突如、俺たちの前に、夜叉のごとき異様な気迫をまとった少年が立ち塞がる。

 

 彼は困惑の表情を見せながら、ナヒーダに話しかける。

「あなたは一体……」

 どうやら彼は彼女が只者ではないと見抜いているらしい。

 

「今のわたくしはただの旅人よ」

「……ならいい。失礼する」

 短く意味深な会話を交わすと、サッと消えていった。

 

「今のは知り合いか?」

「彼は降魔大聖、璃月を守る仙人の一人よ。わたくしが来たせいで、ちょっと驚かせてしまったみたい」

 少し申し訳なさそうな様子で彼女は、『もどりましょ?』と言って手を引く。

 

 

 部屋へ入ると、高所に備え付けられたその部屋からの景色はやはり素晴らしかった。

「あの大きな山はフィンドニールよ。かつては国として栄えていたけれども、結果として滅びてしまい、その後に黒龍ドゥリンが落ちたことでドラゴンスパインと呼ばれるようになったの」

 ナヒーダはすぐさま窓際に吸い込まれ、あれこれと蘊蓄を語り始める。

 

 この宿に食堂はなく、食事は部屋で食べる形式だった。

 その後は宿の風呂へと入りに行く。

 当然、男女別だ。

 

 彼女は一人で風呂に入れるのだろうかと疑念に思うが、見た目は幼い少女だから、奇行をしたとしても不自然にはならないだろう。

 

 

 

 風呂上り、その廊下には降魔大聖が待ち構えていた。

「ついてこい」

 ただ一言。

 

 彼についていくと、最初に彼が現れたときと同じ、最上階の小さな広場に辿り着く。

 

「目的を話せ。嘘や隠し事をすれば容赦はしない」

 

 どこまで話していいのか、そもそも話して大丈夫なのか。

 変な情報を漏らせば彼女に迷惑が掛かるかもしれないと考えると、下手なことが言えない。

 

「……そうか。黙っているというのなら、口を割らせるまで」

 彼はどこからか取り出した槍を構え、文字通りの目と鼻の先に突きつけた。

 猛獣が首筋にその牙を食い込ませてきたかのような、猛烈な恐怖感。その気迫は、ほんのわずかに彼が力を籠めるだけで俺は死ぬと分からされる。

 

「それ以上は、わたくしも看過できないわよ?」

 槍を突き付けられた直後、声が響くと、ナヒーダが階段を上がってきた。

 その姿を見止めた降魔大聖は、舌打ちをして槍を納める。

 

 そして彼女は最初に彼へと謝罪をした。

「ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったの」

「怖がってなどいない。ただ、璃月に問題事を持ち込ませる訳にはいかないだけだ」

 

 その後、ナヒーダは簡単に今までの経緯を語った。

 要点以外の情報は隠しているので、鍾離さんに語った内容よりはずっと少ない。

 

「……賢者とやらは馬鹿の集まりなのか?」

 降魔大聖は一言、そう吐き捨てると風となって消えた。

 

 

 

「神というものは難しいわ。まさかわたくしのせいでこんな事が起こるだなんて。やはりわたくしは……」

 先ほどまでの凛とした姿が嘘だったかのように、もしくはまるで草が枯れ萎むかのように、ナヒーダは元気を無くす。

 

「元凶のわたくしが言うべきではないと分かっている。けれど、彼も悪気があるわけではないの」

「たしかに性根まで真っすぐな感じだったな。それはもう槍が如く」

 文字通りに全てを射貫くかのような彼の眼差しが思い起こされる。あれが僅かな時間だったとは思えないほどハッキリと。

 

「まあ実害は無かったし問題ない。むしろ、猛獣ショーを特等席で眺めたみたいで、終わってみればちょっと楽しかった」

「わたくしが間に合わなければ命を失っていたかもしれないのよ?」

「もしあれが本当に俺一人だったとしたら普通に怖かったさ。でも助けてくれただろ? 知恵の神というぐらいだから、気づいてくれてると信じてたよ」

「……そう。わたくしを信じて」

 

 その時、風が不自然に去っていった。

 

 

 部屋へ戻ると、何をしようとしても『大事を取って安静にしなさい』と妨害され、何もさせてもらえないまま寝かしつけられる。

 さらには文句を言おうとしたタイミングで頭を撫でられ、急激な睡魔で有無を言わせず意識を落とされた。

 コノウラミハラサデオクベキカ!

 

 

 

 見る夢にはやはりノイズが走る。

 

 

 

 

 翌日、宿泊費の支払いをしようとしたが、お金は要らないと言われる。

 なぜか降魔大聖が代わりに払ってくれたらしい。

 しかも一言、『すまぬ』という伝言を添えて。

 

 なので『こちらこそ申し訳ない、とお伝えください』と、返答を残して出発した。

 

 旅館からの下りは、ナヒーダが『今度はエレベーターを使ってみたい』というので籠で降りる。

 俺の体を気遣ってとかではなく、単純に目を輝かせて楽しんでいた。

 昨日は自分を責めるようなことを言っていたので、璃月港到着前みたく尾を引くかと思ったが、彼女は少し図太くなったらしい。

 

 ……どうせなら見た目ももう少し成長してくれた方が。

 

 



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8. アカツキワイナリーのひととき

 石でできた橋を幾つか越えていくと、ついに璃月の出口であり、モンドへの入り口である石門と呼ばれる場所へと辿り着く。

 ここは岩壁の隙間を川が浸食したような地形であり、到底人間が通れる場所ではない。

 なので大きな遊歩道が架けられていて、さらにその路上には幾つかの商店まで建ち並んでいた。

 

 俺たちはそこで茶と軽食を夕飯として頂くと、ついでにこの先やこの周辺についての情報を集める。

 曰く、アカツキワイナリーでは小売りをしてないだとか、この付近では幽霊が出るだとか。

 

 食後は、遊歩道の小さな突き当り部分で野宿の準備を始めた。

 

 

 このすぐ崖の上にある無妄の丘と呼ばれる場所では幽霊がでるらしい。

 たしかに『ヒルチャールのお兄さんが~』と歌う声が遠く崖の上から聞こえた気がする。

 なので、今日は祈りを捧げ終わったナヒーダに、即興で怪談話をしてみることにする。

 コノウラミハラサデオクベキカ。

 

「……知ってるか? こういう場所では真っ白な腕が現れるんだ」

「嘘よ」

 すぐさま嫌そうな表情をする。夜の海を嫌った時もそうだが、ナヒーダは好奇心が旺盛なわりにホラーが苦手であるのかもしれない。

 

「嘘? 本当にそうだろうか? ……そいつは気が付かないうちに背後から手を伸ばしてきて、でも振り向くと即座に消えてしまう。ほら、今も伸びてきているぞ?」

「嘘よ。嘘だから見ないわ」

 彼女はソワソワしつつ、まるで背後に耳を澄ませるかのように、その小さな背筋を伸ばして目を閉じる。

 

「普段はいいんだ。人というのは無意識的に周囲を確認しているものだから、そいつは自然と消える。でも何かに集中しているときは注意しなければならない。スーッと、音もなく腕が伸びてきて、それがついに背中に触れてしまうと」

「死んでしまうのでしょ? わたくしはその手の話の知識も持っているもの。話の展開に予想がつくわ」

「いや、死ねないんだ。ただ真っ暗な空間へ連れ去られる。音も何もしないし、物に触れても触覚がない世界だ」

「えっ?」

 

「人間の意識はフィードバックによって形作られる。だけどそれが消えるとどうなるか分かるか? 自分が立っているか寝ているか、目を閉じてるか開いているかも分からなくなるんだよ。

 そして自分を認識できなくなると、次第に自己の存在が信じられなくなる。こうやって『今、怪談を聞いている自分』すら認識できなくなって、最後には……」

「いや! やめてちょうだい!」

 両手で耳を塞いでうずくまった。

 

「わかったわかった。俺が悪かった。さあ寝ようか」

「……寝られるものなら、と思ったでしょ?」

「一瞬よぎったけど、流石に酷いと思って口にしなかった」

 

 少し涙目で、拗ねるかのように睨みつけてくる彼女は、それでも何時ものように腕に潜り込んでくる。

 しかし今日は、ナヒーダは腕の中でくるりと反転し背を向けて、俺の腕をシートベルトのようにしっかりと巻きつけた。

 

「これなら背後から腕が伸びてきても大丈夫でしょう? もしその話が本当なら、犠牲になるのはあなたよ!」

「はいはい。これで安心な」

 思わず、少し笑ってしまった。

 抱き寄せるように、少し腕に力を入れなおす。

 モンドに近いからか、水場が近いからか、ここは少し肌寒い。

 

 

「ねぇ。怪談話をするのはもうこれで最後にしましょ。……あなただって理解できないものは怖いんじゃないかしら?」

「うーん。むしろ、決して理解できないものを理解しようとするのが面白いんじゃないかな」

「わたくしにはちょっと分からないわ」

 

「簡単に言うなれば、理解した"結果"ではなく、理解する"過程"を楽しむというか」

「でも、結果が無いのなら、その"過程"は過程足りえないのではないかしら」

「そこは知識を得たい人と、知識を楽しみたい人の違いじゃないか? 実を結ばなかった研究だって、先行研究としては役立つだろ」

 

「……納得できそうで、納得できない」

 そうこぼすと彼女はマフラーを巻き直すがごとく、人の腕を引っ張った。

 俺はそれに答え、もう少しだけ強く抱いてやる。

 

 

 

 夢を見る。

 ノイズが走る。

 

 

 

 

 翌日、石門を越え、モンドへ入った。

 そこは水と緑に溢れた豊かな地であり、見事な滝が歓迎の声を上げるが如くその轟音を響かせている。

 そして道なりに歩き通せば、夕方前にはアカツキワイナリーへと辿り着いた。

 

 石門で聞いた話だと、中央に見える立派なワイナリーでは酒等の小売りをしていない。

 もし買い物をしたい場合は、ワイナリーすぐ手前で左に曲がり、その先にある酔漢峡で無数に建ち並ぶ露店から買うようアドバイスされた。

 

 看板前でブドウ畑とともに記念撮影をすると、アカツキワイナリー北側、酔漢峡入口にある宿屋へ向かう。

 昨日の店主曰く、この宿屋の食事と酒が美味しいからおすすめらしい。

 なのでそこで部屋を取り、少し早めの夕食とする。

 

 すると、ナヒーダがここのワインを飲んでみたいと言い出した。

 なんでもお酒というもの、正確に言えば酔うという行為に興味があると。

 自由の国であるモンドの法律がどうかは知らないが、見た目的に難しいんじゃないだろうか。

 

 小難しい例え話で愚図り飲酒を試みるナヒーダを説得し、今ではなく、後で部屋で飲むことにした。

 

 

 食後にワインを一本購入し、ジョッキを二つ借りて部屋へ向かう。

 部屋につくとナヒーダがすぐにテーブルと椅子を整え、晩酌の準備を終えた。

 

「ポカポカして気持ちがいいわ……」

 ジョッキ一杯、大体ハーフボトル一本分を飲み干す頃には、椅子に座ったままウトウトするナヒーダがいた。

 椅子から崩れ落ちそうなので、膝下に腕を入れ、抱え上げてベッドに運ぶ。

 

「わたくしを撫でなさい」

 神様らしい偉そうな態度でそう命令を出す。

 頭を撫で、背中を撫で。最後に顎を撫でてやると、彼女は満足したのか、ムフーと鼻息を吐いた。

 犬猫のような可愛らしさがある。

 

「わたくし知っているの」

 彼女は不穏な言葉を吐くと、俺のシャツ上部のボタンを外して胸元を開く。

「ちょっ、ナヒーダ?」

「親しい人にはこうするのよね」

 

 首筋から胸元に掛けて、全力で吸い付いてきた。

「ちょ、痛いっ! 痛いっ! お前はヒルか何かか!」

 思わずお前呼びしてしまうほど驚いた。

 

 彼女の細い手足は下手に力を掛けると折れてしまいそうだ。

 さらには絡みつかれているせいで姿勢的にも力が籠められず、うまく引き剥がせない。

 しばらく格闘したが、痛みに慣れてきた頃には諦めて、されるがままとなった。

 

 

 

 

 

 翌日朝、開かれた胸元の寒さで目が覚めた。

 

 自らの胸元をみれば、内出血が至るところにできている。

 当然それはナヒーダの口と同じくらいの大きさだ。

 

 実行犯に目をやれば、とても気持ちよさそうに熟睡している。

 腕の中で丸くなっている彼女は、まだ昨日の余韻に浸っているかの如く、口元を楽し気に緩ませていた。

 

 

 しばらく待ったが目覚めない。

 ……手持ち無沙汰なので、ナヒーダの特徴的な耳を触ってみる。

 

 指が触れた瞬間、ピクリと耳が動く。

 人間のものとは違って耳介筋が退化しておらず、犬や猫と同様に、耳を自在に動かせるらしい。

 そのままその長い耳の内側に指を這わせ、スルスルと擦るようにマッサージする。

 

 彼女の耳は柔らかく、歩く際にはフヨフヨと上下に揺れる様子が見て取れる。

 しかし実際に触ってみると耳の中心には、軟骨よりやや柔らかい程度の硬さを持つ芯が通っていることが分かる。

 クニクニと揉むようにして指先で確認すれば、この軟骨に似た組織は耳の先端付近まで入っていて、それにより左右にピンと耳を張ることができるようだ。

 

「あの、もういいかしら?」

「駄目」

 彼女の背から肩に手を回し、逃げられないように抱き締めて抑えこむ。

 逃げられないことを悟った彼女は、長く吐くかのように息を荒げ、強くしがみ付いてくる。

 

「あっ!」

 耳の先端に触れると彼女は喉から声を漏らした。

 

 確認のために耳の付け根をくすぐるように擦ると、今度は鼻声であり、『んっ』と押し殺した音が出る。

 だが耳の先端付近を同様に触れると、先程と同様に、押し殺せず喉からの声が漏れる。

 

 最後にピンっと指で弾くと悲鳴が聞こえた。

 

 

 顔どころか耳まで真っ赤に染めて睨みつけてくるナヒーダ。

 

「待て。まずは話を聞け」

「……聞きましょう。どのような言い訳が聞けるのか、今から楽しみね」

 彼女はニッコリと笑顔を浮かべる。

 

「付け根側は押し殺した鼻声だが、先端側は押し殺せず声が漏れていた。つまり先端は付け根側よりも感度がいい」

「何の話を始めたのかしら!」

 

「そのことから察するに、きみの耳は周囲空間を把握するための感覚器官なのではないだろうか。猫のヒゲと同じだな」

「わたくしはそのようなことが聞きたいのではなくて」

 

「……ところで、これを見てくれ。昨晩の記憶はおあり?」

 

 胸元をめくり、彼女に付けられた内出血痕を見せつけた。

 真っ赤に染まっていた顔が、瞬時に青くなる。

 

「わっ、わたくしに聞かないでちょうだい!」

 バフンという音とともに、枕を顔に押し付けられて視界が消えた。

 

 

 

 丁度いい大きさの布をスカーフ代わりに巻いて首元を隠し、宿を出発する。

 

「あんな酷いことをされたんだもの。わたくしは謝らないわ」

「それは悪かった。すまない」

「……そこで謝られると困ってしまうのだけれど」

 

「流石に、悪ふざけが過ぎた。だからすまないと思っているよ」

「わたくしもごめんなさい。まさかあんなことをしてしまうだなんて……」

「今後お酒を飲むときはほどほどにしないとな」

 

 そして俺たちは酔漢峡へと足を進めた。

 

 



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9. モンド到着

 酔漢峡と呼ばれる渓谷内には、行商人たちによる様々な露店があり賑わっている。

 

「あっ、次はあれをみたいわ」

 ナヒーダに腕を引かれるようにして露店を見て回る。

 行商人が出店しているだけあって、品揃えは多種多様。遠くから運ばれてきた品も少なくはない。

「このパティサラの香はスメールから遥々運ばれてきたのね」

 

 ある物を目にした途端、彼女のその視線が釘付けとなった。

「……ナツメヤシキャンディ!」

 ひと際目を輝かせ、やや早口になる。

「ハルヴァとも呼ばれるこれは携帯食としても優れているのよ! 是非っ、是非、買うべきだわ!」

 これはもはや、要求を断るのが怖いレベルだ。

 

 

 彼女は宝物を手に入れたかのように、嬉しそうに両手いっぱいの大きさの瓶を抱えて歩く。

「ずっとたべたかったの!」

「それってそんなに美味いのか?」

 

「……実は、その、他人の体を借りて食べたことが」

「借りて?」

 巫女に神が降りた、みたいな感じだろうか。

 そういうところは変に神さまらしい。

 

「ごめんなさい。隠しごとをしたくないという気持ちと、嫌われたくないという気持ちが喧嘩していて上手く話せないわ」

「そうか。ならいいよ」

 ガシガシと、子供をあやすように、わざと雑な手つきで頭を撫でる。

 彼女は薄く微笑みながら、乱れた前髪を指で払った。

 

 

 

 酔漢峡を抜け、清泉町の大きな風車を観光してから、その少し先で野宿をする。

 

「あまりイタズラしては駄目よ?」

 わざとらしく指一本を口元へ持っていきからかうような笑顔で言う。

「約束はできないな」

 そのからかう表情の裏には、彼女のお茶目さと、彼女からの信頼が見え隠れしていた。

 

 

 二人で横になったが、今までと違い、能力を行使して眠りへと落としてこない。

 昨夜を除くなら、眠れない夜というのはここに来てから初めてかもしれない。

 

 ナヒーダは腕の中で丸くなり、人の胸元に顔を寄せて呼吸する。

 

 服一枚を介すとはいえ、ほんのりと吐く暖かく湿った感触がハッキリと伝わってくる。

 だが胸元に息を吹きかけられると、そのくすぐったさから、彼女の小さく柔らかな唇を思い出してしまう。

 昨晩の事件が刺激的過ぎて、俺はまだ心の整理がついてないらしい。

 

 心臓の音を落ち着かせるよう一度深呼吸してから、抱き合ったままゆっくりと過ごす。

 緊張するわりに不思議と落ち着く、そんな矛盾した気持ちが何故か心地よい。

 

「……眠れないの? 眠らせてあげましょうか?」

「いや、いい。こうして微睡んでいる時間も嫌いじゃない」

 

 背に腕を回して、彼女が丸くなれないほどに抱き寄せた。

 少し寒かったのが、密着する面積が増えて暖かくなる。

 

「ドキドキするわ」

「俺も。また何かされそうで」

「流石にもうしないわよ」

「どうだか」

 そう言って軽く笑いあう。

 

 小柄な彼女を抱きこむようにしているので、彼女の髪の香りが漂ってくる。

 花ではなく、草木のような。甘ったるくない優しい香り。

 それに誘われるようにゆっくりと眠りに落ちた。

 

 

 

 

 翌朝。日差しに照らされて暖かい。

 腕の中では仰向けで眠るナヒーダの顔が見える。

 これでずっと年上だというから、なんというか……。

 

 彼女はこちらへ振り向くように寝返りをしてきた。

 

 まつ毛が長く、ふわふわとしてる。

 綺麗で柔らかな目元、女優が如く整った口元。

 今は閉じていて見えないが、丸く大きく、優し気な瞳。

 顔だけ見ればもうすでに美人。

 

 きっと背が伸びればとんでもない美女になるんだろうな、と思う。

 中身が大人なだけあって、今でも既に、ふわりと微笑む姿にはドキリとする。

 

 落ち着きと知識深さが、その姿を遥かに大きく見せる。

 時折みせる子供っぽさはむしろ、子供っぽく振る舞う大人、大人の持つ遊び心のよう。

 裏打ちがリズムを強調するかのように、見た目とのギャップが中身を目立たせる。

 

 美女になった姿も見てみたいが、きっと寿命が足りないだろう。

 それが惜しいような、安心するような。

 彼女が今の姿でなければきっと、こんな気軽な関係にはなれなかったから。

 

 

 ふと、彼女の口元が笑っていることに気づく。

 そして次の瞬間、パッチリと目が開いた。

 

「あら、少しぐらい触ってもよかったのに」

 そう冗談を言う彼女。

 気づけば指カメラを胸元に突きつけられている。

 今日はナヒーダが先に起きて寝たふりしていたらしく、ドッキリを仕掛けられて妙にご機嫌だ。

 

「その指カメラはなんなんだ?」

「なんでもないわ」

 ナヒーダは誤魔化すかのように慌てて両手を解く。

 言い切る前に反応したその動作は、まるで動きを読んでいたかのように妙に素早かった。

 

 

 

 清泉町からモンド城下まではそこまで遠くはないため、昼過ぎには辿り着いた。

 シードル湖に掛けられた大きな橋を渡り、巨大で堅牢な城壁を抜ければ、湖上に浮かぶ広大な街へ。

 

 古欧州じみた趣のある街並みは旅人を歓迎するかの如く三角旗で彩り飾られ、吟遊詩人が歌を響かせる。

 これが自由と学芸の国、モンド。

 

 中央通りで到着記念の撮影をすると、まずは宿を予約した。今日から明後日にかけての二泊分だ。

 予定では今日はゆっくり旅の疲れを癒し、明日は丸一日を情報収集に費やし、明後日からは動き出すこととなっている。

 

 宿の確保を終えて通りに出ると、『鹿狩り』というお店の二階テラス席で遅めの昼食を取ることにした。

 目前には巨大な風車がそびえ立ち、他方はちょっとしたビル街がごとき古建築に囲まれる。

 

 

 どうやらここは食肉専門店とのことで、おススメされたのは冷製肉の盛り合わせ。

 冷製ゆえにさほど待たされることなく提供された料理に舌鼓を打つ。

 

「こんな贅沢な食べ方があるだなんて」

「ハムやベーコンを料理に使うのではなく、素材そのままに盛り付けるのは意外と見ないよな。ミントを使ったソースも素材を引き立てて美味い。これはお酒が欲しくなる」

「……なら頼みましょ?」

「今はコーヒーでいいだろ」

 

 意外なことにスメールではコーヒーがよく飲まれていて、それで舌を慣らしたため彼女も飲むことができた。

 俺が頼んだのはゴールデンエデン、ナヒーダは甘いムーンリットアレイ。

 いわゆるカフェラテとカフェモカだ。

 

 気温は暖かく、しかし湿度が低く涼やかな風の吹くこの地では、無為に体の温まる酒よりも香り豊かなコーヒーの方が舌に合う。

 

 

 交易点である璃月港とは違うために人は適度に疎らで、ゆったりとした雰囲気が流れている。

 昼時を過ぎているために席が埋まることはない。

 コーヒーをおかわりし、購入しておいた新聞を片手にしばしくつろぐ。

 

「稲妻が鎖国だって。ここから近いのか?」

「わたくしにも見せてちょうだい」

 ナヒーダは椅子から立ち上がり、伸びをして新聞を受け取ると、短い腕で器用に読み込む。

 

「……稲妻は璃月の海を挟んだ隣国よ。もしわたくしたちが稲妻へ向かっていたら、ギリギリで追い返されていたわね」

「そりゃあ、行く先を間違えなくてよかったな」

 ふと、モンドへ向かった切っ掛けを思い出した。

 

「そういえばモンドへ行きたいと言ってここへ来たけど、なんでモンドだったんだ?」

「わたくしには自由が無かったから。自由の国と呼ばれるここを見てみたかったの」

「そうか。……実際に見た感想としてはどうだった?」

 

「素晴らしいわ! わたくしの国とは違って歌や踊りが盛んで、文字通り自由に溢れている。スメールでも学芸を守れればよいのだけれど……」

 いつか、彼女がスメールに戻る日は来るのだろうか。

 そのとき、俺は彼女についていくだろうか。

 

 

 

 しばらくすると、日暮れが近づき席が混んできたので、店を出て城下を歩く。

 

 モンド城下は道が折り返すように左右へ大きく曲がりくねっていて、真っすぐ城へは向かえない。

 これはここが戦争を前提とした地である証拠だ。道の折れ曲がる箇所に付随する巨大な風車も、昔は監視塔であったのだろう。

 また、この街はその階層ごとに住む人の身分が分かれているようで、道を曲がって階段を登るたびに家々は大きく豪華となっていく。

 

 つづら折りとなった道を進めば、大聖堂前の広場で行き止まりとなる。

「おー。ここが俺たちの旅の終点か」

 

「その言い方は嫌よ。わたくしたちの旅はまだ続くの」

「別に終わってもまた始めればいいだけだと思うが、まあ、愛着を持ってくれてるのは素直に嬉しいよ」

 

 見上げれば巨大な像がそびえ立ち、俺たちを見守っていた。

 

 

 散歩を終えて城門近くへ帰ってくれば、日は落ちて腹もこなしたので夕食に良い時間だ。

 

「記念日だもの。今晩は認めて貰うわ」

 やけに自信満々な彼女が、酒を含めた注文を行う。

 

「えぇっと……」

 店員さんは困った顔で俺を見る。

「一応、彼女はこの身なりでも成人しているんで。少しだけでいいので頂けませんか?」

「じゃあ、ショットグラス程度なら……」

「それで大丈夫です。俺も同じサイズで」

 

「……小さい」

 出された酒を見て、彼女は呟いた。

 

「まあ、祝い酒なんてこんなもんだろ。……後で一本買うから、そんなにしょげるな」

「それもそうね」

 

 

『モンド到着を祝して』

 

 ふたりで小さく乾杯する。

 

 







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[モンド一年目] ノイズの秘密
1. モンド生活始め


 

 モンドでの生活が始まる。

 昨晩は予約した宿で一晩過ごし、その際にワインを飲んだが、前回のような騒乱は生じなかった。

 そして宿で一泊して朝食を食べたあと、雑貨屋でメモ帳とペンを買い、今に至る。

 

「さて、今日から職探しだが。……考えるべきことが多すぎて気が滅入るな」

 ただただモンドへ向かって歩けばよかったこれまでと違い、これからはもっと忙しくなる。

 

「大丈夫よ、わたくしに任せなさい」

「不安しかないんだよなぁ……」

 自信ありげに先導する彼女の背を眺める。

 

 ナヒーダは意外と肉付きがいい。ただ残念ながら、これは胸があるという意味ではない。

 他者と見比べると彼女は下半身がしっかりとしていて、そのお陰で身長のわりに貫禄を有している。

 またその肉付きの良さは腰から太ももにかけて顕著であり、一言でいえば、彼女は大根足だ。

 ドワーフ体形と言ってもいい。

 

 

「ここよ」

 思考へと現実逃避しながら歩けば、冒険者協会、そのモンド支部とやらに辿り着いた。

 

「おー、これが。でもなんでわざわざ冒険者を選ぶんだ?」

「稲妻の書籍によれば、あなたのような人は冒険者になるのが礼儀なの」

「礼儀ってなんだよ」

 冒険者道入門、みたいな本でもあるのだろうか。

 でも知識はあっても社会性に欠ける彼女のことだから、もっと禄でもない理由な気がする。

 

「なにより、モンドを見て回るなら冒険者が最適よ」

「仕事と観光は分けて考えないか? 今からでもいいから」

「ダメ、かしら」

「それズルくないか?」

 悲し気に溜をつくっておねだりをしてきた。

 恐らくは、伝え聞く"冒険者"という職業にずっと憧れていて、モンドに着く前からそれにすると決めていたのだろう。

 だからあれこれ言うだけ無駄だ。

 

 

 冒険者協会の建物前で俺たちは歓迎された。

「よぉ、冒険者協会へようこそ! 君たちは入会志望かな? ただ、入会には試験がある。お嬢さんにはちょっと難しいかもしれないな」

 

 その言葉を受け、ナヒーダは植物のツルで彼の脚を拘束する。

「これでもかしら?」

「おおっ、合格としよう! どうやら見かけで侮ってしまっていたようだ」

 それでいいのか。わりと試験というのは適当らしい。

 

 彼はサイリュスさんと名乗り、そしてナヒーダだけでなく、同行者の俺も簡単な試験を受けるように指示される。

 

「俺は戦力外なんだけどな」

「僅かでも身を守り、時間を稼げるなら入会を許可しよう。身も守れず足を引っ張るようであれば彼女を危険に晒すことになるから止めておけ。……では、いくぞ!」

 

 その声を聴いてスマホ端末を構える。

 俺が取れる戦闘手段はナヒーダがスマホ端末に追加した、ウサギモドキと元素保持の二つのみ。

 ただしウサギモドキは寸止め相手には碌に動作しないので、使えるのは実質一つ。

 

 サイリュスさんが剣を片手に走り寄ってくる。

 水元素と氷元素を吹きかけて凍結させようと思っていたが、彼は想像以上に素早い。なので過負荷で吹き飛ばす。

 端末を二回振るう。最初に噴き出した炎元素、それを追いかける雷元素は、空中で混ざりあうと元素反応を生じさせ、その爆風によりサイリュスさんは宙を舞った。

 

「ほぅ、驚いた。だが甘い」

 彼は着地した瞬間、そのまま落下するごとく姿勢を下げ、地面すれすれを突っ込んでくる。

 

 戦いなどまったくの素人である俺は、その古武術じみた動きに意表を突かれて反応がワンテンポ遅れた。

 防御しようと腕を動かすが、その速度すらを越えて剣が向かってくるのが見える。

 

「……まあいいだろう。合格だ」

 目前に突き付けられていた剣を納めると、彼は冒険者について説明をしてくれる。

 そして説明を聞き終わると、俺たちは支部内部へと進んだ。

 

 

「もう二度と対人戦はしたくねぇ。そもそもあれ、見た目が派手なだけで殺傷能力が一切ないし」

 俺の使う元素保持機能は彼女によって威力を最小限に抑えられていて、爆発させようが直接的な被害はほぼない。

 熟知性が低いだのという理由で、せいぜいが転んで頭を打つなどの二次被害のみだ。

 

「だって、怪我でもしたら困るでしょう? 赤鷲は雛に聖骸を与えないのよ」

「やっぱ弓かボウガンぐらいは持つべきだったかなぁ」

 過負荷で吹き飛ばして、射撃で削る。それぐらいしか勝ち筋が見えない。

 

「あなたはわたくしに守られていればいいの」

 まるで反抗期の子供を宥めるかのように、ナヒーダはそう言い放つ。

 

 

 支部内部に入ると、カウンターで仕事の相談を行った。

 今日はあくまでも具体的にどのような依頼があるのか内容を確認し、その報酬と推定所要時間から収支を概算することが目的だ。

「雪山に行きたいわ」

「は?」

 

 ナヒーダの一声によって、急遽、雪山に関連する依頼を受けることとなった。

 

 

 

 冒険者支部を出てから、カフェを探して入る。

 少し早めの昼食。

 

 依頼の報酬、所要時間、消耗品の類、実際の収支バランスの例。

 冒険者協会で取ったメモを眺めながら、今後の生活を考える。

 

「装備は買い物すればどうにかなるとして、住居はどうしたい?」

「賃貸は宿暮らしよりも安く済むのでしょう? ならそれでいいんじゃないかしら」

「問題は部屋の数や大きさと、設備なんだよな。俺とナヒーダの部屋を分けるなら、自然とそれなりの設備も付くけど」

 

「あら、あなたは自身の能力のことを忘れてしまったの?」

「夜は一緒に眠るにしたって、個人の部屋まで同じにする必要はないんじゃないか?」

「だめよ。昼寝してしまうかもしれないもの」

 

 昼寝中にワープ能力が発動して壁の中、というのはたしかに怖い。

 ……ふと、風呂で寝かけた記憶が思い浮かぶが、口に出せば碌な結果にならないのは明白なので黙っておく。

 

「じゃあ、ひもすがら監視のため共に居るというなら、ワンルームでもいいか」

「キッチンが欲しいわ」

「えっ? 要らなくね? 料理は嫌いじゃないけど、きみの好奇心を満たせるような料理を作れる気はしないし」

 彼女にとって食事は必須ではないので完全な娯楽だ。

 ここまでの旅路でも共に食事を取っていたが、それはあくまでも知的好奇心を満たすために近かった。

 

「わたくしが作りたいの。食べてくれるわよね?」

「食べ物の定義を満たしているならな」

 わりと科学よりな考え方もできる彼女なら、レシピがある限り、そう変なものにはならないだろうが。

 

 その後は、浴室も欲しいというナヒーダを、金銭的利点を説くことでなんとか説得した。

 ワンルームを探すならモンド下層部だが、下層部では風呂のない部屋も多いため、それに従って銭湯も多い。

 どうせ冒険で外出が多いなら風呂を備え付ける必要が薄いし、狭い風呂に浸かるよりは広い浴場の方が気分も休まる。

 

 なにより彼女が入浴に興味を持つ可能性を考えれば、男女としての関係に一線を引くためにも浴室は無いほうがいいだろう。

 奴ならば下手すると、一緒に入ると言い出しかねない。

 そんなことになれば流石に正気を保って居られる気はしない。

 

 

 混み始める頃合いに店を出ると、そのまま不動産を訪ねる。

 とは言っても"不動産屋"というものがあるのではなく、冒険者協会で貰った情報を元に直接オーナーを訪ねるのだが。

 

「ここでいいか」

「ええ。わたくしはいいわ」

 

 何件かの住居を内見した結果として、街北東やや中央寄りにある三階建ての、最上階の一部屋を借りることとした。

 近くには街の外へと繋がる小門があり、建物入口はそのまま酒場街へ接する賑やかな場所。

 正面から見るとすごく高さのある建物に見えるが、実際はすぐ裏手の崖の上にある四階建ての建物が重なって見えるだけだったりする。

 立地が良いので家賃も比較的高めだが、許容範囲だ。

 

 内装は予定通りワンルームで、暖炉を兼ねた竈がある。

 部屋の中で焚火をする造りというのは俺にとって非常に物珍しさを感じるものだが、中世に近い文化を持つテイワットでは一般的なものらしい。

 

 家具はベッドがひとつと三人掛け程度のソファがひとつ備え付けられていた。

 場合によっては俺がソファ、彼女がベッドという使い方もできる。

 

 

 住居を決め終えたあとは、衣服を買い揃えるために街を二人で歩き回る。

 ナヒーダが実装した元素保持機能を使えば簡単に衣服を洗濯乾燥できるとはいえ、流石にそろそろ十分な着替えが欲しい。

 それにまとめ洗いできれば、元素保持用素材としてのスライムを狩る頻度も下がり、手間暇が楽になる。

 

 ただまずは仕事の都合で優先度の高い雪山装備から購入する。

「そんなに必要なのかしら?」

 コート、フード、アウターミドル、インナーミドルに手袋、マフラー、ゲイター。

 氷点下10度を下回ると想定して装備を固める。

 

「雪山へ行くなら必要だ。……ほら、これも着てみろ」

 ナヒーダの分も選んでおく。

「モジャモジャ駄獣みたい。ちょっと暑いわね」

「暑いなら寒いだろ」

 その謎かけじみた言葉に、ナヒーダは小首をかしげた。

 

 

「これを着てみて」

「自分の服を選べばよくないか?」

 ナヒーダの着せ替え人形となっていた。

 彼女は、ナチュラル系のゆったりとしたものに、ゴテゴテしい装飾アクセサリを追加した独特な感性の衣服を選ぶ傾向にある。

 

「迷惑だった?」

「いや迷惑ではないけど」

 流石に長々と着せ替え人形にされると少し疲れる。

 

「じゃあ、わたくしに着せてみたい服はない? なんでも着るわ」

 "なんでも"という言葉に心を揺さぶられるが、平常心を保つ。

 メイド服は定番として、大人な魅力を出すならタイトスカートにジャケットのクールなOL風、むしろジャケットならワイシャツリボンで首元をしっかり閉じて学生コーデか、いややはりブカブカの着ぐるみ系で順当に可愛さを……。

 

 ふと気づけば、ナヒーダが指カメラをして待っている。

「あら、もういいのかしら」

「なんのことだ?」

「ふふっ。全部お見通しよ」

 指カメラを解いて後ろ手に回すと、前傾したポーズで、楽し気かつ悪戯気に笑った。

 

「……そういえば、首の痣ってもう消えてるか? 自分では見えないので確認を」

「それを蒸し返すのはズルくないかしら!」

 

 拗ねた様子を見せて、店内を少し先へと早歩きで進むナヒーダ。

「悪かったよ」

「もう、流石に怒るわよ」

 追いついて、二人並んで歩く。

 

 



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2. 新居とガイア

 夕方、荷物を宿へ置きに戻る。

 あんなにあっさりと住居が決まるとは思っていなかったため二泊分の宿を取ったが、一泊でもよかったな。

 だがこれは無駄ではなく、持つべき余裕だろう。『泊まるところが確保してある』というのはわりと精神的に大きい。

 

 荷物を降ろしたあとは食事のために酒場へ。

 酒場は料理が美味しいわりに、昼間は営業していない場所も多い。

 ここもその一つだ。

 

「何にしようかしら。メニューがまるで雨の日のキノコンみたいで困ってしまうわ」

「たしかに料理の品数が多いな。たしか、ここは風神ヒュッツポットってのが美味しいらしいからそれにしようぜ」

「そうね、そうしましょう。あと、デザートも頼みたいの。パンケーキもいいかしら?」

 

 取り皿二つで料理を分け合いながら、活気ある喧騒に混じって、俺たちもあれこれと話し合う。

 パンケーキに合うコーヒーの種類だとか、酒は諦めようだとか。

 

「このパンケーキもとても美味しいわ。頬を落としてしまいそう。もしかしてこれに合うお酒もあるのかしら」

「コーヒーリキュールを使ったカクテルは合うかもな。少し甘いけど、俺もあれは嫌いじゃない」

「……これね。頼んでみましょう?」

「交渉をきみがするならな」

 

 

 メインを食べ終えてデザートを味わっている頃合いに。

 長身で紺色の髪をした、眼帯の男がニコニコとしながら話しかけてきた。

 

「よう、俺はガイアだ。ここいいか?」

 まるで友人だと言うかのように気さくに話しかけてきた彼は、返事も待たず席に座る。

「ここの酒場の奴は大体が俺の知り合いなんだが、ちょいと見知らぬ顔を見かけてな」

 

「俺たちはつい先日、モンドへ来たばかりだからな。スメールから遥々歩いてきたんだ」

「へぇ、何しにモンドへ来たんだ?」

 目つきが変わったように思えた。

 

「移住よ。わたくしたちは学芸の自由のないスメールに嫌気が差して、自由の国であるモンドへ逃げてきたの」

「ほう。お前さんも同じか?」

 俺を見つめてくる。

「ああ」

 

 わざわざナヒーダが口を挟んだということは、何か裏があるということだろう。

 それならばと、俺は余計なことを言わないように口をつぐんでおく。

 

「……ありがとう、面白い話が聞けたぜ。じゃあ、邪魔したな」

 そう言って眼帯の男は去っていく。

 にこやかだが、どこか俺たちに対して警戒したような雰囲気があり、そして俺たちが警戒した様子を見せた途端に退いていった。

 

「かなり警戒されていたわね」

「なんだったんだ、あれ」

「わからないわ。ただ、街の裏に潜むような人たちと関係を持っていそうだった」

「裏の人間に警戒されるような理由ねぇ」

 

「……きっとわたくしね。でもなぜ? まさか檻を抜け出したことがバレたのかしら。神の心は置いてきたからアーカーシャ端末は問題なく動作するはず。だとしたら、籠を開く権限が無くなっていることに気が付いた?」

「たしか元素力を扱う人間は貴重だったと思うが、それじゃないか?」

「そうかもしれないわね。ただ、あまり楽観視はするべきではない」

 

 実は彼はただのお節介焼きで、変な二人組が来たから心配した、みたいな話だと嬉しいんだけどな。

 

 

 

 食事を終えると、宿へ戻る。

 なお、酒は出して貰えなかった。

 

 背後、ベッドの上では、彼女が衣服を着替えている。

 買い物の際、俺がTシャツを購入した時になぜか、ナヒーダも同サイズの白いTシャツを購入していた。

 明らかにブカブカだけれども、ワンピース代わりに部屋着として使うらしい。

 

 そしてさっそくその購入したTシャツをワンピースとして着ると、彼女は指カメラをしながら「どうかしら?」と感想を聞いてくる。

 

「ラフな格好で可愛いよ」

 オーバーサイズで裾がひらひらとしているので、ケープコートに似た洋風でお洒落っぽい可愛さ。

 彼女の神秘的な雰囲気が欧州の民族衣装っぽい着こなし感をみせつつも、結局はただのTシャツに変わりないという面白さを伴って、気さくな印象を与えてくれる。

 ……問題があるとすれば履いてないように見えることだろう。

 

 彼女は突如目を丸くして、意外そうな顔をした。

「気になるの?」

 そう言って裾をゆっくりと持ち上げる。

「やめい」

 頭にチョップして止める。

 

 

 ナヒーダはベッドの上でうつぶせとなり、ナツメヤシキャンディの瓶を眺めながら、ゆっくりと足をパタパタさせる。

 Tシャツ一枚でくつろぐ彼女は神々しさよりも親しみやすさが溢れている。

 可愛いので一枚写真を撮っておく。

 

「? どうしたのかしら」

 シャッター音に気づいた彼女がこちらを見る。

 

「本当に可愛いから写真を残そうと思ったんだけど、嫌だった?」

 そう問うと、彼女は指カメラを突きつけてくる。

 ブカブカ系も本当に似合っているので、特に理由もなく素直に可愛いと言ってしまう。

「んー。……いえ、嬉しいわ!」

 そういって破顔した。

 この笑顔こそ写真に残したかったが、無粋なのでやめておいた。

 

 

「そういえばモンドに到着してから食べると言ってたけど、食べてないよな」

 彼女は酔漢峡からずっとキャンディの瓶を抱えて運んでいたが、到着してから食べると言って未だ口にしていない。

 

「だって、絶対に感動してしまうと分かっているのだもの。もったいなくて食べられないわ」

「それこそ、結果を得なければ過程が無意味なんじゃ?」

 石門で彼女と行った問答をもじり、その矛盾を問う。

 

「ええ、そうね。もし食べることなくナツメヤシキャンディを腐らせてしまったのならば、わたくしのこの期待は全て泡となって消えてしまうの。あぁ、可哀そうなわたくし」

 街で見かけた吟遊詩人を真似て、悲劇ぶった演技をするナヒーダ。

 

「だからそうならないよう、あなたが食べさせてちょうだい?」

 あー、と。小さな口を大きく開き、雛鳥のように餌を待つ。

 勿体ないと言っていたのに、それでいいのだろうか。

 

「はぁ……」

 俺は溜息を一つ吐くと、瓶を開きキャンディを一つ取る。

 芳ばしいごま油の香りが広がり、異国情緒を感じさせた。

「ほれ」

「んっ」

 クッキーよりも分厚く大きいそれを口に咥えさせてやると、ザクリともサクリとも言えぬような不思議な音を立てて彼女は齧る。

 視覚ではなく味覚に集中しているらしく、その眼は遠くを見るかのように焦点が失われた。

 そして欠片が小さくなると、その最後の欠片を人の指ごと口に含む。

 

 甘く柔らかい彼女の口から指を抜くと、唾液が弧を描いた。

 感動を反芻するかのように、焦点の合わないまま、ボーっと遠くを見るナヒーダ。

「……まるで夢のようだったわ」

「残念ながら現実だ」

 

 彼女はのそのそと動き、ゆっくりと抱き着いてきた。

 

「どうした?」

「……幸せすぎて怖いわ。まるで全てが消えてしまいそうで」

「それはきみの心の問題だろうな。夢の中に居過ぎたんだ、現実感がズレてしまうのも仕方がない」

「怖い、怖いの。一緒に居てちょうだい」

「はいはい、俺でよろしければここにいるよ」

 

 しばらく抱きしめて宥め、彼女が落ち着いた後は、そのまま共に眠りへ落ちる。

 

 

 

 ノイズが走る。

 日本の風景が、服装が、見慣れた景色が見えた気がした。

 頭痛が襲う。

 

 

 

 

 

 翌日、宿を出た俺たちは、昨日買い集めた荷物を担いで新居へと向かった。

 街の北東三階のその部屋は、目前が賑やかな飲み屋街で、窓から街を眺めればのんびりとしつつも賑やかな喧騒が目と耳に届く。

 

「今日からここがわたくし達のおうちなのね。記念撮影しましょう!」

「わざわざ撮るほどか?」

「ダメ、かしら?」

 おねだりを覚えたナヒーダは、両手を組んでジッと見つめてきた。

「あーもう! ダメではねぇよ」

 

 そこまで長い期間ではないはずなのに、日々を重ねるごとに彼女は、より感情豊かになっていくように感じる。

 ただそれは恐らく、彼女が旅の経験を積んだこと以上に、彼女が心を開いてくれたことによるものなのだろう。

 何気ない物事に感動し、楽しむことができるのは、きっと彼女本来の才能のはずだ。

 だから感情豊かとなったように感じるのは、彼女が彼女自身を取り戻したという証左なのだと思う。

 

 

 部屋はベッドが一つにソファが一つ、さらに料理用の竈が付いた、ワンルームとしては結構広めのもの。

 もし知り合いができたなら、二~三人ぐらいは呼んでもくつろぐことができるだろう。

 

「ベッドはあるけれども棚がないわね。ナツメヤシキャンディに合う最高の棚を見つけなければならないわ」

「キャンディ用の棚、というのは初めて聞いたな」

「ええ、色彩やデザインは味覚に影響を与えるものだもの。だから、"これだ"と思えるような棚を探しにいきましょ?」

 

「なら俺が選ぶなら、きっとそれは唐辛子柄だな。甘さが中和される」

「イジワルはいやよ」

「唐辛子は極論なだけで、実際、甘みを感じさせないようなシックな色合いも合うんじゃないか? 例えばコーヒー色とか」

「……たしかにそうかもしれないわ。じゃあ、一緒に選びに行きましょう」

 

 借り物とはいえ、帰るべき家を得られたというのはとても大きなものだ。

 この生活が長く安泰に続くことを願ってしまう。

 

 



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3. ドラゴンスパインの下見

 新居に移ってその翌日、早くもドラゴンスパインへ向けて出発した。

 

 今回は依頼任務ついでに行けるところまで行ってみる予定だ。

 流石に登頂はしないつもりだし、適度なところで引き返せばそう過酷なことにはならないだろう。

 最悪は彼女の能力でシェルターなり何なりを作ってもらうことになるが。

 

 依頼内容は、応急補給ポイントと呼ばれる箱への非常用食料や備品の補充。

 これは緊急のものではないものの、無暗に遅れれば救える命が救われない可能性もあるにはある。

 なので流石にダラダラと出発日を伸ばすことはできなかった。

 

 

 モンド城下を出て清泉町手前で左へ曲がると、道へと張り出しツタの垂れる木をくぐり、道は崖沿いを進むようになる。

 

 視界が開けると崖下に巨大な樹木が目に入り、休憩がてら写真を撮った。

「こりゃまた、大きな木だ」

「あのオークの木はかつての英雄ヴァネッサが残したとされるもので、彼女はあそこから天空の島へ登ったとされているわ」

「天空の島か。いつか行ってみたいな」

「……そうね」

 やけにつれない返事だった。

 

 夕方前には渓谷の入口に到着しそこで野宿とする。

 ドラゴンスパインへ向かう場合は、急ぐでもなければ距離の関係上から渓谷の入口か出口で一泊することとなるので、周囲にはチラホラと人の姿が見えている。

 

 

 

 翌日、渓谷を抜けて坂を登ることでぐるっと迂回し、昨夜野宿した地点から見て崖の上となる位置へと近づいていく。

 もう少しすれば山の麓に作られた冒険者の拠点に辿り着くので、そこで一泊しつつ依頼に使用する物資を受け取る手筈だ。

 

 ナヒーダによれば、ドラゴンスパインは溶けることのない雪で閉ざされていて、その影響は空にまで及ぶらしい。

 山へ近づくにしたがって、空は不自然に雲掛かって暗くなる。

 

 

 辿り着いた冒険者拠点は朽ちた遺跡を基に造られていて、空の色もあり、『滅んだ後の世界で生きる人々』というような退廃的な雰囲気を醸し出していた。

 まずはこの拠点にほぼ駐在している冒険者協会の玉霞さんから依頼用の食料を受け取り、雪山での注意事項を聞く。

 

「ここの環境はモンドのどこよりも危険だ。とにかく体温を保つよう心掛けろ。防寒具は持ってきたか?」

「ああ。この背負った荷物の大部分が防寒着によるものだな」

「よろしい。……ああ、ついでなんだけど、写真を二か所撮ってきてくれない? もうすぐ風花祭でしょ、その宣伝で使いたいらしいのよ。もちろん冒険者協会のルールに則って適切な報酬を出すから」

 

 追加依頼を受けるかどうか。

 写真ぐらいなら問題ないとは思うけど。

「どうする?」

「いいんじゃないかしら」

「でも現像できるようなカメラは持ってないよな」

「わたくしに任せなさい」

 

「じゃあ受けるということで」

 玉霞さんに具体的な報酬を聞いて別れ、俺たちは食事へと向かった。

 

 この拠点は料理人であるハリスさんが立ち上げたものらしい。

 ただの料理人が拠点を立ち上げ、そして冒険者たちに暖かい料理を提供し続けている。

 その根気と実行力には脱帽するしかない。

 

 ナヒーダは、出された大根スープを美味しそうに頬張る。

 ……今度、何も言わず大根尽くしを振る舞ったらどのような反応をするだろうか。

 きっと傭兵を孤児院で働かせたような、面白い反応をしてくれるのかもしれない。

 

 

 食後は拠点の片隅で、明日に備えてさっさと眠る準備をする。

 

「情報端末を貸してちょうだい」

「写真の現像の件か。でもどうするんだ?」

「簡単よ」

 ナヒーダがなにやら弄ると、何時ぞやのウサギモドキが現れ、口から写真を吐き出す。

「……もっと、光りながら写真が現れるとか、格好いい現像方法を期待してたんだけど」

「あら、既存のものを活用できればその方が効率的ではないかしら」

「まあたしかに」

 

 吐き出された写真には、俺とナヒーダとティナリが写っていた。

「おー、俺たちを写した中だとこれが一番最初か」

 花のような笑顔のナヒーダと、仏頂面の男が二人。

「ホント、次はいつ会うことになるのやら」

 

 

 

 

 拠点で一泊して翌日の早朝。

「見て、雪よ!」

 もこもこ装備のナヒーダが、人生初の雪ではしゃぐ。

「雪は滑るから、転んで頭打つなよ」

 

 俺も雪山装備に着替えた。

 分厚いズボン、二枚重ねの中間着、その上にフード付きで丈の長いコート。

 首元はマフラーで隙間なく覆い、靴はゲイターと呼ばれるものを被せて雪の侵入を防いでいる。

 しかしこれでも、麓の時点で少し冷気を感じるので、本格的な登頂は無理だろう。

 

 ナヒーダはコートではなく、極寒用のふわふわ羽毛入りジャケット。

 普段裸足でペチペチと音を立てる彼女の脚には、普通の靴だと靴擦れなどが懸念されるので、分厚い足袋のようなものを履かせた。

 

「ちょっと靴を脱いでみたいわ」

 そう言って足袋を脱ぎ、彼女は雪の中へ入っていく。

「わっ、こんなに冷たいものなのね。きっと、氷スライムすら驚いてしまうわ」

 そのまま二人で記念写真だけ撮ると、すぐさま彼女は雪原へと飛び出していった。

 俺は近くの岩に腰かけてその姿を見守る。

 

 

 しばらく素足で歩き回った彼女は、足に違和感を感じた様子で戻ってきた。

「足が冷たいの。まるで深海に沈んでしまったみたい」

 

「はぁ…。おいで」

 モコモコの彼女を横抱きにして岩に腰かけなおすと、毛布を掛け、足を手で掴んで温めてやる。

「なんだか恥ずかしいわ」

「少し我慢してくれ」

 

 その部位が温まったら掴む場所を変え、徐々に足先全体を温めていく。

 彼女の小さな足は片手で簡単に覆えてしまうので、あまり時間は掛からない。

 

「なんだか子供扱いされているみたい」

「碌な装備も揃えないまま雪山へ行こうとした奴に対しては妥当な態度じゃないか?」

「ええ、思っていた以上に寒さというものは辛かった。けれど流石に恥ずかしいの」

 

 そして十分に温度が戻ったので、再び足袋を履かせた。

「とても顔が熱いわ」

「冷やしてやろうか?」

「お断りよ!」

 彼女は、ぴょんと膝から飛び降りる。

「さぁ、行きましょ」

 

 

 

 雪山の入り口では崩れ落ちた石橋が行く手を阻む。

「頼んだ」

「ええ」

 ナヒーダの植物で簡単な吊り橋を張り、崩落部を渡る。

 その先は積雪の道と呼ばれる場所。

 

「一般的な冒険者はどうやってこの橋を渡るんだろう」

「下の氷の上を歩くんじゃないかしら」

「それって、踏み抜いたら終わりじゃないか。怖ぇ」

 

 橋を越えて山に入ると、本格的に気温が下がる。

「息が白い」

 彼女は「はぁー」と、何度も息を吐いて確認しながら歩く。

 

 

「あら、空が万物にお休みの時間だって言っているわ」

 しんしんと、雪が降り出した。

「たしかに降雪は音のない音という感じで、夜そのものを音にしたみたいだな」

「まぁ、いい比喩よ」

 一面真っ白な雪の中を歩き続ける。

 

「静かね」

 雪景色というものは不思議なほど静かだ。

 ザクザクと雪を踏みつける音だけが響く。

「そりゃそれこそ、全てがお休みしてるからじゃないか?」

「なら起こしてあげないといけないのかしら」

「流石にこの足場で鬼ごっこはしたくない。眠っていてもらおう」

 頼むから変なものを叩き起こさないで欲しいと、強く願う。

 

 

 

「これが一つ目の撮影ポイントだな」

 時折設置されている応急補給ポイントに物資を補填しつつ、道を進むと、奇妙な氷が朽ちた巨大な切り株を覆っていた。

 

「……なにか不思議な力を感じるわ。それもふたつも」

「ふたつ?」

 彼女は真剣な目で氷と、氷に閉ざされた切り株を調べ、俺はそれを眺めながら休憩した。

 そして玉霞さんに頼まれた写真を撮って、先へと進む。

 

 

 山の中腹に近づくにつれて勾配は急となり、歩くのがやっとの斜面を登っていく。

「あれをみて」

「やっとついたのか」

 振り返るようにして見上げれば、空中へ突き出した巨大な廃墟がそびえ立っていた。

 

 分岐点を左へ曲がり、崩落した道の横を抜けて、旧宮と呼ばれる場所へと到着する。

「たしか二つ目の撮影ポイントはこの上だったよな」

 

 崩落によって生じたと思しき螺旋スロープを上がると、空へ浮かぶかのように神像が鎮座する。

「これで玉霞さんの依頼も完了だな。残りの応急補給ポイントはあとどれくらいだっけ」

「分岐点に戻って少し先まで行けば残りも完了よ。……でもそのまえにこの先の道を見ていきましょう」

「そしたら今日はここで野宿だな。確か下の洞窟で寝られると言っていたし」

 

 

 フィンドニールの頂上方面へ続くとおぼしき道は、異様な猛吹雪によって閉ざされていた。

 ナヒーダは指カメラのポーズをして何かを観察する。

 

「これは、下にあった樹木の氷と関係しているわね」

「あの奇妙な氷か」

「ええ。もしかしたらこの吹雪をどうにかできるかも」

 

「でもそれって異常気象を引き起こすような何かがこの先に待ち構えてるんだよな」

「そうね。……わたくしは調べてみたいのだけれど、あなたが危険だというのなら諦めるわ」

「俺も何があるのか興味があるし、きみが大丈夫だと判断するならついていくよ」

「……わたくしが絶対にあなたを守る」

「ああ、任せた」

 

 状況判断力も物理的戦力も彼女の方が遥かに上だ。

 だから丸々を放り投げる。

 

 その日は旧宮すぐ下の洞窟内、大きな開かずの扉の前で一泊した。

 

 



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4. 雪山から誓いの岬

 旧宮下の洞窟を出ると、分岐点を経由して昨日来た道の続きへと足を進めた。

 そして最後の応急補給ポイントへと到達したが。

 

「吹雪いてきたな」

 雪を避けるために、フードを深く被る。

 寒さも増すが、動いている限りはどうにか許容範囲。

「大丈夫?」

「きみこそ寒くないか?」

「わたくしは大丈夫よ」

 彼女にも雪避けのフードを被せて、視界の悪くなった中を進み続ける。

 

 

「うげ、橋が落ちてる」

 今おそらく、俺たちは龍眠の谷と呼ばれる場所付近にまで進んできた。

 しかし崖際の大きな吊り橋が落下していて、完全に行き止まりとなっている。

 雪山の探索という目的はおおよそ達成したし、無理して進むよりは戻るべきなのかもしれない。

 

「橋の向こう側に灯りが見えるわ」

「……あれか」

 ナヒーダの植物を利用して向こう側へと渡る。

 

「これは、何かの研究施設か?」

 薬品や書籍の並んだ棚が幾つも備え付けてあり、中央には火を使った実験器具も置いてある。

「おや、こんな吹雪の中でよくここに辿り着いたね」

 茶髪の男性が俺たちを迎えいれてくれた。

 

 

 

「キミたちはなぜ冒険者になったんだい?」

 出会った男性はアルベドと名乗り、暖かい茶を淹れてくれた。

 

「だってそれが定番だと書いてあったのだもの」

「キミは稲妻の小説を読んだのかな。流石にそれだけで冒険者になるのは早計と言わざるを得ないと思う」

「いわれてるぞ」

 

 簡単に自己紹介しあった後は三人で軽く雑談をし、そして、ナヒーダが就寝前の祈りを捧げる待ち時間に軽くアルベドの拠点を見て回った。

 

「研究のために普通の人の血が欲しいので、すこし分けてくれないかな。ボクはちょっと特殊な事情があるので、一般的なケースとは言えないんだ」

 アルベドは研究への協力を要請してきた。

 特に断る理由もなかったので、指先に針を刺し、指示された試験管へ数滴の血を垂らす。

 

 アルベドは俺が渡した試験管にいくつかの試薬を加えて振る。

 そのときふと、錬金術という名にふさわしいものが置かれていることに気が付いた。

「この金って錬金術で作ったものか?」

「まさか。基本的に、黄金は通常の8倍の太陽が消滅しないと生成されない。それを覆せるのはボクの師匠ぐらいだ」

 

「ああ、超新星爆発のことか」

「……キミはいったい」

 祈りを終えた、もしくは中断したナヒーダが無言で服の裾を引っ張った。

 恐らく俺は何か余計なことを言ったのだろう。

「すまないが明日は早いんだ。もう寝させてくれ」

 一方的に彼との会話を打ち切って、考え込むアルベドを背に洞窟の片隅へ向かう。

 

 

 バッグから毛布を取り出して二人で包まると、ノイズが走る。

「(…聞こえるかしら…)」

「(これは)」

「(…もう少ししっかりと抱いてちょうだい…)」

 彼女の背と腰に両手を回し、お腹とお腹をピタリとつけるように、その小さく柔らかい体を抱きしめる。

 すると雑音が減って聞き取りやすくなった。

 

「(これでいいわ。でもちょっと癖になってしまいそう)」

「(まさか接触通話ができるとはな)」

「(ふふっ、あなたもドキドキしているのね)」

「(うるせえ)」

 柔らかくて、暖かくて。細くくびれた腰は折れてしまいそうで。

 気付けば鼓動が強く音を響かせていた。

 

「(……それで、何の用なんだ?)」

「(彼の技術体系はテイワットの一般的なものとは異なるの。恐らくカーンルイアに起因するものね。……ただ、そのせいであなたの出自に気が付くかもしれない)」

「(むしろ同郷だと考えるだけの可能性の方が高いんじゃないか?)」

「(ないわね。話せば話すほどボロが出てしまうもの)」

「(たしかに)」

 

「(明日は早く発ちましょう)」

「(りょーかい)」

 そして強い眠気によって眠りに落ちた。

 

 

 

 今日の夢はノイズが少ない。

 目前には無数の情報が流れていて、誰かがそれに手を伸ばす。

 しかし、その手は俺の腹を突き破って伸びていた。

 頭痛、身体を弄り回される感覚、生理的な嫌悪感から来る吐き気。

 逃げようと藻掻けば、ノイズが増えて消えていった。

 

 

 

 

 

 翌朝、早起きをして吹雪が止んでいることを確認すると、素早く出立の準備をする。

「もう少しキミと話したいのだけれど」

「まぁ、また会ったときにな」

 引き留めようとするアルベドから逃げるように、俺たちは山を下った。

 

 旧宮を通過して一気に麓へ向かう。

 早めに出発したことと、到着地までの距離がハッキリしていること。

 その二つが揃ったからこそできる強行軍だ。

 

 奇妙な氷の横を通りかかった。

「そういえば、この氷が頂上への道と関係するんだっけ」

「ええ。ちょっと調べてみましょ」

 

 氷を観察し、そして周囲を探索すると、ナヒーダが赤い岩に妙な力を感じると言う。

「試してみていいかしら?」

「いいんじゃないか?」

 

 彼女の指示で岩を砕くと、その破片を奇妙な氷に叩きつけてみた。

「これで氷を溶かすことができそうね。もう少し周りを探しましょう」

 周囲の幾つかの赤い岩を使うことで、ついに氷は溶解する。

 

「なんだこれ?」

「わたくしが感じた二つの力、その一つはそれみたいね」

 溶けた氷からは球体の機械のようなものが出現した。

 ナヒーダが球体へ手を伸ばす。

 

 地響きと共に、残る氷が溶けていく。

 それが収まるやいなや、球体は空へと舞い上がって消えた。

 

「きみがなにかしたのか?」

「いいえ、わたくしはただ触れただけよ。できればもう少し調べてみたかったのだけれど。……っ何かしら」

 また地響き。今度は地面の下から何かがせり上がってくるかのようなものだ。

 揺れが収まると、目前には一本の樹木が生えていた。

 

 

 

「……もうそろそろ行こう」

 

 突如生えてきた白銀の樹木を調べ続けるナヒーダ。

 俺はその姿を見守っていたが、そろそろ日も暮れて気温が下がり始めている。

「ええ、そうね」

 名残惜しそうにする彼女を引き連れて、麓の冒険者拠点まで帰還した。

 

 帰還後は、冒険者協会の玉霞さんに三枚の写真を提出する。

「そうか、そんなことが」

 白銀の樹木の生える前と生えた後の写真を見比べて、彼女は考え込み、そして次のようなヒントをくれた。

 

「確かその氷の付近には妙な青色の植物が生えていたはずだ。同様の植物が雪葬の都近郊と星蛍の洞窟で見られたことから、そこに手がかりがあるかもしれない」

 おそらく次雪山に来るときには、彼女が教えてくれたそれらの場所を探索することになるのだろう。

 

 

 

 拠点で一泊すると、翌日はダダウパの谷と呼ばれる場所へ進み、その谷で一泊してからさらにその先へと進んだ。

 岬の先に二人で座り、風を浴びながら、海を眺める。

 

「ここはかつて、とある恋人たちが誓いを立てたと言われる場所。今は恋人の聖地となっていて、もうすぐ行われる風花祭では人で賑わうのよ」

「ここへ来る道ってヒルチャールが多くて大変だったけど、苦労してまで本当に来るのかね」

「むしろ危険だからこそ、人気なのかもしれないわ。吊り橋効果というものね」

 

 ナヒーダが遠くに見える島を指さす。

 

「あれはマスク礁と呼ばれているけれども、とある本によれば、あれは元々大陸の一部だったらしいわ。二千年以上前に風神バルバトスがモンドの雪と氷を吹き払った際に、とんがり帽子と呼ばれる山が吹き飛ばされて海に沈み、その山頂がああして見えているらしいの」

「ナヒーダの500年って話でも俺からすれば大昔なのに、それすら軽く越えて紀元前レベルの話が入ってくるのが凄いな。しかもそのバルバトスって存命なんだろ?」

「ええ。最後に降臨したのは数百年以上前だとされているけれど、まだ存命のはずよ」

 

「自由の神か。どんな見た目か想像もつかない」

「ねえ、知恵の神であるわたくしはどうだったかしら?」

「こんな可愛らしいお姿だとは思わないだろうな」

「嬉しい、けど、知恵の神としては納得するわけにいかないわ」

「まあそうだろうね」

 彼女はスメールを出たとはいえ、神の身分を完全に捨て去ったという訳ではないようだ。

 

「口元は知恵の神らしいと思うよ。ふわっとした優しい微笑み方が、社会的余裕と知性の高さを表してると思う」

「そうかしら」

 アルカイックスマイルというやつだ。

 相手に不安を与えないよう微笑んでおくという、社会知性に基づいた行動。

 だからこそ、時には悲し気な笑顔にも見えてしまう。

 

「だからそんなに思いつめなくてもいい」

「あら、なぜバレてしまったのかしら」

「だって目元が笑ってないし」

 半分当てずっぽうだったが、何となく硬い雰囲気を感じたのは外れていなかったらしい。

 

「あなたも思いつめなくていいのよ。わたくしは今、本当に楽しいの」

 俺の場合は目元どころか口元も強張っていただろう。

 だからそういう部分ではやはり、彼女の年の功は本当なんだと思わせられた。

 

 

 

 翌日、『日の出が見たい』という彼女に従って早起きをする。

 見事な朝焼け。

 それはもう目に刺さるほど。

 

「わたくし達も誓いを立てましょう」

「なぜ?」

「言ったでしょう? ここはかつて、恋人たちが誓いを立てた場所なの」

 このために朝早く叩き起こされたのだろうか。

 ショボショボとする目を擦りながら考えを回す。

 

「わたくしでは嫌かしら?」

「嫌ではないけど、恋人か?」

「さぁ? わたくしに恋を聞かれてもよく分からないもの」

 

「誓いといってもどうするのさ」

「……ねえ、キスがしてみたいわ」

 平然とした顔でとんでもない発言を始める。

 一瞬で眠気が覚めた。

 

「人の首に散々したじゃん」

 思わず素の感想が出てしまう。

「あっ、あれは違うわ。仮にあれをキスと認めるとしても、それではわたくしからの一方通行だもの。誓いであるためには双方が行う必要があるの」

 これは言い出したら聞かない感じだな。

 ナヒーダの手を取り、その甲にキスをする。

 

 

「これでいいか?」

「……ええ、今はこれでいいわ」

 彼女は手を大事そうに抱くと、笑顔で答える。

 

「じゃあ、手を出してちょうだい」

 そうして彼女は唇を落とす。

 ゆっくりと長い口付け。

 誓うような、願うようなキス

 

「ふふっ。これは誓いの証ね。ヤメルトキモ、スコヤカナルトキモ。わたくしと共に居てちょうだい」

 その言葉に、何か強烈な既視感を感じた。

 

「…その言葉はどういった由来が?」

「秘密よ」

 由来や歴史を語ることが好きな彼女が、わざわざ秘密とする理由。

 強烈な既視感の正体。

 頭が痛む。

 

 

 その後は無相の雷と呼ばれる元素構造体を見学すると、街へと帰った。

 

 



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5. アルベド襲来

 ある日の昼下がり、扉を叩く音が響いた。

「はーい」

 珍しい来客に、ナヒーダが嬉しそうに駆けていく。

 

「あら」

「こんにちは。ボクのことは覚えているかな」

「やっほー! クレーはクレーだよ!」

 

 来客はドラゴンスパインにて遭遇したアルベドと、赤い服装の見知らぬ女の子。

 ……アルベドは俺を問い詰めにやってきたな。

 

「あっ、黒いおにいちゃんだ! これあげる!」

 ポイっと、ぬいぐるみのような何かを投げ付けられる。放物線を描くそれは受け取る直前に……。

 閃光、そして耳鳴り。平衡感覚の喪失。

 

 

 気付けば横になっていて、ナヒーダに介抱されていた。

「……だってアルベドお兄ちゃんが、人間ではないって言ってたから」

「普通の人間ではないとは言ったけれども、人ではないだなんて言った覚えはないよ」

 言い争いの喧騒が聞こえる。

 

「もう少し横になっていなさい」

 そう言って、小さく暖かい手が額を撫でる。

 俺はナヒーダの膝に頭を載せてベッドに横たわっていて、目線を横へ向ければ赤い小悪魔がアルベドに説教されている。

 その説教を聞き流しながら、目眩が抜けるまで、しばらく体を休めた。

 

 

 

「この子はクレー。ボクの妹のようなものだ。……ほらっ、彼に謝りなさい」

「うぅ、ごめんなさい。でも、しつないだから威力をおさえたんだよ?」

 威力を抑えたものですら余裕で気絶させられたということは、つまりこれがもし室内でなければ、俺は普通に死んでいた気がする。

 

 その後は自然と二組に分かれた。

 ナヒーダがクレーの面倒を見ていて、それを保護者組である俺とアルベドが見守る。

 

「本当にすまない。見ての通り、彼女は問題児でね」

「ああ。身をもって理解した」

「あんなことの後で頼みづらいんだが、もし見かけたときは彼女の面倒を看て欲しいんだ。彼女は日頃からトラブルを起こしがちで、ボクも常に付きっ切りになれる訳じゃないから、あらゆる方面へ迷惑を掛けてしまっていて」

 

 ソファに座る俺たちは、ベッドの上に座り込む彼女たちへと目を向けた。

 

 子守りには慣れているらしいナヒーダ。

 彼女は落ち着いた雰囲気で旅の経験を語り聞かせている。

『……それでナヒーダおねえちゃんはどうしたの?』

『その時、わたくしは……』

 

 

「……さて本題に入ろう。ボクがキミに会いに来た理由はひとつ。キミが『別の世界』からやってきたからだ」

「いや、それは間違いだ。俺はカーンルイアに系譜しているだけで……」

「それはない。キミは確かに別の世界からの来訪者だ。キミの提供した血液がそれを裏付けている」

 ナヒーダへ目配せをすると、彼女は黙って顔を振った。

 俺は念のために、逃走経路として扉、そして三階にある窓を確認する。

 

「そう警戒しないでくれないかな。別にキミたちに危害を与えようという訳ではない。……いや、本当にそのつもりだったんだ」

 アルベドは俯いて手で額を覆った。

 

 赤い小悪魔へ目を向けると、彼女たちは何やら盛り上がっている。

『……彼はわたくしに「きみのことを仲間だと思ってる。仲間を置いて逃げるなんてできない」と言ってくれて』

『それでそれで!』

 

「ナヒーダ……」

 赤裸々に思い出を語る彼女をみて、俺も思わず手で顔を覆ってしまう。

 

「クレーを連れてきたのは失敗だったと思ったけれど、意外と正解だったのかもしれないね」

 楽しそうに会話するナヒーダとクレー、彼女たちを眺めながら彼は言った。

 

「被害者からすれば、そこは失敗だと思っていて欲しいけどな」

「そういわないでくれ。ボクも本当に彼女には手を焼いているんだ。わずかでも面倒を看て欲しいというのは心からの言葉だよ」

「道連れを増やしたいだけじゃないか?」

「ははっ、そうかもしれないね」

 笑いごとじゃない気がするんだが。

 

 

「ねえ」

「どうした?」

 ナヒーダが声を掛けてきた。

 

「情報端末を貸してくれない?」

「スマホを?」

 端末を受け取ったナヒーダは、ベッドへと戻ると、写真をクレーに見せながら旅の話の続きを語り聞かせる。

 

 

「キミは気づいているのかな。テイワットにはテイワットの"法則"があるんだ」

「元素反応というやつか?」

「ああ、元素力もそうだね。だがテイワットの法則はそれだけに収まらない」

 法則ね。……そういえば言葉が通じるのもその一つだろうか。

 

「ボクは、テイワットという世界は余所者に対して拒絶反応を起こすと考えている」

「拒絶反応?」

「そう。キミはテイワットの法則に影響されて、成長することすらできないかもしれない。こうやって会話してることすら奇跡である可能性があるんだ」

「そうなのか」

 物理法則によって営まれているはずの生命活動が、謎の法則によって制限されるとは思い難い。

 だが、元素反応も物理法則を一部上書きしているように思えるし、あり得なくはないのかもしれない。

 

「ところで、キミはこの世界にない特別な力をもってはいないかな?」

 唐突すぎて心構えができず、思わず顔を背けてしまう。

「あるんだね?」

 

「仮にその子が特別な能力を持っていたとしても、それは部外者が深入りしていいものではないわよ」

 ナヒーダが横から口を挟む。

 

『今日はここまでね』

『えー! クレー、もっとお話ききたい!』

『ふふっ、また今度いらっしゃい。歓迎するわ』

『絶対だからね!』

 

「……少し長居してしまったみたいだね。今日のところは切り上げるとするよ」

 そしてアルベドとクレーは帰っていった。

 

 

 

「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫よ。わたくしが観察した限り、彼らは悪意を持っていた訳ではないわ」

「悪意はなくとも、実害はあったのでは」

「でもわたくしの渡した自動防御はきちんと動作したでしょう?」

「動作してあれか……」

 爆弾が炸裂する瞬間、緑色のバリアが爆弾の周囲を覆う様子が僅かに見えた。

 俺と部屋の両方が無事なのは恐らく、ある程度爆風が軽減されていたからだろう。

 

 気づかぬうちに気疲れしていたらしく、ドッと疲れが込み上げてくる。

「なんだかつかれた。頭痛い」

「ほら、おいでなさい」

 ソファに横になり、ナヒーダの膝へ頭を乗せる。

 彼女の脚は肉付きが良く柔らかい。

 

「……眼帯の男の件もあるし、モンドから移動した方がいいのだろうか」

「小雨すらを恐れた炎スライムは、やがて海へ飛び込んでしまうの。あまり怖がってばかりいても良い結果は得られないものよ」

 そういって、また小さな手が額を撫でる。

 目を優し気に細め、子をあやすかのように薄く微笑む彼女。

 その落ち着き具合は、あれこれ不安に感じている俺とは比べ物にもならない。

 これが年上の包容力というやつか。

 

 

「そういえば、ナヒーダが居なくてスメールは問題ないのか?」

「わたくしはあくまでもアーカーシャ端末を動かすだけの存在だったわ。そしてわたくしがわたくしのダミーを作る際に、神の心と呼ばれるものを埋め込んだの。その神の心が置いてある限り、アーカーシャ端末は正常に動作する」

「その神の心を誰かが持ち出す可能性は?」

「わたくしが居たあの鳥籠は、わたくし以外には開くことが出来ないように権限を書き換えた。だから、わたくしを外に出そうとでもしない限り、誰もわたくしの不在に気が付くことすらしないでしょうね」

 

「……きみはスメールへ帰りたいと思ってる?」

「帰りたくないと言えば嘘になってしまうけれども、でもそれを嘘とするならば、帰りたいと言うのもまた嘘になってしまうわ」

 彼女は思い悩みながら言葉を続ける。

「スメールには沢山の問題がある。わたくしは神としてそれを放っておきたくはない。……でもモンドは神が不在でも十分にやっていけているもの」

 

 胸の上に置いていた手を、誰かが握った。

「なによりも、わたくしにとって今の生活はとても掛け替えのないものなの。絶対に手放したくないと思えるほどにね」

 それが誰であるかはいうまでもない。

 

「俺もきみに会えてよかったと思ってるよ」

 握られていない方の手を、彼女の顔に伸ばす。

 その柔らかい頬を撫でればくすぐったそうに笑った。

 そうして今日も、何気ない時間が過ぎていく。

 

 



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6. ウィンドブルーム祭

「おー。上半身だけで操作していては左右に滑って墜落する。逆に下半身だけだと傾いて墜落する。基本原理は飛行機と同じなんだな」

 

 ウィンドブルーム祭、風花祭ともよばれるそれを迎えた街で、俺は風に乗って空を飛ぶ人々を眺めて感想を呟く。

 ナヒーダも風の翼を借りて挑戦するが、ふらふらと左右にふらつき、そして旋回しようとした際にバランスを崩し墜落した。

 先に体験を終えた俺は、滑空用に備え付けられた台のそばに座り込んでその姿を見守っている。

 

「……いえ、きっとわたくしの運動神経が足りないだけで、この方法で飛べるはず」

「こういうのはむしろ、下手に考えるタイプほどドツボに嵌るから面白いな」

 ナヒーダは何度も挑戦するが、毎回同じようにスピンして墜落する。

 ちょうどライト兄弟が嵌っていたような部類の問題点に彼女も嵌っていた。

 

 

 風の翼体験教室を後にして、二人並んで街を歩く。

 

「おかしいわ。どうしても風から滑り落ちてしまうの」

「上半身に集中しすぎて下半身が硬直していた。それが原因じゃないか?」

「でも細かい操作を考えれば上半身に集中した方が効率的でしょう」

「なら次は逆に下半身だけで操作してみるといい。今度は左右に滑らない代わりに、傾きを復元できずに堕ちるはずだ」

「そうね。実現不可能な案を試しておくことも、学びの一つだもの」

 

 街は賑やかに花で彩られ、吹き抜ける緩やかな風と共に、華やかな音楽が聞こえている。

 無数の出店と何時もよりも増えた雑踏が、春の暖かい陽気の下でまさにお祭りらしさを醸し出す。

 

「……花神誕祭を思い出すわ」

「花神? そんな祭りもあるんだな」

「ええ。花神誕祭とは、花神であるナブ・マリカッタが、先代草神であるマハールッカデヴァータの誕生日を祝ったことに由来するの」

「花神誕祭という名前なのに、花神は祝う側なのか」

 

 スメールは学芸が制限されているらしいが、その祭りはどのようなものなのだろうか。

 流石に祭りの日ぐらいは許されるのか、それともそれすらできず寂しいものなのか。

 

「ちなみにマハールッカデヴァータ亡き後は、クラクサナリデビの誕生日として受け継がれたのよ」

「クラクサ……、って」

 彼女の顔を見れば、"正解"と言いたげに微笑んでいる。

「気づいた? わたくしの誕生日よ」

「そうか、忘れないようにしないとな」

「期待しているわね」

「ハードルをあげないでくれ」

 

 

「あっ、ナヒーダおねえちゃんと黒いおにいちゃん!」

 歩き続けると、赤くて小さい姿がやってきた。

 

「こんにちは、クレー」

「待て。その抱えている危険物をどうにかしろ!」

「ボンボン爆弾のこと?」

 クレーはこれ見よがしに爆弾を差しだす。

 それを見て俺は後ずさる。

 

 ジリジリと下がる俺、ジリジリと迫るクレー。

 赤い小悪魔は面白がって余計に目を輝かせる。

「よーし! いっけー、ボンボン爆弾「クレー!!」……ジンおねえちゃん」

 長身の女性が駆けよって、爆弾を取り上げた。

 

「クレー、私は言ったよな。もしその爆弾を使ったら祭りの期間中、ずっと反省室だと」

「ごめんなさい! でも、まだなげてないよ?」

「そうか。だがクレー、正直に言え。もし私が止めていなかったらどうしていた?」

「……反省室に行ってくる」

 クレーはトボトボと歩き去って行く。

 

「はぁ。まったくあいつは。……君たち、怪我はないな。私は西風騎士団のジンだ。もし何か問題があれば騎士団まで連絡してくれ」

 そういってクレーを追いかけるように長身の女性も去って行った。

 

 

 

 祭りを見て回る途中、ナヒーダに手をひかれ、花屋へと入ることとなった。

 

「ウィンドブルーム祭では、大切な人に『風の花』というものを贈るのよ。でも風の花が具体的に何の花を指すものなのかは分からないの」

「ということはある程度は好きな花を贈っていいわけか。だからこんなに種類が用意されていると」

 様々な種類、様々な色の花が置いてあるので、どれを選ぶかによってその人のセンスが現れるのだろう。

 

「わたくしは蒲公英の花を選ぶわ」

「じゃあ俺が選ぶのは風車アスターかな。きみに似合いそうだし」

 

「……やっぱりもう少し成長して欲しいのかしら」

「へぇ、そういう意味があるんだ」

「否定しないのね」

 小さなナヒーダは、問い詰めるかのようにジッと見つめてくる。

 

「別に肯定もしないよ。今のきみも好きだし」

 それを聞いた彼女は恥ずかしそうに、そして嬉しそうに目を外した。誤魔化せたな。

 

「で、この白い蒲公英の意味は何なんだ?」

「ふふっ、教えてあげないわ! ……でもヒントを出すなら、白い蒲公英は珍しいの。それこそ、それを求めて探さないと見つからないくらいに」

「それってほぼ答えを言っているようなものだったりする?」

「どうかしらね」

 彼女は楽しそうに笑う。

 

 

 昼過ぎには、混雑を避けて少し遅めの昼食を取った。

 場所は『鹿狩り』の二階テラス席。

 丁度、モンドへ到着した日に食べたものと同じだ。

 

「もうモンドに来て一か月ほどになるのか」

「そうね。でも毎日が新鮮で刺激に溢れているから、まだ一か月しか経っていないだなんて信じられないという思いと、もう一か月経ってしまったという思いが半分半分」

「内容が濃くて多彩だから、長くもあり短くもある不思議な感覚だな。でも考えてみれば、雪山探索に行き来含めて十日近く掛けているし、ちょくちょく依頼を受けて外へ出ているからこの街に居る実日数はさらに短いのか」

 

 中学や高校の、学校に入学したての頃のあの感じに近い。

 まあ言わば俺たちはモンド新入生とでも言うべき存在だし、間違ってはいないのだろう。

 

「そういえばそろそろもう一度、雪山へ行ってみたいわ」

「たしか雪葬の都の近郊と、星蛍の洞窟だっけ。近郊って方は雪山の向こう側だし、次はもう少し食料を持って行かないと」

「氷を解いた際に現れた木も、もう一度見てみたいの」

「ああ、あの白銀の木」

 飯を食べながら、簡単に雪山探索の計画を練っていく。

 

 

 

 夕方、景色を見るために城壁の上へあがる。

 周りを見れば、ここはこの時間、ロマンティックな雰囲気を過ごしたい人々が集っているようだ。

 俺たちは昼間に買った小さな花束を交換し、夕暮れの風を浴びながら風景を眺める。

 

「ねぇ」

「却下」

「わたくし、まだ何も言ってないのに」

「こういう場面において、きみの行動はワンパターンだった」

 流石にこんなに人々に囲まれた状況であれこれしたくはない。

 

「なら、驚かせないといけないわね」

 そういって、彼女は頬に顔を寄せてくる。

 彼女にとって身長の差など無意味だ。

 ふわりとわずかに宙へ浮かぶと、頬にキスをした。

 

 その細く柔らかい綿毛のような髪が、風になびいて鼻をくすぐり、彼女の優しい香りを運んでくる。

 そこへ混じる彼女の唇の暖かさは、まるで春の日差しのようだった。

 

 

「これは誓いよ。ところで先日わたくしが何と言ったか覚えているかしら」

「……"誓いであるためには双方が行う必要がある"」

「正解よ。じゃあ、期待しているわね」

 

 彼女は俺の頬にキスをした。そして彼女は、"双方が同じことをしろ"という。

 それはつまり、俺から彼女の頬にキスをしなくてはならない、ということだ。

「やられた……」

 ほんの二手で俺は完全に詰まされた。

 

 

 

「……わたくしは眠るわ」

 軽く夕食を食べて家へと戻った。

 今日は祭日ということで、この祭り期間限定というアップルフラワー酒を少量ながら二人で飲んだ。

 そして就寝の時間になると、ナヒーダはわざわざ"眠る"と口に出しながら腕の中に潜り込んできた訳だが。

 

「わたくしは今、眠ったの」

 わざとらしいセリフに冷汗が流れる。

 

「ところで、わたくしは誓いの証をまだ貰えてない気がするのだけれど、次に目を開くまでには貰えていると信じていいのかしら?」

 長い耳をピコピコと軽く揺らしながら、期待と不満が半々といった感じの声色で彼女は言う。

 

「はぁ…」

 無視するのは流石に気が引けるのでさっさと済ませてしまおう。

 そう、意を決して頬に顔を近づける。

「ふふっ。息が掛かってくすぐったい」

「寝ているんじゃなかったのか」

 子猫がじゃれるように身じろぐ彼女。

 細く柔らかく、若干癖のある髪がベッドへ広がった。

 

「ええ、寝ているわ。だからこれは全て寝言よ。ふふっ」

「あまり揶揄うようなら、こちらにも手はあるからな」

「あら、どうするのかしら」

「後悔するなよ?」

 ここまで手玉に取られると復讐したくなる。

 

「えっ?」

 目の前で揺れる彼女の長い耳、その先端を咥える。

 軽くキスするように何度も、何度も耳の先端を食む。

 そして彼女の減らず口が完全に沈黙したのを確認してから、その赤く染まった頬に口づけを落とした。

 

 



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7. フィンドニールの頂上へ

 アカツキワイナリーから龍眠の谷を経由して、雪葬の都近郊へとやってきた。

 今回の目的は、冒険者協会の玉霞さんに教えてもらった二か所の探索。

 

「これか」

 たしかに妙な青色の植物が生えている。

 彼女の推測が正しいならば、この付近にも奇妙な氷があるはずだ。

 そしてそれを溶かすことで頂上への道を閉ざす異様な猛吹雪を越えることができるかもしれない。

 

 周囲を見ればどでかい人型機械が、俺たちを囲うように何台も座っている。

「もしかしてこのロボットって動いたりする?」

「どうやら装置と連動しているみたい。少し待っていて」

 ナヒーダは無力化するためにロボットに触れて回った。

 

「これで大丈夫よ」

「んじゃ、あとは俺の役目か」

 スマホ端末を利用し、元素石碑というものに氷元素を吹き付けていく。

 すると氷の床が崩れ落ち、その穴を覗き込めば下方に例の奇妙な氷が見えた。

 

 ナヒーダに頼んで地下へ降り、念のため地上と同様にロボットを無効化すると、周囲の赤い岩を利用して奇妙な氷を溶かす。

「また出たな」

 溶けた氷から現れた球体に触れれば、やはり飛び去って行く。

 

 

 

 一度雪山の外へ出て野宿し、雪葬の都の近郊付近から雪山を登り直すことで星蛍の洞窟へ。

 

「これはまた、とんでもない」

 山の内部には広大な地下空間が広がっていた。

 

「マグマだまりがそのまま洞窟になったのか」

 たしかアイスランドあたりのスリーヌカギガル火山がその例だ。

 だからまあ、あり得ないものではないのだろうが、ここまでの規模となると圧倒される。

 

 下へ下へと降りていけば、例の氷は見つかった。

 氷に近づく。

 

 

「Hu hu hu hu」

 

 黒い仮面、白いローブ、謎の杖、そして雪色のバリア。

 以前に出会ったものの色違いがそこにいた。

 

「炎元素を使ってバリアを割ってちょうだい! その後はわたくしが!」

 以前苦戦したあとに、こいつの対処法は聞いている。

 どうやら纏っているバリアがほぼ本体であり、それさえ割ってしまえばほぼ無力化できるらしい。

 

 動き自体は早くない。

 しかし頭上から狙われるとどうしようもない。

「くっそ!」

 脳天に直撃した氷柱を緑色のバリアが防ぐ。

 衝撃で飛びかける意識を食い止める。

 

 『戻りなさい』という声でナヒーダの近くへ下がり、バリア用のエネルギーを充填しなおしてもらうと、また相手へ突撃する。

 それは格好良さもなにもない泥仕合だった。

 

 

「……ごめんなさい。神の心があれば、もっとやりようはあったのだけれど」

 どうにか白い魔術師を撃退できたが、目に見える怪我は負わずに済んだものの、バリアを貫通した衝撃はダメージを蓄積させた。

「怪我をしたわけじゃないから大丈夫だ」

 多少強がりが入ってはいるが、まだ動ける。

 

「とりあえず氷を溶かそう」

 気を紛らわすために率先して周囲を探索し、三つ目の奇妙な氷も溶かすことに成功する。

 これで情報のある場所は全て回ったことになるので、一度吹雪の様子を見に行くこととする。

 

 コンパスを見ながら星蛍の洞窟を登っていくと、都合よく旧宮側の出口を見つけることができた。

 後から気づいたが、山に埋まる鉱石によって磁気異常が生じて方位が狂っていたので、その点でも運が良かった。

 

 

 

 頂上への道を閉ざす吹雪は消えていた。

 

「ここまで来たらこの先まで行ってみたいわ。いいかしら?」

「前人未踏だといえるのは吹雪が消えたばかりの今ぐらいだろうし、先を越されない内に行ってみようか」

 

 ナヒーダに助けてもらいながら、山の中を通る洞窟山道を、休み休みほぼ垂直に登っていく。

 これは明らかに何らかの遺跡であり、どうやらここはかつて滅びたという国と関りがあるようだ。

 

 洞窟を抜けた先には、杭のような形をした巨大な柱が鎮座している。

 それを見たナヒーダが「これは」と意味深な言葉をこぼした。

「で、これはいったい何なんだ?」

 そう問いかけるが、返事は無い。

 

「……害はないでしょう」

 彼女はしばらく考え込んでから、そう述べた。

 

 

「どうやらわたくしたちが見つけた球体が、再度凍ってしまったようね。もう一度溶かす必要があるわ」

 

 彼女の言に従ってまた赤い岩を探し、奇妙な氷へぶつけにいく。

 最初の一つは丁重に登って作業をしたが、残り二つはナヒーダに植物で投げて貰った。

 コンピュータじみた能力を持つ彼女なら弾道計算はお手の物。……ただし本人の身体で投げない限りは。

 

 球体を一つ解凍するたびに、謎の柱は修復されていく。

 そして三つすべての氷を溶かせば、ひときわ大きな地響きと共に柱の根元の氷が砕け、柱は空高くへと登っていった。

 

「結局これはなんだったんだ?」

「寒天の釘よ。シャール・フィンドニールを滅ぼしたとされるもの」

「えぇ…、そんなのを修復して大丈夫だったのか?」

「おそらく大丈夫」

 本当に大丈夫なのか不安だが、なぜか彼女はあまり語りたくなさそうなので黙っておく。

 

 

 杭の登った跡地を覗き込むと、そこには大きな扉と共に財宝が隠されていた。

「雪山の謎と、隠された財宝。まるでお伽噺みたいだ」

「ええ。本当にお宝が隠されているだなんて思わなかったの。風に揺られた蒲公英の種が新天地を見つけたときは、きっとこんな気持ちなのね」

 

「それじゃあ記念に写真を残そうか」

 二人で宝箱に乗っかり、笑顔で記念撮影をする。

 

 モンド城下を出発してからで考えると、今回の旅はもう一週間近くになる。

 一度雪山の外へ抜けたのでずっと銀世界の中で過ごした訳ではないが、時には彼女の力でシェルターを作って宿泊したり、食料温存のために食べ物を集めたりと、それなりに苦労した。

 その努力が報われて、まるで冒険譚かのようにお宝へと辿り着けたのだから、嬉しくないはずがない。

 

 

 宝の次は、氷の下へ埋もれていた大きな扉。

 恐る恐るその扉をくぐると、その先は天井の一部が開けていて空を見ることのできる、半地下状の大きな洞窟となっていた。

 ナヒーダによればここは、かつて滅びた国であるフィンドニールの祭儀場であるらしい。

 その祭壇には大きな祭礼用の剣が納められていた。

 

 扉を出て宝箱の前まで戻る。

 

「この上が本当の頂上だけど、行かなくていいのか?」

 財宝を見つけた場所は窪地となっていて、山頂の中央ではあるが頂上とは少し異なる。

 しかしこれ以上登る場合は吹雪の中、延々と断崖絶壁を上がることとなるので、壁登り用の装備でも持ってこないことには難しい。

 

「見える限りでも、ここから上は本当に過酷な登山となるのではないかしら。それにもうすでに大冒険をしたのだから、これ以上を望んでは欲張りになってしまうもの。帰りましょ?」

 食料も心もとないし荷物も増えたので、これ以上の登頂は現実的ではない。

 そのことが彼女も分かっていたのだろう。

 

 二人で手を繋いで、その場を去った。

 

 

 麓まで一気に降りることは難しいので、途中でビバークをする。

「植物を地面から生やしてテント代わりにできるってやっぱり便利だな」

「便利な女、というやつかしら?」

「それ、どこから覚えてきたんだ?」

 たぶん小説からなんだろうけど。

 

「ふふっ。わたくしが居てよかったでしょう」

「ああ、本当に助かってるよ」

 笑い合いながら二人寄り添う。

 

 彼女には本当に助けられている。

 そして、彼女が困難に立ち向かう時のその眼差し。

 相手を"倒す"という明確な意図が読み取れるのに、相手を害そうという攻撃性は読み取れないその、まるでスポーツ選手かのような真っすぐな眼差し。

 璃沙郊で見たときから変わらぬそれに、俺は心を奪われた。

 

 ただ、男女の関係かと言われると少し疑念を抱く。

 

 決して、女性としての魅力を感じていない訳ではない。

 だが俺は同時に、頼りになる妹、実年齢的にいえば姉、という感情も抱いてしまっている。

 ……それを彼女も、何となしに感じ取っているようだ。

 

 

 

 拠点へ帰還し冒険者協会の玉霞さんに報告すると、報告書として本を書いて欲しいと言われた。

「報酬は十分に出す。その貴重な体験を残すことを一考してくれ」

 

「わたくしが書いてみたいわ」

 ナヒーダは執筆に意欲的な態度を示す。

 まあ、知恵の神を自称する彼女がそれに興味を持つのは当然のことなのだろう。

 

 財宝は目録だけ作成し、玉霞さんへ預けることにした。

 引きずることのできる雪原ならともかく、平地を長々と運ぶ気にはなれなかったのと、玉霞さんがそれを研究したいと言ったためだ。

 帰離原で得た金銭がまだ残っているのもあり、俺たちは財宝自体には執着がない。

 

 

 順調だったこの旅が転機を迎えたのは翌日、冒険者拠点を出発した日の深夜だった。

 

 



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8. ノイズの秘密と、決別

 ノイズが走る。

 

 頭が割れるように痛い。

 体調が悪いなかで思考を強制されるごとき、頭脳労働に伴う痛み。

 

 まるで体内を寄生虫が蠢いている、体の中を掻き回されるような、生理的不快感。

 

 小さな腕が何かを求めて伸びている。

 何かを掴もうと必死に腕を伸ばす姿が見えてくる。

 それは俺の腹を貫通し、俺の腹を引き裂き、その向こう側へと手を伸ばす。

 

 そしてついに、その顔がハッキリと見えた。

 

 

 

「……ナヒーダ」

 ビクリと、言葉に反応し大きく身体を痙攣させ、しかし彼女は寝たふりを続ける。

 

「ナヒーダ」

 もう一度呼び掛ける。

「寝たふりは止めろ」

 

 彼女は観念したように、目を下へ向けたまま起き上がる。

 それが申し訳無さそうなのか、言い訳を考えているのかは分からない。

 

「俺の能力を勝手に使ってるな」

「……えぇ」

 消え入りそうな声で彼女は答える。

 

「なぜ秘密にしていた」

「……」

「話せないならここでお別れだ」

「っ!?」

 

 ナヒーダは『ごめんなさい』と繰り返すだけ。

 それすらも、ひっくひっくと吃逆を起こし、まともに発声できていない。

 ……見た目だけでなく中身まで子供に思えてしまう。

 

「正直に答えろ。睡眠時に俺の勝手に能力が暴発する危険がある、というのは嘘か?」

「うっ、嘘、ではな、っないわ、っ」

「本当に危険なのか?」

「……っ、……っ」

「危険というほどではないんだな」

「……っ」

 

 危険かという問いには、だんまりで答えない。

 推測するなら、無意識的にある程度、俺は自身の能力を制御できているのだろう。

 

「そうか。じゃあな」

 服の裾を掴まれる。

「ナヒーダ」

 怒りを込めて名前を呼ぶと、手を離した。

 

 

 

 休憩を挟まない強行軍をして、荷物を取りに家へ帰る。

 足が痛んでも無理やりに歩き続ける。

 

 道中、少し後ろをナヒーダが無言で付いてくる。

 歩幅の違うその光景は、モンド城下を通る頃には周囲の注目の的となったが、無視して歩く。

 

 家へ入るとナヒーダは無言で立ち尽くした。

 俺は必要なもの、何が必要かは道中で散々考えてきた、を拾って家の外への扉を開ける。

 

 そして付いて来ようとするナヒーダを遮って扉を閉めた。

 彼女はそれ以上、付いてはこなかった。

 

 

 扉を閉める直前、最後に見えたのは、悲痛な笑顔だった。

 

 

 

 

 今、俺は酒場にいる。ここなら次の朝まで過ごせるからだ。

 酒を一杯、彼女が居れば飲めないほどに強い酒を一杯頼み、明日の予定を考える。

 寝不足と過度な運動で身体は重いが、頭は妙に冴えていて、どうにか眠らずに済んでいる。

 

 そこへ思わぬ来客があった。

 

「よう、色男。今日はどうしたんだ?」

 眼帯をしたキザな男。ガイア。

 

「街で噂になってるぜ。妹を捨てたってな」

「間違ってはいない」

「なぜだ?」

 

 なぜ拒絶したかと言えば、頭の中を勝手にいじくり回されてるような拒絶感があったからだ。

 

 今まで見ていたノイズ掛かった独特な夢は彼女が原因だと推測されるし、これは彼女の反応からして当たりだろう。

 記憶に残る情景から判断するに、ナヒーダは俺の能力を利用し、恐らく元世界の電子データを集めていた。

 さらにその負荷は俺の脳へ負担を掛け、妙な頭痛を含む体調不良の原因となっていたと。

 

 無暗に元世界の知識を吸い上げられることへの危機感もあった。

 もし現代兵器の具体的な知識が流出したりすれば、テイワットは激変する可能性がある。

 相談も無しに勝手にそのようなことをされることにも、心理的な嫌悪感を持っている。

 

 ……ただ一番ショックだったのは、俺が苦しんでいることに気付いてない、もしくは気付いて放置されていたことかもしれない。

 

 

「考え直せよ。それともなんだ、お前は一時の怒りで親しい相手を捨てるほど幼稚だったか?」

 返答する様子のない俺を見て、彼は言葉を続けた。

 煽りによって彼が得られるものはないはず。だからこれは、敢えて怒らせることで冷静にさせよう、という意図なのだろう。

 随分とお節介なやつ。

 

「別に怒ってる訳じゃない。ただ、しばらく離れることも必要だと思っただけだ」

「そうか? 俺には冷静さを欠いているように見えるが」

「まあ……そうかもな」

 酒に口をつける。

 

「時間が立つほど亀裂は越えにくくなるぜ。さっさと帰ってやりな」

 "帰れ"。

 その言葉を聞くと、思わず、帰らないための理由を探してしまう。

「……あいつは怒られた経験が少ない」

 酒をまた一口。

 

「知識はあるけど、実体験としての社会経験が少ないんだ」

「それが彼女のため、と言うのは無しだぜ。それはただの自己擁護だ」

 帰らない理由を探してしまうのは、俺自身にも後ろめたい部分があるからだろう。

 

「……あいつは一人で過ごしてきた。生きていくだけなら十分できる」

「だが子供だろ?」

「背は小さいが、そんな年じゃない」

 

「ほぅ……」

 それを聞いてガイアは考え込む。

 

 

「……騎士団が彼女を確保した。どうやら身投げしようとしていたらしい」

 その言葉には現実味が無かった。

 いや、正確に言えばそれが現実だと受け止めることができなかった。

 

「伝言は "あなたがわたくしを忘れてくれますように" だそうだ」

 

 俺はそれが彼女を傷つけると気付いていたはずだ。

 にもかかわらずその選択肢を選んだのは。

 

「彼女は帰宅させてある。これで帰らないなら俺はお前を軽蔑するぜ」

 そう言い残してガイアは去っていく。

 

 俺はゆっくり息を吐くと、残った酒を飲み干して席を立つ。

 しかし呼吸は落ち着こうとも、胸の重苦しさは消えるはずもない。

 

 

 

 家に帰れば、ナヒーダは毛布にくるまってベッドの上に顔を伏せていた。

 言いたいこと、伝えたいことはあるが、しかし言葉は纏まらない。

 

 声を掛けないままにソファへと座る。

 どうしようか考えている内に、気付けば眠りに落ちた。

 もう限界だったのだろう。

 

 

 

 

 翌日、目を覚ます。

 彼女の姿を探せば、昨夜とまったく変わらぬままに、まだ毛布の中でうずくまっている。

 その姿を横目に立ち上がりドアに手を掛けると、ノブを回す音に反応して毛布が立ち上がった。

 

「……出ていく訳じゃない。飯を買ってくるだけだ」

 そう言葉を掛けて扉をくぐる。

 少し時間が欲しかった。

 

 

 買い物から戻ってくると、毛布から出たナヒーダがベッドに腰掛けていた。

 彼女の分の朝飯をベッドに置く。

 

「……で、なぜ秘密で他人の能力を使っていたんだ」

 様子が落ち着いたし、聡明な彼女なら考えをまとめているだろうと、同じ質問を投げかける。

 

「……後ろめたかったからだわ」

「なぜ?」

「……勝手に使ったから」

「そうだ。俺はきみの所有物じゃない」

 まず盗用した。のちに盗用だと自覚して、それを隠蔽した。

 彼女が今まで黙っていた理由は、そんなところじゃないだろうか。

 

「ごめんなさい」

 彼女は涙を堪えながら謝る。

 

「きみは異界の知識を漁ることに没頭して気づかなかったのかもしれないが、あれは俺に負担を掛けるんだ」

 頭痛、吐き気、言いようもない嫌悪感。

 出会って最初の頃は、その兆候があったにもかかわらず、負担は小さいものだった。

 恐らく彼女は調子に乗って、収集する情報量を次第に引き上げたのだろう。

 

「ごめんなさいっ」

 涙が決壊し、とめどなく流れていく。

 しかしその涙を拭く権利など俺にはない。

 

 彼女の嗚咽を聞きながら、時間が過ぎるのをただただ待ち続けた。

 

 

 

「身投げしようとしてたと聞いたけど、本当か?」

 時間が経ち、彼女の様子が再び落ち着いたのを見て質問を投げる。

 今でも信じがたいが、ガイアはそう言っていた。

 

「……ええ。何も知らない"新しいわたくし"を生み出して消えようと思っていたわ」

 自殺未遂を肯定されるとは思わなかった。

 

 非常に重い。

 言葉が、そして心が。

 

「それはつまり、俺と出会わなければよかった、という意味か?」

「……」

 彼女は沈黙する。

 

「そうか、それはすまなかった。今からきみは自由だ。俺など気にせずに生きていくといい」

 ここが関係の潮時だと察し、俺は出ていく支度をしようとソファから立ち上がる。

 ガイアには怒られるかもしれないが、彼女が俺を拒むなら、仕方がなかったのだと思う。

 

 

「苦しいの!!」

 ナヒーダは勢いよく立ち上がり、そう叫んだ。

「あなたとの出会いを否定なんてしたくない! でも、あなたに嫌われるくらいなら消えてしまいたい! ……もう、わたくしには何もわからないの……」

 立ち尽くして、ボロボロと、両目から大粒の涙を溢す。

 

 その姿に、衝撃を受けた。

 俺は無意識的に、彼女は社会経験がないだけで、人知を超えた絶対的な精神を持つものだと思い込んでいた。

 500年も閉じ込められていたというわりには平然としている、精神的化け物だと思っていた。

 

 しかしもうその姿には、今まで幻視していたような大きな姿は見えなかった。

 ただただ等身大の彼女が居た。

 賢いのに変なところで抜けていて、不必要なほど義理堅くて。

 あれこれと悩み抱え込んでしまうような、小さな神さまがそこに居た。

 

 

「わたくしは! わたくしはっ!」

 彼女は言葉が纏まらないまま、ぐしゃぐしゃに濡らした顔で、無理やりにでも言葉を続けようとしている。

 ……なんで俺はこんなにも怒っていたのだろうか。そう思うほどに、熱が引いていた。

 

「俺はきみに会えてよかったよ。……だから、消えて欲しいだなんて絶対に言わない」

「でも! っでも!」

 ひっくひっくと喉を鳴らし始めた。

 

「別にもう怒ってない。きみを嫌ってなんかいないから、大丈夫」

 彼女を正面から抱き締め、その後頭部をゆっくりと撫でる。

 すると、俺の胸に顔を埋めて、痛いほどに強く抱き返してきた。

 少し遅れて泣き声が響く。

 

 

 

 

 寝て起きると夕方。ふたりしてソファで眠っていた。

 たしか、長いこと立ち続けて足が疲れたので、ナヒーダを抱いたままソファに崩れ落ちたのだった。

 

「なひーだお姉ちゃーん。だいじょうぶー?」

 扉越しに響く、この声はクレーか。

 ……ということはクレーの耳に入るほど今回の件が広まっているということだ。

 今回の件がどの程度、今後に響くか。

 街の評判を思っても頭が痛い。

 

 

 ソファから起きて扉へ向かおうとすると、悲痛な表情のナヒーダがギュッと服の裾を握ってくる。

 どうやら今回の件で、置いて行かれることにトラウマができてしまったらしい。

 

 自分の不甲斐なさに心が引っ掻きまわされる思いがする。

 それを誤魔化す、もしくは八つ当たりするように、彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

 

 



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9. 綿毛の行き場

 少し関係が変わった。

 

 理由もなく抱き合って寝るようなことは無くなり、ベッドの上では距離を取るようになった。

 ただ、朝には必ず、彼女は俺の服を掴みながら眠っている。

 

 勝手に能力を使ったことを悔いているので、彼女は反省を示すため自主的に距離を取る。

 でも俺が勝手に元の世界へ帰ってしまうのも怖い。

 だから置いて行かれないように、俺が眠ると服を掴む。

 

 

 こんなことをするぐらいなら『不安だから一緒に寝たい』と言えばいいのに何故。

 いや、俺も同じだ。

 請われずともこちらから許可を与えればいいのに、何故。

 

 真実を告白すれば罰を免除されるというのに、沈黙を貫いてしまう人もいる。

 しかしそれもまた、他者との触れ合いや摩擦があってこそ生まれる"人間性"そのものなのだろう。

 これは"人の持つ愚かさ"とも言い換えられるが。

 

「はぁ…」

 ひとつ溜息を吐き、服を掴む彼女の手を解くと、うっかり二度寝しても解けぬよう、指を絡めて握ってやる。

 彼女はこれを見るたびに『許されてる』と理解しているはず。

 

 あの時は泣き叫ぶ彼女の余りにも子供っぽい様子や、今まで彼女に抱いていた"頼れる年上"という印象の崩壊にショックを受けて思わず許してしまった。

 俺はそのこと自体を後悔している訳ではないが、安易に許して有耶無耶にしたところで、結局はこうして関係が拗れているので、もう少し対話を重ねるべきだったとは思う。

 

 

「はぁ……」

 もう一度溜息を吐き、彼女の寝顔を見つめる。

 こんなにも可愛らしいのに、中に詰まっているのは可愛らしさ以外の何かだ。

 大人っぽいという印象が壊れても、相変わらず見た目と中身が一致しない。

 

 ふと今は何時ごろかと周りを見渡せば、蒲公英とアスターの押し花が目に留まった。

 

 

 

「ねぇ、デートがしたいわ」

 二度寝から目が覚めると、彼女が久々に我儘を言い出した。

 なので昼食を兼ねて街を散歩することにした。

 

 部屋を出る際は必ず、彼女が先に出て扉を抑え、そして彼女が扉を閉める。

 その理由は何となく察している。

 扉を支える彼女は薄く微笑んでいるが、やはり目元には硬さがあった。

 

 

 街へと出ると、彼女は腕にしがみ付いてくる。

 

 歩きながら、俺は口に出した。

 ガイアにも語ったように、一度距離を取る必要があると思ったから。

「なあ、俺たちはここで別れた方がいいんじゃないか?」

「分かれても同じ部屋へ戻るのだから意味が無いわ」

 離さないと言わんばかりに、腕を抱く力が強くなる。

 

 聡明な彼女はその意味が違うことを理解している。だが理解してない振りをした。

 その目は焦点の合わないままに虚空を見つめている。

 おそらく必死に考えを巡らせ、俺の言葉の意図や、対処法を探っているのだろう。

 

「言い方が悪かった。きみがもう俺のお守り役を嫌になってるんじゃないかと思っただけだ」

「わたくしがあなたを嫌いになるわけがない」

 やや早口気味かつ平坦に彼女は言い切った。

 

 

 わざわざ理解できない振りをしたことも加味すれば、"別れ"というのも地雷であるようだ。

 知恵の神を自称する彼女が、助言や要望すら口にできず、ただ理解を拒んで問題から逃げる様子を見せる。

 これはとんでもなく深いトラウマがある証左であるわけで。

 

「それならいいんだ。……俺だって、きみに嫌われているなら、さっさと消えてしまいたいんだからな」

 その言葉に、彼女は小さく驚いた表情をして見上げてくる。

 

「なんだよその顔は。俺もきみと一緒に居たいし、きみに嫌われたくないとは思ってるんだ」

「……そう、なの」

 現実を受け止め切れていない、夢心地な様子で生返事をした。

 彼女は変に他人の感情に疎い部分があるので、自分を慕われているだなんて考えもしなかったのだろう。

 

 ……俺は地雷から足を放せたことに内心で安堵する。

 問題の先送りであることは自覚している。

 

 

 

 ナヒーダを腕にぶら下げたまま街を歩けば、食事処のテラス席に見覚えのある姿が見えた。

 優雅に茶を飲む彼はこちらに気が付くと、"こっちへ来い"と手を招く。

 

「なにやら覚えのある奴らが喧嘩したと耳にしてな」

 呼ばれた俺たちが席に着くと、鍾離さんはここに居る理由を語った。

 璃月にまで知られる俺たちの喧嘩っていったい何なのか。

「だが、俺がすべきことはなさそうだ」

 腕を抱かれたままの姿を見られたからだろうか。少し恥ずかしいが仕方もない。

 

 食事を終えて彼は立ち上がる。

「一つ言うならば。……お前たちは喧嘩できるほどに仲が良いのだ。この俺が羨むほどに」

 そして、若者を見守るかのように柔らかく微笑んだ。

 荘厳な雰囲気からは想像もできない優しい笑み。

 

「何か相談事があるなら、いつでも俺を訪ねて来るといい」

 そう言い残して去っていく。

 

 なお鍾離さんの食事代は俺たちが払った。

 最初は手間を取らせた駄賃として奢らせたのかと考えたが、あれは単純に支払い忘れたんじゃないかと思っている。

 ……ただその、頼りになるのか頼りにならないのか分からない微妙なラインが、彼の定めた彼の在り方なのかもしれない。

 

 

 食後は、行く当てもなく街を歩いた。

 

「そういえば、雪山の報告書は出来上がった?」

「ええ、大体の出来事は書き出してある。でもまだまだ書き直したい部分が多いわ」

「そこまで出来てるなら受理してくれると思うけど」

「これはわたくし達の冒険を綴った最初の本となるから、完璧に仕上げたいの」

「ああ、たしかにそうだな」

 実感はないが、ドラゴンスパインの謎の一つを解いたあれは、人に語れるような大冒険だったのだろう。

 

「あの後、他の冒険者も頂上へ到達したのかな」

「それはわたくしも気になるわね」

「冒険者を待つまでもなく玉霞さん本人が登っていそうだなぁ」

 あの人は支部長の姉だし。しかも冒険者で居たいからと役員職を蹴るレベルの。

 

「そうね。今度、聞きに行ってみましょうか」

「だな。あぁ、あと預けた宝物もこっちまで持ってきてくれると言ってたけど、もうそろそろかね」

「一通り目を通したけれど、詳しく見れば何か新しい発見があるかもしれないわね。楽しみだわ」

 

 お金が入っている方が換金する手間もなくて楽ではある。

 でもきちんとしたお宝が入っているならそれはそれで心躍るし、金銭的価値がなくとも、冒険で得た証としての価値は消えることはない。

 

 

 

 夕方ごろに城壁の上へ登る。

 この前のウィンドブルーム祭では賑わっていたここも、今は人影がなく寂しい場所だ。

 ボーっと、風を浴びながら、眼下に広がる景色を眺める。

 

 ふと視線を感じて横を見れば、彼女は俺を眺めていた。

「どうした?」

 声を掛けるが、すぐには返事が返ってこない。

 

「……手をつなぎましょう?」

 低い位置でハイタッチするかのごとく片手をかざす彼女。

 それに合わせて手を挙げると、指と指を絡めて握りしめてくる。

 

「この手には感謝しているの」

 すり寄せるように、彼女は頬に俺の手を持っていく。

 そして微睡む子猫のような微笑みを浮かべた。

「毎朝、あなたが握ってくれているこの手を見るたびに、わたくしは心が休まるの。まるで深海に沈んだわたくしを、引き上げてくれるよう」

 

 繋いだ彼女の手が、震え始める。

 

「……ごめんなさい。あなたに負担を掛けてるだなんて思っていなかった」

 彼女は顔を伏せた。

「あなたを裏切ってしまっているだなんて、認めたくなかった」

 俺の手に縋りつくように。

「ごめんなさい。……全てはわたくしが悪いのに、あなたに気を使わせてしまってごめんなさい」

 その手に雨を降らせながら。

「あなたの気遣いに甘えて罪を有耶無耶にするだなんて、知恵の神失格よね。でも、ダメだったの。口に出そうとすると、震えが止まらなくなるの」

 ポツリポツリと独白する。

 

 

「気遣いじゃなく、ただ問題を先送りしたかっただけだ。……俺も、どうすればいいのか分からないんだよ」

 彼女の震えは止まらない。

「確かに、きみの行いに気づいた当初は怒った」

 手を握る彼女の力が強まる。

「だが、納得もした。そうやって周りが見えなくなるのも、きみだから」

 旅の最初、好奇心のまま走り回って遭難したことを思い出す。

「俺はきみの変に社会性に欠けるところを含めて気に入ってるんだ」

 

 手のかかる妹、みたいな部分がある。……それは彼女の号泣を見て強まった。

 今の彼女は俺にとっていったい、何なのだろうか。

 

 

「きみは反省しているんだよな」

「でも、どうすればいいのか分からないの。ごめんなさい……」

 手の震えは収まったが、彼女の顔は見えないまま。

 

「なら、約束をしよう。きみはもう、勝手に俺の能力を使わない、と」

「約束するわ。わたくしはもう、あなたを裏切ったりはしない」

 

 彼女はやっと顔を上げた。縋るような、後悔に満ちた目だった。

 そこには、俺が見惚れたあの、どこまでも真っすぐな眼差しは見いだせなかった。

 

 

「……じゃあこの話はこれでお終い」

「いえ、だめよ。まだわたくしは何の償いもしていないもの」

 償いと言われても、どうしたらいいものか。

 

「なら、俺がきみを裏切っても、一度だけ、それを受け入れてほしい」

 彼女の手が震えだす。

「ただし! これはきみを置き去りにするようなことには使わない」

「……ええ。分かったわ。わたくしは、あなたの裏切りを一度だけ許す」

 彼女は神の立場を捨てきれていない。

 だから、この手札が必要となる時が来るかもしれない。

 

 

 手を繋いだまま、もう片手で、頭二つ分ほど低いその身体を抱き寄せる。

 化けの皮が剥がれた、最初から纏ってなどいなかったそれは、あまりにも小さい。

 

 そういえば、ここで花束を交換したんだったな。

 

 ……俺が彼女を怒れないのは、彼女をきちんと見ていないからだ。

 怒るだけ無駄な子供、人知を超えた大根の化け物。そういう思いもまだきっと、残っている。

 

 

「俺は、もう少しきみを見つめるよ」

「……わたくしは、もっと成長するわ」

 誓いとして、言葉を交わす。

 

 互いの間にある問題を帳消しにできた訳ではない。

 

 所詮は口約束でしかない、吹かれれば消える白い綿毛のような関係。

 だが、風向きの許す限りは寄り添っていたいと思う。

 

 

 

『今夜は一緒に眠らせてほしいの』

『いいよ、おいで』

 

 






次章は"[モンド一年目] 二人の距離"。遅れなければ4月初旬ぐらい
何気ない日常メインで進めつつ、花神誕日を取り扱う予定


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[モンド一年目] 二人の距離
1. 夢のあと


 

 朝起きると肩の上に顔が見えた。

「ナヒーダ、おはよう」

 軽い手つきで、ゆっくりとその頭を撫でる。

 

 能力の制御を彼女に委ねるだけであれば、手を繋ぐ程度の接触で十分であるらしい。

 だが彼女は仰向けで寝る俺の肩を枕に、そして脇腹へピッタリと寄り添うようにして眠っていて、……正直言うと少し暑い。

 

 彼女の目が開くと、まずは竈に薪を足し、のんびりお湯を沸かす。

 ここは夏でも夜が涼しいので僅かばかり火を焚いておいたが、昨夜は要らなかったかもしれない。

 

 モンドでの日々は今のところはそう代り映えない。

 時折アルベドが訪ねてきては、しばらくしてナヒーダに追い返されるぐらいだ。

 

 壁際には数か月ほど前に作った押し花が、綺麗な色を見せている。

 

 

 

 お湯が沸くまでの間に、寝起きで心地よさそうにウトウトする彼女の、その髪に櫛を通す。

 毛先の僅かな範囲から梳かし初めて、徐々に根元側へと範囲を広げていくようにと。

 ナヒーダの、細く柔らかく癖のある猫の毛のような長髪は、丁重に扱わないと酷いことになる。

 

 草の神である彼女は、やろうと思えば髪を植物の如く操って一瞬で髪を整えることができる。

 しかしそれをやらないのは、クレーから最低限の身だしなみの整え方を学んだためだ。

 人としての生活を身に着けたいから、あくまでも自らの能力は補助的に使うこととしたらしい。

 

 ただ、それを見ていた俺が興味本位で手伝ってからは、俺の手が空いているときは手入れをねだるようになった。

 きっとこれも彼女なりの甘え方なのだろう。

 

 

 お湯が沸いたらコーヒーを二杯淹れて、二人でソファに座る。

「んっ、おいし」

 お嬢様のような綺麗な姿勢でコップに口を付けて、彼女は小さく言葉をもらした。

 

「そういえば、せっかくソファがあるんだし映画が観たいな」

「映画?」

「カメラで撮影した演劇のことだ。きみはネット動画へアクセス出来ていたようだから、たまには元の世界の風景が恋しく思えて」

「……あなたの能力なのだから、あなたが使えるようにしなくてはね」

 彼女は若干乗り気じゃないながら、賛同の意は示してくれる。

 

「なにか問題があったりする?」

「いいえ。ただ、あなたが能力を使いこなすということは、元の世界に帰れるようになる可能性が高まるということだから」

「そのときは一緒に行けばいいんじゃないか」

「でも……」

 

「やっぱり神としての立場が捨てられない?」

「……ええ、スメールにはまだ放置できない問題があるもの。でも、それを解決できればきっと」

「そういうならまあ、少なくとも、それまでは待ってるよ」

 考えてみれば今更ふたりで元の世界へ戻っても問題が山積みなんだよな。

 ……最悪はもう、神さま系配信者とマネージャーで稼いでみようか。

 

 

 

 ネットワークへの接続を実現するために、まずは彼女がどうやって情報を集めていたかを確認した。

 

 前提として、ネットというものは、正確に言えば情報網ではなく通信網である。

 これは例えるなら、図書館に各々が本を読みに行くのではなく、図書館に申請すると本のコピーが自宅まで宅配されるもの。

 つまり自宅の住所を相手に公表しない限り、その図書館の位置を知っていても読みたい本を読むことはできない。

 

 当然ながら、彼女は異世界にこの"自宅"など持っていない。

 ではどうしたかと言うと、彼女は、通りすがった宅配途中の郵便物の住所を丸写しした。

 偽の申請書を図書館に郵送し、帰ってきた本のコピーを輸送途中で盗み取るという方法で、目的の本を手に入れた。

 なお基本的な文字データや情報プロトコルは俺のスマホ端末を勝手に解析して得たらしい。

 

 

「ごめんなさい……」

 怒られた記憶を思い出して彼女は萎む。

 その姿に対し『おいで』といって膝を叩くと、彼女はおずおずと膝に頭を乗せてきた。

 いつもとは逆に、俺が彼女を膝枕する形だ。

 

「……おしりを叩かれるのかと思ったわ」

「きみが望むというなら叩いてやろうか?」

 そういうと、彼女は尻を隠すように両手で覆う。

 小柄なわりに肉付きのいい臀部を抑えながら、もじもじと顔を赤らめるその様は。

 

「こんな時にばかり恥じらうのはやめてくれ」

「叩かないの?」

「叩けねぇよ!」

 代わりに頭をぐしゃぐしゃにしてやる。

 柔らかく癖のある、ふわふわとした髪が指に絡んだ。

 

 

 次にもう一つ、なぜ俺の能力に睡眠が必要なのかを調べる。

 睡眠とはあくまでも記憶整理に付随した精神状態であって、無意識であることが絶対条件とは限らないはず。

 そして分かったのは、俺の能力にはとんでもない量の情報処理が必要だということだった。

 

 量子脳理論に基づいて量子ビットを生成し、量子ビットを利用して疑似的な情報ワームホールを作成してと、ほんの僅かな情報を動かすだけでも膨大な情報処理が必要となる。

 その膨大な情報処理をするために脳はそれぞれ個別に動く必要があり、結果として、意識下では逆に能力の行使が難しい。

 

 ただその改善策の鍵はすでに渡されていた。

 あのウサギモドキだ。

 

 

 

 ソファに二人で肩を並べ、情報処理のある程度をウサギモドキに肩代わりさせて能力を行使する。

 ただしナヒーダが常にウサギモドキにエネルギーを送り込まないと即座に枯渇して停止してしまうため、ネットに接続できるのは彼女と居るときだけ。

 

 ウサギモドキは顔に当たる部分から光を発して、プロジェクター代わりに壁へ映像を投影した。

 流すのはアメリカの動画サイトに上がっている、著作権の切れてパブリックドメインとなった有名な古典映画。

「ぱっと思い付きで選んだけど、これ恋愛ドラマであると同時に戦争映画だし不適切だったな」

 

「わたくしは気にしないわ。この一場面だけでも驚きに満ちているもの」

「だから不適切だと思うんだよな。きみならここに出るような技術を再現できるだろ?」

「いいえ、テイワットの技術を応用してこれを模すことはできても、それは再現とは異なるわ。それに例えできたとしても、あなたが望まない限りはしない。……この"あなたを見ている"とはどういう意味なのかしら」

「たしか乾杯を意味する慣用句だから、ここでは"きみに乾杯"という意味だったと思う」

 

 彼女はすでに英語をある程度は理解できている。

 ただ基本的な文法や単語は理解できても、難しい単語やテイワットに無い単語、そして慣用句表現は情報不足で理解できていないらしい。

 あと発音はまったくダメだ。音声データは文字データより遥かに重いゆえに。

 

 

「とても面白かった。でも質問したいことが多すぎて破裂してしまいそう」

「だろうなぁ」

「主人公の素直じゃないところがあなたそっくりだったわ」

「なら俺は君に裏切られたんだな」

 映画の主人公は皮肉混じりにヒロインを突き放すが、それはヒロインが主人公を裏切ったという過去があるからだ。

 

「……ごめんなさい」

「よろしい」

 これに関しては彼女の自爆なので助けない。

 

「アルベドには、この能力を見せ札にしようか」

 あくまでも異世界の映像を見れる能力だと誤認させれば丁度いいだろう。

 バレない嘘をつくには『嘘は言っていないが本当の事も言っていない』という状態を維持するのが楽だ。

 嘘というよりは詐欺の部類かもしれないが。

 

「そうね。彼は諦める様子がないもの」

 アルベドは誠実で人当たりが良いのに人間関係自体にはわりと無頓着だ。

 だからクレーを出しにして押しかけては、何気ない会話に混ぜて執拗に能力や異界のことを聞き出そうとする。

 

 ひとまず異世界の動画を見せれば、そこに含まれる膨大な情報に気を取られて勝手に思考の深みへ嵌り込むだろう。

 彼自身がわりとヤバい技術を抱えてるみたいだし、そこへさらに技術を追加することになろうとも、危険度はそう変わらないと信じる。

 

 ああ、ネットが繋がったからには社会関係を整理しておかないとな。

 海外旅行した結果、手違いでもう日本へ帰ることができなくなった、と。

 ……連絡先データ、全部吹っ飛んでる。

 

 

 

 ふたりで話し合った結果、異界の情報に関しては俺が一元的に管理することで同意した。

 今後、彼女が直接的にインターネットに接続することはなく、あくまでも俺から副次的に得られる知識で満足する。

 それによって反省を示し続ける、そう彼女は言った。

 

「きみは俺の世界についてどこまで知ったんだ?」

「……わたくしが知れたことはそう多くないの」

「それは本当か?」

「本当よ。まだ言葉を理解しきれていないもの。……実は、言葉を理解出来たら読み解こうと思って情報を保存していたのだけれど、それももう破棄したわ」

 

「データを文章として復元するところまで辿り着いたってことは、とんでもない量の暗号化を越えたということだし、言葉も理解できていそうだけど」

「いいえ。暗号理解と言語理解は大きく違うの。暗号はそれを解けばいいだけのパズルだけれど、言語は膨大な言葉同士の繋がりを辿っていく終わりのない作業」

「でもある程度の基礎単語や文法を理解できれば、あとは意味を推測していくだけじゃないか?」

「ええ、そうね。でもそれには膨大な時間が必要でしょう? わたくしはまだその途中だったの」

 

 少し恥ずかしそうに彼女は続ける。

「……あと、その、あなたの世界の文学作品が面白くて」

「文学?」

「ええ。スメールよりも遥かに多くの作品があったものだから」

 

 確かに、彼女の知識体系は自然科学に基づいているが、ナヒーダの興味関心はむしろ人文科学に偏重しているように思えた。

 科学技術より文化や文学に飛びつくのも、それはそれで彼女らしいし、文学は速読すればいいものでもないから納得できる。

 文学を読むにも様々な前提知識が必要となるので、ある程度は他にも手を出しているのだろうが。……まあ、細かく問い詰めても意味はない。

 

 

 コーヒーをまた入れて飲みながら、二人で様々な動画を見る。

「ただの猫の映像がこんなにも価値を生むだなんて知らなかった。この動画サイトというものは興味深いわ」

「スメールにもネットに似たものがあるらしいけど、そこにこういったものはないのか?」

「アーカーシャはあくまでも知識を集積するものだもの。皆が自由に使えるものではないし、特に学芸に関するようなものは制限が厳しいの」

 

「じゃあそのアーカーシャを神の権限で好き勝手に改造してしまうというのは?」

「籠の中からではそれは出来なかったし、ここからでは遠すぎる。それに賢者にわたくし達のことが気付かれてしまうだろうから……」

「ということは、籠に引きこもっている振りをしながらアーカーシャの停止権限を盾に色々と交渉したり、というのも難しいな」

 窓の外へと目線を向ける。

 

 

「あっ、そういえばそろそろ銭湯に行きたいんだった」

「もうそんな時間なのね。……やっぱりお風呂も部屋に在るべきかしら」

 不穏な発言を適当に聞き流して風呂の支度をする。

 

「じゃあ行こうか」

 彼女と手を繋いで、二人で家の扉をくぐった。

 

 



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2. 雨天で休み

 今日は朝から雨が止まない。

 外に出るのもおっくうなので、二人でベッドの上でトランプ遊びをして過ごす。

 

 トランプを作るために、ウサギモドキに写真以外の印刷機能を追加して貰ったが、草の神だけあって、植物繊維によって生成される紙製品は高品質なものだ。

 きちんと厚紙、それもカードに成形済の状態で出力されるので、この分野においてはもはや現代家庭より便利と言える。

 

 

 手札を配りながら、ふと気付いた疑念を口に出す。

 

「……そういえば、最近カメラポーズをしないな」

 手から手札が滑り落ち、ベッドの上へとばらまかれた。

 彼女は衝撃的な事柄があると、身体制御を放棄して硬直する癖がある。

 自分の身体を使ってこなかったことと、思考に没頭しがちなことの二つが理由だろう。

 

「どうした?」

「いえ、なんでもないの。……なんでも」

 彼女は手札を拾い集める。

 今までの用例からすると、読心術……でもそれにしては他者の心理に疎いから、『心の声を盗み聴く』あたりだろうか。

 幸いにも、自分を隠すという必要性の薄かった彼女は、ポーカーが得意ではない。

 

 

 今やっているのは大富豪。

 多種のローカルルールを追加した上に、効果のないカードに効果を足したりしているので単純な運よりも頭を使う要素が多い。

「ねぇ、その…、賭けをしないかしら?」

「賭け?」

「そうよ。負けた方は勝った方の言うことをなんでも一つ聞くの」

 彼女は口元を手札で隠しながらそう言った。

 

 手札は互いに13枚で、残りは配られず山札に隠されている。

 だから自分の手札から相手の手札を推測することは難しい。

 だが彼女の言動から、たとえ口元を隠したところで、恐らくいい手札が揃っただろうことは推測できる。

 

「ああ、いいよ」

 そして。

 

「ふふっ。次の手番でわたくしの勝ちかしら」

「エクスチェンジ。ダブルで」

「え?」

 

 これはこのカードを出した枚数だけ、互いの手札をランダムに引き合って交換するという追加ルール。

 相手だけでなく自分の戦略も壊れるし、手に入るカードが良いものとも限らないので、普通に考えれば序盤に消費すべきカードだ。

 終盤に使用して、もし手札が8や2のみになってしまえば反則上がり以外の手がなくなり敗北するわけであるし。

 

「まって、これは、もしわたくしが……」

「いいから引け」

 俺は序盤に景気よく強カードを使い切ったので、何を引かれても問題ない。

 一方でナヒーダは終盤を見据えて丁重にカードを切っていたので、彼女の手札はぐちゃぐちゃに崩壊した。

 

 

 次の手札を配る。

「……きみは互いが最善手を打つことばかり想定するから、搦め手に弱いな」

「だって最初から勝ちを狙っていないだなんて予想もできないもの」

「自分の勝ちを狙うのではなく、相手の負けを狙っただけだよ。結果として勝ちへ結びつくのはどちらも同じだろ」

 

 ナヒーダは考えが回るにもかかわらず、相手の妨害などには非常に弱い。

 これは一人遊びばかりしていた弊害だろう。

 

 彼女の要望により、もう一度、同じ条件で再戦することとなった。

「ちなみに、きみが勝ったら何を要求していたんだ?」

 配られた手札を眺める。

 

「キスよ。わたくしの唇に、キスをしてもらうわ」

 

 ここでやっと、これは決して負けてはいけない勝負なのだと気づいた。

「……もう一つ聞きたい。この命令は"今日一日"みたいなものでもいいのか?」

「ええ。かまわないわ」

 

「ならきみは今日一日、配られた手札を読み上げてくれ」

「えっ!」

 

 

 

「ずるい、勝てるわけがないもの!」

 彼女は理不尽な勝負というものを経験したことが無いようで、一戦ごとにきつくなっていく制約に押しつぶされて不満を漏らす。

「最終的には出すカードを選ぶ権利すらなかったじゃない!」

「だって、それが一番確実だし」

 

 全力で頭を使って疲れたので、お湯を沸かしてコーヒーを淹れ、ソファに座る。

 すると、彼女もベッドから隣へと移動してきた。

 

「それで、わたくしに聞かせたい命令はなにかしら? 権利の放棄は許さないわ。それは勝者の義務だもの」

 不満が冷めないようで、唇を尖らせながら、僅かでも一矢報いようと言葉を漏らす。

 流石に可哀そうなことをしたかもしれない。

 

 

「じゃあ、代わりにきみの願い事をひとつ聞くよ」

 彼女はきょとんと目を丸くし、驚いた顔を浮かべる。

「……いいの?」

「ああ。だってきみは、俺の嫌がるようなことは選ばないだろ? 信じてるよ」

 しかしすぐさま思い悩むような、悔しそうな表情へと変わった。

 

「ずるいわ。それでは本当にしてもらいたいことを選べない」

「嫌がると分かっているなら諦めてはいかが?」

「それは嫌よ。そもそも、嫌がると推察はできるけれども、何故嫌がるのかは分からないもの。納得できないわ」

 そして問い詰めるかのように、だが不安の混じった眼差しで、ジッと見つめて来る。

 何と答えればいいだろうか。

 

「……きみはなぜ最初、購入したナツメヤシキャンディを食べなかったんだ? とても大切だったからだろ?」

「ならあなたは、わたくしを食べてくれるのかしら?」

「きみは食べ物ではないから分からないな」

 

「……腐ってしまうかもしれないわ」

 そう、不満気な顔で目線を外し、不貞腐れたような口調で言う。

 俺が彼女に"食べないまま腐らせては意味がない"と言ったことを引用しているのだろう。

 

「きみは食べ物ではない。だから、腐ったとしても俺は好きだよ」

 その言葉を聞いた彼女は、何も言わないまま、猫がすり寄るかのように肩へ顔を埋めてきた。

 誤魔化しの意味合いも大きいが、こういう反応が可愛いのもあって思わず揶揄ってしまう。

 

 

 

「そろそろお昼ご飯にしましょ? 今日はわたくしが作りたいの」

「俺が作ると全てがペペロンチーノになるからなあ」

 人間は唐辛子、ガーリック、オリーブオイルがあれば生きていける。

 というのは流石に冗談だが、実際、俺がまだホームシックにならないのはそれらの食材がテイワットでも手に入るからだろう。

 

「あなたが作る料理は、少し辛すぎることがある」

「唐辛子は産地によって辛さが大きく変わるから、難しいんだ」

「でもあの辛さであなたは平気なのね」

「いや? 俺にとっても普通に辛すぎて舌が痛む」

「なら何故……」

 久々に困惑と呆れの混じった表情を見ることができた。

 

 

「なにを作るんだ?」

 料理をする彼女を、彼女の両肩に両肘を乗せるようにして、後ろから軽く抱きしめる。

 並んで立つと俺の肘の高さに彼女の肩が来るので、肘を置いて腕を回すと身長差が丁度いい。

「お肉があるからコトレッタを作ろうと思うの」

「揚げ焼き?」

「ええ。そうよ」

 首の前に回された腕に、少し恥ずかしそうにするナヒーダ。

 

「じゃあパン粉用意しようか?」

「ええ、お願いね」

 

 氷元素を利用した冷凍庫へ凍らせたパンを取りに行き、それをおろし金に掛ける。

 パン粉が用意できた頃には彼女が肉の下ごしらえを終えているので、パルメザンチーズと一緒に渡す。

「ありがとう」

「後は任せた」

 あとはできることもないので、いくつかの洗い物だけして、邪魔しない様ソファで待った。

 

 

 料理が出来上がると、食事用に購入した二人用の、やや小さくお洒落なダイニングテーブルへ移動する。

 これは本格的に料理をするようになってから、ナヒーダが気に入って選んだものだ。

 

「きみの作る料理は味のブレがほとんどないから凄いな」

「わたくしはあなたの作る料理も好きよ。その日ごとに違いがあって飽きないもの」

「俺は雑なだけだよ。でも、俺もきみも同じく目分量なのに、ここまで違いがあるのに驚いた」

「わたくしは少しズルをしているから」

 

 ナヒーダは自らの能力を使って精密に計測をしているらしく、分量や火加減が常に完璧に近い。

 生焼けの心配がなく丁度良い火入れをしてくれるので、とてつもなく助かっている。

 しいて問題点を挙げるなら、凝り性で手間暇を掛け過ぎることがあることぐらいだろう。

 

 

 食事をしながら雑談を続ける。

「そういえば、願いごとはなにか決まった?」

「……あなたの国の言葉が知りたいの。それがわたくしの願いごと」

 そういって、彼女は与えられた権利で朗読をせがんだ。

 言葉をある程度分かるようになったものの、文字だけでは発音がまったく分からないからだ。

 

 どの作品がいいかを問うと、俺が選べと彼女は言う。

 何を選ぶかを含めて楽しみたいらしい。

 

「銀河鉄道の夜はもう読んだ?」

 そう問うと、彼女は『まだ』だと答える。

「じゃあこれにしようか」

 

 

 

 雨の止まぬ昼下がり。

 ベッドに伏せて、スマホ端末を頼りに、ゆっくりと彼女に読み聞かせる。

 時折、彼女の分からない言葉があるので、その時は一時中断して発音や意味を教える。

 俺ですら意味を知らない単語もあるが、それは調べるのではなく、二人であれこれと意味を推察して楽しむ。

 

 アルベドの言うところの"テイワットの法則"は、来訪者である俺にテイワットでの共通語を教えてくれたが、しかしテイワットにあるその他無数の言語は教えてくれなかった。

 またそれはあまりにも自然に第一言語を置き換えていたので、日本語を失ってしまったかと思ったほどだ。

 だが意識すればきちんと日本語で喋ることができるし、こうして彼女に言葉を教えることもできる。

 

 

「とても面白かったわ」

「俺がこの作品を選んだのは、詩的表現をきみが気に入りそうだからだ。楽しんでもらえたなら嬉しいよ」

「ええ。気に入った。まるで宝石箱を覗き込んだかのような、美しくも儚い、素敵な作品だったの」

 そう述べた彼女が横合いから強く抱き着いてきて、俺は横向きに転がされる。

 

「どうした?」

「……カムパネルラは死んでしまった。それはもう会えないということよ」

 結末が気に入らなかったらしい。

 

「籠の中だったとはいえ、500年も生きていれば死別ぐらい経験していそうだと思ったけど」

「死別と言えるほど深い関係を持ったのは、あなたくらいだもの」

「それで怖くなったと」

 彼女は無言で答える。

 

「それに関しては俺からは何も言えないな。残されるのはきみで、辛いのもきみのはずだろうから」

 思い起こされるのは、彼女が身投げしようとした事。

 もうあんなことをさせるつもりはない。

「……もし、わたくしと生きて欲しいと言ったら、あなたは……その……」

「べつに寿命に関しては長かろうと短かろうと構わない。こだわりはないよ」

 不老になったところで不死ではないだろうし、とは口に出さない。

 

 

 彼女は彼女なりに死の重さや繊細さを理解しているようで、それ以上は話さなかった。

 雨の音に耳を澄ませながら、ただただゆっくりと、二人で抱き合う時間を過ごす。

 

 



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3. ガイアと飲み

「飲みにいかないか? ただし、二人きりで、だ」

 

 時刻は夕方少し前、もうすぐ暗くなり始める頃。場所は自宅前。

 そこで俺は長身眼帯の男、ガイアに肩を組まれていた。

 

「これでも俺は西風騎士団に属している。やろうと思えば、権力を盾に拘束してもいいんだぜ? ……別に取って食おうという訳じゃない。ただ、ちょいと貸してくれれば、彼を無事に帰そう」

 そう、俺ではなく、ナヒーダに向けて語る彼。

 完全に力関係を把握されている。

 

 ナヒーダはしばし考え込んだ後、ひとつのキーホルダーを差し出した。

「……これを持っていきなさい」

 俺はそのキーホルダーを受け取るとポケットへ入れる。

 

「よし、交渉成立だな。じゃあ行こうか」

 そういう間も彼は俺の肩を抱いている。

 流石にこれは馴れ馴れしいというよりも、むさ苦しい。

 

 

 

「お前さん、強い酒も行ける口だったよな」

 ナヒーダの視界から俺たちが消えると、俺はようやく解放された。

「ああ。だが今回はいったいどういう理由で俺を拉致ったんだ?」

「まあ待て。それは着いてからのお楽しみだ」

 

 彼について歩けば、一軒の居酒屋に案内される。

「これキャバクラってやつじゃないか?」

「なんだ、怖気づいたのか?」

「そうではないけどさ。なぜキャバクラなんだ?」

 

「何故だって? そりゃ、面白そうだからだ」

 ガイアは俺を、というよりは俺の奥に誰かを、見つめるかのように笑いかけてきた。

 

 

 席に着くと彼は店員に幾つかの指示を出す。

 

「慣れてるんだな」

「個人的な仕事で使うからな。酒と女が揃えば大抵のことは聞き出せる」

 完全にロックオンされている。

 しかもそれを隠さないというのは、俺がプレッシャーなどに弱いただの一般人だと看破されているのだろう。

 ……酒を飲む前から胃が痛い。

 

 そしてすぐに女性と酒がやってくる。

 そこには今となっては懐かしいような膨らみがあった。

 ナヒーダの持つ唯一の欠点と言っていいだろう。いや、持っていないが。

 

 俺は適当に笑って合わせながら、酒を飲む。

 しかし彼女たちはガイアと申し合わせているようで、俺個人の話をあれこれと喋らせようとする。

 仕方なくできる限り当たり障りのない話をするが、酒を入れながら頭を使い続けるので精神力が削られていく。

 

「おっと、グラスが空じゃないか。これはいかん。俺のおごりなんだ、どんどん飲め」

 そういって酒を継ぎ足すガイア。

 ふと見れば、彼は先程から全く酒に手を付けていない。

 起死回生の一手があるとしたらここだな。

「おいおい、誘ってくれたあんたが酒を飲まないでどうする。……仕方ないから飲み比べでもしないか?」

 

「……いいぜ? ただもし俺が勝ったら分かっているよな?」

 恐らく互いの飲んだ酒の量を勘案したのだろう。

 また、さっさと喋れないレベルにまで酔いつぶれてしまおうという俺の考えも読まれている。

 だがここで退いたところでどうしようもない。

「ああ」

 

 

 そして互いに同量の蒸留酒を飲んだ訳だが。

「なんだ? まさか俺に同情してくれるのか? お前さんはいいやつだな!」

 ガイアが潰れた。というか壊れた。

 

 女性たちには彼と二人きりで飲みたいと伝えて退いて貰っている。

 なお俺は飲みすぎで気持ち悪い。

 

「よし友よ、俺たちの出会いに今一度、乾杯をしよう!」

 そういいながら、無理やり肩を組んでくる。

「もうそろそろ帰らないと……」

「おお、それは悪かった! じゃあ、お開きとしようじゃあないか」

 念のために水を貰い、水で乾杯して彼にも飲ませておく。

 

 

「そういえば前回はありがとうな。お陰で一応、ナヒーダと仲直りできたよ」

「別に礼はいい。ただ……」

 そこで彼は突如、素面に戻った。

「そろそろ話してくれないか。彼女の正体について」

 

 俺はその温度差についていけずフリーズする。

 

「悪いようにはしない。守るためにも事情は知りたいのさ」

 そう真剣な眼差しで見つめている。

 

 俺はしばし悩んで、ここまでなら話していいだろうというラインを定めた。

「彼女は貴い身分にある人で、牢獄に閉じ込められて生活していた。だから身分を捨てて逃げてきたんだ」

「ほう、そうか」

 真剣な眼差しで相手を見つめ続けるガイア。……ただしその目線の先に俺は居ない。

 

 これは話すだけ無駄かもしれないが、せっかくナヒーダと離れたのだから、彼女が居るとできない頼みごとをしておく。

「ああそうだ。覚えていたらでいいんだが、ひとつ、手配を頼みたい。誕生日会を開きたくてな……」

 

 

 

 

 ガイアは店員に任せて俺は店を出た。

 強い酒で火照った体に夜風が気持ちいい。

 

 自宅へと戻り扉を開けると、灯りも付けずに、扉の先で佇む彼女が迎え入れてくれた。

 

「……おかえりなさい。楽しめたかしら?」

 真っ暗な闇に浮かぶ真っ白な髪。

 俺は一瞬、それが幽霊かと思ってしまって言葉を失う。

 暗いので表情が良く見えない。

 

「こっちへきて」

 まるで怪談話のような言い草で、彼女は俺を呼ぶ。

「ここへ座って」

 灯りも付けないままに、ベッドのふちに腰かけるよう指示された。

 疑念を抱きつつも素直に座る。

 

 突如、ベッドへ押し倒される。

 彼女の体重は軽いが、それでも大型犬と同程度だ。

 伸し掛かるようにすれば俺を倒すことぐらいはできた。

 

 

「あなたはわたくしの思いを踏みにじるような行為をしたのよ。……罰を受けても仕方ないのではないかしら?」

 

 彼女が首筋に吸い付いてくる。

「痛っ! ナヒーダ、痛い!」

 内出血痕を残すための、強いキス。

 

「ふふっ。またスカーフが必要ね」

 首筋から僅かに唇を離し、吐息の掛かる距離からそう言った。

 嫉妬よりも単純な歓喜を感じさせる声色だが、むしろそのせいで怖さがにじみ出ている。

 

 首筋に感じていた彼女の吐息が、顔の前へ移動する。

 重力に従って垂れた柔らかな髪の毛は、まるで俺を食べようというかのように、肩や頬を撫でまわす。

「キスをして、わたくしを好きだと言ってくれればやめるわ。当然、手ではダメよ。スピノクロコが小鳥で満足することはないの」

 

 息が掛かるほどの間近な距離で、俺を見下ろして、首筋を撫でながらそう言う彼女。

 その表情はよく見えないが、声色からして微笑んでいるだろうことは分かった。

 

 

 

 その姿に、反骨心が浮かんでくる。

 別に、飲みに連れていかれたこと自体は彼女への裏切りではないはずだ。

 少なくとも俺の意思であのような店を選んだわけではない。

 

「えっ、やだよ」

「えっ?」

 衝撃的な事柄があると、彼女は身体制御を放棄して硬直する癖がある。

 ショックを受けたその隙を突き、彼女を抱くようにして横に転がると、体勢を入れ替えた。

 今度は俺が上、彼女が下。

 

 ナヒーダの服の首元を開いて露出させ、彼女の首に吸い付く。

「あっ、やっ!」

 首元というのは生物的な急所でありパーソナルスペースの最たるものだ。

 絶対に眼で見えない部分であるために、いやでも想像力を掻き立てられる。

 あれこれと好奇心が強い彼女は想像力も強いだろうし、それも相まって首元は彼女の弱点のひとつかもしれない。

 

 流石に内出血を起こすほど強く吸おうとは思えなかったが、唇が触れるたびに彼女の腰は浮き上がった。

 

 

「ナヒーダ?」

 首筋を責め立てること幾度か。

 気付けば彼女は体温を高くして、"ふっ!ふっ!"と、ひきつけを起こすように短く鋭い呼吸を繰り返している。

 暗くて見えないが、体温の高さが血流に起因するなら、その顔は真っ赤だと推測できる。

 

 おそらく過度な精神的興奮や緊張が自律神経を崩したのだろう。

 不慣れで制御の効きにくい身体と、過度で過敏な想像力の組み合わせは相性が悪いらしい。

 

「ナヒーダ、ゆっくりと息を吐け。ゆっくりとだ。……ああ、泣くな!」

 "ひっくひっく"と、声を漏らしはじめた彼女をしばらく宥める。

 

 

 

「……キスをして」

「はいはい」

 恐らく首元という意味ではないし、手ではダメとも言っていたので、彼女の髪をかき上げて額にキスをする。

 

「いじわる」

「ごめんな」

 彼女が関係を急くのは、やはり、置いて行かれないか不安なのだろう。

 かき上げた髪を戻すように、額を軽く撫でた。

 

 いっそ、彼女に求められるままに溺れてしまおうかと考える。

 きっとそれは蕩けるほどに甘い夢を得られるものだ。

 しかしまあ、長続きするものでもないと思うが。

 

 

 ベッドから立ち上がり部屋の灯りを燈す。

 そこでふと、ポケットに入っているものを思い出した。

「これ返すよ」

 髪を散らばせる彼女の手に、飲みに行く前に渡されたキーホルダーを返却する。

 

「それ、なんだったんだ? やっぱり盗聴器かなにかだったり?」

「だって、心配だったのだもの。なのに……」

 どうやら当たりだったらしい。

 

「ちなみにどこまで聞いてた?」

「途中から聞いていないわ。わたくしが辛いだけで、聞くだけ無駄だった」

 つまり最後の辺りは聞いていないのだろう。

 都合よくもあり、都合悪くもあり。

 

「きみは、俺がきみの思いを踏みにじったと言ったな。それについては謝る。ごめん」

「…………」

 謝罪は受け入れる気は無いと、彼女にしては珍しい怒り顔で、態度を示した。

 

「でもあれは俺の本意ではなかったことをきみは知っているだろう?」

「嘘よ。とても楽しそうに女性と話していたもの」

「ガイアの顔を立てるため、仕方なく喋っていただけだ。きみと話す方がずっと楽しいよ」

 実際、あれは精神を削る会話だった。

 冗談抜きにもう勘弁してほしい。

 

「……わたくしはあんな風にあなたの口を軽くできない」

「きみは俺と居るとき、必ずしも口が軽いわけではないけど、俺と居てつまらなかった?」

「……いいえ」

「それと同じだ。俺はきみと居る方がずっと楽しい」

 これは本当の話だ。

 

 

 まだ不満の残る顔で、彼女はボーっと天井を見つめる。

 少し冷静になった頭であれこれと思慮を巡らせているのだろう。

 

「恋ではないが、俺はきみが好きだよ」

 さきほど彼女は、"好きだと言え"と、要望を述べていた。

 だから家族としての立場から、その言葉を贈った。

 

「……恋ではない、という言葉が余計なの」

「"愛であることは否定しない"という意味もある。が、分かった」

 彼女は目を向けてくれないので、その目線に割り込むように目を合わせる。

 

「俺はきみが好きだよ」

「わたくしは、あなたが好きなの」

 苦しそうに彼女は自らの胸を手で抑える。

 

 正直に言って俺はまだ、彼女との距離を測りかねている。

 子供じみた言動と、大人びた言動。

 その温度差が、俺の気持ちをかき乱してしまった。

 

 

 

 

 翌日、二人で手を繋いで街を歩く。……手を放すことが許可されていないため。

 半ば命令を下すように彼女は『手を繋ぎなさい』と言ったが、恐らくそれは、それで昨日のことをチャラにするという意味も含まれるのだろう。含まれて欲しい。

 

「よう、奇遇だな。……スカーフが似合ってるじゃないか」

 偶然出会ったという風にガイアがやってくると、俺の首元をみて目つきを鋭くした。

 

「あら、昨日はありがとう。お陰でこの子も楽しめたみたいよ」

「そりゃあよかった。俺としても奮発した甲斐がある」

 ニコニコと微笑みながら言葉を交わす二人に、俺は傍観を決め込む。

 口を挟むと絶対に碌なことにならない。

 

 

「ああ、そうだ」

 彼は俺の耳元へ口を寄せると、そこから先は小声で続けた。

「…手配は承った…」

 そう一言を残して去って行く。

 

 



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4. 首輪付き

「はい」

 突如、首輪を差し出される。

 朝っぱらから俺は、理不尽と対面していた。

 

「えっと、これはなんだ?」

「あなた専用のアーカーシャ端末よ。ある程度までなら、離れていてもあなたと会話ができるの」

「……もしかして位置情報も分かる?」

「……」

 ああ、図星か。

 

 彼女は文化的なシンボル性をある程度は理解しているはずであり、首輪という意匠の意味合いも分かっているはずだ。

 であればきっと、この前にガイアと飲みに行った時のことをまだ怒っているということだろう。

 

 

「はぁ…」

 溜息をひとつ吐いて、首輪を開く。

「すこし後ろを向いていてくれ」

 俺たちはベッドの上でそれぞれ座り込んでいる。

 彼女が背を見せたのを確認すると、俺は首輪を付けた。……彼女に。

 

「えっ?」

 彼女は両手で首輪へ触れ、それが何であるかを確認する。

 

「これはあなたにっ」

 俺は彼女が言葉を言い切る前に、無防備に広げられた両脇に腕を通し、後ろへ引き倒すようにしてその身体を抱き寄せる。

「……なあ、相手を所有物扱いするのなら、自分が所有物扱いされる覚悟もできているんだよな?」

 

 そしてそのまま、片手を伸ばして彼女の顎を捕まえた。

「まって、これは家族の証であって別に所有物扱いという訳では……、あっ」

 小さな顎を指先で掴んだまま、余った指を彼女の首輪の隙間へ入れて、首筋を軽く撫でる。

 それにより、驚きに丸く開いていたその瞳は、耐える様に細められた。

 仰向けに引き倒したため、彼女の表情を上から見ることができる。

 

「ナヒーダ。首輪の意図が俺の所有物化だというなら、怒るよ」

「……だって、あなたが盗られてしまうと思って」

 神妙な顔、真剣な表情で、涙をポロポロとこぼす。

「あなたが"わたくしのもの"だと主張しなくては、誰かに盗られてしまうもの」

 

「ではきみは、"きみは俺のものだ"という証拠として、こうやって首輪を付けて歩かせるとしても受け入れるのか」

「ええ、そうよ」

「スメールに戻ったとしてもか? きっと神としての立場が損なわれるぞ?」

「……その覚悟はしているわ。そもそも、わたくしの神としての立場なんて、猫の足音や魚の呼吸とおなじだもの」

 そんな覚悟は持たないで欲しかった。

 

 

 ため息をついて心を落ち着かせながら、彼女の拘束を解いてベッドの上で向かい合う。

 社会的な羞恥心を少しぐらいは理解してもらいたいため、首輪は付けたままに。

 

「ナヒーダ、首輪のことをきみは怒られたい? それとも人と神の視点の違いとして受け入れられたい?」

「……怒ってほしい」

「それはなぜだ?」

「だって後者は、あなたとわたくしの心的なギャップを明確とする、ということでしょう? わたくしは"心の距離"と呼ばれるものが、これ以上に開くのは嫌なの」

 

 彼女は人の心に疎い部分もあるが、その分、よく考え続けている。

 そういった部分が彼女の大人っぽさに繋がってはいるのだろう。

 

「分かった。……だがさて、きみはどう怒られたい?」

「それをわたくしに聞かれても、困ってしまうわ」

「俺はそれ以上に困っているんだよな」

 彼女が怒られることを受け入れた時点で、反省させるという目的は大まかに達成されている訳だし。

 だから、これ以上なにをすればいいのか悩む。

 

「……じゃあ、わたくしの耳を触ってはどうかしら」

「……それ、罰を受けようという表情じゃないんだが」

 俺の言葉を受けて、今は驚いた顔でペタペタと自らの顔を触る彼女であるが、その直前は呆けたような甘い表情をしていた。

 目の焦点が遠くを見ていたことから、前の記憶を思い出していた、つまり罰の記憶を思い出していたはずなのに、しかし口元は緩んで笑っていた。

 

「耳を触られるのが好きなのか?」

 その質問に彼女はしばらく沈黙していたが、『こくり』と、顔を赤くして小さく頷く。

 

 

「…おいで」

 別に、罰が必ずしも罰則的である必要はない。

 半分ほど諦めを含みながらも、俺は彼女の考えを尊重することにした。

 

 おずおずと近寄ってきた彼女の背中に片手を回し、もう片手を耳へと伸ばす。

 敏感な先端付近を避けて、根元側から、マッサージするように触ってやる。

「ん……」

 人差し指と親指でぐりぐりと根元を揉みほぐすと、小さく鼻息が漏れた。

 そのまま親指の腹を広く押し付けつつ、優しくパンを捏ねるような微妙な力加減でゆっくりと耳を擦る。

 

 リズムを維持したまましばらく続けて慣れさせると、徐々に彼女の瞼が落ちてくる。

「寝ていいよ」

 そっと人差し指の背を長い耳の内側に沿わせ、少し力加減とペースを弱めて、耳を指で抱くように触れていく。

 そうして、彼女が眠りに落ちるまで撫で続けた。

 

 正面から抱き着くようにして眠る彼女に声を掛ける。

「……不安にさせてごめんな」

 

 

 

 

「起きてちょうだい」

 頭を撫でられて目が覚める。

 いつしか俺まで眠りに落ちていたらしい。

 窓の影から日の高さを推測すれば、昼頃であるようだ。

 

「あの首輪を作り直してみたの。どうかしら?」

 ほぼネックレスに見える、あまり目立ちすぎないチョーカーがそこにはあった。

 欠伸を一つかみ殺してから感想を述べる。

 

「おぉ、随分と綺麗な仕上がりじゃん。……でも四六時中、音声が筒抜けだとかは困るんだけど」

「小さくする代わりに機能を削ったの。だからこれに居場所が分かる以外の機能は無いわ」

 居場所か。まぁ正直、今の生活なら問題はなさそうだ。

 これがなくとも、互いの位置が分からないことなんてほぼない。

 しいて言えば、銭湯で風呂上りのタイミングを合わせるには便利かも、という程度。

 

 

「まって、後ろをむいて?」

 せっかくだし付けてみようと思ったが、彼女のその言葉に従って背を預けた。

 背後から抱きしめられるかのように、小さく丸い手が首筋をなぞる。

 

「ふふっ、似合ってるわよ。お揃いね」

 このチョーカーは、彼女の髪留めを模した小さなペンダントトップが付いている。

 走ったりした際に首元で跳ねても邪魔とならない小さなサイズではあるが、目ざとい人ならデザインの共通性に気づくだろう。

 ……実はこれ、意味合い的には首輪と大差ないのではないだろうか。

 

「……ありがとう」

 細く小さなチェーンなのに、やけに首元が締め付けられるような気がしてきた。

 贈り物としては嬉しいけれども、心情は複雑だ。

 

 しかし、これによって彼女の不安が安らぐというのなら、仕方のないことだろう。

 少なくとも首輪そのものを付けられるよりはマシだ。

 

 

 

 今一度、欠伸をかみ殺して、昼食の準備を始める。

「今日はペペロンチーノにしようか」

 

 フライパンで湯を沸かし、二人分のパスタを茹でる。

 その空き時間で、ニンジンの皮を垂直に立てたナイフの刃でガリガリと削り落とし、手持ちのまま切り分けて野菜スティックを一品作る。

 茹で上がったパスタにはオイルを振って取り皿に移し、空いたフライパンでペペロンチーノのオイルを作って、茹で汁の代わりにワインを振り水分を調整。

 ワインで塩を溶かしてパスタと絡めれば、ペペロンチーノと野菜スティックのセットが完成した。

 

 

「あなたは飽きないの?」

「料理に? それともこの生活?」

「……どちらについても聞きたいわ」

 

 野菜スティックに昨日作ったマヨネーズを付けながら、回答を思案する。

「この料理に関しては一人暮らしで染みついた習慣だから、飽きる飽きないとかは無いな」

 手間暇があまり掛からないので、何も考えずに無心で作り、無心で食べることが多かった。

 そのせいでもはや、息が苦しくなれば空気を吸うように、腹が減ればこれを食べてしまう。

 

「生活については?」

「それはむしろ、きみに聞きたいんだけど。モンドでの生活は飽きた?」

 

 俺たちは、色々な場所へ行けるという理由もあって冒険者稼業を始めた。

 とはいえそれも、ある程度は定番の行き先が決まっていて、常に新天地へ向かうようなものではない。

 後は、ここでの生活に慣れることを優先したために、効率性を重視して行動パターンが単調になっているというのもあるか。

 

「わたくしにとってはまだまだ驚きの日々よ。たとえ同じように思える日があったとしても、決して同じ日などあり得ないもの」

 俺の作った簡素な食事を食べながら、ダイニングテーブル越しに彼女は言う。

 互いの手元にはワインが一杯あり、食事というよりも酒のつまみに近いかもしれない。

「それに、仮に同じ日を繰り返したとしても、わたくしはそれを気に入ると思うの。……あなたはどう?」

 

 

「今の生活は、俺の世界でいうスローライフというやつに近いかな。さすがに全く同じ日を延々と繰り返すのは勘弁してもらいたいが、モンドでの暮らしはなんだかんだゆったりと変化があるから気に入ってるよ」

 まだ季節の巡りを一周すらしていないから判断を下すのは早計であるものの、何か月かを過ごしてきた中で、変わり映えのなさや生活リズムの遅さを苦に感じるようなことはなかった。

 

「ただ早いうちから生活パターンを固定しまうのもつまらない。今度、カフェ巡りでもして色々なデザートを食べてみようか」

「それは素晴らしい考えだわ! でも、あなたはあまり甘いものが好きではないでしょう?」

「俺は主にコーヒーが目当てだな。でも、量は食べないけど味は気になるので、ひとくちだけ味見させてくれると嬉しい」

「ええ、一緒に食べましょ! わたくしが食べさせてあげるわね」

 

 

 『それは遠慮する』『遠慮させない』という攻防をしながら、戻ることはない日々をまた一つ重ねた。

 

 



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5. アルベド上映会

 ネット機能を獲得してからしばらく。

 互いの都合が合わずひと月ほど間が空いたが、ついにアルベドと赤い悪魔がやってきた。

 

「頼むから俺から得た知識を無暗に広めないでくれよ」

「わかっているさ。ボク自身もあまり広めるべきでない知識を多く抱えているからね。そこは信頼してくれていい」

 

 部屋の灯りを落として、四人で三人掛けのソファに座った。

 クレーが真ん中、アルベドと俺はその両隣、そしてナヒーダは俺の膝の上へ。

 

 ナヒーダの座高は頭一つ分低いが、膝の上に乗せるとその差が埋まってしまう。

 なので俺は彼女の肩越しに画面を見る形となる。

 

 

 "きゃきゃ"と姦しい女子二人の頭越しに、男二人で会話をする。

「きみたちは随分と仲がいいんだね」

「今となっては唯一の家族だからな。あんたはどうなんだ?」

「うーん……。確かに、似たようなものかもね。ボクもたまにクレーを肩車したりするよ」

 

 今回、アルベド達に見せるのはファンタジーものの作品。

 虚実混ざれば情報を選別しにくいだろうし、クレーも居ることを加味すれば丁度いいだろうと選んだ。

 

 普段はあまり使わないが、今日は防音と音響を兼ねた追加装置を使う。

 これは彼女の居た籠を参考にしたものらしく、起動すると部屋の壁を覆い、内外の音を遮断する。

 本来は静かな環境が欲しいときに使おうと開発したらしいが、今は音響機能を組み込んでシアター用の装置となった。

 

 映画が始めると、音響とは無関係に賑やかとなる。

「いま見えたあれは炎元素を基として動作しているようだった。しかしそれだと矛盾が……」

「わぁ、すごい! クレーもあれやりたい!」

 見える映像を冷静に分析するアルベドと、思うが儘にはしゃぐクレー。

 

 ナヒーダは静かだが、しっかりと映像に魅入っている。

 俺は、映画が詰まらないわけではないが、アルベド達に気を張ってるのもあり少し疲れた。

 目の前でピコピコと揺れる耳を畳むようにして抑え、彼女の肩に顎を乗せる。

「…どうしたの?…」

 彼女が小声で話しかけてくる。

 こちらを見ようとするが、互いの頬がぶつかりあって振り向けない。

 わざわざ"疲れた"と言うまでもないと思い、抱く腕に少し力を込めて答える。

 

 首筋に顔が近いせいか、彼女がもぞもぞと何度か腰を動かした。

 すると嫌でも、彼女の肉付きの良い腰の感触に意識が向いてしまう。

「…動かないでくれ…」

 彼女の耳元でそう伝えると身を硬直させるようにして動きが止むが、代わりに彼女の腹へ回した腕がその呼吸の緊張を拾い始める。

 

 耳のすぐそばからも、"ふー、ふー"と、軽く押し殺したような鼻息が聞こえ、克明に伝わってくる緊張感。

 それを解そうと軽くお腹を撫でてみるが、びくんと背筋を伸ばすように身体を揺らし、鼻息が強くなった。

 完全に逆効果だったので、以後はただ抱き締めて自然に落ち着くのを待つ。

 

 

 

 しばらくして映画は終わる。

 ノルマは消化したしこれでお開きにしようとしたが、不満の出所はアルベドからではなかった。

 

「やだー! クレーもっと観たい!」

「別に構わないが、そういうワガママを言う子に見せる映画は決まっているからな?」

「えっ、何をみせてくれるの?」

 期待に満ちた目で見る彼女のために、次の映画を再生する。

 これは機会があればナヒーダにも見せてみたいと思っていた作品だ。

 

 

 その映画は何気ない日常から始まった。

 引っ越し先の新居も決まり、楽しそうに笑い合う家族。

 

 クレーとナヒーダは初めてみる日本家庭の映像に興味深そうな様子で見入っている。

 

 最初は小さな違和感だった。

 ドアが勝手に開くだとか、何も無しに物が落下するだとか。

 しかしその違和感は徐々にエスカレートしていく。

 

 ナヒーダは何となく察したようで、身体を横向きに変えてこちらへ抱き着いてくる。

 抱き着きながらも自らの肩越しにスクリーンを見ているが、これは最後まで画面を見ていられるのだろうか。

 

 クレーは不思議そうな顔をしていたが、ついにその姿がちらりと現れ、彼女は硬直した。

 アルベドは興味深そうに画面を眺めている。

 

 "それ"が姿を現すと、違和感に過ぎなかったものが恐怖へと変わる。

 主人公たちは無数の怪奇現象に追いつめられていく。

 そしてついに……、と思わせて何も起こらない。安堵した皆は、その直後に幽霊と直面した。

 

「あわわわわわ!」

 クレーが不思議な悲鳴を上げる。ナヒーダは展開に予想がついていたらしく、俺の胸に顔を埋めて画面を見ていない。

 

「じゃあここまでにしようか」

 そういって俺が再生を止めると、アルベドから文句が出た。

「ボクは続きが気になるのだけど」

「アルベドおにいちゃん! はやくかえろ!」

 しかし、クレーに引っ張られるようにして帰って行く。

 

 俺たちはソファからその背を見送った。

 

 

 

「ひどいのではないかしら」

 ナヒーダは、ペタリと伏せていた両耳を元に戻しながら、頬を膨らませてこちらを見上げてくる。

 上映中から変わらず横向きに抱き着いているが、今は少しずり落ちるようにして俺の両脚の間に腰を埋めている。

「怖がりだな」

「ええ、わたくしは怖がりよ。でもあのようなものを見せられては、仕方ないでしょう? 風に吹かれたキノコンは否が応でも流されゆくものなの!」

 

「……素直に認めるだなんてきみも成長したんだな」

 前までは神の威厳を気にしてなのか、道理を説いてなんだかんだ誤魔化そうとすることが多かった。

 それが今は自己の弱さを認め、神というよりも人として、社会的観点を受け入れている。

 

「そのような言葉では騙されないもの」

 そう愚痴る彼女が愛おしくて、思わず抱き締めた。

 肩を引き寄せるように抱かれた彼女は、小さく驚きを浮かべて見上げる。

 

「……どうしたのかしら?」

 観察力に優れる彼女は、いつもと様子が違うことに気づいて声を掛けてきた。

「本当に、きみも少しづつ成長しているんだなと思って」

「そうなの? 実感がないから、わたくしにはわからないわ」

「きみは人間性を理解できるようになってきているんじゃないか? 俺にはそう見えた」

 

 彼女にとっては他人事であった"平凡な人々の凡庸さ"を、彼女自身が認め始めている。

 それは神である彼女が、俺という"人"へ歩み寄っていることを意味するのだろう。

 

 

「そう言ってもらえるのは嬉しいわ。……でも、あなたは酷いことをした罰を受けるのよ」

 彼女の手が両肩に添えられる。

 綿毛に息を吹きかけようとするかのごとく、彼女の小さな唇が近づく。

 

 顔を動かして、それを鼻先で受けた。

 彼女は無言で不満気な、泣きそうな、怒っているような複雑な顔をする。

 

「……きみはナツメヤシキャンディだ」

 俺は一言、そう言葉にした。

 彼女は言葉の意味を理解したようで、不満気だけを表情に残す。

「本当に腐ってしまうかもしれないわ」

「それでも俺は好きだよ」

 あの時の問答をなぞるようにして答える。

 

 

 

 ずり落ちた彼女を両脚の隙間に降ろすと、両脇に腕を通して正面向きに抱きなおし、今度は彼女の頭に顎を乗せるようにして別の映画を観る。

 俺たちは二人は少なくともある程度は英語や日本語を理解できるので、アルベド達へ見せるには向いてないような、会話主体の作品でも楽しめる。

 

「ねえ」

「どうした?」

「いつになったら食べてくれるのかしら」

「きみが成長したらだな」

「それはいつ?」

「さぁ? 俺にもわからん」

 

 彼女は物理的に成長するわけではない。

 かといって精神的な成長に明確性はなど無い。

 

「……わたくしは不安なの。いつか置いて行かれるのではないか、って」

「別にそれは、キスしようが変わらないんじゃないか?」

「ええ、そうよ。だから、これはわたくしの不安を慰めるためのもの」

 そう真っすぐに言われると断りにくい。

 

「なら、俺がいいと思えたとき。そのときに、もしきみが求めてくれるならば、応じるよ」

「今はダメなの?」

「さすがに今は気分じゃない」

 

 

 『いじわる』と小さく呟く彼女。

 俺は言い訳をするように、抱く腕に力を込める。

 

「大切だから手を出せないというのは本当だからな?」

「でもキスぐらいいいじゃない」

「きみは好奇心が強いから、次第にエスカレートしていきそうで怖いんだよ」

「わたくしをなんだと思っているのかしら?」

「好奇心お化け」

 顔は見えずとも、不貞腐れたのは分かる。

 

「わたくしにだって分別ぐらいはあるわ」

「でも俺の能力を勝手に使ってた時もエスカレートしていったし」

「っ、……」

 それを聞いて彼女は言葉を失った。

 

「……ごめん、きみを追及したい訳じゃないんだ。無神経だった」

「いいえ、わたくしが悪いのだもの」

 彼女の頭が下がっていく。きっと表情もそれに準じているのだろう。

 

「なら、きみを許すから、俺のことも許してくれないか?」

「……ええ、許すわ」

「ちなみにホラー映画の件も?」

「それは本当にずるくないかしら!」

 

 虚を突かれたように驚きながら不満を漏らす彼女の様子に、くつくつと、思わず笑ってしまう。

「笑っているわね。見えなくても分かるわよ」

 すぐ下からそう声が聞こえた。

 

 

「アルベド達も帰ったし、そろそろ鍵を閉めてくる」

 ナヒーダの膝裏に片腕を入れて抱え上げ、ソファの隣へ降ろす。

 しかし彼女も立ち上がって付いてきた。

 

「もうそろそろ、夕食にしましょう」

「ああ、そんな時間か。雨戸を締めていたから気付かなかった」

 部屋を暗くするために締めていた窓を開けば、空には星が見え始めている。

 

「新鮮な牛筋肉が手に入ったし、牛筋とアスパラのペペロンチーノにしよう」

「あなたの作るそれはアヒージョではないかしら……。栄養が偏ってしまうからわたくしも一品つくるわね」

 

 一人には広く二人には狭いそのキッチンで、並んで料理をする。

 何気ない日常が楽しいのはきっと、彼女のおかげなのだろう。

 

 



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6. 図書館不在

 ナヒーダの書いた、ドラゴンスパインでの冒険譚がついに発行されるらしい。

 

 雪山で見つけた財宝はそのまま文化研究用に使いたいということなので、大部分は冒険者協会で買い取って貰った。

 だがナヒーダも研究者気質ではあるので、買取前に全てを精査して詳細な目録を作成し、冒険譚の追加ページとして記載した。

 さらには彼女が精査して得た考察も含まれているので、その本は冒険譚と言いつつも、半分ほどはフィールドワークの報告書のような学術的側面を持つ仕上がりとなっている。

 

「西風騎士団の本部に図書館があったんだな」

「書物の持つ情報資源性もまた、貴重な経済力であるもの。図書館が権力機関の下にあるのは不自然ではないわ」

「でもそれなりにモンドに居るのに、今まで一度も行かなかったのは不自然だ。きみだって忘れていたんじゃないか?」

「モンドでは一般の商店で本が手に入るのだもの。忘れていても仕方ないでしょう?」

 

 俺たちの家には彼女の選んだ本棚が一つあり、それはある程度が本で埋まっている。

 しかし一度読めば十分な部類の書籍もある訳だし、金銭の節約という点では先に図書館へ向かうべきだったかもしれない。

 まあ互いに決めた小遣いの範囲であればとやかく言うことでもないが。

 

 

 サンプルを受け取りに騎士団の図書館に着いたが、どうやら司書は留守のようだ。

 騎士団本部の広間へ戻り、どうしたものかと考えていると、見覚えのある姿が視界に入った。

 

「すいません、騎士団の方ですよね。実はこちらの図書館で新しく発行される本のサンプルを受け取る手はずだったのですが、司書の方が見当たらなくて」

「分かった。司書代理の者に声を掛けるので、少しここで待っていてくれ」

 この長身で金髪の女性は、ウィンドブルーム祭のときにクレーを叱っていた人だ。

 たしかジンと名乗っていたか。

 

 

 騎士団の女性が戻るのを待っていると、赤い小悪魔がやってきた。

「あれ、ナヒーダお姉ちゃんと黒いお兄ちゃん!」

 意外なことに、彼女も騎士団所属の騎士であるらしい。

 だから騎士団本部で出会うことも不自然なものではない。

 俺はその姿を認めた瞬間に一歩下がり、ナヒーダの後ろへと回った。

 

「こんにちは、クレー」

「こんにちは! クレーに会いにきてくれたの?」

「ごめんなさい。今日は図書館に用事があって来たの」

「えー、つまらない。せっかくなんだから遊ぼうよ」

 言葉を聞いて、小悪魔は不満げな顔で文句を言う。

 

 しかしそのタイミングで騎士団の女性が返ってきた。

「クレー。仕事はどうした?」

「……クレー、おしごと行ってきまーす!」

 ジンさんと入れ替わるように、クレーは走り去っていく。

 

 

「待たせたな。受け取る予定の本とはこちらで間違いないか?」

 彼女の手には、たしかにナヒーダの書いた本が握られている。

「はい、ありがとうございます」

 割と重量があるので、俺がその本を受け取った。

 

「ああ、すまないが、ついでにひとつ頼まれごとを受けて貰えないか? 大聖堂にこの薬を届けて欲しいんだ」

「薬を?」

 そうして薬と先払いの報酬を渡すと、ジンさんも忙しそうに去っていった。

 俺たちはその依頼を果たすべく大聖堂へと足を向ける。

 

 

「ねぇ」

「なんだ?」

「わたくしを盾にするのはやめないかしら?」

「なんのことだかわからない」

 クレーと自分の間にナヒーダを挟むよう、位置取りを変えただけだ。

 

「素直に助けを求めるのならいいけれど、誤魔化すのなら……」

「助けてくれナヒーダ。きみが頼りだ」

「よろしい」

 

 

 

 大聖堂へ着くと、牧師を探す。

 ジンさんの妹がここに居るらしく、できれば彼女に渡して欲しいという頼みだ。

 幸い、奥へと進めばそれらしき姿はすぐに見つかった。

「~♪ ~♪」

 歌を歌いながら患者の治療を行っている少女が目的の人物で合っているはず。

 

「その処置法は間違っているわ」

 開口一番、ナヒーダがそう言った。

 どうやらスメールでの知識に該当するような病状だったらしい。

 

「そうなんだ。あなたは小さいのに知識が豊富なんだね」

 牧師の少女は歌と治療を中断すると、ナヒーダの前に屈み込み、目線を合わせて会話をする。

 嫌な顔すらせず直ぐにそういった行動を取れるあたり、よくできた人だと思った。

 

 ナヒーダの指示はあまり大きく治療方針を変えるものではなかったようで、その意見はすぐに取り入れられた。

「ありがとう。あなた達のお陰で、動きが楽になったみたいだよ」

 ほんの僅かに手伝っただけの俺まで含まれているが、一々訂正することでもない。

 

「それで、私に何かごようかな?」

「実はジンさんからこの薬を届けるように依頼されまして」

「あっ、もうできたんだ。ありがとう! よかったらゆっくりしていってね」

 そういって薬を持って去って行った。

 

 

 残された俺たち二人は少し大聖堂を見て回ってから、邪魔にならない場所で椅子に腰かける。

「綺麗な場所ね。まるで万華鏡の中へ迷い込んだみたい」

「見事なステンドグラスだよな。ガラス越しに差し込む光の色合いまで考えられていて煌びやかだ」

 景色を眺めていると、隣に座るナヒーダが肩に頬を寄せる様に腕へと抱き着き、無言で指を絡めてくる。

 そして彼女は、今という時間を大切に味わうかのように、目を閉じた。

 

 聖堂には張り詰めた荘厳さを感じさせるような静寂が流れているが、不思議とそれは緊張感を煽るものではなく、むしろ心が落ち着くものだ。

 俺も彼女と同じく目を瞑り、祈るようにゆったりとしたひと時を過ごす。

 

 

 

 正午になると、大聖堂の鐘が鳴らされた。

 それを合図に俺たちは昼食へと向かう。

 

 少し歩いて普段は入らない店舗を見つけ、そこで軽食とデザートを選んだ。

「ここの甘味も、とても美味しいわ。これはもうテイワットカフェガイドを書いてしまいたいほどね」

「それもいいかもな。ガイド本を作るという目的があれば、日常に張り合いがまたひとつ増えるだろうし」

 

 俺も自分の料理に口を付ける。

「この鳥と人参のバゲットサンドも美味しい」

「一口もらっても?」

「ああ、いいよ」

 

 バゲットサンドを差し出すが、固く粘りのあるパン生地のために噛み切れない。

 彼女は目をつぶり、必死に顎を閉じ犬のようにサンドを引っ張るが、しばらくの格闘のあとには小さな歯型の付いたパンが残った。

 仕方ないので、手で千切って彼女に渡す。

 何も考えず、俺たちが齧った側とは反対側を切り分けた。

 

 彼女がパンを齧る俺の姿を熱心に見つめてくる。

「間接キス……」

「正直、俺は間接キスに特別な意味を見出す情緒は分からない」

 しかも既に今までにも何度か食べ交わしているし。

「だって、わたくしの唾液の付着したものを食べたのよ?」

「……そういう言い方はやめてくれないか?」

 先ほど彼女がパンから口を放す際に、その歯から唾液の落ちる瞬間が見えていたことを思い出し、複雑な気持ちになった。

 

 

「あなたはデザートはいいの?」

「きみが食べてる姿を見れればそれでいいや。あと、こういうカフェは珈琲にも凝っているから」

「でも一口もらったら、お返しをしないといけないもの」

 『あーん』と、スプーンを伸ばしてくる。

 

 拒否するほどでもないかと、さっと、それを食べる。

「どうかしら?」

「意外と苦みがしっかりとしていて、上手く甘みを引き立てているな。特に後味がくどくなくていい」

 味見をする俺を見て、ナヒーダは笑みを深めた。

 

 彼女は他人を喜ばせることで当人も喜べるタイプだ。

 そして俺も、他人を喜ばせるのは不得意だが、彼女が喜んでいる姿をみると心が温かくなる。

 今が永遠に続けばいい、とは恥ずかしくて口に出せないが。

 

 

 食後はコーヒーを追加注文し、そのままカフェで本を読む。

 今日受け取ったドラゴンスパインでの冒険譚だ。

 

「あなたとの物語がこうして本になっているというのは、なんだか不思議な気持ち。まるで二人が本の中へ迷い込んでしまったみたい」

「実際、あの光景は絵本の中といわれても納得できるようなものだったな」

 特に頂上で見た、巨大な柱が空に浮かんでいく様子は、映画か何かのようだった。

 

「本当はわたくしたちの写真も載せたかったのだけど……」

「人相まで載せてしまうとリスクが大きいから」

 教令院のことを考えて、書籍には俺たちの写っていない写真だけを載せることにした。

 休憩がてらに普通の風景写真も撮っていたので、道筋や光景を説明するにはそれでも十分だった。

 ただ、二人で撮った写真も載せたかったという気持ちも分からなくはない。

 

 

「あら、あなた宛ての手紙が挟んであるわね」

「手紙?」

 差出人を見れば、ガイアと書いてある。

「ああ、彼に少し頼みごとをしていたんだった」

 

「わたくしにも見せてもらえるかしら」

「ごめん、これは個人的なことなので互いに秘密にすると約束したんだ」

 手紙を懐へと仕舞い込む。

 

「…きになる…」

 彼女は俺の言葉を尊重して深くは聞かないことにしたようだが、興味は隠すつもりがないようで、聞こえるほどの小声でそう呟いた。

 

 



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7. 千夜の甘夢

「それって図書館帰りに買ってた本だよな」

「ええ、そうよ。読んでみる?」

 彼女の持つ本に目を通し、思わず顔を手で覆いたくなる。

 それは一夜の間違いから始まるタイプの恋愛小説だった。

 

「なぜ責任を取らせるのかしら?」

「あーあー、俺しらねぇ」

 教えたらいつか絶対にめんどくさいことになるし。

 

 

 その日の夜、食後にソファに座って動画を見ながら、ふたりでワインを飲んだ。

 しかし、急激な眠気によって意識が落ちた。

 

 

 

 目が覚める。

 

 何故かいつもよりスベスベとした感触がする。

 人肌のような軽い湿り気と、シルクのようなきめの細かい肌ざわり。

 

 気付けば俺は上裸であるようだ。時間帯はすでに夜明け。

 下は普通に履いているが、上半身にはチョーカー以外なにも身に着けていない。

 

 胸元に吐息を感じる。

 素肌に当たるその呼吸はナヒーダのものだろう。

 

 彼女を抱く腕を動かすと、いつもと違って衣服の取っ掛かりがなく、どでかい水まんじゅうのようなプニプニとした暖かい何かで薄く覆われていて。

 ……いや、むしろこれは覆われていないのではないか?

 

 嫌な予感がして、布団をめくらないままに彼女を抱き寄せる。

 背に回した腕どころか、腰に回した腕にも衣服の当たる素振りがない。

 ペタリとした素肌のとてつもない柔らかさと、僅かなふくらみが触れる感触。

 ……彼女の吐息が荒くなり、太ももあたりにあるその小さな両手に力が入る。

 

 

「責任を取りなさい」

 そう、声が腕の中から聞こえる。

 最初はそれが人の声だとは気付かなかった。

 化け物が語り掛けているのかと思ってしまった。

 

「責任を取りなさい」

「……なんのだよ」

「言わないとわからないかしら」

 凛とした声が響く。

 

「責任を取りなさい」

 必死に昨夜のことを思い出す。

 確か二人でソファに座って酒を飲んでいたはずだ。

 だが途中からぷっつりと記憶が途切れている。……おかしいな。

 

「責任を…」

「俺、酒飲んでも記憶を失うタイプじゃないけど」

 酒を飲んで記憶を失ったことなど人生で一度もない。

 飲みすぎると気持ち悪くなるだけで、それもしばらく経てば消えるタイプだ。

 しかも記憶の途切れ方に覚えがある。

 

「ナヒーダ。俺はこういう搦め手は好きじゃない」

「……ごめんなさい」

 

 半分やってしまったかと思った。本気で焦った。

 未だに頭が混乱して、現実感が感じられない。

 

 

 

「そんなことしなくても、俺はきみと一緒に居ると言っただろ」

「あら、じゃあキスもしてくれるかしら?」

 これはきっと、手や頬という意味ではないのだろう。

「それは……」

「でしょう? だから必要だったの」

 どう対応しようかと困惑してしまう。

 

「キスをして」

 迷っていると腕の中から、毛布がずれて肩が露出しつつ、ゆっくりと唇が伸びあがってくる。

 

 

「しない」

 

 彼女の両肩に腕を置き、転がすようにしてベッドへと押し倒した。

 毛布は落ち、互いの身体が露わになる。

 

 胸板と一体化したような広く薄い膨らみ。それは性別不詳のものではなく、確かに女性らしさが見て取れる。

 だがそれだけだ。結局は揉むものなどそこにはない。

 

「なあ、きみは服を脱ぐ意味が分かっているのか?」

「……ええ、あなたを受け入れる覚悟はできているの」

「きみの体など気にもせず、ボロボロに使うかもしれないんだぞ」

「あなたはそんなことしないもの」

「一度の裏切りを、ここで使うとしてもか?」

 彼女の両脚の間に片膝を割り入れる。

 すると彼女の身体は小さく震えた。

 

 きっと彼女は、彼女の描いた物語通りに、俺が動くと思ったのだろう。

 それは覚悟ではなく理想化の部類だ。彼女の他者理解はカード遊びと大差ない。

 

「きみは全然、俺のことを分かっていないんだな」

 こっちの気も知らないで。

 どれほど、きみとの今の関係を大切に思っているかも知らないで。

 簡単に、試すかのように、人の事を挑発しないで欲しい。

 

 ……しかし俺も、こんなことをしているようでは今更だ。

 なら、俺は何が気に入らなかったのだろうか。

 何がこんなにも俺を怒らせたのだろうか。

 

 それはやはり、裏切りでなくとも、明確に俺を"騙そう"という意思が感じられたからだろう。

 俺は、俺が自覚している以上に、彼女に入れ込んでいる。

 

 

「あなただって、わたくしのことを理解していない」

 彼女は真っすぐに目を見返す。

 そこには怯えなど見て取れなかった。

 

「わたくしがどれほど苦しんだかわかるかしら。どれほど悩んだかは? 分からないでしょう? ……わたくしが、どれほどあなたが好きかなんて」

 その独白は、以前とは異なっていた。

 自分の苦しみすら理解できず、ただ子供のように泣きじゃくる姿は、もうなかった。

 意志を持って、彼女の眼差しはまっすぐにこちらを見据えていた。

 

「俺だってきみが好きなんだよ」

「でもあなたは恋ではないと言った!」

「ああ、きみみたいな、人ではない存在に対する恋だなんて、自分でも理解不能だからな! ……つか、そもそも恋なんて分からないと言っていたきみが、恋について語るのはおかしいじゃないか!」

 

「ええ、わたくしに恋だなんてわからないわ」

 俺は彼女を家族として愛しているが、それは恋ではないはずだ。

 なにせテイワットでの唯一の身寄りが彼女なのだし、特別に強い親しみを感じても不自然ではない。

 

「でも、考えもせずに"恋ではない"と否定するあなたよりは、きちんと自分の気持ちと向き合っているつもりなの」

「……」

 その言葉に、俺は何も返せなかった。

 反論しようと考えを回せば、結局はどれも、恋ではないという結論ありきの考えしか浮かばない。

 俺の考えを見通すかのように彼女の瞳が突き刺さる。

 

 

「以前、あなたはわたくしが成長していると言ったわね。それはわたくしが誓いを果たしているという証拠。ならばあなたは、きちんと、わたくしを見るのが道理というものでしょう?」

「……確かに、きみは成長しているようだ」

「なら…」

 彼女の言葉を遮って続ける。

「俺にだって時間は必要なんだよ。だから、"まだ"だ」

 

 成長を言い訳に関係を止めていたのに、そのタガが外れてしまったならば、何をするかなんて自分にもわからない。

 ましてや怒り含めた様々な感情で興奮している今の状態では。

 先送りであるのは分かっているが、少なくとも、自分自身で納得できるまでは、時間を稼ぎたかった。

 

「……なあ、アラジンと不思議なランプについての話は知ってるか?」

 

 

 

 昔、遊んで暮らすアラジンという男がいた。

 ある日、アラジンの元へひとりの魔法使いがやってきた。

 魔法使いは言う「魔法のランプを手に入れてくれ」と。

 アラジンはとある洞窟に案内され、お守りの指輪と共にそこへ潜る。

 

 彼は無事ランプを手に入れたが、魔法使いの様子を怪しみそれを渡さなかった。

 怒った魔法使いは彼を洞窟に閉じ込めた。

 アラジンは地下を彷徨い歩いて途方に暮れ、ついには祈るように両手を合わせた。

 そのとき、偶然触れた指輪からとても大きなお化けが現れ、彼を地上へと戻してくれた。

 

 家へと帰ったアラジンは、ランプを売ることでお金に変えようとした。

 ランプを綺麗に磨こうと布で擦ったところ、またもや大きなお化けがあらわれ、お金が欲しいという願いを叶えてくれた。

 

「というような話だ。面白かった?」

 

「ええ、面白かった。……でも、なぜその話をしたの?」

「これは千夜一夜と呼ばれる物語の中に出てくる作中話で、そして千夜一夜というのは、毎晩面白い話を聞かせて気を紛らわせ、王様の悪癖を先延ばしにするという話なんだ」

「……それはつまり、わたくしの"悪癖"を、語り聞かせの代わりに先延ばしにするということかしら?」

 

「ここでの意図は、そういうことだな」

 彼女が素直に話を聞いてくれていてよかった。

 話を語る内に、それによって稼げた時間で、だいぶ頭が冷えてきた。

 

 物語を思い出すために閉じていた目を、再度開いて、彼女を見る。

 頭がそこまでは回らなかったので、まだ押し倒した姿勢のままではあるが。

 

 

「分かったわ」

 ナヒーダの声が、冷えた頭に入ってくる。

「でももし、眠る前のお話をあなたが忘れることが一度でもあれば、わたくしはあなたを食べてしまうわね」

 

「……ああ、もし忘れるようなことがあれば、素直にキスに応じ…」

「ねぇ、その王様が求めたものはきっと、キスでは無いでしょう?」

 背筋が凍るように焦燥感が走った。

 どうも先行きに暗雲が立ち込めているようだ。

 走馬灯のように様々な考えが巡る中で、せめてもの抵抗を口に出す。

 

「……実は王様が求めたのは命だ。流石にそれは勘弁してもらいたいんだけど」

「まあ、それは奪うことはできないわ。……なら代わりに、わたくしはあなたを貰う」

「それはどういうことだろうか?」

「ふふっ、どういうことかしらね。……約束よ?」

 そう言って彼女は、俺の手を取りキスをした。

 

 

 やってしまった。

 先延ばしをしようとした結果、これは、単なる自滅だ。

 話で気を逸らすこと自体は良いアイディアだったが、千夜一夜に関する説明だけは要らなかった。

 

「ごめん、この話は無かったことにならないか?」

「ならないわ。一度口に出した言葉が口に戻ることは決して無いの」

 

「約束として言葉にした訳ではないから無効だと主張したいんだが」

「不用意な言葉を口にしたあなたが悪いのではないかしら」

「約束と言っても俺が得るものがない」

「そのときは、わたくしをあげる」

 

「……確かにそれは魅力的だな。俺の失うもの程度では釣り合わないほどに」

 寝る前の話を忘れなければいいだけだ。

 ネット環境もあるし、それもダメなら適当に話を創ってもいい。

 そう自分に言い聞かせた。

 

 言い換えれば、俺は観念した。

 

 

 

「ほら、話は終わりだ。とっとと服を着ろ」

「もう少しだけ、このままが良いわ」

 起き上がろうとしたところで、ぶら下がるように首へ抱き着いてくるナヒーダ。

 仕方なく、その背に腕を回し、そのまま押しつぶすようにベッドへ倒れこむ。

 

 身じろぎをする度に、ペタリペタリと、汗で少しペトついた彼女の肌が触れる。

 筋肉質でない、むしろ運動不足気味ともとれる彼女の身体は血行が弱く、風に当たると肌の表面がひんやりとして心地よい。

 

「本当に食べてしまうかもしれないぞ」

「望むところよ」

 そう冗談を交わしながら、昼頃までゆっくりと二度寝をした。

 

 



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8. 花神誕日

 花神誕祭の行われる日。

 彼女は朝から、祈りを捧げるようにして過ごす。

 おそらく前に言っていた『スメール中を見ている』という発言は本当なのだろう。

 

 最近は様々な服装や髪型をしていたが、今日の彼女は出会った時の姿をしている。

 やはりあれは神さまとしての正装の意味があるのだろうか。

 

 

「さて、今日は花神誕日よ」

 お祈りを終えた彼女は、楽しくて待ちきれないという様子で目を輝かせた。

「おめでとう、ナヒーダ」

「ええ、ありがとう。……それで、今日はわたくしの誕生日なのだけど、どこかへ連れて行って貰えないかしら?」

「ごめん、今日は少し用事があるから、昼前までには家に居たいんだ」

 

「でも、わたくしの誕生日よ」

「すまない」

 その返答に、ショックを受けて顔を曇らせる。

 

「わたくしの誕生日なのに……」

 ベッドの上でそっぽを向くように不貞腐れる彼女を、後ろから抱きしめる。

「ごめんな。ただ少し事情がある」

「わたくしの誕生日よりも大切だなんて。一体どんな事情なのかしら」

 

 振り返って正面向きに抱き着いてくる彼女の背中をゆっくりと撫で、あやすようにして機嫌を取った。

 

 

 

 昼前ごろ、ドアをノックする音が響く。

「はーい」

「ナヒーダ、ちょっと待っててくれ」

 返事をして扉へ向かおうとするナヒーダを引き留める、が。

 

「嫌よ」

 彼女は真っすぐな眼差しで、即座に断言する。

「嫌。今日はわたくしの誕生日なの。わたくしを置いて行かないで」

 そう言葉を続けた。

 ここまで意固地になるとは思わなかったので困ってしまう。

 

「ごめん、頼むから少しだけ待っていてくれ」

 彼女は俺が折れない様子を示したことで説得できないと察したらしく、途端に泣きそうな顔へと変わる。

「……あなたはわたくしのすべてなのに……」

 消え入りそうな声で言う彼女を抱き締め、『少しだけ待っていて』と再度言葉を掛ける。

 

 そして彼女から離れると、ナヒーダを背に、俺は扉を閉めた。

 

 

 

 

 しばらくして、扉を開く。

 正面には泣き崩れたらしいナヒーダが、床に座り込んで祈りを捧げている。

 その悲痛な顔と目が合った。

 

 俺はできる限り背筋を正し、深呼吸して、彼女へと歩み寄る。

 一歩一歩が重く、身体が海に沈んだかのように動きづらく、呼吸は苦しい。

 だが失敗する訳にはいかない。きっと彼女にとっては無二の経験として残るのだろうから。

 

「神よ、やっと見つけました。皆、お会いできるのを楽しみにしてます」

 手を差し出す。

 片膝をつき、仰々しく。

 飾り模様の入ったベストを羽織り、花飾りのついた首飾りを下げ。

 頭には蝶のついた三角帽子。

 

 まるでプロポーズでもするかのような緊張感に耐えつつ。

 真っすぐに、彼女を見つめた。

 

 

 あっけにとられて何も言わない彼女の姿に、抑え込んでいた羞恥心が湧き上がってくる。

「……流石にもう次はやらねぇ」

 この衣装を届けに来たガイアは、さきほどから崩れ落ちている。笑い過ぎで。

 

「ナヒーダ。そろそろ何か言ってくれると嬉しいんだけど」

 そう言葉を掛けて、やっと彼女はフリーズから復活した。

「……今まで感じたことのないほどの感情が湧き上がっていて、どうすればいいのか分からないの」

「とりあえずこの手をどうにかしたい。降ろしていいか?」

 

「ダメよ」

 膝をつき差し出した手を、彼女はやっと取ってくれた。

 ナヒーダは満面の笑みを浮かべ、それと同時に両目から涙を流し始める。

 その姿を見て俺は焦る。

「意地悪すぎた?」

「いいえ、悲しくて泣いている訳ではないの。でもお願い、涙が止まるまで抱きしめてちょうだい」

 

 言葉に従い、腕を引いて彼女を立ち上がらせると、正面から抱き締める。

 膝を降ろしたままである俺の目線は、両脚で立つ彼女より僅かに低いかどうかという程度。

 彼女の体重に押されて少し後ろへ仰け反りながらも、背筋を伸ばすようにしてどうにか受け止めた。

 

 

 

「お二人さん。逢瀬を邪魔して悪いんだが、皆を待たせている。もうそろそろ移動しないか?」

 動こうとしない俺らを見かね、しかし頃合いを測って、ガイアが声を掛けた。

 それを皮切りとして、三人は部屋を後にする。

 

 移動先はエンジェルズシェア。

 人の少ない昼間を貸し切りにしたらしい。

 

「あっ、ナヒーダおねえちゃん! お誕生日おめでとう!」

 扉をくぐると、真っ先にクレーがやってくる。

「クレー。"おめでとう"はもう少し後だ」

 ガイアがクレーに注意をして、皆が配置に付く。

 

 俺はナヒーダの手を引き、花車を模した、モチーフ元よりは小さいながらも凝った誕生日椅子に座らせる。

 そして金髪で長身の女性が掛ける音頭に合わせて言葉を掛けた。

『誕生日おめでとう』

 

 

「ナヒーダおねえちゃん! お誕生日おめでとう!」

 号令が終わるとすぐさまクレーが走り寄ってきた。

 その後ろからはアルベドとガイアが歩いてくる。

「誕生日おめでとう」

「おめでとさん。さて、初対面のやつらも居るだろうし、顔合わせと行こうか」

 

 長身の女性と牧師さんが祝いの言葉と共に歩み寄る。

「私は蒲公英騎士のジンだ。クレーの世話をしてくれて助かっている」

「私はバーバラ。この前、手伝ってくれたよね」

 さきほど音頭を取ったのもジンさんだ。

 

 次に来たのは赤いウサ耳を付けた落ち着きのない女性。

「偵察騎士アンバー、参上したよ! 最初に見つけたときは泣いていたから心配したけど、仲直りできたみたいで良かったよー!」

「城壁の上に居る彼女を見つけたのは、このアンバーだ」

 ガイアがそう補足した。

 

「あっ、あんたがこの子を泣かせたんだよね! こんな小さい子をほったらかしにしちゃ、ダメなんだから!」

 眉を上げて、まくし立てる様に非難する赤い女性。

「一応、彼女の方が俺より年上なんだが」

「そんな冗談で騙される訳ないでしょ!」

 

 

「お姉さんも自己紹介していいかしら?」

 ウサ耳女を遮るようにして、最後にやってきたのは、魔女のような帽子を被った女性。

「わたくしはリサ。お初にお目にかかりますわ、可愛らしい神さま」

 その言葉を聞いて、俺は警戒を顔に張り付ける。

 

「あら? これは花神誕祭を模したものだと思ったけれど、違ったかしら」

「リサには今回、この催しを開催するにあたって、スメール文化のアドバイザーをして貰った。その衣装も彼女が居たから仕上がったんだぜ」

 ガイアが説明を加えた。

 

「バレてしまったのね。わたくしは草神様の信徒なのだけれど、偶然誕生日が同じだったものだから、小さな頃からこうして祝ってもらっていて……」

 ナヒーダは、リサと名乗った女性と、にこやかだが含みのあるような会話をしばらく繰り広げた。

 

 

 

 グミの実、ハゼの実、ニンニク、リンゴ、小麦、菓子、酢の7つからなるハフトスィーン。

 ナヒーダを囲んでの簡単なダンスを含め、幾つかの催しと食事会を行った。

 ちなみに、どうやら今日ここに集まったメンバーはほぼ、騎士団の関係者らしい。

 

 伝統を感じさせる部分もあるが、基本的にはただの誕生日会であり、特筆すべきことはそう多くはない。

 だが、彼女にとっては特別で唯一無二のものなのだろう。

 終始ニコニコと、見せ掛けではない、満面の笑みを浮かべ続けた。

 

 

「これが掛った費用の請求書だ」

「ああ、分かった。予定通り、預け金から引いておいてくれ。……あとこれは謝礼だ。こっちはあんた個人に。世話になった」

 ガイアから請求書を受け取り、代わりに、片付け後に皆で飲み食いするための金銭と、先程購入しておいたワインを一本渡す。

 

「ナヒーダ、そろそろ帰ろうか」

 そう言葉を掛けると、寄ってきた彼女を、腕に座らせるようにして抱き上げる。

 これは姫様抱っこから、背筋を立てられるように片腕を支えに変えたものだ。

 

「皆、今日は楽しかったわ。ありがとう。さようなら」

 意図を察したナヒーダが、笑顔で手を振りながら別れの挨拶をする。

 花神誕祭に関して、空想も含めて、今日が近づくにつれて散々に聞かされたので、最後に何がしたいかはある程度分かっていた。

 さすがに花車で帰ることはできないのでこれはその代わり。

 

 なお片腕で彼女の背を支える関係上、その体重はほぼすべてがもう片方の腕に掛かる。

 大型犬を片手で持ち上げるようなものなので筋肉が悲鳴をあげるが、俺は必死に涼しい顔を保つ。

 

 

 

 昼の酒場を後にしてしばらく。

 もうそろそろ良いかと思ったがナヒーダは降りることを拒否した。

 仕方ないので首に腕を回してもらって、腕を労りながら家へと帰る。

 

 そしてようやく、ベッドへと彼女を降ろす。

 抱っこで疲れた俺はそのまま倒れこんだ。

 

「君が生まれてきてくれてよかったよ。改めて、誕生日おめでとう」

「……ひとつ、貰えていないものがあるの。わがままを言ってもいいかしら」

 独り言かのような、迷いを含んだ声色で彼女は言う。

 

 誕生日プレゼントは後で彼女と選ぼうと思い、まだ購入していない。

 しかし、もしかしたら買っておいた方が良かったのかもしれない。

「べつにかまわないよ」

 今日の主役をないがしろにするわけにもいかないので、俺はベッドの上で身体を起こす。

 

 

「なら、キスをしてちょうだい。手ではなく、ちゃんと口に」

 彼女は真っすぐな目で俺を見ながら、はっきりと言葉を紡いだ。

 

 ナヒーダが膝立ちで迫り寄ってくる。

「わたくしはもう、自分の心の声を無視したくないの」

 両手で俺の頬へ触れる。

 

「貰うわよ。いいかしら?」

「……わかった。いいよ」

 

 彼女は俺の両頬に手を添えたまま、ゆっくりと目を閉じて、風にそよぐ葉のように、ふわりと優しく口づけを落とした。

 膝立ちの彼女を、座った俺が少し見上げるような形でのキス。

 

 唇というのは敏感な器官であり、それゆえに彼女の唇の柔らかさ、その小さな唇のくにゅりと変形する感触が克明に伝わってくる。

 彼女が身じろぎをすれば、唇同士が押し合って僅かに擦れ、それを過敏な神経は甘い痺れとして主張する。

 味覚は感じずとも、キスの味、というものが明確に感じられた。

 

 

 長くも短い、短くも長いキスを終えると、彼女は顔を真っ赤にして崩れ落ちる様に抱き着いてくる。

 恐らく彼女も、口づけの生々しさをよく理解したのだろう。

 俺たちはしばらくの間、何も言わずに抱き合う。

 

「……キスというものは、想像していたよりも遥かに素晴らしいものだったわ。まるでわたくしの心そのものが唇となっていたみたいに」

「俺も、きみの唇の形が心に刻み込まれたかのように、まだ感触が残ってる。正直、恥ずかしいので外の風に当たりに行きたい」

「だめ。今日はわたくしの誕生日だもの。許さないわ」

 彼女は俺の肩に手を置いて身を起こすと、目を合わせながら言った。

 

「わたくしはあなたが好きよ」

「俺もきみが好きだよ」

「わたくしは、あなたが好きなの」

「ああ、分かってる」

 

「いいえ、分かっていないわ。分かっているならば、今すぐにでも、わたくしにキスをしてくれるはずだもの」

 

 彼女はまた、互いの息の掛かる距離にまで顔を近づける。

「わたくしを見て。つぎは、あなたからキスをして」

 細められ蕩けるような色合いの瞳と、暖かい吐息を漏らす柔らかな唇が、"もう一度"と催促する。

 

 俺は、それに答えた。

 

 



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9. 二人の距離

 誰かが頬を撫でる。

 

「起きて、わたくしの騎士」

 続いて頬に落ちる、甘く柔らかい感触。

 それによって完全に目が覚めた。

「……恥ずかしいから騎士呼びはやめてくれ」

「ふふっ、ごめんなさい。でもそう呼んでしまいたいほどに、とても嬉しかったの」

 

 

 花神が祝った翌日、俺たちは家を出て図書館への道を歩く。

 どうやら昨日の会話の真意を確かめたいとのことだが、いつもに増してご機嫌な彼女は、俺の腕を抱きしめながら小さく鼻歌を歌う。

 

 昨日の誕生日プレゼントは、皆で撮った写真を飾るための、写真立てを購入した。

 日暮れ時までゴロゴロとしていたので閉店間際ギリギリとなったが、満足のいく品を買えたらしい。

 その後はふたりで街をぶらついて、目についた美味しそうなものをあれこれと持ち帰り、ワインと共にいただいた。

 そうして夜遅くまで飲むこととなったのが、今朝の寝坊の原因といえる。

 

 

「いらっしゃると思っていましたわ。クラクサナリデビ様」

 騎士団本部の図書館へ着くと、リサさんは開口一番にその名を呼んだ。

 やはり彼女はナヒーダの身分について気付いていたらしい。

 

「リサ、あなたはどこまで知っているのかしら?」

「ただの図書館司書であるわたくしが知っていることなど、ほんのわずかですわ」

 問い詰めるようなナヒーダを、ニコニコと口元で微笑みながらあしらう。

 

「……わたくしは今の平穏な生活を愛しているの。だから教令院には黙っていてほしい」

「安心してくださいませ。わたくしも教令院と関わり合う気などありませんから」

 

 昨日の表面的で含みの合った会話と違い、今日はわりと直接的にやり取りする彼女ら。

 しかし、いったいどこがナヒーダを神だと確証する根拠となったのだろうか。

 どこかの書籍に容姿が書いてあった? もしくは賢者たちの行いを知っていたとか? あとは……。

 

 

「ふ~ん。あなたが草神様の今の賢者?」

 思考に沈んでしばらく、気づけばリサさんに声を掛けられていた。

「へぇ、面白い首飾りね」

 ほぼ身長の変わらない彼女は、少しかがんで下から覗き込むように俺を見つめている。

 おっとりとした眠たげな顔つきと、妖艶で危険な雰囲気を持つ、女優にすら居ないほどの絶世の美女。

 さらには前かがみによって開いた豊満な胸元が間近から視界に入り、流石に顔の温度が急速に上がってしまう。

 

「この子はわたくしの騎士よ」

 ナヒーダに腕を引っ張られてリサさんとの距離が開く。

 そして彼女は、所有権を主張するかのように、両手で抱き着いてきた。

 横顔には張り付けたような笑みが浮かべられている。

 

「ねぇ騎士さん。神様に過ぎた奇跡を求めるならば、その代価を払えるかどうか、きちんと考えなければならないわよ」

 俺は顔を振り急いで頭を冷やすと、手で目元を覆いながら、リサさんの言葉を耳に入れる。

 代価か。俺は彼女に十分な代価を払えているのだろうか。

「余計なことは言わないでちょうだい。わたくしは、わたくし自身で納得して今の関係を築いているの」

 噛みつくナヒーダに対して、リサさんは『まあ、怒られてしまったわ』と呑気な言葉を漏らした。

 

 もう話し合いは良いらしく、『行きましょう』と、ナヒーダは踵を返して腕を引く。

「ああ、あとでアルベドが椅子を持ってくと思うから、よろしくね」

 そう言葉を背にかけられながら、図書館を後にした。

 

 

 

「ねえ」

「どうした?」

「わたくしは今、怒りと不安を感じているの」

「リサさんに一瞬、見入ったのは謝るよ」

「あら、認めるのね」

「きみは何故そこまで怒ってるんだ?」

 ある程度は理解できるが、過剰反応だとも思ってしまう。

 

「……そんなに大きな胸がいいの?」

「なぜその推論に至った」

「だってリサの胸部に目線が向いたし、わたくしの裸を見た時も胸へ目が行っていたもの」

「確かにそうだけど、往来でそういう話は止めてくれ」

 雑踏というほどには多くないが、人が居ないという訳ではないので、本気で勘弁してほしい。

 

 

「なら、こちらへ来なさい」

 ナヒーダに腕を引かれ、路地裏の、さらに物陰へと連れ込まれた。

 

「まずはキスをして」

「はいはい」

 髪をかき上げ、額に口付けをする。

「……いじわる」

「次のキスは、またちゃんとした機会にな」

「なら抱き締めて」

 要望通り抱き締める。

 

「わたくしは、あなたが他の女性と話していると不安になる。そして怒りが湧いてくるの」

「嫉妬したという訳か」

「ええ、きっとこれは嫉妬よ」

 とはいえリサさんには値踏みがてらに揶揄われてただけだし、ガイアの時の俺は単純に被害者だと思う訳で。

 今後も似たようなことが起きる可能性を考慮すれば、何かしら対処を考えないといけない。

 

 

「なら、きみは俺にどうして貰いたい?」

 まずはどのような解決策であれば納得できるのかを彼女自身に聞く。

 考えさせること自体が彼女の成長にも繋がるし、これは悪い選択ではないだろう。

 

「……わたくしはあなたに求めてもらいたい」

「追われる恋がしたいと?」

「いいえ。わたくしはあなたが欲しい。だからこそ、あなたにもわたくしを求めて欲しいのよ」

「既に、かなり頼り切りだと思うけどな」

「それはあくまでもわたくしとの人間関係を求めたものでしょう? わたくしは、わたくし自身を求めて欲しいの」

「つまり?」

「ふふっ。あなたは賢い人よ」

 

 俺は彼女に家族としての関係を求めているが、それは別に、彼女自身を求めていないという訳ではない。

 むしろ、恋心には欠けていると思うものの、愛情に関しては互いに共通認識であるはずだ。

 しかし彼女はそれでは納得できないらしい。

 

 

「そうはいっても、まだ俺は、きみに恋を抱いている等とは自信をもって言えない。だから次はまたしばらくお預けだ」

「どうしてかしら。あなたはわたくしが好きなはずよ。要件は満たしているのではなくて?」

 さも当然というように言われると、それはそれで恥ずかしい。

「やはり、まだ心の整理がつかないんだよ」

 

「キスもしたのに?」

 恥ずかしがる様子もなく彼女は言う。

「ああ、そうだ」

「あなたは意地っ張りね」

 不満と呆れの混じった声色だった。

 

「これは俺なりの、きみとの向き合い方なんだ」

 彼女と一緒に過ごしていく覚悟はしているが、しかしだからこそ丁重に、大切に扱いたいとも思ってしまう。

 まあつまるところは、関係が変わる可能性に尻込みしているだけであるのだろうが。

「俺はきちんときみを見るよ。だからもう少し時間をくれ」

 

 これは先延ばしだが、今の関係に満足している俺にとっては、最善の選択だと思えた。

 

 

「ええ、わたくしは待つわ。だって愛の誓いはもう貰ったもの」

 俺を真っすぐに見つめ、自らの唇に指先で触れながら、白い蒲公英のように柔らかく微笑む彼女。

 何かを守るようなあの眼差しとは異なるが、これもまた見惚れるような。

 ……いや、もう既に、気づけば俺はこの眼差しに見惚れていた。

 

 そして、こんな子とキスを交わしたという事実に、今更ながら、恥ずかしいような、嬉しいような、言語化できない感情が湧いてくる。

 

 『帰るぞ』と、目を合わせずに彼女の手を引く。

 ドクンドクンと煩い鼓動。

 熱が籠る、絶対に見せられない顔。

 今この瞬間だけは、彼女が心の機微に疎いことに感謝した。

 

 

 

 家に戻りしばらくすると、アルベドがやってきた。

「今日はクレーは居ないんだな」

「そうだね。彼女はまた少し問題を起こしてしまって、反省室にいるんだ」

 俺はその言葉を聞いて、怪我人が居ないことを静かに祈る。

 

 彼は昨日使った、花車を模した椅子を分解して運んできた。

 どうやら、この椅子はアルベドがリサさんの助言のもとに設計したものらしい。

 分解、運搬、組み立て。さらには使用時の強度もしっかりと考慮して作られていて、家具として常用可能とのことだ。

 ……ただそれなりに重量があるので、俺一人で運ぶとなると少し苦労するだろうが。

 

「わざわざ、すまないな」

「ボクもきみの能力にはお世話になっているからね。異世界の情報に対する報酬さ」

「そういう話ならこっちとしても助かる」

 

「……本当なら、この程度の報酬では済まない。だから、他にもボクにできることがあるなら依頼してくれていい」

「異世界から来たせいで知り合いも少ないから、こうして構ってくれてるだけでも何だかんだ有り難いよ」

 俺に関する事情をある程度知っている人となると、彼ぐらいしか居ない。

 気兼ねなく話せる同性という点では貴重な存在だった。

 

 

 

 アルベドが素直に帰ってから、ナヒーダに乞われ、ふたりでその椅子に座る。

 

 椅子の脚は車輪を模していて、背もたれはチューリップのような形の大きな囲いと一体化した、面白い造り。

 彼女が丸まれば寝られる程度の大きさのそれは、二人並んで座れるソファのようなサイズ感だ。

 

「手を繋いで欲しいの」

 小さくて柔らかい手が、指を絡めてくる。

 その、指と指を組む時の僅かな肌の擦れ合いすらが、何故か心地よくて。

「……あら、あなたは緊張しているのかしら。珍しい」

「うるせえ」

 今まで出来ていたようなことすら、ぎこちなくなっている。

 

 隣に座るその横顔を眺めれば、ふるふると震えるような、瑞々しい唇が目に入る。

 頭では理解できても、心では現実を受け止められていない、ふわふわとした感覚。

 "こんなにも近かったのか"と、改めて二人の距離を意識させられた。

 

「わたくしはあなたに会えてよかったわ」

「俺もきみに会えてよかったよ」

 テイワットに来てから半年以上。いくつかの問題はあったものの、平穏な日々を送れている。

 

 できることなら、今のままの、彼女との関係であり続けたい。

 

 

 

『今夜はどんなお話を聞かせて貰えるのかしら』

『じゃあ、この前の不思議なランプの話の続きをしようか』

 

 






次章は、一年の締めくくりとしての海灯祭と、アルベドとクレーを加えた4人旅を扱う予定

感想ありがとうございます
自分では気づけない事柄も多く、非常に参考と励みになります


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[モンド一年目] 璃月旅行
1. 零の続き


 

「おはよう、ナヒーダ」

 そう声を掛けて髪を撫ぜるが、くすぐったそうに笑うだけで起きようとするそぶりはない。

 なので気付けとして、耳の付け根をグニグニと揉みこんでやる。

 

 秋の花神誕日からさらに日が過ぎ、季節はもう冬になる。

 二人の距離が零となったあの日から、彼女の過度な要求は減った。

 どうやらキスを交わしたという事実が心の支えとなったようだ。

 

 また彼女は少し明るくなった気がするが、これはきっと『成長しよう』とか『大人びよう』という気負いがあったのだと思う。

 それが口づけによって緩まり、結果として明るさに繋がったのだろう。

 

 俺に関しては、まあ当然ではあるものの、彼女を女性として意識してしまうことが増えた。

 手を繋ぐだけで緊張してしまうような状態は一過性であったが、今でも時折、彼女の横顔には見惚れてしまう。

 月明りのようなその理知的で優し気な眼差しが、俺の心を捕えていた。

 

 しばらく戯れ合ったあと、腕の中から『おはよう』という声が響く。

「顔を寄せてちょうだい」

 その声に顔を下げれば、鼻先にちょんと、小さなキスが乗った。

「ねえ、次はあなたよ」

 

 彼女の鼻先にキスを返すと、そこに花のような笑顔が咲く。

 それがこそばゆくて今一度抱きしめて誤魔化した。

 

 

 朝食としてまずはペペロンチーノパスタを作り、最後に生卵を加えて軽く火を入れトロトロに。

 卵が加わると途端に甘みと濃厚さが現れ、元であるオイル系のパスタから、カルボナーラのようなクリーム系パスタの風味に変わる。

 

「辛みが効かせてあるのに、舌当たりが柔らかくて食べやすいわね」

「レシピはほぼいつものペペロンチーノだけど、卵を入れるだけで大きく変わるんだよな」

 ただ、もう少し唐辛子を増やしてもよかったかもしれない。

 

 そうして食事を済ませてからは、二人で仕事へ出かけた。

 ナヒーダがスマホ端末に追加してくれた元素機能のお陰もあって、俺たちの受ける仕事は比較的に割が良い。

 

 街の中での依頼であれば元素反応や腕力の必要な仕事が多いので俺が、街の外での依頼ならば戦闘が多くなるので彼女が、それぞれ主体となってこなしている。

 その"街中での仕事"として取り分け多いのが、高所での清掃作業であり、本日頼まれたのも広場にある巨大な風神像の清掃だ。

 

 ナヒーダの植物操作により安全かつ速やかに高い場所へと登り、元素機能を使って地上へ戻ることなく水を撒いてブラシで擦る。

 巨大とはいえ水元素を利用すれば比較的容易に汚れが落ちるのと、ナヒーダの指示による効率的な手順によって、昼過ぎ頃には清掃を終えた。

 細かい汚れは多々あるものの、遠目からでも分かるような目立つ汚れを落とすことが主目的なので問題ない。

 

 

 

 一仕事のあとは最繁時を過ぎたカフェで食事を取り、午後は冒険者の依頼を入れていないので、ゆっくりと寛ぎながら新聞を読む。

 

「璃月で海灯祭というものが開催されるらしいな」

「海灯祭はその名の通り、灯りを海へ飛ばす祭りなの。灯篭の灯りが星々のごとく夜空を埋め尽くすのが美しいのよ」

 

「へえ、見たことあるのか?」

「……ないけれど」

 彼女は時々、他人の経験や知識を自分の体験かのように語る。

 これは、単純な社会経験のなさもあるのだろうが、"自分の目で見ることを諦めていた"という面もあるのかもしれない。

 

 あまりにも長い鳥籠生活ゆえに、『自分の目で見ることなどないのだから、他人の目こそが全てである』と考えていたとしてもおかしくはない。

 これはまあ、一緒に時間を過ごしていれば次第に改善されると思うので、そう心配はしていないが。

 

 

 ふと、視界の端に赤い姿を捉えた。

 どうやら騒がしい輩に見つかってしまったようだ。

 

「ナヒーダお姉ちゃん、やっほー!」

「やっほー、クレー」

 ナヒーダは微笑みながら、胸元で小さく手を振る。

 

「黒いお兄ちゃんは、何をみてるのー?」

「新聞だ。璃月で海灯祭というものがやるらしい」

「お祭り! アルベドお兄ちゃん、クレーお祭り行きたい!」

 

 赤い小悪魔に遅れて、アルベドも歩み寄ってきた。

「うん。買い出ししたい物が幾つかあるし、行ってみてもいいかもね」

 

 アルベドの返事に、クレーは笑みから更なる笑みへと表情を変える。

「じゃあじゃあ、ナヒーダお姉ちゃんたちも一緒に行こう!」

「わたくしは行ってみたいけれど、あなたは?」

「偶には遠出してみるのもいいかもな。俺もそれでいいよ」

 ナヒーダは自分の目で見てみたいと思っているだろうし、海灯祭とやらに行くのはいい提案だろう。

 

「やったー! あっ、それおいしそう! クレーも同じの食べたい!」

 喜んで飛び上がっていたクレーは、テーブルの上の皿に目が留まったらしく、そのまま別の話題へと飛びついた。

「クレー。きみもボクも少食だから食べきれないだろう?」

「別に残るなら俺が食うから気にしなくていい」

 

 ナヒーダも少食なので、よく彼女の残りをコーヒーのお茶請けとして食べている。

 そして普段から俺は腹いっぱいまで食わないので、食べるだけならまだ余裕があった。

 

「わかった! 店員さーん!」

 即座に注文するクレーを見て、アルベドは額に手を当てた。

「はぁ、すまない」

「いや別に構わないけど。ただ代わりに旅の間、クレーの舵取りに関しては頼りにしてる」

 

 赤い小悪魔を放っておけば、目覚ましと称して爆弾を放り込まれる未来が容易に想像できる。

 ナヒーダが比較的お寝坊であることを考えれば、彼を頼るのが最も現実的だ。

 

「うん。できる限りは頑張るよ」

 自信なさげに彼は笑った。

 

 

 

 四人で食事を取りながら出発日などの日程を語り合ったあとは、それぞれが午後の仕事へと出かける。

 俺の仕事は、ナヒーダが執筆する書籍の査読や、資料の整理、あとはお茶の用意など身の回りの世話だ。

 つまりは彼女の補佐役である。

 

 カフェから自宅へ戻ると、まずは竈に火を入れてお湯を沸かし始め、食事にも使う小さめのテーブルを綺麗に拭き上げて、仕事用のテーブルクロスへと取り換える。

 コーヒーを用意して彼女に提供すれば、一先ずは役目が終わった。

 あとは彼女の対面に座り、"課題"として出された本を読みながら、声が掛かるのを待つ。

 

「……元素石碑の基礎設計に関する本を取ってくれないかしら。三段目の左から十二番目よ」

「了解」

 本に栞を挟んで閉じ、本棚へ向かう。

 書物を全て暗記し、脳内だけでやりくりして執筆することもできるはずだが、どうやら本の手触りなどの刺激も執筆には重要であるらしい。

 他の人々がするような手続きを真似することにも、意味があるのだと彼女は言っていた。

「これだな」

「ええ、ありがとう」

 

 そしてしばらく経ち、課題図書を読み終えたので次はレポートの作成に取り掛かった。

 彼女に新しく追加してもらったタイプライター機能を起動すれば、空中にキーボードとディスプレイが投影される。

 

 キーボードを叩けば、指先にクリック感が伝わり、カタカタという音が小さく響く。

 タッチタイピングをするには指先の感覚がなければどうしようもない。

 なので指先へのフィードバックの重要性を説明したところ、バリア機能を応用して感触や音を付けてくれた。

 

 レポートにはテイワットでの言語ではなく日本語を利用している。

 これは、彼女が日本語をより深く理解するために、そうして欲しいと頼まれたためだ。

 平仮名から漢字への変換も彼女が用意したシステムを使っているので、時々変換できない言葉があるのは仕方ない。

 

 

 特に就業時間が定められている訳ではないが、日が暮れる頃には仕事を切り上げる。

 資料を本棚へ戻し、テーブルクロスを元の物へと取り替えた。

 今日の夕食はナヒーダが作るということで彼女に任せ、俺は新聞を詳しく読んで海灯祭の情報を仕入れておく。

 

 調理がひと段落したころ、おそらく煮込み途中の待ち時間なのだろう、手持ち無沙汰な彼女は、こちらに背を向けて膝の上へと乗ってきた。

 読み返していた新聞を横に除け、シートベルトのように彼女の腰に腕を回す。

 

「ねえ、いつもは料理していると抱きしめてくれるのに、今日は無しなのかしら?」

「"いつも"と言えるほどしていたか? 時々気まぐれに抱きしめてはいたけど」

「そんなことは重要ではないの」

「はいはい」

 新聞から手を放し、彼女を両手で抱きしめつつ、首を傾けてそのうなじにキスをする。

 

 キスまでされるとは思っていなかったらしく、彼女は耳を赤くして俯いた。

 俺は片手を腰に回したまま、もう片手を新聞へと戻し、彼女を膝に乗せると前が見えないので、肩越しに覗き込んで目を通していく。

 

「鍋は大丈夫?」

「ええ。しばらくは弱火で煮込むだけ」

 ピコピコと、耳をわずかに上下させながら彼女は答えた。

 

 部屋には鍋がくつくつとささやく音と、窓の外からの遠い喧噪だけが響いている。

 腰を抱く腕にやや力を入れて、もう少し彼女を抱き寄せた。

 ふかふか柔らかい腰と、暖かいその背中が、小春の日差しのようにじんわりと心に安らぎを与えてくれる。

 なんとも贅沢な時間の過ごし方だろう、そんな感想が心に浮かぶが口にはしない。

 

 

「もうそろそろ、鍋の様子を見ないと」

 そう言って立ち上がろうと腰を浮かべた彼女を、直後にもう一度抱き寄せた。

 両手を前に伸ばしたまま"ポスン"と落ちてきたその顔は、覗き込まずとも、驚きで呆けているだろう事が分かる。

 

「……どうしたの?」

 彼女はこちらを振り返りながら、不思議そうな顔でその意図を問ってくる。

 

「いや、なんとなくだ」

 先ほど言われた"そんなことは重要ではない"に似た意味を込めて、そう返す。

 そしてそのまま、白くフワフワとした髪の毛に顔を埋めた。

 ……何だか、体の調子がおかしい。

 

「寂しくなったのかしら?」

「抱き締めろと先に言ってきたのはきみだろ?」

 彼女の髪は細く柔らかく量が多いために、犬猫のような肌触りのよさがある。

 顔を埋めて香りを嗅げば、木々の香りが鼻先を満たす。

 

「その、ちょっと恥ずかしいわ。……変なにおいがしないといいのだけれど」

「良い香りだよ。例えるなら、お茶みたいな優しい香り」

 "猫を吸う"という感覚も、このような感覚なのだろうか。

 森林のような木々の香りには、僅かにココナッツのような甘い香りが混じっていた。

 

 

 

 食後しばらくして銭湯へと出かけ、帰ってきたら日課である読み聞かせを行う。

 これは彼女にとってはとても大切な習慣となったらしく、ちょっと忘れかけただけでも怒られた。

 そのおかげでまだ一日も欠かさずに継続できている。

 

「今夜はどうしようか」

「途中まででいいから、銀河鉄道の夜をまた読んでほしいの」

「わかった。少し待ってて」

 ベッドの上に二人で転がったまま、スマホ端末で小説サイトを検索する。

 

 ふと、頬に柔らかな暖かさを感じた。

「ナヒーダ」

「ふふっ、暝彩鳥が水鉄砲を浴びたような顔をしているわね」

 振り向けば、とても楽しそうに笑う顔が見える。

 あとで仕返ししてやろう。

 

 

「……ここまででいいわ」

 朗読の途中で、彼女からストップが掛かった。

「もう少しで読み終わるけど?」

「ええ、でもいいの」

 目線を向ければ彼女は、優し気だが真剣な表情で虚空を眺めている。

 

「あなたが選んでくれたから、この作品はわたくしのお気に入り。だけれど、結末はすこし嫌い」

 ぽつりぽつりと、ゆっくり溢すかのように、心の内が言葉となっていく。

「お別れになってしまうくらいなら、わたくしは永遠に、ふたり夢の中で過ごしていたい」

 

 心境を吐露するその頬に、軽く唇を触れさせた。

「へ?」

「さっきの仕返しだ」

「……考えていたことが、風に流されて飛んで行ってしまったわ」

 

 上手いこと気分転換として作用してくれたようで、ゴソゴソと音を立てながら彼女は腕の中に入り込んでくる。

 小さく柔らかいその身体を抱きしめ、眠りについた。

 

 



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2. 旅立ち前

 目が覚めると、すぐ目の前に唇が見える。

 ナヒーダが人の肩を枕に、脇へ嵌まり込むように眠っていた。

 口はポカンと小さく開いていて、今日はいつもよりもぐっすりと眠っているらしい。

 

 俺は声を掛けてから朝食の準備のために起き上がるが、彼女はそのまま毛布の中に引っ込んで丸くなった。

 どうやら冬の冷たい空気を前に、萎んでしまわぬよう温室へと引きこもったようだが、まあ料理している間に起きてくるだろうからそのままにしておく。

 

 

 スキレットにオリーブオイルと四つ切りのニンニクを加え、弱火で端が茶色くなるまで。

 火からおろして唐辛子とクミンシードを入れ余熱で香りを移し、今度は中火で玉ねぎと共に炒める。

 玉ねぎが透き通ったらパプリカとベーコンを加え、軽く炒めてから、トマト水煮と十分な塩を追加し弱火で水分を飛ばす。

 あとは卵を幾つか落として蓋をし半熟に仕上げ、味を壊さぬようわずかに胡椒を振れば完成。

 

「ペペロンチーノベースのシャクシュカだ」

「何が違うのかしら? ……ごふっ」

「ごめん。どうせバゲットに乗せて食べると思って、かなり辛くした」

「いえ、大丈夫よ。ちょっと驚いただけ」

 料理と共に並べておいたカフェオレに、彼女はクピクピと口を付ける。

 

「ねえ、なぜそんなにもペペロンチーノにこだわるの?」

「俺は意地っ張りだからな」

「……前に言ったことを気にしているのかしら」

 

 

 

 今日は天気が良いようなので、朝食後は洗濯をして衣服を干す。

 ナヒーダは相変わらず、俺と同じサイズのシャツを部屋着として使っていた。

「なあ、時々気になるんだが、きみの着てるそのシャツって、実は俺のだったりしない?」

「……なんのことかしら」

 

 洗濯をしていると互いの衣類事情が分かるが、明らかに洗濯ペースからズレた衣服が何枚もあった。

 また、彼女は心の動揺が目の動きに出る癖があり、瞳が細かく左右に泳いでいる。

 そのため状況証拠でしかないものの、これは黒だと考えていいだろう。

 

 しかし、本気で追及したかった訳ではないので、目を泳がせながらも頑なに黙秘を続けるその姿に根負けした。

 どうやら彼女は、これに関しては沈黙でゴリ押しすることに決めたらしい。

「はぁ……、まぁ別にいいけど。それで、今日は本を返して、鍾離さんへのお土産を買うってことでいいか?」

「ええ。あと服を買いましょ! せっかくの旅行だもの、十全に遊び尽くさなくては勿体ないわ」

「衣服な。了解了解」

 服を着替えてから、幾つか荷物を持って街へと出かける。

 

 

「こちらが返却する本です」

「ええ。確かに受け取ったわ」

 まずは、旅立ち前に借りていた書物を返却しておく。

 以前リサさんに揶揄われてから、ナヒーダが機嫌を損ねたために図書館にはしばらく近寄らなかった。

 だが知識欲には勝てなかったらしく、結局はこうして通い詰めている。

 

「そういえば……」

「帰るわよ」

 ナヒーダに腕を引かれて図書館から退出する。

 リサさんが何か話題を切り出そうとしたが、それを余計なことだろうと判断したようだ。

「あらあら。少しぐらい、お姉さんとお喋りしてもいいじゃない」

 ここへ通うようになったとはいえ、リサさんは未だ、彼女にとっての要注意人物となっていた。

 

 

 

 本を返し終えた後は、旅支度も兼ねて衣服の買い足しに向かう。

「シャツの追加か」

「ええ、今は家の中だけだけど、外でも着る用にも欲しいと思って」

「……頼むから、外に行くときは中に一枚着てくれよ?」

「どうしてかしら?」

「首元から中が見えるんだよ」

 

 サイズが合った服でも屈んだりした際には中が見えるのに、ダボダボの服ではなおさらだ。

 場合によっては、胸どころか臍まで見える。

「そうなの……」

 彼女は他人事かのように気の抜けた返事をした。

 こういった部分に関しての理解が弱いので、意味を分かっていないのだろう。

 羞恥心を教えるために、あとでスカートでもめくってみよう。

 

 

 衣服を買いに出かける度に、必ず一つは俺が彼女の服を選ばされる。

 しかも、どんなものであれ絶対に着るので、下手なものは選べない。

 一度、悪戯心からメイド服を選んでみたときは、メイド服の彼女とデートへ行く羽目になった。

 

 恐らくは今回選ぶ服を旅行で着ていくことになるので、暖かめのものを探すと、短めのコートといった感じのパーカーが目に入る。

 カシミアのようなきめの細かい生地で出来ていて、手触りも良い。

「このパーカーとかいいんじゃないか? 生地の質が良くて軽く暖かそうだし、上品で可愛らしいデザインはきみに似合う」

「じゃあ、これにしましょう!」

 嬉しそうに両手で服を抱えて持ち、会計へと向かった。

 

 

 そして最後に、世話になった礼として贈る品を選ぶために街を散策する。

「さて、鍾離さんへのお土産って何が良いと思う?」

「うーん。やはり、お茶ではないかしら?」

「茶と言っても種類がありそうなんだよなあ。まあ、細かいところは店員に相談すればいいか」

 

 "璃月人に贈る高級なお茶"というリクエストで、茶葉店にお任せすることにした。

 比較のために何件かを巡れば、ナヒーダが香りや見た目から質を判断するための基準を導き出したので、基準を満たしたお店まで戻りそこで購入する。

 

 

 一通り必要なものを買い終えたので、休憩がてらカフェへと入った。

「あー! デザート食べるなら、わたしにも奢ってよ!」

 風を切る音とともに、赤いうさ耳が降りてきた。

「アンバー、仕事はいいのか?」

「いーの、いーの! 見回りはパパッと終えたし、ここからなら門が見えるから怪しい人にも気付ける!」

 

 彼女は口煩いわりにガサツだが、なんというか人柄的な魅力に優れていて嫌いになれない。

 ただリサさんへの態度を見る限り、そういう心情がナヒーダにバレれば碌でもないことになることが見えている。

 なので必要以上には関わらないように心がける。

 

「ナヒーダちゃんは本当に知識があるよねぇ。そこの誰かさんとは大違いだ」

「常識に疎くて悪かったな」

 アンバーとは何度か食事を共にしていて、その際の雑談を通して俺がテイワットでの常識的な知識をあまり知らないことがバレてしまっている。

 彼女は俺がナヒーダを泣かせたことをまだ許してないようで、こうして度々、小言を言われていた。

 

「でも、それも彼の魅力なの」

「それまったくフォローになってないんだけど……」

 背筋を伸ばし行儀よくケーキを食べるナヒーダは、甘味によってニコニコと顔を緩めている。

 大人びた雰囲気と見た目相応の表情のギャップが可愛らしかったが、口にしたその言葉は考えてのものなのか分からなかった。

 

 

 

 買い物も終えたので、カフェでアンバーと別れて家へ戻ってくると、ナヒーダはまたシャツに着替えた。

 今回着ているのは俺が元の世界から持ってきたものなので、もう隠す気すらないらしい。

 これは罰が必要だな。

 

「ナヒーダ、後ろを向いて」

「? なにかしら?」

「そのままバンザイ」

 彼女が両手を上げたので、一気にシャツを首元まで捲り上げる。

 見えたのはレースのショーツと、何も付けていない背中。

 

 腕を上げたまま数秒間硬直した後、腕を下げると同時にペタリとしゃがみ込んだ。

 手放されたシャツの裾が少し遅れて地に落ちる。

 

「今回は大袈裟だっただけで、普段から全部見えているからな?」

「……わかったわ。気を付ける」

 俺がなぜこんな事をしたのかを理解できたらしい。

 多少常識に疎くとも、こういう部分では聡明なので助かる。

 

 

「……驚きすぎて、脚に力が入らないの。抱き上げてちょうだい」

 床にしゃがみこんで顔を伏せたまま、そう乞ってきた。

 俺は彼女をベッドの上へ運ぶために膝裏に腕を通して抱き上げ、謝罪の言葉を投げる。

「悪かったよ」

「本当に驚いたの。リンゴが空へ落ちていったのかと思ったわ」

 彼女は不満を語るが、しかしその顔はジェットコースターでも体験したかのに目を輝かせていた。

 

「どうしてそんなに嬉しそうなんだ?」

「だって、部屋に戻るまでそれをしなかったのは、"わたくしの体を他者へ見せたくない"という独占心でしょう?」

「……そんな時に限って頭が回らなくていいんだけど」

 いや、外でしたらアンバーに捕まる、というのは今更言ってもただの言い訳か。

 

「ふふっ。わたくしはいつも、あなたの心を意識しているのよ?」

 腕の中から顔を見上げ、少し目を細めて眩しそうに微笑む。

 俺は両手が塞がっていて顔を背けることも難しいため、逃げ場が無かった。

 打撃を受けた心臓は静かに高鳴る。

 

 

 

 しばらくベッドの上でふたり寛いでいると、読書をしていた彼女から声が掛かった。

「耳かきをさせて欲しいの」

 そう言って、ナヒーダは自らの膝を叩く。

 

 先日、彼女の読んでいる恋愛小説をぱらぱらとめくったところ、ちょうどそのような描写が描かれていた。

 なので自分も試したくなったのだろう。

「ああ、いいよ」

 彼女の膝に顔を乗せると、ワンピース代わりのシャツの裾はそう長くないために、彼女の太ももが頬へと触れた。

 

 絹のような手触り、ここでは頬ざわりと言ったほうがいいだろうが、の肌が顔にペタペタとくっ付く。

 また、彼女の太ももに囲まれた空間は、主に彼女の肌から揮発した暖かな水蒸気に満たされている。

 なので直接的に彼女の肌へ触れていない部分までもが、その体温を濃厚に感じ取ってしまい、まるで顔を太ももに挟まれているかのようだった。

 

 

「逆を向いてちょうだい」

 言葉に従い寝返りを打つと、彼女のお腹が視界を塞いだ。

 なんとなく彼女の腰に腕を回し、その少しぽっこりとして柔らかなお腹へと顔を埋める。

 ……最近、妙に人恋しい気がする。

 

「あら、なんだか今日は甘えん坊ね。よしよし」

 彼女は軽く笑うような口調で言いつつ、頭を撫でてきた。

 反論しようとも思ったが、思いのほか気持ち良いので素直に受け入れる。

 

 

「終わったわ。次はわたくしの番よ」

 軽く眠ってしまっていたようで、彼女の声でそれに気づいた。

 伸びをしながら起き上がり互いの姿勢を交換する。

 そして膝の上の彼女の側頭部、そこにそびえ立つ長い耳を見て、少し熟考してしまう。

 

「……このままじゃ綿棒が届かないから、耳を裏返すよ」

 表と裏を入れ替えるように耳をめくりあげた。

 そうすると耳の付け根が上向きに折れ曲がり、犬猫と同じような形で耳の穴が露出する。

「痛くない?」

「ええ、大丈夫。……ひゃっ!」

 

 口と目を見開いて、彼女は驚きの声を上げる。

「耳の入り口に埃がついてただけだ」

「そう、なの……」

 声を出したのが恥ずかしかったようで、ほんのりと頬が赤みを帯び始めた。

 その姿が可愛らしくて、俺は指の背でそっとその頬を撫でる。

 

 

 肝心の耳掃除は、彼女が人ではないためかあまり汚れがなく、時間がかからずに終わった。

 少し名残惜しいので髪に指を通すように頭へ触れていると、膝の上の彼女は、徐々に眠りへと落ちていく。

 耳を裏返したままの寝姿を眺めつつ、起こさぬように優しく髪を撫で続けた。

 

 



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3. モンド出発

「みんなで記念写真を撮りたいの」

 璃月へ向けての出発日、朝食を四人で取ってからモンドの門前へと向かうと、彼女がそう言いだした。

 なので、ナヒーダとクレーが前、俺とアルベドがその後ろに立つ形で写真を撮る。

 アルベドはジッとしていないクレーの肩を抑え、俺もそれに合わせてナヒーダの肩を持ったので、家族写真のような不思議なものとなった。

 

 

「よーし、しゅっぱーつ!」

 クレーが元気な声をあげて先陣を切る。

 

「待つんだ。走ってはいけないよ、クレー」

 そのすぐ後ろにはアルベドが何かあれば制止できる距離で付き従い。

「わたくしたちも行きましょ!」

「ああ、そうだな」

 俺たち二人は最後尾。

 楽し気なナヒーダに手を引かれて歩き出した。

 

 今回は冬の旅なので、毛布も分厚く温かいものをロール状にまとめてバッグの下に吊るしている。

 あと俺は厚めのロングコートを着た。これは毛布代わりに体に掛けたり、床が冷たい時に下に敷いたりと、色々と雑に使えて便利だ。

 ただしコートの前を閉めると膝が布地を蹴ってしまって歩きづらいので、長時間の歩行では前を開けておく。

 

 ナヒーダは先日に買ったパーカーを、短めのスカートと組み合わせて着用した。

 荷物は俺がまとめて持っているが、彼女も小さめのバッグを背負い、水筒や携帯食などを運ぶ。

 また、こういった特別な日にはサイドテールにするのが流儀であるようだ。

 

 

 歩き始めてしばらくするとクレーが飽きたらしく、ナヒーダが先頭へ連れていかれた。

 結局は子供組であるナヒーダとクレーの後ろを、保護者組である俺とアルベドが歩く形で落ち着く。

 

「なあ、あれって体力持つのか?」

「うーん、クレーは持久力があるけれども、きっと昼前までには疲れ果ててしまうんじゃないかな」

「アルベドお兄ちゃん、黒いお兄ちゃん、はやくー!」

 少し遠くから俺たちを呼ぶ声がする。

 

 大きく手を挙げて振るクレーと、それに合わせて胸の前で小さく手を振るナヒーダが、俺たちを待っていた。

 クレーはナヒーダと似た長い耳を持っているが、性格ゆえか、ナヒーダよりも上向きに耳を伸ばしている。

 太陽のように騒がしいクレーと、月のように御淑やかなナヒーダの対比は見ていて面白い。

 

 

 

「つーかーれーたー! アルベドおにいちゃん、肩車して!」

「……わたくしも!」

 アルベドの予想通りしばらくしてクレーは体力が尽きた。

 しかしそれを聞いたナヒーダまで肩車をせがみだす。

 

 要求に答えるために、俺とアルベドは道端にしゃがみ込んだ。

 俺の首にナヒーダがしっかりと跨ったのを確認し、左右に揺れる足首を掴んで支えながら立ち上がる。

 立ち上がる時の揺れに対し、彼女は反射的に太ももで首を挟んで耐えようとしたために、首元を左右から柔らかいものが襲った。

 

 肩車というものは重心の高さゆえに想像以上に不安定で、僅かに歩くだけでも彼女が前後左右に大きく傾いてしまう。

 そのため彼女は頭にしがみつこうとしたが、頭部は位置が低くて掴みづらく、結局は両ももで首に巻きついてバランスを取ることを選んだ。

 どうやら思ったよりも恥ずかしかったらしく、肩の上でモジモジと何度も腰を動かし、時折ピクリと、豊満な太ももに力を込める。

 その度に、今日の彼女が履く裾長なドロワーズは首筋をくすぐる。

 

 アルベドはクレーを担いだまま、体幹がぶれることなく歩いていく。

 彼は線の細いように見えて身体能力が俺の比ではない。

「黒いお兄ちゃん、おそーい」

 俺はややふらつきながらも、一歩一歩しっかりと踏み出して彼らを追った。

 

 

 肩車を続けるアルベドの横を、俺と、肩から降りたナヒーダが歩く。

 赤い小悪魔は、俺とアルベドを馬に見立ててレースをさせたりし、またアルベドは遊びに関しては案外ノリが良いのもあり、あっという間に俺の体力が尽きた。

 

「アルベドお兄ちゃん、クレーお腹すいたー」

「ここら辺でお昼にしようか。きみたちもいいかい?」

 俺たちもそれを了承し、手頃な場所で足を止めて食事の準備をする。

 

「甘くておいしー!」

「ふふっ。あまり急いで喉に詰まらせないようにね」

 クレーたちが、ナヒーダ手作りのナツメヤシキャンディを齧っている。

 ナツメヤシの実、いわゆるデーツ、はドライ状態であればモンドでも手に入る。

 そのため事あるごとに彼女はこれを自作していた。

 

 ゴマダレやバターを加えてローズウォーターで香りづけしたこれは、デーツの栄養価の高さもあり、携帯食としての適性が高い。

 とはいえ甘い食事は少し辛いので、俺は水筒からアイスコーヒーをカップへ注ぐ。これは出発前に淹れて丸ごと冷やしておいたものだ。

「わたくしにもちょうだい」

「ほい」

 彼女の差し出した、お揃いの木製カップへ注いで渡す。

 

「なんだか遠足みたいだね」

「実際、食事はほぼ買い食いに近い予定だから荷物も軽いし、遠足みたいなものだろ」

 満足そうにキャンディを齧るアルベドに、そう言葉を返した。

 

 

 

 今日は酔漢峡に入って少し進んだ場所で野宿することになった。

 近くの屋台で夕食を買い、人目を避けるため岩陰へと道を外れて野営の準備をする。

 

 基本的に、旅人というものはあまり夜道を歩かない。

 異物を踏んで足を挫いたり、足を踏み外して転落したりする可能性があるし、明るいうちでなければ安全な寝床が選べないからだ。

 崩れかけの崖や倒木の近くなどを寝床にしてしまえば命の危険があり、周囲が暗いと案外そういった危険に気づけなかったりする。

 そのために日暮れよりずっと前には野宿地を定めて脚を休めるものであり、副次的にそれなりの自由時間を持つことができる。

 

「トランプでもしようか」

 夜明けとともに出発するとは言え、眠るまではまだ時間がある。

「あそぶの!? クレー、あそぶの大好き!」

 クレーにも理解できるような簡単なルールでカード遊びをして過ごした。

 

 

 軽く遊んだ後は、シャツや下着を着替え、ついでに濡れタオルで体を拭う。

 荷物が限られているために、特に重量のかさむアウターやボトムスなど、一部の衣服には替えが無い。

 なのでそれらを極力汚さないようにするには、身体の清潔性はとても重要だ。

 

「ねえ、わたくしの体を拭いてちょうだい」

「……アルベドたちも居るんだけど」

 少し離れているが、小声で会話しなければ内容が伝わる程度には近い距離に彼らは居る。

「背中だけでもお願い」

 

 衣服を脱いで、抱えたシャツで胸元を隠しながら、小さな背中を曝け出す。

 かと思えば、彼女はこちらへと体を向けた。

 そのまま膝の上に乗り、抱きつくように腕の中へ入ってくる。

「背中を拭くんじゃなかったのか?」

「寒いのだもの。このまま拭いて」

 

 溜息を一つ吐き、寒くないように抱き寄せた。

 そのまま彼女の肩越しに背中を見渡して、濡れタオルで拭っていく。

 軽く開いた両手ほどしかない肩幅は、腕の中にすっぽりと収まるので、清掃に支障は出なかった。

 

 

「次はあなたの番よ?」

 体を拭き終えて寝間着のシャツを着た彼女が寄ってくる。

 拒否したところで彼女がごねるのが見えているので、さっさと上裸になる。

 

「ナヒーダ? きみの体格じゃ、正面から拭くのは無理じゃないか?」

「いいの! お腹を冷やして風邪をひいては困るでしょう?」

 膝の上に乗ったまま、全身で抱き着くようにして必死に背中へ手を伸ばす。

 シャツ一枚越しに胸元同士が触れ合い、彼女のわずかばかりの柔らかさを伝えた。

 

 

 

 寝る前の語り聞かせには、クレーとアルベドも参加した。

 俺の語る物語に興味があるらしい。

 

「むかしむかしあるところに、浦島太郎という漁師がいました……」

 柔らかく微笑むナヒーダ、意外と大人しく聞き入っているクレー、一番真面目に聞いているアルベド。

 スマホ端末を頼りに、分かりやすく噛み砕きながら話を読み聞かせる。

「……お爺さんになってしまっていたのです。お終い」

 

「これはきみの世界の童話なのかい?」

「ああ。確か500年以上前に作られた話だったかな。本来は助けた亀と結婚するらしいよ」

「結婚! クレーも結婚したい!」

 爆弾娘に変なところで点火した。

 まあ被害を受けるのはアルベドだろう。

 

「ナヒーダお姉ちゃん、クレーと結婚しよ?」

「ええと……」

 ナヒーダが助けて欲しそうにこちらへ目配せをする。

 下手なことを言えばクレーはそれを吹聴して回りそうなので、無難な言葉を選んで声を掛けた。

「クレー、あまりナヒーダを困らせないでやってくれ」

 

「お姉ちゃん、クレー迷惑だった?」

「いいえ、でもわたくしには心に決めた人がいるの」

「えー! それって誰なの!?」

「ふふっ、誰かしらね?」

 目線を向けたりはされなかったが、何となく無言の圧を感じる。

 

 

 眠る準備をしていると、クレーが『ナヒーダお姉ちゃんと寝たい』と言って、俺たちの間に割り込んできた。

 ナヒーダは『ここはわたくし専用なの』とあしらう。

「やあだ! やあだ! クレーと一緒に寝るの!」

 しかし、うるさくクレーが騒ぐので、折衷案として川の字で寝ることとなった。

 俺、ナヒーダ、クレー、アルベド。四人での横並びだ。

 

 クレーは疲れたのか早々に寝息を立て始めたらしく、"くかーくかー"と可愛らしくも荒々しいイビキが聞こえる。

 手はつないでいるものの、ナヒーダの体温をあまり感じずに寝るというのは久々だ。

 更には、こうして四人で並んで眠るというのが不思議で仕方ない。

 

 

 ふと、自分を見下ろしているかのような、妙な感覚に頭が囚われた。

 自分の状況を冷静に眺めてしまい、『テイワットという世界にたった一人で放り出された』という事実が重くのしかかる。

 走り出したいような寂しさ、今すぐに帰り道を探したい焦燥感が、じりじりと身を焦がす。

 

 助けを求めるように彼女の顔を眺めるが、彼女もまた疲れたのか、小さく口元を開いて心地よさそうに眠っている。

 睡眠中もこちらの能力を制御し続けているらしいので、この手を離せば気が付くのだろうが、情けなくて流石にそこまではできない。

 

 熱でうなされているような苦しみに耐えながら、どうにか一人、眠りにつく。

 

 

 

 

 賑やかな声が聞こえる。

「黒いおにいちゃん、まだ寝てる!」

「どうやら疲れていたみたいね」

「あっ、そうだ! 新しい目覚ましを開発したんだった!」

「っ! クレー、待ってちょうだ……」

 

 耳鳴りが響くほどの炸裂音、それに伴う吐き気。

 一度はふらふらと起き上がるが、しかし両肘と頭を地に付けるように、俺はうつ伏せで崩れ落ちた。

 

 

 クレーを説教してから酔漢峡を発ち、アカツキワイナリーを越えると、落ち着いた雰囲気の大きな湖畔へと出る。

 湖畔沿いに進めば二つの崖が張り出した石門へと続く道となっていて、また水面越しに遠くを見れば、ドラゴンスパインがちょうど見通せる。

 思い返せばずっとモンドに引きこもっていたので、ここへ来るのはスメールからモンドを目指したあの時以来だ。

 

 赤い小悪魔はここでもやらかした。

 どうやら彼女はこの辺の監視が緩いことを知っていたらしい。

 水中爆発によって巻き上げられた水飛沫は、一時的な降雨となってサアサアと降り注ぐ。

 

 俺はドン引きし、アルベドは額に手をやる。

 クレーは耳を上向きにして誇らしげな笑みを浮かべていた。

「お昼ごはんはお魚にしよ!」

「クレー、お昼はお弁当を買っただろう?」

「わっ、そうだった! どうしよう……」

 

 酔漢峡で昼飯と保存食を購入しているので、既に食料は十分ある。

 仕方がないのでお昼は魚にして、弁当は氷元素で冷やし夜へ回した。

 

 



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4. 四人の道中

 アカツキワイナリーと石門の中間地点で一泊することとなった。

 盗賊の被害が多い地点らしいので、ナヒーダを抱きしめながら、木にもたれるようにして就寝の準備をする。

 

 彼女を抱きしめていると心が落ち着く。

 そのおかげか昨夜の苦しみはただの夢だったかのように、すんなりと眠りに落ちることができた。

 この、目鼻立ちの整ったぷにぷにの丸顔は、今の俺の拠り所だ。

 

 

 翌日、ナヒーダもろとも爆破されるようなこともなく、無事に目が覚める。

「おはよう、ナヒーダ」

 目を覚ました彼女は、半分寝ぼけながらも唇を突き出した。

 どうやらアルベドたちが居て触れ合う時間が取れないために、人恋しいのかもしれない。

 とりあえず、唇を避けて頬に軽くキスをする。

 

 彼女はこちらの頬に返答してから、それだけでは物足りなかったらしく、そのまま犬猫のように顔を擦り付けてくる。

 甘えてくる彼女の後頭部を撫でれば、細く柔らかい癖毛が指を包む。

 

「あー! ナヒーダお姉ちゃんだけズルい!」

 不運にも、騒々しい輩に見つかってしまった。

「クレーも! クレーも!」

「クレー、これはわたくしだけの権利なの」

「えー!」

 

「どうしたんだい?」

「ほらクレー、アルベドに撫でてもらえ」

 ちょうどアルベドが寄ってきたので、彼女たちに横やりを入れて彼に矛先を向けさせた。

 赤い爆弾はアルベドの腹に飛びついて、グリグリと額を押し付ける。

 彼はすこし困った顔をしつつも、手慣れた様子でその頭を撫でた。

 

 

 

 昨日の惨事を通して、クレーについて多少は理解ができてきた。

 彼女の長い耳が真横を向いている時は機嫌がよく、斜め下を向いている時は悩んでいるかリラックスしている。

 そして、その耳が斜め上を向いている時は、機嫌が良すぎるのですぐに逃げ出すべきだ、と。

 

 これがナヒーダであれば、耳は常にやや斜め下を維持していて、たまに上がり下がりすることはあれど、上向きになった場面は見たことがない。

 耳を支える筋肉量の違いによるものなのだろうか。

 いや、耳を介した感情表現をすることに慣れているかどうかかもしれない。

 

 

「黒いお兄ちゃんはふくすうの元素をつかえるから、とくべつな爆弾をつくれるよ! たとえばね……」

 ピコピコと横向きに耳が揺れる。

 赤い小悪魔は、具体例と妙な擬音を交えながら、元素を利用した爆弾について説明してくれた。

「……つまり爆轟による衝撃波を利用した元素反応の過剰促進というわけか。障害物の破砕などに利用できるかもしれないな」

 彼女の講釈は想像に反して理知的であり、爆破という一点においては非常に参考となる。

 

「……ねえ、あなたたちの会話を聞いていると、わたくしはとても不安になるのだけれど」

 服の裾を引かれて振り返れば、呆れを含んだ形容しがたい表情のナヒーダがそこに居た。

 でもナヒーダもどちらかといえば、必要なら破壊行為を行う側だと思う。

 

「ナヒーダお姉ちゃんもドカーンしたい?」

「ごめんなさい、クレー。わたくしは遠慮しておくわね」

「えー! じゃあいいもん、黒いお兄ちゃん、ドカーンしに行こ!」

 クレーが手を握ってくる。

 さらにそれを見たナヒーダが反対の手を握った為に、左右に腕を伸ばすような綱引き状態のまま走らされた。

 

 

 

 そして石門の露店街に到着し、皆で少し早めの夕食を取る。

 酔漢峡ほどではないものの、交易の通過地点なので、それなりにお店が出ている。

「クレー、これとこれが食べたい!」

「そんなに食べきれないだろう? 一つにしておこうよ」

 

「なら、選ばなかった方はわたくしが頼むわ」

「残りそうだし、俺は軽めでいいや」

 赤い小悪魔を中心に、残り三人が味見をしたり消費を手伝ったり、わいわいしながら食事を取る。

 クレーは限界まで大きく口を開くような笑い方をするのに、不思議とそれが下品ではなかった。

 釣られて笑うナヒーダは、クツクツと、喉からの動きで頭を小刻みに揺らす。

 

 

 食後は以前と同じように、ウッドデッキの行き止まりに陣取って寝泊りの準備をする。

 ここは床が木であるので底冷えがあまりせず、背中に刺さるような小石も埋まっていないので快適に過ごせる。

 海灯祭に合わせてモンドから旅をする人達はそれなりに多いようで、あちらこちらに俺たちと同じようなグループが座り込んでいた。

 

 日課のお祈りを見届けてから、俺は今夜の物語を語り始める。

「注文の多い料理店というものがあるらしい……」

 石門のすぐ上には幽霊の出るとされる丘がある。

 以前にここへ来たときも怪談話をしたのだし、今夜の話は歩いている途中で既に決めていた。

 

「……怖くなって彼らは扉をよく眺めました。そしたら、大きな二つの鍵穴からは、二つの青い目玉が覗いていて……」

『うわぁ!』『いやぁ!』

 クレーとナヒーダが合いの手を入れた。

「いらっしゃい。いらっしゃい。我々はもう、ナイフを持ち舌なめずりをして待っているのです……」

 俺は続きを語る。

「……犬に追われて化け物が逃げた後には、もうレストランの姿などどこにもありませんでした、と。以上だ」

 

「お話の選択に悪意を感じるのだけれど」

 ナヒーダはクレーと抱き合って、口元をへの字に曲げながら不満を漏らした。

「これはきみの好きな"銀河鉄道の夜"と同じ作者だぞ?」

「え? まさか、そんな……」

「というわけで、今日の語り聞かせはこれでお終い」

 眠るにはまだ早いが、睡眠の準備を終えて毛布を纏い横になる。

 

 

 しばらくすると小さな身体が潜り込んできた。……ふたつも。

「クレー、きみはアルベドのとこに潜り込んでこい」

「いや! ナヒーダお姉ちゃんと寝るの!」

「わたくしもクレーが居てくれたほうがいいわ。今日のあなたは少し信用ならないもの」

 

 結果として、クレーと抱き合うナヒーダを、俺がその更に背後から抱きしめる形で眠ることとなった。

 女子二人は毛布の中でずっと喋り続け、アルベドは我関せずといった風に一人で本を読んでいる。

 彼が本を閉じる頃には、二人分の寝息が腕の中から響いていた。

 なお、クレーは寝返りを打つ際に毛布を引っ張るので、反対側の俺は何度も寒さに起こされた。

 

 

 

 翌日、石門の出店で朝食を取って出発し、望舒旅館への道を歩く。

「ここら辺で洗濯をしようか」

「じゃあ、クレーの出番だね!」

 湖畔で衣服を洗い、その後には火元素を利用して乾かす。

 本来ならロープを張って乾くまで待つ必要があるが、ここでは元素反応を利用できるので手早く済む。

 とはいえ日干しにも消毒消臭などの利点があって、完全に置き換えられるものでもないが。

 

「これもお願いね」

 渡された下着を、革製の折り畳みバケツへ入れまとめて洗濯する。

 彼女は裾の長いドロワーズと普通のショーツを使っていて、そのどちらもレースに彩られたものばかりだ。

 少し婆臭いところが彼女らしいとも言えた。

 

「あー、ずるしてる! クレーのも一緒に洗って!」

「えぇ……」

 バケツにクレーの下着が放り込まれた。

 アルベドたちはバケツなどを持たずに一枚づつ手洗いしていたが、効率的にまとめ洗いするこちらに気づいたらしい。

 

 

 旅に持っていく荷物というものは人それぞれの個性が出る。

 最小限の荷物でやり繰りする人も居れば、俺のように重量を増やしてでも利便性を取る人も居る。

 ちなみにアルベドは最小限の荷物と大きな画材を持ち運び、休憩しながら絵を描いていた。

 クレーは自分の分の毛布すら持って来ていない。

 

「ねえ、いいでしょ?」

「おまえ、一応女子だよな。恥じらいとかないのか? ないだろうな」

 恥じらい以前に、街中で爆弾を使うような輩だし。

「ナヒーダお姉ちゃんよりはあるもん!」

 クレーの言葉を聞いてナヒーダへ目線を向けると、彼女は顔を逸らした。

 いったい何をやらかした?

 

「なんでナヒーダお姉ちゃんのパンツはいいの?」

「いやそれは……」

 気付いてしまった。言い訳のしようがないということに。

 困り果ててナヒーダに目をやると、彼女は人差し指を口元に当てて考え込む。

 

「……わたくしが洗いましょうか?」

「ああ、頼んだ」

 ナヒーダの申し出に乗り洗濯を代わって貰った。

 俺はアルベドの元へと逃げ去る。

 

 

「きみたちは本当に仲が良いよね」

「一年ほどとは言え、四六時中を一緒に暮らしているからな」

「……異世界人であるきみと一緒に暮らすほどの仲になった。その点で、彼女の出自にも興味があるんだけど」

「俺から明かすようなことではないから、それはナヒーダに聞いてくれ」

 手早く洗い終えたらしいアルベドと、軽く雑談をする。

 

「火元素が必要なら、俺が出そうか?」

 クレーたちはバケツの周りでわいわい騒いでいて、しばらくは声を掛けてもダメだろう。

 普段は俺が洗濯後の乾燥を担っているので加減は分かるし、こちらはこちらで終わらせてしまうことにした。

「じゃあお願いするよ」

 

 

 

 俺たちは望舒旅館へたどり着き、部屋を取った。

 四人部屋だが、内部が二人部屋二つに分かれている間取りだ。

 

 荷物を置いてから男女に分かれてさっそく風呂へ向かう。

 アルベドは無駄に喋るタイプでもないので、互いに無言で思い思いにくつろぐ。

 そして風呂から上がって部屋に戻ると、しばらくしてナヒーダたちも帰ってくる。

 クレーの髪を梳かすアルベドの横で、俺もナヒーダの髪を梳かして整えた。

 

 二部屋の内の片方は、両部屋が集まって食事を取るために大きな間取りとなっていた。

 運ばれてきた食事を堪能し、食後はそのままそこで物語を語り聞かせる。

 だが語り終えて就寝の時間を迎えたところ、一つの問題が発生した。

「やだ! お姉ちゃんとクレーで寝るの! お兄ちゃんたちは向こうの部屋!」

 

 結局、ぐずるクレーに耐えかねて、ナヒーダが折れた。

 大きな部屋でナヒーダとクレー、もう一つの部屋で俺とアルベドがそれぞれ眠りにつく。

 

 



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5. 旅館での事件

 夢を見る。

 

 長らく目にしていないアスファルト舗装の道路や、そこを行きかう車たち。

 なんの珍しさもない日本の光景であるが、今の俺にはそれこそが求めて止まないものだった。

 目前にはよく利用していた駅舎があり、ここからなら歩いて自宅へと戻れるはず。

 

 それはあまりにもリアルで、まるで本当に帰って来たかのような錯覚を覚えた。

 体が溶けていくような不思議な感覚と共に、徐々に現実感が増していく。

 そして……。

 

 

「っ!?」

 腹部に強い衝撃を受けた。

 かき消されるかのように目前の光景が消え、意識が混乱する。

「嘘つき!! 嘘つき!!」

 目を開くと、何処かの旅館の天井と壁が見え、それと同時にナヒーダの声が聞こえた。

 

「どうしたの~?」

「……きみの能力は、異世界の映像を見るだけには留まらないようだね」

 "嘘つき"と叫び続けるナヒーダ。寝ぼけ眼のクレー。真剣な眼差しのアルベド。

 徐々に頭が覚醒するに従って、なんとなく状況を察することができた。

 

「クレー、今日はボクと寝よう」

「えー! ナヒーダおねえちゃんとがいーい!」

 ぐずるクレーを引っ張ってアルベドが去っていく。

 

 

 

「……ナヒーダ、重い」

「嫌」

「ナヒーダ」

「嫌よ」

 一つため息を吐き、腹の上から退く気のない彼女を、軽く抱きしめる。

 彼女の暖かな体温に触れると、不思議と心が落ち着いた。

 

「そういえば、どうして俺の状態が分かったんだ?」

「居場所が揺らいでいたもの」

 というと、チョーカーの機能によるものか。

 思っていた以上に精密な位置測定ができるらしい。

 

「キスをして」

「まだお預けだ」

「……お願い、頭が狂ってしまいそうなの……」

 彼女から震えが伝わった。

 改めて先ほどの事態を自覚したのか、震えながら、消え入りそうな声で彼女は言った。

 思いがけずに、"置き去り"というものを実際に体感させたからだ。

 

 

 俺は身を起こして彼女を腹の上から膝の上へ降ろすと、何も言うでもなく唇と唇を触れさせた。

 彼女は両手を首に回し、逃さぬよう、俺の頭部を抱き締めてくる。

 そして塞がれた口の代わりに、互いにゆっくりとした鼻息で会話する。

 

 ナヒーダの後頭部を撫でると、リズムが崩れ、一瞬だけ鼻息が強くなる。

 残った片手で彼女の腰を引き寄せて、口元だけでなく胸部や腹部を含めた全身で触れ合う。

 彼女はその間、強く首を抱きしめ、一度もその小さな唇を離さない。

 

 体格的にリードを握っている俺と、握られてしまっている彼女の違いによるものだろうか。

 強く抱きしめて互いの体温を感じる内に、"ふーっ、ふーっ"と、次第に彼女の呼吸は短く鋭くなる。

 対して俺は、ただ唇を重ねてジッと心を落ち着けるに従って、呼吸も長く柔らかくなった。

 

 しばらく動かずにただただ唇を重ね続けていると、彼女も徐々に呼吸が落ち着いていく。

 そろそろ頃合いだと思い唇を離すと、彼女はこちらの肩に置きなおすように手をずらした。

 

 

 膝の上の至近距離から、ジッと目を見つめてくる。

 いつもと違う、敵に立ち向かう時のような、険しく鋭い眼差しだった。

「……嘘つき」

 思い出したように、またその言葉を呟く。

 嘘をついたつもりはないが、何も言い返せない。

 

「あなたはわたくしのすべてなの! なのに! なのに!!」

 徐々に、肩をつかむ彼女の手に力がこもっていく。

「……帰りたいのならっ、帰りたいと言ってちょうだい!! ……わたくしもついていくから」

 ボロボロと涙を落としながら、時折"ひっく"と、喉を鳴らす。

 

 『ついていく』という部分は声のトーンが低く、本気を感じさせるものだった。

 全てを投げ捨ててでもついてくるつもりなのかもしれない。

 神の責務はいいのかと疑念に思うが、彼女は容易に自己犠牲を選ぶようなタイプである。

 自己犠牲とは残された者たちへの無責任である訳だから、その責務は絶対的な位置づけでもないのだろう。

 

「帰ろうと思っていた訳じゃない。確かに帰りたいとは感じるけど、きみのために残ろうと決めたんだ」

「それで帰ってしまっては意味がないじゃない!!!」

「いっ!?」

 ギュッと、本気の力で肩を握られる。

 

「……お願いだから、置いていかないで……」

 喉を絞り切った後のような、引き攣りすぎて掠れた声だった。

 火事場力で握られた肩がすこし痛む。

 

 

 

「はぁ……」

 心を落ち着けるため、そして自己への嫌悪のため、溜息を一つ吐く。

 嘘つき認定されている以上は、こちらから言葉を重ねても意味がない。

 だから、彼女の意見を聞くこととした。

 

「それできみはどうしたい?」

「……首輪を付けたい」

「は? どういう意味だ?」

「こういう意味よ」

 

 強く、首筋に吸い付いてくる。

「ナヒっ!」

 鋭い痛みと共にガリッという嫌な音がした。

 突き放すように膝から押し出せど、その唇は離れない。

 

 その後は首に沿うように強く吸い、順々に内出血痕を付けていく。

 ぞくぞくとした感覚が走るが、これは快感などではなく、単純な恐怖だ。

 小さな唇が、首元から血肉を吸い取るかのような、強烈な違和感。

 血は出ていないはずなのに、一度恐怖を感じてしまえばもうそれを止めることができない。

「くっ」

 思わず声を漏らし首をすくめてしまう。しかし、彼女は意に介さず吸い続ける。

 首にはきっと、彼女の痕が首輪のように並んでいる。

 

 

「……わたくしが怖いの?」

 そう問われて気づけば、自分の肩が小さく震えていた。

「さすがに、頸動脈に噛みつくのは趣味が悪いだろ……」

「………」

 彼女は俯き、黙り込んだ。

 大方、『俺を怖がらせてしまった』という自責と、『わたくしも怖い思いをしたのに』という不満、あとはそれに加えて『怖がられて逃げられるかも』との考えで葛藤しているのだろう。

 

「ナヒーダ」

 名を呼んだだけで、びくりと、彼女の肩が跳ねた。

 そして遅れて見えたのは、萎びた花のような後悔に満ちた顔だった。

 後悔するぐらいならやらなければいいのに、と思う。

 だが先の行動はきっと、ただの心の慰めであり、後先を考えてなどいない。

 

 

 優しい人ならばここで、優しくキスを落とし、甘い言葉を吐くのかもしれない。

 だが、生憎ながら意地っ張りな俺はその気になれなかった。

 むしろ、以前にも『所有物化するなら怒る』と言ったのにまたそれを犯したことや、みっともない姿を見られた逆恨みから、反撃を選んだ。

 彼女の顎に手を添えて、喉を開くように上を向かせる。

 

 状況を呑み込めない彼女は、何をされるのかも理解できていないらしく、されるがままにその白く細い首筋を差し出す。

「先に裏切ったのはきみじゃないか」

「え?」

 意を決して、その肌に吸い付く。

「あっ、んっ!」

 もしこれがゼリーかなにかであれば砕けて吸い込まれてしまうほどに、強く、強く吸う。

 白い肌に、赤い痣が咲いた。

 

 

 酸欠と、彼女の肌に自分の意志で傷をつけたというショックから、頭がボーっとして意識が朦朧とする。

 顎を掴む手を離せば、逃げるかのように、彼女は片手で首を抑えて下を向く。

 ポロポロと、涙がシーツを叩く音が聞こえた。

 その姿を見て強烈な罪悪感が襲ってくる。

 

 ……もう俺たちの関係も終わりなのかもしれない。

 俺は彼女を直視できなくなり、背を向けて布団を被った。

 涙の音の代わりに、ひっくひっくと、嗚咽音が聞こえてくる。

 

 しばらく背後に動きは感じられなかったが、やがて彼女も同じ布団に入り、背部の衣服を小さく握る。

 この小さな手だけが、今の二人の関係を繋ぎ止めるものだった。

 

 

 

 

 翌朝、顔を洗うために二人で部屋を出ると、降魔大聖が待っていた。

 しかし彼は、"ふー"と溜息を吐き、何も言わずに去っていく。

 恐らくこれは、『頭を冷やせ』という、彼なりのメッセージだ。

 

「二人とも、なんで突然スカーフ付けたの? ねえ、ねえ?」

 

 旅館を出発して、赤い小悪魔に煽られながらも璃月港への道を進み、次は帰離原の遺跡で一泊する。

 結局、彼女はクレーに話しかけられても生返事で、誰とも碌な会話をしないままここまで歩いてきた。

 

 

「ナヒーダお姉ちゃーん、いっしょに寝ようよー」

「ごめんなさい、クレー。これだけは譲れないの」

「えー、つまんない! いいでしょー、ちょっとぐらい」

 昼間にナヒーダがあまり構ってくれなかったからか、小悪魔は彼女と一緒に寝たいと駄々をこね続ける。

 

「クレー、お願い……」

 突如、ポロポロと、ナヒーダは涙をこぼし始めた。

 もう精神的に限界なのだろう。

 

「えっ、ナヒーダお姉ちゃん!?」

 呆気にとられたクレーはオロオロとしながら彼女を宥める。

 そこへアルベドが助け舟を出した。

「クレー、おいで。ボクと一緒に寝よう」

 心配そうにこちらをチラチラと眺めながらも、クレーは去っていった。

 

「ナヒーダ」

 俺は彼女の名を呼んで呼び寄せ、アルベド達とは少し距離を離し、就寝の準備をする。

 

 

 

「……ねえ、聞きたいことがあるの」

 指カメラを構えながら、そう声を出した。

 俺はそのポーズの意味を推定できているし、彼女も俺に推定されていると知っている。

 それでも強行するということは、もう形振り構っていられないことを意味していた。

 

「……わたくしのことは嫌いになったかしら?」

「嫌いにはなってない」

 今は一緒に居て気まずいけれども、彼女を嫌いだとは言えない。

 少なくとも、すぐに捨てられはしない程度には大切な存在だった。

 

「わたくしを恐れてる?」

「首筋を噛まれて驚いただけだ」

 まさかキス痕を付けるどころか、噛みついてまでくるとは思わなかった。

 正直に言えば、短絡的かつ場当たり的だから、何をするか分からない部分が少し……。

 

「………わたくしと、永遠を過ごしてくれる?」

「……」

 これに関しては答えようがない。

 俺は永遠の重さというものを漠然としか理解できていないのだから。

 そして、今更ハイと答えたところで、この思考が伝わっている以上は嘘として取られてしまう。

 

 彼女は俯いて、指カメラを解いた。

 その頬には涙が伝っている。

 所詮は俺は人で、彼女は神だ。

 無理に誤魔化すより、限りある関係だということを受け入れるべきなのかもしれない。

 

 

 今日もまた無言のまま、眠りにつく。 

 昨日のように背を向けている訳ではないが、何時ものように抱き合うでも、手を繋ぐでもない。

 男女としては普通でも、ただ隣り合って眠るというのは、俺と彼女にとっては普通でない寝方だった。

 幸いかは知らないが、故郷を垣間見れたからかもしくは様々なショックからか、懐郷の念は収まっている。

 

 ふと、手に温かいものが触れた。

 それは震えていて、おずおずと躊躇っていて、まるで罪人が救いを求めるようなものだ。

 モンドを出発した日の夜の懐郷に苦しむ俺も、種類は違えど、このような様子だったのかもしれない。

 

 自他への呆れとして、心を落ち着けるためとして、複雑な溜息を一つ吐く。

 その音を聞いて、隣の影はビクリと不安に揺れる。

 

 

 俺は彼女の、その小さな温かい手を取ると、"物語"として一つの歌を口ずさんだ。

 少なくとも200年以上前の、古い英語で歌われるスコットランドの民謡。

 日本では別れの曲として知られ、実際に歌いだしには『古い友を忘れ、思い出さないべきか』という歌詞がある。

 

 その歌を聞いたナヒーダは、歌の意図を決別だと捉え、繋いだ手を硬く握った。

 だが本来は『酒を手に、古き良き景色を、旧友と共に思い出す』という、懐古の歌だ。

 

 古く優しい旋律に乗せて歌うにつれ、その手から硬さが抜けていく。

 歌い終われば、手を離さぬままに、今度こそふたりで眠りへとついた。

 

 



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6. 璃月観光

「ボク達は買い出しへ向かうから、一旦ここでお別れだね」

 日暮れより前に璃月港へ着くと、四人分の宿だけ確保して、荷を置いてからアルベド達と別れる。

 予定通り、錬金術に必要な素材を購入しに行くらしい。

 

「じゃあまた後でね、ナヒーダお姉ちゃん! 黒いお兄ちゃんも!」

 クレーがぐずるかと思ったが、彼女は素直にアルベドに付いていった。

 どうやらここ数日のナヒーダの姿を見て思うところがあったらしい。

 

 

 二人きりになったところで、声を掛けられた。

「おや、おまえ達」

 振り向けばそこには鍾離さんが居た。

 何やら目録を片手に荷物を抱えているので、彼も買い物の途中だろうか。

 

「ふむ……。いくつか話し合いたいことがある。人ならざる者同士で茶でもどうだ?」

「この子を置いて、ということかしら?」

「そうだ」

 その言葉に、彼女は子供のように俺の服の裾を掴み、目線を合わせず下を向いた。

「ごめんなさい。わたくしは、彼の元を離れたくはないの」

 

「ほう。俺の茶会を断るということか?」

「ええそうよ」

「……これは、同じ神としての勧告だ。彼を置いて、出席しろ。さもなくば、そいつは俺の保護下に入れる」

 しばし見定めるかのように彼女を眺めていた鍾離さんは、刺すような目つきでそう述べる。

 俺を人質に使ってでも茶会に出席させたいらしい。

 

 

 ナヒーダがさらに顔を俯かせた。

 やばい、ここ数日の様子からして、これは泣くだろう。

 あまり神さま同士の会話に口を挟みたくなかったが仕方ない。

 

「鍾離さん。彼女に危害を加えるようであれば、微力であろうと、俺はあなたに楯突かせて貰います」

「安心しろ。俺はお前たちに危害を加えるつもりはない。ただ話をしたいだけだ」

 彼は鋭い目つきを緩め、溜息をつくかのようにそう言った。

 その様子を見るに、あまり危険度はなさそうに思える。

 

 俺は膝を地へ付けて、覗き込むように彼女と顔を突き合わせつつ説得をする。

「ナヒーダ、少しだけお茶会に出れるか?」

「……」

 これは無言の抵抗なのか、それとも思考停止なのか。

 額同士を付け、頬を撫ぜてあやしながら優しく語り掛けると、僅かではあるが彼女の精神は回復したらしい。

「……わかったわ。出席する」

 

 そして二人は街を歩いていく。

 ナヒーダは何回もこちらを振り返りながら、着いてきて欲しそうにこちらへ視線を送る。

 その姿が見えなくなるまで見送った。

 

 

 

「鍾離さんと何を話してたの? あとあの女の子とはどんなカンケー?」

 気づけば隣には、黒づくめの衣服に赤い花をあしらった少女が立っていた。

 彼の名を知っているということは鍾離さんの知り合いだろうか?

 なにか厄介事の匂いがする。

 

「おっと、私は往生堂七十七代目堂主、胡桃だよ! ところであなた、死ぬ予定があったりしない?」

 ……まごうことなき変人だった。

 きっと鍾離さんの知り合いだな。

 

「死ぬ予定はないが、何の用だ?」

「まあまあ~、それは歩きながら話しましょ~」

 こちらの返事も聞かず、胡桃さんは手足を伸ばした珍妙な歩き方で先を行く。

 どこへ連れていかれるのか分からないが、まあナヒーダはチョーカーを頼りにこちらの居場所を把握してくれるだろう。

 

 

 そして胡桃さんについて歩くが、目的地が全く分からない。

 裏路地を通ったり、崖っぷちを歩いたり。

 屋根の上を歩き、また路地へと戻る。

「へぇ~。あの子が偉い人で、あなたはそのお付き人なんだ。でも子供を相手しているように見えたけど」

「流石に子供扱いし過ぎたと反省してるんだよ。例え中身が見た目相応だったとしても、あれはもっと小さい子にする対応だった」

 

 まるで野良猫のように街を歩き回る彼女と、たわいのない雑談をしながら進み続ける。

 笑ったと思えば真剣な顔をしたり、悲しんだと思えば笑っていたり。

 彼女は表情豊かではあるが、なんというか、その表情がふわふわとシームレスに移り変わる。

 喜怒哀楽が同一のものであるかのように、違和感なくごちゃ混ぜな感情表現だ。

 

 胡桃さんは恐らく、自分の心身の動きを常に客観視しているタイプなのだろう。

 つまりは、この人は生粋の役者だな。

 ナヒーダも役者染みた大げさな手振りをする傾向にはあるが、他者からの目線を理解していない彼女と違い、胡桃さんは分かっていて敢えて変に振る舞っている。

 

「たしかにー。で、なんでそんなことしたの?」

「単純に慰め方が思いつかなかった。彼女は、普段はもう少し頼りになるし、少なくとも人前ではしっかりとしているんだけど」

 敢えて子ども扱いすることで大人としての羞恥心を持って貰おうという打算もあるが、それが機能するかは半々だ。

 むしろ精神自体は既に大人であることを鑑みれば、人前での奇行に慣れて状況が悪化する可能性も否定できない。

 

 

「あっ、やば。走るよ!」

 突然手を牽かれ、駆け足で移動する。

 路地裏へ入り、幾つかの角を曲がって、先ほどの場所からは見えない通りへ。

「何があったんだ?」

「いや~危なかった。もう少しで従業員に見つかっちゃうところだったよ」

 

「従業員?」

「そそ。実は私、仕事をサボっているの!」

「……」

「葬儀に関する仕事ならいいんだけど、今回はただのお祭りごとだからね。私がする必要もないかなーと」

 

 目的地が分からなかったのも、サボりのためにぶらぶらしていただけだからだな。

 通りで崖やら屋根の上やらのどう見ても道ではない場所を通った訳だ。

 

「あんた堂主なんだろ? なら部下に指示を出せばいいじゃないか」

「そんないちいち指示を出してたら部下が育たないでしょー。だからこれは仕方のないことなんだよ、うむうむ!」

 胡桃さんは自分自身の言葉に同意して見せた。

 

 

 

 突如、背後に衝撃を受け、そのまま抱きしめられる。

「心配したのにっ! なんでっ!」

「ナヒーダ! どうしたんだ?」

「おんやぁ~」

 自らの背中を見れば、髪飾りを付けた白い頭が顔を埋めていた。

 

「わたくしっ、あなたを心配してっ」

「待て、まずは深呼吸して息を整えろ」

「なになに~。痴情のもつれですか~?」

 背後では興奮で呼吸が乱れてたナヒーダが、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

 目前の胡桃さんは、からかうように、もしくは獲物を前にした猫のように、目を輝かせて意地悪そうに笑う。

 

 

「堂主、それくらいにしておけ」

「えぇ~! 今いいところなのに」

 胡桃さんはぶつくさと文句を言いながら、鍾離さんに連れていかれた。

 俺は相変わらず、背後から抱きしめられて身動きが取れないまま、通りのど真ん中で公開処刑をくらっている。

 

 彼女の背が低いといっても肩に少し届かない程度であり、俺の上体を顔と腕で抑えこむほどの身長はあるので身動きが取れない。

 片腕を上げて身を捩り、その腕の下を通して背中の彼女に語りかける。

「ナヒーダ、せめて場所を移してくれ」

「……」

 返事がない。嫌だということらしい。

 何か、何か彼女の心を動かせるような言葉はないだろうか。

 

「……キスをしたいから、その為にも動いてくれないか?」

 その言葉に彼女は小さく頷き、手を絡めて腕に抱きついた。

 二人で路地を歩き、そのさらに路地裏へと立ち入る。

 

 

 

「で、一体何があったんだ?」

「キス」

「……鍾離さんに何か言われた?」

「キス」

「…………」

「キス」

 

「ああもう、わかった!」

「んっ……」

 顎を掴んで上を向かせると、その小さな唇に真上から口づけを落とす。

 彼女は、目的を達成するためなら、平然と何百回でも同じ言動を繰り返しそうで怖い。

「これでいいか?」

 

「……モラクスは、わたくしの精神状態が不安定だと言っていたわ。適度であればいいけれど、過度な依存は関係を壊しかねないから気をつけなさい、って」

 彼女はようやく納得できたようで、茶会について語り始めた。

「かなりキツく言われたとか?」

「いいえ、むしろ諭すような優しい口調だった。年長者として心配してくれたみたい」

 

「それじゃ、なぜ俺を心配してたんだ?」

「あなたの居場所が不自然に移動していたから、誰かに捕まってしまったのではないかと思ったの。なのに見知らぬ女性と遊んでいただなんて、……林であっても怒りに騒めくのではないかしら!」

 無意味に走り回っていたせいで、逃げ回っているように勘違いさせたらしい。

 そこからはしばらく、彼女の不平不満を聞き続けた。

 

 

「ねえ、抱っこしてちょうだい」

 愚痴に区切りをつけた彼女は、不満顔のままにそう言った。

「はいはい」

 抱え上げるために、腰を曲げ、顔を下げる。

 その瞬間、彼女の唇が俺の唇を捉えた。

 

「は?」

 不意打ちで心構えができておらず、分かりやすくうろたえてしまう。

「これは罰よ。さあ、抱っこも」

 心臓の音がうるさい。

 こんな簡単に動揺してしまう自分には嫌気が差す。

 

 

 

 日暮れ時の街を、腕に彼女を抱えながら歩く。

 腕に座らせるような形で抱き上げているが、俺たちの身長差だと彼女の方が少し目線が高い。

 なお機嫌は直っていないようで、憮然とした表情のままだ。

 

「あれが食べたいわ」

 立ち並ぶ屋台の一つを指さした。

 手が塞がっているために、彼女がお金を出して品を受け取る。

「はい、あーん」

 ムスッとした顔のまま、串を口元に差し出してくる。

 俺は一瞬躊躇したがそのまま齧り付き、その姿を見た彼女は口元をわずかに緩ませた。

 

「気は済んだか?」

 俺の問いかけに、彼女は口元を戻し、怒っているというポーズを取る。

「いいえ。許さないもの」

「流石にそろそろ疲れてきたんだけど」

「それなら、あそこの石段に座りなさい」

 

 

 指示に従い裏路地の石段に彼女を降ろそうとしたが、"膝の上に乗せろ"との注文がついた。

 仕方なく彼女を抱えたまま腰掛けて、互いの顔が見えるよう、横向きに膝へと乗せる。

 少し離れた祭囃子の喧騒が道から外れたここにも届くけれども、道一本外れただけで随分と遠く寂しく思えた。

 

 彼女から受け取った串を、ようやく空いた手で掴んで食べる。

「この後はどうする? 出し物もあるようだし見に行ってみようか?」

「今日はいいわ。きっとクレーは一緒に見ることを楽しみにしているから、食事だけにしておきましょ」

 彼女は未だ不機嫌な表情を浮かべ続けていた。

 

「ナヒーダ、口元にタレが付いてる」

「どこかしら?」

 膝の上の彼女の顎に手を添えて、その唇を奪った。

 体を硬直させ、不機嫌な顔は剥がれ落ちる。

 これで不意打ちの借りは返した。

 

 



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7. 海灯祭

「ナヒーダお姉ちゃん、黒いお兄ちゃん、おきて! クレーとお祭り行こう!」

 声が聞こえ、身体が揺さぶられる。

「……わかった、わかったから支度して待っててくれ」

 

「おきた! じゃあ待ってるね!」

 赤い太陽がベッド脇から去っていく。

 ベッドが四つ備え付けてある大きな四人部屋だが、ナヒーダは俺の、クレーはアルベドのベッドに潜り込むので二つしか使わなかった。

 俺は一度毛布を頭まで被り、腕の中の頬に挨拶をしてから布団を出る。

 

 

 宿を出ると、まず先に往生堂へ寄らせて貰い、鍾離さんへ贈り物を届ける。

 昨日はすぐに出会えるとは思わず荷を持ち歩かなかったし、そもそも届けられるような雰囲気ではなかったからだ。

 鳥を散歩させてるとのことで本人には会えなかったが、堂主である胡桃さんが代わりに受け取ってくれた。

 

 荷を届け終えれば、そのまま出店を散策しつつの食べ歩きへ向かった。

 ナヒーダは俺にべったりではなく、クレーと一緒に先を歩いている。

 恐らく鍾離さんに注意されたことを守っているのだろう。

 

 ただ例えば気になる出店を覗くなど、俺が少しでも変な動きをすると、彼女は即座に振り返ってこちらの状態を確認する。

 どうやらチョーカーの位置情報を常に監視しているらしい。

 

 

 

 海灯祭は交易の要衝ゆえにモンドの祭りよりもずっと人出が多く、主要路を歩くだけでも苦労する。

 四人まとまって動くことはできず、人混みに揉まれるうちに自然と、男女でそれぞれ分断された。

 

「そういえば買い出しって何を買ったんだ?」

「おや、気になるのかい?」

「ああ。こっちの世界にも錬金術はあったから」

 

「ボクもきみの世界の錬金術については興味がある。あとで詳しく教えてくれないかな」

「まあ簡単にであれば」

 アルベドは購入した品について説明してくれた。

 璃月には様々な物品が集まるために、主に璃月以外の品を仕入れたらしい。

 そして彼の説明が終わると、次はこちらの話をする。

 

 

「俺の世界の錬金術は、自然世界に対する定性的研究だな。卑金属を貴金属へ変換することや永遠の命を目的に、例えば火-風-地-水の四元素や、硫黄-水銀-塩の三元素に基づいて物事を研究したんだ」

 特に四元素説は、アリストテレスの唱えた熱-冷・乾-湿と共に有名だろう。

「へぇ、こちらの世界と似通った部分もあるけど、基礎的な部分での大きな違いがみられるんだね」

 

「結局は定量的研究、つまりは数学的な自然科学に取って代わられて廃れていく訳だが、あらゆる物事を一定の理論的基礎に基づいて研究するという点では画期的だったらしい」

 ボイルやニュートンなど、科学に名を遺した錬金術士も数多い。

 ある意味では廃れたというよりも、変質しただけだと言うこともできる。

 

「うーん。きみの話を聞く限りだと、テイワットの錬金術はその中間に位置すると言えそうかな。ボクたちは計測された数値に意味を見出し、概念を精錬して価値を生み出すんだ」

「こっちの自然科学も似たようなものではある。しかし定量性すなわち数学的証明が絶対だから、その"中間的だ"という解釈も間違いではないだろうな」

 

 科学が厳密な数学的証明を求めるのに対し、ナヒーダから概要を習った限り、テイワットの錬金術は数学をあくまで探求のための補助として使う。

 元素反応という、まだ単純な数学では測り切ることの難しい法則が世界を支配している点が大きいのかもしれない。

 いやむしろ、神や仙人など、元素反応以外にも不可解なシステムが存在するからだろうか。

 

 

 

「あー、居たー! だめだよ迷子になっちゃ!」

 クレーが俺たちを探しに来た。

 立ち止まってアルベドと話し込んでいる間に、離れ離れとなっていたようだ。

 ナヒーダが先導していた様子なので、この人混みで合流できたのはチョーカーを目印にしたからだろう。

 

 今度はアルベドがクレーに連れていかれ、あっという間に雑踏に紛れて消えた。

 なのでナヒーダと二人っきりだ。

 すぐさま繋がれた手は、不安を表すかのように、しっかりと指が絡められる。

 

「クレーと居ても楽しくなかった?」

「そんなことはないわ。とても楽しいもの」

「でも俺には、いつもほど笑ってないように見えたけれど」

 微笑んではいるが、どこか物憂げに影が差している。

 口元の表情筋が硬直した、硬い愛想笑いであり、表情変化に乏しい張り付けた笑みだった。

 

「俺はきみの、楽しそうにしているところが好きだよ」

 人との関わり合い一つ一つを大事に、一喜一憂している姿こそが彼女らしいと思う。

 神さまとは思えないほど人間染みていて、でも同時にそれは、神さまだからこそ向き合い続けられるものなのだろう。

 普通の人間であれば年を重ねるにつれ、人に向き合うような気力を失っていくものであるし。

 

 

「……わたくしは、笑い方を忘れてしまったみたい。どうやって笑っていたかを思い出せないの」

 彼女は愛想笑いをやめて、憂いに染めた表情をした。

 

 口元は無表情に引き締められ、目元は細く遠くを見る。

「まるで、飛べない小鳥になってしまったかのようね」

 片手を宙へ伸ばし、手のひらに緑光で鳥籠を作り出す。

 

「昨日の夜にはきみは笑えてたと思ったけどな」

 ここ数日はずっと不安気で憮然とした表情だったが、昨夜に夕食を食べ歩いてからは、柔らかい笑みが戻っていた。

 ……やはりきちんと問題と向き合わなくては、誤魔化すことはできても根本的には改善しないということだろう。

 

 そもそも俺たちの関係には歪な部分も多い。

 これは人と神の差に起因するものだけではなく、むしろ社会人格、言わば同じ"人同士"としての部分に起因するものの方が顕著だ。

 今回の旅行だけで解決するとは思えないが、今後も彼女と共に居るならば、その部分とも向かい合う必要がある。

 

 

「ええ、そうね。きっとこれは一時的なものよ。……でも、池に落ちた野兎が濡れた壁面を登れないように、他者の助けなしでは抜け出せないの」

 彼女は俺を見た。

「だから、頭を撫でてちょうだい。前にあなたはそうやって励ましてくれたわ」

 微笑んだ口元と、悲しげな目元。

 先ほどの笑顔に似ているが、それよりも弱さを表に出した表情だった。

 

 ぐしゃぐしゃと、だがあの時よりも優しくゆったりと、彼女の頭を捏ねまわす。

「層岩巨淵を訪れた時のことは覚えているかしら。あのときも、あなたは元気づけるように頭を撫でてくれたわね」

「ああ、覚えてる」

 巨淵の風に、白い髪を揺られながら物憂げに笑う彼女の姿は、人ならざるモノが人のように思い悩む、不思議で幻想的なものだった。

 初めて見惚れてしまったのもあの光景だったかもしれない。

 

 

「きみは随分と変わったな」

「そうかしら? 具体的にはどのように?」

 

「目元が優しく、相手に応じた柔らかいものになった。最初のきみは物腰が丁重なだけで、相手を無視した一方的な態度だったから」

 出会った頃の彼女は、神さまらしく超然とした、ある意味でロボット染みたような部分があったと思う。

 恐らくそれは、ずっと囚われていて、相手から認識されるということが無かった故のものだろう。

 

「だが、重要な物事ほど、黙って自分一人で抱え込むところは変わってないな」

 必要な情報は話してくれるが、基本的には秘密主義者なところがある。

 問題が生じると、まるで鳥籠の中の鳥のように、他者には話さずに抱え込んでしまう。

 

「……そうよね。もうひとりではないのだから、相談しなくては駄目よね」

「別に話したくないことは話さなくていいよ。俺だって一々話す性格ではないし」

「いいえ、話さなくてはならないと、わたくし自身が思っているの。……ただごめんなさい、すぐには言葉がまとまらなくて」

 

「無理に今すぐ語る必要はない。今回が済めば終わりというものではないから、きみが自分のペースで話すようにしてくれればいい」

 これはむしろ、俺自身のための言葉だ。

「それに、俺も帰還未遂を起こしたことについては、まだ個人的な整理がついてない」

 置き去りに対するトラウマを抱えた原因は俺であるし、トラウマを刺激したのも俺であるのに、未だ謝りすらできずにいたから。

 

 

 言葉が途切れ、無言のままに街を歩く。

 しばらくすると、ドーンと、大きな炸裂音がした。

 思わず頭を抱えたくなるが、まずは現場へ向かうべきだろう。

 

 

 

 現場へ着くと、アルベドが必死に謝っていた。

 やはり想像通りの悲劇が起きていたらしい。

 

「あっ、ナヒーダお姉ちゃんたちだ!」

 アルベドに無理やり頭を下げさせられていた赤い爆弾魔が、あまり反省を伺わせない笑顔を見せる。

 その目の前では紫髪を猫耳状に巻いた女性が、子供に対応するような微笑みを浮かべながら、目元をピクピクとさせていた。

 

「荷物を確認させてもらってもいいかしら?」

 紫髪の女性は、俺とナヒーダをクレーの一味と判断し、そう声を掛けてくる。

 特に変なものは持っていなかったが、野放しとはいかずクレーと一緒にしばらく時間を拘束された。

 

 

 ようやく解放されたときには日が暮れていて、怒られて少しいじけたクレーを連れて夕食へと向かう。

 入ったのは街の中央の大通りに面する食事処で、高層のテラス席から通りを見下ろせるようになっていた。

 クレーは手摺にしがみつくようにして、祭りに彩られた街明りを眺めている。

 

 それを見ながら、アルベドが真面目な口調で口火を切った。

「楽しい祭りに水を差すようだけど、できればもうそろそろ、きみたちの本当の関係について教えてほしい」

「俺からは言えないな。ナヒーダに聞いてくれ」

 これは以前の会話の焼き増しだ。

 

「わたくしはスメールの神よ」

 ナヒーダはあっけなく身分を明かした。

 彼は比較的信頼できる人柄ではあるので、問題ないと判断したのだろう。

「神……。だからか」

 アルベドは何やら納得する節があったらしい。

 

 そして次は俺へと目を向けた。

「それで、きみについても聞いていいかい?」

「俺は鳥籠に囚われていた彼女を偶然助け出しただけだ。世界を渡る能力があるらしいが、他は何もないよ」

「……きみは世界を行き来できるのかな?」

 彼は真面目な表情と少し楽し気な声色で、研究対象を前にしたかのように質問をしてくる。

 

「可能ではあるが、制御できるわけじゃない。だから普段は彼女に能力を抑えて貰ってる」

「実際に試してもらっても?」

 

 

「ダメよ」

 控えていたナヒーダが、即座に口を挟んだ。

 

「別にいきなり人体実験をする訳ではない。まずは物体を送ったり、取り寄せたりできないかを探るだけだ」

「嫌」

「ナヒーダさんが決めることではないだろう? ボクは彼に協力を求めているんだけど」

「ダメ! 彼はわたくしのものなの!」

 彼女は敵を見るように目元を険しくして、声を荒げた。

 

「ナヒーダ」

 俺は彼女らの口論に言葉を挟む。

 所有物化は許さないというスタンスを示すためだ。

「……ごめんなさい」

「はぁ…。おいで」

 両手を開いて彼女へ向ければ、彼女は腕に入ってくる。

 

「それで、どうかな? 十分な報酬は出すつもりだよ」

 腕の中のナヒーダがその言葉に反論を挟もうと身を捩るので、余計な事を言わせないために後頭部を掴んで抱き寄せる。

「すまないが、彼女が嫌がっているから無理だな」

 俺の返答を聞いて一先ずは落ち着いたらしく、抵抗を止めて大人しく抱かれた。

 

 

「まあ、仕方ないね」

 アルベドもその返答は予測していたようで、すんなりと引き下がった。

 それと入れ替わるように、口論に気づいてこちらを見守っていたクレーが、心配そうに近づいてくる。

 

「ナヒーダお姉ちゃん、大丈夫?」

「ええ、大丈夫よ。ありがとう、クレー」

 腕に抱かれたままではあるが、彼女はしっかり優しい声と笑顔で接する。

 先ほど声を荒げていたとは思えない変わり様だった。

 

 

 その後、宿へ戻ると鍾離さんから手紙が届いていた。

 どうやら茶会の礼として、わりと高級な食事処の予約を取ってくれたらしい。

 

 



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8. 霄灯流し

 海灯祭のメインイベントである霄灯流しが行われる日、昼の間は四人で遊んだが、夕方からは二人にして貰った。

 日暮れ後に、鍾離さんが予約を譲ってくれた食事処へと向かう。

 そこは見晴らしのいいベランダ状の個室であり、二人きりで落ち着いて食事を取ることができるようになっていた。

 

 メインイベントである霄灯流しが行われる直前に、海側に面した手摺の前に隣り合わせで椅子を並べ、港を見下ろしながらその時を待つ。

「そういえば、俺はきみと永遠を過ごすだなんて約束はできない。だけど、永遠をきみと過ごしてみたいとは思うよ」

 ふと、以前の言葉を思い出し、そう声を掛けた。

 

 

「……あなたは意地悪で意地っ張りで、嘘つきだから、困ってしまうわ」

 彼女は隣で街を眺めながら、なんてことのないかのようにそう言った。

「わたくしのこの心は、そんなあなたに右往左往しているの」

 

「……そんな俺が嫌いになったと」

「いいえ」

 街灯りの映り込むその横顔をジッと見つめてみても、思惑は読み取れない。

 彼女はただただ、ぼんやりと考え込むかのように、遠くを見ている。

 

「別にきみが俺と居たくないというなら、自由にしていいんだぞ」

 それなら俺は、いい夢だった、そう思って元の世界へ戻るだけだ。

 別離に対して苦しみはするだろうが、それもきっと時間が癒してくれる。

 

 彼女は驚いた顔をしてこちらを振り返ると、俯いてから体をこちらへ向けなおした。

 そして無言のまま、低い位置でハイタッチするように、おずおずと手を差し出す。

 

 

 その手は指が軽く広げられていて、どうやら指を絡めて手を握れということらしい。

 向かい合って手を繋ぐと、その手を介して震えが伝わってくる。

 彼女は、大切なことを打ち明ける際にこうして、手を繋ぎながら震える癖が付いてしまった。

 

「……わたくしはあなたを攻撃した。短絡的に、ただ自らの心を慰める為だけに」

 俯いているので、その顔は見えない。

「わたくしは、あなたが居なくなってしまうことが、とても怖い」

 恐怖を思い出したのか、繋いだ手に力が籠められる。

「あなたを失いかけたと気づいたとき、頭がおかしくなってしまいそうなほどの恐怖を感じた。そしてわたくしは、ただの慰めのために、あなたに激情をぶつけた」

 

 彼女は顔を上げた。

「こんなわたくしで、ごめんなさい」

 飛沫のように大粒の涙をこぼしながら、裏返りかけた、引き攣った声で謝罪する。

「わたくしには、あなたを引き止められるようなものがなにもない。でもどうしても、あなたと一緒に居たいの。……嘘つきなあなたでいいから、どうか、わたくしを置いていかないで」

 最後にそう口にして、耐えきれなくなったかのように、彼女はまた顔を伏せた。

 白いサイドテールがふわりと揺れる。

 

 

 

「……まず、個人的なラインとしては、流血するかどうかだ。意図的に俺を流血させたなら、俺はきみを見限る」

 手が更に強く握られ、ハァーハァーと過呼吸気味の、深く速い呼吸が聞こえてくる。

 "見限る"という言葉は明確に彼女のトラウマを踏んだ。

 

「ナヒーダ、俺を見て」

 恐る恐る上げられた顔は、涙にまみれ、ぐしゃぐしゃに歪んでいる。

 その頬に片手を当てて、確りと目を合わせる。

「鍾離さんが指摘したように、俺たちの関係には少し歪な部分があるのは確かだ」

 こちらを見ているようで見ていない、細かく揺れ続け、焦点の合わない瞳。

 持ち前の想像力で、俺に捨てられる未来を見ているのであろう。

 

 今の彼女は旅館での事件を引き摺っている。

 ならば要点となるのは恐らく『俺を怖がらせてしまったという自責』、『自分も怖い思いをしたという不満』、『怖がられて逃げられるかもという不安』の三つ。

 最初の一つは既に先のライン引きで触れたので、残りは二つ。

 

 

「ごめんな。きみが俺を攻撃したのも、元はと言えば俺がきみを傷つけたからだ。反省してもらいたい部分もあるが、決してきみだけのせいではない」

 トラウマの原因となったあの日、扉越しに彼女を拒絶したときのことを思い出す。

 俺が傷を付けていなければ、今回の帰還未遂があれほどまでに彼女を駆り立てることはなかった。

 彼女が依存気味になっているのも、あの時付けた心の傷が元のはずだ。

 

「俺はきみと生きると決めたんだ。先の言葉とは矛盾するが、例え何があろうとも」

 本当に元の世界へ帰ってしまったなら、また来て見せる。

 今の関係が途切れたなら、諦めずに修復を模索する。

「もし決別して離れ離れになったとしても、きみが望むなら、俺はきみに会いに行く」

 見限ったとしても、一度繋いだ縁はそう簡単に切れないものだと思う。

 

「俺はきみが好きだよ。女性として」

 

 しかしそこで号令が響き、街の明かりが落とされ周囲に闇が落ちる。

 そして入れ替わるかのように、灯籠の灯りが徐々に空へと上がっていく。

 少しタイミングが悪かった。

 

 

 

 手は繋いだまま、言葉を交わさずに、幻想的な灯りのショーを眺める。

 ……あれは火事の原因にはならないのだろうかと疑念に思ったが、口には出さない。

 彼女の様子が気になり顔を向けると、ちょうど彼女もこちらへ振り向くところだった。

 

 灯籠を背景に互いを見つめあう。

 改めて思えば、"相手の瞳の中に自分が居る"というのは不思議な感覚だ。

 見ている側のはずの俺が、見られている側でもある。

 相手を見て思った事が、身振り手振りを通して、相手に読み取られてしまう。

 これはもう、読心と大差がない。

 

 どちらからともなく、徐々に顔の距離が近づいていく。

 間接光によって照らされる美しい顔、その中にはエメラルドの眼差しが輝いている。

 この光景を見てしまえば、瞳に乾杯した理由も理解できた。

 そっと、唇同士を合わせる。

 

 

 二人が彫像となってしまったかのように時間を過ごす。

 そのとき彼女が唾を飲み、キュッと啄むように唇が動いた。

 それを切っ掛けに、今までのような大人しいキスではなく、軽く口を開いて彼女の小さな唇を食べるように口づけをする。

 

「んっ!」

 マシュマロより柔らかい、まるで水そのもののような唇が、唇に挟まれ形を変える。

 上唇を咥えて軽く引っ張ると、どうやら唇の裏側への刺激に弱いらしく、彼女の体がぶるりと震えた。

 もふもふと口を動かして、下唇を彼女の上唇のさらに奥へと差し込む。

 そして唇を尖らせるように力を込め、その上唇の裏側を摺り上げて刺激する。

 

 一定リズムで食んでいると、徐々に慣れてきたらしく、彼女も唇で食み返してくる。

 今までよりも濃厚に擦れ合う唇に、脳が震えるようにゾッとする快感が走った。

 ここにきて漸く危機感を感じて口を離すが、しかし、それは即座に彼女によって塞がれる。

 

 俺から学んだと言わんばかりに、まったく同じ動きで口先を扱う。

 小さな下唇がこちらの上唇の裏に入り込み、ちゅちゅと音を立てながら健気に吸い上げる。

 唇と唇の擦れ合いによる甘い痺れで、口元の感覚がよく分からなくなっていく。

 互いに互いの唇を食みながら、唇を積極的に擦りあわせ、唇で唇を揉みしだき、何度も何度も求めあう。

 

 

 

 互いに満足するまで唇を絡めた結果として、夜空に浮かぶ灯籠は数を減らし、まばらなものとなっていた。

 並んで椅子に座ったまま、その消えゆく残光を眺める。

 ずっと繋がれている片手は、余韻を示すように、いつもより暖かい体温を伝えている。

 

「わたくしも、あなたが好きよ。……ずっと、ずっとこう答えたかった」

 突然そう言われ、先ほど自分が何と言ったかを思い出す。

 長い口づけを挟んだのに、律義に返答をくれたらしい。

 

「あなたは意地っ張りで意地悪だから、好きという言葉一つに但し書きを加えてしまうのだもの。盗賊イタチに素直さを習ったらどうかしら」

「へいへい。俺は意地っ張りで意地悪ですよ」

「でもそんなところも、わたくしは好きよ」

 ちょんと、伸びあがるようにして、彼女は唇の先端を小さく触れ合わせた。

 

 

「……俺がこのテイワットで生活できているのは、きみの存在が心の支えになっているからだ。きみが居なければ、とっとと故郷へ帰ってしまっている」

 身を焦がすようなホームシックが今は治まっている、そしてあの時まで出てこなかったのはやはり、いつも彼女が居たから。

「多少の語弊はあるものの、つまり俺はきみ無しでは生きていけない」

 正確に言えば"テイワットでは"という言葉が入る。

 

「……駄目よ。そんなことを言われては、黒い喜びが収まらないわ」

 彼女はやや焦点の合わない目と、わずかに歪んだ口元で、無表情気味にそう言った。

 良心と本心とがせめぎ合っているらしく、その葛藤が表情に表れていた。

 

「本当に、わたくし無しでは生きていけなくしてしまいたいの。もう帰ろうとは思うことができないほどに」

 やはり彼女の心は未だに癒えていないようだ。

 ……だがそのような独白をされても、どう反応すればいいのか分からない。

「わたくしだけを、見つめてちょうだい」

 流石にその流れで言われると、答えに迷ってしまう。

 

 

「ああ、俺は何時だって、きみの瞳を見つめてるよ」

 俺は背後のテーブルへ手を伸ばして盃を取ると、意図的に軽く道化染みた口調でそう語り酒を飲む。

 以前一緒に見た映画の台詞をもじった言葉だ。

 

「……わたくしは真剣な話をしているの」

「なら、もう少し受け手のことを考えてくれ。先のきみの言葉は俺の反応など何も考えていない」

 その指摘に彼女は黙り込む。

 

「あと、俺はもう、きみだけを見てるんだよ」

 盃に顔を向け、目を合わせずに言う。

 少し声のトーンを落として、記憶に残る彼女の瞳を思い出しながら。

 惚れ込んでしまっていると改めて自白するのは、"好きだ"と伝えるよりもずっと恥ずかしいものだ。

 

「……わたくしの目を見てもう一度」

「無理」

「なら、言行不一致よ。もう一度言って」

「"見る"の意味が違うことぐらい分かってるだろ」

 溢した本心をわざわざ言い直させられるのは、本当に勘弁してほしかった。

 

 

 

「そういえば、灯籠の火は火事の原因にならないのかしら?」

「雰囲気を壊すと思って俺は黙っていたけど、きみが言うのか……」

「だって気になるのだもの」

 彼女はポーっとした表情で、遠く景色を眺めながら言った。

 

「俺の世界だと、度々火災の原因となっていた。だから飛距離や大きさに制限が加えられたはずだ」

「まぁ、あなたの世界にもあるのね! ぜひ見に行ってみたいわ」

 目を輝かせてこちらを見た。

「ああ、いつか一緒に見に行ってみよう」

「約束よ!」

 そうして咲いた花のような笑顔が心地よくて、隣に座るその小さな肩を抱きしめる。

 

 

「あっ、大変」

「どうした?」

「写真を撮り忘れてしまったの」

 

 夜空にはもう灯りは見当たらない。

 たしかに機会を逃してしまったようだ。

「まあ仕方ない。次の機会を楽しみとしよう」

 

「……いいことを思いついたわ。情報端末を貸して」

 指示に従い二人で自撮りの用意をすると、彼女の手に顎を引かれ、次の瞬間に撮影音が響いた。

「……ナヒーダ」

「いいでしょ? もうこんなにもキスを交わしているのだもの!」

 その言葉に反論はできなかった。

 

 



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9. 帰り道

 祭りも終わり、モンドへの帰路に着いた。

 アルベドは購入した荷物を宅配で送り、クレーは抱えきれないほどのお菓子を持って璃月港を出発した。

 当然ながら、両手いっぱいのお菓子を持ったまま旅をするなど無謀なので、今は皆のバッグへ分配して収納している。

 だが小休止の度にクレーとナヒーダがお菓子パーティーを開いていて、モンドに到着する頃には食べつくしていそうだ。

 

 

 目が覚めると、腕の中に白くふわふわとした頭がある。

 互いに横向きで向かい合い、彼女は俺の腕を枕にしつつ胸元にしがみ付いて眠っていた。

 空はまだ暗いものの、ひっきりなしに響く鳥の鳴き声からしてもうすぐ夜が明ける。

 

 アルベドはもう起きているようなので俺たちも起きることにした。

「……おはようのキスをしてちょうだい」

 一度毛布を頭まで被り、唇同士を触れ合わせてから、唇でハグをするように何度か軽く食み合う。

 くぐもった鼻声が、彼女の喉から漏れ出した。

 

 

 帰離原を出発して、夕刻頃には望舒旅館へ到着し、降魔大聖に詫びの品を渡しに行く。

 これは鍾離さんに相談して決めた、それなりに日持ちする贈答用の杏仁豆腐だ。

 大聖は品を受け取ると、小さく礼を言って去っていった。

 

「この旅館には貸し切り風呂があるのよ。だからその予約をしたの」

 ナヒーダの要望で、今回は二人部屋を二つ取った。

 以前のような二部屋の繋がったタイプではなく、アルベドたちとは完全に別室である。

 

「……俺は一緒には入らないからな?」

「ふーん。わたくしを置いていこうとしたのは誰だったかしら。このまま何の補填もなくては、わたくしは心的外傷により、この旅館に泊まれなくなってしまうわ」

 彼女は一度そっぽを向いてから、こちらへ向き直り、真っ直ぐに問うような目線で見つめてくる。

 

「はぁ……」

 いつも以上に強情なのは、関係を一歩進めようという打算と、その奥に隠された本心によるものだろう。

 よく観察すると、彼女の瞳は小さく揺れていて、精神的な不安が見て取れる。

 心的なトラウマを抱えているというのも嘘ではないらしい。

 

「ナヒーダ、手を出して」

 指を軽く開いて手を差し出すと、彼女は意図を理解したようで、指を絡めて握り返してくる。

「きみがこの旅館に対して心に傷を抱えているというのは本当だな?」

 彼女は問いかけに肩を震わせ、こくりと頷く。

 その震えはしっかりと手を介して伝わってきた。

 

「……俺がきみの願い事を聞き入れるのは、きみが大切だからだ。俺はきみを置いていこうとは思っていない。そのことを覚えておいてくれ」

 返事のないその白い頭を、ゆっくりと撫でる。

 

 

 

 普段から一緒の部屋で着替えているので、服を脱ぐこと自体に躊躇いは無い。

 躊躇いは無いが……。

「そんなに見られてると服を脱げないんだけど」

 彼女は衣服を脱ごうとする自らの手を止め、こちらをガン見していた。

 

「……わたくし、まだあなたの裸を見たことがないの」

「以前に寝ている俺の服を剥いだじゃねえか。能力を使ってまで強行しやがったの覚えてるからな?」

 千夜一夜の真似事をしたあの日の驚きはまだ忘れていない。

 あれほど頭の混乱する事態は、今後の人生で体験することはないだろう。

 

「でも、それは上半身だけでしょう?」

 彼女は特に悪びれるでもなく平然と言った。

 俺はもう、掛ける言葉が思いつかない。

 

 ナヒーダは服を脱ぐ際にも一つ一つの動作が丁重であり、着替えが遅い。

 何時もならば多少手伝ったりもするが、今日は無視してさっさと先に行く。

 

 

 浴室で身体を洗っていると、彼女がやってくる。

 クレーに教えられたのか、小タオルを体の前に垂らして最低限は隠していた。

 

 ぽっこりとまでではないが、腹の筋肉が弱く内臓の位置が下がっていて、腰の前傾も加わり前へと出たお腹。

 しかし尻が大きく太腿も太いため、お腹の張り出しがあまり目立たずに調和している。

 小柄で左右幅が狭いが前後に肉厚で、くびれが薄いわりに、意外にムチムチとした体つきだ。

 

 彼女は洗い場の椅子に座り、何かを考えこむように静止した。

「……ねぇ」

「なんだ?」

 特に理由がないが、理由がないからこそ嫌な予感がした。

 こういった場合、彼女はなにか突拍子のないことを始める。

 

「洗って貰えないかしら?」

「えぇ……」

「これもわたくしを置いていこうとした罰よ」

 

 先ほど願いを聞き入れるという趣旨で発言した手前、それは断り難いものだった。

 仕方なく背後へ回り、太く安定感のある尻から行儀よく伸びる、不安になるほど小さな背中を眺める。

 軽く開いた両手分ぐらいの肩幅しかないので、下手なことをすれば簡単に折れてしまいそうで怖い。

 

 背中を洗い終えて『あとは自分でやれ』と声を掛けると、それは妥協点として彼女に受け入れられた。

 先に浴槽に浸かり、そのふちにもたれ掛るように座る。

 

 

 

 しばらくして洗い終えた彼女もこちらへ向かってくる。

 だが彼女は、なぜか向かい合ったまま、膝の上へと乗ってきた。

 

 そして広く薄い胸が目前に差し出されると、彼女は俺の手を取ってそこへ押し当て、そのまま俯いて静止する。

「……早くして」

 硬直していると文句を言われたので、これはどうやら揉めということらしい。

 予想以上に、強引に関係を進める気だ。

 

 しかし、目ではハッキリと胸の膨らみが見えるものの、体の曲面との相乗作用によって、手で触ると膨らみが分からない。

 寄せ上げるように触れれば存在がわかるが、普通に揉む場合は胸板と区別が付かない。

 ……これは虚乳というものなのだろう。なんというか男の胸を揉む感覚に近い。

 

 ギュッと目を瞑り、息を震わせながら吐息を吐いて顔を紅潮させる彼女。

 やけに反応が良いことから、混浴に際して色々と想像と覚悟を重ねて来たのかもしれない。

 対して俺は、揉めば揉むほど落ち着いていく。

 指先へのフィードバックが足りていない。

 

 

「ナヒーダ」

 目を開けてこちらを見た顔の、小さな唇を奪う。

 視界の端では赤く染まった耳が揺れている。

 

 軽く口を開き、見つめ合ったまま唇を求めあう。

 はふはふと互いの唇を食むと、口の開け閉めがフイゴのごとく働き、自然と互いの吐息が口内を行き来した。

 相手の吐息がこちらの頬を軽く膨らませる感覚が、まるで口移しをしているかのようだった。

 

 彼女は目を潤めて、焦点の合わない様子で遠くを見ながら、口先の感覚に意識を集中している。

 力の抜けて自然に下がった瞼が、その丸く大きい蕩けた瞳に彩りを与える。

 

 反るようにして腰が逃げていくので、それをギュッと引き寄せる。

 逃げ場を失った彼女は、お腹とお腹を密着させながら、行き場なく腰をくねらせた。

 しばらくすると肌が触れ合う気持ちよさを理解したようで、抱き寄せずとも、押し付けるようにお腹を擦り付けてくる。

 ぷにぷにとした肉付きのよいお腹の柔らかさと、膝に乗る太ももの感触はほんとうに心地よい。

 

 

 しばらく唇を絡め合うと、彼女は口を離して下を向く。

「満足したか?」

「いいえ、その……続きをして?」

 彼女はお腹を押し付けて、熱い吐息を吐きながら言う。

 

「……ナヒーダ、俺は普段の触れあいで満足しているんだけど。きみは不満だった?」

 指の背で彼女の頬を撫でると、くすぐったいのか僅かに体を揺らす。

 だが真面目な表情を作って、彼女は淡々と理由を語り始めた。

 

「いいえ、わたくしも不満はないわ。でも今回の件で、あなたを繋ぎ止めるためには、肉体的繋がりも必要だと判断したの」

 やはりこれは彼女なりの"解決策"であったらしい。

「あと責任を取らせることの他に、あなたの心を癒すことも目的よ。帰りたいというあなたの気持ちは、わたくしの努力不足を意味するのだから」

 彼女と居ればそう感じないものの、わずかに離れるだけで故郷へ帰りたいと思ってしまったのは事実だった。

 ただ、ホームシックは心身共に充実していても発症してしまうものであるから、必ずしも努力不足は意味しない。

 

「肉体関係を持つのが嫌だというのなら、わたくしを不安にさせるようなことはしないでちょうだい」

「それに関しては悪かったよ」

 その点だけは反論できなかった。

 

 

 

 有無は言わせず、くるりと肩を回して背後を向かせ、後ろから抱くようにして二人で湯に浸かる。

 両膝の間に彼女のバスケットボールサイズの腰を落とせば、顔一つ分の座高の違いもあり非常に抱きやすい。

 

「……わたくしって魅力がないのかしら」

 恐らくあれは、何らかの物語を参考にした筋書だった。

 その筋書通りに行かなかったからか、彼女は不満げに言葉を漏らす。

 

「別に魅力がない訳ではないけどな。体つきで言えばリサさんには敵わないだろうけれど、抱き締めたいのはきみだけだし」

「そんなことを思っていたのね」

 藪蛇だったので、取り繕うために言葉を続ける。

「きみは何時だって可愛いから、いちいち興奮してたら身が持たない」

 

「本当に?」

 疑うように彼女は言った。

「本当、本当」

「…………」

 確認のために、彼女は上体を捻りながら指カメラを構えようとする。

 しかしその途中で停止し、しばらくしてポーズを取りやめた。

 俺は何も言わずにその頭を撫でる。

 

 

「……正直に言えば、もう少し成長したほうが好みではある。だけど俺が好きになったのは、きみだから」

 好みから外れているのに好み、という不思議な感覚だった。

 

「俺はもう、きみを好きになってしまった。替えが効かない、きみじゃないとダメなんだよ」

 気づいたら心の真ん中を占領されていたような、そんな感じだ。

 好きだから選んだのではなく、選んだから好きになった。

 掛け替えのない相棒に特別な感情を感じてしまうのは、ごく自然なことだと思う。

 

「わたくしがキノコンになったとしても?」

「それはそれで、愛嬌があって好きだな」

 実際に成れたりするのだろうか?

 

 

 

「ところで罰だ罰だと言っていたが、罰を受けるべきなのはきみだって同じだよな?」

「……ええ、そうね」

 話の流れから自分が罰せられると気づいたようで、彼女は肩を竦めて小さくする。

 だが腹部は無防備に曝け出されたままだった。

 湯の中で手を伸ばす。

 

「ふっ、くふっ、あはははは! やめてちょうだい!」

「異性の前で裸を晒しているんだから、このくらいの覚悟はあるだろ?」

「いいえ、こんな覚悟などっ、していないものっ。あっ、あははは!」

 

 指先でお腹をくすぐると、いつものすまし顔からかけ離れ、ケラケラとした笑い声をあげる。

 その知的でありながら子供っぽさも併せ持つ彼女の姿が、本当に愛おしかった。

 

 

「お前らはいったい何をしているのだ……」

 風呂を出ると困惑顔の降魔大聖が待ち構えていて、いくつか説教をされた。

 

 軽率に風紀を乱すような行為はしないでほしいとか、仮にも神なのだからその威厳を考えてほしいだとか。

 大聖が懇々と説教をする姿は珍しいものであるらしく、通りかかった従業員はみな驚きの顔をしていた。

 

 そして翌日、石門へ向けて俺たちは出発する。

 相変わらずクレーが問題を起こし、それを三人でフォローするという旅路だったが、それは決して苦に感じるものではなかった。

 機会があればまた、この四人で旅に出てもいいかもしれない。

 

 

 

『今晩の読み聞かせは"皿屋敷"という物語にしよう』

『お皿のお屋敷?』

『ふむ。興味深いね』

『ドカーンしてみたい!』

 

 





次章「赤い爆弾」。軽く人間関係を破壊し、不発弾を抱えた生活を送る予定
それが終わったらようやく黒焔事件


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[モンド二年目] 赤い爆弾
1. 赤い不発弾


 

 小柄な体が腕の中に潜り込んでくる。

 顔を近づけてきたのでキスの催促だと判断し、寝ぼけたまま唇を奪う。

 

 後頭部に手を回せば、いつもはフワフワとしているのに、今日はサラサラとした髪質。

 もう片手で引き寄せた腰は太陽のように暖かく、その唇は柔らかいようで弾力の強い、ゼリーのような感触だった。

 その違和感が気になり唇同士を絡めてみれば、たどたどしい口遣いで唇を絡め返してくる。

 

 最近は、気温はまだあまり上がらないものの、日差しが温かくなりすっかりと春の陽気だ。

 そして春が来たということは、俺たちがモンドに来てからもう一年を越えたということでもある。

 

 ここに定住してから、時折の問題はあれど、ナヒーダも楽しそうに日々を過ごせていた。

 キスにも慣れたらしく、初めは興味津々に目を開けたまま唇を重ねることが多かったが、最近は目を閉じて雰囲気を味わうことも多い。

 見つめ合いながらするのもいいが、目を瞑っていると口先の感覚に集中できるため、俺もこうして彼女に倣っている。

 

 

 キスとキスの合間には、ハッハッとした早く短い、やけに初々しい息遣いが耳に届く。

「はぁっ、んっ」

 熱い吐息を吐くその口にまた唇を重ねれば、彼女は先ほどよりもさらに積極的に求め返してくる。

 触れ合った胸元はいつもよりも柔らかくクッション性があり、逆に腰は少し小さくなったように思えた。

 

 こんなに胸があるはずがないし、少し太ったのだろうか?

「ぷはぁ。……黒いお兄ちゃん、クレーだよ?」

 

 背筋を走る悪寒に目を開く。

 腕の中では、赤い小悪魔が困った顔でこちらを見つめていた。

「……ごめん」

 状況が理解できず、やっと捻り出した言葉は一言の謝罪だ。

 

「ううん、クレーは大丈夫。……でも気を付けてね。ナヒーダお姉ちゃんが怒っちゃうから」

 暖かさは布団の中から去っていく。

 日常が崩壊する音が聞こえた気がした。

 

 

 しばらく呆然と現実逃避していると、ナヒーダが呼びにくる。

「もう。クレーが起こしてくれたはずなのに、また寝てしまったのね」

 彼女はスリッパを脱ぎ、もそもそと布団の中へ入ってきた。

「おはよう。目は覚めた? 目覚めたのなら、お寝坊の罰としてキスをしてちょうだい」

 

「……ごめん、今はそういう気分じゃない」

 罪悪感に押しつぶされそうになりながら、そう言葉を口にした。

 強いストレスによって吐き気がする。

 

「どうしたの? 気分が優れないのかしら?」

 オロオロとしながら心配そうに俺の顔色を伺う彼女の姿を見て、より一層……。

 飛び起きて手洗いへ走る。

 

 

 

 その後、ナヒーダ達に心配されながらも、何とか朝食を食べた。

「だいじょうぶー?」

「ごめんなさい。わたくしがもう少し早く気づければ、もっと食べやすいものを用意できたのだけど」

「……きみのせいではない」

 改めて状況を認識し、しかし頭はそれを現実だったと受け入れることを拒み、軽い吐き気と頭痛に見舞われる。

 

 幸いにして被害者のクレーはあまり気にしていないようだったが、あれは明確にナヒーダへの裏切りだった。

 しかもその相手は彼女の一番の友達であるクレーな訳であるし、もはやその意味を考えるだけでも精神が削られる。

 自分で為したことでありながら、自分自身がそれを事実だと信じられない。

 

 

「黒いお兄ちゃん、また後で来るね。むりしちゃだめだよ?」

 食事を終え、クレーは心配そうな顔をしながらも、騎士団の仕事へと向かう。

 

「体調が悪いときは何もせず休みなさい。大丈夫よ、わたくしがついているわ」

 ナヒーダが看病の準備をして、否が応でも俺はベッドで横にさせられる。

 彼女はそのフチに腰かけて額を優しく撫でた。

「……あなたの体調が悪いというのに、少し嬉しいわたくしがいるの」

 

 自己嫌悪を含む微笑みを湛えて、自白するように彼女は言う。

 罪悪感を抱えている様だが、謝るべきは俺の方だ。

 

 彼女の頬へ手を伸ばす。

「……すまない」

「なぜあなたが謝るの?」

 その問いには答えられず、互いの間にしばしの沈黙が落ちる。

 

「……病で気が弱っているのね。あなたはただ、元気になることだけを考えればいいのよ。よしよし」

 彼女は沈黙の意味を、病気からくる不安だと解釈した。

 病人を安心させるためか、伸ばされた手を取り、小さな身体に明るい笑顔を浮かべる。

 その無垢な信頼が今の俺には辛かった。

 

 

 

 夕方ごろ、様子を見にクレーと、追加でアルベドが訪ねてきた。

 ナヒーダはいくつか買いたいものがあるらしく、看病係をアルベドに交代し、クレーと買い物へ向かう準備をする。

 

「少しクレーと一緒に買い物に出てくるわね。アルベド、彼が眠りそうになっていたら起こしてあげて?」

「ああ。任せてくれ」

「じゃあ行ってくるね! 黒いお兄ちゃん、アルベドお兄ちゃん!」

 ナヒーダとクレーは買い物へ出て、俺とアルベドが取り残される。

 

 病人扱いといえども、能力の暴発の危険から、彼女無しにベッドで横になることは許可されなかった。

 テーブルに着いた俺たちの前には、コーヒーが計二つ。

 

 アルベドはコーヒーに口を付けながら、世間話として話題を切り出した。

「今日のきみはやけに顔色が悪いけど、なにかあったのかい?」

「………実は寝ぼけてクレーの唇を奪った」

 

 

「ぶふっ、ごほっ、ごほっ。……それは本当かい?」

 彼は衣服の袖で口元を拭いながら、疑念の眼差しでこちらを見る。

 

「ああ、本当だ」

 直視できないので、俺は目線を下げつつ言葉を続けた。

「きみの家族に酷いことをした。謝って済むものではないが謝らせてほしい」

 

 口元に手の甲を当てながら、彼はしばし考えこむ。

 そして彼としての見解が定まったらしく、立場を述べた。

「クレーが許したのなら、ボクも許すよ。でも、どうしてそんなことに?」

「端的に言えば、寝起きに腕の中にいたからナヒーダだと思ったんだ」

 

「うーん。それに関しては、クレーにも悪いところがあったみたいだね。後で叱っておく。ただ……」

 真剣な、あまりアルベドから向けられることのない、眼差しで彼は続ける。

「きみのその行いは、クレーとナヒーダさんの両方を傷つける行為だ。そのことはよく考えておいて」

 

「……ああ。すまない」

 テーブルに額が着くほど、深く頭を下げた。

 もう顔を上げる気力もないので、そのままテーブルへ突っ伏して倒れこむ。

 

 

「ところで、許しはするけれど、貸し一つでいいかな? きみの能力を使った実験をしてみたいから、ナヒーダさんを説得して欲しいのだけど」

「……その申し出はありがたいけど、それは俺を気遣ってなのか?」

「気遣い? 何のことだい?」

 アルベドは全く理解できないという表情で問い返してくる。

 

「…まあ分かった。借り一つだ」

「うん、良かった。こんな風に機会が訪れるなんて思っていなかったよ」

 どうやら俺の罪悪感を気遣って、といった意図はないらしい。

 ましてや"良かった"とまで口にしていいのかと疑念に思うが、彼は割とこういうやつでもあった。

 

 しばらくアルベドと雑談しながら待っていると、部屋の外から騒々しい声が聞こえてくる。

「黒いお兄ちゃん、アルベドお兄ちゃん、早く食べよう!」

 クレーは騒々しく扉を開くなり、そう言って、テーブルの上で紙箱を開いた。

 どうやらタルトケーキを幾つか買ってきたらしい。

 

「おいしそうでしょ? さいきん開いたばかりのお店のデザートなんだよ。アンバーお姉ちゃんに教えてもらったの!」

「果物のタルトなら食べられるかしら? クレーと一緒にあなたの食べやすそうなものを選んでみたのだけれど」

 荷を下ろしたナヒーダが、俺を挟み込むようにしてクレーの反対側から声を出す。

 こうして両側を囲まれていると本当に賑やかで姦しいが、精神的には少しありがたかった。

 

 

 

 ケーキを食べ終えて、クレーたちは帰宅した。

 そして俺は再びベッドへ寝かされそうになったが、どうにか交渉によりソファへ座る権利を得て、そこで時間を過ごす。

 

「このお酒を飲んでみてちょうだい。アルイクシルというのだけど、手作りしてみたの」

 座っている間に、ナヒーダが小さなショットグラスに入った液体を持ってきた。

「薬酒というやつか」

「ええ。まだまだ試作だけれど、体調不良を癒す効果はあるはずよ」

 

 試作で調子が戻るならば完成したら怪我すら治りそうだ。

 ……無理に怪我を治すと、代償として寿命が縮まりそうで怖い。そう考えつつ、液体を飲み干した。

 

 彼女は飲み終わったカップを洗い場へ置くと、ソファの隣に座って俺の腕を抱く。

「そういえば、そろそろ引っ越しを考えないかしら?」

「引っ越し?」

 個室が欲しくなったのだろうか。

 

「ええ。今はクレーたちが泊まるようになったのだし、あなたとわたくしの寝室が欲しいと思ったの」

 今は俺たちがベッド、アルベドとクレーはソファで寝ている。

 たまにクレーがベッドで寝入ってしまい、代わりに俺たちがソファで眠ることもあるが、基本的にはクレーも俺たちの睡眠事情を尊重してくれていた。

 だが別に寝室や客室があれば、その方がより快適に過ごせるだろうことは確かだ。

 

 

「あと、お風呂が欲しいわ」

「……以前のあれは、あくまでも君への贖罪を兼ねてのものだ。だからもう一緒には入らないからな?」

 その言葉はある種の嘘のようで、口にしていて自分に嫌気が差した。

 嘘ではなくとも、朝の事を踏まえれば、それは明確に詐欺を働くものであるから。

 

「いいえ、一緒に入って貰いたいの。……わたくしと入るのは嫌?」

「うん、嫌だな。流石に一人で入りたい」

「たまにでもいいの。お願い」

 彼女は頭一つ分低い目線でこちらを見上げながら、まっすぐな眼差しで懇願する。

 

「あなたにはもう罰はない。だからお願いになるのだけれど、わたくしはできれば、あなたと入浴を共にしたい」

 嘘を指摘されているかのようなその言葉に心臓が痛む。

 これ以上の誤魔化しはもう、精神的に無理だ。

「……分かった。きみの望む通りでいい」

 

「えっ、いいの? なら、毎日一緒に入りましょ? わたくしそのための入浴剤も研究しているの。あとあなたのためのシャンプーも作ってみたいわ。わたくしのお勧めの香りでよければ……」

 彼女はタガが外れたように願望を語りだすが、俺にそれを止めることなど到底できなかった。

 

 



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2. リサさんとのお茶会

 赤い地雷を抱えた翌日、爆発物を処理できぬまま朝を迎えた。

 ナヒーダはこちらの体調に気を張っているようで、俺が目を覚ました身じろぎにより胸元の彼女も瞼を開く。

 

「おはよう。調子はどうかしら?」

 腕の中から小さな手が額へと伸び、体温に異常がないかを測る。

「熱は出ていないようね。今日のお茶会には参加する?」

「……ああ。大丈夫だ」

 

 春の冷ややかな朝の空気に触れて頭が動き出し、だが同時に、昨日のことを思い出してしまった。

 意を決して打ち明けようとするが、『よかった』と微笑む彼女の顔が視界に入り、口が止まる。

 俺にはそれを直視できなかった。

 

 

 布団に頭を埋めて潜り込み、そのまま彼女の胸元に顔を預ける。

「あら、どうしたの?」

「……少し疲れた」

 その薄く柔らかい胸に額を当てて暖かさを感じながら、少しづつ覚醒する意識の中で罪悪感に身を浸した。

 改めて昨日のことを考えれば、考えるほどに気落ちする。

 

「本当に大丈夫? よしよし」

 彼女は俺の頭を両手で抱きこむと、子供を扱うかのごとく撫であやす。

 その優しい声色は俺の心を癒すと同時に、少しづつ心を蝕んでいく。

 

「……ごめんな」

「疲れたときはお互い様よ。わたくしはあなたに沢山助けられた。だから、恩を返さなければ不義理になってしまうわ」

 春の日差しのような暖かな声で彼女は言った。

 小さな片手で頭を抱きしめ、もう片手でゆっくりと丁重に髪を撫で続ける。

 

「やっぱりお茶会は取りやめにしましょうか」

「いや、それまでには回復するから大丈夫」

 俺はしばし、その優しさに縋った。

 だが縋れば縋るほどに心は重くなり、それでいて口は固くなっていた。

 

 

 

 今日は午前中に空き時間があるので、朝食を食べてからは、ソファに座って彼女の出した課題図書を読む。

「読み終わったのね」

 声を掛けられて気づく。横顔をじっと見られていたらしい。

 何が楽しいのか、ニコニコと隣から微笑み続けていた。

 

「……見てて楽しいか?」

「ええ、とても楽しいわ。あなたの目線と表情から、何を読みどう思ったかを推測するの。そうすると、まるで一緒に同じ本を読んでいるような不思議な気分になる」

 この課題図書には彼女が先に目を通していて、その際に本全体を丸暗記しているらしい。

 だから俺が何ページ目のどのあたりを見ているかで、視線にある文章を推定できるのだろう。

 

「それにあなただってよく、わたくしの横顔を眺めているでしょう?」

 バレていた。

 彼女の横顔は、特に学術書を読んでいる時、普段の子供っぽい言動が嘘だったかのように、理知的で美しい姿を見せる。

 そこには彼女の魅力というものが数多に詰まっていて、時折だが、盗み見てしまう。

 

「ただ、ひとつ気になったことがある。今日のあなたは何時もより思索が多いのだけれど、何かあった?」

 一瞬だが、その言葉に心臓が大きく鳴った。

 今ここで言うべきか。いやどうであれ言うしかない。

 そう頭は結論付け、焦燥感が背中を押すが、口先がうまく動かせない。

 

 結局、自白の声が俺の口から出ることはなかった。

 

 

 

 午後からはリサさんとの茶会の予定があるので、体調を心配されつつも図書館へと向かう。

 彼女との交流を嫌っていたナヒーダであるが、しかし、好奇心には勝てなかった。

 未発表の論文を餌に釣られて以降、こうして度々に会話の機会を設けている。

 

 なお新居探しは始めることにしたが、引っ越し自体は当分先だ。

 彼女は今の住居も気に入っているために、もう少しその生活を楽しみたいとのことらしい。

 

「あまり彼にちょっかいを掛けないで欲しいのだけど」

「そうは言っても、もうわたくしたちはお友達だもの。ね、騎士さん?」

 お茶を飲みながら、話の流れで、リサさんは俺に向けて揶揄いの言葉を吐いた。

 親密さを主張する意図でのものだが、その奥にはナヒーダへの揶揄いも兼ねているのだろう。

 

「リサ、わたくしの騎士に手を出したら許さないわよ?」

「あらあら、そのような心配などご無用ですわ」

 

 これは多分、好みではない、という意味だ。

 まあこのように一緒にお茶をしているだけでも場違いな、とんでもない美女がリサさんだし俺にも異論はなかった。

 ただ、わざわざ俺を介して彼女をおちょくるのは止めてほしい。

 

 

「……そういえば、少し探したい本があるの。あなたはここで待っていて」

 珍しく、ナヒーダが一人で本を探しに行くと言う。

 リサさんと二人きりにされるというのは、こうして図書館に通い始めてから初めてのことだった。

 

 小さな背丈が本棚の向こうへと消える。

「さてと……。少し用事があるので、こちらへ来てくれない?」

 ナヒーダの姿が見えなくなると、リサさんもまた用事があると言い出した。

 少し不思議に思いつつも、椅子から立ち上がって、彼女に近寄る。

 

 

「あなたってわたくしのような女性が好みだそうね。クラクサナリデビ様が教えてくれたわ」

 突然の言葉に、理解が追い付かずに硬直してしまった。

 リサさんが俺の好みに触れる意図、ナヒーダがわざわざそれを教える意味。

 ぐるぐると考えを巡らせるが全く状況が読み込めない。

 

 そんな俺の顔を覗き込むようにして、リサさんが前傾になって近寄ってきていた。

「ねぇ、わたくしと付き合わない?」

 直視し辛いほどに魅惑的な目鼻立ちと、視界を蝕むがごとき暴力的な胸元が、目前に広げられる。

 だが、以前のように顔の温度が上がることはなかった。

 これまでの付き合いだけでも、この人がただの揶揄い好きだと理解している。

 

「俺にはもう、心に決めた人が居るので」

「へぇ。でも一晩だけでも、どうかしら?」

 胸を押し付けられた。

 水が雪崩れ込むような、どたぷんとした感触が、視覚の暴力を視覚だけでは済まないものにする。

 

 だがきっと、この誘惑に乗るとろくな目には会わないだろうことは予想が付く。

 なので、別に振り払いはしないが、毅然な態度を取る。

「お断りですよ。彼女が悲しむと分かっていて、手を出せる訳がない」

 

 

 

「ふーん。まぁ、合格よ。そうですよね、クラクサナリデビ様」

 その言葉を合図にして、ナヒーダが本棚の陰から現れる。

 嬉しそうでもあるが、不本意でもあるという複雑な表情だ。

「リサがあなたを使いたいと言うので、賭けをしたの。あなたがリサの誘惑を振り切るなら、使ってもいいって」

 どうやらこのやり取りは全て見られていたらしい。

 

「……それって、きみが得るものがないんじゃないか?」

「いいえ、わたくしはあなたへの信頼を得られるもの。それにリサはとても優秀な学者よ。彼女との友好を結んでおくことは、今後のためにも有用ではないかしら」

 そう建前を語った後に、彼女は本心を言葉にした。

「……本当は、あなたをリサと二人っきりにするのは嫌。だけどわたくしは、もう少し成長しようと思ったの」

 鍾離さんに忠告された依存的な部分を、改善しようとしているのだろう。

 

 対して俺の先の行いは、確実にそれを台無しにして悪化させるものだ。

 ……こんなことであれば、昨日の内に自白しておくべきだった。

 今更どんな顔して伝えればいいのか分からない。

 

 

「俺を使うとは言っても、リサさんにとって俺に価値などないと思うけど」

「騎士団員は忙しいし、それ以外は信用ならないでしょ? だからあなたは便利な立ち位置に居るの」

 ナヒーダヘ向けて口にした俺の疑念に、リサさんが回答した。

 

「つまりは便利な雑用係ということですか」

「ええ、そう思ってくれて構わないわ。一応の肩書としては司書補佐ね」

 草神の部下という立場が、ある種の身分保障として働くらしい。

 まあ書籍というものは貴重品でもあり得るから、破損や紛失を防ぐためと考えれば合理的ではある。

 

 その後は簡単に仕事の説明などを受け、そしてまた茶会へと戻った。

 

 

 

 茶会を終え、図書館を後にした帰り道。

 ふと聞いてみたくなった言葉を口にする。

「なあ、もし俺が浮気したらどうする?」

 

「……したの?」

「いや……」

 あれは浮気に入るのか。それとも事故なのか。……事故だとしてもアウトだろう。

 

「お願いだから、わたくしを不安にさせるようなことは言わないでちょうだい」

「……分かってるよ」

 モンドの街並みを歩く俺たちに、沈黙が落ちた。

 

 

「わたくしはあなたの冗談で、少し心が不安になってしまった。だから罰として抱っこをしなさい」

 しばらくして彼女は突如、我儘を言い出した。だが俺は溜息を付くことすらできない。

 言われるがまま、彼女を腕に座らせるようにして抱き上げる。

 

 座高が頭一つ分しか違わないために、こうして抱えていると流石に彼女の目線の方が高くなる。

 しかしその差は小さいものであり、膝の上に乗せた時と同様に、彼女の顔が至近に見えた。

 そして彼女は俺の両頬へ手を当てて、子供に言い聞かせるかのように語りだす。

 

「……わたくしはあなたを信じているわ。だってそうでしょう。あなたはわたくしをここまで連れてきてくれたのだから」

 その言葉は俺へ向けてのものであると同時に、恐らく、彼女が彼女自身に言い聞かせるものだった。

「あなたはわたくしをガイド役だと言ったけれど、わたくしにとってはあなたがガイド役なの。あなたが居なければわたくしはここに居ない。そのことは覚えておいてね」

 

「………」

 俺はそれに答えることができず目線を下げる。

「ふふっ、今日のあなたは何だか子供みたい。大丈夫よ、わたくしがついているわ」

 "うりうり"と言いながら、彼女は子をあやすかのように頬を揉みしだく。

 

 時間が経てば、風化して話しやすくなる。そんな打算があった。

 だがその企みは完全に破綻していると、ようやく気付いた。

 

 

 

 家に戻って一休みした後は、彼女を膝に乗せてソファに座り、小説を一緒に読む。

 

 本を持ちページを捲るのは彼女の役目で、俺はその後ろから彼女を両手で抱き、その肩に顎を載せてページを覗き込んでいる。

 俺の目元には丸く小さなサングラスが掛かっていて、それが視線を追跡し座標を彼女へ伝えた。

 彼女はその座標を元に俺の読むペースを把握し、適切なタイミングで次へと進む。

 

 これは、同じ小説を読むのならば視線を共有したほうが効率的だ、という理由でこうなった。

 最初は文字通りの意味での視界の共有を目論んでいたようだが、それを拒否した結果がこの視線共有だ。

 

「その部分について、あなたはどう思う?」

「俺としては彼の意見に同意だけど、その論拠については同意できないな。きみは?」

「わたくしは……」

 

 時折に彼女と議論を交えながら、読み進めていく。

 互いにあれこれと考えを述べるのが嫌いではない性分なので、こうして一緒の本を読むのも悪くはないものだった。

 

 

 彼女の作ったこの色眼鏡は、俺の要望により、古風で珍奇な小丸眼鏡となっている。

 視線を読み取るこれを、間違ってもサングラス代わりに付けて街を歩きたくはないので、常用し難いように敢えて胡散臭いデザインを選んだ。

 

 本を読み終えると、彼女は膝の上で体を回してこちらを向く。

「その眼鏡を掛けていると、ドリーという商人みたい」

「ドリー?」

「ええ。見た目は小さいけれど、とても聡明で、とっても優しいの!」

 

 信用が第一であるはずの商人が、胡散臭い色眼鏡を掛けてやっていけるのだろうか?

 色々と疑問点はあったが、今はそこまで興味を持たなかった。

 

 

「……さて、読み終えたし夕食にしようか」

「そうしましょう。それは通信機でもあるから大事にしてね」

「は? これが?」

「そうよ。機能が軽くなったから、代わりに別の機能を搭載してみたの」

 常用拒否という目論見が粉砕された瞬間だった。

 

「……通話機能ならスマホ端末の方に入れればいいんじゃないか?」

「まあ、忘れてしまっていたわ」

 彼女はそう言って楽しそうに微笑むだけで、言葉を続けなかった。

 つまり機能を移転させる気はないらしい。

 

「……目線検知のオンオフ機能を付けたりは」

「なにか、不都合でもあるのかしら?」

 有無を言わせぬような笑顔で、ジーっと彼女は見つめてくる。

 

 これはきっと、リサさんへ向ける視線を警戒してのものだな。

 道理を説いたところで、あれこれ理由を付けてゴリ押されるだけだと予想できるので、説得は諦めた。

 

 



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3. 任務遠征

 モンドの街の外へと遠征に出た日、雨が降り出した。

 滝のような大雨だ。

 

「今回の任務は中止しましょうか」

「ああ、仕方ないな」

 この先の道がどうなっているか分からない以上は引き返すべきだろう。

 例え雨が上がっても土砂崩れなどで通れないことが懸念されるし、もし雨が長引けば俺たち自身にも危険が及ぶ。

 

 加えて、雨具はあるがそれを着ると動きづらくて体力を消耗するし、しかも着たまま運動をすれば汗によって全身がびしょ濡れになる。

 では何も着ずに雨曝しでも同じではないか、と言えばそうではない。

 雨とは流水であり、雨具なしにそれを受ければ、川の中を泳ぐかのように体温を奪われてしまう。

 体温の低下は体力を大きく削ぐので、結局は雨を防がないことに歩き続けることは難しい。

 

 そういった理由もあり、冒険者協会からの今回の依頼任務はキャンセルすることになった。

 

 

 

 引き返した道沿いで見つけた小さな遺跡で雨宿りしながら、夕食の準備の前に、雨具を脱ぎ衣服を着替える。

 いつもであればもっと早く雨を凌げる場所が見つかるものだが、今日は運が悪い。

 

 無理に急ぐこともなく、彼女の歩幅に合わせてややゆっくりと歩いたお陰か、思っていたほどは汗で濡れていなかった。

 しかし雨具によって遮断された内部は、どうしても蒸れてしまって全身が湿ってしまう。

「汗と雨で生乾きの匂いだな」

 生乾き、つまりは温度と湿度によって雑菌が繁殖したものであり、あまり歓迎できるものでもない。

 

「そうなの? 是非、嗅がせてほしいのだけれど」

「……きみは俺を細菌の培地か何かと勘違いしてないか?」

 小さな雨具を脱いだ彼女が、新しいものを見つけたと瞳を輝かせ、こちらを見つめてきた。

 俺はそれに対して苦言を呈したものの、あまり効果はないだろうことは分かっている。

 

 

「いいえ。わたくしはあなたの匂いだから、それを嗅いでみたいの」

「今その言葉を言われても、単なる好奇心によるものとしか思えないな」

「あら、じゃあこう考えてはどうかしら。いつも嗅いでいるのだから問題はない、と」

「そこまで嗅ぎまわられた記憶はないんだけど」

 

「あなたが気付いていないだけよ? 例えば、あなたに抱きしめられているときには、あなたの胸元の匂いを嗅いでいるわ」

 思い当たる節があった。

 やけに胸板に顔を擦り付けてくるな、と感じた経験がある。

 

「……それはそれで少し趣味が悪いだろ」

「いつもではないもの」

「おいまて、矛盾してるじゃねーか」

 最初から真面目に話す気はなかったのか、彼女はクスクスと笑うだけだ。

 

「少しだけでいいの。わたくしにも嗅がせて?」

 可愛らしい微笑みから放たれるその真っすぐなお願いには、折れる気など更々無いことが伺えた。

 なので諦めて彼女の好きにさせる。

 

 

 両膝をつき屈みこむ俺の頭を、小さな両腕に抱え込むようにして、彼女は匂いを嗅いだ。

「ふむ。時間が経つとこうなるのね。覚えたわ」

「覚えないでいい。……代わりに次は、きみの匂いを嗅ぐからな」

「ええ、いいわよ」

 

 そうして差し出された、彼女の白くふわふわとした頭に鼻を埋める。

 雨に濡れたまま時間の経ったその髪もまた、俺と同様に生乾き特有の匂いが生じていた。

「若干……、雑草臭い?」

 そう呟いた直後、緑色の光が彼女を包む。

 

「匂いが消えた」

「だって変な匂いを嗅いでもらいたくないのだもの」

「それが他人の匂いを嗅いでみたいと言い出した奴のセリフか?」

「嫌なものは嫌なの」

 

 人間として生活するための情緒が育っているという点では朗報であるが……。

「流石に理不尽なんだが」

 

「ならあなたの匂いも消してあげるから許して?」

 彼女が手をかざし、俺の体を緑光が包む。

「……これ、消臭効果ではないな。ハーブの香りを上手く使って匂いを誤魔化している」

「正解よ。本当は匂いそのものを消せればよかったのだけれど」

 

 中世には風呂に入らず香水で誤魔化していた時代があったというが、これもまた似たようなものだろう。

 遺跡の外では、より一層に雨脚が強まっていた。

 

 

 

 閃光が視界を白く染め、轟音が響く。

 どうやら至近に雷が落ちたらしい。

 

 びっくりした彼女は、驚きに呆けた顔のまま、いそいそと腕の中に潜り込んでくる。

「雷なんて初めてでもないだろうに」

「そうね。でも、こんなにも迫力があるなんて知らなかった。まるで空が一筋に落ちてきたかのよう」

「確かに雷雲の真下で過ごしたことは未だなかったな」

 

 ぎゅっと衣服を掴んで胸の中に身を縮める彼女。

 それをそのまま守るように抱きしめて、適当な場所へ腰を下ろす。

 外ではゴロゴロと、大音量で轟音が響き、その度に腕の中で身をびくつかせる。

 

「こうした方がいいか?」

 片腕を彼女の頭部に回し、その長い両耳を腕と掌で閉じて塞ぐ。

「(…ええ、いいわ。なんだか落ち着いた…)」

 耳を塞がれて会話が聞き取りづらくなったからだろう、彼女は久々に接触通話を試みてきた。

 

 雑音を減らすために、今一度しっかりと腰を抱き寄せて、お腹とお腹をくっ付ける。

「(こうして会話するのも、なんだか懐かしいな)」

「(雪山以来ね)」

「(ああ、アルベドとの初邂逅か……)」

 あの時も悪天候に見舞われたのが原因だった。

 

 

 ふと先ほどの、雷に驚いて目を丸くした彼女の姿を思い出す。

「(きみは表情が多彩で凄いよ。俺よりも遥かに情緒に溢れていると思う)」

「(あなたも多彩な表情をしていると思うのだけど)」

 

「(俺は相手に合わせてるだけだから。俺の表情が多彩なら、それはきみの功績だ)」

「(……確かに、あなたは犬と会話するときに、犬のような笑顔を浮かべているのだもの)」

「(それって誉め言葉?)」

「(当然。動物や子供を相手に、対等な立場で話しかけられるのは稀有なことよ)」

 

「(ならきっと、俺を好くのは動物や子供のような奴なんだろうな)」

「(……わたくしは子供ではない。そのことを教えてあげる)」

 彼女の唇が伸び、俺はそれに答えた。

 

 

 

 

 遺跡で夜を明かした次の朝。

 目が覚めると、彼女が胸板の上へ被さるように眠っていて、その口元は俺の首を捉えていた。

 下向きかつ口を半開きで寝ているので、首元が涎まみれだ。

 

「っ!」

 その光景が、望舒旅館で彼女に噛み付かれた、あの時の記憶を想起させた。

 気づけば自分は、"はぁはぁ"と過呼吸気味に息を吐いていて、更には頭が締め付けられるように痛んでいる。

 

「……どうしたのかしら?」

 過度な呼吸によって胸板が大きく上下し、そこに寝ていた彼女を起こしてしまった。

「あら。ごめんなさい、涎をこぼしてしまったみたい。拭くから少し待っていて」

 彼女が荷を漁るために胸の上から退く。

 

 俺は手で自らの首へと触れた。

 べちょりとした感触がして、暖かく粘性のある液体が付着する。

 しかし手は赤く染まってはいなかった。

 

「恥ずかしいから、あまり触れないでちょうだい」

 ボーっと手を眺めていると、タオルを持ったナヒーダが首と手に付いた涎を拭き取った。

 

 

 記憶というものは、脳の構造として、忘れられることはないものだ。

 不必要な記憶は、無意識の海に沈んでいるだけで、決して消えることはない。

 今のように精神が不安定になれば、沈んでいた記憶が、暗礁のごとく波の狭間に顔を出し始める。

 

 俺は、膝立ちの彼女の腰へと抱きついて、そのお腹に頭を預けた。

「ごめん、少し抱きしめてくれ」

「あら、お安い御用よ」

 彼女は自らのお腹を撫でるかのような手付きで、腹に抱え込んだ頭部に触れる。

 

「ふふっ。最近はあなたがこうしてわたくしを頼ってくれるから、嬉しいの」

 彼女は楽しそうな声でそう語り、見えないものの、恐らくその顔には笑顔を浮かべている。

「きっとあなたは頑張りすぎてしまったのね。でもわたくしは、少しぐらいダメな人のほうが、可愛らしくて好きよ」

 囁いて、両手でそっと俺の頭を抱きしめた。

 

 外では雨がまだ降り続いている。

 彼女は俺を抱いたままに、子守歌を歌う。

 少女らしい音の高さと、大人びた声色の深みが印象的だった。

 

 

 

 雨が弱まったのを見計らい、自宅への帰路につく。

 モンドの街へ到着したのはその日の夜で、先ずは家で荷物を降ろしてから、体を温めるため銭湯へ。

 

「これ、今日の分のアルイクシルよ」

 風呂から上がると、そのまま外で夕食を済ませ、自宅へと帰った。

 そうしてソファでくつろいでいるところに、例の薬酒を差し出される。

 

「もう体調は問題ないのだが」

「ダメ。飲みなさい」

 もはや有無は言わせる気がないらしい。

 仕方なく、それを飲み干す。

 

 

「……ここ数日、なんだか触れ合いが減ったような気がするわ」

 飲み終えた酒杯をサイドテーブルへと置く俺に、ナヒーダはそう不満を口にした。

 恐らく彼女への負い目から、自発的な接触が減少してしまっていたのだろう。

 

「ねえ、わたくしを触って。褒めて」

 彼女は膝に乗って、俺の首の後ろに両手を回し、正面からしな垂れかかってきた。

「あなたでなくてはダメなの。だから、あなたの手で触れてちょうだい」

 

 小学生の上半身と、中高生の下半身。ずんぐりむっくりとした、ドワーフのような体形の彼女。

 寝間着姿で、うねる髪を真っすぐに下ろし、しっとりと微笑んでいるその姿は、俺が大切にすべき愛おしいものだ。

「……きみは本当に可愛いよ」

「ふふっ、嬉しい。…さあ、もっと触れて?」

 

 彼女は俺の手を取って、自らの背へと回した。

 乞われるがまま小さな身体を抱き寄せれば、彼女が少し腰を浮かせているのもあり、互いが互いの首元へと顔を埋める。

 それはまるで首と首でキスをしているかのようだった。

 

 彼女の背をゆっくりと撫で、しばらく抱き合って時を過ごす。

 呼吸の硬さは気づかれなかったらしい。

 

 

 

「起きてほしいのだけど」

 うつらうつらと意識を遠のかせていると、耳元で声がしたので首元から顔を上げる。

 すると彼女は顔を寄せて、唇と唇が触れる寸前の、吐息が掛かる距離で止めた。

 どうやら口付けをしたいらしく、これはその許可を待っているということだろう。

 

 悪戯心から、そのまま何もせずに見守っていると、徐々に彼女は顔を赤くして耳を垂らした。

「……なんだか恥ずかしいわ」

「きみにも羞恥心が育っているようで安心した」

「こんなにも繊細な感情が育つのも、あなたのおかげよ? だから、お願い」

 

 言葉に応じて、羽根が触れる強さで、僅かな口づけを落とす。

 微かに先端部を触れさせるようにして、唇で唇をくすぐり、彼女の恥ずかしさを煽る。

 

「意地悪ね」

 先ほどよりもさらに赤みの増した彼女が、不満げに目を細めて言う。

「きみが可愛いのが悪い」

「……いじわる」

 

 もう一度、距離が縮まる。

 今度は意地悪をせずに、きっちりと唇を絡めた。

 ……絡めることができた。

 

 

「ねえ、あなたはわたくしの何処が好きなのかしら?」

「んー。知的で落ち着いていて、その割に好奇心を残していて、面白く可愛いところとか」

 彼女を女性として見ることに関してはそれなりに悩んできたので、好意的に感じる部分はある程度自覚している。

 だから簡単にであれば、好きな点をあげるのはさほど苦ではない。

 

「日常的な場面でいえば、くだらない無駄話を楽しそうに聞いてくれて、それでいて学術的な分野にも知性と好奇心を持って会話ができるとこが好きだな。きみがそこに居てくれるだけで、生活が楽しくなる」

 無駄話はクレーが、学術的な会話はアルベドが付き合ってくれるが、その両方をできるのは彼女だけだ。

 

「で、きみは俺のどこが好きなんだ?」

「……教えてあげないわ」

「それはずるくないか?」

「いいえ、意地悪さんにはちょうどいいもの。……そういえば、昨夜あなたが読んでくれたお話がもう一度聞きたいの」

 

「あの嵐の中で読んでいたのは確か……、"春と修羅"だったよな。初めからでいいのか?」

「ええ。少し難解だったから、何度も読み聞かせてちょうだい」

 その姿は、いつもより少し上機嫌だった。

 

 



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4. 中間報告

 誰かに唇を奪われた。

 ふかふかとした親しみ深い唇が、まだ寝ている俺の唇を優しく愛撫する。

 

 目を開けば、ナヒーダが居た。

 どうやら早起きした彼女に口づけをされたらしい。

「最近、おはようのキスをしてくれないのだもの。だからこれは当然の権利よ」

 もう一度、軽く唇を触れさせてから、目が覚めたのを確認して彼女はベッドを出ていく。

 

 

「今日は辛くないのね」

「ああ。ペペロンチーノのペペロンチーノ抜き、いわゆるアーリオ・オーリオだ。唐辛子を切らしたのを忘れてた」

 ニンニクと塩で味付けしただけの野菜パスタを朝食として食べた。

 

 そして朝食後は、午前中の仕事として、彼女の執筆の補佐役へと取り掛かる。

 最近は執筆の仕事が増え、在宅だけでも生活が成り立つようになっていた。

 だがまあその主な収入源は知識人の彼女であり、俺にできるのは身の回りの世話とちょっとした意見ぐらいだ。

 テイワットの知識に疎いので、彼女の指導の下で論文は書いてはいるものの、大した成果にはなっていない。

 

 

「黒いお兄ちゃん、ナヒーダお姉ちゃん! 遊びに来たよ!」

 今日はアルベドたちが来訪する予定となっていて、昼過ぎ頃には騒がしい赤色が到着する。

 扉を開け駆け込んできたクレーが、そのままの勢いで、ソファに座る俺の膝の上に飛び乗ってきた。

 

 彼女はナヒーダよりも腰の肉付きがないために、こうして座られるとその座骨が、座面となる太ももへ抉るように突き刺さって痛い。

「クレー、痛いから降りてくれないか?」

「えー、やだー」

 周囲では、赤い小悪魔の椅子と化して動けない俺の代わりに、ナヒーダが扉を閉め、甘味を出してお茶の準備をしていた。

 

 おやつの用意が終われば、膝の上のクレーと隣に座ったナヒーダの姦しい会話を聞きながら、アルベドの到着を待つ。

 こうして役者が揃うと、否が応でもあのことを考えてしまう。

 

 ただ、クレーには悪いが、男女関係に成り得ないという点ではまだクレーで良かったのかもしれない。

 互いに異性だと思っていない、なんというか大型犬を相手にしているような気楽さがある。

 今回の件がもしリサさん相手であれば、絶対に今よりも拗れた状況になっていただろう。

 

 ……それよりはマシであるにも関わらず、俺はまだ打ち明けられていない訳だが。

 

 

 

 アルベドが合流すると、今日もまた、ナヒーダはクレーと二人で買い物へ出かけた。

 当然ながらベッドで横になるようなことは許されず、監視役としてアルベドが付けられている。

 

「あの件は、ナヒーダさんには打ち明けたのかい?」

「……まだだ」

「やはりそうか。きみの様子からしてそうだと思ったよ」

 アルベドは淡々とした表情と声で、コーヒーを飲みながらそう言った。

 

「正直な気持ちとしては、もうこのまま消えたい」

「それは駄目だと思うけどね。一番、無責任な解決方法だ」

「分かってはいるんだが辛い」

 ナヒーダの努力も何もかもを台無しにするものであるので、とんでもなく打ち明け難い。

 俺は力尽きるように、机へと突っ伏す。

 

 

「参考までに聞いておきたいんだけど、きみの好みの女性像ってどのようなものだい?」

「……あんたはそういったことに興味がないと思ってたが」

 まさか、アルベドの口から異性関係を問う言葉がでるとは思っていなかった。

 どういう風の吹き回しなのだろうか。

 

「ボク自身は生まれもあってあまり女性に関心がないけれど、自己の周囲の人間関係にまったく興味がないという訳ではないよ」

 そう口に出す彼であるが、相も変わらず優雅にカップへ口を付ける姿には好奇心が感じられない。

 本当に、どういった意図があるのだろうか?

 疑いを向けながらも、彼の問いに答えるために頭を動かす。

 

「俺の好みは……、思惑の読めない知的で神秘的な女性だな。あと肉付きが良いほうが好き」

「それはつまり……、リサのような女性ということかな?」

「ああ、そうだな。おっとりとした雰囲気とその奥に潜む聡明さが、まさに好みそのままだ。高嶺の花過ぎて近づこうとは思えないけど」

 

 好みだからと言って、付き合いたいとは限らない。

 これは天文好きが、必ずしも実際にその星へ行こうとは思えないのと同じだ。

 美しい星であるほど、その環境は人が生存するには適してなかったりするのだから。

 現に、リサさんと付き合ったら色々と苦労しそうだし。

 

 

「……きみから見て、クレーはどうかな?」

 耳を疑うような質問に机から飛び起きた。

「は? 女性として?」

「うん」

「ないな」

 これに関してはもはや即答できる。

 

「そうなのかい? 見た目で言えばナヒーダさんとそう変わらないと思うけれど」

「ナヒーダは表情や仕草に精神年齢の高さが現れるから好きになっただけで、クレーに関しては無理」

 

 赤い小悪魔には、理数系的な頭の良さは感じるものの、人としての賢さをあまり感じない。

 例え体が成長したとしても、彼女を異性として見ることはないだろう。

 そもそも性格的にも相性が良いとは言えず、もしクレーとアルベドのどちらかと暮らせと言われたなら、俺はアルベドを選ぶ。

 

「うん、わかった。そう伝えておくよ」

「……おい待て! 誰にだ!」

「冗談さ」

 彼はそういうが、こいつはこいつで天然な部分があるから地味に信用ならない。

 下手したらアンバーやガイア辺りに伝わってしまい、散々に弄られる未来が待っている。

 

 ブーと、机の上でサングラスが振動した。

 それを耳に掛けると、通信相手は彼女しか居ないので拒否などできずに自動で繋がる。

『起きているわよね? これから甘味を買って帰るからね』

「りょーかい。俺はアルベドと茶をしながら待ってるよ」

 

「それが通信端末なのかい?」

「初めはそうなる予定でなかったんだけどな。気づいたら機能が追加されてた」

「ふむ。きみの故郷ではそのような形が一般的なのかな?」

「似たようなものはあるはずだけど、眼鏡に搭載するのは一般的ではないな。……というか、通信端末を知ってるのか?」

 

「ああ、アリスさんがその試作機を使っているのを見たことがある」

「へぇー。そうなのか……」

 ふとクレーの母親であるアリスさんと何時か遭遇する可能性に思い至り、元から重たい気分が更に重くなった。

 クレー以上にヤバい人だと聞いているし、もう既に今からでも逃げ出したい。

 

 

 

「ただいまー! 黒いお兄ちゃん、なにその眼鏡!」

 掛けたまま談話している姿を、帰ってきたクレーに見つかった。

「かわいい!」

「うるせぇ」

 サングラスを外して衣服の首元に吊るす。

 

「あれー、外しちゃうの?」

「別に俺は目が悪い訳ではないし」

「じゃあっ、クレーに貸して!」

「どうぞ」

 赤い太陽は色眼鏡を掛けて、得意げにポーズを決める。

 

「クレー可愛い?」

「ああ、面白いよ」

「ぶー!」

「はいはい、可愛い」

「やたーっ! アルベドお兄ちゃーん」

 俺の次はアルベドをターゲットに定めたらしく、眼鏡と共に走り去っていった。

 

 

 買い物の荷物を仕分けして軽食などの準備を終えてからは、本日の予定通りに四人で映画を見る。

 三人掛けのソファーの端に座り、膝にはナヒーダを乗せ、真ん中に座るクレーがこちらに寄りかかって、反対端のアルベドを足蹴にしていた。

 

「あはははは! なんでそうなるのー!」

「ふふふっ!」

 今日はコメディー映画を選んだ。

 クレーが大声で笑い飛ばし、釣られるようにナヒーダも笑う。

 人々の面白い姿を見るのが趣味なところのある白緑の彼女には、この作品は丁度よかったかもしれない。

 

「こらっ、クレー。ボクを蹴らないでくれ」

「ごめーん、アルベドお兄ちゃん!」

 ソファの反対側ではアルベドが真剣な眼差しで、映像内の小道具などを観察し考察を呟いている。

 だが笑い転げながら脚を振り回すクレーに蹴り飛ばされて、苦言を呈した。

 しかし彼は結局のところ、映画の最後まで何度も蹴られ続けていた。

 

 

 

 映画を見た後はクレーとナヒーダが中心となって感想などを歓談し、四人で軽く夕食を食べてから、アルベド達は帰宅した。

 

 彼らが帰った後は、向かい合わせに膝へ乗せてソファへ座り、今日の出来事を語り合う。

「それでね、クレーったら断固として動こうとしなくて」

 顔のすぐ前の至近距離に咲く笑顔から、楽しそうな声が絶え間なく零れる。

 

「そうなのか」

「ええ、そうなの! でね、……」

 それに声色を合わせて相槌を返せば、それ以上の喜色を込めて彼女は語り続ける。

 日々の何気ない日常が楽しくて堪らない。そんな様子だった。

 

 

「そういえば、お帰りのキスをしてちょうだい。先ほどまではクレーたちが居たから仕様がないけれど、今はもう居ないのだもの」

 首に腕を回して、膝の上、目線の高さのそう変わらない場所から、愛おしそうに見つめてくる。

 そして一度、花のように微笑んでから、彼女は俺の唇の隙間へと唇を合わせた。

 

 しばらくされるがままにしていると、唇で応じない俺に対して、彼女から不満が上がる。

「唇を絡めて欲しいのだけれど」

「……気分じゃない」

 顔を合わせたからだろう。ゼリーのようなあの弾力が思い出され、罪悪感から吐き気がする。

 

「最近のあなたはなんだか変よ。どうしてしまったの?」

「………」

 黙っていると彼女は、無理やり唇を絡めてきた。

 唇の裏へ唇を差し込み、小さな口で、食べるがごとく擦り合わせる。

 

「……ナヒーダ」

「あら、これを教えてくれたのはあなたよ?」

 軽く目を細めた、からかうような眼差しで至近から微笑む。

「忘れてしまったのなら、思い出させてあげる」

 目を瞑り、ちゅくちゅくと唇を吸い上げる彼女。だが、俺はそれに答える権利など持っていない。

 

 上唇、下唇。右端、左端、そして真ん中。

 順々に場所を変えながら、唇全体を優しくゆっくりと、彼女は啄んだ。

「……気持ちよくなかったかしら?」

「………」

 赤く染まった長い耳が、不安げに垂れ下がる。

 

 

「ねぇ、ちゃんとわたくしを見て」

 彼女は両手で俺の頬を持ち、強制的に目線を合わせる。

 それは心配そうな眼差しだった。

 

「……帰りたいの?」

「……そうではない」

「でも、ホームシックが再発したのではないかと、わたくしは疑っているのだけれど」

 ここ最近の俺の態度はやはり、彼女へ心配を掛けてしまっていた。

 

「そうでないなら、わたくしはまた何か、怒らせるようなことをしてしまった?」

「………それも違う」

 言葉を介して、一歩一歩近づいてくるような。

 彼女は聡明だからこそ、真相を当てられることが怖かった。

 

「これ以上は聞かないでくれ」

 一方的に会話を打ち切って、俺は就寝の準備へ向けて立ち上がる。

 

 膝から降ろされた彼女は、服の裾を握り、捨てられることを恐れる子供のように付き従った。

 

 



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5. 違和感

 精神的な問題のためか、今日は早めに目が覚める。

 

 手洗いへ行ってからまたベッドへと戻ってくるが、毛布へ入ると、小さな腕が首元へと抱き着いた。

「おはようのキスをちょうだい?」

 断るわけにもいかないので、唇の先を軽く触れさせ、腕を外して二度寝に入る。

 

「……これが倦怠期というものなのかしら」

 彼女は不満あり気な態度で仰向けの俺の腹へと登り、馬乗りになった。

 そして恐らくは倦怠感に対する対応として、色仕掛けでも目論んだのだろう。

 俺の手を取り、これ見よがしに薄い胸へと押し付ける。

 

「気分じゃないから止めてくれっ」

 抑えようとしたが、少し威勢が乗ってしまった。

 声の大きさは変わらないとはいえ、これでは怒鳴っているようなものだ。

 

「ごめんっ、なさい……」

「……俺が悪かった」

 

 泣き出しそうな顔から逃げるために、彼女を横へ降ろしてその小さな胸元に頭を預ける。

「ごめん、少し抱き締めてくれ」

「……」

 彼女はおずおずと、おっかなびっくりの手つきで俺の顔を抱いた。

 

 

「……やっぱり最近のあなたは変。本当に、どうしてしまったの?」

「ごめん」

「理由を話してくれる?」

「……ごめん」

 その言葉を最後に、互いの間に沈黙が降りる。

 

 しばらくすると彼女は痛いほどに強く抱きしめてきた。

 その腕にはわずかに震えが乗っていて、俺の態度から不穏なものを感じ取ってしまったようだ。

 俺は顔を上げようとしたが、彼女は絶対に離さないとばかりに腕の力を強める。

 これは彼女なりの、非言語的な意思表示だろう。

 

 力尽くで起き上がれば無理やり解けるが、そんなことはできなかった。

 彼女の腰に手を回し、しばし抱き合って過ごす。

 

 

 

 今日もリサさんの手伝いの予定が入っているが、それは昼頃からなので午前中は時間が空いている。

 だから彼女のご機嫌取りも兼ねて、日課のカフェ巡りへと繰り出した。

 

「ここはプリンが美味しいのよ。ほら、あなたも食べてみて!」

 いつもより少しテンションが高く、押しつけがましい。

 恐らくは、今朝のことをまだ気にしているためだ。

 

「んっ……。舌触りの良いプリンと、カラメルの苦さが支えあっていて美味い」

「そうでしょう。きっとあなたも気に入ると思っていたの」

 どうやら事前にリサーチしていたお店であるらしく、俺の手元にあるカプチーノも深く焙煎された苦みの強い豆を使用したものだった。

 

「確かに俺好みだ。流石は知恵の神さまだな」

 本当に俺には不相応なほど、人好きで可愛らしい神さまだ。

 そして自分の仕出かした事を思うと、彼女を傷つける位ならば消えてしまいたく思う。

 

「……またその目」

 コーヒーに目を向け思索していると、彼女の不機嫌な声が聞こえた。

 "その目"とはどういう意味なのか。

 それが気にはなったが、彼女は言葉を続けなかった。

 

 

 

 昼頃に図書館へ向かうと、入り口でナヒーダからの待ったが掛かる。

「サングラスを付けて」

 

「……別に同じ図書館の中に居るわけだし、必要性はないだろ」

「なにか不都合があるの?」

「……」

 恐らくは色眼鏡の視線追跡機能を使うつもりなのだろう。

 元から視線には気を付けているが、今日はより一層気を付けないといけない。

 

 

「あらあら、可愛らしい眼鏡ね」

 図書館へ入ると共に司書に見つかり、からかいの言葉が飛んできた。

「ふーん?」

 リサさんは胸元を強調するかのように両肩を寄せながら、前屈みに覗き込んでくる。

 目線を向けたらアウトなので全力で視線を逸らすが、その直前に見えた彼女の瑞々しい唇が、脳裏には焼き付いていた。

 

「へぇ、面白い機能がついているようね」

「リサ。彼をからかわないで」

 その声を聞いて、彼女は目線をナヒーダへと向ける。

 

「あまり、趣味のいいものとは言えませんよ、クラクサナリデビ様」

「……余計な口をださないでちょうだい」

 リサさんはいつも通りの笑みを湛えながらも、心なしか真剣な雰囲気で言う。

 ナヒーダが声のトーンを落として威嚇をするが、どこ吹く風。

 

「あら、これは一般的な意見として口にしたものなのですが。そのような事をしていては、いつか彼に逃げられてしまいますわ?」

 何てことない様子で吐かれたその言葉は、明確に彼女の地雷を踏んだ。

「……帰るわよ」

 ナヒーダに腕を引かれ、仕事を放棄して図書館を後にする。

 

 

 図書館を出ると、すぐさま路地裏へと連れ込まれた。

「キス」

「……ナヒーダ」

「キス」

「………」

「キス。……んっ」

 

 路地の暗がりで、無限ループを始めた彼女の顎を取り、口付けを交わす。

 頭二つ分の身長差がある俺たちは、ほぼ真上と真下で迎え合った。

 

 キスを終えた瞬間、そのまま顔を引っ張りこむかのように、彼女に両頬を掴まれる。

「……あなたはリサが好きなの?」

「いいや……」

「なら何故、彼女の唇を見たのかしら? キスをしたいから?」

「……」

「答えなさい」

 

 俺を見上げながら、鋭い目つきで彼女は問い詰める。

 あの時、胸元からは目線を逸らしたが、その途中で一瞬、艶やかな唇に目が止まってしまった。

 やはりそのような一瞬の躊躇いすら、この色眼鏡は読み取った。

 

 

「………」

「…………お願いだから、わたくしを捨てないで」

 考え込んだ俺の様子にしびれを切らした彼女は、睨みつけるような表情のままに涙を流した。

 俺はその視線から逃れようと目線を逸らし、謝罪の言葉を口にする。

 

「ごめん」

「ごめんじゃないの!!」

 路地裏に叫び声が響く。

 

「……わたくしは、わたくしなりにっ、頑張っているはずなのっ! なのにっ、なのにっ……」

「………」

「あなたのためのこの頑張りはっ、……間違いだったの?」

「………」

 理由は異なっているものの、彼女の努力を台無しにしていることには違いない。

 だから俺は、何も言えなかった。

 

「っ!」

 彼女は何も言わない俺の様子にショックを受け、目で見て取れるほどの震えと共に、頬から手を放す。

 そして俯いて目を合わせないままに、俺の衣服を強く掴んだ。

 

 俺はせめてもと膝立ちになって目線を合わせようとしたが、彼女にとって対話はもう終了したようで、何も言わずに首筋に顔を埋めて抱きついてくる。

 こちらとしても、これ以上、何を言えばいいのか分からなかった。

 なので、しがみついて離れなくなった彼女をそのまま抱きかかえて、自宅への道を歩き出す。

 

 彼女は道中ずっと俺の首に顔を埋めていたが、そこには冷たいものが、引っ切り無しに伝い落ちていた。

 

 

 

 彼女を抱いたままベッドのふちに腰かけて、濡れタオルで彼女の足の裏を拭う。

 汚れたタオルは椅子へ投げ、未だに手を放してくれない彼女と一緒に、ベッドへと横になった。

 

 しばらくして、泣き疲れたのか、すぅすぅという寝息が聞こえてくる。

 緩んだ腕の中で身体を離すと、赤く腫らした目元のままに瞳を閉じた彼女の顔が見えた。

「……きみはよく頑張ってるよ。悪いのは俺だ」

 

 彼女の腕に力が入り、顔を隠すかのように抱き着かれる。

 どうやら目が覚めていたらしい。

 

「ナヒーダ、俺が好きなのはきみだけだ」

「……」

 返事はない。

 聞こえるのは、遠く響く街の喧騒だけ。

 

 その腕は未だに力強い。

 煩いほどの無言が、何も言葉にしないままに不服の意を伝えてくる。

 俺はそれから逃れたくて、彼女を抱きしめ返し、目を閉じた。

 

 

「……うそつき」

 ずいぶん経ってから、彼女の声が小さく聞こえた。

 

 

 

 

 ひと眠りした結果、窓の外は完全に日が暮れていた。

 酒場の喧騒すら落ち着いているので、おそらくは真夜中だろう。

 

 ベッドから出ようとしたが、小さな手が服を固く握りしめていてそれを阻む。

「ナヒーダ」

「嫌」

 まだ、気分は戻らないらしい。

 

 推測される現在時刻と今からすべき物事を考え、一つの提案をする。

「……少し飲みに行かないか?」

 行きつけのお店なら、少しぐらいはお酒も出してくれる。

 一般的な飲食店は開いていないだろうし、気分転換に行ってみるのもいい。

 

 彼女は何も言わずにベッドから立ち上がり、俺の斜め後ろにピッタリとくっ付いた。

 了承と判断して家を出る。

 

 

 服を掴んで離さない彼女を連れて何時もの居酒屋に入ると、軽食と共に酒を二杯注文する。

 離す気がなさそうなので、並んで座れるようにカウンターの、会話がしやすい端っこに陣取った。

 

 月の満ち欠けと高度から推測して、今は夜中の静かな時間帯である。

 だがそれでも酒を手に騒ぐ人々は店内に居て、そのおかげで静か過ぎず煩過ぎない丁度いい塩梅だ。

 

 彼女は片手でグラスを持ち、少しづつその中身を傾ける。

 食事が届いても会話は無いままで、互いに黙々と口を動かす。

 そして俺は、意を決して口を開いた。

 

「……実は俺、きみに言わなくてはいけないことが」

「嫌。聞きたくない」

 食い気味に。

 言葉を遮るようにして、断固とした口調で拒絶を受けた。

 

「でも……、っ!」

 言葉を続けられなかった。

 足元から伸びた植物が、俺の口元を覆ったからだ。

 

 

「あなたがこの頃よくしている目付きは、以前わたくしとの関係を打ち切ろうとするときに浮かべていた眼差しよ」

 彼女の言っていた"その目"という言葉の意味が分かった。

「でもわたくしは、あなたと離れることだけは嫌なの」

 きつく巻き付いた蔦は、万が一にも逃しはしない、そんな意思を感じさせる。

 

「これまでのあなたの態度からして、あなたの言おうとしている何かは、わたくしたちの関係に対して悪いもの。そう推定ができている。だから、聞かない」

 彼女は一度こうと決めたら頑固になる。

 朝には事情を聞こうとしていたが、昼間の出来事からもう聞かないと決めたようで、そのためなら実力行使すら厭わないらしい。

 

「箱に閉じ込められてしまった猫の生死は、その箱を開かない限り確定しないわ。だから、例えそれがただの夢幻だと言われようとも、わたくしは箱を開かない」

 以前の件でシュレーディンガーの猫を知っているのか、それとも同様の例えがテイワットに存在したのか。

 どちらにせよ意味合いは変わらない。

「わかったかしら?」

 彼女は微笑んだ。蔦が解ける。

 

 

 それはつまり、"何も言うな"という一言をもっともらしく言い換えただけだ。

 だがここで口を開けば、次はもっと酷い何かが待っていると、予期させられている。

 もしかしたら虚仮威しに過ぎないかもしれないが、その場合でも彼女が自暴自棄に走れば酷い結末を迎えるだろう。

 

 結局、俺は何も言わず酒に口を付け、彼女はその様子をニコニコとした顔で見守る。

 今の俺にとってはその、仮面染みた笑顔が怖かった。

 

 



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6. 起爆

 今日は朝から自宅にクレーが居座っている。

 どうやら非番で暇だったらしく、ナヒーダと姦しく会話をしたり、俺にちょっかいを掛けたりして彼女は遊ぶ。

 

 ソファに座っていると、隣にクレーがやってきた。

 膝立ちでこちらの顔を覗き込むようにしながら、不思議そうに見つめてくる。

 

「黒いお兄ちゃん、どうしたの? さいきん元気ないね」

「……実は、この前のことをナヒーダにまだ言えてなくて」

「そうなんだ。意気地なし」

 軽いノリで重たいブローを叩き込まれた。

 脳の情報処理が影響を受け、一瞬、目の前が揺らぐ。

 

「しょうがないなあ。じゃあ、クレーがどかーんてしてあげる! ナヒーダお姉ちゃん、こっちみて!」

 何をするのか?

 そう疑念に思うだけで、彼女が俺の首に手を回している不自然さを気にしなかった。

 それが悪かったのだろう。

 

 赤い小悪魔に唇を奪われた。

 しかもナヒーダの目前で。

 

 

 クレーはわざわざ、唇同士の触れ合いがナヒーダから見える位置取りでそれを行った。

 弾力の強いゼリーのような唇が、ちゅうと吸いつくような独特な感触と共に襲ってくる。

「クレっ……、待てっ……」

 恐らくそれしかキスのやり方を知らないからだろう。

 両腕を回して首にしがみ付く彼女は、アルベドの同類を思わせるような馬鹿げた筋力で、無理やり唇を絡めてきた。

 

 こいつは日がな走り回っているので身体能力が割とあり、こうして首に取り付かれてしまうとされるがままだ。

 赤い爆弾は目を閉じて、野生動物がマーキングでもするかのようにグリグリと唇を擦り付ける。

 ナヒーダにはされたことのないような、強引で力尽くな口づけだった。

 

 俺は唇を奪われつつも、ナヒーダヘ目線を向ける。

 彼女は呆然とした表情で硬直し、棒立ちでこちらを眺めていた。

 だが目が合ったことで現実を突き付けられたらしく、表情を変えないまま、無言で涙をこぼし始める。

 

 ナヒーダと見つめ合いながら、クレーと唇を絡め続ける。

 必死に状況を打開しようと考えを巡らせるが、現状が酷すぎて何から始めればいいのか分からない。

 走馬灯のように今までの記憶を思い出すが、現実逃避だと気づき思考を戻す。

 そして改めて、現実に絶望した。

 

 思考を停止した頭には、ちゅくちゅくと唇の絡み続ける感覚だけが刻まれていく。

 

 

「んっ、ぷはぁ! どうだった?」

 満足したのか、赤い爆薬はようやく唇を離す。

 リンゴのような頬をして、上向きに伸びたその耳は真っ赤に染まっていた。

 

 ナヒーダはまだ状況を受け入れられていないようで、焦点がどこにも合っていない、明らかに現実逃避した眼差しだ。

 恐らくこれは、考えられる中で最も最悪の展開を辿っている。

 彼女の努力を否定するだけでなく、彼女の心、今まで築き上げた関係、それら全てを破壊しきった。

 

「……ナヒーダ」

 俺の声を聴いて、彼女は走り出す。

 体の制御が覚束ないほどにショックだったらしく、振り向きざまに脚を滑らせて腹を打ち、それでも即座に起きあがって扉へ向かった。

 

 開きっぱなしになった家の扉は、キィと、まだ音を立てている。

 あまりにも最悪の結末に、もはや苦笑いしか出なかった。

「……俺、ナヒーダに捨てられたかも」

 

「その時はしかたないから、クレーが貰ってあげるよ」

「そりゃ心強いな……」

 赤い小悪魔はニコニコと、こちらを見つめながら笑っていて考えが読めない。

 

 だが曲がりなりにも、クレーを頼った俺が悪いのだけは明らかだ。

 俺は自らの目元を片手で覆いながら、ボフンと、行き場のない手を彼女の帽子に置く。

 

 

 

 クレーに戸締りを任せて外へ出ると、まだ白い後姿が見えたのでそれを追いかける。

 ……いや、本来であればもう見えない位置にまで行っていたはずだ。

 ということは、意図的に追いかけさせられているのだろう。

 まだ交渉の余地はあるかもしれない。

 

 幾つかの角を曲がり、人気のない路地裏へ入ると、彼女は立ち止った。

「……最近、あなたの様子がおかしかったのは、こういうことだったのね」

 振り向きながら彼女は言った。

 

「わたくし、勘違いしてしまったの。あなたが本当に、わたくしを求めてくれているのではないか、って」

 仮面のような作り笑顔だった。

 唯一人間らしさを残すのは、とめどなくこぼれて頬を伝う涙のみで、それ以外は目元から口元までの全てが硬直していた。

 

「現実というものは残酷ね。こんな事ならばまだ、籠の中に閉じ込められていた方が良かった」

 その言葉が胸に刺さる。

 あれほど外の世界を望んでいた彼女に、それを後悔させてしまった。

 それは今までの俺たちの関係その全てを、根本から否定するものであった。

 

「初めに裏切ったわたくしが悪いのかもしれない。でも、こんなことってないでしょう?」

 仮面の笑顔がくしゃりと崩れ、悔いるような、心からの後悔に染まった表情へ変わる。

 

「ねぇ、わたくしはどうすればよかったの?」

 俯いて両手を握りしめ、その涙は地を叩く。

「わたくしとの生活がつまらなかった? なら、あなたを楽しませるために努力させて? それともこんな身体では満足できない? なら、ただの道具としてで良いから傍に置いて? ……そもそもわたくしのことが嫌い? なら、……そう言ってちょうだい……」

 

 

「……口で説明しても信用できないと思う。だから、心を読んでほしい」

「ええ、言われずとも、そうさせてもらうわ」

 彼女は指カメラを構え、無表情気味でやや不機嫌に目を細めた、まるで裁判官のような表情をする。

 冷静さを演じるために心を閉じたのだろう。

 

 まだ混乱している俺の頭の中はぐるんぐるんと考えが巡り、眩暈がして纏まらない。

 だからできる限りシンプルかつ率直に言葉を選ぶ。

 

「……事の発端は、間違えてクレーの唇を奪ったことだ。目覚めたら腕の中に居たので、きみと間違えた」

「へぇ、それで?」

 逆らえないと思わせるような超常的な声色で、彼女は続きを問いただす。

 

「アルベドにはそのことを打ち明けたが、きみには中々言い出せなかった。それを見かねたクレーが解決しようとしてくれたらしい」

「じゃあ、あれはなんだったの?」

「クレーの考えは俺にも分からない」

「ふぅん」

 

「俺が好きなのはきみだけだ。……こんな事になって済まなかった」

「………」

 泣きそうになる目元を堪えながら、俺は謝罪を口にする。

 もっと早く伝えていれば、例え別れることになったとしても、ここまで彼女を傷つけることにはならなかった。

 

 

 彼女はあっさりと、指カメラを降ろした。

 どこまで心を読み終わったのか、そもそも本当に心を読めるのかは、分からない。

 むしろ今までの用例からすると読めるのは心そのものではない可能性もある。

 

 だが彼女は何やら納得したような、決心したような顔つきで、こちらへ歩み寄ってきた。

 目前で宙へと浮かび上がり、目線の高さを合わせて、仄かで暗い微笑みを投げかける。

 

「……わたくしはあなたを閉じ込めてしまいたい。閉じられた世界で、永遠にあなたと暮らしたい」

 彼女は俺の頭へと触れる。

 この動作には何の意図があるのだろうか。

 

「だから、そうさせてもらうわ」

「ナヒ……」

 彼女の言葉の意味を理解し、ヤバイと思って逃げようとした。

 しかし身体が動くよりも先に急速に意識が落ちていく。

 

 最後に目にしたものは彼女の、決意に満ちた、されど焦点の合っていない表情だった。

 

 

 

 

「……ここはどこだ? ナヒーダ」

 見渡す限り真っ白な、見るからに現実ではない光景が広がっている。

 何よりも異様なのは音が無いことだ。

 自分は白い地面に立っていて、目の前には彼女が居た。

 

「ここは夢の世界よ。あなたは現実では眠りについているの」

 

 確かにあの意識の落ち方は以前にも体験したものだった。

 違うのは、次の朝を迎えるのではなく、そのまま夢の中へと誘われたこと。

「わたくしたちが最初に出会った時に、言ったでしょう? それがたとえ数百数千年だとしても、こうして眠っている限り、あなたは命を保つって」

 

「……出してくれたりは」

「嫌よ」

「だろうな」

 要するにここは、牢獄のようなものなのだろう。

 首輪で駄目だから、籠に入れた、と。

 

「これであなたは、わたくしと永遠に一緒よ」

 その目は俺を見ているようで、焦点が合っていないから見てはいない。

 相容れないことが分かっているので、恐らく意図的に俺の心境、俺の表情から目をそらしている。

 

 他人を知り尊重することを好む彼女が、拉致監禁という行動を取ってしまった、その原因は俺だ。

 ましてや、それが完全に俺の非によるものであれば、心が痛まないはずなどない。

 

 

 少し考えこんでいる間に移動したらしく、気づけば彼女の顔が目前にあった。

 そして、唇を奪われる。

 

 飛び掛かるかのように両腕を首に回した彼女は、貪るように唇へと吸い付いた。

 隙間なく、余すことなく。唇のすべてを味わうとでも言うかの如く、隅々までを唇で食む。

「ふふっ。クレーと触れ合った唇は、こうしてわたくしで上書きしてあげる!」

 子供のように嬉しそうな声で、しかし目線の合わない顔で彼女は言った。

 

「……現実世界でしないと意味がないだろ」

「いいえ、大丈夫よ。現実でもしているもの」

 どうやら現実世界の俺の唇もまた、彼女によって好き放題されているようだ。

 

「あら、もう見つかってしまったみたいね。アンバーってば本当に優秀なのだから。ちょっと出かけてくるから、いい子に待っているのよ?」

 現実と夢の両方で同時にキスはできても、同時に対話することはできないらしい。

 そのおかげで少し、頭を回す余地が生まれた。

 だが打開案など浮かぶ訳もなく。

 

 ……ふと一瞬、ハープを奏でる音色が聞こえる。

 周りを見渡すが何もない。

 

 

 

 しばしの後に、彼女が戻ってくる。

 アンバーが現実の俺たちを見つけたらしいので、きっと安全な場所まで体を運んだのだろう。

 だがそれは、もう彼女を止める物事が無くなったということでもあった。

 

 夢の世界なので、ナヒーダはなんでも生み出せる。

「ここはわたくしの世界だから、何でもできるわ」

 真っ白で何もない空間が、彼女が腕を振るだけで書き換えられていく。

 スメール、璃月、モンド。見渡せば周囲には、今までに見たことのあるような建物が、無秩序に聳え立っていた。

 

「あなたの記憶を読ませてくれれば、あなたの故郷だって再現してみせる」

「それはやめておく」

「……そう。でも、時間は無限にあるのだもの。楽しみは取っておかなくてはね」

 

 嬉しそうに彼女は笑う。

 本当に宣言通り、閉じられた世界で暮らすつもりらしい。

 

「もしかして、読み聞かせのことを気にしてるのかしら? 大丈夫、あなたの能力は一部、ここでも使えるようにしてあるの。だからあなたの生活はなにも変わらない」

 ナヒーダは俺の両頬へ手を伸ばす。

「あなたはわたくしだけを見ていればいいの」

 焦点の合わない、スズランのような笑顔でそう言った。

 

「……ごめんな。俺のせいだ」

 彼女を抱きしめる。

 小さな腕が、"絶対に逃さない"とばかりに、俺を強く抱き返した。

 

 



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7. 夢のような日々

「はい、あーん」

「……」

 俺たちは今、スメールシティのスラサタンナ聖処と呼ばれる場所でお茶会をしていた。

 彼女と出会ったあの場所だ。

 

「ふふっ、それはわたくしが手作りしたの。美味しいかしら? ええ、嬉しいわ!」

 用意されたのは二つの椅子と、小さなハイテーブル。

 ナヒーダは俺の反応など気にせず、楽しそうに独り言を言い続けている。

 ……お人形遊びの人形は、きっとこのような気分なのだろう。

 

 彼女はケーキを差し出したが、こちらが口を開くことすら確認せずに押し付けたので、フォークから外れ落ちていく。

 だが幸いにも、口に入ることなく落ちたその料理は、地面へ触れるとそのまま消えていった。

 

「運動は心身の健康に必要よね。だから、食べた後は運動をしましょう」

 そう言い出した彼女が腕を振ると、周囲の景色が書き換わる。

 彼女の服装は、先ほど身に着けていた神さまとしての正装から、動きやすい短パンとシャツに変わっていた。

 髪型もサイドポニーから普通のポニーテールとなっていて、白に緑の混じったその髪が背後に垂れる。

 

「ほら、走りましょ! 手を繋いでいてあげる!」

 彼女は俺の手を取り走り出した。

 俺は足を動かさない棒立ちのままに、彼女の隣を駆け抜ける。

 

 

「……なあ」

「嫌」

 呼びかけの時点で拒絶された。

 彼女は少なくとも、俺がどのように思い、どのようなことを言おうとしているか、を理解はしている。

 

「分かっているはずだ。こんなことをしていても、意味はないって」

「次は何をして遊びましょうか? そうね、おままごとがいいわ」

 また周囲の景色が書き換わり、今度は俺たちが借りている部屋が再現される。

 

「ナヒーダ」

「あら。どうしたのかしら、あなた?」

 部屋着代わりのいつもの大きなTシャツに、エプロンを付けた姿。

 髪は結ばずに腰の下の辺りまでストレートに垂らしているが、彼女は少し癖毛なので所々にうねりがある。

 

「ふふっ。あなたったら、夜まで待てないのかしら? でもいいわよ、あなたの好きに……」

「ナヒーダ」

 彼女の言葉を遮って名前を呼んだ。

「……お口が満足できないみたいね。じゃあ、わたくしが塞いであげる」

 

 ままごとを邪魔された彼女は、不機嫌な声色を隠そうともしないまま、ちゅっちゅと唇を吸ってくる。

 わざと大きく立てられるその音は、淫靡でありながら幼稚なものだった。

 

 

 

「ねえパパ、この子にもキスをしてあげて?」

 キスを終えると、気づけば彼女は赤ん坊の人形を腕に抱いていた。

 大事そうに抱えるそれが、俺たちの子供であるらしい。

 

「……気が狂った振りをしていると、その内に本当に気が狂ってしまうぞ?」

「パパは忙しいみたい。代わりにママがキスしてあげるわね」

 彼女は人形の頬に口づけをしようとする。

 その姿に心からの狂気を感じた。

「ナヒーダ!」

 

「……何かしら。わたくしはそろそろ、この子に乳をあげないといけないのだけれど」

 彼女は俺の方を向いた。

 しかしその瞳は、意図的に俺の姿を映さないようにしている。

 

「……きみは、俺よりもその子を優先するのか?」

「いいえ、あなたが一番大切よ。ごめんなさい、不快にさせてしまったかしら?」

 彼女はそんなものなど無かったかのように、腕に抱いていた赤子を消した。

 あれほど可愛がる振りをしていたにも関わらずだ。

 

「いや……」

「大丈夫、安心して? これはあなたの為の胸なの。好きに吸ってちょうだい」

 彼女は自らの服を捲り上げて、俺の顔をそこへ押し付ける。

「ナヒーダ、流石にそろそろ本気で怒るぞ?」

 

「……」

 彼女は抱えていた俺の頭を放し、服を元に戻して佇まいを直した。

 そして感情の抜け落ちた無表情で、目を合わせぬよう軽く俯く。

 

 

「きみの行いは、きみの心を無視している」

 彼女は"夢の中で生活する"と言っておきながら、俺のことを直視できず、独り善がりなおままごとに終始している。

 それは俺の心よりも、むしろ彼女自身の心を軽視し、砕いてしまうものだった。

 

 できる限り優しい声色を心掛けて、説得の糸口を探る。

「君は夢に関するスペシャリストだろ? ならば仮想空間で、そのような脈絡の壊れた言動をする危険性を理解しているはずだ」

 

「ええそうね。わたくしの行いは、夢と現実の境界を壊して、二度と元に戻れなくなるような部類のものだわ」

「なら何故……」

「怖いのよ!! あなたに捨てられるのが怖いと何度も言ったじゃない!!」

 俯いて、自らの肩を抱きながら、白く長い髪を振り回すようにして彼女は叫んだ。

 

「ナヒーダ、俺は……」

「嫌! 聞きたくない!」

 そう述べるやいなや、溶けるように彼女の姿は掻き消えた。

 どこか別の空間へと移動したらしい。

 

 それに伴って世界が崩れ、真っ白へと戻っていく。

「………」

 今日もまたしばらく、この何もない空間に一人っきりであるようだ。

 

 

 大事な物が砕けていく様を、ただ見守るしかない。

 その場に座り込むと、何かが指の間を滑り落ちていくような無力感に襲われた。

 

「……きみが壊れてしまっては意味がないだろ……」

 その独り言も、彼女には届かなかった。

 

 

 

 

 何もない世界に一人きりにされる心的過労。

 そして、ジリジリと形の見えぬタイムリミットが迫っている焦り。

 それらが思考を犯していく。

 

 思っていた以上にこの真っ白な空間に放置されるというのは、きついものだった。

 眠気を感じないので眠ることすらできない。

 

 ……もう、押し倒してしまおうか。

 現状の狂った寸劇よりはマシになるのではないか。

 それに少なくとも、愛欲に浸っていた方が、こうして無理に正気を保っているよりは楽なはずだ。

 まあ、そうしたところでその後の展開が好転するとも思えないから、実行はしないが。

 

 だが予想が付かないだけで、最後の博打としてはありなのかもしれない。

 放っておいても壊れてしまうなら、自らの手で壊してしまう可能性を許容してでも、変化に賭けるしかないだろう。

 

 

 体感では、随分と時間が経過した頃。

 風が吹くかのように世界が書き換わる。

 どうやらこれは、スメールの街並みであるようだ。

 

「あら、こんなところに居たのね。駄目よ、わたくしから離れてしまっては」

 彼女がやってきた。

 その小さな唇を奪い取る。

 

 食事というものを自己存在の維持に必要な物資と定義するならば、今の俺にとっては、これこそが食事であった。

「はぁ、んっ……! 嬉しい! もっと、もっとわたくしを求めて?」

 相変わらず意図的に焦点をずらした眼差しで、俺の姿、俺の心境を目に入れないまま彼女は喜ぶ。

 だが今はもう、そんなことはどうでも良かった。

 

 夢を制御する術を持たぬ俺には、文字通りの意味で彼女の存在が全てだ。

 五感で感じるもの、人として生活するための食事や住居、それらの全部が彼女次第で決まってしまう。

 そういった意味でここは正しく、罪を償わせるための牢獄であった。

 

 彼女を失うことへの恐怖は、彼女が大切だからだけではなく、もはや単純な生理的欲求に起因するのかもしれない。

 ……俺はもう、ある種のパプロフの犬なのだろう。

 彼女の温もりを得ることだけが、この何もない世界において、唯一の楽しみだった。

 

 

 

 長いキスを終えて息を整える間に、ふと思った疑問を投げかける。

「ひとつ疑念がある。なぜ、今まで夢の世界へ誘わなかったんだ」

「目覚められないからよ」

 

 意味を理解したくなかった。

 デメリットがあることは推定していたが、遥かに重い代償だった。

 

「あなたの能力は夢を介して実行されるけれども、そのために必要なリソースは、わたくしが制御を握っていても消費されるの」

 いつも通りの冷静な声色で言葉を続ける。

「だからあなたをここへ誘うというのは、夢を見せながら、別の夢を見せるようなものになる。同時に二つの夢を見せるには、夢以外の部分を圧迫するしかない」

 要するに、俺の能力と彼女の能力は相性が悪いらしい。

 

「結果としてあなたの脳には負荷がかかり、睡眠としての作用が消失する。故に、眠気が取れずにいつまでも眠り続けてしまう」

「……それは、そのまま死んでしまうのではないか?」

「いいえ。負荷はわたくしが調整するもの」

 

 幸いなことに、もう二度と目覚めないという意味ではなく、眠りについても眠気が解消されないという意味合いが大きいようだ。

 とはいえ結局は、自力で目覚めることのできない昏睡状態であることに変わりはない。

 

 

「ところで、そろそろ読み聞かせの時間よ? はい、あなたの端末」

 彼女は見慣れたスマホ端末を取り出すかのように創り出し、俺に渡した。

 何時ものようにネットワークは通じていて、操作をすれば小説のサイトを呼び出せる。

 

「……じゃあ、"眠れる森の美女"にしようか」

 彼女とのキスでこの世界から起きることができれば、どれほど簡単でいいことか。そんな思いで選んだ。

 もっともその場合、口づけをするのは俺で、起きるのも俺であるのだろうが。

 

 朗読をしている間は、彼女は静かになる。

 焦点の合わない夢見心地の表情だが、きちんと耳はこちらへ傾けていて、まるで先の狂気が嘘だったかのように可愛らしかった。

 

 

 読み聞かせを終えると、自室を呼び出し、そのソファで彼女と抱き合って過ごす。

「ふふっ、クレーったら。わたくしたちがお似合いの夫婦だなんて。あら、あなたもそう思うの?」

 こうした触れ合いの時間ですらままごとを止めないのは、気狂いのフリをすることで俺にまじめな話をさせないよう、牽制しているのだろう。

 それはまさに、怒られることを恐れた子供が、あれやこれやと無駄話をして本題に入らせまいとする姿だった。

 

 そして現状を見つめなおして、一つの忠告を思い出す。

「……鍾離さんに言われた通りだったな」

 今の彼女は、まさに彼が危惧していた通りの状態だ。

 過度な依存で関係自体を壊すような、本末転倒を起こしている。

 

 この言葉を聞いて、彼女はフリーズ状態へと入った。

 『考えないと何を指しているか分からない』、しかし『考えれば意味を理解してしまう』。

 そんな言葉は、中途半端に思考を止めている現状の彼女には良く効いた。

 

 だがこれは、彼女の精神が最も嫌っているものでもある。

 何故なら、気狂いのフリという仮面を被ってでも守ろうとした部分に、直接的に突き刺さる訳であるから。

 

「……あなたはもう、外の世界など気にしなくていいの」

 まるで悪い子供を叱るかのように、だが幽霊のごとく俯いたまま、両手を頬に当てて俺の顔を抑え込む。

「おうちの外に興味がある悪いワンちゃんには、躾と首輪が必要かしら?」

 剥き出しの心を攻撃された彼女は、どうやら防衛本能として反撃を選んだらしい。

 

 だがそれは自傷方向へ向かってしまうよりは、……以前のように自殺未遂をされるよりは、絶対にマシだった。

 これが先の言葉を送り込み、変化を促す対価だというのならば、甘んじて受けるしかない。

「好きにしてくれ」

 

 俺の許可を受けて小さな口が首筋へ伸びる。

 トラウマにより、身体が震えた。

 

 



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8. 風の助言とその顛末

「黒いお兄ちゃん、目を覚ましてよ!!」

 

 どこからか声が聞こえる。

 夢に囚われてから幾日、眠りから覚めないといっても、周囲情報が入ってこない訳ではないらしい。

 恐らく眠りには波があり、それが浅くなったタイミングであれば現実世界の音を聞けるみたいだ。

 

「クレー、お医者様も手を尽くしているわ。いつかきっと目覚めてくれる」

 ナヒーダがクレーを慰めている。

 だがこの状況を作っているのは彼女でもあるので、自作自演の類いだろう。

 

 

 

 クレーが帰ると、ナヒーダが夢の世界へ戻ってきた。

「心が痛まないのか?」

「……聞こえていたのね」

 彼女は言い訳すらしないまま、何も言わずに抱き着いてくる。

 

 ……これは結構、精神に来ているな。

「ごめん。無神経な言葉だった」

 胸元の小さな頭をゆっくりと撫でる。

 

 

 しばらくすると彼女は顔を離し、空間へ溶けるように消えていく。

 そして装いを整えてから再度、目の前へ現れた。

 

「今はもう風花祭が始まっているの。まあ、あなたも花を用意してくれたのね!」

 その言葉と共に周囲が、モンド城壁の上からの景色へと書き換わっていく。

 更に、気づけば俺は手元に一本の薔薇を持っていた。

 どうやら彼女が夢世界を改変したらしい。

 

 彼女も同様に薔薇を持っていて、今ここには一本づつ、計二本の赤い薔薇が存在した。

「赤い薔薇の交換だなんて、素敵!」

 両手で大事そうに一輪の花を抱える彼女と、半ば強制的に、それを贈り合う。

 

 抗議の意を示すために手を離さないことも考えたが、彼女がへそを曲げて状況が悪化する危険がある。

 それにこれは、彼女が大事にしている行事のはずなので、嘘は付きたくなかった。

 だからむしろ逆に言葉を添える。

 

「ナヒーダ、愛してるよ」

 薔薇の意味は、流石に知っていた。

 

 

「………」

 彼女は言葉を失った。

 もう彼女にとって、現実というものは、受け入れるには重すぎた。

 都合の良し悪しに関係なく、それを直視するだけで彼女の心は音を立てずに崩れていく。

 

「……ごめん、なさい」

 焦点の合わない目に涙を湛えて、彼女は消える。

 そしてそれと共に夢の世界は消えていき、周囲は白に染まった。

 

 俺はまた、何もない空間に閉じ込められる。

 

 

 

『なんだか面白いことになったね』

 真っ白な空間に声が響いた。

 これは現実での音声ではなく、夢の中で響く音だ。

「誰だ?」

 

『僕はウェンティ。しがない吟遊詩人さ』

 そよ風になびくような不思議な声色で、姿の見えぬままにそれは語る。

『本当はもう少し寝ているつもりだったんだけど、君達が来たせいで目が覚めちゃって、ずっと眺めてたんだ』

 話しぶりからして多分、こいつもまた人間ではないのだろう。

 

『僕からひとつ、アドバイスをあげる。彼女を心から驚かせれば、その夢の世界から出ることができるよ』

「夢から目覚めたところで、彼女に捕まればまた夢の中じゃないか?」

『うん、そうだよ。命がけの鬼ごっこだね!』

「……」

『冗談さ。彼女も、君が一度抜け出せば諦めが付くんじゃないかな。……おっと、そろそろ時間みたいだ』

 

 

「ただいま。いい子にしていたかしら?」

 不思議な声が消え、気持ちを切り替えたらしい彼女が戻ってくる。

 これが現実であれば目元に涙の跡が残っているのだろうが、この夢の世界では、彼女が望めば望む通りだ。

 

 "驚かせる"……と、言われても思いつくものなど限られている。

 そもそも単純な愛の告白は駄目だったし、大した用意もできない現状では頭脳戦で彼女を上回れるとも思えない。

 ならば今までの経験からすると、……やはり耳だな。

 

 ただそれだけだと足りないだろうから、もういくつか……。

 眠り姫を起こすには少し過激かもしれないが。

 

 

「……この一年、随分と色々なことがあったな」

 このテイワットに迷い込んだのは去年の春先であり、もう一年と少しとなる。

 思い返せば、日本で生きていた頃と比べて、ずいぶんと濃い日々を過ごしてきた。

 

 ナヒーダはこちらの言葉を素直に聞いている。

 恐らくは『何を言い出すのだろう?』という好奇心によるものだ。

 こんな状況でも、彼女は彼女だった。

 

「スメールできみを見つけた時は、こんな可愛らしい人が居るのかって驚いたよ」

 まあ妖怪か何かかと思ったし、実際には神という、妖怪よりもとんでもない存在だったが。

「璃月を経由してモンドへの旅路では、本当にきみに助けられた。きみが居なければ、きっと俺は実験動物にされるか、盗賊に捕まって殺されていただろうな」

 彼女の話を聞く限り、俺の能力が賢者達にバレれば、異界の知識を組み上げるための装置にされていてもおかしくはない。

 

「モンドに来た当初は何も勝手が分からなかったが、きみがあれこれと頑張って生活を整えてくれたから、さほど苦労せずに居場所を得られた」

 異国で生活基盤を整えるなど想像するだけでも大変であるが、それを彼女はすんなりと整えてくれた。

「きみの誕生日には、初めてきみとキスをした。俺は、きみが俺を選んでくれたことが、とても嬉しかった」

 あの時にはまだ彼女を異性として受け入れてなかったが、まあ時間の問題だったのだろう。

 

「俺がこうしてここに居るのは全て、きみのおかげだ」

 ホームシックから彼女を傷つけることになってしまったが、海灯祭での触れ合いもまた、忘れがたい大切な思い出だ。

 ……もう四人で旅行に行くことは難しいのかもしれないけれども。

 

 

「なあ、そろそろ夢から出してくれないか?」

「……嫌よ。だって、ここから出してしまったら、あなたはわたくしの元を去ってしまうもの」

「俺はきみと一緒に居るよ。それだけは守る」

 

「いいえ」

 否定の声が聞こえた。

 曇りのない、吹っ切れた笑顔で彼女は言う。

「わたくしは、わたくしがとても酷いことをしていると理解しているの。だからわたくし達は、もうお終い。でもそんなのは嫌」

 もはや見ていられないほどの、痛々しい姿だった。

 

「あなたがこの夢の世界で苦しんでいることも、クレーがわたくしのせいで泣いていることも知っている。知っていて何もしていないのよ」

「……それについても、外へ出てからゆっくりと話そう」

「嫌! 絶対に、嫌!!」

 彼女は白い髪の毛を振り回して叫び、拒絶の意を示す。

 

「少なくともクレーの生きている内には、絶対にあなたを外へは出さない! だって、あんなものを見せられてっ、あなたを信用できる訳がないでしょう……!」

 あの場面を思い出したのか、両手を握りしめて、ポロポロと涙を溢し始める。

 旅館での件、今回の件。

 それらの事件は完全に彼女からの信頼を破壊した。

 

 だが彼女の様子からして、タイムリミットも迫っている。

 ここから出ないことにはどの道、俺たちに先はない。

 

 

 

 俺は彼女の肩と腰に手を回し、ゆっくりとその身体を床へと押し倒す。

 そして両肘を突いて彼女の腕の付け根を抑え、肩回りの自由を奪って上半身の動きを封じ込めた。

 彼女はこの夢の世界での支配に絶対の自信があるのか、抵抗せずにされるがままだった。

 

 肘をついたまま、片手で彼女の顎をそっと掴む。

「俺はきみのその強情な所も好きだよ」

「……そんなことを言っても、出してあげはしないわ」

 わずかに困惑を混ぜながらも、目を合わせないままに、不機嫌そうな仏頂面で彼女は言う。

 

「これは布石だ。どうせきみはまた、今回のことを悔やむだろうから」

 顎を掴んだまま親指を伸ばして、なぞるように唇へ触れる。

 軽く指先に力を入れれば、その花弁のようにしっとりとして柔らかいものが、形を変えた。

 

「出会った相手が、きみで良かった」

 半分は自分自身に言い聞かせるため、そしてもう半分は彼女を宥めるための台詞だった。

 だが、決して嘘ではない。

 こうして必死になっているのも全て、大切だと思えるものに出会えたおかげだ。

 

 

 意図を測るように大人しくこちらの言葉を聞いていた彼女の、そのモチモチとした丸い両頬に手を添える。

 そうすると自然と指先が両耳へ触れるので、親指と人差し指を使って軽く揉み込む。

 瞳が軽く揺れだしたことから、彼女は耳の刺激に動揺しているようだ。

 

 付け根を揉んでいた指を耳へ入れ、顔色を観察しながら、耳の中をスリスリと一定リズムで攻めていく。

 時折、僅かに羽根が触れるようにゆっくりと勿体付けて擦り上げれば、彼女は震えながら長い吐息を吐いた。

 

 不機嫌顔に混じる困惑の比率が随分と増え、口元が開いている。

 そろそろ、頃合いだろう。

「……ごめんな」

 

 目が見開かれた。

 

 

 俺はわずかに開いていた唇のその隙間へと、舌先を捻じ込んだ。

 床へと押し倒して両頬を掴んでいるので彼女に逃げ場は無い。

 

 さらに彼女の下腹部の上へ体を乗せ、下半身を拘束するように圧迫する。

 地に挟まれた小さな身体は、既に腕を封じているのもあり、それだけで簡単に動きを封じられてしまう。

 普段は目を開けたままのキスも好む彼女だが、刺激過多なのか、一度は見開いた目を今はぎゅっと閉じていた。

 

「んっ、ふっ!」

 小さな口に捻じ込んだ舌先を抜き差しして、往復時には唇の内側を摺り上げる。

 その度に彼女の腹部がビクリと収縮し、押し出されるような鼻息が漏れた。

 僅かにまた眼差しが開かれ、そこには涙が浮かんでいる。

 

 

 さらに大きく口を開き、深く差し込んで彼女の舌へと触れる。

 そのまま舌先で、彼女の舌の腹をくすぐれば、驚いたかのようにビクリと大きく体が跳ねる。

「んんんっ、んんんっ!」

 彼女は必死に何かを叫ぶが、舌を入れられている状態では発声できない。

 

 意識から忘れられているであろう、耳への刺激も再開した。

 舌の動きとタイミングを合わせ、彼女の頭を両耳と口元の三方向から攻め立てる。

 小さな瞼が閉じられて、涙が零れ落ちる。

 

 口と耳から与えられる過多な刺激によって、身体の制御が利かなくなってきているのだろう。

 "あっあっ"と鼻声気味の音が混じり、力の入りすぎた腹部によって彼女の腰が震え出した。

 

 突如、彼女の身体が緑光を纏う。

 だがそれに驚いて不意に口と耳に込める力を強めると、光はかき消されて霧散した。

 恐らく何らかの能力を行使しようとしたが、刺激によって邪魔されて失敗したらしい。

 

 

 目を向ければ、右側には後ろ髪のほとんどを束ねたサイドポニー、左側には編み込みの先から伸びる一房の髪束が、地に散らばり広がっている。

 そしてその中心を埋めるのは、精巧な人形と見紛うような可愛らしく美しい顔が晒す、荘厳ながらも情けない表情。

 それは夢の世界の制御を手放すまいとしているのか、舌の動きに合わせて表情筋を多彩に動かし、ボロボロと涙を零しつつ快楽との闘いを表現していた。

 

 されるがままの彼女の小さな舌へ、アイスを舌先で舐めとるかのように、舌面を擦り付ける。

 ゾリゾリとなぞるに従い、ビクビクビクと、止まることなく腰が蠢く。

 彼女は動かさずに居られないという様子で腰を前後左右に振って逃れようとするが、それに合わせて体重を強く掛けて、改めて彼女に全身の自由が無いことを自覚させた。

 その結果、行き場のない過度な力みからブルブルとしばらく身体を震えさせ、やがて大きく腰が跳ねる。

 

 周囲では、崩れ落ちるように夢の世界が消えていく。

 ……これ本当に安全なんだろうな?

 

 崩壊に巻き込まれて五感が認識できなくなる。

 その直前、微かにハープの音色と、笑い声が響いた。

 

 



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9. ゆめのあと

「捨てないで!! お願い、わたくしが悪かったから!」

 意識が覚醒した途端に、傍に居た彼女が叫びながら抱きついてきた。

「お願いっ! お願いっ! どうかっ、捨てないでっ! 捨てないでっ!」

 ひっくひっくと泣きじゃくり、鼻水まで垂らしながら、なりふり構わずに喚きたてる。

 

 周囲を見ればここは自室のベッドの上で、彼女は看病として寄り添っていたらしい。

 原稿用紙が散らばっているのを見るに、傍らを離れないまま執筆の仕事も続けていたのだろう。

 

 やはり俺と彼女の能力には相性の悪さがあったらしく、つんざくような激しい頭痛が襲っている。

 ……これは負荷調整とやらに失敗しているのではないだろうか。

 しかし、状況的に泣き言は言っていられない。

 

「いい加減、俺を見てくれ」

 必死に思考を回して意識を保ちながら、胸元にしがみつく彼女ごと体を起こし、無理やりにでも顔を突き合わせた。

 そして、その顎に手を添えて上を向かせ、唇を奪う。

 

 夢の中でも、彼女はキスだけは拒まなかった。

 唇を絡めれば、何時ものように小さな唇が応じる。

 

 

 断固として俺を映そうとしなかった瞳とようやく目が合った。

 ゆっくりと舌を差し込めば、夢で予習したお陰か、たどたどしいながらも彼女は小さな舌を絡め返してくる。

 今にも泣きだしそうなその眼差しと目線を交わしながら、夢の中よりも優しい愛撫で口の中を絡めあう。

 

 小さな腰が逃げていくので空いた片手で引き寄せる。

 舌というのは唇と同じ柔らかさを持っていながら、それよりも自在で、遥かに敏感なものだ。

 ましてやその絡め返してくれる相手が愛おしい人であれば猶更に。

 くすぐったいだけでは済まない、全身が動いてしまいそうなほどの過度な刺激が口元から流れ落ちる。

 

 身長の違いによる高低差。彼女の喉が動き、重力に従った唾液を呑み込む。

 その姿は餌を貰う雛鳥かのようだった。

 

 

 

 舌を絡め終えたあとの彼女は、ぽーっとした顔でしばらくフリーズする。

 先の感覚を思い出して浸っているのか、半開きの口の端からは涎が垂れてその頬を装飾していた。

 

「落ち着いたか?」

 こくりと、彼女の頭が縦に答えた。

 話し合いができそうなので、痛みに慣れてきた頭をどうにか回し、何を話すべきかを考える。

 

「……捨てないでちょうだい」

「俺はきみを捨てるつもりはない」

「嘘よ!! だって! だって……」

 尻すぼみに威勢が衰えていく。

 

 彼女の頬に手を添えて、泣き腫らした目元を指で拭った。

「俺の方こそ、きみに捨てられてしまうのではないかと怖かったんだ」

 未熟ながらも聡明で、それでいて短絡的な、手を伸ばせば簡単に腕の中に収まってしまう小さな彼女。

「きみの心が壊れ、実質的にきみを失ってしまうことも怖かった。きみのあのような姿は、見ていられない」

 

 見捨てられることを恐れる彼女に、少しでも寄り添うために、俺の感じた怖さを語り聞かせる。

 そのおかげか、きちんとこちらの言葉に耳を傾けているようだ。

 

 

「繰り返し言うが、俺にきみを捨てるつもりはない」

「……信じられない。あなたはもう、わたくしを捨ててしまうもの」

 短絡的な癖に頑固な彼女は、やはりまだ考えを変えては居ないらしい。

 そもそも、短絡的に見えるのは頑固だから。つまり『自分ならこうする』とか『この場合こうなる』と、事前に決めつけていてそれを変えないから、結果として考えなしに見えるのが彼女である。

 

「きみは、在りもしない未来を、確信を持って信じ込む気質だ」

「でも、いつかは……」

「それは今ではない。少なくとも今ではないんだよ」

 

 彼女の言葉を直接否定したところで無駄だ。

 理性的な面からすれば絶対的にあり得ないとは言い切れないし、それに、否定されれば否定されるほど彼女は意固地になるだろう。

「きみの危惧も可能性の一つとして認めるが、きみと俺の共通項である"今"を無視するのは止めてくれ」

 

「……なら、あなたはわたくしと永遠を共にできると言うの?」

「可能性はある」

 俺にできるのは、灰色の解答。

 特定の未来を信じ込むなど、良くも悪くも俺には無理だ。

 

「……信じていいの?」

「断言はできないが、きみのその破滅的な顛末よりはマシだろ」

「"信じていい"と、言って」

 

 今の彼女はもう、俺に言質を取らせることが目的であるらしい。

 それは逆に言えば言質を与えれば納得をしてくれるということであり、妥協点を示してくれたものだった。

 

「信じていいよ。その為に努力はする」

「約束……だからね?」

「ああ」

 首輪が、また一つ増えた。

 

 

 

「それでなんだが、……俺とクレーとの件を、きみは許せるのか?」

「………」

「許せなくて当然だ。今回の件で悪かったのは、全て俺だから。ただ、きみがどう思っているのかを聞かせて欲しい」

 

 そう声を掛けると、彼女は俯いて、何も言わず腕の中に潜り込んでくる。

 そして強く抱き着いてから、語り始めた。

 

「……わたくしは、ずっと辛かったの。あなたは問題を相談しようともせず抱え込んで、それでいて解決するでもなく問題を悪化させて」

「……悪かった」

「あなたはわたくしの姿を見ていられなかったと言った。でも、わたくしはあなたの姿を見ていられなかった」

 俺は彼女を抱き返しながら、彼女の言葉を聞く。

 

「あなたが意図的にクレーを選んだ訳ではないのは理解しているわ。でも、何故それをわたくしに相談しなかったのかしら?」

 彼女は顔を上げると、腕の中から責める目つきで見つめてくる。

 思い返せば見事なまでに選択を間違え、嵌まり込んでいた。

 

「あなたが言ってさえくれれば、わたくしならばきっと幾らでも解決策を提示できたし、あのような事態には陥らなかったはずよ」

「ああ、早い段階できみに打ち明けるべきだと理解していた」

「なら何故、そうしなかったの?」

 

「……それに関しては俺の逃げ癖によるものだ。すまない」

 彼女の努力を台無しにしてしまう、というのはただの言い訳に過ぎない。

 根本的な原因は、言い辛いからと先延ばしにした精神の弱さだ。

 

「確かにあなたは逃げてばかり。初めてキスするまでもそうだった」

「……それは少し話が別なんじゃないか?」

「いいえ、違わないわ。わたくしのキスから逃げてばかりだったのは事実だもの。心が痛まないのかしら?」

「……すまなかった」

 

 弁明は難しいと判断した。

 あと俺の失言を根に持っていることも理解した。

 

 

「これからは逃げてはだめだからね?」

「ああ。……ただ、きみはこれを機に俺ではなくもっと相応しい相手を選ぶべきじゃないか?」

「あら、その言葉もただの逃げ癖によるものでしょう?」

 そう指摘されると否定できない。

 

 彼女は両手で俺の頬を掴んで顔を突き合わせ、焦点の合った真っすぐな瞳で、見つめながら言う。

「わたくしは、あなたを逃さない。相応しくないというなら相応しくしてあげる。だから、覚悟してちょうだい」

 そして思い出した。

 俺は、この芯のある眼差しに惚れたのだったと。

 

「……俺はきみのそういう強情なところが好きだよ」

「ふふっ。わたくしもあなたの素直なところは好きよ」

「素直か?」

「ええ、時々」

 

 彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 許せはせずとも、ある程度は心の整理がついたのだろう。

 

 ふと笑みを引っ込めると、言い出し辛そうな様子で彼女は言葉を口にする。

「わたくしも、あなたに謝らなくてはならない。……わたくしが酷いことをしてしまったことも事実だもの」

「なら、あれはきみが下した"罰"だったと認めてくれないか? 罰を与えたという認識は、きみがきみ自身の行動を抑制する上で必要となると思う」

 彼女が自暴になった理由には、自らが下した行いを彼女自身が受け入れられなかったことも含まれる。

 なのでやり過ぎを改善するためには、これも重要な事柄だった。

 

「……それならば、わたくしも罰を受けなくてはならないわ」

「ああ。そういった風に、罰の多寡を含めて、向き合って欲しい。……俺はきみが下した罰なら受け入れるから」

 

 

「じゃあ、わたくしへの罰はなにか無いかしら?」

 彼女は過度な罰を下した代償として自らへの罰を求めるが、少し嬉しそうなのを見るにこれは、罰せられることが愛情表現だと思い始めているのではないだろうか。

 まあ間違ってもいないが。

 

「……さっきのキスをもう一度いいか?」

 唇同士を絡めるくすぐったい感覚も良いが、舌を絡めるときのあの、心を直接舐め合うような過敏な刺激も良いものだった。

 久々に感じた明確な快楽なので、もう少し味わっておきたい。

 夢の世界は現実世界と比べて五感に違和感があり、なんというかフワフワとしていて味気がなかった。

 

「……だめ。気持ち良すぎて壊れてしまいそうだもの」

「なら罰として最適だな」

 彼女の背中に片手を添えて、もう片手で彼女の下唇を開く。

 ゆっくりとベッドへと押し倒して罰を執行した。

 

 

 

 

 キスを終えた後はベッドへ倒れこんで、長らく眠っていたことによる不調がないかを確認し、半ば強制的にアルイクシルという例の薬酒を飲まされる。

 そのおかげか、睡眠不足ではあるものの、酷かった頭痛は完全に治まっていた。

 だがもう、眠気が限界なので仮眠を取ることにする。

 

 

 今日もクレーが見舞いに来たらしい。

 呼びかけの声に目を開ければ、赤い太陽がわんわんと泣き声をあげて、文字通り痛いほどに抱きしめてくる。

 その様子が落ち着いてから、ナヒーダが今回の顛末について彼女に説明した。

 

「……ナヒーダお姉ちゃんって、意外と考えなしなんだね」

「クっ、クレー……」

 率直ゆえの辛辣さに驚き、そして反論しようとしたが、反論できないことに気づいてナヒーダは声が萎んだ。

 クレーは案外に物事を見ているので、時々だが意見が鋭かったりする。

 爆弾という繊細かつ高度な技術を安全に取り扱えるなら、それは地頭の良さを意味するのだし、彼女は決して馬鹿ではない。

 

「黒いお兄ちゃんも、クレーがあんなことをしたのは全部お兄ちゃんのせいなんだからね」

「本当にすまなかった……」

 起爆剤になったとはいえ、クレーは今回の件の被害者であるし、もう彼女には頭が上がらない。

 

 そして最後にナヒーダがクレーを叱る。

「……クレー、あなたはわたくし達の関係を思って改善を促してくれたのかもしれない。でも、好きでもない相手の唇を奪ってはいけないの。わかったかしら?」

「はーい!」

 ニコニコと意図の読めない表情をするクレーを、ナヒーダは渋い顔で見つめた。

 

 

「じゃあ、仲直りのしるしに、ふたりでクレーのことをギューッとして!」

 クレーは俺たちへ向けて両手を開く。

 背の高さのあまり変わらないナヒーダが彼女を抱きしめた。

「ほら、お兄ちゃんも! もっと顔を下げて!」

 

 俺もまたその声に答えて、ナヒーダごとクレーを抱きしめた。

 正面から抱き合う二人をその横合いから抱く形であり、頭を下げているので、彼女たちとは顔の高さが同じとなる。

 

「黒いお兄ちゃん、あのね」

 赤い小悪魔が俺の耳元へ口を寄せた。

 そして彼女は小声で呟く。

「(クレー、お兄ちゃんのこと許さないから)」

 

 次の瞬間、頬に唇の感触がした。

 ナヒーダからは陰となって見えない側だ。

 

「……あっ、そろそろいかなくちゃ。じゃあね、黒いお兄ちゃん、ナヒーダお姉ちゃん!」

 矛盾した言動の意味合いが理解できない。

 夢だった可能性を考えては、頬に残るゼリーのような柔らかさがそれを否定した。

 

 

 

『おや、起きたんだね。数百年は掛かるかと思ったのだけど』

『……』

『半分は冗談さ。クレーも心配していたから良かったよ。……あれ、どうしたんだい?』

 

 






次章は、黒焔事件とバドルドー祭り。セノなどのスメール組でも絡む予定

納得させられるような意見が多く、非常に参考となります
気づいたことは気軽に書き込んで頂けると嬉しいです
感想ありがとうございました


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[モンド二年目] 黒焔事件
1. 引っ越し


 

「へえ。ここがきみの新居なんだね」

「わーい! 前よりひろーい!」

 

 クレーとのキスに端を発した騒動から季節は巡り、今はもう夏となる。

 今日はアルベドとクレーに、僅かな空き時間を利用してだが、引っ越しの荷運びの手伝いをして貰っていた。

 特に彼は生まれのせいかテイワット人のせいか、俺よりも遥かに力が強いのでかなり助かる。

 

 新居はモンド北門からすぐの、大きな建物の一室。

 以前の、酒場街の端に位置していた元住居からはその裏手となり、手軽とまでは言えないが引っ越しも比較的に楽だ。

 

「ここ、クレーの部屋!」

「ふふっ。泊まる時は好きに使ってね」

 

 皆で寛ぐリビングと俺たちの寝室の他に、一つだけであるが客室を持つ間取りで、さらに決め手として浴室を備えている。

 なお、今クレーが自室と主張しているのは俺たちの寝室であるので、好きにされると困る。

 

 

 そして荷運びが一段落した頃合い、ナヒーダが希望を口にした。

「……引っ越しの記念に、みんなで写真を撮りたいの。いいかしら?」

 

 当然、その要望を断る言葉は誰からも出ない。

 引っ越しということで外の風景が分かるよう、開いた窓の前に背の低いナヒーダとクレー、その左右に俺とアルベドが立つ。

 

 赤い帽子が両隣と両手を繋いだ為に、緑色の彼女も俺の手を取り、四人横並びに手を繋いだ写真となった。

 

 

 

「じゃあお仕事行ってくるね! ばいばーい!」

 どうやら今は騎士団の賓客の関係で忙しいらしく、午前中だけ時間を作って手伝いに来てくれていて、昼食を共に食べると彼らは午後の仕事へと向かっていった。

 

 建物の表側である西窓を開け外を眺めれば、バドルドー祭をもうすぐに控えた夏のモンドの風は、日本とは違い、湿度の低いカラッとした心地良さだ。

 ここは北門のすぐそばの建物の北端の角部屋であり、廊下なしに階段からそれぞれの住戸へ繋がる贅沢な方式のため、建物の表と裏の両方の窓を自由に使える。

 

 次に反対側へ移動して東側の窓を開くと、丁度そのタイミングに上階でも窓が開く音がした。

 斜め上方へ目を向ければ、見慣れた赤いウサ耳が俺と同様に窓を開いていて、彼女は目が合うなりいい笑顔で窓を閉める。

 ……嫌な予感しかしない。

 

「うげ」

 しばらくしてドアが叩かれ、開くとやはりアンバーがそこにいた。

 先ほどのあれは見間違いではなかったらしい。

 

「おっじゃましまーす!」

「今は片付け中で邪魔だから帰れよ」

「あー、そんなこと言っちゃうんだー。ナヒーダちゃんに言いつけてやる」

 そんな騒ぎを聞きつけたナヒーダがやってくる。

 

「いらっしゃい、アンバー。ごめんなさい、今はまだ荷解きの途中でおもてなしは難しいの」

「いーの、いーの。おかまいなく!」

 手のひらを見せて元気に"お構いなく"と言い放つけども、流石にこいつを放って片付けに戻る訳にもいかない。

 

 

 テーブルも椅子も荷で埋もれているが、椅子が一つだけ空いていたのでナヒーダに座らせ、俺とアンバーは窓際にもたれて休憩を取りながら会話する。

「アンバーって意外と良いところに住んでたんだな。ここはそれなりにするだろ」

 

 モンドは崖状の防護壁によって街が三段に分割されていて、ここはその中層にある建物だ。

 上層は豪邸や大使館の占める区域であり一般市民が住むことはない。

 なので市民は残りの中層と下層に分かれて住まうわけだが、中層には比較的裕福な人々が住むことになり、物件の造りがいい。

 

「実はここの最上階は家賃が安いんだ! まあ登りは大変なんだけどね」

 安いのは階段の大変さと、特に水回りによるものだろう。

 手押しポンプではせいぜい10m程度の高さ、俺たちの階までしか揚水できないので、なにかと水瓶を運ぶことが必要となるはず。

 

 ふと脳裏に一つの推測が浮かんだ。

「登りはって。……まさか、降りは飛ぶのか?」

「そのっとーり!」

 気を良くしたアンバーは、乗り出すようにして顔を寄せる。

 

 関係ない話だが、彼女は運動好きであるためか胸元の開いた涼し気な服を着ていて、つまりは否が応でも良い景色が目に入る訳で。

 ……こういう警戒心に欠けた気安さもまた、彼女が人々に好かれる要因なのだろうか。

 

 

「だめよ。これはわたくしの」

 ナヒーダが腕に抱き着き、感情の抜け落ちた無表情で、俺を彼女から引き剥がす。

 

 それをアンバーは嫉妬だと解釈したらしい。

「かわいいー! お兄ちゃんは取らないから安心してね!」

 彼女は未だに俺たちを兄妹の部類だと思っていた。

 アンバーはナヒーダを抱きしめながら、こちらへ険しい目線を向ける。

 

「いくら可愛いからって手を出しちゃダメだからね!」

 アンバーは顔を突き付けるように寄せ、至近距離から睨みつけてきた。

「だから彼女のほうが年上だと言ってるだろうが!」

 俺は後ろに下がりながらも、どうにか睨み返す。

 

「はぁ!? あんた、まだそんなこと言ってるの!?」

「……アンバー、いいのよ」

 ナヒーダが笑みを浮かべながら口を挟んだ。

 

「でもナヒーダちゃん……っ!」

「いいの」

 彼女の真っすぐな……、真っすぐ過ぎる眼差しを受けてアンバーは少したじろぐ。

 

 その有無を言わせぬ雰囲気に、僅かな怒りが隠されていると気づいたようだ。

 リサさんに口出しされた時もそうだが、ナヒーダは他者から俺たちの関係に口出しされることを嫌っている。

 

「なら…いいけど……」

 赤いうさ耳はシュンと気落ちした態度で、逃げ去るように帰っていった。

 

 

 

「こっちへ来なさい」

 

 彼女の言葉に従うと、花車を模した大き目の椅子へと誘導された。

 幾つかクッションを買い足したこれは、リクライニング状に寝転がれるので、寛ぎたいときには重宝している。

 

 そこに寝そべった彼女は、両手を開いて俺を誘う。

 誘いに乗ってその身に覆いかぶさると、彼女は首に両手を回して、ぶら下がるように俺の顔を引き寄せた。

 

「わたくしの居ないときには、アンバーを室内へ入れてはだめよ。当然、あなたが外へ出てもだめ」

「……それは少し過保護なんじゃないか?」

「あなたの女性関係に対する信頼はもう存在しないの」

 あの事件の後、彼女は言い難いことでもハッキリと言うようになった。

 

「あなたは雰囲気だけは格好いいから、きっと騙されてしまう人が居る」

「雰囲気だけ……」

「中身がだらしないのは事実でしょう?」

 何か言い返そうとはしたが、何も言い返せない。

 

 なので俺は、誤魔化しと取られても仕方のない言葉を吐いた。

「何度も言っているが、俺が好きなのはきみだけだ」

「……その証拠をちょうだい。ただし、キスでは駄目」

 

 まだ起きていない物事を"将来的な事実"だと思い込みやすい彼女には、先行きを安心させるものがとても重要だ。

 以前であればキスがその役目を果たしていたが、あんな事があった手前、もうそれは機能しない。

「分かった。何かあれば、全てを捨ててきみと二人で旅に出よう」

 

 その"証拠"というのは、なにも物理的なものである必要はない。

 むしろ人と人の間に生じる力学を元に世界を眺める彼女には、"約束"というものが向いている。

 

「旅中であればきみ以外との人間関係は気にしなくていい。それにきみも、まだ見ぬ国へ行ってみたいだろ?」

 冒険者協会を通せば、論文などを旅先でもやり取りできる。

 金銭の蓄えはそれなりにあるし、俺たちであれば旅をしながら働くことも十分できるので、無茶な提案という訳でもなかった。

 

「絶対よ? わたくしが旅に出ると言ったら絶対に旅へ出るのだからね?」

「それでいいよ。その時はまた、二人きりで旅をしよう」

「引き摺って連れていくからね」

 恐らくこれは比喩ではなく、その際には本当に引き摺られる。

 

 

 

 引っ越し作業の続きに取り掛かり、一通り荷解きをすれば夜になる。

 夕食後はしばらくソファで二人寄り添って過ごしつつ、部屋備え付けの浴槽にお湯を張った。

 

「風呂の準備ができた」

「ええ、入りましょうか」

「ああ。お先にどうぞ」

「あなたもよ?」

 その言葉に耳を疑うが、そういえば安請け負いしていたことを思い出して顔を逸らす。

 

 だが彼女はにっこりと微笑んで、次のように言い放った。

「心が痛まないのかしら?」

 

「……痛みます。分かりました」

「えらいわ。よしよし」

 

 クレーとの件をまったく許していない彼女は、時折こうして俺の失言を弄る。

 その後に態々褒めることを鑑みるに、これも一種の飴と鞭であり、つまりは俺に対する躾なのだろう。

 

 

 そして脱衣所はないので、浴室の片隅へと移動して着替えるが。

「服を脱がせてちょうだい」

 

「……流石にそれは勘弁してくれないか?」

「勘弁しない」

 

 小さく溜息を吐いて心を落ち着かせる。

 万歳をして待ち構えている彼女に手をかけて、ワンピース代わりに着ているそのTシャツを脱がせた。

 さすれば、なだらかな起伏の胸と小さな桜色が見えて、白いレースの下着を一枚履いただけの姿となる。

 

「ふふっ。ありがとう」

「服を脱がせて礼を言われるのは変な気分だ」

「あら、でもこれからはそれが日常になるのよ?」

 なんてことないように、とんでもないことを言い重ねた。

 

「……拒否権や交渉の余地は?」

「心が……」

「はい、分かりました」

 余地はないらしい。

 

 強いて言えば、下着まで脱がさせないのが良心か。

 いや、恐らくは羞恥との兼ね合いであり、それ以上は本人も恥ずかしいのだと思われる。

 

 

 

 先に浴槽へ入った俺が横へと寄り、さらに半身になることでスペースを空け、そこへ彼女がうつ伏せで体を滑り込ませた。

 寝そべった脇腹に半ば抱き着いて寄り添うような形で、窮屈ではあるが二人で湯船に浸かる。

 

 この湯舟は猫足タイプのもので、四本の足が床から底面を持ち上げていて、浴槽下を掃除しやすくなっている。

 また薪ストーブと煙突によるボイラーが付属していて湯沸かしや追い炊きができる一方で、シャワーなどの設備はない。

 なので浴槽の湯を汲み出して体を洗ってから湯につかる必要があり、俺らもそうした。

 

「もう少し広いお風呂にするべきだったかしら」

「確かに二人で使うならちょっと狭いなあ」

「でも添い寝をしているみたいで、これもわたくしは好きよ」

 

 問題があるとすれば、彼女の子供らしさに欠けた大きな尻が、浴槽の中で大きく場所を占めていることだ。

 一抱えのバスケットボールほどあるそれは、しっかりとした厚みがあって、うつ伏せなのもありとんでもない存在感を放っている。

 

「……どうしたの?」

「なんでもない」

「ねえ、何かあるのなら言ってちょうだい」

 

 俺の言葉に彼女は不安気な様子を示し、両頬を抑えて顔を逸らせないようにして問い詰めてくる。

 これは俺の逃げ癖への不信によるものだ。

 

「きみの魅力に見とれていただけだって」

「……本当に?」

「今回は本当」

「………」

 

 

 彼女は顔から手を放し、代わりに指を広げて差し出した。

 本音で話し合いたいというサインだろう。

 

「もうわたくしは、あんな事は嫌」

 指を絡め返すと直ぐに、彼女は心内を吐露する。

 だが以前のように躊躇いがちな態度ではなく、ジィっとこちらの目を見つめるその姿には、精神的な成長が見て取れた。

 

「なんだかきみは前より強くなった気がするな」

「あら、色々なものが壊れてしまっただけなのだけど? ……どれほど苦しんだのか教えてあげましょうか?」

「失言だ。俺が悪かった」

 威嚇するような満開の笑顔で睨む彼女に対して、降参を示す。

 

「……きみは怒るかもしれないけど、俺は今のきみが好きだ。以前は顔色を伺うような言い方が多かったから、真っすぐに言ってくれることが増えて俺は嬉しい」

「………」

 彼女は黙り込む。

 心的な文脈としては、素直に喜べるようなものではないから当然だろう。

 

 こうして言葉を選びながら伝えたいことを伝える瞬間が、彼女と暮らす中で一番頭を使う。

 何を言っていいか、言ってはだめか、だめでも言うべきか。

 

「悪いのは俺だ。だから少しづつでも、俺にきみの苦しみを受け止めさせてくれないか?」

「……そうね。わたくしも、あなたに苦しみを分かって貰いたい。……でもそれは、あなたに見せたくないような醜い部分でもあるの」

「俺の醜い部分を見せてばかりだから、偶にはきみのそういう部分も知りたいな」

「まあ、酷い人ね」

 嬉しそうに彼女は言った。

 

 手を繋いだままに、もう片方の腕でその、小さな肩を抱き寄せる。

「本当にごめんな。俺はきみを苦しませたい訳じゃなかった」

「ええ、知っているわ。でももう、逃げることだけはダメよ?」

 

 きっとこの"逃げること"には複数の意味が込められている。

 彼女は首筋に顔を摺り寄せ、それにより首輪代わりのチョーカーが揺れた。

 

 

 

 風呂から上がった彼女に、クレーと色違いのお揃いだという寝巻を着せる。

 自分でボタンを留める気もない様子なので、そのなだらかな胸板を指先に擦りつつ、一つ一つ止めていく。

 

「ご苦労様。明日の朝もお願いね」

「……分かりました、オジョウサマ」

「お嬢様……。そうだわ! 今夜の読み聞かせは令嬢と執事の恋愛ものにしてもらえないかしら。あなたのその端末なら、そういったお話も見れるのでしょう?」

 

 両手を合わせ、楽し気に思い付きを語る。

 彼女はそうと決めたら考えを変えないので、俺は恋愛小説の朗読という苦行へ立ち向かう羽目になった。

 

 



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2. 黒焔の到来

 夏の日差しが地平より顔を出し、上がった気温によってやや汗ばんで目が覚めた。

 

 相変わらず彼女はピッタリと寄り添って眠っていて、冬と違い少し隙間は空いているものの、温かく湿った体温が克明に伝わってくる。

 彼女の身長や体重は立ち上がった大型の犬と同程度であり、膝に乗ったり脇腹に寄り添ってくる行動もまさに犬そのものだ。

 だから彼女と過ごすのは大型犬と過ごす感覚に近い。

 

 

 しばらくして彼女が目が覚めると、着替えの手伝いを要求される。

「それじゃあよろしくね」

「はいはい、お嬢様」

 本当に昨日に言っていた通りこれを日常とするらしい。

 

 部屋着に着せ替えるために彼女のパジャマを脱がすのであるが、特にボタンを一つづつ開いていく際のもどかしさには倒錯感が溢れている。

 その薄い胸元を開いた瞬間には"ほぅ"と、緊張を感じさせる、俺のものではない熱い吐息が聞こえた。

 

 互いに素知らぬ顔をして作業を続け、髪を梳かして指示通りに編み込みを作り、最後に髪留めを付ければ朝の身支度は完了する。

 

「これでいいか?」

「いいえ。一つ、重大な見落としがある」

 そう言って、彼女は自らの唇を指先で叩く。

 

 俺はその顎を取って上を向かせ、軽くハグするように唇同士を絡ませた。

「んっ。……ふふっ、よくできました」

 いつもの子供のようなあどけない笑みではなく、むしろ子供を諭す妖艶で落ち着いた笑み。

 女性教師を思わせる大人びた言い草であり、そのギャップには少しばかり見惚れる。

 

 衝動に抗わず自主的に復習を行ったが、それは彼女にとって予想外だったらしい。

 その妖艶な仮面はあっさりと剥がれてしまった。

 

 

 

 朝食を食べ終えてからは、彼女を背後から抱きしめた状態で仕事を始める。

 椅子に座った両膝の間に彼女の腰を挟み、顔一つ分座高の低いその頭に顎を乗せる形だ。

 

「なあこれ、どうにかならないか?」

「あら、能力を使いたいのではなくて?」

 必要性に基づいてこの体勢となっているのであるが、不満がないではない。

 

 俺の仕事は、一言でいえば、知識の輸入に落ち着いている。

 つまりはこちらの世界と照らし合わせて、元世界の様々な論文や書籍を、謎の古文書を参考にしたという建前でテイワットに適した形に翻訳すること。

 ただし基本的にそれは、混乱を避けるため、テイワット既存の体系をベースとしてその延長線上にある技術を発表する態であるが。

 

 具体的な分野としては主に建築や機械工学、いわゆる妙論派と呼ばれる学派の学会に論文を提出している。

 また社会学に関する論文もテイワットへの応用が効くために、一部ではあるが因論派にも関わりを持つこととなった。

 

 

 彼女の視界を塞がぬよう上方に投影した小さめの空中ディスプレイに文字を打ち込み、彼女の腹に腕を回してネット接続を確立してから検索システムを動かす。

「ほらっ、もっと抱きしめてちょうだい。きっと通信にノイズが乗ってしまうわ」

「デジタル通信だから多少のノイズは構わないけどな」

 

 彼女は手作業で文章を書くことを好んでいるので、手を繋いでは彼女の仕事の邪魔となる。

 なのでこうして抱きしめ、以前の接触通信の要領で能力を制御してもらっているのであるが、……非常にやわっこくて意識に"雑音"が乗りやすい。

 尤も、眼下に見える長い耳がやや赤色に染まっていることから、雑音に悩まされているのは俺だけではないようだ。

 

「この人の建築設計に関する論文だけど、こっちのタイプの耐震構造を使えば強度が増すし安上がりじゃないか?」

「ええ、そうね。でももう実際に建築を開始しているみたいだから、今からだと間に合わないかも」

 

 カーヴェという妙論派が、頭を疑うような大規模な建築を個人で予定していて、またそれを研究成果の実証として発表していた。

 だが現代建築技術と照らし合わせれば、そこに幾つかの無駄を見つけることができる。

 

 テイワットの科学技術は文明が破壊されたかのようにあべこべで、現代を遥かに凌ぐものがあれば、当たり前のものが無かったりする。

 そのためにこうして、二つの世界を比較すれば"穴"が見つかることが多い。

 

「まあそれは仕方ないな。ついでに建築環境工学も参考に幾つか改善案を加えて送っておくか」

「彼も災難ね。きっと発注済みの資材を前に泣くことになる」

 そう零してナヒーダは小さく祈りを捧げた。

 

 

「この論文はあなたの好みではないかしら」

 彼女は一つの紙束をこちらへ寄越した。

 

「ん、ありがとう。……"計算符号の決定問題への応用"、なんで知論派がチューリングマシンについて語ってるんだよ」

「論理学の応用として、計算機械を利用しようとしているみたいね」

 

 言語学を主軸とする知論派が発行したその論文に書かれていたのは、いわゆるコンピュータに関する草案だ。

 物事を論理式で表しその答えを計算によって探るという言語や符号学的なアプローチではあるが、アルゴリズムの発展を考えれば行き着く先は同じだろう。

「"あらゆる問題を計算により解けるかもしれない"、か。何とも希望に溢れたことだが、停止性問題への言及がないな。送りつけてやろう」

 現代では、少なくとも一部の問題は解けないと数学的に証明されている。

 

「っ!?」

「どうした?」

 突如、彼女は遠くを見るように振り向いた。

 目線を追ってみるが、部屋の壁しか見当たらない。

 

「……なんだか良くないものが来たみたい」

「良くないもの? やばいのか?」

「まだ分からない」

 

 見ている方向はモンドの正門だから、正面から何かが入り込んだのだろうか。

 とはいえ急いで対処しようという様子でもないし、案外関わり合いにならずに済むかもしれない。

 

 

 

 昼食を挟んでの午後からは図書館での仕事へ向かうが、今日は少し仕事内容が異なる。

 リサさんはジンさんの要請で資料を集めていて、俺たちもその手伝いをすることになった。

 

 どうやらその内容は、ナヒーダの気づいた"良くないもの"に関係しているらしい。

「二人が焼死。十五人が負傷。しかし生物だけが燃えて非生物はほぼ無傷ねえ」

 

 現場見分を読む限り高温の炎で焼かれたことに間違いがないのに、その炎は周囲のものを大して傷つけなかった。

 元素反応等のテイワットの法則を加味しても、明らかに異様である。

 

「………」

 ナヒーダは何やら真剣な表情で資料を見つめながら考え込んでいるが、その思考内容は今回の事件への対処方法に関してだろう。

 どうやらこれは彼女の分野の物事であるようなので、その類の知識を全く持たぬ俺にできるのは思慮を邪魔しないことだけだ。

 

 そうしてある程度の資料を集めて日が暮れた頃合いには、ジンさんが様子を見に来た。

 ジンさんは少し疲れた様子であり、それを見たリサさんの提案により、皆の休憩を兼ねてカフェへと向かう。

 

 

 図書館から出てカフェのテラス席でお茶会をしながら、リサさんは現在の調査状況を説明した。

 そこへ突如"バサリ"という音が響き、目を向ければ、アンバーと、彼女に抱えられて緑髪の子供が空から降ってくる。

「よっと。……しまった!」

 

 彼女が偶然この場所に着地したのはただの偶然であるようだ。

 ジンさんを目にした途端に、何やら失敗を悟った様子で取り繕おうとアワアワしだした。

 

「アンバー、君はガイアと共に調査をしていたはずだが?」

「まあいいじゃない。わたくし達も資料をまとめつつ休憩しているところだったのだし」

 ジンさんは予定を破ったアンバーを咎め、それをリサさんが窘める。

 

 ふと隣へ視線を向ければ、ナヒーダは紅茶を片手にジッとその子供を観察していた。

 アンバーは俺より顔一つ分ほど低いが、緑頭の子供はアンバーより顔一つ分ほど身長が低い。

 俺よりもナヒーダが頭二つ分低いことを考えれば、目測する限り緑髪はナヒーダと同じ程度の身長だ。

 しかし、ただ背丈が近いという程度で彼女がここまで注目するはずもない。

 

「はぁ……、仕方ない。我々はもうそろそろ図書館へ戻るが、その子はどうする?」

 ジンさんはアンバーのサボり疑惑を問い詰めるよりも、仕事の続きに取り掛かることにしたらしい。

 だが、今まで大人しく黙っていた緑髪の子供が、ジンさんへ向けて叫んだ。

「連れてけ! 探し物がそこにあるかもしれない、あたしも一緒に行く!」

 

 ジンさんは全身包帯だらけのその子供を見て、感染症への対処に思い悩む。

「本に消毒液は使えないが……。リサ、いいか?」

「そうね。そろそろ曝書作業をしようかと思っていたの。手伝ってくれるわよね?」

「ああ、喜んで」

 

 

 

「どうぞ、おかけになって」

 図書館へ戻ると、まずは騎士団組であるジンさん、リサさん、アンバーの三人が中心となって報告会を始めた。

 とは言ってもジンさんとリサさんは茶を飲みながら重要な資料に関する話を済ませているので、これは主にアンバーへの説明が主だ。

 

「……私たちの調査結果は以上だ。次に、君が調べた情報を共有してほしい」

「えっ!?」

 

 アンバーは驚きの声を上げる。

 資料の説明を聞いている最中も妙に行儀良く椅子に座っていたことからして、あれは碌に調査が進んでないのだろう。

 放っておいても話が進まなそうなので俺は少し口を挟むことにする。

 

「迷子を助けてたんだろ? なら調査が進んでなくても仕方ないと思うが」

「はぁ!? 調査もきちんとやってたんだから!」

 だが彼女は反発して啖呵を切った。

 

「では、きみの調査結果を教えてくれ」

「……うぅ……」

 

 少し天然が入っているために不審な様子に気づいていないジンさんが率直に成果を求め、答えられない赤ウサ耳は机に突っ伏して手元の資料を捲る。

「……あっ! わかったかも! この子をしばらくお願い!」

 アンバーは何かに気づいた様子で、緑頭を預けて走り去った。

 

 そのテーブルへと近づいたリサさんが、一つの資料を拾い上げる。

 それは襲撃された馬車の中から回収された、焼け残りの文章。

 

「あの子はこれを見て飛び出してたのね」

「邪眼……? なぜファデュイがこのような資料を……」

 そして彼女ら曰く、ディルックという名のモンド人がその資料と関係するとのことだ。

 

 

 資料を見て議論を交わすジンさんとリサさんを尻目に、ナヒーダは残された緑髪の子供へと近づいていった。

「名前は何というの?」

「私に近づくな! お前も感染するぞ!」

「わたくしは大丈夫。安心してちょうだい」

 

 まあ実際、草神である彼女なら病には強いのだろう。

 ナヒーダはそいつの手を取り、野良猫に話しかけるかのようにそっと言葉を紡ぐ。

 

「お名前を教えてくれると嬉しいのだけれど」

「……お前に教えるような名は無い」

「そう……」

「なんだよお前、気持ち悪いな!」

 子供は彼女の手を振り払って本棚の向こうへと消えた。

 

「……逃げられてしまったわ。わたくしって気持ち悪いかしら?」

「見た目と中身が一致していないから、違和感を覚えるやつが居ても不思議ではないだろうな。俺はきみのそういう部分が好きなんだけど」

 『ありがとう』と、儚く微笑む。

 

 

「それで、あいつは何者なんだ?」

「彼女は恐らくスメールの民よ。……悪いものを身に宿しているけれど、決してその人柄まで悪いとは限らない。だから、誤解しないであげて」

「ああ。気を付ける」

 見た目がボーイッシュで言葉遣いも荒いから男子かと思っていたが、実は女子だったらしい。

 

「しかし、もしそいつが事件の原因だとすると、既に二人の死者を出していることになる。野放しでいいのか?」

「………」

 

 彼女は黙り込んだ。

 件の緑頭は、あの年齢で変なものを取り込んだ上に、感染症まで持っている。

 それは恐らく複雑な事情によるものであり、一言で善悪を語れるようなものではないのだろう。

 

「まあ、きみが良いなら俺もいいよ。俺は人柄的にも裁く側よりは裁かれる側だろうから、罪に甘い分には助かるし」

「いいえ。あなたの罪はわたくしがきちんと裁く」

 こちらを見ないままに迷いのない声色で断言された。

 

 だがまあ、スメール人に拒絶されて気落ちしている、というような様子でないのは一安心だ。

 

「……それで、もう夜も遅くなってきたけど、これからどうする?」

「わたくしはもう少し彼女に付き合いたい」

「念のために監視するということか?」

 小さな顎はこくりと頷く。

 

 

 

 図書館で仕事を続けて夜分遅く、ジンさんと一緒に資料を運んで戻ってくると、緑頭がテーブルで寝入っている。

「しーっ。ちょうど眠ったところなの」

 リサさんが俺たちに向けて口前で一本指をした。

 

「毛布を取ってくるわね」

 ナヒーダはそう言って小さな足でトテトテと走っていく。

 

 残ったリサさんとジンさんは、まだまだ小さな緑髪を、見守るように見つめながら会話をする。

「ようやく落ち着けたみたい。この子は警戒心がとっても強い子なのね」

「恐らく長いこと放浪生活をしてきたんだろう。……モンドでの滞在が少しでも安らぎとなってくれたらいいのだが」

 

 そう零したジンさんは、神の目と呼ばれるアクセサリーをテーブルの上へと置く。

 それが突如、光でできた綿毛を飛ばし始めた。

 

「……これは!?」

 その光景にジンさんは驚きを示す。

「おまたせ。持ってきたわ」

 だがナヒーダの姿が見えるや否や、その綿毛は幻だったかのように消え失せた。

 

「あら、どうしたのかしら?」

「神の目とやらから、光る綿毛が現れたんだ」

「……神の目が……」

 俺の説明を聞いたナヒーダは、興味深そうにそのアクセサリーを眺める。

 神である彼女ならば何か心当たりがあるのだろうか。

 

「私はアンバーを追いかける。リサ、ディルックの件は頼んだぞ」

「ええ。任された」

 ジンさんは先の光景を何かのシグナルと考えたようで、騎士団員としての装備を整えて出立していった。

 

 俺たちはそのまま図書館に留まり、夜通しでリサさんの手伝いをして、その後に仮眠を取る。

 

 



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3. その翌日

「……おきて。……おきてちょうだい」

 図書館の部屋の隅で彼女を抱いて仮眠を取っていたが、腕の中からの声と揺さぶりで目が覚めた。

 

「………どうした?」

「彼女が居ないみたいなの。少し胸騒ぎがする。急いで探しにいかなくてはならないわ」

 

 何でも、今回の件に関係するとされる邪眼、それを持っていたのがディルックという人の父親であるとのことで、リサさんは夜明け後にアカツキワイナリーまでディルックさんを尋ねに行くと言っていた。

 なので日の昇った図書館に残っているのは俺たち二人に緑頭を加えた計三人。

 しかしその緑髪が居なくなっている。

 

 

 幸いにも、緑頭は図書館を出て直ぐに見つかった。

 問題があるとすれば、探し人がガイアに絡まれ詰問されていたことだ。

 

「……あたしは道に迷っただけの流れ者だ。注意されるようなことはしてない」

「いやあ、最近何かと物騒でね。見たこともない顔には気を付けないとなあ。……んで流れ者、お前はいつモンドに入ってきた?」

 恐らくは彼女が黒焔事件と同時に入ってきたと把握されていて、故に容疑者として絞り込まれたのだろう。

 

 だがそこへ乱入者が現れて、ダンッと、靴を叩きつける音が響く。

「ガイア先輩、わたしの友達を虐めないでくれます?」

 

 文字通り飛んできたアンバーが横からガイアの足を踏みつけた。

 昨夜に手掛かりを見つけた様子で飛び出してから何処へ行っていたのかは知らないが、彼女のことだからどうせ、サボりを補うために無茶をしてきたはずだ。

 

「ほぉそいつは失敬。じゃあ、その友達の名を教えてくれ」

「彼女は! ……ほら、自己紹介!」

 アンバーですら名前を知らなかったらしく、そのやり取りに呆れた身振りで、緑髪は自らの名を名乗る。

「……はぁ……。コレイだ」

 

 

「ガイア、ちょうどいいところに。調査している黒焔の件だが……」

 少し遅れてジンさんも同じ方角からやってくる。

 彼女はアンバーを追いかけて行ったので、この様子だと合流できたようだ。

 

 そして皆が集まって来たタイミングで緑頭……コレイとやらが、何故かその手に持っていた黒焔に関する資料を皆に提示した。

 それに合わせてジンさんは、昨晩にも言っていた通り今回の事件はディルックという人、その父親に関係があると語る。

 

 ガイアが資料に目を通すと、コレイが必死な表情で言葉を吐く。

「それで、その資料には何て書いてあるんだ!?」

「……お前、この資料に随分と熱心なようだが、お前の方がこいつに詳しいんじゃないか?」

「ガイア先輩! わたしの友達を虐めないでください!」

 

 内容に興味を示すコレイにガイアが毒を吐きアンバーが噛みついたが、どうやら反応を見るに、緑頭の探し物というのはその資料であるらしい。

 

「あたしの友達が……、そこに書かれてるもんを打たれたんだ。だ、だから内容が分かれば、助けられるかもしれない……」

 おどおどとした怪しげな様子でそう独白するコレイに、アンバー以外の各々は考え込む。

 本当に友人が被害を受けたのか、それとも彼女自身のことなのか、はたまた別の意図か。

 

 なお、お気楽アンバーは一切悩む様子を見せずにその話を真に受けた。

「友達を助けるためにモンドへ来たんだ! 助かるといいね!」

「ああ……」

 緑頭は顔を背け、後ろめたい気持ちを分かりやすく示す。

 意外と嘘を付けない性分のようだ。

 

「……わかった。まずはリサに聞いてみよう」

 ジンさんの一声により、とりあえずの方針は決定した。

 

 

 会話が終わると、自然と男子と女子に別れる。

 というかアンバーがコレイを抱えてガイアを牽制し、ナヒーダもコレイの元へ向かったために俺一人が取り残された。

 

「よう、友よ! こんなところで会うとは奇遇だったな」

 俺もナヒーダに続いて女子組へ向かおうとしたが、その前に捕まってしまい、こうして長身眼帯の男に馴れ馴れしく肩を組まれている。

 そして彼は顔を覗き込みながら、笑っていない目付きで詰問してきた。

 

「ところで、やけにコレイとやらのことを気に掛けているようだが、お連れさんと何か関係があるのか?」

「同じスメール出身だからじゃないか?」

「ほぅ。……だが、それだけではないだろ?」

 

 ガイアは探りを入れてくるけども、実際としてナヒーダとコレイに直接的な関係性は何も無い。

 疑われる理由はないのだからこれはただの鎌掛けだ。

「本当に知らん。そもそも、あくまでも彼女が気に掛けてるから付き合ってるだけで、少なくとも俺はこの件に積極的ではない」

 

「そう……か。ふむ」

 俺の反応からその言葉を信用したようで、彼は肩を離して一人考え込んだ。

 恐らく、俺が意図を知らないという事実を元にして、彼女の意図を思索し始めたのだろう。

 

 

 

 皆で図書館へと戻り軽く食事を取ってからしばらく待つと、リサさんがディルック邸から帰ってきた。

 なのでジンさんが事情を説明して資料の解読を依頼する。

「特殊な文字で書かれているが、リサなら読めないか?」

 

「ごめんね。ちょっと分からないわ」

 例の資料はリサさんでも読めないらしく、彼女は困った様子で謝罪した。

 

「ならわたくしが……」

「スメール教令院の先生なら分かるかも。手紙を出してみるわ」

 ナヒーダの申し出を、リサさんがそれとなく遮った。

 それを聞いて『よかったね』とアンバーがコレイを抱きしめる一方で、遮られたナヒーダは黙って静かにリサさんを見つめる。

 

 

 手紙を取りに行くと言ってリサさんはわざとらしく場を離れたので俺たち二人はその後をついていく。

 他のメンバー達から距離を取ったあたりで、彼女は振り返った。

 

「なぜわたくしが止めたか気になりますわよね」

「ええ。教えてくれるかしら?」

「クラクサナリデビ様、あれは一般人が読めてはいけない部類のものです」

 

 神に対する敬意、というよりは自らと違うものへの警戒に基づく、真剣な表情。

 だがそこには、老婆心による心配が混じり浮かんでいた。

 

「あなたの身分がバレれば、今までのような生活は困難だと思っていた方がよろしいでしょう。神としての身分を隠したいと言うのならば、もう少し知識の扱いには気を付けたほうが宜しいかと思いますわ」

「……でも……」

「民を思う心は美徳ですが、その為に自他を振り回しては本末転倒です。もう少し彼のことも考えてはいかがでしょうか?」

 そう説教を受けたナヒーダはこちらを向く。

 

「……あなたは、わたくしが民を助けることに反対?」

「俺はまあ、何かあっても最悪は、きみを連れて逃げればいいと思ってるけどな。元よりここは俺の故郷ではないし」

「……クレーやアルベド達と会えなくなっても?」

「そのときは仕方ないだろ」

「………」

 

 返答を聞いてナヒーダは黙り込み、リサさんは微笑んでいる。

 リサさんは神という存在に対して良い印象を持っていないらしいので、『あまり甘やかすな』と考えているのかもしれない。

 

 自分としてはクェルケセラセラ、つまり成り行き任せに生きることを好むので、別れというものをそこまで気にしていない。

 だが無暗にリスクを負うのも好まないので、身分がバレない方が良いという考えには同意できる。

 なのでまあ姿勢としては消極的な反対ではあるが、俺は、彼女が望む事柄に彼女が望む限りで付き合うだけだ。

 

 

 

 名を明かしたことによって心の壁が薄くなったらしく、緑頭のコレイはアンバーたちと打ち解けて仲の悪くない様子を見せた。

 そのためあまり付き添う必要性は薄いと判断して、俺たちは自宅へと戻ってくる。

 

「まずはお風呂ね」

「昨日は夜通し作業で入れなかったからなあ」

「当然、一緒に入るのよ?」

「ハイハイ」

 

 湯の用意ができれば、彼女は俺が服を脱がせやすいよう両手を挙げて待ち構える。

 そこからスルスルとワンピースを引っこ抜けば、緩やかに聳え立つ微かな双丘が姿を現す。

 下半身には相変わらず年上染みたレースの下着を着けていて、だがそれは彼女の魅力とマッチしているので正直嫌いではない。

 

 普段は大きなサイドテールや髪飾りで肩幅の小ささを誤魔化しているが、こうして髪を解いてしまうと幼さが目立つ。

 とはいえ小学生並みの上半身に対して、少し細めだが高校生程度の下半身をしているので、単なる子供とも違う。

 むしろドワーフ染みた腰つきと、ムチムチとした厚みのある太腿に関しては、女性らしい魅力を有していた。

 

 

 浴室前の廊下に置いた籠へ脱いだ衣服を入れ、小椅子を並べ、湯船に入る前に背中合わせで体を洗う、が。

「互いの体を洗いたいのだけれど」

「……分かった。おいで」

 

 裸で同じ風呂に入るのならばもう今更だと、決心と諦めを兼ねた溜息を一つ吐き、向かい合わせに膝に乗せた。

 抱き合うような形になるとは思わなかったようで一瞬彼女の呼吸が止まったが、俺としては下半身が視界に入らない分だけこの方が楽だ。

 

 彼女は胸が目に見える程度にあるのだが、そこに指先が触れると、薄い脂肪越しにゴツゴツとした肋骨が僅かながら感じられる。

 これは『膨らんでいる』ではなく『膨らみかけ』と呼ぶべきなのだろう。

 今後に膨らむかは別として。

 

 そして体を洗い合ったことで親睦を深めたと思ったのか先ほどから上機嫌な彼女が、俺に背後から抱きしめられる形で湯船に浸かり、鼻歌を歌っている。

 

 そもそも先日から彼女を膝に乗せて仕事をしているのも、彼女が『研究によれば、物理的距離は心的距離に相関する』と言い出したことがその一因だ。

 『相関は因果ではない』と指摘したが『それは因果を否定しない』と反論され、それ故に因果関係の実証実験として、物理的距離を狭める方針が取られている。

 

 

 小学生並みの小さな背中が腹部に触れ、中高生の比較的大きな腰付きは両膝の間に場所を取り、彼女は無防備に身体を預けながら楽しそうにしていて。

 その姿を見ていると、少々悪戯心が湧いてくる。

 

「少しばかり欲に従ってもいいか?」

「いいけれど、何をするの?」

 

 彼女を抱きしめていた片手の平を彼女の下腹部へと添え、その丸く柔らかい感触を堪能しつつ、べったりと手を付けて円を描くようにお腹を撫でる。

「………」

 身を捻じり振り返った彼女は、意図を測りかねている様子で、無言のまま見つめてきた。

 至近距離で互いを見つめあいながらも、マッサージするごとく広くしっかり付けていたその手を俺は、不意に、指先だけでくすぐるように変化させる。

「んんっ!」

 羽根でお腹を擦るような感触に彼女は顔を歪めて、体を仰け反らせ腰を前へと突き出す。

 

「……ばか」

「褒め言葉だ」

 

 目前には小さな唇が丁度よく差し出されていた。

 その蕩けた可愛らしい罵倒を合図に、それをそのまま奪い取る。

 

 軽く唇を絡めてから口先に舌を当てると、暫しの逡巡の後、観念したかのように彼女は口を開く。

 しかしその誘いを無視して、左右にツーっとなぞってみたり、チロリチロリと悪戯したりと、舌先で彼女の唇をゆっくりと舐めていく。

 

 自然と横座りになった彼女の腰を抱き寄せ、舌の動きが速くならぬよう気を付けつつ、一定リズムでそのポカンと開けられた口元を楽しむ。

 それと同時に、もう片手の平で柔らかなお腹を撫でまわすことも忘れない。

 指先でくすぐれば過敏でも、手のひらを付ければ丁度よい刺激であるらしく、肩の力が抜けリラックスした様子で体重を預けてきた。

 

「……これがお風呂でのキスなのね」

「別にそういう訳でもないけどな」

「ふふっ。唇を舐められるというのも気持ちよかった。またお願いね?」

 湯船に広がる白く長い髪の中で、彼女は笑う。

 

 

 

 風呂上りは彼女の髪にブラシを通す。

 ふわふわとした癖毛なのもあって後ろからの見た目は大型犬のようであるが、犬の毛と違い一本一本が遥かに長いので櫛を通すのは一苦労だ。

「ねえ、恋心とは何かしら」

 

 "なぜ今"だとか、"なぜ今更"だとか。

 いくつか言いたいことはあるがまあ、前々から疑念に思っていたものを口にしただけなのだろう。

 

「雄雌が惹かれあうのはただの生物的本能だが、それだけでは寂しいからと文化的側面から意味づけを与えたものだな」

「つまり?」

「一言でいえば、音楽性の一つじゃないか?」

 ざっくばらに言い切れば『音楽の楽しさ』と例えるのが丁度いいかもしれない。

 

「その説に基づけば、わたくしは音楽家になったということ?」

「ああ。心に抱えた音楽を他人と一緒に奏でたいと思う気持ち。それが恋と言える」

 俺の回答はお気に召したらしく、クスクスと笑いながら、彼女は声に喜色を乗せる。

 

「なんだか詩人みたい」

「きみから学んでいるだけだ」

「なら"よくできました"と、褒めなくてはならないわね」

 彼女の手が頭を撫でた。

 

 ……撫でり撫でり、そのまま指先が髪を整える。

「あなたの頭も梳かしましょうか?」

「きっちりしているのは性に合わない。これでも無造作ヘアに合わせて切ってるんだよ」

 ぐしゃぐしゃと掻きまわしてから髪を戻した。

 

 

 ベッドへと移動すれば、就寝の準備をする。

「今夜のお話はどうするの?」

「そうだなあ。偉大なる騎士、キホーテ卿の話にしようか」

 ちょっと長いが、昼間の休憩時間などにも少しづつ読み聞かせれば読み終わるはず。

 

「騎士が主役の物語?」

「ああ。花の騎士としては、尊敬に値する先輩騎士について語らねばならないからな」

「……尊敬する騎士が居るとは、今までにあなたの口から聞いたことがない。思い付きで話しているでしょう?」

「それに関しては物語を聞けば分かるさ」

 

 主役であるその彼を一言で言えば馬鹿で狂人だが、曲がらぬ騎士道を持ち続けたことから、周囲に左右されない崇高な精神性という点で文豪たちにも評価されている。

 ただナヒーダを揶揄うためにこの作品を選んだのも確かなので、きっと俺は後で怒られるだろうが。

 

 



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4. 湖水浴と小実験

 アンバー達は忙しそう、というか必要以上に走り回ってバタバタしていたが、それを尻目に俺たちは休暇を貰った。

 

 俺らは以前からアルベド達と湖水浴を予定していて、今を逃せば祭りが開始してしばらく都合が悪い。

 リサさんもそこまで切羽詰まった状況ではないし、呼び寄せた専門家達の到着までまだ時間があるということで予定通りに湖へ向かうことにした。

 なおナヒーダとクレーはこちらで着替えてから行くらしく、寝室は彼女らに占領されている。

 

「じゃっじゃーん! どう? どう?」

 真っ先に出てきたクレーは、シンプルなスカート付きの真っ赤なワンピース水着だ。ただしその胸元ははっきりと盛り上がっているが。

 運動によって鍛えられた健康な体つきからして、人間基準であと五年か十年ほど、いや精神面での落ち着きを考慮して二十年ほど経てば確実に美人に育つと思われる。

 

「どうかしら?」

 続けてきたナヒーダは……、何故かビキニ姿だった。

 パレオ付きの紐ビキニであり、その胸元に膨らみはほぼ無い。

 引っ掛かりが無いから、この種の水着だけは有り得ないと思っていたので意表を突かれた。

 

 また、その色合いは白のトップと緑のボトムに白いパレオの大根カラーだが、よく見ると上下で紐の種類と飾りが違う。

 彼女は小学生並みの上半身に中高生の下半身を備えているので、サイズの合うものが無かったのだろう。

 

「ナヒーダお姉ちゃんてば自分だけずるいんだよ! クレーも同じのが良かった!」

「すこし大人なものを選んでみたの。気に入ってくれるといいのだけど」

 

 彼女たちは二人で水着を買いに出たが、ナヒーダはクレーに内緒で自分のものを購入したらしい。

 もしバレていたらクレーまで同じ種類の水着を選んでいたのだろうからその点では有難い。

 

「とても可愛いよ。きみに似合った色合いで良いんじゃないか」

「ふふっ。ありがとう」

 大胆に腹を見せているのにも関わらず、別段に恥ずかしがらずいつも通りの表情であり。

 そういった自らの恰好に無自覚な辺りが彼女らしくて本当に可愛らしい。

 

「クレーは?」

「可愛い可愛い」

「やったー!」

 こいつはこいつで、雑に褒めても喜ぶので扱いやすくて嫌いではなかった。

 ただ見かけに寄らず周囲への観察力は鋭く賢いので、あまり雑に扱い過ぎると後が怖いが。

 

 もう既に美女の片鱗が見られるその身体は、ナヒーダほどではないが下半身も健康的で、ムチムチとした女性的な身体を小さな水着に押し込んだようなチグハグさを感じる。

 というか大き目の膨らみのせいで胸の谷間が見えていて、それが彼女の大きな身振り手振りのせいでグニグニと動くので目のやり場がない。

 

 

 

 水着を見せびらかしたあとはその上に服を着てシードル湖湖畔へと向かい、人気のない小さな湖水浴場へ着けば、彼女達は服を脱ぎ捨て水着姿になる。

 

「クレー。泳ぐときの約束は覚えているね」

「はい! 爆弾は持ち込まない!」

「よし。行っていいよ」

「わーい!」

 

「……あれでいいのか?」

「良くはないけど、クレーに細かく言っても無駄だからね。キミも分かるだろ?」

 

 まあ一番して欲しくないのは、水中で起爆して自他が魚の如くプカプカ気絶することだ。

 準備運動不足で脚が攣って溺れる分には、俺やアルベドが助けに入れるから比較的マシといえる。

 

『みんなもはやくー!』

 クレーが水面からこちらを呼ぶ。

「それじゃあ、先に行ってるよ」

 危険物の監視のために、アルベドは格好よく飛び込んで泳いでいった。

 

「わたくしをクレーの所まで連れて行って欲しいのだけど」

「浅いところで練習しなくていいのか?」

「ええ。じゃあ行きましょ?」

 そう口にして両腕を開いた彼女を抱え上げ、俺たちも彼女らの後を追う。

 

 

 とりあえずクレー達近くの、やや深さのある場所まで抱いて連れて行って、ゆっくりと手を離してみた。

 すると彼女は頭まで水に沈み込み、微動だにしないまま水中から無言で見上げてくる。

 どうやら溺れているようなので引き揚げる。

 

「ナヒーダお姉ちゃん、泳げないの?」

 バシャバシャと無駄なほどに水飛沫を上げながら近づいてきたクレーが、俺に抱えられた彼女を見て言った。

 

「……おかしい。比重的には浮かぶはずなのに」

 呼吸のタイミングを考えず、吐いた瞬間に息を止めたのだろう。

 そう俺の指摘を受けて彼女は再チャレンジをしたが、今度は浮かびはしたものの、まるで壊れた玩具のようにグルグルと腕を回して転覆した。

 

 仕方がないので後ろから抱きしめて抱えたまま、ラッコのように背泳ぎをする。

「これなら楽しめるか?」

「ええ。ありがとう」

 

 視界に映るのは夏の空色と、真っすぐな水面。そして水にぬれた白い髪。

 流れゆく冷ややかな湖水の中に感じる、暖かな彼女の体温と柔らかさが心地よい。

 彼女も同じ気持ちなのか、体の力を抜いた自然な動きで水の流れに身を任せている。

 

「クレーも乗せて!」

 だがそんな平穏を見逃すはずもなく、赤い火薬が俺たちの上に飛び乗ってきて三人は沈む。

 

 

 

 ナヒーダの泳ぎの練習という名目で二人きりになった。

 盛大に水飛沫を上げて遊ぶクレーらを横目に、先ほどと同じ体勢で、軽くバタ足をする彼女を抱えて背泳ぎをする。

 

「あなたはどうやって泳げるようになったの?」

「俺は元から泳げたから分からないな」

「……どうして嘘をつくのかしら」

「嘘ではなく、運動神経が悪くなかったから適当に泳げたんだよ。だから泳げなかった記憶がない」

 

 犬だって、その大半は生まれつき"犬かき"という泳ぎ方ができる。

 むしろ彼女のように何の動作もせず静かに沈む方が珍しい。

 

「むぅ……。泳ぎ方の計算はできるのに、体を計算通りに動かせないのが歯がゆいわ。まるで自分の身体が借り物であるみたい」

「まあ、もしきみが計算通りに体を動かせるならば、その情報処理能力のおかげでどんな剣豪も叶わないレベルに戦いをこなせただろうな」

 

 彼女は人工知能の妖精のような部分があるが、少なくとも物理的には、精密無比なロボットとは真逆の存在だった。

 恐らくは他者の経験を自分に合わせて噛み砕けず、彼女の体や姿勢にあっていない動作を無理やりに見様見真似で再現し、結果として上手く行っていない様子だ。

 以前から彼女が『戦闘は得意ではない』と主張するのも、そこら辺の事情が絡むと思われる。

 

 

「……キスがしたい」

 泳ぎが上手くいかなくて機嫌を損ねた彼女は、その精神的な補填として口づけを要求する。

 しかし水上には視線を遮るものがなく、今も水飛沫を立てている輩から丸見えだ。

 

 そう伝えたところ、彼女は解決策を提示した。

「潜水の練習も必要ではないかしら?」

 

 息を吐いてから水に潜り、しばらくして底を蹴り水面に上がる。

 だが一度では気が済まなかったようで、何度も水面下に姿を隠し、冷ややかな湖水の中で暖かさを味わった。

 

 

 そうこうしてしばらく湖面を漂った後は、泳げない彼女に配慮して浅瀬で遊ぶ。

「黒いお兄ちゃん、もう一回!」

「へいへい」

 クレーの脇に手を通して、体を捻り遠心力で軽く放り投げた。

 

「きゃあー!!」

「わたくしも」

 

 両手を広げて待つナヒーダを同様に投げ込む。

 少しずれた水着を直す彼女は、クレーと見間違うような満面の笑みであり、心から楽しんでいる様子だ。

 

「じゃあ次は黒いお兄ちゃんの番だね! アルベドお兄ちゃん!」

「は?」

 疑念を口にしたところで誰かに背後から脇腹を掴まれ、俺は子供のように持ち上げられた。

 

 背中越しに振り向けば、アルベドが実験動物を眺める時の目でそこに立っていて、さらに不穏な言葉を口にする。

「本能的な危機を感じれば、何か新しい能力に目覚めるかもしれない」

 

 その意味を読み解くならば『危険を感じ取る程の投げ方をする』という宣言だ。

 だが対応をする間もなく、次の瞬間には意識を持ってかれそうなほどの強烈な加速度を感じ、気づけば無重力状態で空を飛んでいた。

 俺は泣きそうになりながらも着水に備えた姿勢制御に勤しむ。

 

 

 

 モンドは比較的冷夏であり湖は水温も低いため、日が傾いて気温が下がる前には泳ぎ終えて街へと戻る。

 水着を服の下に着て行ったために替えの下着がないという輩が二名居たが、元素反応で水着を乾かし中に着ることで事なきを得た。

 

 なお水面に腹を打ち付ければ怪我をするような馬鹿げた高さまで投げ上げられたものの、当然ながら、俺が危機に応じて特殊能力に目覚めるようなことはなく。

 実行犯のアルベドはナヒーダの植物によって吹き飛ばされ、加えてクレーがどこかに隠し持っていた爆弾により追撃されていた。

 

 

「まずはこのビーコンを送って欲しい」

 そして今はアルベドの工房で、以前の約束通りに俺の能力を使った実験を行っている。

 クレーの唇を奪った対価だということもありナヒーダには非常に渋られたが、彼女は約束事といった社会的概念を重視するので、既に結ばれた約束だということで尊重してくれた。

 

 能力の制御のためにナヒーダと片手を繋ぎ、もう片手でビーコンへ触れる。

 彼女にガイドをしてもらいながら意識を流せば、その流れに乗るように対象物は消え失せる。

 

「うーん、やはり追跡は無理だね。回収はできるかな?」

「やってみる」

 先ほどの意識の流れゆく先を探ると何やら反応があった。

 それを引き寄せると、逆回しするような感触と共に手元へビーコンが現れる。

 

「じゃあ次はこのカメラを頼むよ」

 渡されたカメラを送り飛ばすとアルベドはタイマーで時間を測り始める。

 そして一定時間後にもう一度取り寄せるよう指示された。

 

「これを見てくれ」

 アルベドが差し出した写真には、日本風景のどこかの路地裏が写っている。

 どうやら先ほどのものはタイマー式のカメラだったようだ。

「そこ写っている物を取り寄せられるかい?」

 

「ああ。とりあえず落ちてるゴミで試してみる」

 若干クラつく頭を無視して、先ほど利用したパスを通して異界へ繋ぎ、そのさらに向こう側で写真通りの物品を探る。

 取り寄せるのは地面に落ちていた空き缶だ。

「こいつか?」

 手探りに似た感覚で対象物を見つけて引き寄せた。

 

「ふむ成功したね。……じゃあ次は」

 興味深そうに空き缶を眺めるアルベドの、その声が遠くなっていく……。

 

 

 いつの間にか閉じていた目を開けば、床に崩れ落ちた姿勢でナヒーダに抱きしめられていた。

 

「……大丈夫かい?」

「どれくらい気絶していた?」

「数分だね。どうやらきみの能力は短時間での連続行使が難しいようだ」

 身を案じるアルベドと会話して状況を把握する。

 

 どうやら俺は能力のエネルギー消費は負荷が大きく、連続で使用すると身体のほうがダウンするらしい。

 小さい物品でこの負荷なのだから、これはもしかしたら、人間サイズの物を送ると数日間は能力が使えないかもしれない。

 

「じゃあ実験の続きを……」

「させると思っているのかしら? 頭の空っぽなキノシシですら、そのような蛮行には及ぼうとしないでしょうね」

 続きに取り掛かろうとしたアルベドに、ナヒーダが抗議をした。

 しかし彼は諦めることなく、実験の意図と有意義さを説いて反論する。

 

「だいじょうぶー?」

 クレーの温かい手に額を撫でられながら、まだ頭がクラクラするために、俺はしばらくその喧噪を聞き流す。

 

 

 

 しばらくして、俺の看病に必要なものを買うと言って、ナヒーダとクレーは買い物へ出かけた。

 俺達二人は『実験の続きは駄目だ』と散々に言い聞かされ、赤帽子からは『万が一にも行った場合は二人とも爆破する』という脅迫まで頂いている。

 とはいえアルベドも既に得られた実験結果だけでも大きな収穫があったらしく今は大人しい。

 

 テーブルに着いてゆっくりとコーヒーに口を付ける俺の顔を、ふと研究レポートから目を上げたアルベドが、思い詰めたかのように見つめてくる。

 それを不思議に思って見つめ返したタイミングで、彼は真顔で爆弾を投下した。

 

「きみの子供が欲しい」

「ごふっ」

 あまり聞きたくは無い言葉だった。

 

「能力が子に遺伝するかを確認したいんだ。ああ、同性同士で子を作るには……」

「……いやそれは聞かないでも分かる。遺伝子的には不可能ではない」

 確か男のiPS細胞からでも卵子を作ることは可能であり、ホムンクルス技術であれば似たようなことはできるだろう。

 だが問題はそこではない。

 

「なら、体細胞の提供をお願いしてもいいかな」

「ナヒーダに『これが俺達の子供だ』とか言ってその子供を見せてみろ。きっと俺は二度と日の光を見れなくなる」

 そして人当たりが良いだけで配慮や気配りに欠ける部分があるこいつは、高確率でそういった部類のことをやらかす。

 

「じゃあナヒーダさんはクレーに気を許しているようだから、クレーとの子供ならどうだろう」

「それは全力で地雷を踏みに行く行為だから止めてくれ……」

 あんな事件があって子供まで作るとか、それこそ本気で幽閉されかねない。

 特に彼女との子が居ない内にクレーとの子が生まれた場合などは可能性ですら考えたくない。

 

「ならばきみとナヒーダさんの子供に期待するしかないけども、やっぱりテストケースとしてはきみと僕の子供も欲しいかな。できればクレーやスクロース、ティマイオスとも……」

 

 独り言を始めた彼を尻目に、俺はサングラスを使って通話を掛ける。

「ナヒーダ」

『あらっ、どうしたの?』

「アルベドに求愛されて困ってるから早く帰ってきて」

『……すぐに戻るわね』

 

 その結果アルベドは、ナヒーダと、加えてクレーにまでこっ酷く叱られる羽目になった。

 

 



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5. 見知った顔

スメール魔神任務に関するネタバレが含まれます


 猛烈な違和感に叩き起こされる。

 ヌメヌメとした何か。

 それが口に侵入して生き物のように動き回る。

 

 目を開けば彼女の顔がそこにあり、軽い身体は仰向けの俺に覆いかぶさって懸命に、小さな舌を差し込んでいた。

 喉に溜まった二人分の唾液を飲み込んでから舌を絡め返せば、水を得たかのようにその動きが吹き上がる。

 

 

 ツーっと涎を伸ばしながら口が離れ。

 しばし呼吸を整えてから、彼女は語り始めた。

「……あの時の事を夢に見たの」

 

 両手で自らの小さな体を抱きしめ、顔を俯かせて身を震わせる。

「またあなたが盗られてしまうのではないかと。あなたを失ってしまうのではないかと思うと、怖くて寝ていられない」

 

 窓の外の空はだいぶ明るくなっているが、夏の夜明けというものはかなり早い。

 その小さな身体を抱き寄せて、温かさを伝えるように優しく撫ぜつつ、まだ眠く覚め切ってない頭を動かし、どう彼女に答えればいいかと思考を回す。

 あれこれと掛ける言葉を口に出そうとしては言い出せずにいる内に、口火を切ったのは彼女だった。

 

「……わたくしのこと嫌いになっていない?」

「嫌いになんてなるわけない。きみは俺のテイワットでの唯一の家族だし、女性としても可愛らしい性格をしている」

「でもわたくしは怒ってばかりな気がする。このままではダメだと分かっているのだけれど、変えられない」

 

 自嘲的な様子で、腕の中で強く衣服にしがみ付いてくる。

 彼女は人間的な触れ合いを求める部類だし、ただ否定するよりかは、感謝を交えた方が安心感を得れるだろうか。

 

「むしろ怒ってくれて嬉しいよ。俺はだらしない部類だと自覚しているから、きみが叱ってくれるお陰で人として成長できる」

「……それはわたくしが役に立てているということ?」

「ああ。きみはとても俺を支えてくれている。いつもありがとう」

 

 彼女の小さな手に、その上から手を添えた。

 態々怒ってくれることを含め、感謝しているのは紛れもない事実ではある。

 だがこの場において最も重要なのは『心を一人にしない』とでも言うべき共感性であり、そのためには無難な様子見の言葉ではなく、今一歩踏み込んだ言葉が必要だろう。

 

「ただ、一つ知っておいて欲しい。前にも言ったように、そして今も、俺はきみを失うんじゃないかと怖いんだ」

「……あなたも同じ苦しみを抱えているの?」

 

 感情とは、精神的な苦しみを取り扱う社会的知性であり、苦痛を乗り越えて人間的生活を送る上で重要な仕組みだ。

 だが彼女は感性豊かである割に自分自身の心には無頓着であり、差異と程度はあれども俺もまたその傾向を持つため、俺たちは感情を自覚するために互いを必要としている。

 それはまるで、互いの心が、この繋いだ手の上に乗っているようなものだった。

 

「俺もきみが居なくなるんじゃないかと苦しんでいる。俺にとってきみはとても大切で、こうして手を繋いでいるだけでも心が安らぐほど」

「………」

「だから当然、それを失うことは何時だって怖いし、こう感じているのが俺だけではないかと寂しさに襲われたりもする。俺にはきみが必要なんだよ」

 

 いくら自身に無頓着といえど、彼女は聡いので、自信や確信が持てないだけである程度の心の方向性は理解している。

 だからこちらが心を開示して寄り添えば、あとは自力で彼女なりの答えを見つけてくれるはずだ。

 それは俺のような、後付けで偽物の感受性ではない。

 

 

「……そう。そうなのね」

 彼女は納得した様子を見せた。

 

「あなたも苦しんでいると思ったら、少し心が楽になった」

 字面は少し悪いものの、気持ちの共有によって気持ちが楽になった様子で、彼女は言葉を続ける。

 

「いつもあなたは小さな幸せも一緒に笑ってくれる。だから好きよ」

 ここで幸せの共有を口に出したのは、遠回しに、苦しみも共有していきたいという意図だろうか。

「俺も、きみが何気ない日常に幸せを見いだしてくれるのが好きだ。そしてそんなきみともっと心を通わせたいから、きみの幸せは共に喜ぶし、きみが抱えた苦しみは一緒に苦しむよ」

 

 彼女は本心をあまり語らない性格だし、これを機にもっと語らせた方がよかったのではないか。

 むしろ無理に語らせずそっとしておくべきではないか。

 

 この言葉で良いだろうか、彼女の思いを汲めているだろうか。

 様々な不安があるし、実際に至らない点も多い。

 だが、この場においては一応の及第点を得られたようで、彼女は雫のような喜びを浮かべた。

 

 どちらからともなく顔を近づけ、唇を交わし、つぷりと入ってきた小さな舌先を優しく迎える。

 呼吸をするかのようにゆっくりと舌を絡め続ける内に、徐々に意識を手放して、気づけば二度寝していた。

 

 

 

 時刻は昼頃、二人で大幅に寝坊したので遅い朝食を準備していると、窓の外から見えたのか、そこへアンバーが飯をたかりに来る。

 

「冷えたパスタを食べるなんて有り得ない! あんたには常識ってものがないの!」

「なら食うなよ」

 

 ナヒーダがわりとゴマベースの味付けを好むので、夏なのもあり冷製のゴマだれパスタにしてみた。

 パスタを胡麻油で和えてしっかり目に下味の塩を振り、茹で肉と野菜と胡麻を乗せ、稲妻産の醤油を使ったゴマだれを掛けて黒胡椒を効かせたシンプルなもの。

 冷蔵庫さえあるなら前日に作り置きできて便利なのだが、モンドには冷たいパスタを食べる文化が無いらしく、"奇妙な料理"に対してこうして赤兎耳から小言を言われている。

 

「おいひくないほはいっへなひ!」

「食いながら喋るなって」

 

 口からだらんとパスタを垂らしながら喋るその滑稽な姿は流石に、女子であるとは思えない。

 静かかつ上品に、楽しそうな笑顔で食べるナヒーダと見比べれば猶更だった。

 

 

 そして仕事へ向かうアンバーを見送って午後から図書館へと向かえば、今はもう数日でバドルドー祭が始まるという頃合い。

 リサさんの呼び寄せた専門家と、思いがけない人物が到着していた。

 

「やあ。元気そうで良かったよ」

「ティナリ! 久しぶりだな」

「久しぶりね。層岩巨淵で別れた以来」

 

 来客は二人の男性であり、その片割れは久々に会うレンジャーだ。

 

「ついでだから彼にも手紙を出しておいたの」

 リサさんには、お茶会を通してナヒーダが俺たちの旅路を語っている。

 なのでティナリと面識があることを知っていて気を利かせてくれたらしい。

 

 続いてもう一人の、見知らぬ男性が自己紹介をする。

「俺はセノ。今回の件の専門家として派遣された」

 厳格で気難しそうな、少し関わり辛い雰囲気の人物だ。

 

「気楽にセノと呼んでくれ。準備はいいか? はい、せーのっ!」

「……?」

 突然のことで、意図を理解できなかった。

 

「……はい、せーの!」

「ふふっ、セノ!」

 もう一度繰り返した彼の言葉に、ナヒーダが返答を渡す。

 どうやらこれは彼なりのジョークであるようだ。

 

 初対面でいきなりこの振りをされて返せる人物はそうそう居ないと思うし、ティナリも同意見なようで自らの頭を押さえている。

 何はともあれ、彼は厳格な雰囲気に反してノリがよいということだけは理解した。

 

 

 これから話し合うのに幾つか追加の資料が必要だと言われたので、俺は歓談するリサさん達から一人離れて、それらを取ってから戻ってくる。

 すると、その途中でセノが待ち構えていた。

 

「ひとつ聞きたい。……彼女は何者だ?」

 

 専門家だけあって、既にナヒーダが只人ではないことを見抜いたらしい。

 なので俺は彼女について説明することにする。

「彼女は大根の妖精だ。見ろ、あの髪の色合いにその名残がある」

 

「なんと! そのようなものが居るとはな」

「ああ。なんでも大根が妖精になるのに要する期間は優に100年を越えるらしい。そうそう出会えるものではない」

「ふっ、そのような幸運に出会えるとは。人生とは珍奇なものだ」

 時間稼ぎのための冗談のつもりだったが、元より本気で追及するつもりはなかったのか、彼は納得した様子を見せた。

 

 

 俺たちの姿は歓談場から視界に収めることができるため、助け舟を出してくれたのだろう。

 リサさんがセノを呼んだので彼は去り、それと入れ替わりにナヒーダがやってくる。

 

「ふぅん。わたくし、大根の妖精だったのね」

「そして俺は花の騎士という訳だな」

 大根にも花は咲く。

 

「……花の騎士は冗談で付ける称号ではないのだけど」

「でも恥ずかしさは似たようなものなんだが」

「………」

 

 彼女は苦い顔をしながら思案を続ける。

 どうやら本当に、騎士を冗談扱いされるのは嫌であるらしい。

 

「……悪かったよ。そんなに大事に思っているとは考えていなかった」

「ええ、あなたが悪い。だから覚悟をしていてね?」

 彼女は有言実行するので、きっと突拍子もない罰則を科す。

 

 そういえば資料を運んでいる途中だった。

 そのことを思い出し、リサさんの元へと向かおうとしたところで、すぐさま呼び止められる。

「……ちょっと待ちなさい。首元のリボンが崩れてしまった。だから直してちょうだい」

 仕方なく近くの本棚へ荷物を置いて、前かがみになって彼女の胸元に手を伸ばす。

 

 すると、伸び上がるようにして唇を奪われた。

「……これが罰か?」

 完全に不意を突かれたので、一瞬だけ心臓が飛び出るかと思った。

 

「いいえ、まだ足りない。だから、後で続きをしてね」

 後ろ手を組んで可愛らしく微笑むがその笑みには何か凄みが感じられる。

 彼女は大いに、根に持つタイプだった。

 

 

 

 専門家の彼によって解読された資料によれば、コレイの身には魔神の残滓が注入されていると判明する。

 だがそれは強く刺激でもしない限りは即座に対処すべきものでもないとのことで、少し様子見しつつ数日後に処置を施す方針が決定された。

 

 そうして夜遅くまでティナリとセノを含めたメンバーで情報共有と軽い討論をした後、セノ発案で親睦を深めるためにカードゲームをやろうという話になった。

 しかし彼が強くおススメする七聖召喚というカードゲームは二人対戦であるので、今回は普通にトランプを使ってゲームをする。

 

「2のペアだ。これで僕の勝ちだね。君たちは足を引っ張りあうばかりだから……」

 二枚の手札を場に出して残り一枚となったティナリが、勝利宣言をした。

 なので俺は手札を切る。

 

「ジョーカーペア。からの4革命。3は既に出てて返せないから俺のターンで2」

「……またそうやって足を引っ張る」

「わたくしは10捨てね」

「7渡しだ、受け取れ。まだ勝負は終わってないぞ」

 

「ああもう、君たちは!」

 敢えてパスで手札を温存していた俺が、狙っていたコンボを諦めてまでジョーカーで妨害し、さらにセノが7の特殊効果でカードを渡してティナリの手札を増やす。

 見事な足の引っ張りあいだった。

 

 

 最終的にその勝利は文字通りの女神様が持っていった。

「ふふっ、わたくしの勝ちね。……もう夜が明けたけど、まだ続けるの?」

 何回も対局を繰り返す内に余は更けていて、ついにはもう日が昇り始める。

 

「当たり前だ。カードで敗者の地位に甘んじる訳にはいかない」

「僕も負けっぱなしは嫌かな」

「最後は勝って終わりたい」

 セノ、ティナリ、そして俺。負けず嫌い三人の言葉だ。

 

 だがそこへ部外者の声が投げかけられる。

「あなたたち、まさか夜通しやってたのかしら? 呆れた」

 

 仮眠室から出てきたリサさんが、眠る前と変わらない光景に辟易な態度を見せていた。

 その言葉で我に返ったティナリが場をまとめる。

 

「昼まで仮眠してから、もう一度集まろう。ついのめり込んで、僕まで馬鹿になってしまったよ」

「馬鹿をするというのも楽しかったわ」

 ナヒーダは徹夜で遊べて満足げな様子だ。

 

「仕方ない。ティナリは不戦敗としてこの三人で真の決着を……」

「馬鹿、君も寝るんだよ!」

 ゲームを続けようとしたセノは、ティナリに連れていかれた。

 

 

 

 仮眠後はリサさんを含めた5人で打ち合わせを行い、話し合いが終わると、セノは対象を監視すると言って去っていく。

 ジョークのインパクトで印象が和らいでいたが、やはり見た目通りの厳格な面も持っていたようだ。

 

 そして彼が抜けてちょうどいいので、ティナリに対して俺たちの事情を説明することにした。

 彼女の置かれていた状況、俺と彼女の出会い。

 逃避行の途中でティナリと遭遇し、こうしてモンドまで旅してしばらく定住している、と。

 

「……きみが。いや、あなたが草神様だったとは」

「ナヒーダで良いわ。むしろ、あまり神だということは広めないでほしいの。今の平穏な生活に神という肩書は不要でしょ?」

「それは……。分かりました、ナヒーダさん」

 ティナリは神の身分を明かした彼女に対してどう接するか迷ったようだが、緘口の重要性からそれを受け入れたらしい。

 

 なお彼に詳細を話した理由は、信頼している相手だというのもあるが、主にはスメール内での情勢を必要に応じて伝えてもらうためだ。

 ナヒーダは遠くの情報を得る手段を持つとは言えども、コレイの件を含めて手の届かない場所が多々ある。

 

「ところで、その、一つ質問があるのですが」

「あら、なにかしら?」

「どうして彼の上に座っておいでなのでしょうか?」

 

 さきほどからナヒーダは俺の膝の上に座っていて、俺はそのお腹に両腕を回している。

 突っ込まれるだろうなと思いつつもそれを彼女が気にしないなら良いかと放置していたが、やはり突っ込まれた。

 

「彼はわたくしの大切な騎士だもの」

「それは……どういう……」

「端的に言えば、俺と彼女は男女の関係にある」

「……ちょっとまって。色々と衝撃的過ぎて情報を受け止めきれない」

 

 動物として警戒モードに入ったのか、彼は頭上の耳を左右へと向けて開き、額を抑えて考え込む。

 その様子が面白かったらしく、口を挟まず見守っていたリサさんが紅茶を片手に『あらあら』と声を漏らした。

 

 

「それで、重要な話なのだけど。セノ。彼の行動は、アーカーシャを通して教令院に監視されている」

 その言葉にティナリは驚きを見せ、リサさんは納得を示す。

「もっとも、それは間接的な監視だし、細かい物事まで読まれる訳ではない。けれど念のためにわたくしのことは彼に秘密にしていてね」

 

「それって僕は大丈夫なのでしょうか?」

「監視はジュニャーナガルバの日に缶詰知識を通して入力される情報を元に行われるの。正確に言えば、その収集されたデータに戻づいた行動予測を監視している。だからガンダルヴァー村に居るあなた自身は監視を逃れているわ」

「えぇ……。教令院がそんなことまでしているだなんて、知りたくもなかったよ……」

 

 今日一日で何度目か分からないほどにティナリはまた頭を押さえる。

 彼は様子見がてらバカンスとしてここへ来たらしいが、しかし生憎にも、心配性の彼にその目的は果たせそうにない。

 

 膝の上に柔らかい重さを感じながら、そんな様子を俺は同情的に見守った。

 

 



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6. 祭りの始まり

 目が覚めると腕の中に彼女が居ない。

 開けっ放しの扉を抜けてリビングキッチンへと向かえば、既に朝食を作り始めていた。

 

「おはよう。今日はお祭りでしょう? だからなんだか早起きしてしまったの」

 

 挨拶代わりに、火の番をしている彼女を背後から抱きしめ、その肩に顎を乗せる。

 彼女の肩はこちらの肘の高さなのでそこに乗せるにはかなり腰を曲げる必要があるが、寝起きの微睡みの中でこうして抱いていると非常に安心感を感じられる。

 少し邪魔かもしれないが、彼女も料理をする俺に抱き着いてくることがあるので、お互い様だ。

 

 一つ大きな欠伸をして『何か手伝うことはある?』と聞いたが、見た限りではもう仕上がりを待つだけであり返答もそれに準じた。

 なので彼女を抱いたまま、ぬくもりを摂取しつつ料理の完成を待つ。

 

 

 食後は、彼女が朝食を作った代わりに俺が洗い物を担当した。

 ああ見えて彼女は意外と面倒くさがりな部分もあり、当然ながら俺に関しては言うまでもない。

 なので目に入っていてもスルーする俺と、そもそも目に映らない彼女による同棲において、こういう雑事は残しておくと軽い惨事になる。

 

 そうこうして、更に出かける支度を終えれば、もうそろそろ祭りの開始時刻となった。

 だが準備を終えて扉へ向かおうとしたところで"待った"が掛かる。

 

「はい、忘れ物よ」

 渡されたのはいつしかの、視線の検知機能が付いたサングラス。

 

「迷子になったら困るでしょう?」

「チョーカーで探せばよくないか?」

 俺の首飾りには位置把握機能がついていて、わざわざこの色眼鏡で通話せずとも居場所を探せる。

 しかし、彼女はその提案を受け入れなかった。

 

「心が……」

「分かりました」

 

 魔法の言葉を使って要求を押し通した彼女は、諦め半分な俺の返答を聞いて、口元に片手を当てて楽しそうに笑う。

 こうして笑うことができるのはまあ、だいぶ精神状態が回復している証だ。

 慰めになるのならば、可愛い理不尽ぐらいは問題ない。

 

 

 

 腕を組み指を絡めて、しかし身長差ゆえ、組むというよりも腕に抱き着くような形の彼女と共に祭りを見て回る。

 脇の下にピッタリ嵌る背丈なので、上腕に触れるその頬の感触が柔らかくも暖かい。

 

 彼女は目立つ髪飾りを外しているが、相変わらず、後ろ髪全てを左側頭部で束ねたサイドポニーと右耳後ろの長い編み込みは残している。

 普段の彼女はあまり黒を入れず、白いベースカラーに黄緑や深緑など複数の緑色を入れるコーディネートを好む。

 だが今日は俺の要望に沿って、白いブラウスの首元に赤いリボン、黒いプリーツスカートとローファーの、いわゆる学生スタイルにしてくれた。

 

 ……思えばこうして俺の好きな服を着てくれると言い出したのも、例のサングラスを着けさせるための布石だったのだろう。

 

「ひと口ちょうだいな?」

「ほい、どうぞ」

 

 彼女は小食なので一人分を食べているとすぐお腹一杯になってしまう。

 なのでこうして一口だけ齧ることで、多彩な店舗を試食して好奇心を満たしている。

 片手を繋いだまま隣の彼女に差し出すのだが、顔の位置が低いせいで動物に餌付けをしている気分だ。

 

「ねぇ」

「どうした?」

 

 腰を曲げ、彼女の身長に合わせて軽く顔を下げる。

 別に顔を下げずとも互いの声は聞こえるが、こういった雑踏で話す際にはこうしたほうが話しやすい。

 それになにより、二人きりで内緒話をしているような不思議な感覚が心地よかった。

 

「次はあれを見に行きましょう」

「ああ。ゴミを捨ててくるから少し待ってくれ」

 足早に残りを食べ、くず入れに投げ込む。

 

 

 しばらく通りをぶらついているとダーツのような出店を見つけ、彼女が興味を示したので少し立ち寄ることにする。

「わたくしの権能を使えば、全て丸見えよ。……あら?」

 

「目を瞑って投げるのは止めないか?」

「でも計算通りに行けば、目を瞑っていても当たるはずだもの」

「だが結果として当たっていないだろ。きみには計算通りに身体を動かす為の運動神経が足りてない」

「……じゃあ、あなたがやってみせて」

 欠点を指摘する言葉に彼女は少しむくれているが、目を閉じて針を投げる暴挙は怖いので止めてほしい。

 

 さて、難しすぎるものを狙う気はないが、簡単なものも詰まらないので少し難度が高めのものをねらう。

 一発目は狙わずに自然体で投げ、その感覚を元に微調整して二回目を投げた。

 

「わぁ! ……どうして狙い通りに当たったのかしら?」

「最初と同じ相対位置に投げたんだ。狙いをつける代わりに、立ち位置と角度を調整すればそれで当たる」

「そんな方法があったのね。試してみる」

 

 彼女は再びダーツ投げへと勤しむ。

「どうして……」

「頭で考え事をしていると、考えに応じたタイミングで力みが出てしまう。無心で投げないと同じ場所には飛ばない」

「………」

 

 彼女は無言で投げ続け、偶然か必然か、無事に景品を手に入れた。

 矢が的を得たその瞬間の表情の変わりようは横から見ていても面白く、そして可愛らしいものだった。

 

 

 

 昼もまた買い食いをし、祭りによって彩られた街並みやあちらこちらの大道芸人を見て回る。

 しかし夕方になると本格的に人出が増えて、身長差もあり一緒に歩きづらくなった。

 なので首に腕を回してもらい、彼女の両脚を腕の中に抱き込むようにして、片腕に腰掛けさせる形で抱き上げる。

 

「こうしているとあなたの視点で世界を眺められる。なんだか新鮮ね」

「きみからしたら周りは人の壁で、まったく先が見えないだろうからなあ」

 

 とはいえ日本では別に背の低い方ではなかったが、モンドではガイアをはじめとして欧米レベルに背の高い人が多く。

 だから俺にも遠くは見渡せない……、目立つウサギ耳が人込みに混じっていることに気づく。

 

「あーっ!」

「うげっ」

 コレイを連れた赤いウサ耳に遭遇してしまい、思わず狼狽の声が漏れた。

 

「あっははははっはははっははははっ!!!」

「うるせぇし、指差すな」

「うさっ、うさんくさっ、あははははっ!!」

 アンバーは怪しい丸サングラスを掛ける俺を見て爆笑する。

 だが正直、ウサ耳付けてるやつに笑われたくはない。

 

「うぇははははっ!」

「うるせぇ……」

 笑い止む様子のない彼女の、そのあまりにも特徴的な服装に目を向けた。

 

 へそ出しのお腹が開けたトップスに、太ももを存分に曝け出したホットパンツ。

 アンバー自体が目元のパッチリとした正統派美少女であるのも相まって、とてつもなく火力が高い。

 小尻であるが健康的な脚をしていて……。

「……ああいう服が好きなの?」

 背中に氷を入れられたかのような寒気が駆け抜ける。

 

 その質問をされた時点で既に半分詰んでいた。

 否定すれば視線の意図はアンバー自身への興味だと取られるし、肯定してもアンバーへの興味は消しきれない。

 なので消去法に従い、苦渋ながら言葉を出す。

 

「……きみが着れば似合うだろうなと思って」

「じゃあ、着てあげるわね」

 どこまで思惑を理解されたかは知らないが、にっこりと、含みのあるような表情で彼女は微笑んだ。

 

 

 しばらく雑談してからアンバーたちと別れ、人混みから外れて抱っこから降ろし、暗さを増した街並みを二人で歩く。

 祭囃子、とは違うものの、祭りに準じた異国の音楽があちらこちらで場を盛り上げて非日常を奏でている。

 

「元の世界の夜景が、少しばかり恋しいな……」

 

 モンドの夜は暗くはないが明るくもない。

 ヨーロッパ風の美しさと風情はあるものの、流石に夜の日本都市ほどの煌びやかさには欠けている。

 

「わたくしはモンドの夜景も十二分に綺麗だと思うのだけど」

「綺麗ではあるが元の世界と比べると夜が寂しいかな。隠れる場所の無いようなあの明るさには、あれはあれで安心感があった」

 

「………」

 その言葉を重く受け止めてしまったようで、彼女は黙り込んだ。

 恐らくは俺がまたホームシックを発症してしまうことを恐れているのだろう。

 だが本心を隠すことは彼女の望むところではないし、どうフォローしようか。

 

 思慮に耽ながら歩いている最中、ふいに袖を曳かれて路地裏の暗がりへと連れ込まれる。

 そして誰も居ない二人だけの暗所で、彼女はつま先立ちとなって顔を突き出した。

 

「……まだ寂しいかしら?」

「いいや。きみのお陰だ」

 彼女は不安の晴れた笑顔を浮かべ、手を絡めてまた歩き出す。

 

 

 

 裏路地を抜けて開けたカフェに差し掛かると、見覚えのある背の高い男性を見つけた。

 恐らく俺たちの様子を見に来たと思われるので、挨拶をしに行く。

 

「ふむ。息災のようだな」

「どうも、ご無沙汰です」

 

 鍾離さんの姿を認めた途端に、ナヒーダは俺を盾に使って顔を隠していて、彼女の代わりに俺が矢面に立たされている。

 絶対に怒られると思っているらしく、ぴったりと背中にしがみ付いて離れようとしない。

 

「そう隠れるな。叱りに来た訳ではない」

「……本当に?」

 彼女が背後から顔を出し、ギュッと服の裾を握ったまま様子を伺った。

 

「お前たちの間で解決できたのなら俺から言うことは何もない。せっかくお前たちが自力で課題を乗り越えたのだ。それを叱ることは貶すことに等しいゆえ、俺が口を出すことがあろうか」

 

 反語表現で立場を表した後に、以前にも問われた質問を、彼はもう一度問い直す。

「ただ、今ひとたび、人であるお前に問おう。お前にとって、彼女はどのような存在だ?」

 

 関係を表すか、思いを表すか。言葉にしようとすれば、悩んでしまう部分が色々とある。

 だが恐らく問われているのは言葉の内容の正しさではないのだろう。

「大切な家族だ」

 シンプルに、されど決意を込めてハッキリと言い切る。

 

「ふむ、では人でないお前に問おう。お前にとって彼はどのような存在だ?」

 前と同じく、俺の次には彼女へ問いかける。

「掛け替えのない家族よ」

 ナヒーダは以前と同じく、掛け替えがない存在だと答えた。

 

 俺らの回答を聞いて改めて納得したというような、まるで儀式染みたような荘厳な身振りで、彼は頷く。

「初心を忘れるな」

 そう短く、俺たちに言い聞かせた。

 

 この"初心"とは何を表すのかといえば、恐らくはあの時に答えた関係性であり、意訳するならば互いを思う心。

 そしてそれを口にした意図としては、劣化や摩耗をさせずに、最初の心を保ち続けろということだろうか。

 だとすれば、永く璃月を守り続けた鍾離さんらしい言葉だ。

 

「さて、わざわざ俺のために手間を取らせてしまったな。若者たちの邪魔をするつもりはない。だから構わず祭りを楽しめ」

 彼は見守るような笑みを浮かべ、話は終わりだという風に手元の茶へと意識を戻す。

 

 

『相変わらず彼は堅物だねぇ』

 鍾離さんの居たカフェから離れるなり、サングラスの通信機能から春風のような呑気な声が聞こえた。

 

『あっ、彼女にバレるといけないから応答はしなくていいよ。ただひとつ君に伝えておきたいことがあってさ』

 こいつは以前に夢の中で話しかけてきたやつだが、鍾離さんを知っているということはそういった部類の者なのだろう。

『コレイといったね。あまり彼女から目を離さないほうがいい。……という訳で忠告はしたからね、ばいばーい』

 

 どういう意味かと聞き返しそうになったが、ナヒーダにばらさない方がいいという口ぶりなので躊躇する。

 

 迷った結果として、今までを顧みるに少なくとも俺たちへ危害を加える意図はなさそうなので、素直に従っておくことにした。

 あれがもし神やそれに類するモノである場合、下手に機嫌を損ねると何かしらの祟りが起きて面倒ごとになるかもしれない。

 

「アンバーとコレイの様子が心配だから探しに行かないか?」

「あら、どうして?」

「あいつらの事だから、何か問題を引き起こしているかもしれない。夜になって人混みが増えたし、念のため様子を見よう」

 

 

 

 祭りを楽しみながらもウサ耳を探して歩き回ったところ、遠目にも目立つため、あっさりとその姿は見つかった。

 そして俺たちはコレイとアンバーの後を付け、彼女らの参加することとなったサーカスを遠くから眺める。

 

 俺はこの薄暗くも幻想的な雰囲気に乗じて、普段は言い出しづらいことを話すことにした。

「きみは日々を楽しめているか?」

 

「あなたとの日々はとても楽しいわ。その毎日が記し残されるべき記念日で、まるで地下から出てきたキノコンが日差しの温かさを知ったかのように、貴重で代えがたいものよ」

「……籠の外での思い出は、楽しいことばかりでもないだろ」

 

 以前に彼女の口にした『籠から出ない方がマシだった』という言葉が、まだ心に引っかかっている。

 彼女はとてつもなく意志が硬いために、俺たちの関係を否定するような発言は絶対にしようとしない。

 にも拘らずあの時に言わせてしまったということは、その鉄のような意志を打ち砕くほどの後悔を抱かせたということだ。

 

 隣の彼女はジッと顔を見上げてくる。

 その姿が視界の隅に映っているが、俺は顔を硬くしつつも舞台を眺め続けた。

 

 

「確かに色々なことがあった。……でもわたくしは、あなたとの思い出を"楽しくなかった"だなんて思いたくない」

 いつもより明瞭な口調で彼女は言った。

 小さな手が俺の手に触れ、一本一本を確かめるかのように、しっかりと指を絡める。

 

「あなたはわたくしの言葉を気にしてくれているのね。でもあれは、あなたがわたくしを裏切ったと勘違いした故の言葉なの」

 どうやら彼女は、あれを裏切りの範疇には入れないと決めたらしい。

 

「余りの衝撃に考え直す余裕がなかったけれども、あなたは心まで浮気をした訳ではないのでしょう?」

「体の浮気は否定しないのな」

「だって事実だもの。それはわたくしは許してない」

 

 ばっさり切られる。

 だが俺は、こういう芯の強さが好きだった。

 

「俺が好きなのはきみだよ」

 言い訳染みた言葉で、彼女の小さな肩を抱く。

 当然、彼女にはその誤魔化しがお見通しであり。

 

「悪い子には罰が必要ね」

 そういって彼女は意地悪げに自らの唇を叩くので、周りにチラホラと人がいる中で、その暖かな月明かりを優しく塞いだ。

 

 

 ショーが終わると見計らったようにガイアがやってきて、アンバーに対して何やら話しかける。

 そして赤ウサ耳はどこかへと去っていき、彼はコレイを連れ去った。

 

 



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7. ガイアとの交流

 コレイを連れ去るガイアの、その後をつける。

 

 そして会場を離れ、人寂しい路地裏を抜け、少し広さがあるが誰も居ない通りへと至った頃合い。

 長身の彼は氷の刃を小さな肩へと突き刺した。

 

「何で……?」

 突如攻撃されたコレイは、状況が分からない様子で疑問を口にする。

 だがガイアは何も答えずに追加の刃を投げつける。

「クソっ!」

 氷を避けた彼女は悪態を吐いて走って逃げるが、しかしその先には既に氷の壁が聳え立って道を塞いでいた。

 

「おい、まだ本性を隠し通すつもりか? 逃げても無駄だぜ?」

 ガイアは追い詰めた獲物を狩るがごとく、ゆっくりと追撃を用意する。

 

 

 それを見てナヒーダが飛び出そうとするが、咄嗟に捕まえて引き寄せた。

「(コレイの危機よ! どうして止めるの!)」

「(ガイアは致命部位には当てようとしていない。いたぶって遊んでいるだけだ)」

「(猶更に酷いじゃない!)」

 

 もし本当に殺す気なら初手で致命傷を狙っているはずであることを考えれば、彼の意図は追い詰めて本性を暴き出したいということだろう。

 コレイが本当に人を殺害しているとすればガイアが事を急くのも分かるし、それに何よりも下手に庇い立てすれば追及の矛先がこちらへ向く可能性がある。

 だから俺としては、できれば介入せずに済んで欲しい。

 

 そう言い争っている内に、追い詰められたコレイの身からは黒焔が噴出し、蛇の形を取った。

「ふん。やっと姿を現したか。失望させないでくれよっ!」

 黒焔とやらは人外染みた身体能力を与えるようで、彼女は余裕ぶった言葉を吐くガイアの背後へと一瞬で回り込み、その台詞を中断させる。

 

 先ほどまでは彼も手加減をしていたが、今はそれが見られない。

 こうなれば本気で命を奪う可能性があるので流石に見過ごすこともできず、最悪の場合に備えて介入できるよう近くへと寄る。

 

 

 

「今のお前をお友達が見たら、どんな顔をするんだろうなあ」

 一進一退の攻防の合間に、ガイアはコレイに揺さぶりの言葉を投げた。

 

 コレイは暴走した様子であり、もはや彼女の意思とは関係なく周囲へ黒焔を振るって破壊を振り撒いている。

 もうすでに物理的な攻撃性を引き出したが、しかし彼は、より深く本性を暴くために精神面での攻撃性まで証明したいらしい。

 

 隣のナヒーダは今にも飛び込みそうな様子であり、落ち着かせるために繋いだ手から頻りに緊張が伝わってくる。

 ガイアの挑発にコレイが乗るにしろ乗らないにしろ、この状況が"はいそうですか"で穏便に収まることはない。

 なれば後は、介入のタイミングをどうするかの問題でしかないのだろう。

 

 

 暗がりから状況を見守る俺たちだが、その向かい側の路地からアンバーがやってきた。

 それと時を同じくして、ガイアがコレイの黒焔に捕まり、彼は首を掴まれてその体が宙へと浮く。

 

 ガイアは首を絞められ苦悶の表情を見せ、アンバーは心構えもなしに殺し合いの状況を目撃し、目を見開いて呆然と立ち尽くしている。

 そろそろ潮時だろうか。

 

「違う……これはあたしじゃない……。人を殺したくなんてない。……あたしの意志を蔑ろにするなら、お前らなど必要ない!!」

 

 その言葉と共に、彼女は黒焔の制御を取り戻し、ガイアを解放した。

 だがそれは彼にとっては不都合であったらしい。

 

「っ! おいっ、逃げるつもりか!」

 首を放されたガイアはそれを逃げる事前準備だと解釈し、コレイを追い詰めるためにさらなる追撃を繰り出す。

 しかし攻撃を受ける彼女は、自らに迫りくる氷の刃を見ても棒立ちのままだ。

 

「殺せ」

 コレイは自らの死を受け入れた表情で、そう言い放った。

 

 

 その様子にガイアは一瞬だが驚愕の表情を見せ、そしてナヒーダも抑えが利かなくなる。

「蔓延りなさい!」

 植物が彼の体に巻き付いて動きを封じ、氷の刃も取り上げて無力化した。

 

「スメールの民をこれ以上傷つけさせる訳にはいかない」

 コレイを背に守るように、ガイアの前へとナヒーダは立ち塞がる。

 

「おまえ……、どうしてあたしなんかを……」

「ウサギ伯爵!」

 緑頭は自嘲の言葉を吐くが、それを介入の機会とみたアンバーが兎を模した爆弾を投げ込み、爆発と閃光が視界を奪った。

 

 煙が晴れて視界が戻った時には、既にアンバーとコレイの姿はどこにも見えない。

 とにかくコレイを安全な、ガイアから遠い場所へと退避させることを優先したらしい。

 

 

「はぁ……。もっと面白い答えを期待してたんだが、期待外れだったな」

 コレイらが去ったことで蔦から解放されたガイアは、吐き捨てるように独り言を口にした。

「でっ、お前らの正体は何だ? 今度こそ言い逃れはさせないぜ」

 

 こうしてこちらへ飛び火するのが嫌で介入を渋っていたのだが、なってしまっては仕方がない。

 彼女の前に一歩出た俺は、少し昂っている様子の彼に冷や水を浴びせる。

 

「自分の思い通りに行かなかったからって、今度は俺たちに八つ当たりかよ? 少し子供っぽ過ぎるだろ」

「それに関してはごもっとも。だが、あれに関わっている以上はちょいとばかし見逃せないなあ」

 彼はお道化た様子で語るけども、命のやり取りの熱が残っているのか、まだ目付きは煌々として鋭い。

 

『観客が居ては話ができないか? なら場所を変えよう』

 

 

 

 ガイアの一声により、俺たちはエンジェルズシェアという酒場へと移動した。

 

「それで、だ。いい加減に、お前たちの事情は教えてもらうぞ? 今までは害がないと判断して泳がせていたが、今回の件は見逃せない」

 歩く内に頭が冷えたのだろう、バーのカウンター席に着くや否や、少し疲れたという風に気を抜いた彼が本題を切り出す。

 それを受けて俺は、店内で唯一の部外者である赤毛のバーテンダーへと目線を向ける。

 

「安心しろ。あいつは俺の身内みたいなものだ」

 俺の目線を受けて、ガイアは赤い店員の守秘性を保証した。

「口は堅い。頭も固いがな」

 

 そう余計な言葉を付け足した彼に、バーテンは溜息を吐き、そして三人前のワインを提供する。

 ……と思ったが、口を付けたらブドウジュースだった。

 ナヒーダへ目を向けると美味しそうに飲んでいるが、ガイアは渋い顔をしているのでやはり彼もジュースだったらしい。

 

「わたくしはスメールの神よ」

 ジュースを堪能した彼女は結論から切り出した。

 

「へぇ。草神サマが一体何の用でモンドに来た? 人体実験かなにかの一環か?」

「いいえ。ただの逃避行」

 そして今までの経緯を語る。

 

 

「ふむ……。分かった、信じよう」

 顎に握り拳を当てながら話を聞いていたガイアは、目線を横に向けて、何やら打算を組む様子を見せながら承諾した。

 そして騎士団員としての立場から言葉を続ける。

 

「だが問題事を持ち込んだ時には、必ずしもモンドが味方になるとは限らないと理解しておくことだ。もし万が一、君とモンドを秤に掛けるならば、俺はモンドを取る」

「ええ、分かっているわ。わたくしはただ、この国の片隅で普通の生活ができればいいの」

「殊勝な心掛けだな。……おいおいそんな怖い顔をするなよ」

 彼はナヒーダから目線を外し、こちらへと話しかけてきた。

 

「別に俺個人としてはお前らに協力しても構わない。むしろ、積極的に恩を売ってモンドの危機の際には助けて貰おうと考えているくらいだ。何やら近頃はきな臭いからな」

 そう語るガイアであるが、彼には以前の恩もあるし信用できない訳ではない。

 しかしコレイでの対応もそうだが、時々苛烈なので心から信頼できる相手とも言えない。

 

 とは言えど何か代案があるわけでもないから、俺にできるのは釘をさしておく程度か。

「……はぁ。彼女のことは言いふらさないでくれよ?」

「当然だ。七神の一人が知り合いに居るだなんて大層なアドバンテージ、そう易々と捨てはしないさ」

 

 まあこいつはこいつで詰まらないことをするタイプではないので、それが"面白いこと"にならない限りは安全なはずだ。

 むしろ単純な逆境であれば、喜んで劣勢側に加勢するような輩だろうし。

 

 

「で、お前はなんだ?」

「なんだ、と言われても困るが」

「神をも閉じ込める檻の中に入り込んだなら、それは普通の人間じゃない。ならば、お前は何なんだ?」

 蛇か、さもなくば竜のような目つきで見つめてくる。

 

 ナヒーダは彼女自身についてを語ったが、俺に関しては詳しく語らなかった。

 そのために俺にも秘密が眠っていると踏んだようだ。

 

「俺は世界を飛び越えられるらしい。それで異界からこちらへ来た時の位置が檻の中だったんだよ」

「ほぅ。それは興味深い話だ」

 続けろと、彼は目線と沈黙で示す。しかしこちらとしては、それ以上の話は無い。

 

「それだけだ。それを含めて全ては偶然の産物」

「偶然にしてはあまりにも出来過ぎじゃあないか? 運命によって出会い、奇跡的な脱出を繰り広げる。それはそれは素晴らしいお話だが、ここで披露するにはちと安すぎる」

 

 確かにそうではあるが、少なくとも俺が何らかの意図を持っていた訳ではない。

 とはいえ一部を説明する仮説が無いわけでもない。

 

「俺の能力は転移先の情報を必要としていて、また彼女は出られない代わりに草神の能力で世界を観察していたらしい。だから俺がこちらの世界の座標を観測する際に混線したんじゃないかと考えている」

 

「それはつまり、お前が行き先を探している時に、彼女が"ここへ来て"と招いたということか?」

「結果的にはそういうことだな」

 

 

 俺たちの問答を聞いていた彼女が、不満げな顔で言葉を挟む。

 

「わたくし、その仮説を初めて聞いたのだけど」

「きみならこの程度は考えればすぐ思いつくだろうし、わざわざ口にするほどではないだろ」

「あなたの考えに貴賤などないの。考えついたのならきちんとわたくしに語りなさい」

 

 パンパンと、ガイアが手を叩いて意識を引き、話を元に戻した。

「それで、お前は神をも超えた力を持つわけだが、そこにはお前のような存在がわんさかいるのか?」

「いいや。むしろ特殊能力どころか、神や精霊すら存在が否定されるほどに神秘の存在しない世界だな」

 

 少なくとも科学の発達した現代において超能力者の存在はほぼ否定されている。

 俺自身が例外になったとはいえども、情報ネットワークの仕組みからして隠蔽は難しい。

 なので、『実は闇夜に超人が跋扈している』等の、考えるだけでも頭の痛くなるような世界ではないはず。

 

「ふむ。お前の来た異界もそれはそれで非常に興味深いようだ」

「あとはアルベドに聞いてくれ。俺の能力に対する実験結果を含め、モンド人で一番俺の事情や性質に詳しいのは彼だ」

 道徳には欠けているが、あいつはあいつなりに倫理観を持っているので情報の取り扱いは任せていい。

 

「件の主席錬金術師様か、……いいだろう。お前からも、資料を開示するよう言っておいてくれよ?」

「ああ、分かった」

 

 彼の反応からして、俺を信用したというよりは、アルベドの資料を読むまで保留にされたという感じだ。

 だがその研究でも転移以上の能力は認められていないし、問題はないだろう。

 

 

 

 酒場でガイアと別れてから、コレイ達の行方を訪ねに図書館へと寄る。

 しかし、コレイは疲れたのかもう既に寝入っていた。

 アンバーもそこに寄り添って寝ていて、だが意外に寝相の良いコレイと違い、そいつは大股開きでへそ丸出しの豪快な姿だ。

 とりあえず余っていた毛布を二人に掛けておく。

 

 リサさんに現状に関する話を聞けば、黒焔を暴走させたことを鑑みて、明日の日中には封印の儀式を行うことになったらしい。

 なおそれなりの強行軍なので、運動嫌いのリサさんは同行せずにティナリとセノが監督者として参加する。

 

 

 祭りの時刻を過ぎ、自宅へと向け、途端に静かになった街を歩く。

 そんな最中、ナヒーダが隣から腰へ抱きついてきた。

 

「どうした?」

「……賑やかさが終わって、少し不安になってしまったの。まるで世界とお別れしてしまったみたい」

「祭り後の寂しさは俺も分かるよ」

 

 日常へ戻るだけなのに祭りの後というのは、何か大切なものを失ってしまったような焦燥感があるものだ。

 とはいえそう感じたのは子供の頃であり、流石に今はそこまでのものは感じないが。

 

「じゃあもう少し、祭りの余韻に浸ろうか」

 

 そう声を掛け、街の中の小さな広場で椅子に座り、何をするでもなく、ただただ二人で寄り添って過ごす。

 小さかった頃は俺も友人達と、こうしてよく祭りの後に公園でたむろしていた。

 祭りの後とは得てして悲しいものだが、その悲しみの中で過ごす"まだ家には帰らない"という楽しみは、忘れがたい記憶として残っている。

 

 暗い公園で無為に時を送るだけの中身のない行動であるものの、彼女とのひと時もやはり、特別なものとなるだろう。

 

 

 

 家に戻ると雑踏の埃を落とすために風呂へと入り、軽食を取ってから、明日の準備をして早めに眠ることとした。

 

 相も変わらず、彼女は就寝前に祈りを捧げる。

 普段の可愛らしい表情とも、勉学時の知的で見惚れる表情とも違う、荘厳で侵し難い、神殿に飾られる女神像のように美しい姿。

 微動だにしない彼女を眺めるのは、美術館に来たかのような不思議な感覚だ。

 

 

 祈りを終えれば布団に入ってくる。

「今日のお話は?」

「ドストエフスキーという作家の作品にしようか」

「どのような作家さんなのかしら」

 

「この前に読んだ"ドン・キホーテ"を強く称賛した人物であり、個々の登場人物の自主性を重んじつつ一つの高度な物語を構成するという点では、その文学性の後継者。そして非常に大きな影響を残した小説家の一人でもある」

 これは芸術ではなくただの心理学だ、と言われる場合もあるが、何にせよその心理描写に関しては価値の疑いようはない。

 

「……わたくしは、あれがわたくしへの皮肉を意図したものなのか、今でも真意を測りかねているのだけど?」

「批判する意図はないな。純粋な悪戯心によるものだ」

 

 キホーテ卿を尊敬しているのは事実だし、文学的価値から彼女に読ませたかったのもあるが、決め手となったのは単なる悪戯心だった。

「あまり意地悪は嫌よ?」

 "気を付ける"と答えたところで意味は薄いので、誤魔化すためにその頬へ口づけをする。

 

 



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8. 封印

 翌日、朝早くから出発して星拾いの崖へと向かい、見晴らしのいい崖の上に到着する。

 メンバーはアンバーとコレイ、ティナリとセノ、そして俺たちの計六名だ。

 

 そして魔神の力が弱まるという正午頃、セノがコレイに封印を施した。

『うぅっ……。ああぁぁぁぁ!?』

 コレイはしばらく叫びを上げ続け、ぱったりと気絶する。

 

「これで封印作業は終わりだ」

 そのセノの宣言を合図に、倒れたコレイをアンバーが助け起こし、目が覚めた彼女のその包帯を解いて綺麗な肌を晒している。

 魔神というとんでもない存在を扱う割には、終えてしまえば存外にあっけないものだ。

 

 喜ぶアンバーたちを見て、セノとティナリが踵を返す。

「俺は先にモンドへ戻る」

「僕も戻ろうかな。邪魔しちゃ悪いしね」

 

「俺らも戻ろうか」

「そうね」

 ナヒーダは今一度コレイたちを愛おしそうな目で見つめてから、手をつないでその場を後にした。

 

 

 

 なだらかな草原を、二人減った四人で歩く。

 なお『アンバーが居るから』と言われ、今日も俺はサングラスを掛けさせられていた。

 やはり昨日の視線はアウトであったらしい。

 

「ナヒーダと言ったな」

「ええ」

 草神を呼び捨てにしたセノに対し、事情を知るティナリがギョッとした目を向ける。

 

「きみが大根の妖精だというのは本当か?」

 発言内容の酷さに、ティナリは両手で顔を覆った。

 

「ふふっ。妖精だとしても、大根の妖精ではないわ。一体誰がそのような事を言ったのかしらね」

「そいつだ」

 セノは俺を指差し、指差された俺はティナリから信じられないものを見るような眼差しを受ける。

 

「あまり詮索しないでくれないか。彼女にも事情がある」

「……そうだね。セノ、あまり詮索してはいけないよ」

 言い逃れのための俺の言葉に、顔を引き攣らせたままのティナリが追随した。

 彼は教令院へ情報が漏れることを考えれば本当のことを教える訳にはいかないと理解している。

 

「ふむ。そうか」

 セノはさほど追究する気は無かったようであっさりと退いた。

 言いようのない沈黙が広がる。

 

 

 ティナリが気を張っているのもあり、沈黙には少し緊張感が残っている。

 だから気を利かせたのか、セノが俺に会話を振った。

「あるスメール人が壮絶な旅の果てに終の住処を見つけた。その時、なんと言ったと思う?」

 

「何かの遺言を残したとか?」

「"ここに住めーる"だ」

「………」

「面白くなかったか?」

「……そのギャグは、少し滑ったスメルがするが」

「スメールだけに」

 "ハッハッハッ"と、俺とセノは軽く笑い合う。

 

「……地獄だ……」

 生真面目なティナリには俺たちの会話が受け入れられなかったようで、げんなりとした顔を見せていた。

 

 

『コレイたちに危機が迫っているよ』

 突然、サングラスに通信が入った。いつも通りの例の人物によるものだ。

『ただし相手は魔神に詳しいみたいだから、その子は表に出さない方が君たちの為だね』

 確かナヒーダも魔神の一種であるので、これは下手すれば相手方に素性がバレる危険があるということを意味する。

 

「……やっぱりコレイ達を待とう」

「いいけれど……、どうしたの?」

「なんとなく嫌な予感がするんだよ」

 

 今回は隠せと言われていないが、今まで通りに考えれば隠しておいた方が無難だろう。

 判断根拠は伝えずに要望を押し通すことにした。

 

「ティナリ、セノ。できれば付いてきてくれないか?」

「ああ、俺の力でよければ貸そう」

「今更になって危険があるとは思えないけれど、僕もついていくよ」

 

 どうせ俺たち二人は戦闘要員ではないので対処は彼らに頼ることになる。

 最悪はティナリだけでもと思ったが、二人とも来てくれるならありがたい。

 

 

 

 そこからしばらく歩くと、ナヒーダが何かに気づいた様子で顔を上げた。

「どうした?」

「凄い速さで走ってる人物がいる。どうやらコレイを狙っているみたい」

 

 その台詞を聞いたセノがこちらへ目を向けてくる。

 しかし先ほどの『詮索しないで欲しい』という言葉を尊重したらしく、彼は目線を戻した。

 

 不用意ではあったが説得に都合の良い情報であったので、俺は声を落として隣の彼女と密談をする。

 

「(それは魔神の力を察知できるということか?)」

「(……そうかもしれない)」

「(ならきみは隠れていてくれよ?)」

「(……わかったわ)」

 自らが関われないことに不服そうながらも、しぶしぶと承諾した。

 

 一方のセノは恐らく、彼女が目視できない位置にいる人物を認識できていること、そして俺がそのような状況を予知したことに疑念を抱いていることだろう。

 しかし理由を説明するわけにもいかないので、そちらの問題は放置して、ただただ早歩きで足を進める。

 

 

 近くにまで到着すれば、大きな化け物がアンバーたちに襲い掛かっている姿が見えた。

 

「ティナリ! 援護射撃を頼むぞ!」

「いわれずとも!」

 即座に全力で走り出したセノをティナリが追いかける。

 

 巨大な獅子のような化け物は腕を振るう度に黒焔の斬撃を飛ばす。

 それに対しアンバーも応戦するが、コレイを抱えていて動き辛そうだ。

 

「コレイを回収してくる!」

「待ちなさい! 危険なことはしないで!」

「大丈夫、戦いには参加しない!」

 大きな岩陰に彼女を残し、俺は赤ウサ耳たちへと向けて走る。

 

 

「アンバー、コレイ! 怪我は!?」

「全然平気! コレイを任せたよ!」

 

 俺が緑頭を受け取るや否や、彼女は弓を構えて戦闘に飛び込んでいく。

 化け物の周りを駆けて翻弄するセノ、僅かな隙を見逃さず着実に射撃を当てるティナリ。

 そこにアンバーが加わり、安定して追い込んでいく。

 

 不意に、化け物の振るった斬撃がこちらへ飛んできた。

『避けなさい!』

 サングラスからはナヒーダの声が響く。

 

「っ!?」

 コレイを連れている関係で下手に避ける訳にもいかず、身を盾にした結果としてその流れ弾を食らう。

 流石にあの強大な一撃を受け止めきるにはエネルギー不足で、ナヒーダの力を借り受けていたバリアは割れ、貫通した衝撃波が掠めて腹を切り裂いている。

 

「おまえ、大丈夫か!?」

「あぁ。それよりも早く下がるぞ!」

 

 通信機からの悲痛な叫びを聞きながら、俺は安全圏へと下がろうとした。

 だが恐らく俺の負傷を見て事態を重く捉えたのだろう。

 それよりも早く、ティナリとセノがその巨大な両手を弾き飛ばして化け物を追い込む。

 

「馬鹿な! ……なんだと!?」

 無防備な姿勢となった化け物はティナリ達の強さに驚きを言葉にする。

 しかしそこへ更に追い打ちをかけるように、仮面を付けた赤毛の男が乱入し、化け物の手足を黒い鎖で射貫いてもう一度驚愕させた。

 

 そして最後に放たれたアンバーの一撃が決め手となり、力を失った化け物はヒト型へと戻るかの如く小さく縮んでいく。

 

 

「お前は……、いやその道具か……」

 ティナリとアンバーがその男に困惑を見せる中で、セノは即座に乱入者の男性に対して立ちはだかり、男が身に着ける宝石付きの手袋を睨みつけた。

 どうやら先ほどの黒い鎖は黒焔に関連するものであるらしい。

 

「奴だ! あいつが黒焔の犯人だ!」

 騎士団を引き連れたガイアが到着してそう叫ぶ。

 ガイアが指さしたのは、赤い乱入者。

 

 昨夜の件からしても、黒焔事件の犯人はコレイのはずだ。

 そう思ったのは俺だけではなかったようだが、ガイアが臨戦態勢のセノへと目配せをし、セノもそれを受け入れて下がったので、ここは素直に引いておく。

 態々騎士団まで率いてパフォーマンスをしている辺り、どうせお上から指示が出ている等の政治的な事情によるだろうから、俺の関わる領分ではない。

 

 

 

 重症ではないものの軽いとも言えず、ウサギ耳に怪我の重さを気取られると絶対に煩いので、極力平然とした風を装ってアンバーにコレイを返しナヒーダの元へと向かう。

 岩陰へと戻れば不機嫌な顔に歓迎される。

 

「見せなさい」

「そこまで深い怪我では……」

「早く、傷を見せなさい」

 彼女は感情を殺した冷静な態度を見せ、そこにはありありとした激情を抑え込んでいることが読み取れた。

 岩を背にして地べたに座らされ手当を受ける。

 

「……危険なことはしないでと言った」

 応急処置をするナヒーダが呟く。

「わたくしは危険なことはしないでと言ったのに。でもあなたには聞こえていなかったみたいね」

 

 聞こえるか聞こえないかの声量で、まるで独り言を呟くかのようにぶつくさと文句を言う。

 彼女は感情が高まると引き籠る習性があり、今見せているこの態度もまた、精神的な引き籠り癖によるものなのだろう。

 

「すまない。不用意だった」

「どうしてあなたは、危険だと分かっていてそこへ飛び込むのかしら」

「そりゃあ適度な危険さはスリルであって……」

「危険に適度なんて、あるわけがないでしょう?」

 

 ニッコリと微笑む彼女だが、彼女は不思議と言外のニュアンスを表すのが得意なので、先ほどからその怒りがひしひしと伝わってくる。

 しかも叱るだけなら怒り顔でいいのにわざわざ微笑んでいるということは、『叱るだけでは済ませない』という言外の意であろう。

 流石に居た堪れなくなり目線を外す。

 

 あの場でコレイを保護するのは必要なことだったと思っている。

 だが、彼女の言うところの『スメールの民を救うためだ』と口にすれば、彼女のせいで俺が怪我をしたと受け取られかねない。

 そうなれば彼女はまた自分を責めるだろうから、それを避けるために馬鹿を演じるべきだ。

 

 

 唇を、奪われた。

 

 彼女の今の気持ちを伝える、荒々しく、押し倒さんばかりのキス。

 俺は背中を岩肌に押し付けられ、それでもなお彼女は全身の体重を掛けてくる。

 その目は獲物を逃さないとばかりに開かれていて、至近距離で睨まれながら唇を絡めた。

 

 しばらくして口が離れるが、彼女は不機嫌な顔で黙り続ける。

 その沈黙に読み取れるのは"許さない"の一言だ。

 許しを請うため、今度はこちらから顔を近づけた。

 

 

 

 ヒト型へと戻った化け物はファデュイの高官であったらしく、手当の為に直ぐに街へと戻っていった。

 なのでナヒーダと共に現場へ戻り、騎士団の事情聴取を受けてから皆と合流する。

 

「おまえ、怪我は本当に大丈夫だったのか?」

「あんた怪我したの? 見せなさい!」

 傷を案じたコレイの言葉を受け、アンバーが俺の服を断りもなしに捲り上げる。

 

「深くない傷だから大丈夫だって。もう処置もして貰った」

「うわー、本当に怪我したんだ。これに懲りたら無茶しちゃダメなんだからね!」

「お前も怪我してただろうに」

「わたしはいいの! 偵察騎士なんだから!」

 

 身体のあちらこちらに傷を作った彼女は、しかし何ら気にしてない様子で笑った。

 

 

 アンバーはコレイと会話を始めたので、ナヒーダの様子を見れば、彼女はセノと熱心に言葉を交わしている。

 どうやら先ほどの高官の正体と乱入者の持っていた道具について議論をしているらしい。

 

 専門外の内容についていけず手持ち無沙汰なティナリが、丁度良かったという風に歩み寄って話しかけてきた。

「……セノが草神様に無礼を働かないか不安なんだけど、どうしたらいいと思う?」

「ナヒーダはむしろフランクに接してもらう方が好きだから、あのままでいいだろうな。むしろ敬って距離を取られる方が悲しむ」

 

「それでも胃が痛くて仕方がないよ」

「まあ慣れるしかないんじゃないか?」

「……きみもその一端なんだけど。なんだよ大根の妖精って」

 両耳を揃えてこちらへと向け、まるで今にも射抜きそうな表情で非難してくる。

 

「セノが彼女の異常性に感づいたんだよ。だから適当なカバーストーリーをでっち上げて、その時に出てきた設定がそれだ」

「はぁ……。まあ草神様が納得しているなら僕がとやかく言うことでもないか」

「その草神さまにも怒られたけどな」

「……きみは馬鹿なのかい?」

 テンションを表すかのように、彼の頭上の耳がへにょりと垂れた。

 

 

「帰りましょう、って伝えるよう言われたわ」

 セノとの会話は終わったらしく、そしてまたコレイが狙われても困るため、今度は念のために皆で帰る。

 

 彼女はその両手を俺へ向けて広げた。

「あなたは目を離すとすぐ危ないことをしてしまう。だから離れることのないよう、帰り道はだっこをしなさい」

 仕方なく彼女を抱き上げれば、強く首元に腕を回してくる。

 

「……なあ、おまえその歳で抱っことか、恥ずかしくないのか?」

 ナヒーダとあまり背丈の変わらないコレイが、俺たちのやり取りを見て嫌そうな顔をしながら苦言を呈した。

 コレイは身長的には思春期に入る年頃と考えられ、やはり子供っぽさというものが気に掛かるようだ。

 なお口の利き方ゆえに、ティナリが凄い顔をしているのは言うまでもない。

 

「わたくしの見た目なら普通のことではないかしら」

「いや、まあそうかもしれないけどさ……」

 何ら動じない彼女の様子に、押しの弱いコレイはたじろぐ。

 

「こいつは親の温もりを知らずに育ったんだよ。なんならお前も抱えてやるが?」

 そう、ナヒーダの背を撫でながら俺は声を掛けた。

 

 すぐさま反発されるかと思ったが、しかし彼女はナヒーダの境遇に共感したらしく、落ち着いた様子で答える。

「そうか、おまえも……。……あたしにはちゃんと親が居た。だからいい」

 家族のことを思い出しているのだろう。

 泣きそうな、でもそれを過去として乗り越えたような、強さを知った表情だった。

 

「コレイー! 寂しかったねぇー!!」

 会話を半分しか聞いていない赤ウサ耳が横から突撃してくる。

 緑頭はアンバーに抱きしめられたが、心の壁が取り払われたのか、嫌そうな顔はせず朗らかに笑った。

 

 



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9. 別れと、赤い誕生日

 今年の春の風花祭は諸事情により参加できなかったが、彼女が特別な処理をしたのか、一年越しの押し花は綺麗な色合いを保っていた。

 黎明のモンドの日差しが薄暗くも部屋を照らし、ベッドに転がる彼女の端整な顔立ちを色もなく彩る。

 

「んっ……」

 無防備に曝け出されたその口元、指の背を彼女の唇に押し当てた。

 フニフニとした柔らかく湿った感触が指をくすぐり、そして彼女をくすぐる。

 

 軽く左右に擦るように動かすと、彼女はキスを返すように指へ吸い付く。

 指の背を優しく愛撫する温かな唇はまるで乳を求める子の様で、しかし男女の触れ合いを求めるその仕草は、子供らしさからかけ離れていた。

 

「……あら、キスではなかったのね」

「おはよう、ナヒーダ」

 唇に悪戯されて目が覚めたらしい。

 

「それじゃ朝食を作ってくる」

「待ちなさい」

 食事を作りに行こうとしたが、彼女は俺を引き止めて自らの唇を指先で叩く。

 軽く応じて済ませるつもりだったものの、思いのほか気が乗ってしまい、ベッドへと押し倒してゆっくりと唇を絡めたために少しばかり朝食は遅れた。

 

 

 

「本当にアンバーに会わなくていいのか?」

「ああ。顔を合わせたら、別れを言いにくくなる」

「別に今生の別れという訳でもないだろうに」

「うるさい。私にとっては重要なんだよ」

 

 朝早くにコレイを連れてティナリたちが出発するので、それを見送りにモンド城門の橋までやってきている。

 俺は一応に彼女へ引き留めの言葉を掛けるが、その決意は硬いようで意に介さない。

 

「コレイ」

 

 ナヒーダが彼女の名を呼び、抱きしめる。

「これから先のあなたの人生が幸福であることを、わたくしの名において祈るわ」

「……もう過去の事はふっきれたから大丈夫だ。ありがとう」

 

 名を隠したのは、セノが居る手前か、神が嫌いだと何度か口から溢していたコレイに配慮したのか。

 なんにせよコレイは、出会った当初からは想像できないような、見違えた笑顔で答えた。

 

 なおナヒーダは先日に宣言した通り、へそ出しでお腹開きなトップスに太ももを見せつけるショートパンツだ。

 

 

 抱き合う彼女たちを横目に、俺はティナリとセノへ向けて別れを告げる。

「世話になったな」

 

「これしきのことなど何ともない」

「リサ女史とコネができただけでもありがたいよ。それにきみと彼女の元気な顔を見れたのは何よりも得難い返礼さ。……くれぐれも、彼女のことは頼むよ?」

 サラリと答えるセノと、謙遜しつつも念を押してくるティナリ。

 

 その後に皆で記念写真を撮ったが、これはアンバーが見たらハブられたことに怒るだろう。

 

 

 

 リサさんらが図書館の本を消毒するのを手伝っていると、昼頃にアンバーがやってきた。

「コレイ見なかった?」

「彼女はもうスメールへ向けて旅立った」

 ジンさんが告げたその言葉に、ショックを受けた様子を見せる。

 

「えぇ!? わたしに何も言わずに行っちゃったの!? ……あんた、何で引き止めなかったのよ!!」

「何故俺に文句を言うんだよ。そもそも俺は引き留めたぞ」

「嘘だ! あんたがそんな常識的な行動を取るわけないもん!」

 

 確かに俺はテイワットでの常識に欠けているが、むしろ非常識度ではこの赤ウサ耳のほうがヤバいのではなかろうか。

 

 そんな言い争う俺たちを見て、クスクスと笑いながらリサさんは一つの便箋を取り出した。

「あの子にこれを渡して欲しいと頼まれたわ」

「手紙?」

 

 ここ数日、コレイはリサさんに手紙の書き方を教えてもらっていて、ナヒーダも嬉々としてそれを手伝った。

 その際に聞こえてきた限りでは、これからの身の振り方と、アンバーへの感謝の言葉を綴ったようだ。

 

 大人しく手紙を読んだアンバーは、しゅんと気落ちした表情でそれを抱きしめる。

「この手紙に免じて、あんたの罪を許してあげる」

 

「罪ってなんだよ」

「コレイを引き留めなかったことに決まってるでしょ!」

「だから引き留めたつってるだろうが!」

 気落ちしていたかと思えば次の瞬間には沸騰したりと、騒がしい奴だった。

 

 

 

 リサさんが消毒作業に飽きたらしく、今日の作業は早めにお開きとなる。

 

 そもそもこの作業は本来、図書館の蔵書リストと実際の書籍を比較して、本が盗まれたり破損していないかを確認するためのものだ。

 当然、収められている本の全てを確認して正しく並べなおすには時間が掛かり、一日二日では終わらないので最初から気長に進めている。

 

 時刻はおやつ時で酒にはまだ早いが、今回の事件が片付いた記念にエンジェルズシェアへ行きたいとナヒーダが言い出した。

「……いらっしゃい」

 出迎えたのは以前にも見た、憮然とした表情の赤毛のバーテンダー。

 昼間かつ飯時ではないので他の客は見当たらない。

 

「ワインを二杯、お願いするわ」

「……すまないが子供には出せない」

「あら、上手く逃げおおせたのね。仮面さん?」

「………」

 

 どうやら魔人を封印した後、あの場に参入した仮面男が彼であるらしい。

 つまり事件の真犯人がコレイであることを考えれば、このバーテンダーは彼女の罪を代わりに被ったということになる。

 

「あなたが罪を被ってくれたおかげで、彼女が新たな門出を迎えることができた。だからお礼を言いたかったの」

「……知らん。そいつが勝手に助かっただけで、僕には関係ない」

「そういうことにしておくわね」

 

 会話はそれっきりだった。

 しかし口止め料なのか、ワインは二人分出して貰えた。

 ガイアとの会談でここを利用した関係で、彼はナヒーダが人間ではなく草神だと知っているからだろう。

 

 そして子供ではないと認められたのが嬉しいのか、彼女は自慢げな表情を浮かべながら小さくピースサインを向けてくる。

 その姿が面白く可愛かったので、写真として残しておく。

 

 

 

「今日のアルイクシルよ」

 エンジェルズシェアで軽食を取ってから、蔵書点検で出た埃を落とすために入浴を済ませて、今はソファで寛いでいる。

 そこへ彼女は、高い位置に結わいていた髪を降ろし、片肩から前へと垂らすルーズサイドテールにした姿で例の薬酒を運んできた。

 

 ふと、"アル"は冠詞として使われる語句であることを思い出す。

 アルイクシル、訛ればアリクシル、最後が"ir"の音だとすればアリクサーとも発音できるはず。

 

「……エリクサー」

「ええ。そうとも呼ばれるわ」

 その名前であれば、流石の俺ですら知っていた。

 

「試作だと言っていたが、完成した場合の効能は?」

「……あなたは永遠を共にしてくれると言った」

「で、効能は?」

「永遠を誓ってくれたもの」

 

 目を合わせず、こちらの言葉を聞き入れず、ひたすらに自分の主張を繰り返す。

 

「俺の記憶では、約束する前から飲まされてたと思うが」

「でも永遠を誓った」

「ナヒーダ、後から辻褄を合わせれば良い訳ではない。きみのそれは詐欺の類いだ」

「でも永遠を誓ったもの。約束は守りなさい」

 

 彼女は変な所で行動力があるというか、すると決めたことは何があっても押し通そうとするきらいがある。

 つまりは既に俺たちの関係に対する未来図を描いていて、それを実現させるためには現実上での"些事"を無視するのが彼女だ。

 

 その反応を見る限りこれを悪いことだと彼女自身は理解しているようだが、それでも態度は一切変えようとしない。

 別に彼女の希望に沿うこと自体には不満は無いが、こちらとしての姿勢を示すためにも怒って見せるべきだと判断した。

 俺は自らの膝を叩きながら彼女を呼び寄せる。

 

「ナヒーダ、尻を出せ。飲まされた回数、叩くから」

 確か以前に冗談で『尻を叩く』と言ったことがあったはずだが。

 彼女が交渉もせず独断で押し通そうとするのならば、これはもう叩いて叱ってしまってもいいだろう。

 

 その言葉に従ったナヒーダは膝にお腹を載せてワンピース服を捲り上げると、下着を降ろしてその丸く大きな尻を曝け出した。

「……下着まで脱がなくていいんだけど」

 意表を突かれてたじろいだ俺の目を、彼女はじっと見てくる。

 

「お尻が好きなの?」

「覚悟しろよ?」

 彼女の台詞で遠慮は要らないと判断した。

 ベチンと、打撃音と振動音がアルペジオを奏で、ヒャンヒャンと子犬の如く鳴き声を上げるその尻を俺はしばらく叩き続ける。

 

 

 

 軽く赤くなった肌。

 

 痛みのない程度には加減したが、何度も叩けばそこには赤みが差してくる。

「んっ……、ふっ!」

 そっと指先で悪戯するようにその赤みを撫でると、彼女はくすぐったさに尻を振った。

 

「責任はとってね?」

「俺でよければ責任は取るよ。そもそもきみの唇の初めてを奪ったのも俺であるし」

「……奪った唇はわたくしのものだけではないはずだけど?」

 赤い帽子を思い出し、スッと顔を背ける。

 

「わたくし、気づいたの。無能な働き者よりも、無能な怠け者のほうが良いんだって」

 彼女は体を立てて、下着を元に戻しながらこちらへ向き直る。

 

「それは……」

「だからもう、あなたを飼わせてくれないかしら?」

 手を首筋へと伸ばし、そこを撫でながら真剣な眼差しで彼女は言った。

 

 彼女は根に持つわりに、状況に応じて怒りを引っ込めてみせることができる。

 だがそれは怒りが収まったように見えても根に持っていることを意味し、つまり先日のことも含めまだ許されてはいない。

 

「それだときみが飽きるまでの関係になるが、それでいいのか?」

「あら、あなたはペットを飼った経験があるのでしょう? 飽きたら捨てるの?」

 考えてみれば反論不能だったので、別の糸口を探す。

「……俺はきみと対等な、きみの隣に立てるような存在になりたいんだ」

 

「ふふっ、嬉しいわ。……でも」

 彼女は俺の頬に手を添え、言い聞かせるように語る。

「その努力のせいでわたくしを捨てるのならば、わたくしはあなたに"首輪"を付ける」

 

 真っすぐで迷いのない、しかし俺ではなくその奥を見つめる眼差し。

 これは本気で、更なる枷を計画しているのだろう。

 彼女は他者が"社会性"とでもいうべき箱庭の中に収まる限りは寛容だが、その箱から出たり、箱自体を壊しかねない場合にはとてつもなく頑固となる。

 

「首輪なんて無くてもきみを捨てたりはしない」

「逃げてはだめよ?」

「逃げないって」

 

 正しい努力をするという意味での"逃げない"と、彼女を捨てないという意味での"逃げない"。

 その両方に向けて答えを返した。

 

 

「ただ、そもそも老化を形質の崩壊だとすれば、肉体的なエントロピーを保った所で、精神的なエントロピーは削れていくんじゃないか?」

 

 肉体とは精神の入れ物に過ぎず、例え入れ物が不変でも、初心、即ちその中身が変質していくはずだ。

 永遠と言えば聞こえがいいが、むしろ諸行無常と考える俺にとってはそれを信じることができず、何らかの形で死を迎えるのではないかと勘ぐってしまう。

 

「……それでも、わたくしの隣にはあなたが居て欲しいと決めたの」

「きみの願いには沿えるよう努力するが、万が一に死んだ場合には俺の死を乗り越えてくれよ」

「………どうしてあなたは、永遠の命に興味がないの?」

 

 まるで小説の悪役のような言葉だった。

 まあ実際にも、勝手に寿命を延ばそうとするのは悪役の所業だろうが。

 

「俺にとって死とは、別れではなく"無"であるからだ。死後に苦痛など無い。ただ眠りだけがある」

 その返答を聞いた彼女は、内容を吟味するために考え込む。

 だが死の受容など理解はできないだろうし、俺も他人を納得させられる気はしない。

 

 その後も問答は続いたが、当然ながら中身は平行線であった。

 

 

 

 夕方頃になると赤く小さな爆弾が部屋を訪ねてきた。

「やっとお仕事が終わったの!」

 

 いつも高いテンションが、今日は一際に高い。

 何か良いことでもあったのだろうか……。

「今日はクレーの誕生日だよ!」

 その言葉を聞いてサーっと血の気が引いていく。

 

「プレゼントを取りに行ってくるわね」

 ナヒーダは別室へと向かう。

 彼女は以前にプレゼントを自作すると言ってその包装用品を購入していた。

 だから用意を忘れたのは俺だけだ。

 

「あれー。黒いお兄ちゃん、プレゼントを忘れたの?」

 意外に洞察力があり目聡いそいつは、贈り物を用意せず狼狽えている俺の様子を見て事態を見抜いた。

 代わりに言い訳を用意しようと試みたが、その前に状況が動く。

 

「じゃあ、仕方ないね」

 小さな太陽が膝の上に乗ってくる。

「お兄ちゃんが悪いんだよ?」

 

 首に回された暖かな両腕に、僅かな時間ながら意識を逸らしてしまった。

 その行動の意図に思い当たるものがあり止めようとしたが、そこは既に彼女の射程圏内であり、引き剥がすにもワンテンポ遅い。

 

 頭一つ分座高の低い彼女が膝に乗れば、互いの顔はすぐ目前にあり。

 気づけば最初からそこに距離などなかったかのように、その顔が視界の全てを占めていた。

 

 力づくで唇を奪われる……。

 

 

 ……その寸前にどうにか手を滑り込ませた。

 

 手のひらに感じる、温かく柔らかいクレーの感触。

 彼女は目を閉じたまま、まるで犬がキスするかのように、グリグリと唇を押し付け続けている。

 

 体の部位の中でも手というのは神経が多いため、嫌でもその唇の動きを克明に感じてしまい、ムズムズとした耐え難いくすぐったさが襲う。

 胸板には彼女の胸元が密着し、口元の動きと連動して形を変えた。

 

 しばらくして目を開くと漸くそれに気づいたようで、赤い爆弾魔は文句を口にする。

「……あれー!? それはズルだよ、お兄ちゃん!」

「ズルじゃねえよ!」

 彼女はポフンともう一度、手のひらを唇で貫通しようとするかのように、顔を押し付けてきた。

 

 そんな争いをする内に、パタパタと足音が聞こえる。

「お待たせ。クレー、誕生日おめでとう」

「ありがとう! ナヒーダお姉ちゃん!」

 

 ナヒーダの姿が見えると同時にクレーは飛び退いて、彼女へ向かって駆け寄っていく。

 先の一瞬の攻防によるスリルゆえか、嫌にドクドクと高鳴る心臓だけが残された。

 

 

 

 どうやら誕生日会をクレーの家でこれから行うらしく、彼女は俺たちを招待してから、準備があると言い先に帰っていった。

 ナヒーダのプレゼントも今は受け取らずに後で受け取りたいとのこと。

 当日の土壇場で『これからパーティーだ』と告げるあたりがクレーらしいが、せめて前日ぐらいに伝えて欲しい。

 

 今から誕生日会までの間でプレゼントを買う予定だが、秋月春風に気を取られて等閑に選んでしまえば、意外に繊細な爆弾娘は軽視されてると受け取って傷づく可能性がある。

 少なくとも義理を果たす程度にはきちんとしたものを用意しなくてはならない。

 

「なんだか態度がぎこちないけれど、どうしたの?」

 半ば現実逃避気味に考え事をしていると、ソファの隣に座った彼女が首を傾げて声を掛けてくる。

 逃げるわけにも行かないだろう。

 

「……先ほど、下手したらクレーとキスする所だった」

 一瞬で笑みが消える。地雷を踏みぬいた。

 

「いらっしゃい?」

 ポンポンと彼女は自らの膝を叩き、ニコニコとした作り笑いを張り直してこちらを見つめる。

 ……俺はその意図を察する。

「それだけは勘弁してくれないか?」

「嫌」

 

 

 

『気分はいかがかしら?』

『……今、それを聞くのか?』

『ええ。とっても気になるもの』

 

 







次章「風神の帰還」。吟遊詩人の来訪や二回目の花神誕日など
次々章は「さよならテイワット」
それら二章を挟んでから原作開始となる予定


面白い七神小説が増えて嬉しい限りです
陰ながら応援しています


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