名前を残してはいけないあの人 (ゆーてき)
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prologue
01 あっちをちょこちょこ


 

「やあ、アルバス!」

 

 前触れもなくかけられたその声に、アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアはひゅっと息を詰まらせた。

 とても覚えがある声だった。忘れようがない声だ。人間、最初に忘れてしまうのは声だと聞いたことがあるが、そんなの嘘だと言わんばかりに、アルバスは何よりも鮮明にその声を覚えている。

 

 アルバスは震えてしまってろくに字も書けなくなった羽ペンを、ペンスタンドへと差し戻した。机に広げた羊皮紙には書き損じの跡が見える。

 詰まっていた息を少しずつ吐き戻して、アルバスは声の聞こえた方へ顔を上げた。

 

 校長室の真ん中。向こうの風景が少し歪んで見えて――アルバスが顔を上げた直後に、目くらまし術が解かれる。

 石のついたネックレスを首から提げた青年が、そこには立っていた。彼はひらひらと親しげに手を振って、アルバスへ笑いかけている。

 

 ガタン、と大きな音を立てて、アルバスは立ち上がった。机に置いていた手が、羊皮紙にくしゃりと皺を作るが、そんなこと、気にしてる間もなかった。

 狭い部屋、短い距離の中で、アルバスは駆けた。そこに彼が立っていることが信じられなくて、都合のいい夢だとさえ思った。だって、彼の姿は。

 

 その想像を掻き消したくて、アルバスはすぐに彼へと駆け寄った。久々に全速力で走った気がした。

 あまりの速さに自分でさえ速度を緩められないアルバスの体を、彼は少しよろけるようにして受け止めた。

 

 受け止められた。

 

 ほとんど抱きつくような体勢のまま、アルバスは彼の体にペタペタと触れた。彼の体はすり抜けるようなことなく、アルバスの手を受け止めた。

 掴んだマントの端は、ちゃんとその存在を主張するように、アルバスの手の中でしわをつくった。

 段々と、目の前が歪み始めていることに気がついた。

 

「やっぱり、アルバスだ。……久しぶりだね?」

 

 投げかけられた声に、アルバスはその顔を見た。

 そうして、そうっと、彼の頬に手を寄せた。アルバスの手の上から、彼の手が重ねられた。暖かいそれは、確かな人間の体温を感じさせた。

 アルバスの目には、今にもこぼれ落ちそうな大きな水滴が浮かんでいた。

 

「先輩、ですか?」

 

 震えた声で、アルバスは問いかけた。

 

「僕以外に見える?」

 

 そう問い返されて、アルバスは力無く、ふるふると首を振った。ぱちんとまぶたを一瞬閉じれば、溢れた水滴が頬を滑り落ちる。

 耳に響く声は、「やあ、アルバス」とこちらへ呼びかけるその声は、記憶の中にあるあの頃のまま。

 快活で、冷静で、ちょっとした時に激情を滲ませるその声は、歳をとりだんだんとしわがれていくアルバスの声と、まさに対極にあった。

 

「見えようはずがありません」

 

 アルバスは続けて言った。

 

「あなたは――あの頃から、少しも、変わっていない」

 

 そうして、皺一つない彼の肌に、指を滑らせた。

 彼の姿は、アルバスが彼の卒業を見届けた九十九年前から、一ミリも、頭の先から足のつま先まで、何一つ変わっていなかった。

 彼の体は、十八歳の時のまま、時間が止まっているようだった。

 

「あなた――いったい何を――今の今まで――どこで――どうして体が――」

「アルバス」

 

 呼吸とずれたテンポで口が動くせいで、アルバスの話す言葉は途切れ途切れだった。彼に名前を呼ばれなければ、そのまま話し続けてしまっていたかも知れなかった。

 アルバスの頬に流れた涙を拭うように、彼も頬に触れた。

 息が止まってしまいそうだった。

 彼の手が、アルバスの涙を拭った後、ゆっくりと髪を撫でた。それは幾分か、アルバスの不規則な呼吸を落ち着かせるのに役立った。

 

 アルバスはゆっくりと息を吸い込むと、まっすぐそれを吐いた。激しく脈打つ心臓は抑えられないが、呼吸はどうにか整ってきた。

 アルバスは彼の頬から手を離して、ローブの中から自分の杖を取り出した。マントを掴んだ手は離れなかった。

 手を離して仕舞えば、また気付かぬうちに何処かへと消えてしまいそうで、そんな考えをすれば、またマントを掴む手に力がこもる。

 自分のマントにいくら皺がよろうと、彼は気にしなかった。

 

「ゆっくり、話そう」

「……えぇ」

「そう、長い話にはならない」

 

 アルバスが杖を振れば、彼らの目の前に二人掛けのソファが現れた。

 二人は揃ったように、そのソファへと腰掛けた。



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02 その目は誰も見つめない

 

 アルバス・ダンブルドアには、尊敬すべき先輩がいた。

 

 

 

「僕は、アルバス・ダンブルドア。よろしく――」

 

 アルバスが差し出した手は、握り返されることはなかった。

 目の前の少年はアルバスがそう名乗った途端に、顔を真っ青に染めて、まるで悪霊の名前でも呟くように、アルバスのファミリーネームを震えた声で呟いて、自分の荷物を引っ掴むとコンパートメントの中から飛び出していった。

 アルバスは掴むもののなくなった手を無意味に握りしめて、力が抜けたように座席の上へと落とした。

 

 アルバスがいるコンパートメントを出て行ったのは、今の少年で三人目だった。

 

 他が埋まっているから、とこのコンパートメントを訪れたはずなのに、今度はどこへ行くつもりなのだろうか。

 アルバスはもう興味は無くしたと言わんばかりに、そばに置いていた呪文学の教科書を再び開いた。目は文字の上を滑るばかりだった。

 

 犯罪者の息子。そう言った汚名がついて回ることは覚悟していた。

 それでも、ここまでとは思っていなかった。

 さっきの少年には、マグルの血が流れていたのだろうか。それとも、マグル生まれだったのか。

 あの父親の血を引いているのだろうと、お前もマグルが心底憎いのだろうと言わんばかりに、さっきの少年の目には、恐れと軽蔑の色が浮かんでいた。それは、一人目の少女と、二人目の少年も同じだった。

 

 三人目が飛び出して行ってから、アルバスのコンパートメントの前には、ちらほらと人影が見えた。

 おおかた、そのうちの誰かが「ダンブルドアがあのコンパートメントにいる」とでも噂を流したのだろうと、アルバスは思った。

 まるで、檻の中の動物を見物でもするように、扉の外からチラチラと覗き見られるのは、全くもって良い気はしなかった。

 

 親交を深めようとでもしているのか、または生粋の純血主義者か。

 勇敢にもコンパートメントの中まで入ってきて、アルバスの父親の行いを褒めそやすような者もいたが、アルバスは、反応などしてやるものかと、努めて教科書の文字を追い続けた。

 最も、周囲の喧騒や、憤慨した様子でコンパートメントの扉を乱暴に開閉しながら出て行く者たちのせいで、中身はまるで頭に入ってはこなかったが――

 

「ここだね! アルバス・ダンブルドアのコンパートメントは!」

 

 ――ざわめきを打ち破ったその声には、さすがのアルバスも教科書から顔を上げざるを得なかった。

 彼は、周囲の生徒よりも頭ひとつ抜け出て高い背丈を持っていた。

 身にまとうローブには店で新調したばかりのように、どこの寮の色も入っていなかった。首からは石のついたネックレスが提げられていて、その胸元には首席(Head boy)と書かれたバッジがひとつ付けられていた。

 そのバッジのおかげで、彼が七年生であることは、一目瞭然だった。

 

 突然現れた首席に、その大胆な登場で静まり返っていた周囲も、ざわめきを取り戻し始めた。

 彼はそんな声など聞こえていないとでも言った様子で、コンパートメントの中で一人座っているアルバスに目を向けると、ずん、とそちらへ一歩踏み出す。

 ついでのように閉められた扉がピシャリと音を立てて、コンパートメントの外は再び静まり返った。みんな、耳を澄ませているのだろうとアルバスは思った。

 

「君が、アルバスかい?」

「……だったら、なんですか」

 

 驚いて顔を上げてしまったからには、答えないとおかしな空気になってしまいそうだった。

 アルバスを通して誰かの罪を見て、勝手に恐れて帰って行く者。思ってもいないような言葉で称賛して、勝手に呆れて帰って行く者。アルバスはそのどちらにも辟易していた。

 そのせいか少し、刺々しい声が出た。

 彼はその声に驚いたように目を丸くすると、コンパートメントの外をチラリと見た。そうして、何かに納得したように頷く。

 

「みんなが、『あのアルバス・ダンブルドアがいた』って噂してたから、僕の知らない有名人がいるんだと思って会いにきたんだけど――もしかして、あまり良い噂じゃなかったのかな」

 

 彼の眉が申し訳なさそうに下げられて、アルバスはキュッと口を結んだ。

 なんだか、悪いことをしてしまった気分になった。勝手に、勘違いして、期待して、コンパートメントまで訪れたのは彼の方のはずなのに、どうしてかその表情を見ると、アルバスまで申し訳ない気持ちになってくる。

 アルバスは顔をかすかに苦く歪ませて、口を開いた。そんな噂が流れた理由を教えてやらなければと思った。

 

「パーシバル・ダンブルドアというのが、僕の父親の名前です」

「パーシバル……」

 

 短く端的に切り出す。

 彼はアルバスから告げられた名前を何度か口の中で転がして、ハッと気づいたように手を叩いた。

 

「――ああ、ダンブルドアってあの! 『あの』って、そういう!」

 

 合点がいったという風に、彼は何度も首を縦に振った。

 そうしてから自分の勘違いにはっきりと気がついたのか、照れ隠しのような不思議な笑みをこぼす。

 アルバスは、目の前でコロコロ変わるその人の感情に、思わず瞬きを繰り返した。

 彼の瞳には、軽蔑の色も、恐れの色も、期待の色も、憐れみの色も浮かんではいなかった。アルバスが今まで出会って来た人間の中に、こんな人間はただの一人もいなかった。

 

「なるほどなぁ。いやぁ、ごめんね。急に突撃しちゃって。噂に踊らされちゃった、うん。申し訳ない。改めて。はじめまして、アルバス」

「……はじめまして、えっと、先輩?」

 

 いわば、彼は独善的だった。しかしそれが、どうしてか心地よい。

 彼から差し出された手を、アルバスはおずおずと握り返した。

 握った手は暖かく、大きくて、ゴツゴツとしていた。杖を握るための、魔法使いの手だ。

 

「先輩? せんぱいかぁ……」

 

 アルバスにそう呼ばれて、どこか満足げな彼の様子に、すっかりと毒気が抜かれてしまった。

 父親と自分を同一視する奴らのことが心底鬱陶しかったはずなのに、急に全くの別物として扱われると、変に落ち着かない。

 アルバスは握っていた手に少しだけ力をこめて、彼を見上げる。

 

「先輩、あなたは、蛙の子は蛙だって、思わないんですか」

「――どうして?」

 

 聞き返されたその声があまりにも純粋に満ちていて、アルバスは言葉に詰まってしまった。

 彼はフ、と一度目を伏せると、またアルバスの目を見つめ返した。

 ずっと、心の奥底まで見通されてしまいそうな瞳だった。ずっと、アルバス自身を見つめ、射止めてしまいそうな。

 

「蛙の子はお玉杓子だろう? そりゃあ、蛙にもなるけれど、君がどう成長するかなんて、まだ誰にもわからないさ」

 

 彼はもう一方の手をアルバスの手を包むように重ねて、そう言った。

 体温同士が溶け合うように、混じり合って――どういうわけか、アルバスの体温の方がどんどん高くなって行った。

 血液が沸騰するように手から首、耳に顔まで全部熱くなって、真っ赤に染め上がってしまっていることなんて、鏡を見なくてもわかった。

 

「ああー! 君、やっぱりここにいた! もう、自分の仕事ほっぽって新入生いじめに行かない!」

 

 二人の手を解いたのは、元気の良い女生徒の声だった。

 赤いローブを纏っていて、胸元には監督生(Prefect)と書かれたバッジが光っている。

 女生徒はアルバスのコンパートメントの中にいた彼を見つけると、まったく、と呆れた様子で彼を呼んだ。

 

「い、いじめてない! ナティ、待って、勘違いだ!」

「わかってるよ言葉の綾だよ。はいはい、首席様、生徒のまとめ役様、自分の義務を全うしてくださいね――ごめんね、勉強の邪魔しちゃって」

 

 ナティ、と呼ばれた女生徒はアルバスの膝の上に開かれたままの教科書をちょんちょんと指差すと、申し訳なさそうに彼のローブを引っ張る。

 台風のような勢いに、アルバスは握った手が離れているのも忘れて、ぽかんと口を開けた。

 

「あ……いえ、大丈夫です……ありがとうございます」

「あら、いい子。偉いねぇ。ちっさい頃の私にそっくり」

「どこがだい――ああっ、ちょっと待って、引っ張らないで……じゃ、アルバス、またね」

「え、はい、また……」

 

 彼が扉の向こうへ引きずられて行く様子を見ながら、アルバスはその言葉を頭の中で反駁した。

 またね、というその声が鼓膜を打ち震えさせるたび、アルバスは全身がくすぐられているような気分になった。

 結局、ホグワーツに着くまで、彼に次いで新しくコンパートメントを訪れるような勇気のある者はいなかったが、アルバスの心の中にあった鬱屈とした気分や苛立ちのようなものはすっかりと消えてしまっていた。

 

 彼は赤いローブの女生徒に引っ張られて行っていた――ということは、彼も赤いローブを羽織る寮、グリフィンドールなのだろうか。

 寮なんてどこでも良いと思っていたが、アルバスは少し、グリフィンドールへの興味を増した。

 いずれにせよ、組み分けの際に会えるだろう。アルバスは他の新入生たちに混じって、ホグワーツへ行くためのボートに乗った。

 

 

 

 結果から言えば、組み分けの儀式で彼と再会することは叶わなかった。

 組み分け帽子を被るために大広間が見渡せる舞台の上にあがったのだが、いくら目を凝らしても彼の姿を見つけることはできなかった。

 彼がどこの寮に入っているのか、確かなことはわからないまま、アルバスはグリフィンドールへと組み分けされた。

 寮に案内されてすぐに彼の姿を探したが、やはりどこにもいない。監督生を務めているナティ――ナツァイ・オナイに彼の居場所を尋ねても、「私もわかんないや。謎なんだよねー、彼」と、首をかしげられた。

 

 ホグワーツの中は外見の何倍もあるんじゃないかと思うほどに広く複雑で、とてもじゃないが彼一人をしらみつぶしに探して練り歩くなど、入学したばかりの身ではできそうにもない。

 そもそもナツァイによれば、彼がホグワーツにいるのかどうかすら、定かではないらしかった。

 七年生になって授業も少ないことから、箒を乗り回してあちらこちらを探索しているようだ。

「ま、冒険ばっかしてるのは五年生からだけどね」と、ナツァイは笑った。

 

 アルバスも、授業が始まってしばらくはそちらへ専念することになり――その合間の移動時間に、ようやっと彼との再会が叶った。

 彼はまた、どこの寮の色も入っていないローブを着ていて、「やあ、アルバス」と手を振る。

 その日の朝、「ふくろう便なら連絡取れるかも」と思い出したように呟いたナツァイの助けを借りて、彼に手紙を出したのだった。

 

「じゃあ、中庭行こうか。呪文の特訓がしたいんだったよね?」

 

 彼の言葉に、アルバスはこくりと頷いた。

 手紙を出すとは言っても、内容を思案するので一苦労だった。

 羊皮紙にペンを走らせては、それを丸めて、また書いては、破り捨てて、唸りながら「特訓をつけて欲しい」と書き上げた時、ナツァイはどこか生暖かい目でアルバスを見ていた。

 その視線には気づかないふりをした。

 

 中庭に向かう間。彼はさまざまな生徒に話しかけられていた。 グリフィンドールにスリザリンにハッフルパフにレイブンクロー。寮の垣根など存在しないように、彼はどの生徒にも親しげに話していた。

 いつまで経っても彼の所属する寮がどこなのかわからないままだったが、アルバスはもう、それで構わないかと思いはじめていた。彼がどの寮であっても、彼も周りも、何も変わらないだろうと思った。

 

 首席だからか、それとも彼本来の性格か、学内を歩くだけで自然と誰もが彼に相談を持ちかけていた。

 いつもなら快く承るのだろうか。

 今日、今だけは、先約があるから、と断る彼の姿に、アルバスはどこか優越感のようなものを覚えていた。

 いつもならば聞こえてくる下世話な噂話も、何も耳に入らない。

 

 中庭について早速、アルバスはおずおずと切り出した。

 

「あの、先輩、お願いがあるんですけど……」

「うん? いいよ、なんでも聞いてあげるよ」

「……今日だけじゃなくて、また、特訓付き合ってもらっても、いいですか……」

「もちろん。喜んで」

 

 彼は嬉しそうに笑って、杖を取り出した。

 

「僕が教えることなんてほとんどないから、そんなに緊張しないで。君ならすぐ追い抜いちゃうよ」

「そうでしょうか?」

「そうさ。君はすごい魔法使いになるよ、僕が保証する」

「……」

「さあ、やってみようか!」

 

 彼の声に従って、アルバスは杖を振り上げた。

 

 それからというもの、アルバスは彼の都合があう限り、魔法の練習につきあってもらった。

 授業の合間では時間が少なすぎるため、自然と二人が会うのは放課後に定まった。

 日が沈むまでの時間、人気のない場所を見つけては二人で魔法を試す。

 彼が手本として自分の知っている呪文を唱え、それを真似しながら呪文を口に出して杖を振った。アルバスの物覚えの良さと魔法力の高さには、彼も舌を巻いていた。

 

「君、本当に筋が良いね」

 

 彼の言葉の全ては、アルバスにとってとても心地の良いものだった。

 彼に褒められれば褒められるほど、上手くなっていくような気さえした。

 

 特訓の合間に、アルバスはその日起こったことを全て彼に話していた。ホグワーツに入学したこと、組み分けされたこと、同級生に友達ができたこと。

 彼は始終楽しそうに聞いていた。そして、彼の方からも、ホグワーツでの生活のことを色々と教えてくれた。

 ホグワーツには五年生から途中入学したこと、すぐに友人になったスリザリン生やグリフィンドール生のこと、ホグワーツの外で出会った様々な魔法動物のこと。

 アルバスの贔屓目も入っているだろうが、彼の口から聞く話はどれも新鮮で、どんな物語よりも面白いものばかりだった。

 

 彼と過ごす時間は、アルバスにとってはかけがえのないものになっていった。

 それがいつの間にか、日常になっていた。

 そのせいか、すっかりと忘れていた。

 

 一学年目が終わる頃、最初の頃の噂は一体何処へやら、アルバスはホグワーツ始まって以来の秀才などと呼ばれるようになっていた。

 彼との特訓の成果だとアルバスは満足げだったが、彼はアルバスの実力だと首を振る。

 それでも、寂しそうに呟いた。

 

「アルバスの特訓に付き合えるのも、あと少しか」

「え?」

 

 その言葉を聞いて、アルバスは思い出した。

 彼が七年生であることを。

 卒業式が、もう目の前まで迫ってしまっていることを。

 

「……先輩」

「うん?」

「卒業した後は、どうするんですか?」

「……」

 

 彼は答えずに、曖昧に微笑んでみせた。

 

 彼が卒業する。このホグワーツから、アルバスの前から、彼はいなくなってしまう。

 急に足元の地面が崩れ落ちていくように感じられた。

 それは嫌だ。このままずっと、彼の隣にいたい。

 

 

 アルバス・ダンブルドアは、彼を尊敬すべき先輩だと思っていた。

 

 しかし、彼の卒業という逃れられぬ現実を突きつけられて、ようやくアルバスは気づいた。

 

 その感情がもはや、尊敬などとは到底呼べるようなものではなくなっていたことに。

 

 

 彼はいつものように優しく笑っていた。

 その笑顔を見る度に、アルバスの心は締め付けられるようだった。

 その日は、卒業式の前日だった。

 二人が、二人きりで会える時間はこれで最後だろうと思えた。

 

「……先輩」

 

 呼びかけたアルバスに、彼は視線を向けた。

 

「ん?」

「好きです」

 

 その言葉を聞いた彼は、一瞬だけ驚いたように目を丸くして――

 困ったように笑った。

 

「ありがとう。……でも――アルバスは、僕よりもっといい人に出会えるよ。

 それにほら、僕と君は男同士だし、年齢だって六つも離れているしさ。……君の将来を考えるなら、僕はおすすめできないかなあ」

「そんなの、関係ないです」

「あるよ。まだ君は若いんだから、これからたくさんの出会いがあるだろうし……」

「先輩じゃなきゃ駄目なんです」

「……ごめんね」

 

 優しい声音の中に、はっきりと拒絶の意志を感じた。

 自分の中に踏み込ませないような、壁のようなものがそこにはあった。

 

「先輩は、僕のことが嫌いですか」

「まさか。大好きだよ」

「それじゃあ、どうして」

「君が僕を好きだと言ってくれることは嬉しいよ。……だけど、僕が君を恋愛的な意味で好きになることは、ないと思う」

 

 彼はいつもと変わらぬ口調でそう言った。ただ、ほんのわずかに視線を落としていた。

 

「僕なんか忘れて、他の人を探すべきさ。……君のために」

 

 彼の手はそっとアルバスの髪を撫でて、そして離れて行った。

 アルバスはもうそれ以上、何も言えなかった。

 

 それが、彼と交わした最後の言葉になった。

 

 

 ホグワーツを卒業してすぐ、彼は消息を断った。

 

 彼と懇意だった卒業生たちに彼の居場所を尋ねたが、皆首を傾げて口をつぐむばかりだった。

 中でもナツァイと、ある一人の元スリザリン生は何かを知っている様子ではあったが――彼から知らされていないのならば、自分の口から伝えることはできないと、また口を閉ざした。

 開心術を会得していなかったことを、アルバスはひどく後悔した。

 

 ふくろう便を何通も送ったが、そのどれもに返信はなかった。

 ――思えば、在学中も、彼はいつだって返信を寄越したことはなかった。

 それよりも先に、彼が直接会いにきてくれていた。

 

 彼を忘れることなどできるはずがないと気づくのに、そう時間はかからなかった。



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03 こっちをちょこちょこ

「その――教えていただけませんか……」

 

 アルバスは、何かを間違えてしまわないように、慎重に言葉を選んだ。

 マントを握る手がふわりと離れたかと思えば、また握り直す。

 ソファへと揃って座って、一息ついたせいか、さっきまでの行動が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていた。

 再開できた喜びと驚きで、駆けて、抱きついて、涙を流した――アルバスは、紅潮した顔が髭と髪で隠れてくれていることを祈った。

 

「あなたがこの九十九年間……どこで、何をしておられたのか」

 

 ゆっくりと言葉を吐き出す。気をつけていないと、喉が引き攣って、声が歪んでしまいそうだった。

 アルバスの脳裏に、卒業前の、彼の曖昧な笑みが思い浮かんだ。

 あの時、彼は口をつぐんだ――けれど今は、少しも躊躇わずに口を開く。

 

「簡単に言えば、世界中を旅してたんだ」

「旅?」

「旅って言っても、旅行って感じじゃなくて――そうだな、冒険? ……探してたんだ、古代魔術の、痕跡を」

 

 古代魔術。

 それは確か、大昔に失われたと言う強大な魔法だ。

 このホグワーツ城も、古代魔術の産物だと言うことをアルバスは知っていた。

 けれども――アルバスは、首を傾げる。彼の在学時代、彼から『古代魔術』なんて単語を聞いた覚えはなかった。そんなものに興味があったなんて、今の今まで知らなかった。

 

「痕跡……?」

「うん。それを見つけるために、あちこち歩き回って、ずっと文献とか遺跡とか、調べてまわってたんだよ」

「先輩はどうして――それほどまでに、古代魔術のことを?」

 

 アルバスが問いかけると、彼はネックレスの石を握った。彼が、学生時代から首に提げていたものだ。

 過度な装飾もなく、宝石も何も埋まっていないそれを、彼はアルバスに見せた。

 

「アルバスは、この石がどう見える?」

「どう、と言いましても――何かあるのですか? 魔法の痕跡も、何も見えませぬが……」

 

 アルバスは首を振った。

 なんの変哲もない――そう言ってしまっても、差し支えないだろうと思えた。

 彼は眉を少しだけ下げると、視線をその石に移した。

 

「僕には、これが光って見える。この石にはね、古代魔術の力が篭っているんだ」

「――それは――古代魔術の遺物と、そう言うことですか?」

 

 今度は、彼が首を振った。

 

「このネックレス自体は、ただの装飾品。僕がこの石に、古代魔術をかけて、無理やり魔法道具にしたんだ」

「先輩は……古代魔術が、扱えるのですか」

「――うん、そう。ごめんね、あの頃君に、伝えられなくて」

 

 アルバスの質問に、彼は頷いた。衝撃で息が止まってしまいそうだった。

 

「では、つまり――先輩の体が、姿が、あの頃と全く変わらないのは」

「この石に、そういう魔術をかけた。中身は、君と同じおじいちゃんなんだよ」

 

 彼は笑って、アルバスをみた。

 アルバスも、彼を見た。頭の先から足の先まで。立ち上がらせて、目の前でくるくると回って欲しい気分だった。

 彼の体も首から下げられたネックレスの石にも、魔法の痕跡は一切見受けられない。九十九年前と何一つ変わらない彼がそこにいるだけで、驚きに追いついてきた混乱に目が回ってしまいそうだった。

 はくはくと言葉にできないほどに感情が溢れているアルバスに、彼は言葉を続ける。

 

「ほら、僕は――アルバス、君とは違って、ちっとも有名人なんかじゃないから。……おじいちゃんになった僕の顔を見たって――誰だかわからないだろうと思って」

 

 アルバスは首を振るった。それはもう、身を乗り出して、自分の意志を伝えた。

 老いようが若返ろうが、人間以外の何かになろうが、彼の姿がどれだけ変わってしまっても、アルバスは彼を彼だと見抜く自信があった。

 だからこそ、彼のかけらも見つけることができない世界に、何度落胆したことか。手紙を、確かにどこかへ届けて帰ってくるふくろうに、どれほど安堵したことか。

 

「私は――あなたがどんな姿になってしまわれても、わかります!」

 

 アルバスは彼の肩を掴んで、目を覗き込んだ。その水晶に、自分の姿が映り込む。

 彼はアルバスの声に驚いたように目を見開いていたが、やがてふわりと微笑んだ。

 そして、優しく、アルバスの手を解いて、握った。

 温かくて、優しい手だ。

 あの時も、今も、変わらずに。 

 

「――そっか。ならよかった」

 

 彼は嬉しそうに笑った。

 少し、照れくさそうな顔をする彼に、アルバスは問いかけた。

 彼の姿の謎が解明された今、アルバスが最も気になっている事柄だったものだから、アルバスまで照れて話せなくなってしまうより先に、口を開いた。

 赤くなった顔については、もはや手遅れというものだった。

 

「先輩はどうして今日、ここに?」

 

 その言葉に、彼はきゅっと口を結んだ。今までの饒舌さが嘘のようになりを潜めて、アルバスの視線から逃げるように目を彷徨わせた。

 今まで――この九十九年で、アルバスは何通ものふくろう便を彼へと送ってきた。何通か同じ内容のものが紛れているかもしれないと危惧するぐらいには、数えるのも馬鹿らしくなるほどの数だ。

 ふくろうはきちんと彼に手紙を届けていたようだが、彼からの返信は、一通たりとて無かった。学生時代から、ふくろう便を出すより先に会いにくるような人だったが――会うことさえできないとなれば話は別だ。

 そんな彼が突然、今になって目の前に現れた理由を、アルバスは問わなければならない。

 

「あーっと……そうだね、アルバス……ナティ――ナツァイ・オナイのことは、覚えてる?」

 

 アルバスは頷いた。

 彼はどこか焦っているように見えた。何か本当の言葉を隠すために、必死に塗り固めているような不自然さを感じた。

 

「彼女、今、ワガドゥーで占い学を教えてるんだ。そう、この前ふくろう便が来て――久々に会わないかって」

「久々というのは」

「…………えっと、十二年ぶり、だったかな?」

 

 彼は、今度こそ明確に、アルバスから目を逸らした。

 十二年。確かに長い。生まれたばかりの子供がホグワーツへ入学できるまで育つほどの日月だ――そう、彼が九十九年もアルバスの手紙を、いわば『無視』していたという事実から目を背ければ。

 彼は、アルバス以外からのふくろう便には、応えていたようであった。アルバスからの手紙に応えづらい訳は、アルバス自身も確と心得ていたが。

 彼がアルバスの視線に耐えきれず、目を逸らして黙りこくってしまったので、アルバスは仕方なく続きを促した。

 

「それで、オナイ監督生が、どう今に繋がるので?」

「あぁ。……会いに行ったら、えっと、せっかくだし、僕のことを占ってくれるって話になって――」

 

 彼は、オナイ監督生という懐かしい呼び名に、いくらか気分を取り戻した様子だった。

 けれども彼はそこで一旦言葉を区切って、めずらしく難しそうな顔をすると、目一杯に言い淀みながら続きを話した。

 

「その、あー……えっと――そう! 『君は原点に立ち帰るべきだ』って、そう言われたんだ」

「原点ですか……」

「うん。僕にとっての原点は――多分、ホグワーツ(ここ)だろうから。だから、その……しばらくホグワーツの周りをうろうろすると思うから、アルバスに会わないとと思って」

 

 彼はそこまで言うと、恥ずかしそうに頭を掻いた。

 尻すぼみに小さくなっていく彼の声に耳を澄ませていたアルバスは、最後の言葉を聞くとぱちりと瞬きをした。

 それはつまり、彼がここを訪れたのは、引っ越し時のご近所あいさつのようなもの、ということだろうか――それにしては、酷く言い辛そうにしていたが。

 

「先輩、まさかとは思いますが……私のところに来られたのは、本当に『ついで』で?」

「いやいやいやいや、違うよ! 君に会いに来たんだ!」

 

 アルバスが少し意地悪な質問を投げかけると、彼は慌てたように否定した。

 顔を赤くして、視線が縦横無尽に駆け巡った。

 それが落ち着いた頃には、彼は俯いて、ぽつぽつと恥ずかしそうに呟いていた。

 

「ごめん。うまく伝えられなくて。――きっと、舞い上がってるんだ、君に会えて。ちょっと、自分でもわからないくらい」

 

 彼はもう一度頭を乱暴にかくと、勢いよく立ち上がった。

 ソファが軋み、クッションが人ひとり分の膨らみを取り戻した。彼の手に包まれていたアルバスの手は自然と離れ、ソファの上に落ちた。

 

「今日はもう――行くことにするよ。えっと……落ち着いたら、また遊びに来てもいいかな」

 

 彼はアルバスの方を振り返らずに、そう聞いた。

 先ほどから頑なに目を合わせない理由など、すぐに見当がついた。

 だからこそ――アルバスは立ち上がると、首を振るった。

 

「なりません」

「……え?」

 

 彼の声が絶望感に満ち満ちていたことについては、多少は申し訳なく思ったが、九十九年の待ちぼうけに比べれば安いものだろうと、自分に言い聞かせた。

 彼が振り返り、アルバスを見た。

 その顔が悲しそうに歪む前に、アルバスは告げた。

 

「もう一度、ホグワーツへ入学してくだされ、先輩」

 

「――――なんだって、アルバス?」

 

 その言葉に、彼は自分の耳を疑ったようだった。

 

「ホグワーツへ入学すれば良いと言ったのですよ。あなたは、五年生からたったの三年しかここにおられなかったのでしょう?

 なんと勿体無い!

 あなたがその古代魔術で好きに容姿を変えられるというのなら、一年生としてホグワーツで学び直してくだされ。

 原点に立ち帰るとは――そういうことではありませんかな?」

 

 アルバスは捲し立てた。彼が呆気に取られている間に、言葉を続けた。

 

「九月一日。キングズ・クロス駅から、他の生徒と共にまたおいでください。校長として、あなたを歓迎いたしましょう」

「アルバス――本当に、言ってる?」

「教科書やローブがないというのなら、共に買いに行きましょうかな?」

「いや、いや――

 ――うん、わかったよ。君が出会ったばかりの監督生を頼って出会ったばかりの首席に無理やりふくろう便を送るほどに行動的だったことを、今思い出した」

 

「それは何よりです」

 

 アルバスは笑みを浮かべた。

 彼が目を背けて顔を覆い項垂れるぐらいには、眩しい笑顔だった。



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第一章
01 乗り合わせた英雄


 

「何年ぶりかな」

 

 そこかしこに施された装飾は、どこかホグワーツの占い学の教室を思い出させる雰囲気があった。

 と言っても、彼の記憶はざっと百年ほど前のものだから、今はまた違っているのだろうが――記憶の中の、彼女の母親の教室をいわば再現しているのだろうそれは、彼としても懐かしく、居心地が良い。

 生徒用の椅子の一つに腰掛けて、彼はナツァイを見上げた。

 

「十二年ぶりだよ」

「もう、そんなに?」

「前、君が杖無し呪文教えてって言って急に飛んできた時以来だよ。全く、覚えたら覚えたで、またすぐどっか行っちゃうんだから。私からふくろう飛ばさないと来てくれやしない」

「ごめん、ごめん。はい、お土産の蛙チョコ。百味ビーンズもあるよ」

「お互いいくつだと思ってるのさ」

 

 そう言いながらも、ナツァイはどこか嬉しそうに、百味ビーンズを手に取った。

 早速と箱を開けると、その中の一粒を慎重に選び取って、口の中へ放り入れる。途端にくるりとあさっての方へ顔を向けると、口を押さえてしゃがみ込んだ。

 ナツァイはしばらくそうしてから、彼の方へ向き直った。

 まゆがどこか下がって、眉間には隠しきれない皺が寄っていた。

 

「君も食べる?」

「……遠慮しとくよ。蛙チョコの方が好きなんだ」

 

 彼はそう言って蛙チョコの包み紙を開けると、チョコが飛んでいってしまわないよう気をつけて、足を掴んで食べた。

 ナツァイは、入っているカードの方に興味があるようだった。

 上から覗き込む。

 

「誰だった?」

「集めてるの?」

「ちょっとね」

 

 彼は指先についたチョコをテルジオで拭うと――彼の杖無し呪文の上達具合に、ナツァイはどこか誇らしげだった――そのカードを捲った。

 

「「あ」」

 

 二人は同時に声を上げた。

 五角形のカードの真ん中で、『アルバス・ダンブルドア』がちょこっと微笑んでいた。

 

 アルバス・ダンブルドア

 現在ホグワーツ校校長。近代の魔法使いの中で最も偉大な魔法使いと言われている。

 特に、一九四五年、闇の魔法使い、グリンデルバルドを破ったこと、ドラゴンの血液の十二種類の利用法の発見、パートナーであるニコラス・フラメルとの錬金術の共同研究などで有名。

 趣味は、室内楽とボウリング。

 

 裏に書かれたそれを、ナツァイは上機嫌で読み上げた。

 感慨深いと言った様子だった。

 ナツァイの頭の中には、今も昔もずっと変わらぬ、十一歳のアルバス・ダンブルドアがいるのだろう。彼女が思い浮かべるとするのなら、手紙を出すためにふくろうを貸してほしいとせがむ姿だろうか。

 かと言って、その十一歳のアルバスを頭の中に住まわせているのは、彼も同じなのだった。

 

「この子からの手紙、今何通ぐらい届いてるのさ」

「ざっと数えて――千通?」

「わお、筆マメだねえ」

「僕のことは忘れてくれって――そう言ったのに。十一歳の時の、たった一年なんて、すぐに忘れるものだろう」

「忘れられない一年だったんでしょ。君にとって、そうであるように。……そうそう、ちょうどいいから教えようか、今日君を呼んだわけ」

 

 ちょうどいい、という言葉に少々引っかかりながらも、彼は二つ目の蛙チョコの包み紙から手を離した。

 『ちょっと話したいことがあるから、こっちへ来て』というのが、先日もらったふくろう便の中身だった。十二年ぶりに会おうとする手紙にしては簡素だが、彼は内容がどうであれナツァイの元へ向かうため問題がない。

 彼は、ついさっきまで共に冒険譚について語り合っていたハンサムと分かれて、お土産の蛙チョコやら百味ビーンズやらを買いに向かったのだった。

 

「話したいことってやつ?」

「そう。――これからいうことは、占いであって、予言じゃないってことを念頭に聞いてほしいんだけどね」

 

 ナツァイは、カードのアルバス・ダンブルドアを、彼の方へと向けた。

 

「今から十年以内に、この子の身に何かが起こる」

 

 朗らかな笑顔をどこかへ追いやった、真剣な面持ちで、ナツァイはそう言った。

 

「何か、って?」

「詳しいことは言えない。でも、良いことじゃないのは確か。最悪を考えれば――」

 

 その声に続く言葉を、彼は察して、頷いた。

 

「どうして、アルバスを占ったの?」

「この子じゃないよ、君を占ったのさ」

 

 自然と思い浮かんだ疑問を問い掛ければ、ナツァイはなんでもなさげに答えた。

 どこかへいってしまったアルバスのカードを、そのまま彼に手渡す。

 

「君の大切な人が不幸な目に遭うって、そう出た。でも――」

「ま――待って、ナティ」

 

 ナツァイの言葉を断ち切って、彼は勢いよく立ち上がった。

 手を机に押し付けるようにしたので、上に置いていた蛙チョコのいくつかが揺れて、封が開いたままの百味ビーンズが一粒落っこちた。

 立ち上がると、ナツァイよりも彼の方が背が高くなる。彼は今度はナツァイを見下ろすようにして、カードを指差しながら聞いた。

 

「アルバスが僕の大切な人だって――君、今、……そう聞こえたんだけど」

 

 そこにはもうアルバス・ダンブルドアはいなかったが、ナツァイは頷いた。

 

「そう言ったよ。違った?」

「ナティ、僕がアルバスのことこっ酷く振ったの、忘れたわけじゃないよね?」

「ああ。あの、男同士だし歳も離れてるし――ってやつ?」

 

 ナツァイにそう言われて、自分から問いかけたにも関わらず、彼は言葉を詰まらせた。

 ぐっと息を堪えるようにして、そのまま半ば倒れるように椅子へ腰掛けた。ぎし、と軋む音が響いて、彼があからさまに顔を背けた。

 ナツァイは深くため息をつくと、彼に見られないように、眉を下げて彼を見た。

 

「君が拒絶したのは、あの子じゃなくて君自身でしょ」

「違うよ、僕は――」

「いいから。人の話は最後まで聞く!」

 

 ナツァイは机に手をついた。今度は二粒箱から飛び出した。

 彼は驚いたように顔を刎ねあげると、ナツァイの顔を見つめた。

 

「君がそばにいれば、あの子に降りかかる不幸を払い除けられるかもしれないって、そうでたんだよ」

「――――本当に?」

「私の占いは案外当たるんだ。――良いことも、悪いこともね」

 

 

***

 

 

 九月一日。

 彼がキングズ・クロス駅に到着したとき、案内板の上の大きな時計の針は十時半を差し示していた。

 駅はマグルで賑わっていて、彼はその間を縫うように、小さい体を生かして間をすり抜けていく。

 

 アルバスと再会してから今日の入学式までのしばらくの間、彼は十一歳の体に慣れるために、その姿で全てを過ごした。

 成長期が訪れるため、ここからぐんぐんと背が伸びていきはするのだが、それでもしばらくはこの体格だ。

 最初の頃は目線ががらりと変わるため、周りの景色に酔ってばかりだったが、三日もすれば慣れてしまった。

 容姿が変わっているだけで骨密度や筋肉量などは変わっていないせいか、見た目や年齢よりも強い力が出ているが、彼としては以前と変わらない感覚のため、年相応の力ではないことにあまり気づいていない。

 

 必要な教科書は彼が通っていた頃と随分変わっていて、ダイアゴン横丁でそれを買い集めるのは彼にとって初めての体験だった。

 その教科書や授業に使う大鍋の類も、今は全て彼が左手に持つ茶色のトートバッグに仕舞われていた。

 その昔、ディークにもらった捕獲袋をそのまま流用したトートバッグだ。検知不可能拡大呪文がかけられているそれは、許容量は見た目より随分大きい。

 サイズは五年生の頃の彼の背丈にぴったりで、十一歳の姿の今では、少し大きい気がした。

 

 よいしょと右手でそれを担ぎ直すと、彼はひとりの少年を見つけた。

 カートに、重そうなトランクや白いふくろうが入った鳥籠を載せた少年が、なにやら駅員と揉めていた。

 案内板を指差したり、その上の時計を指差したり、切符を見せてみせたり、いろいろやっているようだが、埒が開かない様子だ。

 年が今の彼の容姿と同じぐらいに見えるし、カートに載せられたものが特徴的だ。ふくろう入りの鳥籠なんてなかなか見ない。

 彼は後ろからまだ駅員と揉めている少年に近づいて、肩をポンポンとたたいた。

 

「ねぇ、君」

「おっと、やっと友達が来たか? じゃあもうこれまでだ。全く、大人を揶揄うのはやめなさいってママとパパに教わらないのかね、最近の子は」

「あっ、待って――」

 

 少年が止める暇もなく、時間の無駄だなんだとぶつくさ言いながら、駅員は雑踏の奥に消えていった。

 呆然としたまま切符を握りしめて、絶望といったような表情で時計を見上げる少年の肩を、彼はもう一度たたいた。

 

「君。君も、ホグワーツの新入生かい?」

 

 その言葉に、途端に少年の顔が明るく染まった。

 勢いよく振り返ると、彼にぶつからんばかりに頷く。

 ぶんぶんとくしゃくしゃの黒い髪が振られて、その忙しなさに彼も微笑んだ。

 

「よかった。ホグワーツのことを知ってる人がいて。その、僕、わからなくて、九番線と十番線はあるんだけど、九と四分の三番線っていうのがどこにもないんだ」

「わかったよ、大丈夫、安心して。案内するよ」

 

 捲し立てる少年を落ち着かせて、彼は少年を引率するように歩き出した。

 首席の仕事は、ここキングズ・クロス駅と列車内で生徒たちをまとめ上げることだったものだから、百年近く前の記憶だとしても、彼としては慣れたものだった。

 少年は自分の背丈ほどあるカートをガラガラと押していた。彼に出会えたことで安心したのか、口調は朗らかだ。

 

「この子の名前はヘドウィグ。『魔法史』の教科書から名付けたんだ」

「良い名前だね。白い毛並みにピッタリ」

「それで、僕はハリー・ポッター」

「それも良い名前だ」

 

 彼は大きく頷いた。

 九と四分の三番線に向かうための柱は、もうほとんど目の前だった。

 

「今の魔法界じゃ、英雄の名前さ。そう、確か君と同い年で、今年ホグワーツへ入学するはずだ――……まって、同姓同名なの?」

 

 彼は立ち止まって、少年の方を振り返った。

 古代魔術の痕跡を探るための指標の一つにするために、彼は各国の主要な新聞は全て読み漁っていた。だから、ここ十数年で起きた出来事も、紙面上ではあるが把握している。

 九と四分の三番線に繋がる柱には、先客が並んでいた。赤毛が特徴的な一家だ。同じような容姿をした双子の少年が二人と、ひょろっとしたそばかすだらけの少年と、小さな女の子一人を、少しふっくらとした母親がまとめ上げている。

 その家族の一員だろうか。胸に監督生のバッジをつけた赤毛の少年が、柱の奥へと消えた。

 

「違うよ。ああ、いや、絶対にいないとは言い切れないけど――僕が、そのハリー・ポッターだよ」

 

 少年――ハリーは、どこか照れ臭そうにそう言った。

「驚いた」と彼がポカンと口を開けてハリーを上から下まで眺めれば、その顔はだんだんと赤く染まった。

 

「ああ、ごめんね、じろじろ見たりして。早く列車に行こうか――ほら、そこの柱、わかるかい? 今、赤毛の親子が入るみたいだ」

 

 彼はハリーに向かって軽く謝ると、振り返って、九番線と十番線の間にある柱を指差した。

 彼の言う通り、赤毛の母親とその娘が、柱に飛び込むところだった。

 ぶつかってしまう、そう思った時には、その親子は姿を消していた。瞬きの、ほんのちょっとの間だった。

 

「今のは――」

「あの柱に向かって、まっすぐ歩くんだ。大丈夫、不安なら一緒に走ろう」

 

 ハリーは頷いて、カートの持ち手を強く握りしめた。

 人の一瞬掃けた頃合いを見計らって、勢いよく走り出す。

 その後ろを追うように、彼も一緒に走り出した。

 あともう少し。硬い煉瓦造りの柱が、もうそこまで迫ってた。前には煉瓦。後ろには後を追いかける彼。ハリーはぎゅっと目をつむって、衝撃に備えた。

 

「ほら……もう、目を開けて大丈夫だよ」

 

 彼がすぐそばでそう告げると、ハリーは歩速を緩めて、恐る恐ると言った様子で、目を開いた。

 

 彼らの目の前には、紅色の蒸気機関車が停まっていた。

 プラットホームには人や猫が溢れていて、そこかしこからふくろうの鳴き声も聞こえる。

 彼はハリーを連れて、先頭車両から一つずつ、空いている席を探しながら歩いた。

 いろんなところから、いろんな生徒の声が聞こえて来る。彼は、懐かしさで胸をいっぱいにした。

 

「そこ、空いてるよ」

 

 ハリーが指をさした。

 もうほとんど最後尾に近かった。

 

「あそこに座ろうか」

 

 そう言って彼は頷いた。

 ハリーは先に、カートの中からヘドウィグが入った鳥籠を持ち上げ、続いてトランクを持ち上げようとした。

 だが持ち上がらない。重いのは分かっていたが、ヘドウィグを彼に預けて両手で持ち上げようとしても、ダメだった。少ししか上がらない上に、下手をすれば足の上に落としてしまいそうだった。

 

「僕が持つよ」

 

 彼が名乗り出た。

 

「でも、重いよ? すごく」

「大丈夫さ。先に座ってて良いよ」

 

 ハリーは少し遠慮したが、彼が丁寧に手渡したヘドウィグの籠を受け取った。

 コンパートメントの中でも、窓際の席にハリーは腰を落ち着かせた。そこからならば、彼の姿が窺えた。

 ハリーはそわそわしていた。彼が足の上に落としてしまうんじゃないかと心配だった。

 それは周りの人も同じのようで、彼のことを、赤毛の双子が今にも助けようかと言うふうに見ていた。

 彼はそんな周りの視線に少しやりづらそうにしてから、トートバッグを持っていない方のもう片方の手で、ひょい――とまでは行かないまでも、よっこらせとそれを持ち上げた。

 

「わお。力持ち」

「驚いたな。見かけによらない」

 

 双子の言葉には、ハリーも同意だった。

 彼はその言葉に照れ臭げに笑ってから、列車の中にそれを運び入れると、ハリーの向かい側に座った。あの重かったトランクは、彼の手によって網棚の上に上げられていた。

 

「ありがとう、助かったよ」

「なんの。少しでも困ったことがあれば、すぐに頼ってくれて良いよ。僕は、そう言うのを解決するのが好きなんだ」

 

 彼は少しだけ胸を張って答えた。なんでも頼み事を聞いてくれそうな頼もしさがそこにあって、ハリーは深く頷いた。

 彼らはそろって、コンパートメントの窓からプラットホームを見下ろした。

 そこからは、さっきの赤毛の家族がちょうどよく見えた。わいわいと楽しそうに談笑する一家を見て、ハリーは眩しそうに目を細めた。

 笛が鳴った。

 窓から身を乗り出して、家族と別れのキスを交わす生徒がたくさんいた。赤毛の一家もその例に漏れず、みんな母親からキスを受けた。一番小さな女の子は泣き出していた。

 

 列車が滑り出した。

 体が浮き上がるような懐かしい揺れに、彼は心を躍らせた。

 窓の外の景色が目まぐるしく変わっていく。後ろに流れていくそれを全て目で追うように、ハリーは眺めていた。

 コンパートメントの戸が開いて、彼とハリーはそちらへ目をやった。赤毛一家の中でも、一番年下らしかった男の子が入ってきた。

 

「ここ、空いてる?」

 

 彼とハリーが座っている椅子を交互に眺めて、その男の子は不安そうに問いかけた。

 

「他がどこもいっぱいなんだ」

「構わないよ――ね、ハリー」

 

 彼がハリーに同意を求めたので、ハリーももちろんと頷いた。

 男の子はホッとしたように胸を撫で下ろすと、一瞬だけ二つの席を見比べて、ハリーの隣へと座った。

 

「君も新入生?」

 

 彼が問いかけると、男の子はハリーにちらりと目をやって、頷く。

 

「僕、ロン・ウィーズリー。上に兄弟が五人と、下に妹が一人いるんだ」

 

 彼はひい、ふう、みい、と頭の中でさっき見た赤毛の一家を一人ずつ数えて気づいた。どうやら、まだ姿を見ていない兄弟が後一人いるようだった。

 随分の大所帯らしい。

 それに、ウィーズリーといえば、マチルダ副校長やギャレスの親戚だ。友人の親戚に会うのは、不思議な気分だった。

 ロンは一通り話し終えると、ハリーの方を見た。ハリーも口を開いた。

 

「僕は、ハリー・ポッター」

「やっぱり! その、君の額の傷! そうじゃないかと思ったんだ!」

 

 ロンは、列車が揺れるたびにチラチラと見えていた前髪の奥の、稲妻型の傷を指差して、興奮した様子で言った。

 彼とはまた別角度の驚き方に、ハリーも驚いて、助けを求めるように彼を見た。

 運悪く、彼は窓の外の景色を眺めていた。

 

「これが、それじゃあ、『例のあの人』の……?」

「う、うん。でも、僕、何にも覚えてないんだ」

「何にも?」

「ハグリッドに教えてもらうまで、僕、自分が魔法使いだってことも、両親のことも知らなかったし、それに、ヴォルデモートのことも……」

 

 大きな音を立てて、ロンが息を飲んだ。

 思わず、同年代の子供たちの会話に声を挟まないようにしよう、と気を遣った彼でさえ、視線をやるほどだった。

 

「君、『例のあの人』の名前を言った!」

「ご、ごめん、そうだった。名前を言っちゃいけないんだよね。その、僕、本当に何もわからなくて、学ばなくちゃいけないことばっかりなんだ。……きっと、僕、クラスでビリだよ」

 

 ハリーが少し落ち込みながら、そういった。

 ロンはなるべく明るい声で励ました。

 

「そんなことないさ。マグル出身の子だってたくさんいるし、そんな子もみんなちゃんとやっていけるよ」

「そうそう。呪文なんて全然知らずに五年生から入っても、主席にだってなれるんだから」

「そ、それはどうかな……」

 

 彼もついでに便乗して、少しだけ自慢話を披露した。

 そうして和気藹々と喋っている間に、列車は牛や羊のいる牧場をぐんぐんと通り過ぎて、窓は野原や小道が広がる風景を映し出した。

 十二時を過ぎたあたりで、通路の方からガラガラガチャガチャと音がして、壮年の女性が笑顔で戸を開けた。

 

「車内販売よ。何か要りませんか?」

 

 ハリーが勢いよく立ち上がった。

 ポケットのなかの硬貨をジャラジャラと言わせて、通路へと出ていった。

 

 ハリーは両腕いっぱいにいろんなお菓子を抱えて、コンパートメントへと帰ってきた。

 どさり、と空いていた彼の隣に置かれた、蛙チョコや百味ビーンズやかぼちゃパイだのを、ロンは目を皿のようにして眺めていた。

 

「お腹空いてるの?」

「ペコペコだよ」

 

 ロンが尋ねると、ハリーはかぼちゃパイにかぶりつきながら答えた。

 

「一緒に食べようよ。ロンも、君も」

「言ってくれたら、僕も買ったのに」

 

 彼の言葉に、ハリーは「良いんだ」と言って、蛙チョコを差し出した。

 彼とハリーとロンは、ハリーが買ってきたお菓子たちでちょっとしたお祭り状態だった。

 蛙チョコのカードで一盛り上がりした後は、百味ビーンズの味でもう一度盛り上がった。

 彼が味も色も気にせず、とりあえず口に放り込むものだから、ハリーとロンは、彼がそれを飲み込むまで、終始そわそわとしていた。

 

 いつの間にか、窓の外が、長閑な草原から、暗く鬱蒼とした、森や曲がりくねった川へと変わっていた。

 コンコン、とコンパートメントの戸がノックされて、丸い顔をした男の子が、泣きべそをかきながら入ってきた。

 プラットホームで見た覚えがあったことを、ハリーは思い出した。おばあちゃんにヒキガエルがいなくなったと、告げていた男の子だった。

 

「ごめんね。僕のヒキガエル、見なかった?」

 

 三人が共に顔を見合わせて、同時に首を振ると、男の子はいよいよ泣き出してしまった。

 

「いなくなっちゃった。僕から逃げてばっかりいるんだ!」

「きっと出てくるよ」

 

 ハリーが慰めるようにそういった。

 

「うん。もし、出てきたら……」

 

 男の子はズビ、と鼻を啜ると、コンパートメントから出ていこうとした。

 

「待って」

 

 彼が立ち上がって、しょげた男の子を呼び止めた。

 

「僕も一緒に探すよ」

「い、良いの?」

「もちろん。君と、君のヒキガエルの名前、教えてくれる?」

 

 ハリーとロンがポカンと呆けている間に、彼と男の子は通路へ出て奥の車両へと向かっていってしまった。

 



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02 二度目の組み分け

「僕は、ネビル。ネビル・ロングボトム。逃げちゃったのは、トレバーって言うんだ」

 

 男の子はそう名乗った。

 ハリーたちとコンパートメントで別れてから、彼はネビルと共に、残りのコンパートメントをひとつずつ訪ねていった。

 前の車両の方は、ネビルと同じコンパートメントに座っていた女の子に任せているようだった。

 

 彼と話しながら歩いているおかげで、ネビルはいくらか元気を取り戻してはいたが、どのコンパートメントを訪れても首を振られてばかりで、その泣きべそは引っ込みそうもなかった。

 一番後ろの車両の、これまた最後尾まで到着しても、トレバーを見かけた生徒はいなかった。

 ネビルはもう一度泣き出してしまいそうだった。

 彼はそんなネビルの背を優しく撫でると、列車内全てが見回せるように、壁に背中を預けた。

 

 ――レベリオ。

 

 声を出さずに、静かに唱える。

 隠れているものを暴き出す呪文だと、彼は認識していた。

 彼の得意な呪文の一つだった。ナツァイに杖無し呪文を教わる随分前から、彼はこの呪文を杖も声もなしで扱えた。

 水面に水滴が落ちたように目の前に歪みが広がって、その歪みの円に触れたところから、青い光が現れ始める。

 彼は目を凝らして、その光の中から、ぴょんぴょんと跳ねるものを探した。

 

「いた」

「え?」

 

 彼の呟きに、ネビルは顔を上げた。

 彼が何かをしているようには見えなかったものだから、素っ頓狂な声も上がった。

 

「見つけたよ、トレバー」

「ほ、ほんと?!」

 

 その言葉に、ネビルはぱあっと顔を明るく輝かせた。

 彼はそれに頷いて、そのぴょんぴょんと跳ねる青い光の下まで、ネビルと急いで向かった。

 彼がネビルと共に訪れた、二つ目のコンパートメントだった。

 再び現れた彼らに、ゲンナリとした顔を見せる子たちを気にした様子もなく――ネビルは申し訳なさそうにしていたが――彼は席の下を覗き込んで、手を伸ばした。

 起き上がった彼の手には、まさしく、トレバーが握られていた。

 

「トレバー!」

 

 ネビルは諸手を挙げて喜ぶと、慎重にトレバーを彼の手から受け取った。

 もう逃げてしまわないように、優しく、それでいてしっかりと抱きしめる。

 

「ありがとう! 本当に、もう見つからなかったらどうしようって!」

「構わないよ、さあ、君のコンパートメントに戻ろうか。もっと前の方かい?」

 

 ネビルはコクコクと頷いた。

 

 彼がネビルを連れて、ひとまず自分のコンパートメントに戻ってくると、なにやら中が賑わっていた。

 中から、知らない女の子の声が聞こえてきていた。

 ネビルは「あっ」と声を上げて、彼が戸を開けるや否や中に飛び込んだ。

 

「――ダンブルドアもそこの出身だって聞いたわ。でも、レイブンクローも悪く――」

「ハーマイオニー! あの、探してくれてありがとう、でも、ほら、もう見つかったんだ」

 

 コンパートメントの中には、新たな来客がいた。

 ネビルにハーマイオニーと呼びかけられた少女は、その言葉につらつらと並べていた声を止めて、そちらを振り返る。

 彼も続けて、中を覗き込んだ。

 ハリーとロンが、助けが来たとでも言いたげな表情で、彼の方を見上げて返した。

 

「おかえり!」

「ただいま。えーっと、この子は?」

 

 彼がハリーとロンに尋ねると、その少女はくるりと彼に顔を向けた。

 肩の下あたりまで伸ばされた少しもさっとした栗色の髪と、普通よりちょびっとだけ大きな前歯が特徴的な子だった。

 少女はもうホグワーツのローブに着替えていて、ぴったりの丈をふわりと揺らしていた。

 

「私、ハーマイオニー・グレンジャー。あなたがネビルのヒキガエルを見つけてくれたの? ありがとう、でも、もう着替えたほうがいいかも。もうすぐホグワーツに着くはずよ。ああ、楽しみだわ。あなたもそう思わない? あら、私がいちゃ着替えられないかしら。じゃあ、もう行くわね。ネビル、もうトレバーを無くしちゃダメよ」

 

 少女、ハーマイオニーは彼が言葉を交わす暇もないくらいに、一気に捲し立てると、ネビルを引き連れて自分達のコンパートメントへと帰ってしまった。

 彼は二人を見送ってから戸を閉めると、微妙な表情を浮かべるハリーとロンの正面の、お菓子が散らばっていない場所に、座り直した。

 

「今の子は? どっちかの友達?」

 

 彼がそう尋ねると、二人はブンブンと首を振った。

 ロンは、ボロボロの杖を自分のトランクに投げ入れて言った。

 

「どの寮でも良いけど、あの子がいないところがいいな」

 

 疲れた様子のロンに、彼は肩をすくめた。

 ネビルと一緒にヒキガエルを探しにいった少しの間に、随分意気消沈することがあったらしい。

 彼は先ほどのハーマイオニーのペラペラと回る舌を思い浮かべて、苦笑いを浮かべた。

 ハリーは、ホグワーツの寮やら、そもそも魔法界のこと全てが気になっているようだった。

 スリザリンに対してネガティブ・キャンペーンを行うロンをそれとなく諌めたり、グリンゴッツで起こった盗難事件の話や、クィディッチの話――ロンは特に熱を込めて話した――を聞いたりしていると、またコンパートメントの戸が開いた。

 またトレバーが逃げ出したのか? 三人が揃ってそちらを見ると、これまた男の子が三人、コンパートメントに入ってきた。

 

「このコンパートメントにハリー・ポッターがいるって、ほんとかい? 列車中その話で持ちきりなんだ」

 

 一番真ん中に立っていた、綺麗な金髪の青白い顔をした男の子が、初めに話し始めた。

 コンパートメントの中を無遠慮にぐるりと見回して、ハリーを見つけると、じっと伺う。

 

「それじゃあ、君なのか?」

「そうだよ」

 

 ハリーが頷いた。

 青白い顔の少年の後ろには、ガッチリとした体型の男の子が二人ついて立っていた。そうしていると、どこかボディーガードのようだ。

 少年は「こっちがクラッブでこっちがゴイルさ」と無造作に言い放つと、ハリーに向けて手を差し出した。

 

「そして、僕がマルフォイだ。ドラコ・マルフォイ」

 

 ドラコは、家名の方を強調してそういった。

 ロンが少し漏れ出た笑いを誤魔化すように、わざとらしく咳き込んだ。

 ドラコはそちらへちらりと視線をやると、嫌味ったらしく言った。

 

「ポッター君。そこの赤毛みたいに、間違ったのとは付き合わないことだ。その辺は僕が教えてあげよう」

「友達なら、君に教えてもらわなくても自分で選べるよ」

 

 ハリーがぶっきらぼうに、ドラコの差し出した手にも応えずにそう言ったので、ドラコの頬に少しだけピンク色が刺した。

 ドラコは手をキュッと握り込むと、ハリーの向かいに座ったままの彼へ視線を向けた。

 

「君もだ。どこの誰だか知らないが――礼儀を弁えないと、そのうちその石の輝きをなくすことになるぞ」

 

 ドラコのその嫌味に、ハリーとロンはきっと目をとんがらせる。

 しかし、言われた張本人の彼だけは、ポカンと口を開けたかと思うと、自分が首から下げた石とドラコとを見比べて、次第に目を輝かせ始めた。

 勢いよく立ち上がると、先ほどハリーにそっぽを向かれて握り込まれたドラコの手をとって、その指を解くと自分から両手でその手を握った。

 

「君、ドラコ、君はどこの寮に入るんだい!」

 

 唐突な彼一人の盛り上がりに一瞬思わず身をひいたドラコだったが、舐められては敵わないとツンと言い返した。

 

「もちろん、スリザリンさ。僕の家は、昔から代々スリザリンって決まってるんだ――もういい。行くぞ、クラッブ、ゴイル」

 

 ドラコは無理やり――思っていたよりも力強い彼の手を振り切ると、後ろに子分二人を引き連れて、足早にコンパートメントから退散してしまった。

 名残惜しそうにドラコらの背中を見送る彼を見て、ハリーとロンは二人顔を見合わせた。

 

「君、あんなやなやつに構うことないよ」

 

 ロンがそう言ったので、ハリーもその通りだと頷いた。

 彼は困ったように眉を下げると、その言葉にはイエスともノーとも返さず、再び席に座った。

 少しだけ、コンパートメントの中に緊張した空気が走ったように思えた。

 ハリーが少しだけそわそわしていると、車内に声が響き渡った。

 

「あと五分でホグワーツに到着します。荷物は別で学校に届けますので、車内に置いていってください」

 

 窓の外はいつの間にか暗くなっていた。深い紫色の雲が、重そうに山や森に乗っかっている。列車は確かに、徐々に速度を落とし始めていた。

 ハリーが車内に視線を移せば、彼が網棚からトランクを下ろしてくれているところだった。椅子の上に下ろすとドスン、といういかにも重そうな音が鳴った。

 

「あ、ありがとう」

「なんの」

 

 ハリーは、トランクの中から黒く長いローブを取り出して、上着を脱ぐと、それに着替えた。

 ロンも、同じように、自分のトランクから引き出したローブに着替えた。ハリーはピッタリだったが、ロンのは少し短いようだった。下の方からスニーカーがのぞいている。

 

「ほら、早く君も着替えたらどうだ」

 

 ロンはぶっきらぼうに彼を急かした。

 彼はといえば、二人が着替えている間、ずっとそれを眺めているばかりだった。

 

「もう着いちゃうよ?」

「おっと、そうだった」

 

 ハリーも急かすと、彼は杖を取り出して、その先を自分の衣服へと向けた。

 杖を一振り。

 彼の服はそれだけで、ハリーやロンと同じようなホグワーツのローブに着替えて見せた。

 ハリーは改めて見る魔法に驚いて言葉が出なかったし、ロンは口をキュッと結んでいたが、その表情から驚きの色は消しきれていなかった。

 

 彼としては、呪文に入った年期がまるでハリーたちとは違うために、そんな視線を受けてしまうと、少し気恥ずかしかった。

 五年生で転入した上に、最も共に長く過ごした一年生があのアルバスということもあって、彼は標準的な一年生が扱える呪文やその上達具合というのが、全くもってよくわかっていなかった。

 

 列車が停車する直前に、ハリーやロンは食べきれなかったお菓子を急いでポケットに詰め込んで、人で溢れてきた通路に飛び込んだ。

 列車はみるみるスピードを落としていき、やがて完全に停車した。

 押し押されながら、ハリーは列車の戸を開けて、小さくて暗いプラットホームに降り立った。あたりを見渡すと、すぐそばにロンがいた。

 けれど、通路の人の群れではぐれてしまったのか、彼を見つけることができなかった。

 ロンに聞けば、「別に良いんじゃないか」と、フンと鼻を鳴らした。

 

 彼もハリーに数秒遅れて、プラットホームに降り立っていた。

 はぐれてしまったことにはすぐに気づいていたが、どうせ目指している場所は同じなのだしと、彼は探すことは諦めて、大きな声で一年生を呼び集める森番の方へ、他の生徒たちと共に、少しだけ浮き立った足で歩いた。

 ホグワーツまでの道のりは、少しだけ険しい。彼としても、歩くのはとても新鮮な気分だった。何を隠そう、在学中は箒や煙突飛行ばかりしていたものだから。

 森番率いるホグワーツ新入生一行は、やがて大きな湖のほとりに出た。岸辺に繋がれたボートに、四人ずつ乗っていく。

 

「あ、さっきぶりだね」

 

 彼も他の生徒と同じようにボートに乗り込んで、乗り合わせた三人に微笑みを向けた。

 

「……君か。ハリー・ポッターやウィーズリーはどうしたんだ」

 

 偉そうにボートにどっぷりと座り込んでいたドラコは、あからさまに顔を歪めてそう言った。

 

「列車から降りるときにはぐれちゃってさ。四人乗りだし、僕が乗ればちょうどいいだろう」

 

 ドラコが何かいう前に、森番の大男が体に似合う大声を出した。

 

「みんな乗ったか? よーし、では、進めえ!」

 

 岸辺に並んでいた幾つものボートが一斉に動き出した。

 彼もドラコも口を閉ざして、聳え立つホグワーツ城を見上げた。

 みんな、そうしていたからか、船がホグワーツ城の地下の船着場に到着するまで、誰も何もしゃべらなかった。

 船から降りた彼らは、バラバラの歩速のまま、ゴツゴツとした岩の道を通って、森番よりも大きな樫の木の扉の前に集まった。

 

「みんないるな?」

 

 森番は大きな手で握り拳を作ると、城の扉を三度叩いた。

 扉がパッと開いて、中から初めてみる女性が現れた。エメラルド色のローブを纏っていて、スラリと背が高い。

 

「マクゴナガル教授、イッチ年生の皆さんです」

「ご苦労様、ハグリッド。ここからは私が預かりましょう」

 

 ミネルバ・マクゴナガルは扉を大きく開け放ち、大勢いる新入生たちを迎え入れた。

 ホールの脇の部屋に新入生たちを案内して、毎年と同じように挨拶と注意をいくつか言いつける。

 

 彼は、準備が整えば呼びにくる、と一度部屋を出て行くマクゴナガルを目で送った。

 厳格そうな先生だ、と思った。一つ一つの動きがきびきびとしていて、美しい。

 マクゴナガルが部屋を出ていった途端、辺りがザワザワとし出した。みんな、組み分けがどうとか、寮がどうとか話している。

 この喧騒を味わうのも、組み分けに遅れずに参加するのも、彼にとっては全て初めての経験だった。

 

「ドラコ。君は、あんまりそわそわしてないんだね?」

 

 彼は、ボートを降りてからもずっと隣にいるドラコへ話しかけた。

 ドラコは、試験だとかすごく痛いだとか、組み分けについて憶測が飛び交っている一行から少し離れて、冷静そうにそれを眺めていた。

 

「連中、組み分けのことも知らないらしい。君はどうだ?」

「心配ありがとう。大丈夫だよ」

「心配なんかしていない」

 

 フンと鼻を鳴らすドラコに、彼は苦笑いで後ろを指差した。

 

「その子たちは、大丈夫?」

 

 ドラコはその指に従って振り返る。

 周りの声に、そわそわというか、ほとんど怯えているクラッブとゴイルがいた。

 ドラコはわかりやすく眉を顰めた。

 

「君と同じ寮に入るのかな?」

「あー……多分大丈夫さ。……うん。あいつらも一応、スリザリンの家系だし」

 

 ドラコがそう答えた瞬間、後ろからざわめきの波が押し寄せてきた。

 彼とドラコは同時に後ろを振り返った。

 幾人もの見覚えのあるゴーストたちが、生徒たちの頭上を横切って行く。なにやら話しているようだった。

 彼が目で追っていると、そのうちの何人かのゴーストと目があった。

 そのゴーストたちはじいっと彼のことを見つめてハッとしたかと思うと、手を振ったり、お辞儀をしたり、くるくるとバク転して見せたり、みんななんらかのアクションを行って、終いには口の前にしぃっと人差し指を立てて、ホールの方へと出ていった。

 

「……君、ゴーストに好かれる体質なのか?」

「はは。……うん、そういうことにしといてもらえる?」

 

 隣でそれを全て見ていたドラコは呆気に取られた様子で、彼はその言葉に遠い目をして答えた。

 ゴーストはみんな、事情を察してくれたのか、それともアルバスが言い含めていたのか、特になにも話しかけてはこなかったが――自分の実年齢がバレてしまったら、間違いなく面倒なことになると、彼はちょっとだけ警戒しておくことにした。

 

「さあ、行きますよ」

 

 マクゴナガルの声が響いて、新入生たちは彼女の後ろに連なるように一列になって、玄関ホールから二重扉を抜けて大広間へと足を踏み入れた。

 あいも変わらず、見惚れるような大広間だった。

 あのドラコでさえ、彼の隣で口を開け放したことに気づかないまま、宙に浮く幾つもの蝋燭や、天井に広がる星々を眺めていた。

 組み分け帽子の歌や、それに対する拍手喝采など、彼にとっては懐かしいものばかりだった。百年近く経ってしまっても、そればかりは変わっていない。

 組み分け帽子の歌は毎年変わっているらしいが。

 

 彼は上座に置かれたスツールのその奥を見た。

 目が合った。

 アルバスも、彼を見ていた。

 今この、十一歳の小さな姿でも、あの日の言葉通り、アルバスはその少年が彼だとわかっていた。

 

 マクゴナガルが、長い羊皮紙の巻紙を持って、一年生たちの前に出た。

 ABC順に名前を呼ばれたら、前に出てきて帽子をかぶるように、とみんなに伝えて、マクゴナガルは一人ずつ名前を呼び始めた。

 

「グレンジャー・ハーマイオニー!」

 知っている名前が呼ばれた。彼女はグリフィンドールだった。

 

「ロングボトム・ネビル!」

 あのヒキガエルの少年だ。この子もグリフィンドールだった。

 

「マルフォイ・ドラコ!」

 ドラコは名前を呼ばれるとさっさと出ていって、帽子を完全にかぶるより先にスリザリンへ組み分けされた。

 

「ポッター・ハリー!」

 その名前が呼ばれるや否や、広間はシーンと静まり返って、潜めた声だけが聞こえるようになった。

 組み分け帽子はたっぷり時間をかけて、ハリーをグリフィンドールへと組み分けした。すぐに、耳が壊れてしまいそうな歓声が大広間中に反響した。

 

「ウィーズリー・ロン!」

 これで知った顔ぶれは最後だ。ロンも、グリフィンドールへと組み分けされた。

 

 ――彼は首を傾げた。

 今、「ザビニ・ブレーズ」と名前が呼ばれたところだった。

 彼の名前は、まだ呼ばれていない。

 それどころか、マクゴナガルが名簿の巻紙を仕舞おうとしているところだった。

 

 マクゴナガルは最後の生徒まで名前を呼び終えたと思って、名簿を巻きながら、大広間の方へ目を移した。

 まだ、生徒が一人残っていた。彼はまだ呼ばれていないことに首を傾げて、マクゴナガルが持っている名簿と、アルバスとを交互に見比べていた。

 マクゴナガルは、もう一度名簿を全て開いて、視線を落とした。

 一番下の端っこ。

 細く斜めった字で、付け足すように、一人の名前が書かれていた。

 

 彼の一つ前に呼ばれた子で終わりかのようにマクゴナガルが読み上げをやめて、不自然に間が空いて、それでもまだ生徒が一人残っていたものだから、大広間の中はざわざわとしていた。

 彼は、名簿の最後にでもアルバスが無理やり付け足したのだろうと思った。

 その証拠に、ABC順なんか全て無視して、まるで忘れてしまっていたように、彼の名前が呼ばれたのは一番最後だった。

 最後に組み分けをする運命からは逃れられないのかもしれないと、彼はため息をついてから、組み分け帽子のまつ壇上へ向かった。

 

「……ふむ。おや? 君は初めてじゃないな?」

「ああ。二度目だよ」

「これはこれは、珍しい。ふぅむ……君はグリフィンドールの勇気も、スリザリンの狡猾さも、ハッフルパフの勤勉さも、レイブンクローの知性をも兼ね備えておる……はてさて、どうしたものか」

 

 悩み始めた組み分け帽子に、彼はこれ幸いと声をかけた。

 

「僕、スリザリンに入りたいんだ」

「なるほど。……よろしい、君がそう望むのなら――スリザリン!」

 

 組み分け帽子の宣言に。わっと大広間が湧きあがった。

 彼は脱いだ帽子をそっとスツールの上に置くと、スリザリンのテーブルへと向かった。

 途中で、グリフィンドールのテーブルの方をチラリとみた。ハリーは残念そうにしていて、ロンは目を合わせまいとばかりにそっぽを向いていた。

 ちょうどドラコの隣が空いていたため、彼はそこへ腰を下ろした。ちらりとアルバスの方を伺えば、目を丸くして驚いていた。

 

「良かった、君と同じ寮になれて」

 

 彼は座るなり、そう言った。

 ドラコもそう言われて悪い気はしないのか、得意げに顎を上げる。

 

「君は賢い側の人間のようだね」

「そう言うんじゃないけど……ありがとう。これからよろしく頼むよ」

 

 彼は手を差し出し、ドラコはその手を握った。

 

 くるくると最後まできちんと呼び終えた名簿を巻き切って、マクゴナガルはどうしてか座ったままのアルバスに目を向けた。

 

「校長?」

 

 マクゴナガルが呼びかけると、アルバスは目線を静かに前に戻して、ゆっくりと立ち上がった。

 生徒たちみんなの視線がアルバスに集まる。

 ドラコとの握手を解くと、彼も周りに習って、そちらへ目を向けた。

 アルバスはニコニコの笑顔を浮かべて、両手を広げた。

 

「おめでとう! ホグワーツの新入生諸君、おめでとう! 歓迎会を始める前に二言、三言、言わせてもらいますぞ! そうれ、ふたこと! みこと! 以上!」

 

 アルバスが席に着くと、大広間は拍手喝采と歓声で溢れた。

 彼はまだみんながアルバスに注目している間に、テーブルの上に現れた料理とドリンクをいくつか引き寄せた。

 テーブルに向き直ると自分の周りばかりが料理で溢れていたため、ドラコは驚きに目を剥いた。

 

「うんうん。見事に茶色一色だけど、どれも美味しそうだね」

 

 彼はなれた手つきでローストビーフやソーセージを皿に盛ると、ついでにドラコの皿にもベーコンやにんじんや豆を乗せて、ドリンクをグラスに注いだ。

 いつもならば野菜の類を多めに盛るところだが、今の容姿は十一歳のため、重そうな肉の類もお腹一杯食べられる気がしていた。

 

「僕も肉が食べたいんだけど」

 

 ドラコは人参をもしゃもしゃと食べながら、そう言った。

 

 

 

 デザートまで食べすすめている間に、彼はドラコからスリザリンが六年続けて寮杯を獲得していることを聞いた。

 彼は驚いて、スリザリンのテーブルの上をふらふらと揺れている血みどろ男爵に目を向けた。血みどろ男爵は珍しく、誇らしげな顔を見せた。

 ひとつの寮がそれほど勝ち続けるとは、彼は聞いたことがなかった。よっぽどスリザリン寮生が優秀なのか――よっぽど贔屓されているのか。

 彼は、まあどちらでも構わないかと、グラスを傾けた。点数を稼ぐのも点数を失うのも、今を生きている生徒たちに全て任せるつもりだった。

 

「さて――全員がよく食べ、よく飲んだことじゃろうから、また二言、三言。新学期を迎えるにあたり、いくつかお知らせがある」

 

 ひとしきりみんながお腹いっぱいになる程食べたあたりで、アルバスはもう一度立ち上がった。

 大広間が静かになって、アルバスの方へ視線が集まった。

 

「一年生に注意しておくが、校内にある森には入ってはいけません。これは、上級生にも、何人かの生徒たちに、特に注意しておきます」

 

 アルバスはグリフィンドールの方にいる赤毛の双子に目をやってから、彼の方もじっと見た。

 彼は残っていた糖蜜パイに手を伸ばしていた。

 

「――最後ですが、とても痛い死に方をしたくない者は、今年いっぱい四階の右側の廊下には入ってはいけません」

 

 アルバスはもう一度、鋭い目で彼を見た。

 彼は掬ったゼリーを口に迎えたところだった。

 アルバスの視線に気づいたように顔を上げると、彼はスプーンを咥えたまま、キラキラとした目で頷いた。

 アルバスは頭を抱えたい気分だった。

 

「では……寝る前に校歌を歌いましょう!」

 

 アルバスは気分を取り戻すために、杖を振った。

 金色のリボンのようなものが杖先からにょろにょろと現れて、テーブルの上に歌詞を書いた。

 

「みんな自分の好きなメロディーで。さぁ、さん、し、はい!」

 

 ベートーヴェンの第九やアップテンポなヒップホップ、葬送行進曲に合わせて歌うものもいたため、歌い終わるのはみんなバラバラだった。

 彼は試しに、威風堂々に合わせて歌ってみた。中途半端なところで歌い終わってしまった。

 見れば、アルバスが感激して流した涙を拭っていた。

 バラバラの校歌への感動どころは彼にはよくわからなかったが、それでもあのブラック校長よりは、比べるのも烏滸がましいぐらい何倍も良い校長をやっているようだと思った。

 

 



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03 無知と未知と既知

 

「血みどろ男爵は君に随分好意的だ」

 

 ドラコはあくび混じりに、ベッドに腰掛けながらそう言った。

 まだ寝巻きのままで、いつも後ろに撫で付けられている髪も、セット前でふわふわとあちこちに跳ねている。

 朝に弱いのだろうか。

 彼は、起きたばかりのドラコに開口一番そんなことを言われ、ネクタイを締めながら首を傾げた。

 

「どんな夢を見たのか知らないけど、早く着替えて朝食に行こうよ」

「夢? ……夢、ああ、そうだ夢だ。危ない夢を見た」

「危ないって、何」

「もうほとんど覚えてない」

 

 彼がベストに首を通して、ローブを着込んでいるうちに、ドラコは器用に、目を擦りながらあくびをした。

 ぱちぱちとおもたそうな瞬きをして、部屋の中をぐるりと見回す。

 彼はもう完璧に制服へ着替え終えているうえに、同室のはずのセオドール・ノットとブレーズ・ザビニのベッドはもう空っぽだった。

 

「セオドールとザビニは?」

「少し前に行ったよ」

 

 ドラコはむすっとした顔をすると、ゆっくりと床へ降り立った。

 ベッドのそばのワードローブを開けると、その中から制服一式を引っ張り出し、そのまま彼に手渡す。

 

「手伝ってくれ」

 

 ドラコはあまり、身の回りのことを自分で済ませることが得意ではなかった。家ではハウスエルフがその全てを担っていたためだ。

 特にネクタイがダメで、綺麗にノットを作れないばかりか、三分の二の確率で大剣より小剣の方が長くなった。

 ドラコが入学する前に、最初に危惧したのがこれだった。箒の練習時間の半分ぐらいを、ネクタイを結ぶ練習に割いておけばよかった。

 だが、幸運なことに。ドラコは、頼られたがりの彼と同室になった。

 

 彼は制服を快く受け取って、ドラコを着替えさせていく。ついでに髪にくしも通してやった。

 ものの数十秒で、ドラコはぼさぼさの寝巻き姿から、ピシッとした制服姿へと早変わりしていた。あとは右頬の涎を拭えば完璧である。

 

 ドラコはちらりと、彼が四六時中首に提げているネックレスの石を見た。

 薄い青紫のスカーフの先に、ゴツゴツとした黒い石がぶら下がっている。石には金色の装飾が施されていて――ドラコの目には、その装飾を這うような光が見えていた。

 

「そのネックレス、何かあるのか?」

 

 ドラコはなぜかカピカピしている頬を拭いながら、そう問いかけた。

 寝る時でさえ、彼はそのネックレスを外していなかった。石の光は睡眠を阻害するほど明るいわけではないため、ドラコは不思議に思いながらも、そのままベッドに寝転んでいるのだが。

 彼はちょっとだけ考えるそぶりを見せると、こくりと頷いた。

 

「あるよ。知りたい?」

「当たり前だろ」

「長い話になるけど、構わない? これからくる沢山の授業の前に、あまり関係ない知識を詰め込んで構わないって言うなら、教えるけど」

 

 ドラコはぐっと言葉に詰まって、「なら良い」と苦々しげに答えた。

「落ち着いたら話そうか」と、彼は微笑んだ。

 

 

 入学して、最初の金曜日だった。

 

 ドラコはホグワーツに入学してからというもの、クラッブとゴイルの代わりに、よく彼を連れ歩くようになった。素晴らしいことに、彼はホグワーツの複雑な地図を()()すでに暗記しているようだった。

 とは言っても、彼も彼でずっと後ろをついて回るわけではなく、授業が終わると、少し目を離した隙にどこかへ行ってしまうのだが――そういう時は、またクラッブとゴイルがドラコの後ろを追いかけた。

 朝は、大抵その二人はまだ幸せな夢の中にいるため、ドラコは彼と共に大広間に向かうのが、日常になっていた。

 

「おはよう、セオドール」

「おはよう」

「今日はオートミールか? 砂糖をかけてくれ」

 

 彼はセオドールと二度目の挨拶を交わして、隣の席へと座った。ドラコも、テーブルの上を覗き込みながらその隣に座った。

 

 セオドールは、少し目を細めて、彼らを見た。

 自分の皿より先に、彼はドラコの皿にオートミールを盛って、砂糖までかけてやっている。

 面倒見が良いといえば、良く聞こえる。実際、彼の姿は親――いや、孫にご飯をお腹いっぱいに食べさせたがる祖父母のようだった。

 今だって、皿いっぱいに盛られたオートミールに「そんなに食えるか! 朝だぞ?!」とドラコが悲鳴を上げたところだ。彼は「じゃあ僕が半分食べるよ」と少ししょぼくれた返答を返した。

 

「今日の授業はなんだ?」

「グリフィンドールと合同で魔法薬学だね」

 

 半分に分けあったオートミールをつつきながら、適当に呟いたドラコの言葉に、彼が答えを返す。いつもの光景だ。

 セオドールはさっさと自分の皿を空にしようと、四方に散ったオートミールをかき集めた。スプーン二杯ぐらいにはなった。

 そのうちの半分を口に入れたところで、ふくろうが何羽か飛んできた。ドラコの前にワシミミズクが降り立つのは、毎朝の恒例だった。

 ドラコはそのワシミミズクからいつものようにお菓子の包みを受け取ると、朝食もそこそこに、得意げにテーブルの上へそれを広げ始めた。ちょうどその頃、ようやっとクラッブとゴイルが大広間に現れて、「あいつらにも分けてやろう」とドラコは席を立った。

 

 彼は、良く世話を焼く。ドラコを見る目だって、まるで孫を見ているような暖かさだ――だが、周りはそうは思わない。

 クラッブとゴイルの次の取り巻きだの、マルフォイの金魚の糞だの――彼を揶揄するような発言が、セオドールの耳には入り始めていた。

 彼らは、まだほとんどをスリザリンの仲間たちに囲まれながら過ごしているから、そんなことには気づいていないようだが――いずれ、彼らの耳にも入るだろうことは間違いない。

 とりわけ、グリフィンドールの者達は、スリザリンを揶揄うようなネタがあると目を輝かせる。

 セオドールはドラコの背を見送ってから、口を開いた。

 

「いい加減やめたらどうなんだ、マルフォイの子分みたいに振る舞うの」

 

 セオドールから話しかけられたのは、思えば初めてだった。

 彼はその言葉に驚くと、慌てて視線をセオドールの方に向けた。

 彼の皿はとっくに空っぽで、ドラコが彼から離れるタイミングを図っていたようだった。

 

「子分って、別にそんなつもりはないんだけど……」

「なくても周りからはそう見える。君、毎日マルフォイの朝支度をして、道案内をして、授業中もべったりで、昨日の夜だって宿題を手伝ってやってたろう。度が過ぎたら代わりにやり始めそうな勢いだったぞ」

 

 確かに昨日は、マクゴナガルから出された宿題に疲れ果てているドラコを、眠る少し前まで手伝っていた。

 マクゴナガルとウィーズリー先生は、同じ変身術の教授で、同じ副校長という立場でもあるのに、規則への厳格さは全くもって違っている。

 けれど、生徒を最大限教育しようとするその姿勢は、少なくとも似通っているものを感じた。

 その点については、彼も同意だ。金でも積まれない限り、宿題を代わりに済ませるなんて意味のないことはしないつもりだった。

 

「でも、僕が好きでやってるだけだし――」

「君が親切なのはよくわかるが、なんでもかんでも手伝うことが、そいつのためになるとは、俺は思わない。あいつをネクタイの一つも結べない大人にするつもりか?」

 

 セオドールは、普段の寡黙さが嘘のように、まくし立てた。

 彼は少し驚いて、言葉を失った。

 セオドールは、何か言いたげに、彼の顔を見た。それから、「俺の考えを押し付けるみたいで、すまないが」と小さく付け足した。

 

「君には、人を依存させて破滅させる危うさがあるように思う――まぁ、俺の勘違いなら良いけどな」

 

 セオドールはそれだけ言うと、席を立った。

 彼はしばらく、スプーンを動かすことができなかった。セオドールの言葉が、背中に重くのしかかっているようだった。

 

「あら、オートミールは嫌い?」

 

 後ろから声をかけられて、彼はハッと顔を上げた。

 

「――ダフネ」

 

 見れば、朝食を済ませたらしいダフネが、心配そうに彼を覗き込んでいた。

 

「なんでも食べるって噂のあなたの手が進まないなんて、珍しいこともあるのね」

「どんな噂だい、それ」

「あら、違うの? 一昨日、誰が飲み残したかわからない紅茶を飲んだって、マルフォイが言ってたけど」

 

 事実だ。

 彼は軽く目を逸らした。

 ちなみに、紅茶はブレーズが残していたものだった。

 捨ててしまうのは勿体無いと思ったのだ。

 ブレーズも、淹れた瞬間に女生徒から呼ばれそちらへ行ったため、一つも口をつけていないと断固として主張していたが、カップの中身は半分ほど減っていた。

 彼は、スプーン一杯に掬ったオートミールを口に運びながら、答えた。

 

「オートミールは好きだよ。嫌いなものなんてないさ」

「そう? なら、どうしたのよ。もしかして、ノットに何か言われた?」

「違う、違うよ。ほら――今日の魔法薬学。スネイプ先生は厳しい人だ、って聞こえてきたから……ちょっと不安だっただけさ」

「大丈夫よ、安心しなさい。スネイプ先生はスリザリンの生徒には優しいって評判だから」

「そっか。ありがとう、安心したよ」

「まあ、先生に物怖じするってのも、あなたにしては珍しいけど――と、ボスが来たからあたしは退散するわね」

 

 ダフネはそう言うと、さっさと大広間から出て行った。

 彼女と入れ違いで、お菓子の包みを空にしたボス――ドラコが、彼の隣へと戻ってきた。

 

「ダフネか? 何を話してたんだ?」

「今日の授業のことさ。……君って、僕のボスなのかい?」

「何の話だ」

 

 

***

 

 

 魔法薬学の教室は、地下牢にある。彼は試しに、一人で教室へと向かった。

 これは初めての試みだった。

 トランクをひっくり返すようにして魔法薬学の教科書を探しているドラコを尻目に部屋を出るのには、たいへん心が傷んだ。なぜだかは知らないがドレッサーの上にある、と教えてやりたいのを必死で我慢して――それぐらい教えてもよかったのではと気づいたのは、寮を出た後だった。

 道中でなぜか転がっていたウィゲンウェルド薬を拾ってから、彼は、今まさに教室に入ろうとしているハリーとロンを見つけた。

 

「ハリー! ロン!」

 

 名前を呼ばれて、振り返って彼の姿を見とめた二人は、笑顔をすぐに消した。

 ハリーはまだ、少しだけ困っている顔に見えなくもなかったが、ロンはといえば、こちらへの敵意を少なからず持っている目尻をしている。

 

「なんだよ、マルフォイの腰巾着。親分はどうしたんだ?」

 

 ホグワーツでこれほど厳しい言葉を耳にしたのは初めてで、彼は危うく、驚いて声をあげそうになった。

 セオドールやダフネだけが言っているわけではなく、ドラコとの関係性が他の寮でも共通認識らしいことを、彼も認識し始めた。

 ――自分が本当の年齢でここへ通っていた頃は、誰かが少しばかり失礼な物言いをしても、みんな寛容にそれを受け流していたし、発言をした側も、それなりに改めていたはずだ。

 彼はそれを思い出すと、いつも通りの微笑みを浮かべて、こういった。

 

「僕はドラコの腰巾着じゃないし、ドラコも僕の親分じゃないよ。合同授業は初めてだろう? 一緒に受けない?」

 

 ハリーは困っていた。

 

 ハリーがキングズ・クロス駅で迷い、ホグワーツに登校することすら叶わないかもしれないと思っていた時、声をかけてくれたのは彼だった。

 不安ばかりだったハリーを慰めるように、なんでもない声で話をしながら、九と四分の三番線まで案内してくれたことで、あの時のハリーはとても救われた。

 彼が優しい人だと、ハリーは知っている。トランクを持ち上げられるぐらい力持ちだってことも。

 ハリーは彼のことを、最初にできた友達だと思っていた。寮が離れてしまったせいで、言葉を交わす機会は()()()なかったけれど、それでも、ロンと同じぐらいには、大切な友達だった。

 

 だからこそ、大切な友達であるロンが、大切な友達である彼に、悪意を持った言葉を投げかけているこの状況が、嫌でたまらなかった。

 彼の言葉に頷きたい。けれど、それが完璧に正しい選択じゃないことも、ハリーは理解していた。

 ロンは、ドラコがハリーをからかっている現場に、何度も遭遇したことがある。ロンは、彼とドラコが、よく行動を共にしていることも、知っている。ロンは、他のスリザリン生だって、ドラコと同じようにグリフィンドールに接していることを、身を持って体験している。

 けれども、ロンは知らない。ハリーが一人で迷っていた時に、彼が魔法史の教室まで案内してくれたことを。

 

 確かに彼はスリザリンなんかへ組み分けされてしまったけれど、それは彼の優しさを否定する理由にはならないはずだ。

 ハリーが答えあぐねているうちに、彼の後ろから甲高い声が飛んだ。

 

「何入り口塞いでるのよ、通れないじゃない」

 

 パンジー・パーキンソンだ。

 ハリーはすぐにわかった。

 彼がいないときに、よくドラコのそばにいて、一緒になってネビルやハーマイオニーをからかっている、パグ犬みたいな顔をした女生徒だった。

 

「パンジー」

「あなたも何してるの。早く入りましょ――ちょっともう、退いてよね」

 

 パンジーは彼の手を強く引っ張ると、ロンを弾き飛ばすようにして、一緒になって薄暗い教室の中へと入っていった。

 彼の微笑みが陰って、眉を落とした目と、ハリーの目がかち合った。しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐさま引き離されてしまう。

 

「次はパンジーの腰巾着でも始める気かな。入ろうぜ、ハリー。なるだけ離れたところに座ろう」

 

 ロンがキッと部屋の中を睨みつけながらそう言ったので、ハリーは今度こそ、頷きを返すしか無くなってしまった。

 

 

 

 教室自体がスリザリン寮に近いこともあってか、中の席の半分は、もうほとんどスリザリン寮生で埋まっていた。

 パンジーは部屋に入って同室のミリセント・ブルストロードを見つけるなり、手を離してそちらに向かってしまったので、彼は珍しく空いていたブレーズの隣に腰掛けた。

 ブレーズは彼を見るなり、「オゥ……」と小さく声を上げた。

 

「なんだい、その反応」

「……お前、やっぱりオレに気があるんじゃないだろうな?」

「どこからその馬鹿げた発想が出て来たのさ」

「一昨日お前がオレの紅茶を飲んだ時からだよ」

「その節はすまない」

 

 彼は眉を下げて笑いながら、ちらりと出入り口の方を見た。

 ハリーとロンは、スリザリン寮生が固まる一角からはだいぶ離れたところに座っていた。後から他のグリフィンドール寮生も入ってきて、ハリーらの周りを固めるように席が埋まっていく。

 部屋ではあれだけ焦っていたのに、涼しい顔をして魔法薬学の教科書を抱えて部屋に入ってきたドラコと、後ろにくっついているクラッブとゴイルがくっつくように同じテーブルに座って、スリザリン寮生は全て揃った。

 部屋全体の空気が、どこかピリピリとしていた。

 

 セブルス・スネイプは、バン、と大きな音を立てて、部屋の中へと入ってきた。

 暗い瞳と長めの黒髪は、彼の記憶の中にあるシャープ先生とどこか似た雰囲気を纏っていたが、その二人には決定的に違うところがあった。

 スネイプは長く黒いマントをはためかせるように、サクサクと歩いた。教室の一番前まで歩み進めると、くるりと後ろを振り返って生徒全員の顔を眺めた。

 

「では、出席を取る」

 

 出席を取るか取らないかは、先生によってまちまちのようだった。

 マクゴナガルや、呪文学の教師であるフィリウス・フィリットウィックも、授業を始める前に、まず出席をとった。

 スネイプはスリザリンから順に名前を呼んで、全員がいることを確認すると、グリフィンドールの出席確認に移った。

 コールとレスポンスの小気味よいやり取りで、特につっかえることなく名前が呼ばれていた時、スネイプが一度、声を止めた。

 

「あぁ、さよう」

 

 ゆっくりと、少し鼻につく声で、次の名前を呼んだ。

 

「ハリー・ポッター。我らが新しい――スターだな」

 

 後ろの方の席で、ドラコとクラッブとゴイルが、冷やかすように笑い声を上げた。

 当然のように、部屋の空気が悪くなる。グリフィンドールからの敵意のこもった視線が、彼の方にも向けられていた。

 スネイプが出席を全て取り終わった頃には、二つの寮の間の空気は、部屋の雰囲気も相まって、酷くどんよりとしたものになっていた。

 スネイプは扉と同じように、パチンと名簿を勢いよく閉じると、生徒全体を見回した。

 

「私の授業では杖を振り回したり馬鹿げた呪文を唱るようなことはやらん。諸君らが、魔法薬調剤の微妙な科学と、厳密な芸術を真に理解することは期待しておらん。

 ――が、限られた、素質のある者には。

 伝授してやろう、名声を瓶詰めにし、栄光を醸造し、死にさえ蓋をする――そういう、技を」

 

 彼はちらりと、ハリーの方を覗った。

 ハリーは今の演説を、楽しげにノートに書き込んでいるようだった。

 スネイプも、それをめざとく見つけていた。

 

「ポッター!」

 

 と、大きな声でハリーの名を呼んだ。

 ハリーはハーマイオニーに小突かれて、動かしていた羽根ペンを止めた。

 スネイプはコツコツとハリーに近づく。

 

「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になる?」

 

 ペラペラと述べられた問いの意味が、ハリーにはよくわかっていないようだった。隣で、ハーマイオニーが挙手する。

 嫌な雰囲気だった。彼の周りのスリザリンの者はみんな、ハリーが答えられないことを望んでいるようだった。

 小さく、ため息を吐く。

 彼は周りの視線が全てハリーとその隣で天高く手をあげているハーマイオニーに向けられていることを確認すると、慎重に、指の先をハリーのノートに向けた。

 

「聞こえなかったかね、ポッター。アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか?」

 

 ハリーは、再び困ったことになっていた。

 

 なんの球根の粉末に、何を煎じたものを加えるだって? 再び言われたって、わかるわけじゃない。

 ハリーは辺りをちらりと見回すが、隣で手を挙げるハーマイオニー以外、誰もわかっている様子はなかった。

 おまけにスリザリンの連中の、ニタニタとした意地の悪い笑みが視界に入って、見るんじゃなかったと、ハリーは視線を下に向けた。

 すると、驚くことが起こった。

 ノートに書き込んでいたスネイプの演説が、ぐにゃりと歪んで、新しい文字に置き換わったのだ。

 

「あ……アスフォデルとニガヨモギを合わせると、『生ける屍の水薬』とも呼ばれる、強力な眠り薬ができる……できます」

 

 スネイプがおや? と片眉をあげた。

 ロンが驚いたような顔をして、ハーマイオニーが悔しげに手をさげた。

 スリザリンの方の席を盗み見れば、みんな面白くないとでも言いたげな顔をしていた。

 ただ彼だけは、にこりといつもの微笑みを浮かべて、ハリーを称賛するように頷いた。

 

「よろしい。……では、もう一つ聞こう。ベゾアール石を見つけてこいと言われたら、どこを探すかね?」

 

 またもや、わからない質問だった。

 ハーマイオニーが、今度こそはといった様子で、手をまっすぐにピンとあげた。

 ハリーはまた、それとなく視線を落とした。

 

「ヤギの胃の中、です」

 

 スネイプは答えたハリーのことをじっと見つめた。吸い込まれるような黒い目と、ハリーの明るい緑の目とがかちあう。

 スネイプは、ほんの小さく口の端を挙げると、コツコツとまたハリーに近づいてきた。

 二メートル、一メートルと距離を縮めて――ハリーの目の前に立つと、教科書をボン、とノートの上に置いた。

 

「では、もう一問だ」

 

 ――やられた。

 彼は、ぎゅっと手を握り締めた。ああされてしまっては、ヒントも答えも送れない。

 変身術で、ハリーのノートの文字を変えていたのがバレてしまったようだった。教科書の表紙の文字を変える術もあるが、あの距離だとスネイプに勘づかれるだろう。

 

「モンクスフードとウルフスベーンの違いはなんだね?」

 

 ハリーが立て続けに正解を出していたことで、つまらなそうに二人を見ていたスリザリン寮生も、スネイプの表情に興味を取り戻していた。

 クスクスと、どこからともなく嘲笑うような声が聞こえる。

 ハーマイオニーの素晴らしい挙手も、いまだに無視されたままだ。

 ハリーの瞳が、焦ったようにあちらこちらへと動いていた。

 彼は、ふう、と息を吐くと、真っ直ぐ手を上げた。

 

「ほう……君はわかるのかね」

 

 ハリーの目が「救世主だ!」とでも言いたげに輝いて、その視線の先を見たスネイプが、静かに言った。

 彼は頷いた。

 スネイプがハリーから離れて、教室の前の方へ歩を進めながら口を開く。

 

「では、起立したまえ」

「モンクスフードとウルフスベーンはどちらも同じ植物で、とりかぶとのことです。他にも、アコナイトや附子といった別名があります」

 

 彼が立ち上がれば、反比例するようにハリーが着席した。

 スネイプは彼の解答を聞くと、満足そうに頷いた。

 

「正解だ。素晴らしい。スリザリンに五点」

「……え?」

 

 彼が思わず声を上げたので、スネイプは小さく顔を顰めた。

 

「私の採点が不満かね」

「いえ、そうではなく――先ほど、ハリー……ポッターが二問答えても点数はなかったのに、一問しか答えていない僕に五点も下さるのかと」

 

 隣のブレーズが、いいからもう、それ以上言うな、とでも言いたげに彼を小突いた。

 彼は不完全燃焼のまま、静かに着席した。

 

「君の解答に補足情報があったために、加点をしたまでだ。ところで諸君、なぜ今のを全てノートに書き取らんのかね?」

 

 スネイプがそういうと、みんな一斉にノートと羽根ペンを取り出した。

 

 今日の授業の本題は、おできを治す薬を調合すると言ったものだった。

 彼はブレーズとペアになって、調合に取り掛かった。

 彼が軽く叩いて蛇の牙を砕いている間に、ブレーズは干しイラクサを慎重に計る。角ナメクジを茹でるのは一緒にやった。

 

「これ、山嵐の代わりにウニの棘を入れたらどうなるんだろう」

「とりあえず、教科書通りにやらないか?」

 

 スネイプはどうやらドラコがお気に入りのようで、「ドラコ・マルフォイが角ナメクジを完璧に茹でたので見るように」と、教室全体に聞こえる声で言った。

 その時だった。教室全体に酷い緑色の煙が広がって、シューシューという不吉な音が聞こえた。彼は杖を取り出して、その音の方へ杖先を向けた。

 

 音の中心は、ネビルの調合している大鍋からだった。

 大鍋が溶け出して、その中身が今にも周りに飛び散ろうとしていた。

 

エバネスコ(消えよ)!」

 

 勘のいい生徒は椅子やテーブルの上に避難しようとしていたが、彼が杖を振ると、その液体は綺麗に水滴一つ残さず消え去った。

 中身がかかる、とぎゅっと目を瞑っていたネビルも、何も来ないと気づくと、恐る恐る瞼を開けた。

 

「バカ者!」

 

 スネイプの怒鳴り声が響いた。

 

「おおかた、大鍋を火から降ろさないうちに、山嵐の針を加えたのだな?」

 

 その声にネビルは肩を跳ねさせると、丸い目に涙を浮かべはじめた。

 

「彼が消失させなければ、君の顔は今頃おできでいっぱいだったろう――ポッター、なぜ針を入れてはいけないと言わなかった? ロングボトムが間違えれば、自分の方がよく見えると考えたな? グリフィンドール、合わせて二点減点」

 

 スネイプはネビルを叱責すると、くるりと方向を変えて今度はハリーへ強引に言いがかりをつけて、二点も減点してしまった。

 あまりに理不尽だ、と彼は思った。

 ネビルとハリーはペアを組んでいたわけですらなかったのに、ネビルの鍋の中まで把握できるわけないだろうと、彼は物申してやりかった。

 その前に、ブレーズが彼を小突いた。

 

「やめとけよ。スネイプ先生はスリザリンから減点しないって評判だけど――そう何度も言い返してたら、もしかするかもしれないぜ」

「したらダメなのかい?」

「いいともよ。砂時計がお前一人のならな」

 

「エバネスコ――扱うには繊細な技術が要求される。スリザリンに一点」

 

 ブレーズにとめられている間に、逆に加点されてしまった。

 スリザリンは湧き上がり、グリフィンドールは恨めしそうな視線を彼に向ける。

 彼は肩を下ろして杖をしまうと、残りの調合に取り掛かった。

 

 酷い贔屓だ。

 彼は、スリザリンが六年も連続して寮杯を取り続けている理由の一端を、目の当たりにした。



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04 画策する飛行訓練

 

 

「三頭犬とは珍しいな……なんて名前にしよう」

 

 校長室に足を踏み入れた彼は、目くらまし術を解除した。

 悩みながら、茶色のカバンを、検知不可能拡大呪文をかけたローブの内ポケットに放り込む。慣れれば、内ポケットから直接カバンの中身を取り出せるので、大変便利だ。

 アルバスは、前触れもなく現れた彼の姿に、思わずレモンキャンディを取り落としそうになっていた。

 食べる前のそれを包み紙に直してから、そそくさとアルバスは彼に近寄る。

 

「先輩」

「やあ、アルバス」

「肝が冷えます。……合言葉、よくお分かりになりましたね」

「アルバスの好きなものを思いつく端から言っていったら、四つ目で開いたよ」

 

 アルバスは、ぐ、と言葉に詰まった様子だった。

 白い毛髪に混じって、先端がほんのりとピンク色に染まった耳が覗きみえる。

 彼のそんな視線を振り払うように、アルバスは杖を一振りした。

 どこからともなく、二脚のソファとテーブルが一台引き寄せられて、アルバスは彼の手を取ると、そのうちの一脚へエスコートした。

 パチン、と指が鳴らされて、テーブルの上に淹れたての紅茶が並ぶ。

 彼の向かいのソファにアルバスも腰を下ろして、口を開いた。

 

「先輩。今日は、どうされたのですか?」

「今日で一週間だからね――君とお茶したいと思ったんだよ。前に聞いたろう、また遊びに来てもいいかいって」

 

 確かその時は、ピシリと断られたような気がするが。

 

「初めての一年生は、いかがですかな?」

「予想外に忙しいな。君、よくあれだけの宿題と授業をこなしながら、毎日僕にふくろうを飛ばせたね?」

「先輩だって、一年生から五年生までを、たった一年で学ばれてしまわれたのでしょう?」

「僕の場合は――ほら、優秀な先生が、いたからさ」

 

 彼は、アルバスの目を避けるように、視線を落とした。

 白い光が、頭の奥でチラつく。彼は何度か瞬きをすると、その動作の不自然さを誤魔化すように、視線の先にあったカップを持ち上げて、紅茶を一口飲み込んだ。

 

「先輩にも、そのような方がおられたのですね? ……私にとっての、あなたのような」

「そうなれてたら嬉しいな――それよりも、アルバス」

 

 カップをソーサーに戻してから、彼は顔を上げて、アルバスを見た。

 顔には、いつも通りの微笑みを浮かべている。

 アルバスは、半月形のメガネの奥の目をパチンと一瞬閉じた後、「なんでしょう」と、答えた。

 

「いつからだい。こんなにも、寮同士の関係が悪くなってしまったのは」

 

 彼の記憶の中にあるホグワーツは、どの寮に属していようが、対立ではなく切磋琢磨し合い、違う寮の者が一生の友達になる――なんてことが、珍しくなかった。むしろ、それが自然だと思っていた。

 久々のホグワーツはとても楽しい。懐かしい体験と知らない体験に溢れていて、そのどちらもが彼を喜ばせる。

 ただ一つ。

 スリザリンと他の三つの寮の間にある確執だけは、彼の心を曇らせた。

 友人があれだけ嫌っていた純血主義が、忘れられるどころか、その激しさを増して今の子供達に植えついてしまっているのは、やりきれない気持ちになる。

 

「五十年ほど前からですかの……。えぇ、それまでは確かに、純血主義自体は存在していても、それほど過激な思想ではありませんでした。

 ……今のスリザリンの子たちには、親に死喰い人をもつ子がたくさんいます。そして、他の寮には、親族が死喰い人に酷い目に遭わされた子が、たくさん」

「そりゃあ、寮の関係が悪くなるわけだ。おまけに、最近はスリザリンだけが寮杯をとっているときた。これじゃ、子供たちの腹の虫は治らないだろうね」

 

 彼は紅茶を何口か飲むと、今思いつきましたとでも言いたげな笑顔を、アルバスへ向けた。

 

「じゃあ、試しに、今年の寮杯をグリフィンドールに取らせてくれないかい?」

「それは……よろしいのですか? 先輩は、今はスリザリンでしょう」

「そりゃあ、取れなきゃ悔しいけどね。でも、僕が悔しいってことは、子供たちも悔しいってことだろう? 他の寮の子の溜飲を下げるには、ちょうどいい」

 

 彼の、目が、キラキラと輝いていた。

 彼の今の発言は、本音の半分ほどでしかないのだろうと、アルバスは読み取った。

 その目の色を、アルバスは知っている。アルバスが、その類まれなる才能を彼に示した時と、同じ目の色だ。

 出会ってしまったのだろう。彼が興味を惹かれるような誰かに。――それが誰なのか、アルバスは紅茶を傾ける一瞬のうちにたどり着いた。

 彼が入学してからあれほどべったりなのは、一人しかいない。

 羨ましい。と、単純に思ってしまう。彼と同学年で、彼と同寮で、彼と同室で、やがて、彼と共に卒業できるのだから。

 

 アルバスは少し考えるようなふりをして、「良いでしょう」と頷いた。

 

 考え込む時間からして、あれは元々()()考えていたのだろうと彼は思ったが、口は挟まないことにした。

 彼は、蛇が出るとわかっていながら、本当に蛇が出るのかと藪を突くタイプだが、今回ばかりは自重した。

 他の寮の機嫌を取るために、今年はグリフィンドールに寮杯を取らせる。そういう建前で互いが納得しあったのなら、それでいい。

 

 アルバスはまだたくさん残っている紅茶をコクコクと飲むと、彼を眺めるように頭の先からじいっと視線を落として、ローブの、内ポケットがあるあたりに目線を据えた。

 

「……さて、先輩。そろそろ私もお聞きしたいのですが」

「うん、どうしたの?」

「まさかとは思いますが、四階の右側の廊下には、行かれてません、よね?」

「行ったね」

「その奥には」

「僕、あまりアロホモラは得意じゃないんだけど――」

「先輩。そこにいた三頭犬、どうされましたか?」

「……今は僕のカバンの中にいるね」

「…………元に戻しておいて下さりませんか?」

 

「かわいい後輩が言うなら、仕方ない」

 

 彼は今日一番残念そうな顔で、そう言った。

 

 

***

 

 

 ドラコのネクタイも、だいぶ見栄えが良くなってきた。

 今朝のドラコは、自分の素晴らしい箒の操縦技術を、いつもより一層脚色して、みんなに自慢するように話していた。今日、初めての飛行訓練の授業があるためだ。

 寮の掲示板に飛行訓練の日程が張り出されてからというもの、ドラコはこの『マグルのヘリコプターを危うくかわした話』を、部屋の中で何度も話していたため、彼はもうこの話をそらで唱えることができた。

 セオドールは昨日の夜、自分がヘリコプターを避ける夢まで見てしまったと、忌々しげに呟いていた。

 

 彼は切り分けたベーコンを噛みながら、いかにしてグリフィンドールに点を入れたものかと考えていた。

 スリザリンから点を減らすことは容易い。

 適当に校則を破るか、なるべくそういうことはしたくはないが、退学にならない程度に暴れればいいのだ。

 けれども、他寮に加点させるとなると、難しい。

 彼がいくらグリフィンドールを褒めたって、点が入るわけじゃない。

 とりあえず、魔法薬学の授業で稼いだ分をどこかで減らさなければ。

 

 

 ――魔法薬学の授業の帰り、彼はブレーズに「さっきのドラコ、いつもと違って性格が悪かったね」と言った。

 ブレーズはオレの聞き間違いか? とでも言わんばかりにおかしな顔で耳の穴を掻いて、「マルフォイの性格が悪いのは()()()だろ。お前といる時だけ性格が良いんだ」と呆れた顔で言った。

 彼にとってその事実は、足が止まってしまうほどに衝撃的だった。

 ドラコのあのような態度を見たのはホグワーツ特急が最初で最後だった。

 その時も魔法薬学でも、ドラコは後ろにクラッブとゴイルを連れて歩いていたため、彼は――二人には悪いが――その二人と連んでいるせいでドラコの性格が悪くなってしまっているのだと、今の今までそう思っていたのだ。

 

 その日一日、彼はドラコを少し離れたところで観察しながら過ごした。

 必要とあらば目くらまし術を使って、ドラコがグリフィンドール生にむやみにちょっかいをかけるところを見たり、クラッブとゴイルとの会話を盗みきいたりした。

 そのちょっとした調査の結果――ドラコ・マルフォイは少しだけわがままな男の子、という認識を改める必要があるようだ、と気づいた。

 彼はそれまで、放課後を森の探検に費やしていたが、目くらまし術を使っているついでに、禁じられている四階の右側の廊下に向かった。

 

 そこで閉じ込められていたところを()()()三頭犬は、その日のうちにアルバスに咎められてしまったため、元の廊下の奥に繋ぎ直してきたが。

 

 

 少し周りに意識を向けてみれば、今だって彼から離れたグリフィンドールのテーブルで、ドラコがネビルの持っていた赤く光る球をひったくっていた。

 

 ――どうやらドラコは、彼と共にいる時だけは、誰に対しても酷い物言いや行いをしないようだった。別に、性格が変わったりしているわけではない。そもそも、そんなタイミングが、彼と行動していると存在しないと言うだけだ。

 百年分の知識の蓄積がある彼の話の種は尽きないし、廊下を歩いているだけで何かを見つけ飛び出していく彼の後を追ったりと、とてもじゃないが人に悪口を言っているような余裕はない。

 その点クラッブやゴイルは、ドラコが何を言おうと同調したし、その二人以外によくドラコと一緒にいるパンジーは、ドラコと一緒に揶揄う側だった。

 

 結果的に、ドラコは彼と過ごしている間だけは、彼にちょっとわがままなだけの子と化してしまっていたのだ。

 

 

 グリフィンドールのテーブルの方で、ハリーとロンが勢いよく立ち上がった。

 ドラコは、グリフィンドールの中でも、ハリーとロンの二人と特別仲が悪かった。ホグワーツ特急の中で握手を拒まれたことを根に持っているのだろう、と彼は考えていた。

 いざこざの種を見つけて、教員の席の方でマクゴナガルがサッと動いたのが見えた。良いタイミングだ、と彼もベーコンの最後の一切れを口に入れて立ち上がると、ドラコたちの元へ近寄った。

 先に辿り着いたのはマクゴナガルの方だった。

 

「どうしたのですか」

 

 マクゴナガルが聞けば、ネビルがしょんぼりとした顔で答えた。

 

「先生、マルフォイが僕の『思い出し玉』を取ったんです」

 

 その告げ口に、ドラコがキュッと顔を歪めていた。ようやく、彼もベーコンを全て飲み込んで、そばまでたどり着いた。

 ドラコの後ろから近づくと、マクゴナガルに咎められるより先に戻そうとした玉を、彼が後ろから取り上げる。

 突然現れた彼に、両隣のクラッブとゴイルだけでなく、ハリーやロンまでギョッとした顔をした。

 

「なんだい、これ」

 

 彼はそれが――名前まではっきり聞いたこともあって、思い出し玉なのだとわかってはいたが、わざとらしくドラコに尋ねた。

 ドラコはほんの少しだけ驚いたような顔をすると、すぐに嬉しそうに笑った。

 ここ最近は彼に教えられてばかりだったため、彼の知らないものを自分が知っていると言うだけで、心が躍ったのだ。

 

「それは思い出し玉さ。何かを忘れている時にその玉を握ると、赤く光り出すんだ。まあ、何を忘れているのかは教えてくれないけどね。僕や君には全くもって必要ないだろうけど、ロングボトムみたいな忘れっぽいやつにはよォくお似合いの魔法道具――」

「――ミスター・マルフォイ。もうよろしい」

 

 ペラペラペラと上機嫌で話していたドラコを遮ったのは、マクゴナガルだった。

 厳しい目つきで、ドラコと彼を見下ろすと、彼の方に手を開いて伸ばした。彼はその手の上に、そっと思い出し玉をのせる。

 ドラコは慌てたように視線を泳がせていた。マクゴナガルの後ろで、ハリーとロンの口角が得意げに上がる。

 

「人のものを取るのはいけないことですよ、ミスター・マルフォイ。スリザリンから一点減点」

「なっ……」

 

 マクゴナガルはそれだけ告げると、思い出し玉をネビルへと返し、自分の席へと戻っていった。

 ドラコはネビルやハリーをキッと睨みつけると、クラッブとゴイルを引き連れて大広間を出て行こうとする。

 彼も、その後を追った。

 

「君のせいで減点されてしまった」

 

 ドラコは少し早足で寮に向かって戻りながら、そう言った。

 彼も大股になって、ドラコについていく。

 

「ネビルから思い出し玉を取ったのは君だろう?」

 

 彼は微笑みを浮かべながらそう返した。

 クラッブとゴイルが早足についていけず、距離を開き始めた。

 

「君が来なきゃうまく逃げ切れてたさ!」

 

 ドラコが悔しそうに叫んだ。

 寮の前に着いた時にはもう、後ろの二人の姿は見えなくなっていた。

 

「じゃあ次は、僕の邪魔が入っても逃げ切れるようになろうか」

 

 よりいっそう深めた笑顔を彼が向ければ、ドラコは悔しそうに眉を寄せた。

 

 

***

 

 

 木曜日の午後三時半。

 ハリーが他のグリフィンドール寮生と共に校庭へ向かうと、もうすでにスリザリン寮生はみんな到着していた。

 二十本あまりの箒が地面の芝生の上に綺麗に並べられている。みんな、家のまえを掃除するようなボロの箒ばかりだった。

 家に自分の箒を持っているような生徒は、頭の中でその二つを比べているのか、表情の不快感が隠しきれていない。

 

「何をボヤボヤしてるんですか。みんな、箒の側に立って。さあ、早く」

 

 現れたばかりのマダム・フーチが、ガミガミと怒鳴った。

 みんな急いで、並べられている箒の隣に、順番に立っていく。

 スリザリンとグリフィンドールが、向かい合うように整列した。ハリーの前には、彼が立っていた。

 彼がやあ、とハリーに手を振って、隣にいるドラコに脇腹を小突かれていた。

 ハリーも彼のように手を振り返したかったが、隣にいるロンがすごい形相で彼らを睨みつけていることに気がついて、腰の辺りで小さく手を上げた。

 彼はそれを見つけると、ふっと表情を綻ばせた。すぐに、フーチの声が響いた。

 

「右手を箒の上に突き出して――そして、『上がれ!』と言う」

 

 みんな一斉に、「上がれ!」と叫んだ。

 ハリーのそばにあった、あちこちに小枝が飛び出している箒が、ピュンと浮き上がって、ハリーの手の中に収まった。

 ハリーの周り――彼やら、ドラコやらはすぐに箒を飛ばせたが、ほとんどの箒は、地面を転がったり、ピクリとも動かなかったり、思わせぶりに数センチふわと浮くだけで、一度で成功させた者は少なかった。

 

「次は箒にまたがってください。横乗りはいけませんよ。滑り落ちないように、きちんとまたがりなさい」

 

 ローブを翻しながら、箒にまたがる。

 フーチが、生徒の列の間を縫うように練り歩いて、一人一人のまたがり方や、握り方なんかを直していく。

 端の生徒から順に見ていくので、ハリーはフーチが目の前に来て「問題ありません」と頷くまで、ずっとドキドキしっぱなしだった。

 ハリーの次の次に確認されたドラコが、今まで間違った握り方をしていたとフーチに指摘されたため、ハリーとロンは顔を見合わせて喜んだ。

 フーチはみんなの箒の握り方とまたがり方を確認し終えると、端に立って笛を手に持った。

 

「さあ、私が笛を吹いたら、地面を強く蹴ってください。

 箒はぐらつかないように押さえ、二メートルぐらい浮上したら、少し前屈みになってすぐに降りてくること。いいですね?

 笛を吹いたらですよ。……一、二の――」

 

 笛の音が鳴るより先に、ネビルは思い切り地面を蹴ってしまったようだった。

 「こら、戻って来なさい!」とフーチが大声で呼びかけるが、ネビルは「そんなこと言われても箒が勝手に動くんだ!」とでも言いたげで、顔を真っ青にしていた。

 右へ、左へ、空気をパンパンにつめた風船を離した時のように、ネビルは箒に引っ張られて、縦横無尽に空中を飛び回る。

 箒から手が離れていないのが奇跡のようだ。

 しかし箒は、ネビルがその飛び方に慣れるよりずっと先に、地面に向かって垂直に落ち始めた。

 

 落ちる。

 誰もがそう思った。

 ひどい瞬間を見たくなくて、ハリーはぎゅっと目を閉じた。

 ――何秒経っても、思い浮かべたような音は聞こえてこなかった。代わりに、「あれ?」なんて、ネビルの間抜けな声が聞こえてくる。

 ハリーは、恐る恐る目を開けた。ネビルが、地面スレスレで、止まっていた。

 箒に慣れたわけじゃない。その証拠に、ネビルはいつの間にか箒から手を離していて、身一つで、地面から数センチ上のところで、時間が止まってしまったように浮いている。

 

「わっ」

 

 ネビルの体が、とさっ、と芝生の上に落ちた。

 はっとなったフーチが、急いでネビルの元に向かう。

 ネビルは右手首を押さえいて、その表情をだんだんと苦しそうに変えていった。

 

「先生、手首が、すっごく痛くて……、これ、折れてますか?」

「大丈夫です、ただの捻挫ですよ、ロングボトム。ええ、よく箒を離しませんでしたね。あの暴走で捻挫だけで済んだのは幸運なことです」

 

 「捻挫ぐらいならすぐに治ります」とフーチはネビルを慰めて、立ち上がらせた。

 ネビルは慰めよりも痛みの方が勝っているらしく、ポロポロと涙をこぼし始める。

 

「ロングボトム。スレスレで止まったのは、何か魔法を?」

 

 フーチが聞くと、ネビルは涙で濡れ始めた顔をブンブン振った。

 フーチは今度ハリーたちの方へ向き直って、みんなに聞いた。

 

「今呪文をかけたのは誰ですか?」

 

 みんな、一斉にあたりを見渡す。

 ハリーも、ロンと顔を見合わせて、首を傾げた。

 落ちる瞬間は、見ていられなくて目を閉じたのだ。

 しかしすぐに、大きな声が響いた。

 

「ハリーですよ、先生!」

 

 ハリーは、自分の耳を疑った。

 ――今、間違いでなければ、手前にいる彼が、僕の名前を、高々と宣言しやしなかったか?

 

「ぼ、僕知らないよ!」

「謙遜しなくたっていいよ。なんてったってハリー。今魔法をかけられる杖を持っているのは君だけなんだから」

「えっ?!」

 

 ――なんの話だ!

 ハリーは自分の手を見た。

 驚いたことに、しっかりと握りしめていたはずの箒が、いつの間にか、ローブの中にしまっていたはずの杖に変わっていた。

 みんなの視線が、ハリーに集まる。ハリーが否定を重ねるより先に、フーチが声を上げた。何を言われるんだろうか。ハリーは身構えた。

 

「ハリー。ハリー・ポッター。素晴らしい状況判断でした。グリフィンドールに一点」

 

 グリフィンドール寮生の目が輝いて、スリザリン寮生の目つきが悪くなる。

 本当にハリーが助けたことになってしまった。

 ハリーが反論するのも忘れてポカンとしているうちに、フーチはネビルを連れて、医務室へ行ってしまった。

 ハリーがもう一度右手を見ると、今度は杖が箒に変わっていた。

 

「私が帰ってくるまで、全員地面に足をつけて待っていること。いいですね。箒の一本でも飛ばしたら、クィディッチの『ク』の字を言う前に、ホグワーツから出て行ってもらいますよ」

 

 ハリーの箒をもとに戻してから、彼ははっとして、ローブの内ポケットに手を突っ込んだ。

 魔法薬学の授業へ行く前に拾ったウィゲンウェルド薬を入れていたのだが、それを思い出した頃には、ネビルもフーチももうとっくにこの場から消えていた。

 代わりに、ドラコの声が響いた。

 

「あいつの顔を見たか? あの大間抜けの」

 

 その声に続くように、他のスリザリン寮生も囃し立てる。

 

「やめてよ、マルフォイ」

 

 グリフィンドールの女の子、パーバティ・パチルが咎めた。

 

「へぇ。ロングボトムの肩をもつの?」

「パーバティったら。まさかあなたが、あのチビデブの泣き虫小僧に気があるなんて知らなかったわ」

 

 パンジーが、ドラコの後を継ぐように冷やかす。

 

「ドラコ」

 

 彼も咎めるように、ドラコの名を呼んだ。

 ドラコは一瞬だけ怯んだように眉を下げたが、すぐになんでもないようにふん、と鼻を鳴らして、何かを見つけたのか、ネビルが着陸したところに駆け出した。

 

「ごらんよ! ロングボトムのばあさんが送ってきたバカ玉だ!」

 

 ドラコは芝生の上から拾い上げたそれを、たかだかと掲げた。

 思い出し玉が、陽の光を受けてキラキラと輝く。

 

「返せよ、マルフォイ!」

 

 ハリーが一番最初に飛び出た。

 ドラコはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「それじゃ、ロングボトムが後で取りにこられるよう置いておこう――屋根に置こうか」

 

 そういうや否や、ドラコは箒にまたがって、ふわりと上空に飛び上がった。

 綺麗なフォームだ。あれだけ自慢話を披露していただけはある。

 ハリーも、ドラコの後を追うように、ハーマイオニーの静止を振り切って空へと飛び上がった。

 ハーマイオニーが「なんて馬鹿なの?!」と言って、彼に近づいた。

 

「あなたからも止めてちょうだい! あのマルフォイも、あなたの言うことならきっと聞くわ!」

「そうかな?」

「いいの? このままじゃ二人とも退学よ!」

「でもほら、箒が上手くなりたいなら、先生の言うことなんて少し無視するぐらいがちょうどいいってもんだよ」

 

 彼の実体験だったのだが、ハーマイオニーは「なんてこと!」と、信じられないとでも言うような顔をして、絶句してしまった。

 二人の会話を聞きつけて、ロンも近づいてくる。

 

「構うなよ、ハーマイオニー。こいつはスリザリンだぞ。どうせさっきのハリーのことだって、マダム・フーチが減点すると思って言ったんだよ。思い通りには行かなかったみたいだけどね」

「いや、思い通りさ」

 

 彼はそうとだけ答えて、上空の二人を見上げた。

 ロンも、彼が何を言っているのかわからない、と、ハーマイオニーと共に肩をすくめて、ハリーを見た。

 ドラコが思い出し玉を放り投げたところだった。ふわりと一瞬だけ浮いた思い出し玉は、重力に従ってそのスピードをグングンと加速させながら、地面に向かって一直線に落ちていく。

 思い出し玉が地面の芝生に触れる直前で、一緒に急降下してきたハリーがそれを捕まえた。先ほどのネビルよりスレスレの、間一髪のところでハリーは柄をぐっと持ち上げ、箒を水平に立て直した。

 グリフィンドール寮生がみんな、歓声を上げてハリーのそばへ集まる。ドラコは少し離れた彼のそばへ、悔しそうに着陸した。

 

「ハリー・ポッター!!」

 

 その歓声をかき消すように、鋭い声が走った。

 マクゴナガルが珍しく走ってハリーに近寄っていく。

 ドラコの顔が一転、嬉しそうなものへ変わる。

 

「先生、ハリーが悪いんじゃないんです」

「お黙りなさい。ミス・パチル」

「でも、マルフォイが――」

「くどいですよ、ミスター・ウィーズリー。ポッター、さあ、一緒にいらっしゃい」

 

 マクゴナガルが大股で歩き出して、その後ろをハリーがトボトボとついていく。

 ドラコが得意げな声を上げた。

 

「見たか! あいつもこれで退学さ」

 

 彼もだんだんと、こっちがドラコの素なのだと理解できるようになってきた。ブレーズに認識の違いを正してもらっていなければ、大ショックを受けていたかもしれない。

 

「これでハリーが退学なら、ドラコもだと思うけど」

 

 彼が心配そうにそう呟くと、ドラコの口の端がヒクッ、と引き攣った。

 

「き、きっと大丈夫さ。僕は見られてないんだ。そう! だって見ていたら、僕も一緒に連れていくはずさ! そうだろう?!」

 

 ドラコは後ろを振り返って、クラッブとゴイルに同意を求めた。

 ブンブンと、勢いよく二つの頭が振られる。ドラコは、それで安心したようだった。

 彼は少し困った。

 規則に厳格なマクゴナガルなら、本当にハリーを退学にしかねない。

 例えマクゴナガルにドラコの姿が見られていなかったとしても、ハリーが退学となれば、グリフィンドール寮生総出で「マルフォイも飛んでいた」と教えにいくだろう。

 ドラコまで退学となってしまっては、非常に困る。

 

 先んだって手を回しておく必要があるな、と彼は考えた。



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05 立候補した介添人

 

 

「まったく、一体どこに行っているんだ」

 

 夕食を口に運びながら、ドラコは一人ぼやいた。

 隣の席は、クラッブとゴイルで埋まっている。どういうわけか、彼の姿はどこにも見えなかった。

 突然いなくなるのは今に始まった事ではないが、それはそれとして、どこにいるのかは、いつだって大いに気になる。

 

 とりあえず、今朝彼のせいで減らされてしまった一点と、飛行訓練中にハリーに加えられた一点の分を稼がなければいけないと、ドラコは考えていた。

 その稼ぎ方を、彼と練ろうと思っていたのに――ドラコは最後のパイの一欠片を口に入れた。

 どうにも、クラッブとゴイルと共に食事をすると、食欲が落ちる。両隣が次々に大量によそった料理を平らげていくものだから、見ているだけで満腹になってしまうのだった。

 デザート分の胃の容量を空けておくのにも一苦労だ。

 

 ドラコは立ち上がった。

 それを見て、クラッブとゴイルも、慌てて皿の中身を口に詰める。クリームが口の端にくっついていた。いつものことだ。

 パイを口に放り込んだ時に一つ、妙案を思いついた。

 ドラコはクラッブとゴイルを引き連れて、グリフィンドールのテーブルへと無遠慮に近づいた。

 双子のウィーズリー兄弟が、大広間を出て行ったところだった。

 ドラコが現れたのに気付くと、ハリーとロンは、わかりやすく顔を歪めた。

 

「ポッター、最後の食事かい? マグルのところに帰る汽車にはいつ乗るんだ?」

「地上ではやけに元気だね。小さなお友達もいるしね」

 

 ドラコがこの上ないほど嫌味ったらしくそう言えば、ハリーは冷ややかに言葉を返した。

 クラッブとゴイルが、握り拳をつくって、骨をボキボキと鳴らした。

 けれど、ハリーのすました表情は剥がれない。上座の方に先生が並んでいるせいで、二人が手を出せないのをわかっているのだ。

 まあいい、とドラコも煽るような表情を崩さなかった。今話を聞かせたいのはハリーではなく――隣に座るロンだ。

 

「僕一人でいつだって相手になろうじゃないか。ご所望なら今夜だっていい。

 魔法使いの決闘だ――相手に触れずに、杖だけで戦うんだ。

 どうしたんだい? 魔法使いの決闘なんて聞いたこともないかい?」

「もちろんあるさ。僕が介添人をする。お前のは誰だい?」

 

 思い通り、ロンが口を挟んできた。

 ドラコにとって、介添人など、どちらでも良かった。

 それでも一応、後ろの二人を見比べる――クラッブの方が大きいか。

 

「クラッブだ。真夜中でいいね? トロフィー室にしよう。いつも鍵が開いてるんでね」

 

 ドラコは二人が頷いたのを確認すると、大広間を出た。

 後ろで、クラッブがそわそわしていた。介添人が務まるのか不安なようだ。

 ドラコは少しだけ眉根を下げて、クラッブとゴイルを先に寮へ帰した。ちゃんと辿り着けているといいのだが。

 一人になって、ドラコはホグワーツの管理人であるアーガス・フィルチの元へと急いだ。他の生徒の例に漏れず、もれなくドラコもフィルチのことを疎んでいたが、人は使い様だと心得ていた。

 

 クラッブとゴイルは、無事寮まで辿り着いた様だった。ドラコが帰ってくると、二人はあれほど夕食を食べたというのに、談話室で新しいタルトをつまんでいた。

 ドラコは胸焼けしそうな思いで談話室を通り抜け、部屋へと向かった。

 部屋のドアを開ければ、ドラコは、先に帰ってきていた彼の微笑みと、セオドールの眠そうな両目に迎え入れられた。ブレーズは、まだ帰ってきていないようだった。

 

「ドラコ。おかえり」

 

 優しそうな笑みを浮かべる彼に、ドラコは上機嫌な顔を向けた。

 彼は首を傾げた。

 

「どうかした?」

 

 ドラコは彼に驚きを与えてやろうと、たっぷり溜めて話すことにした。

 まず、ハリーと決闘の約束を取り付けたことを聞かせた。

 今夜の真夜中、トロフィー室で、ハリーはロンを、ドラコはクラッブを介添人につけた決闘を行う()()をした、と。

 途端に、彼はキラキラと目を輝かせ始めた。

 

「真夜中に! 寮を抜け出して! 決闘だって!」

 

 ドラコは得意げに頷いた。

 肝心なのはここからの話だというのに、決闘という単語は、思っていた以上に彼を楽しませていたようだった――ドラコの話など、耳に入らなくなってしまうほどには。

 

「ああ、そうさ。もちろん、僕は行かないけどね。あいつらが夜トロフィー室にくるってフィルチに告げ口してやったんだ。グリフィンドールの大幅減点は決まったようなものさ」

 

 自分で話しながら、なんて素晴らしい作戦だろうとドラコは胸を躍らせた。

 うまくいけば、今夜、眠っている間に、勝手にグリフィンドールの点数が減るはずだ。

 彼からも称賛の言葉がもらえるだろうと、ドラコはちらりと彼を見た。

 彼は一人で勝手にうんうんと頷いていて――

 

「こうしちゃいられないね。介添人はクラッブだっけ? 羨ましい。ちょっと、変わってもらえるように言ってくる」

「……? ……お、おいまて。だから僕は行かないって……」

 

 ――ドラコの静止も、他の何も、彼の耳には届いていないようだった。

 彼は、まるで光の筋にでもなったかのように素早い動きで、部屋を出ていった。あまりの速さに、入れ違いで入ってきたブレーズが、今のは何だと慌てて尋ねてきたほどだった。

 ドラコはそんな問いかけに答える余裕もないまま、呆然としてセオドールを見た。

 

「…………セオドール」

「……まあ、あの様子じゃ、無理矢理にでも連れて行かれるだろうな。せいぜい、フィルチに見つからないように気をつけろよ」

 

 セオドールは「意外だな、あいつがあんなに決闘が好きだったなんて……」とかなんとかぶつぶつ呟きながら、掛け布団を頭からかぶった。

 ドラコは頭を掻いた。本当に連れて行かれてしまったら、ハリーたちもろとも減点されてしまう。

 こうなったら、できるだけ時間を稼いで出発を遅らせて、ハリーともフィルチとも鉢合わせないように、寮に帰ってくるしかない。

 

 

 普段ならどうってことない薄暗い談話室も、そのミステリアスな緑色の灯りも、窓の外の吸い込まれそうな暗い海も、この時間になると恐ろしく感じるものだ。

 寮生はもうみんな寝静まっていて、自分の足音が気になる程だった。

 談話室の中央あたりまで進んで、ドラコは彼を呼び止めた。薄暗い部屋の中でも、彼の表情ぐらいは読み取れる。

 振り返った彼はそのまま、首を傾げた。

 

「どうしたの?」

「あー……えっと……」

 

 言い淀む。

 時間を稼がなければとばかり思っていたせいで、肝心の、彼を引き止めるための内容が何も出てこない。

 とりあえず、世間話でもなんでもするべきか、と、ドラコは口を開いた。

 

「……君、決闘が好きなのか?」

「もちろん。だってほら、決闘に勝る練習方法はないだろう?」

 

 彼が肩をすくめて、戯けたように言った。

 ドラコは一瞬、ぎゅっと目を瞑って、視線を下に向けた。

 一つだけ、言葉が思い浮かんだ。

 少々悔しくはあるけれど、今彼と共にこの場に留まるには、最適な文言のように思えた。

 

「特訓を」

「……え?」

「僕に特訓をつけて欲しいんだ――その、まだ、決闘に使えるような魔法は、覚えていないから」

 

 彼はぱちぱちと瞬きをして、じっとドラコを見つめた。

 ほんの少しの沈黙の後、彼は突然、小さく吹き出した。ドラコは少しムッとした。笑われるとは思ってもいなかったのだ。

 でもどうやらそれは、馬鹿にしたようなものではなさそうで、彼の笑顔は、むしろ嬉しそうなものだった。

 彼が笑っている理由がわからなくて、ドラコは眉根を寄せたまま、首を傾げた。

 

「どうしてそんなに笑う?」

「ああ――ごめん、ごめん。君が、ある子に似ていたもんだから、つい」

 

 ひとしきり笑った彼は、ゆっくりとドラコの方に歩み寄り、いつもよりも輝いた微笑みを向けて言った。

 

「いいよ。杖を出して、ドラコ」

 

 ドラコは、ようやく表情を元に戻した。ひとまず、時間稼ぎはできそうだった。

 ローブの中から、杖を取り出せば、彼も同じように、杖を握った。

 

「まずは、一番使い勝手のいい魔法から教えよう。――レヴィオーソ」

「ぅ、わっ」

 

 彼が呪文を唱えて、杖の先から黄色い閃光が走ったと思った次の瞬間には、ドラコの体はふわりと宙に浮いていた。

 箒に乗るのとはまた違う、内臓もろとも浮き上がるような感覚に、ドラコは驚いて足をばたつかせる。

 レヴィオーソなんて、ウィンガーディアム・レヴィオーサよりも、ごくごく簡単な呪文のはずなのに――まるで、身動きが取れない。

 彼がもう一度杖を振ると、ドラコの体は途端に重力に従い始めた。べちゃ、と両足が不恰好に床へ着地する。

 

「戦いにおいて重要なのは、シンプルであることだ――究極、基礎攻撃呪文と回避能力さえ備えておけば、どんな敵とも戦える。無理に、高度で複雑な呪文に手を出す必要はない。

 ……さあ、杖の振り方はわかるかい? まずは――この羽から浮かせよう」

 

 彼はそばのテーブルに置いてあったシュガーポットから角砂糖を一つだけ取り出して、杖をフイと振った。

 角砂糖がぐるぐるとその形を変えて、一枚の、白い羽に変化した。

 

「一グラムにも満たない――簡単だろう?」

「……もちろんさ」

 

 ドラコは深呼吸して、彼の手の上に乗せられた羽を見た。

 杖の先をその羽に向け、ぐっと集中する。

 思い描くのは、その羽が宙に浮き上がるイメージだ。先ほどの、ドラコのように。

 

「――レヴィオーソ!」

 

 彼の杖の筆跡を思い出すように、杖を振るって、力を込めて呪文を唱えた。

 ドラコの杖から放たれた黄色の閃光は、真っ直ぐ彼の手の上の羽に向かって、光の尾を伸ばしながら飛んでいき。

 そして、その光は見事――彼の手に、命中した。

 

「あ」

「あ――おっと」

 

 彼の手がふわりと浮き上がって、そのまま体全てが宙に浮き上がる。

 彼は、先ほど無抵抗で飛ばされていたドラコとはまるで対を成すように、楽しげな笑い声をあげながら、くるりと回転していた。

 空中で器用に体制を整えて、逆立ちするようにドラコを逆さから眺めながら、パチパチと手を叩いた。

 

「すごい! 羽より先に僕を浮かしちゃうなんて。流石だよドラコ。僕よりずっと才能があるかもしれないね」

「そ……そうか……!?」

 

 ドラコは顔を赤くした。

 褒められるのには、慣れているはずなのに、どこか恥ずかしくて、誇らしい。でもそれ以上に、彼に自分の実力を認められたことが、嬉しかった。

 彼は、もう一度ぐるりと体を反転させて、元の向きに戻ると、ぱちんと指を鳴らした。

 足がゆっくりと床について、白い羽が角砂糖に戻っていく。

 

「ああ、僕は、君に教えたいことが山ほどあるんだ」

 

 彼が言った。

 少し熱っぽくて、キラキラしている瞳を見れば、彼が本当にそう思っていることはすぐにわかった。

 

「次は、簡単な防御呪文でもマスターしようか」

 

 彼は、杖を握り直した。

 

 

***

 

 

 しばらくしてから、彼は今夜の本来の目的を思い出したようだった。

 願わくば、思い出さずに夜が明けてくれないものか――と思っていたのだが、そう簡単にはいかないらしい。

 彼はハッとした様子で、慌てて杖をしまった。

 

「いけない、ドラコ。もうこんな時間だ」

「なんの話だ?」

 

 ダメもとで、ドラコは知らないふりをしてみた。

 「もう寝る時間か?」などと言って、あくび姿を見せてみる。

 眠たいのは本当だった。

 しかし、彼は無慈悲にも首を振った。

 

「違うよ。決闘の約束の時間だろう? このままだと不戦敗だ」

「…………」

「行こう。ハリーがトロフィー室で待っててくれると良いけど」

 

 そう言って彼が歩き出すのに合わせて、仕方なくドラコもその背中を追いかけるしかなかった。

 立ち止まって意固地にでもなれば、無理やり引っ張っていきそうな覇気を感じた。

 窓を見てみるが、外の様子は談話室に訪れた頃から変わっていない。

 月明かりが差し込んでいて明るいけれど、それ以外は、相変わらず真っ暗だった。

 

 彼はやはり、サクサクと廊下を進んだ。

 どこにフィルチがいるのかもわからないのに、先の確認もせずに、角をスイスイ曲がっていく。

 階段を登りながら、ドラコは尋ねた。

 

「君はよくここを通るのか?」

 

 彼は振り返らずに答えた。

 

「うん。地図は頭に入ってるし、迷わないからね。……ああそうだ、近いうちに目くらまし術を教えてあげるよ。寮を抜け出すのに役立つ」

「…………君、日常的に寮を抜け出してるのか?」

「……さあ、そろそろトロフィー室だ」

 

 彼は話を逸らした。

 トロフィー室にはフィルチがいる可能性が大いにあるため、ドラコも黙らざるを得なかった。

 忍足になるドラコとは対称的に、彼はここも無警戒に進んでいるように見えた。

 ドラコはずっとヒヤヒヤしっぱなしだった。そこの角から、フィルチか、もしかしたらミセス・ノリスがひょっこり顔を出すかもしれない。

 トロフィー室のドアは、どうしてか開いていた。彼に続いて、中に入る。

 月の光だけが唯一の明かりだったが、トロフィーや盾や棚のガラスがキラキラと輝いているおかげで、なんとか視界は確保できていた。

 

「おかしいな……もう帰っちゃったのかな」

 

 トロフィー室の中を探るように歩きながら、彼が呟く。

 その視線の先を追うように、ドラコも先を覗き込んだ。

 長い回廊に、ずらりと鎧が飾られている。

 しかし、ハリーもロンも、そこにはいなかった。

 ただ、床の上に、バラバラになった鎧が散らばっている。夜になって寝ていたのか、元に戻る気配がない。

 

「……あいつら、怖気付いたんじゃないか?」

 

 ドラコは、一抹の期待を込めて、そう言った。

 しかし、彼は緩やかに首を振る。

 右手をふわりと持ち上げて、指先を床に散らばった鎧に向けた。指の先から、薄い青色の光が鎧のひとつひとつに伸びて、その鎧を正しい位置に戻していく。数秒後には、また元の形に組み上がった鎧がそこにあった。

 無言で、それも杖なし――ドラコはぱちぱちと瞬きをした。彼と共にいると、驚くことに事欠かない。

 

「鎧同士が喧嘩した形跡もないし――多分、ハリーたちがフィルチさんに見つかって、その拍子に倒したんだ」

「どうしてそう言い切れる?」

「先生が見つけたり、倒したりしたのなら、今の僕みたいにレパロで直したはずだろう」

 

 彼はそれだけ言うと、ローブの中から一冊の大きな本を取り出した。

 重そうな表紙の、古ぼけた本だ。

 彼は本には似合わない小さな手でその表紙を撫でると、静かな声で、その本に向かって呟いた。

 

「『ハリー・ポッター』」

 

 本がひとりでにふわりと開いて、金色の蝶のような光がパチンと飛び出した。

 キラキラと光がトロフィー室の外へと伸びていき、道標のように伸びていく。

 その輝きと、見たこともない現象に、ドラコは口を大きく開けたまま、彼と光の間で視線を彷徨わせた。

 

「あっちって……まあ、いいか。行こう、ドラコ。ハリーたち、まだ寮には帰っていないみたいだ」

「まっ、まて、なんなんだ、その魔法……!」

 

 駆け出した彼の後を、ドラコは慌てて追いかける。

 階段は使わなかった。回廊を走り抜けて、開いたままのドアを通り、廊下と廊下を渡り歩いていく。ドラコの頭の中の地図は次第にこんがらがっていって、今自分がどこを走っているのかもわからなかった。

 周りがどんどん薄暗くなっていって、どんよりとした雰囲気が漂い始めた。

 来てはいけない場所にきたのではないだろうか? 疑問に思ったときには、もう遅かった。

 

「はーはっはっは! ……おや? あれれれれ? また生徒だ、一年生だ! いけない子! 今日はたくさん抜け出す日だなァ!」

 

 突然、曲がり角からぴょっこりと、笑い転げたピーブズか転がり出た。

 くるくると宙を縦横無尽に飛び回りながら、彼とドラコを囃し立てるように歓声を上げる。

 

「い〜けないんだ、いけないんだ! こんな真夜中にベッドから抜け出しちゃって! フィルチに教えよう! まだすぐそばにいるはずさ!」

「ピーブズ」

 

 彼が嗜めるように、ピーブズを呼んだ。

 それでも、ピーブズの、大きなケラケラという笑い声は止まらない。

 このポルターガイストは、人の困っている姿が大の大好物なのだ。

 こんな大きな声を出して騒がれたら、すぐそばにいるというフィルチに気づかれてしまう。ドラコが、苦々しく顔を歪めたときだった。

 

「何をしているのかね」

 

 ふわりと、壁をすり抜けて新しいゴーストが現れた。

 透き通った銀色の体に、銀色の血がべったりとまとわりついている。両腕には鎖がはめられていて、その恐ろしい雰囲気に、ピーブズはひい、と体を縮こまらせた。

 血みどろ男爵だ。

 自分のところの寮生には優しいほとんど首無しニックや誰にでも寛大な太った修道士とは違って、このゴーストは自分がついているスリザリンの寮生の前にさえ、ほとんど姿を現さない。

 酷く無愛想だし、その見た目の恐ろしさのせいで、ドラコだって、自分からわざわざ会いに行こうとは到底思えない。

 

「だ、男爵様、その、生徒がこんな夜更けに抜け出していたものですから、その……」

 

 ピーブズは、血みどろ男爵が現れた途端、その声を小さくした。

 体も、小さく小さく、可能な限り縮こまって、へりくだった。

 血みどろ男爵は目を細め、彼と、それからドラコを順に見ると、ピーブズに向かって冷たい声で言い放った。

 

「良い。彼らは我輩が呼び出したのだ。ピーブズ、むやみに騒ぎ立てるでないぞ」

「ああ、申し訳ありません、閣下。はい、はい、もちろんでございます、失礼いたしました」

 

 ピーブズはそれだけを早口で言うと、ヒュウと消え去った。

 ドラコは驚いて、今度は口をキュッと結んで顎を限界まで引いていた。あの血みどろ男爵が、生徒を庇った――そのことにも、確かに驚いた。

 しかし、それ以上に、ドラコは強烈な既視感に襲われていた。

 今の光景を、ドラコは確かに、どこかで目にしていた。

 けれど、ドラコが消灯時間を過ぎてから寮を抜け出したのは、今夜が初めてだ。

 一体いつ見たのだろうか。記憶の中を掘り返すように、探って、探って、一つのかけらにたどり着いた。

 もう、一週間ほど前の、夢の記憶だ。

 

「……血みどろ男爵は、君に随分好意的だ」

 

 ドラコはやっとの思いで、その言葉を口に出した。

 彼は、「そうかな?」なんて軽く首を傾げて、愛想よく、血みどろ男爵に感謝を伝えた。

 満足げな顔で、血みどろ男爵がまた、近くの壁をすり抜けていく。

 金色の光の道標を追いかけて、また、二人は歩き出した――数歩進んだところで、ドラコは道標が指し示す場所に、見当がついた。ついてしまった。

 

「なぁ……君。僕たち今、禁じられた廊下に向かっている気がするんだが」

「気づいた? ほら、あそこの、錠前が外れているところ――」

 

 彼が指をさした瞬間だった。

 その、錠前が外れた突き当たりのドアが、バタンと勢いよく開かれた。

 大きな音に、ドラコも彼も、肩を弾ませた。

 開いたドアから、次々と人影が飛び出してくる――ハリーに、ロンに、ハーマイオニー、それからネビルまで。

 

「やあ、ハリー」

 

 気を取り直した彼は、真っ青な顔をしたハリーに、呑気な声で呼びかけた。

 

「こんばんは。ごめんね、遅れて。フィルチさんに見つかりそうになって、ここに隠れにきたの?」

「やっ、やっ、やっーーーーき、君もっ、逃げっ!」

 

 ハリーは彼の言葉にイエスなのかノーなのかもわからないほどめちゃくちゃに頭を振ると、ネビルやロンを引っ張り、引っ張られ、七階までの階段をダダダと、まるで風のように駆け登っていってしまった。

 金色の光がまだハリーを追おうとして、彼がその光を本の中に閉じたように見えた。パチ、と光の道標が消える。

 彼が、ぽかんとした表情のまま呟いた。

 

「何か恐ろしいものでも見たのかな?」

「その、立ち入り禁止の先に、何かあるんじゃないのか?」

 

 ドラコは確信を持って言った。

 彼は首を傾げた。

 

「かわいいわんこぐらいしかいないけれど……」

「フン。ポッターのやつ、そんなに犬が怖いのか――待て、君、今の言い方だと中に入ったことがあるように…………いや、ああ、なんでもない。今更聞くことじゃなかった」

 

 どうせ、肯定しか返ってこなさそうだ。

 ドラコは疲れた様子で、首を振った。

 

「それより、そろそろ帰らないか。僕ももう眠ってしまいそうし、あの様子じゃ、ポッターの不戦敗だろう。不戦勝は認めてくれるよな?」

「グリフィンドール寮に突撃するわけにもいかないし、しょうがないね」

 

 彼は残念そうに、肩を落とした。

 あの、立ち入り禁止の廊下の奥に、本当は何があるのか、ドラコは少し気になったが、それよりも今は眠気が勝っていた。

 彼を追いかけたせいで体力もほとんど使い果たしていて、今にも瞼が落ちてしまいそうだった。



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06 ワガママの通し方

 

「……ん、じゃあ、何? ハリーは退学どころか、グリフィンドール・チームのシーカーに大抜擢、ってこと?」

 

 ハリーが、ドラコに決闘の誘いを持ちかけられていた頃。

 アルバスは彼と、校長室で夕食をとっていた。

 こうして、彼と食事を共にするのは初めてだ。

 そもそも、アルバスが覚えている限り、彼がキチンと、大広間で、どこかの寮のテーブルに座って食事をしていたことなど、ただの一度もなかった。

 たまに、大広間の大きなドアをバンと開いて現れたかと思えば、またすぐに別のドアから飛んでしまうのである。

 

 かろうじて思い出せるのは、彼の探索に同行した時の記憶だ。遺跡や空き家の中の、いつから置いてあったかもわからない果物や飲み物を、一寸の躊躇もなく口にしている姿。

 あの時ほど、彼の胃腸を心配したことはない。

 よほど消化能力が優れているのか、それとも、体調を崩した端から癒してしまっているのか――どちらにせよ、アルバスには真似できない芸当だった。真似する必要もなかった。

 そんなわけで、彼がきれいなカトラリーを使って、真っ当な食事を口に運んでいるという姿は、少し感動を覚えてしまうところがある。

 

 彼が校長室へ、いつも通り目くらまし術を纏って現れたのは、アルバスにマクゴナガルからのふくろう便が届いた後だった。

 羊皮紙にびっしりと書かれた流麗な文字を、ちょうどアルバスが全て読み終えた頃だ。

 校長室への入り口が開いて、そちらへ意識を向けたと同時に、彼が思っていたよりも近くに現れたため、アルバスは少しだけ驚いていた。

 彼はそれを知ってか知らずか、いつものように「やあ、アルバス」なんて優しげに手をあげて微笑んだ。

 続いた、「ハリーの話なんだけど」という言葉に、アルバスはすぐに手紙の内容へつながる事柄だろうと思い至り、「では、共に食事をしながらでも」とテーブルと椅子を出した。

 そして、冒頭へと戻る。

 

 彼の問いかけに、アルバスはそのまま頷いた。

 

「驚いた。彼女って、もっと規則に厳格だと思ってたけど」

「クィディッチのこととなると、別なのですよ」

 

 アルバスは、ハリーの箒の腕前を褒めちぎる言葉と、規則を曲げることにはなるが、どうしてもハリーをシーカーに任命したい、という思いが端から端まで綴られた羊皮紙を、彼に手渡した。

 彼はそれに軽く目を通して、おもしろそうに微笑んだ。

 

「素晴らしい先生だね。ブラック校長とは大違いだ」

「先輩……」

 

 アルバスは、壁に飾られているフィニアス・ナイジェラス・ブラックの肖像画をチラリと確認した。

 いつもならばしっかりと両目を閉じて寝たふりをしている彼のまぶたが、ピクピクと動いている。

 アルバスの嗜めるような声を受けてもなお、彼は涼しい顔で笑っているだけだ。

 

「いいんだよ。あの人はそんな特例、面倒くさがってきっと認めないさ。

 ――ああ、でも、百年前の最年少シーカーは、ブラック校長が前の年のクィディッチを中止になんてしてなきゃ、生まれなかったかな」

「あぁ、そうでしたな……」

 

 彼が入学した年にクィディッチのシーズンが開催されなかった話は、脈々と受け継がれてきたブラック校長への悪評の一つであり、アルバスも幾度となく耳にしたことがあった。

 その次の年、クィディッチのチームメンバーを務めていた生徒たちの卒業で、当たり前のように選手の数が足りず、やむを得ず全ての学年から選抜をするという異例の事態になったらしいことも、知っている。

 選手がいないのなら今年も中止にすればいいだろう、などといったどこかの校長の発言は、血気盛んなクィディッチへの情熱を持った生徒たちと教師によって、珍しくも黙殺されたようだ。

 

「それで、先輩」

 

 アルバスは、一区切りつけるように彼を呼んだ。

 

「本日は、どうしてこちらへ? ハリーのことだけが、本題ではないのでしょう?」

「おや、バレていたかい?」

 

 彼が肩をすくめた拍子に、ネックレスの石が揺れた。

 金の装飾が施されただけの、何の変哲もないような石。彼が古代魔術の力を込めたという、彼の姿を変えるための石。古代魔術の力を持つものには、その石が光って見えるのだという。

 アルバスの目には、ただの一度も、そんな光が写ったことはない。

 

「いや、まあ、半分ぐらいは本当に、ハリーのことなんだけどね。ハリーのことが解決したから、残りの半分も一緒に解決しちゃった」

 

 的を得ない彼の言い方に首を傾げていると、彼は苦笑いを浮かべながら続けた。

 

「マクゴナガル先生の手紙に書いてある通り、ハリーはマダム・フーチの言いつけを破って箒で飛んだわけだけど――その時、ドラコも一緒になって……っていうか、ドラコがハリーを煽って飛んでてさ」

 

 ドラコ――ドラコ・マルフォイ。

 どういうわけか、入学式のその日から、彼がずっと気にかけている少年だ。

 生粋の純血主義の家に生まれたドラコと誰に対しても分け隔てなく接する彼は、まるで正反対と言ってもいい。

 

「――まあ、そういうわけで、ハリーが退学なんてことになったら、当然ドラコも、って話になるだろう?

 結局、マクゴナガル先生にそんな気は(はな)からなかったみたいだから、僕はただ君と食事をしにきただけになっちゃったけど」

 

 どうしてそれほどまで、ドラコの世話を焼いているのか。

 アルバスはそのまま彼に問いかけようとして、とどまった。

 初めから、理由に検討はついていた。ただ、自分の中にある羨望が、さらに大きく膨らんで、ただの嫉妬へと変わってしまいかねないことが、恐ろしくて。

 アルバスは、世間話へと話題を変えて、そのまま、食事を終えた。

 そろそろ大広間の方の食事も終わった頃だと、彼が校長室を出る直前、彼のネックレスの石が、ただの灯りを反射して、きらりと光った。

 

 

***

 

 

 ドラコが不戦勝を遂げた、その日の夜。

 寮までの帰路で、彼はドラコから、今夜の決闘をフィルチに告げ口していたことを知らされた。

 正確には、一度、ドラコの口から伝えられてはいたのだが――ホグワーツでの、久々の決闘という文言に心惹かれて、彼の耳は周りの音の一切を遮断してしまっていたのだった。

 

 ドラコは、寮に帰ってこれるまでも、ずっとフィルチと鉢合わせるのを警戒していたようで、自分のベッドに倒れ込んだ瞬間、大きな安堵のため息を吐いていた。

 しばらく枕に顔を押し付けたままにしていると、モゾモゾと仰向けになるために寝返りを打って、

 

「ああ、残念だ」

 

 と、楽しそうな声で呟いた。

 

「ポッターがホグワーツにいれる、最後の夜、だったろうに……本当に決闘して……負かしてやれば……良かった……」

「ああ、それなら――」

 

 そう言って彼が振り返った頃には、ドラコのまぶたはもう完全に閉じられていた。

 すやすやと、寝息に合わせて、緩やかに胸が上下する。

 彼はクスリと小さな笑みをこぼして、指先で操るように、ドラコの制服とローブを寝巻きへと変化させた。仕上げに、掛け布団を肩まで上げてやる。

 そうしてから、目にかかった髪を払い除けるように、優しい寝息を立てるドラコの額を、そうっと撫でた。

 

 

「ハリーが退学なんかしないって知ったら、君は喜ぶ? それとも、悔しがるかな」

 

 金糸のような髪が、サラリと滑り落ちる。

 

 

***

 

 

 ドラコは存分に彼を相手にして、ハリーが退学しなかったことへの怒りと、ハリーが特別にニンバス2000をもたされたことへの妬みを、その日のうちに発散した。

 彼はどうやら人に話させるのが上手いらしいということが、よくわかる一日だった。

 授業と宿題とクィディッチの練習に追われているハリーを見ると、溜飲も下がると言ったものだった。

 とは言いながら、ドラコも同じように授業と宿題に追われていた。涼しい顔をしているのなんて、彼やセオドール、あとはダフネぐらいだ。

 気づけば、あの決闘の日からはしばらく経っていて、今日はもう、十月の末。

 ハロウィーンだ。

 

 その日は、随分と早起きだった。

 ドラコだけではない。みんな、どの寮の生徒だって、今日の夕に出てくる美味しそうなパンプキンパイの香りで目を覚ました。

 甘く香ばしい香りに、クラッブとゴイルは一日中ずうっと腹を鳴らしていた。

 

 午後からハロウィーンのパーティがあることもあって、ドラコは一日中良い気分だった。

 何より、妖精の魔法の授業で、あのセオドールよりも先に『ウィンガーディアムレヴィオーサ』を成功させたことで、ドラコの上機嫌は決定的なものとなった。

 決闘未遂の日からというもの、自主的とまではいかないが、何度もレヴィオーソの練習をして、彼から太鼓判をもらったドラコに、もはや死角はなかった――一番最初に成功させたのは、当たり前のように彼だったが。

 彼をはじめとして、ドラコ、セオドールと立て続けに成功させたものだから、フリットウィックは手を叩いて喜び、「素晴らしい!」と甲高い声で何度も言った。

 悪くない気分だった。

 

 ドラコは真っ先に大広間へと向かった食い意地の張っている二人の代わりに、彼とセオドールを引き連れてハロウィーンのご馳走を食べに向かった。

 引き連れて、とは言っても、彼もセオドールも、ドラコの()にピッタリとくっついていたが。

 

 大広間に足を踏み入れてすぐ、ドラコとセオドールは揃って口をあんぐりと開いた。

 なぜか彼が得意げな顔をしたので、ドラコたちはすぐさま口を閉じた。

 数えきれないほどの数のコウモリが羽をばたつかせ、天井近くからテーブルの上までを縦横無尽に飛び回る。空中では、いつもの蝋燭の代わりに、ジャックオーランタンが灯りをつとめていた。

 テーブルには、新入生歓迎会の時のように、金色の皿に乗ったご馳走がずらりと並んでいる。

 どれもこれもがカボチャを使ったり、カボチャをあしらったりしたもので、クラッブとゴイルが駆け足で向かったのも頷けるラインナップだ。

 

「素晴らしい!」

 

 妖精の魔法のフリットウィックと同じように、彼が声を上げた。

 

「ドラコ!」

 

 スリザリンの席に先に座っていたパンジーが、ドラコを見つけて手を掲げた。

 隣にセオドールと彼がいるのを見て、パンジーが周りに座っていた他のスリザリン生を退けて、三人分の空席を作った。

 気が利くじゃないかと、ドラコは片眉を上げた。パンジーのそばから、ドラコ、セオドール、それから彼の順番で席に着く。

 向かいの席では、クラッブとゴイルがテーブルの上の料理を食い尽くさんという勢いで、いろいろな料理を注いでは皿を空にしていた。

 

「気持ちのいい食べっぷりだね」

「あれを見てると、こっちまで腹が膨れる」

 

 セオドールの呟きに、ドラコは心の中で頷いた。

 

「ドラコ、何食べる?」

 

 パンジーが綺麗な皿を片手に持って、首を傾げた。

 

「パンプキンパイと……かぼちゃのサラダ……あとチキンに、かぼちゃジュースも取ってくれ」

「オーケィ! えっと、パンプキンパイに……」

「パンジーはいいお嫁さんになるな」

「……! んもう、ドラコったら……!」

 

 こういうと、パンジーは決まって上機嫌になる。

 ドラコはパンジーがとってきたかぼちゃジュースをストローで吸い上げた。

 隣の席から、セオドールが呆れたような顔でこちらを見ていた。

 

「なんだ」

「何にも」

「セオドール、何か食べたいのある?」

「いい。自分でとる」

 

 彼が、セオドールへ取り分ける料理を聞いていた。

 ドラコが少し、眉を顰めてムッとする。

 セオドールが、呆れ果てたようにため息を吐いた。

 

 その時だった。

 大広間のドアが勢いよく開いて、闇の魔術に対する防衛術の教師であるクィレルが、見たこともないスピードで駆け込んできた。

 いつも綺麗に巻かれているターバンは歪み、ただでさえ悪い顔色がもっと悪くなっていた。

 クィレルはみんなの視線を集めながら、アルバスの席まで辿り着き、荒い呼吸を落ち着かせる暇もなく、テーブルに体をもたれさせながら言った。

 

「トロールが……地下室に……お知らせしなくてはと思って……」

 

 それだけ言って、クィレルはバタンと、その場で気を失って倒れてしまった。

 

 

***

 

 

 クィレルのその言葉に、大広間の中は大混乱に染まった。

 どの方向からも金切り声が上がり、大広間は生徒の叫び声で割れてしまいそうだった。

 顔を真っ青にした生徒たちが、テーブルから跳ね上がるようにして、あちらへこちらへと行くあてもなく逃げるようにして走り回る。

 ――そんな大混乱の中、アルバスは一人真っ先に大広間から飛び出していく影を見た。

 アルバスは杖を振るい何度か宙に爆発を起こして、生徒の視線を集めた。

 

「皆、狼狽えるでない」

 

 打って変わって静まり返った大広間に、アルバスの重く低い声はよく響いた。

 

「監督生はみんなを連れて寮に戻りなさい。……先生方は、地下室へ」

 

 早々と、後ろの扉から人しれず出ていったスネイプを、アルバスは見送った。

 大広間から生徒が一人もいなくなったのを確認してから、アルバスらも大広間を出た。

 アルバスの後ろにつき地下室へ向かおうとする教師陣の中の一人、マクゴナガルに、アルバスはそっと、先に地下室へ向かっているように、と耳打ちした。

 マクゴナガルは小さく頷くと、他の教員たちを連れて地下室へと向かった。

 

 一人になったアルバスは、目くらまし術を使って、上の階へ進んだ。

 目当ての人物は、思っていたよりも早く見つかった。

 彼が、目くらまし術を使っていなかったおかげかもしれない。

 

「先輩」

 

 アルバスは、彼の背後から声をかけた。

 

「どこに行かれるおつもりですかな?」

「わお、やあ、アルバス」

 

 口では、驚いたようなそぶりを見せながら、彼はこちらを振り向きさえしなかった。

 あたりには、トロールのものである、ひどい体臭が漂っている。

 すぐそばにいるのだろう。その証拠に、彼はある一定の場所を見つめたまま、視線を外そうとしない。

 

「トロールならすぐに我々が対処いたしますから、他の生徒と共に先輩は寮に戻ってくだされ」

「そんな、トロールの退治屋の称号をもってる僕に大人しくしてろって?」

 

 アルバスが呆れたようにそう言っても、彼は肩をすくめて聞き流す。

 それよりも、初めて聞いた称号だった。

 

「いつ誰からいただいたのですか」

「五年生の時、アレクサンドラから」

 

 誰だろうか。

 初めてきく女性の名前に、アルバスは面食らって、言葉が出てこなかった。

 その一瞬のうちに、彼は目くらまし術を使って、アルバスの目の前から消えてしまった――目の前で、その存在を確かに認識していた人物を、見逃すだなんて。

 アルバスは、衰えるどころか確かに増している彼の力に、改めて舌を巻いた。

 

 

 

 彼の目には、その先にいるトロールの姿が、赤く発光するようにして、浮かび上がっていた。

 ついさっきだ。フリットウィックやハウスエルフよりも甲高い、恐怖に怯えたような叫び声が聞こえたのは。

 もう一度、彼はレベリオを発動させた。

 トロールの姿が、再び赤く光って――その周りに三つ、黄色く光る人影が見えた。

 

「僕の他にも生徒が抜け出してるじゃないか」

 

 彼は小さく呟いて、その場所へと急いだ。

 

 

 

 トイレの中はめちゃくちゃだった。木製の個室はそのほとんどが原型をとどめておらず、手洗い場は存在そのものがなくなっていて、パイプが水をただただ噴き上げている。

 奥の壁には怯えた顔のハーマイオニーが張り付いていて、足元には投げ出されたハリーが尻餅をついていた。

 トロールの鼻にはハリーの杖が刺さっていて、その痛みにもがくように、トロールは棍棒をいろんな方向に振り回した。

 その棍棒が、ハリーに向かって振りかぶられる。

 ロンは自分の杖を取り出すと、頭の中に浮かんだ呪文を、そのまま唱えた。

 

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」

 

 ちょうど、彼が到着した時だった。

 ――黄色い閃光が走って、トロールが手にしていた不格好な棍棒がふわりと宙へ浮き上がり――ドゴッとおもたそうな音を立てて、トロールの頭の上へと舞い戻った。

 いいところに入ったらしい。トロールがフラフラと大きな体を揺らして、床に尻餅をついたまま動けないハリーの上に、崩れ落ちようとしていた。

 彼はすぐに杖を引き抜くと、その先をトロールへ向けた。

 

 

 呪文も何も聞こえなかった。

 彼の杖の先から飛び出した水色の閃光が、トロールの体に激突した。その瞬間、雷がすぐそばに落ちたような音が耳をつんざいて――トロールが、瞬きの間に、灰燼に帰した。

 パラパラと、ハリーの上に()()()()()()()()()が降り落ちる。からんと、ハリーの杖が床へ落ちて音を鳴らした。

 ハーマイオニーもロンも、もちろんハリーも、トロールなんかより何倍もひどい衝撃に、口をはくはくとさせて、現れたばかりの彼を見た。

 

「大丈夫だったかい? 君たち、すごいね。一年生でトロールをのしちゃうなんて」

 

 そう言いながら、彼は笑って、杖を振った。

 先ほどとはまた違う、薄い青色の光がトイレの中の残骸を持ち上げて、元のように修復していく。

 数秒もすれば、トイレは何事もなかったかのように、綺麗な最初の頃に戻っていた。

 けれどその間、ハリーも二人も、一歩も動き出すことができなかった。

 一体、なんだ。今の魔法は。

 彼は動き出さないハリーたちを見て、首を傾げた。彼がいつも浮かべている微笑みが恐ろしく見えたのは、これが初めてだった。

 

 また新しく、ゆっくりとトイレの中へ入ってきた人がいた。

 救世主か? アルバス・ダンブルドアだ。

 アルバスはトイレの中を一瞥すると、全てに理解を示したように、一度だけ頷いた。

 その直後だった。バタバタと、複数の足音が聞こえてきたのは。

 もうその痕跡さえないが、どれほどトイレの中がひどい状態になっていたか、すぐにでも思い出すことができる。トロールがトイレの中を壊している音や、唸り声などを聞きつけたのだろう。

 真っ先に飛び込んできたのは、マクゴナガルだった。すぐ後にスネイプが、そして最後にクィレルが姿を表す。

 

 マクゴナガルもスネイプも、なんの変わりもないトイレの中を見て、言葉を失っていた。

 一番驚いた様子なのは、クィレルだった。トイレの外から、何度も確認するように中を覗き込んでいた。

 マクゴナガルは彼のそばに立つアルバスに気がつくと、絞り出すような声を上げた。

 

「ダンブルドア先生、これは……」

「ああ――この子たちがトロールを倒したのでな、わしがちょいと後片付けをしただけじゃよ。先生方の先をこしてしまいましたかな」

 

 嘘だ。

 トロールを気絶させたのはロンだが、塵に変えてしまったのは彼だし、トイレの中を直したのも、アルバスではなく彼だ。

 けれどもアルバスは、どうしてもそういうことにしたいようだった。

 マクゴナガルはそれを知ってか知らずか、目を細めて頷く。

 

「しかし……寮にいるべきであるあなた方がここにいるのはどうしてですか?」

「あの、マクゴナガル先生」

 

 ハーマイオニーが声を上げた。

 マクゴナガルの視線が、そちらへ向けられる。

 ハーマイオニーはなるべく彼の方を見ないようにしているみたいだ、とハリーは思った。

 まだ震えている唇で、言葉を紡ぐ。ハーマイオニーが喋り終えるのを、マクゴナガルはじっと待っていた。

 

「二人とも、私を探しにきてくれたんです。私、トロールを一人でやっつけられると思ったんです――ハリーたちが私を見つけてくれなかったら、今頃、私……二人がきた頃には、私、もう殺される寸前で……」

 

 スネイプの鋭い視線が、ハリーとロンに向けられた。

 ハリーもロンも、慌ててその通りですと言った顔で頷いた。どういうわけか、彼もこくりと頷いていた。

 アルバスは、マクゴナガルに任せるように視線だけで示した。

 マクゴナガルはハリーたち三人の顔をじっくりと見て、自分を落ち着かせるようなため息を吐いた。

 

「ミス・グレンジャー、なんと愚かしいことを。グリフィンドールから五点減点です。……怪我がないのなら、寮へお帰りなさい。生徒たちが中断したパーティの続きをやっているはずです」

 

 ハーマイオニーは項垂れて、マクゴナガルたちの間を縫うようにしてトイレから出ると、寮へと帰っていった。

 ハーマイオニーが自ら規則を破ったような証言をしたことに、ハリーはひどく驚いて、言葉も出なかった。

 マクゴナガルは続いて、ハリーとロンを見た。

 

「あなたたちは運が良かった。……ですが、大人の野生のトロールと対峙できる一年生はそうそういません。一人五点ずつ上げましょう。あなたたちも、怪我がないのなら帰ってよろしい」

 

 マクゴナガルにそう言われたことで、ハリーはようやく体が動くような気分がした。

 立ち上がるとお尻がヒリヒリしたが、そんな泣き言を述べている暇はなさそうだった。

 マクゴナガルが「彼のことは先生に任せてかまいませんね?」とアルバスに問いかけ、アルバスが頷くのを見た。

 ハリーはそれを少しだけ視界の端に移しながら、ロンと共に、寮へと急いだ。

 

 

***

 

 

「どこに行ってたんだ?」

 

 糖蜜パイを頬張ったまま、ドラコはやっと帰ってきた彼に問いかけた。

 彼はやけにげっそりしていて、珍しく反省、しているような、そうでもないような雰囲気を纏っていた。

 彼はまだ皿の上に山積みになっている糖蜜パイを一つ掴んで、かじりついた。

 

「コッテリ搾られちゃった。一年生の範疇を超えています、って」

 

 なんの話だろうか。

 一体、誰が彼を絞れるというのだろうか。

 ドラコは口いっぱいに詰め込んだ糖蜜パイをもぐもぐと咀嚼しながら、考える。

 

「一年生の範疇を拡大する方が早いかな」

 

 そんな恐ろしい呟きが聞こえてきたため、ドラコはそれ以上考えないことにした。

 糖蜜パイが喉に詰まってしまいそうだった。



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