斬聖リバーロ (木下望太郎)
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第1話  斬聖の物語

 

 黒衣に大鎌、骸骨の顔。一般に思い浮かべられる死神の姿である。しかし、その地方においてはいささか事情を異にしていた。

 野良着に大太刀(おおだち)、不精ひげ。ザンバラ黒髪、ぬらりと光る目。ローザナン地方に伝わる、死神の姿である。

 

 死神の名はリバーロ、といった。姓はクライン、名はリバーロ。悪魔怨霊の類ではない、れっきとした人の子である。死神とは仇名であり、斬聖リバーロ、とも呼ばれていた。ローザナン地方一帯を騒がせた人斬りであり、その名はほとんど『不幸な死』と同一視されていた。現代より五百七十年ほど前のことである。

 

 

 

 

 斬聖と呼ばれることになった経緯は次のとおりである。

 ある街の教会でのこと。天窓から光の降り注ぐ中、祭壇に立つ老司祭が祈祷文を読み上げていた。脇には若い助祭が控えている。礼拝堂には祭壇から出入口までの通路の他、わずかな間隔を開けて木の長椅子が並べられている。そのすべてに、信徒が窮屈げに座って頭を垂れていた。

 

 不意に、音を立てて正面の扉が蹴り開けられる。信徒や司祭が何事かとそちらを向くよりも早く、男が中に踊り込む。

 

「おォらァ!」

 

 雄叫びと共に腰の太刀を抜き放つ。太刀の全長は男の身長ほどもあった。大きく振るわれた曲刀は周りの信徒に当たったかと思われたが、空振っていたのか倒れる者はなかった。

 

 老司祭は祈祷の声を止めたまま口を開けていたが、思い直したように声を荒げた。当代の聖者と称えられた司祭が珍しく怒鳴る声であった。

 

「何者か貴様! 何をしに来た、神の家でそのような物を抜くとはどういった了見か!」

 

 男は答えない。代わりに、だん! と音を立て、足を一つ踏み鳴らす。

 

 司祭は気づいていなかったのだ、死神の周りの異変に。誰もがその男を見ているというのに、祈る姿勢のままの者がいることに。最も男に警戒すべき者、男のすぐ近くに座っている者らが、男を見ようとしない不自然さを。

 

 果たして。入口横の席にいた信徒四人の首。響く足音にぐらり、と揺れる。花が散るようにその場に落ちた。頭が床に転がって、重なり響く重い音。一拍、間を置き吹き出る血しぶき。二拍間を置き、辺りに悲鳴。

 男の太刀は抜き放たれながら、すでに彼らを斬っていたのだ。

 

 男は刀を肩にかついだ。血しぶきを受けて、ぬたり、と笑う。

 

「斬りに、参った。姓はクライン、名はリバーロ」

 

 ようやく答えてリバーロは歩む。悲鳴の中、信徒は互いを押しのけ、長椅子を倒しながら逃げ惑う。リバーロの行く先には祭壇があった。震える司祭と立ちすくむ助祭がいた。

 

 リバーロは刀をかついだまま、人なつこそうな笑みを浮かべる。

「じい様。あんたァ聖人様なんだって? ここァ神の家っつったな?」

「む、うむ……」

 

 歯を打ち鳴らしながらの答えが、聖者の最期の言葉であった。

 リバーロは嬉しげに笑う。

「そいつァ結構」

 

 言うと同時、かついだ刀を斜め一閃。司祭の左肩から右腰へ、一息に斬り下げた。音もなく肉を裂き、へし折るような音を立てて背骨を断つ。赤黒く濁った血がリバーロの頭の高さまで吹き出、勢いを失って床にこぼれた。

 

 司祭の倒れる音の中、リバーロは刀についた血を見つめる。 

「ふむ……つまらんな」

 頭をかきかき、ため息をつく。司祭の死骸を蹴飛ばした。

「つまらんつまらん。聖人聖者というから人とは違うかと思ったら。血、肉、骨、内臓(ワタ)、斬り応え! ただの人と同じじゃあないか!」

 舌打ちして床を踏み鳴らす。

 

 その音に腰を抜かしたか、若い助祭が床に倒れた。リバーロを見つめ、歯のかみ合わない口でつぶやく。

「あ、あああく、悪魔っ、悪、あ悪、去れ、悪魔、去れッ!」

「ほう、悪魔!」

 嬉しげに笑って背後を振り向く。辺りを見回し、不機嫌な顔で助祭をにらむ。

「下らん嘘をつくな! どこにも悪魔などおらんじゃないか! 期っ待させやがって、斬ってみたいンだがなァ悪魔……斬ったことないからなァ」

 

 鼻からため息をつき、かぶりを振る。震える助祭に刀を突き立て、一度えぐる。

 助祭は引きつるように震えながら、まなじりが裂けるほどに目を見開いた。溺れてでもいるかのようにうめき、魚のように口を動かしていたが、やがてそれも止まった。口からよだれが垂れていた。

 

 リバーロは抜いた刀を宙に振り、血を払う。祭壇の前に立ち、天井の方を向いた。

「神よ神! おるのか出てこい、神よ神! お前の家が大ごとだぞ!」

 

 声は教会に響いたが、答える者はない。

 渋い顔でうつむき、かぶりを振る。

「おらんなァ……斬ってみたいのになァ……」

 

 懐から出したぼろ布で刀身を拭い、鞘へ納めて出口へと歩く。

 出口の脇に女が倒れていた。若い女は腰が抜けたのか震えるばかり。その前には小さな男の子が立っていた。リバーロの腰ほどの身長しかない子供は、震えながらもリバーロの目を見上げていた。首を小さく何度も横に振る。

 

 リバーロは立ち止まる。かがんで、子供の頭をなでて、その子の髪に血がついた。歯を見せて笑う。

 

「安心しな。女子供は斬らねェよ」

 女の方を向いて言う。

「一つ教えてくれ。この辺りで兵士やら何やらのいる所は」

 女は一瞬リバーロの目を見、すぐに目を伏せた。

「街を出て、み、南……国境に、屯所が」

「なら、そこへ行くとしよう」

 

 女は顔を上げた。兵から逃げるために聞いたのかと思っていたのだ。とはいえ、屯所があるのは本当だった。嘘を考える余裕はなかった。

 

 リバーロは立ち上がり、剣を握る真似をして腕を振り回す。剣術遊びに興じる子供そのものの顔だった。

「斬り応えのある奴と斬り合いたいんでな。チャンチャンバラバラと紆余曲折、その後にくる、ずンッ、って手応え! こいつがたまんねェ」

 

 立ち上がって出口へ向かうリバーロの背に、子供が小さな声をかけた。

「あり、がと」

 斬らなかったことへの礼だろう。

 

 リバーロは外からの光の中、肩越しに振り向いた。嬉しげに笑う。

「何、気にすんな。お前らみてェなのは斬らねェよ、もうずいぶん斬り飽きた。女子供は斬り易すぎる、バターみてェに刃が通る。斬り応えがてんでねェのさ」

 笑みを消して言う。

「それと、こいつは気にしとけ。俺は去るが、いずれ死は来る。誰にも、お前らにも。同じなンだよ」

 肩越しに手を振り、光の中へ歩み去る。

 

 聖者、助祭を斬り捨てて、畏れもしない斬聖リバーロ。その所業はその場にいた母子の口から広まった。南の屯所が壊滅したとの噂は、続いてすぐに広まった。

 

 



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第2話  斬聖の異伝

 

 別の町ではこのような話も伝わっている。

 あるとき、リバーロは街道に潜み、通りがかる者を斬っていた。

 一人目の旅人にリバーロは言った。

「先に言っとく、金はいらねェ。斬らせてもらうぜ」

 

 旅人が命乞いをするとリバーロは言った。

「ならばお前がなぜ生きるか、どういうわけで斬ってはいかんか。そいつをとくと教えてもらおう」

 

 旅人は言葉を詰まらせたが、考えながら言った。

「斬られたならば誰でも痛い。だから嫌だ、死にたくない」

 リバーロは突然、自らの足に太刀を突き立てた。そして問う。

「痛いか?」

 

 驚いたまま何も言わない旅人にリバーロは言った。

「お前はそうさ痛くねェ。俺はお前じゃねェんだよ。お前以外はお前じゃねェ。お前の痛みはお前のもんだ、俺にゃ一つも関係ねェ」

 

 悲鳴に一つも耳を貸さず、リバーロは太刀を一つ振る。

 

 

 二組目は二人連れ、旅の道連れ、商人と神父。リバーロは二人にこう尋ねる。

「死にたくないとぬかしても、命はどうあれ消えるもの。それをどうして斬ってはいかん?」

 商人は答えた。

「生は短い、長くはない、それでもできることはある。子孫に残せるものもある、長く生きれば生きた分だけ」

 

 リバーロはあごをかく。

「とはいえ、だ。子孫とやらもいつかは死ぬ、そのまた子孫もいつかまた。それに見ろ、岩さえ風雨に削られて、陸地も波に削られる。大地とて永遠には残るまい。大地がなくなりさてさてそれで、いったい誰が生きてるのかねェ? 残したものはどこにあるのか?」

 神父がそこで口を挟む。

「そのときは神の御国が訪れる、正しき者の永遠の国が。正しき者は蘇えり、死の二度とない永遠を生きる」

 

 リバーロは笑う。

「そいつァよかった。死など関係ねェんだな? だったら先に、そこへ行ってな」

 

 二人まとめて首が飛ぶ。

 

 

 三人目の騎士にまた尋ねる。

「何のために生きている? 死ねないほどの理由があるか」

 騎士は答えず斬りかかるが、剣を落とされあきらめた。

「主君のために私は生きる。そしてそれは私のためだ。任務につくたび、誇りを感じる。それが欲しくて生きている」

 

 リバーロはうなずき、歯を見せて笑った。

「なるほど、そいつは結構だ。それなら俺にも少しは分かる。心のために生きるというなら」

 

 騎士は安堵の息をつく。

「ついては、ただ今主君から、手紙を運べと言われている。分かってもらえるものならば、どうか通してくれまいか」

「ああ、いいさ」

 

 リバーロは剣を騎士に返す。

「ついては、俺にも生きがいがある。俺は人を斬るのが好きだ。斬り裂くたびに心が震える、それが欲しくて生きている。俺より強けりゃ任務を遂げな、俺より弱けりゃ斬られてけ」

 ぬたりと笑って太刀を構えた。

 

 騎士の体は三つに分かれた。

 

 

 このできごとを実際に目にした者はいない。騎士が携えていた手紙、この宛先である貴族の屋敷に、このことを書いた紙が投げ込まれていたのだった。

 顚末は騎士の持っていた手紙の裏に書き込まれていた。意外に几帳面そうな字だったが、こびりついた血が染みになってひどく読みづらかったという。屋敷に忍び込むためだろう、門の前では門番が二人斬り殺されていた。

 

 

 

 

 さて。ここで、死神を語るために語らねばならない人物がいる。姓はロンド、名はジョサイア。(つばくろ)と仇名される剣士であり傭兵である。リバーロこそは、彼が狙う仇であった。

 

 



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第3話  鼻水(ハナ)を拭け

 

 ジョサイア・ロンドは孤児であった。戦災孤児である。珍しくはない。彼の村は国境近くにあり、小競り合いがあった。それだけである。ただ、激しく抵抗したため敵も強く打って出た。襲撃、略奪に加え、焼き討ちである。

 

 ジョサイアは九つであった。焼け跡と化した村で座り込んでいた。目を見開き、口を開けたままそうしていた。頬も、鮮やかだと母親がほめていた金色の髪も煤だらけになっていた。母と祖父母は炭のようになって固まっていた。父は元々いない。

 涙は出なかった。何がなんだか分からなかった、自分が見ている光景が何なのか分からなかった。真っ黒に汚れた手が煤臭かった。彼を知る者は今や皆、死ぬか落ち延びるか、囚われるかしていた。空は青く晴れていた。

 

 彼に手を差し伸べたのは、村を通りがかった傭兵団であった。バルドーの荒鷲、と自称する一団であり、団長は名をジルド・バルボアという。団名のごとく、鷲のくちばしのように高い鼻をした男だった。

 

 馬上から差し出された手を、ジョサイアは何なのか理解することができなかった。目には映っていても、自分に差し伸べられたものだと分からなかった。

 その手がさらに伸び、ジョサイアのえり首をつかむ。男の手は太く、毛むくじゃらで、温かかった。その手に力は入っていたが、柔らかく注意深い力だった。村を襲った者らが武器を振るうような、硬い力ではなかった。

 

 ジョサイアは立ち上がる。ずっと座り込んだままだったせいかふらついた。それを男の手が支える。背伸びをし、男の方へ手を伸ばした。男の力強い手がその体を引き上げ、馬の尻に乗せた。

 

 その男――団長から聞いた最初の言葉は「鼻水(ハナ)を拭け」だった。

 

 

 

 

 ジョサイアは雑用係として団についた。十歳を過ぎてからは団員の暇潰しを兼ねて武術の指導を受けた。仕事も武術も、物覚えはかなり良かった。十五で戦場の端に加わり、十七の頃には(つばくろ)ジョサイアと仇名されていた。細身で、燕のように身軽だったからである。傭兵らしからぬ体格と輝くような金色の髪からか、ジョサイアは行く先々の町で若い娘の視線を集めたが、本人は照れたように目をそらし、武術に励むのが常だった。

 

 武術を習ったのは、団の一員として覚えるべきだと思ったのが半分。家族の仇を討ちたいと思ったのが半分だった。だが、戦場に出るようになった頃には、その思いも薄れていた。直接の敵方だった国境の町は、すでにそこの領主ともども戦で滅んでいた。村を襲った部隊も共に壊滅したと聞いた。

 

 団長はジョサイアの初陣前、団を抜けてもいい、と言った。が、ジョサイアはそうしなかった。その頃にはもうジョサイアは傭兵団の男であり、団はジョサイアの家族だった。

 それからジョサイアは傭兵として戦い続けた。だが、時には嫌気が差すこともあった。自分は仕事として戦い、敵を殺している。それは食い扶持と引き換えに、自分と同じ不幸な目に遭う者を作っているのではないか。そんな自分に、幸福になることは許されていないのではないかと。

 

 そうした思いに駆られるときには、決まってバルボア団長の言葉を思い出した。なぜ自分を拾ったのか、そう聞いた十六の時のことだ。

「手が勝手に動きやがった」

そう団長は言った。

「その後で思い出したんだ、おれにゃあ弟がいた。二つ下でよ、おれが十二のときに戦で死んだ。おめぇはそいつに、ちっと似てた。ちっとだけな」

 言って、団長はジョサイアをなでた。あの時と同じ、毛深く力強い手だった。

 

 それからジョサイアは時々思う。俺の手もいつか、団長のようなことをしたがるのだろうかと。勝手に動いて誰かを救うのだろうかと。そのときには、何かが変わるのかもしれないと。

 



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第4話  燕(つばくろ)、その日

 

 その日は突然に来た。十八の頃だ。

 ジョサイアの団は戦場にいなかった。彼らが加わっていた、ハンザ地方での戦は半月前に終わったところだ。それまでの報酬を受け取り、しばし体を休めた後移動することとなった。といって仕事の当てはない。幸い、しばらくは食うに困らない蓄えがある。とりあえず団長の故郷、バルドーで骨を休めながら考えよう、となった。その途中のことである。

 

 ごく短い草の生えた平原の道で、団はゆっくりと馬を歩ませていた。街道からは外れた道である。田舎のくせに美味い飯を出すとかで、団長がひいきにしている宿がこの先の町にある。えんどう豆と鳩のシチューが団長の好物であった。回り道になるが、急ぐ旅ではない。休日の小旅行といった趣だ。団員の武具も、腰に帯びた剣以外は荷馬車に積み込まれている。

 

 町まであと半日かという頃。行く手の森から馬に乗った者らが駆け出てきた。数は三十騎あまり、いずれも鎧に身を固めている。遅れて、馬車が二台森から出てくる。荷馬車に幌をかけただけのような粗末な馬車だ。それらの御者も鎖鎧を身につけていた。

 

 騎馬と馬車の一団は道から草原へと外れ、ジョサイアたちの横を通り過ぎようとする。

 そこへバルボア団長が声をかけた。

「バーレンの一角獣。どこ行こうってんだ、そっちに仕事はねぇぜ」

 

 言われてジョサイアも気がついた。バーレンの一角獣。バルドーの荒鷲とほぼ同規模の傭兵団。団同士のつきあいは特にないが、同じ側で戦ったことが何度かある。見知った顔もいくつかあった。

 

 一団は速度を緩め、ジョサイアたちの横を過ぎた辺りで止まった。団長であろう、白髪、白ひげの男がこちらを向く。傭兵らしからぬ穏やかな風貌をした壮年の男だった。ここの団長は貴族の出だという噂をジョサイアは聞いたことがある。五男か六男か、相続権もないような末弟だったので、かつて家を出たのだと。

 

 白髪の男は穏やかに笑う。

「やあ、荒鷲の。何、仕事ならもう終わった。その先の町で少々物乞いをね」

 

 襲撃と略奪。それをしたということだ。珍しいことではない。仕事を失った傭兵、すなわち平時の傭兵はしばしば野盗、山賊となる。戦乱のときよりも平時の方が物騒だというのは、よく言われる皮肉だった。

 

 白髪の男は顔のしわを増やして笑った。

「思ったよりはお恵みがあってね、善男善女の多い町だ。神よ、かの地にお恵みを、とね」

 

 ジョサイアは何も言わずうつむいていた。ジョサイアとて傭兵だ、盗賊仕事の方も、両手の指の数では足りないほどやった。そのたびに吐き気がした。予想以上の追手がかかり、敵の気をそらすため自ら村に火を放ったことも一度だけある。野営地に戻るや、馬に乗ったまま吐いた。

 

 左手で握りしめた剣が、鞘の中で音を立てた。故郷の村、焼け跡となった村の光景が頭をよぎる。まるで外から眺めるように、そこに座り込んだままの幼い自分が見えた。

 

 仲間の一人が冗談めかした声を上げた。

「一角獣の旦那、まさか鳩肉とえんどう豆はぶんどってねえでしょうね? 返してやって下さいよ、団長の機嫌が悪くなるんで」

 

 白髪の男は鼻で息をつき、ひげをなでながら笑った。

「心配は無用だ。なんなら荷を確かめるかね? ああ、そうだ――」

 ひげをなでる手を止め、歯を見せて笑った。

「――鳩なら、一羽白いのがいたな」

 

 白髪の男が馬車に向かってあごをしゃくる。馬車の近くにいた男が、荷台の入口にかかっていた布をまくり上げる。

 中には酒樽、木箱、大きな布袋が乱雑に積み込まれていたが。その間に、娘がいた。

 

 年はジョサイアと同じ、あるいは下か。二つに分けてくくった柔らかそうな栗色の髪に、白い肌をした娘だった。その細い手にはきつく縄がかけられていた。馬車の入口が開いたにも関わらず、娘の目は外を見ていなかった。心をどこかに置き忘れたように、口を開けたまま宙を見ていた。

 

 ジョサイアは一瞬、息をするのを忘れた。

美しい、と思ったのではない。俺だ、と思った。俺がいる、と。

 

 無論、ジョサイアと娘の顔はかけらも似ていない。同じなのは格好ではない。その目であり口であり、座り込んだその姿だった。

 あのときの俺はああだった。あんな風に目を見開き、口を半ばまで開けて、座り込んでいた。目には何も映らなかったし口を閉じる力もなかった。まして立ち上がることなど考えもつかない。あれ以上馬車に揺られたら、きっとそれだけで壊れてしまう。俺だ。あの娘は、俺だ。

 

 気づけば、両脚が馬の腹を叩いていた。合図を受けて馬は歩き出す。さらに両脚が馬を叩く。馬は馬車へ向けて駆け出していた。

 手綱を引いて馬を止め、荷台に手をかけて中をのぞく。娘はジョサイアの方を向いたが、何も見てはいないように感じた。荷台のほこりっぽい空気の中に、甘い匂いをかいだ気がした。

 

「ほう……こいつは大した鳩ですね、一角獣の旦那」

 口が勝手に喋っていた。何を言うか考えるより速く、口は続けて言った。

「鳩は返していただきたいと、仲間が頼んだはずですが? これは村に返させていただく」

 仲間からどよめきが上がるのも構わず、左手が娘の腕をつかむ。冷たく、今まで触れた何より柔らかく滑らかだった。右手は腰から短剣を抜き、娘の縄を切っていた。娘の肌には赤く縄目がついていた。

 

 娘が初めて顔を動かした。その目がジョサイアの目を見る。

 娘の目が澄んだ青色をしていることに、初めて気づいた。ジョサイアはすぐに目をそらす。鼓動がどうしようもなく速まっていた。

 

 と、そのとき。バルボア団長の拳がジョサイアの頬を打ち抜いた。

硬い衝撃に、声を上げる間もなく馬から崩れ落ちる。地面から見上げる、団長の表情は固かった。

 

「おめぇが……我侭(わがまま)ぬかしたのはこれで三度だ。一度は九つんとき、スープに入ってたヒヨコ豆が嫌いだとほざいた。二度は十二んとき、新しいズボンをねだった。つぎを当てたやつがあったのに、だ」

 

 ジョサイアはゆっくりと立ち上がる。視線を地面の上にさまよわせ、それから顔を上げた。何も言わず団長の目を見る。

 

 団長は顔をしかめて顔をそむける。今度は笑うように短く鼻息をついた。

「三度目ぐれぇは聞いてやらんでもねぇ。一角獣の旦那よ、その鳩買った。いくらだ」

 

 白髪の男は何か考えるように黙った。あごひげをしごきながら言う。

「君とはさしたるよしみもないが……売ってもいい。あれは元々どこかに売り払うつもりでね、折り紙つきの新品さ。とはいえ、素直に金で渡すのも気分が悪い。我々は商人ではない、我々は――」

 抜けたひげを息で飛ばし、続ける。

「――紳士だ。紳士らしく決闘で決めようじゃないか。一対一、そこの彼とうちの若いの。そちらが勝てば娘と金十枚進呈しよう。こちらが勝てば金十枚と……そう、彼の両手をいただこうか」

 

 白髪の男はジョサイアに微笑む。

「なに、斬りはせんさ。だが、商品に触れないよう折らせていただこう。ああ、もちろん生きていたらで結構」

 

 ジョサイアは笑い返した。服の土を払いながら言う。

「なるほど? それでお願いしましょう、旦那。相手は誰です」

 

 バルボア団長が言う。

「やるか決めんのはおめぇじゃねぇ」

 鼻毛を抜き、指で弾いてから続けた。

「なるほど、おれたちゃ紳士だ。お願いしよう、旦那」

 

 



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第5話  燕(つばくろ)の決闘

 

 すぐに決闘場が作られた。といっても、ジョサイアと相手を敵味方で遠巻きに囲んでいるだけだ。逃げ場のない人垣の中が決闘場だった。双方から野太い響きの声援と罵声が上がる中、ジョサイアは相手と向き合った。

 

 相手はジョサイアより二、三歳上の男。背も頭半分は高い。体には鎖で編まれた鎧に板金の胸当てを着けていた。武器は両刃の直剣。刀身は男の腕と同じぐらいの長さ、そう長いものではない。だがナタのように分厚く、兜の上からでも頭を叩き割れそうな代物であった。無論、重量はあるはずだが、この男の太い腕ならば存分に振るえると思われた。

 

 対して、ジョサイアは鎧を着けなかった。旅をしてきた格好のまま、右手に細身の剣を握っただけ。短剣は腰の鞘に納めている。肩幅も胸の厚みも腕の太さも、男に比べれば一回り小さい。

 馬車の中の娘に目をやる。娘はじっとジョサイアを見ていた。再び縛られた手で荷台の縁を握りしめて。もう口は開けていなかった。

 

 相手の男がジョサイアをにらむ。

「恨むなよ。殺す気で行くぜ」

 ジョサイアは微笑んだ。

「どうぞ? 俺はそんな気ないんでね」

 相手の顔が引きつった。

「ンだと? 死ぬかてめぇッ!」

 言うなり大きく振りかぶり、真っ向から剣を振り下ろしてくる。

 

 ジョサイアは軽く横へ跳ねた。今まで自分がいた場所を、男の剣が通り過ぎる。それと同時。ジョサイアは足を踏み込み、腕を前へ伸ばしていた。突くように。

 男の剣は勢い余り、草を散らしながら地面へ食い込む。その時すでに、ジョサイアの剣は男の体へ突き立っていた。板金の胸当てをよけて、鎖鎧の上からわきへ。ジョサイアの細い剣は、容易に鎖の隙間をすりぬけていた。

 

 剣を抜き、男を見すえたまま数歩下がる。

「勝負あった。……ように思うんだけどな」

 

 ジョサイアの剣には、ほんの先にしか血がついていなかった。それ以上貫こうとしなかったからだ。わきが急所の一つであることを、ジョサイアは経験上知っていた。

「やかましいぜ……調子ン乗ってんじゃねぇッ!」

 男は、地面に下ろした剣を振り上げようとする。

 

 その刃が上がるよりも早く、ジョサイアは剣を踏みつけた。

 男の剣はナタのようにぶ厚い。切れ味ではなく重量で叩き斬る種類の武器だった。ゆえに、靴で刃を踏みつけても怪我はない。動き出す前ならば。

 そして、男の喉元に剣を突きつけた。

「勝負あった。だろう?」

 

 男は呆然と、目の前の剣を見つめていた。やがて息をつき、自分の剣を捨てる。うなだれたまま身を起こした。

「ああ、アンタの勝ち――」

 ジョサイアはうなずき、剣を納めた。

 男はゆっくりと顔を上げる。その顔が突如、怒りの形に歪む。

「――じゃねぇッ!」

 蹴り。頭部を狙った上段の蹴りであった。

 

 しかし、ジョサイアは男の動きから目を離していなかった。身をかがめて上段蹴りをかわしつつ、男が上げた蹴り脚の下から蹴り上げる。狙いは一つ。がら空きとなった最大の急所、股間、である。柔らかくわずかに弾力のある感触、それが蛙のようにひしゃげる。靴の上からでは感じるはずもないのに、なぜか妙に生温かい。

 

 ほとんど白目をむいて崩れ落ちる男の背に、再び抜いた剣を突きつける。

「俺の勝ちだ。三度目のね」

 

 細剣を使ったこの剣技は、幼い頃から武術を学んだジョサイアが工夫したものであった。幼く力がないため、重い剣は扱えない。重い剣なら鎧の上から叩きのめすことができるが、軽い剣でそれはできない。ゆえに、ひたすら技術を磨いた。細い剣で鎧の隙間を貫けるように。後は戦場での経験と、手練の団員らからの指導があった。

 そうして、一対一に限れば団でも上位の実力を持つに至った。団以外の相手となら、向こうが独特の剣技に慣れていないため勝率はさらに跳ね上がる。結果、他の団ともめて決闘になれば、ほとんどジョサイアが呼ばれるのだった。バーレンの一角獣とはつきあいもなかったので、相手は知らなかったのだろう。(つばくろ)ジョサイアのもう一つの異名、決闘屋を。

 

 決闘屋は相手から離れた。空気を切る音を立てて剣を振るい、その後ゆっくりと鞘に納める。右手を胸に当て、左足を引く。深々と礼。いつものように、仲間の喝采。

 

 顔を上げると、馬車の中の娘が目に入った。

 娘は立ち上がり、縛られた手で強く拍手をしていた。口は開いていたが、前のような放心の形ではない。笑顔の形だ。

 ジョサイアは、笑っていた。

 

 

 

 

 娘は縄を解かれ、ジョサイアの馬の後ろに乗っていた。団長いわく、自分で助けたものは自分で連れていけ、ということだった。

 

 娘は何も喋らず、黙ってジョサイアの腰に手を回していた。かつてジョサイアが団長の後ろでそうしたように。

 ジョサイアも、前を向いたまま何も言えずにいた。話しかけようとは思う。思うのだが、何を言ったものか一切分からない。母と祖母を除けば女性とこの距離で接したことなどない。周りで聞き耳を立てているであろう団員の存在感も、焦りに拍車をかけていた。風向きによって不意に香る、懐かしいような甘い匂いも。

 

 馬の足音だけが頭の中を響く。そのとき、不意に声が聞こえた。

「……あの」

「はいッ!?」

 反射的に背筋が伸びる。女の声だった。団に女はいない。だから、後ろの娘の声だろう。そう思考を整理して、ようやく振り向く決意ができた。

 

 おそるおそる娘の方を見る。未知の武器を手にした敵と対峙するかのように怖れざるをえなかった。

 

「ありが、と。ありがとう、ございます」

「い、いやいやなんのとんでもない!」

 震えるように、小刻みに首を振ってしまう。

 

 喉の奥で小さく笑い、娘は続けた。

「あたし、サリア、サリア・ソラリスっていいます。あなたは」

 ぎこちなく笑って答える。

「俺? 俺はジョサイア、ジョサイア・ロンド。(つばくろ)ジョサイアなんて呼ばれてるね、変な名前だよねこれ」

 

 そしてまた沈黙。

 

何を言うべきか悩み始めたとき、サリアがつぶやいた。

「ありがとう。本当に。あたし、昨日、っていうか今朝かな、寝てたらなんかすごい音して、目が覚めて。部屋に知らない男が入ってきて。なんか分かんないうちに捕まえられて。で、あの馬車ん中」

 息をこぼして笑うと、続けた。

「何がどうなってんのか分かんなかったけど。もしあのまんまだったら、すっごいことになってたんだろうね……本当、一生泣くようなことに」

 そこでまた黙った。

 

 やがて、泣く声が聞こえた。鼻をすする音。腰に回された手が、きつく握られているのが分かった。

 どうすればいい。どうすればいいんだろう。ジョサイアは考えていた。生まれてから一番本気で考えていた。そして、言わなければならないことがあるのに気づいた。これだけは言わなくてはならないこと。

 

 ポケットからしわくちゃのハンカチを取り出す。振り返り、差し出した。

鼻水(ハナ)、拭きなよ」

 

 サリアは目を見開いて、鼻を押さえながらジョサイアを見た。うつむく。柔らかい拳がジョサイアの背中をぶった。

ハンカチを受け取ると目を拭い、盛大な音を立てて鼻をかむ。泣いて赤くなったままの顔で恥ずかしげに笑った。

「……ありがと」

 ジョサイアは微笑んでいた。

 

 

 

 

 ジョサイアたちはサリアを町へ送り届けた。本来ならばサリアとはそこで別れるはずだったが、ジョサイアは団長と町の長に申し出た。団としては仕事がありません、町としてはこのようなことがあって不安でしょう。団を町の警護として雇うというのはいかがでしょう、と。

 

 あまりに魂胆の見えすいた提案に団長は苦笑したが、他の仕事もないと言って承諾した。

 町の長にも異存はなく、すぐにこれを承知した。団長が請求した賃金はそれほどに低く抑えられていた。

 それから半ば定住するように、団員たちは町に居ついた。ほぼ一年である。団員たちの中には手に職を持つ者もいる。料理、裁縫を得意とする者もいたし、元鍛冶屋もいた。会計の担当者などは元々商家の出である。そうした者らは町の中で職にありつくことを真剣に考えていた。旅暮らしの傭兵には無縁の、自分の町、自分の家庭。そうしたものの価値を思い出したのだ。

 

 当然ジョサイアもそうだった。職にできるというほどの特技はなかったが、サリアのいる宿屋を熱心に手伝っていた。サリアは町の宿屋の養女だった。元は別の町にいたが両親を亡くし、親類であるこの町の宿に引き取られたということだ。客商売を経験したことのないジョサイアは、常にサリアの指導を受けていた。一切頭が上がらなかったという。

 

 

 そうして、やがてサリアと婚約を果たした。

「俺に、さ。君を守らせてくれないか。一生。そう、一生一緒にいて、さ」

ジョサイアがそう言うと、サリアは目を見開いた。笑って、首を横に振る。

「ううん。あなた、もう守ってくれたでしょ? だから、もういいの」

言葉を失うジョサイアの、鼻をサリアの指がつまむ。

 

 いたずらっぽく笑うと、ジョサイアの耳元でささやいた。

「今度はあたしが守ってあげるよ。ずーっと」

その言葉が、吐息が甘く暖かく、ジョサイアの耳をくすぐった。ジョサイアは長く息をついた。全身から、とろけるように力が抜けていた。微笑んでいた。

「ずーっと、か。いいな。ずーっと、って」

 サリアの手を握る。柔らかく、温かい。サリアの方へ身を寄せ、体重を預けた。

 サリアもまた、ジョサイアの肩にもたれる。片手で握り返し、もう片方の手でジョサイアの頭をなでた。目をつむり、言う。

「うん、ずーっと。ずっと」

 そうして、口づけ。

 

 

 そのように婚約を果たした、ということである。

 ジョサイアは幸福であった。しかし無論、死が幸福を避けて通るわけではない。

 

 



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第6話  斬りに参った

 

 二人の式を再来週に控えたある日。旅人が町を訪れた。実に快活そうな男だったという。ザンバラ黒髪に不精ひげの、体格のよい男。腰には長い剣を差していたが、鞘はゆったりとした袋に包まれており、どんな剣なのかは分からなかった。それでも、ローザナン地方出身の者がいれば男が何者か察しただろう。

 

 男はごく普通に町の入口に来た。警備の団員に片手を上げて笑いかける。

「よゥ」

 

 三人の団員らも笑い返した。

 そのとき。男の手が剣の柄にかかった。そう見えたときには、弧を描く刃が音を立てて抜き放たれていた。

 

 団員らが槍を構えるより早く、男は太刀を振り上げて躍りかかった。一人の頭を縦に断ち、返す刀でもう一人、股から頭へ斬り上げる。二人はそれでこと切れた。吹き上がる血が地に落ちて、雨によく似た音を立てた。

 

 喉の奥で悲鳴を上げ、残る団員は槍を捨てた。全速力で逃げ出しながら、ポケットから出した笛を鳴らす。仲間を呼ぶ、合図の呼び笛だった。

 

 男は太刀を振るい、血を払う。血しぶきが頬にかかった。唇の端を上げて笑う。

「姓はクライン、名はリバーロ。斬りに参った」

 

 

 

 

 しばらくの後、町の広場で。団長は地にひざをつき、右手を押さえてうずくまっていた。左手の下と両肩から血がしたたっている。足元には取り落とした剣と、斬り落とされた四本の指が転がっていた。

 

「ぐ……」

奥歯をかみ鳴らし、肩と頭を震わせながら顔を上げる。額に流れるものは脂汗とも冷や汗ともつかない。

 

 目の前にはリバーロがいた。周りにはすでに動かなくなった団員らが転がっていた。

「てめぇ……何だ。何のつもりだ、何しにきやがった」

 

 リバーロは穏やかな顔をしていた。頬に髪に服に腕に、返り血が散っていた。

「俺は、死だ。お前らに死が来た、そんだけだ」

 太刀を振り、血を払って続ける。

「俺ァ斬るのが好きだ。そんだけだよ。手練の傭兵団がいるって聞いて、わざわざローザナンの方から来たんだが。思ったほどじゃあなかったな」

 歯を見せて笑う。太刀を頭上へ振りかぶった。

「ま、楽しかったさ。じゃあな」

 そこへ、背後からジョサイアが走り込む。

 

 

 

 

 その日、ジョサイアは町を離れていた。荷馬車を出し、宿の食堂で出すブドウ酒を仕入れに行っていた。帰ってきたところで血の匂いに気づき、広場へ来て、いきなりこの光景に出くわしたのだった。

 

 考えている暇はなかった。剣を抜いて走る。さらに足を速め、太刀を振り上げた男へ突きかかる。男の背後から。

 男は突然振り向き、ジョサイアの方へと太刀を振るった。

 ジョサイアは無理やり足を止め、のけぞるように身をかわす。太刀の切っ先が体の寸前を通り、シャツを裂いた。火のような熱さが胸の表面を走る。

 すぐに跳びのき距離を取る。見れば、肌を横に走った傷からわずかに血がにじんでいた。

 

 男は楽しげに笑う。

「斬ったと思ったがな。やるねェ」

 

 団長が声を上げる。

「逃げろ、ジョサイア……! 町のもんと逃げろ!」

 ほ、というように男が口を丸く開ける。

「なるほど、あんたがジョサイア。燕(つばくろ)ジョサイア、決闘屋。道理で――」

 

 言う暇を与えず、ジョサイアは斬りかかっていた。息は荒く、剣を握る手には震えるほどに力がこもる。顔にまで力が入り、歪む。団長が指を落とされている、仲間が殺されている。恐れる以上に怒っていた。もはや言葉も出なかった。言葉を吐く力さえも腕に込めて斬りつける。

 

 男は軽く太刀を振るい、ジョサイアの剣先を弾いた。

 剣は横へいなされて空振った。的が外れて、勢い余ったジョサイアは頭から前のめりになる。

 そこを、男の蹴りが迎え打った。丸太のような脚、鼻が潰れたかと思うような衝撃。まともに食らい、ふらついたところへ。男の刀が横薙ぎに振るわれる。

 

 とっさの反応。自分から足を滑らせ、ジョサイアはその場に倒れ込む。男の刀は肩の肉をわずかに削ぎ飛ばしただけで空を切った。血を流しながらも地面を転がり、距離を取る。

 

 男はあごに手を当てて、指で頬をかきながら笑う。

「やるねェ。俺はリバーロ、リバーロ・クライン。いい動きするじゃねェか、え? (つばくろ)

 

 ジョサイアは歯を食いしばり、顔を歪める。斬聖の名に聞き覚えはあったが、そんなことはどうでもよかった。

「……うるせぇ。うるせぇッ!」

地を蹴り、飛び込みながらの突き。

 

 軽々とかわされるが、そこから素早く腕を引き、なおも突きを繰り出す。

それもかわされたが、さらに繰り出す。胸、腹、肩、顔、腕に脚。あらゆる箇所へ突きを放つ。すべてがかわされ、あるいは高い金属音を立てて太刀に防がれる。

 息が切れかけ、弾かれ続けた衝撃に腕がしびれ、それでもなおも力を込める。

 

「クソがぁっ!」

 剣を両手で握る。全身のバネを利かせて体ごと飛び込み、全体重を乗せて突き出す。

 それすらもがかわされた。ジョサイアが腕を引くより早く、リバーロは太刀を振り下ろした。高く硬い音を立てて、ジョサイアの剣が中ほどから折られた。

 

 ジョサイアの中の何かが、同時に折れていた。

「な……あ……」

 感情は言葉にならなかった。体が突然重くなり、手足からは力が抜ける。支えきれずにひざをついた。

 

 目の前の相手は達人も達人だった。団長を含め、手練の仲間たちが手もなくやられた。今になって気づいたが、その上相手は傷一つ受けていない。

 かなうはずがない。今はただ、肩が、腕が、頭が重かった。

 

「気にすんなよ、死は誰にでも来る。変わったことじゃない、お前らはちぃと早かっただけさ。生きれば、死ぬ。……楽しかったぜ」

 穏やかに言い、リバーロは刀を構える。

 

 ジョサイアの体は動かなかった。かわすだけの力はなかった。ただ、顔をうつむけた。

 ここまでだな、そう思った。サリアは逃げてくれただろうか。ここに来るまで町の中に人は見当たらなかった、団員が逃がしたのだろう。団員以外の死体も見当たらなかった。サリアは逃げてくれただろう。なら、いい。それでいい。

 

 ゆっくりと目をつむる。

 

 そのときサリアの声が聞こえた。普段聞くことのない叫ぶような声だった。

 

 気のせいだと思いながら顔を上げた。

 サリアはいた。この一年共にいて、見たことのない表情を浮かべていた。にらみ殺すような、貫くような目。堅く歪めた頬、歯をむいた口。戦場ではよく似た表情を何度も見たことがある。死兵の顔。言葉のとおり、死ぬつもりで斬りかかってくる者の表情だった。

 サリアは叫んでいた。死んだ団員のものか、剣を握りしめてリバーロへ突きかかっていた。剣は届かなかった。その前に、リバーロが振り向きながら太刀を振るっていた。

 

 ジョサイアの目にはゆっくりと見えた、太刀がサリアの首元へ斜めに当たり、白い肌が刃に押されて柔らかくへこむ。やがてぷつりと裂け、赤い肉が見える。太刀はそのまま胸へと斜めに斬り込む、服が滑らかに裂け、咬み折るような音を立てて骨が断たれる。間を置いて、蜂蜜が流れるようにゆっくりと、鮮やかな血が吹き上げる。サリアの顔に散り、リバーロの体に散り、宙に舞った。

 

 緩やかに動く世界の中、ジョサイアは目を瞬かせていた。何が起こったのか分からなかった。目は開いていたが、自分が何を見ているか分からなかった。吹き上げられた血しぶきを追って顔を上げた。雪のようにゆっくりと降るそれが、頬についた。温かく、生臭い。鉄のような匂い。かぎ慣れた匂い。

 

 それからようやく、ジョサイアは何か起こったか理解した。声は出なかった。世界は元の速さに戻っていた。

 サリアは崩れ落ちながら、震える片腕でリバーロの腕をつかんだ。もう片方、斬り込まれた肩の方の腕はだらりと垂れていた。その腕の先、指だけが、何かを握り潰そうとするように震えていた。顔を歪ませてつぶやいていた。地にひざをつき、リバーロの腕をつかみ、瞳孔の開いた、焦点の合わない目で見上げていた。

「させ、るか、させるか、あたしの……」

 爪はリバーロの腕に食い込み、血をにじませた。やがてその手から、顔から力が抜ける。それでも爪は食い込んだままだった。

 

 リバーロは表情を変えることなく、サリアの体を払いのけた。人形のように力なく、サリアは自らの血だまりに倒れた。腕から抜ける爪が肌をかき、リバーロに新たな傷を残していた。

 

 声にならない叫びを上げ、ジョサイアはサリアにすがりつく。ズボンが血に濡れるのも構わなかった。

 見開かれたサリアの目は、ジョサイアを見上げてはいたが。瞳孔が開き、どこを見ているか分からなかった。その唇が何か言いたげに震えた。

 

 ジョサイアの顔が歪む。額に脂汗がにじんだ。口が震えて歯が鳴った。涙と鼻水が一緒に込み上げた。

 サリアの瞳が焦点を取り戻す。震える手がジョサイアの顔に伸ばされる。その手が目元と鼻の下とを拭い、柔らかく鼻をつまんだ。

鼻水(ハナ)……拭きな?」

 サリアの手が力を失い、崩れ落ちる。目を閉じた顔は、ほんのわずか微笑んでいた。

 

 ジョサイアは胸の奥から、腹の底から叫び声を上げた。サリアを離して立ち上がり、リバーロへ殴りかかる。拳は空を切った。正面から殴り返される。金槌で打たれたような衝撃、鼻がひしゃげる感触。地面に倒れる。

 

「女は斬る気なかったンだがな……」

 起き上がろうとするジョサイアの頭に、大きな足が踏み落とされる。そのまま地面に打ちつけられた。頭の両側から丸太で殴られたような硬さと重さ。

「しゃーねェ……代わりだ」

 

 生きてろ。遠のく意識の中、そう聞いた気がした。

 

 



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第7話  お前の意味は

 

 ジョサイアが目覚めたのは二日の後、葬儀がすべて終わった後だった。

 

 生き残った団員はジョサイアと団長だけだった。団長は宿の自室にいた。残った左手で酒のグラスを手にしていた。

「奴には関わるな。無理だ」

 ジョサイアが声をかける前にそう言った。

 

 ジョサイアは言葉を失った。口は開いたが、何を言えばいいか分からなかった。

 団長は包帯を巻いた右手に目を落とし、首を小さく横に振った。

「無理だ」

 

 ジョサイアの顔が引きつる。奥歯が音を立て、爪が掌に食い込んだ。心臓が大きく脈打ち、こめかみが破れそうなほどの血が頭へ走る。行き場のない力があふれ、その力が腕に満ちる。気づけば、殴っていた。

 団長は椅子ごと転げ、それでも何も言わなかった。床に倒れたまま、ジョサイアの目を見上げていた。その視線は真っすぐだったが、目に光はなかった。芯の抜け落ちた目。ジョサイアの知る団長の目ではなかった。

 

 ジョサイアはきつく目をつむった。まぶたに、奥歯に、拳に言いようのない力がこもる。再び振り上げた拳を宙で止める。震えるまま壁を殴りつけた。部屋を駆け出て、叩き割るような勢いでドアを閉める。

 わずかな蓄えと荷物を持ち出し、町を走り出た。皆の墓には行かなかった。顔を上げてひたすらに走る。つぶやいた。

 

 鼻水(ハナ)を拭け、前を向け。奴を許すな、ジョサイア・ロンド。お前の意味は、もうそれだけだ。

 さらに速度を上げ、息が切れるのも構わずに走った。

 

 

 

 

 五年の後であるという。ローザナン地方にジョサイア・ロンドはいた。

 いかなる修練を自らに課したのか、細身だった体は隆々たる筋肉を有していた。腕は古木の枝、腹は幹、脚は根のようであったという。輝くようだった金色の髪はくすみ、頬はこけ、目は刃物のように鋭い光を持っていた。もはや、誰も彼を燕(つばくろ)と呼びはしなかった。

 

 かつて手にしていた細剣は(つばくろ)の名と共に捨てていた。今のジョサイアが武器としているのはより厚身の長剣である。直剣であり、長さはリバーロの太刀よりわずかに短い。両刃で、刀身は太刀よりも厚く頑丈である。

 彼の鍛錬の一部を目にした者によれば、ジョサイアは跳び上がりながら剣を片手で振るい、空中の蝙蝠(こうもり)を両断していたという。常人なら片手振りで小さな的へ当てるだけでも困難であろう。的が動くとなればさらに。加えて、両断するというのも並大抵のことではない。ジョサイアの剣は太刀ほどに鋭利なものではない。たとえるなら宙に舞う紙風船、これをカミソリで裂くことは容易であろう。しかし、ナタで裂くならば。それを成すには、恐るべき剣速でもって無理やりに裂く他あるまい。

 

 剣速、腕力、精度。ジョサイアはそれらを達人と呼ばれる域まで鍛え抜いていた。達人を斬るには達人にならねばならない、ジョサイアは口癖のようにそうつぶやいていた。

 リバーロを見つけることは未だできていなかったが、それでも出会うと確信していた。ジョサイアの噂は広まっているし、町を発つたびに次の目的地と滞在予定の期間を住民に言い残している。それを聞きつけて向こうから探しにくる。理由はないが、確信があった。

 

 ある町の食堂でのこと。夕食を食べ終えて水を飲んでいると、一人でテーブルについていたジョサイアの横に誰かが座った。

「やあ、奇遇だね。五年、いや六年ぶりかな」

 白髪に白ひげ、壮年の男。バーレンの一角獣の団長であった。

 

 ジョサイアが無言でいると、白髪の男は勝手に喋った。

「それにしても見違えた、よくぞそこまで鍛えたものだ。うちの者では四、五人がかりでもかなわんだろうね。ところで、一つ話が――」

 

「失せろ」

 水のコップに目を落としたままジョサイアは言った。この男の顔を見、声を聞いているだけで気分が悪くなる。取り戻せないもののことを思い出しそうになる。

 白髪の男がさらに何か言いかけたところで、ジョサイアは手に力を込める。音を立ててコップが砕け、水がテーブルにこぼれた。

 

 慌てて男は立ち上がる。押さえるように両手をジョサイアに向けて言った。

「分かった、すまない。だがこれだけは聞いてくれ。これも何かの縁だ、昔のよしみもある。我々の団としては君に加勢したいと考えている」

 バーレンの一角獣との間によしみというほどのものはない。リバーロには国や複数の町から賞金がかけられている、それが目的だろう。

「勘違いしてほしくないのだが。賞金目当てではない、ほんの一部もらえればいい。バーレンの一角獣は紳士なのだ、欲しいのはむしろ名声。それに義、だ」

 名声は分かる、とジョサイアは考えた。死神を討った部隊となれば破格の条件で雇われるだろう、雇った側にはそれだけの箔がつくことになる。しかし、義とは何だ。

 

 男はもの悲しげな顔で首を横に振る。どこか気取った仕草に見えた。

「なんと言ったか……そう、サリア。彼女のことは残念だった――」

 その名を聞いた瞬間、火花が散ったように頭の奥が、胸の中が痛んだ。

 

 一息にサリアのことすべてを思い出す。初めて出会ったときの、あの淀んだ目。試合に勝ち、助けたときの笑顔。村へ送るため、馬の後ろに乗せたときの暖かさ、柔らかさ。それに薄甘い、なんだか泣きそうになるほどいい匂い、懐かしい匂い。宿で共に働いたこと、仕事を熟知している彼女にまったく頭が上がらなかったこと。婚約の言葉。

 そして。斬られるサリア、その虚ろな目。刃が食い込む柔らかな肌、骨を断たれる音。生温かい、鉄臭い血。ジョサイアの鼻水を拭う指。まるでかなわなかった自分。踏みにじられた自分。

 自分の何もかもが、荷車にひかれた亀のように潰される感覚。

 

 目を見開く。何も言わず、立ち上がりざまに男を殴る。男は床に叩きつけられるような勢いで椅子から転げ落ちた。

 

 ジョサイアの肩が大きく上下する。血がこめかみを、頭の中を駆け巡るのが分かる。額に汗がにじんでいた。耳が熱かった。目が熱かった。

 床を踏みつける。その音が店の中に響いた。

「その名を……言うな」

 

 やがて、白髪の男は立ち上がって頭を下げた。

「すまない、軽々しく言うべきではなかったね……。だが、これだけは聞いてくれ。君の事情は知っているし、我々もかの斬聖を、死神を放っておいていいとは思わん。なるほど、君は強いだろう。だが一人で勝てるかね。協力させてくれ、君ほどの剣士が失われるのは――」

 

 最後まで言わせず、ジョサイアは剣を抜いた。片手で無造作に一振りし、テーブルに叩きつける。テーブルは薪が斧に割られるように乾いた音を立て、木片を散らして二つに割れた。

 後ずさろうとする男の足元に、懐から出した二本の短剣を投げる。短剣は男のつま先をわずかにそれ、床に突き立った。

 

 動きを止めた男はゆっくりと両手を上げ、押さえるように掌をジョサイアに向けた。

「……分かった、分かったとも、悪かった。これ以上は言うまいよ、ただその話だけ覚えていてくれ」

 そう言うと、後も見ず足早に店を出ていった。

 

 



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第8話  死と死人と

 

 余分の代金を払い、ジョサイアは店を後にした。町を出て街道を歩き、やがて道を外れる。草むらへ分け入った。しばらく行った崖の辺りは平地になっており、ここ数日はそこで鍛錬をしていた。

 

 夜風に汗が引いていく。空を見上げた。曇りのない銀色に光る満月が、夜空を妙に白っぽく照らしていた。美しいと思ったが、すぐに地面へ目を落とした。

 

 美しい景色、美味い飯、珍しい見世物、面白い風聞。そうしたものの一切を、ジョサイアは意識の外へ遠ざけていた。鍛錬の邪魔になる、と考えてのことではない。辛いからだ。

 楽しい思い、良い思いをするたびに思う。今、サリアがいれば喜んだだろうか、何と言っただろうかと。俺はそれに何と応えただろうかと。それはどれほど楽しいだろうか、と。

 そして、サリアはいない。

 

 ジョサイアはここ五年間幸福を遠ざけ、激しい鍛錬に身を投じてきた。鍛錬ならいくらでも耐えられた。そうしている間と、疲れきって気絶するように眠っている間だけは、思い出したくないことを忘れられたからだ。けれど幸福と、思い出にだけは耐えられなかった。サリアのこと、仲間のことを思い出すたび、それを失ったことをも思い出してしまう。 

 仲間やサリアの墓には一度も行っていない。これからも行くことはない。

 

 サリアを忘れてしまいたいとさえ思った。顔も声もなめらかな肌も、懐かしい匂いのする髪も。あの日のことを忘れてしまいたいと思った。ゆっくりと吹き出す血の動き、匂い、温かさ。どこをも見ていない目、力のない体。

 

 リバーロを斬る。ジョサイアの意味は、今やそれだけだった。もはやそれは仇討ちではなかった。仇討ちと考えれば、その瞬間にサリアを思い出す。胸が痛み、剣が鈍る。それでは、斬れない。

 息を深く吸い込み、ゆっくりと吐いた。奴を斬る、ただそれだけ。それがすべて。そう自らに言い聞かせた。

 

 だから。草むらを抜けた先にいた男を見ても、鼓動の速さは変わらなかった。

 

「よゥ。いい月夜だな」

 リバーロ・クライン。月を背に、死神がそこで笑っていた。

 

 ジョサイアは音を立てて土を踏みしめる。深く息を吸い、大きく吐く。ゆっくりと剣を抜いた。

「ようやく会えた」

 

 リバーロは手をあごに当て、指先で頬をかく。太刀を抜かないまま苦笑いした。

「ああ、ようやく。会いたかったっちゃァ会いたかったぜ。会いたくねェっちゃそうだがよ。生きてろ、って言ったはずだぜ。なんでまた死ににくる」

 リバーロは両手を肩の辺りに上げ、手の平を上に向けてみせる。

「仇討ちか? 何の意味もないのに? やっても死人は戻らねェのに? 仇も討ち手も、死人がもしも生きてたとしても。遅かれ早かれ、みんな死ぬのに?」

 

 ジョサイアはゆっくりと首を横に振る。胃の底に熱さを、腕に堅い力を感じた。

「違うさ。……斬りたい、お前を。俺のいる意味はそれだけだ」

 

 リバーロは、ぬたり、と笑う。

「かまわんがなァ。できればいいンだがなァ。俺は死だ、死は斬れんさ」

 ジョサイアは表情を消した。鼓動にも呼吸にも乱れはない。

「斬る」

 

 リバーロは眉を上げ、嬉しげに笑う。

「ほゥ? 死を斬るお前は何者なのかね」

 

 目の前の男は確かに死だ。ジョサイア・ロンドはあのときに死んだ。

 心臓の辺りにうずきかけた痛みを、意識して抑えた。笑うように鼻で息をつき、リバーロの目を見すえて剣を構える。

「俺は死人だ。いかに死といえ、死人は殺せん」

 

 リバーロが歯を見せ、目尻にしわを寄せて微笑む。その目はぬらりと輝いて見えた。滑るような音を立てて太刀を抜く。刃が月明かりを映し、蛇の鱗のような濡れた輝きを放つ。

 

 ジョサイアは踏み込み、剣を振るった。白い軌跡を描いて剣がリバーロへ向かう。

 同時、リバーロも太刀を振るっていた。剣とかち合い、甲高い音を立てて火花が散る。

 

「ぬ……!」

 よろめいたのはリバーロだった。

 太刀よりもジョサイアの剣は厚く、重い。与える衝撃も刀身の耐久性も勝る。それを太刀ほどに速く振るうため、ジョサイアは鍛錬を重ねてきた。

 

 再び剣を振るう。リバーロは太刀を掲げてそれを防ぐ。大きく跳び退いて距離を開けた。構え直して、ぬたり、と笑う。

「やるねェ……」

 ジョサイアは唇の端をわずかに吊り上げた。

「当然だ」

 

 距離を詰め、さらに踏み込む。突きを繰り出そうとするも、リバーロはそれより早く動作を起こしていた。片手で突き出される太刀が、間合いの外からジョサイアの肩に突き刺さった。しびれるような痛みに歯を食いしばる。深い傷ではない、と同時に判断した。

 いったん身を引く。空を斬る音を立て、目の前を銀色の流れがかすめる。左下、右から、左上から右上から、次々に太刀が繰り出される。剣を構えてどうにか防いだ。

 

 ジョサイアは大きく飛び退きつつ、剣を下段に下ろした。リバーロが斬り下ろしてくるところへ振り上げる。太刀の横腹をすり上げるように、斜めに払う。刀身がこすれ合う音を立て、柄に軽く手応えが響いた。

 太刀は軌道を大きく変えられ、ジョサイアの手元で空を切った。

 対する剣は、ちょうど斜め上へ振り上げた形。そこから一気に叩きつける。

 

 リバーロの防御は間に合わなかった。ちぎれ飛んだ前髪が宙を舞う。切っ先に手応えがあった。顔面を血で染めながら、リバーロは大きく後ずさる。構えは崩れておらず、斬り込む隙はなかった。

 

 ジョサイアは構え直しながら舌打ちする。いったん飛び退いた後の攻撃だったため、完全には踏み込めていなかった。体重も乗せられていない。手応えは浅く、切っ先のごく先の方にあったのみだった。

 

 額から鼻の横を伝って流れる血をそのままに、リバーロは笑う。

「いいねェ。こんだけ斬り結べたのはあんたが初めてさ」

 息をつき、太刀の背で自分の肩を叩いた。そして言う。

「さてと。もう、やめといた方がよかァねェか」

 

 ジョサイアは構えを崩さない。

「傷一つで怖気づくか」

 リバーロは首を横に振る。

「そうじゃねェ。あんたほどの奴になら、俺の命なんざくれてやっていンだけどよ。したらあんた、困ンだろ」

 リバーロは深く息をつく。笑ってはいなかった。哀れむような目をしていた。

「俺を斬るのがあんたの意味だ。ならよォ、俺を斬ったらあんたどうする。あんたの意味はどこにある」

 

 ジョサイアの口がわずかに開いていた。

 考えたこともないことだった。いや、考えまいとしていたことか。ジョサイアはもう、幸せに耐えることができない。だが、目的もなく苦難に耐えられるか。幸福だった頃には戻れない、だがリバーロを斬れば、苦難の今にすら戻れなくなる。その先に何がある?

 

 顔を歪め、歯を食いしばった。叫んでいた。

「知るものか!」

 そう、そんなことはどうでもいい。今この時、奴を斬る。それだけが意味。

 全力で剣を振り下ろす、そうしたつもりだったが。ほんの一瞬、しかし確実に、力を込めるのが遅れた。

 

「そうかい」

 リバーロから表情が消えていた。暴風のような音を上げて太刀が振るわれる。頭を狙うように横殴り。

 

 ジョサイアの剣がリバーロの頭を叩き斬る、はずだった。それよりも先に、太刀はジョサイアの頭を打っていた。

 

 斬るのではなく、打つ。リバーロは刀の向きを変え、刃のない方で打ちかかっていた。いわゆる峰打ち。だが、その目的は斬らないことではなかった。

 刀は刀身が後ろへ反り返っている。その分、切っ先が相手に当たるまでの距離が直剣よりも長くなる。リバーロはそれを逆手に取った。峰打ちで振るうなら、切っ先は『相手に向かって』反っていることになる。当然、その分相手までの距離は短く、早く当たる。

 

 こめかみを横から打たれ、ジョサイアの視界が斜めに傾く。硬い衝撃は頭蓋の中で響き、でたらめに脳を駆け巡る。視界がぼやけ、揺れた。振り下ろした剣は的を外れ、肩口を浅く斬り裂くに留まっていた。

「な……」

 

 ジョサイアは混濁した意識のまま、それでも突進した。体ごとぶつかり、鍔ぜり合いに持ち込む。

 その体勢から、リバーロは足を踏みつけてきた。ジョサイアが動きを止めたところへ、身を乗り出しての頭突きが飛ぶ。揺れていた意識がまたしても、わずかな時間どこかに吹き飛ぶ。

 その隙に、リバーロは下がりながら太刀を跳ね上げてきた。剣はすくい上げられるように弾かれ、しびれる衝撃を指に残して手から離れた。音を立てて地面に刺さる。

 気づけば、目の前に太刀が突きつけられていた。

 

 



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第9話  殺せてはいなかった

 

「勝負、あったな」

 リバーロはつぶやき、太刀を頭上に掲げるように構えた。今度は刃を向けていた。その顔に笑みはない。

 

「今は別れてまた再戦、といきたかったがなァ。どうする」

 ジョサイアは答えられなかった。指先から、肩から力が抜け落ちていた。目を見開き、口を開けていた。

 

 どこか寂しげにリバーロはつぶやく。

「ここまで、か」

 

 不意に、ジョサイアの口にぬるりとしたものが触れる。指で触れてみると、それは血だった。先ほどの頭突きで鼻血を吹いたのか。

 力のこもらない手で無意識に鼻血を拭う。その瞬間に思い出した。

 サリアが殺されたあの日のことを。涙と鼻水に濡れた顔を、拭ってくれた柔らかい指。

 そしてまた思い出した。婚約の日に鼻をつまんできた、あの温かい指。あのときサリアは言ったのだ。今度はあたしが守ってあげる、と。ずーっと、と。温かい言葉、柔らかい言葉、懐かしい匂い。

 

 鼻血を拭い、柔らかく鼻をつまむ。

胸の中に温かいものがにじむ。その感覚は傷口に触れるような痛みを伴っていた。けれどその後、それ以上に胸に甘い。

 ジョサイアは息をついた。体の奥につかえていたものが、息と一緒に抜け落ちた感覚。

 

 笑っていた。肩を震わせ、息を吹き出して、全身で笑っていた。何年ぶりか分からなかった。胸の奥から湧き出る笑いだった。つぶやく。

 

「お前は、だ。殺せちゃいなかったんだな。ジョサイア・ロンドは殺せても」

 胸の中でつぶやく。サリアが死んだあのときから、ジョサイア・ロンドは死んでいた。

 だがサリアは言っていたのだ、『守ってあげる、ずーっと』と。ずーっと、は、死んでも、ずーっと、だ。いなくなってすら、あいつは俺を守ってくれる。

 

 それでもサリアはもういない。笑うことも一緒に飯を食うことも抱き合うこともない。

 せめて、奴を同じにしてやろう。いや、奴はそれより下だ。

 

 ジョサイアは唇の端を吊り上げた。

「死んでもずーっと続く、なんて。お前にはねぇだろ。俺はあいつに守られてる。あの時も今も、この先も。ずーっと、だ」

 

 音を立てて空気を吸い込む。腹の底から息を吐く。抜け落ちていた力が、体の芯から再び湧き出る。顔に腕に脚に、腹の底に力がこもる。

鼻血(ハナ)を拭け、前を向け。奴を許すな、ジョサイア・ロンド。

 

「なんだと……」

 リバーロが歯をかみしめ、顔をこわばらせた。今にも斬りかかろうとするように、腕に力が込められたのが分かった。

 

 ジョサイアは目で距離を測る。お互いの距離は鍔ぜり合いから下がったときのまま。手が届く距離ではないが、太刀の間合いよりやや近い。ならば、いけるか。

 鼻血の混じった唾を、リバーロの目を狙って吐いた。同時に左右の手で、懐の短剣二本を抜く。身をかがめ、地を蹴って跳び込む。

唾は目に当たらなかった。が、気を取られたのかリバーロの太刀が遅れた。ほんの一瞬、しかし確実に。

 

 頭を下げ、右手の短剣を掲げる。振り落とされる太刀がそこに当たり、火花を上げた。手の感覚が吹き飛ぶような硬い衝撃。押し込んでくる力に右腕がひじから曲がる。勢いを殺されながらも太刀は止まらず、肩にまで食い込んだ。引き裂かれる痛みを肌に感じたが、刃はそこで動きを止めた。

 足を大きく踏み込み、左手の短剣を体ごと押し込む。がら空きの脇腹へ。服を貫き、弾力のある肌を、ぶちり、と貫き。堅い肉へ刺した感触。

 勝った。

 

 そう思ったとき。左肩と右脚に、後ろからの衝撃を感じた。足が止まり、短剣は刺さったものの浅かった。見れば、肩と脚に矢が突き立っていた。

 

 ゆっくりとした拍手が辺りに響き、草むらの中から見覚えのある姿が現れた。白髪に白ひげ、壮年の男。バーレンの一角獣、その団長であった。

「やあ、お見事。死神をそこまで追い込むとはね。さすがのお手並みだ」

 

 思い出したように矢傷が痛み出す。

白髪の男は胸に片手を当て、大げさな動作で礼をする。

「我らバーレンの一角獣、義によりて加勢いたす。と、ね」

 それが合図だったかのように、草むらから傭兵らが姿を現した。数は三十名ほど、それぞれが弓や槍を手にしていた。

 

 白髪の男はあごひげをしごきながら満面の笑みを浮かべた。

「さて。にっくき死神を討つのは我々だ、君はもういいだろう。その活躍は忘れないよ、我々だけの心に永遠に留めておこう」

 男が手を上げると、兵は一斉に弓を引き絞った。

 

 穏やかな口ぶり、しかしおどけるような笑みを浮かべて男は言った。

「安心したまえ、彼女の仇は我々が討とう。君はゆっくり休んでいたまえ。ゆっくりと、ね」

 男が手を振り下ろす。風を切る音を立てて矢が放たれた。ぶづり、という感触と共に、足に一本、腕に二本が突き立つ。矢傷は熱く、しびれるようだった。リバーロの体にも矢が刺さっているのが見えた。

 

 槍兵が殺到する。槍を頭に振り落とされた。その後のことは覚えていない。

 

 



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最終話  ずーっと、ずっと

 

 目を開けたとき、何もかもが白かった。自分が倒れて、空の方を向いていると気づくまでに時間がかかった。夜が明けていた。空には一面、もやのような雲がかかっていた。

 体を起こす。刺さったままの矢がその動きに揺れ、傷口が焼けるように痛んだ。体は重く、汗に濡れた服が冷たかった。脈が打つごとに頭がひどく痛む。

 

 辺りには濃い霧が立ち込めていた。雲の上にいるのかとさえ思ってしまった。

立ち上がる。人の気配はない。ひどく濃い血の匂いがした。歩き出したとき、何か柔らかいものを踏んだ。見れば、腕が落ちていた。槍を握ったまま、ひじの辺りで斬り落とされた人の腕。

 

 風が吹き、霧がわずかに流れた。それでようやく辺りが見えた。

 周りには一面、傭兵たちの死体が転がっていた。いずれも手ひどく斬られ、誰の足がどこに行ったのかも分からない有様だった。地面は血を吸って赤茶けた色になっていた。一角獣の団長も、目を見開いたまま胸を刺されて死んでいた。口から流れた血で、あごひげは赤茶色に染まっていた。

 

「よゥ」

 後ろから聞こえた声に振り向く。力ない声だったが、忘れるはずのない声。

 

 何重にも積み重なった死体に腰かけ、リバーロがそこにいた。肩に背に、腕に脚に矢が突き立ち、剣や槍に裂かれた傷が全身にいくつも口を開けていた。そこからは今も赤黒い血がこぼれている。顔も体も、絵の具を塗りたくったように赤茶色に染まっていた。返り血と本人の血だろう。衣服も同じ色に染まり、斬り裂かれて原型を留めていない。地面へ突き立てた太刀には血がこびりつき、切っ先から鍔元まで刃こぼれしていた。刀身は中ほどから、不自然に後ろへ曲がっていた。

 

 ジョサイアは口を開けたが、言葉は出なかった。

 リバーロは疲れきったような、しかし満足げな顔で、薄く笑った。

 

 風が吹いた。

 ジョサイアはようやく言う。

「なぜ……俺を斬らなかった」

 

 リバーロは変わらず微笑む。

 ジョサイアは声を上げた。

「なぜ斬らなかった。助けた、のか」

 

 リバーロは鼻で息をつく。

「あァ、助けた。見捨てることも斬ることもできた、だが助けた」

 そして口の両端を吊り上げた。目を大きく見開き、白い歯を見せ、ぬたり、と笑う。

「助けたンだ、俺が。あの時と同じただの気まぐれで、だ」

 

 おかしくてたまらないというように鼻から息を吹き出す。肩を震わせ、喉の奥で笑い声を上げる。体中に突き立った矢がそれに合わせて震えた。

「いいか、俺がだ! 守ったのは俺だ! あんたが言った、あいつとやらじゃねェんだよ! ずーっと守られてる? 何がだ! 俺が守らなきゃあんたは死んでた」

 

 ジョサイアは何も言えなかった。頭の中が軋むように痛んだ。

 リバーロが太刀を杖に立ち上がる。腕も脚も、今にもくずおれそうに震えていた。それでも笑う。

「命は無くなる、すべて無くなる。いつか必ず消えていく。『ずーっと』守られてるってあんたの命も! それでどこに『ずーっと』がある? どこにそいつが残るんだ? 何も無い、意味も無い」

 

 ジョサイアは歯を食いしばる。それでも頭に痛みが渦巻く。頭蓋がひび割れていくような痛み。腕と脚から力が抜け、その場にひざをついた。

「違う……違、う」

「違わんさ。俺ですらも、正直……そろそろ、だ」

 リバーロは背を向けた。太刀を杖に、脚を引きずりながら歩く。

 

 ジョサイアの体からさらに力が抜ける。右手をリバーロに向けて伸ばし、左手で土をつかんでいた。

「待て……! お前は斬る、必ず、俺が――」

 

 リバーロは肩越しに振り向く。

「俺は死だ。死は斬れんさ。……楽しかったぜ」

 言い終わると同時、リバーロの目が見開かれ、瞳が焦点を失う。開いた口から霧のように、赤黒い血を吐いた。その場で肩を上下させ、強く息を吐いた後。また太刀を杖に歩き出す。振り向かず、血に濡れた手を肩越しに振った。

 

 ジョサイアは目をつむり、額を地面に叩きつける。自分が歯をかみ鳴らす音を最後に聞いた。

 

 

 

 

 その後。血の匂いに気づいた町の者に発見され、ジョサイアは町に運ばれた。

 半日の後、意識を取り戻したジョサイアはそこで起こったことを語った。死神がひどく傷を負っていると聞き、領主は直ちにすべての兵を向かわせる。

 だが、兵はリバーロを見つけられなかった。彼らが見たのは傭兵らの大量の死体、それに、その場を離れるように続く血の跡だった。血痕は大きく、まるでコップから血をこぼして歩いたようだった。

 血は街道の方へは向かっていなかった。反対側、崖に行き当たって途切れていた。底を川が流れる深い崖。そばには刃こぼれしきった太刀が転がっていた。

 道を誤ったか、傷の苦しみに自害したのか。いずれにせよ死神は死んだ。

 

 町の者の喜びは尋常ではなく、ほとんど祭り騒ぎとなった。人々は医師の制止もを振り切り、包帯を巻かれてベッドに横たわる英雄のもとへと押しかけた。

 

「ふざけるな。ふざけるな、ふざけるなふざけるな!」

 砕くかのような勢いで壁を殴り、ジョサイアは言った。あれしきで奴が死ぬものか。奴は死だ、死は死なん、と。顔を歪め、震えるほどに拳を握っていた。

 

 騒ぎに加わっていた兵が言う。血が続いていた崖は深く、落ちて助かる高さではない。反対側に飛び移ることも、縄もなしに降りることもできない。それにあの出血なら、逃げ延びていても助かるまい、と。

 

 ジョサイアは歯をかみしめて首を振る。お前たちは死を知らない、と。

「俺の剣をよこせ。奴は必ず俺が斬る、必ず、必ず必ず必ず必ず」

 ふらつく足で立ち上がり、ひったくるように剣を取る。服を着込み、荷物をかつぐ。

 

 止めようとする医師を殴り倒す。つかみかかった兵を、剣を抜き放ちざま斬った。血が飛び散り、人々が悲鳴を上げる。温かく、生臭い。鉄のような匂い。

ジョサイアの頬にも血が散った。ジョサイアの表情は変わらなかった。人々をかき分け、外へ駆け出す。

 

 サリアは俺と共にいる、俺はサリアに守られている。ずーっと、ずっと。

 サリアを殺した、奴を許せん。サリアを否定した、奴を許さん。ずーっと、ずっと。

 奴を斬る、今度こそ。更なる鍛錬を積んで。達人を斬るには達人にならねばならぬ。死を斬るには、死にならねばならぬ。今度は、今度こそ今度こそ、今度こそ今度こそ。

 ジョサイアは焦点の合わない目を見開き、そうつぶやいていた。居合わせた多くの人がそのように語ったという。

 

 ジョサイア・ロンドについて、以降の記録は見つかっていない。

 

 

 

 

 さて、死神の話である。その後、死神は再び現れた。死神は女子供は斬らなかった。武器を持った男、ことに兵士や騎士の類を好んで斬ったという。もっぱら夜に現れたため、顔を見たものはいない。ただ、武器は太刀でなく剣だったということである。

 

 このような話が伝わっている。行商人の夫婦の話だ。夫婦は馬車で旅する商人であったが、急ぎの用で夜に峠を越えることとなった。そこで死神と出くわした。

妻を荷台に乗せ、夫は手綱を取って馬を駆けさせていた。と、道端から何かが飛び出してくる。獣か鳥か、と思う間に、それは馬に跳びかかった。鈍く光るものが一筋、馬の首元を横切る。転げるように馬の首が落ちた。馬の体は血しぶきを上げながら数歩走り、崩れ落ちた。馬車の荷台が大きく揺らぎ、音を立てて横倒しになる。

 

 道に放り出された夫がどうにか顔を上げたとき。そこには男がいた。男はたくましい腕に抜き身の長剣を持ち、月を背にして、ぬたり、と笑う。逆光になっているせいで顔はそれ以上見えなかったが、髪はくすんだ金色をしていた。

 夫は護身用の剣を腰に帯びていたが、こわばって震える手では抜けなかった。鍔と鞘がかち合って音を立てるばかりだった。抜いたところで噂の死神に勝てるとも思えなかった。

 死神がゆっくりと剣を掲げる。

 

 そのとき、妻が駆け寄った。片手で夫の腕を握り、もう片方の手で包丁を握っていた。激しく震えるそれを死神に向ける。目は死神をにらんでいた。

 夫は妻の顔を見、それから妻の手を離させた。腰の剣をゆっくりと抜く。目は死神を見すえていた。

 

 死神の声がした。

「夫婦、か」

 意外な言葉に間が空いたが、夫婦は一緒にうなずいた。

「行け」

 死神は背を向け、剣を納めた。

「行け、と言っている。共に生きるがいい、死が二人を分かつまでは。……分かたれたとしても、ずっと。ずーっと、だ」

 そう言い残すときびすを返し、月の下を歩み去ったという。

 

 その後の死神について確たる記録はない。人斬りが行なわれたという話は散見されるが、死神の最期を語るものはない。ただ、峠道で手をつないでいく夫婦者を、金髪の男が物陰から眺める姿が時折見られた、という話が残っている。

 

 

(了)

 

 



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