緋色の欠片 ー私は、緋の眼の代理出品者でしたー (秋田慶)
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事故 一

 

 ──大変な事が起こった。

 

 私、アイリスは大きな箱を抱え、道路を走っている。

 

 まさかこんなことになるなんて──

 

 

 私はとあるコレクターの下でアルバイトをしていた。出品代行のアルバイトで、ヨークシンで開催されるオークションで、緋の眼と呼ばれるものを出品したいというオーナーに代わり、出品手続きなどを行う仕事だった。

 

 お給料が凄く良かったから、引き受けたんだけれど。

 

 出品物の管理、出品申請をするのが私の仕事。

 12人体制で行い、緋の眼の管理は、それなりに戦闘能力のある者が行っている。もちろん念能力者だ。

 

 私は念能力を持っていないため、出品申請管理、オーナーの個人情報管理をメインとしている。

 

 ──でも、今となってはもう意味もない。オーナーはもういないから。

 

 先ほど、何者かに競売品の配送車を狙われた。

 一通りの申請を終え、組合に競売品の実物と実物証明書を提出するのだが、その配送中に配送車が襲われたのだ。

 

 幸いなことにダミーの配送車を何台か走らせていたのと、念能力での防御により緋の眼は盗まれずに済んだのだが、その際、ダミーの車に乗っていたアルバイトの念能力者数名が殉職。

 

 同時にオーナーも自宅で殺害されていた。

 

 競売品も全て消え、会場にいた人も消えていた。

 

 もう出品どころじゃない。そんなこんなで、本物の配送車に乗り合わせていたアルバイトの念能力者テキサスと私は、無防備に緋の眼を持って走って逃げているのである。

 

「冗談じゃない! 死ぬのなんてまっぴらごめんよ」

 

 私は箱を大事に抱えながら、誰もいない荒野への道をテキサスと駆けた。人通りは無い。既に宵の口、夏の夜の生暖かい風が気持ち悪かった。

 

「おい! アイリス、後ろを見ろ!」

 

 テキサスに言われて後ろを振り向く。何もないはずの道に2つの光が見えた。その光が車のヘッドライトだということに気づくのにそう時間はかからなかった。

 

「すごいスピードでこっちに来るぞ!」

 

 テキサスが叫ぶ。

「……まさか追っ手!? 緋の眼を追っているの!?」

 箱を持つ手に力が入った。

 

「わからねぇ……、可能性はある」

 

 車は凄いスピードでこちらに向かってくる。その車に続いてもう一台、更に遅れてもう一台車が続いていた。先頭の車は少しフラつき、一番スピードが出ている。

 

「まずい……」

 テキサスは顔を苦くして言った。もう車ははっきりと見えるほど近づいて来ている。先頭の車との距離は、あと数十メートルもない。

 

「先頭の車、なんかおかしくない!? 私たちに向かってくる……?」

「まずい、アイリス! 避けろ!」

 テキサスが叫んだかと思うと、先頭の車はアイリスを巻き込み、そのまま壁に突っ込んだ。

 

「アイリス!!!」

 

 

 テキサスの声が、車の轟音にかき消された。

 

 

 何が──そう思うまもなく、私の意識はどこかへ飛んだ。痛いとかそういうのは全く感じなかった。いや、感じる間もなかった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 

 目を開くと白い天井が見えた。私は目だけを動かして辺りを見回す。部屋からして恐らく病室だろう。

 

(私……生きてる……?)

 

 車に突っ込まれたところまでは覚えている。その先はどうなったか自分でもわからない。

 ただ、死んだんだろうとは思っていた。まだどのくらいの負傷を負っているのかはわからないが、体があまり痛くないところからして軽傷と言えるだろう。

 

 体をゆっくりと起き上がらせると

「良かった、目を開けないんじゃないかと心配だった」

 そう言って、金色の髪を靡かせた黒い瞳の青年が、ホッとしたような表情で私を覗き込んだ。

 

 中性的な顔立ちで、嫌な響きを感じさせない優しいテナー声。

 

「あの。ここは……? それにあなたは……?」

 私は辺りを見回しながら言うと

「私はクラピカと言う者だ。……私の不注意であなたを事故に巻き込んでしまった……。本当に済まない」

 と、髪をなびかせて頭を下げた。

 

「え……あなたが……」

 あの暴走車のごとく物凄いスピードで運転していたとは思えないくらい穏やかな人だ。どことなくやつれているが、暴力的な人には見えない。

 

「クラピカさんは怪我大丈夫なんですか?」

「私はプロのハンターなのでな、あれ程度では怪我は負わない」

 

 プロハンタ──その言葉に、私は何も言えなかった。

 プロハンターであり年能力者であるということは、この人は凄い人なんだと思った。

 

「あの時私は、とある盗賊を捕らえていて理性を失っていた。私の身勝手な行動であなたをこんな目に遭わせて……本当に済まなかった」

 

 クラピカは深く頭を下げる。私はそれに困惑した。

 

「あ……あの、なんかそんなに怪我してないみたいだし……大丈夫ですよ」

 私は起き上がると、ふるふると首を振った。

 振った時、完治しきれなかったであろう頭の傷が少し痛んだ。

 

「いいえ……本当はかなり危ない状況だったのよ」

 

 ドアから身長の低い女性が入ってきた。

 

「ちょっとね、私の笛で治せるところまでは治したの……って言ってもわからないわよね。そういう能力があるのよ」

 

「そうなんですか……」

 

 もちろん、私は念の概念をよくわかっていないのであまりピンとこなかった。勤務時にテキサスに少し教わったのと、テキサスが使っているのを見たことしかないから。

 

「あなたは……アイリスさん、だったね?」

 クラピカが言う。

「え? あ、はい」

「テキサスからあなたの事を聞いた」

 

「あーっ……いけない! 競売品!」

 テキサスという単語を聞いて、私は競売品を持ったまま事故に巻き込まれたことを思い出した。

 

「もうコナゴナなんじゃ……」

「大丈夫。彼が念をかけてくれていたお陰で傷はない」

「良かったぁ……」

 

 私はホッと胸を撫で下ろした。

 

「競売品はオークショニアに渡すまであなたに預けると言っていた。ただし、彼の念で開封出来ないようになっているため、彼が死ぬか、彼自身が開けるかしない限り念は解けないそうだ」

 

「え、なにそれ」

「競売品を守る手段としては、当たり前の事だと思うが」

 

「え、てことはテキサスは……?」

「オークショニアのところへ行き、競売品の引き渡しが遅れることについて話し、安全が整い次第引き渡すそうだ」

 

「えぇ! 私テキサスがいないと何も出来ないのに! いくら競売品に念をかけてたって、私……守る事できないよ……!」

 

 私は参ったなーと思いながら自分の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

 すると

「その事については、私が責任を持つから心配ない」

 と、クラピカが言った。

 

「へ?」

 私は思わず目を丸くしてクラピカを見た。

 

「あなたに重症を負わせたんだ、テキサスが戻るまでの安全は私が保障する」

「え! でも…………」

「仕事の仲間は事故の一部始終を見ている上に、既に了解も得ている。それに……今は私が仕事のリーダーなので心配は無用だ」

 

「いいんですか?」

「ああ」

 クラピカがそう言った途端、ふらっと足元をぐらつかせ壁に手をついた。肩で大きく息をしている。

 

「大丈夫ですか!?」

「大丈夫、少し……目眩がしただけだ」

 私は、本当ににただの目眩? と一瞬言いかけたが、何も言わなかった。

 すると身長の低い女性がクラピカに駆け寄った。

 

「クラピカ、あなた少し休んだ方がいいわ」

「センリツ……すまない。彼女をみていてくれるか」

 

 センリツと呼ばれた女性はクラピカを病室のソファで寝かせると、アイリスのベッドの横のイスに座った。



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事故 二

「あの、クラピカさん大丈夫なんですか?」

 私が恐る恐る聞くと、センリツは少しため息をついた。

 

「彼は……さっき、捕らえた盗賊の一人を殺っているの。かなり体力を消耗したんだと思うわ」

「盗賊って……クラピカさんが理性を失っていたっていう?」

「そうよ」

 

「クラピカさんには悪いけど、プロハンターなんでしょ? 盗賊一人に手こずるなんてこと……あるのかな」

 

 しんとした室内。私の言葉にセンリツの瞳が揺れた気がした。

 

「幻影旅団」

 

 センリツが静かに言った。

 

「盗賊っていうのは、蜘蛛の一人よ。あなたもオークション関係者なら聞いたことくらいあるでしょう?」

 

 私も幻影旅団については、雇ってくれたオーナーから聞かされていた。熟練のハンターでさえもうかつに手を出せない。

 具体的にどうやばいのかわからないけど、とにかくやばい。近づくなとだけはきつく言われていたから覚えている。

 

「クラピカは、蜘蛛に強い憎しみを抱いているの。理性を失ったのもそのせい」

 センリツはクラピカの寝顔を見ながら言った。

 

(クラピカさんて……凄い人だったんだ……)

 

「ごめんなさい、クラピカさんのこと……バカにするような事言っちゃって」

 

「いいのよ。クラピカは言うつもりなかったみたいだし……」

 センリツは優しく笑った。

「彼はやつれて帰ってきたかと思えば、ずっとあなたの横についていたのよ」

「え?」

 

「自分の不注意で無関係なあなたを巻き込んでしまったことを、気に病んで──笛で治癒したとはいえ、なかなか目を覚まさないあなたが心配でたまらなかったのよ」

 

(なんだか……クラピカさんに悪い事しちゃったかな……)

 

 私はなんだか逆に申し訳なく思った。

 

「本当にごめんなさいね。私からも謝るわ。何か私達にできることがあれば出来る限り協力するから」

 

 センリツが言った。その口調はとても穏やかで、なんだか私にとって少し心地がよかった。

 

「仕事仲間であるセンリツさんからこんなに信頼されて……クラピカさんて幸せなんですね」

 

 私がそう言うと、それはどうかしら、とセンリツがふっと笑った。

 私は事故に遭ったことなどとうに忘れて、クラピカという人物にとても興味が湧いたのだった。

 

 思えばこれが、彼への恋の入口だったのかもしれない。

 

 

 ***

 

 

 翌日、私は退院することになった。

 傷は完全に癒えたかと言われればよくわからないが、とりあえず身体は何ともないし、オークション関係者としてずっとここにいるわけにいかなかった。テキサスが戻り次第、競売品を早く渡さなくてはいけないからだ。

 

 相変わらずクラピカの顔色は悪い。精神的にも、肉体的にも限界がきているのだろうか。それが私には心配でたまらなかった。

 

 クラピカやセンリツ達はノストラード組に雇われたボディーガードだという。ネオンというノストラード家のお嬢様(ボス)の護衛と、雇い主のノストラード組長(ボス)の護衛をしているのだそうだ。

 

 ボス(ネオン)とボス(組長)に挨拶をするため、組織が身を置いているというホテルの一室に通された。

 

「失礼します」

 私は恐る恐る高級そうなドアノブのついた扉を開ける。ボス(お嬢様)と聞いて、緊張しないわけがなかった。

 扉を開けてすぐ、ベッドに座っていたピンク色の髪をした女の子が突然声を上げた。

 

「あー! 女の子!」

「えっ!?」

 ピンク色の髪の女の子は、嬉しそうな声を出したかと思うと突然私に抱きついてきた。

「この子誰? 新しい子?」

 ピンク色の髪の女の子がクラピカに聞く。どうやら彼女がボス(お嬢様)のようだ。

 

「私はネオン・ノストラード。あなたは?」

「え、あ……、アイリスです……」

「ねぇアイリス! トランプか、オセロか……トライアングルか何かやらない? 今スッゴい暇なの!」

 

「ボス(ネオン)、申し訳ありませんが……彼女はこれから父君にご挨拶に伺わねばならないので、後にして頂けませんか」

 クラピカが丁寧にネオンに言った。

 

「え──、しょうがないなぁ。せっかくお友達が出来ると思ったのに」

 ネオンは頬を膨らませ、ため息をついた。ふてくされたようにベッドへ座る。ベッドには侍女と思われる女性が二人立ち、こちらに軽く会釈をした。

 

 

 *

 

 

 ネオンの部屋を出てすぐ、クラピカが大きくため息をついた。

「あの子……何なんですか?」

 

「ノストラード氏の娘だよ。少しわがままなところがあって、侍女も手を焼いている」

「ふふ。クラピカさん苦手でしょ。そりが合わなそう」

「ご名答」

 クラピカはふっと笑ってみせた。クラピカが見せる初めての笑顔。その笑顔を見てなんだか私は少しほっとした。

 

「よかった」

 

「え?」

 クラピカが黒い瞳を丸くしてこちらを見る。

 

「少し元気出たみたいだね」

 私はクラピカの顔を覗き込んだ。

 

「心配してたんですよ、ずっと顔色悪かったから」

 

 クラピカは居心地悪そうに目を逸らした。

「……あなたは私の事が憎くないのか?」

 クラピカは目を逸らしたまま言った。

 

「え?」

 

 昨日の事をまだ気にしているのだと悟った。

 今はこうして元気にいられるわけだし、そもそも当時の状況をよく覚えていない。

 もしこれが、今でも病院で昏睡状態に陥ってるとか後遺症が残って普通に生活できないとかだったらまた話は別だけれども。

 

「全然」

 私はニコッと笑顔で返した。クラピカは驚いた表情でこちらを見る。

 

「ほら、私こんなに元気。死んでないし、今こうしてピンピンしてる」

 

「…………」

 

 少し長い沈黙があった。

 

「……わかった」

 

 クラピカはようやく納得したようだった。

「あなたは優しいな」

「え?」

 

「私は……あなたに救われたよ」

 

 クラピカの声が静かに私の胸に響いた。

 

「……ありがとう」

 

 透き通るような眼差しに、私は何かに射抜かれたようにその瞳に見入ってしまった。柔らかくて、そして暖かい……でもどこか哀しい眼差し。

 

「ところで、さん付けやめてもらえるか? なんだか気持ち悪い」

 

(気持ち悪いって……別に言い方があるんじゃぁ……)

「じゃ、じゃあ私のこともちゃんと名前で呼んでよ」

 

「ん、ああ、わかった。よろしくアイリス」

 クラピカは少し微笑んだ。

 

 私はクラピカに背を向け、歩き出した。

 

 その時、クラピカは小さな声で呟いた。

 

「私も、あなたのような人になれたら良かった」

 

 本当に小さな声。アイリスにはその言葉は聞こえていなかった。



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黒い瞳の青年 一

 クラピカの案内で、ノストラード組長(ボス)のところへ通された。

 組長の名はライト・ノストラード。

 

「この子が例の女か。クラピカ、大丈夫なのか?」

「ご安心を。仕事には影響ありませんし、彼女を巻き込むつもりもありません」

「ならよいのだが……」

 

 ライトはギョロっとした目で私を見る。その嫌な目に、私は思わず後ずさった。

 

「しかし……アイリスという娘は、何の仕事をしていたんだ?」

 突然そう話題を振られて、肩がびくっと上がった。

 

「あっ、……オークションの仕事です」

 思わず正直に答えてしまった。本来は仕事は秘密厳守であり、よほどのことがない限り外部へ漏らしてはいけない。

 クラピカもそれに気付いたのか

「娘さんの安全は必ず確保します」

 と、慌てて話を戻した。

 

「ほぉ、なるほど出品者側か」

 

 ライトは些細な私の言動から、出品者側だと悟ったようだ。

 ライトは嬉しそうに口元を緩めた。出品物は何としても言えない、私はしっかりと口を噤んだ。

 

 ライトが何か言おうとしたその時、クラピカは

「では任務に戻ります」

 と切り出し、そしてさっさと私の腕を掴み部屋を出た。

 

 部屋を出て、クラピカはため息と共に言う。

 

「あまり易々と喋るものではないよ、アイリス。落札側である者は、出品物の内容によっては個人取引を迫ってくる可能性がある。もし手元に競売品がまだあると知れたら尚更だ。きっと多額の金を積んで交渉してくるだろう」

 

 オークション外での競売品の取引は原則として禁止である。先に個人取引を行い 、規約逃れで見かけだけのオークションを行う組が摘発されることもあった。発覚した場合は多額の罰金、ブラックリストに掲載され、今後のオークション参加不可にされてしまうのだ。

 

「ごめんなさい……」

「今度から気をつけてくれれば問題ないよ」

 クラピカは優しく言った。

 

 その時、クラピカの足元がふらついた。やはり昨日の疲れがまだ抜けていないのだろう。

 

「クラピカ……大丈夫……?」

 瞬きをするクラピカの目をじっと私は見た。

「え?」

「なんだかやつれているみたいだけど」

「あ……ああ、大丈夫だ。心配かけてすまない」

 

 旅団と戦ったんでしょ──とは言えず、私は黙り込んだ。

 なぜなら、クラピカはそれについて自分からは何も語ろうとしないからだ。言いたくないのかもしれない、だから敢えてそのことには触れなかった。

 

(なんで旅団の人と戦ったんだろう……?)

 

 一瞬任務なのかと思ったが、昨日のセンリツの言葉を思い出して、任務ではなく、何かの恨みがあるのだろうということを思い出した。

 

 ──強い憎しみを抱いているの

 

 

(強い憎しみって何だろう)

 

 旅団は凄く恐ろしい集団だと聞く。彼らに関わることは死を意味するのだ。任務でもなく、たかが私念のために危険を顧みず入り込むなんて、ただ事ではないはずなのだ。

 

 そう、たかが憎しみ。たかが私念。

 

 そのたかが私念のために、自分の命すら投げて旅団に向かうには、彼を動かす大きな理由があるはずなのだ。

 

 考えられるとすれば……尋常ではない程の大きな憎しみと怨み。憎悪。

 

(大切なもの……そう、例えば肉親や恋人を殺されたとか……いや、もっとそれ以上の憎しみを抱いているのかもしれない)

 

 私はクラピカの横顔を見た。

 黒い瞳が、凄く哀しい色に見えた。

 

 

 ***

 

 

「お茶淹れました」

 

 私は丁寧に紅茶を淹れたカップをテーブルの上に置いた。カチャ、という食器の音が、静寂な室内に響く。

 

「ありがとう」

 窓を見ていたセンリツが、テーブルのイスに腰掛けた。

 一人読書をしていたクラピカに、私は紅茶を持っていく。筋肉質の男、バショウにも紅茶を淹れて持っていった。

 

 念も何も出来ない私が唯一出来る事としたら雑用ぐらいで。ここにいる人達は皆、才能のある選ばれた人達なのだと思うと、自分に何となく劣等感を覚えた。

 

(念、ていうものが使えたら……クラピカに何かしてあげられたりするのかな)

 

 読書をしながら紅茶を静かに飲むクラピカを、テーブル席からぼーっと見ながらそんな事を思った。彼が背負う、尋常ではない憎悪。とても外見からはそんな人には見えない。

 

 ごく普通のハンター。いや、青年。

 時折見せる瞳がとても哀しげなこと意外は……。 

 

 

「何を考えているの?」

 

 

 センリツにそう言われてはっと我に返った。

 クラピカをずっと見ていたのを見られて、少し顔が赤くなる。

 

「あ……いやその……」

 

「クラピカの事でしょう?」

 

 彼女には何でも見透かされているような気がして、複雑な気持ちになった。

 私はセンリツから目を逸らし、頷いた。

 

「うふふ、心音でわかるの。私の特殊能力よ」

 そう言って、センリツはニコリとした。

 

「あなたがクラピカを見ている時、心音はとても穏やかだけど、少し不安が混じっているの。そうね、例えるなら森のざわめきのようなものかしら」

 

 確かにセンリツの言う通り、胸はざわざわしている。でも、クラピカを見ていると、そんなざわめきも不快では無い。

 

「大丈夫よ、彼は強いから。心配しなくても」

 カチャ、という音を立てて、センリツはカップを置いた。

 

 ──彼は強いから

 

 その言葉が何となく胸に刺さった。

 確かに強いかもしれない。旅団の一人を殺したりできたんだから。

 でもそれは力が強いという意味で。

 

 本当はきっと……強く装ってるだけなのかもしれない。

 



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黒い瞳の青年 二

「ねぇ、クラピカ」

 夕方に入った頃、たまたま廊下ですれ違ったクラピカに声をかけた。

 

「ちょっと今時間ある?」

 

 そうクラピカを呼び出して、ホテルの屋上に赴いた。

 ホテルの屋上に出ると、空は赤く、陽がゆっくりと落ちていき、夜へ姿を変えていくところだった。赤と紫色の狭間の空が凄く綺麗だった。

 

「見て。空が綺麗だなって思って、思わず誘っちゃった」

 私がそう言うと、クラピカは空に目をやって

「ああ、本当だ。綺麗だな」

と言った。

 

 そして続けて

「空なんてあまり見上げないから」

と、言う。空を見上げる彼のその横顔は、男性にしてはあまりにも美しくて、思わず見入ってしまう。

 

「私も、いつもは空あんまり見上げない方だけどね」

 私はてへへ、と笑ってみせた。

 

 クラピカはじっと空を見上げたまま、何かを考えているような眼をしていた。

 

 ──なんでいつもそんなに哀しい眼をしているの? 

 

 そう聞きたかったが、あまりにも唐突過ぎるだろうと思って言うのをやめた。

 

 強く吹く風が、髪を大きく揺らす。

 クラピカの金色の髪が赤い夕日に照らされて朱色に光っていた。朱色に光る髪は大きく靡き、紫に光る小さなイヤリングが見えて一瞬ドキッと胸が高鳴った。

 

「ん? どうした?」

 イヤリングをじっと見つめている私にクラピカが言う。

 

「あ、いや……クラピカって、イヤリングつけてるんだなぁって思って」

「意外?」

 クラピカは左耳のイヤリングに触れて言った。

 

「うん、ちょっとね」

(意外というより、むしろ似合ってる……かな)

 

「外そうか?」

「えっ?」

 突然クラピカがそんなことを言った。

 

「いや、そういうわけじゃないの! 寧ろその……似合ってるから」

 私は手を横にぶんぶんと振った。

 

「そうか。なら良かった」

 そう言ってふっと笑ったクラピカのその笑顔は、少し乾いていてすぐに真顔に戻った。

 きっと彼なりに明るく振舞ったんだろう。無理に笑った、そんな気がした。

 

 少し沈黙があく。

 

「どうしてハンターになりたいって思ったの?」

 夕日を見つめるクラピカの背中に、私は言った。クラピカは振り向かずに前を向いたままである。

 

 きっと答えてくれない、と私は思った。

 そう思ったのには理由は無い。なんとなく、直感で。

 

 私の察したとおり、やはりクラピカは答えてはくれなかった。その無言に、クラピカの全てがあると思った。

 ハンターになった理由、そしてこのノストラード組に入った理由……きっとそれは彼の背中にある、旅団への憎しみと怨みの核心に繋がることなのだろう。

 クラピカの右手の鎖が、余計にそれを連想させた。

 

 ──心を閉ざした青年

 

 私がクラピカと話をしていて感じた、彼の印象だ。その印象はなんとなくから今、確信へと変わった。

 

 時折見せる哀しげな瞳はきっと……自分への戒め。

 憎悪と、己意外は信用しない孤独。

 

「ねぇクラピカ」

 

 私はクラピカの横へ移動して、辺りを紫に染めて夜へと変わり行く空を眺めた。

 

「辛くないの?」

「え?」

 

 クラピカが初めて私を見た。クラピカの黒い瞳が、夕日に反射して赤みを帯びていた。その色はとても綺麗で、出品物で見たような、緋の眼のように美しかった。

 

「辛い? 私が……?」

 

 クラピカが言う。

 

 私はクラピカの右手の鎖にそっと触れた。別に鎖に何かあると感じたわけじゃない。その右手の鎖は、まるで自分自身を縛っているかのようで──

 

「冷たくて、哀しい……そんな気がしたから」

 

 その鎖の擦れる音が、冷たくて哀しい音だったから触れただけのこと。 

 触れたその鎖は、やっぱりとても冷たかった。

 

「ご、ごめんね。なんか意味不明な言動取っちゃって。突然手なんか触れて、逆セクハラよね!」

 

 大袈裟に言いながら、私はぱっと手を離した。

 

「いいや、構わない」

 そう、私を見てふっと笑ったクラピカの顔は、あの時私に「ありがとう」と言った時の笑顔と同じだった。さっきまでの笑い方とは違い、少し暖かい気がした。

 

 胸がちくんと痛んだ。それと同時に、彼の闇を明るく照らす存在になりたい、そう強く思った。

 

 

 ***

 

 

 アイリスが病院に運ばれて間もない頃──空を一つの気球が泳いでいた。

 

 そう、それは今から約二十四時間ほど前。

 

「案外簡単だったね」

 着物姿の女が言う。彼女はマチ。

 

「陰獣も大したコトなかたね」

 口を覆ったカタコトの男が言う。彼はフェイタン。

 

「お宝手に入れたけど、一つ足りなかったね」

 メガネの女が言った。彼女はシズク。

 

「ああ、緋の眼か」

 体の巨大な男が言った。彼はフランクリン。

 

「この前取り逃がしたヤツが持ってたんだろうね」

 マチが腕を組みながら言った。この前とは、アイリスが乗っていたあの配送車のことだ。

 

「今度会場を襲う。その時緋の眼も探しださねえとな」

 フランクリンが言った。

「ま、動き出すのはウボォーが戻ってきたら、だね」

 シズクが言った。

 

 クラピカとウボォーが一対一の対戦をしている頃、そんな会話が行われた。

 

 そう、彼らは紛れも無く「幻影旅団」

 

「作戦実行」

 

 みんなで声を揃えて言った。



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黒い瞳の青年 三

 あれから何時間経ったろうか。

 既に辺りは暗く、窓がしっかりと部屋の光を反射していて、外の景色が見えない。

 

 あれから私はネオンの部屋に呼ばれて、なんだかよくわからない遊びに付き合わされている。クラピカと話をして部屋に戻る途中ネオンに捉まり、遊ぼうとせがまれて無理やり部屋に連れ込まれたのだ。

 

 部屋にはミイラのような奇妙な置物があって、見た目とは裏腹に奇妙なものが好きなお嬢様なのだと思った。

 

(金持ちって何考えてるかわかんないわよね……)

 

 しげしげと辺りを見回していると、扉をノックする音が聞こえて扉が開いた。

 

「そろそろ出発のお時間です」

 センリツ、バショウ、スクワラ、クラピカ四人が集まり、センリツがネオンに言った。

 

「えー! もう?」

 ネオンが不機嫌そうに言う。

 

「あの……これからどこか行くんですか?」

 私が問うと、

「ボス(ネオン)はこの後家に戻られる事になったのだよ」

と、クラピカが答えた。

 

「え? なんで?」

「私はこの後急な任務が入ったから、アイリスはセンリツから詳しい話を聞いてくれ 」

 クラピカはそう言うと、急ぎ足で部屋を出てしまった。

 

「任務……? 何が何だかさっぱり」

 私は首を傾げた。

 

 センリツが

「少し話したいことがあるから来てくれないかしら」

と部屋の外へ私を連れ出した。

 

 ネオンには聞かれてはまずいから、とのことだった。

 

「実はオークションは中止とボス(ネオン)に伝えてあるの」

「えっ!?」

「本当は今夜から再開されるんだけど、ボス(ネオン)の安全を考えて……ね。私と バショウはボス(ネオン)と侍女を連れて家まで送るわ」

「クラピカは……?」

「ちょっと話が長くなるんだけど……」

 

 センリツ曰く、クラピカは別行動をするらしい。センリツは、盗まれた会場の金庫にあった競売品は今は旅団の手にあること、旅団から奪い返すためにプロの暗殺集団を雇い、クラピカもそれに参加したことを教えてくれた。

 

「プロの……暗殺集団……」

 クラピカの横顔が目に浮かび、私は何となく胸が痛んだ。

 

 あんなに儚げな青年が、暗殺集団と一緒に──

 

 そう思うと、なんともやるせない気持ちになった。

 

「スクワラにあなたの事を護衛してもらえるように頼んであるから、彼と一緒にいて欲しいの。テキサスからの連絡が来るまで待機していて。私がアイリスについてあげられないのが心残りだけど……」

 

 そういえばテキサスから連絡が無い。今夜からオークションが再開となれば、そろそろ連絡がきてもいいはずだ。

 

 ──なんだか胸騒ぎがする。

 

 センリツの話が終わらないうちに、私は競売品の置いてある部屋へ駆け出した。

 

「ちょっと、アイリス!?」

「ちょっと競売品確認してくる!」



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黒い瞳の青年 四

 色黒の男、スクワラのいる部屋に競売品は置いてある。私はスクワラの部屋に入り、競売品に触れた。

 能力者の言う、オーラと言うものは見る事も感じる事も出来なかった。

 

(できれば今夜のオークションに間に合わせたかったんだけど)

 

 そう思いながら、蓋に手をかけ、開かないとわかりつつも開けようと力を込めた。 すると思いのほか蓋は簡単にパカッという情けない音を響かせて、呆気なく開いてしまったのだった。

 

 開かないだろうと思って力を込めて開けたせいか、力の反動で後ろに少しよろめいた。

 

 ── 彼が死ぬか、彼自身が開けるかしない限り念は解けないそうだ。

 

 クラピカが以前そう言っていた事を思い出した。

 

(え……)

 

 一瞬時間が止まったようだった。

 

(開いた……!? まさかテキサスは……)

 

 念というものをかけたテキサスが死んだのだから、念が解けたのだろう。

 

「アイリス?」

 

 私の後を追ってきたセンリツの声が背後から聞こえた。私は振り返らないまま、後ろにいるセンリツに言った。

 

「……テキサスは死んじゃったみたい」

「え……?」

 

 蓋の開いた競売品を見て、センリツの声色が変わった。

 

「……それは緋の眼……!」

 

 2つの瓶が対になった箱。それぞれの瓶に眼球が浮いている。これを見て緋の眼だとわかるのはただ者じゃないと思った。

 

「センリツさん、緋の眼を知っているの?」

 

 緋の眼はかなりマニアックな逸品。世界七大美色とも言われているが、それを目にすることができる人間は──極わずか。

 

「知ってるも何も、ボス(ネオン)が欲しがっているもので、落札予定の一つよ。それに──」

 

 センリツはそこまで言ってやめた。

 

「それに……なに?」

 センリツは私の問いに答えない。センリツはなんとも言えないような表情をして、目を逸らす。

 嫌な予感が私を襲うが、それを呑み込んでセンリツが言葉を発するのを待った。

 

 そして、やがて長い沈黙のあと、センリツがようやく重い口を開いた。

 

「あなたの心音を信じて……あなたの事を信頼して、あなただけに言うわ。クラピカは……クルタ族の生き残りなの」

 

「う、うそ……でしょ……?」

 

 アルバイトとして雇われてから、オーナーに緋の眼について教わった。オーナーは気味が悪いほどの人体収集家で、特にお気に入りだという緋の眼を所持していた。

 

 クルタ族とは、感情が激しくたかぶると瞳が燃えるような深い緋色になる、種族固有の特質を持っている。その緋の輝きは、世界七大美色に数えられているほど美しいと言われているのだ。

 

 しかし、その瞳の美しさ故に盗賊に虐殺され今では絶滅したとされており、その瞳は大変貴重で想像を遥かに絶する高い値で取引されている。

 

 オーナーが一番お気に入りだというコレクションをオークションで競りにかけようとしたのも、お金の為だ。億、兆、京、じゃ済まないほどの金額で売れるからだ。

 

「嘘でしょ、クラピカが……クルタ族の生き残りって……」

 

 発した声は、自分でも消え入りそうな声だった。

 クルタ族は途絶えたと聞いていた。

 まさか生き残りがいたなんて思わなかった。

 

「まさかクルタ族を虐殺したのは……」

 

「そう、幻影旅団よ」

 

 センリツの落ち着いた少し低い声が、胸の奥に響いた。

 全ての辻褄が合った瞬間だった。

 

 

 ── 旅団に強い憎しみを抱いている

 

 

 彼が背負う、旅団への強い憎しみの念。それは、一族の命を絶やした旅団への怨みと憎しみ……そして復讐。緋の眼に魅せられ、金という欲にまみれた下劣な人間が生んだ、哀しい惨劇。

 

 旅団に腹が立った。許せなかった。それをコレクションしていたオーナーも、そしてそれを欲しがる人間も。

 

 でも、一番許せないのは自分だった。

 

 クルタ族の惨劇を知っていながら、今まで何も思わずこの手で緋の眼に触れていたこと。

 クルタ族の犠牲の上で、この緋の眼が売り捌かれていることなど、深く考えもしなかったのだ。

 

 そう、この時まで──何も。

 

 緋の眼──それは自分にとって、オーナーから依頼された"ただの出品物"でしかなかったのだ。

 そう、たとえば街で売られた動物の毛皮と同じように、動物が犠牲になっていることを深く考えない。形では知っているけれど、あまり深くは考えない。それと同じだった。

 

 

「私……」

 

 センリツが心配そうに見る。私の足元に、大粒の涙が落ちて、高級そうな絨毯の色を転々と変えた。

 

「……私……クラピカのこと……」

 

 好きだった。心を開いてもらいたかった。彼の闇を取り除きたかった。

 

「それなのに私っ……こんなこと……」

 

 上手く言葉が出なかった。クラピカの闇を照らす存在になる資格なんてない。

 

「アイリス。もう言わなくていい。私にはわかるから」

 優しいセンリツの声。肩をふわっと抱いてくれた。

 

「自分が許せなかったのね……。でも、大丈夫だから。あなたなら、クラピカの心を埋めることができるって信じてる」

 

 センリツの優しい言葉が、余計に涙を溢れさせた。

 年甲斐も無く、大きな声で……子供のように泣いた。



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蜘蛛 一

 センリツとバショウがネオンと共に空港へと向かってからのこと。現在こちらに残っているのは私とスクワラの二人だけ。クラピカはボスと共に殺し屋チームの会議に出席している。

 

 静かな室内。私はソファに座り俯いていた。

 

 私は箱を抱きしめた。先ほど涙を流していたせいで、まだ目が腫れている。クラピカの事を知ってしまった以上、何食わぬ顔で出品なんて出来るわけがなかった。けれども、だからと言って出品しないわけにもいかなくて、本当に辛くて消えてしまいたかった。

 

「アイリス。入るぞ」

 会議を終えたクラピカが、部屋に戻ってきた。私は腫れた目を隠すようにして体育座りをして顔を膝に埋めた。

 

「会議終わったんだ」

「ああ、これからボス(組長)と共にセメタリービルへと向かう。アイリスはこれからどうする」

「私は……ここに残るよ」

 

「そうか」

 

 クラピカにテキサスが死んだ事、これが『緋の眼』であるという事は言わなかった。

 

「アイリス? 具合でも悪いのか?」

 布の擦れる音が近くでした。クラピカが横に来たのだと音でわかった。

(なんで来るの……あっちいってよ……)

 腫れた顔を見られたくなかった。私は顔を膝に埋めたまま黙って、

「なんでもないから大丈夫」

ようやくそう言った自分の声は、先ほど流した涙のせいで少し震えていた。

 

「どうした?」

「い、いや、あっち行って!」

 

 思わず私は顔をあげた。クラピカと目があって、自分が顔を上げてしまった事に気付いて慌てて再び顔を膝にうずめた。

 

「……」

 クラピカは何も言わない。

 少し、はぁ、と息遣いが聞こえた。

 そのまま沈黙が流れて布の擦れる音がしたかと思うと、扉の閉まる音が聞こえた。クラピカは部屋を出たのだろう。

 

 

 ***

 

 

 時は変わって車の中。色黒の男、スクワラが運転しながら言った。

 

「ったく、会場に連れてけって……お前むちゃくちゃだな」

「仕方ないの。こうするしか方法はないんだから」

 

 私は静かな声で言った。

 あの後、一人で出品するから会場に連れていけと無理矢理スクワラに頼み込んで、こんなところにいる。

 

 膝の上に置いた緋の眼の箱が、車の振動でカタカタと音を立てている。

 

「クラピカには言わなくていいのか?」

 

 その問いに、私は黙り込んだ。

 

「な、どうしたんだよ急に黙り込んで」

 

 スクワラは、自分のポケットから携帯電話を取り出し、助手席にいる私に投げた。

「ほら、電話しろよクラピカに」

 

 渡された携帯電話には、クラピカの電話番号が映し出されている。

 

「……悪いけどこのことはクラピカに秘密にしておいて」

 私は運転するスクワラの膝の上に携帯電話を戻した。

 

「はぁ!? どういうことだよ」

「クラピカに迷惑かけたくないの」

「迷惑ってお前、念使えない奴が無防備に出歩く方が迷惑だっての」

「だ、大丈夫。テキサスがいるから」

 咄嗟に嘘をついた。

 

 ──そう、スクワラには『テキサスと連絡が取れたから待ち合せをする事になった』と、嘘をついているのだ。

 

 念能力のない自分が、ここで一人になってしまったら、

 命の保証も緋の眼の保証もない事は明らか。

 

 でも、もう耐えられなかった。

 

 "これ"を持って、ずっとここにいることは──……

 

 ただでさえ深い彼の傷を、更にえぐるようなことはもう、したくない。

 クラピカを好きだったことも、自分の仕事のことも全部。

 

「クラピカとはこれを出品するまでいてくれるって約束だったの」

 

 車の走行音が響く。

 

「でも、もういいんです。今夜出品したら、もう終わりだから」

 

「ちっ、わかったよ」

 スクワラは舌打ちをすると、片手で膝の上に置かれた携帯電話を自分のポケットに戻した。

 

 ── そう、これでいい。

 

 ── これでいいんだ。

 

 私は静かに瞳を閉じた。閉じた暗闇が一瞬、緋く燃えた。



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蜘蛛 二

 私はスクワラにセメタリービル前まで送ってもらい、車を降りた。

 正式な参加証がなければ検問を通過する事ができないため、スクワラは中に入れない。

 このビルは今夜のオークション会場であり、私達が何者かに襲われる前に向かうはずだった場所である。

 この大きな都会的なビルは、いかにもVIPが集いそうな雰囲気だった。

 

 私は自分のポケットに手を入れる。クラピカの事故の時に折れ曲がってしまったのだろう、緋の眼の出品者であるオーナーの代理を証明する、出品者証明書が入っていた。

 この証明書は参加証と違い、出品関係者専用のカードである。各自一人ずつ配られており、そのカードにはそれぞれ自分の個人情報、指紋など全てがデータとして入っているという徹底されたカードだ。

 

 私は検問所でそのカードを差し出すと、出品者専用ゲートへ通された。

 無防備な緋の眼が、足音と共にカタカタ揺れた。

 

 ビルの内部に入ると、しんと静まり返っている。

 その静けさがやけに不気味だった。先日、何者かの集団に襲われたときのことがふと脳裏によぎる。

 

 そういえばまたあの集団がこの品物を襲ってくるかもしれない。

 それを考えるとぞくっと寒気が背筋を襲った。

 もう自分を守ってくれる念能力者はいないのだ。

 

 スクワラにまで嘘をついてたった一人、会場裏口から施設内に入る。

 蛍光灯が割れ、ガラスが床に散乱していて、電気が消えかかった廊下を私は慎重に歩いた。黒服の男は見当たらない。

 

(何かがおかしい……?)

 

 そう思った。

 その勘は間もなく当たる事になる。

 

 金庫のあるフロアは厳重に何十もの扉がかかっている──はずなのに、全ての扉は無防備に開き、警戒に当たっているはずだった黒服のSPは一人も見当たらない。

 

「金庫が……空……!?」

 

 金庫の鍵も開かれていて、中身はすっかり空になっていたのだった。

 

(どういうこと……?)

 

 オークションは今日開催されるはずだ。無くなるはずがないのだ。

 

(まさか、幻影旅団が?)

 恐らく幻影旅団が盗んだに違いないと思った。

 何とも言えない恐怖が私を襲う。

 

 ──もう後には戻れない。

 

(これだけは守らなきゃ。でも、どうやって──)

 私は箱をぎゅっと抱きしめ、後ずさってガラスの破片をパリ、と靴で踏んだ時だった。

 

「へぇ、アンタが持ってたんだ」

 

 私の背後から女の声がした。

 

「誰っ!?」

 

 振り向くと、そこには着物を着た女が立っていた。腕を組み、余裕の笑みを浮かべている。

 

「その競売品、渡してくれって言ったらどうする?」

 やたら目上から言う女である。

 

「どういうこと? あなたは一体……!?」

 私は競売品をぎゅっと握りしめた。

 

「……2日前、アンタたちを襲った人……といえばわかるかしら」

「……っ!」

 

 思わぬ訪問者に思わずたじろいだ。あの、配送者を狙った奴らだ。

 十二人いたはずのアルバイトは全て殺され、私とテキサスだけになり──そして今や自分たった一人。

 恐らく、オーナーもこの連中に殺されたに違いないとすぐにわかった。

 

「まさかアンタが持ってるとは思わなかった。あのあと私達の仲間を連れ去った奴がいてね……そいつを追ってたんだけど、途中で陰獣って奴に足止め喰らってね。ま、アンタは素人のようだし、凄い事故起こしてたみたいだからてっきり死んだと思ってたんだけど。どおりでアンタの片割れは持ってなかったはずだ」

 

「片割れ……ってまさかテキサスのこと……!?」

 

「ふーん、あれ、テキサスって言うんだ」

 

 着物姿の女は何食わぬ顔で言う。テキサスはこの女に殺されたのだと直感でわかった。

 

「で──鎖野郎について、知らないとは言わせないよ」

 着物姿の女の目つきが変わった。余裕の笑みから鋭い目つきに変わった。

 

「鎖野郎……?」

「あんたに大怪我を負わせた奴さ」

 

(クラピカのこと……?)

 私は、クラピカの手に鎖がかかっていたことを思い出した。

 

「あいつが私の仲間を殺したんだよね。私達そいつを追ってるんだけど」

 

(仲間……殺した……?)

 

 ── クラピカが盗賊の一人を殺っているの

 

 私の脳裏にセンリツの言葉が浮かぶ。

 

(まさか……この女が……幻影旅団……?)

 

 嫌な予感が立ち込めてくる。足がじり、と動いて蛍光灯のガラスをジャリ、と鳴らした。

 

「知らないとは言わせないよ? こっちは知ってるんだから。鎖野郎と何らかしらの接点があるってね」

 

 キッと私を睨むその女は、指から何か糸のようなものを出すような仕草をした。

 私も女を睨み返し、箱をぎゅっと握る。

 

「悪いけど、私は鎖野郎なんて知らない」

「何だって?」

 

 不機嫌そうに着物姿の女が言う。少しピリッとした空気になった。

 

「だから知らないって言ってるの! 私の周りに鎖なんて持ってる人なんていなかったし、私一般人だから、念? とかいうの見えないし何も知らないから!」

 

 私がそう叫ぶと、着物姿の女はふっと笑った。

 

「アンタ。それが嘘だったらすぐ死んでもらうよ。こちらは嘘かどうか見破る能力者がいるんでね」

 

 何か糸を伸ばす仕草をしながら、

「まあいいさ。とりあえず、アンタには来てもらうよ。こんな素人がフラフラ無防備に競売品を持ってこんな所に来るなんて、何かしらの意図を感じざるを得ないし──何か罠のようなものも感じるし。アンタはいい人質になりそうだ」

 

 そう着物姿の女が言った途端、抱いていた競売品と共にぎゅっと身体が締め付けられた。

 

 ──糸!? 見えない! 

 

 何重にも巻かれた糸のような感触がして、それが私の身体を締め付ける。

 

「い、痛い……!」

 

「このまま、糸でアンタを綺麗に切ってもいいんだよ? されたく無かったら大人しくしな!」

 

 ぎゅうっと締め付けが強くなり、皮膚にそれがくい込んで苦しい。

 首に巻かれた糸のようなものが強弱をつけて締め付けてくる。

 それがぎゅっときつくなり、そしてふと、意識が途絶えたのだった。



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蜘蛛 三

 一方プロの暗殺集団のグループに配属されたクラピカ。

 十老頭に雇われたプロの暗殺集団の彼らは、連携を取らずそれぞれ単独行動をしている。クラピカもまたその一人だった。

 

 今から数時間ほど前、センリツ達と空港に向かったはずのネオンが行方不明になり、そしてこのビルで意識を失って見つかった。しかし彼女は正式な参加証を所持しておらず、このビルに入る手段はないはずだった。

 

 その報せと同時にテキサスが死んでいた事をセンリツから聞いたわけだが──

 

 クラピカは人気の無い廊下を歩く。蛍光灯で反射した窓に、自分の顔がくっきりと映し出されていた。反射した自分の目と目が合って、すぐに目を逸らした。

 

(アイリス……)

 

 あれからアイリスはどうしているだろうか。

 涙目になったアイリスの瞳が、頭に焼きついて離れなかった。あの時、どうしていいかわからず無言で立ち去ってしまった事を少し後悔している。

 

 テキサスが死んだ事をその時既に知っていたのだろうが、あの時何も聞く暇も無かった。膝に顔を(うず)めたアイリスの背中をただ見ることしか出来なくて。

 

(くそ。そうならそうと、何故言わないんだ)

 

 気付けは、携帯電話を取り出し、スクワラに電話をかけている自分がいた。

 

 数秒呼出音が鳴った後、

『クラピカ、どうした?』

と、スクワラが電話に出た。

 

「ああ、少し気になる事があってな」

 

 一呼吸おいて、

「アイリスは今どうしてる?」

と言うと、

『会場へ連れて行ったぜ? 何しろテキサスと待ち合わせしてるとか言って』

「はあ? 馬鹿か貴様は! テキサスは死んでいるんだぞ! 念能力者でもない彼女をたった一人会場に置いてきたというのか!」

『嘘だろ!? だって、アイリスがテキサスは生きてるからって……』

「いつの話だそれは」

『ついさっき、さっきだよ』

 スクワラの慌てぶりからすると、スクワラは本当にテキサスの死を知らないようだった。

 

──アイリスの競売品の蓋が開いたのを、二人で確認したわ。テキサスは死んでる。一応スクワラに護衛をお願いしているから大丈夫だと思うのだけど

 

 センリツが電話口でそんな風に言ったのを思い出す。

 だから、テキサスの死を知らずに一人会場に向かった可能性も、誰かの罠に嵌められた可能性も低い。

 

 恐らく、何らかの意図がありスクワラに嘘をついて──

 

「既にアイリスはテキサスの死を知っていたはずだ。そんな嘘も見破れずによくもまあ、このファミリーに入れたものだ」

『いやだって、アイリスがどうしても出品するって言うから……どうしても連れてけって言うから……』

「そうか。それで念能力者でもない彼女をろくに護衛もせず、競売品と共に貴様はのこのこと外へ連れ出したわけか」

 

『や、ちゃんと忠告はしたよ! でもどうしてもって言うし……あ、あのな! でもこれだけは聞いてくれ。……アイリスの様子が変だった』

「変……?」

 

『泣いてた』

 

 くだらない、と一瞬思ったが、スクワラの言葉を聞いてホテルで(うずくま)っていたアイリスをふと思い出した。

 その時、アイリスは涙目だった。泣いていたわけではなかったが、目が腫れていたのを覚えている。

 

「仲間が死ねば耐性のない彼女なら泣くだろう、想像力も無いのか貴様は」

『いや待て、俺の話を聞け! クラピカの話題をふったら……様子がおかしくなった』

 

(オレの話題を……?)

『それに今回のことクラピカには秘密にしろとか言ってたし……』

 

 クラピカの携帯電話を持つ右手に力が入った。正直、意味が分からない。なぜ突然出品に踏み切ったのか、何を隠しているのか……読めない事ばかりである。

 

「……わかった。会場に連れて行ったんだな? とにかく私はアイリスを捜す」

 クラピカはそう言うと携帯電話を切った。

 

 ── 今回のことクラピカには秘密にしろとか言ってた

 

 スクワラの言葉が何度も頭の中で再生されて、行き場の無い苛立ちがクラピカを支配した。

 

「……くそっ」

 

 ぎゅっと拳を握る。

 ふと窓の外を見れば、遠くで煙が立ち上っているのが見えた。ここは恐らく戦場になり、オークションは中止になるだろう。念能力者でないアイリスが屋外に出れば間違いなく命は無い。

 クラピカはビルの見取り図を取り出し、右手の薬指の鎖を地図の上にかざした。



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鎖野郎 一

「ん……ここは……?」

 

 冷房のきいた涼しい室内。

 手首にきつい痛みを感じ、何かに縛られている感覚がして私は目を覚ました。目を開けると目の前に雪駄が見えた。

 顔を上げると、高い位置に先程の着物の女の顔があった。

 私はどうやら両手首を後ろに何か細いもので縛られているようだった。先程は体全体を巻き付く糸のようなものの感触があったが、今はとりあえず両手首と足首だけ。

 どんなに目を凝らしても、足首を巻いているはずの「何か」が目に見えない。

 

「あなた、こんなことしてどうする気!?」

「言ったでしょ。私達は鎖野郎を探してるんだ。アンタを使って鎖野郎を誘き出すんだよ」

「だから知らないって言ったでしょ!」

「知らないかどうか試してみなきゃわからないだろ」

 

 着物姿の女は冷たく言う。その刹那、建物の外から物凄い爆発音が響いた。それと同時に外で機関銃のようなものを乱射する音が聞こえた。

 

 この部屋の向こう、ドアの外から人間の混乱する声が聞こえ、声の主のオークション関係者と思われる人間がバタバタと部屋に入ってきた。

 

 着物姿の女が素早く右手を上から下へと地面に振り下ろすと、ひとりでに首を吊る人形のように人間が勢いよく天井へ引っ張られていく。

 

「なっなに……? いやあああ!!」

 人が目の前で死ぬのを見たのは初めてだった。

 見えない何かに引っ張られて、人間の首が180度回ったかと思うと、捻れた首がごろんと下へ向いた。一瞬その人間の目と目が合って、思わず私は息を止めた。

 

 口から出た液体が、床にぴちゃ、ぴちゃ、と嫌な音を立てて落ちている。

 

 縛られた体を足で後ずさりをして、死んだ男と着物姿の女を交互に見た。

 

「あんな姿になりたくなけりゃ大人しくしてるんだね!」

 着物姿の女は髪の毛をかき上げながら言う。

 

 飲み込んだ唾がごくっと音を立てた。

 心臓がバクバクといっている。

 着物姿の女は携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけた。

 

「シャル、いいもの見つけたから早く来てくれない?」

 

 着物姿の女はマチ。幻影旅団の一人だ。

 

 

 ***

 

 

 一方ビルの外では黒服の男たちが、銃を手に二人の男を取り囲んだ。

 黒い服を身にまとった細い目の男、眉毛の無い場にそぐわないジャージを着た体育会系風の男。

 

「こっから先は立ち入り禁止だ」

「三秒以内に消えねぇと撃つぞ」

 

 そう言って黒服の男の一人が銃を向けて脅しをかけるが、目の前にいたその二人の男は一瞬にして姿を消した。

 そして、周りを取り囲んでいた黒服の男たちの首や腕が一瞬にして宙に舞い、やがて地面に叩きつけられた。

 

 二人の男はフェイタン、フィンクス。

 彼らもまた、幻影旅団の一員である。

 

 

 ***

 

 

 一方クラピカはビルのエントランス付近にいた。旅団の襲撃に、武装構成員達の混乱する声が飛び交ってる。大きな爆音があちこちで響き、炎が立ち込めていた。

 相変わらずアイリスの消息が掴めない。ダウジングの結果によればアイリスがビル内にいるのは確かだった。けれども、どんなにビル内を捜索してもアイリスらしき人物に遭遇すらしなかった。

 

 もしかしたら騒動に巻き込まれてしまったのかもしれない──そんな一抹の不安を抱えながら、屋上から捜してついにエントランスまで来てしまった。

 

 せめて自分がアイリスに付いていれば、と何度後悔したかわからない。

 

(ここにもいないか……)

 

 エントランスで混乱する武装構成員を尻目に、屋内へ戻ろうとしたその時、

「クラピカ」

 聞き慣れた高い声が聞こえた。

 

 振り向くとそこにはアイリスが一人、ぽつんと立っていた。腕には何か箱のようなものを抱えている。

 

「アイリス……!? 無事だったのか!」

 

 クラピカはアイリスの傍に駆け寄る。アイリスの髪が、辺りの爆風でひらひらと靡いていた。

 

「とにかく外は危険だ、私から離れるな」

 

 そうクラピカが言った刹那、アイリスは持っていた箱の中から銃のようなものを取り出し、至近距離でクラピカに向けて一気に撃った。

 

「くっ!」

 

 クラピカは右足で地面を強く蹴り、体を反らせて弾を避ける。そのうちのいくつかの弾がクラピカの袖を掠め、穴を開けた。

 

「アイリス!?」

 

 アイリスは機関銃を手に俯いている。じりじりとクラピカに近寄るアイリスの口からは想像も付かない言葉が零れ落ちた。

 

「死んでくれるよね」

 

 アイリスは服の中から片手で短剣のようなものを取り出し、ピュッと風を切る音を立ててクラピカに向けて真っ直ぐ突き出す。その動きは、ごく普通の女性であったアイリスからは想像も出来ないほど速いものであった。

 クラピカはそれを体を右に反らしてかわすと、アイリスはまたも素早い動きで今度は右に短剣を突き出してきた。

 

「アイリス、何のつもりだ!」

 

 その問いにアイリスは答えない。アイリスはひらりと宙を舞い、クラピカに向かって再び素早く短剣を投げつけると、クラピカの足元に短剣が刺さった。

 

(アイリスではない……!?)

 

 クラピカは目を凝らしてアイリスを見る。アイリスに変装した誰か、または念能力者かと思ったが、アイリス自身にオーラは感じられなかった。

 再びアイリスは片手で持っていた機関銃を素早く両手で構え、クラピカに向かって乱射し始めた。クラピカはそれを飛び下がって次々と避けていく。

 

 アイリスはひとしきり弾を撃ち終えると銃を棄てた。そして、クラピカの目の前にアイリスの顔が突然現れたかと思うと、素早い手さばきで攻撃を繰り出してきた。

 繰り出された拳をクラピカは右腕で受け止め、クラピカは見切ったアイリスの手首を左手で掴んだ。

 

「お前は一体何者だ」

 

「私はアイリスだよ」

 

 そう言ったアイリスの顔は、残酷な笑みを浮かべていた。

 

 

 **

 

 

「かかった魚はデカイかな……?」

 木の影で携帯電話を弄りながら一人呟く男がいた。

 彼はシャルナーク。彼もまた幻影旅団の一員である。



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鎖野郎 二

(どういうことだ!?)

 

 アイリスを傷つけないように、クラピカは攻撃を繰り出す事をしなかった。

 銃弾を鎖で避けることをしなかったのも、もし誤って弾が跳ね返ってアイリスに当たってしまったらいけないからだ。

 

 念能力者でないアイリスに当たれば、大怪我じゃ恐らく済まない。

 

 禍々しい雰囲気を漂わせながら近づく彼女は、もはや一般人とは思えない程に身体能力が上がっている。

 クラピカは凝をしながらアイリスと一定の距離を保ち、アイリスから感じ取れる僅かな気配を視る。すると、首もとからちらりと見えている棒のようなものに、オーラが集中しているのが見えた。

 

(あれは……)

 

 瞬時にアイリスは何かに操作されているのだとクラピカは理解した。

 クラピカはわざと隙を作り、アイリスがその隙を利用してクラピカの懐に飛び込んだ所を手首を掴み上へと引き上げ動きを止め、素早く首の後ろの棒を抜き捨てた。

 

 するとアイリスの動きがぴたりと止まったかと思うと、クラピカの胸へと人形のようにどさりと倒れ込むのを、クラピカは受け止めた。

 

(操作系能力者か)

 

 恐らくどこかでこの棒を伝達してアイリスを遠隔操作をしていたのだろう。

 念は主から離れるにつれ弱くなっていくもの。これだけの身体能力をアイリスに与える事が出来るのだから、操作者はそう遠くは無い。操作主はこの付近で様子を伺っていたはずだ。

 

(アイリスを安全な場所に連れて行かねば……)

 

 そう思った時、腕の中でアイリスが虚ろな瞳で顔を上げた。

 

「私、何を……して……」

 

 胸の中でアイリスが虚ろな目で顔を上げた。

 

「いや……君は何もしていない」

 

 とっさにそう嘘をついた。

 

「うそよ……私……クラピカを……」

 その瞳は涙を溜めて、まばたきをする度に雫が頬にポロポロと流れ落ちていく。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 力なく震える体があまりにもか弱くて、思わず抱きしめたくなる衝動に駆られた。念能力も殺しも知らない純粋な彼女が踏み込むには、あまりにも残酷な世界なはずだ。

 

「謝るな。悪い夢を見ていただけだ。アイリス……危険な目に遭わせてすまなかった」

 

(一体誰がこんな事を……)

 

 アイリスを一人にさせたこと、スクワラに護衛を任せたことを酷く後悔した。

 クラピカは辺りを入念に見回す。しかし、操作者らしき人物は見当たらなかった。

 

「身体が勝手に動いて……私……わたし……」

「ああ、わかってる」

 アイリスの震える手が、クラピカの腕にしがみついた。

 

「大丈夫、わかってるから」

 クラピカは優しく言った。

 

「……旅団が……」

 アイリスが消え入るような声で言う。

 

「旅団……だと? アイリス、旅団(クモ)に会ったのか!?」

 

 その言葉で、アイリスは旅団の何者かに操られていたのだろうと瞬時に悟った。アイリスはこくんと頷く。

 旅団が狙うとすれば、恐らく自分。アイリスは利用されたのだ。

 

「アイリスを囮に使い、私を誘き出す作戦か……どこまでも卑劣な奴らだな」

 力を入れた拳がミシッと音を立てた。

 

 しかし、それでも解せない点がいくつかあった。

 自分の姿を知る者は、殺したウボォーギンと言う男のみのはずであり、アイリスとの接点も知られていないはずなのだ。

 

(オレが何者かバレている……? いや、そんなはずは──)

 

 

 ***

 

 

「あーあ、バレちゃったか」

 木陰で舌打ちがする。シャルナークは操っていた携帯電話をポケットにしまった。

 

 

 ── このアイリスって女。あの時の鎖野郎が起こした事故で死んだと思っていたけど、生きてた。鎖野郎と接点があるみたいだからね、この女に近づく人間がいたら徹底的にマークしな。

 

 シャルナークの脳裏に、マチの言葉が浮かんだ。

 

「……あの男……鎖野郎かもしれないね」

 

 金色の髪を揺らしながら、シャルナークは立ち上がった。



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鎖野郎 三

「競売が始まっている!?」

 

 アイリスをビルの空き部屋のベッドで休ませてからの事、ホテルのロビーでクラピカの声が響いた。

 

「ああ、旅団のリーダーは殺られたみたいだぜ」

「やはりプロは違うな。今は残党狩りだとよ」

 

 黒服の男が次々に言う。クラピカは何もいえなかった。

 

(まさかそんなはずは……)

 

 旅団の頭が簡単に殺られるはずがない。

 

 あの旅団がだ。

 確かにゾルディックは強い──が、旅団の頭もまたそれ以上のはずだ。

 

「ゾルディックの連中があっさり片付けてくれたぜ?」

 ロビーの奥からスキンヘッドの男がやってきた。

 恐らくその言葉は自分に放たれているのだろう。

 

「ってなワケでオメーらはもう用無しだ。占い女のケツにひっついとけボケがよ」

 

 あっさり、なはずはない。

 旅団はゾルディックでさえも勝てるかどうかわからないほどの相手なはずだった。

 能力は未知であり、あのヒソカでさえも異常な程に興味を注いでいるのだから。

 

 あれほどの使い手がゾルディックに簡単に破られるのなら、旅団は恐れられる組織として存在しない。

 

「とっとと病院でもホテルでもいっちまえよ、あ!?」

 

 何も言わないクラピカに、スキンへッドの男は構わず言葉を振りかけてくる。

 

「それとも点数稼ぎに失敗してガックリ萎びてるインチキ野郎のアレでもしゃぶるか?」

 

 ──うるせえ男だ

 

 クラピカがそう思った刹那、クラピカの拳がスキンヘッドの男の顔面にめり込み、鼻や口から血飛沫を上げ宙に浮いた。そして、壁に激突し、やがて地面に落ちた。

 

 ──信じない! この眼で確かめるまで……! 

 

 

 ***

 

 

 遠くで救急車の音が聞こえる。

 私、アイリスはうっすらと目をあけた。電気の点いていない部屋。

 月明かりで天井が明るい。

 

 私はゆっくりと体を起こした。見慣れない部屋だ。

 辺りを見回すと、人がベッドの下で体育座りのような格好で頭を膝に埋めているのが見えた。

 

 金色の髪、右手の鎖──

 

「クラ……ピカ……?」

 

 私がそっと名前を呼ぶと、クラピカが顔を上げた。

 

「気がついたのか」

 そう言って立ち上がった。そしてベッドの端に腰掛ける。

 

「何とも無いか?」

「うん、大丈夫……みたい」

 

 私は体を確かめるように触ったが、特に怪我も何もしてないようだった。ただ、少し筋肉痛があるくらい。

 

 暗くてクラピカの表情が良く見えない。声の様子から、少し疲れているようだった。

 そしてふと、窓辺にある机の上に大きな箱のようなものが置いてあることに気が付いた。

 

(あれは……)

 

 あの箱は、さっきまで私が持っていたものによく似ている。

 綺麗な包み紙なのか、風呂敷なのか、何かに包まれているからよく見えないけども、何となく似ている気がして。

 

「クラピカ、その箱って……」

 

 恐る恐る聞いてみた。

「今日落札した競売品だ」

 

「えっ、オークション中止にならなかったの? あんな大混乱だったのに……?」

「旅団の頭が殺られた。通常通りに再開されていたよ。私も未だに信じられない」

 

 なぜ競売が普通に始まったのか、理解が出来ない。

 でも、クラピカがそうだと言うのならそうなのだろう。眠っている間にオークションは通常通り再開されていたわけだ。

 センリツが、緋の眼がネオンの落札予定リストにあるのだと言っていた事を思い出す。

 

 あの着物の女に拉致されて競売品である緋の眼は奪われたわけだが、あの旅団が殺られたという事は、あの中身は──

 

「あの箱ってまさか……緋の眼……?」

 恐る恐る聞くと、クラピカは

「ああ、そうだが……」

と、言う。

 

「てことは着物の女に盗まれた競売品、戻ってきたんだ……」

 なんとなくふっとそこまで言って、私はハッとして口を押さえた。

 

(しまった、私が緋の眼の出品者だってバレちゃう……!)

 

「着物の女に盗まれたとはどういうことだ?」

 

 クラピカの声色が変わった。

 

「まさか……アイリスがこれの出品者だったのか……?」

 

 クラピカの手が私の肩を力強く掴む。

 私は何も言えずにクラピカの眼を見ることしか出来なかった。

 私を見るその黒い瞳が僅かに揺れる。

 

 長い沈黙のせいで、外の救急車の音が通り過ぎるのが僅かに聞こえた。

 

「……取り乱してすまない。私は仕事に戻る。アイリスは体調を見ながら、家に帰れ」

 

 そう言ったクラピカは、静かにベッドから立ち上がって緋の眼を持ち、扉に手をかけた。

 

「待って!」

 私は素早くベッドから降り、クラピカの服の裾を掴んだ。

「ごめん私……」

 

 私は恐る恐るそう言うと、クラピカはため息をつきながら言った。

 

「……私は謝られる覚えは無いのだが?」

 冷たい言葉が返ってきた。クラピカの、何の感情も汲み取れなかった。

 

「ある。私が緋の眼の出品者だって事を隠してて……ごめんなさい」

 クラピカは何も言わなかった。

 

「クルタ族──。クラピカ……クルタ族なんでしょ?」

 私が言うと、クラピカは少し溜息をついた。

 

「だったら何だと言うんだ? 君が緋の眼の売買をしようと私には何の関係の無い事だ。私はただここで仕事をしているだけ、私一個人の感情はここには無い。わかったなら手を放せ」

 

 クラピカは至って冷静だった。冷静すぎて怖いほどに。

 私はゆっくりと手を放した。

 

「私はただ、ただ! ただの……代理出品者。人体収集家のオーナーに代わってただ、代行業務をしていただけなの。──信じて」

「信じるも何も、そんな事は私にはどうでもいい事だ。旅団はもう脅威ではないだろう。体を休めたらここ出て、家に帰った方がいい」

 

 クラピカはそう言うと、静かに部屋を出た。

 

 

 部屋がしんと静まり返る。部屋の音が聞こえないように、自分の感情も湧き上がって来なかった。

 

 ただ、涙だけがボロボロと頬を伝って床に落ち、絨毯を濡らす。

 

 あんな風に言うけれど、きっと彼は傷ついている。

 私も仕事だった。あくまでもこれはビジネスであり、そうなのであれば必要以上にクラピカに限らず、誰かに近付くべきではなかったのだ。

 

「うっ……うわあああっ……!」

 アイリスはその場に泣き崩れた。

 

 ──私は彼を傷つけてしまったのだ。

 



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すれ違う想い 一

 クラピカがセンリツ達のいる、エル病院に着いたのは既に深夜をまわった頃だった。

 病院の廊下の椅子に腰掛けてクラピカはため息をついた。病室からネオン(ボス)の嬉しそうな声が聞こえてくる。

『緋の眼』を手に入れて喜んでいるのだろう。

 

「クラピカ、アイリスは?」

 センリツが言う。

「家に帰した」

 そうクラピカが言った時、背後からライト(ボス)の声がした。

「ご苦労。オレは明後日の午前中にここを発つがお前たちはしばらく娘の買い物に付き合ってやれ」

 ライトはそう告げると、足早に去っていった。

 

「……」

 しばらく沈黙が院内を包む。

 クラピカはぐったりと項垂れ、ため息をついた。まだあの会場の声が頭の中をこだまして煩い。

 具現化していた鎖を消して、力なく手で拳をつくった。

 疲れだけじゃない。"何か"が身体中を襲うのだ。

 

「クラピカ」

 センリツがクラピカの背中に声をかけた。

「明日の競売と、明後日からの買い物は私たちがやるから、しばらく一人で休んだほうがいいわよ」

 

「そう……か。すまないが頼む」

 力なく言った声がわずかにかすれた。

 

「大丈夫かあいつ」

 去っていくクラピカの後姿に、バショウが言った。

 

 

 ***

 

 

 あれから一時間──病院の屋上で、クラピカは夜空を見上げていた。

 先程、かつての仲間に旅団が死んだことを告げたばかりだった。

 

 まだ明けぬ夜空に右手をかざす。そして大きくため息をついた。

 

 ──冷たくて、哀しい……そんな気がしたから

 

 あの時、鎖のかかった右手に触れ、悲しそうな瞳でアイリスはそう言った。

 まるで、自分の心に塗り固めた黒い影を見透かしているかのように。

 不思議な女性だと思った。今まで自分の意志を貫き動かしていたこの"黒い影"が、段々と薄らいでいく──そんな気がしたから。

 

 それなのに──……

 

「裏切られたような気分……てとこかしら」

 

 背後から女性の声が聞こえた。

 振り向くとそこにはセンリツが立っていた。

 

「ごめんね邪魔して。でもあなたの心音を聞いていたら、少し話をしなきゃいけないと思って」

 センリツはそう言ってクラピカの横に立ち、空を見上げた。

 

「あなたはアイリスに期待をしていた……違うかしら」

 

 ──期待……だと? この私が? 

 

 そう言いかけて、クラピカは眉を潜めた。

 

 出品者でありながら、このオレに理解したような口ぶりで言う。

 それが許せなかった。

 所詮他人事なのだ。クルタ族の惨劇を口では哀しいと言う。しかしその傍ら、緋の眼を競売にかけている。

 

 裏切られたような気分だった。

 そんな風に一瞬でも思ったのは嘘じゃない。

 

 彼女なら、オレの痛みを、悲しみを理解してくれるかもしれないと思った。

 けれども、そんな事は独りよがりでしかなかった事にオレは、何とも言えない気持ちになったのも──事実だ。

 

 心の中の暗闇を吸い取ってくれるかのような存在だと思っていたのは、オレだけだったのか──

 

 クラピカはそこまで考えて、

(いや、彼女にそんな義務はない。オレは……どうかしてる)

 そう思って、強く目を瞑った。

 

「あなたの心音、彼女への期待と戸惑いが混じってる。混乱しているのがよく分かるわね。まあ、深くは言わないけど」

 

 センリツの言葉に

「私がなんと言おうと、私が何と繕うと──心音で全てわかってしまうとは、皮肉なものだな」

と、クラピカは乾いた笑みをこぼして観念したように言った。

 

「そうよ、全てわかってしまうの」

 

 クラピカはセンリツを見た。

 

「アイリスは本気であなたを救いたいと思っていたわ。それは本当の事よ」

 

 夜の風がざわめいて髪を揺らした。

 ビル風が強く吹き、左耳のイヤリングが激しく揺れる。

 

「心音は嘘をつかないの」

 

 こうしてオレがネオン(あの女)の為に『緋の眼』を競り落としたのが仕事だったのと同じように、彼女もまた──仕事をこなしていただけ。

 

 アイリスに辛く当たった事は筋違いであり勝手な押し付けなのだ。

 アイリスは本当にオレを救おうとしてくれていたのかもしれないのに。

 

 誰でもそんな事はわかるはずなのにオレはただ、感情だけで彼女を突き放したのだ。

 

「アイリスの事、誤解しないであげて」

 

 センリツの強い眼差しに、クラピカは何も言えず黙り込んだ。

 クラピカは少し大きく息を吐いて目を瞑ると、瞳の奥で彼女の泣き顔を見たような気がした。

 

 ──オレはまだ、彼女期待をしている。



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すれ違う想い 二

 私、アイリスはあれから、噴水のある公園で膝に頬杖をついてため息をついていた。

 

 帰ろうと思ったものの、道がわからない。いや、その前に電車もバスも運行していない。

 とりあえず朝が来るまでこの公園にいることにした。

 夜の公園にはちらほら人がいる。さすが都会の真ん中にある公園である。人がいなくなることはなくて、寂しさもそんなに感じなかった。

 

 噴水の水しぶきが、時々私の顔をぬらす。

(ねむ……)

 段々と睡魔がやって来て、私は頭を膝に埋めて目を閉じる。

 野宿もまあ、悪くない。

 そんな風に思いながら意識が遠のいてきたところで、

「君、こんなところに一人でいたら危ないよ?」

 突然真上から声が聞こえて私はバッと顔を上げた。

 

 するとそこには、黒髪の男の子と、白い髪の男の子が立っていた。

 

(こ、こども……?)

 

 見るからに自分より年下である。

 寧ろこんな男の子の方が危ないのでは、と思わずにいられなかった。

 

「あなたたちこそ危ないと思うけど……?」

 

 私がそういうと、黒髪の男の子が言った。

「オレ、プロハンターだから」

「は!? プ、プロハンター……!?」

 

 どこかで聞いたことのある言葉だ。

 そう、クラピカはじめ、センリツやバショウ……またアイリスの仕事仲間であるテキサスもそういえばプロハンターであった。

 

(えっ、でもこんな子供が……?)

 

 呆然としていると、黒髪の男の子が手を差し出す。

「家はどこ? 送ってくよ」

「気持ちは嬉しいんだけど……」

 

(道が……わからない……)

 

白い髪の男の子が声をかけた。

 

「どうした?」

「道が……わからないの……」

「まじ? 野宿した後どうやってここから帰るつもりだったんだよ」

 白い髪の男の子は驚いた顔をした。当たり前の反応だ。

「まあ適当にバス時刻でも見て、知ってる場所まで行ければ帰れるかなー……なんて」

 

 私は愛想笑いをしていると、黒髪の男の子が、

「地名だけでも教えてくれれば、送ってくよ」

と言った。世話を焼いてくれる、優しい子なのだろう。

 

「おい、ゴン。オレたち朝イチからクラピカに会う約束があるんだろ? 遠くに行くと間に合わないぜ」

 白い髪の男の子が黒髪の男の子をゴンと呼び、クラピカの名を出し、思わず私の視線は白い髪の男の子に向いた。

 

「ねえ今、クラピカって言った?」

 

 確かに今、この子はクラピカと言った。

 

「あ、ああ……そうだけど?」

 白い髪の男の子は困ったようにアイリスを見た。

 

「もしかして知り合い?」

 ゴンがアイリスに言う。

 

「う……うん、ちょっとね。あなた達こそ、クラピカとは知り合いなの?」

「オレたちはハンター試験を受けた頃からの仲間だよ」

 ゴンが答えた。

 

 意外だと思った。こんなクラピカと性格も年も遠いであろう子達が、クラピカと仲がいいだなんて。

 この子達とあのクラピカが気が合うのかな、と思った。

 でももしかしたら、この子達の前では違う顔を見せているのかもしれない……と思ったら、少しこの子達が羨ましいと思った。

 

「クラピカと知り合いなら君も来る? せっかくだしさ」

 笑顔で言うゴンに白い髪の男の子が困ったように止めに入る。

「お、おいゴン」

「いいじゃんキルア」

 ゴンが白い髪の男の子をキルアと呼んだ。

 キルアは眉をひそめてふうっとため息をついた。

 

 クラピカに会いたくないわけは無い。

 けれども、あんな事があってすぐになど、クラピカに会わせる顔が無いと思った。

 

 あんなに嫌われてしまっては──……

 

「ううん、私はいいよ」

「でも」

 ゴンが寂しそうな顔をして言った。

 

「クラピカが元気なら……それでいいの」

 

 アイリスはそう言うと立ち上がって二人から離れた。

 クラピカに合わせる顔なんて、あるわけない。

 

 気付いたら私の頬は濡れていた。

 噴水の水と違って、少し塩の味がした。



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動き出す蜘蛛

 その頃、ヨークシン郊外にある廃墟ビルのとある一角で、滅んだはずの幻影旅団のメンバーが勢ぞろいしていた。

 昼でも夜のように暗い廃墟ビルの中は、廃墟になったその日から恐らく人の手が入っていないのだろう。

 風が吹けば割られたガラスの窓から砂埃が音を立てて入り込んでくる。

 

 ここはかねてより旅団がアジトとしていた場所だ。

 廃墟になってから何十年と経ったこの廃墟は、身を潜めるには格好の場所である。

 

「……緋の眼を持っていた女が鎖野郎と何かしら接点がある、ということか」

 黒のロングコートに身を包んだ男が、冷静な声で言った。

 彼は幻影旅団の頭、クロロ・ルシルフルである。

 

「ああ、シャルが取り逃がしたけどね」

 クロロの前で腕を組み、ため息をつきながらマチが言った。

「でもあらかた示しはついた。あとはあの女をどう利用するか、だ」

 マチは腕を組み直した。

 

 クロロは視線を床に落とし、しばらく考えた後

「ただ殺すのじゃつまらないだろう。玩具は遊んでから捨てるものだ」

 と言って、

「鎖野郎の歪む顔が見てみたい」

 クロロは口元を緩めた。

 

「あの女を探し出して捕らえろ。オレにいい案がある」

 クロロは顔を上げた。

 

 

 ***

 

 

「あーあ‎♥」

 

 廃墟の屋上で手にトランプを持ちながら、少し高い擦れた声でクッと笑った男がいた。

 

「目ェつけられちゃったねェ……♠」

 

 男は携帯電話を人差し指でくるくると回し、嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 

 

 ***

 

 

 一方、クラピカはかつての仲間であるゴン、キルア、レオリオの三人と久々の再会をしたのも束の間、旅団の件で早速緊迫した空気になる。

 

「おい! クラピカ! どーしたんだよ急に!?」

 

 突然早足で歩き出すクラピカの背中にキルアが言う。先程まで、ゴンとキルアの目的や旅団についてを話をしていたばかりだ。ゴンは旅団を止めたい、そう言ってくれたばかりだったのだが。

 

 ──状況は一転した。

 

 ゴン達が宿泊しているホテルのロビーに移動して、携帯電話を片手に依然険しい顔をするクラピカにキルアが伺うように声をかけた。

 

「まさか、ヒソカから……?」

「ああ」

 クラピカは振り向かずに言う。クラピカの手に持っていた携帯電話には、ヒソカからのメールが映し出されていた。

 

 クラピカは以前からヒソカとコンタクトを取っていた。

 クラピカは旅団を倒すため、ヒソカはクロロと殺り合うために裏で協定を結んでいる、言わば利害関係というわけだ。

 

「旅団の死体はフェイクだと」

 

 クラピカの言葉に一瞬辺りの空気が凍りついた。

 

「旅団の中にそういう能力者がいるらしい。くそっ……何故こんなことに頭が回らなかったんだ」

 

 旅団の頭が死体で発見されたわけだが、どうやらそれは偽物で具現化系能力者が死体を具現化したものであることがわかった。

 少し考えればわかるはずだった。やはり旅団があっさり殺られるわけなど無いことに。

 

 するともう一度携帯電話が鳴った。ヒソカからだ。

 

『そうそう♠ キミの大事な大事なお友達を団長が狙ってるんだよねェ♣︎ 団長のコトだからきっと……♥♥』

 

 メールはそこまでしか書いていなかったが、ヒソカの言う"大事なお友達"が、アイリスの事だとクラピカは瞬時に悟った。

 

(まずい……!)

 

 鎖のかかった右手に思わず力が入った。行き場の無い怒りが込み上げてくる。

 

(早くアイリスを捜し出さなければ)

 

 そう思ったときには勝手に体が動いていた。

 

「アイリスが危ない」

 クラピカは駆け足でエントランスに向かった。

 

「お、おい! クラピカ!」

 勝手に動き始めるクラピカを、レオリオが後を追う。

 レオリオはクラピカの腕を掴み、引き止めた。

 

「誰だよアイリスって!? 何があったんだよ」

「仕事仲間……いや、私がかつて護衛していた女性だ」

 

 レオリオが見たクラピカの顔には、今まで見たことも無い焦りが伺えた。

 

「もしかして昨日の子かな」

 レオリオに続いて後を追ってきたゴンが言う。

 

「ゴン、アイリスと会ったのか!?」

「名前までは知らないけどね、昨夜噴水の前で野宿しているところを声をかけた子がいたんだけど──クラピカを知ってる様子だったから、一緒に来ない? って誘ったら逃げられちゃったから」

 

(アイリスだ)

 クラピカはすぐにそれがアイリスだとわかった。

 

「細かいことは割愛するが、私が鎖野郎であるばかりに今、旅団に目を付けられている。しかも彼女は念能力を使えないただの一般人だ」

 

「マジ!? それって……まずくね!?」

 キルアが言った。

「ああ、非常にまずい。時は一刻を争う」

 

 焦りで手が震える。クラピカは歯を食い縛った。旅団に捕まれば、恐らく死は免れないだろう。

 

「だからと言って作戦も立てずに動くのはよくねぇ、一回冷静になれ。お前の心理状況じゃ、今何をしても悪化するだけだ」

 再びエントランスへ向かおうとするクラピカの腕を力強く引き止めてレオリオは言った。

 

 とにかく動いて考えたいと思ったが、アイリスを救うことができるのなら──

 

「……わかった。作戦を練ろう」

 



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凌辱と屈辱 一

「いたぁッ!!」

 

 ヨークシンの郊外、廃墟ビルの一角でアイリスの声がこだました。

 ゴンとキルアに公園で会ってから間もなくのことだった。ここは幻影旅団のアジトである。

 幻影旅団とクラピカが属するプロの暗殺リーダーが激しい戦闘をしたあの日と同じ、見えない何かできつく両手足を縛られ、埃と砂利の地面に勢いよく投げ出された。

 うつ伏せに倒れこみ、砂利が思いっきり頬に擦れた。もぞもぞ動いていると、

「大人しくしな!」

 と、着物の女──マチが腕を組みながら言う。この女に見下ろされ、一喝された。

 

 なぜこんな所に私がいるのかというと、先程ゴンとキルアの場を去った後、あっさりと旅団に捕まえられてここに連れてこられたというわけ。

 本当にあっさりだった。角を曲がったら金髪の男が

『やあ。探してたよ』

なんて、にっこり笑って拘束してくるんだもの。そいつは私に変な棒を刺して操作してた奴。声なんて怖くて出るわけない。

 

 

「この女の記憶は読み取ったわ。鎖野郎の名前と顔はわかったけど、能力は不明」

 スーツを着た女が冷静に言った。彼女はパクノダ。

 

「記憶……? どういうことよ」

 

 私は首だけを上げて、パクノダを睨んだ。

 

「ふふ、あなた……結構可愛いところあるわよね」

 パクノダは、片膝を着いて首だけを上げて睨む私の顎に手を添えた。

 

「好きなのね、彼が」

 

 胸がズキンとするのがわかった。馬鹿にされたと思った。

 

「ふふ、あのルックスなら仕方ないわよね。彼もまんざらじゃないんじゃないかしら」

「ばっ……バカにしないでよ!」

 

 私がそう言うと、

「あのね。こういう能力なの。隠しても無駄よ」

と、パクノダがニヤリと口角を上げて言うから私はこれ以上何も言えなかった。

 

「マチ、団長のところへ連れて行って」

「了解」

 体を何かで拘束されたまま、団長と呼ばれた男がいる場所へ引きずられていく。

 

「逃げようとしたら殺していいから」

 パクノダのその言葉にぞっと背筋が凍る。下手に動けば、今度は本当に命は無いのだろう。

 

 

 *

 

 

 

「団長、入るよ」

 連れて行かれたのは、ビルの一番端の部屋だった。ビルの外側の瓦礫が窓を塞ぎ、太陽の光が殆ど入らない暗闇の部屋である。部屋の中心にはちょうど腰の高さ程の蜀台があり、蝋燭が一本灯っている。

 うっすらと部屋が照らされ、ゆらゆらと揺れる蝋燭の光と共に影も揺れた。

 

 わずかに見える、部屋に散乱したコンクリートの瓦礫に腰掛けた黒くずめの男がこちらをじっと見ている。

 

「例の女か。そこに置け」

 団長と呼ばれた男がそう言うと、私はマチに勢いよく体を投げ出されて床に突っ伏した。

 

「もう! 痛いってば!」

 思わず声が出た。膝と肩と頬が地面の砂利に擦れた。どうしてこんなに乱暴に扱うのか、悲しくなってくる。擦れた場所かじんじんとする。

 恐らく擦り傷になっているだろう。

 

「団長の前だ。言葉慎まないと殺すよ」

 団長──そう、彼はクロロ・ルシルフル。

 彼こそが幻影旅団の頭である。

 

「マチ、拘束を解け」

 クロロがそう言うと、急に私の両手首と体を縛っていた何かが緩んだ。

 咄嗟に私は上体を起こして身構える。

 

「じゃ、アタシは戻ってるから。お好きにどうぞ」

 

 マチはそう言うと、私を部屋に残し去っていって、マチの姿は暗闇ですぐに見えなくなった。

 

 上体を起こしたまま呆然としている私に、ゆっくりとクロロが近づいてくる。

 ゆっくりと近づいて、大きくなってくる影とその姿は、まるで悪魔のように黒く、そして自分よりもとても大きく映った。

 

 蝋燭の光が逆光となり、顔の様子が全く見えず、ただただその場を動く事ができなかった。こちら側からは見えない彼の視線で拘束されているかのように。

 

 クロロは片膝をつくと、ぐっと私の顎を引き寄せた。

 やっと見えたその表情は無表情で無機質だった。

 

 私は思わず眉をひそめた。

「その目……オレを恨んでいるのか?」

 

 無表情から口元が緩んだ。質問とは間逆に嬉しそうな表情をして、私の瞳をじっと見つめるのだ。

 

「いい目だ。これからもっといい目つきにしてやる」

 その言葉に、ぞっと背筋が凍った。

「どういうこと……?」

 

「オレは屈辱にまみれ怒り苦しむ鎖野郎が見たい」

 

 クロロはそう言うと、私の顎から手を離し、思い切り私は突き飛ばされ、床に仰向けに倒れこんだ。それを上から見下ろして、クロロはニヤリと口角をあげた。

 

「そしてお前の屈辱に満ちた目が見たい」

 

 クロロに両腕を片手で押さえ込まれて、思い切り衣服を引き千切られた。ブチブチと鈍い音を立てながら衣服が裂かれていくのが見えた。

 

「い、いや! 服が!」

 

 物凄い力が両腕に加わる。下手に動こうものなら、骨折してしまうのではないかと思う程の力。

 

「お前が屈辱に満ちるほど、いい」

 

 行為とは間逆の、冷静沈着な声でクロロは言う。

 露になった私の胸は、クロロに強引に弄ばれ、舌を這わされる。

 

「いや、やめて、触らないで!」

 

 私は咄嗟に叫んだ。悲鳴は空しく暗闇に消えていく。私はハメられたのだとわずかに照らされた暗闇の中そう思った。

 この私への仕打ちは、恐らく彼らなりの何らかの抵抗……仕返しなのだろう。しかしどうして自分がこんな目に遭うのか、私にはわからなかった。

 

(助けてクラピカ!)

 

 心の中で叫んだ。目を開けてもあの人はどこにも見当たらない。

 見えるのはこの暗闇の中で悪魔のように嘲笑う男だけ。

 

「どんな気分だ?」

 

 クロロは肌に舌を這わせながら、征服欲に満ちた笑みを浮かべて言う。

 私は何も答えずに歯を食い縛って、何も感じないふりをしていた。

 

 ──屈辱に満ちるほど、いい

 

 屈辱と感じてしまえば思う壷なわけだ。何も感じない。何も思わない──私は今、そう言い聞かせている。

 

 ただ一つだけ思うこと。

 

 クラピカに会いたい。



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凌辱と屈辱 二

「おい。この女持っていけ」

「団長、また派手にやったね」

 

 声のやりとりが頭上で聞こえる。目を開けると、あの着物の女が見えた。

 

 あれからどれだけの時間が経ったのだろうか。

 

 ぐったりと力が抜けて身体が動かない。

 身体を纏っていた衣服は大きく裂けていて、蝋燭の光で自分の太ももにテラテラと液体が光っているのが見える。

 風が当たると、ひんやりと冷たかった。

 

「この女はいい玩具になる。生かしておけ」

 そうクロロは言うと、その場から立ち去っていった。

 その場に残ったマチが、力なく横たわる私の腕を掴んだ。

 

「ほら立ちな!」

 マチは腕をぐいっと掴んで立ち上がらせようとする。

 よろっと足元がふらついたが、なんとか自力で立ち上がった。

 立ち上がったと同時に何か液体が太ももを伝うのがわかった。

 

「これからうちらは団長と一緒に鎖野郎を追う。アンタはここでシャル、フランクリン、フェイタン、フィンクスと一緒に大人しくいること」

 

 マチがそう言うと、シャルナークがマチの後ろから顔を出した。

 

「凄いね団長、派手にやったなぁ」

 

 シャルナークが私の姿を見ながら言った。視線が上から下へ、下から上へと動くのがわかった。

 この男はあの噴水広場の近くで私を捕らえた男。

 ニッコリとした明るいその顔は、裏にある感情を読み取らせない。

 

 どこまで自分が派手にやられたのかわからないが、髪はぐちゃぐちゃだし、太ももを伝う液体、そして僅かに上半身にも冷たい液体を感じるし──多分、無惨な姿なんだろうと思った。

 

 でも不思議と涙は出なかった。

 

 目を閉じればまだあの時の感覚が蘇る。多分、何度もやられた。

 腕に残る、掴まれた時の青あざ。足を押さえつけられた時の青あざ。

 そしてこの太ももに伝うもの、ひんやりと感じるこの液体は何なのか想像に難くない。

 

 ぎゅっと噛んだ唇は、血が滲んで鉄の味がした。

 

 

 ***

 

 

 私は、あの後身体を洗うことも許されず──といってもこんなところにシャワー等あるわけがないのだが、とりあえず部屋の隅にうずくまる事しかできなかった。

 

 伝っていた液体は乾いてパリパリしている。それを手で払った。

 妊娠したらどうしようという不安の反面、いやあの団長の子供を身篭ったらとんでもない使い手が産まれるか? なんて意外にも呑気な事を考えていると、突然シャルナークの携帯電話が鳴った。

 

 シャルナークは険しい表情をしたと思ったら突然、

「団長が捕らえられたって!?」

 と大声で立ち上がった。

 

「うん。わかった、すぐ行く」

 シャルナークが電話を切ると、待機組であるフェイタンとフィンクスが部屋から出て行った。

 

「フランクリン、人質を頼む」

 やたら図体のでかい男、フランクリンにそういい残してシャルナークは足早に去っていった。

 

(何があったの……?)

 

 アジトの隅で、ボロボロの衣服を身に纏ったままうずくまっているだけの私には何がなんだかわからず、ただ目でシャルナークの背中を追った。

 唯一残ったフランクリンと呼ばれた男のみが残され、アジトは二人きりになった。

 

「俺は何もしねーから安心しろ」

 意外にもこのフランクリンという男、穏やかな声で言う。

 

「団長が鎖野郎に捕らえられた。しばらくここで二人で待機だ」

 

(クラピカが……?)

 ドキっと胸が高鳴った。

 クラピカが、いま……動き出している。

 

 



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凌辱と屈辱 三

 一方クラピカはセンリツと共にレオリオが運転する車の中にいた。

 中指の鎖は長く伸び、黒いコートを着た男クロロ・ルシルフルをしっかりと雁字搦めに捕らえていた。

 

 ゴンとキルアが旅団に捕まり、おまけにパクノダという女にクラピカの能力を読み取られてしまうという事態まで起き、時は一刻を争う状況であった。

 そのため、ホテルの受付の女に変装し、停電を起こし闇に乗じてこの男を捕らえた。旅団の頭を捕らえる事は、こちら側にとって非常に有利だが、その反面、敵は何をしてくるかわからない。

 

 この緊迫した車内、チェーンジェイルで縛られているにも関わらず何も変わらない平気な顔をしているこの男は、何を考えているのか全く汲み取らせないでいる。

 

(この余裕は何だ……?)

 

 嫌な予感がクラピカの胸を襲う。

 なるべく目を合わさずクラピカは至極平然を装っていたが、ふと、視線を感じ、横目でヤツをちらりと見ると、クロロがこちらをじっと見ていた。

 

「何を見ている?」

「いや、鎖野郎が女性だとは思わなかった」

 クロロはフンと鼻で笑う。

 

「私がそう言ったか? 見た目に惑わされぬ事だな」

 

 クラピカは長髪のウィッグを外すと、クロロは初めて安心したような表情をした。

 

「男か、なら良かった」

 クロロはそうして意味深な発言をする。

 

(その表情は何だ? オレが男である事の何が良いのか?)

 嫌な予感が襲う。この男は何を企んでいるのか、何を隠し持っているのかわからない。

 

「それより発言に気をつけろ。何がお前の最期の言葉になるかわからんぞ」

 

「殺せはしないさ。大事な仲間が残ってるだろう? それと」

 

「あの女もな」

 一呼吸おいてクロロが言った。

 あの女、という言葉に一瞬車内の空気が凍りつく。

 

「……どういうことだ」

 

 クラピカは低い声で言った。

 襲っていた嫌な予感は、すぐにそれがアイリスの事だとわかって心臓の鼓動が早くなる。

 

 ──キミの大事なお友達を団長が狙ってるんだよねェ♣︎

 

 クラピカの携帯電話に入っていた一通のメール。

 あのメールが入ってからまだ数時間しか経っていないというのに。

 

 クラピカはあくまでも平然を装った──が、気づけば怒りで手が震えていた。ゴン、キルアだけでなくアイリスもまた自分の過失による被害者なのだ。

 

(アイリスも人質に……?)

 

 いや、きっとただの人質じゃない。

 本能がそう言っていた。

 

「貴様……彼女をどうした」

 

 聞くまでもない質問なのはわかっている。

 わかってはいるが、この男がなんと答えるのか、いや──ただの人質である事を祈りながら、クラピカは言った。

 怒りで震える声を必死で抑えながら、低い声で。

 

 ──オレも男だから、彼女に何があったのか想像にかたくない。

 

「いい女だった」

「……なに?」

 

 クラピカは眉をひそめた。

 

 クロロは何も言わずに窓を見ている。

 窓に反射するクロロの表情は、まるで勝ち誇ったような笑みさえも浮かべていた。

 

 予感が確信に変わった瞬間だった。

 

「おい貴様! 彼女をどうしたと聞いている!」

 

 黒いカラーコンタクトの奥で、緋色の眼が更に紅くなるのが自分でもわかる。クラピカはクロロの胸ぐらを掴んだ。

 

 何をしたのかこの場で言わせたかった。

 そしてすぐに殺すつもりだった。

 

「フン……わかりやすい動揺の仕方だな。貴様の女か?」

 余裕の笑みをかましてクロロはクラピカの眼を見た。

 

「無駄な口を叩くな! 質問にだけ答えろ!」

 

 この男は、クラピカの反応を楽しむかのように何も言わないでいる。

 

「言葉通りだ」

「なん……だと?」

 

「実にいい鳴きだった」

 

 その言葉を言われた瞬間、クラピカは自分の中で何かが切れた音がした。

 

 これは何にも変えられないほどの怒りになり、クラピカはこの鎖で繋がれた目の前の男に怒りをぶつけた。

 目の前でアイリスが凌辱され、泣き叫ぶ姿が浮かんでくるような気がして、気がつけばこの男の顔をメチャクチャに殴り潰している自分がいた。

 

「クラピカやめろ!!」

 自分を止めるレオリオの声も耳には入らなかった。

 ただただ、この目の前にいる男が許せなかった。

 殴られながらも、にやにやとしているこの男が。

 

 アイリスを凌辱したのだ。

 

 それと同時に自分も許せなかった。

 まんまと旅団のフェイクに騙され、アイリスを無防備に突き放して家に帰した事を。

 

 その自分への怒りとクロロへの怒りを、とにかくぶつける事しか出来なかった。

 



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凌辱と屈辱 四

『場所はリンゴーン空港。八時までに来い。繰り返すが、一人で来い。絶対にだ』

 

 クラピカは旅団にコンタクトを取り、旅団にそう告げた。

 ゴンとキルア、そしてアイリスでさえも人質になり──もうこれ以上仲間を失うことはしたくない。

 

 人質に少しでも危害が及ぶことがあれば団長(リーダー)を殺す。

 二人の記憶を話せば殺す、小細工をすれば殺すと、クラピカは旅団に告げるとパクノダは電話口で静かに

『わかったわ』

とだけ言って電話を切った。

 

 

 ***

 

 

「パク!」

 一人でここを去ろうとするパクノダに、シャルナーク、フィンクスが声をかけた。

 

 ノブナガが

「鎖野郎の指示だ。オレ達はアジトに戻る。パクを一人で行かせろ」

 と言った。

 

 旅団側の人質であるゴンとキルアは、旅団のアジトに連れて行かれる事になるわけだが、ゴンとキルアとアイリスは、このアジトで再開をすることになる──。

 

 

 **

 

 

 私がアジトの隅で相変わらずうずくまっていると、何やら外からガヤガヤと声がしてきた。そして声が近くなったかと思うと突然

「あれ、あの人……!」

と、声がした。

 声がした方向を見ると、ゴンとキルアがこちらを指さしている。

「あの時の人だよな」

 キルアが言った。

 

「君、アイリス?」

 ゴンが私に向かって言う。そして近寄ってくるや否や、

「どうしたの!? 大丈夫!?」

 と、私に声をかけた。

 

「おい、勝手に動くな!」

 着物を着た男、ノブナガがゴンの背中に言うが、そんな事はお構いなしにキルアもゴンの後をついていく。

 

「ゴン? ……なぜ私の名を?」

「あいつらに何をされた!?」

 私の質問よりも先に、私の切り裂かれたような衣服を見てゴンが言った。

 

 私の肩を両手で掴み、ゴンは私を真っ直ぐに見てくる。そして痣だらけの身体に目をやり、ゴンの目付きが次第に険しいものになっていくのを感じた。

 

「その痣……」

 ゴンが私の青くなった腕に触れた。

「まさか暴力を……?」

 

 心配そうにゴンが言う。

 暴力には違いないが、こんな子供に本当の事を話して良いのだろうか──そううろたえる私に、ゴンの背後からキルアが肩に手をやった。

 

「ゴン、よせ」

 キルアはそう言うと、着ていた長袖のパーカーを私に被せてくれた。

 

「無理に言わなくていいよ、オレはわかるから」

 キルアは私をひと目見た時から何が起こったか大体察しはついていたようだった。恐らくハメられたのだろう、と。

 

「あいつらの中に……(ハメてきたヤツは)いるか?」

 キルアは私の目線まで腰を下ろし、内緒話をするような姿勢で声を潜めて言った。

 私は横に首を振った。

 

「団長(リーダー)か?」

 声を潜めて言うキルアに、私はこくんと頷いた。

 

 私はキルアの耳に顔を寄せて言う。

「多分……何度……も……」

 

 ここまで言って私の涙が溢れた。

 ゴンとキルアを見て、安堵したのが何なのか、何だか急に涙が溢れてきた。

 

 まだお互い何者なのかわからない仲なのに、もう随分と前から知り合っているような気持ちにさせる……不思議な人だ、と私は思った。

 

 涙を流す私をゴンはぎゅっと抱きしめて

「怖かったよねアイリス。もう大丈夫だから。オレ達がついてる」

そう言ってくれた。私はゴンの服をしっかりと握り、ゴンの胸にしがみついた。

 

「フン、お前ら知り合いだったのかよ。とんだ運だな」

 ノブナガが呆れたように言った。

 

 

 ***

 

 

 

 午後八時、クラピカとパクノダはリンゴーン空港にいた。

 クラピカの横にはセンリツもいる。そして、中指の鎖で繋がれたクロロも人質としてそこにいた。

 クロロとパクノダに人質であるクロロを返す条件をつけ、小指の鎖を刺した。

 

「零時までに人質三人を連れてリンゴーン空港へ来い。仲間は連れて来るな。どこへ行くかも言うな。わかったな」

 

「ええ」

 

 冷静にそう言って、パクノダは去っていった。

 

 人質交換の交渉が成立し、パクノダがリンゴーン空港を去ってから、クラピカは飛行船の窓から外を見つめていた。

 ヨークシンの夜景が、自分の心情とは裏腹にあまりにも煌びやかで、複雑な心境である。

 

 その煌びやかな夜景を見ながら、クラピカは人質として捕らえられたアイリスの事を考えていた。

 

 ──実にいい鳴きだった

 

 そのクロロの一言が、頭に焼き付いて離れなかった。

 何度も何度もこの男の表情と共にあの一言が再生され、眼が燃えあがるような感覚に陥る。

 何があったか認めたくは無い。が、認めざるを得ない。

 そんな事はとうの昔に自分の中で答えが出ているのだ。

 

「女の事か?」

 背後から声をかけられ、クラピカはハッと我に返った。

 後ろを振り返ると、中指の鎖に繋がれたクロロがじっとこちらを見ていた。

 

「俺の思惑通りか」 

 フンと鼻でクロロは笑った。

 

(この男はこのオレに屈辱を与えるためにアイリスを……)

 

 まばたきをする度に瞼の裏にアイリスの苦痛に泣き助けを呼ぶ姿が見えた。そして、アイリスの動きを封じて行為に及ぶ、この目の前の男が瞼の裏で自分を嘲笑った。

 

「どうだ? 女を寝取られた気分は」

 クロロの言葉が、瞼の裏の男と同化した。

 

「黙れ、屑が」

 緋の眼が熱く燃え上がり、ぎゅっとこぶしを握ると、クロロを絡めていた鎖が怒りで更に強くクロロを締め付けた。

 

 それでもクロロは表情一つ変えない。

 

「お前の心の中を当ててやろう」

 クロロは面白そうに笑った。

 

「今お前はオレに嫉妬している」

 

 その言葉に、クラピカは眉をひそめた。

 

「嫉妬だと? 旅団のリーダーともあろう男は、愚かな事を言うんだな」

 クロロを睨みながら低い声で言う。

 

「そうか? オレは確信をついていると思うんだがな」

 

 守れなかった事を後悔しているのは事実だ。それ以外、それ以上何物でもないはずだ。

 オレが、旅団はもう脅威でないと突き放したばかりにこうなったのだから──

 

「今のお前は、独占欲に満ちている」

「違う」

 見下したような言い方をするクロロに、クラピカは咄嗟に反論した。

 

「嘘だな。なあ、お仲間さん」

 

 平然とした表情で、クロロはクラピカの隣にいたセンリツに振る。

 センリツは目を背け、何も答えなかった。

 

「貴様のような人間と一緒にするな。私は──」

 そう言いかけてクラピカは言葉に詰まった。

 

 ──私は、何だと言うんだ? 

 本当に、人質になってしまった事へのただの怒りなのか? 

 この怒りは、オレよりも先に彼女の身体があの男に──

 

「もうやめて!」

 クラピカの横で黙って聞いていたセンリツが口を開いた。

 

「もう嫌! 聞きたくない! その人の心音もあなたの心音も!」

 センリツは耳を塞いだ。

 

 窓に向き直るクラピカの背中を見て、クロロは口角を上げニヤリと笑った。

 ──その目……オレが一番見たかった表情(カオ)だ

 

 



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凌辱と屈辱 五

 午前零時──パクノダは指示通り、人質三人を連れてリンゴーン空港にやってきた。

 人質であるゴン、キルア、アイリスに特別小細工はされていない事をセンリツが心音で確認する。

 

「よし、交換開始だ」

 クラピカがそう言うと、人質の交換が行われた。

 ゆっくりとクロロはパクノダの方へ歩き出していき、向かい側からはゴンとキルアと、ゴンに支えられて歩いてくるアイリスが見えた。

 

(アイリス……)

 クラピカは眼を細めた。

 

 キルアのパーカーを羽織った彼女の姿は、とても痛々しく、そしてとても小さく見えた。切り裂かれた衣類、くっきりと残る腕、足の青痣──彼女の身に起きた出来事……あの瞼の裏に浮かんだ情景は、妄想ではなく事実だったのだと確信した。

 

(あの男に……)

 

 クラピカの鎖のかかった手に力がこもった。

 既に小さくなったあの男の後姿がとても憎くてたまらなくて、思わず鎖のかかった右手が出そうになったが

「駄目よクラピカ」

 すんでのところでセンリツに右手を抑えられた。

 センリツには全て見通されている。

 

「……わかっている」

 この場でヤツを殺せたらどんなに楽か──そう思って震える手を、クラピカは必死に理性で抑えつけた。

 

 アイリスがこちらに向かって

「クラピカ」

 と、か細い声で言う。

 その声を聞いた瞬間、アイリスの身体をクラピカは気がついたら抱きしめていた。

 

 それは優しくも、きつく。

 冷たく冷えたアイリスの身体を暖めるように。

 

「危険な目に遭わせて……すまなかった」

 

 そう言ったクラピカの声は、凄く低かった。

 腕の中にいる彼女はとてもか弱くて、震えて、涙を流している。

 

 ──オレのせいだ。

 

 腕の中で、アイリスがぎゅっとクラピカの胸元の服を掴む。

 

「凄く……怖かっ──」

「分かってる」

 クラピカはアイリスの言葉を遮った。

 

「分かってるから……もう何も言うな」

 そう言ってクラピカは髪を撫でた。掴まれたのか、彼女の傷んだ髪をゆっくりと撫でて。

 

 ──あの男はこのオレに屈辱を与える為だけにアイリスを利用したのだ。泣いて嫌がる彼女を嘲り、快楽と欲望のままに。

 

(どうしたら彼女の痛みを和らげることが出来る?)

 

 クラピカはそう、自問自答した。

 かつての同胞を失ったと知った時と同じように、やるせなくてどうしようもない自分の無力さがクラピカの胸を支配したのだった。

 

 

 ***

 

 

 あの後──アイリスはゴンとキルアとレオリオ、センリツと行動を共にしていた。

 ここは、ゴンとキルアとレオリオがオークション開催中に知り合ったゼパイルという男性の部屋なのだそうだ。

 私とゴンとキルアが開放されてからすぐにクラピカは高熱を出してこの部屋で寝込んでいる。既に丸一日以上クラピカは目を覚まさない。

 

 私は新しい長いシャツワンピースに身を包んで、水を入れた桶をクラピカの横に置いた。この服は、衣服を失った私に、センリツが買ってきてくれたものだ。

 

「クラピカの熱、全然下がらないわね」

 私はクラピカの額に載せた手ぬぐいを交換しながらセンリツに言った。

 水を入れた桶に手ぬぐいを入れ、軽く絞ってクラピカの額に乗せる。

 

「私の笛も効かないから、単純な疲労や病気の熱じゃないわね」

 センリツがため息をついて言った。

 額に乗せた手ぬぐいは、すぐにクラピカの熱で熱くなるから、またすぐに交換しないといけない。

 

「クラピカに何かあったの?」

 手ぬぐいを再び桶に入れ、水でゆすぐ。

 クラピカは荒く呼吸をしながら眠っていて、ただの熱じゃないのは肌で感じる。

 

「私にも……わからないわ」

 

 センリツは怪訝な顔をして言う。センリツが原因がわからないと言うのだから、そうなのだろう。

 クラピカに目線を戻すと、苦しそうな寝息を立てている。

 再びてぬぐいを軽く絞ってクラピカの額にそっと乗せた。

 

「アイリス、あなたは……平気なの?」

 そう言われてるふと顔を上げると、センリツが心配そうな顔をしていた。

 

「大丈夫」

 そう言ってみせたけど、この人には心音で全てわかってしまう。平気じゃない事くらい。

 

「笛では痣までは綺麗に消せなくてごめんなさいね」

「ううん、あとは自己治癒力でなんとかするから大丈夫」

 センリツに笛で身体に負った傷を癒してもらったばかりなのだが、痣までは綺麗に消えなかった。ところどころ、青かった痣が黄色くなっている。

 

「心の傷も癒してあげられたら良かったんだけど」

 センリツは悲しい目をして言う。

 

「いえ、色々してもらって十分なくらい。今は心配なのはクラピカの事。早く目を覚まして欲しいなって思ってる」

 私がそう言うと、センリツは

「決して……無理はしないで」

 と言った。

 

「大丈夫よ。ありがと」

 そう言って笑うと、センリツは少し安心したように微笑んだ。



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自我 一

 ──ここはどこだ? 

 

 クラピカは暗い闇の中にいた。

 

「ねえ、いや! やめて!」

 

 女性の悲鳴が聞こえる。暗闇はやがて蝋燭の光でうっすらと、ぼんやりと情景が見えるようになった。

 

 オレの目の前で、あの男がアイリスを凌辱している。

 その男はオレを見て、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。

 

 ──お前はオレに嫉妬している

 

 

 男の声がクラピカの脳内でこだました。

 

 

 私が? 

 どういうことだ? 

 

「……クラピカ助けて……」

 

 アイリスが涙を浮かべてオレを見る。

 その瞳は、オレに助けを訴えていた。

 オレの身体は、まるで何かに拘束されているかの如く動かす事が出来ない。

 

 ──お前はオレが羨ましいのだろう? 

 

 再び男の声が脳内を支配した。

 

「違う! 私は──」

 

 ──本当にそうなのか? 

 

 自分の声が勝手に自分自身に問いかけた。

 再びアイリスに目をやれば、熱い吐息と潤んだ瞳がオレの胸の奥底を刺激して、欲に似たような感情が湧き上がってくる。

 

 オレは……何を考えている? 

 

 目の前の男はアイリスの足を掴んで、自身をアイリスの腟内に強引に挿れた。

 アイリスは、苦痛に顔を歪めながらも、男のそれを受け止めている。

 苦しみ紛れに喘ぐ声を聞いて、すぐにこの男を殺してやりたい気持ちにさせられる。目の奥が熱く燃え上がり、具現化した鎖がまるで意思を持つかのようにギリギリと音を立てているのに、ただ行為を見ていることしか出来ないオレは──

 

 オレは……羨ましい……? 

 

 オレも彼女をそんな風に? 

 

 男が腰を動かす度に彼女の声は次第に熱く甘いものに変わっていく気がして──許せなかった。

 

「やめろ!」

 クラピカは声にならない声で言った。

 これ以上見ていられない。アイリスのあんな姿を。

 

 それをするのは貴様じゃない──

 

 男は最奥に自身を突くと、しばらく止まってからゆっくりと引き抜いた。するとアイリスの秘部からどろりと白い液体が溢れ出した。

 

 それはオレが──

 

 そう思ったところで、涙目になったアイリスがオレを見た。

 その瞳は何よりも艶めかしく、愛しいと思った。

 

 オレの手で……彼女を──

 

 :

 :

 :

 

「……ピカ」

 

 :

 :

 

「クラピカ!」

 

 

 声と共にクラピカはハッと目を開けた。

 目の前には心配そうに覗き込むアイリスの姿があった。

 

(ここは……?)

 

 クラピカは目だけで頭上を見回す。見慣れない天井が映った。視線を横にずらせば、明るい日差しが窓から差し込んでいる。昼間なのだろう。

 

「クラピカ、凄くうなされてたよ」

 

 心配するアイリスの瞳を、クラピカはまともに見られなかった。

 当たり前だ。あんな夢を見たのだから。

 

「……そうか」

 目を少し逸らしながらクラピカは言った。彼女の姿が夢の中のアイリスとかぶって、あのような夢を見た自分が情けないとさえ思う。

 

(嫌な夢を見た)

 

 熱のせいだ、と思った。

 否──熱のせい、にするつもりはない。飛行船の中で、クロロに厭味を言われてから自分はどうかしていたのだ。

 確かに、ヤツは確信をついていた。なぜなら、自分でも気付いていなかったこの、秘めた気持ちを気付かさせたのだから。

 

 ──オレは彼女を誰よりも愛している

 

 紛れもないこの事実に──気付かされたのだ。

 



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自我 二

「またクラピカは旅団追うのかな」

 クラピカとアイリスがいる隣の部屋で、お菓子を食べるキルアにゴンが話しかけた。ゴンはソファに座って困ったような顔をしている。

 

「ここにまだあいつらがいるってわかったら追うんじゃないか?」

 

 キルアはポテトチップスを一枚口に放り投げながら言った。

「それに、アイリスのことで余計に報復の念に拍車がかかったかもな」

 

 親指を舐めながらキルアは言う。ゴンは俯いた。

「まあ……そうだよね。一般人であるアイリスまで巻き込まれちゃそりゃ旅団も許せなくなるよね」 

 

 その瞬間、ポテトチップスの袋に伸ばしたキルアの手が止まった。

 

「お前、本当にそれだけが理由だと思ってんの?」

「え? 違うの?」

 

 目をぱちくりとさせるゴンに、キルアは呆れたようにため息をついた。

 

「お前って本当に鈍感だな、まだわかんない?」

「わかんないよ」

 

 全く、と小さく呟きながらキルアは再び大きくため息をついた。

 そして立ち上がるとゴンの座るソファにどかっと腰を下ろした。

 

「好きなんだよ、アイリスが」

「え?」

「言っとくけど、人としてとかじゃなくて女としてだかんな」

 

 キルアは持っていたポテトチップスの袋に手を入れ、出したチップスをゴンの口に無理矢理詰め込んだ。

 

「それって恋ってやつ?」

 モゴモゴとさせながらゴンが言った。

 

「そうそう」

 キルアもポテトチップスを口の中に入れながら頷いた。

 キルアはクラピカとクロロの間に何があったか、おおよそ察しはついていた。

 

(そりゃ正気でいられなくなるよな)

 キルアは塩味になった親指を舐めた。

 

「それにしても、クラピカも人間だったんだなって思うよ」

 キルアは呆れたように笑うと

「どゆこと?」

と、再びゴンが目をぱちくりとさせて言った。

 

「だってさ、あいつ旅団の事しか頭になかったろ?」

 キルアが言うとゴンは

「まあ、確かに」

と、納得したように頷いた。

 

「なんかよっぽどの事があったんだろうな。あいつの闇を解くのは至難の業だと思うぜ?」

「確かにそうだけど……。でもオレはキルアの心の闇を解いたつもりだよ」

 ゴンがにこりとしてキルアに言うと、キルアのポテトチップスを食べていた手が思わず止まった。

 

「そう考えたら、きっとアイリスもクラピカの闇を解く事が出来ると思う。痛みを理解して寄り添ってあげる、アイリスはそんな人だとオレは思うから」

 

 そう言ったゴンの瞳は優しさに溢れていた。

 

 

 ***

 

 

 一方、クラピカはあれからすぐに意識を手放して、苦しそうに眠っている。アイリスは熱くなったクラピカの額の手ぬぐいを水でゆすいで、再び額に乗せた。

 

「アイリス、入るよ」

 そう言って入ってきたのはゴン。隣の部屋からやってきたゴンが私の横に腰を下ろした。

 

「このままクラピカ目を覚まさなければいいのにね」

 私はそうだね―……と頷きそうになったところでハッと我に返った。

「えっと……ゴン、今凄い事言わなかった?」

「だって」

 ゴンは困ったような顔をして言った。

 

「クラピカにはもう旅団と戦って欲しくない……いや、戦っちゃ駄目な気がするんだ」

 ゴンは真剣な表情を浮かべ、アイリスを真っ直ぐに見た。

 その真っ直ぐな瞳に、私は目を逸らす事が出来なかった。

 

 私が旅団に捕らわれている間、クラピカは旅団を追っていたと聞いた。

 詳しくは聞いていないが、クラピカの能力のこと、旅団との接触……色々とあったようだ。

 

「私ももうこれ以上戦って欲しくないと思う。ヨークシンにまだあいつらがいるってわかったら、クラピカはきっと後を追おうとしちゃうよね」

 

 あの鎖が、クラピカの憎悪の産物だと知った。

 復讐に生き、復讐に死ぬ覚悟。

 その覚悟は一見素晴らしく見えるが、それはとても愚かな事なのだ。

 

 復讐は想像もつかないほどの大きな力を生むが、成し遂げた後に残るものは喪失感と、新たに起こる復讐の連鎖。

 

 復讐の過程で得るものは、人格の破滅。

 

 いい意味でも悪い意味でも、もう過去には戻れないのだ。

 

 人質になった私を助けてくれたあの日の、抱きしめてくれた温もりが目を閉じるとまだ残っている。

 

 本当は優しくて温かい青年のはずなのに……

 

 飛行船で再開したあの日、初めて彼の眼が緋く燃えているのを見た。

 

 もう彼には復讐をして欲しくない。

 けれども、止める権利はない。

 

「大丈夫、クラピカの事は支えてみせるから」

 

 止めるとは言わなかった。ただ今後彼にとっての復讐が、人生の最大の目標と言う焦点から外す事ができればいいと思った。

 

 復讐の後に帰る場所を作ってあげたい──それが私の願いだった。

 



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自我 三

 あれから半日が過ぎ、クラピカは誰もいないこの部屋で目を覚ました。

 自分の枕の横にはアイリスが座っていた座布団があった。

 

 額に乗った手ぬぐいは冷たく、まだ乗せられて新しい。

 どうやらさっきまでアイリスが横にいたのだろう。

 起き上がると、少し体が軽い。

 

 恐らく熱は下がった。もちろん、自己判断だ。

 

 このままずっと寝ているわけにもいかず、枕の横に丁寧に畳まれた洋服に手を伸ばしていた。

 

 するとちょうどセンリツが部屋に入って来て

「目が覚めたのね」

と言った。センリツは取り込んできたであろう洗濯物をソファの上に置き、それを畳む。

 

「ああ、心配かけてすまなかった。もう大丈夫だ」

「良かった。アイリスは今食事を作っているわ。クラピカ、食べれるかしら」

 傍にあったペットボトルのお茶を飲みながら

「ああ。ありがとう」

と、クラピカは頷いた。

 

「今後の為にも、できる限りアイリスと一緒に行動すべきだと思うけど」

 洗濯物を畳みながらセンリツは言うが、クラピカは何も言えなかった。

 

 今後の為──確かにその通りではあるのだが。

 

「ふふ、心音は正直ね。戸惑いと、アイリスを想う気持ち──葛藤しているのね。二つが折り重なってまるで不協和音のよう」

 センリツはくすりと笑った。

 

「正直になった方がいいんじゃないかしら」

「見抜かれているのかもしれないが、そういうわけにもいかないのだよ」

 そう、クラピカは強がってみせた。

 

 隣の部屋からは、ゴンが何やら纏と練の真っ最中らしく激しい物音が聞こえてきて、

「二人は修行の真っ最中よ」

と言って笑う。

 

「ちょっと見てくる」

 そう言ってクラピカは隣の部屋に向かい

「熱心だな、ゴン」

とゴンの後ろ姿に声をかけた。

 

「クラピカ、もういいの?」

 声をかけられて、驚いた表情をしてゴンが振り返った。

「ああ、熱は下がった。心配かけたな」

 

 クラピカはソファに腰掛け、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。

 ゴンは心配そうな顔をして

「本当はまだ寝てた方がいいくらいなのに」

と言う。

 

「そうもいかないよ。ボスがオークションを終えて既に帰郷しているからね、私も立場上戻らなければならないんだ」

「てことはヨークシンを出発するの?」

「ああ、明日にもな」

 

 クラピカは一口お茶を飲んだ。

 

「旅団の事は心残りだが、もうここにはいまい。まずは仲間の眼……それが先決だからな」

 

 クラピカはふっと笑って見せた。

「うん、それがいいよ、絶対」

 ゴンも微笑み返した。

 

「アイリスも一緒?」

「いや」

 

 クラピカは一呼吸置いて

「アイリスは連れて行かない」

と言った。

 

 その言葉に、ゴンの表情が曇ったのがわかった。

 センリツは今後の旅団の事も考えて、一緒に行動するべきだと言っていた。

 今後の為──いや、そんなものは自分の為なのだ。

 アイリスは心の闇を明るく照らしてくれる存在だと思った。

 自分が道を誤らぬよう、彼女を傍に置いておきたいほどに。

 

 彼女を欲している自分がいる事に気付く事に、そう時間なんてかからなかったのだ。

 

 けれども、彼女は本当は念能力とも、ハンターとも無縁なただの一人の女性なのである。

 

 自分はここで手を引き、彼女を元の生活に戻してやるのが彼女の為なのではないか──

 

 これ以上彼女を振り回すことは出来ないと思った。

 普通の生活を送るだけなら、旅団はもう追ってはこないだろうから。

 

 旅団の目的はあくまでも自分。

 それを自分のエゴで連れ回しては、彼女を危険に晒すだけだ。

 

「それが彼女の為だ」

 アイリスと自分は、棲む世界が違うのだ。

 そう思って、クラピカはもう一口お茶を飲んだ。

 

「ねえ」

 

「クラピカ、アイリスのこと好き?」

 唐突にそんな事を聞かれて、クラピカは飲んでいたお茶を少し噴きかけた。

 

「……な、なんだ突然」

 手の甲で、濡れた唇を拭いながらゴンに目をやると、神妙な面持ちでこちらを見ていた。

 

「アイリスがね、クラピカのこと……心配してたよ」

「アイリスが?」

 

「アイリスのこと、好きなら……安心させてあげてよ」

 ゴンの目があまりにも真っ直ぐで、胸が少し痛んだ。

 

「アイリスを悲しませるようなことだけは、して欲しくない」

 ゴンの真っ直ぐな瞳に、クラピカは優しく低い声でうなずいた。

 

「ああ、わかってる」

 

「クラピカ、アイリスの事好き?」

 再びゴンはクラピカに同じ質問を投げかけた。

 

 そのゴンの瞳に、今度はクラピカは正直に答えた。

 

「……ああ、好きだよ。誰よりも彼女を愛してる」

 

 そう言ってクラピカは立ち上がった。



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自我 四

 ふんわりと暖かな香りのするキッチンにアイリスが立っていた。

 新しめの白いシャツワンピースが良く似合っている。この殺風景なキッチンには少々不釣合いだと思うほどに。

 恐らくセンリツが調達したものなのだろう。さすが彼女が似合う服をよくわかっている。

 

 そのアイリスの後姿に

「アイリス」

と、声をかけると、アイリスが驚いた顔をして振り向いた。

 

「クラピカ!? 起きて大丈夫なの!?」

「ああ、心配かけたな、もう大丈夫だ。二日以上眠っていたとは不覚だったよ」

 

 そう言ったと同時に目が眩んだ。クラピカがそれに眉をひそめていると、心配そうな目でこちらを見るアイリスと目が合った。

 

「もう。全然大丈夫じゃなさそうなんだけど……」

 

 アイリスは小さな鍋をかき混ぜている手とクラピカを交互に見ながら、手をこちらに伸ばして

「熱は……もうないみたいね」

ひんやりと冷たくなった手をクラピカの額に当てながら言った。

 

「まだ寝てなきゃ」

「そうもいかないよ」

 クラピカはそう言って額に手を当てる彼女の手に触れると、アイリスは驚いた表情をして

「……クラピカの手……あったかい」

と、少し躊躇いがちに言った。

 

「アイリスの手は冷たくて心地いい」

 クラピカがふっと笑ってそう言うと、アイリスは少し照れたような顔をして

「や、やだ。病み上がりだからそう感じるだけよ」

と言って、アイリスはそっと額から手を離した。

 

「今ね。卵粥っていうのを作ってるの、私の国では療養食としてよく食べられているのよ。もう少しでできるから、良かったら食べてみて」

「ああ、ありがとう」

 

 部屋の中に流し台のあるワンルームの構造をした部屋。

 クラピカは、その部屋の窓から街一帯を見渡した。外は既に陽が落ちかけていて、辺りをオレンジ色に照らしていた。

 

 前髪を掻きあげながら、クラピカは鍋をかき混ぜているアイリスの後姿に目をやった。

 

 最後にアイリスをまともに見たのはあの飛行船の中。

 

 引き裂かれた衣服を身にまとい、柔らかな肌を痣だらけにされて──傷つけられて、今にも壊れそうだったのに。

 それが今では自らキッチンに立ち、わざわざ自分の為に療養食を作っている。

 

「アイリス、身体は大丈夫なのか?」

 

 食事を碗によそうアイリスが振り向いた。

 

「うん、大丈夫。心配かけてごめんね」

 

 ニコッと笑って言うアイリスのその言葉に、クラピカは嘘だ、と思った。

 

 本当は、壊れてしまいそうなくらい彼女は弱い事を知っている。

 敢えて強がるその行為は、やはりオレに気を遣っているからなのか。

 

 あの男を殺す選択が出来なかった自分にとても腹が立った。

 

(旅団を殺す目的が一つ増えたようなものだな)

 

 そんな事を思って、ふと、ゴンの顔が脳裏に浮かんだ。

 自分の鎖の能力を明かしたあの日、自分を信じて自分の為に献身に動いてくれた仲間。

 初めて心から信じて、全てを託しても良いと思えたのはこの仲間のおかげだった。

 

 ゴンやキルア、レオリオに復讐よりも大切なものがあると教えられた。

 まずは仲間の眼を、と思えるようになったのも、彼らのおかげなのだ。

 

 それでも、この目の前で自分の為にこうして食事を作ってくれている彼女が、旅団にあのような目に遭った事実は拭えない。

 

 それが何よりもの怒りだった。

 

 旅団に捕らえられたあの時、アイリスは殺されてもおかしくなかった。

 あの集団は気まぐれで人を殺す。

 

 運が良かったのだ。

 

 でも、もし今後他の能力者や何者かに目をつけられたら? 

 

 今回のように運よく事は運ばないだろう。

 やはり、アイリスは普通の生活を送り、この世界から遠ざかるべきなのだと感じた。

 

「何を考えてるの?」

 

 向こうで器をテーブルの上に乗せるアイリスと目が合った。

 心配そうな目つきでじっとこちらを見ている。

 

「いや、何も」

 咄嗟にそう嘘をついた。

 じっとこちらを見ていたアイリスがゆっくりと近づいてきたかと思うと、腰に手を回しぎゅっと抱きしめられた。

 

「お願い。どこにも行かないで」

 柔らかいアイリスの体の感触に戸惑いを覚える。

 

「……アイリス?」

 

 アイリスはぎゅっと頭をクラピカの胸に埋める。

 

「もう、旅団を追わないで」

 

 そう言ったアイリスの声は涙声だった。

 

「こんな事言う資格なんてないってわかってる。私が負った傷なんて、クラピカが受けた傷に比べてどうってことないし」

 

「馬鹿。受けた傷に重いも軽いもないだろ」

 

 顔を上げたアイリスの瞳からは、大粒の涙が溢れていた。

 

「アイリス、君は旅団が憎くないのか?」

「憎い、憎いわよ。でも……」

 アイリスの瞳が僅かに揺れた。

 

「クラピカがこれ以上傷ついて、苦しい思いをする方がよっぽど嫌なの」

 

 あれほどの恐怖と屈辱を味わっても尚、そう言い放つアイリスをとても馬鹿だと思った。馬鹿だと思うと同時に、とても愛しくて、彼女を守りたいと強く感じた。

 

 ──アイリスを悲しませることだけは、して欲しくない

 

 ふとゴンの言葉が脳内に響く。

 心の中で張り詰めていた何かが解き放たれた気がして、ぎゅっとアイリスを抱きしめ返した。

 

「オレは大丈夫だから、何も心配するな」

 

 思わず一人称が崩れた。優しく髪を撫でると、大粒の涙をぱらぱらと零しながらこちらを見る彼女が、何故かとても魅力的だった。

 

 そんな彼女にオレは支えられているのだと思うと、心を覆っていた黒い影が和らいでいくのを感じた。

 

 それと同時に、ずっと避けていた決断を──ここで下す事を決意した。

 

「アイリス。私は明日、ここを発つ。だから──」

 

一呼吸置いて、

「アイリスはもう、家に帰ったほうがいい」

と言うと、抱きしめるアイリスの腕の力が少し弱くなった。

 

「もしかして……例の護衛の……仕事が?」

「ああ」

 

 アイリスが自分を救おうとしてくれたように、自分も彼女を救いたいと思った。

 そのためには、まずは自分から彼女を離れさせるほかないと思った。

 

「アイリス、君には君の生活があるはずだ。この業界はこの通り非常に危険で、君のいる場所じゃない」

 

 生きるか死ぬかの瀬戸際を生きるのは、自分たちのような人間だけでいい。

 

「だからもう……二度と関わるな」

 アイリスの腕の力がするりと抜けるのがわかった。

 しばらく沈黙があく。

 

「……そう、ね。クラピカの言う通りね。元々オークションが終わるまでの約束だったし、私は……普通の人に戻るわ。またあんな思いごめんだもの」

 そう言って腕を放し、目を逸らしてアイリスは小さな声で呟いて、クラピカから一歩、二歩──と、後ずさりをして離れた。

 

「今日で最後……なのかな。これが」

 

 目線をこちらに戻したアイリスがふっと笑った。

 

 そんな顔をするな、と思った。

 

 ふっと笑ったアイリスの笑顔が少し悲しげな事を、見て見ぬふりをするつもりだった。

 

 本当は連れて行きたいのは誰よりも

 

 自分だと言うのに──

 

 胸の奥が痛んでたまらなくて、気付けばアイリスの腕を掴み、彼女の身体を胸に引き寄せていた。

 アイリスの頬を右手で触れて上に向かせると、瞳にためていた涙が流れ落ちてクラピカの指を濡らす。

 

 その目がたまらなく愛おしくて、護りたくて──胸の奥底を刺激するのだ。

 

 クラピカはその涙を指で拭って──アイリスのその涙の跡にそっと口付けをした。

 

 本当に、そっと。優しく。

 

 顔を離すと、涙を溜めた瞳を驚かせながら、アイリスがこちらを見ている。

 

「もう泣かないでくれ。オレの覚悟が揺らいでしまうから」

 

 クラピカは眉をひそめ、きつく瞳を閉じた。

 過去、同じ仲間を失った時のように、彼女を失う事は絶対にしたくない。

 

 もうそんな思いをするのは──絶対に嫌だ。



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再会を約束して

 翌日、アイリスはレオリオと共にクラピカとセンリツを見送るために空港にきていた。ゴンとキルアの二人は部屋で修行をしている。修行の邪魔をしたくないというクラピカの意向で、見送りに来るのは私とレオリオだけ。

 

 クラピカとセンリツは出発ロビーでチェックインをしている。

 遠くでチェックインをするクラピカの後姿を、私はぼーっと見つめていた。本当に最後だという事がまだ実感できないでいる。

 

(もう二度と会えないのか……)

 

 ふとそんな風に思ったら、少し涙目になった。

 

「大丈夫だよ、心配するな。また会えるって」

 レオリオがポンとアイリスの肩を叩いた。

 

 私が考えていた事は、どうやらレオリオに見抜かれていたようだ。

 私はうん、と頷いてみたけれど──昨日されたキスが、まるで最後を物語るかのように切なかった。

 

 未だに残る、抱きしめられた時のクラピカの温もり。

 頬に残るクラピカの手や唇の感触──思い出すたび、ズキンと胸が痛む。

 

 チェックインを終えたクラピカとセンリツがこちらに戻ってきてクラピカが

「アイリス、レオリオ、それではそろそろ行くよ」

といった。

 

 クラピカは大きな荷物を持っている。その姿を私は黙って見つめて、昨日見せた切なげな顔のクラピカを思い出して、昨日見せてくれたあの表情とは別人なんじゃないかという程に──まるでそんな事はなかったかのような、普通の顔をしている。

 

「レオリオ、二人にまた会おうと伝えてくれ」

「おうよ」

 いつもの普通の声で言うクラピカに、レオリオは軽快に答えた。

 

 そしてクラピカはゆっくりとアイリスに向き直って

「アイリス、これを」

 クラピカは一通の封筒を差し出した。

「後で見てくれ」

 

 そう言うと、クラピカはじゃあまた、とあっさりと後ろを向いて歩き出した。あまりにもあっさりとしていて、ズキンと再び胸が痛くなった。

 

 昨日の事は夢だったんじゃないか──なんて思うほどに。

 

 手渡された綺麗な白い封筒。それをしばらく呆然と見ていたら、気づいた時には既にクラピカの姿は小さくなっていて

「クラピカ!」

思わずそう大声を出した。

 

「また会えるよね!?」

 大きな声で問いかけると、振り返ったクラピカが少し笑って、小さくうなずくのが見えた。

 

 

***

 

 

 飛行船の中で、センリツがクラピカに問いかけた。

 

「本当に良かったの?」

 

「何が──と返したいところだが見抜かれているのだろうな」

 

 クラピカが言うとセンリツがクスッと笑った。

 窓を見ながらクラピカが言う。

 下を見れば、既にヨークシンの街は小さくなっていた。

 

「あなたらしいわね。少しアイリスが可哀相」

 

 心音で何でも見破られている。クラピカはあえて何も言わなかった。

 鞄の中から本を取り出す。しおりを挟んでいたところを開いた。

 

「あの封筒は何だったの?」

「それは心音ではわからないのか」

「さすがにそこまではわからないわ」

 

 センリツの言葉に、クラピカはふっと笑った。

 再び窓に目をやると、ヨークシンの街を覆う雲だけが視界に映った。

 

 

***

 

 

 ゴンとキルアが待つ部屋に戻る車の中で、アイリスは封筒を丁寧に開けた。

 その中には縁に美しい刺繍が施されたしおりが入っていた。

 鮮やかな紫色の小さな花が中心に押し花になっていて、中心に四葉のクローバーが押してある。しおりの縁に丸い穴があいていて、水色のサテンリボンが控えめに結んであった。

 

「お? ハーデンベルギアじゃねーか、綺麗だな。クラピカから貰ったのか?」

 運転しながらレオリオが助手席に座るアイリスを横目で見た。

 

「でもこれだけしかないの」

「え? 他に何も入ってなかったのか?」

「うん」

 封筒をひっくり返しても、何も出てこない。

 手紙やメモらしきものは見当たらなかった。

 

 信号待ちをしながら、レオリオが手を伸ばししおりに触れた。

「しかし綺麗なしおりだな。わざわざどこかで買ってきたんだろうな」

 

 レオリオはそこまで言って、ニヤリと笑みを浮かべた。

 

「わかったぞ」

 信号が青に変わる。レオリオがアクセルを踏んで、車は再び動き出した。

 

「え、何?」

「花言葉だよ」

「花言葉?」

 きょとんとしている私に、レオリオは得意げに話し出した。

 

「わざわざ押し花されたしおりを贈るなんて、普通じゃなかなかないだろ」

「随分詳しいね、どうして?」

 

「オレのダチが昔病気でな──ってもう亡くなったんだけど、そいつによく花言葉の意味を考えながら花や小物を贈ってたんだ。それもあって、多少花言葉には詳しい」

「へえ」

 顔に似合わない、と私は思った。

 でも、こうして色々世話を焼いてくれるのだから心は熱い人なのだろう。

 

「ハーデンベルギアの花言葉は『再会』だ。つまり、また会おうぜって事なんだろうな」

「ふーん……そっかぁ……」

 

 意外と普通の花言葉だな、と思った。もっと何か意味を持たせてくれてればいいのに──そんな事を思ったりもしたけど、多分それがクラピカという男なのだろう。

 

「まあいいんだ。あんなに心を閉ざしてたクラピカが、心を開いてくれて、また会おうって思ってくれて凄く嬉しいよ」

 私はしおりを封筒に丁寧にしまって、バッグの中に入れた。

 

 レオリオはそんなアイリスの姿を横目に、『再会』それはハーデンベルギアだけの花言葉だけどな──レオリオは車の運転をしながらそんな事を思った。

 

──四葉のクローバーの花言葉は『私のものになって』

 

「ったくキザなヤローだぜ」

 

 レオリオは呟いた。

 

 そんな呟きが聞こえて、アイリスはちらりとレオリオを見た。レオリオもこちらを見て何か言いたげな顔をしていたが、

「レオリオ?」

と、私がレオリオに問いかけると、レオリオはなんだか気まずそうな顔をして鼻を指で擦った。

 

「そのしおりが全てだよ。クラピカの」

とだけ言ったのだった。

 

 

 ***

 

 

 飛行船のエンジンの音がわずかに聞こえる。

 

 ブロンドの横髪をすこし耳にかけながら、クラピカは開いていた本のページにしおりを挟んだ。

 それは、アイリスに贈ったものと同じ、紫色のハーデンベルギアの花を散りばめ、中心に四葉のクローバーが押し花になった鮮やかなしおり。

 

 

 ──君と出会えた事に感謝する

   再会したら、今度こそ君を私のものにしたい

 

 

 別に彼女に何かを気付いてもらおうとは思っていない。これはただのオレの自己満足なのだ。

 

 言葉にしてしまったら──彼女と離れる覚悟を決めた、オレの気持ちが揺らいでしまいそうだから。

 

 彼女を抱いた温もり、唇を寄せた時の柔らかな肌。

 瞳に涙を溜めてこちら向く彼女に胸の奥底から湧き上がるような熱い気持ち。

 今でもまだこの身体に残っている。消えることはないだろう。

 

 次こそは絶対に──

 

 窓を見れば、すっかり外は夜になっている。

 

 クラピカはゆっくりと本を閉じて、瞳を閉じた。

 

 




クラピカ、船編の続きを書こうか悩んでいます。


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