救いなき虚しい毒の花 (全智一皆)
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序章「名誉なき毒花」

 

■  ■

 ふぅー…と、深く、されど静かに、溜め込んだ息を吐き出す。

 

 体を強張らせていたものを、二酸化炭素と一緒に吐き出して、全身から力を抜いて遠慮無く脱力する。

 

 緊張がほぐれた様な気がするが、それはきっと気のせいだ。だって未だ、心臓の音は煩いのだから。

 

 こんな事、可笑しいのかもしれない。知られれば、馬鹿にされて、笑われるのかもしれない。

 

 でも、これは正しい事の筈だ。これこそが、本来の姿で、今やろうとしている姿が間違っている姿だ。

 

 普通なんかじゃ、ない。明らかに異常な事だ。

 

「…でも、やらないと。」

 

 やらなければならない事だから。為さなければならない事をやらねば、目を背けたい現実に目を向けなければ。

 

 すぅ…と、息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

 右手に握っていた黒鉄を、力強く握り締めて、左手を添えて構え直す。

 

 全身に力を込め、重たい腰を上げて、顔を上げる。

 左足と右足を入れ替え、体の向きを右方向へと転換させて―――少年は、勇気を振り絞って壊れ欠けた穴だらけの壁から我が身を躍らせた。

 

 少年の登場に、体を固まらせた大人達へと、少年は静かに、されど素早く黒鉄を向け、その引き金に指を掛けた。

 

 バンッ、バンバンバンッッッ!!!―――と、乾いた轟音が四度も鳴り響き、舞台の廃ビル、その壁に反響する。

 

 パァン―――と、綺麗な赤色の液体が、大人の頭から、腹から、喉から溢れ落ち、ばたりと、意識を無くしたように大人達はその場から崩れ落ちる。

 

「てめぇ!」

 

 一人の大人が叫んで、懐から少年と同じ黒鉄の塊を取り出し、紅蓮を放った。

 

 眼光を鋭く、そして集中を一点に向ける。

 

 その直後、視界が変化した。緩やかだった世界が、突如として緩やかを失い、ゆっくりとした世界へと変わり果てた。

 

 自分の首を、少しずらすように動かす。

 

 世界が戻った。

 

 ひゅん、と、熱を纏った細い鉄屑が、顔面の真横を風に乗った燕の如く、通り過ぎて行く。

 

 一時の静寂が訪れた。だが、少年は静寂を黒鉄で撃ち破り、恐怖を拭い捨て脱兎の如く大人達へと突っ切った。

 

「く、来るなぁ!」

 

 悲痛な叫びと、轟音が鳴った。少年の耳には、届かぬ雑音だ。

 

 身を小さく翻し、鉄屑を躱して、更に加速する。脱兎から、獲物を喰らうが為に全力を尽くす狼へと変貌して、走り出す。

 

 どんどんと距離が縮む。どんどんと寿命が縮む。

 

 そして、眼前。大人の額に向けられた黒鉄から

 

「死ね」

 

 その一言と共に、鉄屑が放たれた。

 

 パァン―――と、何かが弾け跳んだ。

 

 赤色が、虹のように架かった。

 

「…終わっ、た…」

 

 狼と化した少年は、戦闘の終了と共に再び人間へと戻り、全身から込めていた力を解き放ち、緊張という支配から抜け出した。

 

 体の熱は、まだ残ったままで冷え切らない。心臓の鼓動は、未だ喧しいままで落ち着かない。

 

 呼吸は、少し荒い。つい先程まで、緊張し切っていた証拠だ。

 

 だが、警戒を解く事は出来ない。もう居ないとは思うが、もしかすれば生き残りが居るかもしれないという可能性があるのだから。

 

 もう隠す必要も無し。少年は黒鉄の塊を――黒い拳銃を構え、周囲を警戒しながら進む。

 

 先に何かが有るという訳でもないが、敵が隠れているという可能性は捨てきれない。だから、先に進まねばならないのだ。

 

 一歩、一歩が重たく感じる。まるで、両足に足枷を付けられたようにも思えた。

 

 こつ、こつ、と自分の足音が静かに響く。そして、その足音が自分を更に緊張させる。全く厄介なものだ、と少年は心の中で愚痴った。

 

 次の瞬間、

 

 ぱんっ。

 そんな音を最後に、少年の頭部に激しい衝撃が迸り、そして赤い液体をばら撒いた。

 

「え―――」

 驚愕に染まった表情を、絶望に変える少女の顔が見えた。



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第一話「復讐無き毒花」

 

■  ■

 ピー、ピー、ピー…同じ音色が、崩れる事なく同じテンポで鳴っている。

 そんな騒がしい音によって意識を取り戻した少年は、暗闇を灯す重たい瞼を何とか抉じ開けてその瞳に光を差し込ませる。

 光といっても眩いものなどはなく、常に人間がその目に供給されている認識しえない光だが。

 その目に映るのは白い天井。少年が見慣れた事のない白い天井である。

「―――、―――。」

 “何処だ、此処は。”

 そう言おうとしたが、口から言葉は出てこなかった。

「――、――――――――――――――?」

 “あれ、なんで言葉が出てこないんだ?”

 どれだけ言葉を発そうとしても、しかし口がぱくぱくと開くだけで言葉は出てこない。

 喉が壊れた? 否、少年が憶えている限り喉に攻撃は食らっていなかった筈だ。

 舌が切れた? 否、少年が憶えている限り舌を切られた事なんてなかった筈だ。

 では、何だ? 何が原因だ?

 それを考えた瞬間、少年は直ぐに答えへと至り、そして理解した。

「――、――――――――――――――――。――、―――――――――――――。」

 “あぁ、あの時に脳にダメージを負ったのか。なら、もう喋る事は出来そうにないな。”

 損傷して間もない脳を意識で引っ叩き、何とか記憶を探り、そして見つけ出した少年は、焦る事も慌てる事もしなかった。

 その真逆で、実に冷静に思考し、そして直ぐに諦めた。脳が負傷したなら、もうどうにもならないと。

 寧ろ、こうして生きているだけで十分に奇跡だと言える。それで納得しようと、少年は落ち着いたのだ。

 もしも少年の答えを知った者が居るならば、本当に子供か? と疑う事だろう。

 だが、彼は子供だ。ただ、戦場を経験しているというだけの―――子供だ。

 そうやって納得していると、がら…と扉が開かれた。

 誰だろう。病院の人か?

 そう思い、首を扉の方に動かそうとするが―――

「……――――(マジかよ)。」

 首は、動かなかった。

「あ…お、起きてる! 先生、あの子、起きてる!」

「なっ、本当か!?」

 首は動かなかった。故に入ってきたのが誰なのかは分からなかったが、その声を聞いて主が少女である事は分かった。

 また、少女の声の後に男性の低い声が聞こえた。

 “親子で病院を経営しているのか…随分と仲が良いんだな。”

 そんな的外れな事を思いながら、少年は体すら動かない事を憂いた。

 喋れない、体は動かせない。これでは死んだも同然だ。というか死んだ方が楽だったのではないかとすら思える。

 “これじゃあ仕事は出来そうにないな…あーあ、どうしよう。確実に上に殺されちまうよ。”

 つい先程までは生きていた事を奇跡だと納得していた少年だが、自分は直ぐに殺されてしまうという事を思い出した。思い出してしまった。

 少年は孤児だった。いや、正確には捨て子という言い方が正しいか。所謂、ストリートチルドレンというやつだった。

 そんな時、ある組織に拾われて国の為に働かされていた。

 使い物にならなくなった捨て去る。そんな方針の組織だ。これでは、こんな体となっては、自分も殺される。

「あのー…だ、大丈夫?」

 最悪だなー、と憂いていると、先程聞いた少女の声がした。

 返事をしてやりたいが、残念ながら返事は出来ない。喋る事が出来ないから。何なら動く事も出来ないのだ。

 どうしたものか…と悩んでいると、少女が覗き込むように顔を近付けてきた。

「お、起きてる…よね?」

「――、―――――。―――――――。」

「わっ、びっくりしたぁ!」

 口を開いて、自分は起きてますよー。という意思表示をしてみせたが、どうやらそれが少女を驚かせてしまったようだ。

 だが、これで少女に自分が起きている事を知らせる事は出来た。良かった良かった。

「えっと…もしかして、喋れない?」

「――、――――――。―――――――、――――――――。」

 少年が口をぱくぱくと動かして、伝わっているのか伝わっていないのか本人自身分からないながらも伝えようと頑張ってみると、

「ウッ…」

 少女は梅干しを食べたような顔をして、胸を抑えて床に座り込んだ。

「――、――――!?」

 普段ならば、体を起こして「大丈夫か!?」 と言って駆け寄るのだが、しかし残念ながら少年は体を動かせない。普段から遠くかけ離れてしまっている状態だ。

 ちなみに、少女は心臓が痛んだという訳ではない。罪悪感と申し訳なさから、苦しんでいるだけである。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

「――、――――――――――――――! ――、―――――――――!?」

 泣きそうな顔で少女に謝罪され、言葉を出せない口をぱくぱくと動かす少年。

 だいぶシュールな絵面である。

 

 少女が先生と呼ぶ人が来るまで、これは続いた。

 

□  □

「結論から言って、意識を取り戻したのは奇跡だよ。植物状態になっていても可怪しくなかったのに。」

 担当の医師は、少年が意識を取り戻した事が未だ信じられないのだろう。

 ベッドに横たわっている少年に、医師は信じられないという感情が籠もった目線を向けている。

「でもまぁ…正直、医師としてこういう事は言いたくないんだけど、この後遺症なら死んだ方がマシだったかもね。」

「え―――」

「――、――――。」

 医師から告げられ、そして突き付けられた現実に、少女は目を見開き、少年は酷く冷静だった。

 やはり、言葉は出てこないが。

「千束の射撃の腕が良かったのは、ある意味で幸いかな。見事に末梢神経を纏めてじゃなくて、見事に中枢神経系辺りにダメージが入ってる。生きてられるのはこれが理由だよ。」

 中枢神経系。全身にある末梢神経から伝達された情報をまとめて判断し、指令を出す重要な神経だ。

 脳と脊髄の繋がりと言えば分かりやすいだろう。

 更に分かりやすく言えば、人間が体を動かす為に必要不可欠なものである。

「末梢神経が傷付いてないから、自律神経は稼働してる。でも中枢神経はダメージ負ってる。」

「じゃあ…もう、この子は動けないってこと…?」

「そうじゃない。」

「へ?」

「―?」

「そうじゃないのが厄介なんだよ。」

 深いため息を吐きながら、医師は少年の脳の状態を伝え始めた。

「ダメージを負ってるって言ったけど、破壊されてる訳じゃない。というか、その真逆だ。この子が動く事も喋る事も出来ない原因もそこ。」

「……」

「中枢神経系にダメージが入ってるけど、壊れるどころか逆に活動が劇的になってる。つまり、今のこの子は肉体が劇的に活動してる脳に追い付いてないし、何なら脳自体もそれに追い付いてない。だから喋れないし動けない訳。時間が経って、そしてリハビリも続ければ動けるようになるし喋れるようにもなる。」

「え? で、でも、死んだ方がマシな後遺症も残るんでしょ?」

「あぁ、そうだ。中枢神経系の活動が劇的になってるって言ったがな、それが一定時間じゃなくて常時だぞ? 分かりやすく言えば、休まず自転車漕いでるみたいなもん。人間の脳が、そんな活動に耐えられるか?」

「…まさか」

 少女が先生と呼ぶ男が呟く。恐らく、少年の未来を察したのだろう。

「そう。最終的に、脳はそれに耐えられず焼き切れる。すぐにそうなる訳じゃないが、大人になる前に死ぬだろうな。そして、脳の劇的な活動に意識もまた追い付けない。だから、この子は一日の活動時間も制限される。最悪、一日に動く事が出来るが時間が数時間以内とか数十分以内とかになる。」

 

 少年は、少女の方を見た。そして、驚いた。

 まるで、世界が破滅する瞬間を見たような、そんな絶望した表情をしている少女に、少年は驚いた。

 他人の死に、そこまで感情を出す事が出来るのか…と。



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第二話「療養の鳥兜」

 

■  ■

 啼鳥兜が錦木千束という少女の誤射のよって入院する事になってから、もう一週間が経った。

 元から所属していた組織が組織であった為に、彼が動ける様になるまでの時間はそう長くはならなかった。

 寧ろ、彼が自らの意思で動く事が出来なかった期間は、あまりにも短いものだったと言えるだろう。

 未だ完璧に動く事が出来る様になった訳ではなく、何処となくぎこちなくはある。だが、一人で動ける様にはなっていた。

 これもまた、錦木千束という少女の手厚いサポートあってこそのものである。決して、彼が一人で動ける様になった訳ではない。

「病院食って、不味いよな。」

「え、食べてる時にそれ言っちゃう?」

 病室のベッドの上で、病院食のご飯を嫌な顔をしながら頬張り、飲み込んだ兜は、病院食は不味いと言い切った。

「実際に不味いからな。あれだよ、えー…錠剤噛み砕いてる感じ。」

「した事ないから分からないけど…え、そんな不味いの?」

「不味い。俺の舌が異常なだけかもしれんが、マジで不味い。ゴミみたい。」

「酷い言い様だなー!? 病院の人も、兜の事を想って作ってくれてるんだよー?」

「それは知ってる。けどな、千束。人間には抑えられない感情ってのがあり、それは自然と言葉に出てしまうものなんだよ。」

「それ、心の底から不味いって思ってるって事じゃん…」

「思ってるよ、実際に。もう食べたくないとも思ってる。」

 とは言いつつも、皿の上に有った物を全て食べ終えはした。

 箸の動きを止め、立て掛けられたテーブルの上に置いてあるトレイに乗せ、重たい溜息を吐きながらベッドへと倒れ伏す。

 自由があまり利かない体、小さな事を考え始めたら細かい所まで至ってしまう思考の加速。

 少しずつ良くなっている筈なのに、同時に少しずつ削られているというのは、何とも滑稽な話しだ…と、兜は己を嘲笑った。

 それは口に出す事など出来ない心の声。もしも、それを口に出してしまったならば、目の前の彼女を強く悲しませてしまうだろう。

 命大事に。それを信条とする彼女にとって、啼鳥兜は何年も掛けて、苦しみながら自分の所為で死んでしまう相手だ。

 自虐の言葉など、地雷も良い所である。

「はぁ…退院したら、どうするかな。組織には戻れそうにないしな…」

「殺し屋の組織だもんねー…」

「任務の失敗とは、即ち死だからな。とは言え、国籍無いしなー、俺は。本当に、どうしたものか…俺に出来る事なんて、命を奪うだけのもんなんだがな。」

 右側に有る、花瓶が立てられた小棚に置かれた黒鉄の塊を手に取り、それを握り締めて、改めて自分の存在を直視する。

 組織で育てられた時から使い続けていた愛銃―――つまり、何十人もの人間の命を奪い続けてきた凶器。

 誰かの命を助けず、ただ冷酷に奪ってきただけの代物。相手を殺す為の道具としか使って来なかった代物。

 火花を散らし、紅蓮の鉄塊を撃ち続けた大切な拳銃を扱い続けたのは、自分自身。

 引き金に指を掛けたのは自分。

 弾倉に銃弾を込めたのは自分。

 全ては、自分が始めた事だ。それ以外には、何もしてこなかったのだ。

「そんな人間が、支えを失ったらどうなるか…なんて、考えるまでも無いか。」

 行き場を失った獣は、野垂れ死ぬか殺されるかの二択のみしか残されない。

 依頼という名の餌が与えられなくなった今、彼の味方となる者も場所も、存在しないのだ。

 銃一つを持って生きてきた人間が、銃を使わない場所で生きる事は―――出来ない。

「なら、ウチに来れば良いじゃん!」

「は?」

 丁度良かった、と言わんばかりに目を輝かせながら、千束はぐんっと顔を寄せて来た。

 ウチに来れば良い? 何処かの組織にでも属しているのだろうか? そう、兜は考えた。

 だが、その答えは兜の考えよりも斜め上を行くものだった。

「ウチ、喫茶店をやってるんだ! と言っても、本当につい最近、始めたばっかなんだけど…でも、だから人手が足りなくてさ。行く宛が無いなら、ウチに来なよ!」

 喫茶店。殺しとは、無縁の場所。接客をし、料理を運び、饗す場所。

 誰かを殺す事もなく、誰かを傷付ける事もなく―――普通の人間の様に、殺生とは無縁な一般人の様に、暮らす事が出来る場所。

 追い求めていたのか、そんな暮らしを。

 無意識の望んでいたのか、そんな生活を。

 そうでなければ、そうでないならば。

「喫茶店か……良いな、それ。」

 こんなにまで、心が躍る訳がないのだから。

 

□  □

 深夜。凍てつく様な冷たい夜風が窓から入り込む病室の中、本来ならば眠っている筈の啼鳥兜は、ベッドの上に寝転んではいなかった。

 患者の服をベッドの上に脱ぎ捨て、クローゼットの中に入れられた私服を身に纏い、愛銃を手に取って動作の確認をしていた。

「……」

 弾倉を取り出し、その中身である銃弾が入っているかを確認する。

 あの時の戦闘で、直前にリロードはした。それからは一発も撃っていない。なら、弾丸はフル。何の問題も無い。

 銃身も無事、グリップの部分も傷が入っている訳ではない。フロントサイトも欠けていない。つまり、万全の状態だ。

 体は十二分とまではいかないが、動かせない事は無い。大きな動きは出来ないが、走る事は出来る。

 思考は澄んでいる。余計なものは、何一つ抱えていない。

 そんな時―――

「……やはり、生きていたか。」

 突如、背後から声が聞こえた。

「…!」

 兜は即座に背後へと体を回し、手に持った銃を其処に居るであろう誰かへと向け、引き金へと指を掛ける。

 だが、振り返ったその時には既に誰も居ない。気配や足跡すら、全く残ってすらいない。

 中枢神経系の活動が劇的になり、反射神経や判断力が常人の30倍にまで引き上がっている兜ですら、気付けない隠密性。

 声を掛けられるその時まで、全く気付く事が出来なかったなど、それはもはや存在していないも同義だ――!

 それ程までの隠密性を持った人間を、兜は既に知っている。

 『組織』とやらに所属していた時から、嫌と言う程に知っている……!

「……疎かだな。死にかけて、強くなったと聞いたが…間違いだったか」

 スゥ―――と。口元を手で強く抑えられ、首元に瞬時に添えられた冷たい刃の感触が、冷静でいた筈の兜の感情を、大きく揺るがした。

 組織に所属していたという訳ではないが、しかし嫌という程、何度も殺されかけた。

 訓練として戦った。その度に殺されかけた。いったい、何度、指の骨を折られたことか。腕の骨を、足の骨を折られたことか。切られたことか。

 裏の世界において、彼程、名の知れ渡る殺し屋は居ないだろう。

 何せ、かつて千人で構成された殺し屋達をたった一人で相手取り、そして全員を殺した男なのだから。

「……!」

「……慌てるな、見苦しい。安心しろ。別に、お前を殺しに来た訳じゃない。」

 首元に添えられた湾曲の刃物―――「カランビットナイフ」を外し、口元を強く抑えていた右手も外して、男は兜の身を自由にする。

 はぁ、はぁ、と、兜は荒い息を吐いた。

「殺す気が無いのに、ソレを首元に添えたのか、アンタは……!?」

「……お前が銃口を向けようとするからだ、間抜け。」

「『いつ如何なる時も油断するな』―――アンタの教えだろ。」

「…そうだな。よく憶えていたな…忘れられているものかと思っていたが。」

「誰が忘れるかよ…アンタの訓練内容から発言まで、全部憶えてるよ。」

「そうか。それは良い事だ。」

 兜は銃口を降ろし、小棚へと銃を置き直して殺し屋の方へと体を向ける。

 そして、懐かしい全貌を改めて直視する。

 一本の房に束ねた黒髪と、何も映していない死んだ黒い瞳。

 灰色のナイロンパーカーに黒色のカーゴパンツと分厚いタクティカルブーツを履き、左手には愛用のカランビットナイフを握った細身の男。

 千人で構成された殺し屋達を一人で殺害して見せた男――――――『リコリス』・『リリベル』が最も警戒し、恐れる最重要警戒対象。

 名を漿果。如何なる仕事も、誰とも出会わず、誰とも話さず、誰にも見られずに熟す孤独の殺し屋である。

「で…アンタ、マジで何しに来たんだよ」

 だが、そんな殺し屋にも物怖じせず、警戒しながら兜は問い掛けた。

 殺しに来た訳ではないと言ったが、そうならば殺し屋である彼が此処に来た理由が分からないのだ。

 殺し屋が私情で教え子の様子を見に来たとも考えられるだろうが、彼の事を知っている兜としては、そんな考えはゼロだ。絶対に無い。

「……視察だ。殺し屋でありながら殺しを嫌う少女に誤射され、常人以上の力を手に入れたと、林檎から聞かされたからな。」

「林檎さん…となると、葡萄さんからか。何処から手に入れたんだよ、マジで。」

「葡萄の情報屋としての腕は一流だからな。…それはそれとして、お前、死が確定したらしいな。」

 左手に持ったカランビットナイフを仕舞い、懐から煙草の箱を取り出し、一本を口に咥えてズボンのポケットから取り出したライターで火を付ける。

 空いた窓の近くにあった椅子へと腰を下ろし、煙草を吸いながら、冷たい目を兜へと向ける。

「…あぁ。数年か、それとも数十年か。そのくらいには、脳は焼き切れて死ぬ。と言っても、一日の活動時間も制限されて、最悪の場合は一日に起きていられる時間が数分程度になるらしいから、死ぬ時に意識は無いだろうけど。」

「……そうか。」

 煙草を人差し指と中指の間で挟み取り、溜息と共に煙を吐き出して、漿果はこう零した。

「良かったな。殺されずに死ねる。」

 裏の世界に生きていて、誰かに殺される事もなく死ぬ事が出来るのは稀だ。

 大抵の殺し屋は、その仕事の都合上は必ず恨みを買う。

 その所為で、殺し屋を引退したとしても、その殺し屋に殺されるか他の殺し屋によって殺されるかの二択しかない。

 そんな中で、家庭を作り幸せに生きる事が出来る者も居た。漿果の同僚に、そんな男が居た。

 故に、漿果は良かったな、と言った。

 誰かに殺されずに、少しの間ではあるが普通の人間として生きていられると。

 その果てに、死ねると。

「…そうだな。確かに、良い事だ。」

 心躍る仕事に就いて、それから少し生きて、死ぬ事が出来るなんて幸福だ。

 兜も、そう零した。



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