サザンドラの怪物 (盗電かたつむり)
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怪物モラトリアム(1)

 ポケモン27周年おめでとう!!!
 サザンドラ最高!!!


 

 

 

 

 怪物がこの先にいるらしい。

 

 閉ざされた鋼の扉を前にして、私たち決死隊は大きな緊張に包まれていた。保護課スタッフや鎮圧班、生物学者で構成された部隊は皆一様に神妙な面持ちをしている。

 軍事用突撃チョッキを着込んだバンギラスとカイリューは鼻息を吹き荒らし、隣の指揮官がその仁王たちをなだめる。精鋭の職員は沈黙にひたり、相棒のヘルガーと共に鋭い睨みを効かせていた。

 

「あら珍しい。あなたも緊張するのね」

 

 ふと私にそう訊いてくる声があった。隣を向くと、ブラウンヘアの白衣の女性が唇に小さな笑みを浮かべていた。

 

「私も同じ。でも大丈夫……今回は、保護施設に先日来た子とお話するだけよ」

 

 イッシュ地方が誇る動物行動学の頭脳、アララギ博士は穏やかな声で話す。「私たちの不安は相手に伝わってしまうわ」と語るが、さすがの精神力だ。

 今回の招集に際して、真っ先に応じたのが彼女である。一切の危険も勘定に入れず、わざわざ遠方から駆けつけた次第だった。

 

「誰でも緊張しますよ。これから接触する個体はいつもと勝手が違う」

「凶暴ポケモン。おまけに」

「人の言葉を話す、ときた。この種では初めての観測です」

 

 私は答えた。

 これから会う怪物は、断じて普通のポケモンではない。獰猛な種族であることに加え、なんと“人間の言語を話す”個体だというのだ。

 ポケモンといえば千差万別な生きもので、溶岩を食べる甲殻類から時速300マイルで飛行する翼竜、物質を透過する霊体まで、どんな生命体もザラにいる。それこそ、既存の科学では解き明かせない存在も日常茶飯事である。

 

 だが、そんな中でもごく稀に、一段と常軌を超えたイレギュラーが出現するのだ。それが件の「人語をしゃべる突然変異体」。サンプルも少なく、原因は未だ不明である。私が所属するポケモンリーグ保護課であれ、滅多にお目にかかれはしない。

 

「奥地でたまたま発見されたのを移送したようです。しかし、まさかあの種族がしゃべり出すとは」

「飽きない仕事ね。これだからポケモンはやめられない」

 

 博士は私の肩に手を置いた。若いのにご苦労様、と慰撫(いぶ)する手つきが逸る胸を鎮めていく。

 

「まあ安心して。捕獲隊の情報によると、危険種であっても穏便な個体らしいの」

「なのにこの警備の厚さですか」

「賑やかでいいじゃない。楽しい方がいいでしょ」

 

 この陽気で逞しい女性には「はい」としか返せなかった。

 扉の横で赤いランプが点き、耳をつんざく警報ブザーが沈黙に終わりを告げる。時間だ。いよいよ解錠のようだ。全員が呼吸を整え、意識を前方へと集めていく。

 そして、ゆっくりと。

『No.152』と刻まれた防護扉が動き出した。閂錠が解かれ、施錠鍵が外され、電子ロックが解除される。地獄の大口が開かれたように、扉の奥から生ぬるく湿った空気が吹きつけてくる。

 彼方を見据えて、博士は言ってみせた。

 

「凶暴なポケモンも不思議なポケモンも、そんなの人の勝手よ。じゃあ、行きましょうか」

 

 

 

 

 肩を怒らせた警護係のカイリューとバンギラスが、強引に扉の境界をまたいでゆく。武者震いの戦慄を腹に押し込んで、私たちは後に続いた。博士の白い頬がほんのり赤らんでいることに今さら気がついた。

 

“静かに”

 

 狭い通路を渡ると、いきなり先頭が立ち止まって、一行の指揮官がハンドサインを示す。

 同時に大きな図体の仁王が左右にはけて、視界が開けた。先ず私たちを出迎えたのは、消毒アルコールの清潔なにおいと、果てしないほどの静寂だった。

 

「ここが……」

 

 怪物の部屋か。

 私は辺りを見回した。あんなにも頑丈な扉に守られていたのだ。だからこの一室は、秩序や規律もない、凶々しい無法地帯だと勝手に思い込んでいた。

 

 だが違う。

 

 怪物の居住区はまるで、ホテルのスイートルームだ。天井の高く広大な室内には、少しの埃や野生の痕跡もなく、その清浄な四隅に至るまで無数の調度品が並べられている。

 マホガニーの赤茶色を帯びたテーブルにキングサイズのベッド。クッション付きの椅子や観葉植物のユーカリ。棚上の小瓶、端っこの簡易キッチン、額縁の風景画、掛け時計からケトルまで……。すべての家具と道具が得体の知れない温もりをまといながら、見るも美しい調和を織りなしていた。

 

「聞いてはいましたが、これはすごいですね」

「ええ。想像よりも」

 

 異常だという口ぶりだった。これではポケモンではなく、人間そのものが住んでいるような空間だ。鉄筋コンクリートの監房でも、再現された自然環境でもない。あまりにも整頓されすぎた怪物の部屋には、ごまかしきれないほどの居心地の悪さが充満している。

 

「博士。あれを」

 

 辺りを物色していると、ふいに指揮官が顎で示す。その方向を見た。博士も私も頷いた。皆が一目で了承した。

 ものひとつ動く音もしない、不気味に静まり返った部屋の奥。大きな安楽椅子の上に、人ならざる背中がどっかり鎮座している。

 いた。間違いない。あいつが“怪物”だ。三本の首を据えた異質な輪郭が、強烈な気配を発散させながら辺りを存分に圧倒しているのだ。

 

 あっけにとられていると、怪物は来訪した私たちに気がついて、悠然と振り返る。

 すると眼が合った。そして思い知った。

 怪物の眼は赤い。紅く、緋く、赫く……。

 三つの頭が煮えたぎる赤い炯眼を讃えながら、私たちを覗き込んでいる。焼けただれたような黒い眼帯の中に、一重まぶたの激しい焔が燃えていた。捕食者の瞳だ。

 私たちと怪物のあいだに火の粉が弾け、心臓がドクドクと打つのを聴いた。

 

「こんにちは。お会いするのを楽しみにしていました」

 

 そう言って、まず先手を切ったのは博士だ。話すポケモンだから挨拶はマナーなのだろう……最前の死線へ歩み出て彼女はひとつ礼をする。

 だが、一触即発の空気に変わりはなかった。何が起こるか分からない。誰も予想すらできない。肌を焼くような火薬庫の緊張に立ち尽くし、全員が対象の応答を待ち構える。

 

 すると怪物は突然ぬっと三つの首をもたげ、椅子から立ち上がった。いや、飛び上がったのだろう。折りたたまれていた翼が展開され、重戦車にも似た6.5フィート400ポンドもの屈強な体躯が露わになる。影を背負った巨躯は宙に浮かび、小さく揺れながら私たちに近づいてくる。

 

構えろ(Ready)

 

 指揮官が小さな声で呟いた。呼応して警備の仁王が前に出た。私は博士を護れるよう傍に立った。博士はそのままだった。

 

 怪物は何に構うこともなく、喉元を動かしながら距離を詰めてくる。近づくごとにその体温が、そのシルエットが、嫌というほど濃厚になった。私は怪物の凄惨な姿に息を呑んでいた。

 

 身体は燐火(りんか)をまとったようなプルシャン・ブルー、背中には漆黒の翼が三対も生え、分厚い風切羽根が鈍重な艶を覗かせている。その煤けたような色は上方へと走り、胴体からスッと伸びた三つの首は、黒く剛い毛皮で覆われていた。更にその先、仲良く立ち並ぶのはドスの効いた青い顔だ。裂けた口、獅子鼻、濃い隈、おまけに焼き尽くさんとばかりの真っ赤な瞳。

 そんな悪夢の怪物が、今、目の前にいる。

 

「楽しくなってきたね」

「はい、震えるくらい」

 

 耳打ちをしながら私は思った。

 これが温厚な個体? 

 これが本当に話す?

 

 報告書の誤植もいいところだ。だが、もう何もかも遅かった。

 そうして勿体ぶったように怪物は喉を緩め。ぱっくり裂けた大きな口が、黒く底見えない空洞が、まるで私たちを一息で飲み込むように深く深く深く広がってーー……

 

 

 

 

 ーー飛び出たのは、ひどく平和な言葉だった。

 

「ここに3つの飲み物があるんだ。どれでも好きなものをどうぞ」

「じゃあ……紅茶をお願いしようかしら」

「いいね。今淹れるから少し待っててね」

 

 自分でも何が起こっているのかよく分からない。

 だが、あの息詰まる刹那の後。気づけば怪物が確かにしゃべって、「何か飲み物を淹れよう」と言い始めていた。

 

 博士を椅子に座らせてから、怪物は収容部屋に備えつけられた簡易キッチンへと向かう。

 コンロの上では、陶器のケトルが小さく震えながら湯気を噴き上げている。その横でカタ、カタ、と小気味よい音をたてながら、三つ首の巨体が軽快に動いていた。くわえるように、伸びた右首が茶筒の蓋を外し、うねる左首がソーサーとカップの支度をせっせと始める。

 

「へえ。近頃のポケモンは紅茶を淹れられるのね。ガラル地方で学んだの?」

「嬉しいことを言ってくれる。本で勉強したんだ。素人の真似事だよ」

 

 真ん中の首がバスの声で答えた。怪物はほころび、蒸気に躍るケトルを掴んで、粛々と準備を進めていく。遠目から見つめる私たちを背負って、ポットとマグを丹念に温め、ストレーナーを使って紅茶を淹れる。迷いのない丁寧な手際でダージリン(※1)が蒸らされ、芳ばしい香りが部屋中にわっと膨らんだ。

 

「どうぞ。熱いから気をつけて」

 

 暴力の化身みたいな異形が、執事のような手つきでカップを博士のテーブルに置く。そうして怪物は向き直るように、再び安楽椅子へどっしり腰を下ろして寛ぎだした。

 

「まあ、いい匂い。ポケモンが作ってくれたお茶なんて素敵ね」

「それは勿体ないお言葉だ。うまくできていれば幸いだよ」

 

 怪物は目を細めて言った。

 

「この茶葉も道具も、私が人に近い営みをするということで計らってもらったんだ。気を遣わせてしまったね」

「いいえ、気にしないで。あなたを無理にでも連れてきたのはこちらの方でしょう」

 

 顎を引いて博士は紅茶へ口をつけた。マグを傾け……おいしい。春の一番もの、ファースト・フラッシュかしら……トクサ色の瞳が可憐に瞬く。反らせた白い喉が静かに動いた、そんなひたと見惚れるような時間があって、彼女はおもむろに

 

「シンプルな一杯のお茶は、シンプルな物事と程遠い」

 

 と台詞を読む調子で言った。

 

「おや。ガラルのことわざだね。何か気になることでも」

「あなた。綺麗な声で話すのね」

 

 カタンと、カップがソーサーの上に置かれる。怪物は沈黙の眼差しを手向けながら、座る博士を、その後ろに立って控える私たちを正視した。

 

「そうだろうか」

「そうよ。……静けさに響くバスの声。昔、ポケウッドにいた名優を思い出すわ。ハードボイルドの主人公みたいな」

「ふふ、くすぐったいね。でも生憎バーボンは品切れなんだ」

「そういうところよ。そういうところ。バーの端っこで優しく微笑んでいるの」

 

 まるでそこが豊かな陽だまりであるかのように、一人と一体は笑う。

 しかし博士が言うように、本当に不思議なものだった。側から見守る私は大きな神秘に胸を衝かれていた。あの凶暴そうな怪物が、あれだけの猛々しい喉元から、これだけ軽やかに言葉を奏でているのだ。耳を傾ければ、好みも人目もいい男女の二人が朗らかな午後の予定でも立てているように思えるだろう。

 最も目を開けば、そんなことは微塵もないのだが……。

 

 まあ、何はともあれ。

 怪物との接触は一応うまく軌道に乗ったようである。息を合わせた平穏な会話を聞きながら、私は怪物の姿を頭のレポートへ描くことにした。これは私の元来からの癖である。こんな仕事に就いている以上、観ることは何よりも大切なのだ。

 私は空想のペンを握った。白紙の見開きの舞台に、怪物が軽快な足取りで踊り立った。

 

 

 怪物。

 そう呼称されるこの生きものにも、当然のこと出自はある。

 もとい、凶暴ポケモン “サザンドラ”。

 イッシュ地方を起源とする辛辣な第一級の危険生物である。三本の首と真っ青な皮革が特徴的なドラゴンで、膂力に優れ、悪巧みに長じている。ゆえにその非情さを買われ、ギャングの用心棒やテロリストの兵器として使役されることもあると聞いた。「遭ったら祈れ」……とはよく言う。まさに生態系の支配者と呼ばれる、正真正銘の暴君だ。

 

 だが、どうも目の前の個体は随分と違うらしい。

 

「しかし不思議ねぇ。サザンドラが話すなんて」

「私たちポケモンは短期間で超常的な進化をする生物だ。その時に何か特異な変化が生じてしまったのだろうね」

 

 性格は穏便で極めて理知的。秘密の翳りをまといながら教養よく椅子に構える様は、マツリカの一枚絵から飛び出てきた紳士さえ思わせる。現に種族由来の暴力性は影の一つも認められない。

 そして何よりも、人の言葉を話せるという。話すのはどうやら真ん中の頭だけのようだが、その大きく彫られた唇には適度な上品さと親しみがこもっており、くっきりと深い情感に富んでいた。発声については、所々に特有のアクセントこそあるものの、人間の流暢な発音と大した違いはなかった。

 

「それで、あなたは博士とおっしゃられたね」

「ええ」

「して、ドクター。私のようなものはやはり少数派なのだろうか」

「うーん。人の言葉を話すポケモンは時々現れるのよ。大道芸人のニャースとか、水の都の護神とか。テレパシーを含めればもっといるけれど」

「何にせよ少ないということに間違いはなさそうだ。博士の見聞をもってして、そうであるのなら、きっとそうなのだろう」

 

 怪物は大げさに頷く。黒く縁取られた(アイリング)の奥底で、真っ赤な瞳が小さく揺れていたような気がした。

 

「それもそうね。とにかく、今日あなたと会えたことは本当に光栄なのよ」

 

 博士は静かに「サザンドラ」と言う。先程からこの呼び名に反応する当たり、目の前の怪異は本当に件のポケモンらしい。やっぱり空目ではないようだ。

 サザンドラは重たそうな首を振って

 

「私なんかに光栄とは勿体ないお言葉だ。しかし、己が言うのもおかしなことだが、話すポケモンとはそれほど不思議な存在ではないと思うんだ」

「と、言うと?」

 

 素人の浅知恵だが、そう首をすくめながら

 

「つまり私たちが話す現象は、正常な“学習”の産物ではないかということだ。君たちがそうであるように、私も一から学んで言語を覚えたんだ。何も、パッと話すポケモンが自然発生したわけではないよ」

「なるほど、それはいい論説ね。そうなると真のブラックボックスは、“高度な社会性の獲得”と“声帯の変異”に集束するということかしら。でも、これはこれで謎だらけよね」

 

 私が空想のレポートにふけているうちに、茶飲み話は小難しい科学の話へと突入したようだ。

 むぅ、と思索の息がふたつ溢れる。博士は手を顎に当てて思いにひたった。サザンドラもまた、喉の奥で呻きながら三つの首をとぐろのように丸めていた。

 

「逆に訊くけれど、あなたの家族とかに人の言葉をしゃべる子はいなかったの?」

「家族か。昔のことはもう覚えていないね」

「仲間とか友だちには」

「友だちは……いない、いなかった」

「そう。じゃあ横遺伝の可能性も薄いときたか」

 

 八方塞がりに天井を仰ぎながら博士は言った。

 

「あなた最高ね。謎めいた子も大好きよ」

「そんな滅相もない」

 

 声は溜息と混ざり、沈み、段々と低くなっていく。

 

「まさか言葉を話すことが、これだけの大事になるとは夢にも思わなかった。私はただ、君たちの生活に憧れて覚えただけなのだが」

「気にしないで。あなたが話すことに何の異論もないわ。だから、もっと声を聞かせてちょうだい……もう一杯いただけるかしら」

「どうぞ遠慮なく」

 

 空っぽになっていたマグに、黄金色の濃く熱い紅茶がゆっくりと注がれる。立ち上る湯気を眺めながら、ふとサザンドラが口元を緩めた。

 

「しかし、自分を分かることが一番大変とは、よく言ったものだね」

「そんなものよ。みんな、よく分からないままよく分からない世の中を生きているの。哀れというか滑稽というか」

「だが、それでこそなのだろう」

 

 怪物は微笑んだ。紅く刷かれた眼にうっすら浮かぶ優しそうな笑顔で、たまたま私と視線が交わった。「おや」と怪物は呟き

 

「こんにちは」

 

 と言ってきた。

 

「彼女は?」

「ああ、保護課の職員さんよ。一番怖い顔しているでしょ。隣のバンギラスとカイリューが可愛く見えるわね」 

 

 顎をしゃくった博士が、振り向いて悪戯なウインクを示す。にべもない返事もできたが、私はただ怪物へ小さく会釈した。

 

「愛想のない子」

「そんなこと……。しかし、何にしろ長話は早々かな。ずっと立たせているままでは、申し訳ない」

「いいのよ。好きで立っているんだから」

 

 そうでしょ、とおどけるように華奢な肩がすくまった。……あぁ、そうだ。何事もなければ文句は言わない。

 博士は息を整え、「ところでミスタ」と向き直り

 

「あなたはどうやって言葉を覚えたの?」

 

 と怪物に訊いてみせた。

 

「さっき自分も一から勉強した、って言ったでしょ。それほどの言語レベルよ。フォレスタ・ビアンカ(Foresta Bianche)は一夜でならず。並大抵のことではないわ」

 

 真っ青な顔が、少しばかりの含羞に染まったのを見た。怪物は答えた。

 

「えー、それがなんだ。街暮らしに憧れていたある日のこと、細かい発声ができると気付いて、君たちの営みに近づいたんだ。こっそり街に降りて捨てられた本を読んだり、君たちの会話を聞いて覚えたよ。言わば、知識のスカベンジャーとなった訳だ」

「何と! 独学とは」

 

 博士の声が好奇にきらめいた。

 

「だから発音だけではない。文字の読み書きも一応できるつもりだけれど」

 

 そう言うと黒い翼がまた機敏に羽ばたいて、どこからともなく紙切れとペンを持ってきた。この部屋には本当に何でもあるらしい。「間違っていなければ」とペンをくわえた右首が素早く動き

 

「どれどれ、『人生は一杯のお茶のようなもの』。ガラルのことわざね。言えるじゃない」

「正解でよかった。私たちポケモン特有の読字困難(ディスレクシア)書字表出困難(ディスグラフィア)は克服していると自負しているよ」

 

 ツンと利かん気の鼻を上げ、お主やるな、と博士は喉を鳴らした。

 

「あら。じゃあ、本はお好き?」

「もちろん」

 

 そのとき。

 私はこの快活な女性の口が、途端ゲンガーみたいに撥ねあがったのを見逃さなかった。科学者の性というものか、この人は時々こんな顔をする。今さっき、よからぬことを考えたのだ。

 興味、閃き、思いつき。彼女のターンだった。いたずら心の妖精がねだるように、博士は怪物へ言ってみせた。

 

「いいこと、サザンドラ。ちょっとだけ取引をしてみないかしら」

「頭数三つで足りるかい」

「十分足りるわ。簡単なビジネスよ」

 

 襟を正した彼女の話はこうだった。ろくな話でないと思ったが、確かに簡単ではあった。

 

「私には権限がある。毎日それを使って、ここへとっておきの本を差し入れしてあげる。アララギ厳選のベストセラーよ。その代わり、あなたに私たちの“しゃべるポケモン”研究を手伝ってほしいの」

 

 一息おいて

 

「言ったでしょ。あなたはとても魅力的よ。だからお互いのために是非とも、仲良くしたいわけ」

「なるほど」

「でも近頃、この業界も利権の問題がうるさいのよ。誰が何のポケモンを担当するとか、くだらない話よね。……まあ、面倒なことを省くためにも、あなたにYESと言ってほしいのだけど、どうかしら?」

 

 もちろん無理強いはしないわ。博士はタチの悪い語尾の上げ方をした。

 彼女の思惑は測り切れない。だが、何かしら裏がありそうな話であると思えた。それに大方、この手の謀とはいつか火傷に終わると相場が決まっている。

 しかし応答は早かった。

 

「うん、構わないよ」

「本当! ありがとう。話が早くて助かるわ」

 

 二つ返事にしても、流石に短すぎると思う。怪物はさも当然であるかのような口調で素直に了承してみせた。

 

「この施設で世話になっているのは私の方だ。期待に沿えるか分からないが、やってみよう」

「嬉しいわ。じゃあ早速、明日からね。私が本を届けにくるから楽しみに待っていて」

「構わないが、施設の方の許可は大丈夫なのかい」

「心配無用よ。あの愛想の悪い子に通してもらうから……じゃあ、今日は祝杯でも上げときましょうか」

 

 ポケモンと人類の親睦を願って、乾杯! 博士はマグを突き上げ、片腕代わりの青い片首が合わせる。人間の細い指先と、怪物の大きな体が重なり合った瞬間が、私のレポートに貼り付けられた。歴史に残るかもしれないスナップの中で、サザンドラは牙を隠し愛嬌よく頬を緩ませていた。

 

「素敵なお顔ね。今日は最高の記念日よ」

「それは私にとってもだ。君たちと出会えた日。なんて素晴らしい」

 

 その後も対談はこんな調子で進んでいく。別れの言葉を告げるまで、怪物は結局のこと猛りも(たかぶ)りも見せず、どんな質問にも丁寧に答えていくようだった。

 かつての暮らしを話すときは重たそうな目蓋(まぶた)を瞑りながら、読書の話をするときは赤く鮮やかな眼を輝かせながら、これからの話をするときはかさ高い背中の翼を膨らませながら、深みの声は部屋に満ちていく。

 

 夢なんかではなかった。

 怪物は、サザンドラは、確かに話したのだ。

 

 終わってみればあっという間だった。たったひと時の不思議な時間は、香るダージリンの渦の中へ、くるくると溶けていった。

 

 

 

 

 怪物との接触が終わって、隊は一応の解散をする。うんざりするような総括の後、上から手短に今日の口止めを受けて、みんなバラバラに散っていった。

 上司の職員はどこかへ電話をかけながら、機動隊から借りていたバンギラスとカイリューに至ってはあくびをしながら、そそくさどこかへ撤収していく。当たり前だが全員ビジネスの顔だった。あの場にいたものが全て一枚岩でなかったのは、初めから知っていた。

 

 だが、そんなことは心底どうでもいい。

 この件は私にとってもう終わりだ。そもそも今日はアララギ博士の接待ついでで来たのだ。明日から始まるサザンドラのプロジェクトは博士と他の連中が勝手にやるだろう。

 書類を片付けて私も帰ろう。

 そのときだった。いきなり博士から呼び出されたのは。

 

「えー、それでなんでしたっけ」

 

 呼ばれたのは、保護施設の駐車場。いるのは私と博士の二人きりだ。

 

「とりあえず無事に終わりましたね」

「ええ、終わったわね」

「博士から見て首尾はいかがでしたか?」

「上々よ。ファースト・コンタクトは成功。それに交渉もできた」

「本の提供という低予算の条件で、合法的な生体調査の認可。うまく行きすぎな話ですね」

「ええ、うまく行きすぎた。行きすぎてしまった……」

「それで」

 

 私は言った。

 

「何で、あのサザンドラに本を渡すのが私なんですか」

 

 私は絶句した。

 黄昏時の屋外駐車場に、自分の間抜けな声が響いていた。

 辺りは夕方。奇しくも逢魔時(おうまがとき)の、もの寂しく不吉な時間。赤錆びたフェンスの端に留まっていたマメパトが驚いて、焼けた空の奥に飛んでいく。博士は愛車の中に引きこもり、細い体をコクーンのように硬くしていた。

 

「本当にごめんなさい。明日から大切な学会があるの。ここを離れなきゃいけない」

「だからアドリブだけはやるなと釘を刺したんです。何であんな約束を?」

「その場の流れがあるじゃない。つい勢いで」

 

 仕事が終わったと思ったら、これだ。

 言い聞かされたとき目が眩む思いをした。周りに博士と自分以外の人間がいなかったから、私は存分に抗議をした。ハングリー精神で飯を食ってはいけないのだ。

 

「ふざけてる……。話が違いますよ。今回は何事こそ無かったものの、相手はあのーー」

 

 凶暴ポケモン、とは言葉には出さなかった。

 

「人の言葉を話すサザンドラですよ。例外中のイレギュラー。未知数なんです」

「ごめんなさい」

「事前情報でも危険性は低いと書かれていましたが、腹に何を隠しているか分からない。素直に頷くことはできません」

「護衛を頼めば」

「保護課が人材不足なのは承知でしょう。それに私のような末端に付くとでも?」

 

 私の威嚇に博士は小さく萎縮していた。

 

「どうするんですか。あの部屋の入り口は、扉の一箇所だけ。必ず誰かが対面で渡さなければいけないんですよ」

「ごめんなさい」

「約束を破ると言うんですか。この案件は対象との信頼で成り立っているようなものじゃないですか」

「ごめんなさい」

 

 私たちは「ですか」と「ごめんなさい」ばかり繰り返している。何故かそんなことを考えていた。

 

「そもそも何故私に頼むのですか」

「ごめんなさい。顔見知りだから……。仲がいいと思っているから……」

 

 瀕死の小動物のような声で彼女はそう答える。まるで冗談話だ。本当は上の連中にものを頼みたくないだけなのだ。

 だが、保護課として本来こんな生き物を助ける仕事をしているから、私はこれ以上の追い討ちをする気にはなれなかった。それに、これ以上揉めてもチップの一つすら出ないのはよく知っていた。

 私は言うしかなかった。

 

「これきりですよ。サザンドラとの約束に嘘をついてはいけない」

 

 博士の瞳に元気の欠片が舞い戻った。彼女は生気をみなぎらせ、帰りに美味しいものを買ってくる約束をしてくれた。

 

「ありがとう。渡す本はこっちからリストを送るわ。経費で落とせるはず」

「はいはい、分かりました。学会、頑張ってください」

 

 博士は愛車にエンジンを掛けた。ヘビー・ドリンカーで有名な真紅のセダンが威勢よく唸り声をあげる。……ふん、見たことか。まるで誰かにそっくりだ。

 そんなことを考えながら、私は最後に訊くべきことを思い出した。

 

「そうだ。博士」

 

 指でノックする。フロントドアガラスが恐る恐る開き、彼女が身を乗り出した。

 

「どう思いますか?」

「どうって……」

 

 分かっているはずだ。だから私は訊いているのだ。

 

「サザンドラが話すことです。あんなの、ポケモンじゃないですよ」

 

 彼女の顔は見なかった。ただ自分が笑っていることだけは分かった。この世界にいる一番悪い奴の顔をして、私は嘲笑するように突っ立っていた。「ねえドクター」そう言いながら

 

「私は何も変な癇癪をもっていませんし、浅いファッションに染まろうとしているわけでもありません。それでもです」

 

 息を吐いた。私は続けた。

 

「それでも、私はポケモンに話してほしくない。うまく言えないけれど、私は怖いんです」

 

 風が吹いていた。底溜まりに吹くようなゾッとする風が、辺りを冷気の中に深く沈めていた。

 博士はそう、とぽつり呟く。

 

「あなたの言いたいことは分かるわ。話すポケモンは、人間とポケモンの境界を大きく揺るがせてしまう。それを決して見過ごしてはいけない」

 

 彼女の声にハスキーの面影はなかった。ただ深い暗がりを歩むように、慎重な口調で話が進められていた。

 

「事実、学会では話すポケモンが“人類への挑戦”とも言われているし、倫理や福祉の面でも多大な問題がある。今の世論は問題視していないけれど、やがて取り沙汰にされるでしょうね」

「では、そのとき彼らは」

「間違いなく大きな火種になるでしょう。迫害に忌避に対立……その先に何が待ち受けているのか、保護課のあなたなら知っていると思う」

 

 頷きはしなかった。あまりにもよく知りすぎていた。それとも、それは私が知らないほど悲しいものかもしれなかった。

 

「でも、淘汰論を語るにはまだ早計よ。彼らは余りにも謎が多すぎる。私たち人類を脅かすものなのか、共に生きていくべきものなのか、これから見極めなきゃいけない」

「博士は怖くないのですか」

「今さらの話よ。私は自分の全てをあの子たちに捧げるつもり。怖がるなんて……」

「それを明日からの私に言いますか。ものを頼んだあなたが」

「ふふ。それもそうね」

 

 一瞬の浅い和みがあって、だがすぐにそれは拭い去られた。

 

「あるいは、恐れとは違うのかもしれない」

「……」

「でもね、あなたに言いたいことが一つあるの」

 

 顔をあげなさい、と彼女は言った。深く澄んだ緑色の瞳が私を射抜いていた。この女性はこんな顔もできるのか。そう思えるほど長い時間があったような気がして、それから博士は言ってみせた。

 

「でもね、あの子たちも一生懸命に生きている。それを邪魔することは誰にもできない」

 

 込み上げるものがあった。

 同時に、科学者なのに感情論を言うのかと思った。だが、感情に囚われているのは私も大して変わらない。後に残ったのは、どうしようもないほどの後悔だった。

 

「ごめんなさい。不躾な質問でした」

「いいえ。答えなどない、でも考えなければいけない大切な問いよ」

 

 はい、そう返事をしたが聞こえただろうか。

……そろそろ行くわ……迷惑かけるわね。セダンのヘッドライトが夕闇の果てに突き抜ける。晩鐘のチャイムが響く空の向こうで、雲は影におおわれ(くすぶ)っていた。

 

「あなた、ポケモンは好き?」

「嫌いではありません」

「やっぱり。大好きだから、そういうことを言うの。だからそんな顔をしないで」

 

 博士は愛車のアクセルを踏み込んだ。タイヤが軋む。フロントドア越しにグッドサインが見えた。「タブンネ」というおどけた声は聞かなかった。

 

「いってらっしゃい」

 

 薄ら寒い夕方の地平線に日が落ちる。博士と車は影に飲まれ小さくなり、やがて見えなくなる。

 ふと空を仰ぐと、暮れなずむ彼方に刹那の幻を覚えた。サザンドラだ。雲の青い影、遠い山の暗い稜線、円く赤い太陽。残り火の大空から、逢魔時の魔物が見つめている気がしたのだ。そして、明日の私はそれに会いに行かねばならない。

 御守りとしてニンフィアの鳴き声でも録音していこうか。当てどもない考えが頭を走り回っていたが、結局は何の気休めにもならず、私は考えるのをやめた。きっと何とかなる。何とかなるだろう。

 

 ほら。寝ぐらに帰るアオガラスも、そう言っている(※2)。

 

 




補足
1、『ダージリン』とは、ガラル地方ターフタウン北西部に位置する高地で生産された最高級茶葉のことを指す。名前は「dazzling (まぶしい、感嘆させる)」に由来し、繧、繝ウ繝の繝?繝シ繧ク繝ェ繝ウ逵との関係は認められない。

2、『アオガラス』は元来ガラル地方に主として生息しているが、近年一部の個体が「渡り」を行うようになった。これは後天的な生態で、詳細は不明である。気候変動による餌の量変化説が依然有力だが、カヌチャン系統のガラルへの密輸入に起因した侵略による影響も疑われる。


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怪物モラトリアム(2)

ポケモンBW最高!!!
マグナゲート最高!!!


 

 

 翌日。

 冷たい空気で目を覚ました。身をすくめながらカーテンを開けると、眩い陽の光が部屋に射し込んでくる。街角は澄んだ空気で溢れかえり、街路樹の梢ではマメパトたちが小さな翼を広げていた。身を奮い、懸命に羽ばたき飛び立って、空の頂きへ吸い込まれるように消えていく。

 

 

 美しい営みの朝だ。

 そして、仕事の時間だ。

 

 

 都会を刻む時計は、その郊外でさえも驚くほど早い。顔に冷水を叩き込んでも、気付のキトサンを飲んでも、ブロードのワイシャツに(ボタン)を掛けても、私は未だ夢現の気分だった。

 重い身体を引きずって保護施設へやってきたとしても、大して釈然としない。早急に経費で落とした本を受け取っても、自己責任のサインをしても相変わらずだ。なぜなら、これから悪夢のような仕事をこなさなければいけないからだ。

 

 ポケモンリーグ協会自然保護課。

 そんな平穏そうな部署に勤めているというのに、何かと私たちは生傷が絶えない。あるときは迷子ポケモンの捜索でキテルグマの巣窟に迷い込んだこともあった。またあるときは違法売買の取り締まりで、ブラックシティの盛場に殴り込んだこともあった。思い出す。やはり、その度にろくなことがない。そして、今回も案の定なのだ。

 

「はい、準備はできています。152号室……サザンドラの収容部屋の解錠をおねがいします」

 

 凝り固まった身体を動かし、深く息を吸う。やるべき仕事はシンプルだ。しゃべるサザンドラに約束のブツを渡す、たったそれだけでいい。万事がうまく進めば、ものの5分もかからない作業だろう。最もうまく進まなければ、身体がバラバラになるまで残業案件だが仕方ない。

 

「やるか」

 

 (いや)がる身に鞭を打って、深く息を吐いた。そうして、無機質なブザーの音を横に、私はドアの奥へと進んでゆく。サザンドラがいるのも、それが話すのも、全部丸ごと夢ならよかったと思った。

 

 

 

 

「おはよう」

「おはようございます」

 

 夢は得手して叶わない。

 

 怪物の孤城に入るや否や真っ先に、険を帯びた三つの頭が私のことを出迎えた。約束の来訪があることを知ってか、人の気配に入念に気を配っていたのだろう。長い間待ち焦がれていたように、空気を押し揺るがせながら怪物は近づいてくる。

 しかし……改めて間近によると、本当に怪物たるポケモンだ。サザンドラの巨きな影に私はすっぽり収まり、その一挙一動の何もが凄惨な脅威に映った。いざ間近で相対すると、こんなにも気圧されるのか。

 

「おや、君は会ったことがあるね」

 

 早速本を渡そうとした矢先、三つの頭が揃って私を覗き込む。どれに視線を合わせればよいのか、あるいは、どれにも合わせてはいけない気がした。迷っていると怪物はひとり合点して

 

「ああ思い出した。確か昨日、アララギ博士と一緒にいた女性の方だ」

 

 そうだそうだ。そうに違いないと、プルシャン・ブルーの凶暴そうな魁偉(かいい)が誇らしく示される。私は同調して、首を縦に三回も振った。振るしかなかった。

 

「改めて、おはよう。今日はいい天気だね」

「天気……。そうですね。外はいい天気です」

「晴れた日の朝はいいよ。空気がおいしくて、小鳥たちの囀りが聞こえてくる。お腹がすくね」

「はぁ。そうですか」

「む、そうか。この部屋には窓がなかったんだ」

「……」

「失礼ですが、今おいくつで?」

「昨晩、初めてラムを飲みました」

「なんと。そんなにお若い」

 

 ぎこちない会話ーー少なくとも私にはそう思えたーーがあった。だが怪物は一切の不満もなさそうに「そうかそうか」と口ずさみ続ける。

 

「あの、サザンドラ……さん。今日は約束のものを届けに来た次第でして」

 

 私はさっさと本題を切り出した。何事が起こる前に、この奇妙な部屋から退散したかったのだ。

 

「それは嬉しい。君が持っているのがそうかな」

「はい。まずは今日のお食事の方を」

 

 これは、私がついでに任された仕事である。腕にかけた袋を手渡した。中には、血合ソーセージと骨つきハム10ポンド、後は黒エンドウ豆が少々入っている。今日分の食事だった(※1)。

 

「容器は食べられないので、部屋のゴミ箱に捨ててください。翌日に回収します」

「うん、ありがとう。世話になってしまうね」

 

 そして本命はこちらの方だ。

 

「ーーで、約束の本です。今回は5冊分とのことで、明日にまた新しいものを用意します」

 

 私は両手で支えた本の塔を、押し付けるように怪物へ差し出した。「わあ、こんなにたくさん」。怪物は左右の首を腕のように扱い、それを受け取る。そして一度本をぎゅっと抱擁してから、食べ物と合わせて近くのテーブルの上へ丁寧に置いた。

 

「ありがとう。楽しく読ませてもらうよ」

 

 紅の眼が細まり、ポッと光が点った。

 

「本はいいよね。いろんな考えや物語にふれることができる。本当に嬉しいな」

「そんなにお好きなら、何かご要望でも」

「いいや、博士のおすすめで充分だよ。どんな本も大好きさ」

 

 怪物は右首の頬を本の背表紙に這わせ、愛撫するようだった。一冊一冊、その本の匂いやカバーの材質、題名のフォントや著者名を愛おしく思うように、冊子の輪郭をなぞっていく。

 

 今回、博士の指示を受けて手渡した5冊はどれも趣向が違うものだ。「サザンドラの哲学や知能指数を調べたいの」という考えのもと、ジャンルも対象年齢もまるで異なる本が選ばれた。

 昨年のベストセラー小説『アカシア』、専門用語が羅列する『進化全書』、幼児向けの絵本『ニャオハ立て!』、難しそうな自己啓発本『いばる戦略』ーー。

 

「その日暮らしをしていた頃は、宵越しのお金もなかったからね。捨てられた本を拾うしかなかったんだ」

 

 サザンドラはおもむろに本を一冊取った。ずっしりとした重量感がある図鑑『世界ポケモン大全』が、軽々と持ち上がる。

 左首を開いた本の下に潜り込ませて支え、右首の口でページをくわえてパラパラとめくっていく。そして真ん中の首が読む。左右の頭の感覚器官や分泌器官は未発達だから、実に合理的な動作だと思った。

 

「ところで博士はどうしたのかな。私はてっきり彼女が来るものかと」

「博士は学会のため遠くの方に外出しております。申し訳ないとのことで」

「とんでもない。多忙のところをわざわざ私のために割かせてしまったね」

 

 ふむ。と、怪物は一言だけ口に含んで、途端に本を閉じた。

 

「そうか。君は博士の助手さんではなく、保護課の職員さんだったか」

「はい。この保護施設にいることは少ないですが、他の職務を色々と」

 

 「ほほお、すごいなぁ」。怪物は感嘆の息をもらした。何一つ詳細な話をしていないのに、私の言葉を特別な魔法のように反芻し、感慨深く味わっていく。

 

「すごいなんて、とんでもありません。毎日雑務をしているだけですよ。迷子ポケモンの捕獲とか、生態調査のサポートとか……クレーム対処も」

「まさか。どれも立派なことだよ。君がいなければ、私はこうして本を楽しむこともできない」

 

 言い淀む応答しかなかった。もちろん自分の仕事をよく言われて、悪く思う人間はいない。だが、サザンドラからの賛辞の受け方は保護課のマニュアルにも書いていなかったのだ。

 

「それで、職員さん。少しよろしいかな」

「何でしょうか」

「ついでにだが、君にひとつ頼みたいことがあるのだけれど」

「はい。できることであれば何なりと」

 

 そして、マニュアルブックには怪物の部屋からの退室法も記されていなかった。無事に本を渡せていい気になるのを許さず、丸呑みがよく似合う長い喉から追加の要望が送られる。

 サザンドラはグッと大きな体を手繰り寄せて、赤色が閃く瞳を自分へ注いだ。そうして忽然と言ってみせた。

 

「君に教えてほしいんだ。私の言葉がどんなものかを」

 

 少しの静寂があった。換気口の音だけがしていた。いっそのこと、この空気を全て取っ替えてほしかった。

 

「どんな、ですか」

「そう。どんなものかを教えてほしい」

 

 恰幅に富んだ首を垂れながら、バスの声は厳粛に告げる。

 彼の質問の意図は分からなかった。些か内容が漠然としていたからだ。だが、ポケモンが喋ることを考えたとき、私の内に押し入ったのは昨日の夕方の出来事だった。あそこで私は何を口走ってしまったか。……あんなの、ポケモンなんかでは……。

 

「それは」

「すまない、質問が大雑把だったね。例えばイントネーションとか、助詞の使い方、言葉遣いとかかな」

 

 その補足に私が安堵したのは言うまでもない。

 

「それなら、どれも大丈夫です。全く違和感はありませんよ」

 

 私は即答した。むしろ上手すぎて困るくらいだと思った。

 

「でも、アララギ博士には歳を聞かない方がいいです。15歳も誤魔化されますから」

「そうなのか。それくらい、私からすれば大した差異はないのだが」

 

 ただ乙女心だけはどうにも理解が難しいようだった。

 怪物は何食わぬ顔で続けた。

 

「本当は昨日、博士と話したときに確かめるべきだった。だが私は緊張しいでね。すっかり忘れていたんだ」

 

 頭を振って思い出しながら

 

「椅子でうたた寝をしていて、それから博士と話をしたのだっけ。生まれて初めてのことなのに、あの体たらくとは恥ずかしいね」

「生まれて初めて?」

 

 そのとき、呟きにも似てもれた自分の声を聞いた。奇妙な違和感が私の背を走り抜けた。

 

「そう、生まれて初めて。この施設に来るとき何人かの方と一言二言しゃべったけれど、あれだけいっぱい話したのは昨日が初めてだったんだよ」

「いえ、待ってください。あなたが独学でそれほどの語学を習得されたのは伺っております。ですが生まれて初めてということは流石に……」

 

 息を呑んだ。私は言葉を探しながら思い出した。

 報告書によると、このサザンドラは深山幽谷で名高いチャンピオンロードで偶然見つかった個体だという。洞穴になぜか古本や利器が寄せ集められており、不審に思った調査隊が観測を開始。そしてサザンドラの姿が後に認知され、捕獲に臨んださいに話すことが発見された、という次第だった。

 しかし言い換えればそれだけだ。この変わり者のサザンドラの記録は、つい最近のものしか存在しない。それが意味することは、つまりーー

 

「サザンドラさん。あなたはいつ頃から、言語の習得を?」

「話そうと思い立ったことが、大体50年ほど前だろうか。そこから街に忍んで、こっそり勉強を始めていったよ」

「50年。そんなに長い時間を」

「そうだね。師にでもつけばよかったが、そんな珍妙なことをしていたのは私だけだったから……。もちろん途中で人間の君たちに力を貸してもらいたいと思ったけれど、声の掛け方が分からなくてね」

「そんな。じゃあ、あなたは今までずっと」

 

 孤独だったというのか。

 返す言葉はなかった。何もかもが虚しい気がした。

 

「寂しくなかったのですか」

「それは、もう」

 

 喉が声を()き止める。

 あんなにも大きかった怪物の姿は俯いて、顔を翳りの中に埋めていた。

 

「もとを辿れば、君たちと一緒に日々を過ごしてみたいと思って、言葉を覚え始めたんだ」

 

 息を整え

 

「君たちの世界では、ポケモンをパートナーにするだろう? ある日のこと山奥の故郷で、遠目にそれを見て、私は憧れてしまった」

「だから親しくなるために言葉を勉強したと」

「そう。街に降りてね」

「でも、あなたが憧れていた彼らは話しませんよ」

 

 サザンドラは私が初めて見る表情を浮かべていた。目尻も口角も鼻息も、悲しいような怒っているような、それとも何でもないような不思議な色を帯びていて。そして、こう言うーー

 

「私は違う」

 

 ざわめいていた私の鼓動が止まった。

 

「だって、私はサザンドラじゃあないか」

 

 思いがけない言葉だった。

 

「私は山奥に住んでいたのだが、()()()()()周りに他のポケモンたちがやって来なかったんだ。……私だけだよ。確かに図体ばかり大きいし雑食性だから、君たちにとっても近づきがたい存在だと直感したわけさ」

 

 そこでだ、とサザンドラは福音を得たように

 

「言葉だと思ったんだ。同じ言葉を交わせればお互いに近づきやすいと、ピンと思いついた訳だ」

 

 私はひとつの誤解をもっていたかもしれない。この変わり者のサザンドラが話し始めたのが「人の世界で生きるため」なのは、昨日聞いた。だがそれはもっと単純な動機からだと思っていた。

 

 例えば。

 

 ひとつは、怪物は強かで狡猾で、人の世界に住む方が楽に生きられると目論んだから。ゆえに胡散臭い言葉を覚えて、まるで虎視眈々(こしたんたん)と私たちを懐柔しているのだと。

 もうひとつは、怪物は本当に馬鹿なほど平和ボケしていて、風や花を人間たちと一緒に愛でようと考えたから。そのために詩情ある言葉を唄い、私たちに語りかけているのだと。

 たったそれだけのことで、ポケモンの禁忌に触れたと私は思ってやまなかった。しかし彼が言わんとしているのは……

 

「それは。つまり、私たちの偏見を解こう、という話ですか」

 

 私は訊いた。だが彼は首を三つとも大きく傾げてみせる。

 

「偏見? むう、私の言い方が適切ではなかったね。そういう訳ではないんだ」

 

 凶暴ポケモンは無知な子どものように、顔いっぱい微笑んで

 

「だって、昨日の君たちはまったく違ったじゃないか。博士も君も、カイリューもバンギラスも、みんな私のそばに来てくれた。安心した。もっと早く君たちの前に現れてよかったかもしれないね」

 

 何かとてつもなく大きな勘違いが生まれているような気がする。

 どこまでサザンドラが冗談を付いているのか、私には分からなかった。さらに訊く勇気の一欠片もなく、私はみじめに立ち尽くすだけだった。

 

「だからね、これは逢瀬(おうせ)というものなんだ。君たちが私を日向の世界に導いてくれた。そして言葉を交わしてくれた。本当に感謝しているさ」

 

 私は首を振った。横に三回だ。

 

「職員さん。この後は何か予定でも」

「はい。ですが立て込んではいないので、お手伝いすることがあればお受けしますよ」

「いいや。大丈夫だよ。ただお茶でも一杯どうかな、と。長い立ち話は堪えてしまうからね」

 

 怪物は太い首を正して「お仕事頑張って。でも無理はしないでね」と労いの言葉を送ってくれた。この文言さえも、コーヒーのひしゃげた空缶や、月曜日の電子広告や、空虚なアドバルーンを眺めて覚えたのだろうか。人知れず空を飛ぶ三つ首の影が、私の胸を衝くようにぶち当たり、落っこちていった。

 

 想うものがあった。

 

 そういえば昨日アララギ博士から遠回しに、サザンドラと交流をしてくれと頼まれていた気がする。自分がなぜこんな意味のないことを考えているか分からない……だが、後は自分のメンツの問題だった。天啓のように私のうちに舞い降りた考えがあった。

 

「あの、サザンドラさん」

「何かな」

「明日です。明日、時間があります。ですから、もしよかったら」

 

 もし、私なんかでもよかったらーー

 

「何か、ご一緒にお話しでもしてみませんか?」

 

 

 

 

「いやぁ、こんなに嬉しいことは初めてだよ。何もかもが生まれて初めてだ。こんなにいい日はない」

 

 明くる日。

 どんなに陳腐な思いつきでも、約束は果たさなければいけない。

 誓ったものは二つだ。本を渡すこと。そして彼とお話しをすること。

 追加分の本を抱えながら152号室に踏み込むと、分厚い扉の真ん前でどっかり待機している彼の姿があった。今日のことを随分と心待ちにしていたらしい。とんでもない形相だが、(とりあえず)律儀な子のようだ。

 

「じゃあ、何のお話をしようか。いや、まず本を受け取ろうか。そうだ、後はお茶を淹れてあげよう」

「ゆっくりで大丈夫ですよ」

 

 喉のギアが一段と上がっている。うっかり口元から炎が飛び出ないか不安になりながら、私は案内されるがまま席に着いた。二日前、博士が座っていた席だ。

 

「君も忙しいのにすまないね」

「保護課のことですか? 忙しくありませんよ。ちょうどいいくらいです」

 

 私は答えた。

 保護課という名目ではあるが、その実態は上の便利屋だ。降ってきた仕事を消化する、臨機応変という名の役職である。だから私が今日、このサザンドラの部屋にいても何ら問題はないのだ。むしろ彼の情報を欲している者たちにとって、私の気まぐれはこの上ないことだろう。大方予想はしていたが、彼はもちろん、施設のスタッフや博士もこの思いつきを快諾してみせた。私は一・二時間この部屋にいる権利と、彼の身の回りの世話をする仕事を得た。

 

 そんなことを考えながら、私はダイニング・キッチンで動き回る彼の背中を見つめている。マグを温め、ポットに葉を入れ、湯を注ぐ。洗練された所作はようやく日の目を浴び、光輝いているようだった。

 

「はい、待たせてしまったね。では何のお話をしようか」

 

 彼が紅茶を持ってきて、向かい合うように着席した。議題は『今日の話のテーマ』について。

 

「こういうとき、共通の話題を探せばいいと聞いたんだ。でも、私と君はーー」

 

 顔や首、胸元、脚を見比べて

 

「いろいろ違うね」

「そうですね。ですから、あなたに合わせますよ。大好きな本のお話でもしましょうか」

「それでいいのなら、それがいい。嬉しいよ」

 

 彼は再び飛び上がり、部屋のシェルフから本を引っ張り出してきた。昨日私が届けた5冊に加えて、今日追加した『ホウエン史の役割論理』、『シキミ日記』、『ポリゴンショック〜陰謀のテレビ業界〜』の3冊があった。そのうちのひとつ、金の箔押しが施されたハード・レザーのものを指し示して

 

「この『世界ポケモン大全』はいかがだろうか。私はポケモンであるし、君もポケモンに携わる仕事をしているから、よいと思うのだが」

「では、それにしましょう」

「よかった。実は昨日、他の本は全て読破できたのだけれど、流石に図鑑は重くて後に回したんだ。でも君とならゆっくり追えるかもしれない」

 

 こうして私たちは大きな図鑑を間に挟んで、お話をすることになった。

 彼の右首が繊細な口つきで厚い本の扉をくわえる。「図鑑だから、適当に開けたところから読んでいこう」。湯気躍る紅茶の香りとともに、見開きの世界が開かれた。

 

「ほぉ、これはすごい」

 

 私たちは感嘆の息をもらした。

 選んだ図鑑は、その上品な装飾に見合う立派な特別製本だった。印画紙にはポケモンの容姿が水彩のタッチで写実に描かれており、その絶妙な陰影や色艶は今にも動き出しそうだ。そして、絵の端にはポケモンの生態や分布、民間伝承までもが事細かく記されている。画集と学書を統合したような見事な代物だった。

 

「博士もいい本をもっているね」

「ええ。本だけはいい趣味をしています」

 

 彼は大きな胸を膨らませ、食い入るように本を眺めた。

 開かれたページで鮮明に息をしていたのは、月光ポケモン“ブラッキー”だ。四つ足の黒い体躯はとても神秘的で、その手足の付け根、額や尻尾、耳に刻まれた黄金の紋様がきらびやかに光っている。ページに目を走らせながら、私は紅茶で一息ついた。助かった、知っているポケモンだった。

 

「ブラッキー。初めて見る子だね。君は知っているかい」

「ええ。近年、伴侶動物(コンパニオン・ポケモン)として注目されている種族です。クールで気高い気質が、現代人の心を捉えているとか」

「ふむ、なるほど」

 

 彼は瞬きもせずに解説文を目で追いかける。

『ブラッキーはジョウト地方由来の陸上ポケモンである。硬質化した黒い毛皮は外傷への耐性のみならず防汚性や隠密性にも優れ、旧シンオウ地方(ヒスイ地方)においては高級毛皮として重宝された。はてさて、この種族は“イーブイ”の進化系として知られるが、その変異には人の庇護下という環境が大きく関与すると思われているーー』

 

「人の庇護下での進化?」

「えー、ブラッキーは一般的に人間の飼育下でのみ誕生するんですよ」

 

 私は解説した。諸説はあるのですが、と前置きをして

 

「つまり人と共にいる上で、体毛を黒く頑丈にした方が好ましいと、この子たちは考えたわけですね」

「むぅ、もしやそれは……狩猟時代にまで遡るわけかな」

「ご名答です。ブラッキーの進化前であるイーブイは、原始社会から人間と共に生活をしていました。高い探索能力を買われて、家畜化。狩猟時のセッターとして名を馳せたらしいですよ」

 

 彼は含蓄深そうに頷いていた。話す甲斐があった。

 

「人間と一緒にいれば彼らは高カロリーの食糧を手に入れられる、まさにwin-winの関係でした。ですが、歳月が経つと変わるものがあります」

「なるほど。他のポケモンたちも人間と共に生きるようになった、と」

「その通りです。有益な使役動物はイーブイに限らない。他にも沢山います」

 

 例えば、ウインディ。友好的な性格で、武勇にも優れている。狩猟分野においてイーブイの上位互換だろう。最悪の競争相手だ。

 

「結果としてイーブイの需要は減っていきました。ですが、これは彼らにとって面白くない。ならば人間が自分たちを好くように進化するだけです」

「黒いブラッキーになれば、夜間の保護色を獲得できる。結果として、闇夜に紛れた作業や奇襲が可能になるアイデンティティを取得し、人間社会での優位性が高まると」

「はい。ブラッキー種の成立には、そのような背景があるという説です。いつからか、人と長期間いることが進化のトリガーになったというわけでーー」

 

 私は気がついた。

 

「ああ、ごめんなさい。私だけがいっぱい話していましたね」

 

 昔から他と馴れ合うことを良しとせず、ひとり生きてきた性癖が暴かれているようだった。しかし彼は純粋に頷きながら

 

「いや、そんなことはないよ。今、私はとても楽しい気になれた」

 

 と、色めく口ぶりで言ってくれた。気を遣わせただろうか。彼は再び口を開いて

 

「しかし、人と共に生きるポケモンか。いいものだね」

 

 そう呟いてみせる。

 

「素敵に見えますか」

「もちろん。種族の垣根を越えて歩むとは、とても固い絆だよ」

 

 数十年もの時を孤独に費やしたものが、そう言うのだ。自分はいたたまれない気分になった。

 

「私がこっそり街に降りたとき、実はそんなポケモンたちを観るのも密かな楽しみだったんだ」

 

 例えば、ある雨の日。お揃いの雨具を着込んだ少年とコダックが、一緒にお家へ帰っていたのだという。コダックは水を好むポケモンで合羽など必要ないが、それが無ければ嫌という様子だったらしい。

 またある日。夕方の公園でムーランドと散歩をする老紳士がいたようだ。互いに齢を重ねていたようだが、歩調を合わせ、笑い合いながら歩き過ぎていったのだと。

 他には、カレー作りを手伝うコマタナ。風水を占う星見のゴチルゼルに、工事現場で働くローブシン。ポケモン混合ラグビーで無双をしていたハリテヤマ。……。

 

「すごかった。まるで当たり前かのように、みんな人と過ごしていた。君たちの世界はすごいんだよ」

 

 彼のときめきは、止むことを知らなかった。ごく当たり前のことでも、大いなる宇宙の誕生であるように語る口だった。

 

 だが、そんな淡い憧れに私は正しくどう返せばよいのだろうか。

「近頃の雨は冷たいですよね」「綺麗な夕焼け見てみたいな」「カレーって作るの意外と難しいんですよ」。

 彼の情景は募るばかりだ。募るばかりで、届きはしなかった理想を共に語ることが、どれだけ(むご)いことか。生殺しもいいところだ。だが彼は、それでも静かに笑い続けるのだった。私はいよいよ分からなくなった。

 彼は図鑑に落ちたほこりを一息で払い、おもむろに口を開いた。

 

「私もいつか、誰かと共に暮らしてみたい。だから言葉を覚えたが、私はーー」

 

 彼は部屋に立て掛けられた銀引きの姿見を覗く。そこには、190センチ近くの頑強な体躯が映し出されていて

 

「私の身体は少々大き過ぎるだろうか」

 

 安楽椅子の上でサザンドラは身をよじった。椅子の骨組みが軋み、えらく窮屈そうに見えた。

 

「雨具は入りそうにない。歩調を揃えるのも難しそう。そもそも人のお家に入れるだろうか。壁を削ってしまいそうだ」

 

 色々と話すよりも前の問題だったね、と彼は苦笑をこぼしながら呟く。私はすぐさま訂正した。

 

「大丈夫ですよ。雨具も家もいろんなサイズがあります。どんなポケモンでも、人と一緒に生きていけるはずです」

「そうか。それはよかった」

 

 彼は声をほころばせた。

 

「でも。やはり、ブラッキーが人気たる理由は分かるような気がするよ」

「人気……愛に数は関係ありませんよ」

「そうだね。嫉妬の炎はよくない、火傷をしてしまう」

「ですが、あなたにもブラッキーと同じところがありますよ」

 

 私は図鑑を指差して言ってあげた。

 

「ほら。眼がどちらも赤色です」

「なんと、本当だ」

 

 彼は眼を見開く。醒めるほど鮮明なスカーレットが、いたいけな円い光を描いていた。光には虹彩や水晶体や温かな血液のパステルがこもっているようだ。

 

「私も君たちの世界に馴染めるだろうか」

「きっと、できると思います」

「そうかい?」

「ええ。そうですよ」私は言った「いつか、きっと」

 

 

 

 

 きっかけは、こんな単純なものだった。私とサザンドラの交流は、こうして始まることになった。本を届けるついでに、私が彼と一時間少し図鑑をめくりながらお話しをする。そして、彼から得た情報を研究グループに報告する。

 

 もとは自分の浅ましい考えで始まった企画だったが、こういうものこそ意外と長く続くものなのだ。無償でデータが貰える研究班はともかく、たったそれだけのことで彼も大いに私を歓迎してくれた。毎日身体を揺らし、喉を整え、紅茶でもてなしてくれる。牙を剥くことは一度たりともなく、何かあったことと言えば、うっかり彼の右口から出た火の粉が小火(ぼや)を起こしたくらいだった。

 

 いつしか部屋は、私たちにとって当たり前のような空間になっていた。毎日サザンドラの居住区に入る私は、側から見れば遂に行くところまで行ったと映っただろう。

 でも、ギョッとする目を向けられても、私は悪い気はしなかった。彼をひとときの関係と見れば、気に入っていたのだ。うんちくを自慢げにひけらかすことなく、静かで、不思議で、慎み深く、私はただ少しの配慮を忘れなければよい。

 なんだかんだ、久しく充実している日々を過ごしているように思えた。

 

「先日、博士に会ったんだ」

 

 今日もまた本の山を抱えながら部屋に立ち入ると、彼がそう言った。アララギ博士のことだ。しばらく前のことだが、パルデア地方の学会から帰ってきていたのだ。

 

「バイタルチェックで部屋から出たとき、久しく彼女に会えたよ。何時たりとも、あのような方なのかい?」

「ええ。天真爛漫というべきか。……何かあなたの秘密についておっしゃっていましたか」

「いいや。分からない、ということだ。中々堪えていられたね」

 

 先日、鬱蒼とした死んだ声でロトムフォンに電話してきた彼女を思い浮かべた。深夜3時のコールで聞かされたのは、アルコールが(にじ)んだ愚痴だった。「まじで何で喋れるのよ? 身体の構造おかしいじゃない」「ポケモン怖い! 超進化説の再来とか最高!」「学会で彼のこと話したら、奔放な擬人化愛好家って罵られたわ」

 元気そうで何よりだった。

 ちなみに、彼女が帰ってきても本を渡す担当は私のままだ。自分がそう希望したのだ。

 

「私はそんなに難しい存在なのか」

「唯一無二ですからね。……ところで、大丈夫ですか。生体調査のとき、好ましくないことはされていませんか」

 

 私は尋ねた。立場を思えば中々思い切った質問だが問題はなかった。この部屋に、監視カメラ、録音機といった類いの電子機器は一切ない。持ち込みも禁止である。希少なサザンドラに一切の不信感を抱かせてはいけない、という最もな理由でそう決められているのだ。あるのは入り口の扉前のレーザー検出機だけである。これは私にとっても、この上ない都合だった。

 

「心配ありがとう、親切にしてもらっているよ。調査と言っても、詩を歌ったり、物音の真似をしたりするだけさ。みんな優しい人だよ」

「それならよかった」

「相談ごとは博士が聞いてくれるし……ああ、そうだ。それで思い出した。そういえば、君の方に聞いておきたいことがあるんだった」

 

 本当に些細なことだという様子で

 

「あのバンギラスとカイリューのことだ。最初、君たちと一緒にいた彼らだよ。あの子たちは何者なのだろうか」

 

 思いもしない話だった。私は尋ねた。

 

「どうして、そんな話を」

「いや、いつも研究員さんや博士と一緒にいるからね。それに何かこう、目を引くほどの恐るべき力を感じる。彼らは博士の相棒かい?」

「いえ、彼らはーー」

 

 そのとき自分の頭の中に、もみくちゃな選択肢が浮かびあがってきた。私は束の間、遠い目をしながら急いで正解を探していたと思う。

 

「えー。彼らは、派遣された守衛のポケモンです」

「守衛? 一体誰のための」

「研究部門の上級スタッフたちです。研究は危険ですから、万が一が起こってしまわないように」

「万が一。それはつまり」

「いいえ、違います。あなたが危険ということではないですよ」

「え? ああ、そうだよね。うん……そうだったのか」

 

 これはいけない。

 私は返答のひとつを頭から蹴っ飛ばした。そうして、ピシャリと頭の窓をきつく閉めた。

 

「えー。彼らは、派遣された守衛のポケモンです」

「守衛? 一体誰のための」

「えっと、あなたのボディーガードです」

「私の」

「そう。最近、言葉も通じない物騒な連中が多いですからね。保護施設に乗り込んでくる輩もいるんですよ。だから、万が一を防ぐためにも彼らはいるわけです」

「そうなのか」

 

 サザンドラは少し何か言いたげに、三つの喉元を震わせた。あの炎熱を秘めた赤い眼がどれほどの慧眼で、どこまで私たちの嘘八百を見抜いているのか。こういうときだけ、私は彼の扱いを難しく感じるのだった。

 

「そうなのか。おかしな質問だったね」

「気になられるのでしたら、掛け合ってみますよ」

「いや、そういうことではないよ。ただ彼らの所属が何となく気になっただけさ」

「それならいいのですが」

「ところで、彼らよりも君の方が強いと聞いたのだけれど」

「そんなこと誰からですか」

「博士」

 

 だが多少なりとも嘘は見抜いてほしいものだ。私は頭の中から博士も蹴っ飛ばした。そして、たまりかねたように私はさっさとこの話題を切り上げ、声を張って言うのだ。

 

「さあ、今日も本を読みましょう。まだ図鑑は終わりませんよ」

「そうだね。今回は359番の子からだった」

 

 私は壁にそそり立つ本棚に今日の数冊を収めてから、いつもの大図鑑を取り出す。しかし、この絶壁みたいなオープン・ラックも充実しだしたものだ。しばらく前に私が要求して部屋に搬入したものだが、毎日本を詰めている甲斐もあり、中身は段々と壮観になり始めていた。

 有名人の自伝から珍妙なオカルト雑誌、眩しすぎる青春小説に、古めかしい賛美歌の楽譜まで。些細な隙間すらも埋めるように、色とりどりな背表紙が規律よく並び、部屋によく調和していた。

 

 ふと私は気がつく。引っ張り出した図鑑の支えを失い、パタンと倒れた一冊があった。私は題名を一瞥して立て直す。『ロング・ティー・ライフ』……そういうことか。最近、紅茶の味が変わっていたのは。

 

「何か気になる本があったかな」

「いいえ。そういえば、この図鑑以外の本はもう全部読み切ったんですか」

「まあ、そうだね。これは君と一緒に読み進めていくと決めたから。フライングはルール違反だ」

 

 私たちは図鑑をテーブルの上に置いて、席につく。いつからか椅子は向かい合わず、隣同士に仲良く置かれるようになっていた。こちらの方がお互い読みやすいから、至極当然の現象だった。

 

「はい、飲み物を淹れておいたよ。今日はフレーバーティーだ。ヤナップの若葉を使ったんだ」

「ありがとうございます」

 

 一口つけてから、私は図鑑をめくり出す。お目当ては359番だった。……いい数だ、素数じゃないか。……そんなの気づく方がすごいですよ。……この先に私もいるはずだ、私は何番だったかね……。

 他愛もないことを話していると、隣に座っている彼の右首が、すっと私の手元に据え置かれる。濃い青のなめらかな頬がふれた。あっと彼は右首を離した。思わずお茶のカップが動いて、こぼれそうになった。

 

「どうしましたか」

「前から思っていた。君の手は、ページをめくるのが得意なんだね」

 

 今日は寄り道が多い日のようだ。だが、たまにはこんな日があってもいいだろう。

 

「私の手に指はない。そもそも、手という代物ですらないから」

「それでも、とても器用ですが」

「さわってみてもいいかな」

 

 私はひとつ頷いた。

 

「決して見るようなものじゃないですよ。仕事柄、傷もあります」

 

 サザンドラは左右の首で、まるでエスコートするように私の手をもった。どこに導こうというのか、手を、指の隙間を、骨格や血管を辿りながら撫でて、彼は温もりを伝えてくる。私がウィットに富んでいれば、花束のひとつやふたつ持ってきたかもしれない。

 

「横の口でくわえても構わないだろうか。実は鱗が厚くて、あまり分からないんだ」

「いいですよ」

「ごめんね。この首では何も食べていないから、綺麗だから安心してね」

 

 ポケモンのスキンシップには慣れている。彼は左の口で、カポッと私の片手を包み込んだ。まるで手を握られたようだ。中は意外と乾燥していて、少しひんやりしていた。あらかじめ知っていたが、舌もなかった。深い空洞の暗がりに手だけが連れ去られたと思った。 

 

「温かい。素敵な手だ」

「褒められたことなんて、初めてです」

「もう少し触らせて」

「いいですよ……あれ。そういえば、牙はないんですか」

 

 私は気がついた。サザンドラの両首は頭を模した諸器官だが、エナメルの立派な刃は生えているはずだったのだ。しかし、その鋭利な面影はない。代わりに何か、丸みをもった小さな硬いものの感触があるだけだった。

 彼は口内から手を優しく解放して、言った。

 

「折った」

 

 短く

 

「牙は折った。あんなもの邪魔でしかない」

「邪魔って、いくらなんでも」

「歯は真ん中にあるから大丈夫。両首はものを持つためだから、こちらの方が都合がいいんだ」

 

 君のには及ばないけれど、と補足された。牙を折られた両首は虚空にパクパクと食らいついていた。

 私はたまらず訊いた。

 

「なぜです。そこまでしなければ、いけないのですか」

「心配ならご無用だよ。私は意識的にアドレナリンの分泌量を調整できるんだ。これには鎮痛作用があってね」

「そうではありませんよ」

「む、違ったか。まあ、ともかく」

 

 怪物は言った。

 

 

 

「痛みなど感じない」

 

 

 

 その言葉を私が忘れることはないと思う。

 

「さあ、図鑑を読み始めようか。寄り道に付き合わせてしまったね」

 

 分厚い鱗で無表情の片首が、器用に本をめくりだす。359番のポケモンのページには結局、私ではなくサザンドラが導き開いた。

 そこには新雪のように純白な獣の姿形が凛とあって

 

『全国No.359 アブソル

 近年、側頭骨から生える一本角には多数の感覚神経が分布している精密なレーダーであることが判明した。そのため、アブソルは空気中の病原菌や異常な湿度・気圧に対して敏感に反応し、警戒のために異常行動を摂るのだ。しかし彼らにとっての不幸は、その行動が不吉な予兆とみなされ、まるで彼ら自身が災厄と名付けられたことだろう。だからアブソルは、“災いポケモン”と呼ばれるのだーー』

 

「アブソルか。昔はよく見かけたね。土砂崩れや台風の予報をしてくれるから、とてもありがたかったよ」

 

 消え入りそうなほど細まった赤い眼は、輝きばかりを閉じ込めている。私は背中を丸めて押し黙るだけだ。ただ傍に置かれたフレーバーティーを流し込んで、体を巡る苦味に耐え忍んでいたが、ふと私の喉は生唾をさらに飲み込んだ。

 

 盲点だった。とんでもないことに気がついたのだ。

 今、私たちが読んでいる大図鑑。そこには当然のことサザンドラも載っているはずだ。では、そのテキストに何と載っている? 凶暴ポケモン、無情の暴君、好物は悲鳴と拷問、趣味は生きたまま生物を解体すること……言葉を知る彼は、その悪しき事実を読み解いてしまうだろう。もし彼が自身に流れる魔性の血を知ったら、どうなることか。“人間と仲良く暮らしたい”という長年の夢は?

 

 そうだ。ここ最近で確信していた。

 彼はあくまで、知っている()()()なのだ。自分がどれほど歪な存在なのかを。帰れる場所のない忌み子なのかを。そして、人間がどんな生き物なのかを。

 

「職員さん。これを見て」

 

 おもむろにサザンドラは、惚れ惚れとした熱っぽい声で言ってきた。

 

「ほら、アブソルも眼が赤色だ。私と一緒だね」

 

 こんなことがあっていいのか。

 だが、こんなことがあるのだ。

 

 




補足
1、サザンドラは巨大な内燃機関を維持するために膨大なエネルギーを必要とする。ゆえに本種族には捕食本能を極限まで高めてエネルギー摂取を促そうとする生体的な進化が見られる。
 その一つが内因性リガンドの変異である。サザンドラは食欲刺激ホルモンであるグレリンを過剰に分泌する一方、食欲抑制ホルモンであるレプチンはほぼ分泌しないのだ。ーー中略ーー。そして最たる問題は、この現象が飢餓下のみならず飽食状態においても特に顕著になることにある。機序は依然として不明だが、一説では快楽物質たるドーパミンがグレリンのポジティブ・フィードバックを加速させるという。ーー大略ーー。上記の性質より、サザンドラを管理する場合は食事量に十分な注意が必要である。体重や年齢から必要カロリーを推定し、適切な食事を与えることに細心の留意をされたし。


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怪物モラトリアム(3)

* 

 

 

 嘘みたいな日々が冗談みたいな速度で過ぎ去って、ふいに私の背中を叩くものがあった。

 結局、私たちは何を繰り返してきたのだろう。

 

 それは決して蜜月のように甘いものではなかったと思う。私とサザンドラの間には、いつも漠とした了解や透明な嘘が隔たり立っていた。それにあの大図鑑だって、決して人間と彼の架け橋ではないのだ。雨に濡れれば文字が消えてしまうように、あんなに脆いものをそうは言わない。と内の誰かが囁いていた。

 だがそれでも、彼との日々は大きなものだった。間違いない。過ぎる時間はあっという間だ。本を運んでお話しをする。それだけのことが、部屋の片隅で一体何を育んでいたのか。

 

 

 ーー季節が運ぶ話があった。

 サザンドラが別の保護施設へ移動されるというのだ。

 もっと設備が充実した場所で、詳細に検査を進めるという。かなり強制的に決められたらしい。ここから動くと同時に、彼はアララギ博士の管轄(かんかつ)からも外れる。つまり私はもう用済みになる。そもそも、私のこの職務は個人が好きでやっていることだから、彼の話し相手という役者ごと消滅するかもしれない。

 接待係である私の耳には、当然いち早く話が聞こえてきた。

 

 だが、そんな陳腐な野暮用があの部屋の日常を変えることなどできない。さり気なく伝えたとき、彼はモゾと首を動かし一言二言しゃべっただけで、それきりだった。もう話題にあがることはなかった。別れの話は図鑑のしみにすらならず、ブレンドティーの奔流(ほんりゅう)に飲み込まれたのだ。

 

 かくして彼の孤城は不変であり、日常は紡がれる。

 部屋の本棚には日々の重なりとともに、溢れんばかりの本が詰め込まれた。堆積する思い出のようで、時折サザンドラは誇らしく本棚を自慢した。粗末に扱われた冊子はひとつたりともない様子だった。

 

『蜃気楼の世界』『いやしのドオー365日』『片付けられない女』『忠犬ウインディ』『ギャラナットに学ぶ戦略論』『イッシュ夕景100選』『ニャビーすわれ!』『ぽんぽこマリルリ』『信じる科学』『男の去り際』『オニゴーリはムラッケが9割』『運の力』『トゲキッスに愛の手を』……さらに続いて『罪と矛盾』『嘘のすゝめ』『私と毒毒と身代わりと守ると』『告発されるポケモン虐待』『ガラル戦争史』『I.E.は悪夢を見るか』『イーブイ品種改良の闇』『支配』ーー。

 

 図鑑のページもまた、一歩一歩と先へ進んでいく。軽やかで柔軟な片首が紙をめくり、閃く真紅の眼差しが文字を追い、よく微笑む大きな口元から声がこぼれる。ホウエン地方、シンオウ地方、ヒスイ地方、そしてイッシュ地方へと、三対の黒い翼はインクの世界を駆けてゆく。その旅路で私たちは、様々なポケモンに出会い、彼と言葉を交わした。

 

『全国No.421 チュリム

 普段は紫の花弁に覆われて僅かにしか行動しないが、一定以上の光量下で活性化する。植物体から放出される香気は特殊なフェロモンによるもので、それに刺激され、様々なポケモンがチュリム周辺に集うというーー』

 

「ほほぉ。いい香りとは、素晴らしいアイディアだ。身なりを整えることは大切だよね」

 

『全国No.563 デスカーン

 黄金の身体は、砂漠地帯の文明にて富の象徴として崇められていた。あくまで民間伝承のひとつだが、農耕儀礼の生贄として捧げられた人間の成れの果てとする説がある。事実、デスカーンの染色体数は46本でありーー』

 

「金色のファッションとは斬新だ。光沢のあるものは私たちドラゴンが好きだから、気が合うかもしれない」

 

『全国No.617 アギルダー

 超軽量級の身体に粘膜を巻き付け、乾燥から身を守っている。その面影は東国のシノビなるものを彷彿させるため、芸術・芸能分野で高い人気を誇る。20XX年、ポケモンとして初のプロ俳優になったニュースは未だ我々の記憶に新しいだろうーー』

 

「君が持ってきてくれた漫画のヒーローが、この子だった。私もいつか一緒に戦ってみたい」

 

 そして、さよならと一緒に在る運命へと近づいていく。

 約束された地獄『No.635サザンドラ』。その前段階である『モノズ』と『ジヘッド』のページも大概だが、いずれにしろ図鑑に仕掛けられた爆弾を踏み抜くときは近いようだ。

 私はどんな顔を引っ提げて彼の章を覗けばいいのか迷っていた。この数週間、答えを転げ回り這い回り探したが、案の定ろくなものはない。時間稼ぎに別の本を読もうと提案したこともあったけれど、やはり舞い戻るのは例の図鑑である。

 

「もうこんな時間か。続きは明日にしようか」

「そうですね。明日はNo.630から……イッシュ地方のポケモンも、もう終盤ですね」

「私はまだ呼ばれていない。と、なれば」

「いよいよですか」

 

 こんなに待ち遠しくないものはない。気が気ではない不安が、私の頭を貪っていた。

 

「職員さん。何か考え事かな。顔色があまり優れていられない」

「昨日会ったアララギ博士のせいですよ。あの人、無駄に頭がいいから一緒にいると疲れるんです」

「そうか。付き合いは大変だよね。私から少し声をかけておこうか」

 

 図鑑を本棚に片付けながら、首を振った。そんなことはしなくていい。もうする必要はないのだ。

 

「サザンドラ。私は、あなたの話し相手になれていましたか」

「もちろん。君がいたから、その図鑑を楽しく読み進められたんだ。感謝しているよ」

「そうですか。ごめんなさい、ありがとうございます」

「うん。じゃあ、また明日」

「また明日。美味しい紅茶、楽しみにしています」

 

 さようなら。

 そう言ってから手を振って、部屋の扉を閉めた。重い鋼が軋む金属音がして、もう紅茶の香りも、深いバスの声も、紅の瞳孔も、濃密な影も、体温も、鷹揚(おうよう)さも、全てが消えてなくなる。まるで白昼夢だったように、扉の一枚で彼の輪郭は世界から消え失せてしまう。

 そうか。もしやこれは夢なのかもしれない。夢でなければ、こんなに悪いことが起きはしないだろう。きっと私は夢を見過ぎたのだ。

 

 

 

 

 翌日。

 私はまた扉を開けた。だが開けたのは彼の部屋ではない。保護施設に備えつけられた休憩室のだ。薄い白樺の扉はあっけないほど簡単に開いて、その先に私の客人がいた。他には誰もいないようだった。

 

「あら、お久しぶり。ひどい顔してるじゃない。元気だった?」

「元気もクソもありますか。最悪の気分です」

 

 誰という訳でもない。アララギ博士だ。サザンドラの研究に際して保護施設に腰を据えていることは知っていたが、顔を合わせるのは久しかった。

 私は博士を一瞥して、腰掛ける彼女に向き直るように座った。そうして彼女のスリッポンのつま先を少し蹴ってから、間のテーブルに『世界ポケモン大全』を叩きつけてやった。

 

「相談はかねてから受けていたけれど……本当にやってきたのね」

「やりました」

「収容室からの備品の持ち出しは禁止。大目玉でしょ」

「大目玉でした。つまり、いつも通りです」

 

 博士は苦虫を噛み潰したような顔をした。私は張り合って、ナマコブシを踏んづけたような顔をした。上体を斜めに反らせながら、こんな感じに。

 

「まったく、ビショビショにしちゃって。経費もただではないのよ」

「他にどうしろと。図鑑を部屋の外に出す口実は、これしかなかった」

「差し出された紅茶をわざと零して、本の修繕をするために持ち出す。苦しいわね」

「名演ですよ。クビになったら、ポケウッドに行ってきます」

 

 軽口を口ずさみながら図鑑の中を開いてみた。白い印刷紙と黒いインク文字と鮮やかなポケモンの絵は、濡れてふやけ、薄く茶色が掛かっている。不憫な姿になったウソッキーと目が合った。泣いているようだ。私は顔を逸らした。

 

「この本を薦めたのは私ね。サザンドラの章の件は考えもしなかった」

「いえ、私も悪口が書かれている本を読もうだなんて」

「でも、あなたの気持ちも分かるけれど、そこまでする必要はあった?」

 

 押し黙っていると、博士は続ける。

 

「だって彼は、人の世界で生きてみたいと言ったんでしょ。なら、遅かれ早かれ自分自身について向き合わねばいけない時が来るわ」

「博士、違います。そっちじゃない。私は私のためにやっているんです」

 

 時間が経てば経つほど押し寄せるものがあった。私は忘れるように早口で話した。

 

「あんなの、何でサザンドラに生まれたんだ……。お節介で、健気で、おまけに不器用で。そんなのが打ちのめされるなんて、私の方がうんざりだ」

「不器用ねぇ……私の周りの誰も彼も」

「お陰様です。昔から、自分よりいい奴と一緒にいると死にたくなる」

 

 視線を落とすと軽い溜息が聞こえた。合わせて「お茶が飲みたいわ」という、三文芝居のような声もした。私は起立した。そして壁と向き合いながら、備品のポットと茶パックを扱う口実に夢中でありついた。

 

「この先はどうするつもりなの」

「彼には本を修繕に出すと答えました。しばらく時間がかかるでしょう。彼も引っ越すことですし、なあなあにします」

「そう、分かったわ」

 

 水をポットに注いで湯を沸かす。彼は、70度のお湯がお茶には適切だと言っていた。初めて知った。後は、蒸らすための蓋がほしい。そうすると深い旨味が生まれてウンと美味しくなるのだ。

 

「博士の方はどうです。サザンドラが話すこと、何か分かりましたか」

「さっぱりよ。あれは無理。自然の神秘ね。そういうことにしなさい」

「さいですか」

 

 返せば返ってくる話があった。

 

「あなたの方もどうなの。彼と長くいてみて……やっぱり話すポケモンは苦手?」

 

 動く手が止まった。傍の紙コップが溜め込んだ影をぼんやり見つめながら、私はしばらくの間、考え込んでいたと思う。

 

「ええ。自分は遠慮しときます」

 

 私は言った。答えは初めから決まっていたかもしれない。

 

「言葉ができることで、悲しみも苦しみも分かち合ってしまう。こんなに辛いこと、ありますか」

 

 相槌も返事もなかった。あっても、いらない。

 

「人間との境界なんて、そんなの勝手に決めればいい。……やっと分かった。私はそっちの方が嫌だったんです」

 

 耳をつく電子音がした。気付くと、電気ポットは湯気を噴き始めていた。白む。目に()みるくらい熱い。私は湯を紙コップに注ぎ、ティーバッグを浸らせる。材料も作り方も、込めるものも彼と大きく違った。「今日の奢りは私になりそうね」と博士は言いながら、コップを受け取り、中身をしげしげと観察した。

 

「青い。一番茶のファースト・フラッシュだ」

「それしか知らないでしょうに」

「いいのよ、これくらい適当で。彼も言っていたでしょ」

 

 博士は私に指を振る。

 

「人生は一杯のお茶のようなもの」

 

 そんな意味ではないと思う。

 

「まあ、もう一度彼には頭下げときなさいな。あの子、あなたと一緒にいることを楽しそうに話すのよ」

「分かっていますって」

「素直じゃないね。まあ、いいわ」

 

 博士の顔に普段の柔和さが戻ったような気がした。そしてお茶を啜り、頼りない癖っ毛をクルクル触りながら思い出したように言った。

 

「そういえば、あなた。前から思っていたんだけれど」

「何ですか」

「私への当たり、強くない?」

 

 

 

 

 後悔はあった。正しくは後悔しかなかった。

 

 だが、ここで己の職務を投げ出したら私は正真正銘のクソ野郎だ。規約を犯しはしたものの、懇願した甲斐があり、翌日も私はサザンドラの担当に就けた。処分は厳重注意だけで済むようだった。

 

 彼の部屋の扉を開ける。入る。

 後は相変わらずだった。昨日の出来事への疑念や不満は何ひとつなく、彼は私を許してくれた。

 いや、許す……そんなものではないと思う。彼は私が謝罪の言葉を言う前に、火傷をしなかったか訊いてきた。「大丈夫ですよ」と答えれば、胸いっぱいに溜め込んだ息を吐き出し、「そうか。それはよかった」と朗らかに笑うのだ。サザンドラにとって私の失態は罪のひとつですらなかった。そして、この件はいよいよ完全に終わった。読めなくなった図鑑の代わりに、私たちは適当な本を読むことになった。もちろん甘くて苦い紅茶を添えて。

 

 これでいい。これでいいはずなのだ。

 

 心配は消えた。障害は除かれた。後ろめたさこそあるものの、万事が上手く進行しているはずだった。

 なのに未だ騒めくものは何だろう。それは彼との別れの日の気配だろうか。

 

 だが、そのことまで口にするのは野暮だと知っていた。彼は一切の喧騒(けんそう)に頓着せず、その日まで穏やかに過ごすようだった。赤がこもった瞳は、部屋の淡い照明を反射し、今日もささやかに輝いている。

 

 

 

 

 風が吹いている。

 別れのときだ。

 

 

 移動の前日。準備はとうに出来ていた。移送先には、ここのような収容室が用意され、後は今の部屋の本とサザンドラを搬入するだけ。大型トラックの整備も、ーー誠に遺憾だがーー鎮圧班の手配も予定通り進行し、私たちは時間を持て余していた。そこで博士がこんなことを言い出したのだった。

 

「あのサザンドラ……ずっと私たちに力を貸してくれた。だから、最後の日くらい部屋から出して好きな事をさせてあげたいわ」

 

 仮にも保護課が預かっているのだ。だから、ポケモン・ウェルフェアに背く訳にはいかない。私たちの申請は強引にでも上に通した。通してみせた。そして、その旨をつい先程、彼に伝えたところだった。

 と、言っても余計な世話だと思う。私は彼の応答を大雑把だが予知できた。物静かで謙虚な彼のことだから、頓狂な贅沢は言わない。いつも通り部屋で本を読むことを選ぶと思っていた。

 しかし彼はこう言った。

 

「じゃあ、少し外の方を散歩してみたいね。夕方ごろ、涼しい時間がいいな」

 

 思えば、かねてから人の世界で生きてみたいと願っていたのだから、それも当然の要望だったかもしれない。幾つかの条件を含みながらも、無事に許可は降りた。……人口密集地に行かないこと。人前で言葉を話さないこと。一切の武力の放棄。法律遵守。諸々。

 変な人間の接触を絶てるのは好都合だが、これで彼の望みは満たされるのだろうか。しかし、サザンドラは十分と三つ首で頷いた。それどころか、彼はさらに自分で決まりを付け足した。

 

「いつもの職員さん。彼女と一緒がいい」

 

 なぜ私が同伴なのだろう。人と共に生きたいとは言え、結局私がいては部屋の内外が違うだけと考えたが、ご指名を預かった以上、私は従うだけだ。

 

 最後まで判然としないことばかりだが、私たちは入念なシミュレーションの上、彼の望みを実現させることを試みた。

 

 

 

 そして空を焼きながら夕方がやって来る。

 

「こんばんは」

「こんばんは。夕方どきの君を見るのは、初めてだ」

 

 保護施設から少し離れた郊外の公園に、一両のワンボックス・バンが停まり、恐る恐る彼が降りてきた。最初は翼に顔をうずめて周囲を伺っていたが、やがて暮れの涼しい風に目を細め、彼は落ち着いた顔つきになった。空を仰ぎ「ああ、頃合いだ」と呟いて、首を伸ばしながら深呼吸をした。

 

「今日はいい天気だね」

「はい、いい天気です。夕焼けも綺麗……散歩にはもってこいですよ」

「空の神様が微笑んでいる」

「もしかしたら、外は久しぶりですか」

「いや。時々、日光浴のために出ていたんだ。施設の屋上、博士たちと一緒に、こっそりね」

 

 内緒だよ、と彼はウインクをして

 

「さて。今日は私の頼みを聞いてくれて、どうもありがとう」

「本当にこれでよろしいのですか。街中じゃないと、あなたが見たいものは……」

「あるさ。私がこの辺りに来たいと頼んだんだ」

 

 許されている行動域は、この自然公園の野原と周囲にある緩衝緑地の小高い丘、雑木林だけだ。平日、夕方、郊外ということもあり、人影は見えない。静かだ。どこか遠方から、きれぎれとしたハトーボーの声や自動車の駆動音しか聞こえてこない。

 

「じゃあ、行こうか」

「はい」

 

 ふたりきり。夕暮れの世界を行く。

 落日の赤々とした光が、やわらかに降り注いでいた。広大な空には青、紫、桃、黄、茶色の色彩が薄らと刷かれ、小さな浮雲が明日の方向へと流れていく。遠く彼方へ、遥か遠くへーー私たちも進んでゆく。緑地に引かれた石の舗装路をなぞり、大きな街路樹の横を過ぎ、朧げなナトリウム灯の下をくぐって、飛翔するコロモリを追うように先へと向かう。

 散歩ではあるが、どうやら彼には目的地があるようだ。歩みに迷いはない。以前、ここへ来たことがあるのだろう。静寂に揺れ動く羽ばたきは、私の足取りをゆっくりと導いている。

 

「どこへ向かっているのですか」

「着いてからのお楽しみさ。もう少し先だよ」

 

 ちらと腕時計を見た。時間に余裕はある。急ぐ必要はない。歩いている場所も問題ない。

 ただ、先程からまばらに人とすれ違うことがあった。ストライプの男、ジャージーの中年、スーツの女……どいつもこいつも只者じゃない、役者(オフィサー)だ。私は知った。皆、サザンドラを不自然なほどに見ない。そして全員が、ルカリオ、ハリテヤマを始めとした武闘派で鳴るポケモンを連れている。きっと遠くの方で立ち入りの規制も敷かれているのだろう。ドラパルトやトゲキッスの航空部隊さえいるのかもしれない。

 彼を横目でうかがう。赤裸の陽光を浴び、先を見据える横顔から呼吸を聞いた。何事にも邪魔されない、何事も知らない様子だった。

 

「サザンドラ。しゃべっても大丈夫ですよ」

「うん。そうだね……そうだ。しゃべっても大丈夫」

 

 しばらくして、私はもうひとつの違和感に気がついた。

 今日の彼は、あまり話さない。

 もちろん人前で発声することは厳禁だ。しかし、誰の影も見えない所でも彼はやけに寡黙なのだ。何も居心地が悪い訳ではないがーーいつも彼は、口下手な私に合わせて話してくれていたのだーー部屋の中ではもっと、声の喜びを噛み締めているようだった。今日ばかりは気分が違うのだろうか。私は無理にでも納得した。

 

 影が伸び始め、風がひょうひょうと鳴き出す。至るべき所はまだ先のようだ。

 茜色に染まった公園の野原と木立を抜けて、ガーベラの花壇の横を通り、次の緑地へと足を踏み入れる。道草を誘うような、ほの明るいガス灯が途中にあった。その傍で彼はようやく口を開いた。

 

「決心がついた。実は、君に謝らねばいけないことがあるんだ」

 

 それは唐突な告白だった。立ち止まる。翼がバサと大きくはためき振り返って、私に向かい合った。

 

「真っ赤な夕方に負けないほど、私は真っ赤な嘘をついていた」

「嘘? あなたが?」

「すまない」

 

 夕日を背後に背負い、彼の顔は影に覆われていた。まるで思いがけず世界を滅ぼしてしまったような、それ程の表情で彼は声を吐く。

 

「今まで、君と一緒に図鑑を読んできたね」

「あの『世界ポケモン大全』ですか」

「そう。私は君に、あの図鑑だけはまだ読み切っていないと言った」

「はい。だから、一緒に読もうと」

 

 サザンドラは三つの頭を一斉に下げた。

 

「すまない。それが嘘だ」

「え?」

「私はもう、図鑑を貰った日にすべて読んでしまった。嬉しくて、つい徹夜で読み更けてしまったんだ」

 

 沈黙とはこんなにも苦しいものだ。唖然とする私の耳に入るものは、もう無かった。彼の発言こそが嘘だと思った。

 

「本当ですか」

「すまない。本当だ」

「じゃあ、あのブラッキーのページもですか」

「すまない」

「アブソルもですか」

「すまない」

「デスカーンも、アギルダーも」

「返す言葉がない」

「……あなたのページも、ですか」

 

 サザンドラは首をすべて萎縮させて、うん、と頷いた。皮肉にも、彼が悪い冗談を言えない性格であるのは、私が一番知っていた。

 

「許してくれとは言わない。ただ、まだ読んでいないと偽った方が、お互い話しやすいと思って」

「何だ、そうですか。もう全部初めから知っていたんですか」

 

 私は笑う。そうして空を仰いだ。斜陽が私を焼いていた。私の灰撒くような嘘が、彼の一息で呆気なく吹き飛んだのだ。風の空虚の前に、途端、何もかもが馬鹿らしく笑えてくるのは自分だけだろうか。

 

「怒っていないのかい」

「これくらいで怒りませんって」

「そうか。博士が言っていた通りだ。君は優しいんだね」

 

 気の毒なほど優しい私は訊いた。

 

「そんなこと、どうでもいいんです……それより、あなたのページ、酷いこと書かれていたでしょう」

「酷いこと?」

「とぼけないでくださいよ」

 

 サザンドラは口籠った。だが一息飲み込んでから、つぐんだ唇を紐解いて

 

「それは、私が凶暴ポケモンと呼ばれることだね」

 

 と言ってみせる。私は頷いた。私が封印していたはずの言葉は、最も簡単に彼自身が唱えてしまった。サザンドラは続ける。

 

「まさか酷いなんて。そんなことは思わないさ」

 

 穏やかな笑いを喉に宿して

 

「薄々と勘づいてはいたが、いざ知った時は驚いた。だが同時に納得できたよ。なぜ、昔から私の周りに他の子たちが来なかったか」

 

 体が大きかったから。雑食性だから。()()()()()()()()。それ以前にサザンドラがとても怖かったのか、と彼は呟いた。

 

「でも不満に思うことではないさ。何故なら、それは大衆的な事実だからだ。自分を客観視する機会になったし、身を弁えて生きていこうと襟を正せただけだよ」

「そんな馬鹿正直に受け取ってーー」

「いいさ。君たちの世界で生きると決めたのは私だ。郷に入っては郷に従わねば」

 

 私は彼を見つめることが出来なかった。背後に佇む落日が、あまりにも眩しかったからだ。

 

「私もそこまでは鈍くない。いくつか探りを入れたし、博士とも話していたが、まさか君はずっと私の心配をしてくれていたのか」

 

 彼は尋ねる。

 

「どうして君がそんな心配をするんだ。これは私の問題じゃないか」

 

 私は答えた。

 

「どうしてでしょうね。そういう仕事に就いているからだと思います」

 

 彼はしばらく無言だった。いつもは私の仕事を褒めて労ってくれるのに、今日ばかりは何もないようだ。

 ようやく真ん中の首が咳払いを試みて、話す。

 

「そうか。君はそういう人だったね」

 

 視線を私のどこかに落とし

 

「もっと早く告げるべきだった。大丈夫。大丈夫なんだよ。私はそのくらいのことで、折れはしない。絶望しない」

 

 サザンドラは祈るように眼を薄く瞑る。

 ーーこの言葉でも足りはしないのだろう。

 ーー君は優しいひとだから。

 ーーじゃあ、こう言ってみせようか。

 

 

 

 瞬き。

 刹那、彼の器官の奥底から凄まじいほどの瘴気が溢れ、怒涛の勢いで押し寄せるのを私は直感した。それが“彼”という器から“怪物”が飛び出した(しるし)であったのは、容易く理解できた。

 大気は業火に煽られたように、チリチリと軋みながら爆ぜる。燃焼せんばかりの紅の双眸が私にぶつけられる。茫然、狼狽、驚愕……全てを飲み干して、降臨した最強の怪物は(わら)っていた。

 

「まさか。サザンドラが、そこまで弱く見えるとでも?」

 

 風は止んだ。怪物の発言に有無を言わせるものはなかった。

 

「凶暴で獰猛で残酷なサザンドラが、それしきの言葉ごときに負けると本当に思ったのかい?」

 

 私は首を振らなかった。言葉で返した。

 

「そんなの、ずるいじゃないですか」

「仕方ないさ。サザンドラなんだから」

 

 答えは軽薄だ。だが、紛れもない真実であった。

 

「嫌になったら、すべて終わらせる。そのつもりでここまで来たんだ。もう引き返す気などない」

 

 そのとき。

 上空から横槍を入れるように、響くうなり声が挙がった。彼方。夕雲に隠れたカイリューが橙色の体鱗(マルチスケイル)を逆立たせ、顔を引きつらせながら、こちらを()め付けている。牽制のつもりのようだ。

 

「長い話は嫌いか。いいだろう」

 

 サザンドラは薄く笑い、喉の奥で低く吠える。そして、ゆっくりとした瞬きと一緒に、化け物の幻影を潜めた。風が動き出した。夕方の寂寞のなかには、いつもの彼がいた。

 

「……それだけじゃありませんよ。50年。あなたが言葉を勉強した歳月です」

「そうだね」

「それさえも報われていないんです。それでもですか」

「無論だよ」

 

 彼は言う。

 

「だからって、君と過ごした日々までが消えるわけではないんだ。私はそう信じている」

 

 西日の熱を思う。人間ならば、そんな恥ずかしいことを言えないだろう。だが、そうか。彼は怪物なのだ。ならば、仕方ないのかもしれない。

 彼は夕風に翼を翻しながら微笑む。

 

「さあ、もう少し歩こうか。見せたいものがあるんだ」

 

 

 

 

 ようやく夕方の光にも眼が慣れてきた。

 

 午後6時。

 時報のチャイムが聞こえる。辺りに『スタンド・バイ・ミー』が反響した。じきに帰らねばならない時がくる。終わりの瞬間が、闇の輪郭を鮮明になぞりながら近づいてくるのを、夕方の隅っこで直感していた。

 果たして、どれだけ二人で歩いたことだろう。私たちはさらに奥の外れまで来た。ろくに管理もされていない木立に脚を踏み入れる。いよいよ誰もおらず、道という道すら消えかかった道を私たちは歩んでいた。

 

「サザンドラ。もうすぐで時間になりますよ」

「ああ、でも大丈夫。着いた。確かにここだ」

 

 木漏れ日の中。突然、彼はクイっと顎で指し示す。

 そこには一棟の廃墟があった。大きさはちょっとした商業施設と言うべきだろう。平屋根で屋上つき。苔や蔦、クローバーの群落に飾られたコンクリートの壁は朽ち果て、所々から鉄筋が剥き出しになっている。こんな場所があるのか。私は訊いてみた。

 

「何ですか、ここ」

「昔、航空灯台があった観測所のようだ。今は誰もいないが、凄い場所らしい」

「ほお、なるほど」

「ささ。お目当てはここの屋上だよ。立ち入り禁止ではない。中に階段があるはずだから登ろうか」

 

 足元が悪いみたいだから気をつけて。

 言われるがまま、建物の中へ踏み込む。そういえば私は適当に相槌を打っていたが、彼の口ぶりから推測するに、どうやらサザンドラも初めてここへ来るらしい。なおさら目的は不明だ。が、私は彼の背中に着いて行くだけだ。

 

 廃墟の中も、もちろん風化している。羽ばたくゴルバットの姿が見えた。薄暗い。(おり)がまう陰影を縫うように、割れた壁の隙間から光が差し込んでいる。私たちは影を揺らしながら、陥落しそうな危うい階段を登ってゆく。

 

「分かりました。本でここを知ったんですね」

「ご名答」

「何の本ですか。『イッシュ廃墟全集』は持ち込んでいませんが」

「すぐに分かるよ。ほら、もうすぐだ」

 

 三階ぶん登ったと思う。

 屋上へ出た。低い金網で囲まれた陸屋根の上は意外と綺麗だった。空調や高架水槽はすっかり撤去されて、端に小さなベンチだけがある。眺めはいい。遠目に街並みが見えた。ビルや巨大クレーンの影、四輪駆動の灯やネオンサインの集合が望める。

 だが、それだけだ。彼の目当てと思しきものは分からない。

 

「それで、見せたいものとは」

「こっちだよ。こっち。こっちを見て」

 

 忙しなく彼は私の肩を撫でた。すると、どうだ。彼は胸を反らせて鼻息を吹き鳴らす。

 

 そこにあったものとはーー

 

 

 

 

 

 

 

 夕焼けだった。

 さっきから何度も見ていた、夕焼け。

 ただ、それだけ。

 

 

 

 

 

 

 

「うん、凄くいい感じだ。来たかいがあった」

 

 疑問符は何個まで並べるのが許されているだろう。私はまだ釈然としていなかった。彼が身じろぎもせずに見入っているものは、もしや私が計り知れないほど小さく珍しい鳥の姿かもしれぬのだ。

 

「夕焼けですか」

「うん、そうだよ。『イッシュ夕景100選』のコラムに載っていたんだ。隠れた穴場だって」

 

 だが、どうも落ちはないらしい。しかし私は落胆せず、むしろ安堵した。彼らしいと思った。

 

「綺麗ですね」

「君もそう思うかい」

「ええ」

「よかった。ずっと来てみたかった。それに」

「それに?」

「ずいぶん前だが、君が綺麗な夕日を見たいと言っていたから」

 

 私はハテと首を傾げた。

 

「そうでしたっけ」

「む、私の気のせいかもしれない。まあ、いいか」

 

 風はどこかへ吹いている。サザンドラは茶目っ気な笑いを寄越した。彼が笑うとき、目が細く弧を描くのだ。それは私が好きな顔のひとつだった。

 

「でも……本当に綺麗」

 

 おもむろに私は呟く。月並みの感想だと思う。しかし、それは少なからずの本心だ。やがて来る暗闇を知らぬように燃え上がる空の熾火は圧巻だった。視界を阻むものは何もない。赤く赤く、天地の果てまでが赤く染まっている。

 そのとき、隣で小刻みに震える彼の身体が見えた。声を押し殺して、まだ笑っているようだ。

 

「分かっていますよ。今頃ポエムが流行らないことなんて」

「違うよ。君も、私と同じことを考えていると思うと不思議でね。何だか嬉しくなったんだ」

 

 夕方のセンチメンタルは、私たちを饒舌にしてくれる。

 彼は続けた。

 

「いいものだ。同じ世界を生きるだけで、喜びも嬉しさも悲しみも分かち合える。こんなに素晴らしいことがあるものか」

 

 私は頭のレポートに、目の前の光景と彼の言葉を刻んだ。焼き増しする必要がないほど、私は強く強く思った。

 私は今日を忘れはしない。

 

「本で読んだより綺麗だ。これでよかった、これだけでよかった……いいなあ」

 

 サザンドラは私に言おうとした。

 

「ありがとう。君との時間は楽しかった。またいつかーー」

「サザンドラ」

 

 私は全てを制する。

 

「しゃべりすぎです」

 

 彼は三つの頭に笑顔の兆しを浮かべて頷いた。

 そして、私たちは静かに今日の終わりを迎える。空はありったけの熱を帯びて、日は近く沈もうとしていた。

 

 

 

 

 このダンボール一個で、全部が片付くことだろう。

 

 翌日。

 彼はもういない。昨晩、彼は大型トラックに揺られながら、無事に別の保護施設へ移送された。特段トラブルもなく、全てが順調に進み、全てが静かに終わった。終わってしまったようだ。そういう旨の連絡を私が受け取ったのは、今日の朝である。

 

 手を動かす。私はまだ152号室にいた。運搬代車と山ほどの梱包箱に囲まれながらだ。部屋に残された備品や本をまとめて、彼の行き先へ送らねばいけないのだ。この雑務ばかりは自分の仕事である。業者は近々来るはず。急がねばならない。

 本棚の右方から一冊一冊取り出して、ダンボールに詰め込んでゆく。丁重に、丁寧に。大きさも厚さも違う冊子を、パズルのように並べてゆく。まるで思い出を清算しているようだ。ただの思い過ごしにすぎないが、私は途中そう考えた。

 

 最後の本を入れ終える。すると、後ろから「ねぇ」と影が伸びてきた。それは私がよく見知った手だった。

 

「はい、忘れ物」

 

 一瞬だけ声が出ない。アララギ博士が私に渡す。『世界ポケモン大全』を受け取った。修繕から帰り、図鑑はすっかり過去の姿に戻っていた。

 

「これも入れてあげましょう」

「はい。ありがとうございます」

 

 箱にしまおうとした。だが、その前にやることがある。私には眼に焼きつけておきたいページがあった。私があの日、越えられなかった場所だ。

 

『全国No.635 サザンドラ

 凶暴ポケモンの名を冠する、特級の危険生物である。三本の首と強靭な青い皮革が象徴的だが、特筆すべきはその異常な攻撃性だ。テリトリー保持や捕食行動に限定せず、「屠る」「いたぶる」ことを目的とした行動を多々とるーー。

 ーーだが、十数世代以前のサザンドラは極めて中立的な生物だったと、一部の文献が示している。では、なぜ彼らは凶暴性を獲得したか。それは、かつて三本首の異形が邪悪と見なされ、人間から迫害されたことに由来するという。サザンドラは世界に適応するため、凶暴の路を約束したのだ』

 

 印画紙の上で、サザンドラは首を持ちあげ牙を晒し、身体の奥底から咆哮している。奇しくもそれは、私が昨日見た夕影の姿と一致していた。

 

「行きましょうか」

「はい」

 

 ダンボールに図鑑を入れて荷台に乗せ、私たちは部屋から出た。開け放たれた空っぽの部屋を一瞥し、私はもう振り返らなかった。

 

 この扉の先には誰もいない。

 

 



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