【完結】 TSしました。飼ってください。 (インコ!!!)
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1

被害にあったのは僕と、彼女の中にいる見知った友達。
加害者は僕と彼女。もしかしたら彼もそのうちそうなるかもしれない。


「飼ってください」

 

インターホンが鳴らされて、玄関の覗き穴から外を見ると見知らぬ女性が立っていた。なんとなく見た目から子供っぽい印象を見せるその女性を僕は警戒した。宗教とか新聞とかそういう面倒くさい勧誘だと思って、居留守を使えばどこかへ行くだろうと勝手に決め込んだ。

 

そうしてまた部屋の方に戻って、やっていたゲームを再開すべくコントローラーを手に取ると、二回三回とインターホンがまた鳴らされた。最初はハッとしたが最近の勧誘は悪質だけどすぐにどっかにいなくなるだろう、なんて僕は考えた。

しかしインターホンは鳴りやまず数秒ごとにピンポーン、ピンポーンとなるもんだから流石に限界がきた僕は玄関を開けた。

 

女性は僕を見ると悪びれもせず前髪を後ろに流してから少し笑って「やっと出てきた」といった。そして冒頭の一言を付け加えると頭を下げた。

 

「は?」

 

自然に口から出てきた。英語で言うなら「what?」。彼女の言動が少しも理解できなかったのでこれぐらいしか言葉が出てこなかった。この時点で僕は大分恐怖を抱えていて、冷や汗がじわじわと出ているような、体中の体温が上からスーッと抜けていくようなそんな感覚に襲われた。

そんな僕の様子を見て、何を思ったのか

 

「鈴原大地さんですよね?飼ってください。」

 

彼女は念押しするように言った。

どうやら彼女は僕の名前まで知っているらしい。恐怖が限界に達した僕は警察に通報するべく玄関のドアを急いで閉めた。しかし彼女はすかさずそこに足を突っ込んできてそれを防いだ。無理やり閉めようとしても彼女が譲ってくれないもんだからそりゃ閉じられないわけで、観念した僕はもう一度ドアを開けた。

 

「とりあえず中に入れてもらっても?」

 

気味の悪い笑顔で彼女はそう言う。

 

「いやそれだけは、その、」

「ダメですか?」

「ダメっていうか、その、いやダメです。絶対に。」

「何故?」

「怪しいから」

 

彼女は意味が分からないという風に首を傾げた。意味が分からないのはこちらだと言ってやりたかったが、僕は話を続ける。

 

「そもそも誰ですかあんた?」

「ご主人様のペットです。わんわん。」

 

無機質に、淡々と彼女はそう言うと、両手を頭の上に乗せて手で耳をつくった。少し可愛らしいななんて思ってしまった自分に危機感を覚えたがやはり目の前の女は不審者でしかない。この言葉でそう確信した。

初対面の男に対して「あなたのペットです」なんて言う人間、狂っているとしか思えない。

 

「警察呼びますよ?」

「やめてください。私はペットになりたいだけなんです。早く首輪をつけてください。」

 

どうやら会話が出来ないようだ。話している言語は日本語なのに相手の言葉が理解できる気がしないし、こちらの言葉が伝わっているという手ごたえすらない。

 

「首輪のつけ方って知ってます?こうやって、一回ロックを外してから首に着けてやるだけでいいんですよ。ほら、ほら。」

 

ズボンの右ポッケから首輪を取り出すと、僕に押し付けてくる。もうここまで来るとこの女は妖怪とかそういう類なのではないかと思ってしまう。

 

「そういうプレイなら他所でやってもらえますか?」

「しょうがないですね。特別ですよ?今回は私が自分で着けます。」

「あの、だから…」

 

僕が言葉を言い終える前に、目の前で彼女が倒れた。カチ、と首輪のロックがハマった瞬間にはもう彼女は白目を剥いて倒れていた。

 

「は?」

 

僕はただ呆気にとられるしかなかった。不条理の現象の連続にもはや自分の心が耐えられる気すらしなかった。「お母さん」と、北海道の地にいる母親に助けを求めてしまうほどに心が疲弊していた。

 

いや、ぼーっとしている場合ではない。いくら不審者といえど目の前に倒れた人間がいるんだ。こういう時はまず、救急車か?いや意識があるか確かめるのが先?そもそもこれ本当に倒れたのか?倒れたフリとかではなく?

 

あ、だめだ。頭がこんがらがって全く働いてくれない。

 

「うん?」

 

足元から声が聞こえる。倒れた彼女の方から発せられた声のようで、そこを見ると彼女はもぞもぞと動きながらゆっくりと起き上がろうとしていた。

 

「あ、大丈夫ですか?」

 

さっきまで怪しい言動ばかりしていた彼女に、パニックになってなにもできなかった僕が、そうやって心配するのはなにかおかしいような気はしたがとりあえずそう声をかけた。

 

「あぁ。大丈夫…」

 

そう言いかけたところで彼女と僕の目が合ったんだけどその時の彼女は不思議な反応をした。ギョッとしたような。何か見てはいけないものを見てしまったような。目を見開いて大きく口を開けた表情を見せた。

次に彼女は首を左右に振って周りの状況を確認したかと思うと、一度深呼吸をしてもう一度こちらを見た。

まるで仕切り直しをするような仕草に、僕は心の内でさっきのような意味不明な言葉を発するのではないかなんて思って警戒した。

 

「大地?」

 

だが実際に聞こえてきたのは僕の名前だった。彼女はさっきも僕の名前をフルネームで言っていたし不思議なことではないが今度は疑問符をつけたようなイントネーションで僕に言った。

そのせいか、彼女が別人のように見えて。というか、僕の中ではある人物と彼女の表情が完璧に重なってしまっていた。どことなくそれに似ているんだ。ありえない話だが本人のようにも見えた。

 

「いや違う。」

 

小声で彼女は言った。その言葉を聞いて僕は妄想から現実に返ってくる。そう違うはずだ。ありえない話だそんなことは。

 

「ちが、違うんですよ。知り合いと間違っちゃった。なんか、私?酔っちゃったみたいで~。気づいたらここにいたんです~」

 

どう考えても苦しい言い訳をして彼女は苦笑いをした。ちなみにお酒の匂いは一切しない。

そして焦ったように立ち上がると謝罪の言葉を言いながら逃げ出した。

思わず待ってくれと僕は言いそうになったが、そう言う前に彼女は転んでしまって、ヘッドスライディングをするような形で倒れた。

すぐさま駆け寄ると今度は涙目になってくしゃくしゃの顔を僕に見せる。いや、本人は隠しているみたいだったけど。

そういった仕草とか、わかりやすい表情とか、やはりどことなくあいつに似ていて。ありえないのに。妄想でしかないはずなのに。

僕は思わず声に出した。

 

「マル、なのか?」

 

思わず。思わずだ。正直しまった、と思っていた。そのせいで多分今の自分の顔を鏡で見たら思いっきりマヌケ面なんだろうなって軽く想像がつく。

普通だったら相手にドン引きされて終了。相手がイカれた不審者だったらさらにそこから意味の分からないやりとりに発展するわけだけど、彼女はどちらのルートも辿らなかった。

 

「なんでわかるんだよ」

 

ドン引きしているのには違いなかったんだけど、終了なんて言わずにこの話はさらに続いていくということらしい。

 



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2

稲城 丸は大学時代の同級生だった。親友とまでいかないが友達ではあったはずだ。

ちょっと自信がないのは僕がいわゆる陰キャラだったのとマルの性質によるところが大きい。

 

というのも、マルは人脈が広く友達が多かったし、大学で見かけるときには周りに必ず人がいて、正直入学当初は雲の上の存在ぐらいに思っていたからだ。

そんなマルと僕に接点なんて出来るわけがなかったし、実際交流が出来たのは大学生活の後半。どういうわけかたまたまゼミが一緒になった。

 

そのときはあまり関わりたくないなと思っていたし、むしろ人種の違う人間として警戒していた節もあった。しかしマルのコミュニケーション能力の前にはそんなものはないに等しいらしく簡単に僕は懐柔された。

マルは人がよくて、人間的に隙が多いので裏表がないように見える。それがこっちとしても付き合いやすいところがあった。

マルも僕のことを悪くは思っていなかったらしく二人で飲みに行ったり遊んだりすることが多々あった。友達の友達と遊ぶのはキツイところがあったので基本的に会うときは二人だったが。

 

いろんな人間と積極的に関わるマルはとても人間的に大きく見えたし尊敬していたところがあった。だからこそ半年前に大学を卒業したあと連絡がパッタリと途絶えたのはちょっと悲しかったところもあったけど、あいつならどこでもやっていけるだろうし僕も頑張らなくてはいけないと思っていた。

 

そんなマルが何故か女になって目の前にいる。

童顔であることは変わっていないが、首元まで伸びた髪や女性として見れば標準的だが元の姿からしたら大分縮んだ背丈が随分と印象を変えている。何より体つきが全然違う。

所々面影はあれど姿形が変わっているので誰も同一人物だとは思わないだろうし基本的には信じてくれないだろう。

 

傍から見たら理解できない状況だろうけど僕は目の前の人間をマルだと認めてしまっている。直感的にそう思ってしまっている。

 

「目線がいやらしいぞ。」

「え?マジ?」

「いや嘘。」

 

そう言ってマルはマグカップのコーヒーを啜った。思ったより余裕そうにみえるかもしれないが、多分現実逃避をしているだけだ。貧乏ゆすりをして落ち着かない感じが見て取れる。

 

「なんでそんなことになったんだ?」

 

こんな風に時間を潰されては何も解決しないのでとりあえず質問すると

「そんなことって?」

なんて言ってマルはとぼけた。

 

「だからなんで女になってんのかとか、最初の“飼ってください”はなんだったとかさ。とりあえず状況を説明してよ。」

「…今日の朝だよ。目が覚めたら女になってた。」

 

マルは遠くを見つめるようにしながら話し出した。

 

「原因はわからない。なんの前ぶりもなく突然。俺もわけわかんねえよ。

多分病院なんか行っても信じてもらえねえし、仕事もいけねえし、こんな姿じゃ家族にも会えねえすがれねえ。

なんなんだよこれ。俺の方が聞きてえよマジで」

 

感情が高ぶっているのか声が震えている。さっきまで現実逃避していた分の揺り戻しがきているのかもしれない。マルはとてもシリアスに、リアルな口調でそう言ったんだ。

僕が何も言えずにいると、彼(彼女?)はこちらをチラッと見て、またコーヒーを啜った。

 

「いやすまん。なんか駄目だ俺。落ち着け落ち着け。」

「…僕の方こそごめん。」

「お前は謝ることねえだろ。で?さっきのあれな。いかにもやべえやつって感じのやつな。」

 

明るく見せようとしているのかマルは口角を上げて口調を明るくして話題を変える。目元らへんが笑ってないように見えて、それがマルに無理をさせているんだろうなってわかって、僕は無力感に襲われた。

そこら辺のもやもやを胸に秘めながら話を聞くんだけど、僕もそれが表にでないように努める。そうした方がマルにとっても楽なはずだから。

 

それでマルの言うやばいやつって言うのは多分最初ここに来た時の『アレ』の話だろう。怪奇!!飼ってください女!!と名付けられそうな『アレ』だ。

 

「朝起きたら女になってたって言ったろ?」

「うん」

「なんかな、体が勝手に動くようになったんだよ。俺の意識とは別にもう一つ意識がある感じでさ。そっちの方が俺の体を動かしてるわけ。」

「二重人格、みたいな?」

 

僕の問いに「多分」とマルは返答するけどどこか自信なさげだ。マル自身自分の体のことについてほとんどわかってないらしいので当然と言えば当然なのかもしれない。

 

「てか、なんで俺は今普通に喋って動けるんだ?あいつからどうやって主導権奪ったんだよ。謎すぎる。」

「それは…」

 

僕は彼の首元の首輪に目を向ける。市販の犬用の物だ。

どういう因果関係があるのかわからないが、少なくともそれをつけた瞬間『アレ』が消えてマルが出てきたのは事実だ。

マルも僕の視線に気づいたのかそれをなにか恐ろしいものを触るような感じでゆっくりと触った。

 

「これ?もしかして?」

 

僕が頷くとマルは呆れたようにため息をつく。

 

「んな。そんなことがあるわけがよぉ。ねえよな。ないよな。」

 

いや、どちらかというとお得意の現実逃避だったらしい。

何か助けを求めるような視線でこっちを見ているけど僕は苦笑いして誤魔化すことしかできない。

 

「信じないけど今は外さないでおいてやる。信じないけどな。実際、馬鹿みたいな漫画みたいなことが今の俺に起きてるわけだし。」

 

確かに信じる信じないであれば、たった一日で何故か女になって二重人格になっていたことの方が信じがたい感じはする。少なくとも第三者から見れば。

はーっともう一度ため息をついたあとマルは僕にマグカップの中身を見せる。コーヒーはもう無くなっていた。おかわりということだろうか。

「俺は一応客だぜ。察してくれ。おかわりだ。」

合っていた。なんというかこういうスタンスを崩さないところが最高にマルという感じがする。笑っていしまいそうなところを抑えながらそのマグカップを僕は受け取った。

 

キッチンから戻ってコーヒーの入ったマグカップを渡すと満足そうにそれを受け取って飲み始めた。そういえば一度なにかの影響を受けてコーヒーにハマっていた時期が彼にあったことを思い出す。

これは市販のインスタントコーヒーだけど今のマル的にはどうでもいいのかもしれない。

 

「…なんで俺だってわかったんだお前。」

「え?なんとなく?」

 

は~?、なんて言われたけど僕がそう感じたのだからそれが全てだろうとしか言いようがない。

ボケのつもりで「君の名は。を見たからかもしれない」と言ってみたけどマルはそれをスルーして話を続けた。

 

「あの変態女のときから?そう思ってたわけ?」

「いやそれは違うけど。首輪付けたあとからなんとなくマルっぽいなぁって。」

「ごめん鋭すぎて気持ち悪い。野生の獣かお前は。」

 

ちょっと言い過ぎだろうと思ったけどなんて反論すればいいかわからなかったのでスルーしてみる。するとマルはいたずらっぽい笑顔を見せるのだ。

 

「美女に色々言われて傷ついちゃったかな~?♡気持ち悪いなんて言っちゃってごめんね~?♡」

「その気持ち悪い喋り方やめろよ」

「怒った~♡w」

「その気持ち悪い喋り方やめな?」

「気持ち悪いか?美女だぞ?」

「見た目への自信は男の時から変わんないね。」

 

実際男の時はカッコイイ部類で今現在はかわいい感じで、どっちにしろ見た目がいいのには違いないんだけどこういったところが残念な印象を与える。

ケタケタと声を出して笑ったあと、マルはテーブルに突っ伏す。

 

「もうさ、大地が俺だってわかるなら母さんとかもわかるんじゃねえかな。」

「まぁ、どうなんだろうね。会ってみれば?」

「…わかんなかったらショックだからやだ。俺のメンタルは弱ってるんだ。」

「情緒不安定だもんね。今日。」

「うっせ」

 

突っ伏したままマルは無言になってしまった。時計のカチッカチっという秒針の音だけが部屋に響くのが気まずい雰囲気を固めていってるように思えた。

そんな忌々しい時計をチラッと見るともう6時を指していて、そろそろ夕飯の準備をしなきゃななんてどうでもいいことを考える。

 

「夕飯作るけど、食べてく?」

「なに?」

「冷蔵庫のあまりもので野菜炒め」

「客に出すモンかよそれ。食うけど。てかシャワー借りていい?あと酒も飲みたい。どうせ仕事いけねえし。」

「注文が多いな。バスタオルはそこに畳んでるやつ使って。」

「あいあーい」

 

適当な返事をしてバスルームに入るマルを尻目に僕は夕飯の準備にとりかかる。

とりかかったけど…

これよく考えたら女の子が僕の家でシャワー浴びてるってことだよな。

 

昨今、童貞の成人男性が増えて問題になっているとかいないとか。そんなことはどうでもいいんだけど僕は例に漏れず童貞で、シャワーを貸すどころか自宅に女の子を入れるのも初めてで。

そりゃマルは心が男で、友人に対してこんなことでドキドキしてるのは自分でも気持ち悪いと思うけど。

…あまり深く考えないようにしよう。今シャワーを浴びているのは僕の友人。ただそれだけ。

 

無心で調理に没頭して数十分、浴室の方からドアが開いた音がした。

僕は当然マルが出てきたと思っていたからフライパンに目を向けたまま

 

「もう少しで出来るから待ってて」

 

と言った。するとマルは何も言わずにこちらの方に歩いてくる。僕の料理にケチでもつけに来たんだろうか、と思ったらそんな予想とは見当違いに僕の首に彼女の手が回される。その手が喉仏のあたりを優しく触って、僕は思わず“ヒっ”なんて情けない声を出してしまった。

体が密着していて、風呂上がりの彼女の体温が感じ取れる。

さっき一人で悶々と考えてた時と段違いに心拍数があがっていくのがわかった。

 

「マル?」

 

少し震える声で僕は友人の名前を呼んだ。彼女はそれを聞くと体をさらにこちらに押し付ける。

 

「駄目ですよ。駄目。」

 

なんとなくわかっていた。確信がなくて、どっちかっていうと信じたくなくて名前を呼んでみたんだ。

 

「ペットに待てをするときはしっかり目を見ないと。拗ねちゃいますよ?特に私みたいに面倒なのは。」

 

ようやく確信したんだけど今はマルではないみたいだ。

 



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3

「待て、と命令してくれたこと自体は嬉しいんですよ。やっと私を飼ってくれる気になったんですよね?次はおすわりですか?それともお手?」

 

『アレ』がそんなことを言っているのを他所に僕は危ないから一度コンロの火を止めた。

そして生暖かい彼女の体を無理やり振り払って叫んだ。

 

「飼うなんて言ってないだろ。なんであんたが、マルはどうしたんだ。」

 

責め立てるように、雑念を払うみたいに叫んだ。

すると彼女は悲しそうにこちらを見てきて、少し心が詰まる。マルに関しても言えることだが、この女の見た目は本当に可愛らしい見た目をしていて童顔で子供っぽい感じがあるのが一層庇護欲を誘うんだ。

こんなものを傷つけてしまって本当にいいのだろうか、と思える程に。

 

ただ、ここは心を鬼にしなければいけない場面だ。尊敬する友人の体がおかしなことになっているんだ。これ以上に怒る理由があるのだろうか。

僕は彼女に詰め寄って、返答を待つ。

 

「私は出てきただけですよ。外されたから。」

 

しゅん、とした表情のまま彼女は話した。一瞬、なんのことかわからなかったけどよく見ると首輪が着いてなくて多分そのことなんだろうなと僕は察した。

 

「私のもう片方の人格が外したんです。ご主人様の素晴らしい考察を無視して。少し迷ったみたいではあるんですけど、シャワーを浴びるには邪魔だからって。

ちょっとお馬鹿ですよね。」

「…やっぱり首輪が入れ替わりのスイッチなのか?」

「多分そうです。」

 

「多分ってなんだよ」と小声で呟くと彼女はそれに反応して、

「私もこの体について全部知っているわけではないですからね。」と言葉を付け加えた。

 

なんというか、ちゃんと会話が出来ていることに僕は内心驚いていた。最初の様子から彼女は全く話が通じないものだと勝手に決めつけていたが、こちらが態度を変えてからは冷静にしっかりと会話が出来ている。

これならばマルが知らないようなことまで彼女から聞き出せるかもしれない。

 

「あんたはなんなんだ?」

「なにって。ちょっと難しい質問ですね。」

 

僕の質問が抽象的すぎたせいか彼女はうんうんと唸りながら考え始める。埒が明かないように思えたので聞き方を変える。

 

「なんでマルが女の子になっているかとか、なんで二重人格になっているかとか。なんでもいい。知っていることを教えて欲しい。」

 

彼女は“あ~”なんて何に対してか納得したような声をあげたあと、こちらに向けて人差し指を一本立てて見せた。

 

「条件が1つあります。」

 

どうせまた「飼ってください」なんだろうなと思った。というかそれ以外に思いつかない。

僕は呆れ半分でその要求に対して首を縦に振った。彼女が言ってるだけとはいえ人間の飼い主となるのは精神的にくるところがあるだろうが、また首輪をつけてしまえばマルに戻るのだから正直どうってことない。

 

しかし彼女は何も言わずこっちを見つめたり俯いたり、挙動不審な様子を見せるのみだった。恥ずかしがっているような、照れているような、言葉を出すのに苦労している感じだ。

今更何かを恥ずかしがることがあるのだろうか、とも思ったが目の前の奇人がこうなるということはとんでもないことをいいだすのではないかとも思った。

 

急かすように「どうした?」と声をかけると、ようやく彼女は口を開いた。

 

「名前、を付けて欲しいです。…私に。」

「そんなことでいいの?」

「そんなことって何ですか。」

「ごめん。」

 

思わず声に出るくらいには拍子抜けした。

今までの奇行の方が恥ずかしいだろうと、何を恥ずかしがっているんだと。

奇人の感覚は多分僕じゃ理解できないものなのだと諦める。

 

「名前決めればいいんだろ?”バツ”で。」

 

我ながら安直だなと思った。

 

「安直ですね~」

 

実際そうだから何とも言えない。付けられた本人は安直といいつつ口元がにやけてて嬉しそうなので、まぁ良いだろう別に。

 

「では今日から私はバツです。これでマー君と区別が出来ます。」

「マー君ってマルのこと?」

「そうです。可愛いでしょう?」

 

その呼び方だったらあんたはバーちゃんになるけどいいのか?と思ったが心の奥にしまい込んでおくことにした。

 

「それで、本題に入るけど。」

 

そう僕が言うとバツは手に顎を置いて考えるような仕草を見せる。

 

「そうですね。私の知ってること。知ってることですか。残念ですけどこの体が女の子になった理由は知りませんね。マー君が言ってたこと以上の情報もないですし違う点もないです。」

「ほんとか?」

 

嘘を言ってるようには見えなかったが一応確認する。というのもあとはバツ以外の情報源もないのでここで原因がわからないとどうにもならない。本格的に原因不明の現象だ。

だから僕は縋るように、そう確認をするしかない。

 

「ほんとですよ。信じるか信じないかは別として私は本当のことしか言いません。

それとも嘘をついたら飼い主らしく躾やお仕置きをしてくれるんですか?」

「しない。」

「じゃあ信じてください。別にマー君にもご主人様にも悪意はありませんから。」

 

僕としては嘘をついているようには見えない。ここは信じるしかない。

しかしそれはもう本格的に原因への手がかりが0ということになって、ますます状況が悪化しているということでもある。

僕は少し気分が憂鬱になってため息をついた。

 

「なんですか。疑うくらいなら罰してください。さぁ。どうぞ」

「いや、信じるよ。信じる。それで、バツはなんで生まれたの?」

「随分な言い草ですね。」

「いや言い方が悪かった。どうしてマルとバツは二重人格になってしまったのかなって。やっぱりこっちもわからない?」

 

また顎に手を置いて考える仕草を見せる。少し長く考える彼女の姿を見て望みが薄いように思った。

フライパンの上の野菜炒めを少し見てみる。さっきまでもうもうと出ていた湯気がなくなっていて温めなおさなくてはいけないなと感じた。料理が冷めるとまではいかなくても多分ぬるくなるくらいには話していたらしい。

 

「わかるかもしれません。というより私はわかんなきゃおかしいかも。」

 

唐突にバツがそんなことを言った。いや勝手によそ見をしていた僕が悪いんだけど。

 

「おかしいって?」

「順を追って話しますね。マー君って結構人付き合いで演じちゃうタイプなんですよ。ペルソナって言うんですかね。社交的仮面をかぶってあまり素の自分を出さないと言うか。行き過ぎた気遣い上手というか。」

「は?」

 

僕の知っている稲城丸という人間は裏表がなく、こちらの懐にグイグイと入り込んでくるようなヤツだ。それでいてみんなに優しくて付き合いやすくて。僕とは出来が違う。尊敬できる人間のはずだ。

 

それが演技?素じゃない?なんだそれ。それこそ嘘だろ?いや絶対に嘘だ。

 

「ご主人様?」

 

バツが心配そうにこちらを見ている。僕はその言葉に我に返って“すまない”とだけ言った。

 

「信じられないですか?確かにガサツな人ですもんね。ご主人様の前では。」

「あぁ。僕には信じられない。」

「素を見せてるの基本ご主人様に対してだけでしたからね。」

「そうか。でも僕は…?待ってくれ。どういうことだ。」

 

「そのままの意味ですよ。」とバツは言ったが僕は意味がわからなかった。混乱をする僕の様子を見ておかしかったのかバツは少し微笑んだ。

 

「マー君は人に対して弱みを見せるのが極端に苦手なんですよ。素を見せてしまうようなことも恐れています。まあ端的に言えばカッコつけてるわけです。

けどご主人様にはほとんど素で接しています。カッコ悪いとこも見せてます。ご主人様のやさしさに甘えているんですよね。ご主人様なら大丈夫って。

まあそういう理由もあってマー君はご主人様を他の友達と会わせたがらなかったわけですね。素の自分を他に見せないために。」

 

少しほっと安心している自分がいることに気づいた。今まで見てきた友達の姿が演技だとか言われたら裏切られたような気もするので僕としては少し安心した。ほかのマルの友達は少し可哀想な感じがするがむしろマルにもそういう面があったんだなと親近感を覚えるような感じがする。

 

「それでその話と二重人格になったこととで何の関係が?」

「そうですね。言うならばマー君のご主人様に甘えてるところが元になって私は生まれたんです。」

「甘えを元に?」

 

オウム返しのようになってしまったがそれほどに僕はバツの言っていることが理解出来ずにいた。彼女の話ではバツが元々マルの一部であるような言い草だが僕にはそう見えない。全く別物のように思える。それにバツのは人に対しての甘えというにはあまりにも違うように思える。彼女が幾度となく繰り返す『飼う』という行為に結び付かないように思えた。

 

目が合ったバツはまた穏やかに微笑んだ。けどさっきの微笑みとは何かが違っていて背筋をゾクリとさせるような表情だった。

 

「まあ、言いたいことはわかりますよ。甘えというには歪みすぎてる。けど私にとって信用できる人間なんてほとんどいないんですよ?甘えて素を出せる人間なんてものもほとんどいないんですよ?あなたは私にとって特別なんですよ。

そんな人間に全てを預けて、支配されて、飼われるなんて最高じゃないですか。

これはマー君の甘えの延長線上にある私だけの感覚。あぁ、あなたに支配されたい。」

 

そう語る目には間違いなく狂気が潜んでいる。本物の狂気が。それが言葉に真実味を帯びさせる。間違いなく今語った彼女の願望は真実であって、今までの奇妙な言動にも一貫性を持たせている。

 

「話、逸れちゃいましたね。」なんて彼女は言った。何かが僕の心の底で蠢いているような感覚に揺さぶられながらも、僕は平静を装って「続きを頼むよ」と答えた。

 

「マー君、この半年間は結構大変だったみたいです。仕事のような上辺だけでの人付き合いが辛かったとか、残業が多いとか、ご主人様に会えないこととか。まあ色々原因はあったみたいで、どんどんストレスが溜まっていったんですよね。

まあそこまではまだ許容範囲内だったんですけど、そんな状況で何故か女の子になってあれこれ考えちゃった結果、ストレスが限界に達した。

そしてそのストレスから逃げるために私が生まれたんです。可愛らしい女の子になって、もしかしたらご主人様に本当に飼ってもらえるんじゃないか?なんて楽観的な考えが出来る私が。」

 

なんとなく理解できたような気はする。多重人格は多大なストレスを受けたことが原因でそうなるというのも聞いたことがあるし、話の筋は通っているように思えた。

 

「まあ憶測というか、私の中での話でしかないんですけどね。」

 

最後にそう付け加えてバツの話は終わった。

あわよくば何か解決の糸口でも掴めればと思ったが、これは僕に何とか出来る問題なのだろうか。女になった件に関しては全く情報がないわけで。

元に戻すなんて諦めてしまった方がいいのかもしれない。そう思ってしまうほどゴールが遠いように思えた。

 

「そんなに難しく考えないでくださいよ。もっと楽しいことしません?お手の躾とか。」

 

バツは呑気にそう言った。自分のことを隅々まで僕に語ったあとだというのにブレないのはなにかマルに通ずるところもあるなあと感じた。

 

「そうだな。」

 

僕がそう言うとバツは目を輝かせながらこちらに近づいてくる。近づいてきたところにバツの肩をガッチリと掴んで逃げられないようにする。

普通、何かを感じて逃げようとする場面だとは思うが彼女は爛々とした両目で僕を見つめたまま動かない。

 

「まずは首輪をつけようか。」

「え?いやです。」

 

まずはバツが持っていた首輪を奪い取った。逃げようと抵抗はしているが今更遅いと言う感じで首輪を持った右手を彼女の首元まで差し掛かっている。

 

「虐待だ!ペット虐待反対!」

「最初は着けられたがってたろ。大人しくしなさい」

「あの時はこれで入れ替わるなんて知らなかったんです!」

 

そんな問答を続けながら数分、彼女の方の体力が尽きたみたいで

「待って、わかりましたから、ちょっと待って」

と言ったので僕は一度動きを止める。

 

「流石、優しい。ご主人さま。好き。」

 

ぜえ、ぜえ、と息を切らしながらバツはそう言った。

 

「大人しく首輪つけられるので、1つ約束してくれませんか?」

「内容によるけど」

「定期的に私のことも外に出して欲しいです。それだけ約束してもらえれば言われたらいつでも首輪自分からつけるので」

 

外に出すと言うのは首輪を外してバツに体の主導権をとらせるということなんだろうけど、これを約束したらマルは当然嫌がるだろう。

逆に一生バツをマルの中に閉じ込めるのも気の毒という感じはする。

少し出してあげるくらいなら許してもいいとは個人的に感じる。問題は本当に自分から首輪をつけるかどうかだ。

 

「…首輪を着ける前に頭なでなでしてくれたら嬉しいです。」

 

要求が1つ増えた。

無言で頭に手を置いてやるとこちらに首を差し出してきた。今のところは嘘ではないらしい。

 

「マルには言っておくから。またね。」

 

最後にそう言うとバツは嬉しそうに返事をした。そしてロックを閉めたらさっきのように彼女は倒れて、僕はその体を受け止めた

 

 

 

10秒も経たないうちにマルは目を覚ました。正直このまま眠ったままだったらどうしようかなんて考えていたが杞憂だったようだ。

 

「マル。あのな、まず言わなきゃいけないんだけど」

「全部聞いてたから知ってるよ。俺とバツで記憶共有できてるから。」

 

バツはぶっきらぼうにそう答えて、僕を押しのけるように立ち上がった。マルの顔を見ると眉間にしわが寄っていることに気づいた。もしかして、いや間違いなく怒っているようだった。

勝手に約束したせいだろうか。

 

「ごめん。勝手に約束しちゃって。」

「それはいいよ別に。ない方が良かったけど。

…それよりさ。その、勘違いしないでほしいんだけど。えっと」

 

マルは何か言い淀んでいる。約束の件がどうでもいいってじゃあ何が原因で怒っているというのか。

 

「あいつ、バツが言ってたことだけど。別にお前が特別とかじゃねえから。みんなにも素だし。」

「あ、あぁ。そうなんだ。」

「お前に会えなくて寂しかったとか思ってないし」

「そんなこと言ってたっけ?」

 

沈黙。黙りこくってマルは俯いた。

 

「照れてんの?」

「黙れ。」

 

怖い。顔は見えないけど、声に威圧感がある。

 

「甘えってなんだよ。クソが。俺は違う。俺はそんなんじゃない。」

「僕は別にそんな気にしてないよ。」

「本当に違うからな。てか言葉選びがキモ過ぎる。もう少しなんかこうあるだろ。」

 

マルはそう言うと壁に向かって歩き出したかと思うと、何かをぶつぶつと壁に向かって呟きだした。

正直今日一番精神的にキてるように見える。第三の人格が出来そうな勢いだ

 

「明日からどうしよ」

 

ぽつりとそんな言葉が聞こえてきた。確かにマルにとっては重要な問題だから気にせざるを得ないだろう。特に精神的に弱ってる今なら。

 

「大変だったんだろ?少し休んでもいいって」

「でも…」

 

マルは何かを言うのをやめてこちらに振り返った。

 

「そうだな一回休むか。…けど今日は帰るわ。ちょっと一人で考えたい」

「…大丈夫か?」

「大丈夫大丈夫。むしろここにいるとスケベな大地君に襲われそうで危険なんだわ。作らせておいて悪いけど一人で飯食ってくれや」

 

マルはそう言って笑ったが明らかに無理をしているのがわかった。ここで1人で行かせてはいけないような気もしたが僕に何かができるわけでもない。

そんな風に迷っていると、マルは玄関の方に歩き出した。

 

「そんなに心配すんなよ。俺は大丈夫だから。」

 

顔も見せずに出ていくマルを僕はただ見送ることしかできない。

バツはマルが僕に甘えているとか素を出しているとか言ったけれど、マルは僕をあまり頼ってくれない。それこそ甘えて頼ってくれていいのに。

助けを求めてくれないマルにも助けが必要な彼に手を差し伸べることすらできない僕にも嫌気がさした。

 



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4

 金曜夜の駅前。明日が休みだからか通行人の顔や声は基本的に明るく、人によっては飲みにいったり、人によっては明日の予定を考えたり、幸せやら楽しさで頭が埋まっているんだろうなと思う。

 

自分が同じような気分で余裕がたっぷりあったら通行人の一挙一動に何か思うこともないし、むしろ雰囲気に流されて楽しくもなるんだろうなと思う。特に目に入るのは学生で、僕自身の学生生活の大部分が灰色で染められているから、そんなコンプレックスを孕んだ二重のマイナスが僕の目に表れていて彼らを不快にしてしまわないか心配になってくる。

 

マルが僕に会いに来てから今日で五日が経った。なにかと連絡をとってみようとするものの、「大丈夫だから」の一点張りでマルの近況はほぼわからずにいた。

なにより昨日送ったメッセージに既読すらつかない。なので今日あたり、仕事が終わったら家に直接訪ねてみようとも考えていたんだけど、そもそもの話社会人になって引っ越したあとのあいつの家の場所を僕は知らなかった。

 

このまま連絡もつかずに取り返しのつかないことになったら。

 

そう考えるだけでゾッとする。不安に駆り立てられて焦り、歩く足が自然に速くなる。

あいつに限って自暴自棄になって何かするようなことを僕は考えたくなかったが、最後にマルが見せた強がった笑顔が妙に印象に残っていてその思考を止められずにいた。

 

しかし何かの打開策があるわけでもない僕は、その逸る足と思考をどうにもできないまま自宅へと向かうのだった。

いや、向かうはずだった。

 

視界の端に見覚えのある後ろ姿が映った。首筋を隠すぐらい肩まで伸びた黒髪の女。

振り返るとそれはフラフラとした足取りで僕と逆方向に進んでいるようだった。大きめのパーカーに短パン。明らかにサイズ感のあってない服を着ていてそのせいか少し動きがノソノソと重いようにも見える。

 

僕はすぐに周り右をして彼女の方に向かう。歩く速度自体は速くないが駅前の人混みの中を見失わないように急いで追いかける。

すみません、と声をかけながら人混みをかき分けてようやく追いつくと、僕は彼女の肩に手をかけた。

 

「マル?」

 

その言葉に、彼女はばっとこちらを振り返った。確かにマルだ。この前見たままの姿の。

一回しか見ていないのによく見つけられたと自分を褒めてやりたいところだったが、よく見るとそれはこの前の様子とは違っていた。

 

目元がとろん、としてこちらに焦点があっていない。顔が紅潮していて、何を考えているかがわからないような緩慢な顔つき。

というか、思いっきり酒臭い。

 

彼女は少し何かを考えるように間を置いてから“あ~”なんて大声をあげる。あからさまに驚いた表情をして。

 

「なんだよ」

「ご主人様じゃないですか。」

「あ、お前バツか!?」

 

今更確認すると、首元に首輪はついていない。後ろからみたら髪で隠れていて見えなかったが、正面からみると確かについていなかった。

 

「ひどいですね。見ればわかるじゃないですか~」

 

僕のことをバシバシと叩くバツ。こいつ酔うとこんな感じなんだな。まあマルも似たようなもんだけど。やっぱり元がマルというだけあってそこは変わらないのだろうか。

 

いや、こんなダル絡みをされにきたわけじゃない。僕はその手を払ってバツに聞いてみる。

 

「お前なんでこんなところに」

「なんでって…ご主人様に会いに?」

「なんで疑問形なんだよ。」

「じゃあ…ご主人様に飼われに来ました!!」

 

その大声が一帯に響いた。それまでガヤガヤと騒がしかった周りが一瞬静かになったかと思うと、こちらに目線が集まる。

 

たらり。

 

冷や汗が一筋首筋に垂れる。

僕はバツの手を無理やりとって、引っ張り自宅の方向へ進んでいった。

 

 

 

「強引ですね。いいですよ。私は。準備出来てます。」

 

そんな戯言を無視してバツを玄関から居間に放り込む。この前少し話が通じたから油断していたが、人前で会話するにはちょっと心配なやつだということを忘れていた。酒で頭が弱っている今ならなおさらだ。というか、今は普通にやり取り出来る状態なのだろうか。

 

試しにクッションを投げて、そこを指さして「おすわり」と言ってみる。するとバツはさっそうと動き出しそれに座った。

まあ、これが出来るなら大丈夫か。

 

「それで、なんで酔ってるんだお前。」

「酔ってませんけど」

「そういうとこまで一緒とかめんどくさいな。」

「ペットってめんどくさいものですよ。」

 

何が面白いのかバツは一人で笑い出した。少しイラついたがここでいちいち怒っていては自体が進まないので、一度大きく息を吐きだしてから会話を続ける。

 

「なんで首輪が外れてんだ?」

「マー君が外したからですけど。」

「いやまあそうなんだろうけどさ。」

 

笑うのをやめたかと思うと首を傾けて、キョトンとした顔つきで僕をみるバツ。

 

「僕が聞きたいのはなんでマルが首輪を外したかってことで。」

「あ~えっと…多分酔ったから外したんだと思います。」

「そんなになるまで飲んだのかあいつ」

「ええまあ。ショックなことが連続してたので。」

 

ショックなこと?

その言葉が引っ掛かる。

 

「なにがあったんだ?」

 

僕がそう訊ねると、バツは考えるようにまた頭を傾けて、それを左右に繰り返す。ゆっくりと。

酔ってる時にそんなことをして気持ち悪くならないのだろうか。

そうやって数秒考えたあと、バツはあっけからんとした口調で言った。

 

「忘れました」

 

この前はもう少し知性的というか得体のしれない怖さがあったというか、少なくともこんな楽観的な感じではなかったが、酒とは人を変えるものだなと思った。

 

「じゃあマルに聞くから。ほら、代わってくれ。」

 

もう一周回って冷静になった僕は淡々とそう伝える。流石に酔っぱらいをまともに素面で相手するのは疲れる。同じ土俵に立ってはいけないのだ。

バツは「え~」なんて言って文句を言い始めるんだけど無言で見つめてたら静かになった。少し扱いになれてきたのかもしれない。

 

なんて思ってたらバツは無言で首輪を差し出してくる。

「着けろよ」

と言ってやると不満そうに頬を膨らませてこちらを見つめる。

 

「首輪。ご主人様が私につけてくださいよ。」

「いや自分で着けろよ。」

「着けてもらいたいんですよ。これくらいいいじゃないですか。」

 

まあ別にいいんだけど何か変わるんだろうか。

首輪を受け取ると、少し嬉しそうに首を差し出してくる。そんなに嬉しいのかよ。

首輪を首に通して、ロックを閉める直前

 

「ちゃんと話聞いてあげてくださいね」

 

とだけバツは言って倒れた。

 

すぐマルは目覚めるんだけど、やっぱり酔った状態は続いてるみたいだった。

目を覚まして第一声が

 

「酒は?」

 

で、まだ飲む気があるのかと呆れた。そういえば前に

「俺は飲み慣れてる人に酔った姿なんか見せない」

って顔真っ赤にしながら言ってたのを思い出す。

どこがだ、とその時は思った。僕と飲むときはペースなんか考えずに飲むし、すぐフラフラになるしで酒の席では常に酔っている印象だった。

 

前にバツが言ってたことが事実だとした僕の前でしかこんな風に酔った姿を見せてないのだろうか。それならば人に酔ったところを見せないという発言も八割方本当になるよなあ。なんて考えてみる。

 

「ないよ。」

「なんで大地?あ、そういえばあいつがここに来たんだっけ。」

 

勝手に納得したマルが一人でうんうんと頷く。

起き上がると、パーカーのフードが被さってマルの顔を隠した。おかしいことでもないのだが、一人でケタケタと笑いだす彼になにかデジャブを感じた。

 

「これ、これな。男の時から着てる服。なんでこの前は女物の服だったと思う?」

 

いきなり始まったクイズに僕は少し困惑する。

確かにこの前はサイズぴったりのレディース用の服だったはずだ。別にマルがどんな服を来てようと構わないが、聞いた話によると女になった当日に僕の家に来ているわけで、どこでその服を手に入れたのかという話になる。

 

「時間切れ。」

 

その言葉とともにデコピンが飛んでくる。そこまで痛くはなかったが僕は反射的にそこを押さえる。

 

「正解はバツがここに来る途中で買ってきた、でした。大地君残念だったね。今日は色気のない服で。」

「…この前も別に」

「まぁ普通のジーンズにセーターだもんな。シンプルな服装だからこそ見た目の良さが際立つ、ということだ。色気より美しさをとったんだあいつは。男心を全くわかってない。俺の片割れなのに。」

 

マルはなにを言ってるんだろうか。まさかこいつグダグダこんなこと話して本題に入らせない気じゃないだろうな。

マルをすこし見つめると不審に思ってるのが伝わったのか、マルはこちらから目を逸らした。

 

「わかるぞ。言いたいことは。けど別に大したことはねえんだ。あんま俺のこと気にしすぎるなよ。」

 

また、いつものように笑う。僕を遠ざける笑い。それが妙にいつもより悲しく見えて、憤りを感じさせる。気づけば勝手に、感情を絞り出すように声が出ていた。

 

「なんだよそれ。そんなわけないだろ。」

 

違うんだ。僕が見たいマルはそんなんじゃないんだ。

 

「自分の体に異変が起きて、別の人格が生まれて、その上やけ酒するほどのことが何かあったんだろ?それでなんともないで隠し通せると思ってんのかよ。辛いの隠される方も辛いんだよ。

頼れよ。友達なら。」

 

いつもみたいに隠し事なしで、本音で笑ってくれるマルが見たいんだよ。

だけどそのためには僕から本音で話さないといけない。今まで歩み寄ってくれたマルに僕の方から歩み寄るんだ。そんな使命感が僕に勇気をくれる。

 

「なぁマル。話せよ。いいんだよ全部話し「やめろよ。」

「え?」

「俺なんかに、優しくするのやめろよ。」

 

マルは俯きながらそう言った。表情は見えないが、暗く低いトーンのその声は僕に深く突き刺さる。

 

「なんで俺なんかに優しくするんだよ?」

「それは、マルが友達だから。」

 

僕がそう言うとマルは黙る。俯いたまま微動だにしないマルと、部屋に響く時計の音。この前みたいに気まずさを感じるというより、何を考えているか分からないマルへの不安を感じていた。

 

「お前は本当に優しいよ。多分根が優しいんだと思う。けどさ、こんなやつに優しくしなくていいよ。ほっとけよ。」

「どうしたんだよ。マルらしくないぞ。」

「…じゃあ全部ぶっちゃけてやるよ」

 

ドクン、と心臓が一際大きく鳴った。不安がどんどん大きくなっていく。怖くて耳を塞ぎたくもなった。何を言われるのか、全くわからなかった。

 

「友達だと言ってくれるお前をな。俺はずっとずっと見下してたんだよ。こんな良いやつを見下して、裏切ってるような悪いやつなんだよ俺は。」

 



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5

「見下してた?」

 

僕がそう繰り返すと、マルは俯いたまま頷いた。なにか物悲し気に見えるその姿は、今まで僕が見てきた明るく溌溂とした姿から乖離していて、いや最近はそうでもなかったが。

不条理に追い込まれて揺さぶられて、ようやく出てきたマルの弱み。僕が今まで無いと信じ込んでいたマルの裏を表しているようだった。

そんな姿を晒して、後ろ向きな感情を抑え込まずに震えながらマルは語る。

 

「お前と初めて会った時から見下してたよ。ろくに人付き合いもできない何考えてるかわかんないやつって。当然俺の知り合いとも交流がない。だからお前から何か悪評が広まることもない。じゃあ別に何してもいいだろって思ったんだ。」

 

マルの言い方だと僕に悪意を持って接していたように聞こえる。しかし僕はその片鱗すら感じ取っていなかったし何より悪いことをされたような記憶はない。

 

マルは話を始めてから初めて前を向いた。こちらと目を合わせるのも辛いとでも言いたげな目線は少し下を向いている。そのせいで瞳には光が全くといっていいほど映っておらず、疲れているような印象を僕に与える。それこそ自棄にでもなったような。

 

「わかんねえか。まあわかんねえよな。」と諦めた口調でマルは言う。半笑いの口元が今までみたマルの笑顔の中で一番弱々しいものだと感じた。

 

「お前は見たことないんだろうし自分で言うのもなんだけど、他のやつと会うときはもっと爽やかで優しいイケメンって感じなんだぜ。あいつも言ってたよな。演技してるって。まあそんな感じよ。

けどよ、どうでもいいお前なんかにそんなバカみたいな演技なんてする必要ないわけよ。だから粗雑に、適当にしてたわけ。お前の前では。」

 

クスクスと笑いながら、マルは続ける。

 

「お前はそんな風に扱われてることも知らずにそれすらも受け入れる鈍感な奴だった。それどころかマルの考えてることってわかりやすいよね、なんて言ってるマヌケだ。俺の本音も知らないくせに。弱いから雑に扱われて、それにすら気づかない馬鹿だ。俺はそんなお前を見下して今日まで生きてきた最低な奴だ。

だからよ。こんなやつ見捨てろよ。優しくするなよ。」

 

そう言ったマルはまた俯いて黙った。沈黙の時間が続く。

僕はマルが話を続けるのを待ったがマルは頑なに何も言わない。

 

「まさかそれだけで終わり?」

 

僕が我慢しきれずにそう言うと、マルは「は?」と何を言っているかわからないような素振りを見せる。いや、“は?”と言いたいのはこちらの方なんだけど。

 

「嘘でしょ?見下してるとか言ってたけど結局のところなにもしてないじゃん。別になんか悪いことしたわけでもないし。」

「いや俺は内心大地を馬鹿にし続けて…」

「別にいいでしょそれくらい。僕も馬鹿だと思ったら馬鹿って言ってるしお互い様じゃない?なんなら最初僕だって、話しかけてくんなよウゼーぐらいに思ってたよお前のこと。」

「…そういう問題じゃねえんだよ馬鹿」

「じゃあどういう問題なんだよバーカ。こっちが許してるんだからどうでもいいだろ。ウジウジするなよマルのくせに。」

 

マルは困惑した表情でさらに何か言いたげな様子だったけど、僕はそれを言わせずに話し続けた。

 

「そりゃ友達にそう思われてたっていうのはちょっとショックだけどさ、それだけじゃないだろ。今までの全部がそれだけだったわけがない。たいていのことは許せるからさ。話してくれないか?マルが今までどう思ってたか、今どう思ってるか、何があったのか全部。

全部ぶっちゃけてやるって言ったのはお前じゃないか。」

 

正直、少しクサかったかもななんて思ったりする。身振り手振りもつけて演説じみたこの一連のセリフなんて素面の僕が見たら鼻で笑うはずだ。けどマルが僕に色々と曝け出してくれている今に嬉しくて興奮している自分がいて、そんなクサさなんてどうでもよくなってた。

 

今まで見てきたマルは脆さを見せると言っても比較的ライトな部分で、こんな風に考えているなんて思っていなかった。人種が違うと決めつけていた。しかしマルはちゃんと僕と同じ人間だった。

それが理解できて嬉しい気分になったんだ。マルに対してのイメージ像が崩れ去って悲しいような気持ちもないことはないけど圧倒的に嬉しい気持ちが勝っているんだ。

 

けど僕のそんな反応がマルの思い描いたものとはあまりに違うみたいで、相変わらず驚いて慌てている様子だ。もはや何を言えばいいかわからないんだろう。

僕は彼の名前を呼んだ。すると僕たちの目がピタリと合う。出来るだけ表情を変えずにそのままマルを見つめ続けた。

 

少し落ち着いたのか一度息を吐きだしてこちらから目を逸らす。出来れば目を見て話して欲しいんだけどな、とは思ったけど話してくれそうなのでよしとした。

 

「最初、見下していたのは本当だ。あの時から少し人付き合いに疲れてた部分もあったからな。誰も知らないやつだし嫌われても別にいいって打算的に、適当にしてたのも本当。

けど大地はそれでも普通に話してくれたし、他のやつみたいに流行りとか気にしないで話しても大丈夫だったし。他のやつには絶対話せない愚痴も聞いてくれたり。いつの間にかお前といるのが一番気楽だと思うようになってた。全部見せることは無理でも、あいつが言ってたみたいに素に近い状態ではあったと思う。」

 

下を向きながら、ゆっくりではありながらマルは言葉を紡いでいく。体が小刻みに震えてて少し言葉を出すのに苦労している。それでもマルはそれを続ける。僕に全てを話すために。

 

「けどそうやって仲良くなると、最初に俺が見下してたのがすっげえ罪悪感みたいな。お前のやさしさに甘えてたって言い方は気持ち悪いけど、そう言う感じで。勝手に気まずくなって卒業してから連絡とらないようにした。

けどこんな姿になって、その、バツが変なことしたっていうのに俺だってわかってくれてちょっと嬉しかった。でもまたお前に救われるのかって自分が情けなくなってきて。俺なんかに構ってもらうのも迷惑だと思って。

ごめんな。」

 

そこでまた、マルは一息ついた。話にひと段落ついたとでも言うようにもう一度息を大きく吸って吐きだす。余程緊張でもしていたのかそれを何度も行った。

そしてこちらを見るマルの表情はまだどこか曇った表情で、目元は多めに光を反射している。

「大丈夫。全部話すから。」

そう言ってもう一度深呼吸をする。疲れたながらに表情を整えてもう一度こちらを向きなおした。

 

「言うて、もうほとんど話したんだけどな。あとはこの五日間に何があったかだろ。

今日っていうか昨日。母さんに会ってきたんだ。あと同僚にも。けどやっぱりわかってくれなくて、食い下がってもトラブルになりそうだからすぐ帰ってきた。

俺がこのまま戻れなかったら、俺は一生あの人たちにわかってもらえないし、あの人たちは俺がここにいるのに探し続けるのかもしれないって思うと余計不安になって。

本当はもう一人会いたい人がいたんだけど、他人扱いされるのが怖くて、行けなかった。

それで全部嫌になって飲んだくれてた。

…全部話したぞ。これで全部。」

 

今度こそ終わったといった感じで今度は大の字になって床に寝転んで、“スッキリしたかも”と呟いたのが聞こえた。これで何かが解決したわけじゃないんだけど、そのマルの顔は強がってない本物の笑顔のようにも思えた。

けど僕は少し不満があって、足でマルの横っ腹をつつく。そしたら笑顔は一瞬で消え失せて途端にマルは口を尖らした。

 

「なんだよ?」

「会いたかった人って誰?」

 

横に視線がそれる。少し間を開けて

 

「彼女。」

 

という返答が返ってきた。そういえば大学時代から付き合ってる子がいたというのはきいたことがある。一度写真で見たし、遠目だが大学でも見かけたはずだ。長い黒髪が綺麗な、キリっとした美人の女性。なんというか、マルのおちゃらけた印象に似合っていなくて当時はアンバランスだと思った記憶がある。

 

「というか、あいつに関しては…」

「ん?」

「今の俺じゃあいつのこと不幸にするだけだから。別れようってメッセージ送った。そのあと見るの辛いからアプリ消して、俺最低だ。ホント。」

 

また表情が曇る。流石に「全部言ってないじゃん」とは言えず、少し考えたあと僕は言った。

 

「確かに最低だけど今は僕が味方してやるから。絶対とは言えないけど解決に協力するから大丈夫だ。頑張ろう二人で。」

 

マルはその言葉を聞くと黙った。多分僕が言われた側でも絶句するんだろうなと思う。だって頼りがいがなさすぎる。

言ったあとに後悔することが最近は多い気がする。明らかにいらない言葉が混ざっていてせめてそこを抜いて言いなおしたいとすら思った。

 

そんな風に内省する僕を見てなのか、情けないセリフを聞いてなのか、マルは笑い出した。大声でゲラゲラと。

 

「お前、カッコ悪すぎだろ。自信持てよ。」

 

腹を抱えてそんなことを言うマルに僕はどう反論すべきか考えたが、まあマルが笑ってくれているならば別に悪いことでもないなと考える。

マルはひー、ひー、と笑い疲れた仕草を見せると

 

「酒ある?」

 

といつものように訊いててくるのだった。

 

「飲むの?まだ?」

「気持ち切り替えないとな。大丈夫今日だけだ。明日からはちゃんとする。」

「…まあ缶ビールなら一本ずつ飲めるけど」

 

なにをちゃんとするんだろうと内心思いつつも僕は冷蔵庫に向かった。

冷蔵庫でビールを探していると後ろで何かボソッと呟いたのが聞こえて、僕は自分の口角が自然に上がっているのを感じた。

二本の缶を持っていきテーブルにそれを置いて、僕は

 

「どういたしまして」

 

と誰に言うわけでもなく、こちらも一人で呟いてやったのだった。

 



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6

マルが女になってから二週間。本音を打ち明けて少し気が楽になったのか、無理に笑顔を見せて強がるようなことはなくなった。以前のようにコロコロと表情が変わると言うか、よくも悪くも感情を隠さなくなった。

 

それはもちろん今現在もで、マルは光の無い絶望が混ざった眼で虚空を見つめている。

 

「元気出せよ」

 

僕がそう言うとマルは首をフルフルと横に振って

 

「へこむよなぁ。ここまでくると。」

 

と独り言のように言った。ここ一週間、病院に行ってみたり、ネットで情報を集めたり、とにかくマルの女体化した体の手がかりを探し続けた。

しかし結果は散々で、病院へ行くと鼻で笑われるか精神科を勧められ、ネットでは都市伝説程度の情報しかなかった。いやまあ、バツの件に関したら精神科案件なのかもしれないけどそこら辺は混ざると事態がややこしくなりそうなので伏せておいた。

 

それで何も成果を上げられず手詰まりだからマルはこんなにも生気がない顔でぼーっとしているわけだ。

 

「俺はさ、良かったと思ってるよ。国の実験台にされなくて。俺、まだ死にたくないから」

 

マルは何を言っているんだろうか。そんなSFじみたことになるわけがないだろう。いや、あながちありえなくもないのか。実際に都市伝説やフィクション程度でしか出会えないような現象が目の前で起きたわけだし、実験とまではいかなくても拘束されて観察や調査されることはないとは言い切れない。

 

はぁ。

ため息をつく。陰鬱な雰囲気をさらに濃くすることはわかっていたが止めることはできず無意識的にそれが出てしまう。

 

「お前こそ元気出せよ。俺は見た目ほど落ち込んでるわけじゃないぜ。」

 

マルがそんな僕を見て言った。10分もそうしていたのにか?、と言おうとしたがそれを遮るようにマルが立ち上がる。あまりの勢いに体がビクンと反応してしまったがそんなのお構いなしにこちらに指をさしてくる。

 

「俺には協力してくれる心の友がいるからな」

 

そう自信満々に言い放った。少し動揺はしたものの元々のテンションが低かったこともあって、僕はどちらかというと呆れ半分で

 

「ちょっとクサいかな。それは。」

 

と思ったことをそのままに伝えた。するとマルはいつものように口を尖らせて不満そうにこちらを見つめ続ける。

こちらとしてもそう言ってくれるのは嬉しくないわけではないんだけどそれをそのまま伝えるのも癪だという気持ちもあってすこしぶっきらぼうな感じになってしまっていたのかもしれない。そうやって内省してもそれが相手に伝わるわけもないのでマルは

 

「そんなんだから友達いないんだよお前」

 

と、負け惜しみのように言った。実際負け惜しみではなく事実でしかないんだけど。ただ、こうもコンプレックスに石直球を投げつけられては流石の僕でも多少は頭にくる。

 

「関係ないだろ。」

「いーや、あるね。なんなら彼女いない歴にも関係してるね。大地。お前には相手を慮る気持ちというのが足りてない。」

「マルと僕は気遣い合うような浅い関係じゃないだろ。」

「そ、そうだけど」

 

マルは僕の言葉に一瞬驚いたような顔をして口ごもる。何を思ったのかわからないが気まずそうに目を逸らしている。

 

「そもそも真の友情、愛情とは自分の本当の姿を相手に見せることから始まるんだ。そんな相手に媚びへつらうようなことはあってはいけない。本当の姿で付き合ってこそ健全で素晴らしい真実の愛をもった関係をつくることができるんだよ。」

 

動揺したマルにとどめをさすために、ここぞとばかりに僕は持論を語る。尊い人と人との関係というものを。恥ずかしいから今まで人に対して語ることはなかったがひたすら独りで考え続けた完璧な持論。満員の日本武道館で講演を開けば拍手喝采、感動のあまり涙の雨が降ること間違いなしだと確信できるほどに完成された論理だ。

 

しかし、マルの反応は僕の描いたものとは全くと言っていいほどに異なっていて、興奮や感動の最初の一文字も含まれていないような冷めた目をしていた。馬鹿にするような半笑いがまた、僕の心の炎に薪を入れていくようだった。

 

「絶対今の大地の方がクサいこと言ってる。ピュアな中学生みたいな価値観しやがって。」

「なんだと」

「ごめんね。大地君のプライド傷つけちゃったね。大丈夫だよ。大地君は立派な大人の価値観を持ってるよ。そのまま汚れなく生きてね。」

「あー怒らせた。遂に温厚な僕をキレさせてしまったな。覚悟しろよクソ陽キャ。てめえの三半規管を頭から取り出して動物園に畜生の餌として寄付してやるからな?」

「いやーんFPSが出来なくなっちゃうわぁ。」

 

マルがそう言って振り回したクッションが僕に数回当たる。痛くはないけど衝撃で体の軸がブレて鬱陶しい。

僕が無言で睨み続けると、マルはその動作をピタリと止めて“ごめんって”と少し申し訳なさそうに言った。

 

「まあ、俺が言いたいことはお前がいてくれれば気持ち的に楽だしそんな気負わなくていいってこと。」

「そんな楽観的な」

「焦ったっていいことないしな。それにある日いきなり戻るってこともあるかもしれないし。楽観的でいいんだよ。」

 

ニコニコとした笑顔でマルはそう言い切る。

本人がそう言うならいいんだけど、また強がりが入ってるんじゃないだろうかと心配になる。黙っておくとそう思っていることが覚られそうなので僕がとりあえず頷くと、今度はマルの方からため息が聞こえる。

 

「大地も大概わかりやすいよな。表情に出すぎ。

俺たちは変な気遣いするような仲じゃないって言ったのお前だろ。前みたいに我慢しないから。心配すんなって」

「…わかった。」

 

こう穏やかな表情で、しかも自分の言った言葉をそのまま跳ね返されるとこちらとしてはぐうの音も出ない。

少し過保護的になりすぎていたのかもしれない。前のマルは少し危ういところがあってそうせざるを得なかったが今のマルに対してむしろそういうのは不必要なものだということになんとなく気づいた。

 

「ということでさ、することもないし気晴らしにどっかいこう。」

 

僕がマルに感心しかけたところで、彼はいきなりそんなことを言いだす。いかにも「今思いついた」という風に人差し指をピーンとたてているが、なんというかあからさますぎて僕が大人しくなったタイミングを狙っていたのではないかとすら思える。

そもそも何が「ということで」なんだ。前後の話が全く繋がっていないじゃないか。

 

「俺、温泉に行きたいです。」

 

そんな風に思っていることをまた勘付かれたのか僕が反論する前にマルは付け加える。そういう小癪なところだよなぁと思いつつも、最近なにかと疲れが溜まっている気がするのでそれも悪くないとも感じていて、思わず僕は「温泉?」と聞き返してしまう。

 

狙い通りというようにいたずらっぽい表情をしたマルは「そう、温泉。」とさらに強調する。

 

「俺この半年間忙しくて行けてなかったんだよね。だから行きたいなあって。日帰りで行けるし」

「そんな温泉好きだっけ?」

 

僕が聞くとマルは身を乗り出して

 

「好き好き」

 

と言ったがどうにも胡散臭く感じる。こうやってあからさまにこっちに身を乗り出してくる感じが本当に胡散臭い。そもそもの話マルから温泉の話題なんて聞いたことがない。

 

「いやほんとに下心なんてないから」

「僕何も言ってないんだけど。お前女湯入りたいだけだろ。」

「なわけ」

 

目を逸らされる。これは100%クロだ。

 

「なんか前よりアホになってない?前はもっと切実に戻りたそうだったじゃん。」

「色々とぶっちゃけて多少ストレスから解放されたからな。少し余裕ができた。」

「それにしてもさぁ…そもそもの話首輪つけたまま温泉入るつもりだったの?」

「あ~首輪。」

 

忌々しそうにそう言うとマルは首輪を握る。しかし数秒後明るい顔をして彼はこう言った。

 

「あいつと記憶共有されるから首輪外してあいつに任せればよくね?」

「いやバツは主導権渡されたら女湯行かなさそうじゃない?」

「それもそうか。不便すぎる。」

 

本当に残念だったみたいで、マルは悲しそうにしゃがみこんだ。理由から目を背ければ少し可哀想かもしれない。理由から目を背ければだが。

 

「けど正直さ、そんなことしてる暇ないと思うよ。」

「え?なんで?」

「ちょっとまた暗い話に戻る感じになるけど、会社二週間も休んでたらそろそろ家に人来そうじゃない?そうじゃなくても人が来るかもしれないし。そこで今のまま鉢合わせになったら不審者扱いだし。現実的に考えてマルは引っ越さなきゃいけないと思う。今のところ戻れる手がかりもないわけだし。」

「それは、まぁ、そうだな。」

 

歯切れの悪い感じでそう言ったマルはしゃがんだまま俯く。僕も一緒に見て見ぬふりをして気晴らしに協力してやることは簡単だが、やるべきことはやっておかないと取り返しのつかない事態に陥る可能性もある。なら僕は雰囲気に流されずそれを言うべきだと思った。

 

「けど引っ越し先はここでいいしそんな深刻な問題じゃねえよ。」

 

あっさりとそう言われて「そうか、それならいいか。」なんて僕もあっさりと返答する。

 

「いや待て。それは駄目だろ。」

 

すぐに訂正するんだけど。

 

「は?なんで?」

「いやマルいま女じゃん」

「そんなの気にしてんのかよ気持ち悪。男だし。」

 

心底軽蔑したような感じでこちらを見る。その声は少し震えていて怒りや動揺が見え隠れしているような気がした。

 

「当たり前だろ。童貞だし。」

「ほんとに気持ちわりーな。慣れろよ。今すぐ慣れろ。」

「そんなすぐは無理だって」

「…協力してくれるって言った。」

 

比較的静かに発せられた最後の一言が僕の中で木霊する。

自分から頼れ、協力するなんて甘い言葉を使っておいて友達を裏切るのか?僕は

そんな問いが頭の中を駆け巡った。ここで断るのはマルへの裏切りに近い行為だとも思えて、そんなことをしかけた自分が情けなかった。

 

マルは潤って今にも何か零れそうな上目遣いでこちらをみつめている。しゃがみこんだその姿もあいまってそれがものすごく小さく見えて。それに対応する自分の罪がますます大きく見えて。僕は今にも潰されそうになった。

 

「悪かった。よく考えればマルはマルだし。うん。大丈夫だよ。ここならいくらでも貸すよ」

「…チョロ過ぎだろ。俺が出れない間とかあの変態に騙されんなよ?」

 

上目遣いをあっさりとやめてマルはそう言った。マルの演技は基本大根役者並みだが、今の容姿と合わされば間違って信じ込んでしまうこともあるというのがよくわかる。

実際マルが言うように、バツが悲しそうにしていると心苦しくなることもあるから今のように騙されることはあるかもしれない。

それはそうと目の前で“やーいやーい”と小馬鹿にされるのは癪に触る。

 

“ごめんって”と謝るマルの姿にはデジャヴを感じたがいちいち気にしていては話が進まないので、僕はそれを振り切って話を続けた。

 

「まあいいよ。僕がここ貸せば解決するわけだし。」

「話がわかって助かるね。じゃ、家賃なんだけど」

「家賃はいいよ。今はマル収入源ないし社会人半年じゃ貯金もないでしょ?」

「それは住まわしてもらってる以上よくない。俺の気がすまない。」

「けど、金はどうするのさ。」

「それに関しては考えがある。バツに働かせよう。」

「え?」

 

マルからそんな言葉出たので驚く。僕の驚きようにマルも驚いたみたいで目を見開いていた。

 

「驚くことじゃねえだろ。あいつに定期的に主導権握らせるって約束あっただろ?その時間を全てバイトかなんかに使ってもらおう。お前の役にも立つわけだしペットなら本望だろ。」

 

お前はペットを奴隷かなんかと勘違いしているのか?と訊きたくなるような発言だ。

あっさり言ってるがあまりにもクズに振り切ったマルの考えに僕は心底引いていた。それを見たマルが慌てて付け加える。

 

「いや、俺もできればちゃんと働いて家賃出したいんだけど、さっき言ったみたいに首輪着けてちゃバイトでも雇ってくれるところなさそうだろ?苦肉の策だよ。」

「まあ、それはそうか。けどバイトの長い時間バツに体貸すことになるけど…」

「それは嫌だけど仕方ねえよ。お前に家貸してもらうだけっていうのが俺としては許せねえし。あ、もちろん家事とかもやるぜ。こっちは俺がやるけど。」

 

そんなに頑張らなくていいのに、と思ったが逆の立場になった時に何もしなくていいと言われたらそれはそれで嫌だろうし仕方のないことなのかもしれない。

しかし、バツ本人がいない中で勝手に決めては彼女にも悪い気がしたので僕はマルに確認する。

 

「話は大体わかったけど無理強いはできないよ。なんならこっちとしては家事やってくれるだけで助かるし、バツが拒否した時は受け入れてくれ。それで追い出したりしないから」

「…お前がそう言うならいいよ。」

 

“頼むぞ”とだけ言い残してマルは首輪を外した。

 

 

「話は聞いてましたよご主人様。」

 

目を開けると同時にバツはそんなことを言って起き上がった。急に目をパッチリ開けて話すもんだから僕はそれがいつか見たホラー映画と被ったように見えてビックリした。

 

その様子を見てバツは首を傾げる。本人としては驚かせるつもりはなかったんだろうけどまだ僕の心臓はバクバクと音をたてていた

 

「どうかしましたか?」

「あ、ああ。いやなんでもない。それで聞いてたなら答えを聞きたいんだけど」

「もちろん良いにきまってるじゃないですか。ペットはご主人に尽くすものです。あなたに貢がせて下さい。」

 

そういってバツは両腕を広げて近づいてくる。まるでハグをしようとするみたいに。いや明らかにそのつもりだ。

あまりに急だったから僕は慌ててそれを避けた。

 

「なにするんですか」

「何するんだはこっちのセリフだろ。急になんだよ。」

「出てきたの久々だったので。ペットとしてスキンシップを。

けど元はといえばご主人様たちが悪いんですよ。一週間も私の事閉じ込めておくから。」

 

確かにマルが酔っ払って首輪を外して以降バツが表に出たことはなかった。僕としてはマルのことを優先するべきだと思っているし、ここ一週間は病院等を回ったりで忙しかったから時間がなかったともいえるがそれでも確かに惨いことをしてしまったと思う。

 

「お二人の気持ちを考えればこういう扱いをされるのは理解はできます。ご主人様にとってマー君は大切ですもんね。

けど同じように私はご主人様が大切で会いたくてなにより…」

 

そこでバツの言葉が止まる。ハッとしたような表情を見せてそこで言葉を止めた。

 

「こんなこと言いたかったわけじゃないのに。」

 

ぽつりとそんな言葉を漏らす。

そうか。そうなんだな。バツもちゃんと考えて、感じて、生きている。マルや僕となんら変わりのない人間なんだ。異常性ばかり見せるけど少し拗らせて、歪んでしまっただけの人間だった。思えばマルの時もそうだった。

僕は周りをよく見ることが出来ない自分本位の人間ということなのかもしれない。

 

「ごめんなさい。」

「いや謝るのは僕の方だ。約束破ってごめんな。許されないだろうけど」

「許すとか許さないとかないですよ。ご主人様ですから。何があっても信じます。妄信し続けます。だから頑張りますね。ご主人様に愛されるために。」

 

笑顔でそう言うバツの表情はとても見覚えがあるものだった。明らかにあの表情と同じだった。

そして今の僕にそれをどうにかすることは出来ないんだろうなとも確信した。

 

そもそもどうにか出来るのだろうか。だって僕はこれからもマルを優先し続けるだろう。

そんな僕が彼女に対して何をしてあげられるのだろうか。

 

「ご主人様?」

 

バツが僕を呼ぶ。彼女の顔はすっかりその表情から変わってしまったが、僕の脳裏からはそれが離れない。

多分僕はもうバツをあまり無下に扱うことはできない。僕の中の彼女の認識が理解できないものから変わりつつあるからだ。一時の同情でこんなになってしまう自分を呪いそうだ。

 

「最後に前みたいに撫でてもらえませんか?」

 

僕が言われた通りに撫でてやるとバツは静かに、けど嬉しそうに声を上げた。そんなバツとは対照的に僕は唇を噛み締め続けた



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7

トン、トン。

 

何かが僕の肩を叩いたのがわかった。しかし、一度浮き上がりかけた意識は心地よさにガッチリと掴まれてまた沈んでいく。現実を拒否するように僕は何かが叩いてきた方向から背を向ける。

 

トン、トン、トン。

 

さっきより一回多く、今度は背中を叩かれる。意識が水面まで浮かび上がっていって僕は「うーん」と唸るように小さく声を上げた。

 

「あの、朝ですよご主人様。」

 

優しく語り掛けるような声が耳に入ってくる。

マルが僕より早く起きてるなんて珍しいな。眠気で半分くらい働いてない頭の中そんなことを考える。

僕がゆっくりと起き上がると横にいたマルと目が合った。

 

「大丈夫ですか?アラームが鳴っていても起きなかったので起こしちゃいましたけど。」

 

心配そうにマルはそう言った。いや、この話し方はバツか。覚醒しない脳のせいで思考があやふやだ。

 

「あ、今日は仕事の日なので。マー君は朝ご飯作って食べたら私に代わっちゃいました。」

 

と、僕の心を見透かすように事情の説明までしてくれた。適当に相槌をうつとバツはとてとてとキッチンの方へ向かう。僕は眠気をあくびで吐き出すと少しずつ頭が起きてきて、とりあえず洗面所に顔を洗いに行く。

なんというか、慣れないなあ。この部屋に同居人がいるというのは。

 

マルは当初の予定通りあのあとすぐこちらに引っ越してきた。そして約束通り家事をしてくれるわけだけど、僕が元々あまり熱心に家事をしていたわけではなかったのもあって少しだけ生活の質が上がった気がする。というのもマルは意外にも丁寧に家事をする性分だったみたいで、僕がどうせ一人暮らしだしどうでもいいと適当にしていた部分まできっちりこなしていく。こういった生活的部分は根拠もなくマルより僕の方がしっかりしていると思っていたが間違いだったようだ。

 

バツは近くのスーパーでバイトとして雇ってもらえることになった。記憶を共有しているマル曰く普通に働けているようではあるらしい。まだ一週間も経っていないからどうとでも言えるが今のところは問題はないとのことだ。

 

「ご飯の準備出来ましたよ。」

 

後ろの扉から顔を出してバツがそう言った。鏡越しでそれが見えていた僕は振り返らず礼を言ってから乳液を顔につける。

 

居間のローテーブルには既にご飯、みそ汁、そして目玉焼きなどが用意されていた。

座って手を合わせた後僕はそれらを一口ずつ口に入れていく。

ふと、正面に座っているバツと目が合った。ニコニコとこちらを眺めていて見ているだけで楽しいと言うような感じだ。

 

「マー君早起きしたはいいんですけどね、ご主人様が寝たままなのですることがなかったらしくて私に代わっちゃったんですよね。おかげで自由時間が出来ちゃいました。

まあ私もすぐ行かなきゃいけないからゆっくりは出来ないんですけど」

 

そういってバツは苦笑した。

 

「だから嬉しそうなのか」

「いやまあそれもあるんですけどね。こうやってご主人様の食べるところじっくり見られる機会なんてないですから嬉しくもなりますよ」

「なんだそれ」

 

僕も思わず笑ってしまう。明かるげな雰囲気が食卓を包む。なんの心配もない楽しいもの。一見そう見えるはずだ。

 

だが実際は違う。僕はバツが人間的な弱さを晒して以降、彼女への接し方をどうすればいいかわからずにいた。これはそんな僕が一定の距離を保って作っている、そして彼女もそれを理解してその中に踏み込んでこないからこそ出来ているハリボテでしかない。

 

僕はこの現状を放置していたいわけではない。ただ、具体的にどうすればいいかわからない。

だって僕はマルのためならバツは消えるべきだと思っている。そして異常な行動で隠されていたがしっかりと人間的な感性をもつバツにそんな仕打ちをするなんて非人道的で、端的に言えば可哀想だと感じ始めていた。

どっちつかずになってしまっていた。だからこそこのことを考える度にどうすればいいかわからなくなるんだ。

 

「あ、もう行かなきゃですね。」

 

バツがそう言ったので時計を見ると八時前だった。僕も少し急がなければいけない時間だ。

彼女は横に置いてあったバッグを持つと明るい声で「いってきます」と言いながら出ていった。

心にかかる靄の原因がはっきりとしているのにそれが解決できないことにイラつきながら一人朝ご飯を食べる。時間も心の余裕も足りていない気がした。

 

 

 

仕事を終え、自宅に戻るとバツが夕飯の準備をしていた。

なにもやましいことがないように僕に「おかえりなさい」とバツが声をかけてきて、家にいる美女がおかえりなさいを言ってくれることに感動さえ覚えてたんだけど、

 

「え?バツなの?」

 

そんなことは置いといてそこにいたのがマルではなくバツだったことを疑問に思って訊いてしまった。バイトを始めてからここ数日、僕が家に戻る前にはいつもマルに戻っていた。

当然今日もそうなるもんだと思っていたから僕は単純に驚いていた。

 

「…はい。本当は駄目だと思いますけど。ただのわがままですけど。」

「いや、まぁ。」

 

バツ本人としては代わりたくないのが本心なんだろうと前々から思っていた。当然のようにマルに戻っていたけどバツが自主的に首輪をつけなければマルにならないわけだしそれを強要するのは酷だと思う気持ちもないわけではなかった。

 

「ご飯作ってたんだよな?」

「え?あ、はい。出来てます」

「じゃあ食べながら話そうか。」

 

僕がそう言うとバツは顔を明るくしてキッチンの方に行った。その反対に僕は前から抱えていたバツへの悩みもあるというのにこの問題の着地点をどうするべきか考えていて足取りが少し重いまま居間へ向かった。

 

僕が部屋着に着替えて手洗いうがいを済ませる頃には朝のようにご飯やらおかずやらが並んでいてその匂いが疲れた体から食欲を引き出す。

手を合わせたあと僕ら二人は食事に手を付けていく。美味しいし、それ自体に不満はないんだけどいつ会話を切り出せばいいかわからなかった。

と、僕が話のタイミングや内容を考えている間にバツが箸を置いた。

 

「ご主人様は悩んでいますよね?多分、わたしのことで」

 

ピタっと体が止まる。そのあとギクシャクした動きで箸を置いて僕も返答する。

 

「よくわかったね」

「朝の態度が前と全然違ったので。あんな取り繕った顔でバレバレです。誰でも気づきますよ。」

 

口調は冗談のようだったが目は全く笑っていない。冷たく悲しそうな印象を与える目が僕をまっすぐに捉えている。

言っている内容が合わさると僕の心が隅々まで見抜かれているのではと思えてくる。それほどにハッタリっぽさだったり胡散臭さのない真剣な目つきだった。

 

「私、どうすればいいですか?」

「どうって?」

「私のことでご主人様が悩んで、苦しんでいるなら私も苦しいです。だから私なんかのことで悩んで欲しくないです。そのためには、私どうすればいいんですか?」

 

本心を言っている彼女の気持ちが伝わってくる。僕を苦しませたくないという彼女の本心が。

しかし僕はそんな彼女の気持ちに応えることはできず言い淀む。僕だって教えて欲しい。

どうすれば丸く収まってくれるのかを。

 

「いいんですよ。私はあなたの言うとおりにしますから。悩まないで、簡単に思ったことを言ってくれれば。」

 

簡単に、思ったことを。頭の中でその言葉が反響する。

バツのその言葉に後押され僕は今まで開けなかった口を開いて少しずつ思考を言葉にしていく。

 

「マルが一番大事なんだ。僕の友達で尊敬できて。最近はもっとマルのことがわかってきて。かけがえのない友達なんだ。マルのことを考えたらバツを消す方法を探すことが一番だと思うんだけど。

けど、この前のバツの強がった笑顔がどうにもマルと被って。同じようにしか見えなくて

最初はわかんなかったけどお前は思ったよりちゃんと人間で、感情を持ってて、そんなやつを消してしまったらもうそれは殺人と同じなんだよ。

だから、マルもバツも大切にしたい。バツが消えるとしてもそれを少しでも償えるように幸せにして、あげたいんだ。」

 

一度言葉が出始めると、つっかえていたものがとれたみたいに一気に全部が出てきて、僕の感情を言語化出来ていたんだと思う。

下らないプライドとか、どっちつかずでクズだなって思ったにしても全部吐き出せて少しスッキリしたような気持ちになる。バツは僕の言葉を聞くと俯いて声を震わしながら言う。

 

「いいんですか?私なんかを受け入れて。」

「わからない。けど僕はそうしたい。マルとも話し合ってバツを少しでも幸せにしてあげたい。」

「ペットとしてですか?」

「…それはどうだろう。だけど、だから、ワガママとやりたいこと言ってよ。僕にできることならなんでもするから。」

 

バツは顔を上げて笑って見せる。目に浮かんだ涙が、後から生まれた人格だとしても彼女が一人の人間であることを証明しているように見えた。

 

「じゃあ、1ついいですか。バイトの日は甘えさせてください。ご主人様に。」

「何すればいいんだ?」

「えっとじゃあ。膝枕を。お、お願いします。」

 

そう遠慮気味に言うと、バツはソファに座った。

僕が隣に座るとゆっくりと僕のふとももにゆっくりと頭を置いた。横を向いているから耳が見えてるんだけど、そこがほんのり赤に染まっているように見えた。「えへ」、と漫画でしか聞かないようなとろけた笑い声を出しているのがすこし面白かった。

 

「ちょっと硬いかもですね」

「やれって言っといてそんなこと言うのかよ。」

「いや想像通りですよ。そして想像通りすっごいドキドキしてます。

人格として成立する前の、抑圧されてマー君の一部だった時から、夢だったんです。こうやって大地に甘えるのが。マー君は自覚してないようでしたけど。」

 

バツはもう一度とろけた笑い声をあげる。少しそれが愛おしく見えてきて、僕は彼女の髪にそっと手を触れた。ピクっとバツがそれに反応して動いたが抵抗する様子もなかったので髪を流してみる。いつもながらさらさらで、綺麗な触り心地のいい髪だった。

 

「普通に名前で呼べるなら僕の事名前で呼んで欲しいんだけど。ご主人様って呼ばれるの抵抗感しかないし」

「これはこだわりですよ。こだわり。

それより、その、いつもみたいに…撫でてくださいよ。髪触って焦らす方が悪いんですからね。」

 

言われた通り撫でてやる。そこからバツは静かになってただそれをする時間が続いた。不思議と退屈ではなくて時間はあっという間に過ぎていった。何分か経つとバツは

 

「今日はこれぐらいで。マー君に嫉妬させるのも可哀想なので」

 

と言って起き上がった。

 

「マルはこんなことされたくないでしょ。そういうのはバツに分割されたらしいじゃんか。」

「…そうですよね。変なこと言ってすみません。じゃあマー君によろしくお願いします」

 

バツは首輪を取り出すと最後は笑顔でマルに代わっていったのだった。

 

 

 

「あんま変なことすんなよ」

 

マルの第一声がそれだった。僕が何かを言う前に間髪入れずマルは続ける。

 

「ほんとは嫌だけどお前が満足するならあいつがバイトしたあとぐらいは体貸すから。」

「あ、ありがとう」

「貸し1だからな。あとでなんか奢れよ。」

 

と、そこまで早口でまくし立てたところでマルは立ち上がっていそいそと僕から離れて正面にクッションを置いて座った。

少し表情が険しいのは僕がまた勝手に約束をしてしまったからだろう。さっきのバツも顔が赤かったのでそれが引き継がれてるのかもしれないけど、今のマルも大分顔が赤い。それも相まって相当怒っているように見える。

 

「俺も見てるんだからな。」

「え、なに?」

「俺も見てんのになに膝枕とかやってんだよ。気持ち悪い。」

「ごめん。」

「本当に変なことすんなよ。絶対だからな。

あのさ…大地は俺の、その、いや。やめた。」

「なんだよそれ。言いたいことあるなら言えよ。」

「使った皿あとで洗うから水につけといて。シャワー浴びてくる。」

「おい」

 

僕が呼び止めてもマルはそれに反応せず風呂場へさっさと行ってしまった。

もっと怒られるものだと思っていたが、思ったより何も言われなかったことを僕は疑問に思いつつ皿をシンクへ持っていった。

 

 

 

 

「おはよ」

「ん、おはよ。」

 

あれから数日後の朝、目が覚めるとキッチンの方から音がしたのでなんとなくそちらの方に行くとマルが朝ごはんの準備をしていた。確認するとしっかりと首輪がついているので間違いなくマルだった。

 

「最近ずっと僕より起きるの早くない?」

「まあな。」

「今日バツバイトの日じゃないっけ?」

「そうだけど別に行く前に代わればいいだけだからな。それより顔洗ったり準備しとけよ。」

 

マルはこちらを向かないままそんな注意を僕にして料理を続けた。なんというか少し元気のない感じがするけれど、朝だからこんなものなのかもしれない。

 

あれからバツがバイトの日は仕事終わりに甘えさせる日になっていた。マルはあんなもの見せられていい迷惑とよく言っているが、まあ実際迷惑なんだろうけど、バツがやって欲しいというのだから仕方ないだろう。

 

基本的にはそれ以外はほぼ変わらない生活を送れている。抱えていた不安を1つ解消できて晴れ晴れとした気分でここ数日を過ごせていた。

 

「いただきます。」

 

マルが用意した朝食を食べ始める。基本的にマルもバツも料理の腕は僕より上で、満足感がある。

 

「美味いか?」

 

マルが感情を込めず淡々と僕に聞くが、いつもはそんなことを聞いてこないのでどうしたのだろうと思いつつも僕は答える。

 

「美味しいよ。なんで?」

「俺はお前の役に立ててるかなって」

「え?どうしたんだよ突然。」

「…家賃分は働かないと追い出されそうだからな!今のうちに評価聞いておこうと思って」

「そんなことしないけど。鬼じゃないんだし。」

 

マルは苦笑してまたご飯を食べ始める。

実際僕が作るより美味しいからそんなこと気にしなくていいのに。マルはそういったところの筋を通す男ではあったけれど少し違和感を覚えつつ箸でご飯をかきこんだ。

 

朝食を食べて、外に出ると外は少し薄暗い曇り空だった。バッグの中に折り畳み傘を確認して、何か少し嫌な予感がしつつも僕は通勤路を歩き出した。

 

 

 

幸い、帰り際まで雨は降らず僕は濡れずに帰ることができた。家のドアを開けるといつものようにバツがやってきて

 

「お帰りなさいませ。ご主人様。」

 

と僕に声をかける。メイドにでもなるつもりなのだろうか、と思える出迎えだがいちいち気にしていては疲れるだけだ。

僕はいつものように部屋着に着替えいつものようにふたりで夕食を済ませた。

 

「今日はどうする?」

「そうですね。じゃあまずソファに座ってもらえます?」

 

ここはいつもとは違うな、と思いつつも僕はソファーに座る。すると、バツは僕のすぐ前に、僕を椅子にするように座った。

 

「これ一回やってみたかったんですよね」

 

とバツは嬉しそうに言うとテレビの電源を付けてテレビを見始めた。

今までより触れてる部分が多いのとすぐ近くに密着しているからいい匂いまでして僕の内心は穏やかではなかった。静まれ、静まれ、と念じてみても収まる気配はない。

 

「私、すごく幸せですよ。ご主人様。こんなに幸せでいいのかって思っちゃうぐらい幸せです。」

 

そんな僕をよそにバツが静かにそう言う。表情は見えないけれど本当に落ち着いたその口調がまたこれもいつもと違うように思えた。

 

「幸せすぎて多分調子に乗りすぎたんですかね。ちょっと今日失敗しちゃってお客さんに怒られちゃったんですよね。」

「そういうこともあるだろ。」

「みんなそう言うんです。」

 

少し強めた語気でバツはそう言った。

 

「みんな慰めてばかりです。私は、失敗したんですよ。駄目な私に必要なのは慰めではないと思うんです。」

 

いつのまにか僕の腕がバツに掴まれていた。バツはそれを自らの首までもっていって、僕の手に彼女の首筋が触れる。少し冷たくて、すべすべしていて、すこし擦るだけで傷つけてしまいそうなほど繊細な首筋と肌だ。

 

自分の息が荒くなり始めていることに気づく。バツは、振り返りこちらを見上げる。

妖艶。という一言が相応しい色づいた笑顔に僕はドキリとさせられる。

 

「今、ご主人様の手に触れているものを強く握れば、私に苦しみと罰を与えられます。私の生死はあなたの手の中。」

 

いつかに感じた心の底で何かが蠢くような感覚。それが少しずつ蘇ってくる。

それを否定しようとしても否定できない。目の前の彼女に少しずつそれが呼び起こされていく。

 

「やっぱりこんな私は受け入れられませんか?」

 



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8

そうだ。僕は彼女を受け入れると言った。彼女を出来るだけ幸せにしたいとも言った。これくらいのことは別にやってやってもいいはずだ。僕が別に普通であったとしても、この行動自体に嫌悪感があったとしても、僕は同じ行動をしていたんだと思う。

 

ただ、僕の行動は明らかに衝動に駆られたものでそんなことは全く考えていなかった。

 

バツをソファーに寝かせ、馬乗りになり、両手に力を込める。流石にこの状況でもストッパーは効いているので全力ではないが、彼女を苦しめるには十分な力。

かっ はっ

擦り切れるような声になってない音をバツが出す。目には涙が浮かんでいる。

しかしそれらとは裏腹に満足そうな笑顔を僕に向けている。あぁ、もっとしてください。と言っているようだった。

 

この顔を歪ませたい。

嗜虐心を煽る、煽る。元々消えかけ、燻っていた火種に“甦れ”と風が送られてくる。

 

これのルーツなんて知らない。僕は暴力はおろか、喧嘩すらしたことがない。人を傷つけたこともなければ、積極的に苦しめようと思ったこともない。そもそも人と関わろうとしたことがほとんどない。マルという熱にあてられただけで元々の僕は独りでしかなかった。

こんな欲求に気が付くはずなんてなかった。

 

バツ、君にさえ出会わなければ。君の狂気さえ見なければ。僕はこうならなかったはずなのに。あの時感じていた、心の蠢きは恐怖なんかではなく僕の欲求でしかなかった。

僕は僕自身が感じてる興奮を最大限にするため欲求に従って動く。清々しい気分だ。

生まれて初めて牢から出されたような、初めて体いっぱいに太陽の光を浴びたような。

 

バツの顔が少しずつ、歪んでいく。歪んで、歪んで、僕の好きなように。青くなった君も素敵だよ。あ、駄目だそれは。

 

僕は慌てて手を放す。バツは何回かせき込んだあと、浅い呼吸を繰り返す。

 

最後の最後に理性が戻ってきた。これ以上やったら死んでしまうのではないかと。

僕は我に返った。

 

そのあといままで感じたことの無いような自己嫌悪に吐きそうになる。

今のが、僕なのか?

バツを傷つけて、喜んで、楽しんでいるような、下劣な欲求を持ったあれが僕なのか。

 

目が合ったバツは嬉しそうにこちらを見つめ続ける。

 

「ありがとう、ございます」

 

浅い呼吸を続けながら彼女は言った。僕は恐怖から、罪悪感から、彼女から離れる。そんな僕を見て彼女は続ける。

 

「優しいですね、あんな演技までしてくれるなんて。」

「えん、ぎ…?」

「罰して欲しい私のために、してくれたんですよね?演技。」

 

とぼけた顔で、バツはそう言った。

演技ではないことを僕自身は知っている。しかし、僕の心がそれを正直に言うことを許してくれず、僕は静かに頷いて、下を向いた。バツの顔を見ていられなかったんだ。

 

少し時間を置いて、その間は特に話すこともなく最後に感謝を述べて、バツは首輪をつけた。

 

 

 

目を覚ましたマルは無言で僕を見つめる。僕は彼の顔を直視できずただ下を向いて、こちらも何も言わずにいた。

重苦しい空気が僕の背中にのしかかって、正直言えば逃げ出してしまいたかった。

 

「楽しかったか?女の首絞めて。」

 

最初に口を開いたのはマルだった。軽蔑や失望したことを言いたいのだろうと、その口調を聞いてなんとなく思った。

 

「言ったろ。演技だよ。」

「あの顔が演技?笑わせんなよ。お前おかしいよ。絶対おかしくなってる。」

 

マルは静かにそういうとこちらに近づいてくる。

「顔上げろよ。」と声が聞こえて僕はゆっくりと顔を上げる。

少し驚いた。もっと軽蔑にまみれた表情で僕を見ているものだと思っていた。しかし実際はそうではなく、泣きそうな表情をマルはしていた。それがどういった意味を持っているのか僕にはわからなかった。

 

「お前は悪くないよ。悪いのは全部バツだ。」

 

そう言い切るとマルは続ける。

 

「やめようよ。もうバツを出すの。あいつのせいでお前がおかしくなってるんだよ。

お金入れなくてもいいって言ったろ。今まで以上に家事頑張るからさ。だからさ、やめよう。」

 

その提案に僕は、首を縦にふることができない。そもそも誰が悪い悪くないという話ではないし、それが彼女を閉じ込める理由にはならない。

色々といいたいことがあったけど、僕は端的に

 

「バツは悪くない。そんなことはできない」

 

と答える。マルはそれを聞くと口をぽかん、と開けてこちらを見つめる。数秒後、押し潰されたみたいな声で「あいつが悪いに決まってるだろ」という声が聞こえて僕はまた目を逸らす。

 

「お前は優しいからさ。そんな風に思ってるんだよ。俺は全部見てたぞ。あいつがお前に首絞めさせて、お前が今まで見たことないような顔して、お前が冷静になって後悔しているのも全部見たんだぜ。

お前におかしいところができたとして、それは全部あいつがそそのかしたせいだよ。そのせいでお前は冷静になる度に後悔して、苦しんで。これからも俺にそれを見続けろってのか。」

 

あぁ。マルは僕のことを心配していたのか。僕は彼に心配させてしまっていたのか。

軽蔑されてると勝手に勘違いして、自分で勝手に後悔して心配をかけさせてしまったのか。

 

それに気づいて、また一つ後悔が増える。マルを助けて、バツを幸せにするどころか、心配をかけさせている。言ったことも守ることのできない最低な人間になりかけている。

 

「僕は後悔なんてしていない。苦しくもない。だからバツは、今まで通り出してあげて欲しい。」

 

それでも僕は人間を、バツを一生閉じ込めておくべきことはできない。最低になったとしても僕は選べない。そんな選択は。前言ったみたいにバツを消すなんて選択肢は僕から消え去っていたんだ。大切なものの一つになっていたんだ。

 

頭を地面につけてマルに頼む。

マルは僕の肩を掴んで無理やり上体を起こしてきた。そして僕の服を掴んで、消え入りそうな声で

 

「なんで、なんでだよ。そんなにあいつが大事なのかよ。」

 

そう言った。ぽとぽとと涙が落ちている。

「ごめん。心配かけて、ごめん。」

僕はそう言うしかない。

 

「心配だけだと思ってんのか?」

 

急に服を掴む手に力が入ったかと思うと、僕は押し倒されて馬乗りにされる。ちょうどさっきの僕とバツが反転したみたいに、こんどは僕の上にマルが乗っている。

顔をどう逸らしてもどうしてもマルが視界に入る。諦めてマルの苦しそうな、泣きじゃくる表情を見続ける。

 

「俺にはお前しかいないんだよ。お前しかいないのに」

 

上から降ってくる涙が直接僕の顔に当たる。

 

「今回チャンスだと思ったよ。お前も戸惑ってて、これを口実に、お前まで奪おうとするあいつを後腐れなく封印できると思ったよ。俺が心配してる素振りを見せればお前も従ってくれる。俺は大地の味方で、大地は俺の味方だから。

けどあいつはちゃんとお前のツボ押さえてて、俺が知らないお前まで引き出して、完全に味方だったお前があっち側になっちゃった。俺もう必要ないじゃん。」

 

マルは両手で自らの顔を隠して、それでもその間からは涙が零れてきて、マルの涙は止まらなかった。僕は何も言えずただマルを見つめ続けるだけだった。

それが随分と長い時間に思えて、その時間がしばらく続いて、実際は一分も経っていないと思うんだけど、唐突になんの前触れもなく終わった。マルはピタッと動きを止めて、両手を剥がした。まだ涙は出てるんだけど、口と涙のせいで腫れた目は確かに笑っていた。

バツと顔は同じだから、全く同じ表情をすればそうなるんだろうけどさっき見た艶っぽい色づいた笑顔に、少し自棄になった印象がある。そんな表情だ。

 

「それとも私がバツをやろうか?バツより好みの女にもなるよ?もちろん首絞めてもいいしそれ以上のことだってしていいよ?可愛くなれるように努力するし、言われたらエッチな服でも着るよ。」

 

そう言う途中、その表情はどんどん崩れていって、元の泣いている表情に戻っていくんだ。

多分、マルの感情は一言で形容できないほどに複雑にぐちゃぐちゃに絡み合っている。僕が今、彼を歪ませてしまっている。

マルはそのまま僕に抱き着く。そして耳元で囁く。

 

「飼って。飼ってください。私には大地しかいないの。大地だけなの。大地だけでいいの。

だから私を選んで。マルじゃなくてもいいから。大地の好きな私になるから。私を選んで。」

 

僕の中で答えは決まっている。一瞬それを口に出すかどうか迷ったけど、僕は言った。

 

「お前はマルだよ。マルはマルであって欲しいよ。そしてマルもバツも選べない。二人とも僕が後悔しないために必要なんだ。」

 

僕を抱く力が一気に強くなる。僕の顔の真横からすすり泣くような声が聞こえる。

ごめん。ごめん。

絶対に伝わらないように何度も僕は謝り続けた。自分の発言には責任を持ちたいから。

 

 

 

 

正直。正直に言うと、僕は嬉しかった。

最初は雲の上の存在だと思ってたやつが、僕に弱さを全て曝け出して、僕を頼って、僕に縋っている。尊敬している友人をまるで支配出来ているような状況に、興奮し、胸が高鳴り、心は躍る。

この時の僕はそれを全て押し込んでいて、無視し続けていて、無意識的に自覚しないように鍵をかけていた。

僕の理性は、この先ずっとそれの見張りを続けていくんだ。それが表に出ないように。怪物を押さえ続ける。

 

 

 

 

マルは何時間も泣いて、泣き疲れて眠ってしまった。色々と疲れてしまったので僕も眠ってしまった。どっちかっていうと疲れたからというよりは、現実逃避的な意味で眠っていたかった。

 

目を覚ますと、首を回して時計の方を見ると九時前だった。どうせ今日仕事はないからいいんだけど、結構長い時間眠っていたみたいだ。

逆方向に首を回す。マルが眠っている。泣いた痕が目に残っていて、僕の中の罪悪感が自己主張をし始める。あれでよかったのかと言われると正直最善の選択だとは思えないし、もっと言い方もあったかもしれない。けど僕の中ではああ言うことが決まっていた。今更そうすることもできないんだ。

 

なにより僕がしなければいけないのは後悔よりマルへの贖罪だ。僕は彼を裏切っているんだ。彼の絶対的味方にはなれなかった。だからこそマルのために出来ることを僕はしなければいけない。

 

「なぁ。」

 

いつの間にかマルが起きていた。目がばっちりと合って、マルは気まずそうに続ける。

 

「起きてたの?」

「そんなじっと見るのやめてくれよ。恥ずかしいから。」

「僕を離してくれたらこんな風に密着する必要はないんだけどさ。」

「…ごめん。」

 

マルは僕から腕を離し、立ち上がる。

 

「くっついといて悪いんだけどさ、お前少し臭かったぞ」

「風呂入る時間なかったからね。」

 

“確かにそうか”と言ってマルは笑った。一晩中泣いてすっきりしたのか、いつもの笑顔だった。

 

「あのさ。昨日の事なんだけど。うだうだごねて、俺らしくなかったよな。」

 

下を向きながらマルは言う。気まずそうにぎこちない感じで。

 

「マルが必死になるのは当たり前だよ。僕がバツに体を貸してほしいなんて言ってるのがほんとはおかしいことなんだし。」

「俺と違ってバツと大地は直接やり取りしてるんだから情くらい湧くだろ。俺が勝手に嫉妬したんだ。それにあいつに働かして金出そうとしてる俺が都合いいことだけ言うのもおかしいだろ。」

 

多分、マルは僕が昨日言ったことを気にして、僕のことを肯定してくれているんだろうな。僕が気遣わないようにそうやっているんだ。

僕が選択した結果がこれだ。そしてここで僕が過度に慰めたり、昨日自分が言ったことを否定したりしても嫌味にしかならない。

 

「それより、腹減ったろ。飯作るから待ってな。」

 

マルはキッチンのほうに歩いていく。意図的に話を切り上げたんだろう。多分僕からなにもできないことをマルもわかっている。だから長引かせてもお互いに不幸にしかならないんだ。

僕はそう自分に言い聞かせて、これ以上それに触れようとはしなかった。代わりにその場でキッチンにいるマルに話しかける。

 

「今日さ、バイト無い日だよね。」

「そーだな。お前も休みだしお互いダラダラしようぜー」

「どこか遊びに行かない?」

 

ピタ、と動きを止めて、道具やらなにやらを少し片づけてからマルがこっちに戻ってくる。

 

「いや、行きたいのはやまやまなんだけどさ。首輪が…」

「寒くなってくる頃だしマフラーとかつければ隠せるよ。」

 

「確かに」とマルが驚いた顔で言った。僕は少し誇らしげに胸を張ると、マルは気づくのが遅いと言わんばかりに僕の張った胸を何度か叩いた。

ふぅ、とため息をつくとマルがキッチンに戻ろうとする。僕はそれを呼び止めて、マルの目をしっかり見て言った。

 

「前みたいにさ。遊んで馬鹿みたいに笑って今日は楽しもう。僕がそんな風に一緒に遊べるのはマルだけなんだからさ。」

 

マルはすぐ顔をキッチンのほうに向けて

 

「臭いのは体だけにしとけよ。」

 

とだけ言い料理を再開した。心なしか少しその動きが軽快になったように思えたが、多分僕の気のせいだと思う。

 




こいつ刺されても文句言えないだろ


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9

量的にこの話は単体で出すとあれかなって思ったので8と連続投稿。

結果的に文字数はそんな少ないわけではなかったけど。まあいいだろう。


マルの体に異常が起きて約一か月。何かとトラブルはありつつも、少しずつこの生活に慣れて、違和感もほとんどなくなっていた。

 

いつものように仕事から帰ると今日はバイトがないようなので、マルの「おかえり」という声が居間から聞こえてくる。

ただいまと返事をして、僕は居間へ向かう。居間にはソファに横になってヘラヘラと笑うマルの姿があった。あれ以降、変にギスギスすることもなくバツと僕の約束についても黙認してくれるようになった。たまに皮肉っぽくからかわれることもあるが、それだけで済むなら全然いい方だろう。

 

「じゃあおかず温めるけどどうする?先シャワー浴びててもいいよ?」

「いや、その前にさ。やりたいことがあるんだけど。」

 

マルが首を傾げてこちらを見る。そして僕はマルに近づくんだけど、マルは少しびっくりしたみたいに“なになに”と言って後ずさりする。

 

「動くなよ。」

「いやだって怖いし。」

「いいから。着け終わるまで動くなって」

「着ける?」

「いいから。黙って僕の言うこと聞こうか」

 

マルがようやく観念したのか、プルプル震えながら目を瞑ったまま動きを止める。何かいけないことをしているような気分になったが、僕はバックからそれを取り出してマルの首にとりつけた。

 

「着けたよ。」

「え、なにこれ。」

「チョーカー。首輪の代わりになるかなって。」

 

そして僕はまたマルがなにかを言い出す前に首輪のロックを無言で外す。カチっという音とともに、いつもならばマルの体は魂が抜けたように倒れるはずが、今はそれはない。

チョーカーも首輪と同じ扱いみたいだ。

 

「え?何してんの?っていうか俺。バツになってない…」

「チョーカーでも良いみたいだね。思い付きだけど上手くいってよかった。これで外出る時に首隠さなくても済む。」

 

そういって僕はスマホのインカメを起動しマルに手渡す。マルは不思議そうにいろんな角度から自分の姿を眺めていた。

それもそのはず。マルの首元にはいつもあるはずの赤い犬用の首輪の代わりに、真っ白のチョーカーがあるのだから。

 

「ちなみにそれもワンタッチ式。首輪と同じく簡単に着脱可能。」

 

と、僕が解説しているのを聞いていたのか聞いていなかったのかは定かではないけど、マルは勢いよく僕に抱き着く。

 

「ありがとう。マジでありがとう。めっちゃ嬉しい。」

 

そうとびっきりの笑顔で僕に言った。僕はそれがなんだか照れ臭くて、顔を背けて「どういたしまして」と返答した。

 

「今度の日曜お前も休みだし、俺もバイトないからさ。一緒に出かけよ?な?いいだろ」

 

そんなことを無邪気に言うマルを見てたらなんだか嬉しくなってすぐに僕は頷いた。

 

 

 

日曜日になって、僕らは近場の大型ショッピングモールに来ていた。さっき話題の映画を見終わったところで僕は感動に浸りながらベンチに座っていた。

 

本当の良いものを見終わったあとってどうしてこうこんなにも気持ちがよくなるのか。実際僕は何かをしたわけではないのに、達成感や感動で心が包まれていて、それらが僕を幸せにする。

 

だというのにマルは買いたいものがあるからとどこかへ行ってしまった。あいつはあの映画のよさがわからなかったらしい。わかっていたら今の僕と同じようにその場から動けなかったはずだ。まあこういうのは個人のセンスとか感覚によるものだから仕方がないといえるけど、とても残念に思えた。

 

そのまま一時間ほど待つと、ようやくバツは戻ってきた。が、僕は目を疑うことになる。基本外に出る時にマルはバツが買ったいつもの服を来ているんだけど、今のマルが着ている服はそのレパートリーにないものだった。というか、さっきまで来ていた服とは違った。

白のニット服の上に茶色い上着。薄い青色のスカートとレギンスを履いていた。全体的に体のラインが出やすいような服を選んでいる気がする。

 

「じゃーん。童貞を若干殺すコーデでーす。」

 

マルはニヤニヤと笑いながらそう言った。僕は意識的に感情を押し殺して

 

「あぁ、そう。」

 

と言ってみたけど、マルが不満そうに見つめてくるのでとりあえずサムズアップをしておいた。それでもまだ不満そうだが。

 

「まあ童貞にそういうのは早いか。俺も褒められたいわけじゃないしな。」

「童貞童貞うるさいな。」

「怒んなよ~」

 

マルはそう言ってベンチに、僕の横に座る。まあ、マルが楽しそうだし別にいいか、と僕も笑ってみせる。こんな風にずっと暮らせられれば楽しいんだろうななんて思ってしまう。

 

けどこの時の僕は正直言って油断していた。現実的に見なければいけない問題を見て見ぬフリをしたいただけなのに、楽しそうに笑って毎日過ごしていた。

 

マルを男に戻すのはどうなったのか?男に戻ったとしてバツはどうなるのか?僕が結局どっちつかずなのは変わっていないじゃないか?僕自身の本性については?マルには裏切ったことを結局謝れてないじゃないか?

 

客観的に冷静に見て、今のままじゃ色々と問題のあるマルから目を背けてこうやって毎日を楽しめるのは異常であり、僕たちが抱えた歪みでしかなかった。

その歪みは今のところ表面化したトラブルが起きていないだけでいつか爆発するかもしれないものであることには違いはないんだ。

 

そう。歪み。僕らを表すには端的でふさわしい言葉だ。

 

 

二人で映画の感想を言い合っていたら、一人の女が僕の目に入った。女はずっとこちらを見ていて、その顔は何か戸惑ってるみたいで、一度目に入ると怪しくて目が離せなかった。

 

「どうした?」

 

マルが言う。別に気にすることではないのかもしれないし全く知らない他人と言えど指をさして怪しいというのは気が引けて、僕はなんでもないと答える。

 

まあ、そのうちどこかへ行くだろうと勝手に決めつけて僕らは話し続けるんだけど、今度はマルの方が僕の後ろの方を見たまま動かなくなった。その時のマルの目は信じられないものを見たと言った感じで、僕も慌てて後ろを見る。

そこには先ほどの女が立っていた。そして、遠慮気味に彼女はこう言う。

 

「もしかして、マル、なの?」

 

ここから僕たちの歪みはさらに大きくなっていく。

 



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10

女は戸惑いながらもこちらを、マルを見つめる。現実を飲み込むことができず口に含んだまま、しかしその目には何か確信めいたものが見え隠れしている。

 

何か既視感があると思った。

 

少し考えて一か月前の自分も似たような感じだったのではないかと思った。まぁ、それだと僕は僕を見ていないわけだから既視感とはまた違ったものなのかもしれない。

しかし目に映る現実が自分の直感とは相反するあの感じを多分目の前の女は今体感しているんだと思う。

 

唐突に女が“え”と短い声をあげる。それと同時に女は僕の後方に走り出す。

女の方に気を取られていて気づかなかったが、後ろを向くとマルはいなくなっていて女の走り出した先に遠くにいる少し小さくなったマルが見えた。

 

「ちょっと待ってよ」

 

女の叫び声が響く。それを見て周りもざわつき、周囲の視線は二人に注がれている。

呆気に取られて数秒間動けなかった僕は、ハッとしてマルが持っていた、多分服が入っているだろう紙袋を持って二人を追いかけた。

 

 

僕が女に追いついた時には、もう既にマルの姿がなく見失った後だった。

女が荒い呼吸で周りをキョロキョロと見渡している。

鬼気迫る表情だったので少し抵抗はありつつも、僕は恐る恐る彼女に近づいて話しかける。

 

彼女はこちらを向いて眉間に皺を寄せたあと、

 

「あ、さっき一緒にいた人?」

 

と訊いてくる。

 

「まぁ、はい。そうです。その、あなたは?あいつのなんなんですか?」

「彼女です。いや、そもそも、なんか女装してましたけどあの人元々男で?いや、身長も縮んでた?なんか私もよくわかんなくて。

…というかあなたこそ誰ですか?今マルはどうなってるんです?」

 

彼女も混乱しているようでそんな要領を得ない返答が返ってくる。

そういえば彼女と別れて音信不通になったとマルが最初に言っていたの思い出した。マルから連絡を絶ったので正しくは音信不通にしたと言うべきなのかもしれないが。改めて見ると確かに大学で見たことのある顔のような気もする。

一方的に別れられていきなり連絡が途絶えたのだから彼女としてもマルに対し色々思うところがあったのだろう。怒りを覚えたのかもしれないし、相当心配したのかもしれない。それが彼女の必死さに表れている。

 

しかし、だからこそ僕は悩む。勝手にマルのことを彼女に話していいものかと。

彼女にその話をした時、彼女が何を思って何を行動するのか付き合いのない僕にはわからない。なにより彼女を巻き込まないことをマル自身が最初に選んだ。

ここで勝手に僕が話していいものではないように思える。

 

「僕は…友達だよ。」

 

迷った結果、僕はそれしか言えなかった。というか何を言えばいいかわからずになんとか絞り出した言葉がそれだった。

少し間を空けて彼女は僕のことを見続ける。そして少し笑ったかと思うと

 

「あの娘がマルってことは否定しないんだね。」

 

と言った。思わず僕は声をあげる。その反応もまた彼女に確信を与えてしまいそうで、僕は内心しまったと叫んだ。

確かに彼女的にはマルが本当にあの姿であるという根拠が直感以外になくて、半信半疑みたいになっているところはあったんだろう。そこでカマをかけたんだ。

 

いや、勝手に墓穴を掘っただけだが。

 

「もしかして君大学一緒だった?見たことある顔…というかマルと一緒にいたとこ見たことある気がする。」

 

猛烈な勢いで彼女は色々と思い出し始めている。これは良くない。すこぶる危険。

もしかしたら隠し通すことが出来ないかもしれない。

 

「私の彼氏を可愛くしちゃったのも君?」

 

懐疑的な視線が向けられる。そんなわけないだろうと否定したいが何を言っても信じてもらえなさそうな気がする。

視線が勝手にあっちこっちに向く。彼女を直視しないように、彼女の疑いの目線から逃れるように。

 

「黙ってちゃわかんないんだけど」

「いや、断じて違う。僕じゃない。」

「じゃあなんであんなことになってんの?」

「それは言えない。」

「怪しすぎるよ君。」

 

完全に彼女のペースで会話が進む。このままでは話すまで帰してくれなさそうな勢いだ。一度深呼吸をする。自分の心を落ち着かせる。

 

「正直、勝手に話していいか迷ってるんだ。話せないからマルもあなたから逃げた。それを僕が勝手に話すと言うのは違うと僕は思う。あなたが必死だからこそ僕も揺らいでいるけどね。」

 

驚いたような顔で彼女はこちらを見る。

 

「…そうだね。確かにそうかもしれない。けど、ここで何も聞けなかったらマルとまた会えなくなるってことでしょ。話も聞けずに。だから話してくださいよ。

どうかお願いします。」

 

彼女は頭を下げる。周りの目線が集まる。

ここで断ったとして要望が通るまで彼女が頭を下げ続けるのは容易に想像できる。それが羞恥心と合わさって話してしまいたくなる。

 

しかし僕はそれに抗って口を開く。

 

「僕の連絡先を渡します。あいつと話してから後から連絡を送ります。

それで今日は勘弁してください。」

「なんで」

「僕から話せることはないです。マルのためにも今日は帰ってください。」

 

冷たく言い放ち僕の強い決意を態度で示す。彼女が断っても無駄だろうというぐらいの必死さを見せるなら僕は同じことをするだけだ。そこに後で連絡するという妥協案をいれる。

彼女としてはもうそれに縋るしかないはずだ。

 

彼女はその後少し渋ったものの、最終的に連絡先を交換して帰った。

 

「絶対に連絡して。何もなかったら恨むから。」

 

彼女は最後にそう言うとどこかへ歩き去っていく。僕は無言でその背中を見つめ続けた。

彼女の背中が完全に見えなくなったころに僕のスマホが鳴る。画面にはマルから送られた“先に帰る”という短いメッセージが表示されていた。

 

 

 

流石に跡をついてくるようなことはしないだろうが、何かと後ろを警戒しながら僕は家まで帰った。

ドアを開けてただいまと言ってみてもなにも言葉は返ってこない。

先に帰ってるというメッセージからもう家に着いてるもんだと思ったがいないのだろうか。

いや、耳を澄ますと何か聞こえる。ゆっくりと一歩を進むたびにその声は少しずつ近くなっていく。

 

居間は電気も点いておらず、閉まり切ったカーテンから暗くなり始めた外の光が多少入ってくる程度だった。ソファの上にはうつ伏せにになって肩を震わすマルの姿があり、クッションに押し付けている彼の顔からは玄関から聞こえていたすすり泣くような声が聞こえる。

 

今、声をかけるのは違うと思った。正確にはどう言葉をかけても上手くフォローが出来ないように思えて。僕はゆっくりその場に座った。何もせずマルが立ち直るのを待つことにした。

 

「あのさ」

 

と、完全に座り切る前にマルが声を出す。

 

「なんで何もしないで座るんだよ」

「気づいてたんだ。」

「ただいまって言ってたろ」

「確かに。」

 

論破された。というか、思ったより余裕がありそうだ。

マルは口をとんがらせてこっちを向く。ウソ泣きだったのかとも思ったが目はしっかりと腫れていた。

 

「ほっといて欲しいのかなって。あと普通にテレビつけたり家事するのもデリカシーないかなって」

「お前ならなんか言ってくれると思ったんだよ」

「メンヘラみたい」

「三年の付き合いなんだからとっくに気付いとけよ」

 

そう言ってマルは笑った。

さっきまで泣いていたのは自分の気持ちや過去の行動を内省していて今はもう清算しきったのかもしれない。そう推測できるぐらいにはいつも通りで、むしろいつもよりおちゃらけた態度だった。傷ついてる時ほど大丈夫だなんだとごまかして気丈に振る舞うからそれもあるかもしれないけど、スッキリとしたというような印象を僕は強く感じたんだ。

 

「俺さ。愛に会うよ。会って全部話す。」

 

しばらく笑ったあと、もう決意が固まったのかなんの淀みもなくマルはそう言い切った。

メッセージアプリや発言から察するに愛というのはマルの彼女のことだろう。彼女に会って全て話すということをマルが決めたんだ。なにも悪いことはない。

悪いことはないはずなのに。何故だろう。その発言に何かもやっとしたものを感じる。喉に魚の小骨が刺さって取れなくなったような感じで、何かがつっかえている。

 

「大地?」

 

マルがこちらを覗き込む。邪魔なものを理性で抑え込み表情を直す。

 

「あぁ、いや。さっき逃げちゃったのに大丈夫かなって。」

「んー。びっくりして思わず逃げちゃったけど、俺がケジメをつけなきゃいけない問題には変わりないし黙ってて悪かったなとも思った。けど少し嬉しい部分もあったんだ。俺って気づいてくれて。」

 

そういうマルの表情は本当に嬉しそうでこの言葉に嘘偽りなどなにもないことがわかる。

 

「もちろん俺がしたことって最低だし許してもらえるとももらおうとも思ってない。けど本当に嬉しかった。だから全部俺が思ってることを伝えて、謝って、せめて愛が納得できる形で終わらせなきゃいけないんだ。」

 

使命感にあふれた爽やかな、憑き物が落ちたような顔をしている。マルにとって彼女は大事な人間なのだろう。だから傷つくことを恐れ逃げまわった。しかし、その恐怖を乗り越え今彼は希望持っている。

僕以外にわかってもらえた、気づいてもらえたという希望を。僕以外の人間で感じている。人間として抱えていた呪縛を、弱さを克服しようとしている。というのに、なぜ僕は心の底から喜べないのか。

 

「けどどうやって連絡しよう。ブロックしちゃったし。」

 

そんな僕をよそにマルは呑気にそんなことを言う。自己嫌悪しながらも僕はそれをまた表情に出さないようにして話した。

 

「僕が連絡先交換したから。」

「…お前愛が好みだったりする?」

「は?綺麗だとは思うけどお前のためだよ。寝取り趣味なんかないって。」

「…あ、そ。助かる。」

 

助かると思ってるならその顔どうにかしなよ、と言いたくなるくらい一気に顔が険しくなる。そのままマルはそっぽを向いて続ける。

 

「もしもだけど。多分ないと思うけど、ヨリを戻せたら大地はどう思う?」

 

マルが彼女と再び付き合いだしたら?それは、マルにとって僕より信用できる人ができるということではないだろうか?マルが弱さをさらけ出せる、全てを預けられるという唯一性が僕から消え去ってしまうのか?

 

さっきまでもやがかかっていたものがハッキリと見える。リアルにそれが想像できてしまってハッキリ見えるようになった。そして辟易する。僕は何を考えているんだ。

 

マルが幸せなら、決めたことならそれでいいじゃないか。こんな歪みを、友達にぶつけていいわけがないんだ。

 

「別に何も。良いことじゃん。」

 

僕はそう言えて少し安心する。あんなものが口から出てこなくて心底安心した。

そう。僕はそれでいいんだ。

 

「…そうか。だよな。バツもいるしな。俺が愛とイチャイチャしてもいいよな。今更後悔しても遅いからな。お前の前でイチャイチャしてやる。今までされてたことやり返すだけだから」

「しょうもな」

「それより愛怒ってた?」

「怒ってるは怒ってるんじゃない。心配もしてたと思う。だからヨリ戻せるかどうかはともかくしっかり謝りなよ。さっき自分で言ったでしょ?

許してもらえないと思うけど納得できる形で終わりたいって」

「確かにそうだな」

 

そう言ってマルはまた笑った。男だった時から度々見せる屈託のない眩しい笑顔。それが裏表のないように見えて、僕がマルを尊敬できる一番の理由。彼がこの笑顔を保てるなら、それがいいんだ。

 

「ありがとな。大地がいてくれて本当に良かったよ。」

 

ただ、さっきみたいなことを考えてる僕にはそれが少し眩しすぎる気がした。

 

 

 

連絡をとりあい、お互いの日程を擦り合わせて一週間後に僕ら二人は愛と再会した。

正直僕は着いて行かない方がいいんじゃないかと思ったがマルが付き添いでついてきて欲しいというので僕も行くことになった。

近くの喫茶店に集合ということで、先に着いた僕らは時間つぶしに飲み物を頼んだ。

 

僕はコーヒー。こういう時に豆がどうとか騒ぎ出すわけもなかったが、マルが好きなコーヒーを頼まないのは意外だった。

緊張して喉が渇いているのか冷たいお茶を大きいサイズで頼んでいる。

口数も少なく、窓の外を見ながらストローでそれを少しずつ飲んでいた。

そうして待っていると予定の時刻ちょうどくらいに愛がやってきて、

 

「デート前とかいつも私より先に来るの変わってないね」

 

とマルに言いながら座った。マルはこくりと頷く。なんというか借りてきた猫みたいだななんて思ってしまう。

 

「この前は逃げられて悲しかったよ?」

「ごめん」

「今日は話してくれるんだよね?」

「話すよ。全部話す。そっちこそ信じてくれるか?」

「その姿をマルって信じれてるんだからなんでも信じるよ。」

 

愛のその言葉を聞いて、マルは話しだした。

突然女になったこと。この姿で気づいてくれたのが愛と僕だけだったこと。愛に気づかれないのが怖くて会えず連絡を途絶えさせてしまったこと。全てを話した。

それを僕はもちろん、彼女も黙って聞いていた。どこかで茶々を入れたり、疑ったりもせず黙って何度も彼女は頷いた。

 

「今思えば、俺は愛にかっこ悪い姿を見せたくなかったんだ。けど大事な人に隠さずに伝えることも必要って知って、愛には悪いことをしたって思う気持ちが大きくなってって、余計に会えなかった。全部、恐怖に勝てなかった俺の身勝手な理由だ。本当にごめん」

 

マルは深く頭を下げる。

愛はそれを数秒眺めたあと、顔を上げるように言った。

 

「私もこんな風になってるって思わなかったししょうがなくない?マルは悪くないよ。」

 

そう、あっさりと愛はマルを許したのだった。

 

「けど俺は、」

「くよくよしないの。私が許すって言ってるんだから。まあ相談もなく消えたのはムカつくけどさ。それともマルは私のことが信じられないくらい嫌いになっちゃった?」

「それは…そんなことないけど」

「でしょ?じゃ、いいじゃん。また前みたいに付き合おうよ。」

 

これもまたあっさりと言う。もしも、と話したことが現実に近づいてきているのを感じた。

 

「俺、今は体が、」

 

マルは戸惑ったようにそう言う。実際ヨリを戻せたらとは言ったがこんなにトントン拍子で進むとは思ってなかっただろうからこうなるのも当然と言える。

 

「やることは変わんないじゃん。二人で会ってデートするだけ。男も女も関係ないよ。それに私はマルと離れたくないよ。ここで別れたら本当に許さないから。」

 

そう言って愛はマルをじーっと見つめる。そしてマルは、一瞬。一瞬だけどこっちを向いた。向いてしまった。それが僕の目線とピッタリ合って、何か音がした。

 

カチっ

 

という音だ。気づけば僕は白いチョーカーを手に持っていて、気づけばマルは背もたれにもたれかかって全身から力が抜けてしまったように見える。

 

衝動が理性を上回った。その結果がこれだ。何か慌てている彼女なんて目に入ることもなく僕は唖然として手に持ったチョーカーを見つめ続けた。

 



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11

たまに高いところから落ちる夢を見る。その夢では気づけば僕は高いとこにいて何の脈絡もなくそこから落下していく。そして体の奥の方がぞわっとする感覚と恐怖心で目が覚める。ネットで調べると割と他の人も同じようなものを見ることがあるらしく、メジャーな夢の内容なのかもしれない。

 

手に持ったそれを見た時、僕はその夢を見た時と同じように体が宙に浮いている浮遊感を覚えた。次に何故僕が今それを持っているかを考えて、それは考えてもわからなかったんだけど。ほぼ同時に「もしかして僕は取り返しのつかないことをやってしまったのではないか」とも思った。まぁ要するに、パニックになっていた。

 

「ちょっと、大丈夫!?」

 

そんな叫び声で現実に引き戻される。もっともそれは僕にかけられた声ではなく隣でぐったりとしたマルに対しての声だが。

 

「君何したの!?」

 

心配からくる焦りなのか、なにもせずただぼーっとする僕に対する怒りなのか、彼女の感情の矛先は僕に向く。

 

「何って」

 

僕の方が聞きたいぐらいだ。僕は何故これを持っているんだ。

 

「君がそれ取ったらマルが「大丈夫だよ。ちょっと眩暈がしただけだから。」

 

そう言い隣に座っていたマルが愛の言葉を遮った。正確にはバツだが、それを遮った。

 

「僕がこれを取った…?」

「そんな話今はどうでもいいだろ。大地も愛も落ち着けよ」

「いや、でも」

「愛。」

 

僕と愛をそう言って黙らせて、少し長めに息を吐くとバツはお茶を一口飲んだ。

さっきまでのマルより少し落ち着いた雰囲気のバツに愛は少し戸惑っているようだ。体のことについては少し話したもののバツのことについてはまだ話せていなかった。彼女が戸惑うのも無理もないし、僕も内心こんなに落ち着いたバツは見たことがなかったので戸惑っていた。

 

一瞬だが、またバツと目が合う。バツは静かに笑い、愛に聞こえないように呟く。

 

「これからやることは全て私が勝手にやることですから」

 

その言葉の意味はこの時の僕は全くわからず、何かをしようとしているのだけはわかったが止めるでもなく、僕はただバツを見つめ続けた。

 

「俺が元に戻れる保証はない。だから…やっぱり女同士は無理だよ。」

 

予想外の一言を冷たくバツは言い放ち、その場の全てが凍り付いたように静かになる。

僕は慌ててバツの肩に手を置き止めようとするも

 

「何言って「大地は黙っとけよ。」

 

その手はあっさり弾かれ話も遮られる。この時の感情を押し殺したようなバツの顔がなんだか妙に痛々しく思えた。何も言えず虚ろな感じで僕ら二人を見る愛をちらっと視界の端で見る。

バツを本気で止めることの出来ない僕は彼女を直視してはいけないような気がした。

バツは顔をすぐに愛の方に戻すと優しく諭すように言う。

 

「俺はお前を幸せに出来ない。愛、別れよう。」

 

その言葉を聞くと彼女はハッとしたような表情を挟んでからすぐ悲しそうな、縋るような目線でバツを見つめる。

 

「私の幸せを勝手に決めないでよ。私マルといられれば」

「愛は俺がいなくても幸せになれる」

「なんで!」

 

ダン、とテーブルを叩く音が響く。

 

「なんでそんなこと言えるの」

 

限界だったのか彼女の顔からは涙がぽろぽろと涙が落ちていく。

 

「というか、あんたマルじゃないでしょ。おかしいよ。マルはそんなこと言わないよ」

「何を言ってんだ。俺はマルだ。正真正銘な。」

「こいつが何かしたんだよ、やっぱりさっき。ずっと黙って何しに来たんだよあんた」

 

恨めしそうな表情でこちらを愛はにらみつける。僕は黙って俯く。罪悪感とか、自己嫌悪とかそういった感情に押し潰されそうになる。

 

「俺の大切な人にそんなこと言うのはやめろ。」

「は?」

「口で言ってもわからないか?」

 

そう言ったバツは僕らの不意をついてすばやく僕の顔を優しく右手で掴む。そして反応が遅れた僕の唇に次の瞬間柔らかいものが触れて、目の前にはバツの顔があった。

目を瞑って少し紅潮したバツの顔はすぐ離れていき、口元に不思議な感触だけが残る。

 

「なんだよそれ」

 

小さく震えた声が聞こえたと思ったら、僕の横を香水の匂いが通り過ぎる。そういえばこの匂いの香水はマル、そしてバツもよく使っていたもののような気がする。嗅ぎ慣れた香りだ。

店を出入りするときのチャイムのような音が店内に流れ、気づけば対面した席からは愛が消えていた。

 

「後でお仕置きしてもらってもいいですか。」

 

何かに謝罪をするみたいに頭を下げたまま、バツはそう言った。顔は見えなかったが少なくともいつものようにそれを待ちわびている様子ではなく、今の僕と似たような心情なのかもしれないと僕は勝手に同情した。

 

 

 

何も見たくなくて目を瞑っていた。何も聞きたくなくて耳を閉じた。何も感じたくなくて動かなかった。

 

僕は大事な話の途中にマルを閉じ込めた。何もできないように。

何故。衝動的にとしか。なんでそんな衝動が。

なんで。わからない。

なんで。わからない。

なんで。わからない。

同じことを自問自答し続ける。考えたくなくても起きていれば頭は動き続ける。眠ってしまいたかったが、今寝れる自信はなかった。

 

閉じている眼から唐突に光を感じた。誰かが電気を点けたみたいだ。とはいえ、この家に住んでいる人間の体は僕ともう一人分しかない。

僕はゆっくり目をあけるとこちらを見下ろすバツの姿がそこにあって、まぁそうだよなと一人で納得する。

 

「気に病む必要なんてないですよ。」

 

僕が耳から手をどかすのを待ってからバツはそう言った。

 

「私が全て勝手にしたことで、ご主人様は何も命令していません。なにより私がすぐ首輪をつければよかった話で、それが嫌だったから私はあんなことをしたのです。」

 

口調では淡々と言っているが、僕に向ける目線がとても優しいもので逆にそれが辛かった。バツはことあるごとに自分の責任であることを強調してくる。多分僕が首輪をとった理由を、頑な僕が理解しようとしないその理由を察して、あの行動をとった。僕の代わりに泥を被ろうとしている。

 

「…マルと話させてくれ。」

 

多分僕が立ち直るまでバツはそうやって僕に優しくし続けるんだろう。それがなんだかとても嫌な風に思えて、僕はそう言った。

 

「いいんですか?」

「話すことなんてないかもしれないけどね。」

 

バツは少し寂し気に笑ったあと自ら首輪をつけた。

 

目が覚めたマルは何も言わずに僕を殴った。一直線に飛んできた右の拳を躱す気にも、防御する気にもなれず顔面でそれを受けた。

すこしよろめいたあと、僕は床に倒れた。もうどうとでもなれと思った。

 

案の定マルは僕の上に乗って、一発、二発と僕を殴った。

歯を食いしばって、目からは涙をこぼしている。顔の下半分で怒りを上半分で悲しみを見ている僕に伝えてくる。

 

合計三発殴ったあと、振り下ろされた拳がゆっくり僕の胸の下らへんに落ちた。叩いた、ではなくただ触れただけだった。

 

「裏切者。」

 

とても小さな声の呟きだったが他に時計の音しかしない静かな室内でそれを聞き逃したりはしない。小さいから部屋には響かないけど、僕の中ではその声が大きく響いた。

 

「協力するっていったよな。お前にとっては邪魔ものの意思を尊重したり俺の人間関係ぶっ壊したりすることが協力なのか?」

 

僕は顔を縦にも横にも動かさず、何も言わずに目を瞑った。

頬に衝撃が走る。鈍い痛みの上に新しく鈍い痛みがもう一段積まれた。

 

「ふざけんな。なんか言えよ。なんで黙ったままなんだよ。…俺にはさ。これで正真正銘お前しかいなくなったよ。前は拒否したくせに、今日は邪魔して何がしたいんだよ。お前はどうしたかったんだよ。

なんでこんなことしたんだよ。なんでだよ。」

 

目を開けると、歪んだマルの表情が見えた。色々な感情が混ざって化学反応を起こして、歪ませて、それがとても魅力的に見えた。

そんなマルを見て自然に口が動く。

 

「なんでって…」

 

自覚していないふりをしていた。わかんないふりをしていた。衝動に、感情に、マルに、バツに気づかされた。

 

「支配したいんだ。全部。」

 

不意を突かれたようにマルは口を大きく開けた。言葉の意味が理解できてないようだ。最初にバツが来た時と立場が逆転したみたいで気分は最悪なのに自然と笑みが零れる。

 

「僕はマルを妄信していた。マルが唯一の友達だったから。人間の鑑とすら思ってたから。

けど女の子になってからマルは僕にしか見せない一面を、弱さを、美徳を、全て僕に曝け出してくれた。それがたまらなく興奮した。独占して、僕から離れないようにしてやりたかった。」

「やめろ」

「今考えれば嫌だったんだ。僕のマルを取られるのが。しかもこの姿のマルに気づくんだから相当マルのことを知ってるんだろうしちょっと嫉妬しちゃうな。

マルは優しいから。僕は最低だから。多分あのままだったら愛さんの方に行ってたよね。だからお前を閉じ込めた。まああの時はそんな理由なんて考えてなかったけどね」

「やめろよ」

「さっき自分で言ったろ?マルには僕しかいないって。そこまでの存在になれたなんて嬉しいよ。ここまでくればマルが僕の前から消えるなんてことは絶対に「やめろって言ってるだろ」

 

胸ぐらをつかまれて上体を起こされる。

思わずため息がでた。片方の腕で華奢なマルの腕を掴み、もう片方の腕で自分の体を支える。そして完全に体を起こして、お腹の上らへんにいたマルが今度は背中を地面につける。

腕を掴んだ時にわかったんだけどマルは震えていた。上になった時にマルの表情が絶望一色に塗りつぶされたから、マルの可愛さも抜群に強調される。

 

「どうしちまったんだよ大地。あんなに優しかったのに。こんなのおかしいって。」

「マルが人に隠してた面があったみたいに、僕のこれも隠れてただけだ。僕の場合は自覚してたわけじゃないんだけどさ。

それにさ。今みたいな状況をマルも望んでたんじゃない?」

「そんなこと「あるよね?バツの存在もだし。勢い余って飼ってとも、首絞めていいとも言ったよね。なにより毎日僕とバツのやりとりを見てまだ僕から離れないんだから期待してたんでしょ?」

「違う。」

 

マルは自らの顔を残った手で隠そうとしたが、そちらの手も僕は掴んで隠すことが出来ないようにした。

目をしっかりと見る。怒りも恥ずかしさも悲しさも恐怖も、全部全部そこにはあって、いつも見れないマルがそこにいて、一層興奮を煽ってくる。

 

「愛さんがまた付き合おうって言った時も僕の方チラッと見たよね?飼い犬がご主人様に気を使うときみたいに上目遣いで。僕に止めて貰いたかったんだよね。本当に可愛いよ。僕だけの。僕だけのマル。」

「そんなつもりじゃ」

「マルは本当に聞き分けが悪いね。バツも最初言ってたけど。やっぱり駄目な子はしつけないといけないのかな。」

 

僕は両腕を離してそこに手を伸ばす。抵抗はするんだけど、心なしか力が弱い気がして微笑みが漏れる。

手がマルの首に触れた時、彼の口角が一瞬だけ上がった。勘違いかもしれないけどそんな気がした。

 

「やっぱりそうじゃん。」

 

僕は手に力を入れる。今僕はマルを完全に支配している。組み伏せている。

彼の歪んでいく顔を見て、たまらなく興奮した。客観的に見て、僕は下種野郎に成り下がったのかもしれないけどそんなことはどうでもよかった。だってこれが僕らの愛し方、愛され方なんだから。

 

首から手を離すと

 

「糞野郎が。お前なんかに俺は、屈しない。絶対。」

 

そんなことをマルが言った。あぁ、そういうスタンスでいくんだ。と内心僕は驚きつつも僕は妙に納得して、想定内で収まってくれるマルが妙に愛おしく見えてきて僕は彼を抱き込んだ。

妙に速い鼓動。上がっていく体温。マルの全てが今の僕には筒抜けだ。

 

「本当に悪い子だね。マルは。けどマルは僕から離れないよ絶対。僕もマルを見捨てたりしない。何があっても。」

 

耳元でそう囁くと、マルはピクピクッと震える。こういうのも好きなんだ。

けど僕的にはマルの顔が見れなくてイマイチなんだよな。

 

僕が自らの欲求に従ってマルと顔を向かい合わせるとマルが視線を逃がす。逃がすので絶対にこっちを見てくれるように一度キスをしてやる。昼間のバツの時は、一瞬で楽しめなかった分こっちは少し長めにしてみる。今度バツにもやってあげたいななんて思うけどこんなこと考えながらキスするのはマルに悪い気がする。

それが終わったあとマルの視線がようやくこちらに向いたので言ってやった。

 

「絶対に誰にも渡さないよ。僕のかわいいペットたち。」




プロットによると次回最終回です。
ということで次回最終回です。


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エピローグ

チョーカーを着けて外出できるようになってから、俺も少しは働くことにした。バツばかりに働かせるのはバツが悪かったというのもあるんだが、いやシャレではないんだけどさ。

単純にずっとあそこにいるのが怖かったからというのもある。あそこから出られないままでいるとあとは一直線に落ちていくだけみたいで、少しでも抵抗したかった。

 

大地は意外にも何も言わなかった。バツがやっていた仕事ということもあって心配はないだろうということだ。

許可を貰えたと安堵してしまった自分やわざわざ許可を貰いに行った自分に少し嫌悪感すら覚えた。

そんな嫌悪感を我慢して、俺は自立するために働く。俺が自立できれば全部元通りになるはずだから。

 

元通りになるはずだったのに。

 

「稲城さん。休憩入るから代わりにちょっとレジ入ってくれる?」

 

商品を棚に出していると、いつのまに後ろにいた保科さんがそう声をかけてきた。ふっくらした体形で人当たりが良い人だから皆に好かれているが、その分この人に嫌われると仕事場でのデメリットも多い。以前追い出された人間もいるとかいないとか。

 

「はい。」

 

腕時計を見たら五時手前でどう考えても休憩の時間ではなかったが俺は素直に返事をした。サボりですか?なんて聞いたらその噂が本当かどうか身をもって体験することになるんだろうな。別にレジ業務が嫌いというわけではないがそれとは別にこういう人間にはイラつく。

 

この時間帯は主婦や帰り際の学生が来るので客が増え始める時間帯だ。そんな時間帯で勝手にサボり始めるこの人はどういう神経をしているんだろうか。

 

レジの方に行くと案の定、客が溜まっていたので急ぎ足でレジを開ける。列に並んでる客に声をかけてこっちに来てもらう。俺がレジに入ったのを見たんだから自分から来てほしいものだけど。

疲れと不条理のコンボで精神が乱れているのだろうか。何も悪くない客を心の中で急かしてしまう。

 

これはよくない。こういう時によくミスが出る。

レジ以外の業務だったら頬を自分で叩いて気持ちを入れなおしたり出来るんだが、客の前でそんなことをしたら奇行もいいところだ。

 

バイトといっても仕事だ。そこそこキツイ。人間関係も面倒くさいし、失敗したら怒られる。

帰りたいな。

家に帰って夕飯作って、大地が来るのを待って。あいつが帰ってきたら二人で飯食って話して。いつの間にか当たり前になった日常がそこにあるんだ。今日は何をされるんだろうな。

 

いや違う。ブンブンと首を振る。

驚いてこっちを見た客と目が合った。主婦だろうか。あまり着飾らない地味な服装で子供を連れている。火照った顔を隠すように俺は頭を下げて謝る。苦笑した客は商品の入ったカゴを持って行ってしまったが、それでも火照りは収まらなかった。

 

フーっと大きく息を吐いてから次の客のカゴを受け取る。流れ作業のように待たせたことへの謝罪を口に出してみるが、それが意味のある言葉には自分自身でさえ思えなかった。

 

「あ。」

 

不意に何かを見つけたような声が正面から聞こえる。客がいるはずの位置には愛が立っていて気づけば俺も同じように“あ”と彼女に答えるように言っていた。顔をほとんど見ずに接客していたから気付けなかったと少し後悔する。気づいたところでどうにか出来たわけでもないというのに。

 

気まずい気持ちはあったけど俺は黙って業務を続けた。今更俺からする弁解もない。かける言葉もない。

 

「無視とは結構な態度だね。」

 

いたずらっぽい笑顔で愛がそう言う。その笑顔がチクチクと俺の胸のあたりを刺してくるようだった。

 

「ここで働いてるなんて知らなかった。いつ終わるの?」

「六時半ぐらい…です。」

「お客さんに敬語使えて偉いね~。じゃ、待ってるから」

 

そう言い残して愛は行ってしまった。この時の俺の脳内にあったのはどうやって彼女から逃げるかという至極最低な思考だけだ。

 

 

 

「あのさぁ。普通に傷つくんだけど」

 

ちょうど裏口から出ようとした際、何故か愛がそこにいて俺は捕まった。

セーターの裾を掴まれてて振り払おうとしたら振り払えるかもしれないが、そこまでして逃げるのもな、と抵抗はせず止まった。

 

すぐ横に立って改めて実感したが、俺は愛より小さくなっていた。前は顔一つ分くらい俺の方が高かったのに今は若干愛の身長の方が高い。若干だが。

 

「身長抜かれちゃったか。」

「そんな気にすること?」

「男は気にすんだよ。」

「彼氏いるくせに男面するんだ。」

「彼氏じゃねえし。」

「じゃあ、マルにとってあの人はなんなの?」

 

そう訊かれてドキッとする。言い淀んで上手く言葉が出てこない俺を愛は少し困惑したように見続ける。

実際、一言で言い表せる関係じゃないんだと思う。

思い浮かんだ言葉はあれど、それを言ってしまったら俺のアイデンティティが崩壊するような気がする。大地に対して白旗を上げてしまっているようなものだと思った。

 

「まあ。どうでもいいけどさ。」

 

いつまで経っても何も言わない俺にしびれを切らしたのかため息をついてから愛はそう言った。

 

「マル。あの時のあれは本心で言ったの?本心であんなことをしたの?」

 

真剣な表情で愛は俺に問う。苦い記憶が甦る。俺ではなくバツが言ったことだったが、冷静に考えて俺では愛を幸せにできないというのは正しいと思う。愛はああ言ってくれたが今の俺では無理なんだ。

 

そしてここで未練がないわけではないことを言ってしまうと彼女に希望を残してしまう。誰も幸せにならない希望を。だから俺は首を一度縦に振って答える。

 

「本当だ。」

「ダウト。嘘つき。」

 

愛がこっちに指を差す。また心臓がドキッと音を立てた。

 

「嘘じゃねえよ。」

「じゃあ質問変えよっかな。私の事嫌いになっちゃった?」

 

一瞬、条件反射的に口が動いたのを無理やり止めた。感情を押し込めて俺は答える。

 

「嫌いだよ」

 

愛は目を一度くしゃっとするように閉じると、笑顔で言った。

 

「誰でもわかるような嘘つかないでよ」

 

俺はそれを肯定も否定もせず、下を向いた。下の方に見る物なんてないけどそこに存在するコンクリートは俺の心から色が飛び出てしまったのかと思うほど濁って見えていた。

前方に少しだけ見える愛の革靴が後ろを向いたのがわかった。それでも俺は顔を上げず俺はただジッと動かないように努めた。

 

「そこまで強情なら何も言わないけどね。じゃあお幸せに。」

 

最後に今までありがとう、と付け加えるとすぐにその革靴が見えなくなって、それからしばらく俺はその場から動けなかった。

気づけばコンクリートに水玉模様が出来ていた。濁った灰色とそれを濃くしたような色の2色で構成された水玉模様。

それが少し恥ずかしくて、早く乾いてくれないかななんて思った。

 

 

 

家に戻るとちょうど玄関のカギを開ける大地と鉢合わせた。

 

「おかえり」

 

と声をかけると

 

「今日はどっちかっていうと僕がそれを言うべきなんじゃないか。先に帰ってきたんだし。」

 

という風に少し考えてから答える。そこ気にするところだろうか。

俺は思わず苦笑してそれを見た大地は困ったように苦笑いした。変に抜けているところはいつまでも変わらないし、なんだかんだ大地には安定感がある。

これから先どう歪んでいったってそこだけは変わって欲しくないな、とも思ったが。

 

「大人しくただいまって言っとけよ。待っとけ。すぐ飯作るから。」

「ありがと。けど急がなくていいよ。疲れてるだろうし。」

 

実際、普段の大地に変わった様子なんてないんだ。本当に良くも悪くもいつも通り。動物園でぼーっとしてるパンダみたいなやつだ。

僕、人畜無害だよ。

と態度が主張してくる。なにかとこっちのことを気遣ってくれるし優しい。多分どこ行ってもこうなんだろうな。必要以上に人と関わることが少ないやつだから他の人間にはわかりにくいところがあるかもしれないけど。

まぁ俺だけが知ってるって考えたら悪くないのかもしれない。記憶を共有してるやつが一名?いることを除けば悪くない。

 

もしかしたら優しくしとけば俺も許してくれる。と思っているところがあるのだろうか。

少し、野菜を切る手を止めて考える。

それはないな。そこまでいい加減な男ではない。

 

その場凌ぎで臭くて甘い言葉を多用するクズみたいな一面もあるがその言葉を自分でもうだうだと気にし続けるようなやつだ。多分俺が許す許さないではなくあいつの心には一生それが残り続けるんだ。

 

あれ以降俺にも隠さなくなったのは、もう色々と引っ込みがつかなくなってしまったのだと思う。全てが振り切れてしまって自分にそう言う人間だと言い聞かせるしかないんだろう。実際そういう言動がたまにあるんだ。

 

だから出来れば、俺の独善的な願望でしかないんだけどそういったしがらみから解放してやりたい。だがそれには色々と問題があるのが現状だった。

 

ローテーブルに皿を出すと「ありがとう」という声が正面から聞こえる。なんとなく俺はそれで小っ恥ずかしい気持ちになって自然と口が開いた。

 

「残りものと安くなった総菜だけど。手抜きって言うなよ」

「この短時間で出来立ての暖かいみそ汁が出てて来るわけだから文句なんてないよぉ?」

「なんで最後若干伸ばしたんだ?おい。」

「手抜きって言って欲しいのか慰めて欲しいのか。迷ったんだよね。」

「そういうのは白状しなくていいんだよ。」

 

大体二十分ぐらいで夕食を食べ終わり、俺は食器を洗って、大地はその間に風呂に入る。

で、大地が上がったら今度は俺が風呂に入って歯磨きとかも済ませて、となると十時前になっている。

 

部屋の中央のローテーブルをどかして敷布団を二枚並べているわけだが、大体この時間は二人でテレビ見たりゲームしたりで時間を潰すんだけど。今日は見たい映画がやっているとのことだったので、たまたまテレビの方だった。

 

ストーリーに関してはあまり出来の良いものではなかったが、アクションはいうことなしで迫力があって総合的にはそこそこ面白いような感じだった。それこそテレビでやってたら見るかもという感じ。

 

十一時手前、エンディングロールが流れ出した時に大地が口を開く。

 

「僕より帰るの遅いのって珍しいよね。何かあった?」

 

俺を抱き込むようにしてソファに座っているから表情が見えない。そして低いトーンでそんな言葉が発されたので体の奥がぞわぞわとするような感覚に襲われる。

俺の脳裏に愛との会話が流れる。それを赤裸々に語れるほど俺の中では消化できていない。

少し突き放すような感じで

 

「別にお前には関係ないだろ」

 

と俺は言った。言ってしまったという感覚だった。

またやってしまった。体が持ち上げられたかと思うと、ゆっくり布団の上に降ろされる。

形として抵抗してみるものの何かが変わるわけではなかった。

 

「それは何かあったって認めてるのと同じだろ。」

「何もねえって。そもそもあったとしてなんでお前なんかに言わなきゃいけないんだ。」

 

はあ、とため息が聞こえる。ため息なんだろうか。耐えられなくなった興奮を吐き出したのかもしれない。

少なくともため息をするような憂鬱な表情をしているようには見えなかった。

 

「欲しがりだな。」

 

今日は奇しくも首だった。一番最初と同じ。

 

「クソ。大嫌いだお前なんか。一生許さねえからな。」

 

それが自然なことであるかのように口からそんなセリフがすっと出てきた。

許さないというのは半分本当だ。正直思い出す度に殴りたくなる。嫌いというなら親友をこんなふうにしたあげく、その歪みをさらに大きくしてしまいそうな自分が一番嫌いだ。

元に戻って欲しいといいつつ、もうポーズでしかそういう姿勢を取れなくなってしまっている。

 

大地は小さく笑う。俺はお前の期待通りに出来ているんだろうか。出来てたらいいな。

 

首筋に置かれた手に少しずつ力が入っていく。酸素の通り道が少しずつ狭くなって呼吸が困難になっていく。

 

首を掴まれて顔の向きが固定されてるので大地の顔しか見えない。狂喜に満ちた顔。

最初にバツの首を絞めた時と同じ顔だ。あの時、羨ましかったんだ。大地を満足させられるバツが

 

けど今はその役割を俺がしている。今、大地の欲を俺が埋めている。それがたまらなく俺は嬉しくて、快感が忘れらない。今の俺はどんな顔をしているんだろうか。それが表情に滲み出ていないか心配になる。

 

首から手が離れ、本能的に求めていた酸素を吸い込む。自然と呼吸は荒いものとなっていく。

 

「ごめんなさいは?」

 

俺は必死に息を吸い込んだ後ごめんなさいと、大地に言った。何度も何度も

大地に、愛に、もう全部が申し訳なくて。ごめんなさいと言う度に目の辺りが熱くなった。

 

「よくできました」

 

耳元で囁かれて、体の奥がまたぞわぞわとする。正直これは嫌いだ。自分が情けなくなる。

そして酸素を求めて大きく開いた口を無理矢理大地に塞がれた。舌が入ってきて頭がボーッとしてくる。幸せな気分になれるのでこっちは好きだ。

 

俺たちはこの流れに身を任せるだけで、あとはもっと大きく歪んでいくだけなのだろう。既に大きくなりすぎたこの歪みが元に戻ることはないんだろうな、となんとなく俺はもう覚ってしまっていた。




インコです。ここまで読んで頂いてありがとうございます。これにて本作は終了となります。まあ一応おまけはありますが個人的には蛇足かななんて思ってたりもします。

ここからは後書きというか書いてて思っていたことや皆様への感謝をただ書いていくだけなので興味無い方は読み飛ばしてください。

後悔していることが1つあります。ジャンルについてですね。ジャンル付け間違ったかなとかちょっとジャンル詐欺に近い形になってしまったかなとか思っていました。最初はホラージャンルとして投稿してたんですが1話を投稿したあとに、これでホラーは無理があるなと感じたのでコメディに直したんですけど、イマイチしっくりこないまま終わってしまいました。

あとは感想についてですね。返信をほとんど出来ず申し訳ありませんでした。感想を頂いてテンション爆上がりした結果ネタバレとか展開の匂わせをしてしまいそうなのと、あと単純に私自身の人格が難ありで読者の皆様を不快にしてしまいそうで返信を自粛していました。感想には全て目を通してましたし大変励みになっていました。本当にありがとうございます。

誤字脱字報告についてもですね。今作誤字脱字非常に多かったです。本当に申し訳ない。
誤字脱字報告非常に助かっていました。
他にもお気に入りやブクマの追加、評価、いいねなどなどつけて頂いてありがとうございました。皆様の支えのおかげで本作を無事終わらせられました。

最後に改めて支えてくださった読者の皆様に感謝を伝えて後書きを終えようと思います。短い間でしたがご愛読ありがとうございました。


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バツ

おまけ。多分11とエピローグと間の話。


私は後悔している。愛をフッてしまったことについてだ。あのままマルと愛がズルズル付き合っても苦しくなるだけだとは思っていからフッたこと自体は後悔していない。それとは別に二つ後悔する理由が私にはあった。

 

 

一つは私の行動のせいで二人の仲がおかしくなってしまったこと。元は私と同じ人格であったマルとその友人の大地が仲良くしているところを見るのが元々嫌いではなかった。

それを見る度に、私がマルだった頃を思い出して懐かしい気持ちになる。一つの人格として独立出来たのは嬉しかったが寂しいような気持ちもあって、それを見ているとその寂しさが埋められていくような気がした。

 

しかし私が愛を勝手にフッてしまってから二人の関係にヒビが入った。感覚を共有している私にはわかるがマルは許せていない。私のことも、大地のことも。私は別に許されようと思っていないからいいのだけど、マルから大地に対する感情は憎悪や怒りなどを愛や親しみが打ち消している。今のところは。

 

それは表面化していないだけでいつかにそのマイナスの感情が噴火してしまうのではないか。そう思うと私はたまらなく恐怖を感じる。

あとたまに思い出したかのように暴言を言い出す。もっとも、これは彼らの興奮を高めるカンフル剤でしかないので関係ないが。

 

二つ目は、私に罰が供給されなくなってしまったことだ。

最近、マルの方で満足してしまうのか大地はあの一面を私にはチラリとも見せない。見せてくれない。マルが私に嫉妬しているのは知っているけれどその逆に私がマルに嫉妬することもあるわけだ。

 

それとなくおねだりしてみても「バツはいい子だから」とはぐらかされる。

こうやって今みたいに膝枕と撫でられるだけでも幸せだが、一度手に入った幸せを我慢するのは難しい。明らかな欲求不満を私は感じていた。

 

そしてなにより、私が消えてしまいそうで怖い。

 

主人格であるマルが今の状況を受け入れつつある。私の願望であることをマルが全てやってしまっている。私が生まれたのは元々マルのストレスと叶えられない願望という二つの原因があって、それが二つとも解消されかけている今、私はいつ消えてもおかしくない状態なのではないかと気づいた。

 

「どうかした?」

 

大地が心配そうに私に声をかける。表情に出ていたのだろうか。私がこんなことを考えていると心配させたくはなかったから

 

「何がですか?」

 

と空元気でしかないがとぼけてみせる。

ただ、大地は変なところでするどい感性を発揮してくる。隠し事については特に。例に漏れず今も私に疑うような目つきを見せている。

 

「バツはさ。僕にとって大事な存在なんだ。だからあまり無理はしないで欲しいし苦しいことがあったら言って欲しい。いつも言ってるけどね。」

 

大事って、マー君よりもですか?

そんな言葉が頭を過ぎる。駄目だ。そんなことを言ったら困らせるだけだと私はわかっている。大地は私もマルも二人とも大事に思ってくれているはずだ。

 

多分私が消えたとして悲しんでくれるんだろうな。消えたあとの想像をして悲しんでいる主人の姿を嬉しく思う自分は性格が悪いと再確認する。

だけどそんな優しい私のご主人様を悲しがらせないためにも存在していたい。消えたくない。残りたい。

そして私に対して彼を心配させたくはない。

 

「ありがとうございます。でもほんとに大丈夫ですよ。」

 

そんな理想を実現するために私は隠す。絶対に隠し通してみせると決心をする。

だが大地はそれでも私を見続ける。目が合ったままで、妙に気まずくなって私はとりあえず笑ってみせた。

 

とそんな時、唐突にカシャっと音が鳴った。音をした方をみると、そこには自分の両手につけられた手錠があった。私が呆気に取られているうちに足にも手錠がつけられた。

 

「え、あの…ご主人様?」

「なに?」

「これはなんですか?」

「手錠だけど。口答えするなんて珍しいね。」

 

あ、これ久々にスイッチ入っちゃっている。

スイッチが入ったというのはわかったが、いつもとは少し様子が違っていて目と口調から私に対する不満と怒りが存在を主張している。

まあ、それよりこの時の私は手錠の方に目がいっていてあまりそこら辺が気にならなくなっていたんだけど。

 

「これ私のために買ったんですか?」

「最低な僕がそんなことするわけないじゃん。僕が使いたいから買ったんだ。」

「そうですよね。ごめんなさい。」

 

照れ隠しだろう。今までマルにも見せていないんだからこれが初お披露目で、この頃ずっと私に対してお預けをしていたんだから。そうとしか思えない。

こんな大地を見るのは初めてだ。上手く言えないけどすごく嬉しい気持ちになった。

 

「お仕置きなんだからその顔やめなよ。」

「演技で苦しがってもバレちゃうので。私は簡単にご主人さまが見たい顔なんてしませんよー。それが悔しかったらご主人様が頑張ってください。」

 

消えてしまうかもしれないけど、不安はあるけど、今の私の頭にはそれらがはじけ飛んでいて代わりに大量の幸せがあった。マルや大地はよく歪と言うけれど、私にとっては幸せに違いないのだからそんなことはどうでもいい。

いずれ消える運命だとしてもどうせ後悔するなら幸せになる方を選びたいんだ私は。だからいくら歪であっても、不安があっても、その幸せを今はただ噛み締めるだけでいいのだろうと独りで納得した。



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