突き放した筈のドーベルがヤンデレになって帰ってくる話 (すいせー)
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突き放した筈のドーベルがヤンデレになって帰ってくる話
これは、冬になり損ねた寒さが残る、とある日のこと。
その日アタシは、朝早くから家を出ていた。
「次は、○○団地前、○○団地前です。」
特に考えることもなく、自然と左手がボタンに延びていた。
ピンポン
「次、止まります。」
アタシ以外に、このバスに乗っている客はいない。運転手とアタシだけの、二人だけの世界に無機質な音声が流れる。
『○○町では、朝の通勤応援キャンペーンを実施しています。期間内の指定された時間は、公共交通機関の運賃が値下げされます。この機会に、是非ご利用ください。』
その音声を聞き流し、窓の方に目をやる。
薄暗く広がる空からは、叩きつけるかの如く、雨が降っている。そしてその雨がバスにぶつかる瞬間の、この音がなんとも心地良い。
ピンポン
「まもなく、○○団地前です。危ないですので、バスが停車してから席をお立ちください。」
そんなアナウンスが流れ、次第にバスが減速していく。そして遂には完全に停止し、身体がカクン、と少し揺れた。
目の前の扉が開き、立て掛けておいた傘を手に持って、その先端を外に向けて広げる。
バサッという音と共に広がった傘を縦にしながらバスのステップを降りた。
強く殴る雨は、傘をもろともせず服を濡らしていく。折角この日の為だけに買った服だったのに、とは思いつつ、内心目的さえ果たせれば後はどうでもよかった。
後ろで、プシューという扉の閉まる音を聞いて、ようやく足が前へ進んだ。
パシャッ
着地した場所に、小さな水飛沫が上がる。そして一歩、また一歩と踏みしめる様に、高かったブーツのことなんか気にも止めないで歩いていく。
気がつけば、水溜りがなくなっていて、団地の屋根がある場所まで来ていた。すると、空の遠い彼方で、ゴロゴロという低い唸り声の様な音が聞こえてきた。
「懐かしいね。あの日も、こんな天気だったけ。」
まるで今日、この日に、止まってしまったあの日の続きが見れのではないかと、そう妄想し、少しばかり気分が高まる。
コツ、コツとブーツを踵で鳴らしながら、コンクリートの階段を登っていく。そして少ししたところで、ようやく目的地に辿り着いた。
自分の手のひらを上に向け、腕時計で時間を確認すると午前9時。どうやら家まで3時間もかかっていた。学園からだと、4時間は掛かるかな。
そんなことを思いながら、動くかどうかも分からないインターホンを押してみる。
ピンポーン
どうやらちゃんと動いていたみたいだった。
少し待っていると、ガチャッという扉の鍵が開く音がする。そして次の瞬間には扉が開き、目的の人物が、驚きに溢れた顔でアタシを出迎えた。
「…久しぶり、トレーナー。」
アタシは精一杯の笑顔を、彼に向けた。
────────────────
扉を開けると、何年ぶりだろうか、久しく見ていなかった、彼女の顔があった。この時の俺は呆気に取られ、きっと間抜けな面を晒していたことだろう。
「……な、なんの用件でしょうか。」
特に仕事もせず、自堕落な日々を送っている俺は勿論寝起きであり、乾いた口で、掠れた声を絞り出す。
「そんなにかしこまらないでよ、久しぶりにトレーナーの顔が見たかっただけだからさ。」
彼女は、まるで何もなかったかの様にきさくに話し、容易に笑っている。
「…そうか、なら早く行ってくれ。メジロドーベル。」
扉を閉めて部屋に戻ろうとしたその瞬間、彼女の左手が扉を掴んでいた。勿論ウマ娘なんかに押さえられていたら人間の俺では到底太刀打ちなんか出来ない。
「…そっか、もうドーベルって呼んでくれないんだね。」
彼女───メジロドーベルは少し悲しそうに、それでも決して笑顔は崩さずに微笑む。
「もう顔は見たんだ、貴方の用事は済んだでしょう。」
彼女の顔なんか、見たくない。だから視線を斜め下にズラしながら扉を掴むメジロドーベルの手を下ろさせようとするも、やはりびくともしない。
「…本当に、それだけだと思ってる?」
少しばかり、声が低くなった。きっと、比例して表情も曇っているに違いない。
「…いいや。」
勿論、そんな事のために、あんな事があったのにも関わらず、わざわざ出向いたりはしないだろう。
しかし、だ。住所も教えてないのに、こうして家に押し掛けてくるウマ娘と長話するつもりはない。
「…気分が悪いんです。今日はお引き取り願います。そして、もう二度と来ないでください。」
少し乱暴に、それでいて思いっきり扉を閉めた。筈だった。
気がつけば、自分は玄関に押し倒されていたのだ。
「っ!? ちょっ、何をして───!」
『しーーーっ………』
メジロドーベルは俺の上に跨がり、俺の唇に人差し指を当てながら囁く。
「……本当は、ちゃんと〈お話〉して、それからまたあの頃みたいになれたらな…って、思ってたんだよ。」
押さえていた指をそっと離すと、下を向きながら彼女は語り始めた。
「だって、あんなのあんまりだと思わない?……ううん、ごめんね、なんでもない。でもね、トレーナーがあまりにも他人行儀過ぎるからさ…、アタシ決めたんだ。」
「力ずくでも良い、トレーナーを取り戻すんだって。」
どうやら、それがここに来た本当の理由らしい。だが……、だがしかし。
「……俺は、お前を捨てたんだぞ。」
取り繕っていた他人行儀な演技も、最早続ける気は無い。これ以上、彼女がなにかする前に一刻も早くこの場から去る必要がある。
「ふふっ、そうだね。」
何でだ。何で笑っている。
「何がおかしい。」
「だって、そうしたのには理由があるからでしょ?」
まるで、全てを見透かした様なそんな嘲笑にも似た薄い笑みを浮かべる。
「…あぁ、その通りだよ。お前がメジロ家として功績を残してく度に積み重なる責任。これが、どれだけの物か、分からないだろう。俺は責任から逃げたんだ。俺はそういう人間だ、無責任な人間だ。それで良い。それで良いだろ……!」
俺は上半身を起こしてドーベルの胸ぐらを掴む。その洋服は、雨の水を吸ったのか、冷たくしっとりと濡れていた。
「…本当に、それだけだった?確かにトレーナーはアタシを捨てたよね。でも、その時考えてたのは本当に自分のことだけだった?」
「……!」
核心的な所を突いた言葉だった。
あまりにも辛くて、それで自分の身可愛さに逃げたしたのは嘘ではない。けれど、本当に自分のことだけを考えてたかと言われれば────。
否、関係ない。俺は逃げた。それだけで十分じゃないか。
「でも、俺は逃げたじゃないか…。その事実は変わらない。」
俺は彼女の胸ぐらを掴んでいた手をゆっくりと下ろす。
「うん、そうだね。でも…、だったら、こんなものを玄関に置いたりしないよね。」
彼女の手には、古い写真立てがあった。
────俺とドーベルが、初めてレースで勝ったあの日の写真が飾られた写真立てが。
「そ、それは……」
「ねえトレーナー。まだ、アタシ達やり直せると思うんだ。少なくとも、アタシはそうしたい。トレーナーはどう?」
ドーベルはそう優しく問いかける。
こんな甘い言葉に、簡単に乗れる程俺は馬鹿じゃない。償わないといけないんだから。
でも、でも。もしもそれが許されるなら俺は───
「……もう一度、君の隣を歩きたい。」
もう、嫌なんだ。小さな画面で君を見るのが。隣に居ることで償えるなら、俺は喜んでそうしよう。
「うん…、そっか。アタシも大好きだよ、トレーナー。」
あの時よりも、大人びて綺麗になった顔で、あの頃の様に明るく笑ってみせた。
「いっ……」
その笑顔を見た次の瞬間、俺は天井を見ていた。胸の辺りが少々痛む。ドーベルに突き飛ばされ、再び仰向けになった様だ。
「トレーナーもアタシが好きなら、トレーナーはもうアタシのものだよね…?……だから、これはアタシを傷つけた罰。」
「……は?」
先程となんら変わらない笑みの筈なのに、どこかその表情は凶器的に見えるのは気のせいだろうか。
「今日は少し冷えるよね、トレーナー。だから……」
すると、俺の首回りに何かが巻き付く。この匂いは───
「どう?温かい?」
どうやらドーベルの尻尾がマフラーの様に巻かれているようだった。久しぶりに嗅いだ、懐かしい匂い。あの頃と比べてあまり変化のない匂いに安心感を覚える。
「あ、ああ……」
「ふふふ、温かいよね。身体が温かくなると、心もなんだか満たされる様な気分になるでしょ?」
「……そうだな。」
「…そうでしょ。でもね、アタシは違ったの。トレーナーに捨てられてから、何度も寒い冬を過ごしてきた。でも、どんなに身体を温めても、心はずっと冷えきってたの。」
首に巻かれた尻尾の圧力が次第に強くなっていく。
「ドーベル…?」
「トレーナーがアタシを捨てた理由だって、気づいてなかった訳じゃない。アタシは、レースよりも家族よりも、何よりもトレーナーが大切だったから。だから、トレーナーの為なら〈メジロ〉を捨てる覚悟だってしてた。なのに、トレーナーは…トレーナーは…!」
仕舞いには尻尾にかなりの力をを入れている様で、俺の首は絞められていた。
「…っが、あっ……!」
まともに呼吸もできず声を出す事もできない。
「なんで、なんでアタシを捨てたの?トレーナー……」
ドーベルは、そんな苦しみ悶える俺の頬にそっと手を添え、無理やり目線を合わせてくる。
「一言、唯の一言さえかけてくれれば、ついていったのに…。それとも、アタシが信用できなかったの…?アタシがどれだけの覚悟をしていたかも知らないで…!」
視界が白くぼやけていく。意識も遠くなり、ドーベルノの言葉も消えていく…。このまま死ぬのか、と思った次の瞬間首に掛かっていた圧力が和らいだ。
「……ごめんね、首絞めちゃってたみたい。でも、アタシを捨てたトレーナーが悪いんだよ?」
久しぶりに呼吸をした俺は、自然と涙が零れていた。
「ああ、トレーナーを泣かせたかった訳じゃないの。」
ドーベルは滑らかな手で、俺の目尻に溜まった涙を拭う。
「折角トレーナーと仲直り出来たのに、いきなりこんな事言われても困るし嫌だよね……。」
俺は肩で息を切らしながら、残った体力で僅かに首を横に振る。俺の罪に対する罰は、こんなものでは足りない。
「……そっか。今でも優しいんだね、トレーナー。」
「……じゃあさ、もう、二度と離れない様にアタシ達だけの印を残しましょう?」
そう言うと、ドーベルは床に寝転がった俺の左手を持ち上げ、薬指を口に咥えた。
「ドーベル、何を───」
「ちょっと痛むけど、頑張ってね」
ガリッ
という音と共に、咥えられた薬指に激痛が走る。
「ぐっ……!?」
「……はい、お仕舞い。」
そう言うとドーベルは血がタラタラと流れる指をもう一度咥えると、怪我した場所を舐めとる様に舌を這わせる。そして今度こそ指を出し、手をそっと床に落とすと、
「結構深く歯が入っちゃったけど、骨は折れてないから大丈夫だよ。じゃあ次は、アタシの番。」
と言いながら俺の上半身を起こして俺の口に自身の左薬指を突っ込む。
「んぐ…っ」
「でも、トレーナーはアタシを噛めないよね。だから……」
ドーベルは俺を抱き締めた。昔よりも成長した彼女のものが身体に押し付けられる。
「ちょっと服が濡れてるけど…、温かいでしょ?」
確かに、ドーベルの言う通り彼女の身体はとても温かかった。それに、服の匂いにや、髪の匂い、あらゆる彼女の匂いに思考が鈍る。
「じゃあ、さっさとやっちゃおうか。」
そう言うと、ドーベルは俺の服を右手で器用に捲り、背中を露出させた。
「また、ちょっと痛むけど、許してね。アタシと、トレーナーが永遠に愛し合うために必要な事だから。」
訳も分からず混乱していると、背中に、感じた事のない痛みが走る。
「あぐっ………!?」
ガリ
と、先程も聞いた、鈍い音が響く。
「んっ……、良くできました…っ♡」
恐る恐る咥えていた指を出してみると、俺に付けられた傷痕と同じ様な物がドーベルの指にも付いていた。
「ご、ごめ───」
反射的に謝ろうとした瞬間、俺は言葉を失う。
「ん………」
いつの間にか俺のすぐ目の前にドーベルの顔があり、俺の口はドーベルの唇によって塞がれていた。
「んむ………ぷはぁっ………。」
離した互いの唇からは銀色に光る糸が引く。
「謝らないで、トレーナー。」
「これはアタシとトレーナーを結ぶ印だから。だから……これからはず~~っと一緒だよ、トレーナー…♡」
ドーベルは妖艶な顔で、静かに微笑んだ。
どうやら俺は、逃げられないらしい。
(終わり)
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