Encounter-佐為の目覚め- (鈴木_)
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01 覚醒

オフで5年前くらいに発行したヒカルの碁本になります。
カップリングはないです。(自分的には……)

すでに完結している小説なので、毎週日曜朝9時に更新タイマーセットしてあります。


カタカタとキーボードを打つ規則的な音と、資料の紙を捲る音だけが室内に響いていた。

部屋のサイドに設置された棚には、大量の書類を納めたファイルが一つのズレもなく整頓されており、部屋主の几帳面さを物語っている。

高層ビルの上階に位置するこの部屋の窓からは、青空が広がり、眼下にはビル郡が立ち並ぶ景色が広がる。

 

「相変わらず仕事が速いな、佐為。内容も文句無しだ。次のシステムプロジェクトはこれで行こうか」

 

応接用のソファに座り、佐為から渡された書類に目を通していた戸刈が顔を上げる。

打ち合わせとは名ばかりの、佐為が作った計画案の最終チェックだ。戸刈が勤める会社の北斗通信社システムは、情報システム設計、設置が主な仕事内容である。

その上で、コンサルティング業界で急激に業績を上げている佐為の会社と契約し、次のプロジェクトを進めようとしていた。

 

佐為が作った計画書に戸刈はざっと目を通しただけだったが、途中に気になる点や不足している項目、文章の落ち度は見当たらない。

あとはこれを会社に持ち帰り、最終判断を社長に判断してもらうだけだが、恐らくGOのサインが出るだろう。

 

「それは良かった。今回かなり強引なプロジェクトですので、少し骨をおりましたよ。しかも仕事に取り掛かる期間がほとんどありませんでしたし」

 

ようやくパソコンのディスプレイから顔をあげ、キーボードを打つのを止めた佐為が、戸刈の方を向く。

戸刈と佐為は歳こそ多少離れているものの、実益と無駄、損得の考え方が非常に良く似ていた。その所為か、仕事のパートナーとして付き合いもそれなりに長くなり、今では変に取り繕ったりせず、本音でやりとり出来る間柄にまでなっている。

だから打ち合わせ中であっても、書類確認をただじっと待つのは無駄と考え、佐為は別の仕事をこなし、戸刈もそれについて嗜めたりせず好きにさせていた。

要は仕事さえちゃんとして、出る場所ではしっかり体のいい外面を取り繕っていれば、問題は何も起きないのだ。

 

特に佐為の容姿は日本人の中でも浮いている。皺一つないストレートのスーツを違和感なく着こなし、癖の無い日本人らしいまっすぐな黒髪は胸まで届いた。普通、男が長髪と聞くと、大多数は自信過剰なナルシストを想像するだろう。しかしこの藤原佐為という人物は、見るものにそういったマイナスの印象を与えることはなかった。

 

決して弱々しい女顔をしているわけではない。顔のパーツひとつひとつの均整が取れているのだ。そして容姿に加えて、隙の無い上品な所作が好印象を見る者に与える。

佐為が大学院を卒業するとき、数多の企業から引く手数多だったというが、欲しがった企業の気持ちが戸刈は分るような気がした。

もっとも、佐為は企業への誘いを誰かの下で仕事はしたくないと全て蹴って、卒業後は自ら会社を立ち上げ、今ではコンサルティング業界の筆頭株にまでのし上っている。

 

「期間があまり取れなかったのは謝る。こちらとしても今月中にどうしても進めておきたかったから正直助かった」

 

えらく素直に謝る戸刈に、

 

「何かあるのですか?後の仕事が詰まっているとか?」

 

「いや、そういうわけじゃない。来月にウチがスポンサーをしている碁のイベントが控えているんだ。わたしが全体の責任者となっているから、イベント開催期間前後は運営にしばられて動けなくなる。だからどうしても私が動けるうちにこのプロジェクトを進めておきたかった」

 

「北斗通信社システムが囲碁に手を出すとは、また酔狂ですね。社長の趣味ですか?」

 

「対局をうちでネット配信する宣伝広告なだけだ。初めは一回きりのイベントのつもりだったんだが、日中韓の若手プロ棋士だけに出場枠を絞ったせいか、意外なほど好評で注目された。それを受けて今年もイベントを開催することになったんだ」

 

戸刈の説明になるほどと佐為は納得する。

通信システムが本業の北斗通信社ならネット配信は十八番だ。

日本においてあまり人気があると言いがたい囲碁でも、日本だけでなく中国・韓国のプロ棋士を招いてのイベントとなれば、対局内容のネット配信に世界中からそれなりのアクセスが望めるだろう。

 

「なら、ちょうど良かったじゃないですか」

 

長い髪を耳にかけながら、佐為はクスリと笑む。

 

「年中デスクに張り付いて仕事をしている戸刈さんには、外のイベントは良い気分転換になるんじゃないですか?この機会にリフレッシュするといいですよ。仕事疲れとストレスは頭皮に悪いらしいそうですよ」

 

「その言葉、そのままお前に返してやる。佐為、お前こそいい歳した若い男が仕事ばかりでどうする?仕事ばかりじゃなく、たまには女を連れて遊んだらどうだ?せっかくの面(ツラ)が宝の持ち腐れだ」

 

「私が戸刈さんくらいの年齢になりましたら考えますね」

 

やんわりと意趣返しの応手を、戸刈と佐為は繰り返した。お互い一歩も譲らす、佐為は笑顔を貼り付けたまま、そして戸刈は無表情にメガネの位置を正す。

すでに慣れたやりとりだったので、戸刈も単なる雑話の延長と気分を害すことなく、さっさと話題を変えるべく、

 

「佐為、テレビつけるぞ」

 

佐為に断りを入ながら返事を待たず、応接デスクの隣に置かれたテレビの電源を入れる。

 

「お好きにどうぞ。ですが、今の時間ですと昼ドラしかどの局もしてませんが?」

 

 

「さっき言っただろう。ウチが囲碁のイベントをすると。その日本代表として出場する有力候補の対局がNHKでテレビ中継されているはずだ」

 

「まだ出場すると確定してないのに、チェックされるんですか?」

 

「実力的にはほぼ確定らしいんだが、調子を落としたままウチのイベントに出場して、盛り上がりに欠けたら困る」

 

「それなら気が済むまで見て行ってください」

 

いきなり戸刈がテレビをつけると言うから何事かと思えば、それも仕事の範疇だったかと佐為はひとりごちて、仕事の資料を取りに椅子から腰を上げた。

出場する可能性が高い若手棋士の調子を見るのはいいが、打っている対局を見て戸刈がその棋士の調子の良し悪しが判別つくとは思えない。

よほど去年のイベントとやらが上手く行って、今年は去年以上の注目度アップを目指して棋士にチェックを入れているのか。

 

飽和している日本国内を飛び出し、世界へ着手するために何かイベントを主催して会社の知名度を上げるには、確かにいい企画だろう。

そう思いながら佐為は棚から目的のファイルを取り出し、視界の端に戸刈の姿を映しながら、ファイルを捲った。

テレビのチャンネルが切り替わり、画面に碁盤が映し出される。

その碁盤に黒石と白石が描く緻密で精巧な模様を見て、佐為の心臓が跳ねた。

これまで佐為の人生の中で囲碁というものに一度の接点もないのに、視線が画面から外せない。

そして次にテレビ画面が碁盤から、対局している人物に切り替わったとき

 

(私はこの子供をよく知っている?)

幾分明るい前髪をした十五、六の少年。会った事も無い少年に、奇妙な既視感を覚え、佐為は思わず口元に手をやった。

こんな少年は知らないと思う理性と、よく知っていると訴える本能がせめぎ合う。

 

(誰?……この子は誰?知らない子供。ちがう、私が思い出せないだけだ。私はこの子を知っている……)

 

『進藤二段黒、15の29』

 

という対局読み上げ手の声に、大盤解説者が少し驚いたように唸る。

 

『これは黒が目いっぱい伸びてきましたね』

 

解説用大盤の上に、少年が打った同じ位置に、黒の石を新たに打つ。

黒が大きく中央に伸びるオオゲイマの打ち方。

 

(オオゲイマ?そうだ、これはオオゲイマだ。でも何故そんなことが私は分った?囲碁なんて、したこともないのに)

 

囲碁のルールはもちろん、石すら触ったことがないのに、佐為にはテレビの中で打たれた一手がオオゲイマと呼ばれる手であることが分ってしまった。

それだけではない。盤上の黒と白のどちらが勝っているのかすら、一目見ただけで分ってしまった。形成は中盤にあって黒が優勢だ。

佐為の手から持っていたファイルが力なくスルリと床に落ちた。

バサッ、という音に戸刈が、どうかしたのかと振り返る。

 

「佐為?どうした?ファイル落としてるぞ」

 

と、声をかけるも、佐為は微動だにせずテレビを目を見開き見つめたままで

 

(この打ち方は自分が教えたんだ。まだプロを目指し院生だった頃の彼に、毎日何局も、何局も指導碁を自分は打っていた)

 

テレビに映し出され、真剣な表情で盤上をじっと見つめる前髪が幾分明るい少年。

一度と会ったことがなく、一言の会話を交わしたこともない。

なのに、いつも一緒にいて、笑って、喧嘩して、毎日二人で碁を打っていた。

 

「ヒカル……」

 

ぽつりと佐為が呟く。

 

「この棋士のこと、知っているのか?」

 

戸刈が片眉をピクリとさせた。

戸刈は去年の北斗杯での出場選手として知っていたため、テレビに映された棋士が進藤ヒカルであることを知っていた。

しかし、佐為はテレビに『進藤』の名字は出ても下の名前は表示されていないのに、名前を言い当てた。

流行りのテレビゲームどころか囲碁という日本古来のゲームに佐為が興味を持っている素振りは全くなかった。

しかし、それ以上の追求を重ねることが戸刈には出来なかった。

佐為と戸刈はそれなりに長い付き合いだが、間違いなく初めてだった。

佐為が涙を流すところを戸刈が目にするのは。

 

(思い出した……ヒカル……)

 

千年の記憶が次々と佐為の中に溢れていく。

 

 



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02

第一回目の北斗杯が当初の予想を大きく上回り注目され好評だったことから、一度だけでなく毎年開催されることがスポンサーの北斗通信社から日本棋院に提示された。

棋院としては当然断る理由はどこにもなく、喜んで快諾した。

人気が衰えていくばかりの囲碁界にあって、18歳以下に出場資格を限定した北斗杯は、経験不足な若手棋士育成のためにも、また韓国中国に追いつくために若い棋士たちに世界の棋士と触れ合わせて刺激を与える良い機会だからだ。

 

そしてもう一つ、日本棋院にとって嬉しいことがあった。北斗杯のスポンサーがもう一社増えたのだ。

第一回開催の好評を知ったらしい会社側から、棋院と大元のスポンサーである北斗通信社システムに話が持ちかけられた。

日本棋院側はもちろんだが、北斗通信社としても一つの大会を運営するスポンサーとしての負担を分け合い、より北斗杯を多くの人に知ってもらうための宣伝としてもスポンサーが増えるのは助かる。

それにより日本棋院と二社の間で新しい契約が結ばれ、獲得賞金も増額した。

囲碁のプロ棋士として勝負事を生業としている以上、賞金が多いほうが気合いが入ってしまうのは勝負師としての性だろう。

 

「対局料いらないし予選だけでもいいから、俺も出たかった……」

 

棋院の休憩室で、頭を垂れ、大きな溜息をつきながらそう呟いたのは伊角だ。

今日が大手合の対局日だったため棋院にやってきていたのだが、対局後、事務手続きのために事務室に顔を出したとき、北斗杯のことが耳に入ったのだ。

昇段がかかった大手合の対局には勝ったのに、北斗杯を知ってしまった途端、襲いくるこの無常感はなんだろうか。

 

「俺がもっと早くプロ棋士になってたら……」

 

去年もそうだったのだが、北斗杯は18歳以下のプロ棋士を対象とした大会であるため、今年で二十歳の伊角には出場資格が無かった。

目に見えて気落ちしている伊角に、同じく大手合で棋院に来ていたヒカルが慰めの言葉をかける。

 

「まぁまぁ、伊角さん。年齢ばっかりは仕方ないじゃん。もし仮に伊角さんがもっと若いときにプロ棋士になっていたとしても、北斗杯が始まったのはやっぱり伊角さんが19歳になってからなんだから、どっちにしろ出場出来ないよ」

 

だから気にすることないよ、と笑いながら軽く言うヒカルに、伊角はさらに暗雲を背負った。

ヒカル自身は慰めるつもりで言ったのだろうが、まったく慰めになっていない。

 

「進藤は今年も選手になって出場する気なんだろ?」

 

「当然!今度こそ高永夏をぎゃふんって言わせてやるんだ!」

 

予選もまだ始まっていないのに、ヒカルの中ではすでに北斗杯に選手として出場することが決まっているらしい。

 

(まぁ当然と言えば当然か。今の18歳以下で進藤と渡り合えるヤツって言ったら、塔矢くらいだもんな)

 

現在のヒカルは最初の不戦敗がまだ若干尾を引いているものの、高段者対局日の常連になり、棋戦でもリーグ入りを目前にしている注目株だ。

実力で言えば、ヒカルが日本代表として北斗杯に出場してもなんら不思議ではない。

そしてヒカルと唯一渡り合えるアキラはというと去年に引き続き、予選免除で出場選手に決まっていた。去年の大会で唯一、中国韓国に土をつけた功績というものらしい。

 

そのため日本の棋戦などでの成績がアキラに劣らなくても、去年の大会で一勝も出来てないということでヒカルは今年も予選からの出だしとなった。

去年の北斗杯で高永夏に僅差で負けたことを、未だにヒカルは悔しがっている。

伊角も和谷伝いに去年の北斗杯レセプションで一悶着あったらしいと聞いただけなので何とも言えないが、高永夏が本因坊秀策を貶したことにヒカルは異常に憤慨したらしい。

 

何故そこまで秀策にこだわるのか理由は知らないが、目の前でヒカルが闘志を燃やす様を見ていると、その一悶着がどんな様子だったのか、伊角はなんとなく分るような気がした。

どんなに囲碁が強く、多少成長したとしても、ヒカルの精神年齢はまだまだ子供だ。

 

「あれ、二人とも先に対局終っていたのか?」

 

ひょこりと対局場から出てきた和谷が、伊角とヒカルの姿を見つけ近寄ってくる。

 

「進藤のその顔は勝ったな。で、伊角さんは……」

 

対局結果はどうだったのかと当てようとして、一見しただけで分る伊角の落ち込みように、和谷の声のトーンも引きずられるようにして落ちた。

 

「まさか、負けたの?真柴相手に?」

 

今日の伊角の対局相手は因縁の真柴だったから、伊角が軽く捻ってくれただろうと真柴嫌いの和谷は勝手に期待していたのだ。

なのに敗者の雰囲気をまとっている。

 

「勝ったよ」

 

それだけは断固譲らないとばかりに、伊角は言い切る。

ならば、伊角がそこまで落ち込む原因は何なのかと、

 

「じゃあなんでそんなに凹んでんの?何か対局でポカやったとか?」

 

「和谷、違う。年齢制限に引っかかっただけだよ」

 

伊角の代わりにヒカルが代弁したのだが、その『年齢制限』という単語に伊角はさらなるショックを受けてしまい言葉を無くしてしまった。

どこかで聞いたような単語だなと和谷は思いつつ、

 

「年齢制限?」

 

「北斗杯」とヒカル。

 

「なんだ」

 

そんなことかと和谷は拍子抜けし呆れた。

 

「あ~ね。でも去年だって伊角さん年齢アウトなんだから、これから先も出場無理に決まってんだろ」

 

去年の北斗杯でも大会に出場したいと言っては、越えられない年齢の壁にぶつかり凹んでいたのに、まだ出場したかったのかと和谷は軽く笑う。

 

「伊角さんの分まで俺が頑張るからさ!そんなに落ち込まないでよ」

 

とヒカル。

 

「待て進藤!何で自分だけなんだよ!?俺だって今年は絶対予選通って出場してみせるぞ!ていうか、もう自分は出場出来るつもりかよ!」

 

聞き捨てならないと和谷が口を挟む。

出場すら出来ない者の隣で、盛大に北斗杯の出場をかけて言い争う二人に、伊角は大きな溜息つくのだが、

 

「そこ!まだ対局中だぞ!何を大声出している!」

 

大声過ぎて対局の監督者が廊下に顔を出し、問題児3人に雷を落とした。

怒られた三者それぞれにビクリとして、真っ先に謝ったのは、院生時代のまとめ役気質が抜け切らない伊角だ。

 

「すいません!」

 

全くのとばっちりだったが、条件反射的に謝りながら和谷とヒカルの頭を掴み、ぐいっと頭を下げさせた。

 

「ったく!お前らはぁ~!対局終ったんなら棋院にダラダラいなくていいんだろうが。外出るぞ!」

 

と、二人を連れて、ツノを生やした監督官から逃げるように棋院を後にする。一年早く先にプロになったのは和谷とヒカルの二人だが、保護者役は伊角のままで、人間関係のポジションは未だに院生の頃と変わらない。

棋院を出てしまえば、3人でゆっくり過ごすところと言えば、お決まりの棋院最寄のマクドナルドだ。

普段、碁石と本しか持たない生活でも、食欲旺盛な育ち盛りは店に入ればがっつり食べる。

 

「ところで和谷は対局勝ったのかよ?俺と伊角さんはいいとして」

 

ハンバーガーにかぶりつきながらヒカルは思い出したように尋ねる。

 

「かっひゃよ(勝ったよ)」

 

和谷が行儀悪く食べながら答える。対局内容的には師匠の森下から小言の5つや7つ言われそうな内容だったが、とりあえず勝ちは勝ちだ。

 

「それより……」

 

口の中のものをゴクンと飲み下し、唇についたソースを舌でペロリと舐めとってから、和谷はおもむろに自分のバッグを漁り始める。

その表情はどこか浮き立っており、瞳もキラキラ輝いていた。

和谷が何を見せるつもりか分らなかったが、ヒカルは頬杖ついてストローでコーラをじゅるじゅる吸い、伊角もポテトを口に運びながらじっと待つと、机の上に和谷は一枚の棋譜を広げ、興奮した様子で口を開く。

 

「昨日久しぶりにsaiがネットに現れたんだ!これがそのときの棋譜なんだけど一緒見ようと思ってさ!」

 

もちろん森下の研究会にもこの棋譜を持っていこうと思っているが、やはりネット碁を分る者同士で棋譜の対局について話せるなら尚更いい。

3年前のsai VS toyakoyoをヒカルも見ていた。ならば、saiが再び現れたのなら一緒になって喜び気持ちを共有することができる。

そう思って、和谷は研究会より先に、伊角やヒカルに見せようと棋譜を持ってきたのだ。

 

「saiって塔矢先生に勝ったsaiか?」

 

和谷が出した名前に伊角が出された棋譜の方へ僅かに身を乗り出す。saiと行洋の対局を伊角はリアルタイムで観戦しなかったが、中国棋院に碁の勉強に行っていたとき、楊海から二人の対局した棋譜を見て驚愕したものだ。

 

行洋の見事な打ち回しもだが、中盤も終わりにさしかったあの局面で打ったsaiの一手。あの一手に気付ける者は、日本はもとより韓国中国のトッププロ棋士でさえいないのではと思えた。

 

あの一局でsaiの名前が中国韓国のプロ棋士の間にも広がり、正体が誰なのかと噂され、伊角も楊海から日本のプロ棋士に心当たりがないか聞かれた。しかし、やはり伊角もsaiの正体に心当たりは無かったので首を横に振ったものだ。

棋力で言えば間違いなくsaiはプロ以上。それもトップ棋士並み。これは棋譜を見た者であれば、全員が肯定するだろう。

 

だが、多くの者の予想としてsaiはアマというのが最有力説だ。

saiが現れた当初の、対局相手を選ばない打ち方と、丸々一ヶ月、ほぼ毎日のようにネット碁に浸るなんてことは、プロ棋士であれば棋戦などの公式対局日やイベントがあり不可能だ。

 

しかし、そうなるとアマでも高名な棋士となるのだが、行洋を打ち破る程の実力を有する人物もいない。

強さだけを碁を打つ者の心に鮮明に刻み、saiという名前以外の全てが闇に包まれた正体不明の棋士。それが伊角の知るsaiだ。

 

「そう!そのsaiだよ!塔矢先生との対局の後、ずっと現れなかったのに、昨日3年ぶりに現れたんだ!」

 

「どうせニセモノだろ?」

 

興奮する和谷に、間髪入れず全く信じていないという口調でヒカルが一笑した。

微かではあったがその口調には、押し殺すことが出来なかったニセモノのsaiへの軽蔑が滲み出てしまっていた。

 

二人に言うわけにはいかないが、佐為は消えてしまいもうどこにもいないのだ。

もし世界のどこかで佐為がまだ現世に留まっていたとしても、佐為の姿を見て、声を聞くことが出来るのはヒカルだけであり、『sai』のアカウントにログインできるのもヒカルだけなのだから。

だから、また有名になったsaiの名前を語るニセモノが現れたのだと、ヒカルは全く疑わなかった。

 

「俺も初めもしかしてニセモノかもって思ったけど、これは絶対ホンモノだと思う。棋譜見れば分るさ。これは、saiだ」

 

声を荒げ反論するわけではなく、静かに確信したような物言いの和谷に、ヒカルは渋々ともたれていた椅子から身体を起こし、棋譜を覗き込む。

 

(佐為のわけがないんだ。だってアイツはもうどこにもいないんだから)

 

ヒカルの脳裏に佐為と過ごした優しい日々が走馬灯のように思い出される。初めて平八の家の蔵で佐為と出合った日のことや、碁会所で打ったアキラと佐為の対局、アキラを追ってヒカルがプロを目指してからは毎日のように佐為と碁を打った日々。

 

それらが昨日のことのように鮮明に思い出され、胸が締め付けられるように感じられた。例え佐為のことを話したとしても誰も信じてはくれないだろうし、誰にもその存在を証明することが出来なくなった佐為。ヒカルだけが、確かにこの世界に存在したのだと知ってる佐為。

優しく、子供のように無邪気で、我侭で、そして誰にも負けなかった本因坊秀策。

 

「………」

 

「どうよ?これって絶対saiだろ?3年の沈黙を破っていきなり現れたんだぜ?昨日の夜、偶然見つけたときは脂汗出たぜ」

 

ニセモノと馬鹿にしながら棋譜を見たまま無言になってしまったヒカルに、和谷が自慢げにsaiを見つけた時の様子を語る。

プロになって3年目となるとそれなりに対局数も増え、以前のように頻繁にネット碁をする機会は減ってしまった。

 

それでもネット碁にアクセスしたときは、必ずと言っていいほどsaiを和谷は探した。もしかしたら、半ばネット伝説化さえしてしまった最強の棋士が、もう一度現れてくれるかもしれないと、限りなく少ない期待を抱きながら。

 

そうしていざ実際にsaiの名前をログインアカウントの名簿リストの中に見つけたとき、驚きと同時に、現れたsaiがホンモノかどうか和谷は直ぐに怪しんだ。

以前、saiが現れたと喜び勇んで観戦画面を開けば、全くのニセモノだった過去があるからだ。だから今回のsaiも、もしかするとsaiの名前にあやかった目立ちたいだけのニセモノかもしれないと疑心暗鬼で観戦画面をクリックした。

 

そして現れた対局観戦画面は、現れたsaiがホンモノであることを証明していた。

3年前と比べていくらも衰えていないその見事な打ち回し、対局相手の甘い部分を逃さず鋭く斬り込む一手。盤上の上の石が全てsaiの深いヨミによって導かれ創造されたような、美しい石模様。

 

すでに対局観戦数は膨大な数に膨れ上がっていた。

現れたsaiがホンモノだと和谷が確信した瞬間、驚きや興奮より歓喜と感謝が勝っていた。

saiが再び現れてくれた。

三年前の行洋との対局を最後に消えてしまったsaiを探し待ち続けていて本当に良かったと、心からsaiというネットの棋士の再来を喜んだのだ。

しかし、行洋とsaiの対局をリアルタイムで観戦していて、行洋でさえ気付かなかった逆転の一手にただ一人気付いたヒカルが、棋譜に視線を落としたまま、震える手で口を押さえた。

 

「そんな……そんなハズは、だってアイツは……」

 

「進藤?」

 

顔色が青ざめ、手だけでなく体まで小刻みに震え始めたことに気付いた伊角が、ヒカルの様子を気遣う。

棋譜を見るまで元気にハンバーガーを頬張っていたのだ。

それが和谷が取り出した棋譜を見たとたん、突然様子がおかしくなった。

椅子からヒカルが立ち上がり、机の上に置かれた棋譜をぐしゃりと握りしめる。

 

「ごめん!これちょうだい!」

 

言うや否や、自分のリュックを持って、慌てて店を出て行くヒカルに、和谷も意表を突かれ、引き止める間もなかった。

棋譜のデータは家のパソコンに保存されているから、また印刷すればいいだけだが、

 

「な、なんだってんだよ……」

 

俺、何かした?と問う和谷に、

 

「さぁ?」

 

と伊角も訳が分らず、首を捻るだけだった。

店を飛び出て、ヒカルが真っ先に向ったのはインターネットが出来る漫画喫茶である。駅前にならきっと漫画喫茶が必ずあるはずだと考えれば、そのヒカルの読み通り、ビルの中に漫画喫茶のテナントが入っていた。

初めての店だったため、受付で会員登録に多少の時間を取られつつ、ヒカルは個室の席へ入る。

パソコンに電源を入れ、立ち上がるのをじっと待ちながら、半ば強奪するように和谷から貰ってきた棋譜をもう一度眺める。

 

「佐為……」

 

震える唇で佐為の名をヒカルは呼ぶ。

記憶の中でヒカルに微笑む佐為の姿。

誰も知らない、ヒカルだけしか知らない最高の棋士『藤原佐為』。そして、2年前に何も言わずにヒカルの前から消えてしまった。

だからこそヒカルは、その棋譜の打ち手であるsaiが本物であると信じられず、同時にこのsaiが佐為ではないと否定することができなかった。

 

(本当にお前なのか?お前はまだ現世のどこかにいるのか?)

 

棋譜の随所に見られる、胸を締め付けられ息苦しさを覚えるほど懐かしい打ち方。まるで佐為が、自らはまだこの現世にいると棋譜を通してヒカルに訴えているように思えるくらい、至るところに佐為が溢れている。

パソコンのウィンドウが立ち上がり、ヒカルはネットブラウザを開き、久しぶりにネット碁にアクセスした。

 

ネット碁をするのは佐為が行洋と対局して以来だったが、アクセスIDとパスワードは忘れていない。

久しぶりにsaiのアカウントを入力しログインすると、恐る恐る対局履歴のページを開く。そこには新しいものから順に対局ログが残されている。

ヒカルの心臓が大きく脈打つ。

 

(佐為っ!)

 

瞳を見開きディスプレイを見つめるヒカルの目に映ったのは、昨日の対局記録。

3年のブランクを置いて、真新しい対局記録が一つ、ログの一番上に更新されていた。

その新しい対局記録をクリックすると、新規ウィンドウが立ち上がり、その打たれた対局棋譜が映しだされる。

棋譜の内容は和谷から貰った棋譜と全く同じものだった。

 

ニセモノのsaiではなかった。本物のsaiであるヒカルと佐為しか知らないはずのsaiのアカウントによって打たれた対局だった。

 

 



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03 コンタクト

日本のプロ棋士を引退し中国チームと契約してから、行洋はすでに一年の半分以上を海外で過ごすことが多い。

そのスケジュールの中、日本の自宅に戻っていた行洋を、門下筆頭の緒方が一枚の棋譜を携え訪問していた。訪問の理由は、久しぶりに日本に戻った師匠への挨拶なんて気軽なものではなかった。

緒方の表情は険しく、玄関に出迎えてくれた明子へ表面上の挨拶と笑みを向けただけで、研究会を開いていた部屋へ通されても気を緩めることはない。真剣な眼差しのままだった。

 

「これがsaiが打った棋譜?」

 

「はい」

 

緒方が差し出した棋譜を、上座に座る行洋が受け取りじっと目を通す。

その行洋を静かに見守るのは棋譜を差し出した緒方の他に、正座している息子のアキラもだった。

こうして緒方が久しぶりに塔矢邸にやってきた訳をアキラは知っていたし、棋譜そのものならすでに知っている。

 

なぜならば、またもや若手棋士たちが集まり碁の勉強会をしている最中に、そのうちの一人の携帯へネット碁にsaiが現れたと知らせるメールが入ったからだ。

その場にいた棋士全員でsaiの対局をリアルタイムで観戦し、終局後は検討までしたのだから。

 

観戦中にアキラの頭を過ぎったのは、やはりヒカルだった。こうしてsaiがネット碁に現れている今なら、ヒカルがsaiなのか確かめられるかもしれないと思った。

しかしヒカルがどこにいるかも分らないのでは探しようもなく、運良くヒカルが電話に出たとしても本当にネット碁をしていないのかまでは分らない。

現れたsaiが打った対局は一局だけで、終局するとすぐにログアウトしてしまい、以前と同じように何も語らずネットの闇に消えてしまう。

 

惜しむらくはsaiと対局した相手がそこまでの棋力を持っていなかったことだろう。

saiが打ったのは指導碁だ。実力が自分より劣る相手を丁寧に導いている。

その上でsaiの隠しきれない実力が対局棋譜に現れていた。

そんな棋譜を見て、行洋がどんな反応を示すのか。行洋がプロ引退後もsaiとの再戦を強く望んでいることをアキラは知っている。

 

たまたま夜中に目が覚めてしまい、水を飲もうと起きた廊下の先で、行洋の部屋から漏れ出る光。

対面に白の碁笥が置かれ、黒の初手を打ったまま、行洋はじっと盤上を眺めていた。

あれはsaiの一手を待っていたのだとアキラは思う。そしてきっと今も行洋はsaiを待ち続けている。

ならば、再びネットに現れたsaiに行洋がどんな反応をするのか。行洋の一挙一動を見逃すまいと2人が見守る中、

 

「丁寧な指導碁だ」

 

対局棋譜に目を通したらしい行洋が、棋譜をそう評価する。それ以上でもそれ以下もない。

いくら行洋でもsaiの棋譜を見れば、多少なり反応があるだろうと予想していた緒方とアキラの思惑とは裏腹に、行洋の反応は至って淡白だった。

もっと厳密にさかのぼれば、saiが再びネットに現れたと行洋に伝えたときでさえ、行洋は全く平静を取り乱すことはなかった。

 

「あまり驚かれないのですね、お父さん」

 

とアキラ。

 

「驚いてはいる。それと同じくらいだけ喜びも。私との対局を最後にずっと現れなかったsaiが再び現れた。出来ることならもう一度saiと対局してみたいものだ」

 

当たり障りのないごく普通の返答であり、期待外れの反応

言い終えて、行洋は棋譜を緒方の方へ置く。

ようやくそこで行洋は表情を緩めた。

 

「saiがネットに現れたか」

 

感慨深く呟く行洋に、棋譜を持ってきた緒方も行洋の心中を図りかねる。

 

(だが、これで塔矢先生へ進藤がsaiとの対局を持ちかけるか、それとも逆か。きっと動きがあるはずだ)

 

3年前はあと少しのところでsaiと繋がっているだろうヒカルを逃してしまい、行洋も口を閉ざしたことから、緒方はあと一歩のところでsaiに辿り着くことが出来なかった。

 

(saiの正体云々はこの際どうでもいい。対局さえ出来れば)

 

当時五冠のタイトルホルダーだった行洋に勝ったsai。

神の一手に最も近いと謳われていた行洋を退けた棋士に、高みを目指す碁打ちとして惹かれないはずがなかった。

最後にsaiが現れてから3年の月日が経ち、今では緒方も複数のタイトルを保有し、自身もそれなりに棋力が磨かれたと自負している。

棋力だけなら決して当時の行洋に劣らないだろう。

今の己ならばsaiに勝つことが出来ると緒方は本気で考えている。

しかし、そんな二人の思惑と行動を行洋は予め見越していたように、腕を組み静かに目を細める。

 

(全ては佐為の予想通りということか)

 

ネット碁に己が現れれば、必ず緒方とアキラが動くと見越していた佐為の予見は、行洋も感心するほど見事に的中した。

だからこそ佐為が予め行洋に接触し釘を刺した行動が、今更ながらに分ったような気がした。

 

行洋が中国から日本に戻って3日と経たない日の午後、何の前触れもなく、その電話は塔矢邸にかかってきた。

最初に電話に出たのは行洋の妻である明子だった。家の電話とはいえ、行洋は家に誰もいない限り電話には出ない。それは古き日本の父親像からくるイメージからではなく、トップ棋士であった行洋に怪しい電話がかかってくることが少なくないからである。

 

高所得で資産がある行洋に、どこで電話番号を調べたか分らないが、怪しい投資話や勧誘が持ちかけられることがたまにあるので、用件が何にせよ、行洋への電話は明子かアキラ、または弟子の誰かがワンクッション置くようにしている。

どんな話を断るにせよ、本人が断るのと他人が間に入って断るのでは、棘の立ち方が違う。それに本人が直接電話に出てくると知られれば、チャンスと見て相手はしつこく電話をかけてくることが十分考えられた。

それらを踏まえてこの塔矢邸で行洋は出来るだけ電話に出ず、代わりに家人か門下の弟子の誰かが電話に出るようになっていた。

 

『突然のお電話失礼いたします。藤原と申します。塔矢行洋先生はご在宅でしょうか?』

 

落ち着いた、若い30前後の男の声が電話口から明子の耳に届く。

それに対し、明子は失礼のないよう気をつけながら聞き返す。声の印象がどんなに良くても、素性と用件の分らない者を行洋に取り次ぐ訳にはいかない。

 

「主人ですか?どちらの藤原様でしょうか?主人にどのようなご用でしょう?」

 

『失礼致しました。私は藤原佐為と申します。塔矢先生には私の名前をお伝えしていただければ、お分かりいただけるかと思います』

 

「お名前をお伝えするだけでよろしいのですか?」

 

『はい』

 

明子も初めて聞く名前と声の主だったが、フジワラサイと名乗った相手は、動じず淡々と受け答えた。

用件を言わないのは明子も気になったが、名前を伝えれば分るというならば、あとは行洋が判断するだろう。知らないと言えば、ソツなく電話を切るだけだ。

 

「お名前は、フジワラ、サイ様でよろしかったでしょうか?」

 

『そうです』

 

「少々お待ちくださいませ」

 

電話を一度保留にし、明子は自室で棋譜並べをしているだろう行洋の元へ行く。

 

「あなた、入りますよ」

 

一声かけてから戸を開き、黙々と棋譜を並べている行洋に、

 

「フジワラサイ、とおっしゃる方からお電話なのですけれど、ご存知ですか?」

 

電話で名乗った名前を伝えた。

すると、ピタ、と黒石を置こうとしていた手が止まり、持っていた棋譜集から行洋は顔を上げて明子の方へ振り向いた。

 

「フジワラ、サイ?電話の主は『サイ』と言ったのか?」

 

「ええ、若い男性のような声でしたけれど、用件を聞いても名前をあなたに伝えれば分ると言うだけで、お知り合いですか?」

 

名前しか名乗らない電話主に、行洋が反応したことを明子は意外に思いながら、電話を断るかどうか尋ねる。

どういう理由があるにせよ、用件を言わず名前だけ伝えてくれ、というのは胡散臭さがある。そういった類の輩を行洋は普段から嫌うのに、そんな素振りを一切見せず、広げていた棋譜集を脇に置き立ち上がると

 

「分った。出よう。それとこの電話のことは誰にも」

 

「分っております」

 

行洋が皆まで言い終わる前に、明子はフジワラサイという人物から電話があったことを誰にも言わないと約束する。

それを確認して行洋は電話の方へ向ったのだが、その歩みが心なしか足早になっていることに気付いていたのは、行洋本人ではなく明子だけだった。

保留ランプのついた電話の受話器を持ち上げ、小さく息をついてから行洋は保留解除ボタンを押す。

 

「はい」

 

『……こうして、電話越しとはいえ、私達が言葉を交わすのはこれが初めてなのですね。3年前の対局では、あれほど盤上近くに存在を感じていたのに』

 

明子が行洋に伝えた通り、電話口から聞こえてきた声は若い男の声だった。静かに、穏やかに、懐かしさを漂わせて語る声に、行洋は知らず震えた。

 

正体不明ならいくらでもsaiを語ることは出来るだろう。

ネットのsaiと同じ名前を名乗る相手につい立ち上がってしまったが、廊下を歩きながらフジワラサイと名乗る人物がネットのsaiではないかもしれないと疑った。

けれど、フジワラサイと名乗った電話の相手は、自己紹介もなく、3年前の対局を懐かしんだ。

 

「sai……」

 

「はい」

 

行洋が名前を呼ぶと、優しい響きが返って来る。

たった一言だけだ。

願わくばもう一度対局したい、もし叶うならsaiに直接会ってみたいと、ずっと3年間願い続けてきた行洋の言葉を、急くことなく待っている。

 

「もう一度、君と対局したい。またネット碁でもいいから」

 

『外で、お会いできませんか?日時は塔矢先生のご都合の良い日で結構です。場所もご指定頂ければ私の方で用意します。ただし、私と会うことは誰にも他言無用でお願いします。それは進藤ヒカルにもです』

 

会話にヒカルの名前が出てきて、間違いないと行洋は思う。

saiのニセモノや、行洋の資産に目をつけた輩なら、saiとヒカルの繋がりは知りえない情報である。その中でヒカルの名前を出したこのフジワラサイがネットのsaiと同一人物なのだと行洋は確信を得る。

だが、前回の対局ではヒカルからsaiとの対局を持ちかけられたのに対し、今回はsaiが直接電話してきた上、ヒカルにさえ知らせるなという意図が行洋は分らなかった。

 

「進藤君にも?進藤君は君がこうして私に電話をしていることを知らないのか?」

 

『知りません』

 

「何故そこまでして隠れようとする?進藤君と君は友人だったのでは?」

 

インターネット碁でも正体を明かさず、今回はヒカルにさえ秘密にしようとしている理由が思い当たらず、行洋は浮かんだ疑問をそのままsaiにぶつけた。

外で直接会おうとしている相手に、それを問うくらいは許されるだろう。それとも、たったそれくらいもsaiは一切の詮索を許さないのか。

 

『友人……そうですね、塔矢先生の仰られる通り、私達はとても親しい、かけがえのない友人でした』

 

過去形で締めくくった言い方に、行洋の眉間に皺が寄る。

 

『ですが、今ばかりはこれ以上の詮索はなさらないようお願いします。ご理解できないかもしれませんがこれだけは忘れないでください。こうして私が塔矢先生にお電話したのは、ヒカルを守るためだということを。そしてヒカルを守るために、『塔矢先生に電話する』というリスクを私が犯さなければならなかったということを』

 



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04 再会

行洋引退の理由がアマかもしれないsaiにネット碁で負けたからかもしれないと、引退して数年たった今でも噂されていることをアキラ自身気づいていたが、それについて表立ってとやかく言ったことはない。

なにしろ当の行洋自身が何も語らないのだから、息子と言えどアキラに何が言えるというのだろう。

 

だが、確かにアキラの目から見ても、行洋の棋風はsaiとの対局を機に変った。そして、プロだった頃より強くなった。

その行洋との対局を最後にネットから消えていたsaiが、再び3年ぶりに現れたのだ。行洋とsaiとの対局を知る者であれば、決して関心を寄せない者はいないだろう。

そしてsaiがネットに再び現れたのは、海外にいることが多くなった行洋が、珍しく日本に帰っていた時だった。

 

それを偶然と片付けるか、そうでないかは、受け取る人物の気持ち如何だ。

その中で、アキラの兄弟子である緒方はsaiの出現を偶然と片付けなかった。

行洋とsaiの対局にひどく心揺さぶられ、自身もsaiと対局したいと緒方が願っていることはアキラも知っていた。

そして一時はsaiの正体に一つの心の区切りをつけた筈のアキラでさえ、saiが再び現れたのは驚き以外の何物でもなかった。

本当に偶然だったのか、それとも何か別の意図があったのか。

 

迷ったまま緒方の勢いに引きずられるようにして、saiの棋譜を緒方と共に行洋に見せたのだが、行洋の反応は至って淡白なものだった。

緒方の言葉使いこそ礼儀を弁えているものの、胸の中で燻る感情を隠すことなくぶつけるような言及にも、ただ静かに受け答えするだけで。

いくら行洋でも多少なり動揺するはずだと踏んでいた緒方の思惑は見事に外れてしまい、行洋の表情からは終始何も読み取れなかった。

 

だが、アキラにとって予想外だったのは、行洋ではなくヒカルの動揺振りだった。

 

「大丈夫か、進藤。もうすぐ対局時間だぞ」

 

棋院のベンチに腰をかけ、じっと思案しているヒカルにアキラは声をかける。

 

「え?あ、そう、だな……。わり、ちょっとぼーっとしてた」

 

心配そうに気遣うアキラに、ヒカルは何でもないと返すが、どうみても普通ではない。平静を失っている。

この調子で北斗杯予選にのぞんだところで、予選落ちしてもおかしくないだろう。

ネットにsaiが再び現れて以来、ずっとこの調子のヒカルに、流石のアキラもsaiについて尋ねるのは憚られた。

 

ヒカルの反応は、恐らくsaiが現れるはずがないのに現れたことに対しての動揺だろうとアキラは推測した。

ネットのsaiの正体を唯一知っているだろうヒカルがそう考えるほど、再びsaiが現れたという事実は異常なのだ。

しかし、今だけはsaiのことに構っている暇などない。とくに予選免除で北斗杯に出場出来るアキラと違い、予選から勝ち上がっていかねばならないヒカルは尚更に。

アキラが隣にいるそばから、ヒカルはため息をついてまた考えこみはじめた。

 

(まったく、saiが少し現れただけでこの腑抜けようは……)

 

他人事のようにアキラは苛立ちながら、ヒカルとは別の意味でため息をこぼす。

いくらsaiが気になったとしても、対局となれば話は別である。

本来、北斗杯予選に出る必要の無いアキラが、今日、朝から棋院に来る必要は全く無かったのだ。

午後の対局が終わり、出場者が全員決まるまでにやってきて、スポンサーに一言二言挨拶をするだけで済んだ。

 

それをわざわざ朝から棋院に足を運んだのは、ヒカルの様子がどうにも心配で気が気でなく、念のためと様子を見にくれば、案の定だ。

意を決して、ヒカルの襟元とぐっと握り、強引に顔を上向かせると

 

「しっかりしろ!進藤!今はこれからある北斗杯の予選にだけ集中するんだ!負けて北斗杯に出場出来なくなってもいいのか!?」

 

声を荒げて叫んだ。突然、大声で言われてヒカルはビクリと驚くも、すぐに胸倉を掴むアキラの手を振り解く。

 

「なっ、何だよ!そんなの分かってるよ!シードのお前が言うなよな!」

 

「分かっていればいいんだ。だがもし無様な碁を打って予選なんかで落ちてみろ。韓国の高永夏の冷笑する様が簡単に想像できるな」

 

「むっ!」

 

ヒカルを鼓舞する為にわざと高永夏の名前をアキラは出したのだが、狙い通り見事に食いついてくれる。今年の北斗杯も韓国の代表として高永夏はほぼ間違いなく出てくるだろう。

去年の大会で、あれだけ騒ぎを起こし、あと少しでヒカルは高永夏に及ばなかったのだ。

その敵愾心を奮い立たせれば、saiの出現にどれだけ動揺していても、ヒカルは北斗杯予選の対局に気を向けないわけがない。

 

やはりと言うべきか、去年の北斗杯の壇上でヒカルを冷ややかに見下した高永夏の姿でも思い出したのだろう。

ヒカルは口を思いっきりへの字にして、怒りに身を震わせている。

 

「行って来る!」

 

「ああ、その意気込みで頑張ってくれ」

 

扇子をぐっと握り締め、前を睨みつけながら対局場へ向かったヒカルを、アキラは小さく溜息をつきながら軽く手を振って見送る。

 

(……全く手のかかる。動揺したいのは、saiの正体を知りたいこっちなのに。大体saiと進藤が知り合いなら、saiももう少し時期を考えて現れればいいのに)

 

ヒカルの後姿が対局場に消えたのを見届けて、振った手でそのまま頭痛のする頭を抑えて、アキラは一人ごちた。

今年の北斗杯予選で、すでに高段者との手合いもこなしているヒカルと社の他に、気になる棋士はいない。

普段の実力で打てれば、まず間違いなく今年の北斗杯出場者も前回同様、アキラ、ヒカル、社の3人になるだろう。ヒカルが気を散らしてポカでもやって負けない限りは。

 

北斗杯の予選は午前一局、そして午前の勝者がそれぞれ午後に対局して決定する。

もともと北斗杯が18歳以下の棋士を対象とした国際棋戦であるため、出場出来る棋士は関西棋院と合わせても少ない。

そのため予選は一日で終わる。完全勝ち抜きの戦いだ。

今年の予選は、前回の出場者が予選でぶつからないよう組み合わせ表の調整がされている。

 

去年の予選で、越智が敗者である社と再対局した例外はあるが、それは社が観戦していた周りと越智に再戦を承諾させるだけの対局を見せたからであり、本来は敗者を救済したりはしない。

必要のない早朝からアキラが棋院に足を運び、集中力が散漫なヒカルに発破をかけたお陰か、午前午後とヒカルはなんとか予選を勝ち抜いた。

大きくはないが、小さいミスが所々にあったヒカルの対局は、最後まで安心することが出来ない僅差の勝利だ。

 

これは実際に対局しているヒカルより、別室で観戦していたアキラの方が、普段のヒカルの碁を知っているだけにやきもきした。

対局場の隣の別室で観戦していたアキラが、ヒカルが甘い一手を打つ度に、額に血管を浮き上がらせ何度口を挟みそうになったかも数え切れない。

 

ヒカルが甘い一手を打った全てに、アキラは隣の別室ですかさずその一手を咎めるキツイ一手を打ち返した。

もし目の前でヒカルの打ったところを直接見ていたら、口は挟まずとも眉間に浮き出た血管でそれが悪手だと周りに気づかれたことだろう。

 

「君って奴は……」

 

なんとか北斗杯の出場を決めることが出来たヒカルを待ち構えていたのは、憤怒の形相で廊下に仁王立ちするアキラだ。

 

(やっぱ怒ってる、よな)

 

ヒカル自身、午前午後と打った対局内容が決して良くなかったと分かっているから、アキラに文句を言われても何も反論できないので、兎に角視線を合わせないよう明後日の方角を見上げるだけだ。

 

「まぁまぁ対局内容はおいといて、とりあえず今年も北斗杯の出場者が決まったんやから、一致団結、今年こそ一位目指してがんばろやないか!」

 

同じく北斗杯の出場を決めた社が、二人の間に入り、なんとか場をとりなそうと気を使う。北斗杯が始まる前から、出場する仲間同士で仲違いは出来るだけ避けたい。

これから北斗杯のスポンサーに出場者全員で挨拶しなければならないのだ。

それなのに出場者が態度悪くして、大会そのものに悪い印象を持たれたら、せっかく新しくついてくれたというスポンサーが気分を害して下りてしまうかもしれない。

せっかくのスポンサー。

ゲンキンだが、賞金は少しでも高い方が気合いが入る。

 

「渡辺先生、出場者は決まりましたか?」

 

廊下の向こうからやってきた人物に、予選の見届け人兼監督をしていた渡辺が振り返る。

 

「戸刈さん、ええ、今ちょうど決まったところです。出場者は去年と同じで、塔矢くん、進藤くん、社くんの3人です」

 

「そうですか。分かりました」

 

廊下に集まっていた三人を示す渡辺に、戸刈は神経質そうにメガネの位置を正しながら頷く。そして戸刈の数歩後ろにいる人物に渡辺は視線を移しながら尋ねた。

去年、これまで全く碁に関係の無かった北斗通信社システムが国際棋戦の打診を日本棋院にしてきたときもそうだが、今年新たにスポンサーになったという会社の関係者も碁とはまったく縁の無さそうな容姿だな、と渡辺は内心思う。

 

「そちらの方は、新しくスポンサーになられた会社の関係者でしょうか?」

 

碁に何の興味を持って新規スポンサーに手を上げたのか。

仕事一筋なエリートビジネスマンというなら戸刈の方が似合うだろうが、隣に立つ人物は肩をゆうにこえる長い黒髪といい、若く整った容姿といい、歌舞伎やお茶の世界、伝統文芸や絵画などの芸術方面に似合う、勝負事とは無縁のような容貌に見える。

 

「ええ、そうです」

 

渡辺に促されるようにして、戸刈は新しいスポンサーを北斗杯出場を決めた3人に紹介しようとしたが、

 

「久しぶりですね、ヒカル」

 

新しいスポンサーになったという相手から、親しみを込めて名前を呼ばれても、ヒカルは無言だった。

 

「…………」

 

ひたすら瞬きも忘れてヒカルは見つめていた。

ヒカルの様子をおかしく思ったアキラが

 

「進藤?知り合いなのか?」

 

と、声をかけたが、やはり何も反応は無い。

そうなると相手の男を探るしかなくなるのだが、アキラには全く覚えがなかった。

 

(誰だ、この男)

 

アキラが不躾にならないよう気をつけながらも、北斗杯の新しいスポンサーになったという相手を見定める。

ヒカルの反応がないのは、反応出来ないでいるからであり、相手の男をヒカルは知っているのだろう。

しかし、久しぶりという相手に喜ぶでも驚くでもなく固まったまま反応が全く無いというのはアキラも判断つきかねた。

 

「私の名前も呼びたくないくらい、何も言わず突然貴方の前から消えたこと、怒っているのですか?」

 

ヒカルは顔を俯かせ首をブンブン横に振った。

そのまま顔を俯かせ、両手をぐっと握り締め震わせる。

 

「じゃあ、お腹が空き過ぎて声も出せないとか?北斗杯出場決定お祝いにこれからヒカルの好きなラーメンでも食べに行きますか?お店のトッピング全部注文してもいいですよ?」

 

そら惚けたように明るく言う佐為に、さっきより強くヒカルは首を横に振り、込み上げる嗚咽と溢れてくる涙を懸命に堪えた顔を上げた。

ヒカルの隣にいたアキラと社が、突然のヒカルの涙にぎょっとする。まだ未成年とはいえ、他人の前で泣きじゃくれる幼子でもない。

ぐっと唇を噛み締め、今にも大粒の涙を零し泣き出す寸前のヒカルに、佐為はここまでかと観念する。

済まなそうに瞳を細め、両手を広げた。

 

「ただいま、ヒカル」

 

その一言が引き金になったようにヒカルが佐為に駆け寄った。

 

「佐為!」

 

 




+++

この第4話が更新された時(8/10)、自分は少し家を離れている予定のためすぐに修正対応することができません。
家に帰り次第、誤字脱字のご指摘を確認し修正対応したいと思います。


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05

聞きたいことはたくさんあった。

しかし『サイ』と呼んだ人物にしがみつき、わんわん泣き続けるヒカルをただ黙って見ているしかできない歯がゆさに、アキラは奥歯をかみ締めぐっと堪えた。

 

(この男がネットのsai!)

 

ヒカルの言った『サイ』がほぼ間違いなくネットのsai本人なのだと、アキラには確信できた。

そうでなければ、ヒカルがこれほど取り乱しなどしない。

ネット碁にたった一局saiが現れただけで気をとられ、危うく北斗杯予選で落選しそうになるのだ。

ヒカルの心中でネットのsaiが、どれだけ大きく占めるのか、安易に伺い知れる。

 

「なんや進藤のやつ、新しいスポンサーさんと知り合いやったんか」

 

何も知らず、能天気に聞こえる社の呟きに、半ば八つ当たり同然にアキラが噛み付く。

 

「知り合い、どころじゃないッ!!」

 

声を押し殺しながらも、込上げる怒りのまま乱暴に言い捨てたアキラに、社がビクリと驚いてしまう。

まさかsai本人が、こうも堂々と自分たちの目の前に現れると誰が予想できただろう。

あれほどネットの中に隠れ続け、正体をヒカル以外の誰にも知られることのなかったsaiが、北斗杯の新しいスポンサーとして名乗りを上げてきた。

 

つい先日ネットに現れた事といい、こうして姿を現したことといい、何を企んでいるのかと疑わずにはいられない。しばらくしてヒカルがようやく落ち着き始めた頃合を見計らい、成り行きを見守っていた渡辺が

 

「進藤君は藤原さんと知り合いだったのかな?」

 

「え、あっ、その、知り合いって、いうか」

 

涙の跡を袖で拭いながら、ヒカルはどう答えたらいいのか、しどろもどろに戸惑っていると、それに答えたのは佐為だった。

 

「とても親しい友人です。しばらく離れていて会うことが出来なかったので、連絡もなくいきなり私が現れて、ヒカルも驚いたのでしょう」

 

ですよね、と賛同を求めてきた佐為にヒカルはつられるようにして頷く。

 

「そうだったのですか」

 

「藤原佐為と申します。今度の北斗杯ではよろしくお願いします」

 

「棋士の渡辺です。こちらこそよろしくお願いします」

 

渡辺と佐為が大人の対応で、和やかに挨拶を交わす。

その様子を睨みつけていたのはアキラだ。

一見して親しい友人と感動の再会の場面に見えるそれも、アキラから見れば茶番にしか見えない。

 

「北斗杯で出場することになりました塔矢アキラです」

 

渡辺から紹介される前に、自ら前に出てアキラは自己紹介を述べる。

 

「塔矢アキラプロですね。お名前は聞き及んでおります。日本の若手棋士ナンバーワンのホープなのだとか。大会では是非頑張ってください」

 

「失礼ですが、手を見せていただいてよろしいでしょうか?」

 

「オイっ!塔矢?」

 

突然何を言い出すのかと社が口を挟んだが、

 

「手ですか?構いませんよ。どうぞ」

 

アキラのやぶからぼうな言い出しにも、佐為は快くアキラの方へ手を差し出す。

了承をもらったアキラはその手をとり、佐為の指先を確認する。ヒカルと初めて会った頃、ヒカルの指先を確認した時とおなじように。

しかし碁石をはさむときにどうしてもなってしまう爪の磨り減りやタコなどの、碁打ちならば必ず見られる痕跡が佐為の指には全く全く見当たらない。

綺麗な指だ。

 

これが『サイ』と名乗った人物でなければ、アキラも考え過ぎかと流していたかもしれない。

しかしヒカルと初めて会った頃、アキラがヒカルの指先を確かめたときも、ヒカルは碁を打ってきたとはとても思えない綺麗な指をしていたのだ。

二人の相似がアキラの頭の中で重なる。

 

「もうよろしいですか?」

 

「はい、ありがとうございました……」

 

遠慮がちに手を差し引く佐為に、

 

「これからボクと一局打ちませんか?」

 

「お前、何言ってんねん!いきなり手ぇ見せろとか言ったかと思えば、次は一局打とうとかスポンサーさんに失礼やろが!いい加減にせぇや!」

 

「塔矢君!」

 

社に続くようにして流石に渡辺もこれ以上は失礼だとアキラを嗜めた。

ヒカルが知り合いだったことは当然驚いたが、普段なら礼儀正しく、大人への対応も慣れているアキラの突然の態度に、渡辺もどうかしたのかと戸惑う。

 

「失礼しました、藤原さん。塔矢くんも北斗杯の出場者が全員決まったばかりで少しばかり興奮しているのでしょう。普段ならこういったことは」

 

すぐに詫びてきた渡辺に、佐為は首を横に振り、

 

「すいません。プロの方に誘われてとても光栄ですが、私は碁を打たないのです」

 

この言葉に驚いたのは言われたアキラより隣にいたヒカルだった。ぎょっとして目を見開き、驚き佐為を見上げる。

 

(佐為のやつ、何言ってるんだ?)

 

佐為が何を考えてそんなことを言っているのか、ヒカルにはさっぱり分からない。

碁を打たない佐為などヒカルには到底信じられなかった。

どんなときも碁一筋に神の一手を極めることだけを願っていたのに。

 

「全くですか?これまで碁を打たれた経験は?」とアキラ。

 

「石を持ったことすら一度もありません」

 

「インターネット碁も?」

 

「ええ」

 

淡々と微笑をたたえてアキラの問いに受け答えする佐為をじっと見守りながら、奇妙な違和感がヒカルの中に湧き上がってくる。

 

(佐為、だよな?)

 

突然ヒカルの前に現れたこともそうだが、幽霊だった3年前と違い、目の前の佐為は平安時代の直衣ではなく現代のスーツを着こなし、体に触れることができ、なによりアキラたちと会話をしている。

佐為が自分以外の誰かと会話をしている。

初めてみる光景だからだろうか。

ヒカルは目の前の佐為に違和感を覚えた。

 

「塔矢君そこまでにしなさい。いくらなんでもこれ以上は私も見過ごせない。どうしたんだね?いつもの塔矢君らしくない」

 

目上の渡辺に諭され、アキラもこれ以上の追求ができなくなる。

 

「本当に失礼致しました」

 

渡辺が頭を深く下げ、アキラの非礼を詫びる。それにならい、アキラも頭を下げた。

 

「突然、申し訳ありませんでした」

 

「いえ私ならば本当に気にしていませんので、お気になさらないでください。そちらは社くんですよね、今年も北斗杯出場を決めたのですね。おめでとうございます」

 

「あ、どうも。がんばります……」

 

急に佐為から話を振られ、ワンテンポ遅れて社も挨拶を返す。

それから確認を取るように佐為は渡辺に話を切り出す。

 

「渡辺先生、これからヒカル、進藤くんは何か手続きなどの予定があるのでしょうか?」

 

「いえ、対局は終わりましたのでとくには」

 

「では、少し進藤君をお借りしますね。久しぶりに会えたので、色々と話をしたいのです」

 

「それは構いませんよ。じゃあ、ゆっくりしておいで進藤君」

 

渡辺は佐為の申し出を快く了承し、ヒカルに行っておいでと笑顔で背中を押す。

渡辺に佐為の申し出を断る理由はどこにもない。

ご機嫌取りと受け取られるかもしれないが、ついさっき失礼をしてしまったスポンサー相手ならば、尚更ヒカルに頑張ってもらい機嫌をとってもらいたいのが渡辺の正直な気持ちだ。

 

「あ、ハイ……」

 

ヒカルが頷くも、渡辺に抑えられたアキラの視線は、ヒカルを着いていけば射殺さんとばかりに睨みつけている。

 

(後できっと佐為とどういう関係なのかって、すんげー顔で問い詰めてくるんだろうな………)

 

考えた途端に、ヒカルは胸倉掴んで詰め寄ってくるアキラを想像してしまい、気分がイッキに滅入ってしまった。

 

「行きましょう、ヒカル」

 

「ちょっ、待てよ佐為!」

 

グイと腕を引っ張られヒカルは慌てて佐為を追う。

すぐに佐為は手を離したが、そのままさっさと棋院を出て行こうとするので、ヒカルはただ佐為の後をついて行くしかない。

その佐為がようやく歩く足を止めたのは棋院を出て少し歩いてからだった。

 

「ここまで来れば大丈夫でしょうか。どこか落ち着いて話が出来るところにでも行きませんか?ラーメンは話している間に麺が延びてしまうので無しの方向で」

 

クルリとヒカルを振り返った佐為は、先ほど棋院で渡辺とアキラに向けていたような事務的で淡々とした雰囲気ではなく、言葉使いは丁寧なままだが表情はにこやかだ。

 

「……俺んち、行く?」

 

なんとなくヒカルは自分の家を挙げてみた。ゆっくり話しが出来るところが咄嗟に思いつかなかったこともあるが、佐為と二人でゆっくりすることが出来た場所として、ヒカルは自分の部屋が真っ先に思い浮かんだ。

 

「行きます!」

 

ぱっと表情を明るくさせ佐為も同意した。

 

 

 

 

棋院から家までの電車の乗り換えと駅からの道順なら、ヒカルが今更説明する必要はなかった。

むしろ再び会えることが出来た佐為をぼーっと見ていて駅を乗り過ごそうとしたヒカルを、佐為が急かすようにして電車を乗り継いだ。

久しぶりにやってきた進藤家に、佐為は初めて靴を脱いで家に上がる。

 

「お母さん!ちょっと友達と部屋で話してるから!」

 

「あら、ヒカル早かったのね」

 

居間にひょこりと顔だけ覗かせた息子に、午後も対局があると聞いていた美津子は、どうせまた検討が長引いて帰ってくるのは夜だろうと思っていた。

それがまだ夕方のうちに帰ってきたことを珍しく思いながら、ヒカルが連れてきたのだろう友達に挨拶をと思い振り向いてぎょっとした。

 

「藤原佐為と申します。すいません。こんな時間に。もう少し早く来れればよかったのですが」

 

「い、いえいえ。そんなお気になさらず、どうぞゆっくりしていってください」

 

友達を連れてきたと言うヒカルに、美津子はてっきりおなじプロ棋士で同年代の和谷か以前訪ねてきた伊角かと思ったのだ。

しかし、礼儀正しく名乗ってきたヒカルの友人はというと、仕立ての良いスーツを着込み、長い髪と整った容姿、行動が粗雑でバタバタしているヒカルとは正反対に優雅でスマートな仕草。

 

何より三十路前と思われる年齢。ヒカルと友人になるようなどんな接点あったのかと、どうせ囲碁関係だろうと分かりつつ、今更ながらに息子の友人関係に頭痛を覚える。

 

「佐為早く――!」

 

さっさと二階に上がってしまったらしいヒカルの急かす声に、佐為はもう一度美津子に頭を下げてから階段を上る。

 

「母さん、お茶とかいいからほっといて――!」

 

「ヒカル!お客様に失礼ですよ!」

 

「私のことなら本当にお気になさらないでください。飲み物とお菓子でしたら、来る途中にコンビニで買ってきましたので」

 

右手に持っていたビニール袋を持ち上げ佐為が美津子に見せると、すまなそうに美津子は佐為に謝り、再度ゆっくりしていってくださいと頭を下げた。

 

「ヒカル、お母上に何て言いようですか?少しは大人になったかと思っていれば、全然子供のままではないですか」

 

部屋に入ってコンビニ袋を置くなり、お小言を落とし始めた佐為に、ベッドに腰をかけていたヒカルは辟易とした顔になったが、すぐに表情はゆるみ佐為を見上げた。

ヒカルに呼応するように佐為も、しかめっ面が解かれてクスクス笑い始める。そしてヒカルの部屋の真中に置かれている碁盤に佐為はしゃがみ手を伸ばす。

 

「懐かしいですね」

 

「ほんとにな。ずっとこんな風に一緒にいたよな、俺たち」

 

自分にとりついた幽霊と毎日碁を打ち、他愛ない会話をして、たまに喧嘩して、ずっと、ずっといつまでも、ヒカルが死ぬ瞬間までそんな日々が続いていくのだと信じて微塵も疑わなかった。

 

「佐為、なんで俺の前から消えたんだ?」

 

口調を改めてヒカルは尋ねる。

ずっと聞きたかった問いかけだ。突然、何も言わずに消えてしまった佐為に、ヒカルは何度も問い続けていた。

ヒカルの真摯な問いかけに佐為も居住まいをただし、ヒカルに向き合うと、話すことが出来なかった真実を静かに語り始めた。

 

「幽霊のまま一千年の時を永らえたのは、ヒカル、あなたに私と塔矢行洋との一局を見せるためであったと悟ったからです。神はヒカルにあの一局を見せるために、幽霊の私を一千年間、現世にとどまらせた」

 

「塔矢先生と佐為の一局?あの一局が理由でお前が消えなきゃいけなかったのか?」

 

「消えねばならなかった、のではありません。それが幽霊だった私の役目だったのです。江戸の頃、虎次郎が私のために身を尽くしてくれたように、私はヒカルのためにあった。そのための、遠い道のりだったのです」

 

「だからってあんな急にっ……一言もなくいきなり消えるとか……俺、お前のことすごく探した。心当たり全部探して、あと因島まで行ったんだ。でもお前は、どこにもいなかった。俺が佐為に打たせなかったから、佐為は落胆して俺の前から消えたんだって、思った」

 

切々と佐為がいなくなってからのことを語るヒカルを、佐為はじっと聞いていた。

佐為が虎次郎と別れたときは、虎次郎がコレラの病にかかったことで、幾分別れが訪れるその日が前々から分かっていた。

けれどヒカルとの別れは、別れの言葉も伝えられないほど、神の采配は残酷で本当に唐突だったのだ。

 

突然、一人にされたヒカルの心中はいかばかりだったことだろう。どんなに佐為の意思一つではどうしようもなかったこととはいえ、子供を一人にさせてしまった事実は変らない。

それを思うと、佐為もまた胸を締め付けられる思いになる。

 

「ヒカルの前から私が姿を消して、私が再びヒカルを思い出したのは、2ヶ月ほど前になります。偶然見た対局中継に映し出されたヒカル見て、私は思い出しました」

 

「思い出した?俺のこと、忘れていたのか?ていうか、大体お前のその生身の体だって」

 

「私は確かに藤原佐為ですが、2ヶ月前までヒカルの知る藤原佐為ではありませんでした。囲碁とは全く無縁に生きてきて、それなりの大学を出て、仕事をして……そんな生活をしていたのです」

 

「どういう意味だ?もっと分かりやすく言ってくれよ」

 

佐為の説明が分からないとヒカルは首を捻る。

これについては佐為も確証があるわけではないので断言することは出来ない。

だから、ヒカルにも分かりやすいようにと一つ一つの言葉をゆっくり選びながら説明する。

 

「恐らく、これは私の勝手な推測なのですが、藤原佐為は平安時代に一度自殺したときに、幽霊になった部分と、輪廻転生を繰り返す部分の二つに分かれたのだと思うのです。幽霊になった藤原佐為はヒカルも知っているように、幽霊のまま一千年の時を現世に留まり神の一手を求め続けた。そしてもう一人の輪廻転生の輪に戻った藤原佐為は、こうして再び生まれ変わり肉体を得てごく普通の生活をしていた」

 

「うーん……分かったような、分からないような……」

 

両腕を胸の前で組み、頭を捻るヒカルに、『分からないなら分からないままで構いませんから、とにかく一度話を全部聞いてください』と苦笑し、佐為は話を続ける。

 

「二つに分かれた藤原佐為が一つに戻った最大要因は、やはり幽霊だった藤原佐為が己の役割を悟り成仏したことでしょう。そして生身の体を持ち、現世で生きてきた藤原佐為がヒカルを見つけたことで、一つに戻ることが出来たのではないかと、私は考えたんです」

 

「2カ月前に幽霊だったこと思い出してたんなら、何で思い出して直ぐに俺に会いに来なかったんだ?」

 

「会いたい気持ちはもちろんありました。でも……同じくらいヒカルに会うのが私は怖かった」

 

「俺に会うのが怖い?どうして?俺が怒ると思ったのかよ」

 

「幽霊だった頃の記憶を思い出してしばらく、私は混乱しました。生身の人間として生きてきた藤原佐為は、囲碁とは全く無縁の人生を送っていたのです。それがいきなり幽霊になっても神の一手を追い求めていた藤原佐為という二つの記憶が混ざり、人格がごちゃまぜになって自分自身が分らなくなっていたんです。自分は本当は何者なのだろうと。でも結局はヒカルに会いたい気持ちの方が強くて、こうして会いに来てしまったんですけどね」

 

あは、と無邪気な笑顔を向けてくる佐為に、ヒカルも毒気抜かれたように脱力してしまい、そのままベッドに仰向けに倒れてしまった。

 

(よかった。俺が佐為に打たせなかったから、佐為は消えたわけじゃなかったんだ)

 

再びヒカルが碁を打つようになっても、ずっと胸の奥底でわだかまり続けた悩みがすぅと消えていく。

と、悩みが一つ消えてしまえば、別の悩みが沸いてくるもので、ヒカルは仰向けにベッドに倒れていた体をガバッと起き上がらせ

 

「佐為、お前さ、ちょっと前にネット碁した?」

 

「しましたよ。ヒカル気づいてくれてたんですね、よかった」

 

これまた簡単に認め、胸の前で両手をパチンと合わせ佐為は喜ぶ。

 

「よかったじゃねえよ!聞いた瞬間、どうせ偽者のsaiだろってたかくくってたのに、和谷から見せられた棋譜はお前だったんだぞ?どんだけ俺が驚いたかと!」

 

通りでsaiのアカウントのパスワードを知っていたはずだとヒカルも納得できた。

ネットのsaiのアカウントパスワードはヒカルと佐為しか知らないのだ。テレビでたまに言っている個人情報流出とかなんとかいう問題で、saiのアカウント情報が漏れてしまったのかとさえヒカルは考えたのに、当の本人は至って気楽だ。

 

「幽霊だった頃の記憶が戻ったのはいいんですけれど、果たしてそれが本当の記憶なのか急に不安になって、本当の記憶ならば一度も石に触れたことがない私でもそれなりに強いはずだろうと思ってですね、試しに一局打ってみたんです」

 

「しかも俺が佐為の名前で登録したアカウントでわざわざな……」

 

「そのお陰でヒカルも私のことに気づくことが出来たじゃないですか~」

 

悪びれることなく笑い飛ばす佐為に、それは屁理屈だと咄嗟に言いそうになったが、指摘するのも馬鹿みたいに思えて、ヒカルはクスリと笑うだけに留まった。

 

「記憶戻って、これからどうすんの?お前もプロになるのか?」

 

佐為の実力があれば、プロになることくらい簡単だろう。けれど、昼間、アキラに『自分は碁を打たない』と言っていた佐為の言葉が過ぎる。

 

「なりませんよ。こうして面と向って碁盤を挟み碁を打つのはヒカルとだけで、あとはネット碁しかするつもりはありません」

 

佐為はサラッとプロになることを否定する。

思わぬ佐為の答えに、思わずヒカルは前のめりになってその理由を問う。

 

「え?何で?」

 

「ありえないからです。考えてもみてください。碁石を持ったのも一ヶ月足らずの人間が仮にタイトルホルダーを打ち負かしたら大変な騒ぎになるでしょう?」

 

「そりゃあそうだけど……、せっかく自分の体があって、自分で碁が打てるようになったのに……」

 

佐為の問いかけにそう答えたものの、ヒカルは佐為の実力をこのまま隠し通し続けるのが勿体無いと思いつつ、それ以上強く言うことができなかった。

ヒカル自身、初めてアキラと対局したとき、プロ棋士並みの実力を持ったアキラを打ち負かしたことで、ちょっとした騒ぎになった経験があるからだ。

ヒカルの時はまだアキラはプロ棋士になっておらず、佐為をアキラとそれ以上対局させなかったことで、騒ぎが広がることはなかった。

 

しかし、佐為の言うとおり、碁をはじめて間もない人間がタイトルホルダーを負かしたらヒカルの比どころの騒ぎでは済まないだろう。

アマがプロに勝つどころの話ではない。

佐為は『仮に』と前置きしたが、その実力は実際にタイトルホルダーを打ち負かすだけの実力が十分あるのだ。

 

「そんな顔しないでください」

 

落ち込んでしまったヒカルを佐為は気遣う。

 

「だって……」

 

「何も碁を打たないと言っているわけではありません。プロでなくても、ネット碁だって碁は打てる。3年前とは違い、今の私にはこの身があるのですから。それだけでも奇跡と思い感謝しなくては」

 

どんなに強くても、石を持てず碁が打てなかった頃と違い、体がある今ならヒカルを通さず自分ひとりで石を持ち、碁が打てるのだ。

 

「ですから、ヒカルは私が碁を打たないということにしてください。単に気があった友人と。それ以上何か言われたら適当にはぐらかすか、どうしても誤魔化せないときは、言いたくないとでも言って堂々とシラを切り通してください」

 

今後のことについて冷静に計画を立て話す佐為を黙って見つめていたヒカルが、ポツリと独り言に近い呟きをこぼす。

 

「佐為、なんか変わったな。俺の知ってる佐為は、碁が全てって感じだったのに」

 

そんなヒカルに佐為は、どう言ったものかと迷いつつ、佐為自身が思う本当の気持ちを正直に伝えた。

 

「……生身の人間として生きる以上、私にも生活がありますからね。碁ばかりで生きてはいけないのが現実です。それに、……碁と全く関わらずに現世を生きて来た藤原佐為としての人格も、幽霊だった藤原佐為と同じくらいあるのです。その二つが今の私を創る。それではダメでしょうか?ヒカルは幽霊だった藤原佐為しか必要ありませんか?」

 

恐れを滲ませ問われた内容に、ヒカルはそれこそが佐為が最も恐れ、そのために自分に会うことを躊躇ったのだと今分かった。

ヒカルは幽霊だった藤原佐為しか知らない。

 

そこにいくら幽霊だった藤原佐為の記憶を持つ自分が現れても、3年前とは異なる関係と、今目の前にいる現実の佐為の人格をヒカルが受け入れることが出来ないのではないかと、ヒカルに拒否された時のことを恐れたのだ。

ヒカルは俯きふるふると首を横に振り

 

「ううん。俺のほうこそごめん。そうだよな。佐為だってこれまで生身で生きてきた人生があるんだから、少しくらい前と性格変ってて当然だよな。生身なら食事とか生活とかいろいろすることがあって、囲碁ばっかり打ってるわけにはいかないんだし」

 

自分の浅はかな言葉がまた佐為を傷つけてしまったとヒカルは素直に謝る。

 

そして、今の佐為が、二年前までの佐為と違ってしまっていることを承知した上で、

 

「佐為が佐為なら、それでいいよ。俺にまたこうして会いに来てくれた。それだけで十分だ」

 

「ありがとう、ヒカル」

 

ヒカルの返事に、佐為が目に見えてほっとしたように胸をなでおろし微笑む。

それを見たヒカルがさっそくと、

 

「じゃあさ、俺以外の誰かとでも、ネット碁なら打つんだろ。だったら塔矢先生ともまた打てるじゃん!先生、病院でもすごく佐為と打ちたがってた!俺とネットのsaiの関係を今でもずっと秘密にしてくれてるんだし、今度塔矢先生に対局の連絡取ってみるか?きっと先生喜ぶと思うぜ?」

 

日本のプロこそ行洋は辞めてしまったが、今でも中国リーグのチームと契約し、世界の第一線で行洋は戦っている。

その行洋と佐為の対局なら、またすごい対局になるとヒカルは瞳を輝かせる。

 

「それでしたら、すでに直接会ってお話もしてますよ」

 

「へ?」

 

もしかしたら、これが今日一番、ヒカルを驚かせたかもしれない。

 

「塔矢先生とはすでに直接お会いして、私がヒカルの前に現れ噂になっても何も行動しないよう話をつけてあります」

 

「塔矢先生ともう会ってたのか?俺とこうして会うより前に?」

 

「だって、ネットのsaiと同じ名前の私がヒカルの前に現れたら、余計な詮索をしてくる輩が出てくることが十分考えられますからね。特にアキラと緒方は私とヒカルの関係を疑ってます。その上で私たちの繋がりを唯一知っている塔矢先生にも誰かしらより話が伝わるでしょう。そのとき下手に塔矢先生が動いて、私たちの関係をこれ以上他者に知られるわけにはいきませんから、先手を打ったまでです」

 

だから安心してください、と締めくくった佐為に、ヒカルは以前との違いをさまざまと見た気がした。

3年前までなら何にも触れることが出来ない幽霊でヒカルを通さない限り佐為自ら行動するということが出来なかったが、生身の体があるとここまで先読みしてしっかり行動するタイプだったかと、半分感心、残り半分呆れの境地だ。

 

佐為のこの様子ではアキラと緒方がどんなに策を弄そうとも、すべて佐為の思惑の範疇で転がされていてもおかしくない。

 

「だったら次の対局の日程も、塔矢先生と決めてきたのか?いつだ?」

 

話の流れ的に、ヒカルは深く考えず尋ねてみただけだったのだが、

 

「ええ、対局は明日の午前十時から前回と同じネット碁で。持ち時間三時間の白コミ六目半の互戦を約束してます」

 

話している間にすっかり更けてしまった春の夜空に、ヒカルの絶叫が木霊した。

 

 

 

 



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06 本因坊秀策

『フジワラサイ』と名乗る人物と行洋が初めて会ったのは、電話を受けた次の日のことだった。行洋の本音としては、後日と言わず電話を貰ったその日のうちでも良かったのだが、流石に個室を予約するには急過ぎるため、次の日、都心のホテル・コンラッド東京に入っているカフェレストランで会おうということになった。

会うためだけにホテルで個室を取るには堅苦しい。

だがこの店ならカフェとしての気軽さを持ちつつ、周りを気にせずゆっくり出来る個室が用意されている。

 

午後二時の約束時間より若干早めに行洋は待ち合わせ場所へ着いてしまうも、相手はそんな行洋より先に来ていた。

カフェレストランのスタッフに予約を伝えると、壁で仕切られた奥の個室へ通される。カフェレストランが入っていたのはホテル受付エントランスがある20階と同じ階で、高層ホテルの景観を活かし東京湾を一望できる壁一面ガラス張りの部屋だった。

 

ガラス越しに青空が広がる個室に、デザインされたホワイトテーブルが中央に配置され、椅子が配置されている。

そして行洋が部屋に入ってくると、窓辺で外を見下ろしていたその人物はゆるりと振り返り、穏やかに微笑んだ。

 

(これがsaiか……)

 

柔らかな物腰だ。ゆったりと動く動作に合わせて、肩をゆうに越える長い黒髪がサラサラと揺れ動く。

僅かに笑みをたたえた切れ長の双眸に整った容姿。年齢は若い。三十は行っていないだろうと一見して推察出来た。

しかし、それだけの整った容姿にきっちりとしたスーツを着込んでも、隙がなく近寄りがたい印象を相手に抱かせないのは、所作が落ち着いて優雅だからだろう。ただ単に動きに無駄がなく上品なだけではない。

近い表現を探すとするなら、まとう雰囲気が優しいのだ。それだけで見る者に親しみを抱かせる。

 

昨日、電話をしながら行洋が感じた、電話口から聞こえてくるsaiの声の優しい響きはこれだったのかと納得できたような気がした。

ネットの闇に潜み、当時プロ棋士として5冠だった行洋と互角以上の碁を打ったsaiがどんな人物なのか、想像し考えたことは数え切れないほどある。

そして同じ数だけプロにならずともあれほど苛烈な碁を打つ人物がいるものなのかと考えさせられた。

ネットで直接対局しなければ一生考えもしなかっただろう。

 

「初めまして、塔矢先生」

 

歩み寄り、挨拶と同時に手を差し伸べてきたsaiに、行洋は一拍遅れて握手をする。

 

「私の方こそ。会ってみたいとは思っていたが、まさか本当にネットのsaiに直接会える日がくるとは夢のようだ」

 

ぐっとsaiの手を握り、行洋も挨拶を返すと一枚の名刺が差し出され、

 

「どうぞ」

 

「本名だったのか」

 

受け取りながら、名刺に印字された名前を読んでから意外そうに行洋は呟いた。

ネット碁でアカウント名に行洋は本名を使ったが、対戦した多くの者たちは本名とは違う名前を使用していた。

だから、行洋はsaiという名前もネット碁だけの名前であり、電話で名乗った『フジワラサイ』という名前も、こうして直接会うための仮初の名前だろうと考えていた。

そんな行洋の考えを見透かしたように、

 

「偽名と思われましたか?」

 

佐為に指摘されて、行洋は苦笑をこぼす。

 

「いや、本名にしては今時珍しい名前だと思ってね。気を悪くしたならすまない。これで佐為(さい)と読むのか」

 

「お気になさらないでください。よく言われるのでもう慣れました。ヒカルにも初めて会った頃、変な名前と面と向って言われています」

 

クスクスと微笑みながら、気分を害すことなく佐為は行洋に椅子を勧めた。

すると見計らったようにスタッフが部屋に入ってきて、持ってきたメニュー表をそれぞれに開き見せたが、お互いにホットコーヒーをオーダーするだけだった。

 

「昨日も言ったが、佐為、もう一度私との対局を受けてもらえないだろうか?3年前に私と対局して以来、君はネットから姿を消したが、私はずっと再び君と対局する日のことを心に期していた」

 

病院でヒカルと話しているときに緒方に乱入されて話が流れてしまってから、saiとの対局を申し出る機会がなく、空座する相手と碁盤を挟みsaiの一手を待ち続けた。

直接対面でなく、またネット碁でもいい。自分の打つ一手にsaiが応えてくれさえすれば方法は何でも構わないと。

そのsaiが目の前にいる好機を逃すわけにはいかないと、行洋は再戦を訴える。

 

「私が塔矢先生と対局したのは一度ではありません。これまでに二度、私たちは対局しています」

 

伏せがちに瞳を細め、佐為は正直に答えた。初めて佐為が行洋と対局したのは、ヒカルを通して幽玄の間で打った一局だ。

対面して打っていたのに幽霊だった佐為の姿が見えない行洋には知る由もないだろう。

だが、確かに石を置く場所を指示し対局したのは佐為である。

予想外の佐為の言葉に、行洋は驚き目を見開く。

 

「二度?いつ私は君と対局を?」

 

知らない間に自分は佐為と打っていたのかと記憶を手繰り寄せるが、それらしき心当たりはない。

なにより佐為ほどの優れた容姿の人物と対局していれば、対局内容を別にしても記憶の片隅に残っているだろう。まさかネット碁で気づかないうちにsaiと対局していたとは考えにくい。

 

「一度目は幽玄の間で、私は十五目のハンデを自らに課し対局に挑んだ。対局結果はとても見られたものではありませんでしたが」

 

佐為の言う幽玄の間で十五目のハンデを背負い打ったという対局に、行洋は確かに心当たりがあった。

しかし、ありえないと行洋は浮かんだ心当たりをすぐに否定する。

 

「馬鹿な……私と打ったのは進藤君だ……」

 

新初段の対局で、行洋がプロ試験に合格したヒカルを逆指名する形で実現した対局。

新初段は対局ルールが逆ハンデの対局で、後手の白が五目のハンデを背負うが、ヒカルは自ら白以上の十五目のハンデを自らに課し、行洋との対局に臨んできた。

なぜヒカルが当時四冠だった行洋相手に、そんな不可解な打ち方をしたのか理由は分らないが、あの場には対局者の行洋とヒカル、そして係りと関係者しかいなかった。

対局したという藤原佐為の姿はどこにもなかった。

 

「けれど、塔矢先生は私とネット碁で対局したとき、ヒカルの姿が思い浮かんだ。ヒカルを通し打っていた私を」

 

そう言うと、言葉を失ってしまった行洋の姿に、佐為は無理もないと思う。

佐為が話していることは荒唐無稽で大よそ説明のつかないものだ。

しかも全てを行洋に話すつもりは佐為にはなかった。

 

千年前に入水自殺を図った藤原佐為が、幽霊として千年の間、この世に留まり続けヒカルと出会い、自身が現世にとどまっていた理由を悟り成仏したなどと。

ましてや、本来輪廻転生する上で現代に生きる藤原佐為に、幽霊だった藤原佐為が成仏することで一つに戻ったなど、そう簡単に話せる内容ではないし、常人に理解できるとはじめから全く考えていない。

もしこの話を全て受け入れることが出来るとするなら、やはり幽霊だった藤原佐為をその身に宿したヒカルだけだろう。

 

(ヒカルだけが私を認め受け入れてくれる。幽霊という存在であった藤原佐為を知るヒカルだけが……)

 

例えヒカル以外の誰かに話したとして、その人物がどんな言葉を重ねて話を信じていると言ったところで、底辺の部分で本当に信じているのか誰にも分らないのだ。

それは目の前に座る行洋相手であったとしても。

 

「……新初段の時、進藤君は君から指示を受けて私と打っていたと?だが、どうやって?」

 

喉の奥から搾り出したような声で行洋は問いかける。

 

「ネットのsaiはあの場にいましたよ。誰も気付かず見えなかっただけで、ヒカルの隣から塔矢先生と対峙していた。あの対局はヒカルにとっても大事な対局だったのに、私は貴方と対局することに焦って無理を通してしまった。ヒカルには本当に悪いことをしてしまいました」

 

「信じられない」

 

咄嗟の呟きに、

 

「ネットのsaiの正体は矛盾している。その矛盾はヒカルの棋士生命を脅かす。だからsaiは正体不明のままでなければならない。saiは何も語らない。saiは決して表に出ず、棋譜だけを残していくだけの存在」

 

「だが、ネットのsaiは君なのだろう?それなのに進藤君の棋士生命を何故saiが脅かすのだね?」

 

「私がこれまでの人生で、一度も碁を打ったことがないからです」

 

「碁石を持ったことがないのか?石に触れたことも?ネット碁だけであれだけ強くなったと?」

 

佐為が言った意味をそう解釈したらしい行洋に、佐為は小さく苦笑を浮かべ、

 

「そういう意味ではありません。私の言葉が足りませんでした。碁を打ったことがないというのは、私は誰かと対局したことが一度もないという意味です。私にはこれまで生きてきた中で誰かと対局した<事実・過去>がない。けれど、私は間違いなくネットのsai。その矛盾がヒカルの棋士生命を脅かしかねない」

 

「何を……」

 

今度こそ行洋は言葉を失い、何も言えなくなった。

初めに行洋も知らなかったヒカルとの新初段の対局が、実は佐為自身が打ったものだと告白したばかりだというのに、次は一度も誰かと対局したことがないと、辻褄が矛盾したことを佐為は真面目な顔で言うのだ。

 

佐為に話を茶化している様子は全く見受けられない。

目の前に座る佐為がネットのsaiであることは疑ってはいない。こうして佐為が会うことを持ちかけてきたのも、ヒカルを守る為だと前置きされている。

だからこそ、余計に行洋は佐為の話に理解に苦しんだ。

 

「しかし、私が一度も誰かと対局したことがないとしても、私は今すぐ塔矢先生と対局したとして負けるつもりは一切ありません。5年前、碁石に触れたのも数える程度だったヒカルが他人と初めて打った対局で、塔矢アキラを負かしたのが紛れも無い事実であるように」

 

「小学生だったアキラに進藤君が勝っていることは私も聞いている。だが、進藤君は初めて誰かと対局したのがアキラだったと?あの頃のアキラに初対局で二度も勝ったと君は言うのか?」

 

「塔矢アキラが最初ヒカルを追っていた本当の理由がお分かりいただけましたか?」

 

「……佐為、君が私を馬鹿にしているとは決して思わない。だが、誰かと一度も対局したことがなかった進藤君が、すでにプロ以上の実力を持っていたアキラに勝つというのは、現実的にありえない。それは君がネットのsai本人であるなら、尚更分かっているはずだ」

 

行洋は断言する。

囲碁はシンプルなルールのゲームだが、シンプルだからこそビギナーズラックなどという偶然がないゲームである。

無限の中から最善の一手を捜し求める。その中で初心者がプロに勝つという奇跡はゼロに近い確率で起こらないのだ。

 

佐為とて初心者がプロ以上の実力者に勝つなんてことが、普通ならありえないことだと分かっているだろう。プロ棋士相手に言えば、侮辱しているととられても決しておかしくないことを佐為は面と向かって言っているのだ。

行洋の断言は正しい。

 

「そう。ありえない。普通ならば決してありえない。けれど、全ては否定出来ない事実。そんな矛盾の上に成り立つのがネットのsaiなのです」

 

静かに佐為が言い終えると、二人はしばらくの間何も話さず、口を閉ざした。

 

 

佐為はこれまで一度も碁を打ったことがない――ネットのsaiの正体は『藤原佐為』である

幽玄の間には関係者以外誰もいなかった――saiはヒカルの隣にいて打つ場所を指示していた

初心者がプロ以上の実力者に勝つというありえない状況――現実に起こりえた事実

 

 

『矛盾の上に成り立つsai』

 

 

どれだけ沈黙した時間が流れたのか。

混乱している行洋に佐為は最初にオーダーしたきりで、少しぬるくなってしまったコーヒーを一口含むとただじっと行洋の言葉を待ち続けた。

 

「聞いてもいいだろうか」

 

「何でしょう」

 

「何故、今日私と会って話す気になったのか聞かせてほしい。君はずっとネットに隠れ続けてきたにも関わらず。今日、君と会話した内容について私は誰かに話すつもりは全くない。だから正直に答えてほしい」

 

ネットのsaiの正体についてはこれ以上言葉を重ねても混乱するだけで意味がないと悟ったのだろう。話の矛先を変えてきた。

佐為に嘘を言うつもりは、さらさらない。

わざわざ直接会ってまで嘘を言って何になるというのだろう。それなら初めから会わないほうがいい。

だが、どんなに佐為に嘘を言うつもりがなく、真実しか話さないとしても、全ては話せない。

 

「……塔矢先生だけが、ネットのsaiとヒカルの繋がりを知っているからです。そこにネットのsaiと同じ名前の私が現れれば、塔矢先生は私と連絡を取ろうとして、自らヒカルと接触しようと動かれるかもしれない。他者が塔矢先生に揺さぶりをかけてくるやもしれない。もしくは、それ以外の予想外の何かが起こるかもしれない。私はそれを危惧しました」

 

そこで話を区切ると、佐為は口調を幾分事務的なものに変え、

 

「私が経営している会社は、今度行われる北斗杯のスポンサーに新規参入することになっています。いずれ遠からず私の名前はネットのsaiを知る者たちにも知れ渡ることでしょう」

 

「北斗杯のスポンサーに?」

 

「はい。偶然にも北斗杯を開催している北斗通信社と私の会社は仕事上の取引がありまして、棋院側にも波風立てることなく話は通りました。私はヒカルの前から一度消えなければならなかった。何も言い残さず、突然消えてしまった。そして今再び、ヒカルに会おうとしている」

 

「もしや、進藤君が以前、不戦敗を重ねた時期があったのは、君が消えたからなのか?」

 

ヒカルが正式にプロになり、一ヶ月ほどたった頃から突然手合に出なくなり一時はそのままプロを辞めるのではと囁かれていた時期があったことを、行洋は人の噂伝いに聞いていた。

何の理由があるにせよ、プロ棋士が手合を理由もなしに休むのは言語道断である。

もちろんヒカルにも手合に出ないだけの訳がきっとあったのだろうと思う。

プロ棋士になるために、それに見合うだけの血の滲む努力を積み重ねてきたのだろうから、生半可な理由でプロ棋士を辞めようとはしないはずだ。

 

けれど、もし身近にあり過ぎた人が突然自分の前から消えれば、自分を導いてくれた人が何も言わず忽然といなくなってしまえば、ヒカルは激しく混乱したことだろう。

その結果として、ヒカルは手合を長期に渡って休んだのかもしれないと行洋は思いつくままに尋ねる。

だが、佐為は行洋の問いには一切答えなかった。

その代わり、なんとも言いがたい苦笑をこぼし、顔を俯かせ、

 

「他の者なら適当にはぐらかせばいいですが、saiとヒカルの繋がりを知っている塔矢先生相手では不可能です。それを考慮に入れれば、私がヒカルにもう一度会うためには、塔矢先生、ヒカルより先にまず貴方に会う必要がありました」

 

「それで、私に口止めを?進藤君に会うためだけに」

 

「ヒカルがsaiに繋がっているということ、これを誰にも話さないと約束してください。そして他者に私たちの関係を感づかれるような素振り、行動をしないと。それが私と再び対局する条件です」

 

顔を上げ行洋に向き合った佐為が毅然と言う。

 

「藤原君、私は君と進藤君の間柄について誰にも口外するつもりはない。それは以前、入院していたとき進藤君にも言ってある。だが、これまでの君の話に私はいささか、いや、とても混乱している。君が全てを話すつもりがないのは、話をしながら伝わってきたが、理解には遠く及ばない」

 

無理やり聞き出すつもりは行洋にはない。あくまで佐為自らの意思で答えてほしいだけなのだ。

単刀直入に切り出す。

 

「私はネットのsaiの正体が知りたい」

 

そのために、今日こうしてこの場所に行洋は足を運んだのだ。

行洋のまっすぐな視線に、ずっと視線を受け止めていた佐為がゆっくりと瞼を閉ざす。

 

「……ネットのsaiは誰なのか?本当はsaiの正体を求める誰しもが、もうとっくに、知らずその答えに辿り着いているのです。ただ、そうと気づけないだけで」

 

伏せた佐為の長い睫毛が切なげに震える。

その様子を一瞬も見逃すまいと見つめていた行洋の脳裏に、去年の北斗杯で言っていた楊海の言葉が不意に過ぎる。

 

多くの棋士を魅了しながら一切の素性がしれない正体不明の棋士。誰しもが求めるsaiの正体と強さの秘密。『saiが本当に秀策の亡霊だったら』と楊海は冗談めかして言い、行洋はすぐに否定した。

だが、その北斗杯でsaiの正体を唯一知っているヒカルは本因坊秀策に固執していた。

 

「君は、誰だ?」

 

すでに『藤原佐為』と名乗っている若者に、行洋は無意識に問う。

伏せていた瞼をゆるりと開き、佐為はフイと顔をガラス向こうの景観に向けると、小さく微笑を浮かべた。

その様が、急に佐為が人ではないモノに見え、行洋は知らずじわりと汗が滲み始めている手のひらを握り締めた。

 

人が踏み込んではいけない領域。

決して知ってはいけない世界。

そこに踏み入ろうとしてしまった後悔。

存在するかもしれないその世界を知る歓び。

 

そのどちらであっても、共通するのは知ってしまえば後に戻れないということだけ。

知りたいと欲する気持ちと、知らない方がいいと警戒する気持ち。相反する感情が行洋の胸の中に激しく渦巻く。

そんな行洋を一瞥することなく、薄く整った唇は、遥か遠くに向けるようにしてその名を紡ぐ。

 

「今は遠く江戸の頃、私は本因坊秀策と呼ばれていました」

 



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07 再戦と北斗杯合宿

ヒカルが佐為と再会できた次の日。

再会できたことさえ夢の中の出来事だったかもしれないと、頭のどこかで佐為と再び会えたことが信じられない部分を残しながら、ヒカルは多少の余裕を持って駅前のインターネットカフェに足を運んだ。

 

佐為と行洋の対局約束時間は十時。それより一時間の余裕を持って早めにネットカフェに来たのは、ヒカル自身のネット碁アカウントを新規に作成するためである。

これまでなら『sai』のアカウントでログインしてしまえばよかったが、今日は佐為自身が『sai』のアカウントを使用するため、ヒカルは使用することができない。

その為、ネット碁の対局を観戦するために、ヒカルは新たにもう一つアカウントを作る必要が出来たのだ。

 

うろ覚えの記憶を手繰りよせ、苦手なキーボードに苦戦しながら、三十分かけてようやくヒカルはアカウントを作成しネット碁にログインすることに成功する。

直後、

 

『おはよう、ヒカル』

 

とメッセージウィンドウが立ち上がり、ヒカルはびくっとして思わず飲んでいたソフトドリンクを噴出しそうになった。

話しかけてきた相手は『sai』。

 

佐為だ。

 

どうして佐為が作ったばかりのヒカルのアカウントを知ってたかというと、作ったアカウント名がヒカルの名前そのままだからである。

 

- shindo-hikaru -

 

まるで佐為と行洋の対局の約束時間に合わせるようにして現れたこの名前に、ヒカル本人であると佐為が気づかないはずがなかった。

ヒカル自身、とくに不特定多数とネット碁をするつもりはなく、あくまで観戦用のアカウントなのでHNには拘らなかった。

 

『おはよ がんばれ』

 

キーボードを打つことはどうにか出来ても、漢字変換はまだまだ苦手なヒカルは、ひらがなだけの片言言葉で、佐為に返事を返す。

すると間を置かず、

 

『はい、頑張ります』

 

と返事が返ってきてひと段落。ようやくヒカルは一息入れることが出来た。

前回の対局から約3年。

海外のトップ棋士たちにもまれてきた行洋と、二カ月前に自身が囲碁棋士であったことを思い出したばかりの佐為。

事情を知っているヒカルから見ても、佐為の方が圧倒的に不利だ。

 

けれど、佐為ならば、とヒカルは思ってしまう。

千年の間、神の一手を極めることを願い、幽霊であっても現世に留まり続けるほど強い意思を持っていた佐為ならば、今度も行洋に勝つのではないかとヒカルは期待してしまうのだ。

 

ヒカルと簡単なメッセージを交わしたあと、すぐにログアウトしていた佐為が再びネット上に現れる。

ログアウトしていたのは、恐らく『sai』への余計な対戦申し込みを避けるためだろう。

 

そして午前十時ちょうどに現れた『toyakoyo』に『sai』が対局を申し込む。

黒は行洋、そして佐為は白。持ち時間3時間の白コミ六目半の互戦。

3年越しの再戦である。

二人の対局に気づいた者たちが次々と対局を観戦し始め、観戦者数がどんどん膨れ上がっていく。

 

行洋の第一手目は右下の星。それに対し、佐為は左上の星に打ってくる。

画面を通しても伝わってくる。決して薄れることのない圧倒的な緊迫感と圧迫感は、3年前と全く同じかそれ以上だろう。

 

「すごい……やっぱり佐為は強い……」

 

行洋と互角の戦いを繰り広げる盤上に、ヒカルが恍惚と呟く。

二ヵ月前に記憶が戻ったばかりなんていうブランクを、佐為は微塵も感じさせない。

和谷が見せた佐為の棋譜は指導碁で、本当の実力を計ることは出来なかったが、今現在、ネット碁で行洋と打っている佐為は、正しくヒカルが知っている佐為そのものだ。

ずば抜けたヨミと計算で相手の手を全て考え抜いたうえで、自分の碁を創り出していく。

 

先に動きを見せたのは黒の行洋だった。

碁は白にハンデがあっても、どうしても先に打つことが出来る黒が有利になる。

その黒の有利を跳ね除けるために、勝負時を見極め、先に動きを見せるのは大概が白なのだが、この対局では黒が先に勝負を仕掛けてきた。

 

白の佐為が長考に入り、盤面に動きが見られなくなる。それから三十分の長考の末、佐為が打った一手は、一見して平凡な一手に見えた。

だが、その一手を打ったのは佐為だ。

決して何の根拠や策もなく佐為が打つわけがない。

じっとディスプレイを睨みつけ、ヒカルは佐為の考えを、狙いを読む。

 

(佐為は何でここに打ったんだ?こんな平凡な場所。でも佐為なら、俺が佐為なら)

 

佐為の碁ならヒカル自身が誰よりも理解していると自負している。二年の間、片時も離れず一緒に碁を打ってきたのだ。

自分が佐為になったつもりでヒカルが思案していると、

 

「まさかっ……」

 

ピン、と。気づいてしまった佐為の狙いに、ヒカルは近づけていたディスプレイから思わず顔を離した。

 

(まさか佐為のやつ、塔矢先生の黒を縦にぶった切る気か!)

 

そこから黒白共に3手進んだ頃に、行洋も佐為のあの一手の本当の狙いに気づいたらしく、長考に入った。

中盤に入ったばかりで、盤上の形勢はまだまだ互角だ。これからの応手次第で形勢は如何様にも変化する。一瞬の気も抜けない。それは対局者たちだけでなく観戦者である自分たちも同じだった。

 

そんな二人の対局を眺めているだけで観戦しているヒカルさえもワクワクしてきて、自分もこんな碁が打ってみたいと思ってしまう。

しかし、行洋が長考するにしても些か長過ぎる気がして、ふとヒカルの目に入った対局者の持ち時間タイマーがディスプレイ上で止まったままであることに気づく。

 

「あれ?」

 

ネットにちゃんと繋がっていないのだろうか?と、ヒカルは再読み込みを試してみたが、まったく画面は動かない。

それどころか、カチカチマウスをクリックしているうちに、ネット碁のウィンドウそのものが真っ青になり、英文が3行表示されるだけになった。

 

「え?何で?なにこれ?」

 

インターネットに詳しくないヒカルは何が起こっているのかさっぱり分からず、もしかしてマウスをクリックし過ぎてパソコンを壊してしまったのかもしれないと焦りながら、ネットカフェの店員に助けを求めた。

 

「ああ、これはゲームを動かしてるサーバーがアクセス集中し過ぎて回線が混線してるか、もしかすると既にサーバーそのものが落ちてますね。このパソコンは壊れてないので大丈夫ですよ」

 

「混線?サーバーが落ちてる?」

 

店員の説明を理解出来なかったヒカルが、それがどういう状態なのか問うと、

 

「このゲームを運営している会社がサーバーを再起動するなりしないと、しばらくゲームは出来ないということです。一度に大多数の人がアクセスし過ぎて回線が許容量をオーバー。パンクしたんです。この店もですが、ネット回線やパソコン本体には問題はなくて、ゲームプログラムを動かしている会社のパソコン側の問題なんです」

 

「だったら今やってる対局は?続きは?」

 

「この様子ですと無理でしょう」

 

他人事のようにあっけらかんと言う店員に、ヒカルは頭が真っ白になって何も言うことが出来なかった。

それからネット碁が復旧したのは一晩たった次の日で、その夜行われているいつもの森下の研究会に気落ちしたヒカルが顔を出すと、

 

「進藤!saiが!saiがまた塔矢先生とネットで対局しててだな!」

 

「対局途中でアクセス集中し過ぎてサーバー落ちたな」

 

「そうだ!何でだよ!?何でサーバー落ちんだよ!いや!みんな二人の対局を観戦したい気持ちは俺もすっげぇ分かるけど、何であそこでっ!」

 

くあぁぁぁ!と頭を抱えて、棋院の廊下の真ん中で人目をはばからず悶絶している和谷を前にして、ヒカルは大きなため息をこぼした。

 

(叫びたいのは俺もだっつーの。せっかく二人が3年ぶりに対局出来たのに、対局途中で対局が出来なくなるとかありえねぇだろ?)

 

一日空けてサーバーが復旧したらしいネット碁に、ヒカルが再びネットカフェからアクセスすると、サーバーが落ちてしまったことのお詫びと、サーバーが落ちてしまった原因が記載されてあった。

サーバーが落ちてしまった最大の原因は、一つの対局にアクセスが集中し過ぎてサーバー負荷がオーバーしてしまった為ということだった。

 

一つの対局、というのが佐為と行洋の対局を指しているのは言わずもがなだろう。

前回の名局があるだけに、二人が対局していることを知った者たちが前回を大きく超えてアクセスしたらしい。

 

結果、サーバーがアクセスに耐え切れずにダウン。

行洋と佐為の対局は、流れてしまった。

昨日の夜にヒカルが電話すると、佐為もまさかサーバーが落ちるとは考えていなかったと冷静を装って言っていたが、対局が途中で中断してしまったことに対する悔しさだけは隠しきれない様子だった。

そしてもう一人の対局者である行洋にも。

 

もちろん連絡を取りたかったのだが、ヒカルも佐為も、対局が中断した直後に電話で連絡を取るなんて真似は出来なかった。

すぐにでも連絡したいはやる気持ちを我慢し、少し日にちを置いて、落ち着いた頃合を見計らって、こっそり行洋に連絡を取るしかない。

 

今回も行洋は前回と同じく対局は偶然だと、誰からの追及も突っ撥ねることだろう。

対局条件がどんなに不自然であったとしても、あの塔矢行洋相手に無理を押し通すことなど誰にも出来ない。

残すのは、ヒカルと佐為のシラを切りとおす度胸と根性と腕だけだ。

 

 

 

今年もアキラの強い意向で行われることになった北斗杯合宿に、大阪からやってくる社と駅で待ち合わせし、ヒカルはお泊り用の荷物と弁当を持って重い足取りで塔矢邸へと向かった。

すでに去年も来ているので塔矢邸へは道に迷うこともなく、陽が高いうちに辿り着く。

 

「よく来た。進藤。待っていたぞ」

 

玄関を開くなり、仁王立ちし待ち構えていたアキラに、ヒカルは持ってきた紙袋をおずおずと差し出した。

 

「ど、どうも、今年もお邪魔します。これ、ウチの母さんが夜腹減ったら、皆で食べろって差し入れの弁当……」

 

「それは助かる。進藤のお母さんによろしく伝えてくれ。部屋は去年と同じ場所だから着替えとかの荷物はそっちに置いてくれ」

 

「う、うん」

 

ヒカルと少し会話しただけで、さっさと家の中に入ってしまったアキラに

 

「ちょっと待て。俺のことは待ってなかったんかい?」

 

社のツッコミが入ったが、今のヒカルには社を気遣う余裕がなかった。

これから三日間、アキラのsaiについて質問攻めに合うことを思えば、去年の高永夏に敵愾心を燃やしていた時の方が、よほど合宿の意味があったのではないかとさえヒカルには思えてくる。

アキラの指示通り、去年と同じ部屋に向かい持ってきた荷物を置いてから、碁盤が用意されている部屋にヒカルと社が向かえば、準備万端・気合十分とアキラが碁盤の前に座っていた。

 

「なんや、去年は進藤やったけど、今年は塔矢の方がえらい気合はいっとんな」

 

社のこの言葉はアキラをからかって言っているわけではない。アキラのあまりの気合の入りように気圧されて驚いての一言である。

反対にアキラがここまで気合を入れている理由をヒカルは知っているだけに、何も言えなくなる。

否。

下手なことを言ってボロを出さないよう、出来るだけ触れたくないのだ。

 

(塔矢のヤツ、絶対塔矢先生と佐為の対局に怒ってるぞ?どうすんだよ佐為!)

 

北斗杯出場メンバーでの合宿が塔矢邸で行われることをヒカルが伝えると、他人事のように頑張ってくださいと手を振っていた佐為を思い出してしまった。

ネットのsaiと同じ名前の佐為のことも、必ずアキラは問い詰めてくるだろう。北斗杯予選のときに、年甲斐もなく大声で泣き叫ぶなんてことをアキラの目の前で堂々とやってしまったのだから。

この追い詰められた局面を乗り切る最後の切り札は、やはりというべきか一人しかヒカルは思いつかなかった。

 

「と、塔矢先生は?日本に帰ってきてるんじゃなかったのか?」

 

「お父さんは二日前に台湾へ行ったよ。お母さんもお父さんに付いて一緒に行ってる。そうでなければウチでまた思う存分合宿なんて出来るわけがないだろう?」

 

冷たくアキラにあしらわれてしまい、ヒカルは頭を垂れる。

 

「おっしゃる通りで……」

 

(塔矢先生、もう台湾行っちゃってたのか……)

 

行洋が家にいれば多少なりアキラも暴走出来ないだろうと思っていたヒカルの淡い期待は、早くも崩れ去った。

 

「まず二人に見てもらいたいのはこの棋譜だ」

 

前回のように一手十秒の超早碁で士気を上げるわけでもなく、対局途中までしか記入されていない棋譜を盤上に出したアキラに、ヒカルはぎょっとして背中に冷や汗が伝うのを感じた。

 

(ひぃぃぃっ!なんでいきなりその棋譜出すんだよっ!)

 

アキラが取り出したのは、先日、サーバーが落ちたことで対局が中断してしまった行洋と佐為の棋譜だ。

 

「ん?それ何時の、誰ん棋譜や?」

 

出された棋譜に興味を示し、社が覗き込む。

 

「途中までしか書いとらんな。続きは?でも、……なんやこれ?黒と白、両方えろう強くないか?」

すぐに棋譜内容に気づいた社が途中までしか書かれていないと言いながらも、棋譜から目を離す素振りもなく食入るように眺めた。

途中までとはいえ、両者30手余り打たれていれば、プロでなくてもそれなりに対局者の実力が推し量られる。

 

ヒカルもこの場をどうやり過ごすべきか内心汗だくで焦っていると、ピンポーン、と。

この場の雰囲気にそぐわない玄関の呼び出し音が聞こえて振り返った。

 

「塔矢、誰か来たみたいだぞ。出なくていいのか?」

 

アキラの注意を少しでも反らそうと、廊下の先にある玄関の方向を見ながらヒカルが言うのだが、

 

「どうせ新聞の勧誘だ。無視すればいい」

 

サラリとアキラは呼び鈴を押す相手が誰か確かめもせず、無視して居留守を決め込んだ。

誰か分からない相手より、碁盤の上に置かれた棋譜の方が、アキラにとっては重要なのだろう。

社も本当にそんな対応でいいのかと、視線だけでヒカルに問うてきたが、家人がこう言っているのだ。

他人の家で余計な真似は、出来るだけ控えるしかない。

 

しかし、3回目までは普通の呼び出しリズムだった呼び鈴が、4回目からは力任せのピンポン連打に切り替わった。

思わずヒカルと社の2人は体をビクリとさせる。

そんな乱暴に押したら本当に呼び鈴が壊れてしまうのではと危ぶむほどの連打。こんな悪印象な真似は、契約が欲しいだけの新聞の勧誘屋なら絶対にしないだろう。

誰か、知り合いが訪ねてきているのだ。そして家に誰かいると分かっている。

行儀悪く舌打ちしたアキラに、一言断ってヒカルは玄関に向かう。

 

(でも、塔矢先生の家にこんな乱暴な訪ね方するやつって、知り合いでも誰だよ?)

 

日本のプロ棋士を引退しても、一時タイトルを同時に5つ保持していた大棋士の家を訪ねるのに、ヒカルでも失礼過ぎるなとムッとしながら玄関の鍵を開けた。

 

「はーい。どちら様……」

 

「いつまで俺を玄関先で待たせるつもりだ?さっさと出ろ」

 

「ええええぇぇぇ!緒方せんせぇ!?」

 

玄関先に立ち、片手はポケットに突っ込んで、己を見下ろしてくる相手にヒカルは大きく後に仰け反った。

ピンポン連打具合から、それなりに塔矢家と親しい誰かだろうと予想はしていたが、まさか緒方とは思ってもいなかった。

しかもヒカルがいつも見慣れている白のスーツではなく、黒のジャケットというラフな服装も見慣れない。

あまりの不意打ちにヒカルは自分の心臓が飛び出るかと思ってしまった。

 

「集まってるのは奥の部屋だな」

 

と言って、断りなくさっさと家の中に入っていく緒方にヒカルも慌てて玄関の鍵を再度閉めなおし後を追いかける。

 

「緒方さん?どうされたのですか?お父さんならもう台湾に」

 

急に現れた客に、アキラの眉間に皺が寄った。

勝手知ったる塔矢邸で断りなくアキラの向かいに胡坐をかいて座りこむと、盤上に広げられている棋譜を緒方は冷ややかに眺めている。

師匠である行洋を訪ねてきたのなら、あのピンポン連打は師に対して非礼過ぎると責めているのだ。

しかし、

 

「塔矢先生に会いに来たんじゃない」

 

「でしたら、どうして……。これから北斗杯に出るメンバーで合宿することになっているのですが」

 

「だから俺が来たんだ」

 

「どういう意味ですか?」

 

北斗杯と緒方は無関係である筈なのに、だから自分が来たという緒方の意図をアキラは測りかねた。

 

「俺が今年の北斗杯、日本選手団の団長だ」

 

寝耳に水とはこのことだろう。

アキラ、ヒカル、社の出場選手3人同時に『え?』とハモってしまった。

交互に顔を見合わせ、そんなこと聞いていたかと視線をめぐらせるが、3人全員首を横にフルフル振る。

 

「だって倉田さんは?今年も倉田さんが団長するって事務の人が言ってたよ?」

 

いつの間にそんな事になっていたのかとヒカルが問えば、

 

「倉田は北斗杯の時期が対局スケジュールで詰まってたんだ。予選の時もスケジュールが重なってて顔出せなかっただろうが。だからたまたまスケジュールが空いてた俺に変更することになった。俺では不満か?進藤は俺より倉田の方が良かったか?」

 

「そ、そんなことは、ないけど……」

 

チラリとメガネの奥の瞳に凄まれ、ヒカルはそれ以上何も言えなくなる。

 

「緒方さん、貴方という人は……」

 

無理やりタイトルホルダーの威厳をチラつかせて、団長の役を倉田さんから奪い取ったんですね、とは不肖な兄弟子の名誉のため、アキラは口には出さなかった。

トップ棋士の一人である倉田は、その人好きする愛嬌と性格から人気がありイベントにも引っ張りだこだ。

 

その上、タイトルの挑戦者をかけたリーグ戦など他の公式対局もこなしている。スケジュールは緒方の言うとおり間違いなく多忙だろう。

だが、緒方自身だってタイトルホルダーとして、倉田に決して負けないくらい出演イベントと対局スケジュールが詰まっているはずなのだ。加えてタイトルスポンサーとの付き合いもある。

 

それなのに、わざわざ北斗杯の団長に無理やり納まっているあたり、自分の目的のためなら大人気ないことでも平気でする人だと、アキラは緒方の人となりを再確認した思いだった。

北斗杯関係者とすればタイトルホルダーが団長になってくれるなら、大会の話題性アップで嬉しい限りで断る理由はどこにもなかっただろう。

 

緒方は確実に再びネットに現れたsaiを求めて、saiを知っているだろうヒカルが選手として出場する北斗杯の団長になったのだ。

そして恐らく、今年から新たに参入した新規スポンサー会社責任者の名前が『藤原佐為』という、ネットのsaiと同じ名前の人物であることもすでに知っている。

 

「光栄に思えよ、進藤」

 

ニヤリと薄い笑みを称えて言ってくる緒方に、ヒカルも内心涙を流しながら

 

「マジで嬉しいデス」

 

心の叫びとは間逆の気持ちを棒読みで返す。

アキラ相手でも手一杯なのに、まさか緒方まで合宿に乗り込んでくるとは全く思ってもみなかった。万事窮す。すでに投了まで秒読み状態。

 

「塔矢先生とsaiの棋譜か」

 

再び盤上の棋譜に視線を落とした緒方が呟く。

アキラ同様、緒方もsaiとtoya-koyoが再び対戦していることを知っていたのだ。

当然、その対局内容も。

 

「サイ?これスポンサーさんの藤原さんと塔矢先生の棋譜やったんか?」

 

ネットのsaiを知らないらしい社に訂正を入れたのはアキラである。

 

「違う。saiというのはインターネット碁に現れる棋士のハンドルネームだ。小文字でエスエーアイ。誰も正体を知らない、正体不明の棋士だ。だが、強さだけなら誰にも、父にも負けたことがない」

 

「塔矢先生にも負けたことない?正体不明って、塔矢先生相手にこんだけ打てるんや。せやったら正体不明いうたかて絶対プロの誰かに決まってるやろ?」

 

「だが、いまだにsaiは自分だと名乗り出る者はいないし、そうと心当たりがある者すら誰もいないんだ。全てがネットの闇の中だ」

 

「ふ~ん」

 

納得いかなそうに社が唸る。

そこにまた呼び鈴が鳴った。

すでに北斗杯団長を大人気なくもぎ取った緒方も来ており、他にこの合宿に参加するような人物はいない。

 

「俺が今度行ってくる」

 

先ほどは緒方をヒカルが出迎えたので、次は自分が、と社がヒカルにとってありがたくない気を使い、玄関の方に行ってしまう。

その場に残されたのはヒカル、緒方、アキラの三人。

例え様のない空気が流れる。

しかし、幸か不幸か、玄関からすぐに戻ってきた社は満面の笑みで、両手に大きな箱を持っていた。

 

差出人は『藤原佐為』、宛名は塔矢家の住所と共に北斗杯出場者様と書かれてある。

上品な包装を粗雑にビリビリ破けば、中身はクッキーの詰め合わせと、『北斗杯合宿、頑張ってください』という綺麗な直筆の字で書かれたメッセージカードが添えられていた。

 

「えらい豪華な詰め合わせやないか!今度のスポンサーさんは気前ええな!」

 

歓喜の声を上げた社がさっそくクッキーの包装紙を破り、口にクッキーを放りこむと、美味しそうにもぐもぐさせている。

その横からヒカルへと向けられるアキラと緒方の視線は、限りなく鋭く突き刺さる。

 

(お前は俺を助けるどころか、崖から笑顔で谷に突き落とすつもりなんだな……)

 

今回の合宿で、ヒカルは台風並みの嵐が吹き荒れる予感がした。

 

 

 




・・・上手くいかない

もう手動かな投稿;;;


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08

合宿が始まった当初こそ嵐の予感がしたヒカルだったが、ネットのsaiについては途中までで流れてしまった行洋との対局を検討しただけで、あとは一切話題に出さず二つに分かれて黙々と対局とそれについての検討を交互にこなす前回とおなじようなごく普通の合宿内容だった。

 

ヒカルにとって意外だったのが、sai目的で北斗杯団長になったのだろう緒方が、saiのことをおくびにも出さず指導に徹してくれたことだ。

特に緒方と対局検討するどころか会話すらしたこともなかった社は、初めこそ間近に見るタイトルホルダーにおっかなびっくりという気後れしている部分があったが、すぐに持ち前の度胸で緒方に食らいつくようになった。

 

まだ低段者の社は、滅多にトップ棋士と碁を打つ機会はないのだ。ここで得られるものは貪欲に吸収するに限る。

そうなるとヒカルも次第にsaiのことは忘れ、囲碁しか見えなくなる。

持ち時間一時間で打った緒方とヒカルの対局に、アキラと社も加わり検討する。

 

「ここは、こっちをオサエるのが先だろう?」

 

緒方の指摘に、一応ヒカルも同意しつつ表情は不満げだ。

 

「その前に俺は、先生の打ったこっちがどうにも、気に食わない!」

 

鼻息荒く、口をへの字にしてヒカルは緒方の打った一手を指差す。

 

「これか?気に食わない?どこが?」

 

「このキリ、なんか嫌な感じがする。面倒になりそうな。この一手が後で響いてくる気がする。だから先に咎めた」

 

「多少の損は覚悟の上で勝負勘を優先したか。しかし、自分で打っておいて言うのも何だが、確かに後味悪いというかどうも気持ち悪い一手だった」

 

ふむ、と緒方は顎を撫でてヒカルの指摘に唸る。

 

「でしょ?気持ち悪いなら打たないでよ」

 

「悪いからこそだ。お前はどうも好き嫌いで打つきらいがあるな。しっかり食っとけ」

 

「ヤダ」

 

頬を膨らませプイと顔を背けたヒカルに、緒方は去年の北斗杯合宿で作って、そのまま置いてあったハリセンをすかさずヒカルの頭上に落とす。

すると、スパンっと小気味良い音が部屋に響く。

 

傍で聞いていたアキラと社が、さっきから目の前で交わされているヒカルと緒方の言葉のやり取りに面食らう。

緒方が社に指導するときは、具体的で分かりやすいよう説明しながら手筋を指摘してきたが、ヒカル相手になると途端に表現が抽象的になるのだ。

それなりに付き合いの長いアキラも、こんな緒方は初めてだった。

直感的な感覚だけでモノを言っている。勝負師の感覚だけで会話している。

 

「塔矢、緒方先生と進藤って、いつもこんな風に検討しとんのか?」

 

小声で社がアキラに囁く。

感覚だけの会話もそうだが、同門のアキラならいざ知らず、目上の棋士である緒方にもヒカルは臆面もなく平気でタメ口をきいている。社自身も決して言葉使いや態度が良いという自覚はないが、ヒカルほどではない。

 

「いや、二人が検討しているところを見るのはボクも初めてだが」

 

ヒカルに緒方が合わせているのだろうとアキラは初め思った。

緒方は低段者の頃から子供囲碁大会の係りや指導員になることが多かったから、教え方はもちろん子供にも分かりやすいよう説明は丁寧で上手く、周囲にも定評がある。

指導する相手に合わせて、その人物にもっとも良い指導スタイルに緒方が変えているのだろうと。

しかし、

 

(逆なのか?)

 

もしかしたらこれが本来の緒方なのかもしれないとも同時に思う。

元々、緒方は倉田と同じかそれ以上に勝負勘というか勘が鋭い棋士なのだ。だから感覚で物を言うヒカルと波長が合ったのかもしれない。

 

 

 

 

夕食後に少し休憩を入れ、寝るまでにもう一局打とうという話の流れになり、夕食にヒカルの持参した美津子手作り弁当を皆で食べた後、

 

「たばこ、ですか?」

 

季節的に日が落ちればまだ肌寒い庭でタバコの煙を吹かしている緒方にアキラが後から声をかけた。

 

「子供のいる前で吸うわけにはいかないだろう?」

 

だからわざわざ庭で吸っているのに、そっちから近づいてくるのは不可抗力だと言わんばかりに緒方はニヤリと笑む。

 

「意外でした。無理やり北斗杯団長になったわりには、進藤にsaiのことを聞かないのですね」

 

「なったからには最低限の責任と役割くらいは果たすさ」

 

つまりは合宿の間、saiのことに緒方は触れる気はないのだ。だが、反対に無理やり団長になったことは否定しないあたり、アキラは緒方がどんな手で倉田を説得したのか知りたいような知りたくないような気がした。

しかし、だからこそ緒方がどれだけ強くsaiとの対局を望んでいるのか伺い知れるというものだろう。

 

つい先日ネットで打たれたtoya-koyoとsaiの再戦。

3年の時を経て、再び二人が対局したのだ。

今回も前もって行洋からsaiと対局することをアキラは聞かされていなかったが、この対局が偶然でないことくらい簡単に分かる。

どういう風に連絡を取り合ったのかは知らないが、二人は前もって対局の約束を交わし、ネット碁で再戦したのだ。

 

朝から用事があると言って行洋は出かけており、どこかインターネットが出来るところ、恐らく客のプライベートを厳守しパソコン設定などのサービスまでしてくれるホテル辺りへ行ったのだろう。

けれど、二人の対局は対局途中で強制的に中断された。二人の対局を観戦しようとアクセスが集中し過ぎてサーバーが落ちたのだ。

海外で活躍することが多くなった行洋は、韓国や中国での知名度をさらに上げている。

 

その行洋がネットで半ば伝説化しかけていたsaiと対局していると分かれば、海外の多くの人々がアクセスしようとしたことだろう。

人気が衰えている日本で、碁のゲームにそこまで耐久性のあるサーバーを会社が用意していなかったのも理解できる。

だが、非公式な二人の対局が一つのサーバーを現実に落としたのだ。

 

ヒカルはアキラに何も言ってこないが、玄関に出迎えたときから余所余所しい態度を見ていればすぐに分かる。

ヒカルだけは二人の対局を前もって知っていた。

ただ一つ、3年前のsaiと、今回現れたsaiに違いがあるとすれば、ヒカルがsaiではないかもしれないということにアキラは悩んだ。

 

ありえないことだが、saiの正体はヒカルの中にいるもう一人のヒカルではないのかと考えていたのに、ここに至っていきなり『藤原佐為』という人物が現れた。しかも棋院で見たヒカルとその人物はかなり親しそうな間柄である。

 

「それに、saiなら探さなくてもあっちから現れてくれたじゃないか。どうせ塔矢先生は今回も偶然を押し通したんだろう?」

 

わざわざ聞かなくても分かると、長年の付き合いで師の性格を熟知している緒方はそう当たりをつける。

それに対してアキラが頷くと、緒方は機嫌を良くしたようだった。

 

「あの人が本当にsaiだと思いますか?」

 

「俺はまだ直接会ったことは一度もないが、進藤のヤツ、棋院で『藤原佐為』とかいう長髪の男に抱きついて、人目も気にしないで泣きじゃくったらしいな。本当にアイツはまだまだガキだな」

 

どこで聞いたのか、言ってから緒方は肩をクツクツ震わせ笑った。

しかしそんなことをアキラが聞きたいわけではない。

ゆったりとして柔らかな物腰、まとう優しい雰囲気。老獪で研ぎ澄まされた碁を打つネットのsaiと、似通っているところはどこにも見受けられなかった。

強いて言えば、ヒカルが藤原佐為という人物を想う気持ちだけは伝わってきた。

 

「意外といえば……」

 

「緒方さん?」

 

急に何かを話し始めた緒方に、俯きがちだったアキラが反応するように顔をあげる。

 

「何か、進藤は前に打ったときの方が強かったような……」

 

「前に進藤と打ったことがあるんですか?」

 

初耳だった。

公式手合いや囲碁のイベントで緒方がヒカルと打ったことはまだない。だとすればプライベートで打ったことになる。

 

「二年前くらいにゼミが一緒になって夜中に一局打ったことがあったんだが、あの時の方が……」

 

「二年前の方が強い?」

 

行洋の碁会所でヒカルとはアキラは何度も打っている。二年前のヒカルが今のヒカルより強いなんてことは決してない。

けれど、それはないと否定しようとしてアキラは寸前で留まった。

ヒカルの中に潜む圧倒的な強さを持ったもう一人のヒカル。そのことが頭を過ぎったからである。

 

「緒方さん!その対局を」

 

教えて欲しいと言おうとして、先に緒方に首を横に振られてしまう。

 

「まぁ、俺も酒が入っていてまともじゃなかったから何とも言えんか。アキラ君もそろそろ部屋に戻ろう。風邪を引いて北斗杯本番で体調を崩したでは言い訳にもならん」

 

それだけ言うと、吸っていたタバコを携帯灰皿に押し付け、緒方は部屋に戻ってしまった。

 

 

 

 

北斗杯大会前日、日本入りする中国、韓国の選手団と共に関係者を招いたレセプションが行われる。

 

「佐為!」

 

打ち合わせ等があり先にホテル会場入りし、エントランスで指示を出していた佐為を見つけるや、ヒカルが笑顔で駆け寄ってくる。

 

「ヒカル、おはようございます。昨日はちゃんと寝れましたか?いよいよですね」

 

「ちゃんと寝たさ。いい加減子供扱いすんなよ」

 

傍目に聞いていると、ヒカルと保護者かそれに近い誰かかと勘違いしそうな会話だが、ヒカルは全く気にしていない様子で、佐為に話しかけ続ける。

佐為も気するどころか、少し緩んでいたヒカルのネクタイを締めなおしている。

それを見ていた囲碁関係者たちは、ヒカルと佐為が友人であるということを前もって聞いていたのか、ヒカルの言葉使いが多少なってなくても聞き流すことにした。

 

「ヒカルもスーツがだいぶ似合うようになってきましたね。新初段の免状授与式では、まだスーツに着られているような違和感がありましたけれど」

 

「スーツ着て仕事することも増えたしなー。でもやっぱ堅苦しいっていうか息苦しい。特にこのネクタイ」

 

佐為が締め直したばかりのネクタイに、ヒカルは顔を窮屈そうに顰めた。そんなヒカルを微笑ましそうに見やりながら、佐為は周囲を見渡し、

 

「それもすぐに慣れますよ」

 

頬を膨らませ不満を口にするヒカルを、佐為は壁際に来るよう手招きする。これから行われるレセプションの準備で、会場設営と進行確認に皆忙しなく動いているのだ。

それなのにフロアの真ん中で喋っていては彼らの邪魔になってしまう。

壁に背もたれ、行きかう人を眺めながら

 

「残念だったよな」

 

「仕方ないですよ。でも次は少し考えないといけなくなりましたね」

 

かなり主要な単語をはしょった会話だったが、二人の間では過不足なく通じる。

二人は先日の行洋と佐為の対局を言っているのだ。すでにヒカルと佐為は電話で話したとはいえ、どうにも悔いの残る対局になってしまった。

 

滅多に対局できないのに、まさかサーバーがダウンしてしまうとは佐為も納得がいかなかったが、だからと言って不満をぶつける先は無く、どうしようもない。

また日時を改めて最初から行洋と対局する日を待たなくてはならなくなったが、それが何時になるか全く予測がつかなかった。

 

それに素性を隠している佐為はいいとして対局後、日本を離れたという行洋は海外で周囲から質問攻めに合ってはいないだろうかと、そっちの方で不安になる。

行洋が間違ってもsaiの正体について口を滑らせる心配はしてない。が、過度の質問攻めにあい疲労が溜まらなければいいけれど、と佐為はそれを心配しているのだ。

疲労が蓄積して行洋がまた心筋梗塞で倒れたりしては、後悔してもしきれない。

 

「塔矢先生、去年、北斗杯を見に来てたらしいんだ。今年も来るか分からないんだけど、もし来てたら挨拶とか言って少しくらい話せるんじゃないか?」

 

ぱっと表情を明るくさせ、ヒカルが隣の佐為を見上げる。

 

「対局終わったらすぐ会場出て行ったらしいから、俺は直接会ってないんだけど、今回は佐為だっているし、きっと先生来ると思う」

 

「会えても、まさかヒカルの時みたいに知り合いだったと思わせる素振りは一切できませんよ?少し挨拶する程度ですね」

 

「いいじゃん、会えるだけでも。あれから一回も連絡取れてないんだろ?」

 

「そうですね」

 

肝心の話が出来ないとしても、一目なり会えればヒカルの言う通りお互いの様子は分かるだろう。

 

「あ、高永夏だ」

 

いきなりヒカルは眉間に皺を寄せて、エントランスの入り口を睨む。

 

「ヒカル?」

 

そこには会場入りしてきたらしい韓国選手団の姿を見つけ、どうしたのかと佐為は首を捻った。

よく見れば、韓国選手団の中でも、ヒカルが名前を口にした高永夏を睨みつけている。これから対戦する相手にしては、ヒカルの目の仇のごとき敵対心は普通ではない。

 

「アイツ、去年お前のこと、『本因坊秀策が現代に蘇っても自分の敵じゃない』って言ったんだ。あんな奴に佐為が負けるわけないのに」

 

「おやおや」

 

一人で怒り始めたヒカルに、佐為は苦笑する。記憶が戻ってから今日までの間に、行洋とヒカルの棋譜をはじめ、日本の公式手合いだけでなく、海外の棋譜まで取り寄せられるものは全てに佐為は目を通した。

その中に韓国の若手ナンバーワンである高永夏の棋譜も含まれていた。

実力は噂通りというべきか、塔矢アキラと同等かそれより少し上。けれど自分にはまだまだ及ばないと佐為は思う。

 

しかし、『現代に蘇った秀策など敵ではない』と言ったらしい高永夏に、佐為は瞳を細める。高永夏がどういうつもりで秀策の名を出したか知らないが、例え秀策以外の別の棋士の名であったとしても、過去の棋士の名前を出して貶める行為は、決していい気持ちにはならない。

 

「去年は負けたけど、今年は絶対負けるもんか」

 

「ヒカルは強くなりましたものね」

 

「そりゃあ、お前が消えて二年間、ただ毎日ダラダラ過ごしてたわけじゃないんだぜ。塔矢とも碁会所で打つようになったし、高段者との手合だってこなすようになったんだから」

 

佐為の言った意味をヒカルは自身の棋力のことだと受け取る。

 

(私はそういう意味で言ったんではないんですが)

 

再会してからというもの、佐為とヒカルは時間が取れれば二人で打つようになった。

ヒカルは二年前とは比較にならないほど強くなっている。

それは棋力だけではなく精神面でもそうだ。

ずっと佐為はヒカルの後にいて見守ってきた。なのに急に佐為がいなくなったことで、ヒカルは一人で戦う心構えが変わった。

 

本当の意味で、独りで戦う覚悟が出来たのだ。

その覚悟がヒカルの成長をより高めていると思うと、佐為は嬉しいような、でも同じくらい寂しいような複雑な気持ちになりながら、

 

「ええ、本当に成長していると思います。ただそれでも、私から見れば、まだ甘い部分がありますが」

 

「お前も高永夏の次くらいにけちょんけちょんにしてやる……」

 

負けず嫌いにヒカルが言い返すも、佐為はクスリと肩を竦めるだけだった。

 

「佐為、知ってると思うけど、今年の日本選手団団長、倉田さんから緒方先生に代わっただろ?」

 

視線は韓国選手団に向けたまま、急に話を変えてきたヒカルに、佐為も視線を準備をすすめる周囲に向けながら、無抑揚に答える。

 

「みたいですね」

 

「それって北斗杯のスポンサーにお前の名前を見つけたから緒方先生、急に団長やる気になったんだと思う。そうじゃなかったら面倒くさがってそうだし。でも、塔矢の家で合宿してたときもそうだけど、前みたいにsaiと打たせろって全然言って来ないんだ。お前のクッキー届いたときだって、俺のことすげー睨んでおきながらさ」

 

「緒方は私に対して強引な真似は出来ませんよ。日本選手団の団長なら尚更ね」

 

「なんで?」

 

意外そうにヒカルは佐為の方を振り返る。

すると、佐為は少しだけ顔を斜めに傾け、意地悪そうに口角を斜めに上げた。

 

「だって私、スポンサーですから。この不況時、貴重なスポンサーの機嫌を損ねるわけにはいかないでしょう?もちろんアキラもそれが分かっているから、北斗杯予選が終わって私たちが再会したとき、何も言わなかったんですよ」

 

「……もしかして、合宿のとき佐為がクッキー差し入れたのって、俺に余計なこと聞くなっていう釘刺し?」

 

ふと思いつくままヒカルは尋ねた。

スポンサーの機嫌を損ねるな、というのならヒカルもよく分かる。

ただスポンサー関係者や贔屓客に対して媚びるとまでは行かなくても、機嫌を取るということがヒカルはひどく苦手で、それも仕事と分かっていても鬱陶しく感じてしまうのだ。

 

だがスポンサーがいて初めて、大会や棋戦が開催されて、棋士に賞金が出る。それを考えれば、決してスポンサーである佐為が機嫌を損ねかねない下手な真似は、段位に関係なくプロ棋士なら出来ないだろう。

 

「おや?ヒカルもそういうことが分かるような年頃になったんですねぇ」

 

「てっきりお前は、俺を谷に突き落としたいのかと思ってた……」

 

いくらなんでも合宿に合わせて佐為の名前で差し入れをするのは、イタズラが過ぎると思っていたのだ。

 

「それならそうって、先言えよな。卑怯くせぇ」

 

ヒカルが頬を膨らませ文句を言う。

アキラに佐為のことを聞かれた場合のシュミレーションまで、ヒカルは何度も頭の中で繰り返し、合宿中はもちろん、今日までずっと気が気でなかったというのに。

せっかくの苦労が無駄になってしまった。

 

「大人は卑怯なくらいがちょうどいいんです」

 

サラリと佐為は受け流してしまう。

その無邪気な笑みに、ヒカルも毒気を抜かれたようにくすくす笑い始める。

しかし、そんな楽しい瞬間に割り込むように、

 

「進藤!何遊んでいる!」

 

突然名前を呼ばれ、ヒカルと隣にいた佐為がパッと振り返った。

 

「緒方先生っ」

 

「もう全員集まってるぞ。受付を済ませるからさっさと来い」

 

「あ、うんっ」

 

いつもの見慣れた白のスーツを着込み、歩み寄ってくる緒方に、ヒカルは慌てて向かおうとするが、チラリと佐為の方を振り返った。

けれど、すでにそこにはヒカルが見慣れた友人の佐為ではなく、仕事用の顔になった藤原佐為が立っている

 

「すいません。私がヒカルを引きとめたのです。お詫びします」

 

謝罪する佐為に、緒方も姿勢を正す。

 

(こいつが例の藤原佐為か)

 

人伝えに聞いた容姿そのままの人物。切りそろえられた黒く長い髪。整った容姿。優雅な仕草と振る舞い、柔らかな物腰。

たしかにおおよそ囲碁とは無関係そうな印象だと緒方は佐為を一見して感じた。

 

「今度、日本選手団の団長になりました緒方と申します。あなたは?」

 

すでに相手が誰かわかっていつつ、緒方は素知らぬふりで挨拶する。

 

「申し遅れました。今回の大会からスポンサーとして参加することになりました会社責任者の藤原佐為と申します。どうぞよろしくお願いします」

 

自然な受け答えで挨拶を返す佐為と緒方が握手をする。

傍目には和やかに挨拶を交わしているように見えるだろうが、二人の間に挟まれるように立っていたヒカルは、ブリザードの中に立たされたような寒気を覚えた。

 

佐為は当然だが、もう片方の緒方が佐為の名前に反応しないわけがないのだ。それなのに、周囲の人目もあってかそんな素振りを一切みせず、ごく普通に挨拶を交わしている。

緒方が佐為に下手な手出しが出来ないとわかってても、冷や冷やものだ。

 

「また後で、ヒカル」

 

軽く手を振ってきた佐為に、ヒカルも手を振り返した。

レセプションが始まり各選手団の挨拶が壇上で行われる中、主催スポンサーからの挨拶もある。司会進行役が北斗通信社システムの戸刈の挨拶の後、今年から新規参入することになったスポンサーを、簡単な紹介と共に壇上に招く。

けれど、佐為が一歩壇上に上がろうとした瞬間から会場は水を打ったように静まりかえった。

 

普通ならマイク前に人が立ってから私語を慎むものだが、司会に名前を呼ばれたとたん、会場の雰囲気が一瞬で変わる。

その変化に気づいても理由まで分からなかった者たちは、単に新しいスポンサーの挨拶だから皆が注目しているのかと首を捻るだけで。

 

「ご紹介に預かりました、藤原佐為と申します」

 

薄い笑みをたたえての一言。

会場に集まっている各国の棋士たちから注目を集めても、涼しい顔で佐為は挨拶を続ける。

つい先日打たれた行洋とネットのsaiの対局。

対局はサーバーダウンで強制中断したが、そのsaiと同じ名前のスポンサー責任者。

北斗杯スポンサーへの新規参入時期といい、行洋とsaiの再戦といい、saiと同じ名前を持つ者が現れるにはタイミングがあまりに良すぎた。

 

 



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09 思惑

『去年に引き続いて、韓国日本の出場メンバーは去年と同じか』

 

シャンパングラスを片手に、今年も中国の団長になった楊海が誰に言うでもなく、出場メンバー表に目を落としながら呟く。

今年もなったというより、やはり楊海が日本語と語学に通じていることが中国団長に推された要因だろう。

 

もちろん楊海側に断る理由は無かったが、それ以上に今年の北斗杯参加は碁を打つだけではない違う意図が絡んできたことを内心面白く思ったものだ。

会場の至るところで関係者が挨拶を交わしている中、ある一角だけが微妙に浮いている。チラチラと絶えず視線を向けられている。

 

そして、向けられている人物は自身に向けられている視線に気づいているだろうに、見ているこちらが気持ちいいほど見事にスルーしているのだ。

そこに韓国選手団の団長である安太善が、選手たちの元を離れにこやかに楊海の元へ歩み寄ってくる。

 

『楊海さん、お久しぶりです。今年もお手柔らかにお願いします』

 

『太善、久しぶりだな。今回は去年の雪辱を晴らさせてもらうから覚悟しとけよ』

 

『はは、相変わらずだ』

 

安太善と楊海は韓国語で会話する。

すでに国際棋戦で何度も顔を会わせている間柄なので、楊海の方は軽口も付け足す。

 

『聞いたぞ、太善。韓国の棋戦で今度挑戦者になったらしいじゃないか。タイトル取れよ?』

 

『全く楊海さんは耳が早いですね』

 

耳が早いというべきか、語学を趣味にしている手前、常に多言語を覚え忘れないために、その国の新聞を毎日読むのが最も効果的なのだ。

その為、楊海は毎日中国だけでなく韓国語や日本語で書かれた新聞にも必ず目を通す。もちろん読むからには少しでも興味のある囲碁関係の新聞がいい。

 

『sai、現れましたね』

 

『ああ。これで塔矢先生は確実にsaiの正体、正体とまでいかなくても対局日時を約束するだけの連絡手段を持ってるな』

 

本来ならプロ棋士が他国のアマに関心を持つことはほとんどないと言っていい。しかし『sai』だけは例外である。

ネット碁ユーザーだけでなく、2年前のネット対局で塔矢行洋に真剣勝負で勝った正体不明のネット棋士として、一躍その名前が国を問わず広まった。

と、同時にsaiの正体について、しばらく噂されたものである。

その対局を境にネットから消えていたsaiが再び現れ、行洋と再戦した。2年経ったとはいえ、saiの名前を憶えているものは少なくないだろう。

 

2年越しの再戦はサーバーダウンで流れてしまったが、一度のみならず、二度もsaiと互戦での対局が出来たのだ。

片方が頻繁にネット碁をしていて、それで偶然に対局することが出来たというならまだ話は分かるが、お互いがほどんどネット碁に現れず、前もってその時間に照らし合わせたようにログインした。

これがただの偶然であるわけがない。

 

『塔矢先生は、決して口を割らないでしょうね』

 

『だろうなぁ~。というか、あの人からそんな情報聞き出せるようなやつなんて、この世にいるのかよ?』

 

『徐彰元先生でしたら塔矢先生とも家に招かれるほど親しいですし、もしかすれば……。でも、その前に肝心の徐彰元先生を動かすのが至難の業でしょうけれど』

 

肩を竦めた安太善に、それもそうだと楊海は賛同する。

となると、余計に知りたくなるのが人の性(さが)だろう。

プロの縛りがなくなった大棋士まで一緒になって、堅く口を閉ざし、正体を隠そうとするsai。

そこに何かが隠されていると分かっていながら、むざむざ諦めるような聞き分けのよい性格ではない。より強い者と対局してみたいと棋士であれば強く望む。

かと言って、碁を生業としている同じプロ棋士の一人として、楊海にはプロであった行洋が同じプロ棋士相手にそこまで肩を持つとはどうしても考えられなかった。

 

(棋力は別として、saiはまず間違いなくアマだ)

 

プロではない一般人だからこそ、行洋は自身に勝るとも劣らないsaiの棋力に敬意を払い、正体を不明のままにしておきたいsaiの意思を尊重しているのだろう。

そう考えれば行洋の考えに納得できる反面、楊海の中でさらに疑いが増すのだ。

レセプションの開会式で、皆の注目を浴びながら平静を乱すと無く挨拶をした『藤原佐為』という人物がネットのsaiではないのかと。

 

一切の素性を闇に隠し切るsaiに、楊海はある意味、感嘆すら覚える。

もし本当に『藤原佐為』がsaiだったとして、この大会で初めてスポンサー企業関係者の名前としてその名が挙がるまで、誰も知らなかったのだ。

それだけ『藤原佐為』が碁界とは無関係に生きてきたことが知れるというものだろう。

 

現に、楊海が中国選手団を代表して佐為に挨拶したとき、それとなく囲碁は打つのかと尋ねてみれば、あっさり『一度も打ったことがない』というソツのない返事を頂いている。

恐らく安太善も同様に探りを入れただろうが、煙に巻かれたのだろう。

 

『だが、相手はスポンサー様だ。あまり下手なことは出来ん』

 

『でもこれだけ注目を浴びながらあそこまで堂々とされると、こっちもただ黙っているのは癪ですよね』

 

ニヤリと安太善が口角を微かに上げる。

 

『何か策でもあるのか?俺も混ぜろ』

 

『策という程でもないです。ただ秀英が、進藤くんと藤原さんが親しく話しているのをエントランスで見たそうなんです』

 

『進藤君が?』

 

『秀英は日本語が分かりますからね。何を話しているのかまではハッキリ聞き取れなかったそうですが、どうも敬語じゃなかったっぽいんですよ』

 

『そりゃまた進藤君が礼儀知らずだったってわけじゃなく?』

 

『そこまでは私からは何とも言えませんけれど、いくら進藤君がまだ子供だったとして、スポンサー相手に初対面でいきなり馴れ馴れしい口がきけるような雰囲気を、例の人物がしてると思いますか?』

 

『思わないな』

 

即答した。あれだけ整った容姿の人物を前にすれば、警戒はせずとも普通なら誰でも気構えする。仮に日本選手だけすでに何度か会ってたとしても、本当に打ち解けられるような関係になるのは、相応の時間が必要だろう。

 

『でも、韓国(ウチ)は去年の一件以来、永夏の巻き添え食らって、進藤君からひどく嫌われていますからね』

 

思い出したように、安太善は困り顔で天井を仰ぎ見た。

通訳の間違いからきた些細な誤解。それを永夏は面白がって余計に拗れさせたのだ。

 

『そんなこともあったな、ハハ』

 

懐かしそうに楊海が笑う。

 

『楊海さん、日本語できるんですから進藤君に聞いてみては?仮に誤魔化そうとしても、彼はそこまで嘘をつくのに慣れていないでしょうから、少しくらい態度に出るかもしれません』

 

『秀英君は進藤君と親しいんだろ?そっちはどうなんだ』

 

『秀英はそういう取引というか、駆け引きを嫌う部分がまだまだあるから、二の句もなく断られました』

 

安太善は両手を挙げて降参のポーズをとる。

プロであっても子供は子供の判断で物事を見る。その子供らしい純粋さから見れば、大人の取引や駆け引きはズル賢く映るだろう。

 

『だからって、俺がいきなり声をかけるってのもなぁ。逆に警戒されそうだし、せめて日本の団長が倉田だったらまだ良かったんだ。いらんときにはふてぶてしい面で現れて手間をかけさせるくせに、本当に必要なときにはいないんだからな、アイツは』

 

楊海はこれまで見てきた倉田の面倒を思い出しながら、しかめっ面でぶちぶちと愚痴をこぼす。

 

『倉田さんの代役も日本は奮発したものだと、聞いたときは驚きました。まさか現タイトルホルダーを代役に当ててくるなんて。これもネットのsaiが現れたことに関係するのでしょうか』

 

安太善の視線が日本選手団の中心にいる白いスーツを着た人物に向けられる。

現在、日本のタイトルを2つ保持し、他のタイトルもリーグ戦に残り、今年中にさらにタイトル数を伸ばすかもしれない。

世代交代を迎えようとしている日本の碁界で、緒方が次の世代となる筆頭であり、今最も勢いに乗っている。

 

『緒方先生ねぇ。実は俺、話したことないんだよな。一度くらい手合わせしてみたいもんだが、さてどうだろうな?緒方先生は塔矢先生の弟子だ。塔矢先生と裏でグルになってsaiを隠そうとしてくることも考えられるぞ?』

 

つまり、大の男二人の知恵を寄せ集めたところで、結局は策無しという結論に辿り着くのだ。

 

『……saiと思わしき人物はすぐそこにいるのに手は出せない。ご馳走を目の前にして、よだれを垂らすだけで我慢しなければならないのと同じ状況だ』

 

苦笑しながら安太善は呟く。

 

『もし叶うなら、一度でいいから対局してみたいんだがな』

 

『とりあえず、日本にはあと4日はいれます。その間に何か進展があることを期待しましょう』

 

そう言った安太善に楊海も頷き返した。

 

 

 

 

普段からにこやかな顔をしていることなど全くといっていい程ないが、今の戸刈は眉間に皺を寄せ明らかに表情を強張らせていた。

戸刈を知る者であれば、この表情を見ただけで何か重大な問題が起こったのだと分かる顔だ。まっすぐに佐為の元まで足早にやってくる。

 

「佐為、何をした?」

 

周囲に誰もいないことを確認した上で佐為の隣に立ち、不機嫌を隠すことなく戸刈は話を切り出す。

 

「戸刈さん?」

 

「会場の雰囲気が去年と違って変に浮き足立っている。中韓の関係者も何故あんなにお前に注目しているんだ?気づいているんだろう?新しいスポンサーだからというだけでは説明がつかん。それに……二日前、緒方先生に電話でお前への取次ぎを頼まれた。急だったこともあり、もちろん断ったが」

 

戸刈の知らせに、佐為はなるほどと顔を少し俯かせクスリと笑む。正面からは無理と踏んで、周囲から攻める手段を緒方は取ってきたらしい。

攻めどころは間違っていない。

北斗通信社システムの戸刈なら、同じスポンサーとして佐為と対等に話すことが出来る。

 

それを踏まえて、去年からの日本棋院と北斗通信社の付き合いを利用しようとしたのだろう。

だが、戸刈と佐為の付き合いはそれ以上に長いのだ。

 

「ありがとうございます。でも何もしてませんよ、本当に」

 

もししたとすれば、それは北斗杯開催前に行洋とネット碁を途中まで打ったことくらいだ、とは佐為の心の中だけの呟きである。レセプションの挨拶一つでここまで自分が注目を集めるのは誤算だったという他ない。

自分で考えていた以上に『sai』の名前は海を越えて知れ渡っていたらしい。

 

「だが、タイトル保持者が日本選手団の団長になってくれたお陰で、この大会の話題性が上がったのは確かだ。彼の話を聞いてやるだけでもダメなのか?」

 

「話を聞いたところで、緒方先生の期待に添えることは何一つ言ってやれないのに?」

 

クスリと、何も知らない者であればその笑みを向けられただけで騙されてしまいたくなるような惚けた佐為のこの一言に、逆に戸刈の眉間に皺が増える。

 

「相手の用件を分かってて避けてたのか?」

 

「だいたいですが」

 

「あの日、進藤君の中継を偶然見て、お前がいきなり北斗杯のスポンサーに自分の会社も参入したいと言い出した時はどういうつもりかと疑ったが、この状況も最初から分かっていたのか?」

 

「どうでしょうね?そう見えないかもしれませんが、自分でも結構驚いているんですよ?私って有名人だったんだな~と」

 

公式手合ではない。非公式かつアマとしてネット碁でしか打っていないのに、これほど世界のプロ棋士たちが『sai』という正体不明の棋士の名を知り注目していたのだと、この会場に来て初めて佐為は実感した。

のらりくらしとした佐為の態度に戸刈は埒があかないと早々に見切りをつける。今はレセプションの最中で責任者が長話をしている時間はないのだ。

 

「私のところで止められるものは出来るだけ止めておく。だが直接は知らん」

 

「十分です」

 

小さく佐為が頷いたのを視認して、戸刈は何も言わずその場を後にする。

碁のテレビ中継を佐為が偶然見た日以来、仕事以外に興味を持たなかった佐為が急に囲碁に興味を示したことを意外に思ったのは確かだ。

しかし、佐為が碁に興味を持つのはいいとして、何故プロ棋士たちがああも佐為を注目するのか理由が分からない。

不審に思って、戸刈が棋院側の関係者に尋ねても言葉の歯切れが悪く、濁されてしまう始末だった。むしろ尋ねた相手から、佐為の素性を尋ねられる始末で。

 

壇上で挨拶をする佐為を見る彼らの目は、ただの新規スポンサーを見る目ではなかった。

まるで、碁盤を挟み、対戦相手を見やるような、自身と同じ碁の棋士を見やる真剣な眼差しをしていた。

 

 



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10 大会前夜

 

レセプションが終了し、出場する棋士たちは明日の対局に備えて早めにホテル内のそれぞれの部屋に戻る。

組み分けも何の因果か、去年と同じ対戦日程になった。

初日に日本対中国、二日目に韓国対中国、最終日の三日目に日本対韓国。出場選手たちが持ち時間3時間の一日がかりで一局を打つのだ。

選手たちが先に部屋に戻り明日に備えて休息している間も、戸刈は対局会場に残り明日から行われる対局の最終確認と打ち合わせを行い、ようやくそれも終えて部屋に戻ろうとして

 

「戸刈さん」

 

名前を呼ばれて振り返った。

すでに時間もあと5分もせずに日付が変わる。

そんな夜も更けた時間にホテルのロビーに人の姿はほとんどなく、誰が自分を呼んだのか探す必要は無かった。

 

対局しないとは言え、団長として選手をまとめる立場にある人物が、こんな時間までスーツ姿のまま立っているべきではない。早めに就寝して明日に備えておくべきだ。

同時に、なぜ目の前の人物がこんな時間までスーツ姿のまま己を待っていたのか、その理由も直感的に分かってしまった。

相手に何かを言われるより先に、

 

「緒方先生、藤原への取次ぎはお断りしたはずですが?」

 

「分かってます。ですが、それを承知でどうかお願いします」

 

深々と緒方に頭を下げられ、戸刈はどうしたものかと躊躇う。佐為には自分に来たものは止めておくと言ったが、タイトルホルダーに面と向かって頭まで下げられては、さすがに無下に断るわけにもいかなくなる。

 

「頭を上げてください、緒方先生」

 

「いえ、戸刈さんからよいお返事を頂くまでは上げるわけにはいきません」

 

断固と頭を上げようとしない緒方に、戸刈は目を細め、

 

「……今大会は前回と明らかに空気が違っている。皆さんが何を気にかけているのか、私には皆目検討もつきませんが、原因は間違いなく藤原でしょう。なぜ、棋士の方々は、いや日本だけでなく中国や韓国のプロ棋士の方々まで、藤原をあそこまで気にされるのですか?」

 

問われてようやく緒方は頭を上げた。

 

「かの人物が、誰もが探し求めるネットのsaiかもしれないからです」

 

「ネットのsaiとは何ですか?」

 

「正体不明のインターネットの棋士の名前です。ですが、プロ以上の実力者で、韓国中国のプロ棋士さえsaiには負けてしまっています。そして当時5冠だった塔矢先生も真剣勝負でsaiに負けました」

 

「そのネットのsaiという棋士が、緒方先生は藤原とおっしゃられるのですか?そのネットのsaiと名前が同じなだけの藤原が、プロ棋士を負かすだけの碁の実力を隠し持っていると?」

 

「そうです」

 

「ありえません」

 

即答で戸刈は緒方の仮説を否定した。

 

「私と藤原は仕事面だけでなくプライベートの付き合いもそれなりに長いですが、藤原が碁を打ち、プロ以上の実力を持っているなどとても信じられない。彼は非常に仕事人間だ。ネットというからにはその正体不明の棋士の名前が、偶然藤原と同じ名前だったということも十分考えられます。人違いでしょう」

 

「それを自分で確かめたいのです。お願いします」

 

緒方に再度深々と頭を下げられ、戸刈は降参したようにため息をついた。

このまま戸刈がいくら突っ撥ねようとしても、緒方は引かないだろうと判断したのである。

けれど、緒方の頼みを受け入れる前に、どうしても確認しておかなくてはならないことがある。

 

「重ねて申します。私は藤原が碁を打つところはもちろん、碁に興味を持っているような素振りすらこれまで一度たりも見たことがありません。もし仮に私の知らないところで碁を嗜んでいたとして、タイトルを保持するプロ棋士の方々がそこまで気にかけるほど、藤原に碁を学ぶだけの十分な時間があったとは決して考えられない。それでも藤原と話をしたいと言われますか?」

 

「それでもです」

 

毅然と頷いた緒方に、戸刈は短く『ここで少しお待ちください』とだけ伝え、ロビーを出て行ってしまう。

その後姿が見えなくなって、ようやく緒方は息を深く吐いた。

まだ勝負の土俵に立ったわけではない。しかし立とうとするだけでも、かなりの精神疲労と労力が要ったことは間違いない。

電話でアポを取り付けようとすれば、秘書らしき女性から遠まわしに断られ、同じスポンサーである戸刈を介して取次ぎを頼めど、すんなり話は通らない。

 

直接会って話しをしようとするだけで、これほど緒方の手を煩わせるのだ。

『藤原佐為』という人物は緒方が考えていたより遥かに、碁の気配が一切なかった。

噂通りの仕事一筋、浮いた女の噂一つすら聞こえない完璧な仕事人間。

 

ただ一つ、ヒカルを除いて。

そのヒカルにしても、つい最近になって二人が親しくしている姿を見けるようになったというのだ。

しかし、これぐらい碁の世界と関わりが無ければ、囲碁を嗜む者たちが誰も『藤原佐為』という人物を知らなかったのも納得出来た。

戸刈にここで待つよう指示されてから20分経っただろうか。

 

「失礼致します。緒方先生でしょうか?」

 

後からホテルスタッフと思われる若い女性から声をかけられ振り返る。

 

「ええ」

 

「藤原様より先生を部屋へご案内するよう頼まれて参りました。部屋にご案内いたします。どうぞ」

 

こちらへ、と部屋へ案内してくれるスタッフの後に緒方が続く。

そして案内された部屋の前につくと、ノックをする前に扉が開き、戸刈が出てくる。

 

「どうぞ、中へ」

 

「ありがとうございます」

 

ようやく佐為本人と話が出来ると、軽く会釈して緒方が部屋に入るが、戸刈はルームキーを鍵穴に挿し扉をロックしてしまう。戸刈も同席するのだ。

本当は、佐為と二人だけで話がしたかったのだが、取り次いでもらえただけこの場合はましだろう。

それに戸刈はこれからする話を聞いていたとして、それを誰かに話すようなタイプには見えない。

となれば、佐為がわざと保険として部屋に残るよう戸刈に頼んだのかもしれないとまで思考を巡らせる。

 

(合宿のときの差し入れといい、食えんやつだ)

 

人は見かけによらないというが、藤原佐為という人物は間違いなくこの類だろう。見てくれが際立っている分、始末に負えない。

窓際に立ち、外を眺めていた佐為がすぅと振り返り緒方に視線を向ける。

 

スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを外した白シャツにスーツパンツというスタイルだった。

さすがにスポンサー責任者が泊まる部屋ともなれば、急な打ち合わせを自室で行うことも想定しているのか、それなりに広い部屋に応接用の椅子とテーブルまで置かれてあった。

佐為が応接用の椅子を示しながら

 

「どうぞお掛けになってください」

 

「いえ、このままで結構です。それより、こんな時間に部屋におしかけてしまい申し訳ありませんでした」

 

謝罪する緒方に構わず、佐為は緒方が何をそこまで話しがしたいのか分かっていながら、建前上、用件を尋ねた。

 

「私と話がしたいと戸刈さんから聞きました。明日からようやく大会本番が始まります。話は出来るだけ手短にお願いします。」

 

「では、尋ねますが、貴方がネットのsaiなのですか?」

 

言葉使いこそ丁寧だったが、佐為を見やる視線は、佐為の一挙一動を見逃すまいと見張っている目そのものだった。

 

「……レセプション会場でも何人かの方から聞かれました。私がネットのsaiなのかと。そのどなたにも私はイイエと返しましたが、緒方先生も私をそのsaiと勘違いされてらっしゃるようですね。たまたま名前が同じだっただけでしょう」

 

「本当に勘違いだと仰られますか?」

 

「いくら聞かれたところで、本当も嘘もないですから」

 

ふふふ、と微笑む佐為に不自然さはどこにも見当たらない。その一分の隙の無さが完璧過ぎるように緒方の目には映る。

 

「最近になってまたネットに現れはじめましたが、初めてsaiがネットに現れたのは5年近く前の夏でした。突然インターネット碁にsai、アルファベットでエスエーアイという名前のプレーヤーが現れた。その年の夏、一ヶ月の間だけ頻繁にネット碁に現れ、日本の棋士だけでなく海外の棋士ともたくさん打ち、saiは一度も負けなかった」

 

「所詮はネット碁でしょう?アマの棋士が趣味で打つ場です。そこでどんなに勝ったところで何だというのです?」

 

「saiが勝ったのはアマだけじゃなかった。素性を隠してネット碁を打っていたプロ棋士相手にも勝ち続けました」

 

「そのsaiというプレイヤーをアマと侮って負けたのでは?」

 

「かもしれません。だが、その夏を境にsaiは忽然と消え、再び現れたのは3年前。当時日本で5冠のタイトルホルダーだった塔矢行洋先生と、公式手合と同じ持ち時間3時間の真剣勝負で、ネット碁で対局しました」

 

「………」

 

「勝敗は、塔矢先生の投了でsaiが勝ちました。対局内容も名局と言って差し支えない。現役トッププロの棋士に真剣勝負で勝ってなお、saiを単なるアマの棋士と貴方は言われるのか?」

 

「例えネットのsaiという棋士がどれほど強いとしても、私には何の関わりもない。そして緒方先生がどんなに私とネットのsaiをどんなに同一人物にしたいとしても、それは全て徒労でしかない。私は皆さんが探されているsaiではないのですから」

 

あくまで自分はsaiではないと否定し続ける佐為に、緒方は苛立ちを覚え、声が無意識に荒げたものになってしまう。

 

「では何故、進藤はあそこまで貴方を慕うのです?進藤はsaiに繋がっている。本人は認めないが、塔矢先生にネット碁の対局を取りつけたのは間違いなく進藤だ。そもそもこの日本で『佐為』という名前自体そう滅多に見かける名前じゃない!」

 

言ってから、緒方はピクリと反応した。

それまでずっと冷静さを失わず緒方の話を聞いていた佐為から、一切の感情が消え、瞳に剣呑さが宿ったからだ。レセプション会場で見た柔らかな物腰と穏やかな雰囲気とかけ離れた一面。

 

「私とヒカルがどうして親しいのか?どうやって、何時知り合ったのか?」

 

それなりに勝負の場を経験している緒方を、視線一つで黙らせるだけの、底冷えする冷たい顔が現れる。

なまじ佐為の顔の造りが整っているだけに、表情から感情が消えると無機質な冷たさしか残らない。

 

「それを緒方先生に言わなければならない云われがどこにあるのですか?ヒカルと私が親しくするのに、緒方先生の納得と許可が必要なのですか?それとも緒方先生には私とヒカルの思い出の中に、土足で踏み込む権利があるとでも?」

 

「ッ!」

 

佐為の言葉が、緒方を冷酷に突き放す。

しかし、そこで怯まず、口調を丁寧なものから普段の口語に変えた。

 

「では言葉を変える。対局を申し込みに来た」

 

佐為は無表情で緒方に向かい合う。

 

「俺と打て」

 

「私は碁は打ちません」

 

「だがネットのsaiは、お前だ。どんなに否定しようともな。何故塔矢先生はよくて俺とは打たない!塔矢先生と俺の何が違う!?」

 

「もう一度言います。私はsaiではありません。碁は、打たない」

 

声を荒げる緒方とは正反対に、佐為は無表情に、無抑揚に、感情の欠片すら篭めずに言い捨て緒方を拒絶する。

 

「緒方先生が気にしていらっしゃる塔矢先生とネットのsaiとの対局。それは3年前のいつ行われたのですか?」

 

「それは……五月一日です」

 

「双方の持ち時間三時間なら対局があったのは朝からずっと、何時間もですよね?だとしたら打ち終わるのに夕方までかかったのではないですか?」

 

「そうです」

 

「でしたら、私はその条件には当てはまりません」

 

「何だと!」

 

思わず緒方は叫んだ。

 

「私はその日、大学の学会で経済学の論文発表を行っていました。もちろん論文を発表するのは、囲碁の公式手合ほど長い時間がかかるものではありませんが、朝から夕方までずっと会場にいたのでそれを証言してくれる方は少なくないでしょう」

 

感情の一切を省き、淡々と事実だけを述べていくだけの声のトーン。

佐為が緒方を誤魔化すため嘘を言っているとも考えにくい。

もし本当に緒方が確認を取ろうとすれば、簡単にボロが出るような嘘をついても何の意味もないのだから。

 

「それと5年前の夏にネットのsaiが現れたということですが、その時期、私はアメリカに留学中でサマーバケーションをあちらの友人と昼夜を問わず毎日楽しんでいました。日にちの詳細までは覚えていませんが、家の棚を探せば日付付きの写真が出てくるでしょう。こちらも頻繁に現れたというネットのsaiに条件に重なりません」

 

そこまで一気に言い終えてから、佐為は一息入れ、瞳を閉ざした。

そして瞳を閉ざしたまま、ゆっくりと穏やかな声で

 

「私は緒方先生がお探しになっているネットのsaiではありません」

 

再び佐為が瞳を開く仕草が、緒方にはビデオをコマ送りにしているように、酷くスローに見える。これだけ完全なアリバイを出されても、緒方にはとても信じられなかった。

これほどにネットのsaiと符合する人物はいないのに、藤原佐為はsaiではない。

捕まえたと思ったsaiが、指の間から音も無くすり抜けていく。

 

「saiじゃ、ないのか……」

 

「残念ですが」

 

呆然と呟いた緒方に、佐為は首を横に振った。

 

「……分かりました。時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。」

 

それだけを喉の奥からようやく絞り出すように言うと、緒方は一礼し部屋から出て行く。

 

「自分のところに来たのは止めると言ってたじゃないですか」

 

扉が閉まる音がしてから、緒方とのやりとりを、壁に背もたれずっと無言で静観していた戸刈に、佐為は恨めしそうな目を向ける。

佐為と緒方の話を戸刈は壁にもたれながら、静観していたのである。

 

「出来るだけ、と言っただろう。緒方先生に頭を下げられては、北斗通信社システム(ウチ)としても断りきれん」

 

それに必ず止めると言った覚えもないと、戸刈は佐為の文句を軽く突っ撥ね、緒方が断った椅子に腰をかけた。

 

「佐為、お前、碁を打つのか?」

 

「戸刈さんまで。私は碁など打ちませんよ。知っているでしょう?私にそんな暇はありません。そんな時間があれば仕事してます」

 

何を馬鹿なことを、と呆れ口調で言いながら、佐為は長い前髪を左耳にかけながら、リネンの効いた皺一つないベッドに腰をかけた。

すると、その様子をじっと見ていた戸刈が、顎を撫で、

 

「そうか、打つのか」

 

フム、と一人納得した様子で頷きながら言う戸刈の口調は、佐為が碁を打つものと断定した言い方で、佐為は顔をムッとさせた。

 

「ちょっと待ってください。打たないと言っているのに、どうして私が打つことになっているんですか?」

 

「お前は嘘をつくと、澄ました顔で髪を左耳にかける癖がある」

 

「…………」

 

戸刈の指摘に佐為は無言になる。

意識したことは一度もない。果たして、これまでずっとそうだったのだろうか?と思い返したところで、意識していないのだから当然思い出せない。

しかし、ついさっき碁を打つかと問われて誤魔化そうとしたとき、戸刈の言うように髪を左耳にかける仕草をしていた覚えがある。

仮に戸刈がカマをかけて当てずっぽうで言っているとしても、つい黙ってしまい否定できなかった。もしこれを緒方に伝えられでもすればどうなるのか。

 

「……、戸刈さん」

 

「分ってる。他言をするつもりはない」

 

良かったのか、悪かったのか、佐為も判断しかねたが、とりあえずこれで最悪の事態は免れたと受け取るしかなかった。

 

「それで、どれくらい強いんだ?」

 

認めてしまった直後で下手に誤魔化しても意味がない。

問われた佐為は、斜め上を見上げ少し思案し、

 

「タイトルの二つ、三つ取れるくらい、でしょうか」

 

真顔で言ってのけた佐為の返事が、決して日本の囲碁棋士が弱いと馬鹿にしての表現でないことを、戸刈は理解している。

佐為は自身の力を誇示するために、そんなつまらない虚栄をはる性格ではない。

囲碁のプロ棋士に詳しいと言いがたい上、全く碁を打たない戸刈に、自身の碁の強さについて簡単に分りやすく説明しようと考えて、結果、佐為の表現がそんな言い回しになってしまっただけだ。

 

どんなに日本の棋士が韓国中国に劣ろうとも、その日本でプロになるためには幼い頃からプロ棋士に師事し、休みなく毎日碁を打ち続けて、一握りの者たちだけがようやくプロ棋士になることが出来る。

その中でもタイトルホルダーになれるのは、十人にも満たないごく少数、タイトルを重複保持する者がいれば、人数はさらに減る。

自らの碁の実力をタイトル二つ三つ取れる程度と評価したが、佐為の自己評価は限りなく厳しいだろう。

勝負事ならなおさらに。

 

それを他人に言うならば、もっと謙遜した物言いを選ぶ。

となれば、最低でも二つ三つ、調子が良ければそれ以上のタイトル数を現実に取ることの出来る碁の実力を佐為は持っているということになる。

現在『碁聖』と『十段』のタイトルを持つ緒方が、通りで無理を押し通してまで佐為と対局したいと熱望するのか。碁には一切興味はなかったが、戸刈は何となく分ったような気がした。

 

(それにさっき5冠の棋士にもsaiは勝ったと言ってたな)

 

寝る間も惜しんで仕事をしていたくせにいつの間にそんな実力を?と戸刈は冷めた頭の隅で思う。タイトルに絡むほどのトップ棋士なら、勝負師として自分より強い者、同等以上の力を持つ相手と勝負したいと願うのは当然だ。

そして海外のプロ棋士たちも、緒方同様にsaiを求めているのだ。

それが今回の北斗杯で、棋士たちが藤原佐為に注目する原因になっている。

カタンと音を立て、戸刈が椅子から立ち上がる

 

「お前が碁を打とうが打つまいが、俺は関知しない。だが、これだけは言っておく。北斗杯の大会運営に支障をきたすようなことだけはするなよ」

 

「承知してます」

 

「ならいい」

 

それだけ確認すると、後は用無しと戸刈は部屋から出ていってしまうのだが、緒方を相手にするより戸刈の方がよっぽど疲れを覚えて、佐為はそのままベッドに突っ伏した。

 

(ごめんなさい。あなたがどんなにsaiを求めても、私は認めることはできない)

 

緒方がどれだけネットのsaiを求め探し、そして対局を望んでいるのか、佐為はその気持ちが痛いほど分かる。

緒方の気持ちは佐為が幽霊としてヒカルと共にいた頃の、いつ叶うとも知れない行洋との対局を願っていた気持ちと何も変わらない。

その気持ちが痛いほど分かっていながら、応えてやることの出来ないもどかしさ。

 

佐為とて決して緒方と打ちたくないわけではないかった。打てるものなら心行くまで対局したい。

ネット碁ならば、とも思うが、ネット碁でいつ打つかという対局日時を決める問題が出てくる。

行洋の時のように、ヒカルを橋渡し役として出すわけは行かないのだ。

自身をネットのsaiと認めれば、そこまでの高い棋力をどうやって得たのか、多くの者たちに詮索される。そして佐為と親しいヒカルにも詮索の範囲は広がる。

 

ネットのsaiは、今でこそ佐為である。

けれど、3年前まではヒカルだった。

佐為が騒がれる分についてはどうにでも出来るが、プロ棋士として生きていくヒカルもとなればそうはいかない。

 

ただ、佐為も一生saiの正体を隠すつもりはなかった。

これから佐為がsaiとしてネット碁を打ち続ければ、いつかsaiの対局とヒカルの公式対局が重なり、sai≠ヒカルという構図が定着するだろう。

周囲にもそれとなく囲碁を匂わせ、浸透させていけばいい。全てはそこからだ。

緒方だけでなく他の棋士たちと対局するにしても、

 

(saiと認めるには早すぎる。saiはまだしばらくネットの中だけの存在でなければならない)

 

ヒカルをsaiが押し潰してしまわないように。

 



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11 俺の後に、佐為がいる

「進藤、どこかに行ってたのか?」

 

自分の部屋に戻ろうして、部屋の前で鍵をポケットから探しているヒカルの姿をアキラが見つけ声をかけてくる。

 

「塔矢!?」

 

まさかこんな時間にアキラが外を出歩いているとは思ってもいなかった。見られたくなかったところを見られてしまったような居心地の悪さでヒカルはアキラからつい視線をそらす。

 

「お前こそ、どうしたんだよ。こんな時間」

 

しどろもどろな態度でヒカルは話をそらす。

 

「ボクは喉が渇いたから飲み物をと思って」

 

「そ、そうか」

 

「進藤は?」

 

「おっ、俺はちょっと寝付けなくて、気分転換に外の空気を吸いに……」

 

そう言ったヒカルの言葉を嘘だとアキラは直感で思う。元々ウソが下手な性質で視線を合わせようとしないのは、後ろめたいことがある証。そして明日は大会本番だというのに12時過ぎた時間に外へ出てまでヒカルが会おうとしていたのは、恐らく一人だろう。

 

「じゃ、塔矢も早く寝ろよ!」

 

慌ててヒカルは部屋に入りアキラが追って来れないよう鍵を閉める。

すると、体からイッキに力が抜け、ヒカルはその場にへたりこんだ。

アキラもだが、さきほど佐為の部屋から出てきた緒方を見かけたときは、本当に心臓が飛び出るかと思うほど驚き、咄嗟に身を隠してしまった。

 

(緒方先生、佐為に対局申し込みに行ったのかな?)

 

確証は無かったけれど、緒方が佐為の部屋に行くのにそんな理由しか思いつかない。行洋が入院していた病院で、ヒカルに佐為との対局を迫ったときは本当に鬼気迫るものがあった。

だが、佐為の部屋から出てきた緒方の表情は、遠目からも沈んでいて、決して良いものではなかったように思う。

恐らく佐為に対局を断られたのだろうと推測できた。

 

「佐為だって緒方先生と打ちたいはずなのに……」

 

今の佐為が幽霊だった頃の佐為と完全に同じではないことはヒカルとて重々承知している。今まで囲碁と無縁の生き方をしてきたのに、いきなり幽霊だった頃の記憶が戻った時の混乱は他人のヒカルにも想像に容易い。

 

それでも佐為はヒカルに再び会いに来てくれた。もう二度と会えないと涙した佐為が戻ってきてくれただけでも十分過ぎるのに、あれもこれもと欲を出すのは望みすぎだろう。

それでも佐為が決して緒方と対局したくないと思っていないことだけは確信があった。

 

 

 

北斗杯、大会初日。日本対中国。

 

「おはよう、塔矢」

 

身支度を整え廊下に出たところで隣部屋のアキラと鉢合わせし、ヒカルは声をかける。昨夜の気まずさが一瞬蘇ったが、これから対局だというのにいつまでも引き摺っているわけにはいかない。

 

「おはよう」

 

その抑揚の失せた声から、すでにアキラが対局モードに入っているのだとヒカルは察した。

社はまだ出てこない。部屋で準備をしているのか、それとも先に着替えてロビーでヒカルたちを待っているのだろうか。

二人揃って集合場所のロビーに向かう道すがら、

 

「塔矢、なんで佐為のこと、何も聞かないんだ?」

 

ネットのsaiだけでなく『藤原佐為』が現れてもアキラはヒカルに対して、問いかけるような視線を向けるだけで何も言ってこなかった。

佐為の言う通り、相手が北斗杯スポンサーということで、出場する選手であるアキラも勢いに任せて問い詰めることを控えたのかもしれない。

 

しかし、尋ねる機会は今日までいくらでもあったのに何も言ってこないのは、ずっとアキラを見てきたヒカルからしても不自然で怪しく映った。アキラらしくないのだ。

碁に関することなら、どこまでも純粋に強い意思で意思を曲げたりしないアキラが、ネットのsaiかもしれない人物が現れても静かで何も言ってこない。

間違いなく、アキラもまた緒方と同じようにsaiを求めているはずなのに。

しかし

 

「聞けば、君は答えるのか?」

 

逆に問われてヒカルは押し黙る。

ヒカルが用意していたのは、いかに佐為をただの友人として誤魔化すかだけの嘘ばかりだ。それをアキラは最初から求めていないから、佐為のことを聞かなかっただけに過ぎなかったのだと、ヒカルは今初めてアキラの考えに気づかされた。

無言で黙りこくってしまったヒカルに、

 

「なら、聞く意味なんてないだろう。それより今日の対局が、去年のような無残な一局にならないようにすることだけに集中しろ」

 

ヒカルを置いて先に行こうとするアキラの背中を、ハッとしてヒカルも足早に追いかける。

その背中が無言でヒカルを責めているように感じられた。

ロビーに着けば、すでに社の姿があり、

 

「よう、二人とも……ってまたなんかあったな、お前ら」

 

アキラとヒカルの間に漂う険悪な雰囲気に気づき、社は大きなため息をつく。

去年はヒカルが韓国の高永夏に噛み付き、今年は同じチーム内で何やら嫌な気配が漂っている。昨日までは普通だったはずなのに、と思おうとして、すぐにそうじゃなかったと考え直す。

普通だったらきっと今年の大会も団長は倉田だったはずだ。

 

それがいきなり緒方が団長になり、昨日のレセプションでも会場が何か浮ついて落ち着きがない。そして今日は今朝からチーム内で問題発生だ。

そんな社の心中を知ってか知らずか、

 

「何を言っている?あとは……」

 

アキラは残る一人の姿を探した。

 

「揃ってるな、お前ら。いくぞ」

 

頭数を確認して、緒方が現れる。一瞬ヒカルの脳裏に昨夜の緒方が思い浮かんだが、クイと首を対局場の方へ振ったのを合図に、四人は対局会場へと向かう。

対局会場となる会場に入れば、去年とおなじようにテレビ中継のカメラ配置などの最終確認や準備をしているスタッフが忙しそうに動いている。

そんな中、団長である緒方が係員に日本のメンバー表を渡す。

 

それを受けてボードに張られていく今日の対戦カードは、アキラが大将、ヒカルが副将、そして社が三将で出場し、ヒカルの対戦相手は去年と同じ王世振だった。

席に着けば、対戦相手である王がヒカルにじっと視線を向けてきた。

前回は初め、手の縮んでしまったヒカルが驚異的な追い上げで、あと一歩のところまで追い詰めた経験がある。王も当然覚えているから最後まで気を抜かずヒカルに勝とうとしてくるだろう。

 

(これから俺が打つ対局を佐為が見ている)

 

今日はまだヒカルは一度も佐為の姿を見ていない。

しかし、会場のどこかで佐為は対局中継を必ず見ている。

 

(俺の後に、佐為がいる)

 

3年前までごく普通で当たり前であり、一度は失ってしまった感覚が、ヒカルの中に再び広がっていく。

 

 

 

 

北斗杯各対局の大盤解説が行われている大部屋で、佐為は壁にもたれながら腕を組み、一人端の方でじっと対局中継されているテレビ画面を見つめていた。

ひたすら見守っていると言った方が表現として相応しいかもしれない。

大会を運営するスポンサーの責任者として佐為が会場にいること自体は何らおかしくはなかったが、中継されているテレビ画面を見る眼差しは、仕事命で碁を全く打ったことが無い者の眼差しではなかった。

 

碁を打たずルールだけ理解している者もいるだろうが、プロ同士の対局はルールを理解しているだけでは、決して盤面の正確な形勢判断は出来ない。

佐為は今行われている中国対日本の三つの対局形勢がどうなっているのか、プロ棋士の説明や解説無しに理解している。

 

『どうにも碁を全く打ったことがない人間の目じゃないんだけどなぁ』

 

大盤解説の会場前を偶然通りかかり、廊下側から視界に入った人物に、安太善は立ち止まった。

昨日のレセプションで、韓国選手団団長としてスポンサー企業に挨拶した折、それとなく『藤原佐為』という印象的な容姿をした人物に碁は打つのかと尋ねてみたが、にこやかに打たないと否定された。

もし可能なら、『藤原佐為』を大会関係者の検討室へ連れて行き、共に対局を検討できればと思うが、相手は質問したときと同様に首を横に振るだろう。

 

『安先生、どうかされましたか?』

 

一緒にいた通訳の係りが、急に大盤解説会場の入り口前で立ち止まった安太善に、どうしたのかと首を斜めに傾げた。

 

『いえ、何でもありません。検討室へ戻りましょう』

 

明日は中国、そして最終日である明後日は対日本戦が控えている。

対局はまだ序盤が始まったばかりだ。

今日の中国対日本の対局をしっかり見て、対戦国の実力をチェックしておかなくてはならない。

 

「安太善君?」

 

安太善は日本語が分からない。例え名前を呼ばれたとしてもイントネーションが違うため、自分の名前とは認識できず、名を呼ばれたのだという自覚はなかった。それなのに声に反応して振り向いたのは、聞き覚えのある声だったからだ。

 

『塔矢先生!お久しぶりです!今年もいらっしゃったのですね!』

 

声の主が塔矢行洋であることに気づき、慌てて安太善が歩み寄る。

去年もだが、今年はさらに行洋は海外での対局が増え、あまり日本にはいないと聞いていたのだ。

だから、いくら息子の塔矢アキラが出場する北斗杯でも、今年は北斗杯に顔を出さないかもしれないと考えていた。北斗杯の新しいスポンサー関係者に『藤原佐為』という名前の人物がいることを知るまでは。

けれど、そんなことはおくびにも出さず、

 

『日本に来て驚きました。北斗杯は去年より日本国内での注目度が上がってるみたいですね。運営側も前回より広い会場を用意したようですが、もう一般客の見学席がほとんど埋まっている』

 

それとなく行洋の視線を大盤解説会場の方へ向けさせる。

この位置からなら、行洋からも壁際に立ち中継画面を見ている『藤原佐為』が見えるだろうと考えてのことだった。

安太善の言葉を通訳者が通訳し行洋へ伝える。

しかし、そんな安太善の思惑をいくらも介することなく、

 

「よかった。対局はまだ始まったばかりだな。前回は初日の中国対日本戦を見ることが出来なかったから、帰国する飛行機を一本早めたんだ」

 

行洋は対局中継画面を見ながら、日本に帰ってきたばかりだと無難な返事を返す。

『藤原佐為』の姿が見えなかったのか、それともネットのsaiと連絡手段を持っているだけでsai本人と会ったことがなく、視界に入ってもsaiと気づかなかっただけなのか。

『藤原佐為』について何の反応も得られなかったが、とにかくこれ以上行洋を引き止め立ったまま会話するわけにはいかない。

 

『そうだったのですね。検討室はこちらです』

 

行洋を皆のいる検討室へと安太善は案内する。

 

「塔矢先生!」

 

今日の対局がない韓国代表選手である3人を含め、中国団長の楊海など関係者が集まっている検討室で、部屋に入ってきた行洋に一番に驚きの声を上げたのは、日本代表の団長であり、門下の弟子でもある緒方だった。

台湾に行っていると聞かされていた行洋が、会場に来るとはアキラから何も聞かされていなかったからである。対する行洋の方も、なぜ緒方がここにいるのかと片眉を上げた。

 

「緒方君がなぜここに?」

 

「急だったのですが、当初団長だった倉田のスケジュールが合わず、自分が代わりに日本の団長になったんです」

 

緒方がテレビ前の席を行洋に譲り隣の席へ移動する。

 

「そうか、君が団長なら選手たちも心強いだろう。もしや北斗杯の合宿に緒方君も参加を?」

 

すでに日本のプロ棋士ではない行洋にそこまで詳しい情報は伝わらない。

だから、今年も去年同様、団長は倉田だろうと行洋は思っていた。

そしてすぐに、行洋と明子が家にいないことを丁度いいと、アキラの提案で始まったという北斗杯合宿が頭を過ぎったのだ。

去年は倉田も対局の合間を縫って合宿に参加し、選手たちを指導したのだと聞いていたから、もしかすると緒方も同じように参加したのではという考えに思い当たったのである。

 

「ええ。若い3人と囲碁漬けになるのもなかなか面白かったですよ」

 

「それは世話になった。ありがとう」

 

弟子に礼を言いながら、行洋は対局中の石を並べた目の前の盤上を見やる。

その内心、緒方が団長になっていたという事実に、緒方も佐為のことに気づいているのだろうと推測できた。

もしかすると、すでに緒方は佐為と何かしら接触をしようと試みた後なのかもしれない。それは緒方だけでなく、この場にいてネットのsaiを知る者であれば、皆何かしら同様に。

さきほど廊下で偶然安太善と鉢合わせたとき、世間話のように大盤解説会場の話題を安太善が振ってきた。

 

別に話題として不自然な話ではないが、その話題を振ってきた本当の目的は、大盤解説会場の様子ではなく、あの会場の壁際にいた佐為の姿を自分に気づかせるためだったのかもしれないと思い当たる。

一瞬だったが、佐為は隅の方で対局中継画面をじっと見ていた。佐為の本当の実力があれば、この場で検討の中心に座っても決しておかしくないだろう。

なのに佐為はヒカルを守るために、決してそれを良しとはしない。

 

先日のsaiとのネット碁で、行洋がsaiと何かしらの繋がりを持っていると多くの者たちが勘ぐっていることは承知している。

だからと言って、どんなに詮索されようと行洋はsaiについて約束通り誰にも何一つ話すつもりはなかった。対局が中断してしまいそれ以上続けることが出来ないと分かって、家に帰りアキラに追及されたときも、知らぬ存ぜぬを押し通した。

だが、碁を打ち高みを目指す者なら、決して誰もsaiという存在を無視できないだろう。

本因坊秀策の棋譜が今も多くの棋士たちを魅了して止まないように。

 

対局が進み中盤も終わりに近づけば、対局の形勢が次第にハッキリしてくる。

大将戦の盤面は互角のまま進んでいた。そして社も予想以上に趙石に食らいつき、まだまだ勝敗は分からない。

対して副将戦はというと、中盤にあって形勢は一目瞭然だった。

 

『進藤君が、すごいな。去年と比べてたった一年で遥かに強くなっている。去年が緊張で気負って実力を出し切れなかっただけ……いや、永夏と打ったときは気負いなんてなかったはずだ。けど……』

 

安太善がヒカルと王の対局盤面に注目しつつ、低く唸る。

対戦相手が、去年と同じ王だったことが、余計にヒカルの成長を浮き彫りにしていた。同じ一年。

その一年で二人がどれだけ成長したかは、歴然だった。

 

『落ち着いてる。それに冷静だ』

 

『ギリギリのところを見極めて容赦なく踏み込んでくる』

 

秀英と永夏が交互にヒカルの対局に対して的確な意見を述べてくる。

想定外の副将戦に楊海もただ驚きで唖然とするしかなかった。

 

「こりゃあ、一年で大化けしたな」

 

前回は2位。今年こそはと本気で優勝を狙っていたのだ。楊海もアキラの強さは認めている。大将戦は負けるかもしれないが、残りの副将・三将戦を勝てば中国チームの勝ちだ。

それなのにアキラと共にヒカルが対局に勝ち、チームそのものが日本戦で負けてしまえば優勝は難しくなる。

それにも増して

 

「今年は塔矢アキラと高永夏の対局が見られればと思っていたが、こんなの見せ付けられたら、今年も進藤君との対局を見たくなるな」

 

興奮気味に楊海は呟く。

もっと言えば、高永夏ではなく自分がヒカルと打ってみたいと言葉の端々から楊海の本音が伝わってくる。

去年叶わなかったアキラと永夏の対局も当然見てみたいが、ここまで成長したヒカルがどこまで永夏とやりあうのか。考えるだけでもわくわくしてくる。

 

「さきほど緒方先生が北斗杯のために合宿されたと仰ってましたが、まさか緒方先生がここまで進藤君を鍛えられたんですか?」

 

「まさか。俺は好き嫌いの激しい子供を優しく窘めたくらいですよ」

 

楊海に話を振られた緒方が、平静を装い無難に受け流す。

緒方自身、顔に出さないだけで内心は驚いているのだ。

ヒカルが打ち、記録に残っている対局の棋譜は全て目を通している。いずれ遠からず下から追い上げてくるだろう相手として、欠かさずチェックを入れていた。

 

しかし、棋譜でみたヒカルより、合宿で打ったときより、今対局室で王と打っているヒカルは強くなっている。今日のヒカルがヒカルではない別人だったと言われても、信じてしまうかもしれない。

それくらい今日のヒカルは別格に強い。

検討室で誰もがヒカルの成長に目を見張る中、

 

(佐為が見ているから、か)

 

副将戦の対局画面を見つめたまま、行洋は心の中だけで先ほど見た佐為の視線の先は、ヒカルの対局を見ていたのだと思う。

もちろんアキラや社の対局もそれなりに見ていただろうが、その中で一番にヒカルの対局を見ている。

もちろんヒカルも、佐為が己の対局を見ていることを、部屋の違う対局室で分かっている。それが絶対の自信となって今のヒカルを支えているのだろう。

 

『負けました』

 

王が自分の負けを宣言した。

中国語は分からなかったが、相手が頭を下げたことで、ヒカルも相手が負けを認めたのだと察した。

 

「ありがとうございました」

 

一礼し、とたんにヒカルの緊張が解ける。

 

(勝った、佐為ッ!)

 

ばっとヒカルは後を振り返った。

ヒカルの後では、まだ大将戦をしているアキラがいたが、構わず周囲を見渡す。そしてちょうど対局会場に入ってきた目的の人物の姿を見つける。

 

ヒカルと視線が合い佐為がフワリとヒカルに微笑む。

それだけで十分だった。

幽霊だった頃の佐為が、ヒカルが対局に勝つと微笑んでくれた笑顔と同じモノ。

ヒカルもまた佐為に微笑んだ。

 




■修正
感想でのご指摘で今さらなのですがルーリィ君の年齢が第二回北斗杯の段階で19歳となっていることに気づき、ルーリィ君の名前が出てくる部分を削除いたしました。


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12

初日の対局が全て終わり、日本代表は大将のアキラが勝ったことで、二勝一敗として中国を下した。

去年はアキラ以外、一局も勝てなかったことを考えれば大躍進だろう。

大盤解説会場で対局を見学していた客たちも日本が勝ったことに満足したようで帰っていった。このまま勢いに乗って韓国も倒せるのではと、選手たちを余所に騒ぐ客たちもいて、スタッフが静かにするよう注意する場面もあったと知らされた時は、嬉しいような面映い気持ちになった。

しかし日本チームに一勝を貢献したヒカルの表情は決して明るいものではなく、気が沈んだように伏せ目がちなまま、ホテルの部屋に戻ろうとして、

 

「塔矢、朝の続きだけど……」

 

ヒカルが言い出しにくそうに口を開いた。

 

「佐為は、佐為は俺にとってすごく大事な友人なんだ。二度と失くしたくない。その佐為を裏切るなんて、俺には出来ない」

 

自身がsaiであることを知られたくないと佐為が言うのであれば、いくらアキラであってもヒカルがsaiについて教えることはどうしても出来ないのだ。

佐為の悲しむ顔は見たくない。今日のヒカルの対局後、笑ってくれた佐為の笑顔をまた失いたくない。せっかく自分の下に再びやって来てくれた佐為が、ネットのsaiであることをヒカルが誰かに話したことで、また傍から消えてしまったらと思うと怖くてたまらなくなる。

 

「……そうか」

 

「ごめん」

 

「君が謝る必要なんてどこにもないだろう。別に嘘をついたわけじゃない。正直に君の気持ちを僕に言っただけだ。明日、僕らに対局はないが、中国対韓国戦だ。寝坊するなよ」

 

ヒカルの返事を待たず、アキラは自室の中に入ってしまった。

アキラはヒカルを責めなかった。かといって礼などもっての他で、すぐに話の矛先さえ変えられてしまった。

予想外なほど話は簡単に終わってしまったが、胸の奥にやりきれなさだけが蟠り残る。

 

(コレでよかったんだよな、佐為)

 

一人廊下に取り残されたヒカルは、自分で自分に言い聞かせることで納得するしかなかった。

 

 

 

 

二日目の中国対韓国戦は、大方の予想通りだろう。

高永夏の頭を一つも二つも抜いた強さは言うに及ばず、副将の林日煥、三将の洪秀英と、この一年で韓国選手は着実に力をつけてきている。もし中国が勝てるチャンスがあるとするなら、三将の趙石と秀英の対局だろうか。盤面は秀英が若干優勢で、この後の展開次第で逆転の可能性は十分ある。

 

(今年は3位も本気で考えないといかんな)

 

本当に3位になって中国棋院に帰ったら、棋院のみんなに何を言われるか分からないと、楊海は頭を抱えた。

 

「秀英ツケてきた!?」

 

ヒカルが声を上げる。

 

「ツケぇ?ちょっと強引過ぎやしないか?」

 

秀英の以外な一手に楊海が顎を撫で唸る。若さゆえだろうか、多少の損など目をくれず攻めの姿勢を崩さない。

そこを危なっかしいと思うのは、自身の碁が熟してきた者の身勝手な感傷なのだろう。若い力がぶつかり合う様は、いつになっても心躍ることに変わりないのだから。

検討の合間に、手洗いで部屋の外に行洋が出れば、関係者が世話しなく動いていると同時に、選手が一手打つごとに大盤解説の会場から『おお』と歓声が上がる。

 

その大盤解説会場の正面扉が開き、会場内が廊下から直接見えないよう配置されている仕切りにもたれかかって、中継画面を腕を組みじっと見ている人物を見つけ、行洋は歩みの方向を切り替えた。

仕切りと背中合わせした形で、独り言のように話し始める。

 

「こんなところで一人立って中継画面を見るだけとは、少しさびしくないかね?」

 

突然背後から話しかけられた佐為も、一瞬相手が誰で、どこから話しかけているのか戸惑ったものの、見知った声からすぐに行洋が仕切り越しの背後に立っているのだと悟る。

 

「……来ていらしゃったのですね。でもさびしいも何も、こうしていられることすら神に感謝しなくては。それに一応スポンサーも大会関係者ですので、何かあったときのためにスタッフから連絡の取りやすい場所にいないと」

 

お互い相手に向かい合わず、仕切り越しの背中合わせに会話を続ける。

本来なら、佐為は検討室の中心で検討をしていてもおかしくない実力者だ。

 

(勿体無い)

 

なのに、大盤解説の会場で一人黙々と中継画面を見てるだけという現状に、行洋は静かに目を伏せた。

 

「進藤君の昨日の対局は見事だった」

 

「私の目から見ても、本当にいい碁だったと思います。けれどいつの間にか私が傍にいなくてもヒカルは成長しているのだと思うと、少しさびしい気持ちにもなりました。勝手ですよね」

 

「本当に君はそう思っているのか?」

 

「私が傍にいれなかった間も、ヒカルがちゃんと一人歩いて前に進んだ結果です」

 

「そうかな?君が傍にいることで成長出来た部分があるのと同じくらいに、傍にいれないからこそ成長できた部分があると私は思う。進藤君と同じく、君の強さを追いかけている私だからこそ分かる」

 

「だといいのですが……。でも塔矢先生に追いかけられるというのは、……なんだか、かなり怖いです」

 

ヒカルと行洋の二人に後から走って追いかけられている光景を想わず想像してしまい、佐為はくすくす肩を揺らす。

ややあって込み上げる笑みが落ち着いてから

 

「先日の対局は途中で中断してしまい残念でした」

 

「私はパソコンに詳しくないのだが、ああいうこともあるのだな。最初何が起こっているのか分からなかった」

 

「次は途中で中断することがないよう何か対策を立てましょう」

 

「ああ、そうしてもらえると……」

 

言いながら行洋は口を閉ざし、視線の方向を斜め先に向けた。そこには行洋の姿に気づき、こちらを凝視している客らしき者たちが二人いたからだ。

一般に顔と名前を知られていない佐為と違い、行洋は引退しても囲碁ファンの間で高い人気があり顔が知られている。ここで騒がれては解説の邪魔になる。下手に騒がれないうちに退散したほうがいいだろう。

 

「また連絡してくれ」

 

それだけ言うと、行洋は佐為の返事を待たず、検討室へ戻った。

結局は、ヒカルが声を上げたツケの一手が勝敗の別れとなり、趙石が秀英に逆転し勝ちを収めた。やはり強引過ぎたのだ。だが対局内容としては始終見応えのある碁で決して悪いものではなかった。

そして残りの大将、副将戦は高永夏と林日煥が勝ちを収め、チームとしては韓国の勝ちとなる。

 

普通なら負けた選手が一番落ち込むものだが、今回は団長の楊海が見るからに落ち込んでいた。これで中国チームは2敗。中国棋院に戻れば皆に叩かれるだろう。

中国対韓国の対局全てが終わり、明日の対局と出場選手の対局カードを決めるミーティングを行うため、ホテルの部屋に戻ろうとして、

 

「あっ、先行ってて!すぐ行くから!」

 

「進藤?」

 

団長の緒方が止める間もなく、ヒカルは駆け足で走っていく。

 

「塔矢先生っ!」

 

「進藤君?」

 

行洋の元へヒカルは走り駆け寄り、キョロキョロと周囲に誰もいないか確かめて、

 

「そのっ、佐為のことなんですけど、ネットのsaiじゃなく、藤原佐為の方……」

 

「藤原佐為とは?私には覚えのない名前だが」

 

「あっ……そか、なんでもないです……」

 

話は聞こえてないかもしれなくても、二人が向き合い会話をしていることは遠くからでも分かるだろうし、佐為と行洋が既に面識ある知り合いだということは、内緒にしてあると佐為から言われていたことをヒカルは思い出す。

それらを踏まえてボロを出さないよう気をつけながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。

 

「塔矢先生は……もしネットのsaiが目の前にいたら、やっぱり打ちたいって思いますよね?」

 

「思うよ」

 

行洋は即答した。

 

「saiも同じように塔矢先生と打ちたいって思ってると思いますか?」

 

「saiにも同じように思って貰えたら光栄だ」

 

そこでヒカルは少し悩みつつ俯き加減に

 

「もしsaiが塔矢先生じゃなくて、でも塔矢先生と同じくらいに強い棋士に対局を望まれて、本当は嬉しいのに、でも対局を断るのはどうしてだと思いますか?きっと内心はすごく打ちたいと思っているはずなんだ」

 

佐為の部屋を訪ねてまで、対局を強く望み申し込んだ緒方。

そして佐為は緒方についてヒカルに何も言うことはないが、対局申し込みを断っている。それも自身がネットのsaiということすら認めていない。

幽霊だったときと違い、今の佐為には肉体があり生活がある。そして幽霊だったことを思いだす前の人生があり、ヒカルの知る『藤原佐為』と全く同じでないことはもう分かっている。

だが、根本的な部分の『碁が打ちたい』という気持ちは決して変わっていない筈なのだ。

 

「対局申し込みを断るだけの理由があるのだろうね。私はsaiが誰かの誠意ある申し込みを軽い気持ちで断る人間とは思えない。断るだけの、断ってまで守りたい何かがsaiにはあるのだと思うよ」

 

「打ちたいのに、断ってまで守りたい何かって?」

 

最初こそネットのsaiについて話すことに、慣れない言葉を選び警戒しながらしどろもどろに話していたのに、ヒカルは話が進むにつれてそんなことなど忘れてしまったように素直な眼差しを向けて話しかけてくる。

同じ歳でも大人に囲まれ、遠まわしに話すことにも慣れているアキラと、佐為が育てたヒカルの微笑ましい未熟さに、思わず苦笑がこぼれそうになる。

 

「さぁ。そこまでは、私には分からないな。何しろsaiとはネット碁でしか対局したことがないのだからね」

 

このまま会話を続けていれば、ヒカルが佐為の名前を出しかねないと、行洋は話に区切りを打つ。

それでようやくヒカルは初めの前提を思い出したのか、はっとして口を右手で覆い閉ざした。

 

「話はもう終わりでよかっただろうか?」

 

「は、はい!すいません!あと、塔矢先生は明日もここ来られるんですよね?」

 

「ああ、そのつもりだが?」

 

「絶対!絶対来てくださいね!きっと楽しいことがあるから!ありがとうございました!」

 

自分の言いたいことだけ言ってしまえば、深々とお辞儀をして、嵐が去るかのようにヒカルは走り去っていく。

 

(楽しいこと?)

 

ヒカルの最後の言葉の意味が分からず、疑問符を浮かべたが、ヒカルの後姿を目で追いっていた行洋は、離れたところから緒方がヒカルを待つ素振りを見せながら、自分を見ていることに気がつく。

恐らく行洋とヒカルが会話しているのを、緒方は会話など聞こえないのにずっとあそこで見ていたのだ。

 



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13

夜。

大会会場であるホテルラウンジのバーカウンターで酒を一人飲んでいる緒方の姿を見つけ、行洋は断りをいれず隣の席に座った。

 

「……塔矢、先生」

 

今最も会いたくない人物に会ってしまったかのような苦々しい表情になり、緒方は行洋から顔を背けた。

そんな緒方に苦笑一つして、

 

「ネットのsaiとて、悪戯に周りをからかって自身の正体を隠したいわけではないと私は思う。彼にも正体を表立って名乗ることが出来ない理由があるのだ。そこまでして守りたいものも」

 

「ああも隠れたい理由なんて、私にはさっぱりですね。それを一緒になって隠す周囲も」

 

言葉使いを最小限にして緒方はつっけんどんな態度を返す。

酒の場だ。多少なり師と弟子の関係が緩くなっても許されるだろう。

先ほどの言葉にはヒカルだけでなく行洋も含まれているのだが、やはりと思う。行洋がこうして緒方を気遣ってくるということは、はやり藤原佐為はネットのsaiなのだと改めて思う。

 

師である行洋だけがsaiと対局できて、自分は対局を受けてすらもらえない。その差に嫉妬を覚えずにはいられず、自身の師であっても今だけは顔を合わせたくなかった。

けれど、行洋はそんな緒方の心情を少なからず察しているだろうに、立ち去る気配はなく、

 

「だが、saiが何を守ろうとしているのかくらいは、緒方君も分かるだろう?」

 

「え?」

 

「だからと安易にそれに手を出せば、saiは怒るだろうからオススメはしないがね」

 

千年の時をかけ育てたヒカルに良からぬ手を出せば、佐為は烈火のごとく怒るだろう。

その光景を想像してしまい行洋は苦笑し肩を竦めた。

 

「私からは何も言えないし、どう動くこともできない。初めて対局した時、私は引退を賭け、saiは負ければ素性を明かすことが対局条件だった」

 

「会ったこともない相手に引退を賭けて対局したのですか?」

 

「だからこそだ。素性が知れずネット碁に隠れて打つだけの相手に、自分は決して負けないと思った。そしてプロ引退を賭けたからには、必ず勝って素性を明かさせるつもりだった」

 

淡々と行洋は当時のことを思いだすように話すが、実際いきなり行洋が4冠というタイトルを持った状態で引退した時は囲碁界全体に激震が走ったのだ。

関係者や親しい者は行洋の引退を引き留めようとしたし、棋戦のスポンサーからは棋院に何度も電話があり、直接経緯や今後のことを確認しにくる会社もあった。

 

それが公式戦ですらないネット碁で行われた一局が原因だと本人の口から聞かされて驚かないという方が無理だろう。

実際、噂は緒方も耳にしていた。行洋が引退したのがネット碁でアマに負けたからではないのか?と根も葉もない噂が流れたのは知っている。

しかし行洋とsaiの対局内容は紛れもない名局で、負けた一局だとしても決して恥じるような内容ではなく、ましてやそれが原因で引退するとは到底考えられなかった為気に流していた。

 

しかし本人の口から真相を聞かされ、しかも行洋は口約束を実行し、プロを引退した。素性を明かせばいいだけのsaiと違い、行洋は失うものが大きすぎる。

 

(ネット碁の対局で本当に引退するなんて………)

 

逆に考えれば、それだけの覚悟があったからこそあれだけの名局が生まれたのかもしれない。観戦していただけの自分ですら、常に画面から目が離せず気持ちが高揚し、終局してからも行洋に逆転の一手がないか探し続けた。

対して引退を賭けて対局に臨む行洋を退けたsaiも、自身の賭けるものが素性だけだったとしても生半可な心構えでは、行洋の一手に応える以前の話だったろう。

 

実際、行洋も病室でヒカルと交わしたsaiとの対局経緯を話すのは緒方が初めてである。公式対局でもないネット碁の一局を理由に引退すると言えば、血迷ったかと疑われ、saiへ余計な注目が集まるのは予想できた。

だからこそ引退の理由は全て一身上の都合ということにしたのだが、言葉を失っている緒方に

 

(自分の師がネット碁で引退するなど呆れられたかもしれんな)

 

と周囲には迷惑をかけてしまったが、当時の自分の判断を懐かしむ。

だが、今でも引退したことを後悔していないのだから致し方ない。

 

「けれど、saiがあれだけ懸命に守ろうとする相手が、一方的に守られているだけの現状に満足するだろうか?」

 

「塔矢先生?何を……?」

 

「きっと守られているだけで満足はしないと私は思う。彼はもう見守られているだけの子供ではなくなったのだから」

 

佐為と初めて対局したネット碁で、行洋は改めて思い知った。人はいくつになっても未熟で、成長に限界はないのだと。

ネットのsaiと打つことで、行洋は新しい自分を見つけ、日本の中で留まっていた目を世界に向けることが出来た。

ヒカルが佐為を失ったことで成長できたのなら、次は佐為の番だろう。成長したヒカルに、今度は佐為の方が素晴らしい何かを教えてもらう番だ。

 

「進藤君に明日楽しみにしてくれと言われた。彼が何を企んでいるのか、面白そうだ」

 

ロビーでヒカルと交わした会話を、ほんの少しだけ緒方にも伝える。

たっぷりの悪戯と希望を同じくらい瞳に映して輝かせていたヒカル。いくら佐為でもヒカル相手なら怒るに怒れないだろうと踏んでいる。

そう言った内心では、冷静さを崩したところのない佐為の怒った姿を一度くらい見てみたくもあるな、と行洋は他人事のように思った。

 

 

 

 

北斗杯、対局3日目当日。

団長と選手の4人で対局場入りしたヒカルが、ふいっと顔を横に振り向く。それに釣られるようにしてアキラも振り返れば『藤原佐為』という人物が、会場の一角で+スタッフ数人と打ち合わせをしている姿が視界に入り、顔を僅かに顰める。

 

(また『藤原佐為』なのか……彼が本当にネットのsaiなのか?でも、進藤と初めて碁会所で打った対局は……)

 

ヒカルが固執する『藤原佐為』がネットのsaiと完全に無関係とはアキラには、どうしても思えない。

ネットのsaiはもう一人のヒカルだと堅く訴える自分と、目の前でスポンサーとして現れた『藤原佐為』がネットのsaiだという自分。

二つの自分がアキラの中で衝突し、対局前だというのに迷いが大きくなる。

 

「アキラ君?」

 

神妙な顔つきになっているアキラに、対局カードを受付に申請してきた緒方が声をかけるも、すぐにその原因を見つけ、顔を上げた。

『藤原佐為』はこちらに気づかない様子で打ち合わせを続けているようだが、ヒカルはまだじっと見ているのだ。

 

「俺は佐為を裏切りたくない。それは今も、これからも変わらない。俺の大事な友人だ。でも、だからって佐為に守られているだけの自分も嫌なんだ。ずっとそこに在ると思っていたものが、何の前触れもなく急にいなくなる。あの時みたいな後悔は絶対するもんか!!」

 

唐突にヒカルが誰に言うでもなく毅然と言い出し、アキラと緒方はぎょっとする。

けれど、先日、廊下で会話したときと違い、すぐ傍に社とているというのに、ヒカルの瞳に迷いはなかった。

 

「塔矢!今日は絶対勝つぞ!」

 

呆気に取られているアキラに構うことなく、ヒカルはさっさと自分の席へ行ってしまう。

 

「誰にモノを言ってるんだ?言われなくとも、ボクは勝つ!」

 

意気込むヒカルに一歩遅れて、アキラも毅然と言い放ち自らの席へ向かう。

その後に一人残された社は

 

「だから、俺もいるっちゅーねん。いい加減にせえ。全くお前ら、俺を何回忘れる気や?俺だって今年は勝つ!」

 

北斗杯出場が決まったスポンサーの挨拶ではヒカルが号泣し出し、いざ合宿となれば、突然団長が倉田から緒方へ交代し、自分の知らないうちに勝手に周りは進んでいる。

自分だけ取り残されているような疎外感に、ぶつぶつと文句を垂れて社が席へ向かうその後ろで、緒方は場を忘れて爆笑した。

 

 

 

 

 

3日目の対戦カードは、大将戦が高永夏対塔矢アキラ、副将戦が林日煥対進藤ヒカル、三将戦が洪秀英対社清晴となった。

去年との違いは大将戦と副将戦の対戦相手がそれぞれ代わっただけだ。

 

『去年のように今年は進藤君を大将にしなかったんですね、緒方先生』

 

安太善が平静を装い、探りを入れてくる。去年の大番狂わせがあっただけに、今年もヒカルを永夏にぶつけてくるのではと疑っていたのだ。

最も高永夏はというと、実力で自身が韓国代表の大将となることを譲る性格ではないので、団長の安太善が頭ごなしに言ったところで、ハイソウデスカと頷くものでもなかったのだが。

 

大方の予想通りと言えばそこまでだが、緒方が何の魂胆もなしに、アキラを高永夏にぶつけ、ヒカルを副将に据えたとは思えなかった。

対して緒方はというと、韓国出場選手の実力から言って、韓国の出場カード順に今年も変わりがないと踏んでいた読み通りの対戦カードだ。

 

「去年は知りません。今の状態でのベストを選んだだけです」

 

『でも、一昨日の進藤君はすごかったじゃないですか?あの進藤君相手なら高永夏でも』

 

「アイツは極端に波がありますから、今日も一昨日と同じように確実に打てるなら大将にしてもよかった。その代わり、今年は本気で日本は狙わせてもらいますよ。一位」

 

余裕たっぷりに緒方は答える。もちろん昨晩のミーティングで、ヒカルは今年も高永夏と対戦したいと散々ごねていたのだが、緒方が適当な理由と、合宿で使ったハリセンも合わせて、上手く丸め込んだ。

勢いと無鉄砲さだけで勝負に勝てれば、こんなつまらないゲームはない。

去年のことは緒方も倉田からある程度聞いていたが、だからと緒方まで倉田に乗ってやる気はなかった。

 

自身が団長を務めるからには、本気で一位を狙わないでは勝負師が廃るというものだ。

昨日の夜まで、佐為に対局を断られて不満顔のしかめっ面で酒を煽っていたのは誰だっただろう?

二人のやり取りを目の前に、行洋はまだまだ若い部分が抜けきらない弟子に、黙したまま笑みを零した。

対局が始まると三つの盤上で序盤のうちから早くも戦いが始まり、大盤解説を今年も担当していた渡辺は、3つの盤面をそれぞれ解説するのに悪戦苦闘することになる。

 

(盤面三つとも、こんな序盤から戦い始めるなんて)

 

プロの対局を一般客に説明するのは、一つの盤面だけでも説明に苦労するし時間もかかる。それが三つもとなると、要所を全て解説するというわけにはいかなくなる。

それでも、打たれる一手が若い力がぶつかるどれも心躍るものなのだ。

渡辺は自身の休憩時間を削っても、懸命に対局の解説を続けた。

 

 

 

 

 

『どうしたんだ?三人とも、じゃなくて3つの盤面か……。タガが外れたというかなんというか、やっぱり永夏まで……』

 

中継画面を観戦しながら安太善は頭痛のする頭を抱えた。

高永夏の対戦相手が塔矢アキラだと分かり、去年ほどにはならないかと安堵したのは全くの無駄だった。無駄どころか、ここしばらく見ないほど、対局している全員が無茶とも取れる一手を次々打つのだ。

 

「えらくみんな好戦的だなぁ~」

 

中国チームが打っている対局ではないからか、高みの見物とばかりに楊海が楽観した感想を言っている。

 

「息子さん、えらく弾けてませんか?兄弟子の緒方先生から見てどうです?」

 

楊海に問われて無言を通す行洋の代わりに、緒方が口を開く。

 

「まだまだですよ、でも面白い。見ているこっちまで碁が打ちたくなる」

 

言葉の端々から、緒方も対局に刺激されていることが伝わってくる。

 

「一昨日の進藤君の対局に刺激されたか」

 

好戦的、それも確かに当てはまるだろう。

けれどその根底にあるのは、出場選手の『碁が打ちたい』という純粋な気持ちが爆発した現れのように行洋には感じられた。

佐為がヒカルと再び出会うことで、ヒカルが刺激され、その刺激がさらに北斗杯出場者たちに水面に落ちた波紋のように広がっていく。

この波紋は今回の北斗杯に留まらず、対戦した中国、韓国、日本、そして対局を観戦したり、棋譜を見るだろう台湾の棋士たちの心をも揺り動かす。

まだ見えない未来が様々と見えるようだった。

 

 

『ありませんっ……』

 

三つの対局で最後までかかった副将戦で、林日煥が自身の負けを宣言する。

 

「ありがとうございました」

 

対局の終了を宣言し、ヒカルはふう、と張り詰めた気を解いた。

最後まで黒と白の間で半目が揺れていた。

それを白のヒカルが制したのだ。

チーム戦いとしては、大将戦を高永夏が勝ち、三将戦を社が勝った。それにヒカルの勝利も合わせて日本チームの勝ちとなる。

凡その予想を裏切り、日本が一位になったことが決定した瞬間だった。

対局会場の壁際に立ち、選手たちに拍手を送っている佐為の姿を見つけると、初日の対局の時と同じように、佐為は満面の笑顔を向けてくる。心からのおめでとうと、全力を尽くした対局全てに敬意と賞賛をはらいながら。

 

(見てろよ、佐為)

 

俯き加減にヒカルの口角が斜めに上がり、ニンマリとする。

勝負は終わったというのに、ヒカルの目から光が消えることはない。

 

 

 

 



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14 

 

北斗杯の表彰式が始まり、対戦成績の発表が一位から順に表彰される中、一位の日本には新規スポンサーである佐為から表彰状と賞金の目録が手渡された。

北斗杯は日本の企業主催の大会であり、大会そのものも日本で開かれる。そのため自国が一位を取ればやはり嬉しいものだ。

大盤解説の会場にも一般客が、この三日間を戦い抜いた選手に拍手を送ろうと多くの人数がまだ残っている。

去年の日本対韓国戦が惜しかっただけに、今年の成績を喜ばない者は一人もいないだろう。

 

そして、ようやく各国団長からの挨拶が終わり、これで表彰式も終了というとき、一人元気に挙げられた手があった。

 

「はいはい!」

 

「え?進藤君?な、何かあるのかな?」

 

「うん!あるから喋らせて!」

 

突然のヒカルの言い出しに、司会者がどうしたものかと団長の緒方に助けを求め、視線を向ける。

しかし、

 

(塔矢先生の言っていた通り、何かする気か)

 

緒方は、隣から元気に挙げられるヒカルの手を、見てみぬ振りを決め込んでいるのか、腕を組んでそっぽを向いたまま司会者と全く視線を合わせようとしないのだ。

逆に司会者に助け舟を出す気はさらさらなく、司会者にヒカルのやりたいようにらやらせろと無言の圧力をかけているようにも取れる。

普通なら団長の緒方が一言なり嗜めるはずなのに、と戸惑いながら、その緒方が止めないのでは司会の自分が選手であるヒカルを無視するわけにはいかない。

 

「じゃあ、手短にね、進藤くん」

 

心配しつつマイクをヒカルに渡すも、その心の中では、ヒカルが絶対これから何か良からぬことをやらかすと警鐘が鳴っている。

表彰式の経過を見守っていた佐為も、ヒカルが何を考えているのか分からず、壇上を見守る。

そんな佐為を一瞥してから会場を見渡すと、似合わない神妙な顔つきでヒカルは切り出した。

 

「急にすいません。でもどうしても言いたいことがあって。それは……この場をお借りして、自分を今日まで指導し、導いてくれた人に感謝を伝えさせてください。」

 

「ぶっ!」

 

飲もうとしていたシャンパンが咽てしまい、佐為はわたわたとスーツのポケットからハンカチを取り出し口元を拭う。

 

(ヒカル!何を言う気、まさか!?やめてくださいよ!)

 

出来るものなら、今すぐにでもヒカルの口を押さえ、そのままヒカルを攫って会場から連れ出したかった。

けれど、そんなことが出来るわけもなく、ヒカルがマイクを持って嬉々と話すのを黙って聞くしか出来ない。

 

「その人は、俺にとって碁を教えてくれた師匠であり、とても大事な友人でもあります」

 

途端に会場にどよめきが起こる。アキラの師は今更言うまでもなく父親の行洋だ。社も関西棋院所属のプロ棋士がいる。二人に対してヒカルの師匠欄にはこれまで一度も記入はなかった。

 

「進藤を指導してきた人?そんな人いたのか?」

 

「さあ?でも進藤って確か師匠っていないはずだろ?」

 

会場のあちこちで起こるざわめきを眼下に、ヒカルは息を大きく吸い、用意していた言葉をマイクに通した。

 

「ネットのsaiって言えば分る人も少なくないと思います」

 

次にざわめいたのは一般客や碁に詳しくない関係者ではなかった。その会場にいた棋士たちが一斉にざわついたのだ。ネットのsaiを知らなくても、棋士たちがざわついたことに、客や関係者たちもネットのsaiとは誰なのかと騒ぎ始める。

 

「こいつは、やるねぇ進藤君」

 

楊海が鼻を鳴らす。せっかくの日本にまで足を運んだのだから、三位以外の土産があった方が、中国棋院に戻ったとき責められる声も少なくなる。

 

(ひぃ!それ以上はやめっ!)

 

佐為が心の中で懸命に叫ぶのも空しく、

 

「囲碁なんて全く知らなかった俺に、石の持ち方から今まで教えてくれたのは、そこにいる藤原佐為です」

 

ヒカルが壇上から指差した佐為に、会場全ての視線が集まった。

 

(ホントに言った……。どういうつもりなんですか、ヒカルの馬鹿……みんなの前で宣言して、これじゃ誤魔化すなんてとても出来ないですよ……)

 

これだけきっぱり公言したのを、佐為が今さら何を言っても無駄なのは分かっている。分かっていても、どうにか誤魔化せないかと考えてしまう。

 

「ありがと佐為。俺は佐為と出会わなかったら、こうして囲碁を打ってることは絶対無かったと思う。佐為と出会えたから、今の俺がここにいるんだ」

 

しみじみと感慨深く話すヒカルに、演説を聴く誰もが目頭を熱くさせていることだろう。しかし、佐為が目頭を押さえているのは、愛弟子の感謝の言葉に感極まっているからではなく、これから自身がsaiとバレて騒がれるだろうことへの頭痛で目頭を押さえているだけだ。

つい先日、ホテルの部屋に緒方が対局を対局を申込みに訪ねてきたときは自身がsaiではないというアリバイを言ったばかりだというのに、調べられたら佐為とsaiの矛盾は数えきれないほど出てくるだろう。

 

「だから、いいじゃん。矛盾とかさ、全部無視(シカト)すれば」

 

「え?」

 

先ほどまでの神妙な口調が嘘のように明るく言い放つ。

 

「だって佐為が強いのは事実だ。それだけは変わらない。佐為が負けるところなんて、俺は一度だって見たこと無い。お前は、誰よりも強い」

 

現役トップ棋士だった行洋にさえ、佐為は真剣勝負で勝ったのだ。

恐らくこの会場にいる誰より、佐為は強いとヒカルは確信している。

 

「色々詮索してくるヤツらなんて適当なこと言って誤魔化せばいいさ。佐為が強いのは紛れもない事実なんだ。俺も説明するのメンドクサイし。お前、口上手いから、そういうの得意だろ?」

 

ヒカルの言葉に、さすがに会場がどよめいた。

初めこそ今まで知られていない影の指導者に愛弟子が感謝の言葉を述べるという、中年年寄りが大好きな涙と拍手を誘う場面のはずだったのに、それがいつの間にか『適当に誤魔化す』で『メンドクサイ』に変わっている。

反対に会場のサイドで話を聞いていた行洋などは、あたかも今にも笑い出してしまいそうなのを懸命に堪えるかのように、口元を手のひらで押さえ斜め下を向いてしまっている。

昨日の夜は不謹慎にも佐為の怒る顔を一度くらい見てみたいと思ってしまったが、今の佐為の顔には負けるだろう。

 

「観念するんだな、佐為」

 

佐為の隣で事の成り行きを静観していた戸刈が、さらりと駄目押しする。

ここまで言われているのに、佐為が否定すれば、間違いなく大騒ぎになる。言い出したヒカルを含めてだ。故にこの騒ぎを穏便かつ和やかに締めくくるには、佐為が認めるのが最善なのだ。

佐為が用意していた最後の味方まで、ヒカルは簡単に味方に付けてしまう。

 

「全く……貴方という人は……」

 

困ったような、けれど込み上げる嬉しさが滲み出たような微笑で佐為は、壇上のヒカルを見やった。

 

「ありがとう、ヒカル」

 

佐為が自身をネットのsaiであることを公衆の面前で初めて認めた瞬間だった。

 

 

 

 

「塔矢先生ともネット碁で対局されたというのは本当ですか?しかも藤原さんが対局に勝ったというのは?」

 

「もし本当なら藤原さんはプロ棋士ではないですよね?それらしい大会に出た記録もありませんし、藤原さんはどういった碁の勉強をされたんですか?」

 

ネットのsaiであることはもちろん、引退してもトップ棋士であり続ける行洋に真剣勝負で勝ったという佐為に、集まっていた棋士はもちろん記者たちが次々と質問を投げかける。

会場にいた行洋がsaiに負けていることを自ら認めたことで騒ぎは一層大きくなっていく。記者の中には記事には出来なくても行洋が引退する一因になっただろうsai vs toykoyoの対局を知っている者もいた。

 

噂だけはずっと数年前から今まで消えることなくあったのだ。

プロより強いアマがどこかにいる、と。

一見して何の根拠もないネットの噂だったが、強さだけが重視される囲碁で、その噂が広まるだけの根拠がなければ噂などあっという間に消えていただろう。

その正体不明の棋士が、感動的なヒカルの告白で明らかとなったのだから、記者が食いつかない筈がなかった。

 

「それはもちろん」

 

「もちろん?」

 

もったいぶった言い方をする佐為に、記者たちが鸚鵡返しに反芻する。

 

「本を読んだり詰め碁を解いたりしました」

 

途端に微妙な沈黙が流れる。

 

「……本読んで、詰め碁を解いただけ?」

 

「そうです」

 

さも当たり前とばかりに佐為は極上の笑みを称える。

 

「しょうがないじゃないですか、それで強くなれたんですから。ね、ヒカル」

 

「うん。しょうがない」

 

2人顔を合わせて悪戯っこのようにニンマリ笑む。

感動的な告白だった。これまで師匠がいないとされてきた棋士が、自らの師を明かし、礼を述べるという、絵に描いたような感動劇だ。

だが、感動劇と一緒に、強さについては適当に誤魔化すと公言したとおり、二人は適当なことしか言うつもりがないのだ。

 

「お父さんは藤原さんの強さの秘密をもちろんご存知なのですよね?」

 

会場の隅で様子を面白そうに眺めていた行洋の隣にアキラが立つ。

 

「大まかには」

 

「でも、教えてはくれないのですね」

 

「明らかにすべき秘密とそっとしておいた方がいい秘密がある。そしてこの場合、後者だと私は思う」

 

「卑怯な逃げ方だ」

 

間髪入れずアキラは行洋を非難する。

自身の父であり師ではあっても、3年前のsaiとの対局の時と同じく、これだけ騒がれておきながら黙り続ける行洋に文句の一つや二つ言いたくなる。

 

「……おかしなものだ」

 

「お父さん?」

 

少し拗ねたように非難したアキラに気を悪くするどころか、クスリと笑みを零す。

どこか嬉しそうな雰囲気にアキラは首を傾げた。

 

「少し前まで、プロ棋士であったときの私は外面を重視し過ぎていたのかもしれない。それもプロ棋士としてあるべき模範の姿であったと思うが。突き詰めるだけの囲碁から一歩後ろに下がって周りを見渡せば、こんなに心に余裕が出来るものなのだな」

 

神の一手を極めることを目標として碁を打つことは今も昔も変わらないが、中心から周囲を見渡すのではなく、一歩離れた場所から中心を見るのでは、見える景色は全く別物だ。

 

「プロ棋士をやめて言い訳が上手くなったとは思います」

 

上手く誤魔化されて納得出来ないアキラが、悔し紛れに言い残し、壇上の方へ行ってしまう。

壇上では変わらずヒカルと佐為が取材陣に囲まれている。

だが、言及を重ねられても、ヒカルと佐為の表情が曇ることはない。

明るい表情のままで受け答えを続けている様子からして、『適当に誤魔化し』ているのだろうと分かる。

あまりにも明け透けに誤魔化されて、記者たちは気が抜けたような乾いた笑いを零すしかなかった。

 



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15 佐為VS緒方 【完結】

 

 

本来の予定なら、大会が終われば韓国、中国の選手たちは当日のうちに母国へ戻る予定だった。前回は、秀英が個人的に日本に残りヒカルと対局していたが、出場者と団長まで全員が日本に滞在日を一日延ばした。

その理由は、saiと緒方が朝からネット碁で対局すると、事前に分かっていたからである。

 

理由が何故かはヒカルも分からない。自身がネットのsaiであると認めても、佐為はなぜか緒方との対局を、盤面向かい合うのではなく、ネット碁で打つことに拘ったのだ。

ネットのsaiであることを自ら認めているのに今更何故?と周囲は頭を捻ったが、緒方にしてみればsaiと打てさえすれば、もう盤面向かい合おうがネット碁だろうがどちらでも良かった。

3年前、トップ棋士として最盛期だった行洋を打ち負かしたsai。

そのsaiとようやく対局が叶うのだ。

当然対局するからには勝つに越したことはない。

 

しかし、己の一手にsaiが応え、試され、挑んでくるというのは、北斗杯の会場で交わした言葉での約束より、優しげな雰囲気を崩すことなく細められた鋭い視線が向けられたことの方が、緒方に対局の実感と歓喜をもたらした。

その対局を観戦するために、塔矢家に棋士たちが久しぶりに集まっているのだ。

 

「君は藤原さんの傍で対局を観戦するのかと思っていた」

 

「俺もそうしようかと思ってたら、佐為にこっち行けって断られたんだよ。対局中、一人で検討してるより皆で検討した方が俺の勉強になるからって」

 

清々しい朝からむすっと不満顔で答えるヒカルに、アキラは呆れながらも下駄箱からスリッパを出してやる。

そのアキラの影からヒョイと、寝癖でさらに跳ねたツンツン頭が顔を出す。

 

「なんや、進藤こっち来たんか」

 

寝起きなのだろう。ボリボリと寝癖がついた頭を手で掻きながら現れた社に

 

「社?大阪戻ったんじゃ?」

 

「俺は塔矢先生がついでや言うてここ泊まらせてくれた。宿代勿体ないって」

 

流石のヒカルも行洋の名前を出されては、文句はつけられない。

 

「ホラ、社もさっさと顔洗ってこい。もう皆揃っているんだぞ!」

 

アキラに急かされて洗面台へと社が向かう。

だが、ヒカルにとって最も意外だったのは、佐為と対局する緒方も塔矢邸に来ていたことだった。

何故対局する本人が観戦・検討するために集まっている塔矢家の、それもアキラの部屋にいるのだと、ヒカルはじっと襖の隙間から表情の見えない後姿を覗いて、またこっそり襖を閉じる。

 

「藤原君が緒方君に対局後そのまま検討できるウチで打つのはどうだろうかと提案してね」

 

検討用の広間で上座に座った行洋がそう言ったとき、後になって考えれば、確かにヒカルは何かの勘が働いたのだ。

行洋、否、佐為がまだ何かを企んでいる。

そんな気がしたのに、目の前ですでに今か今かと対局が始まるのを待っている楊海をはじめ、中国選手たちや韓国の安太善、高永夏、洪秀英らの姿に、考え過ぎかと軽く流してしまった。

 

昨日対局したばかりだというのに、こうして全員揃って佐為と緒方の対局を観戦しようとしている。その現実に、ヒカルは不思議な感覚になった。

ただ、前回、saiのアカウントを使用しtoya-koyoと対局して、対局を観戦しようとしたユーザーのアクセスが集中し過ぎて、対局途中でサーバーが落ちてしまった前例がある。

 

故にそのニノ鉄を踏まないために、有名になり過ぎたsaiとtoya-koyoのアカウントは使えない。

よって観戦のために作ったヒカルのアカウントを、今回に限り佐為が代替ということで使用することになった。

これならヒカルのアカウントは一般ユーザーには知られていないから、サーバーが落ちるという最悪の状況は回避できる。

対局は行洋の時と同じ持ち時間三時間の、白コミ6目半で行われた。あらかじめログインしていた緒方のアカウントに佐為が対局を申し込むことで、緒方が黒、佐為が白を持つ。

 

公式対局と非公式なネット碁での対局。

同じ対局でも棋譜が残り賞金がかかるか、またはそうでないかの差はあるが、この一局はさらに一介の碁打ちとしてのプライドがかかっている。緒方はプロ棋士であり、タイトルホルダーとしての、そして佐為の方も行洋を下したネット碁無敗の棋士として、また自身が本因坊秀策であることを伏せたまま、負けてやるつもりは全くない。

ガチンコの真剣勝負だ。

 

「これって、ただのネット碁の対局やろ?」

 

北斗杯の合宿で初めてsai vs toya-koyoの棋譜を知り、こうしてリアルタイムで佐為が緒方と対局している観戦画面を見ながら、社が信じられないと呟く。

信じられないというのは、目の前で繰り広げられている対局が、公式対局ではないことに対してだ。

 

佐為の棋力を疑うつもりはない。棋譜という絶対の証拠があるのだから。

だが、一般人でも気軽に打つことの出来るネット碁のはずなのに、観戦している一局はどの公式手合いにも見劣らない。むしろタイトルをかけたトップ棋士同士の一局と言っても、誰も疑わないだろう。

北斗杯の前に、行洋と佐為が対局して対局途中にサーバーを落としたというのも納得出来るような気がした。

佐為がいつも使っているsaiのアカウントを使っていれば、対局相手が行洋でないとしても相当数の観戦数が押し寄せたはずだ。

 

(あの人、ホンマにこれでプロやないんか?それより、誰にも知られないでこんな強うなるなんて可能なんか?)

 

対局画面を眺めていた社がツバを飲む。

去年の北斗杯の合宿でヒカルと対局した時、碁を覚えて2年でここまで打てるものなのかと驚いた。

もっともそれはヒカルに碁の師匠がいないということを踏まえての驚きであり、こうして佐為という師がいたことが判明した今では、それも納得出来る。

だが、次にでは師匠の佐為は一体誰に碁を学んだという疑問が出てくる。

 

『謎めいた強さを持ち、誰にも負けたことがない棋士』

 

そんな棋士に惹かれない碁打ちはいないだろう。一般人は言うに及ばず、碁を生業とするプロ棋士ならさらにその強さの謎に惹きつけられる。

 

『ノゾキ?先にこっちをツイでおくのが先だろ?』

 

佐為の打った一手に韓国語で永夏が指摘したのだが、指の動きで韓国語が分からない面々にも、その意図は伝わる。

 

『だよね、久しぶりに打って、藤原さんの打つ感覚が鈍ったとか?』

 

秀英も永夏の考えに賛同し、この場にいる多くが永夏の指摘に頷く中、

 

「どう思う?進藤君」

 

上座から行洋の冷静な声が降ってくる。そう促すからには、行洋も佐為の意図を汲みあぐねているからなのだろう。

行洋だけはヒカルが幽霊だった佐為と共に過ごした時間を知っている。

誰よりも佐為と共に同じ時間を過ごし、誰よりも佐為と打って、誰よりも佐為を知っている。そのヒカルなら佐為の打った意図に思うところがあるのでは、と考えての問いだった。

行洋の促しに、検討室の室内がシンと静まる。

誰もがヒカルの答えを待っていた。

対局画面を見つめ、じっと考えていたヒカルがゆっくりと口を開く。

 

「……それでいいと思う。佐為なら、……佐為ならきっとツグよりノゾキの方が先だって考える」

 

「だから、どうして?」

 

と、アキラ。

 

「だって佐為は真ん中の黒を丸ごとつぶしたいって思ってるから」

 

確信めいたように断言したヒカルに、周囲が反応できるまで、たっぷり三秒は置いただろう。その三秒後に悲鳴に近い驚きの声が上がった。緒方が対局しているアキラの部屋が、この検討用に用意された部屋から離れていたのは幸運だったろう。

もし部屋が近く急に上がった大声に緒方が集中を乱されでもしたら、北斗杯合宿で塔矢家常備となったハリセンが緒方の渾身の力で喜んで舞っていた。

 

「えええっ!んなアホな!」

 

と頭を抱え叫んだのは社だ。

 

『いくら塔矢先生に意見を求められたからって、もうちょっとマシなこと言え』

 

『それはいくら何でも緒方先生相手に無理があり過ぎるだろう?』

 

秀英と楊海にそれぞれ通訳してもらった、永夏とヒカルと対戦した王が苦言を零した。

アマ相手ならいざ知らず、対局相手は現タイトルホルダーの緒方だ。

プロ棋士相手にそんな強引な手はまず通らないと普通なら考える。

しかし、アキラはヒカルが佐為の対局で見栄を張ろうとしてそんなことを言ったようには思えず、首を傾げ盤面をじっと眺めた。

 

「いや、進藤君の言うとおりかもしれない」

 

何かがひらめいたように目を見開き、身を乗り出してきた行洋が、石を持ち、パチパチと黒石と白石を交互に打っていく。

その石の軌跡に、一人二人と、『あ』と何かに気づいたように声を上げる。

しかし、即座に眉間に皺が寄り唸った。可能性的には無くはない。だが、際どく難しい。

もし自らが打っていて、この局面でこの流れに気づいたとしても打ち切る自信があるかどうか。まず打たずに避けて通る道だ。

 

「これでも結構際どいでしょう?黒を切ることは出来るかもしれなくても、つぶすとなるとやっぱり難しいですよ。ここを潰したとしても、緒方先生が他で地を稼ごうとして、他に目を向けたらそれまでな気もしますし」

 

うーんと腕を組み、自分なら打たないなぁと悩む楊海に、

 

「際どいってことは可能性があるんでしょ?佐為なら絶対見逃さない。緒方先生の手を全部考えた上で、そう打ったんなら本気で潰せる自信があるんだ」

 

ヒカルが断言する。

あまりの自信満々さに楊海も驚きながら、一言「冷静になってね」と前置き一つして、

 

「進藤君、藤原さんのこと良く分かってるね。やっぱり弟子だから?」

 

「違う、かな」

 

「違う?」

 

「アイツは確かに師匠なんだけど、俺自身でもあったから。自分の考えてることくらい分かるよ」

 

「なんだそりゃ」

 

ヒカルの意味不明な回答に、楊海は己の日本語の学力がまだまだ低いのかと疑ってしまった。けれど、ヒカルの言葉を理解できたのは、この場では行洋と、もしかするとアキラだけだったのかもしれない。

 

『本当に緒方先生の中央の黒潰した……』

 

対局が中盤も半ばで秀英が信じられないと呟く。

 

『見事』

 

その一言に尽きる白の打ち回しだった。強引過ぎる力碁だ。けれど、その力碁は佐為の深いヨミとすばぬけた計算がなければ決して証明できなかった碁だ。

中央の黒がつぶれたことで、その間に手薄になった白に最後のマギレを求めたが、最後まで緒方の黒が追いつくには至らなかった。

投了の宣言が白から出て、画面に映される。

勝った佐為はもちろんだが、負けた方も決して恥じるどころか、誇りに思ってもいいほど名局だった。

対局が終了しても部屋から出てこないだろう緒方に、ヒカルたちの方から緒方のいるアキラの部屋へ向かう。

 

「どうだった、佐為は?」

 

佐為と打ってみた感想を行洋が尋ねると、

 

「考えていたより遥かに強かったです」

 

満足そうな表情で緒方が振り返ってつぶやく。その声は、落ち着き静かで、満足感に満ちていた。

緒方は再度ディスプレイに向かい、

 

『いい一局だった。負けたことは悔しいが満足だ。だが、まだ対局したのはこれが初めてだ。次はこうはいかない』

 

佐為はログアウトしていない。まだディスプレイの向こうにいる佐為に、キーボードをリズミカルに打ち込んでエンターキーを押す。

 

『あります。私は以前、貴方と一度だけ打ったことがあります』

 

「え?」

 

佐為から返ってきた返事に、緒方の眉間に皺が寄る。

また緒方を余所に、同じことを初めて佐為と会ったとき自分も言われたなと行洋は頭の隅で思い出す。

 

(俺が佐為と打ったことがあるだと?)

 

そう言われても緒方に佐為と打ったような心当たりは一切ない。もし佐為がアカウントを全く別のHNで打っていたとしても、少しくらい打ち筋や棋風が記憶に残るはずだ。

だが、思案する緒方の背後で、冷や汗を流していたのはヒカルだ。

 

(佐為?一体何言うつもりだ?)

 

今日、この塔矢邸に来て感じた嫌な予感が再度押し寄せてくる。

 

『いつだ?』

 

緒方がチャットを打ち返す。すぐに返事は返ってきた。

 

『打ったと言っても、緒方先生はだいぶお酒が入っていて、簡単な死活すら間違える有様で、まともな対局ではなかったかもしれませんが』

 

「酒が入って、死活を間違え、た?」

 

タイピングしようとしていた緒方の指がピタリと止まった。

酒が入っていようとプロ棋士の端くれ。ただのアマ相手ならどんなに酒が入っていても負ける気はしないし、負けた過去もない。

だが、脳の片隅に残っている記憶が一つある。

佐為の言うとおり酒が入って、簡単な死活を間違えて負けてしまった一局。酔った頭でsaiのような打ち回しだとぼんやり思った気もする。

 

『差し出がましいとは思うのですが、あまりお酒の飲み過ぎは体によくありませんし』

 

そこでチャットの入力が一度途切れ、

 

『酔っ払いが夜中まで頑張って客に指導碁をしている子供に絡むのは、褒められた行為ではないと思います』

 

一文の最後の締めまで、きっちり文章を返してきた。

 

「…………」

 

無言の緒方の後、日本語が分からない趙石がまだ少年っぽさの残る声で

 

『藤原さんはなんて言ってるの?』

 

と無垢に楊海に尋ねてくるが、このチャット内容を緒方の許可なく通訳していいものか、流石の楊海も困り顔になる。

やはり大人には泥をかけられたくない面子というものがあるのだ。

同じく太善たちに通訳を急かされている秀英もどう通訳したものか、言い難そうに口をもごもご動かしていた。

 

「緒方さん、そんなことしてたんですか?」とアキラ。

 

「緒方君……」

 

愛弟子がいつの間にかしでかしていた粗相に、声を低めたのは行洋。

社などは、トップ棋士の隠れた醜態暴露にニヤけそうになる口元を押さえている。

 

「進藤ッ!」

 

「ひぃっ!」

 

動物的本能で咄嗟にヒカルは逃げようとしたが、それよりも振り返った緒方の腕がヒカルを捕まえる方が早かった。

緒方の手がヒカルの腕をがっちりと捉え、とても逃げ出せない。

まだ座っていた緒方が立っているヒカルを睨みあげる形で、

 

「詳しく話を聞かせてもらおうじゃないか?あ?俺はお前と対局した覚えはあるが、佐為と対局した覚えはないぞ!?」

 

「だって緒方先生が佐為と打ちたいって駄々捏ねるから、先生の希望通り打たせてあげただけだろ!」

 

「駄々捏ねるだと!?あのときお前は俺に気付かれないよう隠れながら佐為の指示を聞いていたのか!?」

 

別に佐為は間違っても隠れていないし、ヒカルは堂々と佐為が言う場所に石を置いていただけなのだが。

 

「なんだよ!?佐為と打てればあとはどうでもいいって昨日言ってたじゃん!?」

 

「昨日なんぞ知らん!」

 

猛然と追及してくる緒方に、行洋の入院していた病院を思い出す。

あの時も、迫ってくる緒方に恐怖を感じたが、今こうして鬼の形相で睨んでくる緒方はもっと怖い。

 

この緒方に対して、正直に幽霊だった佐為が後ろから指示してましたなんて言ったところで、頭に血が上った緒方が信じてくれるわけがなく迷わずハリセンが落ちてくる。

saiの矛盾は多々あれど、元から幽霊だったころの佐為を証明するものは何一つない。こうして記憶を取り戻し肉体を得た今であればなおのこと証明は難しい。

 

(佐為の馬鹿!だからあんなに緒方先生と対局するのにネット碁に拘って、俺をこっち寄越したんだな!?あんだけ自分がネットのsaiだってこと内緒にしときたいとか言ってたくせに!俺が昨日バラしたの根に持ちやがって!)

 

1時間後に佐為が何食わぬ顔で塔矢邸にやってくるまで、説明に窮したヒカルは検討中も緒方に睨み続けられるのである。

 

 

 

 

― 完 ―

 

 

 

 

 



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楊海さんの受難

視界の端を掠め、ポタリと空から何かが降ってきて、楊海の肩に落ちた。

空は快晴なので雨ではない。

なんとなく嫌な予感がしながら、肩口を見やれば案の定。

 

『俺の一張羅に鳥の糞かよ……』

 

数を持っているとは言えない数着のスーツのうち、よりにもよって一番新しいスーツを着ている時に

落ちることはないんじゃないか?

一気に辟易とした気分になり、北京の往来で大きなため息をついた。

しかし、肩口という目立つ場所に落ちた糞をそのままにしておくわけにはいかず、内ポケットから

皺の寄ったハンカチを取り出す。

そして糞を広げないよう気を付けながらふき取りそのハンカチはそのままゴミ行きだ。

 

(どっかで糞と運をかけていた国があったよな~。ウ○チが付いたってポジティブに考えるんだっけ?)

 

語学を学ぶ傍ら、その国の文化も一緒に多少覚えたつもりだが、すでにうろ覚えの記憶だ。

寮に戻ったらすぐにスーツをクリーニングに出しておくか、と見慣れた中国棋院の受付に楊海は顔を出した。

講演という慣れないイベントを午後一に済ませ、受け取った書類を事務所に提出すれば、今日は放免である。

あとは今頃リーグ戦の対局が行われているから、それをゆっくり検討するつもりだった。

 

『日本人?』

 

中国棋院ではあまり聞かない単語を耳にして、楊海は提出用の書類を手渡しながら、気心知れた受付に振り返る。

 

『ええ、片言の中国語でしたので、多分日本の方だと思いますよ。昼過ぎごろに来て、ずっと塔矢先生の対局中継を見ながら一人で検討しているんです』

 

『へぇ?日本人でプロでもないのに棋院で観戦とは熱心なやつもいたもんだ』

 

国が推奨している中国や韓国と違い、日本での囲碁の人気はあまり高いとはいえない。

その中で、わざわざ中国棋院に足を運び、リーグ戦の観戦するような日本人がいたことを楊海は珍しく思った。

日本棋院でのプロを辞めたとはいえ、塔矢行洋の人気はまだまだ高いという。

その日本人も行洋の熱心なファンなのだろうかと思いつつ、受付から出された紙に手早くサインを走らせた。

 

『やはり珍しいですよね。とても綺麗な顔立ちをしていらっしゃった方なので、研究生の女の子たちが立ち代わり見てますよ』

 

『オイオイ、まるで中国棋院にはイイ男が一人もいないような言い草じゃないか?どこのどいつだ?俺より色男ってーのは?』

 

楊海の冗談に、受付も軽く笑ってみせ、サインの書かれた書類を受け取る。

 

『あそこで座っている長髪の方ですよ』

 

『ん?』

 

受付の示した方角を振り返り、楊海は一般用の席に座り、テレビ画面の中継を見ながら検討をしているらしい男を視界に捕らえた。

癖の無い黒くて長い長髪。

男のものだが、一般規格からすると細身の体格。

春物と分かる薄手のセーターを着て、すっと背筋の延びた姿勢。

楊海からは後ろ姿しか見えず、顔は確認できなかったが、どうにも見覚えのあるその背格好に首を横にひねった。

 

『楊海さん?』

 

頭をひねったまま固まった楊海に受付がどうしたのかと問いかけるが、それを気にする余裕は楊海にはなかった。

 

『まさか……、オイまさか……まさかだよな、ええ?ホントに?』

 

頭を起こし、自問自答を繰り返しながら、楊海は日本人だという長髪の男子の元へとおそるおそる歩み寄る。

 

「藤原さん!?」

 

「ああ、びっくりした。お久しぶりです、お元気でしたか?」

 

突然名前を呼ばれた佐為が驚くも、すぐに相手が誰か分かり、ふわりと楊海に微笑む。

 

「びっくりしたのはコッチです!何してるんですか!?」

 

「何って塔矢先生の対局の検討してますが?」

 

「…………」

 

「楊海さん?どうかされましたか?大丈夫ですか?」

 

「大丈夫です……」

 

確かに『対局の検討』は間違っていないが、楊海が訪ねた意図は『どうして中国棋院に藤原佐為がいるのか?』

ということである。

可能性はゼロではない。

だが、日本のプロ棋士でもなく、謎めいた圧倒的強さを持つネットのsaiが、いきなり中国棋院に現れて驚くなという方が無理だろう。

 

『楊海さん、お知り合いだったのですか?もしや日本のプロ棋士の方でしたか?』

 

『いや、プロじゃない。プロじゃないんだが――』

 

この穏やかで優しそうな風体からはとても想像できないだろうが、佐為はプロより強い。

半端なく強い。

弟子のヒカルが負けたところを一度も見たことがないと言っていたように、楊海も佐為が碁で負けるところを見たことすら一度もないほど、めちゃくちゃ強い。

しかし、それらを楊海が声高に説明するわけにもいかず、

 

『ちょっと知り合いなんだ』

 

と一言入れて、大丈夫だと示すと受付も安堵したように定位置の受付テーブルへ戻っていく。

 

「検討でしたら、こちらに検討室がありますのでご一緒にどうぞ。俺もちょうど向かうところです」

 

「しかし、私はプロではありませんし、関係者でもないのに検討室へ行くのは……」

 

「ではネットのsaiが一般対局室で一人で検討していると、検討室にいる連中にバラしたら、アイツラみんなこっちへ押し寄せて、一般客に迷惑がかかりますよ?

いや、むしろここは黙っておいて、俺と一局どうです?」

 

楊海自身、自分で言っておきながら名案だと機転を褒めたくなった。

日本に行ったときは、緒方たち他の棋士の対局を見て検討するだけで、結局最後まで佐為と対局することは出来なかった。

それが今は佐為一人で周囲には自分ひとり。

千載一遇のチャンスとはまさにこのことだろう。

先ほど、スーツの肩口に鳥の糞が落ちたのも、佐為との遭遇を暗示させていたのかもしれないと、調子よく思えてくる。

だが、楊海の都合よく世界は回ってくれはしなかった。

 

『楊海さん、そちらの方とお知り合いなんですか?』

 

『あの、紹介してもらえませんか?』

 

「へ?」

 

楊海が振り返ったそこに、研究生数名が目を輝かせて、佐為を見つめている。

もちろん全員女の子だった。

 

『日本の方ですよね?日本ではあまり囲碁は人気がないと聞いていたのですが、こちらに来られて観戦されるほど熱心なんですね』

 

楊海が何か言う前に、女の子は口々に佐為に話しかけはじめている。

もちろんそれらは全て中国語なので、片言しかしゃべれないらしい佐為に、その会話を全て理解することは困難だったようで、

助けを求めるように楊海に視線を走らせた。

 

(通訳は別にいいけど、君たち外国の男性にも積極的に声かけれるくらい勇敢だったなんて全然知らなかったよ……)

 

いつも男などかまっている暇はないとばかりに碁盤に向かっている女の子が、我こそがと佐為を取り囲み

アピールする様に、奥ゆかしい中国人女性の姿はどこにも見当たらない。

 

「えっと、その、もしお時間ありましたら、みなさんで一局打ちませんか?」

 

楊海の助けを待ちきれず、佐為が不意に口走った一言に楊海がぎょっとした。

一局打つのはいいが、佐為と打ちたいのはあくまで楊海なのだ。

慌てて、間に割って入り、

 

「いやいやいやいや、藤原さん!先に俺とですね!」

 

「しかし、女性の皆さんを放ってしまうわけにもいきませんし、対局でしたら特に会話をする手間もないですから……」

 

つまり佐為はこの目を輝かせた女の子に囲まれた状況から、一秒でも早く抜け出したいのが本音なのだと言葉の端々から見て取れる。

レディーファーストという建前を上手く使われた気がしなくもなかったが、誰か佐為と対局したいかと女の子に問えば、全員挙手ときた。

 

(やめてくれ、俺と対局する時間が無くなる)

 

楊海がそう思ったのは間違いない。

佐為が集まっている女の子たちと一人一人対局すれば、いくらsaiでも相当な時間がかかるだろう。

まがりなりにも女の子たちだって、中国棋院の研究生なのだ。

しかし、佐為は挙手した全員と多面打ちし始めた。

研究生である自分たちと多面碁と言い出した佐為に、何も知らない女の子たちも流石に不安に思ったのか、

 

『楊海さん、この方は日本のプロ棋士なんですか?』

 

『いや……プロじゃないけど、藤原さんはすごく強いから大丈夫だよ』

 

(君たち全員で同時にかかってもきっと勝てないだろうから)

 

とは心の中だけの呟きにしておく。

何故なら、楊海自身ここまで丁寧な指導碁を打てるかどうか疑問に思えるほど、佐為は女の子たち全員に指導碁を打ってみせたのだ。

真剣勝負の一手ではなく、指導碁として相手を導く一手に、なるほどと何度頷きそうになったか分からない。

 

(棋士としても、指導者としても、レベル高過ぎだろ?どうすればこんな碁が打てるようになれるんだ?)

 

佐為の打つ碁を見るたびに、同じ疑問を楊海は抱く。

この日本の美丈夫は、本当に何から何まで想像以上なのだ。

 

数時間後、ようやく全員の指導碁が終わる。

佐為と打った女の子たちも、打たれた碁が指導碁なのだと分かっているから、それまでの佐為の外見に対するミーハー心を消して、

指導者に対する真面目な礼を返していた。

 

(やっと終わってくれたか、これでやっと俺の番が)

 

時間は遅れたが、これでようやく心置きなく佐為と打てると楊海が喜んだ瞬間

 

「佐為!?いつ此方に?」

 

対局を終えた行洋が現れ、佐為の姿に驚き声を上げた。

 

「昼過ぎです。仕事でこちらに来る用事があって、飛行機を一日早めれば観戦できるかなと思いまして」

 

現れた行洋の姿に、佐為が席を立ち上がる。

想定外な展開に、楊海の額を嫌な汗が滴り落ちた。

 

「そうだったのか。連絡してくれれば良かったのに」

 

「スケジュールが急に空いたものですから」

 

「ふむ。ではこれから時間は空いているのだろうか?もし空いているんだったら私と一局どうかね?」

 

(やっぱりーーーーーーーーーーーーー!?)

 

心の中では待ったをかけるが、塔矢行洋に待ったをかける勇気と根性は、楊海にはまだなかった。

 

「ぜひ!喜んで!」

 

(藤原さんまで!?)

 

後のことなど眼中にない様子で、行洋と連れ立って行ってしまう佐為の後ろ姿。

引きとめようと悪あがきしそこねた楊海の手が、格好わるく宙に浮いている。

 

『楊海さん?あれ?なんか楊海さんのスーツ臭わない?』

 

『……ごめん、さっき肩に鳥の糞が落ちてきて』

 

『やだー!!汚いー!!』

 

佐為がいなくなった途端、脱兎のごとく女の子たちが走り去って行った。



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