美少女にTS転生したけど第二性がオメガだった (肉の粒うどん)
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1話
ふと、
曰く、日本人の五人に一人は後期高齢者だとか。
曰く、LGBTQに該当する人は全人口の約10%だとか。
曰く、高校生の約7割が近視だとか。
ぶっちゃけ、当時は数字を聞いてもあんまりピンとこなかった。
前世で勤めていた会社は若い人が多かったし、友人は皆異性愛者だったから。
チラッと教室を見渡してみる。眼鏡を着けている子は……10人もいないかな?
コンタクト派だったり、矯正が必要ない軽度の近視も7割には含まれているはずだから、これはあんまり当てにならないか。
つまるところ、五人に一人とか言われても、それが多いのか?少ないのか?身近な関係と結びつかなかったのである。
でも、
つまり、アルファと同じ割合で後期高齢者が居て。
つまり、オメガと同じ割合でLGBTQに該当して。
つまり、ベータと同じ割合で近視高校生なわけだ。
……授業中にこんなどーーーでもいいことを考えてしまうのも、今日が暑いせいだ。私は暑いのが苦手なのである。ふぁっきんほっと。
「はい、じゃあ問3を
まだ6月のくせに平気で30℃を超えてくるの、ほんとにやめてほしい。
さらに梅雨パワーを装備! ジメジメ熱気で倍率さらにドン!
いやね、年中春にしてくれとは言わないよ?でもね、四季でどれか一つだけ消していい力を手に入れたら確実に夏を消すよ私は。
あ、でも夏を消したら海に行けないな……詰んだ。やはり耐えるしかないのか?
「……忍冬さん? 聞いてる? おーい?」
ああ、それにしても暑い。昨日に比べて気温上がりすぎじゃない?
なんでみんな平気な顔してるんだろ。汗疹が心配になってきた……
「にん! どう!! さん!!!」
「ひょえっ!?」
慌てて立ち上がる。私の間抜け声が教室に響いた。周囲からはクスクスと笑いが起きている。
いっけなーい☆ ボーっとしていたせいか、全く話が脳に届いていなかった。
恥ずかしさでさらに暑さが増した気さえしてくる。
「もう、忍冬さんったら……大丈夫? 顔が赤くないかしら」
「アハハ、いやー今日は暑くって! ゴメンね先生! 何問目を解けばいいんだっけ?」
じゃ、気を取り直して! 今日もネコちゃんの天才頭脳を発揮しちゃいますか!
☆☆☆
私、
──自己紹介から漂う加齢臭で察した方も多いと思うが、俗に言う転生者である。
前世は日本人男性であった。
平凡な家に生まれ、平凡に成長し、平凡に働いていたと思う。
親兄弟とは喧嘩もしたが、仲は良かった。同僚の女性と結婚し、子宝にも恵まれた。
死因は交通事故だった、気がする。
なにせ横断歩道を歩いていたら急に衝撃が襲ってきたものだから詳細は覚えていない。
子供の卒業式に向かう朝であったのは覚えている。
要するに、どこにでもいるようなありふれた男だった。
人並みに幸せを享受し、人より少しだけ悲しい終わりを迎えた男であった。
次に目を覚ましたとき、すでに私は
といっても幼年期の記憶はもう朧気だから、正確には「物心ついたときには」、かな?
TS転生って実在する現象だったんだ……と最初のころは驚いたものだが、まぁ昔は結婚なんかもできる気がしなかったしな……。
人生って案外そんなものかもしれない。
ひょっとしたらわざわざ口にしないだけで、みんな前世の記憶あるんじゃないの?
などと考えているうちに今の環境にもすっかり慣れてしまい、ネコちゃんは今日も第二の生を謳歌しているわけである。
さて、TS転生のお約束といえば?そう、美少女とチートだね。ご安心ください、ネコちゃんも美少女ですよ。
母親の顔を受け継いだのもそうだが、せっかく女の子になったんだからと色々やってみた結果、自分でもそれなりに自信を持てるスタイルをキープできている。
伸ばした髪は背中にかかり、勝手に伸びた身長は170cmぴったり。
クラスでは断トツのデカ女だが、私は? 顔が良いので??? 高身長も似合っちゃうんだなこれが(笑)
チートは今のところ確認できていないが、正直無くても全く問題ない。こちとら人生2回目のアドバンテージ持ちぞ?
結局のところ、人生における悩みの大半は未来への不安である。たぶん。その点、前世を経験した私にはまったく悩みがない。
不安の90%はなんだかんだどうにかなるものであり、残り10%はどうにもならないものであると知っているからだ。
これが剣と魔法の世界やら、ロボットに乗って宇宙で戦うような世界だったら流石の私もビビリ倒していただろうが、幸いここは現代日本。
まとめると、超ナイスなモデル体型とスーパーポジティブ能天気思考を持ち合わせたパーフェクトガール。
それがこの私、
……え?『ある一点』が何かって? それは──
「ね、祢子ちゃん。お待たせ」
「あーい。じゃー食堂行こっか。あ、ねぇ今日カレー安い日だった気がする。しぃもカレーどうよ?」
「あ、えっと、Sセットにしよっかな」
「たはー! しぃはもっと食べてもいいと思うけどねー! ネコちゃんが太らせたろか?」
「も、もう…… 単に食べきれないだけだよ」
おっと、
トコトコと私に近づいてきた女の子。名前は
身長は150とちょっと。優しい垂れ目、ふわふわなショートボブ。
おとなしい性格も相まって、まさに小動物系女子といった風体である。
家が隣同士で、保育園からの、いや母親同士の交流も含めればお腹の中からの長い付き合いだ。昔は同じ
前世を含めても、こんなに長い間いっしょだった友達は紫衣ぐらいかもしれない。
だいたい小学校~中学卒業くらいまでの付き合いだったからねー。
遊びに行くときは私が紫衣を誘うケースが多い。でも、いざ服やらコスメやらを買うときは彼女に従順な私である。クローゼットの8割は紫衣チョイスだ。
私が元男のせいなのか、それとも彼女がオシャレなのか。おそらく後者であろう。
髪の手入れも実は紫衣に教えてもらった。私の女道の師匠といっても過言ではない。
紫衣といっしょに食堂までの道を歩く。窓から見える校庭は雨でぐしゃぐしゃになっている。
「……祢子ちゃん、そういえば体調大丈夫? さっきの数学とか……」
「あーあれ! いやもー全然余裕! 暑くてボーっとしてただけ!」
「ほんと? きつくなったら保健室いってね」
「しぃママは優しいねぇ! ありがとー」
どうですみなさん! この良い子っぷり! まさに現代の天使! パパ感激!
お礼にナデナデしてあげよう。前世で愛娘にもよくやったものだ。
(中学くらいから拒絶された。死)
「あ、えへへ…… じゃなくて!
……その、やっぱり……
祢子ちゃんは
オメガ。それは『ある一点』。
前世とほとんど同じこの世界の、唯一にして最大の相違点。
私が転生した
私たち人間──ホモ・サピエンス──の性別は、まず男性と女性に分けられる(最近はいろんな性が認められ始めているけど、とりあえず生物学的には2つだ)。
これが第一性と呼ばれる。
そして、第二性。
アルファ、ベータ、オメガの3種類でさらに分類されるのだ。
まずアルファ。全人口の20%くらいで、とにかく優秀なんだとか。
実際、テレビで見るオリンピック選手やらモデルやら天才やらにはアルファが多い。
また、アルファは男女問わず射精器を持つ。女性であっても、だ。見たことがあるから間違いない。
次にベータ。全人口の約60~70%を占めている。ベータ多いね。
特徴は、無い。前世のヒトと同じと言っていいだろう。
男女で結婚するのが一般的で、善人も悪人もいる。私の両親もベータだ。
最後にオメガ。人口比でみると一番少ない。アルファとは逆で、男女どちらも子宮を有する。
男女しか性のない世界を知っている身としては、オメガが最も不思議な体をしていると思う。
というのも、オメガには発情期が存在するのである。
この発情期はヒートと呼ばれ、10代後半から始まる。約3カ月に一度のペースで来るらしい。
ヒートはとにかく大変で、自身は立っていられなくなるくらいの情欲に苛まれるし、手あたり次第近くのアルファを誘惑するフェロモンを放出するのだとか。
このフェロモンに
当然、事件も起こる──主にオメガが罪を被る形で──。
フェロモンで
一応、フェロモンによる問題を回避する方法もある。
最も有名かつ効果的なのが「
アルファがオメガの
要するに、
……自分の望んだ相手と
以上、説明終わり。
うーん、改めて並べてみるとオメガだけハードモードすぎるな……。
ま、ネコちゃんもオメガなんですけどね。
「んふふ、ちゃんと抑制剤も持ち歩いてるしヘーキヘーキ」
「でも、まだその、ヒーt、
「まぁねー。ま、ネットで見たけど前兆は注意してれば気づけるらしいし! それに、こういうのって案外ヨユーなもんだよ」
「うーん、わたしも知らないけどさ……祢子ちゃんってホント、のんきさんだよね……」
「オトナと言いなさいオトナと」
正確にはお医者さんに何か前兆を見分ける方法を教えてもらったのだが、はてなんだったか。
まぁ、私も前世で男女のアレコレを経験した身。性欲がなんぼのもんじゃい。
先述した通り、人生における悩みの大半は未来への不安である。
一回死んでいるから分かる。どうせ未来なんてどうにもならないのだから、ドーンと構えておけばいいんだよ。
それに、この世界の人間だって第二性と数千年向き合ってきたわけで。
いざ
☆☆☆
食堂に着く。私はカレー(200円。安い!)を注文する。紫衣は日替わりSセットを頼んでいた。
うンまい!(テッテレー)……うまいんだけど、今日カレーにしたのはやっぱり失敗だったかもしれない。
我が校のカレーは本格派を売りにしていて、普通に辛い。ただでさえ暑い日なのに、さらに体が
蝶ネクタイを少しだけ緩めつつ、向かいに座る紫衣を見つめる。
開始5分で完食してしまった私と違い、紫衣は小さい口で一生懸命に食べる。
皆様ご覧ください。大変ほほえましいですね。
「お! しぃのセット、チーズハムカツじゃーん。いいねー」
「うん、おいしいよ。 ……なんか、甘いにおいする」
「んふふ、ハムカツにその形容詞使う?」
「……うん、あまいにおい」
結局、紫衣が食べ終わった後も体は熱いままだった。明日はざるうどんにしよう。決定。
あとチーズハムカツは全然甘くなかった。
☆☆☆
「あ、祢子ちゃん雨やんでるよ」
「おー? おー、ほんとだねー」
あつい。
今日の授業も、眠くなるHRも終わった。あとは帰るだけだ。
テストが近いので部活はお休みである(もともと週3日しか活動してないケド)。
雨が止んだのはありがたいが、今日ばかりは降っていてもよかった。
だってあついから。濡れて帰ってやってもよかった。
ボーっとする頭でスマホを触る。放課後ってなんとなくSNS見ちゃうんだよなぁ。
「ねぇ、祢子ちゃん。今日のテスト勉強だけどさ」
「……ん、今日はしぃの家でやる日でしょ? ちゃんとお菓子代は持ってきてありますぞ」
「うん、それはありがとうなんだけど、そうじゃなくて、今日はやめたほうが──」
「あ、」
ぴこん。
メッセージアプリの通知に目が止まる。発信時刻は今。発信者は……隣のクラスの男子だ。
内容を読む。
「ごめん、用事できちった。しぃだけ先に帰る?」
「あ、え、ううん。待ってるよ」
「やーほんとにごめん! ちょっと行ってくるね!」
「うん……」
ま、中身が元男とはいえネコちゃんは美少女ですから。恋愛イベントもたまにはありますとも。
返答はいつもNOだ。
いつYESに変わるかは、私自身でもよく分からない。
あつい。
☆☆☆
今日は紫衣の部屋でテスト勉強会をするのだ。
家が隣同士だから、わざわざ親に連絡を入れるまでもない。
「あ、あのさ、やっぱり今日は勉強会なしにしよ」
「えー? だめだよー。べんきょうしなきゃ」
隣の声を無視して扉を開ける。
靴を脱ぐ。ちょっと雑に脱いでしまったが、あついからしかたない。
「ちがう、ちがうの祢子ちゃん、わたし、なんだかさっきからずっと甘いにおいがするからっ」
「んふふ、ちーずはむかつ?」
「もしかしてこれ、ね、祢子ちゃん、抑制剤は──」
べんきょうはうそ。
あついから。あついからしぃの部屋にいかないとだめだ。
しぃの家まできてるのに。このままじゃあついから。
「ねぇ! 祢子ちゃん! 待って! わたしの部屋に入っちゃダメ!」
かいだんをのぼる。
目をつぶってもしぃの部屋まで行ける。
もうすぐあついがなくなる。
「祢子ちゃん! 聞いて!
ドアノブを回す。
あれ?なんかへんだな。
音ってこんなに遠いっけ?
体ってこんなに熱いっけ?
なんで紫衣の部屋まで来たんだっけ?
ドアを開ける。
あついでいっぱいになった。
みなさんもオメガバース書きませんか?
俺もやったんだからさ(地獄みたいな中途半端オチ)
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2話
いつからだろう? わたしが
体の制御を本能に明け渡し、暇になった理性で考える。
目の前には甘い匂いを発したオメガが居る。
わたしの部屋で、わたしの匂いに包まれながら、わたしを誘惑するオメガが居る。
手足が勝手に動く、だなんて、小説の中でしか知らなかった現象を今まさに体験している。
わたしの
いつからだろう?
一切の誇張なしに、生まれる前からいつも隣に
10歳の第二性診断。わたしがアルファ、祢子ちゃんがオメガと聞いたとき、何の迷いもなく祢子ちゃんと
幼いわたしにとって、
わたしの両親も、なんなら祢子ちゃんの両親も似たような考えを持っていただろう。お母さんの口癖は「ほら紫衣! 祢子ちゃんの隣に立つならしっかりしないと!」で、祢子ちゃんのお父さんの口癖は「祢子のこと、よろしくな?」だった。
そう、このころはまだ、わたしはわたしが好きだった。あなたが居ない日に心を
腰が抜けたように動かないオメガの正面に立つ。視線に気づいたオメガが私を見上げる。
眼が媚びている。
荒い吐息が媚びている。
赤く上せた頬が媚びている。
甘い匂いを発する
もう彼女以外他に何も見えなかった。見る必要性も感じなかった。自分の体ごとオメガを押し倒す。鈍い音がどこかで鳴る。どうでもよかった。
オメガは抵抗しない。
すでに緩んでいたリボンタイを取っ払って、彼女のブラウスを第3ボタンまで開ける。噛むのに邪魔だったから、長い後ろ髪をまとめてかき上げた。甘い匂いがより一層強くなる。
オメガは抵抗しない。
口を開く。犬歯が太く、鋭く伸びていく。涎が垂れてカーペットに染みを作っている。
ぐちゃぐちゃになった舌を伸ばして、
オメガは抵抗しない。
部屋中が異常な熱で覆われていて、手持無沙汰な理性だけは俯瞰でわたし達を見下ろしている。
暇な理性は考える。考える。
いつからだろう? あなたが違う場所を見ていると気づいたのは。
うん、少し思い出してきた。
昔から、祢子ちゃんは少し不思議な所があった。
女の子なのに、ふと男の子みたいに見えるところ。
自分が卒業するわけでもないのに、卒業式の朝は毎年涙ぐんでいるところ。
通学路では必ず、ただ一度の例外もなく、わたしを歩道側に寄せるところ。
告白を断るとき、いつも同じセリフを言うところ。
ああ、すっかり思い出した。
中学1年の夏だった。日付はたしか、7月13日。
『ちょっと呼び出されたから行ってくるね~』
そう言った祢子ちゃんの顔を思い出す。少しだけ恥ずかしそうな、だけどなんだか懐かしそうな顔。
しぃは先に帰ってて。そう言われたけど、どうしても気になったわたしはこっそり後をつけたのだ。
暑い日だったのを覚えている。午後4時20分、屋上に降り注ぐ陽光で汗が止まらなかった。
相手の男子はベータか、もしくはオメガだったと思う。アルファ同士だけが感じ取れる、特有の威圧感が彼からはしなかったから。
『に、忍冬さん! 俺──』
彼がなんと告白したのかは覚えていない。正確には、彼女の返事以外なにもかもがあいまいで判然としない。
『やー、うん、ごめんなさい! 私、好きな人が
『今はもう会えないんだけどさ。まだその人のこと、忘れられないってカンジで』
『え? ……んー、まぁ、アルファではないかな? 強いて言うならベータ?』
最初は聞き間違いかと思った。次に適当な嘘をついているのだと思い込んだ。
返答した彼女の顔を見て、ただの現実だと思い知った。
祢子ちゃんには本当に、心の底から好きな人がいる。
生まれてから13年間、ずっと隣にいたわたしではない。
13年間想いを伝えてこなかった、臆病者の、ちっぽけなアルファではない。
わたしが今まで見たこともなかった
3年前の7月13日、わたしは
そして、同じときから。
わたしは
「……っあ」
「ッ!!」
耳元で聞こえた声。その音に乗った艶で意識が再浮上する。とっさに体を起こす。
理性が体の制御を取り戻した、いや取り戻してはいない。身体の暴走を一時的に止めているだけだ。
そうだ、わたしは何をしているのだろう。祢子ちゃんの言葉を聞いた日から、彼女が前に進めるその日まで支えようと決めたではないか。
臆病者で矮小なわたしでは祢子ちゃんの番にはなれないから。
彼女が素敵な人と巡り合えるまで、一番の親友としてサポートしようと誓ったではないか。
目線を下に向ける。
祢子ちゃんの
アルファがオメガを
こうして初めて二人は番になり、死ぬまで消えない噛み痕が残るのだ。
なんとか、致命的な過ちを犯す前に踏みとどまれたらしい。
臆病者のアルファはオメガを噛むことすらできないのか── 心の隅に沸いた劣等感を踏み潰す。必死に見ないふりをする。
「ハァッ、ねっ祢子ちゃんごめっ、わ、たしっ」
「……」
正気に返ったはいいものの、あまり悠長にもしていられない。
甘い匂いはまだ部屋中に充満している。時間が経つほど濃くなっていく。
一刻も早く祢子ちゃんに
「祢子ちゃ、おくすり入れてるカバンどこっ、あっ、あれ?」
「……」
祢子ちゃんの通学鞄を探そうとして、やけに目線が低いなと思って、そこで初めて彼女に馬乗りのままだったと気付いた。
「あっ、ごっごめんすぐどくねっ」
転がるように彼女の上から退く。ゴン、と音がして、ちゃぶ台に
だめだ、頭がうまく働かない。甘い匂いが離れない。
どこだ、どこだ? 祢子ちゃんの通学鞄。必死に記憶を辿る。
学校。鞄を肩に提げた祢子ちゃんと校門を出た。
わたしの家。玄関までは持っていたはず。
そのあとはどうした? 急に祢子ちゃんの様子がおかしくなって、鞄を持ったまま階段を上って、それで──
「っわたしの、部屋の前……!」
そう、祢子ちゃんがわたしの部屋に入る前。ドアに手をかけたタイミングで鞄を落としている!
「はぁっ、待ってて祢子ちゃん、今お、おくすりとってくるからっ」
腰が抜けたまま、体を部屋の入口に向ける。
ドアは閉まっていた。違う、わたしがさっき閉めたのだ。オメガの匂いを少しでも外に出したくなくて。
「はぁっ、はぁっ」
甘い匂いは強くなっていく。どんどん甘くなっていく。
痛む脚を抑えて立ち上がり、ドアノブに手をかけた。
生まれて初めて、6畳しかない自分の部屋に感謝した。これ以上広かったら間に合わなかったかもしれない。明日からは狭いクローゼットも愛せるはずだ。
「っ、これで、なんとか……!」
あとはドアノブを回して、廊下に落ちている鞄のジッパーを開いて、内ポケットの抑制剤を飲ませてあげるだけ。
それだけ、だったのに。
「あっ、あれっ? えっ?」
異常に気付く。ドアが開かない。ガチャガチャと音はするのだが、いつもみたいにドアノブが回らない。
「あっ、なっなんでっ、なんっで!!」
扉一枚隔てた向こう側にさえ行ければ、
この部屋から出られさえすれば、
抑制剤さえ飲ませれば!
わたしはドアノブを回し続ける。ガチャガチャと音が鳴り続ける。
「あいてあいてなんでっ! わたしのへやなのに!!」
思い返すと、きっとこのとき既にわたしは
だから、
後ろの人影に気づかない。嗅ぎ慣れたシャンプーの香りに気づかない。
「あいて、なんでっ、なん──」
「ね、あついよ?」
ドアノブを握りしめるわたしの手。その上に、わたしより大きくてきれいな手が重なった。
「えっ? えっ」
「んふふ、つかまえたぞー」
「あ、だ、だめ!」
後ろから、やわらかくてあたたかいものに包み込まれる。いつの間にか祢子ちゃんがわたしを抱きしめていた。
予想外だった。
いますぐ離れてと、このドアさえ開けば大丈夫だからと、そう注意しようとした。震えた声で伝わるか不安だったけど。
でもそれ以前に、注意するために振り返ったのは。わたしより17cm背の高い彼女を見上げたのは、完全に失敗だった。
「しぃ」
「あついよ」
「たすけて?」
そうやって覗き込んでくる祢子ちゃんの顔が。
わたしを包み込む祢子ちゃんから伝わってくる熱気が。
どうしようもなく、3年前の7月13日を思い出すから。
名前も知らない、知る気もない誰かに向けるはずの、
だから、だから、わたしは、
ドアノブから手を離した。
☆☆☆☆☆☆☆
ドンドン、ドンドン、ドンドン、
なにかをたたく音がする。
「紫衣! ここを開けなさい! 紫衣!」
「しぃちゃん! 祢子! おねがい!」
聞き馴染んだ声がする。聞き馴染んだどころではない、お母さんの声だ。それと
もう晩ご飯の時間かな。忍冬家といっしょに食べる日ではなかったはずだけれど。
そもそも、お母さん今日は遅くなるって言っていたのに。いつの間に帰ってきたんだろう。
視界が真っ暗で、眼をつぶっていたと気付いた。眠ってしまっていたみたい。
だけど眠っていたにしてはとても疲れていて、とても心地よい。
「ん、ふぁ。 ……はーい」
寝ぼけたままの声で返事して瞼を上げる。電気も付いていない、月明かりだけが頼りの室内。
まず飛び込んできたのは祢子ちゃんの寝顔だった。かわいい。
でもなんで祢子ちゃんまで寝ているんだろう。学校から帰ってきて、そのままいっしょにお昼寝したんだっけ?
ドンドン、ドンドン、ドンドン、
ドアをたたく音で集中できない。
ええと、今日はいっしょに勉強会する予定で、でも祢子ちゃんの顔が赤くて。
わたしは止めようって言ったけど祢子ちゃんはわたしの家に来て、祢子ちゃんが私の部屋に入って。
祢子ちゃんに
上半身を起こして、隣で眠る祢子ちゃんを見つめる。
はだけたブラウス、投げ捨てられたプリーツスカート、ぐちゃぐちゃに濡れたベッド、乱れた烏羽色の髪。
項から滴る赤色。月明かりでもはっきり見える噛み痕。
自分の唇をなぞる。
この世の何よりも甘くて、少し鉄っぽい味が口内に残っている。
わたしの犯した過ちと、抱いた彼女の柔らかさを思い出して、このまま朝が来なければいいと切に願った。
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