K2×ウマ娘短編集 (ウマの骨)
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明日をかける

・ウマ娘アニメ2期後。K2は278~300話の間。
・和久井譲介視点。


”トウカイテイオー奇跡の復活!”

 

N県T村。診療所隣接の居間にはテレビの音声が鳴り響いていた。

 

「おや、有馬記念の再放送ですかな」

 

と執事の村井さんが微笑む。

 

「すごい話題でしたからね」

 

看護師の麻上さんも話題に乗った。ウマ娘レースは一大娯楽だ。

特に年で一番大きい有馬記念は村でもほぼ全員が見ているだろう。

村には何人か引退した競技ウマ娘の方が在住していて、僕も必要な時に往診している。

 

「ウマ娘が複数回の骨折から復帰し、大レースを勝つのは事情に珍しい。大変なリハビリを超えたことだろう…」

 

珍しくK先生もテレビの方を見た。白衣に包まれた精悍な顔が真剣な眼差しを送る。

先生は別分野でも一流の人には敬意を払う。ましてや治療とそのリハビリを膨大な回数見送ってきた側だ。見方も変わるのだろう。

 

「…」

 

僕は黙ってお手伝いのイシさんに作ってもらったタンドリーチキンを口に運ぶ。

復帰は素晴らしいことだが、年末から先このレースの映像が飽きるほどテレビで流れていた。

もうあまりコメントすることもないのだ。

テレビの内容は彼女の所属するチーム、チームスピカの紹介に移っていた。

重賞レースを勝利したメンバーを複数人含む華々しいメンバー。僕とは似てもつかない表舞台で光を浴びるウマ娘たちだ。

 

「あら、譲介くんもトウカイテイオーのファンだったかしら」

 

僕がテレビから目を離さなかったのを見たのだろう。麻上さんに声をかけられた。

 

「いえ、ファンというわけでは。少し興味があるだけです」

 

誤魔化す。テレビの向こうのアスリートが嫌いだと言って食卓の空気を壊す気は無い。

 

僕は和久井譲介。屈指の技術を持つ医師ドクターK、神代一人先生の元、この村の診療所で医者の修行をしている。

孤児院出身で、闇医者に拾われたおかげでこうしているが、表舞台で輝く人間にはどうしても苦手意識を持ってしまう。

考え込んでいるとベルの音が鳴った。

 

「あら」

「電話ですね、僕が取ります」

 

ちょうど電話が来たのを口実に麻上さんを抑え、席を立つ。

 

「はい、T村診療所です。はい、はい…?分かりました。先生に代わります」

 

僕が振り向くとちょうどK先生が立ちあがる所だった。用件を伝えて受話器を渡す。

 

「どうしたの?」

 

麻上さんに聞かれて、僕は少し言い淀む。

 

「それが、以前手術をした病院からの患者紹介なんですが…」

 

”トウカイテイオーさんの、メジロマックイーンのために走った、というメッセージに、全国から励ましの手紙が届いています!”

 

横から聞こえた声に、画面に目をやる。

丁度、今も怪我と戦っている、というトウカイテイオーのチームメイトが写っていた。

芦毛、凛とした顔立ち。最新の画像には膝に装具をつけ、足を引きずる様子。彼女の前に並べられた手紙の山。

 

「ウマ娘のメジロマックイーン。彼女の治療をK先生に相談したいと…」

「えーっ!」

 

麻上さんの声が診療所に響き渡った。

 

 

 

電話の数時間後、高価そうな車が診療所の前に止まっていた。

 

「メジロ家執事です」

「メジロ家主治医です」

 

名前も名乗らず、その役職で説明が済んだというように二人の男がK先生の前に座っていた。

一般的な執事というイメージがそのまま出てきたような正装白髪の老執事さんと、白衣を着た中年男の主治医さん。

落ち着いてはいるが、K先生を見る目には熱を感じた。僕はこの類の目線を何度も見たことがある。近しい人の病気を治すため、藁にもすがろうとしている人の目だ。

ただ、比べると執事さんの方は少し目に迷いを感じた。なにか事情でもあるのだろうか。

 

「こちらが、お嬢様の検査結果です」

 

主治医さんがカバンを開き、机にカルテと透けた骨の画像が出される。患者の脚部MRI図だ。K先生の後ろから僕も覗き込む。

 

「左脚繋靭帯炎…。かなり重度のようだ」

「その通りです」

 

靭帯部には黒い影が確認できる。カルテに書かれた症状と合わせても繋靭帯炎の可能性が非常に高いだろう。

 

ウマ娘の繋靭帯炎は膝近くの靭帯が骨と摩擦を起こすことで炎症を発する病気だ。軽度であれば日常生活に問題はないが、長距離の走行で強い痛みを発する。

悪化し、重度となれば関節や骨にも影響を及ぼし、歩くこと自体に支障がである。治療にも数ヶ月から1年以上の時間を要し、再発の可能性も高い。

屈腱炎と並び、ウマ娘にとっての癌と称されることもある、避けようがなく大きな病気だ。

 

僕は頭の中で治療方法を考える。軽度の場合であれば水冷、固定、抗炎症剤投与の後、安静を保ち、自然治癒を促進させることが一般的だ。

しかし、自然治癒の場合は復元した靭帯が弱くなり、再発してしまう可能性が高い。さらに今回の場合、角度を変えて映された患部はかなり侵大していた。

これでは不自然な形で自然治癒してしまう可能性も高いだろう。そうすれば前のように走ることは不可能だ。

 

「発見が遅れたのか、かなり重症化しているようだ。膝を曲げる動作で痛みが発生しているな」

「はい、…発覚後、少し無理をされたようで。系列病院からは外科的手術を推奨されています」

 

外科的手術の場合は切開して病巣駐留物の排出、神経切除による痛みの緩和などが考えられる。ここまで聞く限りは正当な治療方針だ。なぜこの村まで来たのか…。

 

「後遺症が予想されるのですね」

 

K先生の言葉に主治医さんの視線が揺れた。執事さんが説明を引き継ぐ。

 

「…重症であり、患部が癒着しかかっているため、外科的手術後の競技復帰は不可能だ、と。セカンドオピニオン、いえ、何病院か尋ねてもも同様の結果です。どうしても噂にお聞きしたK先生に診察していただきたいのです」

 

…?僕は執事さんの言い方に少し違和感を覚えた。少し考えたが、なぜかはわからない。

気のせいだろうと判断して改めて状態について考える。治療は厳しいだろう。見た所診断資料は詳細だ。

大病院で丁寧に行われた形跡が見て取れる。そこを含めて専門医たちが揃ってメジロマックイーンの現役復帰に匙を投げたと言うことだ。

 

「いかがでしょうか」

 

主治医さんが言葉を絞り出す様に言った。少しの沈黙の後、K先生が答える。

 

「1つ、考えがある」

 

この病状で考えがあるだって!?言葉も出ない僕と主治医さんを差し置いてK先生が立ち上がる。

 

「その前に確認することが2つある。一つはこちらの考える治療のための再検査。彼女が治療に耐えうるか身体面を確認する」

「はい、系列病院も含め全力で協力します。もう一つはなんでしょうか」

 

即座に答えた執事さんを、K先生が鋭い眼差しで見た。

 

「あなたが隠している、患者の精神面のことだ」

 

僕は密かに執事さんの顔を伺う。先ほどからの違和感、やはり何か患者のことで隠していることがあるのだろうか。

執事さんは圧されながらも正面からK先生に向き合う。答えることはできない、と言外の覚悟が皺の寄った顔に浮かんでいた。

 

「…何のことでございましょうか」

 

「…繋靭帯炎の治療後は非常に苦しいリハビリがある」

少しの沈黙の後、K先生が呟く。

 

「たとえ手術が成功しても、それを乗り越えなければ、患者が競技を行うまで復帰することはできない」

 

執事さん、主治医さんの目を交互に見てK先生が言う。

 

「あなた方越しでなく、一度、患者に直接会わせていただきたい」

 

 

 

 

数日後、僕達はトレセン学園に足を運んでいた。K先生はトレーニングメニューやカルテを提供してもらうため、学園側のお偉いさんに挨拶に行ってしまった。

その間僕は白衣に来園者用の名札をつけて学園を見物することにしていた。

 

「さすがはトレセン学園の学食…。どのカレーにするべきか…」

 

学食は見事に整備されていて量質種類どれも充実しているらしい。僕はカレー以外頼むつもりはないが、そのカレー関係のメニューも5、6種類はあった。

今日はカツカレーに決めて、大容量の食事を受け取り、席に着く。昼時に近いためか、食堂の席は埋まりつつあった。

 

「あ、おにーさん、ここ良い?」

 

汚さないように白衣を脱いでからカレーを食べていると、空席確認の声をかけられた。目線を上げると、茶髪に白メッシュ、快活そうな小柄なウマ娘が眼前にいた。

テレビで見覚えがある。間違えようもない。トウカイテイオーだ!

 

「…空いてます、どうぞ」

「ありがとー」

 

動揺を表に出さないように席を開ける。トウカイテイオーはわーい、と一声上げると僕の横に座って学食のパスタをテーブルに置いた。そして自分の顔より大きい、液体の入った容器も置いた。何だこれは。

 

「はちみーはちみーはちみー♩」

 

僕の存在を無視したのか小声で歌い始めた。日本ウマ娘界はコイツにメイクドラマされたのか!?僕は不条理を感じながらもまだ大部分が残った自分のカツカレーに取り掛かる。

横目で見るパスタとはちみーとやらの猛烈な減り具合を見るに、この量はウマ娘にとっては適正なのだろう。しかし、パスタと甘い飲み物は合うのか…?

 

「はちみーはちみーはちみー♩、…ヴッ」

 

歌が2ループ目に入った所で妙な音とともに止まった。思わず目をやると、トウカイテイオーが僕の後ろの方を見たまま静止している。同時に、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「譲介!…またカレーかい?」

 

振り向くと、白衣を着た 、トレセン学園には似合わない長身に精悍な顔つきの男が立っていた。黒須一也。彼は僕と同じK先生の弟子であり、帝都大学医学部の学生だ。

 

「栄養は取れてる。放っておいてくれ。…そっちは、本当に大学側から見学許可が下りるとはな」

 

僕が言い訳がてら話を変えると、一也も頷く。

 

「ウマ娘科の担当教員の方に相談したんだ。大垣教授からドクターK、KAZUYAさんの話を聞いていたらしくて、トレセン学園の実地見学、それとK先生の治療の見学をするなら、と許可を出してもらえたんだ」

 

KAZUYA、先代のドクターK,一也の名目上の父親にして、歴代でも屈指の技術を持ったスーパードクター。今のK先生の先代に当たる男は死後も影響力を残しているらしい。

それに比べ、出生に訳があるとはいえ、跡を継ぐはずの一也はどうも意識が低い!僕はふん、と鼻を鳴らして一也を見る。コイツは医学生の一番程度で満足して良い器ではないのだ。

 

「…K先生は学園の人と話中だ。ここで待ち合わせしている。担当トレーナー、それと患者とは許可が取れてから会うらしい。お前はどうするんだ?」

 

ひとまずK先生の予定を伝えると一也はちらりと後ろを見て答えた。

 

「そうか、じゃあオレらはここで待とうか」

「そうね、トレセン学園の食事メニューも見てみたいし」

 

一也の背後からひょっこりと、小柄でメガネのおかっぱ女が顔を出す。

 

「!宮坂もいたのか」

 

一也だけでなく彼女も僕とは中学以来の付き合いだ。一也と一緒に現役で医学部に合格してから、変わりないことは知っていた。

僕は密かに二人の距離感を伺う。ウマ娘だらけの食堂ではぐれないよう、一也が背中で庇っていたようだ。それを普通に受け入れるくらいには良い関係は続いているらしい。

何故それ以上進展しないのかは僕にもよくわからないが。

 

「ふん、一也はともかく、アンタまで付いてくるとはな」

「余計なお世話ですよーだ。良い?知らないかもしれないけど。医学部の科目は暗黙の了解でメジャーとマイナーに区分けされてるの。ウマ娘科といえば内科、外科、公衆衛生、産婦人科、小児科に次ぐ第6のメジャー科目って言われてるのよ。その第1線でK先生が診療する。医学生が勉強せずにいられるもんですか!」

 

僕の挨拶に宮坂が強弁を振るう。座った僕とほぼ同じ目線なのであまり迫力はなかった。身長も変わりないようだ。

 

「ね、ねぇ!」

 

睨み合う最中に横から声がかかった。僕の対面でトウカイテイオーが立ち上がって僕たち3人を見ていた。

 

「二人と、アナタもあー、お医者さんなんだよね?」

 

トウカイテイオーの目線が僕のかけた白衣に向いてからこちらを見る。が、目が泳いでいる。たまにいる医者が極端に苦手なタイプだろう。本当によく怪我から復帰できたものだ。

うー、だのあーだの意味のない言葉を呟いた後、ようやく本人の中で覚悟が決まったらしい。不安な表情のまま話し始める。

 

「もしかしてマックイーン、メジロマックイーンを治しに来たお医者さんなんだよね?マックイーンはどうなの?」

 

 

僕らは軽く状況説明をした。同じチームで話が通っている以上、診察をしに来た、までは守秘義務の外だ。K先生から聞いている細かい病状の説明はしなかった。

僕も一也も宮坂も患者や周囲に対して不安を煽らない心遣いはできる。その甲斐あって、説明が終わる頃にはトウカイテイオーも落ち着きを取り戻していた。

 

「そう、じゃあ診察はこれからなんだね」

「ええ、方針を決めるため、ご本人、それとチームトレーナーの方と会ってお話をする予定です」

そう言うとトウカイテイオーが考え込む様子を見せる。

「うーん、今日はトレーナーが用事あって、1時間後にトレーニング開始の予定なんだよね。そこでならトレーナーにも、見学しているマックイーンにも会えると思うよ」

 

僕らは目を合わせて頷く。今患者がどう過ごしているのか、はリハビリが予想される症例の場合重要だ。

 

「わかりました。先生が戻り次第、ご一緒させていただきます…」

「あ!そっちの方が年上みたいだし、敬語使わないでいいよ!最近取材多くてさ。ちょっと敬語嫌なんだよね〜」

 

それで決まり!とトウカイテイオーは指を突き出す。緊張が解けてきたのか、雰囲気は軽いものに変わっていた。

 

「む…、わかりま、いや、分かった…」

 

何とか返すと視界の端で一也と宮坂がにやけているのが見えた。

 

「ボクはトウカイテイオー。君は?」

「わたし、いや、僕は譲介。K先生、担当のお医者様の助手だ」

 

学生の頃と違い、途中から切り替えが必要になると面倒だ。どうもこのウマ娘と絡むとろくなことが起きそうにない。まだにやけている二人に話を振る。

 

「…お前らも敬語無しだぞ!」

「分かった。オレは黒須一也。帝都大医学部。よろしく」

「あ、私は宮坂。同じ帝都大医学部なの。よろしく」

 

一也と宮坂が名乗ると、トウカイテイオーはえっ、と声を上げる。

 

「そっちの宮坂さんもお医者さんなの?」

「その予定です!私もちゃんと現役の医学生で、このままストレートでお医者さんになるの!」

 

宮坂が白衣を指しムッとした顔で返すと、トウカイテイオーは謝る。

 

「ご、ゴメンね…。えーと、医学生だから年齢が…!」

 

それから何か思いついた様子で立ち上がると宮坂の横に並んだ。

 

「え、何?」

「…お姉さん、よろしくね!」

 

少しの間の後、どこか尊敬したような顔でトウカイテイオーが宮坂の手を握り、ブンブンと握手をする。

宮坂はわかっていないようだが、動きの意味を察した僕と一也はなんとか笑いを押し殺した。コイツ、目視で宮坂が自分より身長が低いことを確認しやがった!

 

 

「だからね、うちのお父さん、私が注射を受けているときに怖すぎて、その場に倒れて気絶しちゃったの」

「そうなの〜!?それはすごい病院嫌いなんだね…」

 

カツカレーは食べ終わったが、僕は席を立つタイミングを完全に逃してしまった。その間に宮坂もトウカイテイオーの医者嫌いに気づいたらしく、家族の医者苦手話を始めたことで打ち解けていた。

悔しいが患者との対話に関してはコイツの方が僕よりうまい。

 

「ボクは平気だけど〜。ボクのお母さんがね、健康診断の時に注射が終わってウキウキしちゃって転んで骨折して、退院の時にもやっと退院できるって喜んでたら帰り道で急いで道路渡る途中に転んで骨折して再入院ってことが…」

 

不自然に心臓が跳ねた気がした。軽い話のはずだが、なぜか僕にとって嫌な印象があった。

 

「す、すごい話ね…」

「そ、それは大丈夫だったのか…?」

 

思わず宮坂と一緒に話に入ってしまった。同時に、荒くなりそうな呼吸を意識して抑える。

 

「うん、骨折以外はすごい元気!もしかしたら骨折運が悪いのかもね、って話してたの」

「あー、どうなんだろう。運勢といえばね…」

 

そのまま宮坂が話を占いにシフトさせたので、僕は会話から外れた。食堂の空席を確保して女子会気分の話が続いている。

身内の話で盛り上がるのは良いが、側に人のいない時にしてほしい。一也も珍しく浮かない表情をしている。

 

「ジョースケもなんかないの?」

 

何故か僕にまで話が回って着た。おまけにいつの間にか名前呼びになっている。コイツの中で僕たちは目上には当たらないらしい。

僕の中でコイツは一流アスリートというより生意気な子供という扱いになりそうだ。

 

「…そうだな、僕の先生は自分も病人なんだが、点滴を持ち込んで、こう、自分に刺しながら手術をするんだ…」

「えー!どういうことなの〜!?」

「譲介…」

注射が嫌いと言うことは推測できた。半分嫌がらせも込めて点滴の様子を再現すると、トウカイテイオーは実に嫌そうな顔をした。

一也と宮坂は呆れた顔だったが構うものか。

 

 

 

「一也クンに似てるけど…親子なの?」

「いや、親戚だ」

合流したK先生にトウカイテイオーが微妙な質問を投げつける。

一也には特別な出生がある。少々法令や倫理的に危ない事情だ。僕は少しハラハラしたが、K先生は嫌な顔もせずに答えた。

トウカイテイオーの天真爛漫というか、人当たりの良い感触は悪印象を与えにくいらしい。彼女もその答えで納得したらしく、

K先生の体つきを見て、強いの〜?というバカみたいな質問に移っている。テレビで見たときの印象とは違って、僕は思わず聞かずにはいられなかった。

 

「その調子でよく有馬に勝てたな」

「ちょっと譲介くん…」

 

宮坂が慌てているが、トウカイテイオーは気分を害した様子はなかった。少しだけ雰囲気を落ち着かせて、確かな言葉で答えが帰ってくる。

 

「マックイーンが怪我した時、約束したんだ。奇跡を起こせる。証明する。怪我から復帰した体で有馬記念を誰よりも先にゴールするって」

 

僕はニュースで嫌になる程聞いていた。1年ぶりの復帰、時代に名を残すメンバーの中、G1級の1年で最も大きなレース。

それを成し遂げたウマ娘は一人もいない偉業。その理由をトウカイテイオーは、まるで子供の簡単な約束のように言い切った。

 

「ね、ちゃんと証明できたでしょ?だからマックイーンも戻ってくるよ」

「…そうか」

 

簡単な言葉だった。ただそれを信じて積み上げて、本当にした、という実感がこもった言葉だった。彼女の青い目には曇りはない。僕はそれを正面から見ることもできなかった。

大レースと背負った責任、それすらなんでもないことのように、彼女は動揺する宮坂との女子話に戻っていった。

 

 

 

 

やがて時間が近づき、僕らはトウカイテイオーと一緒にグランドの方へ一同移動することになった。

 

「あ、トレーナー!」

「おう、テイオーか。…そちらはどちらさん方?」

 

グラウンドに近づいたとき、トウカイテイオーが声をあげた。少し警戒の色を見せながら男が近づいてくる。

後ろ髪を纏め左部だけ刈り上げた、特徴的な髪型。

30代くらいの冴えない男だった。ヘラヘラしていて軽薄な印象すらある。この人が強豪、チームスピカのトレーナーなのか。

 

「あーなるほど、じゃあよろしくお願いしますねぇ」

 

説明を済ませると、すぐに軽い態度に変わる。

 

「テイオー、メニューは事前に配った通りだ。何か質問は?」

「大丈夫だよ!次のレースも近づいてるからガンバルよ!」

 

メニューは先に告げてあるらしく、トレーナーはしばらく僕らにメジロマックイーンのトレーニングメニューや環境について説明してくれることになった。

 

「いや、悪いね、散らかってて。とりあえず楽にしてくれや」

 

連れられて入った少し散らかった部室で書類を取り出すのを待つ。取り分けられた机にはニュースで見たメジロマックイーンへの手紙も積んであった。

そんな時にK先生が口を開いた。

 

「あなたから見てメジロマックイーンはどのようなウマ娘だ?」

「マックイーンか…」

 

突然の質問にトレーナーが一瞬動きを止めた。意識して作っていたのか、軽薄な口調が止まる。

 

「責任感の強いウマ娘だ。自分の生まれや誰かのためにベスト以上を尽くせる。背負いこみすぎてしまうところもあるがね」

 

よっと、一声上げると、大きな音を立て、トレーナーは机に大量のノートを載せた。

 

「こちらが担当してからのトレーニングメニュー、それとここからがリハビリメニューだ。参考ににトウカイテイオーのリハビリメニューも出す」

 

その中から何冊かのノートを取り出し、表紙に書かれた名前、日付順に並べる。

窓の外ではかすかなウマ娘たちの声が聞こえる。チームスピカのメンバーたちは今も一旦グラウンドの方でトレーニングに励んでいる。その日々を纏めた資料と言うわけだ。

 

「マックイーンの練習メニューはこれだ。どの時期から読みます?」

 

K先生は一番若い日付のノートを手にした。

 

「最初から頼む。お前達も確認してくれ」

 

K先生に続き、僕達も許可をもらってノートをめくる。

 

「うわっ」

「これは…」

「…ここまで書くのね」

 

思わず声が上がる。ウマ娘の体調や練習メニューが1日ごと、ページに詳細に書き込まれている。

所属メンバーの人数分、そして所属数年分書いているのか…。僕もドクターTETSUの影響でノートに症例をまとめる習慣があるからわかる。ここには熱意がある。これはちゃんと管理され、使われるために残されたノートだ。

 

「…ダンス練習まで含めた、運動強度、疲労の調整に食事管理。よく纏められている。このトレーニングならオーバーワークや調整不足でウマ娘が不利を受けることはないだろう」

「ただ、イレギュラーには太刀打ちできない。お恥ずかしい限りですよ」

 

しばらく読んだK先生の言葉にトレーナーは目を閉じて首を振る。それは難しい問題だろう。

時速数十キロで走行するウマ娘レースは練習、本番ともに過剰負荷や接触の危険性が付き物だ。たとえウマ娘ドックを受け、何も問題がなくても運が悪ければレース中に突然負傷する可能性はある。

 

「…本人の意向次第だが、リハビリメニューは病院だけでなくトレーナーにも関わってもらうものだ。俺は貴方に任すことができると判断する」

 

K先生は言い切るとノートを閉じる。

 

「次は患者に会わせてもらおう」

「あ、ああ」

 

トレーナーが先導して扉を開ける。宮坂が慌ててノートを一箇所にまとめる。一方、一也は難しい顔をしてノートの一箇所を眺めていた。

 

「検査もちゃんとしてある。代謝、肝機能も…。だけどこれは…・」

「聞きたいことがあったら後でトレーナーさんに聞きましょう。」

 

宮坂に急かされて一也がノートを渡す。

 

「ほら、それも渡して」

「…ああ」

 

僕も急かされる。もう一度、黒く色濃く残されたノートの中身を目に焼き付けてから返した。

 

 

案内されたグラウンドでは、数人のウマ娘が思いおもいにトレーニングをしていた。

ストレッチ、走り込み、二人ペアでのタイヤ引き、瓦割り。何も知らないで見ればバラバラのように見える。

だが、あのノートを見た上で考えると、ほとんどは個々の自主性に合わせ、それぞれに合ったメニューを実行しているようだ。いや、瓦割りの意味はわからないが。

 

それを横から見ているウマ娘が一人いた。前にあった執事さんも一緒だ。紫がかった芦毛の長髪。チーム揃えのジャージに似合わない気品ある立ち姿。だが松葉杖をつき、膝の部分に装具をつけている。あれがメジロマックイーンのようだ。

 

「マックイーン!」

 

トレーナーが呼びかけると振り向く。パッと顔がほころんだ。信頼関係もあると判断して良さそうだ。

 

「あら、トレーナー、ごきげんよう。…そちらの方は?」

「話がいってなかったか?爺やさんから声をかけたお医者さんだそうだ」

「あ、そうでしたわね。どうか、よろしくお願いします」

 

メジロマックイーンが綺麗に一礼する。…なんだ?一瞬彼女の顔に複雑そうな表情が浮かんだ気がした。

 

「…ではトレーナー、少し話をするので外して欲しい」

「え、ああ、分かった」

 

K先生も気づいたようだ。一声かけ、トレーナーさんをにはその場から離れてもらう。

少しだけ場所を変えて、ベンチのある奥まったところへ移動した。一也と僕が周りを見渡し、他に誰の気配もないことを確認してから座ってもらう。

執事さんは良く見ると手紙の山を持ったままだった。ニュースにあったファンからの手紙だろう。宮坂が声をかけ、一部を持つことにしたらしい。

 

「ええ、では先生、爺やと主治医と相談の上で診察を…」

「…君は、診察に乗り気でないな」

「はい?」

 

話し始めたマックイーンの言葉を止めて、K先生が突然断言する。

 

「最初に本人が来なかった時点で疑問があった。ウマ娘の治療、特に走りに関係のある場合は本人の要請が強くなる。命に別状がなければ自分で来院する割合が非常に高いのだ。君は動ける状態だ。学園でトレーニングを見学するように、車に乗っての来院は可能だった。それに執事さんの説明の仕方も妙だった」

 

僕は引っかかった執事さんの言葉を思い出す。

 

”どうしても噂にお聞きしたK先生に診察していただきたいのです”

()()していただきたい、ではなく()()していただきたい、と言った。近しい人だ。恐らく君の様子を考えてのことだろう。諦めることを念頭に入れての言葉だ。直接君に会って改めて実感した。君は諦めることを考えている」

「K先生…」

「爺、良いのです」

 

メジロマックイーンは執事さんの反論を止めた。K先生の言葉がそのまま続く。

 

「…患者が治りたいと望まなければ、医者はそれを真に治す事は出来ない」

 

結論だけを残してメジロマックイーンの言葉を待つ。彼女は少し俯くと、一呼吸置いてから話し始めた。

 

「…私の復帰は、本当に全ての方に望まれているのでしょうか」

 

驚くような言葉が漏れた。こちらの反応を待たずにメジロマックイーンの口から言葉が続けられる。

 

「私は、テイオーとの約束を果たしたい。そのために復帰をしたいと思っていました」

 

思わず、と言った感じで宮坂が反応する。

 

「そうです。テイオーちゃんはすごくマックイーンさんと走ることを楽しみに…」

 

その通りです、とマックイーンが答え、自分の手を握りしめる。

 

「しかし、応援してくださってくれた方々からは違う考えの声も聞きます。十分頑張ったから引退して良い、と。これ以上苦しむ姿や弱くなった走りを見たくない、と。テイオーのインタビューの後、お手紙をたくさんいただきました。皆さん、私のことを思って、やめてほしい、と望むのです。そんな不確かなものに、明日を賭けないで欲しいと。お婆様からも、そのように…」

 

メジロマックイーンの目線が空と、執事さんと、折り重なったファンからの手紙の間をさまよう。

 

「トウカイテイオーと、ファンと、メジロ家か…」

 

板挟みだ、と僕は察する。僕は孤児院出身で、ただの村の病院助手だ。だから想像もできなかった。

彼女は名家に生まれ、ファンが大勢いる身だ。応えなければならない事も多く、彼女はおそらく責任感の強さから、やりたいことと、しなければならない事の間で板挟みになっている。

再起を望むトウカイテイオーたちか、終わりを望むファンと本家の人たちか。どちらかを選び、どちらかを裏切らなければならない。目の前の少女は話し終えると、泣く寸前で感情を抑えたようだった。

 

「…明確に治療の意思がなければ、強制はできない」

 

K先生が彼女の言葉に答える。メジロマックイーンは答えるでもなく、ただ誰にでもなく呟いた。

 

「私は、どうすれば良いのでしょう」

 

その問いに答えられる人はこの場にはいなかった。その代わりになぜか、遠くから妙な音が聞こえてきた。

 

「…?」

 

K先生が流石に何かわからずに汗を浮かべて周りを見渡す。音は近づいてくる。

あれは、本当になんでかはわからないが、ブブゼラの音だ。音が近づくとともに話声も聞こえてきた。

 

「ちょっと、ゴルードシップさん!?今お話中みたいだから邪魔しちゃダメですよ!」

 

掻き鳴らされていたブブゼラの音がようやく止まる。

 

「えー?良いじゃんスペ?今のマックはどうせ暗〜い雰囲気なんだからぁ、アタシの新作モノマネ上田瞳スペシャルをお見舞いしてやるんだよぉ…!あ、いた」

 

バサリ、と音を立てて茂みをかき分け芦毛のウマ娘、その後ろに先ほど見たチームスピカのウマ娘たちが相次いで現れる。トウカイテイオーもその中にいて、僕らを見てあ、と声をあげた。

 

「…あら、皆さん。まだお話中ですのよ。ゴールドシップさんも」

 

一息ついた瞬間、メジロマックイーンは雰囲気を切り替え、にこやかにチームメイトに話しかける。

まるで名優のような演技に僕はあっけにとられた。こうまでして彼女は自分の気持ちを隠し通そうとするのか。だが、今回の場合は相手がそれを超える破天荒だった。

 

「あ!よーそこの人間体ゾフィーみたいな兄ちゃん!」

「あ、ゴルシ…?」

 

一声かけ、芦毛のウマ娘が駆け寄ってくる。ウェーイ、と叫びながら地面を蹴る。素晴らしく体重を乗せたドロップキックだ。

 

「…!!」

 

バシイッ、と良い音を立ててK先生が飛び蹴りを受け止めた。K先生は倒れる事なく態勢を立て直したが、ウマ娘の方も綺麗にその場に着地した。

 

「ちょ、ちょっと、何してるんですか?」

 

宮坂が驚いている一方で僕と一也は身構える。こいつはかなり出来る。まさか、クローン組織の関係者か…!?

 

「ご、ゴールドシップさん!?何をしているんですの!」

「あー、本人確認?なりすましとか怖いじゃん」

 

妙な緊張感はメジロマックイーンの追求で消えた。ゴールドシップと呼ばれたウマ娘は敵意なくK先生に近付く。

 

「オマエやるじゃんかぁ!ゴルシちゃんのドロップキック止めたバトルドクターはオマエで二人目だぜ!?」

「…」

「ば、バトルドクター…?」

 

K先生は黙ったまま次の言動を待っている。一也や宮坂は目の前のウマ娘のわけのわからない言動についていけていないようだ。僕もついていけてはいない。声を上げたのは意外な人物だった。

 

「…K先生の事を教えてくださったのはゴールドシップ様でございます」

「爺!?」

 

執事さんの明かした不思議なつながりに僕らはより混乱する。水を得た魚のようにゴールドシップがまくし立てる。

 

「そうだよ、前に孤児院でセパタクローやってた時に知り合った、…名前なんだっけ?えーとスネオヘアー極盛り世紀末救世主ファッション闇医者JK…、みたいな〜ヤツ 何だけど知ってるオア知らない?」

 

世紀末救世主ファッション闇医者…僕は頭の中でその光景を思い浮かべてハッと気が付く。

 

「ま、まさかドクターTETSU!?」

「そうそう、TECCHANだよTECCHAN。ゴルシちゃんがちょっと前にTECCHANに相談したらよぉ、”それは闇医者に頼むもんじゃねぇ!”って言われてドクターKってのを教えられたワケ」

 

不思議な呼び方をしながらゴルシちゃんと名乗るウマ娘はくねくねと体を動かす。

 

「奴の紹介、という訳か」

 

K先生がようやく肩の力を抜いた。

 

ドクターTETSUは闇医者で、僕の元保護者だった人だ。…なるほど、ドクターTESTUは遵法意識はないが病人を見捨てるような人ではない。

それにメジロマックイーンの症例は無痛処理やドーピングのような闇医者業務ではなく、正当な医者の仕事だ。だからドクターKのことを紹介したのだろう。

 

「ふ、ふふふ」

 

弛緩した空気の中、漏れ出たような笑いが聞こえた。見ると、口を押さえてメジロマックイーンが笑っている。

 

「そうなんですの。ゴールドシップさんが…。ふふ、また心配をかけてしまいましたね」

「何だよ、マックイーン。あ、あんまり笑って近づくなって〜の、怖いから!」

 

不思議な動きをしていたゴールドシップだったが、メジロマックイーンが近付くとペースを乱されたように動きを止める。

かろうじて僕から見えたのは顔をあげ、自然に笑う口元だった。

 

「いつもあなたには助けられていますわ。ありがとうございます」

 

流れるように一礼。ゴールドシップが照れながらも黙って頷くと、メジロマックイーンはそのままK先生の方へ顔を向けた。

 

「改めて、ドクターK、でよろしいですか」

「ああ」

 

K先生の顔から目を離さず、雰囲気を保ったままメジロマックイーンが言葉を続ける。

 

「他にも、私を望んでいる人がいたようです。こんなに身近にも」

「そのようだ」

「ですから、もう決めました。全ての人に望まれなくとも構いません。私は少しワガママをしようかと思います」

 

初めて年頃らしいイタズラな笑顔が浮かぶ。

 

「私はもう一度、ターフに戻り、真剣な勝負をしなければなりません。難しいことはわかっていますが、ここにいる方たちのためにも、私は全力を尽くしてみせます。私に()()をしていただけませんか?」

 

K先生は頷く。

「良いだろう。あなたには覚悟ができたようだ

 

傍で様子を伺っていた執事さんがすぐに駆け寄ってきた。

 

「ドクターK!では…」

「治療の話し、お引き受けしましょう。系列病院へ入院の準備を」

 

執事さんが唇を引き結んで頷く。メジロマックイーンはあくまで優雅にチームのメンバー、トレーナー、そしてテイオーに頷くとその場を離れた。

 

「やったー!スーパードクターならマックイーンを治せるんだね!」

 

本人の前でははしゃがないでいたが、抑えきれなくなったようだ。

マックイーンの姿が見えなくなるなり、トウカイテイオーが飛び跳ね始めた。

僕が黙っていると、視界の端で一也が心配そうな表情を浮かべているのが目に入った。

 

「トレーナーさん、少しお聞きしたいことがあるんですが…」

「あ、ああ、何だい?」

「ノートのこの検査は全員毎回共通ですか?」

「ん、ああ、そうだな」

 

質問も答えも簡潔だった。だが、一也の表情は厳しいままだ。何だ?

 

「K先生、少しよろしいですか」

「一也か、何だ」

 

そのまま一也がK先生に一声かけて近寄り耳元で話を始めた。どんな内容だったのか、K先生が一瞬鋭い目でこちらの方を見た。

一瞬、僕の態度でも告げ口したのかと思ったが、目線は僕の横、トウカイテイオーに向いていた。聞き終えたK先生が頷いて口を開く。

 

「…わかった。テイオーさんも病院に来ていただけますか?」

「えっ、僕もォ!?」

 

トウカイテイオーが飛び上がる様に驚く。白衣を見ただけで奇声をあげたウマ娘だ。よほど病院や治療に苦手意識があるのだろう。

 

「…でも、そっか、僕とマックイーンに関わる事だもんね」

 

しかし、一瞬考え込むそぶりを見せた後、真剣な表情に切り替わる。

 

「分かったよ。一緒に車で行けば良いの?できれば僕にもどう言う治療で、どう言うリハビリなのか聞かせてほしい。お願いします」

 

ほう、と息が漏れた。やはり考え方に関してはプロだ。見習うべき点がある。

宮坂も感心したらしく、ウンウンと頷いている。どうやら保護者気分のようらしい。

身長はお前の方が低いぞ。

 

「いや、トウカイテイオー、君に来てもらうのは患者の友人としてではない」

 

だが、彼女の覚悟に対して帰ってきたのは別の言葉だった。

時折感じる、周りの空気がギュッと圧縮されたような緊張感。K先生が表情を引き締め、まっすぐにトウカイテイオーと目を合わせる。

 

「君にもある検査を受けてもらう!」




トウカイテイオーに隠された秘密とは……!?

K2×ウマ娘/つづく。


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明日をかける(後編)

「テイオーに検査の必要があるとはどういうことですの!」

 

数時間後、僕らは病院で待機していた。病室のベッドで合流したメジロマックイーンが一也に詰め寄っている。

普段はお嬢様然としているが、精神的にはテイオーに似たり寄ったりなところもある様だ。目の前にいた一也はその剣幕にも押される事なく話し始める。

 

「気になっているのは、テイオーさんの過去3回の骨折、白目の青み、そしてご家族の骨折の話です」

 

一也の言葉に僕は先ほどの会話を思い返す。骨折に関連する話は一つだけだった。

 

”「ボクのお母さんがね、健康診断の時に注射が終わってウキウキしちゃって転んで骨折して、退院の時にもやっと退院できるって喜んでたら帰り道で急いで道路渡る途中に転んで骨折して再入院ってことが…」”

 

頭の中で知識と状態が結びついていく、

 

「骨折歴が複数回あり、目は…青色強膜か!、そして家族にも複数回骨折歴…」

 

僕の言葉に一也が頷く。口に出し、思わず歯噛みしてしまう。情報は彼女自らが話していた。僕はどうして気づけなかったのか…。

 

「検査結果が出ました!」

 

その時、病院の専属医が病室に駆け込んできた。全員の視線がそちらに向かう。

 

「結果は!」

「DXA法で骨密度を確認したところ、YUM(若年ウマ娘平均値)は71。骨減少症です」

 

71!僕は思わず息を飲んだ。つまりトウカイテイオーは同世代のウマ娘に比べて71%の骨量しかないという事だ。

当然その脆さでは骨折もしやすい。しかし、彼女は適度に衝撃のかかるトレーニングをしていて、食生活もある程度は管理されている。それにも関わらず骨密度が低いということは…。

僕は次の言葉をある程度予測して専属医さんが言葉を続けるのを待った。

 

「また、遺伝子のPCR検査でCOL1A2遺伝子の変異が認められました。トウカイテイオーさんはⅠ型骨形成不全症と思われます!」

「!!」

 

この場にいる人たちに衝撃が走る。

 

「やはり、そうでしたか…」

 

一也が呟く。

 

「人間よりもウマ娘には発病しにくい病気です。運動しているウマ娘であれば骨密度が低いということは本来ありえない。だからノートに書かれていたウマ娘の健康診断結果に骨密度検査は含まれていなかった」

「人間とウマ娘の差異からくる見逃しか…」

 

人間と比べて一部の検査項目がオミットされているために異常が判明しなかったということだ。

一也はトレーナーのノートを見たときに、人間とウマ娘の検査項目の違いに気がつき、トウカイテイオーが骨密度検査をしていないことも疑ったのだろう。

 

「ま、待ってください。骨形成不全症とは…・?」

 

ここにいるのは医療従事者がほとんどだ。徐々に理解が広がる中、例外のメジロマックイーンがベッドの上から声をあげた。

 

「あ、すみません。…骨形成不全症とは遺伝子の異常で骨がもろくなってしまう病気です」

 

一也が答える。

 

「骨を構成するコラーゲンが正常に合成されないんだ。その影響で眼の強膜も薄くなり、青く見える。そして、親から遺伝する場合もある…。」

 

僕が言葉を続けると、メジロマックイーンが呟くように先を促す。

 

「テイオーは、テイオーはどうなるんですの…?」

「骨形成不全症の中でもⅠ型は最も軽症です。一般ウマ娘に比べて僅かに骨が脆い、という状態でしょう。Ⅰ型の場合は基本的な日常生活ではほとんど症状が発生せず、病気に一生気付かず、不便もない、ということもあり得ます」

「ただ、トウカイテイオーはプロのアスリートだ。強度が高い運動を繰り返せば、骨の僅かなもろさが命取りになる。何もせずにトレーニングとレースを続ければ…」

 

僕らの見立ては同じで、同時に残酷なものだった。4回目の骨折、という言葉がここにいる皆の頭によぎっただろう。もう一度骨折すれば、今度こそトウカイテイオーのレースは終わる。

 

「まずは、本人とご家族に知らせることからだ」

 

とK先生が言い、部屋を出て行った。

 

「どうして、テイオーはそんな事に。テイオーさんが何をしたって言うんですか!」

 

メジロマックイーンの言葉に、今度こそ答えられる人はいなかった。

 

麻上さんに連絡すると、村の方は変わり無し、ということだった。診療所の業務はかかりつけの患者さんの他、突然の病気や事故で発生する急患の対応もある。

村までの道は山を切り開いた険しい道で、しばしば交通事故も起きるのだ。村井さんもいるとはいえ、決して任せきりで安心はできない。

とはいえ結局今日は村に戻らず、K先生と一緒に病院に泊まらせてもらうことになった。

 

「…くそっ!」

 

雑事が終わると悔しさがぶり返す。僕と一也、与えられた情報は同じだった。しかし一也は真実にたどり着き、僕はたどり着けなかった。それがたまらなく悔しい。

気持ちを落ち着かせる為、病院の中庭に出る。暗くなってきた今なら、外気の中で一人頭を冷やせるはずだ。

 

「…あぁ、あんたか」

 

だが先客がいた。チームスピカのトレーナーが暗い中、一人でベンチに座っていた。その場から離れようかとも思ったが、無言でこちらを見るトレーナーを見て、そのまま戻ることはできなかった。黙ってベンチに座る。

名残惜しそうに口の中に入れていたタバコ、いやよく見るとキャンディの棒をトレーナーは捨てた。吸殻入れに何もついていないキャンディーの棒が転がる。吸殻入れの穴に吸い込まれる前、ひどく噛み跡が残っているのが見えた。

 

「ドクターKさんだったか?あんたの先生に立ち会ってもらって、電話越しにテイオーの親御さんに説明を済ませた。…泣いてたよ。まだテイオーと先生は話してる。俺は、ちょっと席を外してほしいと言われてね」

「そうですか…」

 

恐らくはご両親からの当たりを考えてのことだろう。近くにいたのにどうして気づけなかったのか、は自責も他責もあり得る。辛さを出さないためか、軽い口調でトレーナーが続ける。

 

「テイオーの病気、骨形成不全だったか。治療法はあるのか?」

「検査を重ねてからになりますが、現状骨折がなければ外科的治療は必要ないと思います。骨密度を高める為、主にビスホスホネート製剤を投与していく治療が考えられます」

 

そうか、とつぶやき、トレーナーさんが俯く。

 

「その治療を続ければ、テイオーの骨はもう折れないのか?あいつはちゃんと走れるのか?」

「…絶対はありません」

 

僕は答える。

 

「骨形成不全は完治のない病です。症状が少なくとも、彼女は一生涯付き合うことになります。それに、何の病気がなくとも、レースで怪我は発生しえます。それはあなたの方がご存知なんじゃないでしょうか」

 

僕が言ってしまうと、トレーナーは黙り込んでしまった。僕とトレーナーは黙って暗闇の中庭を眺める。沈黙に耐えきれなかったのは僕が先だった。

 

「僕からもひとつ聞いて良いですか?」

「ああ良いぜ、何だ?」

 

「どうしてトレーナーさんは二人の復帰に熱心なんですか?失礼かもしれませんが、二人はもう普通に引退してもおかしくないキャリアを重ねています。どうして、リスクを犯してもそこまで復帰にこだわるのですか?」

 

これは僕の本心からの疑問だった。正直にいえば少し目の前のトレーナーを疑っているという面もある。

スターウマ娘は現役でいるだけで経済効果が発生する。特にトウカイテイオー奇跡の復活があった以上、もう一度ブームを引き起こすことも可能だ。専属トレーナーはその恩恵に預かることもできる。もし、質問をはぐらかしたり、不純さを感じたら、僕はそれをK先生に報告しなければならない。

それに、あの、熱意を感じさせるノート。あれがどんな思いから作られたのか。それも僕は確かめたい。

不躾な質問だ。トレーナーは一瞬あっけにとられたようだった。少ししてからその顔に笑みが浮かんだ。

 

「そうだな、俺はこう思ってるんだ。、”引退レースを走る”のと、”結果的に引退になったレースを走った”は違うんだ。ファンも、周囲も、本人も。次の立ち上がり方が違ってくるんだ…」

 

遠くを見るようにトレーナーは話す。

 

「トレセン学園は学園だ。終着点じゃあない。これからの長い人生、いやウマ娘生の為に、きちんと見送ってやらなきゃならない」

 

僕は今日何度目かの後悔をする。僕が言うべきことは何もなかった。目の前の人は、教職者という面で一人のプロだった

「俺は、賞金なんて1円もいらん。観客も0人でも良い。ただ、お互いの約束を破らせたくない。二人にもう一度真っ当な競争をしてもらいたいんだ。そうすれば、そうすれば俺は、何の心配もなく二人を見送れるんだ…」

 

まるで祈るようにトレーナーが言葉を終える。僕は、また彼の目を見ることができなかった。

 

「…すいません。本当に失礼なことを言ってしまいました」

「良いさ、偉そうなことを言ってもテイオーの病気に気づけなかったこと、それにマックイーンの怪我を防げなかったことは間違いなく俺の責任だ。整理つけて、責任は取らなくちゃぁならねぇ」

「…責任…!?」

 

それは、二人の、テームのトレーナーの進退に関わる話だろうか。口に出せば本当になってしまいそうで話を続けられない。

トレーナーさんは立ち上がろうとしている。場を離れる前に止めなければいけない。だが、あんな事を聞いた僕が一体どう言えば…!

ちらり、と視界の端を影が通った。続いて声が聞こえた。

 

「その必要はない」

「K先生…!」

 

病院の照明を背に、頼もしい影がこちらに歩いてくるのが見えた。K先生だ。トウカイテイオーと家族の話が終わったのだ。

 

「どうも。テイオーのご家族へのお話はどうなりましたか?」

「問題ない。彼女はしっかりと自分の言葉で話した。問題があるのはあなただ」

 

K先生がトレーナーの目の前に立ち、顔を合わせた。

 

「自信のない医師に手術をされるのは患者にとって不幸だ。トレーナーとウマ娘にとってもそうだろう。二人のリハビリを任せる前に、まずはあなたの自信を取り戻さなければならない」

「先生、俺は…」

 

トレーナーが言いかけようとした事をK先生が抑える。

 

「まず、メジロマックイーン。繋靭帯炎はウマ娘にとって予防のできない病の一つだ。いかなる対策をとっても、癌のように自然発生することすらある。メニュー、ローテーションを考えてもあなたに不備はなかったと断言できる。次に、トウカイテイオー。彼女の症状は本人も同じ病の家族も自覚していなかった。ウマ娘の骨形成不全は珍しい病気だ。普通のトレーナーが知る知識ではない。アスリートウマ娘への骨密度検査は除外されている場合が多い。遺伝子検査も一般的な診断では行わない範囲だ。どのようなトレーナーでも、たとえあなたのような一流トレーナーであっても、彼女の病を見つけることはできなかっただろう。」

「しかし…」

「俺は患者を引き継ぐとき、まずそれまでのカルテを見る。カルテはどんな言葉よりも雄弁に患者と医師について語る。症状も、経過も、治療法も、そこにかける医師の思いに至るまで、それを読めば伝わるのだ。トレーナー。あなたのトレーニングメニューに目を通した。ノートも見させてもらった。門外漢であっても、その思いと仕事の確かさは伝わった」

 

思わず、僕も言葉を重ねる。

 

「そうです。あなたがやったことはノートにも、担当のウマ娘にもちゃんと残っています。それを、ご自分で否定しないでください!」

 

僕の思いは拙い言葉にしかならなかった。だがK先生はこちらを見て頷いた。そのまま引き継ぐように、先生はトレーナーと目を合わせて言葉を続ける。

 

「何より、あの病を抱えたトウカイテイオーが、怪我はあっても復帰し、有馬記念を走れたのは、他でもない貴方の指導の賜物だ。誇りこそすれ、恥じることなど何もない!」

 

強い言葉に押されたかのように、複雑な表情のまま、トレーナーがベンチに座り込む。K先生はふっと笑って言葉を続けた。

 

「もうこれ以上俺が言う事はない。あとは当事者達で話をつけろ」

 

え、と思うまもなく、暗闇の中からいくつかの影がトレーナーへ飛びかかった。

 

「トレーナー!。何言ってんのさ!ちゃんと最後まで見てもらうからね!」

 

トウカイテイオーを筆頭に、ティアラをつけたウマ娘、ボーイッシュなウマ娘、元気なウマ娘、ゴールドシップがトレーナーを囲んでいた。少し遅れて、杖をついてメジロマックイーンも現れる。

 

「良い加減にしなさい。そもそも、引退程度でメジロ家との縁が切れるとでも思っていたのですか?」

 

来た方を見ると一也と宮坂が突き飛ばされたような格好で転がっていた。恐らくウマ娘達を抑えていたが、ついに突破されたと言うところだろうか。

いつの間にか関係者が集まっていたらしい。

チームスピカのメンバー達は捕獲したトレーナーに話しかけているが、同時に話しているので何を言っているのか混ざって聞き取れない。

だが徐々にトレーナーの表情が困りながらも険が取れていくのを見て、内容は想像できた。

 

「ああ見ると普通の女の子みたいだ」

「でも、ちゃんとリハビリを乗り越える力があるわよ」

 

いつの間にか宮坂と一也も復帰して近くで話していた。

やがてウマ娘たちの話もひと段落したらしい。トレーナーを拘束して連行するように運ぶことにしたようだ。

ズダ袋を被せると、何かの部族のようにウマ娘達はトレーナーを抱え上げる。見送っていると、それを監督していたメジロマックイーンと目が合った。

立ち去ろうとしていたメジロマックイーンが足を止めた。

 

「ああ、先ほど貴方、テイオーの予後に絶対はない、と言いましたわね」

「…言いました」

 

そこから聞いていたのか。考えると失言しかしていない。冷や汗が流れ出るのを感じながら言葉を待つ。

ふ、とよく言えば華麗に、悪く言えば傲慢にメジロの令嬢は笑う。

 

「絶対はありますわ。トウカイテイオーにも、そのライバルであるこのメジロマックイーンにも。これからそれを証明するのです。…ほら暴れないで、テイオー!落とさないで行きますわよ!」

「…うん!」

 

ウマ娘たちは病を知りながらも楽しそうに。トレーナーは袋越しに何か叫びながら。チームスピカは騒がしく病室へと向かった。

 

「大丈夫かな、トレーナーさん」

「大丈夫だと思いたいけど…。とりあえず、様子は見に行こうか」

 

一也と宮坂は連れ立ってウマ娘たちについていった。

彼女達は大丈夫だ、と思った。彼女達に関する不安は根拠もなく消えた。だが、僕の思いは暗いままだった。

 

 

 

「何を気にしている?」

 

今度は僕の目の前にK先生が立った。

 

「いえ、何でも」

「お前にも先ほどの言葉を言おう。自信のない医師に手術をされるのは患者にとって不幸なことだ。言ってみろ」

 

K先生の言葉に、僕は思っていた事を口に出す他なかった。

 

「…僕は、トウカイテイオーの話を聞きながら、疑うべきべきだった症状に気づかなかった。一也がいなければ、僕は彼女をもう一度骨折させるところだった…!」

 

誤診を認める心持ちでK先生に告げる。K先生から帰ってきたのは冷静な言葉だった。

 

「この件についてはお前も病人だった」

「僕が、病人…?」

「一也から話を聞いた。トウカイテイオーの母の話と、その話を聞いてお前の様子がおかしかった、と。PTSDの一種だ。お前の母は道路を不意に横断したことで交通事故に遭い、結果親子は離れ離れになるに至った。その記憶が、お前を不安定にさせた」

 

ぐっと歯を食い縛る。まさしくその通りだ。あの話を聞いたとき、僕は冷静ではいられなくなった。かつて僕が母親を失った経験と、その理由を思わず思い出してしまったためだ。

 

「誰しも自分と患者の共通点を見つければ心が揺らぐだろう。だがお前は自分の過去を乗り越えなければならない」

「どうすれば、良いんでしょうか」

 

K先生の言葉に聞き返す。

 

「俺も考えていた。一つ、他人から学ぶと言うことがある。ここに出てくる前、トウカイテイオーがお前のことを気にしていた。許可も得ている。どのように立ち直ったかを話していい、とな」

 

そうしてK先生は先ほどあった、トウカイテイオーと家族の会話を話してくれた。

 

症状を聞いたトウカイテイオーは流石にショックを隠せなかったらしい。だがそれ以上に電話先のご家族の動揺が大きかったのだと言う。

 

「もう、大丈夫だって。そんな泣いたりしないで…」

 

骨形成不全は遺伝する場合がある。先の話を聞くに、テイオーの親も同じ病気の可能性がある。K先生とテイオーは慮ってそのことは話さなかった。

しかしこのご時世だ。すぐに彼女の家族はネットで病名を調べ、遺伝で病が発生したかもしれない、と言うことに気が付いてしまったらしい。

嘆きは患者の方が慰めなければならないほどだった。そんな中でテイオーは覚悟を決めたように話始めたそうだ。

 

「そうだね。偶然の流れでボクはそういう病気になっちゃったみたい。もしかしたらママと同じ病気かもしれない。でも、ボクはママの子として生まれて得の方が多いよ。こんなに走れるしね!」

「…彼女は一度絶望の淵から戻ってきた。そこから1流の考え方を身につけたのだろう。」

K先生がそう彼女の事を推察する。トウカイテイオーの言葉は続いた。

 

「偶然の流れでボクはチームスピカに入って、トレーナーと、スペちゃんと、スカーレットとウオッカとゴルシと、マックイーンに出会った。トータルで言えば、僕は恵まれている。僕はそれに負けないように勝ち取ってきた」

 

そして彼女は受話器越しにでも届きそうなほど笑って見せたのだと言う。

 

「だから、恵まれたボクはもう一度勝つよ。勝ってもう一度マックイーンとレースして言うんだ!”これが、諦めないって事だ”、なんてね」

 

話を聞き終わり僕は自問する。恵まれている、と僕は彼女のようにそう思えるか?僕の育ちは彼女とは違う。孤児院出身で何も持っていないと思っていた。

だが、ドクターTETSUと会ってからは、一也、K先生に出会い、村の一員になることもできている。それは彼女のように、自分を高める環境に恵まれていると言えるのではないか?

悩む僕にK先生が告げる。

 

「彼女は一流のウマ娘で、一流の患者だ。何より彼女の周りの人間、トレーナーも友人も、ライバルも彼女をより強くするだろう。お前も、そうなれる」

 

言い終えるとK先生は院内に戻った。僕も少し迷ってから中に戻る。ずっと暗い中庭にいたからか、中は妙に明るく見えた。

 

 

 

数週間後、メジロ家かかりつけの病院でメジロマックイーンの手術が始まろうとしていた。主治医はK先生、僕は助手として手術室に入っていた。

 

「メス!左膝関節内側から切開」

 

僕は事前のエコー図、そして切開された実際の患部を頭に浮かべながらこれからの動きをシュミレートする。

 

「癒着を剥離する。電気メス!」

 

用意していた電気メスをすぐに手渡す。K先生は患部から全く目を離さず受け取った。

 

「包膜切開処置!膝蓋腱右側より剥離開始!」

 

電気メスがK先生の手元で淀みなく動く。

 

「…!」

「は、早い…!」

「この人、一体なんなんだ…」

 

癒着した箇所の剥離ではあるが、もし靭帯や筋肉を下手に傷つければ、メジロマックイーンはこの先かつてのように走ることはない。

そんな不安を消しとばすほど速く、正確な手術が目の前で繰り広げられる。覚悟して見学する主治医さんが感想を飲み込む。

その一方で、事情を知らない病院の医者達は驚きを隠さない。

 

「手術創縫合にかかる!」

 

あっという間に処置は終わり、縫合までが終わる。手術は終わった。そしてこれからが治療の本番だ。

息をつく間も無くすぐに次の検査の準備が始める。

K先生は全く集中を切らさないまま次の手順を告げた。

 

「エコー検査を行い、病巣を再確認。その後、患部への幹細胞移植を行う!」

 

その言葉に、脳裏にメジロマックイーンと主治医さんに対して行われた説明の場面が浮かんだ。

 

 

 

「幹細胞移植!?」

 

話を聞いた主治医さんは驚きの声をあげた。

 

「確かに、幹細胞移植であれば通常の治療よりも治癒速度が速く、再発の恐れも低くなる…。しかし、繋靭帯炎への適応は聞いたことがありません!国内ではまだ手術例がないはずです!」

「ちょ・・落ち着きなさい!」

 

主治医さんは思わず立ち上がって叫んだ。横に座って説明を聞いていたメジロマックイーンが驚いて止めるほどの気迫だ。

患者への真剣な思いが顔ににじみ出ていた。K先生は全く動じず答えた。

 

「正式に発表されていない手術例はいくらでもある」

 

僕は村の患者さんのカルテを思い出していた。何人かウマ娘の方々が村内に居住している。確かその一人の既往症に繋靭帯炎もあったはずだ。

あの村では臍帯血の保存を含め、最新の医療技術をどこよりも速く取り入れていた。僕が来る前、いやこの国で初めて幹細胞移植が公式に行われる前から、K先生には 幹細胞移植の手術経験があるのだ!

 

「事前に胸骨から幹細胞を取り出す。それを約3週間かけて必要量まで培養、増殖させる」

 

図に示しながらK先生が幹細胞治療について説明する。

 

「細胞数が充分に増殖したところで再度エコーによる病巣検査。今回の場合は重症化で内圧上昇が発生しているため、包膜切開術を予定している。切開処置後、連続して再検査。発症部位への幹細胞移植術を行う」

 

何をするかを説明した後で、K先生が本題の治療後予後について話し始める。

 

「通常の治療では、修復された靭帯が以前のものより弱く、再発の可能性が高い。だが幹細胞治療の場合は組織を再生するように分化し、元の靭帯の機能を取り戻す事が出来る。完治の可能性は十分にある」

「…」

 

治療方法の説明を受けてしばらく考えてから。主治医さんが椅子に座りなおす。

 

「私は、半分お嬢様のことを治したいと思いながら、もう半分は無理な治療でお嬢様が傷つくことを恐れていました。ここまでキャリアを重ねての繋靭帯炎からの復帰例は過去にない…!」

「主治医…」

 

絞り出すように言った言葉にメジロマックイーンが複雑な表情をした。

 

「…確かに繋靭帯炎はこれまでウマ娘にとって不治の病に近かった。幾多のウマ娘が為す術なく道を断たれたことだろう…。だが、今は違う!」

 

ギュッと力を込めるようにK先生が断言する。

 

「再生医療の技術進歩はり、繋靭帯炎を克服するところまで手をかけている。あとは、あなたの決断次第だ」

 

メジロマックイーンは俯いて一度深呼吸をすると、K先生の目をまっすぐ見て頷いた。

 

「お願いします」

 

良い表情だった。彼女もまた、覚悟を決めていて、K先生の言う「一流のウマ娘で一流の患者」なのだろう。

 

 

 

現在、覚悟を越え、明日を賭けた注射針がメジロマックイーンの膝に慎重に刺される。ゆっくりと黄褐色の液体が患部に注入されていく。切開手術に比べれば地味に見える治療だ。

 

「幹細胞を元あった靭帯と同じ強さにするには、日常的に負荷をかけなければならない。病状を悪化させない程度に、しかし変化を止めない程に」

 

出来ますね、と手術室から見学室に移動したK先生が口にする。手術に立ち会ったトレーナーさんは真剣な表情で頷く。そして僕の視線に気づくと、黙って親指を上げた。

 

 

「マックイーン!」

「テイオー!病院は走るものではありませんよ!」

 

数日後、K先生とボクが診察中の病室にトウカイテイオーが駆け込んできた。すぐにメジロマックイーンが苦言を呈する。

 

「ゴメーンってば!それで、どうなの…?」

「予後は良好です。靭帯が元どおりになるかはリハビリ次第という事ですわ。…それでテイオー。あなたの方はどうなんですの?」

「ボクはとにかく骨を強くしなくちゃいけないんだって!だからお薬飲んで食事管理して、こうバーって骨を強くするんだ!」

 

どうやら患者としても感覚派らしい。メジロマックイーンが不安顔になったので、僕はカルテを思い出しながら言葉を補った。

 

「…ビスホスネートという骨密度増加を高める薬を毎朝飲んでいただきます。薬の効果を高め、カルシウムの吸収を助けるため、数種類のサプリメントも」

 

K先生が頷く。それから二人に向き直る。

 

「ここからはリハビリ医とトレーナーの仕事だ。彼らを信頼して取り組むように」

 

K先生が二人に順番に確認する。

 

「メジロマックイーン。幹細胞を元あった靭帯と同じ強さにするには、日常的に負荷をかけなければならない。病状を悪化させない程度に、しかし変化を止めない程に」

 

メジロマックイーンは首肯し、もう一度リハビリメニューを確認する。

 

「トウカイテイオー。骨密度が適正範囲に戻るまで、君が本気で走ることは許可できない。君の走りが素晴らしいからこそ、今の骨では安全の保証ができないからだ」

 

トウカイテイオーが足を軽く叩き、真剣な表情で頷く。

 

「これから君達は明日の為、全てを懸けても地道にしか進めない道を歩くことになる。一足飛びをしたい気持ちにもなるかもしれない。しかしその道のりこそが一番の近道なのだ」

 

黙って二人は頷いた。

結局、メジロマックイーンは先生と僕が出て行くまで、一度も痛みや弱みを見せることはなかった。

 

「あ、ジョースケ!」

 

部屋を出た後、僕だけがトウカイテイオーに呼び止められる。K先生は彼女の表情を見るとそのまま出て行ってしまった。

 

「何ですか?」

「敬語」

「…何だ?」

 

僕が素の口調に戻して聞くと、トウカイテイオーが秘密の話をするように声を潜める。

 

「K先生から、電話の内容、聞いた?」

「…聞いた」

 

それをごまかすことはできない。認めると、トウカイテイオーはあちゃーと額に手をやった。

 

「じゃあ、秘密ね、それと競争!」

「競争?」

 

僕が聞くとトウカイテイオーは笑って頷く。

 

「どっちが良くなるか競争ね!」

 

良くない言い様だ。だがトウカイテイオーの天真爛漫というか、人当たりの良い感触は悪印象を与えにくいようだ。僕も笑って握手をする。

 

そうして僕たちはウマ娘たちの診療を終えた。

 

 

 

 

春前のある日。大学の春休みで一也と宮坂、それに大学の同級生が村を訪れていた。

そんな日でも勉強は欠かせない。今日は一也も合わせて偶然遭遇した冠動脈バイパスのシャドー手術をやることにした。

深夜の手術室に患者はいない。僕と一也2人の声だけが響く。

 

「吻合完了、ブルドッグ解除。心エコーで血流を確認」

「よし…続いて右冠動脈をバイパスする!」

 

シャドーの想像の中でも、集中を研ぎ澄ませば患者の姿をイメージできる。お互いの練度が高まるほどシャドーは早く、正確に進む。

正直に言うと一也と普通に話すとイラつかされることがある。だが、必要な事を話し、練度を高める、この時間は嫌いではなかった。

 

シャドーを終え、ノートに今日の症例を書き連ねていく。復習としてノートをペラペラとめくっていると、見覚えのある名前があった。

トウカイテイオー、メジロマックイーン。時間をかけて再戦を誓った2人のウマ娘。

僕はふと、トウカイテイオーの言った言葉を思い返す。

 

「僕は恵まれている、か…」

 

僕も考えを変えた。過去はともかく、今の僕は恵まれている。今はそれを受け入れて、自分を高めるしかない。一也に、いずれドクターKとなる彼に負けないために。

 

「譲介、どうしたんだ?」

「いや、なんでもない」

 

戻ってきた一也に気づかれないようノートを片付ける。だが一也は何か勘付いたのか不思議そうな顔をした。こう言うところではカンの鋭いやつだ。

 

「…ノートを見返していて、例のウマ娘たちがどうなったか気になっただけだ」

「ああ、そうか。連絡では後遺症はないそうだね。経過は良いようだが…」

「本来の実力を取り戻せるかは分からない、か」

 

医学にも、人間やウマ娘の体にも限界はある。トウカイテイオーとはいえ2度目の奇跡を起こせるかは分からない。それでも、

 

「それでも、2人は自分たちのレースを走るんじゃないか」

 

思わず呟く。自分で言って何か腑に落ちた感覚があった。僕が見た彼女たちの関係は。僕がどこかで理想としている二人の関係はどう言うものなのかについて。

 

「自分たちのレースか…」

 

僕がそういうとは思わなかったのか、一也が意外そうな顔をする。

 

「何だよ、K先生も言ってただろ。二人は患者としても一流だ。ちゃんと前に進める。それに2人は…」

「二人は、何だ?」

 

思った言葉を言いかけて僕は止める。どうもこいつと医学以外の話を続けるとペースが狂う。

 

「…何でもない。明日も早いんだ。早く片付けよう」

「何だよ、気になるな。言えばいいのに」

「宮坂のことでも気にしてろ」

 

途端に慌てる一也を無視して、僕は片付けを終える。

戻ろうと通りかかった窓の外には、早咲きの桜が舞っていた。思わず足を止める。

一也が僕の視線を追って妙に嬉しそうに笑った。全く腹の立つ奴だ。僕が思い浮かべた夢をお前がわかるはずもないだろうに。

 

 

いつかの明日、桜の舞うグランド。2人のウマ娘が向き合う。

言葉を交わした二人は、スタートラインに立ち、緩やかに足を前に出して構える。

片方の、紫がかった芦毛のウマ娘が弾いたコインが地に落ちる。

2人は最高のスタートを決めて駆け出す。

 

僕が見たのはそう言う夢だった。

僕が二人に感じたのも、そうありたいとも望んだのも、そう言う関係のことだった。

二人はきっと、明日をかけるライバルである。

 




・医学的知識については素人です。根拠がありません。
・トウカイテイオーの病気、遺伝に関しては完全な創作です。
・メジロマックイーンの怪我、繋靭帯炎に関しては馬の繋靭帯炎、および人の腸脛靭帯炎を混在させてモデルとしています。
・馬の屈腱炎、繋靭帯炎に対しての幹細胞治療はこの作品の時系列より以前、恐らく2000年代には存在します。有名所ではカネヒキリが2007年に屈腱炎で幹細胞治療を受けて復活。G1、Gpn1を3勝しています。また、近年ではデアリングタクトが繋靭帯炎で幹細胞治療を受け復帰、重賞競走で好走しています。


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道連れ

・アプリ版フジキセキシナリオ(シニア期)。K2は441話以降
・宮坂詩織視点。
・K2頻出病名
・遺伝子構文


私、研修医、宮坂詩織。

K先生のN県T村の診療所からここK県S市の高品総合病院にトレードされて1年近く経ちました。

現在は耳鼻科研修中の身であります。しかし─研修医生活にも色々問題がありまして─。

 

「宮坂ちゃん、また一緒にエステ行く予定入れられない?誰か道連れにしたいの」」

「…珍しいわね、由貴ちゃんがそんなにエステ行きたがるなんて。私の方は良いわよ。効果に気づいてもらえるかわからないけど」

 

お昼兼研修医情報交換会は緩い雰囲気の場です。私は由貴ちゃんの話に答えつつ、横の席で昼食をとる黒須一也君に目をやりました。以前エステに行った時は全く肌の違いに気づかなかった前科持ち男。視線と話の流れで悟ったのか、慌てた様子で目線をそらしました。由貴ちゃんは声を潜めて話を続けます。

 

「今私ウマ科に研修に行ってるじゃない?さっき検査に、フジキセキさん、っていう有名なウマ娘さんが来られたんだけど…」

「フジキセキ!?」

「トップウマ娘じゃない!私ファンなんだけど!?教えてよ!」

 

由貴ちゃんの言葉に昼食休憩に集まった研修医全員がどよめきました。私は頭の中で黒の短髪に、麗人と言い表したくなるような顔を思い浮かべました。ここ1、2年でウマ娘のトップレースであるG1、3冠競争で活躍する、大変有名なウマ娘さんです。その美貌、そしてシニア期に入ってからは適正距離という限界に挑むようなレースで人気を集めています。日本に生きていればテレビや紙面で確実に顔を見ると言ってもいいでしょう。個人的にも、毎回録画してレースを見るくらいにはファンなのです。

 

「もう、同じ作画、素材なのかって顔と肌の違いと、嫌味のない、爽やかな香水の香りでさぁ。良い娘なんだけど女としては勝手に自己嫌悪を…」

 

心の中で深く同意を覚えます。由貴ちゃんは贔屓目に見なくても整った容姿です。しかしフジキセキさんの方はテレビで見てもいい匂いがしてそうな美貌の持ち主でした。

(それを言ったら私はどうなるのよ!)

という呟きは飲み込みます。童顔低身長の私は長身の一也君と歩くと普通に親子に見間違われそうな有様なので、自分で自分を傷つけない術は長けているのです。話題を変えるために由貴ちゃんに質問をします。

 

「でも、お肌はともかく、匂いの方は仕事中は難しくない?」

「あー、それもそうねぇ。うーん、ウマ娘さんは匂いに敏感だし、宮坂ちゃんも耳鼻科の外来研修中だったわよね?」

 

由貴ちゃんにも懸念が伝わったようで、お互いに頷きあいます。医師は菌や薬剤、患者さんの症例を匂いで判断することがあるので、診療の時は香水などを避けなければなりません。私も前回アロママッサージに行った後、名残惜しさを感じながらも念入りに匂いを落としました。悲しいですが女性医師は大抵香水の銘柄よりも薬の種別の方に頭を使う職業なのです。

 

「うん、まぁでもエステは行きましょう!今度こそ誰の目にも分かるほど輝く肌になってやるわ!」

 

悲しみを振り払い、気合いを入れて宣言します。私の熱に若干気圧されながら、隣の一也君が真剣な目つきで口を開きました。

 

「…あー、ところで、フジキセキさんの検査というのは?」

 

結局話が戻ってしまいました。ただ、ファンとしては確かに気になる事柄です。私も由貴ちゃんの返事に意識を向けます。

 

「ああ、定期的な足の検査ね。ちゃんと指導医の先生がやって問題なしだったわ。疲労が溜まりやすいから、トレーナーさんが良く気をつけているらしいわ。今日も一緒に来てたけど、すごい熱心に質問をする人で…」

「斎藤さん、必要のない患者さんの情報は広めないように」

「うっ、双葉さん」

 

横にいた診療看護師の双葉さんが釘を刺し、由貴ちゃんが言葉を止めました。確かに真っ当な指摘です。ただ、ファンとしては少し気になります。フォローも兼ねて私は別の事を尋ねることにしました。

 

「その、フジキセキさんがどういう風な事情でうちの病院に?」

 

双葉さんは看護師さんの横のつながりで病院内の事情に詳しい方です 。内情や仕組みについては研修医に対する指導として話してくれることがあります。今回も双葉さんはちらり、と私を見た後、口を開きました。

 

「基本的にはトレセン学園は近場の病院、深刻な場合には都内病院を利用します。ただ、高品総合病院はトレセン学園から3、40分程の場所で、院長の方針でスポーツ関連の受け入れも多く行っています。それでマスコミや一般の目がある為に、一時的な検査や手術などでお忍びの用の場合、ウチが使われることがあるのです」

 

…普段の2、3倍位の速さと熱量で言葉が投げつけられました。双葉さんは自分でもボディビルをするので、アスリートの方々にびっくりするほど敬意を持っています。

 

「なるほどぉ…」

 

納得しかけたところに厳しい言葉が続きました。

 

「ですから!間違ってもウマ娘の方々にこちらが迷惑をかけることは許されないのです!」

 

及び腰になる私たちに、双葉さんがギュッと睨みつけて言葉を締めました。

 

「そういう話は内輪のみで。コンプライアンス、個人情報保護の側面もあります。くれぐれも外に漏れることがないようお願いしますね!」

「はい!」

 

あまりの剣幕に由貴ちゃんが剣道仕込みの背筋を伸ばした姿勢で答えます。一也君と私はその横で思わず顔を見合わせました。

 

 

お昼兼研修医情報交換会を終え、耳鼻科の外来に戻りました。椅子に座ってから、お昼の会話が頭に浮かびました。外見はともかく、確かに匂いはどうにかなるかもしれません、

(でも匂いかぁ…)

私は伸びをするふりをして自分の袖を嗅いでみます。大変馴染みのある消毒液の匂いです。医師とはいえ女性としては少し悲しいことです。看護師さんの目もあるので、何事もなかったふりをして外来の患者さんを待ちます。入ってきた患者さんが私を見て少し驚いたような様子を見せました。あなたが本当に担当医さんなのか、大丈夫なのか、という視線です。この場合は何事もなかったふりをして診療を始めます。研修医が言い繕っても何にもならないので、仕事で信頼を勝ち取るしかありません。

 

高品総合病院の外来研修は人員の関係で主に2パターンに分かれています。指導医の先生についてもらって二人で外来診療を行う場合。研修医一人で外来を行って結果を後で指導医の先生に報告してフィードバックをもらう場合。以前お世話になった内科は前者で、指導医の村川内科部長の診療を後ろで見ていたり、逆に見ていただきながら私が診療する、ということもありました。この日の午後、耳鼻科の研修は後者で、私一人で(後ろには看護師さんもいるが)外来診療をすることになります。

 

幸い最初の数人はそこまで深刻な病気でもなく、症例もはっきりしていました。どこかホッとしながら、次の患者さんに入ってもらうことにします。

 

「〇〇さん、どうぞ」

 

足音は二人分でした。同席者がいる場合もあるので、気にせず先に問診票を確認します。20代男性、既往症は無し。主な症状は数週間程喉の痛みが続いている、とのこと。足音が近くまで来た時、ふわり、と良い香りがしました。目線を上げるとまず目に入ったのは、短く髪を揃えた、ピシッとした若い男性。その傍らにもう一人、若い女性の人が連れ立っていました。帽子の下に覗くのは、マスクをしてても関係ない絵から出てきたような整った顔。そこから真剣な目が眼鏡越しに私を見ています。 

ま、まつ毛が長い。とても同じ生き物とは思えない…・!

(あれ、良い匂いと、すごい美人…・あっ!)

目の前の女性と記憶のレース後インタビューが一致し、私は血の気が引くように感じました。フジキセキさんです!

(ほ、本物じゃない!)

 

 

「すみません、診察していただきにきたのですが」

 

私が、混乱して4度見か5度見に入ったあたりで、男性の方が間に入り、声をかけてきました。それで私はようやく正気に戻ります。

 

(何やってるの私!患者さんはあくまで男性の方でしょ!)

男の人の言葉に私は何とか見る向きを変えます。美貌でペースを乱されそうになったのは初めてです。男の人は、少し疲れは見えるが外見上は健康そう。ウマ娘連れ、ということはご家族か、トレーナーさんでしょうか?

 

「はい、よろしくお願いします。自覚症状は、喉の痛み、ということで良いですか?」

 

何とかペースを取り戻すため、真剣な表情を作って問診を始めます。

 

「!はい、3週間程前から軽い痛みと咳が続いていて…」

 

診察を始めると、男性とフジキセキさんが少し驚きを見せたのに気づきました。フジキセキさんと違って私の場合、童顔低身長の外見は8割位の確率で損です。診察の途中、フジキセキさんがどこか不安げな様子で言葉を付け加えます。

 

 

「トレーナーさん、耳鼻科と薬のことも」

「ああ、そうだった。すみません、実は10日ほど前に近所の耳鼻科に行って、1回診療してもらったんです」

「!その時はどのような事を言われましたか?」

「おそらく風邪の症状だろう、と。あ、お薬手帳を持ってきてます」

 

 

 

カバンからお薬手帳が取り出されます。

 

(痛み止め、抗生剤…基本的な喉風邪の処方ね)

「薬を飲んで効果はありましたか?」

「それが薬を飲んでも、痛みと咳は全然治らなくて…」

 

トレーナーさんが辛そうに俯きます。

 

「だ、大丈夫です。大抵の場合、効果的な投薬をすれば症状は治まりますから」

 

 

病気が治らない恐怖と苦しみは大変なものだから、と思って私はフォローします。ですが続いた言葉は違うベクトルのものでした。

 

「すみません、本当はフジ…、この子の検査の予定だけで、こんなに私のことで迷惑をかけることになるとは…」

(いや、自分のことは無視かい!)

 

流石に突っ込もうと思いましたが、その前にフジキセキさんが目を細めてトレーナーさんの肩を掴みます。

 

「トレーナーさん?君が休日も夜遅くまで、私のトレーニングやスケジュール管理をしてくれているのは知ってる。トレーナー室で仮眠中の君がすごく咳き込んでいた時は、本当に救急車を呼ぼうかとも思った。このままじゃ、私は心配でトレーニングに取り組めないよ?」

「ご、ごめんフジ…」

 

懇々と諭すフジキセキさんにトレーナーさんは平謝りです。何とか場を納めて診察を続けます。

 

 

まず診察中に気づいたことは、本当に二人がお互いを気にしている、と言うことでした。マスクを外す時に一瞬フジキセキさんの方を見たのは感染を恐れてのことでしょう。

(すごく信頼関係の強いパートナーなのね…)

診察に関しては、風邪などの症状はありません。続いて聴診を行います。やはり異音などは認められません。ただし、検査のため横になってもらった際、明らかにわかるほど咳が多くなりました。

 

 

「喉、鼻に原因は無い、痰はなし、平熱…」

(聴診でも気管支炎のような雑音もない、うーん?)

しばらく検査をして私は考え込見ます。確かに咳はあるのですが、それ以外の症状は発見できません。これだけでは咳の原因がわからないのです。

 

耳鼻科の範囲内では咳以外に問題はありません。外来診療としての模範解答はこうでしょう。

”ひとまず、炎症を抑える薬を処方しますので、それで様子をみてください。症状が続いたり、何か変化があれば再来院を…”

 

(だけど、本当にそれで良いの?)

 

その内容を口に出そうとして私は言葉を止めます。耳鼻科の対応としてはこれで良いはずです。時間内で必要な検査はしました。見逃しはないはずです。外来としてこれ以上時間をかける事はありません。しかし、なんとなく違和感があります。

 

(これがもしあの村の診療所なら、そのまま帰す?これがもし、一也君の診療であれば、ここで諦める?症状の原因がわからないまま放っておくことはできないわ!)

 

「何か?」

「いえ、申し訳ありません、やはりもう少し原因を探ってみましょう」

 

 

後で無駄手間と怒られるかもしれませんが、耳鼻科の上長の先生、それと別科への受け渡しも考えたほうがいいでしょう。それに、と私は心中で覚悟を決めて会話を続けます。

 

「〇〇さんには別室でもう少し質問に回答していただけますか?お手数ですがフジキセキさんにはお待ちいただいていいでしょうか」

「え、…私ついていくことは出来ないでしょうか?」

 

なんとなくこちらへの不信感を表しながらフジキセキさんもこちらを見ています。病気が原因もわからず、治らない場合は本人や周りの人にストレスがかかるものです。ちゃんと答えなければいけません。

 

(医者は患者の前では自信を持たなくてはいけないのよ!)

「原因の確実な特定のため、普段の生活環境からお聞きしたいのです。少し時間もかかりますのでフジキセキさんにはお待ちいただきたいのです。気になる事があったので確認したいと思いまして!」

私はできる限り胸を張って二人の顔を見上げます。

 

フジキセキさんはは少しこちらの顔を見ると、少し考え、分かりました、と頷いて部屋を出ました。

 

さて、ここからが本題です。私はトレーナーさんへの質問を始めました。

 

 

「…はい、これで良いでしょうか」

「ありがとうございます」

 

質問は数分で終わりました。私は礼を言ってメモした問診票に目を通して思います。

(…正解だったわ)

頭の中の違和感がはっきりした病名疑いとなって出て来ました。耳鼻科の領域で考えれば難しいですが、前の研修先──内科の知識に当てはめると説明が付きます。

 

 

「なるほど…。すみません、この後まだ時間はありますか。実は、耳鼻科領域ではなく、内科の方で検査をしていただきたいのですが」

 

私が提案をすると、トレーナーさんは腕時計を見て慌てたように返事をする。

「え、いえ、フジのトレーニングが」

「あります」

 

もう一度説明のために入ってもらったフジキセキさんが凛とした声で答えを返します。

 

「トレーナーさん、私の今日のトレーニングも、君が原因不明の体調不良では手が付かないよ」

「しかし…」

「彼女はプロのお医者様だ。専門家に意見があるというなら、従ったほうがいいとは思わないかい?」

 

…先ほどの問答で、少しだけ関係に変化があったようです。私は胸中で感動しながら、それを表面に出さないよう努力します。

 

「…わかったよフジ。では、すみません、宮坂先生、お願いできますか。」

「は、はい」

 

優しく二人がうなずき合います。その後トレーナーさんに声をかけられて私はどぎまぎしてしまいました。二人の様子があまりにも絵になっていたからです。

(この人達は昔の月9ドラマからでもから出て来たの!?)

混乱をかき消すためすぐに検査の手続きと、引き継ぎの連絡をして二人に説明します。最後に心からの信頼も込めて次の先生を表現します。

 

「大丈夫です。内科には大変優秀なお医者様がいるんですよ!」

 

 

 

2時間後、検査が終わりました。内科の診察室で、トレーナーさんとフジキセキさん、そして何とか事情を説明して立ち会わせてもらった私が診察を待ちます。

 

「なるほど、咳、喉の炎症、原因が見つからなかった、と」

 

”大変優秀なお医者様”がおぼつかない様子でキーを叩きます。二人は先ほど私が勝ち取った信頼が早くも薄れたような目線でその姿を見ていました。

 

「なるほど、あれ?…・えーと問診票はどのメニューを開くんだったか…・」

「あ、はい、そのキーです」

 

私は慌ててパソコンの操作を手伝います。灰がかった髪をかきながら村川内科部長が説明を受けます。部長は残念ながら情報機器の扱いが致命的にできない方です。私が研修先を変わっても欠点はそのままだったようです。

 

「あー、これですか、さて…・」

 

先ほど説明してもらった問診の内容が辿られます。私も許可を得て、最初の診断医として随行したので、まるで答案の答え合わせを目の前でされているような気持ちです。

 

「ふむ、なるほど、では宮坂さん。何故内科での再検査を進めたのか、説明していただけますか。

 

穏やかな言葉のまま、部長が私に尋ねました。思わず背筋が伸びます。この人は大変腕利きのベテラン内科医なのです。難手術経験を持ち、最新医療にも造詣が深い。私が疑っている病名にはすでに気付いているでしょう。私が研修中ということ、そして患者さん達の信頼を確かめるための質問です。

 

「はい、まず、喉の痛みという事で確認を行いましたが、炎症のみで原因が見つかりませんでした。そして患者さんと近くの方のお話では数週間ほど前から喉の症状と思われる咳が続き、風邪薬、抗生物質などを服用しても症状が治らないという事でした」

「はい、そうですね」

 

頷く部長、私は彼と、何より患者さんに説明するように言葉を選ぶ。

 

「耳鼻科領域では抗炎症薬を処方して診断を終了する予定でしたが、患者さんの会話から生活習慣の乱れがあると感じ、追加で問診を行い、内科への受け渡し、必要と思われる検査を行いました」

「なるほど、それでこのような流れになったわけですね」

 

頷いて部長がコンピューターを操作しようとします。──上手くいかなかったので、私が代わりに操作して問診票を拡大表示にしました。

 

「ありがとうございます。さて、喉の痛みとなると、喉や、上部にある鼻に原因があると思われがちです」

 

そのためにまず耳鼻科を診察されたのですね?と聞くと、トレーナーさんがうなずきます。

 

「ですが、それ以外にも喉の痛みが発生する場合はあります。問診票、特に宮坂さんが気にしたのは、毎晩の睡眠時間、食後2時間以内の睡眠という場所ですね」

「!はい、その通りです。トレーナーさんは、直近の睡眠時間が平均5時間、また食後2時間以内の睡眠が週に3回以上ある、と答えられました」

 

私は近くにあったホワイトボードに、24時間の円グラフを書き込みました。先ほどトレーナーさんから聞き出した、ここ最近の彼のスケジュールです。明らかに短い睡眠時間、不規則な食事。特に忙しい時期は食べてそのまま仮眠を取る、と言うことも添えます。

 

トレーナーさんが黙って首肯します。フジキセキさんが少し悲しそうな表情を浮かべたのが見えました。トレーナーさんはフジキセキさんに隠していたのでしょう。実際、トレーナーさんの気遣いから、そうなる可能性が高いと思って追加問診時別室で行ったのです。部長が私の説明を引き継ぎます。

 

「特にそのような生活習慣があり、喉の炎症がある場合、内科領域ではいくつかの検査が必要となります。宮坂さん、胃カメラは行いましたね?」

「はい、こちらです。説明のため胃と食道部を撮影しました」

 

私は先ほどのトレーナーさんとの会話を思い出しながらパソコン画面に表示されたボタンを指しました。

 

”「では検査のため胃カメラを使用します。よろしいですか?」

「え、咳なんですが、胃カメラなんですか…?」

「はい、上部の鼻、喉ではなく、下部の腹部側から咳に繋がる場合もあるんです」”

 

まさしく、トレーナーさんの咳の原因が画となって表示されます。

 

「分かりますか?食道にかけて炎症が見られます」

 

トレーナーさんの食道部分にはただれたような炎症の跡がありました。喉の食道部分の炎症、これが咳の原因です。部長が続けて病名を告知します。

 

「あなたは逆流性食道炎だと思われます」

「逆流性食道炎…!?」

 

トレーナーさんとフジキセキさんがようやく明らかになった病名を口にします。身近に患者がいなければ知識が少ない病気かもしれません。村川部長が説明を続けます。

 

「寝る姿勢の際、胃液が逆流して喉を傷つけてしまう病気です。胸焼け、胃の痛みの他、稀に咳など喉の症状が発生する場合があります。原因としては、先ほど宮坂先生に説明していただいた生活習慣からくる可能性が高いでしょう」

 

単体では、投薬と生活習慣の改善で治療できる病気ですよ。と説明をした後、部長はただし、と釘を刺します。

 

「ただ、別の病気の症状として逆流性食道炎が現れる場合もありますの。時間はあるということでしたね。念の為細かい検査もしましょう」

 

看護婦さんに指示を出しながら村川部長がトレーナーさんに声をかけます。その後、フジキセキさんと私に目が向きました。

 

「あ、宮坂先生、お連れさんと一緒に別室で待っていてもらえますか?」

 

「…!分かりました。こちらへ」

 

内科部長が私の目を見て言いました。目線から何となくの意図を読み取ります。フジキセキさんのメンタル面に関する気遣いでしょう。私は同性で、医者として説明ができます。。患者の側の人達をケアするのも医者の仕事の一つなのです。

 

「どうぞ、紅茶で良かったですか」

「…あ、ありがとうございます」

 

待合室。考え事をするフジキセキさんに飲み物を持っていきます。ついこの間まで研修していた場所なので、ナースステーションには顔が効くのです。まずは黙ってフジキセキさんの様子を確認します。第一印象と変わらず、本当に綺麗なウマ娘さんです。ただ、帽子とマスクで顔を隠し、明らかに沈んだ様子でいると、テレビに映る、この国を代表するウマ娘さんではなく、ただ傷ついている年頃の女の子にしか見えません。

 

やがてフジキセキさんが口を開きました。

 

「…トレーナーさんは、これからどういう治療になるんでしょうか」

「根本治療に関しては、村川部長の検査次第ですが…」

 

…来ました。治療法自体は頭に入っています。まずは胃薬のように、胃の働きを緩やかにする薬の服用で食道、喉の炎症を抑えます。そしてその対症療法後に根本原因、つまり生活習慣や他の病気で問題があるか確認し、治療していく、と言う流れです。あとは出来る限り言葉を選んで話すだけです。

 

「…なるほど、原因にもよるけど、治療できる病気なんですね」

「ええ!単純な場合であれば、お薬と生活習慣の改善だけで治ります」

 

なんとか元気付けられるように言い切ります。しかしフジキセキさんの表情は暗く、下を俯いたままでした。

 

「生活習慣か…」

「…何か不安な事はありますか?健康上のアドバイスであれば私にも出来ると思いますが…」

 

私はなんとか食いつくようにフジキセキさんに問いかけます。患者や関係者を不安なまま帰してしまうのはよろしくないのです。フジキセキさんはようやく顔を上げ、私と目を合わせました。

 

「はい、ありがとうございます。宮坂先生。…少し、トレーナーさんのことについて考えていたんです」

 

そう言うとフジキセキさんは少し言い淀みました。

 

「…私が全距離G1を目指しているのはご存知ですか?」

「…!ええ!勿論!個人的にも凄いファンなんです!本当に今目の前にいるのが信じられない位です!」

 

何なら敬語もやめてください、と熱を込めて私が言うと、フジキセキさんは笑みと苦味の混じったような複雑そうな表情を浮かべました。

 

「うん、そうですね。…そう、全距離G1は、他の人やウマ娘の子達に、何にでも可能性はある、と言う事を見せたくて私が考えた事なんだ。他のウマ娘がやったことがなくて、険しい道かもしれないけど、挑む価値はある、とずっと思ってる」

 

フジキセキさんはつかれたように言葉を続けます。

 

「私は厳しいけど、やってみたいと思える道を選んだ。今もそう思ってる。でもそこにトレーナーさんを巻き込んでしまった」

 

フジキセキさんが私を見ます。

 

「さっき、私を離してトレーナーさんのスケジュールを聞いたのは、彼が私に気を使って嘘を言うかもしれない、って思ったからだよね?…多分実際にそうだった。私が彼を追い詰めてしまった」

 

言い当てられて私は答えることができません。フジキセキさんは悲しげに不安を吐き出しました。

 

「…私は自分が傷つくかもしれないとは思っていたけど、一緒にいてくれる彼が傷つく事は考えていなかったんです。私は───トレーナーさんを無理やり、道連れにしてしまったんでしょうか?」

 

目の前にいる、日本でもっとも有名なウマ娘さんは、どこにでもいる、ひどく悩んでいる一人の少女のようでした。私は、彼女の目の前にいながら何故か昔のある出来事を思い出していました。ある村の手術室で秘密を打ち明けた男の子の事です。これは難しい問題です。だからこそ、私が答えなければいけないのでしょう。

 

「…少し、私のことを話しても良いかしら」

 

私が聞くと、フジキセキさんはうつむいたまま頷きます。

 

「耳鼻科の先生は、耳鼻科が専門領域なの。だから本来は外来で咳の原因がわからなければ、それ以上の検査はしないわ。総合病院の専門医はそれも正解って言うでしょうね」

 

でもね、と話を続けます。

 

「私の同期ならば、一人の患者さんに寄り添って、どんな怪我や病気も治してみせるのが正解、と言うでしょうね。彼が目標にしているのは、ある村の、どんな領域にも精通している凄いお医者さんなだから」

 

話しているうちに、私の頭の中には二人の白衣の姿が浮かんでいました。自然と話に力を入れてしまいます。

 

「その二人に魅せられて、私は医者になる道を自分で選んだの」

 

出来る限りフジキセキさんに伝えられるように言葉を選びます。

 

「私はその、同期の人と同じ道を行きたいと思った。他にも進んでみたい道はあったけど、私は望んで医者の、スーパードクターを一緒に目指すって言う道を選んだの。勉強が辛くても、ボロ雑巾みたいな気分になっても構わない。私の場合、無理やり道連れにされたんじゃなく、望んで同じ道をついていくのよ」

 

言い切ってから、話が本筋から離れていると思って、少し言葉を付け足します。

 

「…だからあなた、いえ、あなたたちのどの距離のレースに勇気に勝手に勇気をもらったの。だからこそ私が思うのは」

 

そして私なりの結論を言います。

 

「トレーナーさんの進退はあなたが一人で黙って考えることじゃないと思う。トレーナーさんが選んで、それにあなたがどうするかの問題じゃないかしら」

 

フジキセキさんはこちらをみながら黙っていた。

(しまった、無理やり言いすぎたかしら…)

 

何か繕う言葉を言おうとした時、フジキセキさんがパッと顔をあげました。

 

「握手してください」

 

え、と思うまもなくお茶の間の人気者の手と顔が目の前にありました。びっくりするほど良い匂いを感じながら、近くで彼女の言葉を聞きます。

 

「…最初に見たときは、若い先生で大丈夫かと思った。だけど、私たちを診てくれたのが宮坂先生で本当に良かった」

 

握られた手からは、先ほどの弱々しさではなく、確かな力強さを感じます。それから私たちは待合室で握手した気恥ずかしさに思わず笑いあいました。

 

 

私たちはそれからしばらく、生活習慣の改善について話しましたが、肝心の本人と検査結果が戻りません。それで別のことを話すことにしました。

 

 

「宮坂先生はその同期の人といて、一番ドキドキした瞬間ってどう言う時だった?」

「ど、ドキドキ!?」

「参考に聞いておきたいんだ」

 

あまりの気安さに、私は思わず頭を抱えそうになリました。一也君とは高校からの付き合いです。頭の中では言いたくない事、あと一也君の出生やお母様の事、テロなど言えない事が入り混じっています。どうにか整理をつけてひねりだしました。

 

「えーと…、土砂崩れと、カンフーハッカーと、あとは…」

「…ええ?命の危機のドキドキが来るとは思わなかったなぁ…」

 

フジキセキさんのツッコミに私は本当に頭を抱えました。

(しょうがないじゃない!どっちも多いのよ!)

 

「うーん、今いった通りだし、なんの参考にもならないと思うけど…。と言うか、何の参考にするの?」

 

私はとりあえずの疑問を投げかけます。フジキセキさんは少し恥ずかしそうにしながら答えます。

 

「いい香りがする人とは遺伝子的に相性がいいんだって聞いた事があって…」

 

あまりの内容に私は思わず絶句しました。照れながらもフジキセキが爆弾発言を続けます。

 

「…前にトレーナーさんと一緒にいた時、いい香りだなぁ、って思って、話した事があったんだ」

 

(な、何を聞かされてるの私は…。フジキセキさん意外と過激…!?)

こちらも思わず一也くんのいる記憶を思い出してみます。残念ながら毎回消毒液と血の匂いが強すぎて一也君の匂いがわかりません。

 

こちらの様子を見て、フッと笑いを浮かべ、フジキセキさんが続けます。

 

 

「その時から、トレーナーさんの事が本当に大事だとわかったんだ。でも、だからこそもし彼が休みたかったり、離れたい、っていう事なら、私はそれを受け入れなければいけないんだろうね」

 

寂しそうな彼女に、私は何故か今度は、妙に確信を持って答えました。

 

「…でも、トレーナーさんの事を見てると、そうはならないんじゃないですかね。」

「…そうかな、…あ!」

 

 

フジキセキさんの目線を辿ると、検査室の扉が開き、村川部長とトレーナーさんが出てきました。

 

 

「…検査結果はどうでしょうか」

 

私たちはもう一度同じ診察室に戻りました。質問に、村川部長は説明はしましたか、と確認し、頷きを見てから答えました。

 

「検査の結果、他の異常は認められませんでした。胃薬を出し、生活習慣の改善を心がけてくださいね。状態の確認のため、期間を空けて来院していただく形になります」

 

私はほっと息を漏らしました。通院のスケジュールを決めた後、ふと横を見るとフジキセキさんはまだ表情を引き締めたままです。彼女とトレーナーさんの結論はこれからです。

 

トレーナーさん村川部長に礼を言い、覚悟を決めたようにフジキセキさんに向き合います。

 

「フジキセキ、改めて言わせてくれ。俺を君のトレーナーでいさせてほしい!」

「…私の側だと忙しいよ、辛くないかい?」

 

思わずすぐに答えそうになりながら、しかしフジキセキさんの方が辛そうにトレーナーさんに聞きます。トレーナーさんが目を伏せました。私は思わず息を飲みます。しかし続く言葉は別のベクトルでした。

 

「迷惑をかけてごめん、もしかしたらこれからも、通院で君に迷惑をかけるかもしれない。でも、ちゃんと体調は治す。生活環境も気をつける。俺はフジキセキの夢を叶える姿を近くで見ていたいから、もう一度、トレーナーとしてそばにいさせてほしい!」

 

もう一度トレーナーさんが宣言し、今度こそフジキセキさんが表情を緩めました。

 

「…私も、君がそうしたいなら、一人芝居にする気は無いよ。君は元のまま、これから先も私のトレーナーさんだよ」

 

答えてから、良かった、と呟いてフジキセキさんはトレーナーさんに身を寄せました。お二人は手続きを済ませ、お礼を言って帰って行きました。暗くなった駅への道を二人の後ろ姿が歩いていきます。

 

見送る私の心にはある疑問が残ったままでした。

(あれ、さっきから身を寄せたのって、匂いを…?)

 

 

 

 

「あ!宮坂ちゃん、それって…」

「ふふん、そうなの!由貴ちゃんも貰ったんだよね?」

 

更衣室で私は由貴ちゃんに香水の瓶を見せます。フジキセキさんがCMに関わっているブランドの物です。もちろん仕事中の普段使いはできませんが、休日や帰るときには軽く付ける事が出来ます。今日の私は早番なので、昼前に帰る準備をしながら少しだけ贅沢をします。

 

「うん、私も頂いて使ってるわ。…でもフジキセキさんもトレーナーさんも流石よね。外には一切バレずに第一線で勝ち続けているんだから」

 

事情を知る由貴ちゃんの言葉に私は頷きました。幸いにもトレーナーさんの症状は軽症で、あれから生活環境の改善を、フジキセキさんに支えられながら行ったそうです。そして二人はそのまま各距離のG1挑戦を続け、今もトップウマ娘として活躍中です。私たちは話しながら休憩室に向かいます。実はあれからフジキセキさんのことになるとどうしても一つ思い浮かんでしまうのです。

 

(どうしても!フジキセキさんが時々トレーナーさんの匂いを堪能しているように見えてしまう!)

 

毎回テレビにお二人が出るたびに距離が近いのです。お二人の仲むつまじさと匂いの相性の話のせいで、邪念が湧いてしまうのです。精々が帰りに香水を匂いが映らない程度にだけつける私には関係ない話ではありますが。

 

「…わっ」

 

考え事をしていると、階段につまづいて私はバランスを崩しました。

ぐらつく視界。消毒液と洗剤の匂いの中、ふっと安心するような香りがしました。

 

「宮坂さん?大丈夫?」

 

気がつくと落下は止まっていました。背中に感じるのは、覚えのある、逞しい手。顔を見なくても誰だかわかります。

「…ありがとう!」

急に恥ずかしくなって礼だけ言い、彼の顔を見ずに休憩室へ向かいます。

備え付けのテレビにはちょうどこの間知り合ったウマ娘さんがが迷い無い顔で話していて、その横には当然のように、ビシッとしたスーツの男性が付き添っています。

 

「宮坂さん、隣良いかな。あれ、香水をつけてるの?」

 

少し間が空いた後、私の右隣には当然のように彼が腰掛けます。珍しく、私の身なりになど話をつけました。視界の端には研修の同期連中の好奇の目が見えます。きっと彼は見かねた周りに急き立てられたのでしょう。

 

「ええ、今日はこの後上がりだから。─どう、いつもより良い匂いかしら?」

 

私は半分ヤケになって彼に尋ねます。

(何か気の利いた言葉でも、返せるものなら返してみなさいよ!)。

彼は少し考えてから言葉を返しました。

 

 

「うーん、いや、俺はいつもの宮坂さんの香りの方が安心して好きかな?」

 

 

左で由貴ちゃんが天を仰ぎます。普通に考えればデリカシーのない良くない返しです。しかし、今の私にとっては…

 

 

「あれ、宮坂さん、大丈夫?顔が赤いけど…」

「…知らないわ!」

 

化粧にも肌にも気づかないのに、こちらの紅潮は当然の読み取るのも悪いところです。私は誤魔化すためにスパイスを多めにかけ、お昼ご飯をかきこみます。心配するように、視界に彼の顔が覗き混んできます。辛味に麻痺する嗅覚で、ふっと、またどこか安心する香りを感じました。頭の中にフジキセキさんの質問が浮かびます。

 

”「宮坂先生はその同期の人といて、一番ドキドキした瞬間ってどう言う時だった?」”

 

私が一番ドキドキした時。高校時代、村のバス停、はしたなくも”そばにいたい”と宣言した相手━━黒須一也君━━はこちらの想いも分からぬ顔で、変わらぬ匂いで、相変わらず楽しそうに私の横に座っています。

私、研修医、宮坂詩織。スーパードクターの道連れはまだしばらく続きそうです。

 

 

 

 




・医学的知識については素人です。根拠がありません。
・突然一也×宮坂さんが見たくなったので別短編を書きました。そのためタイトルを変更しています。
・ネタが思いつかずトレーナーを病気にしました。感想、ネタ募集中です。


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