アオイとイズル (東雲。)
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変身

本作品は基本的に、イズル寄りの視点でお届けする予定です。


 佐倉 出流(さくら いずる)という少年にとって、五十右 蒼(いそみぎ あおい)は無二の親友である。

 幼少期から、出流の前に現れる友好的な人間は、その殆どが彼の背後にある佐倉家ばかりを見て寄ってくる者ばかりだった。ともすれば、人を信じることの出来ない人間に成長してもなんらおかしくなかったほどに。

 

 だが蒼は違った。日本有数の名家たる佐倉家と比べ、中流階級の五十右家の格はまさに月とスッポン。にも関わらず、蒼は出流をまるで特別には見なかった。

 家柄に嫉妬した同級生による、心無いやっかみや苛めの対象になっていた出流を、蒼が助けた時からずっと。

 

 中学一年生から始まった出流と蒼の交友は、高校二年生になっても続いている。家族以上に気心の知れた二人は、何をするのも一緒だった。お互いの家で泊まるのは当たり前だし、出流のベッドを二人で使って寝ることもある。

 

 そんな、とある初夏の日曜日の朝のこと。

 


 

 窓から差し込む朝の日差しを顔に受けて、出流は目を覚ます。

 すぐ隣の気配に顔を横に向けるが、姿は見えない。掛け布団に頭まで潜り込んで丸まるのは蒼の癖だった。

 

「ふぁう……」

 

 あくびを噛み殺しながらスマホを覗くと午前七時四十分。いかに日曜日と言えども、そろそろ起きるべき頃合いだ。

 出流は体を起こし、隣でまだ眠っている親友に日光を浴びさせるべく掛け布団を捲りあげる。

 

「ほらアオイ、もう朝だっ―――、?」

 

 

 見たこともない、美少女がいた。

 

 

 年は多分出流と変わらない。きらきらと輝く銀髪はヘアーサロンに行ってきたばかりみたいにぱっつんと切り揃えられていて、背中の半ばまでまっすぐ伸びている。

 パッチリと長いまつげに二重の瞼。それがすうっと開くと、吸い込まれそうな魅力を秘めた紺色の瞳が出流と合う。

 

「――う」

 

 『深窓の令嬢』と言うべき完璧な美貌にすっかり見惚れていた出流は、置かれている状況を遅巻いて理解する。即ち―――()()

 

「うわあああああ!?」

 

 寝起きの喉にキツい負荷をかけながら、出流は足をバタつかせ美少女から距離を取る。女性経験が皆無の出流には、降って湧いたイベントは荷が勝ちすぎた。

 

 ちなみに出流の部屋は防音機能を完備しているため、その叫び声を聞いたものは居なかった。

 

 セミダブルベッドの隅でガタガタと震える出流の前で、謎の美少女はのそりと上体を起こす。日光を反射しながらサラサラと流れ落ちる髪は、『綺麗』の次元を通り越して幻想的ですらあった。

 

「うるっせぇな……朝っぱらから騒ぐんじゃねえよ……」

 

 風鈴のような涼やかな声。しかし声色に反してその口調は粗野な男のそれで、見た目とのミスマッチ感が尋常ではない。

 美少女は掛け布団を抱き込んで縮こまる出流に目を向け、怪訝な顔をする。なんでそんな反応をしているのかわからないと言わんばかりだ。

 

「何やってんだよイズル。ゴキでも出たか?」

「い、いや、そのえっと………僕のこと、知ってるの?」

「はァ?」

 

 出流がおずおずと聞くと、美少女は瑞々しい唇の間から威嚇めいた声を上げた。

 

「大親友に向かって随分だなオイ。ボケたか?」

「さ、流石にまだ早いよ……って、え? 大親、友……?」

 

 言われて出流はハッと気づく。眼の前の美少女と話していると、本来そこにいるはずの、しかし何処にもいない蒼を彷彿とさせることに。出流はどちらかというと人見知りで、友達や家族以外との会話は長く続かない。だが、彼女は―――。

 

(まさ、か)

 

 戦慄する出流をよそに、美少女はベッドの上を漁ってスマホを手に取る。

 蒼のスマホを。

 

「っつーかなんなんだよさっきから。俺の顔が変わったとでも………」

 

 画面の点いていない液晶を自分自身に向けた途端、銀髪の少女はビシリと固まる。油の切れた人形のような、ギシギシとガク付いた動きで出流を見るも、出流は成り行きを見守ることしかできない。

 紺色の目をした少女はやおら立ち上がり、勉強机の手鏡を引ったくる。出流に背を向け食い入るように鏡を見ていた美少女はわなわなと震え始め。

 やがて。

 

「なんっっっじゃこりゃああああああああああ!!!??!?」

 

 

 ちなみに出流の部屋は防音機能を完備しているため、その叫び声を聞いたものは居なかった。

 

 


 

 一通り「あり」や「なし」やの確認を終えた蒼は、仏頂面で出流の椅子で胡座をかく。

 出流は感覚的に彼女が無二の親友であると感じてはいたが、それでも念のため本人しか知らなさそうな質問を色々とぶつけてみるも、その全てが予感を確信に変えただけに終わった。

 

 途方に暮れつつ、ひとまず直近の蒼の行動を振り返ってもらったがこれも特におかしいところはなく。

 

「で、目が覚めたら身体が女性になっていた?」

「おう……マジでわけわかんねえ」

 

 サラサラの髪を指先でいじりながら蒼はぼやく。その仕草もまた絵になるのは美貌のなせる業だった。

 

(言動と見た目のギャップがどうにもアンバランスだなあ)

 

 ベッドの隅から中央に戻ってきた出流は、現実逃避めいた感想を抱いた。

 

「ま、まあ君がアオイだってのはもう信じるしかないけどさ……にしたって、ええ……?」

 

 改めてその姿をまじまじと観察する。その容姿には昨日までの蒼の要素がまるで残っていなかった。

 もともとの蒼は天然の茶髪をボサつかせた髪型で、近眼なのもあって目つきが悪く、190cm近い上背と筋肉質な体つきも相まって、初対面の相手には怖がられたり警戒されることが多々あった。

 

 今の蒼は全てが真逆だ。髪は銀でサラサラ、その眼差しからかつて程の凛々しさは感じられず、男物の半袖パジャマから伸びる四肢はほっそりと頼りない。

 スポーツやバイトの影響でガッシリしていた胸板はダボダボのパジャマを内側から押し上げる女性特有のアレに置き換わり、とことん男らしさからは無縁の身体になってしまっている。

 

「イズル、お前今胸見ただろ」

「え゛っ」

「ハハ、目がちょっと下に行ったのまるわかりなんだよ」

「……っ」

 

 蒼は気にしてない風にケラケラと笑う。その声を聞いて、出流はまた一つ困惑に喉を詰まらせた。

 力強くよく通る声は形無しで、今や聞く清涼剤とでも言わんばかりだ。

 

「で、これどうすりゃいいんだ」

「僕に言われても…。お父さんもお母さんも仕事でいないし……病院行く?」

「今日日曜日だぜ」

「僕のかかりつけ医なら診てくれるよ」

「イズル様々だな」

 

……

…………

 

「恐らくは【変性系性徴】でしょう。第二次性徴期に極めて稀に発生します。肉体が『自分は女性だ』と突然勘違いし、性徴期に合わせて本当に女性に変わってしまうんですな」

「ええっと。それは治るんでしょうか?」

「残念ながら、一度変性した性別が元に戻った例は確認されていません。理屈ではもう一度変性系性徴が起きれば戻れるとは思いますが、只でさえ確率の低い現象が二度起きることは……。それに、五十右さんはもう第二次性徴期も終わる。……諦めて切り替える方が、と言わざるを得ません」

 

…………

……

 

 長時間の検査の末無事に希望を叩き折られすごすご帰ってきた二人は、再びそれぞれ椅子とベッドに戻って向かい合った。

 

「医者が駄目ならもう無理だな。これからの人生女として生きて行くしかねえわ」

 

 蒼はあからさまなお手上げポーズを取る。

 

「すんなりだね。意外と平気だったりする?」

「んなわけあるかよショックに決まってら。でも凹んでたって現実の問題は解決しねえだろ。学校とか」

「流石に休んで(サボって)良いんじゃ……」

「こういうのはな、後に回せば回すほど面倒になってくもんなんだよ。明かすならさっさと明かした方がいい」

 

 吹っ切れた蒼の態度に出流は素直に感心する。こういう切り替えの早さは蒼の美点だ。

 もしも出流が同じ立場だったら、蒼のようにはきっとなれない。部屋に引きこもって家族に会うことすら避け、現実逃避に一日を費やしていたことだろう。

 

「……なんだよジッと見やがって。惚れたか?」

「はははまさかあ。アオイは割り切れてて凄いなあって……思っただけ」

「………? おう」

 

 ぼんやりと蒼を見ていた出流は、蒼に詰められるも笑って返す。

 

 突然の蒼の性転換。問題は山積み。だが、出流の中に不思議と不安はなかった。それは偏に蒼への強固な信頼があればこそ。

 

(アオイなら、きっと今回もなんだかんだで乗り越えるんだろうな。四年前に僕を助けてくれた時みたいに。成績的には厳しいはずだった、僕と同じ高校に合格してくれた時みたいに)

 

 出流にとって、蒼は親友であると同時に憧憬の対象でもある。理由がなくても悪意に立ち向かえる度胸や、地に足の付いた心の強さは、出流には無いものだから。

 出流は、ベッドから降りて蒼に近づく。さっきまでは目の前にいる超自然的現象の産物(ウルトラ可憐美少女)が恐ろしくすらあったのだが、その少女がいつもの蒼であると理解してしまえば、もう平気になってしまった。

 

「アオイ、何か困ったら何でも言ってね。僕にできる範囲でなら、力になるから」

 

 そんな()を支えたい。いつまでもとは言わないが、それでもできるだけ永く。こればっかりは蒼にも言えない想いを胸に、出流は笑いかける。

 蒼は、出流の言葉に輝くような笑みを浮かべて、片手を上げて振る。出流もそれに応え、腕相撲みたいにガッシリと手を組み合った二人は笑い合った。

 

「ああ。頼んだぜ、イズル!」

 


 

「……とりあえず父さん母さんに説明するための証人になってくれ」

「あ、うん。それは大事だね」




登場人物紹介
佐倉(サクラ) 出流(イズル)
年齢:16
身体的特徴:黒髪両メカクレ小動物系男子。素顔は可愛い系。
趣味:ゲーム(トロコンやタイムアタック等、一人で延々やり込むタイプ)、ドミノ作り
説明:
 とある私立高校の二年生。
 実家の大きさが災いとなり、小~中一(蒼に助けられるまで)の間暗黒期を過ごす。蒼に助けられてからもあまりいい学校生活は送れなかったが、最も多感な時期に信頼できる友人を得たことで精神面での安定は手にしている。
 中学校から逃げるように高偏差値の今の高校へと進学し(同級生で同じ高校に進学したのは蒼のみ)、現在は苦味の無い高校生活を満喫できている………と思っていたら親友がなんか女になっちゃった。

 蒼に対しては親友としての信頼と友情、自分を助けてくれたことへの感謝と尊敬、そしてその一件に起因する罪悪感を抱いている。


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登校

 翌日――月曜日の朝。

 制服に身を包んだ出流は、五十右家の敷地前で蒼が出てくるのを待っていた。本来なら出流は車で送迎されて然るべきだが、蒼と一緒に登校したいがために徒歩と公共交通機関を使っている。

 手元のスマホに目を向けるが、蒼からの返信は数分前の「もうちょっと待ってくれ」で止まっていた。

 

(まあ、仕方がないか。女性の身支度って時間かかりそうだし、アオイも戸惑ってるんだろうなあ)

 

 適当に暇をつぶしながら待つこと数分、ようやく玄関扉が開く。

 

「すまん遅れた!」

 

 輝く銀髪を振りながら飛び出す蒼の姿は、背景のごく普通の一軒家をも煌めかせ、何かの物語が始まりそうな雰囲気を漂わせる。

 現実離れした美貌は在るだけで周囲にまで影響を及ぼす。出流は世界の真理を一つ知った。

 

「おはよう、アオイ」

「言ってる場合か走っぞ!!」

「だよね」

 

 キラキラとファンタジックな雰囲気は瞬く間に霧散し、二人は駆け出す。

 ただでさえ諸々の事情説明で教室に行く前に担任に今の蒼を見せないといけないのだ。歩いていてはとても間に合わない。

 カラリと晴れた空の下、初夏の風が住宅街を吹き抜け、身体と心を軽くさせる。走るには絶好の気候(コンディション)だった。

 

「アオイにしては珍しいね、寝坊なんて」

「昨日は気づかなかったけどっ、この身体朝に弱え!」

「制服、似合ってるね。なんか転入生みたい」

「採寸の時間は色々と苦痛だったけどな……。『近道』行くぞ」

「わかった」

 

 蒼に促され、二人は大通りから路地へと曲がる。

 普段、二人が駅に向かうときは防犯上の理由で大通りのみを使う。だが大通りはタイミングが悪ければ信号に足止めされるし、若干遠回りになってしまうため時間の面で都合が悪い。二人で見つけた『近道』は、信号を避け道のりも短いルートだ。

 

 畦道を駆け、路地裏を抜けて、用水路を飛んで渡る。

 

(最後にこのガードレールを越えてっと。これなら間に合うかな)

 

 『近道』を通って駅の近くまでたどり着いた出流。駅前広場のモニュメントクロックはショートカットの成功を示していた。

 振り返れば蒼がダッシュでガードレールに突っ込んでくる。そのまま足を大きく振り上げ跳躍し、飛び越えようとする。

 

「っしゃあい!」

 

 が、

 景気よく飛び越えようとした蒼の足が、僅かにガードレールに引っかかる!

 

「――あっ」

「ッ危ない!」

 

 出流は咄嗟の判断で、前方斜め上から倒れ込んでくる蒼を体全体で蒼を受け止め、さらに腕を回して支える。蒼も突然のことでパニックだったのか、出流の肩にしがみつく。

 諸共倒れてもおかしくなかったが、出流はギリギリで踏ん張れた。ほう、と安堵のため息をつく。

 

(アオイが元の身体だったら絶対に倒れてたな。危ない危ない……――待ってこの柔らか)

「っ、わ、ご、ごめんアオイっ!」

 

 蒼の無事に安堵したのもつかの間、向き合って密着したことで二人の間で潰れている『何か』の感触に意識が向きかけ、慌てて蒼を下ろして離す。

 

「………」

 

 蒼の顔が見られないというより、動揺している自分を見られたくなくて、出流は明後日を向く。

 

(お、落ち着け。相手はアオイ、親友で、男で! これはなんというか……そう、釣り場思考……じゃない、吊り橋効果ってやつ!)

 

 脳内理論武装で誤った認識を改めつつ、出流は蒼に先を促す。

 

「ほ、ほらアオイ。駅に行こうよ。近道は出来たけど結局電車に乗れなきゃ意味ないし」

「………」

「向こうに着いても急がなきゃ。まず職員室に行って……アオイ?」

 

 さっきから反応が無い蒼に出流が目を向けると、蒼は魂が抜けたような表情で棒立ちしていた。

 

「あ、アオイ? 大丈夫??」

「………、!」

 

 顔の前で手を降ってようやく、蒼の意識が現世に戻ってきた。

 

「お、あ……わ、悪ぃイズル。なんかボーッとしてたわ」

「それはわかってるけど。まだ眠い?」

「立ったまま寝こけるほど器用じゃねーよ……ん?」

 

 踏切の降りる音が無情にも駅前に響き渡る。

 選手二名、50m短距離走の開幕であった。

 


 

 満員電車の中で揺られながら、蒼はさっきの失態を思い返していた。

 

(あーみっともねえ……。この身体に早く慣れねえとな)

 

 電車の扉には、ぶすっと頬を少しだけ膨らませた美少女が映っている。蒼は――昨日今日だから当然だが――この身体が自分自身である認識に乏しい(それはそれとして、ガラスに映る美少女が16年で見てきた何よりも可愛いことは理解している)。

 隣に立つ出流を、蒼は横目で見る。

 こっくりこっくり。つり革を握ったまま頭を縦に動かしていた。

 

(コイツ、俺がこんな身体になってたのにいつもみてーに夜更かししてゲームしてたな?)

 

 あるいは、蒼がこうなってしまったからこそ、いつものように過ごしたのかもしれない。その可能性に思い至った蒼は出流をひとまず許すことにしたが、ふと昨日から覚えていた違和感の正体に気づいた。

 

(ああ。もう横に並んだ時に、イズルの顔を見下ろせないんだよな)

 

 女になった蒼の背丈は、出流と同じか少し低いくらいだ。友を見る視点が変わるという、傍から見れば小さいかもしれない変化が、蒼にはとても大きく感じられる。

 

(俺、これからちゃんとやっていけんのかな。将来、どうなっちまうんだろ)

 

 変化は不安を抱かせ、不安は恐怖を生み出す。心がじわじわと薄靄で覆われるようだった。

 

(出流は頼っていいって言ってくれたけど、それに甘えすぎたら出流を『佐倉家の子供』としか見なかった奴等と同じ、だよな。自分の事は、自分でなんとかしなきゃならねえ)

 

 気持ちを仕切り直した蒼を祝うように、車内アナウンスが響く。

 

『―――高校前。お出口は左側です』

 

 自分たちの降車駅に着いた事に気づいた蒼は、静かに踵を持ち上げる。

 

(そう例えば――さっきから尻触ってやがるオッサンとかなァ! ムズムズして気ッ色悪ィんだよオラァ!!)

 

 狙いを定め下手人のつま先を踏み抜く。背後で上がったくぐもった悲鳴に何人かが眉を顰めるも所詮は他人事。甲高いブレーキ音にいそいそと降車の支度を始めていく。

 蒼はスカートから離れた手には意識も留めず、出流の脇腹を肘で突く。

 

「イズル」

「ふがっ。……あ、着いた?」

「おう」

 

 駆動音と共に開いた扉から外へ出る刹那、蒼は肩越しに背後を見る。満員電車の人混みの中、バーコード頭にスーツの中年男性が額に脂汗を浮かべていた。

 嫌悪感は少なからずあるものの、蒼としては『中身が男とも知らずにご愁傷さま』という嘲り混じりの憐憫が強い。

 

(元同性の(よしみ)だし今は時間もねえからな、通報は勘弁してやるよ。感謝しろよオッサン?)

 

 挑発的な笑みを苦悶の表情をした中年男へ向けてから、蒼は悠々とホームに降り立った。

 


 

 電車を降りてからは恙無く、二人は学校にたどり着いた。

 担任の教師は最初こそ変性系性徴に懐疑的だったが、出流の証言と医師の診断書の写しを渡してとりあえず信じてくれた。

 

 ちょうど一限はその担任が教鞭をとる。そこで説明するため、出流は一旦蒼を職員室に残し教室に入る。

 

「あれ、五十右は休み?」

「あー、まあ……そのうち来るよ」

「?」

 

 出流はクラスメイトの疑問を適当にやりすごしながら席に着く。会話が苦手なのもあるが、『蒼が登校する』事を実感する程に募る不安で精神的に余裕がなかったからだ。

 『クラスメイトがいきなり女になりました』という異常事態が、同級生達ににどう受け止められるか全く予想できない。変性系性徴は名前こそ存在すれど、市井の高校生にとっては都市伝説だ。

 もしも、かつての出流と同じように、苛めの対象になってしまったのなら。このクラスは今のところそういった事も無く平穏に回っているが、事が事だけに何が起きるかわからない。

 

(どうか、どうか変に拗れませんように……!)

 

 出流が両手を組んで祈る中チャイムが鳴り、教室の前側の扉が開く。無言で教壇に立った教師を前に、騒がしさは波が引くように静まっていった。

 

「さて。授業を始める前に聞きたいことがある。変性系性徴という言葉を知ってるか?」

 

 教室にさざ波が立つ中、生徒の一人が手を上げた。

 

『聞いたことはありますけど……でもそれってネットの噂っていうか』

 

 それを聞いて、担任は大仰に頷いた。

 

「ああ、そうだな。先生も正直そう思っていたんだが……入ってくれ」

 

 教室の扉がカラカラと静かに開く。自然、クラス中の視線が集まり、その中を蒼が進み出る。学生鞄の持ち手を両手で掴み、身体の前に下げながら、目を伏せ淑やかそうに歩く様はまるでお嬢様のようだった。

 身体の動きに合わせて靡く銀の髪、見る者を否応なしに引き付ける紺の瞳。極端に出る所の出ていない、スマートなモデルのようなプロポーション。

 その非現実的に美しい容貌に、クラスメイト達は性別の垣根を越えて思わずのため息を漏らす。だが何人かは教師の話と一つだけ空いた席の関連性に気づき、顔を驚愕に染める。

 

「……自己紹介してやれ」

「――五十右 蒼。昨日目が覚めたらこんな身体になってた。まあ……改めてよろしくな!」

 

 銀髪紺眼の深窓の令嬢が、親指を立てながら元気満面に言い放った言葉の波が教室の隅まで行き渡り、静寂が場を支配する。

 やがて、その意味をクラスメイトが理解した時。

 

 教室が爆発。そう表現できてしまうほどの阿鼻叫喚が巻き起こる。

 ある者は打ちひしがれて嘆きを上げ。

 ある者はただただ驚き。

 ある者は嫉妬の悲鳴をがなり立て。

 ある者は食い入るように今の蒼を注視する。

 

「じゃあ自己紹介も済んだところで、授業はじめんぞー」

『できるかぁ!!!』

 

 クラスの心が一つになった。




出流は廊下側の中央端、蒼は中央前寄りのイメージです(席の位置)

蒼の登場人物紹介は次回にやった方がタイミング的に相応しいと判断したため、そのようになります。ご了承下さい。

三話目は明日の18:00に更新予定です。


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受容(1)

ちょっと長いかなと思ったので二分割。


 蒼が女性になって三週間が経ち、()()はすっかり学校に馴染んでいた。

 元々蒼は、学力的には背伸びしているこの高校で何人も友達を作れる程度にはコミュニケーション能力が高い。アウトドア系もインドア系もどちらも好む多趣味な蒼は他人との接点が多く、それを会話の切っ掛けにできる主体性もある。

 男の頃は強面や体格の厳つさがマイナスになってとりわけ女子には避けられがちだったが、その容姿がとんでもないレベルのプラスに働く今、蒼は一躍クラスの人気者になっていた。

 

 休み時間の度に蒼の周りには常に性別を問わず数人の友達が集まり、そのグループごとに異なる話題で盛り上がる。今はクラスの女子達にメイクを教わっているらしく、出流はその様子を自分の席から眺めながら、頬杖を突き煩悶としていた。

 

(アオイ……)

 

 別に今更、蒼の人気に嫉妬しているわけではない。それ自体は予想できた事だからだ。出流が悩んでいるのは、自分自身の変化についてだった。

 

 出流は脳内で蒼の姿をイメージしようとする。三週間前までの男だった頃の蒼の姿を。

 だが、うまくいかない。目つきも顔立ちも輪郭がぼやけて定まらず、挙げ句今の蒼に収束していく。出流の脳内で『五十右 蒼』とペアリングされた人物像が置き換わりつつあった。

 

(なんか……やだな、こういうの。僕、そんな薄情者だったのかな)

 

 無二の親友であったはずなのに、その顔も声もたった三週間で忘れてしまう。心の大部分を占めるものが崩れていく感覚が、出流の気持ちを沈ませる。

 なんなれば、蒼の他の友達はどんな気持ちで今の蒼と接しているのか聞きたいくらいだった。だが出流には『友達の友達』に話しかける勇気はないし、彼らなりに折り合いをつけているのだろうと思うしか無い。

 

 そうでなくとも出流にはもう一つ、耐え難い自らの変化があるのだから。

 

「イズルー! 見ろよメイクしてもらった俺の顔! ますますイケてんじゃね!?」

「五十右さん、素が完璧過ぎてメイクのし甲斐なかったけどね……」

 

 楽しげな笑顔と共に蒼が近づいてくる。出流は反射的に顔ごと逸らした。

 

「う、うん。似合ってるんじゃない、かな!」

「ちょっとしか見てねえじゃねえかよ。もっとよく見ろオラ!」

 

 蒼は出流の頬を両手で押さえ、自分の方に向けさせる。目が潰れるかのような美しさを至近距離で浴びせられた出流の顔が発火する。

 

(指ひんやりして……じゃなくて、か、顔が近い……!)

 

 普段と比べて頬に少し赤みが増して目元がよりくっきりしている。そのせいか、元来の蠱惑的に魅力的な瞳が更に強調されて目が離せなくなる。

 

「う、あ……め、目元をメイクしてもらったの……?」

「おう! アイ――なんとかってやつ」

「アイシャドウね」

 

 ついてきた女子が補足してくれたが、出流は全体的にそれどころではない。

 

「ほ、ほっぺも?」

「ああ。えっと……ファウンデーションだったっけ?」

「それ財団……。あと塗ったのはファンデーションじゃなくてチーク」

「そうそれ」

 

 女子と談笑する蒼の横顔。朱を差した頬と紺の瞳のコントラストが美麗で、出流の顔にどんどん熱が集まっていく。精神的に限界に達した出流は、下から蒼の腕を跳ね上げた。

 それと同時にスピーカーから響いた予鈴が、昼休みの終わりを告げる。

 

「ああもう、大変よろしいんじゃないかと思う! これでいいでしょ! 授業始まるよ!」

「ハハっ、ごめんごめん。じゃな!」

「ふふっ」

 

 蒼は愉快げに笑いながら、女子は微笑ましげな笑みを零してそれぞれの席に戻っていく。外に出ていたクラスメイト達がぞろぞろと戻ってくる中、出流は深い溜め息をついて机に突っ伏した。

 

「はぁぁ……」

 

 顔が熱い。鏡を見るまでもなくきっと耳まで真っ赤になっていることだろう。心臓がバクバクと早鐘を打ち、寿命が年単位で縮まった気さえする。

 無機質に冷たい机が今は実にありがたい。熱暴走を鎮め冷静になっていく出流の心を占めるのは、悔しさと自己嫌悪だった。

 

 

 無二の親友の過去の姿を忘れる以上に耐え難いこと、それは―――今の蒼を、異性として意識してしまうことだ。

 

 

 最初の一週間は、蒼は男だと思えていた。その容姿も、ゲームのアバターのようなものだと、『本来の姿(リアル)とは別のもの』だと捉えていた。だから、軽率に褒めることも出来た。

 

 だが時間が経つにつれ、蒼への認識が変わっていく。今の蒼の姿が本来の姿だと感じるようになって、次第に蒼の顔がまともに見られなくなって。

 出流はどうしても、その変化を認められなかった。

 

 友情が愛情に捻じ曲げられていくようで。

 『お前の親友への想いなんて所詮この程度だろ?』、見えない誰かに嘲られているようで。

 

 それが、心の底から悔しくて堪らない。その悔しさと同時に募るのが自己嫌悪だ。

 

 出流は机に伏せた顔を横に向けて、斜め前方の席に座る蒼の横顔に目をやる。さっきまで散々にからかわれてまだドキドキしている出流をよそに、蒼は授業に集中してすっかり学生モードだ。

 

(アオイは、僕をこんな風には意識してないんだろうな……)

 

 先の気安さからは、そういった気配はまるで感じ取れない。蒼を意識しまくっている出流に対し、蒼は今も変わりなく、出流のことを親友だと思っているのだろう。

 

 異性として意識されていないことが悔しくて――そのままでいてほしい。

 僕以外の誰かの物にはなってほしくないけど――僕が付き合うのは先の理由から怖い。

 

 身勝手で醜い感情が、出流の心を淀ませる。

 

 全部アオイに打ち明けて楽になりたい。でも、それで何になるのか。アオイを困らせるだけじゃないのか。

 

「―――ル、イズル」

 

 家族には言えないこと。アオイにさえ――むしろアオイにこそ言えないこと。胸の中に積もったもやもやが出流の心に重く伸し掛かる。

 

「イズル!」

「のわっ!」

 

 耳元で響いた蒼の声に、出流は思考の沼から引き上げられる。隣を見上げるとカバンを肩に掛けた蒼が出流を見下ろしていた。

 辺りを見回すと皆放課後の予定を話し合いながら帰り支度を始めていて、そこでようやく出流は午後の授業が全部終わっていたらしい事に気づいた。

 

「ボーっとしてんなよ、帰るぞ」

「え、あ、うん」

「後、今日俺んち寄ってくれよ。宿題助けてくれ」

「え、あ、うん。―――えっ?」



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受容(2)

二分割した前編が上がっています。
こちらを先に開いた場合は、一話前から御覧ください。


 炭素製の細芯が、小さな擦過音と共にノートの上を走る。

 出流と蒼は長方形の低い白テーブルを挟んで座り、宿題と格闘していた。

 部屋に入る前までは『これは実質的に女子の部屋に招かれているのでは』とか考えてまた自分を呪っていた出流だったが、いざ始まってしまえばいつもの勉強会と変わらない雰囲気に安堵しつつ、リラックスして眼の前の宿題に取りかかれていた。

 

(アオイが性別変わってからは来るの初めてだったけど……変わってなくて安心したなあ)

 

 蒼の部屋は本人の多趣味の産物として、とにかく物がいっぱいだ。

 スチールラックにはゲーム機やボードゲーム、組み立て済みのプラモが並び、壁に器材を取り付けて三次元的に確保した収納スペースにはバスケットボールや野球のグローブが架けられている。

 整理整頓はされているが趣味のとっちらかった空間、それが五十右 蒼の部屋だった。

 

(これでファンシーなぬいぐるみとか化粧台とかあったらどうしようかと)

 

 出流は『もしそうなってたら部屋に入るのにめちゃくちゃ躊躇しただろうな』と自嘲を含め内心笑っていると、目線を手元に向けたまま蒼が口を開いた。

 

「イズルー、ここなんだけどさ」

「どれ――ッ!」

 

 出流はつい普段のノリで身を乗り出したが、身体を前に傾けている蒼のブラウスの襟元から谷間が見えかけた瞬間、全力で浮かせた腰を引き戻した。油断しきっていた所への不意打ちに胸が高鳴ってしまい、出流は己の迂闊と、欲望に正直な心臓を恨んだ。

 

「どった?」

「い、いやなんでも。それよりどの問題?」

「ここ」

 

 在りし日の姿は忘れるくせにこういう癖は覚えているのかとまた自分自身への憤りが募るが、過ぎたことはひとまず脇に退けて蒼の疑問に答えていく。

 

 そうして一時間と経たずに宿題が終わりかけた頃。

 

「なーイズルー」

「なに?」

 

 一足先に宿題を済ませ、筆記用具を片付けていた出流は蒼へと振り向く。俯いて手元を見ていても蒼の美貌には僅かにも陰り無く、むしろ伏せられて見える瞳に艶のある魅力を覚えて出流の心臓が跳ねる。

 

 最後の問題を解き終えて、コトリとペンを置いた蒼は、しかし目線を下げたまま零すように言った。

 

「いつも、ありがとな」

「え、どうしたの急に」

 

 予想外の発言に出流は面食らう。まずそもそも感謝されるような心当たりが無い。何かあったかと明後日を見ながら記憶を遡る出流を眺めて、蒼が小さく鼻を鳴らす。右手のペンを指先でくるくると回し始めた。

 

「……そんな大した事じゃねーよ。こうやって勉強教えてくれてるだろ? 受験勉強もテスト勉強もさ。イズル先生がいなかったら俺、今の高校に入れてねーだろうし、二年に上がれたかも怪しいんだからな」

 

 蒼の言葉に納得した出流は、しかし胸を掻きむしりたくなるような罪悪感に襲われた。

 

「そ、それは……ごめん」

「なんで謝るんだよ」

 

 腰を浮かせた蒼に、出流は手に持っていた筆箱をテーブルの上に置き、両手を足の付け根に乗せる。

 

「だ、だって……アオイ、僕を助けたから……その、暴力沙汰……で、謹慎になって、クラスで不良扱いされて、だからっ。僕と同じで、皆から離れるために、今の高校、受けたんだよね?」

 

 『自分を助けたせいで、蒼は中学校の居場所を無くした』。元から家柄の影響で居場所をなくしていた出流に引きずり込まれて、蒼も同じ立場にさせてしまった。

 一人の人生、それも今となっては大切な親友のそれを歪めてしまった。その現実を認識する度に、出流は激しい罪悪感に苛まれる。

 

 無力感が体内で渦巻いて、瞼の端から溢れてくる。出流は次第に俯き、声も滲んでいく。

 

「僕っ、僕が、一人で解決できてたらっ。アオイが、僕を助けなければっ……アオイだって今頃――」

「イズル、顔上げろ」

「ぅえ?」

 

 ぐしゃついた顔を上げた出流の頬を、蒼の右手が鷲掴みにする。

 憤怒に燃える蒼の顔が間近に迫り、出流は思わず仰け反った。

 

()アオイ(はほひ)……」

「次に同じ事言ったらマジでビンタしてやるからな」

(ぶぇ)?」

「いいかイズル、よく聞けよ。俺は、あの日イズルを助けたことを後悔してねえ。もう一度あの日をやり直せたとしても必ず同じ事をやってやる。謹慎? 不良? 言いたいヤツには言わせてやりゃあいい。上っ面の評価なんざ重要じゃねえんだよ。……無くして困る居場所でも、無かったしな

 

 まくし立てる蒼の勢いに、出流は完全に呑まれていた。

 最後に小さく零した言葉は、うまく聞き取れなかった。

 

「そもそも! 俺がこの高校選んだのは、お前と―――ッ!!」

 

 何か言いかけた蒼が突然固まる。パクパクと口を開閉させる蒼に、出流は頬肉を挟まれたまま声をかける。

 

アオイ(ふぁふぉひ)?」

「と、とにかくッ!」

 

 蒼は出流の顔面を掴んでいた手を離す。後ろに倒れそうなところを肘で身体を支えた出流を見下ろして、立ち上がった蒼は――昼のメイクはとっくに落としたはずなのに――赤い頬のまま、力強く言い放つ。

 

「俺は出流を助けなけりゃ良かったなんて、これっぽっちも思ってねえ! わかったかこの野郎!」

「う、うん。それは、よく、わかった」

 

 出流は気圧されつつも頷き、同時に自分の考えが変わるのを感じていた。

 

(上っ面の風評よりも大事なもの……そうだ、そうだった。僕はアオイの姿ばかり意識して、アオイの心をちゃんと見てなかったんだ。見た目の性別に囚われず『アオイ』っていう人間を見る。大事なのはそれだったんだ!)

 

 胸の中に蟠っていた靄が晴れていく。今まで囚われていた思考が大したことじゃないように思えてくる。それと同時に、出流の中で蒼への尊敬が強まる。

 

(僕が悩んでたこと、アオイはとっくに答えを出してたんだ。やっぱりアオイは凄いなあ)

 

 出流の返答に満足したのか、蒼はどっかと床に腰を下ろす。憤怒の形相も鳴りを潜め―――頭に疑問符を浮かべていた。

 

「悪い、何の話してたっけ?」

「ええっと……どういたしましてって話」

「ハッ、なんだそれ」

 

 出流の返事に馬鹿らしくなったのか、蒼は笑う。それを見て出流も笑った。

 


 

 宿題を終えた二人はそのまま蒼の部屋で協力型のゲームを遊び、日暮れと共に自然と解散した。これ以降、出流は蒼の容姿を過度に意識することはなくなり―――過去の姿を思い出そうとすることも、しなくなった。




出流にとってのターニングポイントです。

登場人物紹介
五十右(いそみぎ) (あおい)
年齢:17
身体的特徴:銀髪ぱっつんストレートロング紺眼モデル体型色白ウルトラ美少女。APP17
趣味:特になし。
説明:
 とある私立高校の二年生。不運にも女になってしまう。
 小6の頃に親の転勤で全然違う所から出流の住む地域に引っ越してきた。そのまま中学校に進学したが、中途半端な時期に転校したことで新しい環境に中々馴染めずにいた所で出流と出会い、今に至る。

 肉体こそ女になってしまったが精神は男のつもり。現時点では『男性を好きになる訳がないが、でも女性が好きって気分でもねーな』というあやふやな状態になっている。
 出流に対しては友情と同時に強く深い愛情を抱いているが、それは性だの恋だのを伴うものではない。
 ――現時点では。


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変兆

 蒼が女になって一ヶ月が経ち、世間は梅雨に差し掛かった。

 ポツポツと弱い雨が降り続ける中、出流は傘を差して一人で家路を歩いている。手元のスマホには『体調悪い。休む』という親友からの簡素なメッセージだけが履歴に残っていた。

 

(最低限のことしか書いてないあたり、本当にしんどいんだろうなあ。でも珍しいな、アオイが学校休むなんて。めったに病気にならないし、風邪くらいだったら黙って登校してたのに)

 

 迷惑行為に手を染めている友人の事を想いつつ五十右家の前を差し掛かると、玄関の扉が開く。中から出てきたのはウェーブがかった茶髪の、妙齢の女性。

 あちらも出流に気づいたらしく、傘を広げて近づいてくる。

 

「こんにちは、アオイのお母さん」

「あらこんにちは、出流ちゃん。学校帰り?」

「あ、はい……」

 

 蒼の母、篠江(しのえ)は出流の事をちゃん付けで呼ぶ。出流としてはそろそろ止めてほしいと思ってはいるが、篠江の纏うどうにも有無を言わせない雰囲気と自前の引っ込み思案な性質のせいで、なかなか口に出せなかった。

 

「丁度良かった。出流ちゃん、今時間ある?」

「え、まあ、はい」

「ちょっと買い物に行かないとなんだけど、うちの子のこと見ててもらえないかしら」

「あー……えっと、い、良いですよ」

 

 先日発売された新作ゲームに後ろ髪を引かれたが、蒼の様子が気になるのも事実。出流は已む無く引き受けた。

 

「ホント? 助かるわぁ~。じゃあ早速――の前にちょっとこっちへ」

「は、はい」

 

 出流は篠江に手招きされるまま、道路の上から軒下へ移動する。一旦傘を閉じた出流に、篠江はいかにも内緒話をしますと言わんばかりに片手で口元を隠して出流に近づける。

 

「うちの子、今日体調崩してるのは知ってると思うけど、理由までは知ってる?」

「いえ、体調が悪いとしか……」

 

 ヒソヒソと、雨の音にギリギリ勝てる程度の声量で、篠江は密やかに囁く。

 

「ええっとねえ、病気って訳じゃなくて――月に一度訪れるアレ、というか……」

「っ」

 

 言いづらそうな雰囲気の遠回りな説明に正体を察した出流は息を呑む。

 それは、出流にとって少なからずショッキングな事実だった。

 

()()……だよね? ううん、なんか……複雑だ。アオイがどんどん遠くに行っていくみたい)

 

 出流は少しだけ気が重くなった。

 

「それでね? うちの子はその、イライラしたりするみたいで……何かあっても、深刻に捉えないであげてくれる?」

「わ、わかりました」

「ありがと。じゃ、後宜しく!」

「は、はい……」

 

 言うべきことは言ったとばかりに、ぱちゃぱちゃと水飛沫を跳ねながら車に乗り込む篠江を眺めた出流は、ともあれ蒼の元へと向かった。

 


 

 校舎裏に、四人の男子生徒がいたのを、たまたま見かけた。

 一人を、三人が囲む形だった。

 

 ただ、虫の居所が悪かった。

 

 自分が間違っている自覚はあった。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『五十右くんは、僕の―――』

 


 

 時は遡り、同日の昼過ぎ。

 ベッドで眠っていた蒼は、のそりと身を起こした。目元に溜まっていた涙粒をパジャマの袖で拭う。少しの間ぼうっと呆けた後、ボソリと呟く。

 

「……懐かしいな」

 

 夢の内容が内容だけに、どうにもセンチメンタルな気分が抜けない。

 だが気分と肉体は別のもの。女になっても特段可愛げがある感じにはならなかった腹の音に、蒼はベッドを出た。

 

 気怠い身体を引きずり、寝間着のまま階段を降りてリビングへ向かうと、見慣れた茶色のウェーブヘアが、こちらに後頭部を向けてテレビを見ていた。

 扉を開けた音を聞いていたのか、テレビを切って振り返る。

 

「どうしたの蒼、お腹減った?」

「おう」

「冷蔵庫に作ったのあるからチンして食べて。一人でできる?」

「できるできる」

 

 適当に相槌を打ち、蒼は冷蔵庫からラップに包まった皿を二つ取り出し電子レンジで順番に温めていく。

 湯気を立てる皿を両手に持ち、足で椅子を引いて皿をダイニングテーブルに置きつつ座る。

 

「いただきます。……なんでレバニラ炒めと麻婆豆腐?」

「そういうのが大事なの」

「ほーん」

 

 普段ほど食欲はなかったが、身体が食えと言っている。白米をプラスして目の前の飯を腹に詰めていく。

 普段と変わらない味のはずだが、心なしか臓腑に染みる感じがした。

 

「あ、晩御飯はお赤飯炊くわね」

「いらねえよ別に」

「お母さんが作りたいから作りまーす」

「………」

 

 母は強い。

 


 

 食事の後再び気分が悪くなったので、蒼はいそいそとベッドに潜り込み身体を横向けにして布団を被る。

 生理というのは初めての経験だったが、蒼の場合は重めの風邪に近い症状が発生していた。

 

 頭にズキズキとした鈍痛が居座り続け、全身の倦怠感でベッドから起き上がる気力が削がれる。食後に催してトイレに行ったら、二度目とは言えショッキングなものを目にしてしまったのも尾を引いていた。

 

 頭まで掛け布団を伸ばし膝を曲げて丸まりながら、蒼は独りごちる。

 

(生理、かぁ)

 

 ゲームをする気分でもないが、寝るには少し目が冴えていた。蒼は自然と、自分に起きた現象に考えを巡らせていた。

 

(なんで……も何もねえか。女の身体だもんな、そりゃあなるか)

 

 原因はまあ分かりきっている。今更とやかく言う気もない。

 

(これが起きたっつーことは、アレだよな。俺の身体は―――やめとこ)

 

 蒼は、考えかけた思考を中断する。

 考えただけで、何かが進んでしまう気がしたから。

 

(別に、今日日()()だけが女の道って訳でもねー。一人でバリバリ働いて自分を食わせてる女だって珍しくないだろ、多分―――)

 

 言語化しなかったせいか脳内にふわふわと漂う概念を押し流そうとするかのように、蒼は思考を絶やさない。

 

(第一ゴメンだね。俺は、男……なんだ。何が……悲しくて……)

 

 そうしていると、徐々に脳の回転が鈍り始め。

 

(男と付き合うなんて……冗談じゃ、ねえ………)

 

 緩やかに思考が微睡んでいく。

 やがて。

 

……

…………

 

「ほい、鞄」

「あ、ありがとう」

 

 片手で持ったビジネスバッグを突き出すと、アイツは俺に背を向け革靴に踵を押し込み鞄を受け取った。

 

「ホラ、お父さんにいってらっしゃいしなー?」

 

 力加減に気をつけて、左腕の中に抱いた小さな命を優しく揺する。

 

「だうあー」

 

 生後三ヶ月の幼い命が、未発達の手を伸ばしふりふりと動かす。

 そのさまを見ていると感慨深いなにかが背筋を駆け上り、ついつい口元がニヤけちまう。

 

「そうだね、パパ頑張ってくるよ。――ねえアオイ」

「? ……ッ!?」

 

 声をかけられて顔を上げる。

 途端、顎を指で持ち上げられた俺の頬に唇がそっと触れる。

 

「んなっ、な、なにしやがっ」

「ええっとほら、いってきますの~ってヤツ……」

 

 相変わらず伸ばした前髪で目元の隠れたその顔で、照れくさそうに頬を掻く。

 その髪型のせいでどうにも冴えない雰囲気が漂うが、まあ別に良い。コイツの格好いいところも可愛いところも、俺だけが知ってりゃいいんだからな。

 

「チッ。頬出せ頬」

「右の頬を殴られたら左の頬を……」

「殴ってねえだろ」

 

 恥ずかしそうに差し出すくらいなら最初(ハナ)からやるんじゃねえ。

 まあ言わぬが花か。

 

「――んっ」

「……思ったより照れるねこれ」

「じゃあやるなよ」

 

 結局言っちまった。

 

「行ってきます、アオイ」

 

 玄関の扉を開け、仕事に向かう夫に向けて手を振る。

 この笑顔はサービスだ、たっぷり食らってけこの野郎!

 

「いってらっしゃい! イズ

 

…………

……

 

「どあああああああああああああああああああああああアアアァァァァァーーーーッッ!!!」

 

 蒼は掛け布団を跳ね上げ飛び起きる。全身に嫌な汗がぐっしょりと滲み、心臓が良くない感じのビートを刻んでいた。

 

「はあっ……はあっ……はあッ……!」

 

 倦怠感も頭痛も月まで吹っ飛ぶ恐るべきショック。今後二度と味わう機会は無いであろうレベルの衝撃。

 蒼は右手の親指と中指で左右のこめかみを押さえ、変調とは別の理由で痛む頭を項垂れる。

 

「………なんつー悍ましい夢だ」

「どんな夢だったの?」

 

 ベッドの傍らにいた出流が疑問を投げかける。

 

「ああ……お前が夢に出ええええええええええええええェェェェェ!!?!?」

 

 蒼はもう一度同等のショックを味わった。

 

「アオイ、あんまり騒ぐとご近所迷惑になっちゃうよ?」

「ッ……! ぐっ…………!!」

 

 紛うことなきド正論をかまされた蒼は言葉に窮する。内なるメーターを振り切った感情が何かを叫ばせようとするが、なんとか喉元で抑え込んだ。

 

「………ぶはあ」

 

 やがて荒れ狂う衝動を飲み込んだ蒼は、残った残滓を深い溜息に変えて吐き出す。

 幾分落ち着いた思考回路は、すぐに当然の疑問に行き着いた。

 

「で、なんでイズルが俺の部屋に?」

「アオイのお母さんに頼まれて。アオイの様子を見るとの留守番を」

「クソ、いらねーことしやがって……」

 

 唸るように悪態をつく蒼に、出流は心配げな視線を向ける。

 

「ねえアオイ」

「! ……な、何だよ」

 

 夢と同じ呼びかけに蒼は一瞬肩が震えたが、努めて冷静に言葉を返す。

 

「ええっと……大丈夫?」

「んーまあ、ぶっちゃけ大丈夫じゃねーなー。頭痛えし身体は(だり)いしトイレ行ったら血ぃ見るし」

「うわあ……」

 

 蒼は、一度起こした身体をまたベッドに投げ出す。重たい頭を枕が受け止めてくれた。

 できれば今は、出流の顔を見たくなかった。さっきの夢がまた顔を出してきそうだったから。

 

「これから毎月コレだと思うと憂鬱だぜー。薬とかあるらしーけどなー」

 

 しんどさからか、口調が投げやり気味になっている。蒼はそれを自覚しつつも止める気はない。

 

「熱とかはないの?」

「無い、朝測ったけど平熱だったし」

 

 仰向けた視界の端に、出流の顔が映り込む。重力に垂れ下がった髪の隙間から、普段は見えない出流の瞳が見えた。不安そうな顔をしているな、と蒼はぼんやり思った。

 そんな事に気を取られていたからなのか。

 

「そう? でも――」

 

 撫でるように。滑り込むように。

 出流の手が、蒼の頬に添えられる。

 

 

「――顔、赤いよ?」

「――ッ!!」

 

 

 瞬間的に蒼の感情が一色に染まる。心を何かが埋め尽くして溢れそうになる。突沸する衝動を抑えつけるには、今の蒼の自制心は不足していた。

 

「少し熱い気もするし……」

「ッだあああああっ!!」

 

 蒼は咆哮と共に出流の手首を掴む。掛け布団を跳ね除け飛び出した蒼は、目を白黒させる出流を部屋の外まで引っ張っていく。訳が分からずされるがままの出流を室外に放り出し、力任せに扉を締めた。

 

『あ、アオイ!?』

 

 扉越しにくぐもった声が、蒼の内側を掻き毟る。やり場のない衝動のまま扉を殴りつけ、理解の出来ないもどかしさに身体を戦慄かせた蒼は噴き上がる熱情のままに口を開いた。

 

「うるせえっ! とにかく今日は帰れっ! 今は気分が悪いんだよ!!」

『え、ええっ!?』

 

 扉の向こうの気配はしばらく立ち往生していた。だが、数十秒ほど経って。

 

『わ、わかった。じゃあまた明日ね、アオイ』

 

 心の底から申し訳無さそうな声音が、冷水を浴びせられたように蒼の激情を吹き散らす。

 激発が収まって口の中に苦味が広がった。

 

「……おう。また……明日な」

 

 トントンと階段を降りる音が、次第に遠ざかる。

 蒼は扉に背中を預けてズルズルとへたり込む。もう、ベッドに戻る気力すら無かった。

 寝間着の胸元を、キツく握りしめる。

 

「………くそ」

 

 鼓動はバクバクと高鳴っていて、身体に熱が籠もっているみたいだった。全身の感覚が鋭敏になって、血流まで感じ取れる気さえする。

 思考がまるで纏まらない。何かを考えようとすると途端に、寝転がった蒼を覗き込んできた出流の顔が蘇る。チラリと見えた不安げな瞳を思い出す度に、胸が切なく疼く。

 

「……そんなわけ、ねえよな」

 

 ミキサーにでもかけられたみたいに、頭がぐしゃぐしゃになっていた。感情がコントロールできなくて、訳のわからない涙が溢れてくる。

 

「俺達は、親友だよな。お前も……そう思うよな? イズル………」

 

 右手の付け根を眉に当てて蹲り、思わず口をついて出た独り言は、虚栄の残骸が散らばる部屋に溶けていった。




 TS恋愛モノ通過儀礼三種盛り(1つは夢の中ですが)。

 (現時点の想定における)前半が終わりました。と同時に書き溜めを使い切ったので以降の更新は多少遅くなります。ご了承ください。


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幕間 -過去(1)-

前回から少し間が空いたのは全部花粉症ってやつの仕業です。
いい目薬買ったのでマシにはなってますが。


 13歳の蒼は、世の中を斜に見ていたつまらない子供だった。

 

 いつ役に立つともわからない事を、習う意味がわからなかった。

 同じ教室にいるだけの他人と、慣れ合う意味がわからなかった。

 苦労ばかりの課外活動に、時間を費やす理由がわからなかった。

 

 実際はただ授業についていけなかっただけ。友達を作れなかっただけ。部活に入ろうとしなかっただけ。白紙の画用紙を『新雪の絵を描いた』と言い張るような行為に過ぎなかった。

 

 中学の時点で同級生より頭抜けた恵体で、いじめの標的にこそならなかったものの―――むしろ、だからこそ、蒼は周囲から関心を向けられる事すらなかった。

 共通の話題を求めて、小遣いを叩いて思いつく限りの趣味っぽいものに手を出してみたが、どれも長続きせず徒労に終わる。

 

 

 ままならない人生に憤っていた、蝉の鳴き声が喧しいある日の放課後。

 

 

 蒼は校舎裏の方に向かう四人の男子生徒を見かける。一人を三人が囲む形で、三人の方が楽しげに笑っているのに対し、顔を俯けた一人は楽しそうには見えない。

 三人と一人の関係性は、蒼にもすぐに察しがついた。

 

(……アホらしい)

 

 人気のない方へ向かっていく彼らの誰とも面識のない蒼に、関わる義理は無い。そのまま帰ろうとして――しかし踵を返す。

 

 特に理由なんてなかった。ほんの気まぐれ以上の何物でもなかった……と、蒼は思っている。

 

 土を踏みながら、蔦の這い回る菱形金網とコンクリートの校舎の狭い間を歩く。木々に日光が遮られた道は薄暗く、半袖には少し肌寒い空気がまとわり付く。

 

 だんだんと、話し声が聞こえてきた。

 

『――なあ佐倉、金持ちなんだろ? 俺達ビンボーなんだから寄付してくれよ』

『俺たちさぁ、トモダチだよな? ちょっとの間借りるだけなんだから良いよなぁ?』

『そうだ、俺最近欲しいゲームあったんだよねえ。一万……いや二万くらい出してくれよ』

『う、うぅっ』

 

 覗き込んだ先は、前後に伸びる校舎が途中で凹んで出来た、大して広くもないスペース。ガラの悪い連中のたまり場としてはうってつけだ。

 三人はひときわ背の低い少年を壁に押し付け囲み、金銭を強請(ゆす)っているらしい。よくはわからないが強請られている側は金持ちの子供らしく、その上見るからに非力で気弱。悪どい事を考える連中の標的としてこの上ない獲物であろうことは、蒼にも想像がついた。

 

「俺の兄貴マジモンのヤンキーだからよ。テメーなんかその気になれば二度と学校来れねーくらいにボコボコにしちゃうぜ?」

 

(結局兄頼りじゃねーか。借り物の威勢で随分と大きく出たな)

 

 何かが、蒼の中でフツフツと沸き上がる。自然と拳を握りしめ、眉間にシワが寄る。

 蒼は、衝動のままに一歩踏み出しかけ。

 

「い、いやだっ」

「あ?」

 

 足が止まる。前髪で目元が見えない少年は、鞄を両腕でぎゅっと抱きしめたまま顔を上げる。

 

「僕、もうこんなのいやだっ。みんな……みんな僕を金持ち金持ちって! 白波瀬(しらはせ)くんも、安発(あわ)くんも中嵜(なかさき)くんも! 僕、もう――」

「うるせェよ」

 

 軽薄な乾いた音が、小さな空間に響いた。

 左の頬に赤い跡を刻まれた少年が、顔を右に向けたまま呆然としていた。

 

「ちょ、流石に叩くのは不味いんじゃ」

「知るかよ、こいつが訳のわかんねーことばっか言ってんのが悪いんだよ」

 

 瞬間、蒼は飛び出していた。『先生を呼ぶ』、『大声を上げる』。色々やりようはあったはずなのに。

 長い時間をかけて胸に堆積していったものが、蒼の身体を衝き動かした。

 

 とりあえず一番近くにいたヤツの鼻っ柱をぶん殴って。

 何が起きたかわからず固まっているもう一人の腹を蹴り飛ばして。

 目を白黒させた三人目の胸ぐらを掴んで地面に投げ倒す。

 

「んぶっ、な、なんだてめぇいきなり殴りやがって!」

「先生に言いつけてやるからな!!」

 

 三人が蒼に向けて悪態をつきながら、蒼が来た方向とは逆の方へバタバタと走り去っていくのを、蒼は荒い息を吐きながら見送った。

 

 見送ったのではない。蒼はただ、その場を動けなかった。

 

 込めた力が中々抜けない右の拳に目を向ける。顔面を殴った時に鼻血でも出たのか微かに血が付いていた。ほんの十秒前の感触が蘇る。一瞬の皮膚と肉の柔らかさ、その直後の骨の硬さ。人を殴ったのは、生まれて初めてだった。

 蒼はゆっくり、壁にもたれかかる少年に向き直る。少年はビクリと震えたかと思うと、鞄を抱きかかえたまま蒼の脇を抜け、蒼が来た道を走っていった。

 

 程なくして駆け付けてきた先生に捕まるまで、蒼は呆然と立ち尽くしていた。

 


 

 日が暮れて、鴉の鳴き声が聞こえてくる頃。

 自室のベッドに仰向けに寝転がった蒼は、組んだ手を枕にしながら天井を見つめていた。自然と、数時間前の会話を思い返す。

 

『あの子達がしていたことは確かにいけないことだ。それを止めようとする心意気は良い。でも、だからって手を出して良い理由にはならない。わかるかい?』

『……はい』

『教頭先生、この通り彼も反省しています。相手の親御さんは停学を求めていますが、佐倉さんの家の事もありますし……謹慎にしませんか』

『まあ、その辺が妥当でしょうな。停学処分は事が大きくなりすぎる』

 

 思い返しても特に意味が無いが、他にやることもない……訳ではなく。謹慎期間中に出された課題や反省文などやるべきことは色々あるのだが、手を付ける気が起きなかった。

 

(……俺って、なんなんだろ)

 

 蒼は、自分のことがわからなくなっていた。

 

 なんで助けようとしたのかがわからない。

 どうして話もせずに殴り飛ばしたのかがわからない。

 自分の中に蟠る、フラストレーションの正体がわからない。

 

(……このままで、良いのかな。良くねえ、よな)

 

 自分が間違っている自覚はある。漠然とした焦燥感もある。だが、そこからどうすれば良いのかがわからない。

 

 蒼はゴロリと寝返りを打つ。壁際のベッドからは自分の部屋がよく見える。

 床に転がったプラモデルとバレーボール。壁に立てかけただけのスノーボード。どれも虚しい見栄を張ろうとした、努力というのも烏滸がましい虚栄の残骸だ。

 

 蒼は再び寝返ってうつ伏せになり、枕を引き寄せて顔を埋める。

 

 ――唐突に扉が叩かれた。

 

『急な訪問になったこと、まずは詫びさせてほしい』

 

 聞き馴染みのない男の声だった。蒼はのっそりと身体を起こし、閉じた扉へ目を向ける。

 

「ホントに急だな。いきなり部屋の前までってのは非常識じゃねーのかよ」

『重ねて詫びよう、すまなかった。どうしても今日中に、君と話がしたくてね――蒼くん』

「……誰だよ」

『その前に扉を開けてくれるかい?』

「やだね、あんたが先だ」

 

 蒼は、謎の男に明確に敵意を向けていた。だから、一つイタズラを思いついた。

 

(アイツが名前を言う直前に扉を開けて驚かせてやる)

 

 先程までの反省の兆しは何処へやら。幼稚な抵抗を企てる蒼を他所に、男は言葉を返した。

 

『では、私が名乗ったら扉を開けてくれるかな?』

 

 蒼は足音を殺して扉に前に近寄り、ノブに手をかける。

 

「……ああ、いいぜ」

 

 扉の向こうにいる男は、咳払いを一つした。

 

(今だっ!)

 

 蒼は勢いよく扉を開け放ち、不届き者の顔を見やる。さぞ驚いただろうと期待を寄せながら。

 

 ストライプの線が入った、灰色のスーツをかっちりと着こなす175cm程度の男。四角い眼鏡の奥の目にはうっすらと隈があり、若干疲れを匂わせる。しかしその微笑みに貼り付けたような不自然さは無く、誰であろうと警戒を解いてしまいそうな柔和さがあった。

 

 男は、眉一つ動かしていなかった。それどころか、握手を求める手を蒼に向けて、待っていたのだ。

 

『私は佐倉(さくら) 流代(りゅうだい)。今日君が助けた少年、佐倉 出流の父親だよ。五十右蒼くん』

 

 オールバックに撫で付けた黒髪を後ろに流した男は、優しい声でそう名乗った。




・白波瀬(しらはせ)
・安発(あわ)
・中嵜(なかさき)
いじめっ子グループ……としてはまだガチじゃないくらいの子供たち。出流相手に金のゆすりしかしてなかったが、当時の出流にはそれはそれで辛かった。
三人合わせて大三元。


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幕間 -過去(2)-

 五十右家のリビングは、蒼、さっき名前聞いたばかりの大人(流代)、そしてその子供(出流)の三人だけになった。

 

(キッツ)

 

 三者面談の教師側のように流代と出流に向かい合う蒼は、あの場面に首を突っ込んだ事を激しく後悔していた。

 神経は図太い方だと自認している蒼だが、流石にこれは息苦しい。

 

「……え、ええと、佐倉……さんは、今日は仕事とか……」

 

(大人なんだから仕事あるだろとっとと帰れ……!)

 

 蒼は愛想笑いを浮かべながら、パートに行く母親を見て思いついたキラーワードを第一声でかましてみる。

 

「あるよ。でも今はこっちの方が大事だから時間を作って来たんだ」

「そう、すか。じゃ、じゃあ早く話してくだ、さいよ。俺に言いたいこと、あるんすよね」

「ああ、無理に敬語で話さなくても良いよ。私は気にしないから」

「……お言葉に、甘えて。で、用ってのは」

「うん、君にお礼と……お願いがあって来たんだ。出流の事でね」

 

 そう言って、流代は隣に座る出流の頭を優しく撫でる。緊張しているのか口元を引き結んでガチガチに固まっている出流は、流代に撫でられて少しだけ肩の力を抜いた。

 

「お礼って。俺は別に、助けようと思ってやった訳じゃないし」

「それでも、出流は助けられた」

 

 穏やかに、しかし決断的に言い切る流代に蒼は若干気圧される。

 

「それだけじゃない。君のお陰で私は、大きな過ちに気付くことが出来たからね」

「大きな……過ち?」

 

 組んだ手を机に乗せて、流代は顔を伏せる。

 

「恥ずかしい話なんだが、私はこの十年ずっと仕事に掛かり切りで、子供に――出流に殆ど構ってやれなかったんだ。使用人達がいれば、親が直接面倒を見なくても問題ないなどと……経験も無いくせに育児を軽んじていた」

 

 組んだ手にギリリ、と力が籠もる。己の不甲斐なさへの憤りと悔恨は、見ているだけの蒼にも伝わってくる。

 

「子供もまた、一人の自己を持つ人間であることを迂闊にも失念していた。君が一件を起こしたことで私は出流の現状を知り、本人から話を聞いてようやく、さ」

 

 反省と後悔が滲む声色で、流代は言葉を重ねる。蒼は、流代の言葉を反芻していた。

 

(一人の自己を持つ人間……)

 

 果たして今の自分はどうなのだろうかとも考えかけたが、今は流代の話に集中するべきだと思考を切り上げる。

 

「その結果がこれだ。出流は何年も苦しんでいたのに、問題が起きて始めてそれに気付かされる……まったく自分が情けない。父親失格だよ」

「……っ」

 

 流代のスーツの袖を出流が摘む。流代は心配げに父親を見上げる出流の手に自らの手を乗せて離させ、静かに立ち上がる。

 

「五十右蒼くん。出流を助けてくれて、私の過ちを気付かせてくれて――ありがとう」

「っ」

 

 深々と頭を下げる父を見て慌てて立ち上がった出流は、流代に倣ってぺこりと頭を下げる。

 

「た、助けてくれてありがとう。五十右くん」

「……っ」

 

 蒼は、不可思議な感情に喉を詰まらせる。眼の前の大人は――下手したら子供の方も――本来ならば蒼程度、歯牙にも掛けない立場のはず。それが今自分と対等に話し、剰え頭を下げている。蒼には、それがどうにも居たたまれなかった。

 

「わ、わかったよ。わかったから顔上げてくれよ。どういたしましてって言えば満足かよ」

「ああ、それで十分だ。蒼くんが望むのなら、いくらか謝礼を渡そうと思っているのだけど」

「謝礼って――」

 

 流代は「お金の事だよ」と素直に答える。蒼は慌てて手を振った。

 

「い、いらねえよ! 言っただろ、金や礼が欲しくてやった訳じゃねーって」

「ん、そうか。まあ無理強いはしないけれども」

 

(いくら理由があっても知らない人からポンと金渡されるのこえーよ)

 

 蒼は小市民だった。

 

「では、お礼の話はここまでにしようか。もう一つのお願いの方なんだが……出流」

 

 流代に促され、出流は頭を上げて蒼に顔を向ける。

 

(お願いってそっちからかよ。何のつもり――)

 

 

「い、五十右くんっ! 僕と、その……友達に、なってくれない……かな!?」

 

 

 蒼は二十秒程費やして出流の発言を咀嚼し、その意味を理解する。

 その上で、蒼は言葉を吟味し――口を開く。

 

「頭大丈夫か?」

 

 


 

 

「大丈夫だ、けど」

「だったら常識で考えろ? 俺はつい数時間前に問題起こして謹慎食らってんだぞ。なんでそんなやつと友達になりたがるってんだ。普通ありえないだろ」

「っ……」

 

 何を思ってか言葉に詰まった出流に代わり、流代が話を引き継ぐ。

 

「ふむ、そうだな。出流は見ての通り気弱で、身体も強くはない。今回は蒼くんのお陰で助かったものの、また同じことが起きる可能性は極めて高い」

 

 蒼は憮然とした表情のまま、脳内で三人組の顔を思い浮かべる。あまり性格(と頭)が良さそうな面には見えなかった。

 

「まあ……だろうな」

「そこで君だ。君が出流の隣にいることで、出流を狙う子供達も二の足を踏む。君の存在は出流を守る抑止力足り得る」

「なんだよそれ。俺はボディーガードじゃねーぞ」

「身体を張る必要は無いさ。君がいるだけで自然にそうなる。それでも手を出すような相手がもしいたのなら……それは大人が対処するべきだ」

 

 都合よく使われようとしている印象が拭いきれない蒼は、頭を捻って難癖をつける。

 

「……良いのかよ。俺みたいな不良がソイツの近くにいても。なんか……よくわかんねえけどさ。イメージとか……ないのかよ」

「気にしないさ。人の噂も七十五日と言うだろう? 君がまた問題を起こしたりしなければそんなレッテルはいずれ風化する」

「だったら――」

()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「ッ!?」

 

 『俺がまた問題を起こさない保証でもあるってのかよ』。喉まで出かかった言葉を先回りしたかのような流代の一言に、蒼は動揺して二の句が継げなくなる。

 

「何を、根拠に」

「今日、君を見てそう感じただけだよ」

「そんなの――」

 

(――何の根拠にも――)

 

「なるとも」

「――ッ!」

 

 人生で経験したことのない異常事態が、蒼に危機感を抱かせる。

 

「私はこれでもそれなりの人の上に立っている身分だからね。人を見る目には自信があるつもりだ――まあ息子相手には目が曇っていたわけだが」

 

 流代は頬を掻くが、片やの蒼は冷や汗が止まらなかった。

 

「君は悪党じゃない。若さ故の無思慮さはまだあるが、咄嗟の判断は常識的で、会話の通じる善人だ」

 

 当の蒼がわからなくなっている自分自身の事を、確信を以て断定する流代の物言いに、蒼の背筋が冷えていく。

 

「そんなはず」

「根拠を話そうか。……私が君の部屋まで来た時、君はまず常識を問いてきた。誰何ではなく、完全に無視するでもなく。この時点で君は常識と対話を重んじるタイプである事が伺える」

 

 旗色が悪い。何かを言わなければいけない気がする。

 だが、動けない。何を言っても――言おうとした時点で――返される未来しか見えない。

 

「また、出流のお願いを聞いた後、君が僕に投げかけた疑問はこちらを慮るものだったね。君は自分の都合より他人の都合を重要視できる、利他精神の持ち主だ」

 

 目の前に突然、底の見えない谷が現れたようだった。飛び降りなければ先に進めないが、恐怖が身体を縛り付ける。

 流代は蒼に笑顔を向ける。それまでと何も変わっていないように見えるのに、蒼にはその顔が魔王か何かと見紛うほどに恐ろしく思えた。

 

「まだ言えるが……聞くかい?」

「…………いや、いい」

 

 蒼は、力なく椅子に身を預けて顔を俯ける。世の中を斜に見て賢ぶっていた自分が、いかに子供であったかを理解させられていた。

 

「ということで、私は君を見込んでいる。出流の近くに君がいてくれたら安心だ――とね」

 

 敗北感が胸中に満ちる。だが蒼はそこから反発心を捻り出す。

 

(『常識的で会話の通じる善人』だ? だったら諦めるまで嫌って言い続けてやる!)

 

 幼い誇りを守るために蒼は対話をかなぐり捨てようとして。

 

「……わかったよ。理由はよーく理解した。でもな――」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――あ?」

 

 それまでの感情の全てが吹っ飛んだ。

 顔を上げた蒼に向けて、流代は肩をすくめておどけた態度を見せる。

 

「適当にでっち上げただけだよ。こういう理由付けをすれば君は納得するかなと思ってね」

「え、は、なに?」

「そもそもこのお願いは、出流から言い出した事だからね。だろう?」

「う、うん」

 

 蒼は半ば存在を忘れかけていた出流に振り向く。出流は両手の指を合わせてもじもじとしつつも顔を上げる。

 

「昼は、お礼も言えずに逃げてごめんなさい。あの時の五十右くんは、少し怖かったから……でも、それだけじゃなくて。『かっこいいな』……って、思ってて」

「かっこ……いい?」

「うん。呼んでも居ないのに、僕を助けてくれたから。とってもかっこよくて、強くて……僕も五十右くんみたいに強くなりたいって思った」

 

 出流は懸命に言葉を紡ぐ。その姿に、蒼は言語化できない心の揺らめきを感じていた。

 

「だけどあの時、五十右くんとても辛そうな顔もしてた。五十右くんも、何かに苦しんでるんだって思ったんだ」

 

 座っているのが堪えられなくて、蒼は自然と立ち上がる。

 腕に小さな鳥肌が立って、汗粒が顎を伝う。少年の青々しい感性が、何かが大きく変わる予兆を鋭敏に感じ取っていた。

 窓も明かりもない部屋の中、閉ざされた扉の前に立っているかのよう。自分の意思で扉を開ければ、蒼の知らない世界が待っている気がする。

 

「僕、五十右くんの事、もっと知りたい。僕じゃ役立たずかもしれないけど、五十右くんの悩み、一緒に解決できたらいいなって」

 

 出流の前髪の間から、彼の瞳が見えた。ルビーのように煌めく深紅の瞳が。

 蒼は、自分にだけ見える扉に手をかけ、そして――

 

「だから、五十右くんと友達になりたいんだ。五十右くんは、僕の――()()()()()()()!」

 

 

 ――春風が、身体を突き抜けた。

 

 

「―――」

 

 知らない世界は、閉塞感に満ちた部屋の中より格段に綺麗だった。

 

(……よりにもよってヒーローかよ。おめでたいにも程があんだろ)

 

 流代の話を聞く限り、出流は何年も前からいじめられていた。にも関わらず、出流からすれば問題児でしかないはずの蒼に、どうしてここまで信頼を寄せられるのか。

 蒼には出流の思考がわからない。だからこそ、知りたくなった。

 

(こんな事なら、寝たフリして帰らせれば良かった)

 

 思考とは裏腹に、蒼の表情は喜びが隠しきれていなくて。

 知らずの内に握りしめて、汗の滲んだ手をズボンで拭って出流に向ける。

 

「――いいぜ。これからよろしく。えっと……佐倉」

 

 自然な笑みを見せながらの蒼の言葉に出流は満面の笑みを浮かべ、両手で蒼の手を取る。

 

「うん! 明日からよろしく! 五十右くん!」

 

 

 中学一年生の初夏のある日。

 夕陽の差し込むリビングで。

 蒼と出流は、友達になった。

 

 


 

「俺三日間謹慎だから学校行くのその後なんだけどな」

「あっ……ご、ごめん」




キリ良さそうに見えますがもう一話だけ過去編にお付き合いください。


登場人物紹介
佐倉(さくら) 流代(りゅうだい)
年齢:44(過去編では40)
身体的特徴:黒髪黒目細身のオールバック黒縁メガネ。インテリヤクザ風?
趣味:人間観察、ゴルフ、ツーリング
説明:
 出流の父にして、IT企業「ブロッサム」のCEO。
 佐倉家が有するグループ企業に就職し、ある日を境に頭角を現す。
 数人の仲間を連れて独立し「ブロッサム」を立ち上げ、以て成功を収めた。
 佐倉家傍流の娘に婿入りし一人息子を設けてからも業績を上げ続け、家族と会社の基盤を安定させるべく奔走する。十年以上の激闘の果てに当初の目的こそ達成したものの、急進の波紋が息子に及んでいたことに気付かなかった。
 反省を経ての現在では、事業の規模も安定路線に入り後継者の育成も順調で、出流にも目を向けられるようになっている。

 他者を取り込むことにかけては右に出る者はいない程の天性の才覚の持ち主。某TRPG風に表現すると《言いくるめ:95》

 十年以上の激闘を戦い抜いた熱意の源泉が、佐倉グループ主催のパーティーで見かけた朱い瞳の女性の微笑みに魅せられたためなのは、夫婦だけの秘密。
 実年齢-10歳に見られる程度に若々しく精力的。秘訣を聞かれた際は「毎日を大切にすることと、妻のお陰です」と答えている。


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幕間 -過去(3)-

過去編最終話です。
ちょっとした幕間のつもりが想定より長くなってしまいました。


 幸いにして家が近かったため、とりあえず一緒に登校しよう……という蒼の提案は、出流がリムジン送迎で登下校しているため叶わず(しばらく後に出流の計らいで一緒に歩いて登校するようになったが)。

 飽き性でミーハー気味の蒼に対し、ゲームに一直線のオタク気質の出流では共通の趣味も話題も無い。

 

 そんなわけで、二人の友情の記憶は一緒に昼食を摂るところから始まった。

 

「五十右くん。一緒にお弁当……食べない?」

「う、おう」

 

 その様子を見ていた周囲がザワつく。小柄な金持ちの息子と、先日まで謹慎していた不良生徒の取り合わせは、彼らには考えられないことだった。

 奇異の視線を避けるべく、二人は屋上に移動する。

 

「……佐倉は、よく食べるんだな」

「え? あ、違うの。これは五十右くんにも食べてもらおうと思って、二人分用意してもらったんだ」

「俺は俺の弁当があるんだが」

「あっ」

 

 時が経てばこういうのも思い出になった。

 

 蒼にとっては、この地域での始めての友達であり、出流にとっては対等な友人というものがそもそも居なかった。二人は互いの人生の空白を埋めるように、思いつく端から楽しいこと、楽しそうなことを実践していった。

 

 時には二人で一日中ゲームして。

 

「なあ佐倉、俺一回も操作してないのに負けたんだけど」

「ごめん……ネット対戦のノリでついフルコンボを……」

「二度とお前とは対戦やらねー」

「あう……じゃ、じゃあ協力系で遊ぼうよ!」

「ったく、今度はちゃんと楽しませてくれよ?」

 

 近場にあったボルダリングの施設に赴き、二人で身体を動かしてみたり。

 

「佐倉、下にマットあるんだからちょっと落ちるくらい平気だって」

「ほ、本当に? 怪我しない?」

「ちゃんと足で着地できれば?」

「ひぅっ……ぼ、僕見学で良い?」

「少しは体動かしてからにしろよ。金もったいないだろ」

「『もったいない』……? あ、そう……そうだね?」

「もったいないの概念を知らない奴って居たんだな……」

 

 出流の蔵書を読んで時間を潰すこともあった。

 

「出流、何読んでんだ?」

「……ライトノベル」

「よく読めるな文字ばっかの本」

「ま、まあ挿絵とかあるし、ちゃんとした小説よりは読みやすいんじゃないかな」

「ほーん……まあ俺は漫画でいいや」

「あ、この作品は漫画にもなってるんだよ。僕両方持ってるから読む?」

「んー……まあ読むだけ読んでみるか」

 

 特に意味もなく肩車なんかしたことも。

 

「出流、しっかり木に身体預けてろよ」

「大丈夫、たぶん」

「行くぞ……ッシ!」

「うわ、うわわっ! 蒼くん凄い凄い! 視点が高い!」

「ハハ、そうかよ。こっちも……思ったより、軽くて助かったな。手離しても良いぜ」

「うわあ……! 蒼くん、将来きっといいお父さんになれるよ!」

「先の話過ぎんだろ」

 

 二人でファストフードを食べに行った。

 

「出流はハンバーガーとか食べたことねーだろ? 俺が教えてやるよ」

「食べたことあるよ。松阪牛をパテにしたのとか美味しいよね」

「待て出流、俺の知らないハンバーガーの話をするな」

「ハンバーガーって二百円くらいで買えるんだ。安いのもあるんだね」

「待ってくれ出流お前普段いくらになるハンバーガーを――いややっぱいい聞きたくねえ!」

 

 不思議なことに、蒼は出流と一緒なら長続きしなかったゲームが楽しめたし、出流は蒼と一緒なら苦手なスポーツも楽しかった。

 なんでもない日々が思い出になり積み重なっていく。二人の呼び方が「イズル」と「アオイ」に変わる頃。蒼に大きな転機が訪れた。

 

 

 中学二年生の二学期―――進学先を決める時が迫っていた。

 

 


 

 その日、出流は自分の部屋でゲームを一人で遊び、蒼はそんな出流を眺めながら出流のベッドで寝転がっていた。

 

「なあ、イズル」

「なに?」

 

 出流は背中を向けたまま答える。

 

「イズルは……高校どこに行くか決めたのか?」

「えっとね、紫凰高校ってとこ」

「ッ、へ、へー……」

 

 紫凰高校は――後に二人が通うことになるのだが――蒼達の地域ではトップクラスの偏差値の高校である。優秀な成績を納めている出流はまだしも、中央値程度の成績の蒼には不相応な世界だった。

 

「……なんで紫凰なのか、聞いても良いか?」

「なんでってこともないよ。お父さんにオススメされたから。お母さんの母校なんだって」

「そう、か……」

 

 父に対して絶大な信頼を置いている出流だ。蒼が何か言ったところで首を縦に振るかは怪しいし、出流の説得はつまるところ間接的に流代の説得(不可能)と同義である。

 

 蒼は迷いの中にいた。

 一年半近く共に過ごした蒼にとって、出流は既に手放し難い親友だ。進学先が別れれば友情なんて脆いもの。それは小学校時代に転校してきた蒼が、『毎日メールするから!』と言って離れ離れになった友人からのメールが数通で途絶えた経験から学んだことだった。

 出流とこれからも友達でいるためには、同じ高校に行くことはほぼ必須。その為には、残り一年半を全て成績向上と試験対策に回さなければ活路は拓けない。

 

 自室に散らばった虚栄の残骸が脳裏をよぎる。ただでさえ障害に弱い蒼には、それは流代の説得と同程度の難易度に思えた。

 

 自分一人では決められない。蒼は、この一年半聞けなかったことを、今だからこそ聞く気になった。

 

「なあ、イズル」

「ん?」

「なんで……お前は、父親を信じられるんだ?」

「えっ、アオイまさか」

「いや俺が俺の父さんのこと疑ってる訳じゃねえけどさ」

 

 蒼は咳払いをする。出流の心の古傷に、踏み込む時は今だった。

 

「お前は……その、小学校の頃からずっと、虐められてたんだろ?」

「うん、そうだね。アオイのお陰で今はもう無いけど」

 

 出流は、ゲームを一時停止させた。

 

「それなのに、お前の父親は助けてくれなかった」

「まあ、うん」

「おかしいだろ。普通、そうなったら父親なんて信じられなくなるもんなんだよ。『どうして助けてくれなかったんだ』って。後で謝られたとしても、心に負った傷は消えたりしない」

「………」

「なあ、教えてくれイズル。お前の中の何が、父親をそんなに――」

「疑ったことは、あったよ」

 

 出流の声は、いつにもなく弱々しかった。

 

「っ」

「だから大神(おおがみ)さんに聞いたんだ。どうしてお父さんはいつもあんなに忙しいのって。虐められてるなんて言えなかったからぼかしてね」

「大神って……あの使用人兼SPの人か」

 

 蒼は筋肉でパッツパツになった黒スーツの肌の焼けた黒マッチョマンを思い浮かべる。

 

「うん。そしたら大神さん、僕を抱き上げて言ったの。『坊ちゃまのお父上は、坊ちゃまと奥様の為に毎日頑張っていらっしゃるのです。私共もあまり頑張りすぎないようにと忠言してはいるのですが、聞き入れてくださりません』って」

「……それで?」

「? 終わりだけど」

「……え?」

 

 出流は床にコントローラーを置き、立ち上がって身体ごと蒼に向き直る。その表情は、いつもの笑顔だった。

 

「お父さんは、僕とお母さんの為に頑張ってるんだってわかったんだもん。()()()()()()()()()()()()()()。お父さんに迷惑かけないようにしなくちゃって思って、それでずっと耐えてたんだ」

「……な、に?」

「まあ、アオイに助けられたときはつい声が出ちゃったけど……」

 

 出流の声が耳に入らない。蒼は鳩尾に響くような、静かに重い衝撃の只中に在った。

 

(振り返れば違和感があった。イズルの態度は、六年近く虐められてた奴にしては目に光がありすぎる。自主性がありすぎる。今まで特に深く考えずに流してたが――)

 

 蒼は出流を、ずっと気弱だと思っていた。小柄で非力で気弱、だが心は純粋な人物なのだと。

 

(違う。イズルは、気弱なんかじゃない。むしろ異常なほどに強固で、信じ難いほどに純粋。一度自分がそう信じたのなら、何があっても自分を貫く。曲がらない、折れない。そういう心の持ち主……!)

 

 一年半前に見えた扉の正体を、垣間見た知らない世界の真実を理解する。

 

(俺は、あの時――()()()()()()()()()()()って思ったんだ)

 

 思考がクリアになっていく。出来る出来ないで考えていた自分が酷く未熟に思えた。

 

(今なら……少しは近づける気がする。イズルみたいに、俺もなるんだ、なりたいんだ)

 

 蒼はベッドの上で身を起こし、へりに腰掛ける。

 

「イズル、俺紫凰受けるよ」

「えっ!?」

「だからさ、勉強教えてくれよ。俺今日から必死に成績上げて、受かって見せるからさ」

「………ッ!」

「おわっ」

 

 出流は感極まって蒼に抱きつく。蒼は突然の行動に対応しきれず、諸共ベッドの上に倒れ込んだ。

 

「どうしたいきなり!?」

「ご、ごめん。嬉しくって……アオイと一緒に高校通えるんだって思ったら、つい……!」

 

 蒼は苦笑して、出流の背中をポンポンと叩く。

 

「……まだ受かるって決まった訳じゃねーっつの」

「いや……いや! 絶対に合格させる! 僕がしてみせる! アオイが泣き言言っても勉強付き合わせるからね!」

「そいつは――まあいいか」

 

 蒼は出流を押し退け、出流も身体を起こして再びベッドの脇に立つ。蒼は寝転がったまま出流に向けて手を伸ばした。

 出流は蒼の手を取り、引っ張り上げて蒼を立たせた。

 

 出流が見上げて、蒼が見下ろして。

 しかし、二人はどこまでも対等だ。

 

「改めてよろしくな、イズル」

「もちろん。僕に任せてよ、アオイ!」

 

 


 

 

 一年半の後、猛勉強の甲斐あって無事に紫凰高校に合格した蒼は、流代の部屋を訪れていた。

 整理整頓され、クラシックな調度品で整えられた気品のある部屋だった。本棚には日本各地のツーリングガイド本が収められており、付箋も入って随分使い込まれていることがわかる。

 部屋のほぼ中央に置かれた机を挟み、蒼と流代は向かい合う。

 

「おめでとう蒼くん。無事に紫凰に合格できたんだってね」

「おう。イズルのお陰でな」

「紫凰は今の中学校よりは格段に治安が良いし、蒼くんの手を借りる必要はないと思っていたが……まあ続くならその方が良いか」

「それより約束――忘れてねえだろうな」

 

 流代は眼鏡を取り、眉間を揉みほぐしてから眼鏡を掛け直した。

 

「勿論。『君が紫凰に現役合格したら、次に出流が自分の意志で何かわがままを言った時、何も聞かず賛同する』――だったね?」

「ああ」

「出流の意思やわがままの基準は、私が決めて良いのかな?」

「好きにしてくれ」

「ふむ。私としてはさしてデメリットのある取引じゃないから応じたけど――どうしてまた?」

 

(あんなにも……あんなにも出流は父親を慕ってるんだ。このくらいのコトがなきゃ報われねえだろ……!)

 

「……流代さんはまだ、出流の事を全部わかってるわけじゃないって事、です」

「これは手厳しい。時に君も、三年前よりは敬語……上手になったね」

「そりゃどうも」

 

 何を言っても流代の表情は飄々として崩れない。出流の神経の太さは親譲りかと、納得と共に腸が煮えくり返りかけたが、ここで癇癪を起こすほど子供ではない。踵を返して扉に向かう。

 

「じゃあな。約束、忘れるなよ」

「しっかりと覚えておくよ」

 

 


 

 

 五十右 蒼(いそみぎ あおい)という少年にとって、佐倉 出流(さくら いずる)は無二の親友である。

 幼少期に蒼は、生まれ故郷から遠く離れたこの街に引っ越した。環境の激変は蒼の精神の安定を崩し、いつしか常に周囲を警戒するようになっていた。そんな蒼を、誰も彼もが避けていた。

 

 だが出流は違った。日本有数の名家たる佐倉家と比べ、中流階級の五十右家の格はまさに月とスッポン。にも関わらず、出流は蒼を、心から尊敬する相手として扱ってくれた。

 同級生による苛めの対象になっていた出流を、蒼が助けた時からずっと。

 

 それがどれほど蒼の心の救いになっていたか、出流は知らない。

 蒼がどれほど出流を愛し、尊敬しているかを、出流は知らない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を、出流は知らない。

 

 

 もしも、このまま何事もなく進んでいたのならば。

 出流は自らの道を歩み、蒼も形はどうあれその傍にいただろう。出流を守るSPでも、秘書でも良い。蒼はそうなる自分を心のどこかで夢想していた。

 

 だが、そうはならなかった。

 

 蒼は女になり、互いに友情と異性愛の狭間で翻弄されていく。蒼が出流の傍にいるための手段は、再考を余儀なくされるだろう。そして環境は常に流動し、二人の準備が整う時など待ってはくれない。

 

 

 ―――結末は、遠からず来る。




次話から後編が始まります。
あと約半分……の予定ですが、また間が開くかもしれません。あしからず


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告白

後編開始です。


 梅雨が明け、七月に入った。

 蝉の鳴き声がうるさく響き、夏空がどこまでも広がっていく。

 うだるような暑さをそよ風が心なしか軽減してくれる中、校舎裏の木陰に一人の美少女が立っていた。

 銀の髪、紺の瞳、細身でありながら程よい凹凸のあるモデル体型。都会に出ればスカウト待ったなし、寧ろ出なくてもスカウトマンがいればまず声をかけるであろう完璧な美少女。

 そんな彼女の前には、前髪で目元が隠れた同年代の少年が一人。その瞳はしどろもどろと揺れ動き、緊張しきりなのが見て取れる。

 

 やがて決心したのか、少年は真っ直ぐに美少女を見据えた。

 

「いっ、五十右蒼さん!」

 

 名前を呼ばれた少女は答えず、黙して少年の言葉を待っていた。

 

「始めてみたときから好きでした! 僕と―――付き合ってください!」

 

 勢いよく腰から90°に身体を折って右手を美少女に向けて差し出す。

 美少女は一度天を仰ぎ、腕を組み二の腕を指で叩きながら瞑目して彼の想いにどう答えるべきかを考え――決めた。

 

 

「まず誰だよお前」

 

 


 

 

 少年は頭を上げ、直立姿勢を取り声を張り上げる。

 

「はっはい! 一年B組、札歩路(さっぽろ) 一番(かずつが)です!」

「威勢良いな……。で、札歩路は知ってんのか? 俺が数ヶ月前まで男だったこと」

「はい! 知っています!」

 

 明らかに告白が成立する雰囲気ではなかったが、札歩路はあくまで元気よく蒼の質問に答える。

 

「えっ。なら嫌だろ。元男と付き合うなんざ」

「最初は思いましたが、愛の前には問題ないと判断しました!」

 

 緊張しているせいかあるいは素か、札歩路は自分の発言の意味が蒼にどう伝わっているのかを理解していないらしい。蒼は頭痛を覚え始めた。

 

「ええ……。じゃあ、俺の何処に惚れたか言ってみろ」

「一目惚れです! 廊下で見かけた瞬間から心を奪われました!」

「見た目だけじゃねえか!」

「はい! 内面はこれからお互い知っていけば良いと思っております!」

 

 蒼は再び天を仰いだ。今度は片手で目を覆いながら。

 

「よし、お前の気持ちはよーく分かった。答えはNOだ」

「な……!」

 

(こいつ、この流れでOKが貰えると思っていたのか……!?)

 

「うッ、く……! せ、せめて友達からでも」

「うるせえ! いらん! 絶対にNOだ!!」

「そ、そんな……!」

 

 追い打ちの口撃に札歩路はがっくりと肩を落とす。

 

「お、教えてください。僕の、何がいけなかったのでしょうか……!」

「………」

 

 告白して振られて、それでここまで前を向ける度胸を評価するべきか。その度胸のせいで失敗しているので欠点とすべきか。蒼は真剣に悩んだが、今求められているのはダメ出しであり、評価してやるほどの義理も無いため頭から追い出した。

 

「うーん、初対面ってのが俺としちゃあ一番ダメだが……でもこれは相手次第か」

「……というと?」

「俺も詳しくはないけどさ……初対面でも好意を向けられるのは嬉しいって思う奴もいるんじゃねーの? そういうのには効果あるんじゃねーの」

「なるほど!」

 

 蒼とて17年の人生を通算しても恋愛経験はさほど多くない。その指摘はドラマや映画などのふんわりとしたパブリックイメージに依存していた。

 

「後はー……ああそう。繰り返すけど俺は元男で、今はこの通り一目惚れされる程度には美人な訳だが……その状態で初対面の相手に告白されたらどう思うかを考えてみろ」

「ええっと……嬉しくはありませんか?」

「あー……まあ、一応人に依る、のか……? すまん今のナシ。あくまで俺の場合だが……正直身体目当てにしか見えねえ。普通に好感度下がるわ」

 

 暗に「身体目当て」扱いされた事に札歩路は意気消沈していく。

 

「そ、そうなんですか……」

「お前は自分の言動を相手がどう思うかを一旦立ち止まって考えてみろ。多分そうすりゃもう少し成功率上がるんじゃねーの?」

「む、むむ……」

 

 性格に依る部分を改善するのは大変だろうが、でなければ数撃ちゃ当たる戦法しかない。そちらを選ぶには目の前の後輩は精神的なタフネスが足りてなさそうに見えた。

 

(そうだ、やりやすい改善ポイントを最後に指摘してケアしてやるか)

 

「最後は身だしなみだな。とりあえずその前髪は切って目を見せたほうが良いな、うん」

「あ、そうなんですか? でも友達の方は伸ばしてますよね?」

「バッ――!」

 

 何気ない札歩路の一言が蒼の地雷を踏み抜いた。

 

「バカ野郎! あいつは良いんだよッ! イズルはっ、あれだから良いんだ! ずっとアレで見てきたんだから、今更変えられても困るっつの!!」

 

 激情に身を任せてまくし立てた結果、ある日の夢の中の自分と発言が繋がって蒼は羞恥に悶える。

 そんな蒼の様子を見て、札歩路はハッと目を見開いた。

 

「……なるほど、そういうことだったんですね」

「な、何がだよ」

()()()()()噂は聞いていなかったので、てっきり居ないと思っていたのですが……五十右先輩はあの人に―――」

「おっ、てめ、な」

「そういうことであれば、潔く諦めます。お二人の事、応援しています! 僕はもうすぐ部活なので、それでは!」

「あっ待てコラ!!」

 

 蒼が反射的に伸ばしかけた手は、札歩路が校舎の中に消えると同時にだらりと垂れ下がる。

 そのまま蒼はふらりとよろけ、校舎の壁に寄りかかる。

 

「違う。違うって。イズルは……イズルはッ!」

 

 蒼は顔を俯けて一人で吠える。

 生理を患って以来、出流の事を考える度に感情が激しく揺さぶられる。出流を好いているのは男の頃からもそうだったが、今の蒼の中にある感情は、ソレとは明らかに毛色が違っていた。

 友ではなく、性を求めるように。

 情ではなく、愛を欲するように。

 

「うぷっ……!」

 

 蒼は、身体を屈めて何度も咳き込む。幸い学食Aランチの成れの果ては出て来なかったが、消えたくなるような惨めさと自己嫌悪感が胸の中を這いずり回る。

 

「――そんなんじゃ、無いんだって…」

 

 縋るように、言い聞かせるように呟いた言葉は、先程までの彼女とは比べ物にならない程に―――女々しかった。

 

 


 

 

 放課後の教室。

 窓の外からは部活に勤しむ学生達の賑やかな喧騒が伝わってくる。

 出流はただ一人自分の席に座って、蒼の戻りを待っていた。

 

(………)

 

 出流は、蒼が告白を受けに行ったことを知っている。その上で蒼を見送った。

 蒼が女になってしまった事については、そういうものだと受け入れた出流だったが、その次の段階―――『女になった蒼とどう向き合い、そして付き合うのか』については、未だ決めあぐねていた。

 

(アオイのことは、もちろん好きだ。でもそれは異性としてのものじゃなくて、一人の人間としてのアオイに惚れている……んだと、思う)

 

 最近は一人になると、何をしていても蒼の事を考えてしまう。数週間後に期末テストを控えているのに、まるで身が入らない。

 

(今の関係に特に不足は感じてない、はず。でも、アオイが誰かと付き合うのかもしれないって思うと、胸がむかむかする。これは、嫉妬……なのかな)

 

 現状を分析し、思考を整理する。曖昧な感情を頭の中で言語化し、自分の中に落とし込む。

 

(でも、嫉妬してるのはアオイが女性だからって訳でもないかもしれなくて。アオイが男だった時から、アオイが誰かと仲良くしてるのを見たときは僕から離れていくんじゃないかって不安になったし、今と似たような気分にもなったし――)

 

「……イズル」

「わっ」

 

 外からの声に沈思黙考を遮られ、出流はバッと顔を上げる。親友が視界に映り込んだ。

 

「あ、アオイ……その、どうだった?」

「決まってんだろ。バッサリ振ってお祈りメールしてやったよ」

 

 何でもない風に言ってのける蒼に、出流は少しだけ気分が明るくなった。ただ、同時に他人の失敗を喜んでいるようにも思えて、また気分が沈む。

 

(最近、僕情緒不安定かもしれない……)

 

「………」

「………」

 

 生理の一件以来、時折こうして無言の間が生まれてしまう。その前からもあったとは思うのだけれど、今はその時間がどうにも気まずく感じていた。

 

「……帰ろうぜ」

「う、うん」

 

 出流は慌ただしく席を立ち、鞄を掴む。出入り口で待つ蒼へと歩み寄る。

 親友のいつもと変わらないように見える笑顔を前に、出流は思う。

 

(僕は、アオイと付き合いたいのかな)

 

 

 幾度となく自問しても、答えが出せない問題。出流にとっては、初めての経験だった。

 

 


 

 

 出流は、目の前の現実をすぐには受け入れられなかった。

 自宅のダイニングで夕食を摂った後、すべての皿が片付けられた純白の長テーブルの上に置かれているのは、豪勢な装丁のフォトブック。

 出流の前に置かれたその中身は、美しく着飾り椅子に座った面識のない女性の写真。

 

「なに、これ」

 

 経験こそなかったが、漫画の中で何度か目にしたことがあるこのシチュエーション。震える声で訪ねた出流に、向かいに座る20代前半にしか見えない紅い瞳の美女――出流の母八重(やえ)は屈託のない笑顔を見せた。

 

 

()()()()()()()()()()?」






登場人物紹介
佐倉 八重(さくら やえ)
年齢:42
身体的特徴:黒髪ストレートのロングヘアに紅い瞳。スレンダー体型で大和撫子といった感じだが和服は着ない。どう見ても20代前半。

詳細は追々


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決断

 自室に戻った出流はベッドに顔面からダイブした。夏休み前の最後の関門、期末テストを控えているため、授業内容の復習をするべきだが、そんな気も起こらない。

 頭を占めるのは、母からのお見合いのお願いのこと。返事は急がないと言ってくれたので一旦保留にしたが、だからといってスパッと割り切れるほど出流は切り替えが早くなかった。

 

(お母さん……なんで急に……)

 

 仕方のない部分もあるかもしれない、と出流は思う。自分の家が裕福であることは自覚している。身体に流れる血に歴史があることも知っている。そして、そういう人間は往々にして、家の為に、血の為に―――私を滅さなければならない時があることも。

 

 出流にとって、八重は滅私の人だった。

 

 この家の家長たる八重は、佐倉の血を引く家との政治や、他の有力な家庭との外交・折衝の全てを一手に担ってきた。出流も何度か、家同士の全然理解できない『お話』の場や、まるで気の休まらないパーティーに出たことがある身。その心労の程は察するに余りあるものだった。

 そんな環境に身を置きながらも――少なくとも出流の前では――、八重は笑顔を絶やさなかった。出流の16年の記憶の中には、喜び、楽しみ、時には哀しむ母の姿はあっても、怒った姿だけは一度たりとも無いのだから。

 

 母がずっと、この家の為に身を粉にして奮闘しているだろう事は、幼い頃の出流にも理解できた。だからこそ()()父も母を愛し慕っているのだと、出流は今も信じている。

 

 このお見合いは、そんな母からのお願いなのだ。

 

(できれば、応えてあげたい。けど、正直心の準備ができてないというか……)

 

 何分急な話で出流も困惑している。それに、今の出流には、何よりも優先しなければならない事があった。

 

(アオイ……)

 

 ずっと出流の心を独占する彼女の存在。お見合いの相手と比べれば、家柄は比ぶるべくもない格下。出流の家と立場を考えれば、そんな相手を選ぶ事は間違っている――と、本来は考えるべきだ。

 

(いや違う。なんで僕はアオイと結婚する前提で考えてるの。アオイの気持ちだって……じゃなくて、まずそもそも、僕自身の気持ちもわからないのに……)

 

 それは、本当にわからないのかもしれないし、頭のどこかではわかっているが、感情が目を逸らさせているのかもしれない。今の出流にはその判別がつかない。

 出流は枕を抱き寄せ顔を埋め、もぞもぞと身じろぐ。

 

 普段の楽しそうな笑顔が。

 調子に乗った時の好戦的な笑みが。

 課題に取り組む真剣な表情が。

 出流の腑抜けた姿に本気で怒った激情が。

 なぜか出流の顔を見ただけで飛び上がるほどに取り乱した様が。

 女性特有の現象に疲れた姿が。

 突然怒り出して出流を外に放り出した態度が。

 それ以降の、どうにも余所余所しさのあるぶっきらぼうな様子が。

 

 蒼の全てが出流の心をどうしようもなく捉えて離さない。蒼の事を考える度、胸が切なく締め付けられて、息が苦しくなる。まるで病気だ。

 

(でも。アオイは……友達で、親友で。そんなこと、考えるのは、多分違う……)

 

 出流は、我慢が出来る。自らの信条に殉じる意思の強さもある。

 だが今は、その長所が『頑固さ』に反転していた。一度頭に刻み込んだ『蒼は友達だ』という認識を、出流はそう簡単に手放すことが出来ない。

 

 

 しかし、出流とて理解している。あやふやなままではダメだと。蒼へのスタンスを定めなければならないと。でなければ、この先どの道を選んでも未練と後悔が残ると。

 

 

 出流はベッドの上で正座して、寝間着のポケットから自分のスマホを取り出す。メッセージアプリを起動し、蒼とのトーク画面を開いた。

 

「ふぅ……」

 

 いつにない緊張感の中、出流は目を見開いて文字を入力する。

 普段なら寝ぼけ眼を擦りながらでもできる行為が、今はギンギンに目が冴えてしょうがない。一文字打つ度に興奮と不安が積み重なって、自分は何かとんでもないことをしているのではないかと思えてしまう。

 いっそ先送りしてしまいたい。テストの後に、夏休みのどこかで、八月に入ったら。そんな誘惑が、出流の背中に忍び寄る。

 

 だが。

 

(うん、うん。わかってるよ、アオイ。『こういうのはな、後に回せば回すほど面倒になってくもんなんだよ』ね)

 

 他ならぬ親友の言葉を熱意に変えて、出流はメッセージを打ち終える。それは遊びへのお誘い。あるいは――親友に向けてこの表現を使うのは出流としては全く間違っているとしか思えないが――デートの、お誘い。

 

「だ、大丈夫だよね。誤字とか無いよね……?」

 

 神経質な程に入力した内容を読み返し、誤字を見つけ次第修正し、変な表現を手直しして文章を推敲していく。普段ならばこんな事絶対にしない。何か間違えていたらその後に訂正すればいいだけだから。

 だが、できない。初めての恋文を認めるように、取り憑かれたように文章の完成度を高めていく。

 

「………よ、よし。送……信っ!」

 

 そうして出流はメッセージを送った後、既読はついたが中々返信が来なかったため、秒ごとに膨れ上がる後悔の念に苛まれる時間を過ごすことになった。

 

 


 

 

 ――『明後日の日曜日、二人で出かけない?

 ―― 観たい映画があって

 ―― テスト前だけど、勉強の気晴らしにどうかな』

 

「……な、なんだ。映画を観に、行くだけか。だよな」

 

 自室でテスト勉強をしていた蒼は、出流からのメッセージを見て微かな落胆混じりの安堵でほっと胸を撫で下ろし。

 

「なんでほっとしてんだよ俺はァ!!!」

 

 ベッドに飛び込んで枕に頭を打ち付けた。

 

「ックソ! 違う! そういうんじゃねえって!!」

 

 二階であまり騒ぐと下から母が突撃してくるので、深呼吸して胸のざわめきを無理やり鎮めた蒼は、寝転がったまま出流からのメッセージを見直す。

 

「『観たい映画』って。タイトル書いてくれよ」

 

 苦笑しながら、蒼は文面を読み返していく。

 

「『テスト前』ね……ったく、勉強しなくても点取れる奴は羨ましいな。まあ、まだ二週間あるし、一日くらいなら大丈夫か? その後はイズルにも勉強付き合――手伝わせればなんとかなるかな。今回の範囲はまだ取れそうだし……あーでも二年のテストの点って内申への影響でかいんだっけ。イズルといっ――同じ大学に行く、なら! なるべく高得点取っとかないとダメだよな。その為にも勉強はするとして、気晴らしは大事だよな。うん」

 

 テストを控えていながら遊びに行く事に後ろめたさを感じる蒼は、独り言で理論武装を固めていく中、ふと小さな引っ掛かりを覚えた。

 覚えなかった方が良かったかもしれない引っ掛かりを。

 

「……『二人で』?」

 

 普段、出流が蒼を遊びに誘う時、態々『二人で』なんて言わないし書かない。そもそも出流から誘ってくる時点で二人なのが殆ど確定しているから。

 とすれば、彼が敢えて人数を明示したのには何らかの理由があるべきであり。

 

 まさか。もしやそれは。

 

「―――ッ!!」

 

 蒼の顔に血が集まる。この時点で蒼はもうテスト勉強どころではなかった。

 

(まさか、まさか? い、いや、そんな筈は。でも、そういうことだよな。これ………()()()なの、か!?)

 

 蒼は勝手に緩みそうになる口元を手で押さえ、喜びに必死で蓋をする。

 そして喜びを覚えていること自体が間違っているのだと、枕に額を埋めて手足を暴れさせてもがいた。

 

 部屋に乗り込んできた母親に軽く叱られた後、蒼はスマホを握りしめる。その瞳は決意に満ちていた。

 

(決めた。明後日、俺は俺自身と決着を付ける。女の身体になろうとも、俺と出流は親友だって事を証明する。こんなのは一時だけの感情に決まってんだ。もうこんなことばかり考えるのはうんざりなんだよ!)

 

 出流の顔をまともに見られない現状が嫌だった。出流に名前を呼ばれるたびにときめく感情が邪魔だった。出流と他愛のない話がしたいのに話せなくなる緊張が恨めしかった。

 出流に異性を求める自分が嫌いで。

 出流に見てもらえないと不安になる自分が嫌いで。

 出流に思われるだけで嬉しくなる自分が嫌い。

 

 出流が蒼を好いている所は、四年前のあの日のような蒼の『男らしくカッコいいところ』なのだから。それと対極に位置する『女々しい』要素のすべてが、今の蒼からすれば敵でしかない。

 

 蒼はパジャマの胸元を一度キツく握りしめてから、出流からのメッセージに返信する。

 

『良いぜ、映画は何時から?』

 

 一瞬で既読が付いて驚いたりしつつも、蒼と出流は予定を詰めていく。

 

『オッケー。十一時に家を出れば良いんだな?』

 

 ――『うん。明後日はよろしくね』

 

「ふー……疲れたしもう寝るか」

 

 気力と体力を使い果たした蒼は、勉強に戻る気も起きなかったのでそのまま寝た。

 

(あ、なんの映画見るのか聞き忘れてた。まあいいか)

 

 


 

 

 翌朝蒼は、恐るべき事実の認識と共に飛び起きた。

 

「よそ行きの服が無え!!」

 

 なんと蒼、女性用の私服を持っていない。制服やら体操服は性転換したその日の内に用意したが、私服に関しては「よく分かんねえし、マジで必要になったら後で買う」として買わなかった。そしてなんとこの約一ヶ月の間、そのまま生活が成り立っていた。

 学校帰りに出流と遊ぶ時は制服のままだし、土日は外に出ず予備のジャージで過ごす。出流と遊ぶ時もお互いの家に行くだけなので、私服が無くてもなんとかなってしまっていたのだ。

 

(女性の服……スカートとか着るのは、制服のせいでまあ平気になった。が……)

 

 明後日はどうしたって外出せざるをえない。女になってから初めての、休日の外出を。

 であれば当然私服は必須。下手な装いは恥でしかないし、何より隣に立つ出流が恥ずかしい思いをすることになるだろう。それは蒼の望む所ではない。

 だが女性服(レディース)への知識が皆無の蒼には、いわゆる『無難な格好』みたいなものですら見上げる高さの壁として眼前に立ちはだかる。

 

(まあ、こういうのは詳しい奴に聞けば良いか)

 

 頼るべきは同性の友。蒼は朝食後、連絡先を交換していたクラスメイトの女子に電話をかける。

 

「もしもし」

『五十右さんから掛けてくるなんて、どうしたの?』

 

 電話の相手は暫く前に蒼にメイクをしてくれた女子生徒。会話の中でファッションに詳しいと知っていた故の人選だった。

 

「あーその、なんだ。私服を選んで欲しくて」

『服? 実際に手持ちを見てみないとどうにも……何持ってるの?』

「ああいや、そうじゃなくて……女物が一着も無い」

『えっ?』

「男用のしか無えんだわ」

 

 しばしの沈黙(絶句)

 

『嘘でしょ……今までどうしてたの……?』

 

 明らかにドン引きした声が返ってきた。

 

「なんとかなった」

『なんとかなっちゃうんだ……じゃあ、逆になんで今必要に?』

 

 蒼は一瞬、理由を適当に濁すか迷ったが、正直に言ったほうが目的に合致した服を選んでもらえる可能性が高いと判断した。

 

「まあ、なんつーか……明日、イズルと映画を観に出かけるからさ。必要になっちまって」

『………』

「だからまあ、隣歩くのに恥ずかしくないような無難なヤツを――」

『なるほどね。完全に理解したわ』

 

 さっきのドン引きから打って変わって、何かを確信した声音だった。

 

「? とにかく、そういうわけで知恵を貸してほしい。女性服の選び方とか着こなしとか全く分かんねえし。あと、あまり高くないと助かるんだけど」

『任せてちょうだい。()()()()()()仕上げてあげる。予定は明日でしょ? じゃあ今日買うしか無いわね。昼過ぎに○○駅で待ち合わせしましょ。駅の近くにショッピングモールがあるから、そこで探すわ。予算はそうね……とりあえず五万円くらい持ってきてくれる?』

「たっか。女の服ってそういうモンなの?」

『そういうものなの』

 

 妙に圧の強い女友達の調子に小さな疑念が浮かんだ蒼だったが、それはすぐに意識の底に沈んで消えた。

 

 

 そして、蒼はクラスメイトの手を借りて無事に『無難な服装』を選び終え、日曜日を迎える。

 

 

 ―――尚、『無難な服装』を選ぶために十数件の洋服店やらブティックやら古着屋やらを巡り、買い物を終える頃には陽はとっくに暮れていた上、予算も殆ど使い切っていた。

 想像以上の長丁場と出費と袋の重さに、蒼は『女の買い物って時間も金もかかるって聞いたことあるけどこんなレベルなのかよ。大変だな』と思った。




なんでこんなに時間かかったんやろなあ……安くて良い服探してたのかなあ……

次回からドキドキデート編です。

登場人物紹介
・蒼にメイクした女子生徒
自分の恋より他人の恋の方が気になっちゃうお年頃。


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逢瀬(1)

ドキドキデート編、開幕!
これまでと投稿時間が違うのに深い理由は無く、単に早めに上げたいと思ったからです。


 佐倉家邸宅から徒歩二分の蒼の家に向かう中、出流は気付いた。

 

(アオイが女の子になってから私服見たこと無いや)

 

 『女らしい服着たら何かに負けた気分になるからなるべく着たくない』と出流と遊ぶ時も常にジャージだった蒼。出流はそんな蒼に配慮して――インドア派の出流としてはさしたる苦でもなかったし――これまで蒼とこういった外出をしないように気をつけていたのだが、今回は緊張のあまりその事をすっかり忘れてしまっていた。

 

(お母さんの服とか借り……るのは流石にないか。どうするんだろ)

 

 蒼の女の子らしい格好は、それこそ制服しか見たことが無い出流。何が出てくるのか予想が出来ず、純粋な興味からくる漠然とした期待を抱いていた。

 

(アオイは本人が綺麗すぎるから、普通の服だとあんまり印象変わらなかったりして。まあアオイがいきなりすごいコーディネート決めてきたらその方がびっくりだけど)

 

 若干失礼な事を考えながら、出流はひと足早く合流場所である蒼の家の前に着いた。

 蒼に「着いたよ」と連絡しようと、出流がスマホを取り出すと同時に五十右家の扉が開く。

 なんとなく既視感を覚えながら、出流は顔を上げる。

 

 

 出流は、掌から滑ったスマホがアスファルトに落ちたことにも気付けなかった。

 

 まず目についたのが白のキャミソールワンピース。制服とはまるで異なる柔らかいスカートがそよ風に軽く揺れて、夏の爽やかさをいっぱいに表現している。その上に羽織っているのが薄手のデニムジャケット。丈の短いジャケットは肩の露出を程よく減らしつつ、蒼の細い腰と括れを布地の内側からチラリと見せてくる。首には小さな銀のネックレスが下がり、陽光を反射してきらりと光っていた。

 全体的に夏らしく涼やか&爽やかに纏まった装いに、風に靡く銀の髪が、心を奪う紺の瞳がバッチリと噛み合う。出流は蒼の向こう側に、青々しい山々と聳え立つ入道雲、そして寂れたバス停とひまわり畑がはっきりと見えた。

 

 唖然と口をパクパクさせるばかりで言葉が出ない。言いたいことが頭の中で渋滞して喉で詰まっていた。

 蒼が石畳をズンズン歩き、出流の胸ぐらを掴む。その顔は羞恥満面な上、ちょっと涙目だった。

 

「おうイズル、言いたいことがあるならはっきり言えや……!」

 

 美しさで本当に目が潰れそうな出流は反射的に目をぎゅっと瞑り、パニックが加速する脳内でやっとこさ言葉を絞り出した。

 

「えっと、その……すごい綺麗」

「なっ、あ、そッ!?」

 

 言えと言われたら言うしかない。というより、一度出てしまえば止まらなくなった。

 

「綺麗で、かわいくて、美しくて……その、びっくりして言葉が出なかった。アオイがまさかこんなおしゃれしてくるなんて思ってもみなかったから。全体的に白いのが夏らしくて良いと思う、雑誌の表紙とか全然飾れるよ。田舎で見かけたら一夏の思い出って感じのストーリーが始まりそうな」

「い、良いから! もう良いって!!」

 

 胸ぐらから離した手をブンブン振り回す蒼に、出流は不満げな目を向けた。

 

「……はっきり言えって言ったのはアオイの方だよ」

「いや言ったけど! 言ったけどさあ!! ……っつーか、やっぱり全然無難じゃなかったじゃねえかよアイツ騙しやがって……!」

「騙し?」

「い、いや何でも。……ま、まあ。変な格好じゃねーんなら、まあ、良いさ、うん」

「そうだね、世界で一番綺麗って言うか」

「すまんイズル、今だけはあっち向いて黙っててくれ」

 

 親友の理不尽に出流は不服を覚えつつも言われた通りにする。数度の深呼吸の後、「もういいぞ」と言われたので振り返った。

 見るからに不機嫌そうな顔をしていた。

 

「………」

「……そんなに嫌なら着替える? 時間の余裕あるから待つよ」

「嫌ッ……じゃ、ねえ、から、困ってんだよ……!」

「?」

 

 ひと悶着を終えた二人は、駅に向かって歩き始めた。

 

 


 

 

 蒼の想定を遥かに超えるのゴリゴリおめかしに冷静さを失っていたらしい出流は、電車に乗る頃には自分の発言の気恥ずかしさにちょっと帰りたくなりつつも、当初の目的を思い出して心を強く保った。

 通路側の席で電車に揺られながら、出流は頭の中で目的を反芻する。

 

(『僕はアオイとどう向き合うのか』を決めるのが、僕の目的。既に大分『もう付き合っても良いんじゃないか』って思ってる自分がいるのが我ながら気が早いというか、アオイがこんなおしゃれしてくるのが悪いというか……じゃなくて。それを決めるのはこの外出が終わってからでないと)

 

 電車で数駅移動し、さらに歩いて数分のショッピングモールの中に映画館がある。ここで映画を観て、蒼が何か買い物をするらしいというのでそれに付き合い、どこかで適当に時間を潰して帰る――というのが今日のプランだ。

 

 その中で、できる限り蒼という人物を観察したい。

 誰かと向き合う上で、相手の人となりは言うまでもなく重要だ。どこで気が合うのか、どこで気が合わないのか。相手の長所だけでなく、短所にも正しく目を向けられなければ、判断を誤ることになるだろう。

 出流は、自分は蒼の事を理解していると思っている。だが今はそれを疑わなければならなかった。自分に見えている蒼は、本当に正しいのか。四年前の憧れを引き摺って過大評価していないか。

 苦痛を伴う行為だった。誰が好き好んで親友の欠点を論うのか。だが、親友でない間柄になるのであれば、必要な行為である。迂闊に関係を進めてから後悔しても遅いのだから。

 

 だからこそ出流は、蒼を観察する。今も出流の隣で窓側の席に座り、車窓の外をぼんやりと眺めている蒼を見る。その横顔を、その瞳を。より近くで、よりはっきりと。

 より、はっきりと―――

 

 不意に、蒼が振り向いた。

 

「ん? おわあっ!?」

「わああっ!?」

 

 蒼が急に上げた声に驚き、出流も思わず身体を引く。

 

「なッ、な、何……しよう、と!?」

「えっ、いや、その。アオイを、見てたっていうか」

「嘘つけ! お前今変なことしようとしただろ!」

「い、いや! ホントに見てただけっていうか、ついつい身体が吸い寄せられてたというか――」

 

 慌てふためく出流だったが、蒼の発言が引っかかりそちらに思考が切り替わる。

 

「変なことって……なに?」

「ッ! それはっ、その……キ、キぃー……」

「キ? ―――!!」

 

 頬を赤らめながら蒼が言い淀む単語を、出流の優秀な頭脳はすぐに閃く。

 出流の頬も赤くなった。

 

「し、しないよ! そんな、つ、付き合ってもないのに!!」

「うるせえンなこたわかってるよ! お前が紛らわしいことするからだろうが!!」

 

 更にヒートアップしかけた二人だったが、近くの乗客の咳払いが耳に飛び込み、その勢いがビタリと止まる。

 まばらにいた他の乗客からの視線が突き刺さり、二人は居たたまれなさに縮こまった。

 手を膝の上に揃えたまま、二人は声を潜めて話し合う。蒼は出流を疑いの目で見ていた。

 

「ホントに見てただけ、なんだよな?」

「ほ、ホントにホント。さっきはその、見惚れてた、というか……」

「……ふーん。そうかよ」

 

 それっきり、蒼はまた窓の外に顔ごと向けて、出流の方へは目もくれない。

 出流は『やっちゃったなあ……』と肩を落とし、残り十分程度の乗車時間はお互い完全に無言になってしまった。




まさかそんな「そういう行為の予感に内心ドキドキが止まらなくて、『怒っている』かのように振る舞いながらその実もう一度同じ事をして欲しい気持ちが心の片隅にあって同じポーズを取っている」なんて面倒くさいムーブをしてる訳がないじゃないですか、ねえ?


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逢瀬(2)

※本作品は当然フィクションであり、作中に実在の映画っぽい表現があったとしても該当する映像作品とは全く関係がない事を予めご了承下さい(予防線)。


 電車で若干空気を悪くしながらもなんとか雰囲気を持ち直した二人は、世間話をしながら映画館にたどり着いた。

 

「なんだかんだ時間ギリになったな……」

「流石に電車が止まるのは想定外だよ。むしろ間に合っただけ御の字というか」

 

 二人が見る予定の映画の入場開始まで、あと数分の所だった。

 

「チケット間に合うのか?」

「それは大丈夫。予約してあるから発券するだけだよ」

 

 そう言って予約済みチケットの発券機に向かう出流に、蒼が声をかける。

 

「結局、何の映画観るのかまだ聞いてねえんだけど」

「そうだっけ。『○○○』って映画」

「聞いたこと……ある、ような?」

「有名な監督の最新作だって。アクション系だからアオイも楽しめるかなって」

「正直不安だったけど…悪くねえチョイスだな」

「僕の映画チョイスそんなに信用ならない?」

「すまん。こっちの話だから気にすんな」

 

 蒼の不安は『もし恋愛映画とかだったらどうしよう』というもの。ここに来るまで何度か聞こうかと思ったが、それが真実だった場合に平静を装える自信が無かったので聞けていなかった。

 

 出流はたどたどしい手付きで発券機を操作し、手続きを進めていく。液晶か画面にそういう加工がされているのか、隣の蒼からは何をしているのかよく見えない。

 

「あ、チケット代半分出すぞ」

「前払い済みだし気にしないで。元々僕が誘ったんだから」

「いやでも……あー、そうか……じゃあすまん、頼むわ」

「ん」

 

 出流に払わせるのは申し訳ない気持ちがあったが、つい昨日のドデカい出費を思い出した蒼は大人しく厚意に甘える道を選んだ。

 発券口から出てきた二枚のチケットを受け取った出流は、一枚を蒼に渡す。

 

「はい、アオイの分」

「おう。おっと、飲み物買わねーとな」

「そうだね、三時間あるからあまり大きいのは買わないほうが良いかも」

「だな。……えっ三時間?」

「あ、これも言ってなかったっけ。だから上映前にトイレは済ませとこうね」

「それはそうだけど」

 

 話しながら、二人は映画館内の売店に向かう。飲み物を二人分、ポップコーンを一つ買って二人で食べることにした。店員に微笑ましい目で見られていることに気付いた蒼が、言われてもいないのにカップルを否定したりしていると、劇場への入場が始まっていた。

 

 係員にチケットを渡したところで、蒼が持っていたカップを急に出流に押し付けてきた。

 

「……イズル、ちょっと先行っててくれ」

「わかった」

 

 蒼の様子で何事かを察した出流は、しかし気にしていない風に応じる。小走りでトイレに向かう蒼を、出流は両手に蒼のカップと自分用のフードトレイを持ったまま目で追った。

 躊躇も逡巡もなく女性用のトイレに入っていった蒼を見て、出流の中で小さな寂しさが通り過ぎて行った。

 

 


 

 

 大迫力のスクリーンで、激しい戦闘が繰り広げられていた。二人の男が互いの正体を知らぬまま築いた友情が、互いを傷つける刃に変わる。相容れず交差した道を決して譲れないのならば、後は戦うしかないのだから。

 意地と意地がぶつかり合い、信念と信念が血と破壊を伴って交錯する。その戦いは全てを知る傍観者にとって、悲壮でありながら美しい、魂の対話だった。

 

 出流は純粋に迫力満点の映像に舌を巻いてスクリーンに釘付けになっていたが、ふと隣が気になった。

 

(アオイ、楽しめてるかな?)

 

 出流は楽しめているし、これまでの経験則から蒼も楽しんでくれるはずではあるが。

 気付かれないよう、ちらりと右を見る。

 

(!?)

 

 蒼は背もたれに身体を預け、神妙な表情のまま静かに涙を流していた。紺の瞳と整った鼻筋、艷やかな唇と白い頬を弱い光が照らしている。

 出流はそっちに目が奪われそうになり、慌てて前を向く。スクリーンでは男同士の命のやり取りが佳境に差し掛かっていたが、出流の目にはさっきの横顔が焼き付いていた。

 

(な、泣いてた……。アオイ、そんな涙脆かったっけ……? 女の子になって心の琴線も変わった、とか?)

 

 出流は気持ちを切り替えるためにドリンクを一口含み、ゆったりとシートに座り直した。

 

(でも……良かった、今日映画に誘って)

 

 これまで気付かなかった蒼の変化を知り、出流は少し嬉しくなった。蒼の新しい一面を知れたことそのものが嬉しいのろあるが、今日のデートに、先日蒼を誘うまでの葛藤に、何かしらの意味があった証でもあるから。

 肩の荷が一つ降りた出流は、先程よりもリラックスして映画を鑑賞することが出来た。

 

 

 ……ちなみに、クライマックスだと思っていた戦闘は上映開始から一時間時点のものである。

 しかし、残り二時間はその『まるでクライマックスかのようだった』シーンすら上回る熱いシーンの連続であり、蒼と出流は最終的に大興奮で鑑賞を終えた。

 

 


 

 

 映画館を出た二人は、モール内を歩きながら映画の感想を色々と言い合っていた。

 

「いやあ面白かった! 三時間があっという間だったな!」

「そうだね、すごく密度の高いストーリーだったし、見せ場もド迫力って感じて良かったなあ」

「俺、ヒゲモジャのオッサンにこんなに憧れたの、生まれて初めてかもしれねえ……!」

「確かに。世界一カッコいいひげもじ……ええと、まあ。そうかも」

「あとさあとさ! あのダンス凄かったよな! 俺帰ったらやってみようかな」

「良いね。息抜きに身体を動かすのも大事だし」

「あとイズル、今度また肩車やらねえ?」

「うーん、流石に辞めといたほうが……。やるならせめて僕が下かなあ」

「いやイズルが下も無理だろ! ……あーあ、俺が男だったらなあ。―――あ」

 

 蒼が頭の後ろで手を組みながらぼやいた一言に、蒼自身が固まる。

 愉快な空気が陰る気配を感じて話題を変えるべく、出流はあの涙に触れることにした。

 

「……そういえばアオイ、あのシーンで泣いてたよね」

「え!? あ、あー……そ、そうだったな……マジか見られてたか」

「アオイって映画で泣くタイプだったんだなあって思った」

「いやー、普段はそうじゃねえと思うんだけどな……あのシーンはなあ……」

 

 組んだ手を外してブラブラと揺らしながら、蒼は伏し目になった。

 

「それは、どうして?」

「んー……いや、秘密」

「ええっ。……まあ、いいけど」

 

 二人は、しばし無言で当て所もなくまっすぐ歩いた。

 蒼はばつの悪い表情で出流から目を逸らし、出流は会話の切っ掛けが思いつかず内心どうしようかと困っていた。

 口火を切ったのは、肚を括った蒼の方からだった。

 

「……よし。そうだイズル、俺の買い物に付き合――ついてきてくれるんだよ、な?」

「う、うん。アオイ、何を買おうとしてるの?」

「ふふふ。そいつは現地に着いてからのお楽しみだな。このモール内にあるから少し歩けば着くぞ」

「うーん……ゲーム?」

「そりゃお前が欲しいだけだろ」

「じゃあ……本?」

「不正解。到着までにわからなかったら強制連行な」

「強制って……別に何だろうとついていくけど。ええと――」

 

 出流はクイズ感覚で思いついた端から候補を上げてみたものの、蒼の求めるものについてはその店に着くまでわからずじまいだった。

 

 


 

 出流と笑いながら、話しながら。蒼は心の中に感傷を閉じ込めた。

 

(言えるわけ、無いだろ。()()()()()()()()所に涙ぐんじまったなんて――)




RRR面白かったです。


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逢瀬(3)

今回は蒼ちゃん寄りの視点です。
ラッキースケベ要素はないです。


 蒼と出流の眼の前には、ランジェリーショップがあった。

 

「はい行くぞー」

「待って待ってねえ待って本当に待ってェ!?」

 

 何の気無しに入店しようとする蒼の手が必死に引き留められる。蒼は已む無く、一旦場所を近くの通路に移す。

 

「なんでだよ」

「『なんでだよ』はこっちのセリフだよ!? アオイはわかるでしょ僕の気持ちが!!」

 

 驚愕と絶望に満ちた表情をした出流を、蒼は素知らぬ顔を装って受け流す。その内心は羞恥やら後悔やらで相応にギリギリだったが、ここだけは譲れない。これこそが、蒼の今日の目的なのだから。

 


 

 蒼は、自分がまだ知らない出流の欠点を探していた。

 

 今の蒼の心の中には、男の価値観と女の価値観が混在している。性転換した当初はまだ男しか無かったが、生理の日の一件から日増しに女側が勢力を伸ばしてきていた。その価値観はわかりやすく『出流への異性的な好意』として発露し、男側がそれを抑えつける事で今の五十右 蒼は成り立っていた。現状はまだ男側が優勢だが、それもいつひっくり返るかわからない。

 

 問題がそれだけならば、蒼は女の自分を受け入れられたかもしれない。だがそれは出来ない相談だった。

 

 蒼と出流の関係は四年前の一件から始まり、出流は蒼の男らしい部分に憧れを抱くことが多かった。それは、出流の『僕はアオイに救われた』という意識と、出流が持っていた自分自身の弱さへのコンプレックスが転じてのもの。

 しかしそれは同時に、蒼の『俺はイズルに救われた』という意識の下、『男らしさ()()が、出流が俺に求めているものなんだ』とする認識を、蒼の意識下に植え付けるには十分なものだった。

 

 

 だから、蒼は自分の中の女を、出流への好意を否定しなければならない。

 出流の隣に居続ける為に。

 出流に好かれる自分で在り続ける為に。

 

 

 故に、出流を異性として否定できる材料が必要で、だからこそのランジェリーショップだ。無理矢理にでも出流に蒼の下着を選ばせる。そのチョイス如何によっては、出流を幻滅できる可能性があるはずだ、と。

 露骨に下心を覗かせれば論外。過度に逃げに走るのも減点。親友に向ける試練としてはあまりにも独善的だったが、こうでもしなければ出流を見る目を変えられないと焦るほどに―――蒼の精神のバランスは、今にも恋慕に傾きかけていたのだ。

 


 

 昨日女友達と服を選んでいる最中に思いついた時は天才の発想だと膝を打ちたい気分になった蒼だったが、いざ実践してみると想定になかった精神的苦痛に心が折れかけていた。だがここまで来て引き下がれない意地が、何かしら成果を持ち帰らなければならないという使命感が蒼を突き動かす。所謂コンコルド効果である。

 

 店舗が数多面するメインストリートから外れた、細く少し薄暗い通路。蒼は、その壁に出流を押し付けた。お手上げのポーズで不安げに蒼を見下ろす出流の顎を前腕で持ち上げ、蒼は下から挑発的に睨めつける。

 

「俺は言ったぜ。店に来るまでに何買うのか当てられなかったら強制連行ってなあ」

「い、いやでも流石にそれは……」

「ああそうだ。折角だしイズルに一着選ばせてやろうか?」

「え、ええっ!?」

 

 あたかも今思いつきました感を装い、本題へと舵を切る。

 

「喜べよイズル。自分で言うのも何だが、今の俺は絶世の美少女だろ?」

「ホントに自分で言うことじゃないね……事実だけども」

「一生に一度もないチャンスだぜ? 『男』、見せてみろよ――イズル?」

 

 少し伏せた目を上目遣いに、涼やかな声に蕩けるような甘さを滲ませて。蒼は自らの超然的な魅力を最大限に活かして出流を焚きつけ―――内心では吐きそうになっていた。

 

(キッツ! マジでキツい! つかそもそもなんで女を否定したいのに女の魅力盾に挑発してんだよ俺!? いやもう知らん! こうなりゃヤケだコイツに買わせる為ならなんだってやってやる!)

 

 蒼はコンコルド効果に囚われていた。

 

「……っ」

 

 顎下へ差し込んだ前腕に喉仏の上下運動が伝わってくる。出流が生唾を飲んだ感触を掴んだ蒼は、挑発の成功を確信した。

 

「わ、わかったよ。そこまで言うなら、やるよ」

 

 精神をすり減らした甲斐があった、蒼はガッツポーズでもしたい気分だったが、ここで喜んでは裏があると取られかねないので我慢して腕を引くに留めた。

 

「最初からそう言えば良いんだよ。さ、行くぞイズル」

「うん」

 

 肚をくくったらしい、力強く感じる返事だった。

 

 


 

 

 改めて出流を伴い、蒼はランジェリーショップへ足を踏み入れる。視界一面に陳列された女性用の肌着、肌着&肌着。そこらの店で見かけるものとは違い、単純な下着の形をしていないものから華やか(婉曲表現)な品々まで幅広く、かなり目に毒だ。出流は勿論のことだろうが、蒼としてもあまり長居したい空間ではなかった。

 

「いらっしゃいませ」

 

 プリン色の短髪が印象的な女店員が、笑顔で歩み寄ってくる。蒼がどう言おうか迷っていると、出流が一歩前へ出た。

 

「彼女に合うものを、選びに来ました」

「かしこまりました。まずはお客様のサイズを測らせていただきますので、こちらへどうぞ」

「う、おう」

 

 蒼は言われるがまま試着室へ連れて行かれる。出流はその場に留まり蒼を見送った。

 

 

 しばらくして。

 

 

「お疲れ様でした。宜しければ幾つか見繕いましょうか?」

「……お願いします」

「こちらでお待ちになりますか? お連れの方のところに戻られますか?」

「あー……じゃあ戻ります」

「かしこまりました。……逸材ね。久々に心が躍る……!」

 

 採寸を終えた蒼は一旦解放され、店員は陽炎が見えそうな熱意を背に棚の影に消えていく。

 蒼はとりあえず出流の下に戻った。

 

「やっぱ採寸嫌いだわ。もう帰りてえ」

「アオイから誘っといてそれ言う?」

 

 思わず口をついて出た一言に苦笑する出流を、蒼は訝しんだ。

 

(あれ? なんか、さっきより余裕がある。ような?)

 

 蒼が出流の雰囲気を怪しみかけた時にちょうど、店員が戻ってきた。

 

「お待たせしました。お客様のサイズで似合うものでしたら、こちらは如何でしょう」

 

 店員が持ってきた肌着の一つを持ち上げる。ハンガーと一体化したワイヤートルソーに着せられたそれは、ピンクのブラジャーとパンツだった。

 

「レースアップフロントのブラジャーと、ショーツのセットです。お客様の体型にほぼピッタリ合いますし、少々セクシーですが可愛らしさも引き立ちます。ピンクの色合いもよくお似合いかと。このデザインは、他にもホワイトとブラック、あとライトグリーンは在庫があります。取り寄せにはなりますが、ネイビーとライトブルーもありますね」

「はあ」

 

 下着にさして興味もない蒼は、店員の丁寧な説明も殆どが馬耳東風。そもそもレースアップフロントが何を指しているのかも分からない。『勧められてるしたぶん似合うんだろうな』と他人事じみた感想を抱いた。

 片や出流はどうなのかと、目だけで盗み見る。

 

「………」

「いっ!?」

 

 思わず声が漏れる程、出流はド真剣な表情をしていた。食い入るように店員の持つ下着を見つめ、口元に手を当てて何事かを考えている。

 だがこの状況で考えることなど一つしかない。これを着た蒼の姿を想像し、似合っているかを頭の中で確かめているのだろう。

 

 蒼は思い出していた。たまに見る出流の一面を。自らの判断に殉じる覚悟を決めた時の、とことんまで突っ走る意思の強さを。

 出流は今まさにその状態(ゾーン)に入っている。『蒼に似合う下着を選ぶ』を唯一の命題とし、その為なら恥も外聞もかなぐり捨てていた。

 

 自分の下着姿が想像されていること以上に、たかが下着にそこまでするのかという出流へのドン引き混じりの驚愕が蒼の心を占めていた。

 

「なるほど。……蒼、一回着てもらって良いかな」

「へ? え、いやその。そういうのはまだ俺達には早いっていうか」

「実際に着てみないと着心地とか分からないでしょ? それに、僕が選ぶなら着てるとこ見ないと判断できないし」

「そ、それはそうだけどよ……」

「仰る通りです。一番肌に触れる衣類なんですから、着心地は大事ですよ?」

「そうそう。店員さんの言うことは聞くべきだよ? 専門家なんだから」

「お客様はよく分かっていらっしゃいます!」

「えっあの、なんでそんな意気投合して……」

 

 真剣に蒼の為を想っている出流と、真剣に蒼に色んな下着をフィッティングさせたい店員に挟まれた蒼に抗う術はなく、蒼は二日連続で着せ替え人形のような扱いを受けることになった。

 

 試着室内で下着を着てみては、店員に着心地を聞かれて答え、若干合わないと感じれば身体の方を合わせようとしてくるので脇や胸に手を突っ込まれる。

 フィッティングが終われば出流にその姿が晒され、邪な考えなど一切ない視線でガッツリ見分されて、褒められながら評価される。蒼の受けた羞恥は何もかも放り捨てて暴れ出したいレベルだったが実行に移せるはずもなく、ただ耐えるしかない。

 

 精神がゴリゴリと磨り減るのを感じつつ、ようやく終わったかと思えば店員が次の下着一式を既に準備している無間地獄が待ち受けていた。

 

(お、おかしいなぁ……俺、イズルを試すためにここ来た筈なのに、なんで俺の方が試されてるみたいになってるんだろうなぁ……?)

 

 最終的に、出流は最初に勧められたレースアップフロントのセットを選んだ。レジに向かった蒼は、何故か店員がこっそりと勧めてきた赤いガーターベルト&ストッキングを勧められるままお買い上げし、買い物は終了。

 この一件で蒼は出流の評価材料など考える余裕は無く、手にしたものは『出流に下手な精神的負荷を与えると却って厄介なことになる』という教訓だけだった。

 

 店を出た辺りで集中のゾーンから帰還し後悔と羞恥に悶え苦しみ始めた出流と、計画の瓦解と体力の枯渇で疲れ果てた蒼。

 

 死んだ目をした二人は声を発する気力も失せ、アイコンタクトのみで会話し、手近なカフェで小休止することにした。




このスケベは起こるべくして起こっているので。


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逢瀬(4)

 蒼と出流はモール内のカフェのテーブル席に向かい合って座り――顔面から突っ伏していた。店内には満席というほどではないがそこそこの数が利用していて、時折気にかけるような視線が二人に向けられていた。

 

「つらい」

「それ俺のセリフな……」

 

 暴走特急モードが冷め、自分のやらかしっぷりを自覚してしまった出流。その出流に種々雑多な下着姿を着させられ、ガン見され、精神的に参った蒼。二人とも、色んな方面に限界が来ていた。

 テーブルの涼しさを肌で感じたりガラスの向こう側の通行人をぼうっと眺めたり。紅茶一杯で十分ほど休息を取り、ようやく口を利ける程度に回復することが出来ていた。

 

「せっかくだし軽く食うか。何か食わねえとやってらんねえ」

「僕甘いものがいいな……」

「自分で選べー」

 

 蒼はむくりと身体を起こし、メニュー表をテーブルに広げる。反対側から出流も緩慢な動きで覗き込んだ。

 

「俺、BLTサンドにしよっと」

「僕は白玉パフェで」

 

 オーダーが決まった二人は店員を呼び、注文する。まだ気疲れが残っていた二人がまたしばらく呆けている内に、料理が運ばれてきた。

 

「BLTサンドです」

「あ、それ俺」

「白玉パフェです」

「こっちです」

「ごゆっくりどうぞ」

 

 店員が去っていった後、二人は各々の前に出された料理を食べ始めた。蒼は半分に切られたBLTサンドの片方にかぶり付く。出流はグラスの上まで盛られたパフェを崩さないよう、慎重に柄の長いスプーンを差し込み、白玉とホイップクリームを纏めて掬い出し口に運んだ。

 

「ん、まあうまい」

「そうだね。おいしい」

 

 出流の言葉に突発的に浮かんだ疑問を、蒼はそのままぶつける。

 

「……イズルって、普段から良いもん食ってるよな」

「まあ、そうだと思う」

「それでもうまいのか? なんかこうホラ、舌とか肥えてたりするだろ?」

「んー……そうかもしれないけど、これはおいしいよ?」

「そういうもんか?」

「そういうもんだよ。同じ料理でも、高いものの方が完全に上位互換って訳じゃないというか」

「そりゃ安い方は安いからな……って話ではなく?」

「流石にね」

 

 出流は柔らかく笑ってパフェからホイップクリームを一匙掬った。それを口に入れず、パフェの上で軽く上下に揺する。

 

「このホイップクリームは確かに、総合的には高いものの方が美味しい……ああいや、価値は高い、と思う。でも、このホイップクリームにだって、高級品には無い部分は必ずあるんだよ。高級品の方が味は繊細で複雑なんだけど、大雑把な味が好きな人だっている」

 

 出流はスプーンに載せたホイップクリームを口に含んだ。

 

「♪ ……結局、何を美味しいと感じるかは人それぞれだからね。僕は高いものの味も好きだし、こういう味も好きってだけ」

「庶民派ってヤツ? ……むぐ、んぐ」

 

 蒼はサンドイッチを口に放り込み、水で流し込む。コップに残った水には、蒼自身の顔が映り込んでいた。

 

「……人も、同じなのかね」

 

 自然と口から零れた疑問に、蒼は内心驚いていた。その疑問が、蒼の中のどういう感情から出たものなのかわからなかったから。

 

「だと思うよ? 蓼食う虫も好き好きって言うでしょ。どんな人にだって、その人にしかない魅力を見つけてくれる人がどこかに居るんじゃないかな」

 

 パフェを半分ほどにまで減らしながら答えた出流を、蒼は見つめる。もう片方のサンドイッチを頬張りながら。

 出流は蒼の視線の意味を考え、パフェを蒼の方へ少しスライドさせた。

 

「……一口いる?」

 

 蒼は危うく噎せ込みかけたがギリギリで堪え、慌ててサンドイッチを飲み下す。

 

「急に……! ったく、いらねっつの」

「でもさ、せっかく味の感じ方の話をした所なんだしさ、ほらスプーン」

「………」

 

 出流は未使用だったもう一本のスプーンの柄を摘んで蒼に渡そうとするが、蒼は受け取らない。業を煮やした出流は、そのスプーンでパフェを一口分すくい取り、蒼に向ける。

 

「はい、あーん」

「しねーよ!! 恥ずいわ!!」

「え、そう? アレの後だからかな、なんか平気」

「ックソ……調子狂うなホント……!」

 

 妙に心臓の強い出流に憤りと羞恥で赤面しながら怒る蒼だったが、いつまでもスプーンを蒼の方に向け続ける出流に、やがて折れた。

 

「あ、あ――………ん!」

 

 目を閉じ、口を大きく開けてスプーンごと噛み切る勢いで閉じる。ベーコンの塩気とマスタードの辛味が残っていた口内に、急にホイップと白玉の甘味が広がった。

 白玉の、柔らかくむっちりした食感とじわりと滲む甘さを味わい、蒼は訝しむような顔をした。

 

「美味しい?」

「……甘すぎ。ちょい苦手だな」

「あー……アオイ、甘いの苦手だっけ」

「そういや女になっても味覚の好みは変わらなかったな……」

 

 くすくすと笑う出流に何かやり返したくて、蒼は手に持っていたサンドイッチに目をやる。ちぎって分けられる程度にはまだ残っていたそれを蒼は二つに割り、口を付けていない方を出流に向けた。

 

「俺からも一口やるよ」

「良いの? ありがと」

 

 蒼が照れ隠しに突き出したBLTサンドを出流は素直に受け取ろうとするが、蒼は伸ばされた手からすいっ、とかわした。

 

「『はい上げた』?」

「ちげーよ! ……口開けろイズル」

 

 赤い頬を隠しもせず、蒼は心底照れくさそうに言う。出流は蒼のその姿に無性に嬉しさがこみ上げて、笑いながら口を開けた。

 

「ほい」

「あー、んむ」

 

 蒼の指に触れないように、出流はサンドイッチを口に含む。柔らかめのパンの間にはカリカリのベーコンと瑞々しいトマトスライス、歯ごたえの良いレタスとマスタードが挟まれていた。予定調和の旨味が溢れ出す。

 

「おいしいね」

「ふん。なんでこんなことやってんだよ全く……」

「なんだかんだ、お互いまだ冷静じゃないのかもね」

 

 『そうかもしれない』と蒼は思った。サンドイッチの最後の一欠片を飲み込み、テーブルに頬杖をついてため息をこぼす。

 

「恥かいたから休憩しに来てんのに、それでまた恥増やしてちゃ世話ねえな」

「確かに。……ふふっ」

「はははっ」

 

 二人は、可笑しくなって軽く笑う。蒼は、出流とこうして屈託なく笑うのが随分久しぶりだと感じていた。

 

(なんか、なんだろな。今思えばここ最近、イズルの前じゃあずっと気を張ってばっかだったな。イズルを好きにならないように、ならないようにって……。でも今は、自然とイズルと笑い合えてる。肩肘張らずに、もっと気を抜いても良いのかもな……)

 

 蒼の中に生まれかけていた、小さな心境の変化。あるいは心の余裕。それは、今の蒼にとって好ましいものだった。

 蒼はコップの水を飲み干して立ち上がる。出流もそれに続いた。

 

「帰るか」

「うん」

 


 

 蒼が心境の変化を覚えたとほぼ同じ頃、出流の中で一つ―――覚悟が、定まった。

 


 

 ショッピングモールを出て、二人は駅へ向う道を歩く。周りには同じくモール帰りの通行人がちらほらといた。

 蒼の白のワンピースは夕焼けに良く映え、銀の髪は茜陽射しを浴びて黄金に輝く。

 出流は隣の蒼に気付かれないよう呼吸を整える。道は選んだ。後はただ走るだけだった。

 

 街を突っ切る川沿いの道を行き、頃合いを見て車も通れる幅の橋を渡る……その最中で。

 

「アオイ」

「ん?」

 

 出流は、蒼を呼び停めた。蒼は出流の表情を見て、俄に気を引き締めた。

 

「どうしたよ、イズル」

「あ、えっと、その」

 

 言おうと、したのに。蒼の何かを待つような表情を見ると、出流の意思が揺らいで、顔が自然と俯いていく。こんなことは、初めてだった。

 

 出流は、昨日の夜から今再び、友の言葉を反芻する。

 

「アオイに、言いたいことが、ある」

「っ」

 

 蒼は出流との間に形成されつつある雰囲気を感じ取り、それを止めるかどうかを迷った。だが、迷う内に、先に出流の心が定まっていた。

 

「実は、僕―――」

「待っ」

 

 出流が顔を上げる。黒い髪房から覗いた紅の瞳が、銀の髪の下で煌めく紺の瞳と交わった。

 

 

「―――お見合いの話が、来てるんだ」

「……………、はい?」




ドキドキデート編、あと一話です。


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逢瀬(5)

ドキドキデート編、最終回です。


 蒼が内心の期待を含めて俄に感じていた予感とは全く異なる事態に、蒼の脳はついていけなかった。

 

「お見、合い?」

「うん」

「誰が?」

「僕が」

「誰と?」

「ええっと……お母さんの知り合いの娘さん、だって」

「…………」

 

 質問を繰り返し、少しずつ状況が飲み込めてきた。

 

(……つまり、出流はお見合いの話が来ている最中、俺とデートをしたってことになるよな?)

 

「なんで?」

 

 『なんで今になってお見合いを?』『なんでそれを今言った?』『じゃあなんで今日俺とデートした?』

 同時に頭に浮かんだ疑問を処理しきれず、蒼の口はその共通部分だけを言葉に変えた。

 三文字の言葉に込められた疑問の全てを出流が理解しているのかどうか、蒼には分からないことだが、ともかく出流は口を開いた。

 

「……お見合いの話が来たのは、三日前の事で」

 

 三日前、即ち出流からデートのお誘いが来た日。メッセージが届いた時間帯は遅かったため、出流はお見合いの話が来てから蒼を誘った事になる。

 

(………いや、まさか……無い。よ、な?)

 

 出流の行動の理由を考えた蒼の脳裏を過った最悪の想像。

 『アオイと別れる前に、思い出を作ってあげようと思って』。

 否定したいが、そうするにはここ最近の自分はあまりに出流に冷たかったように思えて、蒼は人知れず息を詰まらせる。

 

「どうしようか、本当に迷ったんだ。お母さんが家の為に頑張ってること、知ってるから、お母さんの力になりたい気持ちはあった。でも、それだけの理由で決めていい事とは、思えなくて」

 

 出流の勢いが、少しずつ萎んでいく。だが、蒼は思考がろくに回らず、立ち尽くすことしかできない。

 

「それに、アオイがどう思うかが気になって――」

「……!」

 

 自分の名が出たことで、蒼は自責の念から帰ってきた。出流は自分の事で精一杯なのか、蒼が一人で追い詰められていたことも、そこから戻ってきたことも気付いていないらしかった。

 

「いや、そうじゃない。僕が―――アオイとの付き合い方を、ずっと気にしてたんだ」

 

 山間に触れだした夕陽が照らす川面の上。空は徐々に紫紺に染まり、橋の上に留まる二人の影は橋の車道へと伸びる。

 

 出流が、顔を上げる。真正面から、蒼と同じ目線で。

 拳を握りしめ、定めた自らの道を、走り始めた。

 

「僕……アオイが女の子になってしばらく経ってさ。だんだん、僕の中でアオイを見る目が変わってくのが嫌だったんだ。アオイに、女の子を見ようとしてる僕が嫌で。友情が………別のものに、変わっていくのが……嫌だった」

 

(……俺と、同じだ)

 

 出流の葛藤は、今まさに蒼が抱く葛藤そのものだった。蒼は、黙して先を促す。出流がその葛藤とどう向き合ったのかが知りたかった。

 

「でも、アオイが教えてくれたんだ。『上っ面よりも大事なもの』。見た目に惑わされず、アオイっていう一人の人間を見る。それを意識したら、受け入れるのは簡単だった。だって、アオイは身体が変わっても心は変わってないんだから」

「っ……」

 

 出流は、無邪気に蒼の強さを信じている。蒼の目には、それは憧れを通り越して信仰にすら見えた。

 

(それは……)

 

「アオイの見た目については、それで良かったんだけど。今度はそんなアオイと僕はどう付き合っていくのかを考えなきゃならなかった」

 

(それで切り替えられちまうのかよ。ま、イズルはそういう奴だしな)

 

 蒼が今まさに悩んでいることを一言で片付けてしまったらしい出流に、蒼は内心自嘲混じりの笑みを零す。

 

「今日、アオイを誘ったのはその為なんだ。お見合いを受けるか、断るか。それを決める前に、僕はアオイとどんな関係になりたいと思ってるのかを知りたかったんだ」

「……で、分かったのか」

「うん」

 

 出流は、決然と言い放つ。その姿に、蒼の心臓がバクバクと嫌な感じに跳ねる。

 

 聞きたい。出流の結論を。

 ―――でも、もしそれが蒼の望むものでなかったら?

 

「ッ、……!」

 

 口を開けど緊張で喉が干上がり声が出ない。背中に脂汗が滲む。全身の血液を足から抜かれているかのように、血の気が失せて体が錆びついて動かない。

 

 張り付いた喉に力を込める。裂けて血を吐いても構わない勢いで、ようやく蒼は声を発そうとして。

 

「――――ァ、?」

 

 力んでバランスを崩した身体が、ふらりと前に崩れていく。蒼自身にも前兆の感じられなかった眩みを出流が予想できるはずもなく―――しかし。

 

 

「っと」

 

 

 出流は、素早く動いて蒼を抱き留めた。いつかの、性転換翌日の登校時ように。

 

「アオイ、大丈―――ッ」

 

 蒼の無事を確認しようとした出流の言葉が止まった。蒼の顎が乗った肩に感じる、服越しに濡れる感触。触れた瞬間だけ温かく感じたその液体の正体を、出流はすぐに察した。

 それが、蒼のどんな感情から出たものなのかまでは、出流にはわからない。この話は続けないほうが良いのかもしれないとも思う。だが、ここまで話したのなら、最後まで行くべきだと判断した。

 

「アオイ、このまま聞いてくれる?」

「………」

 

 蒼からの答えはない。しかし触れた部分から直接伝わる、頭を縦に振る動き。出流にしがみつくように、服の背中側が二つの手で掴まれる。

 出流は、愛おしむように蒼の背に腕を回し―――生唾を飲み込んで、深く息を吸った。

 

「お見合いは、断るよ」

「……え?」

 

 蒼の反応を無視して、出流は続ける。構う余裕がない。全部、言い切ってしまいたかった。

 

 

「だって僕、アオイのことが大好きだから。一人の人間として、それと――()()()()()()()

「………ぁ」

 

 

 小さく漏れたような声が、出流の耳元で聞こえる。出流は今一度、腹に力を込める。

 

「僕が、ずっといっしょにいる相手を選ぶなら、それは――アオイ以外には、ありえない。今日一日過ごして、それが……わかったんだ」

 

 囁きかけるような、唱えるような、凛とした出流の声。聞き間違える余地も無く、全てが蒼の頭に染み込んでいく。

 

「………」

「………」

 

 耳に痛い沈黙。

 出流は、蒼をデートに誘おうとしたあの日、メッセージの返事が中々返ってこなかった時のことを思い出した。

 急かしたくはないが、返事が聞きたい。出流は唇を震わせた。

 

「アオイ……その、ど、どうか、な」

「………少し、待ってくれ」

 

 蒼に言われるまま、抱き合った姿勢で少し待つ。今更ながら抱き合っている事を自覚した出流の顔が首から額へ赤く染まっていく。完全に頭が茹だった辺りでようやく蒼は身体を離した。

 ありがたくも名残惜しい感覚が失われ、出流は少し惚ける。

 

「イズル」

「! な、なに?」

「……ぷふっ」

 

 挙動不審に慌ただしく身なりを正す出流を見て、蒼は吹き出した。

 出流の顔が更に熱くなった。

 

「わ、笑うことないじゃん……」

「悪い悪い。っつかイズル、フッツーに大分ヤバいこと言ってたんだけど…気付いてるか?」

「えっ。そ、そう……なの?」

「ああ。()()()()()()()()()ドン引きされてても文句言えなかったぞ?」

「う、わ。そんな…………え?」

 

 自分の発言がヤバいらしいと言われてショックを受けた出流だったが、あまりにも聴き逃がせない一言が聞こえて顔を上げる。

 蒼は顔を横に向け、長くしなやかな銀髪を持ち上げ、頬に当てて隠していた。

 

「『俺も』……『好きじゃなきゃ』って、言った……?」

「……二度は言わねえ」

「~~~~~ッ!」

 

 奥底から沸き上がるような喜びに出流の全身が震える。じっとしていられなくて蒼の手を取った。持ち上げていた髪が重力に屈し、耳まで真っ赤な顔が顕になる。

 

「アオイ、アオイアオイアオイっ!!」

「う、うっせえなあ! 連呼すんなよ恥ずかしい!!」

「ホントに!? ホントなの!? 嘘じゃないよねっ!?」

「こんなことで嘘なんか吐かねーよ! いいから手離せって!!」

「あ、ご、ごめん……で、でも嬉しくて、我慢できなくて……!」

「気持ちは、まあ。わかるけどよ……つーか、俺が同じ気持ちじゃなきゃどうするつもりだったんだよ。殆どプロポーズだろあんなん……」

「ええと……アオイに好きになってもらえるように努力するつもり……でした」

「……お前は本当にさあ」

 

 蒼は「はーっ」とため息を吐きながら、照れくささからガリガリと頭を掻く。出流は嬉しさを堪えきれずじたじたと足を踏み鳴らす。

 二人の抑えきれない感情が落ち着く頃には、日は殆ど沈み、夜の闇が町を覆い始めていた。

 

 互いの気持ちは伝え合えた。ならば、言うべきことがあるはずだ。

 

「アオイ」

「ん?」

 

 出流は今一度身体に決意を漲らせ、両手でそっと、蒼の手を片方取る。

 

 

「僕と――付き合ってくれる?」

 

 

 蒼は最初ぽかんと間の抜けた顔をして。

 次にぱたぱたと左右を見回し。

 上を見上げて空いた手で顔を扇ぎ。

 少しだけ、寂しそうな表情を浮かべた後。

 

「……よろしく、おねがいします」

 

 唇を尖らせながら、消え入りそうな声量でそう言った。




ドキドキデート編、完結!
互いの気持ちを伝え合った!二人の交際も始まった!
ハッピーエンド、ヨシ!(現場猫)




本日18:00、次話を投稿します。


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接続話

どうしてまだ話が続くんですか?(電話猫)

今日は12時にも投稿しているので、まだの方はそちらからどうぞ。


 帰りの電車の中で並んで座る二人は、乗ってから降りるまで完全に無言だった。パッと見は行きより仲が悪くなったのかと思われそうなものだが、二人の間で重ねられた手が静かに全てを物語る。

 言葉が無くとも、蒼は自分の右手に乗った左手から、出流は自分の左手で包み込んだ右手から伝わるものがあった。

 

 地元の駅に着いた二人は、出流が呼んだ黒くて胴体の長い高級車に乗り込み、大通りを通って出流の家に向かう。

 出流の家の前で停車した車から降りる頃には、町はすっかり夜になっていた。

 

「家まで送らなくて大丈夫?」

「流石に徒歩数分を送られるのはなあ。それに、イズルはやることがあるだろ?」

「うん。わかってる。絶対にお母さんを説得してみせるから」

 

 蒼は八重の人となりを知っているし、()()流代が愛し慕う相手であることも知っている。であるならば、説得は一筋縄ではいかないだろうことは想像に難くなかった。

 蒼には、八重の説得と流代の説得のどちらが難しいのか判断がつかないくらいだった。

 

「……がんばれよ」

「うん。また明日」

「おう。また明日」

 

 出流に向け緩く手を振ってから、蒼は踵を返し家路を歩き始めた。

 

 


 

 

 点在する街頭が、頼りない光を足下に向ける夜道。近くの川辺からやってきたのか、鈴虫の鳴き声は涼やかだ。太陽の代わりに上った満月は叢雲に隠れ、湿った風が塀に挟まれた道を駆け抜けた。

 

「う、ちょっと寒いな」

 

 蒼は肌寒さに身を震わせる。独り言を聞き咎めるような通行人は一人もおらず、この風さえ無ければ鼻歌を歌いながらスキップでもしたくなるような、解放的な気分になれそうな夜だった。

 

 だが、たとえ冷ややかな風が無かろうと、蒼はそんな気分にはなれなかっただろう。

 

(……イズルは、俺の事を大好きって言ってくれた)

 

 『大好き』。その言葉を反芻する度、口元がつい綻んでしまう。嬉しさが無制限にこみ上げる。

 

(イズルが……俺の事、異性として見てくれてるんなら、俺も……もう、良いよな?)

 

 蒼は、今まで抑え込もうとしていた『女』を受け入れ始めていた。それは取りも直さず、自分の出流への好意を受け入れることに他ならない。

 ここ暫く悩んでいた問題が解消される。好ましい事―――の、はずだった。

 

(でも、俺はイズルに俺の弱さを隠し続けている。知られれば、イズルに嫌われるかもしれない部分を、隠したままなんだ)

 

 蒼は、出流に己を強く見せ続けている事に、負い目を感じ始めていた。出流は、元より蒼に自分を隠さず見せてくれる。素の出流で蒼に向き合ってくれている。

 だが、今の蒼は『かつての自分』の仮面を被ったままだ。この仮面を外した時、出流の自分を見る目がどうなるのかが、蒼には分からない。

 分からない事が、怖い。

 手にしたものを喪うことが、今の蒼には何よりも恐ろしい。身勝手な恐怖を抱いていることそのものが、更に蒼を責め立てる。

 

(そんな俺が、イズルの好意を受け取っても良いのか? イズルと――付き合って、良いのか?)

 

 蒼は、楽しかった今日と、不安を抱えた今と、どうなるかわからない明日に複雑な心地のまま、塀に囲まれた信号のない交差点に差し掛かった。

 カーブミラーに映る光が、ブロック塀の向こうから差し込む光が。交差点に向かってくる車の接近を知らせる。

 蒼は時間帯が時間帯なので、万が一を避けるべく交差点の手間で立ち止まった。

 

 

 

 交差点に侵入した白いボックス車が、交差点のど真ん中で停止する。

 まるで―――()()()()()()()()()()()()

 

 

 街灯が、バチバチと明滅した。




予告

互いの想い打ち明けて、伝わる二人の恋心。

このまま進めば手と手を取り合い、幸せを分かち合う道を歩んでいくのだろう。

それは、どこに出しても恥ずかしくない、立派で素敵なハッピーエンドだ。


―――『本当に? これで終わりじゃ勿体なくない?』


運命を編む手は(わら)いながら、因縁の糸を摘み上げた。
手慰みの悪戯は、小さな事件の幕開けを告げる。


強く逞しい『男』の身体が、弱く可憐な『女』の身体に。
蒼は未だ、その意味を真に理解してはいなかった。


アオイとイズル:最終編
『First Pain』
心焦がすは性の渇望、心繋ぐは友の絆。


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First Pain(1)

筆がバチバチに乗っちゃった勢いで投稿です。


 出流がお見合いの件を切り出したのは家に帰って四十分後、夕食を終えた後のこと。

 楕円形のダイニングテーブルの片側に座る出流。その向かい側に並んだ母と父。流代は食後のワインを口に含み少し上機嫌で、八重は丁度食べ終わり皿を片付けさせていた頃合いだった。

 

 出流は静かに機を伺っていた。自分の我儘を通すには、少しでも二人の機嫌の良いタイミングで切り出すべきと考えたからだ。

 

 出流にとって父と母はどちらも尊敬する相手である。その意に反することをこれから言わなければならないことに、出流は多大なプレッシャーを感じていた。

 だが、言わねばならない。蒼と今後の人生を歩むのならば、両親の説得は必要不可欠。駆け落ちという手段も考えなくは無かったが、短絡的・衝動的だと切って捨てた。蒼と歩む未来を盤石なものにするためには、この家は絶対に手放せない。

 

 出流は、下げられる皿に向けていた視線を母へと向け直す。

 腹は決まった。

 

「お、お母さん」

 

 出流は震える声で話を切り出す。

 

「なあに?」

「その、お見合いの件……なんだけど」

「もう決めたの? 急がなくてもいいのに」

 

 八重は出流が答えを急いだのかと心配げな顔をした。流代は空になったワイングラスを置き、音を立てずにその場を離れようとして。

 

「あなたも聞きましょうね?」

「む………」

 

 目線一つ向けないまま言い放った妻の言葉に従い、座り直した。

 

「それで、出流はどうしたいの?」

 

 出流は、テーブルの下で静かに拳を握りしめた。

 

「お見合いは……断らせてほしい」

「……あら」

 

 八重は朱い瞳をわずかに細める。ただそれだけで、出流が感じるプレッシャーは何倍にも膨れ上がった。正座したまま頭を地面に押さえつけられているかのような強烈な重圧感に、出流の心臓が悲鳴を上げる。

 

「どうして?」

 

 責めるのではない、純粋な疑問の言葉。頭ではそうだと分かっているが、心が勝手に生み出す重圧感は出流に息苦しさを覚えさせていた。

 出流は、心の中で蒼を想起する。蒼の言葉を想起する。

 

 熾火のような勇気が生まれた。

 

「そのっ、好きな人が、できたんだ。交際するなら……結婚するなら、その人だけでっ。だから」

「蒼くん――ああ、もう蒼ちゃんね。あの子のこと?」

「!」

 

 図星を突かれた出流が言葉につまる。八重は悩ましげに頬に手を当てた。

 

「出流の気持ちは尊重したいけど……結婚となると、うーん」

「な、なんで……? アオイは、悪い人じゃないよ? 僕を助けてくれたよ!?」

「それは知ってる。付き合うだけなら全然おっけーなんだけど……」

 

 八重は、座りを正して出流に向き合う。出流は母の静謐な雰囲気に気圧されて空唾を飲んだ。

 

「いい? 出流。結婚は、家と家の結びつきなの。当人同士の気持ちは確かに大事。だけど、それ以上の意味が夫婦の契りにはある」

「……そんなの、昔の考え方じゃ――」

「ええ、今は殆ど廃れた考え方ね。でも、私達みたいな旧家にとってはそうじゃないの。市井の一般人との婚約なんて、簡単に認められることじゃない」

「でもお父さんは――!」

「ええ、お父さんは家柄自体は一般人。でもその才覚で私達の歴史にも引けを取らないほどの価値を手にした。だから、うちの親戚達もお祖父様も、お父さんを認めたの」

 

 流代はワイングラスに注がれた水をちびちびと飲みながら露骨に目を背けた。外では飛ぶ鳥を落とす勢いを誇るIT企業の創始者も、家では妻子との付き合い方に悩む一人の父親でしかないらしい。

 

「蒼ちゃんが良い子なのは私も知ってる。出流と同じ高校行くためにとっても頑張ってたし、それで合格できる実力もある。その上見た目まで可愛くて綺麗になっちゃったら、出流が惹かれるのも納得ね」

「あ、えと、み、見た目は重要じゃないっていうか……」

 

 母にルックスの話を出されると出流は反応に困った。蒼の容姿を褒める目の前の女性は、曰くもう40歳であるはずなのに外見はどこから見ても20代前半にしか見えないからだ。

 

「でも、蒼ちゃん自身にお父さん程の実績はない。五十右というお家にも、無い。敢えて悪い言い方をするけど――付き合う旨味が無いの」

「――ッ!」

 

 母の無慈悲な言葉に出流の怒りが突沸する。椅子を蹴立てて怒りに任せ、声を張り上げようとしたが、八重の冷たい瞳に射竦められた。

 頭から冷水を被ったかのように、怒りが霧散して―――()()()()()しまった。

 

「出流、意地悪で言ってる訳じゃないの。私達みたいな資産と歴史のある家に取り入ろうとする輩は、探すまでもなくごまんといる。特にこの家は傍流だから、手を出しやすいなんて思ってる者もいるでしょう。だからこそ、私たちは付き合う相手を――腕の中に迎え入れる相手を選別しなくてはならないの。家を守るため。使用人達を守るため。私は、そうやってこの家を守ってきた」

 

 静かに、しかし大きな自負を背に述べる八重に、出流は言葉が返せない。

 

「蒼ちゃんは、本当に良い娘。でも、蒼ちゃんのご家族は? 親戚は? 蒼ちゃんを利用して甘い汁を啜ろうなんて目論んでいる人が一人も居ないって言える?」

「…………」

「家が人なら私は免疫。病気から守るために私は正しく防疫する。蒼ちゃんは、家を危険に晒すリスクを負ってでも迎え入れるべき相手?」

 

 言葉のハンマーで頭を殴られた出流は、テーブルに手を突いたままぐらりと揺れた。そのままテーブルの上に倒れ込みそうになる。

 だが、

 

「お母さんの言う通りだ。アオイはともかく、アオイの家族や親戚のことまでは、僕は知らない」

(………でも)

 

 出流は肘に力を込めて上半身を支える。ぎゅっと瞼を閉じると、白いテーブルクロスにポタポタと雫が垂れた。

 

 

(――それでも、僕はアオイと一緒にいたい)

 

 

 出流の覚悟は、最初から変わらない。目的が明確なら、あとはそこへ向かって突き進むだけだ。腕で乱暴に目元を拭い、バッと勢いよく顔を上げる。

 

「知らないなら、調べればいい。アオイの事も、アオイの家族も親戚も、全員調べてそんな人がいないって証明できれば、良いんだよね?」

 

 八重は一瞬、目を見開き。

 目の前にいる出流も気付かないほどに一瞬―――口元を綻ばせ。

 すぐに、鉄面皮を被り直した。

 

「結婚までに調べられたとしても、私達と付き合う中で邪な考えに目覚める者だっている。喪う物が少ない人ほど、安易な誘惑に流されやすい。確かな社会的地位のある人こそ、出流の結婚相手には相応しいの」

「そんな起きるかどうかもわからないこと、気にしだしたらキリがないよ。もし危ない兆候があるのなら、お母さんに代わって僕が守る!」

 

 会話というよりも議論と表現したほうが正しいような親子の舌戦。八重の投げかける疑問に出流が返し、逆に出流が指摘した八重の発言の穴を八重はすかさず塞ぐ。

 

 ダイニングテーブルを挟んで繰り広げられた即席のディスカッションは、八重の一言で風向きが変わった。

 

 

「ふう。――ねえ。お父さんはどう思う?」

「……私かい?」

「……っ!」

 

 

 八重は流代に水を向ける。流代は少し困惑する表情を浮かべ、出流は戦慄を覚えた。

 父は、母を慕っている。今、おそらく拮抗しているであろうこの状態。父が母に付いたのなら、出流の旗色は一気に悪くなる。ここまでの戦いで八重はまだ隙のある発言をしているが、流代にそれはないだろう。

 流代の言葉に簡単に丸め込まれた、蒼の姿が脳裏に蘇る。

 

 流代が何も言わず出流を見る。出流も、口を引き結んで流代を見つめ返した。

 数秒間の沈黙が、ダイニングに広がる。

 

(お願いお父さん。僕についてとは言わない、せめて中立で……!)

 

 祈る出流をよそに僅かに顔を俯けた流代は、口の中だけで小さく呟く。

 

(―――()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 流代は顔を上げ直し、隣の八重に自然な笑顔を向けた。

 

「八重さん、私は――出流の好きにさせてあげたいと思うよ」

「!?」

 

 出流は驚きに目を見開く。祈ってこそいたが、父は母を選ぶと思っていたから。

 

「あなたは、出流の方につくの?」

「ははは、できれば八重さんに味方してあげたかったんだけどね。これだけはそうもいかないんだ」

「そう………そうなの」

 

 困ったように頭をかく流代を見て、八重は一度目を伏せ―――けろりとした笑顔を浮かべた。

 

「じゃあ決まりね。お相手には断りの連絡を入れなくっちゃね」

「えっ?」

 

 信じがたいほどあっさりと意見を引っ込めた母の姿に、出流は内心つんのめりそうになった。八重はきょとんとした顔を出流に向ける。

 

「? どうしたの出流」

「え、だって、その。そんなすぐ認める……の?」

「それはもう。多数決で一対二って結果が出たんだもの。しょうがないでしょう?」

「えっ、ええ……?」

 

(あ、あれだけ熱量挙げて反対してたのに……?)

 

 出流は内心やるせない気持ちになったがしかし、蒼が認められたのは事実だ。その事を認識し、あの母に意見を通したという確かな手応えに喜びを覚え、出流はガッツポーズを取った。

 

「ふふっ。そうと決まれば式場やプランを考えなくっちゃ。蒼ちゃんは和式と洋式、どっちの挙式が好きなのかしら!」

「八重さん八重さん、気が早すぎるよ。年単位で先のことだからね?」

「あ、あら。そういえば……そうね?」

 

 天然で突拍子もないことを言い出す八重、それを嗜める流代。さっきまでの緊迫した空気が弛緩し、いつもの我が家が帰ってきた。

 出流は安堵の深い息を吐いて席を立つ。

 

(早く部屋に戻ってアオイに知らせなきゃ。『ちゃんと認められたよ』って……!)

 

 廊下への扉に向かいながらポケットのスマホの画面を点けた出流は、おかしなものを目にして足が止まる。

 

 

 数分前の不在着信。蒼の家から掛かってきたものだった。

 

 

 蒼がかけてくるのなら、蒼のスマホからかかってくるはず。電池切れか、あるいは家族から掛けてきたのか。

 不思議に思いながら出流は折り返しの電話を掛ける。1コール目ですぐにつながった。

 

『出流ちゃん? 今どこにいるの?』

 

 蒼の母、篠江のものだった。

 

「えっ、普通に僕の家ですけど」

『あ、そうなの。蒼はそっちにいる?』

「? ……アオイとは家の前で別れたので……もう、帰っている、ハズ……」

『………』

 

 電話越しに、不安の感情が伝わってくるようだった。

 

『……蒼、まだ帰ってきてないの。メッセージ送っても既読もつかないし……』

「――!?」

 

 出流の家と蒼の家の間は公園すら無い住宅街。寄り道するような場所が無いにも拘わらず、四十分以上経っても帰っていない。

 出流の中で、急速に恐怖が膨らんでいく。

 

『ま、まあ。どっかで適当にブラついてるのかもね! ホラ、うちの子やんちゃだったから』

 

 励ますような篠江の声音。出流は自分からも蒼にメッセージを送ろうとして気付いた。

 通常の通話とは別で、メッセージアプリ上での通話の着信。相手は―――蒼。

 

「い、今アオイから電話掛かってきました! すみませんが一度切ります!」

『わ、わかっ――』

 

 出流は焦燥に駆られて返事を待たずに通話を切り、メッセージアプリからの通話に応答する。

慌ててスマホを取り落としそうになりながら耳に当てた。

 

「アオイ!? 今どこ――」

『イェーイ佐倉クン久しぶりぃ~!』

 

 

 それは、軽々しく、薄っぺらく。

 

 

 ―――()()()()()()()()()()()だった。




ウェーイオタクくん見てる~??


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First Pain(2)

今回少々アレな表現がありますが、ヘイトコントロール以上の意味は無いので無理そうなら読み飛ばしても一応大丈夫です。


 ―――時は遡る。

 

 閑静な住宅街の交差点に差し掛かった蒼の前に停まった一台の白いボックス車。

 道が塞がれた蒼は、退いてもらうのも面倒だから遠回りしようと踵を返した―――その時。

 

「よう、五十右」

「!?」

 

 振り返った蒼の数メートル先の街灯の下に立つ、蒼と同年代の男が一人。出流より高く、がっしりした体はかつての自分を思い起こさせる。だが、耳に開けたピアスや金のツーブロックヘア、リストバンドやネックレス等々の小物からは、チャラいオーラがこれでもかと漂っていた。

 当然、そんな知り合いは蒼にはいない。気さくに挨拶される筋合いもない。

 

「誰だよ、お前」

 

 蒼は警戒心を顕にした声で尋ねた。男は肩をすくめ、わざとらしくおどけてみせた。

 

「おいおい……お前は忘れてるかも知れねえけど、俺は忘れちゃいねえんだぜ? ―――お前に顔面ぶん殴られた時の事はな」

 

 怒気の滲む声。恨みがましい視線。それを見て蒼は思い出した。

 

「お前……四年前イズルを苛めてた奴か!」

白波瀬(しらはせ)な。ま、忘れてても無理はねーよ。あれっきりだもんな」

 

 蒼は神経を張り詰め、目の前の相手の挙動を注視する。四年も前の恨みを今更蒸し返すような輩だ、何をしてくるか分からない。

 

「お前がいつも佐倉にベッタリのせいで、俺達はアイツを諦めざるを得なかった。でもよ、俺も聞いた時は信じられなかったし驚いたぜ」

 

 だから、か。蒼の意識からは、背後にある白いボックス車の存在が消えていた。

 その後部座席のスライド扉が、そろりと開いていく事にも気付かない程に。

 

 

「まさかあの五十右が――()()()()()()()()()()()()()()!!」

 

 

 その言葉と共に白波瀬は前へ、蒼の方へ駆け出す。その一事に認識が吸い寄せられていた蒼は、背後から飛び出した二人の男に気付かなかった。

 

「っな――むぐッ!?」

 

 四本の手が、蒼の口を、両腕を、腰を押さえつける。素早く手が後ろに回されたかと思えばカシャンと音が聞こえてくる。手の拘束が無くなったかと思って両腕を前に戻そうとすると、鎖の鳴る金属音と共に可動域が制限された。

 

(手錠!?)

「はーい一名様ごあんなーい」

 

 間の抜けた声と共に蒼は後方に引きずられ、ボックス車の中に押し込まれる。布を手で押さえただけだった口封じは、頭の後ろで固定された棒を噛まされ本格的なものに変わる。足をバタつかせて暴れるようとするも簡単に取り押さえられ、足首を縄で纏められて四肢が完全に封印された。

 最後に黒い布で目元を覆われ、視界すら奪われる。

 

 蒼は既に、まな板の上の鯉同然だった。

 

 蒼を挟むように男二人が後部座席に乗り込む。運転席にも誰か乗ったのか、ドアが閉まる音が聞こえた。

 

「っしゃ完璧ィ! んじゃちゃっちゃとズラかんぞ!」

 

 前から聞こえる白波瀬の声と共に、エンジンの始動音が耳に届く。車は滑らかに発進し、現場を後にする。

 目隠しに口枷、四肢を手錠と縄で拘束された犯罪チック――明確な犯罪そのものだが――な格好で車内に載せられた蒼は、乗り物酔いを堪えながらただ為す術なく運ばれていく。

 

 

 ―――こうして、わずか数十秒の間に、蒼の足取りは途絶えることとなった。

 

 


 

 

 車の中はまるで全部が終わった後かのような、浮かれた戦勝ムードに包まれていた。

 

「いやぁ、拍子抜けだなあ! こんな簡単でいいのって感じ!」

「気を抜くなよ。ここからが本番なんだろ?」

「そーだぜサンちゃん。ケーサツ呼ばれる前に全部終わらせなきゃなんだからよ」

「うっす! 本官気ィ張ります!」

「「ギャハハハハハ!」」

 

 車内で反響して四方から聞こえてくる品のない笑い声が、蒼の神経を逆撫でする。こんな連中に良いようにされている悔しさは歯噛みしたいほどだったが、噛まされた棒はびくともせず、分泌された唾液が口の端が垂れ落ちるばかりだった。

 

「五十右ちゃん涎垂れてまちゅよ~?」

「ハハハ怖がっちゃったかなぁ? ゲン、サン。お綺麗にしてやれ?」

「えーやだよ汚えもん」

「俺も」

「「ハッハハハハ!」」

 

 一体こんな会話の何が楽しいのか。蒼の誘拐をあっさり達成したのがそれだけ愉快なのだろう。蒼は周りの男共と、無警戒だった自分の迂闊に腸が煮えくり返る思いだった。

 

 車は何処かへと向かう。視界を塞がれた蒼には現在地も目的地もわかるはずもなく、無力感からくる屈辱と怒りに震えたが、視界を奪われた状態の車酔いが酷く程なくして意識を失った。

 

 


 

「――かれたぁ。女でも寝てる奴って重いんだね」

「ま、お陰で楽に拘束し直せたからトントンだな」

 

 蒼は、男たちの会話に目を覚ました。目隠しと口枷はいつの間にか取り外され、瞼を開ければ月の光が照らす空間が見えた。

 

 そこは、廃工場の事務室らしき場所だった。

 

 蒼から見て左手側の壁にくっつけて並んだ業務用デスクの上には、作業の途中でほっぽり出されたのかプラスチックの部品らしきものが小さく積まれていた。その反対側、右手側の壁はカーテンで隠れているが、その隙間から人の背丈より高く積まれた段ボールが覗き見る事が出来た。

 蒼の真反対に位置する出入り口の向こうには錆付いた機械が並び、工具らしきものがそこらに散乱している。

 

 その空間にいるのは、冷たい床に座らされている蒼と、キャスターと背もたれがあるだけの安物の椅子に腰を下ろした、白波瀬を含む三人の男だった。男たちは蒼が目覚めたのに気付いたのか、会話を止めて蒼を見る。

 

「おはよう、五十右ちゃん? 気分はどうかな?」

 

 人を小馬鹿にした、実に腹の立つ声だった。

 

「……最悪だな。女のエスコートってもんがまるでなっちゃいねえ。雁首揃えてモテなさそうな面してやがるし当然か?」

「はァ? お前は見た目が女なだけで男だろうがよ。女ヅラすんな気色悪ィ」

 

 蒼と白波瀬の間で火花が散る。だが今現在においての立場の違いは絶望的なまでに歴然だ。むしろ、この状況で白波瀬を煽りにかかれる蒼の方が異常と言えるだろう。

 

「にしてもまあ、本当に面影まるでねえな。あの厳つい顔と身体してた五十右が、こんな小娘になっちまうとは……人体の神秘って奴?」

「……それについては同感だがな。で? 俺を攫ってどうしようってんだ」

「いやあ、今俺達金欠でさあ。佐倉(トモダチ)にお金借りようと思ってよお? そんな時に鬱陶しい金魚のフンがカモネギになってるって話聞いちまったもんだからさあ……そりゃあ、利用するしかねえよなあ?」

 

 白波瀬の言葉はどこまでも軽い。誘拐も恐喝も、この男にとっては大した事ではない。犯罪の重みを知らず、想像する力もない。善悪の区別なく、ただ思いついたままに行動する無軌道な暴走車両。それが、白波瀬という男だ。

 少なくとも四年前に一度見た限りでは、ここまでする奴には見えなかった。四年間という歳月は、まだ年相応の小悪党だったものをここまでのモンスターに変え得るのだろうか。

 

「俺が女になった事、どこで知ったんだよ」

「俺達のネットワークを甘く見るなよ? どんな学校にだって、ガラの悪い奴は一定数居るもんだ。学校を跨いだ横同士の繋がりは、お前が思っているよりずっと色んな情報をくれるもんさ」

「なるほどね、よーく分かった。でもな、その金魚のフン相手にイズルが大金出すと思うか? それに、仮に金引っ張れたとしても、後で纏めて警察に捕まって終わりだろうが。こんな大事起こした時点で詰みなんだよお前らは」

「『仮に』、ねえ? ククッククク……!」

 

 白波瀬は腹を抱えて笑いを堪える。その態度を蒼が訝しんでいると、取り巻きの帽子男が画面の点いたスマホを手に近づいてくる。

 

「俺は直接見てねえんだけどさ、ゲンの奴が写真送ってきてくれたんだけどよぉ――」

 液晶に映し出されているそれは。

 

「ッ!」

「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!?」

 

 

 蒼と出流が、橋の上で抱き合った場面の写真。

 

 

(コイツらに、見られていた―――!?)

 

「いやあ佐倉クンの告白は感動モノだったんだろ!? なんて言ってたんだっけ? 言ってやれよゲン!」

「『だって僕、アオイのことが大好きだから。一人の人間として、それと――女の子としても』だってさ」

「ぶァッハハハハハハハハハ!!! いやダメだって笑う笑い死ぬわ! お前ら今どきこんな青春ドラマみてーな恋愛しちゃって恥ずかしくねェーのかよ!?」

「ッ……! ぐ……っ!!」

 

 取り巻きの男が淡々とした述べ上げに、白波瀬はもう堪えきれないとばかりに笑い出す。

 出流の一世一代の告白を見られ、写真に撮られ、剰え嘲笑われる。蒼にとって、これ以上無い屈辱だった。

 

「フハッフハハッ……! で、でも良かったじゃねーか……! 五十右チャンが告白ッ……OKして……ッ! 付き、付き合いッ、始め……アッハッハッハやっぱムリ耐えらんねーって!!」

 

 ツボに入ったのか身体を折り曲げて笑い続ける白波瀬。蒼は『いっそそのまま笑い死んでしまえ』と思いながら恥辱に耐えた。

 笑いすぎて涙すら浮かべた白波瀬はひとしきり笑った後、指で目元を拭った。

 

「あー疲れた……。まあとにかく、お優しーい佐倉クンの事だから、お前を使えばどうとでも言う事聞かせられるだろ? 何百万……いや一千万くらい引っ張れるんじゃねーか? そしたら俺達はもうパラダイスだろ!」

「だったら、とっとと電話でも何でもかけりゃあ良いじゃねえか。なんでそうしない?」

「ハハハ、これでも色々と考えてるんだよ。お前には教えてやらねーけどな」

 

 話は終わったとばかりに白波瀬は席を立つ。ここまで会話に参加していない小太りの男がその後に続いた。

 

「っし、じゃあ適当に飯でも食ってくるか。ゲン、お前が見張りで良いんだよな?」

「……ああ。戻ってくる時にパンでも買ってきてくれ」

 

 二人分の姿が消え、蒼はゲンと呼ばれた帽子男と二人だけになる。

 二人がいつ戻るとも知れず、拘束された体は満足に動かない。

 この状況で蒼は―――。

 

 


 

 

 およそ三十分後。

 食事から戻り、蒼の手荷物からスマホを取り出した白波瀬は、意気揚々と出流宛に電話を掛ける。

 

 それは、すぐにつながった。

 

『アオイ!? 今どこ――』

「イェーイ佐倉クン久しぶりぃ~!」




投稿者は決して蒼ちゃんをいじめて楽しんでいるわけではなく、「悲劇と苦痛・絶望を経てこそ、その後に来る喜びが際立つ」という思想に準じているだけなのです。
なのでちゃんとハッピーエンドまで書きます。


……ハッピーエンドの定義は、人それぞれですよね?


登場人物紹介
過去編に登場した小悪党三人組が、悪党になって帰ってきたぞ!
白波瀬(しらはせ) 大地(だいち)(ダイ):チャラ男でゲスの主犯格。
安発(あわ) 三郎(さぶろう)(サン):小太りのお調子者。身長は一番高い
中嵜(なかさき) (はじめ)(ゲン):冷静気味で小柄な帽子男。目つきが悪い

なお、彼らは今のところ蒼の事を「女の身体になって女のフリしてる気色悪い男」だと思っているので()()()()目では見てないぞ! 安心だね!

次回は28日(金)の12時に投稿予定です。
一日前倒しして、27日(木)の12時に投稿します。


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First Pain(3)

不穏で陰鬱な展開に疲れた所へ巻き返しのシーンをひとつまみ。
出流視点です。


 出流は、隠しきれない警戒心の滲む声で誰何する。

 

「……あなたは、誰? どうして、アオイの携帯から電話を掛けているの?」

 

 通話の向こう側からは、それはもう愉しげな声が返ってきた。

 

『まったく、五十右と言い佐倉と言い、俺の事を忘れちまうなんて心外だなあ。特に佐倉は酷いなあ。トモダチとして、散々良くしてやったのによ?』

「!!」

 

 その言葉に、出流の記憶のピースがカチリと嵌る。

 

「白波瀬、くん……!?」

『おっ、よく覚えてたな! 大正解だ!』

「どうしてアオイの携帯を、白波瀬くんが持ってるの!? アオイはそこに居るの!?」

 

 出流は、焦りに満ちた声で怒鳴りかける。流代は息子のただならぬ様子にやおら立ち上がった。

 

『まあそう矢継ぎ早に聞くなよ。一つ一つ答えてやっからさ。まず五十右の携帯を俺が持ってるのは、五十右が快ぉく貸してくれたからさ。佐倉に連絡がしたいって言ったら、気前よく貸してくれたぞ?』

「……っ!」

 

 この時点で出流は、蒼は何らかの形で白波瀬に脅されているのだと理解した。

 

『次に、五十右はここにいるぜ? まあちょっと手首に素敵なリストバンドを着けて貰っちゃあいるが、な』

「!!」

『――なあ佐倉。金、貸してくんね? 俺達今、超金欠でさあ……昔の好でな? 頼むよお』

 

 出流は歯噛みする。いけしゃあしゃあと頼むなんて言いながら、これは紛れもない脅迫だ。蒼の身柄を押さえ、身代金を要求してきているのは明白だった。

 

「………いくら、欲しいの」

『へへっ、話が早くて助かるわ。まあそうだなあ……ざっと五百万ってとこかな? 嫌ってんならしょうがねえ。お前の大好きな恋人とは、二度と会えねえだろうな』

「ッ……!」

『なあに、ガキでもできるお使いだよ。俺の指示する場所に、指定の金を置くだけ。簡単だろ? ああ、もちろんサツにチクろうなんて考えるなよ? その時は断られたと判断するからな』

 

 気安く大金を要求する白波瀬の態度が腹に据えかねるのは勿論だが、出流の心を占めるのは怒りよりも後悔だった。

 

(どうして僕はアオイを家まで送らなかったんだ……! お母さんと話なんていつでも出来るのに! アオイが女の子になることがどういう事か、全然考えが足りてなかった……!)

 

 悔しさに握りこんだ拳が、ギチリと音を立てる。後悔先に立たずとはこの事だった。

 

『さあどうする佐倉。つっても答えは一つしかねーと思うがなぁ。安いもんだろ五百万くらい。お前の家から持ってくりゃいいだろ?』

「……保証が無い」

『ん?』

「白波瀬くんの言う通りにすれば、アオイが解放される保証がない! 適当なこと言って、いつまでもアオイを返さないつもりなんじゃないの!?」

『んーー………どうかなぁ〜? 俺は義理堅いから、ちゃんと解放するつもりだけどなぁ〜?』

 

 おどけた声音で嘲笑う白波瀬。出流は感情を押し殺し、言葉の続きを待つ。

 

『ま、お前が断った場合は愛しの蒼チャンとはもう会えない。これだけは絶対に保証してやるよ。知ってるか? 世の中には五十右みてーに、『突然性別が変わった人間』ってのが欲しくて欲しくてしょうがない、悪ぅい奴がたんまりいるらしいぜ? 手に入れて何がしたいかまでは、知らねーけどな』

「………」

『佐倉が金くれないんなら仕方ねー。その手の奴らに引き渡すしかねえかなあ? ハハッ! 五十右がその後どんな目に合うか、賭けてみるのも面白いかもな!』

「―――ッ!!」

 

 出流の怒りは、最早怒髪天を衝く勢いだった。奥歯を割れんばかりに噛み締め、握り拳からは朱い血がカーペットに滴り落ちる。

 だが、それを声には出さない。全ての怒りを内側に閉じ込め、理性で蓋をする。怒って、暴れて解決するならそうしていた。だが、今必要なのはそれではない。

 

 身体の中で蠢く熱を吐息に変えて吐き出し、出流は幾分かの冷静さを取り戻した。警察に頼れない以上、蒼を確実に取り戻すには直接乗り込む事になる。

 そのためには、今この場にある情報で、蒼の居場所を突き止めなければならない。

 

(僕が犯人だとして、人を攫うならどうする? 捕まえたら絶対にその場を離れる。素早く、目立たないように。つまり自動車系の移動手段がある。)

 

 考える。思考の海に潜るように。

 

(普通の車とか……後はキャンピングカーかな。キャンピングカーは外から見えづらいけど形状が特徴的だから目立ちやすいし、人を運ぶだけなら大仰すぎる。普通の車の可能性が高い)

 

 寿命を燃やす勢いで、脳を高速で回転させ続ける。

 

(通話から聞こえる環境音的に、運転中にかけてる訳じゃ無さそう。どこかに立ち止まってるのかも。人の居ない空き地や駐車場、もしくは空き家とか? 環境音が静か過ぎるから住宅街とかじゃ無さそうだけど、でも車で四十分も移動すれば移動範囲はこの町に限らない。何処にだって行ける。駄目だ、手元の情報じゃ絞り込めない!)

 

 出流は、努めて冷静に声を出す。相手の居場所を探っていることを悟られないように。その上で、少しでも情報を引き出すために。

 

「……アオイは、無事なんだよね」

『おう。今はまだ、な。なんなら声を聞かせてやろうか? おい五十右! お前の恋人に元気な声を聞かせてやれよ!』

 

 少々の物音。出流は僅かな情報も逃すまいと耳をそばだてる。

 

『……イズル、か?』

「アオイ!」

 

 金属質な物音、蒼の声とは異なる声が二人分。少なくとも向こうには、蒼と白波瀬以外にもう一人いるはず―――

 

 

『――()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「!!」

『!?』

 

 出流はカッと目を見開く。思わず聞き逃してしまいそうな程に唐突な一言。だが、その意図は考えるまでもない。

 

(アオイからの、メッセージ……! 十二分圏内ならまだ絞り込みやすい、廃工場ってヒントもある!!)

 

「お父さん! 使用人を呼んで近辺の地図を――」

「もう呼んでいる」

 

 父へと振り向きながら出流が目にしたのは、出流とダイニングテーブルの間にズラリと整列した、この館の使用人――合計十八人の列だった。

 その向こうから、流代が出流に目を向ける。

 

「何を調べれば良い?」

「……ここから自動車で十二分で移動できる範囲にある、廃工場を全部リストアップして」

「わかった。聞いたな? こんな時間に済まないが、一働きしてくれるか?」

『『『はい!』』』

 

 使用人たちは各々地域を分担し、ノートPCや端末、地図を手に情報収集を始める。出流は、彼らの頼もしさに涙すら浮かべながら、手元の端末に今一度耳を寄せた。

 

「……白波瀬くん」

『な、なんだよ』

「動揺してる。アオイのくれたヒントは本物なんだね」

『……ッ!』

 

 あるいはこれが狂言誘拐で、蒼が彼らの手先である可能性も―――無くは、なかった。だが、今の白波瀬の反応でその可能性も潰えた。

 

「――アオイは、必ず。返してもらうから」

『クソっ!』

 

 悪態とともに通話が切れる。こちらから掛けても出ないだろう。出流はスマホの画面をぼうっと見つめる。

 先程までは、不安と後悔と怒り、それに心細さだけが募っていた。蒼に二度と会えない可能性が、怖くて怖くて仕方なかった。

 

 ―――でも、今は違う。

 蒼が危険を顧みず伝えてくれたヒントがある。か細いが、それは確かに蒼に繋がる糸だ。

 決して手放さない。慎重に、しかし最速で手繰り寄せ―――絶対に取り戻す。

 

 強固な決意を胸に、出流は使用人達を手伝いに向かう。

 

 

 出流のスマホが、小さく震えた。

 

 


 

 

 玄関に下りた出流は、夏用のライダージャケットを着込み始めた。その後ろには、流代と数人の使用人が立っている。

 

「止めないでよ、お父さん」

 

 後ろを振り返ることもなく出流は言う。彼はこれから、割り出した蒼の本拠地に乗り込むつもりだ。

 

「止めないとも。だが、そのまま聞いてくれ」

 

 出流は関節部にプロテクターを身につける。出流自身が二輪免許を持っている訳はない。免許を持っている使用人に乗せてもらうのだ。

 急ぎではあるが、その為に事故を起こしては元も子もない。装身具の点検は念入りに行う。

 

「今の事態は、少々特殊ではあるが八重さんの危惧した通りだ。蒼くんを利用し、出流を……ひいてはこの家を脅し、利益を不当に得ようとしている」

 

 膝や肘を保護するプロテクターを着ける。

 

「わかるかい? 出流。我々は今……()()()()()()()()()。脅せば、簡単に膝を屈し要求を飲ませられるなどと、思い上がった考えを持たれてしまっている」

 

 ヘルメットを被り、顎できちんと留める。

 

「これは、大本を正せば私の責任だ。私が出向いて『解決』すべきだと思う」

「違うよ、お父さん。これは、僕とアオイの問題なんだ。僕たちで、終わらせたい」

「………そうか」

 

 プロテクターを内蔵したグローブをはめて、靴を履く。

 

「ならば出流、()()()()()()。彼らは犯罪者だ、当然、終わった後は警察に引き渡すが――その前に、お前の手で懲らしめてやりなさい。今後の一生、我々を利用しようなどと、二度と考える気も起きないくらいにだ」

 

 靴べらを踵から引き抜き、出流は立ち上がる。

 静かに扉を開けた。

 

()()()()()()は、こちらでどうにでもする。やりたいようにやりなさい」

()()()()。――行ってきます」

 

 肌寒いはずの風は、防備を備えた出流には通じない。ただ決然と歩を進める。

 

 佐倉家の門の外で、大型のバイクが停まっている。その側には、筋肉でパッツパツになったライダースーツに身を包む、肌の焼けた大男。佐倉家の使用人の一人であり、流代のSPも務める大神の姿があった。

 

「坊ちゃま。今更なのですが、本当に信じられるのでしょうか。欺瞞情報の可能性も……」

「それならそれでいいんだ。今はとにかく、一刻も早く着く事が大事だから」

「……決心は固いようで。ならば否応はありませんな。この大神剛造、坊ちゃまを安全かつ迅速に送り届けましょう」

「うん。お願いね」

 

 大神がハンドルを握り、出流はその後ろで大神の腰に腕を回す。両手を組み合わせ、ガッチリとしがみついた。

 大型二輪のエンジンが唸りを上げる。気筒から迸る、腹の底に響くような重低音のサウンドは宛ら鬨の声(ウォークライ)か。

 

「該当の場所まで、自動車ではおよそ十二分。私ならば――五分!! 参りますぞ坊ちゃま。決して口を開かぬように。舌を噛みますからな!!」

 

 音を置き去りにせんとする勢いで、二人乗りのバイクが発進する。凄まじい強風に耐えながら、出流は蒼のもとへひた走る。

 

(お願い、アオイ。どうか無事でいて―――!)




Q.すみません、この作品のジャンル恋愛ってあるんですけど
A.(素知らぬ顔で口笛を吹いている)
 いやまあ恋愛ものだってピンチはあるものですよ。そうは思いませんか? あなた。
 別にこれまでの話でブレーキをかけてたつもりはありませんが、この最終編に関してはもう性癖と手癖のアクセルをダブルでマキシマムにドライブしていくので、着いてこれる方だけ着いてきてください。

明日も12時に投稿します。


登場人物紹介
大神 剛造(おおがみ ごうぞう)
年齢:43
身体的特徴:筋肉モリモリマッチョで身長190cm強のスーパーマン。着る服だいたいパッツパツ
趣味:トライアスロン、筋トレ、プラモ作り、ツーリング(流代によく付き合う)
説明:
 筋肉と運動に魅入られたフィジカルの申し子。指で硬化を折り曲げたりできるしSTRとSIZが18だし種別:人間なのに【肉体】が12とかある。
 流代とは大学時代の学友でもあり、それぞれ一度は異なる道を選んだものの数奇な運命の巡り合せか、佐倉家の使用人と婿として再会することになった。
 流代とは主従の関係なのは勿論の事、休日は対等な友人・そして良き理解者としても接している。結婚当初、八重に心酔しまくって人格が変貌したかのような流代と互いに立場を無視して派手に喧嘩した一件は、古株の使用人ならば知っている笑い話である。


 その関係はある意味、性転換が起きなかった出流と蒼の未来の姿と言えるかもしれない。


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First Pain(4)

蒼視点です。


 白波瀬達に放置されている間に蒼が立てた計画は、『白波瀬が出流に連絡している間に、どうにかして現在地情報を伝える』という、文章にしてしまえばシンプルなものだった。

 この計画のプロセスは大きく三つ。

 

 一.蒼の現在地の情報を得る。難しければ、蒼がここに運ばれるまでに掛かった時間から移動時間を得る。

 

 現在地の情報は、拘束され監視のある状況では無理筋。よって、蒼は移動時間を得る事にした。記憶を掘り起こしてみれば、その時間を得る材料はあった。

 

(電車で駅についた時、駅前広場にあったモニュメントクロック―――俺と出流が抱き合った場面を見せつけてきた、スマホの現在時刻―――全部だ、全部思い出せ。イズルの家に車で帰るまでの時間はだいたいわかる。襲撃地点に行くまでの時間も――!)

 

 蒼の記憶力は特段優れている訳では無い。映像記憶のような能力など持ち合わせていない。それでも、朧気な記憶を必死にたどる。

 映画の上映時間、その後の一連の行動、それらの所要時間も類推し参考にして、今日のタイムスケジュールの全てを割り出す。

 幸いにして、その程度の沈思黙考が許される時間は与えられていた。そして時間について考え出した時点で、蒼は白波瀬達がすぐに出流に連絡しなかった理由に気付いた。

 

(攫ってすぐ電話を掛けたら、その時点で諸々の所要時間がイズル側にも正しく伝わっちまう。アイツらはそれを避けたかった。誰だか知らねーけど多少はマシな事考えてるじゃねーか)

 

 白波瀬達は、今の居場所が出流に割れる事を恐れている。恐らく出流から金を受け取る時も、廃工場ではない別の場所で行うはずだ。蒼を人質に取られ公権力に頼れない出流に出来ることなど、たかが知れている。

 そうすれば白波瀬は悠々と大金を手にし、その上で蒼を解放しなければいつまでも交渉のイニシアチブを取り続けられる。

 

 だが、なればこそ。正確な移動時間は大きなウィークポイントとなる。心の底から腹立たしい連中に一矢報いる機会、俄然やる気も出ようというものだった。

 蒼はたっぷりと時間をかけて、どうにか大凡の移動時間を求める事に成功した。よって、作戦は次のプロセスに移る。

 

 二.得られた移動時間を出流に伝える。

 

 これに関しては蒼から出来ることは多くない。従順なフリをして大人しく白波瀬に自分のスマホのパスワードを教え、電話を掛けさせるよう誘導するくらいだ。

 リアルタイムの通話ならいくらでも割り込む余地はある。白波瀬達も、『蒼の肉声は真実性の担保に有効だ』と思ったから、蒼の口枷を外したのだろう。

 幸運にも出流から動いてくれたお陰で、蒼は千載一遇の好機を得た。助けを乞うと見せかけて出流に情報を渡す事に成功し、この時点で作戦の本懐は果たした。

 

 後は出流がこの情報を信じてくれることを、願うばかりだ。

 

 そして、最後のプロセスは―――

 

 


 

 

 白波瀬は通話を切った後、苛立ちを隠す気もないのか蒼のスマホを床に叩きつける。液晶に亀裂が走ったが、どうやら機能自体は無事なようだ。頑丈に作ってくれたメーカーに蒼は内心感謝した。

 視界を上に戻せば、白波瀬が爪を噛んで凄まじい苛立ちを顕にし、小太りの男があたふたと慌てふためいていた。

 

「クソっクソ、クソがぁ! 畜生、どうする、どうする……!」

「ど、どうしよう。逃げる? 逃げて別の場所探す?」

 

 この廃工場がバレるのは確定事項。遅いか早いかの違いでしかない。

 そうなれば、白波瀬達に取れる行動は逃げる事だけだ。だが、蒼が車の外見まで伝えた以上、迂闊に動けばそれこそドツボに嵌まりかねない。

 いつ逃げるのか、そもそも特徴の割れた車で逃げるべきか。白波瀬やその取り巻きの頭の中は、さぞ焦りと混乱で空回っていることだろう。だが、時間が経てばやがて落ち着き、冷静に考え出すはずだ。

 その為に、最後のプロセスがある。

 

 三.助けが来るまで、連中をここに釘付けにする。

 

 白波瀬達が、蒼を置いて逃げ出したなら。遠からず警察に捕まるとは思うが、もしそれが叶わなかったら? 蒼は金輪際、一人で外を出歩く事は叶わない。

 今、この場で。全ての決着をつける。そうして始めて、四年前から蘇った下らない因縁は終止符を打たれるのだ。

 

(服ねーからって外出避けてたけど、まさかそれが功を奏してたとはなあ)

 

 『世の中わからないもんだな』と、蒼は小さく苦笑した。

 

 数分間、連中の慌てふためきぶりを眺めていた蒼は、白波瀬が落ち着きを取り戻してきた頃合いを見計らい口を開く。

 

「なあ白波瀬」

 

 とびっきりの、うざったい笑顔と共に。

 

「カモネギにまんまと一杯食わされた気分はどうだ? ン?」

「五、十、右ィ……!」

 

 白波瀬は、青筋の浮かんだ額で蒼に振り向く。隠しきれない怒りが表出した、仁王像めいた表情だった。

 

「俺を舐め過ぎなんだよ。こちとらエリート高入ってんだ。それに俺の頭はイズル大先生に鍛えてもらってんだぞ?」

「ッ……!」

 

 一旦は落ち着いたはずの白波瀬の顔が、みるみる赤くなっていく。蒼は挑発が順調に進んでいる事を確信し心のなかでガッツポーズを取る。

 

(正直、この即席プランと紫凰は関係ないと思うけどな。でも学歴マウントって結構効くらしいし?)

 

 後ろ手に手錠を掛けられ、壁に背中を凭れさせられた立ち上がるのも難しい姿で、それでも蒼は白波瀬を煽る。蒼に対して怒りを募らせるほどに、貴重な時間が失われていく事にも気付かせない為に。

 

「ハッ、ざまあねえな! 結局、テメェは四年前と何も変わっちゃいねえタダの小悪党だ! 誘拐して身代金の一つもまともに要求できねえ癖して笑わせるぜ!!」

「テンメェ人質の分際で!!」

「やめなよダイちゃん! そんなコトしてる場合じゃないよう!」

「離しやがれサン! コイツブチのめしてやるッ!!」

 

 蒼に殴りかかろうとした白波瀬を小太り男が引き留める。蒼は喝采を上げたい気分だった。

 

(そうだ、もっと怒れ! いっそ仲間割れしろ! そうすりゃあ助けが来るまで十分に時間が稼げる!)

 

 ここまで正に、全てが順調。蒼は燃え盛る火に更に油を注ごうとする。

 

「ろくに身動き取れねえ女一人にここまで良いようにされて、さぞ屈辱だろうなあ白波瀬ェ! 何がカモネギだ、俺を利用してイズルを嵌めようなんざ、百年早ェんだよ! わかったらとっととくたばれ、雑ァ魚が!!」

 

 理不尽に拘束・軟禁され、ストレスが鬱積していたのだろう。それはもはや、挑発ではなく罵倒。作戦の域を超える程に過熱した蒼の面責は、白波瀬の逆鱗に触れるに十分なものだった。

 

 ぶつん、と音が聞こえた気がした。

 白波瀬はサンを振り払い握り拳を振り上げ、蒼に向かって一直線に突っ込んでくる。

 

 蒼の計画はここまで、紛れもなく順調だった。白波瀬を挑発させ、頭に血を上らせる。蒼に構うほどに時間が浪費していく事など、もはや眼中にも無さそうだ。そして、怒り狂った白波瀬が蒼に手を上げる事もまた、計画の内だった。

 例えば警察が来た時、白波瀬たちが事前に気付いて蒼の拘束をなかったことにしようとも、身体についた傷跡は隠せない。より明確に被害者の立場を打ち立てられる。そういった点も考慮しての事だった。

 

 だから、鈍化した体感時間の中でゆっくりと自分に迫る白波瀬の拳が、蒼の頬を撃ち抜かんとするのが見えても、蒼は避ける気は無かった。後はただ、痛みに耐えれば済む話。どれだけキレようとも死ぬことはない。そうすれば彼らはより致命的な前科を負うことになるし、そこまでの覚悟は無いだろう。そうなった時は必ず、小太りの男が止める。

 

 そう。ここまでも、これからも。『蒼の計画に』狂いはない。

 

(これで、俺の勝―――)

 

 

 重たい衝撃が、頬から顎を抜け頭を揺らして。

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 蒼の計画における、たったひとつの誤算は。

 ―――女の身で受ける暴力の恐怖を、軽んじていたことだ。




次回:TSメスガキわからせ(物理)
この毎日更新がどこまで続けられるか分かりませんが、明日も12時に投稿するのでよしなに。


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First Pain(5)

TS娘が自分の能力を男基準で過信してイキった結果、男に歴然とした力の差をわからせられる展開は、TSの通過儀礼の一つとされています。
みんな知ってるね。


 蒼の身体が、殴られた勢いで横になぎ倒される。散々煽られ、頂点に達した白波瀬の怒りは拳一発では到底収まらず、倒れた蒼の腹に何度も強烈な蹴りが打ち込まれる。

 

「テメェがっ! 余計な真似しなけりゃ! 俺達はッ! 簡単安全に大金ゲットで! ハッピーだったんだよッ!!」

「げぶっ、がっ! ごっ、お、ぎいッ」

 

 サッカーのシュートのように、足の甲が蒼の腹部にめり込む。その度に、蒼の口から空気と共に呻きが吐き出された。

 ただ蹴るだけでは飽き足らない。白波瀬は更に、蒼の身体全体に乱雑に蹴りを落とす。昨日買ったばかりの勝負服が靴底の泥に汚される。白のキャミソールワンピースに、焦げ茶色の靴底の跡が刻まれていった。

 

「それをッ! めちゃくちゃにしやがってッ! テメェはッ! 女らしくッ!!」

「ぁ、ゔあっ、ぁがっ」

「黙って(オレ)の言う事聞いてりゃ良いんだよォアァ!!」

 

 白波瀬は蒼の腕を掴み力任せに引き上げ、カーテンに向かって投げ飛ばす。カーテンレールを弾けさせながら段ボール箱の山に突っ込んだ蒼は、その衝撃による崩落に身体が飲みこまれた。

 未だ冷める気配の無い怒りに、白波瀬は荒い息を吐く。

 

「フーッ……フーッ……!」

「だ、ダイちゃん……?」

「あア゛!?」

 

 小太りの男が不安げな声を向けるも、怒りに我を忘れた白波瀬にはもはや届かない。

 

「ヒッ! そ、その。あんまりやると五十右死んじゃうかもだし、程々にしないと……」

「ざけんな! あんだけ舐められてこの程度で腹の虫が治まるかよ! オラ出てきやがれ五十右! まだ終わっちゃいねえぞ!!」

 

 吠えながら、白波瀬は段ボール箱の山を力任せにどかしていく。箱を放り捨てる度、中に詰まっていた用途もわからないプラスチックの部品が床に散らばった。

 

 数分の発掘作業を経て、崩れた箱に横たわる蒼の全身が、再び白波瀬の眼前に晒される。

 白波瀬は蒼の腰を跨いで立ち、蒼の髪を鷲掴んで自分へと顔を向けさせた。

 

「あゔっ!」

「よくもナメた真似してくれたなあ。女だと思って手加減するとでも思ったか? テメェの中身は男ってハナから分かってんだよボケが!!」

 

 至近距離で唾を飛ばしながら吐き捨てる。蒼が無抵抗であることが、却って白波瀬の暴力性の箍を外していた。無邪気に虫を潰して遊ぶ子供のような、圧倒的に優位な状況でこそ発露する原始的な嗜虐性が、白波瀬の目をギラつかせる。

 

 それでも、蒼の計画はまだ終わっていない。手を上げられようと髪の毛を引っ掴まれようと、白波瀬の挑発を止めるべきではないのだ。助けが来るまで持ち堪えなければ、全ての努力が水泡に帰しかねないのだから。

 蒼は、唇をわなわなと震わせる。

 

「こ……」

「あ?」

 

 だが。

 しかし。

 その口から発された言葉は。

 

 

「……()()()()()()

 

 

 慈悲を乞う、謝罪だった。

 

 


 

 

 信じられなかった。暴力を振るわれる事が、暴力に抗えない事が。こんなに恐ろしいものだったなんて。

 手足の先から冷えて感覚が遠ざかる。歯の根が震えて合わなくて、ガチガチと音がなる。わけも分からず溢れた涙が、目尻からポロポロと零れていく。血の気が引いて平衡感覚が狂う。いっそ失神できたのなら、どれほど気が楽だったろうか。

 

 中学生の頃に一度、似たような経験をしたことがあった。相手は当時の高校生で、変な因縁をふっかけられて同じようにボコられた。だが、その時はアスファルトを舐めながらも、足にしがみついて引き倒し、馬乗りになって反撃した。最終的に痛み分けのような形になったものの、当時の蒼は暴力に抗えたのだ。

 

 でも、今は違う。

 抗うなんて発想が欠片も湧いてこない。身を縛る恐怖に震え、只管に祈ることしかできない。火山の噴火を神の怒りと信じて、逃げることを忘れた古の人々のように。

 

 蒼は、ただただ助かりたい一心だった。

 

 そのあまりの豹変ぶりに、一瞬怒りを忘れたかのように目を丸くした白波瀬だったが、やがて理解が追いついてくると、堪らず派手に吹き出した。

 

「……ブフッ、アッハハハハハハ!! どうしたよ五十右さっきまでの威勢はァ!」

 

 蒼を嘲笑う白波瀬の姿が、怖くて怖くて仕方ない。悪魔か、鬼か、はたまた魔王か。眼の前の男は蒼にとって、『敵うはずのない相手』に変貌しつつあった。無論、白波瀬自身に変化はない。蒼の心が、白波瀬という一人の人間に未曾有の脅威を見出していく。

 

「ぁ、う。ご、ごめんなさ」

「謝って済むならァ、警察は要らねェだろうがよォ!」

「ひッ!」

 

 白波瀬が拳を振り上げると、蒼はそれだけでみっともなく怯えた。肩を竦め、膝を曲げて縮こまる。手を前に上げてガードしたかったが、手錠のかかった腕は硬い音を立てるばかりで役に立たなかった。

 蒼の浅ましい態度に、白波瀬は嗜虐的な笑みを更に深めていく。

 

「……ヒャハッ。マジかよコイツ、本気で俺にビビってやがる!」

 

 白波瀬は振り上げた拳を開き、そのまま蒼の頬へと振り下ろした。小気味よい音が狭い事務室を反響して、掴まれた髪が勢いで何本か抜ける。蒼の左頬には、鮮やかな紅葉が描かれていた。

 蒼は、頬を張られた勢いで真横を向いたまま、憔悴した表情を浮かべる。今の蒼は、先までの野良犬ではない。遠吠えしてみせる負け犬ですらない。男の暴力に怯えて震え、か細い鳴き声を上げるだけの、惨めな小動物でしか無かった。

 

「どうした五十右。さっきみたいに減らず口を叩いてみろよ。ンン?」

「ごめんなさい……ゆるして、ください……っ」

「許して、ねえ……?」

 

 溜飲が下がった事で収まりつつある怒りの代わりに、嗜虐心が台頭する。白波瀬は蒼をどう苛めて己の欲を満たすか考え始め、一つ閃いた。

 

「許してほしいなら、それ相応のポーズってもんがあるよなあ?」

「え……?」

「土下座だよ土下座。床に額こすり付けて懇願してみろよ」

「……っ」

「できねえなら――」

 

 白波瀬はゆるく平手を持ち上げる。蒼は直前の痛みと衝撃がフラッシュバックし、一瞬で顔を青ざめた。

 

「や、やりますっ……! やりますから、もう、叩くのは……」

「『やります』ぅ? なんか偉そうだなぁ」

「やっ、やらせていただきます……だから……」

「だったらさっさとやれや!」

 

 ドスの利いた恫喝一つで、蒼の身体は言いなりになっていた。後ろ手に拘束された不安定な体幹で、もたつきながら蒼は立ち上がり、身体を左右に揺らしながら床に正座する。

 だが、そこで蒼の動きが止まる。

 

「あ、あの……」

「あ?」

「手、手が、動かっ、なくて。これじゃ、土下座、できな」

「出来るだろ。床に額をくっつけるだけじゃねえか」

「で、でもっ、床、なんか散らばってて」

 

 蒼がそのまま身体を前に倒した先には、先程白波瀬が散らかしたプラスチックの部品が転がっていた。薬研を手乗りサイズにしたような形状のそれに、刺さったり切れたりするような鋭さこそ無いものの、そんなものが散らばった所に倒れ込むのは平面の床より遥かに痛いだろう。当たりどころによっては痛いでは済まないかもしれない。

 白波瀬は膝を曲げ、蒼に目線を合わせた。

 

「お前は、土下座を()()()()()()()んだろ? なら床に何があろうと関係ねえよな?」

「あ、ぁ」

「はぁぁ……しょうがねえなあ」

 

 にこやかに笑った白波瀬に、蒼は一瞬、慈悲の予感を覚えた。

 冷静に考えれば、そんなはずはないのに。白波瀬の僅かな挙動に救いを見出してしまう程に、今の蒼は追い詰められていた。

 

「手伝ってやる――よッ!」

「ぇ――ぁがっ!?」

 

 白波瀬は蒼の後頭部を掴み、床に叩きつけた。蒼の額に部品がぶつかり鋭い痛みが爆ぜる。部品は蒼の顔と床の間から押し出され、蒼を避けるように転がっていった。

 

「おっ、良かったな。いい感じのスペースが出来たじゃねえか」

「ぅ、うぅっ……」

「メソメソ泣いてんじゃねえ男のクセによ。俺の気が変わらねえ内に、とっととやったほうが身のためじゃねえのか?」

「うぅうぅぅ……っ」

 

 情けなさ、惨めさ、悔しさ、恐怖、後悔、罪悪感と絶望。様々な負の感情に心を掻き乱されながら、蒼は自ら上体を倒して額を床に押しつける。土下座(これ)さえすれば助かる。ただそれだけが、今の蒼の救いだった。

 

「ごめんなさい…。もう、許してください……。煽っで、馬鹿にしでっ、ずみばぜんでじた……!」

 

 白波瀬は、涙声で必死に懇願する蒼を無上の愉悦と共に見下ろしていた。かつて自分をぶん殴って邪魔しやがった、憎い男()()()()()。それが今や面影もクソもない女になって、自分に頭を垂れ許しを求めている。それは、白波瀬の自尊心を大いに満たしてくれる光景だった。

 

 だから、か。埃にまみれて尚月光に煌めく銀の髪が。上からはっきりと見える蒼の手枷が。恐怖にふるふると震える蒼の臀部が。

 

 

 ―――白波瀬に、嗜虐心とは明確に異なる欲を抱かせた。

 

 

「ああ。イイ事思いついた」

 

 白波瀬は片眉を吊り上げて獰猛に笑い、顎に手をやり考える。

 

(そうじゃん。眼の前のコイツは、元はどうあれ今は女だ。だったら―――それに相応しい罰があるじゃねえか)

 

「うぁ――?」

 

 蒼は、顔を上げ白波瀬の機嫌を伺う。

 

(多少ボコったせいでちょいと歪んでいるが、それでも十分にツラは良い。今まで見て、喰ってきたどの女よりも格段に。胸がちょいと小ぶりなのは減点だが、全体で見るなら悪くねえ)

 

「お前を許してやる条件を思いついたって言ったんだよ」

「な、何を、すれば……」

 

(俺をさんざっぱら煽ってくれた五十右も、俺を出し抜くつもりでいやがる佐倉もクソ喰らえだ。そうさ、こうすりゃあ心底ムカつく奴等を同時に傷つけられる。ハッ、そいつぁ良い。最高の娯楽(エンタメ)じゃねえか!)

 

「五十右」

 

 白波瀬は所謂ヤンキー座りで腰を降ろし、顔を上げた蒼の前に握った拳を見せる。だが、ただの握り拳ではない。人差し指と中指の間から親指を出したフィグサイン。その意味する所は国によってまちまちと言うが、この場に於いては一つきりだ。

 白波瀬は、蒼を見下す嫌らしい笑顔を浮かべた。

 

 

「ヤらせろよ」

 

 


 

 

「…………?」

 

 言葉の意味が、理解できなかった。突然、異世界の言語でも使われたような気分だった。頭の中で反芻して、徐々に意味を掴んでいく。

 

(あ、そうか。俺が、可愛くて、美少女だから………)

 

 その気付きを切っ掛けに、蒼の中に言葉の意味が染み込んでくる。理解できてくる。理解できてくるからこそ、理解ができない。さっきまで、蒼を男だと思っていたのに。どうして急にそんな話になるのか。

 

「よっと」

 

 蒼の混乱をよそに白波瀬は、土下座と正座の中間のような姿勢を取っていた蒼の肩を掴み、蒼の上体を後ろに倒す。蒼は、舌なめずりしながらにじり寄る白波瀬の顔を見てようやく、周回遅れの危機感が吹き出した。

 

「う、ぁ! あ!?」

 

 足をバタつかせ必死に後ろに退こうとするが、僅かに動いただけで段ボール箱の山に頭が当たって、それきり逃げられなくなる。

 真正面の白波瀬の細めた目が、はっきりと見えた。その虹彩の奥に揺らめく情動までも。嗜虐心、喜び、愉悦―――快楽への予感。性欲の発露。

 

「オイオイ暴れるなよ。ちょっと痛い思いするだけじゃねえか」

 

 獣欲に満ち満ちた、蒼を喰らわんとする目。その目を見て、蒼はそれまで感じていたものとは別種の恐怖を抱いていた。それまでの白波瀬の暴行に対する恐怖は、頭上のギロチンを見上げるような、既知の痛みと恐怖への畏れだった。

 だが、これは違う。崖下の暗闇に突き落とされる直前のような、未知に対する恐怖。何かを喪うことへの恐怖。それは、蒼の冷静さを完全に奪い去るには十分なものだった。

 

「菓子パンごち。……ダイ、何してんの?」

「遅えぞゲン。いやさあ、コイツがクソめんどくせえ事しやがったから身体で償わせてやろうってとこ」

「あっそ……。じゃあ、まあ。俺外見張ってるから……ごゆっくり」

「おっ気が利くな。サンはどうする、一緒にヤっちまうか?」

「それダイちゃんの顔見て腰振ってるようなものじゃん。やだよう」

「ハハハ確かにな! 良かった……いや、残念だったな五十右。初体験が3Pじゃなくてよ! ハッハハハハ!」

 

 暫く席を外していた帽子男(ゲン)が戻ってきたかと思うと、すぐに部屋を離れていく。小太り男(サン)はヘッドホンを被って大音量で音楽を聞き始めた。

 眼の前で今まさに一人の人間に対し、肉体と精神と尊厳への陵辱が為されようとしているのに、誰もその異常性を咎めようとしない。

 その無関心が、残酷な現実が。蒼の精神に大きな亀裂を走らせた。

 

(あ、ぁ。もう、ダメだ。俺、ここで終わるんだ)

 

 蒼は、自分が女になったことの意味、その全てを理解していなかった。

 親友に好意を抱いてしまうこと。男と女の違いに苦しみ、精神が不安定になること。

 十分苦しいと感じていたそれらですら、現在蒼の身に降りかかっている災難に比べれば、天国のようなひと時だったと今なら解る。

 

 より根源的で露悪的な部分を、蒼は理解する。させられる。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()―――!

 

「ぁ、あ………!」

 

 

 ―――()()()()()()()()()()

 

 

 出流を好きになって、あの日の夢と似たような夢を見る度考えた。いつか出流と付き合ったのなら、自分の『はじめて』を出流に捧げることになるのだろうか、と。夜景の綺麗な何処かのホテルか? それとも蒼か出流の自室で?

 そんなことを思う度、我が事ながら気が狂いそうな程に恥ずかしく、ほんの少しの喜びを覚えていたのは事実だった。

 

 でも、それを。こんな場所で、こんな奴に―――!

 

「待てよ? フツーに犯してもつまんねえな」

 

 蒼の目の前で何かを考え始めた白波瀬。恐怖に完全に屈した蒼は、心変わりの僅かな可能性に賭けながら行く末を見守ることしかできない。

 逃走も抵抗も、今の蒼には忘却の彼方にある選択肢だった。

 

 やがて何かを閃いた白波瀬は、その嗜虐的な笑みを更に深めた。

 

 

「そうだ五十右、俺の女になれよ」

「へ……、?」

 

 

 言葉の意味が理解できずまたしても呆ける蒼に苛ついたのか、白波瀬は感情を消した顔のまま握り拳を振り上げる。蒼は再びのフラッシュバックに膝を立て目を瞑る。

 

「ひっ!」

 

 蒼の反応に気を良くしたのか、白波瀬は一転して穏やかな笑みを浮かべる。それは、絶対的な優越感からくる無慈悲な笑みだったが、蒼の中に『白波瀬の機嫌を損ねてはならない』という認識を植え付けさせた。

 

「な? 五十右は俺に殴られるの、もう嫌だよな?」

「う、うんっ……」

「嫌なら、俺の女になれってことよ。俺は身内は大切にするからよお、お前が俺のモンにさえなりゃあ、悪いようにはしねーぜ?」

「っ……」

 

 にこやかに、笑いながら。白波瀬は五十右に語りかける。地獄に落ちた気分だった五十右にとって、それは天から齎された慈悲の糸に見えた。見えてしまった。

 心の亀裂が大きくなり、その隙間を白波瀬が侵食していく。白波瀬への恐怖に軋む心が、白波瀬の見せかけの優しさに染められていく。

 

 白波瀬は、忌々しい二人の仲を引き裂く昏い悦びに、隠しきれない興奮と喜悦を覚え口角を釣り上げる。耳まで裂けたかのような、悪魔めいた邪悪な表情だった。だが、蒼の目にはソレが爽やかな好青年の微笑みに見えていた。

 

「佐倉の事は心配すんなよ。アイツは金持ちで家もでけえんだから、アイツに相応しい相手がきっと見つかるって。むしろ、お前みたいな平民がアイツと付き合うほうがおかしいってもんだろ?」

 

 諭すように穏やかな白波瀬の言葉に、蒼は出流のお見合いの件を思い出していた。

 

(確かに、そうだ……イズルにはお見合いの話が来てて、俺のためにそれを断ろうとしてて……)

 

 今を助かりたい。蒼の深層心理に植え付けられた恐怖が、蒼の心を歪めていく。己の認識を捻じ曲げ、今の自分にとって―――白波瀬にとって、都合の良い理屈を紡いでいく。

 

()()()()()()()()。イズルはちゃんとお見合いして、イズルと同等の立場の人と付き合った方が良い。イズルにはイズルの、俺には俺の。相応しい相手が、いる………)

 

 蒼は、自らに嘘をつく。現実を、事実を曲解し、自分を納得させる。自分を騙し、自分を誤魔化し、楽な方へと流れていく。堕落していく。

 良心の呵責が、雫に変わって頬を伝う。蒼は、恐怖から逃れる為に、ほんの一時の安心の為に。それ以外の全てを、手放そうとしていた。

 地位も、夢も―――己の恋心でさえも。

 

「五十右――いや、()()()。良いだろ? 大好きな彼氏に抱かれるんだからよ」

「………っ」

 

 出流に当てつけるように、白波瀬は蒼を下の名で呼ぶ。蒼はそれを、親密さの証だと錯覚した。

 震える膝を、ぎこちなく動かす。外へ。開くように。彼氏(ゴシュジンサマ)の言う通りに。白波瀬は、無上の愉悦に笑顔の歪みを深めながら、腰のベルトを外し始めた。

 

 視界が暗く染まっていく。白波瀬の顔が、もう見えない。だが、恐怖だけは蒼の網膜にこびりついていた。

 

 

(イズルなんて、忘れた方が、良い……その、方、が……………)

 

 

 軋む心に、ハリボテの優しさに、己の弱さに流されようとしていた―――その時。

 

 殴られて、叩かれて。痛みと疼きが残響する蒼の頬を、小さな風が優しく撫でる。窓もない屋内にも関わらず。

 七月の夜に吹いたその風はどうしてか―――()()に、よく似ていた。




TS娘が好きでもない男に性欲を向けられ襲われる。これもまた、TSの通過儀礼の一つとされています。(東雲。調べ)
避けて通ることは出来ないんです。だって通過儀礼ですからね。

さてここまで、陰鬱&凄惨な、純愛もへったくれもない展開に長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。ここが最後の曇らせポイントでして、後は上がるだけとなっております。
残り数話ほど、宜しければお付き合いください。

話の区切りの為に次話分からごそっと文を持ってきたので明日の投稿は確約できませんが、GW中の本編完結を目指して頑張ります。


P.S.
この作品にどういうタグつければ良いのか分からないままここまで来て、今更ながらタグを増やして説明文に注釈付けました。
多少は伝わるようになりましたかね?


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First Pain(6)

ここまで重苦しい展開が続きましたが、今や巻き返しの時です。

4/29のハーメルンオリジナル作品日間ランキングで41位に入ってました。
これもひとえに、読んで、お気に入り登録をしたり、評価を入れたり感想を送ったりここすきしたりしてくれた皆様のお陰です。
この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございます!


 風が、蒼の記憶を呼び起こす。夏先の、蝉の鳴き声が煩かったあの日。夕暮れの自宅のリビングで、彼は精一杯の勇気を振り絞り、蒼に思いの丈を伝えてくれた。

 鬱陶しいと思いながらも、どこか涼やかだった声。真紅に煌めく少年の瞳。あの瞳に憧れて、蒼は変わろうとしたのではなかったか。友を捨て、繋がりを捨てて。その先に何がある?

 

 蒼は―――その答えを知っている。

 何もないのだ。

 

(また、あのつまんねえ日々に戻るのか?)

 

 虚栄の残骸が散らばった部屋を、思い出した。

 出流を捨てて、最早不可分な彼への恋心を捨てて。もう一度、虚しい刹那ばかりの日々に戻りたいのか?

 

 ―――そんなの、まっぴら御免だ。

 

 いつの間にか随分と狭まっていた視界が、少しだけ開けた。眼前には、蒼にはもう無いものを露出した白波瀬―――恐ろしい。

 蒼は白波瀬から意識を逸らして、その背景に目を向けた。

 

 月光が僅かに照らしているが、ここは()()()()()()()()()()。部屋の扉は―――通れそうにない。

 蒼は、四年前のあの日を思い出す。あの時も、蒼は似たような光景を幻視していた。

 

(………うわ、マジか。そういや今日と日付同じじゃん)

 

 蒼は可笑しくなって、心の中で笑った。お誂え向きにも限度があるだろう。蒼に与えられた運命は、どうにもロマンチストの気があったらしい。

 

 この暗い部屋の中には、閉じた安寧がある。その先に何もないとしても、今この時だけを救う安寧が。

 だが、扉を開けたのなら。扉の向こうに、進むことができたのなら。

 

(その先には、何がある)

 

 蒼は―――その答えを知っている!

 

(……ッ!)

 

 全身が粟立ち、視界が急速にクリアになる。震えは完全には収まってくれなかったが、身動きできない程ではない。

 

(何が、なァにが。『イズルなんか忘れたほうが良い』だ)

 

 蒼は吐き捨てる。己の弱さが歪めた心の声を。

 

(何が、『イズルにはイズルの。俺には俺の相応しい相手』だ。こんな遵法意識の欠片もねえカスのチャラ男が、俺みてーな究極美少女に相応しい相手なワケねえだろ!)

 

 一度は暴力に吹き消された火が、蒼の裡に再び生まれる。小さな小さな種火だったものは、蒼の中で渦巻く数多の負の感情を燃料に、瞬く間に成長していった。

 『意地』。理論・理屈・正しさを失おうとなお譲れないもの。今の蒼を突き動かす、情動の正体だ。

 

 紺色の瞳の奥で、炎が蒼く燃え上がる。

 力に屈した弱気な自分が、その炎を必死に消そうとしてきた。

 

 『ちっぽけな意地を張るのをやめろ』。『力に靡くのは世の摂理だ』。

 

(そうかも、知れねえな。助けが間に合うとは思えねえし、そもそも来るかも分からねえ。今よりもっと痛い思いして、それで結局何の意味も無くて。全部無駄になって後悔するかもしれねえ)

 

 蒼は、己の弱さを受け容れる。

 その上で。

 

「―――黙り、やがれ」

「……あ?」

 

 弱い心が生み出す言葉を、蒼は真っ向から否定する。蹴られて踏まれた腹に力を込めて身体を起こし、拘束された手で支え、気丈に白波瀬を睨みつけた。

 未だ蒼の心を縛り付ける恐怖に、涙を滂沱と垂れ流しながら、それでも。

 

「誰が、テメエのモンになんぞなるかよ……! イズルを、馬鹿にした、テメエなんか……、テメエ、なんかなあ……!」

 

 蒼は、泣きながら笑う。取り繕って笑う。挑発的に、独善的に。

 そして、理不尽のすべてに―――

 

 

「大ッ嫌いだバァァーーーーカ!!!!」

 

 

 ―――中指を立てた。

 

 


 

 

「は、ははッ」

(言った。言っちゃった。言ってやった)

 

 蒼の口から乾いた笑いが漏れる。無謀な行為だ。そら見てみろ。

 

「そうかよ」

 

 白波瀬は、白けたと言わんばかりに表情を消し、ゴミでも見るような目を蒼に向けていた。

 

「ま、こんなのは所詮お遊びだ。お前が俺に靡いても、気が済むまで遊んだら捨ててやってただろうさ。―――だから」

「――かはッ!?」

 

 徐に伸びた白波瀬の手が蒼のほっそりした首に突き込まれる。そのまま首を締め上げられ、蒼は呼吸に苦しみ空気を求めて喘ぐ。

 

「ァ……カ、ァ……ッ」

「前倒しだ。絞め上げながら犯してやるよ。何度かやったが、処女相手は流石に始めてだなァ。うっかり死んでも恨むなよ?」

「ハァ……ッ、ク……!」

 

 息が苦しい。視界が徐々に裏返っていく。手足が痺れて頭が強く痛むが、その痛みが徐々に遠ざかるのを感じていた。

 不意に、下半身が妙に涼しくなる。白波瀬が、下着を脱がすか破くかしたのだろう。

 

 決定的瞬間は秒読み。蒼に抗う術は無く、助けも来ない。十分な時間は―――稼げなかった。

 

「ぎ、ィ………」

 

(あ、やべぇ。マジで意識が朦朧としてきた)

 

 身体は浮かんでいるのに、頭が重くて気持ち悪い。そろそろ笑えないというか二度と笑えなくなりそうなラインに入りつつあるのを蒼は自覚する。

 それでも、白波瀬の手は緩まないようだ。

 

(これ、もう終わったかもな―――あ、イズル)

 

 涙と酸欠でぼやけた蒼の視界でも、彼の姿だけははっきりと映った。それ以外と比べてこれだけ鮮明なのだ、幻覚に相違あるまい。

 

(おーい、イズルー……別れ際かもしれねえんだし、何か言ってくれよー……)

「ひゅーっ、かひゅーっ……」

 

 蒼は口を開こうとしたが、掠れた呼吸音しか出てこない。

 それが、小さな違和感だった。

 

(あれ? 呼吸できてる?)

「ひゅッ、ひッ……ハあッ!?」

 

 蒼は目を白黒させながら現世に戻ってきた。いつの間にか、蒼の首にかかった手が無くなっている。死、あるいはそれに準ずる重篤な何かに繋がりうる直前で白波瀬が加減したのかと、蒼は最初思った。

 だが、そもそも蒼に伸し掛かっていた白波瀬の重みそのものが消えている。

 

 涙やら何やらでぐちゃぐちゃになった目を擦り、視界を取り戻す。蒼に覆いかぶさっていたはずの白波瀬は、分身を仕舞った状態で立ち上がっていた。信じられないものを見る目を事務室の扉に顔を向けている。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、顔を向けている。

 蒼はこてんと首を傾け、出入り口を視界に収めた。

 

 

「―――ぁ」

 

 

 思わず、声が漏れた。

 

 いつの間に、それほどの時間が経っていたのか。

 あるいは、彼が余程急いだ―――否、幸運だったのだろうか。

 

 蒼の渡したヒントでは、一箇所に絞り込みきるのは難しい筈だ。幾つかの似たような施設をリストアップして順番に回る、その最初の一つ目で当たりを引きでもしない限り、こんな早くには現れ得ないその姿。

 

 ライダージャケットに身を包んだ、蒼と同じ背丈の青年。

 その足元では、何が起きたのか小太り男が転がって気絶していた。

 

 

 目元を隠す髪房の間から、真紅の眼光が白波瀬を射抜く。

 

 

 ―――佐倉出流がそこに居た。




個人的な美学なのですが、『物語の主人公には失意と絶望の中に叩き落されて一度は絶望に心を蝕まれても、大切な誰かの存在を切っ掛けに心を取り戻し、泥水すすりながらでも立ち上がって最後には幸せを掴んでほしい』です。
このお話も、そういうお話です。

毎日更新のストック無くなっちゃいました。
でも投稿者負けないよ。


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First Pain(7)

クライマックスに戦闘シーンは必須ですよね?(曇りなき眼(F.E.A.R.製TRPG畑出身並感(何事も暴力で解決するのが一番だ)))

小説として戦闘シーンを書くのは初めてなので、ちょっと不安です。ちゃんと伝わっていれば良いのですが。


「イズ、ル……けほっ」

 

 蒼の弱々しい声が、出流の耳に届く。出流は蒼に目を向けた。

 だが蒼は、思わず目を逸らしたくなるような惨憺たる有様だった。首に薄い手形、頬には涙と暴行の跡が生々しく刻まれ、買ったばかりだったのだろうデニムジャケットとワンピースは、踏まれた靴跡や埃に汚され、酷く見窄らしくなってしまっていた。

 それに何より、自由を奪う金属の手枷が状況をあまりに雄弁に物語る。

 

「アオイ」

「っ」

「もう、大丈夫」

 

 有無を言わさぬ強い断定。その一言は、蒼を心から安心させるに足るものだった。

 

「うんっ、ありが、と―――」

 

 緊張の糸が切れたのだろう。気絶するように眠った蒼に一度優しい目を向けた出流は、白波瀬に向き直った。その顔は凛々しく、白波瀬は四年前の出流と脳内で比べ、大きな違和感を覚えていた。

 

「テメェ……どうやってここが分かった?」

「運が良かったんだ。アオイのヒントに合う場所を探して、最初にここを選んだだけだよ」

 

 白波瀬はギリギリで間に合われた事に内心焦りを覚えていたが、すぐに平静を取り戻す。

 

(どうせコイツも五十右みたいに、ハリボテの虚勢を張ってるだけだ。ちょっと脅かせばすぐに崩れる)

 

「フン。まあ、いい。で? 佐倉。五百万はちゃんと持ってきたんだろうな」

「あー……」

 

 出流は、『あったねそんなの』と言わんばかりの表情を浮かべ。

 

「ごめん、忘れて来ちゃった」

「あ゛?」

 

 あっさりと言い放った。

 白波瀬の額に、青筋が浮かぶ。

 

「アオイがヒントを教えてくれたでしょ? あんな真似をしたら絶対にアオイが危ないと思って急いでたんだ。お金のこと、すっかり忘れてたよ」

 

 余裕綽々の出流の態度。白波瀬は内なるマグマが噴火しかけているのを感じていた。

 

「ほお、じゃあ何か? 佐倉。テメェは俺から力ずくで五十右を取り戻すつもりか?」

「うーん……できれば穏便に済ませたいんだけど」

 

 曖昧に笑う出流の姿は、どこどこまでも白波瀬の癪に障る。

 

「そうかいそうかい。五十右と言い佐倉と言い、俺をその気にさせるのが上手だなァ。エリート高じゃそんなこと学んでんのか? クックク……」

 

 顔を俯けた白波瀬は、クツクツと笑う。それは嵐の前の静けさ。激発の直前の、極度の怒りからくる笑いだった。

 

「俺を舐めるのも大概にしやがれ佐倉ァ! ひょろくせえガキの癖に、一丁前にナイト気分に浸ってんじゃねえ!!」

 

 蒼とのやり取りで沸点の下がっていた白波瀬の怒りは瞬く間に理性を弾き飛ばし、そのまま出流に襲いかかる。

 握りしめた拳を振り上げ、蒼にそうしたように出流の頬を打ち抜こうとした。

 

「僕がガキなら」

 

 出流は避けない。ただ、白波瀬の手首に右手を添え、少し押すだけ。

 

「白波瀬くんもそうじゃないかな」

 

 力の流れを逸らされ、頬を狙った拳は出流の顔の前の空気を突き抜けた。勢い余って白波瀬はバランスを崩す。

 白波瀬の足が踊ったかと思うと、散らばった部品を踏みつけ派手に転倒する。傍目には目測を誤って拳を外した挙げ句、ひとりで勝手にすっ転んだようにしか見えないだろう。観客がいなかったのは、白波瀬にとって救いだったかもしれない。

 

 出流は一歩下がり、距離を作ってから見下ろす。その雰囲気は普段と変わらない柔和なもので、だからこそこの状況にどこまでもそぐわない。

 

「だって同い年だし」

「うるッせェ!」

 

 怒声を上げながら立ち上がった白波瀬は、距離を詰めながら脇腹を狙った回し蹴りを放つ。出流はまたも退かず、それどころか距離を詰め、白波瀬の軸足を素早く払った。

 

「なァ――!?」

「こんな場所で蹴りだなんて危ないよ」

 

 態勢を崩された白波瀬の攻撃は上にすっぽ抜け、腿が出流の肩に軽く当たるだけで殆どの威力を失っていた。そして本人は再びの転倒で、今度は背中に部品がめり込む。白波瀬は弾ける激痛に背中を抑えながら床を転がった。

 

「ぐッ、がァ……!」

「ただでさえ色々散らばってるんだから、倒れたら大変じゃない?」

 

 出流は立ち位置を入れ替え、眠った蒼に近づくように再び白波瀬から一歩分の距離を取る。いいようにあしらわれている白波瀬の怒りは、蒼に煽られていた時よりも更にヒートアップしていた。

 

「てン、め、ェ……!」

「白波瀬くん。蒼を返してくれないかな」

「ほざけェ!!」

 

 怒りで忘我しつつも二度の転倒で学んだ白波瀬は、大ぶりな攻撃を辞め、両の拳で細かい乱打を出流に放った―――放とうとした。

 だが、最初の二発を出流の掌に受け止められたことで乱打にすらならない。拳を戻そうとするが、全く外れない。

 

「ぐッ!?」

 

(嘘だろ。俺より格段に細い身体の、どこにンな力が!?)

 

 白波瀬は更に力を込め、強引に引き抜こうとする。

 

「くっ……! おォッ!」

「あ、ごめん離して欲しいよね」

「はァッ!?」

 

 後先考えず拳を退こうとしたその瞬間に出流が手を放した事で、白波瀬の身体が後ろに流されるように倒れる。事務机に腰を強打し、更に壁に後頭部を打ち付け二重の鈍痛に悶え苦しむ。

 

「ぐっ、くそが……! 何が、起きてやがる!?」

「どうしたの?」

「とぼけんな! なんで俺が勝てねえんだよ! テメェは、俺より力が弱くて! 俺に勝てる訳がねえ! だから、俺に金を渡してたんだろうがよ!」

 

 四年前の出流の姿と、今の出流は別人にすら思えた。佐倉出流は、自分よりも弱く、金だけ持ってるボンボンではなかったのか。自分より下で弱いから、利用されて当然の手合ではなかったのか。

 

「そうだね。あの頃の僕は、白波瀬くんみたいないじめっ子相手に抗うなんて、とても出来なかったよ。お父さんの手前大事にしたくないってのもあったんだけど……こんな風に、戦うなんてしなかった」

 

 出流は自分の両手を握ったり開いたりしながら見つめる。その目つきは、喧嘩の最中とは思えないほどに穏やかだった。

 

「でも。アオイに助けられたあの日、僕は初めて弱い自分を恥ずかしいと思った。アオイにあこがれて、暴力に抗う手段を身につけようって決めたんだ。護身術とか、色々勉強したり特訓したりね。アオイには、秘密にしてたんだけど」

 

 白波瀬は事務机に手をかけて身体を支えながら、出流の言葉を聞いていた。それは呼吸を整え体力を取り戻す為でもあったが、出流の変貌があまりにも著しく、危機感が警鐘を鳴らしていたためでもあった。

 

「また同じような事が起きた時に、アオイの手を借りなくて済むように。アオイが危険な目に会わずに済むように。アオイに怪我させたくない。アオイを汚させない。僕の、僕の家の問題にアオイを巻き込みたくないけど、だからってアオイと距離を取るのも絶対に嫌だ。それならもう―――僕がアオイを守れるようになるしかない、でしょ?」

 

 真紅の瞳が異様な輝きを宿す。静かな狂気が滲んだ眼光に、白波瀬は思わず生唾を飲んだ。

 

「ねえ。白波瀬くん」

「……何だよ」

 

 

「僕が来た時、アオイに――何をしようとしてたの?」

 ―――突然、背中に氷の塊を放り込まれたかのようだった。

 

 

 出流から放たれる、視認できそうな程に莫大な精神的重圧(プレッシャー)。白波瀬の首筋を冷や汗が流れ落ちる。

 今や、虚勢を張らされるのは白波瀬の方だった。乾いた喉を唾液で潤し、憎らしい顔を出流に向ける。

 

「……ハッ、五十右が女の分際で俺に楯突くから、立場をわからせてやろうとしたのさ。お前があと少し来るのが遅ければ、五十右の初めての相手は俺になってたんだがな。あぁ惜しい惜しい」

「アオイは、僕の恋人なんだよ。良くないよ、そういうの」

「恋愛ほどくだらないモンはこの世にねえよ。女なんざ、死ぬ思いする程にビビらせてからちょいと優しくしてやりゃあコロッと落ちるもんさ。実際、五十右もあと一歩だったんだぜ? お前との関係をメチャクチャにしてやれると思って、最ッ高に滾ったんだけどなァ……!」

 

 言いながら、白波瀬はズボンのポケットに手を突っ込み、その中に常に携帯しているものを取り出した。刃をグリップの内側に収納でき、手首の操作で取り出せる機構を持つ金属の武具―――バタフライナイフ。

 白波瀬は慣れた手付きで軽やかな金属音を立てながら、収納されたブレードを引き出した。

 

「佐倉、お前の素晴らしい考えはよーくわかった」

 

 姿勢を低くして刃を出流に向け、白波瀬は構える。

 

「でもな、ンなもんは俺にとっちゃ道端の石ころほどにも価値はねェんだわ。お前が金持ってきてねえなら、お前を使ってお前の父だか母だかに金を持ってきてもらうまでだ」

「ナイフ使ったら最悪人質に使えなくなるんじゃない?」

「黙りやがれ! ついでにお前の眼の前で五十右を犯して、その様をお前に見せつけてやるよ! いいか佐倉。お前はなァ。お前みてえな奴はなァ……!」

 

 グリップを力強く握りしめた白波瀬は、構えたまま勢いよく走り出す。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()ーーーッ!!」

 

 

 数歩の距離を詰め切り、ナイフを横一文字に振り抜く。蒼と出流に汚されたプライドは、彼らの苦痛と絶望を以て購うべきだ。そうでなければいけないのだ。

 

 それは、もはや狂信だった。己が出流に負ける訳がない。この状況は何かの間違いだ。得物たるこのナイフで、その虚飾を切り裂いてやろう、と。

 先程まではお互い無手だったが故に遅れを取ったが、これを手にした以上白波瀬に負けは無い。そんな道理は存在しない。

 

 ナイフ―――ないし武器全般に言える事だが、その存在が齎す恐怖は、本来の殺傷性能より余程強烈だ。相手に死を連想させる力は、身体を縛りその動きを鈍らせる。

 それは武器を握る本人にも言える事だが、ナイフ(これ)を振るい慣れている白波瀬と、そんな経験など無いであろう出流との差は歴然。

 

 

 だから。

 白波瀬は。

 

 

 振り抜こうとした手首を片手で押さえつけられ、直後手の甲へ振り下ろされた拳にナイフが叩き落された事実を認識できず。そのまま腰の入った拳打が肋骨の下にめり込み、頭を下げさせられた事に気付かず。

 下がった顎を打ち抜く出流の強烈なハイキックをモロに受け、一撃で意識を刈り飛ばされるその瞬間まで―――己の勝利を信じて疑わなかった。

 

「『刃物は見てると当たるから見ないで対処する』。うん、習った通りだ」

 

 手首を掴まれたまま膝から崩れ落ちた白波瀬が気絶していることを確認し、出流は手を離した。支えを失い、白波瀬はうつ伏せに倒れ伏す。

 出流の目には、喜びも感慨も無い。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「寝てる所悪いけど、手錠の鍵探させてもらうね」

 

 彼にとって、白波瀬に勝つ事など―――蒼を助ける為の、通過点でしかなかった。




※出流くんは特殊な精神性を持ち特殊な訓練を受けています。真似しないでください


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First Pain(8)

ようやくタグとジャンルに相応しいシーンに戻ってこれました。
毎日投稿しても尚長かった。


 蒼は、優しい揺れの中で目を覚ます。単身赴任で二ヶ月ほど会えていない父に、おんぶされた幼少期の記憶を思い出しながら目を開ける。

 

「おはよう、アオイ」

「おー……、!?」

 

 

 出流におぶわれていた。反射的に蒼の身体がバタつき、出流はバランス取りに苦心する。

 

 

「ちょ、ちょっと! 危ないから揺らさないでって!」

「あっ、わ! あぶッね!」

 

 蒼は慌てて出流の身体にしがみついてどうにか落ち着く。再び歩き出した事でほっとひと息をついた蒼だったが、そもそもこの状況自体がおかしいことに気付いた。

 

「イズル、俺を降ろせばよくね?」

「そうだった」

 

 出流の背から降ろされた蒼は、若干震える足に鞭打って歩き出す。出流に負担をかけさせまいと降りたが、出流の体温の感触が少し名残惜しく感じた。

 

「ふう。よしイズル、とりあえず説明してくれよ。結局アイツらとか俺とかどうなったんだ?」

「ええっと―――」

 

 


 

 

 出流は、気絶した白波瀬の身体をまさぐり、蒼の手錠の鍵を確保した。そうして蒼の手錠を外し、そのまま白波瀬の拘束に流用する。

 丁度、大神が事務室の入り口に姿を表した。

 

「坊ちゃま、車の手配が出来ました」

「あ、ありがとう。じゃあ、白波瀬くんと安発くんを車に運んでおいてくれる?」

()はどうします?」

「少し話したい事があるから、それまで待ってほしいな」

「わかりました。では失礼してっと」

 

 そう言って大神は、白波瀬と小太り男(安発)をそれぞれ腕一本で担ぎ、のっしのっしと事務室を去る。大神と入れ違うように姿を見せたのは―――帽子を被った目つきの悪い男、中嵜(なかさき)だった。

 中嵜は引き気味の表情で大神を見送った後、出流に目を向ける。

 

「……終わったか」

「うん。二人……特に白波瀬くんには、僕の家でお灸をすえてから警察に自首してもらうつもり」

「……そうか」

 

 中嵜は力無く、しかしどこか憑き物が落ちたような表情を浮かべた。

 

「あ、言っておくけど。中嵜くんも自首はしてもらうからね? 僕も助かったけどアオイの誘拐に関わったのは事実なんだから」

「……分かっているよ。今更逃げたりしないさ」

「でも、その前に聞きたいな。どうして――()()()()()()()()()()()()?」

 

 出流が決定的瞬間に間に合ったのは、まるっきり偶然ではない。白波瀬との電話の後、震えたスマホを確認した出流は、中嵜からのメッセージを受け取っていた。『任せる』というたった三文字に添えられた、GPS情報を。

 通常であれば信じるほうが難しい、敵(推定)から齎された情報。だが、出流はそれを信じ一直線に向かってきた。その結果は―――この現状が何よりも雄弁に物語っている。

 

 中嵜は、隈の浮いた目を伏せた。

 

「……正直、もう嫌だったんだ。白波瀬(ダイ)がどんどん悪い方向へ向かっていくのも、安発(サン)が何も考えずダイに流されていくのも。二人に見放されたくなくて片棒をかつぎ続けてきたけど、ずっと辛かった」

「止めようとは、思わなかったの?」

「思ったよ。でもそれこそ突き放されて、俺を置き去りに更に深みに嵌っていくんじゃないかって思うと……怖かった。迂闊な真似は、出来なかったんだ」

 

 中嵜は事務机に腰掛け、くたびれたように肩を落とす。その顔は、心労が色濃く現れていた。

 

「別に、自分のことを上等な人間だなんて思っちゃいない。ここまでじゃなくても、法に触れる事やったことあるし。でも、誘拐(これ)は流石に違うだろ、って思った。だから、五十右の携帯から佐倉の連絡先を調べて、それで位置情報を送ったんだ」

「……中嵜くんは、中嵜くんなりに友達を大切にしてたんだね」

「やめろよそういうピュアな言い方。結局、俺もサンと同じ、流されながら依存してただけなんだ。捨てられる可能性にビビって、二人の軌道を修正する踏ん切りは付かなかったし、かといって距離を取るには……まあ、惜しい奴らだったんだよ。お前らには、そうは見えなかっただろうけど」

 

 『言っちゃあアレだけど美味しい思いもしてたしな』と言いながら、中嵜は自嘲的に笑う。

 

「俺からもいいか。なんで……信じたんだよ。俺のこと」

「一応、いくつか理由はあるかな」

「聞かせてくれるか?」

「うん。中嵜くんからメッセージが来た時点で、これは白波瀬くんの思惑とは別かなって思ったんだ。中嵜くんも言ってた通り、僕にメッセージを送るにはアオイから情報を引き出すしかない。でも、僕が犯人ならそういう真似はさせない。だって、裏切りの可能性を生むでしょ?」

 

 出流は朗々と自分の考えを語る。

 

「勿論、僕に嘘の情報を流す情報戦の可能性もあった。でも、この状況ならそういう情報戦を仕掛けないのが正解なはずなんだ。仮に嘘の情報を送って信じられなかったら、みすみすカモフラージュの候補を自分で一つ潰してしまうようなものなんだから。指標のない選択肢の中で迷ってもらったほうが当たりを引く確率は低くなるよね」

「………」

「一応、敢えて正解の情報を送って疑わせる線もあるけど、それこそ信じられたら終わりのリスキーな賭けだし。誘拐なんて大それた犯罪に手を出している以上、リスクは極力避けたい。僕なら、そう考える」

 

 そこまで言って、出流は照れくさそうに頬を掻いた。

 

「まあ、結局そういう論理は投げ捨てちゃったんだけどね」

「は?」

「だって、どれだけ考えたって道は二つだけなんだ。信じるか信じないか。その情報をどう活用するかも、まずそこを決めないと話にならない。だから僕は、中嵜くんの事を考えた。そしたら、信じるべきだなって」

「……な、なんでだ」

 

 中嵜は狼狽える。いじめっ子の自分を、どうして信じようという気になったのか。四年前に苛めたっきりの相手など、恨みこそすれ信じられる訳がない。

 

「だってあの日、白波瀬くんが僕を()った時、止めようとしてくれてたもの。優しい人だなって、思ってたんだ」

「は、はぁ!?」

 

 出流の答えは、中嵜の予想より遥かに馬鹿らしいものだった。

 

「冗談だろ!? 俺はお前を苛めてたんだぞ!?」

「それはそうなんだけど……でも、なんとなくそう思えたから」

「ッ……!」

 

 言葉が出て来ない。眼の前の同い年であるはずの少年が、雲の上の存在か何かに思える。

 他人の善性を盲信しているのかと思いきや、妙に的確に人を見透かした事を言う。どこまでも優しいように見せかけて、暴力に抵抗が無いかのように白波瀬を苦もなく圧倒した。中嵜の理解力では、出流の人物像を掴める気がしない。

 『大物』。そうとしか形容出来なかった。

 

「はぁ……。あーあ、ダメだこれ。そりゃ俺達じゃ勝てねえ訳だよ」

 

 中嵜は両手を上げながら事務机から降り、そのまま出口に向かう。

 

「まあ、なんだ。ムショに行くのかどうかわかんねーけど、俺も頑張るわ。ダイとサンを、あー……今よりはいい感じにしたい」

「そっか。頑張ってね」

 

 出流は、中嵜の心意気を受け取った。出流からすれば鬼畜外道にしか見えなかった白波瀬も、一から十まで悪い奴では無いのだろうと思った。

 

「ああ。………ところで、ダイにお灸をすえるって具体的に何するんだ? その、俺から要求できる立場じゃないけどさ、なんか傷が残るようなのは勘弁してやってほしいっつーか」

「痛い事じゃないよ。()()()()()()()()()()()()()()()

「へー……それ、なんか意味あるのか?」

「どうだろうね?」

 

 だが、それとこれとは話が別だった。

 

 


 

 

「―――って感じ」

「えっと……そっか」

 

 蒼は、白波瀬は謎の拷問を受けるのだろうということはなんとなく理解した。蒼としては白波瀬に良い印象など欠片もないので、どうぞ好きにやれば良いという感想だった。

 

「でも、そっか。アイツのお陰か。俺が頑張った意味って一体……」

「そ、そんなことないよ!? アオイが僕の為に頑張る姿を見て、中嵜くんも決心がついたって言ってたから!」

「そ、そうか? じゃあ……まあいいか」

 

 二人は夜道を歩き始める。家までは車やバイクで移動する距離は、歩きならば数十分はかかるだろう。出流はタクシーを呼ぼうかとも思ったが、ズタボロの蒼について説明を求められると非常にややこしい事になるので、一旦棚上げした。

 

「アオイ」

「ん?」

 

 出流は、開いた手を蒼に向ける。

 

「手、繋ご」

「うぇっ?」

「その、アオイを家に送るまで。アオイの事、放したくない」

「っ……」

 

 ストレートな、執着の言葉。でも、蒼にとってはその執着心が心地よかった。

 

「わ、わかったよ」

 

 蒼からも手を差し出す。出流は意を決して、その手を握る。蒼の指の間に自分の指を差し込み絡める。所謂、恋人つなぎである。

 急なアプローチに蒼の顔が発火してしまう。

 

「な、おま」

「つ、付き合ってるんだから、これくらいする、でしょ」

「う……。ったく、しょうがねえな……!」

 

 蒼も出流も、恥ずかしくて握りこむ手に力が籠もる。自然と意識が、繋がった手に吸い寄せられていく。

 

(アオイの手、柔らかいなぁ。男だった頃は、ゴツゴツして頼もしい感じだったけど……今は細くてひんやりしてさわり心地が良くて。これはなんというか、ちょっと幸せな気分かも……)

(イズルの手、なんかがっしりしてないか? いや昔の俺よりは断然細いけど、今の俺より大きくて、包み込まれてるみたい。少し熱いのも込みで男の人の手って感じする。うわ、こっちの顔まで熱くなってきた……)

 

 触れた指の温度に、緊張で滲む汗。皮膚の感触が二人の間で混じり合う。ただ手を握って歩いているだけなのに、二人とも心臓の鼓動が早まるのを感じていた。

 

 暫く、無言で歩き続ける。互いの顔も見られなかった。

 

 夜風が肌を冷やそうとするも、身体の内側から放出される熱が寒さを上書きする。寒さを感じないで済むのは良いことだったが、精神の方が保ちそうにない。

 

 先に音を上げたのは、出流の方だった。

 

「そ、そうだ。タクシー呼ぼうかな。アオイも疲れるもんね。大丈夫。一応タクシーアプリ入れてるから、道に出ればすぐ――」

 

 言いながらスマホを取り出そうとした出流の手を、蒼が掴む。何事かと蒼の顔を見ようとするも、俯いた顔は覗けなかった。

 

「イズル」

「な、なに?」

「今日。色々と、その……ありがと」

「う、うんっ。どういたし、まして?」

 

 いつになくしおらしい蒼の態度に、出流は動揺した。

 

「俺、白波瀬にヤられそうになった」

「それは……えっと、なんて言ったら良いか」

「ああいや、違う。そういう事を言いたいんじゃなくてだな」

 

 蒼は繋いだ手を解いて頭を掻く。出流は物寂しさと名残惜しさを覚えた。

 

「その、アイツに色々言われて、今も考えちまうんだ。俺は、イズルに相応しいのかなって」

「えっ、そんなことないよ。だってアオイは強いんだもの」

「ッ」

「攫われて捕まって、それでも僕にメッセージを送ってくれた。あんなこと、誰でもできる事じゃないよ。むしろ僕のほうが」

「そうじゃねえんだっ!!」

 

 心の蟠りを吐き出す蒼の怒声。出流は驚いて言葉を引っ込めてしまう。

 

「俺は、強くなんかないッ! 四年前からお前に憧れて、イズルみたいになりたくて! ずっと、ずっと強いフリをしてただけだった! 本当の暴力に晒されて、俺、簡単に心が折れたんだ! その瞬間だけ助かるために、アイツを受け入れようとして! イズルへの想いだって……捨て、捨てようと……ッ!」

「っ」

 

 出流の手首を取った蒼の手に、強い力が籠もる。出流は眉間に皺を寄せた。

 

「俺、イズルの事が本当に大好きなんだよ。アイツにされそうになった事、全部イズルにされたって構わないくらいに! でもよ、俺、こんなだからさあ! 自分の事も、イズルの事も。信じられねえ。信じられねえんだよ……」

「………」

「イズルの傍に、いて良いのかな。こんな俺が、弱さを必死に隠した俺が。イズルみたいな本当に強い奴の隣にいて、良いの、かな……」

「アオイ……」

 

 蒼は両手で出流の服にしがみつき、その胸に顔を埋める。

 少しして、重い嗚咽が出流の耳に届いた。

 

「ウッ……ふぐっ、うゔぅ……ッ」

「――アオイ」

 

 出流はスマホをポケットに仕舞い直してから、蒼の背中に手を回しゆっくりと撫でた。

 蒼の嗚咽が収まるのを待ってから、出流は口を開く。

 

「僕は、その場面は見てないけど。でも、アオイは自分で立ち直ったんじゃないの?」

「……?」

「僕が駆け付けた時、アオイは首を締められてて、どう見ても無理やりって感じだったし……。ただ受け入れただけなら、ああはならないと思うんだけど」

「あ、えっと……それは、そうなんだけど。一時はそう思ったっていうか」

「でも最後には抗ったんでしょ?」

「いや、まあ…………うん」

 

 想像と違う反応が返ってきて言葉に詰まる蒼に、出流はあくまでも優しく語りかけた。

 

「僕は、アオイのそういうところがアオイの強さだと思うよ。折れても立ち上がれる、窮地でも諦めない。なんだっけこういうの。ハングリー精神っていうのかな?」

「………」

「その、僕はなんというか。たしかに強いかもしれないけど、ハングリー精神みたいなのはあんまり無いと思うから。アオイには、アオイの良い所があるよ。それは僕が保証する」

 

 出流は、言いながら既視感を覚えていた。記憶を探りその原因を探すと、答えは意外と近くにあった。

 

「ホイップクリームと同じだよ。好き嫌いなんて人によるから、値段や品質だけが価値の全てじゃない。人も、強い弱いだけが全部じゃない。僕は、そういうの全部ひっくるめて――アオイの事が好きなんだ」

「っ……!」

 

 一度は止まった蒼の涙が再び溢れてくる。ただ、これは苦しさや惨めさから出たものではない、暖かい涙だった。

 

「何だよ、お前ぇ……。完璧彼氏かよお……っ!」

「え、そう?」

「そうだよ! お前なんかこうしてやる!」

 

 自覚無しに人をどんどん好きにさせるたらし野郎の胸に頭をぐりぐりと押し付けながら、蒼は笑い泣く。

 気が済むまでぐりぐりした蒼は、再び出流の胸に頭を預けた。

 

「なあ、イズル」

「なに?」

「俺、今からめんどくさい女みたいなこと言う」

「えっ、どうしたの急に」

「俺は、イズルの事が大好き」

「う、うん。聞いたよ」

「イズルも、俺の事が大好き……なんだよ、な?」

「も、もちろん」

 

 ドッ、ドッと。蒼の心臓が激しく跳ねる。満月が照らす、何処とも知れぬ閑散とした道のど真ん中。蒼は、イズルの胸に耳を当てながら口を開いた。

 

「でもさ。言葉なんて、いくらでも取り繕えると思わないか?」

「んん……ど、どうかなぁ……?」

 

 心根の優しい出流としては、首肯し辛い意見だった。

 

「まあ、イズルがどう思うかは知らないけどさ。今の俺には、わかんねえんだよ。イズルの気持ち。だから――」

 

 出流の服を握りしめる手に、更に力が籠もる。顔全体が熱くて、風邪でも引いてるみたいだった。

 

 

「――イズルの思う方法でさ、俺に信じさせてくれよ」

 

 

「え、えっと……?」

 

 出流は困惑する。方法は任せると言いながら、それを認めるかどうかは蒼次第。つまるところこれは、蒼の求める方法を取れという意味にほかならない。

 

(確かにこれは、めんどくさい女みたいな事……かも)

 

 内心苦笑した出流は方法を考える。とは言え、一発目で正解を引ける気はしないので、思いついた端から試すことにした。

 

「大好きだよ、アオイ」

「ん゛っ……だ、だから言葉じゃないって言っただろ!」

 

 思ったより琴線に触れてそうな蒼の反応に『このまま押せば言葉だけでも通りそうじゃない?』という邪念が一瞬出流の脳裏を過ったが、ここは真摯に蒼に向き合う場面だと判断した。

 出流は両腕で蒼を抱き寄せ、少し強めに力を込めてみる。

 

「……どう、かな」

「悪くない、けど。……まだ足りねえ」

「じゃ、じゃあえっと……あ、お母さんもお父さんもアオイの事認めてくれたよ」

「マジ? やるじゃんイズル! ……いやだからそうじゃなくて」

「これでもダメ? う、ううんえっと……あーっと……」

 

 出流は色々と考えようとするが、こうして抱きしめている状況が既に出流を混乱させるに十分なもの。てんぱり始めた出流の脳内は、蒼の身体の事ばかり駆け巡って、他の事に思考のリソースが割けなかった。

 

「えっと、その……んーと……」

 

(うう、アオイの身体柔らかくていい匂いする……! ダメだ考えが全然まとまんない!)

 

 抱きしめたままパニックに陥っている内に、タイムオーバーが訪れた。

 

「だああっ! なんでそんな急に察しが悪くなるんだよ!」

 

 蒼は怒りを含んだ真っ赤な顔を上げる。出流は『蒼のせいだよ』とは言えず、ただこれからくるお叱りを受ける態勢を整えることしか出来ない。

 だが、蒼の行動は。

 蒼の求める正解を伝える、とても―――とても、シンプルなものだった。

 

 

 

「だ・か・ら! ああもうッ……()()()()()()()()()()!!」

「―――うええっ!!?」




滴水刑(ボソッ)

次回で最終編は最終回です。最終と最終が被ってしまった。
終わり、近づいております。


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First Pain(9)

最終編の最終回です。



「ほ、本当にするの?」

「何遍も言わせんな! やるったらやるんだよ!」

 

 困惑し、怖気づいている出流に蒼が吠える。

 

「で、でもさ。誰かに見られるかも」

「周り見て言ってみろ」

 

 二人が今いる場所は、大きな川の堤防にある遊歩道だ。進行方向から見て左手に川が、右手に大きな自然公園があった。

 出流は辺りを見回す。前方には車道との交差点が遠くに見えるが、車通りは殆どない。右後方――川の向こう側には、例の廃工場がチラリと映り込む。日が落ちて暫く経っている上、この遊歩道自体あまり利用されていないのか、二人の他には人っ子一人見当たらない。

 先程から二人は騒いでいたがそれに応えるものはなく、まるで二人きりの世界に迷い込んだのかと思えてしまいそうなほどに、この場所は静かだった。

 

「誰が見るってんだ、ん?」

「ひ、人が居なければ良いってものでもないんじゃないかな……?」

「う、うるっせえなあ! いいからやれっつってんだろうが!」

 

 蒼は出流の襟元を掴んで前後に揺さぶる。出流が暫くされるがままにしていると、突然目元を袖で覆う。

 

「ア、アオイ?」

「なんでだよぉ……なんでしてくれないんだよぉ……良いじゃん減るもんじゃないんだしさあ……」

「うっ」

「イズルはホントは俺の事好きじゃないんだぁ……だからキスしてくれないんだぁ……」

「そ、そんなことないよ!? 無いんだけど……」

 

 蒼は鼻を啜る音を立てながらぐずる。

 出流は本音を吐き出すか迷ったが、恋人の涙には勝てなかった。

 

「ぼ、僕だってしたいよ! アオイと! でも、その、もっと場面にこだわりたかったっていうか……」

「うわぁ。イズル、それはちょっと童貞臭くね?」

「ひっど! しかも泣いてないじゃん!?」

「ハハハっ」

 

 女の涙を武器に使い始めた蒼に、出流はムスッとした表情で非難がましい目を向ける。

 蒼はその視線を意に介さず、心なしか上機嫌な風に出流の数歩先を歩く。

 

「ま、そういう事ならいいや。イズルくんのピュアっぷりに免じて勘弁してあげようかな~っと」

(ホントは、本当に今……してほしかったんだけどな。ま、イズルを困らせてまですることじゃあないな)

 

 振る舞いとは裏腹に、蒼の胸中に寂しさが滲む。それを誤魔化すように、蒼は上機嫌なフリを続けた。

 

「イズルは何処で俺とキスしたいんだろうな~? 高級レストランかな? それとも雰囲気の良いデートスポットかな~?」

「む」

 

 自分だって経験が無い癖に、あたかも自分の方が有利と言わんばかりにこちらをからかう態度に少しだけムカっときた出流は、心の中で組み立てていた幾つかのプランを破棄することにした。

 

「じゃあ、教えてあげる」

 

 出流は一息に蒼に追いつき、蒼が後ろに振ったところの前腕を掴んで引く。

 

「僕は、アオイに求められてじゃなくて――」

 

 手を引かれた勢いと出流の声に、蒼は反射的に振り向いた。出流は素早く、今だけは邪魔な前髪を纏めて跳ね上げる。黒の御簾が束の間取り払われ、真剣な紅の視線と、状況に理解が追いついていない紺の視線が交わる。

 

「えっ」

「――僕の方から――」

 

 出流は、左手で蒼の腕を掴んだまま、右手を蒼の頬に這わせたまま身を乗り出し―――

 

「――キスが、したいんだ」

 

 

 ―――蒼の唇を、奪った。

 

 

「!!?!??」

 

 蒼は完全に想定外の状況に目を丸くする。蒼は勢いで出流を突き放しかけたが、掴まれた腕と頬に添えられた出流の手に思考が蕩け、なすがままになってしまう。

 普段は可愛い系であったはずの出流の素顔が、瞼を閉じ真剣な表情をしているせいか妙に凛々しく見えて。出流の唇の少し濡れた感触と熱は勿論のこと、出流の気持ちまでもが、唇からはっきりと伝わってきた。

 

 照れくさくて、少々怒っていて。

 恥ずかしいけど、やると決めたからには一直線。

 蒼を見返したいプライドと、蒼を独り占めしたい執着心。

 

 複雑な感情が蒼の心を満たして、その全てが喜びに変わる。蒼は呼吸も忘れて唇を重ねる悦びにうっとりしながら、無意識の内に出流の腰に手を回していた。

 

 出流もまた、蒼のふにふにと柔らかい唇の感触に急速にのぼせ上がるのを実感しながら、蒼の感情を味わっていた。

 

 暴力に苛まれた恐怖。陵辱されかけた恥辱。一度は膝を屈した事への後悔。

 助けられた安堵。出流への申し訳無さ。自分自身への憤り。

 その全てを足して尚足りないほどの、出流を求める愛情と欲望。

 

 出流は、これ以上何もできそうに無かったけれど、こうすることで蒼の中の負の感情が少しでも和らぐのならと、息を殺して蒼の唇からなだれ込む感情を飲み干し続けた。

 

 

 二人の静かな口付けを、満月は優しい光を投げかけながら見守っていた。

 

 


 

 

 佐倉家のダイニングには、流代と八重の二人だけが残っていた。

 少し前までは使用人総出で情報収集を続けていたが、大神からの『当たり』の報告を受けて片付けを始め、大神が下手人を載せて帰ってくる頃には使用人たちは完全に撤収していた。

 

 二人は出流の帰りを待っていたが、徒歩では相応の時間がかかる。流代は、気になっていた事を八重に聞くことにした。

 

「八重さん。先はああ言ったが……本当に良かったのかい?」

「何の話?」

「結婚だよ。蒼くんを認めてしまって」

「ふふふ」

 

 流代の言葉に、八重は淑やかに笑う。流代はその表情から、八重の『可笑しくてたまらない』という感情を読み取った。

 

()()()()()()()()()()()()。立場だ利用だなんてくだらないものの為に、一生の相手を決めるなんて馬鹿げてる。そういうのは、本家の連中にやらせておけばいいの」

 

 からからと笑いながら出流に向けた言葉を簡単に翻した八重の発言。流代は一つの可能性に思い至る。

 

「八重さんは、まさか。最初から出流を焚きつけるため――」

 

 流代の唇に、八重の人差し指がそっと添えられる。

 

「しー、よ?」

 

 流代は曖昧に笑いながら、八重の手を降ろす。四十代になってこういうのは中々堪えるものがある。

 

「……八重さんには敵わないね」

「当然。――それに」

「それに?」

 

 八重は、どこか遠くを見る目つきになった。

 

「あの子が……自分の意思をあそこまで強く持つ所、めったに見られないんだもの」

「まあ、あの勢いは蒼くん絡みでしか見たことが無いかなあ」

「あの姿を見て思ったの。『ああ、この子はもう……私のものじゃなくなってたんだ』って」

 

 朱い瞳の美女が放った不穏な発言に流代はほんの一瞬だけ身構えたが、それはすぐ杞憂に変わる。

 

「だったら、あの子のやりたいことを応援してあげるのが、親の務め――でしょ?」

 

 八重は身体を倒して流代の膝にぽふんと頭を載せる。流代を下から覗き込み、(わらべ)のように幼く無邪気な笑みを浮かべた。

 この家の当主たる八重は、家同士の外交上様々に笑顔を使い分ける。だが、この笑顔だけは。流代にしか見せたことのないものだった。

 

「――ねえ。そういうものなのでしょう?」

 

 艶やかな黒い髪の間から、燃えるような朱い瞳が流代の黒い瞳と交差する。

 八重の絶世の美貌が相まった甘え仕草は、老若男女問わず誰もが理性を消し飛ばされる程の破壊力だったが、流代は張り詰めていた気を抜いて息を吐くだけに留まる。

 

「うん、そうだね。出流は私達の息子であり、一人の人間として十分に立派に成長してくれた。親に出来ることは、信じて待つことだけ……だね」

 

 流代は、膝に載せた猫にそうするように八重の頭を撫でる。

 

「むう」

 

 八重は少し不満げに頬を膨らませ、『まあこれはこれで』と大人しく撫でられることにした。

 

 


 

 

 一方その頃。

 親が帰りを待っていることなど完全に忘れてキスに没頭していた二人は、ようやく唇を離した。相手の身体を引き寄せたまま同じ高さで見つめ合う二人の瞳は潤み、抑えきれない欲望を荒い息に変える。

 

 唇の繋がりとともに感情の繋がりも切れてしまったが、蒼と出流は同じことを考えていた。

 

((もし今、()()()()()()。きっと断れない))

 

 恋愛のステップを二段飛ばししてしまいそうな雰囲気が、二人の間に醸成されていく。どちらかが、あと一歩踏み出したのなら、間違いなくそうなる。

 

「あ、あのさ。イズ――」

 

 蒼が何事か言いかけたその時、突然出流のスマホが着信に震えた。二人は心臓が口から出そうな程に驚き飛び退る。出流は慌ててスマホを確認し。

 

『五十右 篠江(8件)』

 

 出流の顔から血の気が引いた。

 

「あああっ! アオイのお母さんへの連絡すっかり忘れてた!」

「何ィ!?」

 

 他にも忘れているものがあるのだが、一瞬でパニックに陥った出流は気付いていない。

 

「え、ええっとどうしようまずアオイのお母さんに連絡して、で、でもまってタクシーを呼ぶのが先かな!?」

「落ち着けイズル! 母さんには俺が連絡するから、お前はタクシーを呼んで」

「も、もしもしアオイのお母さん!?」

『出流ちゃん!? 蒼の件はどうなったの!?』

「電話出てんじゃねえよ!」

『アオイ!? アオイがそこにいるのね!? 大丈夫!?』

 

 出流は無意味に手足をバタつかせながら蒼にスマホを渡した。

 

「ま、まあ……無事っちゃあ無事」

『そう、良かった……! ……帰ったら、詳しく話聞かせてもらうからね。早く帰ってくるのよ?』

「……おう。じゃあまた後でな」

 

 蒼は電話を切る。電話口で色々言われずに済んだのは僥倖だったが、その代償に俄に生まれかけた妖しい雰囲気は綺麗さっぱり霧散してしまった。

 二人は、軽く肩を竦めて笑う。

 

「帰るか」

「うん」

 

 


 

 

 ―――こうして、アオイとイズルに突如として訪れた事件は終わった。

 

 ―――たった一夜の、数時間にも満たない即凶劇(アドリビトゥム)は幕を下ろし。

 

 ―――二人の絆は、親友兼恋人へと、形を変えながら続いていき。

 

 ―――そして、日常が帰ってくる。




本作は健全なお話故致し方なし。

これにて、最終編「First Pain」は完結。
次のエピローグ1話を以て、本作も完結となります。
ラスト一話、お付き合い戴ければ幸いです。



登場人物紹介
佐倉(さくら) 八重(やえ)
年齢:42(自己申告)
身体的特徴:鼠径部あたりまである黒髪ストレートロングヘアに紅い瞳。スレンダー体型で大和撫子といった感じだが和服は着ない。どう見ても20代前半。
趣味:手芸、コレクション(詳細不明)、人間観察
説明:
 出流の母であり、『この』佐倉家の当主。
 名家としての佐倉家は本流と複数の傍流に分かれており、八重はその傍流の血筋に属している。傍流であるが故に名家としての責務が薄く、傍流であるが故に資産の量も大したことはない……ハズだが、この家に関しては流代によって本流に次ぐレベルの経済力を携えている。
 フィクションの貴族の家みたいな邸宅(敷地内に庭園とかある)も流代が婿入りしてから建てられたもので、それまでは敷地面積こそまずまず広いものの、家屋自体は豪奢ではない日本家屋だった。

 八重の仕事は家を守る事。出流に語ってみせた言葉や、出流の八重に対する認識は概ね合っているが、実際は八重が言うほど柵は無いし、出流が思っている程八重は神経を磨り減らしてもいない。
 彼女の精神構造は余人のそれとは異なり、利権がらみのギスギスした話し合いも、そのための泥沼根回し合戦も、本心から楽しんでいるためだ。

 『自分のもの』に対して異常な執着を持っており、邸宅の中には寝室とは別に『八重の私物部屋』を拵えている。この部屋は使用人は勿論の事、実の息子ですら立入禁止の佐倉家のブラックボックス。
 なお、流代のみ顔パス。なんでだろうね。

 その美貌は性転換後の蒼ですら、「美しさ」という基準での勝負では絶対に勝てないと思わせる程の、人の枠を越えた代物。しかも時が停まっているのかというくらいに老いの気配が微塵も無い。美容の秘訣を聞かれた際は『夫のおかげ』と答えている。

 彼女と付き合いの長い者の間では、その朱い瞳と変化の無い容姿、外出時は必ず日傘を差す癖などから吸血鬼説がまことしやかに囁かれているが、その実態は定かではない。


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エピローグ:日常はどこまでも

正真正銘の本編最終回です。


 ―――翌朝。

 制服に身を包んだ出流は、五十右家の敷地前で蒼が出てくるのを待っていた。本来なら出流は車で送迎されて然るべきだが、蒼と一緒に登校したいがために徒歩と公共交通機関を使っている。

 

 あんな事があったものの、学業を疎かには出来ない。そもそもあの事件は公権力が介入する余地無く解決してしまったため、表向きには存在しない事件なのだ。

 つまりは、佐倉家と五十右家しかあの事件の事を知る者はおらず、そんなものを理由に休む事など許されるはずもなかった。

 

(ちょっと身体怠いなあ。アオイとか起きてこなかったりして)

 

 出流は手元のスマホに目を向ける。出流はまだしも、蒼の心労は相当のものだろう。出流から送った蒼の家に向かう旨のメッセージも既読スルーだ。

 

(……二日で勘弁しようかと思ったけどやっぱ三日にしようかな)

 

 目を細めた出流が蒼に再度メッセージを送ろうとしたその時、五十右家の玄関扉が開く。出流は思考を中断しそちらに目をやった。

 当然ながら制服姿の蒼が姿を表す。その姿はこの二ヶ月で十分に見慣れていた筈だが、彼女の顔を見るのが妙に気恥ずかしい。出流はちらりと蒼の顔を――唇を――見てしまい、ボッと顔を赤らめた。

 それを見て蒼の顔も爆発し、大股でズンズンと近づいてくる。

 

「あ、アオイ、おは――」

 

 それでも挨拶をしようとした出流の襟を、蒼の手が掴む。その顔は完全に真っ赤に染まっていた。

 

「き・の・う・の・こ・と・は・ぜ・ん・ぶ・わ・す・れ・ろ。良いな!!?」

「な、なんで」

「恥ずかしいからだよ!!! 昨日のは、俺じゃない! 俺が、あんな女々しい真似するわけねえだろ!!!」

「わ、わかりました。忘れます……」

 

 凄まじい気迫に気圧されて、出流はにべもなく首肯させられる。蒼は鼻息荒く掴んだ手を放した。

 

「よしッ、学校行くぞ学校!」

「う、うんっ」

 

 ズカズカと出流を置いて先を急ぐ蒼を、出流は小走りで追いかけた。

 

 


 

 

 蒼と出流は無事に電車に乗り込めた。時間帯上仕方のないことだが、乗車時点で既に座席が埋まっている。立つしか無い二人は、蒼が扉横の手すりを、出流がその隣で座席の上の手すりを握る形になった。

 

「期末テスト無くならねえかなぁ……」

「まあまあ、夏休み前の最後の試練ってことで」

「その夏休みが宿題まみれなんじゃねえかよー……」

 

 蒼は青息吐息を零したかと思うと、何かに気付いて顔を上げる。

 

「そうだ! 夏休みのバイトどうしよう!」

「バイト?」

「去年、引っ越しの手伝いやってただろ? あれで『来年もよかったら頼むよ』って言ってくれてたのに……!」

「あー。今の身体じゃ難しいね……」

 

 性転換前の蒼の身体は実に男らしいもので、そういった肉体労働系で割の良いバイトが選べた。だが、今の蒼は膂力など望むべくもない可愛い系ボディ。そのような業務にはとてもついていけないだろう。

 

「流石に今から鍛えても間に合わねえし、別のバイト探さなきゃなあ……」

「無理に働く事も無いんじゃ?」

「金持ちめ。パンピーはな、親の小遣いだけじゃとても金が足りねえんだよ」

「言ってくれれば僕が出すのに」

「それは俺のプライドが許さん。意地でも折半だ」

 

 蒼の態度は出流には強情に見えたが、『まあ、そういう所もアオイの良い所だね』と思える。

 

「夏休みの計画も大事だけど、まずは眼の前のテストに集中しなきゃね。アオイの家でみっちり教えてあげる」

「やめろよ……考えないようにしてたのに……」

 

 にこやかに言い放つ出流に、蒼はげんなりとした表情を見せた。

 

『――櫨宮駅。お出口は右側です』

 

 二人が降りる一つ手前の駅。ここで大勢の乗客がなだれ込んでくる。

 当然、その波が二人に襲いかからぬ訳も無く。

 

「うわっ」

「いいっ!?」

 

 急激に上がった人口密度に背中を押され、手すりから手が外れてしまった出流は、扉横の手すりと座席の背の間の狭い空間にいた蒼に覆い被さる。出流は、咄嗟に蒼の顔のすぐ横に肘を突き、なんとか密着を避けたものの、所謂壁ドン状態になってしまっていた。

 

「「っ……!」」

 

 触れこそしなかったものの急激に縮まった物理的距離。忘れようとしたはずの昨日の記憶が蘇り二人は顔を背けようとするも、高鳴る鼓動と仄かな期待がそれを許さない。

 視野が急速に狭まって、お互いしか見えなくなる。電車内というロケーションも、満員のシチュエーションも意識の外に追いやられ、二人だけの世界が形成されていく。

 残り十センチほどに近づいていた二人の距離は、電車が進むほどに、小さく揺れる度に更に縮まっていく。それは、人混みに押されていたのかもしれないし―――それを言い訳にしていたのかもしれない。

 

 七センチ。二人の吐息が絡まる。

 

 五センチ。唇の感触を錯覚する。

 

 三センチ。覚悟を決める時。

 

 一セン―――

 

『次は、紫凰高校前。紫凰高校前。お出口は左側です』

 

 車内アナウンスに現実に引き戻された二人は、慌てて顔を背ける。程なくして電車は駅に到着し、出入り口に近い蒼達は素早く下車した。

 何かを振り払うように足早に改札に向かいながら、出流はぼそりと零す。

 

「……アオイ」

「……なんだ、イズル」

 

 出流は赤みがかった頬を口元を手で隠し、くぐもった声で呟いた。

 

「恋は盲目って、ホントなんだね……」

「バカップルってこうやって生まれるんだろうな……」

 

 ちょっと状況が整えば簡単に理性が屈する現状は、どうにかしなければと感じた二人であった。

 

 


 

 

 電車の中でひと悶着あったものの、二人はなんとか高校に辿り着く。

 始業前だがあいも変わらず蒼は大人気で、出流はそれを眺めるだけ。だが、もうそれをどうこう思うこともない。進展した二人の関係が、出流に優越感からくる余裕を抱かせる。

 

(僕、ちょっと性格悪いかも……)

 

 心の中で苦笑いをしていた出流に、近づく影が一つ。前の席の椅子を借りて、一人の女子生徒が接近してきた。

 

「おはよ、佐倉くん」

「あ、おはよう。えっと……松下さん」

 

 黒のショートボブスタイルの松下さん。以前、蒼にメイクを施していた女子であり、出流は知らないことだが、昨日の蒼の服装を見繕ってもいる。

 

「名前覚えてるんだ。流石ぁ」

「そ、その。ぼ、僕に何か?」

 

 蒼と仲がいいのは知っているが、何故こちらにこう気さくに話しかけてくるのか。何かしたかと不安な出流は話題を急いだ。

 

「いやあ。昨日のいそいそ、どうだったかなーって」

「……()()()()?」

「あ、ごめん五十右さんのこと」

「な、なるほどね。でも、どうとは?」

「服のこと! アレ私が選んだんだから。佐倉くんが好きそうな感じで」

「あ、ああ……そうだったんだ」

 

 蒼のゴリゴリおめかしがあまりに可愛すぎて考える暇もなかった。言われてみれば性転換前から私服にはズボラだった蒼が、急にあれだけ綺麗にまとめて来るのは不自然だ。

 彼女が手ほどきしたのなら納得できる。

 

「ええと、凄く綺麗だった。夏らしい感じで爽やかでアオイによく似合ってて。松下さん、凄いね」

「でしょう。私も中々会心の出来だと自負してるわ」

 

 松下は腕を組んでうんうんと頷く。出流は蒼に良い友達ができたと思うと、それが我が事のように嬉しく、心が温まった。

 だが、出流は不意に肩を落とす。

 

「どうしたの?」

「あ、えと。しばらくあの服見られないんだなって」

「ん? どういう意味?」

「あの服、派手に汚れちゃったから修繕とクリーニングに出してるんだ」

 

 蒼の昨日の服は、白波瀬の一件で靴泥が付いたり布地が一部破れたりして、着れるものではなくなってしまっていたのだ。あの姿の蒼が当分見られないと思うと、出流は少しだけ気落ちしてしまう。

 だが、松下は世界の終わりを目の当たりにしたかのような表情を浮かべていた。

 

()()()……()()()……!?」

「?」

 

 松下は急に雰囲気をキリリと引き締め、声のトーンを落とす。

 

「ねえ、なんで派手に汚れたの?」

「えっ……」

 

 出流は返答に困った。まさか『蒼が拐われて誘拐犯に暴行を加えられて汚れた』など言えるわけもない。だが、咄嗟に妥当な言い訳を考えられるほど出流は騙しに向いていなかった。

 

「それは、ちょっと言えないというか……」

「ちょっと言えないの!?」

 

(あれ? 何か反応変じゃない?)

 

 松下の異様にオーバーな反応を出流は訝しむ。会話に何か食い違いが発生していないかと互いの発言内容だけを振り返り。

 

 気付いた。

 

「ち、違うよ!? 僕はアオイとそういうことはしてないから!」

「そういうこと……()??」

「あっ」

 

 出流は自分の失言を悟った。松下は黒い瞳をギラつかせ、圧のある笑顔を出流に向ける。

 

「ねえ佐倉くん? 昨日、いそいそとどこまで行ったの? まあ、()()までは行ってないとして……じゃあ告白? それとも」

「わっ、わああっ」

 

 出流はバタバタと手を振って会話を遮ろうとする。時刻を確認したが教員が来るにはまだ早い。授業が始まれば会話を中断できると思ったが、それは叶わぬ夢だった。

 

「佐倉くん? 私、いそいその服を選んだの。云わば昨日のデートの立役者のようなものじゃない?」

「ん……まあ、それは…………」

 

 蒼の普段の服装を思うと、その言葉を否定できない出流だった。松下はニタニタと意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「報酬、欲しいなぁ……? 大丈夫、言いふらしたりしないから。私口が堅いつもりだし」

「う、ううっ……」

 

 出流は視線で蒼に助けを求める。蒼はそれに気付くと、周囲との会話を切り上げて出流の方にやってくる。

 

「どした、イズルとキノ」

「あ、ええと……」

「今ねー、佐倉くんにいそいそとの関係を聞いてたところ」

「なッ!?」

 

 蒼が動揺に声を上げる。それを見て松下 (キノ)は笑みを更に深めた。

 

「おや? 土曜日まではただの親友って言ってなかったかなぁいそいそ? なんで動揺してるのかなぁん?」

「ぐっ…!」

 

 返答に窮する蒼、頼みの綱が一瞬で切れて絶望する出流、口角を際限なく吊り上げる松下。

 三者三様の膠着は、観念した出流が誘拐事件以外のほぼ全てを赤裸々に語ったことで決着となった。

 

 松下は、赤らんだ顔を俯けた二人にそれはそれは愉しげな笑顔で見た後、心から祝福してくれた。

 

 

 

 尚、三人の会話に耳をそばだてていたクラスメイトにより、出流と蒼の交際は期末試験が終わる頃にはクラス中に知れ渡っていた。

 

 


 

 日常は続く。

 少しずつ変わりながら、それでもどこまでも。

 

 

 この先に辿り着く未来が、かつての夢に見たものと同じかどうかは―――神でさえ、わからないだろう。





これにて、アオイとイズルは完結です。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました!


活動報告で色々裏話とか余談とか書こうと思うのですが、これが公開される頃私はPCの前にいないので(外出中)、今夜もしくは近日中とします
活動報告投稿しました。「アオイとイズルのあとがたり」というタイトルです。色々と赤裸々に語っているので閲覧は自己責任でお願いします。


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後日談
盛夏(1)


誰も待ってないかも知れないけどおまたせ(助演男優賞)
後日談と言う名の公式二次創作のはじまりです。


「終わっ! ……おっと」

 

 図書館の一角に設けられた勉強スペースで大声を上げかけた蒼は、慌てて口を閉じた。周囲からの咎めるような視線が蒼に刺さるが、それらは数秒と保たず逸れていく。口内で暴れる感情が鎮まるのを待って、ため息に変えて吐き出した。

 

「……ふう。あぶねえあぶねえ」

「お疲れ様、アオイ」

 

 ポーズめいて額を拭う蒼を、正面に座る出流は労う。夏休み当初は山のように積み上がっていた課題を必死にこなし、八月中旬に入って漸く終わったのだ。解放感から大きな声の一つくらい上げたくなるのも、無理からぬ事だった。

 

「でも思ったより早く終わっちゃったから、外はまだ暑いかなあ」

「適当に涼んでから帰るか」

 

 蒼と出流は一時間ほど、各々興味のある本を読んでから図書館を出た。

 

 


 

 

 日が暮れて幾分か暑さがマシになった図書館からの帰り道。蒼は右手で持った学生鞄を肩にかけ、蒼の右を歩く出流は両手で鞄を前に持って歩いていた。

 二人は、気さくに今後の予定を話し合う。

 

「宿題全部終わったしよ、流石にそろそろ遊びてえな」

「良いけど、何かアイデアは?」

「ンなもん夏の風物詩があるだろうが。海だよ海! 海行って泳ぎまくる! これしかねえ!」

「………プールじゃ、だめ?」

「ダメに決まってんだろ! 今までずーっと室内でチマチマチマチマ宿題やってたんだぞ? 外で遊ばねーとバランス取れねーだろうが!」

 

 蒼は手を戦慄かせて天に吠える。インドア派の出流としては外で遊ぶのは好きではないが、宿題の山でフラストレーションが溜まっているのも事実。蒼が望んでいることだし、偶には動き回るのも良いかなと思えた。

 

「わかったわかった、じゃあ海に行こうか。でも海となると少し遠出になるし……そうだ」

「どうした?」

「せっかくだし別荘使おうかなって。それならゆっくり休んで海いっぱい楽しめるでしょ?」

「別荘? そんなの持ってたのかよ」

「少し前に買ったんだって」

「それはありがてえけど……使っていいやつなのか?」

「お父さんに確認して、事前に清掃とかしてもらってだから……んーと、来週くらい?」

「十分早えよ。……しかし、別荘か。別荘ね……」

 

 蒼は少し遠い目をして、出流が自分とは格の違う金持ちの家系であることを再認識する。

 豪邸に住んでたり、使用人がいたりと色々知ってはいる。だが、それらは次第に慣れるもので。新たなブルジョワ要素が出てきたことで新鮮な衝撃を受けていた。

 

 蒼は再び出流の顔を見る。黒髪に目元を隠した彼はキョトンとした表情で蒼を見返していた。

 

(コレ、他人から見りゃあ財産目当てとか思われちまうのかな。まあ、良いさ。言いたいやつには言わせときゃあ良い、うん)

 

「アオイ?」

「あ、いや。何でも。ま、まあそういうことなら、使うか! 別荘行って一泊二日か何かして遊び倒してやろうぜ!」

「そうだね。昼前に家を出て、午後は海で遊んで、夜ゆっくり休んで二日目に帰る……ちょっとした旅行みたいなものかも」

「いいなそれ。っていうか別荘ってどこにあんだよ」

「ええっと……ごめん、帰ったら確認するね」

「おう頼むわ」

 

 蒼と出流は道すがら、旅行の予定を話し合う。程なくして家に着いた二人は、続きは通話で行う事にして一旦別れた。

 

 夕食後、蒼は出流とオンラインで予定を詰めていく。何時にどこで集合するか。ご飯はどこで食べるか。外食するなら予約を取るべきか。別荘の近辺で何かイベントはやっているだろうか。

 話し合う事はいくらでもあって、でもその全てが楽しい。旅行は予定を決める時が一番楽しいなんて夢のない話をよく聞くが、そうかもしれないと蒼は思う。出流と何処へいって何を食べて、何をして楽しむか。話し合うだけで情景が自然と目に浮かんで、もう既に行った気分にすらなってしまう。

 この旅行の楽しい所だけを味わっているかのようで、本当に当日楽しめるのかちょっと不安なくらいだった。

 

 飛ぶように時間が過ぎて、気がつけば日付が変わる直前。ある程度の予定が定まった所で、一度解散の流れになった。

 

「おやすみ、イズル」

「うん、おやすみアオイ」

 

 通話を切ろうとした蒼の指が、出流の思い出したような「あ」の一声で止まる。蒼はスマホに表示された切断のボタンから指を離した。

 

「イズル?」

「………」

 

 スマホの向こう側から返事がない。通話とは関係の無い話かと思ったが、それならそれで出流は訂正してくる筈だ。

 ややあって。

 

「……えっと、楽しみに、してるね。その、それだけ」

「? おう。じゃあ切るぞ」

「うん」

 

 蒼は今度こそ通話を切る。切って、怪訝な表情を浮かべた。

 

(なんか歯切れ悪かったな。楽しみは楽しみだろうに、何をそんな―――あっ)

 

 出流の考えそうな事を想像した蒼は気付いた。海に行くと言うことは。海で泳ぐということは―――水着姿になるということを。

 

「ハッ、見たいなら素直にそう言えっつの」

 

 言いながら蒼は口元のにやけを自覚する。不思議と悪い気はしなかったからだ。

 

「ま、求められてるんじゃあしょうがねえ。とびっきりの水着を選んでやるさ」

 

 蒼は頭を掻きながら椅子から立ち、拳を握りしめて壁の向こうの夜空を見る。

 

(キノがな!)

 

 蒼のファッションセンスは成長途中だった。




本編完結後、活動報告で予告していた後日談の「もう一つのネタ」改め「夏の小旅行」編、開幕です。


……ちなみに時系列で言うと「アルバイト」編の後になるのですが、アルバイト編は…………


へへっ。

次回は2日後の18時に投稿予定です。


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盛夏(2)

 カンカンどころかガンガンに日差しが照りつける真夏日。

 海水浴場近くの駐車場に停車した自家用車の後部ドアを開けて、一人の陰が天道の下に飛び出した。メンズ用のぶかぶかサファリハットでは隠しきれない、陽光に煌めく銀の長髪と水底のような紺の瞳。袖をまくった白のブラウスから伸びる腕、藍色のスキニーパンツが強調する脚のシルエットは細く美しい。ブラウスを少し持ち上げる胸の間を太いショルダーストラップが斜めに走る。

 

「う・み」

 

 アウトドア用の筒型バッグをたすき掛けした蒼は、ぐぐっと身体を縮こめてから勢いよく飛び上がった。

 

「だぁーっ!!」

 

 腕も足も振り上げ全身で楽しさと解放感を表現する様は年齢以上に子供のようで、出流と大神は微笑ましい目で車内からその様子を見守る。

 蒼に続いて同じドアから降りた出流は、同じ型のバッグの持ち手を両手で提げた。

 ストレートな黒い前髪と、目深に被ったキャップの帽子で顔に当たる陽射しを防ぐ。赤橙色のTシャツと、デニムで薄いジーパンとカジュアルな服装だ。

 

「アオイ、はしゃぎすぎだよ」

「じっとしてられっかよ! ホラ早く行こうぜ! 海が待ってんだよ!」

 

 蒼は放っておくと勝手にずり落ちて目元を隠そうとする帽子を後ろにずらし、太陽に負けないほどに眩しい笑顔を見せる。男だった頃に買った帽子をせっかくだからと持ち出したは良いものの、思ったよりサイズが合わなかった。

 

「まあまあ、蒼様も坊ちゃまもそう急がず。慌てずとも海は逃げませんとも」

 

 最後に運転席から降りた大神が、トランクからビーチチェアやらパラソルやらの諸々の荷物を取り出して鍵を締める。着替え用のテントや飲み物の入ったクーラーボックスもあり成人男性でも苦労する重量のはずだが、大神は顔色一つ変えずそれらを抱えていた。

 

「そ、そっすね」

 

 大神の相変わらずの筋肉要塞ぶりに蒼はたじろぐ。男の頃よりも更に開いた大神との身長差にまだ慣れない蒼にとって、見上げる高さの大神の体躯は巨人同然である。

 三人は連れたって海水浴場へ向かって歩き出した。

 

「大神さん。今日はよろしくね」

「はい。坊ちゃまと蒼様の身の安全は、この大神が責任を持って守りましょう。こう見えてライフセーバーの資格を持っていますし、そちらに務めていた時期もありますので。信頼していただいて構いませんよ」

「『こう見えて』……?」

 

(むしろピッタリじゃない?)

 

 感想は蒼の喉まで出かかったが、言っても意味のない事だったのでそっと胃に押し込んだ。

 

 

 舗装された道から外れて段差の急なコンクリートの階段を下り、靴底で砂地を踏みしめる頃には喧騒が肌に響いてくる。

 眼前に広がるのは碧の海原と白い砂浜、手前に構えた茶色い海の家と、それら全てに数多見える肌色の群れ。

 日光がじりじりと肌を焼き、ベタつく潮風が皮膚に滲んだ熱を浚う。肌で()()を感じる事で、彼らはようやく実感した。

 

 ―――海に、来たのだと。

 

 


 

 

 一般に広く解放された海水浴場。その一角に設えられたレジャーシートとパラソル。その上にある高さ一メートル程のテントの前を、出流は所在なさげにうろついていた。出流は既に水着に着替えており、ゆったりした青いサーフパンツと薄手の白いTシャツの出で立ちだ。

 

「坊ちゃま、できればどっしりと構えていただきたいものですが」

「わ、わかってるけど……でも、うぅ……」

 

 ビーチチェアを組み立てていた大神(ブーメランパンツ一丁のワイルドスタイル)が諫めるように声を掛けてくるが、その忠言は出流の耳をするりと抜けていく。

 このテントの中で、蒼が水着に着替えている。衣擦れの音などは周りが喧しくて聞こえないが、その事実だけで出流は大分いっぱいいっぱいだった。

 

「おまたせ。はぁ……クソあっちいなこの中」

「!!」

 

 開き直ったように淀みない手付きでテントが内側から捲られ、這い出るように姿を表した蒼がストライプ柄のレジャーシートの上に立つ。その新たな装いが、出流の前に顕になった。

 

 パステルオレンジの地にフルーツ柄の水着は、一目見るだけで爽やかな夏らしさを感じさせる。上はフレアビキニで、胸元を覆うようにひらひらとした布が被せられており、下は腰骨より上で紐が止められているハイウエストタイプ。蒼のモデル体型のプロポーションが水着によって引き立てられて、一段と可憐さを増している。

 このままランウェイに上がれそうな雰囲気すら纏う当の本人は、全身に滲んだ汗と熱を手うちわで誤魔化しながら、緊張と恥ずかしさに頬を赤らめてそっぽを向いていた。

 

「おお! これはまた。良くお似合いですよ蒼様」

「ど、どーも大神さん。そっちも……色んな意味で似合って…ます、ね」

「はっはっはどうもどうも」

 

 筋骨隆々の肉体を惜しげもなく晒しながら愉快げに笑う大神に、蒼も自然と笑う。それで肩の力が抜けたのか、その場でターンしてから出流に振り返った。

 

「で、どーよイズル。愛しの彼女の水着姿だぜ? なんか言う事あるだろ?」

「う、ぁ」

 

 水を向けられた出流は―――固まっていた。言葉が出てこないどころではない。言葉より先に身体が動いてしまいそうで、それを抑える事に必死だった。

 

 周りの目とか全部無視して今すぐにでも抱きつきたい。この生きた芸術を自分以外の誰にも見せたくない。自分の身体で隠して、そのまま何処かへ連れ去ってしまいたい。

 独占欲が視界を渦巻く。蒼に飛びつこうと手が勝手に持ち上がるのを無理やり下ろして堪える。欲望が頭の中で無限大に膨れ上がって、理性が今にもはち切れそうだった。

 

 理性と欲望の綱引きは、数十秒の拮抗状態を経て辛うじて理性が打ち克ち、出流は知らずの内に止めていた息をぶはあと吐く。

 

(……大丈夫かなコイツ)

 

 数十秒の間目の前で手を覚束なく上げ下げしたあと、膝に手を突いて疲れ果てたように深く息を吐くという挙動不審を働いた出流に、蒼は不安げな目を向けた。

 

「どしたーイズル」

「ごめん。ちょ、ちょっとだけ待って……」

 

 言われた通りに蒼は腕を組んで少し待つ。蒼の顔を見れる程度に理性を取り戻した出流は顔を上げた。首から下はちょっと見れないので蒼の額辺りに焦点を当てる。

 だが、顔が見られるようになっただけで出流の混乱は別に治っていなかった。

 

「ええっと、その。あんまりに綺麗で、危うくどうにかなるかと思った。言い表す言葉が見つからないくらいに可愛くて、もう誰にも見せたくない。僕にだけ見せてほしいというか、いっそプライベートビーチとか買っても良かったかも……大神さん、今からでも遅くないからこの近辺で」

「正気に戻れバカ!」

 

 蒼は顔を真っ赤にして出流の脳天にチョップを落とした。

 

 


 

 

「大丈夫か?」

「うん……ごめんアオイ、取り乱しちゃって……」

「全くだわ。……ま、まあ、俺が完璧&究極の美少女なのが悪い所あるし?」

 

 蒼が照れ隠しで鼻を高くする傍ら、出流はペットボトルのスポーツドリンクを傾ける。クーラーボックスの中でしっかり冷えた水分が、いつの間にか茹だっていたらしい頭をクールダウンさせてくれた。

 

「さーて、じゃあ早速泳ぐか―――の前に」

 

 言いながら思い出したのか、蒼は自分の鞄を漁り、掌に収まる筒型の容器を取り出す。

 

「日焼け止め?」

「キノに持たされた。海入る前に絶対塗れってさ。ぶっちゃけ面倒なんだけど……」

「そっか。アオイの肌きめ細やかで綺麗だし、大事にしないとね」

「………そういうこった」

 

 蒼は出流から顔を背けながら、容器を開けて中のクリームをすくい取り、腕に足にと塗っていく。それを傍から眺めていた出流は、蒼が粗方塗り終えた頃、ふと思いついた疑問を蒼にぶつけた。

 

「ねえアオイ、それって背中にも塗るの?」

 

 蒼の動きが突然固まる。

 

「……アオイ?」

 

(え、ホントじゃん。これ一人じゃ背中塗れなくね? キノに勧められるままこれだけ買ったけど、そうだよ必要だろ背中塗る方法。なんでキノは教えてくれな――!)

 

 蒼は気づく。この場に居ない彼女の意図を。

 蒼は見る。シートの上で正座してキョトンと首を傾げた恋人を。

 

(アイツ……っ!!)

 

 蒼は海の上に浮かぶ入道雲の向こう側に愉悦極まる笑みを浮かべた友人を思い描き、しかしてどうにもならない現実にどう立ち向かうか考える。

 

 だが、どうにもならないものは―――どうにもならないのだ。

 

 蒼は肩を落とし、抗うことを諦めた。

 

「イズル」

「うん?」

 

 何もわかっていないらしい出流に、蒼は容器を差し出す。

 

「……背中、塗ってくれ」

「えっ」




海デートの鉄板イベントと言えばそう、日焼け止め塗りですよね(強弁)。

書き溜めをはやく上げたくなったので、次回は明日の18時に投稿します。


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盛夏(3)

このくらいならR-15の範疇……たぶん。


 出流の喉はカラカラになっていた。暑さは勿論あるだろうが、主要因はそちらではなく緊張である。

 

(きゅ、急にとんでもないことに……!)

 

 水色のレジャーシートの上に、蒼はうつ伏せに寝そべっていた。その腰のあたりに膝を向けて正座した出流は、震える指で蒼の長い髪を背中から除け、クリーム状の日焼け止めをすくい取る。滑らかな触感が指に纏わりつくと、これからすることの実感が一段と重みを増し、乾いてへばりついた喉をごくりと鳴らす。

 出流は目線を水平に――蒼の艶めかしく見える背中を意識しないように――向けて、蒼に問い直した。

 

「ア、アオイ……本当に、その……いいの?」

「しょうがねえだろ……背中だけ焼けるなんて、みっともねえ真似できねえし……」

「ぼ、僕。こんなことしたこと無いし……失敗するかも」

「俺がやるよりはマシだよ。良いから早くしろって」

「う、うん……」

 

 大神は空気を読んでどこかへ行ってしまったため、今この場には蒼と出流のふたりだけ。降って湧いた強制スキンシップに出流は完全に及び腰だった。蒼の肌に触れるのは――漠然とだが――もっと先だと思っていたから。

 端的に言うと、心の準備が全く出来ていなかった。

 

 いっぽうの蒼も出流と似たような心境だった。まさかこんな状況で出流に肌を許す事になろうとは夢にも思わなかった。シチュエーションにかこつけて不埒な行為に及ぶような奴ではないと信じているが、そうでなくとも他人に背中を直接触られるのは十七年の半生で初めてである。色々と不安は拭いきれない。

 

「じゃ、じゃあ。いくよ……」

「こ、こいっ」

 

 蒼はぎゅっと目をつむり、その瞬間に備える。心臓の鼓動がだんだんと早まって、どくどくと強い音が嫌に大きく耳に響く。波の音に意識を向けて待つこと十数秒。蒼が少し焦れてきたその瞬間だった。

 

「ひんっ」

 

 ぬる、と。

 少し冷たいクリームを纏った出流の指が、蒼の背に触れる。

 

「あの、アオイ。声」

「う、うるせえ早くしろ」

「わ、わかった。えっと……こういう感じ?」

 

 背中の中央辺りに乗せたクリームを、出流の指と掌が優しく伸ばしていく。

 

「んうっ」

「また――」

「いっ、いいから! ……さっさと終わらせてくれ」

「が、がんばる……」

 

(畜生、なんだこれ恥ずかしすぎる……! 出流に触られるたびに変な声が勝手に……!)

 

 蒼は、妙に敏感な己の肌に憤りを抱き、口を両手で覆って強引に声を殺しにかかった。

 だが、出流の手がもたらす刺激は、真綿で首を絞めるように蒼を追い詰める。

 

「んふっ……んぅっ、っ!!」

 

 出流の指が蒼の背を這う度に、ぴりりと弱い静電気のようなものが蒼の背筋を駆け抜け、蒼の鼻から甘い息が漏れる。流石に鼻まで抑えては息が続かないため、蒼もそっちばかりはどうしようもできない。

 

 出流は両手で、蒼の背中のクリームをまんべんなく伸ばしていく。蒼の反応をなるべく意識しないようにしつつ、一刻も早くこの甘ったるい地獄から抜け出すために。

 

 ぬるぅ―――、と。

 出流の両手が、蒼の背中を上から下に撫で下ろす。

 同時に、蒼の脊椎をそれまでの比ではない電撃が突き抜けた。

 

「~~~~っ!」

 

 蒼は薄桃色の電流に腰を跳ねさせるが、これもまだ序の口。きちんとムラなく塗るべく、出流は再び両手を首筋まで動かして塗り上げる。

 

「ふーっ、ふーっ!!」

 

 出流は至って真剣だし、蒼もそんなつもりは毛頭無いのだが。

 もしもこの光景を見た者がいたのなら、何かの撮影か特殊なプレイにしか映らなかっただろう。

 

 ビキニに触れるギリギリのラインまでクリームを伸ばし、くびれを掴んだ両手を脇の下まで持っていく。今度は背筋のでっぱりと手首のくぼみを合わせるように掌を押し当て、一直線に背骨の上を滑らせる。

 

「っ、……っ! んっく……!」

 

 蒼は目尻に涙を滲ませながら本能で察知する。これ以上はまずいと。

 だが止めようにも、両手で口を抑えているため声を上げられない。手を離せば済むことだが、その瞬間言い逃れのできない声を上げてしまう気がしてできなかった。

 

(そういえば、これどこで終わるのが正しいんだろ……?)

 

 片やの出流も止めどきを見失っていた。出流の見立てではもう十分塗れていると思うのだが、実際のところがどうなのかがわからない。手を離した瞬間怒られるのではと思うと、完璧を目指す他に道はない。

 ……もしくは、蒼のなめらかな柔肌をもっと堪能したいという欲があったのかもしれないが、少なくとも出流はそれを自覚してはいなかっただろう。

 

 あるいはいくところまでいっていたかもしれないその行為は、蒼のアクションによって唐突に打ち切られる。

 

「………ッ!!」

「わっ!?」

 

 足を大きくバタつかせた蒼の抗議に、出流は思わず手を離す。

 

「――ぶはぁっ。………水分!」

 

 蒼は口を覆っていた手を離し息を吐いたかと思うと立ち上がり、ずんずんと歩いてクーラーボックスからアルミ缶入りのスポーツドリンクをひったくるように取り出して呷る。涼やかな喉越しと淡い果実の風味が心身を急速にクールダウンさせてくれた。

 

 桃色の空気が頭から抜けると、入れ替わるように雑多な不満が立ち込める。それは妙に感度の良い自分の身体に対してだったり、あるいは漠然と世界そのものへ対してだったり。

 

「イズル」

 

 蒼は一息に飲み干した空き缶を持ち帰り用のビニール袋に放り込むと、背後の出流に振り返らずに口を開いた。

 

「まずは、ありがとよ」

「あ、うん。どういたしまして」

「で、だ」

 

 蒼は出流に背中を向けたまま続けた。単純に今の顔を見られたく無かったためだが、出流からすればさっきまで自分が散々触り倒した部位を見せつけられて落ち着かない。

 

「お前がそういう奴じゃないってのは知ってるし、頼んだ俺が全面的に非があるのも頭じゃ分かってる。でもな、感情がどうにもならねえから……一言だけ言わせろ」

「う、うん?」

 

 蒼は体ごと振り返り、正座を崩して横座りになっている出流に向けて、上体だけをぐうっと倒し据わった目つきと朱い頬を間近で向ける。

 

「ヘンタイ」

「えっ」

 

 それだけ言い終わると蒼は海に向かって歩き出す。腕を十字に重ね肩関節を伸ばすストレッチをしながら。

 

「っしゃ! 遊ぶぞイズル!」

「えっ、あの……えっ!?」

 

 出流は突然の一言にも、そこからの蒼のいつもの調子にも付いていけないまま、慌ててTシャツを脱いでから蒼の後を追って海へと走った。




これもまた起きるべくして起きたスケベです。

次回も明日の18時更新予定です。


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盛夏(4)

当初は分割投稿予定でしたが、いい感じの区切りどころがなかったので纏めてしまいました。


 アクシデントこそあったものの、以降は大きなトラブルも無く二人は海を満喫した。

 水泳勝負をしたり。

 

「っしゃあ勝ったァ!」

「ぶはっ、ぜえっ、はあっ……凄いねアオイ、女の子になっても敵わないや」

「ははっ。ま、こういうのは培ったセンスが物を言うところあるし? 体力があれば良いってもんでも―――」

「……アオイ?」

 

(Tシャツ着てるときはわからなかったけど、腹筋普通に割れてんだな……あれ? イズルってこんながっしりな身体してたっけ?)

 

「アオイ?」

「っ! ななんな何も見てねえよ!!?」

「何も言ってないけど」

 

 出店の行列に並んで昼食を食べたり。

 

「おかしい……俺達は焼きそばだけ頼むつもりだったのに、何故フライドポテトまで……?」

「並んでると漂ってきたよね。カレーっぽい香り」

「アレは反則だろ……勝てねえよ……」

「でも買ってよかったって思える美味しさだよ。はいアオイ」

「おう。……んむ。むぐ、んぐ。……ま、小でも旅行だもんな。金使ってナンボってやつか」

「感動は一期一会だね」

 

 


 

 

「なあ、イズル。白波瀬の一件があった以上お前が俺を心配したくなるのもわかるんだけどよ」

「うん」

「流石にトイレにまで付いて行くなんて言わねーよな?」

「もちろん。外で待ってるね」

 

 海水浴場に併設されたトイレの近くで、蒼と出流は一旦別れる。というより、催した蒼に出流がくっついてきた形だ。

 出流はじりじりと肌を焼く炎天を避け、トイレの出入り口から見える日陰に退避する。

 彼をここまで過保護にさせる原動力は唯一つ、それは(主にマンガ等で得た偏見に基づく)危機感である。

 

(こんな浮かれた場所でアオイを一人にしたら、絶対にナンパとかされるに決まってる!)

 

 蒼は言うまでも無く最高の美少女だ。蒼本人も認めているし、彼女を一目見れば誰もがそれを理解するだろう。事実、蒼が少し浜辺を歩くだけで老若男女問わず周りの視線を釘付けにしていたのを出流は知っている。

 だからこそ、彼女の美貌に群がる存在に細心の注意を払うべきなのだ。それを怠ったからこそあの事件は起きたのだから。

 

 海は楽しい場所だが、だからこそ浮ついた男共も少なくない。彼らの毒牙から、蒼を守る義務が自分にはある―――と、出流は思い込んでいた。

 

(ただのナンパならアオイだって断るだろうけど、白波瀬くんみたいな悪い人もいるかも知れない! 僕が近くにいればアオイを守れる!)

 

 と熱意を燃やしたは良いものの、その熱意を焦がすような熱気の中であてども無く待つ行為ほど退屈で長く感じるものはない。真綿で首を絞めるような苦しみの中、全身から汗として抜けていく水分を清涼飲料水で補いながら公衆トイレの出入り口を見張っていた出流に、予想外の事態が訪れる。

 

「何か探しものかな?」

「うわっ!?」

 

 急に背後から声をかけられた出流は、驚きのあまり危うく手中のペットボトルを取り落としかけた。なんとか掴み直して額の冷や汗を拭ってから振り向く。

 出流に声をかけたのは、身長175cm程度――出流より10cm近く高い――の白い髪の美女だった。スリムな身体を黒の競泳水着で引き締めて強調し、サングラスをかけた姿はどこかセレブめいた気品と優雅さを感じさせる。

 

 見覚えは、無かった。

 

「あ、えと、その。なっ何か、ご用、で……?」

 

 動揺と初対面の人間への苦手意識からどもってしまう出流に、女性は上体を屈め自然に目線を合わせてくる。サングラスを持ち上げて頭頂に動かし、翡翠の瞳を出流に向けた。

 

「いやあ、一人でこのあたりをフラフラしてたから、暇なのかなって思ってね?」

「そ、そういう、わけでは。その、連れを待ってまして」

 

 顔を近づけてくる女性に、出流はそっぽを向きながら返す。

 

(初対面なのにグイグイくる……何なのこの人怖い! 助けてアオイー!)

 

 出流は若干パニック気味だった。

 

「ふうん。大切にしてるんだね」

「は、はいっ……!」

 

 会話が終わりそうな雰囲気に出流は内心ほっとしていた。

 が。

 

 

「―――でも、あんなに熱心にトイレの出入り口にばかり視線を向けていると、見る人が見れば怪しまれてしまうよ?」

「………、へ?」

 

 

 その一言に出流の表情が凍る。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、君―――どう映ってしまうかな?」

「―――っ!?」

 

 考えに、入っていなかった。

 出流は蒼のことばかりを考えて、そんな自分自身を客観視できていなかった事に気づく。

 

 確かに、言われてみれば今の自分は相応に不審者だろう。蒼との関係やナンパされるかもしれないという危機感を全部打ち明けたとしても、怪しまれている現状を鑑みれば『現実と妄想の区別がつかなくなったストーカーの言い分』扱いされかねない。

 

 あるいは、もっと考えれば相手も納得する言い方が出来たかも知れない。だが、女性の持つ捕食者的なオーラに呑まれ、出流は思考も身体も錆びついてしまっていた。

 

「ははは、そう怯えなくても良いよ」

 

 女性は出流の肩を掴んで隣に引き寄せ、直ぐ側で囁きかける。その眼光は蛇を思わせる鋭さを宿していて、出流は正しく蛇に睨まれた蛙。

 自分に一定の非はあり、相手は論理という駒を使い出流を詰めてくる。出流の中に、こういう状況への備えは無かった。

 

「ちょっと場所を変えて話をしようよ、何か冷たいものでも食べながらね……良いかな?」

 

 こちらに同意を問う姿勢。だが出流には―――今の出流には、それを拒否する勇気は無い。緊張で乾いて張り付いた喉を動かし、「はい」の二音を口にしようとして。

 

「待て待てこらァ!」

 

 助け舟が、出流の身体を強引に引っ剥がした。

 

 


 

 

「あ、アオイ……?」

「おう」

 

 出流はよたよたとふらつき、蒼によりかかる。蒼は抱き寄せた出流の腕を胸元にがっちり固定し、女性から目を離さず返事をした。

 

「イズル、一応聞くけど知り合いか?」

「ち、違う。知らない人……」

「オーケー」

 

 蒼はそれだけ聞くと、出流を抱き寄せたまま警戒心を隠さず女性と対峙する。白髪の女性は蒼の態度を飄々と流していた。

 

()()イズルに、何の用すか」

「いやあ随分と警戒されちゃったなあ。イズルくんが怪しい動きをしてたから、教えてあげてただけなんだけども」

「どっか連れてこうとしてましたよね?」

「そりゃあ、こんなあっつい中で長話はお互い辛いじゃないか。涼しい場所で話の続きをしようとしただけさ。……良ければ君もどうかな? 私は君ともぜひ話をしてみたいな」

 

 女性はにこやかな笑顔を蒼()()向ける。出流は怯え、縋るように蒼の顔を見上げた。

 

「結構です。っつーか、ナンパならよそでやってください。こっちは保護者もいるんでご心配には及びませんし、女でも普通に通報モンですよ」

「ふふ、これはこれは。それなら私は大人しく引き下がろうかな。またどこかで会おうね☆」

「ケッ、おととい来やがれ!」

 

 ひらひらと手を振りながら悠然と去っていく女性が人混みに消えていくまで睨みながら見送った蒼は、ようやくそちらへの視線を切って出流の顔を見た。

 

「なんだったんだアイツ……。で、大丈夫かーイズル」

「う、あ、アオイ……」

「ったく、俺がナンパされるかもって警戒するのは良いけどよ、自分の事もちゃんと見ろっつの。お前も顔は悪くないんだし、身体だって……その、なんか、アレだしよ……」

「アレ?」

「と、とにかくッ!」

 

 蒼は出流の身体を引き上げ―――ようとしたが膂力不足で叶わず、出流が自分で立ち上がった。

 

「イズルみてーな奴を狙う、あーゆー女も居るってこと。ちゃんと覚えとけよ!」

「う、うん。ありがと」

「………なあイズル、なんで顔が赤くなってんだ?」

「え、へ?」

 

 蒼が据わった目つきで出流を見る。出流は慌てて顔を逸らすが、回り込まれてそれでおしまいだ。

 

「人が心配してやったのに、お前まさか鼻の下伸ばしてたんじゃねーだろうなァ……?」

「ち、違うよ!? そうじゃなくて!」

「じゃあなんだよ言ってみろ」

「いや、その、それは」

「やましい事が無いなら言えるよなあ?」

「っ……」

 

 とはいえ、無理からぬ事だろうとは蒼も思った。あの女性、単にルックスが良いだけでなく――これは蒼の見立てだが――相当()()()()いる。女性経験の乏しい初心な出流に、ドギマギするなと言っても難しいだろう。蒼の中に僅かに残っていた男の感性もそれを肯定している。

 が、それとこれとは話が別だ。頭の中で理屈は通っていても、何か言わねば気がすまない。

 

(女の思考回路って、厄介だなあ……)

 

「そ、その」

 

 入道雲を眺めていた蒼は視線を落とす。ようやく出流も正直に話す気になったらしい。『元男のよしみだ、多少の浮つきは許してやるか』と肩をすくめた蒼だったが。

 

「蒼に、抱き寄せられた時。その、腕が……蒼の、む、むねに、当たってて……それで、その……」

「んがっ」

 

 二人して顔を赤くする結果になった。

 

 



 

 

 その後もなんやかんやと海を楽しんでいると時間は飛ぶように過ぎていき、空が茜に染まるころ。

 昼に比べると人口密度が半分を下回った海水浴場から出流たちも撤退することにした。シャワーで汗を流し、元の格好に着替えて車に戻っていく。

 

 今日の予定は海だけではない。この後にもう一つ、イベントが控えているのだから。

 

 大神の運転で一行は佐倉家所有の別荘に到着する。舗装された道が切れた所で車を降りた蒼は、後部収納から着替え等が入ったリュックを取り出して背負い、海用の諸々が入ったスポーツバッグを掴んで提げる。出流も自分の荷物を手に車を離れて歩き出した。

 

 住宅地から離れ、海が見える崖近くに建てられた別荘は周囲より一段高い場所にあるためか、腰の高さ程度の柵で敷地の隔離はできているらしい。三角屋根を見ながら段差を登れば四角い石畳の道が玄関まで伸びていた。

 庭は砂地が敷き詰められ、丸く背の低い庭木が石畳の両脇を固めている。

 

 家屋は二階建ての四角い家だった。白い壁には規則的に窓がはめ込まれ、正面中央に玄関扉がある。蒼はぼんやりと見上げて一言。

 

「俺ん家よりでけえんだけど」

「そう? まあ立ってないで早く入ろうよ。流石に疲れちゃった」

「お、おう。……なんか、改めて、イズルん家ってすげえんだなあ」

「凄いのはお父さんとお母さんだよ」

 

 言いながら蒼と出流は開いた扉からエントランスに入った。

 まず目に入ったのは玄関の真ん前にある二階への大きな階段。その両脇の奥には扉が一つずつあり、食堂と応接間に繋がっているようだ。左右の壁には使用人用の部屋や調理室へと繋がる扉がある。

 吹き抜けのエントランスは開放感があり、天井の明かりが全体を昼間のように照らす。二階の廊下は玄関の真上を除いたコの字型にエントランスにせり出して、いくつかの部屋に繋がっていた。

 ステレオタイプな洋館然とした作りに、蒼は率直な感想を口にした。

 

「殺人事件起きそう」

「思ってても言わないの」

 

 二人は軽口を叩きながら階段を上がる。大神は玄関でそれを見届けてから、踵を返して車を車庫に入れに行った。

 

「じゃあ、また二時間後くらいに」

「うん。少し休んでから、だね」

 

 今日だけの各々の自室の前で二人は一旦別れる。出流は部屋に入ると邪魔にならない位置に荷物を下ろし、軽く見回す。

 内装や家具類は本来の自室と比べても簡素なもので、どちらかというと蒼の部屋の方が近いくらいだったが、そちらにも慣れ親しんでいる出流としては悪い気はしない。物が少なすぎるのが少し気になったくらいだ。

 出流は靴下を適当に脱いで今夜お世話になるベッドに倒れ込んだ。

 

「疲れた……。でも……楽しかったなぁ」

 

 海ではしゃいだ疲労からか、それとも新品のふかふかベッドの魔力か。すぐに眠りに落ちた出流が再び目を覚ました時には、約束の二時間が十分のロスタイム付きで経過していた。

 

「やっば!」

 

 慌てた出流が一階に降りると、使用人の部屋から大神と蒼の話し声が聞こえてくる。

 

「メイドさん二人に出待ちされてたんですけど」

「ははは、ちょっとしたサプライズのようなものですよ。御二人へのね」

 

 会話の内容を頭に入れるより先に、出流は使用人室に飛び込む。

 

「ごめんアオイ! 寝過ごし――」

 

 

 

 ()()姿()の蒼が、向かって右に流したおさげ髪をふわりと浮かせ、出流に振り返る。

 

 

 

 涼やか且つ可愛らしい空色の地に織柄が気品をプラスし、白いひまわりをふんだんにあしらった一着は夏の空気にこれ以上無く似合う。薄い水色の帯は腰と色合いを引き締め全体の調和に一役買っている。

 そして、それを纏う蒼もまた、普段とは違う姿だった。腰まであった銀の長髪は肋の下までの三つ編みのおさげに生まれ変わっている。いつもの妖精的な魅力とはまた違う、大人びた美しさが出流の胸を強く打つ。

 松下に『基礎が良すぎてやり甲斐が無い』と言わしめたその顔に施された控えめの化粧は、しかしてその基礎に慣れた出流にとっては新鮮な衝撃を齎した。少しだけ赤みを増した頬、艶めきを重ねた唇に僅かに伸びた睫毛。その全てが蒼の魅力を大きく引き出していた。

 

 計画を立てた当初、蒼が浴衣を着るなんて予定は立てていなかったし、蒼に一人で着付けや髪型の変更が出来るとも思えない。そこで先程の漏れ聞こえた会話が脳に染み込んでくる。

 つまり、大神が手を回したのか、あるいは他の使用人の自発的な行動か、蒼は半強制的に着せ替えられたのだろう、と出流は推測を立てた。

 

「………………」

 

 蒼の可愛さに処理落ちを起こした脳でたっぷりと時間を掛けて。

 

 出流が声も出せずに呆然としているのを見て、蒼は出流に近寄り背中を強めに(はた)く。

 目を白黒させながらつんのめった出流が蒼を見上げると、蒼はカラッとした笑顔を浮かべていた。

 

「けほっ、へ、はれ?」

「褒め言葉は道すがらいくらでも聞いてやるから、とっとと行こうぜ。――夏祭りによ!」

「あ。う、うん!」




当初は逆ナン部分も他同様ダイジェストで済ませるつもりでしたがなんか筆乗っちゃった。
別荘の立地はボヨヨン岬のあたりを、建物は某カヘッカヘッと鳴くアオサギが出没するお家をイメージしていただければ(中身はまた若干違うと思いますが)。

次回は明後日の18時投稿予定です。


【ゲスト人物(ゲスト人物って何)紹介】
・渚の自称おまわりさん
年齢:24
身体的特徴:身長175cm、セミロングの白髪、釣り眼でスレンダー体型。女性ながら男勝りな雰囲気がある。
趣味:ナンパと夜遊び(ワンナイトラブ)(男女問わず)
『可愛ければ誰でも好きだよ私は』

この日は非番なので純粋に海を楽しみに来た。なお彼女にとっての「海を楽しむ」にはナンパが当然のように含まれている。

余談ですが、仮に蒼が間に合わなくて出流が連れて行かれたとしても、一緒にご飯食べて軽い注意と世間話で解放されます。
出流は初対面の女性に過剰に流されるような人間ではないですし、彼女もそれを察しているため何もしません。というかそもそも成人がソッチ方面で手を出していい年齢ではない。


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盛夏(5)

夏祭りデート前編です。


 闇が混じり始めた空の下、蒼と出流はアスファルトの道を並んで歩く。左手には雑木林、右手には田んぼが広がり、足元から前へと伸びる影は二人の身長の一・五倍ほどはあるだろうか。

 

「ったく。マジで死ぬほど褒めちぎりやがって」

「アオイが可愛い過ぎるのが悪い」

「開き直んな! ……どういう責任転嫁だよそれ」

 

 不機嫌そうな口ぶりをしているが、もちろん蒼は上機嫌だ。表も裏も無く褒められれば悪い気はしないし、それが恋人になのだから尚更。その証拠に蒼の足取りは軽く、浴衣の袖を揺らし時折鼻歌まで歌っている。

 

「で、お祭りの場所はどこだ?」

「徒歩十五分って話だから……もう少しだと思うよ」

「はー、足ちょっと疲れてきたな」

「おぶる? 前みたいに」

「やめろマジで」

 

 今回の小旅行における海と並んでのもう一つのイベント。それがこの夏祭りだ。別荘の近辺で何かイベントをやっていないか探していた二人は、たまたま近くで夏祭りが開かれる事を知り、予定に組み込んだのである。

 

「しっかし意外だったな。イズルは祭りとか苦手だと思ってた」

「あー……。普段はアオイに連れ出されてばっかだったね」

「だろ? 今年はどうしてまた」

「そんなに大した事じゃないよ。せっかく遠出してるんだから楽しいことに時間をいっぱい使いたいなって……それだけ」

「祭り、楽しんでたんだな」

「楽しんではいたよ? 疲れもするってだけ。でも、今はアオイが、その……恋人、なんだし。アオイを、楽しませたいなって」

「………そ、そっか」

「アオイ、照れてる?」

「分かってて聞いてんじゃねえよ……!」

 

 そんなこんなと話ながら歩いていると、少しずつ人々の喧騒が耳に届いてくる。

 祭りの会場はすぐそこだ。

 

 


 

 

 どこかの学校の駐車場を貸し切って執り行われている夏祭りは、結構な規模と人口密度を誇っていた。二人は駐車場の出入り口に立ち、会場に入ろうとする人々と出ようとする人々で混み合っている様子を眺めていた。

 

「思ったより盛況だな」

「そうだね。何から回るか予め決めたほうが良さそう」

「とりあえずメシ食おうぜ。それ込みで来たんだからよ」

「アオイは何食べたい?」

 

 出流に聞かれ、蒼は腹をさすって聞いてみる。昼に身体を動かしまくったので身体は炭水化物か肉を求めているが、焼きそばは昼に食べた。

 

「ん~……たこ焼き。イズルは?」

「かき氷食べたいかなあ」

「甘いもんは後にしろよ」

「じゃあまずたこ焼きで、次は?」

「比較的空いてる所を周る感じでいいだろ」

「おっけー。じゃあ行こっか」

 

 出流が蒼の手を掴む。不意を打たれての手繋ぎに蒼の頭が発火した。

 

「なッ! 急にっ」

「だって、こうしないとはぐれちゃいそうでしょ?」

「っ……それも、そう――」

 

 理は出流にある。蒼もそれを認め、大人しく繋ぎ返す。

 

「――だな!」

 

 ―――ただし恋人繋ぎで。

 

「っ!?」

 

 今度は出流の顔が発火する番だった。長い前髪を乱して狼狽える出流を見れば蒼の溜飲は下がっていく。蒼は自分が優位である認識を隠そうともしない勝ち誇った表情を出流に向ける。

 

「おら、俺たちは()()()()なんだろ? だったらこれが正しいだろが。繋ぎあった方が離れにくいしな?」

「む。なら、この方が離れにくいで……しょっ!」

 

 出流は蒼の手を一度離し、蒼の二の腕を掴んで引き寄せてから肘の裏側で挟んでホールドする。身体ごと引かれた蒼は出流の側に傾き、より掛かるような姿勢になった。

 一気に増えた接触面、服越しに伝わる体温に蒼の心臓が早鐘を打つ。

 

「バッ、これだと動きにくいだろーが! それに片腕使えねえようなもんだしたこ焼き食えねえだろ!」

「そんなの、食べさせあいっこさせればいいじゃん! ほら、恋人なんでしょ!?」

「くそっ、こいつ―――あっ」

 

 開き直りが得意技になりつつある出流をどうするかと思案しかけた蒼は、自分達に向けられる目線を感じ取って顔を上げる。

 そう、二人は人で混雑する出入り口の付近でこれまでの乳繰り合いをしていた。即ち公衆の面前。似たようなカップルも大勢いて人口密度故に多少騒がしかろうと目には留まらないだろうが、二人のそれは多少の枠を越えていた。

 

 

 周囲からの関心という名の視線が、蒼達に突き刺さる。

 

 

 半ば二人きりの世界に没頭していた蒼と出流は、そこでようやく状況を理解し、絡めた腕を外し身を縮こまらせてそそくさと入場列に向かう。

 

 

 結局恋人繋ぎで周ることにした。

 

 


 

 

「ほいたこ焼き一丁!」

「はーい」

 

 パック容器に六個入りのたこ焼きを出流が受け取る。二人は素早く場を離れ、列を避けて背の低いブロック塀に腰を下ろした。左右の植え込みは二人で座るには若干狭く、身を寄せ合わせるしかない。

 

 パックを開くと、食欲を誘う濃いソースの香りがふわりと立ち上った。

 焦げ目の殆どない綺麗な表面には黒と白のソースがたっぷりかかっており、これまたふんだんに乗った青のりがソースの後を追うように磯の香りを届け、かつお節は熱気の中で踊って目を楽しませる。

 出流は二本用意された爪楊枝に手を伸ばしたところで、蒼が待ったをかける。

 

「アオイ?」

「爪楊枝なんて細いモン使ったら最悪破れるだろ? まあそれも一興ってんなら止めねーけど……折角の浴衣を汚したくないしな。やっぱコレだろ」

 

 言いながら、蒼は袖の下から二膳の割り箸を取り出した。袖の下から物を取り出す仕草に、出流の恋心と少年心が同時にくすぐられる。

 

「おおー……って、いつの間にそんなの用意したの」

「別荘から持ってきた。あって困るもんじゃねーし?」

 

 蒼は片手と口で手っ取り早く箸を割り、そのままたこ焼きを一つ摘んで出流に向ける。ニタニタと意地悪な笑顔で。

 

「はいあーん」

「火傷するって」

 

 出流は首を引き、手を間に差し込んで制する。が、蒼は引かない。

 

「んだよ俺のたこ焼きが食えねーってのか? それに、熱いなら冷ませばいいだろ?」

「う…わ、わかったよ。ふ、ふーっ」

「フッ!」

 

 出流が恐る恐る息を吹きかけようと口を近づけたその時、逆側から蒼が強く息を吹きかける。風に舞った青のりとかつお節が出流の顔に当たり、出流は危うくひっくり返りかけた。

 

「うわわっ!? ~~~~っ、もう!」

「ははははは! 悪い悪い!」

 

 イタズラが成功して上機嫌に笑う蒼に、出流は強く出られない。蒼とのじゃれ合いが楽しくて態度に出したほど怒っている訳でもないし、どうあれ蒼が楽しんでいるのならそれに水を差したくなかったのもある。

 

「……次は、ちゃんと食べさせてよね」

「おう、流石に二度はやらねーよ。ほい、口開けろ」

「あーん」

 

 今度は素直にたこ焼きが入る。さっきのひと悶着で多少は表面が冷めたのか、口に入れただけで火傷するほどでは無かった。が、噛んだ瞬間ソースや生地の旨味と一緒に生地の内側にたっぷり詰まっていた熱が口の中にじゅわりと広がり、結局出流は悶絶することになった。

 

「……っ! ………ッ!!」

「ははは、あいにく中身(そっち)は管轄外だな。俺も食べよっと」

 

 黒髪の奥から恨みがましい目を向ける出流をよそに、蒼はたこ焼きを一つ箸で割る。湯気を吹く割れ目に息を吹きかけて中身を冷ましてから自分の口に運んだ。

 味自体は普通のたこ焼きと大差ないが、祭りに賑わう人々を眺めながら食べると、不思議と特別に感じる。

 

 それを見ながら、出流はようやくたこ焼きを飲み込んだ。

 

「ひー、ふー……ところでアオイ、その食べ方はちょっと邪道なんじゃ?」

「何がだよ。『美味しく食う』以外の王道があるもんか」

「そんなことは……ないんじゃないかなぁ」

 

 言いつつも、たこ焼きを三個ずつ分け合って――『あーん』はしたりしなかったり――食べた二人は再び手を繋ぎ、立ち上がって次に行く屋台を探しに歩き出した。




次回も明後日の18時に投稿しますが、その次は遅れそうです。
まだ書けてないので(書き溜め消滅)


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盛夏(6)

「月が綺麗ですね」

夏祭りデート後編・兼……?


 二人は比較的行列の短い屋台を中心に回っていく。チョコバナナを頬張り、水ヨーヨーを釣り、射的で遊んだ。

 チョコバナナは暗喩に疎く何も気づかない出流の前で蒼が墓穴を掘り。

 

「あ、チョコバナナの屋台が空いてる。行こ、アオイ」

「イズル、わざとか?」

「何が?」

「……いやなんでも」

「?」

 

 水ヨーヨー釣りでは蒼が器用さを見せて三つ釣り上げた。

 

「っしゃあ三つ目ェ!」

「おおー……アオイ凄いね」

「フフ、水ヨーヨー釣りの達人と言ってくれ」

「役に立たなさそう」

「言っちゃいけねえこと言ったなお前」

 

 射的では、蒼が外しまくる横で出流が射撃を安定させ、駄菓子を取りまくった。

 

「だァーっ! 当たらん!!」

(銃床を肩で抑えて、腕を台に乗せて固定、サイトでしっかり狙いを定めて……撃つ)

「なあおっちゃん、この銃曲がってねえか?」

「馬鹿言うなよ嬢ちゃん」

(今のは外したけど、どのくらい逸れるかはわかった。後はそれを踏まえて照準をずらせば―――当たる)

「よし」

「おっ、上手だねえ兄ちゃん!」

「えっ、イズル上手くね?」

「射撃の達人と呼んでね」

「強そうな肩書き取りやがって!」

「ハハハ、その調子で彼女に良いとこ見せてやりな!」

 

 等々と遊んでいるうちに、その時が来る。

 

 下手な笛のような気の抜ける音が聞こえる。祭りのざわめきが静まり、人々が音のする方を見た。射的で当てた口笛を吹けるラムネで遊んでいた蒼と出流もそれに倣う。

 

 夜空に大輪の花が咲いた。数秒限りの、儚く美しい花が。

 

 この夏祭りのメインイベント―――学校のグラウンドを使用した花火大会だ。

 

 腹に響く重低音が一拍遅れて二人を震わせる。漆黒のキャンバスに乱舞する光の礫と、再び黒に染めようとする夜闇との激闘は、見る者の心を強く揺さぶった。

 噴火するかのように火花を高く吹き上げたかと思えば、小規模な花火の連続爆発がかんしゃく玉のような高い破裂音を響かせる。大型の花火もただカラフルに弾けるだけではなく、弾けた光の粒が更に無数の小さな花火に変わったり、キャラクターを模した花火も夜空を彩った。

 

 誰も彼もが花火に目を奪われ空を見上げる。幼い子供は拙い滑舌で歓声を上げ、大人は子供を肩車したりカメラを向けたり風情を肴にビールを飲んだりと、各々のスタイルで花火を楽しんでいた。

 

 蒼も同じだった。口を開け、夜空を煌かせる一瞬の芸術に瞳をキラキラと輝かせながら見つめている。横に立つ出流は、そんな蒼を―――蒼の瞳に映る花火を見ながら、言った。

 

「花火、綺麗だね」

「だな!」

 

 蒼は、花火を見つめたまま返した。出流は蒼の横顔に優しい笑顔を向けてから、蒼と同じように花火を楽しむ事にした。

 

 


 

 

 フィナーレの大型花火の連打が終わり、かすかな煙の匂いが鼻に届く頃には、会場からはぞろぞろと人々が去っていく。蒼達もその流れに従って会場を後にした。

 

 来た道をそのまま辿り、別荘に帰り着いたのは十時前。窓の明かりはついたままだが、扉を叩いても反応が無い事に出流が首を傾げる。

 

「あれ?」

「どうしたイズル」

「あ、いや。大神さんとかが出迎えてくれると思ってたから。反応が無いの意外だなって」

「早いけど寝ちまったんじゃね? 普通に扉開けて入っちまえよ」

「うーん……まあそれもそっか」

 

 出流は持たされていた鍵で扉を開ける。エントランスには明かりが点っていたが、人の気配が無い。大神ほどの年季と実績を誇る使用人が、主人の息子の帰りを待たずして寝てしまう事などまず無い。

 訝しむ出流は、閉めようとした扉からひらりと落ちる書き置きを見つけた。

 

「なにこれ……『申し訳ございません、坊ちゃま。蒼様。私共使用人一同、本家に呼ばれ一度帰らなければならなくなりました。つきましては明日の午後にお迎えに上がりますので、お二人とも外出をなるべく控えお休みいただきますよう』だって」

「あー、なんか急用出来ちまったのか。じゃあしゃーねーな」

 

 二人は靴を脱いでエントランスに上がる。今日一日とは言え家に帰ってきた安心感からか、蒼はぐっと背伸びをした。

 

「メッセージで連絡くれれば良かったのに」

「気を遣ってくれたんじゃね? ワンチャン俺らの邪魔にならないようにってよ」

「ああ、そっか。ごめんね大神さん」

 

 大神の心遣いに得心しつつ、二人はカーペットの敷かれた階段を上がる。

 

「お風呂とかはもう沸かしてあるみたいだから、さくっと入って寝ちゃおうよ」

 

 そう言って出流は自分の部屋の扉に手をかける。だが、返事が返ってこない。出流は蒼のいる右へと振り向いた。

 

 蒼は出流と同じようにドアノブを掴んでいた。だが、どこか呆けた目でノブを見ている。何か考え事でもしているようだった。

 

「アオイ?」

「っ」

 

 出流の呼びかけに、蒼は震えてから少し慌ただしい動きで向き直った。

 

「な、なんだ? イズル」

「いや、さっさとお風呂入って寝ようって」

「お、おう。俺はちょっとその、アレだから。イズル先入れよ」

「え? ……うん、わかった」

 

 蒼の態度が気になったが、本人が言わないなら聞くべきではないと考えた出流は大人しく先に風呂に入ることにした。

 

 


 

 

 40分ほどの入浴を済ませその他諸々の寝る前の準備を終えた出流は、風呂場に向かっていった蒼を見届けてから自室に引き返した。

 

 パジャマ代わりのTシャツ&短パンのラフな格好で、出流はベッドに寝転がる。

 眠気が湧くまでスマホを弄って暫く時間を潰していた出流だったが、ふと蒼の態度について考えた。

 

(アオイ、様子が変だったな。急に慌てたりして……。そんなにおかしいことあったかな。月の……はないか。アオイは体調崩すタイプだし)

 

 だんだんと瞼が重くなり、出流はごろりと寝返りをうって横向きに寝そべる。

 湧きかけた眠気に身を委ね、もう少しで出流の今日が終わる―――はずだった。

 

(まあ確かに、この別荘に二人しかいない状況は見ようによっては危ないかもしれない……()()()?)

 

 出流はがばりと身体を起こす。急速に眠気が霧散し思考が回転を始めた。

 

 今この家にいるのは蒼と出流の二人だけ。それはつまりここで起きる一切合切を、見咎める者も止められる者もいない事を指している。

 

 ともすれば、あるいは。

 期末テスト前のいつかの夜、『あわや』のところまで行きかけた()()が―――起こりうるのではないか。

 

 出流とて年頃の少年だ。一度その可能性に思い至ってしまうと、思考はどうしてもそちらに引っ張られてしまう。

 

 

 蒼の怪しい態度が、もしも自分と同じ状況認識に至った故であるのならば―――?

 

 

(い、いやまさかね。別に、何も起きないよ。このまま寝ればすぐに朝が来るし、そしたら後は帰るだけ……)

 

 不埒な考えを無理矢理頭の奥に押し込んで、シーツを被ろうとしたその時。

 

 コン、コン。

 出流の部屋の扉が、弱めにノックされる。

 

「!!?」

 

 今まさに良からぬ事を考えていた出流は驚きのあまり飛び上がった。ベッドから落っこちかけてわたわたとバランスを取り戻した後、ベッドのへりに腰掛けて気持ち声を張る。

 

「あ、アオイ? どうしたの?」

『……イズル』

 

 扉越しに、どこか真剣な蒼の声色。出流は先程の思考がぶり返して思わず生唾を飲む。

 

『……今日、楽しかったよな』

「う、うん。すっごく」

『海のことも、祭りのことも。大切な思い出になるよな』

「そ、そうだね」

 

 相槌を打つ出流の鼓動が激しさを増していく。正直、勘弁してほしいと思った。その落ち着いた声音も、今日のこれまでを振り返るような言い草も、全てが思わせぶりに感じてしまう。

 まるで。

 

(今から何か始めるみたいな―――!)

 

『………なあ、イズル』

 

 

 

『最後に、もう一つだけ、さ。思い出―――作らないか?』

 

 こわばった出流の頬を伝う一筋の汗が、小さく光った。




次回、ふたりだけの火遊び。

なお、今話で無事書き溜めが尽きたので明後日の投稿はお約束出来かねます。善処はしますができましたので明後日の12時に投稿します。


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盛夏(7)

今話にて初めに公式二次創作と述べた意味がご理解戴けるかと思います。


 もうじき日付が変わる、別荘の庭。

 来たときは青々と茂って見えた緑の芝生は夜闇に呑まれ、家の光が届くごく狭い範囲以外はシュレディンガーと化していた。車で通ってきた道に点々と灯る街灯が、別荘と外の世界を繋ぐ橋のようで、遠くから聞こえる鈴虫の鳴き声と、崖下の漆黒の海に立つ小さな波が、不思議なハーモニーを耳に届けてくる。

 

 雲ひとつ無い星空に浮かぶ二十六夜月が頼りない光を降ろす中、浴衣からブラウスとスキニーパンツの服装に戻った蒼と、ラフな出で立ちのままの出流は―――

 

「うぇーい!!」

「……振り回すとあぶないよアオイー…………」

 

 

 ―――線香花火で遊んでいた。

 

 


 

 

「はあぁぁぁ……」

 

 出流は二人がけの折りたたみベンチ(なぜか別荘にあった)に腰を下ろし、右手で吊るすように持った線香花火のか細いスパークを眺めながら、深々とため息を吐いた。

 

(勝手にドキドキして内心がっかりして、我ながら情けない……この弱々しい火花みたいに情けない……いや、こんなに綺麗じゃないからそれ以下だ……)

 

 穴があったら入りたい気分だった。純粋に夜という時間を楽しもうとしていた蒼に比べ、己のなんと醜く浅ましいことか。よこしまな考えを抱いていた自分を絞め殺してやりたい。

 このまま自己嫌悪の泥沼に嵌っていきそうな出流だったが、そうは問屋が卸さない者が一人。

 

 燃え尽きたすすき花火をバケツに突っ込んで、蒼が近づいてくる。両手を腰に当てて出流を見下ろした。

 

「なーにシケた面してんだよイズル。線香花火つまんねーか?」

 

 出流は俯けていた顔をバッと上げる。自分がネガティブになるのは良いが、それに蒼を巻き込むのは望んでいない。出流は少し無理して楽しそうな顔を作った。

 

「あ、いや。そういうわけじゃ。ちょっと、思う所があって」

「どーしたよ、話聞くぞ?」

「え、えっとそれは……」

 

(い、言える訳ない……アオイと何かするんじゃないかって期待してたなんて絶対に……!)

 

 代わりの話題が無いかと頭を捻る出流は、気になっていた事を思い出した。

 

「そ、そう! この線香花火、いつの間に用意したの? い、家から持ってきたとか!?」

 

 なんとか話題転換を試みる出流は人差し指を立てて笑顔を作る。そんな意図には気付いていないのか、蒼は頭を軽く掻いた。

 

「あー……イズルが風呂入ってる間にこっそりコンビニ行って買ってきた」

「えっ」

 

 バツが悪いのか顔を斜め上に向けた蒼に、出流はつい驚いた顔をする。蒼はわたわたと手を振った。

 

「も、もちろん、大神さんの書き置きは覚えてっけど。でも、ホラ、よ。明日には帰らなきゃってのに、このまま終わるのもどうかなって思ってさ」

 

 蒼は出流の隣に腰掛ける。恐らく同じシャンプーを使ったはずなのだが、湯上がりの蒼の身体からは自分とは違ういい香りがして、出流はつい縮こまってしまう。

 

「海も、夏祭りもさ、周りに人がたくさんいただろ? それはそれで楽しかったけどさ、二人きりで遊ぶってのは、無かったじゃん」

 

 蒼は落ち着かないのか、指先で髪を弄りながら、たどたどしく言葉を繋いでいく。

 

「イズルにも、大神さんにも悪いとは思ってるけど、でも……その、どうしてもよ……」

「………そっか」

 

 だんだん萎れていく蒼の語気。出流は蒼の心境を理解し飲み込んだ。

 それこそ、家から持ってきたと嘘をつくことも出来ただろう。だが蒼はそれをしない。もし出流が聞かなくとも、遠からず自分から話していただろう。

 

(ああ―――僕、アオイのそういうところ、好きだな)

 

 頭の中からネガティブの霧が晴れていく。

 出流は静かに立ち上がり、いつの間にか消えていた手元のスパーク花火を水の張ったバケツに入れた。

 

「わかった、じゃあ遊ぼっか。二人だけで思いっきり」

「……その、ごめんな。勝手なことして」

「いいよ。でも、次からちゃんと相談してね」

 

 出流の顔を伺うように下から覗き込む蒼に、出流は――それまでの作った笑顔とはまるで異なる――自然な笑みを浮かべた。

 

「僕は、アオイが一人で危ない目に逢うくらいなら、一緒に悪い子になるのを選ぶから」

「っ」

 

 蒼が、驚きに目を見開く。それがどんな感情によるものかは分からないが、きっと悪いものでは無いはずだ。

 

「ありがとよ」

「うん」

「じゃあやるか! 俺いっぺんアレやって見たかったんだよな! 指の間にすすき花火挟んでドラゴンクローみたいな!」

「うん、火事にならないように気をつけようね」

 

「……うっす」

 

 


 

 

「いやー遊んだ遊んだ!」

「こっちはいつボヤが起きるかとヒヤヒヤしたけどね……」

 

 板チョコめいた扉を開け放ち、無数の線香花火だったものが刺さった水入りバケツを持った蒼がカラカラと笑いながら屋内に戻る。その後ろを追うように、似たバケツを持った出流が扉を閉め鍵をかけた。

 

バケツ(これ)どうする?」

「花火は処分して水は捨てて、バケツは少し洗えば良いんじゃないかな?」

「じゃあそうするか」

 

 そうした。

 

「うっし、じゃあ後はいよいよ寝るだけだな」

「うん――」

 

 部屋の照明を落としてから二階に上がり、各々の部屋へと向かう。ルート上蒼の部屋が手前にあり、出流の部屋はその奥だ。

 蒼は自分の部屋のドアノブに右手をかけ、出流が背後を通り過ぎるのを待つ。出流が自分の部屋に行ってから「おやすみ」を言いたい、ただそれだけだった。

 

 だが。

 

「――そうだね」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「えっ」

 

 さしもの蒼もこれには驚き、後ろを振り返―――ろうとして。

 その前に、出流の空いた左手が蒼の腹を周って右の腰を抱き、背後から蒼を抱きすくめていた。

 

「っ!!」

 

 蒼の顔に血が集まっていく。心臓は早鐘を打ち、肌が粟立つ。全身の感覚が鋭敏になって、体温が上がっているのが自分でも分かった。

 自分が熱くなっているからか、出流が緊張しているからか。重ねられた出流の手は冷たく、腰に回った手はかすかに震えていた。

 

 物理的に、そして精神的にも動けない蒼の肩に、出流は鼻先を埋めて。

 

「僕、今日は。アオイといっしょに、寝たい」

 

 緊張がひしひしと伝わる声で呟いた。

 

 


 

 

 いくらなんでも、この状況で意図を読み違える蒼ではない。うるさい鼓動を意識から除きながら、蒼は俯けて言葉を零す。

 

「……俺、一応は元男なんだけどな」

「関係、ないよ」

 

 蒼はいつからか、出流は自分を()()()()目で見ていないのではないかと思っていた。

 

 蒼が何をしても、どんな格好になっても。出流はいつも『かわいい』『綺麗』と言ってくれる。だが、出流の視線に好意以上の欲を、蒼は見出せなかった。

 それは出流が必死に自分の中の欲を隠そうとしていた為であり、普段の周囲の男連中の態度や白波瀬の一件により、『胸に視線を向けられるくらいどうってことない』と無意識にハードルを上げていた為でもあった。

 

 水着になっても、浴衣になっても。出流の態度は蒼の認識に於いてはさして変わらないもので。その不満は蒼の心の中で、小さな棘になっていた。

 

「アオイは怒るかもしれないけど、僕にとってアオイは、もう女の子なんだ」

 

 身も蓋もない表現をすると、蒼は出流にエロい目で見られたかった。ただ美しい、ただかわいいだけではなく、女としての性的な魅力を出流に見出されたかった。

 

「…………」

 

 だが、だがしかし。

 男だった頃の自分も忘れてほしくなかった。心の片隅に未だ残ったままの僅かな断片が叫んでいる。俺がいた事を忘れるなと、声を上げ続けている。

 もっと女として見られたい。男だったことも覚えていて欲しい。出流の告白は、蒼の中の歪んだジレンマを浮き彫りにしていた。

 

(あー……自分のことだけど気持ちわりいなこれ)

 

「でも。……これは自分でも何言ってるんだろって感じなんだけど、アオイが男の子だったから、良かったな、とも、思ってて」

「!」

 

 まるで心を見透かしたかのようなタイミングに、蒼は目を見開く。

 とつとつと、こぼれ落ちる出流の言葉は続く。

 

「アオイが、男の子だったから、アオイは僕を助けてくれた。…………アオイが男の子だったから、アオイと友達になりたいって思えた」

「………」

「だから、その……僕にとっての、アオイは。恩人で、親友で。それで、恋人で……大好きな、女の子、なんだ」

「―――っ」

 

 蒼の鼓動の毛色が変わる。ドキドキと激しい拍動から、とくんとくんと、静かに、されど熱を孕んだ律動へと。

 自分の吐息が熱を帯びているのが分かる。心が、身体が。何かの準備を整えていく。

 

「……イズル、俺のことそーゆー目で見てたんだな」

「ごめん。ずっと見てた。水着とか、日焼け止め塗る時とか、本当に大変だったんだから。その……我慢、するの」

 

 肩にかかる息が少し荒い。蒼には見えていないが、黒い髪の奥で出流の紅い瞳はギラギラと欲望に赫いていた。

 出流が後ろで蒼が前。その体勢で抱きつけば、必然的に蒼の腰に当たるものが。蒼には、もう無いものが。

 それが、何よりも雄弁に、出流の気持ちを蒼に物語る。

 

 蒼は、ドアノブを握っていた手を離しだらりと下げる。出流の手は蒼の手首をゆるく掴んだまま。

 

「状況に流されてる自覚は、ある。間違ってる事をしてる自覚も、ある。アオイの気持ちを考えてない、独りよがりな言葉だってのも……分かってる」

 

 蒼の手首を握る力が強まる。蒼は出流が今まさに勇気を振り絞っている最中であることを理解した。

 

「だから、嫌なら……そう言って欲しい。アオイの事は大好きで、アオイの全部が欲しいけどっ、アオイが嫌なことは……したくない、から」

 

 心臓が締め付けられるどころか、雑巾みたいに絞られるようだった。後ろに居る恋人は、不意打ちで抱きしめておきながら、必死に想いの丈を全部言葉にして、その上で蒼を慮ろうとしている。なんていじらしく、可愛くて健気で――愛おしいのだろう。

 

 それに対する蒼の答えは、一ヶ月前から決まっていた。

 

「イズル、あの日俺が言ったこと、覚えてるか?」

「………う、うん」

 

 「あの日」も、「俺が言ったこと」も。ただそれだけならば何を指しているかもわからない抽象的な言葉。だが、今、この流れで蒼が持ち出す蒼の「俺が言ったこと」を、出流は一つしか思い浮かべられない。

 

『俺、イズルの事が本当に大好きなんだよ。アイツにされそうになった事、全部イズルにされたって構わないくらいに!』

 

「あのときは正直、勢いで言ったよ。家に帰って寝て起きたら、まー俺はなんて恥ずかしいコト言ったんだって軽く死にたくなったね」

「っ……」

「で、まあ。その後更にもう一度冷静になって考え直したんだよな。俺は実際のところ、イズルとどうなりたいのかって」

 

 蒼は、自分の腹を抱き腰に回った出流の手に、自分の手を重ねる。出流の手の甲を、指でかりかりと優しく掻く。

 痛みも、痒みすら感じさせない弱いひっかきは……出流の欲望を煽るかのようで。

 

「雰囲気に流されてても、間違ってても、独りよがりでもいいじゃねーか。俺らくらいのヤツはきっとそんなもんだよ。それに俺も――もう、同じ気持ちだから」

 

「……それ、って」

 

 欠けた月の光を頭に浴びて影の落ちた表情(かお)。穏やかに細めた目で、少しだけ口角の上がった口元で、喜びが僅かににじむ声音で―――蒼は答えを口にする。

 

 

「俺と、イズルだけの思い出。もう一つだけ……作っちゃうか」




多くを語ると雰囲気を損ねるので一言だけ。
これが書きたかった。

あと1、2話でラスト(の予定)です。お盆の間には完結できるんじゃないかなあと思います。


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盛夏(終)

残念ながら当然のキング・クリムゾン。だのに加速するレーティングチキンレース。
というわけでR-17.9のタグを付けました。この話の為だけに。
作者渾身のギリギリをお愉しみください。

言うて作中でセッ◯ス書いてる某村上◯樹よりはセーフじゃねえかなあ………でもアレはそこまで描写が情緒的じゃないから許されてそうな節あるよな………


 ―――土を踏みながら、蔦の這い回る菱形金網とコンクリートの校舎の狭い間を歩く。木々に日光が遮られた道は薄暗く、半袖には少し肌寒い空気がまとわり付く。

 

 ―――覗き込んだ先は、前後に伸びる校舎が途中で凹んで出来た、大して広くもないスペース。ガラの悪い連中のたまり場としてはうってつけだ。

 

 出流が、いじめられている。

 

 白波瀬、安発、中嵜。この頃はまだ、ただ金を集るだけのいじめっ子に過ぎなかった。

 

 蒼は、()()()()を払い上げ、拳を握り締める。

 理由は無い。ただ、そうしなければならないと感じた。見えないなにかに背中を押されるままに、蒼は駆け出す。

 

 殴った。蹴った。投げ飛ばした。

 

 まるでそうなることが決まっているかのように、物語は進んでいく。

 

 白波瀬達が逃げていき、呆然としている出流に蒼は手を伸ばした。

 

「大丈夫か? イズル」

「――――」

 

 出流は、差し出された手を掴みながら何かを言った。だが、蒼には聞き取れなかった。

 

 

 ――不意に、誰かの気配。蒼の背後にいる。

 

 

 蒼は振り向こうとしたが、やめた。彼女……()が誰かはもう知っている。

 彼は、蒼の肩をポンと軽く叩いて。蒼の背後へ、来た道の方へと歩いて―――消えていく。

 

 蒼は去りゆく彼に、背中越しに声をかけた。

 

「あばよ―――俺」

 

 夢は、そこで途絶えた。

 

 


 

 

「ん……」

 

 蒼は、丸まった姿勢で目を覚ました。

 いつものことだ。多分子供の頃からの癖なんだろうとは思っているが、直す必要も感じない。

 

(夢………か)

 

 内容は急速に頭から抜け落ちていったためハッキリとは思い出せないが、所詮は夢だ。覚えていたとて話のネタくらいにしかならないし、忘れてしまっても問題は無いだろう。

 

 うっすらと瞼を開けると、まず目に入ったのは自分の白い手だった。全身に被っている薄手のシーツは光を透過しているため、普通に視認できる。

 

「ふあぁ……」

 

 蒼は、シーツから頭を出して身体を起こし欠伸をする。銀の前髪が視界の隅で揺れて、後ろ髪がベッドの上に広がる。手で軽く纏めて昨日のように肩から流した。

 

 目が覚めて見る自分の身体が、女のそれであるとホッとする。『これで今日も出流の彼女でいられる』と、安心している―――どころか喜びさえ覚える自分がいる。最近はそれが当たり前になりつつあるからかそう思う頻度が少し減ってきていたが、今朝はそうでもなかった。

 原因には明確な心当たりが。

 

「………ヤっちまったからなあ」

 

 達観したような、複雑な感情が混ざった声だった。感慨深く、恥ずかしく、どこか誇らしく、少しの寂しさが声に滲む。

 

 傍らに目を向ける。蒼の方に身体を向けた出流は、豪胆にも寝ているようだ。出流と同じベッドで朝を迎えるのは、蒼が女になったあの日以来だった。

 

(ま、そりゃそうだわな。そもそもあれから一緒に寝たことなかったし)

 

 流石に付き合ってもいない男女が同じベッドで寝るのは良くないし、付き合ったからと言ってもおいそれとできることでも無い。何かの拍子に間違いが起きかねないからだ。

 昨日はその間違いを意図的に起こしたわけだが。意図的に起こしたのなら間違いではないのやもしれない。

 

「ふふ」

 

 蒼はなんとなくそうしたくなって、肌に触れないように指先で出流の髪を撫で梳く。分けた髪房の下に見える閉じられた瞼は少し長い睫毛に彩られて美しく、その顔立ちは第二次性徴を終えて尚中性的で可愛らしい。細く柔らかく艷やかな黒髪は、女子のそれと遜色ないように思える。

 出流の『男』を昨晩嫌というほど実感させられた蒼としては、少々複雑な気分だった。

 

(髪も、顔も。ぱっと見女みてーなナリしといてコイツ……)

 

 ふと考えた。女になったのが己ではなく出流だったら、どうしただろうか。最初は戸惑うだろう。蒼の憧れが、今の蒼のように見る陰も無くなってしまっては。

 でも、結局はそれに慣れていくのだろう。女の出流を受け入れるのだろう。もしかしたら、蒼がそうなったように出流を狙う何者かが現れたのかもしれない。その時きっと蒼は、かつてのように立ち向かっただろう。勝てるか勝てないかなど一顧だにせず。

 

(……まあいいか。今はコレなんだから)

 

 蒼は益体もない思考を切り上げ、出流の肩を揺すって起こす。午後には大神が迎えに来るのだ。それまでに諸々の証拠を隠滅しておかなければ、何を言われるかわかったものではない。

 

「起きろーイズルー」

「ん、ぅ……」

 

 出流は小さく唸り身じろぎをしてから、ぱちりと目を開ける。

 

「わっあ、あぁ!?」

 

 なぜか大声を上げて後退り、壁に後頭部を打ち付けていた。

 

「痛ぅ……」

「どうしたイズル。俺のハダカなんか昨日さんざん見ただろーが」

 

 蒼もまるっきり恥ずかしくない訳では無いが、腕を組んで胸元を隠し、少し頬を赤くする程度だ。眼の前で取り乱す出流を見れば落ち着くのもあるし―――昨晩晒した痴態に比べれば、裸を見られるくらいどうということはない。

 

「そ、そうだけど……寝起きにいきなりは刺激が強いっていうか……」

「ハッ」

 

 出流は後頭部を手で押さえ、目尻に涙粒を浮かべる。蒼は鼻で笑いながら腕組みを解き、片腕で胸を隠したままベッドの近くに置いてあったデジタル時計を手に取る。

 

「んなこと言ってる場合かっつーの。大神さんが迎えに来る前に、洗濯とかしなきゃならねえん―――」

 

 

 『13:25』

 

 

「んんん………?」

 

 蒼は最初、時計が壊れているのかと思った。その近くにあった出流のスマホを手に取り画面を点ける。画面のロックは解除できないが、時間くらいは見ることが出来る。

 

 

 『13:25』

 

 

「なッ、あ……?」

「アオイー今何時ー?」

 

 寝ぼけ眼を擦りながら暢気に時間を聞いてくる出流をよそに、食い入るようにスマホを見ていた蒼はわなわなと震え始め。

 やがて。

 

 

「はああああああああああああああああああああああああああ!!?!??!?」

 

 

 この部屋に防音などは施されていないが、別荘は住宅地から離れているためご近所迷惑にはならなかった。

 

 


 

 

「ど、どうしたのアオイ!?」

「どうしたもこうしたもあるか! 見ろコレもう1時半じゃねーか!!」

 

 スマホの画面を出流の顔面に押し付けながら蒼は叫ぶ。てっきり10時とかそのくらいだと思っていた宛が外れるどころではない。もう大神が別荘に到着してもまったくおかしくない時間帯だった。

 

「えっうそ。……うわほんとだ。でも連絡は来てないからまだじゃないかな」

「なら良し。良くないけど良し! ああもう、とにかくシーツとか諸々洗うぞ! こんな匂い撒き散らしてたら一発でバレるわ!」

 

 蒼は今しがた二人で被っていたシーツを引っ剥がして乱雑に丸める。出流もベッドのマットレスのカバーを外して同じく纏めた。

 また、ベッドの上に散乱した()()は持ち帰り用のビニール袋に放り込んで口を縛る。残していては後々清掃に来るであろう使用人だかに見つかってしまうためだ。

 

「よし、脱衣所行くぞ!」

「えっ僕も?」

エントランス(危険地帯)を通るのは一回で済ませたいだろ。脱衣所にさえ入っちまえば、なんとでも理由つけて篭れるからな」

「なるほどね」

 

 蒼と出流はシーツを抱えてバタバタと階段を下り、一階の脱衣所に飛び込む。第一関門は無事に突破できた。脱衣所には洗濯機が併せて置かれているため、ここで全ての用事を片付けるのが蒼の想定だった。

 

「まずは洗濯機にシーツ類を放り込む」

「放り込んだ」

「洗剤を入れる」

「入れた」

「洗濯機を動かす」

「動かした」

「よし」

 

 手際よく1つ目の用事を済ませた二人は、洗濯機の駆動音が響き始めた狭い脱衣所で話し合う。

 

「その間に俺たちはシャワー浴びて汚れを落とすぞ。先に俺が浴びるからイズルは脱衣所で待機してくれ。大神さんから連絡が来たか、確認を怠るなよ」

「わ、わかった」

「悪いな」

 

 そう言って、蒼は一人風呂場に入る。出流を待たせている以上時間は掛けられない。とにかく全身を素早く、しかし隈なく綺麗にせねば。

 固定したシャワーヘッドから吹き出す温水を胸元に浴びる。勢いの付いた細かい水粒が白い肌の上で弾け、汗やらなんやらを洗い落としていく。流石に昨晩の汚れだ、洗剤まで使うほど頑固なものではないと信じて、胴体を中心に手で拭うように身体を擦って汚れを流す。

 

「はー……」

 

 お湯を浴びるとリラックスするのは遺伝子に刻まれた人の性か本能か。蒼は張り詰めていた緊張を少し緩め、身体の表面を流れ落ちていく飛沫の温かさに身を委ね始めた。

 精神的に生まれた余裕の中、どうしたって思い出してしまうのは昨晩のこと。

 

(……昨日のイズル、凄かったな。アイツにあんな一面があったとは)

 

 思い返そうとするだけで蒼の心臓はドキドキしてしまう。出流の部屋に入るまでは両方の性を知る身としてリードしてやろうと意気込んでいたのに、いつの間にか出流にされるがままになっていた。

 

(あンの性欲魔人がよー……付き合わされる俺の身にもなれっての……)

 

 蒼は口の中だけでぶつくさと文句を垂れるが、とはいえ全ては過ぎたこと。あまり引きずらないで今の証拠隠滅に集中するべきだと、蒼は心機一転しようとする。

 

 無論、そう簡単に気持ちが切り替えられるのなら苦労はない。

 

(……………)

 

 頭の中にこびりついた昨晩の記憶は、身体にも心にも深く刻み込まれた蜜月の甘露は。蒼を嫌でも悶々とさせてしまう。

 ―――そんな時に。

 

『アオイ』

「―――ッ!!」

 

 控えめなノックと共に、脱衣所から出流の声。蒼は驚きのあまり悲鳴が出そうになった。

 

「……わ、悪いイズル。待たせてたか?」

『え? 全然? それより大神さんから連絡が来たよ』

「そ、そうか! なんて!?」

 

 本来の目的に意識を向けることで、蒼の中で芽生えた邪心が少しずつ薄れていく。蒼は一度シャワーを止め、出流の声に耳をそばだてる。

 

 

『……えっと、()()()()()()()1()6()()()()()()()()()なので、目処がついたらまた連絡します……だって』

「へ」

 

 

 蒼の思考に、空白が生まれる。

 いつ帰ってくるか分からないから張り詰めていた緊張の糸。それが、2時間半の猶予付きと分かったことでぶつりと切れる。

 

「………そ、そっか。そいつは良い、ニュース。だな」

『そ、そうだよねっ』

 

 言うまでもなく吉報。蒼にとっても出流にとっても。

 身体に残った痕跡を隅々まで洗い落とし、ゆっくり着替えても尚時間は大幅に有り余るだろう。

 そう、大幅に―――()()()()()()()()

 

「……そんだけ余裕があれば、風呂にお湯張って入っても大丈夫だな」

『そうだね、ゆっくりお風呂に入りたいなあ』

 

 昨日までの蒼ならば、その余り時間の使い方なんてさして気にしなかっただろう。『じゃあコンビニ行ってアイスでも買い食いしようぜ』なんて言っていたかもしれない。

 

 だが、蜜月の味を知った今の蒼には。()()()()()()()()()()()()()()

 

 心臓の鼓動がうるさく響く。

 蒼は、自分の中で渦巻く欲を自覚した。それをなんとか押し留めようとする理性も。

 

「ところでさ、イズル。すっぽんぽんのまま脱衣所(そこ)で立ちんぼってのも……つれーだろ?」

『ま、まあ落ち着かないのはあるけど……あ、でもアオイはゆっくりして良いからね』

「い、いや。そういうことじゃなくって……」

『?』

 

 蒼は蛇口を捻り、浴槽に湯を張り始める。多量に吐き出されるお湯がユニットバスの底に打ち付けられる音が浴室を反響する中、蒼の手は震えながら浴室と脱衣所を隔てる折り戸に伸びていく。

 

(だ、ダメだろ。流石にそれは。絶対、ダメ。だって……)

 

 頭では分かっているのに、身体が言うことを聞かない。一夜の悦楽の残響が蒼の身体を操っている。胸が弾み、頬が紅潮し、口元が緩む。白い肌の上を滴る雫は、湯か汗か―――はたまた。

 

 ついに蒼は折り戸を引き、折り戸の手すりに身体を預けながら脱衣所に身を乗り出す。

 

「な、なあ。イズル」

「あ、アオイ!?」

 

 出流は思わぬ事態に目を丸くし、慌てて両手で顔を覆うも、湯気を纏い血色良好な蒼の珠肌を指の間から凝視してしまう。その視線が、蒼の心身をなおのこと昂らせた。

 目線を下へと向けた蒼は、緩んだ笑みをより深くして。

 

「だ、ダメだってアオイ! 隠して隠して!」

「なーに言ってんだ、そっちも準備万端のくせしやがってよ」

 

 ハートマークでも浮かんでいそうなくらいに甘く蕩けた声と共に、蒼は掌を上に向け手招きをする。

 

「せ・な・か。流してやるからさ―――こっちこいよ、イズル♪」

 

 



 

 

 2時間半以上の猶予をフルに使い切って()()を愉しんだ二人は、すっかりのぼせ上がった状態で大神が寄越した車に乗り込む羽目になった。なぜかくたくたな状態で現れた二人に対し、大神は自然体のまま二人を後部座席に乗せて帰路を走り始める。

 

 ゆりかごのように揺れる車内で、蒼と出流は仲良く居眠り。

 手を重ね、肩を寄せ合い、頭同士をこつんとくっつけて。

 

 遊び疲れた子供のように、満ち足りた表情で寝息を立てていた。

 

 



 

 

 佐倉 出流と五十右 蒼は、無二の親友であり―――恋人である。

 蒼が女になろうとも、異性として恋仲になろうとも。そこに確かに友情はある。損得を無視して相手の為に動く事ができる固い絆がある。

 

 一時期はできなかった互いの部屋での寝泊まりも再開し、二人の仲はより一層進展したと言えるだろう。

 

 だが、なにぶん二人も高校生。少々爛れていてもそれは―――ご愛嬌というものだ。




使用人は、時としてポーカーフェイスが求められる。

これにて後日談「夏の小旅行」編、終了です。
二人の仲も良好なようで投稿者の肌は潤っております(自給自足)。


余談
出流くんが女体化すると、黒髪ゆるふわウェーブセミロングに向かって左側がメカクレの赤目、身長150cm弱でB90強とかいうソレナンテ・エ・ロゲ(死語)なわがままボディ僕っ娘になります。
190cm弱でボサボサ茶髪に恵体で目つきの悪い男時代の蒼と並ぶと犯罪臭凄そう。


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悪戯

時節に合わせた番外編を投稿していくスタイル。
時節に合わせているので『盛夏』よりも後のお話です。
ある意味これも公式二次創作。


 出流の家には『季節は積極的に楽しむべし』という家訓がある。これは母の八重が出流が産まれる少し前に決めた規則で、例えば春は敷地内の庭園に植えられた桜の木で使用人も参加しての花見を行うし、夏に一度は家族で避暑地の別荘に赴く。

 小さい頃の出流にとって、こういうノリはあまり好みではなかったが、蒼と出会ってからはその何事も()()()()()()()振る舞いに感銘を受け、今では自分から意見を出すくらいには能動的に動いていた。その結果、ただ周りが決めたことを享受するよりも楽しめるようになったので、出流は積極性が人生を豊かにする事を学んでいる。学びを日常に活用できているかはさておいて。

 

 

 それはそれとして時は10月31日(ハロウィン)。自室の扉を開けた出流(ヴァンパイアコス)を待ち受けていたのは、つんと澄ました顔で出流のベッドに腰掛けた魔女コスの蒼だった。

 

 

「「……………」」

 

 お互いに身じろぎ一つ起こさず五秒ほどの後、出流は無言で静かに扉を閉める。

 

「どういう意味だおいコラァ!!」

 

 顔を真っ赤にした蒼が飛び出してきた。出流は片手で目元を覆って蒼を視界に入れないように努め、それが尚更蒼の頭に血を上らせる。

 

「いやその、違う、違うの。頼むから待ってアオイ」

「待てるかバカ! この際マイナスでも良いからなんか言えや!!」

「じゃ、じゃあその……すごく可愛い」

「っ!」

「それで、その。心を落ち着ける時間が欲しい。感情が飽和して泣きそうになってるから」

「情緒どうしちまったんだよ。……でも、まあ。そういうことなら許してやるよ。落ち着いたら入ってこいよな」

 

 蒼はそう言って出流の部屋に戻る。出流は深呼吸を繰り返してなんとか心の荒波を鎮めようとするが、網膜に焼き付いた残像に掻き乱されてなかなか落ち着けない。

 

(だ、だってしょうがなくない? 蒼がうちに来た時普通に普段着だったもん。僕が近所にお菓子配りに行く間にまさかあんなことになってるなんて思わないし、なんか肩出してるし。服を着てるのに肩がハッキリ見えるのが思ったよりインパクトがあって…………ってアオイのことばっか考えて全然落ち着かない!!)

 

 出流は土下座の姿勢で額をゴリゴリとカーペットにこすり付けて雑念をすり潰す。なんとか心中をさざ波まで持っていくまでには、およそ十分の時間を要した。

 

 


 

 

「待たせてごめんね」

「マジでな」

 

 勉強机の椅子に腰を下ろした出流とベッドに座り込んだ蒼が向かい合う。一番ヴァンパイア感のあるギザギザのコートは座るのに邪魔だったので外してハンガーに掛けたので、今の出流はシックな礼服のみ。少し大人びているようにも、子供が服に着られているようにも見える少々アンバランスな状態だった。

 

「でも意外。アオイってそういう格好するのそんなに好きじゃないと思ってた」

 

 言いながら、出流は控えめに蒼を観察する。二度目ということで今度は耐えられた。

 改めて見るとやはりと言うべきか、今の蒼は普段とはまた異なる魅力を感じさせる服装だった。

 

 白い肌に銀の髪という、透き通る美しさを持つものの、ともすれば主張が薄くぼやけて見えかねない色合いを、ダークネイビーがベースのドレスのような装いが胴を中心に引き締める事で、普段より存在感を発揮させる出で立ちになっている。

 どこぞの組み分け帽子のようなつばの広いよれた帽子は光を遮ることで、蒼の紺色の瞳の煌めきを強調しており、ロングスカートはシースルーで蒼の細くしなやかな脚線美を内側に描く。肩を大きく出した設計は、明確な露出こそ控えめなものの――否、だからこそ扇情的だ。

 生地は全体的に柔らかいが、腰を留めるオレンジの細い帯がハロウィンらしさを演出しつつ、ダークネイビーの縮退色効果でくびれをより際立たせる。

 

 全体的にけっこうオトナな雰囲気―――というよりこういったコスプレみたいな行為は、蒼が苦手とするところだと出流は思っていた。

 出流に問われて蒼は頬を掻く。少し照れているように顔を赤らめた。

 

「ま、まあ。せっかくのハロウィンだしよ。たまにはこういうのも良いかなって」

「なるほどね」

 

 すると蒼は帽子のつばを摘んで目深に被り直し、顔を半分隠す。

 

「アオイ?」

「……イズルはさ、俺のこういう格好。その……どう、思う?」

「すごく嬉しい」

 

 即答だった。

 

「ま、マジ?」

「もちろん。さっきがまさにそうなんだけど。アオイがその格好で僕を待っててくれたって事実がもう受け止めきれないくらい嬉しすぎて、なんかもう訳わかんなくなっちゃった。もし今後もこういう季節ごとの度にアオイが新しい姿になってくれたら、そのうち僕の頭バカになっちゃうかもね」

「いッ、いちいちオーバーなんだよったく」

 

 口先を尖らせて文句をつける蒼は、自分の口元がニヤニヤと吊り上がっている事に気付いていなかった。出流は突っ込まない事にした。

 

「ってかさ。俺この部屋で普通に寛いでたのに急にイズルんちの使用人達がやってきてさ。『蒼様も坊ちゃまに合わせて仮装なさいませんか!?』って結構な勢いで来たんだけど? あの人達、俺を着せ替え人形か何かだと思ってねーだろーな?」

「いやあ……そ、そんなことはないんじゃない、かな?」

 

 あまり使用人を悪く言いたくない出流は言葉を濁すが、正直なところは多少その気はあるように思えた。それだけ蒼の今の姿が着飾り甲斐があるということなのだろうが、蒼が迷惑しているようなら流石に止めさせるべきとも考える。

 

「アオイは、そういう扱いは嫌?」

「んー……」

 

 出流が直球で聞くと、蒼は腕と足を組んで考え込む。その所作も服装のせいか妙に様になって、出流は生唾を飲んだ。

 

「いや、まあ。一応『この服は流石に無理』みたいなのは聞いてくれるし……普段しない格好ができるのはなんだかんだ楽しいからなあ……」

「そう? 嫌になったらちゃんと言ってね。その時は控えさせるから」

「お、おう」

 

(……さらっと『控えさせる』って言ったなこいつ。まあその辺りは流石にこの家の人間って感じするなぁ)

 

 蒼の中で『敵わない相手』の流代と、『怒らせたら怖そうな人』の八重。その二人の息子である出流に蒼は、何かの風格の片鱗を垣間見る時がある。今後出流が大きくなっていくと、そちら側がデフォルトになるのだろうか。

 まあ未来の事をあまりあれこれ考えすぎるものではない。蒼は軽く頭を振って、ベッドから飛び降りる。

 

「おっとそうだ。せっかく仮装したんだからこれやっとかねーとな」

「アオイ?」

「ふふん、イズル」

 

 椅子に座る出流の前まで歩いた蒼は、帽子の位置を整えて楽しげな表情で両手を広げる。

 

「トリック・オア・トリート! お菓子をくれなきゃいたずらしちまうぞっ!」

「はい、クッキーね」

「もうちょい乗れよつまんねーやつだな」

 

 蒼の表情は一瞬で憮然としたそれに変わった。

 

「そりゃあ少し前まで配る側だったんだから用意してるよ。ちなみにいたずら(トリック)を選んでたらどうしてたの?」

 

 出流が差し出したクッキーが数枚入った袋を、蒼はぞんざいに片手で受け取る。封を開けて一つつまみながら、蒼はベッドに戻って縁に腰を下ろす。

 

「むぐ、んぐ。うまいなコレ。……そうだな、俺とイズルの服を交換とかどうよ」

「……お菓子持ってて良かった」

「そんなに嫌か?」

「もし僕が死ぬほど似合わなかったら一生モノのトラウマになるじゃん」

「無自覚って怖えな」

「? ……あ、そろそろ晩ごはんだ。アオイの分も用意してるみたいだったし食べてってよ」

「おう。………な、なあ」

 

 出流(素顔は可愛い系)は時計を見て立ち上がる。部屋を出ようとする背中に、蒼は一瞬の躊躇いを乗り越えて声を上げた。

 

「どうしたの?」

「その、さ。イズルはやらなくていいのか?」

「何を――ああ」

 

 蒼の意図を察した出流は、掛けてあったギザギザのコートを羽織り直して蒼に向き直る。

 

「アオイ、トリック・オア・トリート!」

「悪い。クッキーたった今全部食っちまった」

「じゃあなんで聞いたの」

 

 今度は出流が仏頂面になる番だった。

 

「そりゃあお前決まってるだろ」

 

 蒼は口元を軽く拭ってから、出流の視線を吸い寄せるように足を組み直してから左手をベッドに突き、右手を出流に向けてゆるく広げる。

 

 

「イ・タ・ズ・ラ。かくいうイズルは俺にどんなことするのかな?」

 

 

 まるで何でもないことのように、何をされても構わないとばかりに。余裕綽々な態度で出流を挑発する蒼。

 尚その内心はハラハラでいっぱいだった。興味本位で動いたが、正直何をされるのか全く予想できていなかった。

 

「………」

 

 出流は少しの間動きを止めた後、何かを決心したように決然と蒼との数歩の距離を詰める。

 

「っ」

 

 その勢いにちょっとビビった蒼に構わず、出流は蒼の右手を掴む。

 くるりと裏返して手の甲を上に向けながら片膝をつけ。

 流れるように唇を寄せて。

 

 

 蒼の右手の甲にキスを落とした。

 

 

「っ!!?」

 

 予想外に気障で、しかし躊躇いも恥じらいもない滑らかな所作に蒼の顔は一瞬で発火する。出流はぱくぱくと口を開いたり閉じたりしている蒼を穏やかな表情で見上げた。

 

()()、ここまでにしとくね」

「へ、ぁ」

 

 出流は再び立ち上がりながら身体を前に出し、掴んだままの蒼の右手を自分の背中側に引きながらベッドについていた蒼の左手を自分の右手で上から抑える。

 ベッドの縁に座ったまま、無抵抗で身を乗り出させられた蒼の耳元に口を近づけ。

 半分に細めた目を蒼に向けて流しながら―――

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 ―――とどめを刺す。

 

 

 出流は完全にフリーズしてしまった蒼を見てしてやったりと笑みを浮かべて扉を開ける。半分部屋から出かけたところで振り返った。

 

「ふふっ。じゃ、下で待ってるからね」

 

 蒼の挑発をいい感じに返せたんじゃないかと手応えを覚えながら、出流は自分の部屋を去っていった。

 

 


 

 

 蒼は、まるで金縛りにでもあったかのように、身体を引かれた状態のまま固まっていた。

 思考が纏まらない。何一つ脳が動いていない感覚だった。

 だが、時が経つほどに出流の発言の意味を少しずつ理解していき。ゆっくりとベッドに背中から倒れ込む。

 

「………ふへっ」

 

 奇妙な笑いが止まらない。口角がおかしなくらい持ち上がっている。

 身体が小刻みに震えていた。自分の身体を抱きしめても震えも笑いも収まらない。

 

「ふへっ、っふ、ふふっ、ふふへへへっ」

 

 あんなことを言われて、何か言い返してやるべきなのに。

 何かを言い返すよりも。その事に頭を使うよりもまず真っ先に。

 

(あー、やっばいなコレ)

 

 

 ―――『嬉しい』と、思ってしまった。

 

 

(俺、すっかりイズルに逆らえなくなっちまってる―――)

 

 その変化もまた、今の蒼には心地の良いものだった。




翌日、二人は同じベッドで目を覚ました。


(何故かは伏せるとして)男としての自信を付け始めたので調子乗って、蒼ちゃんに対し時折カッコつけたムーブをしだす出流くんはいます。
蒼ちゃんは(いつの間にか)出流くんの『攻めっけ』に弱くなってしまっているのでへにょへにょになります。


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