カッコいい女に愛されるシチュ (もぐら王国)
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騎士長に愛される




小鳥もさえずる爽やかな朝。

小柄な青年であるロットは、作った朝食をテーブルの上に並べていく。コーンスープに目玉焼き、カリカリベーコンなど・・・。美味しそうな料理を二人前分用意していくが、ロットの妻はまだリビングに現れない。

彼の妻―リオンーは王国に仕える騎士団の隊長だった。

リオンの剣技は並ぶ者のいない達人級の腕前で、おまけにその佇まいには不用意に近づいたものは全てを切り裂くとでも言うような鋭い風格が常に備わっていた。それが色々あって、当時、下級の一般兵士だったロットと結ばれているのだから世の中は何が起こるのか分からない。

ロットは彼女の寝る二人の寝室へと向かう。

普段はお勤めで早起きな彼女も、今日のような非番の日、それもロットと激しく愛を交わし合った翌朝などは大抵お寝坊になる。そんな彼女を起こすのも夫であるロットの仕事だ。

 

「リオン、朝だよ」

 

ベッドの上で布団から頭だけ出しているリオンに優しく声を掛けるが、彼女は「んん~っ」と唸るだけで、目を開けようとはしない。

 

「リ~オ~ン」

「んん・・・」

 

彼女は意外に意固地だ。そこに騎士のタフさも合わされば鉄壁の要塞が完成する。ロットはそんな彼女の守りを崩すために、カーテンを全開で開け、差し込む陽の光を顔に浴びせた。

 

「ほら、リオン。いい天気だよ。朝ごはんを食べたらデートにでも行こうよ」

 

美青年とも間違われる彼女の端正な顔立ちが光に照らされるが、すぐに寝返りを打って背を向けてしまった。

普段はまるで見せない子供っぽい仕草をする彼女は実に可愛いが、しかし困ってしまう。このままでは布団を干すことが出来ないし、朝ごはんが冷めてしまうし、なにより彼女と過ごせる折角の休日が勿体ない。

そう思ったロットは心を鬼にして、多少強引な方法で起こすことに決めた。

くすぐり攻撃である。

いくら身体を鍛え上げている王国騎士と言えど神経の集まっている脇腹は弱点に違いなく、リオンもまたその部位への刺激に大層弱かった。

まして今の彼女は裸で、布団の下は無防備である。くすぐり攻撃はこの上なく有効な手段だと思われた。

そうと決まれば早速ロットはベッドに上がり、リオンの掛けている布団にお邪魔して、横に寝た。

目の前には眉目秀麗なリオンの寝顔。

 

「リオン。そろそろ起きてってば」

「んぅ・・・」

「起きないと、(くすぐりで)襲っちゃうぞ~」

「・・・」

 

最終勧告まで行ったが起きなかった。であれば、しょうがない。

ロットは一応の免罪符を胸に、くすぐりを実行に移すことにした。

指先をよく引き締まった太ももに触れさせ、その滑らかな肌をつぅーっと滑らせて、やがて、脇腹へ・・・。

しかし。

その指が脇腹へ辿り着くことは無かった。

 

ぎゅうぅぅっっ

 

「っっっ!?」

 

ロットは突然強く抱きしめられたのである。それを仕掛けたのは勿論、彼の目の前にいたリオンであり、リオンは笑みを浮かべながら猛禽類のような鋭い目つきでロットの目を真っすぐと見つめていた。

 

「おはよう、ロット」

「あ、うん。おはよう、リオン。やっと起きてくれてうれs」

「朝から私を襲うとは良い度胸じゃないか」

「いや・・・これは、違くて」

「そうか? 手を私の臀部に触れさせているのにか?」

 

言いながら彼女はロットの手に自分の手を重ねる。

 

「あ、これは、いきなり抱きしめられたからで」

「ほう。でも、さっき君が自分で言ったんじゃないか」

 

彼女はロットの耳に口を寄せて、ゆっくりと囁いた。

 

「襲っちゃうぞ」

 

って。

 

その言葉の破壊力と鼓膜を揺らした低音に打ちのめされ、ロットの顔はみるみる真っ赤に染まった。

 

「くっふふ。自分で言っておいて何でそんなに赤くなってるんだい」

 

可笑しそうに笑う彼女にロットはときめきを覚える。

出会った昔も婚約した今も、彼は変わらず彼女に惚れ続けているのだから、ときには生娘のように顔を赤くしてしまうのも仕方がなかった。

そして、彼女を起こすという任務もまた、過程はどうあれ達成された。

ロットはこれ以上かっこ悪い姿は見せられないと思い、逃げるように布団から出ようとした。しかし、その腕をリオンの逞しい腕が掴んで引っ張り、再び布団に引きずり込まれた。

 

「おわっ」

 

ロットは気付けばまた、リオンに抱きしめられる。

 

「逃げんな」

 

吐息と共に呟かれた言葉にはしかし、確かな意思が込められていた。

 

「でも、リオン。朝ごはんもう出来てるし・・・」

「お前の料理は冷めても美味い」

「そう言う問題じゃ」

「それにご飯は運動して腹を空かせた後に食べるのが一番うまい」

「ええと」

「昨日は君が先に力尽きてしまったからな。私はまだ体力が余ってるんだ」

 

そう言うと彼女は、ロットに顔を寄せて額をくっつけ合う。

鼻先が触れあう距離。

目を見開いているロットの瞳に自身の瞳を合わせて、言った。

 

「分かるな?」

 

リオンはロットの脚に自身の生足を絡ませた。

ロットは僅かに息を呑んだ。

 



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元暗殺者に愛される

雪が降り静寂なる闇が広がる深夜。感情の伺えない冷徹な瞳をした青年が、人目に付かない路地裏を慎重に歩いていく。

彼は、暗殺者であった。

国に雇われている身で、先日まで敵国の要人暗殺の任務に当たっていた。今はその帰り道。吐く息は白く、冬の夜に着込んだ漆黒のコートは血で赤黒く汚れている。

先程、同業者に襲われたのだ。と言っても、彼の方が気付くのが早かったので返り討ちにすることが出来た。薄く雪の積もった地面にひっくり返し頭に銃口を突きつけ死をプレゼントするその間際、襲撃者は彼が許してもいないのに勝手に口を開きわざわざ敵国の言葉で恨み言を言ってきた。それで敵国からの追手だと知れた。お偉いさんの恨みを買ったらしい。珍しいことではない。彼は躊躇なく引き金を引いてそいつの頭を吹っ飛ばした。

彼は帰宅を急ぐ。身体が震えている。その震えは寒さだけでなく恐怖心によっても、もたらされている。身体に付着した血と肉片が彼に彼を狙う刺客の来訪を予感させ続けていた。

彼は臆病者なのだ。それも極度に。だから小さい頃から殺される前に殺さなければならないという強迫観念の元に沢山の殺しを行ってきて、気付けば生業にまでなってしまった。隠れて殺す分にはよいが、対人は、苦手だ。

彼は内心、暗殺者に暗殺者を送り込むとはなんて無駄な事をと嘆きながら、しかし他の襲撃者がやって来るのではないかと怯えを捨てきれず、緊張の面持ちで周囲を伺いながら、唯一の安らぎの場である我が家を目指した。

 

 

 

 

やがて、玄関に辿り着いた。幸いにもあれから追加の追手がやってくることは無かった。

この時間では流石に妻も寝ている。彼は妻を起こさないよう、冷たいドアノブにゆっくり手を掛け音もなく玄関を開け、そして閉めた。

廊下を包んでいるのは暗闇。しかしそれは外の世界に広がるぼんやりと気持ちの悪い暗闇では無く、もっと柔らかく落ち着く暗闇である。

心地の良い静寂。

彼は緊張を解いて安堵の息を吐きながら靴を脱ぐためにしゃがみ込んだ。だがその瞬間、

 

ばっ。

 

電気が付いた。予期せぬ視界の変化に彼の心臓は跳ね上がる。

 

(侵入者っ!?)

 

疑念と共に飛ぶように立ち上がりながら、流れるような動作でコートの内ポケットに仕込んだ拳銃を握り、前方に構えた。

しかし、そこで彼は目を見開く。

彼の目の前に立っていたのは、肩の上辺りで切り揃えた短い髪に切れ長の瞳を持つクールな雰囲気の女性――つまり彼の妻、イルダであった。

 

「すみません。驚かせるつもりはなかったのですが・・・」

「いや。僕の方こそすまない。まさか起きているとは思わなかった」

「さっきまで寝てましたよ。ただ、貴方の足音が聞こえたので」

「相変らず耳が良いんだな」

 

彼は小さく笑いながら拳銃をポケットに仕舞い直した。

イルダは、元々彼と同じ暗殺者で、彼の教え子でもあった。現役時代は諜報活動にも長けていて、足音を聞き分けられるのも暗闇の中に気配もなく立てるのも、不自然な事では無かった。

彼は靴を脱ぐために再びしゃがもうとしたが、その前にイルダが意味深に両手を広げた。

それを見て彼の動きは止まる。

一体何を意味しているのか。

暫し思考して、彼は最悪な可能性に行き着いた。

もしかして身体に何かしらの発信機を取り付けられていたのか、と。だから妻は黙って自分に腕を広げさせるジェスチャーをして、それを取り除こうとしている……。

彼の心臓は焦燥で早鐘を打ち始める。思考は急速に回転を始める。

まずい。盗聴器か?それとも位置情報か?盗聴器ならまだお互い名前を呼んでいないし個人情報を割り出される心配は低い。だけどGPSなどの場合は??わざわざ複雑な道を通って来た意味が……。

彼が顔面蒼白で思考の渦に呑まれている間に、イルダは足が汚れるのも構わずに裸足で土間に降りて、彼の頬に手を添えた。

 

「大丈夫です。貴方の予想は外れです」

「……え?」

「何も仕掛けられていませんよ。そもそも、そんなミスをしない事くらい貴方自身が一番ご存じじゃないですか」

「あ、あぁ。そう、か」

「ね?」

「すまない。ちょっと気を張っていて」

「いえいえ」

「でもそれなら、さっきのは」

「分かりませんか?」

「……ああ」

「そうですか……。仕方ない人ですね」

 

そう言って彼女は彼の背中に手を回し、耳元に口を寄せ、

 

「正解は……」

 

呟いた。

 

「“抱きしめさせろ”です」

 

その言葉と共に彼女は彼をぎゅうっと大事そうに抱きしめた。

彼は―生きている人間特有の―柔らかさと温かさに包まれて、安らぎに満たされていく。

 

「おかえりなさい。アッシュ」

「……ただいま。イルダ」

「心配してたんですよ。予定の日になっても帰ってこないし、連絡もしてこないし」

「それは、すまない…。でもほら、よくあることじゃないか。任務予定期間が延びることなんて」

「だとしてもっっ」

 

そう彼の言葉を遮るように言って、イルダは顔を起こし、彼の顔と向かい合った。

彼女の瞳は涙で潤んでいた。

 

「殺られたかもしれない、って思うじゃないですか。 ……人間は簡単に、殺せるん、ですから」

 

彼女は俯く。暗殺者の言うその言葉に間違いなど有る筈もなく、実際、彼女も彼も沢山の仲間の死を目の当たりにしてきていた。死をもたらす暗殺者は、自身もまた気まぐれな死神の鎌の上で辛うじて生かされているに過ぎないのだ。

 

「だからいっぱい抱きしめさせてください。アッシュ。貴方が生きていることを感じるために」

「……ああ」

 

それから二人はしばらく無言のまま抱きしめ合っていた。随分とゆったりした時間が流れた。お互いの心拍が同期して重なるくらいの長い時間が、過ぎた。

やがてイルダの方から口を開いた。

 

「震え、止まりましたね。良かった」

「バレていたのか」

「当然ですよ。アッシュは昔から臆病なんですから」

「情けなくてすまない」

「いいえ。むしろ嬉しいです。臆病であれば死を恐れることが出来ますから。」

「任務遂行が最優先事項の暗殺者としては致命的だな」

「私の夫としては百点です。私には貴方しかいません。私を一人ぼっちにしないのは偉いです」

 

“偉い、偉い”

 

彼女はそう呟きながら彼の血で固まったぼさぼさの髪を繰り返し撫でた。彼は自分が子ども扱いされているようなむず痒さを感じながらも、黙ってそれを受け入れていた。

生きていることを肯定されるのが嬉しかった。

それから少し経って。

やがてどちらからともなく身体を離した。そしてまだ若干名残惜しそうな表情をしているイルダの姿を見た時、彼は「あっ」と声を漏らした。

血濡れた彼のコートを抱きしめた彼女の服や肌が、同じく血だらけになってしまったのだ。

 

「イルダ、申し訳ない。身体が血まみれになってしまった」

「はい。そうですね」

「そうですね?」

「最初に気付いていましたよ。震えていたことから推測するに、帰り道に襲撃にでも会ったんじゃないですか?」

「それは、そうなんだが」

 

“今、そんな事どうでもいいだろ”と軌道修正する彼に、”そうでした”と彼女は笑う。

そして平然と言った。

 

「一緒にシャワーを浴びないとですね」

 

どうやら妙な軌道に乗ったらしいと彼は悟った。

 

「どうしてそうなる」

「私、血だらけになっちゃいましたから。あと寝間着で廊下に立っていたので寒いです」

「そうだ。だから順番に浴びればいいだろう」

「駄目です。私にはもう一つ重要な任務があるので」

「任務?」

「アッシュの身体に傷が無いか、有ったらどのくらいの傷か確認する任務です」

「そんな任務は存在しない」

 

さも当然とばかりに発言するイルダだったが、照れくさい彼は当然のように突っぱねた。

だが彼女は尚も食い下がる。ここまで頑固な一面があるとは彼も知らなかった。

何か理由があるのか。

彼は不思議に思って、尋ねた。

すると彼女は凛とした目つきで彼を見つめながら言った。

 

「貴方が無事だと分っていても、実際に目で見て触れて確認しないと安心できないんです。だから、お願いします」

 

そこまで言われると、断ることは出来なかった。

結局この後二人は裸同士で浴室へ入り、一緒にシャワーを浴びた。

 

彼女は愛おしそうに目を細めて、彼の肌を撫でた。

 

 



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御令嬢に愛される

次話投稿少し遅れます


「「はぁっ、 はあっ、はああっ」」」

 

沢山の緑と花が並べられている城の広大な庭園。裸の格好をした子供たちが必死にバラバラに駆けていき、その後を高さ3mはあろうかという巨大な狼がご機嫌に追いかけていく。

彼らは、餌であった。

狼に与えるためだけに買われた奴隷。

そしてその狩りの様子を、丸テーブルの椅子に座って、紅茶を飲みながら愉快そうに眺めている髭長の貴族が、彼らを買った主である。

 

「そら。ガルムちゃん。餌だ。餌を捕まえるのだ。うひひひひひぃぃっっ」

 

“ガルムちゃん”と呼ばれた狼は、貴族の不気味な笑みに応えるように「ヴァウっっ!」と短く、地鳴りのような響きの鳴き声を上げた。

大人と比べて成長途中の骨肉が柔らかい人間の子供は、狼にとってのご馳走に他ならない。

狼は、逃げている子供のうちの一人に狙いを定めると途端にスピードを上げ、あっという間に捕まえた。狼の強靭な前肢に押さえつけられ、大の字で地面に突っ伏したまま身動きが取れなくなる少年。その様子を、植え込みの陰に身を隠した少年・ユーリが、草の隙間から覗いていた。

彼はユーリと共に奴隷商に捕まり、買われ、この屋敷に連れてこられた経緯があり、奴隷たちの中でもユーリと一番仲の良い友達だった。

その彼の命が失われようとしている。

しかしユーリは何もすることが出来なかった。手足が震えてまるで動かず、ただ息を殺して見つめる事しか出来なかった。

捕まった少年は、泣き叫んでいた。

『死にたくないっ!』

『嫌だっ! 離してっ!』

生への渇望を必死に叫ぶ。しかし誰も助けには来ない。今の彼は、断頭台に首を乗せられた囚人と同じだ。

やがて喚く少年を煩わしく思ったのか、狼がおぞましい口を開いて少年の頭に近づけた。

そして口が勢いよく閉じられる、その間際。

少年とユーリは目が合った。時の流れが緩やかになる。少年が瞳に恐怖を浮かべながら口を開いた。

 

『た す け て』

 

最期の言葉だった。

彼は次の瞬間には、首から先を食いちぎられ、物言わぬ肉塊となり果てた。切断面からは噴水のように血が吹き出し、辺りには脳漿が散らばり、彼が死んだことを如実に告げた。

そこから先は地獄であった。

血肉を見て興奮した狼は次から次へと逃げる奴隷を捕まえ、喰らって行った。庭園には何十人もの子供たちの悲鳴がこだまし、鉄の匂いが充満し、内臓や骨があちこちに転がった。

一方的な殺戮はしばらくの間続いた。

やがて、数十人いたはずの子供たちは全て喰われ、最後にユーリの番がやってきた。

彼の前に見上げる程に大きな狼が立ち、彼を見下ろした。

狼が舌なめずりをする。

ユーリがそれをも見て連想するのは仲間たちの死体である。どれも惨たらしい有様で原型を止めていない。自分も”それ”と同じ姿になるのが、誰の記憶にも残らないただの肉となるのが、怖くて仕方が無かった。

ユーリは震えで立っていられなくなり、ペタンと地面に座り込んで狼の口を見上げていた。

狼が口を開き、徐々に近づけてくる。

身体が強張る。

一緒だ、友だちと……。あれが僕の身体を……。

 

“かひゅー。かひゅー”

 

ユーリは恐怖で呼吸の仕方を忘れ過呼吸になる。でも狼の恐ろしい口から目を離すことが出来ない。怖くて苦しくて涙が出る。

狼の牙が徐々に近づいてくる。

鼻がよじれるような血肉の鉄臭さが鼻腔から入り込んで、思考を霞ませる。恐怖で思考が出来なくなる。

狼の牙がそばに来る。

心臓が激しく暴れ回る。全身の血液の激しい流動を感じる。

狼の牙が、触れた。

ユーリは、叫んだ。

 

「こ゛め゛ん゛な゛さ゛い゛っ゛っ゛」

 

誰に対してのものだったかは分からない。

狼なのか、友人なのか、自分なのか。

ただ、謝った。

 

「ごめんなさいっ ごめんなさいっ ごめんなさいっ ごめんなさいっ」

 

謝って、謝って、謝り続けて。

そして彼は……。

 

 

 

 

……。

 

……り。

 

……ゆーり。

 

「ユーリっっ」

「っっ!!」

 

彼は驚いたように目を開けた。そこは庭園ではなくベッドの上。目の前では、優しい瞳をもつ赤髪の気高い雰囲気の女性が、上半身を起こし、ユーリを見つめていた。

 

「大丈夫か? ユーリ」

 

彼女はそう言ってユーリの瞳にしなやかな指の腹を寄せ、涙を拭った。そこで初めて彼は自分が泣いていた事に気が付いた。

 

「お前はうなされていたんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も謝っていた」

「申し訳ございません、ミラ様。起こしてしまいましたよね」

「気にするな。あの時の夢を見ていたのだろう」

「はい……」

「それより、ほら。水だ」

 

彼女が木のコップを差し出してきたので、ユーリは慌てて体を起こして受け取り、口にした。ひんやりと冷えた水は恐怖で干上がった喉を潤した。

ミラ。

彼女は、名家のご令嬢であった。そして、悪は討ち滅ぼすべしという貴族にしては珍しい信念を瞳の奥に宿していた彼女は、自警団を支援し、更に、口先だけの正義など話にならんとばかりに自身もまた身分を隠し、こっそりと自警団の一員として活動をしていた。

ユーリは狼に食われる間際、その自警団に、彼女に、助けられた。

以来ユーリは彼女に使用人として雇われ、この屋敷に住み込みで働いていた。

 

「どうだ……落ち着いたか?」

「は、はいっ。ありがとうございました」

「それは良かった」

 

彼女は微笑むと、自ら空になったコップを受け取り、近くのテーブルに置く。ユーリは「それは自分でっ」と慌てたが、ミラは「よい」と手で制した。彼女は立場にこだわることが必ずしも良い振る舞いではない事を知っていた。

それから、ユーリとミラは互いにベッドの上に座った姿勢のまま、暫し見つめ合った。

ユーリは何か言いたいことが有るが言い出せないと言ったもどかしい様子で口を開きかけては閉じ、を繰り返し、彼女はただ慈愛のこもった眼差しを向けてそんな彼の言葉を待った。

二人の間に静寂が訪れる。

が、やがてユーリは言葉を紡ぐのを諦めるように俯くと、次には使用人としてのいつもの真面目な表情で顔を上げた。

 

「すみません、ミラ様。また迷惑をかけるわけにもいかないので、今日は別室で寝させていただきます」

 

失礼のない丁寧な言葉遣いに尤もな理由。しかし彼女は

 

「駄目だな」

 

と断った。「えっ」と戸惑うユーリに対して彼女は尚も続ける。

 

「従者が主に嘘をついてはならないというのが私が決めたルールだ。そしてユーリは私に本心を口にしていない。そうだな?」

「そ、それは……」

 

ユーリは言葉に困ってしまう。

彼女の言っていることは事実だった。だがそれは、彼女に迷惑をかける行為で何より使用人と主という身分を考えれば不相応なお願いであった。ゆえに彼はどうすればいいのか分からず、ただ俯く。

そんな彼を見て、彼女は優しく抱きしめた。身長差で彼が胸を顔を埋める形になる。

 

「細かいことは気にしないで素直に本心を言えばいい」

 

彼女は言い聞かすように言って、そして呟いた。

 

お前を守りたいんだ。

 

その言葉はユーリの鼓膜から身体へ入り込み、心を溶かした。彼の身体はタガが外れたかのように震え始め、瞳からは涙がこぼれ始める。ミラはユーリをきつく抱きしめた。

 

「言え」

「ミラ様ぁ……!」

 

それが合図だった。

我慢の限界を迎えたユーリは涙声で言葉をぽつりと漏らし始めた。

 

「ミラ様……。怖いんです!僕は、とっても怖い……!またあの狼が来るんじゃないかって、あの貴族が捕まえに来るんじゃないかって、そう思わずにはいられないんですっ」

「……そうか」

「だから、僕と一緒に寝てくださいっ! それと……その、出来ればこのまま、抱き着いたままで……」

「あぁ、構わない。好きなだけ抱き着くと良い」

「ありがとうございますっっ」

「一緒に寝よう。お前が悪夢を見ないように」

「ミラ様ぁ……ミラ様ぁ……」

 

ユーリは母の名前を呼ぶように何度もミラの名前を呼び、その度にミラは愛おしそうに彼の柔らかな髪を撫でた。その様子を傍から見れば、深い愛情で繋がった親子そのものであった。

やがて二人は横になるとミラは、震えながら胸に顔を埋めているユーリの身体に布団を掛けてあげた。

 

(拾った時から決めたのだ。お前を苦しめる全てのモノから、お前を守ってやる……)

 

ミラは慈愛の籠った眼で彼を見下ろす。

 

夜はまだ明けない。

 



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エルフに愛される

「いや~まさか、捕まるとはねぇ」

「ふん、舐めやがって。侵入者が」

 

ここは森の奥にひっそりと存在する倉庫の中。レオスはそこで手足をロープで縛られ転がされていた。きっかけは少しの油断だった。エルフを妻にもつレオスは、たまたまエルフを捕まえて売り飛ばす奴隷商のアジトを突き止め、ちょっと中の様子を覗いて敵情報の手土産を一つや二つ持ち帰ろうとした矢先、背後にいた敵に気付かずに電気ショックの魔法を浴び、目を覚ました時には拘束されていたのである。

レオスはわざと感心したように声を数段高くして敵の集団に話しかける。

 

「いや~、にしてもお見事。僕意外と気配察知は得意なんですけど全然気づけなかったですねぇ。何かの魔法ですか?」

 

捕縛されてもなお元気に口を開いているレオスが癇に障ったのだろう。集団のうちの一人が近づいてきて、彼の鳩尾を思いっきり蹴り上げた。

 

「う゛っ゛!?」

「うるせーんだよ、侵入者。てめぇ、自分の立場分かってんのか?あぁ?」

「……へへっ。すみません、お喋りは昔からなもんで」

 

彼は薄笑いを浮かべながら答えた。煽っているわけではなく、彼は確かに子供の頃からどんな状況だろうと陽気で事の深刻さなど気にも留めないお気楽な男なのである。だからこんなピンチな状況でもへらへらしていられる。ネジの飛んだ人間。

 

「まぁいい。冥途の土産に教えてやるよ。俺らはなぁ、透明になれる魔法をエルフから教えてもらったのさ」

「……透明化、ね」

「どうだ、すごいだろ。こんなのは人間の誰も知らない。エルフの禁じられた魔法の一つだ」

 

自慢げにそいつが語れば、後ろにいた他の野郎達もニヤニヤと笑った。

透明化。なるほど、ゲスい奴らである。さしづめ捕まえたエルフに開放する条件とか言って教えるように迫ったのだろう。開放する気などちっとも無かったくせに。

彼はげんなりした顔をする。ちらりと野郎たちのさらに向こう側に目を向ければ、レオスと同じように捕まったエルフたちが何人かいて、彼女たちはレオスよりももっと憎しみを孕んだ憎悪の表情を男たちに向けていた。プライドと仲間意識の高い種族ゆえに、同胞の心を踏みにじるような行為には大層腹を立てているに違いなかった。

 

「さあ、お喋りはここまでだ」

 

スキンヘッドのリーダー格らしき男がレオスの前に歩み出てきて、手に握った短刀の刃先を向けてきた。

タイムリミット。空気が変わった。不味い状況であった。出来るだけ時間を稼いだが、間に合ったかどうか……。

 

「さて。くだらない正義のせいで貴様はあの世行きだ」

「あー、どうにか変更できませんかね?」

「はんっ。見られちまった以上生きては返せねえ。せめて来世では、俺たちみたいな立派な悪人に成れることを祈るんだな、がははははは」

 

野郎たちの下卑た笑い声が重なる。奴らはレオスの首を刎ねる未来を微塵も疑っていないし、実際その時はすぐ傍まで迫ってきている。レオスの心臓が早鐘を打つ。

 

「では、さよならだ」

 

短刀が首の上に高く掲げられる。

そして、

 

「死ねえええええっっ」

 

振り下ろされる。

死の恐怖が時を遅らせる。

レオスはゆっくりゆっくりと降りてくる刃を見ながら、

 

エーリオ。ごめん。

 

愛しの妻の名を呟いた。

その瞬間、

 

ドゥガアアアアァァァンッッッッ!!!

 

凄まじい爆発音がして倉庫の入り口側の壁がすべて吹っ飛んだ。突然のことに驚いてその場に居た全員が吹き抜けになった入り口に目を向けた。

土煙の中、一人のシルエットが歩いてくる。

 

「あらあらああら。脅かせてしまいましたわね」

 

特徴的な長い耳。切れ長の目とその下の色っぽいほくろ。スッと通った鼻梁に微笑を浮かべる唇。すれ違った誰もが振り返るような美貌を持ったその女性は、間違いなくエルフであり、レオスの妻エーリオであった。

エーリオは倉庫の中を見渡した後、野郎たちに微笑みを向ける。

 

「貴方たちが我が同胞を攫い、我が夫を傷つけんとする愚か者たちですか?」

「だったらどうする?エルフの姉ちゃん」

「ぶっ潰します♡」

 

エーリオがにこっと目を細めて放った言葉を聞いて、敵はげらげらと笑った。

 

「潰す??たった一人でか?」

「貴方たちの相手など一人で充分ですわ」

「ほお、大した自信じゃねえか。俺はそういうエルフのお高い自信をへし折るのが一番好きなんだ」

「悪趣味ね」

「っチ! お前ら、やっちまええええ!!」

 

リーダの荒声と共に敵は一斉に雷魔法を唱えた。敵がエーリオに向かってかざした手の平から凄まじい勢いで稲妻の軌跡が伸びていく。それはレオスも喰らった簡易的な雷魔法で、一発でも喰らえば気絶は免れず、それを何発も喰らおうものなら命が危ない。

 

「エーリオ避けろッ!!」

 

レオスは祈るように叫んだ。だが無数の稲妻は無慈悲にもエーリオの元へ向かっていき、彼女自身もその場から動かない。

もう、すぐに、辿り着く。

エーリオが、死ぬ。

 

「エーリオオオォォッッ!!」

 

レオスの悲痛な叫び。

……しかし。

稲妻が彼女の身体に触れることは無かった。

 

「なん・・・だと・・・」

 

敵が驚くのも無理はない。全ての稲妻は彼女の元に辿り着く直前に見えない盾に弾かれて一つ残らず消滅したのである。

それはどんな矛も通さない堅牢な防御魔法であり、彼女は当然のように無傷であった。

 

「あーぬるい、ぬるいですわ。こんな幼稚な魔法で私に傷をつけられると思ったのですか?」

「そんな……。ありえない。十人分の雷魔法だぞ?それを防ぐなんて……」

「ありえないのは貴方たちの残念な頭です。魔法は数より質なのですよ。全く、その程度の理解力で神より賜りし魔法を扱うとは……」

「俺たちの魔法が通じないなんて。そんな……そんな馬鹿な……」

「はぁ。もういいですわ。お手本を見せて差し上げましょう」

 

ため息を吐きながらそう言った彼女は、お返しとばかりに敵に向かって手をかざした。手の平の前に浮き上がる巨大な紋様は強力な魔法が放たれようとしていることを知らせ、人間であるレオスにも彼女の手の平から放たれる魔法が敵のものとは全く格が違うことを予感させた。

だが。その魔法が飛び出すまでの一瞬の間。

敵は驚くべき行動をとった。

全員、額を地面につけて降伏の姿勢を見せたのである。

この展開は流石の彼女も想定外で面を食らった表情をした。

リーダー格のスキンヘッドが口を開く。

 

「今までの非礼を詫びます。すみませんでした!」

「あら」

「捕まえたエルフを全員解放します。貴方様の夫も開放します。ですから、ここはどうか見逃してください」

「あらあらあら」

「どうか、お願いします!!」

「あらあらあらあらあらあら」

 

 

それを聞いた彼女は、今までの穏やかな表情とは一変、眉を寄せ心底軽蔑した表情で敵を見た。

 

「悪事を働いていおいて、いざ分が悪いと見るや惨めに命乞いですか」

「そうです。私共は惨めで卑しい人間でございますエルフ様。お金ならいくらでもお渡し致しますから、ここはどうか一つ」

「ふぅ」

 

一度大きく息を吐くと、彼女は目を見開いた。

 

下衆が。

 

吐き捨てた言葉と共に彼女の手の平から金色に光る一体の巨大な蛇が飛び出し、敵の身体をまとめて貫いていった。

それは一瞬の事であった。

レオスが瞬きをする間に、敵は全員意識を失い、地面に倒れ伏してしまった。さらに彼女が大地の魔法を使って蔓を伸ばし縛り上げれば、敵は身動きが取れなくなった。

片が、付いた。

緊迫した空気が解けて、平和な静寂が広がる。

 

「おーい、エーリオ~」

 

レオスは縛られた身体を起こしながら、無邪気に妻の名を呼んだ。手足を縛るロープを解いて欲しかったし、感謝の言葉も口にしたかった。

だが、振り返った彼女を見て、そんな悠長なことを考えている場合では無いとすぐに悟った。

彼女は、怒っていたのである。一見、その顔には微笑んだ表情を浮かべているが、その実、怒気がオーラのように滲み出ていて近づいてくる足は大股だ。

彼にはその理由が分からなかった。そのために、何か気に障ったことをしてしまっただろうかと必死に頭を巡らせ、その間に彼女は距離を詰め彼の真正面まで来た。

 

「あ、あの、エーリオ、さん?」

 

バチンッ!!

 

「いっっ!?!?」

 

エーリオはレオスの額に渾身のデコピンを放った。怒りの一発である。

レオスは勢いそのまま後ろへと引っ繰り返ってしまい、地面に頭を強く打つ事となった。

 

「いってぇぇ……」

 

レオスが天井を見上げながら呻き声を漏らすと、すかさず彼女が馬乗りになってレオスの胸倉を掴み上げた。

 

「貴方、どれだけ私が心配したか分かってるの?」

 

その笑顔と言葉から発せられる圧に彼は思わず唾をのむ。

彼女は早口でまくし立てる。

 

「薬草を摘みに行ってから全然帰ってこないで、心配になって探しに来たら薬草の入った籠だけがあって、探知魔法を使ったら建物の中から全く動かない貴方の気配が感じられて、私は転移魔法で慌ててここまで来て!」

 

ここまで一息で言い切った後でようやく一呼吸を置き、ゆっくりと呟いた。

 

「ようやく貴方を見つけたのよ……」

 

気付けば彼女の瞳には涙が浮かんでいた。

 

「その、ごめん」

「そうよ。本当に……」

 

“生きててよかった”

 

彼女は顔を歪ませ怒りと安堵が混じった声でそう言うと、レオスを強く抱きしめた。

 

「私はエルフなのよ。人間の貴方より確実にずっとずっと長く生きるの。どうやっても貴方の方が先に死ぬ……。でも、愛する貴方と共に生きる素晴らしさを知ってしまった後で、長い時間を一人で過ごすなんて到底耐えきれないわ」

「うん」

「そのために今のうちに貴方と時間を共有して、貴方との思い出をたくさん作って、貴方がいなくなってもすぐ傍に貴方を感じられるくらいに心に刻み込みたいの」

「うん」

「だから私にとって貴方と過ごす一分一秒はとっても尊いものなのよ。もっと危機管理をして私の傍を離れないようにしてちょうだい」

「うん。その通りだね。俺が悪かった。ごめんよ」

「ほんとにそうよ。馬鹿」

 

それは彼女がレオスに向けるどこまでも深い愛だった。妻から夫へ、情に深いエルフが大切な者へと向ける愛。数百年の寿命を持つエーリオにとって、レオスと過ごす時間は些細なものに過ぎないが、それでも、その時間の価値はあまりに高く、彼と過ごすこと以上の幸福は今後二度と訪れることは無いと確信していた。だからこそ、離れ離れになるような事態を自分から招いたレオスに、彼女は怒ったのだ。

彼女はそれほどに彼を愛していた。それを伝えるようにきつく抱きしめる。

 

「エーリオ、苦しいって」

「駄目よ。もう少し」

「ほ、ほら。エルフのみんなを開放しなきゃだし」

「同胞たちは私の気持ちを理解しているわ。だからこのくらい待ってくれる」

「じゃあせめて縄を解いてほしいかもです、なんて」

「縛ったままの方が抱きしめやすいの」

「そういう問題じゃなくて!」

 

柔らかい身体に抱きしめられ続けるレオスはいよいよ自分が窒息する心配をしながら、ふと思考に何か引っかかる感覚を覚えた。それは言わば勘だ。嫌な予感。そして残念なことに彼のそれはよく当たる。

レオスは慎重にその正体を探り、やがて思い当たった。

捕まえた敵は何人だ?

彼はエーリオが先ほど蔓で縛り上げた敵に目を向け、数を数える。

1、2、3、4、5……。

順番に数えていき、やはり嫌な予想は当たってしまったと気づいた。

一人足りない。

それも先ほどレオスに透明化の魔法を披露していた男の姿が見えない。取り逃がしたのだ。

レオスが慌てて口を開きエーリオにその事を伝えようとするのと、エーリオに背後に鉈を構えた男が姿を現すのはほぼ同時であった。

(まずい・・・っ!)

レオスの顔が青ざめた。

男が鉈を振りかぶった。

しかしその場にいた誰よりも一早く動いたのは、エーリオであった。

彼女は振り返ることなく腕を背後に向けると、手の平から鎖のような茨を生み出し、瞬く間に男の身体を縛り上げた。その時の彼女の顔をレオスはきっと生涯忘れることは無いだろう。彼が今までに見たことないほどに目をかっぴらき、歯を噛みしめ、憤怒の表情を浮かべていたのだ。

彼女はゆっくり振り返った。

 

「あなた、痛いのはお好き?」

「くそっ。離せ!」

 

彼女はどこぞの馬の骨に二人のいちゃいちゃする時間を邪魔されたことにたまらない怒りを感じていた。

 

「質問に答えられない間抜けね。ではしょうがないわ、身体に叩き込まなくては」

「ふざけんな、離せっ」

 

ゆえに。

 

「身体中の血管の中に茨を通して差し上げましょう。血液が流れる度に泣き叫びたくなるような痛みが走るわ」

「……何を言って」

 

限度を忘れた。

 

「今に分かるわ♡」

 

 

 

それからエーリオは捕まっていた仲間たちを全て解放し、夫の縄も解いた。

そして捕まえた悪党たちを全員森で一番目立つ高い木の一番高いところに括りつけ、エルフに手を出すとどうなるかを賊たちに知らしめた。

以来、エルフを捕まえようとする者はすっかりいなくなったという。

 



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元傭兵に愛される

すぱぁー。

 

夜の闇に白い煙が消えて行く。

眼鏡をかけた細身の男性はベランダの手すりに寄りかかり、ぼうっと煙草を吹かしていた。先ほどまでずっと、抱えている患者のカルテを見直して治療法の見当などを行っていた為に頭がすっかり疲労していた。休憩が必要だった。

煙草の煙を吐き出す。

町の景色が目に入る。売春、強盗、薬の売買。そんな良い子には見せられないような景色を覆い隠すように今日も喧騒が広がっている。頬を撫でる気持ちの良い夜風も、町の周囲を囲む紛争地帯から流れてきた贈り物で、人間の血肉の匂いが混ざっていることなど誰も気にも留めていない。クソみたいな素晴らしい町である。こういう町でこそ、闇医者の需要が高まる。

男性は気付けば一本吸い終え、流れ作業のように二本目に手を伸ばした。

だが、

 

「ただいま」

 

と横からぶっきらぼうに声をかけられ手が止まった。顔を向ければ、鍛え上げられた筋肉が美しいタンクトップ姿の大柄な女性がいた。不快そうに目を細めて男性の手に持った煙草を見つめていることから、丁度一本目が吸い終わったタイミングを見計らって声をかけたことが伺える。

 

「お使いご苦労様」

「女を一人で出歩かせるなよ」

「君はこの町で一番強いから大丈夫さ」

「そういうお前は一番弱いだろうな」

「間違いないね」

 

お互いに軽口を言い合った後、静かに笑い合う。これが二人のコミュニケーションの常である。

 

「それよりも」

 

と、女性が急に声色を変えて切り出してきたので、男性は「ああ、やっぱ駄目だったか」と内心、ため息を吐いた。

 

「お前、煙草辞めるって言ってなかった??」

 

分かりやすく呆れた表情。

確かに、言っていた。二週間ほど前に診たどっかのマフィアのボスが、明らかに煙草の吸い過ぎが原因と思われる肺癌を患っていたのだ。その苦しそうな病状を見て怖気づいた男性は診察を終えた後に、彼女に、煙草をやめると声高らかに宣言したのだが……。

 

「二週間もたねえのかよ」

「いや……。君も知っての通り、最近忙しくて。ついストレスが溜まるというか、口が寂しくなると言うか」

「医者なのに情けなくねえの?」

「闇医者だから」

「患者にはやめろって言ってるよな?」

「闇医者だから」

「クソ闇医者」

 

何を言っても言い返される。しかも言われることが全て事実なのでどんどんと旗色が悪くなる。

そこで作戦を変えることにした。

 

「君も一本、どうだい?」

 

勧誘することにした。

 

「以前、吸ってたんだろ?」

「ああ、確かにな」

「じゃあ煙草の美味しさは分かるはずだ。さあ、一緒にニコチンの海に溺れよう」

「絶対に嫌だ」

「なぜだい?」

「お前に救われた命だからだ」

 

彼女は彼の目を真っすぐ見てそう言い放った。

事実だった。

彼女は元々傭兵で、いつだったか、地雷で派手にぶっ飛んで、目を背けたくなるような酷い状態で闇医者の元へ運ばれてきたのだ。

 

「お前は死にかけていた私の治療をして、治療後の面倒も見てくれて、片足が無くなって傭兵を続けられなくなった私にこの居場所をくれた」

「投げ出すのが嫌な性格なんだ。あと丁度、助手が欲しくなったタイミングでね。いや~、もう繁盛しちゃって大変だ」

「いくら謙遜しようが茶化そうが、お前が私を救った事実は変わらない。私の命はお前のもので、お前に一生かけて恩を返すと決めた。だから煙草なんかで自ら寿命を削るなんて、私が私を許さない」

「そうか」

 

男性を見つめる彼女の瞳には力強い意志が灯っていて、彼女の言葉にはどこまでも深い思いが込められていた。

人に感謝されて嬉しい気持ちは医者だろうが闇医者だろうが変わらない。男性は、決して肯定はされないにしろ、「自分の今までの生き方も案外無駄じゃなかったんだなぁ……」と呑気な事を思いながら二本目の煙草を掴み、そして。

強引にキスされた。

 

「んっっ!?」

 

後頭部に手を回されて唇と唇を重ね合わせてのキス。それは時間にして数秒の事だったが、彼の頭に混乱をもたらすのには十分な長さであった。

唇を離した彼女はにやりと笑みを浮かべる。

 

「これで口は寂しくないだろ?」

 

彼女はとうとう実力行使に出たらしかった。煙草を吸うよりもキスの方が良いだろ、と彼女はそう言っているのである。

状況を飲み込んだ彼は、してやったり顔の彼女に妙に苛立ちを覚えた。

 

「だからこれから煙草吸いたくなったら、毎回あたしにキスしろ。それでお前は煙草を吸わなくて済む……んっ」

 

彼は煙草欲をぶつけるように言葉を待たずにキスをした。

 

「んはぁっ……。なんだ、そんなに煙草が吸いたかったのか」

「うん。かなり」

「じゃあ、もう一回だ」

「そうだね。もう一回」

 

そう言って、二人はさっきよりも深いキスを交わした。

 

 

 

 

 

……彼は仕返しに舌を軽く噛んだ。

 

「いって、殺すぞ」

「ぼく命の恩人」

「殺す」

 



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一級冒険者に愛される

幾多の種族が共に生活を営む街、ウェステル。この街は、モンスターの素材や鉱物など沢山の素材が手に入るダンジョンのすぐ近くに位置しており、冒険者や加工屋や雑貨屋や宿屋や金貸し屋など様々な職業が発展し、沢山の来訪者と住人で賑わっていた。

そんな街のやや東の方にある噴水広場。時刻は昼下がり。一人の青年が噴水の横に立ち、恋人を待っていた。

帽子を目深に被ったその青年はヒューマンである。青年は時折きょろきょろと辺りを見渡しているが、予定時刻を過ぎても恋人はまだ来ない。

まあ、そのうち来るだろう。

と、のんびりした性格の青年は大して気に留めることも無く、やがてポーチから小型の書物を取り出すと、立ったまま目を通し始めた。

そのままゆったりと時が流れる。

ふと。

 

「お兄さん、一人?」

 

声をかけてくる者がいた。書物に集中していた青年が反射的に顔を上げると、いかにもやんちゃをしていそうなリザードマンの若い三人組が青年の前に立っていた。彼らは矢継ぎ早に話しかけてくる。

 

 

「お兄さん、ヒューマンだろ? 俺たちと一緒に遊ぼうぜ」

「いえ。待ち合わせをしているので」

「いいじゃんかよ。俺たちと遊んだほうが絶対楽しいって。ほら、最高にハイになれる薬もある」

「興味ないです」

「釣れねーな。俺たちと来れば一日中楽しくしてやるし、なんなら夜だって最高に気持ち良い思いさせてやるって言ってんだぜ。こんな経験絶対できねえって」

「ほんとに、大丈夫です」

 

青年は頑なに拒否する姿勢を見せるが、それでもリザードマンたちはしつこく誘ってくる。

いわゆる、ナンパである。

この街において、ヒューマンは非常にモテるのだ。なんでも異種族にとってヒューマンの顔は童顔で可愛らしく映るようで、おまけに力も最弱な種族なだけに彼ら彼女らの庇護欲をそそり、ヒューマンは男女関係なく異種族に人気だった。だがそれ故に悪い噂も多い。夜中のウェステルには人攫いが出るだとか、反撃できない事をいいことにパートナーのヒューマンに暴行を働くだとか、どっかの貴族はヒューマンを好んで奴隷にしているだとか。ましてや青年には恋人がいる。だからこそ顔が隠れるように帽子を深くかぶっていたのだが、体温を見分けるリザードマンにはバレてしまった。

さて、どうしたものか。青年は悩む。強引な手段で迫られればヒューマンの青年に為す術はなく、かといって周りに助けを求めても面倒ごとは御免だとばかりに無視される事が目に見えている。考えている間にもリザードマンたちは逃げられないようにじわじわと距離を詰めてきて、やがてそのうちの一匹に腕を掴まれかけた、その瞬間、

 

「何をやってるんだ?」

 

横から威圧感のある低音の響きを伴った声がした。青年が顔を向けるとそこに立っていたのは、背が高く大柄で筋肉質な獣人の女性で、つまり彼の恋人であった。彼女は表情こそリザードマンたちを見定めるような冷静なものであったが、頭に生えた二つの耳は前に折れ、フサフサの尻尾が天に向かって直線的に上がっていることから、相当に怒りを滲ませていることが恋人の青年には伺えた。

それを知ってか知らずか、リザードマンが陽気に話しかける。

 

「おお、誰かと思えば、一級冒険者様のガルムじゃねえか。運が良いな。今からこのヒューマンを家に連れ込んでパーティしようと思ってるんだが、お前さんもどうだ?」

「腕を離せ」

「お前も好きだろヒューマン。パーティの参加代は少々お高めだがお前さんにとってh」

「聞こえなかったのか? 腕を離せと言ったんだ下衆が」

「おいおいおい。なんでそんなに怒ってるんだ。俺はあんたをパーティに招待してるだけだぜ。気に障るようなことを言ってないだろ」

「私はそいつの恋人だ。そしてこれが最後の通告だ。腕を離せ。さもないと腕をへし折る」

 

彼女の怒りを孕んだ言葉と殺気の籠った視線に気圧されてリザードマンはゆっくりと腕を離した。そうしてリザードマンたちはお互いに顔を見合わせると、次にはまるで示し合わせたかのようにげらげらと笑い始めた。

 

「恋人だってよ。あひゃひゃひゃひゃひゃ。こいつは傑作だぁ! 仲間殺しで人殺しで狂人と名高い最低最悪の冒険者ガルムがヒューマンの恋人だとよぉ!!」

「最高のジョークだなぁこりゃ! なぁヒューマン、お前は知ってんのか?? こいつが世話になったヒューマンの集落を襲って一夜の内に一人残らず頭をぶっ潰したこととか、ダンジョンに一緒に潜った仲間を全員殺したこととかよぉ!」

「うひゃうひゃうひゃ。お前も見る目がねぇ~な~。よりにもよってガルムを恋人にするなんてなぁ! 嗚呼、可哀想に!!」

 

ドウォンッッ!!

 

「「「ひぃっっ!?」」」

 

リザードマンたちが口々に好き勝手言い始めたのを、彼女は地面を殴り拳が埋まるほどの穴を開けることで黙らせた。

 

「失せろっっ」

 

彼女が歯を剥き出しにし、怒りの咆哮を上げた。その言葉は広場にいた全員の体内を稲妻のように駆け抜け、振動し、恐怖心を強制的に呼び起こした。間近にいたリザードマンたちは堪らない。すっかり怯えた彼らは、広場から転がり出るようにして逃げて行った。他の利用者も広場を後にした。

残ったのは、青年と彼女だけだった。

 

 

 

それから二人は手を繋いで、店の並ぶ通りを歩いていた。

 

「さっきは助けてくれてありがとう」

「気にするな。むしろすまなかった、私が遅れたせいで」

「いや。換金所が混んでるのはいつもの事だしね。しょうがないよ」

 

彼女は先日ダンジョンで獲ってきたモンスターの素材を査定してもらっていて、それが済んだので受け取りに行っていたらしかった。

 

「それにもう一つ謝らなければいけないことがある。私の恋人であったばかりに、君がいらぬ罵声を受けた。本当にすまなかった」

「謝らないで良いって。あいつらの言ったことなんて全然気にしてないよ」

「だが」

「ガルムこそ大丈夫? あいつらに酷いこと言われさ」

「……大丈夫だ。私はもう慣れている」

 

返答までに少し間があったことに青年はしっかり気付いている。

 

「僕はさ。ガルムの噂が誤解されたまま広がっていることを、知ってる」

「……」

「ガルムが、僕の故郷の村の人たちを殺さなければいけなかったのは、植物型のモンスターのせいでみんなの中に埋め込まれた種が一晩で一斉に発芽して、もう殺してあげる以外で救える手段が無かったからだし。ダンジョンの仲間を殺したのだって、実際は、もう死んでいた仲間がゾンビになってしまったところを、再び殺したんだって、分かってる」

「あぁ……」

「それに、ガルムはすごく優しくて、僕が病気になったら“大丈夫だから”って言っても付きっ切りで看病してくれるし、つらいことがあったら慰めてくれるし、楽しいことがあったら一緒に笑ってくれる。僕はそんなガルムが大好きで、だからどんな時でも味方だからね」

 

そう言って青年は背の高い彼女と視線を合わせてにこりと笑った。

彼女は、目を見開いた。

そして無言のまま彼の手を引いて人目の無い路地裏に連れ込むと、ぎゅっと抱きしめた。青年の身体が大きな彼女の身体に包まれる。

 

「うぇっ!? ガルムっ。急に、どうしたのっ!?」

「ルカ……ルカ……。好きだ。大好きだ。心から愛している」

「うん。僕も愛しているよ。ガルム」

「ルカ……っ」

 

どうやら彼女は、彼から愛情を向けられて堪らなくなったようだった。彼女は蕩けた表情をして、尻尾をぶんぶんと横に振った。

二人はそのまま暫し抱き合っていたが、やがて青年の腹が鳴ってお互いに身体を離した。

彼は恥ずかしそうに顔を赤くし、彼女は愛おしそうに微笑んでいた。

 

「ごめん。お腹減っちゃった」

「可愛い腹の虫だ。……よし。昼飯を食べに行こう」

 

そう言って二人は硬く手を繋ぎ、再び雑踏へと消えた。

 



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竜人に愛される

深い森の広がる山の頂上から、さらに天に向かって先が見えなくなる程に石畳の階段が何段も続いている。雲の割れ目から差し込む光に包まれ神聖な雰囲気を放つその階段の途中にいるのは、若い男女。男は荒い息を吐いていかにも辛そうで、女はそんな彼を心配そうに見つめている。

 

「ユキト。すごく辛そうな表情をしています。今日は諦めませんか?」

「大丈夫。大丈夫だから。もうちょっと頑張ろう」

「ですが……」

「心配しないで。まだいける。最後まで、いこう」

 

彼はそう言って、決して足を止めようとはしない。それは、竜人の里へと続くこの階段を登り切ることが、竜人である彼女と婚約するのに必要な儀式の一つだからである。

まるで彼を試すかのように、猛烈な強風が襲い掛かり、凍てつく大気が肺を凍らせ、積もる疲労が重力を強める。しかし彼は身体が悲鳴を上げても絶対に諦めなかった。全ては彼女と婚約するため。

ただ鋼のような意思を持ち、登り続けた。

淡々と……黙々と……。

その努力は、やがて実を結ぶ。

男は彼女と共に階段を登り切り、ついに竜人の里へと辿り着く。

 

「つい……た……」

「やりましたね、ユキト。……ユキト?」

 

ドサッッ

 

鈍い音がした。

男は、倒れた。

 

 

 

「ふんむ。これで問題ないじゃろう」

「ありがとうございます婆様!」

 

ここは医者である婆様の自宅兼診療所。女は、倒れた男を見るとすぐさま担ぎ上げ、慌ててここに運び入れたのだった。倒れた原因は限界を超えた疲労と慣れない気圧や気温の急激な変化だった。高熱も出していたが、薬を飲ませて一日寝かせておけば治るだろうというのが婆様の診断であった。今は薬と水を飲んでベッドの上でぐっすりと眠っている。女は婆様に感謝した。

 

「いきなり連れてきて申し訳ございません。本当にありがとうございます」

「いあいあ。それより人間がこの里に来るとは……実に100年ぶりぐらいかのお」

 

懐かしむように婆様は言った。

竜人の里は閉鎖的な村であった。里へ続く階段も、竜人が望まなければ出現することは無く、里に足を踏み入れる他種族というのは本当に少なかった。

やがて婆様は、「他の患者も見てくるでな」と言って、その場を後にした。

女は男の寝顔を優しい瞳で見つめると、さらさらした髪を撫でる。

 

「倒れるまで頑張ってくれてありがとうございます。今はゆっくり休んでくださいね」

 

彼は寝息を立てて眠っている。女はゆっくり顔を近づけると、その額にキスを落とした。

 

「んんっ……」

「ふふっ」

 

寝ている彼に微笑みを向けて愛おしそうに見つめる彼女。二人の間にゆったりとした時間が流れる。

そこへ、乱入者が現れた。

 

「よお。そいつがお前の婚約者か???」

 

入ってきたのは、女の実の兄であった。細い眉がつり上がっていて睨むような細い目で如何にも神経質そうな顔をしていた。

 

「お兄様。お久しぶりです」

「ああ久しいな妹よ。お前が地上に遊びに行ってそのまま数年ぶりだ。だがそんなことはどうでもいい。……聞いたぞ。夫を迎えたいそうだな。それが、よりにもよって人間の夫を」

「はい、その通りです」

「全くふざけている!!」

 

兄は強い口調で妹を罵った。妹はそんな兄を表情を変えずに見つめ返す。

 

「ふざけてなどおりません」

「では地上に降りて目が曇ってしまったのだな憐れな妹よ!」

「曇ってなどおりません」

「いーや、お前の選択は間違っている。人間は貧弱で気弱で愚鈍で自らの欲によって身を亡ぼすどこまでも愚かな下等生物なのだ! それを誇り高き竜人族の夫に迎える? この転がっている言葉を喋れるだけの猿が、親族になる? 想像しただけで虫唾が走るわ!!」

「黙りなさい!!」

 

今まで静かに言葉を聞いていた女が初めて声を荒げた。

 

「兄に向かってなんだその口の利き方は!?」

「お兄様は知らないのです! この方がどれだけ誠実で優しくて素晴らしい人間であるかを!」

「毒されたなそこの人間に! 奴らは他人を利用することしか考えていない屑だ! お前も騙されているのだ!」

「違います。少なくともユキトは私を竜人だからでは無く、一人の女として認め、愛してくれました。それに彼はお兄様のような陳家なプライドは持たず、広い心で困っている者を助ける思いやりを持っています。彼はお兄様よりよっぽど素晴らしいお方です」

「ふざけおって!! 俺を愚弄するか!!」

「真実を申しているだけです! お兄様は醜い!」

「貴様ぁぁぁっっ!!!」

 

憤慨した兄がこぶしを握り締め距離を詰めてきた。女は歯を食いしばって仁王立ちで身構える。兄が拳を振り上げる。その瞬間

 

おぇっっ!?

 

と兄が唾液を吐きながら後ろへと引っ繰り返った。いつの間にか戻ってきていた婆様が兄の首根っこに杖の持ち手を引っ掛け後ろに引っ張ったのである。後頭部を床に勢い良く打ち付けた兄は痛みで悶えている。

 

「ここは患者とその関係者以外立ち入り禁止じゃ」

「くそばばぁ……」

 

うぅっっ!?

 

今度は杖の先で兄の鳩尾を思い切りついた。

 

「そら、さっさと出ていきなっ!」

 

そう言って婆様が杖先を顔の上に構えて脅しかけ、兄は慌てて立ち上がると、逃げるように部屋を去って行った。

嵐が過ぎた後のような静寂が訪れた。男の寝息だけが聞こえた。

 

「すみません。婆様」

「謝るくらいならここで騒ぐな。患者が起きるわい」

「返す言葉もございません」

 

婆様は里では長老の次に年寄りで、女の事も生まれた時から知っていて、いつだって正しいのである。

婆様は、女に薬包を手渡した。

 

「お前どうせ今日は一日中この男の傍にいるんじゃろ。だったら、その薬を夜に与えな」

「分かりました。ありがとうございます」

 

それから婆様は男の額に手を触れ熱を測ったり、呼吸を見たりしていた。

そんな婆様に女は尋ねる。

 

「婆様」

「んん?」

「婆様は、私が人間と結ばれることについて何も仰らないのですか?」

「何か言って欲しいんかえ」

「いえ、その……。お兄様のように、非難したりしないのか、と」

 

それを聞いた婆様は目を真ん丸にすると、やがてけらけらと笑い始めた。

 

「あじゃじゃじゃじゃ。わしをお前の兄と一緒にするな。わしは、お前が誰と結ばれようが祝福するでな。人間だろうが獣人だろうが魚人だろうが関係ない。大事なのは愛がそこにあるかじゃ」

 

婆様の言葉は女の心に深く響いた。女が知る限り里の者は皆竜人としての血を大切にする者ばかりで、まさか肯定的に受け入れられるとは思ってもみなかったのだ。しかもそれが第二の親のような存在であった婆様である。女は嬉しくてほっとして、気付けば涙を流していた。

 

「婆様ぁ……」

「おうおうおう。どうしたんじゃ。急に泣いて」

「嬉しいんです……誰も、味方なんていないと思っていたから……」

「そうかそうか。泣きたければ、婆の胸で好きなだけ泣けばええ」

 

それから女は子供のように婆様に抱き着いてしばらく泣いていた。

やがて女が泣き止むと、婆様が言った。

 

「しかしじゃよ。お前さんが人間と結ばれるという事は、この竜人の里では無く、人間の暮らす地上で生活をするということじゃ」

「はい」

「地上において竜人は大層珍しい種族じゃ。見た目には人間と大して区別がつかぬが、もしも卑しい者にバレた場合は、お前やそこの男にたくさんの災難が襲い掛かることになるやもしれん」

「はい。私もそう思います」

「うむ。お前が選んだくらいだからきっとこの男は、優しくて賢くて勇敢なのじゃろう。じゃが、人間の力ではどうにも振り払えない火の粉というのも必ずある。その時は、お前が、お前自身とこの男を守ってやるのじゃ。よいな」

「はい。覚悟の上です」

「んん。良い目じゃ」

 

婆様はそう言ってくしゃりと笑うと、女の頭を皺だらけの手で雑に撫でた。女はその手に温もりを感じた。

 

 

 

 

「おはよう、ユキト。身体はどうですか?」

「うん。昨日より全然元気だ。ごめんね、突然倒れたりして」

「いいえ。人間がこの里に来られたこと自体、偉業そのものです。誇りましょう」

「あはは。そっか。残りの婚礼の儀式もうまくこなせると良いんだけど」

「きっと、私たちなら大丈夫ですよ」

「そうだよね」

「ええ」

「……そういえば、さ」

「はい?」

「君、泣いてなかった?」

「……えっと」

「夢だったのかも知れないけど、君が子供みたいに泣いてたことだけ覚えてるんだよね」

「それは、夢ですね」

「だよね。君は人間の僕よりずっと強いんだもんね。でもさ、もしかしたら君にも、泣きたくなるようなことがこの先あるかもしれないよね」

「どうでしょう」

「あるよ、きっと。でもその時になったら僕が君の事を全力で守ってあげるからね。頼りないかもしれないけど、頼って良いからね!」

「なんですか、それ」

「なんだろう」

「ふふふっ。分かりました。じゃあいざというときは私を守ってくださいね、旦那様」

「任せて……奥様?」

「なんかおかしいですね」

「慣れないとね」

 

二人は朗らかに笑い合った。

 

 



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師匠に愛される

男は盗人であった。だが自分の欲望のままに物を盗む悪党かと言えば、そうではない。彼が盗むのは魔道具のみである。

魔道具。それは神が作り世界にばら撒いたとされる特殊な魔力の込められた道具で、使い手によっては多くの人々に幸せと絶望を与えた。

男の故郷には不幸がもたらされた。攻めてきた敵国が兵器として使用していたのは魔力をビームとして吐き出す殺戮魔道具であり、家族も友も街も燃え、男は全てを失った。それ故に男は、魔道具が悪用される状況を心底憎み、悪事に利用される魔道具を見つけ出しては盗み出し、然るべき専門家に流すことで、破壊や封印をしてもらっていた。

だが今回は相手が悪かった。盗みに入ったのはガルダ王国の宮殿で、ここはとある魔導士が魔力を何倍にも増長する水晶の魔道具を使って国民全員に強力な催眠をかけ、王国を都合の良いように支配していた。

男は、その水晶を盗み出した。すると魔導士は激昂し、沢山の追手を送り込んできた。兵士や殺し屋、さらには訓練された動物までもが追ってきた。男は逃げて逃げて逃げ続けた。そうしてボロボロになりながらなんとか地下アジトへと辿り着く。幸運でしかなかった。

彼は身体を抱くようにして眠った。

 

それからは引き篭った生活を送っていた。かの魔導士は探知魔法に優れているようで、アジトの外に一歩でも出ると気づかれる恐れがあった。よって気配を漏らさぬようにただひっそりと毎日怯えながら生きていた。

だがその安寧はある日、突然に崩れた。侵入者がやってきたのである。1つ目の対侵入者用防御結界が崩されすぐにそれと知れた。彼を襲ったのは絶望だった。アジトは広範囲に展開することの難しい目隠しの結界を張っている都合上、出入口が一つしかなかった。見破られたら逃げることはまず不可能なのである。かといって正面からやり合ったところで撃退できるほどの戦闘力は有していない。彼が得意なのは逃げることと隠れる事だけであった。

絶体絶命。

彼はガタガタと震えた。恐怖に怯えた。自分の行いを後悔した。ガルダ王国になど行かなければ、水晶を諦めていれば。しかし第二、第三と破られていく防御結界が無常にも非常な現実を知らせていた。

やがて足音が聞こえるまでになった。男はすっかり過呼吸となり冷や汗が止まらなくなった。暴れる心臓と血流の音が足音をかき消し、恐怖が倍増した。

そしてとうとう侵入者が姿を見せる。

 

「やあ」

「……え」

 

男は目を丸くする。

立っていたのは、眼鏡をかけてへらへらと笑っている背の低い見覚えのある女性。

彼女は、男に盗みの技術を授けた師匠であった。

 

 

 

 

「どうして、ここに?」

「さて、どうしてでしょう?」

 

質問に対して質問で返す。彼女は昔から変わらない。いつだってふざけた人間なのだ。

そんな師匠が何の用があってこの場にやってきたのか。

男は随分前に師匠から独立し、以来長らく連絡を交わしていない。アジトの場所も知る筈が無かった。そんな彼の疑念を察したかのように彼女が口を開く。

 

「このアジトは随分うまく隠せていたと思うよ。立地も隠蔽も完璧だ。でも僕は、君の癖も性格も趣味嗜好も、君の事をぜーんぶ知り尽くした師匠だからね。すぐに分かっちゃった」

 

彼女はさも当然とばかりにカラカラと笑った。

そう言われたら男も納得するしかない。

しかし、ならば俄然気になるのは彼女がアジトに訪れた意図であった。お得意の気まぐれ、だろうか。久々に弟子の顔が見たくなったとかそういう事なのだろうか。だとしたら伝えなければならない。いま自分がガルダの魔導士に命を狙われている危機的状況であり、この瞬間にも追手がアジトに攻めてくる可能性が高い事を。再開を喜べるほど悠長な場ではない事を。

彼はそう思って口を開きかけたが、

 

「大丈夫だよん」

 

彼女は安心させるようなしっとりとした口調でそう言った。

 

「さっきも言った通り僕は君の事を全部知ってるんだ。だから今、君が置かれているヤバい状況も知っている。でも大丈夫」

 

彼女は男の元へ歩きながら言う。

 

「僕は君を、助けに来たんだ」

「……え?」

 

余りの予想外な言葉に男は間抜けな声を漏らした。彼が呆気に取られている間に彼女はあっという間に彼の前に辿り着き、少し背伸びをして、彼の頭を抱え込むように抱きしめた。

 

「……師匠?」

「ここまでよく頑張ったね。良く生きていてくれたね」

 

彼女の柔らかな言葉が男の心を包む。

 

「君がガルダ王国の魔導士から水晶を盗んだって情報をとある筋から聞いたときに、嫌な予感がしたんだ。僕も過去にあそこに盗みに入ったことがあったんだけど、とにかくあいつは執心深くてね。親の仇みたくどこまでもどこまでも追っ手が来たんだ。だから君も相当手こずっていると思った」

 

彼女はどうやら心配になって来てくれたようだった。その予測は当然正しかったし、男は救ってくれるのなら誰の力でも借りたかった。だがいざ師匠から手を指し伸ばされると、救いを求める内心とは裏腹になけなしの意地を張ってしまう。

 

「し、心配性ですね師匠は。あの魔導士から逃げるのなんて簡単でしたよ。丁度、そろそろ追っ手が俺を見失って諦めている頃合いでしょうから、そのタイミングでまた次のターゲットを……」

「強がらなくて良いよ。アジトの外にはたくさんの追手がウロウロしていた。ここがバレて襲撃されるのも時間の問題さ」

「それはまあ、あえて泳がせていると言いますか、あとで一網打尽にしてやろうか、みたいな」

「君は嘘を吐くときに早口になる癖がある。それに心拍が平常時よりだいぶ早い。身体が尋常じゃなく震えている。怖かったんだよね?」

 

彼女の前では陳家なプライドなどまるで意味を為さない。彼女は、精一杯意地を張る弟子を愛しく思い、力強く抱きしめた。

 

「もう大丈夫だよ。僕が来たからには何も心配いらない。僕が君の事を全ての脅威から守ってあげるからね」

「あ……ああっ……」

 

彼女の言葉を聞いた男は、張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように膝から力が抜けて地面に崩れ落ち、涙も自然とぽろぽろとこぼれ始めた。もはや強がることなど不可能だった。ただ彼女に縋って、救いを求めた。

彼女は「おっと」と呟いて男を抱きとめると、子供をあやすように背中を撫で始めた。

 

「よしよし。よく頑張ったね」

「師゛匠゛っっ……!」

「うんうん。偉い偉い」

 

 

 

 

男が落ち着くと彼女は早速アジトを出ると言って歩き始めた。その際、男は手を引かれていた。

「師匠。これは流石に恥ずかしいのですが」と男は抗議したのだが「今更だろう。私のアジトに帰るまで繋いだままだ」と嬉しそうに言われ、諦めた。

そのまま手を引いて師匠はアジトの出入り口を進んでいく。もしやこのまま丸腰のままアジトを出るのかと男は焦ったが、そんなことは無かった。通路の広くなった地点で立ち止まると、女が懐から取り出したベルを二度ほど鳴らし、直後に、巨大なカエルが煙と共に現れた。

 

「これは魔界の契約ペットを呼び出す魔道具なのだ」

 

と師匠が説明するが、男はそれどころでは無かった。

カエルが大の苦手だったのだ。男は背中を見せ逃走を図ったが、師匠に手を掴まれているので逃げることが出来なかった。

 

「逃がしてください師匠!」

「駄目だ。今から僕たちは彼の口の中に入って運んでもらうんだ」

「は!? 何をおっしゃってるんですか!?」

「バジェット君は魔力を遮断する特殊な表皮を持っていて、いかなる探知魔法も受け付けない。よって彼の中に入れば絶対に見つからないという訳さ」

「いやです!! 絶対嫌です!!」

 

彼は子供さながらに暴れたが、意外にも力の強い師匠の小さな手からは逃れられなかった。

師匠は笑う。

 

「さっき言っただろ。家に帰るまで手を繋いでいるって」

「離してください!嫌です!死んだ方がましです!」

「さあ、いこう」

「いあっ」

 

パクッ

 

二人の姿はカエルの口の中に消えた。

 



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メカニックに愛される

「~~~っ♪」

 

青年は鼻唄を唄いながらテーブルに夕飯を並べていく。メインはシチュー。野菜嫌いな彼女のために肉をたっぷり入れつつも、バレないように細かくした野菜も沢山入っているのがポイントである。

他の献立も並び終えた。

 

「よし、呼びに行こ」

 

青年はそう言って地下室へと向かう。その広い空間にあるのは大小さまざまなメカであり、実質彼女専用の巨大空間である。メカニックの彼女は、大抵ここで機械か図面を睨みつけるように見つめている。彼女の腕は超一流だ。軍の上層部から直接依頼を受けることもある。

しかし、青年がちらりと覗いても彼女の姿はそこに無かった。

となれば、あそこだ。

青年は慣れた様子で庭へと向かう。窓を開ける。見る。

星の輝く蒼い夜空の元、ベンチに座る彼女は背もたれにもたれ掛かりながら、ふうっと煙草を吹かせていた。

彼女は仕事のストレスが溜まったりキリが良いところで終わると、必ずここで一服しているのである。

彼はベランダに出ると、彼女の隣にそっと座った。

 

「ご飯できたよ」

「おう、ありがと」

 

彼女は煙草から口を離すと視線を青年に向け、ぶっきらぼうに返した。不機嫌なわけでは決してない。愛想を見せるのが苦手なだけなのだ。

既に、ご飯が出来たことを彼女に知らせるという任務は終了したが、その後も彼は黙って、彼女の横顔をじっと見つめていた。

視線に耐えきれなくなって彼女が口を開く。

 

「あんだよ」

「ん? 煙草って美味しいのかなーって」

「吸いたいのか?」

「一本だけ」

「絶対ダメだ」

「えっ」

 

青年はもらえる流れだと期待したばかりに、まさか断られて驚いた。

 

「ダメなの?」

「ダメだ」

「いーじゃん」

「ダメったらダメだ」

「なんでー」

「私がお前より先に死ぬためだ」

「……え」

 

予想外の理由に彼は次に続く言葉を見失う。彼女は口を開けたまま静かになってしまった青年の様子を見て、思ったよりずっと深刻に受け止められてしまったと感じたらしい。彼を落ち着かせるように、頭をわしゃわしゃと撫でた。

 

「別に大したことじゃねえよ」

「え、いや、あるよ」

「ないさ。ただ、お前に先に死なれたら私が耐えられないっていうそれだけの事だ」

「悲しいって事?」

「悲しいって事だ」

「へぇ~」

 

青年はさっきまで驚いた表情とは打って変わって嬉しそうな表情を見せた。その、大人のくせして少年のようにコロコロ変わる表情が彼女は好きだったりする。

 

「だから私は煙草を吸っても良いけど、お前はダメだ」

「でもさ。君が死ななければ僕と君が一緒に過ごせる時間がもっと長くなるよ。それは、もったいなくないの??」

「……ああ。まあ、惜しいな」

 

珍しく見つけた彼女の隙を、青年は喜々として逃さない。

 

「結局、煙草吸いたいだけの言い訳じゃん」

「ん……そうじゃないんだが」

「いーや。絶対そうだ。認めないなら僕、煙草吸うから」

 

そう言って彼は鮮やかな手つきで彼女の胸ポケットに収まる煙草を一本手に取ると、人差し指と中指で挟んで見せつけるように揺らした。

 

「おい、やめろ。分かったから、認めるから。お前は吸うな」

「えへへ。慌ててる姿見れるなんて珍しい」

「なんでもいいけど、お前は吸うな。健康でいろっ」

 

最後の台詞を言いながら彼女は、青年から煙草を取り返した。青年は煙草箱の中に煙草をしまう彼女を満足そうに眺めると、

 

「よっと」

 

と立ち上がり、庭から家の中へと戻っていく。

家に上がるタイミングで、

 

「煙草も美味しいかもだけど僕のご飯もきっと美味しいよ!」

 

と謎の対抗意識を燃やした発言を言い残していった。

彼が去った後に、少し冷たい夜風が彼女の肌を撫でる。

 

「……煙草減らすか」

 

彼女は静かにそうつぶやいた。

 

 



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執事に愛される

祝いの日。沢山の出店が通り沿いにずらりと並び、人々の喧騒で賑わっているとある街。隣町に住む若い貴族の青年とその従者である背の高い獣人の女性も、この人混みの中に混じっていた。

息抜きだった。

貴族のお務めは息が詰まる。ほとんど書斎に籠りきりで山のような書類に目を通す必要があるし、沢山の人と会合しては小難しい取り決めをしたり議論したりする。酷くストレスが溜まる。だから信頼できる使用人を連れてこっそり屋敷を抜け出し、息抜きをするためにこの街へとやってきたのだ。

青年は獣人の彼女にぴったりと寄り添われる形で通りを歩いていく。道沿いには色々な種類の店が並んでいた。彼は興味の赴くままに店に寄る。

シルバーボアの肉を食べ、不死鳥の羽根などを使った小物を物色し、スライムを使った大道芸を見た。

興味は尽きることなく、彼は存分にこの祭りを満喫していた。

が、

ふと、立ち止まる。

ある男が、人混みに紛れて通行人の後ろポケットに入っていた財布を盗んだ。

その瞬間を、見たのである。

しかも周りは誰も気付いていないようだった。青年は持ち前の正義感で取り返しに行こうとした。彼は幼いころからそうだった。元々は奴隷として道端で売られていた獣人の彼女を見た時も、迷うことなくすぐに購入を決めた。己の正義には素直に従う性格だった。その心に則って犯人に迫ろうとする。

だが、使用人である彼女が腕を伸ばし彼を制止させた。

主人に危険が及ぶ可能性を見過ごすわけにはいかなかった。だが青年が悪を見逃せない性格な事も知っている。

そこで彼女は代わりに「お任せください」と言うと、今こちらの方向に向かって歩いてきている犯人に近づいていき、すれ違いざまに犯人と同じ手法でポケットに入っている犯人の盗んだ財布を鮮やかに抜き取り、本人には全くバレずに取り返してみせた。

見事な手腕。青年も思わず「すごい……」と呟く。

彼女はそのままフードを被った格好をしている被害者の肩を後ろから叩き、財布を差し出した。俯いていた被害者は財布を受け取り、お礼を言いながら顔を上げたが、彼女の顔を見るとその言葉は途中で言い淀んだ。

一瞬妙な間が生まれた。

しかしそんな些細なことは気にも留めず、やがて彼女は踵を返すと青年の元へ帰ろうとする。主人の傍を離れる時間は少しでも短くしたい。

しかし、

 

「待った」

 

その背中に声が掛かった。当然声の主は被害者だ。もう用は済んでいるというのに。

彼女は立ち止まり警戒するように振り返る。

 

「何か用ですか」

「……好きだ」

「……は?」

 

突然の告白であった。

彼女は困惑する。告白される理由が分からず、聞き間違いかとも思った。

しかし彼は何を勘違いしたか「失礼、自己紹介がまだだったね」と言い、おもむろにフードを脱いだ。

現れたのは金髪のイケメンな男。

 

「私はギルダース。この国の王子だ」

 

途端に周りはざわめき、一定の距離を開けて円を描くように人だかりができた。その現状が彼の言葉が真実であることの証明になっていた。だが主人に仕える身の彼女にとって隣国の王子だとかそんなことはどうでもいい。

 

「……で」

「私はこっそり街に繰り出し自分の妃になる女を探していた。そして君を見た時に身体に電流が走った。財布を届けてくれる優しい心、そのクールで美人な顔。君しかいない。どうか、私の妻になってくれ」

 

突然の求婚。王子はそうして膝をつき、ポケットから箱を取り出し、なんと指輪まで差し出してきた。周りは歓喜の悲鳴を上げる。彼女はそれを見て眉を寄せた不快そうな表情になると、横に立つ主人を見た。青年は肯定するように笑顔で頷いた。

しかし。

彼女はそれを見るとため息を吐いて男の方に振り返り、はっきりと断言した。

 

「お断りさせていただきます」

 

その瞬間歓声がぴたりとやんだ。青年も意外そうな表情をした。顔を上げた王子は口を開けてぽかんとした。

時が一瞬止まっていた。

やがてゆっくりと立ち上がった王子はぎこちなく笑いながら口を開く。

 

「そうかそうか。分かったぞ。突然の告白で驚いてしまったんだねぇ無理もない。それなら、正しい判断が出来るよう一旦返事は保留という形にしておこう。そして、また明日、城の方に来てくれたまえ。そこで改めて君の返事を訊かせてくれ。明日まで、じっくり、考えてくれ」

 

そう一方的に言うと

 

「さらばだ」

 

と言い残して振り返り、ボディーガードと共に、自らの城の方へと歩いて行ってしまった。彼女は嫌そうな顔でその背中を見つめ、もう一度ため息を吐いた。

 

 

 

宿屋の一室。青年はベッドに仰向けになって天井を見つめ、使用人の女性は鞄の中身を床に広げ荷物の点検をしていた。

二人は同部屋である。その方が寝込みを襲われても対処しやすい。

ランプの橙色の明かりが部屋を照らし、ゆったりとした時間が流れている。青年が口を開いた。

 

「なんで断ったんだ?」

「私は旦那様に仕える身ですから」

「そっか……。でも、全然僕の事とか使用人である事とか、気にする必要は無いよ」

「……私は居なくなっても構わない、ということですか」

「まさか。君が居なくなったらとっても悲しいよ。僕が小さなころからずっと側にいてくれたし、歳も近いし、使用人さんの中でも君はとっても仲の良い友達って感じがする」

「ではなぜ引き止めないのですか」

「君には幸せになってほしいから」

「……」

 

彼は「よっ」と声を声を漏らしベッドの上で体を起こし、彼女の方に向いて座った。

 

「僕は出来るだけ多くの人間を幸せにしたいと思っている」

「存じています」

「それには当然君も含まれる。貴族である僕に仕える身分よりも、王の妃になった方が生活はずっと豊かで幸せになれると思う。だから寂しい気持ちはあるけど、君があの王子の所にいくのを止めたりはしない」

「つまり、私が幸せになる道を望むということですね」

「そう。君が幸せならそれが一番良い」

「……そうですか」

 

彼女は納得したように呟いた。

 

 

 

 

 

広大な空間、両の壁際に控える甲冑を着た大量の騎士、床に敷かれいる紅色のカーペット、そしてその先には王族のみが座る事の許される豪華な装飾の施された玉座。

王の間。

一般人は入ることが決して許されない格式高いこの場所に、二人は並んで立っていた。二人が見つめる先には、玉座に座る王子が居る。

微笑を浮かべる王子は女を見つめて口を開いた。

 

「では改めて訊こう。私の妻にならないか?」

 

空気が一気に張り詰める。目の前の王子も周囲の傭兵も隣の青年も、誰もが女の言葉を待った。この国の歴史にまた新たな人物の名前が刻まれる決定定期瞬間かもしれなかった。青年は大切な使用人を失う瞬間かもしれなかった。

その場に居る全員が注目していた。

そうして。

彼女が選んだ回答は、

 

チュッ。

 

青年の唇に自分の唇を重ねる事だった。

 

「……なっ!?」

「私の心はこの方のモノなので無理です」

 

王子は目を見開いたまま驚いた。当然である。王子からの求婚を断る人間が居るとは本人もよもや思っていなかった。先日の彼女は返事を間違えただけだと、信じて疑っていなかったのだ。

そして驚いたのは青年も同じ。「え、あ……」と吐息のような言葉を漏らしながら状況が呑み込めず困惑している。

 

「え、あの、これって」

「旦那様が好き、ということです」

「……そっか」

「はい。昨日、旦那様は私が幸せならそれが一番良いと仰いましたね。私は旦那様が好きなので旦那様の傍にいる事が一番幸せです」

「それは、気付かなかったな……」

「旦那様に買われて抱きしめて頂いたその日から、旦那様の傍で過ごしてきたこれまで、ずっとお慕い申し上げてきました」

「そんなにも長い間?」

「ええ。ずっと」

 

青年は知らなかった。彼女がそんな感情を抱いていたことに。普段はクールで多くを語らない彼女であるが、今の彼女の口から語られる恋慕は何よりも熱いものだった。彼はそんな彼女の想いに言葉で返そうとするが

 

「いちゃつくのはそこまでにしてもらおうか」

 

と王子の言葉で中断された。今まで余裕を見せていた王子の表情には明確な怒りが浮かんでいた。庶民に告白を断られたことでプライドが傷ついたのだろう。彼は面目を保つためにも強引な手段に打って出る。

 

「その女を捕まえろ。男の方は無視して構わん。頷くまで城に閉じ込めてやる!」

 

傭兵たちを二人に仕向けた。

王子の言葉を合図に傭兵たちは一気に槍を向けた。数は約20人ほどで数の上では圧倒的な不利に違いなかった。しかし彼女は人間よりも身体能力が段違いに高い獣人である。そしてなにより青年を守りたいという意思の強さがある。

彼女は床を蹴ると風のように駆け出した。

数の優劣など関係ない。

下から兵士を蹴り上げ、突かれる槍を飄々と躱し、甲冑ごと殴り飛ばして壁にめり込ませる。

無双。

その言葉がふさわしいほどに次々に兵士を気絶させ、気付けば兵士は漏れなく全員くたばってしまった。

立っていたのは彼女のみであった。

 

「おい、お前ら! 何を横になっている! 早く立て!」

 

王子の言葉も意味を為さない。既に勝敗は決まっていた。

 

「それでは、失礼いたしますね」

 

彼女はそう言い残すと、青年をお姫様抱っこし、駆け出した。

 

「待てっ! 待て!」

 

王座の扉を蹴破るまで背後から惨めな王子の声がしていたが、やがてはそれも聞こえなくなった。

二人は国を出た。

 

 

 

 

 

二人は平原にある丁度いい高さの岩の上に座って休憩していた。追手は来ていなかった。

 

「私のせいで危険な目に合わせてしまい申し訳ございません」

「いや。そんなこと気にしなくていいよ」

 

二人の間を爽やかな風が流れていく。

 

「そういえば、なんだけどさ」

「はい」

「さっきの、君の。告白の返事」

「……はい」

「実は僕も君の事が……んっ!?」

 

彼女は青年が最後まで言葉を言い切る前にその唇に人差し指を当てて遮った。

 

「その続きは止めておきましょう。私は使用人で旦那様は主人です。その関係を壊してはなりません」

「でも」

「それに。旦那様の身分に見合った高貴なるお方を妻に迎えることが貴族である旦那様にとって何より大切な事です。お分かりですね」

「……」

 

彼女の表情は悲しげだったがその言葉は真剣そのものだった。

彼女も苦しんでいる。

そんな彼女を見たら、これ以上の反論は出来ようもなかった。

 

「……ごめん」

「謝る必要なんてありませんよ。何も悪い事はしていないのですから」

「うん」

「……ただ、そうですね。一つお願いしたいことがあります」

「なに? 何でも言って」

「人ばかりでなくご自身の幸せも求めてください」

「それって言うのは……」

「旦那様が私の幸せを願うように私は旦那様の幸せを願っています。だから旦那様が幸せになれば私もまた幸せになれます」

「分かった。君の為にも、努力するよ」

「お願いします」

 

それで会話は終わった。

冷たい風が吹く。

青年は、風に煽られてさらさらと揺れる彼女の髪の毛が、とても綺麗だと思った。

 

 

 

 

 

 

 



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鍛冶屋が愛される

腕利きの冒険者たる私は鍛冶屋を探していた。

愛用の剣は壊れてしまった。甲羅が岩のように固いロックタートルを真っ二つに切り裂いたときに、ぽっきり折れてしまったのである。いくら腕が立つとはいえ、武器が無いのは流石に不味い。新たな相棒に相応しい剣を見つけるのは後にするにしても、先ずは当分の間を凌ぐための剣が必要であった。そのために近くの小さな町に立ち寄った。

鍛冶屋に辿り着いた。決して大きくはない木造の素朴な店構え。繁盛はしていないのかもしれない。だが、なまくらの1本や2本なら流石に置いてあるだろう。

私はそう思って、あまり期待せず軋む扉を開けた。

 

キィー

 

「おう、いらっしゃい」

 

まず出迎えたのはカウンターに立つ女の気持ちのいい朗らかな声であった。後ろで髪を束ねたその壮年の女性は真っ直ぐとした視線を私に向けてきて、随分と快活な印象を受けた。あえて言うならば、”陽だまりの似合う女性”だろうか。

だが、店員が良い面構えをしているからと言って、お店も素晴らしくなるかと言えば必ずしもそうではない。

私はそう思って、挨拶もそこそこに店を見渡す。

 

……ふむ

 

内心呟いた。

壁の隙間を埋めるように吊り下げられていたのは大量の武器と防具。小さい店だからさぞ商品が少ない事だろうと勝手に侮っていたが、どうにもこれは間違いだったと認めざるを得ない。商品の数に関しては街の鍛冶屋と同等と言えるほどだった。

品揃えは、素晴らしい。

だが、大事になってくるのは品質だ。いくら量があろうとも質が悪ければ意味がない。品質こそがそのモノの価値を決めるのだ。

私はそう思って、手近にあったアーマーに触れた。

 

指先から伝わる金属部品同士の重なり、繋がり、頑丈な手触り。

 

「……良いな」

 

良かった。

その作品には職人の確かな技術の高さを思わせた。値段を見れば500Gと表記があるがこれはそれ以上の価値が確実にある。なんなら倍でもいい。

 

 

「良いだろう? それは私が作ったもんだからな!」

 

カウンターの女の嬉しそうな声が横から飛んできた。見れば笑みを浮かべてこちらを見つめていた。なるほど、道理で筋肉の付いた逞しい腕だと思っていた。店員であり腕の立つ職人でもあるわけか。

気になった私は、他の防具も試しに触れてみたが、どれもしっかりした作りである事が伺えた。

つまり防具も、素晴らしかった。

私は後ろに振り返る。

ならば、本題に移るとしよう。

剣だ。

所詮はその場しのぎ。簡単なもので構わないが、なまくら過ぎては駄目だ。せめて私の振りに耐えうるだけの丈夫さは持っていて欲しいものだが……。

そう思いながら適当に1本手に取り、振る。

 

ブンッ

 

「……素晴らしい」

 

素晴らしかった。力を乗せるのに丁度良い重さに手に馴染む持ち手の形、何より刀身が良いしなりをする。空気を切り裂く音からも剣が丈夫なことが伺える。間違ってお店自慢の一品を手に取ったりしたんだろうかと値段を見たが、他に並べられている剣と大して変わらない。つまり、このクオリティの剣がこの店では普通だということになる。

 

「良い剣だろ」

 

再び女の声がした。

 

「ああ。驚くほどに出来栄えの良い剣だ。これも貴方が?」

「いいや。それは私の夫さ。それだけじゃない、武器は全て夫の手でつくられた物さ」

「実に素晴らしい腕前だ」

「当然さ。なんたって、うちの夫だからね」

 

女はまるで自分の事のように腕を組んで誇らしげにしていた。左薬指の指輪が光る。夫の事を心から自慢に思っているのだろう。

しかし本当にすごい。女が作った防具も相当出来の良い物であったが、剣に関してはもはや、そこらの街の鍛冶屋など到底太刀打ちできないであろう品質を見せている。

 

「貴方の旦那は有名な鍛冶師なのか?」

「そうなら、こんなに素朴な店じゃないさ。ただ、お得意様は多いね」

「それはそうだろう。こんな良い剣をこんな現実的な値段で沢山売っているなんて、そうあるもんじゃない」

「夫の方針でね。少しでも安くして必要とする冒険者に自分の剣を使ってもらいたいってさ」

「職人の鑑だな」

「だろう」

「きっと何十年も金槌を握ってきた熟練の職人なのだな」

「そうだね。少なくとも私が冒険者をやっていた20年前から、夫はずっと鍛冶屋さ」

「貴方は冒険者だったのか」

 

女の旦那が随分と長いこと鍛冶師をやっているという事実はある程度想定していたのでそれほど驚かなかったが、女が元々冒険者であるということはまるで予想していなかったので驚いた。女の冒険者は本当に数が少ないのだ。

 

「聞いたことないかい? “竜殺しのイリア”とかいうへんてこな名前」

「当然あるに決まっている!」

「それ私」

「……なっ!?!?」

 

悪戯が成功した子供のようににやりと笑う女に、私は開いた口が塞がらない。”竜殺しのイリア”と言えば当時、いくつもの国を襲って恐れられ災害とまで呼ばれていた巨大な火竜を唯一討伐した英雄としてその名を轟かし、

その後も狩猟難易度Sランク相当の竜を何体も狩ったとされる伝説の冒険者であった。

引退したとは聞いていたが、まさか辺境の町で鍛冶屋を営んでいるとは思いもよらなかった。

 

「随分と驚いているようだけど、まあ、昔の話さ」

「……」

「ふふ。そんで当時、私の剣を打っていたのが今の旦那ってわけだ」

「竜を斬る剣を……」

それを聞いてこの店の剣の品質に納得がいった。竜の鱗は恐ろしく硬く、腕の立つ鍛冶師の名刀でもなければ傷を与える事すら出来ないのだ。それを可能とする剣を20年前から打っていたとすれば、それはもうとんでもない技術を持った鍛冶師ということになる。全く、女も、その旦那も只者ではない。

 

「だが、どうして冒険者をやめて鍛冶師になってしまったんだ。貴方なら今でも全然続けられていただろうに」

「それはまあ色々あってね。でもあえて言うのであれば、”鍛冶師の男に惚れたから”さ」

 

女は少し照れながらもそう言った。私にはまだ愛だの恋だのは分からないが、人に惚れるというのは人生をがらりと変えるほどの強烈な情動なのかもしれない。

だがこうなると、気になってきてしまう。

適当に掴んだ剣がこれほどの高品質だとすれば、この店にはもっと出来の良い剣があるのではないだろうか。誰もが憧れた冒険者が惚れ込んだ夫の打つ自信作。

願わくばそれを、買いたい。

私はそう思って、カウンターの女に声をかける。

 

「この店で一番丈夫で切れ味の良い旦那さん自慢の剣を見せてくれ」

「あいよ」

 

女はそう言われるのを待っていたかのように快く承諾して店裏に引っ込むと、次には長い木箱を脇に挟んで戻ってきて、私の前にドンっと置いた。

 

「これが夫の一番の自信作だ」

 

木箱を開けると、鳥肌が立った。

その剣は見つめるだけで自身が切り裂かれるような錯覚を覚える程に見事な名品であった。

手に取ると尚の事伝わるその完成度。まるで最初から体の一部であったかのように寸分の狂い泣く力が伝わり、自由自在に振り回すことが出来た。以前私が愛用していた剣に勝るとも劣らない、まさに至極の一品。

 

「こんなに出来の良い剣には初めて出会った」

「そうだろう。私の夫は世界一さ」

 

青空のように爽やかな笑顔。

彼女の笑みからは本当にそう信じて疑っていないという全幅の信頼が感じ取れた。

 

「言い値で買おう」

 

私はこの剣を買うことに決めた。

 

 

 

支払いを終えると、女は後ろを振り向き夫を呼んだ。

 

「おい、あんたぁ!」

 

すると店裏から足音が段々と近づいてきて、やがて熊のような大柄な男が現れた。私は目を見開く。多くを知るかのような落ち着いた瞳に、丸太のように太い腕に、節くれ立った無骨な手。まさに熟練の職人を思わせる風貌であった。

男は女の横にぴたりと寄り添って立った。

 

「このお客さんがあんたの剣買ってくってさ」

「そうか」

「ほら、しゃきっとしな」

「お、おう」

 

背中を叩かれた男は寝起きだったのか、背筋がぴんと伸びてさらにデカくなった。見た目の割には妻の尻に敷かれているようだ。そう思うと少し可笑しかった。

なにはともあれ。

夫婦はこちらを向くと、

 

「ありがとな、兄ちゃん」

「旅の幸運を祈ってるよ」

 

と、それぞれ温かい声をかけてくれた。

かつて名声を意のままにした伝説の冒険者とベテラン鍛冶師。人間として二人は私よりもずっと格上であるが、その経歴に決して奢らず相手を見下す事もしない、純粋な応援の言葉であった。

私は深い感謝の言葉を残し、その場を後にした。

 

良い店に出会えたし、良い剣に出会えた。

なにより、良い二人に出会えた。

 

ああいう夫婦は、いいなと思った。

 



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警察が愛される

短くなっちゃった


若い男は絶望する。

様々な種族が共に暮らす大きなこの街で警察の職に就いているその男は、急な要請を受けてとある廃墟へと足を運んだ。

そこで、地獄を見た。

天井に空いた穴から降り注ぐ陽光に照らされながら、地面に描かれた魔法陣の上をなぞるようにして、竜人の子の生首が幾つも並べられていた。

明らかに何かしらの儀式が行われた形跡であった。竜人族は神獣たる竜と人間の混血のために特別な力を持っていると思う者が未だに多く、度々こうした惨い事件に巻き込まれる。今回生贄にされたのは、近頃行方不明になり警察が必死に捜索していた子供たちで、周囲に転がっていた頭部のない血まみれの胴体からそのことが特定された。

犯人の姿は無かった。男が他の警察と共に現場に到着したときには既に逃げた後だった。残されていたのは、子供たちの遺体だけ。

彼ら彼女らがそれぞれ浮かべる恐怖の表情を見て、命が奪われる瞬間はどれほど怖かった事だろうと想像し、男は立ったまま静かに涙を流した。同時に、事件を未然に防ぐことが出来なかった自分に腸が煮えくり返るような怒りを覚えた。

悲しみと怒りが心の中でごちゃ混ぜになって、男はうんと最低な気分だった。

 

 

「ただいま」

「おかえり~」

 

玄関の扉を開けると、リビングにいた妻が間延びした声で出迎えた。

家に帰った男は、努めて普段通りを装った。仕事のことを家に持ち込まないというのが彼の主義であった。そのためにいつものように手を洗い、いつものように着替え、いつもの表情でいつも通りソファに座る彼女の隣に腰かけた。

 

「今日暖かったよねー?」

「ああ」

「もう夕飯食べてきたんだっけ?」

「ああ」

「疲れた?」

「ああ」

 

他愛もない会話。

平静に、冷静に。

本当は何かを壊したいような叫びたいような言葉にならない衝動が心でぐるぐると滞留していたが、そんなことはおくびにも出さない。彼女に迷惑をかけるわけにはかない。

だが妻には、男の心中などお見通しであった。

 

「もう、しょうがないなぁ……」

 

妻はため息を吐くように呟くと、

 

ぎゅう~っ

 

と男の身体を優しく抱きしめた。

 

「急に、なんだ」

「いつも言ってるよね。辛い事とか悲しい事があったら私に言えって」

「……特に何もないが」

「あっそ」

 

妻は素直にならない男を責めるように、抱きしめる力を強くした。

 

「バレバレだから」

「……そうなのか」

「何年一緒にいると思ってるのよ」

「……」

 

それから暫く男は抱きしめられていたが、やがて男の方から心に溜まった感情をぶつけるように妻の身体を強く抱きしめ返した。

 

妻は黙って男の背中を軽く撫でていた。

 

 

 



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魔王に愛される

この世界には魔王がいる。角を生やしてサキュバスのような色気と美貌を兼ね備えた女性型の亜人であるその魔王は、圧倒的なカリスマ性で数ある魔物を束ね、賢い頭で的確に指示を飛ばし、膨大な魔力で魔物やダンジョンを精製し、強力な肉体と魔法で挑んできた勇者たちを返り討ちにする。

敵う者など誰もいない。誰もがひれ伏し、恐怖する。

孤高にして最恐にして絶対の魔物。

魔物の王。

魔王。

そんな最上位種たる彼女が、唯一、心を許せる存在が……人間の夫であった。

 

「疲れたのじゃ……」

「お疲れ様」

 

魔王城最上階の寝室のベッドの上。魔王は横になって人間を抱きしめている。黒髪の羊を追いかけるのが似合いそうな素朴な青年。

この青年こそが、魔王の夫であった。

元は、勇者だった。仲間と共に城を登り、魔王である彼女を討伐しに来たのだ。彼女はその時も最恐だった。ゆえにパーティは壊滅した。しかし青年だけは生き延び、あろうことか魔王にトドメの一撃を喰らわす寸前まで追い詰めた。

だが、彼はそれをしなかった。

彼女に一目惚れをしたのだ。そして珍しいことに、魔王もまた、強く勇ましい彼に惚れてしまった。

こうして奇妙な巡り合わせをした二人は、夫婦として愛し合うようになった。

 

「今日は魔族会議に出席して、先月死亡した魔物たちも蘇生させて、登ってきた勇者の相手もしたのじゃ」

「それは大変だったね」

「全くじゃ。……でも、お主の事を抱きしめていると、どんな治癒魔法よりも疲れが癒される」

「ちょっと言い過ぎじゃない?」

「いいや。わしは真実しか言わん」

「はは。じゃあ、いくらでも抱きしめていいよ」

「そうか。では遠慮なく」

 

ぎゅうううう

 

「ああ……最高なのじゃ……」

「よかった」

 

彼女は青年を抱き枕のようにして、全身で抱きしめる。体温を感じられるその姿勢が彼女は堪らなく好きなようで、眠るときはいつも青年を抱きしめていた。

彼女は暫し青年を堪能する。

体温も、匂いも、柔らかさも。

愛しいものを構成する全てが彼女を癒していた。摂取すれば脳はたちまち幸せに満たされた。

それは劇薬のようなモノで、彼女は魔王であることを忘れ、恥も外見も捨て、更なる幸福を求める。

 

「頭を……撫でてくれぬか……?」

 

耳元でぼそりと呟いた。

 

「勿論いいよ。なでなで好きだもんね」

「そう言われると、子供みたいで恥ずかしいのお……」

「可愛いくて良いと思うけど」

「むぅ……。アレをされると、全身の力が抜けてふにゃふにゃになるのじゃ」

「怖い魔法みたい」

「怖い魔法なのじゃ」

 

そうして彼は注文通りに頭を撫でる。彼女は目を細めて嬉しそうに頭をすり寄せた。

 

「ああ、気持ちいいのじゃ」

「よかった。他にご注文は」

「名前。名前を呼ぶのじゃ」

「魔王様」

「お主の前では魔王などではない。一人の妻として扱え」

「ごめんごめん。イレリア。よく頑張ってるね」

「うむ……もっと褒めよ」

「イレリア。偉い、偉い」

「んん……死ぬのじゃ……」

 

なでなでを延々に繰り返す。

彼女は気付けば目を閉じている。

 

「ねむい?」

「……いや」

「ねよっか」

「……」

「おやすみ。イレリア」

「……うぬ」

 

こうして今日も彼女は眠りにつく。

その顔に浮かぶのは誰からも畏れられる冷酷な魔王の表情では無く、もっと穏やかで幸せそうな表情であった。

しかしそれは、夫である青年以外だれも見ることが出来ない。

彼だけが見ることを許された、無防備な魔王の表情であった。

 



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暗殺者に愛される

体調を崩した青年は自室のベッドの上で横になっていた。

彼は暗殺者であった。民間暗殺会社「MORS」に所属する暗殺者。この会社は主に、暗殺者の育成や派遣を行っており、入社したての新人には必ず指導員として先輩が暗殺のイロハを教えた。彼にも女性の先輩暗殺者が指導員として付いた。そして気づけば、共に任務をこなすバディの間柄となっていた。

それまでソロだった彼女が青年を選んだ。なぜ選ばれたのかは青年にもさっぱり分からない。それほどに実力に差がある。

彼女は、非常に優れた暗殺者であった。

社内での模擬線では当然のように誰も敵わず、東南アジアで武器を垂れながし諸悪の根源とまでされていた悪の親玉を暗殺しただとか、アメリカの史上最大級のギャングのボスを暗殺しただとか偉業を数えれば枚挙に暇がない。

その、迅速に正確にどんな任務でも鮮やかに成し遂げるクールな殺しっぷりから「黒豹」の異名でも知られていた。

誰もが憧れた。

彼もまた憧れた。

……好意も抱いた。

しかし告白など出来よう筈もない。

バディではあったが隣に立てている実感などまるで無く、毎日彼女の足を引っ張らないように気を付け、彼女に追いつけるように努める日々。

が、現状はベッドの上で動けなくなっている。無様なものである。

今頃彼女は一人で卒なく任務をこなしているか、さもなくば沢山いるバディ志望の暗殺者と協力して任務に当たっている事だろう。暗殺はターゲットの情報を探り、準備を済ませ、後はただ好機を待つというのが基本であり少なくとも2,3日、長くて数か月を必要とする。

つまり、しばらく彼女に会えない可能性がある。

寂しいなぁ……。

彼は心の中で虚しく呟きながら目を閉じた。

何よりも今は身体を休め、体調を整えることが優先であった。

 

 

青年は夢を見た。横になっている彼の頭を彼女のしなやかな手が撫で、

 

「寝顔も随分と可愛いな」「このまま襲ってやろうか……」

 

などと、普段の彼女ならば絶対言わないような、青年にとって何とも魅力的なセリフを曖昧な意識の中で聞いた。彼は思わず笑ってしまう。どうやら彼女の事を考えるあまり、脳が都合の良い幻影を見せているらしい、と。しかし今の彼にとってそれは救いであった。会えないと思っていた彼女にたとえ夢の中でも会えるのは堪らなく嬉しい事だった。だから、折角だからと彼は、夢を楽しむことにする。

 

「キスしてもバレないよな……。うわぁ、なんでコイツこんな可愛いんだよ」

 

などと今も甘い台詞を吐き続けている妄想の中の彼女に彼はお返しとばかりに、普段言えないような感情を口にしてみることにした。

 

「先輩こそ……めっちゃ可愛いですよ……」

「はっ!?」

「みんな気付いていないですけど……先輩は、パフェとか甘い物食べてる時……子供みたいに幸せな表情になって、可愛いです……バディの俺だけ知ってる優越感やばいっす……」

「そ、そうか?」

「はい……。勿論、任務中は滅茶苦茶カッコ良いっすけど……」

「お、おう」

「ああ……先輩、すげぇ好きっす……」

「ふぇっ!?!?」

 

鼓膜が震えた。それをきっかけに彼の意識は急速に浮上し、やがて現実の情報を拾い始める。目を開けた。

目の前に、ベッド脇に座る、何故かうっすら顔を赤くしたバディの姿があった。

 

「う……うぇ……??」

「や、やあ。起きたか」

「なんで、いるんすか?」

「鍵が開いてたからな」

「不法侵入じゃないすか」

「暗殺者の基本だ」

「そうっすけど……」

 

青年はベッドの上でゆっくりと上半身を起こした。彼女は”寝てて良い”と言ったが“ちょっと楽になったんで”と言って彼は断った。身体を起こして改めて姿を見てみても、やはり彼女である。しかも珍しいことに任務で使うステルス機能を施した全身真っ黒の光学迷彩スーツでは無く、黒シャツに白ズボンというシックな出で立ちだった。

 

「本当になんでいるんすか」

「いたら迷惑か?」

「そうじゃないっすけど。任務はどうしたんですか」

「今日は休みだ。有休を使ってな」

「なぜ」

「バディがいなくては仕事にならないからな」

「先輩なら、俺がいなくても出来ますよ。それに同行したい人も沢山いるだろうし……」

「なんだ? 拗ねてるのか?」

「そうじゃないっすけど……」

 

彼が濡れた子犬のようなしょげた表情を見せると、彼女はふふっと小さく笑った。

 

「前なら確かに一人でも任務に行っただろうが、今は無理だ。お前とバディを組んで数年。すっかりお前がいる前提の動きに慣れてしまっている」

「それって俺のせいで動きが鈍ったってことじゃ」

「違う。お前と連携することで、より安全に確実にターゲットを仕留められる事を知ったというだけだ。リスクを減らせることが分かっているにあえて危険な暗殺に挑むのは馬鹿らしいだろ」

「そう……ですかね……」

「それに、お前が寝込んでると心配で暗殺に支障が出るんだ」

「心配してくれるんすか」

「……バディだからな」

「……なるほど」

 

それでお喋りは終った。彼女は咳ばらいを一つすると、床に置いていたビニール袋を彼に差し出した。

 

「ほら。ゼリーと飲み物だ。これ食べて元気出せ」

 

それは願ってもない恵みであった。彼は高熱で立つとふらふらするので、近くのコンビニにすら行けていなかったのだ。先ほどまで眠っていて忘れていたが、ゼリーという食べ物を見て自分が空腹であったことを身体が思い出した。

すると嗅覚が敏感になる。そして部屋に漂う微かな甘い匂いを感じ取る。

 

「香水?」

「いや。おかゆだ。お前が起きるまでにつくっておいた」

「まじっすか」

「食べれるか?」

「はい」

「よし」

 

そう言って彼女は立ち上がるとキッチンへ行き、次にはおかゆを盛った皿とスプーンを持って戻って来た。当り前のように食器の位置を把握している。一流の暗殺者は物体の位置予測能力が極めて優れている。

 

「ほら。口を開けろ」

 

彼女が当然のようにスプーンでおかゆを掬って食べさせようとした。彼は、恥ずかしがる。

 

「それぐらい、出来るんで。大丈夫です」

「この後身体を拭いてやろう」

「ええっ!?」

「いやか?」

「いやです!」

「では選べ。食べさせてもらいたいか、拭いてもらいたいか」

 

彼女は愉快そうに笑った。

暗殺者は時に敵を尋問しターゲットの情報を手に入れる。この手の選択(生か死を選ばせることが多いが)を迫るのは得意技であった。

 

「……食べさせてください」

 

彼に拒否権はない。

 

 

その後、しばらく青年の面倒を見た後で彼女は立ち去ることを決めた。本当は彼女は、青年が眠るまで居ると言ったのだが、青年は絶対に眠れないと言ったので彼女が仕方がなく譲歩した形になった。

彼女はベッドで横になっている彼を置いて部屋を出ていく寸前、振り返って訊いた。

 

「何か夢を見たか?」

 

その顔はひどく真剣であった。まるでターゲットを捕捉したときのような暗殺手前の最も張り詰めた表情。黒豹。鋭い瞳は青年の瞳を射抜き、嘘を吐くことを禁じていた。

彼は正直に話す。

 

「見ました、夢」

「内容は?」

「全然思い出せません」

「全く?」

「全く」

「……そうか」

 

そう口にした彼女は、落胆したような安心したような何とも複雑な顔をしていた。青年にはそれがどうしてかは分からなかったが、尋ねる前に彼女が背を向けて行ってしまった。

 

「早く元気になれ」

 

それだけを言い残し颯爽と家を出た。

 

 

 

 

 

彼女は帰り道を歩きながら独り言を呟いていた。

 

「くっそ。どうしよ。両想いとかまじか。うわ、やば」

 

……呟いていた。

 



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魔法陣設計士に愛される

「んん……」

 

青年は気付けばリビングの机に突っ伏して眠っていた。すぐ横には適当なページを開いたままの本がある。どうやら読んでいる途中に寝落ちしてしまっていたらしい。時計を見れば、時刻は深夜2時を回っていた。

すっかり寝る時間であるが、妻はどうしただろうか。

そう思って青年は立ち上がると、二人の寝室を訪れる。姿は無い。代わりに彼女の部屋に向かうと扉の下の隙間から光がうっすら廊下に漏れ出ており、扉を少し開いて中を覗けば、彼女は未だ机に向かって仕事の真っ最中であった。

彼女の仕事は魔法陣設計士。

魔法陣とは中型~大型魔法の発動に必要な円状の陣であり、それは緻密に計算されて効力を発揮するように結びつけられた夥しい数の呪文によって成り立つ。この魔法陣を然るべき場所に正確に書きこんで魔力を送り込めば誰でもその魔法を発動することができ、高位な魔法使いばかりでは無い社会において魔法陣はすっかり重宝されていた。

彼女はその魔法陣を自らの手で設計する仕事をしている。

誰でもできる仕事ではない。魔法に対する膨大な知識と圧倒的な理解力、なにより無限にある呪文の組み合わせから目的のための最適な組み合わせを見つけ出すひらめきが必要とされた。言わばそれは、幾つも分かれ道のある難解な迷路から、たった一つだけ存在する正解のルートを選ぶようなものである。

そんな魔法陣設計士の中でも彼女の才能は際立っており、元々10m程度の瞬間移動しか出来なかった転移魔法を改良して、1km先まで転移可能にした功績などは誰もが知っていた。

今も、彼女はその才能を求める沢山の注文に応えるべく、せっせと魔法陣を造っているのだろう。今日はずっと篭りっぱなしだ。

 

夜食をつくろう。

 

彼はふと思い立った。魔力も無ければ魔法の知識もまるでない彼が妻を手伝うには、このくらいの些細な事しか出来ない。それでも掃除をしてあげれば彼女は大変に感謝するし、ご飯をつくってあげれば無邪気に喜ぶのだ。彼女は、魔法陣設計に能力を割きすぎて生活力が著しく欠如していた。

だから、彼が支える。

キッチンで彼女の好きなサンドウィッチをつくる。

紅茶も淹れる。

平たい木製の盆に乗せて彼女の扉をノックした。当然のように返事はない。無視しているわけではなく、そもそも聞こえていない。彼女は凄まじい集中力で作業に取り組む。

彼は部屋の中に入ると、背中を丸めて机に向かっている彼女に近づいた。

やはり、魔法陣の設計をしていた。机の上に置かれた羊皮紙の図面には製作途中の魔法陣が描かれている。

彼女は顎に手を添えてじっくりと考え込んでいた。

その横顔に彼は見惚れる。

叡智を宿した切れ長の青い瞳で魔法陣を熱心に見つめ、唇は軽く結ばれ、ただ微動だにせず物思いに沈んでいる。その姿勢から醸し出される雰囲気は学者のように気高く、職人のように鋭い。ただ傍に居るだけで彼女が、全神経を魔法陣の設計に注いでいる事を肌で感じられ、その様には感服を覚える。

彼女以上にかっこいい女性を彼は知らなかった。

 

「……うわっ!? びっくりしたぁ」

 

しばらく青年が見つめていると、やがて彼女は彼の存在に気が付いた。口角を上げながら驚いた表情をしている。

 

「居たのなら声をかけてくれよ」

「ごめん。驚かせるつもりは無かったんだけど」

「ふふん。どうせ、僕の横顔にくぎ付けになっていたのだろう」

「うん。そうかな」

「僕は天才でイケメンだからな!」

「ん~。それとはちょっと違うかも??」

「もっとはっきり否定してくれ……。自分で言ってて死ぬほど恥ずかしくなる……」

「大丈夫。天才でイケメンだよ」

「あああぁぁ。深夜の小粋なジョークなんだ許してくれええぇぇ」

 

彼女からはさっきまでの緊張感がすっかり抜け落ちていた。今は夫を前にリラックスした様子を見せている。彼女は冗談が好きで、夫である青年にはよく適当なことを言うのだ。

 

「それよりも」

 

彼女は、青年が手に持っていたお盆の上の皿に乗る、3つのサンドウィッチを見つめながら言った。

 

「それは、夜食という事で良いのかな?」

「うん。サンドウィッチと温かい紅茶を持ってきたんだ。食べる?」

「食べるに決まっている! 丁度お腹が減ってきた頃合いでね。もうすぐ冷蔵庫を漁ろうかと考えていたんだ」

「盗人みたいだね」

「魔法陣設計士だ」

 

そうして二人でクツクツと楽しげに笑った後で、彼は作業机の比較的空いたスペースにお盆を置いた。“比較的“であって机の上に完全に空いたスペースは無い。基本いつ使ったかも、これから使い道があるのかも定かでない資料が積っている。

彼女が紅茶の入ったコップを手に取り優雅に啜っている間に、彼は顔を寄せて机の上の魔法陣を見つめた。

まるで芸術作品だ。綴られた呪文は幾何学的な線と共に美しく円を描いて並んでいる。ただ曲線の円を描く弧はあと一歩のところで途切れていて、魔法陣の12時の部分は少しだけ隙間が空いている。

 

「今日は眠れそう?」

「あとちょっとなんだ。最期を締めくくるのにふさわしい呪文さえ思いつけば、この、ゴーレムを生成する魔法陣は完成するんだ」

「そっか。もうどのくらい悩んでるの?」

「2時間」

「先に寝てるね」

「……ああ」

「おやすみ」

 

こういう時の彼女は長期戦になることを彼は知っている。だから若干可哀想ではあるが、待つことはしない。

そう思って彼は、寝室に向かうために振り返ろうとしたのだが、

 

「え」

「そいっ!」

 

という彼女の掛け声と共に気付けば彼の頭は彼女の腕にぎゅっと抱きかかえられ、少し苦しいほどに胸に押し付けられていた。

 

「いういおういあお?(急にどうしたの?)」

「単純な話さ。君の成分を補給している」

「あうあおえ(なんだそれ)」

「素晴らしい閃きには、君の成分が必要不可欠なのさ」

「うういい(苦しい)」

 

彼は抗議の意味で彼女の背中をとんとんと叩き、やっとの思いで腕が緩み、顔を上げることを許された。顔を赤くした彼を見て、彼女は愉快そうにケラケラ笑う。

 

「ちょっと死にかけたけど」

「死んだら蘇生魔法で蘇らせるから大丈夫さ」

「そういう問題じゃないよ」

「そうだね。君のツンツンした髪の毛の手触りと何故だか魅力的な匂いが合法なのは確かに問題だね」

「変態だ」

「魔法陣設計士なんてやる人間は大体そうさ」

 

そう言って彼女はにやりと笑った。

 

「ありがとう。これでもう少し頑張れそうだ」

「それは良かった。じゃあ今度こそ先に寝てるからね」

「ああ。僕のためにベッドを温めておいてくれ」

「絶対来ないよ」

「行く」

「何時くらい」

「……朝日が昇るくらい」

「程ほどにね」

 

彼が苦笑いを浮かべると彼女は、彼の額にキスを落とした。

 

「おやすみ」

「うん。おやすみ」

 

彼は部屋を後にした。

 

 



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戦士に愛される

古い遺跡の最奥地。今までの細い通路とは違って比較的広がった空間で壁から床まで複雑な紋様がびっしりと刻まれている。そしてそれらが集約していく中央に、壮年の夫婦が立っていた。ローブを着た男と首から下に鎧を纏った女。二人は顔から汗を垂らして疲弊した様子である。ここまで来るのに長い時間歩き、トラップやモンスターを相手にしながらやっとの想いで辿り着いた。

二人の目の前には地面から膝程度の高さに伸びた細長い石の台とその上に乗せられた本がある。

 

「ついに、見つけた……」

「やったなっ」

 

男がしみじみと呟き、女が喜びを伝えるようにその背中をバシと叩いた。

古代の魔導書。

それが二人の探していた本であった。

 

 

二人は元々魔王を倒す勇者の一行の仲間であった。男は魔法使い、女は戦士を担っていた。旅は楽では無かった。が、魔王討伐に向けて地道に歩を進めていた。

しかしある日、事態が一変する。

二人を除いた仲間の全員が魔王側へと寝返ったのである。どうやらその裏には魔王軍の幹部にそそのかされたという背景があるようだったが、定かではない。勇者も含め今まで仲間だった者達から武器を向けられ、二人は必死に逃げた。逃げて、逃げて、その場をなんとかやり過ごし、二人以外魔王に歯向かう者がいなくなっても尚、二人は魔王討伐を諦めなかった。いつだったか、魔王を殺すのは勇者の剣以外では不可能だが、封印ならば古代魔法でも可能であることを知った。それから二人は旅を再開して各地を転々とし、古代魔法についての情報を集めて回り……ついに、古代魔法の呪文が記されている魔導書まで辿り着いたのだった。

 

ぱらぱらぱら。

 

男はページを捲る。しかしどのページも空白だった。無論ただの白紙ではない。魔力が込められている。

 

「やっぱりだ」

 

男が納得するように呟き、女の方に振り向く。

 

「前に言ってた予想が当たった」

「それってのは、本に試される、とか言うやつかい?」

「そう。この本は恐らく読んだ者の意識を取り込む」

 

古代魔法は封印魔法以外にもいくつか種類があるが、そのどれもが強力であり、未熟な魔法使いが扱っていい代物ではない。そこで古代魔法を作り出すような偉大なる魔法使いは大抵、その魔導書に読者の力量を試すように試練を施すのである。そして、いま二人の目の前にある魔導書は、封印魔法の習得を望む者の意識を取り込み、その本の空白のページに本来刻まれている難解で圧倒的な文量になる呪文を一気に意識に叩き込むという試練をもたらし、その情報の海に溺れずに全てを理解することが出来た聡明な魔法使いのみが封印魔法の習得を許されるようであった。

 

「取り込まれたら出るまでにどれだけの時間が掛るか分からない。最悪本の中から出られないかもしれない」

「要は死ぬって?」

「そうだ」

「まあ、死んだらそれまでだね」

「随分と軽いな」

「今までそういう旅だったろ?」

「それもそうか」

「それに、あんたは死なない。ずっと近くで見てきたアタシが言うんだから間違いない。あんたは最強の魔法使いだよ」

「すごい自身だな」

「最強の戦士であるアタシの夫だからね」

「それは、信じるしかないな」

 

若干の軽口を挟みつつも、彼はすぐに真剣な顔つきになる。

 

「魔導書に意識を取り込まれている間、俺は座って念じた姿勢のまま全く身動きが取れなくなる」

「ああ」

「その間、もしかしたら魔王の手下たちが邪魔しに来るかもしれない。そいつらから、俺の事を守ってほしい」

「当然さ。あんたに死なれたら嫌だからね」

「俺も君に死なれるのは嫌だ。だから矛盾したことを言うようだけど、まずいと思ったら君だけでも逃げて、生き延びて欲しい」

 

「ぜってぇーやだね」

 

彼女は普段から口調が荒いが、この時ばかりはいつにも増して荒々しく吐き捨てた。まるで反吐が出る、とでも言いそうな口ぶりだった。事実、彼女はキレていた。

 

「舐めてもらっちゃ困るね。夫を捨てて逃げる妻がどこにいるってんだい」

「夫婦の肩書よりも命の方が大切だろ」

「一緒さ。アタシはあんたと一生添い遂げるって決めてんだ。それに、あんたが死んだらどの道、魔王に世界征服されて人間の未来はない。だろ?」

「……どこかの誰かが」

「どこの誰が?」

 

彼女は呆れた目を向ける。

そう。誰もいない。二人を除いて魔王に反抗しようという意思を持つ者など現れる筈がない。なぜならその人々の象徴であった勇者がとっくに魔王の手に落ちているのだから。

彼も当然それを分かっている。だから彼女を否定する言葉は残念ながらもう思いつかなかった。

 

「分かった。俺の負けだ。どんな状況になっても俺を置いていかないでくれ。一緒に死んでくれ」

「ああ。望むところさ。一緒に死んでやる」

 

そう胸を張って笑う彼女が何とも頼もしく、悲しかった。

彼は腕まくりをし、高い天井に向かって右手を掲げると長々と呪文を詠唱した。すると詠唱後には手の平から蒼い球体が浮かび上がり、一定の高さになった瞬間に破裂。四方に飛び散っていく液体はそれぞれ虹の如く空中に軌跡を描き、膜を張り、やがてドーム状の青い結界が出来上がった。

男は魔力を指に灯らせ空中に文字を描く。

 

“この結界は音も振動も遮断するが、それほど耐久力は無い。俺はこの中で集中して魔導書の読解を行う。そしてこの結界は中から出ることは出来るが、外から入ることは出来ない”

 

彼女は小さく頷いた

 

“外は、頼んだ”

 

再び頷いた。

彼はそれを確認すると、彼女に背を向けて本と向かい合うように座った。意識を集中するためだ。

だが目を閉じる直前に後ろから抱きしめられる感覚が訪れた。心地の良い重み。

視界に、長年の鍛錬で節くれ立った彼女の左手の甲が現れる。

薬指の指輪が光る。

人差し指が、空中に文字を書く。

 

愛してる

 

彼女は魔力を持たないために文字が浮かび上がることは無いが、それでも確かに伝わった。

彼も全く同じ言葉を空中に書いた。

 

愛してる

 

魔力は込めなかった。

やがて背中に掛かっていた重みが無くなる。

彼は、振り返らなかった。

 

 

彼女は結界を背にして仁王立ちをして、この空間に繋がる入り口をただじっと見つめていた。長い静寂だった。音を立てるものが何もなく、己の呼吸の音だけを聞き続けた。感覚は研ぎ澄まされていた。

ふと、空気が微かに変わったことに気付く。

彼女が剣の柄に手を掛けるのと、入り口から侵入者が姿を現すのはほぼ同時であった。

 

「やあ。久しぶりだね」

「てめぇ……」

 

彼女は怒りを込めた瞳で鋭く睨む。荘厳な輝きを放つ黒い鎧を身に纏って現れた金髪の男は、“元“勇者であった。

 

「腰抜け勇者さまがわざわざこんな所まで何しに来たんだい?」

「いや。昔の仲間の顔が見たくなってね」

「そりゃ残念。生憎ここには、お前を屑の裏切り者としか思っていない人間しかいないよ」

「おいおい。酷い言い草じゃないかぁ。旅をしている時はあんなに仲良くやってたのに」

「お前が“人間の味方”だった頃はね」

「厳しいなあ~」

 

おちょくるような間延びした声。彼女の癪に障る。

顔も嫌いで声も嫌いで、何より飄々とした態度が気に喰わない。こんな男に人類の希望が託されていたと思うと虫唾が走った。

 

「それで。用件は?」

 

その言葉を聞いた彼の目つきが鋭くなり、笑みが消える。

 

「魔導書をよこせ」

「断る」

「降伏しろ。そうすればお前の命だけは助けてやる」

「断る。お前に魔導書は死んでも渡さない」

「はあ~。相変らず脳筋で物分かりの悪い馬鹿な女だなぁ!」

 

そう言って彼は指を鳴らした。すると彼の周囲に次元を繋ぐ門がいくつも現れ、そこから魔王の配下たちが次々と現れた。ゴーレム、ヴァンパイア、ミノタウロス、デーモン。どうやら彼自身の魔力を転移先の目印として門を繋いだらしい。新たに現れた敵の中には、かつて共に旅をした仲間の姿もあった。当然その眼は敵対の色で染まっている。

元勇者が笑う。

 

「いくら愚かなお前でもこの戦力差は理解できるだろう」

 

彼女も笑う。

 

「馬鹿だから分かんないねぇ」

 

そう言って剣を抜くと、敵の群れに向かって軽く縦に振り払った。直後、斬撃が空気を切り裂きながら飛んでいき、いくらかの敵を真っ二つにした。

 

「ほおお。お前、魔力が使えるようになったのか……?」

「ああ、そうさ。お前が逃げた後も鍛錬を続けた成果だよ」

「……いや、違うな。お前にはそもそもマナが無い。……そうか、分かったぞ。お前、あいつと夫婦の契りを交わしたな?」

「ご名答。この剣にはアイツの魔力が籠っている」

「あっはははは。そおりゃいい。最高だぁ! 滅ぶしかない惨めな人間同士で傷の舐め合いをして遂には夫婦として結ばれましたってかぁ! かあ~泣かせるねぇっっ!!」

「お前は絶対に殺す!」

「やってみろ!」

 

こうして戦いの火蓋が切られる事となった。

敵は数十体。

彼女は一人。

それでも立ち向かった。

全ては夫との約束を守るために。

 

 

 

 

結界が消え、中にいた男は立ち上がると、辺りを見渡した。

酷い惨状だった。壁や床にはクレーターのような穴が大量に出来上がり、魔族も人間も皆転がっていた。誰もが傷だらけで誰一人動かず、誰も立っていなかった。

誰も。

彼女も。

駆け寄る。

彼女は仰向けのまま目を閉じ、全く動かなかった。鎧も砕けて布の服がボロボロで、全身傷だらけで血まみれになっていた。彼は呆然とした表情で手を、彼女の首すじに伸ばしていく。

脈を確認しなければならなかった。手が震えていた。身体は理解していた。しかし認めたくは無かった。だが事実は紛れも無くそこにあった。だから手を伸ばした。受け入れるために必要な儀式として、手を伸ばして、そして指先が首に触れて……。

 

「っ!?」

 

彼の手首は突然何かに掴まれ彼は小さく悲鳴を上げた。

何か。それは手だった。彼女の無骨な手だった。

目を見開いた彼女は、にやりと笑っていた。

 

「よお。早かったじゃないか」

 

彼女の、いつもの陽気な声だった。

彼女は生きていた。

男はそれを実感すると、無意識に涙がこぼれ始めた。ただ泣いて、彼女の顔に涙の水滴をたくさん落とした。

 

「アンタ、そんなに泣いて。子供みたいじゃないか」

「子供でも何でもいい……。生きてて、よかった……本当によかった……」

「もう。泣くなって」

 

気付けば彼女も涙が零れ始めていた。二人して子供のように泣いた。泣きながら彼女は、彼の頭に腕を回すと、服がはだけて素肌の晒されている胸に引き寄せた。

 

「ほら、生きてるだろ」

 

彼女が言う。

彼は耳を当てて、彼女の心臓の鼓動を確かに聞いた。彼女が生きている何よりの証拠であった。

彼は言葉も無くただ頷いて涙を流していた。

 



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恥ずかしがり屋に愛される

po


見晴らしの良い野原を馬が客車を引っ張って歩いていく。馬を操る御者はガイドの女性で、客車の中では、短めの金髪で凛とした雰囲気の若い女性と、同じく金髪ののほほんとした雰囲気を放つ若い男性が隣り合って座っていた。

恋人同士の関係である二人は観光の最中であった。一緒に世界を巡り、色んな景色を見て回っていた。だがそんな二人を包む空気はカップル特有の甘々なものとは少し違っている。

客車の外の景色を眺めている青年が「あれ見て。綺麗だよ!」「あれも面白いね!」と指を指しながら語りかけても、彼女は「そうね」と反応が薄く、彼の示す先を見ることもしない。一見、青年だけが楽しそうなのである。

 

「お二人は恋人の関係でいらっしゃるんですよね?」

 

振り返ったガイドが道中の話題の一つになればという思いからさりげなく訊いたが、心中では、二人の間柄に多少疑問を持ったことも否定はできない。その辺りの意図を感じ取ったのだろう、青年は笑いながら答えた。

 

「ええ、そうですよ。でもよく言われるんですよ~恋人らしくないって」

「あ、いえ。そんなことは」

「いいんですいいんです。実際、そう見えますよね。ケンカしてるんじゃないか、とか」

「そ……そうですね……。他のカップルのお客様と比べると、その……あんまりベタベタっという感じでは無いんですね」

「そうですね。彼女はこんなクールなのに実は恥ずかしがり屋で、人前だとくっついてくれないんですよ~」

「そうですか」

「でも二人っきりの時は甘えてくれたりして、それがまた可愛くて~」

「へぇ……」

「それから……」

 

彼はおっとりした口調でそう惚気話を続けて、喋っている間、隣の彼女は余計なことを言うなとばかりに睨みながら彼の脇腹を肘で突いていた。

この振る舞いからも分かる通り、彼女は確かにシャイなのであった。そして彼に対する愛も無いわけではなかった。むしろ心の中では溢れかえっていた。

先程から客車の外を流れてゆく綺麗な景色を見ないのも、それよりも景色を子供のように無邪気に眺める彼の横顔の方が魅力的で、見惚れていたのが理由であった。彼女は。彼女なりに旅を楽しんでいた。

そうして馬車に暫く揺られているとやがて、

 

「到着でーす」

 

ガイドが陽気にそう言って馬を止めた。客車から彼が先に降りて、彼に手を引かれて彼女も降りる。

 

「おお……」

 

青年が呟いた。二人の目の前に広がっていたのは、頂上を見上げる程には高く、なかなか傾斜が急な丘であった。隣に立っているガイドが口を開く。

 

「この丘の頂上には“神々の戦場”と呼ばれる平原が広がっているのですが、そこは昔、冥府の神と天界の神が争ったと言われておりまして、未だに沢山の戦いの痕跡を見ることが出来るんですよ」

「ほえ~」

「さらに綺麗な花がいっぱい咲いておりまして、花畑が絶景なことでも有名です」

「へえ~。それはいいですね!」

「では説明はこれくらいにして、早速登りましょうか」

 

ガイドの後に続いて二人も丘を上った。やがて頂上が近づいた。

 

「さあこちらが神々の戦場ですよ」

 

もう数歩で見えるというタイミングでガイドが自信満々にそう紹介する。その宣言通り二人の視界に噂の平原が広がり、二人は目を丸くした。……しかしそれは、花畑が綺麗だとかそんな理由からでは決してなかった。

大きな黒い翼と角を生やしオーガのような邪悪な人相をしている冥府の神と白い翼と光輪を頭に浮かべ聖母のような優しい表情をしている天界の神。

目の前で、神々の戦場で、この二体の神が、実際に戦闘を繰り広げていたのである。まるで信じられない光景に皆、呆然と立ち尽くした。

ふと、天界の神が持っていた杖を冥府の神に向けた。すると先端から美しい輝きを放つ光線が飛び出し冥府の神の心臓に向けて一直線に伸びていった。しかしそれが最後まで届くことは無い。冥府の神は勢い良く腕払いをして光線を弾いたのである。そして角度の変わった光線は尚も真っ直ぐ伸びていき、やがて青年の脳天を貫いた。

時間がゆるやかになる。彼女の目の前で、青年は驚いた表情のまま後ろに吹っ飛び、そのまま回転しながら丘の下へと落ちていった。

彼はピクリとも動かなかった。

即死。

遅れて彼女が悲鳴を上げた。

 

「きゃああああああぁぁぁぁ」

 

鈍い打撃音ばかりが埋め尽くしていた戦場に悲鳴が轟く。それで、初めて神々は人間の存在に気付いたらしい。天界の神は一瞬の内に時空を飛んで姿をくらまし、冥府の神も地面から冥界へと繋がる門を呼び出し帰ろうとした。

しかし、

 

「待ちなさいよっ!!」

 

彼女がそれを制止した。冥府の神が面倒くさそうに振り返れば、彼女が涙を流しながら憤怒の表情で睨んでいた。横のガイドは神に無礼な口を訊き方をしている彼女が消されないか心配で独りでにアワアワ慌てている。

 

「なんだ、人間」

「なんだじゃないわ! そこで待ってなさい!」

「人間如きが私に指図するのか」

「待てって言ってんの!この人殺し!」

 

彼女の神をも畏れぬ剣幕は、誰にでも敬られる冥府の神にとって物珍しく映ったようで、言われた通りその場で立ち止まった。彼女はその間に丘を駆け下りると、悲しみと怒りを力に変えて本来は不可能であろう小柄な成人女性が同じく成人の青年を背負い上げるという無茶をして、丘を一歩一歩登った。そうして冥府の神の前に寝かせた。

 

「彼が死んだのは貴方たちの責任よ! どうにかしなさいよ!」

 

彼女は迫った。

 

「無理だ」

 

冥府の神が無慈悲に返した。

 

「一度失われた命は冥府の神である私であろうと戻せん」

「ふざけたこと言わないで!!」

「ふざけてなどおらん。無理なものは無理だ」

「そんな……」

 

彼女は彼の胸に縋り付くようにして泣いた。彼の心臓は確かに鼓動をやめている。それをよりはっきりと実感させられて彼女は悲しみをより深くした。

冥府の神は暫らく彼女を見下ろしていた。が、憐れに思ったのかやがて口を開く。

 

「戻すことは出来ない。だが、蘇らせることは出来る」

「本当に!?」

 

彼女は勢いよく顔を上げた。その瞳は希望で満ちていた。希望。それは冥府の神が最も嫌いなものであった。

だが、この希望を絶望に変えるのが一番好きな瞬間でもあった。だからあえて希望を持たせたのだ。

神は、あえて無茶な事を言った。

 

「蘇らせる方法。それはお前の……を貰う事だ」

 

しかし、

 

「ええ。構わないわ」

 

彼女はその提案にまるでビビらなかった。

 

「なに?」

「早くやって」

「……ああ」

 

結局、冥府の神は、大人しく彼女の言うとおりにしたのだった。

 

 

 

地面に沢山の穴ぼこがあるが、気持ちのいい風が吹く平原。。そこに生える樹木の木陰で彼女は青年を膝枕していた。やがて青年が目を覚ます。

 

「んん……」

「おはよう」

「おはよう……。あれ、俺生きてる?」

「生きてるって?」

「いやぁ。変なこと言うようだけど。この平原で神同士が喧嘩しててさ……その流れ弾が頭に当たって……多分俺、死んだと思うんだよね……?」

「それは夢よ」

「夢かな?」

「そうよ。だって現実に生きているじゃない」

「……確かに」

「この場所が気持ちよすぎて寝ちゃったのよ」

「そうか……」

 

彼は若干疑いつつも彼女の言葉を信頼したようだった。

優しい風が吹く。

彼は彼女の膝枕を借りたまま目を瞑る。

二人の間に穏やかな時間が流れる。

しかし、ガイドの人が歩み寄ってきたことでその時間は終った。恥ずかしがりやな彼女はすぐさま膝をずらし、草むらが彼の頭を受け止めた。

 

「ほげっ!?」

「お待たせしました。お水です」

「……どうも」

 

驚く彼を横目に彼女はガイドから水を受け取った。彼はゆっくりと体を起こす。ガイドはそんな二人をニコニコした表情で見下ろす。

 

「それにしても彼女様は本当に素敵な方でいらっしゃいますね!」

 

ガイドが嬉しそうに言った。彼女は無表情で、彼は照れくさそうに笑う。

 

「そうですかねぇ~??」

「そうですよ! 神々の戦いに巻き込まれて死んでしまわれた彼氏様を見て、今までのお淑やかな態度から激変して冥府の神にぶちギレなさって」

「え?」

「しかも彼氏様を救うために、自らの寿命を半分削って分け与えるという提案を迷うことなく飲み込んで」

「え??」

「そうそう出来る事じゃありませんよ!」

「???」

 

彼は慌てて確認するように彼女の顔を見た。

彼女は何も言わず、静かに笑った。

 

神も見惚れる美しい笑顔であった。

 



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吸血鬼に愛される

酔っ払いたちの楽しそうな騒ぎ声で賑わう夜の酒場。そこで三人の盗賊が丸テーブルを囲んで話し合いをしていた。

 

「お頭。次の標的は見つかったでヤンスか?」

「お頭。次はだれを狙うんでガスか?」

 

ひょろっとした男とぽっちゃりした男にそう尋ねられ、お頭と呼ばれた髭面の男は二ヒヒと笑う。

 

「聞いて驚け。次の獲物は……ラグナ博士だ!!」

「「おお~~」」

 

子分の二人は揃って驚きの声を上げた。

 

「ラグナ博士って天才物理学者で稀代の発明家とも言われているあの、ラグナ博士でヤンスか!?」

「そうだ。そのラグナ博士だ」

「良く分かんないけど、そんなに凄いんでガスか?」

「何も知らないでびっくりしてたんでヤンスか?」

「ガス」

「はあ~。いいでヤンスか。ラグナ博士は本当に頭の良いやつで、グリ公国に隕石が落ちる正確な時刻を計算で導き出したり、皆使ってるこのランプを発明したりした博士でヤンス!」

「それは凄いでガス!」

「凄いでヤンス!」

「ガス!」

「ヤンス!」

 

二人はそうして意味のない単語を発し合って遊び始めたが、不意にひょろっとした方が気付いた。

 

「でも、おかしいでヤンス。あの人、二十年前にぱったりと消息を絶って、今も行方不明の筈でヤンス」

「おお。物知りじゃねえか」

「げへへ」

「ヤンス、やるでガス」

「でも、博士がいなかったら盗み用が無いでヤンス」

「その博士の家が見つかったと言ったら?」

「「ええ~~」」

 

子分の二人は再び声を揃えて驚きの声を上げた。

 

「どうやら博士の家はこの街の外れ。森を抜けた先に建つでかい館らしい。そして研究と発明はその地下室で行われている」

「だからこの街に来たんでガスね」

「ああ、そうだ。しかも俺の読みが正しければ、博士はきっと、世に公表できないようなとんでもない発明だか研究だかを二十年もの間行ってきた筈だ。だから消息を絶った。感づかれないために」

「っぽいでヤンス!」

「しかも! 今は博士がどういう訳か館にいないらしい!」

「……つまり、どういうことでガス?」

「つまり、大天才が長い時間をかけて作り出したお宝がきっと地下室で無防備に眠っている! 俺たちが今のうちにその成果をちゃちゃっと盗み出して売れば、何十億のお金が手に入っても全くおかしくない!!」

「「おお~~~~」」

 

子分二人は興奮で声を漏らした。「「お宝♪お宝♪お宝♪お宝♪」と二人で唄いながら小躍りした。

しかし

 

「怖い噂を思い出したでガス」

 

不意にぽっちゃりした方が動きを止める。

 

「どんな噂でヤンス?」

「ラグナ博士の研究所に盗みに入った盗賊はみんな帰ってこないんでガス」

「ヤンス……?」

「なんでも緑の怪物に食い殺されるとかって聞いたでガス!」

「ひええでヤンス!!」

「ひええでガス!」

「ヤンス!」

「ガス!」

 

抱き合う二人をお頭が呆れた表情で見た。

 

「ビビるなお前ら! 俺たちは将来、天下に名を届かす大盗賊だ! こんなところでビクビクしてちゃ話になんねえぞ!!」

「そ、そうでヤンス」

「間違いないでガス」

「よし! 決行日は明日だ! そのために今日はたらふく飲むぞ!!」

「「うおおお~~~」」

 

三人は心を昂らせ盃を交わした。

 

 

 

 

そうして三人は洋館の前に立っていた。

 

「でけえな……」

「立派な洋館でヤンス……」

「すっげえでガス……」

 

洋館は大きく立派で不気味な雰囲気を漂わせていた。特別何がという訳でもないが、強いて言えば人の気配のない館というが気味の悪さを思わせた。お化けでも出そうである。

そんなどうでもいい事を思いながら、お頭は早速館に入るためのルートを探すことにした。玄関は当然空いていないだろう。ならば周りの別ルート。例えば煙突とか……。そうして子分を連れて歩き出そうとしたとき、突然に、

 

きいいいぃぃ

 

甲高い音を立てて正面玄関が空いた。三人は顔を見合わせる。現れたのは、全身を黒の執事服で身を包んだ、麗人を思わせるすらりと背の高い中性的な顔立ちの女性であった。

 

「やあ。お客人。何か御用かな?」

 

物腰柔らかな口調でそう尋ねてきた。お頭はつい身構えたが、冷静に考えれば開かないと思っていた玄関は開いたし、出てきたのは女性一人である。男三人の盗賊がその気になれば勝てるに決まっている。

そう思ってお頭は強気に出た。

 

「俺たちは見ての通り盗賊だ。お前の主人の宝を奪いに来た」

「宝? そんなものあったかな?」

「地下でずーっと研究だか発明だか知らんが、こそこそやってきたやつがあるだろ」

「ああ。そのことか。うんうん、確かにそれは宝だね」

 

彼女の反応を見て三人は内心大喜びした。予想は大当たり。館の地下室にはとんでもないお宝が眠っている。そうと分かれば、三人は邪悪な笑みを浮かべずにはいられなかった。

しかしそんな浮かれた彼らの希望を、彼女の次の一言が打ち砕く。

 

「でもね。それは僕にとっての宝であって。君たちには一銭の価値にもならないと思うよ」

 

これにはお頭も尋ねずにはいられなかった。

 

「なぜだ」

「なぜって。そりゃぁ、彼が研究しているのは“吸血鬼が日に当たっても死なない方法“だからさ」

「……?」

「だから、僕は吸血鬼で、彼は僕の為に“吸血鬼が日に当たっても死なない方法“を研究してるんだ」

「はぁぁぁ!?」

 

思わず素っ頓狂な声が出た。

きゅうけつき。キュウケツキ? 吸血鬼!?

 

「がははははははは」

「あひゃひゃひゃひゃ」

「ガスガスガスガス」

 

三人は大笑いである。可笑しくて可笑しくて仕方がない。吸血鬼など大人が子供を早く寝かしつける為に言い聞かせる常套句で迷信でつまりフィクションだ。存在などしない。そんなものを信じるのはせいぜい下の毛も生えていないガキくらいもんだ。それを大真面目に目の前の女が語っている。こんな愉快なことはそうそう起こらない!愉快!愉快!

だから、気付かない。

気付けない。

目の前の女の瞳に怒りが宿っていることに。

 

「ああ……そっかそっか。馬鹿にしちゃうのか。これは……実に不快だなぁ……」

 

彼女は静かに怒気を孕ませた口調で言った。

 

「僕はね、花が大好きなんだ。アネモネとかチューリップとかね。でも綺麗なあの子たちは夜になると閉じてしまう。僕は夜しか出歩けないというのに……だから、それを知った彼が僕に約束してくれたんだ。“一緒に太陽の下で満開の花畑を見に行こう”って。それからもう二十年、彼はただ僕の為だけにずっとそれについて研究をし続けている」

「おいおいぃ。もう勘弁してくれぇぇ。息が出来ないぃひひひひぃぃぃ」

「そうだよね。分からないよね。この事実が、僕にとってどれだけ嬉しいことか。吸血鬼の寿命は数百年だけど人間の寿命はせいぜい60年。それでも彼は貴重な時間を僕の為に費やしている。そんな彼が、どれだけ愛おしいか。彼の研究が、どれだけかけがいの無いものか」

「いやいや。分かるぜ。惚れた女が適当についた嘘を真に受けて全部ドブに捨てている愚かな男ってことだろ!哀れだなラグナ博士はよぉ!!」

「うーん。僕はもう限界だな……」

 

そう言って彼女は指をパチンと鳴らした。すると、彼らの足元で地響きが起こり、やがて地面から巨大な食虫植物が姿を現し、彼らの前にそびえ立った。全長3m。太く長い茎の先には口のように開き、外側に獲物を逃がさぬように大量の棘を生やした内側の赤い二枚の巨大な葉っぱ。その緑色の怪物が、盗賊たちを見下ろす。

 

「なんだ……こいつら……」

「怖いでヤンス」

「ガス……ガス……」

 

盗賊たちは顔を強張らせた。そんな怯える彼らを見て、彼女は尋ねた。

 

「どうだい。せめて謝罪する気はないかい? 僕は寛容だからね。ああ勿論、謝罪は僕ではなく、僕の大事なパートナーに対して」

「お前ら逃げるぞ!!」

「了解でヤンス!」

「逃げるでガス!」

 

盗賊たちは彼女の与えた最後のチャンスも無下にした。背中を見せて逃げようとする。そんな彼らが行きつく先は、決まっている。

 

「捕まえろ」

 

彼女の冷たい声に命じられ、食虫植物は彼らに蔓を巻き付け軽々と捕えた。そのまま断頭台よろしく、食虫植物の皿のように開いた口の上に乗っけられる。

 

 

「くっそおお」

「離すでヤンス!!」

「やめろでガス!」

「ふふ。この子たちは、僕の血を与えて育てたんだ。いわば僕の眷属。だからこの子たちは人間の血に飢えているんだよね」

「頼む。何でもするから許してくれ!」

「じゃあ跡を残さず綺麗に死んでね。君たちみたいな下衆な輩は彼の視界に入れたくないからさ」

 

そう言って、彼女は不敵に笑った。

その八重歯は鋭く尖っていた。背中からは黒い翼が生えていた。

吸血鬼は目を細めた。

 

「さようなら」

 

食虫植物は口を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

「ただいま」

「ああ、おかえり。今回は早かったね」

「うん。東の方で吸血鬼についての素晴らしい文献を沢山手に入れてきたんだ。これで上手くいくかもしれない」

「ふふ。いつもの台詞だね」

「いや。今回はとても自信があるから、期待してくれて構わない。それよりも、留守中は何かあったかな?」

「なにも。至って平和だったさ」

「そうか。留守番ありがとう。お土産をたくさん持って帰ってきたから後で一緒にお茶にしよう」

「それも良いけど。僕は……君の血が飲みたいかな……」

「分かった。お茶の後のデザートにすると良い」

「やった。久々のご馳走だ!」

「少しは手加減してくれよ」

「分かってるさ。君を抱きしめて、大事に大事に一日中吸うんだ」

「……吸われ過ぎて干からびそうだ」

「ふふっ」

 

 

 

 

 

 



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ヒーローに愛される

青年の妻はヒーローであった。ヒーローは稀に生まれた。生物学的に言えば突然変異、もしくは病気。未だ詳しいことは不明。彼らは、生まれつき常人の何十倍もの力を発揮する事が出来る能力者で、どこからともなく街に現れる巨大な怪獣をやっつけて住民を危険から守っていた。

必需品はヒーロースーツだった。

これを着ないと自らの力に身体が耐え切れなくて、骨折はもちろん、最悪身体が破裂する恐れがあった。そのためヒーローは特定の企業と契約して特製スーツを作ってもらい、企業側もヒーローにスーツを着てもらうことで自社の宣伝を行った。ヒーローと怪獣の戦いはテレビで中継され、多くの人間が見ていた。派手に建物が壊れたり、ヒーローがかっこよく怪獣を倒す様は画面を通す事で興行へと早変わりし、人々を興奮させた。

そう、エンタメの認識なのだ。電車がぺしゃんこになっても、ガソリンスタンドが爆発しても、ヒーローが劣勢で怪獣に殺されかけていたとしても、それらは全て、愉快なイベント。もちろんプロレスなどとは違う。ヒーローと怪獣の、人と巨大生物の、生き死にが掛かったこの世で最も過酷で壮絶な現場である。だが人々は楽しめてしまった。

このエンタメの構造は、如何にも好奇心の純朴な奴隷たる人間たち好みの異常な仕組みであり、だから大きな勘違いを犯す輩も当然に現れた。

避難警告を無視して野次馬する人間である。

あの時もそうだった。

青年の妻は、いつものように命を賭して怪獣と戦い、追い詰め、トドメの一撃として必殺のパンチを、その岩のように太くゴツゴツした胴体にお見舞いした。怪獣は派手に吹っ飛んだ。飛んで、背中から落ちて、沢山の建物を下敷きにして、とある人物も潰して、絶命した。

それが、国民的人気を誇る俳優であった。

冷静に平等な目で見つめれば、どう考えても不慮の事故であった。強いて言えば間近で戦闘を見たいという欲求に負けて避難勧告を無視して命知らずにも戦闘区域に残っていた彼の失態であり、それ以外の誰かに責任がある筈もなかった。しかし人間は時に感情で生きる生き物だった。

彼女を、責めた。

激しく非難した。

連日メディアはこの出来事に対して、感情に支配された人々が彼女に向けた合理性のない怒りを嬉々として取り上げることで、さも世論はこうであるとでも言いたげに広め、テレビでは何処ぞの馬の骨とも知らない自称専門家が彼女にどんな落ち度があったのか、どうするべきだったかを雄弁に語り、彼女の家にはーつまり、青年と彼女の二人に安らぎをもたらす筈の家にはー恨み辛みを込めた熱烈なファンレターやプレゼントが届けられた。

それでも彼女は取り乱すことをしなかった。

どれだけ非難されても毅然として振る舞い、やがて企業と共に謝罪会見を開き、何も悪いことをしていないのに、沢山のカメラマンと記者の前で深く頭を下げて謝った。

 

「誠に申し訳ございませんでした」

 

と。

 

 

 

 

「ただいま〜」

 

謝罪会見の諸々が終わった後、見慣れぬ社会人のよく着る黒スーツを着た彼女は間延びした声と共に帰宅した。青年が出迎える。

 

「おかえり」

「ただいま……おや、良い匂いがする?」

「カレーが出来てるよ。あとお風呂も湧いてる」

「おぉ〜、さっすが気が効くぅ」

「どういたしまして」

 

おどけた風に彼女が笑って、青年も笑う。青年が彼女にしてあげられる出来る限りの気遣いだった。全ては彼女にくつろいで貰うため。

 

「コートとスーツもらう」

「さんきゅ」

 

彼女はいつも通りだった。いつも通りモリモリ夕食を食べ、鼻歌混じりで風呂に浸かり、リラックスした雰囲気でソファに座った。まるで謝罪会見があったことなど忘れているかのようだった。

 

「コーヒー飲む?」

「飲む!」

 

彼は、コーヒーを注いだカップを二つ持って彼女の隣に座った。

彼女は、面白い番組を求めてテレビのリモコンを操作した。チャンネルが変わって、ニュース番組になった。

謝罪会見の映像が流れていた。

 

「お、やってるね〜」

 

青年はすかさず横目で彼女の表情を伺う。無理をしていないか。辛そうにしていないか。

変わらず。何も楽しい事もないのに微笑を浮かべているいつものご機嫌そうな表情だった。逆に、彼が深刻な表情をしていたらしい。

彼女と横目で目が合うと、次には吹き出すように笑われた。

 

「なんであなたの方が苦しそうなの?」

「だって」

 

青年は思わず世間への不満を口にした。

君が非難されるなんて可笑しい、と。

君は何も悪くない、と。

一度口にしたら止まらなかった。もはや激昂に近かった。人の悪口を絶対に言わない彼女の代わりに黒い感情を吐き出すかの様に、酷く罵った。彼はあの出来事以来、人が街が国が政府がテレビがメディアが嫌いで嫌いでどうしようもなくて、その妻を傷つけようとする全てに対しての恨みをどういうわけか彼女に言葉で訴えたのだった。

彼は気付けば涙を流していた。結婚してから彼女に初めて見せた涙だった。彼女もつられて泣いていた。彼は苦しそうで、彼女は楽しげだった。

 

「なんで、笑っていられるんだ」

「ごめんごめん。あなたが何かに怒ってるのを初めて見たから、つい」

「僕は、本気なんだ。本気でみんな嫌いだ」

「ありがとう。あなたが怒ってくれるだけで、味方でいてくれるだけで、本当に本当に嬉しい」

「くそ……くそぉ……」

 

彼女が彼を抱きしめ、彼がきつく抱きしめ返した。槍玉に挙げられているのは彼女のはずなのに、彼の方が酷く泣いていて、彼女が優しく背中を撫でてあやしていた。

 

「ごめん……」

 

向かい合う。

落ち着いた彼は、あらためて謝った。彼女はニヤリと笑う。

 

「気にしないで。むしろ珍しいものが見れて得した気分」

 

それから彼は彼女に提案をした。

 

「ヒーローを1週間くらいお休みするのはどうかな」

「その間に怪獣が来たら街がめちゃくちゃになっちゃうからな〜」

「むしろ一か月いや半年休もう」

「そうしたらこの地域が怪獣の巣になって色んな場所に広まっていって、日本は大パニックだねぇ」

「というかやめよう。僕が君を養うから。二人分なら僕の給料でも暮らしていける」

「退屈で死んじゃうかも」

 

青年には分かっていた事だが、彼女はヒーローを辞める意思を全く見せなかった。彼女にとってヒーローとは生まれ持っての使命であり、生き甲斐であり、つまるところ生命活動そのものなのだ。取り上げることなどは誰にも出来ず、彼女自身も限界が来るまで辞めることはない。

でもそれだと、これ以上どうすれば彼女の力になってあげられるか分からない。

 

「ほら〜そんな顔しないでよ。私は大丈夫だから。私はいつも最善を尽くしてる。だから全ての結果に納得出来る。ね、なるほどって感じでしょ?」

 

そうだ。彼女はいつも全力なのだ。だからそこに彼が助力が入り込む隙間など無くて、彼女は自己完結してしまう。

青年は虚しくなる。

自分などなんの役にも立たないと思い込む。自分を卑下する。鬱々とした感情が鬱々とした感情を呼び込んで行く。

夫なのに。

自分が情けなくて、堪らなくなる。

 

「ねぇ」

 

ふと。

彼女が呼んだ。呼ばれて数秒後に彼は気づいた。

 

「何か勘違いしているようだけど」

 

彼女に見つめられる。

 

「私だって辛い時はあるから」

「え」

 

当然でしょ、と彼女は笑った。あまり信じられなかった。少なくとも彼女は弱みを見せないことで、彼の中では有名だった。

 

「今まで何度も助けてもらってるよ。あなたに」

「……そうだっけ」

「そうだよ。まあ、あなたは忘れっぽいし、すぐに人のことを気遣うから無意識というか気にするほどの事でも無いのかもしれないね」

 

言われた通り彼は、性格は、そうだった。

 

「だからさ」

 

彼女は彼の肩に頭を預けた。

 

「本当にギブになったら君に頼るから、その時はよろしくね」

 

彼女の願いが込められた囁きは、確かに彼の鼓膜に届けられた。

よかった。

彼は思う。

どうやら彼にも出来ることはまだ残されていたらしい。

返答は決まっている。

 

「もちろん」

 

彼は彼女の手に自身の手を重ねた。

 

 



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ボスに愛される

青年はボスの部屋を目指して廊下を歩いている。ボスはもうすぐ武器商人と麻薬売買人と人身売買人と政界の要人と立て続けに取り引きがある。青年は世話係を任されている。だからボスを起こす必要があった。

ボス。

凶暴な女性であった。元々は巨大マフィアの一員で、とにかく血の気が多くて血生臭いのが大好きで頭がキレて、気に障った敵組織をいくつも壊滅させていた。その凶暴さが手に負えなくなってマフィアを追放されてからは自身をトップとするマフィアを設立。

好んで争う脳筋マフィア。

そのボス。

周囲からは最恐の女ととして恐れられた。

その通り。彼女に天敵などいなかった。

しかし欠点はあった。

 

無類の女好きだったのである。

 

「ボス、入りますよ〜」

 

ガチャ

 

「おう」

「きゃあっ!?」

 

ベッドの上。布団で体を隠す裸の女。堂々とあぐらをかくボス。

今日もボスは予定を忘れ、女とまぐわっていたらしい。

 

 

「はぁ……」

 

青年は溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

「ボス。僕昨日言いましたよね。明日は朝早くから予定が詰まっているって」

 

ボスに服を着させたり髪を整えたりと身支度を手伝いながら青年が言った。少し説教くさい物言いは他の組員が真似したら間違いなくボコボコにされるが、彼女との付き合いが長い青年は唯一許されていた。

 

「覚えていらっしゃいましたか?」

「ああ。確かに聞いた」

「ですよね。何度も言ってますもんね。次の日が朝から仕事の時は控えてくださいって」

「そうだな」

「ではなぜ女を抱いたんですか!」

「抱きたかったんだからしょうがないだろ!」

「答えになって無いですよ……」

 

青年は呆れたように呟いた。もう、お決まりのやりとりだった。彼女は頑なな意志で女を抱く事をやめない。

 

「というかそもそもあれ、いま、ウチとピリついてるマフィアの女でしたよね?」

「ほう。よく気付いたな」

「よく気付いたな、じゃあないですよ。ボスが女に手を出した事が原因で、マフィア同士の関係性が拗れて、抗戦に発展した事例が今まで何度あったと思ってるんですか?」

「恋には敵が多いものだ」

「違いますよ。ハニートラップですよ。いい加減、他所のマフィアの女を相手にするのやめてください」

「寄ってきた女を本気にさせるのが最高に興奮するんだがなぁ」

「お願いですから堪えてください」

 

彼女は口のへの字にして不服そうな顔をした。

しかし、いずれは彼女の女癖が原因ではっきりと戦力差があるような超巨大マフィアとの抗争にも発展しかねない。無論、イかれた彼女と仲間たちはそんな事にも臆せずに、むしろ喜んで争い、やがて敵を沈めてしまうのは想像に難く無いが、それでも争いは出来るだけ避けるべきであると、マフィア内では珍しく冷静な男である青年は思っていた。

 

「あとウチの女に手を出すのもやめてください」

「それは良いだろう。仲間なんだから」

「良くないです。ボスはご存じないでしょうが、ウチの女たちは軒並みボスに惚れているので、ボスを巡って取り合いが起こってるんですよ」

「ほう」

「まるで東の国ジャパンの昔話です」

「私はモテモテだな」

「そんな呑気な事を言ってる場合ではありません。この前だって、拳銃を撃ち合っての喧嘩にまでなってたんですから。ボスのせいで仲間の血が流れて良いんですか?」

「よし分かった。喧嘩になったら全員私のところに連れてこい。まとめて相手をシてやろう」

「女たちは自分が一番にならなければ満足しませんよ」

「私にとってはみんな一番だ」

「手を出さないのが一番です」

 

ボスはさらにつまらなそうな顔を深くした。当然だろう。彼は思う。ボスはまるで習慣のようにいつも女と寝ていたのだから、それをするなと言われれば面白くないに決まっている。だが女と愛し合う事を完全に辞めさせようとしてるわけではない。要は、マフィアと繋がりを持つ女と関係を持たなければ良いのである。だから一般人と……は相手が危険に巻き込まれるし、夜の店は……ボスについての情報が漏れるし……考えてみると難しい。一番良いのは、信頼できる特定のパートナーを持つことだろうか。それでも、毎夜ボスを相手に出来る程のスタミナを持つ女などそうそう居るはずもないが……。

 

「それならば仕方ない」

 

彼女がさらりと呟いた。

 

「今度からお前に相手をしてもらうからな」

「……え?」

「お前が私に抱かれるんだ」

「はい!?!?」

 

彼は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。彼にとって彼女の発言は、あまりに予想外であった。

 

「な、何を行ってるんですか!?」

「別に話の流れからしたら可笑しくはないだろ」

「可笑しいですよ! 僕はこの通り男ですから!」

「問題ない。お前は確かに男だが女のように可愛いからな」

「意味がわかりません」

「いや分かる。そもそもお前を私の世話役に任命していたのも可愛いと思って目をつけていたからだ。もちろん男に違いは無いから今まで手を出すのは遠慮していたが」

「そんな現金な理由だったんですか」

「当然有能なのも理由の一つだ。有能で可愛い。最強ではないか」

 

彼はボスの言っていることがほとんど理解出来ていないが、尚も彼女は続ける。

 

「私から女を取り上げようと言うのだ。それくらいは勿論してもらうぞ」

「しかし」

「楽しみだな。お前はどんな顔をするのだろうなぁ。私が他の女に与えてきた愛の数々をお前ただ一人に与えてやるからな」

「ひっ」

「大丈夫。お前は丈夫だから壊れないだろ? それにほら、望むプレイがあるなら言ってみろ。お前に合わせてやる」

 

そう言って彼女は彼の耳元に口を寄せると、いつも女にしているプレイ内容をぼそりぼそりと呟いた。それは、普段のボスが纏う勇ましく気品高い雰囲気とは程遠い下品な言葉の数々で、彼はその内容を想像すると、思わず顔を赤くした。さらにボスは「そうか、お前は男だからこういう事も出来るな」と言ってニヤリと笑うと、さらに過激なプレイを口にし、彼の顔は火を吹きそうなくらい赤くなった。

 

「これを毎晩だ♡」

 

彼の頭は沸騰して意識を失いかける。

 

「おうおう。顔を真っ赤にして可愛いじゃないか」

「い、いや。流石にそう言うのは……」

「これは命令だ。お前に拒否権などない」

「そんな……」

「今夜鍵を開けて楽しみに待っているからな……もし、来なければ……」

 

お前を殺す。

 

冗談では無い。殺意の込められた鋭い言葉。ボスの言葉。

 

背中がぞくりとした。恐怖なのか興奮なのかは分からない。

ただ、今晩。正確には今晩から、青年がボスの愛のはけ口になることが確定した。

きっと快楽で身も心もトロトロにされて意識が混濁しても尚、彼女が満足するまで求め続けられることになるのだ。

それは酷く恐ろしく……恐ろしく……甘美な未来だった。

 

青年はごくりと唾を飲み込んだ。

 

 



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陶芸家が愛される

お店が立ち並ぶ大通り。そのうちの一軒に壮年の夫婦が経営する陶器屋があった。妻が主に店番を担当して、夫は陶器を作る。そういう役割だった。

店内には皿から花瓶まで幅広く陶器が並ぶ。

客足はそこそこ。評判は上々。夫婦仲も良い。

二人はそれなりに幸せな日々を送っていた。

そんなお店へある日、珍しい客が訪れる。皺一つない黒い紳士服に身を包んだ二人の男。胸に留めてあるバッヂは王族の紋様で、王宮からの使者であることが容易に知れた。妻は目を丸くした。店内にいたお客さんも息を呑み、店は妙な緊張感に包まれた。

二人の男性が妻のいるレジの前に立った。

 

「ダン・オリヴァーはいるか」

 

温度をまるで感じさせない物言い。少し圧を感じた。出された名前は夫のものだった。彼女は作業場である店裏に入り、夫を呼んだ。

夫は作業着のまま軽い気持ちで店まで出てきて、黒服二人を見て急に背筋が伸びた。夫婦二人でカウンターに立つ。小声で話す。

 

「あんた、何かしたの」

「何もしてないぞ」

「じゃぁ、この人たち何しに来たのよ」

「俺が聞きたい」

 

んんっ

 

男の片割れが咳払いをしたので夫婦は口をつぐんだ。もう一人の男が封筒を差し出した。

 

「「??」」

 

二人は首を傾げる。夫は作業を抜け出してきて手が汚れていたので、代わりに妻の方が受け取り中身を見た。

手紙。

しかもただの手紙では無く、王家の印が施された正当な王宮からの手紙。二人は目を見開いた。内容は、女王が普段使いするためのマグカップ制作を求める依頼書だった。

 

「ダン・オリヴァー。貴方の腕が評価され、女王陛下の為のマグカップを作る命令が下された。他にも制作を依頼している人物が何名かいる。その作られた中で女王陛下が気に入ったマグカップのみが選ばれ、今後その職人は王宮と専属契約を交わす」

「それは、すごい」

 

夫は声を漏らした。王宮専属職人など、一生食いっぱぐれることが無い。まさに夢のある話だった。

 

「よいな?」

「は……はい。謹んで、お受けいたします」

 

こうして夫は、女王のためのマグカップを作ることになった。

 

お店の休日。工房で夫はマグカップ制作に励む。しっかり捏ねた土をろくろの上に置いて回し、手で成形していく。繊細な感覚と技術が要求される作業で、妻は視界に入らないよう隅の空き箱に座ってその真剣な姿を眺めていた。

夫が息抜きのために休憩する。妻が尋ねた。

 

「随分熱が入ってるじゃない?」

「そりゃそうさ。女王に認められる職人になれば、贅沢し放題だぞ」

「贅沢したいの?」

「したい。お前と美味しい物食べたり、旅行したり、な。楽しそうだろ?」

「……まぁ」

 

妻はどちらとも言えない返事を返した。

夫はマグカップの事について考え始める。

 

「女王様はお花が好きらしいな。一番好きなのはダリアだったか……? カップの柄にしたら喜ばれるだろうなぁ!?」

「そうね」

「あとは、淹れるのはやっぱり紅茶がメインだろうか。だとしたら、紅茶の赤茶色に合うカップの色付けの方が女王様も気に入るよな!」

「……そうね」

「持ち手も重要だな。女王様はお手が細そうだし、いつもよりも持ち手を細めに丸くして可愛い感じにした方が女王様的にも嬉しいよな!」

「…………そうね」

 

嬉々として女王についてあれこれ語る夫の横で妻はみるみる不機嫌になっていった。相槌も適当な感じである。夫も、若干感じ取る。

 

「あれ? なんかまずいこと言った」

「別に」

 

まずいことは言っていない。ただ妻が一人でに機嫌を悪くしているだけであった。

それから夫は時間を見つけてはマグカップ制作に熱心に取り組んだ。

妻と食卓を囲むこともせず、共に眠ることもせず、ただ、作業に打ち込んだ。

そうしてある日、ようやく完成した。

 

「出来た!」

 

側面に美しいダリアの装飾が彫られた可愛らしいマグカップ。夫は歓喜の声を上げた。

 

「ようやくね」

 

妻も自分の事のように喜んだ。

 

 

それから二人は数日後、王宮の内部に足を踏み入れていた。妻は着慣れないドレスに身を包み、夫は着慣れないスーツに袖を通している。周りもキッチリ身なりを整えた人間ばかりである。城下町とは違う上品な空気に息が詰まった。

女王様が行うマグカップ選びは品評会と称しパーティの中のイベントの一つして行われるらしかった。周りをよく見れば、スーツよりも作業着が似合いそうな筋肉質な男性がちらほら見えた。職人たちである。

やがて広間に中央に職人たちの作ったマグカップが運ばれてきて、横長のテーブルに一列に並べられた。この中から一つだけが選ばれる。職人たちはそわそわした。彼らが緊張する中、赤い絨毯の敷かれた階段の上から、豪華な美しい装飾の施された真っ赤なドレスに身を包んだ女王様がゆっくりと降りてきた。

圧倒的なオーラを放っていた。

周りで楽しげに談笑していた筈の貴族たちが皆口を閉じ、誰もが視線を向けた。夫婦も息を呑んだ。

女王が階段を降り終えて、広間へと立った。

 

「これより品評会の方を始めさせていただきます!」

 

彼女の傍に控えていた執事がそう声を張り上げた。

やがて女王様がマグカップたちの前に立った。

視線が集まる。

緊張が高まる。

一つずつ手に取って見ていく。

そのどれもが美しい品であった。王族に使われても決して見劣りしない職人渾身のマグカップがずらりと並べられていた。

彼女は一つ一つじっくり見ていった。そして全てを見終わった。

 

「それでは女王陛下、お気に召したカップを一つお選びください」

「ええ」

 

女王がカップに向かって歩き始める。

職人たちが息を止める。

夫婦も息を止める。

 

「これにするわ」

 

選ばれたのは。

夫がつくったものとは別のカップであった。

 

 

夫は分かりやすく肩を落とし、妻はその背中を叩いて励ました。

 

「すまん。贅沢は夢のまた夢だ」

「いいんじゃない」

「でも、折角のチャンスだったのに……」

「今のまま二人でのんびりやってくのがきっと一番幸せよ」

 

夫はかなり落ち込んでいるが、妻は悲観していなかった。作業に四六時中時間を割かれる夫を見て、この生活がもし続いたら幸せにはなれないと考えていたからだった。

女王様の選定は終った。

選ばれた職人は狂喜乱舞し、それ以外の職人は落ち込んでいた。

このまま品評会が終われば、ある意味平和な終わり方だっただろう。しかし、とある職人の一声で状況が変わり始める。

 

「納得いきません女王様! どうか、なぜ私の作品が選ばれなかったのか、理由を教えてくださいませんか!」

 

と、訊いたのである。女王様は、「無礼だ」と憤る執事たちを片手で控えさせ、にやりと笑うと、

 

「良いわ。教えてあげる」

 

と言って、落選理由を作品一つずつ丁寧に詳細に語り始めた。

端的に言えば、酷評であった。

しかも理不尽や難癖とも思えるようなひどい言い様だった。

 

「このカップは重いのよね。私の手を痛めつけようとしているのかしら」

「こっちのカップは柄がとってもダサい。きっと私にはこれが相応しいと馬鹿にしているのね」

「このカップは何となく嫌いね。理由はないわ。嫌い」

 

そして夫のもまた語られる。

 

「このカップは……舐めてるわよね私を。何なのこの花、気持ち悪い。取っ手も小さくて私を子供だと思って馬鹿にしているのかしら。全く、不快だわ」

 

全ての評価が終われば職人たちはもう、すっかりぐったりしていた。所詮は個人の感性のために好き嫌いはしょうがないにしても、女王様はあまりにも作品を批難するのがうますぎた。褒めることは一切なく、次々と棘のある言葉が銃弾のように飛び出し、職人たちの胸を貫いていった。周りの貴族たちは女王様が職人たちをぶった切っていく様を爽快と捉えて楽しんでいたが、言われる方は堪まったものでは無かった。

さらに女王様は追い打ちをかける。

 

「さて。私が選んだマグカップ以外はここで全て壊してちょうだい」

 

職人たちはざわめいた。職人にとって作品は自分の子供と同義。それを壊すとは?

皆が考えている間にテーブルに執事が集まってきて、一人は女王様の選んだカップを手に取り、その他の執事はテーブルの両端にそれぞれ手を掛けた。そして、テーブルを傾けた。

 

ぱりいぃんっ。ぱりいいいいん。ぱりんっ。ぱりいいいん。

 

次々と、カップが固い地面に落下し壊れた。

貴族たちの歓声が上がる。

職人たちは各々絶望や怒りを顔に浮かべた。夫もまた悲しそうな表情をした。

そこまでする必要があるのか。

職人たちの誰もが抗議の気持ちを胸に抱いたが、相手は一国の女王。気に障ることを言えばどんな処遇が待っているか分からない。だから職人たちは皆怯えて、誰も何も言えずにいた。

ただ一人を除いて。

 

「女王様。これはあんまりではありませんか?」

 

妻であった。群衆から前に踏み出て女王様の前に立つと、勇敢にも声を上げた。

 

「どのマグカップも職人たちの女王様への想いが込められた作品です。それをコケにし、あまつさえ壊すというのは如何なものでしょうか」

「私に選ばれなかった時点で価値を失ったカップたちは漏れなくゴミでしょ? ゴミは王宮に入れてはいけないし、私の視界に入れるのも嫌。だから壊したの。ゴミはゴミらしくしてもらわないと」

「女王様は知らないのです。職人たちがどれだけの時間と労力をかけて作品を作り上げているか! だからこんな仕打ちが出来るのでs、んんんっ!?」

 

言葉を遮るように背後から口をふさいだのは夫であった。彼女の周りでは傭兵が槍を構えて睨みつけていた。これ以上、女王様に反抗していると不敬であるとみなされて殺される可能性があった。そのために夫は物理的に妻の口を塞いで、群衆に戻っていった。

 

「それじゃあ。職人たちには酷い出来ではあったけれど、一応の報酬を渡すわ。まあ、募金ね。この後、別室に集まって頂戴」

 

こうして品評会は終わりとなった。

 

 

 

妻は先に帰っていて、夫は後から家に帰った。

妻は女王に対して未だに憤っていた。

 

「何よあの女、滅茶苦茶よ。あんなの職人を馬鹿にしてる」

「まあまあ」

「皆も悔しくないのかしら。いや、悔しいに決まっている。あんなに散々言われて、あの女が国のトップなんて最悪よ」

「まあまあまあまあ」

「とっとと暗殺されればいいのに」

「まあまあまあまあまあ」

 

彼女は普段は冷静だが、火が付くと烈火のごとくキレるのである。女王を“あの女“呼ばわりしていることからもそれが伺える。ただ夫にとっては救いであった。あの場にいた職人たちは確実に鬱憤や悲しみを心に抱いていた。それを代弁して彼女が言ってくれたおかげで救われた人間が多くいた筈だった。少なくとも彼は、妻が女王に向かって吠えたことが堪らなく嬉しい事であった。

 

「というか、あんたの作品があんな言われ方するなんて信じられない!」

「へへ。そりゃどうも」

「あんなにずっと手間暇かけて、完成品も間違いなく一級品の出来だったのに。てか、そもそも頼んできたのはあっちなのに!」

「ああ、ありがとう。でも、お前。なんか俺がせっせと作ってるときあんまり良い顔してなかったよな」

「それは……悔しかったから」

「……は?」

「だから! あんたが起きている間ずーっとあの女の事を考えていて、どうしたら喜ぶかな、こうしたら喜ぶかなとか私に相談してきて、しかも一緒にご飯とか食べれなかったし、あの女に盗られた感があってムカついていたのよ!」

「ははっ。なんだそりゃ」

「しょうがないでしょ……」

「そうだな」

「頭撫でるな」

 

彼女は本当に稀に子供っぽい一面を見せることがある。それが非常に可愛らしかった。

 

「落ち着くために紅茶でも淹れるわ」

「おう。ありがとう」

 

彼女はそう言って台所に行き、やがてカップを二つ持って戻って来た。

机に置く。

一つはいつも使っているカップ。

そしてもう一つは。

ヒビだらけで、ダリアの花が描かれていて、持ち手が細くて……。

 

「これって……」

 

彼は思わずつぶやく。

 

「うん。あの後、破片全部拾ってきて接着剤でくっつけてみた。せっかく作ったのに使われないんじゃ可哀想だもn、んんっ!?」

 

彼女は再び言葉を遮られた。今度は彼に抱きしめられたからだった。

 

「ありがとう……ありがとう……」

「……別に大したことしてないでしょ」

 

彼女にとっては大したことではなくても、彼にとっては大きなことに違いなかった。時間をかけて作った大切なものを彼女もまた同じように大事に思ってくれていたというのが、とても嬉しかった。それに、

 

「その指」

 

左指に切り傷がいくつかあった。

 

「ああこれね。王宮の人が掃除しようとするから急いで拾ったの。だからちょっとだけ切っちゃって」

「すまん。……なんか、本当にありがとう」

「どういたしまして」

 

彼は再び愛おしくなって彼女を抱きしめた。暫く抱きしめていると、彼女が言った。

 

「さ。明日からまたいっぱい作っていっぱい売るわよ。あの女王の見る目が無かったって証明してやるんだから」

 

彼女は笑い、彼も笑った。

 



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騎士に愛される

青年の恋人は勇者の一行に所属する騎士であった。

大柄で丈夫な体を持つ彼女は、頑丈な重鎧で身を纏い、自分の身体を覆いそうなほどに大きな盾を構え、先頭に立って勇者たちを敵モンスターの攻撃から守るのが役目だった。常人ならば恐怖で震えてしまうであろう立ち位置であるが、彼女は決して怯まない。その強靭な精神力と圧倒的な防御力をもって仲間の前に立ち続け、敵の攻撃を全て無力化した。

その様は堅牢と呼ぶにふさわしく、まさしく勇者の盾であった。

彼女の功績は広く知られた。

西の大国「レガン」に黒龍が襲撃した際は、全ての物を焼き尽くす炎のブレスから仲間を守り討伐に大きく貢献し、東の大国「ウェーラン」に魔物を引きつれた大魔導士が攻めてきた際は、触れたモノ全ての命を奪うとされる死の呪いさえも盾で弾き返し、勇者たちと人々を救ってみせた。

彼女こそが守りの要なのである。彼女は全てを守った。ゆえに人々は憧れた。

どんな攻撃にも勇敢に立ち向かう騎士。

誰もが惚れる女。

英雄。

 

そんな彼女は……何故かブチギレながら家に帰ってきた。

 

 

 

「クソクソクソクソっっ!!」

 

彼女は全身から苛立ちを発し、床を大股でどんどんと踏み鳴らしながら歩き、やがてソファに勢い良く座った。今の彼女は分かりやすくイライラを態度で表していた。だがそれは“喋りかけるな”という意味では無く、むしろ“訊いて欲しいんだけど”という不器用な彼女なりのアピールであった。長い付きで合いでそれを知っている青年は、彼女の隣にちょこんと座った。

 

「どうかしたの?」

「訊いてくれよ! アイツらイカれてるんだ!」

「うん?」

 

予想通りカッコいい騎士様の口から出た子供っぽい口ぶりに思わずにやけてしまう。だが茶化したりしてはいけない。彼女は真剣だ。

彼は、言葉の続きを促した。

 

「アイツらってのは国王と勇者の事で、俺はさっきまで勇者たちと一緒に、北の同盟国「ケルン」に現れたダークウルフ討伐依頼の達成報告を国王にしてたんだ」

「うんうん」

「それでよぉ、ご褒美に豪勢な肉料理とか酒とかが出てきたんだ。それは美味くて……そこまでは良かった」

「うん」

「国王の野郎、俺たちの気分が良くなってる頃合いを見計らって“連続で申し訳ないんだが~”とか言いながら、もう次の依頼を頼んで来やがったんだ!」

「それは困っちゃうね」

「そうだろ! 俺たちはついさっき遠征から帰ってきたばかりなんだ! そりゃ……近くの町の宿屋に滞在して休んできたから体力自体は全然問題ないけどよ。そうは言ってもだろ」

「そうだね」

「しかもふざけたことに、あのお人好し勇者が“困ってる人がいるなら一刻も早く救える方が良い”とか言う理由で明日出発にするって言いやがったんだ!!」

「急だね」

「だろ! アイツらは俺がどんだけ家に帰ってお前に会うのを待ち望んでいたか、まるで分かっちゃいねーんだ‼」

「……ん?」

 

話の流れが急に読めなくなって彼は困惑する。

なんで僕が出てきたんだ……? 

そう思っていると彼女が逞しい腕で抱き寄せて、彼を膝の上に座らせた。そして後ろから抱きしめ、彼の肩に顔を埋める。

 

「く、くすぐったい」

「俺は、遠征中ずーっとお前の事を考えていたんだ。こうやって抱きしめたりキスしたりしたいなぁってな」

「……そうだったんだ」

「そうだ。だから今日しかお前に会えないとかマジでキレそうっ」

 

そう吐き捨てた彼女は、彼の膝下に左腕を頭に右腕を添えると突然にお姫様抱っこの要領で持ち上げながら立った。

 

「うぇえ!?」

 

彼は予想していなかったばかりに情けない声を漏らす。

彼女は構わず歩き始める。

 

「ちょ、どこ行くの?」

「もちろん寝室だ」

「寝室!? まだ昼だけど!?」

「何か悪いか?」

 

見下ろす彼女の瞳は鷹のように鋭い。

 

「悪いって言うか、早いって言うか……」

「いーだろ別に。さっき説明した通り俺には時間が無いんだ。だから今から明日の朝までずーっとベッドでいちゃいちゃするぞ」

「ずっと!?」

「ずっとだ」

 

話しているうちにやがて寝室へと辿り着き、彼はベッドの上に転がされた。すかさず彼女も向かい合うようにベッドで横になり、彼を正面からぎゅっと抱きしめた。よく鍛え上げられた、しかし女性特有の柔らかな身体にぴったりと包まれ、体温も相まって、彼は安らぎを覚える。

彼女が、耳元で呟く。

 

「今日はたっぷりお前の成分を補充させてもらうからな」

 

掠れた声に鼓膜を揺すられ彼の顔は真っ赤になる。彼女は抱擁を緩め、彼の赤面した顔を間近で見つめると満足そうに微笑んだ。

 

「覚悟しろよ」

「……お手柔らかに、お願いします」

 

彼は、小さく呟いた。

 

 

 

 

 



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兎人に愛される

大気は肺を凍らせるほどに冷え込み、雪は深々と降り続けている。そんな白い森の中を一人の青年が歩いていた。

荷物は何も持っていない。

目的地も無い。

ふらふら。ふらふらと。

積る雪に足跡を残していく。

 

「ん?」

 

青年はふと足を止めた。目を凝らす。見ると、木の根元で何か白い小動物が暴れていた。

罠にかかったのか。

青年はすぐに思い当たる。ここら辺は禁猟区に指定されていたが時折こうして愚かな狩人が罠を仕掛けることがあるのだ。

青年はすぐに駆け寄った。暴れていたのは、うさぎであった。可哀想に、後ろの右足を虎バサミに挟まれている。辺りの雪に散らばる毛と血痕から、このうさぎが必死に暴れた事が伺えた。

 

「ごめんな。今、取ってやるからな」

 

青年はそう優しく声をかけ、しゃがんだ。うさぎは襲われると思ったのだろう。移動することは出来ないと理解している筈なのに、一生懸命にその場を逃れようとした。虎バサミに挟まれた肢がピンと張ってうさぎは痛そうに甲高い鳴き声を上げる。

 

「落ち着け。落ち着け」

 

青年はうさぎを早く解放してあげるために虎ばさみに手を伸ばした。一方、逃げられないと悟ったうさぎは最終手段に打って出る。青年の手に勢いよく噛みつく。

 

「う゛っ!」

 

青年は一瞬、呻き声をあげ顔を歪めたが、すぐに柔和な表情になった。

 

「怖いよな。大丈夫だからな。すぐに楽にしてやるからな」

 

青年はおおらかな心を持つ人間だった。悪いのは罠を仕掛けた人間、ひいてはそんな物騒なものを狩猟に使う自分たち全ての人間であり、うさぎには何の罪もないのだ。それにこのうさぎはずっと、鷹や狐といった天敵に襲われる恐怖に晒されていたに違いなかった。森では小動物が身を隠さずにいる事など自殺行為に等しい。そう考えると、このうさぎを哀れむ感情は持つにしろ、怒りなど湧くはずも無かった。

青年は片手をうさぎに噛ませたまま、もう片方の手で虎バサミを外す作業を行い、やがてうさぎの足は解放された。

 

「よし。うまく取れた」

 

うさぎはすぐにぴょんぴょんと跳ね、虎バサミと青年から距離を取った。いつでも逃げられる距離を確保すると、雪の上に座り、自分の身体を確かめるように右後ろ脚を中心に毛繕いを始める。

見たところ出血はあったが、腫れてはいなかった。後ろ足で地面を蹴る事も出来ていた。虎バサミの歯も、大型哺乳類を捕まえるものと比べて随分と短く浅い構造になっていた。運が良ければ、あのうさぎは深刻な傷を負わずに済んだのかもしれない。

そう思うと青年の心は少し救われた。

家族を助けることは出来なかった。

しかし、うさぎを助けることは出来た。

青年はまた、ふらふらと歩き始める。

気付けば吹雪が強くなっていた。視界は真っ白。薄着の身体はとうに冷え切って震えが止まらない。足が重い。意識が朦朧としている。歩いてるのか止まってるのか。分からない。

青年は穏やかな笑みを浮かべる。

ああ……死ぬには丁度いい感じだ……。

思う。

雪に埋まって死のう。

眠るように。

死のう。

願う。

皆の、もとに。

……。

 

青年は倒れた。

やがて、気を失った。

 

 

 

ぱちぱちぱち

 

青年が最初に感じたのは何かが弾けている音だった。次いで体に感じる重みと布団にくるまった時のような温かさを感じた。とても心地が良い。

青年はゆっくりと目を開けた。

 

「やあ、ようやくお目覚めだね。調子はどうだい?」

 

目の前には短めの白髪で大きな黒い瞳を持つ女性の顔があった。気になるのはその頭部から、二つの大きなうさぎの耳が生えている事だろうか。彼女の背後には雪が降っておらず、代わりに岩の天井がある。音が響いている。どうやらここは洞穴らしかった。

顎を下げて下を見れば、彼女が上で、彼が下で、二人で抱き合う格好をしていた。青年は裸だったが、彼女は裸と言っていいのか分からない。ただ彼女の身体はモフモフで身体を包む温もりの理由が分かった。

彼女が微笑む。

 

「すまないね。服が濡れていたから焚き木の上で乾かしている。身体が冷えていたから、抱きしめて温めていたんだ」

 

彼女が顎で示した先を見れば、確かに焚き木が耳触りの良い音を立てて燃えていた。その上には木の棒にぶら下がる青年の服があった。

 

「貴方が助けてくれたのですか?」

「ああ、雪の上で倒れているのを見つけてこの洞穴まで運んできたんだ。尤も、最初に助けられたのは私の方だけどね。私は、先ほど罠に掛かっている所を君に救ってもらったウサギさ」

「……人のように見えますが」

「そうだね。厳密に言えば兎人(うさびと)さ。私たちはウサギの姿にも人の姿にもなれる。ほら、足に虎バサミの歯型が付いているだろ?」

 

彼女は身体をどけながらそう言って横の地面に座り、彼に見えるように片足を差し出すようにして見せた。筋肉のよく発達したふくらはぎには、彼女の言う通り痛々しい歯型の傷がついていた。

 

「“兎人“の存在は噂で聞いたことがありましたが、本当に実在していたんですね」

「みんな人前には極力出ないようにしているからね。知らないのも無理はないよ」

「救っていただいてありがとうございます」

「こちらこそ、命の危機を救ってくれて本当にありがとう。あのままでは確実に命は無かった。それと、噛んでしまって申し訳ない。あの時はストレスで頭が回らなかったんだ。許してくれ」

「あのくらい気にしませんよ。悪いのは僕らの方ですから」

「ありがとう」

 

微笑んだ彼女の顔は炎に照らされて美しく浮かび上がる。

青年は立ち上がると焚き木で干された服を触り、乾いていることを確認して着直した。炎の熱が移った服は温かったが、彼女に抱きしめてもらっていた時のほうが心地良かった。

着替えるのを横で見ていた彼女が言う。

 

「恩を返したい。私に何かできることは無いか?」

 

青年は彼女を見つめる。うさぎの耳、少し桃色がかった鼻、全身を包む柔らかな体毛、腰の丸い尻尾。体のあちこちにうさぎの特徴があって、見れば見るほど“触れてみたい“という欲求に駆られてしまう。

 

「その、変な意味とかは無いのですが……耳、とか、触っても良いでしょうか?」

「なっ⁉」

 

彼女は、今まで漂わせていたどこか余裕そうな雰囲気とは一変、目を見開き露骨に驚いた表情をした。これには青年も瞬間的にしまったと思った。青年にとってはウサギらしい部位をモフりたい以外の理由など無かったが、彼女にとってそこら辺を触らせることはもっと深い意味があったのかもしれない。

 

「すみません。嫌なら全然大丈夫です」

「い、いや。問題ない。君は私の命の恩人だからな。好きなだけ触ってくれ」

 

明らかに動揺していた彼女であるが、冷静を装ったのか落ち着いた口調でそう返した。本人的には都合が悪かったのかもしれないが、許可されてしまってはもはや欲求には抗えない。座っている彼女が緊張した面持ちでじっと見つめる中、青年はゆっくりと片手を伸ばしその大きな耳に触れた。

 

「んっ」

「これは……」

 

表面は毛が生えておらず滑らかな手触りで、裏は特別柔らな毛が生えていて恐ろしく気持ち良い。それに指先から伝わる体温は少し温かい。兎人は人間と比べて少しばかり体温が高いのかもしれない。

青年は本能に導かれるようにして、耳を親指とそれ以外の指で挟み、上下に擦った。

 

「んふっ……ふぅ……」

「おお……」

 

極上の手触り。青年は彼女が顔を赤くしているのも眼に入らず、気付けば両手で夢中になって耳を揉んだり擦ったりしていた。

しかしやがて、

 

「お……おい……」

「あ」

 

と若干涙目で見上げている彼女に呼びかけられ、彼はようやく手を止めた。申し訳なさそうに手を引っ込める。

 

「すみません。触り過ぎました」

「……ま、まあ構わない。ちょっとくすぐったかっただけだからな」

 

本当にそれだけだったのか怪しいところではあるが、青年はそれ以上追及するような野暮な事はしなかった。彼女は“んんっ”と咳払いを一つして、再び尋ねる。

 

「それで、他には何をしようか?」

「耳を触らせてもらっただけで充分です」

「そうはいかない。これだけで恩を返せたとは全く思えない」

「そうですか……」

 

彼は、彼女の言葉を受けて暫し考えた。それは、ただ返答を考えるにしては随分と長い沈黙だったかもしれない。少なくとも彼女は長いと感じた。どんな願いが来るのだろうと、心が身構える程には。

やがて。

考えた後で。

彼はこう、口にした。

 

「死んで生まれ変わった来世の僕に何かしてあげてください」

 

彼は落ち着いた口調でそう言った。顔には微笑を浮かべていた。

穏やか。

冗談の気配は無かった。

ただ、空気が変わった。

一瞬の静寂。

彼女は困惑する。

 

「どういう意味だい……?」

 

彼は、ゆらゆら燃える焚き木の火を見つめる。

 

「僕はこの雪山に自殺をしに来たんです」

「なに?」

「僕は元々家族で団子屋を営んでいたのですが、先日火事になり全て燃えてしまいました。店も、母も、父も、弟も、僕は全てを失いました。家族のために生きることが僕の生きがいだったのに、何も、無くなってしまいました」

「それで、自ら命を?」

「はい。もう耐えられないんです。独りぼっちになった孤独にも、自分だけ生き残ってしまった罪悪感にも、家族を失った悲しみにも」

 

そう言って彼は洞穴の入り口へと歩き始めた。外は相変わらず酷い吹雪で数m先を見通す事すら敵わない。防寒具も無しに洞穴の外へと出ればものの数分で動けなくなることだろう。それでも彼は、足を止めない。

 

「素晴らしい冥途の土産をありがとうございました。あの世に行ったら、兎人に耳を触らせてもらったと自慢しようと思います」

 

彼は振り返らずにそう語り続けた。やがて洞穴の入り口へと辿り着く。

 

「さようなら」

 

一方的にそう言い残し、一歩。

外に踏み出した。

その瞬間、

 

ぐいっ

 

と強烈な力で後ろに引き戻され、気付けば彼は地面に仰向けで倒されていた。

起き上がることは許されない。

彼女が馬乗りになって見下ろしていた。

 

「自殺なんてダメだ。絶対に認めない」

 

彼女は怒りと悲しみが混ざったような複雑な表情で顔を歪めていた。

 

「人間は本当に馬鹿な生き物だ。自分で命を捨てようとするなんて」

「貴方にこの辛さは分からない」

「辛くとも! 死ぬのだけは絶対にダメだ!」

 

彼女は青年の胸倉を掴み顔を寄せた。

 

「少なくとも。私の目が黒いうちは絶対に自殺なんてさせないからな」

「貴方には関係ないじゃないですか」

「命を救ってもらった恩がある」

「……それだけでっ」

「それだけで十分。兎人は世界で一番義理堅い生き物なのさ」

 

そう言って彼女は青年を横に転がすと、自身の胸に頭を埋めるようにして抱きしめた。

彼は再び、彼女のふわふわとした心地良い温もりに包まれる。彼女が耳元に口を近づける。

 

「私が傍にいる。家族がいないなら、私がお前のツガイになって寂しさを埋めてやる。悲しいなら、いつでもこうやって抱きしめてやる」

 

囁く。

 

「だから、死ぬな」

 

……。

…………。

……………………。

 

「ううぅ……うああぁぁ……あぁああぁぁぁ……」

 

その言葉は心に溶けこみ、気付けば彼は涙を流していた。悲しみなのか安堵なのかそれ以外なのか、本人にはまるで分からない。ただただ、大粒の涙が溢れて止まらなかった。

自分の胸で身体を震わせている青年を、彼女は優しく抱きしめる。

 

「大丈夫だ。私は居なくなったりしない。だから、いっぱい泣け」

 

青年は彼女の身体に縋り付くようにして、ひたすらに泣いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちなみに、兎人にとって耳を触ったり触らせたりするのは求愛を意味するんだ」

「……⁉」

 



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画家に愛される

コンコンコン

 

小鳥のさえずる爽やかな朝に玄関の戸が叩かれた。青年が扉を開けると、そこには黒い紳士服に身を包んだ青年と同い年程度と思われる若い男性が立っていた。配達員とは少し違う、もっと高貴な雰囲気を漂わせている。だが、思い当たる節が無い。

 

「私、エヴァンス家に仕える使用人でございます」

 

彼がそう言って軽いお辞儀をしたのでようやく合点がいった。その名前は世情にあまり詳しくない青年でも聞いたことがある程の有名貴族のものであった。そこの使用人ともなれば身なりがきちんとしているのも当然と言える。そしてそんな貴族の使いが辺鄙な場所にある青年の家にわざわざ尋ねてきたという事は……

 

「旦那様より、お届け物でございます」

 

予想通り、手紙であった。青年は手紙を受け取ると裏返して、封筒に記載された宛先名を見た。

妻の名前だった。

ご丁寧にエヴァンス家のシンボルマークの封蝋で封筒が閉じられている。

 

「相変らず凄えな、俺の嫁さんは」

 

青年は思わずつぶやいた。

その内容は見なくても分かる。彼女への絵画制作の依頼に決まっている。

青年の妻は、有名な画家なのである。

 

 

 

青年も後の嫁となる女性も、かつては同じ画家に師事した姉弟弟子の間柄であった。

両者ともに天才として周りからは評価されていた。しかし天才同士と言えど、二人の実力には天と地ほどの差があった。彼が天才の中の落ちこぼれだとすれば、彼女は天才の中の天才。それは努力では絶対に埋まる事の無い差であり、世の中に評価される画家というのは決まって後者であった。

彼の絵は売れなかった。彼女の絵は飛ぶように売れた。彼は、彼女の躍進を傍で見続けた。やがて彼は残極な現実に打ちのめされ、筆を折った。

しかしネガティブな事ばかりでは無かった。

妬みと嫉みの感情に突き動かされるようにして彼女との接触を図り続けていた青年は、気付けば彼女に惚れてしまっていた。絵を描く才能もそうだがそのどこか少年を思わせる中性的で童顔な顔立ち、なにより猫のように気ままな人柄に魅了されていたのである。そして彼がその思いの丈を伝えると、何の因果か彼女もまた、彼に惚れていたと言った。しかも知り合った時から割と好印象で、“周りと違ってやたら私に構ってくれる良い奴“という認識だったらしい。初めてその事を聞いたとき彼は、何と言うか肩の力が抜けてしまった。結局、彼が一方的にライバル視していただけで、彼女からは何とも思われていなかったのである。

そうして二人はやがて結ばれ、彼は彼女の身の周りを世話する母のような助手のような、そんな妙な役回りもするようになっていた。

 

 

 

「入るぞ」

 

封筒をもって、部屋の一室でもある彼女のアトリエに足を踏み入れる。彼女はアトリエの中央の椅子に座り、三本足のイーゼルに立てたキャンバスに絵を描いていた。窓から差し込む陽の光を受けながら真剣な眼差しで筆を握る様は神々しくも美しい。まるでその光景自体が一枚の絵画のようである。

だが足元にはおぞましい光景が広がっている。幾枚にも及ぶ絵画が無造作に散らばり、床を埋めているのである。

これらはすべて死んだ絵たちであった。彼女は折角描いた絵も、価値が無いと判断するや否や床に捨ててしまう気質があった。

絵描きであった彼にとって、この一面の絵画の海は酷く恐ろしい光景に映る。絵画たちがどれもとても魅力的だからだ。身内びいきなどではなく数万から数百万の価値があると本気で信じられる。だが、自分が価値のある絵画だと思ったものが、彼女にはゴミ同然として扱われている。その違いが、才能の差に感じられ、彼女の途方もない才能に畏怖した。嫉妬などは起こりようがない。共に生活をして、彼女が寝食以外のほぼ全ての時間を絵画に費やし、時にはストレスで血反吐を吐きながら発狂しながら涙を流しながら絵を描いている姿を見ていると、彼女はもはや絵描きとして自分とは違う次元にいるのだと感じられるのだった。

彼女は、彼がアトリエに入ってきたことにもまるで気付かずに絵を描き続けていた。

だが、今だけはそれを中断してもらう必要がある。というのも、彼女に後で手紙を読んでおいてと言っても基本的に読むことをしないのである。先日も、とある有力貴族からの依頼の手紙を数か月間読まずに放置していたことが発覚してぞっとしたばかりであった。相手が寛容ならば特に問題は起こらないが、気性の荒い上流階級の人間の場合、無礼だなんだと強引に理由を付けられて罪を負わされる可能性がある。尤も、誰よりも自由を愛し自らの意志を貫き通す強靭な芯の強さを持った根っからの芸術家な彼女の性格を考えれば、たとえそうなったとしても、あらゆる手段を講じて立場を逆転させ、最悪相手を跪かせるかもしれない。いずれにせよ、回避できるリスクは回避するべきである。ゆえに大事な手紙は、彼の前で直接読んでもらう必要があった。

彼は彼女の隣に立った。しかし彼女はキャンバスに顔を向けたまま視線を寄越すこともしない。恐ろしいまでの集中力。彼は彼女の隣にあった、恐らくは何か物を置いておく為に用意したであろう椅子に腰かけ、彼女の姿を眺めた。

出会ってからずっと変わらない。

少年のように輝く瞳。浮かべる微笑。下手な鼻唄。

創作意欲は人が若さを保つ秘訣なのかもしれない。

今日の今の時間の彼女は特にご機嫌で、彼は筆が乗っている時の楽しげな彼女を見るのが好きだった。

そして数分経った。

見事なまでに気付かない。意図していないにしろ、あまりに無視をされて少し苛立ったので彼は悪戯をすることにした。

 

耳に息を吹きかけてやる、と。

 

彼は若干の変態性を自認していたが、偶にするスキンシップが夫婦円満の秘訣であると正当化し、実行に移すことに決めた。

口元を彼女の耳に近づけていく。

 

ゆっくり。

ゆっくり。

 

やがてもう十分だと思われる距離に近付いた。

……だが、彼がそう思ったとき、彼の計画は破綻した。

 

ちゅ。

 

彼女が横を向いて彼と唇を重ねたのである。

油断していた彼は目を見開く。

 

「ありゃ? ずっと眺めてたからてっきり僕とキスがしたいのかと思ったんだけど、違った?」

 

キョトンとした表情の彼女。

一方彼は、今まで自分が、彼女の事をじっと眺めていた事や口を近づけていくという間抜けな行為をしていたという事実がバレていた事を理解して、途端に恥ずかしくなり、あっという間に顔が真っ赤になった。

 

「にはははは。いいねぇ、その顔! 最高!」

 

彼女は赤面した彼の表情がツボに入ったようで、愉快そうに笑った。

対して彼は何とも情けない気分になる。彼女にずっと泳がされていたのだ。まさか婚約者という間柄になっても尚、敗北感を味合わされるとは思ってもみなかった。

代償は大きかった。しかしだからこそ、目的は果たさなければならない。

彼は手紙を差し出した。

 

「これ、来てたぞ。読め」

「うい」

 

彼女は素直に受け取って、中身を読む。

 

「ふーん。ふん。なるほど」

「内容は?」

「結婚してくださいって」

「は⁉」

「嘘だよーん」

「はぁー」

「城に飾る絵を描けってさ」

「……んで、受けるのか?」

「うん。今は良い気分だから受ける」

「分かった。そう返しておく」

「よろしくぅ」

 

目標遂行。

いつもならこの後、彼がアトリエを後にして終わりである。しかし、今日は違った。

 

「じゃぁ、戻るわ」

「じゃぁ、そこに椅子置いて座って」

「は?」

「いいから、いいから」

 

ほらほらほら。

彼女に急かされるままに、彼はイーゼルから正面1m先辺りに椅子を置いて座った。

この位置はまるで、絵のモデルみたいな……。

 

「今から君を描いてあげよう!」

「俺を?」

「そう。良いでしょ?」

「良いけどよ。なんか近くね」

「うん。描くのは君の首から上だけ」

「顔なんて今更見慣れてて面白くないだろ」

「面白いよ。描くのは見慣れた表情じゃないもん」

「……はぁ?」

「私が描きたいのは、君が恥ずかしそうに顔を赤くしているところ」

「はぁ!? 嫌に決まってんだろ、そんなのっ」

「いーじゃん。見せてよぉー」

「嫌だって。そもそも何でそんなの描きたいんだよ」

「さっきの見て、すっごいそそられたから」

「??」

「だから、こう……心がドキって来たんだよね。端的に言えば、くそエロかった」

「変態じゃねえか!」

 

騒ぐ彼と比べて彼女は堂々たる顔つきであった。

画家である彼女はいつだって素直で欲望に忠実なのである。

 

「とにかく断らせてもらう」

「でも結婚するとき言ってたよ」

「なにを」

「絵描きの私を全力で支えるって」

「それとこれとは関係ないだろ」

「大アリだよ! 私の創作意欲が君の赤面した表情で滅茶苦茶掻き立てられているんだから!」

「ぐうぅ……」

「あーあ、君の恥ずかしそうにしてる顔が描けないと他の絵描けないな~。今、5個くらい依頼受けてて、次で6個か~。全部飛ばしちゃうな~」

「お前それは!」

「あ~、画家人生おしまいだぁー」

「分かった! 分かったから! 描いて良いから!」

「よっしゃぁきた!」

 

自分の赤面と天秤にかけられたものがあまりに重すぎて、彼は思わず了承してしまった。彼女にとって彼を意のままに操るなど、容易いことなのである。

彼女が新しいキャンバスを用意し、筆をとる。

 

「はい。じゃあ、顔赤くして」

「出来るか」

「え?」

「さっきみたいな状況ならまだしも、普通のときに顔を赤くしたりしないだろ」

「そっかぁ、そうだよね。じゃあ、どうにかして君を恥ずかしい気持ちにさせれば良いって事?」

「……まぁ」

「なるほど」

 

彼女は下卑た笑みを浮かべた。

 

「今から君の夜の事を語ろうね」

「夜って……」

「君と身体を重ねているときの事」

「なっ⁉」

「良いねえちょっと赤いねえ! やっぱり君はいくつになってもこっち系の話題に弱いんだねぇ~」

 

彼女はウキウキで筆を進め始めた。

 

「そもそも君は自分で気付いていないんだろうけど、ドMだと思うんだよね」

「急に、なんだよ」

「マゾって事さ」

「それは知ってる!」

「自分がマゾってことは?」

「……知らない」

「じゃあ教えてあげる。君は真正のマゾ。なぜなら僕が責めた時にいつも嬉しそうな顔をするから」

「し、してねーよ!」

「いいね!赤いね!思い出して! 昨夜は確か君の方から求めてきたのに、気付いたら僕の方が馬乗りになってたよね」

「……嘘だ」

「素直じゃないな~。でも、いいよ、そっちの方が楽しいから。それじゃぁ……想像してみよっか」

「……」

「僕が裸の君に覆い被さる様に抱き着いていて、キスを順番に落としていく。首から顎、頬、おでこ、まぶた、鼻……。でもまだシテない所があるよね。君の、一番シテほしいところ。君は物欲しげな表情で目を潤ませて僕を見つめる。それを見て僕は微笑んだ後に、君の耳元に口を寄せてこう囁く」

「…………」

「“可愛いね”」

「っっっ⁉」

 

彼は再び顔を真っ赤にした。彼女は妖美な笑みを浮かべて手を動かしながら、尚も続ける。

 

「次はこんな場面だ。僕が、君の……を……して……」

「……!」

「……しながら……して……」

「……⁉」

「そのまま……しちゃう」

「……⁉⁉」

 

描き終わるまで。

延々、続いた。

 

 

 

 

 

「よし、完成!」

「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」

「すっごい疲れちゃってるね」

「誰のせいで……」

「にははは。ごめんごめん。でも、君のおかげで最高の君が描けたよ。ほら」

「……うわ」

「エロいでしょ~。そそるでしょ~」

「それ、売るのか?」

「まさか。こんな最高な君の表情を他の人間に見られるなんてとんでもない。これは僕だけのものさ」

「つまり……」

「僕の部屋に飾る」

「勘弁してくれ……」

 



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ファイアードレイクに愛される

金曜日の夜遅く。

電車の扉が開き、沢山の人間がホームに放出されていく。男もまた残業を終えて、ようやく最寄駅へと辿り着いたところだった。

スーツはヨレて身体はくたびれている。靴が重い。彼は一刻も早く帰りたい一心で、ホームの階段を降り、駅から外へと出た。

まず感じたのは、夜の冷たい空気だった。冬の冷気が容赦なく肌を刺す。次いで視界に映るのは居酒屋から漏れ出た明かりと、酒飲みたちの喧騒。皆、明日が休日だからと羽目を外している。実に楽しそうだった。もちろん彼は混ざる気などは微塵もなく、店の横を通り抜け、足早に自宅を目指していた。

が。

ふと、足を止めた。見れば、通りに立つ電柱の近くで、タコみたいに真っ赤な顔のおっちゃんが空き缶片手に綺麗な女性に絡んでいた。コスプレだろうか、女性の頭には捻れた赤黒い角が二本生えていて、腰からは、先っぽに向かって細くなっていく爬虫類のモノにも似た尻尾が生えている。

おっちゃんはその女性と随分と近い距離、他人ならば絶対に不快に思われるであろう距離まで顔を近づけていた。

宵が深まれば酔いも深まる。

おっちゃんのそれは残念ながら悪酔いであった。ちらほらいる通行人はそんな二人を見事に無視して通り過ぎていく。皆んな面倒ごとは御免なのだ。男もそうだ。そんな事より早く家に帰りたい。彼は周りの人間と同じ様に、二人の横を通り抜けようとした。

 

「お姉ちゃん美人さんだねぇ。俺と一緒に呑もうよぉ」

「儂に触るな。人間風情が」

「照れちゃってさぁ。若い奴が言うツンデレってやつかなぁ。可愛いねぇ」

「うるさい。臭い。離れろ」

「まあまあ俺と気持ちよく一杯さぁ! 何なら別の気持ちいい事でも……」

「殺すぞ」

 

通り抜けようと、した。

だが、再び足を止めてしまった。

理由は。

おっちゃんが死ぬと思ったから。

ふざけているわけでも何でもなく本気でそう感じたのだ。彼女の言う殺すぞは、まだ言葉の重みを知らない子供たちが軽く口にする様な冗談としての言葉ではなく、もっとずっしりと重みがあって、ハッキリと言葉のナイフを首に突きつけてるのが目に見える様な、そんな脅しの言葉であった。だから第三者であるはずの彼の身体が一瞬恐怖で震えたのだ。

思わず止まった足。

遠くで見ていたさっきとは状況が違う。彼は二人のすぐ横に立っていて二人に存在を認知されている。現に女性は男の次の行動を観察する様におっちゃんを無視してじっと男を見ていた。

なんて力強い瞳だろうと男は思う。ただ見つめられているだけなのに身体が本能的に緊張していた。それに、絡まれている筈の女性は全くおっちゃんに物怖じせずに凛とした雰囲気を纏い、高貴な者のみが漂わせる気品すらも感じさせた。怯まないおっちゃんが凄いとすら思った。

彼女に褒めてもらいたい。

なぜかそんな願望が強く芽生える。

そうして、気付けば男は彼女とおっちゃんの間に割って入っていた。

 

「なんだぁてめえー」

「まあまあまあ。彼女も嫌がってますから、ここら辺で」

「うるせぇな。若造が指図しやがって。俺はなぁ、この街で一番強ぇ男なんだよ!」

「そうですよねぇ。そうかも知れませんけど」

「しつけぇなぁ! ぶっ殺すぞぉぉ!」

 

今度のそれは偉く軽い言葉であった。だが同時に拳を力一杯握った右腕が肩の後ろに引かれたのを見れば、身体は自然と恐怖せずにはいられなかった。

殴られる。

彼が身構えたその瞬間、おっちゃんの髪の毛が燃えた。自然発火では無い。おっちゃんに向けて彼女が、口から、火を吹いたのだ。

 

「うぁあああああぁあぁっっ!?」

 

おっちゃんは途端に情けない声を出しながら駆け出して、道の先の続く暗闇へと消えると、次にはじゃぷんと、大きな何かが底の浅い川に飛び込む音だけが聞こえた。

残された女性が男を真っ直ぐと見据えて、ニヤリと笑う。

 

「お主、良い奴じゃな」

 

男の胸が高鳴った。

 

 

男は女性に懐かれた。女性が野宿をすると言ったので男が「こんな寒いのに冗談ですよね?」と返せば「何かおかしいか?」と女性。男は彼女に、”良い宿を提供したい”という想いに駆られ、家に上げた。

驚いたことに彼女は住所を持っていなかった。さらに家も金も服も食糧も何一つ持っていないと言った。ホームレスどころの騒ぎでは無かった。

今までどうやって生きてきたのかと男は不思議で仕方が無かったが、彼女の次の言葉がその疑問を吹き飛ばす。

 

「儂はファイアードレイクじゃ」

 

彼女は揶揄う風でもなく至極真面目な口調でそう言った。

ふぁいあーどれいく……。

ファイアードレイク……?。

ぴんと来ていない男の為に彼女は説明をしてくれた。

曰く、ファイアードレイクとは古の火竜の事で、人間を含めた全ての生物のピラミッドの頂点に君臨する生物らしかった。つまりは王。

”だからか”と彼は納得する。

火を吹くし尻尾生えているし、なにより、この女性に尽くさねばならないと感じてしまう圧倒的な威厳。それらは彼女が動物として人間より遥か格上の最上位種であるという事実に基づく畏怖の念から来るものなのであった。

 

「今まで地球のどこかで生きていたのですか?」

「いいや。儂はこの世界とは別に存在する異世界で生きていたのじゃ」

 

彼女が言うには異世界にはダンジョンと呼ばれるものがあって、彼女はその奥。ラスボス部屋の手前にある試練の間で気高い竜の姿で眠り、門番の役割を担っていたらしい。だが彼女があまりにも強過ぎて彼らが一向にラスボス部屋に辿り着くことが出来ず、退屈で痺れを切らしたラスボスの大魔導士がとうとう彼女の事を解任したんだとか。そうして自由になった彼女は、戦闘が唯一の趣味であったにも関わらず彼女に敵う者などもはや存在しなくなっており、戦闘以外の新たな楽しみを探すために観光がてら異世界に飛ぶことを決意。実際に転移魔法で別の世界に来てみたまでは良かったが、この世界には魔力がほとんど存在しないという衝撃の事実に直面し、致し方なく魔力燃費の良い人間の姿に変身している、と。

 

「意外とおっちょこちょいなんですね」

「否定は出来ぬ」

「これからどうするするつもりですか?」

「今は転移魔法を使う魔力も残っておらぬからな。これから暫くはお主ら人間社会の生活とやらを楽しませてもらおうかの」

「そのためには、お金とか最低限のマナーとかが必須になってきますが」

「なんじゃそれは」

 

彼女は当然のことながら、人間社会のあれこれを何も知らなかった。これはよろしくない。火竜本来の力があれば彼女が一人で生きていくことも容易であろう。しかしながら今の彼女は、火が吹けて、人より力持ち程度の能力に抑えられている”ただの”人間であり、知識も無しに社会で自由を謳歌するのは少々だいぶ無茶だと言えた。

そして彼は、彼女を助けずにはいられない。

 

「……しばらくうちで暮らしますか?」

「うむ。世話になるぞ」

 

そうして二人は生活を共にすることになった。

 

 

 

初め、彼と彼女の関係は、親と子の関係に似ていた。彼女はとにかく好奇心が旺盛で人間社会にある様々なものに興味を示した。彼女が求めれば男は、テレビを見せ、ゲームを与え、水族館に連れて行き、遊園地で遊び、音楽ライブに参加した。

 

「見よ! 新作FPSじゃ! 買って共にやるのじゃ‼!」

「あれは何じゃ⁉ 随分とデカい魚じゃ⁉ お主も早くこっちに来い‼! ほら、あそこじゃ‼」

「このジェットコースターとやらは最高じゃああぁぁぁぁ‼! うひゃああああぁぁぁ‼!」

 

彼女は心から楽しんでいる時に、ファイアードレイクとしてのプライドをまるで感じさせないほど、無邪気で純粋な子供のような笑みを見せた。それは社会人になり社会の歯車として淡々と仕事に励むようになった男が随分と前に失ってしまった混じり気の無い輝きで、男は彼女を見ていると心が癒されていくのを感じた。それだけで、彼女との暮らしにはお金に代えがたい価値が充分にあると思えた。

だが時間が経つと、その関係もやがて変化する。

彼女は男に養われる日常を楽しむ傍ら、家事にも精を出すようになった。仕事から家に帰った時に、温かいご飯があることはとても嬉しかったし洗濯物が取り込まれているのは有難かったが、それは別に男から頼んだわけでは無かった。

 

「別にやらなくてもいいですよ」

 

気になった男がある日言った。

すると彼女は”ふふんっ”と笑い、自慢げにこう返す。

 

「儂は最近気付いてしまったのじゃ。戦いに勝ったときの気持ちと、お主を喜ばせることが出来た時の気持ちはとてもよく似ておる」

「と言いますと」

「心がすごく満たされるのじゃ。この前見たアニメの表現を借りれば、心がぽかぽかする、が相応しいかの」

「……そうですか」

「お主はどうなんじゃ? お主は儂を喜ばせるのが好きじゃろ?」

「ええ、大好きですよ。貴方が喜んでいると心がぽかぽかします」

「そうじゃろ! この感覚は人間の状態でしか味わえない素晴らしいものじゃ‼」

 

彼女はさぞ嬉しそうに笑った。

 

 

 

 

そうして、二人での暮らしが当たり前になったとある日の夜。

彼女がリビングのソファに座ってロボット系のアニメ映画を見ていると、

 

ガチャ

 

いつも通りの時間に男が会社から帰宅した音がした。だが、いつものような「ただいま」の声が無い。不思議に思った彼女が首を反らして玄関を見ると、男は玄関で四つん這いになっていた。

彼女はテレビを消して、玄関へとすっ飛んでいく。

アニメより男の体調の方がよっぽど重要であった。

 

「お主。大丈夫か??」

「んん……ただいま……」

 

彼は顔を上げると、地を這うような声で返事した。顔は赤く、荒い息を吐いている。見るからに発熱していた。今朝方、二人で一緒に朝ごはんを食べている時に彼は彼女に卵焼きの味付けを変えたか尋ねていた。可笑しいのは味覚の方。予兆はあったのだ。

彼が鞄を横の壁に立て掛けて立ち上がろうとしたが、足元がおぼつかずにふらついた。

 

「おっと」

 

彼女が素早く支えて肩を貸す。

 

「大丈夫か?」

「すみません」

「とりあえずリビングに行くぞ」

「んん……」

 

廊下を二人で歩き、彼女は男をテーブルの椅子に座らせた。

彼は深く座り、背もたれに首を預け天井を仰ぐ。彼女はその間にぱぱっと男の寝間着を持ってきて床に置いた。

 

「さぁ。まずはスーツを脱がせるからの。ほれ、両手を広げぃ」

「大丈夫です。そのくらい自分で……」

「いいから儂に任せろ」

 

彼が薄く開けた目でそう抗議したが、彼女はまるで受け付けない。というのも今の彼女の頭は、男を助けたくて仕方がないモードに切り替わっていた。勿論心配が前提にある。その上、普段は割と一人で何でも卒なくこなしてしまう彼が珍しく足元がおぼつかない程に弱っている様子を見ると、彼女の中の庇護欲がこの上なく刺激されるのであった。

彼が、愛おしくて仕方がない。

彼女は手際よく男のスーツを脱がしシャツを脱がし裸にすると、タオルで身体を拭いていく。

 

「すごく、恥ずかしいんですけど……」

「今更気にする中でも無かろうが。ほら背中、浮かせろ」

「……はい」

「よし。大体拭けた。今はこれくらいで我慢しとくのじゃ」

 

そういって今度は彼の腕に上着を通し、足にズボンを通し寝間着を着せてあげた。彼はもはや為すがままである。

 

「今度は薬じゃな」

 

彼女が台所へ行くと、以前に男が病院から処方されていた風邪薬の残りと水の入ったコップを持ってきて、テーブルの上に置いた。

 

「どうじゃ? 飲めそうか?」

 

男はこくりと頷くと、錠剤を片手にもう片手にコップを持った。しかしコップを浮かせた瞬間、力が緩んだのか手元からコップが滑り落ちた。倒れたコップから水が豪快に机の上に零れた。

 

「あ、すみません……」

 

彼は眉を下げ、残念そうに申し訳なさそうに謝った。普段あまり表情を変える事の無い彼のレアな困り顔であった。

それを見て彼女の心はきゅっと高鳴る。

 

なんじゃ、こいつは。

 

彼女は内心悶絶しながら彼を強く抱きしめたい衝動に駆られたが何とか抑えた。

 

「気にするな。すぐに新しい水を持ってくるからの」

「あ、、はい」

「机もそのままで良い。後で儂が拭いておく」

「すみません」

「謝るな」

 

彼女は台所へ行き、再び水の入ったコップを持ってきた。しかし今度は彼に渡すことはしない。彼女自らが薬の錠剤とコップの水を口に含み、ぼんやりと項垂れている彼の顎に手を当て天井に向かせると、その口に自分の口を上から重ね合わせ薬と水をやや強引に流し込んだ。

ドラゴンがヒナに餌を与えるときの方法であった。

 

「んん……‼!」

 

彼が目を見開きながら喉を鳴らして飲んだ。飲みきった彼は口の端を袖で拭い、息を吐く。

彼女は尻尾をぶんぶんと振っている。

 

「良い子じゃ」

 

頭を撫でて来る彼女を、男は文句あり気な、しかしとろんとした目で見上げた。

そのあと男は彼女にトイレまで連れていかれた後で、ベッドに連行された。

 

「まだ、寝るには、早いですって」

「風邪は寝て治すのが一番と決まっておる」

「明日の仕事が」

「明日は休みじゃ」

彼は抵抗しても無駄だと判断し、大人しくベッドに横になった。彼女は満足そうに微笑を浮かべると尻尾で布団を掴んで彼の首元まで被せてあげた。

 

「おやすみ」

「……おやすみ」

 

彼は目を閉じた。

 

暫しの静寂が訪れる。

 

カチカチカチ。

 

時計の音。

彼が瞳を閉じている。彼女は枕元に腰かけ男の寝顔を見守っている。

不意に、彼がゆっくりと目を開いて、彼女を見上げた。彼女が不思議そうに見下ろす。

 

「どうかしたか?」

「……なんか、身体が、寒くて」

 

そう言って彼は布団から手を伸ばし、ベッドに着いていた彼女の手首を掴んだ。

その手は確かに冷たく汗ばんでいて、震えていた。

男の目はどうにか助けてほしいと彼女に縋っている。

 

反則が過ぎるのじゃ……。

 

という意味でため息を吐いた彼女は、

 

「すみません面倒をかけて」

 

と勘違いで反省する彼を差し置いて、彼の隣に横になり一緒に布団を被った。そのまま、横になっている彼を後ろからぎゅっと抱きしめ、足と尻尾も彼の下半身に絡める。

 

「あれ、布団を増やしてくれるとかじゃ……」

「なんじゃ。嫌か?」

「嫌では」

「ならば、いいじゃろ」

「……風邪がうつるかも」

「儂はファイアードレイクじゃからな。風邪などに罹らん」

「…………そうですか」

「温かいじゃろ」

「………………気持ち良い」

「おやすみ」

「…………………………」

 

男はやがて寝息を立て始めた。

彼女は上がった口角を宥めるのに必死であった。

 



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幼馴染に愛される

勇者の一行が魔王城を目指して森の中を歩いていると、ふと狼の群れに囲まれてしまった。勇者たちは即座に戦闘陣形を整える。近接の得意な戦士3人が360度どんな方向から攻撃されても対応できるように一定の間隔を保って立ち、その三角の中心に遠隔攻撃の得意な魔法使いと治癒魔法が得意な勇者が立った。

戦闘は有利に進んだ。

戦士たちが剣や斧といった武器を使って狼たちを薙ぎ払い、生まれた隙を利用して魔法使いが詠唱し、特大火球魔法を次々狼の群れにぶち込んでいった。そもそも狼などは旅の道中で何度も戦ったことのある相手なのだ。勇者が仲間に治癒魔法を使う必要すら無い。仲間たちの奮闘によってあっという間に、狼たちを全滅させることに成功した。

そうして皆が臨戦態勢を解く。油断する。

その油断が命取りであった。

勇者の近くに転がっていた狼の亡骸の一つが膨張を始めたのである。それは急速にでかくなり、やがて狼の身体は真ん丸の巨大風船のように膨らんだ。この狼は森に潜む寄生植物の一つに寄生されていたのである。そうした寄生植物は宿主の死後、子孫を残すために宿主の身体を爆破させる。

 

「勇者様‼」

 

仲間たちが咄嗟の事で判断が遅れる中、大柄な戦士がそう叫び、彼を庇うように両手を広げ前に立った。

その直後、球体だった狼が破裂した。

中から無数の種子と骨片が弾丸のように弾け飛び、大柄な戦士の身体へと容赦なく大量に突き刺さる。皮膚が切り裂かれ、肉が抉られる。それらは人間ならば一発もらっただけでも致命傷になりかねないが、大柄な戦士は勇者を守るために壁となって一身で受け止めた。

やがて彼は仰向けの姿勢で倒れた。

生気の無い目は半開きのまま、全身は蜂の巣のように穴だらけで裂傷も酷く、身体の至る所から出血し、首に幾つも通る大小の血管や腹に収まった臓器が外から見えていた。

 

「待っててっ。 今、助けるからっ」

 

慌てて駆け寄った勇者が彼の胸元に手を当てて治癒魔法を唱えた。だが息を吹き返すことは無い。治癒魔法は傷を癒す事は出来ても命を蘇らせる事は出来ない。そして彼の心臓は既にズタボロになっている。彼はとっくに、死んでいる。

 

「大丈夫だから! 絶対……助かるから……」

 

勇者は涙目になりながらそれでも諦めずに治癒魔法を掛け続けた。気付けば周りには仲間たちが囲むように立っていた。そのうちの一人、彼の幼馴染で戦士でもある短い青髪の女性が彼を後ろから抱きしめた。

 

「もうやめよう。彼はもう死んでいるよ」

「いや、まだ……」

「死んでいる」

「……くそぉ……くそぉっ」

 

勇者はがくりと項垂れた。

 

 

 

獣たちの不気味な鳴き声が響き渡る夜の森。勇者たちはそこでテントを張り、野宿を行っていた。外ではパチパチと焚き木が燃えている。これが肝心である。勇者が祈りを込めた炎は森の生き物たちを寄せ付けない。逆にこの炎が消えることがあれば、勇者たちはたちまちに魔物たちに襲われることになるだろう。しかし誰もが戦闘と長旅で疲弊していた。そのため皆で交代で炎の見張りを行った。

今は勇者の番だった。

膝を抱えて地面に座り、揺れる炎をじっと眺めていた。

脳裏にしつこく思い起こされるのは自分を庇って死んだ仲間の姿である。危険に気付くのが遅れた自分のせいで仲間がボロボロになって無惨な死を遂げた。今回だけではない。今まで何人もの仲間が彼の為に犠牲になっていった。勇者は何十人もの死体の上に立っているのである

それもこれも全て勇者が神に選ばれた“唯一”の人間だからに他ならない。勇者は身近な4人だけに、魔物に対して有効なダメージを与えることが可能になる聖属性を付与することが出来た。そのため魔王軍に人間の領地が占領されかかっている今、勇者は絶対に死なせるわけにはいかず、次の街に着けば死んだ仲間の穴埋めをするように国が用意した新たな旅の志願者が必ず現れた。そしてきっとまた自分のせいで仲間が、死ぬ。

補充される。

死ぬ。

補充される。

死ぬ。

これではまるで死神と一緒だ。自分の、勇者の存在が、仲間の死を招くのだ。自分と旅をしなれば、もっと長生き出来た筈なのに。自分が皆を死なせてしまった。

みんな俺の事を恨んで死んでいったに決まっている。

地獄に引きずり込みたいに決まっている。

勇者の思考はどんどんとネガティブなものになっていった。

気付けば、炎の明かりを取り巻くように広がる闇の中に、死んでいった仲間たちが何人も立っていた。彼らはウロのような真っ黒な穴の開いた瞳を勇者に向け、恨みを呟く。

 

「殺してやる」

「地獄に落ちろ」

「お前さえいなければ」

「早く死ね」

 

勇者が耳を塞いでもそれは呪詛のように直接脳に流れ込んできた。彼は身体をがたがた震わせ、ただ謝った。「ごめんなさいっ。ごめんなさいっ」。謝ったって誰も許しはしてくれないが、そうでもしなければ罪悪感に押しつぶされてしまいそうだった。

 

「火を消せ」

 

亡霊の中の誰かが言った。その言葉は、次々と周りに伝播し、声はどんどんと重なりを帯びていく。

 

「「火を消せ」」

「「「火を消せ」」」

「「「「火を消せ」」」」

 

言葉が意識を塗りつぶす。火を消さなければならない、火を消したいという衝動に駆られる。

間違った選択である。

火を消したら森の魔物たちに襲われて確実に全滅する。

それでも。

それゆえに。

もう、旅を続けなくて良くなるのなら!

命を背負わなくて済むのなら‼

それは甘美なる誘惑で。彼は、それを求めた。

心臓が早鐘を打つ。

右手を伸ばす。

呼吸が荒くなる。

手の平を炎に向ける。

冷や汗が垂れる。

呪文を読み上げていく。

終わる。終わる。これで終わる。

全て、終わる。

そうして。

彼が呪文を読み終えようとした、その瞬間。

 

「よっ」

 

誰かに後ろから背中を叩かれ、驚いた彼は呪文の詠唱を途切れさせた。

振り返ると、青髪のボーイッシュな少女がそこに立っていた。

勇者の幼馴染であった。

 

 

 

 

勇者にくっつくようにして彼女は隣に座る。彼女は持ってきたブランケットで自分と勇者の身体を覆った。

 

「そろそろ交代の時間だと思って来たんだけど」

「……」

 

彼は絶望していた。

顔を俯かせて、彼女と目を合わせることが出来なかった。当然である。彼がやろうとしていた事は今まで共に旅をしてきた仲間たちへの裏切りに他ならない。沢山の命で繋がれてきた魔王討伐への旅を道半ばで終わらせ、仲間諸共、森の獣たちの餌になろうとしたのである。自分の命に危機をもたらす人間を、誰が許すだろうか。

許される筈がない。幼馴染だとしても、それは変わらない。

彼は身体をガタガタと震わせる。唯一、自分の事を勇者では無く、一人の親しい友として接してくれる幼馴染だけには自分の元を離れて欲しくなかったのだ。

彼はそんな切なる願いを込めて、その表情を確かめるように顔を上げて、彼女を見た。

彼女は、微笑んでいた。

 

「火を消そうとしたんだよね?」

「……うん」

「いいよ」

「え?」

「君が望むなら火を消して、旅を辞めたって構わない」

 

彼女は女性にしては少し低く、一切の含みの無い純粋な声でそう言った。

彼は、ひどく困惑する。怒りや憎しみと言ったネガティブ感情をまるで向けられなかったのもそうだが、何より、彼女の言葉の意味するところは“君になら殺されても良い”ということだ。

そんなの、普通じゃない。

彼は思わず尋ねた。

 

「どうしてそんなことが言えるんだ?」

 

彼女はその言葉を聞くと、勇者の頭を抱え込むようにして抱きしめて、呟いた。

 

「僕はどんな時でも君の味方でいるって決めているから」

 

彼女は昔話を読み聞かせるように滔々と語り始めた。

 

「覚えているかい? 今から10年くらい前の僕たちがまだ幼かった頃。村の守り神の為に、祭壇の上に供物として捧げられていた黄金のリンゴを、僕が盗んだという疑いが掛けられたんだ」

「……そんなことも、あったかも」

「うん。あれは、実際は濡れ衣だったんだけど、村のみんなは勿論、両親でさえも僕を信じてくれなかった。誰もが敵に見えてひどく辛かった。でも君だけは僕を信じてくれた。“お前がそんなことするはずない”ってそう言って村の人たちに説得してくれたし、罰として蔵に閉じ込められていた僕に会いに来ておやつを分けてくれたりした」

「……あまり覚えていない」

「それでもいいんだ。とにかく僕はそれが、とっても、とっても嬉しかったんだ。だからその時僕は誓った。恩返しじゃないけど、僕はこれから先何があってもずっと君の傍に居て、君の味方で居続けるって」

 

「だから必死に鍛錬を積んで、村一番の剣士になって、君と共に旅に出られるように頑張ったんだ」

 

「そもそもみんな酷いよね。君が勇者に選ばれたからって見送るばかり。僕らは命を張ってるのにね。無責任な奴ら。だからあいつらは君が旅を辞めたって非難する権利はないよ」

 

「だから、君が望むなら火を消したって構わない。それで死ぬことになったって構わない。旅を辞めたってかまわない」

 

「僕は君の意思を、全てを、肯定する」

 

彼女は真っ直ぐな瞳でそう言った。嘘偽りの無い深海のような綺麗な青い瞳だった。

彼女の腕から解放された。

彼の瞳から涙が零れた。自分の全てを受け入れてくれるその優しさや温かさがとても嬉しかった。

ただ嬉しかった。

だが、それでも。

 

「それでも……俺は……旅を辞められない」

 

彼は惨めな顔で涙声で、そう言った。

自分たちは仲間の死を、平和への願いを背負って旅をしてきたのだ。道のりが辛くとも、彼らの想いを無駄にすることなど、できる筈も無かった。

 

「そうだよね。君は優しい人間だもんね」

 

彼女は呆れたように、それでいてとても嬉しそうに頬を緩めて笑った。

そのまま彼女は腕を回して、泣いている彼に肩を貸した。

 

「最後まで付き合うよ。死ぬまで僕は、君の味方さ」

 

彼は彼女の肩に顔を埋めて泣いた。

 

 

 

 

 

 

星が降る夜空の下。

二人はブランケットに包まれている。

彼は泣き疲れて彼女の肩に頭を預けて寝息を立てていた。

彼女はその涙を指で掬うと、まぶたにキスを落とした。

 

「大好きだよ」

 

静かにつぶやいた。

 



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聖騎士に愛される

全長は3mに達するかと思われる見上げる程に巨大な黒い狼が、街の中心で暴れていた。彼の瞳は真っ赤に輝き、頭を揺れ動かすたびに空気中に赤い残像を残していく。彼は、悪い魔女に催眠魔法を掛けられているのである。それゆえ正気を失い、本来は憎き魔女に向ける筈だった怒りの感情は行き先を見失い、視界に入った全ての物に無差別にぶつけられた。

獣人の家族も大事な友達もその鋭い爪と牙で切り裂き、臓器をまき散らして、命を奪った。彼は誰よりも優しい獣人だったのに。

周囲にあるすべての物を壊し、それに快楽さえ感じる破壊と殺戮の化け物と化してしまった。

そんな彼に救世主が現れる。銀色に輝く長髪が美しい白銀の鎧に身を包んだ神に仕える聖騎士の女性だった。彼女は、狼となった彼の近くに立ち、滅んでいく町並みに悦を浮かべていた悪の魔女をその神の力が宿る聖なる剣で切り裂き、更に彼の首に巻きついていた催眠をかけるための黒い首輪を断ち切った。

たちまち彼は正気を取り戻す。

獣化が解け、亜人としての獣人の姿に戻る。

戻らない。

壊したものは戻らない。

彼はその眼で、周囲に広がる肉塊ばかりの惨たらしい惨状を目の当たりにし、絶望する。家族も友も関係の無い町の人も、殺したのは全て自分だ。

自分が嬉々として命を奪ったのだ。

最低だ。

クズだ。

愚かで弱い醜い生き物だ。

生きてる価値などない死ぬべき生き物だ。

いや、違う。ここで死んでは、殺してしまった者たちに顔向けできない。

せめてもの償いで沢山苦しまなければならない。

出来る限りに苦痛を。

痛みを。

痛みを。

 

……。

……。

……。

 

そうして彼は目を開ける。彼女と共に眠る布団から起き出して、ゆらゆらとした足取りで台所へと向かっていく。目は虚ろだ。耳は何かに怯えるようにペタンと折れているが、口元は口角が斜めに上がっていて怒りを見せている。唾液が床に零れ落ちる。

半覚醒状態と言って良い。身体の支配権は思考ではなく潜在意識に握られ、身体が罰を求めて歩いていく。

台所にあるのはキッチンナイフだ。良く研がれたそのナイフを使って、料理好きな彼女はいつもご飯を作ってくれる。そのナイフの持ち手を握り、服を捲って素肌を露わにした自分の腹へと刃先を向け、一気に振り下ろす。

 

「い゛っ゛‼」

 

腹の肉が裂けて、血が流れた。

眩暈がするような強烈な痛みが同時に安堵をもたらしてくれる。奪ってしまった命に対しての償いをしている気分になれる。深くはしない。死んでは駄目だ。死なないギリギリまで苦しまなければ。

何度も何度も刺す。

振り下ろして。

振り下ろして。

やがて。

そのナイフが、白く、しなやかな手に掴まれて止まる。

聖騎士である彼女の手である。ナイフの刃を掴んでいるから手が切れてひどく出血している。

 

「もういいのですよ」

 

彼女は穏やかな声でそう言ってナイフを取り上げると、部屋の隅に放り投げて捨てた。そしてすぐさま彼を後ろから抱きしめた状態のまま台所に背中を預けるようにして座った。

右手の指は彼の口に当てて、彼が自分の舌を噛もうとしないようにしている。

左手は腹を抑え込んで、抜け出さないように拘束している。

ナイフを失った彼はしばらく自傷の方法を求めた。

だから舌を噛もうとして彼女の細い指を思い切り噛んでしまうし、拘束から抜け出そうとして彼女の腕を何度も鋭利な爪で引っ搔いた。

酷く痛むはずだが彼女は見守る様に微笑を浮かべたまま、全く表情を変えなかった。

彼は獣人の強力な力で暴れた。

それでも鍛えている彼女の方が力は上だ。

彼女は決して離さなかった。

ただ

 

「もういいのです」

 

と、彼を許す言葉を彼の耳元で囁き続けた。

 

 

 

やがて彼は夢うつつからはっきりと現実に意識を取り戻した。自分の身体を見て、腕が回されているのを見て、血の味がする指を舌先で舐めて、全てを察する。

 

「また、ごめん……」

 

彼は申し訳なさそうに首を後ろに回す。傍にある彼女の顔は慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。

 

「おはようございます」

「ごめん……ごめん……」

「謝らないでください。私は気にしていませんから」

「ごめん……」

 

彼はそう言って彼女の指を咥え込んで唾液をたっぷりつけるように舐めたり、彼女の傷だらけになってしまった腕に舌を這わせる。獣人の、特に狼の血を受け継ぐ獣人の唾液には、鎮痛作用がある。

 

「本当にごめん……僕の為にこんな……ごめん……」

「大丈夫ですよ」

「痛いのは僕だけでいいのに……」

「貴方も痛い思いをしては駄目です」

「ああ、僕が死ねが良いのに……」

 

彼は罪悪感で涙を流しながら、傷を舐めている。

彼女はそんな彼の顎に手を添えると、キスをする。

 

「っっ」

 

彼の舌を噛んだ。

口を離した彼女は普段の清楚な雰囲気とは少しギャップのある意地悪な笑みを浮かべた。

 

「これで“お相子“という事にしましょう」

 

彼女の慈愛があまりに優しくて申し訳なくて、彼は目を逸らす。

すると両手で彼の頬を掴み、自分に向けさせる。

額を合わせる。

 

「さぁ、一緒にお風呂に入って傷を治しましょうか」

 

ここで言うお風呂は彼女の神への祈りが込められた湯のことであり、傷を治す効力がある。

彼が夢を見て我を忘れて傷だらけになった時は、二人でこの湯に浸かり傷を癒すのである。

心の傷も彼女は癒す。

浴槽では、後ろからずっとぎゅっと抱きしめている。

 

「貴方はもう、苦しまなくていいんですよ」

 

彼女は優しい声でそう囁く。

 

彼はすでに罰を受けている。あの騒動の後で生き残った街の人々によって身体に火を点けられて、それでも死ねなくて、常人の想像を絶する生き地獄を味わった。

 

それでも、彼は自分を責め続けている。

だからその度に彼女は、彼が苦しみから解放されるように、彼自身が自分を愛せるように、彼女の愛で満たす。

 

「ほら、立って?」

 

彼女は立ち上がり、傷だらけの綺麗な手で彼の手を引いた。

 



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オーガに愛される

二人の女性がバーのカウンター席に座っていた。一人は長耳でロングの青髪を胸元まで垂らし黒のワンピースに身を包んだおっとりした雰囲気のエルフで、もう一人は、頭に二つの角が生えていて首元に届かない程の短い髪で、白のタンクトップにショートパンツというラフな格好をした長身で亜人のオーガだった。惜しげもなく晒されている腕や脚は筋肉が発達して良く引き締まっていて、鍛錬を相当積んでいる事が伺える。

二人はダンジョンに共に潜るパーティの仲間であった。

緩い雰囲気のあるエルフが後衛の魔法使い、筋肉質なオーガが前衛の戦士だった。二人はベテランと言って良い腕前でパーティの仲間と共に幾つもの危険な任務を見事にこなし、ギルドによって冒険者に与えられるランクは当たり前のように最高位のもので、同業者たちからは尊敬を通り越し畏怖の念さえ集めていた。

そんな二人はダンジョンから戻ってきて、酒を飲んでいた。

 

「大きな任務の後にみんなで飲むのも良いけど、こうやって静かな所で飲むのもいいわね」

「そうだよなぁ。特に最近は一緒に呑むことも無かったもんな」

「それは、誰かさんが恋人の手料理が待ってるからって断るからでしょ」

「ん~悪い」

「別に責めてるわけじゃないわ……。ただ、貴方に恋人がいるって発覚したときは本当に驚いたわね」

「みんな大袈裟なんだよな」

「いや、驚くのも当然よ。だって貴方まるで男っ気が無かったじゃない。興味も無さそうだったし」

「それは、そうだけど」

「なのに、ある時リーダーが皆で呑むぞって誘ったら急に恋人が待ってるのでって、そりゃびっくりするでしょ。おまけに同棲してますって、展開が早すぎよ」

「いや~。訊かれなかったら黙ってただけでさぁ。驚かせるつもりは無かったんだよ」

 

オーガは後ろ髪に手を当てながら“はははっ“と申し訳なさそうに笑う。エルフはため息を一つ吐くと、尋ねる。

 

「それで? ダンジョン攻略が恋人だった貴方の心を奪ったのはどんな方なの?」

「えーっと……」

 

グラスに注がれた酒を見つめながら言いにくそうにする彼女。「どうかしたの?」と目を細めて訝しがるエルフ。

 

「ギルドの受付やってる雄の人間、知ってる?」

「ええ、勿論よ。受付をやってる面子の中で人間って言ったら今のところ一人しか居ないもの。私も依頼の受注で何度か話したことあるし」

「……アイツ、なんだよね」

 

ぽつりと言った。

 

「……へ?」

「アタシの恋人。アイツなんだよ」

「ええっ⁉ 嘘ぉ⁉」

 

エルフは今までの落ち着いた様子とは一変、目を丸くして大きな声で驚いた。その後、直ぐに正気に戻り、口元を抑えて謝罪するように周りに軽く頭を下げた。

その後、真剣な顔で尋ねる。

 

「あの子なの⁉ あの、ぽわぽわ~っていう雰囲気の小動物みたいな子⁉」

「まあ、そう……なのか?」

「はぁ……まさかまた驚かされることになるとは思ってもみなかったわ。てっきり貴方はもっと、貴方に似た筋肉の逞しい強そうな男とか同じ種族である雄のオーガをパートナーに選ぶと思ってた」

「ちょっと偏見が混じってないか?」

「そんなこと無いわよ。実際貴方は、大柄で力も強くて何をするにも雑だもの。そんな貴方に合わせられる男なんて、相当タフじゃないと無理よ」

「おい。しれっと悪口言ってるだろ」

「事実よ」

 

オーガがじっと睨んだが、エルフは受け流すように目を瞑ってグラスを傾けた。

 

「で? あの人間君のどこに惚れたの?」

「え。そういうの、言わなきゃダメか?」

「当たり前でしょ。むしろそれ目当てで今日誘ったんだから」

「まじか⁉ 嵌められた⁉」

「根掘り葉掘り全部訊くまで返さないからそのつもりでいなさい」

「いぃ……」

 

オーガは眉を寄せて苦い顔をした。エルフはこうと決めたら意地でも完遂する女なのである。

 

「じゃあ、あらためて訊くけど。あの子のどこが好きなの?」

 

エルフに尋ねられ彼女は覚悟を決めるようにして一杯飲むと、ぽつぽつと語り始めた。

 

「最初は、顔だな」

 

エルフは視線で続きを促す。

 

「ほら、人間って他の種族と比べて幼い顔立ちの奴が多いだろ? ドワーフと比べても、老け顔じゃないし髭がもじゃもじゃでもない」

「それは個人差がかなりあると思うけれど」

「とにかく。アイツのおっとりした感じ?っていうか、守ってやりたくなる感じが良いなって」

「可愛い人間が好み……と」

「わざわざまとめるのやめろ」

「大事よ。後でパーティと共有するんだから」

「アタシの恋愛で遊ぶな」

「はいはい。それで? 他には無いの? 顔だけ?」

 

エルフは彼女の抗議を受け流し、回答を促した。

 

「後は性格、とか。アイツは、仕事はすげー真面目で丁寧だけど、話してみたら意外に気さくで結構楽しいんだよな」

「馬が合ったのね」

「それと優しい所が良いんだよなぁ。アタシがダンジョンから帰ってきたら、それに合わせて美味しいご飯作ってくれるし、アタシの方が絶対力あるのに重い荷物とか進んで持とうとするし、疲れたって言ったら頭撫でてくれるし」

「急に甘さが増して何かを殴りたい気分になってきたわ」

「自分で訊いたんだろ」

「そうね。好奇心を満たすにはリスクを払わないといけないものね」

 

エルフは落ち着くように酒を飲むと、尚も尋ねた。

 

「そもそもどっちから告白したの?」

「それはアタシだ」

「でしょうね。感情を抑えるの苦手だものね貴方」

「そんなことないだろ」

「そんなことあるわよ。気付いていないでしょうけど、貴方さっきから人間君の話するときに信じられないぐらいニヤけてるわ」

「嘘だ……」

「本当よ」

 

エルフが呆れたように言う。事実、オーガは親友であるエルフも今まであまり見たことが無いほどにだらしのない顔を先ほどから見せていた。彼女がその人間にどれほど心を寄せているのかが手に取るように分かる。

 

「それで? どんなふうに告白したの?」

「い、言いたくない」

 

彼女は顔を逸らしながら言った。まるで子供のようだった。

 

「なに恥ずかしがってるのよ。古い付き合いである私に今更恥ずかしがるようなことなんて何もないでしょ」

「……そりゃそうなんだけど」

「ほら。言いなさいよ。絶対に笑わないから。なんて言って告白したの?」

 

煽られた彼女は渋々口を開いた。

 

「“お前を一生守らせてくれ”」

 

「ふっっ」

 

エルフは堪らずと言った風で吹き出した。

 

「お前なぁっ」

「ごめんなさい。まさかプロポーズの言葉が飛び出すとは思って無くて。しかもそれ、たぶん屈強な男がか弱い女に言うセリフよ?」

「良いだろ別に」

「ええ、そうね。全くその通りね。むしろ貴方らしい言葉だわ。貴方は守られるような女じゃないものね」

「それ褒めてるのかよ」

「褒めてるわ」

 

げんなりした彼女にエルフは愉快そうに微笑を浮かべた。

 

「実際彼は冒険者たちの人気を密かに集めていたりするから。人間って言うだけで珍しいのに、愛想も良いと来たらね。流石に貴方に直接仕掛ける恐いもの知らずは居ないにしても、人間君を横取りしようとする輩は出てくるかも」

「それは、考えて無かった……」

「まあ余計なお世話かもしれないけれど、彼を奪われないように気を付けなさい」

「それは勿論。アイツに近付く奴は全員ぶっ飛ばしてやる」

 

そう言って拳を握るオーガの腕は逞しい。彼女が本気を出せば敵う者などいないだろう。

 

「説得力が凄いわね」

 

彼女は笑った。

 

「そういえば、同棲してるのよね? 一緒に過ごす内に好きな部分は増えたのかしら?」

「ああ、滅茶苦茶増えた。どんどん好きになるんだよなぁ」

 

酒が進んできて彼女も饒舌になっていく。

 

「お熱くていいわね……。ちなみに、どんな部分が?」

「さっきも言った通り基本的にアイツがご飯作ってくれるんだけど、それがめっちゃ美味いんだ。だから美味しい!っていつも言うようにしてるんだけど、そうしたらアイツはすげぇ嬉しそうに笑うんだよ。その表情がもう可愛くて胸がグってなる」

「へぇ」

「あとは寝るときに一緒の布団に入ってアイツを抱きしめて寝るんだけど、人間って体温が高いんだよな。それにオーガで筋肉質なアタシよりも身体がずっと柔らかい感触で、抱きしめると本当に堪らねぇんだ」

「聞いてて砂糖を吐きそうになってきたわ」

「アイツの膝枕も気持ちよくてさぁ……」

 

彼女の惚気話はエルフが止めるまで延々続いた。

気付けば二人は大分酒が回り、良い感じに酔っていた。

だから下世話な話も平然とする。

 

「これ、実は結構興味があったのだけれど、夜の方はどうなの?」

「おお、訊くなぁ」

「ほら、人間とオーガじゃない? 体の構造はまぁ似てるにしろ、身長差とかはあるし、どうなのかと思って」

「アイツって結構器用で何事も上手くこなせるタイプなんだよなぁ」

「そんな気がするわね」

「だからその、夜の方もなんか上手くて……。ベッドの上でだけ立場がすっかり逆転して抵抗も出来ずに滅茶苦茶責められると言うか、死ぬほど気持ち良くされ過ぎて気を失うと言うか、もう毎晩押し倒して下品に欲しがっちまうと言うか……」

「それは……凄いわね……」

 

 

エルフは返す言葉に困りながらそう言った。

 

「でも良かったわ。聞いている感じ、貴方が随分と幸せそうで」

「あぁ、幸せだな。ビビるくらいだ」

「実はちょっと心配してたのよ。変な男に捕まってるんじゃないかって。でもそんな心配は不要だったわね。そんなに幸せそうなら、人間君との生活も順調に決まってるわね」

 

エルフが安心したように言った。一応は友達として気にしていたのだ。

しかしその言葉を聞いたオーガは、若干顔を歪めた。

 

「……いや、順調って事でも無いんだよな」

「あら? 散々惚気ておいて、まだ不満があるの?」

「不満って言う程でも無いんだけど……」

 

彼女は視線を逸らして口を尖らせる。

 

「何なのよ、気になるわね。言ってみなさいよ」

「いや……その……」

「いいから言いなさいって」

 

促された彼女は口を開いた。

 

「……アイツからキスしてもらえないんだよなぁ」

 

「……は?」

 

エルフは呆れたように声を漏らした。

 

「そんなに胸焼けする程イチャイチャエピソードがあって、キスしてもらえないとか嘘でしょ」

「嘘じゃねえよ。この前だって、アタシがダンジョンから帰ったら誕生日だったアタシの為に好物のグラタン作ってくれてて、アタシが嬉しくなってキスも欲しい!ってねだったんだけどさりげなく顔を逸らされたし」

「ほぉ」

「あと冷え込んだ日に二人で家に帰ってきて、暖炉の薪燃やしてもまだ部屋の中が全然寒いままだったから、しばらく抱きしめ合って暖め合おう!って意味で両手を広げてハグしてくれるのを待ったんだけど、見事にスルーされた」

「はぁ」

「もしかしてアタシ、嫌われてるのか……??」

 

酒の深く回った彼女は目に涙を浮かべながらそう言った。

エルフは顎に手を当ててその聡明な頭で彼女が避けられる理由を考えてみたが、酔った思考ではまるで分からなかった。とりあえず慰めの言葉をかける。

 

「まぁ、聞いてる限り嫌われてる事は無いと思うから安心しなさい」

「本当に……?」

「ええ。きっと、たまたま気分じゃなかっただけよ」

「そうなのか……?」

「たぶん」

 

そうして、二人はその後も酒を飲み交わし続けた。

やがて時が過ぎると、彼女は完全にアルコールが回り、遂にはカウンターに突っ伏して眠ってしまった。

 

「ほらー。起きなさい」

「キスしてくれたら、起きる……」

「ここは貴方の家じゃないのよ。とっとと起きなさい」

「キ~ス~……」

「はぁ。困ったわね……」

 

エルフは頭を抱えた。自分も酔いが回って起きてるのが辛いぐらいだというのに、彼女を家まで送り届けるなんて面倒くさすぎる。

するとそこへ、近づいてくる足音があった。

 

「自分が連れて帰りますね」

 

振り返ればそこには、黒髪で垂れ目の優しそうな青年。もとい、噂の人間君であった。

 

「君、いつから?」

「えっと、ついさっき?」

 

嘘である。彼は実は最初からいた。今日は彼女が友達と飲みに行くと聞いて、ならば自分も久々に酒でも飲もうと訪れたバーがたまたま彼女たちの選んだバーと同じだったのである。青年は彼女の腕を自分の首に巻き付けさせると「よっ」とt声を漏らしながら立ちあがり、自分よりもかなり背丈の高い彼女を背負った。

 

「だ、大丈夫かしら?」

 

見ていたエルフも心配そうに声をかけるが、問題は無い。彼は今でこそギルドの受付をやっているがかつては冒険者だったのである。だから一般的な人よりも力には自信があった。

 

「それじゃぁ、失礼しますね」

 

彼はそう言ってエルフに頭を下げると、代金を代わりに払い、店を後にした。

 

 

 

 

彼女を家のベッドの上に優しく寝かせて布団をかぶせた後、彼は小さなテーブルの前に座り首を捻っていた。

寝れるわけが無かった。バーでの彼女たちの会話を聞いていた青年は彼女の自分に対する好意を浴びる程に聞いて心臓が高鳴って寝れる気がしなかった。

あと、彼女の言っていた悩み事についても気になった。

彼が、自分からキスやハグをしてくれない。

これは弁護のしようが無い事実であった。しかしそれは勿論彼女のことを嫌っているわけではなく、むしろ彼女に対する好意というか尊敬の念ゆえのことであった。青年は元冒険者であったために、最高位の冒険者である彼女の偉大さが身に染みて分かるのである。おまけに彼女は顔が良い。少なくとも彼にとって彼女はかなり整っているように思える。そのため、彼女に対する憧れや純粋な照れから、どうにも自分から好意を向けた行為を行うのが恥ずかしくなってしまっていたのである。

だが、彼女が真剣に悩んでいるのを聞いて、そうも言っていられなくなった。これ以上、彼女を傷つけるわけにはいかない。せめて彼の真意を伝えたい。しかし、彼女を前にすると緊張でどうにもならなくなる。そこで彼が考えてたのが、文字に書き起こしてみる事であった。

ギルドの受付として日々沢山の文章が書かれた書類と向き合っている彼は、文字が思考を目に見える形にするもっともよい方法であることを知っていた。そこでとりあえず自分の考えを文字に起こしてみて、自分の中で整理してたうえで、彼女に説明してみようと考えた。

彼はそうと決めれば早速紙を取り出して、自分の考えを文字にしてみた。

不思議な事には全く意識していなかった筈なのに、気付けばすっかり彼女に宛てた手紙の形式になっていた。興が乗って、分量も随分と長いし正直な自分の気持ちなので、普段彼女に言うことが出来ないような、彼女に対する“好き”が溢れたひどく甘いラブレターみたいになっている。流石にここに書いてある全てを伝えるのは恥ずかしすぎる。大事なのは彼女を嫌って避けているわけでは無い事を伝える事だ。そして書いている内にその気持ちは大分整理できた。だから後は、明日にでも彼女にこの事を伝えればいいだけだ。

伝えれば、良いだけ……。

伝えれば……。

ば……。

……。

…。

 

彼は気付けば、机に倒れ込むようにして眠ってしまったのだった。

 

 

 

 

 

彼が目を覚ました時、目の前には同じく机に顔を乗せた彼女の嬉しそうな顔があった。

 

「おはよう」

 

彼は内心ドキッとしてバレないようにゆっくり体を起こす。

 

「おはよう」

 

隣に座っている座高の高い彼女の顔を見上げてそう言う。

彼女は見下ろす。

彼女はニコニコと嬉しそうである。

 

「何か良い事でもあった?」

 

彼がつい尋ねると、彼女は後ろ手に回していた手を差し出し、掴んでいた紙を見せつけた。

 

「じゃーん。これなんだろうな?」

「あっ」

 

それは彼女がご機嫌な理由。青年は言葉を息を漏らした。その紙は、彼が机で眠る前に書いていた紙。つまり、彼女にはとても読ませるわけにはいかないと思ったラブレターもどきであった。

 

「そ、それ」

 

彼が取り返そうと手を伸ばしたが彼女はひょいと高く掲げ、彼はバランスを崩し、彼女に抱き留められた。彼は彼女の顔を覗き上げる。

 

「……読んだ?」

 

確かめるように訊いた。

 

「読んだ」

 

ニヤリと笑って自信たっぷりにそう答えられた。

 

「お前、アタシのこと滅茶苦茶好きだったんだな!」

「うっ」

「でも、アタシはお前みたいに学が無いからさ。途中で読めない文字とかあったんだよなぁ」

「そうなんだ……」

 

その言葉を聞いて読めなかった程度が分からないが、全部読まれたわけではないと知って少し救われた気持ちになる。だが逃がしてはくれない。

 

「だからさ、読んでよ」

「え」

「お前の言葉で聞きたいんだ。その文章」

「えっと」

「お前の気持ち、一字一句洩らさずに全部訊きたいんだ」

 

それを聞いて「あ……さごはん作るか。よし」と彼はぎこちなく言って台所に向かおうとしたのだが、彼の身体はあっという間に抱きしめられてしまった。

彼女は後ろから彼を抱きしめながらつむじに顎を乗せる。

 

「あの、朝ごはんつくろっかなって」

「読んでくれないとずっとこのまま離さないからな」

「でも、朝ごはんを」

「その前に読んで」

「朝ごはん」

「読んで」

 

口調は子供じみたお願いだが、回された腕は硬く青年の力ではまるで抜け出せない。

前に回された手には手紙が掴まれていて、彼の目の前に差し出されていた。

彼女が口を耳元に寄せる。

 

「読め」

 

重く響く命令。

彼の鼓膜が揺さぶられた。彼は紙を受け取らずにはいられなかった。

自分で書いた恋文に似た何かを本人の前で読み上げると言うのは、もはや一種の羞恥プレイであるが残念ながら彼に選択肢はない。

覚悟を決めた青年は、唾を吞み込み一行目から読み始めた。

 

 

 

 

 

僕は君の事が……

 



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猫人に愛される

研究者気質の眼鏡をかけた真面目そうな男と、軽い布服を身につけスカーフを首に巻いた猫人の女がダンジョンの中層のとある広い空間の前に立った。

二人は恋人関係にある冒険者でパーティも組んでいた。今日はギルドから淫魔に襲われた人間の遺留品の整理の依頼を受け、男たちが淫魔に襲われたという場所までやって来ていた。

 

「こりゃひどいな」

「最悪!」

 

男は表情を変えずにただ呟き、女は頭部に生えた耳を絞り露骨にげんなりした顔でそう言った。二人の前には凄惨な景色が広がっていた。若人を中心とした沢山の男たちが下半身を剥き出して、もしくは全裸で糸の切れた人形のように床に転がっていた。誰の瞳にも力は宿っておらず、身体はがりがりにやせ細っていた。

淫魔の養分は男の生気である。その効率の良い摂取の方法が精液を奪う事であり、淫魔は男たちを催淫し、性欲で頭をいっぱいにさせたところで死ぬまで生気を搾り取るのである。だからここにあるのは全て搾りかすとなった死体だけであった。

しかしだというのに、空間に充満するのは死臭ではなく独特な甘い匂い。これは淫魔が男たちをおびき寄せるために発する催淫性を含んだ香りであった。この匂いに釣られてやってきた男は、たちまち食虫植物に近付いた虫のように捕食されてしまうのである。

 

「君も、ムラムラして私を襲っちゃうんじゃないの?」

 

彼女が横目で見ながら尻尾を絡ませてくる。猫人が相手の感情を読み取るときによくやる行為だった。

 

「しねーよ。そもそもどこ向いても男のブツが視界に入るような地獄で勃つわけないだろ」

「ふーん」

「お前こそ淫魔の甘い匂いで発情するんじゃないのか?」

「雌の私にチャームが効くわけないでしょ」

 

彼は冗談のつもりだったが彼女は冷たく言い捨てた。長い付き合いである彼はすぐに彼女が不機嫌であることを感じ取った。

彼女は悲惨な景色を睨んでいる。

 

俺の返答が不味かったのか?

 

男はそう思って慌ててフォローを入れる。

 

「違うからな。お前に欲情する訳ないとかそういう事じゃなくて、むしろスラリとした後ろ姿から拝めるうなじとか控えめな曲線美の胸とか耳揉むとトロ顔になる所とかめっちゃエロいと思ってるからな。家なら余裕で欲情するからな」

「はっ!? 急に何言ってんの、馬鹿っ⁉ やっぱり発情してんじゃないの⁉」

 

彼女は顔を赤くして睨み、尻尾をバタつかせた。

彼は間の抜けた顔をする。

 

「え、あ、俺の返答が気に喰わなかったんじゃないの?」

「違うよ。気に気わないのは淫魔の方。君に襲わないって言われるだけでキレるとか私どんだけ欲求不満だと思われてんの」

「あー、すまん」

 

彼女は物憂げに足元に転がっている遺体を見下ろす。

 

「この男の人たちの中にはさぁ、きっと、私たちみたいに恋人がいたり夫婦の関係の人がいたりって……誰かと好き同士だった人も多くいると思うんだよね」

「そりゃそうだろうな」

「そういう男の人達を無理やり誘惑して本当のパートナーから奪って挙句の果てに殺しちゃうなんて、やってること最低だよ」

 

ほんっと嫌い。

 

彼女はそう吐き捨てて、地面を蹴りつけた。

彼は横目で見ていた。あまり感情をはっきりと出すことをしない彼女がここまで嫌悪的な感情を露わにしているのは珍しかった。人の心を想ってキレるのが何とも優しい彼女らしいと思った。

彼は男たちを見下ろす。

いずれにせよ、哀れな男どもの為にしてあげられることは身元を明らかにしてあげることぐらいである。

 

「仕事するか」

「うん」

 

二人は作業に取り掛かった。

 

 

 

 

思ったよりも淫魔の餌食になった男の数は多く、気付けば夜となっていた。太陽が沈み月が昇ると、モンスターたちの活動は活発になる。外界の光が届かないダンジョンの中でもそれは変わらない。夜間にダンジョンの中を歩き回るのは得策ではない。

そこで二人は淫魔の狩場のすぐ近くにあったドーム状の広いエリア。安全地帯で、寝袋に包まり一晩を明かすことにした。安全地帯はかつて存在した大賢者の手によって聖なる加護が施されたエリアであり、モンスターたちは足を踏み入れることが出来ないのである。

二人は寝袋に包まり向かい合って取り留めの無い事を喋っていたが、良い頃合いになったので、

 

「そろそろ寝るか」

 

と彼がランプを消すために手を伸ばした。彼女がそれを見ていてぽつりと呟いた。

 

「もう少しでっかい寝袋があれば二人で包まれて良いね」

「そうか?」

「きっと体温で暖かいよ?」

「きっと狭いし暑いし臭い。むわむわーっとした暑さの中でお互いの疲れて汗だくの臭いがいっぱいになるんだぞ」

「変態じゃん」

「先に言ったのはお前だろ」

「……でもまぁ、悪くないかも」

「変態じゃねえか」

「ふふんっ。おやすみ」

「おう。おやすみ」

 

二人はやがて眠りに着いた。

 

 

 

それから暫く経った頃だった。男は不意に目を覚ました。尿意を感じたのである。

男は女を起こさないようにこっそりと寝袋から抜け出すと、光を灯したランプを片手に持って寝ぼけ眼でふらふらと壁際に近付き、ズボンを降ろし、小便をした。尿が岩壁に当たる音と体内の液体が下腹部から性器を通って出て行く感覚から自分が排尿している事を辛うじて認識しながら意識は未だ夢の中である。

ふと。

鼻腔をくすぐる甘い匂に気付く。幾らかの花の香りを混ぜたような良い匂い。つまり淫魔の発した匂い。いつから漂っていたのかは分からない。ただ彼が認識したころには既に鼻から脳天へと侵入し、充満し、身体を支配していた。

彼はズボンを上げると虚ろな表情で歩き始めた。その方向は恋人の待つ寝袋、ではない。安全地帯の外側である。

催淫効果のある匂いによって本能に直接訴えかけられ、彼の足は勝手に匂いの強くなる方向へと踏み出して行ってしまう。ランプを持ってゾンビのように。

一歩。また一歩。

……いよいよその時が来てしまう。足先が、安全地帯の範囲を超えるときが。

出る。

出る。

出た。

その瞬間、彼の右腕は何者かによって力強く引っ張られ、背中から壁に強引に叩きつけられかはっと肺から息を漏らした。手からするりとランプが落ちて、からんと甲高い音を立てて地面に転がった。

彼は痛むで正気を取り戻し、同時に目を見開く。目の前にいたのは捻れた2本のツノを頭に生やし誰もが振り返るような整った美しい容姿を歪め、怪しい笑みを浮かべた女。淫魔であった。

彼は全てを理解した。自分は淫魔の罠にまんまとハマってしまったのである。だが気付いた時には既に手遅れで、淫魔よりもずっとか弱い力しかない人間の彼は押さえつけてくる淫魔の腕をまるで振り振り払うことができなかった。そうしているうちに、淫魔が寄りかかるように身体を密着させて来た。男好きするであろう豊かな胸が沈み、太腿同士が触れ合い、匂いが強烈になった。そして何より恐ろしいのは目であった。その細められた瞳を見つめていると何故だか吸い込まれるような感覚になり、思考がまるで働かなくなった。ただ魅入られる。抵抗を忘れた彼の唇に自らの唇を近づけていく。ぷっくりと膨らんで艶のある唇はひどく蠱惑的。だがそれは危険な魅力でもある。淫魔は体液を通じてより強力な、もはや我に帰ることもできなくなるような催淫を掛けるのである。その唇を受け入れてしまえばかれはもう戻ってこれなくなくなる。しかし思考能力を失い制御を失った雄としての本能がその唇を求めてしまっていた。

彼は唇が目が離せない。

距離が近づいて来る。

胸の高鳴りがどんどんと大きくなる。

唇同士が触れ合う。

その瞬間、

 

ウギッ!?

 

と淫魔が顔を歪め、脇腹を何者かに力強く蹴り上げられて身体がしなり、次には横に吹っ飛んだ。彼が思わず目で追えば淫魔はそのまま凄い勢いで飛ばされていき、遠くの壁にめり込んだ。

そして代わりに彼の正面には、細い尻尾を生やした、しなやかな女性の後ろ姿が立った。

男の恋人であった。

 

「人の男に手ぇ出してんじゃねえぞ‼︎くそドラ猫ぉ‼︎」

 

地を這うようなドスの効いた声が空間に響いた。後ろから覗くその横顔の瞳はきつく淫魔を睨みつけ、鋭い八重歯は剥き出しで、尻尾は繰り返し地面に叩きつけられていた。

全身から怒りが、溢れていた。

彼女は両手に力を込めて鉤爪を急成長させた。猫人は普段は肉球がある以外は人間と似た手の構造をしているが、敵意によって意識的に爪を伸ばし武器にすることができた。

彼女は地面に体重をかけるようにしてしゃがみ込むと、やがて思い切り地面を蹴飛ばし、全身を弾丸のようにして壁にめり込む淫魔の元へすっ飛んだ。そして勢いそのままに右手を振り下ろし、淫魔の顔面を切り裂いた。

 

ウギいいぃぃぃ!?!?

 

淫魔が苦痛で悲鳴を上げたが、その一発で終わるわけもない。

寧ろこれからであった。

彼女は目にも留まらぬ速さで両手を交互に振り下ろし、淫魔の身体を八つ裂きにしていった。皮膚を切り裂き、血管を断ち、肉を破って、骨まで削る。

淫魔が喚こうが関係が無い。

無慈悲に、冷酷に、何度も何度も。自分の男に手をだされた不快さをぶつけるように、爪を振るった。

 

 

 

やがて悲鳴は聞こえなくなり、彼女はただその場に立っていた。まるで感慨にふけっているかの様な後ろ姿。

終わったのだ。淫魔はきっと絶命した。そう思った男はすぐに立ち上がると、感謝の言葉を伝えるべく女の元へ小走りで駆け寄っていった。しかし途中まで来て

 

「来ないで!」

 

彼女は背を向けながらそう声を張り上げた。彼は驚いて立ち止まる。背中を見つめて考える。

そこまで、迷惑をかけてしまったのだろうか。顔も見たくないと思うほどに、負担だったのだろうか。

彼はそう思うと、お礼だけでは無く謝罪もしなければと意気込んで、再び歩き始め、遂には駆け出した。

 

「来ないで!」

 

彼女が再び叫ぶ。だが彼は、再び止まる事はしない。どんなに彼女に嫌われていようと、命を救われた感謝を、淫魔の手に堕ちかけた自分の申し訳なさを、伝えなければならなかった。

 

「来るな!」

 

そう叫んだ彼女の肩に手を触れた。

そして次には……彼の世界は反転した。彼は目を見開く。彼女に突き飛ばされたのだ。身体が重力を見失って彼は背中から地面へと落下していく。

 

っっ!

 

彼は地面に打ち付けれた衝撃で目を瞑った。そして痛みに悶えながら再び目を開けた時、彼は驚く事になる。

興奮で息を荒くした彼女が、自分の体の上の馬乗りになっていたのである。

 

「だから言ったのに……♡」

「お、お前……」

「もう、君が悪いんだからね? 私に押し倒されちゃった君が♡」

「チャームを、喰らったのか?」

「分かんにゃーい♡ ただ、君の事が欲しくて欲しくて堪らないんだ♡」

 

蕩けた顔をした彼女は我慢出来ない性欲をアピールするように下腹部を前後にズリズリと動かして彼の身体にこすりつける。下敷きにされているのはちょうど淫臭で反り上がってしまっていた彼の肉棒であり、彼は目の前のエロ猫になってしまった恋人にひどく興奮を煽られた。

だが家ならまだしもダンジョンという危険な場所で性欲に呑まれるわけにはいかない。彼は辛うじて残っている理性で彼女の身に起きている事を考察する。

分かりやすいのは血だ。

先ほどの戦闘で身体中に飛び散って付着したはずの淫魔の血がまるで見当たらない。彼が文献で見た知識が正しければ淫魔の血は非常に気化しやすいのだ。つまり彼女は、気体に変化した淫魔の血を気付かぬうちに大量に体内に取り込んでしまった事で催淫状態になってしまったという事になる……。

彼が考えている間に彼女が覆い被さるように顔を近づけて来て、口を耳元に寄せた。

 

「ね♡♡ そんな難しい顔してないでさぁ♡ 早く、しよ?♡」

 

そう呟いて顔を上げた彼女は、雄にねだる熱っぽい表情でキスをするべく唇を近づけて来た。しかし唇同士が触れ合う直前に、彼は、彼女の肩を押してキスを拒んだ。

 

「なーんでっ♡ ムラムラし過ぎて辛いんだけどっ♡」

「ダメだ。チャームの種類を特定しないと危険だ」

 

彼女が目を潤ませて抗議するがキスされるわけにはいかない。

彼女は淫魔の体液を取り込んだのと同じ、つまりチャームに掛かった状態なのだ。キスをされたら彼もチャームに掛かる。そしてチャームにはそれぞれ症状や解除方法が定められており、体に刻まれた淫紋からそれを見極められなければ最悪ふたり揃って死ぬまで交尾し続けることになる。

 

淫紋は確か……ここだ。

 

「んんっ♡」

 

彼は彼女のズボンと下着を同時に掴んで、下にずりおろした。露わになる彼女の火照った下腹部。そこには確かにハート形の模様と周りを左右対称の蔦のような装飾が施された淫模が、刻まれていた。

 

種類は……たぶん搾精II型で……解除方法は精液を1l摂取することか……?

 

彼は淫紋を凝視し、熱心に記憶を探る。

だから気付いていない。彼女が興奮で目をギラつかせ、熱っぽい視線を彼の顔に向けながら荒い息を吐いている事に。

 

「あーもう無理だ♡」

「……え?」

「私の大事なところ、そんなにジッと見られて我慢できるわけないよ♡」

「ちょっと待って」

「責任取ってよね♡♡」

 

彼女はそう言って彼の唇に自身の唇を重ね、舌を割り込ませた。

右手は彼が下に履いているものを全てずり下ろして行った。

 

彼は、襲われてしまった。

 



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元モデルに愛される

ストックが尽きましたので、これからは亀の更新速度となります。


「今日もよく頑張ったね」

 

魔族と人間の混血で2m30cmと高身長な彼女は平均的な成人男性の身長である彼をソファで膝の上に乗せて、後ろから優しく抱きしめている。彼女は彼の頭に顔を埋める。

 

「汗臭いでしょ」

「いや、私は好きな匂いだ。君が仕事を頑張った匂いだからね」

「頑張ってないさ」

「頑張ってるよ。こんなに疲れているのがその証拠さ」

「……」

「十分頑張れてるよ。君は」

 

彼女は彼を肯定してあげるように抱きしめる力を強めた。

彼の精神は仕事でズタボロになっている。

彼女はそれを癒してあげたい。

 

「偉いね。君は本当に偉い。すごいね」

「俺は結構無能だと思うけど。」

「そんなことないよ。そもそも君に振られる仕事の数が多すぎるんだ。気にしなくていい」

「でもほとんど終電まで仕事をしてる」

「そうだね。君の働いている会社は社員を駒としか見ていない酷い会社だ。だから来月で辞めようね」

 

頭上から覗き込んでくる優しい彼女の瞳を見て、彼はこくりと小さく頷いた。

彼女はよくできましたとばかりに、彼の頭をゆっくりと撫でた。

 

 

 

 

彼の5つ上の彼女は、元々モデルの仕事をやっていた。

高身長で、凛々しいという表現が似合うような眉目秀麗の整った顔立ちで、男はもちろん女さえも惚れされる彼女は「イケメン女子」のジャンルを確立しそのトップを走っていた。

彼女の人気は止まるところを知らなかった。

雑誌、ラジオ、テレビ、映画、CM、広告、ドラマ……。彼女はあらゆるメディアに引っ張りだこで、彼女を見ない日などはなく、国民的人気を誇る女性と言えた。

 

カッコよくて華やかな彼女。

 

では、プライベートはどうだったか。

ボロボロであった。

彼女の部屋はいつも真っ暗でカーテンは閉め切っていて床にはカップ麺の容器や空き缶が散乱していて彼女はそんな部屋の隅で膝を抱えて座るのが常であった。人気になればなるほど上がるハードルと期待の眼差しに応えるのが辛かった。街を歩けばいつも誰かに見られている気がして苦しかった。寝る間もほとんど無いほどに忙しい毎日は気が狂いそうだった。

彼と出会ったのは、そんな鬱々とした感情から逃げるように酒をたらふく飲んで酔っ払って人目に付かない路地裏で一人しくしく泣いている時だった。彼が声をかけたのだ。

彼女が後で話を聞いたところによれば、ふらふらとした足取りで真っ暗な狭い路地に入っていく人を見て不安に思い、ついて行ったのだとか。変装していたから彼女が国民的人気者だとはつゆほども気付いていなかったらしい。とんだお人好しだ。

彼はそれから地面にうずくまっていた彼女の隣にしゃがんで、彼女が延々に吐き出す溜まりに溜まっていた鬱々とした話に、ぐしゃしゃになっていた感情の吐露に、ただ“うんうん”と頷いた。

傍から見れば話を聞いてもらっただけ。

だが、それだけで彼女は救われた気分になって人間の彼が天使のように思えた。

だから、

 

ぎゅ。

 

「え」

「あ、すみません。つい、その、あまりに可哀想で……」

「い、いや。出来ればそのままで、頼む……」

 

抱きしめられたときは涙が出るくらい嬉しかった。抱きしめる身体は暖かくて、彼女に安らぎをもたらした。

冷たく荒んでいた心に柔らかな陽だまりが指したような気分だった。初めて安寧を感じた。それから限界が近くなるたびに彼女は彼を家に呼び、抱きしめてもらった。やがて一緒に過ごすことが日常になり、恋人の関係になった。家は暗くなくなったし、彼が美味しい手料理を振る舞うのでインスタント食品に頼ることは少なくなったし、何より孤独ではなくなった。

皆の憧れとしての自分でいる必要はなくただ素の自分を見せられる存在というのは、彼女の心の大きな支えとなった。

彼は彼女にとっての救世主だった。

やがて月日もたって関係も変わる。彼は大学を卒業し、彼女はモデルをすっぱり辞めた。二人は同棲を始めた。

本当は彼女が彼を養うつもりでいたのだ。約10年ほどの活動で、業界のトップとして激務をこなし続けた彼女の貯蓄は凄まじいものとなっていた。それこそ一人で一生を生きるには有り余り、二人で生きるのにも十分な額であった。

しかし彼は譲らなかった。

 

「私に養われなよ」

「一応、男としてのプライドがあるから……」

 

そうして彼はサラリーマンとなった。

唯一の誤算があったとすれば、勤め先が超が付くほどのブラック企業だったことだろう。

 

 

 

 

 

すっかり夜も深まった12時過ぎに彼は帰宅する。扉の開く音が聞こえると彼女は、彼が廊下の暗闇を見て寂しさを感じないように必ず玄関に出迎えに行く。

 

「ただいま……」

 

くたびれた声。

彼女は微笑む。

 

「おかえり」

「ごめん。起きてたんだ。寝てて良かったのに」

「私は好きで君を待ってるんだ。謝らなくていいよ」

「ごめん」

 

彼は俯いて謝り、靴ひもを解く。

最近謝ることが多くなった。何かと口癖のように謝っている。会社ではそんなに、無意識に刻まれる程に謝罪させられてるんだろうか。そう思うと彼女は内心苛立った。

それから一通りを済ませれば、一緒にテーブルに着いて食事をする。自分が忙しかった時に彼に料理を作ってもらって嬉しかった分、彼女もまた料理を覚えて彼に振る舞った。

 

「わざわざ作って待っててくれるなんてありがとう。お腹減っちゃったよね。ごめん」

「こら。また謝ってる。私の前では謝るの禁止だ。謝るくらいなら代わりに感謝の言葉を言ってくれ」

「ごめ……ありがとう。今日もとっても美味しそうだ」

「ふふん。そうだろう。温め直したら一緒に食べよう」

 

そうして晩飯を一緒に食べ始める。

共に食卓を囲むのは彼女にとって非常に大切な時間だった。美味しいご飯を食べて口が緩くなっている隙に、彼女は彼の、心に淀んでいるネガティブな感情を出来るだけ聞き出すのである。

 

「今日も遅かったね」

「うん。仕事がたくさんあってね」

「頑張ったんだね」

「そんなことない。謝る事ばっかりなんだ」

「頑張ってることには変わりないだろ?」

「それは、他人が決める事だから。少なくとも俺は今日も上司に怒鳴られたよ。書類投げつけられてさ。仕事が遅いって」

 

と言うがこの上司は話を聞けば聞くほど屑だという事が分かる。人の荒を探す事ばかりが得意で自分は碌に仕事をしていないことが彼の話から伺える。恋人が正当性も無く傷つけられている事には憤りを覚えるし、もしも自分だったらその上司を殴ってさっさとクビになりにいくところだが、優しくて、そして会社に順応してしまった彼はそんなことは出来ないのだ。

抵抗することなど考えもしないだろう。

彼は自分がすべて悪いと思っている。

 

「ダメ過ぎて笑っちゃうよな」

「絶対笑わない。君を笑うやつがいたらその上司諸共ひっぱたいてやる」

「ありがとう」

 

彼は呟くように言った。

 

 

食事を終えれば身支度を終わらせて一緒の布団に入る。彼女は当然のように彼の事を後ろから抱きしめている。50cm以上身長差がある。彼女は大きな体を肉布団にして、全ての脅威から彼を守ろうとするかのように彼の身体をすっぽりと覆う。

 

「俺、惨めだよな。毎日残業代も出ないのに遅くまで働いて。自分で自分の事が嫌いになるよ」

 

その自己を否定する姿は、彼と出会う前の苦しい日々を送っていた頃の自分と重なって悲しくなる。

 

「じゃあ、私が君の代わりに言ってあげよう」

「なにを」

 

彼女がぎゅっと抱きしめる。

 

「好き。大好き。愛してる。偉い。かっこいい。頑張ってる」

「……恥ずかしい」

「自分の事、好きになった?」

「それは、どうだろう」

「それじゃあ、もう一回。こっち向いて」

 

彼女に促されて彼は身体の向きを変える。彼女は丁度彼と視線が合うように額を合わせる。

見つめる。

 

「好き。好き。愛している。大好き。誰よりも好き。ずっと好き。偉い」

 

彼は恥ずかしくなったのか、途中で彼の胸に顔を埋めた。

彼女は微笑を浮かべてその髪を撫でた。

来月には彼は仕事を辞めることが決まっている。

 

それまでは彼女が、彼の心を守り続ける。

 



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アマゾネスに愛される

r17.9


彼女は妹のような存在だった。

 

訳あってアマゾネスの集落から人間の集落へと家族で移り住んできた彼女は、褐色の肌を持ち、なまりの強い独特な発音をするというアマゾネス特有の性質により、同年代の人間の子供たちとはまるで馴染めずいじめられてばかりいた。道徳の未発達な悪ガキたちにしょっちゅう囲まれて、「自分たちとは違う」という事を理由に、石を投げつけられたり蹴りを入れられたりしていたのである。

 

目元を隠すように伸びていた前髪はそんな辛い現実から少しでも目を背けるためのものだったのかもしれない。

 

彼女はいじめを受ける度に、身体を抱いてしゃがみ込み涙を流しながらそれらを耐え、周りの大人たちは見て見ぬふりをした。

 

ひどく可哀想だった。

 

だからいつからか彼は、いじめの現場を見つけると彼女の前に両手を広げて立ち塞がり、彼女を守るようになった。英雄譚に出てくるヒーローに憧れていたのもあったかもしれない。前髪が目元を隠すほどに長くていつも自身無さげにおどおどしている彼女をお姫様に見立てて英雄気分を楽しんでいなかったかと問われれば否定はできない。ただ、彼女を守りたいという気持ちに嘘はなかった。肌の色だとか言葉だとか、そんなことを理由に迫害するのはおかしいと思っていた。だから彼は彼女と距離を縮めるのを厭わなかった。

 

遊び相手のいなかった彼女のために、彼と彼の妹と彼女の3人でよく川遊びや秘密基地作りをした。爆発する木の実をいじめっ子に投げつけるという悪い遊びも教えた。彼女は彼の前でだけは本当に無邪気な笑みを見せた。

 

可愛い妹。

 

彼女は守るべき対象だった。

 

鳥のヒナのようにいつも後をついてきて、そんな彼女には少年ながらに庇護欲が刺激された。

 

だから。

 

その関係が逆転することになるとは、まるで思ってもみなかった。

 

 

 

 

 

 

 

彼と商売用の荷物を載せた馬車は気付けば山賊に周囲を囲まれ立往生を余儀なくされていた。下卑た笑みを浮かべる山賊たちは荷車を襲って荷物を奪うつもりでいるのだろう。

 

御者として馬を操っていた彼女は地面にすっと降り立つと、荷車を覆う布を捲り、張り詰めた表情をして座っている彼に柔らかな微笑みを向けた。

 

 

 

「ここで待っていてください。すぐ終わらせますから」

 

 

 

幼少の頃からの敬語は未だ抜けない。だがその声には、優しくも自信に持ち溢れていた。

 

彼女は、変わった。

 

容姿が変わった。目元を隠していた前髪は細い眉の辺りで切り揃えられ、反対に後ろ髪は肩甲骨の辺りまで伸ばされた。その黒髪は艶を帯び絹のように滑らかで美しい。出会った頃は少年の彼の首元辺りまでにしか届かなかった身長もどんどんと伸び、気付けば大人の彼を少し追い抜いてしまった。格好も、上は豊かに成長した胸だけを布で覆い、下は長い布をスカートのように腰に巻き付けて素肌を多く晒した踊り子のような恰好をし、きめ細やかな褐色の肌を惜しげもなく晒している。不安になるほどに細かった手足にも逞しい筋肉が付いた。

 

大人の色気を纏った美しさと男に決して屈しない強靭な筋肉。

 

すっかり大人のアマゾネスである。

 

そして一番大きく変わったのは、関係性。

 

彼女は妹ではなく、妻となった。

 

 

 

「どうぞ、覚悟のある人間から掛かってきてください。私の愛する人を傷つけようとする者は誰であってもぶっ殺します♡」

 

 

 

馬車の前で腕を広げ仁王立ちをする彼女は高らかにそう宣言した。その凛とした後ろ姿は何とも頼もしい。

 

が、山賊たちからすれば、いくら勇ましい言葉を吠えていようと所詮は女が一人である。しかも成熟した肉体は女の部分を、豊かに実った胸を生めかしい腰回りを、見事に強調していて、女に飢えた山賊たちは涎をこぼす。

 

数の上では負けるわけがない。

 

そう思った山賊たちは、ナイフやら棍棒やら各々の武器を構えて一斉に襲い掛かっていった。

 

だが。その判断は間違っていたと言わざるを得ない。彼女は戦闘に特化した種族たるアマゾネスなのである。ただの人間が100人束になって挑もうと、彼女の前では兎が群れているに過ぎない。彼女は獅子。狩る側なのである。

 

彼女は雪崩のように襲い掛かってくる山賊たちに一切怯む様子を見せずに冷笑を浮かべると、履いていた靴を脱ぎ捨てて裸足になり、地面を踏みしめて腰を低くした。膨張した大腿筋とふくらはぎが力を蓄え、そして一気に放出される。

 

残像を残しながら瞬きの一瞬の間に彼女は山賊の一人の懐に辿り着くと、下から顎を掌底で思い切り突き上げて気絶させ、ついで斬りかかってきた山賊のナイフを身体を傾けて躱しつつ強烈な肘うちを鳩尾目掛けて遠慮なく喰らわした。

 

それからは一騎当千、彼女の独壇場であった。

 

彼女は得意な足技を中心にしてまるで舞を踊るかのように優雅に敵を蹴散らして言った。回し蹴り、飛び膝蹴り、金的、かかと落し。

 

山賊たちは為す術なく彼女の前に次々と倒れていく。彼は荷車から顔を出しその光景を見ていた。

 

その後ろ姿はとても美しかった。同時に、自分は守られる側になったのだと強く実感させられた。幼い頃は彼女のヒーローになれていたかもしれないが、今はすっかりお姫様であった。

 

彼女は、強くなった。

 

嵐の如き暴力は、山賊が最後の一人になるまで存分に振るわれた。気付けば、立っているのは彼女だけになっていた。

 

首を出している彼に、

 

 

 

「終わりましたっ」

 

 

 

と彼女は首を傾けて上品に誇らしそうに笑う。気絶した山賊の頭を踏み台にしてただ一人立っている彼女は、荒れ地に咲く花のように美しく勇ましかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

商談が上手くいった日の晩飯は豪華なものになる。その日も酒屋の丸テーブルに向かい合って座る二人の目の前には、特大のローストチキンやとろとろのチーズたっぷりのパン、小さな樽に入ったお酒など、スペースを埋める程の豪勢な食事が大量に並べられていた。

 

 

 

「はうぁっ……パーティですね……」

 

「美味そうだね」

 

「美味しそうです……」

 

 

 

彼女は皿の上の品々にすっかり視線を奪われている。

 

彼女の食欲は旺盛だ。誇張抜きに、彼の5倍は平然と食べる。特に先ほどのような“運動“をした後は殊更に食べる。恐らくエネルギー消費量が人間とはまるで違うのだろう。実際に彼女はいくら食べてもまるで太る気配を見せないし満腹そうな姿を見せた試しがない。だから、ここにある美味しそうな食べ物たちは、ほとんど彼女の為のものだ。

 

 

 

「それじゃぁ、食べようか」

 

「はい。食べましょうっ」

 

 

 

そうして、彼女の食事が始まる。

 

彼女は、瞳を鋭くして荒い息を吐きながら骨付き肉を持ち上げると、大きく口を開けてかぶりついた。それから豪快に噛み千切ると、咀嚼もままならぬうちに樽に入った酒を煽り、今度はスライスされた大きな肉を掴み上げて口に放り込む。酒を飲む。硬いパンを齧る。酒を飲む。鳥の軟骨を噛み砕く。酒を飲む。

 

……いつ見ても豪快な食事。観察する彼は楽しそうに笑みを浮かべた。

 

アマゾネスの習性なのである。姉弟が多く、本来であればご馳走が滅多に獲れない厳しい大自然の中に身を置く彼女にとって食事は戦争である。ゆえに豪華な食事を目の前にすると彼女は、それを食べることに夢中になり、普段のお淑やかな姿とは一変してかなりワイルドな野性味溢れる食いっぷりを見せてくれる。人によってその様は、“はしたない“と映ることだろう。しかし彼にとっては、外見も気にせず本能のままに食べ物を喰らっていく彼女の姿は、余計なものをそぎ落とした真の人間の姿というべきか。とても美しく、素敵なものに思えた。

 

 

 

「……はっ⁉ 私、またっ⁉」

 

 

 

彼女は思い出したように声を上げると、顔を赤くしながら慌ててナプキンで口周りを拭いた。

 

 

 

「今日も、良い食べっぷりだね」

 

「すみません。こんな、汚い……」

 

「そんなことないさ。少なくとも僕は、君が夢中になって食べてるところを見るのが好きだよ?」

 

「う、嘘です……」

 

「本当さ。それに今日は頑張ったからね。そのご褒美ということで」

 

「それは、役割分担ですから。貴方が商談、私がそれ以外の力仕事。だから褒められるようなことじゃないというか……」

 

「はい、あーん」

 

「あーん」

 

 

 

彼は言葉を遮るように掴んだ骨付き肉を彼女の口へ差し出し、彼女も大人しくかぶりついた。肉の前には素直になるのが大変に愛らしい。彼女はそれでまた火が付いたように、ぱくぱくとご飯を食べ始めた。彼はその姿をつまみにしながらテーブルに肘を付いて、のんびりと酒を飲んでいた。

 

 

 

……やがて彼は、机に突っ伏して眠ってしまった。

 

 

 

 

 

彼はしこたま飲んだのに未だほろ酔いで上機嫌な彼女に背負われて、宿屋へと向かっていた。

 

 

 

「私、大人になれて本当に良かったな~と思うんですよぉ」

 

「んん」

 

「だってぇ、貴方の妻になれたし、一緒に商人として旅をしながら貴方を守ることも出来てるんですもん」

 

「弱くて申し訳ない……」

 

「いえ。私にデコピンされたくらいで涙目になっちゃうくらい弱虫さんでいてくれて、本当にありがとうございます」

 

「あはは……きついな」

 

「くふっ。すみません、口が悪くなっちゃいました。……でも、貴方の妻になれて良かったというは嘘じゃないですからね?」

 

「もう君のヒーローになれなくても?」

 

「大丈夫です。ヒーローの貴方もお姫様の貴方もどっちもかっこよくて好きですから」

 

「どうなんだ、それ……」

 

「本当に大好きです。昔も、今も。ずっと」

 

 

 

「だから……」

 

 

 

宿屋に着くと彼はベッドの上に丁寧に、しかし乱暴に転がされた。そしてその上に彼女が馬乗りになる。

 

 

 

「だから、子種をください♡」

 

 

 

彼女は蕩けた表情でそう言った。

 

彼女はアマゾネス。男の生まれにくい種族。だからこそ性欲は人間よりもずっと強く、アルコールによって理性の箍が外れた今、愛して止まない夫の精を本能が強く求める。

 

 

 

「ね? いいですよね?」

 

「いや……飲み過ぎで……気持ち悪くて……」

 

「安心してください♡ とっても気持ちよくなるので♡」

 

「いや本当に……」

 

 

 

渋る彼の理性を陥落させるために彼女は、顔をぐいと近づけてキスをした。舌を強引に割り込ませ激しく絡ませる。淫らな水音を響かせながらやがて彼が苦しそうにしたので、彼女は顔を離す。

 

その顔は酷く艶めかしく扇情的。

 

目は鋭く見下ろし、顔は赤く染まり、口角の上がった口の端からは涎がつうと垂れていた。

 

彼女は舌なめずりをする。

 

 

 

「いっぱい、愛させてください♡♡」

 

 

 

それは“食事”をするときの表情にどこか似ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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インキュバスに愛される

 

僕はお金持ちの蜥蜴人(リザードマン)の奴隷として、豪邸の家事を黙々行っていく。

 

長い木の廊下を冷たい濡れタオルで拭いて綺麗にして、子供の僕の腕くらいある巨大な蟋蟀とか飛蝗を包丁で捌いて料理して、僕の身体よりおっきい高そうな服を手洗いしていく。僕は家から追い出されないように頑張って仕事に取り組む。それでもご主人様である蜥蜴人はまるでいちゃもんをつけるみたいに、毎日必ず仕事ぶりのどこかしらを怒る。ご飯の味付けが今日の俺の気分と合っていないとか、シャンデリアの裏のほこりがまだ残っているとか。正直そんなのぼーろんだって思ったけど、多分本気で怒ってるわけじゃなかった。文句が言えれば何でも良かったんだ。

 

だってそうすれば、僕におしおきが出来たから。

 

僕は窓の無い地下室に連れていかれて、痛い思いをさせられる。蹴られたり殴られたり、裸にされて真っ赤に燃えた鉄の棒の先を肌に当てられたり爪を剥がされたり、お尻の穴に蜥蜴人のソレをぶち込まれたり咥えさせられたり。

 

蜥蜴人は最初から僕を痛めつけるつもりで僕を買っていたんだと思う。

 

身体中痛くて痛くて。

 

また、死にたくなる。

 

生きてるのが辛くなる。

 

ああ、死にたい。

 

 

死にたいなぁ……。

 

 

 

 

 

「……」

 

 

僕はそうして過去から今へと意識を戻した。

 

今の僕は、飽きた事を理由に蜥蜴人から奴隷商人に売り飛ばされて、そのまま足枷と手枷を嵌められたまま沢山の種族が行き交う通りで、他の奴隷と一緒に立たされていた。皆の目にはすっごく惨めに映ってるだろう。

 

そんな僕が、過去の事を思い出すくらい退屈していた僕が、急に意識を現実に向けたのは、目の前に、僕が二人分必要なくらい背の高い、黒い紳士服を着たスラリとした身体つきの、切れ長の青い瞳をもつカッコいい美人なお姉さんが僕の事を興味深そうに見下ろしていたからだった。

 

紳士服を来ているのにお姉さん、と分かったのは、服の胸の辺りが少し膨らんでいたから。

 

頭に二本の黒い巻き角も生えているから、多分悪魔族だ。

 

 

「この人間の男の子、綺麗な黒髪でとっても可愛いね。それに良い目をしている」

 

「えぇえぇ、すみません。その生気の無い死人のような目をやめろと何度も注意しておるのですが、一向に改めませんで」

 

 

でっぷりとしたお腹の獣人が笑いながら頭を下げている。お姉さんがそれを見てふふっと笑った。

 

 

「すまない、皮肉では無いんだ。僕はこういう、人生に絶望していつ死んだって構わないと思っているような人間の子を、いっぱい愛してあげて、嫌という程幸せにしてみたいと常日頃から思っていたのさ」

 

「は、はぁ……」

 

 

商人は困惑したように声を漏らす。僕も似たような感想をもった。

 

奴隷を見に来るような客は揃って、目の前の奴隷にどんな仕打ちをしてやろうかという黒い気持ちを胸に来るもので、間違っても大事に扱おうとはしないから。獣人とかと比べて力の弱い人間奴隷だったら尚更。

 

“抵抗できない”というのが僕らの売り文句。

 

だからきっとこのお姉さんも口先だけは優しそうなことを言っておいて、実際はえぐいことを求めてくるに決まっている。腹に黒い気持ちを溜めている分、他の客よりひどいかもしれない。

 

まあ、何でもいいけど。

 

お姉さんは、しげしげと僕の首に紐を通して掛けられている数字の書かれた木の板を見た。

 

 

「ふむ……。この子、他の奴隷と比べると大分高いんだね。何か理由でもあるのかい?」

 

「えぇえぇ。この奴隷、実は人間の中にも稀にいる“異世界転生者”のようでして。超回復のスキルを持っているのです」

 

「なるほど……。それで? 超回復というのは、どんな?」

 

「はい。超回復は文字通り凄まじい回復を可能とするスキルでございます。ですからこのように……」

 

 

そう言って商人がおもむろに僕の右手首をぐっと掴んで、手の平を上に向けさせた。そして腰に下げていたナイフをもう片方の手で掴むと、その刃先を僕の手の平に当てて、素早く横に切った。

 

 

「っ!」

 

 

痛みで僕は反射的に歯を食いしばった。手の平には横に血の線が真っ直ぐ引かれて、血の滴が肌を伝って手首に流れ行くけれど、それも数秒の事。すぐに傷口は塞がって、商人がタオルで拭いた僕の手の平は、元の傷の無い状態と見分けがつかなくなっていた。

 

 

「このように、あっという間に傷が治ってしまう訳です」

 

「へぇ~。すごいんだねぇ、君は」

 

 

商人が手を離す。笑いかけてくるお姉さんを僕は無言で見つめ返す。

 

褒められても全く嬉しくない。この能力のせいで、簡単に死ぬことも出来ずに散々な目に合っているのだから。

 

お姉さんが興味を持ったと考えたのか、商人は畳みかけた。

 

 

「つまりこの奴隷は、他の奴隷と比べても非常に壊れにくいと言えます! ですからお客様がどれだけ派手な遊びをご所望であろうとも、この奴隷ならば完全に対応することが可能でございます!」

 

 

息巻く商人。

 

でもお姉さんは商人に顔を向けずに冷たい声で、

 

 

「そうか」

 

 

と興味なさげに呟くと、しゃがんで僕と目線を合わせた。

 

 

「傷が無くなっても、受けた痛みが消えるわけでは無いよね。僕のせいで痛い思いをさせてごめんね。手、痛かったね……」

 

 

お姉さんはその凛とした顔を申し訳なさそうに歪ませた。

 

僕は、僕は。動揺する。

 

今まで色んな人に散々痛い目に合わされてきたけれど、この能力を面白がるばかりで誰も謝ったり、同情したりしなかった。だからいつも心に、痛みと怒りと悲しみを抱えてきた。僕は、初めて理解された喜びを無意識に感じてしまった。

 

 

「お詫びと言っては何だけれど、君に選択肢をあげる」

 

 

お姉さんが僕の目をじっと見て言った。

 

 

「一つは、このまま奴隷として他の誰かに買われるのを待つ、もしくは殺処分される。もう一つは僕に買われて、死ぬほど愛されて、死にたいと思えないくらい幸せになる。どっちがいい?君が選んでいいよ?」

 

 

とんでもない事だった。

 

奴隷が買主を選ぶなんて聞いた事もない。僕は、この世界で初めて与えられた選択権に戸惑って声を出せなかった。だから身振りで必死に意思表示をした。

 

 

「他の誰かのものになりたい?」

 

 

首を横に振った。

 

 

「殺処分を待ちたい?」

 

 

振った。

 

 

「僕に幸せにしてもらいたい?」

 

 

“こっくり“

 

 

頷いた。

 

商品のくせに、物に過ぎないくせに。僕は望んだ。お姉さんを求めてしまった。

 

お姉さんはそれを聞いて満足気に頷き、

 

 

「よし。今日から君は僕のものだ」

 

 

と、心底嬉しそうに笑った。

 

 

 

 

 

それから僕はお姉さんの奴隷となった。

 

屋敷とまではいかずともかなり大きな一軒家。そこでお姉さんから与えられた仕事を行う。前の蜥蜴人の豪邸で行っていた事とほとんど一緒だ。物書きの仕事で忙しいらしいお姉さんの代わりに、僕がご飯を作ったり掃除をしたりと家事をする。前と違うのは、怒られない事だった。

 

お姉さんは、僕を褒めた。

 

僕の作ったオムライスを食べると「美味すぎる! 君は天才だね!」と満面の笑みで大真面目に褒め称え、書斎に散らばっていた紙の資料たちを綺麗に整頓すれば「ありがとう! もう君無しでは生きていけないよ……」と膝をついて僕の両肩に腕を置いて後ろからもたれ掛かりながら冗談めかしてしみじみ言った。

 

それにお姉さんは仕事で一息入れるタイミングになると、作業をしている僕の元へ寄ってきて、その大きな大人の身体でぎゅっと抱きしめてくる。

 

 

「ご主人様。これでは身動きがとれません」

 

「んー? 今は僕に抱きしめられるのが仕事だぞ。手を止めて僕を癒すんだ」

 

「癒せと仰いましても」

 

「じゃあ、僕の首に顔を埋めて」

 

「……はい」

 

 

しゃがんでいたお姉さんの首元に顔を埋めると、お姉さんは僕の髪に顔を埋める。そうすると僕の匂いが感じられて好きらしい。シャンプーはお姉さんと同じものを使わせられているから匂いが違う訳も無いのに。

 

ただ、抱きしめられる感覚はとても気持ち良い。こっちの世界に来て初めて抱きしめてくれたのはお姉さんで、その温もりは自分の居場所がお姉さんの隣である事を優しく肯定してくれる。

 

時間を見つけては四六時中僕に構ってくるお姉さんの姿に僕は元の世界で見覚えがあった。

 

僕のお母さんが、家族で飼ってたトイプードルのぷぅに見せる姿と同じだった。僕はまるで可愛がられることは無くて、よくひっぱたかれて、真冬の夜の雪の降るベランダに放り出されて、鍵を閉められて、忘れ去られて、 三日余りの空腹と寒さでマンションの7階から飛び降りて、自殺した後に転生したわけだけれど、ベランダの扉の向こうの暖かい部屋の中で姿が見えていたぷぅはしょっちゅう撫でてもらっていたし、抱っこしてもらっていた。

 

今の僕と一緒だ。

 

つまり僕はお姉さんのペットになったのだ。日頃怒鳴られることも無く、目が合ってはニコリと微笑まれるのもそれが理由で、家事をこなすと撫でられたり褒められたりするのも、芸を成功させたペットを喜んでいると思えばつじつまが合う。

 

ペット扱いなんて、元の世界の人間だったらきっとみんな嫌がるかもしれないけれど、この世界では多分かなり恵まれた立場だと思う。この世界じゃ非力な人間が普通に生きるだけでもとっても難しい事だから。僕はすごく幸運と言える。

 

あと。

 

犬のペットが飼い主とはまずやらないだろうことを、僕は、お姉さんとする。

 

……交尾だ。

 

僕は毎日のようにお姉さんに抱かれる。

 

でもそれは、お姉さんがインキュバスという淫魔族に該当する種族だからで、精液がお姉さんにとってのご馳走だからだ。人間が好きなのも、そう言う理由なのかもしれない。ただ僕は牛肉が好きだったけど牛は好きでも嫌いでもなかったから違うかもしれない。

 

僕は、ベッドの上では何もさせてもらえずに、ただされるがままでトロトロに蕩けさせられて、気持ち良い思考と感覚でいっぱいの中で、おっしこを漏らすみたいに精液を差し出す。

 

それも何度も。

 

僕のスキルがそれを可能とする。

 

超回復。

 

神様が説明してくれた言葉を借りれば、“身体の超活性化を促すスキル”で、精液も底を尽くことなく絶え間なく生産されるらしかった。

 

僕はお姉さんに精液をあげる。

 

でも“あげる”ばかりじゃなくて、代わりに僕は“愛”をもらう。

 

お姉さんは交尾をしている時も僕に、「愛してる」「可愛い」「好きだよ」って沢山の愛の籠った言葉をくれるし、身体でもそれを伝えてくれる。それらは僕が生きていた間ずっと欲しくて手に入らなかったものだから、心の中の乾いていた器にそれらの暖かいものがじんわりと溜まっていって、僕はいつも涙を流しながら満たされていく。

 

お互いがお互いの欲しいものを渡し合う。

 

それが僕とお姉さんの交尾だ。

 

そんな交尾は、お姉さんにとっては無論第二の食事に過ぎず疲れることなど無いので、交尾が終わるときは決まって僕の体力が尽きて意識を手放すときだった。

 

 

翌朝は、決まってお姉さんに優しく頭を撫でられる感触で目を覚ます。

 

 

「よく頑張ったね」

 

 

そう褒められて、お姉さんに抱きかかえられて風呂場へと連れていかれる。

 

いつだったか、お姉さんが笑いながら言っていた。

 

 

「精液パックじゃなくて直に生を摂取できるんだから、僕は本当に幸せなインキュバスだよ」

 

 

痛い思いをさせられ無くて、ひたすら大事にされている、愛してもらえる僕の方がよっぽど幸せ者だ。

 

僕は、幸せな日々を送るようになった。

 

死んだ目なんて全然出来そうにないくらい、幸福の中にどっぷり浸からされている。

 

 

 

 

 

それから、お姉さんに飼われてしばらく経って、僕は一人でお使いに行くよう言われる。ペットの僕に仕込む新しい芸だ。僕も張り切る。

 

今までは危ないからという理由で外に出ることはほとんど無かったけれど、お姉さんの知り合いの鍛冶師のドワーフに発注していたお姉さんの魔力を込めた特別な首輪が出来上がった、とかいう理由で許してもらえた。

 

お姉さんが膝立ちして、僕に、黒龍の皮を輪状に加工して表面に青い魔法の紋様を掘ったおしゃれでかっこい首輪を嵌めてくれる。

 

 

「良いかい? それは君が僕の所有物であることの証だ。その首輪を嵌めていれば、まず誰も絡んでこない筈さ。だから絶対外しちゃだめだよ?」

 

「はいっ!」

 

 

僕の口角は上がって嬉しくなってしまう。犬みたいに尻尾が生えていたらぶんぶん振っていた事だろう。それくらいお姉さんに飼われているという事実はこの頃僕の中で当たり前となっていて、だからその関係性を示すような、出来れば壊れにくい物が欲しいといつも思っていたのだ。

 

そうして立場をはっきりさせる実物があれば、この関係性が揺るがないと保証される気がするから。

 

 

「でも、首輪を嵌めていてももしかしたら話しかけてくるような妙な輩がいるかもしれない。だからもし、そういう変な奴に絡まれたら、その首輪に指を触れて頭の中で僕の名前を呼ぶんだ。そうしたら僕は転移魔法でいち早く君の元へ飛んで、君の事を守ってあげるからね」

 

「分かりました」

 

「うん。良い返事だね」

 

 

お姉さんが僕の頭を撫でてくれた。お姉さんが些細なことで僕を褒めてくれるのは、人間の僕をすごく弱くて何にもできない生き物だと思っているからだと思う。

 

だから。たまには一人の男として僕も出来るんだぞって、示さなくちゃ。

 

 

そうして、僕は外に出た。

 

露店が大量に立ち並ぶ賑やかな通りを歩く。元の世界で言えば、お祭りの屋台みたいだ。

 

変な感覚。沢山の種族が行き交うこの景色を今までも僕は何度も見ていたけれど、それはお店の商品として店頭に立っている時で、実際に通りを歩くのは初めてで。見慣れているけど、見慣れない景色。

 

ポケットに手を突っ込めば硬貨のじゃらじゃらとした手触りがする。

 

お姉さんにお金を渡された時に言われた命令は、“このお金を使って好きなものを買ってくること”だった。お姉さんは僕をすぐに子ども扱いしたがるから❘実際に子供だけれど❘おやつとかを買って来ると思っている筈。だから僕は、そういうのは絶対に買わないようにしようと決めた。僕が買うのは、お姉さんの為の何かだ。

 

いつも幸せをくれるお姉さんにお返しとして何かをプレゼントしたい。

 

凛とした顔のお姉さんが目を真ん丸にして驚いている顔が見たい。

 

お姉さんを、喜ばせたい。

 

その一心で良さそうなお店を探した。

 

だから、魔法使いのおばあさんが大きな鎌でぐつぐつ煮てる何だか美味しそうなスープ屋も、森の妖精が売っている一つ目のりんご飴屋も、しゅわしゅわ炭酸の味付けをしたスライムゼリーがたくさん並んでいる駄菓子屋も、全部無視した。

 

僕が喜ぶものじゃなくて、お姉さんが喜ぶものを探さないと。

 

通りを歩く。

 

歩いて、歩いて。

 

ふと、足が止まった。甘くて嗅いでいると身体がポカポカしてくるような不思議な匂いを感じたからだ。思い出したのはお姉さんの姿だ。今している匂いとは少し違うけど、お姉さんもよく甘い匂いが身体からする。そういえば大人は香水をつけるって元の世界で友達が言っていた。もしかしたらお姉さんも好きかもしれない。

 

僕はそう思ってすんすんと鼻を鳴らして、お店の場所に辿り着いた。テントみたいに屋根に布が張ってあって、高さの違う何段かの横長な棚にはそれぞれ赤とか黄色とか青とかの液体が入った透明で小さな瓶がたくさん並べられていた。まるで虹をバラバラにして瓶の中に詰めたみたい。それらが、すっごく綺麗で僕は立ったままぼけっと眺めていた。

 

狼の亜人の店主さんが突っ立っている僕に気付いて、見下ろす。

 

 

「なんだ、人間のガキ。迷子か?」

 

 

僕は首を横に振る。

 

 

「迷子じゃないです。僕は、客です」

 

「客だぁ?」

 

 

店主は歌がように目を細める。

 

 

「ガキ。ここに並んでるのはジュースじゃないんだ。ジュースよりももっともっと価値の高い、良い香りのする液体だ。分かるかぁ?」

 

「はい。だから僕、それをお姉さんに上げるために買いたくて」

 

「お姉さん?」

 

 

それで店主さんは僕の首元に掛かった首輪を見た。

 

 

「はぁーん、なるほど。さてはお前奴隷だなぁ?」

 

 

僕は素直に頷く。すると店主さんは“はぁ”と小さくため息を吐き、それから改めて僕を見た。

 

 

「いいぜ、売ってやる。お前は“お客さん”だ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「お前みたいな奴隷をあしらったらお前のご主人様とやらにどんな風に思われるか分かんねえからな」

 

 

店主さんは面倒くさそうにぼやきながらも一応の接客、をしてくれる。

 

 

「それで。どれが欲しいんだ。何か買って来いって言われたか?」

 

「いいえ。ただ、一番良いやつをください」

 

「一番良いやつって言われてもなぁ。お前の持ち主はどんなお方なんだ。適当に見繕ってやるよ」

 

 

さっさと僕を帰したいからだと思うけど、店主さんの対応が親切になる。だから僕も答える。

 

 

「インキュバスのお姉さんです」

 

 

それを聞いた店主さんは目を見開いた。

 

 

「……まじか。インキュバスか。珍しい」

 

「珍しいんですか?」

 

「ああ。最近は同じ淫魔族のサキュバスに餌である人間の雄を横取りされて数を減らしてるんだとよ。だから色んな噂がある」

 

「噂」

 

 

店主さんがにやりと笑った。

 

 

「これは一つ、興味本位で訊くけどよ。お前、家では鎖で壁に裸で縛り付けられて、ただ精液を提供する肉人形として扱われて、がりがりになって死ぬまで自由が無い地獄を味合わされてるって本当か?」

 

「そんなの、全然違います」

 

 

違い過ぎてちょっと意地になる。

 

 

「家では自由ですし、痛いことなんて全然なくて、かっこいいお姉さんはいつも優しくて……」

 

「はー。同じ淫魔族でも違うもんだなぁ」

 

 

店主さんは言いながら手を棚の下に手を入れて何かを掴むと、棚の上に勢い良く置いた。

 

宝石みたいに真っ赤な液体。

 

 

「ほれ。うちで置いている一番高いのだ。その癖あんまり効果が強すぎるから誰も買わないで、ずっとうちに残ってる商品でもある」

 

「強すぎるって、匂いがきつすぎるってことですか?」

 

「いいや。むしろ一番上等で良い匂いではある」

 

「じゃあ、それにします!」

 

 

僕ははっきりと言った。

 

香水の事なんてなにも知らないから僕にとっての判断材料は良い匂いかどうか、だけだ。それで店主さんが一番良い匂いって言うんだから、もうそれで買う理由には十分。

 

 

「即決か。男らしくていいなぁ」

 

「僕も男なので」

 

「で、金有るんだろうな?」

 

「はい」

 

 

そう言って店主さんの伸ばしたの平にポケットの硬貨をあるだけ乗せる。

 

 

「……まじで大金じゃねえか」

 

「足りてますか?」

 

「勿論だ。あんがとよ。高いから捨てるのも忍びなくて困ってたんだ。買ってくれて助かったぜ」

 

「ありがとうございます」

 

「いや、お前も死なねーように気をつけてな。特にインキュバスのご主人様だからな。覚悟した方がいいぜ」

 

「え、はい」

 

「がははは」

 

 

店主さんが愉快そうに笑った。

 

多分帰り道気を付けてって事だ。

 

言われなくても気を付ける。

 

僕のポケットにはお姉さんを喜ばせるための“とっておき”が入っているのだ。

 

あとはこれを渡すだけ。

 

僕は、ウキウキで帰り道を目指した。

 

 

だけど……。

 

………………。

 

…………………。

 

 

「っ!?」

 

 

油断してたんだ。もう帰るだけって。だから僕はいろいろなお店を歩き見て見物して楽しんでいた。それがいけなかった。まっすぐ帰ればよかった。僕は逆立ちでピラミッドを作っているゴブリンたちのサーカスに目線を奪われながら歩いていた。そしたら突然、誰かにぶつかってしまった。

 

驚いて僕は尻もちをつく。

 

 

「大丈夫? 坊や」

 

 

見上げれば、手を差し伸べて起こしてくれたのは、巻き角が二本生えていて蝙蝠みたいな真っ黒な羽が生えていてお姉さんよりもずっと肌の露出の多い恰好をしている男好きしそうな胸の豊かな女性。

 

サキュバスだった。

 

 

「坊や、人間の雄の子供なのね?」

 

 

サキュバスは舐めるように僕の全身を見ながら口角を上げていって、興奮したように声を弾ませて言った。その熱の籠った視線と声に、僕は背中をぞくりと震わせる。

 

なんだか嫌な予感を感じたのだ。

 

迷路の行き止まりに来ちゃったみたいな。とにかく逃げなきゃって本能で思った。

 

だから僕は、

 

 

「すみません。ありがとうございました」

 

 

とお礼だけ言って背を向け、足早にその場を去ろうとした。でも、振り返った先には既にサキュバスが立っていて回り込まれていた。

 

僕は息を呑む。

 

サキュバスは微笑む。

 

 

「あらあら。そんなに怖がっちゃって可愛いわね。お姉さん、傷ついちゃうわ」

 

 

柔らなかな言葉遣いだけど体に纏わりつく緊張感はまるで消えなかった。それはきっと、目の前の女の人が僕を獲物として捉えている事を身体が感じ取っているからだった。僕はすっかりその威圧感に呑まれて、足がすくんでしまっていた。

 

 

「その首輪。坊や、インキュバスに飼われているのね。古くさい魔法模様と匂いで分かるわ」

 

 

サキュバスが目を細めて言う。

 

 

「ねぇ坊や。その首輪外して欲しいと思わない? 魔力も上手に扱えない脳筋なインキュバスと違って魔法が得意なサキュバスの私にはそれが出来るの」

 

 

言いながら細い手が伸びてくる。

 

 

「ね? インキュバスの奴隷なんかやめて私のものになりなさい。そっちの方が、坊やは絶対に幸せよ?」

 

 

手が、首元に。

 

僕はただ立ちすくんで声を上げる事すら出来なかった。図星だから、とかじゃない。本当は大声で言ってやりたかった。お姉さんに飼われる以上の幸せなんて有るはずないって。

 

でもサキュバスの言葉が、まるで鎖みたいに僕の首から頭まで巻き付いて口を閉ざしてしまった。

 

もうすぐ触れる。

 

 

やだ。首輪、外されたくない。僕はお姉さんだけのモノだっ。

 

 

でも僕の手は震えて全然言う事を聞いてくれない。どんどんと手が近づく。ぎゅっと目を瞑った。

 

次の瞬間。

 

 

「人のモノに手を出すなんていい度胸じゃないか」

 

 

聞き慣れた低い声が聞こえた。

 

目を開ければ、見慣れた外行きのダークスーツのスラリと伸びた背中。

 

お姉さんが来てくれたのだ。

 

 

「あら。転移魔法を仕込むなんて脳筋なインキュバスにしては器用じゃない」

 

「特別性でね」

 

 

お姉さんの背中から首だけを伸ばしてちらりと覗けば、お姉さんはさっきまで僕に伸ばされていたサキュバスの女の人の手首を皮膚に指がめり込むほどに力強く握っていた。

 

 

「相変らず力が強いのね。そんなんじゃ、愛しの人間ちゃんが壊れちゃうんじゃないかしら?」

 

「ご心配どうも。でも力加減はわきまえているからね。僕が人間を、この子を、傷つけるなんて絶対にありえない」

 

「すごい自身ね」

 

「僕より自分の心配をした方が良いんじゃないかい? このまま骨ごと君の腕を握りつぶすことだって容易いよ」

 

「まあ怖い」

 

 

サキュバスはおどけたようにそう言って、僕が瞬きをしたその一瞬の内に身体が一歩分後ろに下がって、お姉さんの腕からも逃れていた。この人も転移魔法を使えるのかもしれない。

 

お姉さんは宙ぶらりんんになった右手をゆっくりと下ろした。

 

 

「人間の雄をどんどんと使い捨ててるそうじゃないか」

 

「そうね。人間はあまりに弱いから、つい殺してしまうのよね」

 

「よくもそんなひどいことが出来る」

 

「ひどいですって? 私たち淫魔族にとっては人間なんてただの餌に過ぎないでしょ? 人間が好きだと宣う貴方の方がよほど異端よ」

 

「皆気付いていないのさ」

 

「何に」

 

「人間がいかに魅力的かという事に。この子たちは確かに、とっても非力で魔法も使えない。だけどその代わりに考えたり感じたりする能力は僕たち“異種族“よりも圧倒的に高い」

 

「それが何だって言うの」

 

「それは価値のある能力だ。人間のように誰かを思いやる能力が僕たちにもあれば、自分の意思を通したいという低俗な欲のためだけに、話し合うこともしないで頻繁に起こる争いも今よりずっと少なくなるだろう。試しに、人間を観察していると、その思慮深さに、様々なことを気付かされるよ」

 

「じゃあ、その子じゃなくても良いわよね、貴方のペット。人間なら誰でも」

 

「最初はそうだったかもね。でも一緒に暮らしていて。すっかり特別な存在となってしまった。この子はその豊かな感情で僕を想ってくれて、僕をいつも幸せな気持ちにしてくれる。だから僕はそれに応えられる様に出来る限り幸せを返している。人間をただの消耗品としてしか扱わない君には絶対に味わえる事のない幸福だろうさ」

 

「はぁ。反吐が出そう」

 

 

それからはちょっとの沈黙。話が終わったことを二人が認識し合うみたいに。

 

やがて、恐い険しい声色でお姉さんが口を開く。

 

 

「それで。まだやるのかい?」

 

「いえ。ここじゃ魔法も使えないもの。魔法無しで野蛮なインキュバスなんかと戦闘したら一瞬でミンチにされちゃうわ」

 

「お褒めにあずかり光栄だ。魔法と誘惑に頼らないと何もできない阿婆擦れさん」

 

 

美人な二人が笑みを浮かべながら睨み合う。

 

 

「さようなら。人間趣味の変態さん」

 

「さようなら。人間虐待の屑野郎」

 

 

サキュバスは地面に手をかざして地面にゲートを出すと、その中に入っていって、後には静かな空気だけが残った。

 

 

「さ。僕たちも帰ろうか」

 

 

お姉さんはそう言って僕の手を握った。

 

 

 

 

 

お姉さんは家に帰ると膝立ちになって僕の事をぎゅっと抱きしめてくれた。体温や体に流れる血流までも感じ取るかのように首に腕を回して引き寄せされ、がっちりと身体が密着する。

 

 

「あぁ……間にあって良かった……」

 

 

お姉さんが安心して洩らしたささやきが僕の鼓膜を優しくくすぐる。

 

お姉さんはたっぷり数十秒間、僕を感じると身体を離した。お姉さんは気持ちを伝えるように僕の目をじっと見る。

 

 

「僕、言ったよね。変な輩にあったらすぐに首輪に触れて僕を呼ぶようにって」

 

「ごめんなさい」

 

「何かあってからでは遅いんだよ」

 

「ごめんなさいっ。ごめんなさいっ」

 

 

僕はただ謝る事しか出来なかった。ご主人様の言いつけを守れないなんてペット失格だ。僕は捨てられちゃうのかな。そう思うと勝手に涙がぽろぽろとこぼれてきた。お姉さんに手放されるのが嫌で僕は、顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら必死にお願いした。

 

 

「ごめんなさい。何でもしますから、捨てないでください」

 

「え?」

 

「僕をご主人様の傍に居させてください。お願いですからっ。見捨てないでっ」

 

 

僕のお願いに一瞬目を丸くしたお姉さんは、やがて柔らかく微笑んだ。

 

 

「ふふっ。そんなことしないさ。するわけがない」

 

 

お姉さんは僕の頬に手を当てる。

 

 

「君はもう、僕の奴隷でペットで所有物だ。モノである以上は壊れるまで使う。つまり君が死ぬまで、僕が君を手放すことは無いんだよ」

 

「そう、なんですか」

 

「そうだ。だから安心していい」

 

 

お姉さんはあやすように僕の髪をゆっくり何度も撫でてくれた。それが優しくて、嬉しくて、僕は気付けばすっかり悲しみが無くなって頬が緩まって、代わりその手に猫みたいに顔を寄せていた。

 

 

「さぁて」

 

 

お姉さんは一声でしっとりとした空気を変えた。

 

 

「初めてのおつかいに行った君は、果たして何を買ったのかな?」

 

 

お姉さんは興味深々に期待をたっぷり含んだ声で尋ねてきた。お姉さんは僕のやる事は何だって楽しそうに観察しているのだ。そして今の僕はそんなお姉さんの期待をきっと大きく上回ることが出来る。

 

僕には“とっておき“があるから。

 

 

「ご主人様、これをどうぞ」

 

 

僕は少しの不安と大きな自信を胸に、ポケットから取り出した瓶をお姉さんに渡した。

 

 

「え?」

 

 

お姉さんは目をまん丸くして、それを受け取ってくれた。お姉さんが小さな瓶を持ち上げて瞳の前で揺らして中身を覗き見れば、中に入った深紅の液体が波立つ。

 

 

「これ。僕のために?」

 

「そうです」

 

「折角初めてのお小遣いだったのに?」

 

「ご主人様に喜んで欲しかったんです。僕をいっぱい幸せにしてくれるご主人様にも幸せな気持ちになってほしいなって」

 

「……あぁ……君はどこまで」

 

 

お姉さんは嬉しそうにつぶやいた。それから僕を抱き寄せて額にキスを落とすと、

 

 

「ありがとう。とっても嬉しいよ」

 

 

と満面の笑みで言ってくれた。

 

良かった。作戦成功だ。普段のキリっと優雅な顔が一変して咲いた花みたいに笑ってくれた。きっと本当に嬉しい時に見せてくれる笑顔。それが見れて僕も嬉しくて、ちょっと誇らしい気持ちにもなる。

 

 

「これ、香水かな? 早速使ってみても良いかい?」

 

「はい。もちろん」

 

「では」

 

 

お姉さんはそうしてキャップを外すと、噴出口を自分の身体に向けて、ノズルを指でそっと押した。

 

 

シュっ。

 

 

中の液体が霧状に噴射される。お姉さんは目を瞑り、すんすんと鼻を鳴らしながら手で仰ぐようにして匂いを嗅いだ。

 

 

「うん。フローラルで甘い感じもあって、とっても素敵な匂いだね」

 

 

お姉さんはじっくりと味わうように、匂いを感じ取っている。

 

僕がプレゼントしたものだからなのか、ぞんざいには扱われない。良かった。お姉さんにとっても大事なものになったんだ。

 

僕はほっとした気持ちで香水を楽しんでいるお姉さんをじっと見ていたけれど、不意に、

 

 

「んっ……」

 

 

お姉さんが甘い声を漏らした。

 

 

「あれ……おかしいな……この部屋……熱い……」

 

 

開いた目は目尻が下がってとろんとしていて、顔は紅潮して、素肌が見えている首には汗の雫が垂れている。“はぁはぁ“と粋も荒くなっていた。

 

まるで熱を出した時の僕みたいだ。

 

まさか、僕のあげた香水のせい⁉

 

 

「ご主人様⁉ 大丈夫ですか⁉」

 

 

僕は心配になって声をかける。でもお姉さんはそんな不安そうな僕を他所に、右の手の平を額に滑らせて汗で張り付いていた髪を上げると、そのまま額に手を当て顎を上げながらくつくつと愉快そうに笑い始めた。

 

 

「あぁ。そう言う事か。これは一本取られたなぁ」

 

「……ご主人様?」

 

「これはねぇ。香水は香水でも“媚薬成分入り”の香水だ。だから、匂いを嗅いだ者はたちまちに発情してしまう」

 

「え、あ、あの。すみません! 僕、そんなつもりじゃ‼」

 

 

僕は顔を真っ青にして謝った。“媚薬”という言葉は正直分からなかったけど、お姉さんの体調を変にする成分って事は理解できた。

 

お姉さん、苦しそう……。

 

 

「分かってるさ。それに怒ってない。ただ全く予期してなかったら思わず笑ってしまった」

 

「あの、ご主人様。お水とか、お持ちいたしますか?」

 

「いや、大丈夫。それより寝室に行こう。いや、ここでも良いか。もう無理だな、これは……」

 

 

お姉さんは僕への言葉と独り言の中間のように呟きを漏らしながら、おもむろに服を脱ぎ捨て始めた。いつもは皺にならないように畳んで置くのに、今は乱暴に床に散らばらせる。あっという間に黒のシックな下着姿になったお姉さんの露わになった肌は、すっかり赤みを帯びていて、シャワーを浴びたみたいに汗の雫が浮かび上がっていた。お姉さんは荒く息を吐きながらゆらゆらと僕に近付くと、もたれ掛かるようにして抱き着いてきた。

 

 

「あぁ。頭に霧がかかったみたいで、上手く考えられない……。僕は、ただ君を襲う事しか考えられないお猿さんになってしまったみたいだ……」

 

 

お姉さんの身体は暑くて、押し当てられている胸からはすごい早さの心臓の鼓動を感じる。お姉さん、すごい興奮してる。その興奮は熱と共に僕にもすぐに移っていく。どっちの心臓の音なのかは分からないけれど、頭の中にドクドクって、鼓動が響く。

 

お姉さんが両手で僕の両頬を包んで、僕と目線を合わせる。

 

 

「先に謝っておく。多分、今の僕は手加減が出来そうにないから、君の頭の中が快楽でぐちゃちゃになってもう泣き叫びながらやめてくださいって懇願しても僕は絶対にやめないし、もっと興奮して責めてしまう。ごめんね」

 

「謝らないで、ください。僕のせいで」

 

 

お姉さんは「いや」とすぐに言って、首を捻って考える仕草をした後今度は、自分の言葉を否定するように「いや」と言った。

 

 

「……そうだっ。君のせいだっ。君はいつも僕の心をざわつかせる」

 

 

否定してくれるのを心の隅で期待したからか。お姉さんが思いのほか責めるみたいに強い口調になって、僕はどきっとする。いつもよりお姉さんの感情が荒い。口調が強い。

 

 

「今日だって、直ぐに僕を呼んでいれば、君は怖い思いをせずに済んだんだ‼ 僕も心配しなかった‼ 君は僕のモノであることの自覚が足りない‼」

 

「……はい」

 

 

お姉さんがニヤリと笑う。

 

 

「だから今から嫌という程身体に教え込んであげる。誰が君の所有者であるかを。誰が君を幸せにするのかを」

 

 

“僕がどれほど君を愛しているのかを“

 

 

ぞくっとした。

 

怖かった。

 

多分、僕はもうこの先、お姉さん無しでは生きていけなくなる。

 

喜びだった。

 

 

僕はお姉さんさえいれば、幸せになれる。

 

 



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ロボット操縦士に愛される

 

薄暗く、遠くでは星々が煌めている広大なこの空間は宇宙を模して戦闘訓練用につくられたVRの疑似宇宙である。

 

その空間を一機の人型ロボットが縦横無尽に飛び回る。

 

“夜狼”

 

と呼ばれたその機体。ボディの色は夜空のような黒を基調として、暗闇に浮かび上がるオオカミの瞳のような真っ赤な色のラインが機体の表面に走っており、超速で飛び回る夜狼が暗闇に残していく赤い軌跡の残像は流れ星のように美しい。その巨大な機体を操るのはしかし、小柄な一人の少女である。

 

操縦はひどく荒々しく、野生的であった。

 

機体の周りでは、あえて特徴を消すように白単色で塗られた訓練用人型ロボットたちが夜狼を四方八方逃げ場なく囲み、握った銃からレーザーを放出し、両翼から大量の追尾ミサイルをぶっ放しているのだが、夜狼はその合間を縫うように稲妻の如く超速で飛んでいき、一体また一体と敵機を撃破していった。

 

猛撃である。握った赤い輝きを放つビームソードを振るいに振るって白い機体のメカメカしい身体を次々に真っ二つにする。時折伸びてくる敵機の放ったビームを本能的に感じ取って跳ねるように避ければ、夜狼は激昂するが如く標的を変え攻撃をした敵ロボットへ猛然と向かっていく。その姿を誰かが狂犬と称したが、なるほど狂犬に相応しい。破壊対象を求めては致命傷以外はかすり傷だとばかりに敵の砲撃の中に自ら突っ込んで行き、直感で裏付けされる不規則な動きで追い詰めて、ひたすらに撃墜を繰り返す。

 

その様はまさしく狂気を纏った獣。

 

彼女が撃墜した分、訓練ロボットは更に数を増した。

 

しかし全ては少女の獲物に過ぎない。

 

 

彼女は喜々として、敵機に向かって行く。

 

 

 

 

人型ロボットを操縦するのに求められるものは何か。

 

それは操縦士の闘争心であった。

 

胎児の納められる子宮を連想させる卵形の操縦席にはハンドル等などの手動で操作する物の類が一切存在せず、操縦士は、耐衝撃・生体情報伝達のための柔らかな青いスライム状の素材に身体を吞み込ませ、頭と脊髄に手術で開けた穴に幾本のケーブルを挿入させ、ロボットに感覚を移転。

 

後は願うだけでよい。

 

動け、と。

 

それだけで操縦士専用の人型ロボットは生き生きと動き出す。戦場においては一瞬一瞬の判断が命取りになる故に、心とリンクさせて手動より何よりも最速で操縦士の意思を反映させて機体を動かせるこの仕組みは非常に合理的と言えた。しかし、問題もあった。機体の動きが操縦士の心に直接の影響を受けすぎる事である。早い話、操縦士が戦意喪失をしてしまえばロボットは死んだように動かなくなり、そうでなくとも操縦士が怯えや恐怖に呑み込まれればロボットは見た目に反して幼子のように逃げ惑うことになってしまう。大事なのは操縦士の心を戦闘に適した状態に保つ事なのである。

 

それはすなわち、戦争で、戦闘で、勝たねばならないと思わせる事であり、地球及び箱船(多くの人間が暮らす船)を守りたいと思わせる事であり、生に執着させることであり……それらの手っ取り早いやり方として上層部が考えたのは、操縦士に想い人を作らせることだった。

 

デザイナーベビー。操縦士の趣味・嗜好・性格・好み・性癖等々本人を形成するあらゆる情報を分析し、そこから本人が好きにならざるを得ない人間をデザインし、操縦士が性成熟し訓練ではなく実際の戦場にもロボットに乗って出るようになる14歳になった時に引き合わせ、恋をさせた。

 

青年もその作られた人間の一人だった。

 

船内の一般常識として、操縦士の心を戦闘に相応しい状態に保つメンターの仕事をしていると思われているが実際はそういった事情の下にいる。担当の操縦士は、美しい金色の髪をショートに切り揃え、炎のように真っ赤な瞳をした、目つきの悪い、口も悪い、ボーイッシュな雰囲気を纏った、青年よりも30cmほど背の低い、宇宙生まれの小柄な少女である。

 

尤も、聡い彼女は青年のその裏事情さえも察しており、その上で

 

 

「別に俺がお前を好きなことは変わらねえ。それでいいだろ」

 

 

とばっさり吐き捨てるのだから、実に男らしい。

 

そんな彼女は今は訓練中。

 

青年は、トレーニング室に設置された巨大モニターの前に立ち、画面に映っている漆黒のロボット“夜狼”の訓練ロボットとの戦闘風景を眺めていた。

 

 

「今日は、いつにも増して荒いなぁ……」

 

 

青年が思わず呟く。それほどまでに彼女の動きはでたらめであった。機体を上下左右に回転させながら敵機のミサイルを避け、後ろを振り向くことなく背後の敵機を斬りつけ、急上昇をした後に引きつけた敵機を振り向きざまのミサイルでまとめて一掃。他に例を見ない程に完璧にロボットを自分のものとしている。どころか気配までもを察知しているから、もはや彼女はロボット操縦において動物的感覚である第6感まで目覚めさせているのかもしれない。それに相手にしている訓練ロボットは敵国の将校を捕縛してその心をインストールした言うなれば将校モデルなのだ。決して弱いはずはなく、並みの操縦士なら一機相手にするだけでも相当に骨を折る筈なのだが。。

 

 

「……無双してる」

 

 

彼女がいくら訓練ロボットに囲まれようとも劣勢になる予感が微塵もしない。まさに圧倒的な力量差。

 

襲撃。破壊。撃墜。

 

メンターである彼には彼女の思考の癖なども当然のようにインプットされているので、この暴れっぷりというかハリキリっぷりが何を要因としているのかは分かっていた。

 

 

“時間が空いたから、今日は実際に訓練の様子を見ているね“

 

 

訓練室に入る前の、夜狼と同じカラーリングの操縦士スーツに袖を通した彼女にそう言えば、彼女はニッと、国家転覆でも計画してそうな邪悪な笑みを浮かべて言ったのだ。

 

 

“その目でしっかり見てろよぉ”

 

 

で、この有様である。彼女はカッコいい自分の姿を見せたかったのだろう。青年はそう思うと、彼女の子供っぽい愛らしい動機と実際にやっているエグい事との差異があまりに大き過ぎて思わず笑ってしまう。彼女は数少ない操縦士の中でもずば抜けた戦闘の才をもつ操縦士なのだ。

 

……そして。

 

“笑ってしまう“と言えば、もう一つ。

 

尤もこれは苦笑になってしまうが、モニター前に立つ青年は現在、沢山の女の子に囲まれていた。傍から見ればモテモテの色男である。が、彼女たちは、青年に用があるわけでは無い。

 

用があるのは青年の操縦士である。

 

本日は、“火星爆破デー”という物騒な名前の付いた日で、過去に長年争い続けていた火星人を超高火力エネルギー兵器で火星諸共爆破粉砕し地球人がまた敵を一つ消滅させた記念日であった。この記念日では女が想い人に自分の思いを乗せて火星を模したまぁるい形のビスケットなどのお菓子を渡すのが通例であった。

 

彼女は身長が小さくて小動物のように愛らしいのに、夜狼に乗って地球を守るカッコいい孤高の女操縦士。

 

憧れるのも当然と言える。

 

しかし彼女は青年を除いた他人との交流を全く好まない。操縦士のさらにトップ層であるという彼女の肩書に寄って来る人間が、光に集まって来る地球の蛾に見えてうんざりするらしい。だから船内ではいつも研ぎ澄まされた刃物のような鋭い雰囲気を纏っていて、誰も彼女に近付けない。そんなんだから船内民に“一匹狼”などと畏怖の念で呼ばれたりするのである。して、彼女へお菓子を渡すにはメンターである青年を通して渡す他なくなる。実際、青年の手にした巨大な白い袋の中には、数えられない程に大量のまぁるいお菓子がそれぞれ丁寧にラッピングされた状態で積りに積もっていた。

 

 

「全然途切れないな……」

 

 

青年が心の中でそう思いながら女の子たちからプレゼントを預かるポストの役割を全うしていると、そのうちに訓練室に続く廊下からモニター室に向かって近づいてくる足音があった。

 

やがて、訓練を終えた件の女操縦士が姿を見せる。

 

黒いパーカーにショートパンツを着た少女。シャワーを浴びたのか、髪は若干濡れている。

 

彼女は最初は青年に、控えめな胸を張って自慢げにはにかんだ表情をしていた。“どうだ、すげぇだろ”と言うかのように。だが、青年が女たちに囲まれていることに気付くとその表情はみるみる険しいものとなり、如何にも不機嫌そうに舌打ちをして青年の気を引くと、顎をクイっと出入り口側に振った。これは“部屋に来い”の意である。言葉は無くとも青年も当然のようにそれを理解しているので、未だプレゼントを青年ポストに投函するために順番待ちしていた周りの女の子に軽く頭を下げると、そのまま出入口へと向かっていく彼女の後を追った。

 

 

「あ、あぁ……」

 

 

お菓子を渡しそびれていた女の子たちの何人かは、青年か、いっそのこと本人か、とにかく用意してきたお菓子を渡さなければという思いに駆られて二人の後に付いてこようとする。だが、歩きながら、ダルそうに顔だけ後ろに向けた彼女がその足を止めさせる。

 

 

「つ・い・て・く・ん・な」

 

 

一音ずつはっきりと発音されたその言葉は、酷くドスの効いた声だった。それに後ろを歩いていた青年には、彼女が肉食獣のように鋭く細い目で女の子たちを睨みつけたのが分かった。振り向けば、彼女の視線に射貫かれた女の子たちは可哀想に、まるで石化したようにその場で立ち止まってしまっていた。

 

青年は心の中で“ごめんねー”と謝罪しながら、早足の彼女に置いて行かれないように続いた。

 

 

 

言葉を発さず、ただ彼女の小さな背中を追って廊下を歩き、やがて彼女に続いて部屋に入る。すると彼女は扉を閉めるなりいきなり青年の身体を引っ張りながら足を払って豪快に床に倒れさせ、その上に馬乗りになった。そのまま上着の襟首を両手で掴み上げる。

 

 

「おいっ。あれはどういう了見だぁ?。女どもに囲まれやがって……俺に見せつけたかったのか?」

 

「いや、違うよ。あの子たちは皆、君宛の火星爆破デーのお菓子を僕に渡していたんだ。ほら、そこの白い袋にいっぱいお菓子がある」

 

「はぁ? んなもん自分で渡せばいいだろ。何でお前に」

 

「君が怖いんだよ、きっと」

 

「あいつらがビビりなだけだろ」

 

「だからって怖がらせて良い理由にはならないよ」

 

「ちっ……はぁー」

 

 

彼女は自分でも思い当たる節があるらしく深いため息を吐いた。

 

 

「……だとしても。お前もちょっとはお前の為の菓子、女からもらったんだろ?」

 

「え、あ、まぁ」

 

「やっぱりな。気に喰わねぇ、全部出せ!」

 

 

そう言って彼女は片手で襟首を掴み上げて揺すりながら、青年の上着のポケットにもう片方の手を豪快に突っ込んで探った。事情を知らない者が見ればカツアゲに見えるだろう。ポケットからはお金、ではなく、如何にもプレゼントらしいリボンのラッピングが施された小箱やビスケットの入った透明な小袋などが出てくる。彼女がくわっと目を見開く。

 

 

「隠してやがったな‼」

 

「まさか。君のと混じらないようにポケットに入れておいただけさ」

 

「嘘つけっ!」

 

 

嘘である。自分宛にも女の子からプレゼントをもらったと知られれば彼女がキレるであろうことを想定して、バレないように予めポケットに入れておいたのである。それも見つかってしまえば逆効果。火に油。彼女は宿敵を見つけたとばかりにお菓子の入った袋を一つ摘まみ上げると、結ばれていた口を解いて、中に入っていた円形のチョコの塗られたビスケットを一つ取り出し、手の平に乗せた。

 

 

「こんなもん、こうしてやるっ‼」

 

 

彼女はそれをわざと見せつけるようにして、ぐしゃりと握りつぶした。なかなか過激な光景である。彼女がゆっくりと手を開ければ、ビスケットは粉々になっていた。

 

 

「ふんっ。女狐の野望、打ち砕いたり」

 

 

彼女は口角を上げ、勝ち誇った顔で勝利宣言を呟いた。

 

火星爆破デーのお菓子は火星が爆破したことにちなんで、粉々になると想いが成就しないと言われているのである。だから彼女は罪なきビスケットを砕いて、わざと見せつけた。青年が自分以外の誰かに目移りしないように。

 

青年が彼女以外を好きになるなど、設計上ありえないのに。

 

 

「あぁ。折角綺麗に丸かったのに」

 

「俺の男を狙った罰だ」

 

 

彼女は手を口に近付けて、手の平に着いたビスケットの欠片たちを犬のように野性味たっぷりに舐めとって食べ始めた。青年は彼女のそんな行儀悪い姿を愉快そうに眺める。実際は、彼女に渡される筈だったチョコビスケットだったが、恥ずかしいからやっぱいい、などという理由でとりあえず青年に渡されたプレゼントである。回り回って、本来納まるべき胃袋に入ったのだからビスケットも本望と言える。

 

 

「味はどう?」

 

「んん。甘すぎだな。俺には丁度いいけど、お前の好みには全然合ってない」

 

「そっか」

 

 

自分の為に用意されたビスケットを不服そうに、しかし美味しそうに食べている彼女を青年は面白そうに眺めていた。やがて彼女はその袋に入っていたビスケットを全部平らげてしまうと(最初以外は砕かなかった)、手を洗いに台所へと向かった。そうしてやがて戻ってくると、彼女の両手は白い平らな皿を大事そうに掴んでいた。

 

 

「お前の食べたから。代わりにこれ、やるよ」

 

 

そうして彼女は青年の前にあった机に皿を乗せて座った。皿の上には“摘まむ”ではなく“掴む”が適していそうな程には大きなチョコが二つほど乗っていた。包みは無い。最初から部屋に招いて渡すつもりだったのだろう。

 

そしてなにより、その形はハート形である。

 

 

「この形って……」

 

「船内だと火星爆破デーだけど、地球だとバレンタインデーとか言うやつなんだろ。だから、そっちに合わせてみた」

 

「わぁ、ありがとう」

 

 

青年が笑顔で礼を言えば、彼女は少し恥ずかしそうに顔を逸らす。

 

青年は確かに地球の研究室で生まれ、特別な施設内で育っていた。だがそれは人工人間の証明であり、一般の人々には秘匿されるべき情報である。船内でも青年の恋人である彼女くらいしか知り得ないこと。ゆえに彼女はその差を明確にして、自分のチョコは特別である事を演出したのだった。

 

 

「それじゃ、いただきます」

 

 

彼女がじっと見つめてくる横で青年はチョコを一つ掴むと、齧った。

 

もぐもぐ。

 

咀嚼をする。

 

 

「どう……だ?」

 

 

珍しく不安そうな彼女を見て少し揶揄いたい気持ちが湧いたが、それでも青年は素直に感想を伝える。

 

 

「うん。丁度いい苦さと甘さでとっても美味しいよ。ありがとう」

 

「……ふーん」

 

 

彼女は途端に興味を失くしたように声を漏らしたが、その口角が上がるのを必死に抑えている事は青年にはお見通しである。

 

 

「ところで」

 

「は?」

 

 

不意を突かれた彼女の咄嗟の荒い返答が帰って来る。

 

 

「バレンタインデーのチョコには色んな種類があるのって知ってる?」

 

「……知らねぇ」

 

「友達にあげる友チョコ。世話になってる人とかにあげる義理チョコ。好きな人にあげる本命チョコ、とか」

 

「へぇ」

 

「これはどれになるのかな?」

 

 

青年は彼女を困らせてみたくなってわざと意地悪な質問の仕方をした。

 

彼女は青年の望み通り、眉を寄せて嫌そうな表情をする。

 

 

「……分かんだろ。そんぐらい」

 

 

威勢のない口調に視線から逃げた目。

 

その愛らしさに、青年はもっと彼女を困らせたくなってしまう。

 

 

「難しいな」

 

「メンターだろ。ふざけんな」

 

「メンターでも思考の詳細までは読めないからなぁ」

 

「ちっ」

 

 

彼女は埒が明かないと判断したらしい。

 

自分より座高の高い青年の頭に片手を回すと力強く引き寄せて、強引にキスをした。

 

そのまま数秒間、お互いの熱を交換し合った後で、彼女は口を離した。

 

 

「分かっただろ」

 

「うん。僕も君が好き」

 

「……くそ苦ぇ」

 

 

べぇ、と照れ隠しに彼女は舌を出した。

 

 

 

 

 

「お前。この後予定は」

 

「さっきの君の訓練の成績を上に報告したら終わりかな」

 

「それ明日でもいいよな」

 

「それは、まあ」

 

「じゃあ、これから付き合えよ。映画見るぞ」

 

 

そう言って彼女は電気を落として、部屋を小さな映画館に見立てると、テレビを操作して、アニメや映画を視聴できるサービスのサイトを画面に映した。

 

無論、彼女に付き合うのはメンターとしても大事な仕事である。

 

彼女が自分の隣においたクッションをバシバシと荒く叩くので、青年はそれに従ってあぐらをかいて座れば、その膝の上にごく当然とばかりに彼女が座った。夜狼の操縦席ではスライム状の素材にいつも身体を呑み込まれているせいか、何かに包まれていると落ち着くらしい。

 

顎の下あたりに頭頂部が来るからこの姿勢の時は青年はいつも、彼女を本当に小さくて可愛らしい生き物だと思ってしまう。彼女にそれを伝えると烈火の如くキレるので決して口にはしない。

 

映画の内容は、派手なアクションのある映画が好きな彼女には珍しい、よくある王道ラブストーリーだった。仲の悪かった主人公とヒロインは次第に仲良くなって行って、途中で主人公とヒロインの仲を裂くような大きな試練が訪れて、それでも二人は諦めずに乗り越える……。

 

ありふれた物語に引っ張られて、青年はふと友人の事を思い出した。

 

友人は試練を乗り越えられなかった。

 

友人はメンターで担当の操縦者と仲睦まじい関係にあったが、戦闘の最中操縦者は運悪く命を落とし、それで友人は悲しみに押しつぶされて自殺をしてしまった。

 

メンターの後追い。上層部の間ではよく上がる議題らしい。青年の身体を定期健診する博士が言っていた。

 

彼の気持ちは青年にも分かる。

 

身体に柔らかさをもたらしているこの、薪の上に燃ゆる火のように激しくも優しい愛をくれる少女を失えば、自分も深く絶望するのだろうと。

 

少女がいなくなった時の空虚感を想像して、無意識に青年は少女の柔らかな金色の髪を撫でていた。いつもなら子ども扱いしたとキレるのだが、今はどうにも許してくれているらしい。

 

映画が気付けば終わり、

 

 

「苛つくからやめろ。それ」

 

 

不意に彼女が振り返って言った。

 

 

「お前。俺が死ぬとか思って俺の頭撫でてただろ」

 

 

青年が彼女の心の様子をある程度予測出来るように、彼女もまた青年の心など容易に分かる。

 

 

「俺がお前を置いて死ぬわけないだろ。舐めんなよ」

 

 

信頼されてないと感じたらしい。彼女は薄暗闇の中、青年を睨んで不服そうに言った。

 

信用していないわけでは無かった。だが、物がいつかは壊れてしまうように人間にも抗いようのない運命というのが決まっていて、ある日突然彼女を失うという事も十分に考えられる話で……。

 

青年がぐるぐると考えていると、

 

 

「しょうがねぇなー」

 

 

と、彼女が呟いて右手の小指を差し出してきた。

 

 

「んっ」

 

 

彼女が何かを求めるように声を漏らす。

 

青年はその“何か”が何か分からなくて首を傾げる。

 

 

「おい、映画見て無かったのか。やってただろ、指切りげんまんとか言うやつ」

 

 

青年は言われてはっと気づいた。映画中は思考の沼に沈んでいてあまり意識を集中していなかったからはっきりとは覚えていないが、もしかしたらやっていた気もする。

 

主人公とヒロインが一旦離れ離れになるシーンで、両者がまた再会することを互いに約束するために。

 

 

「俺がお前の横にいつも必ず帰ってくることを約束してやるよ。だから、指出せ」

 

 

彼女に言われるままに青年も右手の小指を差し出した。彼女の小さくも力強い小指が、青年の小指に絡みつく。二人の声が重なる。

 

 

指切りげんまん

 

嘘ついたら針千本のーます

 

指切った

 

 

青年の指は名残惜しそうに彼女の指から離れた。

 

 

「でも」

 

 

青年が呟く。

 

 

「もしも君が帰ってこなくて、約束を破ったとして。僕は誰に針を千本飲ませれば良いのかな?」

 

「そりゃお前だろ」

 

「え」

 

「飲んじまうだろ、針。自分で」

 

 

彼女が暗闇の中でじっと青年を見ていた。

 

 

「あぁ、うん。飲むね、きっと。君がいなかったら、わざわざ生み出された僕の存在価値なんて無くなるわけだし」

 

「だろ。でも俺は、俺を追いかけてお前が死ぬなんてマジでふざけんなって思う。そんなのは認めない」

 

「うん」

 

「だから俺はどんな時でも絶対お前の隣に帰って来る」

 

「……うん」

 

 

彼女はその想いの強さを伝えるように鋭い視線で青年の瞳を射抜いていた。

 

青年は彼女の赤い瞳に意識を呑み込まれて行く。まるで彼女の一部になって行くみたいに。

 

 

「だから、待ってろ」

 

 

柔らかくて芯のある声。

 

青年は小さく頷いた。

 

 

彼女の力を信じて、頷いた。



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幻獣病患者に愛される

 

「ほのかお姉ちゃん、わたし、おおままごとしたい!」

 

 

場所は、幻獣病で行き場を失った子供たちが暮らす孤児院の一室の広い子供部屋。周りの同年代の子供たちがオモチャやら絵本やらで思い思いに遊ぶ中、ペタンと座っている一人の幼い女の子が向かい合ってあぐらで座っている自分より少し歳上の少女に向かっておねだりした。

 

 

「うん、いいよ」

 

 

みんなのお姉ちゃん代わりである髪の長い少女は、はにかみながらそう言って快く引き受け、女の子は“やったー”と無邪気に喜んだ。

 

遊びに誘って、誘われて。

 

そのやり取りはどこでもありふれた微笑ましいものであるがしかし、そんな二人の外見にはいわゆる普通の人間のものとはまた別の特徴が見て取れた。

 

女の子は、夕日のような真っ赤な髪が後ろに逆立っていて腕には飛翔するためのふわふわの羽根が規則的に生え、指先は鉤爪のようになっていて、つまりフェニックスを思わせる姿で、少女の方は獣の耳と長い尻尾が生えていて、両頬には3本ずつ赤い曲線が対になって刻まれており、手には肉球と鋭い爪が生えていて、つまり虎を思わせる姿をしていた。

 

異世界の獣になる病。幻獣病。彼女らはその患者であった。

 

 

「それじゃぁかけるくんは“せんせー”の役ね。わたしが“ししょー”。ほのかお姉ちゃんは“あくやく”ね」

 

 

女の子はいつの間にか、近くにいたユニコーンを思わせる角の生えた気弱な男の子を捕まえておままごとの演者に引き入れていた。嫌がっていたら注意をしようと思ったが、男の子も嫌そうでは無かったので少女は苦笑をするに留まった。その間にも、可愛い演出家さんはテキパキとシチュエーションを指示していく。

 

 

「ここは“しせつ”の中なの。そこに“あくやく”がやってきて“ししょー”をおそってきてるとこ。“せんせー”はそこに立ってて」

 

 

“しせつ”は自分たちが暮らしている孤児院のことで、“あくやく”は幻獣病患者を狙う異世界反対派、“ししょー”は自分たちに身の守り方を教えてくれる皆にとっての師匠であり自分にとってのお母さん、“せんせー”は幻獣病を研究している研究者で、自分にとってのお父さん。少女は、そう認識した。おままごとというよりも劇になりそうだった。

 

 

「えっと、まずは、“あくやく”は、わたしを、“ししょー”をねらって攻撃をしてくるの」

 

 

ご注文が入ったので、少女は指示通りに演じて見せる。

 

 

「わっはっは、雷虎。貴様の命もここで終わりだ!」

 

「ふん。わたしをたおそうなんて、100年早いわ。すぐにじ・ご・くに送ってあげる!」

 

 

女の子は前に子供たち全員で見たアクション映画の口調を気に入っているようだった。言い慣れていないせいだろう、地獄の言い回しがぎこちなくて可愛らしい。

 

 

「かかってきなさい!」

 

「うおーーー」

 

 

女の子の言葉を合図に少女は両手を掲げて熊みたいなポーズでわざとらしく襲い掛かった。だが“ししょー”は負けない。「やぁっ」「おりゃっ」と女の子に殴られたり蹴られたりしながら彼女の指示通りに少女は「うわー」と声を漏らし終始やられていく。なんとも情けない役だが少女は誇らしさを感じていた。

 

そう。お母さんは誰よりも強いのだ。例えどんな“あくやく”が襲い掛かってこようとも、あっという間にボコボコにしてみんなを守ってくれる。そんな母への認識が目の前の女の子にも共通して持たれていることを少女は嬉しく思った。

 

だからこそ、次の指示はちょっと頂けなかった。

 

 

「“あくやく”は強い“ししょー”から弱い“せんせー”にねらいを変えるの。そこのめがねのヒョロヒョロの弱そうな棒切れみたいな男から“しまつ”してくれるわーって“あくやく”は言って」

 

 

少女は手持ち無沙汰に突っ立っていた男の子の方に身体を向けた。その顔は不満げである。

 

確かに、お母さんが“強い”としたらお父さんは“弱い”になるのだと思う。だけれどもその言葉は何だかお父さんを馬鹿にされているような気分になって少女には少し不快だった。

 

 

「ねぇ言って!」

 

「……うん」

 

 

女の子は劇を動かすことにすっかり夢中になっていて、少女の口角の下がっている微妙な表情の変化には気づいていない。少女は劇だからと自分に言い聞かせて口を開く。

 

 

「そこの眼鏡のヒョロヒョロの弱そうな棒切れみたいな男から始末してくれるわー」

 

「そうしたらかけるくんは“ひぃっ、ごめんなさい。なんでもしますからいのちだけは許してくださいーっ”ってなさけなく言って!」

 

「ひぃっ、ごめんなさい。なんでもしますからいのちだけは許してくださいーっ」

 

 

男の子が注文通り情けなく言う。前に見た映画そのまんまだ。でも、少女は心のもやもやが大きくなる。

 

 

「そしたら“あくやく”は、“ふん。それらならば、じぶんは弱い人間であるとみとめて、どげざをしながら、じぶんはむりょくな人間です、とあやまるがいい”って言って!」

 

 

もやもやが大きくなる。

 

 

「……ふん。それらならば、自分は弱い人間であると認めて、土下座をしながら“自分は無力な人間です”と謝るがいい」

 

「ほらかけるくん、言われた通りやって!」

 

「じぶんは、むりょくな人間です」

 

 

“お父さん”が跪く。

 

もやもやが大きくなる。

 

 

「そしたら、次は……」

 

 

大きくなった。

 

溢れた。

 

 

「ねぇ」

 

 

少女は気付けば声が漏れていた。自分でも一瞬驚いたけれど、一度口を開けば言葉を紡がずにはいられなかった。

 

 

「これ、すっごく嫌だ」

 

「え、え?」

 

 

少女の不機嫌な低い声を聞いて、女の子は驚き目を丸くする。

 

 

「お父さん、絶対こんなことしない」

 

「……するもん」

 

「こんなに弱くない」

 

「弱いもん!」

 

 

まだ、自分とは違う感じ方の人間がいるということを学び始めた年齢である。受け入れるのは難しい。女の子は、表情をくしゃくしゃにしていって、次の瞬間には大泣きし始めてしまった。二人の会話を傍で聞いていた男の子はただおろおろし、彼女の泣き声を聞いて周りにいた子供たちも手を止め、何事かと集まって来る。気付けば彼女と少女を中心に子供たちの輪が出来ていた。

 

 

「どうしたの?」

 

「なんで泣いているの?」

 

「どこか痛いの?」

 

 

みんなが口々に女の子に尋ねる。女の子はただ、

 

 

「ほのかお姉ちゃんがぁぁ!! ほのかお姉ちゃんがぁ!!」

 

 

と訴えながら泣く。皆の視線が向けられて少女は慌てて説明をする。

 

 

「私は、ただ、お父さんは弱くないって言っただけで」

 

「弱いのおおぉぉ‼‼‼」

 

 

少女の弁護も女の子の泣き声がかき消す。その限られた情報を聞いて、周りの子供たちが各々口を開いた。

 

 

「確かにせんせーって弱そうだよな」

 

「ししょーに腕相撲で勝てたことないって言ってた」

 

「運動苦手そう」

 

「細いよねー」

 

 

周りの言葉を聞いて自分の味方が一人もいないと知ると、急に自分が悪者になった気分になって少女の目にも涙が浮かんできた。

 

 

「というか、ししょーって本当にせんせーのお嫁さんなのかな?」

 

 

誰かが言った。

 

その疑問は皆の関心を強く惹いたようで瞬く間に話題の中心となる。

 

 

「言われてみればそうかも」

 

「全然釣り合ってないー」

 

「変だよね!」

 

「もっと強そうな人の方が似合ってるかも」

 

「おかしいよね」

 

 

「ほのかお姉ちゃんのお父さんとお母さんって、本当にお父さんとお母さんなの?」

 

 

 

悪意の無い純粋な質問に少女の心が貫かれる。腹が立ったけど不安にもなって心がぐちゃぐちゃになって、気付けば少女も泣き出してしまった。

 

それから暫くは、二人がわんわん泣き続けて、釣られて周りの子も何人か泣きだして、世話役のおばさんが来るまでひどい騒ぎだった。

 

 

 

 

 

衝撃を吸収する白いタイルに覆われた、奥行きも高さもあるドーム状の広い空間は、幻獣病患者たちが戦闘訓練をするためのトレーニングスペースである。子供たちは順番に“ししょー“と呼ぶ女性、つまり少女の母親に扱かれ、今は少女の番であった。

 

ドームの中心で、半そで短パンの動きやすい恰好の少女はしなやかな腕を晒す黒いタンクトップ姿の母親と組手を行っている。

 

 

「ほら。遅い遅い遅い」

 

「くっっ」

 

「もっともっと早く早く」

 

 

少女の放つ拳や蹴りを涼しい顔で悉く防いでいるのは、少女と同じく両頬に3本ずつ対になる真っ赤な曲線が刻まれていて、獣の耳と尻尾を生やした大人の女性である。親子だけ合って目鼻立ちはよく似ている。あえて少女と比べて違う所を挙げるとすれば髪を肩に触れる程度に短く切り揃えていて、“凛々しい”という言葉が似合いそうな落ち着いた雰囲気の美人な女性であるということだろうか。

 

彼女は少女の攻撃を全て受け止めている。

 

 

「手数を意識しても力が入って無きゃ意味無いよ。もっと体重を乗せて」

 

「くっそぉ」

 

 

少女がそれに応えるように右の拳を思いっきり振りかぶった。

 

しかし、

 

 

「違う」

 

 

彼女はそれをひらりと躱し、少女が渾身のパンチを避けられて前のめりに体重を崩した、その鳩尾に

 

 

「こうっ」

 

 

後ろに引いた右の手の平を身体を捻りながら軽く押し当てた。

 

 

「うぅぅっ⁉」

 

 

たったそれだけで少女は唾液と息を口から吐きながら、すごい勢いで後方へと吹っ飛んでいった。軽い身体。石ころのように転がる少女。しかし娘だろと彼女は容赦しない。敵が手加減する筈もないのだから。

 

彼女は床を蹴ってすぐに少女に接近し回し蹴りを放つ。少女は慌てて高く飛んで避ける。

 

 

「隙が出来るからそんなに飛ぶなっていつも言ってるでしょ」

 

 

言いながら着地点に駆け寄る。少女は焦った表情のまま口を大きく開けて、やがて青白い稲妻を近づいてくる母親に吐き出した。

 

 

「電撃も必ず当たる場面以外禁止」

 

 

彼女は言いながら瞬きする間に飛んでくる秒速数百キロの稲妻をそれでも軽々避けて、少女に急接近。少女が苦し紛れに繰り出した顎に向けての掌底打ちは躱そうとははせずに、代わりに彼女は少女の細い足を払ってバランスを崩させ、床に転がした。

 

 

「足元にも意識を向けなさい」

 

 

彼女は立ったまま汗一つ流さずに少女を見下ろし、一方の少女は小さな体を使って目一杯呼吸をしながら、母親の事を呆然と見上げていた。

 

 

「どうしたの。いつもより動きが鈍いじゃない」

 

「……ごめん……なさい」

 

「具合でも悪いの」

 

「……うんうん」

 

 

少女は仰向けに倒れたまま首を振る。実際の理由は、さっきみんなに言われた言葉が心に引っ掛かって集中できていなかったからだ。

 

“ほのかお姉ちゃんのお父さんとお母さんって、本当にお父さんとお母さんなの?”

 

言葉が心をぐるぐるする。

 

そんな心中を察したのか、

 

 

「とりあえず休憩にしましょうか」

 

 

母は今までの厳しい表情とは一変、優しげな微笑を浮かべて言った。

 

 

 

 

 

無機質な白い壁に背中を預け、二人は並んで足を伸ばして座っていた。少女の頭には白いタオルが掛けられていた。母親が渡してくれたものだった。

 

広い訓練場には静寂が満ちていた。一人だったら寂しさを感じたかもしれないが、隣で母が時折身じろぎする音が少女に安心感を与えていた。

 

 

「それで? 何かあったの?」

 

 

母は穏やかな口調で尋ねた。

 

少女はすぐには口を開くことは出来なかった。何だか聞いてはいけないような気がしたから。答えを聞くのがちょっと怖かったから。それでも少女はやがて勇気を振り絞って顔を上げると、母に尋ねた。

 

 

「ねぇ、お母さん。お母さんとお父さんは結婚してるんだよね? 私のお母さんとお父さんだよね?」

 

 

少女は真剣な顔で答えを待つ。

 

それは余りに想定外な質問だったらしい。

 

母は口を半開きのまま沈黙し、数秒後に「……は?」と素っ頓狂な声を漏らした。

 

 

「それは……どういう意味なの?」

 

 

怒っているわけでも無く純粋に困惑している母に、少女は経緯を話した。父と母が夫婦なのは変だと言われた事。父が弱いと言われた事。自分はそうは思わない事。

 

母は少女から説明を一通り聞くと「なるほどね」と納得したように呟いた。そうして宥めるように、少女の頭にタオルの上から手を置いた。

 

 

「安心しなさい。ほのかのお母さんは私で、ほのかのお父さんはいつもくだらない冗談ばっかり言ってる白衣ばっかり着てるあのお父さんよ」

 

 

「……そっか。良かった……」

 

 

少女は安心したように息を漏らした。それでも、もう一つ訊かなければいけない事があるのを忘れてはいない。

 

 

「お父さんは、弱いの??」

 

「うーん」

 

 

少女の祈るような視線を受けて、母は腕を組み困ったように微笑を浮かべた。

 

 

「どう説明したらいいのかしら……」

 

「やっぱり、弱いんだ……」

 

「いや、それはないわ。あの人は私よりずっと強い」

 

「え?」

 

 

聞きたかった答えを、それも予想していなかった答えをあっさりと言われて少女は驚いてしまった。さっきの母と似たような表情になる。親子だ。

 

 

「ただ、その“強さ”を説明するのが難しくて……」

 

 

それから母は暫らく考え込み、少女はそんな母が口を開くのを辛抱強く待った。やがて、母が「よし」と短く声を出すと、こう切り出した。

 

 

「今から、お母さんとお父さんが出会った頃の話をしてあげる」

 

「お父さんとお母さんの?」

 

「ええ。今から10年くらい前ね」

 

 

母が懐かしそうに頬を緩め、少女は瞳を輝かせた。両親の馴れ初めなど今まで聞いた事が無かった。初めてお家に地下室があることを発見したときのような、そんなワクワクがあった。

 

 

「……あの時は丁度、異世界条約が締結されて、異世界とこの世界を繋ぐゲートが日本の数か所に設置された時だった。私の住んでいた港町にもね」

 

「異世界条約……」

 

「テレビでしょっちゅうやってるわね。今は異世界の住民を受け入れるのか、行き来を出来るようにするのかどうかで大揉め中だけど」

 

「うん」

 

「当時はまだ、物のやり取りだけだった。巨大なゲートを通じて異世界の物を輸入して、この世界の物を輸出した」

 

 

それは今や日本国民の誰もが知っている異世界との交流の歴史だった。そしてそれは必ず、招かれた悲劇と共に記憶されている。

 

 

「お母さんはある日目覚めたら、動物みたいな耳と尻尾が生えてた」

 

「幻獣病」

 

「そうね。ゲートからウイルスが入ってきてたまたまお母さんに感染して発症した。お母さんの場合は、ほのかもそうだけど、“雷虎型”ね。電気を操る虎。あくびをしたら口から青白い電気がびりびりって出てびっくりしたのを今でも覚えてる」

 

「ふふっ」

 

 

幻獣病は異世界に住む獣の特徴が身体に現れる病気だった。これは国も全く予期していなかったことで、社会は大きな混乱に陥った。

 

 

「お母さんはそれから酷い差別を受けた。歩いているだけで石を投げつけられたり、通りすがりの人に見た目の悪口を言われたり、入店を断られることもしょっちゅうだったわ」

 

「何もしていないのに……ひどい……」

 

「そうね。でもしょうがないのよ。差別は人間の習性みたいなものだから。それに皆怖がってた。自分にもうつるんじゃないか、うつったら死んじゃうんじゃないかって」

 

「でも、そんなことないよ」

 

「当時は誰にも分からなかった。それに、事実は重要ではないの。大事なのはイメージ。人間の判断基準なんて案外テキトーなものなのよ」

 

「……うん」

 

 

それは少女にもよく分かっていた。周りの子供たちも無邪気に“ほのかお姉ちゃんは虎さんだからお肉食べるでしょ?”とやたら肉を食べさせたがった。虎=肉食獣のイメージがそうさせるのだ。少女は実際は野菜の方がずっと好きだった。

 

 

「それでお母さんね、暫くは黙って耐えてたの。そのうち治療法が出来ると思って。でもいくら待ってもそんなことはなくて……。お母さん、ある日キレちゃった」

 

「キレちゃったの?」

 

「ええ。“なんで私だけが”って」

 

「ブチギレ?」

 

「ブチギレ」

 

 

母は少しおどけたような口調で言った。少女は想像する。母は普段は優しいけれど、服を脱ぎっぱなしにするとか夜更かししてる時とか、怒った時は本当に怖かった。

 

 

「幻獣病患者が本気でキレるとどうなると思う?」

 

「獣になっちゃう」

 

「その通り」

 

 

幻獣病患者は制御できない程の強い情動に呑み込まれると獣に姿を変える。少女は幸いにも母のその姿をまだ見たことが無かった。

 

 

「お母さんはビルくらい大っきい青い虎。雷虎そのものになってゲートを壊すために暴れたの。周囲の無人の建物を沢山巻き込んで」

 

「青虎事件?」

 

「そう呼ばれてるわね」

 

 

それは死傷者こそゼロだったものの、初めて幻獣病患者が起こした印象的な事件もしくはクーデターとして国民に記憶された。

 

 

「でも、噛みついても電撃を放っても引っ掻いても全然ゲートは壊れなくて、そうこうしている内に国が協力を依頼していた異世界の戦闘部隊がゲートから出てきて、お母さんを魔法で丸焼きにしようとしたり氷漬けにしようとしたりした」

 

「……うん」

 

「お母さんは命からがら逃げだして、気付いたら人間の姿に戻ってて、まるで知らない都心の人目の無い路地裏で全身から血を流して死にかけてた」

 

「……」

 

「そこに眼鏡をかけた男の人が近寄って来た」

 

「お父さん!」

 

「そう。お父さん」

 

「やっと来た!」

 

 

少女は歓喜の声を上げた。ずっと母が可哀想な話が続いていたから早く父が現れて欲しいとうずうずしていたのだ。

 

 

「お父さんは傷だらけのお母さんを見て、その耳と頬の曲線と尻尾を見て全部察したみたいで、お母さんを国に差し出さずに、お父様、つまりおじいちゃんがやってた個人病院に連れ帰って看病したの」

 

「おじいちゃん好き!」

 

「ほのかのこと大好きだものね」

 

 

母は微笑んだ。今は娘に甘々な好々爺という言葉が似合う背中の丸いおじいさんだが、当時は厳格な雰囲気を纏った人間だった。幻獣病患者に対しても否定的な立場だったが、少女の父が必死に頭を下げて母の治療を行うように説得したのだった。

 

 

「それでね、お母さんは何とか命を救ってもらった。それで、事件から数か月後に起きて、テレビのニュースを見て、初めて自分がやってしまった事の大きさを知った」

 

「……?」

 

「日本各地で似た事件が起きていたの。今まで虐げられていた幻獣病患者が獣に姿を変えて社会に対する怒りをぶつけるように暴れ回っていた」

 

「黒犬事件とか赤牛事件とか……?」

 

「そう。ケルベロス型と火牛型ね。それ以外にも沢山。彼らが暴れた要因はいくつもあったと思うけど、その大きなきっかけになったのは間違いなくお母さんだった。お母さんが、皆の背中を押してしまったの」

 

「でも、そんなの時間の問題だから、お母さんは悪くない」

 

「そうかもしれない。でもあの時お母さんはひどく責任を感じた。死人も怪我人も沢山いて、世間の幻獣病に対するイメージはますます悪化して、幻獣病患者の未来を壊してしまったと思った。それが怖くて悲しくて悔しくて。お母さんの心がぐちゃぐちゃになって、気付いたら泣いちゃったの」

 

 

恥ずかしそうに微笑する母。

 

母のその感情に少女は覚えがあった。自分の父と母の関係を疑われた時の心境と一緒だと思った。だから母の苦しさを少女なりに少しは理解できた。

 

 

「それで身体を抱えてベッドの上で泣いていたら、お父さんが布団を掛けながら抱きしめてくれて、“大丈夫。僕が幻獣病治療の薬を作って、みんなが生きやすい未来を作るよ”って言ってくれたの」

 

「かっこいい!」

 

「ふふ。そうねぇ。でもあの時まだお父さんは大学院の博士、つまり研究者の卵でしか無かったし、言動もお父さんにしてはキザ過ぎて、今思い出すとちょっと面白いかも」

 

 

そう言う母はそれでも大切な思い出と一目で分かるほどに優しい笑みを浮かべていた。

 

 

「それからお母さんは、お父さんの家を隠れ家みたいにして居候になって、気付いたら好き同士になって、夫婦になったの」

 

「ふーん……」

 

「お父さんの胸に酷いやけどの傷あるでしょ」

 

「うん。一緒にお風呂に入ってる時に見た」

 

「あれはお母さんが救ってもらった時に抵抗して付けちゃった傷みたいなの。たぶん感電したときは胸を金槌で思いっきり殴られたみたいな痛さを感じたと思うんだけど……それも愛の大きさだよね!っとかあの人は言うんだから理解できないわよね」

 

「お父さん、お母さんの事大好きだもんね」

 

「……」

 

「……それで、お父さんってどんなところが強いの?」

 

「あ、そうだったわね。昔話に夢中になっててすっかり忘れてたわ」

 

 

母は照れくさそうに“ごめんごめん”と笑った。

 

 

「信念を貫き通している事よ」

 

 

母は少女と目を合わせて言った。

 

 

「信念?」

 

「そう、信念。当時は幻獣病患者に対する風当たりが強かったけれど、それでもお父さんは自分の良心を信じて死にかけていたお母さんを助けて、自分の想いを信じてお母さんをうざいほど好きになって、自分の力を信じて今では幻獣病研究の第一人者となって獣化を抑える薬も作ってみせた」

 

「……すごい」

 

「でしょ。お父さんは確かに細くてお母さんより力は全然無いけれど、お母さんよりも誰よりもずっとずっと強い心を持っている」

 

「心……」

 

「強さは力だけじゃない。色んな種類があるのよ。理解できた?」

 

「うん!」

 

 

少女は満面の笑みで頷いた。

 

お父さんは強い。

 

そんな揺るがない“信念”を少女も持つことが出来たから。

 

そして大きな疑問を解決した今の少女には、果たさなければならないもっと大事な任務が一つできていた。

 

 

「ねぇ、お母さん」

 

「ん?」

 

 

それは、

 

 

「お父さんとどんな風に好き同士になっていったの??」

 

 

両親のコイバナを聞くことだった。

 

 

 

 

 

主に少女にせがまれる形で二人が長らく喋っていると、やがてトレーニングスペースの入り口の扉が音を立てて開いた。二人が視線を向ければ、そこに立っていたのは件の“お父さん”と、その足元に立つ今朝方に少女と言い合いになった赤髪の女の子であった。

 

 

「今日は異世界担当大臣と会議があってね。それでとっても美味しそうなケーキを子供たちにどうぞってたくさん貰って来たんだ!」

 

 

父は弾んだ声でそう言って女の子の背中を押す。ゆっくりと歩み出た彼女のその小さな手には、縦長の家にも似た箱型の紙の容れ物がぎゅっと握られている。中身はケーキに違いない。

 

父の微笑みに母も微笑みで返し、少女の背中を押した。少女は少し緊張した面持ちで女の子の元へ歩み寄る。向かい合う。

 

 

「これ」

 

 

女の子が容器を開いて中を見せた。少女が覗き込めばそこにはたくさんの種類の美味しそうなケーキが入っていた。

 

 

「ほのかお姉ちゃん。朝は……ごめんなさい」

 

「うん。私の方こそ、ごめんなさい」

 

 

二人はペンギンのように可愛らしくペコリと頭を下げ合った。

 

これでもう仲直り。

 

顔を上げた女の子は、ぱぁっと表情を明るくする。

 

 

「ほのかお姉ちゃん! ケーキ、一緒に食べよ!」

 

「うん。食べようね」

 

 

それですぐに、女の子が先導する形で二人は皆が待つ食事場に向かうために、トレーニングスペースから出て行こうとした。そんな二人の様子を少女の父と母が優しい笑みで見つめている。だがふと、少女が足を止めて振り返った。母が、忘れ物でもしたのかと尋ねる前に、少女が口を開いた。

 

 

「お母さんね。お父さんの事、世界一好きだって‼」

 

 

少女の可愛い悪戯であった。

 

少女はニシシっと満足げに笑うと、今度こそ女の子と一緒に扉から出て行った。

 

残されたのはニヤニヤと笑っている眼鏡の男と、顔を真っ赤にして彼の視線から目を逸らしている女である。

 

 

「なんだい? ほのかに僕たちが愛の逃避行をした昔話でも聞かせていたのかい??」

 

「うっさい」

 

「いやー、あの頃の君は寂しがりな猫、いや虎みたいにいつもくっついてきて実に可愛かったね! もちろん今のツンデレな感じも凄く好きだけど!」

 

「……うっざい」

 

「あれ、僕の事嫌いになっちゃったのかい? いやぁ、悲しいなぁ!。まぁそれでも僕は君一筋で君に愛を捧g……ぐぇ⁉」

 

 

女は床を蹴って一瞬の内に男の背後に回り込むと、その襟首をやや強引に引っ張った。

 

 

「……嫌いなわけないでしょ」

 

 

その囁きを聞いてまた元気に何かを言おうとした男だったが、女がそのままずるずると襟首を引っ張ったまま少女たちの後を追って出口へと向かっていくので、男は呼吸をするので必死で、それ以上何も言うことは出来なかった。



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雷神の娘に愛される

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リビングにはゆったりとした時間が流れている。

 

横長のソファの中央に眼鏡を掛けた青年が座り、その太腿の上に自分のお腹が乗るようにして、毛先を青く染めた活発そうな女性がソファの上にうつ伏せになっていた。

 

二人が手にしていたのは同じ種類の携帯ゲーム機。モンスターを狩るゲームを協力プレイでやっていた。

 

女性が声をかける。

 

 

「あ、ぴよった。尻尾切って尻尾」

 

「了解」

 

「てかもう死んじゃうかも」

 

「まだ尻尾切れそうにないけど」

 

「早く早く」

 

「無茶言うな」

 

 

「「あっ」」

 

 

二人が揃えて声を発したのは、標的であるモンスターを討伐してしまったからだった。

 

 

「私の尻尾ぉーーっっ」

 

「だからまだかかるって言ったろ」

 

「だってハンマーで頭殴るの楽しいんだもん」

 

「言ってることやば……」

 

 

それからゲーム機の画面がローディングの為に真っ暗になって、しばらくは、長い付き合いのある者同士が生み出す特有の心地良いだらりとした沈黙に包まれていた。

 

不意に青年の方が口を開いた。

 

 

「そう言えばさ」

 

「んん?」

 

「最近、鳩増えてね?」

 

 

鳩。

 

公園にいる鳩。

 

駅のホームを歩いている鳩。

 

街のどこにでもいる鳩。

 

ではない。青年が指しているのは神界から、手紙の使者として飛んでくる真っ白な鳩のことだった。彼らは最近、事あるごとに二人の家の周りに出現した。ベランダにも玄関にも、ちょっと目を離した隙に現れ、青年か彼女がその姿を目にしたことに気付くと途端に鳩はお役御免とばかりに手紙をその場に置いてどこかに飛び去って行くのである。

 

 

「増えてんね」

 

「増えすぎじゃね」

 

「最近、”お見合いしろ”ってのが多かったからさ。あんたの写真と一緒に、”こいつが私のパートナーなのでそういうの送ってこないでください”って手紙送ったら何か増えた」

 

「何かって言うか絶対その手紙が原因だろ」

 

「間違いないね」

 

「てか……え? 俺の顔、お前のパパ神様にもう晒されてるってこと?」

 

「そう」

 

「えぐっ」

 

 

顔を上げもせず事も無げに言った彼女に、青年は苦い顔を浮かべた。

 

 

「どうすんだよ怒ってたら」

 

「怒ってんよぉ~」

 

 

彼女はゲーム機をソファの余った位置に置くと、体を起こして背もたれにもたれ掛かり青年と頭を並べた。

 

 

「”説明しなさい”とか”帰ってきなさい”とか、ばっかり」

 

「俺なんかした?」

 

「一族の中じゃ私が一番色濃く雷神トールひいひいひいひい……おじいちゃんの性質を受け継いでるからね。一族の期待の星が人間とかいうピラミッド最下層の生物の雄と結ばれるのが相当に認められないんでしょ」

 

「俺の立場よ」

 

「大丈夫。私的には最下層じゃないから」

 

「そう言う問題じゃねぇだろ」

 

「えー、里帰りめんどいー」

 

 

彼女がうだうだ言い始めた頃合いで、インターフォンが鳴った。青年は「はぁい」と玄関に向かって言って立ち上がり、彼女も「Anazon来たかも」と玄関に行く彼の背中に付いて行った。

 

青年が扉を開ける。

 

 

「なっ……」

 

「うわぁ」

 

 

青年は目を見開き、彼女はドン引きとばかりに嫌そうに顔を顰めた。

 

お出迎えしたのは大量の、視界が埋まるほどの鳩の大群であった。既に地面には沢山の手紙と羽根と糞尿が落ちていて、羽ばたく音と鳴き声も幾重にも重なって、軽い地獄であった。

 

神界にいる彼女のご両親はかなりご立腹らしい。

 

 

「一旦帰りますか……」

 

 

彼女は諦めたように呟いた。

 

 

 

 

 

 

「人間風情がどうやって我が娘の心を奪ったのだ。恋の呪いか? まじないか? さぞ非道で下劣な手段を使ったのだろう!!」

 

 

彼女の父親の怒号が汚れ一つ見当たらない神聖な雰囲気のある白一色の玉座の間に響き渡った。

 

青年は心の中でため息を吐いた。

 

さっきからずっとこれだ。

 

 

二人で神界に行き、彼女の両親が待つ神殿へと向かった。そこまでは良かった。ついて早々に青年だけが先に玉座に通された。待っていたのは豪華絢爛な椅子に座る如何にも偉そうな立派な白ひげを蓄えたまるで彫像のような威圧感のある8mの半裸の大男と、布を纏った美しくも大きな女性であった。

 

始まったのは挨拶とは名ばかりの詰問であった。

 

 

「いえ、下劣な手段なんてまさか。彼女とはただゲーセンで出会ってそこから仲を深めていっただけで、怪しい事は一切してませんよ」

 

「嘘を言え! あの娘が下等生物である人間の男などを好きになるものか!」

 

 

父親の怒りの感情が視覚化されるが如く、壁に立て掛けてあった大量の剣が浮き上がり飛び付いてきて、青年に剣先を向けたまま四方を取り囲んだ。

 

 

「真を申せ! さもなくばお前の身体をずたずたに引き裂いてくれる!」

 

「ですから、さっきから言ってることが全て本当の事で」

 

「いい加減にしろ!」

 

 

言い訳をしていると思ったらしい父親は頭に血を上らせて、剣の内の一本を青年の肩に向かって飛ばした。

 

風を切って迫りくる剣。

 

人間の青年にはただ目を見開いて身体を強張らせることしか出来ない。

 

距離が縮まる。覚悟する。剣先に貫かれる。

 

その瞬間、

 

 

バチンッッッ!!

 

 

どこからともなく青白い光を放つ稲妻が青年の目の前を横切って、向かってきていた剣を弾き返した。からんからん、と剣が石畳の上を転がる音で青年は我に返る。振り返れば、玉座の入り口に左の手の平を青年の方に向けた彼女が立っていた。手の平からは小さな稲光が名残を残すように空気に飛び散っていた。

 

 

「いい加減にするのはお父様の方ですよ! 先に彼を呼びつけて私がいつまでも呼ばれないから来てみれば! 客人に、あまつさえ娘の恋人に手を掛けるなど、まともな親のすることではないでしょう!」

 

 

彼女はぎりっと目を細めて父親を睨むと、次に隣に座る母親を睨んだ。彼女の髪がバチバチと電気を帯びながら揺らめいていて、荒げた口調からは怒りが溢れ出している。

 

 

「お母様もなぜ止めないのですか!? お母様の大好きな”礼節”を欠いた恥ずべき行為ですよ??」

 

「あら。人間相手に礼節など必要ないのよ?」

 

「ちっ。」

 

 

事も無げに言う母親に虫唾が走るとばかりに彼女は大きな舌打ちを一つして、”だから来たくなかったんだよ……”と忌々しげに呟いた。。

 

 

「それよりもなんだお前、その恰好は! この玉座に入るときは相応しい恰好をしろと教えただろ! 召使に用意させたドレスはどうした!」

 

 

怒鳴る父親を気にも止めず、彼女は煽る様に”ああ~”と声を漏らした。今の彼女は、上は肩から下を外気に晒した袖なしの黒いニット、下はベルトで留めたデニムのパンツを履いていて、ニットは肌に密着して大胆に胸のラインを強調していた。人間の女性のファッションとしては街中でもまま見られる服装であるが、当然のようにドレスほどの煌びやかさや厳かさは無い。

 

 

「あれは暑いし動きにくいしで、全く着てられませんよ」

 

「なんと嘆かわしい! まさか人間社会に堕ちて10か条も忘れたか!?」

 

「10か条、ねぇ」

 

 

彼女は味わうように言葉を繰り返す。

 

 

「久しぶりに聞きました。神聖なる場では相応しい服装を着用すること、あとは……こんなのもありましたね。神の一族たる者、身体を傷つけたり不浄なるものを受け入れてはならない」

 

「そうだ。覚えてるじゃないか」

 

「いま思い出したんですよ。とっくの前に捨て去った古臭い決まり事だったなと」

 

「なに?」

 

 

娘の言葉に両親は眉を顰める。

 

 

「どうぞ倒れないでくださいね」

 

 

彼女は意味深げにそう言って笑った。そうして次には見せつけるようにポケットから煙草の箱を取り出すと、左手の人差し指と中指で挟んで一本咥え、右手の指先から放った細い雷で先っぽに火を点け、美味しそうに煙を吐き出した。

 

 

「ふぅー……。知っていますか。これは煙草という人間の嗜好品です。肺を汚す代わりにリラックスできるんです」

 

「あらまぁ……」

 

「お前……」

 

「あとは、ほら」

 

 

彼女は両親を無視して首に掛かる髪をかき上げて隠れていた耳を出す。

 

 

「ここ見えますか? 耳に穴を開けて着ける装飾品で、ピアスと言います。人間がよくやるオシャレの一つです。カッコいいでしょ?」

 

 

次は服を少し捲り上げてへその横を見せる。

 

 

「ここにはちょっしたタトゥー。肌に刻むタイプのオシャレですね。簡単には消えません」

 

 

次は襟を下に引っ張って、鎖骨当たりを見せる。

 

 

「あとは、ここ。赤い跡がいくつかありますねぇ。昨日の夜から。触っても痛くは無くてむしろ幸せだなぁと思うんですけど、果たして何でしょうね。虫刺されですかね?」

 

 

彼女は愉快そうに笑った。両親は暫くの間、言葉を失い呆然としていたが、やがて母親の方が口を開けた。

 

 

「随分と堕落してしまったのですね。そんなにふしだらな様子では、男神からの寵愛を受けることは叶わず、誰もお前を貰ってはくれないでしょう」

 

「結構ですよお母様。偏屈者ばかりの窮屈な神の世界など、こちらから願い下げです。それに……」

 

 

彼女はそこで言葉を区切り、ちらりと青年に視線を向ける。青年と目が合うと共犯者を見つけたようにニヤリと笑った。

 

 

「そこの彼は、私を結構愛してくれてるみたいですよ??」

 

 

これに両親は激怒した。

 

 

「ふざけるな! 人間如きが神の婿になるなど許される筈がないだろう!」

 

「そうですわ! お前はこんな惨めな生き物よりももっと相応しい男神の元に嫁ぎなさい!」

 

 

二人はもはや我慢がならないようで、堰を切ったが如く言葉の濁流を娘に浴びせる。

 

しかしその両親よりも、もっとキレていたのは他の誰でもない彼女であった。

 

彼女は苛立ちを込めるように左手の親指と中指を合わせたままゆっくりと高く掲げて、ずらし、甲高い音を玉座の間に響かせた。その直後、

 

 

バチンッッッッ!!!!!!!!!

 

 

と強烈なイカヅチが父親と母親それぞれの目と鼻の先に落ちた。雷の直撃を受けた石畳は微塵に砕け散り、深く真っ黒な焦げ穴を残した。二人は息を呑む。彼女のありったけの怒りのエネルギーが込められていたことは誰の目にも明らかだった。

 

 

「すみません。手が滑ってしまいました」

 

 

目をかっぴらいた彼女は悪びれもせずに言う。

 

 

「もし次も手が滑ったら直撃してしまうかもしれませんが、どうぞご堪忍ください」

 

 

”次は殺しますので言葉に気を付けてください”の意であった。そこには親に対する容赦などは一切なく、彼女の周囲が青白く発光し時おりバチバチと音を立てていることが、本気である事を示していた。

 

二人が口をつぐみ、張り詰めた静寂が玉座の間に広がる。その重苦しい沈黙を破ったのは父親だった。

 

 

「……勘当だ」

 

 

怒り狂っていた時とは違い、努めて怒りを堪える様な呟くような声で言った。

 

 

「堕ちるとこまで堕ち、親を脅しさえする娘のことなどもう知らん。勝手にしろ。ただしもう二度と、神の世界に上がってこられると思わないことだ」

 

「そうですか」

 

 

彼女は平然と返す。

 

 

「それでは永遠(とわ)にさようなら。お父様、お母様」

 

 

小さく微笑んで、そう言った。

 

 

 

 

 

「良かったのか? あんな別れ方して」

 

 

帰り道。夕暮れに染まる都心の街を二人はぶらぶらと歩いている。

 

 

「良かったんだよ。元々、親も神界も大嫌いだったし。アンタと結ばれるには遅かれ早かれこうなってた訳だし」

 

「だからって縁まで切らなくてもなぁ……」

 

 

青年はしみじみと呟いた。

 

 

「ていうか俺大丈夫か。”神の雷を喰らえー”みたいなことにならないか?」

 

「私がいる限りは大丈夫」

 

「お前と別れたら死ぬじゃねえか」

 

「そうだよ。だから別れない方がいいよ?」

 

「この女(アマ)、脅迫してやがる……」

 

 

彼女はウシシと悪戯な笑みを浮かべた。

 

 

「とりあえずストレス溜まったからゲーセン寄って適当に音ゲーしてこ」

 

「財布家に置いて来てなかったか?」

 

「奢らないと神の雷が落ちるかもしれない」

 

「何でもいけると思うなよ」

 

 

二人は駄弁りながら適当に見つけたゲーセンの中へと入って行った。

 

 



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聖騎士に愛される2

27話「聖騎士に愛される」の続き的な。
尚、この話単体でも読めます。


娘は母と向かい合う形で一緒に浴槽に浸かっていた。母は銀色の美しい長髪を後ろに団子状に縛り上げていた。娘も雲間に差す光のように美しい銀色の髪をしていたが、母と違うのは獣の耳がぴょこりと生えている事だった。父からの遺伝だった。

娘はしばらく鼻唄を唄いながらお湯をちゃぷちゃぷと時おり跳ねさせて母との入浴の時間を楽しんでいたが、不意に視線を止めた。

隠すものの無い母の色白な身体を眺めるように見た。

 

「ねえ、お母さん」

「んー?」

「お母さんの身体って、沢山傷があるね」

 

無垢な娘が思ったことを口にする。

実際、母の身体は傷だらけだった、獣に強く噛まれて残ったと思われる沢山の歯型の傷や刺し傷が首から足先まで身体のあちこちにあった。

母は娘の問いかけに柔らかな笑みを返す。

 

「確かにそうね」

「お母さんが聖騎士だから? 魔物に襲われて付けられたの?」

「それもあるにはあるけど、ほとんどは違うわね」

「じゃあ、なんで?」

「お父さんが昔につけたのよ」

 

娘は目を真ん丸にして驚いた表情をした。当然だろう。まさかいつも優しい大好きな父が母を傷だらけにした張本人だなんて思いもしない。

娘は恐る恐る尋ねる。

 

「……お父さんが、お母さんをいじめたの?」

 

娘の真剣な表情が可愛らしかったのと、安心を与えるために母はふっと微笑んだ。

 

「そんなことないわ。お父さんは優しすぎるほどに優しいから」

「そうだよね!」

 

娘の不安は母の言葉で消え去り、パッと明るい表情になった。

 

「でもでも、それならどうして?」

「……そうねぇ。エマは、お父さんが昔に悪いことをしちゃったって話、覚えてる?」

「うん。悪い魔女に操られて、大きくなって、暴れちゃったーって」

「正解」

 

娘は記憶力を披露するように得意げに話した。母は娘の柔らかな髪を撫でて褒める。

今はそれでいい。

幼い娘にはその悲惨さを理解するには早い。それほどに残酷で無惨な過去だった。街は火の海に包まれ、建物が壊れ、人間の死体が道に積み重なった。それを引き起こしたのは悪名名高い魔女であり、その魔女に憐れにも操られた父であり、その全ての惨状を終わらせたのは聖騎士たる母であった。

 

「お父さんは生き残った街の人々から、火あぶりや肉剥ぎと言った死んだ方がよっぽどマシな責め苦を死なないギリギリでより苦痛を与えるようにして、散々受けた」

「……可哀想」

「そうね。でも仕方がなかった。人々にはそれ程の怒りや悲しみがあったから」

 

母は続ける。

 

「それから解放された後も、お父さんは自分を許すことなく責め続けた。自分の鋭い爪とか家にあったナイフとかで自分の身体を毎日ひどく痛めつけた」

 

娘が本当の言葉の意味を理解しているか、本人以外には分からない。だが大事な話であることは分かっていて、だから口を挟まずにじっと聞き入っていた。

 

「お母さんはそれが見てられ無くて、お父さんを身体を張って止めたの。お母さんの指や腕を代わりに噛ませて、ナイフを受け止めて、抱きしめて。もういいんだよって」

「……痛くなかった?」

「痛かったわ。でも、これがお父さんが感じている痛みなんだって思うと嬉しさもあった」

「嬉しいの?」

「そうねぇ……。エマにはまだちょっと難しいかもしれないけれど」

 

そこで言葉を区切って、娘が大人になっても覚えているように大事そうに言った。

 

「本当に愛しい人が相手だったら、喜びも悲しも、楽しさも苦しさも、全部分かち合いたいって思うのよ」

 

”だから大事な傷なの”と母は愛しそうに肌を撫で、娘は”ふ~ん”と曖昧な相槌を漏らし、母はそれを聞いて”そのうち分かるわ”と笑った。

それから思い出したように言った。

 

「……そう言えばいつも泣いてたわ。お父さんが」

「お父さんが!?」

 

大人は泣かないと思っていた娘には、衝撃であった。

 

「なんで? お母さんが痛いのに、痛くないお父さんが泣くの??」

「お父さんは優しいから、お母さんが傷つくとお父さんの心が痛くなっちゃうの」

「心が?」

「そうよ。お父さんは自分のせいで傷ついたお母さんを見て、ごめんねっていつも泣きながら謝ってたの」

「お父さん、泣き虫だ」

「ふふ。間違い無いわね。でもエマが生まれてからは泣き虫じゃなくなった」

「なんで?」

「お父さんが悲しいーってなってたら、エマも悲しくなっちゃうでしょ?」

「うん。なる」

「だから強くなったの」

「私のおかげってこと?」

「そう、エマのおかげ」

「うへへ」

 

娘は誇らしそうに笑った。

 

 

 

 

それから二人はお風呂を出た。



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虚海生物対策局員に愛される

冗長


夜が深まって家々の明かりも消えた住宅街を背中に長い筒を背負った一人の若い女性が駆けていく。身体を動かすのに邪魔にならないように肩甲骨に届くほどの長い黒髪は結われていて、前髪はセンターで分けられ、眼鏡を掛けていて、切れ長の瞳と薄い唇、スラリと伸びた背筋は凛とした雰囲気を漂わせる。ネクタイを締めた白シャツの上に来ているのは虚海対策局員の制服でもある紺色のコートで、左胸にはその証である白い錨のバッジがついている。

 

不意に、彼女が足を止めた。

 

音が聞こえたからだった。誰かが急ぎ足でコンクリの上を踏み鳴らしていく音が。それは段々と近付いて来る。彼女はその足音が、隣の家々の隙間の小道で、自分が今立っている道路に対して平行に伸びている真っ直ぐな路地の奥の方からするものだと予測した。深夜の慌ただしい足音には二種類ある。虚海生物が人間をおびき出すためにわざと立てる足音らしきものと、虚海生物から逃げる人間のもの。いずれにせよ虚海生物に辿り着く。彼女は背中の筒から槍を取り出して握ると、路地に対して垂直な小路に入って待機し、前を通過する物体をじっと待った。

 

やがて大学生と思われる青年が背後を気にしながら目の前を走り抜けていった。そのすぐ後を、地面から牙の生え揃った口を大きく開けながら泳ぐ巨大なアンコウが追いかけて行った。

 

予想的中。

 

彼女はすぐさま地面を蹴ると駆け出し、路地に入り込み、駆け出した勢いのまま見上げる程に高く高く飛び上がった。そうして槍先を真下に構えると、未だ青年を追いかけているアンコウの脳天に狙いを定め、重力のままに一気に落下した。槍はアンコウの身体を容易く貫通し、吸収しきれなかった衝撃は地面を凹ませて周囲に衝撃波として伝わった。ビルの窓が、カタカタと揺れた。

 

アンコウは全身を白くして動かなくなった。

 

彼女はアンコウの頭から飛び降りると、尻もちをついている青年に、黒いレザー手袋を被った右手を差し出す。

 

一般人にとって、目の前で起きた光景はおよそ有り得ない事ばかりだろう。だが、問題は無い。虚海生物とそれに関する全ての記憶は眠りと共に忘れ去られる。だから今の出来事は奇妙な夢と同等だ。尤も今この瞬間だけは、戸惑いや恐怖で正気を保っていられない人がほとんどだが。

 

 

「ありがとう!」

 

 

青年は違った。まるで何事も無かったかのように、アンコウの怪物に追われていたという非日常など起こり得無かったかのように、随分と涼しい顔で彼女の手を掴んだ。

 

黒いコートを着た彼は、大学生のような見た目だった。それもかなり容姿が整った、雑誌の表紙にでもなっていそうな如何にも女好きしそうな顔をしていると、女性は一瞬思った。が、どうでもいい事なのですぐに忘れた。

 

そんな事より重要なことがあった。

 

 

「貴方、手が……」

 

「それじゃ!」

 

 

青年はニコリと笑うと、彼女の手を離して路地の向こうへと駆けて曲がって行った。

 

 

「あ……」

 

 

と彼女は小さく口を開け、その遠くなる背中を慌てて追いかける。だが曲がった先では既に彼の姿は無かった。

 

彼女は自分の手の体温を確かめるように皮の手袋を外して、直接首に当てた。

 

冷たかった。

 

でも、彼の方がもっと冷たかった。

 

この気温で冷えた、では全く説明できないくらいに。

 

言うなれば深海のように、冷たかった。

 

 

 

虚海。

 

それは現実世界とは別に存在する影の世界。そこにはどういう訳か深海に生きる魚介類にも似た姿をした生物たちが多数生息しており、彼らは人目に付かない影のある場所で、時々人間を襲って食糧とした。

 

それを防ぐために国によって設立されたのが虚海生物対策局だった。局長の娘であり、母を虚海生物に喰われた彼女もまた局員となった。

 

特別な訓練を受けた局員たちは支給された槍の武器を片手に今日も虚海生物を駆除している。

 

全ては国民の安全のために。

 

 

 

深夜。その日は雪が降っていた。

 

気温は零度を下回り、吐く息は白くなる。コンクリの地面には既に薄く雪が積もり始めていた。未だ経験の浅い下級局員である彼女は、初老に差し掛かろうかという白髪の上司の男と共に駅付近の現場へと向かっていた。彼女が一人で向かった依然の現場とは違う、被害者数がそこそこ多い獲物らしかった。

 

 

「とりあえず二手に分かれて探しましょうかね」

 

 

家電量販店からファストフード店まで雑多な建物が立ち並び、複雑な迷路のように沢山の細い小路を生み出している駅周りの景色を忌々しそうに見渡した上司は、彼女へと振り返って言った。

 

 

「分かっているとは思いますが、獲物を見つけたら私に連絡をして到着を待ってください。相手はトラップ型のイソギンチャクです。くれぐれも一人で突っ込もうとは思わないように。死にたくなければねぇ」

 

「はい」

 

 

自信の冗談めかした口調に眉一つ動かさずに返事をした彼女をつまらなそうに見遣ると上司は振り返って、さっさと捜索のためにビル群の中へと駆けて行った。

 

一人になった彼女も、上司とは別方向に建物の間の暗闇が広がる細い道へと入って行った。

 

両隣を建物の壁に挟まれている。閉塞感があった。それに静かだった。まるで雪が周囲の音を吸い取ってしまっているかのようで、生き物の気配などまるで感じなかった。死の世界。振り返って遠くに見えるコンビニの明かりが恋しく感じた。

 

流石にこんな場所にはいないか。

 

彼女はそう見切りをつけて踵を返そうとした。しかしその時。ふと、視界の隅で光を見た。反射的に視線を向ければ、それは路地の奥の曲がり角から漏れていた。街灯や店の光とはどうも違う。青白く淡い光だった。

 

冷静であれば普段とは違う状況を訝しむことが出来たかもしれない。しかし彼女はその光が気になって仕方なく、もはや魅力的にさえ思えてしまっていた。

 

あえて言えば、この時点で既に彼女は獲物の術中に嵌っていたと言えるだろう。

 

彼女が光に引き寄せられる蛾のようにふらふらと歩いて行き、角を曲がれば、そこには青白く発光する木が生えていた。降りしきる雪の中で光るその木は神々しさを纏っていた。標的たるイソギンチャクであった。

 

彼女は気付いていない。

 

立ち止まって眼を見開く。

 

木には沢山の実がぶら下がっていた。その実は球状で透明で、その中に映っていたのは彼女の母とのかけがえのない思い出だった。幼い頃に母に髪の毛を結ってもらった記憶、一緒にご飯を食べた記憶、雑貨屋に買い物に行って二人して楽しく商品を選んだ記憶……。

 

懐かしき日常の数々が、今は失われた大切な時間が、そこには幾つも映し出されていた。彼女が夢見る程に、目覚めてもうこの世に居ない虚しさに涙する程に焦がれた母はそこにいた。彼女はそれを近くで見たくなってもっと木に歩み寄る。伸びている木の枝に手を伸ばして引き寄せて、愛しい記憶の実を真正面に引き寄せる。

 

夢中になって覗き見た。

 

網膜に焼き付けるように。寂しさを埋めるように。

 

その間彼女は無防備で、それが虚海生物の狙いだった。木は彼女の知らないうちに形を変えていく。四方に伸びていた木の枝は徐々に彼女を包むように、まるでパーを閉じていく手のように、彼女の周りを囲んでいった。

 

それは獲物を逃がさないためであった。後は彼女の足元に虚海へと続く大穴を開けて、落せば良いだけ。しかし彼女が獲物にそうして襲われる瞬間、足元がぐらぐらと揺れた。

 

 

「っ!?」

 

 

彼女は咄嗟に地面を蹴って距離を取る。同時に木の根元から大きなクジラが飛び出すように現れて、その牙のびっしりと生えた大きな口で木を咥えて噛み潰してしまった。飛び出したクジラはやがて地面の上に大きな地響きを立てて身体を着地させる。彼女は揺れに耐えきれずに後方にバランスを崩して尻もちをついた。目の前で起きた光景の脳卯内処理がまるで追いつかなかった。美しい木を見つけて、母の思い出を眺め、気付けばクジラに変わっていた。

 

見上げる先、クジラの背中に誰かがいた。飛び降りて雪の上に着地する。

 

 

「やあ、また会ったね」

 

 

黒コートを着た人当たりの良さそうな青年。そうだ、見た事ある。彼は、先日に虚海生物に追われているところを助けた青年だった。

 

青年は未だ座り込んでいる彼女に手を伸ばした。

 

 

「この前の借りを返しに来たよ」

 

 

青年がにこりと笑う。彼女は”ありがとう”と言いながらその手を取って立ち上がった。やはりその手は、驚くほどに冷たかった。とても生きている者の温度ではない。それはまるで虚海生物のような。いや虚海生物そのもの。彼は、虚海生物だ。間違いなく。目の前の巨大なクジラもそれを証明している。それは虚海生物が持つ人間を食べるときに使用する捕食器に違いなかった。何故だか今はそれが、木に、正確に言えば木に擬態したイソギンチャクを食べ、その本体なのか疑似餌なのかよくわからない青年に助けられた。彼女はそう認識した。

 

 

「貴方は虚海生物ですね」

 

「ご名答」

 

「何故私を襲わないのですか?」

 

「う~ん、それはねぇ……」

 

 

彼が悠長に答えを蚊が得ている間に状況は変わる。

 

 

「ああ、無事だったんですねぇ」

 

 

地響きを聞いて上司が駆け付けたのだ。上司は青年とクジラを見るとニヤリと笑みを浮かべる。

 

 

「おやおやおや。聞いていた話ではイソギンチャクでした化けクジラだったんですねぇ。お手柄ですよ~志貴さん」

 

 

上司はそう言いながら背中に背負っていた入れ物から槍を取り出す。

 

 

「それでは、さっさと駆除いたしましょうかね」

 

 

上司は腕を引いて槍を構えた。青年は”まずいなぁ~”と呑気につぶやく。いくら虚海に逃げ込むことの出来る虚海生物であろうとこれほどの近距離では投擲された槍からは逃げることが叶わない。そうしてただ立ち尽くす彼に上司が槍を投げようとした寸前、彼女が両手を広げて青年の前に立った。

 

 

「ちょっと待ってください」

 

 

今まさに槍を放とうしていた上司は驚いた表情をして腕を止めた。だがそれより驚いていたのは彼女自身だった。自分でもなぜ虚海生物などを庇ってしまったのか分からなかった。ただ衝動的に、この虚海生物は自分に害を与える気が無いと本能が判断し、ならばと、守ってしまったのである。

 

 

「どういうつもりですか?」

 

「この虚海生物は私を救ってくれました。ですから……」

 

「ですから見逃せとぉ? いやぁ~、それは無理な話ですねぇ」

 

 

上司は小さな子供に物を教えるように言う。

 

 

「何を吹き込まれたか存じませんが、それが虚海生物である以上は駆除対象ですよ。第一、それが人間を襲わない保証がどこにあるのですか」

 

「ですが」

 

「はぁ、分かりました」

 

 

押し切られると思った彼女であったが、上司は意外にもあっさりと槍を降ろした。代わりに目を見開き愉快そうな笑みを浮かべた。

 

 

「偶にいるんですよねぇ、人間そっくりの虚海生物に心を動かされてしまう愚かな新人が」

 

 

上司は槍をケースに仕舞いながら代わりに鎖を取り出す。そして目にも止まらぬ速さで投げつけて、あっという間に青年の身体とクジラの身体に巻き付けて拘束した。

 

これで一匹と一人は逃げることが出来なくなった。

 

 

「ですからそう言う勘違いをしちゃう子には特別な教育を行うんですよね」

 

 

言いながら上司は本部のある方に向かって歩き始めた。クジラと青年は上司の握る鎖に引っ張られて行く。

 

 

「楽しみにしていてくださいね。後ほど、本部の方から連絡と素敵な贈り物が恐らくありますから」

 

 

上司はそう言い残して歩いて行った。

 

 

 

後日。

 

 

家に青年がきた。局の偉い人間からの指示もあった。曰く、1か月生活を共にした後に、好きに処分しろと。つまりこの指示の目的は、まだ虚海生物に同情するような新人に対し、あえて虚海生物と共に過ごさせることで、人間との違いを嫌という程実感させることにあった。人間に似た姿をした虚海生物というのは大抵人間をおびき出すための疑似餌であり、似ているのは見た目だけで心などはまるで持ち合わせていないので、共に過ごすだけでその違いはうんざりするほど明るみに出てくるのである。

 

だが彼女の目の前に立っている青年と言えば、

 

 

「やぁ、またまた会えたね」

 

 

普通に会話が出来てしまっていた。これは虚海生物にしては随分と稀有なことだった。

 

 

「一か月後には永遠にさよならです」

 

「そっかぁ。なら一か月の間、よろしく」

 

「呑気ですね」

 

「今更焦ってもどうにもならないしね。鎖で縛られてて虚海に潜れないし、捕食器もとりあげられちゃったし」

 

「あのクジラですか」

 

「うん。まぁ人間にとっては危険だからだろうね~」

 

 

彼はつまり人類に仇なす方法を失った完全な丸腰という事である。考えてみれば当然だ。新人に送り付けるのに、抵抗する能力などあってはならない。

 

彼女はずっと気になっていたことを聞く。

 

 

「聞きたいのですが」

 

「何でもどうぞ」

 

「なぜ、疑似餌の貴方は仲間である筈のアンコウ種の虚海生物に追われていたのですか」

 

「ん~、仲間じゃなくなっちゃったからだと思うな」

 

「仲間じゃない?」

 

「うん。少し前に僕の主であり、僕を作った王が死んじゃったんだよね。そのせいで僕は虚海生物でとしてすら見てもらえなくなったみたい」

 

「王とは」

 

「王は王だよ」

 

「……なぜ自然に喋れるのですか」

 

「それはね、賢い王が僕をそう言う風に、文字通り一生懸命に作ったから何だよねぇ」

 

「……はぁ」

 

 

結局、”王”という存在がいること以外は大したことは分からなかった。

 

 

「これから一か月、仲良くしよう!」

 

 

彼は爽やかに笑った。

 

 

 

 

 

……そうして月日が経過した。

 

 

「あれからまさか、こうなるとは……」

 

 

ベッドに座り透明なテーブルの上で本を読んでいた彼女は、一旦読書を中断し視線を下にずらして、膝の上に頭を置いたいわゆる”膝枕”の体勢で携帯ゲームをしている青年を見下ろした。視線に気付いた青年が携帯ゲーム機から視線を外して、口角を上げながら彼女を見上げる。

 

期限の一か月を越えても尚、彼女は青年を処分していなかった。

 

 

むしろ、好きになっていた。

 

 

「どうかしたかい?」

 

「いいえ。ちょっと過去を思い返していただけです」

 

「過去を、ね」

 

「まさか貴方と恋人同士になるなんて夢にも思っていませんでした」

 

 

当初は当たり前のように処分する気でいた。この青年が他の虚海生物同様に人間みたく物を考えることが出来ずにただの見た目だけの模造品の人間をおびき出すための疑似餌であったならばそれも果たされていただろう。しかしこの青年は会話することが出来るのみならず、彼女に共感をすることが出来た。彼女にとって不快だと思われることは避け、彼女が喜ぶであろうことを、具体的には彼女が仕事に出ている間に家事を済ませるなどの行為を行っていたのである。

 

賢い王とやらはどうやら彼に人間としての心を作り与えたらしかった。

 

それに、青年は彼女とは正反対にうんざりするほどに楽天的で陽気で興味津々で冗談が好きで、だから一緒にいる彼女はまるで退屈することが無かった。仕事ばかりの彼女が普段決して行くことが無いようなカラオケや水族館と言った人間の為の娯楽施設に行くことをねだり、くだらない話をやたら饒舌に話して彼女を笑わせ、落ち込んでいる彼女を励ましたりもした。

 

そうして日々が過ぎるうちに、気付けば彼女は青年の事が好きになってしまっていた。疑似餌の彼にまんまと釣られたと言われれば全くその通りである。彼女はもはや青年を処分などは出来る筈も無かった。だから恐らくはバレていることは承知で、こっそり家で”飼い”続けた。

 

また。

 

驚異的な事には、青年は恋愛感情までもを理解していたようだった。王とやらは、恋心を抱けるほどに精密に彼を人間に近付けて作り上げたのである。そしてその対象は無論彼女で、身体を猫のように擦り寄せたり、”好きだよ”だの”可愛いね”だのと歯の浮くようなセリフを言ってみたり、人間よりも聊か直接的な感情表現をするので彼女にもすぐにそれと知れて、結果的に双方向な恋仲となった。

 

種族が違う事を除けば、おおよそ順調に関係を深めているように見えるがしかし、二人の仲は一定以上の進展は無かった。

 

二人の間で男女の性的な行為は、一切行われなかったのである。身体を重ねることも無ければキスをすることすら無かった。王の渾身の作品であり同種族において異端である青年にはそういった欲求もどうやら存在してはいるらしかったが、彼女が少しでもその気配を見せると決まって彼は敏感にその空気を感じ取り、のらりくらりと躱してしまうのである。

 

そうして”ふむっ……”と彼女が不満げに頭を悩ませ、”多少強引にでも押し倒すべきかしら”などと思案している頃だった。

 

局長室に呼び出された。

 

 

 

局長室は息の詰まるような緊張感のある空気に包まれていた。その中心にいるのは大きな執務机に両肘をついて座っている、白髪交じりの髪をオールバックにし、細い眉の間に奈落のように深い皺を刻み、崖のように切り立った鼻梁を持つ、屈強なスーツ姿の男。この男の風貌からは厳格な内面が滲み出ており、見る者には頭を垂れなくてはいけないと思わせるような威圧感を与える。男の役職を知らない人間であろうと、廊下ですれ違えば口を揃えて言う事だろう。

 

局長、と。

 

さらにそんな局長の隣には白衣姿の老婆が立っていた。歳を重ねて柔らかな空気を纏う彼女は虚海生物研究所の所長であり、普段研究所に居る筈の彼女が居ることは、この場に特別な意味合いをもたらしていた。

 

 

「それで、どのような御用件ですか。局長」

 

 

虚海生物対策局員の制服である紺色のコートに身を包んだ彼女は、机の前で礼儀正しく足を揃え背筋を伸ばした立ち姿のまま、実の父にそう問いかけた。無論、仕事の場では”局長”である。

 

父は重たい口を開き、よく響く低い声で言った。

 

 

「単刀直入に訊く。お前が生かしたままにしている虚海生物の疑似餌と接吻や性交と言った性的行為を行ったか?」

 

「彼と暮らしていることは知っていらしたのですね」

 

「質問に答えろ」

 

 

父は、答えをはぐらかした娘を言葉の圧を強めて咎めた。その質問がただ娘の色恋事情を興味本意で尋ねているような軽いものではなく、もっと重要な意味を持つことは明らかだった。

 

 

「まだ何もしていません」

 

 

彼女は端的に答えた。それが、まるで自分に大人の魅力が不足していますと白状させられているかのようで居心地の悪さを感じたが、父には当然そんなことは関係なく、彼女の答えを聞いて張り詰めさせていた緊張を少し解くようにため息にも似た息を吐いた。

 

空気が少しだけ緩む。

 

 

「なぜそのようなことを?」

 

 

彼女が尋ねると、父は言葉を返す代わりに隣に立つ所長に顔を向けた。父の視線を受けた所長は緩やかに頷くと白衣のポケットに手を突っ込んで何やら操作した。局長室の照明だったらしい、明かりが消えて真っ暗になった。所長が執務机に乗せていたパソコンを手にして、彼女の顔が浮かび上がる。所長がキーボードを叩けば、3人の中心に3Dの立体ホログラム映像が浮かび上がった。

 

白いマウスだった。

 

ケースに入ったマウスだった。

 

 

「志貴ちゃん、このマウスは研究所で飼育されている実験用マウスよ」

 

 

所長がしわがれた優し気な声で説明を始める。

 

 

「このマウスに、最近ようやく培養に成功した例の疑似餌の細胞を移植すると……」

 

 

所長がそこで言葉を切ったので、自然と視線は映像に向く。

 

ケースの中のマウス。

 

ちょこちょこと動き回るマウス。

 

毛繕いをするマウス。

 

次の瞬間。

 

マウスが、浮かび上がった。正しく言えば、床の茶色いチップの敷材にぽっかり空いた黒い穴からタコの細い腕が伸びてきて、マウスの身体に纏わりつき、掴み上げた。マウスは鼓膜を引っ掻くような甲高い鳴き声を響かせながら暴れるがタコの拘束からはまるで逃れることが出来ずに、最期には憐れにも穴の中へホラー映画の如くずるずると引きずり込まれて行ってしまった。

 

 

「察している通り、このマウスは虚海のタコに捕まって連れていかれてしまった」

 

 

映像がリプレイを繰り返す中、所長は説明を再開する。

 

 

「もしかしてと思って尿や血液と言った体液を摂取させてみても結果は同じだった。マウスは虚海に一匹残らず引き摺りこまれた」

 

 

所長はそこで一旦間を置いて、彼女の方を見た。

 

 

「これが意味することの重大性。志貴ちゃんにも分かるわね?」

 

「虚海生物が現実の生き物に触れている」

 

「その通り」

 

 

それは、あってはならない事だった。

 

虚海生物に対する共通認識としてこの世界のあらゆるものに触れることが出来ない、触れたらその瞬間から溶けて、崩れ去って、形を失う。というのが、常識であった。理由は定かではないが、一説には元々虚海生物と人間とは同種であり、古くに袂を分かった両者は世界を住み分け、それが世界の理となり、交わることを許されなくなったと、言われる。故に虚海生物は狩りをする際、疑似餌や何らかの物体や匂いやその他諸々を利用して獲物である人間を目標地点へと誘導し、地面に虚海に通じる穴を開け、落下させ、分解していく。そうでなくとも使い捨ての捕食器を用いて、獲物を捕らえて、溶けるその一瞬よりも更に素早い速度で虚海に引き摺りこんだり、何度も捕食器を再生させて狩りをする(サメ型の歯は人間を噛むと何度も溶けながら新たな歯が生え続ける)。それが人間が虚海生物の生態について今までに知り得た数少ない情報の一つだった。

 

マウスの実験結果はその常識を覆していた。

 

タコは平気でマウスを掴んでいた。

 

 

「まだ仮説ではあるけれど、恐らくは虚海生物を構成するものを取り込んだ生物は、虚海生物が触れることが出来るようになってしまう、と私たち研究班は考えている」

 

 

ここからが大事だとばかりに、所長の声が一段低くなる。

 

 

「志貴ちゃん、これをもし人間に当てはめるとしたらどうなると思う?」

 

「いつでも襲われてしまいますね」

 

「そうね。でも本人には悪いけれど、それだけで済んだらまだマシ。本当に恐ろしいのは、その人間の生殖能力を利用して、生まれ持って人間に触れることが出来てしまうような虚海生物が量産されられる可能性があるということなの」

 

 

虚海生物は今のところ生殖能力が確認されていない。

 

 

「捕まれば、男も女も、虚海生物の子作りに利用される」

 

「忌々しい話だ」

 

 

所長の隣でずっと沈黙していた父が吐き捨てるように言った。暗闇でも不機嫌そうに眉を寄せていることは容易に想像がつく。

 

 

「虚海生物の癖に人間の真似事をしようとは烏滸がましい」

 

 

所長が再び白衣のポケットに手を突っ込んでスイッチを操作し、局長室は明かりを取り戻した。父の鋭い眼光が彼女の瞳を捉える。

 

 

「今のでお前も理解した通り、人間に触れられる、イレギュラーと呼べるあの疑似餌は人類に対してひどく危険な存在だ。アレがその気になれば虚海生物にとって都合の良い人間が容易く作れる」

 

「彼は人間に危害を加えようなどとは思っていません」

 

「可能性を持つ時点で有害だ」

 

 

父は意見に異を唱えることを認めない。

 

 

「よってあの疑似餌を処分することにした。研究所の第3実験室を開けておく。予定日になったら、お前がアイツを鎖でつないで連れてこい」

 

「拒否します」

 

「連れてこなければお前を重大な規則違反で処分すると言ってもか」

 

「拒否します」

 

 

彼女は毅然とした態度で自らの所属する組織のトップからの指令を拒絶した。

 

父は机の上に置いていた握り拳を細かく痙攣させると、やがて頭に青筋を浮かべ机を力強く叩いた。

 

 

「ふざけるなぁ!! お前の身勝手でどれだけの人間が危険に晒されているか分かっているのか!」

 

「そんなことは知ったことではありません! たとえどんな事情があろうと愛する人の命を差し出すような真似は絶対にしません!」

 

 

父の物言いには誰もが怯みそうな凄味があったが、彼女は間髪入れずに真正面から言葉を返した。父は憎らしそうに娘を睨んだ。

 

 

「アレと大勢の命、天秤にかければどちらが重いかは明らかだろう」

 

「私にとっては彼の方がずっと重いです」

 

「計算の出来ない頭の悪い意見だ」

 

「そうして数に囚われていたから、お母さんを失ったのではないですか」

 

「なに?」

 

 

突然出てきた母の名前に父は視線を鋭くする。母が死んでから、両者の会話の中に母の名が出てくることはほとんど無かった。まるで触れてはいけない話題かのように、お互いに意図的に避けてきた。

 

その名が、娘の口から出た。

 

 

「お母さんを助けることも出来たのに、貴方はそれを選択しなかった」

 

「……」

 

「確かに、あの時は虚海生物の未曽有の大量発生が起こった年で、局員の数がまるで足りていなかったと聞いています」

 

「そうだ」

 

「その中でも当時黒錨で班長だった貴方は、自由に班を動かすことが出来る立場にあった」

 

「それも正しい。だからこそ私は、人々が多くいた都市部へと応援に向かった」

 

「そうですね。その選択によって都市の外れの避難所に避難していた私たちは見捨てられた」

 

「責めようと言うのか」

 

「いいえ。貴方の、大勢を救うという選択は決して間違っていなかった。ですがその結果として、あの避難所にいた人間はほとんど死ぬことになりました」

 

 

「お母さんも。私を守るために私さねtの身体を突き飛ばして、目の前で口を閉じたラブカ型に身体を半分に千切られながら虚海へと引き摺りこまれてしまった」

 

 

「生き残った私は涙が涸れる程に泣いて、そうして決意したのです」

 

 

「将来自分に大切な誰かが出来たら、何よりも優先して守ろうと」

 

 

父は”ふんっ”と鼻で笑った。

 

 

「現実を考えない、子供らしい意見だな」

 

「いくらでも笑ってもらって構いません」

 

「それで? 理想を語るのは勝手だが、アレの持つ危険性は何も変わらない。まさかお前のその我儘だけでアレを野放しにしろと言う気ではないだろうな」

 

「はい。彼の動向を私は常に掴んでいます」

 

「どうやって」

 

「彼を拘束する鎖の先のアンカーを私の心臓に引っ掛けています」

 

 

彼女は言いながら右手を心臓のある位置に添えた。父は目を見開いた。彼女は続ける。

 

 

「これによって、私は彼がどこで何をしているのか何時でも把握することが可能です。また探知不可能になる虚海水深5mより下には潜らない事を約束し、それが破られた場合、私の心臓は引き千切れて死にます。まあ、不安であれば私の生死の状態に拘わらず、私の身体を調べてもらえれば、繋がった鎖を辿って彼の在処を知ることが可能です」

 

「お前、自分が何をしているのか分かっているのか?」

 

「ええ」

 

「アレに自分の生死を握らせているんだぞ!」

 

「そうですね。でもそれで、彼を自分の元に繋ぎとめておけるのならば安いものです」

 

 

彼女は悲しげに笑った。

 

 

「自分の大事な人を失うのは、死ぬよりよほど辛いことですから」

 

 

悲哀をたっぷりと含んだその笑みには、美しさとある種の狂気が感じられて空気が一瞬静まる。

 

”それと”と彼女が畳みかける。

 

 

「私を疑似餌として使うのはどうですか」

 

「どういう意味だ」

 

「私が彼と関係を持つことで虚海生物にとって魅力的な存在となり、奴らをおびき寄せるのです」

 

 

彼女は平然と言った。父は、再び机を叩いた。

 

 

「そんなの認められるわけないだろ!」

 

 

父は激怒した。実の娘が自分を囮として使えと言っている。それは親としての心が許さなかった。そんな父を宥めるような冷静な声で彼女が、言う。

 

 

「今、人類は虚海生物に対して常に後れを取る状態が続いています。いつも被害が出た後に現場へと向かい対策をすることになる。しかも奴らは末端の所謂雑魚ばかりで、おまけに虚海生物は無数にいる。これではキリがありません。」

 

「分かっている」

 

「私一人に沢山の虚海生物を集中させることが出来るかもしれません。それは未然の被害を防ぐことに繋がります。それにもしかしたら、彼が”王”と呼ぶような虚海生物を作り出している上位種をおびき寄せることが出来るかもしれません」

 

「分かっている」

 

「私という少ない犠牲を払ってより多くの命を救う。それは局長の主義に合致しているのでは」

 

「分かっている!」

 

 

彼女の言っていることは合理的で認めざるを得なかった。だが娘に危険が降りかかることが分かっていて、ただ頷くわけにもいかなかった。だからせめて危険が少なくなるように条件を出した。

 

 

「一年だ。あと一年で黒錨になって自分で自分の身を守れることを照明しろ。それが出来たらお前の言った策を実行する」

 

 

それはひどく無茶な注文であった。

 

黒錨は局員に与えられる最も高位な階級であって、膨大な数の虚海生物の駆除や名前の付けられるような一筋縄でいかない狂暴な虚海生物を討伐するなどの功績を必要とした。それを成し得るのは大抵10年以上のベテラン局員で(10年も駆除局員として前線に立ち続けるのは既に異常なことである)長年の戦闘経験や飛び抜けた戦闘センスを必要とし、ベテラン局員が200人いたら一人いるかと言った割合であった。それ程に難しく、故に局員の誰もが憧れる。

 

父はその黒錨になれと娘に言った。たった二年に経験しかない娘に。残り一年で。

 

 

しかし、彼女は物怖じせずに堂々と言った。

 

 

「かしこまりました」

 

 

 

”一つ目の壁はクリアですね”

 

彼女は心の中でそう呟く。

 

 

 

 

 

それから彼女はひたすらに虚海生物を狩り続けた。

 

元々、局長の娘であり数少ない女性局員でもある彼女は何かと局員の注目を集めやすかったが、その仕事に対する姿勢が局員の間でいつしか話題になっていた。

 

局内の喫煙室で、二人の男性局員が話をしている。

 

 

「なぁお前、局長に娘さんがいるの知ってるか?」

 

「そりゃ勿論。あの娘、美人だよなぁ。黒髪ロング清楚系……。正直、めっちゃタイプだわ」

 

「話しかけてみたら?」

 

「無理だろ。局長に殺されるわ」

 

「間違いないな」

 

「ていうか、最近あの娘めちゃくちゃ現場で見るんだけど」

 

「俺も見たわ。昨日も見たし。噂じゃ毎日現場に行ってるらしいぜ」

 

「流石に嘘だろ。そんなの死んじまう」

 

「だよな。ただでさえ大怪我多いし死亡率高いのに休みなしとか死に急いでるわ」

 

「ああ……。でも、それは合ってるかも」

 

「え?」

 

「前、現場が一緒だったんだけどよ。あの娘どんどん前に行くんだよ。何て言うか恐怖心が無いって言うか。まじで死に急いでるじゃねーかってレベル」

 

「あぁ」

 

「でもよ、全然敵の攻撃とか当たんねえの。全部予想してるみたいに躱してさ」

 

「俺も見た見た。すげーよな、あれ。ベテランかよってな」

 

「なー」

 

「しかもめっちゃ強えんだよな。最低限の手数で確実に急所にぶっ刺していって……。俺、やること無かったわ」

 

「マジでそれ。あれで黄錨とか絶対嘘だわ」

 

「きっとああ言う天才が黒錨になるんだろーな」

 

「天才っつーか狂気だろ、あれは」

 

「違いねぇ」

 

 

 

それからやがて、虚海生物対策局の定期総会が行われる。会場に大勢集まった局員たちの視線を受けながら、彼女は壇上へと上がり、演台で待つ局長の前に立つ。

 

 

貴殿は……。

 

現在までの虚海生物の総討伐数は……。

 

さらに、タカアシガニ種『断切』、オオグチボヤ種『丸呑み』、ラブカ種『暴食』、クラゲ種『幻惑』、ダイオウイカ種『全知』の討伐……。

 

これらの功績によって……より……。

 

 

貴殿に”黒錨”の称号を授与する。

 

 

 

彼女は黒錨となった。

 

3年目での昇進は異例であり、最年少記録であった。

 

彼女は、父との約束を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

”2つ目の壁もクリアですね”

 

彼女は心の中でそう呟く。

 

 

 

 

 

 

 

その日の夜、寝床に着く時間を迎え二人して寝室に向かった。床の上には横並びの布団が二つ。いつものように彼はしゃがんで布団に入ろうとしたがその前に「ちょっとお話しませんか」と眼鏡を外した彼女が切り出した。「勿論いいよ」と彼は返し、二人して布団の上に向かい合って座る。

 

青年はあぐらで、彼女は正座で座った。

 

 

二人は視線を交わらせる。

 

 

「さて、どんな話をしようか? 寝る前にとっておきの怪談話でも披露するかい?」

 

「それはちょっと気になりますね……。でも、今聞いたら眠れなくなっちゃいそう」

 

「トイレに行く度に起こしてくれて構わないよ??」

 

「そんなの恥ずかしくて私が嫌ですよ」

 

 

彼女は可笑しそうに笑いながら言った。それから一呼吸置いて彼女は微笑みを浮かべながら切り出した。

 

 

「今日の私の晴れ舞台。見てくれていましたか?」

 

「それは勿論。人が多すぎたからドームの屋根の梁にこっそり座って眺めさせてもらったよ」

 

「どうでした?」

 

 

彼女は青年に問いかけるように少し首を傾けた。その柔和な表情にはしかし、内なる自信が見て取れた。

 

長い付き合いになる青年はその期待を見逃さない。彼は瞳を大きくして口角を上げた。

 

 

「とてもカッコよかったよ。僕ら虚海生物が震え上がっちゃうようなおぞましい数の局員たちの視線を壇上で一身に受けながら、局長から”黒錨”に任命された堂々たる君の姿は本当にクールだった」

 

「ありがとうございます」

 

「さながら、新たな王の誕生を目にした気分だったね」

 

「それは、ちょっと大袈裟かもしれません」

 

「いいや、ちっとも大袈裟じゃないさ。君を見ていた人間たちの目には驚愕と尊敬と羨望が入り混じっていた。君はあの瞬間、間違いなく”特別な存在”となったんだ」

 

「ふふ。そこまで言われると照れちゃいますね」

 

「君の偉業には誰も文句は言えないし、もっと胸を張れば良いと思うよ」

 

「分かりました」

 

 

彼女は照れくさそうに笑う。

 

 

「それなら……私が胸を張るために、”頑張った”って自分自身を認めてあげるため、ご褒美をくれませんか?」

 

 

彼女のお願いに青年は笑みを返す。

 

 

「実に良い考えだね。欲しいもの何でも言ってみてよ。まあ、僕がいつかにしていたコンビニバイトで手にしたお金で買えるものかは分からないんだけれど」

 

「そこは安心してください。私が欲しいものはお金じゃ決して買えないものですから」

 

 

そうして彼女は青年の目を真っすぐ見据えて言った。

 

 

「キスを、してくれませんか? 」

 

 

彼女がこれほどに直接的に性的行為を求める旨の発言をしたのは初めての事だった。

 

彼は虚を突かれたように目を見開いた。が、それも一瞬の事で、余裕の無い姿を見せる事を最も嫌う彼はすぐに元の爽やかな笑みを取り戻した。

 

 

「いいよ。おでこが良い? ほっぺがいい?」

 

「唇に。恋人同士が愛を伝え合うような深いやつを」

 

「……んー」

 

 

誤魔化そうとした青年。

 

誤魔化さない彼女。

 

 

青年は笑みを浮かべた表情を崩さぬまま口を閉じて唸り、やがて彼女に問いかけた。

 

 

「君はタブーって知っているかい?」

 

 

話題を変えられた事を理解しながらも、青年が遠回りをしながら慎重に自分の想いを伝えようとしていることを察した彼女はこれに乗っかる。

 

 

「禁止事項、ですか?」

 

「そう。法律などとは別に人間が感覚として嫌うような事柄。例えばそれは、殺人とか食人。あとは近親相姦とか」

 

「それは……何となく分かります」

 

「僕は、君と性的な行為をすることについても、そう言ったタブーに似た感覚を強く意識させられるんだ」

 

「……?」

 

「つまり、”人間である君と虚海生物である僕がそう言う事をしてはならない”と、本能が強烈に訴えてくる」

 

 

どうやら彼は、彼女との行為が何か良くない事を招くと感覚で理解しているようだった。

 

だが彼女にとってそれは気にする必要のない話である。そのために散々準備をしてきたのだから。

 

 

「それで、貴方が言いたいことというのは」

 

「うん。申し訳ないけれど、君とはキスもその先もすることは出来ない」

 

「はぁ……」

 

 

彼女は深く息を吐いた。呆れて、という訳ではなく、予想通り上手く事を運べなかった自分に対する落胆であった。

 

こうなれば多少強引な方法に打って出るしかない。

 

彼をその気にさせるために。

 

 

「結局、最後の壁は貴方なのですね」

 

 

彼女は呟きながら正座からゆらりと身体を起こして膝立ちの姿勢になると、両手を彼の両肩に伸ばして軽く押した。それほど力が込められているわけでは無かったが、完全に不意を突かれた彼は目を丸くして驚いた表情のまま姿勢を崩し、背中から布団の上に倒れた。その上に彼女が馬乗りになる。

 

天井の明かりを頭上で受ける彼女の作り出した影に、青年は呑み込まれる。青年の見上げる先、暗がりの中で彼女は蠱惑的な笑みを浮かべて、青年を見下ろしていた。

 

 

「なかなか強引だね」

 

「偶には良いかなと思いまして」

 

 

彼女はそうして語り始める。

 

 

「私って、多分貴方が思っている何倍も卑しくて下品で欲深い人間なんですよ」

 

 

下心を、浴びせる。

 

 

「例えば……貴方と話している時に首元の喉仏が動く様をこっそり観察して心の内で悶えたり、お風呂から上がってまだ濡れた髪の貴方が色っぽくて自然と目で追ったり、隣で寝ている貴方を見て襲ってしまおうかと今まで何度も思ったりしたんですよ」

 

「全然気づかなかった」

 

「ふふ。それだけじゃありません。黒錨として任命されるように頑張ったのだって、黒錨になれば貴方とそう言った行為をすることを認めるという約束を局長に取り付けたからです。局員ならば誰もが憧れ死に物狂いで目指す誉高い称号を私はただ、貴方と淫らな行為をしたいという”下心”のみで手に入れたのです」

 

 

局員の間では清純な美しい女性だと勝手に噂されていた彼女の心の中は、想い人への情欲でドロドロに煮えたぎっていた。それを言葉ではっきりと分からされた青年はその思いに応えたいという衝動を感じるが、それでも未だにタブーの意識が頭の理性的な部分から離れずに現状を回避する方法を考えている。彼女はそれを遮るように、上半身から青年に覆い被さった。

 

 

「余計なこと考えないでください」

 

 

──私だけを見て。

 

 

彼女は笑みを深めてそう言いながら、青年の片手を掴んでその手の平を自らの胸に押し付けるように当てた。

 

 

「すごいドキドキしてるのが伝わりますか? もう少しでようやく貴方と愛を交わし合えるっていう期待と興奮でこんなに早くなっているんですよ」

 

「うん、分かるよ。全力疾走した後みたいに早いね」

 

「貴方はどうですか?」

 

 

気付けば彼女の顔は青年と鼻先が触れ合う程に近くにあって、彼女の長い黒髪が彼女と外界を隔てる幕のように青年の顔の周りに垂れていた。青年の視界には顔を赤く染めて扇情的な微笑みを浮かべる彼女の顔だけが映っていた。

 

その熱を湛えた瞳から目を離せなくなる。

 

自ずと支配されていく。

 

 

「胸がドキドキして身体がウズウズして頭がぐつぐつしませんか?」

 

 

それは問いかけであり誘導である。彼女から向けられた情熱的な視線と彼の手の平で激しく鼓動する胸と言葉が、彼女の性的衝動を虚海生物である彼に生々しく伝える。彼女がどれほど青年を求めているかという事を、教え込む。

 

 

「貴方の事が好きです。どうしようもなく愛しています」

 

「ははっ……。参ったなぁ……」

 

 

青年はもはやお手上げだった。彼女の強烈な情愛を浴びせられて共感の最中にその激情に呑み込まれてしまった。取り込まれてしまった。彼女の言葉は自分の言葉となり、彼女の感覚と自分の感覚の区別がつかない。身体が彼女と同じ熱を持つ。

 

理性は消失した。

 

情欲と肉欲が彼を支配した。

 

 

「ではもう一度」

 

 

微笑を浮かべる彼女は、青年の心にそびえていた虚海生物としての壁を自らの愛で跡形もなく溶かし切った事を理解している。

 

その上で、ようやく剥き出しになった彼の心にトドメを刺すように言った。

 

 

「人間としての貴方は、何を望んでいますか?」

 

 

青年は自虐的に笑った。

 

彼女が欲しくて欲しくて堪らなかった。

 

直接的な愛を求めた。

 

抗う術はなかった。

 

余裕が無かった。

 

だから彼は……返事の代わりにゆっくりと腕を伸ばし、彼女の後頭部を引き寄せ、それから唇を重ねた。

 

 

彼女はとても嬉しそうに目を細めた。。



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弟子に愛される

うなぎボム


 

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 

 

洞窟の奥で悲しげな泣き声が響いている。そこにいるのは、エルフの特徴である長い耳と人間の特徴であるはっきりとした目鼻立ちを合わせ持った青髪の少女で、手足に拘束具を嵌められ、それから伸びる鎖で壁に繋がれていた。

 

 

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 

 

彼女は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

 

沢山の人を傷つけてしまった。魔力が暴走して家族同然の大好きな村人たちを業火で焼き、氷塊で氷漬けにした。いくら必死に抑えようとしても制御は出来ず、むしろ感情の高ぶりに合わせて魔力の暴走の度合いが酷くなるだけだった。

 

彼女は一夜にして悪魔の子となった。

 

そうして彼女は極度の魔力消費で気を失い、その間に洞窟の奥に繋がれた。

 

 

「どうすればいいの……。止まらない、止まらないよぉ……」

 

 

彼女は声を震わせる。未だに魔力の暴走は続いてた。少女の目の前では巨大な炎の渦が巻き起こっている。

 

これを抑えることが出来なければ村の人たちには会うことが出来ないだろう。いや、傷つけてしまった以上、もはやここから出ることは許されないのかもしれない。

 

そう思った少女は、罪悪感と共に強烈な孤独感にも苛まれる。寒くて暗くて独りぼっちのこの空間は寂しくて仕方が無かった。でも他の人が現れたらまた傷つけてしまう。

 

会いたくない。会いたい。

 

独りぼっちが良い。助けてほしい。

 

 

誰か、救って欲しい。

 

 

感情がぐしゃぐしゃになって、ただ苦しみだけがあって、訳も分からずに涙が零れた。

 

そんな時にふと。

 

少女の元へ近づいて来る足音があった。「ざっざっ」と規則的で自分の嗚咽以外では初めての音だったから少女もすぐに気付いて、顔を向けた。

 

渦巻く炎の向こう側に立っていたのは、黒いとんがり帽子とローブを身に纏った青年だった。青年は少女を見据えると安心させるように微笑を浮かべ、その表情には内面の優しさがにじみ出ていた。

 

青年は炎を恐れることなく、少女の元へ一歩また一歩と歩み寄り始めた。

 

少女は慌てて声を上げる。

 

 

「来ないで下さい! 私に近寄らないで!」

 

 

その叫びにはもう誰も傷つけたくないという少女の悲痛な思いが込められていた。しかし少女の制止の声を聞いても、青年は足を止めようとはしなかった。

 

 

「大丈夫大丈夫。僕は君を助けに来たんだ」

 

 

青年はのんびりした声で言った。

 

たがて、少女の恐れていた事態が起きた。魔法の矛先が青年に向いたのだ。今までただの現象として燃え盛っていた炎が、まるでとぐろを巻いた大蛇そっくりに形を変えて、青年に噛みつくようにして襲い掛かった。

 

 

「やめてぇ!!」

 

 

少女は鎖に引っ張られる手を伸ばしながら洞窟中に悲鳴を響かせた。だが彼女の魔法は主人に逆らうようにして炎に呑み込まれた青年に追い打ちをかける。重力が強引にねじ曲がり、炎の中の青年がいるであろう場所を中心に洞窟中の岩石が飛び掛かり、密集して、巨大な卵状の物体を形成し、青年を炎と共に閉じ込めてしまった。

 

蒸し焼きである。逃げ場もない中で延々灼熱に身を焼かれる苦しさが如何なるものか少女には分からない。ただ自分を救おうとしてくれたお兄さんの命を奪ってしまったという罪の意識が心を埋め尽くした。

 

 

「あぁ……もう嫌だぁ……」

 

 

彼女は地面の上にうずくまって、呻く。

 

 

「全部嫌だよぉ……」

 

 

呻く。

 

 

「消えたいよぉ……」

 

 

 

 

「その必要はないよ」

 

 

明るい声がした。

 

ゆっくりと顔を上げた少女は目を丸くする。殺してしまったと思っていた青年が、目の前に無傷のまま立っていたのだ。

 

 

「驚いたかい? 僕は防御魔法だけは自信があってね。あの程度じゃかすり傷一つ負わないよ?ほら」

 

 

青年はおどけたようにそう言って両腕を広げて見えた。傷どころか、服には砂汚れ一つ付いていなかった。

 

 

「だから君が罪悪感を感じる必要は無いんだ」

 

 

罪悪感。その単語を聞いて少女は慌てたように口を開いた。

 

 

「あ、あの。さっきのはわざとじゃ無いんです! 私の意思じゃどうにも出来なくて!」

 

「分かっている。村人に聞いた話じゃ、君はエルフと人間の混血なんだってね。恐らくは身体の成長と共に身体のマナ回路が伸びていき、今になってようやく循環回路が完成したんだ。それで一気に魔力が身体を巡るようになったから慣れない君は魔力をコントール出来なくなった。よくある話だよ」

 

 

言うと彼は両腕を広げて、彼女の震えていた小さな体をぎゅっと抱きしめた。

 

 

「あ……」

 

 

久しぶりの人の温もりに少女は思わず声を漏らした。青年の腕の中は、温かくて、優しくて、安心した。

 

 

「もう大丈夫。自分の魔法に怯える必要はない。僕が魔力の正しい制御の仕方を教えてあげる」

 

「それって」

 

「今から君は僕の弟子だ」

 

 

そう宣言した彼は腕を離すと、彼女の手首の枷に手を添えて、一瞬で破壊してしまった。

 

青年は彼女に手を伸ばした。

 

 

「さあ、一緒にここから出ようか」

 

 

 

 

 

━━これは少女が青年に救われた時の記憶。

 

━━少女にとって、何よりも大切な記憶。

 

 

 

 

 

 

 

 

青年と、その弟子で青年よりも身長が高く青髪の美しい女性が並んでとある城下町の通りを宿屋を目指して歩いていた。二人とも膝下まで届く黒いローブを身に纏い如何にも魔法使いらしい装いで、彼女に至っては身長の半分はあろうかという長い丈夫そうな木の杖を持っていた。

 

この城下町は青年がかつて長い間住んでいた町で、顔見知りが多い。

 

露店で野菜を売る男に、宝石を売る女に、道を歩く若者に、話しかけられる。

 

 

「よぉ、腰抜けオースティン。よくのこのこ帰ってこれたな。ビビりの癖に肝は据わってるのか」

 

「あらオースティン。魔王は討伐しないのに女は作るのね。それともその子に守ってもらっているのかしら」

 

「オースティンじゃん。まだ攻撃魔法を一つも使えないなら俺が教えてやろうか?一回10万ジェニーでな。かかかっ」

 

 

その言葉には古い知人の帰還を歓迎する暖かさというよりも、気心が知れているからこその容赦のない嘲りや嫌味が多分に含まれていた。それだけではない。はっきりと言葉にされるならまだましで、青年の方をちらちらと見ては「見ろよ、オースティンだぜ」などと指を指し、陰でヒソヒソと嘲笑のネタにする街の住人も多くいた。

 

先日起きた大雨で川が増水し橋が決壊し目的地に行くためには今まで出来る限り避けてきたこの町を通らなければならないと分かった時から、ある程度予想していた事だった。だから青年は気分は良くないながらも面倒ごとを回避するために、それを表に出すことは決してせず、曖昧な笑みを浮かべて受け流していた。

 

代わりにキレていたのは、隣を歩く彼女の方だった。

 

普段から無表情で感情をあまり表にしない彼女であるが、長く見守ってきた青年には彼女が酷く不機嫌であることが容易に察せた。彼女は僅かに眉を寄せて口元を固く閉じていて、町の人々を出来るだけ視界に入れないためか、ずっと視線を足先の地面に向けていた。

 

途中まではよく堪えていた。

 

街に入る前に事前に青年からされていた言いつけを守る様にどれだけ癪に障る言葉が耳に入ろうと、耐えていた。

 

だが。やがて限界を迎える。

 

 

「アイツが勇者の代わりに死ねば良かったのにな」

 

 

通りの脇に立っている若い男が放ったこの言葉が、彼女の逆鱗に触れたのだ。彼女は顔を上げると傍から見ていてもぞっとするほど冷たい視線で男を睨みつけ、その細い手で杖を力強く握りしめ、男に向けようとした。

 

青年はすかさず杖を握る彼女に手に自分の手を添えた。彼女は弾かれたように振り返った。目が合うと、青年は彼女を宥めるように穏やかな目つきで小さく首を振った。彼女は始め、如何にも不満そうに何かを訴えるように青年をじっと見つめていたが、やがて根負けしたようでゆっくりと上げかけていた腕を降ろした。

 

 

「ありがとう」

 

 

青年が小さな声で言いながら微笑むと、彼女は罰が悪そうに視線を逸らした。

 

気付けば宿屋についていた。

 

 

部屋に案内されて青年以外の誰もにも触れない環境になると、彼女は心に貯めた鬱憤を静かに吐き出し始めた。

 

 

「あの人たちは何なんですか。知り合いだか何だか知りませんが、師匠の事を好き勝手言って散々コケにして」

 

「まぁまぁ」

 

「ああいう人たちの愚かさは死なないと治らないでしょうから、獄炎魔法で燃やして来ても構いませんか」

 

「まぁまぁまぁ」

 

「あぁ……喋ってたらまた苛々してきました……。今から一人づつ消してきますね」

 

「まぁまぁまぁまぁ」

 

 

廊下へ続く扉に向かおうとする彼女を困り顔の青年が前に立ち塞がり押しとどめた。

 

青年は意外に思っていた。

 

冷静な彼女がここまで荒れているのは初めて見た。よほど町の人々の言葉が頭に来たらしかった。その苛立ちの発散を阻害された彼女は、今度は、青年の方へ苛立ちを向ける。

 

 

「そもそも師匠も何でそんなヘラヘラ笑っているんですか」

 

「へ?」

 

 

突然矛先を向けられた青年は間抜けな声を漏らした。エルフの血筋により身長の高い彼女は少し背中を丸めて覗き込むように顔の距離を近づけてくる。

 

一切の笑みの無い不機嫌な顔。

 

青年がのけ反る。

 

彼女がまくしたてる。

 

 

「師匠がそんな態度をとるから、あの人たちがつけ上がるんですよ。臆病者とか言われて悔しくないんですか。もっとはっきりと否定してください。頭の悪い人たちの口を閉じさせてください」

 

 

自惚れでなければ彼女は師匠である自分が罵声を浴びせられたことに怒ってくれているらしかった。それほど彼女が自分の事を想ってくれることは嬉しいことである。

 

しかし青年は首を縦に振ることは出来なかった。

 

 

「ごめん。それは無理なんだ」

 

「何故ですか」

 

 

「町の人たちが言っていることが事実だからさ」

 

 

青年は目を伏せながら言った。

 

 

 

二人は横に置かれた二つのベッドの間に向かい合って座り、青年は過去を語り始めた。

 

彼は元々、異世界からこの世界へとやって来た異世界転生者であった。自分のいた世界と違って異種族や魔物、魔王までもいるというこの世界は酷く恐ろしくて、それ故に彼は自分の身を守る魔法ばかりを鍛えた。気付けば防御魔法だけが突出して得意になっていき、腕を買われて勇者のパーティに迎えられた。

 

役目は前衛であり、防御魔法で盾を張り敵の攻撃を全て受け止める事だった。

 

途中までは順調に進んでいた。青年の防御魔法は敵の物理攻撃を弾き返し、魔法を全て無力化していた。だが旅が進んで魔王城が近くなり魔物が強さを増してきた辺りから彼は不安に駆られ始めた。

 

このままでは受けきれなくなる、と。一回の戦闘で消耗する魔力量が明らかに多くなり、防御結界にはヒビが入るようになっていた。少なくとも今対峙している魔物の数十倍の力を秘めているであろう魔王の攻撃を受け止めるなど到底不可能に思われた。それに勇者をはじめとした仲間たちの攻撃もあまり敵には効いていないようで徐々に手こずる様になり、戦闘時間そのものも長くなっていた。

 

青年はこのまま魔王に挑んでも勝てる未来が見えなかった。

 

死ぬと思った。

 

だから彼は勇者たちを説得しようと試みたがまるで聞き入れられず、結局彼は魔王討伐の前日の夜にひっそりとパーティを抜け出し町から逃亡した。

 

怖気づいたのだ。

 

 

勇者の一行はその後、全滅した。

 

 

 

 

 

「だから僕は臆病者なのさ」

 

 

彼は自虐的な笑みを浮かべた。本当は知られたくない過去だった。だからこの町に来るもの極力避けてきた。それでも彼女に過去を語ったのはきっと、罪悪感ゆえの事だった。彼女を拾って自分を師匠として尊敬していくれるようになってからずっと、”自分は尊敬されるのに相応しい人間ではない”という自己否定のモヤモヤした気持ちが心の隅に存在していた。それで衝動的に吐き出してしまった。

 

情けない部分を晒したことで弟子である彼女が自分に失望するのだろうという悲観で頭は埋め尽くされる。

 

彼女の反応をじっと伺う青年の視線の前で、彼女は暫くものを考えるように黙っていたが、やがて口を開いた。

 

 

「はぁーーーーー」

 

 

くそでかため息だった。

 

 

「実にくだらない理由ですね」

 

「そうだね。僕も我ながら弱い人間だと思うよ」

 

「そうではなくて、この話はつまり客観的評価が出来ず冷静な判断力に欠けた師匠の仲間たちが無謀な戦いに挑んで死んだ、という事ですよね」

 

「辛口だね」

 

「……私がくだらないと思ったのはその仲間たちの行いと、冷静な判断をした師匠を碌に戦いもせずに安全な町に住んでいながら批難する町の人たちです」

 

「でも、僕が臆病者であるという事実は変わらない」

 

「事実で言うなら、かつて魔力の暴走によって集落の人々を散々傷つけて洞窟の奥に封印されていた私を師匠が救い出し、”悪魔の子”だと言って殺そうとしてくる輩から私を守り、一流の魔法使いとして育て上げた。これもまた事実です。こんな事出来る人間が臆病なわけありません」

 

「当時は一人になったばかりで自分が盾になっている間に魔物を倒してくれる攻撃の担い手が欲しかったんだ。そのときに魔法の才能が飛び切りありそうなエルフの子の君に出会った。僕は、君がいなければ未だに初級モンスターすら狩れないんだよ」

 

「私が一生傍に居るから問題ないですよ」

 

「素敵な冗談だ」

 

「……冗談じゃないですけど」

 

 

呟いた彼女は青年の事を恨みがましく睨みつけた。

 

 

「結局師匠は”自分が臆病者である”と、そう思い込みたいだけなんですよ」

 

 

彼女のささやかなる反撃は青年を動揺させる。

 

 

「そんなことは」

 

「ない、と言い切れますか」

 

 

問いかける彼女の目。

 

半開きのまま声を発せない青年の口。

 

 

「私には師匠が”そんなことない”と私に否定して欲しがっているようにしか思えません。どうですか」

 

 

青年は目を見開いた。

 

その通りだ、と思ってしまった。

 

言葉にされて初めて自分の欲求を理解した。

 

師匠である青年は弟子である彼女に、無意識のうちに、甘えようとしてしまっていた。

 

 

「あぁ、図星ですか。可愛いですね、師匠は」

 

 

目ざとい彼女は青年の表情の変化に直ぐに気付いてニヤリと笑みを浮かべた。師匠を揶揄うことに甘美なる悦を味わっているようだった。青年は自分自身の不甲斐なさに苦笑した。

 

 

「全く、君には敵わないな」

 

「素直に認めるんですか?」

 

「うん。今更取り繕ったところで師匠としての威厳がますます無くなるだけだからね」

 

「それなら安心してください。私はいつか師匠が立場を全て捨てて私に情けなく甘えてくれることを期待していますから」

 

「恐ろしい弟子だ」

 

 

二人は目を合わせてくつくつと笑った。血も繋がっていないのによく似た両者の笑い方は、二人が共にしてきた時間の長さを示していた。

 

彼女がやがて口を開いた。

 

 

「素直になれた師匠にはご褒美としてお望み通り、師匠が自分に貼り付けたい愚かなレッテルを否定してあげますね」

 

 

青年が口を開きかけるが”ただし”と彼女言葉を遮って、続ける。

 

 

「師匠もその自分の思い込みを否定してください。……まぁ、正直言えば弟子である私だけが師匠を慰めることが出来るという状況も非常に魅力的ですが、同時に腹も立つんですよね。私の好きな人を、たとえ本人であっても下げて欲しくないんです。ですから師匠は、私が今から言う言葉を復唱してください」

 

 

彼女の提案に青年が小首を傾げる。

 

 

「復唱?」

 

「はい。続けて言うだけです。出来ますよね?」

 

「あぁ、うん」

 

 

青年としては自分がやる事についてもう少し詳しく訊きたかったのだが、彼女は思考する間を与えなかった。

 

 

「では、私に続いて言ってください」

 

 

言葉を言う。

 

 

「”僕は臆病者ではありません”」

 

「……」

 

「”僕は”」

 

「……僕は」

 

「”臆病者ではありません”」

 

「臆病者ではありません」

 

 

青年が言われた通り繰り返せば、彼女は”良い感じですね”と微笑んだ。

 

青年は表情には出さないが、それだけで嬉しくなってしまう。簡単な自分に呆れる。

 

 

「次は、”僕は勇敢です”」

 

「僕は勇敢です」

 

 

”その調子です”と彼女が笑う。

 

 

「次が最後です」

 

 

彼女は言った。

 

ゆっくりと言った。

 

 

「”僕は君の勇者様です”」

 

「……えっと」

 

 

予想していない台詞だった。

 

青年は戸惑ってしまった。

 

そんな気取った台詞が言えるほど自分に自信が無かったし、うぬ惚れてもいなかった。かつて勇者を隣で見ていた。勇者とは平和のために自分の身を犠牲にして、死ぬかもしれないと分かっていても尚、邪悪に挑むような勇気ある人間の事であり、保身のために逃げ出した自分のような人間が名乗って良いようなものではない。

 

言葉を詰まらせた青年を見て彼女は目を細める。

 

 

「言わないと、先程テキトー言っていた人たちを一人残らず消し炭にしてきます」

 

 

気だるげな声で彼女は言う。

 

それでも、言えない。

 

自分は勇者などではない。彼女が買いかぶっているだけだ。そもそも逃げ出すべきでは無かった。あの時、勇者たちと共に魔王に挑んでいれば深手は負ったとしても仲間たちの命を守ることは出来たかもしれない。ということは僕は彼らを見殺しにしたのか。僕が逃げ出したせいで勇者たちは死んだのか。僕のせいで……。

 

 

「っっ!?」

 

 

青年が鬱々とした感情に呑み込まれて行く最中、不意に布服の襟首を引っ張られた。青年がはっと意識を現実に戻すと、目の前に彼女の怒った顔があった。

 

 

「ごちゃごちゃ余計な事ばっか考えていないで、可愛い可愛い弟子である私の事だけ考えてりゃ良いんですよ」

 

 

いつもよりも随分と乱暴な口調で彼女はそう言った。

 

青年は、息を呑む。

 

彼女の言葉に、救われる。

 

真っ暗な空間に光の道が示されたような感覚を味わう。

 

 

”僕は君の勇者様です”

 

 

もはやどっちが僕でどっちが君か分からない。

 

彼女に無様に頼りたくなってしまう。

 

彼女はそんな青年の心情を知ってか知らずか、青年の脳の奥にまで響かせるようにゆっくりとはっきりと低い声で命じた。

 

 

「言 え」

 

 

この瞬間、立場が逆転した。

 

理解させられた。

 

彼女が上、青年が下。

 

彼女が青年の心に安寧をもたらし、青年はそれにただ身を委ねれば良い。

 

師匠としてのプライドを捨てれば良い。立場を忘れれば良い。彼女の許しのもとで彼女の”勇者様”を名乗って自分の自尊心を慰めてあげればいい。

 

それはひどく情けなく魅力的な選択だった。

 

 

青年はそれを受け入れる。

 

 

「……僕は君の勇者様です」

 

 

青年は縋るような目で彼女の瞳を見ながら言った。”貴方に頼らせてください”と意思表示をした。

 

青年の言葉を聞いた彼女は満足そうに、そしてうっとりとした深い笑みを浮かべて言った。

 

 

「よく言えました」

 

 

失望は無く、溢れんばかりの喜びがそこにあった。

いつも自分を守ってくれるばかりだった師匠に遂に頼ってもらえた。一つ、恩返しができた。

その事実が、彼女にこの上ない幸せをもたらしたのだった。

 

彼女はそのまま師匠である青年の頭を胸に抱き寄せた。

 

 

「これから師匠が自分を卑下する度に、こうやって無理矢理否定させるので覚悟しておいてくださいね」

 

 

青年は彼女に腕に抱かれながらその言葉を聞いていた。

 

 



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不良に愛される

キリンビーム


澄んだ青空。学校の屋上で男女の生徒が肩を寄せ合って隣同士で座っている。一人は目つきが悪くてワイシャツの第二ボタンまで開けて涼しげな金髪の女子生徒で、もう一人は猫背でくせ毛で日陰が好きそうな男子生徒だった。

 

「はい、弁当」

「……あざす」

 

彼女から青年へと手慣れた様子で青い弁当箱が手渡される。青年は蓋を開け、静かに唾を呑み込む。中にはほうれん草のおひたしや切り干し大根と言った、如何にも不良な見た目をしている彼女の見た目とはある種ギャップを感じさせるような家庭的で色とりどりな具材が敷き詰められていた。

 

「今日はアンタが好きって言ってた卵焼き入れといたから」

 

隣で彼女が言う。彼女の言う通り、具材の中でも黄色く目立っている美味しそうな卵焼きがあった。

 

「すげー美味そう」

 

言いながら青年は、弁当箱と一緒に渡された箸入れから箸を取り出そうとする。

 

「待った。手洗った?」

「屋上来る前に」

「なら、よし」

 

青年と同い年のはずだが、彼女には年上気質な部分があった。

まるで親子のようなやり取りをした後で、青年は揃えた箸を両手の親指と人差し指の間に乗せて、手を合わせる。

 

「いただきます」

「ん。召し上がれ」

 

卵焼きを箸で掴み、深く味わうようにもぐもぐと咀嚼する。口内に卵のまろやかな甘みが広がり絶品だった。弁当をあぐらの姿勢の膝の上に乗せて自分も食べる用意をしながら、横目でじっとこちらを見つめてくる熱い視線を感じた。

 

「どう?」

「かなり好きな味」

「ふーん」

 

彼女は一見興味の無さそうな返事をしたが、その実、安堵しているのが青年には分かった。

 

「料理を作り慣れてるお前でも今更緊張することあるのか?」

「卵焼きはそんなに作ったことないし。それに、家族に作るのとアンタに作るとじゃ別って言うか、家族相手なら味付けテキトーだけどアンタにはちゃんと美味いって思って欲しい、的な」

「……美味いです」

 

その言葉を聞いた彼女はクールな表情を崩し、柔らかな笑みを浮かべ、

 

「なら良かった」

 

と嬉しそうに言った。

弁当を食べ終わった二人は並んで座って気持ちの良い風に吹かれながら、ぼーっと時間を共有していた。

 

「そう言えば」

 

思い出したように彼女が言う。

 

「アンタの下駄箱にこう言うの入ってたりしてない?」

 

言いながら彼女が差し出したのは、プリントをちぎったような横長の小さな紙だった。当然ラブレターではない。女子に多く見られるような丸っこい字で”黒野と別れろ”という簡潔な文章が書かれていた。

 

「誰がこれを?」

「さあ。いつも知らぬ間に入っているからね」

「他にもあるってことか?」

「ある。”黒野に近付くな”とか”黒野を解放しろ”とか、全部アンタの事ばっかり。アンタに思いを寄せてる子の仕業かねぇ」

「いじめられるような奴にそんな子がいるわけねぇだろ」

「分かんないよ。アタシみたいな物好きが他にもいて、アタシみたいな不良に盗られて嫉妬してるのかも」

「物好きって」

「物好きでしょ。アンタみたいな如何にも暗そうな奴」

「あれ?俺嫌われてね?」

「いや、超好き」

「あぁ、どうも」

 

臆面もなく急に好意を口にする彼女への照れを隠すように、”それよりも”と青年は話しを戻す。

 

「貰ったのは手紙だけか?他に嫌がらせとかは?」

「ない。というか、私に仕掛けてくる奴がいたら返り討ちにしてやるっての。むしろアタシはアンタの方が心配なんだけど。なんもない?」

「おかげさまで今のところは。きっと誰かさんにビビってんだろうな」

「ふっ。悪い噂もたまには役に立つもんだね」

 

彼女は得意げに笑った。

 

「で、どうすんだそれ。差出人が分からなくちゃ対処の仕様が無い」

「まあ。とりあえず任せておいて。アタシに考えがあるから」

 

彼女は入っていた手紙の空いたスペースに、”直接会いに来い陰キャ野郎”と書いて、あえてもう一度下駄箱に突っ込んで置いた。

 

 

 

階段を駆け上っていく運動靴。数学の授業が少々長引いて昼休みに突入してしまっていた青年は早足で彼女がいつも待つ屋上を目指していた。階段を登り切り屋上へと続く扉の前に立った時、とあることに気付いた。

扉が少し開いていて、隙間が出来ていた。

彼女はいつも戸締りをしているので珍しく他に誰か来ているのだろうか。外の光と音が校舎側に漏れ出てる。青年は対して気にも留めず扉を押し開こうとしたのだが、その手は途中で止まった。

 

「黒野と別れて」

 

扉の向こうから声が聞こえた。

聞き慣れた幼馴染の声だった。

 

 

 

 

「黒野と別れて」

 

屋上に足を踏み入れた女子生徒は、フェンス越しに立って校庭を眺めている色々と悪い噂の絶えない件の彼女を見つけると、つかつかと歩いて近づいて行き、彼女の顔を見据え、開口一番にそう言った。

肩までふんわりと垂らした髪の毛先をピンク色に染め、シャツから覗く肌は白く、スカートは校則よりもいくらか短い。「可愛い」という言葉が好きそうな女子生徒だった。

突然の来客に彼女は意外そうな表情をする。

 

「誰が来るかと思えば、アンタか」

「私のこと知ってんの?」

 

女子生徒は険しい表情を崩さぬまま問い返す。

 

「何度か廊下で見た。いつも男女の取り巻きに囲まれてる人気者の女の子」

「そりゃどうも」

「それがガキみたいに手紙でコソコソ嫌がらせとか、だっさいね」

 

口角を上げて挑発した彼女を女子生徒は何も言わずに睨みつけた。

 

「それで? アンタとアイツはどういう関係? ただの知り合い?」

「そっちこそ。黒野の何?」

「は? 恋人。分かり切ってるでしょ、そんなの。アンタは?」

「幼馴染よ」

「へぇー、そうなんだ。じゃあ、アイツと仲良いんだ」

「まぁね」

 

女子生徒は顎を反らして自慢げな顔をした。しかしその誉め言葉は、女子生徒を嵌める為の罠である。彼女の次の言葉が女子生徒を動揺させる。

 

「幼馴染だったらアイツに直接言えばいいじゃん。”あんな女とは別れた方が良い”って。なんでそうしなかったの?」

「それは……」

 

女子生徒は目を逸らしながら苦しい言い訳を試みる。

 

「黒野は天邪鬼な奴だから。私が言っても絶対別れないと思って」

「嘘だね。アイツは確かに直ぐ本心を隠したがるけれど、言われたこと全部に逆ってやろうみたいなガキっぽいことはしない」

「知った風なこと言わないで。黒野の事は幼馴染である私が一番知ってる」

「いいや。”今の”アイツはアタシがずっと一緒にいるから、アタシの方がアンタよりもずっとアイツの事を知ってるよ」

 

女子生徒は悔しそうに歯を噛みしめる。彼女は追い打ちをかける。

 

「本当の理由、当ててやろうか」

「なによ」

「アイツにアタシの事が好きだからってはっきり言葉にされるのが、そう言って拒絶されるのが嫌だったから」

 

瞬間、女子生徒は目を見開いた。

 

「ち、ちがうしっ!!」

「ふーん」

 

彼女は彼女の言葉を必死な表情で否定する女子生徒の心を見透かしたように笑った。

 

「アイツの事好きだったんだ」

「別にそんなんじゃっ!」

「じゃあアタシのもんってことで良いよな?」

「良くない!!」

 

女子生徒は反射的に答える。ペースを握られて焦ったようだった。取り返すために、言葉をまくしたてる。

 

「貴方が黒野の事を好きだなんて信じられない。貴方は授業にほとんど出ないで、喧嘩ばかりして、未成年なのにお酒も飲んで夜遊びばかりしてる不良だって聞いてる。だから黒野の事だってきっと都合のいい奴としか見て無い。幼馴染としてそんなの許せない!」

「全て噂だろ」

「皆そう言ってるもん」

「はぁー」

 

女子生徒の言葉を聞いて彼女は分かりやすくため息を吐いた。

呆れていた。

面倒くさがっていた。

しかし彼女はこの先も目の前の女子生徒に絡まれて相手にする方がよっぽど面倒だと判断したらしい。

 

「いいよ。アタシが何でアイツに惚れてるのか、アンタが納得するまでじっくり説明してやるよ」

 

彼女は女子生徒の目を真っすぐ見据えてそう言った。

 

 

 

「アタシとアイツが初めて会ったのもこの屋上だった。アタシの親父は酔っぱらうとアタシを殴ったり蹴ったりしてストレスを解消するクズで、その日も、前日の夜に無理矢理叩き起こされて髪を掴み上げられながら無理矢理酒を飲まされて、散々腹を殴られて後だった。だから高校生の癖に二日酔いで体調悪くて最低な気分で、衝動的にそこのフェンスから飛び降りて自殺してやろうと思ったんだ」

「ちょ、ちょっと待って! それって虐待じゃん!? というか、自殺って貴方が!?」

 

女子生徒は予想していなかった彼女の抱える重い家庭事情に困惑する。一方で彼女は、至って冷静である。

 

「そうだよな。まさか、アタシが喧嘩する理由が親父に暴力を振るわれる苛立ちをぶつけてるからだとか、学校に来ない理由が家でくたばってるからだとか、そんなアタシが死にたくなる時があるとか、イメージで人を語りたがる勝手なアンタらには思いもしない事だよな」

「そんなの、分かるはずないじゃない」

「そうだね。だから別に噂話を楽しむアンタらが悪いとかは全く思わない。ただ、アイツはそんなイメージも関係なしに、フェンスから飛び降りようとしていたアタシを見ると一目散にすっ飛んできて止めてくれた。━━自分の方がよっぽど死にたかったくせにな」

 

女子生徒は怪訝そうに眉を顰めた。

 

「死にたかったって、どういう意味?」

「そりゃ、こっぴどくいじめられてたからだろ。クラスのゴミ野郎3人に服脱がされたりトイレに顔沈められたり」

「……」

「ああ、そうか。クラスが違うから知らなかったのか。それとも、知ってたけど知らないフリをずっとしてたのか」

「そんなことっっ!」

「まぁいずれにせよ心配しなくていいよ。アタシがそいつらシメておいたし、アタシが傍で守ってるから、アイツがいじめられるような事は今後絶対に起こさせない」

「私だって……」

 

女子生徒が自信なさげに呟いているが彼女は無視をして続ける。

 

「あとアイツは、アタシに逃げ場所をくれた。高校の近くのアパートに一人暮らししてるアイツの部屋に、”来たくなったらいつでもどんな時でも来て良い”って、言ってくれた。だからアイツとアイツのいる場所が、今まで耐えるしかなかったアタシの心の唯一の拠り所になった」

「待って。黒野の部屋に自由に出入りしてるって事!?」

「そうさ。ほら、合鍵も貰ってる」

 

彼女がポケットから蛙のキーホルダーのついた鍵を得意げに見せつけると、女子生徒は目を見開いた。

 

「私も持ってないのに……」

 

悔しそうに言う女子生徒に彼女はさらに言葉を続ける。

 

「最後に。自暴自棄になってアイツの寝込みを襲ったクズなアタシを受け入れてくれた」

「お、襲った……!?」

 

彼女の言葉を聞いて女子生徒は顔を真っ赤に染め上げた。

 

「んだよ、高校生にもなって純情なフリすんなよ。アイツとヤったってことだよ」

 

彼女は事も無げにそう言った後、右指で作った輪っかに左指の人差し指を抜き差しするジェスチャーをしながら”ほら知ってんだろ?”と悪戯な笑みを浮かべた。

 

「つーことで、ここまでされて惚れない理由がないし、アタシにはアイツに貰った返しきれない恩もある。だからテキトーな気持ちなんてありえない。アタシはアイツが心底好きで、真剣に付き合ってんだよ」

 

それが、女子生徒に対する彼女の答えだった。

彼女の中で青年の存在はあまりにも大きくなっていて、生半可な気持ちで、遊び半分で付き合うなど、彼女自身が許さない事だった。

青年は彼女の心の支えだった。

そうして。

彼女が折角求められた答えを提示したのだが、肝心の女子生徒はと言えば、

 

「襲った……ヤった……」

 

とぶつぶつ呟くばかりだった。

女子生徒は直前の話が気になってまるで頭に入ってきていないようだった。

 

「おい、話聞いてたか?」

「あ、うん」

「別にアタシらの年齢じゃ珍しい事でもないだろ」

「だって。黒野はそんな事一言も言ってなかったし!!」

 

脳内で情報の処理に苦労している女子生徒に彼女は暫く呆れた視線を送っていたが、やがて口を開いた。

 

「つーかあれだな。いじめの事と言い、恋人事情と言い、アンタ幼馴染の癖に……」

 

そこで彼女は一拍置き、ニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべ、はっきりと言葉にした。

 

「アイツの事、なんもしらねーのな」

 

その言葉は女子生徒のプライドを酷く傷つけたようだった。女子生徒は目を丸くし次には何かを言いたげに口をモニュモニュさせたが続く言葉は出てこず、代わりに悔しげに拳をぎゅっと握り、やがて振り返って逃げるように屋上の扉へと駆けて行った。

 

 

 

 

”ふぅ”と息を吐いた彼女は、

 

「出てきなよ」

 

と屋上に立つ小屋にも似た建物に向かって言った。その建物の陰から青年が現れる。

 

「バレてたのか」

「いつもなら絶対に来てる時間のはずだからね」

「悪い。がっつり盗み聞きした」

「良いよ別に。聞かれて困るようなことは言って無いから」

 

彼女は男らしくすっぱりとそう言い切ったが、少しの間考える仕草をし、訂正した。

 

「いや。今のは良くなったか」

「ん?」

「アンタの幼馴染って聞いて、気付いたらムキになってた。こいつはアタシの知らないアンタの事いっぱい知ってるんだなって、そう思うとどうにもイライラして……」

「それは逆も言えるだろ。自分で言うのも何かキショいけど、幼馴染のアイツしか知らない事、恋人のお前しか知らないことが多分ある」

「でも幼馴染としてアンタと長い間一緒の時間を過ごしてきたあの子の方が、アタシよりもずっと多くの事を知ってんでしょ」

「それはまぁ、そうだろうな」

 

会話が途切れる。

彼女はらしくもなく難しい顔をして空を眺め、考えごとをする。嫉妬とそれに対する自己嫌悪を感じているようだった。

 

「そんなに気になるなら俺の死ぬほどつまらない幼少時代の話でもするか」

「それ、聞きたい」

 

彼女は先程までの姿が嘘みたいに食いついてきた。よっぽど興味があるらしい。

 

「写真は? 小さい頃の写真とかないの?」

「ない。ただ卒アルならあった気もする」

「うわ。ガキの頃のアンタとか全然可愛げなさそう」

「おい失礼だな」

「でもそこが可愛いんだろうねぇ……」

「……褒められてる気がしない」

 

キーン コーン カーン コーン

 

やがて予鈴が鳴る。教室に戻らなければいけない。

 

「後でアンタの部屋に探しに行く」

「見つかる保証はないけどな」

「それじゃあ、また放課後」

「ああ、放課後」

 

二人は階段を降りた後、別々のクラスに向かった。

 

 

 

 

 

おまけ ※鬱要素有り※

 

 

 

歯を磨いて、顔を洗い、布団を敷く。青年は、寝るための準備をしながら頭の中では彼女の事を考えている。親に暴行を振るわれるという彼女の話を聞いて、合鍵を渡してから、彼女は時々青年の部屋に訪れるようになった。それは放課後の時もあれば夜もすっかり更けた深夜の時もあった。

迷惑だとは思わなかった。むしろいつも一人の部屋に、他人の、彼女の気配があるのは心地のよさを感じた。それに自分を救ってくれた彼女の助けに自分もなれているのであれば、嬉しい事だった。

その彼女は、最近めっきり来なくなった。

学校でも顔を合わせていない。

青年は、不安になる。

さぼり癖のついた彼女は元気な時でも面倒くさいと言って、この家でゴロゴロしていたり街をふらふらして学校に行かない事もあるので一概に彼女の身に何かが起きたと断言することは出来ない。しかし起きて無いとも言い切れない。彼女は殴られるのは自分のせいだから、父親を悪者にしたくないという考えで警察を嫌う。暴力に自らを差し出して、助けを拒む。

危ういと思う。取り返しのつかないことになったらどうすればいい。自分にとって彼女の存在は、もはやただの友達や恩人という括りでは測れない程に大きく身近で大切だというのに。

青年が窓の外を見れば深夜の暗闇は真っ暗で、窓の水滴がみぞれが降っている事を教えてくれた。真冬の夜は冷える。

明日だ。明日連絡をしよう。連絡がつかなかったら先生に家の場所を聞いて、直接向かおう。

青年はそう思って、布団をかぶり眠りについた。

 

 

 

突然の身体の重みと顔に落ちる水滴を感じて、青年の意識は現実へと戻ってきた。目を開くと腹の上に跨る全身ずぶ濡れの彼女がいて、部屋着で、髪からはポタポタと水滴が落ちていた。

 

「来たのか」

「ごめん」

「え?」

「このままじゃアンタに頼りっぱなしでダメになると思ったから、最近は出来るだけ避けてたんだ。アンタに会うのも、この場所に来るのも。でも無理だった……アンタの傍は居心地が良過ぎて……」

「別に遠慮する必用なんてない。迷惑だと思ったことなんて一度もないしな」

「……わるい」

 

彼女は申し訳なさそうな顔をしていた。青年は胸の上に添えられた手に触れる。それは酷く冷たかった。

 

「シャワーでも浴びて来た方が良い」

「あぁ、ありがとう。後でそうさせてもらう」

 

彼女が言う。

”後で”と言う。

では今は、もっと優先したい事があるのだろう。

青年は彼女の次の行動をじっと待った。

二人を静寂と暗闇が包む。

やがて彼女が、口を開く。

 

「……アタシが部屋で寝てたら今のアタシみたいにあの屑が急に身体の上に乗っかってきて”由美子。愛してる、愛してる”って呟くんだ」

「……由美子って」

「死んだ母さんの名前。母さんはアタシのせいで死んだ。だから親父に殴られたって蹴られたって……股のソレをぶち込まれたって全部受け入れなきゃいけないって、そう思ってたんだ。それがアタシの責任だって」

 

彼女は遠い目をして虚ろに青年を見つめる。

 

「でも耐えられなかった。アレが腰を振ってる間、ずっと天井を見てたんだ。でも途中でひどい吐き気がして、それに気付いたら身体の震えが止まらなくなって、無意識に突き飛ばしてここに逃げてきてた」

 

彼女は青年の頬にゆっくりと手を添える。

 

「なぁ、アタシはアンタの事が好きだ。好き。大好き。……アンタもアタシの事、好きだよな?」

「……あぁ」

「じゃぁ、いいよな。アタシ、気が狂いそうなんだ。あの屑野郎が心と体に入り込んできて、死ぬほど気持ち悪い。だから、アンタで染め直して━━アンタで、いっぱいに満たして」

 

彼女は泣きそうな顔で懇願した。初めて見るその表情は、彼女がどれだけ追い詰められているかを如実に表していた。

青年は彼女にそんな表情をして欲しくなくて、返事をする代わりに彼女の頭を抱き寄せて、キスをした。

 

 

 

初めて見る彼女の身体は痣だらけで、股からは血が出なかった。

 

 

 

それから時が過ぎて高校を卒業すると、二人は共に暮らし始めた。青年の説得で彼女は父親からは距離を取った。

穏やかな二人の日常。

いつだったか、二人でリビングに座ってテレビを見ている時に彼女が呟いた。

 

「あの時は、高校生の頃はさぁ……いつも死にたいって思っていたけれど、今はアンタと一緒に生きていたいって思えるよ……」

「え、急になに」

「別に。何となく言いたくなったんだから良いでしょ」

「……まぁ」

「だからさ、ありがとう」

 

彼女は、はにかんだ。

青年は照れくさそうに「俺も、そう思う」とぶっきらぼうに返して、手を重ねた。



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新入社員が愛される

クジラハウス


青年は夜中にふと、目が覚めた。起きた瞬間に、まだ夜が明けるには早い時刻だと感覚で察する。枕元の時計を見れば予想通りアラームが鳴るのは数時間も先の事だった。

仕事の夢を見ていた。

目を開けて寝室を包む暗闇と静寂を目にしたとき、心から安堵した。身体には冷や汗を掻いていてぐっしょりと寝間着が肌に張り付いて不快感を与えていた。

身体が緊張していた。喉が乾いていた。

青年は隣で寝息を立てて眠っている恋人を起こさないように静かに布団から抜け出すと、台所に行ってコップに水を注ぎ、喉を潤した。それからリビングのソファの隅にゆっくりと腰かけて、何も移さない真っ黒なテレビの画面をぼんやりと見つめた。

情けなかった。

新入である青年は、仕事で毎回のようにミスをした。出来る限り気を付けているつもりでもやっぱりミスをした。

先輩社員の中には「新人だから気にしないでいいよ」と優しく声をかけてくれる先輩もいたが、ただ舌打ちをしたり露骨に不機嫌にはなる先輩がほとんどだった。優しい先輩も、青年が廊下を歩いている時にたまたま喫煙所から「あの新人はまるで使い物になりませんねー」といつも優しくフォローをしてくれるその声で面白そうに笑っていたので、自分はこの会社で誰の役にも立てていないのだと自分を責めた。

恐かった。

青年の教育係となった先輩社員は正論に皮肉や嘲りをたっぷりと乗せて、毎度言葉の銃弾を青年に浴びせた。「こんなことも出来ないんだね」「お前はほんとに無能なんだね」と言った。言葉を受ける度に心が傷つくのを感じたが、”悪いのはやらかした自分だ”、”迷惑をかけた自分だ”と言い聞かせ、だから自分は傷つく権利すらないのだと、自分を批難した。そのうち一つ一つの動作が、それが簡単な作業でさえ、正しいかそうでないか不安になって仕方なくなった。自分では合ってると思っていて自分の字でメモさえ取っていても、もしも間違っていたらどうしようという強迫的な観念に囚われて、仕事をこなす手は鉛のように重くなり作業は遅くなりそれで叱られ、あらためて先輩に確認すれば「これ前も教えたよね?人の話聞いてないの?」と叱られた。

段々報告するのが怖くなって、細かなミスを隠すようになった。ミスが発覚したときは「嘘つくとか人間として終わってるよ」と散々人間性を否定された。

全て自分が悪かった。

自分の手を見つめる。無意識に身体が震えていた。会社に行くことを身体が拒んでいた。青年は暗い部屋の中で心細くなって少しでも安心しようと、ソファの上で膝を抱え、顔を埋めた。濁流のようにこみ上げるネガティブな感情に呑み込まれないようにただ耐えていた。

もう嫌だ。無能。役立たず。ゴミ。無理。辞めたい。馬鹿。諦めたい。

 

行きたくない。

 

生きたくない。

 

━━ぎしりっ。

 

ソファの軋む音と揺れる感覚で青年は弾かれたように顔を上げた。見れば、少し青みがかった灰色のショートの前髪をまぶたの上に垂らして、優しげな瞳で微笑を浮かべている恋人がいつの間にか隣に座っていた。

 

「こんな夜中にどうしたの?」

 

顔を傾けて寝起きの少し掠れた声で彼女が問いかける。

 

「なにも」

 

短くそう返して青年は再び膝に顔を埋める。

 

「なんにもないわけないじゃん」

「……」

「お~い」

「……」

 

彼女に弱みを見せたくなかった。だから何も答えることは出来なかった。今何か言葉を発すれば、折角心の内に閉じ込めて我慢していたものを全て吐き出してしまうような気がした。彼女に迷惑はかけたくなかった。

しかしそんな青年の想いなどお見通しである彼女は、

 

「もお、しょうがないなぁ君は」

 

と言って、青年の肩に腕を回して抱き寄せた。バランスを崩して倒れかかった青年の顔が彼女の首元に埋まる。

 

「っっ!? 急に、なんでっ」

 

彼女は青年の抗議を聞いてにやりと笑みを浮かべた。

 

「別にー。君が抱きしめて欲しそうにしてたから抱きしめただけ」

「……頼んでない」

「そ。じゃあ、離すね」

 

彼女の腕は呆気なく離れた。

 

「あっ」

 

彼女の温もりを失った青年はつい口から物悲しそうな声を漏らした。その声と濡れた子犬のような表情を見た彼女は、堪らないとばかりに顔を紅潮させると、次にはさっきよりもずっと力強く青年の事を抱きしめた。

 

「んぐっ‼」

「ごめんごめん。冗談だから。ずっと抱きしめてあげるから。だからそんな悲しい顔しないで」

 

よっぽどひどい顔をしていたらしい。彼女はまるで小さな子をあやすように包み込むような声で言った。

 

「……子ども扱いしないでくれ」

「えー、子供だよぉ。本当は”もう限界だー、誰か助けてくれー”って思ってる筈なのにいざこっちが手を伸ばそうとすると拒んじゃう。ちっちゃい子のイヤイヤ期みたい」

「そんなこと思ってない」

 

彼女はため息を吐く。

 

「残念、分かっちゃうんだよ、私には。君をずっと見てきたんだからさ。君がどんな気持ちなのかとか、嘘ついてるのかなとか」

「超能力じゃん」

「うん。君限定のね。君が人に頼るのがあまりにも下手っぴですぐ一人で抱え込んじゃうお馬鹿さんだから、そんな君を何とか助けたくて身に着けた能力」

 

彼女は気付けば青年の後ろ髪を手触りを楽しむように撫でていた。青年はもう何も言わなかった。ただ彼女の温かさと柔らかさと、彼女の素肌からする自分にとって何故かすごく心地の良い匂いに包まれて心を落ち着かせていた。

 

「ねぇ、君にとって私はなに?」

「……恋人」

「そう、恋人。だから君の嬉しいことも悲しいことも全部共有したいって思うんだよ」

「……」

「だから私に訊かせて? 君がなんで悩んでいるのか。私にも背負わせて? 苦しみを半分こ、しよ?」

 

頭上から優しい声が降る。青年は自然と涙が零れ始めた。安心なのか悔しさなのか涙の理由は本人にも分からなかったが、ただ顔をくしゃくしゃにして彼女に縋り付いてみっともなく泣いた。

 

彼女はそんな青年の背中を慈愛に満ちた表情でトントンと優しく叩いていた。



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薬師が愛される

キツネエンジン


横長の作業台の左のスペースには青い液体の入った細い瓶が蓋をされて幾つも積み重なっていて、右のスペースにはその材料である薬草が大量に置かれている。

中央にはすり鉢。

その前に座るのは眼鏡を掛けた青年。

すり鉢に向かって手をかざしている青年の額からは大量の汗が流れ、表情は苦悶で歪み、歯を食いしばっている。

魔力を送り込んでいるのである。

やがてすり鉢の中に入っていた薬草の緑の液体がぶくぶくと泡立って沸騰し、みるみる青くなっていった。海のように深い青色になったところで彼は腕を降ろす。

ポーションの完成である。

 

「はぁ……はぁ……」

 

青年は顔を赤くして肩で息をしている。ポーションを一人分生成するのに消耗する魔力量は火の玉を飛ばすそれよりもずっと多い。にもかかわらず既に青年は今日だけで何十本ものポーションを作っていた。青年はもうふらふらで座っているのもやっとの状態だった。

それでも震える手ですり鉢を傾けて空き瓶にポーションを移し入れる。そしてもう一つ作るために薬草に手を伸ばした。

その時、「おいっ」と背後から圧のある低い声が聞こえて青年は振り返った。

立っていたのは、銀髪で黒いタンクトップ姿の大柄な女性だった。

彼女は鍛え上げられた筋肉の美しい逞しく引き締まった両腕を組んで、青年をじっと睨み下ろしていた。

 

「お前、いい加減に寝ろ」

 

彼女は夜更かしする子供を母親が叱りつけるように静かにキレながら言った。青年は「ははっ」と小さく笑う。

 

「まるで夜更かしする子供を叱りつける母親みたいだ」

「そんな下らんことはどうでも良い。それより、今の自分の顔を鏡で見てみろ」

「え?」

「散々拷問を受けて今にも死にそうな人質の顔をしている」

 

青年はニヤリと笑う。

 

「あぁ……薬師が死にそうなんて皮肉が効いててなかなか面白いね」

「どこがだ愚か者」

 

青年の冗談にも彼女は眉一つ動かさない。

事実、青年は心配を掛けまいと口角こそ上がっているがその表情には過度な魔力消費による隠しきれない疲労の色で満ちており、二徹目の彼のまぶたの下には酷い隈が出来上がっていた。根を詰め過ぎているのは誰の目にも明らかだった。

 

「とりあえず、寝るぞ」

 

そう言って彼女が促すように青年の肩に手を置くが青年は「ちょ、ちょっと待って」と食い下がる。

 

「あと一本、あと一本で修道院の子供たち全員分のポーションが出来上がるんだ。そしたら明日の朝には納品できる」

「明日の朝一本作ればいいだろ」

「いやぁ、性格が出ちゃってるのかな。最後まできっちり終わらせないと気持ち悪くて。ね、お願い。この通り。あと一本だけ」

 

青年はそう言って頭を下げてその頭上に両手を合わせた。

見事なまでの懇願である。

彼女は、そんな青年のお願いする姿をしばらく真顔でじっと見下ろしていたが、やがて根負けしたように深いため息を吐いた。

 

「はぁ……分かった。一本だけだぞ。それを作ったら寝室来いよ。私は先に寝てるからな」

 

男は顔を上げると「ありがとう」と嬉しそうに笑い、彼女は「付き合ってられん」と呆れ声で言って、背を向けて部屋を出て行った。

彼女は心配をしてくれている。彼女の言葉が多少荒くとも青年にはそれが分かっていた。

彼女の後姿を見送ると青年は手早く終わらせようと意気込んで、すぐに作業机に向き直った。

薬草を掴む。すり鉢に入れる。すりこぎ棒で潰しながら混ぜる。

 

ごりごり。ごりごり。

 

青年は、しばらく薬草をかき混ぜる自らの右手の手元をぼんやりと眺めていたのだが、やがてその手の動きに合わせて視界が揺らめいている事に気付いた。どうやら情けない事には自分の手の動きを見続けただけで酔ってしまっているらしかった。イカれた三半規管は全て疲労のせいである。そうしてヘロヘロになりながらも、どうにか青年は混ぜ切って薬草を緑色の粉状へと変化させた。それで青年は一息つくと、すり鉢の中に水を加えた後に、ゆっくりと持ち上げた左の手の平をすり鉢の中の粉にかざした。

魔力を込める。

泡立つ。

色が段々と青みがかっていく。

ポーション完成に近付いていく。

……と、そのとき。

 

「あ……」

 

口から無意識に吐息にも似た呟きが漏れ出て、同時に青年の視界が横へと大きくブレていった。椅子から崩れ落ちる力の入らない身体は浮遊感に包まれ、その刹那で青年はすぐに理解した。

 

(やばい、魔力切れだ……)

 

それは魔法を扱う者にとって最も危惧すべき事柄。魔力切れ。体内の魔力が枯渇することは身体を動かすエネルギーを失う事と同意であり、もしもそのような事態に陥った場合人間は、その場で倒れて魔力が自然回復するまで動けなくなってしまうのである。

普段の彼ならそんな初歩的なミスは犯さない。だが今回は、患者のためにと根を詰め過ぎたことが仇となった。体内魔力量を見誤った。

彼は眼前に近付いてくる床に恐怖で顔を強張らせ、咄嗟に目を瞑った。

やがて頭に訪れるであろう強烈な衝撃に備えたのだ。

 

しかし。

 

恐れていた衝撃は訪れなかった。

代わりに何か柔らかなものに身体ごと包まれるのを感じた。

目を開ければ、目の前には心底呆れた目を向ける彼女の顔があった。彼女の後ろには天井が見えて、青年は自分がお姫様抱っこされている事にやがて気付いた。彼女が抱き留めてくれたのだ。

青年は恥ずかしそうに笑う。

 

「はは、面目ない。ありがとう」

 

彼女は変らずゴミを見る様な目で見下ろす。

 

「全く、気になったから戻って来てみれば。まだ余裕ぶった口ぶりをしていたくせに、結局こうなるんじゃないか」

「ああ、うん。でもほら、君がこうやって僕を支えてくれていれば僕は動けなくなることを気にしなくて良い分、まだほんのちょっとだけ魔力が送れる。そうすればポーションが完成さ」

 

そう言って彼は彼女に抱かれた体勢のまま、興味津々な赤子のように腕だけ伸ばしてポーションに向けようとする。しかしその腕は途中で遮られた。

 

「っ!?」

 

彼女が青年を肩に担ぎあげたのだ。彼女はそのまま寝室の方へと歩いていく。青年との距離が遠くなっていく作りかけのポーション。青年はもどかしそうに見つめる。

 

「ああ、もうちょっとなのに……」

「うるさい。お前はとっとと寝るんだ」

「ポーション……」

 

やがて寝室に辿り着くと、彼女は青年を乱暴にベッドの上に放り投げた。青年は仰向けのまま柔らかなベッドに身体を沈ませ、その上に、彼女がその巨躯で馬乗りして覆いかぶさった。彼女は捕らえた獲物の首を狙う肉食獣のように青年の顔を見下ろしながら告げた。

 

「そんなにポーションを作りたいなら選ばせてやる」

 

そう言って、自身が提示する選択肢に合わせて右手の指を順番に突き立てる。

 

「1つは、体力も魔力も限界を越えていながら無理してポーション作りに励んで憐れにも永眠する。もう1つは、今は私にぐっすり寝かしつけられて明日また良質なポーションを作る。━━ほら、どっちがいいんだ?」

 

彼女は低い声を震わせて尋ねながら、突き立てた人差し指と中指を、青年の首に、皮膚が少し沈むくらいに押し当てた。

これはもはや脅しである。誤った選択肢を選べばどうなるかを、彼女は細い指先で非常に分かりやすく伝えている。青年はつばを飲み込んで喉を上下させた後に、答えた。

 

「寝ます、、」

「良い答えだ」

 

彼女のお気に召した答えだったらしい。彼女はニヤリと笑うと腕を上げるのも億劫な青年の代わりに青年の眼鏡を取って近くの棚の上に置き、自信はベッドの上で青年に寄り添うように横になった。

青年は目を閉じる。

心地の良い布団の柔らかさと彼女の気配。今までゆっくりと距離を詰めてきていた睡魔が隙を見つけたとばかりに脳内に入り込んで意識を霞ませる。どこかへ落ちていく。

 

「ほら、腕貸してやるよ」

 

遠くで微かに声がして、青年は目を閉じたまま為されるがままに頭を少し持ち上げ何かの上に頭を乗せた。それは柔らかくて温かくて常に体に触れていて欲しいような安心感を青年にもたらした。そのまま青年は心地の良い暗闇へと意識を沈ませていった。

 

 

 

「ん……んんっ」

 

彼女は青年の横でゆっくりと目を覚ました。

 

「……いつの間にか私まで眠っていたのか」

 

彼女は頭を横に向ける。視線の先では彼女の腕枕に頭を乗せてすやすやと寝息を立てている青年の姿があった。

 

「ふっ。人の腕で気持ちよさそうに眠りやがって」

 

彼女は口角を上げながらそう呟く。青年は、さっきまでの”休むことがまるで罪である”とでも言うかのような執着ぶりをすっかり忘れて、ぐっすり夢の世界へと旅立っている。彼女は優しげに目を細めた。

 

「ったく、お前は頑張り過ぎなんだよ馬鹿。見守ってる方の気持ちも考えろっての……」

 

言葉とは裏腹に彼女の口調は柔らかい。彼の自分を顧みない姿勢には呆れつつも、病気や怪我で困ってる人を一人でも多く救いたいという彼の精神は素直に尊敬していた。

それから暫らく彼女は青年の寝顔を意味もなく眺めていた。無防備に丸くなっている彼を見ていると彼の恋人なのに、母親にでもなった気分がしてどうにも可笑しかった。やがて青年に誘われるように彼女にも再びの眠気が訪れてくる。うとうと、と眠りに入る前の一番気持ちの良い時間を味わう。

と、その時。

 

ドンドンドン。

 

静寂を破るように、乱暴に玄関の扉を叩く音が寝室まで響いてきた。彼女は弾かれたように意識を現実に戻し、”ちっ”と苛立たしげに舌打ちをした。

 

「誰だ、こんな時間に」

 

深夜である。

薬を求めて彼に会うために家に訪れる者は数知れないが、それでもこんな真夜中に訪れる者はそういない。彼女は青年を見る。幸いにも彼が目を覚ます気配は無かった。

 

ドンドンドン。

 

二度目のノック。

安らぎを邪魔する不届き物は一体誰なのか。

彼女は流石に苛立ちを募らせて、追い返すことにした。そうと決めれば、彼女は慎重に青年の頭の下から自分の腕を引き抜き、大股で玄関へと向かった。

 

ドンドn

ガチャ。

 

彼女の神経を逆撫でする三度目のノックが鳴り響く最中「やかましい」と言いながら、彼女は扉を開けた。

果たして、彼女の眼下には皺一つなく仕立て上げられた黒スーツで髪を後ろに固め、丸い銀縁眼鏡を掛けた如何にも執事な男と、祭事に使われる狼の面と黒いマントで身体を覆っていて外見的情報が一切隠されている、しかし腹のでっぱりから肥満体型である事だけが分かる怪しい男が並んで立っていた。背の高い彼女は自然、二人を見下ろす形となる。

 

「こんな時間に何の用だ」

 

彼女は二人の男を交互に睨みつける。執事風の男の方が答えた。

 

「世にも珍しい調合魔法を得意とし、どんな病でも怪我でもたちまちに効き目のある薬を作り出す”薬師のギル”なる人物がこちらにいると聞いて伺ったのですが」

「いるぞ」

「会わせていただくことは可能ですか?」

「無理だ。寝てる」

「そこをなんとか」

「帰れ」

 

常識を弁えないただの客と判断した彼女は全く取り合おうとはしない。頭を低くして懇願してくる執事を無視して彼女は玄関扉を閉めようとした。しかし驚いたことに扉が締まる寸前、執事風な男がその高価そうな革靴を前に突き出して扉の隙間に挟み込んできたのである。

 

「どうか! どうか!」

「おい、しつこいぞ。明日にでも出直せばいいだろ」

「それは無理なんです! この方は今日、この時間でしかこの場所に来れないのです」

「意味が分からん。そもそもそこの怪しいのはどういう人間だ。面倒を抱えている奴は始めからお断りだ」

「それは……」

 

執事風な男が口ごもる。やはり厄介な事情を抱えた人間なのだろう。彼女はそう推測して、さて邪魔な執事風な男の足をどうしようか、砕く勢いで思いっきり扉を閉めてやろうかと思案している時に、

 

「コルド、もういい」

 

今まで静観を貫いていた仮面の男が甲高い声でそう言った。そうして一歩踏み出すと、仮面とマントを片手で順番に取り払った。彼女は靴一個分開いた扉の隙間から男の様子を見ている。

露わになる素顔。人を見下すことが染み付いた醜悪な顔は脂肪でぱんぱんで、肉で押し上げられて三日月のように細い目つきをしている。

露わになる身体。豪華な装飾の施された衣服をはちきれんばかりに膨らませる丸い腹をしている。

彼女は「ほう」と僅かに眉を上げる。男の、いや少年の、その姿には見覚えがあった。

 

「知らない筈はないだろうが、自己紹介をしてやる。僕は、この国の王子”ガルディア”だ!」

 

王子であった。

彼女が予想外の訪問者に僅かに気を取られている間に、王子は執事に顎を振って指示を出す。執事はまるで王子との謁見を来客に許すかのように、人の家の玄関を全開に開く。王子が前に進み出て、彼女と正面から向かい合う。隣で執事が口を開く。

 

「ガルディア王子は近頃、息切れや動悸、腰痛などの症状に苦しんでおられます。しかし城内の医師が診ても誰も原因が分からないと言うのです。これはすなわち難病に違いなく、どんな病にも的確な効果を示す薬を作ると噂に名高い”薬師のギル”様に頼ることにしたのです。ですが城内に他所者を呼んで王子の病を診てもらったなどとなれば信用問題に関わりますので、こうしてわざわざ王子自らが夜中にこっそり城を抜け出してこの場に来たのです」

 

執事が長々と説明するので彼女は”事情は”理解した。病の知識の乏しい彼女にもすぐに分かった。つまり、王子のそれは明らかに典型的な肥満児の症状であるが、真実を告げて王子の怒りを買うことを恐れた医師たちは皆口をつぐんだのである。

難病ではなく、デブである。

彼女はため息を吐いた。

馬鹿に付ける薬はない。

彼女が内心呆れていることにはまるで気付かずに、むしろ自分が王子であることを知って畏怖しているだろうと思い込んで居る王子は偉そうにふんぞり返る。

 

「まあそういうことだ。だから今すぐに、ギルとやらを起こしてこい!」

「断る」

 

彼女は全く表情を変えずに断った。これに王子は驚いた表情をする。

 

「断る・・・だと? お前、今までの話を聞いてたのか??? 僕は王子何だぞ? 偉いんだぞ?? この僕が、わざわざ、ここまで頼みに来たんだぞ!? それを断るだと!?」

「王子だろうが何だろうが知らん。今ワーカーホリックなアイツをやっと寝かしつけたところだ。誰だろうとアイツの休息の邪魔はさせない」

「ふ、ふざけやがって……」

 

今まで自分に頭を垂れる人物ばかり見てきたのだろう。まるで態度を変えない彼女に王子は少々怯んだようだった。

 

「そ、それなら金はどうだ。治せるならいくらでも言い値で払おう。1000万ベリルでも1億ベリルでも好きな額を言うと良い。パパが払ってくれる! そうだっ。今ちょうど100万ベリル持ってきてる!」

 

そうして王子は足元の膨らんだ白い布袋を視線で指し示す。

 

「これは診察料としてくれてやる。これだけでもただの庶民が10年は食うに困らない額のはずだ。どうだ、欲しいだろ! 欲しいはずだ!! さあ起こしてこい!!!」

「断る」

「な、なら宝石か!? 豪華な服か!?」

「いらん」

「じゃあ、どうすれば!」

「━━何を言っても無駄だ」

 

彼女の言葉に王子は唇をわなわなと震わせて、

 

「くそおおおおおおおぉぉ!」

 

奇声を上げた。その場で激しく地団太する。心が成熟しきっていない王子は癇癪を起こしていた。今まで全てを思うがままにしてきた王子にとって全く意のままにならない状況が、コントロールできない目の前の彼女が、王子に混乱をもたらしたのである。

彼女は棒立ちで面倒くさそうにその様子を眺めていた。

やがて王子はひとしきり爆発して平静を取り戻したのか足を止めて静かになると「コルドォッッ!」と怒鳴りつけるように執事の名を口にした。呼ばれた執事は「はっ!」と短く礼儀正しく返事をすると、スーツの懐からある物を取り出し、彼女に突き付けた。

 

拳銃だった。

 

「もう怒ったからな! お前が悪いんだからな! お前が薬師を連れてこないっていうんならここでお前を殺して強引に家に入ってやる! 僕にとって、たかが庶民の命なんてどうでも……」

 

王子が言葉を並べ立てている最中だった。

彼女は一瞬目を見開くと、目にも止まらぬ速さで執事の懐に入り込み鳩尾に拳をめり込ませ顎を蹴り上げよろめいたところで拳銃を奪い取り、執事は床にうつぶせに転がした。瞬きする間の、一瞬の出来事だった。彼女は動いたらどうなるか分からせるように、拳銃でうつぶせの執事の頭の周りの地面を縁取るように正確に発砲すると、執事の頭を踏みつけながらゆっくりと顔を上げ、鋭い眼で王子を睨みつけた。

 

「……向けたな、銃を」

「ひっ、ひぃぃいっ」

 

王子は情けない悲鳴を上げた。子供ながらに絶大的な力を持っていると信じていた殺しの道具を、脅しの道具を、大人の道具を、彼女は軽々と無力化して見せたのである。そんな彼女の纏う鋭い殺気と握る拳銃に、王子はただ怯える。ただの庶民ではないと、本能で感じとったようだった。

 

「お、お前は、何なんだ!」

 

彼女はつまらなそうに答える。

 

「私は殺し屋だ。依頼された人間を、そして邪魔な人間を何人も殺すのが仕事」

「邪魔……?」

「アイツにとっての”邪魔”だ。」

 

アイツとは無論恋人の事である。

 

「アイツは底抜けに馬鹿だから全人類を救おうと本気で考えている。だがそんなことは無理だ。アイツの魔力で調合できる薬の数には、限度がある。だからあらかじめ、アイツの負担になりそうな人間、患者の数を増やしそうな人間、救う価値の無い人間は私が始末している」

 

王子が唾をのむ。

彼女は別に寝室に語り聞かせる必要も無かったが、ついでとばかりに続ける。

 

「例えば戦地に血の雨を降らす武器商人、例えば化学兵器で国を落そうとしているテロリスト。そう言う輩がアイツに救ってもらおうと近付いて来れば、アイツに辿り着く前に私が殺してきた」

 

彼女はそう言い終えると、ゆっくりと拳銃を持つ腕を上げて王子の額に銃口を合わせた。

 

「さて、アンタはどっちだ豚王子。アイツの休息を妨げる”厄介”な客なのか、決して邪魔はしない”物分かりの良い”客なのか」

 

訊かれた王子は緊張と恐怖でただ足を震わせるばかりで、何も答えることが出来ないようだった。ズボンには染みが出来ていて、足元に水溜まりが出来ていた。

 

パンッ!!

 

「っっっ!?!?」

 

彼女が返事を急かして発砲した。

弾は彼の丸い顔の横を通過していった。

それがきっかけだった。

王子は顔を真っ青にすると、彼女に背を向けて憐れにもよろめきながら逃げ出した。

 

「忘れ物だ」

 

彼女がそう言うと、足元に転がっていた執事の襟を掴み上げて豪快に投げ、王子の背中に命中させた。

 

 

 

 

 

彼女が寝室に戻ってくると、ベッドの上では相変らず青年が身体を丸めてぐっすりと眠っていた。何発かの銃声がしていた筈だったが、それでも青年は起きなかったようだった。見ていると眠気が誘われる程に気持ちよさそうである。

私も寝るか。

彼女はそう思って青年を起こさぬように静かにベッドに上がり、隣で再び横になろうとした。その時、青年が何やら言葉を発し彼女は起こしてしまったかと思いぎくりと身体を固くした。

 

「イルダ……ありがとう……」

 

寝言だった。

彼女は、ふふっと楽しげに笑うと、横になって彼の身体を背後からぎゅっと抱きしめた。

 

「おやすみ」

 

彼女はそっと呟いて、目を閉じた。



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獣人が愛される

主旨がずれてる気ががが


暗闇に伸びていく通路。左右に広がる空間には無数の円柱状の柱が生えていて、そこには身ぐるみを剥がされた同胞たちが生まれたままの姿で四肢を固定され磔にされている。

 

「黒狼の獣人とは大変に素晴らしい生き物だね。血液中に含まれるマナの濃度がおよそ90%でしかも本人が生きている限り体内でマナを生成し続ける。さすが神の愛玩動物だ」

 

白衣を着た老人に首の輪に取り付けられた鎖を引っぱられる。通路の先を歩く腰の曲がった小さな後ろ姿に無気力について行く。

 

「ここは私たち魔導学者にとっては夢のような施設だよ。君たちによって提供される潤沢なマナは、魔導を探求する我々の歩みを加速度的に進めてくれる」

 

広大な暗黒に響き渡る同胞たちの絶叫が左右の獣耳から入り込んで私の脳内で滅茶苦茶に反響しているのに、老人のしわがれた声は嫌でも明確に聞こえている。

 

「ほら、見たまえ。君のご両親だ」

 

前に行こうとしていた私を引き戻すように鎖を引っ張られ、いつの間にか老人が足を止めていたことに気付かされた。足を止めて、通路の右側に広がる暗黒空間へとゆっくりと顔を向ける。視界の奥まで等間隔で生えている円柱のうちの一番近い正面の二本。裸体のまま磔にされている雌の獣人と雄の獣人。母と父。

 

「いやああぁぁっっ!嘘よぉっ!!お前までっ!そんなああああぁぁぁ……!!!」

 

目に涙を浮かべ悲鳴を響かせる母。

 

「森の神よ……!なぜこのような仕打ちを我々にっ……!!」

 

憐れみの目を私に向けて神への怒りを呟く父。

 

「母さん……父さん……」

 

力の無い声で私は両親を呼ぶ。

老人は何かを納得するように数度頷くと視線を両親に向けたまま口を開いた

 

「それではご両親に手本を示してもらうとしよう」

 

老人の声に反応するようにしてどこからともなく機械のアームが四方から両親の周りを囲むように伸びてくる。先に大きな断ちバサミが付いたもの。連なる円状の刃が付いたもの。先っぽが筒状になっているもの。

 

「やめてええぇぇ!!!来ないでえええぇ!!」

「くそおぉ!寄るなぁ!くそおおお!!」

 

両親が叫び散らす中、老人が言葉を垂れ続ける。

 

「まずは喉に投与ノズルを挿し入れ強制的に回復薬を投与し……」

 

両親の叫び声が途切れる。アームの先の長い筒状の投与口が口内へと強引に挿入されて物理的に黙らされる。

 

「手首や足首と言った太い血管が通る箇所はハサミで切り……」

 

金属光沢を放つ大きなハサミが手首と足首に近付いて、刃を、閉じる。

 

「「ん゛う゛う゛う゛ぅ゛ぅ゛っ゛っ゛っ゛!!!!」」

 

二人の目がかっぴらいて苦悶の叫びを喉から漏らす。

血が噴水のように吹き出して暗闇の底に落ちていく。

 

「それ以外の部分は回転刃で切り刻む……」

 

筒状の軸に取り付けられた無数の刃が回転して両親の腕や脚や胴体の肉を容赦なく切り刻む。

身体を暴れさせて二人の拘束具がガタガタと虚しく音を立てる。

私は思わず目を逸らす。

 

「見なさい」

 

いやだ。

恐くて悲しくて苦しくて私は顔を上げられない。

 

「見なさい」

 

いやだいやだ。

こんな現実は認めたくない。

 

「見ろぉ!!」

 

いやだいやだいやだ。

老人が声を荒げ、それに反応して首の輪っかが私の身体に強烈な電撃を流し、私は強制的に顔を上げさせられる。

 

「これが君の未来だ!」

 

聞かせないで。

見せないで。

誰か。助けて。

 

「その目に焼き付けろ!!!!」

 

「ああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!」

 

 

 

 

「はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……」

 

私は上半身を起こして飛び起きていた。

荒く息を吐きながら寝室を見回して今が現実であることを噛みしめる。

十年以上前の過去の記憶だ。この期に及んで夢に見るとは、なんて最悪な気分だろう。もう私は救われたんだ。当時研究者に扮してスパイとして紛れ込んでいた青年の手によって。だからもう恐れる必要は無いんだ。

そう思いながら隣で寝ている筈の青年に視線を向ければ、彼は横になったまま優しげな茶色の瞳で私を見上げ腕を広げていた。起こしてしまったらしかった。

 

「悪い夢を見たんだね。おいで」

 

獣人の私より身長がずっと低くて童顔で身体もひょろい人間の青年。そのくせ時々気取った言い方をする。うざい。

それでもその言葉の魅力には抗えなくて、私は再び体を横にして幼子のように彼に抱き着く。

 

「よしよし。怖かったね。もう大丈夫だからね」

 

小さな子をあやす口ぶりで私に優しく語り掛けながら、片手を私の後頭部に回して自分の胸にぎゅっと抱き寄せて、もう片方の手で私の背中を優しく撫でてくれる。

くそ。情けない。でもガキみたいな扱いをするなと強がりたくても本心が彼に縋ることを強く望んでいるから何も言えない。むしろもっと甘やかしてほしくて強く抱きしめてしまう。こいつも分かっているから、普段は仕事以外何も出来なくてトロくてだらしなくて放っておいたら餓死しそうな生活力皆無の一人じゃ碌に生きることの出来ない手の掛かる奴なのに、こういう時は欲しい言葉を必ずくれる。

くそ。腹立つ……。

 

「僕が傍に居るからね」

 

獣耳の耳元で囁かれ、言葉は身体の奥の方までじんわりと広まって身体を内側から温めてくれる。呼び起こされた過去の恐怖で止まらなかった身体の震えが徐々に収まっていくのを感じた。私は彼の胸に埋めていた顔を上げて彼と視線を合わせる。

 

「私が寝るまで手止めるなよ」

「うん」

「……なんか言ってろよ」

「了解。なんか言っとく」

 

冗談めかして笑った彼の顔を瞼の裏に焼き付け、それ以外の映像を思い浮かべないようにして目を閉じた。

 

「よしよし……大好きだよ……ずっと守るからね……大きいお姫様……」

 

なんか言ってる彼の言葉が鼓膜を優しく揺らす。

それは私を安らかな眠りへと誘う。

私は彼の言葉を子守歌にして眠った。

 

悪夢は、見なかった。

 



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ヴァンパイアが愛される

イリーガルゴリラ


この街はイカれている。

7~8年前、この大都市の上空に円盤状の超巨大なゲートが現れ、その開いた門から首から上がタコだったり大量の触手だったりする人間っぽい何かや獣耳の生えた獣人や魚頭の魚人や見上げる程に大きな巨人や空飛ぶ魚や骨姿の竜と言った異界の生物が大量に侵入し、立ちどころに街は異形の姿で溢れかえった。たまたまその日はハロウィンであったが、本物の魑魅魍魎が街を跋扈することになるとは誰も聞いてはいなかった。

彼らの目的は“観光”だった。が、その軽い言葉に反して実際に引き起こされたのは“虐殺”だった。

当然のように彼らは人類の道徳や倫理観を有しておらず、代わりに持ち合わせていたのは例えば人間の頭に握り拳を振るって一発で粉々にするような腕力だったり人の脳と脳をまるっと入れ替える技術力だったり頭を銃弾でぶち抜かれてもすぐに再生する生命力だったりした。そんな異形たちが力で自分の言う事を利かせようとしたり、ただの好奇心で人間の体を弄ったりした結果、大都市の人口はみるみる減って一時は半分にまで落ち込み反比例して死者数・行方不明者数が急増した。それでも根絶やしにされなかったのはひとえに人間の手先の器用さと想像力によるものだろう。人間の作る料理が音楽が映画が服が雑貨が漫画が小説がその他諸々が異界には存在しえないものであり、異形たちを楽しませ、だから人間の価値が認められてむやみやたらに殺すのはよくないという風潮が異界の生物たちの間で流れ、実際それで当時、大都市を統治していた市長とカエル頭にスーツという珍妙な姿の異界のトップが手を取り合って和平条約が一応は結ばれた。尤も未だに面白半分で人間は殺されるし、その異形を取り締まりに来た警察も殺されるし、そうしてイキがっていた異形が自分よりも何倍も大きな異形の足に踏み潰されたりする。そう言う街だ。

そんな街の大通りをいま、僕と彼女は肩を並べて歩いている。

背中に流した艶のある長い黒髪は美しく真っ直ぐ通った鼻筋と小さな唇は可愛いというよりも美人という印象を与える。しかしながら彼女は自分に嘘を付くのが嫌いな性分で正直で毒舌で舌鋒鋭く僕も今まで何度彼女の言葉に八つ裂きにされたか分からない。それは対立を嫌って遠慮ばかりしてきた僕とは正反対で、だから惹かれてしまう。

剥き出しの刀身みたいな彼女は凛としていて、とても美しい。

現在、目的地はバーガー屋だ。建物と建物の間に伸びる路地のさらに奥に建っている隠れ家的な店。僕と彼女は他愛もない会話しながらやがて見えてきたその路地へと曲がる。視界の正面に映るのはいつもだったらバーガー屋の店舗であるが、今日は見えなかった。代わりに、灰色のモフモフの大きな背中が座っていて高さ3mの壁となって僕らの行く手を塞いでいた。僕はモフモフの上の方に見える長い二つの耳からすぐにそれが蝙蝠型の獣人だと察した。ここに来るまでに目の前を歩いていたスーツ姿のおじさんや若いカップルがこの路地に入ろうとして引き返してきたのはこれが原因だったのだろう。賢明だ。僕たちも引き返すべきだ。そう思って彼女に別の店に行くことを提案したのだが……

 

「なぜ?」

 

振り向いた彼女は表情を変えずに問い返した。

 

「そりゃ危ないからさ」

「でも悪いのは通せんぼしてるあの獣でしょ?」

「まあ、そうだけど……」

「邪魔だからどかしてくるわ」

「あ、ちょっと」

 

僕の制止を気にも留めず彼女は歩いていってしまう。僕も慌てて彼女を追いかけて蝙蝠のすぐ後ろまで行くと二人で足を止めた。

 

「すみません」

 

彼女が上を向いて呼びかける。数秒待っても獣人は振り返らず居心地の悪い沈黙だけが広がった。まるで本当に壁に喋りかけたみたいだ。彼女が再び呼びかける。

 

「すみません。聞こえているかしら」

「……あぁ??」

 

如何にも面倒そうな声を漏らしながら蝙蝠型の獣人は僕たちの方にその巨体を振り返らせた。

凄まじい威圧感だった。

風を受ける薄い皮膜が付いている腕は丸太のように太く、鼻が潰れていて、その上で開く大きな単眼が僕たちを睨み下ろしていた。ハンバーガーを食べていたらしい。口の端には食べカスが付いていて右手には大きな体には不似合いな小さいハンバーガーが握られている。

 

「なんだぁ?食事中にうるせぇな」

 

人間の身体を噛み千切りそうな程に鋭利に生え揃った歯が覗き見える大きな口から苛立ちの籠った低い声が漏れる。だが彼女は一切物怖じせずに言葉を続けた。

 

「私たちここを通りたいからどいて欲しいのだけれど」

「人間の癖に俺に指図しようってのか?」

「その大きな耳は飾りなのかしら。私は指図では無くお願いをしているのよ」

「ああぁ?」

 

威圧する蝙蝠男から彼女はじっと視線を外さない。

彼女のこういうところが好きだ。

目の前の怪物がその気になれば彼女の命など簡単に奪えるのに、彼女はまるで恐怖を感じていない。自分の正しさを貫いている。イカれている。

 

「座って食べるならこんな狭い路地より向こうの広場の草原がオススメよ?風も気持ち良し」

「ざけんな。俺は本当は店の中で食いたかったんだよ。でも店員の野郎が“身体が大きすぎて店内では召し上がれません”なんてふざけたことを言いやがったからな。ここで座ってこの店に客が入れないようにしてやってんだ、ざまあみろ馬鹿どもが」

「耳だけじゃなくてその目も飾りなのね。そこにそもそも人型以外店内飲食禁止の看板が立ってるじゃない。見えないのかしら」

「はぁぁ?」

「というかデカいのは図体ばかりで心は小さいのね。残念な男」

「はあああぁぁぁぁ???」

 

彼女の容赦のない口ぶりに蝙蝠男の怒りのボルテージが上がっていくのが目に見えてわかった。これはそろそろ不味そうだ。バーガーがぐしゃりと潰れるのも無視して右手が握り拳をつくり、力の込められた毛むくじゃらの腕には血管が浮き出ている。

僕はいつでも動けるように注意を逸らさない。

彼女がトドメを刺す。

 

「良いから早くどいてくれるかしら。しょうもない蝙蝠さん?」

「てめええええええええぇぇぇぇ」

 

とうとう我慢の限界を超えて蝙蝠男が自慢の拳を彼女に振るった。

小さな彼女に勢いよく迫る巨大な拳。当たれば即死は免れない。それが不可避の速度で迫る。

彼女の前髪が、ふわりと舞った。

……しかし。

彼女に拳は届いていない。

彼女を背にして立つ僕の左手が、蝙蝠男の拳を受け止めている。

 

「まあまあ。落ち着きましょうよ~」

 

出来るだけ朗らかな笑みを浮かべて宥めると、蝙蝠男は自身の拳を見てぎょっとした表情をした後、舌打ちをしてバツが悪そうに飛んでいった。

上出来だ。平和主義で傍観者な僕が出来る事と言えばせいぜいが主役たる彼女に降りかかる火の粉を払う事くらいである。

振り返れば真っ直ぐで綺麗な黒い瞳が僕を見つめ返した。

彼女は無傷だった。

あー良かった。

 

 

 

店内は人間と人型の異界生物で賑わっていた。

 

「さっきのは流石に危ないよ」

 

空いていた丸テーブルに向かい合って座り、カウンターで注文したポテトとドリンクとハンバーガーとナゲットが出来上がるのを待ってる間、彼女に偉そうに説教なんかを試みてみた。

 

「隣にいてヒヤヒヤするから出来るだけああいうのは避けてほしいんだけど……」

「そうよね。貴方も私もただの人間だものね。異界の住人ばかりのこの街ではゴキブリみたいに惨めに地面に這いつくばって彼らの視界に入らないようにコソコソ生きるべきよね」

「卑屈過ぎる!」

「そう?じゃあ言いたい事だけ言ったらさっさとずらかるわ」

「くそガキムーブ!?」

「ヒット&アウェイ」

「悪質だ……」

 

彼女の冗談は少々ブラックが効いていて笑えない。

要するに彼女は自分の気持ちに嘘を吐くことが出来ないのだ。相手が間違っていると思ったら絶対に引かない強情な女。全く。勇ましすぎて惚れ直してしまう。

 

「何よ。キスなら外ではしないわよ」

 

人間一発KOの異形溢れるこの街で今までよく生き延びてきたものだと思ってまじまじと見つめていればそんな言葉が飛んできて、僕は咄嗟に「違うよ」と返す。

 

「君には恐怖や絶望が無いのかなって」

「地球が滅亡したらするわ」

「大事過ぎない?」

 

「じゃあ、貴方が死んだら」

 

唐突に。

そういうことを言われると心臓が良い意味できゅっとなる。彼女が本心を言う前に照れ隠しで冗談を言う癖があるとは一年という長い付き合いで知ったことだ。つまり今のはそう言う事だ。内心喜んでる自分もなかなか単純だと思う。そこに、

 

Pppp

 

丸テーブルの上に置いておいた手のひらサイズの機械のアラームが鳴った。注文していた品が出来上がった合図だ。僕は二人分のメニューをカウンターで受け取るために席を立った。そして、ぶっ倒れた。

それはもう派手に。

前のめりに。

バタン、と。

薄れゆく視界では駆け寄った彼女が驚きで目を見開きながら必死な様子で何度も僕に呼びかけていた。

珍しい彼女の表情が見れてラッキー。

などと呑気なことを思いながら僕は目を閉じた。

 

 

 

すぐに病院に運ばれたらしい。

ひどい貧血だったらしい。

大量の輸血が行われたらしい。

僕は一晩中ベッドで眠っていたらしい。

彼女はその間ずっと傍に居たらしい。

医者から僕が“ヴァンパイア”であると聞かされたらしい。

彼女は怪訝な顔をした後、“ふーん”と呟いたらしい。

つまり。

僕が一年かけて吐いてきた嘘がどうやらバレたらしい。

 

 

 

「で?どうして今まで黙っていたのかしら」

 

一日経って病院から退院して家に戻ると早速机に座らされて、事情聴取を受ける被疑者のように事実の供述を求められた。一応病み上がりであるという事情は一切考慮されていない、絶対零度の視線と冷えた声が容赦なく突き刺してくる。こういうときの彼女に勝てる生物はこの世に存在しないので僕は大人しく口を開く。

 

「言う機会が特になかったから……」

「これだけ一緒にいて?」

 

首を小さく傾けた彼女。

疑問の形をとった言葉はそのじつ否定の言葉であってナイフの形をしていて刃先が僕の首元に向いている。

 

「勿論、私に正論を言われて頭に血が上ってしまった悲しく憐れな異界生物たちの暴力を私に代わって日々身体で受け止めている貴方がただの丈夫な人間じゃない事くらい察していたわ」

「そりゃそうか」

「でも。貴方が何者なのか、私は貴方の口からちゃんと訊きたかった」

 

寂しそうに眉を下げた彼女。

彼女の考えは尤もだな、と僕は心の中で同意する。

 

「ということでもう一回」

 

尋問が続く。

 

「なぜ黙っていたの?」

 

僕は覚悟を決めて言葉を紡いだ。

 

「他の女の人と会っていたことがバレると嫌われると思ったから、です」

「……は?」

 

ゴミを見る目と共に信じられないくらい底冷えした「は?」をいただいた。

不味い殺される説明しないと。

 

「あの僕は男のヴァンパイアなので異性である女の人の血が主食なのですが血を吸ったらその時に香水の香りとか絶対に移るから多分いつかバレるしそもそも君がいるのに女の人の血を吸うとか何か罪悪感がありまして、だから、はい」

「別に敬語じゃなくて良いわよ」

「はい!」

「……どうやって空腹を満たしていたの?」

「携帯食糧の血液パックと普通のご飯で」

「知ってる? 肉食動物は肉を食べて草食動物は草を食べるのが普通らしいわよ?」

「それは、はい」

「ヴァンパイアが血液パックで生きようとするのは人間がサプリメントだけで生きようとするようなものね、無謀だわ」

「仰る通りです……」

「それに、ヴァンパイアにとって人間の食べ物は生ゴミ以下の味がすると医者が言っていたわ。確か、私の作ったご飯も美味しいとか言って食べてたわよね」

「君との食事はプライスレス!みたいな……?」

「……」

「……ヴァンパイアジョーク」

「はぁー。呆れた。無理が祟ってこの様じゃ全然笑えないわよ」

 

彼女の憐みの視線は結構胸に刺さるものがある。

でも、嘘じゃないのだ。確かに血液パックでは血が足りなくて結果的に倒れたし人間の食べ物は形容し難い程に不味いけれども、味なんて、呼吸を止めて意識しないように咀嚼する行為に慣れれば感じなくなるし、彼女と一緒に取るに足らない会話をしながら食事をする時間は人生の中でもかなり気に入っているのだ。

だから嘘は言っていない。

 

「で? ヴァンパイアであることを黙っていた理由は?」

 

嘘は言って無くて、本当のことも言ってない。

 

「私が聞きたいのは吸血しない理由じゃなくて、ヴァンパイアであることを黙っていた理由よ」

 

やっぱり、彼女は逃がしてくれない。芯のある彼女は物事の本質を見逃さず口先だけでは誤魔化されてくれない。

彼女が机の上に身を乗り出して距離を詰めてくる。

彼女の顔が目の前に迫る。

 

「私が好きなのは貴方。嫌いなのは納得できない事」

「……」

「ねえ」

「……」

「どうして貴方はそんな無茶をしてまで隠していたの?」

 

白魚のように美しい片手がゆっくり伸びてきて僕の首を包み込むように手の平を当てられて、、

 

「答えないと殺すわよ???」

「!?!?!?!?!?」

 

脅されてしまった。

綺麗に切り揃えられた爪が首の皮膚に少し食い込んでいて瞳孔が開いていて彼女が本気である事は疑いようがない。恋人に首を絞められかけた経験のあるヴァンパイアがこの街に一体どれだけの数いるというのだろうか。質問に答えるのをはぐらかし続ければ真実を愛する毒舌で苛烈な美しい彼女に首を絞められるという素敵なイベントが発生するらしい。

彼女は有言実行の女。

故に僕は本当に殺される危険性があり、勝手に口が真実を吐き出し始める。

 

「君に、離れて欲しく無かったんだよ」

 

彼女の瞳が静寂と共に続きを促す。

 

「僕は今までに人間の女性と何人か付き合ってきた。でもみんな僕がヴァンパイアであると知ったら離れて行った。当然だよ。人間にとってのヴァンパイアの印象なんて人間の血を死ぬまで吸いつくす怪物だし、実際僕の同志たちは皆人間を食糧としか見ていないから、何人もの人間をカラカラの干物みたいになるまで吸血して路上に捨ててる」

「貴方は?」

「人間と共存を望む頭のおかしい変わり者」

「それで?」

「それで……」

「私も他の女どもみたいに貴方の元から離れると思っていたから黙っていたの?」

「お恥ずかしながら」

 

半笑いを浮かべて冗談めかしてそう締めくくった。

ヘラヘラしてはいるけれどもこれは僕の一世一代の告白だ。偽りざる本心だ。カッコいい彼女の前で格好つけるのは無理だとしてもせめて情けない姿を見せたくなかった。無論そんな見栄を張る事さえ彼女の前では許されなかったわけだけれど、、

さて。

自白を終えた僕。束の間の静寂。緊張しながら判決を待つ僕。彼女の笑い声。

……笑い声?

 

「くくくっっ」

「あの」

「くくくくくくくっっっっ」

「えっと」

「くはははははははははははははははっっっっっ」

 

彼女は堪えきれないと言った様子で両手で腹を抱えて笑った。凛とした表情が常の彼女がここまで表情を崩して笑うのは珍しく、その滅多に見れないあどけない姿に困惑と萌えを覚える。当然萌えの方がずっと大きい! けど訊かない訳にはいかない。

 

「僕そんな面白いこと言った?」

「ええ、最高よ。貴方がそんなくだらないことで悩んでたとは思いもしなかったわ」

「えぇ……」

 

訂正。こいつ悪魔だ。

 

「僕にとっては相当衝撃的なカミングアウトだったんだけど」

「も、もう勘弁して。これ以上は腹がよじれて内臓を吐き出しながらグロイ死に方をしてしまうわ」

「グロすぎるだろ!」

 

悪魔というかナマコというか。

彼女は椅子に座り直して「ふうー」と大きく息を吐き一旦落ち着くと、表情を戻した。

 

「全く。全く持って杞憂よ。貴方のその悩み」

 

ズバリと切り捨てた彼女の真っ直ぐな視線が僕の瞳を射抜く。

 

「私は貴方がたとえ、人間に擬態しているタコであろうと悪魔の召使であろうと竜の性奴隷だろうと魂だけ入れられた泥人形だろうと変わらず愛するわよ。如何なるものであっても貴方が貴方である限り、ね。勿論、ヴァンパイアであってもそれは同じ」

 

少しの静寂は彼女の言葉が僕の身体に沁み込む時間でもある。嫌な経験ばかりがあるから綺麗事を言うなという台詞が一瞬頭に思い浮かぶが彼女は綺麗事を言わないのを長い付き合いで知っているので言う必要はない。疑う必要もない。彼女の言葉は無条件に信じるに値する。それにしても、一年近く悩んできた悩みが彼女の一言で解消されてしまったのだから我ながら単純である。

気付けば彼女は椅子から立ち上がり僕の傍に立っていて、上半身を折って僕の顔を覗き込み、僕の目元の涙を親指の腹で拭った。

 

「泣き虫」

 

至近距離で呟かれて気付いた。

いつの間にか泣いていた。

どうやら僕は自分が思っているよりもずっと彼女が自分の元を去らないか不安に感じて

いたらしく、それが否定されたことですっかり安堵してしまっていたらしい。

抑揚のない彼女の声が僕を煽る。

 

「雑魚ヴァンパイア」

「いやぁ」

「ざーこざーこ」

「へへへっっ」

 

手を頭の後ろに回し、また情けない所を見せてしまいましたなぁ、などと冗談めかして続くはずだった言葉はしかし彼女の唇に遮られた。僕の両頬に手を添えて上から顔に覆いかぶさるようにして彼女が僕の唇を奪った。

しかも深いやつだった。

舌が口内に入り込んできて絡まされてなぞられる。僕に出来る事と言えば、水気のある淫らな音を響かせ、抵抗赦されず一方的に蹂躙されることくらいであった。彼女が満足して顔を上げる頃には僕はすっかり息を荒げてのぼせてしまっていた。彼女が口元の涎を腕で拭いながら何故か勝ち誇った顔で僕を見下ろしている。

 

「はぁ……はぁ……随分と急じゃない??」

「単純に貴方の涙目がそそったのと、不安だったとはいえ他の玉無し根性無しの雌共と同じだと思われたのが癪だったから襲ってやったわ」

「玉は元から無いんだよなぁ……」

「私の愛は貴方に近寄って来た他の女共が相手にならないくらい深いことが伝わったかしら」

「それはもう身に染みて」

「良かった」

 

“それと”と彼女が言葉を続ける。

 

「ついでに言うけれど、私の知らないところで一人で抱えこんで勝手に悩んで無茶するのも辞めて頂戴。正直不快だわ」

「悩むのは僕だけなのに?」

「信頼されてないみたいじゃない」

「なるほど」

「信頼してるから信頼しなさい」

「でも君の悩みとか聞いた事無い気がするけど」

「人生で悩んだことが無いもの」

「無敵かよ」

 

人間はヴァンパイアの事を怪物と称するかもしれないけれど僕からすれば人間の彼女の方がよほど怪物な気がする。

 

「わかった?」

「わかった」

 

これで僕が今後悩みを抱えることは不可能になってしまった。唯一の懸念点があるとすれば僕の悩みを聞いた彼女があらゆる手段を投じて解決を図り、かえって悩みが増えることになりそうな事だが、それはまたその時だ。などと考えていたその時だ。

 

「それじゃあ、今まで我慢してきた貴方にご褒美を上げるわ」

 

彼女はそう言っておもむろに服を脱ぎ始めた。シャツもズボンも脱いであっという間に黒い下着姿になり白い肢体の美しいプロモーションが惜しげもなく目の前に晒される。僕はただ困惑して目を白黒させている。

 

「……どういう?」

「どういうって、したかったのでしょ?吸血」

 

彼女はテーブルの向かいにあった椅子を僕の隣まで引っ張ってきて、僕と向かい合うようにして座った。両腕を広げる。

 

「ほら。吸いたいのでしょ?どこでも吸っていいわよ?」

 

視界に映る彼女の無防備な白い滑らかな素肌。

細い首。浮き出た鎖骨。柔らかそうな二の腕。

彼女の刺激的な姿にヴァンパイアとしての本能が顔を出し始める。

 

「そんなに目を血走らせて鼻息も荒くして涎も垂らして。獲物を前にした獣そのものじゃない」

「ごめん、抑えられ無くて」

「良かった。ずっと手を出してこないから私の身体に興味が無いものと思ってたわ」

「まさか!むしろ美味しそう過ぎるから!あ、いや、違くて……」

「いいわよ。貴方に食べられてあげる」

 

彼女は蠱惑的な笑みを浮かべると呟いた。

 

「召し上がれ」

 

糸の切れた瞬間だった。僕は本能のままに彼女に飛びついてそのしなやかな首元にかぶりついた。柔らかな肌を貫いて八重歯を沈める。

 

「んんっ……♡ んはぁっっ……♡ ふぅっ……♡」

 

彼女が吐息混じりの甘い声を漏らし始めた。見ればその表情は蕩け恍惚とした笑みを浮かべている。エロい。

 

「私ってドMだったのかしら……身体が気持ちよくなってる……」

 

呟く彼女。

殺さないように吸い過ぎないように気を付けながら僕はちゅるちゅる血を吸う。待ちわびた血の味に心が歓喜し多幸感に満たされる。

 

「貴方に血を吸われて生死を握られる感覚も、貴方に血を与えて生かしてあげる感覚も、身体に走る快感も堪らないわ……」

 

ちゅるちゅる。

 

「こんなの……こんなの……」

 

セックスと変わらないじゃない♡

 

熱の籠った声で彼女がそう言った。

ご名答。

全くその通り。

吸血と性行為に大差はない。

蚊は吸血する際に麻痺成分を傷口から浸透させるがヴァンパイアは快楽成分を直接ぶち込む。それは甘美な刺激となりやがて人間の思考をぐちゃぐちゃに溶かすほどの甘い蜜となる。おまけに吸血を許す事は究極の自己犠牲でありパートナーに奉仕する最大限の行いと呼べる。ヴァンパイアにとってもそれは近しく、美味すぎる血の味は快楽をもたらし下半身さえも昂らせ、相手の命を握る感覚は形容し難いほどに魅力的である。

肉体的にも精神的にも互いに満たされる。

これをセックスと呼ばず何と呼ぶだろうか。

少なくとも僕は知らない。

一旦彼女の首元から口を離せば彼女はとっくに下着を脱ぎ捨てて一糸纏わぬ姿になっていて、僕もやっぱり服を脱いで全裸になっている。

本能に支配された獣に服は必要ない。

 

「ほら。もっと私を食べて」

 

彼女が両腕と両脚を広げて僕を誘った。

僕は、本能に従った。



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