フー君が思春期の青い衝動に振り回される話 (kish)
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変化球勝負からの不意打ちストレート

 

 

 二宮尊徳という偉人を知っているだろうか。

 江戸時代後期の人物で、一般的には二宮金次郎と呼んだ方が通りがいいだろう。

 薪を背負いながら本を読む姿が特徴的な銅像のモデルだ。

 何が言いたいのかというと、今の俺の姿はそれに通ずるところがある、ということだ。

 歩きながらの勉強は行儀が悪いなんて意見もあるだろうが、そんなものは知らん。

 今はとにかく一分一秒でも惜しい状況なのだ。

 勉強にやりすぎるなんてことはないのだから。

 

『全国で十位以内! これでどうですか!』

 

 あいつらの父親の前で啖呵を切った以上、やり遂げる以外に道はない。

 しかし残された時間は多くない。

 だからやれるだけのことはやっておきたいのだ。

 俺が自分自身の意地を通すためにも。

 

「そうだ、これはあいつらのためなんかじゃ――」

 

 頭に浮かんだ五つ子の顔を振り払って意識を問題集に移す。

 雑念は集中力をかき乱す。

 せめて自分の勉強の時間だけはあいつらのことを考えないようにしておきたい。

 ただでさえそこに起因する悩みのタネが多いのだから。

 

「フータロー君、おっはー」

「おわっ」

「前見てないと危ないよ」

「……いきなり話しかけてくるなよ」

 

 早速悩みのタネその一がやってきた。

 呑気にストローでカフェラテだかカフェオレだかを啜ってやがる。

 ちなみに悩みのタネはその五まである。

 不思議なことに中野姉妹の数とぴったりである。

 

「もー、あれでいきなりだったらどう声かければいいのさ」

「そっとしておこうぜ」

「他人行儀だなぁ、このこの」

「うっ」

 

 脇腹を肘でつつかれる。

 なんてことのないじゃれつきだ。

 しかし問題はそこじゃなく――

 

(ち、近い)

 

 そう、物理的に距離が近いのだ。

 シャンプーのものと思しき匂いが鼻をくすぐり、シャツの胸元から僅かにのぞく谷間――から全力で目をそらす。

 

「い、一花、また一人なのかよ。見慣れない眼鏡なんてつけやがって」

「これ? どう、少しは知的に見えるかな」

「馬子にも衣装という言葉があるな」

「わー、褒められてる気がしない」

 

 白状してしまえば、最近俺は性欲を持て余していた。

 以前ならこんなことはなかったはずだ。

 皆無とまではいかないが、無視できる程度のものだったのだ。

 それが今では、迂闊にあいつらに近づけない程にその手の衝動が増している。

 もちろん我を失うなんて事態にはならないだろうが、万が一にも体のある一部分の変化を悟られる、なんて無様は晒せない。

 そのためには変に意識しないこと、そして適切な距離を保つことが必要不可欠だ。

 原因についてはわからないが、こうなった時期は大体わかる。

 

『あんたを好きって言ったのよ』

 

 そう、二乃のあの告白の後からだ。

 そして温泉でのあれこれの後、なにかと理由をつけて料理をふるまってくれている。

 それについては大分助かってるし、感謝もしている。

 だがしかし、二乃にはとある前科がある。

 

(まさかとは思うが、なにか盛ってたりしてないだろうな)

 

 睡眠薬といえば二乃、薬物混入といえば二乃だ。

 疑いたくはないが警戒はしておくべきだろうか。

 

「ねぇ、聞いてる?」

「ん、なんだ?」

「寝ぼけ気味だね。じゃあこれ、差し入れに眠気覚まし」

「ああ、悪い」

 

 なぜか一花は自分が飲んでいる方とは別に、もう一つ飲み物を持っていた。

 少々頭が疲れていたためか、大して考えることもなく受け取った紙製のコップを口に運ぶ。

 

「ぶほっ! 熱っ、苦っ!」

「あー、ホットなのに一気に飲むから。大丈夫?」

「これ、コーヒーだったのか」

「ごめん、苦手だった?」

「たしかに苦いのは得意じゃないが、いい感じに目が覚めた。サンキューな」

「どういたしまして。次はもうちょっと甘いのにするね」

 

 次はということは、またなにか差し入れを持ってくるということだろうか。

 ここ最近登校中に出くわす機会の多い一花だが、差し入れをもらったのは今日が初めてだ。

 もしかしたら昨日の一件について他の姉妹から聞いたのかもしれない。

 

「模試の件、聞いたのか?」

「え、あ、そ、そうだよ! フータロー君頑張ってるんじゃないかなーって」

「ったく、まずは自分の心配だろうに……言っておくがお前らも試験までは勉強漬けだぞ」

「わ、私たちもかぁ……」

「とはいえ、お前は学年末試験で仕事と勉強を両立して見せた。正直心配はいらないと思っている」

「……」

 

 俺はこいつの努力を知っている。

 撮影の合間、眠気と戦いながら勉強していた姿を見ている。

 そうして勝ち得た成果は評価されるべきだ。

 勉強も、女優業のことも。

 

「朝のニュース、見たぜ。あの時の映画のやつ」

「お、覚えてたんだ」

「もうすっかり立派な嘘つきだ。……オーディション、受けて良かったな」

 

 花火の日のことを思い出す。

 あの時逃げ出そうとしていた女優の卵は殻を破り、いつの間にか立派に育っていた。

 

「~~っ、フータロー君っ!」

「おわっ!」

 

 体の正面に衝撃が走ったかと思うと、同時に柔らかい感触。

 一花が腹のあたりにタックルをかますかのように抱きついていた。

 率直に言ってヤバい。

 

「むふふ、ニュース見てくれたんだ? フータロー君の家、テレビないのに」

「た、たまたま途中で見かけただけだ!」

「そうだねー、切り抜き動画もアップロードされてそうだしねー」

「あーもう、くそっ」

 

 ニヤニヤしながら胸をつついてくる一花を引きはがす。

 これ以上は下半身に血が集中する恐れがあった。

 とにかく、ここは一旦距離を置きたい。

 

「おい大女優様! その眼鏡、自意識過剰だからな!」

 

 十分距離を取って、振り向きざまに言い放つ。

 熱くなった顔もこれならよく見えないだろう。

 そして一花に背を向けて早歩き。

 すぐに追いかけてくるだろうが、少しでも体にこもった熱を逃がす時間が欲しい。

 まったく、すっかり勉強どころではなくなってしまった。

 

「……どうしよう、学校着くまでにおさまるかな、このドキドキ」

 

 その後、結局一花は遅刻ギリギリに登校してきて、朝のニュースを見たクラスメイトにもみくちゃにされていた。

 

 

 

 

 

 放課後、勉強会のために一足先に図書室へ向かう。

 自分の勉強は大事だが、あいつらの成績維持も重要だ。

 両立すると大口を叩いた以上、ここで手を抜くわけにはいかない。

 

「上杉君、今日もよろしくお願いします」

「五月か。早いな」

「ええ、あなたがあそこまで言った以上、私も手を抜くわけにはいきませんから」

 

 五月はやる気の表れか、拳を握って両手でガッツポーズしてみせた。

 それは大いに結構なのだが問題が一つ。

 両手を寄せているせいで、胸が……むぎゅっと強調されてしまっているのだ。

 意識しないよう、全力で明後日の方向に目を向ける。

 他の姉妹よりも潔癖のきらいがあるこいつには、なおさら悟られるわけにはいかない。

 

「どうしたのですか?」

「いや、すっかり桜は散ったな。もう葉桜か」

「何か悪いものでも食べたのですか? 落ちてるものを食べるのは衛生的によくありませんよ」

「……似合わないことを言ってる自覚はあるが、さすがに拾い食いはしない」

 

 こいつは人をなんだと思ってやがるんだ。

 むしろ拾い食いが心配なのはそっちの方だというのに。

 

「あまり無理はしないでください。あなたは私たちのパートナーなんですから」

「お、おう……」

 

 そっと手を握られる。

 一花とはまた違うシャンプーの香りが鼻をくすぐる。

 わかっている、これに労わり以上の意味合いはない。

 だが内なる思春期が絶賛活性化中の俺には少々刺激が強い。

 時々距離感がおかしくなるのはこいつの困ったところの一つだ。

 手を引き抜いて距離を取る。

 まだ顔の熱は表に出ていないはずだ。

 

「ほ、他のやつらは?」

「二乃はもうすぐ来ますね。一花はあの調子ですし、三玖と四葉は一花待ちです」

「しょうがないな、ちょっと様子見に行ってくるから準備しててくれ」

「あの、上杉君っ」

「なんだ?」

「えっと、なにか悩み事はありませんか?」

「お前らの成績が一番の悩みのタネだ」

「うぅ~~」

 

 何か言いたそうに唸る五月を背に来た道を引き返す。

 嘘は言っていないが、洗いざらい話したわけでもない。

 こればっかりは胸の内に秘めておくしかないだろう。

 あいつらのパートナーであり続けるためにも。

 

「……やっぱり、最近の上杉君は様子がおかしいです」

 

 

 

 

「ねーねー、どこかいこうよー」

「じゃあこの前言ってたカフェ行こうか」

「やった!」

 

 やけに距離の近い男女とすれ違う。

 恋人、カップル、デートの約束、そんなところだろう。

 以前だったら目に留めなかった存在だ。

 

「……学生の本分は勉強だ」

「その通りさ」

 

 独り言に応えるやつがいた。

 この無駄に爽やかな声は覚えがある。

 

「何の用だ、武田」

「敵情視察、というやつかな」

「はっ、随分と余裕があるもんだ」

「当然さ。いまだ重荷を下ろさない君と僕では勝負は明白だから、ね」

「お前と同じレベルで俺を語るな」

 

 結局のところ、テストというのは自分との戦いだ。

 妥協せずにどこまで突き詰められるか。

 それがそのまま点数に反映される。

 つまり、他人を気にしている暇があったら勉強をしろ、ということだ。

 ……まさに今の俺の状況に刺さる。

 

「武田、お前はなんでそこまで俺に執着する」

「君が僕の上にいたから、かな」

「ならもういいだろ。学年末試験で晴れてお前が一位を取った、違うか?」

「中野先生との話もある。僕の父、理事長からも期待されてるしね」

「しがらみってのは面倒だな」

「僕から見たら、しがらみにとらわれているのは君の方だよ」

 

 まったくもってその通りで返す言葉もない。

 だが、そのしがらみがあったからこそ俺はここにいるのだろう。

 今の俺の始まり、京都で出会ったあの子との約束。

 

「しがらみ? 重荷? むしろ俺らとお前の6対1だ」

「やり遂げられる、君はそう言うんだね」

「もちろんだ」

 

 俺には愛想がないし運動も苦手だ。

 人の心の機微にも疎いし、ノーデリカシーなんて何回言われたかもわからない。

 だけど、勉強には自信がある。

 テストで満点なんて日常茶飯事だし学年トップもザラだし、壊滅的な成績の同級生五人を教えられる程度には頭がいい。

 

「俺に勝ちたかったら満点を取る以外ないぞ」

「酷い傲慢だ。けどそれでこそ君らしいのかも、ね」

「知った風な口ききやがって」

「知ってるさ。なんせ二年もずっと見上げてきたんだからね」

 

 そう言って武田はウィンクして見せた。

 本当にキザな野郎だ。

 そこらの女子から黄色い声が上がる。

 いつの間にやら注目されていたようだ。

 

「上杉君、せいぜい僕を失望させないでくれたまえよ!」

 

 随分と上からな言葉を残して武田は去って行った。

 俺もギャラリーをかき分けて教室へ向かう。

 気分は悪くなかった。

 

 

 

 

 武田に捕まったせいで時間を取られたが、ようやく教室だ。

 ドアの横の壁にもたれかかっているのは三玖――じゃないな。

 髪は背中にかかるほどのロングで、五月のように癖もついていない。

 おまけに首にはヘッドホンをかけている。

 しかしあれは三玖じゃない。

 なぜなら、黒いストッキングを履いていないからだ。

 ここ最近、五つ子たちの顔を間近で直視できなくなった俺ではあるが、それによって新たな気づきを得ていた。

 物理的な距離を取るようになって全体像を把握し、顔から視線をそらすために下か上へ目を向ける。

 そして、あいつらの足の違いが目に付いた。

 正確に言うと身につけているものの違いだが、三玖が黒いストッキングを好んで使用していることは把握している。

 そしてこいつのは……足首が出るほど短いソックスだ。

 二乃はもっと長いのを履いていた気がするし、図書室で待っている五月はそもそも選択肢から除外。

 となると一花か四葉だが……

 

「よう、三玖の格好してなにやってんだ」

「あ……わ、わかるんだ」

「なめんな。フフフ……実はこの前、温泉で三玖の変装を見破ったばかりだからな!」

 

 消去法の末の二択だったが見破ったことには変わりない。

 最後は直感頼みだったため、なにが決め手となったのかはサッパリだが。

 爺さんや四葉、五月によれば愛が重要とのことだ。

 まったく、愛とかいう重たそうな言葉をポンポンと。

 

「……ねぇ、じゃあ私がだれか当ててみてよ」

「はぁ?」

「それともフータローには無理なのかな?」

「あ?」

 

 カチンときた。

 抑揚が少なくドライな、それでいてこちらを小馬鹿にしたような声音。

 ……いいだろう、やってやろうじゃねーか。

 向き合い、顔を正面から見据える。

 

「……」

「……」

 

 が、即効で目をそらす。

 今の俺にこいつらとのにらめっこは厳しい。

 相対すれば青い衝動が首をもたげてくるし、なによりも唇に目が行く。

 いやでもあの日の――鐘の下でのキスを思い出してしまう。

 結局あれがだれなのかはわからずじまいだが、顔が同じなためだれを見ても意識してしまうのだ。

 

「――っ、いい加減にして行くぞ」

「……やっぱりわからないよね」

 

 落胆が混じった声。

 まったく、俺に何を期待しているんだかな。

 

「そういえば、三玖と四葉は先に行ったのか、一花」

「うん、待たせちゃっても悪いしね」

「じゃあ俺と入れ違いか」

「あはは、あんまり引き留められるもんだから三玖にへんそ――って、ええぇ!?」

「いきなり大声あげんなよ」

「な、なんで私ってわかったの?」

「知るか。いいから行くぞ」

「あっ」

 

 ウィッグをはぎ取って答え合わせ終了。

 そのまま頭にまたかぶせて、今度こそ図書室へ向かう。

 知るかとは言ったが、決め手はシャンプーの匂いだ。

 こいつには朝に単独で会っているからなおさら印象に残っていた。

 ……匂いで判別とか、なんだか変態じみたことをしているような気がしてきた。

 

「……ねぇ、フータロー君」

「ん、なん――のわっ」

 

 振り向こうとして背中に衝撃。

 一花が覆いかぶさるように飛びついてきた。

 耳元が吐息でくすぐられ、背中の柔らかい感触に嫌でも神経が集中する。

 ま、まずい、早く振りほどかなければ。

 

「私、君のこと好きだよ」

「……へ?」

「もちろん、恋愛的な意味で」

 

 囁くような告白に、俺の頭は完全にフリーズした。

 もちろん、その日の勉強会に全く身が入らなかったのは言うまでもない。

 

 

 

 

「上杉さん、今日はどうしちゃったんだろうね」

「うん、フータローまったく集中できてなかった」

「一花たちを呼びに行く前は普通……まぁ、少なくともあんな状態ではなかったのですが」

「そういえば一緒に来たわよね。一花、あんた何か知ってるんじゃない?」

「さ、さぁ? 武田君と話してたっていうのは耳にしたけど」

 

 古いアパートの一室、中野五姉妹の住居にて勉強中の五人。

 ふとした合間に話題に上がるのは彼女らの家庭教師のことだった。

 

「武田って、パパが連れてきたあの?」

「もしかしてまた上杉さんになにか言ったのかな?」

「……許せない」

「どうでしょうか。今更あの上杉君が外野の言葉で揺らぐとも思えませんし」

「う~ん」

 

 他の姉妹が風太郎の心配をする中、ほぼ内情を把握している、というより明確に自分のせいだと理解している一花は唸りながらも思案する。

 

(やっぱりタイミングまずかったかなぁ?)

 

 勉強会に向かう際、一花は風太郎に想いを告げた。

 前々から恋愛感情はあった。

 しかし直球勝負においてはもの凄い剛速球を放つ二乃がいる。

 同じフィールドでの勝負は不利と考え、一花は毎朝一緒に登校したり飲み物を奢ってみたりと変化球勝負に出たのだ。

 一気に仕留めに行くのではなく、じわじわとポイントを稼ぐ――もちろん、勝機が見えたらそれを逃すつもりはないが。

 とにかく、ボクシングで言うのなら判定勝ちを狙う戦い方だ。

 だから一花にとってもあの告白はまったくのイレギュラー。

 募り高まる想いを抑えきれず、それが溢れ出てしまったのだ。

 以前二乃のことを暴走機関車と例えたが、これでは自分も大差ない。

 反省するとともに、風太郎のことを考える。

 全国模試で十位以内。

 学力的に明確に低い位置にいる一花には及びもつかない世界だ。

 自分たちの家庭教師を続けた上で、それをやってのけると宣言したのだという。

 風太郎の学力に関しては最早疑問をはさむ余地はない。

 しかしそれでも今まで以上の負担になることは明白だった。

 

(……私たちも頑張らなくちゃね)

 

 じわじわとにじり寄る睡魔をはねのけ、シャーペンを握ってノートと向き合う。

 幸い今夜は撮影もなく、勉強に割ける時間は十分にある。

 風太郎の負担を減らすのならば、これが一番手っ取り早い。

 

「あ、そういえばみんな、フータロー君へのプレゼントどうしてる?」

「絶賛制作中!」

「私はもう用意してありますが」

「私も」

「今日買ってきたばっかよ。あんたは?」

「私も用意してるけど……ちょっとタイミングまずいかなぁって」

 

 テスト――決戦を控えた風太郎に余計な気を揉ませるべきではない。

 突発的な告白で気を揉ませたばかりの一花だが、だからこそという思いがあった。

 この提案に他の姉妹は概ね賛成だったが二乃だけは渋った。

 

「でも、やっぱりなにもなしじゃ寂しいじゃない」

「ダメだよ。ただでさえ私たちはフータロー君の重荷になってるんだから」

「重荷……上杉君は否定するのでしょうけど、やはり」

「今更だけど、迷惑はかけたくない」

「むむむむむ……あ、じゃあこういうのはどうかな?」

 

 頭を抱えて唸っていた四葉の提案。

 それを聞いた四人は顔を見合わせると頷き、よりいっそう勉強に励むのだった。

 

 

 

 

「流石に疲れたわ……」

「あれ、二乃」

「一花、あんたも外の空気を吸いに?」

「今日はいっぱい勉強したし、寝る前にちょっとね」

 

 アパート廊下の手すりにもたれかかってた一花にならい、二乃ももたれかかって空を見上げた。

 そして満点の星空とは言わないが、風太郎と一緒に見れたら、などと思いを募らせる。

 二乃は姉妹の中でも一番こういったシチュエーションへの憧れが強い。

 それを把握している一花は、風太郎の誕生日に二乃がどういう行動に出るのかも見えていた。

 

「二乃はさ、自分のプレゼント渡す気満々だよね」

「そうね、他の姉妹の中私だけなんて効果絶大じゃない」

「一応四葉の提案もあるんだけどね」

「それでもよ」

 

 ブレーキを踏む気がない二乃の様子に一花は苦笑した。

 行動が読めるというのは、自分の中にも同じ考えがあってこそのものだ。

 もし一花がもっとなりふり構っていなければ、同じ行動に出ていたかもしれない。

 

「で、あんたはどうするのよ」

「うーん、二乃が渡すなら渡そうかな」

「なによそれ」

「インパクト、薄れちゃうね」

「……邪魔しようってわけ」

「どうかな」

 

 薄く笑う一花に二乃は詰め寄った。

 かねてからの疑惑を確信へと変える必要があった。

 

「あの時パパの足止めをしてくれなかったってことは、そういうことでいいのかしら?」

「風太郎くんに告白したんだよね?」

「ええ、そうね。それよりこっちの質問に――」

「実は今日私もしちゃったんだ」

「今日って……ま、まさかあいつがボーっとしてたのって!」

「てへっ」

 

 舌を出して笑って見せた一花に、二乃は大いに脱力した。

 女優業の賜物か、しっかりかわいく見えてしまうところがまた憎たらしい。

 

「なるほどね。原因が自分ってわかってたからあの提案を出したってわけ」

「恥ずかしながらね……でも、今日のことでちょっと二乃の気持ちが分かったかも」

 

 自分のことを見てくれているとわかった時、そして自分を見分けてくれた時。

 心の高揚はまだ一花の中に残っていた。

 今も風太郎への想いが尽きることなく湧き出ている。

 

「好きって言葉って、思いがけずに出ちゃうんだね」

「……そうね」

 

 ずっと目を背けて否定しようとしていた想い。

 バイクの二人乗り、その最中に漏らした風太郎の一言。

 

『寂しくなるな』 

 

 自分たちとの時間を憎からず思ってくれていたことを知り、二乃の想いは弾けた。

 とめどなく溢れる不満と文句、そして――好きの一言。

 

「はぁーあ、料理の好みなんてバラバラでいつも苦労してるっていうのに」

「なんでこんな時だけ一緒なのかなぁ」

「言っておくけど、譲る気なんてサラサラないわよ」

「私も」

「やれやれね……当面はあいつの勉強の妨げになるようなことはしない、これでいいかしら?」

「うん、プレゼントも遠慮してね」

「いいわよ、結果が出てから渡すから」

「お、いいねぇ。じゃあみんなで渡そっか」

「あーもう、それでいいわよそれで!」

 

 

 

 

「集中、集中しろ……」

 

 自宅の食卓にて問題集と向き合う。

 雑念は捨てて、一心不乱にペンを動かす。

 俺はなんだ? 上杉風太郎だ。

 やれる、やれるんだ!

 

『あんたを好きって言ったのよ』

『私、君のこと好きだよ』

 

 やれる、やれるはず……

 ペンが止まる。

 間の悪いことに、今解いている古文の問題には恋だの愛だのそういう単語が乱舞していた。

 ……別の教科にしよう。

 

「まったく、恋だの愛だの……数式に当てはめて解けりゃ苦労はしないんだけどな」

 

 それでも古文や現代文にははっきりとした答えがあるからまだいい。

 しかし俺が直面している問題には模範解答なんてものはないし、選んだものが正解かどうか確かめる術もない。

 

「お兄ちゃん!」

「んあ、な……なんだよ」

「今、恋愛がどうこうって!」

「い、今解いてるのがそういう問題なんだよ」

「えー、本当に?」

 

 ニマニマしているらいはに背を向けて問題集のページをめくる。

 中学に上がったからか、最近ますますませてきたような気がする。

 もしかしたらあの五つ子たちからなにか悪い影響でも受けているのかもしれない。

 くそっ、あいつらめ!

 らいはが悪い子に育ったらどうしてくれるんだ……!

 

「……いかんいかん、集中だ」

 

 早々に思考を打ち切り、問題児たちの顔を頭の中から締め出す。

 だが代わりに浮かんできたのは、はっきりと起伏を主張する胸元やスカートから伸びるふともも――

 

「集中っ、集中っ……!」

 

 食卓に頭を打ち付けて、痛みで頭の中身を吹き飛ばす。

 こんなところで性欲に負けるわけにはいかない。

 らいはにもそんな情けない姿を見せられない。

 俺は兄なのだから。

 

「むぅ、お父さんどう思う?」

「あ~、そうだな……らいは、留守番頼むぞ」

「どこか行くの? お仕事?」

「ま、親としてのな。おい行くぞ風太郎」

「ぐえっ」

 

 親父に呼ばれたかと思えば後襟をつかまれて立たされる。

 非難の意を込めて睨みつけると、親父は右手の親指で玄関のドアを指した。

 外に出ろ、ということだろう。

 経験上、拒否したら強引に連れ出される可能性が高い。

 

「……わかったよ」

「二人とも気を付けてね」

「おう、すぐ帰るから心配はいらねーぜ」

 

 

 

 

 家を出て先を歩く親父に追随する。

 お互い無言で、少し気まずい空気だ。

 こんなことなら帰って勉強をしていたい。

 

「心配してはいたんだよな」

「いきなりなんだよ」

「今まで満足に食わせてやってるとも言えなかったしよ」

「話が見えないんだが」

 

 家の最寄りのコンビニの前に着くと、親父は神妙な面持ちで振り返った。

 そこにいつもの大雑把で陽気な雰囲気はなかった。

 

「最近、中野の嬢ちゃんたちと顔を合わせづらいんじゃねーか?」

「……親父には関係ないだろ」

「それもそうだが、その原因の一端は俺にもあるからな」

「はっ、まさか女子との付き合い方をレクチャーしてくれるってか? 悪い冗談だぜ」

「お前、最近エロい事ばっか考えてるだろ」

 

 ピシリという音が聞こえた気がした。

 それは空気が固まる音か、そうでなければ俺の精神にひびが入る音だ。

 ……え、いやちょっと待て、なんで親父がそんなことを!

 

「な、なんのことだかサッパリなんだが!?」

「時期的にはそうだな、先月の温泉旅行の後あたりか?」

「いやだから違うって言ってんだろうがっ」

「近頃むこうでご馳走してもらうことも多くなったろ」

「たしかにそうだが、それとこれと何の関係があるんだよ!」

「風太郎、食事ってのはお前が思っている以上に体に影響を与えるんだよ」

「じゃあなにか? 食べるものが変わったせいで俺の体がおかしくなったって言いたいのかよ」

「違う。お前は正常に戻ったんだ」

「……え?」

 

 今の俺の状態が正常?

 女子の告白に悶々として顔も直視することができず、胸や脚といった部分に目を引き付けられ勉強に集中することもままならない。

 こんな異常が正常だってのか?

 

「ずっと心配してはいたんだがな。お前は思春期になってもナニする気配もそぶりも見せなかったからな」

「そ、それのどこが悪いんだよ」

「悪いとは言ってねーよ。ただ、普通とはちょっと違うってのはある」

 

 親父は自分の頭をくしゃくしゃとかき回すと、俺に向き直った。

 そして深々と頭を下げて……

 

「すまん、風太郎」

「や、やめろよ親父。頭上げてくれよ」

「思春期だってのにお前に満足に食わせてやることができなかった……俺の責任だ」

「なに言ってんだよ。俺もらいはもここまでなんの問題もなかった、違うのか?」

「個人差もあるだろうが、性欲が薄いってのは栄養不足の症状でもある。それが今回はっきりとした」

「え、じゃあ俺が最近おかしいと思ってたのは……」

「全部それで普通なんだよ。思春期の男子なんてそんなもんだ」

「……マジかよ」

 

 つまり、元から俺は栄養不足のせいで性欲が薄く、最近食事が改善されたことによってそれが正常に戻った。

 そういうこと、なのか?

 

「は、はは……スゲーな。他のやつらはこんな状態で日々を過ごしてたのか」

「お前の場合はまだ変化に慣れずに戸惑っている状態だろう。そのうちどうにかなるはずだ」

「そのうち、か……」

 

 大事な決戦を控えている中でそれは大きなハンデだ。

 この衝動をコントロールする術を持たない以上、全て抱えたまま進むしかない。

 俺に、本当にそれができるのか?

 

「ま、心配しなくても俺が何とかしてやる!」

「お、親父……」

「なんせそのためにここに来たんだからな」

 

 親父はニッと笑うと、俺の背中を軽く叩いて24時間営業の小規模店舗を指し示した。

 

「エロ本、買いに行くぞ」

 

 

 

 

「あ、おかえりなさい。お父さん、お兄ちゃん」

「おう、ただいま!」

「た、ただいま」

 

 ブツを買って帰るとらいはが出迎えた。

 思わず手に持ったビニール袋を後ろに隠してしまう。

 

「お買いものしてたの?」

「ちょっと風太郎に人生の参考書をな」

「そ、そうそう……参考書な」

「ふーん、そうなんだ。お勉強頑張ってね!」

「お、おう」

 

 らいはの無邪気な視線が眩しい。

 これは、例のブツの中身は絶対知られるわけにはいかない……!

 

「らいは、パフェ食いに行くぞパフェ!」

「ちょっ、お父さん!?」

「久しぶりに特大のいってみっか! がはは!」

「もう、強引だなぁ」

 

 親父がらいはを玄関に引きずっていく。

 そして俺に目配せをすると、親指を立ててニヤッと笑った。

 ……気遣いはありがたいが、なぜだか素直に感謝することができない。

 

「お兄ちゃん、行かないの?」

「ああ、俺は勉強してる」

「留守番頼んだぞ。一時間ぐらいしたら戻るからよ」

「いってきまーす!」

「気を付けてな」

 

 親父たちの足音が遠ざかったのを確認して、ドアを施錠する。

 窓のロックを確認し、その上でカーテンを閉じて外の景色を遮断。

 これはシークレットミッション……万全の準備をもって臨むべきだ。

 部屋の中央に正座して、ビニール袋からブツを取り出す。

 

『五つ子ハーレム ~あなたの愛を五等分♡~』

 

 タイトルやシチュエーションに深い意味はない。

 本当にたまたま、偶然これが目に付いただけだ。

 重ねて言うが、深い意味はないのだ。

 

「……よし、ヤルぜ」

 

 

 

 

 

「……くっそ眠ぃ」

 

 そして次の日の朝。

 青い衝動を発散したことにより集中力を取り戻した俺は、一晩中勉強に明け暮れ睡眠不足に陥っていた。

 まともに勉強に打ち込める喜びを抑えきれなかったのだ。

 いかん、これでは本末転倒だ。

 

「おっはー」

「……一花か」

 

 そして目下最大の悩みのタネが姿を現した。

 こいつめ、人の気も知らないでのこのこと。

 

「はいこれ、今日のは甘いから」

「お前、まさか毎朝飲み物渡してくる気か?」

「迷惑?」

「そうじゃないが、俺はなにも返してやれない」

「堅いなぁ、もう。じゃあ勉強教えてくれるお礼ってことで。出世払いの前にちょこちょこ返しておかないとね」

「まぁ、そういうことなら」

 

 透明な容器に刺さったストローで中の液体を啜る。

 正直に言って味の良し悪しはわからないが、甘くてキャラメルの味がするということは分かった。

 疲れ気味の脳に糖分が染み渡っていく――ような気がした。

 

「……昨日のことなんだが」

「うん」

「あれは冗談、じゃないんだよな」

「うん」

「一花、俺は――」

「ストップ」

 

 俺の言葉を遮ると一花は前に出てこちらに向き直った。

 昨日と同じシャンプーの香りが漂う。

 

「その先の言葉は、まだいらないかな。二乃にも似たようなこと言われたんじゃない?」

「……そうかよ」

「今はとにかく勉強に集中してもらわないとね」

「まったく、よく言うぜ……このっ」

「わっ」

 

 頭をつかんで髪をわしゃわしゃとかき回してやる。

 ふはは、今の俺にはこの程度の距離はどうってことないのだ!

 これに懲りたら少しは普段の言動を反省しやがれ!

 

「もー、放してってば――あっ」

「あっ、おい!」

 

 こちらを突き放してバランスを崩した一花を、すんでのところで支える。

 彼我の距離は急速に縮まり、顔のパーツの一つが嫌でも目に入る。

 即ち、唇だ。

 

「あ、ありがとう」

「悪い、ちょっとふざけすぎたな」

「……キス、してみる?」

「――っ、バカか!」

「あいたっ」

 

 支えた手を離してやると一花は地面に尻餅をついて座り込んだ。

 非難の眼差しを向けてくるが、あんなことを言ったこいつが悪い。

 

「ほらよ、立てるか?」

「立てないって言ったら背負ってくれる?」

「そんなことをしたらその場から一歩も動けなくなる自信がある」

「わぁ、堂々と情けないこと言ってる」

 

 こちらの手をつかんで一花は立ち上がった。

 軽く埃は払うものの、怪我をした様子は見られない。

 さすがに仕事に支障が出るようなことになればあの社長にも申し訳がないが、その心配はなさそうだ。

 

「お前、そういえば今日も眼鏡かけてきたのか」

「え、遅っ」

「自意識過剰は継続中か」

「フータロー君の鈍感も相変わらずみたいだね。……昨日のはなんだったんだか」

 

 ぶつくさ文句を言ってるようだが、今は無視だ。

 昨日のことを考えれば、こいつに合わせてたら遅刻なんてこともありうるからだ。

 すたすたと、やや速めの歩調で登校を再開する。

 

「あ、フータロー君待ってよー」

「ついてくるのはいいが、二メートルは距離を取ってもらおうか」

「えー? なんでさ」

 

 心臓が今もバクバクとうるさいからだ、なんて言えるわけがない。

 まったく……あの鐘の下でのキスの後遺症は、本当に厄介極まりない。

 

「待ってってば」

「断る」

「このっ」

「させるかっ」

 

 一花が横に並ぼうとすれば俺もスピードを上げる。

 そのくり返しで優雅なはずの朝の登校は、いつの間にやら全力ダッシュの追いかけっこへと様相を変えた。

 途中で他の四人も巻き込んだこのレースは四葉の勝利という形で終結する。

 

「ゴール! 私の勝ちですね!」

「なんか、途中から、目的、変わって、なかった?」

「し、知るか……」

「な、なんだって、朝から、全力疾走、なのよ……!」

「お、お腹が、空きましたぁ……」

「し、死ぬ……」

 

 激しい運動のおかげで心臓の鼓動はまったく気にする必要はなくなった。

 良かったのやら良くなかったのやら。

 

 

 




一花の闇落ちを阻止したい所存。


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五羽鶴の恩返し~おや!? 五女の様子が……!~

よくよく考えれば原作の一番最初で五月エンドは否定されてたという。


 

 

 

 早朝、らいはが起きてくる前に俺の朝は始まる。

 親父の手引きによって始めた日課を行うためだ。

 音を立てないように布団を出て、本棚から一際背の高いハードカバーの本を取り出す。

 前々からあったものだが、つい先日までは触れることのなかったものだ。

 というのも、本の持ち主である親父にそう厳命されていたからだ。

 曰く、俺の青春の一ページ、だとか。

 言われた当初は何のことだかさっぱりだったが、今ならわかる。

 これは間違いなく親父の青春を支えてきたアイテムなのだと。

 カバーの装飾は厳めしく、タイトルはギリシャ文字――さすがに読めなかった。

 あの親父がこんな本を所有していることに疑問を覚えるほどミスマッチだが、重要なのはその中身だ。

 トイレに入り施錠をして便座のフタを開けずにそのまま座り込む。

 そして本を開き、その中身を取り出す。

 そう、この本は読むための本ではなく、中に隠しておきたいものを収納しておくためのものなのだ。

 表紙以外のページが四角くくり抜かれており、そこにものを入れて保管しておくという寸法だ。

 渡してきたときの態度からして、親父も俺と同じ用途に使っていたことは察せられた。

 即ち、エロ本の隠し場所だ。

 この家は狭く、そもそも個室という概念すらない。

 そんな中でいかがわしいブツを置いておけば、たとえ他の本に紛れ込まれさせていたとしても遅かれ早かれらいはの目につくのは必定だ。

 そうなれば俺の兄としての威厳は失墜し、らいはからの信頼も損なわれてしまうだろう。

 買ったはいいが収納場所に窮した俺に、親父はこのハードカバーを渡してきた。

 こんなことで実感するのはどうかと思うが、親父は確かに人生の先輩なのだ。

 正直言って複雑だが、感謝と尊敬の念を込めつつ、俺は俺自身を抜き放った。

 

「よし、イクぜ」

 

 

 

 

 

「上杉君、この問題なのですが」

「ああ、見せてみろ」

 

 五月が差し出したプリントを風太郎が覗き込む。

 放課後の勉強会においてよく見られる光景だ。

 五つ子の中で一際勉強への意欲がある五月は、こうして風太郎に質問する機会が多い。

 それは、姉妹の中で一番風太郎の顔を間近で見る機会に恵まれているということだ。

 

(目の隈がすごいですね……)

 

 自分たちに勉強を教え、アルバイトをこなし、そして自分の勉強も欠かさない。

 かかる負担は尋常なものではないだろう。

 睡眠時間を削っていることは想像するに難くない。

 それでも授業は真面目に受けているし、昼休みは問題集にかじりついて、放課後は家庭教師の仕事をこなしている。

 ただでさえ体力が劣る風太郎は、まさに意志の力で立っているといっても過言ではない。

 

(……本音を言えば、ここまで無理している彼を休ませてあげたい)

 

 義理の父親や武田の言葉が五月の頭を過ぎる。

 自分たちは重荷なのだと、解放してあげるべきなのだと。

 

(でも、私は――)

 

 この関係を手放したくない、みんなで歩んでいきたい。

 風太郎と自分たちは、パートナーなのだから。

 

「おい、聞いてるのか?」

「え、あ……な、なんでしょうか?」

「まったく、質問してきたのはお前なんだぞ」

 

 呆れたようにため息をつく風太郎を、五月はプリントに顔を向けたまま横目で伺う。

 それはもう一つの懸念事項の確認でもある。

 最近、風太郎の様子がおかしい。

 これは五月だけではなく、姉妹のだれもが感じていることだ。

 温泉での一件の後あたりだろうか、こちらを避けるようになったのだ。

 避けるとは言っても勉強会はきちんとこなしている――先日のように全くダメなパターンは珍しい。

 風太郎といえばノーデリカシーというのは姉妹共通の認識だが、その原因の一つに距離の詰め方がある。

 そのデリケートな問題にもズンズンと踏み込んでくるやり方は、顰蹙を買うのと同時にいくつかの問題の解決に寄与もしていた。

 普段の行動に当てはめるのなら、頭に手を置くなどの軽いスキンシップを何の気もなしにやってのける、といったところか。

 そんな風太郎が五月たちが近づいたら少し距離を取り、目が合おうものならただちに逸らすようになったのだ。

 それはまるで、異性を意識したかのような行動で――中野姉妹を女子として見ていない節すらあったというのに。

 

(やはり、温泉でなにかあったとしか思えません)

 

 気になるし心配でもあるが、五月は結局どうなってほしいのかが分からない。

 以前のようなデリカシーの無い態度は改めるべきだと常々思っていた。

 かといって今のように距離を取られては寂しい気持ちがある。

 パートナーという言葉の内実は判然としないが、そこには共に積み上げてきた時間があるはずなのだ。

 

(それに、このままでは三玖と四葉が……)

 

 五月は風太郎に想いを寄せているであろう二人のことを考える。

 自分よりも悲しい思いをしているのかもしれない、と。

 

「こらっ」

「あうっ」

「またよそ見しやがって。調子が悪いなら休め……ぶっ倒れたら元も子もないぞ」

「すみません……あれ、今チョップしましたか?」

「もうちょっと軽い音がすると思ったが、案外頭の中身は詰まってそうだな」

「なっ……!」

 

 大声をあげそうになるが、すんでのところで抑える。

 図書室で騒ぐのは迷惑になってしまうからだ。

 無言でチョップされた頭をさすって風太郎を睨みつける。

 一連の言動はノーデリカシーの名をほしいままにするいつもの風太郎だった。

 

(まったく……心配して損しました!)

 

 プリプリと怒りながらプリントに向き直ると、問題の図に数か所書き加えられた跡があった。

 風太郎が残した問題を解くための手引きだ。

 五月はそれを参考にペンを進める。

 

(すごい、本当に解けました……!)

 

 言動はさておき、家庭教師としての能力は疑う余地はない。

 それも風太郎が積み重ねてきた成果の一つだろう。

 成績の壊滅的な自分たちと向き合って半年余り。

 互いに信頼も育んできたはずなのだ。

 

『この仕事は俺にしかできない自負がある!!』

 

 五つ子の父親にそう宣言した風太郎の背中に、五月は自分の理想を見出した。

 

「上杉君、私は――」

「ん、今度はどこがわからないんだ?」

「……いえ、自分でやってみます」

 

 伝えようと思った言葉を飲み込んで、五月はプリントをめくる。

 この先を伝えるのならばそれに見合う根拠が必要だ。

 それがなにも返せない自分の、せめてもの贈り物なのだと。

 

「……ちょっと、まさか五月もってわけ?」

「フータローに向ける視線が熱い……」

 

 対面の姉二人は末っ子の様子に戦々恐々としていた。

 仕事で欠席している長女がいれば同じ感想を抱いただろう。

 ちなみに四女は折り鶴の内職がばれて大目玉をくらっていた。

 

 

 

 

 

 人がほとんどいなくなった図書室。

 勉強会を終え、中野姉妹を帰した後も俺は一人で勉強を続けていた。

 くどいようだが今はひたすら量をこなしたい。

 一人でいられるこの空間は集中するのにこの上ない環境だ。

 後は解いて、解いて、解いて、解いて――

 

「――っ」

 

 頭が眠気でぐらつく。

 さすがは三大欲求の一角。

 この抗いがたい強烈さは体が発する警告でもあるのだろう。

 つまり、お前もういい加減にして寝ろよ、と。

 しかしこんなところで屈するわけにはいかない。

 無理や無茶を通してでもやり遂げると決めたのだ。

 頬を張って、唇を噛んでペンを握りなおす。

 が、しかし……

 

「し、視界が歪む……」

 

 整然と並んであるはずの文字はぐにゃぐにゃになって解読不能。

 まずい、意識が落ちる――

 

「呆れました。こんな時間まで自習だなんて」

「……五月か」

「これ、どうぞ」

 

 五月が机の上に置いたのは小ぶりなビン。

 カフェインを多分に含んだ、眠気覚まし効果がある清涼飲料水だ。

 フタを開けて一気に飲み干す。

 コーヒーっぽい味は苦手だが、文句は言ってられない。

 

「帰ったんじゃなかったのか」

「少々あなたに報告したいことがありまして」

「景気のいい話なら大歓迎だ」

 

 眠気の靄は晴れきらないが、視界の歪みはどうにか収まった。

 頭痛を堪えつつもペンを握る。

 

「バイト……と呼べるかどうかわかりませんが、塾講師のお手伝いをさせていただくことになりました」

「……ついでに勉強もってことか」

「あなたに教わったことへの理解を深める、またとない機会だと思います」

「……そうか」

 

『私……先生を目指します』

 

 二月の半ば、こいつが母親の墓前で語ったことを思い出す。

 教えることでまた学ぶこともあるのだと。

 まったくもってその通りだ。

 自分が理解していることがそのままの形で相手に伝わる、なんて都合のいい話はない。

 知識の土台が違えば、理解が及ぶ範囲にも影響してくるのだ。

 大事なのはレベルを合わせること――相手を引き上げるか自分が下がるかだ。

 しかし相手を育てるのは時間を要するし、自分から下がっていくのは手っ取り早いがそれにも限界がある。

 理解できないということを理解してやるのは想像以上に難しいのだ。

 こいつの現在の学力は、とてもじゃないが人に教えるというレベルじゃない。

 だが、それでも諦めず弛まずに積み上げて行けるのなら――

 

「お前はバカだ」

「……あなたはこんな時にまで――」

「だからこそ、同じようなやつの気持ちもわかってやれる……お前ならいい先生になれると思うぜ」

 

 京都での出会いの後、勉強に打ち込み始めた時のことを思い出す。

 真田に竹林……あいつらも俺に教えるのにだいぶ苦労をしていた。

 当時の俺は悪ガキで勉強などそっちのけだったのだから。

 迷惑をかけたと思っているし感謝もしている。

 あの二人に教わったからこそ、俺は五人の家庭教師をやってこられたのだろう。

 一花、二乃、三玖、四葉、そして五月。

 自分の道を見つけたやつもいれば、まだのやつもいる。

 学力だけじゃなく、これからはできるならあいつらの――

 頭を支えていた手から力が抜ける。

 くそ、同じ顔を五つも思い浮かべたせいで眠気が……

 頭を机に打ちつける音を最後に、俺の意識は途絶えた。

 

 

 

 

 

「お前はバカだ」

「……あなたはこんな時にまで――」

「だからこそ、同じようなやつの気持ちもわかってやれる……お前ならいい先生になれると思うぜ」

 

 最後の風太郎の言葉に、五月は憎まれ口への反論をつぐまざるを得なかった。

 ズルいとも思った。

 これでは怒ればいいのか感謝すればいいのかわからなくなってしまう。

 狙ってやってるのかと問い詰めたくもなる。

 

(彼とはいつもこうですね……)

 

 五月と風太郎は何度となくぶつかり合ってきた。

 その度に不器用ながらも和解を果たし、同じだけ理解しあえた……と五月は思っている。

 最近はさすがにぶつかる機会は減ったが、それでも風太郎の発言にムッとすることはあった。

 ミスターノーデリカシーの名は伊達じゃないのだ。

 しかし、それを覆すぐらい五月の欲しい言葉もよこしてくる始末。

 これでは感情が右往左往して定まらなくなるのも仕方がない。

 

(上杉、くん……)

 

 自分の顔が熱を持っていることを五月は感じていた。

 日が落ちて外の光が途絶えた窓を見れば、紅潮している自分の顔。

 胸に手を当ててみれば、運動をしたわけでもないのに鼓動が早まっていた。

 風太郎に気付かれやしないかと焦るも、問題集に釘付けで振り向く気配はない。

 

(本当に、ズルい)

 

 落ちこぼれの中野姉妹をここまで導いてきた風太郎は、明確に五月の目標の一つだ。

 同い年の家庭教師から受け取ったものは、これから進むであろう教職の道に確実に影響を及ぼすだろう。

 憧れ、と言ってもいいかもしれない。

 そんな風太郎に認めてもらえて、五月の心はかつてないほどに昂っていた。

 渡すべきものがあるが、声をかけるべきかどうか迷ってしまう。

 そもそも振り向かれでもしたら、赤く染まった顔を見られてしまう。

 

(ああ、私はどうすれば……!)

 

 不意にゴツンと硬い音が響く。

 風太郎の頭が机に落ちた音だった。

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

 五月が声をかけるも返事はない。

 どうしたのかとさらに近くで様子をうかがうと、小さな寝息が聞こえてきた。

 どうやら眠気の限界をむかえてしまったようだ。

 

「……お疲れ様です、上杉君」

 

 風太郎の手にそっと自分の手を重ねて、五月は労わりの言葉をかけた。

 届いてはいないだろうが、それでも伝えておきたかったのだ。

 勉強会の時につぐんだ言葉の、その先も。

 

「上杉君、私はあなたを信じています。私たちもあなたに負けないくらい頑張ります。だから――」

 

 眠っている風太郎の頬に、そっと口づけを落とす。

 

「絶対に負けないで。私たち……私には君が必要なの」

 

 五月は風太郎から離れると、自分の鞄から今日渡すために用意したものを取り出した。

 自分と姉たちの分――合計五つ。

 

「誕生日、おめでとうございます」

 

 

 

 

 

「んあ……」

 

 目覚めると、そこは図書室だった。

 勉強の最中に眠ってしまったようだ。

 五月が来たような気がしたがすでに姿はない。

 時間も時間だし帰ったのだろう。

 つーか、なに話してたんだっけ?

 あまりの眠気だったため記憶はいまいち判然としない。

 なんとはなしに頬をさする。

 柔らかいなにかが触れた感触が残っているような気がした。

 携帯が震える。

 見ると、らいはからのメールだった。

 誕生日のお祝いをするから早く帰ってこい、とのことだ。

 

「そういえば今日だったな」

 

 メールに添付された画像にはバースデイケーキとらいはの姿。

 かわいい妹が待っている以上、勉強はここまでだな。

 勉強道具諸々をリュックに突っ込み、帰り支度をする。

 そこでふと、机の上に乗ってるものに気が付いた。

 

「なんだこれ、折り鶴が……五羽?」

 

 勉強会の際に四葉が鶴を折っていたのを思い出す。

 あれはちゃんとした折り紙だったがこれは……プリントか?

 白地の裏に罫線や文字が透けて見えた。

 そもそもこんなものを誰が置いて行ったんだか。

 折り目を解いて元の形に戻していく。

 するとそれは五枚の答案用紙だった。

 先日行われた五教科総合のミニテストのものだ。

 記名欄にはそれぞれあの五つ子の名前。

 

「……あいつら」

 

 見れば、解答欄のマルの数がバツの数よりも多い。

 赤点回避がせいぜいだった連中がよくもまぁ。

 頑張っているのは俺だけではない、そういうことだろう。

 

「ふっ、あのバカたちにしてはまともなプレゼントじゃねぇか」

 

 これは俺も絶対に負けられない――いや、負ける気がしない。

 なんたってこっちは6人なのだから。

 

 

 

 

 

「ただいまー、疲れたー」

 

 撮影帰りの一花はもうクタクタである。

 コートを脱ぎながらリビングに入ると、妹たちが出迎えた。

 

「あ、一花おかえり!」

「お風呂入りたいなぁ」

「お生憎様、今は五月が使用中よ」

「そっか、じゃあご飯かな」

「今用意する。待ってて」

「うん、ありがと」

 

 一花はほっこりしながら、これが大黒柱の気分かー、などとひたってみる。

 妹たちが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる光景は、中々に心癒されるものだった。

 

「コラ、その辺に脱ぎ散らかさない!」

「えー? ちゃんと後で片づけるからいいじゃん」

「そう言って何回放置してたか覚えてるのかしら?」

「い、今片づけまーす」

 

 二乃の笑顔に威圧されて、一花はすごすごと散乱した自分の衣服を回収する。

 中野家のオカンは伊達ではなかった。

 そうこうしているうちに準備が終わり食卓につく。

 

「いただきます」

 

 レンジで温められた料理に舌鼓を打つ。

 出来たてでなくても二乃の料理はおいしかった。

 食事をする一花の右隣では三玖が、左隣では四葉がそれぞれペンを握ってプリントと向き合っていた。

 二乃はテレビと向かい合っているが、放映されているドラマよりも手元の単語帳に目が行っている。

 自分たちの家庭教師に負けじと、みんな頑張っているのだ。

 

「ごちそうさまー、おいしかったよ」

「洗い物は流しに置いておいてちょうだい」

「いいよ、これぐらいだったら自分で洗うし」

「そう? じゃあちょっと五月を急かしてくるわね」

「別に上がるまで待つよ?」

「さすがに長風呂すぎよ。もう入ってから一時間以上は経ってるんだから」

 

 単語帳を置いて二乃は風呂場へと五月の様子を見に行った。

 髪の長い五月はたしかに洗うのに時間がかかるが、それでも一時間は長い。

 

「五月ちゃん、もしかしたらお風呂で勉強してるのかもね」

「この前四葉がそれやってプリントをふにゃふにゃにしてた」

「えへへ、数式とにらめっこしてたらつい眠気がね」

「わかるなぁ、私も寝落ちする自信があるよ」

「一花はお風呂じゃなくても寝落ちが多い」

「み、耳に痛い……」

「まぁまぁ、それだけお仕事頑張ってるってことだよ」

 

 他愛のない会話をかわしながら洗い物を済ませる。

 五人分ともなれば大量だが、一人分ならあっという間だ。

 二乃の切羽詰まった声が響いてきたのはそんな時だった。

 

「ちょっと! 誰か来て、早く!」

 

 

 

 

 

「ううぅ~~、私はどうしてあんなことを……」

 

 湯船につかりながら五月は自分の行いを反芻していた。

 もうすっかり日が落ちて利用者がほとんどいなくなった図書室。

 言いたいことだけ言って寝てしまった風太郎に、五月も伝えたいことを一方的に伝え、そして――

 

(だ、大体、眠っている相手にだなんて卑怯です! 不純です!)

 

 思い返せば、今でも顔が熱くなってしまう。

 あのような行動に出てしまったのは気の迷いとしか言いようがなかったが、その時に抱いた想いは偽りようがなかった。

 

「私は、上杉君のことが……」

 

 水面に映る自分の顔。

 その表情は五月にも見覚えがあるものだった。

 風太郎と関わりあうようになってから、姉の幾人かが浮かべるようになったものとそっくりだったのだ。

 祖父の温泉で聞いた三玖の想い、そして五年以上前から風太郎を想い続けている四葉。

 

「……どうすればいいのでしょうか」

 

 五月はどうしても二人の姉と自分を比べてしまう。

 そこには申し訳ないという気持ちがあったし、自分なんかがという思いもあった。

 積み重ねた時間が必ずしも想いの大きさに直結するとは限らない。

 しかし、自覚したばかりの自分と二人ではその強さは歴然だろう。

 

「そうです、よね……今更私なんかが」

 

 顔の下半分を湯船に沈め、ブクブクと泡を浮かべる。

 泡と共にこの想いも吐き出せたら、などと益体もないことを考えてしまう。

 そもそも手放したくても手放せないからこそ人は悩むのだろう、と。

 

(お母さん、人を想うとはこんなに苦しいものだったのですね)

 

 遠き日の母の言葉を思い出す。

 伴侶とする男性は、よく見極めなければならないと。

 その言葉に母の人生の後悔があったことは疑いようがない。

 事実として、姉妹は実の父の顔すら知らないのだから。

 五月の男女関係に対する潔癖さはここに端を発するものだ。

 

(そうです、私は見極めなければなりません)

 

 上杉風太郎が信頼に値する人間かどうか。

 最早答えの出た問いに、五月は再び向かい合う。

 テストにおいて答案の見直しが大事なように、万が一の見落としがないようにと。

 姉が泣いてしまうような未来だけは絶対に回避しなくてはならない。

 そのためには近くで見続ける必要がある。

 できるだけ長く、納得のいく答えが見つかるまで。

 

(あぁ、でも――)

 

『一人でよく頑張ったな』

 

 二学期中間試験の前、意地を張った自分に嘘をついてまで寄り添ってくれた。

 

『いくら俺だってな、それくらいはお前たちのことを知ってる』

 

 林間学校の折、嘘が引っ込められなくなった自分を見つけてくれた。

 

『……お前ならいい先生になれると思うぜ』

 

 そして今日、夢に向かう自分の背中を押してくれた。

 

「――答えなんて、見つからなければいいのに」

 

 こぼれるように漏らした言葉は、五月のまぎれもない本心だった。

 

「ちょっと、五月ー? あんたどれだけ長風呂してるのよ」

 

 ドア越しに自分を呼ぶ声で思考の海から引き戻される。

 時計がないため正確な時間はわからないが、相当長く湯船につかっていたようだ。

 

「ごめんなさい、今出ま――」

 

 そこから先は言葉が続かなかった。

 揺らぐ視界、傾ぐ体、近づく床――自分の体が倒れる音は、どこか現実感のない遠雷のようだった。

 

「……五月? ――五月っ!? ちょっと! 誰か来て、早く!」

 

 慌てふためく二乃の声もどこか遠い。

 涙すら浮かべた姉に謝罪しようとして、五月の意識はそこで途切れた。

 

 

 

 

 

「まったく……のぼせるまで湯船につかってるとか、人騒がせにもほどがあるわよ」

「ううぅ……ごめんなさい」

「二乃なんてもう涙目でさ。五月が死んじゃうーって」

「ちょっ、一花!」

「症状としては軽い熱中症だし、しばらく安静にしてれば大丈夫だよ、五月」

「新しい氷嚢持ってきた。古いのと取り換えるよ」

「みんな……ありがとうございます」

 

 姉たちの優しさが心身に沁み渡る。

 この暖かい家族を守るのだと、五月は改めて心に誓った。

 かつて自分たちを守り育ててくれた母のように。

 

「私はずっとみんなの味方ですから」

「ししし、じゃあ私も!」

「これまでもずっと一緒だったもんね」

「なに当たり前のこと言ってるのよ」

「大丈夫だよ、みんな五月ちゃんのそばにいるから」

 

 五人で手を結び合わせて輪を作る。

 幼いころから変わらない姉妹の絆の象徴。

 この手が離れても、心は離れないのだと。

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん、なんで折り鶴吊るしてるの?」

「ちょっとしたゲン担ぎだ」

 

 窓のわきに五つ連なって吊るされた折り鶴。

 それはあいつらの努力の証であると同時に俺の尽力の成果とも言える。

 あの赤点常習犯どもが五割の壁を突破したのだ。

 目に見えるところに置いて多少感慨に浸ったところで罰は当たらないだろう。

 

「……こんなことにやりがいを感じるようになっちまったとはな」

 

 まるで本当に教師にでもなったかのような気分だった。

 思えばこれまで色々あった。

 長女に振り回され――寝起きのほぼ裸の光景が思い浮かぶ。

 次女に手を焼かされ――風呂上がりのバスタオル姿が思い浮かぶ。

 三女に骨を折り――温泉旅館で抱きつかれた時の胸の感触がよみがえる。

 四女に頭を抱え――試着室での衣擦れの音がよみがえる。

 五女は御しがたく――混浴に突撃してきた時のことを思い出す。

 ……まずい、下半身に血が集中し始めた。

 くそっ、朝処理しただけじゃ足りなかったっていうのか!

 

「お腹痛いの?」

「そ、そうだな……ちょっと下腹部が」

「大変っ、横にならなきゃ!」

「い、いや、それは……」

 

 今横になるのはまずい。

 横になったら、鎌首をもたげ始めたヤツが存在を主張してしまう……!

 今すぐトイレに避難を――いや、このタイミングではハードカバーを取りに行く余裕がない。

 あれをもってトイレに入れば、らいはは間違いなく疑問を抱くだろう。

 そうなってしまえば、遠からず中身に触れてしまうかもしれない。

 ……一巻の終わりだ。

 ならばもうブツ抜きでことを済ませるか?

 それはつまり俺の体験――あいつらとのあれこれを使うということだ。

 確実に明日から顔を合わせられなくなる自信がある。

 身近な人間を使うのは両刃の剣なのだ。

 間違っても家庭教師の業務に支障をきたすわけにはいかない。

 

「お兄ちゃん、お布団の用意できたよ!」

 

 うだうだ迷っているうちにらいはが準備を終えてしまった。

 真剣な表情が本気で心配していることを物語っている。

 ああ、こんな俺には過ぎた妹すぎるぜ……

 

「まったく、青臭ぇな風太郎!」

「お、親父」

「らいは、薬買いに行くぞ」

「でもお兄ちゃんをほっとけないよっ」

「こいつならとりあえず横になっときゃなんとかなる。そうだろ?」

「そ、そうだな……親父酒飲んでるし、一緒についていってやってくれ」

「むぅ……おとなしくしてなきゃダメなんだからね?」

「ああ、わかってる」

 

 親父に連れられてらいはは出かけて行った。

 こっちの状況を把握されてるのは複雑だが、助かったと言わざるを得ない。

 ありがとう、親父。

 

「よし、じゃあてっとり早くイクか」

 

 

 

 

 

 ことを済ませ、後片付けをして布団に寝転がる。

 沸き上がる昂ぶりから解放された賢者の時間。

 まだ親父たちは帰ってきていない。

 静寂の中であいつらの顔を思い浮かべてみる。

 倒れそうになった一花を支えた時。

 無理にでも意識させてやると二乃に迫られた時。

 諸共に畳の床に倒れて三玖と向かい合った時。

 今は懐かしいあのマンションで四葉に嘘の告白をされた時。

 そして――鐘の下で五月の格好をした誰かとキスをした時。

 

「……ダメだな」

 

 落ちついたところで顔を思い浮かべても、なぜだか心臓が早鐘を打つばかりだ。

 こんな風になるのはきっとまだ元気で余裕があるせいだ。

 となれば、脳を酷使していい感じに疲れるしかない。

 さ、勉強しよ。

 

「あ、お兄ちゃん勉強してる!」

「おう、きっちり済ませたか?」

 

 ちょうど勉強道具を出したタイミングで二人が帰ってきた。

 親父は訳知り顔で頷いており、らいはは目を吊り上げて俺からペンと問題集を取り上げた。

 

「おとなしくしててって言ったのに、もぉ」

「いや、ちょうど痛みも治まったから」

「だ~め! お勉強は大切だけど体壊しちゃ意味ないんだから!」

 

 あれよあれよと布団に押し戻されてしまった。

 アイコンタクトで親父に助けを求めてみる――肩を竦めて首を横に振られた。

 

「がはは、ちっと早いが寝ちまうか!」

「え、俺まだ勉強――」

「いいから寝るの!」

 

 こうして俺は勉強の時間を奪われて寝るはめになったとさ。

 疲労が蓄積していたせいか、布団に入ったらすぐに寝てしまった。

 早く寝たおかげか、次の日はすこぶる快調だった。

 まぁ、これはこれで良かったのかもしれない。

 

 

 




五女にフラグ立て


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男の戦いと恋のAとB

この話に出てくる栄養ドリンクは恐らく作中一番のファンタジー要素。


 

 

 

 消灯後の中野姉妹の寝室。

 尿意を催した一花は音をたてないようにゆっくりと布団から抜け出した。

 

(あれ、二乃……?)

 

 そして自分の隣に寝ていたはずの妹の姿がないことに気が付いた。

 他の姉妹の布団に入り込んでいるのかと思ったが、違う。

 四葉のように布団から飛び出して場外乱闘をかましているわけでもない。

 自分のように何らかの目的があって抜け出したのだろう。

 一花はそう当たりをつけると、眠っている妹三人を起こさぬように忍び足でドアに向かう。

 

(うわぁ、すごいことになってる……)

 

 下の妹三人は一塊になって寝ていた。

 五月が三玖の布団にもぐりこみ、自分の掛布団と恐らくは五月のも跳ね飛ばした四葉が二人に覆いかぶさっている。

 純然たる被害者である三玖はうんうんとうなされていた。

 ご愁傷様と軽く手を合わせると、一花は静かに寝室を出た。

 キッチンの明かりがついていた。

 鍋を火にかける音と、その中身をお玉でかき混ぜる音。

 

「あら、起こしちゃった?」

「ううん、ちょっとトイレに」

「そう。明日はテストなんだから早く寝ることね」

「二乃、ブーメランブーメラン」

「まったくだわ」

 

 お互いに苦笑する。

 そしてトイレを済ませた一花は、部屋に戻る前に二乃の調理する鍋をのぞいてみた。

 

「えっと、これなに?」

「……一応栄養ドリンク」

「あ、そっかー、なるほどね」

 

 悪臭はないが、見た目の方はどこか魔女のかき混ぜる大釜の中身を思わせた。

 見映えも気にする二乃にしては珍しい光景だ。

 

「色々体に良さそうなものを足してたら、ちょっと収拾つかなくなっちゃったのよ」

「あらま」

 

 レシピ外のものを加えて失敗するというのは、いかにも初心者らしいミスだ。

 二乃もそれは十分に承知しているはず。

 材料を加える都度、味の確認も行ってたはずだ。

 

(となると、これはフータロー君用かな?)

 

 そんな二乃が見極めを誤ったのなら、その要因は明らかだ。

 恋は盲目というが、まさにその通りなのかもしれない。

 かくいう一花もあまり人のことは言えないのだが。

 

「大丈夫。フータロー君だったら気にせず飲んでくれるから」

「誰にあげるとも言ってないんですけど」

「違うの?」

「……違わないわよ。でもいいわけ? あんたはこういうの止めてくると思ったけど」

「まぁ、飲み物渡すぐらいいいんじゃない?」

 

 一花はそれに類することを毎朝やっているので、否定するには苦しい立場である。

 あまり強硬に否定すると後の反発が怖いし、そもそも長女だからといって姉妹の行動を制限する権限もない。

 そういうのは義理の父の役目であり、一花にできるのはせいぜい諌めたり誘導することぐらいだ。

 

「止めなかったこと、後悔しないことね」

「二乃こそ、勢い余ってコースアウトしないようにね」

 

 長女と次女の間で火花が散る。

 次の瞬間には互いに笑みをこぼした。

 

「おやすみ。あんまり夜更かししちゃダメだよ」

「わかってるわよ。居眠りして酷い点なんて取ったらあいつに大目玉……くらったらマンツーマン授業になったりするのかしら?」

「夢は寝てから見ようね」

 

 

 

 

 

 決戦の朝がやってきた。

 最後の最後まで問題集にかじりつく。

 悪あがきと言われようが出来るだけのことはしておきたい。

 

「お兄ちゃん学校遅れちゃうよ!」

「あと五分、いや十分……」

「もー! なんで時間増えるの!」

 

 らいはに急かされ引っ張られ、口に食パンを突っ込まれる。

 いくら復習してもし足りないが、これ以上は遅刻の恐れがあった。

 ……ここいらが限界か。

 そのへんにあった牛乳をひっつかんで食パンを流し込む。

 

「行ってくる!」

「頑張れー!」

「ぶちかましてこい!」

 

 朝の日課は済ませた。

 これでテスト中に青い衝動に襲われることはないだろう。

 相変わらず寝不足気味だが、そこは気合でなんとかしてみせる。

 親父の言う通り、ここまでの成果をぶちかましてやるのだ。

 

「ところでらいは、俺の牛乳飲んだか?」

「ううん。あ、もしかしてお兄ちゃん、あれ飲んじゃった?」

 

 

 

 

 

「おはようございます。いよいよ当日ですね」

「上杉さん、頑張りましょう!」

「相変わらず酷い隈してるわね」

「それ、みんな同じ」

「ふわぁ……フータロー君、おっはー……」

 

 中野姉妹が雁首揃えてやってくる。

 どいつもこいつもいい感じのくたびれっぷりじゃねぇか。

 どれだけ頑張ったかが見て取れた。

 

「それで、自信の程はどうですかな?」

「はっ、十位以内と言わずトップだって取ってやるよ」

 

 肘でつついてくる一花に大口で返してやる。

 いや、大口なんかじゃない。

 実際に一位を取るつもりで俺はこの決戦に臨んでいる。

 

「それでこそだ!」

 

 爽やかながらもやかましい声。

 武田が階段の上から見下ろすように立っていた。

 五つ子たちは顔をしかめて、舌を出してるやつさえいる。

 仕方のないことだが、武田への印象は良くないようだ。

 俺自身はまぁ、そんなに嫌いでもないのだが。

 

「この日をどれだけ待ちわびたことか……今日、ここが僕たちの川中島だ!」

「上杉対武田……これは見逃せない!」

「なんであんたが燃え上がってるのよ……」

「上杉さんは負けませんよ!」

「悪いが、僕はまだ君たちが彼の隣にいることを認めたわけじゃない。黙っていてくれ」

「私たちはパートナーです。誰になんと言われようとそれは覆りません」

「ふっ、それはどうかな」

 

 ……なんで俺をそっちのけで火花散らしてんだこいつら。

 一花に妹たちをたしなめろと視線を送るが、曖昧に笑って流された。

 どうやらこいつも思うところがあるらしい。

 

「いいから行くぞ。時間があるなら悪あがきしとけ」

 

 中野姉妹をうながしつつ、武田の横を通り抜ける。

 むしろ一番悪あがきをしたがっているのは俺だ。

 

「あくまで6対1……そう言うんだね」

「悪いな。お前が望んだ形じゃないだろうが、これが俺にとってのベストだ」

「ならばそれを証明してみせたまえよ」

 

 また随分と上からな言葉を残して、武田は先んじて校内へ消えて行った。

 五月と四葉は舌を出して見送り、三玖は何故だかやる気に満ちていた。

 一花は相変わらず眠そうだが、自分で頬を叩いて気合を入れていた。

 そして二乃は――

 

「フー君」

「どうした?」

「これ、もし眠気が辛かったら飲んでみて」

 

 そう言って渡されたのは小ぶりなペットボトルだった。

 中の液体はなにやら形容しがたい色をしている。

 ……毒じゃないだろうな?

 

「一応栄養ドリンクのつもり……なんだけど」

「お前が作ったのか?」

「あんた頑張ってるし、私も何かしてあげられないかなって思ったんだけど……ごめん、正直味に自信がないの」

「珍しいな、二乃がそんなこと言うなんて」

「本当は渡そうか迷った……けど、なにもしなかったって後悔はしたくなかったのよ」

「そうか」

 

 たしかに見た目はお世辞にもおいしそうとは言えない。

 しかし、俺は自他ともに認める貧乏舌。

 多少不味かろうがおかまいなしだ。

 キャップを開けて中身を一気に煽る。

 まったく、そもそも自分のことで手一杯のやつがおこがましいんだよ。

 そんなもの――飲まないわけにはいかないだろ。

 

「少しでも変な味したら捨てても――って一気飲み!?」

「……うんまぁ、飲めない味じゃないぜ」

「あんたの味の評価は全然当てにならないわよ……でも、ありがと」

 

 嘘を言ったわけでも誤魔化したつもりでもないのだが、随分な言われようだ。

 だが二乃の機嫌を損なわずに済んだのだからそれで良しだ。

 こんなところで不貞腐れられたらそれこそ面倒だし、こいつにも笑顔で卒業してもらわなければいけないのだから。

 

「ほら行くぞ」

「そうね、置いてかれちゃうわ」

 

 先を行く四人の後を追おうとして、腕を引っ張られる。

 まだなにかあるのかと振り向くと、二乃が背伸びして顔を寄せてきていた。

 思わず固まる。

 この距離は、まずい。

 

「そういうとこ大好きよ、フー君」

 

 固まる俺の頬に軽く口づけると、二乃は小走りで姉妹の後を追って行った。

 一瞬しか見えなかったがバッチリ顔は真っ赤だった。

 恥ずかしいならやらなければいいのに、なんて言葉は意味がない。

 それで躊躇するなら、あの厨房での告白はそもそもなかっただろう。

 

「……してやられたな」

 

 心臓の鼓動が早まるのを感じる。

 眠気はすっかり吹き飛んでいた。

 

 

 

 

 

 小走りで校舎に向かう二乃。

 頬を染めて、心臓の音はうるさいぐらいだ。

 それでも気分は晴れやかだった。

 

(ふふっ、これぐらいのアプローチならかまわないわよね)

 

 ここ最近、風太郎と満足にスキンシップが取れないことに二乃は密かにフラストレーションを溜めていた。

 自分はともかく、風太郎にそんな余裕はないだろうと遠慮していたのだ。

 ちなみに三年に進級してから、一花がほぼ毎朝風太郎と一緒に登校していたことを二乃は知らない。

 もし知っていたら小規模ながら姉妹間戦争が勃発していただろう。

 プレゼントを遠慮するように提案したのは一花であるため、まさにどの口案件である。

 ともかく、好きな人と思うさま触れ合えないストレスをバネにこの日までを乗り切ってきたのだ。

 

「早くプレゼント、渡してあげたい――」

「二乃、なにをしていたのですか?」

「わひゃっ」

 

 校舎に入った瞬間、二乃は声をかけられて飛び上がった。

 先ほどのやり取りで浮かれていたというのもあるが、完全な不意打ちだった。

 声の主は五月だった。

 睨むわけではないが、厳しい目つきをしている。

 

「なにって、あいつが冴えない顔してたから眠気覚まし渡してきただけよ」

「本当にそれだけですか?」

「本当にってね……そもそも私があいつとなにしてようが、あんたには関係ないでしょ」

 

 二乃は五月の胸に指を突き付けてきっぱりと言った。

 しかし、五月は揺らがず静かに見つめるのみ。

 

「なによ、言いたいことがあるのなら言えばいいじゃない」

「いえ……ですが、くれぐれも軽率な行動は慎んでください」

「……あんた」

 

 どこか見覚えのある表情。

 数年前の母の死後、自分が母の代わりを務めると宣言した妹。

 見ていて痛々しい光景だったが、当時は姉妹のだれも余裕がなく、フォローすることができなかった。

 今の五月の顔はその頃と重なって見えた。

 

「彼と私たちは教師と生徒。それを忘れないでください」

「五月、またなんか変なもの拾って食べてないでしょうね?」

「なっ……ど、どういう意味ですか!」

 

 二乃がちょっとつつけば五月の地が顔を出した。

 真面目ではあるが揺さぶりに弱く、食欲に忠実な末っ子だ。

 

「そもそも一緒に登校していたんですから拾い食いなんてしてないのは二乃がよくわかってるじゃないですか!」

「はいはい、ノーブレスでよく言い切ったわね。教室行くわよ」

「あ、待ってください!」

 

 

 

 

 

「全国統一模試を開始します」

 

 教師の厳かな声は、戦いの始まりの合図。

 最初の科目は国語――四葉の得意とする教科だ。

 先頭の席では後方に座る五つ子たちの様子を確認することはできない。

 しかしこの日まで俺はできるだけを伝えたし、あいつらもできるだけ頑張ったはずだ。

 だから心配ない。

 俺は俺の戦いに専念だ。

 

「……」

 

 紙をめくる音と、筆記音。

 現国、古文、漢文――淀みなく解いていく。

 寝不足による倦怠感や眠気はなく、頭痛も気にならないほど集中できている。

 かつてないほど体の具合が良かった。

 これが二乃にもらったドリンクの効果だとしたら、これ以上ないサポートだ。

 

「……ふぅ」

 

 残り時間は数分。

 全ての回答を埋め、見直しも済ませた。

 不安要素はない――順当に満点が取れるだろう。

 そして終了の告知がなされ、休憩時間に入る。

 ひとまず緊張から解放された他生徒が、ため息やら泣き言を漏らしていた。

 後ろを一瞥すると、中野姉妹は次の教科の復習……いや、悪あがきか。

 思わず笑みが漏れてしまう。

 それを目ざとく察知した一花が声をかけてきた。

 

「フータロー君、調子良さそうだね」

「まあな」

 

 進級してから席替えが行われていないため、席順はあいうえお順――中野姉妹は同じ列に五人並んでいる。

 名前の順に一花、五月、二乃、三玖、四葉だ。

 この中で一番席の近い一花は、こうして茶々を入れてくることがよくある。

 

「お前はきつそうだな」

「連日の疲れがどうしてもね……」

「気張れよ。せっかくここまで来たんだ。最後までやり遂げようぜ」

「……まさかフータロー君に励まされるとは」

 

 驚かれるのは心外だが、たしかに柄にもないことを言ったかもしれない。

 今は他人を気遣えるだけの余裕がある――やはりあのドリンクのおかげか?

 目を向けてみると、ちょうど顔を上げていた二乃と目が合う。

 そして投げキッスなどを放たれる。

 

『そういうとこ大好きよ、フー君』

 

 即座に目をそらした。

 まだ頬に唇の感触が残っている気がした。

 騒ぎ出そうとしている心臓を鎮めるように深く息を吐くと、俺も問題集を取り出して悪あがきを始める。

 そして次の科目もつつがなく終わり、問題が起きたのはその次。

 俺は激しい腹痛と、ある一部分の隆起という異常事態に襲われていた。

 なんだ、なんだこれは……まったく意味が分からない!

 

「――っ!」

 

 脂汗が流れ、喉がカラカラに乾く。

 これだけの激痛だというのに、俺の剣は痛いほどにその存在を主張していた。

 なぜだ? なぜこんなことになった!?

 こんなのなにか変なものを食べない限り……思い当たるものが一つあった。

 二乃のドリンク――家を出てから口にしたものはそれぐらいしかない。

 まさか、本当に変なものが入っていたというのか?

 ……いや、それは考えにくい。

 中野家の料理担当の二乃は、きちんと栄養価まで考えて食事を作っている。

 そんなやつが故意にでもない限り、おかしなものを入れるとは考えられない。

 そして過去には色々あったが、今のあいつが俺に一服盛るとも思えない。

 ならこの腹痛と元気が有り余った息子の原因はなんだ?

 他には食パンと牛乳ぐらいしか……まさか!

 朝に家を出る前、食卓に乗った牛乳を飲んだ。

 もしそれが期限切れをものともしない親父のものだったとしたら?

 腹痛とこの隆起の原因が別だとしたら?

 二乃の栄養ドリンクが、俺の息子にまで元気を与えてしまったとしたら……!?

 

「――く、ぅ……!」

 

 喰いしばった歯の隙間から苦悶の声が漏れる。

 激痛と青い衝動のダブルパンチで頭がおかしくなりそうになる。

 いや、まだだ……まだ俺は戦える!

 この科目を乗り切れば昼休み……そこで毒を出し切るしかない。

 それまで耐えろ、気張れ、負けるな俺……!

 体の震えを押さえつけながら回答を埋めていく。

 あと少し、あと少し、あと少しあと少しあと少しあと少し――

 

 

 

 

 

(さすがに頭が痛いわ……)

 

 頭を抱えながら二乃は問題用紙と向き合う。

 昨夜の夜更かしがたたり、万全からは程遠い状態でテストに臨むことになってしまった。

 自作の栄養ドリンクを与えた風太郎の調子は良さそうだった。

 自分が飲む分も作っておくべきだったと後悔してしまう。

 

(でも、フー君が元気出たみたいで良かったわ)

 

 最初の科目が終わった後の休憩時間、風太郎と目が合った時のことを思い出す。

 こっちを気にしてくれたのだと嬉しくなって投げキッスを返してしまった。

 すぐに前を向いてしまったが、耳が赤くなっていたのを二乃は見逃さなかった。

 

(あ、なんか私も元気出てきたかも)

 

 病は気からというが、本当にその通りなのかもしれない。

 好きな人のことを考えて元気が出るなど、恋愛脳と言われてしまってもしかたがない。

 

(この問題、見覚えがあるわ)

 

 風太郎との勉強会で出てきたものとほぼ同じだった。

 先ほどの悪あがきで復習した部分もちょうどここだ。

 回答を埋めて、自分にこんなにも影響を与えた背中を見る。

 

(――え?)

 

 後ろからだと表情はわからないが、風太郎は腹部を押さえながら震えていた。

 暖まった胸の内が、急激に冷え込んでいくのを感じた。

 

 

 

 

 

「やっとお昼だ~」

「ここでしっかり栄養補給しましょう!」

 

 食堂にて、下の妹二人がお昼の喜びに浮かれる中、姉三人は神妙な面持ちで向かい合っていた。

 いずれも頭の中にあるのは風太郎への心配だ。

 昼休み前のテスト中の様子は明らかにおかしかった。

 四葉は一番後ろだったため風太郎の様子に気づかず、五月は単純に問題に集中していたので気づいていない。

 

「フータロー、大丈夫かな?」

「ちょっとあれは辛そうだったね」

「……」

 

 二乃は押し黙ったまま自責の念にとらわれていた。

 原因は自分の渡した栄養ドリンク――二乃はそう考えている。

 今日のテストには風太郎の家庭教師としての進退がかかっているのだ。

 それが自分のせいでご破算となれば、風太郎にも姉妹にも顔向けできない。

 

「上杉君がどうかしたのですか?」

「そういえば見当たらないね」

「フータロー君ね、ちょっと具合良くないみたい」

「トイレに行ったまま戻ってこない」

「え、大丈夫なのかな?」

「心配ですね……」

 

 食事も喉を通らずスプーンを握ったまま不安に心を揺らす。

 風太郎のいない、暗い未来図が頭に去来する。

 それを払拭するべく紙コップの水を一気に煽り、二乃は立ち上がった。

 

「二乃、まだご飯残ってますよ?」

「私もトイレ。食べたいならあんたにあげるわよ」

 

 なにもせずにただ待っているのは性に合わない。

 瞳を輝かせた末っ子を横目に、二乃は保健室へと向かった。

 

 

 

 

 

「く、うおぉ……」

 

 トイレに駆け込んでからもうどれぐらい経っただろう。

 今の俺には時計を見る余裕すらない。

 断続的に襲いくる痛みの波に耐えて、どうにか凪までたどり着く。

 ひとまずだが、痛みの方は治まってくれた。

 

「でもこっちは治まらないよなぁ」

 

 痛みが引けば今度はこっちの主張が強くなる。

 はっきり言うと、ムラムラが強まってきた。

 このままここで発散するか?

 だが、ブツもない状況でそれを行えば、俺はあいつらを――

 

「上杉君、大丈夫かい?」

「……お前、トイレでの遭遇率高くねぇか?」

 

 ドア越しに聞こえる爽やかマックスな声は武田のものだ。

 もはやこの場にいることに驚きはなくなっていた。

 せめて声をかけるのは個室から出た後にしてほしかったが。

 

「水と腹痛の薬を持ってきたよ。いるかい?」

「どういうつもりだ」

「ふふ、敵に塩を送る……かの謙信公と信玄公の伝説さ」

「送られたのは武田方だけどな」

 

 三玖のやつが喜びそうな話題だ。

 個室のドアの下の隙間にビニール袋が差し込まれる。

 拾い上げると、ミネラルウォーターと腹痛薬が出てきた。

 

「それと、今回の模試の模範解答なんてものもある」

「どういうつもりだ、武田」

「僕の父は心配性だということさ」

 

 つまり理事長の差し金か。

 親が偉いとこういう不正もまかり通るわけだ。

 ……いよいよ満点を取る以外勝つ道がなくなったか。

 

「君にあげよう」

 

 今度は紐で封をされた封筒が差し込まれてきた。

 ため息をつきつつ拾い上げる。

 封を解いた形跡はなかった。

 まったく、本当にくだらない……こっちを試すような真似をしやがって。

 ビリビリに破いてドアの下から突き返す。

 いっそトイレに流したかったが、トイレットペーパー以外のものを流すのは禁止されている。

 

「……流石だよ、上杉君!」

「うるせぇトイレで騒ぐな」

「やっぱり僕らは永遠のライバルさ!」

 

 武田は最後までやかましかった。

 足音が遠ざかったのを確認して個室から出る。

 俺の剣は依然として天を突いたままだが、ベルトで押さえつければどうにか目立たないようにできる。

 送られた塩もあることだし、痛みさえなければどうにかなるだろう。

 俺の欲望であいつらを汚すわけにはいかないのだから。

 しかし、体力を消耗した……今度からは期限切れの牛乳があったら全部捨ててやる。

 

「フー君!」

「ん、二乃か」

 

 トイレから出ると二乃がいた。

 焦ったような顔で、手には錠剤――武田が持ってきた腹痛薬と同じものだ。

 どうやら俺を心配してここまで来たらしい。

 ……イクのを我慢しておいてよかったぜ。

 しかし、一つだけ問題がある。

 

「悪い、あまり近寄らないでくれ」

 

 今の俺の体は内なる思春期に侵されている。

 そんな状態でこいつらに近寄ったらどんなことになるか。

 せっかく積み上げてきた信頼を壊したくない。

 

「え……ど、どうして」

「あー、それはなんつーか……」

「やっぱり、私のせいなのね」

「は?」

 

 二乃は自分の腕を抱きながら俯いた。

 こいつ、もしかして腹痛の原因が自分のせいだと思ってるのか?

 

「二乃、腹痛はお前のせいじゃ――」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」

「おい、二乃!」

 

 壊れたように謝罪を繰り返す二乃に俺の言葉は届かない。

 いつだったか一花は、二乃は繊細なのだと言っていた。

 だから衝突が多いし傷つきやすいのだと。

 

「聞け! あれは期限切れの牛乳のせいなんだよ!」

 

 肩をつかんで揺さぶっても二乃は反応しない。

 くそっ、どうすりゃいいんだ!

 一花は長女なだけあって姉妹のことをちゃんと見ている。

 その言葉を思い出せ……!

 

『二乃には負けないくらい強く、逆に五月ちゃんには優しさを』

 

 あたりが強い二乃には負けないだけの強さで――つまり、インパクトだ。

 こいつの落ち込みを相殺できるだけの衝撃を与えてやればいい。

 方法は……知らん、出たとこ勝負だ!

 

「――二乃」

「あ……フー、くん」

 

 正面からがっちり抱きしめる。

 下手をしなくてもセクハラ行為に該当するこれは、どう考えても青い衝動が多分に混じった判断だ。

 だがその甲斐あってか、うわ言のように謝罪を繰り返していた二乃は、ようやく俺に反応を示した。

 

「俺の腹痛は家で期限切れの牛乳を飲んだせいだ。お前は悪くない」

「そう、なの?」

「ああ、親父のを間違って飲んじまってな」

 

 とっさに思い付いた方法は二つだったが、最初の段階で正気に戻ってくれてよかった。

 二つ目のは、確実に俺に鐘キスレベルの爪痕を残すものだったからだ。

 ……いや、今の状況も十分ヤバいよな。

 しかし離れようとしたら今度は二乃が離れない。

 むしろ手を俺の背中に回してホールドしてきやがった……!

 

「……近寄るなって言われて、すっごく傷ついちゃったわ」

「あれには複雑で有機的な事情が絡んでてだな――」

 

 そう、そしてその複雑で有機的な事情は今もなお進行しているわけで。

 即ち――俺の風太郎がベルトから外れた……!

 

「あら? なんか当たってる?」

「に、二乃、とりあえず離れて――うぉっ」

「なにかしら……ねぇ、ズボンになにか入れて――」

 

 二乃の細い指が俺の股間のあたりを這い回り、熱を放つ隆起に触れて止まった。

 絶句という言葉がぴったり当てはまる。

 そしてその顔はみるみる赤く染まっていって……

 

「こ、こんなところで盛るなんてあんた……!」

「とりあえず場所を変えようか二乃!」

 

 

 

 

 

「で、それはどういうことなの?」

 

 人気のない場所に移動して向かい合う。

 トイレの前ではいつ人が来るかわかったもんじゃない。

 二乃は赤くなった顔をそらしながら俺の股間を指差した。

 恥ずかしいなら何も見なかったことにしてほしかったぜ……

 

「一応言っておくと、いつもこんなになってるわけじゃないからな」

「そんなのわかってるわよ。その……私に抱きついたからなんでしょ?」

「いや、そういうわけでもない」

「――っ、じゃあどうしてなのよ!」

 

 なぜか二乃の態度がきつくなる。

 下手な誤魔化しをしようものなら酷い目にあわされそうだ。

 もう洗いざらい話すしかないのか……

 

「……いつも毎朝こうならないように処理してんだよ」

「今日はできなかったってこと?」

「なんでか元気が有り余っててな。朝のだけじゃ足りなかったみたいだ」

「……」

 

 例のドリンクのことは避けて話す。

 そもそもあれのせいだという確証もない。

 もう羞恥心はおいてきた。

 あいつではこの先の戦いについてこれないからだ。

 

「さ、さっきトイレで処理はしなかったの? 出せば落ち着くって聞くし」

「おかずがない。なにもなかったら、その……お前らを使うはめになる」

「え、ちょ、それって……」

「それだけはしたくなかったんだよ。だからこんなことになってる」

「……使えばいいじゃないのよ。むしろ私を使いなさいよ!」

「んなことしたら絶対気まずくなるわ!」

 

 この女はなんてことを言うのか。

 そんなことができたら、そもそもこんな無様を晒していないというのに。

 

「それで家庭教師の仕事に支障が出たら困る。お前たちのそばにいられなくなっちまう」

「……バッカじゃないの?」

「学年一位をつかまえて馬鹿だと!?」

「今は学年二位でしょうが!」

「ぐっ!」

 

 平時の勢いを取り戻した二乃は、こちらに一歩迫って指を突き付ける。

 顔が赤いのは相変わらずだが目は真っ直ぐ俺を見据えている。

 

「私はあんたが好きなの! 好きな人にそういう対象にされて嬉しくないわけないじゃない!」

「なんだよそれ。まったく……こっちはこんなに気を揉んでるってのに」

「だからバカだって言ったのよ」

 

 さらに一歩踏み込むと、俺の首に腕をまわした。

 そしてそのまま唇を――

 

「んっ――」

「……」

「――今回は私がしてあげるわよ」

 

 二乃の手がベルトに伸びる。

 慣れない手つきでようやく外したかと思うと、屈みこんでこちらを見上げてきた。

 紅潮した頬と潤んだ瞳――いよいよ俺の理性は抵抗の意思を放棄した。

 

「こ、こんなことするの初めてだし……その、痛かったら言いなさいよね」

 

 ……賢者となった俺に敵はいない。

 その後の試験は問題なく終了。

 だがこの日から俺は、二乃との間に一つ秘密を抱えることになるのだった。

 

 

 

 

 

「旦那様、先月行われた全国模試の結果が届きました」

「ご苦労」

 

 街中を走る黒塗りのリムジン。

 その中で中野マルオは自分の秘書の江端から、先の模試についての報告を受けていた。

 手元のタブレットを操作し、送られてきたデータを確認する。

 まず目を通すのは娘たちの試験結果。

 個人差はあれど、前年と比べれば成績は大きく上昇していた。

 娘たちの努力の成果にマルオは内心で笑みを漏らした。

 しかし、ただ喜んでばかりいられない。

 それは娘五人の家庭教師――上杉風太郎の手腕によるものでもあるのだから。

 

『少しは父親らしいことしろよ、馬鹿野郎が!』

 

 マルオが風太郎に抱く印象はかなり悪かった。

 それは雇い主に対する無遠慮かつ無礼な発言に端を発するものだが、個人的に痛いところを突かれたという思いもある。

 そもそも雇った当初は嫌々やっているのが見え見えだったため、良い印象もなかったのだが。

 

「武田様は全国八位の快挙でございます」

 

 次に武田祐輔――娘たちの新しい家庭教師候補。

 全科目で九割以上の高得点。

 記述式でこれほどの点数を取れるのなら、その実力は疑いようもない。

 付き合いがある彼の父――旭高校の理事長からもそれとなく推薦されている。

 医師を目指しているとのことなので、将来自分の病院に迎えるのも悪くない。

 そして問題は次だ。

 

「そして上杉様は……見事です」

「……一位、か」

 

 全国約250万人の中のトップ。

 データは端的に風太郎の優秀さを示していた。

 全国十位以内に入ることを自ら条件として掲げた彼だったが、その直前には一位を取るなどと大口を叩いていた。

 つまりあれは大口でもなんでもなく、見事に実行してみせたのだ。

 だがそれならばと、マルオには少し腑に落ちない点もあった。

 

「他の科目はノーミス。しかし午前最後の科目だけ、最後の設問の回答が解読不能で誤答と見なされているね」

「報告によれば、突然腹部を押さえて震えだしたのだとか」

「……体調管理には少々問題があるようだ」

 

 マルオにとって上杉家は知らない仲ではない。

 家長である上杉勇也は高校時代からの旧知である。

 その息子である風太郎とも、数年前に一度だけだが顔を合わせている。

 当時の印象は、父親に似ている、だ。

 勝手に持ち出した父の仕事道具のカメラをぶら下げ、小学生ながら髪を染めているガキ大将といったところか。

 あの父にしてこの子ありと思ったものだが、風太郎は変わった。

 京都での一件を契機に、髪色を戻し勉強にのめり込み始めたのだという。

 上杉家の苦境は知っていた。

 風太郎が家のために努力しているであろうことは、十分に察せられた。

 勇也の提案を受けて家庭教師に迎え入れたのも、そういった事情を鑑みた部分もある。

 しかしそれは単なるきっかけであり、成績優秀といえど成果を出せないようなら容赦なく首を切る気でいた。

 マルオは現実主義者であり結果を重視する。

 そしてそれは自分の感情よりも優先されるものだ。

 娘たちの成績を伸ばした上で全国トップ――申し分のない結果と言える。

 

「業腹だが……認めざるを得ないね」

 

 思い通りにいかないことばかりだと嘆息する。

 風太郎はマルオの思惑や予定をことごとく妨害してみせたのだ。

 それも自ら結果を示すという、これ以上ないやり方で。

 

「上杉風太郎。その覚悟……見事だ」

 

 

 

 

 

「結果は確認したかい?」

「ああ」

「結構……では――」

 

 先月の模試の結果を手に、俺と武田は屋上で対峙する。

 こいつが言うには川中島の戦い――その勝敗が決するのだ。

 

「――俺の勝ちだな」

「……いつか君の言った通り、勝つには満点を取るしかなかったわけか」

 

 武田は扶壁にもたれると空を仰いだ。

 俺からかける言葉はない。

 何を言っても、それは勝者の傲慢にしかならないからだ。

 

「父の期待には応えられなかったけど、これで良かったのかもしれないね」

「……」

「僕はね、宇宙飛行士になりたいんだ」

「……は?」

「地面も空も空気さえもないあの空間に憧れて――」

「いや、そこはいい」

 

 いきなりのカミングアウトに戸惑う。

 もっと脈絡というものを大事にしてほしいところだ。

 武田は少し残念そうにしたものの、再び語り始めた。

 

「険しい道だ。学校一だけじゃ到底届かない、日本一でもまだ遠いさらに先の先……途方もない高みさ」

 

 空を見ていた武田の目が地面に落ちる。

 放課後なので校門から出ていく生徒の姿が見えた。

 

「まずは君に礼を言うよ――ありがとう」

 

 差し出された手。

 しかし俺はそれに応じてやらない。

 一方的に納得されるのも癪なので、目線で先をうながす。

 

「あまりに高いものだから、上を見ているのに疲れるときがある……でも君がいた」

「君がいたから僕は上を見ていられた。君がいなかったら僕は猿山の大将で満足してしまっただろう」

「そして君は学内をはるかに飛び越えて全国一の高みまでたどり着いた」

 

 武田が笑う。

 それはいつもの爽やかなものではなく、どこか獰猛な笑みで。

 

「君がまだ僕の上にいてくれる――こんなに嬉しいことはないよ」

 

 前髪をいじりつつ目をそらす。

 こうも真っ直ぐな感情を向けられるのは、いつだって気恥ずかしい。

 差し出された手を握る。

 握り返される強さに負けないよう、さらに強く。

 

「それじゃあ、僕はそろそろ行くよ」

「ああ。武田……お前の夢、叶えて見せろよ」

 

 振り返らず、武田は手を突き上げて応えた。

 

「夢、か」

 

 武田のいなくなった屋上で一人呟く。

 俺自身にはないものだ。

 あるにはあるが、漠然としすぎてて夢と呼んでいいものか。

 必要とされる人間になる。

 それは他人に認められるということだ。

 今の俺は、どうだ……?

 

『あなたは……私たちに必要です』

 

 林間学校の後、病室での五月の言葉。

 

『フータローとならできるよ』

 

 去年のクリスマス、川に落ちた俺を助けるために飛び込んだあいつら。

 そして、さっきの武田の言葉。

 

「……いつの間にかしがらみが多くなったもんだ」

 

 家庭教師を始める前、家族以外の他人をはねのけていたあの頃。

 誰にも邪魔されずに勉強していられた。

 だが、誰にも必要とされていなかった。

 当たり前だ。

 他人を必要としないやつが他人に必要とされるわけがない。

 それがわかっていなかった俺は、ただ勉強という手段にだけ縋っていた。

 いや、手段を目的にしていたんだ。

 ひたすらに勉強勉強と……だけど勉強したその先のことを何も考えていなかった。

 空虚で滑稽なことこの上ない。

 

「今度は俺が教えてもらう番かもな」

 

 夢を見つけた一花と五月に。

 ここで大層な夢を語った武田に。

 二乃や三玖、四葉にも進路について聞いておくべきだろう。

 しがらみとは絆と言い換えてもいいのかもしれない。

 約一名、おかしな繋がりになったやつがいるが……

 

「つーか、どうしたらいいんだよ……」

 

 頭に思い浮かぶのはあの日の光景。

 唇の感触と、俺の剣に触れる二乃の――

 

「――っ」

 

 頬を叩いて思考をリセットする。

 これ以上思い出すと臨戦態勢になりかねない。

 

「あっ、上杉さん発見!」

 

 屋上のドアが開くと、悪目立ちリボンがこちらを指差して大声を上げた。

 そしてぞろぞろと現れる五つ子たち。

 

「探したよー、いつの間にかいなくなっちゃうんだもん」

「せめてメールぐらいよこしなさいよ」

「結果、どうだった?」

「あなたのことだから心配はしていませんが」

 

 どいつもなぜか手を後ろに回している。

 まさか、自分たちの結果が悪かったから隠してるんじゃないだろうな?

 俺も対抗して結果の紙を後ろに隠してみた。

 が、四葉に速攻で奪われてしまった。

 

「拝見します!」

「おい、勝手に見るな!」

「ふむふむ……」

「えーっと……」

「フータローの順位は……」

「これ、いつものパターンじゃ……」

 

『1/250762』

 

「「「「「……全国一位」」」」」

「あー、めっちゃ恥ずかしい!」

 

 などと言ってみるが、もうすでに手の内は知られているため反応は冷ややかだった。

 五月はため息すらついている。

 なんだか本当に恥ずかしくなってきたぜ……

 

「お、お前らも早く出せよ。隠してたってわかるんだからな」

「あれ、気づかれちゃってた?」

「ちょっと、誰よ話したの」

「サプライズ感、なくなっちゃったね」

「むむっ、上杉さんはもしやエスパーでは?」

「とりあえず渡しちゃいませんか?」

 

「「「「「お誕生日、おめでとう!」」」」」

 

 いきなりのハッピーバースデイに頭がフリーズする。

 そもそも今日は誕生日じゃない。

 しかしお構いなしに五人はプレゼントをポイポイと渡してくる。

 ふと、その中の一つ――四葉が渡してきたものの中に、見覚えがあるものを見つけた。

 いつぞやの勉強会の際にこそこそと折っていた折り鶴だ。

 ……まったく、余計な気を使いやがって。

 

「あー、その、もし良ければだが……これから打ち上げ的なものでもどうだ?」

 

 そんな俺の提案に、五人は顔を見合わせて――

 

「フータロー君の奢りなら良いよ」

「良いけどあんたの奢りね」

「フータローのごちそう……やった」

「ごちになります、上杉さん!」

「さぁ行きましょう善は急げです!」

 

 なぜか俺が奢る流れが出来上がっていた。

 こんな時にばかり意見が一致しやがる。

 おいそこの五女、よだれたらしてるんじゃねぇ!

 我先にと校内へ戻っていく五人を追いかける。

 てか、プレゼントを持ったままだと歩きにくいな。

 

「それ、よこしなさい」

 

 階段を降りようとすると、横から声がかかった。

 振り向くと二乃がいた。

 俺が校内に入るのを待っていたのか。

 一番かさばる四葉の千羽鶴を奪うと、さっさと階段を降り始めた。

 俺はやや距離を開けて追随する。

 二人きりになるのは模試の日以来だった。

 避けていたわけじゃないが、意図的にそうならないようにはしていた。

 

「……」

「……」

 

 こういう風に気まずい空気になるのが目に見えていたからだ。

 ……もうどうすりゃいいのやら。

 

「この前のことなんだけど」

「あ、ああ」

「またあんな風になったら言って」

「……は?」

「だ、だから……また相手してあげるって言ってんのよ!」

 

 それだけ言うと二乃は階段を駆け下りて行った。

 ちらっと見えた横顔は真っ赤だった。

 恥ずかしくても言ってしまうのが二乃なのだろう。

 防御を意識しない超攻撃スタイル。

 おかげで妙に顔が熱い。

 その熱を冷ますために、俺はゆっくりと階段を下りて行った。

 ちなみに打ち上げは俺の懐事情を配慮したのか、大変リーズナブルなメニューになった。

 五月は不満そうにしていた。

 

 

 




フー君と二乃はCまではいってません。


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女の戦い~シスターズウォー準備段階~

今回はちょっと短めです。


 

 

 

「……」

「ははっ、たまにはこうして童心に戻るのも悪くないね」

 

 子供たちが遊ぶ声に交じってギコギコとブランコが揺れる音。

 いつか四葉と来た高台の公園で、俺と武田は二人並んでブランコに乗っていた。

 遊具は基本的に子供が使うことを想定しているため、サイズもそれなりだ。

 高校生二人がブランコを占拠している姿は、はたから見れば奇妙なことこの上ないだろう。

 

「……」

「ところでもうすぐ修学旅行だけど――」

「武田」

「なんだい?」

「一体どうして俺はお前とブランコを漕いでるんだ?」

 

 謎の状況だった。

 俺とこいつが昼間から公園にいるというのもそうだが、一緒にブランコを漕いでるというのは本当に訳が分からない。

 すると、武田はなにをわかりきったことを、とでも言うように首を振った。

 

「僕たちは幾度となくぶつかり合って友情を育んだ……こうして肩を並べることになんの違和感があるんだい?」

「むしろ違和感しかねぇよ――っと」

 

 ブランコから飛び出して着地する。

 靴だけを飛ばしたあの時と比べれば大した進歩だろう。

 だが四葉にはまだ到底届かない。

 というかあいつは身体能力がおかしい。

 そして五つ子であることを考えれば、他の四人も同等の潜在能力を秘めている可能性がある。

 それは他の分野にも言えることで、ちょうど得意分野が分かれてるあの五人は可能性の塊とも言えるだろう。

 しかし悲しいかな、勉強という分野においては押し並べて低空飛行なのだ。

 とはいえ初期に比べれば大分改善したので、これからも努力次第ということだろう。

 

「まぁ待ちたまえよ――っと」

 

 俺を追って武田もブランコから飛び出した。

 飛距離はこっちがわずかに勝っていた。

 

「ブランコはともかく、僕たちがここにいるのは呼び出されたからじゃないか」

「それはわかってる」

 

 そう、俺たちはあの姉妹の父親に呼び出されてここにいる。

 すると黒塗りの高級車が公園の入り口に停まった。

 あの車には見覚えがあるし乗ったこともある。

 つまり、中野姉妹の父親のお出ましだ。

 

「待たせてすまないね、二人とも」

「いえ、こちらこそお忙しい中、時間を割いていただき恐れ入ります」

 

 武田はかしこまっているが、俺は真っ直ぐ目をそらさない。

 ここには結果を叩きつけてやるために来たのだから。

 

「とりあえず座って話そうか」

 

 うながされて公園のベンチに座る。

 二つ並んだベンチの一方に俺と武田、もう一方に中野父。

 少しの間を置くと、中野父が話し始める。

 

「まずは武田君、全国八位おめでとう。君のように優秀な人材ならば、将来的にうちの病院に迎え入れるのもやぶさかではないが――」

「申し訳ございません。大変光栄な話ではありますが、今一度自分の進路について考えたいと思っています」

「そうかい。では返事が決まったら伝えてくれ」

 

 宇宙飛行士になりたいと、武田は学校の屋上で語った。

 それはこいつの親、理事長が用意したレールから外れた苦難の道だろう。

 かつての俺ならば歯牙にもかけていない。

 所詮他人事なのだと。

 だが今の俺は真面目馬鹿の夢を、そして夢追い馬鹿の努力を知っている。

 そして武田が俺に向ける感情も。

 ……他人事と無視を決め込むには少々しがらみが増えすぎたようだ。

 

「上杉君」

「はい」

 

 そして俺の番だ。

 さあどう来る?

 どんな難癖つけてきても全国一位の結果で叩き潰してやるぜ……!

 

「君に再度、娘たちの家庭教師を頼みたい」

「えっ」

 

 しかし予想していたような言葉はなく、中野父から出たのは素直な家庭教師の依頼だった。

 正直に言って拍子抜けだった。

 そのあとに続くのは報酬や仕事場の雰囲気についての言及。

 相場の五倍だのアットホームだの、どれもどこぞで聞いた内容と同じだ。

 それと俺が関わることへの小さな不満もあったが、それに関しては身に覚えがありすぎた。

 

「プロの手にすら余る仕事だが……君にしかできないらしい。どうだろう、やってくれるかい」

「――勿論!」

 

 答えは決まっていた。

 今までやっていたことがこれからも続くだけのこと。

 そこに給料が加わるなら願ったり叶ったりだ。

 こうして俺は中野姉妹の家庭教師に復帰することになった。

 

 

 

 

 

 黒塗りの高級車から降りる。

 中野姉妹の住居であるアパートの前に送ってもらったのだ。

 乗り心地は良かったが、同乗者の放つプレッシャーのおかげであまり気は休まらなかった。

 

「それでは上杉君、励みたまえよ」

「娘さんたちには会っていかないんですか?」

「今日はやめておこう。それと上杉君」

「はい」

「くれぐれも頼むよ」

「は、はい……」

 

 俺にたっぷりと圧をかけて中野父は去っていった。

 冷や汗を拭う。

 こちらに対する目や当たりが厳しいのも、ひとえにあいつらへの思いからだろう。

 再度の家庭教師の依頼を受けた後、中野父は釘を刺すように言ってきた。

 

『君はあくまで家庭教師。娘たちには紳士的に接してくれると信じているよ』

 

 年頃の娘を持つ親としては当然の心配であると思う。

 俺もらいはに悪い虫がつくようなことがあれば、万難を排してでもそいつを排除する自信がある。

 だからその言葉に対する答えは勿論イエスだ。

 イエス、なのだが……

 

『だ、だから……また相手してあげるって言ってんのよ!』

 

 俺が一線を引いたとして、それを飛び越えてきそうなやつがいるのも確かなのだ。

 そして最後までいたしてないものの、そういう行為があったというのは事実。

 これからはより一層、自分の中の青い衝動をコントロールしていかなければならないだろう。

 もし俺が自分の欲望に負けるようなことがあったら、あいつらのパートナーとして資格が疑わしいものになってしまう。

 それはあまり面白くない未来だ。

 

「う、上杉君……?」

 

 決意を新たにアパートの前で佇んでいると、横から声をかけられる。

 外出帰りであろう五月がそこにいた。

 男女の仲という点において、こいつだったら余計な心配はいらないだろう。

 

「今、もしかしてお父さんの車に乗ってきたのですか……?」

「ああ、家庭教師に復帰だ」

「おめでとうございます! ようやく認めてもらえたのですね!」

 

 五月は俺の手を掴んでまるで自分のことのように喜んだ。

 喜んでもらえるのは結構だが……油断してたぜ。

 こいつは興奮すると距離感がバグるところがあったのだった。

 中野父に言われた手前もあるし、ここはやんわりと――

 

「あ……す、すみません」

 

 俺が何か言う前に五月は自分から離れていった。

 自分から気づいてくれるのは結構だが、いつもとどこか様子が異なるのは気になる。

 いつもより態度が柔らかめというか、低反発というか。

 しおらしいという形容詞が思い浮かぶ。

 訝しんで顔を覗きこもうとしたら全力でそらされた。

 

「さ、さあ、こんなところで立ってないで中に入ってください」

 

 促しはするものの、手を引っ張るだとか背中を押すとかそういった接触はない。

 当然といえば当然なのだが……不自然な距離の取り方をしているように見えた。

 その動きには覚えがある。

 そう、思春期の昂ぶりを持て余していた頃の俺だ。

 いや、こいつに限ってまさかな……

 

「あ、上杉さんいらっしゃーい!」

「も~、やっと来てくれた」

「遅刻よ遅刻。なにしてたのよ」

 

 中野宅に上がると三人が出迎えた。

 ここにいない三玖はバイトで遅れると言っていたか。

 しかし、そもそも部屋が狭いからか距離が近い。

 特に一花と二乃は容赦なしに距離を詰めてくる。

 二人の顔――特に唇から目をそらすと、視界に開いたダンボール箱が飛び込んできた。

 よく見れば部屋の中は、ガサ入れでもされたのかというレベルで散らかっていた。

 

「ってなんだこの部屋!」

「あはは、落ち着かなくてごめんね」

「なにを隠そう、絶賛大掃除中なのです!」

「おいおい、今日は楽しい試験の反省会じゃなかったのかよ」

 

 三人は揃って曖昧な表情を浮かべた。

 こいつらまさか……このまま片付けでうやむやにする気じゃねぇだろうな……?

 

「それより最近疲れはどう? アロマ使ってみた? それでも取れないならまた私が――」

「す、ストーップ!」

 

 息をつかせる間もなく迫る二乃。

 そして割り込むアホ毛こと五月。

 ただでさえ狭いというのにこいつらめ……

 

「なによ」

「えぇっと、これはその……」

「文句があるならはっきり言いなさいよね」

「ううぅ~~」

 

 割り込んできたはいいものの、五月は二乃の追求に唸るのみ。

 いや、お前はなにしに来たんだよ。

 まぁ、あのタイミングで割り込んでくれて助かったといえば助かったが。

 

「フータロー君、私のプレゼント使ってみた?」

「いや、まだだけど。あれはお金の代わりに使えるってことでいいのか?」

「そうそう。あれでらいはちゃんになにか買ってあげてよ」

「そういう使い方もありか! サンキューな一花!」

「ちょっと一花! 抜けがけは――」

「私の千羽鶴はどうでしたかー? なにかご利益ありました?」

「み、みんな! 落ち着いてくださーい!」

 

 押し寄せる姉達を食い止める末妹という防波堤。

 この狭い部屋の中でワイワイガヤガヤと騒がしいことこの上ない。

 つーか、今日なにしに来たんでしたっけ?

 

「よし、帰る!」

「え、もう帰っちゃうの? まだなにもしてないじゃない」

「そうだよ。お姉さんがもてなしてあげるから、ね?」

「私は上杉さんのコリというコリをほぐしちゃいますよ!」

 

 ええい、こんなかしましい空間にいられるか!

 というわけで部屋の外に退避。

 あいつらも弁えているのか、無理に止めてくることはなかった。

 

「ふぅ……」

 

 正直に言うと、どう接したらいいのかわからないというのはある。

 ついこの前までは、全国模試という大きな課題があったからあまり考えずにいられた。

 しかし平常運転に戻りつつある今、浮き彫りになってきた問題がある。

 一花と二乃だ。

 俺を好きだと言ってきた二人。

 特に二乃との関係は、不純異性交遊の領域に足を突っ込んでいる。

 そして事あるごとに意味深な視線を送ってくるもんだから始末に負えない。

 少なくとも家庭教師と生徒という関係が続く限り、これ以上の間違いはあってはならないのだ。

 

「上杉君、少しいいですか?」

 

 中野宅のドアから五月が顔を出していた。

 そして外に出てきたかと思うと、俺から数歩離れる。

 ……こいつはこいつでやりにくいな。

 

「俺にたかるのは金銭的に不毛だ。諦めろ」

「誰がたかりますか。あなたには常々尋ねなければと思っていたことがあります」

「なんだよ」

「あなたは、その……わ、私たちのことをどう思っているんですか?」

「めんどくさい」

「即答!?」

 

 総合的に見てそれ以外の答えはなかった。

 というかこいつは何を意図してこんなことを聞いてきたのか。

 まさか、一花や二乃の件を察して釘を刺しに来たのか?

 

「そんな切り捨てる感じじゃなくもっと詳細にお願いします!」

「今まさにめんどくさい」

「ぐっ……それでしたら私も隠し事を一つあなたに教えますから」

「いや、興味ない」

「もっと他人に興味を持って! 聞けばあなたも驚くこと間違いなしですよ!」

 

 なにをそんなに必死になっているのやら。

 こっちに詰め寄ってくるもんだから、だんだんと距離が……あ、離れた。

 こいつの秘密に特段興味はないが、絡まれ続けるのも面倒だ。

 簡潔にだが答えてやろう。

 

「上から順に夢追い馬鹿、身内馬鹿、卑屈馬鹿、脳筋馬鹿、そして真面目馬鹿」

「……また、真面目馬鹿って」

「お前らは揃いも揃ってめんどくせーが、そうだな……お前や一花の夢も含めて、次の道に進むまでは付き合うつもりだ」

 

 勢いあまってこっぱずかしいことを言ってしまった気がするが、これは偽らざる俺の本心だ。

 さて、帰ろう。

 平気な顔をしたままこの場に留まれるほど、俺の面の皮は厚くない。

 

「えっ、私の話は聞いてかないのですかっ」

「どうせつまみ食いしたとかだろ。興味ねぇよ」

「そ、それもありますが」

「あるのかよ」

 

 五月の食い意地は相変わらずだった。

 そして今回わかったことが一つ。

 つまみ食いを除いて、こいつには少なくとも二つ隠し事がある。

 有名レビュワーの件と、あと一つは……まぁ、今はいいか。

 そっちに関しては少し考える時間がほしい。

 アパートを後にしつつ、武田が公園で口に出しかけた話題を思い出す。

 

「そういえば、修学旅行はもうすぐか」

 

 行先は……またしても京都だったか。

 五月の隠し事も含めて、面倒なことになりそうな予感がするのは確かだった。

 

 

 

 

 

(今日は上手にできた)

 

 バイト先からの帰り道を三玖は小走りで駆けていく。

 胸元に抱いた紙袋には自作のクロワッサン。

 何度も失敗し続けて、ようやく店長から及第点をもらえた一品だ。

 風太郎に食べてもらうにはまだ早いが、姉妹の誰かの感想はほしかった。

 

(そういえばフータロー、来てるかな?)

 

 今日はたしか先日の模試の反省会だったはずだ。

 前もって遅れる旨は伝えていたが、どうにか終わる前に帰りたい。

 最近、風太郎と一緒に過ごせる時間が減っているのが三玖の悩みだった。

 息を切らしながらも、アパートに到着。

 運動が苦手な三玖にとっては小走りでも結構な消耗だ。

 

「あれ、五月……?」

「三玖……帰ってきたのですね」

 

 肩で呼吸する三玖を出迎えたのは五月だった。

 なぜかアパートの二階部分へと上がる階段の前で佇んでいた。

 まさか本当に自分を待っていたのかと首を傾げるが、少し沈んだ顔をしているのが気になる。

 

「良かったらこれ、食べる?」

 

 紙袋を五月に差し出す。

 中野姉妹の末っ子の一喜一憂は、大体が食事関連である。

 本人が聞けば否定するだろうが、食べ物を与えておけば機嫌が良くなるのも事実だ。

 

「これは、もしやバイト先でもらって――」

「私が作った」

「……」

 

 期待に目を輝かせた五月の目が一瞬で曇った。

 家事能力――とくに炊事においては姉妹で二乃の右に出る者はいないが、三玖はまた別格だった。

 料理をすれば不思議な力が働いてなぜか失敗する、と教える人間に言わしめるほどの腕前なのだ。

 もちろん本人もそれは承知している。

 だからこそ最近は多めにバイトを入れて、パンを焼く練習に明け暮れていた。

 

「食べて」

「きょ、今日はちょっとお腹の調子が――」

 

 きゅるる、と控えめだが確かな音が響く。

 五月の腹の虫だった。

 もう時刻は昼を過ぎ、おやつの時間が近づいている。

 

「食べて」

「……はい」

 

 いつになく圧が強い姉の要求に五月は頷いた。

 

 

 

 

 

 風太郎が帰った後も中野姉妹の部屋は大掃除の真っ最中である。

 散らかった室内でちょっと落ち着くなー、などと思いながらも一花はダンボール箱の中身を検める。

 箱には誰のものかわかるように隅の方にしっかりと名前が書いてある。

 もちろん姉妹のものに触れる際は許可が必要だ。

 五つ子といえどプライバシーは大事なのだ。

 

「あれ、これなんだろう?」

 

 次のダンボールに取り掛かるも、どこにも何も書いていない。

 共用のものかと思いつつ、封を解く。

 そして箱を開けようとして一花は手を止めた。

 

(そういえば、共用なら共用って書いてあったよね?)

 

 もしかしたら誰かが名前を書き忘れたのかもしれない。

 そう思い至って一花は近くにいる四葉に声をかけた。

 

「四葉、これ誰のかわかる? 押し入れに入ってたんだけど」

「う~ん……あっ、それだったら五月のかも」

「そっか。じゃあとりあえず避けておくね」

 

 ダンボール箱を部屋の隅に移すと、中から紙切れが一枚滑り落ちた。

 拾い上げると、それは紙切れではなく半分に畳まれた一枚の写真だった。

 そこに映ってたのは、自分たちの家庭教師の面影がある金髪の少年と――長い髪の少女だ。

 

「これ、京都の……」

 

 ちらりと四葉を見る。

 この写真の少年少女に一花は見覚えがあるどころかよく知っていた。

 しかしそれだと、これが五月の荷物に入っていることに疑問が生じる。

 

「ねぇ、これ本当に見覚えない?」

「五月のだったと思うけど……そうだ、見てもらえばいいよね! ちょっと呼んでくるよ」

「ううん、いいよ。他のから片そうか」

 

 四葉を制止して作業に戻る。

 写真は箱の中へ戻しておいた。

 

「四葉、修学旅行楽しみだね」

「うん! 上杉さんにも楽しんでもらいたいな」

 

 そして片付けの最中に出てきたトランプを手にとって、一花は修学旅行に思いを馳せた。

 

 

 

 

 

「いよいよね」

 

 中野家においては自分の領域である台所で、二乃は誰に言うでもなく呟いた。

 他の場所と違って普段から整理整頓しているので、片付けも早くに終わっている。

 今はおやつの時間に向けての準備中である。

 しかしその頭の中にあるのは好きな相手――風太郎のことだ。

 二年の終わり頃に、二乃の内面は激動の変化を遂げた。

 それは自身の恋心への自覚であり、その時の爆発の熱は今も続いている。

 新学期には同じクラスになり、同じバイト先で働き始め、そして先の模試の件である。

 緊急事態だったとはいえ、キスやその先のいくらかまで済ませたのだ。

 後は本番の行為にまで漕ぎ着ければコンプリートである。

 他の姉妹と比べて明確にアドバンテージがある、と二乃は自認している。

 同時に、だからといって油断できないのもわかっていた。

 個々の性格や言動に差はあれど、五つ子である以上ライバルも自分と同じく顔は可愛くスタイルだって良い。

 差をつけられるうちにつけておきたい、というのが本音だった。

 

「修学旅行、行き先は京都――ここで決めるわ」

 

 二乃の手には修学旅行のしおり。

 風太郎の心を自分のものにする絶好の舞台。

 唇にそっと手を触れて、二乃は決意を新たにした。

 

 

 

 

 

「すごい、おいしいです!」

 

 恐る恐る三玖が作ってきたパンを口にした五月から感嘆の声が漏れる。

 妹がパンを食べる様を固唾を飲んで見守っていた三玖は、胸を撫で下ろして笑った。

 食にこだわりがある五月は味の評価も正確だ。

 その口からおいしいという言葉が出たのならば、中野家的に合格点なのである。

 

「良かった……実はずっと練習してた」

「でも私が食べてしまっても良かったのですか? もう少し早ければ、上杉君がいたのですが」

 

 そういえばと、五月は三玖がしばらく風太郎にチョコを毎日食べさせていたのを思い出す。

 あの時は三玖の恋心にまったく気づいていなかったが、あれはバレンタインのための練習だったのだと。

 渡す本人をその練習台にするのはアグレッシブすぎるが、そんな不意打ちじみた大胆さも三玖の特徴だった。

 

「フータローが帰っちゃったのは残念だけど、食べてもらうならとっておきの舞台って決めてるから」

「とっておき……もしかして修学旅行で?」

「うん」

 

 修学旅行……行き先はまたしても京都。

 三玖の努力、四葉の思い出、そして自分の――

 五月の心は否応なしに揺れてしまう。

 

(京都は上杉君にとっても思い出の場所のはずです)

 

 風太郎を見極めると決めた以上、その思いを知っておかなければならない。

 しかし、五月が聞いて素直に答えるかといえば怪しいところだろう。

 でもそれが思い出の少女なら?

 ボートの上で語ったように、普段秘めている思いをさらけ出してくれるかもしれない。

 そのためには、もう一度隠し事を引っ張り出す必要がある。

 

(ごめんなさい、上杉君……私はまたあなたに嘘をつきます)

 

 押さえつけるように胸元に手を当てると、五月は目を閉じた。

 心の中でこれは姉妹のためだと言い聞かせ、自分の想いから目をそらして。

 

「大丈夫?」

「ええ、中に入りましょう。実は今、大掃除中なんです。三玖も手伝ってください」

 

 来る修学旅行に向けて姉妹は想いを募らせる。

 立夏の空には戦いの兆しがわだかまっていた。

 

 

 




フラグをばらまいてく所存。


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シスターズウォー・前哨戦

ここの一花は闇堕ちさせないつもりですが、だからといって腹黒くないわけじゃないのです。


 

 

 

 クロワッサン――延ばした生地とバターを幾重にも折り重ねてから焼き上げるパンである。

 日本で多く見られるのは三角形に切った生地をロールしたものだが、菱形にして焼くものもある。

 バリエーションは非常に豊かだ。

 焼く前の生地にチョコやアーモンドを練りこんだり、他にもロールする際にウィンナーやチーズを入れたりもする。

 ふんわりと空気を含んだ食感とバターの風味がたまらない、五月の大好物である。

 

「これは……本当にパンなのですか?」

「……」

 

 三玖の働くパン屋にて、五月は黒焦げの物体と対峙していた。

 形状からかろうじてクロワッサンだと判別できるが、既に炭化して崩れかかっていた。

 見るからに焼きすぎである。

 炭化したパンが乗ったトレイを差し出す三玖は、失敗という結果を受け止めてか無言である。

 五月はつい先日のことを後悔とともに思い出す。

 

『パンの味見をして欲しい』

 

 時期外れの大掃除をした日、三玖の自作のパンをご馳走になった流れでそう頼まれたのだ。

 店に出す焼きたてのパンのいくつかと引き換えに五月はその頼み事を快諾した。

 感動していた。

 あの料理下手な姉がまともに食べられるものを作れたのだと。

 そして楽観していた。

 あれだけの完成度のパンを焼けるのならば、下手なことなど起こらないだろうと。

 しかし現実は非情である。

 

「ま、まぁ、中野さんはまだまだ始めたばかりだから焦らずにやっていこう。向かいのケーキ屋はそれほど脅威じゃないし」

「はい!」

 

 店長のフォローに力強く応える三玖。

 そんな姉の姿に、五月も練習に付き合う覚悟を決めるのだった。

 断じて焼きたてのパンは関係ない。

 

 

 

 

 

「しっとり……いえ、なんかベチャっとしてます」

「おかしい……手順通りに作らせているのに。もはや不思議な力が働いているとしか……」

 

 次の日のパンは打って変わってなんだか湿度が高めだった。

 焼き方が甘いのは見たまんまだが、バターや水分の量も怪しいところである。

 三玖は度重なる失敗にうつむいていた。

 教えた当人である店長も壁に手をついて項垂れていた。

 なんでも向かいのケーキ屋の客入りが良くなってきたのだとか。

 五月にとっては若干身に覚えのある話題である。

 

「やっぱり才能ないのかなぁ……」

「だ、大丈夫ですよ! みんなで頑張って赤点だって乗り越えられたんです。パン作りだってきっとできるようになります!」

「うん……そうだね」

 

 

 

 

 

「これは……パンですね!」

「今日は上手くいった」

「良かった、この前のは幻じゃなかったんだね……三玖ちゃんが上達してくれて私も嬉しいよ」

 

 多少焦げ付いているものの、パンと呼べる出来具合だった。

 三玖は心なしか自慢げである。

 若干疲労の色が見える店長も素直に喜んだ。

 教わる側の努力はもっともだが、教える側の苦労も相当だっただろう。

 パン作りを勉強に置き換えて、五月はあらためて風太郎の尽力に感謝した。

 

「店長さん、ありがとうございます」

「うんうん、この調子だったら修学旅行にまで間に合いそうだね」

「……」

 

 三玖の努力は喜ばしいものだが、五月の心中は複雑だった。

 修学旅行一日目の昼。

 自由昼食の際に三玖は風太郎にパンを渡すつもりだろう。

 同時に自分の想いの告げるのかもしれない。

 

(どうするべきなのでしょうか)

 

 母の代わりを務める身としては、行き過ぎた関係にならぬよう諌めるべきだろう。

 妹としては、姉の恋を応援したい気持ちがある。

 そしてその対象になるのは四葉も同じで――

 ズキリと騒ぐ胸の痛みと、その本当の理由から目を背けて答えを探す。

 しかし、前提の条件を欠いた問題の答えなど導き出せるはずもない。

 

「五月もありがとう。見てて、最高のパンを焼いてみせるから」

「……それを上杉君に渡すのですね」

「うん、フータローに食べてもらいたい」

「それなら一つ、提案があります」

 

 

 

 

 

『修学旅行当日は定員五名の班ごとの行動になります。というわけで、明日までに班を決めておいてください』

 

 ホームルーム後の廊下で一人考える。

 修学旅行の班決め、定員五名、明日まで。

 ……え、無理じゃね? なんでこんないきなりなの?

 明日までとか言った奴何なの? というわけでじゃねーよ。

 まったく、誰だよ学級長……!

 

「……俺だよね」

 

 そう、何を隠そう三年一組の学級長は俺なのだ。

 男女一組でもう一人は四葉だが、さっきは主に俺が喋っていたので罪はない。

 いや、罪ってなんだよ。

 ともかく、最大五人一組の班なのだ。

 五という数字を聞けばあいつらを思い出す。

 班決めが楽そうで羨ましい限りだ。

 中学の時みたく適当に流せればよかったが、今回はそうはいかないだろう。

 こういうイベントで俺を絶対に放っておきそうにない奴に約一名覚えがある。

 

「つーか、定員五名なら一人でもいいんじゃね?」

「なにを悲しいことを言ってるんだい」

「うおっ」

 

 背後からかかる声に飛び上がりそうになる。

 武田だった。

 相変わらず爽やかで羨まし……くはないな。

 多少こいつのことを知った身としては、周囲に対する態度がある種の擬態なのだとなんとなくわかっていた。

 親が偉い立場だからこそ、ちゃんとしていなければならないのだろう。

 

「水臭いじゃないか上杉君」

「いきなりなに」

「修学旅行の班の話さ。僕らで一班、これでどうだい?」

「……」

 

 断る理由はない。

 むしろ渡りに船と言える。

 言える、のだが……こいつと二人きりかぁ。

 正直言うと疲れそうで躊躇してしまう。

 オーラに当てられるというか。

 

「なに二人で盛り上がってんだコラ」

「お前は……ま、前、前……前田?」

「後ろのハテナは余計だっつーの」

 

 顔つきは厳つく目つきは悪い。

 いっちょ前に染めた頭髪は襟足長めでオールバックのヤンキースタイル。

 林間学校前に顔見知った前田だ。

 そういえばこいつも同じクラスだったと、今更ながらに思い出す。

 

「上杉、お前まだ班決まってねーんだろコラ」

「そうだが」

「林間学校の借りもあるしよ、俺が組んでやってもいいぜ」

 

 借りと言われてもこっちは事情を飲み込めていない。

 こいつの告白の邪魔をした覚えはあれど、なにかサポートした覚えはないのだ。

 

「君、横から割り込むのはやめてもらいたいね」

「んだとコラ」

 

 そしてなぜこの二人がにらみ合っているのか。

 男に取り合われる理由がさっぱりわからない。

 いや、女でもわからないが。

 ともかくそういう面倒なのはあいつらだけで間に合ってるというのに……

 

「……わかった、この話はやめよう。ハイ!! やめやめ」

「勝手に終わらせてんじゃねーぞコラ」

「上杉君、ここは男らしくビシッと決めてくれたまえよ」

 

 話を切り上げようとしたが、そう簡単に終わってはくれなかった。

 いや、めんどくせーなこいつら。

 二人とも申し出自体はありがたいのだ。

 明日までに班を決めろという無茶振りもクリアできるし。

 問題はなんでこんな二択を迫られているのかということだ。

 ……普通に三人で組めばいいのでは?

 

「じゃあこの三人で一班な、決定」

「はぁ? コイツと同じ班だと?」

「上杉君、それは本気かい?」

「なにか問題あるか?」

 

 二人はお互いを指差して俺に疑問を投げかけた。

 こっちの正気を疑っているのだろう。

 武田と前田。

 優等生と不良。

 見たまんまの相性ということか。

 ダメ元で言ってはみたが実際にダメとなると……さて、どうしようか。

 

「特にないね」

「別にねーな」

「ないのかよ」

「僕個人に彼に対して思うところはないからね」

「上杉がいいっつーなら断る理由はねーよ」

 

 じゃあなに、さっきの諍いはなんだったの?

 だったらそもそも反目してんじゃねぇよ。

 などと思うところがないわけじゃないが、とりあえずこれで俺の班は決定したのだった。

 

 

 

 

 

「四葉ちゃんさ、やっぱ上杉君と一緒に班組むの?」

「あはは、どうかなー? じゃあ私はちょっと用事があるので!」

 

 クラスメイトに手を振って四葉は教室を後にする。

 以前に否定したはずだが、学級長の噂はまだ続いているようだ。

 

(う~ん、困ったなぁ)

 

 教室で言われたように、四葉としては風太郎と班を組むことも考慮していた。

 自分は特に何もしなければ姉妹で固まることになるとは思うが、風太郎が気がかりだったのだ。

 人間関係に関しては以前よりも改善してきたとはいえ、友達といるところを見たことがない。

 そもそも勉強、バイト、家庭教師と、これだけこなしていれば遊ぶ時間もろくにないだろう。

 

(でも、私が誘っちゃってもいいのかな?)

 

 問題はそこだった。

 四葉と風太郎が付き合っているという噂はまだ消えきっていないし、他の姉妹も風太郎と組みたがっているかもしれない。

 特に三玖なんかは明確に好意を向けている。

 それを考えると、どうしても二の足を踏まざるを得ない。

 

(あ、そっか。別に私だけじゃなくて三玖も誘えばいいんだ!)

 

 それならばと、方向転換して教室を目指す。

 風太郎を探して廊下に出たが、三玖は教室にいたはずだ。

 

「四葉、ちょっといい?」

 

 しかし自分を呼び止める声にブレーキ。

 一花が廊下の向こうで手招きしていた。

 

 

 

 

 

「修学旅行、また京都だね」

「うん、懐かしいね」

「小学校の時は四葉だけはぐれちゃってさ。心配したんだよ?」

「うっ、それは……ごめん」

「あはは、いいよもう」

 

 空き教室にて、当時は大事になったものだと一花は回顧する。

 自分たちもそうだが、あの時一番に四葉を心配していたのは間違いなく母だろう。

 そして父の尽力によって四葉は無事保護され――

 

(っと、いけないいけない。私の思い出よりも今は四葉だよね)

 

 その先の出会いに至る前に軌道修正。

 一花にとって大切な思い出ではあるが、本題からは逸れてしまう。

 

「班決め、みんな苦労してるね。私たちならこういう時は楽だけど」

「あはは、そうだね」

「でも心配なのはフータロー君かな? 相変わらず友達いないみたいだし」

「えっと、それなら……」

「もしかしてもう誘った? 手が早いなぁ、このこの」

「そ、そんなっ、私なんかが恐れ多いよっ」

 

 首をブンブンと振って四葉は否定した。

 風太郎に関して、自分が主体になると一歩引いてしまう。

 そんな四葉に対して一花は切り込んでみることにした。

 

「じゃあさ、私と四葉とフータロー君で組まない?」

「え……な、なんで?」

「だって、せっかくだし楽しんでもらいたいじゃん」

「一花……」

 

 一花の言葉は本心だ。

 本心ではあるが、目的はまた別にある。

 それを果たすために、京都という舞台はまさにうってつけだった。

 

「勉強会の時に提案してみるから、四葉もそのつもりでね!」

 

 有無を言わせる暇なく一花は小走りで空き教室を後にする。

 残された四葉は、三玖の恋と一花の言葉の間で揺れた。

 

 

 

 

 

 放課後の図書室で恒例の勉強会。

 各々アルバイトを始めてからは都合がつかない場合もあったが、今日は全員参加である。

 

「お、今日は三玖も参加か。珍しいな」

「バイトあるけど、それまでは参加する」

 

 特に三玖はここ最近忙しくしていたこともあり、久しぶりの参加となる。

 姉妹の中でも成績は良い方なので、風太郎も特に口は挟んでいなかった。

 

(結局、言い出せずに放課後になってしまいました……)

 

 勉強道具を取り出しながら五月は逡巡する。

 先日の三玖との約束の件である。

 

『それなら一つ、提案があります』

『提案?』

『私と三玖と上杉君で一緒に班を組みましょう。上杉君には私から言ってみます』

 

 三玖をサポートしつつ、接近しすぎないように適切な距離感に導く。

 それには一緒に京都を回るのが一番という判断だ。

 もちろん風太郎に対する見極めや揺さぶりも見越してのことだ。

 そうすることで姉妹に対する――特に四葉への思いを確認することが五月の目的なのだ。

 問題はいくつかあるが、差し迫ったものは一つ。

 

(ど、どうやって切り出したらいいんでしょうか!)

 

 そもそも自分の意思を伝えなければ班を組むどころではない。

 意識して異性を誘うというのは、五月にとって予想よりもハードルが高かった。

 

「勉強の前に、修学旅行の話がしたい」

 

 あれこれと悩んでいる間に三玖が話を切り出した。

 その場の全員の注目が集中する。

 普段の自己主張は控えめだが、ここぞという時の踏み込みは姉妹で随一である。

 

「フータロー、誰と組むか決めた?」

 

 姉妹の間で緊張が走る。

 言うまでもなく、当の本人以外の全員が気にしていた案件だ。

 皆が風太郎の言葉を待つ中、一花が動く。

 

「フータロー君、お姉さんと組もうよ」

「一花!?」

「四葉も一緒にさ、三人で京都回ろうよ」

 

 一花と三玖の視線が交錯する。

 二乃は静観し、四葉はオロオロとしていた。

 全くの予想外のアプローチに五月は驚きの声を上げた。

 

(まさか一花も……?)

 

 思えば怪しい場面はいくつかあった。

 林間学校二日目の朝と夜の出来事。

 長男と長女という立場もあってか、精神的な距離感も近いように見える。

 もはやまごついている暇はなかった。

 

「上杉君! 私と組みましょう」

「えっ、あんたも!?」

「私と三玖と三人で一班、いいですよね?」

 

 五月は三玖に顔を向け、頷いた。

 さすがに二乃も驚き、四葉はさらにオロオロとした。

 一方、一花は五月を見つめて黙り込んだ。

 

(五月ちゃんは監視が目的かな?)

 

 以前に言った通り、風太郎を見極めようとしているのだろう。

 赤点を乗り越えて信頼関係の構築も成されたとはいえ、やはり男女の仲となると慎重にならざるを得ないということか。

 最近は三玖のパン作りに協力していたと聞く。

 引き入れたのはその流れからだろう。

 しかしわからないのは四葉に対するスタンスだった。

 あの写真が五月の持ち物の中に入っていた意味は――

 

「おいお前ら、いい加減に――」

「そうね、いい加減にしてほしいわ」

 

 風太郎の言葉を遮り、二乃が立ち上がる。

 そして他の姉妹を睨めつけるように見回した。

 

「あんたたちが私をハブる気満々だってのはよーくわかったわ。ま、それはそれで好都合だけど」

「ごめんね? 六人じゃ組めないからせめて半々にって思ってたんだけど」

「わ、私も仲間はずれにしようだなんて……」

「気にする必要ないわよ。あんたたちは四人で組めばいいわ」

 

 一花と五月のフォローを意に介さない。

 そう、二乃は最初から決めていたのだ。

 風太郎に歩み寄り、その腕を抱いて身を寄せる。

 

「ねぇフー君、私と二人きりで組みましょ」

「お、おいっ」

「せっかくの修学旅行だもの。好きな人と回りたいわ」

 

 二乃のカミングアウトに、一花を除く三人は一様に驚きを露わにする。

 一人冷静さを保った一花は、妹の暴挙を止めるべく立ち上がった。

 

「でも二乃とフータロー君は付き合ってるわけじゃないよね? なのにワガママを通すのはどうなのかな?」

「いずれそうなるんだから何の問題もないわ」

「五月ちゃんはどう思う?」

「あ、えっと……」

 

 一花に話を差し向けられて、五月はようやく衝撃から立ち直った。

 不安な顔をして事の成り行きを見守る四葉と、呆然としたままの三玖。

 そんな二人を目にして五月は心を奮い立たせた。

 姉妹を守るのは母の務めなのだと。

 

「二乃、それは承服しかねます」

「あんたも反対ってわけ」

「そういった関係であろうとなかろうと、節度は守るべきです」

「あくまで母親面するのね。ま、いいけど」

 

 そして風太郎に目を向ける。

 いつか言った、姉妹の父代わりを務める、という言葉を五月は覚えていた。

 その視線に応えるようにくっつく二乃をやんわりと剥がすと、風太郎は口を開いた。

 

「とりあえず聞け。お前らそもそも決め付けてるが俺は――」

「――っ、フータロー!」

 

 今度は三玖がその言葉を遮った。

 焦燥に駆られていた。

 二乃は臆面もなく自分の想いを口にした。

 置き去りにされる前に自分も――

 

「わ、私も……」

 

 しかし二の句は出てこなかった。

 こうやって大事な場面で臆してしまうのもまた三玖だった。

 

「なにかあるのか?」

「言いたいことがあるなら今、言ってみなさい」

「三玖、頑張って……!」

 

 風太郎の問いかけ、二乃の威圧、五月の応援。

 三玖はそのいずれにも応えられない。

 緊張で喉はカラカラになり、焦りは募るばかり。

 見かねて一花が助け舟を出そうとするが、静かな声がそれに先行した。

 

「みんな、やめようよ」

 

 静かな面持ちで口を開く四葉。

 常とは違う雰囲気に、その場にいる全員が気圧された。

 

「こんなの楽しくないし、上杉さんも困っちゃうしさ」

「まったくだ。お前らは揃いも揃って――」

「だからさ、上杉さんも一緒にみんなで組めばいいんだよ!」

 

 発言者を除く全員が揃って首を傾げた。

 それが出来ないからこうも事態が紛糾しているのだと。

 四葉の頭の残念さはここまで進行してしまったのかと。

 

「うん、私以外のみんなで一班。ししし、完璧だね!」

 

 さすがの四葉もそこまでアホではなかった。

 誰か一人が割を食うならと、それを自分が引き受けたのだ。

 ここに来て他の姉妹全員は後悔した。

 今の四葉ならば、そんな選択肢をとりかねないとわかっていたはずなのにと。

 特に一花は耐え切れずに四葉を抱きしめた。

 

「四葉、お願いだからそんなこと言わないでよ……」

「私だったら大丈夫だから。心配しないで、みんな」

 

 四葉はあくまで笑顔だった。

 でもどこか諦念が混じったものであり、姉妹から見れば悲痛なものでしかなかった。

 こうされてはさすがの二乃も勢いを削がれてしまう。

 

「お前の案は当然却下だ。お人好しもいい加減にしろ」

 

 場の空気が次第にしんみりしたものにシフトする中、風太郎が口を開く。

 邪魔に次ぐ邪魔で発言を遮られる中、ようやく得られた機会だ。

 

「一花も二乃も五月も、悪いがお前らの提案は受けられない」

「な、なんでよ!」

「俺、もうクラスの男子と班を組んだぞ」

 

 姉妹全員が絶句した。

 風太郎がすでに班を結成している。

 誰一人としてこの可能性だけは考慮していなかったのである。

 

「フータロー君、見栄はらなくてもいいんだよ?」

「そうよ。そんなことしても後悔するだけなんだから」

「フータロー、無理しないで」

「上杉さん……そこまで思いつめる前に相談してくれれば」

「だ、大丈夫ですか? なんなら私のおやつをわけてあげますよ」

 

 そして誰一人として風太郎の言葉を信じる者はいなかった。

 それどころか心配までしてくる始末。

 

「よし、お前ら全員そこになおれ」

 

 風太郎はキレた。

 この日出された宿題の量に中野姉妹は泣いた。

 ついでに図書室で騒いだので図書委員に叱られた。

 結局、中野姉妹で一班になったのだった。

 

 

 

 

 

「修学旅行だよ、お兄ちゃん!」

「お、おう……」

 

 近所のデパートにて買い物中の俺とらいは。

 名目は今度の修学旅行の準備だが、なぜからいはの気合が充実しすぎている。

 下着まで選ぼうとするものだから、俺はすっかり周囲の笑いものになっていた。

 くそ、早くこの場から離れたい……

 

「そういえば、五月さんたちへの誕生日プレゼントはどうしたの?」

「あいつら誕生日近いのか」

「えっ、もう過ぎてるけど」

 

 まったく知らなかった。

 らいはの視線が突き刺さる。

 つーかあいつらも遅れてたし――と、これは言いっこなしだな。

 しかし求められてもいないのに渡しても……なんて考えてたららいはに怒られた。

 頂いた以上お返しするのは、小学生でも知っている常識なのだそうだ。

 どうしたものかと頭を捻っていると、ぴょこぴょこと揺れるアホ毛とリボンを発見。

 これはもう本人達の意見を聞くべきだろう。

 

「やっぱあげたほうがいいかな?」

「ひゃあっ!」

 

 声をかけたらアホ毛、もとい五月が飛び上がった。

 失礼なやつだ。

 

「こんにちはー、上杉さんにらいはちゃん」

「あ、あなたも一緒なのですか?」

 

 五月の言葉に少しの違和感。

 俺がいることには驚いているが、らいはには特に反応していない。

 

「実はね、今日一緒に買い物しようってメールしてたんだ」

 

 答え合わせはあっさりだった。

 まぁ、それはそれで都合がいい。

 この機会に欲しいものを聞き出せれば――いてっ。

 らいはのチョップが俺の二の腕に炸裂した。

 どうやら直球で聞き出すのはNGのようだ。

 こうやって元気ならいはは喜ばしいが、中野姉妹の影響が見えるのは複雑だった。

 あいつらみたくめんどくさい子にはならないでくれ……

 

「らいはちゃんには悪いのですが、やはり上杉君も一緒というのは……」

「なんだよ、どうせ修学旅行の準備だろ? 同じもの買うなら問題ねぇよ」

「つ、ついて来ないでくださいっ」

「は? なんで」

「下着! 買うんです!」

 

 どこかで見たような光景だった。

 具体的に言えば林間学校前の買い物の時だ。

 これを出されたらさすがについて行くわけにはいかなかった。

 以前なら居心地が悪い程度で済んだだろうが、今の俺には目の毒が多すぎる。

 というわけで俺と四葉は下着屋の前のベンチで待機し、五月とらいはは店の中で物色を始めた。

 しかし、こいつらは事あるごとに下着を買い換えているのだろうか?

 どれだけ物持ちが悪いのかとつっこみたかったが、非難されそうなのでやめておいた。

 

「お前はよかったのか?」

「実は私、物持ちは良い方なので」

 

 そういえばこいつは、いまだにお子様パンツを使っているのだったか。

 いくら青い衝動が目覚めたとは言え、そういった下着はらいはのもので見慣れている。

 よってこいつの下着姿を想像したところで――

 

「上杉さん!? いきなり手すりに頭を打ち付けるとは何事ですか!?」

「だ、大丈夫だ」

 

 衝撃で無理やり頭の中身をすっ飛ばす。

 適度に処理をしているとはいえ、きっかけを与えればすぐに鎌首をもたげてくる。

 二乃との一件以来、少々自分の中で箍が緩んでいるような気がしていた。

 言うまでもなく良くない兆候だ。

 雇い主の忠告の手前、しっかりと自制をしなければならないだろう。

 

「えっと、本当に頭は大丈夫ですか?」

「人の頭がおかしいみたいな言い方はやめろ」

 

 しかし実際に、いきなり頭を打ち付けるような奴がいたら正気を疑うのも確かだ。

 ……よし、この話題はここらで終わらせよう。

 

「ところで四葉、将来なりたいものとかはないのか?」

「えっ、いきなりどうしたんですか」

「まぁ、ちょっと参考にな」

 

 こいつらの次の道を一緒に見つけると決めた以上、現状の考えも把握しとくべきだろう。

 こうして二人きりで話すのは、それを確認するのにいい機会だ。

 ……二者面談とかいよいよもって教師じみてきたな。

 

「うーん……考えたことなかった……」

 

 やはりというかなんというか、明確な答えはなかった。

 そもそも現代において、きちんとした目標を定めている高校生の方が珍しいのかもしれない。

 一花や五月や武田のようなのは例外だ。

 大体のやつはなんとなく進学を選び、そして就職していくのだろう。

 俺も大枠で見たらそこに当てはまる。

 なにせいい大学に入って一流企業に勤める、というフワッとした目標なのだから。

 具体性に関しては似たりよったりだ。

 その為に取り柄も何もない俺は勉強というわかりやすい道を選んだが、こいつはどうだろう。

 アホみたいな身体能力という面にクローズアップするのなら、やはりスポーツ関連の道だろうか。

 

「おまたせー」

 

 あれこれ考えているうちにらいはが店から出てきた。

 五月は採寸と試着でもう少し時間がかかるそうだ。

 高校生は大人だなどと言っているが、一体何を買ったのやら。

 

「お兄ちゃん、太もも抓ってどうしたの?」

「ちょ、ちょっと眠気がな……」

 

 うっかり浮かびそうになる想像を痛みでキャンセル。

 さすがにらいはの前で奇行に走るわけにはいかなかった。

 

「上杉さんがまたおかしなことを……」

「またって……もー、しっかりしなよ。修学旅行楽しみなんでしょ?」

「普通だ普通。ま、体調管理には気をつけるさ」

「聞いてよ四葉さん。お兄ちゃんね、家で何度もしおりを確認してるんだから」

「らいは!」

 

 うちの妹はとんでもないことを口走ってしまった。

 べ、別に不備があったら困るから確認してただけだし!?

 それにこんなこと四葉が聞いたら……

 

「任せてくださいらいはちゃん!」

 

 ほら調子づいた。

 こうなった四葉が面倒なのは林間学校で体験済みだ。

 ……まあ、退屈しなかったのは事実だが。

 

「林間学校のリベンジです! 今度こそ後悔のない修学旅行にしましょうね!」

 

 屈託なく笑う四葉から、なんとなく目をそらしてしまう。

 男女の仲とかは関係のない純粋な好意を感じた。

 つくづく対人経験の薄さが浮き彫りになる。

 二乃や一花の告白然り、どう対応していいのかわからなくなってしまうのだ。

 なにか返せるものがあるのならまだ話はわかりやすいが、こいつは見返りなんて求めないだろう。

 

『欲しいものはもう貰いました』

 

 思い出すのは勤労感謝の日のこと。

 結局こいつの欲しいものがなんだったのかはわからずじまいだった。

 見返りを求めない四葉に俺が返してやれるものがあるとすれば、それはせめてもの学力と――

 

「……せっかくだしな。修学旅行費分は楽しんでやるさ」

 

 あとはこのお人好しのお節介の言うとおり、できる限り楽しむことぐらいだ。

 

「えへへ、写真の子にも会えるといいね」

「さぁな。そんな偶然あるかどうか」

「上杉さん、写真の子とは?」

 

 あまり触れて欲しくない話題に四葉が食いついた。

 おっと、めんどくさい展開になってきたぞ。

 

「ほら写真見せてあげなよー」

「いや、もう写真はないんだが……」

 

 らいはは俺の周りをぐるぐると回って催促してくる。

 話すのは正直気が引ける。

 だが、もっと面倒な気配を四葉が発し始めていた。

 このまま黙っていれば、事あるごとに突っつかれる展開が目に見える。

 ……とある疑惑の確認も含めて話してみるか。

 

「昔――もう六年前になるか。京都で偶然会った女の子だよ」

「六年前、京都……」

「名前は……零奈、と名乗ってたな」

「えっ、零奈って……」

 

 零奈という名前に対する四葉の反応。

 もはやわかっていたことだが、一応の確認は取れた。

 

「――おしまいだ」

「え~~!? そんな中途半端じゃちょっと……いえ、かなり気になるんですが……」

「ズバリ! お兄ちゃんの初恋なんだよね?」

「は、初恋!?」

 

 結局めんどくさい方向へ話がシフトしていく。

 らいはは悪くない。

 悪いのはあの話を吹き込んだ親父だ。

 誓って言うが、あれは断じて初恋なんかじゃない。

 俺の初恋らしき何かは、その直前に終わっていたのだから。

 

「えへへ、食べ物の話してたらお腹すいてきちゃった」

「食べ物のたの字も出てこなかったが」

 

 いや、さすがに使ったか。

 たを抜いて文章作れとか普通に難易度高いし。

 そんなことをやって成り立つのは相当な短文か、タヌキの絵が添えられた不自然に『た』が多い文章だろう。

 

「じゃ、じゃあなにか買いに行きましょう!」

 

 四葉はらいはの手を引いてそそくさと離れていった。

 俺は五月を待つ係だそうだ。

 周りはガヤガヤと騒がしいことこの上ない。

 時間が経って人が増えてきたのだろう。

 五月が戻ってくる気配はない。

 ベンチに座って待つとしよう。

 

「疲れたな……」

 

 座ったベンチには先客がいた。

 その姿を横目で捉える。

 いつかの時と同じ格好だった。

 

「二回目は驚かねぇぞ――零奈」

「なーんだ、残念」

 

 薄く微笑むその表情は、知っている顔と重なるようで重ならない。

 この場にこいつが現れた理由は不明だが、好都合だ。

 ここらで隠し事とやらを明かしてもらうとしよう。

 

「面倒な前置きはなしだ。なぜまた俺の前に現れた?」

「君に会いたいからって言ったら?」

「いつも顔を合わせてるだろうが」

「えっ」

「お前が母親の名前を借りている理由は知らん。だが、いい加減はっきりさせたい事がある」

「そう、だね」

 

 零奈は立ち上がると俺の前へ。

 そして数歩距離をとってから問いかけた。

 

「君の考えているとおり、私は五つ子の一人。誰かわかるかな?」

「そうだな……まず、四葉じゃない」

「えっ」

「あいつはそもそも、俺でも見破れるほどに演技が下手くそだからな」

 

 そして先程の反応。

 母親の名前が出てきたことに驚いていた。

 それはこの零奈ではない何よりの証拠だ。

 

「き、決めつけるのは早いんじゃない? ほら、人は三日会わざればって」

「それを言うなら男子三日会わざれば、だ。まぁ頭の出来は似たりよったりだが」

 

 それに四葉を容疑者から省いたのは演繹的なアプローチからだ。

 つまり、答えは今日ここに来る前からわかっていた。

 

「いい加減茶番はやめろ――五月」

「――っ!」

「ほら、これで答え合わせだ」

 

 逃げられないように手を掴んで、その帽子とウィッグを外してやる。

 その下から出てきたのは、いつものくせっ毛とアホ毛。

 真面目馬鹿の五月だ。

 

『……また、真面目馬鹿って』

 

 零奈にしか伝えてない真面目馬鹿という言葉をこいつは知っていた。

 姉妹で情報を共有している可能性もあるが、四葉が零奈の名前で驚いていたのでそれはない。

 あいつだけハブられていたのなら話は別だが、それはあまり考えたくなかった。

 

「お前がこうしている理由だとか、そもそも六年前のあの子なのかとか、そこらへんはこの際どうでもいい」

「うえ、すぎくん……私は」

「せっかくの修学旅行だ。こんなことしてないで、お前はお前として楽しめよ」

「~~っ」

 

 帽子とウィっグをひったくって、五月は走り去っていった。

 さて、面倒なことには……ならないわけないよなぁ。

 

 

 

 

 

「……」

 

 試着室の中で五月は鏡と向き合う。

 そこにいるのは、風太郎の思い出の少女に扮した自分。

 母の名を借りた少女――零奈の姿をした五月だ。

 だというのに風太郎はそれを見破った。

 一花でも二乃でも三玖でも四葉でもなく、自分の名前を呼んだ。

 

「どうして……?」

 

 五月は間違いなくかつての自分を再現していた。

 それは他の姉妹の演技をするのとはわけが違う。

 過去の自分に立ち返る、ただそれだけなのだ。

 見破れる瑕疵などあるはずがない。

 それなのに、だというのに――

 

『愛があれば!』

 

 温泉旅館で五月が風太郎に語った姉妹を見分けるコツだ。

 それは母の受け売りだが、姉妹にとってはもはや真理に等しい言葉だった。

 ならば、風太郎が零奈の正体を看破した理由とは……

 

「ウソです、そんなの……」

 

 母の言葉、風太郎に見破られたこと、そして自分の想い。

 五月が嘘にしてしまいたかったのはどれなのか――あるいは全てか。

 

『一人でよく頑張ったな』

『いくら俺だってな、それくらいはお前たちのことを知ってる』

『……お前ならいい先生になれると思うぜ』

 

 風太郎の言葉が、思い出が胸の内を満たす。

 表に出ないように押さえつけていた想いが、溢れ出る。

 自分の胸を押さえて、五月は堪らずその場にしゃがみこんだ。

 

「うえ、すぎくん……上杉君上杉君上杉君……風太郎君」

 

 言葉にしてしまえばもう後戻りはできない。

 それはさらに強い自覚となって自分に降りかかるのだから。

 だけど吐き出すことでしか自分を保つことができなかった。

 今この時ばかりは姉妹の事も頭の中から消え、たった一つの想いだけが残った。

 

「――好き、です」

 

 

 




五女のヒロイン化とか解釈違いかもしれませんが許してください。


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シスターズウォー・一日目その1

フー君が父親から渡されたアイテムを使う日は来るのか……!


 

 

 

「いよいよか……」

「いよいよだね!」

 

 なんやかんやあったが、今日は修学旅行当日。

 中野姉妹との顔合わせを考えるといまいち気乗りしないが、らいはの気合は十分だった。

 準備に関しても色々と手伝ってくれたし、なんなら俺よりも楽しみにしていた節がある。

 我が妹ながら、とてもよく出来たいい子だと言わざるを得ない。

 

「そういえば五月さん大丈夫かな? あの後急に帰っちゃったけど」

「……心配すんな」

 

 とは言ってみたが、正直な所俺にもどうなっているのかはわからない。

 五月が何故あんなことをしたのかもだ。

 俺の中でも整理はついていないが、今は目の前の行事が優先だ。

 あいつに偉そうなことを言った手前、俺が過去にこだわっていては格好がつかない。

 

「帰ってきたらいっぱいお話聞かせてね!」

「ああ、土産は奮発できない分、そっちは期待しててくれ」

 

 ともあれ滅多にない機会なので、できる限り楽しむとしよう。

 そうしたらあのお人好しのお節介も安心して修学旅行を満喫できるだろう。

 

「おう、風太郎! 日課はきっちり済ませたか?」

「お兄ちゃん、日課って?」

「は、ハハハハ……ちょっとした精神統一だ精神統一!」

 

 この親父はらいはの前で何を言っちゃってくれてんだ……!

 親父の言う日課が示すものはおそらく、俺の内なる青い衝動の発散にほかならない。

 バレないように朝早くに行っているというのになんで把握されてんだ!

 非難の目を向けると、ちょいちょいと手招きされる。

 しかたなく近寄ると、親父は俺の肩に手を回してらいはに背を向けさせた。

 内緒話の体勢だ。

 

「修学旅行に行くにあたって、お前に渡しておきたいアイテムがある」

「……なんだよ」

「これだ」

 

 親父が差し出したのは手のひらサイズの四角く平べったい包装。

 浮き出た形から、中に輪っか状のものが入っているのがわかる。

 見ようによっては駄菓子に見えなくもないが、0.01と表記されているのがまたよくわからない。

 

「親父、これは?」

「まったく、こっちの方は勉強不足もいいとこだな」

 

 呆れるように嘆息すると、親父は耳打ちしてきた。

 正直煩わしかったが、予想外のワードに俺も動揺せざるを得なかった。

 

「こっ、こここ、コンドー……!?」

「使えというわけじゃないが、もしもの時のためだ。旅行中のテンションでって話も少なくないからな」

 

 こんな話題なのに妙に真面目くさった顔をするものだから、反論すらできなかった。

 手に握らされた近藤さんを呆然と見つめる。

 

「よし、じゃあ行ってこい!」

「いってらっしゃーい!」

 

 背中を叩かれて送り出される。

 突き返す暇もなかった。

 ずっと手に持っているわけにもいかないので、とりあえずポケットに入れておく。

 大丈夫だ、気をしっかり持て。

 親父がこれを渡してきたのは、あくまで俺を心配してのことだ。

 要は俺が気をしっかり持てばいいだけなのだ。

 

 

 

 

 

 修学旅行当日の朝、駅の構内は旭高校の生徒で賑わっていた。

 中野姉妹はその中で風太郎の姿を探す。

 班は別だが一緒に行動したいというのは姉妹の大体の総意だった。

 

「ううぅ……」

「五月ちゃん? 歩きにくいんだけど」

「お、お気になさらず」

「いや、お気になさるでしょ」

 

 五月は一花の背中に張り付くように身を隠しながら辺りを見回す。

 風太郎を意識しているのは他の姉妹と同じだが、その様子は捜索というより警戒だ。

 尋常ではない妹の様子に一花は困惑するが、とりあえずしたいようにさせることにした。

 

「ひとまずはフー君についていかなきゃね」

「二乃、そのフー君やめて」

「いやよ」

「あっ、上杉さーん!」

 

 目標を見つけた四葉が大きく手を振って存在をアピール。

 一花は足早に風太郎のもとへ行ってしまった。

 盾を失った五月は今度は二乃の後ろに隠れた。

 

「フータロー君、今回はちゃんと集合時間に間に合ったね。えらいえらい」

「撫でんな」

「フー君フー君、これこの前のリベンジで作ってきたの。スポドリ風味だから後で飲んでみて」

「あ、ああ……あの栄養ドリンクな」

「上杉さん! 修学旅行を楽しむ覚悟はできましたか?」

「つーか班行動だからな。お前もしっかりやれよ学級長」

 

 しかし二乃も四葉もすぐに後を追っていったため、眠そうにしている三玖の後ろに退避。

 とにかく今は顔を合わせるわけにはいかなかった。

 

「五月、なにかあったの?」

「な、なにもありませんったらありません! 私はいたっていつも通りですが!?」

「説得力なさすぎる……」

 

 自分を盾にする妹に呆れながらも、三玖は手に持った紙袋を握る手に力を込めた。

 今日はまさに決戦の日なのだ。

 最近のバイト三昧もこの日のためだった。

 決意とともに己を奮い立たせ、三玖は風太郎へと歩み寄る。

 姉の後ろに隠れることができなくなった五月は、自分のトランクの陰に縮こまった。

 

「フータロー」

「三玖か。なんだ――」

「上杉ー、そろそろ行くぞコラ」

「っと、時間か。お前らも遅れるなよ」

「あっ」

 

 班員の呼びかけに応じて風太郎は改札の向こうへ。

 新幹線の出発時刻が迫っていた。

 そろそろホームへ向かったほうがいいだろう。

 

「みんなー、私たちも行くよー!」

「さすがに新幹線の中じゃアクション起こしづらいわね」

「そういうこと。みんなでおとなしくトランプでもしてようよ、ね?」

「三玖、私たちも行きましょう」

「うん」

 

 四葉の先導で中野姉妹も連れ立って改札を通り抜ける。

 五月はなにやら急に普段の調子を取り戻していた。

 

(大丈夫、まだ機会はある)

 

 口元を引き締めて、三玖は自分の中の不安を押し殺す。

 色んな人のサポートを受けた上で修学旅行に臨んでいる。

 もはや退くことは許されなかった。

 

(今日こそフータローに告白するんだ……!)

 

 

 

 

 

「やれやれ、とりあえず一段落か」

「まだ始まったばかりじゃないか。しっかり頼むよ、学級長」

「お前こそな、班長」

 

 京都に向けて出発した新幹線の中、三人がけのシートの窓際で一息つく。

 うちの班長は武田なのだが、俺自体は学級長なため色々と雑務を頼まれる立場にあるのだ。

 新幹線に乗り込む前も点呼を取ったりで地味に忙しかった。

 

「つーかよ、京都までどんだけかかるんだよ」

「二時間とちょっと、といったところだね」

「オウじゃあなんかして時間潰すぞコラ」

「そうだね……じゃあ水平思考ゲームなんてのはどうだい?」

「すいへい、しこうゲーム?」

 

 武田の提案に前田の顔がハテナで埋め尽くされる。

 俺も概要は知っているが、実際にやったことはない。

 なんせ相手がいなかったからな……!

 

「出題者に対してイエスかノーで答えられる質問をしていって、それで答えを推測していくゲームだろ」

「ご名答。というより前田君が知らなさすぎるだけかな?」

「んだコラ」

「武田、煽るな。トランプとウノ持ってきたからやろーぜ。水平思考ゲームは前田には無理だ」

「はは、それもそうだね」

「オメーら後で覚えてろよ」

 

 そして厳正なる審議の末、ジャンケンによりウノで遊ぶことに決定した。

 厳正なる審議とは……

 

「しかし用意がいいね。案外楽しみにしてたのかい?」

「まぁ、こうやって遠出できる機会は少ないからな」

「林間学校の時も妙に張り切ってたよな。主に肝試し」

「あれは腹いせだ。ホームルーム中、俺が自習してる間に勝手に決められたもんでな」

「その勉強への意欲、流石だよ上杉君!」

「いや、普通に自業自得じゃねーか」

 

 前田の言うことはもっともだ。

 武田は俺を持ち上げているが、そもそも論点がずれている。

 やはりこいつは俺に執着しすぎなのでは?

 

「……前々から聞きたかったんだけどよ。一花さんとはどうなってんだよコラ」

「あー……それな」

 

 そういえば、こいつには狂言で一花と恋人同士だと思われてるんだった。

 全て話しておくべきだろうか。

 そもそもややこしい状況だったので、説明もそれなりにデリケートなものになってしまうだろう。

 具体的に言えば三玖に飛び火する可能性がある。

 

「中野一花さんがどうかしたのかい?」

「去年の林間学校前に告ったんだけどよ、上杉と付き合ってるっつーから断られたんだよ」

「なっ……それは本当かい!?」

 

 そして何故か武田が食いついてくる。

 驚愕の表情を貼り付けて、立ち上がって体をワナワナと震わせていた。

 二年の時は一花や前田と同じクラスだったと聞いたが、そんなに興味を惹く話題だったのか?

 いや、もしかしたら大女優様の隠れファンという可能性も――

 

「あの女狐め……! 上杉君を誑かして成績を落とさせようという腹積もりか!」

 

 あ、そっち?

 どうやら俺は武田を甘く見ていたようだ。

 とりあえず注目を集めてるから座って欲しいぜ。

 

「武田、落ち着け」

「これが落ち着いていられるか! 正気を取り戻せ上杉君、学生の本分は勉強だ!」

「お前が正気を取り戻せ!」

 

 どこぞの学年一位と同じようなことを叫ぶ武田をなだめる。

 その過程で前田への事情説明がなされたのは良かったのか悪かったのか。

 

「そうか、そんな事情だったんだな」

「今更かもしれないが、すまん」

「謝ることはないさ。僕は君を信じていたからね」

 

 お前には謝ってねぇぞ武田。

 少なくともさっきまで騒いでた奴が言っていいセリフじゃない。

 この変わり身の早さは、こいつが案外良い性格をしているという証左なのかもしれない。

 

「……まぁ、俺も相手の迷惑を考えずに騙し討ちする格好だったしよ。そこはお互い様と思ってる」

「そう言ってくれると正直助かる」

「しかし、なんだコラ……同級生相手に家庭教師ってのはなんつーか、すげぇな」

「給料が相場の五倍のアットホームな職場だぞ」

「ブラックな臭いしかしねぇんだが」

「それどころか地獄の日々だったぜ……」

 

 赤点回避という低いハードルのために俺がどれだけ苦労してきたことか……

 それなりに楽しい地獄だったことは否定しないが。

 一花、二乃、三玖、四葉、五月。

 全員一筋縄じゃいかない曲者揃いだ。

 

「地獄とは随分な言い方だ。少なくとも今の君の表情とは一致しないね」

「ニヤけてんぞコラ」

「誰がニヤけてるって?」

 

 揃いも揃ってめんどくせー奴らなのは確かだが、俺が受け取ったものも少なくないのも事実だ。

 例えばそう――あいつらと出会ってなければ、俺は新幹線の中でも一人で勉強しているだけだっただろう。

 俺に返せるものは家庭教師の仕事を通じて返しているつもりだ。

 だが今はなにか形に残るものが必要だ。

 ここ最近は、そのことをずっと頭の片隅に置いて過ごしていた。

 あとは……やってみるか。

 

「武田、前田……お前らに頼みたいことがある」

「どうしたんだい?」

「あん? 急にあらたまってどーしたよ」

「実は――」

 

 

 

 

 

「三玖、三玖、終わりましたよ」

「ん……」

 

 五月に揺さぶられ、三玖は微睡みから現実に引き戻された。

 多少の揺れと喧騒――今は京都に向かう新幹線の中だと思い出す。

 そして手元にはトランプが五枚。

 ポーカーの真っ最中で寝てしまったようだ。

 

「あ、ツーペア」

「遅いし弱い! もう一回やるわよ!」

 

 対面の二乃のつっこみ。

 負けが続いてムキになっているようだ。

 勝負は一花のフルハウスで決着していた。

 

「大丈夫ですか? 今朝は早かったみたいですし」

「店長に無理言って厨房貸してもらってた」

「えっ、じゃあついに三玖の最高傑作が……」

「うん」

 

 誇らしげに頷く三玖に、五月は特訓の日々を思い出す。

 失敗に次ぐ失敗、そして報酬に振舞われる焼きたてのパン。

 感慨とともに湧き出そうになるヨダレを、頭を振って堪える。

 

「冷めても美味しいといいんだけど」

「……三玖の頑張りはきっと伝わりますよ」

 

 五月はあえてその頑張りが伝わった後のことを考えなかった。

 そうしてしまえば、自分が動けなくなることがわかっていたからだ。

 

「ね、次のゲームは勝者にちょっとした特典をつけない?」

「特典? また変なこと企んでないでしょうね」

「一花は勝ち越してるから強気だね」

 

 四葉のこともなるべく考えないようにした。

 勝手なことをしてしまったという罪悪感があるし、なにより風太郎へと意識が向いてしまう。

 今の五月には少々どころではなくハードルが高い。

 

「そうだなぁ……勝ったらなんでも命令ができる、なんてのはどうかな?」

「いいじゃない、乗るわ」

「負けない」

「わっ、みんな燃えてる」

 

 そしてゲームが始まった。

 各々カードを受け取り、自分の手札とにらみ合う。

 

「げっ」

「うわっ」

 

 余程悪かったのか、二乃と四葉が思わず声を上げた。

 三玖は僅かに眉を寄せ、一花は薄く笑ったままで表情を動かさない。

 五月は受け取ったカードを開きすらしていなかった。

 ドローは一回のみ。

 運に見放されればそれまでだ。

 

「残念、役なしだよ」

「私もよ」

「揃わなかった……」

「まぁこういうこともあるよね」

 

 四人は揃って役なし――ハイカードだった。

 さすがに全員というのは珍しいが、確率的にはありえることだ。

 こういう場合は単純にカードの強さを競うのだが、まだ一人手札を開示してない者がいる。

 

「五月ちゃん? おーい」

「あっ……すみません、ボーッとしてました」

「あんたも寝不足なわけ?」

「あはは、五月の場合は食べ過ぎが原因かな?」

「手札、どうだった?」

「えっと、フォーカード……?」

 

 文句なしに強力な役だった。

 こうして勝者の権利は五月に渡されることになった。

 

 

 

 

 

 修学旅行一日目は夕方の集合時間まで自由行動である。

 京都駅構内で教師陣の説明が終わり、生徒たちは三々五々に方々へ散っていった。

 

「気のせいかしら……」

「さっきのシャッター音? 観光客も多いし、気にすることないよ」

「さすがね。女優様はやっぱりカメラに慣れてるのかしら」

「フータローの班はどこ行くんだろう?」

 

 中野姉妹の上三人は風太郎が目当てである。

 それぞれに思惑があるが、抜けがけをしないのは姉妹による邪魔を懸念してのことだ。

 一方何かを警戒して小動物のように縮こまっているのが末っ子だ。

 張り付かれた四葉は困惑するばかり。

 

「五月どうしたのさ。これじゃ動きにくいよ」

「うぅ……今は何も聞かないでください」

「しょうがないなぁ」

 

 姉妹の母親役を買って出ている五月だが、なんだかんだで甘やかされているのだった。

 妹にくっつかれたまま、四葉はまとまらない行動方針をまとめるために声を張り上げた。

 

「はいはーい! みんなはどこか行きたいところある?」

「ショッピングね。古~いお寺をめぐるよりお洒落なお店よ」

「お寺や神社を回りたい。京都はゆかりの地も多いから」

 

 まず最初と次の案で真っ向から対立した。

 性格も対照的な二乃と三玖らしいといえばらしいが。

 にらみ合う二人に冷や汗を垂らしながら、四葉は残りの二人に意見を求めた。

 

「わ、私は京都ならではのものを食べ歩くのが良いと思います」

「う~ん……やっぱり思い出に浸りたいかな。駅の中や街中を散策したりしてさ」

 

 五月の意見はいつも通りだった。

 どこか様子がおかしくとも、食欲だけは忘れないのはさすがと言えるだろう。

 しかし一花の様子が四葉としては引っかかった。

 そもそも風太郎と三人で班を組むなどと言い出したことも不可解だ。

 

『だって、せっかくだし楽しんでもらいたいじゃん』

 

 その言葉に嘘はないとは思っている。

 引っかかるのは組み合わせである。

 風太郎に四葉に一花……この三人をつなぐ線。

 一花が言った京都における思い出とは――

 

「あっ、フータロー君たち出発するみたいだよ」

「とりあえず追うわよ」

 

 

 

 

 

「うおっ、鳥居デッケー」

「ちなみに日本最大の鳥居はね――」

 

 小学生じみた感想を漏らす前田と薀蓄を語りだす武田。

 まったく、修学旅行に浮かれているのが見え見えだ。

 もっと俺みたいに冷静に振舞ってもらいたいぜ。

 

「おい上杉、なんか落ちたぞ」

「伏見稲荷大社のガイドマップかい? 君も楽しみにしていたようでなによりだ!」

「べ、別に普通だが?」

 

 そう、至って普通だ。

 むしろ下調べは予習のようなものだ。

 そんなに大事なものを疎かにするわけには行かない。

 それが俺なりの、最大限楽しむための努力というやつだ。

 

「お前ら、例の件も頼むぞ」

「もちろんさ」

「ま、お前の頼みならな」

 

 二人は俺が渡したインスタントカメラをちらつかせた。

 少し離れたところには中野姉妹の姿がある。

 単に目的地が一緒だというのが妥当だが、実際はどうなのだろうか。

 ……少し自意識過剰かもしれないな。

 

「あれが東丸神社だね。早速お参りといこう」

 

 学問の神を祀る、受験生の俺たちにとってはピッタリの場所だ。

 三人並んで手を合わせる。

 ついでにあいつらの成績が下がらないようお願いしておこう。

 あまり長く放置していると頭の中身がリセットされてしまうという恐ろしい仕様なのだ。

 

「で、ここはなんなんだよ」

「ありがたい学問の神様の社さ。君は特に深ーく祈りたまえ」

「どーいう意味だコラ」

「次行くぞ、次」

 

 ここから先はハイキングだ。

 気合を入れて臨むべきだろう。

 振り向くと五人組はまた後ろにいた。

 目があった一花と二乃は手を振ってきやがった。

 五月は物陰に隠れていたが、アホ毛が飛び出ていた。

 あいつ、もしかしてまだこの前のことを気にしているのか。

 面倒そうなことになっているが、そうだとしたら俺にも責任はある。

 さて、どうしたものかな。

 

 

 

 

 

「映えるわ~」

「やはり実物は写真とは違いますね。壮観です」

 

 無数の鳥居に囲われた参道を歩く。

 伏見稲荷大社の千本鳥居である。

 風太郎を追う中野姉妹だが、景観に目を奪われて速度も緩まっていた。

 特に二乃は、SNSにアップロードする写真の撮影に余念がない。

 五月も風太郎の姿が見えなくなったからか、リラックスして景色を楽しんでいた。

 

「ほら、あんたたちもピース」

 

 二乃の催促に、四人は携帯のカメラに向かってピース。

 姉妹だけでの写真は久しぶりだった。

 祖父の温泉では父とそれに上杉一家もいたので、それこそ小学生時の修学旅行以来である。

 

「ほら、寄って寄って」

 

 そして次は自撮り棒を使って五人で写真に収まる。

 撮れた写真とかつての自分たちを比べて、二乃は軽く感慨に浸った。

 しかしゆっくりしていられる時間はない。

 姉妹は再び参道を歩き出した。

 

「フータロー、もう上かな?」

「男の子は登るの速いね」

「よーし、私たちも頑張ろー!」

 

 四葉の先導で一行はスピードアップ。

 だがそのハイスピードが長く続く訳もなく……

 

「はぁ、はぁ……け、結構長いわね……」

「足が痛くなってきました……」

「もー、みんな遅ーい!」

 

 四葉と一花を除く三人がヘタっていた。

 特に三玖は言葉もなくしゃがみこんでいる。

 土台、運動能力がずば抜けている四葉に合わせるというのが無理な話なのだ。

 一花はジョギングを日課にしているため、体力的にはまだ余裕があった。

 

「あのお気楽さは羨ましいわ」

「あれが四葉の良いとこだからね」

「腹黒なあんたとは正反対ね。悪巧みは順調なのかしら」

「人聞き悪いなぁ、もう」

「あら、否定はしないの?」

「色々企んでるのは確かだからねぇ」

「うげっ、まさかの開き直り」

 

 ニッコリと笑う一花に、二乃は舌を出して顔をしかめた。

 やはり一番警戒するべきなのはこの長女なのだと。

 しかし自分には他の姉妹にはない明確なアドバンテージがある。

 模試の日の一件を思い出して二乃は自分を奮い立たせた。

 

「なんかニヤけてる? 顔も赤いし」

「な、なんでもないわ! さ、行きましょ」

 

 足早に歩き始めた二乃に一花は怪訝な目を向ける。

 もしかしたら風太郎となにかあったのかもしれない。

 その可能性を頭に留めて、一花も移動を再開した。

 

「三玖、落ち着きましたか?」

「うん、私たちも行こう」

 

 一方、しゃがみこんでいた三玖も五月とともに歩を進める。

 目的がある以上、モタモタしているわけには行かない。

 

「やっぱり班行動がネック」

「たしかに、二乃がすんなり見逃してくれるとは思えませんね……」

 

 先日の一件で二乃の風太郎への想いは姉妹に露見している。

 それに一花も明言はしていないものの、同じ想いを抱いていることは察せられた。

 このまま合流できたとして、三玖の望むような展開になるとは思えなかった。

 三玖が踏み出せば、他の姉妹もその後に続く結果になるだろう。

 

「自由昼食は今日だけなのに……」

「安心してください。私に一つ考えがあります」

 

 

 

 

 

「う~ん、道が二つに分かれてるね」

「フータロー君はどっちに行ったのかな」

 

 稲荷山の中腹にある四ツ辻にたどり着いた中野姉妹。

 風太郎の姿はここにもない。

 地図を見ると山頂に通じる道は二つ。

 そのどっちを進むのかが問題だった。

 

「ふぅ、少し楽になった」

「一息つけるところがあって助かりました」

 

 三玖と五月はベンチに座って足を休める。

 ハイペースでの山登りは中々に辛いものがあった。

 全く汗をかいておらず、ケロッとしている四葉はいよいよ化け物じみている。

 このまま休憩を続けたいところだが、三玖にとってはここからが正念場だ。

 五月は三玖と頷き合うと、ベンチから立ち上がって姉妹全員に呼びかけた。

 

「もうお腹がペコペコです! このお店で食事にしましょう!」

「えっ、ご飯? いきなりね……もうお昼だし構わないけど」

「五月そんなにお腹減ってたんだ……」

「と、とにかくです! ポーカーでの勝者の権利を行使しますっ」

「こ、こんなことで使わなくても……」

 

 一花、二乃、四葉は揃って困惑気味である。

 よほど我慢していたのかと心配すらしていた。

 欺くような形になってしまったが、お腹が空いているのは事実である。

 姉三人を店に押し込みながら三玖に目配せをする。

 

(あとは三玖しだいです。頑張って……!)

 

 自分の胸に走る痛みに気づかないふりをして、五月は三玖を送り出した。

 

 

 

 

 

『この先の四ツ辻にあるお店でみんなをお昼に誘います。三玖は抜け出して上杉君を追ってください』

『うん。でも、二乃あたりは風太郎を優先するかも』

『ポーカーの件を持ち出すから心配ありませんよ。私に任せて!』

 

 参道を息を切らしながら駆け抜ける。

 五月のサポートにより三玖は単独行動を果たしていた。

 四ツ辻から山頂へ続く道は二つ。

 三玖が進んでいる道が人の多さから見ても正規ルートだろう。

 風太郎もこの先にいる可能性が高い。

 

(フータローにパンを食べてもらって伝えるんだ、好きって……!)

 

 湧き出る想いを燃料にひたすら足を動かす。

 色んな人に支えられてこの場にいる以上、止まってなんていられなかった。

 いられない、はずなのだが……

 

「はぁ、はぁ……も、もう足が……」

 

 いくら心が燃え立っていても、体の限界というものがある。

 鳥居に手をついて参道の脇にしゃがみこむ。

 こうしている時間が惜しいが、足は動きそうにない。

 夜には確実に筋肉痛コースである。

 

(やっぱりダメなのかな……私なんか)

 

 汗とともに溢れる弱音。

 気を抜いたらそれこそ泣き出してしまいそうだ。

 涙を堪えるために三玖はギュッと目を固く瞑った。

 

「ま、まだ山頂に着かないのか……」

 

 聞こえるはずのない声が聞こえた。

 振り向くと、膝に手をつき肩で息をする風太郎がいた。

 

 

 

 

 

「え……フータロー?」

「み、三玖か……」

 

 鳥居に囲まれた参道をハイキング中、道端にしゃがみこんでいる三玖と遭遇した。

 他の姉妹の姿はない。

 置いていかれたのかと一瞬だけ疑ったが、あいつらがそんなことをするわけないだろう。

 たとえ三玖が動けなくなっても、四葉ならきっと背負ってでも連れて行く。

 それだけにこんな所に一人でいるのが不可解でならなかった。

 そして、こいつが泣きそうにしているのはもっと我慢がならなかった。

 

「立てるか? 怪我してるとかじゃないよな?」

「う、うん……あっ」

 

 立ち上がろうとしてよろける三玖を支える。

 この道中で相当足にきたのだろう。

 俺もあまり人のことは言えないが、まだバテてはいない。

 

「よし、じゃあゆっくり行くぞ。山頂も多分もうすぐだ」

「……いいの?」

「ちょうど一人で退屈してたんだ。悪いけど付き合ってもらうぞ」

 

 三玖の体を支えながら、再び山頂を目指す。

 柔らかい感触や、女子の匂いのことは頭から締め出す。

 頬の内側を噛んでいればなんとか耐えられた。

 

「他のやつらはどうした」

「下でお昼食べてる」

「じゃあお前一人だけで登ってきたのか」

 

 そこにどんな事情があるかはわからないが、先程の泣きそうな顔がちらついた。

 まさか喧嘩してきたんじゃないだろうな……

 だとしても誰も追いかけてこないのはおかしいか。

 いや待てよ、もしも誰も追いかけてこないほどの決定的な仲違いだとしたら?

 そう考えてしまうと、焦りとともに変な汗が出てきてしまう。

 今更空中分解はごめんだぞ!

 

「五月に協力してもらって抜け出してきた」

「なんだ、そうだったのか」

「もしかして変な勘違いしてた?」

「……これまで散々振り回されてきたんだ。多少心配したってしょうがないだろ」

「ふふ、フータローは優しいね」

「うるせー」

 

 くそっ、心配して損したぜ。

 しかし経緯がわかっても、これでは理由が不明なままだ。

 それともそこまで触れるのは野暮だろうか。

 雇い主の忠告もあるし線引きはしっかりとしたいが、勉強に差し障るようなら解消しておきたい。

 

「フータローに渡したいものがあったから」

「そうか」

 

 軽く流してしまったが、つまるところ俺が目的だったって事かよ。

 自分から聞かないでおいてよかった。

 カウンターでダメージが倍増するところだったぜ。

 しかしそうだとしたら、この状況はますますコンプライアンス的にマズいのでは?

 就業規則を定められた覚えはないが、あえて言うのなら娘に手を出すな(意訳)というのが該当するだろう。

 ……もはや違反済みでは?

 

「そっちは迷子?」

「ちがうわ。前田の奴が食い過ぎで動けなくなってな。武田は付き添いで、俺だけとりあえず登ってきたんだよ」

「え、食べすぎって……」

「俺に構わず先に行け、なんて言っててよ。どこの時代の人間だって話だよな」

「う、うん……軍の殿も大事な役目だから」

 

 こころなしか三玖の声のトーンが下がったような気がする。

 いつも抑揚が少なめだからわかりにくいが、俺の気のせいだろうか。

 三玖が持つ紙袋が目に入った。

 出発する前からそうだったが、ずっと大事そうに抱えている。

 

「フータローもお昼食べたの?」

「ああ。四ツ辻のとこは混んでたから別のとこでだけどな」

「そう、なんだ」

 

 今度は目に見えて俯いてしまった。

 疲れたわけではないとしたら……なんだ?

 頭を回せ。

 もういい加減、ノーデリカシーだの言われるのは飽き飽きしてきたところだ。

 まず、今もこうやってくっついてるから柔らかさと体温が伝わって――

 

「フータロー? いきなり自分の胸叩いてどうしたの?」

「ドラミングだ。ゴリラが好きなんだ、ハハハ」

 

 どうにか痛みで不埒な考えを吹っ飛ばす。

 三玖は訝しげな目で見てくるが致し方ない。

 いきなりドラミングを始める奴がいたらヤバい奴だろう。

 ……はい、俺ですね。

 俺がヤバい奴かどうかはともかく、今は三玖のことだ。

 落ち込み始めたのは、俺の班の話題からか?

 でも、武田や前田の話題でこいつが落ち込む理由がわからない。

 昼を食べ過ぎた前田を心配してってわけじゃないだろうし。

 それよりも明確なサインは……まさか、俺が昼を済ませたという話に対して、なのか?

 自惚れでないとしたら、三玖は一緒に昼飯が食べたかった、と推測できなくもない。

 いや、でもしかし……

 くそっ、はっきりと答えがわからない問題ってのはこうももどかしいのか。

 少し様子を見てみるか。

 

「しかし動いたら腹減るよな。下でもうちょっと食べておけばよかったぜ」

「……お腹空いたの?」

「染み付いた貧乏が災いしたな。どうもみみっちいのを頼んじまった」

「そ、そうなんだ……」

 

 こころなしか声の調子も視線も上向きになった気がする。

 当たりを引けたのかどうかはわからないが、機嫌は回復したようだ。

 無限に思われた石段の終わりが見えてきた。

 そろそろ山頂だ。

 俺もこいつも、せっかくだから良い気分で登りきりたいところだ。

 

「そういえばその袋、自分で昼飯用意したのか?」

「ううん、これは……えっと」

「っと、やっと到着か。長かったな」

 

 そして山頂に到着。

 もう支えも必要ないだろうと、三玖の体から離れる。

 触れ合ってた部分が風にさらされて、少しだけ冷たく感じてしまう。

 ああ、三玖の匂いや体の感触が名残惜し――

 

「今度はお腹……大丈夫?」

「せ、切腹のイメトレだ。ハラキリ、サムライ、バンザーイ!」

「ふふ、変なの」

 

 突然腹を強打してカタコト外人の真似をし出すヤバい奴。

 ……はい、俺ですね。

 ドン引いている観光客がいるが無理もないだろう。

 そんな奴がいたら俺だって距離を取る。

 なぜか三玖には受けているようだが、切腹という言葉が琴線に触れたのだろうか。

 武将、ひいては戦国時代が大好きなこいつならありえなくもない。

 

「俺はここで武田たちを待つが、三玖はどうする?」

「私は、その……」

 

 班から抜け出してきた三玖も、いつまでもそのままというわけにはいかないだろう。

 俺への用事……渡したいものがある、だったか。

 やはりその手に持っている紙袋がそうなのだろうか。

 

「本当はお昼の時に渡したかったんだけど」

「これは?」

「パン。今朝焼いてきた」

 

 差し出された紙袋を受け取る。

 開けるとクロワッサンが数個入っていた。

 手作りのパンは俺にとって少し特別な意味合いがある。

 今はもう食べられない思い出の――おふくろの味といえばいいか。

 

「食べていいか?」

「うん」

 

 一つ取り出して口に運ぶ。

 家庭教師を始めて間もない頃、三玖が二乃と料理対決をしたことを思い出した。

 最初の試験の後、三玖の料理を死ぬほど食べさせられたこともあった。

 それとこの前のバレンタイン。

 不格好なオムライス、黒焦げのコロッケ、チョコレート。

 このパンに至るまでの軌跡――三玖の積み重ねが垣間見えたような気がした。

 

「うまいとは思うが俺は自分の舌に正直自信がない。ろくな感想も言えそうにないが、一言だけいいか?」

「聞きたい。ううん、聞かせて」

「この味はきっとお前の努力そのものだ。頑張ったな、三玖」

 

 三玖の頭に手を乗せる。

 褒める時のやり方なんて、一花に教えられたこれ以外ろくに浮かんでこない。

 今にして思えば馴れ馴れしい限りだが、今のこいつらにやる分にはいいだろう。

 俺の手の上に、さらに三玖の手が重ねられる。

 そして涙ぐんだかと思うと、正面から抱きしめられた。

 

「そうだよ……私、頑張ったんだよ……?」

 

 引き離すわけにもいかず、頭に乗せていた手を背中に回す。

 抱きしめる力が一層強くなった。

 ……俺は理性を試されているのだろうか。

 結局、三玖の気が済むまでこの状態が続いた。

 

 

 

 

 

「遅いわね……」

「お腹の調子、悪いのかなぁ?」

「トイレが混んでるのかも。結構お客さんいるし」

「あ、あはは……きっとその内戻ってきますよ」

 

 ランチのために入った店内で三玖を待つ四人。

 客の入りは上々で、席の空きはない。

 四人もついさっき、ようやく席に着いたばかりである。

 同時に末っ子が大量の注文を済ませたため、今は料理を待つ身でもある。

 

「それにしても、修学旅行だからって浮かれすぎよ」

「まったくです。うちの生徒が他の観光客の迷惑になってないといいんですけど」

「私が言ってるのはあんたのことよ、五月」

「わ、私のどこが浮かれていると?」

「まぁ、いきなりあんな大量注文してたらね」

「そんなに食べたら動けなくなっちゃうよ?」

「私の胃袋を甘く見ないでください」

 

 年頃の女子がそれでいいのか。

 一花と二乃は心の中でつっこんだが、四葉は五月の鋼の胃袋に素直に感心した。

 もちろん、五月もただ食欲を満たすために注文したわけではない。

 三玖が目的を果たすための時間稼ぎも視野に入れてのことだ。

 

(無事に追いつけたでしょうか……)

 

 四ツ辻にいないとなると、風太郎はそのまま先に進んだ可能性が高い。

 ただ心配なのは三玖の体力だった。

 その点に関しては風太郎も似たりよったりなので、追いつけるはずと踏んで送り出したのだが。

 首尾よく合流することができたなら今頃二人で――

 

「――っ」

「きゅ、急に立ち上がって驚かせないでよ」

 

 五月は自分が一つ失念していたことに気づいた。

 二人が合流することばかりに気を配って、その先を考えていなかったのだ。

 つまり、いかにして二人きりの状況を作るかだ。

 そのためには風太郎を班から引き離さなければならない。

 三玖が自分でそれを言い出せればいいが、おそらく無理だろう。

 かといって風太郎にそういった繊細な対応を求めるのも無謀だ。

 

「ちょっと三玖の様子を見てきますっ」

「私も行くよ!」

「一人で大丈夫ですので三人はごゆっくりどうぞ!」

 

 有無を言わせる間もなく、五月は店の外へ飛び出していってしまった。

 残された三人は顔を見合わせる。

 

「五月もトイレ行きたくなったのかな?」

「さあね。三玖も本当はどこにいるのやら」

「五月ちゃんの態度も引っかかるし、これはしてやられたかな?」

「どうするのよ。多分抜け駆けされてるわよ」

「どうするもなにも、私たちも追いかけなきゃだよ」

「あ、お料理来たよ」

 

 テーブルにずらっと料理が並べられていく。

 三人の注文もあるが、半分は五月が頼んだものである。

 

「……とりあえず、処理しなきゃダメよね」

「うーん、これを見越してたなら大した策士だね」

「勝手に食べちゃっていいのかなぁ」

「二人を待ってたら冷めちゃうわよ」

 

 厳しい戦いだが、逃げるわけにはいかない。

 三人は末っ子の置き土産と格闘を開始。

 事態を飲み込めていない四葉は、首を傾げながらうどんをすすった。

 

 

 

 

 

(三玖に追いついて、いえそれより先に上杉君を――)

 

 石段を駆け上がりながら、五月は自分のやるべきことを確認する。

 まだ二人がまだ合流していないようならそれを助け、合流しているようなら他の班員を隔離する。

 三玖が別行動をとってからそれなりに時間が経っている。

 もう今頃は山頂に着いているかもしれない。

 四ツ辻から山頂まで通じる道は二つある。

 人の流れを見て三玖には観光客が多い道を勧めたが、五月は反対の道の方を進んでいる。

 距離的にはこちらの方が短いので時間も短縮できるし、もし途中で風太郎たちと出くわすなら足止めもしておける。

 やるべきことだけ考え、感情は置き去りにして駆け抜ける。

 置き去りにしなければ、自分が動けなくなってしまうからだ。

 そもそも、やるべきことは正しいのか。

 四葉のことは?

 三玖と同じ想いを抱いているであろう一花と二乃のことは?

 母の代わりとして姉妹を導くと誓ったことは?

 姉妹を守るため風太郎を見極めると決めたことは?

 ――自覚してしまった、自分自身の想いのことは?

 

(今は三玖を助ける。それだけ考えていればいいんです……!)

 

 そして三玖が風太郎にパンを渡して、その先は……その先はその先はその先は――

 

「やめてっ!」

 

 どれだけ無視しようとしても滲んでくる感情を、否定するように叫ぶ。

 胸が張り裂けそうな痛みだって、絶対に走っているせいなのだ。

 石段の終わりが見えてくる――山頂が近い。

 登りきって五月は足を止めた。

 

「そうだよ……私、頑張ったんだよ……?」

 

 足を止めざるを得なかった。

 三玖と風太郎が抱き合っていた。

 姉の想いが通じたのだと、五月はそう理解した。

 喜ばしいことだと祝福するべきか。

 それとも節度を守るようにと注意するべきか。

 

「み、く……うえすぎ、くん……」

 

 どちらもできなかった。

 立ち止まった五月は、置き去りにしたはずの感情に捕らわれてしまった。

 目の先が熱くなり視界が歪む。

 漏れそうになる嗚咽は、唇を噛むことで堪えた。

 ゆっくりと、次第にスピードを上げながら来た道を引き返す。

 動けなくなると思っていたが、一つだけできることがあった。

 それは瓦解していく自分の心を繋ぎ留める為に、その場から逃げ出すことだ。

 

 

 




長くなるので分割します。


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シスターズウォー・一日目その2

一日目の後半です。
この調子だと三日目がクソ長くなりそう……


 

 

 

「こ、これいつまで続くのよ……」

「食べ終わるまでかな……うっぷ」

「二人ともそんな無理しなくても」

「抜けがけ、ダメ、絶対」

「三玖と五月ちゃんをほっとけないからね」

「だから私が様子見に行ってくるって言ってるのに」

「トイレに探しに行ったって無駄よ」

 

 二乃と一花は、三玖が抜け駆けしたことを確信していた。

 そしてそれを五月が幇助していることも。

 すぐにでも追いかけたかったが、新幹線でのポーカーが足を引っ張っていた。

 

「まったく、あんたがあんな提案するからよ」

「まさかこんなことになるとは」

 

 勝者である五月がここで昼を食べるといえば、その通りにしなければならないのだ。

 もちろん命令者である五月はその限りではないし、三玖には明らかに目こぼしをしている。

 つまり、自分たちは昼を食べ終わるまで追いかけることができない。

 しかしこの料理の量である。

 

「……二人と合流したら五つ子会議……いえ、裁判にかけるわよ」

「こわぁ」

 

 二乃の背後に揺らめく炎が見えたような気がした。

 そもそも命令など無視すればいいのに律儀なことである。

 それはお互い様なので、一花にどうこう言えたものではないのだが。

 

「それにしても、この量は体型維持にも響きそうだよ」

「見られる職業は大変ね。ま、私も他人事じゃないけど」

「あはは、グラビアとかやってたらもっと大変そうだよね」

「そういう四葉はあまり気にしてなさそうだね」

「食べたらその分動けばいいだけだからね!」

「あー、あんたはそうよね」

 

 お腹一杯の状況では運動のことなど考えたくないものだが、四葉は一味違った。

 もしかしたら山頂まで走るつもりなのかもしれない。

 それに付き合わされることを考え、二人は断固として阻止することを誓った。

 

「ごめん、ちょっと外の空気吸ってきていい?」

「なによ、あんたも行く気?」

「さすがにしないってば。体勢変えればもうちょっと入ると思ってさ」

「じゃあ私も行くわ」

「信用ないなぁ。四葉、戦線の維持頼んだよ」

「了解!」

 

 一花と二乃は連れ立って店の外に出た。

 山頂に続く石段に目を向けたが、まだ追いかけていくわけには行かない。

 

「まさか五月がここまで三玖に肩入れするとはね」

「最近パン作りの練習に付き合ってたみたいだし」

「なるほどね。……料理のことなら私に頼ればいいのよ」

「あれ、もしかして寂しがってる?」

「誰が?」

「はいはい。まぁ、五月ちゃんだったら、味に関してはしっかりアドバイスくれそうだしね」

 

 それに、バイト先で教えてもらってるとなれば先生役はプロだ。

 二乃もパンを焼くこと自体はできるだろうが、教え役としてさすがに及ぶわけがない。

 一花に頼むのは三玖の目的を推察するのならまずない。

 結果、妹のどちらかに頼ることになったのだろう。

 

「大体ね、節度節度って言ってたくせにどういうつもりなのかしら!」

「うーん、たしかに不可解なとこはあるよね」

 

 三玖への肩入れの件は一花の中では納得できている。

 しかし例の写真にまつわる部分が不透明だ。

 事と次第によっては、この修学旅行で一花と五月は真っ向から対立することになるだろう。

 

「不可解といえばあんたもよ」

「私?」

「最初は四葉を引き込んでの悪巧みかと思ったけど、それにしては四葉自体を気にしてるみたいだし」

「……そうだね」

 

 一花は四葉に一つの負い目がある。

 風太郎と向き合う上でそれは避けられないものであり、だからこそ精算する必要があった。

 そのためには、風太郎と四葉と共に京都を回る必要があるのだ。

 もちろん手段を選んでいられない状況では、このような考えには及ばない。

 心境的にある程度余裕があってこそのものだ。

 要は、どうせ風太郎を頂いてしまうなら色々スッキリとさせておきたいのだ。

 

「さぁて、そろそろ戻ろ? 四葉だけに任せておくのはさすがにね」

「あーもう、五月は当分おかず減らして――」

 

 二乃の言葉が途切れる。

 四つ辻の一方……自分たちが登ってきた道の方を凝視して固まっている。

 一花もそちらに目を向けると、同じように固まってしまった。

 走り去っていく五月の後ろ姿があった。

 見間違えるわけがない。

 二人は頷き合うと店の中へ。

 

「四葉、緊急事態!」

「私たちのお代は置いてくから、四葉は三玖と合流して! 多分フータロー君と一緒にいるから!」

「え、え、なにかあったの?」

「五月を追うのよ!」

 

 そう言い残して二人は慌てて出て行った。

 下へ続く道へ走っていく姉達を呆然と見送る四葉。

 事態は飲み込めないが、動かなければならないことはわかった。

 とりあえず精算してから店を出る。

 食事を残してしまうことを謝ったら、早く行ってやりなさいと送り出された。

 先ほどの会話を聞かれていたようだ。

 四ツ辻に出た四葉はどうするべきか迷って、とりあえず三玖に電話をかけた。

 

『もしもし、どうしたの?』

「三玖? どこいるの?」

『……ごめん、先に山頂まで登っちゃった』

「もしかして上杉さんも一緒?」

『う、うん』

 

 一花や二乃の言っていたことは本当だった。

 四葉は素直に感心すると、さらに自分がどうするべきか考える。

 三玖の想いや頑張りは四葉も知るところである。

 風太郎と一緒にいるところを自分なんかが邪魔していいのか、と。

 姉妹の中でも頭がいい三玖はきっと風太郎とお似合いだ。

 少なくとも自分よりは。

 

『四葉?』

「えっと……ちょっと心配になっちゃっただけだよ」

『……勝手に抜け出してごめんね』

「ともかく上杉さんと一緒なら大丈夫だね! じゃあまたなにかあったら連絡するから」

 

 電話を切って四葉も参道を下り始める。

 一花と二乃が五月を捕まえてバスでホテルへ向かったという連絡が来たのは、その途中のことだった。

 

 

 

 

 

「落ち着いたか?」

「これならどうにか歩けそう」

 

 稲荷山の山頂の片隅。

 三玖のハグで注目を集めまくった俺たちは、目立たない場所で休憩をしていた。

 旅の恥はかき捨てと言うが、同じ学校のやつがいるかもしれない場所でやるのはリスキーに過ぎる。

 良からぬ事を考えないように全力で脇腹を抓っていたので、おそらく内出血が酷いことになっているだろう。

 

「くく、次の日の筋肉痛が楽しみだな」

「むぅ、フータローの意地悪」

「冗談だ。パン、ごちそうさま」

「……お粗末さまでした」

 

 むくれたりはにかんだりと、三玖の表情はコロコロ変わる。

 そこに出会った頃のような無表情な印象はどこにもない。

 もはや利害一致なだけのパートナーではない。

 温泉で五月に言われた言葉を思い出す。

 俺たちも、それだけの積み重ねを共有してきたということだろうか。

 

「そういえばあれから四葉から連絡は?」

「来てないよ。でもさすがにそろそろ合流しなきゃ」

「そうだな。俺もあいつらを置いてきちまったし――」

 

 俺と三玖の携帯がほぼ同時に音を鳴らした。

 電話ではなく、メールの到来を告げるメッセージ音だ。

 確認すると武田からだった。

 班を組むにあたって、武田と前田の二人とは連絡先を交換していた。

 

「前田のやつ、ダウンしちまったみたいだ。先にホテルに行ってるってよ」

「こっちも五月がはしゃぎすぎて疲れたからって」

「まさかあいつも食べ過ぎか?」

「否定できない……」

 

 顔を強ばらせる三玖だが、その気持ちはわかる。

 あれだけの胃袋を持つ五月が行動不能になったのなら、それはどれほどの修羅場だったのかという話だ。

 もしかしたらストレスによる過食が原因かもしれない。

 そして今のあいつが抱えているストレスに俺は無関係ではない、のかもしれない。

 そう考えると、俺も顔を強ばらせざるを得なかった。

 

「他の奴らは?」

「みんなホテルに向かってるって」

「なら俺たちも行くか」

「うん」

 

 二人連れ立って来た道とは反対の方へ。

 地図を見た限りではこちらの方が距離が短い。

 登る時よりも短時間で山を降りられるだろう。

 

「フータローってパンが好きなの?」

「まぁ、好きだな。だけど好きというよりも、思い出の味なんだ」

「思い出……」

「死んだお袋が個人喫茶をやってて、そこで手作りのパンも出してたんだ」

 

 らいはは赤ん坊だったから覚えちゃいないだろう。

 俺も小さかったから朧気なことも多い。

 でも、お袋が作ってくれたパンの暖かさだけは覚えている。

 

「それを毎日食わせてくれてさ、俺も親父も大好きだったよ」

「フータローのお母さんが」

「お前のパン食べてたら、それを思い出した」

 

 味が似ているとかそういうことじゃない。

 俺の舌はポンコツだから本当に大雑把にしか味がわからない。

 だけど懐かしい暖かさを感じた。

 それはきっと、家族のためにパンを焼いたお袋と同じなのだろう。

 三玖も誰か……この場合は俺ということになるのか。

 いよいよ自分への誤魔化しが厳しくなってきた。

 だというのにこの期に及んでその感情が友愛か、それとも別の何かに基づいているのかなどと考えてしまう。

 答えはほぼ出ているはずなのに、途中式を埋めきれないからと答案は白紙。

 ……だって自意識過剰とか言われたら恥ずかしいだろ。

 言い訳がましくなるかもしれないが、そういうのは一花と二乃の件でキャパオーバーなのだ。

 さらに五月の謎の行動という問題も頭の片隅にチラついて離れない。

 総じてこいつら姉妹が悩みのタネという認識は変わりない。

 いや、四葉は勉強方面だけな分比較的マシか?

 

「どうしたの? 難しい顔してる」

「いや、一度お前のパンを親父達にも食わせてやりたくなってな」

「え……」

「た、ただの思いつきだ。別に都合がつかなかったらそれでも――」

「――作る! もっともっと上手くなって、フータローにも毎日食べてもらいたい!」

 

 本当にただの思いつきだったのだが、三玖はものすごく食いついた。

 なんでだか、祖父の家で昔見たドラマのワンシーンを思い出してしまう

 細部はあやふやだが男が女に、毎日ご飯を作って欲しい、みたいなことを言っていた。

 当時はよく意味がわからなかったが、今ならなんとなくわかる。

 あれはずっと傍にいてほしいということだったのだ。

 

「それで……フータローの事もたくさん聞かせてほしい」

「今更語るような事なんて無いぞ」

「ううん、お母さんの話だって全然知らなかったし、私の事ももっと知ってもらいたいから」

「お前の事?」

「だってフータロー、勉強方面以外は無頓着だし」

 

 中野姉妹の三番目にして戦国武将大好き娘。

 得意な教科は日本史だが成績自体高水準(中野姉妹比)だ。

 特に戦国時代周りの知識量は半端ない。

 こいつに負けじと、学校の図書室から関連書籍を片っ端から借りていったのを思い出す。

 思えば、四葉を除けば一番最初に歩み寄ってくれたのが三玖だ。

 向き合ってきた時間もその分長いはずなのだ。

 完璧とまではいかないまでも、それなりには知ってることはある。

 勉強不足と決めつけられては、こちらの気がすまないというものだ。

 

「私の好きな食べ物は?」

「……コロッケ?」

「違う、抹茶」

「抹茶は飲み物では!?」

「次、私の好きな動物は?」

「う、馬? 武将も乗ってるやつ」

「違う、ハリネズミ。よく見るテレビは?」

「大河ドラマ、的な?」

「戦国時代のは見るけど違う、ドキュメンタリー」

 

 思った以上に難易度が高かった。

 というか三玖の言う通り、勉強方面以外はボロボロだった。

 家庭教師と生徒という関係上、話題が偏るのは仕方がないのだ。

 この調子で中野姉妹テストなるものが実施されたら、もはや赤点を取る自信しかない。

 

「じゃあ嫌いな食べ物は?」

「甘い物、だったような……」

「もっと具体的に」

「さ、砂糖」

「もはや原材料……チョコレートだよ。好きな飲み物は?」

「抹茶ソーダだ!」

「それも好きだけど、正解は緑茶」

「食べ物は抹茶で飲み物は緑茶か……」

 

 他にも日課は朝の占いチェック、武将が出てくる映画が好きで読む本は主に自叙伝。

 何かの隙間がお気に入りのスポットで朝御飯は白米派。

 辛うじての正解は映画と本の項目だった。

 パンを焼いてきたからパン派だと思ったら、それは二乃なのだという。

 酷い引掛けもあったものだ。

 こうも外しまくったらいっそ清々しい。

 もうどうにでもなれ、というやつだ。

 ただ、それ見たことかとでも言いたげな三玖の顔は少々頭にくるものがある。

 そろそろこちらの反撃と行かせてもらおう。

 

「調子に乗るなこの卑屈馬鹿」

「ひ、卑屈? しかも馬鹿って……」

「なにかにつけてネガティブネガティブネガティブ……こっちがどれほど気を使ったと思ってやがる」

「うぅ……」

「だが、お前はそれでも前に進んできた」

 

 前に進むなんてのは誰もがやっているし、特別な事ではないだろう。

 だけど、自分に出来ないことを克服するとなったらそれ相応の努力がいる。

 特に、こいつのように後ろ向きな奴には。

 

「勉強もそうだし、パン作りにしたって結構苦労しただろ」

「……うん」

「将来なりたいものとか、夢はあるか?」

「それは、まだわからないよ」

「もし目標があって、それを不安に思うなら思い出せよ。自分は壁を乗り越えてきたんだって」

 

 そしてその努力は、きっとこれから先も進んでいくための篝火になる。

 なんだか説教臭くなってしまったのは、曲がりなりにも教師を続けてきたからか。

 それに……実を言うと、三玖に共感するところがないわけじゃない。

 かつての俺にとっての出来ない事は、勉強そのものだったのだから。

 

「……昔、悪ガキの見本みたいな奴がいたんだよ」

「いきなり何の話?」

「いいから聞け。頭は染めてたしピアス穴も空けてたし、修学旅行に親父の仕事道具を勝手に持ち出すどうしようもない奴だ」

「いわゆる不良かな」

「このままじゃダメだと気づいたそいつは一念発起して苦手な勉強をしまくって、そして学年一位を取れる程度にはなりましたとさ」

「それって……もしかしてフータロー?」

「誰にも言うなよ? とまぁ、嫌いだ苦手だと思ってても、ここまでやれるようになれるってことだ」

 

 大分恥ずかしい話をしてしまったが、旅の恥はどうせかき捨てだ。

 こんな話をしてしまったのも、きっと修学旅行のテンションのせいだ。

 三玖の反応はわからない。

 つーかあんな話をした後だから俺の方が顔を見せたくない。

 

「なんか先生みたい」

「お前らに対しては事実としてそうなんだが」

「でも、ふふっ……フータローのこと教えてもらっちゃった」

 

 三玖の声は弾んでいた。

 嬉しそうなのは結構だが、こっちはそれに比例して羞恥のゲージが上がっていくのが問題だ。

 今更ながら、話した事を後悔してしまう。

 

「ね、最後に一つ当ててみてよ」

「またクイズかよ。勘弁してくれ……」

 

 俺の前に出た三玖はこちらに向き直った。

 理由は様々ながら、顔を逸らしてしまう。

 その後に続く言葉は、そんなことを忘れさせる程度には強烈だった。

 

「私の好きな人、誰だと思う?」

 

 直前までの羞恥は吹き飛んで、三玖の顔を凝視してしまう。

 真っ赤だった。

 だというのに、視線をそらそうとはしなかった。

 これには俺が耐えられない。

 変な考えが湧き出てくる前に逃げの一手を出さざるを得なかった。

 

「か、家族だろ?」

「違う、もっと変な意味で」

「せ、戦国武将とか」

「違う、ちゃんと今生きてる人」

「――っ、おっといい加減戻らなきゃな!」

 

 逃げ道も見えなくなってきたところで取る手段は一つだ。

 即ち、物理的な逃亡。

 横をすり抜けて石段を降りようとするが、肩が接触してしまい三玖はよろけてしまう。

 そんな勢い良くぶつかったわけじゃないが、ここは足場が不安定で足の疲労もあったのだろう。

 倒れていく体に手を伸ばし、どうにか鳥居に手をついてバランスをとる。

 事故でしかないのだが、三玖の顔が至近距離にあった。

 そしてこいつは何を思ったのか俺の首に手を回してきて――

 

「おい、待て――」

「やだ」

 

 唇と唇が触れ合う。

 体勢もあってか避けることはできなかった。

 三玖の匂いや感触に、今朝発散したはずの青い衝動が首をもたげてくる。

 このままでは、意に反して体の一部が形状変化してしまう……!

 抗いがたい情動を必死に抑える。

 模試の時の二の舞になるわけにはいかなかった。

 

「――どう、わかった?」

「……安売りしすぎだ。もっと自分を大事にしろよ」

「好き」

「これだけされたら、さすがにわかる」

 

 唇が離れ、支えていた体も離れ、幾ばくかの沈黙が流れる。

 顔が熱いのは見た目にもきっと表れている。

 横目で見た三玖の顔は相変わらず赤いが、どこか表情は晴れやかだった。

 まるで今まで解けなかった難問が、やっと解けたかのようだ。

 こっちは更に問題を抱えるような事態になってしまったわけだが。

 そして差し当たっての問題が一つ。

 ここは公共の場で、他の観光客の目があるということだ。

 

「……降りるか」

「……そうだね」

 

 俺と三玖は顔を真っ赤にしたまま、無言で山を下るのだった。

 

 

 

 

 

「で、あんたは一人抜け出してフー君と一緒だったと」

「心配かけてごめん」

「心配というよりも、してやられたってところかな」

「一花も二乃も、よく三玖が上杉さんと一緒にいるってわかったね」

「まぁ、状況証拠の積み重ねだよね」

「それと乙女の勘よ」

 

 ホテル内のレストランでの夕食。

 一人欠いた中野姉妹は同じテーブルについていた。

 三玖を除く三人は昼御飯の影響か箸の進みが遅い。

 

「……五月は大丈夫?」

「部屋で休んでる。歩き疲れちゃったって」

「あの子がご飯を抜くなんて相当な事態よ」

 

 一花と二乃が捕まえた時には泣いていたのか、五月は目を腫らしていた。

 何を聞いてもなんでもないと答えるだけなので大事をとってホテルへと連れて行ったのだが、それからはベッドに座り込んでずっと無言だ。

 下手に触れるのは良くないと判断した姉二人は、ひとまずは姉妹の合流を優先した。

 少し遅れて四葉がホテルに到着して、それからだいぶ遅れて三玖が到着。

 部屋に立ち寄る暇のなかった三玖は、まだ五月と顔を合わせていない。

 

「あんたが五月と結託してたのはわかってるわ。なにか様子がおかしな所はなかった?」

「わからない……抜け出してから顔も合わせてないし」

「う~ん……あっ! もしかしたら私たちが先に食べてるのに気づいてショックを受けたんじゃ……」

「あんな外から店の中の様子なんてわからないわよ」

「脇目もふらずに行っちゃったからね」

「そっかぁ」

 

 四人で頭をひねっても答えは見つかりそうになかった。

 この問題に関しては風太郎も当てにならない。

 となれば、本人に聞くしかないだろう。

 心配なことは変わりないが、四人の意見はひとまず一致した。

 そうすると次に矛先が向くのは三玖だ。

 五月の件で暗くなりそうな空気を変えるために、一花は少し声のトーンを上げて切り出した。

 

「五月ちゃんのことは後に回すとして、何をしてたのか詳しく聞かせてよ」

「え……それは、ちょっと」

「なになに、もしかしてイケナイ事をしてたとか?」

「……」

 

 無言で顔を赤くする三玖に、姉二人は顔を引きつらせた。

 そして後で風太郎を尋問することを決意した。

 一方四葉はイケナイ事と聞いて、鳥居に登る風太郎と三玖を思い浮かべた。

 

「三玖、さすがに罰当たりだよ!」

「そ、そうなのかな」

「それより大丈夫? 降りるとき怪我しなかった?」

「うん。フータローが支えてくれたし……あっ、ダメ――」

 

 そしてその後のキスの事を思い出して、三玖は膝を抱え込んで悶え始めた。

 妄想の中で三玖と風太郎はもうすごい事になり、最終的に結婚して子供も生まれていた。

 またいつものか、と呆れる姉二人の耳がシャッター音を捉えたのはその時だった。

 

「……またね」

「ホテルに向かう前、バス乗る時にもあったよね」

「ここまで来たら偶然じゃないわよ」

「よく修学旅行生が狙われるって話もあるし」

「そもそも女優様が一緒だもの。そういう輩が出てきたって不思議じゃないわ」

「何の話?」

「盗撮、されてるかも」

「えっ」

 

 一花から出た盗撮という言葉に四葉は小さく驚いた。

 そういうことがあるとは知っていても、まさか自分が当事者になるとは思ってもみなかったのだ。

 そして再びシャッター音。

 三人が音がする方へ振り向くと、違うテーブルで食事をとる女子がSNS用の写真を撮っていた。

 

「あ、あはは……考えすぎだよ二人とも」

「そうだといいんだけど」

「おかしいわね……」

「あれ、どうかしたの?」

 

 そこで三玖が妄想から復帰した。

 一花と二乃は同時に脱力した。

 

「さ、早く食べて部屋に戻ろうよ」

「そうね。五月をほっとくわけにもいかないし」

「お腹空かせてないかな……心配」

「テイクアウトショップあったよね。何か見繕っていこうかな」

「そうだね、私も行く――痛っ」

 

 一花に賛成して立ち上がった三玖だが、足の痛みでまた座り込む。

 酷い筋肉痛だった。

 山道で頑張りすぎた代償だ。

 むしろ筋肉痛以外に異常がないのが幸いと言えるだろう。

 

「ほら、あんたは無理しないで部屋に戻りなさい」

「五月ちゃんへの差し入れは私に任せてよ」

「先生に言って湿布もらえないかな?」

 

 どうにか食べ終わった姉妹たちは各々席から立つ。

 二乃と四葉は歩くのが辛そうな三玖を支え、一花は五月のための食料を調達しに行った。

 三玖は今まで協力してくれた五月に何かしてあげられないかと考えるが、すぐには思いつかなかった。

 

 

 

 

 

「なんでお前は毎度トイレについてくるんだよ」

「ふふ、僕と君の交流の場じゃないか」

「気持ち悪いことを言うな」

 

 俺と武田は連れ立ってトイレを出る。

 前田は夕食を早めに切り上げて別行動だ。

 どこにいるのかはともかくとして、何をやっているのかは大体わかる。

 それにしてもあいつ、昼にあれだけ無茶してよく晩飯も入ったな。

 

「それで、例の件はどうなってる?」

「ぼちぼちだね。まぁ、二日目は団体行動だから主にそこで、かな?」

「しっかり頼むぞ」

「それじゃあ、僕は先に部屋に戻ってるよ」

「ああ、俺も用を済ませたら戻る」

 

 武田と別れると俺は目的の場所へ……行かず、廊下を行ったり来たりの往復だ。

 目的とはあいつらの様子を見に行くことだが、これまた気まずい事情がある。

 複数あるが、一番大きいのは他ならぬ三玖との一件だ。

 あの後山を下っていったわけだが、俺達の体力的な事情でゆっくり行かざるを得なかった。

 結果意外にも時間を取られてしまった。

 その間は互いに無言、ホテル行きのバスの中でも無言だ。

 俺としては少し離れて座るつもりだったが、三玖は隣に座ってきた。

 そして座ってくるだけじゃなく、手を重ねて肩にもたれかかってくる始末。

 そのまま寝てしまったので、おかげで俺は無心で素数を数える羽目になった。

 バスの乗客がほとんどいなかったのは幸いだった。

 そんなわけで普通に気まずい。

 あいつらの告白の後は毎回これだ。

 一花と二乃は返事を求めてきていないが、三玖の件も含めていつまでもそのままにしているわけにはいかないだろう。

 

「あれ、フータロー君?」

「一花か」

「奇遇だね。部屋こっちだっけ?」

「五月の調子が悪いと聞いたぞ。が、学級長としては確認しておこうと思ってな」

「うわっ、素直じゃないなぁ」

「うるせー」

 

 ニマニマしながら肘でつつかれる。

 獲物をオモチャにして甚振る様は猫のようだ。

 追い払うように手を払って距離を取らせる。

 中野姉妹に接近しすぎると危険なのはどいつでもそうだが、こいつの危険度はトップだ。

 なんでかというと、肌色の面積が一番多い。

 特に胸元は他の奴より一つ多くボタンを開けているため、谷間が見えてしまうことがあるのだ。

 こんな所に気がつくようになってしまったのが少し悲しいぜ……

 危険度が高いのはそうなのだが、校則に違反しているわけではないので注意もできない。

 となると接近しすぎないか俺の精神力を発揮するしかないのだが、日中のあれこれで心の防壁がやや脆くなっている。

 強度を回復させるためには、どこぞで発散する必要がある。

 ブツはどうにか持ち込んだが問題なのはタイミングだろう。

 

「ところでお前ら部屋でパーティーでも開く気か?」

「これなら五月ちゃん用だよ。あれ、もしかして禁止されてる?」

「いや、菓子の類がOKだから大丈夫だろ。あまり散らかすなよ」

「なんか学級長っぽいね」

「学級長そのものなんだが」

 

 一花が提げたビニール袋の中には、プラスチック容器に入った料理があった。

 五月は夕食時には見かけなかったので、ずっと部屋にいたということだろう。

 あの食いしん坊がご飯を抜くとはいよいよ重症だ。

 詳しい事情は分からないが、零奈の件が関わっているとしたら静観を決め込んでいるわけには行かない。

 やはりこんな所でマゴマゴしている場合ではないか。

 

「そういえばフータロー君、三玖となにかあった?」

 

 完全に不意打ちだった。

 五月の事に意識を割いていて、三玖との件でつつかれるとは思っていなかったのだ。

 しかもこれは質問の体だが、一花の声音には断定じみた響きがあった。

 こいつ、なにか掴んだ上で俺の口から吐かせようとしているのか?

 ……落ち着け、まずは穏やかにやり過ごそう。

 

「な、なにもないが?」

「なんだか焦ってない?」

 

 はい失敗しました。

 このまま知らぬ存ぜぬで通すのは、かえって疑惑を深める事になるだろう。

 後で三玖に詰められたらそれで終わりだ。

 だとしたらここで必要なのは当たり障りのない真実だ。

 

「ちょっとパンをご馳走になっただけだよ」

「なるほどね。三玖が持ってた紙袋の中身はそれだったんだ」

「結構美味かったぞ。お前らも今度ご馳走になってみろよ」

「うーん……五月ちゃんも協力してたし味的には問題ないのかな?」

 

 どうにかやりすごせたか……?

 一花の興味は三玖のパンの方に向いたようだ。

 木を隠すなら森の中。

 真実は他の真実に紛れ込ませるに限る。

 これで追求の手が止まる――

 

「それで? もちろんそれだけじゃないんだよね?」

「……さぁ? 他に何かあったかな?」

「フータロー君って結構わかりやすいよね」

 

 なんてホッと胸をなで下ろしている暇はなかった。

 一花はクスクスと笑っているが、その目は獲物を追い詰めた狩人の目だ。

 まずい、非常にまずい。

 やはりこいつは確信を持って俺に詰めてきている……!

 

「三玖にもさ、何してたのって聞いてみたんだ」

「へ、へぇ……なんか面白い事でも聞けたか?」

「面白いものは見れたかな。顔を真っ赤にして膝を抱えて悶える三玖、とか」

「ど、どうしたんだろうな? 風邪でもひいたかな?」

「私はそうなるだけの何かがあったと思ってるんだよね。ね、どう思う?」

 

 まるで真綿で首を絞められてるような感覚。

 ジワジワと、俺を追い詰めるように一花は距離を詰めてくる。

 後ずさるも、すぐに壁際に追い詰められてしまった。

 一花は壁に手をついて、下から俺の顔を覗き込んだ。

 これ以上誤魔化すのは不可能か……

 

「……実は告白された」

「告白、三玖が?」

「う、嘘は言ってないからな」

「そっかぁ……やっと言ったんだ」

「……驚かないんだな」

「そりゃあね。三玖の気持ちは前々から知ってたし」

 

 納得がいったようで、一花はようやく離れてくれた。

 これでさらに重大な事実は話さずに済みそうだ。

 どうにか切り抜けたか……

 

「それで、なんて答えたのさ」

「返事はしてねーよ。周りの目もあってそんな雰囲気でもなかったし」

「フータロー君も大概女誑しだねぇ」

「お前らの趣味が悪いんだよ!」

「あ、酷ーい! 自分でそれ言う?」

 

 一花はむくれてまた詰め寄ってきた。

 今度はさらに近い。

 唇が、嫌でも目に入った。

 勢い良く目をそらす。

 

「顔、赤いね。もしかして恥ずかしがってる?」

「……うるせー」

「むふふ、したいんならしてもいいんだよ、キス」

「今日はもう十分だっての」

「えっ」

「あ、やべっ」

 

 どういうわけか、俺の口はうっかりと滑りやがった。

 ……はい、油断した俺の責任ですね。

 一花が呆然としたのは一瞬で、次の瞬間には掴みかかってきた。

 

「ずるーい! したんだ、三玖としたんだ!」

「お、おち、落ち着け!」

「じゃあ私にもしてよ! ほら、減るものでもないんだから!」

「俺の精神が磨り減るんだよ!」

 

 一花の頭を掴んで必死に押しとどめる。

 これ以上の暴挙を許すわけにはいかなかった。

 その後数分の格闘の末、どうにかクールダウン。

 互いに肩で息をして壁にもたれて座り込む。

 周囲に誰もいなくて本当に良かった……

 

「……フータロー君は三玖が好きなの?」

「わかんねぇよ。今だって戸惑ってるんだ」

「そっか、ならまだ大丈夫だね」

 

 立ち上がってスカートの埃を払うと、一花は俺の前にしゃがみこんできた。

 まさか第二ラウンドか?

 こっちにはもうロクに抵抗する力がないってのに……

 

「埋め合わせを要求します」

「なんのだよ」

「三玖にはしたのに私にはしてくれなかった埋め合わせ」

「したんじゃなくてされたんだが」

「悲しいなー、いつまでもお預けくらって寂しいなー」

「こ、こいつ……」

 

 自分で保留させたくせに随分と無茶苦茶を言ってくれるもんだな!

 こちらの負い目をチクチクと攻める戦法に切り替えた一花は、率直に言って厄介だった。

 二乃の攻め一辺倒なやり方の方が単純な分まだ気が楽だ。

 対処できるかはまた別問題だが。

 ……頭が痛くなってきた。

 

「俺に出来る範囲で頼むぞ」

「じゃあキス」

「埋め合わせの意味わかってんのか?」

「わかったよもう……明日、団体行動の時にちょっと付き合ってよ」

「何企んでるんだよ」

「フータロー君は私をなんだと思ってるのかな?」

「わ、わかった。明日の団体行動だな」

 

 笑顔の一花だが目は笑っていなかった。

 さすがに身の危険を感じては受け入れざるを得ない。

 俺の返事に満足気に笑う一花。

 仕事柄なのか表情の切り替えが早い。

 ホントこいつ厄介だわ……

 

「部屋戻るけど、フータロー君も来る?」

「いや、今日は遠慮しとく」

 

 このままの調子で一花に三玖、そして二乃まで加えたらもはや状況はカオスだ。

 今の俺の体力でそれが乗り切れるとは思えなかった。

 五月には明日にでも美味いものを持って行ってやろう。

 ここら辺の悩みとは無縁な四葉が無性に恋しくなる。

 あいつはあいつでまた厄介なことには違わないが。

 

「じゃあまた明日ね」

「ああ、あいつに好きなだけ食わせてやってくれ」

 

 

 

 

 

「五月ー、いるんでしょー? 鍵開けなさーい」

「電話もダメみたい……」

「なんで自分の部屋なのに自由に出入りできないのかしらね」

 

 二乃と三玖が呼びかけるも、部屋の中の五月は応えない。

 一花は五月のための食料を調達に、四葉は三玖のための湿布を貰いに行っていた。

 部屋に引きこもった五月はさながら天照大神である。

 岩戸を開くために尽力する二人だが、もはや万策が尽きつつある。

 このままではマスターキーという最終手段に頼らざるを得ない。

 

「五月、私が気づかないうちに傷つけてしまったなら謝りたい……だからせめて、話だけでもさせてほしい」

 

 部屋の中で膝を抱えた五月は、呼びかける三玖の声に自分の不甲斐なさを噛み締めた。

 違うのだと、三玖を利用していたのは自分なのだと。

 それで勝手に傷ついただけなのだと。

 

「仕方ないわね……あまり気は進まないけど、先生に言うしかないのかしら」

「二乃、それはさすがに……せめて一花たちが戻ってくるまで待とうよ」

「一花……その手があったわね! 食べ物の匂いに釣られて出てくる可能性は十分にあるわ!」

 

 二乃のやや失礼な発言も五月の心には響かない。

 それとは関係ないがお腹の虫が鳴いたので、掛け布団をかぶってさらに丸まった。

 決してこれから来るであろう食べ物の誘惑に耐えるためではない。

 

「早くベッドに横になりたい……」

「シャワーも浴びたーい!」

 

 ダメ元で呼びかけてみる二人だが、やはり反応はなかった。

 ドアの横に座り込んで一花たちを待つ。

 最終手段を除けば、これ以上できることはなさそうだった。

 天井を見上げて同時にため息をつく二人。

 カメラのシャッター音が響いたのはその時だった。

 

「げ、幻聴だよね?」

「そうよ、さすがにホテルの中でまで――」

 

 廊下の角から覗くインスタントカメラと、それを握った何者かの手。

 そのレンズは明らかに二乃と三玖を捉えていた。

 

「「~~~~っ!!」」

 

 全身を走る怖気に逃げ出そうとする二人だが、三玖は走れる体ではなかった。

 置いていくわけににもいかない二乃は、部屋のドアを強く叩いて呼びかける。

 

「五月、五月っ! 緊急事態よ! 三玖がヤバイの!」

 

 先程とは打って変わった切実な声。

 必死な二乃の声を聞いた五月は反射的にベッドから飛び出していた。

 すぐさまドアの鍵を開け、二人を部屋の中に迎え入れる。

 

「や、やっと開けてくれた……」

「二人とも、一体何が――」

「いいから閉めるわよ!」

 

 素早くドアを閉める。

 オートロック機能で鍵は自動的に閉まった。

 

「……五月、大丈夫?」

「三玖、私は……」

「あーもう、またこんなに目ぇ腫らしちゃって。もうすぐ一花がご飯持ってくるから顔洗っておきなさい」

 

 二乃は五月を洗面所に押し込んだ。

 こういう時は有無を言わさず、多少強引に対応すればいいというのは経験則だ。

 なんだかんだ面倒見のいい二乃と、末っ子気質の五月との相性は悪くないのだ。

 

「さて、一花と四葉に不審者注意って伝えておかないとね」

「疲れた……」

「せめて着替えなさいよ。シワになるわよ」

 

 早起きしてのパン作りに、日中の山登りですっかり体力は空になっていた。

 ベッドに倒れ込んだ三玖の意識は吸い込まれるように落ちていく。

 その間際に浮かんだのは風太郎との事、そして先ほどの五月の顔だった。

 

(今度は私がなんとかしてあげなくちゃ――)

 

 そう決意すると同時に、三玖の意識は完全に沈んでいった。

 

 

 




中腹から山頂、山頂から麓の手前まで走り通した五月の健脚。


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シスターズウォー・二日目その1

二日目開幕です。


 

 

 

 修学旅行二日目は団体行動が主となる。

 今回来ているのは清水寺だ。

 入口である仁王門の前には、同じ旭高校の生徒の姿が少なからず見える。

 移動制限の中でなら班と関係なく誰と回ってもいいのだが、大体は同じ班員で固まるだろう。

 それは俺の班も同じだ。

 

「清水寺か……」

「いつになくセンチメンタルだね。なにか思い出が?」

「いや、大したもんじゃない」

 

 そんなことを言ったら、京都に来てからの俺はずっと感傷的だったことになる。

 あまり考えないようにはしていたのだが、やはり特に思い出深い場所に来るとこうなってしまうか。

 五月にあんなことを言った手前、情けない限りだと自分でも思う。

 

「早く行こうぜ。清水寺ったら飛び降りるのが有名なんだろ」

「君の認識は色々と残念だね」

「んだとコラ」

「行くぞ、お前ら」

 

 先んじて門をくぐる。

 特に考えずとも流れに沿って進めば一通り回れるはずだ。

 周囲を見回すが中野姉妹の姿はない。

 一花との約束を考えると早めに合流しておきたい。

 が、他の諸々を考えるとどうにかあいつだけ呼び出したいところだ。

 当の本人が姉妹と一緒にいることを強要してきたら、その時点で俺に打つ手はなくなるのだが。

 

「あ、いたいた」

「二乃か。他の連中は?」

「私一人よ」

「お前、まさか抜け出してきたのか?」

「三玖に出来て私に出来ないとでも思った?」

 

 出来る出来ないというより、やるかやらないかで言えば二乃はやるだろう。

 それよりも、三玖の名前が出たタイミングで二乃の視線が厳しくなったような気がする。

 一花との情報共有が為されていれば十分にありえる反応だ。

 緊張からか頬を汗が伝う。

 俺自らそうしようと動いているわけではないが、多方面に不義理な事態になっているのは確かなのだ。

 

「……一花は何か言ってたか?」

「特に何も。って、まさか一花とも言えないようなことしてたってわけ?」

「ちげーよ。二日目にちょっと付き合えって言われててな」

「ふーん」

 

 二乃の視線はどこか疑わしげだ。

 三玖との一件については詳しく伝わっていないようだが、今度は一花との事に関して疑惑を持たれてしまった。

 めんどくせー限りだが、身から出た錆という側面もある。

 いっそ前田と武田が割り込んでくれないかと期待したが、清水寺のことで何やら熱く語り合っていた。

 

「ま、いいわ。それより一花のとこに行きたいなら一緒に来ない?」

「あー、他の奴も一緒なのか? 五月は調子悪いって聞いたが」

「あの子はホテルでお休みよ。三玖も筋肉痛で動けないって」

「そうか……てことは今日は三人なんだな。残念だ」

 

 とは言ったが、三玖との顔合わせが先延ばしになって助かったという思いもあった。

 いい加減気持ちに整理をつけないと駄目かもしれない。

 

「さ、行きましょ」

「おい、引っ張るなよ」

「私と一緒に歩けるんだから、ラッキーだと思っとけばいいのよ」

 

 二乃は俺の手を掴んでズンズンと歩き出した。

 その力強さに抵抗は無意味だと悟る。

 我が事ながら、この体の貧弱さはどうにかした方がいいと思う。

 今まで勉強ばかりしていたツケとも言える。

 筋トレでも始めてみるか……いや、そんな暇があるならやっぱり勉強したい。

 せめて武田達に一言残しておきたかったが、既に結構な距離が開いてしまった。

 つーか、あいつらも少しこっちに意識を割いてくれ。

 まぁ、後でメールしておこう。

 

「えっと……あそこらへんが良さそうね」

「本当にこっちに一花達がいるのか?」

「いいから着いてきなさいよ」

 

 着いて行くもなにも、手を掴まれているのでそうせざるを得ない。

 そうして建物の陰に入ると、二乃はようやく足を止めた。

 木々でちょうど死角になっている場所だ。

 

「単刀直入に聞くけど、三玖と何してたのよ」

「お前もそれか」

「どうせ一花にも聞かれたんでしょ。観念して言っちゃいなさいよ」

「……パンをご馳走になって、それから……こ、告白された」

 

 どうせ一花に確認を取られたら終わりなので、正直に答えておく。

 三玖のためにもあまり周知するようなことはしたくないが、これはしかたがない。

 つーか、これ俺にもダメージ来るんだよな。

 気恥かしさで顔が熱くなってきてしまう。

 

「そう。三玖のくせにやるじゃない」

「お前も驚かないんだな」

「時間の問題だと思ってたし」

 

 一花も二乃もということは、姉妹全員に知れ渡ってるのかもしれない。

 俺でさえそうかもしれないと思っていたぐらいだし、十分ありえる。

 

「一応言っておくが、返事はしてない。つーか、するには状況がコチャゴチャすぎる」

「スッキリさせる良い方法があるんだけど、知りたくない?」

「いや、大体予想できるからいい」

 

 どうせ二乃の事だから、この機会に乗じてあれこれと迫ってくるのだろう。

 ここで主導権を握られるわけにはいかない。

 模試の日のような事を繰り返すわけにはいかないのだ。

 ハシゴを外されたからか、二乃はむくれて掴みかかってきた。

 

「なんでよ! 私がキスしてあげるって言ってるのに!」

「やっぱりそういうことか……お前も俺にばっかり構ってんじゃねぇよ」

「せっかくの修学旅行じゃない。好きな人と一緒にいて何が悪いのよ」

 

 ストレートな言葉だった。

 こちらを見上げる二乃から目をそらす。

 きっと顔が赤くなっている。

 こうなってしまえば、思考がそういう方向に流れていってしまう。

 この状況で二乃の顔、特に唇を目に入れるのは危険なのだ。

 

「ねぇ、フー君……ダメ?」

「それ、は……」

 

 柔らかい感触。

 いつの間にか二乃は密着していた。

 明確にまずい状況だ。

 今朝発散したばかりの衝動が、徐々に高まりつつあるのを感じる。

 二乃の手が頬に触れる。

 そして顔が徐々に近づき、唇と唇が触れる――その寸前で、携帯の着信メロディが響いた。

 俺には聞きなれない今風の曲は、二乃のスマホから流れていた。

 

「誰よ、いい所なのに……!」

 

 注意がそれた一瞬に、二乃から距離を取る。

 建物の陰から抜け出してホッと一息。

 危なかった……あのままなら、またしてもキスしてしまうところだった。

 誰だか知らないが、電話をかけてきた奴に感謝だ。

 

「おや、上杉さん。もしかしてお一人ですか?」

「お、お前か……四葉」

「なにやらお疲れのご様子ですね。でしたらこちらをどうぞ!」

 

 四葉が差し出してきたのはオレンジ味の飴だった。

 促されるままに口にすると、酸味を含んだ甘味が口内に広がっていく。

 糖分と、なによりその純粋な優しさが身にしみた。

 気がつくと俺は、縋り付くように四葉の手を取っていた。

 

「う、上杉さん!?」

「俺はお前がいないと駄目かもしれない」

「えええっ!?」

 

 ここ最近で急に女性関係に悩まされ始めた俺にとって、四葉はまさに癒しだった。

 思えばこいつは、初めから俺に好意的に接してくれた。

 ……天使か?

 

「フータロー君? 四葉の手を握ってなにしてるのかな」

「あ、フー君! なんで四葉と一緒にいるのよ」

 

 四葉の後方から現れた一花は、携帯を手に持って薄く笑っていた。

 建物の陰から俺を追って出てきたであろう二乃は、明らかに語気が強い。

 前門の一花、後門の二乃。

 つまり、俺は挟み撃ちにされたというわけだ。

 

「せっかくのチャンスだったのに、よくも邪魔してくれたわね」

「何の事かわからないけど、二乃がはぐれちゃうから心配したよ」

「よく言うわ。わかっててやったくせに」

「そっちこそ。ちょっと目を離したらこれだもんね」

「ははは、見ろよ四葉。あの雲おもしれー形してるぜ」

「上杉さん、現実逃避はやめて帰ってきてください!」

 

 

 

 

 

 そうして合流を果たした俺達は、結局全員で行動することになった。

 最初は一花と二乃の睨み合いもあってどうなるかと思ったが、そこは長女の面目躍如だ。

 矛を収めた一花が全員で回ることを提案したのだ。

 四葉は当然賛成、俺も消極的にだがその提案に乗った。

 二乃は渋ったが、強行突破できる状況でもないので最終的には従った。

 

「あ、見てフータロー君、あれ面白そうだよ。四葉と一緒に――」

「私と行きましょ、フー君」

 

 とはいえ、その基本方針に変わりはないようだ。

 二乃は俺の手を引いて進んでいく。

 一花や四葉に対して、ついてくるなら勝手にしろ、とでも言わんばかりの態度だ。

 振り返ると二人の顔が見えた。

 顔を引きつらせた一花と、不安気な表情の四葉。

 これは、少しまずいかもしれない。

 

「先に行くと縁結びの神様の神社があるみたい。二人で参拝するわよ」

「おい」

「お守り買えるみたいだし、お揃いのを買うのもありね」

「二乃」

「それと音羽の滝だっけ? お水に恋愛成就のご利益あるみたいよ。後で一緒に飲みましょ」

「聞け!」

「……なによ」

 

 強めに呼びかけると、二乃はようやく止まった。

 さすがにこれ以上の暴走は看過できない。

 俺だけが巻き込まれるなら、それはそれで構わない。

 いや、決して良くはないが。

 だが、それが姉妹を蔑ろにするものなら黙っているわけにはいかない。

 なによりそんな二乃の姿を俺が見たくなかった。

 あの時に五人でいてほしいと言ったのは、紛れもない本心だったのだから。

 

「お前が俺を優先してくれるのは正直、その……悪い気はしない」

「ならっ」

「だがな、それで他の奴をどうでもいいと切り捨ててほしくはないんだよ」

 

 一つの目的のために他の物を切り捨てる。

 それは他ならぬ俺自身が実践してきた生き方だ。

 今にして思えば、酷く空虚なものだったように思える。

 たとえそれで目指す場所にたどり着けたとしても、きっと空っぽの自分に気付くだけなのだ。

 

「お前を焦らせる原因が俺にあるのなら、今ここで答えを出したっていい」

「それは……」

「二乃、俺は――」

「待って!」

 

 割り込むような制止の声。

 一花だった。

 そして押し黙る二乃の手を掴んでまたも提案してきた。

 

「やっぱり二手に別れようか。私は話があるから二乃と行くね」

「あ、ちょっと」

「四葉、フータロー君を目一杯楽しませてあげてよ。ツーショット写真がおすすめかな」

 

 言いたい放題言うと、一花は二乃を引っ張って行ってしまった。

 つーか埋め合わせの件はどうなるんだか。

 

「まったく、調子狂うぜ」

「三玖と五月のこともあるし、二乃もちょっと空回っちゃってるんだと思います」

「そうか」

「最初は二人を残しておけないとまで言ってましたし」

「それはいかにもあいつらしいな」

 

 あの姉妹バカが二人を残して平気なはずないよな。

 少しだけ安心だ。

 

「その、私たちも行っちゃいます?」

「そうだな」

 

 

 

 

 

 二乃の手を引いて一花は境内を横切るように進む。

 どうにかしなければと思ってはいたが、こうも直接的な手段に出るつもりはなかった。

 二乃への共感、連鎖的に答えが出てしまうことへの恐怖。

 理由はいくつかあるが、風太郎の言葉を遮るように一花は行動に出た。

 

「ちょっと、どこまで行くのよ」

「あの二人から十分に離れるまで、かな」

「……あんた一体何が目的なのよ」

 

 問いかけに足を止める。

 もう十分に距離を稼いだと判断して、一花は手を離した。

 

「二乃はさ、小学校の修学旅行の事、覚えてる?」

「ある程度はね」

「四葉が連れてきた男の子の事や、その子と私がトランプしてた事は?」

「そんな事もあったわね……って、それとこれと何の関係があるのよ!」

「それ、フータロー君」

「え? で、でもあの子はたしか金髪だったような……」

 

 遠目にしか見ていなかったが、四葉が連れてきたという風なんとか君は小学生ながらに髪を染めていたはず。

 今にして思えば中々好みの風貌だったかもしれないと二乃は思い返す。

 そして自分が仲良くしていた相手を姉に取られた四葉の顔も。

 

「今でこそガリ勉君だけど、当時は格好も言動もやんちゃだったからね」

「ウソ、信じられな……くもないわね」

 

 以前に見た、風太郎が持っていた写真に映った少年。

 従兄弟の金太郎だと説明されたが、そんな人物はいなかったのだ。

 二乃の目の前に現れた金太郎は、風太郎の変装だった。

 となると浮上するのは、写真の少年が自分ではないと誤魔化すために出まかせを言った可能性だ。

 

「喉に刺さった小骨ってさ、中々に厄介だよね」

「……要約すると、あんたは四葉に負い目を感じてるって事でいいのかしら?」

「そうなるかな? ご馳走をいただこうにも、チクチクすると気になっちゃうからさ」

 

 この修学旅行で一花が目論んでいることは過去の再現だ。

 四葉と風太郎に当時のことを思い出させ、その距離を縮めさせる気なのだ。

 しかしそれはあくまでも自分のためだ。

 一花は四葉を同じ舞台に上げた上で、風太郎を貰っていくと宣言している。

 それはどれほど残酷な事なのだろうか。

 かつて傍若無人に振舞っていた長女は、本質的に何ら変わっていなかったのだ。

 とてもじゃないが認めることは出来そうにない。

 それに、二乃は一花が知らないある事実を知っている。

 ずぶ濡れになった風太郎の姿を思い出す。

 四葉は風太郎を確かに突き放した。

 運命的な再会を果たしておきながら、それを手放したのだ。

 

「事情は大体わかったわ」

「協力してとまでは言わないけど、今日だけは大人しくしててほしいんだ」

「却下よ」

「にべもないね」

「というか私には何らメリットがないもの。四葉とフー君が仲良くなるのを指をくわえて見てろってことじゃない」

「やっぱりダメかな?」

「ダメね」

「そっかぁ」

 

 一花は残念そうに笑った。

 もうここに居る必要はない。

 二乃は風太郎と合流するために踵を返した。

 一花の思惑も、四葉の思い出も関係ない。

 自分はただ真っ直ぐに思いをぶつけるだけなのだと。

 しかしそれを一花が黙って見送る道理はない。

 歩きだそうとしたところで腕を掴まれ、二乃はバランスを崩しそうになるがなんとか踏みとどまった。

 

「離しなさいよ」

「却下、ダメだよ」

「このっ、はーなーせー!」

「さ、あれ入ってみようか」

 

 一花は四葉ほどではないが、体力には自信がある。

 女優と高校生の二重生活をこなしているのは伊達じゃないのだ。

 抵抗むなしく、二乃は近くの建物へ引きずられていった。

 

 

 

 

 

(た、大変な状況になっちゃった……!)

 

 一花が二乃を連れて行き、四葉と風太郎は二人きり。

 今までも二人で出かけることはあった。

 しかし、今回は場所がまた問題である。

 

(風太郎君はどこまで覚えてるのかな?)

 

 六年前の京都で四葉と風太郎は出会った。

 互いに修学旅行ではぐれた者同士だった。

 その日の思い出は四葉にとって大切なものであり、同時に封印しておかなければならないものでもあった。

 交わした約束を胸に今日まで歩いてきた風太郎。

 対して四葉は道を踏み外してしまった。

 その事実が心に影を落とし続けている。

 風太郎と再会してから、その影の中に過去を押し込んで歩んできたのだ。

 本当の自分が知られないように、失望されてしまわないように。

 

(みんなを差し置いてこんな事する資格なんてない……でも)

 

『フータロー君を目一杯楽しませてあげてよ』

 

 一花が言い残した言葉は四葉の望みでもあった。

 勤労感謝の日に風太郎が見せた笑顔こそが、四葉が欲するものだったのだ。

 それと自罰めいた自制を秤にかける。

 

(やっぱり、楽しんでもらいたいな)

 

 傾いた天秤を免罪符に、四葉は風太郎の手を引いた。

 後はもう難しく考える必要なんてない。

 四葉は気の向くままに風太郎を連れ回し、風太郎はぶっきらぼうながらも楽しんで笑顔を見せた。

 胸の奥に灯る暖かい想いのまま、四葉も心の底から笑った。

 

「うおっ、久々に見ると高く感じるな」

「見てくださいっ、京都駅まで見えますよ!」

 

 清水寺の本堂。

 舞台から飛び降りるで有名な場所である。

 もちろん危険なため禁止されているが。

 

「柵も思ってたより低いな……俺がデカくなっただけか」

「これじゃ簡単に落ちちゃいそう――あっ」

「おいっ」

「なんちゃって」

 

 手を滑らせるふりをした四葉に、風太郎は見事に引っかかった。

 支えるために出した手はそのまま頭へと伸びる。

 風太郎は無言のまま四葉のリボンを掴んで引っ張った。

 

「あっ! リボンだけはどうかっ、あーっ!!」

 

 そして気が済むだけ引っ張ると、リボンの形を整えて元に戻す。

 風太郎の顔見上げて四葉ははにかんだ。

 その笑顔に風太郎は気恥ずかしくなって顔をそらした。

 

「そうだ! せっかくだし写真撮りましょう、写真!」

 

 四葉は観光客を捕まえて自分のスマホを渡すと、風太郎の隣に陣取った。

 奇しくも六年前の写真と同じ場所だった。

 成長して風貌が変わっても、その仕草は変わらない。

 思い出の中の二人が、今の二人と重なった。

 

「……ふふっ」

「どうした、変顔でもしてたか?」

「いえ、後で画像送りますね」

 

 写真を撮り終えた二人は、本堂を抜ける前に御守りの授与所に立ち寄った。

 目的は当然学業成就の御守りだ。

 受験生にとっては定番だろう。

 細長く赤い筒の御守り。

 二人には覚えがあるものだが、それを口に出すことはない。

 

「まだなんか買うのか?」

「三玖と五月の分もと思って」

「そうか、むこうで待ってるからな」

 

 観光名所なだけあって人の数は多い。

 他の観光客の邪魔にならないよう、用を済ませると風太郎はその場から離れた。

 四葉は健康祈願の御守りを三玖と五月、それに加えて風太郎の分も確保。

 勉強に関しては隙なしだが、一般的な男子の平均から見ても虚弱がすぎる。

 それは中野姉妹の、自分たちの家庭教師に対する意見として一致していた。

 

「えっと、上杉さんは……」

 

 売り場を離れて風太郎を探す。

 待ってると言った以上は近くにいるはずなのだが、本堂にその姿は見当たらない。

 先に行ってしまったのかと自分も先に進もうとする四葉だが、見知った姿を見つけて足を止めた。

 

「あれ、二乃。一花は?」

「はぁ、はぁ……ふ、フー君は?」

「ちょっと見失っちゃってて。先行っちゃったのかな?」

「やられた……!」

 

 肩で息をしていた二乃は、風太郎がこの場にいないことを知ると地団駄を踏んだ。

 そしてそのまま先へ進もうとするので、事情を飲み込めない四葉はとりあえず引き止めた。

 

「ねぇ、一体どうしたの?」

「どうしたもこうしたも、あんたとも一緒じゃないならフー君は一花といるってことよ」

「そもそも二乃は一花と一緒にいたんじゃないの?」

「だからやられたって言ってるのよ!」

 

 ここに来て四葉は事情を察した。

 つまり二乃は何らかの手段で足止めをくらい、一花に出遅れる結果になったのだと。

 随分と自由に動いているようだった。

 祖父の温泉旅館で一花に対して我慢しないでだの、したいことをして欲しいだのと言ったのは四葉自身だ。

 それを踏まえると自分にも責任があるのでは、などと考えてしまう。

 風太郎の手を引く一花の姿を想像して、四葉はモヤモヤとした感情を覚えた。

 ともかく二乃と合流した以上、過去には再び蓋をする他ない。

 

「一花がやってる事もあんたの事も、私は認めないから」

「あはは……何の話してるの?」

「……ま、いいけど」

 

 二乃の言葉を咀嚼することはせず、そのまま飲み込む。

 もとより認めてもらう資格はないのだと。

 

 

 

 

 

「うぅ……」

 

 ベッドに臥せったまま三玖はうめき声を上げた。

 先日の無理が祟っていた。

 酷い筋肉痛で身じろぎすら苦痛なのだ。

 同じ部屋にいる五月も、自分のベッドの上で膝を抱えたまま動かない。

 こちらは姉とは逆に体を動かす、あるいは行動するだけの気力がない状態だ。

 気心の知れた姉妹ではあるが、気軽に話すような雰囲気ではない。

 率直に言うと気まずかった。

 何度か三玖から呼びかけてはみたものの、五月は生返事ばかりで会話が成立しない。

 俯せたまま、三玖は脚を覆わんばかりに貼り巡らされた湿布の冷感に顔をしかめる。

 愛用の黒ストッキングはさすがに着用していなかった。

 

『中野さん、大丈夫?』

 

 控えめなノックと共に部屋の外から呼びかけられる。

 様子を見に来た教員だ。

 二人が休む旨は朝の内に伝えていた。

 教員の声にも五月は反応を示さない。

 三玖は体に鞭を打って立ち上がると、壁に手を付きながら部屋の出入口へ。

 辛いのが体だけならまだ我慢できた。

 今朝、部屋を出る姉妹達を送り出した時のことを思い出す。

 五月と三玖を放っておくわけにはいかないと、二乃は強く主張していた。

 それを大丈夫と送り出したのは三玖自身だ。

 

「ご迷惑おかけしてすみません」

「いいのよ別に。それよりもまだ辛いの?」

「五月は気分が優れなくてまだ横になってます。私は……み、見ての通りの状態です」

「そう……せっかくの修学旅行なのに残念ね」

 

 ドアにしがみつく三玖を見て、教員は気遣わしげに納得した。

 そして諸々の注意事項と、なにかあったら連絡するようにと言い残して去っていった。

 教員を見送った三玖は、またよろよろと壁を伝って自分のベッドへ向かう。

 全く大したことのない距離だが汗をかいてしまっていた。

 

「……ごめん、なさい」

 

 そんな姉の姿が目に入ったのか、五月はか細く呟いた。

 軽く目を瞠ると、三玖は行き先を五月のベッドへ。

 少し距離を開けて、正対しないよう窓の方を向いて座った。

 

「やっと声かけてくれたね」

「三玖……」

「無理しなくてもいいよ。私はこんな状態だから、一人にはさせてあげられないけど」

 

 自分の脚を指し示して三玖は苦笑した。

 その痛ましい様に五月は自責の念を強めた。

 無理をするように背中を押したのは自分なのだと。

 

「私の、せいです」

「ううん、これは私が勝手に頑張っただけ」

「でも、私があんな提案をしなければ……」

「五月が協力してくれなかったら、きっと私はフータローにパンを渡せなかった」

 

 そして、想いを告げることもできなかっただろう。

 パンの味見を頼んだのは流れからであったが、五月がその先まで協力してくれたのは三玖にとっては意外だった。

 こと男女の恋愛に関しては否定的とまではいかずとも、慎重すぎるきらいがあったからだ。

 それだけに、五月に対する感謝の念は大きかった。

 

「ありがとう、五月」

「……違うんです」

 

 しかし五月はそれを受け入れる事ができない。

 今まで協力していたのは、決して三玖のためではなかった。

 それを昨日突きつけられたばかりなのだ。

 

「私は三玖に協力しようとしてたんじゃなくて、利用しようとしてたんです」

「利用……?」

「一緒の班になれば上杉君を監視できると、それでみんなの事を守れるって……そう思ってたんです」

「……」

「でも違った……私は、彼の傍にいたかっただけなんです」

 

 あれこれと理由をつけて、本当はただ一緒にいたかっただけなのだと。

 姉妹を守ると言っておきながら、本当は誰も先に進ませたくなかっただけなのだと。

 自覚してしまった想いは綺麗なだけじゃなくて、その事が五月を苛んでいた。

 

「最初は嫌いでした。家庭教師であることも受け入れられませんでした」

 

 学校の食堂での最悪の出会い。

 上杉家の事情を知った五月は風太郎を排除しようとは思わなかったが、受け入れるつもりもなかった。

 それでも風太郎は姉妹のために奔走して信頼を得ていった。

 

「でも一人泣いてた私に、嘘をついてまで寄り添ってくれた」

 

 二学期中間試験の前の仲違い。

 意地を張った五月は一人で勉強していたが、思うようにいかずに人知れず涙していた。

 そんなきかん坊に勉強を教えるため、風太郎は見え透いた嘘をついた。

 

「嘘が引っ込められなくなった私を見つけてくれた」

 

 林間学校の最終日。

 風太郎が信頼に値するか確かめるため、五月は風邪で臥せった一花に扮して近づいた。

 それが大事になり、引っ込みがつかなくなって途方にくれる五月を風太郎は見つけ出した。

 

「……夢を見つけた私の背中を押してくれた」

 

 母の墓前で誓った夢。

 紆余曲折ながらも自分たち姉妹を引っ張ってきた風太郎に、五月は自分の理想を見出した。

 そのぶっきらぼうながらも自分を認めてくれた言葉に、これまでにない想いの昂ぶりを感じた。

 そして、風太郎は零奈の正体――五月の変装をいとも簡単に見破り、恋心は無視ができないほどに膨れ上がってしまった。

 

「私はいつの間にか、上杉君のことが好きになっちゃってたんです」

 

 涙と共に五月は自分の想いを吐露した。

 渦巻く感情を塞き止めていたはずのダムはとっくに決壊していた。

 妹の告白を、三玖は自分でも驚く程穏やかに受け止めた。

 いつもなら嫉妬や対抗心を燃やすところだが、散々弱っている姿を見てきたからかもしれない。

 

「五月はすごいね」

「……」

「うん、すごい。私なんか自分の事ばっかりだったし」

 

 今までいくつも問題にぶつかって、決して少なくない努力とともに乗り越えてきた。

 だけど果たして、その最中に他に手を差し伸べられるだけの余裕が自分にあっただろうか。

 自己評価が低い三玖は、姉妹に置いてかれないように頑張るのが精一杯だった。

 対して五月は母親役を標榜し、だからこそ他の姉妹の事情に入れ込んでしまう。

 そこに自分の事情まで重なれば、支えきれなくなるのは当然の結果だ。

 

「だから、今度は自分に公平になる番だよ」

「公平、ですか?」

「それと……ごめんね。知らなかったとはいえ、辛いことさせちゃったよね」

 

 三玖は自分を支えてくれた五月の気持ちを慮った。

 辛くなかったわけがない。

 五月は姉妹への責任を感じているからか、自分の事情を後回しにしているのだろう。

 そういった真面目さは美点だが、だからといって自分の想いを蔑ろにする必要はないのだ。

 

「私は五月のおかげでフータローに告白できた。だからもう心配しないで」

「……できません。一花や二乃、四葉のことだって……それに、私は――」

 

 自分を許せない――か細い声でそう呟くと、五月は膝に顔を埋めた。

 姉妹への遠慮もそうだが、なにより大きな理由は自分自身への嫌悪なのだと。

 説得の失敗を痛感しながら三玖は自分のベッドへ倒れこむ。

 

(一花や二乃のようにはいかないなぁ……)

 

 一花のような視野の広さも、二乃のような面倒見の良さも自分にはない。

 そもそもいつもは助けてもらう立場なので、経験不足なのだ。

 

(私なんかじゃ、やっぱりダメだったのかな?)

 

 ジワジワと諦念が頭の中を侵食していく。

 いつもの事だった。

 自分は他の姉妹より劣ってるから出来ない、仕方ない。

 三玖はそれを言い訳に、逃げ道にしていた。

 風太郎への告白もそうだった。

 テストで一番になったら、美味しいパンを焼けたら。

 裏返せば、常に用意してある逃げ道。

 一番になれなかったから仕方がない、美味しくできなかったから仕方がない。

 今回はたまたま上手くいっただけなのだと。

 

(……違う、そうじゃない)

 

 初めてパンが上手く焼けた時の事を思い出す。

 自分のパンを美味しいと食べてくれた人の顔を思い出す。

 積み重ねた努力は、確かに形になったのだと。

 

「ふっ……あうっ」

 

 奮起して立ち上がろうとして、再び倒れこむ。

 相変わらず筋肉痛は深刻だった。

 それでも伝えるべき事は伝えねばならない。

 ベッドに寝転がったまま、三玖は五月に語りかける。

 

「誰かを傷つけたり、自分も傷ついたり……好きって気持ちは、綺麗なだけじゃないよね」

「だけど、悪いことじゃないんだと思う。好きだから知りたい、近づきたい、独占したい……」

「五つ子の私たちでさえこんなに違うんだもん。怪我しそうなぐらい近づかないと、相手の事なんてわからないんだよ」

「それは自分の心の中だって同じ……だから五月は自分の気持ちを受け止めてあげて」

「痛くて苦しいかもだけど、きっとそれだけじゃない」

「不安だと思う、怖いとも思うけど大丈夫だよ。今度は私が五月の背中を押すから」

 

 言うだけ言って、三玖は目を閉じる。

 閉ざされた視界の中で、すすり泣く声が聞こえた。

 今の言葉を五月がどう受け取ったのかはわからない。

 ともかく、後はやるべき事をやるだけだ。

 そう決心して、一つ失念していたことを思い出した。

 

(そういえば、フータローから返事聞いてなかったな)

 

 

 

 

 

「おい、一体なんなんだよ!」

「いいから着いてきてください!」

 

 観光客の合間を縫って走る。

 頭の上でぴょこぴょこと揺れる大きなリボンは、中野姉妹の四女のトレードマークだ。

 困惑する風太郎の手を引いて、四葉に扮した一花は先へ先へと進んでいく。

 

(今はとにかく、二乃から引き離さないと……!)

 

 二乃を引き止めておく事に限界を感じた一花は、今度は風太郎を引き離す方へ作戦を変えた。

 トイレに行っている二乃を尻目に抜け出して、四葉が風太郎から離れたタイミングで連れ出したのだ。

 本当は四葉本人が行うのがベストだが、風太郎の思い出を刺激するだけなら似ている誰かでも構わない。

 幸いな事に、一花は普段から変装道具を持ち歩いていた。

 それは駆け出しながらも女優という立場ゆえの自衛のためだ。

 自意識過剰と言われようが、備えておくにこした事はないのだ。

 

(ここら辺なら大丈夫かな……?)

 

 風太郎の手を離して息を整えると、一花は道に沿ってゆっくりと歩き出す。

 いまさら戻っても仕方ないので、風太郎もそれに追従した。

 

「ここは……」

「来たことあります?」

「ああ……小学生の修学旅行の時にな」

「むむっ、上杉さんの思い出話はものすごく気になります!」

「そんな取り立てて面白い話でもないんだが」

「む~~」

 

 視線でこれでもかと催促する。

 自分たちの家庭教師が案外押しに弱いのは、姉妹全員の知るところだった。

 しばらく対抗するように睨み合いが続いたが、風太郎は根負けしてため息混じりに語り始めた。

 

「あの日、他の生徒からはぐれた俺はあの子……零奈に散々振り回されて、それでここら辺も散策した」

「ふむふむ」

「ちょうど腐ってる時だったからな。必要だと言ってくれた彼女との旅は楽しかった」

 

 風太郎の声は優しかった。

 思い出を懐かしみ、大切に思っている証拠だろう。

 それだけでもこうする甲斐があったと、一花は内心で胸を撫で下ろした。

 

「気がつけば夜になってて、ひとまずは零奈の泊まってるとこで世話になった」

「……それで、どうしたんですか?」

「学校の先生が迎えに来るまで一緒にトランプしたっけな」

 

 よく身に覚えのある話だった。

 小学校の修学旅行の最中、一花は四葉が連れてきたという男の子と好奇心から接触した。

 そして男の子――風太郎は、一花を四葉と勘違いして気安く声をかけた。

 出会ったばかりの人に見分けろというのは酷な話だろう。

 現在ならまだしも、過去の自分たちはまさに瓜二つだったのだから。

 持ち前の悪戯心からか、あえて勘違いを正すことはせずに二人で七並べに興じた。

 一花にとっては大切な思い出だ。

 だから、その先は余分なはずなのに先を促してしまった。

 知りたかったのだ。

 四葉との思い出が大切なように、自分との思い出も大切に思ってくれているのかどうかを。

 

「迎えに来た担任にはこっぴどく叱られたが……まぁ、今となってはいい思い出だな」

 

 口元が綻び、自然と笑顔がこぼれた。

 気付いたのは林間学校の肝試しの時。

 肝試し用の金髪のカツラをかぶった風太郎を見た時に、忘れ去られていた一花の初恋は息を吹き返した。

 かつての出会いと再会が運命のようにさえ思えた。

 そして同時に四葉の風太郎に対する態度の理由も察した。

 最初から好意的だったのは、かつての事を覚えていたからなのだと。

 名乗り出なかったのは単にタイミングを外したからか、それとも三玖に遠慮したからか。

 なんにしても、最近までその事について深く考えはしなかった。

 女優と学生の二重生活に加え、自分の恋心への葛藤。

 一花自身に、そこまで考える余裕がなかったのだ。

 その後、家族旅行での四葉の言葉で葛藤はなくなり、新学期での風太郎への告白で心の余裕を得た。

 そうして生まれたのが、四葉に対するもやっとした負い目だ。

 小さくとも心の片隅で存在を主張するそれを解消するために、一花は動いている。

 正直なところ、どうすれば負い目が消えるのか、そもそも消えるようなものなのかはわからない。

 そして実際のところは自分のためなのか、四葉のためなのかもだ。

 少なくとも本人の意思は無視しているので、自分のためなのだと一花は考えている。

 

「上杉さん、その子は――」

「もういいだろ」

 

 話を進めようとする一花を風太郎は遮った。

 思い出を深掘りされることが恥ずかしくなったのかと思ったが、照れているような様子ではない。

 射抜くような視線に、一花は身をすくませた。

 

「めんどくせぇ前置きはもう十分だ。さっさと本題に入れ、一花」

 

 

 




二乃と四葉の間に地雷を設置してターンエンド。
いつ爆発するかは四葉の態度次第です。


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シスターズウォー・二日目その2

来週は忙しそうなので今日のうちに更新します。
色々と喪失するお話です。


 

 

 

「え……?」

 

 四葉――の格好をした一花は呆然としている。

 余程俺に正体を見破られた事がショックだったのだろう。

 仕事柄、演技に自信があるというのは理解しているが、あまり舐められるのも癪だ。

 なんでこんな事をしているのかはともかく、もう以前のように簡単に騙されないという事をたっぷりと教えてやろう。

 

「まず、四葉はあの程度走っただけじゃ息を乱さない」

「ちょ、ちょっと急いでいたもので」

「第二に歩き方が違う。よく後ろで手を組んで歩くのは一花の特徴だ」

「あ、あはは……たまたまですよ、たまたま」

「最後に足に履いてるものが違う。上の方は真似たが下まで変える余裕はなかったみたいだな」

「そ、そんなところまで」

「加えて言わせてもらえば、お前ぐらいしかやりそうな奴がいなかった、といったとこだな」

 

 四葉本人でないことはわかりきっていたし、二乃なら変装はせずに自分のままぶつかってくるだろう。

 ホテルにいるはずの二人がここに来ているとは考えにくいので、消去法で残りは一花となる。

 そもそも付き合えと言っておいて放ったらかしだったので、どこかのタイミングで接触してくるのは予想できた。

 他にも指摘できる部分はあったのだが、セクハラに該当しかねないので控えておいた。

 

「はぁ……まるで名探偵だね」

「そもそもお前の変装は一度ノーヒントで見破ってるからな」

「そうだったね。フータロー君の成長にはお姉さんもびっくりだよ」

 

 リボンとウィッグを外して一花は正体を表した。

 わかっていた事なので驚きはない。

 さらにこの下から別の誰かが出てきたら話は別だが、そんな面倒すぎる展開は勘弁して欲しかった。

 

「で、そろそろ目的を話してもらおうか」

「……今日は四葉と一緒にいて楽しかった?」

「質問してるのは俺なんだが」

「六年前の事、結構思い出したんじゃない?」

「何が言いたい」

「教えてあげたいのはやまやまだけど、そこはさすがに自分で気づいてほしいかな」

「……それが今日付き合えと言った理由でいいのか?」

「そんなとこだね」

 

 ただでさえ頭を悩ませる問題が多いというのに、その上で更に考えろというのか。

 面倒だが、一花の言う埋め合わせを了承した手前がある。

 このミニコーナーに付き合えというなら、乗ってやるしかないか。

 

「フータロー君は、さっきの話の女の子が私たちの誰かだって気づいてるんじゃない?」

「まぁな。お前達の家庭教師を引き受けてから二回接触があった」

 

 二学期末試験の時と、先日の買い物の時だ。

 そいつの正体はわかっている……五月だ。

 素直に受け止めれば六年前の女の子も五月という事になるが、恐らくはそう単純な話じゃない。

 思えばあいつも一花と同じように、何らかの答えを期待しているように思えた。

 

「なるほどね……もしかしてその時にお母さんの名前を名乗ったのかな?」

「ああ、誰かはっきりしない以上は零奈と呼ぶしかないだろ」

「……そういうことだったんだ」

 

 一花は考え込む素振りを見せたが、すぐに得心がいったように呟いた。

 今の反応を見れば、こいつも五月の行動を把握してなかったのは間違いなさそうだ。

 

「ちなみにさ、私が六年前の女の子だって言ったら信じる?」

「信じないな」

「即答!?」

「まわりくどいにも程があるし、お前の行動のいくつかに疑問が生じる」

「む~、じゃあ誰だと思うのさ」

「それは――」

 

 修学旅行前の五月の反応、ここ最近の一花の行動、それらを考えればなんとなく答えは見えてくる。

 ただそれには確証がない。

 俺の推測が正しければ、あいつも六年前の事を覚えている。

 だというのに言い出さないというのには、きっとそれなりの理由がある。

 そもそも、今更過去の種明かしをして何の意味がある。

 それを無理につつく事であいつの機嫌を損ねるのは得策じゃない。

 ……いや、違うな。

 きっと俺は、あいつが離れていく事が怖いんだ。

 あのお人好しのお節介の笑顔を曇らせたくない。

 

「あれ、雨降ってきた?」

「今日は晴れの予報だったはずだが」

「通り雨かな……って、すごく降ってきた!」

「どこかでやり過ごすぞ!」

 

 付近に軒下に入れるような建物はなかった。

 道から外れた弊害だろう。

 降りしきる雨から逃れるため、俺と一花は近くの木の下に避難した。

 

「ちょっと濡れちゃったね」

「通り雨ならすぐ止むだろ」

「それじゃあ、少しの間だけ雨宿りしてようか」

 

 二人で木に背を預けて空を見上げる。

 雲の色は濃かった。

 通り雨で済むかどうかは怪しいところだ。

 

「それにしても喉渇いちゃったね」

「音羽の滝の水なら飲み放題だぞ」

「そこに行くまでにずぶ濡れなんだけど」

 

 冗談で言ったつもりだが、一花の視線は冷たかった。

 しょうがない……たしか飲みかけのお茶があったはずだ。

 リュックを漁ると空のペットボトルが出てきた。

 そういえば、四葉と回っている最中に飲み干してしまったんだったか。

 

「悪い、なくなってた」

「なーんだ、残念。せっかく間接キスのチャンスだったのにね」

「はっ、今更その程度じゃ動揺しねーぞ」

「あっ、開き直り。さすが経験者は言うことが違いますなぁ」

「ぐっ……もうそこから離れてくれ」

 

 後は捨てるのみのペットボトルをリュックの中へ戻す。

 そして底の方に入ったそれに気付いた。

 丸みを帯びたプラスチック容器の感触。

 取り出すと、また別の小振りなペットボトルが出てきた。

 中身は黄色味がかった、薄く濁った液体。

 見ようによってはお茶に見えなくもない。

 これは確か、二乃に貰った栄養ドリンクだ。

 前回の事を考えるとおいそれと飲むわけにはいかず、ずっとリュックの中に入れっぱなしだったのだ。

 さすがにこれを飲ませるのはな……

 

「飲み物あるじゃん。じゃあこれ貰うね」

「おい、待て――」

 

 素早く俺の手からペットボトルを奪うと、一花は止める間もなく口をつけてしまった。

 走ったり喋ったりでよほど喉が渇いていたのだろう。

 一気に三分の二程飲み干してしまった。

 

「だ、大丈夫か? どこか体に異常はないか?」

「んー、スポドリかな?」

「二乃によると栄養ドリンクだな。模試の時も貰ったんだが、バージョンアップしたらしいぞ」

「そういえば作ってたね。あの時は見た目がちょっと……だったけど」

 

 一花の様子に現段階ではおかしな所はない。

 本格的な効果は少し遅れて表れるんだったな。

 腹痛はないと思うがそれ以外も問題だ。

 元気になるのはいいが、元気になりすぎるというか。

 俺の場合はアレが膨張して収まらなかったが、それが女の体になるとどう表れるのかはわからない。

 一緒にいる間は俺が面倒を見るしかないとしても、早々に姉妹に任せるべきだろう。

 となればのんびり雨宿りしているのは得策ではない、のだが……

 

「雨、酷くなってきたね」

「雨男か雨女がいやがるな」

「これじゃ見学も無理そうだし、バスに戻った方が――」

 

 一花の言葉が途切れる。

 体を折るように前かがみになり、何かを堪えるように両腕で自分をきつく抱きしめていた。

 息は荒く、顔は見えないが耳は紅潮している。

 おいまさか、こんなに早く効果が出たのか……?

 二乃はスポドリ風味にしたと言っていた。

 味として近づけたということは、成分も近い可能性がある。

 つまり、体にめちゃくちゃ吸収されやすい。

 いや、急に具合が悪くなったって線もある。

 まだ慌てるような時間じゃない……!

 

「ふ、フータローくん? ちょっと、お願いがあるん、だけど……」

「バスまで戻るんだな? 肩ぐらいならいくらでも貸すぞ」

「そうじゃ、なくて……」

 

 途切れ途切れの上、雨の音がうるさくていまいち聞き取りづらい。

 顔を寄せる。

 一花の荒く乱れた息遣いが耳についた。

 

「もう、ダメ……」

 

 体を木に押し付けられる。

 俺の体に縋り付くように抱きついて、一花はこちらを見上げてきた。

 胸元で潰れる柔らかい感触と、何かを訴えかけるように潤んだ瞳。

 もはや疑いようはなかった。

 吐息があご先をくすぐる。

 ジワジワと、理性が侵食されていく。

 

「……落ち着いて聞け、今のお前はさっきの飲み物のせいでおかしくなってるだけだ」

「はぁ、はぁ……飲み物って、これ……?」

「そうだ。とりあえず治まるまでは人がいない所で……おい、何してる」

 

 何を思ったのか、一花はペットボトルを煽って残り全てを口に含んでしまった。

 空の容器が地面に落ちる。

 一花は笑った――普段見せるものとは一線を画す、艶然とした笑顔。

 見蕩れてしまった。

 だから反応が遅れた。

 首に腕が回される。

 顔が、近づいてくる。

 そして唇と唇が触れた

 

「ん、ふっ……」

「――っ」

 

 触れるだけにとどまらず、舌が侵入してきた。

 一花の舌は形を確かめるように歯をなぞっていくと、縮こまっている俺の舌を絡めとった。

 未知の感触に頭が痺れた。

 膝から力が抜ける。

 ズルズルと落ちていく俺の体を支えるように抱きしめると、一花は口に含んだ液体を流し込んできた。

 抵抗しようにも、そんな力はとっくに奪われている。

 ぼんやりと駄目だと思いながらも飲み下す他なかった。

 じんわりと、体の内から外へ熱が広がっていく感覚。

 推測は当たっていたようだが、喜ぶ気にはなれなかった。

 頭はとっくに熱に浮かされていて、今度は体の方が反応し始めた。

 

「えへへ……大人のキス、初めてだけどどうだった?」

「お、まえ……なにしてんのか、わかってんのかよ……」

「その余裕ない表情、かわいいなぁ……」

 

 ぐるんと視界が回転する。

 木の裏側に俺を引きずり込むと、一花は俺の手を掴んで自分の胸へと導いた。

 張りがあるのにどこまでも沈み込んでいきそうなほど柔らかく、先端には硬さを主張する部分がある。

 俺の手は、まるでどうすればいいのか知っているかのように動いた。

 

「んんっ……」

 

 艶かしい声が脳を侵していく。

 駄目だ、やめろ、止まれ……!

 理性の叫びは届かない。

 空いている左手が一花の体を抱き寄せる。

 再度、顔と顔が近づく。

 引き寄せられるように、俺は一花の唇を――

 

「くっ……!」

 

 口の中に血の味が広がる。

 自分の唇を噛む事で、消え去りそうな理性をすんでの所で引き止めた。

 眼前には熱に潤んだ瞳。

 どうしてと訴えかけていた。

 俺はこいつらのパートナーであり続けるためにも、これ以上の間違いを犯すわけにはいかない。

 両手を一花の体から離す。

 熱は相変わらず体の中で蟠ったままだ。

 とりあえずお互いに物理的に距離を取る必要がある。

 

「やっぱり私じゃダメ、なのかな……?」

「……そういう事じゃねーよ」

「じゃあ!」

 

 しかし一花がそれを許さない。

 責め立てるように、縋り付くように掴みかかってきた。

 目には涙すら浮かべていた。

 普段見せている余裕はどこかへ消し飛んでいた。

 そんな一花を、俺は突き放すことができなかった。

 

「んっ……」

 

 再び唇を塞がれる。

 傷が付いた下唇をなぞる様に舌が這い回った。

 泣けなしの理性が、溶かされていく。

 

「フータロー君は悪くない。悪いのは全部私。だから……ね?」

 

 頭のどこかでそれを否定する声がした。

 吐かせてでも止めなかった俺の責任なのだと。

 なんにしても、そんなか弱い抵抗ではもう止められない。

 

「犬に噛まれたと思ってさ」

「――ふざけんな」

 

 体の位置を入れ替える。

 一花を木に押し付け、貪るように口付ける。

 平気な顔をしてみせても、こいつはどうせ後で一人で抱え込もうとするに決まっている。

 俺にはそれがどうしても我慢ならない。

 だから、間違いを犯すのはあくまで俺なのだ。

 

「犬に噛まれるのはお前の方だ」

「……君のそういう不器用で優しいとこ――大好きだよ」

 

 一花は耳元で囁いた。

 それが最後の防壁を完膚無きまでに破壊した。

 理性という枷が外れれば、難しい事は何もない。

 後は本能の赴くまま――俺は目の前の女に、一生消えない傷を刻みつけた。

 

 

 

 

 

「……死にてぇ、いっそ殺してくれ」

「上杉君、気をしっかり持ちたまえよ」

「つーか何やってたんだよコラ」

 

 ホテルの廊下で項垂れる。

 頭も体も冷えた今となっては、後悔の念が容赦なく俺の心をすり潰しにかかっていた。

 一花との一件の後、バスに戻った俺達はこっ酷く叱られた。

 大雨で見学は中止、ひとまずホテルに戻る流れになっていたそうだ。

 ところが俺達はどこにも見当たらず、携帯に連絡しても返事がない始末。

 一応外から見えないように配慮していたから見当たらないのは当然だし、事の最中は着信に気付きすらしなかった。

 それで都合一時間ほど遅れて合流した俺と一花を出迎えたのは、呆れ顔の中に怒りを滲ませた担任だった。

 当然理由も聞かれたが、まさか不純異性交遊してましたというわけにもいかず、適当な理由をでっち上げて切り抜けた。

 俺だけでは難しいところだったが、周囲の覚えもいい一花がいた事が幸いした。

 外面を取り繕う腕前に関しては、女優の面目躍如といったところか。

 そうして残った問題は、俺の中であの出来事をどう受け止めればいいかだ。

 ……いや、本当にどうしたらいいんだよ。

 

「しかし、ずぶ濡れになって帰ってきたというのに随分と血色がいいね。なにか運動でもしてたのかい?」

「ば、バスまで走ったからな! 柄にもなく全力疾走しちまったぜ!」

「なんで焦ってんだよ」

「俺はいたって冷静だが!?」

 

 全力疾走に嘘はないが、今の俺が運動と聞いて真っ先に連想するのがアレであるのはどうしようもない。

 前田と武田の訝る視線から逃げるように部屋へと向かう。

 軽くタオルで拭いたが濡れていることには変わりないので、早いところ着替えておきたかった。

 見学の方はこの天気では見送るしかない。

 ひとまずは部屋で待機してろとお達しが出ている。

 残念なのは確かだが、今の精神状態で存分に楽しめるかと言われたらそれは難しいだろう。

 親父からもらったお守りのおかげで最悪の事態は避けられたと思いたい。

 事の重大さに変わりはないが、時間を経ることでそれに対する心持ちも変化があるかもしれない。

 とにかく、今は中野姉妹と顔を合わせずに済む時間が欲しかった。

 そもそもあんなことをしでかした俺に、あいつらと向き合う資格があるのかは怪しいところだが。

 

「明日のコースはどうするよコラ」

「悩みどころだね。どれも興味深いよ」

「上杉は行きたいとこねーのかよ」

「悪い、お前らにぶん投げるわ」

 

 三日目は五つのコースに分かれて行動する。

 班で行動する必要はなく、どこを選ぶかは完全に個人で決めることになる。

 とは言っても大体は友人同士で班を作っているので、班ごと一つのコースという奴らもいるだろうし、俺達の班も恐らくはそうなる。

 俺個人としてはどこでもいいのだが、欲を言うなら中野姉妹と顔を合わせずに済むコースが希望だ。

 もっともあいつらの希望はばらけそうなので、どこに行っても同じ顔がいる、という事態も十分にあり得そうだ。

 まさか事前にリサーチするわけにはいかないので、ここは運……というか後ろで議論する二人に任せておこう。

 時折二人に意見を求められるが、生憎と返せるのは生返事ぐらいだ。

 

「おお、上杉。丁度いい所に」

 

 声をかけてきたのはうちのクラスの担任だった。

 さっき怒られたのは記憶に新しい。

 嫌な予感がした。

 

「着替えてからでいいから、各班に連絡頼むぞ」

 

 修学旅行中でも学級長という立場に変わりはない。

 あいつらとはこの後、早速顔を合わせることになりそうだ。

 ……勘弁してくれ。

 

 

 

 

 

「ふー、スッキリしたー!」

「ちょっとあんた、体はちゃんと拭きなさいよ」

「えへへ、ごめんごめん」

「風邪ひいちゃうから早く服着なさいよね」

「はーい」

 

 シャワーを浴び終えた四葉は全裸だった。

 そしてあれこれと世話を焼く二乃はオカンだった。

 三年一組の第五班――中野姉妹に割り当てられたホテルの一室である。

 五月は相変わらずベッドの上で膝を抱え、三玖も相変わらず倒れたまま動けないでいた。

 二人は制服姿だが、他三人はジャージを着用している。

 ずぶ濡れになって帰ってきた三人を見て、三玖は筋肉痛でラッキーだったなどと思ったりもした。

 

「一花、歩きづらそうだけど大丈夫?」

「ちょっと足をね。私はたいしたことないけど、そういう三玖の方こそどうなのさ」

「うっ……あ、明日は頑張る」

 

 一花の心配をしたはずが、逆に心配されてしまった。

 部屋に戻ってきて真っ先にシャワーを浴びたのは一花だった。

 自分を後回しにするかはさて置き、他の姉妹を押しのけてというのは珍しい。

 余程汗をかいたということだろうか。

 実際には汗をかくどころではない出来事があったのだが、知る由もない三玖はそう推測するしかなかった。

 

「それよりも、本当は何してたのよ」

「本当はもなにも、さっき説明したことが全てだけど」

「とてもじゃないけど信じられないわ」

 

 一花と風太郎は一時間ほど遅れてやっとバスに戻ってきた。

 その際に当たり障りのない理由を語っていたが、二乃はそれを明確に疑っていた。

 根拠があってのものではないが確信はあった。

 好きな相手と一時間二人きりで何もないはずがない。

 むしろ自分だったら確実にアクションを起こす。

 そういった自分の考えこそが根拠といえば根拠だった。

 

「まぁまぁ、先生にあんなに叱られてたんだからもう十分だよ、ね?」

「まったくもう、三玖に続いて一花まで……これは明日に勝負をかけるしかないわね」

 

 二乃の背後に炎が見えた、ような気がした。

 初日に抜け駆けを果たした三玖としては、この後の提案の事を考えると多少どころではなく気まずかった。

 四葉は恐らく賛成してくれるだろう。

 一花は正直な所よくわからないが、真っ向から否定はしないだろう。

 残るは二乃だが、反発される予感しかしなかった。

 

「そういえばさ、またフータロー君に栄養ドリンク渡したんだね」

「なにか感想言ってた?」

「えーっと、飲みやすくてすごく元気になった……とか?」

「なんで疑問形なのよ」

「あはは、今度私ももらおうかな」

 

 そもそもあれはどちらかというと精力剤だ、というのは言わないでおいた。

 黙っていた方が都合がいいこともあるのだ。

 とりあえず今後のことを見越して数本は確保しておきたいところだ。

 一花は甘い痛みに疼く下腹部をさすった。

 

「明日は晴れるといいなぁ」

「予報は晴れなんだけど、今日はそれでこの天気なのよね」

「てるてる坊主、作る?」

「さ、さすがにホテルの部屋に吊るすのはどうかなぁ?」

 

 窓を通して雨雲を見上げる四葉。

 携帯で天気予報を見てため息をつく二乃。

 ベッドに転がったまま提案する三玖。

 てるてる坊主が吊るされた室内を想像して苦笑する一花。

 そして、自分の殻に閉じこもったまま一切喋らない五月。

 

「……五月、あんたいい加減にしなさいよ。いつまでもうじうじと、そういうのは三玖の専門でしょうが」

「二乃、五月は――」

「落ち込んでるのなんて見ればわかるわ。理由を一切話そうとしないのは気に食わないけど!」

「……二乃には関係ありません」

「ちゃんと喋れるみたいで結構……でもお生憎様。人間関係は一方通行じゃないのよ」

 

 自分もベッドの上に乗って、二乃は膝を抱えた五月と正面から向き合う。

 しかし、泣きはらした目は何も映さない。

 どこまでも沈み込んだ末っ子を引っ張り上げるために、二乃は無言で両の頬をつまんで引っ張った。

 

「い、いひゃいいひゃい、いひゃいれふ!」

「やっと顔上げたわね」

 

 二乃の手並みは鮮やかだった。

 こうして強引に相手の懐に飛び込むのは、三玖にはできない芸当だ。

 経験値の差を実感していた。

 しかし、それでもやるべきことがある。

 自分を助けてくれた五月のためにと、心を奮い立たせる。

 

『入るぞ』

 

 響くノックの音。

 一言の断りの後に、風太郎がドアを開けて入ってきた。

 学校指定のジャージを着用して頭にタオルを巻いた、シャワー上がりのスタイルである。

 

「五班、全員いるか?」

「――っ」

「ちょ、ちょっとトイレ!」

 

 風太郎の姿が見えた瞬間、動いたのは二人。

 五月は掛け布団を被って身を隠し、一花はトイレに駆け込んだ。

 

「なにかご用ですか?」

「連絡事項だ。今から三十分後に二階の大広間に集合だそうだ」

「なんで上杉さんが……」

「これでも学級長だからな」

「なるほど! って、私もですよね」

「確かに伝えたぞ。明日のコースもそこで決めるからちゃんと考えとけよ」

 

 簡潔に伝えると、風太郎はすぐに部屋の外へ――出ようとしたが、二乃に阻まれる。

 回り込んでの仁王立ち。

 強引に出ようとしたら体が接触してしまう位置取りだ。

 今の風太郎にとってはこれ以上ないバリケードだった。

 

「通せよ」

「明日一緒に回ってくれるならいいわよ」

「断る」

「どうしてよ!」

「俺に構うのより優先する事があるだろ」

「それは……」

 

 風太郎の視線の先には掛け布団にくるまった五月の姿。

 図星を突かれて二乃は言葉を詰まらせた。

 普段よりもそっけない態度もそれに拍車をかけていた。

 その身動ぎで生まれた隙間に体を滑り込ませるように通り抜けると、風太郎はドアノブに手をかける。

 だがすぐに出て行く事はなく、数秒立ち止まってから振り返らずに言い放った。

 

「どうにもならなかったら、話を聞くだけは聞く。……まぁ、成績を落とされたら面倒だからな」

 

 取って付けたかのような理由を添えると、風太郎は部屋から出ていった。

 素直ではないが、中野姉妹を気にかけているのは確かなのだ。

 五つ子を散々面倒だと評する当人もまた、面倒な性格をしているということだ。

 

「フータロー君、もう行った?」

「なんで逃げてんのよ」

「いやー、あはは……さすがに心の準備がね」

 

 突然の来訪者が退室したのを確認すると、一花がトイレから出てきた。

 今の心境で、風太郎と面と向かって顔を合わせられるほどの図太さは持ち合わせていない。

 半ば暴走に近い状態で事に及んだので、今しばらく心の整理をする時間が必要だった。

 頬を染めて苦笑する一花に、二乃は確実に何かがあった事を察した。

 放っておけない問題だが、今はそれよりも優先すべき事がある。

 自分のベッドの上で丸まった五月である。

 

「いつまで閉じこもってるのよ」

「ああっ」

 

 掛け布団を勢い良く剥ぎ取られて五月は狼狽えた。

 そして二乃はその隙にベッドから駄々っ子を引っ張り出すと、昨晩と同じように洗面所に放り込んだ。

 人前に出る以上、最低限の身支度は必要だ。

 

「さて、いい加減なんとかしないとね」

「五月ちゃんの事?」

「あんたのやりたい放題もなんとかしてやりたいけどね」

 

 威嚇するように鋭くなる視線を曖昧に笑ってやり過ごす。

 ここで一花がその所業を洗いざらいぶちまけても、余計に話がこじれるだけだろう。

 二乃もその点は理解しており、それ以上は突っ込まなかった。

 

「でも、なんであんなに落ち込んでるんだろ?」

「三玖はなにか聞いてない? 今日もずっと一緒だったんだよね?」

「聞いたけど、私の口からはちょっと……」

「じゃあ一個だけ聞くけど、食べ物関連なのかしら?」

「違う」

「それは深刻だね」

「ええ、深刻だわ」

「深刻だ……!」

 

 姉妹はあらためて事の重大さを実感した。

 本人が聞けば失礼だと怒り出しそうな反応だった。

 普段から食事で一喜一憂しているのは事実なので、無理からぬ事ではあるが。

 

「だからみんなに提案……ううん、お願いがあるんだ」

 

 静かな、しかしはっきりとした声。

 不甲斐ない自分を支えてくれた妹に報いるため、三玖は意を決して切り出した。

 

「明日一日、みんなの時間を貸してほしい」

「……それは五月ちゃんのためってことでいいんだよね?」

「ダメ、かな?」

「うーん、判断するにはちょっとわからないことが多いかな」

「五月がそれで元気になるなら……うん、私は協力するよ!」

「ありがとう、四葉」

「……随分と虫がいい話ね。あんたも五月も好き放題動いた結果じゃない」

「二乃……」

 

 三人の反応は、概ね事前に予想した通りだった。

 一花は保留、四葉は賛成、そして二乃は反対だ。

 都合のいい事を言っているのはその通りだし、そもそも詳しく事情を話さないのに協力しろというのは無茶な話だ。

 むしろ受け入れてくれた四葉はお人好しがすぎるのだ。

 それでも引き下がるわけには行かなかった。

 痛む体を奮わせて立ち上がると、三玖は三人に向かって頭を下げた。

 

「お願いします……!」

 

 その姿に一花はバツが悪そうな顔をして、四葉は慌てて頭を上げさせようとした。

 そして二乃は数ヶ月前、チョコ作りを教えた時の事を思い出した。

 あの時も同じように三玖は頭を下げていた。

 つまり、それほどに真剣だということだ。

 

「好き勝手暴走して修学旅行を台無しにして、自業自得すぎよね。……あー、逆に泣けてくるわ!」

「に、二乃?」

「これ以上泣かされたらたまったものじゃないわ。仕方ないから協力してあげる」

「え……」

「言っとくけど仕方なく、嫌々協力するんだからね!」

「……ありがとう」

 

 二乃はしかめっ面のままそっぽを向いた。

 あくまで不本意という体は崩さないようにしていた。

 

「私も協力してあげたいのは山々なんだけどね」

「ちゃんと説明できなくて、ごめん」

「んー、じゃあ私が五月ちゃんに聞こうかな」

「そ、それは……」

 

 三玖の脳裏によぎるのは、泣きながら想いを吐き出した五月の姿。

 一花を止める筋合いはないが、それでもやはり素直には頷けなかった。

 

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

 

 一花は四葉を一瞥すると三玖をベッドに座らせて、安心させるように肩に手を置いた。

 五月がそこまで沈み込む理由を無理に聞き出すつもりはない。

 ただ、風太郎の思い出の少女に扮した理由だけは確認しておきたかった。

 その理由如何では――それ以上は考えるのをやめておく。

 

「それで、具体的には何してほしいのよ」

「五月とフータローが話す機会を作りたい」

「え、フー君絡みなの? なんか協力する気なくなってきた……」

「に、二乃! そんなこと言わないで協力しようよ!」

「はいはい、わかってるわよ」

 

 風太郎が関係していると聞いて二乃は顔をしかめた。

 ライバルが増える、という考えが真っ先に思い浮かんだ。

 またいつものデリカシーのない言動の線もあるが、そんな雰囲気ではなさそうだった。

 協力を撤回するつもりはないが、色んな意味で一筋縄ではいかないだろうという予感は拭えない。

 

「ところでさ、フータロー君がどのコース選ぶのかは把握してるの?」

「あっ」

 

 三日目は選択コースで向かう先が異なる。

 もし全員で違うコースを選んでしまえば、その時点で終了である。

 さっき聞いておけばと三玖は後悔した。

 黙って息を潜めていたのが災いした。

 一花ほど過剰な反応はしなかったものの、三玖にも心の準備が必要だったのだ。

 

「この後集合だし、その時上杉さんに聞いてみようよ」

「うーん、それはどうかなぁ」

「なら今電話で聞いてみるとか」

「そもそも、聞いて答えてくれるとは思えないっていうかさ」

 

 一花と色々ありすぎた風太郎は、恐らく姉妹との対面に消極的だろう。

 自分がこんなに悶々としているのだからそれは相手も同じだと、一花はそう踏んだ。

 先程のやり取りもどこかそっけなく事務的な色が濃かったのも、必要以上に気にしないようにしていたのだと。

 トイレからでは声だけしか聞こえなかったが、その中にある硬さは十分に感じられた。

 それでも最後にこちらを気にかけてくるのは甘いというか、風太郎の好ましい部分だ。

 前髪を弄っている姿を思い浮かべて、一花は小さく笑みを漏らした。

 

「じゃあおためしに……わっ、本当だ!」

 

 一応メールを送ってみた四葉だったが、返ってきたのは断るの一言。

 にべもなかった。

 ここまでバッサリだと逆に気持ちよくすらある。

 

「……コースは全部で五つ。私たちなら全部カバーできる」

「なるほどね。それでフータロー君がいるコースに後で合流する……ってことだよね?」

「そう」

「悪くないとは思うんだけど、やっぱり五月ちゃんが問題かな」

 

 三玖の案なら確実に風太郎が選んだコースを確認できるが、その後が問題だ。

 今の五月に合流を呼びかけたとして、それに応じるかは怪しいところだ。

 落ち込んでいる理由が理由だけに、風太郎との対面を避ける可能性の方が高い。

 ここは二人をどうにかして同じコースにしないといけないということだ。

 となると結局は五分の一の確率に賭けることになってしまう。

 またも行き詰まって、三玖は頭を抱えた。

 

「まったく、とんだガバガバプランニングね」

「二乃は何かいい考えある? 私は五月を上杉さんのとこに運んでいくぐらいしか思いつかなくて」

「あんたはどんだけフィジカル頼みなのよ」

 

 運んでいくとは比喩なのかもしれないが、四葉がそう言いだしたら本当に五月を背負って移動しかねない。

 強引に引っ張っていくというのはありなのかもしれないが、それよりも断然スマートな方法を二乃は知っていた。

 

「私、フー君たちがどのコースを選ぶのか知ってるわ」

 

 自分の部屋に戻る前、二乃は風太郎たちが話しているところに居合わせた。

 担任が現れたためその場では声をかけなかったが、それでも会話の内容は聞き逃さなかった。

 

『やっぱ映画村とか面白そうじゃね?』

『ふっ、前田君らしく俗っぽい選択だけど、悪くないね』

『おめーはいちいち一言余計なんだよコラ』

『上杉君もそれで構わないかい?』

『ん? ああ、Eコースな。いいんじゃないか』

 

「Eコースよ、間違いないわ」

 

 

 




というわけで二日目終了です。
出発前にもらったお守りが妊娠→退学のコンボから二人を守ってくれました。
次回はちょっと間が空くかもしれません。


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シスターズウォー・三日目その1

今週の忙しいとこは抜けたので投稿します。
メインと言ったはずなのに出番が控えめだった五女のターンです。


 

 

 

「Eコースはこっちよ。出発するわよ」

 

 引率の教員の呼びかけ。

 ご丁寧にアルファベットのEがでかでかと書かれた紙を掲げている。

 わかりやすいことこの上ない。

 雑然と集まった生徒がバスへ吸い込まれるように乗り込んでいく。

 修学旅行最終日の今日はコースごとに分かれ、しかる後に京都駅で合流して新幹線で帰るという流れだ。

 

「さ、僕らもバスに乗ろうか」

「あ、ああ……」

「なにキョロキョロしてんだよ」

 

 俺たち武田班は揃って同じコースを選んだため、今日も仲良く班行動だ。

 ……いや、昨日も一昨日も俺だけ別行動してたな、そういえば。

 その際に色々あったおかげで、こうして見知った顔がいないかと警戒しているわけだが。

 見渡しても中野姉妹の姿はない。

 ホッとする反面、残念に思ってしまう自分に気づく。

 我が事ながら、本当に度し難い限りだ。

 

「ちょっと、遅れそうじゃない!」

「もうバスに乗り込みはじめてるね」

「三玖、五月、はーやーくー!」

「うぅぅ……わ、私は置いて行ってくれても……」

「ほら、私も頑張るから、ね?」

 

 心の平穏はほんの束の間だった。

 五つ子は出発時間ギリギリになって現れた。

 油断させてからの不意打ちは実に効果的だ。

 現に俺はこうして固まってしまっている。

 もうどうすりゃいいのやら……

 

「おはよ、フー君」

「えへへ、おっはー」

「おはようございます!」

「お、おはよ……」

「――っ」

 

 二乃は軽い投げキッスと共に。

 一花ははにかみながら。

 四葉はいつも通り元気よく。

 三玖はおずおずと伏し目がちに。

 各々挨拶をよこす中、五月は俺の姿を見るや否や他の姉妹を壁にして姿を隠した。

 正直、誰か一人ぐらい顔を合わせる事はあるだろうと覚悟はしていた。

 だが蓋を開ければまさかの全弾命中。

 これは夢か? それも悪夢の類なのか?

 

「……ホテルに戻りたくなってきたぜ」

「ははは、何を言っているんだい?」

「オラ、俺らもさっさと乗るぞ」

 

 

 

 

 

「で、向こうに着いたらどうするのよ」

「今から考える」

「とことんノープランじゃない」

 

 バスの最後尾に陣取った中野姉妹。

 今は作戦会議の時間だ。

 議題はいかに五月と風太郎を二人きりにするか。

 

「う~ん、無理に二人きりにするのも心配だなぁ」

「そもそも二人きりにしたら絶対逃げ出すわよ」

「でも、私たちが一緒だと隠れちゃうし」

 

 初日やついさっきの様子を見れば、五月が風太郎との対面を避けているのは明らかだ。

 そして事情が事情だけに、他の姉妹の前では気持ちを押し殺そうとする可能性が高い。

 長女と五女を除いた三人は顔を突き合わせてああでもないこうでもないと議論する。

 一花は議論に参加せずに静観。

 実際に協力するかどうかまだ決めかねていた。

 そして当の本人は一花の膝枕を借りて熟睡。

 昨晩もロクに眠れなかったのだろう。

 風太郎は前方の席に座っているため、会話を聞かれる恐れはない。

 

「一花、悪巧みならあんたの出番よ」

「二乃は私をなんだと思ってるのかな」

「女狐」

「あ、あはは……」

 

 二人の間に走った火花を察知して四葉は乾いた笑いを上げた。

 一花も二乃も笑顔だった。

 会話の内容さえ知らなければ、朗らかな姉妹の談笑に見えるだろう。

 水面下の状況も踏まえて、水上の白鳥が優雅に見えるのと同じだ。

 三玖は飛び火しないように口をつぐんだ。

 のんきに寝ている末っ子が羨ましかった。

 

「まぁ、逃げるんだったら逃げられないようにするか、追いかけさせるかだね」

「なるほど!」

「なに納得してるのよ。ごくごく当たり前のことしか言ってないじゃない」

「あはは、バレちゃった?」

 

 三玖は一花の言葉を吟味する。

 逃げられなくする……つまり五月の逃げ道を塞ぐ。

 もう逃げられない、あるいは逃げても無駄だと思い込ませるか、物理的に阻むか。

 縄で柱に縛り付けられている妹の姿が思い浮かんだが、頭を振って思考から締め出した。

 ビジュアル的にも倫理的にもアウトである。

 逃げる事を自主的にやめさせる方法は、残念ながらこの場では思い浮かばなかった。

 次に追いかけさせる……つまり風太郎頼みだ。

 運動能力において姉妹間で順位をつけるとしたら、トップが四葉で大分差が開いて一花、その後に二乃と五月が並んで三玖がドべだ。

 そして風太郎は三玖と競い合うほど体力がない。

 逃げる五月を追ったとしても途中で力尽きるイメージしかなかった。

 そもそも、追いかけてと頼んでも追いかけてくれるかどうかはわからなかった。

 この修学旅行において、風太郎は自分たち姉妹と行動を別にしようとしているように思えた。

 その理由は定かではないが三玖には心当たりがある。

 告白した自分と同じように、告白された相手も心の整理がついていないのだと。

 想いを告げた事に後悔はないが、タイミングは悪かったのかもしれない。

 五月の悩みに気づけなかった事も含めて、自責の念に駆られる。

 それでもと、滲み出てくる弱音を噛み殺して顔を上げた。

 

「あ……」

 

 視線と視線が確かに絡み合った。

 誰かが取り立てて騒いでいるわけではない。

 だというのに風太郎は後方に目を向けていた。

 すぐに顔を引っ込めてしまったが、何を気にしていたのかなど言うまでもなく明らかだ。

 

『どうにもならなかったら、話を聞くだけは聞く。……まぁ、成績を落とされたら面倒だからな』

 

 昨日の言葉を思い出す。

 多少距離を取っていても、こちらを気にかけてくれている。

 その認識が三玖に確かな勇気をもたらした。

 

「うん、決めた。フータローにがんばってもらって、私たちもがんばる。以上」

「それ結局ノープランってことじゃない」

「私はわかりやすくていいと思うよ」

「はぁ……まぁ、あれこれ考えるのより気が楽なのはたしかね」

 

 もとより二乃は思い込んだら一直線の直情型だ。

 あれこれと策を立てるより、その場に応じて行動する方が性にあっていた。

 そして四葉は断然、考えるより体を動かすのが得意なタイプだ。

 

「方針、まとまった?」

「一花は、その……」

「ごめん、もうちょっと様子見させて。邪魔だけはしないからさ」

 

 一花は申し訳なさそうに笑うと、眠る五月の頭に手を置いた。

 二人の間の事情は把握していないが、譲れない部分があるのはおぼろげながら理解できた。

 協力が取り付けられないのは少し心細いが、三玖のやることに変わりはない。

 

(私たちが支えるから……五月、自分の気持ちから逃げないであげて)

 

 

 

 

 

「ここが映画村か……」

 

 案内やら何やらの諸々を終えて、生徒達は思い思いの場所へ散っていく。

 昼過ぎまでは自由に見て回れるそうだ。

 辺りを見回しても中野姉妹の姿はない。

 コースが同じである以上、近くにいるのは確かなはずだ。

 

「って、なんであいつらを探さなきゃならねぇんだよ!」

「またキョロキョロして何してんだよ」

「ふふふ、さすがの上杉君もこの映画村に目を奪われているようだね」

「まあ、そんなとこだ」

 

 そう勘違いしてくれるなら、それはそれでありがたい。

 正直言うと、テレビというものに馴染みがない俺にはここの醍醐味を堪能できるかは怪しい。

 それでも物珍しいものを見るのはそれだけで面白いものだ。

 リサーチ不足もいいところだが、ここは余計なことを考えずに楽しもう。

 

「つーかよ、どっから回るよ」

「せっかくだし僕達も俳優になりきる、というのはどうだい? 向こうで着付け体験をやってるみたいだよ」

「コスプレとか恥じぃだろ……」

「郷に入っては郷に従え、さ。上杉君もどうだい?」

「いや、普通に恥ずい」

「さ、行ってみるだけ行ってみようじゃないか」

 

 武田が歩きだしたので、俺と前田もそれに追従する。

 大きな目的はないので、冷やかしというのも悪くない。

 そうして建物の中に入り少し進むと、デカデカと『扮装の館』という看板。

 その上にやや小さく時代劇という文字が見える。

 三玖が喜びそうな場所だ。

 

「さて、行こうか」

「おい、なんで俺の肩つかんでんだよコラ」

「一人だけというのは寂しいじゃないか」

「上杉をつれてきゃいいだろーがよ」

「彼の意思を尊重したまでさ」

「こっちの意思はガン無視してんじゃねーか!」

「それじゃあ、少しの間待っていてくれたまえ」

 

 二人は店の中へと消えていった。

 まぁ、着替えるだけだったらそんなに時間はかからないだろう。

 近くの窓から空を見上げる。

 予報に違わない青空が広がっていた。

 昨日のような事態を想定してリュックに着替えを用意したが、この分だと無駄になりそうだ。

 

「はぁ、はぁ……み、みんな……一体どこにいるのですかぁ……」

 

 聞き覚えのある声に振り返る。

 くせっ毛にアホ毛、そしてセンスの欠片もないヘアピン――五月だ。

 

「……」

「……」

 

 目と目が合い、数秒の沈黙。

 向こうが固まっている理由はともかく、俺もなんて声をかければいいのかわからなかった。

 それだけここ最近は色々ありすぎたのだ。

 思えばこいつとは修学旅行前の買い物から言葉を交わしていない。

 五月は硬直から立ち直ると縋るように辺りを見回し、最後には一目散に走り去っていった。

 ……まさかここまで避けられているとは。

 

「行っちゃいましたね」

「四葉、いたのか」

 

 どこから現れたのか、いつの間にやら隣に立っていた。

 そこの扮装の館を利用したのか、時代劇に出てくる町娘のような格好をしていた。

 というか、いるのならあいつに声をかければいいものを。

 

「上杉さん、五月を追いかけてください」

「俺よりもお前が追いかけたほうがいいと思うが」

 

 体力的にも、五月の反応的にもだ。

 俺が追いかければ確実にあいつはさらに逃げる。

 それなら四葉が確保に向かったほうが断然いい。

 

「私は、その……べ、別の用事があるので!」

 

 目が泳いでいた。

 本当にこいつはわかりやすい。

 訝るような視線を向け続けると四葉は音を上げたように息を吐きだして、ポケットから小さな紙を取り出した。

 

「えーっと……『野良犬に噛まれた話ってどうかな? by一花』……なんですかこれ?」

「な、なんだろうな……」

 

 嫌な汗が頬を伝う――緊張による精神性発汗だ。

 一花め……つい昨日出来たばかりの弱点を容赦なく突いてきやがった。

 事に及ぶ直前に見せた態度はどこに行ったのやらだ。

 俺がみっともない姿を見せたのは事実だが、あいつだってあられもない姿を晒したはずだ。

 あんなに俺の名前を呼びながら乱れて……思い出すのはやめよう。

 蕩けた一花の顔、声、匂い、味、感触を頭の中から締め出す。

 そうしないと横にいる四葉にも邪な思いを抱いてしまいそうだ。

 

「おや? なにやら顔が赤いような」

「気にするな! と、とりあえずあいつを追えばいいんだな?」

「はい! 上杉さんだけが頼りなんです」

 

 さっぱり事情は分からないが、俺の双肩には大層な物が託されてしまったようだ。

 一花の脅迫じみたメッセージは気に食わないが、姉妹を思ってのものだと呑み込んでおこう。

 そもそもあの一件だって最終的に手を出した俺が悪い。

 いずれ清算しなければならないだろうが、今は逃げた五月だ。

 もう姿は見えないが、どの方角に走っていったかは把握している。

 どこかに隠れでもしない限り、映画村の中にいるのなら見つけること自体は難しくないだろう。

 中野姉妹は何かと目立つのだ。

 問題はその後だ。

 これから走らされると思うとゲンナリするが、それも今更だ。

 こうも手を煩わされては、とっ捕まえて文句の一つでも言ってやらねばこっちの気が済まない。

 

「さて、あの真面目馬鹿にいっちょ説教入れてやるか」

「ご武運を!」

 

 このままあの態度をとり続けられたら、間違いなく家庭教師の方に支障が出る。

 面倒を見ると決めた手前、いずれは向き合わなければいけない事なのだ。

 ……そんな資格が今の俺にあるのかは怪しいところだが。

 

 

 

 

 

『ししし、作戦成功したよ!』

「うん、お疲れさま。四葉はそのまま尾行お願い」

『ラジャー!』

「あ、リボンは目立つから隠しといてね」

 

 通話を切ると、三玖は深く息を吐きだした。

 慣れない事をしているという自覚はあったが、予想以上に気を張ってしまっていた。

 

「この衣装、地味すぎない? もっと可愛いのがよかったわ」

「あんまり目立つと身動き取りにくくなっちゃうから」

 

 二乃は四葉と同じように町娘の扮装をしていた。

 四葉と同じく陰ながらサポートをしてもらう予定なので、目立たない格好の方が都合がいいのだ。

 筋肉痛を引きずっている三玖は、制服姿のまま司令塔に徹している。

 一花も同じく制服姿だが、これはそもそも作戦の人員に含まれていないためだ。

 

「三玖も中々やるね。五月ちゃんをメールで誘導してフータロー君と引き合わせるなんて」

「四葉が見張っててくれたおかげ」

「それよりも一花、あんた四葉になにか持たせてたけど、あれなによ」

「うーん、ちょっとしたアドバイス、みたいな?」

 

 風太郎が素直に五月を追う事はないと踏んでいた一花は、四葉に魔法の言葉を授けていた。

 自分でもズルい手だとは思ったが、風太郎ならば呑み込んでくれるだろう、と。

 

(って、様子見決めてたはずなのにブレブレだよね)

 

 五月の件に関してはまだ保留中のはずだが、あれこれと口出しをしてしまっている。

 結局のところ、それが自分の本心なのだろうと、一花はそう受け止めた。

 後一歩踏み出せば、他の姉妹と同じように五月の後押しに注力できるだろう。

 しかしその最後のところで踏ん切りがつかない理由は、やはり零奈の件だった。

 断片的な情報から、一花は五月が母の名を騙って風太郎の思い出の少女に扮していた事を察した。

 それが何のためであるのか。

 もし、その目的が思い出の少女――四葉に成り代わることだったのなら、一花はそれを否定しなければならない。

 六年前の思い出の中には、自分にとって大切なものもあるのだから。

 

(でも、五月ちゃんがそんなことをするとは思えないんだよねぇ)

 

 正直に言えば、その可能性はほぼないと思っている。

 四葉ほどではないが五月も隠し事は苦手な部類だ。

 もし姉妹を出し抜いて裏で動こうとするなら、まず本人の態度にそれが現れる。

 そして二乃あたりに尋問されておしまいだろう。

 あるいは上手くやりおおせたとしても、本人の性格的に長続きはしない。

 良くも悪くも真面目な五月は、後ろめたさに負けていつか崩れ去ってしまう。

 ちょうど昨日中、部屋で塞ぎ込んでいたように。

 

「……やっぱり確認しないとね」

「一花、どこ行くの?」

「ちょっと別行動するね。見ておきたいところもあるし」

 

 

 

 

 

「こ、ここまで、逃げれば、さすがに……」

 

 息も絶え絶えに壁に手をついて足を止める。

 後ろを振り返っても追手の姿はない。

 一息ついて、壁にもたれて息を整える。

 映画村に着いて早々に、五月は姉妹とはぐれてしまった。

 何度も連絡を試みるも応答はなく、やっと連絡が取れたかと思えば集合場所に風太郎が現れる始末。

 姉の後ろに隠れることができないので、逃げ出すしかなかった。

 想いを抑えていたはずの堰はとっくに決壊している。

 そんな状態で向き合ってしまったらどうなるのか、自分が何をしてしまうのか。

 それが怖くてたまらなかった。

 

(それに、もう上杉君は三玖と……)

 

 全てが今更なのである。

 三玖は見事に自分の想いを果たした。

 それならばもうこちらの出る幕はない。

 自分を気遣って言葉を尽くしてくれた優しい姉を悲しませるようなことはしたくなかった。

 他の姉妹、特に四葉のことを思うとやりきれない気持ちもあるが、それは呑み込んでおくしかない。

 風太郎とも距離を置くべきだろう。

 届かない想いを抱えたまま傍にいるのは辛いし、ずっと騙していたという罪悪感もある。

 家庭教師は断ることになるが、卒業までだったら自分の力だけでもやりきれるという自信はあった。

 後はアルバイト先の塾講師の支援を貰いつつ夢を目指す。

 これから先の道筋を思い浮かべて、五月は見上げた空が歪んでいることに気がついた。

 

「――そんなの、いやです」

 

 ポツリと漏れたつぶやきと共に、涙が頬を伝い落ちていった。

 この瞬間、姉妹の事は頭から消えていた。

 むき出しになった心が叫んでいた。

 もっともっと一緒にいたい――中野五月は、上杉風太郎をどうしようもなく欲しているのだと。

 伝える相手のいない、行き場のない想いは、目の縁から雫となって溢れ出た。

 堪らずその場に座り込む。

 

「あ、また泣いてる」

「い、一花……」

 

 姉の声に五月は顔を上げた。

 一花は正面に回ってしゃがみこむと、ハンカチで五月の顔を拭った。

 

「せっかくの修学旅行なのに、こんなところで座ってたらもったいないよ」

「もう……もう、ダメなんです……」

「そっかぁ」

 

 否定も肯定もせずに受け止める。

 二乃なら発破をかけて立たせようとするだろうし、三玖なら寄り添って気遣うだろう。

 四葉はどうしたものかとオロオロした挙句、一緒に泣き出してしまうかもしれない。

 そして一花は相手の反応を見る。

 

「五月ちゃん、もしかして三玖とフータロー君がなにかしてるの見ちゃった?」

「――っ」

 

 今まで誰も触れていないところに一花は切り込んだ。

 三玖でさえその部分には――具体的に何があったのかまでは踏み込まなかった。

 五月がどんな感情を持ってその状態に陥ったか、そこに真っ先に共感してしまったためだ。

 思いやりは美点ではあるが、それだけでは届かない答えもある。

 

「やっぱりそうなんだ。私もフータロー君から聞いてびっくりしちゃったんだけどさ」

「ううぅ……一花は、辛くないんですか……?」

 

 それは自分は辛いのだと白状しているようなものだった。

 花より団子だと思っていた妹は、いつの間にやら立派に恋をしていたのだ。

 予想していなかったわけではないが、驚きは小さくなかった。

 よりにもよって姉妹全員揃って同じ相手。

 一花は嘆息すると、続けて二の矢を放った。

 

「うん、辛いよね……私や二乃、特に四葉には」

「……」

 

 声には出さなかったが、四葉の名前を出した途端に五月の顔が歪んだ。

 内容はともかくとして、思うところがあるのは間違いない。

 しかし、それを本人が吐き出すまで待っていては時間がかかりすぎる。

 

「お母さんの名前、使ったんだってね」

「え――ど、どうしてそれを」

 

 呆然とした五月に、一花は薄く微笑んだ。

 事情を全て把握しているわけではないが、重要なのは知っていると思わせる事。

 秘密は秘されていると思うからこそ、守ろうという意思が発生する。

 逆に相手に知られていると認識してしまったら、どうしてもガードが甘くなる。

 少なくとも精神的にまいっていた五月は、その誘導に乗ってしまった。

 

「……最初は、四葉に頼まれたんです」

 

 そして、ポツリポツリと語り始めた。

 風太郎を過去から解放するために思い出の少女を演じた事。

 四葉の事や三玖の事、風太郎の想いを確かめるために再び零奈になった事。

 

「だけど、上杉君はあっさり私だと見破ってしまって……」

 

 赤くなった顔を膝に埋めた五月に、一花は母の言葉を思い出した。

 愛があるからこそ、自分たちを見分けられるのだと。

 未だに母の背中を追っている五月にとっては、その言葉はこちらの想像以上に大きな意味を持っているのだろう。

 

(つまりは、私と同じようなことをしようとしてたんだね)

 

 大体の事情を把握して一花は頬を緩ませた。

 そうではなかったという安堵と、やっぱりそうだったという嬉しさからだ。

 こうして確認できた以上、やるべき事は一つ。

 その結果ライバルが増えてしまうとしても、それは仕方がないと目をつぶろう。

 いっそ姉妹全員で好きな相手について語り合うのも悪くないかもしれない。

 風太郎が聞きつけたら胃痛を訴えそうな催しである。

 

「やっぱり私たちって姉妹だね。お互いに似たようなことしようとしてたんだから」

「一花が、私と……?」

「四葉のこともそうだし、なんというか……自分を役割に当てはめようってところとかさ」

 

 母が亡くなってから一花は長女としての自覚を深め、五月はいなくなった母の代わりを目指した。

 どちらも他の姉妹を守り、先導する立場だ。

 

「それならさ、いっそのこと五月ちゃんがお手本を見せちゃいなよ」

「お手本?」

「そ、恋する乙女のお手本」

「え、そ……そんなの無理ですっ! だって、上杉君は三玖と……」

 

 相手を風太郎に限定した覚えはないのだが、そこには触れないでおいた。

 そしてまた出てくる三玖の名前。

 自分自身であれこれと付け加えてこんがらがってしまっているが、一花から見たらごくごく単純なものだ。

 五月がここまで沈み込んだ理由は失恋だ。

 そしてそれが勘違いであるという裏付けは取れている。

 

「フータロー君、告白の返事まだしてないってさ」

「――え?」

「じゃ、また後でね」

 

 立ち上がってメールを送信する。

 自分にできるのはこれぐらいだろう。

 一花は五月に笑いかけると、その場から歩き去っていく。

 

「ま、待ってください!」

「ダメだよ、これは五月ちゃんの恋なんだから」

 

 縋ろうとする妹を突き放す。

 最終的に矢面に立つのは自分自身なのだと。

 自分の中の想いと、それを向ける相手と向き合わなければいけないのだと。

 

『だから五月は自分の気持ちを受け止めてあげて』

 

 三玖の言葉が頭をよぎった。

 足を止めてしまった五月は、そのまま一花を見送った。

 そしてその場に立ちつくす。

 

(三玖と上杉君はまだ……なら、私は――)

 

「み、見つけたぞ、この野郎……!」

 

 今は顔を合わせたくない――だけどずっと聞きたかった声。

 振り返ると、息を切らした風太郎がいた。

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、どこ行きやがった、あいつ……!」

 

 見渡せばどの方向にも人の姿がある。

 旭高校の生徒がいれば、違う学校の者もいる。

 だが一番多いのは一般の観光客だ。

 そのためか制服姿のやつはよく目に付く。

 中でも中野姉妹は特に目立つ。

 だから近くにいれば大体わかるはずなのだ。

 こうも見つからないのならば場所を変えるべきか。

 

「そもそも、なんで俺が、こんな走んなきゃ、ならねぇんだ……!」

 

 流れる汗とともに文句が出てくる。

 直接的な理由はもちろん、一花からの脅迫だ。

 五月の変調の原因に心当たりがあるからでもある。

 だけど、結局のところは――

 

『あなたは……私たちに必要です』

 

 林間学校の後、病室での五月の言葉。

 人間関係は一方通行ではない。

 影響を与える側も、同時に影響を受けてしまう。

 真面目なのは結構だが、頑固できかん坊、負けず嫌いも重なって意地を張り出す始末。

 だけどあいつは、俺に道を示してくれたようにも思える――進んでみればとんだ地獄の日々だったわけだが。

 それでもあいつの言葉がなければ、俺はまったく別の場所に立っていただろう。

 結局のところは、めんどくせー奴らと関わったのが運の尽きだということだ。

 

「あん? メール……一花からか」

 

 四葉を通じて脅迫をかましてきたくせに、のうのうとメールを寄越してきやがった。

 正直少し頭にくるが、内容は有益なものだった。

 五月の現在地――脅迫の件はこれでチャラにしてやってもいいか。

 疲労を訴える体に気合を入れて走り出す。

 もたもたして移動されたら面倒だ。

 人の合間を縫って進んでいくと、一花が示した場所の付近にたどり着く。

 辺りを見回すと、建物の壁際に目的の背中があった。

 早足でアホ毛を揺らす五月のもとへ。

 息を整えるのも忘れていた。

 とりあえずは確保して、それから――

 

「み、見つけたぞ、この野郎……!」

 

 ビクッと体を震わせたかと思うと、五月はゆっくりこちらへ振り向いた。

 予想通り呆けて固まっている。

 捕まえるならこのタイミングだ……!

 

「~~っ!」

 

 しかしこちらの接近に反応してか、五月は再度逃げ出してしまった。

 くそっ、結局は追いかけっこか!

 

「待ち、やがれっ」

「どうして、追いかけて、くるのですか……!」

「お前が、逃げる、からだろうがっ!」

「そんなの、知りませんっ」

 

 この駄々っ子め……!

 そんな悪態を口に出す余裕すらなくなってきた。

 何の自慢にもならないが、俺は中野姉妹でもドべの体力を持つ三玖とタメを張れる男だ。

 加えてこれまであちこち走り回って正直、消耗が激しい。

 五月との差は縮まるどころかどんどん開いていく。

 気合は既に入れ尽くしているので、こちらのスピードに伸びしろはない。

 逃げる背中が小さくなっていく。

 このままだと見失っちまう……!

 

「限定スイーツやってまーす! いかがですかー!」

 

 妙に聞きなれた声のような気がするが、どこかの店の呼び込みだろうか。

 惹かれるワードを聞きつけてか、明らかに五月の足が鈍った。

 なんにしてもこれはチャンスだ。

 余力を振り絞って加速する。

 すでに限界だと思っていたが、まだ気合の入る余地があったらしい。

 今度は逃さないようにその手をしっかりと掴む。

 

「捕まえたっ」

「――は、はなしてくださいっ!」

「ぐっ――」

 

 しかし悲しいかな、余力を使い切った俺に五月を取り押さえる力は残されていなかった。

 掴んだ手はあっけなく振り払われてしまう。

 さらに追撃で何かが飛んでくる。

 顔で受け止めると、それは五月のバッグだった。

 そして当の本人は三度逃亡を図り――

 

「――バカ野郎! ちゃんと前見ろ!」

「え――きゃあっ」

 

 ろくに前方を確認せずに走り出したのだろう。

 進行方向に池がある事に気づいたときにはもう遅い。

 盛大に水しぶきを上げて、五月は池に突っ込んだ。

 

「ううぅ~~……つ、冷たい」

「まったく、お前は……まぁ、これで少しは頭も冷えたろ」

「……」

「ほら、立てるか?」

 

 手を差し出す。

 五月は少しの逡巡の後、おずおずと俺の手を取った。

 

「これ使え」

 

 立たせてから濡れ鼠の頭にタオルをかぶせる。

 昨日のような事態を想定して手荷物に入れておいたものだ。

 しかし、濡れてしまった制服はどうしたものか。

 さすがにこのままでいさせるわけにはいかない。

 どこかで着替えが用意できれば……そういえば、うってつけの場所があったな。

 

「行くぞ」

「あっ……」

 

 五月の手を引いて歩き出す。

 今度は振り払われることはなかった。

 

 

 




クッソ長くなるので分割します。


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シスターズウォー・三日目その2

五女は主人公の相手という意味のヒロインではなく、女主人公という意味でのヒロインだったのではないかと思う今日この頃。


 

 

 

「上杉さん、頑張って……!」

 

 建物の陰から、四葉は五月を追う風太郎を見守っていた。

 ほっかむりをしているが、それは三玖のアドバイスによるものである。

 風太郎いわく悪目立ちするリボンを隠すためのものだ。

 そもそも外してしまえという話だが、単独行動ゆえそれを指摘する者はいなかった。

 

「ああっ、どんどん引き離されちゃってる」

 

 走る二人に合わせてちょこちょこと移動を繰り返しているが、その程度ならまったく苦ではない。

 問題は五月を取り逃がしそうな風太郎だった。

 常々思っているが、体力がないにも程がある。

 どうしようかとオロオロと辺りを見回す。

 四葉の目に留まったのは和の装いの喫茶店。

 あまり使われていない脳細胞をフル回転させ、逆転の策を導き出す。

 それは――

 

「限定スイーツやってまーす! いかがですかー!」

 

 五月といえば食べ物の方程式である。

 人間は限定という言葉に弱く、女子ならばスイーツの誘惑には抗いがたい。

 ものの見事に引っかかった五月は、走るスピードを大幅に減じさせた。

 そしてその隙を逃す風太郎ではない。

 ししし、とガッツポーズを取る四葉。

 しかし油断は禁物だ。

 

「えええっ、また逃げられてる!」

 

 追いつくのがやっとで、捕まえておくことはできなかったようだ。

 いっそ自分が抱えて走ったほうがいいのでは?

 風太郎の窮状にそんな考えがよぎる。

 あっさりとやってのけそうなのが四葉の恐ろしいところである。

 一瞬本気で悩んだが、色々と台無しになりそうなので自重しておいた。

 

「――バカ野郎! ちゃんと前見ろ!」

 

 焦り気味の声が響いたのはその時である。

 ハッと四葉が目を向けると、五月が派手に池にダイブしていた。

 

「あわわわ……どうしよ、どうしよ」

 

 慌てふためくが、ここで出て行くわけにはいかない。

 五月の心配をしつつも、四葉はとりあえず三玖に連絡することにした。

 

 

 

 

 

「え? 五月が池に落ちた?」

『うん……着替え持っていってあげたいけど、さすがにジャージは持ってきてないよ』

「うーん……二人はどうしてる?」

『出口の方に歩いて……あっ、もしかしたらコスプレ屋さんにむかったのかも!』

「コスプレ屋さんって」

 

 四葉が言っているのは、先ほど自分たちも利用した扮装の館のことだろう。

 時代劇の俳優になりきろう、という名目で色んな衣装に袖を通すことができる。

 三玖にとっては夢のような場所だったが、今回は自重した。

 今日一日は五月のために使うと決めていたからだ。

 

「とりあえず、四葉は五月の着替えを探してみて。ショップのグッズでなにかいいものあるかも」

『りょーかい!』

 

 通話を終えてスマホをしまう。

 四葉に任せておくだけじゃなく、自分でも動かなくてはならない。

 ベンチから立ち上がろうとしてよろけた三玖は、二乃に支えられてどうにか踏みとどまった。

 

「まったく、世話が焼けるわ」

「ごめん、色々と」

「本当にね。まさかあんたがあんな大胆な行動に出るとは思わなかったわ」

 

 二乃が言っているのは修学旅行初日の事だ。

 五月の協力を取り付けた三玖は、一花と二乃を出し抜いて風太郎に急接近した。

 抜け駆けされたことへの怒りはあるが、振り返ってみればお互い様と言えなくもない。

 

「一花はなにをやっているのやらね」

「ここには撮影に使われてる場所もあるし、やっぱり興味あるんじゃないかな」

「そうだといいわね」

 

 一花の姿が見えないことは不安でならないが、邪魔はしないとも言っていた。

 なんだかんだで助言もしてくれていたので、とりあえずは信じておくことにした。

 

「それで、どこ行きたいの?」

「扮装の館。五月がすぐ着替えられるようにしときたい」

「変装道具は?」

「一花から預かってる」

「なんで修学旅行にそんなもの持ち込んでるのよ……」

 

 用途が気になったが、本人がいないので追求は後だ。

 二人は連れ立って、四葉が言うところのコスプレ屋さんへ向かう。

 幸いすぐ近くにいるので、三玖にも移動はそれほど苦ではない。

 しかし、問題となりそうな人物が二人、店の前に立っていた。

 

「上杉のやつ、どこ行きやがったんだよコラ」

「電話も通じない、ね。やれやれ、迷子かな?」

 

 風太郎と班を組んでる武田と前田だ。

 店を利用したのか、武士と忍者のコスプレ姿である。

 いなくなった班員を待っているのだろう。

 

「あの二人は邪魔ね。私がなんとかしてくるから、後は任せたわ」

「うん、ありがとう」

 

 気にするなとでも言うように手を振ると、二乃は二人のもとへ。

 見知った顔の接近に気づいた武田は、爽かな声で出迎えた。

 

「やあ、中野さん。奇遇だね」

「ちょうどいい。上杉がどこ行ったか知ってるか?」

「えっと、フー君だったら向こうに――」

 

 二乃は見当違いの方向に二人を誘導していく。

 三人が建物から出たことを確認すると、三玖は五月に変装して扮装の館に入った。

 

「すみません、着付けをお願いしたいのですが」

「ええ! どちらの衣装にいたしましょう?」

「えっと……」

 

 店内をぐるっと見回す。

 時代劇に出てきそうな衣装に目を惹かれるが、三玖の目にとまったのは華美な着物だった。

 黄色、紫、青、緑、赤の五枚――それぞれ花をあしらった華やかなデザインである。

 これに髪飾りをセットにしたら、和製お姫様の出来上がりだ。

 咄嗟に青色に手を伸ばしそうになったが、今の自分は五月だ。

 赤色の着物を選んで店員に知らせる。

 

「ただいまご用意いたしますので少々お待ちください!」

「あっ、それと男性用の衣装も見繕ってほしいのですが」

「まあ! もしかして恋人さまの分でしょうか?」

「え、あ……はい、そんな感じです」

「かしこまりました! それでは衣装とサイズの確認を――」

 

 

 

 

 

「……解せん」

 

 再度の扮装の館の前で俺は頭を抱えた。

 ガラスに映るのは浅葱色のだんだら模様の羽織、それに誠の一文字を背負ったミブロスタイルの男の姿があった。

 ……なにを隠そう、俺の事だ。

 びしょ濡れの五月をここまで連れてきたのはいいが、なぜか既に着付けの準備が出来ていて、ついでと言わんばかりに俺も巻き込まれてしまった。

 店員の生温かい視線に耐えかねて外に出たのだが、これは想像以上に恥ずかしい。

 つーか武田と前田はどこにいったんだか。

 勝手に五月を追いかけていった俺が文句言える立場ではないのは分かっているが。

 

「お、お待たせしました……」

 

 おずおず、というかどうにか振り絞ったかのような声。

 店の入口から五月が顔をのぞかせていた。

 コスプレ体験が恥ずかしいのか、体は隠したまま顔を赤くしてこちらを睨みつけてくる。

 頑張ってとか、勇気出してとか、店の中からそんな声が聞こえてきた。

 なんか妙な勘違いをされてないか?

 

「むむむむっ……」

「いつまでにらめっこする気だ。邪魔になるから出るぞ」

「あ、ちょっ、まだ心の準備が――」

 

 五月の手を掴んで引きずり出す。

 これだけ恥ずかしがっているのだから、それはそれで興味があった。

 あれだけ走らされた恨みも多少混じっているかもしれない。

 なんならからかってやるつもりでいたが、俺の行動は迂闊だったと言わざるを得ない。

 赤色の、花をあしらった模様の華美な着物。

 いつものダサいヘアピンの代わりにきれいな髪飾りを着けていた。

 呼吸が止まる――明確に失敗を悟った。

 心の準備が必要なのは、俺の方だった。

 

「……」

「な、なんで黙っちゃうんですか」

「あ、ああ……に、似合ってるんじゃねぇの?」

「~~っ」

 

 五月が声にならない声を上げた。

 おまけに顔を赤くしてプルプル震えてやがる。

 思わず素直に褒めてしまったが、馬子にも衣装とでも誤魔化しておけばよかったか。

 いや、それはそれでまたデリカシーがないだのと騒ぎ出しそうだな。

 それにしても顔が熱い……。

 とにかくまた逃げ出されるとたまったものではないので、今度は両手でその手を取る。

 体をビクッと震わせると、五月は大きく深呼吸をした。

 

「……その、もう逃げたりしませんから」

「今度逃げたら、二乃にチクってお前のおかずを減らしてもらうとしよう」

「なぁっ!? どこまで卑怯なのですか!」

「うるせぇ、そもそもが食いすぎなんだよ」

「あなたという人はとことんデリカシーがありませんね!」

「人の家で容赦なくカレーをおかわりしていく女には言われたくないね」

「このミスターノーデリカシー!」

「なんだと、この妖怪カレー食い女が!」

 

 五月に釣られるようにして、俺もいつの間にかヒートアップ。

 これまでにも飽きるほど繰り返してきたやりとりだ。

 睨み合っているのも束の間、俺達はどちらともなく吹き出してしまっていた。

 

「くくっ、ははは! まったく何度目だよこれ」

「ふふ、お互いに進歩がないということかもしれませんね」

 

 まったくもってその通り。

 懲りずに同じことを何回も何回も。

 だが、出会った当初のようなギスギスとした雰囲気ではない。

 それは決して長くはない付き合いの中で、俺がこいつの事を多少なりとも知ったからだろう。

 

「あいつらとははぐれたのか?」

「気づけばいなくなってて……連絡も返ってきませんし」

「なら丁度いい。俺も班員と合流したいし、二人で探したほうが見落としが少ないだろ」

「それは構いませんが、連絡は取ったのですか?」

「おっと、そうだったな」

 

 携帯を取り出して操作しようとするが、画面が真っ暗のまま動かない。

 あれこれしてようやく画面が点いたかと思うと、空っぽの電池マークの表示が出てまた真っ暗に。

 おそらく、一花からのメールの後あたりで力尽きたのだろう。

 

「バッテリー死んでたわ」

「まったく……どうせあまり使わないから充電を忘れていた、といったところですか」

 

 図星だった。

 こいつも俺の事を少しは理解しているようだ。

 なんともむず痒いが、悪い気はしなかった。

 

「早いとこ見つけようぜ。せっかくの修学旅行が人探しで終わるのはもったいない」

「そうですね――」

 

 きゅるる、とどこかで誰かの腹の虫が鳴いた。

 今、店の前にいるのは俺たち二人のみ。

 つまり、俺じゃないのならば目の前のこいつ以外ありえない。

 五月はまた顔を真っ赤にして提案してきた。

 

「とりあえず、どこか入りませんか? 甘いものが食べたいです」

 

 それからは食べ歩きの道行となった。

 ここのメインはそれではないと思うが、楽しみ方は人それぞれだろう。

 

「つーかまだ食うのかよ」

「当然です! 昨日と一昨日の分をここで取り戻さないと!」

 

 この旅行中、あまり食事を楽しめなかったのがここに来て爆発したらしい。

 まぁ、こいつらしいといえばこいつらしいか。

 正直見ているだけで胸焼けしそうだが、何かを食べている時の五月の顔は嫌いじゃない。

 あどけない無防備な笑顔がらいはと重なるからだ。

 可愛げという点では天と地ほどの差があるが。

 一応人探しという目的があるが、ここで水を差すほど野暮じゃない。

 

「あの、そんなに見られてると食べにくいというか……」

「ああ、悪いな。マナー違反ってやつか」

「気になるのなら、その……ひ、一口どうぞ!」

 

 差し出されるスプーン。

 つい昨日、一花が口走った間接キスという言葉が頭をよぎった。

 そもそもこれは世の恋人達がやっているとされる行為なのでは?

 こいつは自分が何をしているのかわかってるのだろうか。

 温泉の時といい距離感がおかしくなる事があるが、今の五月はどうだろうか。

 

「ううぅ……」

 

 顔を赤くして、スプーンを持つ手は震えていた。

 確実にわかってやっている。

 もしくは、途中で気づいたが引っ込められなくなったかだ。

 こいつの性格的には後者の方がありえそうだ。

 ここで受けても引いても面倒な事になるのは目に見えている。

 どっちがマシかといえば……

 

「んっ……うまいな、これ」

「で、ですよねっ」

 

 俺の感想の何が嬉しかったのやら、表情が目に見えて明るくなった。

 他の姉妹、特に上三人の耳に入ったら面倒だが、変に断って機嫌を損ねられるよりはマシだ。

 ただでさえ昨日は丸一日ふいにしているこいつが楽しめるのなら、それでいいはずだ。

 顔が熱いのは必要経費と割り切っておこう。

 旅の恥はかきすてというやつだ。

 

「……」

「なに固まってるんだよ」

 

 しかしそれ以降、五月の手が進まない。

 なにやらそわそわしているし、スプーンを見つめてゴクリと生唾を飲む音さえ聞こえる。

 そんなに気にするのならやらなければいいものを……

 埒があかないので、新しいのを用意してもらおう。

 店員を呼ぼうとしたのだが、その前に五月が動き出した。

 

「ごちそうさまでした」

 

 俺が口を挟む間もなく、あっという間に平らげてしまった。

 目を疑いたくなる光景だった。

 食べ方自体は上品なものだ。

 食器を持ち上げて掻き込むわけじゃなく、スプーンですくって口に運ぶ……その繰り返しだ。

 一口が大きいわけでも、特別手や口の動きが速いわけでもない。

 なのに何故か……いつの間にか食べ終わっている。

 スプーンの先が異次元空間に繋がっていて、触れた一部分をそこへ送っているのではないか?

 そんなありえない馬鹿げた発想が頭をよぎった。

 

「どうかしましたか?」

「いや、食べ終わったなら出るか」

 

 深く考えると頭を痛めそうなのでここら辺にしておこう。

 支払いを済ませて店を出る。

 往来は相変わらずの人の多さだ。

 最初こそ抵抗があったが、今はこの格好で歩くのに大分慣れてきた。

 これは周囲に同じように扮装をしている人達がいるというのが大きい。

 しかし慣れない事態が一つ、起こっている。

 

「またそれか」

「はぐれたら困りますから」

 

 こちらの羽織の袖を控えめにつまむのは五月の指。

 扮装の館を出てから歩くときはこの状態だ。

 移動に際して、はぐれないようにという名目だ。

 とはいったものの、人は多いがいつかの花火の時のようにごった返してはいない。

 そもそもこいつはさっきまで逃げ回っていたというのに。

 そのへんを追求したら顔を赤くしてプルプル震えだしたので、深くは突っ込んでいない。

 もう走り回るのは懲り懲りだ。

 しかし、どうにも調子が狂う。

 時折距離感がおかしくなる事はあるが、今日はずっと狂いっぱなしだ。

 それとも、これも友達なら当たり前で済ませてしまうのだろうか。

 チラリと後ろに目を向けると、五月と視線が絡んだ。

 俺が振り向くと思っていなかったのか、焦った様子だった。

 例によって顔を赤くしていたが、風邪でもひいてるんじゃないだろうな。

 先程は盛大に水場に突っ込んだので、それで体を冷やした可能性はある。

 濡れた制服が体に張り付いて……いかんいかん。

 あの時は必死に意識から除外していたが、今の俺にとっては刺激が強すぎた。

 一花との一件はそれだけ衝撃が大きかったのだ。

 俺の中の衝動をこいつに向けるわけにはいかない。

 そうしたら、俺は自分自身を許せなくなりそうだ。

 

「ひっ」

 

 しばらく歩くと、いきなり五月が短い悲鳴を上げた。

 進行方向に見える『史上最恐のお化け屋敷』の看板。

 そういえば、こいつはこの類のものが苦手なんだったか。

 林間学校の肝だめしで、悲鳴を上げて逃げていたのを思い出す。

 あれはさすがに驚きすぎだったが、仕掛ける側として手応えを感じたのも事実。

 やりすぎはよくないが、適度に脅かせばさぞ気持ちのいい反応が見られるだろう。

 こうなると悪戯心が湧き上がってきてしまう。

 

「おいおい史上最恐だってよ。面白そうだな」

「えっ、入りたいのですか?」

「武田達も入ってるかもしれないしな」

 

 あくまで可能性の話だが、そういった場合もある。

 無論、それだったら外で待ってたほうが確実に合流できるというのは内緒だ。

 まぁ、十中八九断られるだろう。

 元々そういう想定で話を振ったというのもあるが。

 

「わ、わかりました」

「ま、そうなるよな……え?」

「絶対に絶対、離れないでくださいね!」

 

 結論から言うと、俺は大馬鹿野郎だった。

 

 

 

 

 

「ううぅ……上杉君、そこにいますかぁ……?」

「はいはい、ここにいるぞ」

 

 おどろおどろしい雰囲気の施設内を二人は進んでいく。

 五月が全力で風太郎の腕にしがみついているため、歩くスピードは緩やかだ。

 恐怖のあまり視覚情報は完全にシャットアウトしているため、音が鳴るたびにビクビク震えている。

 その度に柔らかい感触が腕に押し付けられ、風太郎は恐怖とは別の意味合いで気が気ではなかった。

 

「う、上杉君、そこにいますよね?」

「いや、何度目だよこれ」

 

 不安で仕方ない五月は確認を怠らない。

 ピッタリくっついているため、これで気づかぬうちにいなくなっていたらそれこそホラーである。

 繰り返される問いかけに風太郎は少しうんざりしていたが、そもそもここに入るよう促したのは自分自身。

 つまり自業自得だ。

 しかしこの状況はいただけなかった。

 ひたすら動きにくいし、腕に伝わる感触が欲望を刺激してくる。

 悪いと思いつつ、少し強引に腕を引き抜く。

 確認の最中はしがみつく力が強くなるが、それに答えた直後は安心するのかわずかに力が緩まるのだ。

 

「あっ、上杉君!? いやっ、離れちゃ嫌です!」

「落ち着け!」

 

 風太郎は混乱する五月の手を強く握る。

 声と共に、ここに居ると示すためだ。

 

「不安になったら握る手に力を入れろ。そうしたら俺も握り返すから」

 

 そうして手をつないだまま進む。

 風太郎は振り返らず五月は目を閉じたまま、無言で時折立ち止まっては傍にいると確認し合う。

 

(不思議です……今はあまり怖くありません)

 

 交わす言葉もなく先ほどより距離が離れたのに、五月の恐怖は確かに薄らいでいた。

 つないだ手の温もりと、握り返してくる力の強さ。

 ひたすらに風太郎の存在を確認することに集中する。

 それだけで聞こえてくる恨めしい声は気にならなくなった。

 

(上杉君、上杉君……)

 

 その分聞こえるようになったのは自分の声。

 心の中を満たす、風太郎への想いだった。

 今までは見ないようにしながら抑えつけ、ずっと向き合えずに逃げてきた。

 

(私は、あなたのことが好きなんです)

 

 突発的に溢れてきたのではなく、ごく自然にそう思える。

 五月はここにきて、やっと自分の想いを受け入れることができた。

 

「もう目を開けても大丈夫だぞ」

 

 つながっていた手が離れる。

 ずっと閉ざしていた目に光が差す。

 まぶしさに目を細めて、五月は太陽に手をかざした。

 そして残った温もりを逃さないように握り締めた。

 

「上杉君」

「なんだ?」

「話があります。二人きりになれるところに行きましょうか」

 

 

 

 

 

 赤い布が敷かれた縁台に、二人並んで腰掛ける。

 大きな和傘――野点傘というらしい――が日除けとなって風が気持ちよかった。

 しばらく歩いてやっと見つけたこの場所は、喧騒もどこか遠い。

 休憩するには絶好のスポットだった。

 

「……」

 

 話があると言っていた五月だが、ここに座ってからは黙ったままだ。

 俺も歩き疲れていたので、途中で買ったお茶をちびちびと飲みつつ体を休めていた。

 とはいっても手持ち無沙汰には変わりないので、横目で様子を伺ってみる。

 先程までのどこか浮ついた、落ち着きのない雰囲気はなりを潜めていた。

 お化け屋敷の暗闇が、こいつの心境にどんな変化をもたらしたのかはわからない。

 ただ、その静かな眼差しには決意の光が宿っているように思えた。

 

「まずは謝らせてください」

「どれについてだ」

「……先日の、デパートでの件です」

 

 五月の手に力がこもる。

 俺としては蒸し返すつもりはなかったが、こいつにとってはそうはいかなかったらしい。

 相変わらず真面目というか、律儀というか。

 

「……一応聞いておくが、去年の零奈もお前で間違いないんだな?」

「はい」

「なぜあんなことをした」

「……最初は『彼女』に頼まれたからです」

 

 誰とは明言しなかった。

 恐らくはその『彼女』が――

 一花は昨日、俺が自分で気づいてほしいと言った。

 それはこいつも同じなのだろうか。

 

「この前は、私に話してくれないことも『彼女』になら話してくれると思って……」

「そこまでして、お前は何を聞きたかったんだ?」

「あなたが私たちのことをどう思ってるか、それを知りたくて」

 

 以前も同じことを聞かれたのを思い出す。

 つまりあの答えだけでは不満だったということだ。

 思えば、あの時はこいつらをひとくくりにして語っていた。

 五月はもっと踏み込んだ……例えば、個々に対する俺の感情を知りたいのだろうか。

 話せないというわけではないが、話したくはなかった。

 上三人とのあれこれは間違いなくこいつの逆鱗だろう。

 四葉のことも含めて、言葉にし難い部分もある。

 すべてを洗いざらいぶちまけたとして、どうなる?

 やはりこいつは拒否反応を示して離れていくのだろうか。

 ……俺のしたことを考えれば、それが妥当なのかもしれない。

 

「――でも、それはもういいんです」

「……」

「他の姉妹がどうとかではなく、私は自分のしたいことを見つけましたから」

 

 助かったと思う反面、五月の顔を直視できなくなった。

 何とも言えない蟠りが胸の中で渦巻いている。

 吐き出すわけにはいかない。

 そうしたら最悪、俺とこいつの関係はそこで終わる。

 

「ところで上杉君、あなたは将来のことをどこまで考えていますか?」

「いい大学に入っていいところに就職。あとは働いて金を稼ぐ、以上だ」

「具体的になりたいものとかはないんですか?」

 

 それを言われると弱かった。

 俺には将来に対する明確なビジョンがない。

 それは勉強という手段にばかり拘泥してきたがゆえの弊害か。

 だから一花や武田、そしてこいつのように夢を語れるやつが眩しく見えてしまう。

 それでも、あえて言葉にするのなら――

 

「誰かの役に立つ、必要とされる……そんな人間だな」

「ええ、あなたはそうですよね」

 

 俺の答えはどこも具体的ではなかったが、五月は納得したかのように頷いた。

 以前に俺の過去話を聞いたってのもあるのだろう。

 いや、そもそもこいつは全部知っているのか?

 思い出の少女の正体についての確信はないが、五月は俺の前にそれを自称して現れた。

 本人でないとしても、多少なりとも事情を理解しているのだろう。

 つーかなんだこれ、進路相談かよ。

 いずれはしてやるつもりでいたが、まさかそっちから持ちかけられるとは。

 

「私は、やっぱりあなたには教える立場が合っていると思いますけど」

「馬鹿言うな、手を焼かされるのはお前らだけで間に合ってる」

 

 こいつらと出会って一年と経っていないが、それでも十分に地獄を見せられた。

 それが生涯の仕事になるなんて考えただけで目眩がしてくる。

 手応えややり甲斐を感じなかったといえば嘘になるが、確実に割に合わないとは思う。

 俺のこういった発言にいつもならむくれるか申し訳なさそうにする五月だが、今は穏やかに笑っていた。

 これはこれで様子がおかしい。

 拍子抜けというか調子が狂うというか、困惑してしまう。

 

「それでも、あなたは私の目標なんです」

「俺が、か?」

「だって初めてなんです。こんな私たちに真剣に向き合ってくれた人は」

 

 中野姉妹の頭の残念さは今までの家庭教師はおろか、学校の教師にさえ諦められるレベルだったらしい。

 その点に関しては同意しかない。

 俺だって金銭が絡んでいなければ早々に投げ出していただろう。

 だから、俺はこいつが思うような人間では決してない。

 生徒との一線を引き損ねるような教師が目標であっていいはずないのだ。

 

「――よせ」

 

 自分でも思っていなかったほど硬い声が出た。

 地面に目を落とす。

 五月の信頼は、今の俺には受け入れるのが少々辛い。

 思えばこいつは一番勉強を教わる立場、教師と生徒という関係に拘っていたように思える。

 生徒に手を出すような不良教師では、その信頼にそぐわない。

 抑え込んでいたはずの蟠りが喉元をせり上がってきていた。

 

「俺は、お前の姉妹に手を出すような男なんだぞ」

「……」

「雇い主に啖呵を切った手前もあるから、進路に関してもサポートする。だがそこでお前らとはお別れだ」

 

 俺達のパートナーという関係は、卒業を迎えることで終了する。

 すべてをまっさらにするには一番いいタイミングだろう。

 俺の進路は恐らく、県外の遠い大学になる。

 中野姉妹に進学先を伝えるつもりはない。

 物理的な距離ができれば、自然に消滅してそれまでだ。

 この裏切りはこいつらに傷を残すかもしれないが、五人ならきっとそれも乗り越えて行ける。

 その未来に俺の姿がないのは少し寂しいが、ただの自業自得で片付く話だ。

 立て続けに想いを告げられ、頭の片隅にちらついていた考え。

 つまり、誰も選ばないという選択だ。

 

「全員を笑顔で卒業させる……あの言葉は嘘だったんですか?」

「嘘じゃない。今でもそのつもりでいる。だから、黙っててくれると助かる」

 

 とんでもない欺瞞だが、俺にはそれしか答えが見つからなかった。

 ギリギリまで隠し通す……つまり、あいつらを騙しながら過ごすことになる。

 ただ、ここでこうしている時点で五月だけは例外になってしまう。

 話さなければよかったが、話さずにはいられなかった。

 こんな間違いだらけの人間を目標にさせるわけにはいかないのだから。

 

「上杉君、顔を上げてください」

「なんだ――」

 

 バチン、という破裂音。

 地面から目を離した瞬間、衝撃と共に顔が横向きになる。

 左頬がジンジンと痛みを訴えていた。

 呆然と正面を向くと、いつの間にか目の前に立っていた五月が、右手を振り抜いたままこちらを睨んでいた。

 叩かれたのだと、ようやく頭が状況を理解し始めた。

 驚いたし泣き出しそうなほど痛かったが、涙は出ない。

 逆に、叩いた方が涙を浮かべていた。

 泣かせてしまった……叩かれた事より、正直ずっと堪える。

 

「絶対に許しません……!」

「ああ、お前はそれでいい」

「なにが? こんなのちっとも良くありませんっ!!」

 

 掴みかかってくる五月に対して、抵抗せずに受け入れる。

 それでこいつの気が済むのならなんだっていい。

 

「あなたはっ、嫌味で、高圧的で……!」

「……そうだな」

「高慢で、成績が良いことを鼻にかけていて……!」

「返す言葉もねぇよ」

「口が悪くて、デリカシーなんて欠片もなくて……!」

「耳に痛いぜ」

「おまけに貧弱で目つきが悪くて髪型も変!」

「そ、そこまで言うか……」

 

 つーか髪型の事は言うな。

 らいはのカットはこれ以外のバリエーションがないんだ。

 その後も続く悪口に次ぐ悪口。

 事細かに掘り返されて、普段どれだけ不満に思っていたのかがよくわかった。

 こちらは最早満腹だが五月の気は済まないらしく、襟元を掴む手は離れる気配を見せない。

 

「あなたはっ、あなたは……」

 

 言葉が途切れる。

 俯いた五月のアホ毛が鼻先をかすめる。

 溢れるような悪口は、すすり泣く声に取って代わっていた。

 こぼれ落ちる生温かい雫が貸衣装の袴を濡らしていく。

 涙を止めてやりたかったが、どうすればいいのかわからない。

 今の俺には正しい答えが見えなかった。

 それから、しばらくそのまま。

 動けない俺と、泣き止まない五月。

 時間の感覚は曖昧で、もう何時間もこうしているような気がするが、日の向きに変化はない。

 時間が止まっているのかと錯覚してしまう。

 愚にもつかない馬鹿げた発想だが、それも悪くないと思ってしまう。

 ずっとこのままなら、答えを出さずに済むからだ。

 一花、二乃、三玖の俺に対する想い。

 そして、四葉に対する俺の――

 

「あっ……」

 

 こぼれた声はどちらのものか。

 前髪を触ろうと、ほぼ無意識で動かした手が五月の手に触れた。

 それが止まっていた時間が動き出す合図だった。

 五月がゆっくりと顔を上げる。

 泣いていたせいかくしゃくしゃで、とても人前に出られるような状態じゃなかった。

 それでも目はそらさず、しっかりとこちらを見据えている。

 悪口の続きだろうか。

 なんにしても、俺には逃げる術……というよりも意思はない。

 

「それでも、あなたは私たちと向き合ってくれた……」

 

 五月は出会った頃のことを語った。

 最悪の出会いと印象。

 俺が働く理由。

 そして奔走した花火大会の日。

 

「あなたは、嘘をついてまで私に寄り添ってくれた」

 

 旭高校に編入してから初めての試験。

 仲違いをした俺と五月。

 一人で行き詰まり、泣いていた事。

 素直になれない俺達の、見え透いた嘘を隔てた歩み寄り。

 

「あなたは、嘘が引っ込められなくなった私を見つけてくれた」

 

 初日からトラブル続きだった林間学校。

 家族を捨てて逃げた姉妹の実父。

 身近な男である俺に対する疑念。

 見極めるため、一花に変装した事。

 正直、最後の方の記憶は朧気だ。

 覚えているのは、リフトの上で縮こまった不器用な真面目馬鹿の姿。

 それと、寝ている俺の手に触れた誰かの指の感触。

 

「あなたは、夢を見つけた私の背中を押してくれた」

 

 全国模試に向けた勉強の日々。

 亡き母への憧憬。

 俺の中に見出した理想。

 そして、背中を押す言葉をもらった事。

 俺が一人で歩んでいるわけじゃないと強く認識したあの日。

 テストの答案で作られた、五つの折り鶴。

 

「もう、あなたがいない日々なんて考えられないんです」

 

 五月の手が俺の手の上に重ねられる。

 こちらを見つめる瞳が、別の色を帯びたように感じられた。

 

『フータロー君』

『フー君』

『フータロー』

 

 俺の名前を呼ぶ三人の顔が頭に浮かぶ。

 熱に浮かされたような、切実に何かを求めているような表情。

 それが今の五月に重なった。

 

「だから、今更いなくなるなんて絶対に許しません。きちんと責任を取ってください」

 

 家庭教師としての、という意味ではないだろう。

 五月が俺に求めているのは、もっと別の何かだ。

 責任という言葉で思い浮かぶのは、多額の借金と子供二人を背負ってきた親父の背中だ。

 

「私たちを……私をこんなにも変えてしまったのは、あなたなんですから」

「……」

「あなたがなんと言おうと、なにを思おうとそれは事実なんです」

「……五月、俺は――」

 

 中野姉妹との縁を絶つ。

 この考えに至った経緯に、中野父の影響がないといえば嘘になる。

 姉妹との距離をさらに強く意識するようになったのは、その釘差しがきっかけだからだ。

 だが、本質的な理由はそれじゃない。

 

「――お前らが離れていくのが怖い、のかもしれない」

 

 今まで周囲に壁を作って過ごしてきた。

 不必要だと切り捨てていた。

 だが、こいつらと関わるようになってからはそんな事を言ってられなくなった。

 勉強を教える……ただその一言で片付く行為が、どれだけ困難だったことか。

 そんな時間を共有してきた中野姉妹は、間違いなく俺にとっての特別だ。

 だからこそ切り捨てられるのが、自分は不必要な人間なのだと突きつけられるのが恐ろしい。

 一花を欲望のまま貪ったのが俺の本質ならば、そんな醜い部分を知られたくなかった。

 それならば自分から遠ざかって時が流れるままに関係を霧散させる。

 理由は、そんな身勝手なものだ。

 

「それなら私は絶対にこの手を離しません。だから、いつものあなたのように傲慢に言い放ってください……私たちにふさわしいのは自分なのだと」

「相応しい、か。また随分と思い上がりやがって」

「安心してください。道を踏み外しそうになったら、今日みたいに思いっきりいきますから」

 

 泣きはらした目のまま、五月はいたずらっぽく笑った。

 まだジンジンと痛む頬をさする。

 まったく、どの口が言っているのやら。

 俺がこんな地獄の日々を送るようになった諸悪の根源は、間違いなくこいつだ。

 

『あなたはその答えを既に持ってるじゃないですか』

『あなたは……私たちに必要です』

『それはもはや……友達でしょう?』

 

 ……だが、俺にいつも道を示してくれるのもこいつなのだ。

 霧が晴れたような気がした。

 あるいは開き直りなのかもしれない。

 なんにしても、俺を一人にしないと言う馬鹿がここにいる。

 

「俺をここまで焚きつけた事、後悔するなよ?」

「望むところです!」

 

 不敵に笑ってみせた俺に、五月は晴れやかな笑顔を返してきた。

 たとえ迷って立ち止まっても、互いに進むべき道を教えあう。

 それが一方通行では終わらない、俺とこいつの関係なのだろう。

 教師と生徒という枠には収まらず、友人というにも近すぎる。

 それならばいっそ親友か……そういえば、姉妹の父親役なんかを買って出たこともあったな。

 その当時、今ほど中野父を知らなかったからこそ出た提案だ。

 もしかすると五月はその言葉をずっと覚えていて、それが責任という言葉につながったのかもしれない。

 

「父親代わりか……確かにそんな事も言ったな」

「え?」

「覚えてないか?」

「あ、えっと、それはもちろん覚えていますが、ここで出てくるとは思わなかったので」

 

 どうやら五月にその気はなかったようだ。

 つーかこの勘違いは普通に恥ずかしい。

 こうなったら、もう空を見上げて誤魔化すしかなくなってしまう。

 やれやれ、いい天気だぜ。

 

「……でも、それも悪くありませんね」

「いいのかよ」

「だって、私が母親であなたが父親なら、それはもはや……夫婦ということになりますよね?」

「……は?」

 

 予想外の言葉に脳がエラーを吐きだした。

 空から目を引き戻すと、目を伏せて頬を僅かに赤く染めた五月の顔。

 思考は停止したまま、なにかとんでもないものの予兆だけは感じ取っていた。

 

「さっきの話の続きですが、実は学校の先生以外にも将来の目標ができたんです」

「そ、そうか」

「上杉君、私と家族を作りませんか?」

「家族……ああ、うん家族ね」

 

 俺の手に重ねられた五月の手に、にわかに力が入りはじめた。

 伏せられていた目が真っ直ぐ俺を捉える。

 並々ならぬ意気込みが否応なしに伝わってきた。

 頭はもうストライキを起こしたがっていたが、どうにか答えをひねり出す。

 家族――つまり兄妹!

 

「俺の妹になりたいとは、お前も物好きだな。うちの可愛いらいはが羨ましくなったか?」

「らいはちゃんはかわいいですけど違います」

「いやいや、お前が姉ってのはさすがに無理が――」

「あなたが夫で私は妻で、ゆくゆくは子供も、その……」

 

 五月は顔を赤くしてもじもじしていたが、今の俺にそれを気にする余裕はなかった。

 完全に読み違えていた。

 こいつが一番そういう事に警戒していたからというのもある。

 手を重ねられた時、姉妹の上三人に共通する気配をこいつから感じた。

 つまり、それは勘違いじゃなかったということだ。

 どうしてこうなったのかさっぱりわからない。

 告白してきた三人は振り返ってみれば、そうだったのかと思えるような態度や出来事もあった。

 しかし五月に関してはそういうのはなかったはずだ。

 そもそも最近は微妙に距離を取られたり、そもそも対面を拒絶されたりで……

 ふと、その行動の一部が誰かと重なる――そう、中野姉妹を意識しまくっていたこの春の俺だ。

 当てはめると、五月は俺を過剰に意識して距離をとっていた、ということになる。

 それに先程の告白じみた発言を加味したら……

 

「……マジかよ」

 

 問題はあっさり解けてしまった。

 この手の分野は俺の苦手とするところだったが、きちんと情報や状況を整理したら答えを導き出せるらしい。

 つくづく自分の頭の良さが恐ろしい。

 それにしても、恋人を通り越して夫婦、しかも子供まで……

 

「五月」

「は、はいっ」

「重い」

「なっ!? ど、どういう意味ですかっ!」

 

 五月が食ってかかるように詰め寄ってくる。

 まるで突進のような勢いだった。

 体重のことを言われたとでも思ったのだろうか。

 それはさて置き、この縁台にはベンチと違って背もたれというものがない。

 そして建物の傍に備え付けられているが、壁までは若干距離がある。

 つまり、押されたら後ろに倒れ込んでしまう、ということだ。

 

「あっ……」

「くっ――」

 

 勢い余って二人して倒れそうになるところを、全身の力を総動員して持ちこたえる。

 受け止めた五月の体は気が狂いそうなほど柔らかく、俺の理性に亀裂を走らせる。

 そしてなにより問題なのは、至近距離に迫ったその顔だった。

 春休みの温泉旅行、あの鐘の下での出来事がフラッシュバックする。

 

「……いい、ですよね?」

 

 何も良くはなかったが、身体的にも精神的にもそれを指摘する余裕はない。

 ただでさえ近い距離はさらに縮まり、ゼロになった。

 散々食べていたからか、スイーツの味が残っていた。

 正確な時間は分からないが、恐らく数秒。

 名残惜しそうに唇を離すと、五月ははにかみながら口を開いた。

 

「上杉風太郎君、あなたが好きです。結婚を前提にお付き合いしてください」

 

 こんな状況でそんな事を言われても、俺に出来ることは限られている。

 そもそもいい加減限界が来ていた。

 明らかに高校生男子の平均を下回る俺の身体能力では、二人分の体重を長時間支える事は不可能だ。

 あとは重力に引かれるまま、地面に倒れこんでいくだけ。

 余計なものを抱えていたせいで、背中にいい衝撃が走った。

 

「……やっぱ重てぇわ」

 

 もちろん、二重の意味でだ。

 それを聞いた五月がまたぷりぷりと怒り出したのは言うまでもない。

 

 

 




次の話で修学旅行は終了です。


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シスターズウォー・三日目その3

修学旅行ラストです。


 

 

 

 五月達が扮装の館を出た後、三玖は気づかれないよう距離を取りながらその動向を追っていた。

 筋肉痛が辛いが、他の姉妹がいないため自分で動くしかないのだ。

 見失いそうになることもあったが、幸いな事に五月の行動パターンは読みやすい。

 マップを見て現在地から近い場所にある飲食店を探せば、二人の姿を見つけるのは容易だった。

 

(でも、良かった……)

 

 風太郎と五月が合流するまで色々と策を講じていたが、それが果たされたのならば後は見守るのみ。

 前を歩く二人、特に五月はどこか浮ついた様子ではあるが、その間に流れる雰囲気は悪くないように思える。

 控えめに風太郎の袖を摘んでいるのが、なんとも五月らしくて三玖は胸を撫で下ろした。

 だが同時にチリチリと心の中で主張し始めるものがあった。

 こうなるように仕向けたのは自分だが、いざ目の当たりにすると嫉妬心に火が点いてしまう。

 

(……私だったら手をつないじゃうもん)

 

 対抗意識を燃やして、自分と風太郎が一緒に歩く姿を想像してみた。

 想像の中の風太郎はやたら爽やかで、三玖の手を引いてスマートにエスコートしていく。

 そして場面は飛んで二人はベッドの上。

 情熱的なキスを交わすと、風太郎は三玖の服に手をかけ――

 

「って、違う違う」

 

 なんとか自力で妄想から脱出する。

 二人の背中は見えなくなりそうなほど遠い。

 三玖は慌てて追跡を再開した。

 その後も二人は、飲食店に入っては移動の繰り返し。

 昨日一日ずっとじっとしていた反動か、五月の勢いは凄まじかった。

 逐一店内を確認していた三玖だったが、胸焼けを起こしそうだったので途中からは出入りを見るだけにとどめた。

 甘いものが苦手なので、スイーツ巡りを見せられるのは辛いものがあるのだ。

 そうして何軒か回ったあと、二人はとある施設の前で立ち止まる。

 

『史上最恐のお化け屋敷』

 

 寂れた外観の建物の入口の上、木製の看板でそう掲げられていた。

 ホラー系は五月の苦手な分野である。

 当然ここも避けるだろうと考えていたが、予想を裏切って二人は連れ立ってお化け屋敷へと入っていく。

 五月は縋り付くように風太郎の腕をガッチリとホールドしていた。

 三玖は頬を膨らませるが、今更ここで割り込んでいくわけにもいかない。

 やや離れた位置で二人が出てくるのを待つことにした。

 

「あ、いたいた」

「二乃」

 

 陽動を買って出ていた二乃が合流する。

 三玖は四葉がしていたのと同じように、五月を除いた他の姉妹に現在地を発信していた。

 静観を決め込んでいる一花はともかく、四葉が戻ってこないのは着替え探しが難航しているのだろう。

 

「フータローのお友達は?」

「適当なアトラクションに放り込んできたから、しばらくは大丈夫よ。それより二人は?」

「あそこ」

 

 お化け屋敷を指差すと、二乃は半信半疑といった様子だった。

 五月が拒否しなかったのは三玖にとっても予想外だったので、その反応は無理もない。

 そうして数分後、二人は手をつないだ状態でお化け屋敷から出てきた。

 入った時より密着度は減っているが、むしろ距離が縮まっているように見えた。

 

「ちょっと、なんかいい雰囲気なんですけど」

「羨ましいな」

「この際だから聞くけど、五月が落ち込んでた理由ってそういうことなのかしら?」

「大体そういう方向で合ってると思う」

「はぁ~~……ほんっとわけわかんないわ、あんたも一花も」

 

 自分の負い目を払拭するために四葉の背中を押す一花。

 自分の気持ちに惑う五月のサポートに回った三玖。

 思惑はどうあれ、どちらもやっているのは敵に塩を送る行為だ。

 姉妹を出し抜いてでも自分の恋を全うする考えの二乃には、到底理解しがたい。

 

「二乃だってそうでしょ」

「そんなことだって知ってれば協力なんてしなかったわよ」

「ふふ、どうだか」

「ふんっ」

 

 そっぽを向いた二乃だが、誰よりも姉妹を想っている事を三玖は知っている。

 どれだけ反目しても、結局見捨てるようなことはしないのだ。

 

「……ま、フー君のあんな姿を見れたのは収穫ね」

「私の見立てだけど?」

「あんたのセンスは微妙だけど、なんせ元がいいもの。なにを着たって似合うに決まってるわ」

「前はタイプじゃないって言ってたよね」

「そんな大昔のことなんて忘れたわ」

 

 都合のいいことを言っている自覚はあるが、二乃は意に介さない。

 そもそも以前は敵対者というフィルターが掛かっていたため、印象が悪くなるのはある程度しかたがなかったのだ。

 あばたもえくぼならぬ、えくぼもあばたということだ。

 そういったものをとっぱらえば、過去の写真や金太郎の件が示す通り、顔立ち自体は好みの部類なのだ。

 

「追うわよ。ここまで来たんだから、ちゃんと見届けてやろうじゃない」

 

 二乃を加えて追跡を再開。

 しばらくうろうろと歩き回ったかと思うと、風太郎と五月は人気のない場所で腰を落ち着けて話し始めた。

 そこからやや離れた建物の陰に身を隠し、姉二人は末妹の様子を見守る。

 

「なに話してるのかな」

「もっと近寄ればよかったのよ。真後ろの建物の中ならバッチリだったのに」

 

 三玖としてもそうしたかったのは山々だったが、筋肉痛という事情がある。

 こっそり近づこうとしても失敗して転んでしまう可能性は拭えなかった。

 ゆっくり静かに動くというのは、意外にも筋力を要求するのだ。

 

「わぁ、なんかいい雰囲気なんじゃない?」

 

 二乃と三玖は第三者の声にビクッと身をすくませる。

 いつの間にか現れた一花が、自分たちと同じように五月と風太郎の様子をうかがっていた。

 

「来たなら声かけなさいよ」

「ごめんごめん。二人があまりに集中してるもんだから、なんか声掛けそびれちゃって」

「どうだかね」

 

 実はお化け屋敷を出た少し後ぐらいから、二乃と三玖の後ろにいたのだという。

 二重尾行というシチュエーションを面白がっていたのは内緒である。

 もっとも、そんな考えを見通している二乃の視線は冷たかったが。

 

「もういいの?」

「うん、気になってるものも見れたしね」

 

 一花は目を細めて並んで座る二人を見た。

 五月は果たしてどのような結論を出したのだろうか。

 偉そうにあれこれ言った身としては気になるところだった。

 

「早くしないと人が来ちゃうじゃない。あーもう、やきもきする!」

「二乃、ちょっと静かにして」

「あはは、準備中の立札置いといたし、しばらくは大丈夫だよ」

 

 こういった如才ないフォローは一花の得意とするところである。

 それは自分が長女であることを意識して過ごす中で培われたものでもある。

 立場が人を作る、という言葉の一例だろう。

 それならそうと少しは生活態度のだらしなさを改善して欲しい、というのが妹たちの意見だ。

 二人の視線からその意図を読み取ったのか、一花はたじろいだ。

 

「ほ、ほらほら、ちゃんと見守ってないと――って、あれ?」

 

 ごまかすように指を差した先にいる風太郎と五月の異変に一花が気づいた。

 つられた二人が目を戻すと同時に、乾いた音が響く。

 右手を振り抜いた格好の五月と、顔を横向きにして固まっている風太郎。

 二乃が言うところの、ドメスティックバイオレンス肉まんおばけのビンタ――略してドメ肉ビンタが炸裂していた。

 唖然とする三人だったが、五月が風太郎を揺さぶり始めたのを見て思考停止から復帰した。

 

「え、ちょっと、なによあれ」

「……多分、またフータローがなにか言ったんだと思う」

「それは言われなくてもわかるわよっ」

「二人とも、とりあえず落ち着こうよ」

 

 風太郎の失言自体は珍しいものではない。

 ビンタまで飛び出すのはあまりないが、デリカシーのない言動が五月を怒らせた事は枚挙に暇がない。

 そういう場合は大抵言い合いに発展するのだが、今は風太郎がなすがままにされている。

 同時に聞こえてくる五月の罵声に、三人は固唾を飲んで見守った。

 しばらく続いたそれもやがて止み、五月は風太郎から手を離さずに俯いてしまった。

 震えている肩を見れば、泣いていることは明白だった。

 

「あんなの、見てられないわ……!」

「待って」

「離して一花。あんた、あれ見てもなんとも思わないって言うの!?」

「もう少しだけでいいから、五月ちゃんに時間をあげて」

「……あと一回叩いたら問答無用で止めるから」

 

 一花の遊びのない声。

 尋常じゃない事態だということは明らかだが、二乃は矛を収めた。

 不安を紛らわすように、三玖は手を握り締めた。

 

(フータロー、どうしちゃったの?)

 

 三玖には二乃の焦りがよく理解できた。

 泣いている五月は心配だが、風太郎もどこかおかしい。

 上の空というか、心ここにあらずといった様子なのだ

 ぶっきらぼうで、ともすれば人を遠ざけるような発言をする風太郎だが、泣いている相手を放っておくような事はしない。

 先程も全く反論する様子を見せなかった事も含めて、普段とは明らかに違う。

 今日の作戦は風太郎への信頼から成り立っているが、それは重荷だったのだろうか。

 

(フータロー君、もしかして昨日のアレを気にしちゃってるのかな……?)

 

 二乃と三玖が不安を募らせる中、一花は気まずい思いを内心に引っ込めた。

 昨日の一件はまともな状態じゃなかったという言い訳が立つが、風太郎の中ではそれで済まなかったのだろうか。

 それをネタに行動を強制したことも裏目に出てしまったか。

 不安と焦燥が三人の心をジワジワと侵食していく。

 永遠にも思える時間は、五月が顔を上げた事によって唐突に終わりを告げた。

 

「五月とフータロー、なに話してるんだろうね」

「さぁ、でも悪い雰囲気じゃないよね」

「あーあ、残念。もうちょっと黙ってたら邪魔してやったのに」

 

 二乃の発言は露悪的だが、内心は誰よりもホッとしていた。

 もちろんそれがわからない姉妹ではないので、ほか二人の視線は生温かい。

 

「なによ」

「ううん」

「別にー?」

「ぐっ……こ、こっち見てないでむこうを気にしなさいよっ」

 

 頭を掴まれて無理やり視線を戻される二人だが、飛び込んできた光景にすぐに釘づけになった。

 それは二乃も同じで、三人は口を開けたまま固まってしまった。

 視線の先の二人……風太郎と五月が密着していた。

 そして事態はそれだけに留まらず――

 

「あっ」

「わぁ、大胆」

「……やったわね」

 

 重なり合う唇と唇。

 五月が自分の想いを伝えられた事に三人は安堵した。

 そして同時に湧き上がるのは複雑な感情だった。

 

「どうすんのよ、ライバルが増えちゃったじゃない」

「どうしようもないよ。好きになっちゃったんだもん」

「だね。こんなに好みが重なるって、私たちにしては珍しいんじゃない?」

「ま、フー君を一番好きなのは私だけど」

「ぽっと出が偉そうに言わないで。一番は私」

「わかってないなぁ、フータロー君のことを一番わかってあげられるのは私だよ?」

 

 二乃は想いの強さ、三玖は育んだ時間、一花は似通った立場からくるシンパシー。

 互いに引かず、交わる視線は中空で火花を散らす。

 だがそれも一瞬の事で、次の瞬間に三人は同時に笑みを漏らした。

 競い合うライバルで、だけど共に歩む仲間で大切な姉妹。

 そんな当たり前で大事な事に気づけた瞬間だった。

 

「えっと、三人ともなにやってるの?」

 

 建物の陰で笑い合う姉三人。

 今しがた到着したばかりの四葉は戸惑うばかりだった。

 

 

 

 

 

「あなたという人は本当にデリカシーがありませんね!」

「俺のデリカシーの前に自分の常識を疑え」

 

 縁台に座り直した俺は、隣に同じく座り直した五月に叱られていた。

 とはいっても、いきなり子供だの結婚だのというワードを耳にしたら身構えるのが当然だ。

 まぁ、告白自体は……その、悪い気はしなかったが。

 

「それよりも、もっとなにかこう……あると思うんですけどっ」

「告白の返事か?」

「そ、それはまだ心の準備が出来てないというか、とりあえず伝えるだけ伝えておきたかったといいますか……」

 

 五月が告白の返事を求めてこないのは正直ありがたかった。

 なんせ誰も選ばないというある意味最も安易な選択を一蹴された今、これから各々と向き合う必要があるからだ。

 そもそも自分の中に確固たる答えを見出していないのに答えられるはずがない。

 優柔不断と謗られようが、ここを妥協してしまうほど俺はあいつらを軽く見ていない。

 

「じゃあなんなんだよ」

「私、ファーストキスだったんですけど! その、なにか感想とか、あるんじゃないんですか……?」

「ああ、うん……」

 

 キスの感想を求められてもどう答えればいいのやら。

 他の姉妹と比べたら、またデリカシーという言葉が飛んできそうだ。

 五月を受けとめた時、唇が重なった時の感触を思い出す。

 離れがたい柔らかさと、食べた甘味のクリームの味。

 ……なにこれ、めっちゃ恥ずかしいんだが。

 こんな恥ずかしいのにその上感想をよこせとかぬかしてんのか、こいつは。

 熱を持った顔を隠すように手で覆う。

 

「……柔らかくて、甘かった」

「~~っ」

 

 正直な感想だったが、いささか小学生の作文じみている。

 勉強で培ったはずの持ち前の語彙力がどこかに吹き飛んでいた。

 聞きたがっていた当の本人は顔を赤くしたままうつむいて、プルプルと震えていた。

 いや、恥ずかしいなら聞くなよ……

 

「ううぅ……私ばっかりこんなに恥ずかしい思いをするのは不公平ですっ」

「お前のはほとんど自爆だろうが」

「そもそも上杉君が動じなさすぎなんです! まさか、私以外の姉妹とも……」

 

 動じていないわけではなかったが、慣れがないといえばまた嘘になる。

 だがそれを正直に言ったところで話がこじれるのは目に見えていた。

 沈黙は金――黙っていた方が良い事もある、ということだ。

 ここは口をつぐむことで、五月の疑惑の眼差しをやり過ごすとしよう。

 

「黙っているということは、心当たりがあるみたいですね。手を出したという自己申告もありましたし」

「……」

「目も泳いでますね。……上杉君のキス魔」

 

 だが一方で沈黙は肯定とみなす風潮も存在する。

 そして目は口ほどに物を言う、とも。

 キス魔という呼び方に対しては物申したいが、下手に反論しても泥沼にハマるのがオチだ。

 俺には事実としてそれだけの実績があるからだ。

 仮に、それ以上の行為があったと伝えればどうなるのだろうか。

 またぶっ叩かれるのか、それとも私もと言って迫ってくるのか。

 今日のこいつの行動は予想外が多すぎて、正直どう出てくるのかが見えない。

 ともかく、言い訳を重ねるのはかえって疑いを深める結果になるだろう。

 ここで必要なのはそう、話題の転換だ。

 

「そういえば、お前着替えはどうするんだ?」

「うっ……お店の方の好意で制服を干してもらっているのですが……」

「まぁ、まず間に合わないだろうな」

 

 あれだけびしょ濡れでは、乾燥機にでもかけない限り集合時間までには乾かないだろう。

 すると、このままでは濡れた制服に袖を通して帰る羽目になるな。

 いや、そもそも下着の類はどうしたんだ?

 まさか今、着物の下にはなにも――

 

「ど、どうしたんですか?」

「い、いや……ちょっと虫がとまっててな」

 

 頭に浮かび上がりそうになる五月の裸体を、自分の太ももに手を打ち付けて痛みで消し飛ばす。

 一花と致した経験がこの手の想像にリアリティを加えていた。

 五つ子である以上、体つきも似通っているのだろう。

 むしろこいつの場合はもっと肉付きが良くて――

 

「う、上杉君!?」

「だ、大丈夫だ、心配するな……」

 

 いきなり自分の頬を殴り出すやつがいれば、心配するなと言われても無理な話だ。

 なにを隠そう、俺の事なわけだが。

 とにかく、痛みで邪念が引っ込んでいる隙に話を進めるとしよう。

 

「俺のジャージでよければ貸してやれるが、どうする?」

「え、そもそもなんでジャージが出てくるんですか」

「昨日は予報外れの大雨に降られたからな。備えあればってやつだ」

 

 こいつが池に落ちた時に貸したタオルも、元はといえばその備えの一つだ。

 もはや雨が降る気配はないが、こういう形で使われるなら無駄足にはならないだろう。

 

「ジャージ……上杉君の……」

 

 こちらとしては名案だと思ったのだが、五月は考え込んでしまった。

 目立った汚れはないとはいえ寝間着に使っていたのは確かだし、女子としては気になるポイントなのかもしれない。

 よくよく考えてみればサイズもぶかぶかだし、見た目的にもちょっと……という感じか。

 ここまで気を使えるようになった今、もはやノーデリカシーという不名誉は返上してもいいのでは?

 

「まぁ、抵抗があるなら無理には――」

「是非っ、お借りしますね!」

「勧めない、けど」

「私も他の姉妹も着替えはありませんし濡れた制服のまま帰るのは論外ですしバスから荷物を出して運転手さんにお手数をかけるのもどうかと思うのでそれでいいと思います!」

「お、おう」

 

 早口の上にノーブレスだった。

 なにがこいつをここまで駆り立てるのかはわからないが、必要だというのならそれでいいか。

 リュックからジャージを取り出し、適当な袋に入れてやる。

 袋は昨日と一昨日の買い物でもらったものが残っていた。

 持ち前の貧乏性が幸いしたというわけだ。

 

「……」

「そんなじっくり見ても食べ物は入ってねぇぞ」

「わかってます! まったく……」

 

 このままだとまたいつもの言葉が出てきそうなので、これぐらいにしておく。

 ともかく、早いところ五月を他の姉妹と合流させたい。

 俺にも心の整理をする時間が欲しかった。

 つーかなんでこうも立て続けに……

 この修学旅行では色んなことがありすぎた。

 三玖の告白、一花とのゴニョゴニョ、そして五月の告白。

 二乃に関しては好きにさせていたらどうなっていたことか。

 なにもなかった……というわけではないが、心の負担がなかったのは四葉と一緒にいた時だけだ。

 あのお人好しの馬鹿は妹を放ってなにをしているのやら。

 

「ん……?」

 

 何気なく目を向けた先、建物の陰から飛び出したリボン。

 噂をすれば影がさすと言うが、さすがにこれはできすぎだろう。

 思えば五月を追えと言ってきたのも四葉だ。

 あいつ単独でそんな立ち回りをするかといえば微妙なところだから、恐らくは複数犯だ。

 つまりはさっきのあれこれも全部筒抜けだったということか。

 羞恥心と共に、ふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じる。

 いつまでも思い通りに出来ると思ったら大間違いだ……!

 

「五月、携帯借りていいか? ちょっと連絡取りたい」

「構いませんが、あなたのお友達の番号は登録されていませんよ?」

「いいから」

 

 差し出された携帯を手に取る。

 ご丁寧に番号入力画面にしてくれていた。

 だが連絡先から引っ張り出したほうがもっと早い。

 四葉の名前を選んで電話をかける。

 

「わっ、わっ」

 

 着信音が流れたかと思うと、建物の陰から四葉が飛び出してきた。

 いきなり鳴り出した携帯に驚いたのだろう。

 バッチリと目が合う。

 笑ってごまかそうとしていたがもう遅い。

 バレたと悟ってか、残りの姉妹もぞろぞろと出てきた。

 

「バカっ、音消しとけって言ったでしょっ」

「ご、ごめ~ん」

「リボン、隠しといてって言ったのに」

「もう大丈夫かなって思って~~」

「あはは、二人とも奇遇だね」

「え、みんな……どうしてここに?」

 

 呆然とした五月に携帯を返す。

 さて、これで俺がここにいる必要はなくなったわけだ。

 つーか、このままじゃいたたまれないというのはある。

 あいつらへの仕返しは、課題の量を増やすことで対応しよう。

 そうと決まれば、邪魔者は去るのみだ。

 

「せっかくの姉妹水入らずだ。残り少ないけど、修学旅行を楽しんどけよ」

「私は、もう少し二人きりでも……」

 

 五月は何かを言いたそうにしていたが、これで一応の目的は果たした。

 絡まれる前に中野姉妹に背を向けて歩き出す。

 さて、うちの班員はどこにいるのやら。

 

「あ、ようやく見つけたぞコラ」

「ははは、上杉君はよくはぐれるね」

 

 少し歩くと前の方に見知った……いや、見覚えねぇわ。

 前田らしき人物は忍者の衣装なのか、目元以外はほとんど隠れてしまっていた。

 武田らしき人物は武士の仮装なのか、頭は立派なちょんまげスタイルだった。

 思いっきり満喫してんな……まぁ、俺も人のことは言えないか。

 

「おや? あそこにいるのは中野さんたちだね」

「お、チャンスじゃねーか」

「いい、今はそっとしておけ。とりあえずは男三人で回ろうぜ」

 

 せっかく合流したのに、忍者の格好をした怪しい男がうろついていては台無しだろう。

 カメラ片手に姉妹に近づこうとする前田の後ろ襟を掴んで止める。

 

「まぁ、お前がそういうんだったらいいけどよ」

「それにしても上杉君、その衣装は新選組かい? 似合ってるね」

「やめろ、恥ずいわ」

「どこ行くよ? つっても俺らは探してるうちに結構回っちまったぞコラ」

「でも、お化け屋敷には入ってなかったね、たしか」

「俺はもう入ったんだが……」

 

 

 

 

 

「ううぅ……ま、まさかみんながこんなに近くにいるとは」

「だから偶然だよ偶然。ね、みんな」

「私は着いたばかりでなにがなにやらさっぱりだよ!」

「そうね、私もさっぱり」

「うんうん、あっちこっち気になるところがいっぱいで夢中だったし」

 

 今来たばかりという体の姉たちに五月は胸を撫で下ろした。

 風太郎と二人きりの場面はともかく、キスをしていたのを見られていては気まずいどころではない。

 今でも大胆すぎたのではないかと顔が熱くなってしまう。

 はしたないと思われていないだろうか、という葛藤もあった。

 思い出し赤面している五月の肩に二乃が手を置く。

 そして顔を寄せて語りかけた。

 

「ともかく、調子が戻ったようで安心したわ」

「二乃……心配かけちゃってごめんなさい」

「いいわよ別に。でも、これからは手加減なんてしてあげないから」

「え――」

 

 その言葉の意味に理解が追いつく前に、二乃は離れていった。

 事実上のライバル認定である。

 二乃の宣告に肩をすくめると、一花は五月の頭に手を置いて優しく撫でた。

 

「よしよし、頑張ったね」

「……正直、一花の言ったようにできるかどうかはわかりません」

「いいんだよ、あれはただの思いつきだし」

「でも、お母さんに恥じないように彼と向き合っていきたいと思います」

「うん、五月ちゃんはそれでいいんじゃないかな」

 

 穏やかに笑いかけると、一花は後ろの三玖を目で促した。

 それに応えるように歩み寄ると、三玖は全体重を預けるように五月に抱きついた。

 

「み、三玖?」

「実は筋肉痛で立ってるの結構辛い」

「……頑張ったんですもんね」

「うん、頑張ったよ。私も、五月も」

「私が自分の気持ちに向き合えたのは、三玖の言葉があったからです」

「中々一花や二乃のようにはいかなかったけどね」

「そんなことないです。三玖は私が蔑ろにしていた想いを、誰より気にかけてくれました」

 

 三玖の背中に手を回して強く抱きしめる。

 言葉と想いが確かに伝わるように。

 

「ありがとう、三玖」

「……また泣いてる」

「い、いいじゃないですか! こうしていられることが嬉しいんです」

「五月は甘えんぼうだね」

 

 まだ中野姉妹の母親が生きていた頃、五月はよくこうやって母親にくっついていた。

 それを思い出して三玖は笑みを漏らした。

 そしてしばらく、あやすように背中を撫で続けた。

 五月が落ち着いたのを見計らって体を離し、目元を拭ってやる。

 

「でも、さっきみたいなことを見逃すのは今日までだから」

「さっきみたいなこと?」

「フータローと五月がしてたこと。マウストゥマウス」

「え、もしかして全部……」

 

 三玖が発する威圧感に五月は顔を青ざめさせた。

 しかし見られていたと思うと羞恥心がわいてくる。

 青くなったり赤くなったりでわけがわからなかった。

 せっかくのフォローを台無しにされた一花は後ろで力なく笑った。

 二乃は三玖と概ね同じ考えのため、五月に助け舟を出すようなことはしなかった。

 そしてさっぱり事情がわからない四葉は、自分の用件を済ませることにした。

 

「ところで五月、着替え用意してきたよ」

 

 そう言って紙袋から取り出したのは一枚のTシャツだった。

 どこぞのアニメとコラボしているのか、チーム名のようなものがど真ん中に鎮座している。

 なぜはぐれていたはずの四葉が着替えを持って現れたのかはわからないが、インナーはありがたかった。

 さすがに素肌の上に借りたジャージを着る勇気は五月にはなかった。

 

「あと、下の方は中々良いのが見つからなかったんだけど……」

 

 続いて取り出したのは大きめのバスタオルだった。

 何に使うつもりなのかと他の姉妹が首をかしげる中、四葉はそれを自分の腰に巻いて結んで見せた。

 大胆にスリットの入ったスカートに早変わりだ。

 

「どうかな?」

「わぁ、ダンサーみたいだね」

「きゃ、却下です!」

 

 クルッとその場でターンを決めた四葉に一花は感心していたが、認めるわけにはいかない。

 肩出しのファッションは好みだが、脚の露出には羞恥が募る。

 五月としては譲れないラインだった。

 そもそも借りたジャージがある以上、そこまでする必要はないのだ。

 

「ちょっと四葉、肝心のものを忘れてるんじゃない?」

「そう、見えないとはいえ一番大事」

「ふふん、そこはぬかりなしだよ!」

 

 二乃と三玖の指摘に不敵に笑うと、四葉は紐付きの細長い布を取り出した。

 日本の伝統的な下着――ふんどしである。

 

「ぜ、絶対却下です!」

「私もどうかと思ったけど、下着はこれぐらいしか見つからなくて」

「下着は自前のものがあるので大丈夫です」

「え、そうなの?」

「その、何かあるといけないと思って一セットを……ほら! 昨日のような大雨が来たら大変ですし」

「なるほど」

 

 四葉は納得したが、上三人の目は鋭くなった。

 そもそも雨に濡れることを想定するなら、その他の着替えも用意するのが自然だ。

 女子が換えの下着だけを用意する意味といえば――

 

「下着チェーック!」

「えっ、えっ?」

 

 一花の号令で二乃と三玖が動いた。

 困惑しているうちに五月は左右から取り押さえられてしまった。

 そして一花が着物の裾を捲って中を覗き込む。

 

「うわっ、エロエロだ」

「五月、あんた……」

「最初からヤル気満々だった?」

「ち、違うんです! これには事情が――ひっ」

 

 必死に弁明を試みる五月だったが、左右からの威圧にすくみ上がってしまった。

 とてもじゃないが、話を聞いてもらえる雰囲気ではなかった。

 既に風太郎とヤル事を済ませている一花は苦笑し、離れて成り行きを見守った。

 四葉は修学旅行前の買い物を思い出し、あの時のかと一人で更に納得していた。

 

「と、とにかくっ、Tシャツだけあれば大丈夫ですからっ」

 

 姉二人の手から逃れると、五月はTシャツを受け取って守りの姿勢に入った。

 その小動物を思わせる挙動に、二乃と三玖は顔を見合わせて肩をすくめた。

 しかしここでさらなる起爆剤が投下される。

 

「そういえば五月ちゃん、フータロー君からなにか受け取ってなかった?」

「ええ、実は上杉君が着替えにジャージを貸してくれて――」

 

 瞬間、上三人の目の色が変わった。

 

「思ったんだけどさ、私たちの制服なら五月ちゃんも着られるよね?」

「そうね、可愛い妹をジャージ姿で歩かせるなんて心が痛むわ」

「うん、だから私が五月の代わりになるよ」

「ダメです! これは私のだから絶対に渡しません!」

 

 にじり寄る三人に対して五月は断固たる態度で臨む。

 その目には決意が満ち溢れていた。

 

「いや、五月のじゃなくて上杉さんのだよね」

 

 ヒートアップする四人。

 その場で一人だけ冷静な、もとい置いてかれ気味な四葉の言葉は届きそうになかった。

 

 

 

 

 

「ふぅ、やっぱいつもの格好だと落ち着くな」

 

 三度目の扮装の館の前で軽く体を伸ばす。

 数時間ぶりの制服は中々の着心地だった。

 衣装を返す際にやたらと店員に絡まれたが、やはり五月との関係を勘違いされていたようだ。

 こちらが何を言おうと照れ隠しと取られてしまうため早々に弁明は諦めた。

 おかげであれやこれやと質問をかわすうちに疲労がドッと溜まってしまった。

 女というのは大人になってもそういう話題が大好物なのだろうか。

 

「フータロー君、ちょっといい?」

「……お前か」

 

 横から声がかかる。

 一花が壁に背を預けて立っていた。

 俺が出てくるのを待っていたのかもしれない。

 正直気まずい。

 気まずくはあるが、逃げるという選択肢を却下された以上、向き合うしかない。

 いっそ開き直って、自分から近づいていく。

 

「体の調子はどうだ?」

「あ、心配してくれるんだ」

「お互い、散々雨に降られたからな」

「林間学校のときも二人してびしょ濡れだったよね」

「あの時は悪かったな。俺の風邪を移しちまった」

「つまり、今回は更に粘膜が濃厚接触したから心配になったと」

「言い方」

「じゃあエッチ、セックス、性交、不純異性交遊?」

「もういい黙れ」

 

 容赦なく飛び出てくるワードに頭を抱える。

 それらに該当する事実があったのは確かなのだが、こうも突きつけられるとダメージが大きい。

 なんなら言った本人も顔を赤くしていた。

 こいつ、自爆を覚悟してまで俺をからかいに来てやがる……!

 

「あの時はお互いマトモじゃなかったんだ。忘れろとまでは言わないが、あまり深く考えんなよ」

「え、やだよ。せっかくの経験だもん、演技にフィードバックさせたいし」

 

 芸の肥やし、という言葉が思い浮かぶ。

 なるほど、確かに自分の経験から演技の引き出しを増やしていくのは役者のスキルアップとしては順当だ。

 そうやって日常を糧にすることで、一花は女優として成長しているのかもしれない。

 そしてそれはこいつの夢のためには必要なことであり、応援すべきなのかもしれない。

 

「……」

 

 だがしかし、胸の内にはモヤモヤとした、何とも言えない不快感が立ち込めていた。

 女優としてやっていくのなら、他の俳優と恋人や夫婦を演じる事もあるだろう。

 その際に、やはり俺との経験を活かして演技していくのだろうか。

 そんな事を考えてしまった。

 どうやら俺は、一花に対して一丁前に独占欲を抱いているらしい。

 バカバカしい話だ。

 そもそも自分のものでもないのに独占欲なんて筋が通らないにも程がある。

 少なくとも一花の想いに応えていない俺に、そんな資格はない。

 

「まためんどくさいこと考えてるでしょ」

「別に」

「フータロー君って結構わかりやすいよね」

「うるせー」

 

 こちらの顔を下から覗き込んでニヤニヤしてる一花から全力で顔を背ける。

 これ以上は、自分の奥にある感情まで見透かされてしまいそうだった。

 

「安心してよ。当分はそういうのNGにしてもらうから」

「何の話やら」

「ほら、キスシーンとか」

「……別に気にしちゃいないが」

「じゃあ、そういうことにしとくね」

 

 いまいち納得できない言い回しだが、これ以上は確実に墓穴だ。

 手心を加えられた形になったのは正直気に食わないが、無謀にも突っ込んで一花にカウンターの機会を与える気はさらさらない。

 

「ちなみにさ、私たちが六年前に会ってるって言ったら、信じてくれる?」

「またそれか。答えは昨日と同じになるぞ」

「いいからちょっと考えてみてよ」

 

 一花の声のトーンが真剣味を帯びた。

 表情は変わらないのに、それだけでまとう雰囲気がガラリと変わった。

 これも女優業で培った表現力なのか。

 それとも、この問いは一花にとって重要な意味を持っているのか。

 それならば、適当に返すのは愚策だろう。

 今一度、零奈――六年前の女の子について考える。

 面倒な事態から俺を助け、一緒に京都を回り、今に続く約束を交わした少女。

 はぐれた者同士の俺達だったが、むこうはいち早く迎えが来て、俺も便乗する形で世話になった。

 そして俺の迎えが来るまでの短い時間だが、一緒にトランプをして過ごした。

 言うまでもなく五つ子の誰かだが、当時は見た目が全く同じで言動にも今ほどの違いはなかったのだという。

 それこそ途中で入れ替わっても気付くことはなかっただろう。

 

「信じるというほどじゃないが、ありえなくもないってところだな」

「昨日みたいにバッサリ切り捨てないんだ」

「よくよく考えたらお前らのことだし、入れ替わってイタズラなんてのもしょっちゅうだったんだろ」

「うっ、否定できない……」

「仮にどっかのタイミングで入れ替わられても、知り合ったばかりのやつに見分けられるわけがない。まぁ、そういうことだ」

「う~ん……まぁ、そうなるかぁ」

 

 一花はどことなく不満そうだ。

 求めていた答えではなかったのかもしれない。

 俺はただ可能性を挙げただけだから無理もない。

 テストで満点が取れるのは、きちんと勉強すれば解けるように設計されているからだ。

 しかし人生で直面する問題はそうじゃない。

 満足に判断材料さえ与えられないまま決断を迫られる事も珍しくない。

 仮にその時は完璧だと思える答えを出したとして、後になってもっと良いやり方が見つかるなんて事もあるだろう。

 決断にはいつだって後悔が付きまとう。

 それなら出し惜しみはもったいない、か。

 先程の可能性の中であえて言及しなかった部分。

 入れ替わっていたとして、その具体的なタイミング。

 俺は今、はっきりとしない答えを提出しようとしている。

 以前の――六年前の俺だったら物怖じしなかっただろうか。

 それは子供ゆえの無知や無謀なのかもしれないし、あるいは勉強に固執して切り捨てた物の一つなのかもしれない。

 外れれば大恥だし、しばらく顔を合わせたくなくなる自信がある。

 ……くそっ、こいつらといるとこんなのばっかだな!

 

「七並べ」

「――え?」

「旅館に着いていったはいいが放置されて退屈で……まあ、心細いってのも少しあった」

「……」

「そんな時に会いに来てくれたやつがいてな。実を言うと、そいつにも感謝してる」

「なんで、今その話を?」

「なんでだろうな」

「……ずるいなぁ」

 

 なにがずるいのかはサッパリだが、ともあれ考えられる答えは出した。

 他の姉妹と入れ替わったのなら、あのタイミングしか考えられない。

 正解か不正解か。

 一花は下に向けていた顔を上げると、俺の手を取った。

 

「私の初恋の話、興味ある?」

「え、ないけど」

「そこはウソでも興味あるって言おうよ!」

「はいはいあるある、めっちゃある」

 

 正直に言えば、興味がないというより聞きたくない。

 過去の話とはいえこいつにそういう相手がいたという事実は、俺のくだらない独占欲を刺激する。

 なんでいきなりこんな話を……

 どの道手をしっかりと掴まれているため、話を聞かなければ動けそうにない。

 やはり少し体を鍛えるべきかもしれない。

 

「まぁ、いかにも不良って感じの見た目でね? 遊び慣れしてるっていうかさ」

「うんうん」

「元は妹の知り合いだから気になってたんだけど……ほら、五つ子だから間違われちゃってさ」

「なるほど」

「言わなかった私も悪かったんだけど、一緒に遊んでるうちにそんなの気にならなくなっちゃって」

「すごいな」

「違う学校の男の子だったし、それっきりでまったく音沙汰無かったんだけどね」

「あるある」

「何年か経ってまた会えたけど、イメチェンしてて全然わかんなくてさ」

「お前は悪くない」

「去年の林間学校の肝試しの時にさ、金髪のカツラかぶってるの見てやっと気づいたんだ」

「なる、ほど?」

 

 できるだけ聞き流す姿勢で臨んでいたが、どうにも引っかかるワードがあった。

 去年、林間学校、肝試し、金髪のカツラ。

 去年の林間学校の肝試しで金髪のカツラをかぶっていたのは、他でもない俺だ。

 そうなれば、それ以前の話も変わってくる。

 妹――恐らく零奈の知り合いの見た目不良の違う学校の男子が数年経ったらイメチェンしてた。

 ……俺じゃん。

 つまり、このくだりは俺の回答への答え合わせだ。

 

「すごいね。私の初恋もファーストキスも初体験も、全部フータロー君だよ」

「……遊び慣れしてるってなんだよ」

「えー? だってトランプのシャッフルとかすごい手馴れてたし」

「そういう意味かよ」

「むふふ、どういう意味だと思ったのかなー?」

「うるせーうるせー」

 

 再びニヤニヤしだす一花。

 中野姉妹で長女が一番厄介だという印象は変わりそうもない。

 しかしやられっぱなしというのも癪だ。

 逆に引き寄せて、顔を近づける。

 

「あんまり調子に乗ってると、また犬に噛まれるぞ」

「むしろウェルカムだけど」

 

 しかし一花は動揺するどころか、俺の頬に口付けて挑発的に笑った。

 

「……」

「今度はお互いまともな時にしたいしね。あ、帰ったらラブホデビューしてみる?」

 

 見事にカウンターを食らった俺は沈黙。

 今回はもはや逆転の目は見つかりそうになかった。

 

 

 

 

 

『本日はご乗車いただきありがとうございます。まもなく京都駅に到着いたします』

 

 バスのアナウンスが修学旅行が終わりつつある事を知らせてくる。

 カウンターのダメージから立ち直れない俺は、ただただ項垂れていた。

 

「お疲れの様子だね。余程修学旅行が楽しかったのかい?」

「……少なくとも忘れられない思い出はできたがな」

 

 振り返ってみれば、やはり中野姉妹に振り回された感が強い。

 結果としてさらなる気苦労を抱えることになってしまった。

 反面、男三人で回っていた時の気楽さが忘れられない。

 気安い関係の貴重さを実感した旅行でもあった。

 

「なーに遠い目してやがんだよコラ」

「友情って素晴らしいな」

「いきなりなんだぁ? 正直怖ぇぞ」

「ふ、ふふ……ようやく気づいてくれたか上杉君!」

「オメーはいきなり大声出してんじゃねーよコラ」

「はいはい、バスではお静かにな」

 

 武田が興奮するとやかましいのはいつもの事だが、前田の声も十分でかい。

 俺の班は武田がいることに加えて、俺や前田のようなはぐれ者がいるので少々目立つのだ。

 外面的には、まともに班を組めそうにない俺たちを武田が救済した、と見られているらしい。

 ……俺に関してはあながち間違いでない事が悲しいぜ。

 なんとも人望のない学級長なのである。

 バスの通路へ顔を出し、後ろの様子をうかがう。

 ホテルを出た時と一緒で俺の席はバスの前列、中野姉妹は最後列だ。

 女子の一部がこちらに目を向けていたが、俺と視線が合うと露骨にそらされてしまった。

 これはまたわかりやすいことだ。

 問題の中野姉妹は……真ん中に五月が座っている事ぐらいしか確認できなかった。

 少なくともこちらを気にしている様子は見られない。

 むしろ目を開けていなかった、というか寝ていた。

 今日は色々ありすぎて疲れたのだろう。

 ちなみに、ダボダボの学校指定のジャージを身につけた五月はものすごく目立つ。

 左胸の部分に俺の名字の刺繍があるが、それを見咎められやしないかと冷や汗をかいていた事は内緒だ。

 思いついたときは名案だと思ったが、もう少しよく考えるべきだったかもしれない。

 ともかく、じきに修学旅行は終わる。

 俺にとっては色々と思い出深いものになりそうだが、あいつらにとってはどうだろうか。

 

「そういえば一昨日、ホテルでちょっと騒ぎがあったみたいだね」

「盗撮の件か?」

「悪ィ、ミスった」

「……やっぱりお前か」

 

 盗撮の件に関して、二日目の開始時に教員から注意があった。

 それを聞いてまさかとは思ったが、下手人はここにいたようだ。

 

「まったく、もう少しうまくやりたまえ」

「つい先走っちまった」

「まぁいい、俺が頼んだんだからな」

 

 修学旅行の初日、俺は新幹線の中で武田と前田にある頼み事をした。

 それはインスタントカメラで中野姉妹の旅行中の姿を撮影する事だ。

 学校がカメラマンに頼んで生徒全体にやっている事を、あいつらに絞ってやってもらったわけだ。

 なんのためかと言われれば、渡しそびれた誕生日プレゼントを用意するためだ。

 修学旅行前かららいはにせっつかれていたが、五人全員分ともなればアイディアも資金も追いつかない。

 そこで俺は五人が等しく共有できるもの――思い出に着目した。

 インスタントカメラ代と写真の現像代は痛いし、あいつらが贈ってくれたものからは見劣りするかもしれない。

 それでも贈るべきだし、贈りたいとも思った。

 この旅行中は本当に色んな事があった。

 あいつらにとっては楽しい事ばかりではなかっただろう。

 しかし最後は五人一緒に過ごしていた。

 土砂降りの雨の後は、きっと土はより固くなるはずなのだ。

 バスが停車する。

 京都駅に着き、後は再び新幹線に乗って帰るだけだ。

 ぞろぞろと降車していく生徒を見送りながら、中野姉妹を待つ。

 せめて最後に一言だけでも声をかけておきたかった。

 しかし、降りる生徒が切れても中野姉妹は動かない。

 

「あいつら、まさか……」

 

 様子を見に行ってみると、案の定五月だけでなく全員が寝ていた。

 真ん中に座る五月にしがみつくように寝ているが、どんな寝相をしているのやら。

 もしかしたら散々スイーツを食べまくったせいで、体臭が甘くなっているのかもしれない。

 匂いを嗅ぐように手足にしがみついているように見えなくもない。

 姉四人に群がられた末っ子は若干寝苦しそうにしていた。

 ともあれ、貴重なワンシーンである事には違いない。

 

「はい、チーズ」

 

 インスタントカメラ、そして自分の携帯に五つ子の寝姿を収める。

 さて、こいつらがこの写真を見た時の反応が楽しみだ。

 自分の携帯にも残した理由はまぁ――

 

「せめて今は、な」

 

 俺のちっぽけな独占欲、これに尽きるだろう。

 

 

 




書いてて思ったけど、ちょっと長女強すぎませんかね?
当初の予定じゃもう少し出番抑えるつもりだったのに、気がつけば肉体関係に……

それはともかくとして、次あたりは四葉の出番が多めになると思います。


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五つ子裁判~弁護人四葉の失言~

一つの話として書いてるけど、長くなりすぎて分割ってのはよくあります。
というわけで今回は前編です。


 

 

 

 修学旅行後の休日、即ち土曜。

 諸事情により家庭教師の業務は休みにしている。

 色々ありすぎて心身ともに疲れ果てたというのもあるが、単純に休日のうちに済ませておきたい用事があったのだ。

 中野姉妹への思い出という贈り物――具体的に言えば修学旅行のアルバムだが、作成するにも中身を用意する必要がある。

 最近は写真のデータさえあればコンビニ等でプリントができるらしいが、うちにはデジカメを用意する余裕はないし、手持ちの携帯では機能的に厳しいものがある。

 そこで俺が用意したのはインスタントカメラ。

 つまりはどこかに頼んで現像してもらわなければいけない。

 この時代に逆行するような清貧さは中々に涙を誘うものがあるぜ……

 正直に言えば、その現像代すら懐事情を鑑みれば痛手だった。

 

「おう、朝っぱらから湿気たツラしやがって」

「親父が朝っぱらからカラッとしすぎなんだよ」

 

 いつもは昼夜平日休日関係なく仕事に出ている親父だが、今日は珍しく休みだ。

 だからか、今日の上杉家の朝はどことなくまったりしたものになっていた。

 

「二人ともー、朝ごはんにするから運んでー」

 

 我が家の小さなシェフがお玉を片手に手伝いを催促してきた。

 親父と二人で食卓に食器を運ぶ。

 

「「「いただきます」」」

 

 そして三人で手を合わせて食べ始める。

 今日のメニューは白米に味噌汁、焼き魚にだし巻き卵だ。

 一汁二菜、まさに和食といったラインナップだ。

 しかし、これだけ豪勢な食事を出されると経済的に大丈夫なのかと心配もしてしまう。

 台所事情に関してはらいはに任せた部分がほとんどだが、俺達の腹を満たすために無理をしているのでは……?

 

「もー、なに言ってるのさ。お兄ちゃんが頑張ってるからちょっとは余裕あるの!」

「そうだそうだ! みみっちいこと気にしてないで腹一杯食え」

「そ、そうか……」

 

 相場の五倍の給料はやはり伊達じゃないということか。

 それと引き換えのブラックさだが、らいはの嬉しそうな顔のためならばやり甲斐もあるというものだ。

 

「それより、五月さんたちへのプレゼントはどうするの?」

「ああ、今日はそれを用意しに行こうと思ってる」

 

 畳の上に積まれた参考書の上に鎮座したインスタントカメラ。

 俺の視線をたどった親父は訳知り顔で頷いた。

 

「なるほど、贈り物は思い出ってところか。考えたな、風太郎」

「別に、安上がりだからってのもある」

「お兄ちゃんはもう少し自分のためにお金使ってもいいと思うよ」

 

 俺のバイト代のほとんどは、家計と借金返済に当てている。

 残った分は自由に使えるお小遣いとしてキープしているが、それも昼飯と参考書でほぼ消えてしまう。

 だが、こうして家計に余裕が出来たのならば、少しは自分に回してもいい……のかもしれない。

 

「しかし、自分のためにって言ってもな……何に使えばいいのやら」

「ほしい物とか、やりたいことはないの?」

「そうだな……問題集買って勉強したい」

「乾いてるよっ! 十代にあるまじきカラカラっぷりだよ!」

「うっ……ら、らいはこそ欲しい物はないのか? 今だったら買ってやれるぞ」

「いきなり言われても……新しいフライパン、とか? 最近焦げ付きやすくなってきたし」

「らいは……」

 

 どうやら俺達は似たもの兄妹のようだった。

 いくらなんでもフライパンというのは、中学に進学したばかりの女子の欲しがるものとしては所帯じみすぎている。

 俺の視線にきょとんとする姿は目に入れても痛くないぐらい可愛らしいが、それだけに涙を誘うものがあった。

 その後は妙な沈黙の中で朝食が進む。

 こんな時にテレビがあればBGMとしていくらか機能してくれただろうか。

 痺れを切らしたのか、親父の声がその静寂を破った。

 

「お前ら、朝飯食ったら出かけるぞ」

「俺は用事があるんだが」

「それ込みでだ。パーっと遊ぶぞ、パーっと!」

「お出かけだーっ!」

 

 らいははノリノリだった。

 プレゼントの用意という用事の他に勉強するという予定があったのだが、仕方ない。

 こうして上杉家の日中の予定が決定したのだった。

 これが家族サービスというやつなのかもしれない。

 

 

 

 

 

「えー、それではこれより五つ子裁判を執り行いたいと思いまーす」

 

 中野姉妹の住居であるアパートのリビングは、簡易的な法廷と化していた。

 裁判長の席に座るのは一花、その右手に原告である二乃、左手に弁護人である四葉が座る。

 被告人席には三玖と五月が正座させられていた。

 

「被告二人は修学旅行で抜け駆け行為の数々を行い、およびそれを幇助した……間違いありませんね?」

「異議あり!」

 

 厳かな声で読み上げられる罪状に四葉が早速物申した。

 真っ直ぐ掲げられた右手と迷いない瞳に、被告人席の二人はかつてない頼もしさを感じていた。

 

「弁護人の発言を認めます」

「具体的に何があったのかさっぱりわかりません!」

 

 弁護人を除く全員が脱力した。

 よくよく考えれば無理もない話だった。

 四葉は他の姉妹ほど風太郎の動向を気にしていなかったし、最終日に関してもロクに事情も知らないまま協力していた。

 持ち前の善意からの協力ではあるが、蚊帳の外にいた感は拭えない。

 あごに手を当てて少し思案すると、一花は大きく頷いた。

 

「たしかに、弁護する側が事情を把握していないのは公平じゃないよね」

「そもそもが配置ミスじゃない」

「弁護人がいないと一方的かなって」

「罪状は明らかなんだし、結果は変わらないわよ」

 

 威嚇するような原告の視線にたじろぐ被告人二人。

 なんだかんだ手を貸してくれた二乃ではあるが、それで見逃してくれるほど甘くはなかったようだ。

 どうせ茶番で終わると構えている三玖も、思わず気圧されて唾を飲み込んだ。

 一方、五月はおかずを減らされる恐怖に戦慄いていた。

 

「まぁまぁ、それじゃあ事情説明も兼ねて、二人には自分がやったことを説明してもらおうかな?」

「「えっ」」

 

 裁判長のあまりにも無慈悲な提案に二人は固まった。

 少なからず罪の意識はあるが、あらためて自分の口から語るとなれば話は別だ。

 とんだ羞恥プレーを強要してくる長女の横暴に震えが止まらなかった。

 

「被告中野三玖は修学旅行初日、私たちと別行動をとっていた時の情報を開示してください」

「そ、それは……一人で山頂を目指してたら、偶然フータローと一緒になって」

「裁判長、被告はウソ言ってまーす」

「三玖、本当に偶然だったのかな?」

「うっ……」

 

 無論、偶然であるわけがない。

 あの時は明確に風太郎を追いかけるという目的を持って抜け出したのだ。

 結果的には目的の人物に追いつかれる形で合流を果たしたのだが、それを主張してもあまり意味はないだろう。

 そもそも抜け駆けの意思があったことは四葉以外の全員に知れ渡ってしまっている。

 

「い、五月に手伝ってもらって抜け出して」

「うんうん、それで?」

「フータローと一緒に山頂まで登って……」

「いいわ、続けなさい」

「それで、朝早く起きて焼いたパンをご馳走して……き、キスして告白しましたっ!」

「「えええええっ!?」」

 

 驚きの声を上げたのは下の妹二人である。

 四葉は三玖の初日の行動は全く関知していなかったから、その驚き様は無理もない。

 五月にしてもキスまでしていたのは寝耳に水である。

 風太郎の態度から自分とのキスが初めてではないことは察していたが、それでも衝撃は大きかった。

 同じくキスの情報までは知らなかった二乃は、驚きはせずとも苦虫を噛み潰したかのような表情だ。

 ある程度予想はしていたのだろうが、気に入らないものは気に入らないということだろう。

 一方、大体が既知の情報である一花は泰然と構えていた。

 

「五月ちゃん、三玖を手伝ったって部分に間違いはない?」

「は、はい……たしかにあの日、三玖をサポートする目的でみんなを引き止めました」

「本当にそうだったんだ……」

 

 明かされた真実を四葉は呆然と受け入れた。

 三玖のことは応援していたが、まさかそこまで進展しているとは思っていなかった。

 一花と二乃が当時から状況を察していたのには感心するしかない。

 そんな四葉を横目に、一花は裁判を進めていく。

 

「では次に、被告人中野五月は修学旅行最終日、私たちと別行動をとっていた時の情報を開示してください」

「ううぅ……み、みんなとはぐれた後、上杉君と出くわしてしまって」

「うんうん、それで?」

「逃げ出したのですが、結局一緒に行動することになって……」

「その後は?」

「色々あって……無事みんなと合流できました!」

「裁判長、被告は意図的に事実を隠蔽しようとしてまーす」

「そうだねぇ、その色々って部分が気になるかな?」

「そ、そんなぁっ」

 

 なんとかうやむやにしようとしたが、それで見逃してくれる道理はない。

 隠しておきたい部分を突っつかれた五月は悲鳴じみた声を上げた。

 そもそも上三人は大体の出来事は把握しているのだが、これはあくまでも四葉に対する説明だ。

 それこそが五月にとって答えにくい部分でもあるのだが、そこをあえてというのが一花の思惑である。

 要するに四葉に対する揺さぶりなのだ。

 逃げ場を探して、五月は隣の三玖に縋った。

 

「み、三玖……」

「心配しなくても大丈夫だよ」

 

 三玖は穏やかな笑顔で五月の手を握った。

 救いの光を見出した五月は、その顔を希望で輝かせた。

 

「全部吐き出せば楽になれるから」

「み、三玖ー!?」

 

 逃げられないように握った手をガッチリホールド。

 救いの手はその実、五月を絡め取るための罠だった。

 まさかの裏切りに進退窮まった五月は、震え声で語り始める。

 

「お、お腹が空いたので、とりあえずは一緒に食べ歩きをしました」

「ほほう、それで食べさせあいっこしてたと?」

「ち、違います! 私から上杉君に食べさせてあげたのは事実ですが……あっ」

「思いっきりいちゃついてたんじゃない。もう有罪確定でいいわよね?」

「誘導尋問です! こんなの卑怯ですっ!」

「ま、まぁまぁ」

 

 裁判長の巧みな話術に引っ掛かってしまう五月であった。

 特に引っ掛けるつもりのなかった一花は困惑気味である。

 苦笑しながら、有罪を催促してくる二乃をたしなめて五月に先を促す。

 

「ううぅ……それから上杉君の提案でお化け屋敷に入りました」

「なるほど、暗闇に乗じてあれやこれやした、と」

「正直、怖くてずっとしがみついていただけで……目も開けていられませんでした」

「思いっきりくっついてたんじゃない。やっぱり有罪よ、有罪」

「異議あり!」

 

 有罪を迫る二乃に対し、四葉が声を張り上げた。

 先の審問の時は口を挟む暇がなかったが、今回は違う。

 三玖のキス発言の衝撃から我に返った四葉は、大切な妹を守るために右手を高く掲げた。

 

「怖いものが大の苦手な被告人が、恐怖のあまり近くにいた人にしがみつくのは仕方ないと思います!」

「弁護人の異議を認めます」

「ちょっと、一花!」

 

 不満の声を上げた二乃だが、一花はそっぽを向いて応じない。

 どうやら裁判中は役職名で呼ばないとダメなようだ。

 二乃が面倒くさそうに裁判長と呼ぶと、笑顔で頷いた。

 

「弁護人の言うことはもっともだし、結論は急がずにもう少し話を聞いてみようよ」

「どうせ結果は変わらないわよ」

「いいからいいから」

 

 一花に押し切られる形で、二乃はとりあえず矛を収めた。

 これで審問が再開されるわけだが、ここから先はモロにそういう話になるため五月の口は重い。

 自分をかばってくれている四葉への申し訳なさが限界突破しそうだった。

 しかし、遠からずこうなってしまうことはわかっていたはずだった。

 五月は自分の想いから目を逸らさないと決めたのだから。

 

「お化け屋敷を出てからは上杉君と二人きりになれる場所を探して……き、キスをしてから結婚を前提にお付き合いを申し込みましたっ!」

 

 顔を真っ赤にして一息に言い切った。

 最後の方はもうやけっぱちである。

 またも飛び出したキスに告白というキーワードに、四葉は再びフリーズ。

 結婚までは予想外だった上三人も思わず閉口した。

 姉妹の中で一番真面目な五月からすれば、恋人関係と結婚は直結しているのかもしれない。

 しかし、ややヘビーだという印象は拭えない。

 決して体重の話をしているわけではない。

 中野姉妹の合計体重は250kg。

 つまり、みんな仲良く50kgなのである。

 

(五月も、上杉さんと……)

 

 まさかの妹の参戦に、四葉が受けた衝撃はいかほどか。

 そっと自分の唇に触れて、家族旅行で訪れた祖父の温泉がある離島、鐘の下での出来事を思い出す。

 意図的なものではなかった。

 だが、たしかに自分と風太郎は――

 首を振って雑念を振り払う。

 どの道あの時は五月の格好をしていたのだから、風太郎にはわからなかったはずだ。

 よってノーカウントなのである。

 開きかけた自分の心の蓋を、そっと閉じた。

 

「被告人への審問は以上だけど、四葉はなにか言いたいことない?」

「えっ、私?」

 

 ここでいきなり水を差し向けられて四葉は大いに慌てた。

 今の自分の立場は弁護人。

 どうにか弁護の余地がないかと頭を抱えて、そもそもの話に行き着いた。

 

「えっと……最終日のことに関しては、五月だけの責任じゃないと思うかな」

「……ま、そうなるわよね」

「みんなで共犯だもんね」

「言っとくけど、主犯はあんたよ」

「うっ……」

 

 二乃の指摘に、余罪を追求されそうな三玖は言葉を詰まらせた。

 いくら共犯を主張しようと、主犯格ではやはり罪が重くなるのだ。

 最終日における五月の行動には、他の姉妹の関与が大きく影響している。

 そのことで五月を罪に問うのなら、必然的に全員が罪に問われることになってしまうのだ。

 もちろん裏の事情など知る由もない五月は、ただただハテナを浮かべていた。

 

「そういうことなら、五月ちゃんの最終日に関しては不問ってことで」

「はぁ、なんだかよくわからないのですが」

「なんだかんだで私たちは仲良し姉妹ってことだよ」

 

 全く要領を得ないが、一花のいい笑顔に押されて五月は納得した。

 見事弁護に成功した四葉は満面の笑みでブイサイン。

 隣に座る三玖は優しい笑顔で頷いた。

 姉妹の絆の再確認を果たし、五つ子裁判は和やかな雰囲気のまま終わりに向かう――

 

「ところで裁判長、二日目はフー君となにをしていたのかしら」

 

 ――かのように見えたのだが、二乃が新たに一石を投じた。

 まさかの裁判長に対する追求である。

 

「なにしてたって、雨宿りだよ?」

「一時間も、まったく着信に気づかずに雨宿りしてたってわけ?」

「そこらへんは先生にも説明したの、聞いてたよね?」

「あんなのでごまかせると思ったら大間違いよ」

 

 一花は対外的には人当たりがよく、生徒と教師問わず覚えがいい。

 現役女優という立場もそれに拍車をかけているだろう。

 そのプレゼンスのおかげか、多少穴のある説明でも一花が言うのならと通ってしまうのである。

 もちろん、それは家での自堕落な姿を知っている姉妹には通じない。

 あまり人を疑わない四葉も、深く考えてみればすぐに疑問を抱いただろう。

 ましてや、風太郎のことに関しては一花を最大限に警戒している二乃がそれを見逃すはずがなかった。

 

「土砂降りの雨の中で、好きな相手と一時間も二人きりだったのよ? なにもないわけがないじゃない」

「さ、さぁ、そろそろお昼だし、みんなで何か食べに行こっか」

「一花」

「今日はお姉さんおごっちゃうぞー」

「一花」

「あ、あはは……」

 

 唐突な話題の転換は、それだけ追い詰められている証拠である。

 きちんと計画した上での行動だったのならば対策もしていたが、あの日の出来事は暴走もいいところ。

 二乃が話題の転換に乗ってこない以上、そこで詰みなのだ。

 一花は観念したのか諦めたように笑うと、裁判長の席から立ち上がって五月の横に座った。

 裁判長から一転して被告に――まさかのどんでん返しである。

 あまりの急展開に四葉は目を点にしていた。

 

「それじゃあ、一花の審問を執り行いましょうか」

 

 空いた席に座るのは二乃。

 原告と裁判長の兼任である。

 これが一方的な裁判になるかどうかは四葉の双肩にかかっていた。

 

「えっと、フータロー君と一緒に歩いてたんだけど、突然雨に降られちゃって」

「そこはもういいわ。その先を話しなさい」

「うっ……それはまあ、色々とね?」

「いいから説明しなさい」

 

 言いよどんで、一花はごまかすように笑った。

 二乃は笑顔で無慈悲に先を促した。

 いつの間にか一花を挟むように座った三玖と五月は、両側からホールド。

 決して逃がさないという意思が伝わってきた。

 さんざん好き放題にしたツケが回ってきたようだ。

 頼みの綱は四葉だが、こちらも微妙な反応である。

 一花が自分と一緒にいた風太郎を連れ去って抜け駆けしていたことは、四葉もきっちり把握していた。

 いよいよ追い詰められた一花。

 洗いざらいぶちまければ、この場はさらなる混乱に見舞われるだろう。

 キスや告白の比ではないことが行われていたのだ。

 落としどころとしては、キスしたぐらいで話を終わらせて三玖たちと同等の立場に着陸する、といったところか。

 しかしそれではやられっぱなしである。

 一花としてはここで二乃に一矢報いておきたかった。

 なにせ暴走機関車なのだから、勢いは削いでおくに越したことはないのだ。

 

「それなら二乃だって抜け駆けしようとしてたよね?」

「残念ながら、誰かさんの邪魔が入ってなにもできなかったけどね」

「大体さ、模試の後からフータロー君にやけに熱~い視線送ってるじゃん。絶対なにかあったよね?」

「ちょっと、今は修学旅行中の話なんですけど!」

「そこらへんも含めてはっきりさせておくべきだと思うけど、二人はどう思う?」

 

 一花の問いかけに三玖と五月は顔を見合わせた。

 あからさまな誘導であるのはわかっていたが、二乃の隠し事も気になる。

 自分を棚上げして、お前はどの口でこっちを糾弾していたのかと。

 二人は頷き合い、二乃に笑顔を向けた。

 笑顔の起源は、肉食獣が牙をむく行為であるとされている。

 

 

 

 

 

「「「「……」」」」

「えーっと、ここからは私が裁判長、原告、弁護人を兼任するんだけど……」

 

 気づけば被告人席に四葉を除いた全員が座っていた。

 嫌疑をかけられて逃亡を図った二乃だが、三対一で逃げ出せるはずもない。

 あえなく捕まり、その際のもみ合いで出てきたとあるアイテムによって嫌疑は確信に変わった。

 その0.01とデカデカと表記された薄く四角い包装は、二乃がどのような行為に及ぼうとしていたのかを端的に示していた。

 こうして二乃も被告人席に並ぶことになったのだが、前代未聞の事態に繰り上がり裁判長の四葉はただただ困惑するしかない。

 この裁判の行く末はその手に委ねられた。

 

「うーん……閉廷っ!」

 

 わけのわからなくなった四葉が匙を投げたことで、五つ子裁判はうやむやのまま終わるのだった。

 

 

 

 

 

 休日のデパートはそれなり以上に混んでいた。

 家族連れ、カップル、友人同士と思しきグループ。

 とにかくまぁ、混んでいる。

 その中では家族連れにカテゴライズされる俺達だが、今はらいはと二人きりだ。

 親父は知り合いに現像を頼んでくると言って、インスタントカメラを持って行ってしまった。

 いくらか値引いてもらえるらしいので、渡りに船と言えるだろう。

 そんなわけで兄妹仲良く写真を飾るアルバム選びなのである。

 

「わー、見て見てお兄ちゃん。このアルバムかわいいよ!」

「こっちの方がいいんじゃないか? 安いし」

「地味だから却下」

 

 らいははにべもなかった。

 ばっさり切り捨てられたアルバムを商品棚に戻す。

 大変リーズナブルだと思ったのだが、そこは重要ではないらしい。

 

「おう、もう選んだか?」

 

 案外早く親父が帰ってきた。

 カメラが消えているところを見ると、現像は頼んできたらしい。

 らいはがパタパタと親父に駆け寄っていく。

 アルバムについて意見を聞きたいのだろう。

 俺もそこは気になる。

 なんせ親父は写真の専門家なのだから。

 

「これなんて可愛いと思うんだけど、子どもっぽいかなぁ?」

「らいはらしくていいと思うが、そうだな……おい、風太郎!」

「なんだよ」

「値札は見るな。お前が一番良いと思ったやつを持って来い」

 

 背中を叩かれて送り出される。

 どうやらそう簡単に甘えさせてはくれないらしい。

 しかたなしに商品棚とにらみ合う。

 四桁……高い。

 三桁後半……もう一声。

 お、これなんかワンコインで買える。

 

「こら、値札は見るなつったろうが」

「うぐっ」

「いいか? アドバイスをしてやりたいのは山々だが、俺は中野の嬢ちゃんたちのことをよく知らない」

「……俺だったら知ってるって言うのかよ」

「そうだ、だからお前が選ぶんだ」

 

 そんな事を言われても、俺が知っているあいつらなんてほんの一面的なものだろう。

 現に、俺は三玖の出す問題にろくに正解できなかったのだ。

 目を閉じて振り返ってみる。

 出会い、花火大会、中間試験、林間学校、期末試験、学年末試験、温泉旅行、全国模試、そして修学旅行。

 思い出の中でも騒がしいのは、あいつらの数多くある困ったところの一つだ。

 

「……これにしよう」

「わ、すごいカラフル」

 

 親父の言うとおり、値札は見ないようにして商品を選んだ。

 色の主張がうるさい外装だが、五者五様の騒がしさにはピッタリだろう。

 そのままレジまで持っていく。

 値段は……ノーコメントだ。

 

「いいのを選んだじゃねぇか」

「別に、やかましいやつらにはやかましいのがピッタリだと思っただけだ」

「ガハハハ、照れんな照れんな!」

 

 背中をバシバシ叩いてくる親父も十分やかましい。

 非難がましい目を向けると、頭をクシャクシャに撫でられた。

 もうそんな年じゃないんだが。

 

「風太郎、明日は空いてるか?」

「アルバム渡しにいって、その後は家で勉強だな」

「嬢ちゃんたちに会うなら丁度いい。一つ頼みたいことがあるんだが」

 

 俺の勉強時間=暇、とでも変換されているのだろうか。

 どうやら明日の予定もこの場で決まりそうだった。

 

 

 

 

 

「ごちそうさまー」

「ごちそうさま」

「ごちそうさま!」

「ごちそうさまでした」

「はいはい、お粗末さまでした」

 

 熾烈な裁判の末に出かける気力を失った中野姉妹は、シーズン的には少し早いが昼ごはんとしてそうめんを茹でて食べた。

 こんな時に率先して動いてしまうのが二乃である。

 食事の用意と同様に、さっさと食器を重ねて台所へ持って行ってしまった。

 せめて後片付けはと、他の姉妹もその後を追ったのだが……

 

「……狭い!」

 

 そもそも五人で住むには手狭な部屋なのだ。

 台所の広さなど推して知るべし、だ。

 追い出された四人は、仕方なくリビングで食後の休憩である。

 

「一花は何も予定ないの? 撮影とかさ」

「ふわぁ……珍しいことにね。帰ってきたばかりだし、社長が気を使ってくれたんだと思う」

 

 四葉の質問に、一花はあくび混じりで答えた。

 一花をスカウトした本人である、織田芸能プロダクションの社長。

 なにかと便宜を図ってくれるし、才能を誰よりも評価してくれている。

 迷惑をかけたことも少なくないので、一花にとっては頭の上がらない人物である。

 

「そういえば、菊ちゃんは元気かな?」

「あれ以来、甘えてくれるようになったって社長、嬉しそうにしてたな」

「そっか」

 

 三玖が話題に上げたのは、織田社長の一人娘である菊のことだ。

 中野家で一度だけ預かったことがある。

 見た目通りの子供だが、家庭環境ゆえに自分を押し殺している部分があった。

 一花が言う分には、それもいくらかは解消されたようだった。

 

「でも、お兄ちゃんが欲しいって言われて困ってるみたい」

「それってまさか」

「あ、あはは……どうだろうね」

「むぅ」

 

 一抹の不安に三玖は唸った。

 一花も同じことを考えたのか、声に若干力がない。

 当時、菊の相手をしていたのは一花と三玖と風太郎だ。

 状況証拠的にほぼ確定と見てもいいだろう。

 

「まぁ、フータロー君も中々に人たらしだよね」

「たらし込まれた本人が言うと説得力が違う」

「私の場合は……もうズブズブで離れられないかも」

 

 雨の中での情事を思い出して一花は頬を染めた。

 次を期待しているのか、体がうずうずしていた。

 風太郎に会える日が待ち遠しかった。

 

「やっぱりなにか隠してるでしょ」

「えー? まぁ、私も三玖と同じくらいのことはしたかもね」

「やっぱ一花は有罪、切腹」

 

 思わせぶりな態度に三玖は頬を膨らませた。

 対する一花は余裕を崩さない。

 新たなるシスターズウォーの種が蒔かれつつあった。

 

「五月五月、なに見てるの?」

「新しくオープンしたレストランの広告です。今度行ってみようかなと」

 

 火花を散らす姉たちから逃れるように五月のそばに来た四葉は、一緒になってチラシを覗き込んだ。

 四葉は知らないが、五月には有名レビュアーという裏の顔がある。

 おいしいお店の情報を受信するために、常にアンテナを張っているのだ。

 ちなみにアンテナ云々は比喩的な意味であり、どれだけ櫛を通そうとも飛び出てくるアホ毛のことでは決してない。

 五月の趣味とも言える食べ歩き。

 恋をしようとそこだけは変わらない妹に、四葉は微笑ましさを感じた。

 

(――これだ!)

 

 四葉の脳に電撃のような閃きが走った。

 修学旅行から帰って以来、姉妹の間に漂う空気がどこか変わっていた。

 険悪なものかといえばそうではなく、むしろ姉妹仲自体は深まった感がある。

 しかし互いに牽制するような、そんな雰囲気になることが増えた。

 その理由は、先程の五つ子裁判でさすがに四葉も察した。

 そうなると問題となるのが、放課後の勉強会や家庭教師の日である。

 風太郎がいない時は牽制程度で済んでいたものが、本人が放り込まれたらどうなってしまうのか。

 それが四葉の危惧するところだった。

 風太郎を避けるわけにはいかないので、姉妹間の空気を何とかしなければならない。

 幸い、次の家庭教師の日までは数日の時間がある。

 放課後の勉強会も、風太郎の方から一週間ぐらいの休みが欲しいと要請があった。

 具体的な方法までには思い至らなかったが、要は楽しい時間を共有すればいいのだ。

 今は父の元を離れているため旅行などの贅沢は難しいが、外に遊びに出ておいしい食事を取るぐらいなら可能だ。

 五月の持っているチラシの店は、きっかけとしては十分なように思えた。

 自分の頭脳の冴え渡りに戦慄いていると、スマホが震える――メールの着信だった。

 便利なアプリの存在によって使う機会の減ったメール機能だが、特定の相手に対してはまだまだ現役なのである。

 

『明日ちょっと付き合ってほしい。別の予定があるならそっち優先でも構わない』

 

 時代に逆行するような簡素なメールである。

 顔文字や絵文字、スタンプなどのデコレートは見当たらない。

 まさに懸念事項である風太郎からのメールだった。

 

(えっ、えっ、付き合ってほしいって……わ、私?)

 

 まさかの不意打ちに四葉は混乱した。

 他の姉妹の空気に当てられた部分もあるのかもしれない。

 高鳴る心音に釣られて返信画面を開く。

 文字を打つために画面に触れようとした寸前で、指が止まった。

 

(私なんかが、いいのかな……?)

 

 他の姉妹を差し置いて、という意識があった。

 みんな風太郎に対して明確に好意を示している。

 本当の事を隠し続けている自分とは大違いだ。

 それに、前の学校を去る際に四葉は姉妹のために生きると決めていた。

 風太郎からの誘いは素直に嬉しいが、ここはやはり――

 

(でも、他のみんなじゃなくて私を誘ってくれたんだよね……?)

 

 理由はわからないが、風太郎は一花でも二乃でも三玖でも五月でもなく、四葉を誘った。

 その事実が心の蓋を揺り動かす。

 出会ったあの日から胸の奥に灯った、風太郎への想い。

 誘いを受け入れる、誘いを断る。

 正反対の返信を交互に打ち込んでは消し、消しては打ち込む。

 堂々巡りである。

 

「四葉?」

「わあっ!」

 

 ものすごい速さでスマホをいじる四葉を心配したのだろう。

 不意に五月に声をかけられ、指はあらぬ場所をタップした。

 慌てて確認すると、誘いを受け入れる旨の文章が送信されてしまっていた。

 どうしたものかとあたふたするが、送ったメールは取り消せない。

 できるのは、間違いの訂正と謝罪をあらためて送ることのみだ。

 文面を考えて頭を抱えていると、更に返信が。

 

『じゃあ明日の午前十一時に駅前に集合で。らいはも楽しみにしてる』

 

(……らいはちゃん!)

 

 どうやら二人きりというわけではないようだった。

 ホッとしたような、残念なような。

 それでも、仲良しのらいはに会えるとなれば四葉も俄然乗り気である。

 

「四葉、聞いてます?」

「ん? ごめん、何の話?」

「みんなでご飯を食べに行こうかと思いまして」

 

 そう言って五月は先ほどのチラシを目線の高さまで掲げた。

 元々同じことを考えていたため、四葉としては異論はない。

 むしろ五月から言い出してくれたことに嬉しさすら感じていた。

 

「いいね! いつ行こうか」

「明日のお昼はどうですか?」

「え……」

 

 明日の昼となれば、風太郎との約束の時間と丸かぶりだ。

 このままいけばダブルブッキングになってしまう。

 幸い、こちらの予定はまだ決定ではない。

 都合が悪いことを伝えれば変更してもらえるだろう。

 

「五月、そのことなんだけど――」

「え、なにそのお店。結構おしゃれ~」

 

 洗い物を終えた二乃が、キッチンから出てきて五月が持つチラシに興味を示していた。

 タイミングが悪いことに四葉の声はかぶせられて届いていない。

 二乃の声を聞きつけたのか、一花と三玖も会話に入ってきた。

 

「五月ちゃん、今度このお店行くの?」

「イタリアン? ちょっと行ってみたいかも」

「ええ、せっかくですので明日のお昼にみんなで行こうかなと」

「いいわね。あんたのレビューの方もはかどりそうじゃない」

「な、なんのことやら!」

 

 あっという間に言い出せる雰囲気ではなくなってしまった。

 和気合い合いと話が進む中、四葉の笑顔はひきつり気味である。

 この場で別の予定があることを言い出せば、確実に水を差してしまうだろう。

 四葉の望む展開になりつつあるというのにそれは心苦しかった。

 しかし先約は先約。

 こちらの予定の変更がまだ可能であるうちに言っておかねばならない。

 

(らいはちゃん、私に勇気を……!)

 

 眩しい笑顔を思い浮かべて自分を奮い立たせる。

 拳を握り意を決して、四葉は口を開いた。

 

「みんな!」

「な、なに?」

「いきなり大声出さないでよ」

「びっくりした」

「どうかしたのですか?」

 

 姉妹たちの視線が集まる。

 勝手にプレッシャーを感じてたじろぎそうになるも、どうにか踏みとどまった。

 

「実は明日のお昼は予定がある、んだけど……」

 

 勇気を振り絞ったはずだったが、声は尻すぼみになってしまった。

 なんとか言い切ったはいいが、他のみんなの反応が怖くて顔を上げられない。

 心なしかリボンもしおれ気味である。

 永遠にも思える沈黙――実際には数秒だったのだが、四葉の感覚的にはそうだった。

 

「そっか、なら仕方ない」

「深刻そうな顔してるから、何かと思ったじゃない」

「四葉がいないんじゃ意味ないし、また別の機会だね」

「お昼がダメなら夜はどうですか?」

「えっと、大丈夫だと思う」

「じゃあ夜に予約しておきますね」

 

 思いのほか姉妹たちの反応はあっさりしていた。

 考えすぎだったことは少し恥ずかしいが、それよりも安堵が大きい。

 力が抜けた四葉は、後ろ向きに倒れて天井を見上げた。

 プレッシャーから解放され、心がどこかに飛んでいってしまいそうだった。

 放心状態である。

 

「また部活の助っ人? 程々にしなさいよ」

「あはは、違うよ。明日は上杉さんと――あっ」

 

 だからか気が緩んでいた。

 たしなめてくる二乃に、ついポロッと漏らしてしまったのだ。

 まずいことを口走ったと気づいて口元を押さえるがもう遅い。

 姉妹たちの様子は一変していた。

 

「ふぅん、なるほどね」

「へぇ、まさかあんたが抜け駆けするとはね」

「四葉……油断してた」

「止める筋合いはないのですが、その……」

 

 一花は興味深げに目を細めた。

 二乃は笑顔だったが目は笑っていなかった。

 三玖の後ろには揺らめく炎が見えた、ような気がした。

 五月は何やら複雑そうな表情をしていた。

 

「さて、どうしようか」

「当然やるわよ」

「異議なし」

「……わかりました」

「あ、あはは……」

 

 五つ子裁判、午後の部の開廷である。

 五月は弁護にまわってくれたが、姉の迫力に押されてあまり頼りにならなかった。

 

 

 




後編は多少シリアス目になるかと思います。
それと、来週はFGOやらFF16で忙しいので更新が遅れるかと思います。


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ブライダル撮影会~四葉と風太郎~

なんかいきなりお気に入り増えてるけど何が起きたんですかね?

それはそうと今回の話はゲームのネタが含まれているので気になる方は一応注意。


 

 

 

「気乗りしねぇ……」

 

 目的地に向かう道すがら、ため息をついて空を見上げる。

 時期的には梅雨のはずだが天気は良かった。

 いっそ雨でもと思ったが、それだけではこの先の展開は避けられないのだ。

 

「うっえすぎさーん!」

 

 駅に近づくと、能天気な声が出迎えた。

 悪目立ちリボン、四葉だ。

 目一杯手を振って存在をアピールしていた。

 相変わらずの元気さだ

 少しでいいから分けてほしいぜ……

 

「よ、よう……よく来てくれたな」

「まさか上杉さんから誘われるとは……明日は雪が降るかもしれませんね!」

「むしろ槍でも降っててくれたら出かけずに済んだんだけどな」

「はい?」

 

 今日こいつを呼び出したのはアルバムを渡すためだけでなく、親父の頼みごとも関係している。

 むしろかかる時間的にはそっちがメインで、アルバムはおまけみたいな部分もある。

 まったく、なんでこんなことに……

 

「ところでらいはちゃんは?」

「ああ、むこうで親父と一緒に待ってる」

「えっと、上杉さんのお父さんも一緒ということは……どういうことなんでしょう?」

 

 むむむ、と唸り出す四葉。

 頭の上にハテナが浮かんでは消えるのが見えるような気がした。

 流石に何も説明しないというのは卑怯だろうか。

 

「……実は写真撮影のヘルプを頼まれてな」

「なるほど、お手伝いに呼ばれたんですね!」

「お手伝いというか、むしろ主役なんだけどな……」

「まさか……」

 

 四葉は目を見開いてワナワナと震えている。

 明言は避けているのだが、それでも俺の言葉の中から何かを察したらしい。

 尻込みするのは当然だ。

 俺だってそうだ。

 昨日は夜ふかしをしたので眠気も中々にきつい。

 率直に言って、今すぐ帰って寝てしまいたい。

 

「まさか、とうとう私もカメラマンデビュー……?」

 

 前言撤回、こいつは何も分かっていなかった。

 まぁ、言葉を濁している俺の責任でもあるか。

 はっきり言ってものすごく気乗りしないが、四葉が来てしまった以上やるしかない。

 今日の撮影は昼飯とバイト代も出るのだ。

 そのために頑張ると思えばいい……!

 

「行くぞ」

「あ、待ってください! あの、私みたいな素人でも大丈夫なんでしょうか」

「心配すんな。俺らは撮る側じゃなくて撮られる側だ」

「撮られる側、ですか」

「モデルだよモデル」

「なるほど……って、むしろもっと緊張しちゃうんですけど」

 

 一花がやっているようなことを思い浮かべたのだろう。

 四葉は自信なさげにしていた。

 これで具体的に何の撮影なのかを知ったら、一体どんな反応を見せるのだろうか。

 この場でそれを言い出す勇気は俺にはなかった。

 

 

 

 

 

「え……結婚式、ですか?」

「おう、最近は式を見送るカップルも多いらしくてな。宣伝になるような写真を一発撮ってくれと頼まれちまってな」

「む、無理無理無理!」

 

 案の定、親父から具体的な説明を受けた四葉は、すごい勢いで首を横に振っていた。

 果たして無理と言っているのは結婚式の方か俺の方か。

 ……まぁ、あまり深く考えないでおこう。

 

「無理じゃない。もう前金は受け取っただろ」

「まさか……あの豪勢なお昼は罠だった……?」

「くくく、今更気付いても遅い!」

「う、上杉さんの策士ー!」

「ふははは、何とでも言え! さぁ、写真撮影のためカップルとしゃれこもう――いてっ」

 

 無理にテンションを上げていると、後ろから小突かれる。

 らいはが腰に手を当てて眉を吊り上げていた。

 やべぇ、怒ってる。

 

「もー、せっかく来てくれたのにそんな態度じゃダメっ!」

「し、しかしだな」

「ごめんなさいっ。お兄ちゃん照れてるだけなんです」

「らいはっ」

 

 いや、照れてませんが?

 照れているのではなく、気恥かしさを紛らわすためにこんな態度をとっているだけなのだ。

 親父に恨みをこめた視線を向けてみるが、サムズアップを返された。

 元凶のくせに悪びれた様子が欠片もない……!

 

『写真撮影……結婚式場……?』

『人づてだが泣きつかれちまってな。若いカップル向けの宣伝がしたいらしい』

『それで、あいつらにも声をかけろって……?』

『衣装合わせもあるし、まぁ一人だけになるだろうな』

『いやいやいや、無理だろ』

 

 無理だと言ったが結局押し切られてしまった。

 バイト代も出るという一言に惑わされたわけでは決してない。

 他の用事があれば断ってもいいという体でメールを送ったのだが、四葉は快諾した。

 まぁ、写真撮影の件は伏せていたわけだが。

 他の四人は正直、顔を合わせるのにさらに勇気がいるため候補から外した。

 そもそもただの写真撮影ならともかく、それが結婚式場の宣伝のものとなれば話がまるで違う。

 モデルとは言え、そういう格好をしてそういう事をするのだ。

 告白に対する返事と取られかねない。

 撮影となれば一花の得意分野だが、あいつの場合はさらにまずい。

 これ以上攻め込む材料を与えればどうなるかわかったもんじゃない。

 そういうわけで四葉を選んだわけだが、果たしてどうなることやら。

 いまだに無理無理と首を振っていた。

 

「四葉さん……ダメ?」

「うっ、らいはちゃん……」

「私ね、四葉さんのドレス姿見てみたいな」

「――やりますっ!」

 

 こうして話は決まった。

 決め手はらいはの上目遣い。

 四葉がちょろいわけじゃなく、らいはが可愛すぎるのだ。

 俺もあれをやられたらひとたまりもないだろう。

 訳知り顔で頷く親父は正直気に入らないが、こうなったら後はやるだけだ。

 

 

 

 

 

 結婚式場のホールの中は、当たり前と言えば当たり前だがガランとしていた。

 そもそも空いていなければ撮影だって行えないという寸法だ。

 しかし、世間一般では六月は結婚式が多い月のはずだ。

 なんせジューンブライドという言葉があるくらいなのだから。

 それでもこうやって休みの日に式場が空いているということは……やはり親父の言うとおりなのだろう。

 それにしても、こうして慣れない衣装に身を包んで馴染みのない場所に一人佇んでいると、いまいち現実感がない。

 人生において結婚なんて言葉は縁がないと思っていたため尚更だ。

 こんな俺でもいつかは誰かとそういう関係になったりするのだろうか。

 なんでだか、同じ顔が五つ思い浮かんだ。

 純白の衣装に身を包んだ花嫁が、俺に微笑んで――

 

「上杉さん、お待たせしました」

「ああ、お前も着替え終わった――」

「えへへ、モデルだってわかってても、なんだか緊張しちゃいますね」

 

 一瞬、自分の妄想かと思った。

 俺の想像から抜け出してきたんじゃないかと、そんな馬鹿げたことを思い浮かべた。

 それもこれもこの場所のせいだ。

 こんな現実感のないシチュエーションに身を置いているから、そんな事を考えてしまったんだ。

 

「変なとこありません? 背中の方は自分じゃ見えなくて」

 

 四葉はその場で一回転してみせた。

 普通の――といってもウェディングドレスには詳しくないが――よりもスカートが短いので、翻って太ももとさらにその上が見えそうになる。

 たまらず目をそらす。

 こいつにだけはそういう視線を向けたくなかった。

 他のやつに関しては……少なからず肉体的な接触があったのにそんな目で見るなというのが無理な話だ。

 しかし困ったことに顔が同じなんだよな、五つ子だし。

 

「上杉さん?」

「あ、ああ……変なところはないと思うが」

「よかった~……で、どうです? 似合ってますかね?」

「まぁ、馬子にも衣装ってところか」

「まご?」

「それっぽい格好をしてたら、それっぽく見えるってことだよ」

 

 ちなみに、馬子とは身分が低く粗末な格好をした者のことを指す。

 いい意味では使われない言葉だし、余計な説明はヤブヘビだろう。

 とりあえず落ち着こう。

 このままでは直視できない。

 

「もしかして、照れてます?」

「あ? 照れてねぇよ」

「隠さなくても、そういう反応するときは照れてるってわかっちゃうんですから!」

 

 鬼の首を取ったかのように、四葉は得意げになって胸を張った。

 馬鹿な、こんなおバカにも把握されてしまうほど俺が単純だっていうのか……?

 下から覗き込んでくるので顔を背けるが、四葉のフットワークは軽い。

 背けたそばから回り込んできやがる……!

 

「――っ、大体な! 結婚前にウェディングドレス着たら婚期が遅れるって話もあるんだぞ!」

「……がーん! どうしてそんなこと言うんですか! 上杉さんの鬼! 悪魔! 勉強オバケ!」

 

 むくれた四葉は騒がしいことこの上ないが、これで妙な雰囲気もなくなった。

 あとは主導権を握り返せば無事撮影終了で懐も潤うだろう。

 

「おっ、四葉ちゃんドレス似合ってるじゃねーか」

「上杉さんのお父さん! 上杉さんったらひどいこと言うんですよ!」

 

 親父が姿を見せるや否や、四葉はチクリに走った。

 お前は小学生かと突っ込みたかったが、そもそも俺が強引に軌道修正をはかったツケだ。

 多少の苦言は受け入れよう。

 

「結婚前にウェディングドレス着ると結婚できなくなるって!」

「って、そこまでは言ってないだろ!?」

「たしかにそんなジンクスもあったな。ま、そんときは責任取ってお前が結婚してやれ!」

「親父もなに言っちゃってんだよ!?」

 

 からかわれているとはわかっているが、四葉が本気で受け取ってしまったら大変だ。

 非難の意を込めて睨みつけてやるが、親父はニヤニヤとしたまま全く動じない。

 くそっ、完全に面白がってやがる!

 

「結婚……私と、上杉さんが……」

「真に受けんな。おい、聞いてんのか」

 

 四葉は心ここにあらずといった様子で、俺の声に反応を示さない。

 唇に指を当てたまま固まっていた。

 薄赤く頬を染めた切なげな表情。

 脳裏に焼き付いた光景、鐘の下でのキス。

 五月の姿をした誰かの顔が、強くダブった。

 

「おい、四葉!」

「……はっ!? な、なんでしょうかっ」

「だから、親父ならからかってるだけだからマジに受けとんなって」

「で、ですよね! あはは、らいはちゃんを合法的に妹にできるなら、悪くないって思ったんですけど」

「ガハハハ! 俺も可愛い娘が増えるなら大歓迎だけどな!」

「親父!」

 

 いい加減文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、見計らったかのように親父は引き下がった。

 撮影の準備にもう少し時間がかかるらしい。

 また後で、と言い残して去っていった。

 合間に俺たちの様子を見に来たということは理解できるが、それだったらもう少し波風を立てないでほしいもんだ。

 この先も事あるごとに茶々を入れられるのかと思うと、どうしてもやる気が減退していく。

 

「悪いな、親父もいい年なのに落ち着きがないんだ」

「私の方こそ、なんだか調子に乗っちゃってたみたいで」

「俺も余計なこと言ったし、別にいい。……お前の雰囲気がいつもと違って少し驚いたんだ」

「雰囲気……やっぱり、この格好のせいですかね?」

 

 もしかしなくてもその通りだ。

 ウェディングドレス姿なんて、日常生活じゃまずお目にかからない。

 戸惑って多少変な態度を取ってしまったとして、それはしかたないのだ。

 

「でも、私だって同じなんですよ?」

「同じ?」

「だって上杉さんも普段と違う格好をしてるから……ずっとドキドキしてたんです」

「え……は?」

 

 思わず目を見開く。

 頬を染めた四葉の上目遣いは、俺の動きを縫い付けた。

 言われてみればお互い様という話ではある。

 馴染みのない場所で慣れない衣装、それに相手もまた見慣れない格好でいつもと違う雰囲気。

 俺が置かれた状況は、そのまま四葉にもぴたりと当てはまるのだ。

 しかし、その顔はまずい。

 その顔はどうしても、他の四人と重なってしまう。

 落ち着け……落ち着け、上杉風太郎。

 かつての中野家での出来事を思い出せ。

 ものの見事に四葉に騙されたあの時のことを……!

 心の外装をガチガチに強化して次の言葉に備える。

 さぁ、いつでも来い!

 

「……」

「……」

 

 しかしいつまで経っても続きはない。

 結果、俺と四葉は見つめあったまま固まっていた。

 この状況がいつまで続くのか。

 律儀に向かい合う必要はない。

 ないのだが、なぜか目をそらせなかった。

 人間は周囲を認識する際、ほとんどの情報を視覚から得るという。

 したがって俺の頭の中は次第に四葉の事で占められつつあった。

 振り返れば、こいつは最初から俺に好意的だった。

 先日の修学旅行まで、その理由を深く考えたことはなかった。

 そこにどんな理由があるにせよ、俺が四葉に助けられたことには変わらないからだ。

 もちろん、そもそもがそういう性格だってのはあるだろう。

 だけど、そこに別の理由があるとしたら。

 数年前に馬鹿なガキと約束を交わした女の子が、今になってもそれを覚えていたとしたら。

 でも何らかの理由でそれを諦めているのだとしたら。

 成長して馬鹿じゃなくなったガキと再会した時、何を思うのだろうか。

 そんな馬鹿げた妄想をしてしまった。

 

「……四葉、お前は――」

 

 五月が零奈として接触してきた意味。

 修学旅行中、一花が四葉のふりをして俺を連れ出した理由。

 頭の片隅に根付いた疑問。

 言い出せずにいたそれが、こぼれそうになる。

 

「わぁ、四葉さん綺麗!」

 

 しかしその先は続かない。

 幸か不幸か決定的な言葉が出る前に、いつの間にかやってきたらいはが割り込んだ。

 純白の衣装に身を包んだ四葉に目を輝かせていた。

 

「いいなぁ、私もいつか着れるかな?」

「ええ、らいはちゃんだったらきっと素敵なお嫁さんになれますよ!」

 

 仮にそんな時が訪れたら、俺はしばらく寝込む自信がある。

 しかし同時にその姿を見たいと思う自分もいるという。

 複雑な兄心だった。

 

「らいは、俺より成績が悪い奴との結婚は認めないからな!」

「うわ、上杉さん大人気ない……」

「そんなの気にしなくてもいいよ。絶対お父さんやお兄ちゃんよりも素敵な人と結婚するもん!」

「らいはー!」

 

 なんにせよ、あの妙な空気はすっかり吹き飛んでいた。

 ……助かったなんて思ってしまった自分が、少し情けなかった。

 

 

 

 

 

「ん~! なんだかんだで楽しかったですね!」

「俺はもうボロボロだけどな……」

 

 精神力を多大に消費しつつも撮影は終わった。

 疲れてウトウトしているらいはを親父に任せ、俺は四葉を送りに出ていた。

 まだ渡すものがあるため、このまま別れるわけにはいかない。

 

「今日の写真、後で送るってよ」

「本当ですか? 楽しみですねっ」

「……あんまり見せびらかすんじゃないぞ」

 

 他の姉妹の反応が怖いというのは言うまでもない。

 好意を伝えた相手が、自分を差し置いて姉妹を誘って結婚式場のPR写真を撮っていた。

 当然、面白いわけがない。

 散々ノーデリカシーと詰られてきた俺だが、そのぐらいは気がつく。

 だからこそ気乗りしなかったわけだが。

 

「そういえば、あの時の写真はどうなった? あとで送るとか言ってたが」

「写真……なんでしたっけ?」

「清水寺で撮ったやつだよ」

「……ああ、そういえば!」

 

 この様子だとすっかり忘れていたらしい。

 まぁ、こちらとしてもどうしても欲しいというわけでもないのだが。

 ただ、万が一変な顔でもしてる写真だったら、弱みを握られてるようで落ち着かないというのはある。

 一花に寝顔を撮られていたのは本当に不覚だった。

 とにかく、そういうことだ。

 こいつだったら悪用はしないだろうが。

 

「ごめんなさい、あの後は色々とゴタゴタしてて。今送りますね」

 

 メールの着信を知らせる振動。

 開いてみると、画像データが添付されていた。

 データ量が大きくて表示するのに時間がかかる。

 さすがは高性能な機種で撮った写真だ。

 ガラケー如きではスペックが追いつかない

 

「――これは……」

 

 清水の舞台から見える景色を背景に並んだ二人。

 カメラから目をそらす俺と、笑顔でピースを向けた四葉。

 酷く既視感を覚える写真だった。

 

「上杉さん?」

「あ、ああ……とりあえず変顔はしてないみたいだな」

 

 あの写真は零奈――五月に取り上げられた以降の所在はわからない。

 問い詰めてみれば案外あっさり出してくるかもしれない。

 だが、そうする事に必要性を感じなかった。

 今の俺はもっと別のものに支えられているのだから。

 五月が言う『彼女』があえて突き放すようなことをさせたのも、それを気づかせるためだったのかもしれない。

 それに、たった今送られてきたばかりの写真もある。

 まるで昔と変わらない仕草をしている自分に進歩がないと呆れてしまうが、持っていても損はないだろう。

 これは今の俺と四葉の思い出なのだから。

 

「四葉、これ」

「え、なんですかこれ」

 

 紙袋の中から、今日のために用意したものを取り出して渡す。

 送られっぱなしではこいつを呼んだ意味がない。

 

「誕生日のお返しだ。金がないからせめて五人で共有できるものをってな」

「アルバム、ですか?」

「武田と前田も巻き込んで、親父やらいはにも協力してもらって完成させた」

 

 前田は借りを返すためと言って、武田は親友の頼みならと快く引き受けてくれた。

 訂正してやりたい部分もあるが、あいつらには感謝している。

 家族の協力も含め、俺だけじゃここまでのものはできなかっただろう。

 

「そういえば……色んなことがあって写真はそっちのけでした」

「修学旅行はあっという間に終わっちまったが、将来的にはいい思い出になると信じて作らせてもらった」

「ありがとうございます、みんなきっと喜びますよ!」

「……四葉、お前には感謝してる。色々とな」

 

 色々と、の中に口には出せないことも含めておく。

 今はこれでいい。

 

「なんだか上杉さんがいつになく素直です」

「うるせーよ。それよりまだ渡すものが残ってる」

 

 今度は紙袋ごと四葉に渡す。

 誕生日プレゼントとは別だが、俺の努力の結晶にして寝不足の原因だ。

 中身を覗き込んだ四葉はプルプルと震えていた。

 

「上杉さん、これは……」

「家庭教師も勉強会も休ませてもらってるからな。その埋め合わせってやつだ」

 

 紙袋の中身はプリントの束だ。

 こいつらも自主的に勉強するようにはなったが、まだまだ油断はできない。

 また頭の中身がリセットされるのは困るのだ。

 俺だったら喉から手が出るほど欲しいプレゼントだ。

 問題集や参考書を買うのだって結構な金がかかるのだから。

 すると四葉は顔を上げて、ひきつった笑みで紙袋をこちらに差し出してきた。

 

「こ、この件は一旦持ち帰ってみんなで相談しようかなーっと」

「お前がこいつを持ち帰るんだよ!」

「ひ、ひいぃ~~!」

 

 

 

 

 

「……結局受け取っちゃった」

 

 紙袋を手に、四葉はため息をついた。

 中身はアルバムと、目を背けたくなるぶ厚さのプリントの束。

 どちらも風太郎からの贈りものである。

 アルバムは素直に嬉しいが、課題の量には正直頭を抱えたくなった。

 期限は一週間。

 提出できなければ風太郎から雷が落ちるだろう。

 勉強のことに関しては厳しいのだ。

 

「……楽しかったなぁ」

 

 今日の出来事を振り返る。

 駅前での待ち合わせに、お昼を食べてから式場での撮影。

 知らされたときは驚いたが、やってみれば楽しめた。

 風太郎が自分を選んでくれたことが単純に嬉しかった。

 それが、四葉をそういう対象として見ていないがゆえのものだったとしても。

 自分が消去法で選ばれたことは、風太郎の態度からなんとなくわかった。

 

「でも、あの時は危なかったな」

 

『だって上杉さんも普段と違う格好をしてるから……ずっとドキドキしてたんです』

 

 それは紛れもない本心だった。

 そして、いつかのようにごまかすつもりだった。

 自分にはそれを伝える資格がないのだと。

 また風太郎をからかう形で終わらせようとした。

 だけどこぼれた本心を打ち消すための言葉は出てこず、四葉は固まってしまった。

 もしあのままらいはが来なければ、自分は何を口走っていただろう。

 

「……もっと気を引き締めなくちゃ!」

 

 頬を張って気分をリセットする。

 風太郎の前ではいつも通り、元気な四葉でいなくてはならないのだ。

 普段から気をつけていなければ、あっという間に綻びから本音が顔を出してしまうだろう。

 ポケットの中のスマホが震える。

 二乃からのメッセージが来ていた。

 

『まだかかる? もうちょっとしたら家出るけど』

 

 今日の夕食は新しくオープンした店で食べようと約束していた。

 用事が長引いた時のことを考えて予約は少し遅い時間に取ってある。

 出発の時間には少し早いが、途中で寄り道をする予定なのだろう。

 四葉は少し考えると、メッセージを返してスマホをしまった。

 

『移動に時間かかりそうだし、現地集合で』

 

 荷物を家に置いておきたかったが、もう少し一人で歩いていたい。

 家でも約束の店でもなく、その足は高台の公園へと向かっていった。

 勤労感謝の日の最後に、風太郎と二人で訪れた場所だ。

 姉妹の前でも、風太郎の前でもこの想いを出すわけにはいかない。

 揺れたままの心を落ち着ける必要があった。

 無人の公園に辿り着き、ブランコに腰をかける。

 空の色が変わり始めていた。

 ブランコを漕ぐでもなく、色の移り変わりをじっと見つめる。

 

「――風太郎君」

 

 六年前、京都で出会った男の子。

 一人と一人どうし、一緒に街を散策した。

 暗くなってもう別れようという時に、移動費を賽銭箱に入れてしまう変な子だった。

 それが路銀が尽きた四葉を一人にしないための優しさだと気づいたのは大分後だった。

 そしてお互いに家族を支えることを誓い合い、約束を交わした。

 

「――上杉さん」

 

 時が過ぎて再会した男の子は約束の通りに頑張り続けていた。

 言い出すことはできなかったけれど、気づいてもらえなかったけれど、傍にいられるだけで嬉しかった。

 少し寂しかったけれども、姉妹と打ち解けていく姿は喜ばしかった。

 でもそれで余計に言い出せなくなった。

 自分との思い出を覚えてると知った後でも、自分だけが特別になることを良しとできなかった。

 だからあの思い出も、この想いも消してしまおう……そう決めたはずだった。

 だけどブランコは揺れず、心は揺れたまま。

 こうして暗くなりつつある空に、あの日の思い出を投影し続けている。

 

(あと少し、あと少しだけ……)

 

 これが最後なのだと言い聞かせて、四葉は思い出に浸り続けた。

 

 

 




あと少しだけと言いつつも、いつまでもやめられないことってあると思います。

次回からは短めの話を何個かやる予定。
話は進まないけど(肉体)関係は進むかもしれません。

それはそうとようやくFF16が届いたのでそっちが忙しくなりそうです。


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放課後デートが一花の場合

お気に入り登録が爆増して戦慄を禁じえません……
驚きは小さくありませんが、読んでくれる方が増えて嬉しい限りです。

というわけで短めですが長女とのお話です。


 

 

 

「デートに行かない?」

「は? 駄目だが」

 

 放課後の勉強会も終わり、各々の用事のために解散した後のことだ。

 学校から出ると、校門で待ち伏せていた一花が声をかけてきた。

 戯言を抜かしているのでバッサリと切り捨ててやったが。

 

「うわ、即答。もう少し迷うとかしようよ」

「いいか? 言うまでもないが、俺達は受験生なんだぞ」

「私は進学しないよ?」

「お前がしなくても俺がする」

「フータロー君に今更勉強なんて必要ないと思うよ」

 

 ちなみに修学旅行前の中間テストの結果は一位だった。

 見事に学内トップに返り咲いたわけだ。

 そのちょっと前の全国模試のことを思えば、大したことではないように見えるかもしれない。

 しかし、やはり長年座っていた椅子は座り心地がいいものだ。

 満点がずらっと並んだ成績表を渡されてホッとしたのは、俺の心の中だけの秘密だ。

 武田は悔しがっているのに嬉しくてたまらないという、なんともおかしな態度を見せていた。

 正直ちょっと引いた。

 

「そもそもお前、これから撮影があるんじゃないのか?」

「あんなのウソに決まってるじゃん」

「はぁ? なんでそんな嘘吐いてるんだよ」

 

 一花は撮影があると言って少し早く俺達と別れたはずだ。

 二乃は食事の用意があると、他三人はバイトが入っていると言って帰っていった。

 これで煩わされることなく勉強ができると思わずガッツポーズをとってしまったが、ぬか喜びだったようだ。

 

「なんでって、言わなきゃわかんないかなぁ」

「ははは、まさか誰にも邪魔されずに俺を待ち伏せるためになんてことは――」

「うん、そうだけど」

「……馬鹿なの?」

 

 そういえば、こいつを含め中野姉妹は度し難い馬鹿なのだった。

 何度頭を抱えたかわからないぐらい思い知らされてきた事実なのだ。

 

「まぁまぁ、そう言わずにお姉さんとデートしようよ」

「だから、用事があるから却下だ」

「用事って? あ、もちろん勉強以外でね」

「……い、家でご飯を食べる」

「それは用事とは言いませーん」

 

 勉強という理由を封じられた俺は弱かった。

 バイトとごまかそうかとも思ったが、こいつは何日か前に俺のバイトの予定を確認してきている。

 悔しいが、勝ち誇った一花をどうにかするだけの材料は用意できそうになかった。

 なのでもう俺は開き直ることにした。

 

「だから勉強だっつってんだろ。こちとら受験生だぞ!」

「ひ、開き直ったね……」

 

 そもそも勉強を禁止カードにされるいわれなんてない。

 そうだ、最初からこれで行けば良かったんだ……!

 受験生×勉強という無敵のコンボを見出した俺に敵はいない。

 これで一花もおとなしく引き下がるしかないだろう。

 

「ところでこの写真、どう思う?」

「くくく、無敵の俺になにをしようと――」

 

 差し出されたスマホの画面を見た俺は固まった。

 距離やアングル的に、いわゆる自撮り写真の類。

 だが問題はそんなところではなく、被写体の方にあった。

 頬を上気させた一花と、その露わになった胸元に顔を埋める――

 

「お、おまっ、こんなのいつの間に!?」

「フータロー君が私のおっぱいに夢中になってるときにパシャっと」

「パシャっと、じゃねーだろ!」

 

 こいつとこんな接触があったのは修学旅行二日目の日中。

 間違いなく、俺達がいたしてる最中のものだった。

 なぜ、なぜ一花はこんなものを……

 

「別にね? この写真を使ってどうこうってのは考えてないんだけどさ」

「じゃあ消そう。すぐ消そう。善は急げだ!」

 

 スマホを奪い取ろうと手を伸ばすが、ひらりとかわされる。

 そしてカバンの中にスマホをしまうと、一花はこちらに身を寄せてきた。

 

「考えてはいないんだけど、こんな写真があるってことをフータロー君には覚えててほしくて」

 

 笑顔だった。

 誰もが見惚れてしまうだろう笑顔だが、俺は震えが止まらなかった。

 

「……ドコニイキマショウカ、イチカサン」

「それじゃあ、二人で汗流せるところにしよっか」

 

 

 

 

 

「い、一花……これ以上は、無理……」

「えー、もう? 私まだ満足してないんだけど」

 

 乱れた息遣いに止めどなく流れる汗。

 街中にある複合エンターテインメント施設の一角。

 そびえ立つネットを中央に白線で四角く区切られたバドミントンコート。

 その片面で俺はぶっ倒れていた。

 体力の限界だった。

 

『たまにはジョギング以外もいいかなーって。あれ、もしかして変な想像してた?』

『し、してねーよ! だけどな、そういうとこに行くのには一つ問題がある』

『料金? 無料のペアチケットあるからタダで入れるよ』

『マジか!』

 

 一花に連れられるまま入ったこの場所で、俺は過酷な運動を強いられていた。

 物珍しさにほいほいと安請け合いしたのが良くなかった。

 タダという響きに釣られたのもよろしくない。

 なんにせよ後悔は先に立たず、俺はここで虫の息だ。

 

「フータロー君の体力は相変わらずだね」

「……俺を甚振って楽しいかよ」

「人聞き悪っ! まぁ、君の余裕ない表情は正直ゾクゾクするけど」

「ヒッ、ヒィェェァァ……」

 

 一花は目を細めて笑った。

 蛇に睨まれたカエルのように、俺は竦み上がった。

 捕食される側の気持ちがわかったような気がした。

 これはきっと本能的な恐怖だ。

 俺の反応に苦笑すると、一花はこちらに来て近くに座った。

 

「まぁ、ちょっとずつ慣らしていけばいいよね」

「まさか、またこんなことをやらせる気か?」

「君はもうちょっと体力あったほうがいいと思うし。あ、ジョギングに付き合ってもらうのもありかな」

「俺を殺す気か」

 

 しかしながら、体力の向上は悪いことじゃない。

 この前の誕生日プレゼントで三玖にもらったスポーツジムのチケットはまだ使っていないが、あいつを誘っていくのもいいかもしれない。

 体力がないものどうしなのでペースを合わせやすいだろう。

 ……いや、この状況で誘うのはどうなんだ?

 告白してきた相手を誘うというのは、どういうことになるのか。

 あぁもうめんどくせー!

 そもそも仲のいいやつを遊びに誘うのに何の問題があるというのか。

 少し考えすぎているのかもしれない。

 

「でも体力ついたら日常生活も充実すると思うし、あっちの方も色々と捗ると思うんだけどなぁ」

 

 一花の流し目には反応してやらない。

 あっちというのが具体的に何を指すのか、色々というのが具体的に何を含んでいるのか。

 下手に触れたらまたカウンターが飛んでくる可能性がある。

 

「とりあえず休憩だね」

「ま、まだやるのか?」

「時間余ってるし、もったいないよ」

 

 もったいない精神は大いに結構。

 ここまで来たらもうやけっぱちなので、俺も時間一杯まで楽しむことにした。

 

 

 

 

 

「うぐっ……あ、足が……」

「あーもう、無理しないで掴まりなよ、ほら」

「す、すまん」

 

 やけっぱちの代償は早かった。

 外に出る頃には、俺の体は疲労の限界を迎えていた。

 情けない話だが、支えられてやっとまともに歩ける状態なのだ。

 

「無理に付き合ってくれなくても良かったのに」

「チケットの分は楽しまないともったいないだろ。貧乏性が染み付いているもんでな」

 

 そもそも誘う段階で脅しをかましてきたこいつに心配される筋合いはない。

 抗議の視線を向けてやると、ニッコリと笑い返された。

 思わず視線をそらす。

 こんな様では中野姉妹とのにらめっこには惨敗を喫してしまうだろう。

 そんな機会があるかどうかはわからないが。

 

「タクシー呼ぼうか?」

「いい、休めば多少回復するだろ――おっと」

「やっぱりふらついてるじゃん。私も帰るのに使いたいから、ついでに乗ってきなよ」

 

 そう言って一花はスマホをいじりだした。

 最近ではタクシーをアプリで呼び出すこともできるらしい。

 仕事柄利用する機会が多いのか、慣れた手つきだった。

 程なくして、タクシーが到着。

 ここまで来ては断るのもかえって悪い。

 俺は一花の好意に甘えることにした。

 

「ほら、足元気をつけて」

「ああ、悪い」

「それじゃあ、ここまでお願いします」

 

 タクシーが走り出す。

 音も振動も僅かで、油断していると睡魔に引き込まれそうだった。

 ウトウトしていたので、どれぐらいの時間が経ったのかはわからない。

 いつの間にか停車していて、寝ぼけ眼に一花が運転手に諭吉さんを渡しているのが見えた。

 

「フータロー君、着いたよ」

「んぁ……あ、ああ」

 

 促されるまま降りると、どうにも見慣れない景色が出迎えた。

 明らかに俺の家や中野姉妹のアパートの近所ではない。

 

「おい、どこだよここ」

「あ、ごめんごめん。せっかくだから行ってみたい場所があってさ」

「俺にはこれ以上付き合う体力はないからな」

「あはは、心配しなくても大丈夫だよ。ほら、行こうよ」

 

 俺の体を支えながら、一花は何処かへと足を向ける。

 目的地を訪ねてもいまいちはっきりとした答えは返ってこなかった。

 見慣れない場所と雰囲気も相まって、いやに落ち着かない。

 一花が返答を濁すことにどうにも嫌な予感がした。

 途中で引きとめようとしてみたが、こんな状態ではか弱い抵抗にしかならない。

 そうして、目の前に現れたのは西洋の城のような建築物。

 ここで唐突に、親父の言葉が脳裏に浮かび上がった。

 

『いいか? 世間にはカップルのための施設があるわけだが――』

 

 俺が思春期の青い衝動に悩まされるようになってからというもの、親父との話題にこの手のものが増えた。

 もちろん、らいはのいないタイミングを狙ってのものだ。

 それぐらいの分別はあると信じたい。

 話題が話題なので印象はアレなのだが、その手の知識に疎い俺のために講釈たれてくれていたようにも思える。

 その中に、世のカップルのための宿泊施設に関するものがあった。

 曰く、まるでおとぎ話に出てくる城のような外観のものもあるのだとか。

 

「おい、ここって」

「なんだろうね? あ、休憩できるってさ。ちょっと入ってみようよ」

 

 中に入ろうとする一花を全力で引き止める。

 抵抗するのではなく脱力――思い切り全体重をかけてやった。

 これにはさすがに足を止めざるを得なかったらしく、心配するような目をこちらに向けてきた

 俺が倒れそうになったとでも思ったのだろうか。

 騙すような形になってしまったが、ここで流されるわけにはいかなかった。

 

「大丈夫? すぐそこだから、もうちょっとだけ頑張って」

「いや、入んねーぞ」

「お金のことならいいよ。私も休みたいし」

「本当に休むだけか? 俺の目を見て言ってみろ」

「やだなぁ、なに疑ってるのさ」

 

 苦笑する一花。

 それも一瞬の事で、すぐに笑顔を作ってこっちを見返してきた。

 わかっている――こいつは簡単には尻尾を出さない。

 そしてこいつも恐らくわかっている――俺が至近距離で中野姉妹の顔を正視するのが困難だということを。

 しかしそれは俺が羞恥心を投げ捨て、なおかつ痛みで気をそらせばギリギリクリアできるのだ……!

 

「……」

「やだなぁ、そんなじっと見ないでよ」

「……」

「ま、フータロー君がそんなに私の顔を見たいって言うならかまわないけどさ」

「……」

「あの……フータロー君? な、何か言ってよ」

「……」

「~~っ、わかった! わかったから!」

 

 やがて根負けした一花は降参とばかりに顔を背けた。

 情けないやつだ。

 果たしてそんなことで女優が務まるのやら。

 

「なに勝ち誇ってるのさ。顔真っ赤だよ」

「う、うるせー! 先に目をそらしたのはお前だからいいんだよ!」

 

 一方、こっちには投げ捨てた羞恥心がバウンドして戻ってきていた。

 ずっと抓っていた太腿も痛みを訴えている。

 きっと内出血で変色しているだろう。

 無理をした揺り返しで、心身ともにダメージが入っているのだ。

 

「一花、お前はここがどういう場所だかわかってるよな」

「むしろ君が知ってることのほうが意外だよ。こういうの興味ないと思ってたし」

「お、俺の事は今はいいんだよ! とにかく、入らねーからな」

「えー? 入ろうよ、ラブホ」

「入らねーって」

「いいじゃん」

「良くない」

「……」

「……」

 

 頑なな態度を崩さずにいると、一花がむくれて黙り込んだ。

 こいつの気持ちを伝えられている身としては心苦しいのだが、ここを許してしまったら後はズルズルと流されてしまうだろう。

 一度目はあくまで緊急事態だったからだ。

 長女であるこいつは他の姉妹と比べて視野が広く冷静だ。

 だからこそ厄介な立ち回りも多いのだが、話せば分かる部類のはずなのだ。

 それを示すように、一花は諦めたかのようにフッと息を吐いた。

 

「じゃ、行こっか」

「おい、なんでこの流れで中に入ろうとするんだよ!」

「いやぁ、ここはもう実力行使でいいかなって」

 

 しかしこいつも五つ子の一人。

 道理よりも自分の欲を優先するお馬鹿だった。

 再び進みだした一花を止めようとするが、その歩みは先ほどよりも明らかに力強い。

 

「ここまで来たらもういいじゃん! 別に減るものじゃないでしょ!」

「減るんだよ! 色々と!」

「いーいーかーらー!」

 

 その後、余力を振り絞った俺の奮戦によりラブホ入りはかろうじて回避。

 疲労が性欲を上回っていたのが功を奏した。

 事前の運動がなければ、誘惑に負けてそのまま連れ込まれていたかもしれない。

 理不尽にも埋め合わせとして別の約束を要求される羽目になったのだが、それは別の話だ。

 

 

 




というわけで終了。
搦手には定評のある一花さんでした。
今後数回はこんな調子です。
次回は次女です。


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放課後デートが二乃の場合

例によって短めですが、次女が喪失するお話です。


 

 

 

「デートに行くわよ」

「は? 駄目だが」

 

 ケーキ屋のバイト上がりのことだった。

 シフトが被っていた二乃と同時に店を出たのだが、いきなりこれだ。

 もちろんきっぱり断ったが。

 

「そ、じゃあ行きましょ」

「おい待て、今確かに断ったはずなんだが」

「そんなの却下よ。どうせ何も予定ないんでしょ」

「用事がある。家にまっすぐ帰らなくちゃならん」

「そう? ならしかたないわね」

 

 意外にも二乃はあっさり引き下がった。

 いつもなら、昨日の一花よろしくもっと踏み込んでいるはずなのだが。

 おっと、思い出したら目眩がしてきたぜ……

 あの後無事に帰れたのはいいが、疲労で今朝は大寝坊だ。

 なんとか遅刻だけは免れたが、おかげで余計に疲労がたまってしまった。

 加えて地味に筋肉痛も尾を引いてるため、バイト中は店長から心配されまくってしまった。

 今日はバイトで勉強会がなかったのがラッキーと言わざるを得ない。

 

「ちょっと、なんでそんなに離れて歩くのよ」

「い、いつもこれぐらいじゃないか?」

「明らかおかしいでしょ」

 

 たしかに二乃の言う通り、今日の俺は中野姉妹から必要以上に距離をとっていた。

 実を言うと、寝坊をかましたために朝の日課ができなかったのだ。

 そんな状態で不用意に近づけばどんな醜態をさらしてしまうことか。

 こいつには一度見られてはいるが、だからと言ってもうどうでもいいという話にはならないのだ。

 

「……ところで、お前らの家ってこっちだったか?」

「さぁ、どうだったかしら」

「かわいそうに……ついに自分の家の場所まで……」

「はっ倒すわよ」

 

 キッと睨まれてしまった。

 ツンツンしている様は見られなくなって久しい二乃だが、だからといって元々の性格が消えてしまったわけではないのだ。

 しかしそうなると、こうして俺についてくるのが不可解でならない。

 一花のように脅迫じみたやり方で連れ出そうとしているわけでもないし。

 

「良かったら家まで送ろうか」

「嬉しいけど、それは最後でいいわ」

「最後?」

「そ、最後」

 

 最後ということは、二乃はまだ俺と行動を共にするつもりらしい。

 デートの件はきっぱり断ったはずなんだが。

 まさか、俺がこれからどこかにこっそり出かけるのだと思っているのだろうか。

 

「俺、これから帰るんだが」

「知ってるわよ」

「じゃ、そういうことだから」

「ええ、行きましょうか」

「……どこに?」

「あんたの家」

 

 なるほど、俺の家に行く気だったのか。

 それならこちらについて離れない二乃の行動にも納得がいく。

 こうして疑問が氷解して俺はすっきりとした気持ちで――

 

「って、なんで!?」

「お世話になってるし、一度はちゃんと挨拶しておきたいじゃない」

 

 思ったよりも真っ当な理由だった。

 うちの家族と特に関わりが深いのは四葉と五月だ。

 他の連中はらいはとは花火大会や正月の時に一緒に行動したが、親父とは家族旅行等で軽く顔を合わせただけだったか。

 それなら強硬に断る必要はない、のだが……

 

「だからなんで離れるのよ」

「いやぁ、ははは……今日はちょっと汗をかいたしな」

「そう? いつもとそんな変わらないと思うけど」

 

 二乃が俺の胸元に顔を近づける。

 フワッとした甘い匂いが鼻をくすぐる。

 そして唇に目が行き、模試の時の諸々の記憶が呼び起こされる。

 たまらず飛び退いた。

 いかん……色々と鋭敏になっている。

 

「と、とにかく今日は駄目だ。そもそも用事あるって言ったろ」

「どうせ勉強でしょ。違うならなんの用事か言ってみなさいよ」

「そりゃもうあれだよ。うん、あれだ」

「つまり何もないのね。勉強するだけなら邪魔はしないから安心しなさいよ」

 

 安心できる要素がなかった。

 決して二乃の言葉を疑っているわけじゃない。

 ただ、家族以外の人間が家にいると落ち着かないというのはあるし、単純に今の状態ではこいつを意識から除外するのが困難だ。

 まさかいきなりトイレに閉じこもって発散するわけにもいかない。

 そうしたら確実にらいはが不審がるだろう。

 俺は勉強したい、二乃は挨拶がしたい。

 だが俺が勉強するためには二乃を遠ざけなければいけない。

 ん、遠ざける……?

 

「その手があったか!」

 

 自分の閃きに戦慄した。

 そう、遠ざけられないのなら遠ざかればいいのだ……!

 つまり、二乃を家に招いて俺は外に出る。

 親父達に思う存分挨拶すればいいし、俺は公園の街灯の下で気兼ねなく勉強だ。

 この時期ならば寒さで死ぬなんてこともない。

 パーフェクトプランに笑いが止まらなかった。

 

「ふ、ふふふ……いいぜ、来いよ」

「いきなり素直ね……大丈夫?」

「ああ、思う存分たっぷり相手してやるよ」

 

 親父達がな!

 

 

 

 

 

「ただいまー」

「お邪魔しまーす」

 

 だがしかし、家は無人だった。

 外から見て明かりがついてない時点でおかしいと思ったのだが、何があったのだろうか。

 電気を付ける。

 もしかしたららいはが寝てしまっているのかとも思ったが、それも違った。

 

「誰もいないじゃない」

「おかしいな」

 

 メールをチェックすると、親父から一通来ていた。

 内容は『遅くなるから戸締まり頼む』の一行。

 シンプルイズベスト、簡潔でわかりやすくてなによりだ。

 しかし、それだとらいはがいない理由まではわからない。

 もしや下校途中で何かあったのでは……?

 不安に駆られて急いで電話をかける。

 コール音がやけに長く感じられてもどかしかった。

 早く、早く出てくれ、らいは……!

 

『もしもーし、どうしたのお兄ちゃん?』

「らいは! 良かった……い、今どこにいるんだよ」

『どこって、お友達の家でお泊りするって昨日言ったよね?』

 

 言われてみればそんな気がしてきた。

 あまりに疲弊していたため、昨夜の記憶はいまいち曖昧だった。

 なんにしてもらいはが無事で本当に良かった。

 

『もー、しっかりしてよ! 今日はお夕飯だって用意してないんだからね?』

「ああ、こっちは適当に済ます。楽しんでこいよ」

『うん! お兄ちゃんも私がいないからって夜更かしして勉強しちゃダメだよ?』

 

 電話が切れる。

 心配され通しだったが、元気な声を聞いて安心した。

 そうなると今度は腹の虫の主張が強くなる。

 もう結構な時間だが、食事の用意は全くない。

 買いに行くとなると出費になるし、俺には自炊する能力がない。

 今日の晩御飯は白米か食パンの、極めてシンプルなものになりそうだった。

 

「お父さんと妹ちゃんは?」

「親父は遅くてらいはは泊まりだ。無駄足踏ませちまったな」

「気にしないで。それはそれで好都合だし」

 

 二乃は俺の横を通り抜けて部屋の中へ。

 そして何を思ったか、台所を覗き込んでなにやらキョロキョロしている。

 うちにそんな物珍しいものはないと思うのだが。

 

「うちの台所を漁るなら不毛だぞ」

「まったくね。質素すぎて昔を思い出しちゃうじゃない」

 

 そう言って上着を脱ぐと、二乃は手を洗い始めた。

 こいつは何を始める気だ?

 そんな俺の疑問に応えるように、包丁まな板フライパン――調理器具が並べられていく。

 

「せっかくだし、ご飯作ってあげるわ。お腹空いてるでしょ?」

 

 そんなつもりで連れてきたわけではないのだが、空腹には抗いがたい。

 いい加減腹の虫もうるさいので、俺は食卓について二乃の料理を待つのだった。

 

 

 

 

 

「それじゃあ、残りは明日の朝にでも食べてちょうだい」

「ああ、なにかと悪かったな」

 

 そして夕食はつつがなく終わり、残ったおかずは冷蔵庫の中へ。

 その後の片付けもサッと済ませてしまった。

 わかっていたことだが二乃の料理スキルは高い。

 例によってうちは冷蔵庫の中も質素なのだが、それを苦にせず手際よく作ってしまった。

 やはり母親と暮らしていた頃の生活も関係しているのだろうか。

 

「じゃあ、ご飯も食べ終わったことだし」

「送ってくぞ」

「え、まだ帰りたくないんだけど」

「え、なんで」

「せっかくの二人きりじゃない」

「……そう、だったな」

 

 二乃は帰り支度をするどころか、隣に座って手を重ねてきた。

 手を通して伝わる体温と、柔らかく甘い香り。

 その何かを期待しているかのような瞳から目をそらす。

 まともに正対していたら耐え切れなくなる自信があった。

 率直に言うと油断していた。

 食事の前は空腹で性欲が紛れていたからというのもある。

 食欲が満たされ、ここでその主張が強まってきていた。

 やはり家に連れてくるべきではなかった。

 

「に、二乃っ! そろそろ帰らないと五月あたりが腹空かせてるんじゃないのかっ?」

「バイトで遅くなるから今日は晩御飯なしって伝えてあるわ」

「う、うちにいたって何もないぞ? テレビだってないしな!」

「フー君がいるじゃない」

「あーうん、それね。ちょうど今切らしててな」

「何わけわかんないこと言ってるの、よっ」

「うわっ――」

 

 二乃に体重をかけられると、俺はいとも簡単に押し倒されてしまった。

 我が事ながらなんてか弱いんだ……

 天井を見上げるような格好になった俺の上に二乃が覆いかぶさる。

 マウントポジション――舌なめずりが艶かしかった。

 

「とりあえず落ち着け!」

「無理。こんなシチュエーションで冷静でいられるわけないじゃない」

 

 それを示すように二乃の頬は上気して赤く、瞳は熱を帯びたように潤んでいた。

 たとえ目を塞いでも、その荒い息遣いが俺の中の青い衝動を刺激してくる。

 

「ずっと期待してたんだから」

「ま、待てっ」

「イヤよ、待ってあげない」

「むぐっ」

 

 唇を唇で塞がれる。

 模試の時以来のキス。

 あの時と決定的に違うのは俺が正常な状態であることと、口内に侵入してくる異物の存在だ。

 二乃の舌は俺の舌を絡め取って、二度と離さないとでも言うように吸い付いてきた。

 同時に擦り付けられる体の柔らかさが、理性の防壁を容易く破壊していく。

 

「あ、大きくなった」

「――っ」

 

 声に喜色を滲ませて二乃は俺のアレに手を回した。

 剣は既に臨戦態勢。

 服越しだが、触れられると意に反してビクッと跳ねてしまう。

 朝の日課を怠ったせいか、いつもより敏感になっていた。

 腰を引きたかったが、床に接地していてそんなスペースはない。

 このままでは敗北は目に見えている。

 流れを変えるためには――

 

「二乃! 避妊具がない!」

「それなら私が持ってるわよ」

「なっ――」

 

 自分のバッグを引き寄せると、二乃は中から小振りな箱……のさらに中から四角く薄い包装を取り出した。

 間違いなく近藤さんだった。

 なんでこんなもん持ってんだこいつ……!

 アイテムがないからまた今度、もしくは買いに行く間に頭が冷えるという計画は頓挫。

 打つ手がなくなった俺は、苦肉の策を取った。

 

「シャワー、浴びよう!」

 

 

 

 

 

 狭い浴室内に水が跳ねる音が響く。

 冷たいシャワーのおかげでいくらか頭は冷えた。

 しかし中々に俺の剣は臨戦態勢を解こうとしない。

 やはり朝の日課を怠ったのが響いている。

 

「……どうする?」

 

 多少冷静になった頭でこの場を切り抜ける方法を探す。

 シャワーを浴びるという名目で先延ばしには成功した。

 しかし何もせずにいたら結果は同じだ。

 俺の後には二乃がシャワーを使う。

 それが終わるまでに逆転の策を導き出さなければならない。

 

「いや、待てよ?」

 

 よくよく考えれば、二乃がシャワーを浴びている間は俺は自由になる。

 その間にいくらでも取れる手段があるのでは?

 ……良し、運が向いてきた。

 苦し紛れに逃げ込んだ浴室だったが、その実最適解であったとさえ思えてくる。

 

「入るわよ」

「二乃!?」

「あんたと私だったら裸の付き合いもお手の物でしょ」

 

 浴室に乗り込んできた二乃は何も身につけていなかった。

 顔は真っ赤だというのに、隠す素振りは全くないのがいっそ清々しい。

 せっかく冷えてきた頭に再び熱が蓄積されていく。

 ここに逃げ込んだようで、実は追い詰められたのだと悟った。

 慌てて背中を向けたが、しっとりと柔らかくて張りがある何かを押し付けられた。

 

「ねぇ、フー君。せっかくだし、洗いっこしない?」

 

 逃げ場のなくなった俺に抗う術はない。

 その後の展開は語るべきではないだろう。

 場所が場所だけに、血やら何やらの処理は楽だったとだけ言っておこう。

 

 

 




なお、最初は胸で挟んで舐めるなどして攻めの姿勢を見せていた次女ですが、いざ本番となると経験があるフー君に主導権を奪われた模様。


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放課後デートが三玖の場合

五等分の花嫁映画館まで見に行こうか迷う……

というわけで今回は三玖の番です。


 

 

 

「デートに行こうよ」

「は? 駄目だが」

 

 放課後、教室を出て階段を下りている最中のことだった。

 小走りで後を追ってきた三玖の第一声がこれである。

 例によって断ったが。

 

「む~~」

「そんな顔しても駄目だからな」

 

 三玖はむくれてしまったが、ここで譲るわけにはいかない。

 昨日と一昨日とこいつの姉二人によって、俺の時間とその他色々なものが略取されている。

 特に昨日は二乃と……思い出すのはやめておこう。

 とにかく、今日こそ自分のために時間を使うのだ。

 三度目の正直というやつだ。

 

「もしかして用事あるの?」

「そんなとこだ」

「ちなみにその用事って?」

「勉強。受験生だしな」

 

 もはや躊躇することなく言ってやった。

 一花と二乃の件で学んだが、下手に言いよどむから付け入る隙を与えてしまうのだ。

 それならば最初からきっぱりと伝えた方がこちらの意思も伝わりやすいだろう。

 まぁ、問題はそれで遠慮してくれるかどうかなのだが。

 

「そっか、なら仕方ないね」

「あ、ああ……」

 

 意外にも三玖はあっさりと引き下がった。

 どんな難癖をつけてくるのかと身構えていたのだが、無駄になったようだ。

 正直に言うと拍子抜けしてしまった。

 だがしかし、これが普通の反応であるべきなのだ。

 間違ってもアレな写真をちらつかせてきたり、家の中で襲ってくるなんてことはあってはならないのだ。

 

「これからまっすぐ帰るの?」

「新しい問題集が欲しいからまずは本屋だな」

「その後は?」

「そうだな、たまには図書館で勉強ってのもいいな」

 

 自宅での勉強は基本中の基本だが、静かな空間で集中できる図書館という選択肢も悪くない。

 閉館時間までしか滞在できないという欠点があるが、その後はあらためて家で勉強すればいいだけだ。

 広がる勉強への展望に心が浮き足立っていた。

 ここ連日全く出来ていない反動もあるだろう。

 

「それじゃ、行こっか」

「どこに?」

「本屋さん。私もちょうど欲しい本があるんだ」

 

 俺達の目的が同じ場所にあるのなら、同道するのは自然の成り行きか。

 それならば断る理由もない。

 デートという言葉が頭にちらついたが、締め出しておく。

 なにやら上機嫌な三玖を連れ立って学校を出るのだった。

 

 

 

 

 

「うーむ、どれにしたもんか」

 

 本屋の一角にて、平積みされた問題集とにらみ合う。

 言うまでもないが予算は限られている。

 今回は一冊、無理をして二冊というところだろう。

 現状や目的と照らし合わせてよく吟味しなければならない。

 まずは今の俺の学力の状態だ。

 自慢じゃないが学内トップで、一度ではあるが全国トップも取った。

 難易度に関しては高いものを選んでも問題はないだろう。

 いや、それよりも問題のバリエーションを求めるべきか?

 対応できる幅が広がれば取りこぼしも減る。

 ユニークな問題は目新しさも相まって、解く楽しみというものが味わえる。

 いやいや、目先の楽しさを求めてあまりテストで役立たないものを選んでもしょうがない。

 逸れ始めた軌道を修正して今度は目的について考える。

 俺は高校三年生であり、冬には受験が控えている。

 それを考えれば、受験対策のものが望ましい。

 俺の志望は経済的な事情を考えて国公立一択。

 となると試験は二段、最悪三段構えだ。

 一段目のセンター試験と、二段三段目の二次試験。

 県外の難関大学の過去問に目を向ける。

 志望校についてもそうだが、学部学科に関してもいまいち絞りきれていない。

 どこだろうと入る自信はあるが、具体的な目標がボヤけてしまっていた。

 必要とされる人間とは言ったが、それがどのような将来を示すのかがわからなかった。

 

「……まぁ、一番難しいとこ選んどけばいいか」

 

 東大の過去問に目を向ける。

 さすがに全科目分を買うとなると予算オーバーなので英語を選んだ。

 どこを受けるにしても大体必要とされるので、無駄にはならないだろう。

 普通ならば苦手分野を補うものを買うのがいいのかもしれないが、生憎とそんなものはない。

 自分の優秀さが恨めしいぜ……

 

「いや、あったわ苦手分野」

 

 レジに向かう道すがら、とある本のタイトルに目を惹かれて立ち止まる。

 勉強には全く関係ないが、今の俺には必要かもしれないもの。

 

『高校生のための恋愛ガイド』

 

 帯にはナポレオンの名言。

 恐る恐る手に取る。

 本とは先人の知恵だ。

 それを頼れば、中野姉妹に対する俺の感情もスッキリと定まるかもしれない。

 というか、もはや健全な関係であると言い難くなってきたのでどうにかしないとヤバい。

 告白してきた相手(複数)に返事をしないまま肉体関係を持っている男。

 内情はさて置いて、言葉にしてみると中々のゲスっぷりだった。

 雇い主の耳に入ったらどんなことが起きるのかは想像したくもない。

 

「フータロー?」

「うおっ!」

 

 いきなり声をかけられて飛び上がる。

 振り向くと三玖がいた。

 目的の本を買えたのか、ビニール袋を提げていた。

 

「なに見てるの?」

「べ、別になにも見ていないが? さ、俺もさっさと会計を済ませてくるか!」

 

 手に持った恋愛ガイドを見られないようにレジへ急行する。

 なしくずしに買うことになってしまったが、棚に戻して見られるのも避けたかった。

 ある意味エロ本を見られるのよりも恥ずかしい。

 そんなことになったら、しばらく家庭教師を休む自信しかない。

 

「ありがとうございましたー」

 

 会計を済ませて足早にレジを離れる。

 女性店員の生温かい視線がまた精神にダメージを与えてきた。

 ……しばらく別の本屋を利用しよう。

 

「あ、待ってよフータロー」

 

 そのまま店を出ようとすると三玖が小走りで追ってきた。

 とにかく早く店を出たかったので、すっかり失念していた。

 お互い用事があって本屋に来ただけで、特別一緒に行動しているわけではない。

 だからと言って声もかけずにいなくなるのは薄情か。

 

「それじゃ、行こっか」

「……どこに?」

「図書館。せっかくだから静かな場所で読みたいし」

 

 確かにあの家ならば騒がしいことは目に見えているし、静かな環境で集中したいという気持ちは痛いほどわかる。

 別に一緒に行ってどうこうするというわけではないので、否定する要素はなかった。

 図書館デートという言葉がちらついたが、全力で無視。

 またも上機嫌な三玖を伴って図書館へ向かうのだった。

 

 

 

 

 

「ここでいいか」

 

 図書館の自習スペースの一角に陣取って勉強道具を広げる。

 平日ならばあまり利用者がいないので、空いている席を探す必要もなかった。

 用意を終えて椅子に座ると、ごく自然に三玖も隣に座った。

 

「あ、私は買った本を読んでるだけだから気にしないで」

 

 そして持参した本を読み始めた。

 こっちも負けじと買ったばかりの問題集にとりかかる。

 難関大というだけあって、歯応えは中々だ。

 特に長文読解なんかは文量がやたらと多い。

 慣れてない奴だったら、このボリュームと向き合っただけでギブアップしてしまうかもしれない。

 とりあえず一年分をこなし、一息つく。

 後は答え合わせからの解説とのにらめっこで大体いい時間になるだろう。

 隣の三玖を横目で見る。

 読み始めた時の姿勢はそのままで食い入るように、あるいは噛み締めるように目を動かしていた。

 凝り固まった体をほぐすために立ち上がってみたが、それに気づく様子もない。

 大した集中力だった――これを普段の勉強でも発揮できたら、さらに成績が上がるだろう。

 また戦国武将関連の書籍だろうか。

 なんにしても、夢中になれるものがあるのは悪くない。

 もちろん、勉強を疎かにしないという前提があってのものだが、こいつの場合は中間試験も中々だったのでその心配もないだろう。

 あとは受験に向けて……って、今は自分の勉強だろうが。

 三玖の邪魔をしないように、その場を離れて飲食スペースへ。

 自習スペースとは少し距離があるが、ウォーターサーバーで水がタダで飲めるという特典がある。

 紙コップ一杯の水を飲み干すと、自販機でお茶を購入。

 ここ以外でなにかを飲みたいのなら、キャップ付きの容器が必要なのだ。

 あいつが好みそうな妙な飲み物はないが、緑茶が好きと言っていたのでこれでも問題はないはずだ。

 

「ここ、置いとくぞ」

「……あれ、お茶?」

「結構時間経ってるからな。一息入れとけ」

「あ、ホントだ」

 

 どうやら時間も忘れていたらしい。

 恥ずかしそうにお礼を言うと、三玖はペットボトルに口をつけた。

 

「フータローも休憩?」

「一区切りついたからな。ほら、お前の苦手な英語だ」

「むっ、もう赤点は取らないもん」

「はは、わかってるって」

 

 三玖の英語の点数はまだ半分に届かないが、他の教科は平均点に追いついている。

 得意の社会なら八割越えも珍しくはない。

 志望先にもよるが、英語の補強を重点的にやっていけば進学も難しくないだろう。

 

「東大受けるの?」

「いや、正直わからん」

「フータローならどこにでも行けるよ」

「つーか俺よりお前の方が問題だろ」

 

 来月の期末試験が終われば夏休み。

 いよいよ受験を意識し出すやつも多くなるだろう。

 一花はそのまま女優としてやっていくから進学はしない。

 五月は目標が定まっているから、後は自分のレベルをどこまで引き上げられるかだ。

 二乃と三玖と四葉に関しては、具体的なことをなにも聞けていない。

 進路をサポートすると決めたはいいものの、まずは本人の意思がなければ始まらないのだ。

 

「やってみたいことはある、けど……」

 

 歯切れが悪かった。

 言いたくないのか、言い出しづらいのか。

 どちらにしても強引に聞き出すのは得策じゃない。

 もはやノーデリカシーの不名誉は返上したのだから。

 

「まぁ、まだ時間はあるから焦らなくてもいいけどな」

「うん……ごめんね」

「いいって。話したくなったら話してくれよ」

 

 会話もそこそこに問題集に戻る。

 あまりのんびりしていたら閉館時間に間に合わなくなってしまう。

 隣で三玖はなにやら考え込んでいた。

 先程まで熱心に読んでいた本は、開いた状態で机の上に。

 チラッと見えたページの端に載せられた画像は、武将の顔ではなく料理の写真だった。

 

 

 

 

 

 閉館時間を控えた図書館を出て家路につく。

 夏至が近いとは言っても、八時近くともなれば流石に外は暗い。

 今晩はらいはが晩御飯を作って待っている

 いい感じに頭を使えたのでさぞ美味しいだろう。

 昨日と一昨日は散々だったが、今日の放課後は実に充実していた。

 

「なんか嬉しそう」

「わかるか?」

 

 勉強に打ち込める喜びというやつだ。

 例によってデートという言葉が出たときはどうしたものかと思ったが、相手が三玖で良かった。

 上二人がコントロール効かなさすぎるというのもあるが。

 

「このまま帰るの?」

「そのつもりだが」

 

 なんの確認なのだろうか。

 まさか昨日の二乃よろしく、こいつも家に押しかけてくる気じゃないだろうな。

 今日は確実にらいはがいるから変なことにはならないとは思うが。

 思わず蘇りそうになる昨日の『変なこと』を振り払う。

 下手をしたら臨戦態勢になりかねない。

 

「……最後にちょっと話したいんだけど、ダメ?」

 

 三玖は申し訳なさそうに切り出した。

 帰りたくはあるが、少しの時間を割くぐらいなら問題ない。

 まともに勉強が出来たので今日は気分がいいのだ。

 腰を落ち着ける場所を確保するため、俺達は近くの公園へ進路を変えた。

 

 

 

 

 

「フータローはさ、四葉が学者さんになりたいって言ったらどうする?」

「とりあえずは正気を疑うな」

「だよね」

 

 公園のベンチに二人で並んで座る。

 遠すぎず近すぎない絶妙な距離を保ったまま、三玖の言葉に耳を傾ける。

 話の内容は突拍子もないものだったが、とりあえず正直に答えておいた。

 もしあの四葉がそんな事を言ったのなら、天変地異の前触れかもしれない

 

「話したいのは四葉の事でいいのか?」

「ううん、そうじゃないんだけど……もしそうなったら、フータローがどうするのかは気になる」

「どうするもなにも、止めるだろうな。あまりにも不向きすぎる」

「そう、だよね……」

 

 何かを考え込むように三玖の視線は地面へ。

 意図するところがなんなのかいまいち図りかねるが、一般的な意見はそんなものだろう。

 そしてここからは、俺の考えだ。

 

「徹底的に向いてないんだって事を突きつける。くくく、泣こうが喚こうが容赦はしてやらねー」

「うわ……すごい悪い顔してる」

「諦めるならそれでよし。だが身の程知らずにもまだ目指すってならまぁ、一緒に頭をひねるさ」

「え、止めないの?」

「その前の段階で十分に止めてんだろ。そこまで言っても聞かないなら本気ってことだし、俺も腰据えて向き合うさ」

 

 自分の才能に見合わない道を進むのは不幸だ。

 大多数の人間はそう言うだろう。

 だがそれは所詮は外野の戯言だ。

 最後に決めるのは自分自身なのだから。

 

「これでも家庭教師なんでな。まぁ、進路探しぐらいは手伝ってやるってことだ」

「そっか……うん、フータローはそうだよね」

 

 いまいち具体性に欠ける話なのだが、なにかしら納得を得られたのだろうか。

 三玖は頬を緩ませて夜空を見上げていた。

 

「つーか、話したいことってこれでいいのかよ」

「本題はまだなんだけど……やっぱり今はいいかな」

「ここまでしといてそれか。地味に気になるんだが」

「教えてあげない。だってフータロー、返事いつまでもくれないし」

「うっ……」

 

 痛い所を突かれてしまった。

 今の俺は四人もの女子から告白されたにもかかわらず、ろくに返事もしていない状態なのだ。

 その内二人とは返事よりも先に妙な方向に(肉体)関係が発展しているという、どうしようもない状況でもある。

 常々どうにかしないといけないとは思っているが、どうすればいいのかが全くわからない。

 上二人との関係が知れ渡ってしまったら、果たしてどうなってしまうのやら……

 

「修学旅行で一花と何してたのかも気になるし」

「は、ははは……大雨で何かするどころじゃなかったけどな!」

「二乃は昨日帰り遅かったのに、すごく幸せそうな顔してた」

「ば、バイト帰りになにか良いことあったんだろ、うん」

 

 まさか馬鹿正直にナニしてましたなんて言うことはできない。

 心苦しいが、ここは誤魔化しの一手に頼るしかないのだ。

 

「フータローの家に行ったって言ってたよ」

「あーそうだ! たしからいはがいないから晩飯作ってくれたんだよ!」

「二人で食べたの?」

「食べたが、それだけだぞ?」

「む~~……!」

 

 疑いの視線が突き刺さる。

 正面から受け止めるのが少々厳しいので、目をそらすしかなかった。

 これ以上の深掘りは俺の中の青い衝動を刺激しかねない。

 すると三玖はさらに距離を詰めて迫ってきた。

 

「一花と二乃にしたこと、私にもしてよ」

 

 こいつは何を言っているのかわかっているのだろうか。

 二人にした事と聞いて思い浮かぶのは、互いの境界もわからなくなるぐらいの鮮烈な交わりだ。

 当然、出来るはずがない。

 だというのに俺の意思とは別に、体は期待して熱を高めつつあった。

 押し止めようとする理性と、突き抜けようとする衝動。

 まるで釣り合った天秤のようだ。

 少しでも何かの後押しがあれば、容易くそちら側に傾いてしまう予感があった。

 

「……意気地なし」

 

 顔を背け続ける俺への、三玖のほんの些細な不満。

 そんな気で言ったわけじゃないのはわかっている。

 でもそれが天秤を傾けた。

 頭の中がスイッチを入れたかのように切り替わる。

 どうにか押さえつけていたものが溢れ出す。

 ここ連日、一花や二乃にやり込められていた鬱憤もある。

 俺の中の衝動はこの瞬間、あらゆるものを振り切って三玖へ手を伸ばした。

 

「……三玖」

「なに――んんっ!?」

 

 引き寄せて距離をゼロにする。

 舐めた言葉を吐き出す口を強引に塞いでやった。

 いきなりの接触に目を白黒させているが、そんなことは知ったことじゃない。

 こんなものはまだ序の口だ。

 

「――っ!?」

 

 一花や二乃にされたのと同じように、舌で三玖の口内を蹂躙する。

 怯えて縮こまる舌を強引に絡め取って舐る。

 驚きに見開かれていた目は次第に緩み、潤み出した。

 この目には覚えがある。

 俺を求めて止まない、女の目だ。

 

「んっ……んむ……ふ、ふーたろぉ……」

 

 酸素を取り込むために口を離す。

 名残惜しむかのような唾液の糸と、蕩け切った三玖の顔。

 舌足らずに俺の名を呼ぶ声が、頭から冷静さをさらに奪った。

 あとはもう転げ落ちていくだけ。

 さらにこいつを味わうためにワイシャツのボタンに手をかける。

 抵抗はない――三玖は小さく頷いて、こちらに身をゆだねた。

 

「――誰かがこっちに来る」

「……え?」

 

 しかし頭が熱に浮かされていても、耳はちゃんと機能していた。

 複数人の足音と話し声を聞きとがめて、ようやく踏みとどまることができた。

 惚けている三玖の衣服の乱れを直して少し距離を取る。

 どうしてという目を向けられたが、程なくして現れた二人組の姿を認めて状況を理解したようだ。

 三玖は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 

「行ったみたいだぞ」

「……うん」

 

 水を差されたことで頭も冷えた。

 もう遅い時刻なのでいい加減帰るべきだろう。

 俺はまだ完全には立ち直れていない三玖の手を引いて、公園を後にした。

 

 

 

 

 

 手をつないだまま中野姉妹のアパートを目指す。

 とてもじゃないが、あの状態の三玖を一人で帰らせるわけにはいかなかった。

 衝動に負けた俺がやらかしたことでもあるので、尚更だ。

 

「……」

「……」

 

 とはいえ、ずっと無言というのも困る。

 言葉がない分、つないだ手の方に意識が集中してしまうからだ。

 頭は冷えたが体の方は冷え切っていない。

 下手な刺激を与えると、また衝動を抑えられなくなる危険がある。

 その手の経験を重ねるたびに、タガが外れやすくなっているのが実感できた。

 やはり二人きりというシチュエーションはマズイかもしれない。

 こうしている間にも三玖の手の柔らかさと温もりが……待てよ?

 今は俺が手を引いているわけじゃなく、三玖の足取りもしっかりしている。

 もしかして、わざわざ手をつなぐ必要はないのでは?

 試しに握る力を緩めてみたが、三玖の手は離れない。

 それどころかさらにガッチリ握ってきやがった。

 恐る恐る目を向けると、バッチリ目があった。

 

「どうして離そうとするの?」

「ちょっと緊張して手汗がな、ははは……」

「私は平気だよ」

「そうか」

 

 結局手を離すことはできなかった。

 つーか、傍から見たらどう見えるんだこれ?

 このまま他の姉妹がいるであろう場所に近づくのが危険に感じてならない。

 嫌な汗が背中を伝う。

 もういっそ五月にぶっ叩かれた方がいいのかもしれない。

 

「さっきの、いきなりでビックリしちゃった」

「すまん、あれは俺がどうにかしてた」

「でもちょっと安心した。フータローもそういうことに興味あるんだなって」

「安心って、もうちょっと危機感持てよ。いや、俺が言うのはどうなんだってのはあるんだが」

「でも、一花や二乃ともあんなことしてたんでしょ?」

「……」

 

 この場合の沈黙は肯定とみなされるだろうか。

 しかしどの道、二人にしたのと同じ事、と言われてああなったわけだ。

 もはやどうにも言い繕うのは困難だろう。

 

「あの続き……期待しても、いい?」

「……馬鹿言ってんなよ」

 

 口では否定したが、体の方の反応は真逆だった。

 期待しているのは俺の方だった。

 いつだってそうだ。

 自分の中の衝動を抑えようとしつつも、どこかで解放することを望んでいる。

 三玖の顔を見ることが出来ない。

 見てしまったら確実にそちらに傾いてしまう。

 

「も、もうこの辺まで来たら大丈夫だな!」

「あっ……」

 

 悪いとは思ったが、少し強引に手を離す。

 触れた外気がやけに冷たかった。

 アパートはこのまま真っ直ぐ行けば見えてくるだろう。

 俺も早く帰ろう。

 そして無心で勉強だ。

 

「待って」

「……まだ何かあるのか?」

「こっち見てよ」

「断る」

「む~~……!」

 

 不満そうな唸り声を上げるが、もはやどうしようもない。

 精神力を総動員して三玖を視界から外し続ける。

 しかしそれは相手の行動が把握出来ないということで――

 

「……えいっ」

「うおっ」

「んっ――」

 

 引っ張られて前のめりになる。

 何事かと確認する前に、首元に吸い付かれる感触。

 三玖の匂いがはっきりと感じられた。

 

「いづっ!」

 

 一際強く、痛みを感じるほどに吸い付いたかと思うと、三玖の匂いは離れていった。

 呆然と吸い付かれた箇所を触る。

 少し濡れていた――きっと痕が残るだろう。

 

「とりあえず予約しといたから」

 

 じゃあねと言って三玖は去っていった。

 後ろ姿が小さくなったところで、ようやく俺もショックから立ち直った。

 ……まさか三玖にまでしてやられるとは。

 この敗北はそれを取り返そうとすること自体、次の墓穴だろうか。

 結局、体の昂ぶりが蟠ったまま家に帰る羽目に。

 言うまでもないが、それ以降は勉強に身が入らなかった。

 そして次の日から三玖が弁当を渡してくるようになるのだが、それはまた別の話だ。

 

 

 




なんか思ってたよりも真面目な話になった……

ちなみに、三玖はキスマークが消えるたびに更新していきます。
ある時期を境にそれがなくなるそうですが、何を意味しているのかはさっぱりわかりません。

次回は末っ子です。


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放課後デートが五月の場合

暑くて死にそう……

それはさて置き今回は末っ子の話になります。


 

 

 

「で、デートに行きませんか?」

「は? 駄目だが」

 

 家庭教師業務終了後の事だ。

 中野姉妹のアパートから少し離れたところで、五月が前触れなく切り出した。

 いや、見送ると言ってここまで着いてきたこと自体が前触れだったのかもしれないが。

 なんにしても俺の答えは一つだけだ。

 

「ひ、ひどいですっ! 勇気を出して言ったのに……」

「五月、俺達はなんだ?」

「え、その……夫婦、とか?」

 

 五月は頬を染めてとんでもないことを言い出した。

 こいつの頭の中でどうなっているのかは別として、現実には俺達は恋人同士ですらない。

 今後のためには否定しておかなければならないだろう。

 

「目を覚ませ、今のところそんな事実はない」

「そうでした。まだですよね」

「……ともかく、俺達は受験生だろうが」

「それは、そうなんですけど……」

 

 中野姉妹の中で受験を一番意識しているのはこいつだ。

 したがって勉強へのモチベーションも高い。

 だというのに何故デートという言葉が飛び出してくるのか。

 こうも立て続けだと、示し合わせてやっているのかと疑いたくもなってくる。

 

「……昨日は三玖と一緒に図書館に行ったみたいですし」

「あくまで勉強のためだ。三玖は着いてきただけでなんもしてねーよ」

「すごい上機嫌で帰ってきたんですけど、本当に何もなかったのですか?」

「ないったらない」

「怪しいですね……ところでその首の絆創膏は?」

 

 首元に手を当てる。

 表面がザラっとした感触は絆創膏のものだ。

 昨日の別れ際に三玖が残した痕。

 今朝親父に散々からかわれたため、それを隠すために貼ってある。

 ワイシャツのボタンを一番上までとめれば隠れないことはないが、蒸し暑くなってきたのでそれは避けたかった。

 

「爪で引っ掻いちまっただけだ。大したことない」

「それならいいのですが……一花と二乃も心配してましたよ? 三玖だけは何故か恥ずかしそうにしてましたけど」

 

 それは付けた張本人だからだ。

 確かに今日は控えめだったが、やっぱりそういう理由か。

 恥ずかしいならやらなければいいとは思うが、残念ながら中野姉妹はそれほどお利口ではないのだ。

 だというのに弁当は渡してくるし、もうわけがわからない。

 昼飯代が浮くのはありがたいので、感謝して受け取ったが。

 それよりも問題は上二人の反応だった。

 五月は単純に心配してくれているようだが、あの二人はそういう方面の嗅覚が鋭い。

 心配と見せかけて、その実は怪しんでいたのではなかろうか。

 そんな素振りは見られなかった、というかこちらを心配していた様子も見落としている。

 現状ではどうなのか判断は付けられなかった。

 まぁ、何を聞かれても怪我で通せばそれまでか。

 三玖もきっと自分からペラペラ喋ったりはしないだろう。

 

「じゃ、そういうことだから」

「ええ、また明日……って、なんで普通に帰ろうとしてるんですか!」

「ちっ」

 

 さっさと歩き去るつもりだったが、手を掴まれてしまったため仕方なく立ち止まる。

 うやむやにしようとしたが、流石にそんなに甘くはなかったようだ。

 

「なに、まだなんかあるのかよ」

「昨日の件はともかくとして、その前の日は二乃を家に招いたとか」

「家族に挨拶したいって言うから連れてっただけだからな」

「か、家族に挨拶……まさかそんな、大胆すぎます!」

 

 家族への挨拶をどう解釈したかは知らないが、五月は大いに慌てていた。

 ちなみに俺の家に来た回数で言えばこいつがトップランカーである。

 なんだったら泊まっていったことさえある。

 その度にお邪魔しますだとか、お世話になってますだとか言っているわけだが。

 ついでと言わんばかりに晩御飯をいただいて、あまつさえおかわりまで要求してくる姿はある意味豪胆と見れなくもない。

 そんな五月が二乃の行動を指して大胆と言っているのだから、どの口がほざいているんだと突っ込みたくなるのは仕方がないだろう。

 まぁ、実際には挨拶するべき家族はおらず、大胆とかいう表現では済まされない事態になったのだが、それを話したとしても俺の頬に赤い手形がつくだけだ。

 それはそれである意味すっきりするのかもしれないが、その後の五月の行動が読めない。

 二乃としたのだからと迫ってくる可能性は捨てきれなかった。

 まさかこいつまで避妊具を持ち歩いているとは思わないが、子供が欲しいとまで言っていた奴だ。

 新選組局長不在作戦が通じない可能性も考慮しなくてはならない。

 ……一体俺は何と戦っているんだろうな。

 

「私も負けるわけにはいきません。さぁ、行きましょうか」

「待て、お前はどこに行く気だ」

「え、もちろんあなたの家ですが」

「いや、駄目でしょ」

「ど、どうしてですかっ?」

 

 どうしてもなにも、こいつは何しに俺の家に来るというのか。

 晩御飯をたかりに来ると言うなら問答無用で却下。

 二乃のように改めて挨拶をという段階はもうとっくに過ぎているし、単純に遊びに来るにしても時間が遅すぎる。

 そして有り体に言えば、確実に勉強の邪魔になりそうなので招きたくない。

 

「何度も言うが、俺達は受験生だ」

「うっ……」

「俺もお前もすることは同じのはずだ。違うか?」

「それはそう、なのですが……」

 

 馬鹿ではあるが真面目な五月は、こちらの意見が正しいとわかれば引き下がる。

 ちなみに興奮している時や頭に血が上っている時はその限りではない。

 その気まずそうな顔は、自分がわがままを言っているのだと理解しているからだろう。

 

「でも、この前は四葉を誘ってましたし」

「あれは主に親父の用事がメインだったんだが」

「二乃や三玖と放課後デートしてたみたいですし」

「デートじゃないってとこに目をつぶればそうと言えなくもない」

「一花と遊んでたって噂もありますし」

「待て、それはどこの情報だ」

「クラスメイトが話してましたよ。バドミントンしてたんですか?」

「……まぁ、そんなこともあったような?」

 

 一花の件は知られていないと思っていたが、少々甘かったようだ。

 あいつは売り出し中の女優様だし、高校生がああいった場所に遊びに行くのは珍しいことではないのだろう。

 同じ旭高校の生徒に見られている可能性は十分にあったのだ。

 仮にラブホの入口でのやり取りを見られていたら、一体どうなっていたのだろうか。

 考えると頭が痛くなりそうなのでやめておこう。

 

「他のみんなとは一緒に出かけているのに、私だけ……」

「うん、まぁ……」

「ううううう……」

「その、なんだ?」

「ううううううう……」

 

 唸るだけの生物と化した五月。

 目尻に涙を貯めているのがまたタチが悪い。

 俺が望んで他の姉妹を連れ回していたわけじゃない。

 それなりの事情や理由が存在していたことは確かだ。

 だが、五月から見たら不公平に映ることもまた確かなのだろう。

 思えば、こいつがこんな風に俺にわがままを言ってくるのはかなりのレアケースだ。

 よっぽど耐え兼ねたのか、それとも自分の姉妹と同じように俺を甘えられる相手として見ているのか。

 なんにしても、こいつは姉妹の中で一番真面目に勉強に取り組んでいる。

 家庭教師としてはご褒美ぐらいやっても問題ないはず……だよな?

 

「一時間だけな。あんまり遅くなると心配されそうだし」

「――ありがとうございます、上杉君!」

 

 五月の機嫌は一気に回復した。

 現金なやつだとは思うが、ここまで素直に喜ばれるとこちらも毒気を抜かれてしまう。

 今までが今までだっただけに尚更だ。

 あの最悪の出会いからよくもまぁ、ここまで好意的になったもんだ。

 感慨に浸ることで押し付けられる柔らかい感触から必死に意識をそらす。

 喜ぶのはともかく、抱きついてくるのは俺の精神力をすり減らすのでやめてほしいぜ。

 

「とりあえず、五月」

「はい」

「離れろ」

「あ……す、すみません」

 

 ようやく自分が何をしているのか気がついたらしい。

 五月は恥ずかしそうに少し距離をとった。

 相変わらず距離感がバグっているようだ。

 しかし、離れたはいいが今度はなにか物欲しそうな目をこちらに向けてくる。

 そんなに見ても俺のリュックから食べ物は出てこないぞ。

 

「そういえば昨日、三玖とは手をつないで帰ったって……」

「あれはあいつがぼーっとしてて危なそうだったからだ」

「私もしたいです」

「嫌だぞ。暑いし」

「ううううう……」

「……」

「ううううううう……」

 

 泣く子と地頭には勝てないという言葉の意味が今ならよくわかる。

 こうなってはもうどうしようもない。

 仕方なく、再び唸るだけの生物と化した五月の手を引いて歩き出すのだった。

 手をつないだ瞬間、またすぐに上機嫌になったことは言うまでもない。

 

 

 

 

 

「それで、どこ行くんだよ」

「そうですね……とりあえずファミレス――」

「飲食店は禁止な」

「え……」

 

 なんでかというと晩飯前だからだ。

 五月だけ食べさせておけばいいのかもしれないが、それだとこいつ自身が気にし出す。

 それでまた修学旅行の時みたいに、スプーンを差し出してくるなんて事態は避けたかった。

 ここは地元なので恥をかき捨てられないのだ。

 手をつないで歩いている時点で手遅れな気はするが、きっと気のせいだ。

 なんにしてもこちらは付き合わされる立場なので、多少の意見は許されるだろう。

 だからそんなこの世の終わりみたいな顔をするんじゃない。

 

「晩飯前だからなのはわかるが、そんな我慢できないほど腹減ってたのかよ」

「違いますっ、勉強で頭を使ったので糖分を……」

 

 きゅるると腹の虫が鳴く。

 もちろん俺のじゃない。

 腹の虫の主は顔を赤くして、自分の腹に手を当ててプルプル震えだした。

 まったく……時間制限あるの覚えてるのか、こいつ?

 

「コンビニ寄るか。ちょっと喉渇いたわ」

 

 もう面倒なので、五月の手を引いて最寄りのコンビニへ。

 流石に店内に入るときに手は離した。

 店員や他の客の視線にさらされて耐えきれる自信はない。

 俺は麦茶を、五月は肉まんを買ってコンビニを出る。

 そのまま行こうとしたらまた唸りだしたので、再度手をつなぐ羽目に。

 つーか片手で食いづらくないのかよ。

 俺は片手が塞がってすごく飲みづらい。

 文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、幸せそうに肉まんを頬張る姿には何も言えない。

 まぁ、こんな時間の潰し方も悪くない。

 

「さて、次はどこに行きます? まだ時間ありますよね?」

「お前が決めろよ。俺は付き合ってる立場だぞ」

「それはそうなのですが、正直こうしていられるだけでも十分と言いますか……」

 

 頬を染めながらも五月は穏やかに笑った。

 正直に言うと、こういうのが一番困る。

 ただただ性欲を煽られるだけなら対処のしようもあるのだが、こういう心にじんわりと染み渡るような感情はどう扱っていいのかわからないのだ。

 こうなるともう、握った手の方に意識が行くし、気恥かしさに顔も熱くなる。

 そしてなによりも、それを悪くないと思えてしまうのが一番問題だ。

 このままこの感情に身を任せてもいいんじゃないかと、そんなことを考えてしまう。

 

「……行くぞ。とにかくどこか入ろうぜ」

「どこかと言われましても……あっ、そういえばちょっと見ておきたいものがあるんですけど」

 

 

 

 

 

「どれもこれも高すぎんだろ……やっぱりケタ間違えてるんじゃないのか?」

 

 パジャマと思しき衣類を手に取り、値札を見て元に戻す。

 デパートの安売りとお友達な上杉家とは縁のない代物だった。

 場違いなことこの上ないが、五月がここに入ると決めたため勝手に出るわけにはいかない。

 紆余曲折の末に俺達が訪れたのは、なにやら見覚えがある店だった。

 勤労感謝の日に四葉が、二乃のルームウェアを買うために、と連れてきた場所だ。

 一花や三玖も利用していたところを見ると、姉妹全員の行きつけの店だという可能性が高い。

 残りの姉妹はアパートにいるため出くわすことはないだろうが、前回の事を考えるとどうにもそわそわしてしまう。

 

「恥ずかしいのであまりキョロキョロしないでください」

 

 五月の指摘通り、少々挙動不審だっただろうか。

 いつの間にやらその手にはハンガーにかかった衣類が数着。

 上下セットと思しきそれは、普段着としてはカバーできる面積があまりにも少なかった。

 まさかの下着かと身構えたが、よくよく見ると上下一体になっているものもある。

 そして更に注視すると、それらは水着であることがわかった。

 

「ど、どれが似合うと思いますか?」

 

 手に持った水着を自分の体に合わせるように前に持ってくると、五月はものすごく返答に困ることを聞いてきた。

 四葉に言われたとおり、俺はオシャレに関しては下級者もいいところ。

 水着の良し悪しなどわかるはずもない。

 そもそも布面積からして下着と変わらないそれは、今の俺には少々刺激が強い代物だ。

 着ているところを想像しろなんて、下手したら臨戦態勢になりかねない。

 

「まぁ、どれもいいんじゃねーの?」

「顔を背けながら言っても説得力ありませんよ。もっとちゃんと見てください!」

「~~っ、大体な! 着てるとこも見ないで似合ってるかどうかなんてわかるかよ!」

「そ、それは……」

 

 どう転ぶかは賭けだったが、五月はたじろいだ。

 これが一花や二乃だったら怯むことなく着てみせただろう。

 どうやら羞恥心を煽るという作戦はこいつには有効のようだ。

 

「……わかりました。試着してくるので少し待っててください」

「……は? いや、ちょっと待て。む、無理しなくていいんだぞ?」

「恥ずかしいですけど、あなたの好みが知りたいんです」

 

 そこまで言われてしまったら、もう黙るしかなかった。

 そして水着を持ったまま試着室に入った五月を悶々と待つ羽目に。

 衣擦れの音が妙に気になったが、自分の脇腹を抓ることで対応した。

 時間の流れがやけに遅く感じられる。

 どうやら相対性理論が当てはまるのは物理的な範囲に留まらないらしい。

 

「お、お待たせしました……って、どうして上を見ているのですか」

「照明のセンス半端ねえなって思ってな」

 

 自分でも何言ってんだこいつと思わなくもないが、そういうことなのだ。

 決していきなり水着姿を目の当たりにするショックを和らげようとしたわけではない。

 しかしいつまでもこうしてはいられないので、恐る恐る視線を下げていく。

 心を鋼にして身構えるが、そこに予想していた光景はなかった。

 五月は何故か体の大部分をカーテンで隠し、顔だけを覗かせていた。

 

「なにやってんの、お前?」

「ううぅ~~……着てみたはいいのですが、見せるとなるとやっぱり恥ずかしくて」

「だから無理すんなって言ったろうが」

「と、とにかくこちらへ来てください」

 

 手招きに応じて試着室へ近寄る。

 すると、五月はおずおずとカーテンを開けて隙間から水着姿を覗かせた。

 見える範囲が限られているため、真っ先に胸元が目に入った。

 普段のこいつならば決して見せないであろう胸の谷間。

 ごく最近の出来事がフラッシュバックする。

 それは俺の剣を挟んで舐める二乃の――

 

「――っ、もう十分だよな!」

「あっ、待ってください!」

 

 離れようとしたら手を掴まれて引き止められる。

 振りほどこうとしても振りほどけなかった。

 単純に俺のパワー不足だ。

 

「とりあえず手を離せ」

「いやです。全然見てませんよね?」

「だからもう十分だって。お前も恥ずかしがってただろ」

「それはそうなのですが、あなたに見てもらわないと意味がありません」

「見た見た、十分見たから!」

「では、この水着の柄について聞いても答えられますよね?」

「……ちょ、蝶柄とか?」

 

 もちろん柄なんて気にする余裕はなかった。

 咄嗟に思い浮かんだ柄が蝶なのは、恐らく直前に二乃のことを思い浮かべたからだ。

 当然、そんな当てずっぽうが当たるはずはない。

 

「やっぱり見てないじゃないですか!」

「ば、馬鹿っ! そんな引っ張るな……!」

 

 それからは逃げようとする俺と逃さんとする五月の引き合いだ。

 男女の差を考慮すると情けない限りなのだが、力は拮抗していた。

 しかし目の端に店員の姿を捉えたのがいけなかった。

 

「うわっ――」

「え――きゃあっ」

 

 気を逸らした俺の力は緩み、結果として五月に引き込まれるような形で試着室の中へ。

 バランスを崩した体を支えるために壁に伸ばした俺の手は、何故だか柔らかい膨らみに着陸した。

 顔を上げる――真っ赤に染まった五月の顔が目前にあった。

 俺はあろうことか、壁に五月を押し付けた上でその胸に手を当てていた。

 客観的に見て有罪確定な状況だった。

 

「お客様、いかがなさいましたか?」

「「――っ!」」

 

 物音を聞きつけたのか、店員が呼びかけてくる。

 二人揃って息を飲む。

 こんなところを見られるわけにはいかない。

 どうするかと頭を回転させるが見事に空回り。

 五月との接触はきっちり俺から冷静さを奪っていた。

 近づいてくる足音に万事休すかと思われたが、その前にカーテンが閉まった。

 五月の手が店員に見られるよりも早く動いていた。

 

「だだだ、大丈夫です! ちょっと転んでしまっただけですので!」

 

 こう言われてしまったら店員側もそれ以上の追求はしない。

 一言だけこちらの心配をすると足音は離れていった。

 ほっと息を付きたいところだが、それを許してくれる状況じゃない。

 こんな狭い場所で二人きり、それも密着しているとなれば俺の精神力もゴリゴリと削られていく。

 水着姿で肌を晒しているのもたいへんよろしくない。

 決壊する前に離れなければならない。

 揉みしだきたくなる衝動を抑え込んで、五月の胸から手を離す。

 そしてあらためて壁に手をついて体を離そうとしたが、五月がそれを阻んだ。

 俺の顔をその両手で挟み込むように掴むと、自分の顔と向き合わせたのだ。

 相変わらず顔を真っ赤にしていたが、今度は目の色も変わっていた。

 

「……いい、ですよね?」

 

 何も良くはなかったが、いい加減俺の精神力も限界に来ていた。

 顔を近づけてくる五月を逆に壁に押し付けて唇を奪う。

 驚きからか一瞬だけ目を見開いたが、すぐに蕩けるように緩んだ。

 後は難しいことは何もない。

 頭が熱に浮かされた者どうし、行き着くところは決まっている。

 俺は再び五月の胸に手を伸ばして――

 

「あ……」

「時間、みたいだな」

 

 律儀にも携帯で設定していた一時間のタイマーが作動した。

 体を離して音を止める。

 鳴らしっぱなしにしておくと、また店員が寄ってくる恐れがあった。

 今のでようやく頭に冷静さが戻ってきた。

 物足りなさそうにしている五月をなだめて試着室の外へ。

 そして五月が着替え終わるまでの間、全力で体の中の熱を冷ましにかかるのだった。

 

 

 

 

 

「お前はまた食うのかよ」

「い、いいじゃないですか! あんなに恥ずかしい思いをしたのでこれはやけ食いです!」

 

 帰り道、再びコンビニに寄った五月はあんまんを頬張っていた。

 あんなことがあった後では流石に手をつなぐ気にはなれなかったのか、とりあえず両手ともフリーだ。

 あれだけ手をつながされて慣れてしまったのか、こうなると逆に物足りなく感じてしまう。

 

「結局買わなかったけどよかったのか? 会計の時間ぐらいだったら待っててもよかったんだぞ」

「あなたの意見が聞けないんじゃ何の意味もありませんから」

「……そうかよ」

 

 五月は俺の好みが知りたいといった。

 その意味するところは、いくらなんでもわかる。

 嬉しいような気恥かしいような、なんともむず痒い感覚だ。

 なんにしても確かなのは、こいつがこの夏に水着を着る気が満々だということだ。

 それがプールなのか海なのかは知らないが、受験生の自覚があるのだろうか。

 そして俺もそれに巻き込まれるのは容易に予想できた。

 ……まぁ、一度くらいは付き合ってやってもいいのかもしれない。

 ひたすら勉強を重ねることは大事だが、張り詰めすぎては糸が切れるだけだ。

 適度に緩めるためにも、そういう機会があってもいいのだろう。

 もちろんその際には朝の日課をいつもより念入りに行う必要があるだろうが。

 

「今日はありがとうございました。私のわがままを聞いてくれて嬉しかったです」

「全くだ。お前らはもう少し俺の都合を気にしろ」

「うっ……あ、あんまん一口いります?」

 

 差し出されたあんまんはまだ半分ほど残っていた。

 お言葉に甘えてでっかく一口頬張る。

 餡の部分を大分抉りとってやったので、残りは寂しいことになっているだろう。

 五月は呆然とした顔をしていたが、知ったことじゃない。

 これはせめてもの仕返しであり、やけ食いなのだ。

 恨むのなら自分の不用心さを恨めという話だ。

 

「……」

 

 しかし、その後の反応はいささか予想とは外れていた。

 俺の噛み跡がついたあんまんを見つめる目は、どう見てもショックに打ちひしがれるものではなかった。

 落ち着きがない様子で手に持ったあんまんを凝視している。

 その姿に修学旅行の最終日、俺が口をつけたスプーンをもって固まっていた光景が重なる。

 ここで俺は自分の失敗を悟った。

 旅行先でもないのに、かき捨てられない恥を作ってどうしようというのか。

 失敗を取り返すため五月の持つあんまんに手を伸ばす。

 

「やっぱ全部よこせ」

「い、いやです!」

「一口だけじゃ全然お詫びとして成立しねーんだよ!」

「――はむっ」

 

 しかし五月は素早く残りを頬張って口の中に収めてしまった。

 こうなってはもうどうしようもなかった。

 せいぜい膨らんだ頬をつまんで引っ張ってやることぐらいしかできない。

 五月は涙目で抗議の視線を送ってきたが、無視してやった。

 

「そういえばお前、早くジャージ返せよ」

「んぐっ……そ、そういえばそうでしたね」

「まさか変な事に使ってないだろうな」

「それは……」

 

 軽い冗談のつもりで言ってみたのだが、五月の反応は怪しかった。

 正直に言えば、この時期はハーフパンツで事足りるので長袖の上下がなくとも授業に問題はない。

 しかし、自分の衣類が何に使われているともしれない状況にあるというのは見過ごせない。

 丁度いい、こいつを送り届けるついでに回収してしまおう。

 

「失くしたわけじゃないだろ?」

「それはもちろん」

「じゃあ今日持ってくからな」

「そ、それはダメです!」

「は? なんでだよ」

 

 いよいよもって疑惑が深まった。

 これ以上の問答は無用と判断して足を早める。

 五月があれこれと言い訳してきたが、どれもこれも聞き流す。

 ローテーションがどうとか順番がどうとかさっぱりわけわからん。

 その後姉妹のアパートに突撃するのだが、全員の猛抗議を受けてあえなく撤退。

 ジャージは数週間後にきっちりクリーニングされて帰ってきた。

 それと引き換えに、使い古しの衣類を要求されたのは流石に理不尽だったと思う。

 

 

 




四葉の回は(今は)ありません。

次回からは話が進むと思われます。


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ツンがデレる夏休み

なんか知らんけどすごく忙しい……

というわけで今回はフー君が敗北宣言をする話です。


 

 

 

「夏、最高……!」

 

 開け放たれた窓から差し込む日光と、吹き込む風。

 扇風機という文明の利器の恩恵を受けつつ、俺は夏を満喫していた。

 受験生にとっての夏……即ち勉強!

 

「もー、お勉強しながらそんなこと言ってるのお兄ちゃんぐらいだよ?」

「らいはもその内わかるさ」

「えー? そんなことより夏休みだよ? なにか予定ないの?」

「強いて言うなら勉強だな」

「五月さんたちと遊びに行ったりとか」

「……それこそねーよ」

 

 実のところ、勉強に専念したいという理由で夏休みの間の家庭教師は休ませてもらっている。

 その分たっぷりと宿題を出したので、あいつらの学力の低下はない……と信じたい。

 例によってプリントを渡したときは絶望の表情を浮かべていたが、期間はそれなりに長いので大丈夫だろう。

 勉強をしたいという意思をこれでもかと強調したため、夏休み前のようにデートに誘ってくるなんてことはないはずだ。

 携帯が震え、メールの到来を告げる。

 四葉からだった。

 ないはず……だよな?

 

「メール? 珍しいね」

「四葉からだ」

「あ、ひょっとしてデートのお誘いかな?」

「馬鹿言うな。別にどうってことない内容だ」

 

 実際にメールの大半は俺の安否確認だった。

 しかし最後の方には――

 

『そういえば来週の日曜日にクラスのみんなで海に行くみたいですよ! 上杉さんもどうですか?』

 

 そんな情報がわざとらしく付け加えられていた。

 確かにそんな話を夏休み前に耳にしたことがある。

 武田や前田が話していたのだが、はっきり言って興味なかったので半ば聞き流していた。

 当然行く気はない。

 四葉の意図はなんとなくだがわかる。

 つまりは俺がクラスに馴染めるようにというお節介だ。

 正直に言えば、その気遣いに悪い気はしない。

 しかしながら来週の日曜という日程がまた良くない。

 その日にはケーキ屋のバイトがあるのだ。

 あいつの気遣いを無下にするようで悪いとは思うが、こればかりはどうしようもない。

 心ばかりの謝罪の気持ちを示すため、今取り掛かっている問題を送ってやった。

 なぜか宇宙を背景にしている真顔の猫の画像が返ってきた。

 

「なんか楽しそうだね」

「気のせいだ。さ、勉強勉強」

 

 携帯を放り投げる。

 今みたいにいちいちメールの相手をしていたら気が散って仕方ない。

 そもそも送ってくる奴がほとんどいないというのは伏せておこう。

 

 

 

 

 

「夏といえば海よ」

「山がいいと思う」

「そんなのいつだっていいじゃない」

「夏にしかできないこともある。それに海は騒がしいし」

 

 二乃と三玖が食事の用意をしながらどこに遊びに行くかで揉めている最中、四葉と五月はとある書類を覗き込んでいた。

 このアパートの住人に宛てられた解約申入書だ。

 老朽化が進んで管理が難しくなったことから、取り壊す予定であるらしい。

 期限は半年……それまでに次の住居を見つけなければならない。

 

「どうします、これ?」

「う~ん……まぁ、引越さなきゃいけないのはたしかだよね」

 

 四葉の言うとおり、いずれにしても出ていかなければならない。

 新しい住居を探すことを考えたら、動き出すのは早い方がいいだろう。

 ここに引っ越してきて半年余り。

 卒業でそれぞれの道へ進んでいくとしても、それまではここで暮らせるものと考えていた。

 引越してきてからの期間は短いものの、思い出や愛着がある。

 姉妹の胸には少なからず寂寥感が募っていた。

 

「焦らずやってこうよ。まだ半年もあるしさ」

「半年というと、ちょうど受験シーズンですね」

 

 五月の言葉に場の空気が微妙なものになる。

 高校三年生ともなれば、大体の生徒が受験を意識するだろう。

 そしてほとんどの場合において、それは気が重くなる話題なのである。

 とりあえず大学に進学することにした二乃は、あからさまに嫌そうな顔をした。

 

「考えたくもないわ……」

「そっか。なら早めにしちゃったほうがいいのかな?」

 

 引越しの準備にかかる手間を考えると、まとまった時間が欲しい。

 高校に通いながらコツコツと進める手もなくはないが、夏休みが終わればいよいよ受験に向けて忙しくなる。

 そんな中で引越しをするのはどう考えても余裕がなさすぎる。

 かといって次の長期休暇――冬休みまで待っていては受験シーズンに突入である。

 となればこの夏休み中に済ませてしまうのが得策か。

 ここにはいない一花以外の姉妹の意見が一致した。

 

「けど、やっぱり寂しいね……」

「……うん、色々思い出もあるしね」

「そうですよね……」

「あーもう、湿っぽいのなし! ほら、ご飯できたから運びなさいよ」

 

 三玖の言葉を皮切りに、四葉と五月もしんみりとしだす。

 二乃は思い出に浸りそうになっている三人の尻を叩いた。

 その気持ちはわかるが、せっかく出来た料理を台無しにされるのは困るのだ。 

 

「そういえば、フータローにも伝えておいたほうがいいよね」

「そうですね。じゃあ私が――三玖、手を離してください」

 

 風太郎に連絡を取るため自分の携帯に手を伸ばした五月だが、三玖の手がそれを阻んだ。

 夏休み中は勉強に専念したい、と休みに入る直前にこれでもかというぐらい言われている。

 四葉を除く姉妹は自分の下心を自覚しているので、かえって連絡が取りづらい状況にあった。

 そんなわけで、こういった大義名分が必要になるのだ。

 牽制し合う三玖と五月をよそに、バイトで顔を合わせる機会のある二乃は涼しい顔である。

 それに加えて夏休み前のとある出来事のおかげか、妹たちの小競り合いを見守る姿には余裕すら漂っている。

 

「そ、それじゃ私は一花を呼んでくるね」

 

 姉妹が発する熱気から逃げるように靴を引っ掛けると、四葉は玄関から外へ。

 一花は部屋の件について電話をしてくれているはずだ。

 階下にその姿を認め、声をかけようとして――

 

「ええ、社長の言ってることはよくわかります」

「いち――」

「けど、学校を辞めるのはさすがに……」

 

 思いがけない言葉に、四葉は固まらざるを得なかった。

 

 

 

 

 

「え、バイク事故?」

『すまないが、少しの間店は休みにしたい』

 

 今日も今日とて、らいはに予定はないのかとせっつかれながら勉強していた時のことだ。

 バイト先のケーキ屋の店長からの電話――バイク事故で足を怪我して入院したのだという。

 当然店に出ることも出来ないので、少なくとも病院を出るまでは休業するとの連絡だ。

 怪我の心配はもちろんだが、収入が減るのは正直痛い。

 特にこの夏休みは家庭教師も休んでいるから、収入の大部分が消えてしまう。

 勉強に専念できると考えたら短期的には悪くないのかもしれないが、いつまでもこのままの状態というのは良くない。

 休みが明けたら新しいバイトを探すことも検討すべきだろうか。

 

「まいったな……」

「難しそうな顔してる。もう気分転換に外出たほうがいいよ。来週の日曜日とかどうかな?」

「来週の日曜、ね」

 

 何故らいはがその日を推してくるのかはわからないが、丁度たった今予定が消し飛んだところだ。

 四葉からのメールにあった日付もその日だ。

 タイミングが出来すぎている気がしてならないが、なんにしても遊びに出るつもりはない。

 

「もー、お兄ちゃん強情過ぎ!」

「そうは言ってもな、家庭教師を休んでるのだって自分の勉強のためなんだぞ」

「むー、じゃあ五月さんたちのことはいいの?」

「宿題はたっぷり出しといたからな」

「そういうことじゃなくて!」

 

 業を煮やしたらいはは一冊の本を取り出した。

 その本は俺にとってよく覚えがあるもので――

 

「お兄ちゃんがこっそりこんな本読んでるの、知ってるんだからね」

「そ、それは……!」

 

『高校生のための恋愛ガイド』

 

 苦手分野を克服するために購入した書籍だった。

 昨夜も就寝前に読んでいた。

 当然家族の目に触れないように気をつけてはいたが、エロ本ほどの警戒はしていなかった。

 せいぜいが教科書や問題集の中に紛れさせるくらいのことしかしていなかったのだ。

 どうせずっと家にいるのだからどうとでもなるという油断もあった。

 その結果として、兄の威厳のピンチが訪れていた。

 

「それはあれだ……そう! 友達が無理矢理押し付けてきたんだ!」

「お兄ちゃんに友達なんていないでしょ」

 

 バッサリ切り捨てられてしまった。

 しかし、連絡先には家族や中野姉妹以外の名前も確かにあるのだ。

 一応武田と前田は友人と呼べなくもない……のかもしれない。

 それを主張したところでらいはが信じるかどうかは別問題なのだが。

 

「ねーねー、そんなに気にしてるなら皆を誘って遊びに行こうよ」

「そうは言ってもだな……」

 

 あれだけ勉強したいと強調しておいて、こちらから遊びに誘うのはどうなのかという話だ。

 それにあっちには同じく受験勉強をしているであろう五月がいる。

 仮にも教師が生徒の勉強の機会を奪うなんてことは――

 

『恥ずかしいですけど、あなたの好みが知りたいんです』

 

 そして、当の本人がそんなことを言っていたのを思い出した。

 夏休みに入る直前は勉強へ意識が行ってて、すっかり忘れてしまっていた。

 水着を何のために買うのかといえば、それは着用するためだろう。

 延いてはその状態で何かをすることを示しており、そこには当然のように俺も含まれているらしい。

 受験生が夏休みに勉強に打ち込むのは自明の理だ。

 遊びにうつつを抜かすなど言語道断と言う他ない。

 しかし、ずっと張り詰めっぱなしではかえって効率が悪くなるのも事実。

 それにまぁ……そんなに俺と遊ぶ事を楽しみにしていたのだとすると、ああもバッサリとシャットアウトしてしまった事に罪悪感を覚えないでもない。

 ……少しぐらい譲歩してもいいのかもしれない。

 

「長らく行ってないし、海に行くなんてのもいいかもな」

「わぁ、いいね! 行こうよお兄ちゃん!」

「まぁ、ちょうど予定が吹き飛んだからな」

「五月さんたちも誘って行こうよ」

「いや、それはさすがに」

「ふっふっふ……そう言ってられるのも今のうちだけなんだからね!」

 

 らいはは何やら不敵に笑っていた。

 なんにせよ、全員とまではいかずとも何人かは顔を見せるに違いない。

 少なくともしきりに海に行きたいと口にしていた二乃は来るだろう。

 あいつとも色々あったが、さすがにその他大勢がいる状況では手を出しては来ないだろうし。

 ……一応、当日の朝は日課を念入りに行うとしよう。

 そうと決まればひたすら勉強だ。

 要は多少遊んでも問題ないくらい勉強しておけばいいのだ。

 

 

 

 

 

「海だーっ!」

 

 照りつける太陽の下、波打ち際でらいはは手を振り上げて跳ねた。

 絶好の海日和だった。

 来て早々、風太郎はパラソルの下に避難しようとしていたので引きずり出しておいた。

 あれこれと言葉を尽くして兄を海に連れ出すことに成功したらいはだが、そこにはある思惑があった。

 本人は否定するだろうが、中野姉妹と出会ってからの風太郎の変化は顕著だ。

 恋愛に関する本を買って読みふけっているなどはその最たる例だ。

 中学生になったらいははちょっぴりだけマセており、そんな兄の背中を押してあげようというお節介が今回の発端だった。

 気分的には恋のキューピッドである。

 五人が今日ここに来ることは事前に五月とやりとりして確認済みだ。

 しかし渋る兄を連れて海に来る前にアパートまで迎えに行ったのだが、先に出てしまったのか留守だった。

 一緒に行くと約束していたわけではないので、そこは仕方がない。

 偶然出会うのもシチュエーションとしてはおいしいので、むしろ好機と考えることにした。

 

「なんだ、お前らも来てたのか」

 

 死角になって見えないが、風太郎が知り合いの姿を見つけたらしい。

 こんなに親しげに声をかける相手は限られている。

 らいはは期待に目を輝かせた。

 

「おお、来たのかよコラ」

「やぁ、久しぶり」

 

 果たして現れたのは見知らぬ男二人だった。

 期待していただけにガッカリ感は隠せなかった。

 前田と武田と呼ばれた二人は風太郎がちゃんと名前を覚えているあたり、それなりに関わりがあることはうかがい知れた。

 なんせ没交渉過ぎて、クラスメイトであるだけならば名前すら覚えていないのがほとんどなのだ。

 

「まさか上杉が来るとはな」

「ふふふ、僕のメールはきっちり読んでくれたようだね」

「いや、携帯は放り投げてたからしばらく見てないな。他の奴らも来てるのか?」

 

 落ち込む武田をよそに、前田が少し離れたところにいる男女の集団を指した。

 どうやらあれが風太郎のクラスメイトらしい。

 その中に中野姉妹の姿を探すが、見つけることはできなかった。

 

(あれー……おかしいなぁ)

 

 腕を組んで首をかしげてみるが、五つ子は現れない。

 風太郎もどこか落ち着かない様子で辺りを見回していた。

 そんな二人の後方――堤防の上の道路を、見覚えのある黒塗りの高級車が走っていることには気づかなかった。

 

 

 

 

 

「着いた~!」

 

 黒塗りの高級車から降りると、四葉は我が家を仰ぎ見た。

 高級タワーマンションのペンタゴン。

 アパートを退去せざるを得なくなった中野姉妹は、元の住処に戻ることに決めた。

 そもそも家を出た理由は、マンションへの風太郎の出入りを禁止されたからだ。

 したがって、雇い主である姉妹の父親が認めた今であれば戻っても問題はないのだ。

 

「言っとくけど、次の家を見つけるまでのつなぎだから!」

「上杉君の出入りが許されているので、出て行く理由もないと思うんですけど」

「二乃は強情だね」

 

 息巻く二乃に続いて五月と三玖が中に入っていく。

 四葉も三人の後を追おうとしたのだが、立ち尽くしたままの一花に気づいて立ち止まった。

 

「一花、どうしたの?」

「ん……ちょっとね、部屋どうなってるのかなって」

 

 一花の危惧はもっともだ。

 マンションを出る前、料理以外の家事は分担していた。

 そこにはもちろん日常的な掃除も含まれている。

 父は滅多に家に帰らないので、そこらへんのことは期待できないだろう。

 だがしかし、それを一花が心配するのには正直首を傾げざるを得ない。

 外面とは裏腹に、姉妹の中では一番だらしないのがこの長女なのである。

 あの汚部屋の主がその程度の事を気にするとは、とてもじゃないが思えなかった。

 もっとも、四葉がこのように考えるのも別の心当たりがあってのことだ。

 学校を辞める――電話で話していた一花の口から出た言葉は、中々頭から離れてくれなかった。

 

「わっ、綺麗なままだ」

「江端さんが掃除しててくれたのかな? まぁ、お父さんはやっぱりいないみたいだけど」

 

 果たして、部屋の中は綺麗なまま保たれていた。

 しかし日曜だというのに父の姿はない。

 単純に忙しいのか、それとも敢えて寄り付かないのか。

 どちらかはわからないが、二乃は面白くなさそうな顔をしていた。

 

「そうだ。久しぶりだしフータローも呼ぼうよ」

「あら、いいわね」

「でも、連絡しても大丈夫でしょうか」

「うーん、そうだなぁ……引越ししたって連絡もかねてなら大丈夫じゃないかな?」

「あいつメール返してこないし、電話でいいわよね」

 

 そうなれば早速、とスマホを取り出す二乃。

 ケーキ屋のバイトで顔を合わせるからと余裕を持っていたが、今やその機会は失われている。

 以前よりもさらに風太郎にのめり込んでいる二乃としては、このチャンスを逃すつもりはなかった。

 しかし、この場には同じことを考える者が複数人。

 そのまま黙って見過ごす道理はない。

 

「ちょっと、離しなさいよ」

「嫌、私がかけたい」

「まぁまぁ、ここは代表として長女の私が適任だよ」

「いいえ、間を取って私がかけましょう」

 

 どこをどう間を取れば末っ子になるのかは謎だったが、とにかく誰一人として退く気がないのは明らかだった。

 火花が散り始めたこの場において、四葉は果敢にも右手を掲げて注意を引いた。

 

「はいはーい! こうなったらもう運任せ……ジャンケンだね!」

 

 このままでは埒があかないのは確かだったので、全員がその意見に賛同した。

 ここで普通に自分もジャンケンに参加してしまったのは四葉の失敗だった。

 特に何も考えずに場の流れに身を任せてしまったのが原因だ。

 

「「「「……」」」」

「あ、あはは……」

 

 四つのチョキに一つのグー。

 一人だけ拳を握り締めた四葉は乾いた笑い声を上げた。

 かくして勝者は決まった。

 四人の視線を一身に受けながら、スマホを手にする四葉。

 圧がすごかった。

 

「えっと、別に私はかけなくても……」

「「「「いいから早く」」」」

 

 そして距離もやたらと近い。

 四人とも四葉のスマホに対して耳をそばだてていた。

 電話が繋がったらスピーカーモードにすることを決意して、四葉は風太郎の連絡先を呼び出した。

 コール音が続き――

 

「あれ、繋がらないや」

 

 しかし風太郎が応答することはなかった。

 何回かかけ直してみるが結果は変わらず。

 こうも繋がらないのならば、携帯が使えない状態と見るのが自然だろう。

 

「フータロー君、忙しいのかな?」

「あいつのことだし、勉強の邪魔だからって電源切ってそうね」

「それ、ありそう」

「もしくはあまりに放置しすぎてバッテリーが切れてるか、ですね」

 

 どちらにしても普通にありえそうなのが上杉風太郎という男なのだ。

 そう考えるとこの前、四葉が送ったメールに返信があったのは奇跡だったのかもしれない。

 

「あはは、もしかしてクラスのみんなと海で遊んでたりして」

「うーん、想像できないかな」

「ないでしょ」

「ないない」

「ありませんね」

 

 相次ぐ否定。

 言ってみた四葉としてもそんな光景はいまいち思い浮かばなかった。

 今日は三年一組の有志で海に遊びに行く日だ。

 中野姉妹も参加する予定だったのだが、引越しの日と重なってしまいそっちが優先された。

 残念だが、これに関しては後日あらためて姉妹だけで海に遊びにいくという形で埋め合わせを予定している。

 

「フータロー、会いたいな……」

 

 三玖の呟きは他の姉妹の代弁でもあった。

 そしてそれは四葉も例外ではない。

 

(上杉さん、寂しくしてないかな……)

 

 

 

 

 

「左、左! 学級長そこ左ー!」

「右、右! ど頭かち割ったれー!」

「どっちだよ!」

 

 視界を塞がれ、自分がどっちを向いているのかもわからない中で右往左往する。

 木の棒を構えてスイカ割りに臨む兄の勇姿に、らいはも声を張り上げた。

 

「お兄ちゃーん! 早くスイカ食べたーい!」

「くそっ、右と左どっちだ……!」

 

 スタート地点からここまでは指示に統一性があったものの、ゴール手前になった瞬間、右と左で周囲の声が分かれてしまった。

 風太郎にはもちろん見えていないが、スイカの横には前田が頭だけ出して埋められている。

 何か言いたそうな仏頂面だが、喋ってはいけないルールなのでだんまりである。

 つまりここでの左右の選択は、どちらを叩くかということだ。

 スイカを叩き割るか、前田の頭をかち割るか。

 怪我をしたらいけないので緩衝材として数枚のタオルを頭の上に置かれていたが、それでも叩かれれば痛い。

 スイカと自分の頭に交互に照準を合わせる風太郎を、前田は固唾を飲んで見守った。

 その際の、ほんの僅かな喉の動きと振動。

 波音や喧騒に紛れて消えてしまうごくごく小さな音。

 だというのに、それを察知したかのように棒の先が前田の頭を捉えた。

 そして木の棒がゆっくりと振り上げられ――

 

「待てうえすぎ――」

「そこかっ……!」

 

 思わず口をついた前田の制止の声も虚しく、木の棒は振り下ろされた。

 

「あちゃー、次に持ち越しだね」

「残念でしたねー」

「学級長の妹さんだっけ? かわいー」

「スイカはもうちょっとかかりそうだし、焼きそば食う?」

「食うー!」

 

 

 

 

 

「つ、疲れた……」

 

 重たい体を引きずるようにビーチパラソルの下へ避難する。

 スイカ割りで前田の頭をかち割った後も、今度は俺が砂に埋められたり海の中でビーチボールで遊んだりと連れ回されてしまった。

 おかげで疲労困憊だ。

 らいはも遊び疲れたのか、今はすやすやと寝息を立てている。

 天使の寝顔とはまさにこのことだろう。

 夏真っ盛りとはいえ、ここは日陰で少し風も出てきた。

 体を冷やさないようにタオルをかけておく。

 

「はー、楽しかったー」

「あ、学級長も休憩?」

 

 頭の片側からぴょこんと飛び出たサイドテールの女子と、切り揃えられた前髪の女子。

 椿と葵という名前が浮かんだが、どっちがどっちかまではわからなかった。

 

「お前ら、濡れたままで大丈夫か?」

「へーきへーき。そのうち乾くし」

「もしかして心配してくれてる? 学級長やさしー」

「うるせーよ。ほら、これ使え。風も出てきたし冷えるぞ」

 

 元々余分に持ってきてたタオルを渡してやる。

 すると二人は受け取りはしたものの、ポカンとした顔をしていた。

 

「さっきらいはと遊んでくれてたろ。その礼と思ってくれ」

「はー、なんていうかお兄ちゃんって感じ」

「だねー」

「事実として兄だが。まぁ、帰る時にでも渡してくれたらそれでいいから」

「はーい」

「ありがとねー」

 

 なんともゆるゆるな二人だが、らいはが世話になった分は返しておくべきだろう。

 受けた恩を返すというのは、きっと人間関係における基本なのだ。

 ……俺はそんなことを気にするようになったのか。

 どこのどいつらの影響なのかは、考えるまでもなかった。

 あいつらは今頃、一体何をしているのやら。

 

「でも、中野さんたちは残念だったよねー」

「学級長は四葉ちゃんから何も聞いてないの?」

「いいや、ちょっと前に海に遊びにいくことは聞いてたが……」

「そっかー、やっぱり急用だったのかな?」

「仲良しの学級長も知らないんじゃ仕方ないよね」

 

 仲良しという部分には誤解がありそうなものの、クラスの他の奴と比べれば関わりが深いのは確かだ。

 俺としても全員とは言わないまでも、何人かは顔を見せると思っていただけに少しだけだが気になるところではある。

 

「あれ? そういえば学級長って三玖ちゃんからお弁当もらってたような……」

「あーそれな! 料理の練習だかで作ったのが余るらしくてな! 昼飯代が浮くからありがたい限りだぜ!」

「二乃ちゃんとは同じバイトで仲良さそうにしてるって……」

「仮にも先輩だからな! 色々面倒を見てるのがそう見えたのかもな!」

「五月ちゃんにはよく勉強を教えてるみたいだし……」

「あいつも意欲はあるが実力が追いつかないみたいでな! これでも学級長だから少しだけ助力してるんだよ!」

「一花ちゃんとはよく一緒に登校してるみたいだし……」

「なんでだかよく出くわすんだよな! 本人も偶然って言ってるんだからその通りなんだろうな!」

「そもそも四葉ちゃんと付き合ってるんじゃ……」

「全く誰がそんな噂を流してるんだろうな! 同じ学級長だからって安易にすぎるよな!」

「うわー……」

「学級長ってもしかして結構……」

 

 二人の視線が若干冷たくなる。

 俺としては誤解をされないように言葉を尽くしたつもりだが、少しばかりテンパっていたことは否めない。

 ていうか、なんで学外の二乃のことまで把握されているのかが意味不明だ。

 いや、あの店にクラスメイトが来ていないとも限らないんだが。

 

「とにかく! あいつらとは普通に標準的なクラスメイトの間柄だ」

「はいはい、学級長は中野さんたちと仲良しってことね」

「俺の話を聞いてたか?」

「刺されないように気をつけてねー」

「シャレにならないんだが!?」

 

 

 

 

 

「上杉……まだ痛ぇぞ」

「だから何度も謝っただろ……」

 

 外はすっかり暗くなり、空には星、そして俺の膝にらいはの寝顔。

 横からはもう何度目かもわからない前田の恨み言だ。

 その額にはガーゼが貼り付けられている。

 間違いなく俺の一撃によるものだ。

 

「まだ言ってるの? 男らしくない」

「残念だよ。あそこにいたのが僕なら、もっとしっかり受け止めたのに」

「えっ……」

 

 やってきたのは武田と……たしか松井だったか。

 林間学校の肝試しの時に前田と組んでいた女子だ。

 武田の発言に若干引いていた。

 気持ちはよくわかる。

 

「ま、なんだかんだで笑えたし? 楽しかったから結果オーライだよ」

「ったく、今度なんか奢れよコラ」

「ああ、三百円までな」

「遠足のおやつかよ!」

 

 そんなことを言われても無い袖は振れない。

 むしろ俺の昼飯代の1.5倍なのだから十分贅沢だ。

 そんな俺と前田のやり取りを見ると、松井は腹を押さえて笑い出した。

 

「アハハハ! 上杉君も楽しんでくれたみたいで良かったー」

 

 言われて初めて気づく。

 どうやら俺は、今日の集まりを楽しんでいたらしい。

 そもそも海でこんなふうに遊んだのは、いつぶりなのかという話だ。

 そして気づいてしまった故に、この場にあいつらもいたら、などと考えてしまう。

 そうなるともう駄目だった。

 クラスの皆で盛り上がったはずのあれこれも、どこか物足りなく感じてしまった。

 ああ、あいつらがいたらもっと楽しかったろうな……と。

 

「この後花火をするそうだが、上杉君もどうだい?」

「いや、らいはも疲れちまってるし俺は帰る。クラスの皆によろしくな」

「意外だね、君がそんな事を口にするとは」

「元からこんな感じだったと思うが」

「いや、それはねーだろ」

「ないね。君はもっと孤高だったよ……まったく、一体誰の影響なんだろうね」

 

 前田と武田に口を揃えて否定された。

 納得いかないが、岡目八目という言葉もある。

 四葉の推薦学級長である俺の人望のなさを考えると、こいつらの言うことが正しいのかもしれない。

 

「じゃあ、また学校でな」

 

 らいはを背負って立ち上がる。

 見事に負かされた気分だった。

 そもそもの話ではあるが、俺はどうにも恋愛感情というものがよくわかっていなかった。

 初恋らしき何かの思い出はあるものの、一般的な男子がそういった感情を育む期間を勉強に費やしてきたのが原因だろう。

 だからこそあんな本を買って自分の中の気持ちに整理をつけようとしていたのだが、わかったのは俺が置かれている状況が特殊にすぎる、ということだ。

 中野姉妹は間違いなく俺の中で特別だ。

 でもそれがどういった感情に根ざしたものなのかがハッキリとしていなかったのだ。

 あるいは、ハッキリとさせるのを避けていたのかもしれない。

 もしそれであいつらを性欲の対象としてしか見ていないのだと分かってしまえば、間違いなく道を踏み外してしまう予感があった。

 ……今も踏み外しかけているのはさておき。

 どうやら認めなければいけないらしい。

 俺は中野姉妹が好きなのだ、と。

 

「あー、くそっ……あいつらに会いてーな……」

 

 それは夏休みを勉強して過ごすと決めた俺の、これ以上ない敗北宣言だった。

 

 

 

 

 

「ふぃ~……やっぱ快適だねー」

 

 ソファーに寝っ転がったまま四葉は気の抜けた声を出した。

 リビングはエアコンが効いていてそれはもう快適なものである。

 退去済みのアパートにはそんな贅沢品はなかったので尚更だ。

 引越した直後ではあるが事前に荷物などは運び込んであったため、作業自体は引越し当日の昨日のうちに終わっている。

 他の姉妹も夕食後の時間をこの場でそれぞれ思い思いに過ごしていた。

 

「なんか飲むー?」

「じゃあコーヒーで」

「私は緑茶」

「オレンジジュース!」

「それよりも小腹が空いてしまったのですが」

「あんたら少しは統一しなさいよ! あと五月、さっきご飯食べたばっかでしょうが!」

 

 いかんともしがたいバラバラっぷりだった。

 軽く声をかけたことを二乃は後悔した。

 文句を言いながらもお湯を沸かし始めると、ドリッパーと急須、ティーポットを用意する。

 オレンジジュースを冷蔵庫から出して四葉に渡すと、五月には缶入りのクッキーを与えた。

 

「すっかり元通りだねー」

「ええ、食べたい時におやつがあるというのはやっぱり嬉しいものですね」

「五月、太るよ」

「むぐっ」

 

 三玖の指摘に五月は喉を詰まらせた。

 大急ぎで台所に駆け込んでいくのを四葉は苦笑しながら見送った。

 水を飲んで詰まりを解消すると、末っ子は姉の心無い言葉に自己弁護の言い訳を並べ立て始めた。

 

「勉強で疲れた脳が糖分を欲しているだけでこれは正当な栄養補給であり余分なものは一切摂ってないので太るとかそういう話じゃありません!」

 

 早口でまくし立てた五月だが、対する三玖はあくまでも冷静だった。

 

「糖分補給って言ってご飯前にもプリン食べてなかった?」

「い、一花~~」

「よーしよし、今度一緒にジョギング行こうねー」

 

 五月に泣きつかれ、一花はそれをなだめた。

 日常茶飯事とまではいかないが、珍しくはない光景だ。

 いつも通りのやり取りだが、一花の挙動を四葉はどうしても気にしてしまう。

 

「どうかした?」

「う、ううん、なんでもないよ」

 

 結局、一花の真意は聞けずじまいだった。

 なにか問題があってそうせざるを得ないのなら協力は惜しまないし、自分の意志でそう決めたのならそれを尊重したい。

 もしかしたら聞き間違いだという可能性もある。

 四葉としてはそっちを推したいが、それにしたって確認してみないことにはわからない。

 二の足を踏んでしまうのは、ここが契機だという直感が働いたからだ。

 自分たち五つ子の道が分たれる……その時が近づいてきたのだと。

 どうしたものかと考えるが、普段あまり使われない脳細胞はそう都合よく答えを捻り出してはくれなかった。

 

(上杉さんならどうするのかな……)

 

 学校を辞めると聞いてくだらないと一蹴するか、言語道断と一喝するか、給料が減ると狼狽するか。

 以前だったら考えられないことだが、ひょっとすると一花の背中を押してあげるのかもしれない。

 答えを教えて欲しかった。

 風太郎が示した答えならば、四葉は迷わずに進んでいける。

 

「四葉、四葉、電話来てるよ」

「え? あ……本当だ」

 

 三玖に促されてスマホを手に取る。

 相手は風太郎だった。

 一瞬躊躇して、四葉はそのまま電話に出た。

 

「もしもし」

『よう、全員揃ってるのか?』

「今はご飯の後のまったりタイムです」

『そうか……ところで、お前ら昨日は来なかったんだな』

「え……も、もしかして上杉さん、海に行ったんですか!?」

 

 驚きのあまり、少々声が大きくなってしまった。

 当然それは他の姉妹にも届き、全員が一斉に四葉に目を向けた。

 この先の展開を危惧した四葉は、咄嗟にスピーカーモードに切り替えた。

 

『たまたま昨日はバイトがなくなったからな。べ、別にお前らが来ると思ったからじゃ――』

 

 ツンデレの見本のようなセリフを言いかけて、風太郎は言葉を切った。

 そんな事を言った時点で少なからずこちらを気にしていることはバレバレなのだが、本人は気づいているのだろうか。

 姉妹全員が続きを期待して耳を傾ける。

 

『――いや、違うな。クラスの奴らと盛り上がって馬鹿やって、確かに楽しかった』

『だが、なんでここにお前らがいないのかって思っちまった。……お前らがいたらもっと楽しかったろうなって』

『……今度、良かったら遊びに行かないか? 海でもプールでもどこでもいい。お前らの顔が見たい』

 

 予想以上の言葉に全員が固まった。

 あの風太郎が自分たちに会えなくて寂しがっている。

 それを認識した瞬間、中野姉妹の顔は真っ赤に染まった。

 その場で悶えて返事をするどころではなくなってしまった。

 

『お、おいっ……ど、どうなんだよ!』

 

 なんとか立ち直った姉妹は顔を見合わせると小さく笑みを漏らした。

 答えなんて決まりきっていた。

 

 

 




後の展開を考えれば考えるほど四葉エンドが浮かんでしまう……
原作ヒロインつえーと思った次第です。

次回はプールの話になると思われます。


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秘密のキスマーク

書き貯めが爆散したので速度低下中です


 

 

 

「いやぁ、今日も暑いね」

「絶好のプール日和だね!」

「早くプールに入りたいです」

 

 蝉の鳴き声が暑さを助長する今日この頃。

 中野姉妹は風太郎の誘いで屋外レジャー施設を訪れていた。

 目的はプール――この前は引越しで海に行けなかったので、そのリベンジも兼ねている。

 

「入れ墨はダメだって。二乃、大丈夫?」

「やってないわよ」

 

 三玖が眺める看板には入れ墨・タトゥーの入場お断りの注意書き。

 さすがの二乃もそこまではやっていない。

 一瞬だけ『風』の一文字を入れた自分を想像したが、それだけである。

 しかし姉妹の印象は違うようで……

 

「あはは、二乃なら似合うかも」

「いそうだよね、彼氏の名前から一文字とって入れる子」

「ありがち」

「あんたら私をどういう目で見てんのよ!」

 

 散々な言われようだった。

 五月なんかは本気で心配してペタペタと体を触って確かめ出す始末。

 振り払うと二乃は腕を組んでそっぽを向いた。

 そもそも、そんなものがなくたって風太郎自身を十分に刻まれているのだと。

 無意識に下腹部に手を当ててしまう。

 

「むっ、なんで顔赤くしてるの?」

「な、なんでもないわよ!」

 

 三玖の追求から逃れるように二乃は足早に進んでいく。

 その様子に苦笑すると、一花も下腹部をさすった。

 今度は一花にジト目を向けると、三玖は二乃の後を追っていった。

 下二人は頭にハテナを浮かべていた。

 

「一花も二乃も、ひょっとしてお腹の調子が悪いのですか?」

「大変だ! 一花、大丈夫?」

「あはは……まぁ、その時は痛かったけど、もう心配ないよ」

 

 五月はムッツリではあるがそれ以上に鈍感で、四葉はそういった事に疎いから気づいていない。

 三玖は感づいているようだから動き出すのは時間の問題か。

 各々にそう当たりを付ける一花だったが、問題は二乃だ。

 夏休み前の様子から風太郎と関係を持ったことは明らかだった。

 自分の悩みや四葉の事はさておいて、今日は風太郎にどれだけ迫れるか。

 とはいうものの、ここは人の目が多い。

 一花の初めては屋外だったが、あれは大雨という特殊な状況が重なったからこそのものだ。

 本格的に仕掛けるとしたらプールの後になるだろう。

 それまで風太郎のボルテージを高められるかが今回の課題だ。

 

(それにしても、こうして誘ってくるとはねぇ)

 

 それが一番の驚きだった。

 風太郎が自分たちとの体の接触や肌の露出を気にしているのは把握していた。

 胸の谷間を見ようものならものすごい勢いで目をそらすため、非常にわかりやすい。

 水着姿なんてものは、目の保養を通り越してそれこそ目の毒だろうに。

 そこを押しのけてまで自分たちに会いたかったのだとすると、一花は頬が緩むのを抑えられなかった。

 

「一花、先行っちゃうよー?」

「ごめんごめん、行こうか」

「上杉君は遅れてくるみたいですし、先に入っちゃいましょう」

 

 

 

 

 

「あっちー……」

 

 今日も今日とて照りつける太陽は相変わらず容赦がなかった。

 気温的に言うと先日の海の時よりも暑い。

 こうも暑いと好き好んでプールに行く連中の気持ちが少し分かる気がした。

 人の流れに乗って入場口へ。

 さっさと日の当たらない場所に入りたかった。

 

「そして例によって人が多いな」

 

 ロッカーで水着に着替えるとプールのある区画へ。

 海水浴場との単純な比較はできないが、人口密度の問題でここの方が人がより多く感じられた。

 とはいえ、ここも十分に広い。

 幸いにして特徴的なものが多いから迷うことはないだろうが、人を探すとなるとまた骨が折れそうだ。

 あいつらとは特に待ち合わせ場所を決めていなかったが、失敗だったろうか。

 携帯はロッカーに置いてきたため連絡手段はない。

 迷子センターという手があるが、流石にそれは俺にとってもあいつらにとっても恥ずかしすぎる。

 とりあえずと、フードコートに足を運ぶ。

 確信があったわけではないが、無作為に動くよりはマシだろう。

 丁度昼飯時なのでいればいいなという程度の期待だったが、果たしてそこには食い意地が張った真面目馬鹿の姿があった。

 

「ほいっ、焼きそば五人前お待ちっ」

「ありがとうございます」

「お前、マジかよ……」

 

 常人離れした食欲だとは思っていたが、まさかそこまでだったとは……

 絶句している俺の姿に気がつくと、五月は焼きそばが入ったビニール袋を提げたまま慌てふためいた。

 

「上杉君!? ち、違います、これは皆で食べる分で……」

「にしても一人一人前かよ……あいつらは?」

 

 他の姉妹の動向を訪ねたのだが、五月は答えない。

 そして落ち着かない様子で辺りを見回したかと思うと、俺の手を取った。

 

「とりあえず、こちらへ来てください」

「お、おいっ」

 

 そのまま歩き出す。

 俺は手を引かれるままついていくしかない。

 この先が集合場所なのだとしたら断る理由もない。

 区画の外れ、比較的人のいない場所に着くと五月は足を止めた。

 

「まだ来てないみたいだな」

「ええ……み、みんな遅いですねー」

 

 なんでだか、五月の話し方に違和感を覚えた。

 妙に抑揚がないというか、一花の演技の練習に付き合っていた時の俺に似ているような……そう、棒読みだ。

 とにかく怪しいことは確かだった。

 

「そ、それよりも! ……どうですか?」

「どう、とは?」

「あなたの好みは分からずじまいでしたが、水着を新調したんです。前のものは上の方が少々きつくなってしまいましたので」

 

 最後の方は明らかに余計だった。

 胸が成長しているなどと申告されてどうしろと言うのか。

 こいつのことだから狙ってやっているわけではないのだろうが、俺の精神に揺さぶりをかけてくるのはやめて欲しいもんだ。

 

「ちょっと照れくさいんですけど、今年の流行の花柄も入れてみたんです」

「あ、ああ……」

「その……に、似合ってますか?」

「そうだな……い、いいと思う」

 

 今朝は抜かりなく日課をいつもより多めにこなしてある。

 よって今日の俺は胸の谷間程度では動じない。

 だけど、そうやって照れたように笑うのは反則だ。

 性欲と関係なしに心臓が跳ねてしまう。

 不覚にもかわいいなんて思ってしまった。

 ……顔は赤くなっていないだろうか。

 

「二人とも、こんなところで何してるの?」

「「――っ!」」

 

 今度は驚きで心臓が跳ねた。

 いつの間にか三玖がそこにいた。

 五月に意識を向けていたせいか、近づいているのに気がつかなかった。

 

「よ、よう……他のやつらはまだ来ないみたいだが、何してるんだろうな」

「集合場所は向こうのはずだけど」

 

 三玖が指したのは、ここに来て手始めに向かったフードコートの方だ。

 確かに、焼きそばを食べるのにこんなテーブルもなにもない場所を集合場所に選ぶのは不自然だ。

 俺と三玖の視線が五月に集中する。

 

「え、ええっと……ちょっと勘違いしてたみたいですねー」

 

 また例によって棒読み臭いセリフを残して、五月はそそくさとフードコートの方へ歩き去っていった。

 あれは確実にやましい事があるときの態度だ。

 そのやましい事がなんであるのかは……まぁ、置いておこう。

 

「……」

「どうした?」

 

 そして今度は三玖と二人きりなったわけだが、こちらを凝視したまま動かなくなってしまった。

 俺の顔を見てるのかと思えば、少し違う。

 視線はそのやや下に――

 ここに来て俺はようやく三玖が何を見ていたのかに気づいた。

 咄嗟に首元を手で隠すが、もう既に見られてしまっている。

 ここしばらく顔を合わせてないからすっかり油断していた。

 夏休み前のとある日、三玖が予約と称して首元に残した痕。

 消えるたびに更新と言ってまた残していくため、絆創膏を貼って周囲からは隠していたものだ。

 当然、日が経って消えてしまっている。

 それを目にした三玖がどういう行動に出るかは火を見るより明らかだった。

 

「こっち来て」

「おい、まさかこんなところで――」

「いいから」

 

 三玖は俺の手を引っ張って物陰へと連れ込んだ。

 抵抗することもできたが、そうしたらその場でされる危険性があった。

 衆人環視に耐えられるほど俺の神経は図太くないのだ。

 

「じっとしててね」

「なぁ、せめてプールから出た後に――くぁっ」

 

 こちらの提案などお構いなしに三玖が首筋に吸い付いた。

 この感触にも慣れたものだが、離れる際にチロリと舐められて思わず変な声が出てしまった。

 

「うん、これでよし」

「よし、じゃねーだろ」

「フータローもする?」

 

 三玖は顔をそらすと、水着の紐をずらして首元をあらわにした。

 肌の白さが眩しい。

 顔を背けようとしたが、三玖がそれを許さなかった。

 俺の顔を両手でつかみ、自分の顔と向き合わせたのだ。

 

「それとも、あの時みたいにまたしてくれるの……?」

 

 しかし自分からは動かず、あくまで俺が自発的に動くのを待っている。

 ここは物陰ではあるが遮蔽物は少々心もとない。

 大きな動きを取れば、すぐに周囲の人間に察知されてしまうだろう。

 露骨なことはできない……が、キス程度の動きなら見咎められることもないだろう。

 

「んっ……」

 

 吸い寄せられるように口付ける。

 触れるだけのキス――ここがボーダーラインだった。

 ここで三玖を抱き寄せてしまえば、もしくはもっと深いキスをしたならば、たちまち転がり落ちていってしまうだろう。

 漏れ出る艶めいた声が理性にヤスリをかけてくるが、それぐらいならまだ耐えられる。

 唇を離すと、三玖は不満そうな顔でこちらを見上げてきた。

 しかしこれ以上は踏みとどまれなくなるので、その不満に応えてやることはできない。

 多大な精神力を使って三玖から手を離す。

 これで朝の日課を怠っていたなら、とっくにどうにかなっていたに違いない。

 ……一体、いつから俺はされる側からする側になってしまったのだろうか。

 一花や二乃とのあれこれで、そういった行為へのハードルが下がったというのはある。

 実際に夏休み前にも自分から三玖と五月にしてしまった。

 しかし、今はそういった場合に感じる暴力的な衝動は薄い。

 その代わりと言ってはなんだが、青臭いとでも形容できそうな感情だか衝動が心の中を占めていた。

 

「先に行っててくれ」

「フータローは?」

「ちょっとロッカーに忘れ物だ」

 

 確か、荷物の中に絆創膏が残っていたはずだ。

 このままにして他のやつらに見咎められたらまた面倒なので、この痕は隠しておきたい。

 三玖を送り出してから足早にロッカーへ。

 鏡を見るとバッチリ痕が残っていた。

 覆うようにしっかりと貼り付ける。

 防水タイプなので、これならプールに入っても大丈夫だろう。

 後は集合場所に向かうだけなのだが……

 

「フー君! 会いたかった!」

「うおっ」

 

 プールに戻った瞬間、横からの衝撃に襲われる。

 なんなのかと思えばそれは二乃だった。

 人目をはばかる事なく、これでもかというぐらい胸部の柔らかい塊を押し付けてくる。

 理性をグラグラと揺さぶるその感触は、間違いなく故意のものだ。

 朝の日課を入念にこなしておいて良かった。

 普段通りの俺だったらここでヤられていたかもしれない。

 

「二乃、あんまりくっつくな――」

「えー? イヤよ、そんなの」

「ちょっと離れるだけだから――」

「コンタクト流されちゃったの。だからもっと近づかないとフー君の顔が見えないわ」

「……」

「ほら、もっと顔寄せなさいよ」

 

 どうやら二乃の催促に応じないと話は進みそうになかった。

 そろそろ周囲の目も痛くなってきたので、どうにかしないといけない。

 仕方なく言うとおりに顔を寄せる。

 二乃の顔が間近に迫る――今日の俺ならば取り乱したりはしない。

 心臓の鼓動がうるさいが、大丈夫なはずなのだ。

 しかしながら、この対応は迂闊だったと言わざるを得ない。

 周囲の目があるから、なんて油断していたのがいけない。

 防御を顧みない二乃のアグレッシブさが、この時は頭から抜け落ちていたのだ。

 その舌なめずりを見てマズいなんて思ったときにはもう遅い。

 二乃は俺の首に腕を回すとそのまま――

 

「はーい、ストップ」

「ちょっ、何するのよ一花!」

「二乃こそ何しようとしてたのかなー?」

 

 今まさに動き出そうとしていた二乃を、一花が肩を掴んで制止していた。

 浮かべる笑みは穏やかなものだが、指が肌に食い込んでいるところを見ると結構な力で掴んでいる。

 ……率直に言って怖い。

 

「なんでこんなところにいるのよ。集合場所はあっちでしょ」

「うん、その言葉は二乃にそっくりそのまま返すね」

 

 火花が散った、ような気がした。

 気のせいでないとしたらその原因は俺だろう。

 もう自惚れでもなんでもいいが、それほどまでに好かれているのは事実であるらしいのだ。

 諍いに発展する前に止めるためには、とにもかくにも原因である俺が遠ざかる必要があるだろう。

 争う理由がなくなれば人は手を取り合えるのだと俺は信じている……ということにした。

 幸い、今は二乃の意識が一花の方に向いている。

 というわけで上杉風太郎はクールに去るとしよう。

 

「フータロー君?」

「フー君?」

 

 しかし二人に肩を掴まれて失敗。

 どこ行くんだコラ、という無言の圧力を感じた。

 どうやら逃がしてはもらえないらしい。

 そもそもの話として、中野姉妹を誘ったのは俺だ。

 だというのに逃げてどうするというのか。

 今にして思い返せば頭を打ち付けたくなるが、あの時こいつらの顔が見たいと言ったのは嘘じゃないのだ。

 覚悟を決めて振り返る。

 すると二人は左右から俺の腕を取って自分の腕を絡めてきた。

 ……前言撤回、やっぱ逃げたい。

 

「ねぇ、フー君? 今度また家にお邪魔してもいいかしら」

「また家にって、ちょっとは遠慮しないとフータロー君のご家族にも迷惑だよ?」

「挨拶しに行くだけだから大丈夫よ。まぁ、いないならそれはそれでいいんだけど」

「いないならそれこそ行く必要ないんじゃない?」

「あら、二人きりなら色々とできるじゃない。色々と」

 

 二乃の指が俺の胸元を這い回る。

 思わず変な声が漏れそうになるが、全力で堪えた。

 そして熱っぽい視線も全力でスルー。

 顔を背けた先で一花と目が合う。

 ニッコリと笑ってしなだれかかってきた。

 

「フータロー君、また一緒に汗流しに行こうよ」

「汗流しに……って、どこ行く気よ!」

「えー? ちょっと二人で運動するだけだけど」

「運動ってまさか……!」

「やだなぁ、スポーツだよスポーツ。バドミントンとかさ」

 

 どれだけアレな事を想像していたのかは知らないが、からかわれているのに気づいた二乃は顔を真っ赤にして一花を睨みつけた。

 こうやって思わせぶりなことを言ってからかってくるのは一花の十八番だ。

 それは生まれた時から一緒の二乃にもわかっているはずなのだ。

 だと言うのに、こうも易々と引っかかったということは……こいつ今どんだけ頭の中ピンク色なんだよ。

 睨みつけられても一花は柳に風で涼しい顔だ。

 二乃は面白くなさそうにそっぽを向いてしまった……俺の腕は相変わらずホールドされているが。

 そして注意がそれたのを見計らって、一花が俺の耳に顔を寄せて囁いた。

 

「次こそは一緒に汗流そうね……もちろん、エッチな意味でさ」

 

 おまけと言わんばかりに、耳に息を吹きかけられる。

 いい攻撃だ、ものすごくぐらついた。

 しかし今日の俺のガードは鉄壁。

 先程は三玖にいいようにされていた気がするが、とにかく鉄壁なのだ。

 よってこの程度で動じたりはしない。

 こうやって空を見上げているのも、この容赦なく照りつける日差しを味わっているにすぎないのだ。

 

「フー君の耳、すごく真っ赤だわ」

「ははは、こりゃ早速日に焼けちまったかな!?」

「汗かいてるね。もしかして緊張してる?」

「そりゃこの気温だしな! 汗もかくよな!」

 

 あらためて、何なんだこの状況は。

 俗に言う両手に花とはこんな状態を指すのかもしれないが、気分的には両手に爆弾だった。

 誰かどうにかしてくれと投げ出したいところだが、そもそもの原因は俺が二人に手を出したことにある。

 複数人の女性と関係を持った男……刃傷沙汰に痴情のもつれというのは非常に通りのいい並びだ。

 もちろん、全く笑えたものではないが。

 

「あ、三人ともこんなところにいた!」

 

 一際元気な声に空から目を戻す。

 四葉がこちらに駆け寄ってきていた。

 中々合流しない俺達を探しに来たのだろう。

 腕に引っ付いていた二人は、ここらが潮時と判断したのかおとなしく離れていった。

 その判断はもう少し早く下してほしかったぜ……

 

「上杉さん、お久しぶりです! 少し日焼けしましたか?」

「この前海に行ったからな……お前も相変わらず元気そうで良かった」

「おや? もはやお疲れのご様子ですね」

「わかるか? お手柔らかに頼むぜ」

「ししし、任せてください! さぁ、今日は遊び倒しますよー!」

 

 任せろなんて言って胸を張った四葉だが、直後に遊び倒すなんて言葉が出てくるあたり絶対分かっていない。

 解散する頃には体力を使い果たしているだろうか。

 ため息と、ついでにこぼれた笑み。

 勉強という要素を取り除いた状態で一堂に会するのに危機感を覚えないわけじゃない。

 先ほどの一花と二乃のようなやり取りが繰り返されないとも限らないのだ。

 だというのにこうして思わず笑みを漏らしてしまうのは、なんだかんだで中野姉妹と会うのを楽しみにしていたからなのだろう。

 

 

 

 

 

 紆余曲折ありつつも合流を果たした風太郎と中野姉妹は、昼を済ませてからこの施設内において一際目立つアトラクションへと足を運んでいた。

 ウォータースライダー……早い話が水を流した滑り台だが、滑り台とは言っても公園に備え付けられているような物とは規模が段違いだ。

 

「わー……」

「い、意外と高いわね……」

 

 四葉と二乃は手すりから下を覗き込んで、あまりの高さに声を震わせた。

 滑り台である以上、位置エネルギーを利用する都合で大掛かりなものは必然的に高度もかさんでしまうのだ。

 

「ううぅ……や、やっぱりやめませんか?」

「大丈夫だって。なんだかんだでジェットコースターも楽しんでたじゃん」

 

 その点を五月も非常に気にしており、いまだに躊躇しているところを一花に宥められていた。

 しかし不安を口にしながらも三玖の体にサンオイルを塗る手を止めない。

 日焼けは肌の大敵なのだ。

 

「フータローに塗ってもらいたかったのに……」

「五月ちゃん、次は私ね」

 

 不満を口にする三玖だが、当の本人が拒否したのでこうして姉妹で塗り合っているのだ。

 もし仮に応じていたなら、色々と大変なことになっていただろう。

 姉妹の肌に触れ続けて平気でいられる自信が風太郎にはなかった。

 今もサンオイルの塗り合いから必死に目をそらし続けているのだ。

 

「つーか結構並んでるなぁ……」

 

 姉妹を視界から外せば人の多さが目につく。

 目立つのは伊達でもなんでもなく、普通に人気アトラクションなのだ。

 なんにしても最上階まで来たので、順番が来るまでそれほど時間はかからないだろう。

 

「フー君、店長が入院したって聞いた?」

「ああ、一度お見舞いに行くかって考えてたんだが……せっかくだし一緒に行くか?」

「行く!」

「じゃあ私も行く」

「あんたはなんの関係もないでしょ!」

「ていうかさ、フータロー君ちゃんとメール見てる?」

「いや、夏休みに入ってからほとんど開いてないな」

「やっぱり……では私たちが前の家に戻ったことも知らないのですね」

「え、そうだったのか?」

「今度遊びに来なよ」

「オートロックに締め出さなけりゃな。なぁ、二乃?」

「な、何の話かしらねー?」

 

 様々な出来事を経て、風太郎と中野姉妹の関係は変わりつつある。

 夏休み前は勉強という大義名分の元でなら一応の平静を保っていたのだが、それが無くなった時に一体どうなってしまうのか。

 

(なんだか大丈夫そうだね……)

 

 以前と変わらない雰囲気に四葉は胸を撫で下ろした。

 まだみんなでこうしていられるのだと。

 

「四葉、そろそろだぞ」

「いよいよですね、楽しみです!」

 

 色々と心配なことはあるが、今はとにかく楽しもう。

 そう誓った四葉なのだが――

 

「こちらのボートは二人乗りです。これから先は二人一組でお並びください」

 

 空気が一気に凍りついたような錯覚。

 牽制するように視線を交わし合う姉妹。

 四葉には四人が何を考えているのかが容易に想像できた。

 

「フータロー君」

「フー君」

「フータロー」

「上杉君」

「ど、どうした……?」

 

「「「「誰と乗るの?」」」」

 

 そしてそれから一悶着あり、結局はグーチョキパーでチームを分けることで落ち着いた。

 その際も熾烈な心理戦が繰り広げられたのだが……

 

「どうしてこうなるのよ」

「結果は結果だから仕方ないよ」

 

「て、手は離さないでくださいね……?」

「あはは、そんな心配しなくても大丈夫だよ」

 

 チーム分けの結果、二乃と三玖、五月と一花は先に滑り降りていった。

 残るは風太郎と四葉のパーのチームである。

 

「いやぁ、まさかこの組み合わせになるとは。一体どれぐらいの確率なんですかね?」

「六人で二人一組のチームを三つ……組合せの問題だな。いい機会だ、ちょっと考えてみろよ」

「それだけはご勘弁をっ!」

 

 四葉は全力で匙を投げた。

 以前よりは改善したとは言え、それでも勉強には苦手意識がある。

 ただでさえ家では風太郎に出された課題で四苦八苦しているというのに、外でまで勉強のことを考えたくなかった。

 頭を抱えてしゃがみこんでしまう。

 

「くっ……ははは! 冗談だ、冗談」

「もうっ、上杉さんは意地悪です!」

「悪い悪い……さて」

 

 前の組が滑り終わるまで待たなければいけないが、じきに出発だ。

 乗り方については係員から説明があったのだが、その際の体勢が問題だった。

 ボートの前に乗るか後ろに乗るか――前後の仕切りはなく、離れて乗るほどのスペースもないため必然的に密着してしまう。

 具体的に言うと、後ろに乗った人の足の間にもう一人を挟み込む形になるのだが……

 

(私が後ろだと……う、上杉さんの頭が胸に!)

 

 他の姉妹と比較するとそういった意識が薄い四葉だが、流石にこんなに肌を晒していては意識してしまう。

 逆のパターンも考えてみたが、風太郎に後ろから抱かれているようで、これはこれで恥ずかしい。

 

「どうする、やめとくか?」

「……いえ、行きましょう!」

 

 意を決して四葉はボートに乗り込み、風太郎もそれに続く。

 後ろが四葉で前が風太郎の位置取りだ。

 なし崩し的に決まってしまったが、もはやこれで行くしかない。

 風太郎も乗り込んで体が密着してしまい、四葉は騒ぎ出しそうな心臓を鎮めるのに精一杯だった。

 

「もしかして緊張してるのか?」

「それは……いえ、実はちょっと」

「一花じゃないが、不安なら手ぐらい貸すぞ」

 

 ドキドキは相変わらずだが、同時に穏やかな気持ちが満ちていく。

 だけどそこまでだ。

 自分の想いを出すわけにはいかないのだと、四葉は心の蓋を押さえつけた。

 

「いーえ、上杉さんが飛んでいったら大変ですので。飛ばされないようにしっかりとボートに掴まっていてくださいね」

 

 ボートが滑り出す。

 流れる景色と水しぶきの中で、そっと風太郎の腕に指を触れさせる。

 

(このぐらいなら、いいよね……?)

 

 

 

 

 

「楽しかったー!」

「結構スピード出てたな……」

 

 ウォータースライダーを滑り終えてプールから上がる。

 周囲に四葉以外の姉妹の姿は見えなかった。

 

「もう一回やりません?」

「その前に他のやつらと合流だ」

「あ、そうでしたね」

 

 合流場所も設定していないため、このまま離れたらまた面倒なことになる。

 そんなに時間が経ってないからまだ近くにいると思うが……

 

「あれ……上杉さん、その腕の傷は」

「ん? ああ、いつの間に。少し血が出てるな……どこかに引っ掛けたか?」

「……ごめんなさい、もしかしたら私の爪が当たっちゃったかもです」

「いいって、気にするな。大した傷じゃないから」

「いけません! 放っておいたらバイ菌が入っちゃうかもしれませんよ!」

 

 絆創膏も残っているし、この程度の傷なら慌てる必要はない。

 しかし四葉にとってはそうじゃないようで……もしかしなくても責任を感じているのだろう。

 ずっと心配され続けるのも肩がこるので、すぐに絆創膏を取りに行くべきだろうか。

 

「失礼しますっ」

 

 四葉は俺の右上腕を掴むと、何を思ったか傷口に口をつけた。

 唇と舌の感触に、思わず声が漏れそうになる。

 そして更に毒を吸い出すかのように吸い付いてきた。

 三玖との一件がなければ、情けなく声を上げていたかもしれない。

 ツバをつけておけば治るなんて話もあるが……まさかこいつ、治療のつもりか?

 

「んっ……とりあえず血は止まりましたね」

「四葉、お前……」

「後は絆創膏か何かで……あっ」

 

 ようやく自分が何をしていたのかに気づいたのか、四葉は顔を赤くして慌て始めた。

 取り乱したいのはこちらだというのに、先に冷静さを失われるとかえって冷静になってしまう。

 腕を見るとやっぱりというかなんというか、痕が残っていた。

 

「あ、いたいた。フータロー、四葉、こっちこっち」

「フー君フー君、次こそは一緒に乗るわよ」

「ど、どうしてもと言うなら私も付き合わなくもありませんが」

「五月ちゃん……これはジェットコースターと同じパターンかな?」

 

 そしてまた間が悪いことに姉妹が集合してくる。

 先ほどの集まりの悪さは一体なんだったのか。

 とにかく、見られる前にまた隠さないといけない。

 

「ちょっと絆創膏を取りに行ってくるな」

「あ、あはは……すみません」

「いいって。それよりまだまだ遊ぶんだからよろしく頼むぜ」

「もちろんです!」

 

 

 

 

 

「いっぱい泳いだねー」

「俺はもうグッタリだぞ……」

 

 あの後は例によって各々に引っ張り回され、最終的に五月とのウォータースライダーがトドメになった。

 余程気に入ったのかリピートが半端なかった。

 最初こそ体が触れたりなんだったりと気にする余地があったのだが、そんな余裕は途中から吹っ飛んでいた。

 思えば他の姉妹がすんなり許したのがおかしかったのだ。

 あれはこうなることを予見していたに違いない。

 俺も初めは断ろうと思ったのだが、五月が唸り始めたので応じざるを得なくなった。

 

「五月、まだジンジンするんだが」

「ご、ごめんなさい……でも、あんな事言った上杉君も悪いと思います!」

「腹を枕みたいって言った事か?」

「また言いましたね!?」

 

 最後の方はもうグロッキーでさながらゾンビ状態だった。

 そのせいで体に力が入らず、五月に思い切り身を預けることになってしまったのだが、それが予想以上に心地が良かったのがいけない。

 疲れ切っててベッドにぶっ倒れたいと思っていたことも関係しているだろう。

 そして思わず正直な感想を口にしてしまい、頬に赤い手形が残ったわけだ。

 

「ひと夏の思い出って感じだねぇ……あ、四葉も水着の跡ついてるね」

「わー、本当だ!」

「あんた、ちゃんとクリーム塗らなかったでしょ」

 

 四葉の首周りに白い線。

 なにかいけないものを見ている気がして、目をそらす。

 

「フータローも真っ赤だよ」

「おぉ、確かに」

「日焼けしたフー君……アリね! ついでに髪も染めてみない?」

「やらないぞ」

「あれ? フータロー君、そこも怪我してたんだ」

 

 一花が指しているのは右腕に貼った絆創膏だった。

 四葉に吸われた痕でもあるのだが、それを言ったところで誰も幸せにならないだろう。

 

「……本当に怪我?」

「寸分の疑いもなくまごう事なく純然たる怪我だ。間違いない」

「むー、怪しい」

 

 しかし三玖は右腕と首の絆創膏を見比べて疑ってきた。

 こいつ、自分がやったもんだから気にしているのだろう。

 その疑いはハズレではないが、怪我をしたのも事実。

 ここはなんと言おうと言い張らせてもらうぜ……!

 

「あ、絆創膏が剥がれかかってますよ。新しいものを持っているので貼り替えますね」

 

 五月のお節介でペリッと剥がされてしまった。

 上三人の視線が右上腕に集中するのをありありと感じる。

 隠そうとしたが、その前に一花が俺の手を掴んで止めた。

 そこにあったのは絆創膏型の日焼け跡の中の小さな傷と、それを覆うような内出血の痕。

 

「なんですかこれ……虫刺され?」

「いや、キスマークでしょ」

 

 一花がズバリ答えを言ってしまった事で、四人の視線が俺の顔に集中する。

 後ろで四葉が口を押さえて顔を赤くしていたが、誰も気づかない。

 まぁ、気づかれていたら一瞬で犯人がバレるのでそれは良しとしよう。

 

「む~~、やっぱり!」

「へぇ、私にはあんまりくっつくなって言っておいて、他の子にはこんなことさせてたのね」

「ううぅ……私もしてみたいです」

 

 三玖は頬を膨らませて、二乃は笑顔だが目が笑っていない。

 五月に至っては自分の願望を垂れ流しにしていた。

 そんな目を向けられても、この場で俺に一体何ができるというのか。

 そして一花はあくまで優しく俺の肩に手を置いた。

 

「とりあえず、話は家で聞こうかな」

 

 その後、懐かしのマンションにて五つ子裁判が執り行われた。

 色々と一方的な裁判になったのは言うまでもない。

 とりあえず四葉は挙動不審が過ぎて、あっという間に被告人席送りになったとだけ言っておこう。

 

 

 




もう少しだけとか、これぐらいならとか考えているうちは抜け出せないことに四葉が気づくのはいつなのか。
気づいたとしてもその時には手遅れかもしれません。

次回は二乃とか一花の話になると思います。


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その衝動に名前をつけるなら

昨日のうちに投稿したかったけど眠気には勝てなかったよ……


 

 

 

「一花が学校を辞める……?」

 

 寝巻き姿のままで二乃は呆然と呟いた。

 夏休み中のとある朝、四葉は先日偶然聞いてしまった事を姉妹に打ち明けた。

 一花はまだ寝ているので部屋から出てきていない。

 

「あの……聞き間違い、とかではないですか?」

「多分、違うと思う」

 

 聞き間違いにしたかったのは四葉も同じだが、残念ながらはっきりと聞いてしまった。

 一花本人に問いただせば話は早かったのだろうが、そこまでの踏ん切りはつかなかったので、こうして先に他の姉妹に打ち明けたのだが……

 

「信じられません。そんな素振りは全然見られなかったのに」

「きっと四葉の早とちり。プールでも楽しそうにしてた」

「そ、そうよ。どうせ一花は相談を受けてただけとか、そういうオチに決まってるわ」

「そうなのかなぁ……」

 

 三人は口々に否定したが、四葉の不安をぬぐい去る事はできなかった。

 そして不安が根付いたのは否定した本人達も同様だ。

 四人は重い空気の中で黙り込んでしまった。

 

「……こうなったらもう、手段は一つよ」

「何か名案があるのですか?」

「単純な話よ。本人に聞く、それが手っ取り早いわ」

「二乃、それはヤブヘビ――」

 

 言い終わる前に二乃は動き出した。

 止めようとした三玖の手は届かない。

 言わんとすることはわかるが、それでは何も進まない。

 待っているだけというのは、二乃の性に合わないのだ。

 一花の部屋のドアに手をかけ、勢い良く開け放つ。

 ここに戻ってきてからそう日は経ってないというのに、もはや床には衣類や雑誌が散乱して雑然としていた。

 部屋の主はベッドの上で寝息を立てている。

 汚部屋を突っ切って、二乃は一花の元へ。

 

「一花、起きなさい」

「う~ん……そこはダメだよぉ、フータロー君……」

 

 一体どんな夢を見ているのやら、必要以上に艶かしい声だった。

 夏場で暑いからか寝姿も相当にきわどい。

 かけられた薄布一枚の下は体のラインがくっきり出ていて、下着を着けているかどうかも怪しかった。

 とりあえずイラっときたので、二乃は一花の体を少々乱暴に揺すった。

 

「起きなさいったら」

「んぅ……あれ、二乃? フータロー君は?」

「いるわけないでしょうが」

「ふわぁ……なんだ、夢かぁ……ならもう一回」

「起きなさいって言ってんでしょ!」

 

 二度寝をカマそうとしたので、チョップを頭に落とす。

 さすがの一花も寝入ることはできず、渋々と身を起こした。

 

「おはよー……朝からどうしたのさ」

「あんた、学校辞めるって本当?」

「え、何それ?」

 

 それなりの覚悟をもっての問いだったが、一花の反応はあっさりとしたものだ。

 首を傾げるその姿に二乃は胸を撫で下ろした。

 部屋の入り口では妹たちが心配そうに見守っていた。

 四葉の杞憂だったのだと、からかってやろうと振り返る。

 しかし一花の次の言葉が二乃の動きを縫い止めた。

 

「なーんて……まぁ、いつまでも黙ってられないよね」

 

 藪をつついて出てきたのは蛇どころではない何かだった。

 三玖の不安は的中したのだった。

 

 

 

 

 

「押してダメなら引いてみろ……なるほど、そういうのもあるのか」

 

 自他共に認める勤勉な俺は病院の入口の前でも勉強に余念がない。

 待ち合わせまでの空き時間を、こうして参考書に目を通すことで有効活用していた。

 先人の知恵に基づいたテクニックは中々に奥が深い。

 気になる異性を如何にして振り向かせるかという話だが、正直こんな高等技術は使いこなせる気がしなかった。

 さじ加減を間違えれば相手が離れていってしまうだろうし、そもそも俺が引いたところであいつらが無遠慮に踏み込んでくる未来しか見えない。

 いや、別に気を引きたいとかそういうわけじゃないんだが。

 

「いや、待てよ……?」

 

 引けば寄ってくるというのならば、逆に押せば距離を取るのでは?

 プールに誘ってからというもの、中野姉妹のマンションに何度か招かれている。

 会えなくて寂しいのなら会いに来ればいいのだと、ドヤ顔で言われてしまったのだ。

 否定したかったが、電話口でそんな事を言ったのは事実だ。

 そしてそれを認めてしまえば、あながち悪い提案とも思えなかった。

 なんたってあのマンションはエアコンが効いている。

 図書館もそうなのだが、今は夏休み中のためか利用者が多い。

 同じく受験生と思しき輩と席の取り合いをするよりは、こちらの方がマシということだ。

 実際に俺がリビングで黙々と勉強をしていようと、あいつらが邪魔してくることはなかった。

 むしろ飲み物やご飯の提供があったりと間違いなく待遇は良い……あくまで勉強している間は。

 問題はその後、これから帰ろうというタイミングで中野姉妹が動き出す。

 引き止めるのは序の口で、自分の部屋に連れ込もうとしたり息抜きと称して遊びに出ないかと誘ってきたり。

 せっかくだから汗を流して行けと言われた時は、身の危険を感じたので全力で辞退した。

 二乃の時と同じように、そんな状況で何かをされて平気でいられる自信はなかった。

 あのプールの一件で思い知ったが、夏休みに入ってからの俺はどうも中野姉妹に対するガードが甘くなってしまっている。

 ここで押すだの引くだのという話に戻るのだが、要は攻められっぱなしなのが問題なのだ。

 逆に俺が攻め込む姿勢を見せれば、あいつらも動揺して二の足を踏むかもしれない。

 重要なのは見せるだけじゃなく、実際にある程度行動に移すことだろう。

 下手な脅しでは一花のようにカウンターが飛んでくる可能性がある。

 その上で自分を制して踏みとどまらなければならないとなれば、相当に難易度が高い。

 しかしやってみる価値はあるように思えた。

 丁度今は二乃と待ち合わせている最中だ。

 店長の見舞いに行く約束をしているのだが、この機会に実践して感触を確かめてみよう。

 

「……お待たせ」

「二乃、来たか……」

 

 緊張で見舞い用に持ってきた花束を握る手に汗が滲む。

 異性に自分からアプローチするなんて、それこそどうすればいいのかわからない。

 参考書にはたしか……駄目だ、頭が真っ白になっている。

 いくら頭に知識を詰め込んだとしても、それを引き出せないようであれば意味がない。

 ぐるぐると空回りを繰り返した末、俺の頭はどうにか手をつないでみるという案を吐きだした。

 早速実行しようとしたのだが――

 

「早く行くわよ。ここ暑いし」

 

 既に二乃は病院内に入ろうとしていた。

 空振った俺はすごすごと後を追うしかない。

 

「……」

「あー、二乃」

「なに?」

「この花なんだが――」

「店長に持って来たんでしょ。いいんじゃない?」

 

 懸念事項の一つはとりあえず解消された。

 それっぽい花をいくつか選んでは来たものの、自信はなかったので元々二乃に意見を求めるつもりだったのだ。

 しかしそれ以上に気になるのは、こいつの態度だった。

 良いとか悪いとかそういう話じゃなく、単純にいつもと違って戸惑ってしまった。

 思えば最近は会うたびに抱きついてきたりと、とにかく接触があったのに今日はそれがない。

 普段より淡白というか素っ気ないというか……

 ベッタリとくっつかれても困るが、いきなりこれでは気になって仕方がない。

 この状況は……そう、まるで例の本に書かれていたテクニックのような――

 

「いや、まさかな……」

「どうかした?」

「な、なんでもない」

 

 なるほど、たしかにこれは効果的だ。

 動揺を悟られないようにするので精一杯だった。

 まさかとは思うが……二乃が意図的にやっているのだとしたら、慌ててしまってはこいつの思うつぼだ。

 そしてそうなのだとしたら、俺が踏み込もうとするのは相手の術中ということになる。

 ……危なかったぜ。

 

「やぁ、二人とも。元気にしてたかい?」

 

 受付を済ませてから病室に向かうと、いつも通りの態度の店長が出迎えた。

 左足には痛々しいギプスが嵌められていたが、それ以外は元気そうだった。

 手術も済んでおり、あとは経過を診て問題がなければ退院という流れらしい。

 

「これ、つまらない物ですが」

「ありがとう」

「これ、花です」

「たしかに花だ。ありがとう」

 

 二乃は手に提げていた紙袋を、俺は持参した花束の一つを渡す。

 見舞いの作法はよく知らないが、とりあえず渡した物に店長が気分を害した様子はなかった。

 ただ、俺と二乃を見比べて自分の顎に手を当てだしたのは気になる。

 俺たちの格好になにか思うところがあったのだろうか。

 二乃の格好は普段とあまり変わらないように見えるし、俺は学校の制服だ。

 店長が何に疑問を抱いてるのかがわからなかった。

 

「ところで上杉君、彼女となにかあったのかい? 元気がなかったようだが」

 

 そして二乃が飲み物を買いに席を外した後にそう切り出してきた。

 元気がない……その言葉が妙に腑に落ちた。

 

「僕の経験上、あまり思いつめないうちにフォローした方がいい」

 

 そうだ、ここは押すだの引くだの考えている場合じゃない。

 せっかくここまで来たのにドロップアウトなんてされたら堪ったもんじゃない。

 あいつには特に手を焼かされたので尚更だ。

 そしてなにより、二乃が悲しんでいるのだとしたらそれをどうにかしたい。

 それが偽りのない俺の本心だった。

 

「店長、すみません」

「いいさ、また店でバイトする時に元気な姿を見せてくれ」

 

 病室を出て二乃を追う。

 どうすればいいかなんてわからなくても、動き出さずにはいられなかった。

 ここ最近で膨れ上がった、性欲とはまた違う青臭い衝動。

 思えば、この感情を一番に意識させてきたのは二乃だった。

 きっと人はそれを恋だとか呼んでいるのだろう。

 そしてそれが複数ある俺は、きっととんでもなく不誠実な男だ。

 

 

 

 

 

『まだはっきりとそう決めたわけじゃないんだけどさ。もう普通に通うのは厳しいと思う』

 

 病院のロビーを所在無く歩く二乃の頭の中では、一花の言葉がぐるぐると巡っていた。

 九月からの長期ロケが決まっていて、その撮影と稽古で日中の大部分の時間が取られてしまうらしい。

 撮影地も離れているので、下手をすれば家に帰れない日も多くなるのだとか。

 当然、学校に通うのは不可能だ。

 他の姉妹も動揺していたが、二乃のショックは大きかった。

 高校を出たら離れてしまうのだとしても、それまでは……いや、だからこそ卒業までの期間は一緒に過ごしたかった。

 風太郎に夢中な二乃でも、この状況では姉妹への想いが勝った。

 

「二乃君」

「……パパ」

 

 声をかけてきたのは、中野姉妹の父親であるマルオだった。

 仕事着である白衣を身につけていた。

 この病院の院長であるため、ここで顔を合わせるのもおかしな話ではない。

 

「一花君から聞いているよ。ようやく帰ってきてくれたみたいだね」

 

 マルオの口から出た名前に、二乃は拳を握り締めた。

 アパートを出る際に、一花があちこちへ連絡してくれていたことは知っている。

 当然、姉妹の父親であるマルオにも報告はしたのだろう。

 

「パパは……一花が学校辞めるって知ってたの?」

「……退学を考慮していると連絡は受けたよ」

「止めなかったの?」

「彼女の夢を考えるなら、確かに学校に通い続けるのは現実的じゃないね」

「答えになってないわ」

「すまないが、もう行かなくては」

 

 二乃と向かい合ったのも一時のことで、マルオはすぐに次の診療へと行ってしまった。

 不満はずっと募っていた。

 なんで家族なのに一緒にいてくれないのか、と。

 それでも普段はずっと飲み込んでいた。

 忙しいのは理解していたし、それが自分たちのためなのだとも思っていたからだ。

 不自由のない暮らしを与えてくれていることにも感謝している。

 しかし、この場においては踏み込んでこようとしない父親への不満が勝った。

 

「――いつもそう!」

「家にいても全然帰ってこない! 私たちに何かあっても全然連絡もくれない!」

「去年、私と五月が家出した時だって電話もメールもくれなかった!」

 

 二乃が喚き散らしてもマルオは一瞬足を止めただけで、すぐに歩き出してしまった。

 怒りと悔しさと悲しさとやるせなさ……様々な感情が混ざった涙で視界が滲む。

 周囲の人たちが何事かと目を向けるが、気にする余裕はなかった。

 フラフラと近くのソファーの背もたれに手をつく。

 

「パパなんて、パパなんて……」

 

 うわ言のように呟く。

 そんな二乃に触れようとするものはいなかった。

 ただ一人を除いて。

 

「二乃!」

「……フー君」

 

 

 

 

 

 二乃の手を引いて何処かを目指す。

 これからやろうとしている事を考えれば、できるだけ人がいない場所が望ましい。

 

「……」

 

 まるで糸が切れた人形のようにされるがままだった。

 ロビーで涙を浮かべた二乃を見つけた時、俺は自分を殴り倒したい衝動に駆られた。

 なんで気づいてやれなかったのか、と。

 二乃の様子がおかしいことは最初からわかっていたはずなのに。

 傲慢かもしれないが、俺にはこいつと向き合ってきたという自負がある。

 それだけに自分の不甲斐なさがただただ腹立たしい。

 

「二乃、大丈夫か?」

「……大丈夫、じゃないかも」

 

 その言葉に少しだけ安心する。

 大丈夫じゃないと言ってくれるということは、こちらに向けて助けを求めているということだ。

 助けを求められない奴は、こういう時にも大丈夫と言って誤魔化すのだ。

 一花と四葉の顔が浮かぶ……浮かぶといってもほぼ同じ顔なわけだが。

 あの二人は理由は違えど問題を抱え込む傾向にある。

 まぁ、俺も五月に叩かれて目を覚ましたぐらいだから人のことは言えないか。

 ともかく、今は二乃だ。

 人気のない廊下で立ち止まる。

 

「今から俺は自分がやりたいことをする。文句や不満、その他に言いたいことがあったらそれが終わってからにしてくれ」

 

 二乃は目を伏せたまま小さく頷いた。

 よし、とりあえずは了承を取った。

 あとは俺の踏ん切りだけ。

 なにも難しく考えることはないはずなんだ。

 いつもやられていることを、こいつにし返すだけなのだから。

 そうして深呼吸すると――俺は思い切り二乃を抱きしめた。

 

「――っ」

「どうだ、恥ずかしいか? 恥ずかしいだろ。俺はいつもこんな思いしてるんだぞ」

 

 フォローするなんて言っても具体的な方策が思いつかない俺は、もういっそ開き直って行動で示すことにした。

 離してなんてやらない、一人にしてなんかやらないのだと。

 ともすれば俺の執着から出た行動なのかもしれないが、ストレートな二乃には同じくストレートに、だ。

 いつか模試の時も同じようにしていたが、あの時のように必要に迫られてじゃない。

 俺は、俺がしたいからこうしている。

 

「フー君……」

「苦しいか? でももう少しだけ我慢してくれ」

「ううん、安心する」

 

 背中に二乃の手が回される。

 いつものようにいたずらに情欲を煽ろうとするものではなく、あくまでも優しい手つきだ。

 無言のまま抱き合い、しばらくしてからどちらともなく離れる。

 二乃の顔が見れないので天井の蛍光灯を見上げる。

 鼓動は早いのに気分は悪くなかった。

 

「フー君はいなくなったりしないで、ずっと傍にいてくれる?」

「……現実的には難しいな」

 

 高校を出て県外の大学に進学するという目標は変わらない。

 卒業してひと月も経てば俺は中野姉妹と物理的に離れざるを得なくなるだろう。

 五月に言ったように、距離が離れることで切れる関係もあるのかもしれない。

 

「だがあいにくと、俺はお前らとの関係を切る気はさらさらない」

 

 俺には中野姉妹を変えた責任があるらしい。

 そして俺から言わせれば、こいつらにも同様に俺を変えた責任がある。

 お互い様、というやつだ。

 

「なにそれ、ストーカー宣言?」

「何とでも言え。とりあえず、これだけ渡しておくわ」

 

 手に持った花束を二乃に渡す。

 元々そうしようと思って持ってきたものでもある。

 たしか、明日だったはずだ。

 

「花束? も、もしかして愛の告白かしら」

「お前にじゃねーよ。お前の母親にだ。命日は明日だったろ」

 

 詳しい日にちは前に四葉から聞いたことがある。

 月命日に毎回通っているのは五月だけだが、命日にはみんな揃って行くのだという。

 

「俺は部外者だから大したことは出来んが、せめて花だけは贈らせてくれ」

「……ううん、そんなこと言わないで。フー君も一緒に来てほしい」

「いいのか?」

「聞いてもらいたいこともあるし……それに、お母さんに私の大好きな人を紹介したいの」

 

 照れながらも穏やかな笑顔。

 これだ、この顔が俺の青臭い衝動を一番揺り動かす。

 自然と二乃の頬に手が伸びた。

 二乃は俺の手をとって自分の頬に擦り付けると、目を閉じて顔を少し上に傾けた。

 行為自体は慣れたものだが、いざ自分からとなるとやはり緊張してしまう。

 それでも嫌な気は全くしない。

 俺は、吸い寄せられるように二乃と――

 

「何をしているのかね?」

「「――っ!」」

 

 その声に弾かれるように離れる。

 少し離れた廊下の先に中野父の姿があった。

 冷や汗がダラダラと流れ出す。

 い、一体いつからそこに……

 

「上杉君」

「は、はい」

「君の学業における成績は申し分なく素晴らしい」

「あ、ありがとうございます」

「家庭教師としての手腕ももはや疑うことはないね」

「きょ、恐縮です」

「娘達のために尽力してくれたことにも感謝している」

「そ、それほどのことでは……」

「しかし君はあくまでも家庭教師……僕の言いたいことはわかるね?」

 

 要約すると、娘に手を出したらタダじゃおかねぇぞ、だろう。

 家庭教師に復帰する際に散々釘を刺されたことを思い出す。

 コンプライアンス違反からのクビという図式が頭を過ぎった。

 

「くれぐれも……くれぐれも、よろしく頼むよ?」

「精一杯励みます!」

「よろしい。では、僕は失礼するよ」

 

 いつかと同じように、俺にたっぷりと圧をかけて中野父は去っていった。

 その背中が見えなくなるまで動くことができなかった。

 切れた時の親父にも匹敵するほどの迫力だった。

 

「……何しに来たのかしら。さっきはあんなに騒いでも振り向きもしなかったくせに」

「何ってお前な……」

 

 今の言葉から察すると、病院のロビーで二人は顔を合わせたようだ。

 その際に色々とあったのだろうが、中野父は忙しくしているのだと聞く。

 そんな人がこんな廊下の外れまでやってくる理由はそう多くないだろう。

 しかも去っていった方向を見るに、来た道を引き返していったようだ。

 これはもう、娘を心配して見に来た以外の答えは見つからなかった。

 俺からしたらかなり分かりやすいのだが、二乃からしたらそうではないのだろう。

 

「墓参り、親父さんは来ないのか?」

「……来るわけないでしょ」

 

 二乃は面白くなさそうに吐き捨てたが、俺にはそれが寂しさを堪えているように見えた。

 

 

 

 

 

 翌日、俺は五つ子にくっついて中野家の母の墓参りに来ていた。

 ここに来るのは二度目になるか。

 最初は丁度半年前、今とは正反対に寒い時期だった。

 あの時は五月の様子を見るために訪れたのだが、先生になるという夢を聞いたのもそれが最初だったか。

 

「どうかしましたか?」

「いや、今日は暑いな」

「今日は、と言うより今日も、と言うべきですね」

 

 五月は毎月律儀に墓参りに来ているらしい。

 周囲の墓石と比べて綺麗に見えるのは、こいつがこまめに掃除しているからだろうか。

 それだけ母親への思い入れが強い、ということか。

 姉妹の母親役を務めようとしているのも、そこに関係しているのかもしれない。

 

「っと、水はここでいいか?」

「うん、ありがとフータロー。四葉、雑巾出して」

「はいはーい」

 

 一応掃除のために水を汲んできたのだが、ほとんどすることはなかった。

 毎月の手入れが行き届いているからだろう。

 軽い掃除を終えて持参した花を供えると、中野姉妹は並んで手を合わせ始めた。

 各々が何を思っているのかはわからない。

 しかしひたむきに手を合わせる姿から、亡き母親への想いの強さが垣間見えた。

 俺も五つ子にならって手を合わせる。

 面識も何もない部外者だが、故人の冥福だけは祈らせてもらおう。

 あなたの娘達は精一杯元気にやっているぞ、と。

 

「そういえばこの花、だれのなんだろ」

 

 四葉が指したのは俺達が来る前から供えられていたものだ。

 可能性として一番ありそうなのは中野父か。

 あの爺さんという可能性もあるが、島から出てくるのならこいつらも把握しているだろう。

 もちろんその他の生前の関係者という線もある。

 なんにしても、こうして考えたところで答えはわからない。

 

「お父さんじゃない?」

「まさか、そんなわけないでしょ」

 

 三玖の言葉を否定する二乃。

 意固地になっている気がするが、多分気のせいではない。

 思えば、三月の旅行の時以外であの父親とこいつらが一緒にいるのを見たことがない。

 職業柄忙しいのは理解できるが、休みの日にも全く顔を合わせないのは少々不自然だ。

 しかし無関心なのかといえば、それは違うと断言できる。

 本当にどうでもいいのなら、娘達に悪い虫が近づいたとしても気にかけたりはしない。

 いや、決して俺が悪い虫だというわけじゃないんだが。

 

「さ、一通り済ませたし帰ろっか」

「その前に少しいいかしら」

「どうかした? あ、せっかくフータロー君もいるし皆でご飯食べてく?」

「言わなきゃいけない事、あるでしょ」

「……」

 

 真剣な表情の二乃に対して、一花は気まずそうにしていた。

 見守る他三人もどこか表情が硬い。

 楽しい話題ではないのは雰囲気で嫌でもわかってしまう。

 二乃が昨日言っていた『聞いてもらいたいこと』がそうなのか。

 病院では詳しい話は聞けなかったため、俺は一花の言葉を待つしかない。

 目をそらして黙り込んでいた一花だが、意を決するように深呼吸。

 そして静かに口を開いた。

 

「……実は、学校を辞めようか迷ってるんだ」

 

 学校を辞める……つまりは一花がいなくなる。

 以前も同じような事を言われたことがある。

 だと言うのに、その言葉は決して少なくない衝撃を伴って俺の中に突き刺さった。

 あの時と違いがあるとすれば、それは俺の中の感情だ。

 受け入れがたい喪失感が俺の心臓を鷲掴みにしようとしていた。

 

「林間学校の時もそんな事を言っていたな」

「そうだね……」

「今回もなんとかならないのか?」

「長期ロケで学校に通ってる時間が全然ないんだ。家に帰れない日だってあると思う」

 

 今まで一花は女優業と学校を両立させてきた。

 穴を開けることもあったが、基本的な軸は学校生活にあったはずだ。

 それは事務所側の配慮があったのかもしれないし、そもそも駆け出しゆえに多大な影響を及ぼすほどの仕事がなかったのかもしれない。

 なんにせよ、一花自身の努力でカバーできる範囲だったのだ。

 

「社長も心配してくれてさ。私の意思を尊重するって言ってくれたけど、正直今まで通りっていうのは難しいだろうって」

「そう、か……」

「ねぇ、フータロー君……私、どうしたらいいのかな?」

 

 震えた声と、縋るような目。

 妹達の前で張っていた長女としての意地は剥がれていた。

 そして平静を失っているのは俺も同じだった。

 こいつが自分の夢にどれだけ直向きなのかはよく知っている。

 女優としての成功を望むのならば、あの社長の言うとおりにすべきだろう。

 しかし、俺の中の青臭い衝動がそれを認めない。

 理性は背中を押すべきだと訴え、感情は引き止めろと喚き散らす。

 そのせめぎ合いの中でやっと出たのは、逃げの言葉だった。

 

「……それはお前自身が決めることだろ」

「そっか、そうだよね……ごめんね、困らせちゃって」

 

 一花は寂しそうに笑った。

 見ていられなくて、堪らず目をそらす。

 自分の無力さに怒りが湧いてくる。

 必要とされる人間になるために勉強をしてきたはずだった。

 だというのに、必要とされた時に何もしてやれない。

 俺は、一花のこんな笑顔が見たいわけじゃないというのに。

 

「悪い、先に帰らせてもらう」

「フー君!」

「すまん、少し一人で考えたいんだ」

 

 二乃の声に背を向けて歩き出す。

 俺を頼ってくれたというのに、文字通り合わせる顔がなかった。

 そしてこの日の夕方、中野父から電話が来た。

 一花を家庭教師の対象から外す――内容は簡潔だが受け入れがたいものだった。

 

 

 




長くなりそうなのでここらで切ります。


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二つの道

暑くて脳がメルトダウンしそう……


 

 

 

「……」

「お兄ちゃんが死んでる……」

 

 あれから考えてみても理性と感情が和解することはなかった。

 思考は延々とループを繰り返し、いつしか俺は無気力状態に。

 最早勉強にも手がつかないので、死んでいると言われたらそうなのかもしれない。

 

「重症だねぇ……もしかしてフラれちゃった?」

「ふぐっ」

 

 フラれたという言葉が心に突き刺さった。

 一花とは恋人関係ではないし、俺が交際を申し込んでいるわけでもない。

 しかし家庭教師としては三行半をもらってしまった。

 学校を辞める方向に舵を切ったのは理解できるし、それと同時に愛想を尽かされたという考えも湧いてきてしまう。

 俺の煮え切らない態度が原因だったのかと思うと、やるせなくて仕方がない。

 

「え、まさか本当にフラれちゃったの!?」

「そ、そんなことないさ、ははは……」

 

 無理矢理ひねり出した笑いは、自分でもわかるほど力がない。

 らいはに心配させまいとしたが、これでは逆効果だ。

 つくづく不甲斐ない兄だと、また心が沈んでいく。

 

「帰ったぞー」

「あ、おかえりお父さん」

「ガハハ、遅くなりすぎて朝帰りになっちまったなぁ!」

「待っててね、今ご飯用意するから」

「おう、悪いな。ゆっくりでいいぞ」

 

 親父は朝っぱらから騒がしい。

 俺の沈みっぷりと相殺されるので、これはこれでいいのかもしれない。

 声を出すのにも気力が必要なので手だけ上げて挨拶しておく。

 

「なんだ、随分暗ぇな風太郎。もしかして嬢ちゃん達にフラれたか?」

「ふぐっ」

「お父さんそれ禁句!」

「お、おう……その、すまん」

 

 親父が思わず謝る程度には俺の状態は深刻らしい。

 もうどうしようもないので、いっそ放っておいて欲しかった。

 

「あ~……らいは、飯の準備にどれぐらいかかる?」

「えっと、十分ぐらい?」

「そんだけありゃ十分か。すぐ戻るが、ちょっと出てくるぞ」

 

 なんの用事かは知らないが、親父はまた外に出るらしい。

 まぁ、どの道俺には関係ない――

 

「風太郎、お前も来い」

「ぐえっ」

 

 またいつかのように襟首を掴んで立たされる。

 拒否したら引きずり出されかねないが、親父に話してどうにかなるとも思えない。

 

「親父、悪いが――」

「いいから出ろ。このままだと家の中が湿っぽくて仕方ねぇだろうが」

「……」

 

 らいはの不安気な表情。

 親父の言う事はもっともだった。

 このまま心配させ続けるよりは、外に出て気分転換を図った方がいいのかもしれない。

 

 

 

 

 

「……なるほどな」

 

 俺が話し終えると、親父は難しい顔で考え込んだ。

 話せと迫られたので話したが、親父がどうこうできる問題じゃない。

 しかし、ほんの僅かだが心が軽くなった気がした。

 少しでも協力してくれようとしている姿勢が、そうさせているのかもしれない。

 

「悪い、聞き出しといてなんだが、俺にはどうすることもできん」

「まぁ、そうだよな」

「関わりの薄い俺が何を言ったところで、一花ちゃんは納得しないだろうな」

 

 親父の言う通り、部外者が口を出したところで一蹴されるのがオチだ。

 俺の親だからと無下に扱うことはしないだろうが、それでも考えを改めるには至らない。

 そもそも、そうやって思いとどまらせるのが正しいかどうかもわからないのだ。

 

「どうにかできるとしたら、それは家族かお前だけだろうな」

「そんな権利が俺にあるのか……?」

「そんなもん誰だってない。あるとしたらそれは本人だけだ」

 

 つまり結局は一花の選択なのだ。

 中野父からの電話の内容が重くのしかかる。

 あの時引き止めれば、一花は思いとどまったのだろうか。

 

「背中を押すか、引き止めるか。それも決められねーってなら、そうだな……とにかく話せ」

「話す?」

「そうだ。一人で悩んでも答えが出ないなら、もう誰かと話して考えるしかないだろうが」

 

 自分で答えが出せないから他人を頼る。

 もしかしたら、あの時の一花はそうしたかったのかもしれない。

 それはあいつ自身が選ぶ道だし、最終的に自分で決めなければならない事には変わらない。

 だとしても、俺にも出来る事はあったはずなのだ。

 あらためて自分への怒りが湧いてくるが、これでいい。

 これを原動力にして俺は動こう。

 せめて自分の中の答えを見つけ出さねば、二度と一花と向き合うことが出来なくなる。

 

「わかったよ。ありがとう、親父」

「ガハハ、気にすんな! 湿気たツラされちゃ飯もまずくなるってだけだからよ」

 

 

 

 

 

 昼食後の中野家のリビング。

 夏休み中のこの時間ならば、大抵誰かしらバイトやら別の用事で留守にしているはずだが、今日は珍しいことに姉妹全員が揃っていた。

 食器を洗いながら、二乃はソファーに座ってテレビを見る一花に目を向ける。

 これから学校に用事があるとのことで、制服を着ていた。

 その用事がなんであるのかは考えたくもない。

 唇を噛み締めていないと涙が出てしまいそうだった。

 他の姉妹も一花が心配なのか、自分の部屋に戻らずにリビングに居座っている。

 誰も言葉を発さず、どこか緊張した空気が漂っていた。

 

「それじゃ、そろそろ行こうかな」

 

 大きく体を伸ばしてから、一花が立ち上がる。

 部屋を出ていこうとするその背中に、二乃は追いすがるように声をかけた。

 

「本当にそれでいいの?」

「……もう決めたことだから」

「フー君だって私が貰っちゃうわよ? それでもいいの!?」

「良くはないけど……もしそうなったら、しばらくは預けておくよ」

「絶対渡してなんかあげないから」

「どうかな? フータロー君、結構押しに弱いし」

 

 挑発的に笑った一花だが、二乃はそれに応じない。

 それどころか、目尻に涙を浮かべていた。

 いつも通りを演出するのに失敗したことを悟ると、一花は目を伏せて二乃の肩に手を置いた。

 

「ごめんね」

「謝らないでよ……」

「二乃……ごめん」

「だから謝らないで!」

 

 震える二乃の肩を優しく摩ると、一花は今度こそ部屋を出ていってしまった。

 残された姉妹の間には重い沈黙が蟠る。

 それでも五月は立ち尽くす二乃に寄り添った。

 こんな時なら母はどうするだろう、と考えた上での行動だ。

 

「二乃、大丈夫ですか?」

「……逆に何であんたは平気なのよ」

「寂しいですけど、家では一緒に居られますから」

 

 家では一緒に居られる。

 五月の言葉で、四葉はかつて自分が落第を通告された時のことを思い出した。

 その時は他の姉妹もついて来てくれたため、今の高校でも一人になることはなかった。

 今の一花はどうなのだろうか。

 テストの点数で落とされた四葉とは違い、自分の意思で学校を辞めようとしている。

 大きな決断だったに違いない。

 心残りだってあるはずだ。

 昨日、母の墓前で風太郎を見送った時の、一花の寂しそうな顔が頭に浮かんだ。

 本音を言えば、二乃と同じように引き止めたかった。

 思いとどまったのは、本人の意思を尊重したからだ。

 それでもどこか引っかかってしまうのは自分の感傷か、それとも――

 

(無理、してないといいんだけどな……)

 

 穿った見方をするのなら、学校を辞めることで自分の退路を断ったようにも思える。

 もしそうだとしたら、背中を押されたことで誰にも頼れなくなってしまうのだとしたら……

 湧き出てくる嫌な考えを頭を振って払いのける。

 

「一緒に卒業できないのは残念ですけど、それ以上に大事なことを見つけたんだと思います」

「……呆れるぐらい優等生ね」

 

 五月を一瞥すると、二乃は階段を上がって自分の部屋へ。

 そして部屋に入る前に一言。

 

「でもそれって、本当にあんた自身の言葉なのかしら」

 

 ドアが閉まる。

 二乃を見送ったまま、今度は五月が立ち尽くしてしまう。

 

「五月、大丈夫?」

「ええ……すみません、私も部屋で休ませてもらいます」

 

 終始見守っていた三玖が声をかけると、五月も自分の部屋へと引っ込んでしまった。

 二乃の言葉に思うところがあったのは間違いないだろう。

 残された二人は顔を見合わせた。

 

「……私がもっと早くみんなに伝えてたら、こんなことにはならなかったのかな」

「どうだろう。一花は迷ってたみたいだけど、そうするしかないならそうしてたと思う」

 

 皮を剥けばダラけ放題な一花だが、一度決めたことに対する意思は固い。

 それは仕事と学校を両立していたことからも伺える。

 ただ、今回は無理に答えを出したように思えた。

 それならばと、三玖は着替えるために自分の部屋へ向かう。

 学校へ行くのなら制服を着用する必要がある。

 手早く身支度を済ませると、三玖は再びリビングへ。

 

「それじゃ、私も行ってくるね」

「えっと、もしかして一花を止めに?」

「それもあるけど、ちょっと話したいことがあるから」

「私も――」

「ううん、四葉は残って。二人が心配だし」

「……そうだね。じゃあ、一花の事は三玖に任せるよ」

 

 四葉も着替えるために自分の部屋へ向かおうとしたが、三玖の言葉で思いとどまった。

 一番の心配は一花だが、他の二人の事だって心配だ。

 この場にいて何ができるかはわからない。

 それでも自分までいなくなっていたら、二人が不安になってしまうかもしれない。

 逸る気持ちを抑えて、四葉は三玖を見送った。

 

 

 

 

 

 織田芸能プロダクション――女優として一花が所属する事務所だ。

 その応接スペースのソファーに座って、俺は麦茶などを頂いていた。

 社長に会うために来たのだが、まさかアポなしですんなり通されるとは思わなかった。

 事務員さんの話によると、もうすぐ戻ってくるそうなのだが……

 

「君は……」

「どうも、菊は元気?」

 

 喉を潤しているうちに、見知った顔が現れる――織田社長ご本人だ。

 ここに俺がいるのなんて予想外だろうから、面食らうのも仕方ないだろう。

 

「突然で申し訳ないが、少し話がしたい」

「そうか……いや、皆まで言わずともわかるよ」

 

 織田社長は訳知り顔で頷いた。

 それならば話は早い。

 早速だが本題に移らせてもらおう。

 

「他でもない一花の事なんだが」

「ようやく我がプロダクションに入る決心をしてくれたんだね」

 

 こっちとむこうで同時に発した言葉は、なんだか噛み合っていなかった。

 え、じゃあさっきの訳知り顔はなんだったんだよ。

 社長は今度は困惑顔で首をかしげていた。

 困惑したいのはこっちだというのに。

 

「いや、今日はそういう話ではなく」

「なんだ、違うのか……」

 

 あからさまに残念がられても、今も未来も俺に芸能活動をするつもりはない。

 いや待て……稼げるのならそれはそれでいいのでは?

 そして演技をする自分を想像してみたのだが、浮かんだのは金髪のカツラをかぶってキンタローと名乗った自分だった。

 ……やっぱり演技はこりごりだな。

 

「さっきも言ったけど、今日は一花の話をしに来た」

「一花ちゃんの……もしかして退学の件かい?」

「ああ、俺自身どうすればいいのか未だに決められない。だから話を聞きに来た」

「僕の立場から言わせてもらうと偏った意見になる。それでもいいのかい?」

「女優としての一花を語ってもらうなら、あんたを置いて他ないと思った。違うか?」

「――! 確かにその通りだ!」

 

 それから社長はすごい勢いで喋り始めた。

 立てた板に水が流れていくように、とにかく止めどない。

 街で一花を見かけた時の直感、いつかのオーディションで得た確信。

 そして今に至るまでの女優としての足跡。

 時計の長針が何周かして、麦茶のおかわりを何度もらったか。

 つーかこの人は自分の仕事はいいのだろうか。

 いや、俺にお時間を割いてくれるのは素直にありがたいんだが。

 

「とまぁ、ここ最近の彼女の躍進は実に目覚しい」

「それは姉妹と揃って過ごせる最後かもしれない機会を犠牲にしても?」

「……彼女の家族への思い入れは理解しているつもりだ。しかし、きっかけは僕が与えたものだとしても、彼女の夢は本物だ」

 

 学生と女優の二重生活は俺が思う以上に辛いものだったのだろう。

 それでも投げ出さなかったのは、一花にとってどちらも大切なものだったからだ。

 そしてあいつは夢の方を選んだ……俺が選ばせてしまったのかもしれない。

 

「退学の提案は僕がしたものだ。今回の撮影では今まで通り学校に通うのを諦めざるを得ない」

「ずるいな。一花に選択肢を与えたようで、選ぶ余地なんかほとんどない」

「その通りだ」

 

 社長は俺の指摘をすんなりと認めた。

 悪びれる様子が一切ないのは、これが女優として大成するためだと確信しているからだろう。

 そしてそれはきっと間違いじゃない。

 テレビもろくに見ない程度には芸能界に疎い俺の意見よりかは、ずっと正しいはずだ。

 

「この業界は新陳代謝が早い。売り時を逃したらあっという間に沈んでしまう」

「一花ちゃんのその時は今だ。ここでの頑張りが将来を決定づけると言っても過言じゃない」

「姉妹との学校生活ももちろん大事だろう。しかし、女優としても今しかないんだ」

「ならば僕はプロダクションの社長として、彼女の才能に惚れ込んだ者として、女優としての彼女を支え続ける……それだけだよ」

 

 ここで退学してしまったら、姉妹全員で卒業する機会は永遠に失われる。

 それと同じように、女優としての夢を叶えるためには今が重要。

 夢は諦めなければなんて言うが、それは可能性の話であって現実的には厳しいはずだ。

 機会を見送ってどうにかなるほど芸能界というのは甘くない……そういうことなのだろう。

 

「大体わかった、ありがとう。菊にもよろしく言っておいてくれ」

「折角だし、良かったらこれから見学でもどう?」

「いや、それは結構」

 

 その場を辞して事務所を出る。

 社長はまた残念そうな顔をしていたが、俺にはたった今やる事ができた。

 一花の夢、そして全員に笑顔で卒業してもらうという俺の目標。

 どちらも譲れないというのなら、結局はどちらも取るしかないのだ。

 

 

 

 

 

 ペンタゴンの玄関を抜けてエレベーターへ。

 待ち時間が焦れったいが、走って登るのは初回のあれだけで十分だ。

 最上階に着くと足早に中野家の部屋を目指す。

 とにかく今は一花と話したかった。

 

「上杉さん、急にどうしたんですか?」

「一花はいるか?」

「えっと……実はお昼過ぎに学校に」

「そうか……」

 

 このタイミングで学校に行くとなれば、その目的は退学の手続きだろう。

 一足遅かったという後悔が押し寄せるが、逆に焦る必要はなくなったとのだと思いなおすことにした。

 退学届けを受理してから手続きが済むまでは多少の時間が空くはずだ。

 とりあえず落ち着こうと深く息を吸い込む。

 そうしてやっと四葉の姿をまともに見て、同時に思いっきり顔をそらした。

 

「おまっ、なんて格好してるんだ!」

「あー……丁度シャワーを浴びていたので」

 

 なるほど、それならその体にバスタオルを巻いただけの格好やしっとりと濡れた髪にも納得だ。

 納得したからといって平気なわけではないのだが。

 特に首の周辺の日焼け跡が妙に艶かしく見えていけない。

 しかし一階で対応してくれたのは四葉だったので、俺が来ることは分かっていたはずだ。

 他の姉妹はどうしたのだろうか。

 一花はいないとしても、玄関には三人分の靴があった。

 だとしたら四葉以外にも二人が家の中にいるはずだ。

 シャワーを浴びていた四葉が俺を出迎えたところを見ると、手が離せない状況なのか。

 もしくは、一花の件で精神的に参っているのかだ。

 もちろんただ単に寝ているという可能性もあるが、それを一番やりそうなのは一花だ。

 なんにしても、このリビングにいないのなら自分の部屋にいるのだろう。

 俺が階上に目を向けていると、四葉は一花が学校に行く前にあった事を話し始めた。

 やっぱりと言うかなんと言うか、予想に違わず一悶着あったらしい。

 その結果、二乃と五月は部屋に引っ込み、三玖は一花を追って学校に向かったそうだ。

 

「……一花の夢も学校も、諦めないでいられたら良かったんですけどね」

「何かを選ぶってことは、何かを選ばないってことだ。どっちもなんてのは都合が良すぎる」

 

 どちらも得ようとして、結局どちらも取りこぼすという結果もあり得る。

 二兎を追う者は一兎をも得ず、というやつだ。

 

「……だがそれは、あいつが一人で頑張るならという前提での話だ」

「え?」

「二人と話してくる。とりあえずお前はさっさと服を着ろ」

 

 今更羞恥心を思い出したのか、四葉は慌てて自分の部屋へと引っ込んでいった。

 俺も階段を上ると、一番近い二乃の部屋へ。

 ノックしても返事はない。

 仕方がないので一言だけ断りを入れてからドアを開けた。

 普段されている事を考えれば、こっちだって少しくらい遠慮を忘れたっていいだろう。

 

「二乃」

「……勝手に入らないでよ」

「すまん、どうしても話しておきたくてな」

 

 ベッドに仰向けに寝転んだ二乃は、目元を腕で隠していた。

 声には明らかに元気がない。

 もしかしたら泣いていたのかもしれない。

 

「お前が頼ってくれたのに俺は何もすることができなかった……まずはそれを謝らせてくれ」

「……」

「でも今は自分なりの答えを見つけた。それをこれから伝えに行くつもりだ」

「……どうにかできるの?」

「わからん、結局は一花次第だ。だが、何もしないで成り行きを見守るのは真っ平ごめんだ」

 

 確実性などない。

 ともすれば今まで以上の負担を強いるものだし、一花が乗ってこなければそれまでだ。

 だがそれを理由に諦めてしまうほど、俺はお利口じゃない。

 

「これから学校に向かう。とにかくあいつを捕まえないとな」

「待って」

 

 部屋を出ようとすると、二乃の声に引き止められる。

 振り向こうとしたら背中に抱きつかれた。

 柔らかい感触に意識が向くが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。

 

「一花の事、お願い」

「お願いなんて言うな。お前らにもやってもらう事があるんだからな」

「それって?」

「……後で話す」

 

 非常に格好が悪い頼み事のため、この場では言い出せない。

 保険とも最終手段とも言えるものだが、俺にとってはまさにハードルが高い手段だ。

 二乃の部屋を出て今度は五月の部屋へ。

 ノックをすると入室を許可された。

 部屋のドアを開けると、五月はメガネをかけて机に向かっていた。

 

「勉強か。感心したぞ」

「受験生ですから」

 

 そうだ、これが受験生のあるべき姿のはずなのだ。

 ただ、思いつめたような顔なのは、四葉が言っていた一悶着と関係しているのだろう。

 一花の事は当然として、二乃の事も心配しているのだろうか。

 

「二乃とはさっき話してきた。一花の心配はわかるが、お前もあまり思いつめるな」

「……二乃の気持ちはわかります。私も少なからず同じ思いですから」

 

 一花を引き止めようとした二乃。

 残念ながら止める事は叶わなかったが、五月はそれを慰めようとしたのだとか。

 母親役を買って出ているぐらいだ、それぐらいはするだろう。

 

「それでも一花の意思を尊重すべきだと思いました。学校よりも大切なものを見つけたのだと」

「あいつの夢、か」

「だけど……二乃に指摘されて、それが自分の考えなのかわからなくなってしまいました」

「母親ぶって言ってるだけなのかもしれないって事か」

 

 五月は小さく頷いた。

 理由は様々だが、自分の中の答えが見えないなんてのは誰にだってある事なのだろう。

 現に俺もそれに漏れなかった。

 

「一花と一緒に卒業したいという気持ちはあるか?」

「……もちろんです」

「ならあいつの夢はそのために諦めるべきだと、そう思うか?」

「ありえません! だって一花はあんなにも頑張ってきたのに……」

「なら今はそれでいいだろ」

 

 当たり前のことだが、五月は自分の母親ではない。

 母親役というのも、自分の中の母親像から引っ張ってきているに違いない。

 そしてそれは実際の母親とイコールではないはずだ。

 自分の中の理想像にはどうしたって願望が混ざる。

 理想の母親を真似て言葉を発したとして、結局は自分の中にあるものしか出てこないのだ。

 つまりは一緒に卒業したいという気持ちも、応援したいという気持ちも、そもそも五月の中にあるものでしかないという事だ。

 

「俺がどうにかする、なんておこがましい事は言わない。だが俺は俺に出来る事をしよう」

「……信じてもいいんですか?」

「そんな他人任せでいられると思うな。お前らにもしっかりと苦しんでもらうんだからな」

 

 くくく、と悪人っぽく振舞ってみたが、五月はクスッと笑っただけだった。

 どうにも決まらないが、沈み込まれるよりは断然マシか。

 五月の部屋を出てリビングへ。

 そして玄関に向かおうとしたところで四葉に呼び止められた。

 

「上杉さん!」

「どうした」

「一花もきっと、学校を辞めたいわけじゃないんだと思います」

「ああ、わかってる」

「だから……一花をお願いします!」

 

 まったく、どいつもこいつも俺の背中に荷物を乗っけようとしやがる。

 裏を返せば、それだけ信頼されているという事なのかもしれない。

 重く感じるのは確かだが、悪い気はしなかった。

 

 

 

 

 

 夏休みの校舎はガランとしていた。

 部活動のために登校している生徒もいるのだが、運動部は体育館や外で活動しているし、それ以外は基本的に部室から出てこない。

 そのため、共用スペースには人気がなかった。

 その中を一花は歩く。

 職員室で退学の申し出を受理されてから、こうして一人で思い出を振り返っていた。

 学食、教室、図書室、屋上……この学校に来てから一年と経っていないが、密度は濃かったと断言できる。

 もうどれぐらいこうしているのか、正確な時間は分からない。

 一花は顔が広いため、他の生徒に見つかったら声をかけられていたのもあるだろう。

 すでに窓から差す日は傾き始めていた。

 

「……あのさ、いつまでそうしてる気?」

 

 一花は振り返って、曲がり角に身を隠した三玖に声をかけた。

 実は途中からこうやって後ろに張り付かれていたのだ。

 用があるのなら話しかけてくるだろうから、あえて追求はしていなかったのだが。

 

「タイミングを伺ってた」

「普通に話しかければいいじゃん」

「声をかけようとしたら誰かに捕まってるし」

「あはは、人気者は辛いねぇ」

 

 本当の事を言ってしまえば、単純に声をかけづらかったのだ。

 一人で学校を回るという行為が、一花にとって大事な時間のように思えてならなかった。

 三玖にはそれを邪魔することができなかった。

 

「……先生には話したの?」

「うん、応援してくれるって……何かもう、覚悟が決まったって感じかな」

「それで良いの?」

「良いも悪いもないよ。これが私の道ってだけ」

「……本当は、フータローに引き止めて欲しかったんじゃないの?」

 

 その指摘に一花は力なく笑った。

 三玖の言葉を否定も肯定もしなかった。

 

「私もさ、散々迷ってたからかな……どうにかしてくれるんじゃないかって思っちゃったんだ」

「フータロー君が言った通り、私が決めなきゃいけないことなのにね」

「三玖はあの時の顔見た? ……すごく辛そうにしてた」

 

 母の墓前で見せた風太郎の表情が頭から離れなかった。

 苦しそうに歪んだその顔は、決して一花の望んだものではなかった。

 当たり前の話だが、風太郎は超人ではない。

 勉強に関しては図抜けているが、身体能力は同世代の男子の平均を余裕で下回るだろう。

 意地の張り具合やそのひねくれっぷりは大したものだが、物珍しいものがあればつい引き寄せられたり女子との接触を意識したりと、情緒の面でも普通の男子とそう変わらない。

 それこそ、親しい人との関係の終わりに際して酷く動揺してしまう程度には。

 学校をやめると言ったら、林間学校の時のように返してくれるものだと思っていた。

 そして以前よりも心を開いてくれた今なら、どうにかしてくれるかもしれない。

 一人で散々迷った挙句、一花はそんな甘えを抱いてしまったのだ。

 

「……フータロー君のあんな顔、初めて見たよ」

「一花……」

「だからさ、せめて私は自分の夢に向かってしっかり歩いてるとこを見せなくちゃ」

「自分でそうだって決めたなら、自分で納得して決めたなら……うん、私も応援する」

 

 一花の夢に向かう姿勢には少なからず共感できる部分があった。

 三玖にも見つけたばかりの目標があるからだ。

 しかし……いや、だからこそ一花が逃げていることが分かってしまった。

 

「でも、それならもう一度きちんとフータローと話すべきだよ」

「無理に話しても、また辛い思いさせちゃうだけかもしれないし」

「そんなことない、きっとわかってくれるから」

 

 電話越しで、それも他人の言葉で別れを告げられても納得し難いものがあるだろう。

 もちろん、雇い主でもある姉妹の父親が連絡するのは手続きとしては真っ当だ。

 しかし、風太郎と一花の関係はそれで済むほど事務的なものじゃなかったはずなのだ。

 

「面白そうな話、してるじゃねーか」

「――っ」

 

 廊下の角の向こうから聞きなれた声が響く。

 一花が目を見開いて息を飲むのがはっきりとわかった。

 三玖が振り返ると、そこには壁に手をついて息を整えている風太郎がいた。

 

「詳しく聞かせろよ」

 

 

 

 

 

 汗を拭って息を整える。

 四葉の言った通り、一花と三玖は一緒にいた。

 二人が学校に向かってからしばらく経っているので、移動される前に接触できたのは幸運だった。

 

「フータロー、どうしてここに」

「四葉に聞いた」

 

 三玖が引き止めていてくれたのなら感謝しなければならないが、今は大女優様の方だ。

 あいつめ、全然俺と目を合わせようとしやがらねぇ。

 その理由について考えると胸の内がチクチクとしてくる。

 話に混ぜろといった体で声をかけておいて実際にはほとんど何も聞いていないのだが、この様子だと話せといっても応じそうにない。

 ここは俺から切り出させてもらうとしよう。

 もとよりそのつもりでここに来たのだから。

 

「一花、あの時は――」

「ごめんっ」

 

 俺が一歩踏み出すと、一花は同じだけ後ろに退がった。

 嫌な予感が――具体的に言えば、修学旅行中の五月と同じ気配がした。

 直感に衝き動かされて、言葉よりも先に手を伸ばす。

 しかし、一花の反応は速かった。

 

「今は顔を合わせづらいというか、合わせる顔がないというか……とにかくごめんね」

 

 そしてそのまま走り去る。

 廊下は走るなという決まりは何の効力も発揮していない。

 

「一花……やっぱり逃げてるじゃん」

「追うぞ!」

 

 三玖を伴って一花の跡を追う。

 ここで逃がしたらあいつはしばらくの間、俺に近づこうとしなくなるだろう。

 時間が解決してくれるという言葉はこの状況には当てはまらない。

 少なくとも夏休みが終わるまでには話をつけなければならないのだ。

 

「くそっ、逃がした……!」

「一花も、結構走ってる、からね……」

 

 しかし、俺と三玖は自他共に認める程度には運動が苦手だ。

 四葉ほどではないとはいえ、体力に自信のある一花には適わなかった。

 そもそも、こいつらと関わっていると定期的に追いかけっこが発生するのは何故なのか。

 横でへばっている三玖にしたって、最初は俺から逃げ回っていたものだ。

 走りながらの戦国武将しりとりを思い出す。

 

「……とりあえず、あいつと話すのは後回しだな」

「いいの? あんまりのんびりしてたら一花の退学が……」

「さっき職員室で話してきた。手続きの完了は夏休みが終わるまで待ってくれるそうだ」

 

 実を言うと、学校に着いてから真っ先に向かったのは職員室だ。

 そこで色々聞いて、ついでに少し前に一花が校内を歩いていたという情報も得た。

 まぁ、結局は逃してしまったわけだが。

 ここで無理に追い回して意固地になられるのも困る。

 今は準備を進めることに徹しよう。

 そしてしかる後に、あいつが逃げられない状況を作って叩きつけてやるのだ。

 

「ふ、ふふふ……待ってやがれよ一花……!」

「すごい悪そうな顔してる……」

 

 となると、必要なのは資金だ。

 位置づけ的には後詰の類だが、用意しておくに越したことはない。

 そのためにもバイトがしたいのだが、折悪しくケーキ屋は休業中だ。

 

「……やっぱり新しいバイト探すしかないな」

「――! それならバイト募集中のお店、知ってるよ」

「マジか。週払い、いや日払いでも大丈夫か?」

「日払いはちょっとわからないけど、相談したら聞いてくれると思う」

 

 三玖の提案はまさに渡りに船だ。

 タイムリミットまで二週間そこそこだが、シフトを入れまくればそれなりに稼げるだろう。

 それがどこまで足しになるかはわからないが、何もしないよりはマシだ。

 

「是非紹介してくれ」

「うん、任せて」

「それと後一つ……いや二つ頼み事があるんだが――」

 

 

 




長くなりそうなのでカットします。
次で終わるかな?


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君と歩むただ一つの道

休み前に投稿っ!


 

 

 

 一花が退学の申し出をしてから数日。

 今日も夏休み中ではあるが、仕事やらバイトで現在家にいるのは二人だけ。

 ソファーで携帯を弄る二乃の横では、五月がテレビを見て黄色い声を上げていた。

 釣られて目を向けると、一花が出演するCMが流れていた。

 

「騒ぎすぎよ。一花だったら飽きるほど見てるでしょ」

「でも、やっぱり画面の中の一花は輝いて見えます。やりたい事をやってるからでしょうか」

 

 一花と他の姉妹の関係は表面上は落ち着いている。

 先日、三玖を通して一花以外の姉妹を集めた風太郎は、全員にある頼み事をした。

 一花への心配は相変らずだが、その頼み事のおかげで二乃も平静を取り戻すことができた。

 十全な結末とまではいかなくとも、風太郎が示した道は姉妹が乗るのに十分なものだった。

 逆に風太郎への心配が増えたのだが、本人がやると言っている以上やり遂げるのだろう。

 その程度には姉妹は風太郎の事を信頼していた。

 

「……私だって一花にいなくなってほしくないです」

「当たり前でしょ」

「でも、二乃がなんと言おうと一花を応援する気持ちは本当です」

「……そう」

「では、私も一花を見習ってお仕事頑張ってきますね」

 

 五月を見送った二乃は、手元の携帯で一花の事を調べてみた。

 まだまだ駆け出しで、注目され始めたのはそれこそ最近だ。

 インターネット上の百科事典でもまだ個別記事はない。

 でもこれから先は誰かがページを作って、そこに女優としての一花の軌跡を記すのだろう。

 変わっていく事は辛い事だけど、きっとそれだけじゃない。

 二乃はかつて、四葉にそんな言葉を贈ったことを思い出した。

 蟠りはまだ消えない。

 それでも、一花が変わっていく事を自分達が祝福しないで誰がするというのか。

 

「……とりあえず、こっちをなんとかしなきゃね」

 

 財布を取り出して、二乃はため息をついた。

 生活費は父親が出してくれているので問題ない。

 しかしバイト先が休店するなど、色々な事情が重なってお小遣いが心許なかった。

 貧乏暮らしには慣れているが、女子高生は何かとお金がかかるのだ。

 そちらも言えば出してくれるだろうが、そこまで頼るつもりはなかった。

 風太郎も新しいバイトを始めたと聞くので、自分も探してみるべきかもしれない。

 

 

 

 

 

「こ、こうか……?」

「うん、もう少し強くても大丈夫だよ」

 

 三玖の指導の下、麺棒でパン生地と格闘する。

 こいつから教わるのはなんだか妙な気分だが、ここでは俺が後輩だ。

 このパン屋の店長に紹介してくれたのも三玖なので、世話になり通しだ。

 先日の頼み事も含めて受けた恩はいつか返すとして、ここは思い切り胸を借りよう。

 

「しかし、あの店長はずっとこっちを見ているんだが……」

「心配してるんだと思う。私も出来るようになるまで散々迷惑かけたし」

 

 あるいは、俺が向かいのケーキ屋の従業員だとバレたのだろうか。

 入院中の店長もこの店を目の敵にしていたから、こちらも同様なのかもしれない。

 なんだか涙を流しているようにも見えるが、情緒は大丈夫なのかと心配になってくる。

 ケーキ屋が休店している影響で客足が伸びているようで、俺が雇われたのもその流れだ。

 となると、あれは背に腹は代えられないと涙を飲んで耐えているのだろうか。

 なんにしても雇ってくれたのは確かなので、俺は精一杯働くだけだ。

 

「一花が退学を選んだ理由、知ってるか?」

「それは……全部聞いたわけじゃないけど、フータローを心配させたくないんだと思う」

「……あの馬鹿が」

 

 心配させまいと取った行動で、さらに心配させていてはどうしようもないだろうに。

 しかし、それ以上にどうしようもないのは俺の方だ。

 あいつが抱え込む癖があるのは分かっていた。

 

『ねぇ、フータロー君……私、どうしたらいいのかな?』

 

 それでもあの時、確かに俺を頼ろうとしていたのだ。

 過ぎた事はもう変えることはできない。

 だが、俺が震える一花の手を握れていたならと、そんなもしもを考えてしまう。

 あいつが馬鹿なら、俺は大馬鹿だ。

 

「フータローはなんで一花を引き止めようとするの? ……好きだから?」

「それだけで片付けられるほど簡単な話じゃないな」

 

 誤魔化さずに言ってしまえば、あいつに対してそういう感情があるのはもう否定できない。

 修学旅行でも色々あったし、意識しない方がどうかしている。

 だけど決してそれだけじゃない。

 俺がこうして動く理由の少なくない部分に、意地が混ざっている。

 姉妹全員笑顔で卒業という目標を諦めるわけにはいかない。

 そして、こうして落ち着いて振り返れば、埋もれていた理由も見えてくる。

 

「そうだな、あえて発端に言及するなら……感謝しているんだと思う」

「感謝?」

「まぁ、色々とな」

「ふーん……好きってところは否定しなかったね」

「……さ、仕事に集中しようぜ!」

「む~~!」

 

 むくれた三玖の視線から逃れるようにパン生地に集中する。

 このあと少々指導が厳しくなったが、まぁそんな事もあるだろう。

 

 

 

 

 

「お疲れ様です、旦那様」

「済まないね、こんなに遅くなってしまって」

「いえ、お気になさらず」

 

 マルオが病院での仕事を終えて院長室に戻る頃には、日はすっかり沈んでいた。

 秘書である江端を待たせるつもりはなかったのだが、仕事柄イレギュラーな事態が多い。

 これから病院を発たなければならないが、なにか問題があったら引き返す事になるだろう。

 

「まだ少々余裕がございます。一息つかれてはいかがでしょうか」

「いや、構わない。休憩は移動中でもできるからね」

「まあ、そう仰らず。三玖様がお話があると病院までお見えになっております」

「……そうか。済まないが何か飲み物を用意してくれ」

 

 娘達との直接的な関わりは避けがちなマルオだが、気にかけていないわけではないのだ。

 医者という職業ゆえに仕事が優先だが、空いた時間程度なら娘のために使う事を厭わない。

 江端が飲み物の用意のために席を外したのを見送ると、これからする事になるであろう話の内容に嘆息した。

 恐らくは一花の事で間違いないだろう。

 マルオ自身の考えとしては、進学はせずとも卒業はしておくべきだという回答になる。

 しかし一花は既に女優という仕事で収入を得て、自分の道を歩いている。

 少し前まで入居していたアパートの費用や五人分の生活費を、年度が変わるまでは一花が負担していたのだという。

 それだけの収入があれば、独立するのだとしても問題はない。

 これが半端なようならマルオも口を出しただろうが、結果は示されている。

 その上で選んだ道ならば、見守りはしても止めるつもりはなかった。

 もちろんそれが娘達の納得のいくものではない事は、先日の二乃の件で十分に理解している。

 ノックの音が響く。

 江端が戻ってきたか、それとも三玖が来たのか。

 

「入りたまえ」

 

 入室を促すとドアが開いた。

 入ってきた人物に、マルオは表情には出さずとも困惑した。

 

「どうも、娘さんの代理で来ました」

 

 上杉風太郎――マルオが雇っている娘達の家庭教師である。

 代理で来たという言葉を信じるのなら、何かしらの事情で三玖が来られなくなったのか。

 追い出したい気持ちは少なからずあるが、それは私情だ。

 早く話を終わらせるためにマルオは風太郎の言葉を待った。

 

「実は一花さんの事でお願いがあります――」

 

 内容は予想に違わないものだった。

 先日電話した時と違って、声には覇気があった。

 驚いたのは、マルオに対する要求だった。

 ただどうにかして欲しいと頼みに来たのではなく、自分達でどうにかするから協力して欲しいという内容だった。

 深々と頭を下げるその姿から心意気は伝わってきた。

 風太郎なりに一花の事を考えているというのもよくわかった。

 だが、その上で――

 

「悪いが、その案には乗れないね」

「――っ」

「まず、不確実にすぎる」

 

 言ってしまえばこれは相手の対応に依ったところが大きい。

 向こうが突っぱねてしまえばそれまでなのだ。

 それをどうにか出来るだけの交渉術があれば話は別だが、風太郎にそんなスキルはない。

 協力したとして、無駄足になる可能性は低くない。

 

「待ってくれ! あいつだって学校を辞める事は望んでないはずなんだ」

「それは、君が直接彼女に確認したのかい?」

 

 その指摘に、風太郎は言葉を詰まらせた。

 退学すると電話越しに打ち明けられた時、マルオも黙っていたわけではない。

 その理由と、したとしてその先はどう生きていくのかぐらいは本人の口から聞いていた。

 それに一定の納得を得たからこそ、本人の意思を尊重するという立場をとっているのだ。

 

「話は終わりだ。用が済んだのなら帰るといい」

「……失礼しました」

 

 マルオは冷徹な態度を崩さなかった。

 その視線に射竦められ、風太郎は退室していった。

 ドアが閉まるのを確認して、自嘲的な笑みを浮かべる。

 

「直接確認……僕が言えた事ではないね」

 

 家に帰らず、娘達と直接話す機会もほとんどない。

 仕事が忙しいのは事実だが、意図的にそうしている部分もあった。

 風太郎への言葉はそのまま自分にも突き刺さる。

 きちんと向き合おうとしない人間が何を言ったところで、空々しいだけなのだと。

 

「お待たせしました」

「江端……わかってて彼を通したね」

「申し訳ありません。どうしてもと三玖様たってのお願いでしたので」

「いや、いい。とやかく言うつもりはないよ」

 

 コーヒーを受け取って口を付ける。

 少し考えたい事があった。

 

「彼に頼んだ家庭教師の業務は週二回、それぞれ二時間だったかな」

「はい、その通りでございます」

「仮に、彼が時間外で娘達に勉強を教えていたとしたら、僕はどう対応するべきなんだろうね」

「それは旦那様の裁量次第かと」

「そうかい」

 

 携帯電話を取り出す。

 電話帳を開き、なんだかんだで縁が切れない知人の名前を選択する。

 極力連絡を取りたくない相手だが、今はその必要があった。

 

 

 

 

 

「くっそー、駄目だった!」

 

 自宅にて、ペンをノートに走らせながら先ほどの失敗を噛み締める。

 三玖にした頼み事の一つ、中野父との面会は一蹴されて終わってしまった。

 姉妹から聞く父親像はあまり血の通ったものに聞こえないが、俺の印象は違う。

 あんな鉄面皮でも、娘達に対する心配や気遣いは本物なはずなのだ。

 だからこそ協力を要請したのだが……結果はこの通りだ。

 これは手順を間違った俺のミスだろう。

 一花の選択を尊重するというスタンスの中野父を説得するなら、まずは一花本人から学校を辞めたくないという言葉を引き出す必要があったのだ。

 

「だとしたらもっとバイトを増やして……いや、これ以上は勉強時間がなくなる。こうなったら、もういっそ先に一花をとっ捕まえてなんとか話を――」

「お兄ちゃん!」

「ん……なんだらいは?」

「考え事するかお勉強するか、どっちかにしなよ」

 

 ペンを止めて、思考も止める。

 ノートに目を戻すと、数式が端を越えて卓袱台にまで進出していた。

 はみ出た部分を消しゴムで擦る。

 最近になって勉強しながら考え事をするという新境地に開眼した俺だが、やはり手元のコントロールは少々疎かになってしまうようだ。

 後ろに倒れこんで天井を見上げる。

 先に考えをまとめたほうがいいのかもしれない。

 中野父に、卒業までの家庭教師代――つまりは給料の前借りをするというのは失敗。

 別の方法で資金を集めなければいけないだろう。

 うちの貯金から俺の裁量で持ち出せる分は使わせてもらうとしても、後で補填が必要だ。

 あれこれやって出来る範囲で金を集めてみたが、やはり決定打に欠ける。

 パン屋のバイトの給料もいくらかは足しになるだろうが、それだけでは心許ない。

 再度中野父にはアタックしてみるとして……いや、それだったら一花と話す必要が――

 

「……ここはやっぱり内蔵を売る事も考慮して――」

「ストーップ!」

「ぐはっ」

 

 怪しい事を口走ったせいか、らいはにどつかれてしまった。

 さすがに内蔵云々は冗談なのだが。

 うんまぁ、最終手段として考慮するぐらいだ。

 

「難しいことばっか考えてないでさ、五月さんたちとはどうなのさ」

「またそれか」

「お兄ちゃんがちゃんとやれてるか気になって、夜しか眠れないんだからね!」

 

 つまりは健康な事この上ないと。

 らいはが元気なようで安心だ。

 とりあえず一花の事をどうにかしなければ、今はそれだけなのだ。

 一花を除く姉妹には頼み事と引き換えにとある権利を渡してしまったのだが、それを深く考えると頭が痛くなりそうなのでやめておく。

 

「おう、帰ったぞー」

「あ、おかえりー。遅かったね」

「急に呼び出されちまってよ」

 

 親父が帰ってきたようだ。

 仕事道具の撮影機材を置くと、こちらに来て寝転がっている俺の腹の上に何かを乗せてきた。

 手に取ってみると、それは厚みのある封筒だった。

 給料袋に使われるようなサイズだ。

 

「お前にボーナスだってよ」

「ボーナス?」

 

 封筒を開いて中身を出すと、諭吉さんの束が出てきた。

 いきなりの事態に頭の中が真っ白になる。

 加えてこんな大金を手にした衝撃で手の痙攣が止まらなかった。

 一体誰がこんな大金を……?

 再度封筒を見てみても、特に何も書かれていない。

 しかし諭吉さんの束の他にも何かが入っていたらしく、その端がはみ出ていた。

 縦に二つ折にされた紙……開くとそれは給与明細だった。

 記載されているのは時間外労働手当の項目のみ。

 そして明細の検印欄には……

 

「それはお前の仕事に対する正当な報酬だ、だそうだ」

 

 時間外手当――つまりは普段の勉強会やらを家庭教師の仕事とみなした結果なのだろう。

 素直じゃないとは思うが、俺もあまり人の事は言えない。

 これはあの人からの後押しなのだと考えよう。

 なんにしてもこれで準備は整った。

 後は直接向かい合うだけだ。

 

 

 

 

 

「よう、久しぶり」

「……フータロー君、どうしてここに」

 

 織田芸能プロダクションのソファーに腰掛ける俺の姿を見て、一花は驚いた顔を見せた。

 隣りで慣れない雰囲気に萎縮している三玖は、俺が頼んで着いてきてもらった。

 社長と目を合わせて頷き合う。

 何の事はない、この状況は社長に頼み込んでセッティングしてもらったものだ。

 これだったら一花が逃げ出す事は出来ないだろう。

 

「三玖まで……遊びに来たってわけじゃないんだよね」

「うん。やっぱりこのままじゃいけないと思ったし」

「でも、私はもう……」

 

 ならそれをきっぱりと言えばいい。

 その逡巡に、俺はまだ説得の余地がある事を確信した。

 

「単刀直入に言おう……一花、退学を考え直してほしい」

「……」

「学校を辞めずとも休学という手段がある。出席日数と一定の学力を示せば、復学して卒業までできるそうだ」

 

 一花を追って学校に向かった時に先生から聞いた事だ。

 墓参りの時にすぐこの答えを出せていたらと後悔が募る。

 だが遅きに失したとはいえ、俺はこれが唯一の道だと断言しよう。

 

「一花ちゃん、僕の考えは既に君にも彼にも伝えてある。酷なようだが、あとは君次第だよ」

「……一定の学力って、ただでさえ時間がないのにそんなの無理だよ。ほら私、バカだしさ」

「それは俺が対応する。お前の都合がつく時にマンツーマンで教えよう」

「そっか……うん、たしかにそれならできるのかもしれないね」

「なら――」

「でも、それってフータロー君が無理するってことでしょ?」

 

 こちらと目を合わせないまま、一花は首を静かに横に振った。

 事ここに至って、自分の心配ではなく俺の心配をしていやがった。

 その指摘は正しい。

 確かに俺の負担が増えるし、それが卒業まで続くとなれば受験にも影響も出てくるかもしれない。

 

「みんなと卒業するのは大事だけど、フータロー君の人生を台無しにしてまでじゃないよ」

「……それがお前の答えか」

「うん……今までちゃんと言えなくてごめんね」

 

 目を閉じて深く息を吐き出す。

 吐き出す息が震えていたのは、思い通りに事が運ばない苛立ちか。

 苛立ち……そうだ、俺は確かに一花に苛立っている。

 散々人を振り回しておいて、いざとなったらいなくなる……ふざけるな。

 あの時、俺の頬を張った五月の気持ちがわかる気がした。

 説得を聞き入れないのなら、こちらにも考えがある。

 厚みのある封筒を取り出してテーブルの上に置く。

 用意していた最終手段の出番だ。

 

「それなら、逆に俺がお前の時間を買おう」

「私の時間を?」

「この金で俺が女優としてお前を雇う」

「――!」

 

 このために家族に頭を下げた。

 一花以外の姉妹にも頼み込んで、俺が借りるという形で資金を出してもらった。

 バイト先のパン屋では、無理を言って今日まで働いた分の給料をもらった。

 そして一番大きかったのは、中野父からのボーナスだ。

 あれがなかったら、この封筒の厚みは半分以下になっていただろう。

 

「自主制作映画を撮ることにした。と言っても予算の問題で出演は教師役と生徒役のみだ」

「撮影は週二回、三時間ぶっ続けでカメラの前でひたすら勉強を教えるシーンを撮る」

「監督と教師役はもちろん俺。生徒役をお宅の中野一花さんにお願いしたい」

 

 勉強する時間を取れないのなら、女優としての時間で勉強をしてもらう。

 それが俺が女優と勉強を両立させるために考えた最終手段だ。

 他の姉妹にはちゃんと説明してある。

 こうして三玖に来てもらったのも、その見届けという意味合いもある。

 

「フータロー君……なんでそこまでして」

「なんでだと? ふざけんなよお前」

 

 抑えてた苛立ちが溢れ出す。

 この感情は俺の身勝手なものでしかないが、吐き出さずにはいられなかった。

 

「家を出てまでして俺を家庭教師に引き戻しておいて、お前は勝手に降りるってか?」

「それならお前らに揃って笑顔で卒業してもらうって俺の目標はどうなる」

「何でもかんでも抱え込みやがって。それなのに俺の心配とかおこがましいんだよ!」

 

 一度噴出してしまったらそう簡単には止まらない。

 ドロドロとした感情に逆らうことなく声を荒げてしまった。

 目を見開く一花にさらに言い募ろうとして、しかし冷静な声がそれを止めた。

 

「そうじゃないでしょ、フータロー」

 

 水を差された事で、多少の冷静さが戻ってきた。

 実を言うと、三玖を連れてきたのは俺の暴走を止めてもらうという役目を期待したからだ。

 他の三人では俺と一緒に熱くなってしまう可能性が高い。

 もう一度目を閉じて深く息を吐き出す。

 今度は震えはなかった。

 

「悪いな、三玖」

「大丈夫? ちゃんと伝えられる?」

「お前は俺の親かよ。……心配するな」

 

 頬を張って気合を入れなおす。

 一花と社長がまた困惑しているが、もう少しだけ付き合ってもらわねばならない。

 自分の気持ちを素直に吐き出すというのはハードルが高いが、それでもやるしかないのだ。

 

「……お前が仕事をしていなければ、あの時家を出るという選択もできなかっただろうな」

「俺が家庭教師を続けてこられたのは、お前のおかげなんだよ」

「だから、今度は俺がお前を引き止める。それが俺にできるせめてもの恩返しだ」

 

 俺の去就に関わるいくつかの転機……その中でも一番大きなものがあのクリスマスの日だ。

 家を出るという提案をしたのは一花なのだという。

 そしてそれからしばらく、こいつは一人であの場所を支えてくれた。

 俺に家庭教師としての居場所を与えてくれた。

 

「……今更そんなこと言ってくるなんて、ひどいよ」

「重々承知の上だ」

「それに乗ったら、今まで以上に私もフータロー君も苦労するんだよ?」

「その通りだ」

「そんな思いをしてまで学校に行く意味ってあるのかな?」

「ある!」

 

 たとえそれが苦難の道でも、それだけの価値があると俺は断言できる。

 もう小細工はいらない。

 中野姉妹に倣って、俺も全力投球をするのみだ。

 

「クラスの奴らと海で馬鹿騒ぎしたり、お前らとプールで遊んだり……今度こそ足並み揃えて花火を見に行くのだって悪くないし、それに夏休みが終われば学校祭も控えている」

「どれもこれも俺が切り捨ててきたものだが、そんな事ができるのはきっと今しかない」

「そしてそれをするなら俺はお前らとしたい。お前だけがいないなんて我慢ならない」

「要するにあれだ、その……お、俺と一緒に青春をエンジョイ……しないか?」

 

 当時は一花の同じ言葉をバッサリと切り捨てた俺だが、今となってはすっかり当事者だ。

 そんな日々を悪くないと思えるようになったあたり、やはり中野姉妹の責任は重い。

 だからこの手は離してなんかやらないのだ。

 

「断言しよう、これは間違いなく苦難の道だ。生半可な覚悟ではやっていけないだろう」

「だけどもし、学校に未練があるのなら……俺の言った事に少しでも価値を感じるのなら」

「この金で俺に雇われてくれ。そして一緒に地獄を見ようぜ」

 

 封筒を差し出す。

 受け取らないまま一花は封筒に目を落とす。

 そして数秒の沈黙の後、傍らの社長に目を向けた。

 

「ねぇ、社長」

「……正式な仕事の依頼であれば、事務所としても考慮せざるを得ないね」

 

 社長は嘆息すると俺の手から封筒を受け取った。

 そして中身を取り出してざっと数える。

 お金を扱う事に慣れているのだろう。

 大金を手にした途端に震えだす俺とは大違いだった。

 

「むっ、微妙に足りない」

「えっ」

「マジかよ!」

「ど、どうしよ、フータロー」

「おお、おち、おちおち落ち着け!」

 

 一番落ち着いていないのはどう見ても俺だった。

 つーかウソだろ、あんな大金積んだというのに……!

 嫌な汗が背中を伝うのを感じた。

 

「もぉ、しかたないなぁ。じゃあ不足分は私が貸してあげるよ」

「……本人に借りるとかどうなんだよ」

「どうなんだろうね? まぁ、別に返してくれるならどんな形でもいいよ? どんな形でもね」

 

 一花の目が細まる。

 俺を煽ろうとする、挑発的な笑み。

 すっかりいつもの調子を取り戻していた。

 これを材料に一花が何を要求してくるかは目に見えている。

 頼っていいものか……しかしそんな逡巡の間がない事も確かだった。

 

「いや、それには及ばないよ。君には頼みたい仕事がある。それで補填してもらおう」

 

 ここで助け舟を出してくれたのは社長だった。

 もちろん、俺は一も二もなくそれに乗った。

 頼みたい仕事とやらが何なのかは分からないが、これでどうにかなりそうだ。

 せめてその内容が演技関連じゃない事だけ祈ろう。

 一花への大きな借りが回避できたのは素直にありがたい。

 思い通りに事を運べなかった本人はむくれ顔だが、とにかく契約は成立した。

 

「それにしても、こんな情熱的に引き止めるなんてフータロー君、私のこと好きすぎだよね」

 

 しかしただでは起きないのがこの一花だ。

 隣の三玖の視線が鋭くなり、社長は訳知り顔で頷き始めた。

 少し離れたところで、事務員がヒソヒソと話しているのが見える。

 さて、こんな状況で俺の弁明にどれだけの効果が期待できるだろうか。

 無論、答えは皆無である。

 

 

 

 

 

「うわぁ、このブランコすごいギコギコいってる……大丈夫かな?」

「あはは、大丈夫だよ」

 

 夕暮れ時の高台の公園で、一花と四葉は並んでブランコを漕いでいた。

 控えめに座って漕ぐ一花に対して、四葉は余裕の立ち漕ぎだ。

 このブランコはサイズ的に明らかに子供が使うことを想定している。

 金属が軋む音が、一花にはブランコが上げる悲鳴に聞こえてならなかった

 

「それにしても、一花も一緒に卒業できそうでホント良かった~」

「それもこれから次第なんだけどね。ま、やるだけやってみるよ」

「ししし、上杉さんには感謝だね!」

 

 今日はもう夏休みの最終日。

 新学期が始まると同時に一花は休学となる。

 長期ロケの撮影や稽古、それに加えて風太郎との撮影とは名ばかりのマンツーマン授業。

 受験に身を投じる事になる他の姉妹と単純な比較はできないが、多忙である事は一緒だ。

 そうなる前にと、一花は今日四葉を誘った。

 

「四葉は覚えてる?」

「前にブランコ乗ったときのこと? 私は結構最近だけど」

「そうじゃなくて、フータロー君のこと」

「……」

 

 勢い良く揺れていたブランコの振れ幅が小さくなって、やがて止まった。

 口に出さずとも、その反応だけで十分だ。

 そもそも前々から察していた事ではあるが、こうして尋ねてみるのは初めてになる。

 

「……一花もやっぱり覚えてたんだ」

「思い出したのはしばらく経ってからだけどね」

「あはは……昔と全然見た目変わっちゃっててビックリしたよ」

 

 言い出さなかった理由は判然としないが、四葉は最初から気づいていた、と一花は見ている。

 だとしたら、自分達と風太郎が仲を深めていく様子に、四葉はどんな想いを抱いていたのか。

 

「ならまず最初にこうしておくべきだったよね……ごめん」

「えっと、なんで謝られてるのかな」

 

 この期に及んで四葉はわからないふりをした。

 たしかに一花に謝られる心当たりは、部屋の掃除の件も含めていくつかある。

 それでもこの場で該当するものは一つしかない。

 認めてしまうわけにはいかなかった。

 もし認めてしまって心の蓋が外れてしまえば最後、自分で自分を抑えられなくなる。

 そんな確信が四葉の中にあったからだ。

 そして一花もそれ以上つつく事はしなかった。

 

「とにかく、私もこれからは全力投球だから」

「うん、お仕事頑張ってね!」

「もちろんそれ以外もね。だから、四葉の背中はもう押してあげられないかな」

 

 その言葉で四葉はこれまでの一花の不可解な行動にようやく納得した。

 一緒に班を組もうと言い出したのも、修学旅行中に風太郎と二人きりにさせたのも。

 全ては自分と風太郎を……

 

「なんで、一花がそんなことを気にするの?」

「どうしてだと思う?」

「わからないよ。だって一花は風太郎君のことを……」

 

 一花も二乃も三玖も五月も、みんな真っ直ぐに自分の想いを風太郎にぶつけている。

 それに対して自分は真実を晒す勇気がないままだ。

 だからこそ姉妹の背中を押すのだと決めたのだ。

 間違っても背中を押されていい立場ではない。

 

「私にそんな権利はない。けどみんなならきっと幸せに――」

「もうやめようよ、そういうの。四葉は四葉の幸せを見つけなきゃ」

「みんなの幸せが私の幸せだよ」

「本当に?」

 

 頷こうとして頷けなかった。

 頭によぎったのは、結婚式場での写真撮影だ。

 出来上がった写真は四葉のもとに送られてきている。

 姉妹の想いを考えれば大事にするべきではない……頭ではわかっているつもりだった。

 結果として、机の引き出しを開ければすぐにでも見られる位置にその写真は安置されている。

 

「もう夏休みも終わりだね」

 

 一花は暗くなりつつある空を見上げて呟いた。

 夏休み前と比べれば、日が落ちるのも随分と早くなった。

 夏が終わり、じきに秋がやって来る。

 

「高校生活も残り少ないけど、悔いのないようにしたいよね」

 

 一花は四葉に、あるいは自分に言い聞かせるように言った。

 それは事あるごとに四葉が風太郎に対して言っている言葉と同じだった。

 

 

 

 

 

「三玖、あれやってよあれ」

「えー、やりたくない」

「一度やってくれたじゃないですか」

「私も見たいなー」

 

 九月に入り、二学期最初の登校日。

 いつもと同じように中野姉妹は通学路を五人で歩く。

 違う点を挙げるとすれば、一人だけ制服を着ていない事だ。

 前を歩く姉妹を、正確には一花を後ろから見つめる。

 自分のCMを真似て見せた三玖に感心の声を上げていた。

 三玖は姉妹の真似に関しては職人的なこだわりを持っているため、そのクオリティも納得だ。

 そしてついでと言わんばかりに代返を頼んで断られていた。

 退学は取り下げた一花だが、仕事の都合で今日から休学という扱いになっている。

 今こうして一緒に歩いているのも、道が途中まで重なっているからに過ぎない。

 駅に着けば、一花はそのまま電車で仕事場へ向かってしまう。

 ならばせめてと、二乃は一花がいる光景を見逃さないようにしたかった。

 

「それじゃ、私こっちだから」

「ええ、頑張ってください」

「気をつけて」

「帰ったらお話聞かせてね」

 

 駅に着くと、一花は一人改札へ向かう。

 各々がしばしの別れに言葉を交わす中、二乃は話しかけられずにいた。

 応援すると決めた今でも、引き止めたい気持ちがある。

 口を開けばそれが出てしまうかもしれない。

 今更、一花の決心を鈍らせるような真似はしたくなかった。

 

「じゃあ、皆も頑張って」

 

 背中が遠ざかっていく。

 小さくなっていく後ろ姿に、いなくなった人の姿が重なった。

 

「一花っ!」

 

 たまらず駆け出して、後ろから抱きついていた。

 一花は最初こそ驚いたが、二乃の手に自分の手を重ねると優しく握りしめた。

 

「まさか二乃に甘えられるとはね」

「うるさい、そんなんじゃないから」

 

 そう、こうして抱きついたのは甘えるためでも引き止めるためでもない。

 背中を押すためだ。

 

「体調、気をつけなさいよね」

「……うん、行ってきます」

「あと……頑張ってね」

 

 体を離して背中を軽く押してやる。

 二乃は涙を浮かべながらも微笑んで見送った。

 一花は振り返ると同じように微笑んで、改札の向こうへと消えていった。

 

 

 

 

 

「おいこら、あと少しなんだから寝るな!」

「もう無理だってばぁ~」

 

 とあるホテルの一室。

 長期ロケの最中、自宅に帰れない時のために用意されたものなのだとか。

 今日はここが俺の自主制作映画の撮影場所だ。

 カメラと向かい合って、ひたすら勉強を教えるシーンを撮る。

 あくまでも名目に過ぎないのだが、立派な契約なので形には残しておかねばならない。

 

「いいから起きろ! このままじゃ授業に追いつけねーぞ」

「え~? じゃあ元気をチャージしてよ、ほら」

 

 一花は自分の唇を指し示した。

 その瑞々しさは、眠たげな表情も相まって非常に蠱惑的だ。

 しかし俺は騙されない。

 傍らのエナジードリンクにストローを刺すと、口に差し込んでやる。

 一花はものすごく不満気だったが、飲み干すと再びノートに向かってペンを握った。

 

「よし、今日はこんなとこか」

「ん~、疲れたぁ」

 

 あらかじめ設定しておいたタイマーが、撮影の終了を告げた。

 終わるや否や、一花は早速ベッドにダイブ。

 このまま寝られるのかと思うと少しだけ羨ましい。

 俺はこれから帰らなければいけないので、休むのはしばらく後だ。

 自分の勉強は移動中にある程度済ませてしまうとしよう。

 

「じゃあ、俺は帰るぞ」

「えー? もう帰っちゃうの?」

「お前も疲れてるんだからさっさと休めよ」

「さっき誰かさんに口に無理やり突っ込まれたせいで、眠気が覚めちゃったんだよね」

「おい、その言い方やめろ。目的語を省くんじゃない」

 

 無理矢理は否定しないが、突っ込んだのはストローの先っぽである。

 要するにエナジードリンクで目が冴えているということだろう。

 こいつの事だから、放っておけばその内勝手に寝てしまいそうなものだが。

 

「とにかく、今日は社長に送り迎えしてもらってるんだ。待たせたら悪いだろ」

「いやー、まさかここまでしてくれるとはね」

 

 正式に契約を結ぶにあたって、問題となったのは一花のスケジュールだ。

 稽古や撮影がない時間とはいっても、当然そこには休養に当てるべき時間も存在する。

 それを食いつぶしてしまっては撮影に影響すると考えたのか、調整は事務所側でしてくれた。

 ただ、どうしても帰れない時もあるため、そこは俺が動き回る事になる。

 元々一花の時間に合わせると決めていたので、その事に関して特に異論はない。

 問題があるとすれば、それは移動手段だろう。

 俺はこの一件でただでさえ金がなく、帰る頃には交通機関が終了してる場合もある。

 今日なんかもそのパターンだ。

 タクシーは財布に優しくないので最終手段だ。

 バイクでも買うべきかと考えたが、貯金を吐き出したこのタイミングでそんな余裕はない。

 そこで送迎を買って出てくれたのがあの社長だ。

 もちろん毎回とはいかないが、それでも破格の待遇だろう。

 

「そういえばさ、社長に頼まれた仕事って何だったの?」

「まぁ、一言で言えば……子守りだな」

「ああそっか、菊ちゃんね」

「お前や三玖にも会いたがってたぞ」

「わぁ、嬉しいな」

 

 社長には月に一度でもいいから菊と遊んで欲しいと頼まれている。

 それで金額の不足分が埋まるなら断る理由はなかった。

 そして新学期が始まって早速社長宅に招かれたのだが、相変わらずの生意気っぷりだった。

 まぁ、多少は甘える姿勢を見せるようになったのは微笑ましいと言えなくもない。

 一花と三玖のどっちと結婚するのかと尋ねられて全く笑えなくなったのだが、それは置いておこう。

 あのマセガキめ。

 

「つーか帰るからな」

「え、社長来ないけど?」

「は? いやいや、そんなわけないだろ」

「もう遅いし、フータロー君も泊まってくって連絡しちゃったもん」

 

 一花が見せたスマホの画面には、確かにそんな内容のメールが表示されていた。

 驚くべきことに、送信された時間は撮影を開始する直前。

 つまりは、こいつは最初からその気だったという事だ。

 

「お前……やりやがったな」

「明日お休みでしょ? ならこっちで寝たって問題ないじゃん」

「なるほど、確かに――ってんなわけあるか!」

「まぁまぁ、たまにはゆっくり話そうよ」

 

 一花の言うとおり、明日は休みで朝からの予定は特にない。

 強いて言うなら勉強が予定といえばそうなるが。

 今更社長を呼び出すのもアレだし、既にバスや電車は止まっている。

 タクシーを呼ぶ手もあるが、そうまでして帰るほどの事態でもない。

 ちゃんと断らない、あるいは断れないラインを見極めているあたりが、本当に一花らしい。

 いやらしい事この上ないけどな!

 もうどうしようもないので、一花の寝転がるベッドに腰をかける。

 

「あーもう……ってかよく社長が許可したな」

「アオハルもいいけど、ほどほどにね……だってさ」

「ちょっと待て、あの社長なんか勘違いしてないか?」

「んー、どうだろ?」

「お前、なんか変なこと吹き込んでないだろうな?」

「疑うなんてひどいなぁ。ちょっとキスしたりする仲だって言っただけなのに」

「完璧原因それじゃねーか!」

 

 しれっと言い放つ一花に震えが止まらなかった。

 なんて事を言ってくれたんだこいつ……!

 しかもそういった行為があった事は事実なため、容易に否定できないのがタチが悪い。

 絶対パートナーって言葉の意味誤解されてるだろ。

 

「なら、いっそ本当にしちゃえばいいんじゃないかな?」

「んなアホみたいな流れで決められるかよ」

「まあ、だよねぇ」

 

 そんな事で一花を選んでしまっては、流石に他の姉妹に申し訳が立たない。

 というより、理由が理由だけに一花ともども吊し上げを喰らいそうだ。

 社長とは今後話していく中で、ゆっくり誤解を解いていくとしよう。

 

「はぁ……君とまたこうしていられるなんて、なんか夢みたい」

「あんな大金払ったんだ。夢で片付けられちゃ困る」

「ホントよく用意したよねぇ。二乃たちからも借りたんでしょ?」

「……頼んだら頼んだであいつらも有り金全部出そうとしてな。条件をつけて俺が借りるって形でどうにか宥めたんだよ」

 

 ちなみにその条件とは……俺がなんでも一つ言う事を聞く権利だったりする。

 あいつらが何に興味を惹かれるかと考えた結果だが、やはり早まったかもしれない。

 

「あとは俺の親父やお前の親父さんに頭下げたりだ」

「お父さんにも?」

「感謝しとけよ。あの金の大半は親父さんからだからな」

「……そうだったんだ」

 

 一花が礼を言ったとして、あの人が受け付けるかどうかは別問題だが。

 俺へのボーナスという名目がある以上、俺が勝手にやった事で済ませるつもりだろう。

 まったく、本当に素直じゃない。

 俺も人の事は言えないので、そこは改善していくとしよう。

 せめて、ぶつけられる気持ちに対しては素直でいたいと思う。

 

「でもやっぱり、私には君がそこまでしてくれた事が嬉しいよ」

「……恥も外聞も二の次だ。お前の手を取っていられるならな」

 

 結局のところはそこに帰結する。

 それらしい理由を上にくっつけても、俺はまだまだ一花と一緒にいたかっただけなのだ。

 最近自覚した青臭い衝動が、胸の中で鼓動という形をとって暴れまわっている。

 顔は赤くなっていないだろうか……いや、きっとなっている。

 それでもこの感情は抑えられそうになかった。

 

「……フータロー君、ダメだよ」

 

 一花の手が俺の頬へ伸びる。

 ひんやりとした感触が気持ちよかった。

 そして顔を寄せると、唇と唇が触れ合った。

 

「私そんなつもりなかったのに、もう我慢できないよ」

 

 ベッドに押し倒される。

 一花の目は熱情に潤んで、それが俺の理性の大部分を削り取っていった。

 泣けなしの部分が抵抗を試みる。

 

「……ゴムなんて持ってないぞ」

「大丈夫、私持ってるし」

「なんでお前も持ってるんだよ……」

 

 二乃といい、最近の女子高生の間では持ち歩くのが流行しているのだろうか。

 なんて誤魔化してみるが、どう考えても俺とすることを期待していたのだろう。

 そんなつもりなかったとはどの口で言っていたのやら。

 そう認識してしまったら、いよいよ体が熱くなってくる。

 

「せめてシャワー、浴びないか?」

「うん、じゃあ一回終わってから二人で入ろっか」

 

 どうやら二回以上するのは確定らしい。

 もう馬鹿らしくなってきたので、俺は考える事を放棄した。

 一花を抱き寄せて口付ける。

 本能に、あるいは感情に身を任せれば難しい事は何もない。

 互いに互いを感じ合う、ただそれだけなのだから。

 

 

 




ぅわちょぅι゛ょっょぃ

もうこのまま長女エンドでいいんじゃないかな……
というのは冗談でまだ続きます。


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祭りの後、後の祭り

更新しよう更新しようと思ってたらもう週末……
その代わりと言ってはなんですが、いつもより長めです。

夏休み中の話で、時系列的には一花の説得後になります。
三女が喪失する話です。


 

 

 

「や、やっと終わった……」

 

 三玖がパンを乗せるトレイを持ったまま、その場にへたり込んだ。

 夏休み中のパン屋はなんだか異常に忙しかった。

 特に今日は顕著なもので、売り切れのために早めに閉店したという次第だ。

 ケーキ屋の休店で客足が伸びているのはわかっていたつもりだったが、まさかこれほどとは。

 体力がない三玖にしたらハードな一日だっただろう。

 かく言う俺も、店の中央のテーブルに手をついて肩で息をしていた。

 カレンダーを見れば八月の下旬の半ば。

 いわゆる五十日――毎月二十五日が給料日という人は多いだろう。

 俺も今まで色んなバイトをしてきたが、大体がそうだった。

 一ヶ月働いて、ようやく給料を手にした時の気持ちは俺にも多少はわかる。

 思わず本屋へ問題集や参考書を買いに走りそうになった事だってある。

 給料日の開放感が人を散財に駆り立てるのだろう。

 それと、少し前にサングラスとマスクを着用した五月が訪れた事も関係しているのかもしれない。

 前にも似たような格好でケーキ屋に現れた事があったか。

 案の定、三玖には即座に見破られていたが、あの変装で誤魔化せると思っていたのだろうか。

 

「二人共、お疲れさま~……」

 

 店長はもう疲れきってレジのところで燃え尽きていた。

 バイトに過ぎない俺達に比べれば、仕事量が段違いなので無理もない。

 過労で倒れて向こうの店長のように入院されても困るので、片付けはこちらが受け持とう。

 

「三玖、まだいけるか?」

「うん、なんとか」

「じゃあもうひと踏ん張りだ。頑張ろうぜ」

 

 三玖の手を取って引き立たせる。

 とりあえず外には閉店の表示をしてあるが、作業自体は全く進んでいない。

 まだ働き始めて日は浅いが流れ自体は頭に入っている。

 最終的なチェックは店長に任せるとしても、二人で協力すれば問題なく終わるだろう。

 

「三玖ちゃん、上杉君……二人がいればこの店は安泰ね!」

 

 店長は俺がケーキ屋でも働いていると知ってか知らずか、感涙に咽いでいた。

 それはともかくとして、まずは人手を増やすべきだと思うんだが。

 バイトも俺や三玖だけという事はないが、それにしたって明らかに足りていない。

 いや、でも増えたら増えたで俺のシフトも減らされるかもしれない。

 ケーキ屋が再開するまでは不用意な事を言うのはやめておこう。

 

 

 

 

 

「つ、疲れた……」

「今日はえぐいくらい混んだな」

 

 店を出る頃には空はすっかり暗くなっていた。

 往来に立ち並ぶ店も、電気こそはついてるものの閉店の表示がチラホラと見える。

 向かいのケーキ屋には当然ながら明かりはついていない。

 

「今日もお疲れ様、フータロー」

「そっちこそな」

「ふふ、二乃には悪いけどやっぱりいいな、こういうの」

 

 少し前までは、こうしてバイト上がりに隣を歩くのは二乃だった。

 あいつのグイグイっぷりに比べれば、三玖はだいぶ大人しい。

 二乃だったら容赦なく俺の腕を取ってくっついてくるところを、手を握るくらいしかしてこない。

 ……いや、恋人同士でもない男女が手を繋いで歩くというのはどうなんだ?

 対外的にはそう見えるのかもしれないが、俺と三玖はそんな関係ではないのだ。

 かと言って手を離す気は起きなかった……というよりも、そうしたくなかった

 自覚した想いというのは中々に厄介なもので、今の俺はこういう事をするのにあまり抵抗がない。

 

「あいつはどうしてる? ケーキ屋が閉まっているから暇してるんじゃないか?」

「結構出かけてるよ。友達から短期のバイト紹介してもらってるみたい」

「そうか」

 

 それを聞いて少し安心した。

 店長が動けるようになるまでは当然バイトも休みだ。

 二乃にはそんな状況で金を出してもらったため、気になってはいたのだ。

 

「そういえば、明日のこと聞いた?」

「明日? バイトなら、お前は休みじゃなかったか?」

「そっちじゃなくて、花火のこと。みんなで一緒に行こうかなって」

 

 まったく覚えがなかった。

 と思っていたら携帯が震えだす。

 四葉からのメール――内容はタイムリーなもので、一緒に花火を見に行かないかという誘いだ。

 

「今来たぞ」

「うっ……ごめん、もう少し早く話せばよかったよね」

「まったくだ。俺は明日もシフト入ってるんだが」

 

 しかしながら、予定では夕方でお役御免になる。

 花火が上がるのは暗くなってからだろうから、それまでには間に合うだろう。

 俺の頭の中ではすっかり一緒に出かける方向に考えが傾いていた。

 それでいいのか受験生。

 ……まぁ、その分は他の機会に補填するとしよう。

 

「集合時間は?」

「お祭りの屋台も気になるし、私たちは日が落ちる前に出るけど……」

「なら現地で合流するとしよう」

「来てくれるの?」

「行くさ。お前達が行くんだからな」

 

 主体性のない事この上ないが、そういうわけなのだ。

 握った三玖の手がピクっと震えた。

 俯いた横顔は髪に隠れて見えないが、耳は赤くなっていた。

 素直に物を言うのも考えものかもしれない。

 こいつらが照れているのがわかってしまうと、それが俺の方にも伝播してきてしまう。

 こうして出来上がったのは、手をつないだまま赤面する男女二人。

 他でもない俺達二人の事だ。

 

「……あー、三玖?」

「な、なにっ?」

「俺ん家、こっちなんだが」

「そ、そうだよねっ……ごめん」

 

 繋いでいた手が離れる。

 三玖の熱が残った手を、名残惜しむように握り締める。

 ……いや、違うな。

 名残惜しいのなら離さなければいいんだ。

 遠ざかる三玖の手首を掴んで引き止める。

 

「フータロー?」

「あ、いや……特に用事があるわけじゃないんだが」

「……日焼け、やっと取れたね」

 

 プールに行ってからしばらく夏モードだった俺の肌色はすっかり戻っていた。

 同じように日焼けしていた四葉も今頃は元通りだろう。

 三玖の指が俺の首筋をなぞるように這い回る。

 そして相変わらず貼られている絆創膏の端をつまむと、そのまま取り去った。

 

「また消えてるね」

「そりゃ、あれだけ時間が経てばな」

「むー、また付けていい?」

「……好きにしろよ」

 

 というよりも、断ったところで問答無用でされるので好きにさせるしかない。

 三玖は俺の首元に顔を埋めると、口で吸い付いてしっかりと痕を残していった。

 いつまでこれを続けるつもりなのだろうか。

 本人が言うには予約なので、それが果たされるまでだろう。

 それはつまり、俺が三玖を……いかん、これ以上考えるのはマズい。

 今更何を言ってるんだという話だが、やはり複数人と関係を持っているのはアウトだろう。

 上二人に関しては半ば諦めているが、そこに新たに加えるとなれば話は別だ。

 お互いのためにも、軽はずみな行動は慎むべきなのだ。

 問題はこいつにその気がありまくる事と、俺の我慢が効かなくなってきている事だ。

 自分の中にある感情に気づかされたせいか、中野姉妹に対するガードがザルになりつつあるのだ。

 こんな現状でそんな雰囲気になったとして、拒む……というより自分を抑える自信がない。

 

「それじゃあ、また明日ね」

 

 自分の印をつけた事に満足したのか、三玖は軽やかな足取りで帰っていった。

 俺はというと、首に残る唇の感触を頭から締め出すのに精一杯だった。

 ひとしきり悶々とした後、家に帰る前にコンビニを目指す。

 もう絆創膏が切れているため、買わなければならないのだ。

 このまま帰ったら、また親父にからかわれるかもしれないからな。

 

 

 

 

 

「ただいま」

「あ、お兄ちゃんお帰りー」

「おう、ご苦労さん」

 

 家に帰ると、らいはと親父が出迎えた。

 部屋にはカレーのいい匂いが充満して、バイトで疲れた俺の空きっ腹を刺激してきた。

 流しにも水切り台にも食器がないという事は、まだ食べていないのだろう。

 もしかしたら俺を待っていたのかもしれない。

 

「お兄ちゃんも帰ってきたし、ご飯にしちゃうね」

「ああ、待たせちまって悪いな」

「罰としてお手伝いを要求します!」

「お安い御用だ」

 

 とは言っても、メニューがメニューなだけに用意する物は少ない。

 荷物を置いて手を洗うと、そのまま食器を棚から取り出す。

 程なくして三人分のカレーが食卓に並んだ。

 

「「「いただきます」」」

 

 そして揃って手を合わせると食べ始める。

 相変わらず我が家のカレーは美味しかった。

 というか、らいはの作るものはなんでも美味しい。

 五月が思わずおかわりしてしまう気持ちもわかるというものだ。

 いや、あいつにとってはそれが平常運転か。

 カレーは飲み物だと豪語する姿が容易に思い浮かんだ。

 

「「「ごちそうさまでした」」」

 

 作る際の手間に比べると、食べるのはあっという間だ。

 親父がまとめて持ってきた食器を手早く洗ってしまう。

 待たせてしまった分、これぐらいはしてもいいだろう。

 

「そういえば明日は花火を見に行くんだってな」

「そうだが……どこで聞いたんだよそれ」

 

 片付けが終わって勉強を始めようとしたところで、親父が唐突に切り出した。

 花火に行くのが決定したのはついさっきの事だというのに、なんで知ってるんだよ。

 

「えへへー、実はお昼に五月さんから誘われちゃって」

 

 種明かしは早かった。

 らいはが同行するのは初耳だが、五月が連絡した流れで親父にも話が伝わったのだろう。

 なぜ俺に対する連絡が遅れたのかは謎だが。

 

「明日は俺も遅くなりそうだからな。せっかくだし晩飯も外で済ませてこい」

 

 そう言って親父は一万円札を食卓に置いた。

 いや、こんな大金使わなくても家で食えば安上がりなんだが。

 

「屋台を楽しむのだって金がいるからな。ま、たまにはダメな親父に見栄張らせてくれや」

 

 ダメな親父という部分には全く共感できないが、その気持ちは多少わかる。

 普段窮屈な思いをさせてる分、楽しんで来いと言いたいのだろう。

 俺もらいはが相手だったら同じように言うのかもしれない。

 

「……ありがとな、親父」

 

 何も言わずに笑うと、親父は俺の頭をクシャクシャと撫で回した。

 もうこういうのはやめて欲しいんだが。

 乱れた髪を適当に直すと、帰ってから部屋の隅に放っていたリュックから勉強道具を取り出す。

 学校もないのになぜそんなものを持ち歩いているのかというと、当然勉強するためだ。

 諸事情によりバイトに精を出さないといけないので、その分勉強時間は削れてしまう。

 となれば休憩時間など、空いている時間はなるべく勉強に充てたいというのが俺の考えだ。

 というわけで、出かける際には常に勉強道具を持ち歩くようにしているのだ。

 

「おっと」

 

 ノートや問題集を取り出す過程で、とあるものがリュックからこぼれ落ちる。

 0.01という表示が目を引く小振りな箱――これまで何度か世話になった事がある近藤さん。

 帰りにコンビニに寄った際に、絆創膏と一緒に買ったものだ。

 決して使う予定があるわけではなく、もしもの時のためだ。

 祭りや花火というイベントにかこつけて、中野姉妹が迫ってくる可能性は否定できない。

 そして残念な事に、今の俺にはあいつらを拒み切る自信がない。

 いざという時にこれがあるのとないのでは安心感が違う。

 間違っても使用せずに致すなんて事態は避けなければならないのだ。

 もちろん、使わないにこした事はないのだが。

 とにかく、こんなものをいつまでも出しておくわけには行かない。

 らいはに見られでもしたら俺の兄としての地位は崩壊してしまう。

 箱をリュックの中へと戻す。

 ちょうど死角になっていたため、らいはには見えていないはずだ。

 とりあえず、これで俺の兄としての沽券は守られたわけだ。

 額の汗を拭って顔を上げる。

 

「……」

「……」

 

 親父と目があった。

 何も言わずに、わかってるぜオーラを出して頷いていた。

 そしていい笑顔でサムズアップ。

 

「らいは、今度赤飯炊くぞ、赤飯!」

「わー、なにかお祝いごと? 楽しみー!」

 

 なんというか、もう色々と勘弁して欲しい。

 こうなったらもう、ひたすら勉強に没頭するしかなかった。

 

 

 

 

 

「ただいま」

「おかえりなさい。ご飯出来てるわよ」

 

 三玖が帰ると、二乃と料理の匂いが出迎えた。

 同年代と比較して小食な三玖だが、激務の影響か流石に空腹の虫が騒いだ。

 

「四葉と五月は?」

「一花も遅いし、先に食べて今は部屋よ」

「二乃は待っててくれたんだ」

「別に? どうせ暇だしいいわよ」

「ふふ、ありがとね」

 

 二乃は顔をしかめるとちゃっちゃと配膳していく。

 並べられていく料理に、三玖もまた難しい顔をした。

 不満があるのかといえばそうではなく、単純にその出来栄えに唸っていたのだ。

 料理という道を見出した三玖にとって、二乃は身近な目標だ。

 とは言っても、腕に差がありすぎるせいで参考にするのはまだ難しい。

 手の込んだ料理に対して説明を求めても、聞いてる内に宇宙猫状態になってしまうのが現状だ。

 そんな様子だから、まずは基本的なところから手をつけろと二乃自身にも言われている。

 幸いにして練習には付き合ってくれるので、今は地道に経験を積み重ねているところだ。

 夏休み前に風太郎に渡していた弁当もその一環で、朝早くから一緒に台所に並んで作ったものだ。

 二乃からしたら敵に塩を送るような所業なのだが、そこは家庭教師が言うところの姉妹馬鹿だ。

 食べた相手がお腹を壊したら困るからとの事で、仕方なくと念を押して協力してくれた。

 姉妹の前でそんな事を言ったところで生暖かい視線を向けられるだけなのだが、少なくとも三玖は今も感謝している。

 

「フータロー、花火来るって」

「ホント? やったじゃない!」

「誘いが直前すぎて文句言ってたけど」

「うっ……それはあれよ、いろいろ話し合った結果というか」

 

 要するに、また例によって誰が連絡するかで揉めていたらしい。

 ほぼ毎日顔を合わせている三玖が言えば早かったのだが、姉妹の様子を見てそれは遠慮した。

 一花と四葉はともかく、二乃と五月がストレスを溜めているのは一目瞭然だった。

 風太郎がパン屋で働き始めてから、この部屋に訪れる機会が激減しているのが原因だろう。

 バイト上がりは遅い時間になる事が多いので、こちらに寄らずに帰る事が多くなっていた。

 パン屋でのバイト中、物陰からこちらを伺う二人の姿に冷や汗が伝ったのは記憶に新しい。

 五月はよだれも垂らしていた気がするが、修学旅行前のパンの提供が効いていたのだろう。

 諸事情により節約中なので、おやつも控えているのかもしれない。

 

「今年こそ全員揃って花火を見るわよ」

 

 夏の花火といえば、中野姉妹にとっては亡き母との大事な思い出だ。

 そのためこの時期になると毎年姉妹全員で花火を見に行くのだが、去年は一花の事情で諦めざるを得なかった。

 もっともそれは別の形で果たされたのだが、そんな変則パターンを毎回なぞる必要はない。

 高校を卒業してしまえば、今までのように気軽に集まるのは難しくなる。

 だからこそ、今年こそはという思いがあった。

 

「あ、おかえりなさい」

 

 階上からの声。

 三玖の姿を認めると、五月はリビングまで降りてきて自分もテーブルについた。

 風太郎の事を二乃に話したのと同じように伝えると、相好を崩して喜んでいた。

 二乃ほどではないが、以前と比べるとやはり風太郎に対する態度が違う。

 自分も人の事は言えないが、恋の作用は大きいようだ。

 

「そういえば、結局誰がフータローに連絡したの?」

「四葉ですよ」

「あの子、最近こういう時の引きがいいのよね」

 

 例えばそれはこの部屋に居を戻した際の連絡だったり、ウォータースライダーへの同乗だったり。

 不正を働く余地はないので、純然たる運である。

 あえて理由を付けるとするなら、ゲームにおける物欲センサーのようなものだろうか。

 ちなみにその前にらいはに連絡する権利を下二人で争っていたのだが、そちらは五月の勝利で終わっている。

 風太郎に対してはやや遠慮がちな四葉でも、らいはを引き合いに出されるとやる気になるのだ。

 

「ううぅ……」

「……食べる?」

「いえっ、それは三玖の分ですから」

 

 初めは普通に話していたのだが、時間を経るにつれて五月の視線が料理の方へ引き寄せられる。

 口では断っているが、目はギラギラとしていた。

 その姿は空腹で唸りを上げる猛獣を彷彿とさせた。

 スプーンで一口分すくって差し出す。

 パァっと顔を輝かせて五月は即座に食いついた。

 

「あんたねぇ、お腹空いてるなら素直に言いなさいよ」

「んぐっ……こ、これは勉強で頭を使ってカロリーを消費したからであって――」

「はいはい。レトルトで良ければ今すぐ出せるけど、どうする?」

「……お願いします」

 

 そして結局、空腹に屈したのだった。

 最近は買い食いも控えているようなので、その影響もあるのだろう。

 顔を赤くして椅子の上で縮こまっていた五月だが、目の前に皿が置かれると一転して笑顔に。

 美味しそうにカレーを口に運び始めた。

 

「そういえば、三玖はどこの大学を受けるのですか?」

「え、私大学行かないよ?」

「え?」

「は?」

 

「「えええええええっ!?」」

 

 二乃と五月の驚きの声がリビングいっぱいに響き渡った。

 もし一瞬でもヘッドホンを装着するのが遅れていたら、耳がやられていたかもしれない。

 もう話した気でいたが、確かにはっきりと言うのは初めてだった。

 

「何事!?」

 

 二人の大声に釣られて四葉も部屋から飛び出してきた。

 そして口を開けたまま固まる二人と、黙々と食事を続ける三玖を見比べて首を傾げる。

 しまいには誰も言葉を発さない事で余計な想像を膨らませたのか、ワナワナと震え始めた。

 

「ま、まさか今度は三玖が退学するんじゃ……」

「違うから」

「そっか、良かったぁ~~……」

 

 三玖が即座に否定すると、四葉はへなへなとソファーに座り込んだ。

 直近の心配事から引っ張ってきたのはわかるが、流石にそれ程の大事ではない。

 三人が落ち着いたのを見計らって、三玖は口を開いた。

 

「前々から考えてたんだけど、お料理の学校に行きたいんだ」

「料理……あんたが?」

「うん、おかしいかな?」

 

 多少否定的な反応が出る事は予想していた。

 向いていない事は百も承知だ。

 

『だが身の程知らずにもまだ目指すってならまぁ、一緒に頭をひねるさ』

 

 だけどそれでも約一名、背中を押してくれる人がいるとわかっている。

 それを足がかりに、三玖は自分を奮い立たせた。

 

「一花も頑張ってるし、私も頑張ろうって決めたんだ」

「絶対向いてないわよ」

「かもね」

「開き直ってるんじゃないわよ……あ~、もうっ」

 

 二乃は頭を抱えたかと思うと、三玖に歩み寄って指を突きつけた。

 

「なら明日から朝御飯は任せるわ。味見ぐらいはしてあげるからしっかりやりなさいよね」

「ありがとね、先生」

「ふんっ、容赦しないから覚悟することね」

 

 言い方は素直ではないが、二乃は三玖の背中を押す事を決めた。

 もちろん三玖にとっては本心が透けて見えてるので、それは励ましの言葉でしかない。

 

「もちろん、私も応援するよ!」

「ええ、三玖ならきっとできますよ」

 

 妹二人も、三玖の考えに賛同した。

 特に五月はパン作りの練習に付き合っていたのもある。

 努力で苦手を克服してみせた姉を強く信じていた。

 ここにはいない一花も三玖の選択を否定はしないだろう。

 なんせ自分自身が茨の道を歩もうとしているのだから。

 しかしながら、伝えるべき大事な相手がまだ残っている

 

(フータロー、どう思うかな)

 

 しかし風太郎自身の言葉があるとはいえ、不安はあった。

 特に三玖は姉妹の中で一番の成績のため、落胆させてしまうかもしれない。

 それでも伝えないという選択肢はなかった。

 風太郎が自分と向き合ってくれたように、自分も向き合わねばならないのだと。

 三玖は静かに決意を固めた。

 

 

 

 

 

「えーっと、多分ここら辺のはずなんだが……」

 

 屋台の群れを抜けて川沿いの道に出る。

 花火には人ごみが付きものなのか、例によって人が多い。

 男女ともに浴衣を着ている人が多く、制服姿の俺は少し浮いているかもしれない。

 いくら目立つとは言っても、この中から中野姉妹を見つけるのは骨が折れそうだ。

 つーか、似たような事は去年に経験済みである。

 らいはも一緒にいるはずなので、手早く合流したいところだ

 

「フー君、こっちよ」

 

 横合いから声がかかる。

 俺をそう呼ぶのは当然二乃だ。

 去年と同じように浴衣を身につけていた。

 髪が短くなっているためか、また印象が違って見える。

 もっとも、当時の俺はそんな事を気にする程の関心も余裕もなかったのだが。

 今更ではあるが、それをもったいなく感じてしまう。

 

「二乃、迎えに来てくれたのか」

「当然よ。だって一番に会いたかったもの」

 

 そう言って二乃は正面から抱きついてきた。

 人目をはばかるという考えが、こいつの頭にはないようだ。

 浴衣姿で普段よりは布が多いとはいえ、胸部の柔らかい感触に変わりはない。

 ボルテージが上がるの阻止するためにも、とりあえず体は離しておくべきだろう。

 しかし俺がそうしようと動くより早く、二乃は自分から離れていった。

 流石に周囲の状況を弁えたのだろう。

 ……なんて胸を撫で下ろしていたのが駄目だった。

 

「んむっ――」

 

 次の瞬間、二乃は俺の襟を掴んで引っ張ると、迷わず唇を重ねてきた。

 触れるだけのキスだが、二乃の目は熱情を湛えていた。

 仮にこの場に他の人間がいなかったら、迷わず俺を押し倒してきたに違いない。

 

「――お前、こんなところで……」

「あら、じゃあ誰もいないとこだったら構わないのね」

「……そんなの時と場合によるだろ」

 

 ここできっぱり駄目だと言えないあたり、俺はすっかり絆されている。

 そもそもの話、好きな相手にキスをされて嫌なわけがないのだ。

 

「さ、行きましょ」

 

 満足したのか、二乃は俺の手を引いて歩き出す。

 人ごみをかき分けながら川原の土手へ。

 花火を見るのに定番のスポットなのか、あちこちにレジャーシートが敷かれていた。

 こいつらもその一角に場所取りをしているらしい。

 程なくして、大きめのレジャーシートの上に座る一花と三玖の姿が見えた。

 当然のように浴衣姿だ。

 

「あ、フータロー」

「二乃と一緒だったんだね」

「ああ、どの辺にいるかわからなかったから助かったぜ」

「ここ空いてるから座りなよ」

 

 荷物を置いて促されるまま座ると、一花と三玖が俺を挟むように隣に陣取った。

 わざわざ固まる必要もないと思うのだが、恐らく言っても無駄だろう。

 そしてこの状況で二乃が黙っているはずもなく……

 

「ちょっと、私が連れてきたんですけど!」

「二乃のことだし、どうせ抜け駆けしてたんでしょ」

「実際どうなのさ、フータロー君?」

 

 抜け駆け云々の時点でまずいと思ったが、既に両腕をホールドされていた。

 離脱に失敗した俺は、一花の尋問じみた問いに顔を背けるしかない。

 馬鹿正直にキスしてましたなんて言って、穏便に済む未来が見えなかった。

 そしてどうやらこの場においては、沈黙は雄弁とみなされたらしい。

 俺が答えない事で二人は確信を深めたようだった。

 三玖はむくれて、一花は薄く笑っていた。

 さて、この状況における正解の行動とは一体なんだろうか?

 全国一位の頭をもってしても、答えは見つからなかった。

 

「――っ、そっちがその気なら、こっちだって勝手にしてやるわよ!」

 

 俺を離さない二人に業を煮やした二乃は、胡座をかいた俺の上に座って背中を預けてきた。

 グイグイと身を寄せてくるものだから、体は否応なく密着してしまう。

 特にやばいのは尻だろう。

 普段あまり目が行くことはないが、胸同様にこっちも結構なサイズなのだ。

 そんなものを足の付け根に押し付けられて、平気でいろという方が無理な話だ。

 そしてチラチラと髪の間から見えるうなじも中々にやばい。

 こっちは見なければいいだけなので、視線を上にそらして対応した。

 後は舌を噛んで必死に堪える。

 このままでは俺の剣が存在を主張しかねない。

 言うまでもないが、そんな事になったらしばらく中野姉妹の顔を見るのが難しくなるだろう。

 

「えっと、四人でなにしてるのかな?」

 

 困惑気味な第三者の声。

 目を向けると、四葉が困ったように笑っていた。

 その気持ちはわかる。

 俺だって困惑しているくらいだからな。

 

「な、なななっ……!」

 

 そして四葉に続いて五月の登場だ。

 両手にビニール袋を提げたまま、信じられないものを見たかのように震えていた。

 その気持ちはわかる。

 俺だってどうしてこんな事になっているのかを説明して欲しいくらいだからな。

 

「みんなずるいですっ!」

 

 しかし五月に関しては読みを外していたようだ。

 ビニール袋を置くと、あろう事か後ろから抱きついてきやがった。

 つーか羨ましがってただけかよこいつ!

 とにかく、これでめでたく前後左右コンプリートである。

 いや、全然めでたくないが。

 容赦なく押し付けられる柔らかさで気がおかしくなりそうだった。

 もう誰でもいいからどうにかしてくれねーかな……

 

「あ、お兄ちゃーん!」

「ら、らいは!?」

 

 そして失念していたのだが、らいはは先に中野姉妹と合流していたのだ。

 こっちにいなかったとなると、それは四葉か五月と一緒にいたということで……

 当然、二人が現れればらいはもここに居るということだ。

 

「わー、モテモテだね」

「……ごふっ」

 

 こんな情けない場面を見られて耐えられるはずがない。

 兄としての威厳が崩れ落ちていく音が聞こえるようだった。

 あまりの精神的ダメージに俺は心の中で吐血した。

 

 

 

 

 

 その後、俺が立ち直るまでに少々時間がかかったものの、何事もなく花火を見る事ができた。

 夏休みの宿題が終わってないからとケツを叩く必要もなく。

 集合場所を伝え忘れてバラバラになるなんて事もなく。

 そして誰か一人が急用でいなくなるなんて事もなかった。

 実に平和だったと言えるだろう。

 らいはがいるためか、中野姉妹も実に理性的にしていてくれた。

 五月達が屋台で買ってきたものを食べつつ、全員で夜空に打ち上がる花火を見上げた。

 これも立派な夏の思い出になるだろう。

 青春をエンジョイ、というやつだ。

 

「いやぁ、楽しかったね」

「同じぐらい騒がしかったけどな」

「ふふ、楽しかったことは否定しないんだね」

「それは事実だからな」

 

 そしてその後は全員で屋台を回り、帰路につく。

 四葉と五月はらいはにべったりで、二乃と三玖は何やら話し込んでいた。

 俺はあぶれた者同士、一花と並んで歩いている。

 

「……こんな時間を、私は手放そうとしてたんだね」

「それが良いのか悪いのかはわからねーが、まぁ……俺は全員で花火を見られた事に満足してる」

「なんかさ、フータロー君もだいぶ素直になったよね」

「だとしたらそれはお前らのせいだな」

 

 あるいは中野姉妹のおかげとも言う。

 以前と比べれば、自分の感情を言葉に出すのに抵抗はなくなっている。

 それでも全く平気というわけではないのだが。

 

「うん、これなら夏休み明けからも頑張れそうだよ」

「容赦せずにいくから覚悟しとけよ」

「お、お手柔らかにお願いしまーす」

 

 一花の笑顔は引きつっているが、こちらは決して少なくはない金を出しているのだ。

 支払った分はきっちりと仕事、もとい勉強をしてもらわなければならない。

 

「っと、そろそろお開きだな」

 

 ここいらで上杉家と中野家で別れなければいけない。

 これ以上一緒に歩けば、それはどちらかの遠回りになってしまう。

 俺一人ならばいいのだが、らいはが一緒にいるため今日のところはそれを避けたかった。

 

「フータロー君、今日は来てくれてありがとね」

「またね、フー君。今度は二人きりで会いましょ――ちょっと、何するのよ」

「二乃こそ何しようとしてたのさ」

 

 俺に手を伸ばそうとする二乃を、一花が阻止していた。

 ナイスと言わざるを得ない。

 また合流した時のようにキスをしてくる可能性は十分にあった。

 それをらいはの前で見られるのは、精神的にかなりくるのだ。

 

「やっぱりらいはちゃんと離れたくないよー!」

「私ももっと一緒にいたいです!」

「えへへ、私もモテモテだー」

 

 そして俺の妹は中野姉妹の下二人にモテモテだった。

 しかし、悪いがお前らに可愛いらいはを渡すわけにはいかないのだ。

 ここはおとなしく諦めてもらうとしよう。

 

「ねぇねぇ、お兄ちゃん」

「ん、なんだ?」

「五月さんの家に遊びに行っちゃダメかなぁ?」

「うっ……も、もう結構な時間だしな」

 

 我が妹の上目遣いは凄まじい破壊力だが、もはや出歩く時間ではない。

 心苦しいが、諦めてもらうしかないのだ。

 

「あ、それだったらうちに泊まればいいんじゃないかな?」

「一花、それ名案だよ!」

「上杉君、いいですよね?」

 

 五月が期待に満ちた目で尋ねてきた。

 これで断ったら、またいつかのように唸るだけの生物となりかねない。

 しかし、どうしたものか。

 確かにそのまま中野家に泊まるのならば夜道を歩く心配はいらない。

 こいつらの事も信頼していないわけじゃない。

 俺のいないところで色々と吹き込まれる可能性があるのが問題なのだ。

 もし帰ってきたらいはが姉妹の誰かをお姉ちゃんと呼び始めたら、俺は頭を抱えるしかなくなる。

 

「そんなに心配なら、あんたもうちに来ればいいじゃない」

「いや、それは……」

 

 二乃の提案はつまり、俺も泊まって行けという事だ。

 以前にも中野家に泊まるケースはあった。

 しかしそれは勉強のためであって、プライベートで宿泊するのはワケが違うだろう。

 そして泊まったとして、こいつらが一体どんな行動を起こすのか。

 らいはに夢中な下二人はその心配はないとしても、残り三人……特に二乃が問題だ。

 間違いなくこの提案はそれを見越していると見ていいだろう。

 となれば――

 

「……わかった、そうしよう」

「決まりね。じゃあ、フー君は私の部屋で――」

「ただし! 俺はリビングで寝る。これが条件だ」

 

 そう、以前は三玖の部屋を借りたからややこしい事になったのだ。

 それならば最初から誰の部屋でもない場所に寝ればいい。

 二乃が悔しそうな顔で睨んでくるが、これを譲歩するつもりはない。

 いくらなんでも一直線すぎんだろ、お前。

 

「うん、じゃあそれでいこうか」

「やったー!」

「らいはちゃん、今日は一緒に寝ましょうね」

「待って、いくら五月でもそれはゆずれないよ!」

 

 なにやららいはをめぐって争いが起きようとしているが、話はまとまった。

 以前はいきなりでそんな暇はなかったのだが、泊まるなら着替えやら色々と用意するものがある。

 一旦はそれを取りに帰る必要があるだろう。

 親父はまだ帰ってないと思うから、後で連絡しておこう。

 

「じゃあお前らは先に行っててくれ。俺は着替えとか用意してから向かう」

「お兄ちゃん、私も行くよ」

「いや、いい。いっぱい遊んでもらえよ」

「うん、ありがとね」

 

 らいはの感謝と笑顔で胸は一杯である。

 暖かい気持ちを抱えたまま、俺はひとまずの家路についた。

 

 

 

 

 

「……」

「……」

 

 家までの道中を、何故かついてきた三玖と歩く。

 一応本人は荷物持ちという理由を述べていたが、正直俺一人でも問題はない。

 せいぜいが一泊分の着替えなので、大した量ではないのだ。

 必要はないと伝えようとしたのだが、勢いに負けて同道を許してしまった。

 そして今現在、無言で歩く二人組の出来上がりというわけだ。

 俺もこいつもあまり積極的に話す方ではないが、これほどまでに会話がないのは珍しい。

 しかし、時折こちらを見ては前に視線を戻すという行動を繰り返しているので、何か俺に用があるのは間違いなさそうだった。

 

「荷物持ちの事、他のやつにちゃんと言ってから来たんだろうな?」

「ううん、言ってないよ」

「それ絶対問題になってるやつ」

「フータローと一緒なう……うん、これで大丈夫」

 

 三玖がスマホを取り出してなにやら指を滑らせる。

 すると、しばらく間を置いてから何故か俺の携帯が数度震えた。

 確認するのが億劫、もとい恐ろしかった。

 

「おい、本当に大丈夫なんだろうな」

「心配しないで。ちゃんと言えばみんなわかってくれるから」

 

 三玖はまたもスマホを取り出すと、追加の連絡を行ったようだ。

 その後は俺の携帯が震える事はなかった。

 あいつらが納得したのだと信じたいが、どうにも不安は残る。

 距離を隔てた確認よりも、と直接こちらに乗り込んでくる可能性だってあるのだ。

 しかし、もしそうなったとしても止めようがない事はわかっている。

 何故かって? それは俺の経験則だ。

 

「ところで、何か話があるんじゃないのか」

「え……そ、そんなにあからさまだったかな?」

「うんまぁ、俺でも気づく程度にはな」

 

 三玖は恥ずかしがっているが、それは転じて自分の事が見えないくらい余裕がなかった証拠だ。

 それなのに姉妹に無断で俺についてくるのだから、おかしなところで大胆とも言える。

 

「実は、フータローに言わなきゃいけないことがあるんだけど……」

「ああ、歩きながらで良ければ聞くぞ」

「……ふ、フータローって進路はどうするの?」

 

 言わなきゃいけない事があると言っておいて、出てきたのはこちらに対する問いだった。

 もしかしたらこの質問自体が前フリなのかもしれない。

 そうなると、三玖の話は進路に関わる事なのだろうか。

 順調に成績を伸ばしてるし、もう少しランクの高いところを狙ってみたくなったのかもしれない。

 

「とりあえずは県外の大学だな。どこに出しても大丈夫って太鼓判ももらってる」

「そっか、やっぱりすごいね」

「で、お前の話も進路絡みなのか?」

「……うん、夢というか目標というか、そういうのができたんだ」

 

 夏休み前だったか、やってみたい事があると言っていたのを思い出す。

 あの時は焦らなくてもいいと伝えたが、ようやく三玖の中で答えが定まったのだろう。

 それは家庭教師として喜ばしくもあり、同じ受験生としては羨ましくもあった。

 

「お前も自分の夢ってやつを見つけたんだな。素直にすげーって思う」

「そ、そうかな?」

「行きたい大学が少し難しくても、伸びしろを考えりゃ十分いけるだろ」

「うっ……」

「具体的な対策は判定を見てからだが、お前ならきっと大丈夫だな」

 

 この一年弱の出来事を振り返る。

 思えば長い道のりだった。

 何もかもが初めてだらけで、正直よくここまでやってこれたと思っている。

 スタート地点は五人合計100点の連中が、今や大学入試を目標としている。

 自分の指導力不足に悩んだ事もあったが、合格というゴールにたどり着ければそれも報われる。

 それこそ、今までこいつらに教えてきた甲斐があるというものだ。

 

「……そう、だね」

 

 しかし、三玖の歯切れは悪かった。

 俺の言葉を肯定しつつも、自分の言いたい事を吐き出せずにいるように見えた。

 その姿に、何故か以前の武田が重なった。

 自分の夢を持ちながら、親の期待に応えてそれを押し殺す姿。

 直感でしかないが、それが今の三玖に当てはまるとしたら、背負っているのは誰の期待だろうか。

 父親は違う。

 あの人は基本的に自分の娘の意思を尊重している。

 自分勝手な望みを押し付けるとは考えられない。

 姉妹も違う。

 お互いの事を思いやっている中野姉妹が、そんな事をするとは思えない。

 なら学校の教師か――それも違うと断言できる。

 なぜなら、教師としてなら俺の方が信頼されている自信があるからだ。

 そう自負するに足るだけの時間を、こいつらとは過ごしてきたと思っている。

 となると、俺の貧弱な人間関係から連想できる相手は他にいなかった。

 それほどまでにこいつに影響を与えられる人物とは、一体誰なのか。

 そこまで考えて、ふと一緒に図書館に行った時の事を思い出した。

 やってみたい事があると言ったのは、その帰りの事だ。

 あの時、三玖が食い入るように読んでいた本はなんだ?

 あいつの興味の対象は戦国武将だが、あの本は恐らく違う。

 チラリと見えたのは、料理の写真で――

 

「……この、馬鹿野郎が」

「えっ」

 

 自分への罵倒と共に、頭の中の思い違いを叩きだすために頬を張る。

 いきなりこんな事をしたら面食らうとは思うが、これは今の自分に必要な事だった。

 修学旅行の初日、パンをご馳走してくれた三玖の姿を思い出す。

 夏休み前、毎日のように渡された弁当を思い出す。

 こいつに期待を押し付けているのは、他ならぬ俺自身だ。

 

「三玖、正直に話せ。お前が本気で選ぶ道なら、俺は否定したりしない」

「……私ね、料理の勉強がしたいんだ。だから、ごめん……大学には行けない」

 

 三玖はゆっくりと吐き出すように答えた。

 料理の勉強……つまりは専門学校だろう。

 俺の頭からはすっかりなくなっていたが、そういう道だってあるのだ。

 正直に言うと複雑な気持ちだが、それは俺の身勝手な感情でしかない。

 だからそんな申し訳なさそうな顔をしないで欲しい。

 

「三玖、すまん。俺はお前に勝手な期待を押し付けてた……まずは謝らせてくれ」

「……」

「それがお前の選んだ道なら、俺も応援しよう」

「私の方こそ、ごめん。フータローならそう言ってくれるってわかってたのに……」

 

 怖くて中々言い出せなかったのだと、三玖は小さく呟いた。

 それはそもそも俺の無意識な期待が原因だ。

 だからこいつが謝る必要なんてないのだ。

 

「着いたぞ、ここだ」

 

 話しているうちに自宅に到着。

 当然ながら明かりはついていない。

 三玖は俺の家――というよりも、壁面から突き出た看板に目を向けていた。

 

「あの看板って……」

「前に話したお袋の店……の名残だな」

 

 この建物は一階部分が個人喫茶で、二階部分が自宅になっていた。

 現在は店はシャッターで閉ざされているが、親父とお袋が借金をしてこさえたものなのだという。

 それを店を経営しながら返済していくはずが、お袋は店を開いた矢先に事故で死んだ。

 そして残ったのは俺と親父と幼いらいはと、莫大な借金だ。

 

「ちょっと待っててくれ」

 

 自宅に上がり、鍵と懐中電灯を持ち出す。

 鍵はもう長い間使われていないものだが、錆の類はほとんどない。

 それだけ親父が大事にしているという事だろう。

 

「待たせたな」

「あれ、荷物は?」

「それは後だ。それよりもせっかくだし、お前に見てもらいたいものがある」

 

 シャッターを上げて、もう随分と開かれていない扉を開ける。

 中は当然真っ暗だ。

 電気は止めているので、懐中電灯を点けて店内を照らす。

 

「入ってくれ」

「う、うん……」

 

 促すと、三玖はおずおずと店内に足を踏み入れた。

 人が踏み入ってないので仕方がないことではあるが、少々埃っぽい。

 テーブルと椅子は端に寄せられ、棚はもぬけの殻。

 かすかに残る思い出との差異に心が締め付けられそうになる。

 

「寂しいもんだろ。借金もあるから手放すに手放せなくてな」

「ここで、フータローのお母さんが?」

「ああ、お前に俺の事……というよりお袋の事を知ってもらいたくてな」

 

 修学旅行の初日に、三玖自身が言っていた事だ。

 今更俺自身について語る余地はないが、家族の事となればまた別だ。

 それに、あのパンを焼いてくれた三玖には知っておいて欲しかった。

 

「ここはお袋の夢ってやつだったんだろうな」

「夢……」

「俺にはそういうのがないから、それを持ってる奴が少し羨ましいよ」

 

 金を稼ぐという目標はある。

 そのための足がかりとして、大学に入るだけの学力も身につけた。

 しかし、未だに具体的なビジョンは見えてこなかった。

 俺自身の将来の姿というものが想像できないのだ。

 それがいまいち志望を決めきれない理由だ。

 

「悪い、少し湿っぽかったな」

「ううん、またフータローのことが知れて嬉しかった」

「そうか」

 

 外に出て、再びシャッターを下ろす。

 三玖は閉ざされていく店に、あるいはお袋に対してか、静かに頭を下げていた。

 感傷に浸るのはここまでにしておこう。

 今度こそ三玖を伴って部屋に上がる。

 あまり抵抗を感じなかったので、他人を家に上げるのに慣れてきたのかもしれない。

 いや、今更他人と呼ぶような間柄でもないんだが。

 

「着替えを出すから、そっちのバッグに詰めてくれ」

「任せて」

 

 ほいほいとタンスから必要な衣類を出していく。

 たかだか一泊分なので、時間はかからなかった。

 三玖も淀みなく詰めていくのだが、途中でその手が止まった。

 

「おい、人の下着を持ったまま固まるな」

「ごめん、つい気になって……」

 

 やはり異性の下着は気になるものなのだろうか。

 いや、別に俺が女性の下着に興味津々というわけじゃないが。

 とりあえず、せっかく畳んでいたものを広げてまじまじと見るのはやめて欲しいぜ。

 これなら全部一人で済ませたほうが良かったかもしれない。

 

「よし、こんなとこか」

「すぐ済んじゃったね。ちょっと残念」

「いや、勉強道具入れ替えるからもうちょっとだけ待ってくれ」

 

 背負っていたリュックを置いて中身を出す。

 全教科分を持ち歩くには容量不足、もしくは重量オーバーなので定期的に入れ替えているのだ。

 中野家に泊まるからといって、自分の勉強を疎かにするわけにはいかない。

 そうして出し入れしている最中、とあるものがこぼれ落ちた。

 入れっぱなしにしてた箱入りの近藤さんだ。

 なんか昨日も似たような事があったな……

 なんにしても見られる前に――

 

「これって……」

 

 ――回収しようとしたのだが、ブツは既に三玖の手によって拾い上げられてしまっていた。

 一瞬、頭の中が真っ白になる。

 しかしずっと固まっているわけにはいかない。

 なんとか言い訳を……いや、そもそも何に対して言い訳をするんだよ。

 三玖がそのアイテムについて何も知らない可能性だってある。

 落ち着け、まだ慌てる時間じゃない……!

 

「ふ、フータロー、なんでこんなもの持ってるの……?」

 

 顔を真っ赤にしながら尋ねてくる三玖が、それが何かを理解しているのは疑いようがなかった。

 緊張からか汗が頬を伝う。

 どうする、どうしたらいい?

 とりあえず、三玖の手から取り上げなければ……!

 

「か、返せっ」

「あっ――」

「うわっ――」

 

 俺の勢いが良すぎたのが原因か、それとも三玖がブツを持つ手を引っ込めたのが原因か。

 動きに制限のある浴衣を着ていたのも関係しているだろう。

 もつれるように、俺と三玖は床に倒れこんだ。

 三玖を下敷きにするわけにはいかないので、咄嗟に床に手をついて体を支える。

 結果、俺が三玖を押し倒しているという頭の痛い構図が完成してしまった。

 今にも鼻先が触れそうなほど近い。

 何を思ったのか、三玖は無言のまま目を閉じた。

 そして俺も何を思ったのか、そのまま顔を寄せて唇を重ねてしまった。

 数秒の触れるだけのキス。

 唇を離すと、三玖は蕩けた目で俺を見上げてきた。

 

「ねえ……これ、使ってみたくない?」

 

 そして俺の首元の絆創膏を剥がすと、変色した部分に舌を這わせてきた。

 その感触に体が震え、理性がグズグズに溶かされていく。

 そもそも自分からキスをしてしまった時点で、もう既にスイッチが入ってしまっている。

 

「んっ……いいよ。私にもフータローの痕、付けて……?」

 

 そこが限界だった。

 言う通りにして、三玖の首筋に吸い付く。

 その際に漏らした堪えるような喘ぎ声が、興奮をさらに加速させた。

 邪魔が入らないのなら、後はもうそのまま転げ落ちていくだけ。

 求めるまま、あるいは求められるまま、俺は三玖との『約束』を果たした。

 

 

 

 

 

「歩けそうか?」

「う、うん……」

 

 先程までしていた行為の影響か、三玖は歩くのが少々辛いようだった。

 それは俺の責任でしかないので、支えながら夜道を進む。

 時間を取られてしまったため、俺と三玖の携帯には心配するメールやらが届いていた。

 まさか正直に話すわけにはいかないので誤魔化したが。

 後処理や浴衣の着付けでもたついてしまったが、親父が帰る前に済んで良かった。

 

「それにしても、よくあいつらが今まで黙ってたな」

「私がお願いしたんだ。フータローに進路のこと話すって」

 

 姉妹にもちゃんと話したのは昨日なのだという。

 二乃は特に気にしていたようで、花火からの帰り道でもその事を話していたらしい。

 あいつらの事だから、三玖が勇気を出したのに野暮な邪魔をしようという考えはなかっただろう。

 それだけに、三玖と致した事を考えたら背中に冷や汗が伝ってしまう。

 実際に顔を合わせる時までに、心を落ち着けておかなければならない。

 そうしないと、あっという間にボロを出してしまいそうだ。

 

「あ、いた! 何やってたのよ、もう!」

「二人ともー、遅すぎだよ」

 

 そして心の準備を終える前に一花と二乃が現れた。

 到着が遅れている俺達を心配して様子を見に来たのは疑いようもない。

 それにも関わらず、俺の顔は強張ってしまった。

 これでは後ろめたい事があると白状しているようなものだ。

 そして、それを見逃すような一花ではなかった。

 

「まさかだけどさ、二人してなにかイケナイ事をしてたわけじゃないよね?」

 

 三玖の顔が真っ赤に染まり、二乃の視線が鋭くなる。

 ……落ち着け、まだ確たる証拠を押さえられたわけじゃない。

 なんて自分に言い聞かせてみたが、足は竦んで動けそうにない。

 蛇に睨まれた蛙という言葉が浮かんできた。

 

「三玖、首のそれってまさか……」

 

 二乃の視線が三玖の首元の痕を捉え、同じように俺の首元の痕も捉えた。

 慌てて出てきたせいで、絆創膏で隠すのをすっかり忘れてしまっていた。

 手で隠してみるが、それはもう後の祭りである。

 さらに俺と三玖がシンクロしたかのように首に手を当てた事が、二人の神経を逆なでしたらしい。

 一花と二乃の頬が引きつった。

 

「ちょっとあんたら、そこに正座しなさい」

「「……はい」」

「さぁて、二人とも……なにか申し開きはあるのかな?」

 

 ここに簡易五つ子弾劾裁判が始まった。

 終わる頃には気力が尽き果て、勉強するどころじゃなかったのは言うまでもない。

 

 

 




ちなみに勇也さんは部屋の中で行われている事を察して、どこかで時間を潰していたようです。


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放課後デートが四葉の場合

ここ一週間は読み専やってました……!

面白いけどクソ長いのに出会ってしまったら時間を取られちゃいますね。


 

 

 

 放課後の校内は校舎の内外問わずに活気があった。

 そこにはいつも部活動に精を出す生徒はもちろん、普段は帰ってしまう生徒の姿もある。

 常とは違う賑わいには当然理由がある。

 十月の半ばに執り行われる旭高校の学園祭――日の出祭の準備が始まったのだ。

 

「放課後なのに賑わってるねー」

「まだ一ヶ月以上あるのに、随分な気合の入れ様よね」

「でも楽しみ。去年は準備に参加できなかったし」

 

 中野姉妹は外で看板等の制作に着手する生徒を窓から眺めていた。

 フルメンバーではなく、二人が欠けた三人の状態だ。

 休学中の一花は当然おらず、五月は放課と同時にどこかへ行ってしまった。

 

「あーあ、これであれさえなければね……」

「そうだね、あれさえなければ……」

 

 ため息を吐く二乃につられるように、四葉も微妙な顔をした。

 二人の頭に浮かんだのは大学の入試判定。

 一学期のものがもうすぐ返ってくるはずだった。

 大学に行かない三玖からしたら、ご愁傷様という意見しか出てこなかった。

 

「二乃は結局大学行くんだ」

「そーねー、フー君とのキャンパスライフとか憧れちゃうわ」

「「それは絶対にない」」

 

 三玖と四葉は口を揃えて言った。

 風太郎と自分達では学力に差がありすぎて、同じ大学に通うなど夢のまた夢だ。

 二乃は二人のツッコミに顔をしかめたものの、噛み付くことはしない。

 非現実的な話だとは言った本人がよくわかっていたからだ。

 

「……学祭が終わったら受験まっしぐらなのね」

 

 声には名残惜しむような響きがあった。

 受験が終わる頃には、きっと姉妹の道も分かたれる事になる。

 そう考えると、学園祭までの日常こそが残された猶予期間なのかもしれない。

 

「そういえば、うちのクラスって何やるのよ」

「どうなの、学級長?」

「うーん、どうなってるんだろ?」

 

 クラスの取りまとめ役が何も知らないのであれば、それは何も決まっていないのと同義である。

 学園祭の出し物について話し始めた三人に、廊下の向こうから歩み寄る人影。

 

「あ、ここにいたか中野――の四女!」

 

 三年一組の担任だった。

 苗字だけ呼ばれて疑問符を浮かべていた三人だが、直後の追加から用事は四葉にあるらしい。

 とりあえず職員室に来てくれとの事だった。

 学級長という立場上、こうして呼び出されるのも珍しい事ではない。

 四葉は二人に別れを告げると、担任の後について職員室へ向かった。

 そこでの話の内容はタイムリーなもので、学園祭についてだった。

 学級長二人が中心になって話を進めてほしい、担任はそう締めくくって話は終わった。

 

「「失礼しました」」

 

 四葉と同時に職員室を出る生徒がいたようで、退室の声が重なった。

 職員室の入口は二つあり、四葉がいる方とは反対側のドアから出てきたのは五月だった。

 姿が見えないと思ったら職員室にいたらしい。

 

「五月も職員室にいたんだ」

「ええ、授業でわからない箇所があったので」

「私は学園祭のこと! 学級長が中心になって色々決めてくれって」

「そういえばまだ何も決まってませんでしたね」

 

 学祭の出し物となると、教室での展示や発表以外では模擬店が主流だろうか。

 焼きそば、たこ焼き、フランクフルトにからあげ――

 五月の頭に浮かんだのは食べ物ばかりだが、学祭といえば屋台なので間違いではないのだ。

 溢れそうになるよだれを抑えつつ、ふとある事に気づく。

 

「あれ、学級長といえば上杉君もですか?」

「あー、こういうイベントって上杉さん的にはどうなんだろうね」

 

 なにしろ青春の大半を勉強に費やし、それ以外を切って捨てるような言動の持ち主だ。

 それを考えれば、学祭前の浮き足立った雰囲気に苦言を呈しそうではある。

 しかし、最近になってその風太郎が変わりつつある事を五月は知っている。

 そうでなければ、自分から遊びに誘おうとするはずがないのだ。

 

「大丈夫、きっと彼も楽しんでくれますよ」

「そっか……うん、そうだね!」

「じゃあ、私はこれで失礼します。もうすぐ塾のお手伝いなのです」

「頑張ってねー!」

 

 五月を見送った四葉は、クラスメイトの意見を聞くために教室に向かった。

 しかし教室からは話し声の一つもなく、静まり返っていた。

 もうみんな帰ってしまったのかもしれない。

 覗き込むと、他に誰もいない教室に一人、机についてノートを広げる風太郎の姿。

 傾きつつある日の光に照らされたその横顔は、四葉の胸を締め付けた。

 

『四葉は四葉の幸せを見つけなきゃ』

 

 一花の言葉が頭に浮かぶ。

 姉妹の幸せが自分の幸せ。

 そのはずなのに、四葉が幸せについて考えるとどうしても風太郎の顔が浮かんでしまうのだ。

 

「四葉、何やってるんだお前」

「――っ」

 

 ドアの陰に身を隠していたつもりだったが、リボンが窓の部分から飛び出ていた。

 頭隠してリボン隠さずというやつである。

 観念した四葉は、おずおずとドアの陰から姿を現した。

 

「何か用か?」

「えっと……」

 

 担任からは、学園祭については学級長二人が中心になって取り組むように言われている。

 それでも、放課後に居残って勉強をする風太郎の邪魔をする事は気が咎めた。

 迷惑をかけるぐらいなら、このまま自分だけで話を進めた方が良いのかもしれない。

 四葉の頭にそんな考えがよぎった。

 

『大丈夫、きっと彼も楽しんでくれますよ』

 

 しかし先程の五月の言葉が背中を押してくれた。

 夏休み中にも、風太郎は海にプールに花火にと、以前なら避けていた事にも参加している。

 それならば、この最後の祭りも楽しんでくれるはずなのだと。

 

「実は、学園祭のことでお話がありまして」

「ああ、先生から聞いたか。なら早速行くぞ」

「はい?」

「今は少しでも時間が惜しいからな」

 

 ああ、やっぱりと、四葉の心中は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 風太郎はやはり勉強を優先しているのだと。

 他の事に割く時間を惜しんでいるのだと。

 受験生なので当たり前だし、非難する正当性はない。

 わかっていたはずの事ではあったが、少し悲しかった。

 

「そういうことならば私にお任せを! 上杉さんはどっしり構えていてください!」

「は?」

「それでは、私はこれで――」

 

 この場から立ち去ろうとした四葉だったが、それは叶わなかった。

 逃がすまいと、風太郎がその手をしっかりと掴んでいたのだ。

 今までの経験からだろうか、その動きは迅速だった。

 

「待て、勝手に話を進めるな」

「心配しなくても、準備の方は私が――」

「いいから聞け!」

 

 その一喝に四葉は口をつぐまざるを得なかった。

 逃げ出す意思がない事を確認すると、風太郎は手を離して語り始める。

 

「これは俺達にとって最後の学校行事だ。だからこそ精一杯、徹底的に楽しむと決めた!」

「無駄になんかしてたまるか。そのための時間はいくらあっても足りないんだからな」

 

 ここに至って、四葉はようやく風太郎の言葉の意味を理解した。

 風太郎が惜しんでいるのは勉強のための時間ではなく、学園祭の準備に充てる時間なのだと。

 少し照れくさそうにしている横顔に、暖かい感情が心を満たしていく。

 

「早速だが聞き込みに行く。頼りにしてるぞ、四葉」

「任せてください!」

 

 緩んだ心の蓋から漏れ出る想いのまま、四葉は笑った。

 

 

 

 

 

「とまぁ、今日はこんなところか」

「じゃあまた後日ですね。みなさん、次もよろしくお願いします!」

 

 俺達学級長の言葉で、放課後の集会は締めくくられた。

 黒板には先日四葉と共に調べた人気メニューと、それを叩き台に発案されたメニューが並ぶ。

 クラスの反応を見る限り、有力そうなのは二つ。

 二乃が推す不動の人気一位のたこ焼きと、三玖が発案した前例のないパンケーキ。

 前者は男子、後者は女子に受けが良かった。

 ここまで意見が出揃えば、初回としては上々だろうか。

 

「中野さん、ちょっといいかな」

「私も聞きたいことがあるんだけど」

「うちの部でこんなの出したいんだけど、大丈夫かな?」

 

 終わった途端、四葉はクラスメイトに集られていた。

 学園祭に向けて音頭を取る学級長という立場を考えれば無理からぬ話か。

 それはそうと、俺のところには誰も聞きにこないのが疑問でならないが。

 

「人望ね」

「人望だと思う」

「おい、俺は別に何も言ってないんだが」

 

 いつの間にか左右に立っていた二乃と三玖が声を揃えて言った。

 なんでこいつらは俺の考えている事を見透かしてくるのか。

 悩みの大半が食べ物関連な五月ならともかく、そんなにわかりやすいはずがないのだが。

 

「それよりも二乃、ちょっと近すぎ」

「どの口が言ってるのよ。あんたこそ離れなさい」

「やめれ、お願いだからやめれ」

 

 俺を挟んで火花を散らす二人と、ここにはいない一花にはある共通点がある。

 それは俺の口から語るのは憚られるような内容なのだが、夏休み中のある出来事によってそれが三人の間で露見して以来、俺は若干……いや、かなり肩身が狭い思いをしている。

 自業自得と言ってしまえばそれまでなのだが、だからと言って三人が離れていくわけではないし、愚かしい事に俺もそれを望んでいない。

 この関係にどう決着をつければいいのか……それがいまいち定まらない進路と並ぶ俺の悩みだ。

 それ以外にも五月の事だってある。

 上三人との関係が示す通り俺はもうどうしようもないやつなのだが、それを理由にあいつを突き放そうとしても修学旅行でのやり取りが繰り返されるだけだろう。

 あるいは限度を越せば五月も俺を見限るのかもしれないが、それを確かめる気は起きなかった。

 いっそあいつの事も……いかんいかん、何を考えている。

 

「そういえばフータロー、今日はどっちのバイト?」

「ご愁傷様、今日は私とよ」

「む~~」

「……」

 

 先に述べた通り、この問題に関しては俺の発言権、というかその有用性は著しく低い。

 諍いの元凶が口を出そうとしたところで、どの口案件なのである。

 よってちょっとした制止じゃ二人は止まらず、一部のクラスメイトの視線が痛くなる。

 ……俺に人望がない理由の一端はここにあるのかもしれない。

 

「ふー、おまたせ」

「お疲れ様」

「ちょっと働きすぎなんじゃない?」

 

 しかし切り替えは早いので、あまり後には引きずらない事はありがたい。

 二人の関心は、ようやくクラスメイトから解放された四葉に向いた。

 こんな関係になっても、姉妹を思いやる気持ちは健在なのだろう。

 

「最後のイベントですもんね」

 

 四葉がこちらを見上げて微笑む。

 その言葉は、きっと俺が先日こいつに語った事と無関係ではない。

 きっとこいつは純粋に俺が楽しむ事を望んでくれているのだ。

 

「一ミリも悔いの残らない学園祭にしましょう!」

 

 だからその言葉に若干の照れと安らぎを感じても仕方がない……という事にしておこう。

 

 

 

 

 

「というわけで、うちのクラスも学園祭へ向けてようやく動き出したところだ」

「へぇ、受験近いからって消極的な子もいそうなものだけど、案外大丈夫そうだね」

「気にしてるやつもいないわけじゃないけどな。五月とか」

「ところでフータロー君は?」

「実は一学期の入試判定が返ってきたんだが……」

「あー、はいはい。いつものパターンね」

「ちっ」

 

 俺の手口はもう中野姉妹には通じないようだ。

 国公立の難関大学を想定した判定は文句なしのAだった。

 一花の呆れた視線は気になるが、これは同じ事を繰り返しすぎた俺の落ち度だろう。

 

「それにしても、ちょっと抱えすぎじゃない?」

「どの口が言ってやがる。それはお前も同じだろうが」

 

 自分の勉強に加え、家庭教師にその他のバイト、一花との撮影に学祭の準備。

 過積載な自覚はあるが、それぐらいやってのけなければこいつの覚悟とは釣り合わない。

 共に歩むと決めた以上、妥協する気はなかった。

 

「ふふ……一緒に地獄を、かぁ」

「なんだよ」

「あれってある意味プロポーズみたいじゃない?」

「……馬鹿言ってないで先進めるぞ」

「あ、思い出し照れ?」

「うるせー」

 

 例によってニヤニヤしだした一花だが、教科書を丸めて叩いてやるとすぐに勉強に戻った。

 切り替えが早いようで結構。

 

「そういえば四葉とは?」

「何故ここであいつの名前が出る」

「えっと、同じ学級長だしどうなのかなーって」

「そんな心配しなくても特に問題はねーよ」

「ふーん……問題なし、ね」

 

 こいつの心配がどこにあるのかは分からないが、四葉はうまくやっている。

 率先して動くし、クラスメイトとの関係も良好だ。

 そのコミュニケーション能力を少し勉強に割り振って欲しいとは常々思っているが。

 

「お疲れさん。今日の撮影は終了だ」

「終わったぁ~」

 

 タイマーが鳴ると同時に一花は机に突っ伏した。

 まだ交通機関が動いているので、俺も早く帰りたい。

 しかし、本当の正念場はここからなのだ。

 一花の手が、部屋から出ていこうとする俺の手を絡め取るかのように掴んだ。

 

「ねぇ、せっかくだしもう少しだけ話さない?」

 

 頷けば最後、俺は帰れなくなる。

 ここに俺と一花の攻防が始まった。

 

 

 

 

 

「というわけで、デートに行きましょう!」

「は? 駄目だが」

 

 次の日の放課後の事だ。

 人もまばらになった教室で、四葉がそう切り出してきた。

 なんだか懐かしさを覚えるやりとりだった。

 つい反射的に返答してしまったが、俺の予定を考えるとこれが正しい。

 何故なら今日は久々のボーナスタイムなのだ。

 家庭教師もバイトもなく、一花との撮影もない。

 学園祭についての話し合いは、参加できないという者が多かったため今日は見送った。

 つまり、久々に自分の勉強だけに打ち込める……!

 俺の容赦ない切り返しに唖然としていた四葉だったが、立ち直るとそそくさと離れていく。

 そして教室の出口で二人の女生徒と何やら話していた。

 あの二人、たしか椿と葵だったか。

 まとまっている事が多いので、もうセットで覚えてしまっていた。

 

「えー、本日はお日柄もよく? つきましてはおデートなどいかがでしょうか?」

「いや、駄目だが」

 

 今度は謎に口調が変化していた。

 おデートってなんだ、おデートって。

 雑に頭に『お』を付けただけで敬語のつもりらしい。

 というか途中に疑問符を挟むんじゃない。

 ハテナを浮かべたいのはこっちの方だ。

 またしても俺に撃退されて、四葉はあの二人のところに逃げ帰っていった。

 まさかとは思うが、変な事を吹き込まれているんじゃないだろうな。

 

「えーっと、ちょっと説明不足でしたかね?」

「いきなりというわけでとか言われて、事情を把握できるやつは少ないだろうな」

「たしかに!」

 

 納得してくれたなら結構。

 荷物をまとめて教室を出ようとしたが、四葉がなおも立ちふさがった。

 

「上杉さん!」

「なんだよ。デートなら行かないぞ」

「実は、学園祭のことで少し相談が……」

「……わかった。帰りがてら聞こう」

 

 どうやらやっと本題らしい。

 何故あそこまでデートという言葉に拘っていたのかはわからないが。

 ともかく、俺は四葉を伴って家路につくのだった。

 

 

 

 

 

「なるほど、要はリサーチか。それを先に言え」

「すみません……」

 

 事の発端はクラスメイト――椿と葵の二人との会話だったのだという。

 女子同士の会話など俺の想像の及ぶところではないが、今は学園祭の準備期間だ。

 当然話題もそっちに流れていったのだろう。

 

『学級長! うちのクラスのメニューはどうなるの?』

『候補は絞れたけど複数あるし……うーん、やっぱり最後は投票かなぁ?』

『多数決かー、どうせならリサーチしときたいよねー』

『あ、わかる。せっかくだし美味しいお店のを参考にしたいよねー』

 

 という流れだったらしい。

 それならばあの二人と行けばいいと思うのだが、折悪しく用事があったのだとか。

 そこで白羽の矢が立ったのが同じ学級長である俺。

 

『ええっ、上杉さんを誘うのは恐れ多いというか、忙しいのに時間を割いてもらうのは……』

『大丈夫! これも立派な学級長の仕事だからさ』

『そーそー、きっとわかってもらえるよ!』

『……そうですね! なんだかいける気がしてきました!』

『その意気だよ!』

『じゃ、デート頑張ってー』

『へ? デート?』

『うん、デート』

『あー、確かにデートだね』

『あわわわわ……』

『『デート、デート!』』

 

 その後は、デートを連呼されてなんだか頭に焼きついてしまったのだとか。

 うんまぁ、単純なこいつらしいとは思うが、後であの二人には文句を言っておこう。

 それはともかくとして、事前のリサーチの必要性については一理ある。

 俺達学級長は中立のため投票権がない。

 だからといって、座して構えているだけで良いという話ではないのだ。

 どのメニューに決まってもいいように準備しておけば、その後の進行もスムーズになるだろう。

 早い話が予習だ。

 

「よし、ならどこから行く?」

「え、一緒に来てくれるんですか?」

「徹底的に楽しむと言ったはずだぞ」

「でしたね! じゃあ行きましょう!」

 

 言うや否や、四葉は俺の手を掴んで走り出す。

 その後ろ姿に、六年前のあの子の姿がダブった、

 その事に少し安心する。

 時が経っても変わらないものはあるのだと。

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ……四葉、お前、俺を殺す、気かよ……」

「すみません、ついうっかり我を忘れてしまいました……」

 

 ついうっかりで駅一つ分の距離を走らされては堪ったもんじゃない。

 しばらく膝に手をついて息を整える。

 どうにか落ち着いたので顔を上げると、とある店の看板が目に付いた。

 デフォルメされた赤い八本足の軟体生物。

 その足の一本に、茶色い液体がかかったきつね色の球体を爪楊枝に刺して持っている。

 平たく言えばたこ焼き屋だ。

 

「四葉、ここは?」

「ここら辺でおいしいたこ焼きといえばこのお店なんだとか。このクチコミを参考にしました!」

 

 高々と掲げられたスマホの画面を確認すると、何やら見覚えのあるハンドルネーム。

 

『M・A・Y』

 

 ……要するに、五月のお気に入りの店らしい。

 まぁ、あいつの評価なら間違いはないだろう。

 

「この方のレビューはこの付近のお店のものが多いんですよ。案外ご近所さんなのかも」

 

 ご近所さんどころか、同居している事を知らせてやったらどんな顔をするだろうか。

 それはともかくとして、まずはこのたこ焼き屋だ。

 リサーチが目的なので何かを注文しなければならない。

 

「いらっしゃいませー」

 

 店内に入りメニューとにらみ合う。

 オーソドックスなソースたこ焼きはいいとして、ここで見るのはそのアレンジだろう。

 見ればネギを散らしたりチーズをかけたりと、俺にとっては未知の世界が広がっていた。

 鰹節をうねうねさせるだけでは時代遅れだという事だろうか。

 

「上杉さん、どれにします?」

「じゃあこの明太マヨってので」

「あ、じゃあ半々でセットになってるやつの明太マヨとネギ塩でお願いします」

 

 数分待つと出来たてのたこ焼きがパックされて出てきた。

 店を出て移動しがてら、俺と四葉は同時に明太マヨたこ焼きを頬張る。

 そして火傷しないように空気を取り込みながら咀嚼。

 

「なんつーか、シンプルにうまいな」

「んー、明太子のプチプチがアクセントになってますね。辛味とソースの甘味がマヨネーズでマイルドに調和していい感じです!」

 

 語彙の差が酷かった。

 なんなら俺の感想は小学生の作文じみていた。

 というかこいつはなにか、食レポでも生業としているのだろうか。

 勤労感謝の日に一緒に入ったレストランでも思ったが、普段よりも知性が数段アップしているような気がする。

 次に、ネギ塩たこ焼きを口に放り込む。

 

「なんかよくわからんがうまい!」

「こちらはネギのシャキシャキの食感がいいですね! 辛味とごま油の風味が合わさって爽かな仕上がりです!」

 

 なんかもう完敗だった。

 別に勝負をしているというわけではないのだが、俺の感想が参考になるとは思えなかった。

 こんな様ではリサーチという観点で足を引っ張りかねない。

 これは明らかな人選ミスだ。

 

「上杉さん」

「ん、なんだよ」

「まだまだ行きますよ!」

「……そうだな」

 

 それでも、笑顔一つでどうでも良くなってしまうあたり、俺はなんとも現金な人間だ。

 

 

 

 

 

「あんこにクリームチーズ……ありですね!」

「まぁ悪くない」

 

「ん~、このタピオカのモチモチがたまりませんね!」

「んぐっ、下手に飲んだら喉に詰まらせそうだな……」

 

「このフランクはお肉の挽き具合が絶妙ですね!」

「うめぇ」

 

「ちなみに上杉さんは、焼きそばはソースと塩とあんかけのどれ派ですか?」

「うまけりゃどれでもいい派」

 

 という具合にたい焼き、タピオカティー、フランクフルト、焼きそばと色々回った。

 全て某有名レビュワーのおすすめの店である。

 ……もう五月に全部感想を聞いた方が早いのでは?

 などと思わなくもないが、あいつはあいつで勉強を頑張っている。

 水を差すのは野暮ってやつだろう。

 

「時間的に次で最後だな」

「うーん、押印矢の如しというやつですね」

「光陰だ光陰。判子押してんじゃねーよ」

 

 ついでに言えば光陰矢の如しとは、もっと長い目で見た時間の経過に対して使う言葉だ。

 決して一日の範囲で収まる時間経過に使うものではない。

 

「着きました!」

「この店は?」

「専門店ではないんですけど、パンケーキのメニューが充実しているそうなのです」

 

 最後に訪れたのはとある喫茶店だ。

 三玖発案のパンケーキは俺達が調べたデータにはなかったため、どんなものがあるかメニューだけでもしっかりと確認しておく必要があるだろう。

 テーブルに着いてメニューを開くと、パンケーキの項目は数ページに跨っていた。

 看板メニューというやつなのだろう。

 トッピングの違い、生地の違い……とにかくバリエーション豊かだ。

 

「……」

「どうした?」

「いえ、少し懐かしくて。昔よくお母さんが作ってくれたんです」

 

 中野姉妹が母親と貧乏なアパート暮らしをしていた時、よくおやつとして出てきたのだという。

 こいつらに言わせれば、それがお袋の味というやつなのだろう。

 三玖もそれを思い出してパンケーキという案を出したのかもしれない。

 思う所があるのか、この時ばかりは四葉の食レポも控えめだった。

 

 

 

 

 

「今日は充実した食べ歩きでしたね!」

「まったくだ。充実しすぎて財布の中身が瀕死だぞ」

 

 店を出る頃には、空が暗くなり始めていた。

 参考書や問題集を買う代金から捻出した資金も底をつき、いよいよ帰り時だ。

 

「今日はありがとうございました」

「いい、これも学級長としての仕事の範疇だろ」

 

 だからデートではなかったのだと、自分に言い聞かせる。

 そうしないと心が浮き足立ってしまいそうだった。

 そんな精神状態では、何をしでかしてしまうかわからない。

 他の姉妹ならともかく、こいつには間違っても手を出すわけにはいかないのだ。

 

「……楽しい学園祭になるといいですね」

「なるといいじゃなくて、俺達がそうすりゃいいんだよ」

「ふふっ、ですね」

 

 だから、そんな風に穏やかに笑いかけないで欲しい。

 夕日に照らされた四葉の笑顔は、俺の心をどうしようもなく揺さぶった。

 そして気がつけば、自然に四葉の手を取ってしまっていた。

 

「あの、上杉さん……これは?」

「いや、その……なんだ?」

 

 離れたくない、帰したくない。

 俺の中で青臭い衝動がそう騒ぎ立てる。

 これを素直に吐き出せればどんなに楽だろうか。

 

「せっかくだし、最後にあそこに寄らないか?」

 

 

 

 

 

「なるほど、いつかのリベンジというわけですね!」

 

 高台の公園で、二人並んでブランコを漕ぐ。

 勢いをつけたブランコから飛び出して、どちらの飛距離が勝っているか。

 口実としてはなんでも良かったのだが、四葉の言うとおりリベンジというのも悪くない。

 そうと決まれば、重心の動きを利用してブランコを加速させていく。

 以前は勢い余って一回転してしまったが、今の俺は違う。

 十分にスピードに乗ったブランコから飛び出して着地する。

 少々たたらを踏んでしまったが、飛距離は十分。

 

「――っとと……どうだ!」

「やりますね! でも私も負けませんよっ――」

 

 勢い良く四葉がブランコから飛び出す。

 さすがの運動神経だ。

 飛び出した瞬間、俺は自分の負けを察してしまった。

 つーかなんだあいつ、鳥人間かよ。

 いくらなんでも飛びすぎ――

 

「――馬鹿っ、四葉!」

「え? あっ――」

 

 ブランコの正面は柵で区切られており、その向こうに足場はない。

 もし勢い余って飛び越えてしまえば、軽い怪我では済まないだろう。

 そんな事をごちゃごちゃと考えながらも、体は動いていた。

 飛び込んでくる四葉を受け止めるために、柵の前に陣取る。

 

「ぐっ――」

 

 どうにかキャッチしたはいいが、柵に背中を強かに打ち付けてしまった。

 痛みで声が漏れる。

 四葉は……無事か。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

「この馬鹿、怪我したらどうする」

「うっ……ご、ごめんなさい」

「俺はちょっと打っただけだ。怪我は?」

「私はなんとも……あの、本当になんともないんですか?」

「だから大丈夫だって」

「良かった~~」

 

 良かったと言いたいのはこちらだ。

 安堵のあまり強く抱きしめていたらしい。

 気づいた時には、四葉は俺の腕の中で押し黙っていた。

 やってしまったと思う反面、これでいいのだと思う自分もいた。

 俺がどんなに心配したか思い知らせてやるのだと。

 自分の事を顧みないこいつには、これぐらいで丁度いいのだ。

 

「風太郎、君」

 

 だから、耳元のか細い声も聞こえなかった。

 ……そういう事にした。

 

 

 

 

 

「それでは私はここで失礼します!」

「ああ、明日からもよろしく頼むぜ」

 

 風太郎と別れた後、四葉は家路の途中で立ち止まり、空を見上げた。

 赤色は徐々に薄らぎ、星より一足先に月が顔を出している。

 胸の奥では心臓が未だに騒いでいる。

 それを抑えようと胸に手を当て、しかしすぐに手を下ろした。

 

「もう、無理だよね」

 

 学園祭のためのリサーチ。

 そこに間違いはなかったが、同時にただの口実に過ぎない事はもう誤魔化しようがなかった。

 食べ歩きの最中、四葉の頭の中から姉妹の事はすっかり消えていた。

 もちろん、それを責め立てようとする者はいるはずもない。

 ただ一人、本人を除いては。

 しかし今の四葉にはそれができなかった。

 

『四葉は四葉の幸せを見つけなきゃ』

 

「……私の、幸せ」

 

 思い浮かべた光景には、風太郎の笑顔があった。

 他の姉妹の幸せと相反する事は間違いない。

 それを押しのけてまで自分の想いを貫く覚悟があるのか。

 

「……よし、頑張ろう!」

 

 自問自答の末に、四葉は答えを導き出した。

 スタート地点は遅れてしまったかもしれないが、もっと頑張って――

 頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って――

 そして、誇れるような自分になった時にこの想いを伝えるのだと。

 あの日交わした約束から少し形が変わってしまうかもしれないが、今まで頑張り続けていた風太郎の隣に並べるような人間になるのだと。

 そうしたらきっと、姉妹にも認めてもらえるはずなのだ。

 

「学園祭、絶対成功させなきゃね……うん!」

 

 心に蓋をしている暇なんてない。

 情熱を糧にして前へ前へと走り続けるのだ。

 

「風太郎君……待っててね」

 

 ――その果てにある自分の幸せへと。

 

 

 




四葉! 食べ歩きデートとかいう妹の領分を奪う悪い姉!

というわけで、色々フラグを撒きつつの四女とのデートでした。
最大の山場はもうちょい先なんでまだ色々あるかなと。
今回お株を奪われた五女は次あたりで出番があると思います。


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似た者同士

この前、次は五女の出番と言いましたが、あれはウソになりました。
具体的に言うと、元々一つの話の予定が前半部分が思ったより長くなったので分割しました。

というわけで今回は次女の話になります。


 

 

 

「参ったな……」

「困りましたね……」

 

 放課後の教室にて、俺と四葉は揃って腕を組んで首を捻った。

 目の前の黒板には、たこ焼きとパンケーキの文字がデカデカと存在を主張している。

 その横に添えられた『正』の字は、二つの案にそれぞれどれだけ賛同者がいるかを示している。

 奇しくもその数はぴったり同じだった。

 

「今日も平行線だったな。流石にそろそろ決めないとヤバいか」

 

 学園祭の屋台のメニューを決める放課後の話し合いは、発案までは順調だった。

 しかしその後、案を絞る段階で問題が生じた。

 主に男子が推すたこ焼きと、主に女子が推すパンケーキでクラスが二分してしまったのだ。

 それ以降、数日に渡って状況は膠着している。

 日本人らしく民主的な多数決という解決法も、票が同数では意味がない。

 そうなれば残るはひたすら話し合うしかないのだが、どちらも退かずに今日に至る。

 

「二乃の言うとおり、どっちもやるしかないんですかね」

「一応、それは可能みたいだが……」

 

『あーもう! こうなったらどっちもやるしかないわ!』

 

 先程の話し合いは二乃の宣言によって締めくくられた。

 いっこうに歩み寄らない男子と女子に業を煮やしたのだろう。

 二乃自身は発案者のためたこ焼きへの支持を変えるわけにはいかず、旗頭の様に扱われていた。

 一方パンケーキ派は同じく発案者である三玖を担ぎ出しているため、まるで二人が対立するような構図になってしまっている。

 今更こんな事で姉妹仲が悪化するとは思えないが、心配は心配だ。

 

「なんにしても、俺達はどう転んでもいいように準備しておくぞ」

「了解です!」

 

 どちらかに決まるならそれで良し。

 両方やる事になったとしても、予算は絞られるが対応可能だ。

 初動が遅れている分、決まった後にすぐ動けるように手配が必要だろう。

 それは他ならぬ俺達学級長の仕事だ。

 

「あの、上杉君」

「ん、なんだ?」

 

 遠慮がちに話しかけてきたのは五月だ。

 続きを待つが、中々次の言葉が出てこない。

 このタイミングで話しかけてくるという事は、学園祭に関する話題かもしれない。

 形式として五月はパンケーキ派にいるが、他の女子ほど強硬姿勢ではない。

 食べ物に関してこだわりがあるこいつが働きかけてくれれば、女子の態度も和らぐだろうか。

 

「その、実は――」

「上杉君、ちょっといい?」

 

 ようやく口を開いた五月だったが、折悪しく別に話しかけてくる女子達がいた。

 その三人の姿に見覚えはあるが名前が浮かんでこない。

 ただ、二乃の事を面白くなさそうに見ていた事は印象に残っていた。

 

「悪い、五月の方が先だ。ちょっと待っててくれ」

「いえっ、私は全然後でも構いませんので!」

 

 さっきまでのモタつきが嘘だったかの様に、五月はそそくさと去っていった。

 話しかけてきた女子達も、少々気まずげにしている。

 邪魔をしてしまったとでも思っているのかもしれない。

 

「ごめん、タイミング悪かったかな」

「いや、いい。それよりも話は何だ?」

「ここじゃちょっと……」

 

 三人は周囲を、というより四葉を気にしていた。

 とりあえず場所を変えたほうがよさそうだな。

 

「四葉、悪いが後は任せていいか?」

「私は大丈夫なので、お気になさらず相談に乗ってあげてください」

 

 むしろ笑顔で送り出されてしまった。

 それは結構なのだが、しきりに感じ入るように頷いているのが気になる。

 俺がこうやって相談を受けるのがそんなに珍しいのだろうか。

 ……うん、実際珍しいな。

 新年度に入った直後は、中野姉妹を見分けられるという事でそれなりに声をかけられていたのだが、クラスが変わってもう半年弱だ。

 流石に姉妹の見分けがつかなくなるやつはほぼいなくなっていた。

 顔じゃなくてアクセサリーを見ろと、俺が散々言ったのが功を奏したのだろう。

 これが互いの変装を始めたら話は別だろうが、今の所そんな面倒な事態は起こっていない。

 そうなれば人望のある、もとい取っ付きやすい方に流れていくのが自然というもの。

 四葉は晴れて頼れる学級長として活躍しているというわけだ。

 なので、俺がこうやって名指しでクラスメイトに声をかけられるのはレアケースなのだ。

 頑張ってください、などと声をかけてくる四葉を背に教室を後にする。

 お前は俺の保護者か。

 

 

 

 

 

「ここらでいいか……で、俺に話とは?」

「うん、学園祭の事なんだけど――」

 

 人気のない校舎の外れの昇降口。

 そこに陣取って三人と向かい合う。

 学園祭の事という切り出しだったが、要するに問題にしているのは二乃の事だった。

 俺に声をかけたのも、姉妹である四葉に対して言うのは気が引けたからだろう。

 

「女子なのにあんなにたこ焼きを支持してるのって、何か理由があると思うんだけど」

「あいつも言いだしっぺだからな。自分の言った事に責任を持ってるのが一番だと思うが」

「本当にそれだけなのかな?」

 

 思った事をそのまま伝えたが、それで納得はしてもらえなかった。

 それにしても歯に何かが挟まったかのような物言いだ。

 もしかすると、自分達の中である程度疑惑が形になってるのかもしれない。

 それを引きずり出してもいいが、藪をつついて蛇が飛び出してくる場合もある。

 今のデリケートな状況を考えると、なるべく穏便に済ませておきたいところだ。

 

「わかった。二乃の方にはそれとなく話を聞いてみよう」

「ごめんね、忙しいのに時間取らせちゃって」

「気にするな。これも学級長の仕事だ」

 

 事態の解決ではなく、とりあえずの引き伸ばしといったところか。

 しかし下手にこじらせて正面衝突されても困る。

 なんせ二乃は直球勝負を得意としているので、相手が真正面からぶつかってきたらそれ以上の力で対抗するだろう。

 創作では殴りあった結果友情が芽生えるなんて展開もあるらしいが、それを期待するのは楽観に過ぎると言わざるを得ない。

 大抵の場合は確執が深まっておしまいだろう。

 本音を互いに吐き出してぶつかり合うのは、色んな意味で最終手段なのだ。

 ここは言った通り、二乃の考えも確認しておくべきか。

 あいつの事だから、話し合いの場で言った以上の思惑はないと思うが。

 三玖との事も気になるので、早いうちに声をかけておきたいところだ。

 さて、まだ校内にいるだろうか。

 

 

 

 

 

「妙な事になったわね……」

「うん、本当にね」

 

 校内にあるトラック外周の観戦席に、二乃と三玖は並んで座っていた。

 話題は未だに決まらない屋台のメニューについてだ。

 クラスはたこ焼きとパンケーキで二分され、二人はそれぞれの旗頭に担ぎ上げられていた。

 互いに言いだしっぺなので仕方ないと受け入れているが、当然本意ではない。

 なんだったら後悔すらしていた。

 

「ごめん、私がパンケーキなんて言い出さなければ……」

「全くね。なんであんなこと言い出したのよ」

「フータローがね、私のパンを食べてお母さんのこと思い出したって言ったんだ」

「なるほど、それでパンケーキ」

 

 風太郎が言うところのお袋の味は、中野姉妹にとってはパンケーキになる。

 もちろん、それは二乃もよく覚えている。

 むしろ、そのパンケーキが今の二乃の原点と言っても過言ではない。

 

「でもアレ、ふわっふわに作るの本当に難しいんだから」

「やったことあるんだ」

「パパにパンケーキ食べに行きたいって言っても連れて行ってもらえなかったしね」

「でも、それで自分で作ってみるってなるのはすごいかな。さすが二乃って感じ」

「……まぁ、そうね」

 

 しかし実のところ、二乃がパンケーキ作りに着手できたのは、家に器具や材料、レシピ本も含めて全てが揃っていたからだ。

 それも自分で用意しなければならないとしたら、きっと二の足を踏んでいただろう。

 

「それにしても、さっきの話し合いでは随分きっぱり言ったね」

「陰でコソコソするよりマシでしょ」

「でも、面白くなさそうに二乃を見てる子もいたし」

「ま、恨み言の一つや二つは言われるかもねー」

 

 三玖の言う事には心当たりがあった。

 二乃の頭に三人の女子の姿が浮かぶ。

 理由はともかくとして、男子の側にいる二乃が気に入らないようだった。

 なんにしても直接文句を言ってくるのなら対抗するだけ。

 二乃の答えは単純明快だ。

 

「お、ここにいたか」

「フー君!」

「フータロー!」

 

 自分の想い人の姿を認めた二人の動きは素早かった。

 すかさず駆け寄り、同時に胸に飛び込む。

 風太郎は苦しそうな声を上げたが、どうにか倒れずに二人を受け止めた。

 

「お前らな、少しは加減してくれ」

「いやよ」

「やだ」

「なんでこんな時ばかり意見が一致するんだよ……」

 

 左右の腕に抱きつかれて風太郎は困り顔だ。

 しかし、その頬に赤が差しているのを二人は見逃さなかった。

 気を良くして腕を抱く力をさらに強める。

 色々と柔らかい感触に内心悶えていた風太郎だったが、顔を上にそらしてどうにか耐え抜いた。

 その代償として、二人が満足して解放される頃にはすっかり疲弊していたのだが。

 

「まぁ、お前らが仲違いしてないようでとりあえず安心した」

「なんでそんな話になるのよ」

「私と二乃がリーダーみたいになってるからでしょ」

「ああ、そっか」

 

 二乃は手を打って納得した。

 周囲がどうだろうと、担ぎ上げられた当人たちの間には対立意識は毛ほどもなかった。

 互いに面倒な事になったとは思っているが、それだけだ。

 そんな事よりも、わざわざ心配して様子を見に来てくれた事の方が重大だ。

 夏休みからめっきり軟化した風太郎の態度は、中野姉妹の心を揺さぶってやまないのだ。

 

「お前が一人で男子の側にいるのも気になるしな」

「あら、もしかして嫉妬? 嫉妬なのかしら!?」

「アホ言うな」

「フータロー、大丈夫だよ。二乃が他の人を好きになっても私がいるから」

「ちょっと、何しようとしてるのよ!」

「キス、せっかくだし」

 

 ヒートアップしそうな気配を感じて、風太郎は二人から距離をとった。

 このまま二人の好きにさせていてはどうなるかわからなかった。

 決して心情的に嫌というわけではないのだが、誰かに見られるリスクを考慮した。

 

「それじゃ、俺はバイトがあるからそろそろ」

「あ、そうだった。二乃、それじゃ」

 

 その場を離れようとする風太郎の後を追って、三玖も階段を上がっていく。

 今日は二人揃ってパン屋のバイトなのだ。

 取り残された二乃は、自分も帰宅するために荷物を取りに教室へ向かった。

 

 

 

 

 

「にしても、たこ焼きとパンケーキでこんなに揉めるとはな」

「正直、ちょっと困ってるかな」

「言いだしっぺとはいえ、あんなに担ぎ上げられちゃな」

「私はともかくとして二乃はあんな性格だし、責任も感じてると思う」

「だよなぁ」

 

 二乃の様子からは、やはりそんな深い事情があるようには思えなかった。

 あの三人の心配は杞憂という事になるが、それを伝えたところで納得してもらえるだろうか。

 武田や四葉のように、周囲の信頼を得ているやつの言葉なら信用するのかもしれないが……

 これも長年周囲との関係を絶ってきた弊害というやつか。

 

「例えばだが、女子が一人で男子の集団の中に紛れていたら、それはどんな目的だと思う?」

「二乃のこと?」

「例えばと言ったんだが」

 

 三玖は当然のように見破ってきた。

 まぁ、例え話とはいえ、内容がストレートかつタイムリーなので仕方ないか。

 

「うーん……男子にちやほやされたいと思ってる、もしくは好きな人がいるから、とか?」

「違うな」

「うん、違うね」

 

 一旦二乃という要素を省いて考えてくれたが、どちらも見当違いに思えた。

 二乃は好きな相手にならともかく、不特定多数に媚を売るタイプじゃない。

 そこらへんは十分に身にしみている。

 好きな相手がたこ焼き派の中にいるというのもありえない。

 何故なら俺は学級長で、どちらにも投票しない中立的な立場だからだ。

 自惚れと取られるかもしれないが、二乃が俺に向ける感情に関してはこれまでで十分に、それこそあいつが体を張る事で分からされてきた。

 

「そんなに心配?」

「それもあるが、クラスの女子から相談されてな」

「むっ」

「やめろ、そういうのじゃないから」

 

 三玖があらぬ疑いをかけてくる前に、とりあえず否定しておく。

 むくれられたら機嫌を直すためと称して何を要求されるかわかったもんじゃない。

 こと男女関係に立ち返れば、今の俺の立場は非常に弱いのだ。

 

「でも納得。女子だったら、たしかにそういう風に見る子もいるかも」

「そういうもんか」

「もし男子の中に気になる相手がいるなら、心配にもなるかもね。だって、二乃かわいいし」

 

 ちなみに一卵性の五つ子という事情から、この発言は自画自賛につながってしまう。

 顔が同じなので、姉妹をかわいいと褒めれば必然的にそれが自分に返ってくるのだ。

 三玖は姉妹より自分を低く見がちだから、そんな意図がない事はわかっているが。

 もしそれを指摘してやったらどんな反応をするだろうか――そんな悪戯心が湧いてきた。

 ここ最近、中野姉妹の上三人にはやり込められているので、鬱憤が溜まっているのだ。

 それを少し晴らさせてもらうとしよう。

 

「もしお前と二乃の立場が逆でも同じ心配をされてたろうな」

「そうかな?」

「そうだろ。だってお前もか、かわいいからな」

「――っ」

 

 いかん、からかってやるつもりが照れが出てしまった。

 一花が相手だったらカウンターを決められて終了だろう。

 やはりこういう方面ではあまり口を出さない方が良いのかもしれない。

 三玖は顔を真っ赤にしているが、してやったという気分にはならなかった。

 

「――ねぇ、フータロー」

「な、なんだ?」

「今日のバイト終わったらさ……しよ?」

 

 そしてどうやら変なスイッチを入れてしまったらしい。

 さて、ここは鋼の理性とやらの出番だろう。

 こちらの手を掴んで上目遣いを駆使する三玖に対抗すべく、俺も気合を入れるのだった。

 

 

 

 

 

「で、入試判定が悪かったと」

「はい……全力で取り組んでいるはずなのですが、結果が思うようには出ませんでした」

 

 二乃と五月は校内のベンチに並んで腰をかける。

 二人は学校の玄関ではち合わせたのだが、そこで先日返ってきた入試判定の話になり、二乃の結果を聞いた五月が唸るだけの生物と化してしまったのだ。

 それを落ち着かせるために、こうして移動してきたという次第なのだが……

 

「やっぱり、私には学校の先生なんておこがましいんでしょうか」

「フー君には?」

「相談しようとしたのですが、タイミングが悪くて」

「そ、なら早いとこ言っておいたほうがいいわよ」

 

 勉強関連の話となると、二乃には的確な助言はできない。

 ここは素直に風太郎を頼るのが正解だ。

 しかし五月の歯切れは悪かった。

 

「まぁ、忙しそうにしてるし、言いづらいのはわかるけど」

「それはそうなのですが……なにより申し訳なくて」

 

 五月の成績に対する評価は、風太郎の家庭教師としての評価につながる。

 生徒がダメならば教師の方も失敗したという烙印を押されてしまう。

 もちろん五月自身はそんな風には考えていないが、周囲や風太郎がどう受け取るかはまた別だ。

 考えれば考えるほど、言い出しづらくなっていくのだ。

 

「とは言っても、他に誰に相談するのよ」

「先生からは一度親と相談したほうがいいと言われました」

「それこそありえないでしょ」

「そうは思いませんが、これ以上の心配をかけるのは気が引けるんです」

「は? 心配? あの人がそんな――」

 

 二乃は思わず絶句した。

 母を亡くした姉妹を引き取ったものの、無関心で不干渉。

 会話も事務的なものばかりで、それこそ親子らしい会話をした覚えはなかった。

 そんな二乃の父親に対する印象と、五月が言う心配という言葉は天と地ほどにかけ離れている。

 

「お墓参りの時に供えてあった花は、間違いなくお父さんのものです」

「そんなわけ……」

「目に見えなくても、ずっと私たちが小さい頃から気にかけてくれていた……最近そう思えるようになったんです」

「……」

 

 否定したくとも否定しきれなかった。

 二乃の頭の片隅に、なにか引っかかるものがあった。

 何か大切な事のような気がするが、それが何かは判然としなかった。

 

「判定の方は、お世話になっている塾講師の方に相談してみようと思います」

「ちゃんとフー君にも言いなさいよ」

「うっ……わ、わかってますよ」

 

 

 

 

 

『なるほど、なんだか大変そうだね』

「そっちは? というか電話しちゃったけど大丈夫なんでしょうね」

『大丈夫だよ。残念ながら今日はフータロー君も来ないし』

 

 その日の夜に、二乃は一花に電話をかけた。

 近況報告という名目だが、誰かに話して気持ちの整理をつけたいところもあった。

 直接話せれば良かったのだが、今日は帰って来れなかったらしい。

 ホテルでゴロゴロしているという一花の声は、疲労を滲ませながらもリラックスしていた。

 

『それにしても、二乃がこうして電話をかけてくるとはねぇ』

「別にいいでしょ」

 

 普段から顔を合わせているため、こうして電話での長話は珍しい。

 なんだかんだで姉妹に頼られる事が多い一花だが、二乃には逆に世話になっている事が多い。

 それは一花自身のだらしなさと、二乃の中野家のオカンとしての立場からくるものだろう。

 中野姉妹は五つ子なのだが、一花と二乃はその中でも文句なしに姉にカテゴライズされる。

 それゆえか、二乃が一花を頼るというのはあまりない。

 

『それで、二乃は何に悩んでるのかな?』

「……」

 

 だから、近況報告が前置きであるという事には一花も気づいていた。

 わざわざ電話をかけてきたのにはそれなりの理由があるのだと。

 

「……ちょっと、よくわからなくなったの」

 

 二乃は父親に対する思いの丈を吐き出した。

 引き取って不自由のない暮らしを与えてくれた事への感謝。

 でもそれは、ただ体面を保つためだけにそうしていたのではないのかと。

 姉妹に対してはあくまで無関心で、そこに家族としての情はないのではないかと。

 

「でも、五月はパパが私たちのことを気にかけてるって」

『うーん、私も五月ちゃんの言うことに賛成かな』

「……わからないわ。どうしてそう思えるのよ……!」

 

 二乃は声に苛立ちを滲ませた。

 それは一花や五月の意見を否定しきれないからだ。

 そうできればこうして思い悩む必要もないのだが、何かが最後のところで引っかかっている。

 それがわからないもどかしさが、こうして二乃の心を揺らし続けていた。

 

『学校を辞めることを話した時さ、最初に高校は卒業しておくべきだって言われたんだよね』

「そんなの、世間一般がそうしてるからとかそんな理由でしょ」

『そうかもしれないけどさ、その後に色々と聞かれたのがなんというか、まぁ――』

 

 最終的には納得したものの、ただ黙って一花の退学を認めたわけではないらしい。

 その理由と、したとしてこれからどうするのか。

 現在の収入と、学校の時間を仕事に充てたとして収入がどの程度増えるのか。

 有無を言わさぬ圧で、まるで面接みたいだったと一花は語った。

 

『あれってさ、結局のところ私を心配してくれてたのかなって思うんだよね』

「……」

『それとさ、フータロー君が私を雇うために用意したお金、あれってほとんどお父さんが出してくれたみたいなんだよね』

「え……?」

 

 夏休みの後半、風太郎が資金を集めていたことは知っていた。

 もちろん二乃も協力したし、それ以外にも様々なところから資金を借りたのも知っている。

 しかし、自分の父親がそれに協力していたのは初耳だった。

 

『フータロー君には今までのボーナスだから好きにしろ、って感じだったみたいなんだけどさ』

「なによそれ、まわりくどい」

『あはは、だよね。なんかもう、めんどくさいよね』

 

 そう思ったのは一花も同じなようで、面倒とまで付け加えていた。

 二乃にしても、そうやって陰でコソコソするような理由がわからなかった。

 そしてそれがまた気に入らない。

 もっと堂々と、父親らしくしていて欲しかった。

 

『でもそういう不器用っていうか、素直じゃないとこ……誰かに似てると思わない?』

「……知らないわよ」

『ふわぁ……じゃ、私はそろそろ寝るね』

「一花」

『なぁに?』

「ありがと……おやすみ」

 

 

 

 

 

「むむむ……今回も進展なし」

「マズイな、そろそろ決めないと準備時間が心もとない」

 

 今日も今日とて話し合いは平行線で、たこ焼きとパンケーキの票数に変化はない。

 もう学園祭までの期間は二週間を切っている。

 ここまで決まらないのならば、二乃の言うとおり両方やるしかないのだろうか。

 予算も人員も二分されるが、ただ手をこまねいているよりは良いのかもしれない。

 しかし、今のクラスの空気は少し問題か。

 男女の間で隔意があるように思える。

 全員が全員というわけではないのだが、見回せば目につく程度には明らかだ。

 ほら、現にあの女子三人も――

 

「やべっ、忘れてた」

「はい?」

「ああいや、なんでもない」

 

 女子三人には見覚えがあった。

 先日二乃の事で相談を持ちかけてきたやつらだ。

 あれから忙しさにかまけてすっかり忘れていた。

 三人の視線の先には、やはりというか二乃がいる。

 痺れを切らしてしまったのかもしれない。

 首を傾げている四葉には悪いが、一旦抜けさせてもらおう。

 

「三人とも、少し時間いいか?」

 

 声をかけると、全員頷いて応じてくれた。

 さて、話をするにはどこがいいだろうか。

 

 

 

 

 

「四葉、フー君は?」

「えっと、ついさっき教室を出てったみたいだけど……あ、そういえば招待状どうする?」

「……ちょっと保留」

「私はいいと思うんだけどな、お父さん呼ぶの」

 

 学園祭の招待状は学級長に頼めば必要なだけ用意してもらえる。

 二乃も父親に送るために、前々から四葉に言い含めていた。

 しかし時間が経つにつれてその決心も鈍り、どうせ来ないのならと結論づけようとしていた。

 そんな矢先に先日の一花と五月の言葉である。

 心を揺らされた二乃は、どうするべきかわからずにいた。

 目標地点が定まってさえいればただ走るだけなのだが、今はそれが霞んでしまっている。

 後一つ、何かの後押しがあれば答えが定まる。

 そんな予感だけはあった。

 

「学級長、ちょっといいかー?」

「はいはーい!」

 

 四葉は誰かに呼び出されて行ってしまった。

 招待状の件はとりあえず後回しにするしかない。

 それよりも今は風太郎の事だ。

 先ほど例の三人と話しているのはしっかりと把握している。

 二乃は教室の外に顔を出して廊下の様子を伺う。

 廊下の向こうに見覚えのある後ろ姿――風太郎だ。

 女子三人を伴ってどこかに向かおうとしていた。

 三玖とは違い、二乃は風太郎が他の女子にうつつを抜かす可能性を心配していない。

 自分達姉妹に言い寄られているのだから、他に目をやる暇なんて無いだろうと。

 その程度には自分の容姿に自信があった。

 しかし、あの三人は事ある毎に二乃を睨みつけてくる女子達である。

 これがただ遠巻きに見ているだけなら無視するだけなのだが、風太郎を巻き込むのならそれは二乃にとっても看過できない事態だ。

 陰でコソコソとされるのにも飽きたので、ここらで一言だけ言ってやろうかというわけだ。

 無論、それが一言で済む保証はどこにもないのだが。

 

「それで、この前の件なんだが――」

 

 校舎の外れの昇降口に陣取って、風太郎と女子三人は話し始めた。

 この口ぶりだと風太郎の方から連れ出したようだ。

 二乃はとりあえず様子を見ることにした。

 

「結論から言おう……二乃に他意はない。発案者だからたこ焼きを支持してるだけだ」

「でも、口ではなんとでも言えるよね」

「じゃあ逆に聞くが、一体お前らは何の心配をしてるんだ?」

「そ、それは……二乃ちゃんが男子の誰かを狙ってるんじゃないかって」

 

 三人の内、長い髪の一部を後頭部でまとめた女子。

 恐らくは、この件に関しては彼女が主体なのだろう。

 二乃はやっぱりと内心でため息をついた。

 それは自分が男子達の中にいて、どう見られているかをある程度理解しているからでもある。

 要するに、気になっている相手が取られてしまわないかと心配しているのだ。

 

「もしそれが祐輔だったら、私に勝ち目なんてないよ……」

「俺は武田となら多少付き合いがある。それから言わせてもらうと、その心配はない」

 

 祐輔に武田というと、もしかしなくてもこの春に風太郎に突っかかってきたあの男だ。

 自分達から風太郎を奪おうとしたという認識があるため、二乃の武田に対する印象は良くない。

 しかしクラス、というか学年の人気者であるのも事実なのだ。

 よって彼女のように想いを寄せる女子も多いのだろう。

 

「え……わ、わかんないじゃん、そんなの!」

「それと、そもそもが勘違いだ。あいつの意中の相手はたこ焼き派にはいない。それは保証する」

「信じられない! なんで上杉君にそんなことがわかるの!?」

「学級長は中立だからな。投票権がないんだ」

「はぁ? 何それ意味わかんない!」

 

 いまいち要領を得ない説明に、女子がヒートアップしていく。

 ここらが潮時だろう。

 このままうっかりいつものデリカシーのない発言が飛び出したら、暴言や拳が飛びかねない。

 それはそれで風太郎の自業自得なのだが、それを冷静に見守れるかと言ったら話は別だ。

 二乃は割って入るために身を乗り出そうとしたが、その前に風太郎が口を開いた。

 

「俺!」

「いや、だから何言って――」

「二乃の好きな相手は……お、俺だって事だ!」

 

 女子三人が固まった。

 二乃もついでにフリーズした。

 周囲に隠しているつもりはなかったが、本人の口からこうもはっきりと言われてしまうとは。

 風太郎は申し訳なさそうな顔をしているが、言いふらしてしまったと思っているのだろう。

 たしかにもっと言い方があっただろうにと思わなくもない。

 しかし、そんな不器用さが二乃は大好きだった。

 

『でもそういう不器用っていうか、素直じゃないとこ……誰かに似てると思わない?』

 

 不器用で素直じゃなくて、娘ともどう接したらいいのかわからない。

 それでも不器用なりに、気にかけていてくれたのだとするのなら。

 たしかに一緒にパンケーキ屋に入ってはくれなかった。

 しかしその後日、何故かリビングのテーブルに材料と道具一式、レシピ本が置いてあった。

 ずっと引っかかっていたものが、ようやく取れた気がした。

 

「だからあいつとは仲良くしてやってくれ」

「う、上杉君……その、妄想は――」

「ちょっと待って! じゃああの噂って本当ってこと?」

「ああ、たしか学級長が五つ子全員と付き合ってるってやつ」

 

 三人が一斉に風太郎を見て、そして距離を取った。

 まるで女の敵を見るかのような目だった。

 風太郎は頭を抱えていた。

 

「フー君!」

「に、二乃――んむっ」

 

 二乃は風太郎に駆け寄ると抱きつき、有無を言わさずキスをした。

 それも見せつけるように長く、深く。

 論より証拠、百聞は一見に如かずということだ。

 

「悪いけど、こういうことだから」

「お、お幸せに……」

 

 三人は退散していった。

 これで少なくとも二乃に対する邪推は消え去るだろう。

 その代わり学級長に関する噂の一部を補強してしまったのだが。

 

「おい、なんて事してくれたんだ」

「いいじゃない、別に」

「俺のイメージが崩れるんだが」

「崩れるほどいいイメージがあったと本気で思ってる?」

「ぐっ……」

 

 人望のない学級長がその言葉を否定するのは難しかった。

 周囲の風太郎に対する印象は、勉強ばかりしている変人、といったところだろう。

 今ではそこに多少毛が生えた程度はプラスになっているかもしれないが、大きくは変わらない。

 四葉に人気が集中していて、あまり目立っていないせいかもしれない。

 

「ね、今日のバイトは私と一緒だったわよね?」

「たしかそうだったな」

「ふふ、楽しみね」

 

 バイトの時間と、その後の事を考えて二乃は笑みを漏らした。

 次の日は休みではないとか、そんな言い訳はどうだっていい。

 この炎を燃え上がらせたのだから、風太郎にはその責任を取ってもらわなければならないのだ。

 

「ねぇ、フー君……もう一回」

 

 目を閉じて、キスの催促をする。

 周囲に誰もいない事を確認すると、風太郎はそれに応じた。

 

 

 




学級長の噂は、尾ひれや背びれや事実がくっついて大変なことになってそうですね。

次こそは五女メイン……のはず。


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猶予期間の終わりに

昨日更新しようと思ったらぐっすりでしたね。

予告通り今回は五女の出番です。
むしろ五女以外の姉妹はほぼ出てきません。
しかも書いてるうちに膨らんでなんだか長くなりました。

五女が喪失する話です。


 

 

 

「それじゃあ、またよろしく頼むよ」

 

 今ではなんだか見慣れてしまった外車が上杉家の前から走り去っていく。

 時刻はもう午前十時前――朝とも昼ともつかない微妙な時間帯である。

 今日は日曜日ではあるが、らいはも親父ももう起きて活動しているだろう。

 昨夜は一花との撮影があり、その後色々あって泊まる羽目に。

 本当ならば始発に乗って家族が起きる前に帰りたかったのだが、朝になって織田社長に捕まりなんやかんやあって遅れてしまった。

 そのおかげと言ってはなんだが、送ってもらえたので移動費が節約できたのは幸いか。

 

「た、ただいまー」

 

 恐る恐る家のドアを開ける。

 返事はなく誰もいないのかと思ったが、らいはの靴はしっかりとある。

 いつもならば天使のような笑顔で出迎えてくれるのだが、今日はそれがない。

 安普請である事は見たまんまの部屋なので、ドア一つ隔てていても声は普通に届く。

 もしかして具合が悪くて動けないのでは……!?

 慌ててキッチン兼ダイニング兼寝室へとつながるドアを開ける。

 

「らいはっ」

 

 果たしてらいはは無事だった。

 部屋に飛び込んだ俺の真正面で仁王立ちしていた。

 眉根にしわを寄せ、私怒ってますオーラを放っている。

 そんな姿も可愛らしいのが俺の密かな自慢の一つだ。

 

「お兄ちゃん、お話があります」

 

 問答無用で正座させられた。

 その状態でらいはの説教が始まった。

 うんまぁ、心配させた自覚はある。

 遅くなるとは伝えたが、朝帰りするとまでは言っていない。

 これが逆の立場だったら、いてもたってもいられなくなるのは間違いない。

 ここは素直に反省しよう。

 どうかこの一花の誘惑に負けてしまった情けない兄を許してくれ……

 

「もうっ! いつからそんな不良さんになっちゃったの?」

 

 返す言葉もなかった。

 夜遅く出歩いて朝帰りをかますのは、素行不良の見本のようなものだ。

 加えて複数人と不純異性交遊を重ねているとなれば、最早言い逃れの余地は存在しない。

 まぁ、そこらへんの事情は伝わっていないはずなので大丈夫だとは思うが。

 ……伝わってないよな?

 

「ともかく、私はすごーく心配しました」

「ごめんなさい、今後は気をつけます」

「はい、よろしい」

 

 一度お玉で俺の頭を軽く小突くと、らいははいつも通りの笑顔を浮かべた。

 ひとまず許してもらえたらしい。

 正座を解いて食卓に突っ伏す。

 一週間の疲れがのしかかってきているような気がした。

 ここ最近はバイトや家庭教師のみならず、学園祭の準備にも追われている。

 

「そういえば親父は?」

「野暮用だって出かけちゃったよ」

 

 今日は珍しく、親父の仕事は休みだ。

 そういう場合は大抵は家でのんびりしているはずなのだが……外で遊ぶのにも金がかかるのだ。

 ただ単に遊びに行ったのか、それとも誰かに会いに行ったのか。

 なんにしてもたまの休日なのだ。

 親父は思うように羽を伸ばせばそれでいい。

 

「お兄ちゃん、朝ごはんは?」

「悪い、むこうで食ってきた」

 

 俺としてはそのつもりはなかったのだが、あの社長がご馳走してくれたのだ。

 娘が世話になっている礼だ、とか言っていたが、それはそもそも頼まれた仕事の一部だ。

 返すあてのない借りばかりが溜まっていくのはどうも座りが悪い。

 それを正直に伝えたら大笑いされ、大人と子供の関係なんてそんなものだと言われてしまった。

 

「らいは、なにかあるなら手伝うぞ」

「んー、それよりもちょっと休んだら? 眠そうだよ」

 

 指摘通り、ただ今絶賛寝不足気味だった。

 昨夜は遅く、今朝は早かったので単純な睡眠不足だ。

 これぐらいなら気合でなんとかならない事もないが、今日はフリーの日曜日だ。

 バイトもなにもなく、時間だけが有り余っている。

 それを勉強に費やすとして、昼までの時間を仮眠に充てたとしても罰は当たらないだろう。

 

「少し横になる。昼まで寝てたら起こしてくれ」

「はーい」

 

 食卓から離れ、自分のリュックを枕にして畳の上に横になる。

 布団を出すと場所を取るし、寝入ってしまうからこれぐらいでいい。

 見るとらいはは食卓にノートを広げていた。

 学校で出された宿題を片付けるつもりなのかもしれない。

 さすがは俺の妹。

 どこぞの五つ子と違ってしっかりしている。

 しかしその矢先、来訪者を告げるチャイムの音が響いた。

 

「あ、お客さんだ」

「いい、俺が出る」

 

 立ち上がろうとするらいはを制して玄関に向かう。

 せっかくの勉強の時間なのだから、集中させてやりたい。

 なに、寝る前のひと仕事と思えば大したことはない。

 なんせ最近は返済が順調だから借金取りも来ないしな!

 

「あ、上杉君、おはようございます」

 

 ぴょこんと飛び出た頭頂部のアホ毛に星のヘアピン。

 真面目馬鹿の五月がそこにいた。

 そっとドアを閉じる。

 

『待ってください! どうして閉めちゃうんですか!』

 

 ドンドンガチャガチャと、ドアの外が途端に騒がしくなる。

 こんな事をしたって現実が何も変わらないのはわかっている。

 ただ、平穏な休日が終わりを告げた事から目をそらしたかっただけなのだ。

 

「もうっ、そういう意地悪なところは変わりませんね」

 

 追い返すわけにもいかないので、結局は家に上げることになってしまった。

 五月はプリプリとしながらも、お邪魔しますと我が家に踏み入った。

 

「あ、五月さんだ。いらっしゃい」

「お邪魔しますね、らいはちゃん」

「らいはは勉強中だ。手短にな」

「そうだったのですか……良ければ私が見てあげましょうか?」

「わー、五月さん先生みたい」

 

 バッグから取り出した眼鏡をかける五月。

 らいはの言葉にドヤ顔が隠しきれていなかった。

 つーか何しに来たんだこいつ。

 

「待て、そもそもの用件はなんだ」

「あ、忘れてしまうところでした。こちらです」

 

 五月が差し出してきたのは洋型の封筒だった。

 手紙やハガキを入れるようなサイズだが、その中身は――

 

「なにこれ……学園祭の招待状?」

「四葉が上杉君に渡した覚えがないというので」

「……そういえばすっかり忘れてたな」

 

 言い訳をするみたいだが、ここ最近の忙しさで招待状の事は忘れ去っていた。

 管理を四葉に一任していたというのもあるだろう。

 

「わ、すごいよこれ。無料券や割引券も入ってる!」

「ふふ、是非私たちの屋台にも来てくださいね」

「五月さんありがとう! ほら、お兄ちゃんもお礼言って」

「ありがとな。このままだったら渡しそびれるとこだった」

「い、いえ……今日私が渡さなくても、その内四葉が気づいたと思いますし」

 

 五月は頬を赤らめながらも、こちらにチラチラと視線を寄越してくる。

 らいはの前では誤解されるから、そういうのはやめてほしいんだが……

 いや、互いの感情を鑑みれば完全に誤解というわけではないのかもしれないが。

 

「五月さん、なにか飲む?」

「お水で構いませんよ」

「帰らないのかよ」

「せっかくですし、らいはちゃんのお勉強を見てあげようかと」

「わー、頼もしい」

 

 女子二人は乗り気だった。

 これはもうどうにもならないと悟った俺は、当初の予定通り仮眠する事にした。

 

「五月さん、この問題なんだけど……」

「ああ、こちらはですね――」

 

 しかし中々眠れない。

 物音だとか話し声だとか、人がいるせいではない。

 ただ単純に、五月がらいはに勉強を教えるという事態が気になって仕方ない。

 より具体的に言うと、五月に教師が務まるのかという不安だ。

 最終的な目標はともかくとして、今は発展途上もいいところ。

 得意科目のみなら姉妹にも教えていたから大丈夫だろうが、他の部分に関しては未知数だ。

 もし間違った知識を教えようとしていたら、俺は断固として阻止しなければならない。

 妹を守るのは兄の役目なのだ。

 

「へぇ、そういう風に考えればいいんだ。面白いね!」

「ええ、社会科はどれも暗記ばかりで退屈かもしれませんが、こうやって一つ一つを関連付けていけば覚えやすいんです」

 

 が、心配に反して五月は実に丁寧に教えていた。

 苦手な教科の内容でも問題なくこなしている。

 まぁ、内容が中学一年のものなので、それぐらいの理解は当然なのかもしれないが。

 ともかく教え方には実感がこもっており、時折身に覚えのあるやり方も見え隠れする。

 

『それでも、あなたは私の目標なんです』

 

 修学旅行でそんな事を言われたのを思い出す。

 俺が教えた事は、たしかにこいつの中で血肉となっているようだった。

 そう考えると少しだけ照れくさく、それと同じだけ誇らしい。

 不安はすっかり鳴りを潜めていた。

 薄目に未来の教師の姿を収め、眠りにつこうとして――

 

「あ、そろそろお昼だ。お兄ちゃん起こさなきゃ」

 

 どうやらいつの間にかそんなに時間が経っていたらしい。

 ……結局一睡もできなかった。

 

 

 

 

 

「「ごちそうさまでした」」

「おそまつさまでしたー」

 

 そしてなんだかんだで五月も一緒に我が家で昼食をとった。

 今日のメニューはチャーハン。

 いつもより具が多めの大盤振る舞いだった。

 

「洗い物は任せてください!」

 

 五月は三人分の食器をまとめると、スポンジを手に洗い物を始めてしまった。

 その動きに淀みはない……というのも、家出中にここで寝泊まりしていた経験があるからか。

 勝手知ったるなんとやらである。

 

「えへへー」

「楽しそうだな」

「うん、今の私は兄嫁を見守る小姑の気分かな」

 

 水の音に混じって、何かがパリンと割れる音。

 俺とらいはは揃って洗い物中の五月の背中に目を向けた。

 なんだかプルプル震えていた。

 

「ごごご、ごめんなさい! すぐに片付けてしまいますので――あっ」

 

 パリンパリンと、音が連続する。

 慌てるあまり二次被害が出てしまったようだ。

 流しを覗き込むと、元は三枚だったはずの皿が十数枚の破片へと変化していた。

 さながらポケットに入れて叩いたビスケットのようである。

 あわあわと破片をかき集める五月の手を取って止める。

 こんな手つきでは、いつ指を切るかわかったもんじゃない。

 

「落ち着け」

「で、でも――」

「いいから落ち着け。破片は俺が集めるから新聞紙を持ってきてくれ。場所はわかるだろ」

「わかりましたっ」

 

 五月はパタパタと慌ただしく押し入れに向かった。

 布団の収納スペースだが、半分は物置になっている。

 その一角に親父が時折持ち帰ってくる新聞などを備蓄してあるのだ。

 あると何かと役に立つので馬鹿にはできない。

 破片をあらかたまとめるとビニール袋を取り出す。

 その中に五月が持ってきた新聞紙を敷き詰めて破片を放り込み、縛って密封する。

 とりあえずはこんなところか。

 それほど細かい破片がなかったのが幸いだった。

 

「ううぅ……すみません」

「それより怪我は?」

「ありません――ひゃっ」

 

 五月の手を掴んでしっかりと確認する。

 失敗をしたやつの自己申告はあてにならない事がある。

 これ以上の心配をかけまいと隠そうとするからだ。

 言った通り傷はなかった。

 しかし、その白く細い指には似つかわしくないペンだこが出来ていた。

 成果はともかくとして、ペンを握り続けている事に間違いはなさそうだ。

 

「あの、上杉君?」

「いい手だ。頑張ってるじゃねーか」

「あ、あ――」

 

 瞬間湯沸かし器かなにかだろうか、五月の顔が真っ赤に染まった。

 いや、ここでそんな反応されても困るんだが……

 

「天国のお母さん、私にお姉ちゃんが出来る日も遠くないかもしれません……」

「「――っ」」

 

 弾かれるように離れる。

 くそっ、らいはの前で迂闊な事をしちまった……!

 何の影響かはわからないが、最近の我が妹はマセてきているのだ。

 

「これはそういうのじゃなくてあれだっ、単なる治療行為に過ぎないのは確定的に明らかで――」

「うんうん、ちゃーんとわかってるよ」

 

 どう考えてもわかっていない。

 しかし、この状態でどんなに言葉を尽くしたところで焼け石に水。

 せめて水量が増えればと五月に声をかけたが戦闘不能状態だった。

 俺の兄としての威厳が損なわれつつあった。

 ……最近こんなのばっかだな。

 

 

 

 

 

 休日のデパートはそれなりに混んでいる。

 その一角、食器が置いてあるスペースに俺と五月は来ていた。

 目的は割ってしまった皿を含む日用品の補充だ。

 俺としては勉強する気が満々だったのだが、らいはの鶴の一声によってこの状況に至る。

 

「むむむ、どれにするか迷いますね……」

「んなもん何でもいいだろ」

「いいえ! 私が割ってしまったからには最高のものを選んでみせます!」

 

 という感じで、しばらくこの場所から動けないでいた。

 百均で売っているものでも十分なのだが、せっかくだからもう少し良いものを買うとのことだ。

 確かに代えが効くと思っていると、扱いはぞんざいになってしまうかもしれない。

 弁償代は出すと言っているので、ここは五月の選択に任せよう。

 もちろん、あまりにも高価なものに手を伸ばすようだったら全力で止めるが。

 そんなものを食器として使った日には、緊張で手を滑らせて割ってしまいかねない。

 

「決めました、これにしましょう」

 

 五月が選んだのは、デザインとしてはシンプルなものだった。

 アクセントとしてリボンやら星やらが散っているが、俺や親父が使うことを忘れてないか?

 まぁ、やたら仰々しいものを持ってこられるよりはいいか。

 値段はおよそ一枚千五百円。

 俺からしたら高価なものだが、このサイズにしては安い方なのだという。

 

「良いものを買えましたね」

 

 会計を済ませてきた五月は、自分の買い物じゃないというのにホクホクと満足顔だった。

 女子というのは、買い物をするだけで何かしら満たされるものがあるのだろうか。

 

「お待たせしました。次はどこに向かいましょうか?」

「シャンプーとか歯磨き粉だな。今日は安くなってるらしい」

 

 らいはからもらったリストに従って、買い物を消化していく。

 量的には大したことはないので、この分だと夕方までには帰れるだろう。

 そしてそこから先は俺の時間だ。

 めくるめく勉強の世界が待っているのだ。

 

「あの、上杉君」

「……なんだ?」

「実は、ちょっと行きたい場所があるのですが……」

 

 しかし、ようやく買い物も終わりかというところで、恐る恐ると切り出してきた。

 反射的に断りそうになったのだが、また唸るだけの生物になられても困る。

 そして何より、五月の提案を受けて俺自身がもう少し一緒にいたいと思ってしまった。

 困った事に、中野姉妹に対する防御力の低さは相変わらずなのだ。

 こんな薄弱な意志で受験生が務まるかどうかは疑問だが、今は置いておこう。

 

 

 

 

 

 五月の先導でやってきたのは、デパート内にあるゲームコーナーだった。

 俺には縁遠い場所だが、およそ一年前に似たような施設で遊んだ覚えがある。

 あの時も五月と、そしてらいはも一緒だったか。

 行きたい場所というから着いてきたが、目的がいまいちわからない。

 こいつもあまりこういう場所には寄り付かないイメージなのだが。

 

「せっかく来たのに悪いが、俺には遊びに使える金がほとんどないぞ」

「大丈夫です。用があるのは一つだけですし、その費用も私が持ちます」

 

 五月は毅然とした足取りで進んでいく。

 その向かう先にあるのは果たして――

 

「こちらです」

「……マジかよ」

 

 言うなれば、証明写真機の亜種になるだろうか。

 見慣れない女優がプリントされた幕に覆われた筐体は、細かい差異はあれど見覚えがあった。

 プリント倶楽部――略してプリクラ。

 

「おいまさか」

「二人で撮りましょう」

「よし、帰ろう」

「ま、待ってください!」

 

 引き返そうとした俺を五月が引き止める。

 例によって引き合いは拮抗し、結局俺は肩で息をしながらその場にとどまった。

 ……せめて、どういうつもりなのかぐらいは聞いてやるべきか。

 

「……どういうつもりだ。お前もこの手のものには抵抗があったはずだが」

「いえ、私はそれほど。あの時はあなたが一緒だったからです」

 

 なるほど、納得だ。

 たしかに大して親しくもない異性と一緒にやるものじゃないからな。

 当時の俺と五月の関係は、最悪とは言わないまでも決して良いものではなかった。

 あの頃に比べれば互いの距離は縮まり、関係もより近しくなった。

 だからといってわざわざ、あえてここに来る理由はわからなかった。

 これが二乃あたりだったら、普通に使っていても違和感はないのだが。

 俺の押し付けになるが、有り体に言ってしまえば五月のイメージにはそぐわない。

 

「これ、覚えてますよね?」

 

 五月はスマホをカバーから取り外すと、その背面をこちらに向けた。

 笑顔のらいはと、それを挟むように並んだ俺達のプリクラ。

 無理に笑おうとして顔が引きつったひどい写真だ。

 一応と言って受け取った五月だが、常に持ち歩く程度には大事にしていたらしい。

 

「……ここにあなたと二人きりの思い出も加えたいと思うのは、欲張りでしょうか?」

 

 まったく、勘弁してくれ。

 そんな顔をされては俺に選択肢なんてなくなってしまう。

 結局のところ、ここで問題となっているのは俺の羞恥心だ。

 それをかなぐり捨てられるか――当然、出来る。

 好きな相手のためなのだから、それぐらいはする。

 

「さっさと入るぞ」

 

 五月の手を引いて幕の中へ。

 やたらとキャピキャピとしたガイド音声が出迎えた。

 

「操作はよくわからんから任せる」

「あ、はい。じゃあ、えっと――」

 

 しばらく何やら画面を触っていた五月だが、操作を終えたのか隣に並んだ。

 作法なんてものがあるのかはわからないが、ただ立っているだけでいいのだろうか?

 隣の五月に目を向けると、ちょうど視線が絡んだ。

 

「……しないんですか?」

「は?」

「キス、しないんですか?」

 

 一瞬何を言っているのかわからなかった。

 これがプリクラの作法……いや、まさか。

 混乱する俺に、五月は触れ合うほどに身を寄せてきた。

 

「二乃とキスしてたって噂になってます」

「いや、あれはその……」

「二乃のことだから、強引にしたのでしょうね。そうでなければ人前でなんてありえません」

 

 大体当たっている。

 その後に俺も自分からしてしまったのだが、そっちは黙っておこう。

 

「そうです、そんな公然とだなんて羨ま――じゃなくてありえません!」

 

 なにやら本音が漏れているような気がするが、そういうことらしい。

 あんなに堂々と仕掛けてくるのは二乃ぐらいだ。

 それにしても、噂は順調に広まっているようだ。

 ……もはや俺の学級長としての信頼は底値だろうか。

 

「――今なら、誰も見ていませんよ?」

 

 こちらを見上げる瞳が熱を帯びた……ような気がした。

 そういえばと、夏休み前に水着の試着に付き合った時の事を思い出す。

 あの時もこんな風に外から区切られた空間で、俺と五月は唇を重ねた。

 今更だとは思うが、恋人同士ではない男女がこうして恋人のような行為を重ねるのは問題だ。

 しかし、そんな事が些細に思えるほどに、今の俺はこいつの事で頭がいっぱいらしい。

 

「……五月」

「んっ――」

 

 考えるのが馬鹿らしくなって、そのままキスをした。

 その際に響いたシャッター音はどこか遠かった。

 

 

 

 

 

「今日はお付き合いいただき、ありがとうございました」

「むしろ付き合わせたのはこっちだろ」

 

 デパートで用事を済ませた俺達は、最寄りの公園のベンチに腰をかけていた。

 時刻はおやつの時間を過ぎ、もうじき日が傾いて空の色が変わり始めるだろう。

 体がダルい……ここに来て寝不足の影響が出てきていた。

 それもこれも、五月の要求で多大な精神力を消費したというのが大きい。

 

「……最後に一つだけいいですか?」

「まだ何かあるのかよ……」

「むしろこれが本日の本題といいますか」

 

 もう割と気力の方が限界なので勘弁して欲しかった。

 しかしいつになく五月の顔は真剣だった。

 思いつめたような、バツが悪そうな……自分のおイタを告白しようとしている子供のような。

 またつまみ食いの類かと考えたが、俺はつまみ食いされるようなものを持ち歩かない。

 他に思い当たるとしたら、テストで悪い点を取ってしまった時の反応だ。

 そしてふと、先日二乃から聞かされたとある情報が頭を過ぎった。

 

「……まずは何も言わずこちらを見てください」

 

 五月が取り出したのは案の定、入試判定の結果だった。

 記載された判定はD――その大学を狙うには少々心もとない。

 

「努力はしていたつもりなのですが、結果が思うように出ず……申し訳ないです」

「そうか」

「ってあれ? なんだか思ってたよりも反応が薄いような」

「そもそも二乃から聞いてたからな」

「えっ、それじゃあ私の葛藤は一体……」

 

 肩透かしを食らったせいか、五月は力が抜けた様子だった。

 こいつは力が入りすぎるきらいがあるから、これぐらいでいいのかもしれない。

 

「何か対策は考えているのか?」

「お手伝いさせていただいている塾講師の方に、相談に乗ってもらっています」

「なら俺から言う事は特にねーよ」

 

 塾講師ならば受験生の面倒を見るのもお手の物だろう。

 具体的な対策は任せるとして、俺は今まで通り勉強を見てやるだけだ。

 まだ時間はあるだとか、諦めるには早いだとか、そんな事は誰にだって言える。

 まぁ、あえて言ってやるとすれば――

 

「お前は要領が悪くて不器用だが、その努力だけは本物だ。信じてるぞ、五月」

「頭の二言は余計ですが……そこまで言われたら、諦めるわけにはいきませんね」

「ああ、頑張れよ。ここで転けたら俺の尽力も水の泡だからな」

 

 全員笑顔で卒業という目標のためには、是非とも合格してもらわなければならない。

 中野姉妹と過ごした時間を、失敗という形で終わらせたくはなかった。

 

「私はそうは思いません」

 

 五月はきっぱりと否定した。

 勉強を教える事だけが全てだったら、一花や三玖との時間はどうなるのだと。

 返す言葉もなかった。

 あの二人との時間が無駄だったなんて事はあるはずがないのだ。

 

「そもそもとして、もはや私たちの関係は単なる生徒と教師じゃ済まなくなっています」

「うっ、まあたしかに」

「反省してください」

 

 またもや返す言葉もなかった。

 俺の我慢が効かなくなった結果、なんかもうすごい事になっているのだ。

 五月の言うとおり、反省する他ないだろう。

 したとして、具体的にどうすればいいのかはさっぱりわからないのだが。

 

「ともかく……私たちがこの学校に来たこと、そしてあなたと出会ったことを後悔するということはありません。それだけは忘れないでください」

 

 五月は穏やかに笑った。

 ああ、どうやら俺はまた道を示されたようだ。

 安心とともに、猛烈な眠気が襲ってきた。

 まぶたは重く、頭はふらつき、意識が飛びそうになる。

 タスクが重なった上での疲れもあるのだろうが、この程度の寝不足でこうなるとは。

 やはり体力作りはしておいたほうがいいな。

 体が傾いで隣に座る五月と、肩と肩が接触してしまう。

 

「っと、悪い」

「眠いのですか? 家でも仮眠をとってましたよね」

「寝不足気味でな」

 

 浅く座って背もたれに体重を預ける。

 これで横に倒れ込むことはないだろう。

 そうして体の力を抜いた瞬間、意識が途切れる。

 途中で体が横に引っ張られて倒れていく感覚があったが、何が起きたのかはわからなかった。

 

 

 

 

 

「や、やってしまいました……」

 

 風太郎の頭を太ももの上に乗せた状態で、五月は戦々恐々と呟いた。

 いわゆる膝枕の体勢である。

 寝不足で眠たそうにしている風太郎を見かねて行動に移したのだが、大胆すぎただろうか。

 思い返せば今日のデート(五月の中ではそういう認識)は少々抑えが効いていなかった。

 それはここ最近のストレスが主な原因だろう。

 勉強の成果は思うように出ず、好きな人との時間も取れない。

 一花は撮影と称したマンツーマン授業、二乃と三玖はバイトで一緒になる機会がある。

 そして四葉は同じ学級長という立場から、一緒に行動する事が多い。

 他の姉妹と比べて、五月は風太郎と二人きりになる時間が明確に少ないのだ。

 白状してしまえば、招待券を届けに行ったのは口実でしかなかった。

 判定結果の報告が本当の目的で、そこには別の期待がほんの少し。

 風太郎と一緒にらいはにお使いを頼まれた事は、五月にとって千載一遇のチャンスだった。

 

「だけど、あなたが悪いんですよ?」

 

 五月がプリクラ撮影に踏み切った直接的な要因は、二乃と風太郎の噂である。

 数日前に教室でクラスの女子の会話を聞きとがめたのが発端だ。

 当事者である中野姉妹には遠慮していたのだが、そこは半ば強引に聞き出した。

 そもそも前々から学級長の噂は流れていたらしいのだが、五月が知ったのはこの時が初めてだ。

 ともかく、もたらされた情報は五月の心を甚く揺さぶり、それが今日の行動につながったのだ。

 

「姉妹全員を誑かしている極悪人……ええ、まったくもってその通りです」

 

 頬を軽く抓ると、風太郎は小さくうめき声を上げた。

 痛みに反応したのか、それとも悪夢でも見ているのか。

 むっつりとしたいつもの表情とは違い、その横顔はどこかあどけない。

 こうして寝入ってから十数分ほど経つが、起きる気配はない。

 五月は周囲を見回して、人の有無を確認した。

 この状態でも十分に恥ずかしいのだが、これからする事はさらにその上だ。

 遠目に歩いている人の姿があるが、近くで自分達に注目している者はいない。

 意を決すると、いつかと同じように五月は風太郎の頬に自分の唇をそっと触れさせた。

 

「これは、いけませんね……」

 

 えも言われぬ充足感があった。

 相手が自分の手の内にあるという安心感がそう感じさせるのだろうか。

 せっかくだから、もう少しなにかしておきたい。

 風太郎との時間を少しでも形に残しておきたい

 色々と考えた結果、五月は自分のスマホを取り出した。

 

「ここは一枚、写真に収めておきましょうか」

 

 

 

 

 

 芒洋とした世界の中を、俺はひたすら歩いていた。

 ここがどこなのかも、どこへ向かっているのかもわからない。

 ただ目の前には道があり、他には何もなかった。

 立ち止まっていても仕方ないので、こうして歩いている。

 

「……なんだこりゃ?」

 

 しかし、唐突に一つだった道は五つに枝分かれした。

 ご丁寧に数字が振られており、色分けもされている。

 足を止める――果たしてどの道が正解なのか。

 そもそも、目的もなく歩いているのに正解もクソもあるのか。

 そう言う意味では、どの道を選んだとしても変わらないのかもしれない。

 開き直って進もうとしたら、地面が激しく揺れだした。

 立っていられなくなり地面に座り込む。

 目の前の道が変容を遂げようとしていた。

 五つに分かれた道は捻れて絡み合い、宙を走ってジェットコースターさながらにローリング。

 とてもじゃないが歩いて進める道ではなくなっていた。

 いや、どうすりゃいいんだよ。

 先に進む事ができなくなって、俺は後ろを振り返った。

 歩いてきたはずの道は、すぐ近くまで迫った断崖によって隔たれていた。

 どうやら後戻りもできないらしい。

 一体なんなんだここは?

 なんでこうもおかしなことが立て続けに――

 そこまで考えて、俺の頭はある合理的な答えを導き出した。

 

「なんだ、夢かよこれ」

 

 

 

 

 

 意識が浮上していく。

 左の頬にしっとりとした柔らかい感触。

 薄目を開ける――体が横倒しになっているようだった。

 何かを枕にしているようで、温もりが伝わってくる。

 ん? 温もり?

 俺はたしか、ベンチに座っていたはずだ。

 薄目の視界から見える景色からして移動はしていない。

 そして隣には五月が座っていたはずで、横に倒れたとなると……

 頭を動かさずに目だけを動かす。

 なにやら見覚えのある色の布地が顔の下に敷かれていた。

 

「これは、いけませんね……」

 

 上方からそんな独り言が聞こえた。

 どうやら、俺は五月の太ももを枕としているらしい。

 どうしてこうなったかはともかくとして、また判断に困る状況である。

 このまま平然と起きていいものか、それとも無難なタイミングを見計らうべきか。

 五月の暴走などを考慮した結果、とりあえず現状維持に努める事にした。

 決して枕の感触が惜しいとかじゃない。

 はっきりとした記憶はないが、一花のものよりは柔らかい気がした。

 そして正直、時折頬や髪に触れてくる五月の手の感触は不快じゃない。

 いっそ開き直って、このままもう一眠り――

 

「ここは一枚、写真に収めておきましょうか」

 

 ――していられなくなった。

 知らぬ間に撮られていた写真で、一花に何度やり込められてきたか……

 こいつが同じ事をするという確証はないが、しないという保証もない。

 余計な弱味は握られる前に潰すに限るのだ。

 

「……肖像権の侵害で訴えるぞ」

「――ひゃあ!」

 

 五月は勢いよく立ち上がった。

 振り落とされて地面に頭をぶつける前に、背もたれに手をかける。

 あらかじめどんな行動に出るか読んでいた甲斐があった。

 ベンチにあらためて座りなおす。

 顔を真っ赤にした五月は、落ち着き無くわなわなと震えていた。

 

「おおお、起きていたのですか!?」

「目を覚ましたのはついさっきだが」

 

 なんとはなしに左頬をさする。

 すると、何故か五月が更に慌てふためきだした。

 

「~~っ、失礼しますー!!」

 

 そして自分のバッグを引っ掴んで走り去っていった。

 取り残された俺は、もう何がなんだかわけがわからない。

 キスをせがんでくるくせに、膝枕であんなに恥ずかしがるのはおかしいだろ。

 どう考えても羞恥心がバグっているとしか思えない。

 フォローは後でするとして、とりあえず帰ろう。

 間髪いれずに追いかけるよりは、少し頭を冷やす時間があった方がいい。

 

「……ん?」

 

 荷物を掴んで立ち上がり、足元に何かが落ちているのに気づく。

 ……五月の携帯だった。

 あいつめ、慌てるあまり落としていきやがった。

 顔を合わせるかどうかはともかくとして、どうやら中野家まで赴く必要があるようだ。

 

 

 

 

 

「ううううううう~~!」

「……どうしたの?」

 

 日曜午後の中野家のリビング。

 五月はソファーの上でクッションに顔をうずめ、唸るだけの生き物と化していた。

 帰ってくるなりずっとこの状態の妹を見かねて、出かける準備をしていた三玖が声をかけた。

 

「な、なんでもないのでお気になさらず」

「それでなんでもないは無理がある」

「うっ……」

 

 姉の指摘に五月は声を詰まらせた。

 確かに他の姉妹が同じ状態だったら、自分でも同じように心配をする。

 しかし、事情が事情だけに言うのははばかられた。

 中野姉妹は仲良しではあるが、同時にライバルでもあるのだ。

 五月が話したとして、姉妹が塩を送るような真似は……いかにもしそうだった。

 散々修学旅行で世話になった事を思い出す。

 

「ほ、本当になんでもないので!」

 

 ソファーから立ち上がって、五月は足早に自室へと向かった。

 そもそも話してどうにかなるわけではないし、風太郎とのデートが知られるのも良くない。

 吊し上げをくらい、ご飯抜きにされる可能性は捨てきれないのだ。

 それに、この思い出は自分だけのものにしておきたかった。

 悶えるような恥ずかしいものでも、好きな人と過ごした時間なのだ。

 ベッドに横になり、天井を見上げる。

 そして自分の胸に手を当てて、風太郎の手の感触を思い出す。

 

「んっ……」

 

 甘い痺れのような刺激が走った。

 この手の行為は自分には関係ないものと思っていたし、性欲とも無縁だと思っていた。

 それを目覚めさせたのはやはり風太郎で、本当に罪深くてどうしようもない。

 だから想像の中で汚してしまってもいいのだと、五月は自分の中で言い訳を立てた。

 

「うえ、すぎくん……上杉君上杉君上杉君……!」

 

 名前を呼ぶたびに五月の中の昂ぶりは増していく。

 その熱に促されるまま、さらに行為に没頭していく。

 だからか、ドアが開けられた事には気づきもしなかった。

 

 

 

 

 

 エレベーターが最上階に到達する。

 相変わらずの高層っぷりで、最上階ともなれば昇降に少々時間がかかる。

 自分の足で昇りきった初回はどうかしていたとしか言い様がない。

 中野家の部屋のドアを開けて中に入る。

 マンションの入口で応対してくれたのは三玖だったが、鍵を開けておくと言っていた。

 さっさと五月の携帯を置いて帰ろう。

 

「あ、フータロー」

「お、早速で悪いんだが――」

 

 三玖と鉢合わせたので携帯を渡そうとしたのだが、その格好は今まさに出かける風体だった。

 もしかしたら急いでいるのかもしれない。

 

「出るのか?」

「うん、ちょっと店長に練習に付き合ってもらうんだ」

 

 どうやら三玖はパン屋の店長とパンケーキの練習に励むつもりのようだ。

 今日はたしか店は早めに閉まる。

 その後の時間を利用して練習を行うのだろう。

 言いだしっぺであるからか、三玖のやる気は高かった。

 結局、うちのクラスはたこ焼きとパンケーキの両方をやる事になってしまった。

 しかし、この分だったら女子側は大丈夫そうだな。

 なんせリーダーの気合が十分なのだ。

 

「五月は部屋にいるから」

「……なにか言ってたか?」

「特に何も。でも、ちゃんと謝らなきゃダメだよ?」

「何故俺が悪いのが前提なんだ」

「そもそも二人で出かけてたこと自体初耳だったんだけど」

「は、ははは……いやまぁ、なりゆきでな?」

「む~~」

 

 俺が五月の携帯を届けに来たという事は、一緒に行動していたと白状するようなものだ。

 三玖のむくれ顔に、今更そんな当たり前の事に気がつく。

 なんとか宥めて送り出したが、玄関に残った靴は一足。

 つまり、現在この家には五月しかいない。

 どうやら他の姉妹に携帯を託すというのは無理そうだ。

 

「五月ー?」

 

 とりあえず荷物を置いてリビングから呼びかけてみるが、当然返事はない。

 階段を上って五月の部屋の前へ。

 ノックしてみたが、またもや返事はない。

 寝ているのかと思ったが、かすかに呻き声のようなものが聞こえた。

 そして切羽詰ったように俺の名を呼ぶ声。

 躊躇いを吹き飛ばすのには十分だった。

 ドアに手をかけて開け放つ。

 

「五月、大丈夫か――」

 

 ベッドに横たわる五月の姿を目にした瞬間、俺は後悔した。

 書置きでも残して帰ればよかったのだと。

 五月の息は荒く、目は虚ろでこちらを認識しているかどうかは怪しかった。

 しかし重要なのはそこじゃない。

 床に脱ぎ捨てられたスカートと、上の服はまくれ上がって下着が見えてしまっていた。

 これは問題ではあるが、最重要ではない。

 五月の手は自分の胸と股間に伸びており、なにやらもぞもぞとしていた。

 どうみてもセルフバーニングの真っ最中だった。

 漫画で読んだから俺は詳しいのだ。

 

「んんっ、ふあっ……う、うえすぎくん……!」

 

 俺の名前を呼んでいるが、その目に俺の姿は映っていないだろう。

 気づかれないうちに引き返すのが言うまでもなく最良だ。

 しかし、俺の足は縫い付けられたかのように動かない。

 見蕩れてしまっていた。

 そして俺の手から五月の携帯が滑り落ち、床にあたって音を立てた。

 

「――っ、う、上杉君!? ど、どうしてここに!?」

「け、携帯をな? 届けに来たんだが……」

 

 今更遅いと知りつつも、目をそらす。

 もちろん、その程度でどうにかなるわけがない。

 

「~~~~~~っ」

 

 五月の声にならない悲鳴が大絶叫に変わったのはその直後だった。

 

 

 

 

 

「ううううううう~~」

 

 ひとしきり叫んだ後、五月は布団を被って唸るだけの生物になってしまった。

 もうどうすればいいのかさっぱりだが、当初の目的だけは果たさねばならない。

 床に落ちた携帯を拾って五月の机に向かう。

 ここに置いておけば大丈夫だろう。

 そうして入口に引き返そうとして、何かに引き止められた。

 振り返ると、布団の中から伸びた五月の手が俺の服の裾を掴んでいた。

 

「……不公平です」

「……は?」

「私だけこんなに恥ずかしい思いをするのは不公平です!」

 

 妖怪布団籠もりが何かのたまっていた。

 そんな事を言われても、俺に何をしろというのか。

 握った手の力は強く、絶対にこのままでは帰さないという意思だけは伝わってきた。

 

「……どうすりゃいいんだよ」

「上杉君も同じ思いをすればおあいこだと思います!」

 

 つまり、こいつの前で俺にセルフバーニングを実演しろと。

 ……本格的におかしな事を言い出しやがった。

 もう混乱が極まって、自分でも何を言っているのかわかっていない可能性がある。

 

「もしくは……責任をとってください」

 

 五月が布団の中から顔を出した。

 目尻に涙を貯めた、不安気な表情。

 ああ、これは実に効果的だ。

 中野姉妹にこんな顔をされたら、放置するという選択肢がなくなってしまう。

 言葉の意味は誤解のしようがない。

 しかし、俺にはそれに応じる事ができない理由があった。

 

「責任を取れってのは、そういう事でいいのか?」

「い、言わせないでください」

「それなら無理だ。避妊具がない」

 

 そう、昨日の一花との戦いで切らしてしまったのだ。

 あればヤってもいいという理由にはならないが、ないのならばヤらない理由になる。

 五月はその存在を失念していたのか、唖然とした顔をしていた。

 しかし、次の瞬間にはとんでもない事を言い出した。

 

「そ、それならご安心を……今日は大丈夫な日なので!」

 

 つまり、裸一貫で行為に及べと。

 ちなみに、妊娠しにくい日はあっても完全に妊娠しない日は存在しない。

 安全日というのは、つまるところ幻想なのだ。

 ……頭が痛くなってきた。

 いくら家庭教師とは言っても性教育は管轄外だぞ。

 

「五月、とりあえず頭を冷やせ。話はそれからだ」

「こんな状況で冷静でいられる方がおかしいんですよ!」

 

 五月の言っている事はもっともだった。

 俺の上三人とのやらかしも、冷静な頭だったらまず起こり得なかった事だ。

 冷静でないからこそ、普段取らないような行動に踏み切れるのだ。

 だからといって五月の言葉を肯定するわけにはいかない。

 だって生はまずいだろ、生は。

 

「ううううう……」

「……」

「ううううううう……」

「……」

 

 いくら唸ろうが応じるわけにはいかない。

 というかあんまり揺さぶらないで欲しい。

 中野姉妹に対して、俺は自分の自制心に全く自信がないのだ。

 正直に言えば、今だってその誘惑に必死に抗っているのだから。

 しかしそんな願いも虚しく、五月は最終手段に打って出た。

 

「こ、この前いただいた権利を行使しますっ。私の言うことを聞いてください!」

 

 ここでまさかのジョーカーが切られてしまった。

 夏休み中に俺が一花を除く姉妹に渡した、なんでも一つ言う事を聞くという権利。

 長女を思うあまり暴走しそうな妹達を止めるための苦肉の策だが、やはり軽はずみだったか。

 なんでもという魔法のワードは、おいそれと使っていいものではないのだ。

 こうなった以上、俺は五月には逆らえない。

 

「……お願いですから、逃げないでください」

 

 しかしその声は弱々しく震えていた。

 相手を自由にできる権利を握った者には、とてもじゃないが似つかわしくない。

 立ち尽くす俺に五月は静かに歩み寄り、すがりつくように身を寄せてきた。

 

「私のことが嫌いならしかたありません……けど、そうじゃないなら」

「私があなたに抱く想いの欠片でも、同じ気持ちがあるのなら――」

 

 言葉を遮るように唇を塞いだ。

 なんて出来レースだ。

 俺が五月を嫌っているなんて、それこそありえない。

 そんな事は、今まで一緒に過ごしてきたこいつならわからないわけがないのだ。

 もし仮にわからないのだとしたら、わからせてやらねばならない。

 俺は中野姉妹が――中野五月が好きで好きでたまらないのだという事を。

 冷静さが吹き飛ばされ、頭の中で明確にスイッチが入った。

 五月を抱えて、そのままベッドに押し倒す。

 

「――嬉しいです、上杉君」

 

 熱情に潤んだ瞳が俺を見上げてくる。

 最早この衝動を縛るものはない。

 

「いっぱいいっぱい、愛してください」

 

 

 

 

 

 気怠い体を横たえたまま、見慣れずとも見覚えはある天井を見上げる。

 内装は姉妹それぞれでも、天井までは手を加えていないらしい。

 以前泊まったのは三玖の部屋だったが、そこで見たのと変わらないような気がした。

 あの時も今と同じように部屋の主が隣で寝ていて、どうしたものかと頭を悩ませたものだ。

 ……やっちまった。

 ついに新選組局長不在のまま行為に及んでしまった。

 始めた当初は外に出せばなんて考えもあったはずなのだが、いざクライマックスとなると、そんな事はすっかり綺麗に頭から吹っ飛んでいた。

 一応言い訳をするのなら、五月ががっちりホールドしてきたと言えなくもない。

 しかし、結局は誘いに応じてしまった俺の責任だろう。

 本人は大丈夫な日と言っていたが、もし命中してしまったらと考えると気が重くなる。

 当然受験にも差し障るだろうし、そもそも無事に卒業できるのかも怪しい。

 そうなると次々と不安が湧いてくる負のスパイラルだ。

 俺がこんなに気を揉んでいるというのに、どんな暢気な顔をして寝ているのやら。

 隣の五月に首を回して目を向けると、視線が絡んだ。

 どうやら起きていたようで、はにかむように微笑まれた。

 こんな事で気が軽くなる自分に呆れてしまう。

 誤魔化すように抱き寄せてみる。

 柔らかい感触が、俺の胸に余すとこなく密着した。

 

「……お前、抱き心地いいよな」

「それ、反応に困るんですけど」

「栄養を蓄えてるせいかもな。他の姉妹と比べると胸のボリュームも――」

 

 瞬間、五月の目の色が変わった。

 信じられないものを見るかのように目を見開いていた。

 その変化でようやく、俺は自分の失言を悟った。

 今の発言は、他の姉妹とも同じ事をしましたと言ってるようなものだ。

 

「――不潔ですっ、最低ですっ! キスのみならずこんなことまでしてたなんて!」

「い、五月、落ち着――」

 

 顔に枕が振り下ろされて喋る事もままならない。

 五月の反応は当然だ。

 むしろ容認した上三人が特殊なのだ。

 以前は手を出したとだけ言って具体的にはぼかしていたが、やはりアウトだったらしい。

 俺としても言い訳のしようがないため、このまま殴られておく事にした。

 幸い、枕は柔らかいためそれほどの痛みはない。

 

「はぁ、はぁ……」

「……落ち着いたか?」

「こうなったら、私も負けるわけにはいきません」

「……は?」

 

 散々枕で殴りつけてきたかと思うと、五月は寝そべる俺の上に跨ってきた。

 当然隠すものは何もないため、色々と露わになってしまっている。

 その気はなくとも、俺の分身は勝手に反応してしまった。

 

「おかわりを要求します」

 

 五月の負けず嫌いがここで発揮されてしまったらしい。

 どうやら延長戦のようだった。

 

 

 

 

 

「お、風太郎。お前も今帰りか?」

「親父か。たまの休みだったのにどこ行ってたんだよ」

「昔のダチとちょっとな」

 

 すっかり暗くなった中野家からの帰り道。

 出かけていたはずの親父と帰り道が一緒になった。

 その交友関係に関してはよくわからないが、少なくとも危ない人物ではないだろう、多分。

 

「お前は買い物の帰りか?」

「らいはにお使いを頼まれて五月とな」

「そうか。ところで、嬢ちゃん達は何か言ってなかったか?」

「何かってなんだよ」

「そうだな……例えば、怪しい人に声をかけられたとか」

 

 親父が何を心配しているのかがいまいちわからない。

 不審者がうろついているという話は特に耳に入ってこない。

 そんな事があれば、学校の方からも注意喚起があるだろう。

 

「ま、何もなければそれでいい」

「だからなんなんだよ」

「ところで、今朝は帰ってなかったな」

「うっ……」

 

 朝帰りを指摘されると、俺は口をつぐまざるを得ない。

 そもそも今だってあれこれした後の帰りなので、突っ込まれると非常に困る。

 気まずそうな顔をした俺を見て、親父は豪快に笑った。

 

「道に外れたことさえなきゃ、それでいいさ」

 

 その言葉は俺への信頼なのかもしれないが、どうにも痛い。

 複数人と肉体関係を築いてまで、道に外れていないと言う厚顔さは俺にはなかった。

 いずれは清算しなければならない。

 しかし、その時は一体いつになるのか。

 そもそもとして、俺に決断が下せるのか。

 そんな迷いは余所に、時間は流れる。

 運命の契機――学園祭が近づきつつあった。

 

 

 




ちなみに致した後にシャワーを浴びた五女ですが、色々と汚れたシーツを洗濯しようとしたところで帰ってきた次女に遭遇。
挙動不審が過ぎたためにシーツを検められて血痕が発覚。
その後、関係者間で裁判が執り行われたそうです。


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日の出祭・初日~風太郎の告白~

ニチアサならぬニチヨルに更新です。

意識して場面を抜いていますが、その補足は後に別視点でやる予定です。


 

 

 

『学園祭初日15時に教室に来てくれ』

 

 メール作成画面に表示された本文の内容。

 宛先のアドレスは五つ。

 後は送信を選択するだけで用は済む。

 しかし俺の指は中々動こうとしない。

 六人で集まるなんてのは、今でこそ機会は減ったが決して珍しい事じゃない。

 それなのにこんなに躊躇ってしまうのは、そこにいつもと違う意味合いがあるからだ。

 俺はあいつらに、自分の想いを告げなければならない。

 いつまでもこのままの関係ではいられないというのは、俺自身がよくわかっている事だ。

 学園祭が終われば、いよいよ受験に向けて忙しくなる。

 その前に何とかしておきたいと考えたのだ。

 こんな半端な気持ちを抱えたままでは、受験勉強に身が入らない可能性がある。

 あるいは、それでいいと開き直ってしまえば話は別なのかもしれないが。

 とにかくずっと答えを待たせている身なので、どうにかしなければならない。

 

「……」

 

 その思いはあるはずなのだが、やはり指が動いてくれない。

 答えを出す――つまり、あの五人の中からたった一人を選ぶ。

 選ぶなんて行為自体が傲慢なのかもしれないが、現にそういう状況になってしまっている。

 頭の中に五人の顔が浮かんでは消える。

 それに付随して呼び起こされる体の感触は、どうにか締め出しておいた。

 

「お兄ちゃん、どしたの?」

「うわっ」

 

 不意に声をかけられて、メールが送信されてしまった。

 いや、これでいいのかもしれない。

 あのままでは、いつまでも送れていなかっただろうからな。

 踏ん切りをつけてくれたらいはには感謝しておこう。

 これで残る問題は一つ。

 それは、ここに至って答えが全然定まっていない事だ。

 ……いや、本当にどうしよう。

 

 

 

 

 

『第29回、旭高校「日の出祭」開会式を執り行います』

 

 体育館に設置されたスピーカーが学園祭の始まりを告げる。

 まず手始めにオープニングセレモニーのため、ステージの幕が上がっていく。

 照明とスモークの演出、その中から色違いの衣装をまとった女子五人が姿を現した。

 音楽に関しては門外漢なのでよくわからないのだが、今時っぽい曲に合わせて歌い踊っている。

 俺と四葉は会場の設営を手伝っていた関係から、舞台袖からそれを見守っていた。

 

「わー、二乃かっこいい!」

「あいつよく参加したな……」

 

 女子五人ユニットのセンターは二乃だった。

 どういうわけかアイドルのようなことをしていた。

 オシャレ好きでも、目立ちたがりではなかったはずなのだが。

 俺達は事前に知っていたが、五月や三玖は驚いているだろうか。

 

「ついに始まりましたね」

「ああ、なんとかここまで漕ぎ着けたわけだ」

「三日間、精一杯頑張りましょう!」

 

 四葉の屈託のない笑顔。

 今更ながら、これに支えられてきたのだと自覚する。

 かつても今も、俺はこいつから大きなものを受け取っている。

 それこそ、多少勉強を教えた程度では返しきれないほどに。

 

「それだけじゃねーだろ」

「はい?」

「精一杯、楽しもうぜ」

 

 拳を突き出す。

 四葉は晴れやかに笑うと、同じように拳を出して突き合わせてきた。

 それが最後の祭りの始まりだった。

 

 

 

 

 

 他の学校ではどうなっているのかはわからないが、この学校では学級長が学園祭の実行委員だ。

 よって仕事は多く、クラスの手伝いができない程度には忙しい。

 今も与えられた仕事を抱えて歩き回っている最中だ。

 各屋台の安全点検――展示と違って調理は火を取り扱うため、チェックは欠かせないのだ。

 

「あ、上杉君だ」

 

 うちのクラスの屋台から声がかかる。

 こちらはパンケーキ、つまりは女子側の屋台だ。

 三玖がパンケーキ焼きを他数人の女子にレクチャーしていた。

 

「安全点検だ。悪いが邪魔するぞ」

「どうぞどうぞ……ところでさ」

「ん、どうかしたか?」

「上杉君て三玖ちゃんとはどうなってるの?」

 

 もう十月なので、気温は冬に向けて下がりつつある。

 だというのに、何故だか汗が吹き出してきた。

 見ると、三玖の方もフライ返しを持ったまま固まっている。

 その様子を見て女子達は勝手に何かを察したようで、三玖の肩に手を置きなにやら慰めていた。

 

「上杉君、いくらなんでもそれはないよ」

「そーだよ、二乃ちゃんや四葉ちゃんのことだってあるのに」

 

 そしてこちらには非難がましい視線が飛んできた。

 しっかりと根拠があるので実に痛い。

 唯一四葉の件に関してだけは異議を唱えられそうなものだが、焼け石に水な事は明白だ。

 下手に否定して突き上げをくらう未来しか見えなかった。

 思わず頭を抱えていると、香ばしいを少々通り越した臭いが漂ってきた。

 

「……おい、なんか焦げてないか?」

「そんなことじゃごまかされない……ってホントだ!」

「三玖ちゃん、焦げてる焦げてる!」

「わっ、わっ」

 

 焼き色が過剰なパンケーキの出来上がりだった。

 失敗を受け止めてか三玖は肩を落としている。

 焦げた料理と並べると、なんとも懐かしい光景だ。

 慰めるべきなのだろうが、思わず笑みが漏れてしまった。

 

「これ、いらないのか?」

「売り物にはできないし、もう捨てるしか――」

「じゃあ貰ってくぞ」

 

 廃棄しようとした女子の手に先んじて奪い取る。

 うん、焦げてはいるがパリパリとして結構うまい。

 上杉家的には全然アリな範囲だ。

 

「ごちそーさん、うまかったぞ」

「あ、ありがと……」

 

 礼を言うのは結構だが、顔を赤くするんじゃない。

 他の女子の何か言いたげな視線がビシビシ刺さってくるんだよ……

 ここで時間を取られるわけにはいかないので、会話もそこそこにその場を離れる。

 効率よく仕事を消化していけば約束の時間には間に合うだろう。

 

 

 

 

 

 一通りチェックを終えて校舎に入る。

 早速次の仕事が控えているのだ。

 集合時間には余裕を持って臨みたいので、タスクは早めに消化するに限る。

 しかし食堂を通り抜けようとしたところで、見知ったアホ毛を発見。

 いつもと比べると閑散としたこの場所で、五月が一人問題集を広げていた。

 

「お前、まさか学祭中も自習か?」

「あ、上杉君。お仕事中ですか?」

「勉強ばっかで大丈夫か?」

「あなたがそれを言いますか」

「一緒に回る友達がいないのか? 悩んでるなら相談乗るぞ」

「もうっ、私をからかいにきたんですか?」

 

 これ以上言うと機嫌を悪くしそうなので、ここらでやめておく。

 このように心の機微に聡くなった今、ノーデリカシーの不名誉は返上してもいいのでは?

 

「冗談はさて置き、大丈夫なのか?」

「当番は明日なので」

「せっかくのフリーの時間がこれでいいのかって事なんだが」

「じゃあ、あなたが一緒に回ってください」

「普通に忙しいから無理だ」

「わかってます。冗談ですから……三割くらい」

 

 つまり、大半が本気という事になる。

 俺だってそういう気持ちがないわけじゃないが、時間的な余裕がない。

 あれ? 最後の学園祭がこれでいいのだろうか?

 などと思わないわけではないが、裏方には裏方の楽しみもあるだろう。

 

「埋め合わせと言ってはなんだが、後で何か持ってきてやるよ」

「え、いいのですか?」

「生徒が頑張ってんだ。教師としてそれぐらいはする」

「本当ですね? 約束ですよ!?」

 

 五月はより一層やる気が出たようだった。

 わかりやすくて結構な事だ。

 俺自身、懐に余裕があるわけではないが差し入れ程度なら問題ない。

 なにより、俺はこいつの何かを美味しそうに食べる姿が、なんだかんだで気に入っているのだ。

 

 

 

 

 

「か、軽く、死ねるな……」

 

 順調に割り当てられた仕事を消化出来ているはずだったのだが、何故だか雑用に追われていた。

 今もこうやってガスボンベを抱えて運搬中だ。

 どこぞの屋台が切らしそうになっているらしい。

 学園祭は盛況なようで、騒がしくも活気にあふれている。

 少しばかりそのエネルギーを分けてもらいたいところだ。

 目を向けた先には有名人でもいるのか、人だかりが出来ていた。

 まぁ、トラブルでもないのなら介入する必要はない。

 素通りして日陰に入り、羽織っていたブレザーを脱ぐ。

 いくら秋とはいえ、こうも動き回っていたら熱くもなってくる。

 下は半袖のTシャツだが、それでも十分な程度には体が温まっていた。

 壁に身を預けて一息つく。

 体力的にキツイが、この後の約束もある。

 仕事は余裕を持って終わらせておきたいところだ。

 ほんの一瞬の休憩を終えて動き出そうとしたところ、目の前を見知った誰かが横切る。

 肩にかかるかかからないかぐらいの長さの髪に、蝶を模した一対のリボン。

 言うまでもなく二乃の特徴だが……いや、こいつは――

 

「こっちだ」

「あっ」

「これ被ってろ」

 

 手を取ってこちらに引き込み、頭にブレザーを被せてやる。

 どうでもいい事なのだが、こうしているとパトカーに連行される逮捕者に見えるな。

 

「あれ? 二乃先輩は……」

「広場の方に走っていったぞ」

「ありがとうございます!」

 

 追手は見当違いの方へ駆けていった。

 ブレザーを被せられた大嘘つきは、困惑顔でこちらを見上げている。

 

「そんな格好で何してんだ、一花」

「いやぁ、変装のつもりだったんだけどね」

 

 一花はウィッグを取ると困ったように笑った。

 正体を隠そうと妹に変装したところ、何故か追い回されたらしい。

 何やってんだ、この大女優様は。

 

「私がいない間に二乃に一体何が……」

「ならあれだな、オープニングセレモニーの」

 

 二乃なら今朝はステージ上で歌い踊っていた。

 それが好評を博したようで、局所的に人気者なのだ。

 この学園祭というフィールドにおいては、恐らく一花より人目を引くだろう。

 

「なるほどねぇ、四葉にしとけば良かったかな?」

「それはそれで多分声をかけられると思うぞ」

 

 四葉はこの学園祭に向けて精力的に動いていたので、学校の人間からの覚えがいい。

 あいつ自身仕事を引き受けまくっているため、大いに頼られているのだ。

 そんな四葉の格好をしていたら、下手をすれば仕事を押し付けられる可能性がある。

 

「つーか、なんだかんだで来たんだな」

「まぁ、君がせっかく誘ってくれたし」

 

 昨日のメールの返信は、行けたら行く、みたいな内容だった。

 仕事がたまたま空いたのか、それとも無理に空けてきたのか。

 どちらなのかはわからないが、来てくれた事は素直に嬉しい。

 

「せっかくの機会だ。また六人で集まりたいと思ってな」

「ん? ちょっと待って。もしかしてみんなにもメール送ったの?」

「ああ、一斉送信でポチッとな」

「……ふーん」

 

 一花は笑顔のまま俺の頬を抓ってきた。

 理由はよくわからないが、不満があるようだ。

 

「で、みんな集めて本当は何しようとしてるのさ」

「本当も何も、さっき言った事が全てだ」

「それだけ? 私はてっきり前人未到の複数人プレイに踏み切るのかと」

 

 こいつは何を言っているのか。

 間違っても、こんな日が高いうちから発していい言葉ではない。

 今すぐにでも口を塞いでやりたかったが、強引にキスでもしたら黙ってくれるだろうか。

 ……いや、やめておこう。

 それはそれでこいつのペースにハメられそうだ。

 そもそもの話、そんな手段が思い浮かぶ時点で大概俺の頭もどうかしてきている。

 

「お前は俺をなんだと思ってるんだ」

「え、聞きたいの?」

「正直あまり聞きたくない」

「だよねー、いつの間にか五月ちゃんにも手を出してるし」

「い、色々あったんだよ」

「あんなに初々しかったフータロー君はどこ行っちゃったのかなぁ」

「うるせー、そんな事ばっか言ってると無理矢理その口塞ぐぞ」

「はいどーぞ。キスも慣れたものだもんね」

 

 顔を少し上に傾けて、一花はいわゆるキス待ちの姿勢に入った。

 くそっ、舐められてやがる。

 その口元がほくそ笑んでいるように見えるのは、決して気のせいではないだろう。

 俺には出来るわけがないと踏んで、こんな挑発に踏み切ったのだ。

 しかしこいつは忘れている。

 俺が羞恥心を投げ捨てれば、割と無茶を出来るという事を……!

 

「まぁ、こんなとこじゃさすがに――んむっ」

「――あんまり舐めんなよ」

「……まさか本当にしてくるとはね」

 

 さすがの一花も頬を染めていた。

 羞恥心を投げ捨てたところでバウンドして返ってくるのがオチなので、当然俺の頬も熱くなる。

 こうして、俺達は晴れて初々しい反応を取り戻したのだった。

 

「……なんか見られてるね」

「こんなとこであんな事してりゃ、目立つに決まってるだろ」

「わー、フータロー君ってばだいたーん」

「ぐっ……とりあえずここから離れるぞ!」

 

 先に誘ってきたのはどっちだと言いたいが、結局は一花のペースに乗せられてしまった。

 果たして俺がこいつに完勝出来る日は来るのだろうか。

 

 

 

 

 

 その後、迷子の子供の面倒を見たり生徒同士の喧嘩を仲裁したりと、予定外の仕事が舞い込む。

 一花とはその途中で別行動に。

 普通に人目を引き出したので、隠れる事にしたようだ。

 テレビや映画への出演もそうだし、単純にこの学校に通っている事が知られているのだろう。

 有名税とでも言えばいいのか。

 なんにしても、約束の時間にはまた顔を見せてくれるはずだ。

 その時に向けて、俺は体に鞭打つだけなのだ。

 

「とは、言っても……さすがに、キツいな」

 

 両手に椅子を抱えながら歩く。

 噴水の周りに休憩所を設営したいとの打診を受けて行動している最中だった。

 とりあえず座れる場所を用意すればという考えだったが、そんな事をしなくても勝手に噴水の縁に座って休んでいる人の姿も見られる。

 まぁ、お世辞にも綺麗に掃除されているとは言い難いので、椅子を置く事に意味はあるだろう。

 もちろん、噴水に落ちてびしょ濡れになった等、そういった問題を未然に防ぐ目的もある。

 こんな事を言い出せば、バリケードで囲めという極論が出てきてしまうのだが、それを敢行してしまったら景観が色々と台無しになってしまう。

 噴水の周囲を椅子で囲むというのは、落としどころとして十分だろう。

 せいぜい、椅子を無視して噴水の縁に座るなんて天邪鬼がいない事を祈ろう。

 

「つーか、あと何往復すりゃいいんだよ……」

 

 噴水を椅子で包囲するためには、相当量が必要だ。

 ざっと目算だが、20では足りないだろう。

 大きな隙間を開けてしまったら、縁に座ろうとする連中も出てくるだろう。

 そうなっては本末転倒なのである。

 今さっき作業を開始したばかりなので、まだまだ先は長い。

 疲労の蓄積もあってか、足元がふらついてしまう。

 マズい、倒れる――

 

「おおっと、セーフですね」

 

 ――その前に、誰かの手に正面から支えられた。

 見なくてもわかる。

 この人の心に差し込む、春の日差しのような声は……四葉だ。

 

「悪い、ダサいとこ見せたな」

「上杉さんはもやしっ子なんだから、適度に休憩を取らないとダメですよ?」

「正論だな……しかし、モタモタしてたら約束の時間に間に合わねー」

 

 この後もまた余計な仕事が入らないという保証はない。

 それならば、少しでも早く終わらせて時間的な余裕を作っておきたい。

 再度椅子の運搬のために動き出そうとしたところ、四葉が立ち塞がった。

 

「……どいてくれ」

「いいえ、どきません!」

「言ったろ、時間が惜しいんだよ」

「それならば私にお任せを。体力的には全然余裕なので!」

「しかし――」

 

 反論しようとしたところで、腹の中の虫が鳴き声を上げた。

 もう昼過ぎなのだが、そういえば朝から何も口にしていない。

 これでブッ倒れでもしたら、それこそ学園祭が台無しか。

 

「こんなにお店があるのにもったいないですよ! これあげるからしっかり食べてください」

「ああ、悪いな……って、どんだけ無料券もらってんだよ!」

 

 ホイホイと屋台の無料券が手渡される。

 一枚二枚ならともかく、十数枚はあった。

 こいつ、どんだけ手伝って回ってたんだよ。

 もちろん今日だけの分ではないだろうが、それにしたって多い。

 

「ししし、情けは人のためならず、というやつですね!」

「四葉……」

 

 こんなタイミングで考える事ではないのは分かっているが、感動せずにはいられなかった。

 あの四葉がことわざを正しい意味で使えている。

 思わず目頭をおさえてしまった。

 

「むむっ、なにやら失礼なことを考えられているような」

「な、なんでもねーよ。それより、流石にこれは多すぎだ」

 

 半分ほど突き返す。

 それにしたって俺一人では消化できない程度には多い。

 この後の集まりのために使わせてもらうとしよう。

 

「どうせお前もロクに休んでないだろ。適度に休憩取っとけよ」

「いえ、私は――」

 

 そして再度、腹の虫の鳴き声。

 今度は四葉のが空腹に耐え兼ねて鳴き出したようだ。

 

「あ、あはは……では、この椅子を噴水の周りに設置すればいいんですね?」

「ああ、なるべく隙間が空かないようにな」

「お任せ下さい!」

 

 四葉は椅子を軽そうに持ち上げると、噴水の方へ向かっていった。

 その疲れ知らずな様子は、流石の体力といったところか。

 こいつにはずっと助けられっぱなしだ。

 せめて多少の感謝を口にすべきだろうか。

 あらたまるのは少々照れくさいが、背中を向けている今だったら言えそうだった。

 

「お前がいてくれて良かったよ。ありがとな、四葉」

「……いえ、こういうのは持ちつ持たれつですから」

「そうかもな」

 

 四葉に背を向けて屋台の方へ向かう。

 うちのクラスの様子を見ておくのも悪くないだろう。

 

「――ちゃんと見ててね……風太郎君」

 

 風に紛れて、そんな言葉が聞こえた……ような気がした。

 

 

 

 

 

「ほらよ、走り回ってる学級長様にサービスだ」

「ああ、悪いな前田」

 

 パックされたたこ焼きを受け取る。

 身内ゆえの裏からの受け渡しだ。

 男子側の屋台はそこそこ盛況なようで、これだったら売上にも期待出来そうだ

 

「しかし、学級長がこれほど忙しいとはね。今は空いているのかい?」

「そうだな。でも少し休憩したらすぐ戻る。四葉に仕事を押し付けちまってるんだ」

「ふっ……そうやって汗を流すのも、また青春だね」

「そうやって恥ずかしい事を堂々と言えるのも、ある種の才能だな」

「君からの賞賛は実に気持ちがいいね」

「あー、もうそれでいいわ」

 

 武田は相変わらずだった。

 キラキラとしたオーラを振りまいており、道行く女子にウィンクすると歓声が飛んだ。

 客寄せパンダとしては十分すぎるようだ。

 

「女子に負けないように気合入れるぞ!」

「「おー!!」」

 

 黙々とたこ焼きを焼く前田や客引きに徹している武田以外の男子は、何やら騒がしくしていた。

 パンケーキの方も売れているようで、対抗心を燃やしているらしい。

 本音を言えばさっさと和解して欲しいところだが……

 

「はは、困ったものだね」

「そう思うんなら何とかしてくれ」

「僕が動かずとも大丈夫さ。違うかい?」

「……そうだな」

 

 きちんとこのクラスの男女の仲を憂慮して動いている奴はいる、そういう事だ。

 あの引っ込み思案が調停役を買って出たのだから、きっと大丈夫だろう。

 ミスキャストなどと思う奴もいるかもしれないが、俺は心配していない。

 なんせ、あいつのそういう努力はこの俺が存分に認めるところなのだ。

 きっと明日の朝には男女仲も多少は改善するだろう。

 

「んじゃ、俺は女子側の様子見てくるわ」

「松井さんによろしくって前田君が言ってたよ」

「言ってねーぞコラ」

「ああ、しっかり伝えとく」

「だから言ってねーって!」

 

 

 

 

 

「うわ、激混み……」

 

 パンケーキの屋台の前には長蛇の列が出来ていた、

 男子側の屋台もそこそこ売れていたが、こちらは予想をはるかに上回る盛況っぷりだった。

 店番の女子達――三玖も忙しそうにしている。

 これは一日目の終了を待たずして、材料の方が切れそうだな。

 

「おう、風太郎」

「あ、やっとお兄ちゃん見つけた」

「親父、らいは」

 

 列の中に親父達も並んでいた。

 五月に誘われた通りに遊びに来たのだろう。

 しかし、初日は来ないといっていたはずだが……

 

「こっちの様子を見に来たんだが、これじゃ声かけられそうにないな」

「いやいや、三玖ちゃんが焼いてるんだろ? やるじゃねーか」

「私も今度教えてもらお」

 

 屋台で鉄板に向かう三玖は、なんだか輝いて見えた。

 一花や武田、五月に感じるものと同じだ。

 あいつは今、夢中なのだ。

 水を差すのも悪い。

 もう少し落ち着いてからまた訪れよう。

 

「行くのか?」

「ああ、ちょっと五月の様子をな」

「そういえば何してるんだろ?」

「学食で問題集開いてたぞ」

「ええっ、五月さんいくらなんでも真面目すぎるよ……!」

 

 まあ、引きたくなる気持ちもわかる。

 かつての俺だったら、それが当然だと思っていたのかもしれないが。

 ともかく、頑張っている生徒のために差し入れを持っていくのだ。

 

「あー、ところで怪しいおっさんを見かけなかったか?」

「特に覚えはないが。つーか、ここまで混んでるとよくわからん」

「だよなぁ」

 

 親父は何か気になる事があるのか、珍しく考え込んでいた。

 学祭の前にも言っていたが、一体何を気にしているのやら。

 こうも言いよどむのは、親父にしてはまた珍しい。

 

「風太郎、ヒゲとハゲに気をつけろ」

「なんだそりゃ?」

「詳しい事はまた後で話す」

 

 周囲の様子を気にしているのを見ると、どうも大っぴらに話す内容じゃないらしい。

 また後でという事なら、ひとまずこっちの用事を済ませてしまおう。

 二人に別れを告げると、俺はその場を後にした。

 

 

 

 

 

「そ、外で食おうぜ」

「ああ、いい天気だしな……」

 

 学食から出てきた男子二人とすれ違う。

 焼きそばにからあげ、それにたこ焼きと学園祭を存分に楽しんでいるようだった。

 走り去る背中を見送りつつ学食に入ろうとすると、ただならぬ威圧感が全身を襲った。

 

「ううううううう……」

 

 五月が唸っていた。

 まるで腹を空かせた猛獣のような佇まいだった。

 昼時はもう過ぎている。

 恐らく、今まで何も口にしていないのだろう。

 あの男子二人も、五月に気圧されて出て行ったのかもしれない。

 ……もう少し早く差し入れを持って来てやるべきだったか。

 

「――っ」

 

 匂いを察知したのか、五月が勢いよく振り返った。

 まんま飢えた獣の目つきだった。

 

「どうどう、落ち着け。差し入れだ」

「――待っていました!」

 

 こちらの姿を認めると、キラキラと目を輝かせた。

 なんてわかりやすい奴なんだ。

 うちの屋台でもらったたこ焼きと、途中で無料券と引換えたフランクフルトをテーブルに置く。

 

「悪いな、忙しくて中々抜けられなかった」

「いえ、こうして来ていただいただけで十分です」

 

 そう言ってくれるのは結構なのだが、溢れる涎が色々と台無しにしている。

 もう待ちきれないといった様子だった。

 思わず苦笑が漏れる。

 

「ま、とりあえず食えよ。腹減ってんだろ?」

「では早速――」

 

 早速とたこ焼きに手を伸ばした五月だったが、途中で手を止めてなにやら逡巡している。

 何か不備があっただろうか?

 たこ焼きにはしっかりとソースがかかっているし、青のりや鰹節だって乗っかっている。

 さらには、お好みでとマヨネーズも備え付けられているという、隙のない布陣のはずだ。

 これで気に入らないとなれば、恐らくは大半のたこ焼き屋がダメ出しを食らうだろう。

 疑問符を浮かべるこちらを余所に、五月は咳払いをして居住まいを正した。

 

「上杉君、私は今問題集で手が離せません」

「……そうなのか?」

「そうなんです」

 

 さっきから手を止めているようにしか見えないが、そういう事らしい。

 というかさっきから腹の音がうるさい。

 変な意地を張ってないで、さっさと食えばいいのに。

 

「お前が食えないなら、冷める前に俺がいただこうか」

「わー! ダメダメ! 食べちゃダメです!」

 

 どうやら自分が食べる気ではいるらしい。

 だとしたら、一体こいつは何が目的なのやら。

 こと勉強においては鋭い閃きを見せるこの頭も、専門外の分野では流石に陰りがある。

 例えば、中野姉妹の理不尽な言い分だとか。

 

「私は手が離せないので、上杉君が食べさせてください」

「……正気かよ」

 

 そんな羞恥プレーを公共の場で敢行しろと言うのか、この馬鹿は。

 顔が赤くなっているあたり、恥ずかしいという自覚はあるようだ。

 

「お、遅くなった罰ということで」

「さっきは来てくれただけで十分って言ってなかったか?」

「それはそれです」

 

 理不尽にも横に置いておかれた。

 目を手で覆い、天井を仰ぐ。

 外の喧騒がこの場の静寂を引き立てていた。

 幸か不幸か、こいつが放つ猛獣オーラで食堂に人はいない。

 つまりは、場は整っているという事だ。

 爪楊枝をたこ焼きに刺し、五月の口元へ。

 

「ほら、口開けろ」

「い、いただきます」

 

 冷めてはいないが出来立てでもないので、ちょうど食べやすくなっているだろう。

 たこ焼きを咀嚼して嚥下した五月は、何とも言えない幸せそうな表情をした。

 そして残念な事に、俺はこいつのこんな顔が気に入っているのだ。

 ペンが止まっている事を指摘する気にはならず、次々とたこ焼きを放り込んでいく。

 あっという間になくなり、次はフランクフルトだ。

 

「串に気をつけろよ」

「わかってまふ……んっ」

 

 五月は差し出されたフランクフルトを、顔の横に垂れた髪をかき上げながら頬張った。

 率直に言って目の毒だった。

 しかも容赦なく噛み千切ってくるものだから、また心臓に悪い。

 問題集はどうしたのだと指摘する精神的余裕はなくなっていた。

 

「ん~~、おいしかったです!」

「そ、そうか……良かったな」

「お疲れですか?」

「まぁ、色々とな」

 

 疲れは溜まっているが、この精神的な疲弊は間違いなくこいつのせいだ。

 苦言を呈してやりたかったが、幸せを噛み締めるような顔をされるとどうにも弱い。

 仕方がないので、勉強が進んでいない事は言わないでおいてやろう。

 

「口の横、ソース付いてるぞ」

「拭いてください。私、手が離せません」

「……」

 

 チョップでもしてやろうかと思ったが、毒を食らわば皿まで、という言葉もある。

 ここまでいくとガキの世話みたいだな。

 まだ小さいらいはの面倒を見ていた時の事を思い出す。

 フランクフルトに付いてきたおしぼりで口元を拭ってやった。

 すると、五月は俺の手を掴んで首にも手を回し、自分の方へ引き寄せ――

 

「んっ……ご、ごちそうさまでした」

「……お前、何してくれちゃってんだよ」

「だ、だって二乃ばっかりずるいです! 私も上杉君と学校でキスしてみたかったんです!」

「調子乗んな、このっ」

「う~~、いひゃいれふ!」

 

 頬を引っ張って伸ばしてやる。

 何が悲しくて、こいつにまでやり込められなくてはならないのか。

 涙目で睨んでくる五月を引き寄せ、唇を重ねる。

 

「これでおあいこだ」

「あ、あの……おかわりは?」

「ねーよ、馬鹿」

「あうっ」

 

 そしてデコピンを一発。

 椅子から立ち上がると、食堂を後にする。

 あんな事をして平然としていられるほど、俺の心臓は強くないのだ。

 さて、そろそろ四葉の様子を見に行こう。

 あいつは今も走り回っているはずだ。

 

「すまないが、道を尋ねてもいいかな?」

 

 外に出たところで声をかけられる。

 こうした一般客の案内も仕事のうちなのだ。

 

「道案内ご苦労。君は素晴らしい若者だ」

 

 道を尋ねてきた男性は、親指を立てると校舎の中へ入っていった。

 その後ろ姿に、先程の親父の言葉が頭をかすめる。

 怪しいおっさん、ヒゲとハゲ。

 怪しいかどうかはともかくとして、今の男性と他の特徴は一致していた。

 

「……まさかな」

 

 

 

 

 

 外の屋台もそうだが、校舎の中も人が多い。

 というのも、各教室で展示や発表、アトラクションをやっているからだ。

 中には教室で喫茶店を開いているクラスもあり、中々に好評なのだとか。

 それなりに混み合った廊下を一人歩いている俺は、人探しの最中だった。

 約束の時間が迫っているので、唯一姿が見えない二乃を探しているのだ。

 

「うおっ、可愛ぇー。中野二乃先輩だっけ?」

「そうそう、センターで一番目立ってた」

「広場にいるらしいぜ」

「行こうぜ、話してみてー」

 

 そんな折、恐らくは後輩の男子二人が、二乃の話題を口にするのを聞きとがめる。

 広場にいるという話が本当なら、俺も向かうべきだろう。

 そうして外に向かおうとしたところ、見知った顔が近くの教室から顔を出した。

 辺りを見回す様からは警戒の色が伺えた。

 ひょっとして、誰かに追われていたのだろうか。

 なんにしても、こうして見つかった事はラッキーだと言えるだろう。

 

「二乃、ここにいたか」

「あ、フー君。お仕事終わったの?」

「ああ、なんとかな。お前の姿が見えないから探してたところだ」

「ホント? 嬉しい!」

 

 例によって、人目もはばからずに抱きついてきやがった。

 普通に注目されるからやめてほしいんだが。

 しかしそんな事を言っても、聞き入れる二乃ではないのだ。

 

「二乃ー、イチャついてないでさー」

「そうそう、この問題どうするー?」

「あ、ごめんごめん」

 

 二乃は友人二人と一緒だった。

 今まで何度か、一緒に行動しているところを見かけた事がある。

 この教室では謎解きゲームをやっているらしく、三人で挑戦しているのだろう。

 

「どれどれ」

 

 入場して問題文を覗き込む。

 教室の各所に記号が記されており、謎解きをして正解を選ぶ形式だ。

 勉強とは少し違うが、こうして頭を使うのは得意だ。

 問題文は、百円玉の画像の下に20と0月0日。

 これを解けば、目的の記号がわかるという事か。

 しばし黙って考え込む。

 百円玉は変換のしようがないから置いておいて、注目すべきはその下だ。

 20と0月0日――この本来ならありえない後半部分が鍵を握っていると見るべきか。

 日付の表記は文化圏によって順番が変わったりするが、簡略化する場合は大抵斜線で区切る。

 それに倣って0月0日を変換すると、0/0……少し形を整えて%といったところか。

 以上を踏まえて問題文を読むと、百円玉に20に%の記号。

 百円の20%……つまりは二十円。

 教室内を見渡す――二十円の記号はないが、二重の円の記号はあった。

 あれが答えで間違いないだろう。

 

「二重円だな、行くぞ」

「にじゅうえん……ああ、そういうことね。さすがフー君だわ」

「早っ、やっぱ学年一位は違うねー」

「てか、二乃って頭良い人タイプだったっけ?」

 

 この二人とはまともに言葉を交わした覚えはないし、クラスも違う。

 しかしどういうわけか俺の事は知っているようだ。

 そんな有名人になった覚えはないのだが……まぁ、二乃が話したのかもしれない。

 

「あれ? 全国一位だっけ?」

「それね。一組の武田君が言ってたやつ」

 

 どうやら原因は武田のようだ。

 春先の全国模試の結果を吹聴しているらしい。

 あいつとの関係を考え直す必要がありそうだ。

 

「これでゲームクリアね。私はこれから約束あるけど、二人は?」

「私も同じだよ。親が仕事上がりに来るっぽくてさ」

「あー、私の家族ももう来てるみたい」

「ならすぐ行ってあげなさいよ。せっかく来てくれたんだから」

 

 笑顔で友人を送り出そうとしている二乃だが、その横顔はどこか寂しげだ。

 友人との別れを惜しんでいるのとは違う気がする。

 二乃は感情の起伏が激しいが、一番心を乱す対象はやはり家族だろう。

 

「じゃ、また明日ね」

「二乃もしっかり楽しみなよ」

 

 二乃の友人を見送り、俺達も廊下に出る。

 あと少しで約束の時間だが、他の連中はちゃんと来ているだろうか。

 特に行動に制限のない一花と五月はともかく、三玖と四葉は間に合うかどうか少し怪しい。

 三玖は恐らく材料切れまで動けないだろうし、四葉は単純に仕事を引き受けすぎだ。

 持ちつ持たれつと言いながら、こちらが手伝いを申し出れば大丈夫の一点張り。

 そのおかげで、俺は時間に余裕を持って行動できているわけなのだが。

 頑張るのは結構だが、あいつ自身も限界を迎えてしまうんじゃないかと心配になる。

 

「そういえば、広場に私がいるってなんだったのかしら?」

「誰かそっくりさんでもいたんだろ。ドッペルゲンガーとかな」

「そんなので怖がるのは四葉ぐらいよ」

 

 広場の二乃に関しては、恐らくだが一花の変装が原因だ。

 今はどこぞに身を潜めているはずだが、その時の目撃情報が未だに出回っているのだろう。

 

「それよりも、いつまでそんな目立つ格好してんだよ。ステージの衣装だろ、それ」

「だって……フー君に見てほしかったんだもの」

「そ、そうか……うんまぁ、似合ってるんじゃないか?」

 

 会話が途切れ、微妙な空気が流れる。

 その微妙な空気とは、決して悪い意味合いではない。

 しかし、この場に適しているかというとそうではないのだ。

 男女間に流れるムードと言い換えて相違ないが、それが高じた結果の二乃の行動が問題だ。

 こいつは公衆の面前でも容赦してくれないため、注意する必要がある。

 

「しかし、よく参加したな。ああいうのはお前の趣味じゃないと思ったが」

「四葉の仕事を奪ったのよ。あの子、演劇にも参加してるのよ?」

「ああ、それでか」

 

 どうやら二乃も四葉の仕事量を憂慮していたらしい。

 学園祭に向けての四葉の頑張りは、やはり目に余るものがあったという事か。

 

「くくっ、相変わらずの姉妹馬鹿で安心したぜ」

「も、もちろん理由はそれだけじゃないわ!」

 

 二乃の愛情深さは俺含めて姉妹全員の知るところなのだが、自分自身では中々素直に認めない。

 そんな姿もまた、俺の青臭い衝動を刺激するのだ。

 きっとこれが二乃の突発的な行動の源泉だ。

 俺は今、抱きしめたいという欲求を抑え込んでいる。

 

「やっぱお前、かわいいよな」

「~~っ」

 

 欲求を抑え込んだ結果、隙間からそんな言葉がこぼれ出た。

 二乃が俺の首に腕を回してきたのは、その直後だった。

 

 

 

 

 

「お待たせっ」

「ごめーん、遅れちゃった」

 

 三玖に続いて四葉が教室に入ってきた。

 時刻は約束の時間を二十分ほど過ぎている。

 無料券を駆使して屋台からかき集めた食料も、少し冷めてしまっただろうか。

 さっきから五月はそちらに目を向けてそわそわしていた。

 昼過ぎに持っていった分じゃ、やはり足りなかったらしい

 

「遅いっ、遅刻よ」

「私も少し遅れてしまいましたけど」

「揃ったか。ならゲストの登場といこう――入ってくれ」

 

 教室のドアが開き、一花が姿を現す。

 予想外だったのか、他の姉妹は一様に驚きを露わにしていた。

 

「一花、来てたんだ!」

「それなら連絡ぐらいよこしなさいよね」

「よく騒ぎにならなかったね」

「あはは、ちょっと危なかったけどね」

「よかったです。一花だけいないのはやっぱり寂しいので」

 

 一花は早速姉妹に群がられていた。

 困った顔をしているが、きっと満更でもないだろう。

 こちらとしても、姉妹仲が健在な様子を見ると安心できる。

 

「これで晴れて全員集合だな」

「でも、なぜこうあらたまって呼び出したのですか?」

「そうね。私たちはともかく、フー君や四葉は忙しかったはずよ」

「えへへ、私はやっぱりこの感じが落ち着くなー」

「うん、わかる」

「フータロー君、これ食べてもいいの?」

「ああ、食べながらでもいいから聞いてくれ」

 

 勉強中は我慢していた影響か、末っ子の手は早かった。

 置いてあったからあげをあっという間に平らげ、喉を詰まらせて二乃に介抱されていた。

 四葉が背中をさすり、三玖が飲み物を飲ませ、一花が頭を撫でて慰めている。

 今から俺が言おうとしている事は、下手をしたらこいつらの仲を引き裂きかねない。

 もしかしたら、今この場で言う必要はないのかもしれない。

 しかし、そうして先に延ばしていてはキリがない事はなんとなくわかる。

 こいつらと過ごした一年と少しを振り返る。

 

「俺はお前らが好きだ……も、もちろん変な意味でだ」

 

 言葉を放った瞬間、中野姉妹の動きが止まった。

 外の喧騒もどこか遠く、一瞬だけ時間が止まったのではと錯覚しそうになる。

 しかし俺の早鐘を打つ心臓がそれを否定した。

 そして固まっていた中野姉妹は全員こちらに背を向け、その場に屈みこんでしまった。

 

「ちょっ、フータロー君……それ、レギュレーション違反だよ!」

「そ、そうよ! 不意打ちもいいとこだわ!」

「い、いきなりは困る……」

「上杉さん、反則です!」

「こここ、こちらにも心の準備というものがあるんです!」

 

 なんか怒られた。

 四葉はともかくとして、他四人とは既に濃厚接触済みだ。

 今更気持ちを言葉にした程度で、大げさに照れる関係なのかどうかは疑問が残る。

 どうもそんな考えが顔に出ていたのか、一花はこちらに目を向けて呆れるようにため息をついた。

 椅子に半分顔を隠しているが、赤くなっているのは隠せていなかった。

 

「はぁ……今更なんて思ってるでしょ」

「まぁ、そうだが」

「あのね? 私たち、君に好きだなんてはっきりと言葉にされたの初めてなんだよ?」

「……そうだったっけ?」

「そうよ」

「うん、そう」

「言われたことありません」

「まったく、あなたという人は……」

 

 言われてみると、そんな気がしてきた。

 そういう気持ちがあるのははっきりと自覚していたが、言葉にはしていなかったかもしれない。

 それこそ、行為の最中にもだ。

 中野姉妹のじとっとした視線にさらされ、冷や汗が頬を伝った。

 

「とにかく! ずっとこのままの関係じゃいられないのはわかってるし、いずれ答えを出す必要がある事も理解しているつもりだ」

 

 二乃に想いをぶつけられた時から、その考えは常に頭の片隅にあった。

 それが一人分だけだったらまだ楽だったのかもしれない。

 しかし、どういうわけか積み重なっていってしまったのだ。

 しかも、本来ならば答えを出した後にあるはずの関係も先取りしてしまっている。

 選ぶという行為は傲慢極まりないが、中野姉妹は答えが出るのを待っている。

 誰を選び、誰を選ばないのか。

 幾度となく自分に問いかけた。

 悩んで、考えて、答えが出ないままに体を重ねる日々が続いてしまった。

 そして、俺は一つの答えを出した。

 それは答えなどと呼ぶべきではないかもしれないが、答案にはこう書くしかない。

 中野姉妹の不安、あるいは期待を含んだ視線。

 俺はゆっくりと両手を上にあげた。

 

「さっぱりわからん! お前ら、どうにかしてくれ」

 

 回答不能――お手上げである。

 堂々と情けない事を言い切った俺に、中野姉妹の大音声が殺到した事は言うまでもない。

 

 

 




そもそも当日に複数人とイチャついてる時点で答えなんて出てるわけがないのです。

次は幼馴染が登場して、その後から個々の視点に移るかと思います。


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日の出祭・二日目~幼馴染~

分量も少なめなので早めに更新。

例によって場面が抜けてますが、あとで補完します。


 

 

 

 学園祭の初日は、俺の体と精神にダメージを残しつつもどうにか終わった。

 問題はまだまだ残っているものの、こうして無事に自宅で夕食にありつけている。

 それで十分だと思おう。

 

「ぷっ、くくくく……」

「……」

 

 だから親父、いい加減笑いを抑える努力をしてくれ。

 俺の頬が面白い事になっているのは認めるが、学校で散々笑ったろうが。

 にやけるクソ親父を意識から外す努力をしつつ、白米を口の中に放り込む。

 口を動かすたびに痛みが走るが、これは当然の報いなので甘受する他ない。

 

「お兄ちゃん、大丈夫?」

「ああ、ちゃんとおいしいぞ」

「そうじゃなくて、そのほっぺただよ」

 

 らいはが指差した俺の左頬は赤く腫れ上がっていた。

 そして喋るのに支障をきたすほどじゃないが、動かせばそれなりに痛い。

 これは俺の情けない告白に対する罰だ。

 誰からのかと言うと、それはあの五人以外にありえない。

 全員分ではないが、複数の手形が重なってただ赤いとしか認識できなくなっていた。

 

「ぶっ、ワハハハハハ!! ダメだっ、腹いてー!」

「もー! 痛がってるのに笑っちゃ可哀想でしょ!」

「すまんすまん。まぁ、笑ってやった方が良い事もあるってな……ぶふっ」

 

 もっともらしい事を言った親父だが、直後にわざと咳き込んで笑いを誤魔化していた。

 そんな姿を見せられては、残念ながら説得力に欠けていると言わざるをえない。

 しかしながら、親父への怒りで多少は気が紛れているのも事実。

 本当に今日は色々あったからな……

 

「ところで親父、ヒゲだのハゲだの怪しいおっさんだの、一体なんだったんだ?」

「そういやそれもあったな。その後見かけたりしなかったか?」

「そういえばお父さんずっと気にしてたよね。今日だって急に学園祭行くって言い出してさ」

 

 一日目は来ないと言っていた親父が急に学校に来た理由。

 それにそのおっさんが関係あるらしい。

 なんとなく口ぶりから穏やかならざる雰囲気は感じ取れるが……

 

「ハゲでヒゲが特徴的なおっさんだったら見かけたけどな」

「ヒゲはこう……もさっとした感じじゃなかったか?」

「ああ、上下反対にしても顔になりそうなおっさんだった」

「そうか……やっぱ来てやがったか」

 

 吐き捨てるように言うと、親父は頭をガシガシとかいて腕を組んだ。

 大雑把だがおおらかで、他人への悪感情などほとんど見せる事はない。

 そんな親父が、僅かではあるが敵意のようなものを見せていた。

 

「……そのおっさんがなんなんだよ」

「お前には伝えておいた方がいいかもな……その男の名は無堂仁之助」

 

 親父は窓の外に視線を向けて、一瞬だけ言葉を途切れさせた。

 

「――五つ子の嬢ちゃん達の、実の父だ」

 

 

 

 

 

「上杉君の今日の仕事はなし!」

 

 そんな通告を受けたのは、学園祭の二日目が始まった直後の事だった。

 まさかのフリーである。

 昨日の忙しさは幻だったのだろうか。

 

「今ある仕事は全部、他の学級長がやってくれてるみたい。せっかくだし、楽しんできなよ」

 

 そんな感じで送り出されてしまった。

 俺としては今日も仕事に追い立てられる覚悟をしていたため、このままでは暇を持て余す。

 忙しければ気が紛れるという狙いもあったのだが、見事にご破産である。

 空白の時間があれば昨日の事を嫌でも考えてしまう。

 こんな精神状態で学園祭を楽しめるかどうかは、正直怪しい。

 屋台を回ろうにも、懐事情を鑑みれば出来る事は少ない。

 四葉に貰った無料券は昨日の集まりの際に使ってしまった。

 

「親父やらいはは今日も来るんだったっけな」

 

 せっかくの機会なので一緒に行動するというのもありかもしれない。

 そういえば前田や武田は何をしているだろうか。

 あいつらもいきなりの宙ぶらりんで、暇を持て余しているはずだ。

 様子を見に行くのも悪くはないが……

 

「……一番は、あいつらか」

 

 しかし、何よりも気がかりなのは中野姉妹の事だった。

 一晩経って腫れが引いた頬をさする。

 結局誰も俺を見限らなかったのには驚きというか呆れというか、なにより少し安堵したのだが、昨日の事で気を揉んでいないわけがないというのは、俺の思い込みではないだろう。

 気まずさはあるが、顔を合わせて話をしたいという気持ちはあった。

 流石に今日は一花は来ないだろうが、あいつとは昨日のうちに一応話している。

 たこ焼きの屋台の事もあるし、二乃は何をしているだろうか。

 男女の和解を望んでいた三玖も、あんな事になって心を痛めているだろう。

 四葉は今日も働いているはずだが、一度も姿を見ていない。

 五月は当番と言っていたので、屋台の方にいるだろう。

 まずは居場所がわかっているやつから当たるべきか。

 

『皆さーん、日の出祭も二日目! 楽しんでますかー?』

 

 学校の敷地内に設置された巨大モニターに、見覚えのある姿が映った。

 同じクラスの椿か葵か、名前がいまいちはっきりしない、サイドで髪を縛った女子である。

 ちなみに今カメラに向けて名乗ったので、椿だという事がわかった。

 放送部は来場者に対してインタビューを行っているらしく、それを流しているようだ。

 

『すごい盛り上がってるよね』

『パンケーキが美味しいって聞いて来ました』

 

 一般客と思しき二人組の女子に対するインタビュー。

 どうやらうちのクラスの屋台が話題になっているようだ。

 昨日の時点で十分繁盛していたが、この分だと今日はそれ以上に混むかもしれない。

 

『中野さん見てる? 私のこと覚えてるよね? 会いに来たよ、まだ走って――』

『ちょっ、マイク取らないでください!』

『おい、マイク取り上げろ! 誰か止めてくれ!』

『邪魔しないで!』

 

 なにやら放送事故が起きていた。

 もしかしなくても見覚えがある人物が、マイクを独占しようとしていた。

 あれは今年の春に卒業した陸上部の部長だったか。

 口ぶりからして四葉に未練を残しているようだった。

 映像がブツっと途切れる。

 さて、こんなところでうだうだしていないで俺も動き出そう。

 モニターに背を向けて歩き出したところで、中継が再開したようだ。

 どうも聞き覚えのある、低く渋い男性の声が耳をかすめた。

 今の声はまさか――

 

『すまない、失礼するよ』

『そんな~』

 

 振り返ると、既に男性の姿はカメラから外れてしまっていた。

 モニターには肩を落とした椿の後ろ姿しか映っていない。

 ……一応、後で確認しておくべきだろうか。

 昨日の、二乃の寂しそうな横顔が浮かんだ。

 

『では気を取り直して……そこのお姉さん!』

 

 次のインタビューのターゲットがモニターに映し出される。

 俺もさっさと動き出そうとしたのだが、その姿にまた足を止めてしまった。

 

『私ですか?』

『はい! あなたは何しに学園祭へ?』

 

 なんとなーく見覚えがあるような顔立ちに、なんとなーく聞き覚えのあるような声。

 勉強ならば隙なしの俺だが、人の顔や名前を覚えるのはやや苦手だ。

 少なくとも小学校の頃はそんな事はなかったのだから、その原因はそれ以降にある。

 つまりは、勉強にかまけて他人を排するような生き方をしてきた弊害だろう。

 だから見覚えがあるとは言っても、どこまで信用できるかはわからないのだ。

 それになんとなくなんて言葉が付随するのだから、勘違いの可能性が高い。

 中継から意識を切り離して、その場を離れるべく歩き出す。

 しかしその声は、妙に耳に残るのだった。

 

『私は、幼馴染に会いに』

 

 幼馴染――要するに幼い頃から付き合いのある関係。

 俺にはそんな相手がいただろうか。

 出来の悪いガキに勉強を教えてくれた、お人好し二人の顔が思い浮かぶ。

 会わなくなって久しいので、細部までとなるとあやふやになってしまうのだが。

 あの二人が幼馴染同士だというのは、京都行きの新幹線の中で聞いた話だ。

 この事を思い出すと、ほんの少しほろ苦い感情が呼び起こされるのだが、今は平気だった。

 中野姉妹との精神的、あるいは肉体的な接触が鮮烈すぎるからかもしれない。

 それと比すると、幼い頃の情動が小川のせせらぎのように感じられてしまうのだ。

 まぁ、あの当時はそういう感情に自覚が薄かったというのもあるのだろうが。

 なんにしても、あの二人は元気でやっているだろうか。

 諸々の問題が片付いたら、顔を合わせてみるのも悪くない。

 焼きそばの屋台に足を向ける。

 五月に会いにいくのなら、食べ物の差し入れがあったほうがいいだろう。

 懐は痛いが、これであいつの機嫌が取れるならば安いものだ。

 またビンタが飛んできたら……土下座でもしてみようか。

 

「あ、いたいた。すぐ見つかるなんてラッキーだね」

 

 なんとなーく聞き覚えがある声に呼び止められる。

 そこには、なんとなーく見覚えのある顔立ちの女性が立っていた。

 先ほどインタビューを受けていた本人である。

 

「風太郎、大きくなったね」

「えっと……どちら様?」

「ははは、冗談きついよー。生き別れの姉が会いに来たのに」

 

 そんな事を言われても、思い出せないものは仕方がない。

 生き別れの姉なんて戯言を抜かしているのは置いておいて、一体何者なのか。

 見覚えがあって、こうして親しげに声をかけてくる以上、知り合いだというのは確かなのだが。

 しかし、どうにも喉元まで出かかっているような気がするのだが、決定打に欠ける。

 

「え、もしかして本当に覚えてない?」

「いや、うん、まぁ……」

「私だよ、私。小学生の頃に比べたら、お互い大きくなったよねー」

 

 小学生……そのキーワードで細部があやふやだった顔が鮮明に蘇る。

 昔と比べて髪は長くなっているが、動きやすそうな服を好むところは変わっていなかった。

 

「お前……竹林か!」

「やっと思い出した? 久しぶり、風太郎」

 

 突然の来訪に驚きというか、戸惑いが先行した。

 こいつは何故ここに……幼馴染に会いに来たと言っていたが。

 もしかして、真田の奴が先行して学園祭に来ているのだろうか。

 

「じゃ、行こっか」

「いや待て、勝手に話を進めるな」

「いいから案内してよ。今日は風太郎の顔見に来たんだからさ」

 

 どうやら俺はこいつの幼馴染だったらしい。

 小学校からの付き合いだから、そう言えなくもないのかもしれない。

 俺としてはあまりしっくりとは来ないが。

 それでも、俺の事を覚えていて、こうして会いに来てくれたというのは少し嬉しい。

 

「……少しだけな。俺も暇じゃねーからな」

 

 しかしながら、この時の判断を俺は後悔する事になる。

 後に起きる事件を知っていたら、全力で同行を拒否しただろう。

 まぁ、先に出来ないからこその後悔なのだが。

 

 

 

 

 

「あ、チュロスおいしそー。風太郎も買う?」

「いや、俺はいい」

「じゃあチョコ味一つおねがいしまーす」

「まいどー」

 

 小学校の同級生との再会はもう少しぎこちないものになるかと思われたが、杞憂だったようだ。

 竹林自身がイニシアチブを取りたがる性格だというのもあるだろう。

 互いの近況を話すうちに、余計な隔意は消えたように思えた。

 まぁ、それでも小学生の頃のようにとはいかないのだが。

 竹林はともかくとして、俺があの頃のノリに戻れない。

 話していてわかったのは、こいつと真田との付き合いが続いている事だ。

 この六年でそれがどんな関係に変化したのかは興味があったが、詮索はしない事にした。

 何故かというと、そういう方面で深掘りされて一番ダメージを受けるのは俺だからだ。

 今の乱れに乱れた女性関係は、旧友といえどおいそれと話せるものではないのだ。

 

「家庭教師……風太郎が?」

「ああ、またとんだ問題児だらけでな」

「あはは、どの口が言ってるのかなー?」

 

 隣を歩く竹林が軽く頬をつまんでくる。

 今の俺は非の打ち所のな……くはない優等生だが、小学校時代はやんちゃだったのだ。

 その頃を知っている竹林からしたら、異論を挟みたくもなるのだろう。

 

「それにしても、生徒が五つ子さんなんてね」

「信じられないだろうが、現実にそうなんだよ」

「あー、うん、信じるよ。そういう子達もいるもんね……あ! あれやろうよ、あれ」

 

 前方を指差すと、竹林はとある屋台へと駆けていく。

 屋台上の看板にはライフルと的の絵と、射的の文字。

 見たまんまの射的の屋台だ。

 追いつくと、既に料金を支払ってしまったらしい。

 おもちゃのライフルを差し出すと、竹林はニッコリと笑った。

 

「はい、頑張ってね」

「俺がやるのかよ」

「いいからいいから」

「……ったく」

 

 得物を受け取ると、適当な景品に狙いを定める。

 一発目の弾は、目玉景品と思われるデカいぬいぐるみの胴体に当たった。

 しかしほとんど揺らぐ事なく、ぬいぐるみは鎮座したまま。

 ……本当に取れるようになってるんだろうな、あれ。

 

「残念、次はもっと小さいの狙おうよ。あのキャラメルとかさ」

「はいはい、あれな」

 

 残りの弾は二発。

 今撃ってみた感触からすると、小型のものなら当たれば問題なく取れるだろう。

 言われた通りに箱入りのキャラメルに狙いを定める。

 

「そうそう、もうちょっと右に寄せて……って行きすぎ! 左、左だってば」

 

 竹林をスポッターに置いた二射目は、標的のやや右に外れた。

 つーかうるさくて集中できん。

 口うるさいところは相変わらずなようだった。

 

「風太郎の下手くそ! だからもっと左だって」

「隣でやかましくされたら狙いもブレるわ! ったく、仕切りたがりは変わんねーな」

「すっかり忘れてたくせによく言うよ」

「ただでさえ長らく会ってねーのに、髪型変えられたらわからんわ」

「あ、それ風太郎が言うんだ」

 

 俺と竹林とで、どちらが外見的に変わったかといえば、間違いなく俺だ。

 髪の色の変化はそれほどまでに印象を変えるのだ。

 後はそう、日々の勉強で培った溢れ出るような知性もそれを後押ししているのは明らかだ。

 それを言ったら鼻で笑われた……解せん。

 

「そういうおバカなとこは相変わらずだよね」

「誰が馬鹿だと」

「あ、次あれ狙ってよ」

「チッ、次は横でうるさくすんなよ」

 

 次の標的は大きめだが、接地面は広くはない。

 恐らくは、誰がやっても取りやすいように配慮していると思われる。

 最後の一発なので、全敗という不名誉は避けたいところだ。

 

「――っ!?」

「あ~」

 

 しかしながら、突然の悪寒に俺の体は震えて、狙いは思い切りそれた。

 ただならぬ威圧感というか、そういう気配が漂っている……ような気がする。

 周囲を見回しても、そんなオーラを放ちそうな存在は見当たらない。

 気のせいだったのだろうか……。

 

「あれー? 今回は何も言ってないんだけどなー」

「……悪かった、せっかくやらせてもらったのにな」

「いいよ別に、楽しかったし」

 

 射的の屋台を離れ、次はどこに向かうのやら。

 竹林は興味を引く屋台を探してか、歩きながらあちこちに目を向けている。

 うちの屋台でも勧めようと思ったが、店番を勤めているであろう五月の反応が未知数すぎる。

 こいつとはやましい間柄ではないと断言できるが、どう判断するかは相手次第なのだ。

 ましてや昨日のあんな告白の後では、何が起きるかわかったものではない。

 ん? それならこうして竹林と歩き回っている時点で結構ヤバいのでは?

 今もこの瞬間、他の姉妹に見られていないとも限らないのだ。

 

「むこうになんだか珍しい屋台があるんだって、行ってみようよ」

「いや、俺はちょっと川へ芝刈りに行かないと……」

「なに訳わかんない事言ってるの。こっち来て」

「お、おいっ」

 

 竹林は俺の言う事を一蹴して、こちらの手を引いて進んでいく。

 まぁ、言ったこちらとしても意味がわからないので、残念だが当然である。

 川へは洗濯に行くもので、そこで大きな桃を拾うのだ。

 ……違う、そうじゃない。

 今重要なのは、竹林と一緒にいるところを中野姉妹に見られるかどうかだ。

 強引に手を引かれている状態なので、見ようによっては手をつないでいるようにも――

 

「パンケーキいかかで――」

 

 しかも向かう先がジャストで悪かった。

 うん、そうだね、パンケーキの屋台って珍しいよね。

 呼び込みをしている五月と何故か一緒にいる二乃が、こちらを見たまま固まっていた。

 気のせいかもしれないが、目から光が消えているような気がする……怖い。

 恐れていた事態の発生に、俺の頭はフリーズを起こして役に立たなくなった。

 しかし俺達の事情に竹林は関係ないし、関知もしていない。

 だからこそこちらなどお構いなしに行動もする。

 その声が能天気に聞こえてしまうのは、こちらの勝手な押しつけなのだ。

 

「風太郎、パンケーキだって。食べようよ」

「あ、ああ……ここはうちのクラスの屋台なんだ」

「へぇ、そうなんだ」

 

 俺の名前が呼ばれた瞬間、二人の眉と頬がひくついたのを俺は見逃さなかった。

 ……気づかない方が良かったかもしれない。

 そして竹林は俺の背中に手を添えると、お辞儀でもさせるように折り曲げてきやがった。

 

「いつもうちの風太郎がお世話になってます」

「うちの……」

「どちら様ですかー?」

 

 二人の声に苛立ちが混じっているのが理解できてしまう。

 これも付き合いが長くなった証拠なのだろうが、知らぬが仏という言葉もある。

 どんな顔をしているのかが恐ろしくて、顔を上げられなかった。

 

「初めまして、竹林と申します。風太郎とは小学校からの同級生です」

「あらそう。私たちも同級生だけど、もっと深い関係と言っても過言じゃないわ」

 

 竹林の自己紹介に、二乃は対抗するように意味深な言葉を吐いた。

 嘘は言っていない。

 俺と二乃は、紛れもなく深い関係にあると言っていい。

 言っていいのだが……やはり場所を考えて欲しい。

 クラスメイト間では、もはや学級長の噂はどうしようもなく広まっているのだが、外は別だ。

 ここには他のクラスの屋台もあるし、一般の客だっている。

 つまり、俺の世間体のピンチだ。

 

「は、ははは……自己紹介も済んだ事だし、ここらでいいよな?」

「待ちなさい。そちらの竹林さんとどういう関係なのか、じっくり聞きたいわ」

「どういうもなにも、さっきこいつが言ったまま――」

「あ、ひどーい! あんなに面倒見てあげたのに!」

 

 なんとか場を収めようとしたのだが、ここで竹林が不満の声を上げた。

 面倒を見たとは、勉強を教えたという意味に他ならない。

 しかし事情を知らない人間が聞けば、どう取られるのかは未知数なのである。

 

「へ、へぇ……面倒って一体なんなのかしら?」

「風太郎、今はこんな感じですけど、昔はもっとやんちゃだったといいますか」

「おい、昔の話は――むぐっ」

「上杉君は黙ってましょうねー?」

 

 五月に物理的に口を塞がれてしまった。

 こいつ笑ってるのにすごい怖いんだが……

 つーか話なら俺に聞け!

 しかしそんな意見も、口を塞がれていればモガモガと意味不明な呻き声なのである。

 今更ながら貧弱な自分の体が恨めしい。

 

「何回も何回もお願いされて、こっちがもうダメーってなってるのにお構いなしで」

「――えっ……」

「こんなマジメ君な見た目に育ったけど、とにかくもうあの頃は問題児だったんです――あれ?」

 

 竹林の言葉が途切れる。

 俺も抵抗をやめて呆然としてしまった。 

 二乃が、泣いていた。

 

「ぐすっ、ひっく……やだやだやだやだぁ、おねがいだから捨てないでぇ……」

 

 その場に座り込むと、二乃は俺の足に縋り付いて涙混じりの声を上げた。

 反射的に体が動いた。

 その場に屈みこんで二乃を抱きしめる。

 五月の拘束はいつの間にかなくなっていた。

 しかし、それはあくまで体の反応で、頭の方は見事に真っ白だった。

 なんだか、物凄く人聞きの悪い事を言われたような気がする。

 

「フータローは渡さないから」

 

 背中から抱きつかれる――三玖だった。

 いつの間にか近くに来ていたらしい

 いきなりな事に俺はもちろん、竹林も困惑している。

 すると、五月が一歩前に歩み出た。

 

「初めまして、中野五月と申します」

「ど、どうも」

「うえすぎく――風太郎さんとは、身も心も深い関係にあります」

 

 威圧感が半端ない。

 明らかに竹林も気圧されている。

 そしてさっきからこいつらのワードチョイスは、明らかに俺の世間体を殺しにかかっている。

 

「まだ出会ってほんの一年と少しですが、その深さはあなたにも負けるつもりはありません!」

「……そっか」

 

 言い放った五月に、納得するように目を伏せる竹林。

 なにかが解決したような雰囲気を醸し出しているが、俺が置かれている状況は率直に地獄だ。

 こんなやりとりは、人目がある場所でやるべきではないのである。

 

「……お前ら、場所変えるぞ。これ以上は(俺の世間体が)ヤバい」

 

 三玖が背中に張り付いた状態で二乃の頭を撫でながら、そう提案するのであった。

 

 

 

 

 

「ごめんなさいっ」

 

 全員で人目のない場所に移動すると、竹林は勢いよく頭を下げた。

 こいつが謝る事は……あるな。

 意図は分からないが、先程は明らかに二乃を煽りにかかっていた。

 

「ちょっとからかうつもりが、反応が予想以上で……」

「何がしたかったんだよ、お前……」

「だってまさかそんな関係だとは思わないでしょ。もー、これじゃあ私、悪者じゃん!」

 

 竹林は頭を抱えているが、それをしたいのはこちらだ。

 ひょっとしたら俺の世間体は再起不能かもしれない。

 

「本当に二人はそういう関係じゃなかったの?」

「だからそうだって言ってるだろ」

「む~~、本当の本当に?」

「本当の本当の本当にだ!」

 

 しつこく疑ってくるのは三玖だ。

 前々から思っていたが、俺と他の女子との接触に敏感すぎる。

 お前らだけで手一杯だというのに、他に手を出す余裕なんてあるはずがない。

 

「ま、私は信じてたけど」

「二乃、メイクちょっと崩れてるよ」

「え、ウソっ、やだフー君見ないで!」

 

 三玖の指摘に、二乃は慌てて背中を向けた。

 メイクもなにも、何度もすっぴんを見ているので今更な話だ。

 口に出せば、またデリカシー法に抵触するので言わないが。

 

「……本当にごめんなさい」

「いえ、私もつい熱くなってしまい、申し訳ないです」

「それは私のせいだと思うんですけど……」

 

 五月と話している竹林の目がこちらに向けられる。

 じとっとした、言いたい事がありますと語る目だ。

 顔をそらしてみたが、肩を掴まれては無視できない。

 諦めて、俺はその場に座り込んだ。

 

「身も心も深い関係なんだって?」

「……黙秘権を行使する」

「それ白状してるのと同じでしょ……はぁ、まさかこんな事になってるなんて」

 

 第三者に乱れた関係について指摘されるのは、それはもう居心地が悪いものだ。

 それが久しぶりに会った旧友ならば尚更である。

 

「せっかくマジメ君に育ったと思ったのに、そっち方面でやんちゃしてるとは」

「保護者面やめろ」

「私は風太郎の先生なんだからいいでしょ」

 

 その通りだ。

 そしてそれがこいつに頭が上がらない理由だ。

 こいつと真田に対する恩は、全然返せていないのだ。

 

「あの、それって一体どういうことなんでしょうか?」

「あ、聞きたいですか?」

「ぜひっ」

 

 五月が食いついたかと思えば、他の二人も大きく頷いていた。

 俺以外の満場一致で、黒歴史の御開帳となりそうだった。

 大きく息を吐きだしてから立ち上がる。

 

「風太郎、どこ行くの?」

「自分の昔話なんて素面じゃ聞いてらんねーよ」

 

 もうガールズトークでもなんでもしててくれ。

 四人に背を向けて歩き出す。

 散々な目にあったが、二乃と三玖と五月の様子が見られて良かった。

 その分は、竹林に感謝しておこう。

 

 

 

 

 

 いつの間にやら、時刻は正午を過ぎていた。

 来場者の数も、時間が経つにつれて増えてきているようだ。

 そんな中で忙しく走り回っているであろう四葉を探す。

 どうせ暇なのなら、あいつの仕事を奪ってやるのも悪くない。

 

「お、いたいた。学級長!」

 

 呼び止められて立ち止まる。

 学級長と呼ばれる事も珍しくはない俺だが、呼び方自体が個人を指すわけではない。

 他にも学級長はうろついているので、勘違いの可能性もある。

 しかし声の主はこちらに近づいてくるので、その心配はなさそうだ。

 あれは同じクラスの……誰だっけ?

 

「中野さん見なかった?」

「どの中野だよ」

「上杉の相方だよ」

 

 相方と言われると、またどれも当てはまりそうで困る。

 しかし学校内の立場で一番それっぽいのといえば……

 

「四葉の事でいいのか?」

「そうそう。ライブ明日だけど、今日のうちにお礼言っときたくてさ」

 

 明日のライブステージへの参加の申請と、練習場所の確保で四葉に世話になったらしい。

 もし見かけたら伝えておいてくれと頼まれてしまった。

 

「あ、上杉ー!」

「学級長、いいところに」

 

 その後も何かと呼び止められてしまった。

 被服部の出し物について相談に乗ってもらったという二人。

 親戚への招待状を手配してもらったという女子。

 どいつも四葉が目当てで、例によって人を伝言板に仕立てて去っていった。

 

「……誰かに必要とされる人間、か」

 

 六年前に交わした約束を思い出す。

 家族を助けるために立派な大人になると誓い合ったあの日。

 当時は小学生だった俺達にとって、勉強というのが身近でわかりやすい手段だった。

 だけどそんなものは、道の一つでしかなかったのだ。

 四葉を見ていると、そう思える。

 

「う、上杉君、大変!」

 

 一人の女子が、血相を変えてこちらに駆けてくる。

 彼女は同じく学級長で、今朝は俺に仕事の割り振りをしてくれた女子だ。

 その結果、今日はフリーになったのだが、なにかトラブルでも起きたのだろうか。

 

「中野さんが……!」

 

 どうやら一日目に引き続き、二日目も無事には終わってくれないようだ。

 

 

 




ちなみに屋台前での修羅場は後に語り草になったそうな。
フー君のライフ(学校内での風評)はもうゼロです。


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最後の祭りが一花の場合

お久しぶりです。
江戸で二天一流を極めていたらすっかり遅れてしまいました。

というわけで今回は長女の話です。


 

 

 

『学園祭初日15時に教室に来てくれ』

 

 なんの飾りもないシンプルなメール。

 一花がそれを目にしたのは、その日の撮影の合間のことだった。

 プロダクションの看板女優を労う織田社長が、メールの着信を知らせてくれたのだ。

 

「えっ、フータロー君!?」

 

 先程までは撮影に臨む女優の顔を見せていた一花だったが、メールを見た瞬間に一変した。

 恋する乙女を地で行く表情……その豹変っぷりに、隣の社長も困惑した顔を見せた。

 直前の撮影は、共演している俳優を一花が詰るシーンだった。

 その際に見せていた、心底軽蔑したかのような表情とは完全に別物である。

 

「学園祭の最中に……やだ、なんの用だろ」

 

 なんの用などと口にしてみた一花だが、実のところ期待はあった。

 進学しない自分にはあまり関係はないが、学園祭が終われば本格的に受験ムードになる。

 それを踏まえると、最後の学校行事は色々とスッキリさせるのにはいいタイミングだ。

 だからこそ、風太郎もこんなメールを寄越したのだろうと。

 そしてそれをわざわざ自分だけに送ってきたという事は……

 

「やだもー、困っちゃうなぁ」

 

 顔がにやけるのが止められなかった。

 困るなんてのは口だけだった。

 隣の社長は気を使って周囲との壁になってくれていた。

 ひとしきりニヤニヤした後、一花は余所行きの表情に切り替えた。

 そして監督の下へ駆け寄ると、予定の擦り合せを始めるのだった。

 

 

 

 

 

「来ちゃった……」

 

 タクシーから降りた一花の目の前には、久しぶりに見る旭高校の校門。

 学園祭仕様に装飾されて、すっかり見慣れない風景に変じていた。

 このお祭りムードには、どこかワクワクするものがあった。

 約束の時間は午後の三時だが、今は昼前だ。

 それまでに何をして過ごすべきか。

 クラスのみんなの様子を見に行く、あるいは学園祭をゆっくり回るのも悪くない。

 今日は仕事が休みになったため、時間には余裕があった。

 

「中野一花いるじゃん」

 

 突然名前を呼ばれて、一花の心臓が跳ね上がった。

 帽子をかぶって誤魔化しているのに、こんなにも早くバレてしまったのだろうか?

 果たしてその心配は杞憂だった。

 後ろの男性二人組は、女優の一花がこの学校に通っている事を話題にしているだけだった。

 それでも一抹の不安を覚えたので、途中でトイレによって変装を済ませる。

 こんな時のために、変装グッズは欠かせないのだ。

 ウィッグを被って左右を蝶柄のリボンで飾れば、二乃に早変わりだ。

 姉妹で一番髪の短い一花だが、変装の際には楽だという利点があった。

 誰に扮するにしても、髪をまとめたりという手間が省けるのだ。

 

「えーと、一組は……うわ、本当に二つ屋台やってる」

 

 そうしてシレっとパンフレットを受け取って、一花は入場を果たした。

 とりあえず自分のクラスの店舗を探したのだが、三年一組は二箇所に店を出していた。

 たこ焼き屋にパンケーキ屋。

 事前にホテルのベッドの上で風太郎に聞いた通りだった。

 

「あ! レッドだ!」

 

 パンフレットに目を落としていた一花だが、突然の声に顔を上げた。

 どうも周囲の人の注目を集めてしまっているようだ。

 

(ウソ、まさか変装しても滲み出る芸能人オーラで……)

 

 なんてことはなく、どうも二乃に変装しているのが原因のようだった。

 かわいいと褒められたり、気安く話しかけられたり。

 果てには握手や写真を求められたりと、一花からしたらワケがわからない事態だ。

 あまりの迫られっぷりに思わず逃げ出してしまった。

 自分のいない間に、妹は何をやらかしたのだろうか。

 

「こっちだ」

「あっ」

「これ被ってろ」

 

 横から手を引かれ、頭になにか布を被せられる。

 嗅ぎなれた汗の匂い――風太郎だった。

 着ていたブレザーを被せてきたようだ。

 日の出祭、とデカデカとプリントされたTシャツを身につけていた。

 学園祭の運営側だという立場を示しているのだろう。

 風太郎は一花を追っていた人達を、見当違いの方へ誘導してくれていた。

 助かったと思う反面、少しの不安。

 今の一花は二乃に扮している。

 それに風太郎は気づいているのだろうかと。

 

「そんな格好で何してんだ、一花」

 

 しかしそれはいらない心配だった。

 実に自然に、ごく当たり前かのように風太郎は正体を言い当てた。

 とは言っても、全くのノーヒントというわけでもない。

 今日はウィッグを被っただけなので、服装はそのままなのだ。

 一花と二乃では服の趣味が違うため、そこから見分ける事も十分可能だ。

 風太郎が中野姉妹のファッションに対してどれだけ関心があるかはわからないが、少なくとも足回りの違いから見分ける程度はこなしてくる。

 しかし本気の変装ならば服装も合わせるため、こうも容易く見破られはしないだろう。

 家族ならば顔を見ただけで気づくので、この程度で満足されては困るのだ。

 

(あぁ、もう、やだなぁ……私、浮かれちゃってるよ)

 

 だが、考える事に反して一花の心は浮き足立っていた。

 惚れた弱みというやつなのかもしれない。

 二乃のように、今すぐにでも抱きついてキスをしてしまいたかった。

 しかし一花は中野家の長女である。

 女優という立場もあるので、外での行動は慎重にしなければならない。

 自分の衝動的な告白や、初体験が野外だった事は脇に置いておいた。

 ヤっちゃったものはもうどうしようもないのである。

 重要なのはこれからの事。

 具体的に言えば、風太郎をどうやってベッドに引きずり込むかだ。

 一花とてそういう事ばかり考えているわけではないのだが、こうも気分を高められては、相手と愛し合いたいという欲求が出てきてしまう。

 幸いにして学園祭で二人きりという導線は確保できているので、この後の誘導しだいだろう。

 普通に誘っても乗ってこない風太郎だが、言い訳や逃げ道があると意外とあっさり応じてくる。

 学園祭という場の雰囲気を利用したら、案外簡単にいけるかもしれない。

 勉強にしか興味がないという態度を前面に出してはいるものの、あれで結構俗っぽいのだ。

 

「つーか、なんだかんだで来たんだな」

「まぁ、君がせっかく誘ってくれたし」

「せっかくの機会だ。また六人で集まりたいと思ってな」

「ん? ちょっと待って。もしかしてみんなにもメール送ったの?」

「ああ、一斉送信でポチッとな」

「……ふーん」

 

 舞い上がっていた気分が一気に急降下した。

 自分の勝手な勘違いだったとは理解しているものの、面白くない気持ちが出てきてしまう。

 一花は女優であるため、表情を作るのが得意だ。

 なのであくまで笑顔のまま、本心の方は行動で表現させてもらうことにした。

 風太郎の頬を少し力を込めて抓る。

 痛みに顔をしかめたものの、抵抗してくることはなかった。

 それでもまだ気分は収まらない。

 身勝手な期待だったのだが、決して小さいものではなかったのだ。

 そもそも全員で集まるのなら、メールに書いておけという話である。

 そういう部分に対人経験の少なさが出ているように思える。

 風太郎らしいと言えばそれまでだが、これでは将来が少し心配だ。

 抗議の意味も込めて、少し困らせてみることにした。

 普段から風太郎に対して挑発的な言動が多い一花だが、それには好きな相手の動揺を誘って楽しみたいという困った目的がある。

 もちろん、本気で困らせたいわけではないのだが、これが中々やめられない。

 

「はいどーぞ。キスも慣れたものだもんね」

 

 こうからかいつつキスを誘ってみるのも、自分の言動であたふたする風太郎を見たいからだ。

 基本的に理性で動く風太郎は、こんな人前ではまず乗ってこない。

 誘った一花も当然それは見越している。

 そしてキスしてこなかった事をネタに、さらにからかうのが思い描く流れだ。

 

「まぁ、こんなとこじゃさすがに――んむっ」

「――あんまり舐めんなよ」

「……まさか本当にしてくるとはね」

 

 しかし予想に反して風太郎は行動に出た。

 こうして時折、理性を振り切って誘いに乗ってくるというパターンも存在する。

 それも一花が挑発をやめられない理由の一つだ。

 それでも予想外であることに変わりはないので、頬は熱くなる。

 

(でもまぁ、これで元は取れたかな?)

 

 ガスボンベを抱えて移動を開始した風太郎に追従しつつ、一花は自分の胸に手を当てた。

 この騒がしい鼓動は、先の落胆への埋め合わせには十分だった。

 少し甘い気もするが、こうも心が満たされてしまっては文句も言えない。

 そうしてこの場を離れようとしたところで、一人の男の子が目に付いた。

 周囲には誰もおらず、不安そうな顔をしてうつむいている。

 

「ねぇ、フータロー君」

「ん、なんだ?」

「あの子、どうしたんだろ」

 

 

 

 

 

「迷子の子のお母さん探してまーす」

「ショー君のお母さーん、いませんかー?」

 

 迷子の男の子の手を握り、俺と一花は周囲に呼びかける。

 ガス欠の屋台へボンベを届けた後、俺達は迷子の面倒を見る事にした。

 ちなみにこういった場合の対応も、実行委員のマニュアルには記載されている。

 迷子センター的な場所を設けているため、早い話がそこへ案内しろというものだ。

 俺も決まりに則るならそうすべきなのだが、ああも不安そうな顔をされては仕方がない。

 何よりも一花が気にしていたので、こうして二人で保護者探しをしている。

 

「見つかんねーな……」

 

 しかし、そう簡単に話が運ぶわけではない。

 子供を残して帰ったというのはないだろうが、この学校も決して狭くはない。

 こんな時の合流をスムーズに促すのが迷子センターの役割なのだが……

 

「うっ、うぐっ……」

 

 俺のつぶやきを聞きとがめたのか、男の子が泣きそうになっていた。

 まずいと思った時には、一花が既に動いていた。

 目線を合わせるようにしゃがみこんで、安心させるように笑いかけた。

 

「ねぇ、ショー君。一緒にいたのはお母さんだけ?」

 

 そこからの手並みは鮮やかなもので、最終的に一花が頭をなでると、男の子は笑顔になった。

 もうすぐ妹が生まれるとの事で、お兄ちゃんになるのだという。

 奮起した男の子を見て、少し懐かしい気分になった。

 兄になるのならば、泣いている場合じゃないよな。

 らいはが生まれて、お袋が死んで、俺は強い男を目指した。

 そのモデルが親父だったため、小学生ながら髪を染めてみたりもした。

 今にして思えば、あれは精一杯の虚勢だったのだろう。

 六年前の出会いがなければ、俺はどんな人間になっていただろうか。

 お袋に恥じないような兄になれていただろうか。

 そんなことを考えても仕方がないのはわかっている。

 そもそも今だって、立派な兄をやれているかどうかは怪しいのだから。

 

「さすが長女。やるじゃねーか」

「ありがと。じゃあ次はフータロー君の番だね」

 

 一花が指さす方を見ると、言い合いをする女生徒と思しき二人。

 模擬店で喫茶店でもやっているのか、エプロンドレスを身にまとっていた。

 

「長男らしいとこ、見せて欲しいな」

 

 もとより、トラブルの仲裁も仕事のうちだ。

 そして好きな女に期待されたとあっては、引き下がれるはずがない。

 俺は不敵に笑ってみせた。

 

「待ってろ、軽く済ませてきてやるよ」

 

 

 

 

 

「そ、想像以上に手強かったな……」

「あはは、かっこよかったよ」

「お兄ちゃんも強くなろう!」

「おう……」

 

 やっとのことで喧嘩の仲裁を終えて帰ってきた俺は、二人に励まされていた。

 おかしい、予定ではもっとスマートに終わらせるはずだったのに……

 対人スキルの弱さが浮き彫りになった結果か。

 結局、子供の前でみっともない事をするなという方向で説得せざるを得なかった。

 これでは俺というよりも、この迷子の男の子が仲裁したようなものだ。

 その立役者は、何やら一花が気になるようだった。

 顔をジッと見上げている。

 

「お姉ちゃん見たことある」

「お、こんなチビにも知られてるとはな。流石は大女優さま――」

「この前キスしてた人だ」

 

 茶化そうとした俺だが、その単語に固まらざるを得なかった。

 キス? 一花が? 誰と?

 一花と男の子が何か話しているが、頭の中に入ってこなかった。

 

「やだなぁ、そんなにショック受けないでよ」

「べ、別にショックなんか……」

 

 否定してみたが、声には明らかに動揺が表れていた。

 そして、心の奥底からジワジワと滲み出てくるとある感情。

 それだけは表に出さないように歯を食いしばる。

 

「女優だもん、そういうこともあるよ」

「だから気にしてねーって」

「だよね。そんなの気にならないくらいいっぱいしてるもんね、私たち」

 

 一花は俺の耳に顔を寄せて、囁くように言った。

 大っぴらに話す事ではないのはわかるが、これでは密着しているように見えてしまう。

 むしろ逆効果ではないだろうか。

 

「お兄ちゃんたちって、つきあってるの?」

「んー、どうだろ? お兄ちゃんは仲良しな女の人がいっぱいいるからね」

 

 案の定、勘違いされてしまった。

 いや、恋人同士でないというだけで概ね間違ってはいないのだが。

 それにしても、こんな小さな子供が男女の付き合いという概念を理解しているとは。

 一花の言い方は人聞きが悪いが、否定できないのがまたタチが悪い。

 

「そういうの良くないってドラマで言ってたよ」

「お、いいねー。もっとお兄ちゃんに言ってやってよ」

 

 男の子の肩に手を置いて、一花は俺に抗議するような布陣を取った。

 今度はこういう方向で攻めてくることにしたらしい。

 たしかに迷子相手では俺も強くは出れない。

 つーかこの子はドラマの見すぎだ。

 テレビを置いている家庭では普通なのだろうか。

 

「ぼくが見たのは姉妹で同じ人を好きになるってやつ。喧嘩して修羅場になっちゃうんだ」

「この話、もうやめよっか!」

 

 妙に身に覚えのある内容だった。

 そのドラマでは、男を取り合って姉妹仲が険悪になってしまうらしい。

 どうでもいいが、子供の口から修羅場なんて言葉を聞く日が来るとは……

 決して他人事ではない話の内容に、流石の一花も止めに入った。

 そもそも扇動したのはお前なんだが。

 

「それで、最後はどうなるんだ?」

「ちょっ、フータロー君もういいじゃん」

「えーっと……」

 

 しかし、俺はその続きが気になった。

 姉妹で同じ男を好きになった末に、どんな結末があるのか。

 ドラマはフィクションでしかないのはわかっている。

 それでも、みんなが幸せになれるようなエンディングがあるのではないかと期待してしまった。

 

「片方と結ばれて、片方とはそれっきり」

 

 妙に現実的で後味が悪かった。

 そんな都合のいい話はどこにもないということだろうか。

 

「ショー!」

「あ、ママ!」

 

 ゆったりとした服を着た女性がこちらへ駆けてくる。

 ずっといなくなった子供を探していたのだろう。

 男の子の手を取ると、安堵の息を吐き出していた。

 こちらにも大げさなぐらい頭を下げてきた。

 合流できたのならばなによりだ。

 子供の嬉しそうな顔を見ると、付き合った甲斐があったと思える。

 

「え、うそっ、一花ちゃん!?」

 

 安心したのも束の間、子供の母親が大女優様の存在に気づいてしまった。

 にわかに周囲がざわめき始める。

 

「おい、一花」

「ごめん、後はお願い」

「……約束の時間、忘れんなよ」

「うん、楽しみにしてる」

 

 笑顔で言い残すと、一花は足早に去っていった。

 多少の後ろめたさを感じつつも、俺は一花に寄ってくる輩を押しとどめるのだった。

 

 

 

 

 

「おい、タクシー来たぞ」

「……ふーんだ」

 

 校門の前にタクシーが止まる。

 見送りに出てきた風太郎が呼びかけたが、一花はそっぽを向いた。

 明日は撮影があるので、ホテルへ戻らなければならない。

 それでもあわよくばと、風太郎との甘い時間を期待していたのだが……

 

「俺が悪かったのは認めるが、せめて返事ぐらいしてくれよ……」

 

 風太郎の左頬は赤く腫れ上がっていた。

 都合三発のビンタのダメージが出ていた。

 その一発目の犯人である一花は、盛大にむくれていた。

 突然学園祭に呼び出され、期待して来てみれば誰も選べないという情けない告白である。

 これには流石の一花もキレた。

 思わず真顔で頬を張ってしまった事は記憶に新しい。

 

「……本当に何が悪かったかわかってる?」

「答えが出せなかった事だろ」

「それだけじゃ合格点はあげられないよ」

 

 風太郎の言った通りずっとこのままの関係ではいられないし、いずれ答えを出す必要がある。

 それは一花もよくわかっている。

 そして、選ぶのなら自分であってほしいと願ってもいる。

 しかし、風太郎の出した答えは、答えではなかった。

 

「私としてはね? 君が答えを出せないならそれでも良かったんだ。今の関係も楽しいしね」

「……」

「だけどフータロー君、無理に答えを出そうとしたでしょ」

「……そう、かもな」

「もしそれで誰かを選んでたら、多分後で辛くなってたと思うよ」

 

 もちろんそれで一花を選ぶようなら、容赦なく遠慮なく躊躇なく頂いてしまうだけなのだが。

 それでも、出来ることなら確信を持って選んで欲しかった。

 そして自分が選ばれないにしても、風太郎と選ばれた姉妹には笑っていて欲しかった。

 

「とりあえず、もうちょっとよく考えてみてよ」

「もう散々考えたんだが……」

「じゃあ、もうちょっと自分の気持ちに正直になるっていうのは?」

「それがはっきりしてれば、こんな事になってないんだが」

「難しく考えすぎだよ。誰のことが好きか……って、みんな好きなんだもんね」

「……悪いかよ」

「私はいいと思うよ? 堂々と五股宣言しちゃうなんて男らしいし」

「そこまでは言ってないんだが!?」

 

 大っぴらに言ってはいなくとも、事実としてはそんな状況であるのは間違いない。

 よって風太郎の否定は一花にはどこ吹く風である。

 

「にしても、お前も大概だな。我ながら、相当どうしようもない事を言ったと思うんだがな」

「んー、あれぐらいでどうにかなるほど、私たちの気持ちは軽くはないってことかな?」

「思いっきり叩かれたんだが」

「頭にきたのも本当だからね。それぐらい我慢してよ」

 

 一花の他に怒りながら叩いた二乃も、呆れながら叩いた五月も大体は同じ気持ちだろう。

 叩かれた風太郎の心配をしていた三玖と四葉は言わずもがなだ。

 

「……まぁ、これぐらいだったら安いもんか」

「安心した?」

「むしろ呆れてるわ。これでも愛想を尽かさないなんてな」

「それは私たちを甘く見すぎだよ。だから逃げられるなんて思わないでね」

「いや、怖いんだが……」

 

 怯えた様子の風太郎に笑いかけると、腫れていない方の頬に口付ける。

 そして小さく手を振って一花はタクシーに乗り込んだ。

 

「それじゃ、フータロー君の答え、楽しみにしてるよ」

「期待に添えるかはわからないけどな」

「その時はまぁ、また一発ぐらいいっとく?」

「勘弁してくれ……」

 

 

 

 

 

「サイテー! いつまでも甘いこと言ってんじゃねーよ!」

 

 バチンという破裂音と共に一花の怒声が響き渡る。

 先日の撮影のリテイクである。

 元は相手を詰るシーンのはずだが、よりインパクトを求めてのビンタと罵倒である。

 叩かれて地面に倒れこんだ俳優は、一花の迫真の演技に素で驚いていた。

 それも含めて監督の満足のいくシーンに仕上がったようで、文句なしのオーケーだ。

 

「だ、大丈夫ですか……?」

「一花ちゃん、なんかやり慣れてない……?」

 

 一花が心配してオロオロと声をかけるも、叩かれた俳優は涙目である。

 慣れているというわけではないが、昨日の経験が生きてしまっていた。

 風太郎へのビンタはまさにクリティカルヒットで、その感覚がまだ手に残っていたのだ。

 ともかく今日の撮影は終わり、後はホテルへ戻って寝るだけだ。

 学園祭中は撮影という名目の勉強の時間もない。

 体を伸ばしつつ、一花は風太郎の事を考える。

 誰も選べないという答え。

 裏を返せば、まだまだチャンスはあるということである。

 これが『選べない』ではなく『選ばない』ならば話は変わってくるのだが、その選択肢は修学旅行の際に五月が既に潰している。

 そのチャンスがいつまで続くかはわからないが、それまで一花は出来ることをするだけだ。

 女優業に精を出し、風太郎との撮影で卒業への備えをし、そして時に風太郎へ体で愛を伝える。

 忙しくも充実した日々だった。

 それがずっと続けばいいと思ってしまう程度には。

 選べないと言った風太郎の気持ちがわかるような気がした。

 きっと姉妹それぞれと過ごす時間が、手放し難いほど大切なのだろうと。

 

(意気地がないというか、欲張りだなぁ)

 

 いつまでもこのままではいられない、答えを出さなければいけない。

 風太郎の言ったことはその実、それ自体が望みに反しているのだ。

 これで仮に誰とも深い関係になっていなかったとしたら、あるいは特定の一人とだけ深い関係を築いていたのなら選べたかもしれない。

 しかし仮定は仮定に過ぎず、複数人を一つになるほどに寄せすぎたせいで選べなくなっている。

 他人には基本的に関心を抱かないが、身内と認めれば切り捨てられない。

 それが体を重ねるほどの関係に至ればなおさらなのか、誰かを選ばないというのが、身を切るに等しい行為になってしまっているのだろう。

 その事を風太郎が理解しているかはさておき、誰かを選ぶ事へのハードルは上がり続けている。

 今回はそのハードルを避けたが、次はどうなるのだろうか。

 

「一花ちゃん、大変だ!」

 

 血相を変えて駆け寄ってきたのは織田社長だった。

 手に持っているのは一花の携帯だ。

 なにか緊急の連絡でも入ったのだろうか。

 嫌な予感がした。

 

「学園祭で妹さんが倒れたそうだ」

 

 

 

 

 

「元気そうで安心したよ」

「うん、来てくれてありがとう、一花」

「それじゃ、しっかり休みなよ?」

 

 見舞いを終えて一花は病室を後にした。

 倒れたと聞いた時は焦ったが、大事はなかったようで少し休めば回復するそうだ。

 撮影終わりに駆けつけたので時間も遅い。

 消灯時間を過ぎた院内は、照明を抑えたナイトモードだ。

 薄暗い廊下の向こうから、二乃と風太郎が姿を現した。

 

「一花も来てたのね」

「電話したんだけど、やっぱり顔見ておきたかったから。他のみんなは?」

「私たちは大丈夫よ。とりあえず心配しないで」

 

 そう言う二乃の機嫌は悪くなさそうに見えた。

 昨日別れた時は怒りが抑えきれない様子だったが、それもどうにかなったようだ。

 こうして風太郎と一緒にいるのがその証拠だった。

 なぜかエプロンを身につけているのは気になったが、着の身着のままで駆けつけたのだろう。

 

「後片付けあるし、私は学校戻るわ。フー君は一花をお願いね」

「お、おう……」

 

 二乃は足早に行ってしまった。

 取り残された風太郎は、顔に少し疲労の色が出ていた。

 今日も忙しかったのだろうか。

 

「じゃあ、今日は家に帰ろうかな」

「明日は大丈夫なのか?」

「うん、明日はオフだから」

「そうか、なら送っていこう」

「フータロー君は仕事終わったの?」

「なんとかな」

「そっか、ならエスコートお願いしようかな」

 

 

 

 

 

 人気のない道路を一花と風太郎は並んで歩く。

 時刻は夜の十時を過ぎており、車の姿もほとんどない。

 時折聞こえてくる歓声は、どこか遠雷のようだった。

 

「わっ、ここ意外と広いんだね」

「屋台がないからな」

「フータロー君、覚えてたんだ」

「あんなに歩き回らせられればな。まぁ、こうもすっきりすると寂しいもんだ」

 

 ここはおよそ一年前に、中野姉妹と上杉兄妹で訪れた祭りの会場である。

 一花にとっては思い出深い一日の記憶だ。

 作り笑いを見抜かれ、ついでにこっそり女優をやっていたのがバレた日でもある。

 風太郎が中野姉妹との関係に、パートナーと名付けたのも同じ日だった。

 とにかく色々とあった日であり、一花が女優としてやっていけているのも、あの時に一歩踏み出してオーディションへ向かったからだ。

 ぶっきらぼうな優しさが、怯える背中を押してくれた。

 恋には至らずとも、それが一花が風太郎に関心を抱いたきっかけだった。

 

「あ、見てあの人たち。なんか懐かしくない?」

「おい、あんまジロジロと見んな」

 

 この場は無人かと思われたが、建物の隙間でイチャつくカップルがいた。

 一花と風太郎がカップルのふりをして抱き合っていた場所と、ちょうど同じ位置である。

 負けじと一花は風太郎の腕を取った。

 

「……歩きにくいんだが」

「いいじゃん、別に急いでないし」

 

 そもそも家に帰るだけならばここに来る必要はない。

 寄り道を見逃している状況なので、風太郎は強く出られなかった。

 

「どう? あれから考えてみた?」

「……どうだかな」

「あらら」

 

 どうやら進展はなさそうだった。

 特段急かす理由もないのだが、一花は少しつっついてみることにした。

 

「初めての相手って言うと特別感出るけど、フータロー君的にはどう?」

「初めてって、お前な……」

 

 俗に言う初体験という意味合いであれば、この二人はお互いが初めての相手である。

 つまりこれは一花の自己アピールだ。

 なんだかんだで体を重ねた回数もそれなりにある。

 他の姉妹と比べて、一花はそれが可能な状況が整っていた。

 

「まぁ、別に初恋とかファーストキスでもいいんだけど」

「初恋なんて知るか。忘れたわ」

「へぇ、忘れたってことは、初恋自体はあったんだ」

「ぐっ……」

 

 言葉尻を捉えて、一花はニヤニヤしだした。

 風太郎が言葉を詰まらせたのも悪手だった。

 平然と否定すればいいものを、これでは肯定しているようなものである。

 あるいは、お前が初恋だと返せば一花も黙るのだが、そんな発想も器用さも風太郎にはない。

 

「相手は? 私? 四葉? それとも他の姉妹?」

「なんでお前ら限定なんだよ」

「だって君、私たち以外にまともに女の子と関わってないじゃん」

 

 一花の断定は大体正しい。

 勉強漬けだった風太郎に、女子はおろか他人と関わる余地は存在しなかった。

 中野姉妹の家庭教師を引き受けて、半ば強制的に関わらざるを得なくなったのだ。

 しかしながらそれは中学生以降の話であって、その前は普通に悪ガキだったという過去がある。

 

「……小学校の時の同級生だよ」

「え、まさか本当に私たち以外の子なの!?」

「何でもいいだろ。この話はこれで終わりだ」

「うわぁ、気になるなぁ……じゃ、じゃあファーストキスは? もしかしてその初恋の子?」

「それこそわかんねーよ。……お前ら全員、五月の格好してたしな」

 

 祖父の元を訪ねるにあたって、中野姉妹は全員で寸分違わぬ格好をすることを心がけていた。

 それは祖父に余計な心労を与えないためであり、今年の春は五月の格好に統一して訪ねたものだ。

 つまり、風太郎のファーストキスのタイミングは、その家族旅行の最中だ。

 

「そもそもあれは事故だ。足を滑らせてぶつかったってだけで、深い意味はないはずだ」

「ふーん……で、君は誰だと思うの?」

「だからわかんねーって。本当に一瞬だけだったしな」

「じゃあ、誰だったら嬉しい?」

「……余計に答えづらいんだが」

 

 風太郎は、答えられないではなく答えづらいと言った。

 ひょっとすると、なにか心当たりがあるのかもしれない。

 それを引き出すために、一花は財布から二百円を出して風太郎に渡した。

 

「そこの自販機でなにか買ってきてよ」

「いきなりだな。リクエストは?」

「二乃なら紅茶、三玖ならお茶、四葉はジュースで五月ちゃんはコーヒー、私なら……お水でいいかな?」

「……お前が飲みたいものってことでいいんだよな?」

「ふふふ……さぁ、どうでしょう?」

 

 自販機へ向かおうとする風太郎の横を通り抜けて、一花は公園の中へ。

 ここもまた思い出深い場所である。

 一年前のオーディションの後に、姉妹で花火をした公園だ。

 中野姉妹は五つ子ではあるが、好みはほとんど被らない。

 そんな一花と三玖が最後に線香花火を選んだのは、その先の事を暗示していたのかもしれない。

 公園のベンチに座って、自販機の前で佇む風太郎の背中を見守る。

 相当に悩んでいるようだった。

 一花にとってはほんの思いつきの戯れでしかないのだが、大概真面目なことだ。

 そしてその日の撮影の疲れが出たのだろう。

 時計の秒針が何周かする頃には、一花はベンチに横たわって寝てしまった。

 

 

 

 

 

「げ、待たせすぎた……」

 

 自販機で買ったものを抱えて公園内のベンチに向かうと、一花は見事に寝ていた。

 近くの時計を見ると、お金を渡されてから実に十分は経過していた。

 我ながらどれだけ悩んでいたのだという話だが、あんな事を言って送り出したこいつも悪い。

 おかげで時間を食ってしまった。

 

「やれやれ……学園祭が始まってから、ダセェとこばっか見せちまってるな」

 

 ベンチの前にしゃがみこんで、一花の寝顔を眺める。

 他の姉妹に比べたら、こいつには頼りがちだったように思える。

 お互いに長男と長女で共感するところもあり、無意識のうちに頼っていたのかもしれない。

 姉妹の前に立ち、自分の夢を見据えてまっすぐに進んでいく姿、

 俺はきっと、一花のそんなところに惹かれている。

 だからこそこいつの見せる覚悟に応えたいと思ったし、共に歩んでいきたいとも思った。

 だけどあの体たらくだ。

 よくこんな俺に失望して離れていかなかったものだと、いまだに驚いている。

 本当にもの好きで、男の趣味が悪いとしか言い様がない。

 こいつも、他の姉妹もだ。

 

『じゃあ、誰だったら嬉しい?』

 

 目が唇に吸い寄せられる。

 肌を重ねた回数はまだ数えられるほどだが、唇は何回重ねただろうか。

 それだけに、一花が演技といえどもキスをしていたという事実が心を揺さぶった。

 

『やだなぁ、そんなにショック受けないでよ』

 

「……ショックじゃないわけねーだろうが」

 

 これが正当性のない、醜い独占欲であることは理解している。

 そもそもとして俺は人の事を言える立場にないし、女優としてやっていくなら、そういう演技を求められることも分かっているつもりだった。

 でも覚悟はてんで出来ていなかった。

 そうしてモヤモヤとした感情が心の中に蟠っている。

 ずっと吐き出せずにいて、寝ている一花を前にしてようやく欠片だけが出てきた。

 全てをさらけ出すわけにはいかない。

 そうしたら、きっと俺自身が自分の醜さに耐え切れなくなる。

 せり上がってくるものを抑えるように空を見上げる。

 

「……ごめんね、フータロー君」

 

 頬に、ひんやりとした手の感触。

 いつの間にか目を覚ましていた一花が、こちらへ手を伸ばしていた。

 そしてそのまま引き寄せて、唇を重ねてきた。

 

「君がそんなに気にしてるとは思わなかったんだ」

「……だから別に――」

「ダメ、ちゃんと聞かせてよ」

 

 有無を言わせない口調とは裏腹に、優しい抱擁だった。

 張っていた意地が剥がれそうになるのを、すんでの所で押しとどめる。

 好きな女の前で格好の悪いところを見せたくない。

 ともすればガキ臭い、そんなちっぽけなプライドだ。

 

「もう、強情だなぁ」

 

 口を閉ざす俺に、一花は頬を膨らませた。

 破裂音と共に、色とりどりの火が打ち上がる。

 いつの間にか公園に来ていた女子高校生達が、花火を始めていた。

 

「こっち来て」

 

 一花は俺の手を掴んで、ベンチの後ろの茂みの中へ引っ張っていく。

 そしていつかと同じように木に押し付けると、体を密着させてきた。

 

「フータロー君さ、嫉妬するのがカッコ悪いなんて思ってない?」

「……知るかよ」

「もうあんなに情けないとこ見せたのに、男の子って変なとこで意地っ張りだよね」

 

 一花の言う事はもっともだが、中々に開き直れないのも事実なのだ。

 それが青臭さだというのならば、俺はまだまだガキのまま大人になりきれていない。

 

「じゃあさ、せめて行動で示してよ」

 

 再び唇を塞がれる。

 今度のキスは舌も伴って、情欲を煽り立ててきた。

 胸の奥でチリチリと燻る火が、大きくなっていく。

 

「君の気持ち、全部私にぶつけてよ」

「人がいるんだぞ」

「静かにしてたらバレないよ」

 

 ここは木の陰で、公園内からは死角になっている。

 確かに余計な物音さえ立てなければ、花火に夢中な女子高校生達に気づかれる事はないだろう。

 

「フータロー君は悪くない。誘ったのは私だから……ね?」

 

 修学旅行の二日目、雨の中での情事。

 その時の一花の言葉が、今の言葉に重なった。

 

『フータロー君は悪くない。悪いのは全部私。だから……ね?』

 

 あの時は自分だけで抱え込もうとした一花が、今は俺を受け止めようとしてくれている。

 その事実に、燻る火が炎へと変じていく。

 体の位置を入れ替えて、一花の体を木に押し付ける。

 そして荒ぶる感情のまま、貪るように口付けた。

 

「――うん、いいよ……君のカッコ悪いとこも弱いとこも、私に全部見せて……?」

 

 

 

 

 

「実はさ、相手は同じ女優の子だったんだ」

「……は?」

「だからドラマでキスしたって話。最近はそういう需要もあるみたいでね」

 

 事を済ませて再びベンチに座ると、一花はとんでもない事を言い出した。

 いや、ちょっと待て。

 じゃあさっきのやりとりは……

 

「あんなに激しくされたの、初めての時以来かな?」

「……おい、一花」

「ごめんごめん、面白そうだから黙ってたんだけど、ネタばらしのタイミングが見つからなくて」

 

 顔を手で覆って項垂れる。

 つまり、すっかりこいつにしてやられたという事か。

 本当にどうしてくれようか、この女。

 

「いくら演技だからって、まだ君以外の男の人とはしたくないしね」

「……そうかよ」

「あ、顔赤ーい。もしかして照れてる?」

「うるせー」

 

 いいように感情を揺さぶられていた。

 せめてもの仕返しに、ニヤニヤしている一花にデコピンを叩き込む。

 額を押さえて抗議してきたが、自業自得だ。

 

「ひどいなぁ、もう……あ、そういえば飲み物は?」

「そこに置いてるだろ」

 

 買ってきた飲み物はベンチの脇に置いてある。

 ぬるくなってはいるだろうが、飲めないことはないはずだ。

 

「ありがと、じゃあ……って、フータロー君、なにこれ?」

「文句あるのかよ」

「文句っていうか、そう来たかーって感じ?」

 

 一花はミネラルウォーターを選んだようだ。

 預かっていた二百円を返すと、呆れたようにため息を吐かれた。

 

「フータロー君は欲張りだね」

「あんな事言ってきたお前が悪い」

「まぁ、ちょっと困らせちゃったかなとは思ったけど」

 

 ちょっとどころではないのだが、それは言わないでおいた。

 そもそもの原因は俺にあるため、下手に突っ込むと逆に突っ込まれる可能性がある。

 

「そろそろ帰るか」

「そうだね、あんまりモタモタしてると日が変わっちゃいそう」

 

 公園の時計は既に十一時を回っている。

 花火をしていた女子高校生達の姿も既にない。

 残った飲み物を抱えて公園を後にする。

 

「そういえばさ、フータロー君のファーストキスなんだけど」

「まだ言うか」

 

 そしてマンションへ向かう道すがら、一花はまたその話題を引っ張ってきた。

 いくらなんでも気にしすぎだ。

 

「相手が私だったら? どう、嬉しい?」

「……馬鹿言ってないでさっさと行くぞ」

「あ、待ってよー」

 

 この期に及んでまだこちらをからかうつもりでいるのか、一花は挑発的に笑っていた。

 こういう場合の対処法は、いい加減学習してきたつもりだ。

 全く相手にしないか、あるいは――

 

「そんなの、嬉しいに決まってるだろ」

 

 ――こちらの素直な気持ちをぶつける……これに限る。

 ただ、この方法はこちらにもダメージが来るから注意が必要だ。

 しかしその分効果は大きい。

 一花はすっかり押し黙って、ただ俺の後をついてくるのみとなった。

 チラリと見えたその顔が赤かったのは、気のせいではないだろう。

 俺の頬も熱いので、あまり人の事は言えないのだが。

 ここで重要なのは、下手な追撃を加えないことだ。

 調子に乗っていると、もれなくカウンターが飛んでくるのだ。

 

「ねぇ」

 

 不意に袖を引っ張られる。

 仕方なく振り返ると、頬を上気させた一花がスマホを片手に、何やらアプリを立ち上げていた。

 あれは確か、タクシーを呼ぶアプリだったか。

 

「今からホテル行かない? あ、休憩するだけだから大丈夫だよ、うん」

 

 そのホテルとは、もしかしなくても頭にラブが付くやつだろうか。

 今までの経験上、その休憩が休憩で済まないのはわかりきっていた。

 とりあえずスイッチの入った一花を正気に戻すために、頭突きを敢行するのだった。

 

 

 




長女の問題は大体解消されてるので、どっちかって言うとフー君の内面の方が目立ってたような気がします。

時系列はバラバラですが、最後の祭りはヤリまくりになると思われます。
果たしてフー君の体は最後までもってくれるのか……


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最後の祭りが二乃の場合

遅めの時間に投稿。

今回は次女の話です。


 

 

 

『まずは、我が校が誇る女子生徒ユニットによるオープニングアクトです!』

 

 ステージの幕が上がる。

 立ち込めるスモーク、照明に照らされた二乃を出迎えたのは体育館内の観客の歓声だった。

 そして音楽がスタートし、二乃を中心に据えた五人組がそれに合わせて踊り始める。

 

(くっ……なんで私がこんな目に!)

 

 なんでかといえば、それは四葉の仕事を奪ったからである。

 働き過ぎな妹を慮って、二乃は事前練習が必須なこの役を半ば強引に引き受けたのだ。

 アイドルまがいの五人組のセンター、そして赤を基調とした衣装はどうやったって目立つ。

 しかし目立ちたがりというわけではないので、羞恥は募る一方だ。

 若干後悔しつつも、二乃のパフォーマンスは観客を大いに沸かせた。

 チラリと舞台袖に目を向ける。

 一番沸いてほしい人は、素知らぬ顔でこちらを見守っていた。

 こういった娯楽にはてんで疎いので、そもそもそういう感覚がないのかもしれない。

 全く期待していなかったわけではないが、十分予想されていた事ではある。

 切り替えて、二乃は歌い踊りながら体育館内に目を巡らせた。

 ステージ上からは想像以上に観客の顔が見える。

 目をキラキラさせている五月だとか、若干引き気味な三玖だとか、その他に友人の姿もあった。

 コンタクトをしているため、視界はバッチリである。

 しかし、それでも探している人物の姿は見つけられなかった。

 

(……まだ来てないだけかもしれないし、今はこっちに集中ね)

 

 そして、そもそもダメで元々なのだと、落胆を飲み込んだ。

 

 

 

 

 

「あれー? こっちで見たと思ったんだけどなぁ」

 

 キョロキョロと何かを探しまわっている女生徒を尻目に、物陰に隠れるようにして歩く。

 さっきのオープニングセレモニーは大好評だったらしく、二乃はにわかに校内の人気者だった。

 どれぐらいかというと、普通に歩いていては声をかけられまくって動けない程度だ。

 なので、こうしてスニーキングしながらのミッションである。

 今日はフリーなので学園祭を回りたいところだが、それは難しそうだ。

 なので差し当たっての目的は、クラスの屋台の様子を見に行く事。

 そして出来ることなら、風太郎と合流するのが望ましい。

 せっかくのステージ衣装なので、近くで見て欲しいという思いがあった。

 そもそもこんな格好をしているから目立つのだが、そこは乙女心である。

 一応上に制服のブレザーを羽織っているが、防寒という側面以外では役に立っていない。

 約束の時間になれば確実に会えるが、その前に二人きりという状況が欲しかった。

 

「よし! これでチェックは大丈夫かな?」

 

 茂みに身を隠しながら進んでいる最中に、聞き覚えのある声。

 ぴょこぴょこと揺れるリボンに、日の出祭仕様のTシャツ――四葉だ。

 各学級長はこの学園祭の実行委員に任命されており、それは風太郎や四葉も例外ではない。

 あちこち動き回っているため足取りが中々掴めないのだが、ここで見つけられたのは幸いだ。

 同じ立場の四葉に聞けば、風太郎の動向もわかるだろう。

 声をかけるために茂みから顔を出した二乃だが……

 

「わっ、レッドだ!」

 

 その瞬間、複数人の生徒に見つかってしまった。

 レッドだと名乗った覚えはないが、衣装のカラーはレッドである。

 この場で他に特徴的な赤い人はいないので、間違いなく二乃を指している。

 褒められたり差し入れをされたりと悪い気分ではないのだが、何事にも限度がある。

 やや引きつった笑顔を浮かべて手を振ると、二乃はその場から退散した。

 一花が変装グッズを持ち歩く気持ちがわかるような気がした。

 もっとも今の二乃は衣装を変えない限り、他の姉妹に変装してもあまり意味はないのだが。

 

「まさかこんなことになるなんて……これじゃ、一花の事をとやかく言えないわね」

 

 差し入れのアメリカンドッグを口にしながら、校舎の中へと入る。

 校舎内でも展示や発表、模擬店などの催しが各教室で行われている。

 当然そちらにも人が流れていくのだが、反面使われていないスペースは人が少ない。

 それを期待して二乃は学食へ向かった。

 開放自体はされているが、食堂はお休みである。

 まだ学園祭はスタートして間もないので、いきなり腰を落ち着けるような生徒はいないだろう。

 

「二乃」

 

 不意に声をかけられて、思わず体が跳ねる。

 誰もいないと思われた食堂で、五月が一人問題集を開いていた。

 

「誰かと思えば五月じゃない。あー、ビックリした」

「ふふ、今やすっかり人気者ですね」

「笑い事じゃないわよ。声かけられまくってむず痒いったらないんだから」

「お見事なダンスでしたからね。学園祭という雰囲気にピッタリでした」

「そういうあんたは学園祭だっていうのに何やってるのよ」

「シフトは明日なので心配いりませんよ」

 

 もちろん二乃の心配はそういう意味ではない。

 こんなお祭りの最中に勉強なんて、とても正気の沙汰とは思えなかった。

 一緒に回る相手が見つからなかったのか、と勘ぐってしまいそうだった。

 

「約束の時間までには終わらせますのでご安心を」

「ま、ほどほどにね。せっかくの学園祭なんだから」

 

 五月の様子にネガティブな雰囲気はない。

 つまり、ただ単に勉強に対して意欲を燃やしているだけなのだろう。

 大学入試の判定結果は振るわなかったようだが、それで諦めてしまったわけではないようだ。

 打ち明けられた時からずっと気にかけていたので、二乃は内心で胸を撫で下ろした。

 もしかしたら、風太郎がなにかフォローをしてくれたのかもしれない。

 顔を思い浮かべたら、ますます会いたい気持ちが強くなってしまった。

 

「はぁ……フー君はどこにいるのかしら」

 

 

 

 

 

「二乃、わかった?」

「えっ、ごめんまだ」

 

 友人に声をかけられ、父親と娘の親子連れの二人組を眺めていた二乃は問題文に目を戻した。

 百円玉の絵の下に『20 0月0日に進め』という謎の文章である。

 こういう学力と関係なさそうな問題ならばと思ったが、さっぱりわからなかった。

 悔しいので是非とも解いてこの教室から出たかったが、約束の時間が近づきつつある。

 今や別のクラスになってしまった友人二人と頭をひねるも、答えは出そうになかった。

 

「中野二乃先輩だっけ?」

「そうそう、センターで一番目立ってた」

 

 廊下からの声に慌てて背中を向ける。

 男子二人が二乃の事を話題にしながら歩いていた。

 事情を理解してくれている友人達は、二乃を庇うように陣取ってくれた。

 

「広場にいるらしいぜ」

「行こうぜ、話してみてー」

 

 そのおかげか、男子達は教室内に目を留めることなく通り過ぎていった。

 しかし、その際にこぼしていった言葉が謎である。

 どうやら中野二乃は広場にいるらしい。

 

(なるほどねー、私が広場に……って、そんなわけないでしょうが!)

 

 現に二乃は広場なんて目立つ所には立ち寄っていないし、今は教室で謎と格闘中だ。

 一瞬ドッペルゲンガーなどと馬鹿げた考えが過ぎったが、順当に考えるなら誰かの変装だろう。

 しかし三玖は店番で忙しいと聞いていた。

 パンケーキの屋台は大盛況なようで、中々手を離せないのだとか。

 四葉にしても、あちこちに忙しなく走り回っているそうだ。

 唯一暇を持て余している五月は、食堂で問題集にかかりっきりのはずだ。

 何より性格上、無意味に姉妹になりすますような事はしないだろう。

 そして最もやりそうな一花は今日も撮影のはずである。

 目先の問題とは別に、謎は深まるばかりだった。

 教室から顔を出してみるが、男子二人の姿は既に人ごみに紛れて見えなかった。

 

「二乃、ここにいたか」

 

 そして風太郎の姿を認めた瞬間、推定ドッペルゲンガーの件は一気にどうでも良くなった。

 自分を探していたと聞いて、二乃は喜色を隠さずに抱きついた。

 これで人の目が集中しようとも、知ったことではないのだ。

 恥ずかしさよりも自分の欲求が先行していた。

 

「二乃ー、イチャついてないでさー」

「そうそう、この問題どうするー?」

「あ、ごめんごめん」

 

 いくら好きな人に会えたからといって、友人を蔑ろにするわけにはいかない。

 なんだかんだで学園祭を回れたのも、この二人のおかげなのである。

 教室に戻って、二乃は再び問題と向き合った。

 

「どれどれ」

 

 横から風太郎が問題文を覗き込んできた。

 どうやら一緒に考えてくれるようだ。

 得意の勉強とは分野が違うかもしれないが、それでも心強い事には変わりない。

 その真剣な横顔に二乃の胸は高鳴った。

 そんな様子を、友人二人が生温かく見守っていることには気づかなかった。

 女子高校生といえば恋バナであり、恋バナといえば女子高校生である。

 二乃とその友人達も結構な頻度でそういう話題に花を咲かせるのだが、いい相手がいないだの男子は子供っぽいだのと、やや不毛な方向へ行ってしまうのが常だった。

 そんな恋バナの中身が変化を遂げたのは、この春先のことだ。

 どうやら二乃に相手が見つかったらしい。

 本人は明言していなかったが、態度で丸分かりだった。

 盛大に惚気る二乃を例によって見守っていた二人だが、ここに来て唐突な答え合わせだ。

 上杉風太郎というのは、まぁ有名人と言っても差し支えない。

 前々から勉強ばかりしている変人として一部には認知されていたのだが、その名が本格的に学年中に広まったのは少し前――具体的に言うと、春先の模試の後からである。

 文句なしに有名人な武田祐輔が、事ある毎に風太郎を讃えるような言葉を口にしているせいだ。

 

『ところで上杉君を知っているかい? 彼は最高だよ』

『学内のトップのみならず、全国模試でも一位……ふふふ、彼こそ僕の生涯のライバルさ!』

 

 という感じで若干テンションがおかしかった。

 しかし頭がいいというのは伊達ではなく、三人が苦戦していた問題もサラッと解いてしまった。

 そんな風太郎を見つめる二乃の目は、間違いなく恋する乙女だった。

 本人が語っていた好みのタイプとは一致しないが、これでは疑いようもない。

 

「これでゲームクリアね。私はこれから約束あるけど、二人は?」

「私も同じだよ。親が仕事上がりに来るっぽくてさ」

「あー、私の家族ももう来てるみたい」

「ならすぐ行ってあげなさいよ。せっかく来てくれたんだから」

 

 家族との約束がある友人二人を、二乃は快く送り出した。

 しかしその胸の内には寂寥感が募る。

 同じ教室内で、一般客の父親とその娘が一緒に問題に取り組んでいるのが目の端にチラついた。

 二人きりになった二乃と風太郎は、集合場所の教室へ移動を開始した。

 期せずして得た望んでいた状況だが、時間があまりにも短い。

 色々と一緒にしたい事があったが、そんな余裕はなさそうだった。

 

「それよりも、いつまでそんな目立つ格好してんだよ。ステージの衣装だろ、それ」

「だって……フー君に見てほしかったんだもの」

「そ、そうか……うんまぁ、似合ってるんじゃないか?」

 

 内心で気落ちする二乃だったが、ステージ衣装を褒められた事で一気にボルテージが上がった。

 我ながらチョロいと思いつつも、素直に褒めてくる風太郎が悪いということにした。

 人の目を気にしない行動が目立つ二乃だが、実は気にしていないわけではない。

 ただ、自分の感情が振り切って制御不能になるだけなのだ。

 こう言うとまるで危険人物だが、風太郎の世間体という面から見れば概ね間違いではない。

 クラス内で風太郎が女癖の悪いヤベー奴だと認識される大体の原因は、二乃であると言える。

 しかしヤベー奴なのはともかくとして、中野姉妹限定で女癖が悪いのは事実である。

 

「やっぱお前、かわいいよな」

「~~っ」

 

 一応は人目を気にする二乃ではあるが、こうも感情が高ぶれば自制もどこかへすっ飛んでいく。

 振り切ったボルテージのまま、風太郎の首に腕を回して突撃ラブハートをかますのであった。

 

 

 

 

 

「まだ誰も来てないか」

 

 時刻は約束の十五時のちょっと前。

 二乃を連れて教室にやってきたのだが、まだ誰の姿もなかった。

 三玖と四葉は忙しいのだろうが、五月は問題集に苦戦しているのだろうか。

 やはりもう少しケツを叩いておいた方が良かったか。

 ちなみに一花はサプライズ演出のため、登場は最後ということになっている。

 

「二人きりなのね……ねぇ、フー君?」

「しねーぞ」

「まだなにも言ってないでしょ!」

「流れで大体わかるっての」

 

 加えて言えば、悔しそうな顔をしているのでほぼほぼ正解だろう。

 さっきは人前で盛大にキスしてきた二乃だが、まだその熱が冷めていないらしい。

 というか、他の姉妹がいつ来るともしれない状況でおっぱじめるのは、リスキーに過ぎる。

 三玖や五月はともかくとして、四葉に見られたら軽く死ねる。

 ちなみに一花は隣に待機しているので、事を始めたらまず音でバレる。

 

「そういえば、他の理由ってなんなんだ?」

「何の話よ」

「お前がステージで踊ってた理由だよ」

 

 大部分は四葉に無理をさせないためだとしても、わざわざステージに立つ理由にはならない。

 負担を減らすためなら、もっと他の仕事の肩代わりでいいはずなのだ。

 さっき他の理由があると言った時は照れ隠しだと思ったが、実際はどうなのだろうか。

 

「ああ、それね……舞台の上からなら、客席が見渡せると思ったのよ」

「誰か探してたのか?」

「パパよ。招待状を送ってみたんだけど、影も形もなかったわ」

 

 四葉と一緒に文面を考えて、あの鉄面皮の父親に招待状を送ったのだという。

 それでこいつが時折寂しげにしていた理由がわかった。

 家族の絆を大事にする二乃にとって、それは義理の父親でも例外ではないのだろう。

 いや、そもそも隔たっていると感じるからこそ、距離を詰めたいのかもしれない。

 

「ま、ダメで元々だし、別に気にしてないわ」

 

 それが強がりであることは、俺にだってわかる。

 しかし来てないと決め付けるのは早計だ。

 オープニング時にいなかっただけで、その後に入場しているかもしれない。

 そもそもとして、娘の事を人一倍気にかけているあの人が、誘いを無視するとは思えなかった。

 

「よし、ならこの後屋台の方を見に行こうぜ」

 

 そろそろこの親子のすれ違いも見飽きてきた頃だ。

 ここらでお互い素直になってもらうとしよう。

 強がりながらも、来ているかどうかは気になっていたのだろう。

 二乃は躊躇いがちに、静かに頷いた。

 

 

 

 

 

(ほんっと信じられない……!)

 

 教室での集まりの後、屋台が並ぶ通りを歩きながら二乃は憤慨していた。

 原因は風太郎の情けない告白である。

 

『さっぱりわからん! お前ら、どうにかしてくれ』

 

 二乃は自分も他の姉妹も、真剣に風太郎を想っていると実感している。

 それだけに、誰も選べないという選択は受け入れ難かった。

 自分を選んでくれるなら嬉しいし、他の姉妹を選ぶにしても例外を除いて渋々納得しただろう。

 それは各々の真剣な想いに向き合った結果だからだ。

 しかし風太郎は逃げた。

 その逃避が優しさから来るものだとしても、怒りは隠せなかった。

 

(……というか、あんな事があった後なのにどうして平然と私の手を引いてるのよ!)

 

 さらに信じられないのは、風太郎のこの行動だった。

 たしかに父が来ていないか、屋台の方を一緒に探す約束はしていた。

 しかしそれをこんな状況になってまで果たそうとするのには、怒りを通り越して呆れてしまう。

 これがご機嫌取りだというのならまだ分かるのだが、そうだとしたら確実に態度に出る。

 対人経験がロクにないせいか、風太郎は人への気遣い方が大変不器用なのだ。

 

(でもそんなとこも好き……って違う!)

 

 胸がキュンとしかけたところで怒りを奮い立たせる。

 油断するとすぐに許してしまいそうだった。

 しかし叩いてまで怒りを表現した手前、そんな態度を見せるわけにはいかない。

 あんな答えが許されるなんて思われては困るのだ。

 

「連絡は来てねーか?」

「き、来てないわよっ」

「ならこっちからしてみるか」

「それはやめて!」

 

 携帯を取り出して直接電話をかけようとする風太郎を、二乃は腕にしがみついて止めた。

 流石にそこまでの勇気はなかった。

 仮に来るつもりがないのだとしても、それを直接伝えられるのが怖かった。

 

「そもそもダメで元々って言ったでしょ。最初から期待なんてしてないわよ」

「それで納得できるのかよ」

「も、もうほっといてよ。えっと……そう! 汗臭いからあまり近寄らないでよね」

 

 咄嗟に出てきた苦し紛れの言葉。

 こうくっついていては、自分がいつ我慢できなくなるかがわからないゆえの発言だ。

 ここでもしキスでも求めようものなら、色々と台無しなのである。

 二乃の言葉が響いたのか、風太郎は手を離して少し距離をとった

 自分がそう促したにもかかわらず、二乃は身を引き裂かれるような心地だった。

 内心では罪悪感やら、嫌われてしまわないだろうかという不安でいっぱいだった。

 

「……無理に連れ回しちまって悪かったな」

「ま、まったくよね!」

「お前がもういいって言うならそれでいいが、俺は一人でも探させてもらうぞ」

「え……ど、どうしてよ!?」

「せっかく勇気出して招待状送ったんだろ? それで来ないなら俺が納得できねーよ」

 

 今度こそ感情のボルテージが振り切れそうになる。

 しかし、怒っているという手前がある。

 怒りも怒りで本物なのだが、好きという感情がそれに勝りすぎているのだ。

 初動こそ凄まじかったものの、今では気を抜けばあっさり追い抜かれてしまいそうになる。

 そもそも直情径行の二乃は、その場の感情を抑えるのが苦手だ。

 それがこうも大きな感情だと、それはもう大変な努力を要するのである。

 なので一計を案じることにした。

 二乃は躓いたフリをして、風太郎の胸に飛び込んだ。

 

「おい、大丈夫か?」

「ちょっと足痛めちゃったかも……不本意だけど、もうちょっとこのままでいさせてもらうわ」

「いや、それはいいんだが……」

「はー、汗臭……最悪なんですけど」

 

 あくまで不本意という体は崩さない。

 そして胸元に顔を埋めたまま、大好きな人の匂いを堪能した。

 人目が集まっていることなど微塵も意に介していなかった。

 

「あ、お兄ちゃんがイチャついてる!」

 

 聞き覚えのある声がしたと思えば、風太郎の体がビクッと跳ねた。

 見ると、風太郎の妹であり二乃の将来の妹(予定)であるらいはが、こちらを指差していた。

 わたあめを片手に学園祭を楽しんでいるようだ。

 

「おう、風太郎。公衆の面前でとはお前も――ぶっ、ワハハハハハ! なんだその顔!」

 

 そして続いて現れた風太郎の父である勇也だが、いきなりの大笑いである。

 風太郎の真っ赤に晴れた頬を指しているようだ。

 その原因の一人である二乃は、思わず顔をそらした。

 

「親父、ちょっとむこうで話そうか」

「は、腹いてー! 頼むからこっち向くな!」

「いいから来い!」

 

 二乃をやんわりと引き剥がすと、風太郎は父親を引きずってどこかへ行ってしまった。

 取り残された二乃とらいはは、無言で見つめあった。

 

「二乃さん、わたあめ食べる?」

「そうね、一口いただこうかしら」

 

 

 

 

 

「そういや、たしかにマルオのやつ見てねーな」

「マル……?」

 

 事のあらましを伝えると、親父は神妙に首を捻った。

 先程のちょっとした肉体言語を交えた話し合いで、少し服が汚れているのはご愛嬌だ。

 ちなみに腫れた左頬は手で隠している。

 そのままにしておくとまた親父が笑い出すからだ。

 まったく……らいはは純粋に心配してくれるというのに。

 それよりもいきなり出てきた個人名だが、マルオというのはひょっとして中野父の事だろうか。

 

「父なら来てないみたいです」

「そうか。この前あいつのとこ行った時は招待状開けてあったから、てっきり来てるもんかと」

「……読んでくれたんだ」

 

 ひとまず招待状に目を通してくれた事に、二乃は少しばかり安堵したようだった。

 まぁ、今日は来ないにしても明日明後日も来ないとは限らない。

 というか、あの人なら娘の誘いを無視したりしないと断言できる。

 あんな事を言って怒らせた償いというわけではないが、どうにかしてやりたかった。

 それよりも気になるのは……

 

「親父達ってさ、もしかしなくても知り合いなんだよな?」

「まぁな」

「そういえば、家庭教師の仕事もお父さんが取ってきたんだよね」

 

 つまり、俺が中野姉妹の家庭教師に宛てがわれたのは、親父達が見知った仲だからという事か。

 聞くところによると、高校時代の同級生だったらしい。

 片やバリバリの不良、片や成績トップの生徒会長。

 二乃は不良の部分に感じ入っていたが、こいつの男の趣味は大丈夫なのだろうか。

 ちなみにこれはブーメランなので、直後に俺にぶっ刺さった。

 

「色々と対立したもんだが、不思議と関係が続いていてな。やっぱそれは先生のおかげかもな」

「先生……もしかしてお母さん?」

「いい女だったぜー? ま、うちの嫁さんの次にだがな」

 

 親父がこうやって女性を褒める場面というのは、実のところ珍しい。

 まぁ、それは俺達には見せないようにしているだけなのかもしれないが。

 そんな親父がいきなり余所の女性を褒めるものだから、らいはもビックリしたようだった。

 それでも、直後にお袋が一番だというのを聞いて安心したようだ。

 未練とも執着とも呼べるのかもしれないが、要は思い出を今でも大事にしているのだろう。

 その一途さが俺には少し、いやかなり眩しい。

 

「ま、あいつはめんどくせーやつだが、少しずつ歩み寄ろうとしてるのは確かだ」

「……」

「お嬢ちゃんたちもそうしてるんだし、いつかきっと分かり合えると思うぜ」

 

 親父の言葉に何を思ったのだろうか。

 黙り込む二乃に、俺はとある決意を固めた。

 

「安心しろ。このまま来ないようだったら、俺が乗り込んで引きずってきてやるよ」

「フー君……」

 

 二乃はそっと俺の手に触れてきたが、次の瞬間にはそっぽを向いてしまった。

 どうやらまだ機嫌は直っていないらしい。

 

「あんたに言われたからじゃないけど……もう少し待ってみることにするわ」

 

 

 

 

 

 学園祭二日目のパンケーキの屋台は、いきなり多くの客が並ぶという好スタートを切った。

 接客担当や調理担当は忙しそうにしているが、客引きの五月はほぼ立っているだけである。

 そんな妹の傍らのベンチに、二乃は腰掛けていた。

 

「たこ焼き屋さんの方は大丈夫なんでしょうか?」

「さぁ、どうなるのかしらね……」

 

 本来なら二乃はむこうの屋台に出ているはずなのだが、今はここで暇を持て余している。

 他の男子達の様子も気になるところだ。

 しかしながら、それは今考えてもどうしようもない事だった。

 自分達の手に負える事態ではないため、成り行きを見守るしかないのだ。

 それよりも、中野姉妹には共通の懸念事項がある。

 

「フー君、どうするつもりなのかしら」

「そればっかりはなんとも……」

 

 昨日の六人での集まりの後も一緒に行動する機会があった二乃だが、ツンツントゲトゲするのに忙しくて、風太郎の考えについては聞けずじまいだった。

 あのまま答えられないなんて言い続けるのは論外だし、もしそうなったら自分も覚悟を決める必要があると考えていたところだ。

 いわゆる既成事実……避妊具に密かに穴を空けてやろうかという考えがチラついていた。

 もちろん、二乃にも高校に通っている内にそのような暴挙に出ないだけの冷静さはあった。

 それで卒業出来ないなんて事態になれば、それこそ姉妹への裏切りだ。

 ちなみに、隣の末っ子にはリスク度外視で事に及んでいたという隠し事がある。

 幸いにも当人達以外には知られていないのだが、もし姉妹にバレたら波乱は必至である。

 

「それにしても、お客さんの数が昨日よりも増えてる気がしますね」

「なんか話題になってるみたいよ」

 

 今はまだ二日目が始まって間もないが、客足は明らかに初日の朝より増えている。

 この分なら昨日以上の売上が期待できるだろう。

 訪れる客の中に、二乃は父の姿を探した。

 現在は三年一組の屋台は一つだけのため、様子を見に来るのならまずここのはずだ。

 それがこうして五月に付き合っている最も大きな理由だった。

 

「やあ」

 

 こちらに呼びかける男性の声。

 期待して振り返った二乃だが、そこにいたのはケーキ屋の店長だった。

 何故だか敵視しているはずのパン屋の店長と一緒である。

 二人して自分達のクラスの屋台に遊びに来たようだ。

 二乃は笑顔で対応した。

 

「店長、来てくれたんですね!」

「あれ、今ガッカリしなかった?」

 

 内心に引っ込めたはずのガッカリ感が漏れていたらしい。

 それはそれで仕方ないので、笑顔でゴリ押すことにした。

 ケーキ屋の店長はこの夏に足を怪我したのだが、もうすっかり完治している。

 怪我の心配をした五月だが、隠しているはずのレビュアーの方の名前で呼ばれて焦っていた。

 少なくとも二乃にはバレバレなのだが、あくまで知らぬ存ぜぬを突き通すようだ。

 三玖が今は席を外していることを伝えると、二人はまた後でと去っていった。

 その際の会話から、どうやらバイクで二人乗りしてきたらしい。

 大人の恋愛の匂いを二乃は感じ取った。

 

「一瞬お父さんかと思いました」

 

 どうやら父が来たと思ったのは、五月も同じだったようだ。

 去っていく二人の背中を見送りながら、二乃は失望を押さえ込んだ。

 まだ今日は始まったばかりなのだ。

 

 

 

 

 

『最後に特別ゲスト、三年一組の中野三玖ちゃんにお越しいただきましたー!』

 

 巨大モニターに映し出される娘の姿を、マルオは遠目に見守った。

 先ほどのインタビューの要請は断ったが、その時の様子もこうして映っていたのだろうか。

 娘の一人である三玖は、自分たちの屋台――パンケーキの宣伝をしていた。

 中野姉妹にとってもそうであるように、マルオにとってもパンケーキは思い出深いものだ。

 それこそ、目を背けたくなる程度には。

 スマホの着信履歴を呼び出し、リダイヤルする。

 病院からの呼び出しだった。

 

「なんだい?」

『折り返しありがとうございます。お休みのところすみません。お取り込み中でしたか?』

 

 入院中の患者の容態に変化があったらしい。

 急を要さない事務的な手続きはともかく、命を預かる仕事柄応じないわけにはいかない。

 

「ああ、構わないよ。すぐ行こう」

 

 用件を聞き終えると、マルオはモニターに背を向けて歩き出した。

 内心で少し安堵を覚えたことに、罪悪感を抱きながら。

 

 

 

 

 

「いつもうちの風太郎がお世話になってます」

 

 いきなり現れた女は、そんな事を言って風太郎に頭を下げさせていた。

 一朝一夕の距離感ではない。

 他の有象無象ならともかくとして、二乃が警戒するには十分すぎた。

 隣の五月も同じことを思ったのか、声には少し険がこもっていた。

 

「初めまして、竹林と申します。風太郎とは小学校からの同級生です」

 

 なるほど、小学校時代の同級生。

 あまり昔話をしたがらない風太郎だが、当時は髪を染める程度にはヤンチャをしていたそうだ。

 こんな勉強の虫になる前ならば、そういう知り合いがいたとしてもおかしくはない。

 しかし、旧知だからといってこうも馴れ馴れしいものだろうか?

 長い黒髪でパンツスタイルの彼女は、中々の美少女だった。

 チリっと、心に不安がよぎった。

 

「あらそう。私たちも同級生だけど、もっと深い関係と言っても過言じゃないわ」

 

 少なからず危機感を覚えた二乃は、牽制球を放つことにした。

 自分達が体を重ねるほどの深い関係だというのは事実であり、なんなら両思いとも言える。

 その風太郎にとっての両思いの相手が複数いるのが問題なのだが、それはひとまず置いておく。

 そこに言及しだしたら話が進まないからだ。

 ともかく、いくら古い知り合いだからといって、簡単に割り込めると思われては困るのだ。

 

「は、ははは……自己紹介も済んだ事だし、ここらでいいよな?」

「待ちなさい。そちらの竹林さんとどういう関係なのか、じっくり聞きたいわ」

「どういうもなにも、さっきこいつが言ったまま――」

「あ、ひどーい! あんなに面倒見てあげたのに!」

 

 反応からして、単なる旧知の仲ではないことは明らかだった。

 面倒とは何の面倒だろうか?

 もし、仮に、万が一、二人が過去にそういう関係だったとしたら……?

 同級生の中には、小学生のうちに初体験を済ませたという女子もいる。

 不安が一気に膨れ上がった。

 風太郎の焦った様子もそれに拍車をかけていた。

 

「何回も何回もお願いされて、こっちがもうダメーってなってるのにお構いなしで」

「――えっ……」

 

 そしてその不安を裏付けるかのような言葉。

 二乃の脳裏に嫌な想像が広がっていく。

 一度焼けた木の杭は燃えやすくなるらしい。

 昨日はビンタしてしまったし、辛辣に当たってしまった。

 そこで偶然出会った昔の彼女と……なんてのはよくある展開だ。

 風太郎が自分達を捨てて元カノと寄りを戻すという、最悪の未来が思い浮かんだ。

 

「ぐすっ、ひっく……やだやだやだやだぁ、おねがいだから捨てないでぇ……」

 

 一度思い込んでしまったらもう止まらなかった。

 強気な態度が目立つ二乃だが、それは傷つきやすい内面の裏返しだ。

 泣き崩れてその場に座り込むと、二乃は風太郎の足に縋り付いた。

 

 

 

 

 

「二乃、大丈夫?」

「だから大丈夫だってば」

「でも、あんなに泣いてたし」

「なんのことかしらねー? きっと目にゴミでも入ったのよ、うん」

 

 苦しすぎる言い訳だが、二乃はそれで押し通すことにした。

 三玖が呆れたような視線を向けてくるが、視界に入れなければ気にならない。

 風太郎と別れ、竹林も去り、五月は当番に穴を開けているので一足先に屋台へ戻っていった。

 

「まぁ、フー君の話が聞けたのは収穫だったわね」

「あの人、風太郎の先生だったんだ」

「フー君も最初から勉強できたわけじゃなかったのね」

 

 竹林の口から語られる風太郎の過去に二乃は大興奮だったのだが、三玖と五月はそれほどでもないように見えた。

 興味深げに聞いてたのは確かなのだが、しきりに頷いていたのが気になった。

 まるで既に知っている事を確認しているような、そんな印象を覚えた。

 

(それにしても……思い出の女の子、ね)

 

 竹林の話に出てきた、六年前の京都で風太郎と約束を交わしたという少女。

 それは四葉のことで間違いないだろう。

 風太郎は、その時に一緒に撮った写真を大事にしていたのだという。

 かつて、生徒手帳を預かった時のことを思い出す。

 金髪の少年――昔の風太郎の写真は中途半端な大きさだった。

 生徒手帳に収めるために、切って加工したのだろうと思っていた。

 でもそれがもし、半分に折っていただけなのだとしたら。

 その残り半分に写っているのが四葉なのだとしたら。

 風太郎が本当に好きなのは……

 

「どうしたの?」

「……なんでもないわ」

 

 無意識に握りしめていた拳を解く。

 それはとっくにわかっていた事だ。

 先ほど泣いてしまったせいか、弱気が残ってしまっていたらしい。

 頭を振って、蟠る雑念を追い出す。

 何があっても自分の想いは変わらない。

 それを真っ直ぐに貫くのだと、二乃は自分を奮い立たせた。

 

「それより三玖、あんた今日も当番なの?」

「うん、調理係は私が見たほうがいいだろうし」

「なら代わりなさい。暇で暇でしょうがないわ」

 

 

 

 

 

『皆さま、お疲れ様でした。これにて旭高校学園祭二日目を終了とします』

 

 時計は午後五時を回り、二日目終了のアナウンスが流れる。

 パンケーキの屋台は、材料を多めにしたおかげで売り切れることこそなかったものの、その分忙しさは初日の比ではなかった。

 二乃も調理当番を三玖に譲ってもらったことを、少し後悔したほどだ。

 立ち並ぶ屋台の中の生徒達は、一日の終わりを受けて思い思いに労いの言葉を掛け合っていた。

 その中で一人落胆を押し殺す。

 こうして屋台に立っているのには、父が来るのを待つという目的があった。

 しかし姿を現さないまま、今日も終わってしまった。

 

「えっ、何?」

「かっけー」

「つーか誰?」

 

 にわかに、屋台の前の人ごみがどよめきだした。

 聞き覚えのある排気音。

 そして人の切れ間から見えた、見覚えのあるバイクの姿。

 あれは確かケーキ屋の店長のものだ。

 

「二乃、行くぞ」

 

 ヘルメット姿の風太郎が、バイクに跨ったまま自分の後ろのスペースを指差した。

 後ろに乗れということらしい。

 思わず告白してしまった時のことを思い出して、二乃の胸が高鳴った。

 しかし目的がわからない。

 どこへ連れて行こうとしているのだろうか。

 

「直談判だ。お前の親父に文句言いに行くぞ」

「え……い、いやよ。もういいの」

「それで納得できるのかよ」

「だってパパは招待状を読んだのに来てくれなかった……私たちのことなんてどうでもいいのよ」

「……」

「明日もあるけどきっと来ないわ。それなら最初から期待しない方がずっとマシよ……!」

 

 期待すればするほど、裏切られた時の落胆も大きくなる。

 叶わないのなら、後悔するだけなら、望まなければいいだけ。

 後ろ向きな考えが泥濘のように二乃の足を止めていた。

 

「正直言って俺は部外者だし、お前らの親子関係も普通とは違うって事しかわからない」

「なら、もういいでしょ」

「だけどな、あの人が俺に会うたびになんて言ってるか知ってるか?」

 

 娘に手を出したらタダじゃおかない。

 要約するとそんな事を毎度言われているのだと、風太郎は震えながら語った。

 本当に気にかけていないのなら、そんな警戒心は見せないはずなのだと。

 

「あんな怖い目ができるんだ。よっぽどお前らのことが大切なんだろうな」

「……」

 

 夏休み、怪我をした店長を見舞った日。

 喚き散らした自分に目もくれずに去っていく背中。

 それなのに、風太郎と良い雰囲気になったところで水を差すようにやって来て……

 そう、わざわざ特別用事がなければ訪れない廊下の外れにだ。

 もしそれが、自分を心配していたのだとしたら。

 そう思い至っても、二乃の足は泥濘から抜け出せない。

 父親が自分たちを避けるような態度を取っているのも事実だからだ。

 期待の反動は大きかった。

 

「おーい、上杉君!」

 

 二乃の後ろから、クラスメイトの椿が走り寄ってきた。

 風太郎に用事があるようで、タブレットを掲げていた。

 

「捜してるのってこの人だよね? インタビュー断られたから、よく覚えてるよ」

「ああ、間違いない。二乃、見てくれ。椿、ちょっと前に戻せるか?」

「オッケー」

 

 促されて、タブレットの画面を覗き込む。

 四葉の熱狂的なファンがマイクを奪う様子が途切れたかと思うと、父の姿が映し出された。

 

「フー君、これって……」

「俺も映像を見たわけじゃないが、聞き覚えのある声だったからな。頼んで調べてもらったんだ」

 

 インタビューを受けた父が、病院からの連絡を受けて去っていく……ただそれだけの映像。

 ほんの短い、それこそ一分にも満たない映像だが、二乃の背中を押すには十分だった。

 

「椿さん、見せてくれてありがと」

「事情はよくわからないけど、役に立ったなら良かったよー」

「二乃、どうする? お前が行かなくても俺一人で乗り込むつもりだが」

「そんなの決まってるでしょ」

 

 そして大好きな人が手を引いてくれている。

 二乃は弱気という泥濘から抜け出して一歩踏み出した。

 

「――パパの所に連れてって!」

 

 

 

 

 

「僕のためにすみません……」

「医者として当然のことだよ。気にせずいつでも呼んでくれ」

 

 マルオの急な仕事が一段落着く頃には、空は既に暗くなり始めていた。

 時計を見ると、すでに午後五時を過ぎていた。

 今頃は学園祭二日目の片付けをしている頃だろうか。

 仕方ないと自分に言い聞かせつつ、残務処理をするために院長室のドアを開けた。

 

「どうも、お借りした娘さんを返しに来ました」

 

 室内には二乃と風太郎の姿があった。

 正式な手続きをしてここにいるようで、入館許可証を引っ提げている。

 マルオの姿を認めると、風太郎がソファーから立ち上がった。

 何か言いたいことがあるという目だ。

 

「暗くなる前に帰りたまえ」

 

 風太郎が口を開く前に、マルオは機先を制した。

 まともに取り合う気はないという意思の表れでもある。

 しかしそれで引き下がるほど、二人は利口な子供ではなかった。

 

「待って、もうすぐ焼けるから」

 

 あえて意識から外していた二乃に目を向ける。

 エプロンを身につけて、ホットプレートと向き合っていた。

 その鉄板の上で調理しているのはパンケーキだろうか。

 焼ける匂いはマルオの中の思い出を刺激した。

 

『パンケーキ……ですか?』

『意外と安く作れて、娘たちも喜んでくれるのです』

 

 病室のベッドに背を預ける、恩師であり最愛の人の姿。

 少しでも長く生きていて欲しかったが、それは叶わなかった。

 それでも、多くのものを残してくれた。

 彼女が漏らした心残り――五つ子の成長を見届ける事がマルオの生きる目的になった。

 

『退院した際はぜひご馳走させてください。君もきっと気に入ってくれると思いますよ』

 

 そしてこの世を去る少し前にご馳走してくれたパンケーキは、一生忘れられない味になった。

 あれ以来、マルオは一口もパンケーキを口にしていない。

 

「この生地、三玖が作ったの」

 

 二乃は焼きあがったパンケーキを紙の皿の上に乗っけると、テーブルの上にそっと置いた。

 

「はっきり言って美味しいわ。あの子、あんなに料理が下手っぴだったのにね」

「三玖は……ううん、私たち全員、あの頃よりもずっと成長したわ」

「そしてこの先もきっと……お父さんには、それをそばで見ていてほしいの」

 

 娘が自分と向き合おうとしている。

 それは父であるマルオにとっては喜ぶべきことのはずだった。

 それでも避けていたのは、同時に恐れていたからだ。

 五つ子たちと向き合うと、どうしても最愛の人の死がチラつく。

 パンケーキを口にしないのも同じ理由からだ。

 あるいは、あの時の味をずっと思い出の中に残しておきたかったのかもしれない。

 二乃の対面に座り、紙の皿を手に取る。

 

『君たちは、僕が責任を持って引き受ける』

 

 それは母の死に涙に暮れる娘たちに向けた言葉であり、自分自身へ向けたものでもあった。

 そしてなにより、亡き最愛の人へ向けた誓いの言葉だったはずだ。

 

『少しは父親らしいことしろよ、馬鹿野郎が!』

 

 今になって、二乃の隣に座る少年の言葉が心の内に響いた。

 まったくもってその通り。

 自分は父親なのだから、いつまでも逃げているわけにはいかない。

 マルオはフォークを手に、パンケーキを一口分だけ口に運んだ。

 思い出を呼び起こす、懐かしい味だった。

 娘たちが、母の死から逃げずに向き合ってきたのがよく伝わってきた。

 

「この味は零奈さんの……君たちのお母さんの味とそっくりだね」

「えっ……」

「しかし、この量は僕だけでは食べきれそうにない……だから、次は家族全員で食べよう」

 

 その言葉が二乃にとってはどんな意味があったのか。

 涙ぐみながらも、笑みを浮かべて隣の風太郎と顔を見合わせていた。

 いつもなら厳しい目を向けるマルオだが、今は目をつぶることにした。

 思い出したようにツンツンし始めた二乃の言葉も、微笑ましいものに感じられた。

 

「良かったな、二乃。それじゃ、俺はちょっとトイレに……」

 

 ずっと居心地悪そうにしていた風太郎がソファーから立ち上がった。

 部屋から出ていこうとする背中をマルオは呼び止めた。

 

「上杉君、待ちたまえ。これは君の計画かい?」

「違います」

「そうよ、彼がここまで連れてきてくれたの」

 

 二人の意見は食い違っているようだった。

 どちらかが嘘をついているのか、あるいはどちらも本当のことを言っているのか。

 ひとまず、マルオは娘の言を信じることにした。

 

「常々言っているが、君はあくまで家庭教師……それはわかっているね?」

「そ、それはもちろん!」

「だが、君には感謝しなければいけないね。君に娘たちを任せて本当に良かった」

 

 そもそも役割に徹するだけならば、この場が設けられることはなかっただろう。

 手放しに認めるわけにはいかないが、彼は自分たちに必要な人間だった。

 自然とそう思うことができた。

 

「じゃ、じゃあ今度こそ俺は――」

「お父さん、紹介したい人がいるんだけど構わないかしら?」

「ちょっ、二乃!?」

 

 今度こそ部屋を出ていこうとする風太郎だが、二乃がそれを引き止めた。

 何事かと思ったが、マルオはとりあえず続きを待つことにした。

 

「彼、私の好きな人なの」

「……ほう?」

 

 二乃は風太郎に抱きついて、風太郎は顔を青ざめさせた。

 視線を向けると、滝のように冷や汗を流していた。

 たっぷりと圧をかけていたマルオだったが、目を閉じると口元を緩めて僅かに笑った。

 

「そうかい」

「え……あの、それだけですか?」

「君たちももう高校生だ。そういうこともあるだろう」

 

 力が抜けたようで、風太郎は再びソファーに座り込んだ。

 どこの馬の骨とも知れない相手ならば、マルオも口出ししただろう。

 しかし風太郎は、この一年あまりで実績と信頼を積み上げてきた。

 

「だがくれぐれも……くれぐれも軽はずみな行いは慎むように……いいね?」

「は、はい……軽率な行動は控えます……」

「よろしい。では、よろしく頼むよ」

 

 マルオは席を立つと部屋の出口へと向かった。

 少ししゃべりすぎたのか、喉が渇いたのだ。

 そして部屋を出る直前に、二乃に呼び止められる。

 

「お父さん」

「ん、なんだい?」

「フー君を家庭教師に選んでくれてありがと!」

 

 出会ってから向けられたことのない、満面の笑みだった。

 部屋の外に出て、マルオは窓から暗色に移りつつある空を見上げた。

 久しぶりにアルコールを摂りたい気分だった。

 

 

 

 

 

「お前な……なんてこと言ってくれちゃったんだよ……」

「い、言っちゃったものは仕方ないじゃない!」

 

 院長室から出て、病院の廊下で俺は頭を抱えた。

 どうやら、俺と二乃は親公認の関係になったらしい。

 それはそれでいい事なのかもしれないが、問題は他の姉妹との関係である。

 今日の件を聞きつけたら、間違いなく一悶着ある。

 その結果、下手したら全てが明るみに出てしまうかもしれない。

 他の姉妹とも二乃と同じような関係を築いてますと言って、あの父親が納得するだろうか?

 答えは火を見るよりも明らかで、控えめに見てもぶっ飛ばされる未来しか見えない。

 

「それよりも……ねぇ、フー君?」

「……なんだよ」

 

 聞き返しつつも、二乃が何を求めているのかは大体わかる。

 わかってしまうようになった、と言った方が正しいか。

 目の色が変わった二乃の唇に、意識が向いてしまう。

 餌を待つヒナのように、二乃は目を閉じて顔を少し上に傾けた。

 それに応じて口付ける。

 ほんの一瞬の、軽く触れるだけのキス。

 あまりやりすぎると、二乃が暴走し出すからだ。

 

「……足りないんですけど」

「あれから機嫌悪そうにしてたし、あまり馴れ馴れしくするのもな」

「なにそれ、全っ然記憶にないわ」

 

 随分と都合のいい記憶喪失だ。

 しかしここは場所が悪すぎる。

 認められたとは言え、院長室の前でイチャつく胆力は俺にはない。

 それから不満を漏らす二乃を躱し続けていたのだが、痺れを切らしてしまったらしい。

 飛び込んでくるように強引に、唇を奪われてしまった。

 

「――あ、ヤバっ」

「まさかお前の親父が――」

 

 中野父が院長室に戻ってきたのかと思ったが、それは違うらしい。

 二乃は俺の手を引いて無人の廊下を歩き出した。

 

「おい、どこ行く気だよ」

「トイレよ。あそこなら誰にも見られないでしょ」

「まさかお前……」

 

 どう考えても、真っ当にトイレを使用することが目的とは思えなかった。

 その証拠に、二乃の息遣いは不自然に荒い。

 これはそう、まるで事の真っ最中のような……つまり、完全にスイッチが入っている。

 抵抗してみたが、暴走機関車が止まることはなかった。

 

「もう我慢できないわ。私のことが好きなら、言葉だけじゃなくて行動でも示しなさいよね」

 

 不覚にも、その言葉でこっちのスイッチも入ってしまった。

 そしてブレーキがなくなった今、結果はご察しの通りである。

 

 

 




やったね! マルオさんの許可がもらえたよ!
なお、この学園祭中に他の関係も露呈する模様。

来週は多分死んでるので投稿できるかどうか……


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最後の祭りが三玖の場合

どうも、夜勤なので出勤前に失礼。

今回はタイトル通り三女の話です。


 

 

 

 学園祭初日から遡ること数日。

 中野家のキッチンにて、三玖はひたすらパンケーキを焼いていた。

 時刻はもう遅く、照明を落とした室内ではキッチンだけが浮かび上がるように明るい。

 三玖も納得がいく出来のものを作れたらすぐ寝る気でいるため、エプロンの下は寝巻きである。

 焼きあがった失敗作をどう処理するかに関しては、目を背けることにした。

 

「三玖、まだ起きていたのですか?」

 

 五月が薄暗いリビングに下りてくる。

 眼鏡をかけているので、今まで部屋で勉強していたのかもしれない。

 順当に考えて寝る前の準備に出てきたと見るべきだが、食べ物の匂いに釣られた可能性もある。

 

「中々上手にできなくて……二乃やお母さんのようにはいかないね」

 

 生地はともかくとして、焼き加減が問題だった。

 最初に焼いたものなどほぼ炭化している。

 それでも練習を重ねるうちに改善されているのだが、目標地点にはまだ達していない。

 

「あはは……こうしていると、修学旅行前を思い出しますね」

 

 三玖には、修学旅行に臨むにあたって、パンを焼く練習に明け暮れていた過去がある。

 そのお陰か、料理の中でもパン作りに関してならば、それなりにこなせるようになっていた。

 弊害として、二学期に入ってからの中野家の朝食は大体パンである。

 それはさて置き、五月は三玖のパン作りの練習に協力していた時のことを思い出していた。

 焼きすぎて炭化したパン、どういうわけか汁っ気が多いベチャッとしたパン。

 どれもこれも今となっては良い思い出である。

 報酬として三玖のバイト先の焼きたてパンを受け取っていたのだが、それは今溢れ出てきているよだれとは一切関係ないはずなのだ。

 関係ないったら関係ない。

 

「お付き合いしますよ。ちょうど小腹が空いていたので」

「ありがとう。もう少しでできそうだから」

 

 何事も同じだ。

 三玖はできないことに挑戦して、一歩ずつこなせるようになってきた。

 そしてそんな姉を、五月は信頼していた。

 だからか、一つ聞いてみたくなった。

 それが自分自身の答えにつながるのではと期待した。

 

「……三玖は、どうしてそんなに頑張るのですか?」

 

 何故と問われれば、理由は様々だ。

 まず、パンケーキの提案をした身としての責任がある。

 あそこで言い出さなければクラスも分断されなかったのでは、という思いがあった。

 次に、やりきれなかったという後悔はしたくない。

 最後の学園祭なのだから、できることをして気持ちよく終わらせたかった。

 そしてなによりも、どうせ作るのだからみんなに美味しいと言ってもらえるものを作りたい。

 その思いがどこから来ているのかというと――

 

「――好きだから、かな?」

 

 

 

 

 

 体育館での二乃のダンスに若干引いた後、三玖は屋台で調理当番を開始した。

 学園祭初日がスタートした直後の今は、通りに立ち並ぶ屋台の間を通る人も疎らである。

 よって他の女子にレクチャーしながらの実演だ。

 

「わー、おいしそー!」

「学園祭のクオリティじゃないよね」

 

 お客さんの第一号に焼いたベリーパンケーキは、好評を得られたようだ。

 夜遅くまで練習していた成果があったことに、三玖は内心でガッツポーズを取った。

 夜食に二十枚超のパンケーキをペロリと平らげた五月の胃袋にも感謝である。

 一緒に当番をしている女子たちにも、女子力が高いなどと褒められてしまった。

 最初期の、全然玉子に包まれていないオムライスからしたら目覚しい進歩だ。

 

「あ、あれもしかしてうちの男子じゃない?」

「きっと敵情視察よ。ほんと姑息なんだから」

 

 一緒に当番をしている二人のうちの一人、クラスメイトの愛未は特に男子を敵視していた。

 もう一方である松井は時折男子と一緒にいる場面を見かけるので、そうでもないようなのだが。

 決して悪意があるわけじゃなく、あくまでも対抗意識なのだが、容易に解決はできそうにない。

 

「あ、あの……クラスの男の子の話、なんだけど……」

 

 意地を張らずに仲良くしたほうがいい。

 そう言えれば良かったのだが、三玖にそんな勇気はなかった。

 女子内に限って言えば雰囲気も悪くないし、口を出せばかえって逆効果だろうか。

 言いよどんでいる間に、松井は何かを察して頷いた。

 

「大丈夫だよ、私は三玖ちゃんを応援してるから」

「え?」

「そーだよ! 毎朝お弁当渡してるなんて、健気で私キュンと来たもん!」

 

 にわかに興奮しだした二人。

 何の話かと思ったが、どうやら自分と風太郎の事らしい。

 夏休み前に弁当を作って渡していたのはしっかり周知されているようだ。

 ここで初めて三玖は自分も、いわゆる学級長の噂の中に組み込まれていることを悟った。

 そもそもとして最初期の四葉と風太郎が付き合っている、程度のことしか知らなかったのだが。

 そんな三玖の様子に、二人は意を決したように最新の噂を語った。

 五つ子全員を手篭めにしているだとか、校内で人目もはばからずにキスをしていただとか。

 真実かどうかはともかくとして、決して否定できない内容に三玖は閉口した。

 

「まぁ、噂は噂でしかないけど、三玖ちゃんが頑張ってたのは知ってるからさ」

「二乃ちゃんや四葉ちゃんは強敵だけど、私は断然三玖ちゃん推しかな」

「あ、ありがと……って、そうじゃなくて――」

「ねぇねぇ、もう告白したの?」

「まだなら後夜祭はどう? 告っちゃう?」

 

 迫ってくる二人に三玖はタジタジである。

 告白はしたのだが、返事はもらっていない。

 そして返事はもらってないにもかかわらず、キスより先のことまで済ませてしまっている。

 仮にそう答えたとして、風太郎が悪く思われたりしないだろうか。

 そもそも噂のせいでクラス内の風評はヤバイ事になっているのだが、三玖はそれを知らない。

 知らないが、風太郎が悪く思われるのは嫌なので軌道修正を図ることにした。

 

「と、とりあえず、もう一回教えるから見てて」

 

 パンケーキの生地はツノができるまでかき混ぜて、ホットプレートの上になるべく高く盛る。

 説明しながら実演してみせる。

 二乃や店長から習った、ふわふわなパンケーキを作るコツである。

 他には焼き加減の問題もあり、それを習得するのに三玖は相当の努力をした。

 生地が焼ける音と共に良い匂いが漂ってくる。

 フライ返しで危なげなくひっくり返す。

 これも何度も練習した作業である。

 慣れないうちは場外ホームランをカマしたりしていた。

 ここまで来たら、後は焼き上がりを待つだけだ。

 

「あ、上杉君だ」

 

 フライ返しを握ったまま、三玖は身を僅かに跳ねさせた。

 せっかくの軌道修正なのに、まさかの本人の登場である。

 こうして来てくれたことは嬉しいのだが、またタイミングが悪い。

 二人の興味は当然、安全点検に訪れた風太郎に向く。

 単刀直入に自分たちの関係について言及するものだから、三玖も思わず固まってしまった。

 

「上杉君、いくらなんでもそれはないよ」

「そーだよ、二乃ちゃんや四葉ちゃんのことだってあるのに」

 

 度々この二人の名前が挙げられるのは、それだけ風太郎と関係が深いと目されているからだ。

 四葉はそもそもの発端であるし、一緒にいる機会が多いのも事実だ。

 まぁ、それは学級長という立場からくるものなのだが。

 逆説的に、一緒にいたいから風太郎を推薦したと見られているようだ。

 二乃は、少し前にクラスの女子の前で堂々とキスしたことが話題になっているらしい。

 ブレーキが壊れた二乃のことだから、確かにそれぐらいはやりかねない。

 しかし納得はするものの、はいそうですかと受け入れられるわけではない。

 三玖は静かに、己の内で嫉妬の炎を燃やした。

 そんな心境に対応してか、なにやら焦げっぽい臭いも――

 

「……おい、なんか焦げてないか?」

「そんなことじゃごまかされない……ってホントだ!」

「三玖ちゃん、焦げてる焦げてる!」

「わっ、わっ」

 

 慌てて救出するが、すでに手遅れだった。

 ふわふわに仕上がるはずのパンケーキは、こげこげである。

 いくらなんでも別のことに気を取られすぎた。

 これでは、とてもじゃないが店に出すわけにはいかない。

 せっかくの材料を無駄にしてしまい、三玖は肩を落とした。

 

「これ、いらないのか?」

「売り物にはできないし、もう捨てるしか――」

「じゃあ貰ってくぞ」

 

 その無遠慮な声に三玖が顔を上げた時には、すでに風太郎はパンケーキを口に運んでいた。

 焼きたてで熱いだろうに手づかみである。

 初めて料理を振舞った時のことを思い出す。

 二乃の料理とは比べものにならないほどの出来の悪さにもかかわらず、風太郎は――

 

『うん、どっちも普通にうまいな』

 

「ごちそーさん、うまかったぞ」

「あ、ありがと……」

 

 それは本心なのかお世辞なのか、正直なところはわからない。

 だけど、こうやってそっと心に寄り添ってくれるようなところに、自分は恋をしたのだ。

 一花は可愛いし、距離感で言えばきっと姉妹で一番風太郎に寄り添っている。

 二乃は可愛いし、自分の想いをぶつけることに躊躇いがない。

 四葉は可愛いし、いつも風太郎を引っ張り回している。

 五月は可愛いし、妹気質だからか兄気質の風太郎と相性が良いように見える。

 なら自分は?

 いつも姉妹に対してコンプレックスを感じていた。

 一花と二乃が風太郎を好きになって、自分じゃとても敵わないと思ったこともあった。

 それでも、パンを焼けるようになったし、料理だって少しずつ勉強している。

 風太郎と出会って、出来ないことを出来るようになる喜びを三玖は知った。

 

(うん、そうだよ……諦める理由なんてないよね)

 

 自分の恋も、楽しい学園祭も。

 まだまだ仕事があるのか、風太郎は行ってしまった。

 その背中を見送りつつ、三玖は決意を固めた。

 

「あ、あの……今度は私が敵情視察、行ってみてもいいかな?」

 

 二人もなんだかんだで男子の屋台は気になっているようで、快く了承してくれた。

 エプロン姿のまま、早速と三玖は屋台から飛び出した。

 しかし、すぐに見覚えのある姿を見つけて立ち止まる。

 

「あれ、フータロー?」

「あー、聞こえちまったんだが、たこ焼き屋の方に行くんだろ?」

「うん、そうだけど」

「仕事がてら、ちょうど様子を見に行こうと思っててな。良かったら一緒に行くか?」

 

 恐らくは、待っていてくれたのだろう。

 もしかすると心配してくれているのかもしれない。

 いつもながらの不器用な優しさに、三玖は頬を緩ませた。

 そしてそっと、風太郎の手を握った。

 

 

 

 

 

「女子の奴らには負けねーぞ!」

「「おー!!」」

 

 たこ焼きの屋台の前で、うちのクラスの男子達が手を振り上げて気勢を上げていた。

 中心になっているのは坊主頭の男子……名前は残念ながら思い出せなかった。

 今は学園祭が始まって間もなく、まだ客の姿もない。

 俺と三玖は近くの木の陰に身を隠しながら、その様子を伺っていた。

 男子の屋台の方のチェック担当は確か四葉だ。

 よって俺がここに来るのは寄り道でしかないのだが、三玖が心配でつい着いてきてしまった。

 

「男子はこんな感じだが、女子はどうだった?」

「似たような感じ」

「そうか……想像以上に溝が深いな。お互い意固地になっていやがるな」

 

 要するにクラスでの話し合いの際の雰囲気を、そのまま引きずってきているのだろう。

 学園祭前は忙しくて、あまり気にかけてやれなかったのが悔やまれる。

 俺が間に入ったところでという話なのだが、四葉が仲裁に回れば多少話は違っていただろうか。

 いや、あいつは他人の意見を蔑ろにできないから、板挟みになって余計な気苦労を抱えそうだ。

 

「どうしよう、フータロー」

「必要なのは橋渡しと歩み寄りだろうが、俺には少し荷が重いな」

「そうかな……そうかも」

 

 そもそもとして他人との交流を断ってきた俺には、人望というものがない。

 最近は中野姉妹との関わりもあり、クラス内での評価は恐らくヤバイ事になっている。

 それは三玖も承知しているのか、否定してくるようなことはなかった。

 

「俺の直感でしかないが、お前だったらどうにかできるんじゃないかと思う」

「え……」

「対立陣営の、それも中核の方からの歩み寄りなら、あいつらの気持ちも変わるかもな」

 

 三玖ならば、クラス内の誰よりもうってつけだと思う。

 その理由をはっきりと言葉にできないから、あくまでも直感だ。

 まったく、答えがあっていたとしてもテストなら減点をくらっちまうな。

 

「まぁ、信じるかどうかは自由だ」

「……うん、フータローがそう言ってくれるなら、信じるよ」

 

 

 

 

 

「ヘイらっしゃい!」

「こ……こんにちは」

「中野さん!?」

「パンケーキのリーダーがなんの用だ?」

 

 意を決してたこ焼きの屋台を訪れた三玖だったが、案の定男子の反応は色好くない。

 坊主頭の山内は最初こそ歓迎してくれたものの、すぐに態度を硬化させた。

 女子の愛未と言い争う姿が目立つ男子で、代表のようなポジションに収まっている。

 今更ながらのリーダー扱いに戸惑ってしまう。

 確かに提案したのは自分なのだが、代表という意味では愛未とかの方が相応しい。

 

「あ、あのっ……たこ焼き、一つください!」

 

 硬い態度に気圧されそうになるが、三玖は踏みとどまった。

 大事なのは歩み寄りだ。

 ここで引き下がってしまったら、なんの意味もない。

 しかし男子達は素直に応じない。

 三玖が女子達に頼まれて、自分達をバカにしに来たと思い込んでいるようだ。

 被害妄想でしかないのだが、それほどまでに溝は深いのだろうか。

 自分には荷が重かったのだろうかと、三玖は途方にくれた。

 

「はいよ」

 

 しかし、男子の中にあって黙々とたこ焼きを調理する者が一人、注文に応じた。

 一際ガラの悪さが目立つ男子、前田だ。

 三玖には林間学校の件もあり、少々気まずい相手だ。

 

「前田、いいのかよ」

「最優秀店舗目指してんのに、んなこと気にしてらんねーよ」

 

 その年の学園祭において一番の売上を記録した店舗は、最優秀店舗として表彰される。

 女子の間でも話題に上がっていたが、男子はどうやら本気で狙っているらしい。

 前田は焼きあがったたこ焼きをプラスチックのトレイに乗せると、三玖の前に置いた。

 

「林間学校の時のことは、上杉や一花さんから聞いた。悪かったな、怖がらせちまったろ」

「ううん、騙したのはこっちだから……ごめんね」

 

 三玖の中の蟠りが一つ解消された。

 また一つ避けていたことと向き合えたのを実感しながら、出来たてのたこ焼きを口に運ぶ。

 アツアツでカリカリでフワフワだった。

 女子のパンケーキにも劣らない、おいしいたこ焼きだった。

 

「うまっ……あ、美味しいね」

「ハハハ! 流石五つ子だな!」

 

 思わず素の声が出てしまった三玖に、山内は大笑いした。

 理由もわからず戸惑ってしまうが、その笑いは気持ちのいいものだった。

 嘘やお世辞を並び立てているわけではないと、信用してくれたようだった。

 聞くところによると、たこ焼き屋の方も生地やコンロに手を加えたりと、試行錯誤したそうだ。

 女子も男子も、学園祭を全力で楽しみたいという思いに変わりはない。

 だからこそ、この現状をなんとかしたい。

 三玖はあらためてその思いを強くした。

 そして、ただ思うだけでは願いは叶わない。

 実現するために、一歩踏み出す。

 

「一日目が終わったら、私が女子のみんなを連れてくる」

「は?」

「だから、このたこ焼きを食べさせてあげてほしい」

「いや、しかしな……急に言われても困るっつーか」

「それはごめんなさい……でも、食べたらきっと男子のみんなが本気だって伝わるはずだから!」

「だ、誰があいつらのために……」

 

 なおも渋る男子達。

 見かねた風太郎が口を出そうとするが、それを三玖が制止した。

 ここで頼ってしまっては、できると言ってくれた風太郎の言葉を疑うことになる。

 

『もし目標があって、それを不安に思うなら思い出せよ。自分は壁を乗り越えてきたんだって』

 

 今また一つ壁を乗り越えるために、三玖は言葉を重ねた。

 

「このまま終わりなんて私は嫌だし、みんなもきっとそう思ってる」

「全部終わっていつか振り返ったとき、いい学園祭だったねって喜べるものにしたい!」

「だから……お願いします」

 

 頭を下げる三玖の言葉が響いたのか、男子達がどよめきだした。

 しかし、まだ応じる方へは向ききっていない。

 さらにもうひと押し、言葉を重ねる必要があるだろうか。

 全部吐き出したつもりの三玖には、次の言葉がすぐには見つからなかった。

 

「そういえば、前田君は松井さんに食べさせてあげてたよね」

「てめっ、それは言うなって……!」

「ふふっ、そうだったかい?」

 

 助け舟は意外なところからやってきた。

 席を外していた武田が戻ってきたかと思うと、いきなりそんなことを言ったのだ。

 男子達の指すような視線が前田に集中する。

 表面上は女子と対立している男子ではあるが、クラス内に気になる相手がいる者もいる。

 そんな手合いにとって、前田の行為は裏切りに他ならない。

 要するに、お前だけ抜け駆けしてズルい、である。

 堰を切ったように、男子達はそれぞれ食べさせたい相手の名前を叫んだ。

 その様子に三玖は恥ずかしくないのだろうかと思ったが、そこは学園祭のテンションか。

 なんにしても、ようやく素直な気持ちが聞けたことに安堵した。

 

「まったくこいつらは……だがまぁ、俺にも食わせたい相手がいないわけじゃない」

「え、じゃあ……」

「さっきはあんなこと言ったけど中野さん、やっぱり頼んでもいいか?」

「うん、もちろん!」

 

 男子を代表するように、山内が歩み寄ってくれた。

 三玖は当然快諾し、他の男子にも頭を下げてお礼を言った。

 なぜだか急に態度が軟化したが、気持ちが伝わったということだろう。

 

「もう平気そうだな。じゃあ、俺はそろそろ仕事の方に戻るぞ」

「うん、ありがとう……全部フータローのおかげ」

「いや、あいつらを動かしたのはお前だ。強くなったな、三玖」

 

 約束の時間を忘れるなと言い残して、風太郎は去っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、三玖は己の内で壁を乗り越えた実感を噛み締めた。

 今まで何をするにも他の誰かより劣っていて、そんな自分が好きになれなかった。

 それでも努力をして勇気を出して、壁を乗り越えて……好きな人にも認めてもらえた。

 ようやく、自分のことが好きになれそうだった。

 

 

 

 

 

「ベリー1とメープル2お願い!」

「もう少しで焼けるから!」

 

 三玖の自信に後押しされるように、パンケーキの売れ行きは好調だった。

 用意していた材料は順調に捌けて、程なくして完売になるだろう。

 働き詰めの三玖ではあるが、疲労が気にならないほどに充実していた。

 

「三玖さーん!」

 

 そんなところに、元気いっぱいの声……風太郎の妹であるらいはだ。

 父親も伴って学園祭に遊びに来たらしい。

 

「らいはちゃん……とお父さん! お久しぶりです」

「おう、こっちこそな。チョコソース一つ頼むわ」

 

 注文を受けて、焼きたてのパンケーキを紙の皿の上に乗っける。

 その上にチョコソースをかければ完成だ。

 こうしてトッピングでメニューに幅が出るのは、初心者にはありがたいところだった。

 

「らいはちゃんこんにちはー。お兄ちゃんに会いに来たの?」

「お兄ちゃんにはさっき会えたんだけど、ここのパンケーキがおいしいって聞いて来ましたー」

「お、嬉しいねー。ね、三玖ちゃん?」

「う、うん……」

 

 らいはに親しげに話しかけているのは、クラスメイトの葵だった。

 何故こんなに距離が近いのかは謎だが、気にしないことにした。

 なんでかと言うと、今の三玖は自己肯定感にあふれているからだ。

 なので、自分の知らない風太郎の海でのエピソードなど気にならないし、そこでどれだけ他の女子と仲良くなっていようと気にならないのだ。

 自然と頬が膨れてしまうが、それとこれとは関係ない。

 関係ないったら関係ない。

 

「あ、そうだ三玖さん! 今度パンケーキ作り教えてください!」

「え……わ、私に?」

 

 上杉家の台所を牛耳っているのは、他でもないこのらいはである。

 そんな熟練者を相手に教えるなんて、恐れ多いもいいところだった。

 消極的な言葉が口をついて出そうになるが、だがしかしと考え直す。

 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、という言葉がある。

 元となるのは唐の詩の一節だが、日本の戦国時代を取り上げた作品で見る機会も多い。

 狙うものを直接叩くよりも、その支えとなるものを狙う方が上手く事が運ぶという意味合いだ。

 外堀を埋める、という言葉もそれに類するものだろう。

 これは城攻めの兵法に由来する言葉であり、また戦国時代と関連が深い。

 風太郎は妹であるらいはを溺愛しているし、頭も上がらない様子だった。

 即ち、妹を制する者が兄を制する。

 そこまで考えが至った瞬間、三玖は恐ろしい事実に気がついた。

 それは妹二人の行動だった。

 思えば出会って間もない頃から、らいはと親しげにしていたような気がする。

 それがもし、将を射るための動きだったとしたら?

 それがもし、本丸に攻め込むための下準備だとしたら?

 四葉はともかく、五月に関しては完全な勘違いなのだが、今の三玖はやや冷静じゃなかった。

 二人に負けぬよう、闘志を燃やして己を奮い立たせた。

 

「うん、じゃあ今度お休みの日にでも」

「やったー!」

 

 動機には少なからず打算があるが、仲良くしたいという気持ちは本物だ。

 なんせ三玖の妄想の中では、既に風太郎と結婚して子供だっているのだ。

 らいははもう妹のようなものである。

 なので、今日はいつもより欲張ってみることにした。

 遠からず、この屋台は材料切れで店じまいになるだろう。

 そうなったら、約束の時間まで一緒に学園祭を回るのも悪くない。

 あわよくば風太郎を捕まえて、家族共々親睦を深めよう。

 

「もし良かったら、これが片付いたら一緒に――」

「追加の材料買ってきたよ!」

 

 そして三玖の前に立ち並ぶパンケーキの材料。

 材料切れというゴールが遠のいた瞬間だった。

 この分では、約束の時間に間に合うかどうかも怪しい。

 その予想に違わず、パンケーキが完売となった頃には約束の時間を二十分ほど過ぎていた。

 労い合うクラスメイトたちに書き置きを残すと、三玖は急いで教室へ向かうのだった。

 

 

 

 

 

 学園祭の一日目が終了してまもなくの事だった。

 風太郎の告白に思うところがありつつも屋台の片付けに戻った三玖は、朝の約束通りに女子を連れて男子の屋台を訪れた。

 渋る女子に、男子の時と同様に頭を下げて頼み込んだ。

 パンケーキ屋台において、三玖は発案者であり功労者でもある。

 材料が切れるまで、調理にかかりきりだった姿も無関係ではなかっただろう。

 そこには、このままじゃいけないという思いもあったのかもしれない。

 そんな三玖の提案をそこまで言うのならと受け入れ、女子の数人は共に男子の屋台へと趣いた。

 食べてもらいさえすれば、きっと頑張りが伝わる。

 男子も、女子の屋台のパンケーキを食べればきっと認めてくれる。

 そして一丸とはなれずとも、そんなこともあったねと笑い合える思い出になる……はずだった。

 しかし、三玖の中に芽生えた自信と希望は、赤々とした炎の前に崩れ去ってしまった。

 

「うそ……」

 

 炎の熱と光が、肌の表面を舐めるように照らす。

 そこにはたこ焼きの屋台があるはずだった。

 避難誘導や、消火を急かす声もどこか遠い。

 現実の光景とは思えなかった。

 悪い夢であればどんなに良かっただろう。

 よろめいたところを、隣の二乃に支えられた。

 目の端に、呆然と立ち尽くす男子の姿が映った。

 どうにかしなければと心が急くが、どうすればいいのかがわからない。

 

(フータロー……こんな時はどうしたらいいの……?)

 

 心の中の問いに答える者がいるはずもなく、三玖はその場に崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

「く、クラスでパンケーキの屋台やってます。とてもおいしいので、ぜひ来てください」

「最後に特別ゲスト、三年一組の中野三玖ちゃんにお越しいただきましたー!」

 

 学園祭の二日目が開始してまもなく、三玖は屋台の紹介のためにカメラの前に立っていた。

 放送部が撮影するインタビューや屋台の紹介は、学内の巨大モニターで放送されているらしい。

 自分がそこに映し出されているのかと思うと、緊張でドキドキが止まらなかった。

 一花は常にこんなことをしているのだから、すごいとしか言い様がない。

 

「じゃ、三玖ちゃん頑張ってね」

 

 自分にマイクを向けていたクラスメイトの椿に見送られながら、その場を離れる。

 屋台が立ち並ぶ通りを歩きながら、三玖は風太郎の姿を探した。

 顔が見たかったし、声も聞きたかった。

 それとも、あんな事があって自分達とは顔を合わせづらいだろうか。

 昨日の集まりの際、風太郎の情けない告白を受けて動いたのは三人。

 一花と二乃と五月だ。

 それぞれ態度の違いはあれど、同じように風太郎の頬を張った。

 三玖は四葉とその介抱をしていたのだが、三人の気持ちがわからないわけではなかった。

 

(なのに、どうして私は動けなかったんだろう……)

 

 叩くのがかわいそうだと思ったから――それもある。

 嫌われたくないと思ったから――それもある。

 結局は自分に意気地がなかったのだと、三玖はそう結論づけた。

 

(やっぱり私、ダメなのかな? 乗り越えられなかったのかな……?)

 

 芽生えた自信はすっかり萎んでしまっていた。

 頑張ってもどうしようもない現実の前に、磨り潰されてしまっていた。

 俯きそうになる三玖の前を、ダンボール箱が通りすぎる。

 正確に言うとダンボール箱を抱えた人だが、重ねすぎて顔すら見えない。

 しかし三玖にはそれが誰なのか一瞬で分かった。

 何故なら、ダンボールの上からピコンとリボンがはみ出しているからだ。

 今朝、家を出る前から姿が見えなかった四葉だ。

 

「あ、四葉。フータローは?」

「三玖? ごめん、ずっと仕事してて私も会ってないんだ」

「そっか……」

 

 四葉にも見当がつかないとなると手がかりがない。

 やっぱり地道に歩いて探すしかなのだろうか。

 

「どうかしたの?」

「別に……ただ一緒に回りたかっただけ」

 

 嘘ではないが本当でもない。

 縋りつきたいし、思い切り抱いても欲しい。

 身を委ねて、嫌なことを全部忘れたかった。

 

「……三玖はすごいね。私は――」

「四葉?」

「ううん、なんでもない! あ、上杉さんの声だ。近くにいるかも!」

 

 ふと四葉の顔に影が差した気がしたが、次の瞬間には元通りだった。

 体育館の方をリボンで指すと、ダンボールを抱えたまま駆けていく。

 ダウジングかなにかだろうか?

 前が見えないのを心配して、三玖はその後を追った。

 

「おかしいなー、こっちだと思ったんだけど」

 

 ようやくダンボール箱を下ろした四葉が首を傾げた。

 どうやら届け先は体育館だったらしい。

 本当は荷物を置きに来ただけなのでは?

 そう思わなくもなかったが、四葉のことだ。

 本当にただの勘違いという可能性が高い。

 

「三玖、無理しないでね。昨日のこともあるし」

「もう平気。昨日は色々疲れてただけだから」

「そういえば、色々頑張ってたって聞いたよ」

「でも、結局……」

 

 男子を説得した、女子も説得した。

 互いの努力をわかってもらうための場も設けた。

 それでお互い認め合って、楽しい学園祭になるはずだった。

 けれど、その未来は呆気なく炎に巻かれて消えてしまった。

 

「出店停止ってお前のクラスの店だったのかよ!」

「そーだよ、マジでやってらんねーぜ」

 

 クラスメイトの山内だった。

 他クラスの友人と歩いているようだ。

 その会話の内容は、紛れもなく昨日のことだ。

 昨日のボヤ騒ぎは幸いにも小さな被害で済んだのだが、なんのお咎めもなしとはいかなかった。

 結果として、三年一組のたこ焼き屋は出店停止の処分を受けてしまった。

 もう男子と女子の仲直りどころではなくなってしまったのだ。

 去っていく山内の背中に声をかけようとするも、その口から意外な言葉を聞いて立ち止まる。

 

「今のって……」

「三玖! 上杉さん見つけた。知らない女の子と話してる!」

「えっ」

 

 深く考える前に、聞き捨てならない情報がもたらされた。

 四葉が示した方を見ると、風太郎が見知らぬ女子と屋台で遊んでいた。

 

「あれ誰?」

「さぁ……けど、多分偶然居合わせただけだよ。上杉さんを信じよう!」

「信じる……」

「だって昨日言ってたじゃん。私たちのことがす、す……好きだって」

 

 自分の好きになったものを信じる。

 それは風太郎が家庭教師に就いてからまもなく、三玖に贈った言葉だ。

 その言葉を、風太郎を信じてここまでやってきた。

 だからここもぐっと堪えて……無理だった。

 思わず嫉妬のオーラが噴出してしまった。

 何かを感じ取ったのか、風太郎の背中がビクッと跳ねた。

 

「へぇ、昨日私たちにあんな告白しといて今日はこれなんだ」

「ま、まぁまぁ……たまたまだよ、きっと、うん……絶対」

 

 四葉が自分に言い聞かせるようなフォローをするが、三玖の頭の中には妄想が展開されていた。

 風太郎が自分たちに愛想を尽かして見知らぬ女子と去っていくという、負の妄想である。

 いつもとは逆ベクトルのトリップに四葉もマズイと思ったのか、フォローにも力が入る。

 

「こ、こんなの何かの間違いだよ! ほら、あの上杉さんが即仲良くなるなんてありえないよ!」

「そ、そうだよね……フータローは噛めば噛むほど味が出るタイプ――」

 

 どうにか持ち直そうとした二人だが、謎の女子が風太郎の手を取ったことで絶句してしまった。

 固まっている間に、二人は先へ進んでいく。

 あの方向には確か――

 

「パンケーキいかがで――」

 

 三年一組のパンケーキの屋台である。

 風太郎と謎の女子は、二乃と五月と鉢合わせしていた。

 そして案の定、揉めだした。

 とはいえ、これは三玖と四葉にも無関係ではない。

 隠れつつ近寄って、四人の会話に耳を傾けた。

 

「初めまして、竹林と申します。風太郎とは小学校からの同級生です」

 

 それでわかったのは、謎の女子の名前と風太郎との関係だ。

 だからといって馴れ馴れしすぎるのでは?

 ふつふつと、三玖の嫉妬ゲージが溜まっていく。

 後ろから四葉が抑えなければ、飛び出してしまいそうだった。

 そしてそれが振り切れたのは二乃が泣き出した直後。

 いつの間にか拘束はなくなっていて、飛び出した三玖は短くもはっきりと感情を吐き出した。

 

「フータローは渡さないから」

 

 この瞬間だけは、ずっと蟠っていたモヤモヤがなくなっていた。

 

 

 

 

 

「もうちょっと、もうちょっとだけでいいから!」

「ええぇ……もうそんな面白エピソードありませんって」

「なら写真! フー君の小学生の頃の写真とか!」

「昔の携帯にはあったかもですけど、今の手持ちには……」

「じゃあ家にはあるのね!?」

 

 風太郎の昔話をその幼馴染から聞いた後も、二乃はしつこく食い下がっていた。

 よっぽど竹林の話がお気に召したのだろう。

 冷めない興奮のままに詰め寄っていた。

 このまま放っておけば、住所を聞き出して家にまで押しかけそうだ。

 

「……フータローもずっと頑張ってきたんだね」

「ええ、だからこそ私たちにも根気強く付き合ってくれたのかもしれません」

 

 もちろん、目先の金銭が大きな目的だったことに違いはないだろう。

 それでも三玖は風太郎に多くのものを受け取った。

 それは好きなものを信じるという言葉だったり、何かを出来るようになる喜びだったり。

 そして、今もこの胸で息づく恋心だったり。

 この気持ちがあったからこそ、三玖はここまで進んでこられた。

 

『……三玖は、どうしてそんなに頑張るのですか?』

 

 自分の中の好きを信じて、この学園祭でも頑張ってきた。

 しかしクラスは分断され、男子と女子の仲直りの機会も失われた。

 結果として残ったのは、男子の屋台の出店停止という事実だ。

 どうしようもない現実の前に、足がすくんでしまっていた。

 自分が進んできた道が間違いなのかと、弱気が差し込んだ。

 

「……五月は、自分の選択が間違いかもしれなかったら、どうするの?」

「えっと、いきなりなんです?」

「自分の中の好きを信じて進んで、でもそれが他の人に迷惑をかけてたら?」

「三玖……もしかして、後悔しているのですか?」

「したくない……けど、そうなっちゃいそう」

 

 足を止めてしまった三玖は、後ろ向きな考えにとらわれてしまった。

 やっぱり自分は何も変われていなかったのだろうか。

 積み上げてきたものが、突けば崩れるほど脆いものに感じられた。

 

「……たしかに自分の好きを貫けば、誰かと衝突することはあると思います」

「……うん」

「それは辛くて苦しいかもしれないけど、そうすることで理解できることもきっとあります」

「そう、なのかな」

「これは、三玖が私に教えてくれたことですよ?」

「え……」

 

 五月は修学旅行の二日目の出来事を回顧した。

 塞ぎ込む自分と、それに寄り添ってくれた優しい姉。

 三玖の尽力がなければきっと、五月は自分の想いを抱えきれずに潰れていただろう。

 

「三玖はもっと自分勝手になっていいんだと思います」

「そんな……迷惑かかるよ」

「ならそれで構いません。今度は私が微力ながら三玖を支えますから」

「……」

「まだ言いたいこと、溜め込んでるんじゃないですか?」

 

 五月の言うとおりだった。

 三玖は大体の場合において、自分の意見を控える傾向にある。

 それはこの学園祭においても例外じゃない。

 女子と男子の仲違いに、居心地の悪さを感じながらも言い出せずにいた。

 もっと早く勇気を出していれば、違った結果があったかもしれない。

 後先を考えないで動き出せる二乃が羨ましかった。

 可愛くて、自信に溢れていて、いつだって自分の気持ちに正直。

 そんな二乃が泣き出した時、自分は何を思って飛び出したのだろうか。

 

「そ、それじゃあ私はここら辺で……」

「あ、まだ聞きたいことが――」

「これ以上は見過ごせません!」

「ちょっ、五月! 離しなさいよ!」

 

 三玖が考え事から現実に意識を戻すと、暴走気味の二乃が五月に取り押さえられていた。

 ようやく自由になり、竹林は離脱していった。

 その背中が見えなくなると、二乃は残念そうにため息をついた。

 

「はぁ~……せっかくのチャンスだったのに」

「あそこまではやりすぎです。もっと人の迷惑を考えてください」

「なによ、さっきはあんただって興味津々だったじゃない」

「まぁ、私は写真を持って――い、いえ、なんでもありません!」

「は? なにそれ、ちょっと詳しく聞かせなさいよ」

「わ、私は当番があるので!」

 

 自分に矛先が向きそうになり、五月は慌てて二乃から距離を取った。

 確かに当番に穴を空けているのは事実である。

 そして去り際に三玖に向き直ると……

 

「無責任かもしれませんが、私は三玖を信じています。だから、諦めないでください」

 

 五月の背中を見送る。

 諦めなかったとして、果たして自分に何ができるのだろうか。

 その信頼が、三玖には少し重たく感じた。

 

 

 

 

 

(どうして五月は、こんな私を信頼しているんだろう……)

 

 モヤモヤを抱えたまま、三玖は父の病院に向かっていた。

 四葉が病院に運ばれた。

 三玖がそれを知ったのは、学園祭の二日目が終わって家に帰った後だった。

 二乃からのメールを見たときは大いに心配したが、大事はないらしい。

 それでも心配なことには変わりないので、こうして見舞いに向かっているのだ。

 

「あ、三玖。早かったわね」

「四葉は?」

「ベッドの上でおとなしくしてるわ。五月は?」

「一応声かけたけど、今は外に出たくないって」

「そう……」

 

 五月のことも心配だったが、今の三玖には手を差し伸べるだけの余裕がなかった。

 こんな薄情な姉でも、信じていると言ってくれるのだろうか。

 

「そういえば、なんでエプロン?」

「ああ、これね」

 

 四葉の見舞いで病院に来たのであろう二乃は、何故だかエプロンを身につけていた。

 二日目の終わり頃に、風太郎とバイクでどこかへ行ってしまったことは三玖も聞き及んでいる。

 クラスメイトから知らされた時は、思わず頬を膨らませてしまった。

 それが四葉の件だったのかもしれないが、だとすると二乃だけというのが腑に落ちない。

 自分達に連絡が来るまで、ここまで時間がかかったのも疑問だ。

 もしかすると、二乃が病院を訪れた理由は違うところにあるのかもしれない。

 

「みんなには後で話すつもりだったんだけど……」

 

 答え合わせをするように、二乃は父にパンケーキを振舞ったことを語った。

 あの父が、次は家族全員で食べようと言ったのだという。

 

「あんたのおかげよ、三玖」

「私の?」

「あのパンケーキの味、お母さんのにそっくりだって」

「……」

 

 深夜のキッチンでのパンケーキの練習。

 最後に焼きあがったひと皿。

 それを口にした五月は、何故か涙を流していた。

 

『ど、どうしたの? そんなに不味かった……?』

『いえ……ちゃんと美味しいです。でも、なんだか懐かしくて……』

 

「そっか……私、ちゃんと出来てたんだ」

 

 三玖の中に芽生えたのは、小さくも確かな自信だった。

 それを足がかりに、再び前を向く。

 

(風太郎も五月も、私を信じてくれた……だから、今度は私が自分を信じる番)

(私の好きを間違いにしないために、これからも出来ることを頑張っていくんだ……!)

 

 

 

 

 

 疲れの抜けきっていない体を引きずって、今日も屋台のチェックに歩き回る。

 学園祭も最終日だが、昨日のように仕事がなしというわけにはいかなかった。

 まぁ、それはいい。

 二日目は四葉が必要以上に負担を引き受けてくれたからこそ、俺が暇になったのだ。

 しかしながら、この体の疲労は少し辛い。

 昨日の夕方から夜にかけての体力の消費が今日に響いている。

 今はまだ十時前で、学園祭三日目はまだ始まっていない。

 この間にうちのクラスの様子を見に行ってみようか。

 昨日の調子で混めば、近づくのも容易じゃなくなるからな。

 

「はぁ……やっと今日で終わる……」

「もう疲れたね……」

「なんで他のクラスはあんなに元気なのかな……?」

「ほら、弱音吐いてないでやるよー」

 

 うちのクラスの女子は中々にくたびれていた。

 昨日は宣伝効果も相まって相当繁盛したらしいから、それも無理はない。

 四葉みたいに倒れるやつが出ないといいんだが。

 三玖の姿を探す。

 竹林と話してた時の様子だとまだ元気そうだったが、心労は溜まっているだろう。

 俺もその原因の一端だと言われると弱いのだが、気になるものは気になる。

 あいつは男子の屋台の事を、人一倍気にしているはずなのだ。

 今となってはどうしようもない事なのはわかっている。

 俺が何をしても出店停止が取り消されるわけではないし、クラスの問題も片付きはしない。

 それでも、三玖を放っておくことはできなかった。

 せめてこの学園祭が終わる前に、声をかけておきたい。

 

「三玖、昨日ぶりだな」

「……」

 

 他の女子達と話すでもなく、三玖は屋台の中で一人静かに佇んでいた。

 まだ電源を入れていないホットプレートを前に、何を思っているのだろうか。

 

「男子の屋台の件は残念だったが――」

「フータロー、ついてきて」

 

 俺の言葉を待たず、三玖は屋台を出て歩き始めた。

 ついてこいとのことだが、どこへ向かっているのだろうか。

 

「どこ行くんだ?」

「屋上」

「学園祭期間中は立ち入り禁止のはずだが」

「うん、だからだよ」

 

 返答はいまいち要領を得ない。

 一体屋上で何をするつもりなのか。

 昇降口を登りきると、三玖はこちらを振り返った。

 

「ここなら、他の人に迷惑かけないでしょ?」

 

 そして屋上へのドアに手をかけ、開け放った。

 

 

 

 

 

「ふざけんな! どうせ俺らが出店停止食らったのを笑ってたんだろ!」

「だから誰もそんなこと言ってないじゃん! そもそも事故起こしたのが悪いんでしょ!」

 

 屋上に入った瞬間、言い争う声が三玖と風太郎を出迎えた。

 愛未と山内……共に男女の代表的立場である。

 三玖は事前にこの二人を呼び出していた。

 

「あいつら、まだ喧嘩してやがったか……まぁ、ここなら他人に迷惑はかからないだろうが」

「違うよ。迷惑をかけるのは私」

 

 疑問符を浮かべる風太郎を余所に、三玖は二人へと歩み寄っていく。

 近づいてくるのに気づいてか、言い争いが止まった。

 口々に三玖へどうして呼び出したのかと問いかけるが――

 

「仲っ! 良くっ! してっ!」

 

 その問いかけは、あらんばかりの声を振り絞った大音声にかき消された。

 その後も滝のように流れる三玖の大声。

 相対してる二人は圧倒され、これでは口を挟む余地がない。

 

「ずっと我慢してた! もう限界!」

 

 ずっと溜め込んでいたものを、自分勝手に叩きつける。

 学園祭をこのままで終わらせないために、好きを間違いにしないために。

 風太郎を、姉妹を……そしてなにより自分を信じて、三玖は形振り構うのをやめた。

 

「愛未ちゃん!」

「な、なにっ?」

「最終日前なのに、もうみんな疲れてる」

「そ、それは昨日も混んでたからで……」

「違う。他のクラスが男女で分担してるのを、女子だけでやってるからだよ」

「うっ……」

「今日も一杯人が来るなら、この調子じゃ絶対乗り切れない……わかってる?」

「う、うん……」

 

 三玖の指摘に、愛未はバツが悪そうに頷いた。

 それもそのはず。

 男子への意地から認められなかっただけで、本当はわかっていたことなのだ。

 

「山内くん!」

「は、はいっ」

「出店停止は残念だったよね……みんな頑張ってたの知ってるから、気持ちはわかるよ」

「……」

「でも昨日、お友達にパンケーキ勧めてたよね?」

 

『出店停止ってお前のクラスの店だったのかよ!』

『そーだよ、マジでやってらんねーぜ』

『おいおい、じゃあこの空腹どうしてくれんだよ』

『んー、じゃあ……パンケーキなんてどうよ?』

 

 二日目の朝に偶然聞いたその言葉で、三玖は男子が女子を目の敵にしていないことを確信した。

 山内も他の男子も、クラスに食べさせたい女子がいると言っていた。

 たとえ離れているように見えても、足がかりさえあれば歩み寄ることができる。

 一度目の機会は潰えてしまって、それで足を止めてしまったが、三玖は再び歩き出した。

 学園祭はまだ終わっていないのだから、諦める理由はどこにもないのだ。

 

「えっ、嘘……な、なんであんたがそんなことを……」

「……本気で最優秀店舗を狙ってたんだ。他のとこに渡すぐらいなら、お前らの方がまだマシだ」

「も、もっと早く言ってよ!」

「言ったところでどうすんだよ!」

「わかんないけど、言ってくれなきゃどうしようもないでしょ!」

「また喧嘩してる……」

 

 再びヒートアップし出す二人を、三玖は一睨みで黙らせた。

 そして深く息を吐き出すと、意を決した。

 他ならぬ自分自身が、その足がかりになるのだと。

 

「パンケーキ屋さんの裏方を男の子に手伝ってもらおう」

 

 形式としては他のクラスと同じになるだけ。

 しかし、そこには学園祭前から続く溝がある。

 提案を受けた二人は、当然躊躇した。

 自分は良くても、他の者が何と言うかわからないと。

 

「任せて。私が説得するから――」

 

 それらをひっくるめて、三玖は受け止めた。

 

「――私を信じて」

 

 そして、迷い無く言い切った。

 

 

 

 

 

 三玖の説得を受けて、三年一組の男女の代表は屋上から去っていった。

 ここに来た時の険悪っぷりはすっかり消えていた。

 これをあの三玖が成し遂げたのだと思えば、驚きと同時に感服する他なかった。

 これではもう、卑屈馬鹿なんて言えないな。

 

「ふぅ……」

「まさか、あんな大声が出たなんてな。屋台の方はなんとかなりそうか?」

「とりあえず、わかってもらえたみたい……自分勝手だったかもだけど、言えて良かった」

「そうか」

 

 三玖は晴れやかに笑った。

 憂いのないその様は、こいつが逃げずに立ち向かった証拠だろう。

 少し、眩しい。

 

「実を言うと、修復は不可能だって思い込んでたんだが……まさか、お前に教えられるとはな」

 

 屋上を伝う配管の上に座り込む。

 すると、三玖が俺の膝の上に向かい合うように腰を下ろした。

 ……今度は一体何だろうか。

 

「フータロー」

「な、なんだ?」

「じっとしてて」

 

 三玖は俺の両肩に手を置くと、まっすぐ俺の顔を見据えた。

 そしてゆっくりと顔を近づけ……そのまま左肩に噛み付いてきた。

 

「いづっ!?」

「ごめん、痛かった?」

「い、いきなりなんなんだ?」

「あの時の告白、私だって納得したわけじゃないもん」

 

 三玖は頬を膨らませて不満を訴えた。

 つまり、これはあの時のビンタ代わりということらしい。

 今までずっと溜め込んでいたのだろう。

 それはこいつの優しさなのかもしれない。

 しかし、そうじゃないところも見たいというのは俺の我侭だろうか。

 まったく、あの三人は躊躇なく叩いてきたというのに。

 

「まぁ、こうして噛み付いてくれて良かったのかもな」

「……マゾ?」

「ちげーよ。俺に対して遠慮なんかするなってことだ」

「そう? なら……んっ――」

 

 次の瞬間、三玖は躊躇なく唇を重ねてきた。

 一分以上はそのままだったろうか。

 長いキスだった。

 

「……満足か?」

「ううん、全然」

 

 三玖の目の色はすっかり変わっていた。

 これはもう完全にスイッチが入っている。

 こちらの情欲を煽るように、さっき自分が噛んだ場所に舌を這わせてきた。

 ゾクゾクと、背筋に走る快感がこちらの理性を侵食していく。

 

「み、三玖さん? そろそろ屋台の方に戻った方がいいんじゃ……」

「大丈夫、一回ぐらいならする時間はあるから」

 

 一回とか何をするんだとかさっぱりわからん。

 わからないということにしておかないと、押し負けてしまいそうだった。

 昨日の夕方から、二乃や一花との戦いで疲労が溜まっているのだ。

 

「ね、フータロー……えっちしよ?」

「……せめて人目につかない場所でな」

 

 そんな目ではっきりとせがまれてしまえば、断れるはずもなかった。

 そうして俺はズルズルと、物陰に引きずられていくのであった。

 

 

 




というわけで終了。

ガッツリ焦点当てて思いましたが、三女が一番書くの難しいかもしれません。

次回は末っ子の話になると思います。


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最後の祭りが五月の場合

二つに分けようか迷いましたが、そのまま投稿します。
今までで一番長いと思います。

あと、とあるキャラのブチギレ描写があるので一応注意。


 

 

 

「おはようございます、下田さん」

「うおっ、お嬢ちゃんも来てたのか」

「はい、今日はこちらで受験対策の講義が開かれると聞いたので」

「お嬢ちゃんには伝えてなかった気がするが……」

 

 学園祭前のとある日、五月は自身が世話になっている塾講師の下田を訪ねていた。

 目的は本日行われる、特別講師を招いた受験対策の教室だ。

 自習だけでは不安に思っていたところ、他の塾講師が今日の講義を紹介してくれたのだ。

 実力不足は身に沁みているので、出来る事はしておきたかった。

 

「あ~……どうすっかね」

 

 しかし、下田の様子はいまいち歯切れが悪い。

 いつもは直截的な物言いをするのだが、今日に限ってなんだか隔意を感じる。

 母の教え子である下田は、五月に対して協力的だ。

 受験に関しても、親身になって面倒を見てくれている。

 なので、今日の講義のことを教えてくれなかったのが腑に落ちない。

 まるで自分を何かから遠ざけようとしているような……そんな印象を覚えた。

 

「失礼、通してもらってもいいかな?」

「あ、すみません」

 

 見慣れない男性だった。

 スキンヘッドなのに対して、口の周りをすっかり覆うほどヒゲの量が多い。

 その白さも相まって、サンタクロースの衣装が似合いそうだ。

 場違いなことを理解しながらも、五月はそんなことを考えてしまった。

 隣の下田が、一瞬だけだが眉を顰めたのには気づかなかった。

 

「――君は……」

「えっと、私でしょうか?」

 

 建物内に入ろうとした男性だが、立ち止まると五月の顔を凝視してきた。

 ここに用があるということは塾の関係者なのだろう。

 道を空けた五月だが、その視線にどうにも得体の知れないものを感じてしまった。

 すると、下田が割り込むように口を挟む。

 

「こちらが今回の特別講師、無堂先生だ」

「あなたが……よ、よろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ。……ところで君、名前は何というのかな?」

「無堂先生、教室の準備がありますのでそろそろ」

「おお、もうそんな時間か」

 

 無堂は下田に促されて建物内へ。

 その背中を見送る五月だが、途中で振り返った無堂と目が合う。

 またあの得体の知れない視線だ。

 こちらを見ているようで、そうではないような……焦点が合っていないと言えばいいだろうか。

 それが何を意味するのかは、今の五月には全くわからなかった。

 世の中には生徒に不純な考えを抱く教師もいるのだが、そんな発想も湧いてこない。

 五月にとって、教師とは尊敬すべき立派な人間である。

 その印象は個人と接するうちに下方修正されることはあるが、少なくとも初対面ではそういうバイアスがかかるのは確かなのだ。

 ちなみに自分の今の家庭教師に関しては、初対面が最悪だったのでそういうのは一切なかった。

 とにかく、あの妙な視線は気になるが深く考えるのはやめた。

 自分の顔に何か付いていたのだろうと、そう結論づけた。

 それとなく、窓ガラスを鏡がわりに身だしなみを整える。

 そこに傍らの下田の横顔も映りこんだ。

 能面のような無表情だった。

 普段の下田は、少しばかり口は悪いが気さくな人物である。

 思えば、風太郎の父親と少し似通った部分があるかもしれない。

 そんな彼女がこうやって黙り込んでいる姿は、どこか感情を抑え込んでいるように見えた。

 

 

 

 

 

 体育館でステージ上の二乃に目をキラキラさせた後、五月は学食へ移動した。

 学園祭期間中は食堂は休みではあるが、開放自体はされている。

 スタート直後だからか人はおらず、五月にとっては好都合だった。

 風太郎のお気に入りの場所に陣取り、問題集を広げる。

 あの勉強魔人が利用するだけあり人目につきにくい、またはあまり人目が気にならない場所だ。

 思えば、自分達の出会いはこの席を取り合ったのが始まりだった。

 当時のことに思いを馳せ、五月はペンを握った。

 積み重ねた時間と同じく、そこには積み重ねてきた信頼がある。

 それに応じたいし、報いたいと思った。

 そのためのわかりやすい手段は……ひたすらに勉強し、学力アップを図る。

 もちろん風太郎のためだけじゃない。

 なにより自分の目標のために、五月はこの学園祭の思い出を犠牲にする決意を固めた。

 そうと決めたら、ペンも良い感じに滑る。

 正答誤答はともかくとして、問題の解き方が身に染み付いてきているということだろうか。

 そうして一段落付いたところで、食堂を通り抜けようとする姉の姿。

 声をかけると過剰に驚かれたが、ステージの後から追い回されていたらしい。

 腰を落ち着けたかったのか、二乃は五月の対面に座った。

 

「はぁ……フー君はどこにいるのかしら」

 

 そして切なげにため息をついた。

 風太郎と一緒に学園祭を回りたいと思っているのだろう。

 その気持ちは五月にも痛いほどわかる。

 せっかく屋台の当番がないこの一日、好きな人と過ごしたいと思うのはごく自然である。

 わかるのだが、つい先ほど決意を固めてしまったばかりなのだ。

 早々に翻すわけにはいかないので、ぐっと喉の奥に引っ込めた。

 しかし目は口ほどに物を言うもので、二乃は五月の視線からただならぬ気配を感じとった。

 

「……食べる?」

「い、いえ! むしろこれくらい空腹の方が集中できます!」

「そう?」

 

 差し出されたアメリカンドッグを断腸の思いで断る。

 午前十時を過ぎて昼が近づきつつあるこの時間帯。

 朝食を食べてから三時間ほど経過し、五月のお腹の虫は空腹を訴えていた。

 しかし、お腹が満たされれば集中力が減じることは否めない。

 風太郎との学園祭デートと同様に、邪念は断たねばならないのだ。

 

「まぁ、あんたがめげてないようで安心したわ」

「ええ……こんな私でも、信じてると言ってくれる人がいますから」

「なら、無理しない程度に頑張りなさいよね。これでもあんたの夢、応援してるんだから」

「私の……」

 

 五月の夢は、より正確に言うのならば『母のような教師になる』だ。

 自分は母になりたいのか、教師になりたいのか。

 主体がどちらにあるのか……それが五月にはわからなくなっていた。

 あまり深く考えないようにしているのだが、ふとした拍子にその疑問が湧いてくる。

 黙りこくった五月を心配してか、二乃が顔を覗き込んできた。

 

「五月、大丈夫?」

「……私の夢って、なんなのでしょうか?」

「学校の先生になることじゃないの?」

「そう、ですよね。ごめんなさい、自分で言ったことなのに」

「別にいいけど……まったく、こんな時にパパは何をしているのかしら」

「え? どうしてお父さんが出てくるのですか」

「普通、親ってこういう時に相談に乗ってくれるものでしょ」

 

 それに加えて、学園祭の招待状を送ってあるのだという。

 二乃は来ることに期待していないような口ぶりだったが、それが強がりなことはすぐわかった。

 親の役割と聞いて思い出すのは、風太郎の言葉だ。

 

『俺は父親の代わりになろう』

 

 去年の秋、姉妹の母親の代わりになると語った五月に、風太郎はそう返した。

 顔が見たかった、声が聞きたかった。

 馬鹿なことを考えていないで勉強しろと、そんな風に一蹴して欲しかった。

 断ったはずの邪念が、首をもたげてきていた。

 

「じゃあ、あまり根詰めすぎないようにね」

 

 アメリカンドッグを食べ終えると、二乃は席を立って去っていった。

 勉強の邪魔にならないように配慮してくれたのだろう。

 五月は再び問題集を開くが、先ほどとは打って変わってペンの進みが遅い。

 すっかり集中力が切れていた。

 このままでは、約束の時間までに問題集が片付くか怪しいところだ。

 こんな時、風太郎ならばどうするのだろうか。

 

「上杉君……」

 

 日本には、言葉には不思議な力が宿るという考えがある。

 言霊という概念だ。

 延いては、噂をすれば影が差すという言葉にもつながるだろうか。

 

「お前、まさか学祭中も自習か?」

 

 名前を呟いたと思ったら当人が現れたというのは、少し出来過ぎじゃないだろうか。

 そんなことを考えながらも、五月は自分の気分が上向くのを確かに感じた。

 友達がいないのかと心配されたが、風太郎流の冗談というやつだろう。

 もし本気で言っているのなら、どの口案件である。

 知らず知らずのうちに口元がほころんでいた。

 

「じゃあ、あなたが一緒に回ってください」

「普通に忙しいから無理だ」

「わかってます。冗談ですから……三割くらい」

 

 上向いた気分を示すように、冗談が口をついて出る。

 少し本音が漏れてしまったが、三割は冗談なので問題ない。

 むしろ冗談成分の方が少ないのだが、それは気にしないことにした。

 

「埋め合わせと言ってはなんだが、後で何か持ってきてやるよ」

「え、いいのですか?」

「生徒が頑張ってんだ。教師としてそれぐらいはする」

「本当ですね? 約束ですよ!?」

 

 邪念は断つべきなのだが、風太郎の提案でそんな考えは吹っ飛んでしまった。

 しかし、自分でもわかりやすいと思いながらも、モチベーションが上がったのは確かだった。

 なによりも、こうして気にかけてもらえたことが嬉しくてたまらなかった。

 風太郎を見送って、問題集に意識を戻す。

 ペンの滑りは、すっかり元通りだった。

 

 

 

 

 

 しかし、いくらやる気に満ちていようと生理的な問題が生じる。

 即ち、空腹だ。

 風太郎の差し入れを頼りに食べ物への誘惑を断ってきた五月だが、時刻はもう昼過ぎ。

 朝食から優に六時間は経っているので、お腹の虫がうるさくて仕方がなかった。

 

「焼きそば~、からあげ~……じゃーん、たこ焼き!」

「結構本格的やーん」

 

 だから、食堂でこれ見よがしに食べ物を広げる生徒がいたとして、捕食者のようなオーラを発してしまったとしても仕方がないことなのだ。

 オーラどころか唸り声も漏れているのだが、五月は自分では気づかない。

 完全な無意識である。

 

「そ、外で食おうぜ」

「ああ、いい天気だしな……」

 

 ただならぬ威圧感と獣のような唸り声に、男子生徒は食べ物を手に退散していった。

 遅ればせながら自分が追い出してしまったことを理解して、五月は内心で反省した。

 しかしはしたないと思いつつも唸り声は止まらず、お腹の虫が集中を掻き乱す。

 新たに食べ物の匂いを嗅ぎ付けて、反射的に振り返ってしまっても無理からぬことなのだ。

 

「どうどう、落ち着け。差し入れだ」

「――待っていました!」

 

 それが待ち望んだ差し入れだったのならば、もう我慢の必要もない。

 五月は溢れるよだれを抑えるのも忘れて、風太郎に期待の眼差しを向けた。

 目の前に置かれたのはたこ焼きとフランクフルト。

 早速と手を伸ばそうと思ったが、ふとこの機会を無駄にしていいのかという考えが湧いた。

 問題集はあと一押しで終わるという段階に差し掛かっており、約束の時間まで一時間以上ある。

 そして食堂に他の人間はおらず、図らずも二人きりという状況である。

 中野姉妹の末っ子といえば、告白の際に結婚やその先にまで言及するやや重い部分が目立つ。

 しかしその一方で、普通の恋人関係に対する憧れも当然のように持ち合わせているのだ。

 自分達の関係が普通とはかけ離れたものであると理解してはいるが、それはそれである。

 

「私は手が離せないので、上杉君が食べさせてください」

 

 五月は、この勉強中だという状況を逆手に取ることにした。

 風太郎は正気を疑ってきたが、さもありなん。

 ちなみに、さっきからペンが止まっているが幸いにもそれを指摘されることはなかった。

 邪念あるいは煩悩でしかないのだが、これはご褒美の先取りなのだ。

 そう自分に言い聞かせ、五月は放り込まれるたこ焼きを堪能した。

 続いてフランクフルトを頬張り、食べ終える頃には何故か風太郎が疲弊していた。

 よっぽど学園祭の仕事がキツかったのだろうか。

 

「口の横、ソース付いてるぞ」

「拭いてください。私、手が離せません」

「……」

 

 流石に風太郎も何か言いたげな様子だったが、黙って応じてくれた。

 しかしこれは五月の立派な策略である。

 他のクラスには出回っていないが、三年一組内において学級長の噂はかなり広まっている。

 新学期に入る前だったらあくまでも噂に過ぎなかったのだが、最近になって火付けが行われた。

 他ならぬ二乃の、恋人を公言するかのような行為である。

 五月にはそうやって自分達の関係を見せびらかす趣味も性癖もない。

 かといって、校内でイチャつくのに羨望を覚えないわけではない。

 なので、この機会に自分の欲望を満たさせてもらうことにした。

 口元を拭くために近寄った風太郎をさらに引き寄せ、唇を奪う。

 誰にも見られていないこの場なら、こんなことをしても問題はないのだ。

 

「んっ……ご、ごちそうさまでした」

「……お前、何してくれちゃってんだよ」

「だ、だって二乃ばっかりずるいです! 私も上杉君と学校でキスしてみたかったんです!」

「調子乗んな、このっ」

「う~~、いひゃいれふ!」

 

 仕返しとばかりに両頬を引っ張られて、五月は思わず涙目になった。

 痛みで思わず睨みつけてしまうが、直後の風太郎からのキスによってあっさり上書きされた。

 驚きに見開かれた目は次第に緩み、何とは言わないがすっかり受け入れる態勢に。

 しかしその続きはなく、風太郎はデコピン一発残して行ってしまった。

 額を押さえながらも、五月はその耳が真っ赤になっているのを見逃さなかった。

 思わず笑みが漏れる。

 ご褒美は存分にもらったので、後はラストスパートをかけるのみだ。

 問題集の最後の大問に取り掛かろうとして、五月は甘い匂いが漂ってくるのに気づいた。

 この匂いはわたあめだろうか。

 

「いいねぇ、学園祭。十年以上前の記憶が蘇ってくるよ」

 

 しみじみと語りながら現れたのは、先日の講義で世話になった無堂だった。

 外の屋台で買ったのだろう、カラフルなわたあめを手に持っていた。

 

「無堂先生! その節はお世話になりました」

「おっと奇遇だね。君は、えーっと……中野五月ちゃんだったかな?」

 

 特に名乗った覚えはないのだが、五月の名前を把握しているようだった。

 有名な講師ともなれば生徒のことをよく見ているのだと、五月はますます尊敬の念を深めた。

 無堂も、この祭りの最中に問題集を開いている五月に甚く感動したようだ。

 またしみじみと、自分がかつて学校の教師をしていた時のことを語った。

 教師としての喜びを、苦悩を、そして一人の生徒を間違った道へと歩ませてしまった後悔を。

 五月にとっても他人事ではないので、つい聞き入ってしまう。

 無堂に憧れて同じ道を歩んだその生徒は、教師になったことを後悔したのだという。

 一瞬、自分のことを言われたのかと思ってしまった。

 五月は母に、そして風太郎に憧れて教職に就くことを目指している。

 憧れだけでは立ちいかない現実を突きつけられた気がした。

 

「そういえば、五月ちゃんも先生を目指してるって聞いたよ」

「元々は母の影響で……あ、母も学校の先生だったのですが――」

「ああ、よく知ってる。僕は彼女の担任教師だったからね」

「え?」

 

 無堂は言葉の意味を飲み込めていない五月に、なおも言葉を重ねる。

 五月は母の若い頃に、歪なほどそっくりなのだと。

 それで、ようやく五月は自分に向けられる妙な視線の意味に気がついた。

 あれは自分を見ていたわけじゃなく、自分の中の母の面影を見ていたのだと。

 

「君が憧れや愛執でお母さんの後を追っているだけなら、お勧めはしない」

「違います! 私は自分の意思で――」

 

 そこまで言いかけて、またあの疑問が降りかかる。

 自分は母になりたいのか、教師になりたいのか。

 この疑問のそもそもの発端は、下田に投げかけられた言葉だ。

 

『お嬢ちゃんは、お母ちゃんになりたいだけなんじゃないのか?』

 

 取るに足らない言葉ならば、こうも五月の心を揺らしはしない。

 核心を突かれたと思ったからこそ、頭の片隅でいつも問いかけてくるのだ。

 

「心当たりがあるようだね。きついことを言うようだが、これも君のためなんだ」

「……どうして、そこまで私に」

「さっき五月ちゃんに話した生徒の話は、君のお母さんなんだ」

「え……?」

「彼女は僕に憧れて似合わぬ教職の道へと進み、そして最後までその事を後悔していたよ」

 

『私の人生……間違いばかりでした』

 

 五月の脳裏に、母の言葉が蘇る。

 人生の後悔を語る彼女は、その直後に何を言っただろうか。

 

「す、すみません、この後約束があるので……」

「悩んでいるのならいつでも相談に乗るよ。きっと教師以外でも君に合った道はあるはずだ」

 

 明日も来ると言い残して無堂は去っていった。

 しばらく放心していた五月は、携帯のアラームが鳴って我に返った。

 約束の時間の十分前。

 それまでに終わらせようと思っていた問題集は、まだ大問が一つ残っている。

 ラストスパートをかける五月だが、そこからペンが進むことはなかった。

 

 

 

 

 

 無堂との一件はとりあえず深く考えないことにした五月だが、悩みの種はそれだけに限らない。

 悩みが大抵食べ物に起因するとは周囲の人間の評価だが、きっちりと年頃らしい悩みもある。

 それは例えば、姉妹と比べて肉付きのいい体の悩みだとか。

 もっともこれは遡れば食べ物に行き着いてしまうため、結局は一緒のカテゴライズか。

 その他で目下最大の悩みといえば、自らの家庭教師のことだろう。

 

『さっぱりわからん! お前ら、どうにかしてくれ』

 

 そんな情けない告白があったのは、昨日のことである。

 また道を踏み外しそうになっていることを感じた五月は、容赦なくその手を振り抜いた。

 ここまで姉妹に手を出した以上、そんな逃げが許されるはずがないのだ。

 そしてそんなことがあったにも関わらず、誰ともしれない女子と手をつないでいるとあれば、五月も笑顔でキレざるを得ないだろう。

 昨日に引き続きこの右手の出番かと思われたのだが、幸いにも誤解であることが判明した。

 

「ごめんなさいっ」

 

 竹林と名乗った風太郎の幼馴染は、五月達に向けて頭を下げた。

 少しからかいすぎたと反省しているようだった。

 それを言うのなら、五月にも熱くなりすぎたという自覚がある。

 意中の相手を名前で呼び捨てにする竹林に対抗して、自分もつい名前で呼んでしまった。

 あの呼び方は、いつか結婚した時にそう呼びたいなーと、心に秘めていたものだ。

 三玖のような妄想は抜きにして、ナチュラルに思考が結婚に行き着いているのが、五月が体重以外で重いと言われる要因である。

 

「身も心も深い関係なんだって?」

「……黙秘権を行使する」

「それ白状してるのと同じでしょ……はぁ、まさかこんな事になってるなんて」

 

 重ねてこちらに謝罪していた竹林だが、風太郎を諌める方向にシフトしたようだ。

 こうやって関係が知られてしまったのは、二乃の態度は元より五月の発言が原因か。

 二乃と三玖に同調するように深い関係であることを強調して、啖呵まで切ってしまった。

 実際にはもっと多くのギャラリーに目撃されていたのだが、そこまでは考えが至っていない。

 これもまた、五月がヒートアップしていたという証拠だろう。

 成り行きを見守っていた姉妹だが、その中で出た風太郎の先生という言葉が大いに気になった。

 

「あの、それって一体どういうことなんでしょうか?」

「あ、聞きたいですか?」

「ぜひっ」

 

 代表するように五月が尋ねると、竹林は応じてくれた。

 風太郎は自分の過去をあまり語りたがらないので、こうして聞ける機会というのは貴重なのだ。

 以前病室で尋ねた時は、宇宙人の襲来などというデタラメで誤魔化されてしまった。

 今回も嫌がるようなら控える気でいたのだが、止められるようなことはなかった。

 本人は席を外してしまったが、自分の過去を目の前で語られるのは恥ずかしいのだろう。

 

「みなさんから見て、風太郎はどんな人間ですか?」

「勉強魔人ね」

「体力がない」

「デリカシーもありません」

「うわぁ……一言たりとも褒め言葉がない」

 

 一応、勉強魔人は褒め言葉と取れなくもない。

 しかし二乃はそういうニュアンスで使っていないので、やっぱり褒め言葉はないのである。

 もちろん良い部分についても語れるのだが、それは自分が好きになった理由に直結しかねない。

 それをあけすけと語れるほど、中野姉妹は羞恥心を捨てていない。

 もう少しテンションが上がれば話は別だが、竹林とはほぼ初対面である。

 そういう雰囲気になるには交流が少なすぎた。

 

「今でこそあんな感じですけど、小学生の時は本当に問題児だったんですから!」

 

 髪を染めてピアスまでつけて、勉強なんてそっちのけのイタズラの常習犯。

 当時はガキ大将のような立場だったのだとか。

 傾向は違えど、今も大概問題児だと思ったのは五月だけではないだろう。

 ともかく、大体は以前病室で風太郎に聞いた内容と相違なかった。

 二乃なんかは不良時代の話に目を輝かせていた。

 ちょっとワルっぽいのが好みなのは、姉妹の全員が知るところである。

 度し難いと呆れる五月だが、たまに昔の風太郎の写真を眺めてニヤニヤしているのは内緒だ。

 

「だから、そんな風太郎が勉強を教えてくれって頭下げてきた時は驚いたなぁ」

 

 そんな問題児に変化の兆しが表れたのは、六年前の修学旅行の後。

 ある女の子と約束を交わした風太郎は、無心で勉強に打ち込み始めたのだという。

 無価値な自分を変えたいと、一つでも誇れる何かが欲しいのだと。

 そしてその努力の先にいるのが、今の風太郎なのだろう。

 一方で、約束を果たせなかった少女は……

 

『あはは……私、置いてかれちゃったのかな』

 

 昨日、四葉が漏らした言葉が蘇る。

 置いていかれたとは、何に対して言ったのだろうか。

 

 

 

 

 

「なんのご用でしょうか」

「昨日はすまなかったね。いきなりあんな事を言って、困惑させてしまっただろう」

 

 竹林の話が終わり屋台の仕事へ戻った五月の下へ、再び無堂が訪ねてきた。

 そして無堂は困惑する五月を連れ出し、校舎裏で昨日のことについて謝罪し始めた。

 そう、困惑だ。

 五月が無堂に抱く感情は、それに他ならない。

 かつての教え子の娘だからといって、五月個人とはほぼ赤の他人でしかない。

 そんな自分に、他にも多数の教え子がいるであろう無堂が関わろうとする理由がわからない。

 母の一件がよっぽど心残りなのか、それとも別に理由があるのか。

 その答えは、決して少なくない衝撃と共にもたらされた。

 

「君のお母さんは、かつての教え子であり同僚……そして妻だった」

「妻……じゃあ、あなたは……」

「そう、君のお父さんだ」

 

 にわかには受け入れ難かった。

 自分達をお腹に抱えた母を捨てて消えたはずの実父。

 それが今、目の前にいる。

 無堂はずっと我が子に会いたかったと、いつも想っていたと語った。

 こうして接触してきたのは、一花をテレビで見かけたのがきっかけだったのだという。

 

「み、みんなを呼びます」

「今は五月ちゃんと話しているんだ」

 

 一人では受け止められない事実に他の姉妹を呼ぼうとしたが、無堂がそれを許さない。

 こうして出会ったのは偶然ではないと、五月の悩みを解決するために引き合わされたのだと。

 

「今こそ父親としての義務を――」

「いい加減にしてください! 今更なんだというのですか!」

 

 五月の困惑が怒りに転化したのはその時だった。

 堰を切ったように、無堂を責め立てる言葉が口を衝いて出る。

 自分達姉妹と母を捨てた人間が、父親の義務などと口走るのだから無理もない。

 一人残された母の気持ちを考えると、到底許せるものではなかった。

 

「ごめんなさい!」

 

 自分を責め立てる五月に、無堂は地面に頭を打ち付けて謝罪した。

 自分の情けない行いを後悔している、全ては不甲斐ない自分の責任だと。

 気勢を削がれた五月は、言葉を続けることができなかった。

 

「私の罪は消えることはないが……もし許されるのならば、罪滅ぼしをさせてほしい」

 

 父親として娘にできることをしたい。

 そう付け加えた無堂に、五月の怒りは困惑へと逆戻りした。

 この土下座という姿勢がそうさせているのかもしれない。

 地面に打ち付けた部分から血が滲みだしていた。

 額から血を流す人間を責め立てられるほど、五月は非情ではなかった。

 

「……もう関わらないでください。お父さんならもういます」

「中野君か」

 

 拒絶の言葉は弱々しく、そして震えていた。

 対して無堂の言葉は低く、力がこもっていた。

 そしてその声のまま、五月の今の父を不合格と切り捨てた。

 親子には血の繋がりが必要不可欠だと。

 無堂の言葉を否定したかったが、今の五月にその圧を押し返すことはできなかった。

 

「お母さんが死んだ時、彼が君に何をしてくれた?」

 

 無論、何もしてくれなかったなんてことはない。

 バラバラになったっておかしくない五つ子を、まとめて引き取ったのだ。

 それだけでも十分感謝に値する。

 しかし、十全に寄り添ってくれたかというと、頷くこともできなかった。

 

「娘が亡き母の影を追い、同じく間違った道へと進もうとしている……」

「……」

「わかっているだろう? 学校の先生は君には不相応だと」

 

 間違いだらけだったと後悔する母の姿。

 それと自分の未来が重なってしまった。

 だからか、無堂に教師が相応しくないと断言されても、何も言い返すことができなかった。

 あの入試判定の結果こそが全てだったのではないのかと、そう思い込んでしまった。

 

「そんな君を父として見過ごすことはできない。この胸の愛が僕を衝き動かした!」

 

 無堂の語る白々しい愛など、五月の心には届かない。

 しかしその言葉は、五月の心に楔を打ち込んだ。

 

『私の人生……間違いばかりでした』

 

 何故なら、五月の進む道を否定するその言葉は――

 

『五月、あなたは私のようには絶対にならないでください』

 

 ――他でもない、母が言っていたことなのだから。

 五月の沈黙に、したりと無堂は頷いた。

 

「……上杉風太郎君だったかな? 聞いたよ、同級生が君たちの家庭教師をしているそうだね」

 

 そして、今度は風太郎のことにまで言及し始めた。

 無堂はその優秀さを褒め称えた。

 全国一位を取るほどの逸材、申し分のない成績だと。

 

「それだけに嘆かわしい……彼は若さ故の過ちに身を浸している」

 

 それが自分達の関係を指しているのだと、五月にはすぐにわかった。

 どこで聞きつけたかはわからないが、無堂は学級長の噂を把握している。

 

「どれだけ優秀でも、そんな人間のクズに君たちを預けることはできない」

「あ、あなたが一体彼の何を知っているというのですか」

「じゃあ、五月ちゃんは自分たちの関係が正しいと言い切れるのかい?」

 

 否定できなかった。

 歪な関係であることは五月自身が良くわかっているからだ。

 そしてそこが限界だった。

 縫い付けられたかと思っていた足が、ようやく動いてくれた。

 後ずさって、背を向けて走り出す。

 自分の夢や恋心を守るために、五月は無堂から逃げ出した。

 

 

 

 

 

「おう、帰ったか」

「親父、まだ起きてたのかよ」

 

 一花をマンションまで送り届けた後、帰宅してみれば親父が家の外で待ち伏せしていた。

 もう日が変わるような時間だというのに、何をしているのだろうか。

 

「四葉ちゃんは?」

「とりあえずは大丈夫だ。休んどけば問題ないそうだ」

「そうか、そりゃ良かった」

 

 まずは倒れた四葉の心配をした親父だったが、その本当に気にしている所は別にあるのだろう。

 中野姉妹の実の父親だという、無堂という男。

 親父はその動向を気にしているようだった。

 俺も日中に三人の様子を伺ったが、少なくともその時点ではおかしな様子は見られなかった。

 まぁ、それとは別の要因で大変な目にあったりもしたが……

 

「五月ちゃんは大丈夫だったか?」

「少なくとも俺が顔を合わせた時点ではな」

「奴が接触してくるとしたら、一番可能性が高いのは五月ちゃんだ。お前も気にかけてやれ」

「なんでそんなことがわかるんだよ」

「そりゃあお前、学園祭以前に接触してるからだよ」

 

 聞けば、塾の講義の際に既に顔を合わせているのだとか。

 その時は大した会話もなかったそうなのだが、なんで親父がそんなことを知っているのか謎だ。

 とはいえ、それが本当ならば明日は一層五月の様子に気を配るべきだろう。

 しかし、最初から無堂の存在を知っていれば、もう少しマシな対処ができただろうか。

 一日目の途中、無堂は俺の案内で校舎に……正確に言うのなら食堂に入っていった。

 その後の集まりでも、五月におかしな様子がなかったから気にしていなかったが、その時に接触した可能性は十二分にあるのだ。

 とりあえずは明日、本人に改めて聞いてみるとしよう。

 

 

 

 

 

「五月が来てない?」

「そうよ、今日はもう最終日だっていうのに……」

「昨日も声かけたんだけど、外に出たくないって」

 

 学園祭の最終日。

 女子と男子の協力でパンケーキの屋台が盛り上がる中、二乃と三玖を連れ出して事情を聞く。

 二人の口から語られた五月の様子は、明らかに何かがあったことを示していた。

 昨日竹林と話していた時はまだ普通だった。

 何かがあったとすればその後、俺と別れてからだ。

 なんでもっと気にかけてやれなかったのかと、悪態が口をついて出そうになる。

 これが傲慢であることはわかっている。

 二日目もずっと暇だったとは言えないし、常に五月についているなんて実質不可能だ。

 だとしても、好きな女が塞ぎ込んでいるという事実に怒りが湧いてくる。

 何もできなかった自分と、その原因に対してもだ。

 

「そうか、どうりで探してもいないはずだ」

 

 背後から、聞き慣れない声が耳を打った。

 振り返ると、警戒対象である無堂仁之助が暢気にソフトクリームを舐めていた。

 額に絆創膏を貼り付けて、堂々と五月に会いに来たなどと口にしやがった。

 

「フータローの知り合い?」

「五月に言伝があるならお聞きしますが」

 

 当然、何も知らない二人に特別警戒などできるはずもない。

 俺は無堂が二人に話しかける前に、間に割り込んだ。

 もしこいつらを傷つけるような発言をされたら、俺自身が我慢できないかもしれない。

 

「もしかして、五月に何か言いました?」

「怖いなぁ、これあげるから許して」

 

 警戒心を隠さない俺に対して、無堂は食べかけのソフトクリームを渡してきた。

 ……完全に舐めてやがるな。

 五月に現実を教えただけとか、それが自分の勤めだとか抜かしているが、今まで全てを放り出していた男が今更何を言っているのだろうか。

 言いたいことはあったが、俺は家族の問題に関しては部外者だ。

 苛立ちと共に言葉を飲み込んだ。

 

「ところで、君が上杉風太郎君かな?」

「そうですが、俺が何か?」

「いいや、君は噂通りの人物のようだね」

 

 無堂は俺と、そして後ろの二人に目を向けて言った。

 その言葉には好意的な響きは含まれていなかったように思える。

 しかしその噂が例の学級長の噂だとするのならば、残念ながら返す言葉がない。

 今の所二乃と三玖には用はないのか、無堂は出直すと言って去っていった。

 奴の思惑がどうであれ、これで俺のやるべきことは定まった。

 

「三玖、悪いがこれを本部まで届けてくれ」

「え、うん」

 

 安全点検のチェック表を三玖に渡す。

 他にも仕事があるが、そちらは後回しにさせてもらおう。

 

「待ちなさい。これ、持って行きなさいよ」

 

 この場から去ろうとすると、二乃からマンションのカードキーを渡された。

 五月の所に行こうとしていることは、すっかり見抜かれているようだ。

 

「私以外の子にってのがちょっと気に食わないけど、そんなとこも好きよ」

「フータロー、こっちのことは私たちに任せて」

「ああ、行ってくる」

 

 

 

 

 

 勝手知ったる人の家というわけではないが、このマンションへの出入りも慣れたものだった。

 エレベーターを抜け、中野家のドアを開ける。

 靴は一足……五月はやはり家にいるようだ。

 リビングに入ると、こちらに背を向けて座る姿。

 絶え間ない筆記音が、何をしているのかを如実に伝えてくる。

 五月は、テーブルに向かって一心不乱に勉強をしていた。

 

「五月、お前……」

「上杉君……こんなこと意味がないというのに、私は何をしているのでしょうか……」

「あのおっさんの言うことなら真に受けるな。どうせ適当なことを言ってるだけだ」

 

 そう、あんな赤の他人同然の人間の言うことなど、気にかける必要はないのだ。

 こいつはその性格から、聞き流すことができなかったのだろう。

 しかし、五月は首を横に振って否定した。

 

「お母さんもあの人のように、私のようにはなるなと言っていたんです」

 

 無堂は母の後を追うことを否定し、そして母も自分の二の轍を踏むなと言った。

 それで納得した。

 あの男の言うことに、こいつの母親の言葉が重なったからこそ、こんなにも動揺しているのだ。

 五月は涙を流しながら、それでもと続けた。

 

「お母さんを目指すことを諦められない……こんな私は、間違っているのでしょうか?」

 

 それが間違いであるかどうかなんて、俺には判じようがない。

 ただ一つだけ言えることがあるとすれば……

 

「お前の母親が言ったことも理解できる。教師なんてなるもんじゃないからな」

「え?」

「優秀な生徒だけじゃなく、中には想像を絶する馬鹿だっているだろう」

 

 中野姉妹の当時の成績は、五人合わせて百点という悪夢のような状態だった。

 あまりの惨状に、思わず絶句したのが懐かしい。

 

「他人と関わる以上、時には自分のポリシーも曲げなきゃならん。言っておくが、絶対疲れるぞ」

 

 気に入らない相手と、無理にでも笑顔を作って接しなければいけないこともある。

 らいはとこいつと三人でプリクラを撮ったりなんかは、その最たる例だろう。

 

「中には反抗的な生徒もいるだろうが、そんな時も逃げ出さずに向き合わなければならない」

 

 そして試験前の大事な時期だというのに反抗してくる生徒。

 向き合うために、嘘を弄したりもした。

 

「はっきり言って俺はもうこりごりだ。教師なんて絶対なるもんじゃない」

 

 苦労に対して得られる成果が全く釣り合っていない。

 こんな仕事は、はっきり言ってやるべきじゃない。

 この一年間の経験だけでも、俺はそう断言できる。

 それが実際に教職に就いた無堂やこいつの母親の言葉なら、より真実味があるのかもしれない。

 その上で、俺は五月にこの言葉を贈ろう。

 

「だが、どれもこれも他人の戯言だ。聞き入れる価値なんかない」

 

 そうだ……俺の言葉も無堂の言葉も、そして母親の言葉ですら関係ない。

 何故なら、自分で決めるとはそういうことなのだから。

 誰になんと言われようとひたすら突き進む……それで全国一位を取った奴だっているのだ。

 真面目で頑固で、きかん坊な上に負けず嫌い。

 自分の意地を張り通すのに、こいつほどうってつけな人間もいない。

 

「どれだけ逆風だろうと、進むも諦めるもお前が決めろ。それがお前の夢ならな」

「……私はお母さんになりたいだけ……そう言われたことがあります」

 

 それで自分の夢が母親と教師、どちらに向いているのかがわからなくなったのだという。

 母親のような人間を目指すだけなら、教師以外にも道はあるのではないのかと。

 なるほど、確かにその通りだ。

 五月が迷ってしまうのも無理はない。

 しかしながら、俺はこいつが教師を目指すちっぽけな理由を知っている。

 それを吐き出させるために、俺も自分の内をさらけ出そう。

 何故なら曲がりなりにも俺は教師で、お手本を見せる必要があるからだ。

 

「……俺の親父はすげー奴でな。どんな時でも笑ってるんだ」

 

 お袋に先立たれても、借金と俺とらいはを背負って踏ん張ってきた。

 金がなくとも、親父はそれすら豪快に笑い飛ばしてきた。

 かつての俺は、そんな男に憧れていた。

 

「だからガキの頃の俺は髪を染めて、見た目だけ真似をして強い男になった気でいたんだ」

 

 でも俺はあの子と出会って、自分の進む道を見つけた。

 髪を染めるのもやめて、ピアスも外した。

 上っ面だけを真似る無意味さに気づいたからだ。

 そしてそんな憧れも忘れる程に勉強に打ち込んだ。

 だけど、それはなくなってはいなかった

 思い出せたのは、こいつらと過ごした時間があったからだろう。

 

『あなたは将来のことをどこまで考えていますか?』

『具体的になりたいものとかはないんですか?』

 

 修学旅行で、五月に投げかけられた問いだ。

 具体的な答えは今もない。

 誰かの役に立つ、必要とされる人間になりたいのは変わらない。

 しかし、あの時の返答に付け加えるのなら――

 

「俺は親父のように、自分の大事なもの全てを背負っていけるような強い男になりたい」

「……」

「お前の母親は、どんな人間だった?」

「お母さんは強くて、凛々しくて、優しくて……私の理想の姿です」

「ならそれが真実だ。突然現れたおっさんなんかより、ずっと傍にいた自分の中の母親を信じろ」

 

 無堂の言うことが真実だとしても、それはあの男から見たものに過ぎない。

 そしてそんな古いものに、死に際まで寄り添った中野姉妹の真実が負ける道理はないのだ。

 

「なら私は母と教師と……どちらを目指せばいいのでしょうか」

「それこそ愚問だな」

 

 母親の墓前で、五月は先生になりたいという夢を語った。

 姉妹に勉強を教えることで、その喜びを知ったのだと。

 その時の気持ちを大切にしたいと言っていたはずだ。

 そしてらいはに勉強を教える姿に、俺はこいつが目標にまっすぐ進んでいると感じた。

 

「ちっぽけだとしても、お前には母親以外にも教師を目指す理由があるんじゃないのか?」

「……そうでした。たとえちっぽけでも、私はあの時の気持ちを大切にしたい」

「ならどうする? 重ねて言うが、結局最後に決めるのはお前自身だ」

「私は……お母さんのような先生になりたい! 母も教師も、自分自身の意思で目指します!」

 

 最早その目に涙はなかった。

 生徒の進むべき道が決まったのなら、教師である俺にできることは一つだけだ。

 

「ふふ……いいこと思いつきました。上杉君――」

 

 五月が手を打つ。

 それは、学食での最悪の出会いのやり直しか。

 

「――勉強、教えてください」

「ああ、もちろんだ」

 

 ここに来るまでに、どれだけぶつかり合っただろうか。

 百歩譲って赤の他人、利害一致のパートナーを経て、友人と認められるまでになり……

 

『上杉風太郎君、あなたが好きです。結婚を前提にお付き合いしてください』

 

 今の関係は、一体何と言えばいいのだろうか。

 少なくとも、世間一般で言う恋人関係とは言い難いのは確かだ。

 

「でもその前に、あの人と決着をつけなければいけませんね」

「もう大丈夫なのか?」

「わかりません……だから」

 

 五月の手が、俺のシャツの裾をそっと掴んだ。

 俯いた横顔は赤く、それで大体何を求めているかを察してしまった。

 

「つ、つきましては……勇気をもらえたり、しないかと」

「……背中でもさすろうか?」

 

 が、応じてやるには少々辛い事情が俺にはある。

 昨日の夕方は二乃、夜は一花、そして今朝は三玖とである。

 はっきり言って体力がヤバい。

 このままホイホイと応じていたら、俺がぶっ倒れかねない。

 穏便に済むのなら、それにこしたことはないのだ。

 

「そ、そういうのではなく」

「なら頭でも撫でようか」

「それも魅力的ですがっ」

「仕方ない、少し恥ずかしいが手をつないでいくか」

「わざと言ってますよね!?」

「……なんのことやら」

 

 睨みつけてくる五月に対して、俺は目を背ける。

 シャツを掴む力は明らかに強くなっていて、どう考えてもこのままでは離してくれそうにない。

 そして痺れを切らした五月は、ついに決定的な言葉を口にした。

 

「セックス! したいです!」

「……お前、恥ずかしくねーの?」

「恥ずかしいに決まってます!」

 

 それを示すように、五月の目はなにやらぐるぐるしていた。

 どうやら恥ずかしさが限界突破しているらしい。

 

「恥ずかしいですけど……あなたと肌を合わせていると安心できるんです」

「あー……」

「ううううう……」

「……」

「ううううううう……」

 

 それならハグで十分なのでは?

 そう思わなくもなかったが、どうも俺はこいつの唸り声に弱いらしい。

 唇を塞いで唸り声を止めると、手を引いて階段を上がっていく。

 柔らかい寝床なら、少しは体力の消耗も抑えられるだろう。

 

 

 

 

 

「それでは、行ってきます」

「ああ、また後でな」

 

 風太郎と別れて、五月は校内を進んでいく。

 向かうのは姉妹との集合場所だ。

 無堂と対峙するにあたって、事前に話しておきたいことがあったのだ。

 広場を抜けると、四人の姿が見えてくる。

 

「五月! もう大丈夫なの?」

「四葉こそ。体調が戻ったようで安心しました」

「うっ、心配かけてごめん……」

「全くよ。あんたも五月も、どれだけ心配かけたと思っているのかしら」

「「ごめんなさい」」

 

 目が笑っていない笑顔を浮かべる二乃に、二人は即座に頭を下げた。

 二乃は二人の頭を小突くと、小さくため息をついた。

 

「でもまぁ、とりあえずは平気そうね」

「意訳すると、二人が無事で嬉しいってところかな?」

「一花っ」

「さっきまですごいソワソワしてた」

「三玖っ」

 

 五月と四葉は、顔を見合わせて笑った。

 二乃はいつもどおり、素直じゃないようだ。

 そっぽを向く二乃に一頻り笑い合うと、五月は本題を切り出した。

 

「みんなにも見届けて欲しいんです」

 

 

 

 

 

「こんにちは、無堂先生。五月です」

「やぁ、まさか五月ちゃんの方から来てくれるとはね」

 

 長い髪に星の髪飾り。

 五月の姿を認めると、無堂はベンチから立ち上がった。

 どうしたらいいのかと縋り付いてくる我が子に、道を示すのが父親の役目なのだと。

 

「お母さんの幻影を追うのはやめて、君は君の道を進むべきなんだ」

「……なぜ、今になって私の前へ?」

「ずっと罪の意識を抱きながら、君たちのことを想っていたさ」

 

 ようやく父親らしいことをしてやれる日が来た。

 血の繋がりが引き合わせたのだと、無堂は陶然と語った。

 遮るように、豪快な笑い声が響いた。

 

「ガハハ、父親だって? 笑わせんな!」

 

 現れた男女二人に、無堂は見覚えがあった。

 上杉と下田……共に、かつての教え子である。

 下田とは塾の講義の際に顔を合わせているが、上杉とは卒業以来だ。

 不良だった当時のまま大人になったような印象を覚えた。

 

「うーっす先生、ご無沙汰」

「つっても、用があるのはうちらじゃないんだけど」

 

 二人の背後から現れたのは、同じくかつての教え子である中野マルオだった。

 母を亡くした五つ子を引き取った、育ての親でもある。

 

「無堂先生、お元気そうで」

 

 不動の学年一位にして生徒会長を務め上げた優等生。

 その表情の読めない、人を食ったような態度は学生の頃と変わっていない。

 無堂は昔からそれが気に食わなかった。

 それを表に出すことはせず、あくまで余裕を崩さずに笑う。

 

「中野君、君にも改めて謝る機会ができて良かった。今まで苦労をかけたね」

「いえ、あなたには感謝しています」

 

 その無責任な行いこそが、自分と娘達を引き合わせたと。

 マルオは冷ややかな声で、皮肉を叩きつけた。

 

「どうだろう? お世辞にも君が父親としての役目を果たせているようには思えないが」

 

 無堂の余裕に嫉妬と苛立ちが混じり始める。

 あくまでもお前は偽物の父だと突きつけるように、五月が自分を頼ってきた事実を強調した。

 しかしマルオに堪えた様子はなく、むしろ疑問符を浮かべていた。

 その様子に無堂は哀れみを抱いた。

 マルオが現実を受け入れられずに逃避しているのだと、そう解釈した。

 しかし、真実が見えていないのは無堂の方だった。

 

「よく見てください。ここに五月君はいない」

 

 目を見開いて、五月と名乗った少女を見つめる。

 かつての妻の面影がある顔立ちに、長く伸びた髪、そして一対の星型の髪飾り。

 どれもが無堂の知る五月の特徴のはずだった。

 ここまでそっくりな人間が早々いるはずがない。

 そこまで考えて、ようやく一つの可能性に思い至る。

 姉妹によるなりすまし――それを裏付けるように、物陰から髪飾りを外した五月が顔を出した。

 

「騙してしまいすみません。ですが、こうなることはわかっていました」

 

 ただ間違えただけに過ぎない。

 無堂が他人でいるのならばそれで済まされただろう。

 だが五つ子への愛を語るのなら、ただの間違いでは済まされない。

 たとえ三玖が五月のふりをしていたのだとしても、すぐに見抜くのが家族なのだ。

 姉妹を引き連れた五月は、無堂に母の言葉を突きつけた。

 愛があるからこそ、自分達を見分けられるのだと。

 そしてそれは、無堂にとっては正しく呪いの言葉だった。

 

「また彼女の話か! いい加減にしろ!」

 

 何かに責め立てられるように余裕を失った無堂は、声を荒げさせた。

 そんなものは妄言に過ぎないのだと。

 五月に対して、母の後悔を思い出すようまくし立てた。

 

「お母さんが後悔を口にしていたことは覚えています」

「そうだ、君のお母さんは間違った! 君はそうなるな!」

「私は、そうは思いません」

「他でもない零奈自身の言葉だぞ! 君がどう思おうと――」

「ええ、関係ありません」

 

 そう、無堂の言葉も母の後悔も関係ない。

 たとえ誰が否定しようとも、五月の中の真実は変わらない。

 

「お母さんは私たちに、惜しみのない愛を注いでくれました」

「そんな母の人生が間違っていたはずがありません」

「もし母自身が否定するのなら、それを否定します……他の誰でもない、私自身が……!」

 

 五月は毅然と言い切った。

 他の姉妹は、その姿に母の面影を見た。

 いつも自分たちの前に立っていた、強く優しい母の姿を。

 

「子供が知ったような口を……」

「あなたこそ、知ったような口ぶりで話すのですね」

「……どういう意味だ、中野君」

「彼女が……零奈さんがあなたの裏切りに傷つき、後悔したのは事実」

 

 しかし、逃げ出した無堂が知っているのはそこまでだ。

 自分の娘たちとの日々が、零奈にどれほどの希望をもたらしたのかは知る由もないのだ。

 故にと、マルオは無堂を切り捨てる。

 

「あなたに彼女を語る資格はない……!」

 

 静かな声、しかし表情には確かな怒りが滲み出ていた。

 その鉄面皮が剥がれるほどの激情に、二乃は母への愛を確かに感じとった。

 

「ふざけるな! 私が何も見えていないだと? それは君も同じじゃないか!」

「これ以上、見苦しい真似はよしていただきたい」

「ならば君は知っているのか? 娘たちを誑かす男がいることを!」

「……」

「とんだお笑い種だ! 他でもない君があてがった家庭教師がそうなのだから!」

 

 中野姉妹の表情が強ばる。

 よりにもよってのタイミングである。

 無堂という男の悪辣さが滲み出ているようだった。

 その中にあって、五月は一人静かに無堂を見据えていた。

 

「これは、私たち家族の問題だったはずです。彼は関係ないのでは?」

「父として、娘に寄り付く悪い虫は見過ごせないからね」

「あなたはこの期に及んで……」

 

 あれだけ言われようとも父を名乗る無堂に、五月は呆れ果てた。

 それならばと、足早にどこかへ向かっていく。

 そして遠くの物陰に隠れた人物を引きずり出すと、手を引っ張って連れて戻ってきた。

 

「おい、五月! なんで俺が――」

「この場にいる皆さんに紹介します。彼は上杉風太郎君、私が将来結婚を考えている男性です!」

 

 

 

 

 

『これはあくまで私たち家族の問題です。だから、今回は遠くから見守っていてください』

 

 五月にそう言われ、俺はその通りに会話が聞こえない程度の遠くから成り行きを見守っていた。

 見守っていた……はずなのだが。

 

「この場にいる皆さんに紹介します。彼は上杉風太郎君、私が将来結婚を考えている男性です!」

 

 その場にいる全員の視線が、俺に集中する。

 親父とその隣の女性の唖然とした目。

 おっさん、もとい無堂の好意的とは程遠い目。

 五月の期待がこもった目に、他の姉妹のどういうことだコラという目。

 そしてなにより恐ろしいのが、中野父の一見感情が見えない目だ。

 断言しよう、あれは確実にキレている。

 五月の紹介だけならまだしも、昨日病院で二乃にも紹介されたばかりなのだ。

 なんで俺はいきなりこんな死地へ放り込まれたんだ……

 

「君の噂は聞いているぞ。公衆の面前で娘を泣かせていたようだね」

 

 他にも深い関係がどうとか言っていたとか、明らかにあの屋台の前での出来事が発端だ。

 こんなおっさんの耳にまで入っているということは、最早校内で相当に広がっているのだろう。

 この学園祭というフィールドの特殊性を加味しても、頭の痛い事実だった。

 

「君の責任だぞ、中野君! 君の無関心が、このような事態を招いた!」

 

 確かに中野父が意図的に、娘達との関わりを断っていた部分もあるのだと思う。

 俺自身に責任があるのは明らかだが、なにより自分自身の責任を感じているのだろう。

 中野父は黙って無堂の言葉を聞いていた。

 

「ああ、娘たちもかわいそうに! 僕がいれば、決してこんな目には合わせなかったというのに」

 

 こいつらの気持ちを勝手に決めつけられるのは業腹だが、決して否定できない部分もある。

 俺の優柔不断が中野姉妹を苦しめていない、なんて思えるほど俺は楽観的じゃない。

 

「なにより僕は君が哀れだよ……好き好んでこんな人間のクズになったわけではないだろうに」

 

 俺が悪いことは俺自身がよく理解しているため、こんなことを言われようとも平気だ。

 それよりも、親父や中野姉妹の反応が問題だ。

 明らかにキレかかっている。

 一応手で制したが、いつまで我慢が続くか。

 そしてなにより、中野姉妹が俺に向けてくる不満の視線が辛い。

 いつまで言わせておくんだと、そう言いたいのだろう。

 しかしながら、事実を並べ立てれば俺は複数人の女性に手を出している男だ。

 そこに言及されている以上、俺の発言に正当性はない。

 そもそもいきなりこんなところに連れてきて、俺に何をしろというのか。

 

「上杉風太郎……なるほど上杉君、君の息子か! 確かに面影がある!」

 

 俺自身はどう言われようと構わない。

 中野姉妹に関しても舌を噛んででも耐えよう。

 中野父に関しては、口を出すのがおこがましい。

 

「クズからはクズが生まれる……道理だ! 人間のクズの息子は人間のクズだというわけだ!」

 

 だけど、それだけは聞き流せなかった。

 

「あ? テメー今なんつった?」

 

 胸ぐらを掴んで、近くの柱に叩きつける。

 こんな暴力的な衝動に駆られたのは、何年ぶりだろうか。

 握り締めた拳が軋むほど、力が入る。

 

「な、なにを――」

「全部投げ出して逃げた出したテメーが、今更ノコノコ現れて父親面するテメーがっ! 全部背負って踏ん張ってきた親父を馬鹿にするってのか、ああっ!?」

「ひっ――」

 

 無堂の怯えた顔。

 しかし、激情と共に振りかぶった拳が無堂を打ち付けることはなかった。

 興奮する俺の腕を掴んで止めたのは、中野父だった。

 

「やめたまえ、これ以上は君の経歴に傷がつく」

「……すみません」

 

 無堂を放して距離を取る。

 近くにいたら、また激情に駆られかねない。

 学園祭の喧騒は遠く、先ほどとは色合いが変わった視線が突き刺さる。

 中野姉妹の不安げな表情。

 思えば、こんな暴力的な面を見せたことはなかった。

 怯えさせてしまっただろうか……幻滅させてしまっただろうか。

 これで、こいつらが離れていくこともあるのだろうか。

 想像したら、胸の内に耐え難いほどの痛みが走った。

 結局、俺は悪ガキをやっていた頃から変われていないのかもしれない。

 そっと、握ったままの拳に誰かの手が触れる――五月だった。

 何も言わずに、微笑んでくれた。

 ……そうだな、言われっぱなしじゃ格好がつかないよな。

 握り拳を解く。

 せめて、ここに引っ張り出してきたこいつの信頼には応えるとしよう。

 

「あんたの言うとおりだ。いくら勉強ができようと、俺はロクでなしのクズだ」

「だが、どんなに重かろうと俺は投げ出さないし逃げ出さない」

「そんな男になるのが、昔からの俺の目標だからだ」

 

 言いたいことは言った。

 後の決着は中野家に任せよう。

 五月の肩に手を置いて、その場を後にする。

 その最中に、背中に声がかかる。

 

「君には言いたいことが山積みだが……上杉君、改めて感謝しよう。正直、胸のすく思いだった」

 

 どうやらこの場は見逃してもらえるようだ。

 中野父の気が変わらない内に去るとしよう。

 

 

 

 

 

「……さて、まだ話し合いますか?」

「と、当然だ! あのクズに関しては何も解決していないのだからね」

「確かにそのとおり」

 

 マルオは無堂の主張に静かに頷いた。

 そして姉妹を呼び寄せると、自分の前に並ばせた。

 

「これから君たちに質問させてもらうが、答えてくれるかい?」

 

 中野姉妹は気まずげに頷いた。

 ここまで来た以上、最早隠し通すのは不可能である。

 マルオは姉妹の了解を得たことに頷くと、無堂に向き直った。

 

「では、そういうことですのでお引取りを」

「何を言う! 僕には父としての役目が――」

「家族の話し合いです。部外者には引っ込んでいてもらおう」

 

 あくまで部外者でしかないと、マルオは突きつけた。

 無堂は一歩後ずさる。

 もはや付き崩しようがないほどの圧を感じていた。

 縋るように、五月へ目を向ける。

 

「……無堂先生、私はあなたに期待していたことが一つだけありました」

「やはり、君は血の絆を信じてくれるんだね……!」

「でもここまで来て、あなたは一言も母への謝罪を口にしてくれませんでしたね」

「――っ!」

「私はあなたを許しません。罪滅ぼしの道具にもなりません」

 

 無堂が許されることは永遠にない。

 これからも母への罪悪感で苦しんで生きるのだと、五月は言い放った。

 そして逃げるように離れていく背中を、舌を出して見送った。

 

「いやぁ、ハラハラしたよ……」

「やるじゃない、五月」

「かっこよかった」

「ししし、大金星だね!」

「みんなのおかげですよ」

 

 姉妹は寄ってたかって五月を労った。

 しかし、家族会議の最中であることは忘れていた。

 マルオの咳払いで、再び一列に並ぶ。

 

「……君たちは、上杉君に対して異性としての好意がある……そうなのかい?」

 

 勢いに差はあれど中野姉妹は全員首を縦に降った。

 マルオは目を手で覆って空を仰いだ。

 心の中で最愛の人の名を呼んでみたりもした。

 

「では上杉君は君たちと、恋愛関係を築いていると解釈しても相違ないのかな?」

 

 改めて父の前で話すことに羞恥を覚えたのか、姉妹全員が頬を染めた。

 マルオは頭を抱えた。

 何故こんなことになったのだと、心の中で嘆いた。

 これが姉妹の一人となら認めて祝福しただろう。

 実際昨日は二乃の報告に、二人の仲を認めている。

 しかし蓋を開けてみれば五人全員である。

 風太郎の能力に関しては疑う余地がないし、人柄についてもある程度認めている。

 しかし、これはあまりにも道から外れすぎている。

 無理やり引き離すのは簡単だが、そうしたところで何も解決しないのは目に見えていた。

 

「……わかった。後は後日、彼の口から直接聞くとしよう」

 

 マルオが解散を宣言すると、姉妹は恐る恐る屋台が並ぶ通りへと消えていった。

 手を振ってくる五月に手を振り返して、下田がポツリと漏らした。

 

「いやー、うちら本当にいるだけだったな」

「……だな」

「で、いつまで上向いてるんだよ、上杉」

「いーや、ガキの成長ってのは目にしみるもんだと思ってな」

「ふふ……結構良い息子なんじゃねーの?」

「全く賛成できないね」

 

 下田の言葉にマルオが反論した。

 そして次には勇也に噛み付いた。

 まるで学生時代に戻ったようだった。

 ため息混じりの苦笑とともに、下田はそれを見守った。

 

(零奈先生、見ててくれたかい? あんたの娘さんたちは立派にやってるよ)

 

「そもそも君の育て方がだな――」

「いや全く、どうしてあんなことになったんだろうな?」

「上杉!」

 

「ま、なんか男女関係は妙な事になっちまってるみたいだけどな!」

 

 

 

 

 

 重たい体を引きずって、運営の本部へ向かう。

 これからのことを考えると少しどころでなく頭が痛いが、今は学園祭の最中だ。

 穴を空けていた分、仕事が溜まってるはずなのだ。

 いやでもしかし……本当に辛い。

 さっきはアドレナリンが出ていてあまり気にならなかったが、疲労が限界突破している。

 階段に座り込んで手すりにもたれかかる。

 もう座れるならどこだって良かった。

 少し、休もう。

 

「あ、ここにいましたか」

「……五月か」

 

 姿を見せたのは五月だった。

 晴れやかな顔をしている。

 これは、無事解決したと見てもいいのだろうか。

 

「終わりました……あなたのおかげです」

「俺は勝手にキレ散らかしただけだ……すまん、恐がらせちまったよな」

「たしかに驚きはしましたが、あなたが家族を大切にしていることがよーくわかりました」

「……うるせー忘れろ」

「ふふ……ああやってあなたが怒ったことに、他のみんなも安心していましたよ」

「よせ、あんなのみっともないだけだ」

 

 さっきのあれは黒歴史中の黒歴史だ。

 できれば自分の記憶からも消してしまいたい。

 つーか、こいつは一体何をしに来たんだ。

 

「改めてお礼を言わせてください」

「だから俺はほとんどなにもしてねーって」

「いいえ、あなたには大切なことを教えてもらいましたから」

 

 母が亡くなって、その代わりを努めようとしたこと。

 そうすることで自分と母を混同し、夢を見失っていたこと。

 母は母で自分は自分。

 それをはっきりと認識できたからこそ、母親の後を追っていけるのだという。

 俺のおかげだと言うが、ほんの口添えをしたに過ぎない。

 いつだって、答えを見つけるのは自分なのだから。

 

「ありがとうございます……んっ」

「……今のは?」

「お、お礼とご褒美のキスということで!」

「さっき散々したと思うんだが」

「あ、あれはまた趣が違うと言いますか……」

 

 まぁ、確かにこれぐらいの方が体力を奪われる心配もないから安心できる。

 だからもういい加減少し休ませてくれ……

 

「それで、あの……上杉君?」

「……まだ何かあるのかよ」

「えーっと、あの、その……私もそろそろ……」

 

 話が全く見えてこない。

 というか、もう脳みそがストライキを起こしたがってる。

 強制的に機能停止される前に、一刻も早く休みたい。

 半開きの視界の端で、五月が一度大きく深呼吸をした。

 

「全部全部、君のおかげ。大好きだよ、風太郎!」

 

 脳が眠りにつこうとする中、ごりっと新情報が突っ込まれる。

 こいつ今、なんて言った?

 

「……今喋ったのお前?」

「そ、そうです――だけど……変です、かな?」

「まず最初に戸惑うわ」

 

 なんかもういつもの口調と混じって、変どころじゃなくなっている。

 なんでいきなり新しいキャラを開拓しようとしてるんだ、こいつは。

 

「これは母脱却というか、将来的にも結婚したらを想定してというか……」

 

 はっきり言って居心地が悪いから、普段通りにしていて欲しい。

 しかしまぁ、また将来だの結婚だのと……

 

「五月」

「な、なにっ?」

「重い」

「もう! そんなこと言わないでくだ……言わないで!」

 

 だけどそんな重さが心地よく感じて来たのは、ここだけの内緒だ。

 

 

 




とりあえず審判の日は先延ばしになった模様。
さぁ、どうやってマルオさんを説得しようか……

次は四女の話になると思います。
溜まった鬱憤が爆発するかもしれません。


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最後の祭りが四葉の場合

昔書いたSSを読み返すと結構楽しめて困ります。
まぁ、趣味で書いたものだから、自分が楽しめてこそなのかもしれませんが。

ちょっと間が空いたけどお久しぶりです。
途中なんとなーく暗めの雰囲気になるかもですがご容赦ください。
この前のが最長と言いましたが、記録更新します。

四女が喪失する話です。


 

 

 

「四葉ちゃんと上杉君が付き合ってるってホント?」

 

 そんな噂が流れ始めたのは、三年一組の学級長が決まった直後だった。

 というよりも、その学級長が決まった一連の流れこそが原因だろう。

 学級長は各クラスに男女一人ずつ。

 四葉が立候補してさらに風太郎を推薦し、対立候補がいなかったためそのまま決定である。

 わざわざ学級長なんて柄じゃない風太郎を推したのが、余計な勘ぐりを招いたらしい。

 その当時にありえないと四葉は否定したが、学級著の噂は半年経っても消えていない。

 

「ねぇ見た? 三玖ちゃん上杉君にお弁当渡してたよ」

「そういえば、一花ちゃんって上杉君と一緒に登校してくること多くない?」

「この前ケーキ屋さんで二乃ちゃんと上杉君、仲良さそうにバイトしてたんだってー」

「五月ちゃん、休み時間になると上杉君にベッタリだよねー。勉強教えてもらってるんだっけ?」

 

 修学旅行が終わって夏休み前になると、学級長の噂は更なる発展を遂げていた。

 三玖が朝早く起きて作ったお弁当を、風太郎に渡していたのは知っている。

 一花が自分達と家を出るタイミングをずらした時は大体、風太郎と一緒に教室に入ってくる。

 二乃が風太郎と同じ店で働いているのも事実だ。

 五月が授業終わりに、風太郎のもとへわからない箇所を聞きに行くのは日常茶飯事である。

 火のない所には煙は立たないという言葉の通り、火元は確かにあるのだ。

 五つ子裁判を経て姉妹の想いを知った四葉は、そんな四人を応援しながら見守っていた。

 ……少なくとも、自分にそう言い聞かせて日々を過ごしてきた。

 だがしかし、どれだけ目をそらそうとも自分自身の想いがそこにはある。

 捨てようと思った、消してしまおうと思った。

 ずっと水中にいる気分だった。

 水面に顔を出して新鮮な空気を吸いたかった。

 だがしかし、重いものを抱えたままではそれが叶うはずがない。

 果たせなかった約束が、鐘の下での口づけが、式場で撮った写真が、その足を捉えて離さない。

 葛藤の末に、四葉は諦めることを諦めた。

 水底に自ら沈んで、風太郎への想いを受け入れた。

 自分が不足していることは知っている。

 今のままでは姉妹にも、風太郎にも認めてもらえるはずがない。

 だからこそ四葉は走る。

 歩いていても追いつけないのなら、その何倍ものスピードで。

 果たせなかった約束の代わりに、大事な人に認められるような人間になるために。

 

「この前さ、休学中の一花ちゃんが上杉君と一緒にタクシー乗ってるとこ見ちゃった!」

 

 ――だから、

 

「二乃ちゃんはあれでしょ? 堂々と恋人宣言したようなものだもんねー」

 

 ――こんな、

 

「三玖ちゃん健気だよねー。上杉君と手をつないでるとこ見たらホッコリしちゃった」

 

 ――雑音なんて、

 

「五月ちゃんは家に入り浸ってるらしいよ? 家族公認なんだって」

 

 ――耳に入らない……そうに決まっているのだ。

 

 

 

 

 

「ついに始まりましたね」

「ああ、なんとかここまで漕ぎ着けたわけだ」

「三日間、精一杯頑張りましょう!」

 

 そして最後の祭りの幕が上がる。

 悔いのない最高の学園祭にするために、四葉はこの一ヶ月間奔走してきた。

 その先にこそ、自分の目標とする場所があると信じて。

 

「それだけじゃねーだろ」

「はい?」

「精一杯、楽しもうぜ」

 

 風太郎が不敵に笑いながら拳を突き出す。

 自然と頬がほころんだ。

 心の蓋を開けたまま、四葉も同じように拳を突き出した。

 

 

 

 

 

「安全点検に参りましたー。たこ焼きチームの皆さん、調子はどうですかー?」

「絶好調!」

「中野さんも食べていってください!」

 

 一日の始まりは安全点検から。

 学級長、もとい実行委員である四葉の手始めの仕事は、各屋台を回ることだった。

 もちろん遊びではなく、火元のチェックなど重要な項目もある。

 しかし飲食禁止という規則もないので、四葉は出来立てアツアツのたこ焼きを遠慮なく頂いた。

 

「うまっ!!」

 

 アツアツでカリカリでフワフワの絶品たこ焼きだった。

 自分の反応に手応えを覚えた様子の男子の傍ら、四葉は点検項目をチェックしていく。

 今食べた感じだと、食材の鮮度は問題ない。

 コンロの脇に紙くずが転がっているのは危ないだろうか。

 

「この辺の紙片は危ないので、片付けておいてくださいね」

「はーい」

 

 四葉への返事もそこそこに、男子は女子への対抗心を燃やしていた。

 これはこれで充実しているのかもしれない。

 みんなで仲良く出来るのならそれが一番だが、現状では難しそうだ。

 しかし、まだまだ学園祭は始まったばかり。

 何かきっかけがあればきっと、男女が互いの努力を認め合えるはずだ。

 

「よし! これでチェックは大丈夫かな?」

 

 三年一組のたこ焼き屋で、四葉の受け持ち分の安全点検は完了だ。

 後はこれを本部まで届けて、また次の仕事である。

 その他にも色んな出し物の手伝いがあるため、ペースを上げないと約束の時間に間に合わない。

 足を止めていられる時間はないのだ。

 拳をグッと握って気合を入れると、四葉は足早に本部へと向かった。

 

 

 

 

 

「お父さん、早く早くっ。もう始まってるよ」

「おう、悪い悪い」

 

 薄暗い体育館の中、上杉親子は最後列のパイプ椅子に腰掛けた。

 空席は残り僅かで、もう少し遅れたら座れなくなっていただろう。

 目当ては、ステージ上で上演されている演劇部による舞台である。

 そこに四葉が出演するとなれば、仲良しのらいはとしては見に行かざるを得ないのだ。

 今日、この学園祭に訪れたのは父の気まぐれだが、それならそれで精一杯楽しむのである。

 

「しかし、風太郎が言うにはえらい大根らしいじゃねーか、四葉ちゃん」

「ちょっと心配だね……」

 

 あくまで代役なので、出番は多くないそうだ。

 しかし短い登場とは言えど、大根っぷり如何では多大なインパクトを残しうる。

 それが正と負のどっち方面に作用するかはわからないのだが。

 とにかく、演技に興味がない風太郎をして大根と言わしめるのならば、相当のものだろう。

 そんな四葉の登場シーンを待ちつつ、らいははひっそりと覚悟を固めた。

 もしダメな方だったら後で慰めてあげよう、と

 

「ここまでよ、勇者一行!」

「くっ、女王エメラルド!」

 

 スポットライトに照らされて、女王エメラルド……もとい四葉が姿を現した。

 魔王的なポジションなのか頭に角をつけて、華美なチャイナ服を身にまとっている。

 その堂々とした立ち振る舞いも相まって、中々に映えていた。

 ステージ上の四葉を指で四角く切り取って、勇也は感嘆の声を漏らした。

 仕事柄こうも絵になりそうな場面に遭遇すると、写真に収めたいという意識が出てきてしまう。

 カメラが手元にないのが悔やまれた。

 その隣でらいはは目をキラキラと輝かせていた。

 確かにインパクト……というよりも存在感がある。

 しかし大根かといえば、むしろその逆だ。

 これがそう見えていたのならば、その人の目は節穴である。

 やはり勉強のしすぎでおかしくなっているのかもしれない。

 

「わぁ……四葉さん、かっこいい」

 

 ステージ上の勇姿に、らいははそうポツリと漏らした。

 

 

 

 

 

「助かりました! 中野先輩に代役をお願いして良かったです!」

「いえいえ、お役に立てたなら嬉しいです」

 

 マスクを押さえてゴホゴホと咳き込みながら頭を下げてくる後輩に、四葉は微笑んだ。

 彼女が風邪をこじらせたのが、代役としてステージに立った理由である。

 代役を頼まれたのは数日前……今週に入ってからだ。

 急な出演要請を快く引き受けた四葉だが、実はそのことで二乃に叱られていた。

 

『ちょっと四葉……ダンスに演劇って、いくらなんでもかけもち過ぎでしょうが!』

『うん、頑張るよ!』

『あーもうっ、この体力おバカ!』

 

 本当なら開会式でのダンスも担当していたのだが、そっちは二乃の受け持ちになった。

 より正確に言うと、二乃が半ば強引に引き受けた形になる。

 本番の数日前で時間がない中、きっちりと仕上げてきたのがまた二乃らしい。

 やると言えばやるのである。

 

(演劇部が終わったらからあげ屋さん、お化け屋敷と後は――)

 

 この後の予定は、片手では収まりきらないほどに入っている。

 それらをこなして学園祭を最高の思い出にするのが、四葉が定めた目標だ。

 先ほどの上演は、終わってみればほぼ満席の大好評。

 これ以上ない滑り出しと言えるだろう。

 

「……代役の子、ちょっといいかしら」

 

 予定を指折り数える四葉に、演劇部の部長が話を持ちかけた。

 代役で演じたエメラルド女王について、相談があるらしい。

 急な役者の変更でやむなく出番を削ったのだが、それを元に戻したいのだという。

 

「もちろん、あなたさえ良ければだけど……」

「えっ……わ、私なんかで大丈夫なんでしょうか」

「ええ、本番であれだけの演技ができるなら、心配はいらないわ」

 

 四葉は狼狽しながら他の部員を見た。

 誰も異議を唱える者はいなかった。

 それどころか、一緒に頑張ろうとまで言ってくれた。

 

「ぐすっ……本当に、先輩にお願いして良かったです……」

 

 後輩の涙に、四葉も腹を決めた。

 自分に寄せられる期待に応えて見せるのだと。

 その先にこそきっと、目指す目標があるのだから。

 

 

 

 

 

 そして四葉は校内を走り回る。

 実行委員の仕事は一段落ついているため、これは自由時間をそのまま手伝いに当てている形だ。

 どこぞの学級長は運悪く、というか折悪しく色んな雑用を投げられているのだが。

 その点で見れば、四葉は運がいいのだと言えるだろう。

 日頃の行いの差かもしれない。

 

「中野さん、脅かし役慣れてるね。もしかして経験者?」

 

 校内に入ってはお化け屋敷の手伝いをし、

 

「呼び込みお疲れ。うちのサービス券持ってってよ」

 

 外に出ては屋台の呼び込みをする。

 とにかく色んな場所に顔を出し、色んな人に手を貸す。

 一つ手伝いが終われば、急いで次の手伝いへ。

 そうすることで、一歩一歩確実に先へ進めている気がした。

 多忙だが、充実していた。

 ずっと前だけ見て走っていられた。

 

「つーか、あと何往復すりゃいいんだよ……」

 

 ボヤきというか嘆きというか、とにかく疲労に満ちた声。

 走る四葉の前方に、両手に椅子を抱えてフラフラと歩く後ろ姿。

 見間違えるわけがない、風太郎だ。

 倒れそうになったところを、前に回り込んで支える。

 

「悪い、ダサいとこ見せたな」

「上杉さんはもやしっ子なんだから、適度に休憩を取らないとダメですよ?」

「正論だな……しかし、モタモタしてたら約束の時間に間に合わねー」

 

 やはり約束のために無理をしているようだった。

 気持ちは分かるのだが、倒れそうになっているとなれば放置はできない。

 四葉はなおも仕事を続けようとする風太郎の前に立ち塞がった。

 何事にも適材適所というのはあるもので、こういう力仕事ならば四葉の得意とするところだ。

 男女の身体能力差を覆す、悲しき逆転現象がそこにはあった。

 勉強と運動、両サイドに極端に振り切った二人なので、ある意味当然の帰結なのかもしれない。

 お昼がまだなのかお腹を鳴らす風太郎に、手伝いでもらった色んな店の無料券をまるごと渡す。

 あくまで副次的に得たものなので、四葉に執着はない。

 あまりの多さに風太郎が目を剥いているが、これこそが努力の成果と言えるだろうか。

 準備期間中にもあちこち手伝って回っていたので、その分も含まれている。

 全部合わせたら、この学園祭の屋台の半分は網羅できるかもしれない。

 

「それより、流石にこれは多すぎだ」

 

 しかし、渡した無料券の半分程を突き返されてしまった。

 そして適度に休憩を取れ、という注意。

 先ほど風太郎に向けた言葉が返ってきていた。

 とは言うものの、四葉はまだ体力には余裕がある。

 これからも約束の時間まで手伝いに終始するので、屋台を回る暇はないのである。

 お腹の虫が鳴いたのはその時だった。

 今度は風太郎のではなく、四葉のものである。

 実のところ、お昼を抜いているのはお互い様だった。

 いくら体力に余裕があろうとも、空腹は隠せなかったようだ。

 

「あ、あはは……では、この椅子を噴水の周りに設置すればいいんですね?」

「ああ、なるべく隙間が空かないようにな」

「お任せ下さい!」

 

 椅子を軽々と持ち上げて噴水の方へ。

 杜撰な誤魔化し方だったが、風太郎は見逃してくれたようだ。

 代わりに、背中に声がかかる。

 

「お前がいてくれて良かったよ。ありがとな、四葉」

 

 それだけで十分だった。

 たったそれだけで、自分が正しい道を進んでいるのだと確信できた。

 椅子を置いて振り返ると、風太郎は既にこちらに背を向けて歩き出していた。

 

「――ちゃんと見ててね……風太郎君」

 

 気づいて欲しい、まだ気づかないで欲しい。

 相反する想いを込めて、四葉はそっと呟いた。

 

 

 

 

 

『フータロー君? ちょっと歯を食いしばろうか』

『バカバカバカっ! フー君のバカぁっ!!』

『上杉君、覚悟はいいですね』

 

 そんな言葉と共にビンタの三連撃を食らった俺は、隣の教室に隔離されていた。

 決して少なくはない痛みと、赤く晴れ上がった頬。

 それでも、先ほどの告白に対する応報としてはマシな方だろうか。

 一花は真顔で、二乃は激情を露わに、五月は毅然とした態度で手を振り抜いた。

 どいつもこいつも、顔が吹っ飛ぶんじゃないかというほどの衝撃だった。

 視界が明滅して、涙が出そうになるぐらい痛かった。

 しかし何よりもキツかったのは、あいつらにそんな事をさせてしまったことだ。

 叩いた後に辛そうに顔を歪めていたのは、俺の気のせいではなかっただろう。

 ……本当に何をやっているんだ、俺は。

 

「大丈夫?」

「ああ……少し喋りにくいが、それだけだ」

 

 叩いた三人に対して、三玖と四葉はふらつく俺を支えてここまで連れてきてくれた。

 一人でも大丈夫だと言ったのだが、聞き入れてはもらえなかった。

 四葉は氷嚢を取りに行ってくれているので、今は三玖と二人きりだ。

 正直に言うと、あの三人が俺を叩くほどに怒った理由も想像がつく。

 歯に衣着せずに言えば、俺とあの三人の間には肉体関係がある。

 そこまで手を出しておいてあの答えでは、怒って当然だ。

 それだけに今の三玖の態度が不可解だった。

 本来ならば、あいつらと一緒に怒ってもおかしくない立場だというのに。

 

「……なあ」

「なに?」

「いや、やっぱいい」

 

 が、それを直で尋ねるのもどうかという話だ。

 自惚れかもしれないが、そもそもとして思うところがないはずがない。

 今の三玖はきっと、持ち前の優しさで俺の傍にいてくれるのだろう。

 

「お待たせしました!」

 

 四葉が氷嚢を手に戻ってきた。

 受け取って左頬に当てる。

 これで少しはマシになるはずだ。

 ……こいつは俺の告白に一体何を思ったのだろうか。

 ずっと触れないようにしてきたはずだった。

 汚さないように、綺麗なままでいられるように。

 だというのに、あの告白の対象に四葉も含めてしまっていた。

 それはきっと、俺が――

 

「……とりあえず俺の事はもういいから、お前らは向こうに戻れ」

「でも、フータローを一人には――」

「三玖、戻ろ。上杉さんも一人で考えたいんじゃないかな?」

「え、四葉……?」

 

 四葉がそんなことを言い出すのは意外だが、今はありがたい。

 俺も少し頭を冷やす時間が欲しかった。

 困惑する三玖に目を向けると、渋々と立ち上がった。

 そして二人は連れ立って教室を出ていった。

 

 

 

 

 

「あーもう、あーもう、あーもう……!」

 

 風太郎達が隣の教室に移動した後、二乃はやけ食いを敢行していた。

 行き場のない感情から来る行為だが、それを穏やかに見守っていられないのが五月だ。

 二乃に負けじと、用意された食料に手をつけ始める。

 そんな二人に苦笑して、一花はとりあえず他の人の分を確保しておいた。

 

「しかし、意外でしたね。まさか一花が彼を叩くなんて」

「あはは……そりゃ叩くでしょ、あれは」

 

 叩いた理由に細かな違いはあれど、そこに同じ想いが含まれていたのは間違いない。

 その気持ちを共有しているはずの三玖は、自分達が先に動いたからこそ動かなかったのだろう。

 そうなると、四葉はどうなのだろうかと考えてしまう。

 風太郎の好きだという言葉への反応から、そういう感情があるのは見て取れる。

 現在、一花が把握している限りでは、風太郎と関係を持っているのは四葉を除く全員。

 関係者を集めた裁判が都度開かれているため、状況の把握には困らないのだ。

 逆に言えば、そこから外れた四葉だけが不透明になる。

 色々と手や口を出した一花だが、それがどれだけ実を結んでいるのかはわからなかった。

 

「そういえばさ、フータロー君の初めてって誰なんだろ?」

 

 一花がそんな爆弾を投げ込んだのは、ちょっとしたガールズトークのためだ。

 気を紛らわすためのものであり、姉妹への牽制だとかマウントだとかそんな意図は一切ない。

 少なくともそういうことにしておいた。

 これが俗に言う初体験という意味であれば、配られている情報から答えは自ずと出ている。

 

「当然、私よ」

 

 しかし、初めてという言葉の解釈は様々である。

 一花が何を意図しているかを察した上で、二乃は敢えて断言した。

 風太郎に初めて告白したのも、初めて性的な関係を持ったのも自分だと確信していた。

 なんならファーストキスも自分だったと自信を持って言える。

 

「ほうほう、それでシチュエーションとプレイ内容は?」

「春先の模試の昼休みに、フー君のを口で……って何言わせようとしてんのよ!」

「大事なテストの最中に何をやっていたんですか……」

 

 誘導にもなってない尋問に、二乃はすんでの所で踏みとどまった。

 しかし、これではほぼ吐き出したも同然である。

 春先の模試といえば、風太郎の進退を賭けた大事な局面だったはずだ。

 そんなタイミングでやらかしていたとなれば、五月の呆れ声も仕方がない。

 修学旅行前にそんな接触があったと把握している一花も、詳しい情報は初である。

 あらためて、二乃の暴走っぷりに警戒心を深めるのだった。

 

「大体ね! とぼけてたけど、あんたやっぱり修学旅行の時に最後までしてたじゃない!」

「いやまぁ、そうだけどさ」

 

 二乃が怪しんでいた修学旅行二日目の空白の一時間は、概ね予想通りの内容だった。

 もちろん概要は裁判の過程で知っていたが、こちらを深堀りしようとするなら容赦はしない。

 反撃と言わんばかりに、二乃は一花に詰め寄った。

 

「さぁ、具体的なとこを吐いてもらうわよ。キリキリ答えなさい」

「そんな詳しく語る程のものでもないけど……ただまぁ、激しかったかな?」

「……激しかった、ですか?」

「そうそう、なんか我を忘れてるって感じでさ。初めてだったから興奮してたのかな?」

 

 初体験時の興奮というものは確かにあっただろうが、異常に元気だったのには他に理由がある。

 一花は意図的にその情報を伏せて、初めてという言葉を強調した。

 これには二乃も悔しさを堪えて歯噛みするしかない。

 前段階では、あれこれと頑張って主導権を確保しようとする二乃だが、いざ本番に至るとあっさり逆転されるのがいつものパターンだ。

 これは初体験の時から変わらぬ流れでもある。

 当時はやけに手慣れていると思ったが、それは一花との経験が生きていたということになる。

 我を忘れるほどの激しさで責め立てられた経験は、二乃にはなかった。

 一方五月は、初めての時は終始翻弄されっぱなしだったことを思い出して顔を赤くした。

 初体験ゆえの緊張と単純な知識不足によるものだが、なによりも場数が違う。

 レベル1の新人とレベル10のベテランでは、相手になるはずがないのだ。

 しかし、二回戦目に突入したときはまだマシだったように思えた。

 なにか特殊な事情がないのなら、ただ単純に風太郎が疲れたということだろう。

 やはり重要なのは体力だ。

 五月はダイエットも兼ねて、一花のランニングに付き合うことを決意した。

 事ある毎に重いと言われるのはやっぱり気になるのだ。

 

「あーもう! 結局は節操なく手を出してるフー君が悪いんじゃない!」

「気づけば四葉以外全員だもんね。お父さんにバレたらフータロー君、殺されちゃうかも」

「どうだか。あの人がそんなことで怒るとは思えないわ」

「それよりも、あんなことを言われたというのに、一花も二乃も彼を見限らないのですね」

 

 自分と関係している女性を集めてあの発言である。

 本来なら、袋叩きにあった上で見捨てられてもおかしくはない。

 だがしかし、実際はビンタ三発で済んでしまった。

 今日の出来事がこの先に及ぼす影響についてはわからないが、少なくとも一花も二乃も風太郎から離れる気がないというのは明らかだ。

 そしてそれは、五月も同じだった。

 

「まぁ、今更って感じもあるしね。何より、私はフータロー君が――」

「なによ、そんなこと? それは私がフー君を、どうしようもないぐらい――」

「そうですね。我ながら度し難いと思うほど、上杉君のことが――」

 

 そして、好きの一言が三つ重なった。

 

 

 

 

 

『そういえばさ、フータロー君の初めてって誰なんだろ?』

 

 そんな言葉が耳をかすめたのは、四葉が保健室から氷嚢を持ってきた帰りのことだった。

 この周辺はあまり人はいないが、校舎の内外から喧騒は伝わってくる。

 しかし、声を抑え目にしているはずの一花の声は、いやにはっきり耳に届いた。

 カクテルパーティー効果というものがあるが、四葉はそれを知らない。

 思わず教室のドアに張り付いて、会話に聞き入ってしまった。

 今までの経験から、リボンはしっかり押さえてある。

 初めてという言葉が何を指すのかはわからないが、興味は尽きなかった。

 それがもしファーストキスなら、自分だったらいいなと思ったりもした。

 しかし話が進んでいくにつれ、こうして聞き耳を立てたことを後悔することになる。

 

『ほうほう、それでシチュエーションとプレイ内容は?』

『春先の模試の昼休みに、フー君のを口で……って何言わせようとしてんのよ!』

 

 それは、明らかにキス以上のことがあったと示唆する内容だった。

 二乃は最後まで語らなかったが、確かに模試の後から風太郎へ向ける視線が変わった気がする。

 胸を押さえて、四葉は横に首を振った。

 こんなことで、自分の想いは揺らぎはしないと。

 

『大体ね! とぼけてたけど、あんたやっぱり修学旅行の時に最後までしてたじゃない!』

『いやまぁ、そうだけどさ』

 

 最後まで、という言葉の意味が飲み込めない……いや、受け入れ難かった。

 四葉はその手のことに疎いが、知識がないわけではない。

 キスを通り越して最後までとなれば、どんなことがあったのかは想像できてしまう。

 修学旅行の二日目、ずぶ濡れの一花が真っ先にシャワーを浴びていたのを思い出す。

 運動が得意な四葉は、体の動かし方に自然と意識が向く。

 それは自分以外の人間に対しても同じであり、少しの違和感から不調を見抜いたりもする。

 なら、あの時に歩きづらそうにしていたのは……

 そこまで考えが行き着けば、後は早かった。

 夏休み前、バイトがあるにしても帰りが遅かった二乃。

 花火を見に行った日、風太郎の家に一緒に荷物を取りに行った三玖。

 そして先日、休みの日に何故かシーツを洗濯していた五月。

 その全員の姿が重なった

 

『あーもう! 結局は節操なく手を出してるフー君が悪いんじゃない!』

『気づけば四葉以外全員だもんね。お父さんにバレたらフータロー君、殺されちゃうかも』

 

(ああ、そっか……私だけ、なんだ)

 

 他の姉妹より出遅れていることは理解していた。

 それでも、ここまでの差だとは思っていなかった。

 風太郎が自分に対して全くそんな素振りを見せなかったものだから、すっかり勘違いしていた。

 目元を拭って前を向く。

 自分のやることは変わらない。

 頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って――あの背中に追いつくのだ。

 だがしかし、その目指す背中は見えないほどに遠い。

 竦みそうになる足を動かして、四葉は風太郎が待つ教室へと向かう。

 三つ重なった好きの一言が、追い立てるように聞こえてきた。

 あんな関係になっても、三人の風太郎への想いは変わらないのだろう。

 その強さに四葉は羨望を覚えた。

 

「お待たせしました!」

 

 必要以上に元気を出して、風太郎に氷嚢を渡す。

 自分のことをどう思っているのだろうか。

 先ほどの好きという言葉に、自分は本当に含まれているのだろうか。

 聞きたいけど聞けなかった。

 そもそも、まだ自分にはその資格がない。

 風太郎に寄り添っている三玖は、目に入らないようにした。

 

「……とりあえず俺の事はもういいから、お前らは向こうに戻れ」

「でも、フータローを一人には――」

「三玖、戻ろ。上杉さんも一人で考えたいんじゃないかな?」

「え、四葉……?」

 

 これ以上風太郎の顔を見ていたら、抑えていたものが溢れてしまいそうだった。

 まだ想いを伝えるわけにはいかないし、それ以外の決して綺麗じゃない部分は見せたくもない。

 三玖を連れて、四葉は隣の教室へ戻った。

 

「あ、おかえりー。フータロー君は?」

「とりあえず平気だって。四葉が氷嚢持ってきてくれたし」

「そっか。じゃあ二人の分取っておいたから食べなよ」

 

 用意された食料は明らかに目減りしていた。

 五月に目を向けると、首を振って二乃を指差した。

 二乃に目を向けると、同じように五月を指差した。

 どうやら同罪のようだ。

 

「あのさ、みんなは……」

 

 どうして、そんなに真っ直ぐ想いを伝えられたのか。

 四葉はそう口に出そうとして、途中でやめた。

 もし自分も風太郎に想いを告げていたのなら、キスをして、抱いてもらえたのだろうか。

 かつては自分だけ特別になろうと突っ走ったが、今は自分だけが特別じゃない。

 風太郎だけじゃなく、姉妹の背中も見えないぐらい遠く感じてしまった。

 

「四葉? どうしたのですか?」

「あはは……私、置いてかれちゃったのかな」

 

 

 

 

 

 学園祭初日が終わり、四葉は再び演劇部の集まりに顔を出していた。

 演劇の台本を元に戻すに当たり、その分の練習のためだ。

 教室での風太郎の告白は四葉の心に多大な影響を及ぼしたが、それでもやることは変わらない。

 いや、今まで以上に頑張らなければならない。

 そうしなければ、風太郎はおろか姉妹の影を踏むことさえできないのだから。

 演劇を、学園祭を成功させて、風太郎にも楽しんでもらって、そして――

 

「火事だ! たこ焼き屋が燃えてるぞ!」

 

 崩落の音は、着実に足元まで近づきつつあった。

 

 

 

 

 

 学園祭二日目の朝、四葉はまだ薄暗い時間に目を覚ました。

 正確に言うと、眠ろうと目を閉じて、しばらくして目を開くの繰り返し。

 実際はほとんど眠れていなかった。

 時計を見ると、まだ五時半を過ぎたところだった。

 学園祭期間中は、いつもよりも遅めの登校でも問題ない。

 そもそもの開場が午前十時であるため、必然的にそれに合わせたスケジュールになるのだ。

 起きる時間にはまだ早すぎるが、寝付けそうになかった。

 机の引き出しを開けて、写真立てを取り出す。

 純白の衣装に身を包んだ風太郎と自分の姿。

 不意打ち気味に連れて行かれた、式場での撮影のアルバイト。

 その時の写真は、今では四葉の叶えたい未来になっていた。

 花嫁姿の自分に、他の姉妹の姿が重なる。

 それ以上見ていられず、写真立てを机の上に倒して伏せた。

 

「――そうだ、もっと……もっともっと頑張らないと」

 

 ふらふらと身支度を済ませ、姉妹を起こさないように家を出る。

 想定外のアクシデントはあったが、まだ学園祭は終わっていない。

 それならまだ取り返せる。

 一ミリも悔いの残らない学園祭にするためには、もっともっと頑張って頑張って――

 風太郎に、そして姉妹に追いつくためにも、もっともっともっと頑張って頑張って頑張って――

 

「おはようございまーす」

「おっ、早いな……二日目開場までまだ三時間あるぞ」

「えへへ、眠れなくて」

 

 だから立ち止まっている暇なんかない。

 我武者羅でも、走り続けなければ叶わない。

 

「お仕事ください! なんでもします!」

 

 

 

 

 

「おはようございます」

「おはよう」

 

 リビングに下りた五月を、三玖が出迎えた。

 キッチンからは何かが焼ける音と同時に、いい匂いが漂ってきている。

 見ると、二乃がエプロン姿でキッチンに立っていた。

 

「三玖、もう大丈夫なのですか?」

「うん、なんとか」

 

 昨日、倒れそうになった三玖だが、今朝の顔色は悪くない。

 朝食当番は、大事をとって二乃が担当しているようだった。

 これはこれで長年慣れ親しんだ光景である。

 しかし、四葉の姿がない。

 大抵は既に起きているはずなのだが、寝坊しているのだろうか。

 

「ちょっと五月、四葉呼んできて。もうすぐ出来るから」

「わかりました」

 

 キッチンから飛んでくる二乃の声に、五月は再び階上へ。

 四葉の部屋のドアをノックするが、返事はない。

 そっとドアを開けて中を覗くと、ベッドに部屋の主の姿はなかった。

 開きっぱなしタンスに、脱ぎ捨てられた衣類。

 片付けはキッチリとする四葉にしては珍しかった。

 部屋の中に入り、姿を探すも見つからない。

 そもそもほとんど隠れられる場所もないのだが。

 ともかく、この部屋の中に四葉はいないようだった。

 首をひねる五月の目に留まったのは、机の上に伏せられた写真立てだった。

 

「これは……」

 

 見慣れないものだったので、つい手に取ってしまった。

 そこに収められていた写真もまた、五月が見たことのないものだった。

 タキシード姿の風太郎と、ウェディングドレスを身にまとった四葉。

 いつ撮ったものかはわからないが、それはさながら結婚式の記念写真のようだった。

 口には出さずともこんなものを飾っているのだから、その想いは瞭然で疑いようがない。

 複雑な思い抱きながらも、写真立てを再び伏せて五月は部屋を出た。

 そして靴がないことから、四葉がそもそも家にいないことが判明。

 こちらからの連絡に、先に学校に行っていると返ってきたのは少し後のことだった。

 

 

 

 

 

 他の人の仕事を奪う勢いで働く四葉は、現在はダンボール箱を運搬中だった。

 中身はパンフレットがギッシリであり、重量も相当なものだ。

 そんなものを三つも抱えている四葉だが、前が見えづらいぐらいで特に苦にしていない。

 むしろ、あともう一箱ぐらい抱える余裕すらあった。

 

「あ、四葉。フータローは?」

 

 向きによっては、ダンボールが動いている様にしか見えない四葉に声をかけたのは三玖だった。

 風太郎を探しているようだが、四葉も今日はまだ見ていない。

 昨日、あんなことがあったばかりだというのに、一緒に学園祭を回りたいのだという。

 

「……三玖はすごいね。私は――」

「四葉?」

「ううん、なんでもない! あ、上杉さんの声だ。近くにいるかも!」

 

 三玖の直向きさに、なによりもそう出来ることに羨望を覚えてしまう。

 心に差し込んできた影を振り払うように声を張り上げると、四葉は体育館へ向かった。

 こちらに風太郎がいると思ったのだが、あてが外れたようでその姿はどこにも見当たらない。

 とりあえずダンボール箱を所定の位置に置いておく。

 もしパンフレットが必要だったら、ここから運んでいく手はずになっているのだ。

 

「三玖、無理しないでね。昨日のこともあるし」

「もう平気。昨日は色々疲れてただけだから」

「そういえば、色々頑張ってたって聞いたよ」

「でも、結局……」

 

 三玖がクラスの男子と女子の間を取り持とうとしたことは、四葉も聞き及んでいる。

 それだけに、昨日の火事は残念だっただろう。

 そしてそれは四葉も同じだ。

 

「くそっ、なんでだよ!」

 

 外から、そんな悪態が聞こえた。

 クラスメイトの前田だった。

 体育館の外壁に拳を打ち付けているところを、同じくクラスメイトの武田に宥められていた。

 この二人は、時折風太郎と一緒にいるのを四葉は覚えていた。

 

「出店停止って……俺らはこの日のためにやってきたんだぞ……!」

「あんな事故を起こした以上、受け入れるしかないよ。危ないって注意されていたんだろう?」

 

 昨日のたこ焼き屋の出火原因は、コンロ脇の紙くずだったそうだ。

 

『この辺の紙片は危ないので、片付けておいてくださいね』

 

 そう指摘したのは、他でもない四葉だ。

 そして男子達は、確かに返事をした。

 注意されて守らなかった責任と言えばそれまでだが、そうは受け取れなかった。

 あの時、もっとちゃんと注意していれば、ちゃんと片付けるところを確認していれば……

 決しておざなりにしていたわけではないが、仕事を急いでいた自覚はあった。

 

「くっそぉ!」

 

 前田の嘆きが、四津の心に重くのしかかった。

 

(大丈夫、まだ……頑張って頑張って取り返せばいい)

 

 潰れそうになる心をどうにか押しとどめた四葉の目に、信じられない光景が飛び込んできた。

 風太郎が、見知らぬ女子と歩いていた。

 急いで三玖を呼んで後を追いかける。

 追跡対象の二人は、いくつか屋台を回ってからパンケーキ屋に行き着いた。

 そこは自分達三年一組の屋台であり、またタイミングが悪いことに二乃と五月がいた。

 

「初めまして、竹林と申します。風太郎とは小学校からの同級生です」

「あらそう。私たちも同級生だけど、もっと深い関係と言っても過言じゃないわ」

 

 竹林と名乗った彼女はともかく、四葉の関心は二乃に向いた。

 ああもはっきりと言い切れるのが羨ましかった。

 三玖が飛び出していくのを抑えつつ、四葉は自身の内に沈み込んだ。

 自分が同じような状況にあったとして、きっと同じようには言い切れない。

 それが想いの強さなのだとしたら、自分は……

 四葉が我に返ったのは、二乃が泣き出した直後。

 いつの間にか三玖は飛び出していた。

 

「フータローは渡さないから」

 

 三玖の言葉は静かながらも強く、想いがこもっていた。

 

「まだ出会ってほんの一年と少しですが、その深さはあなたにも負けるつもりはありません!」

 

 そして五月の力強い宣言。

 三人の想いの強さに打ちのめされるように、四葉はその場から離れていった。

 あそこで飛び出していけなかった自分に、風太郎を想う資格があるのだろうかと。

 そんなことを考えてしまった。

 

 

 

 

 

「お仕事ください」

 

 自分の中の焦りに突き動かされるように、走る。

 

「何かお困りですか?」

 

 何かから目を逸らすように、我武者羅に動き続ける。

 たとえ足元がふらついていようと、立ち止まるわけには行かない。

 立ち止まってしまったら、気づいてしまう。

 立ち止まってしまったら、直視してしまう。

 動き続けないと死んでしまう回遊魚のように、そうしないと想いが折れてしまいそうだった。

 

「あ、いた」

「あなたは……」

「中野四葉さんですよね」

 

 風太郎の同級生だったという、竹林と名乗った少女。

 四葉とは面識がないはずだが、なぜか名前を知られていた。

 風太郎や他の姉妹とは一緒じゃないらしい。

 少しだけ安堵してしまった。

 今は、いつも通り元気な四葉でいるのが難しい。

 

「あの、私に何か用でしょうか?」

「あ、すみません。ついまじまじと見てしまって」

 

 ジッと四葉の顔見ていた竹林だが、先程まで他の姉妹と話していたのだという。

 余程五つ子が珍しかったようで、改めてそっくりなことに驚いているらしい。

 こんな反応も四葉にとっては日常茶飯事だ。

 眩みそうになる視界を、頭に手を当ててこらえる。

 

「四つ子は見たことあるんですけどね」

「え……それはどこで……」

「京都で、六年前」

 

 京都と六年前。

 そのキーワードが示すのは、四葉と風太郎が出会った修学旅行だ。

 小学校の同級生ならば、竹林も当時同じく京都に来ていたに違いない。

 それなら、彼女が言う四つ子というのは……

 

「風太郎と会ったのはあなたですか?」

 

 突然の指摘に、四葉は言葉を詰まらせる。

 その後で出たのは疑問の声だった。

 なぜ竹林がそれを知っているのか、と。

 

「風太郎から、嫌というほど写真を見せられましたからね」

 

 それと、繰り返し何度も話を聞かされたのだという。

 竹林は、当時を懐かしむように語った。

 

「それに先ほど、ご姉妹に話を伺いました」

 

 そして六年前のあの日に、一人はぐれた姉妹がいる。

 これらの情報から、先ほどの答えを導き出したのだろう。

 そうやって事実を詰めて答えを導き出す様は、どこか風太郎を思わせた。

 

「あなたにお会いできて良かった。このこと、風太郎には……」

「い、言わないでください!」

「どうしてですか?」

 

 風太郎に気づいて欲しいと望んでいるのは確かだ。

 四葉がリボンを付けるようになったそもそもの理由は、ちゃんと見分けてもらうためなのだ。

 それでも今はまだ早い……あるいは遅かったのかもしれない。

 この学校で再会した時に気づいてくれたのなら。

 他の姉妹が風太郎に想いを寄せる前に打ち明けられたのなら。

 違う未来があったのかもしれない。

 意味のない仮定だとしても、そう思わずにはいられなかった。

 

「……私はまだまだなんです。無意味で無駄な、そんな六年間を過ごしてきました」

「……」

「少しでも上杉さんと釣り合うような人間になるために、もっと頑張らないといけないんです」

「だから、まだ打ち明けられないと」

 

 四葉は無言で頷いた。

 そうしてはみたものの、その背中に追いつく光景が見えなかった。

 視界が揺れる。

 頭を振って、余計な考えを振り払う。

 今は、ひたすらに走り続けなければならないのだ。

 

「以前、同じようなことを言っていた人を知っています」

 

 自分は無意味で必要のない人間。

 だからこそ、一つだけでも誇れる何かが欲しいのだと。

 風太郎は、そう言ったのだという。

 そして今は、ちゃんと前を向いて歩いている。

 

「どうかあなたも、過去から踏み出せますように」

 

 それだけ言って、竹林は去っていった。

 残された四葉は立ち尽くす。

 過去から踏み出す……つまり、思い出に頼らずに進んでいく。

 

「……無理だよ」

 

 今まで進んできた道は間違いだった。

 望む未来は途方もないほど遠い。

 縋るものは、今や遠い日の思い出だけ。

 

「だって……今の私には、それしかないんだから」

 

 そして次の手伝いに向かうために歩き出そうとして、四葉の意識はそこで途切れた。

 

 

 

 

 

 次に目を覚ました時、四葉はベッドに横たわっていた。

 見上げた天井に見覚えはなく、学校や家ではないということぐらいしかわからない。

 

「ここは病院よ」

 

 ベッドの上で身を起こした四葉に、耳慣れた声がかかる。

 二乃がベッドの脇に椅子を置いて座っていた。

 その言葉を信じるのならここは病室だが、何故かエプロンを着用している。

 

「まさか、こんなことになっているなんて驚いたわ。フー君も言ってくれたら良かったのに」

 

 二乃は不満を口にしたが、実際にはそれが風太郎の気遣いであったことはわかっている。

 少なくとも今日のうちは、水を差さないように配慮したのだろう。

 

「あれほど言ったのに……あんた全然余裕持ってやれてないじゃない」

「……戻らなきゃ」

「えっ、ちょっ」

 

 引きとめようとしてくる二乃を余所に、四葉はベッドから出て病室からも出ようとする。

 まだ演劇部の手伝いが残っているのだ。

 せっかく期待して出番を増やしてくれたのに、裏切るわけにはいかない。

 しかし、そのあとの二乃の言葉に、立ち止まらざるを得なかった。

 

「もう夜よ。二日目はすでに終わってるわ」

 

 一瞬、その意味を飲み込むことができなかった。

 震える手で携帯を確認すると、すでに学園祭の終了時間を大幅に過ぎていた。

 もはや取り返しのつかない失敗に、焦燥が心を覆いつくした。

 

「酷なようだけど、自己管理がなってなかったのよ。今はとりあえず休んで――」

「――っ!」

「四葉!」

 

 いても立ってもいられず、病室を飛び出した。

 もう二日目は終わっている。

 何ができるかなんてわからない。

 それでも動いていないと、走っていないと、心が死んでしまう。

 本当に、無意味で無価値な人間に成り下がってしまうわけにはいかない。

 そうしたらきっと、あの日の思い出さえも触れられなくなる。

 今の自分には、それしかないのだから。

 

「起きたか」

「上杉さん……」

 

 ロビーにたどり着くと、風太郎が自販機で飲み物を買っていた。

 通り過ぎようとすると、四葉の前に立ちふさがった。

 

「通してください、行かないと」

「行ってどうする。もう皆とっくに家に帰ってるぞ」

「それなら頭を下げて回ります!」

 

 演劇部だけではない。

 四葉が手伝いを引き受けていた人たちにも当然、迷惑がかかっただろう。

 焦燥と並ぶように、自責の念が心にのしかかっていた。

 

「とにかく通せない。明日まで絶対安静と言われているからな」

「でも!」

「ひとまず聞け――結論から言うと、演劇もその他もどうにかなった」

「――え?」

 

 ガツンと、頭を殴られたかのような衝撃だった。

 そして衝撃の後に四葉の内に生じたのは、安堵ではなく諦念だった。

 自分がいなくてもどうにかなった。

 それはつまり、自分じゃなくても良かった――本当に必要とされてはいなかった。

 弱った心は、そんな結論に行き着いてしまった。

 何より四葉を打ちのめしたのは、自分の身勝手さだった。

 誰かに必要とされる人間と言っておきながら、結局は自分のためにしか動いていなかった。

 安堵よりも先にショックを覚えたことで、それに気づいてしまったのだ。

 

(ああ、そもそもが間違いだったんだ……)

 

 風太郎との未来を夢見た時点で、自分のために走り出した時点で、すでに間違えていたのだ。

 フラフラと、来た道を引き返す。

 

「おい、四葉」

「あはは……確かにちょっと疲れてるみたいです。思う存分休ませてもらいますね」

 

 諦念を受け入れてしまえば、後は楽だった。

 そうすれば、焦燥も強迫観念も無縁のものだ。

 心に空虚が蟠っているが、それだけだ。

 絶対安静と言われたとおり、四葉は病室に戻っておとなしく休んだ。

 後は自分の想いに別れを告げる……そうすればもっと楽になれる。

 抵抗するように涙が流れたが、それだけだった。

 

 

 

 

 

「……君たちは、上杉君に対して異性としての好意がある……そうなのかい?」

 

 父の問いに、四葉は静かに頷いた。

 未だに心の中には、風太郎への想いが脈打っている。

 それは六年前からずっと変わらない、胸を暖めもかき乱しもする初恋の記憶だ。

 

「では上杉君は君たちと、恋愛関係を築いていると解釈しても相違ないのかな?」

 

 風太郎と過ごした時間を振り返る。

 その笑顔に、触れた肌の感触に、抱きとめられた時の安堵に、自然と顔が熱くなった。

 そうなりたかった、そうであったらよかった。

 しかし、そうはなれなかった。

 風太郎も姉妹も、もはや手が届かないほど遠い。

 そこから目をそらして我武者羅に追いかけた。

 そうすれば追いつけると思い込んでいた。

 その結果、派手に転んで自分の無価値さを突きつけられた。

 胸の内に生じた諦念は、あるいは心をつなぎとめる最後のセーフティだったのかもしれない。

 なんにしても、これから四葉は自分の想いに別れを告げなければいけないのだ。

 

 

 

 

 

「お待たせしました」

 

 ベンチに座っている四葉たちのもとへ、五月が小走りで駆けてくる。

 今日はもう学園祭の最終日。

 つい先程、風太郎を巻き込んだ中野家の家庭問題に決着がついたばかりだ。

 五月はそのお礼を告げに行っていたのだが、今こうして帰ってきた。

 なにか良いことがあったのか、満足気な顔をしている。

 

「みんなにも改めてお礼を」

「まぁ、私たち家族の問題でもあったしね」

「そういうこと。あまり水臭いこと言うんじゃないわよ」

「それよりも、あんなずさんな変装に私は納得してない」

 

 わいわいと盛り上がる姉妹を一瞥して、四葉はベンチから立ち上がった。

 そして空を見上げる。

 涙が出そうなぐらい良い秋晴れだった。

 別れを告げるには、これぐらいカラッとしていた方がいいだろう。

 

「みんな……私、応援してるから」

「え、いきなりどうしたのさ?」

「なによ改まって。五月みたいに拾い食いでもしたわけ?」

「どういう意味ですか!」

「四葉、ひょっとしてまだ調子悪いの?」

 

 三玖の心配に首を横に振ると、四葉は笑顔を浮かべた。

 ハリボテでも、いつもどおりの笑顔のはずだ。

 

「上杉さんとのこと、頑張ってね!」

「ちょっと待って! 四葉……さっきお父さんの前で一緒に答えたよね?」

 

 自分から身を引くと言っていることを理解した一花が、珍しく声を張り上げた。

 無堂とのやり取りの後、姉妹は父から風太郎との関係について尋ねられた。

 好きなのかと問われた時、確かに四葉も頷いたはずなのだ。

 

「そうだけど……私はもういいんだ。みんなとは違う道を行くよ」

「……本当にいいの?」

「うん、心配してくれてありがとう、三玖」

「ま、ライバルが減ってせいせいするわ」

 

 気遣わしげな三玖とは対照的に、二乃に四葉を引き止める様子はない。

 ただ、表情は面白くなさそうなものだった。

 

「最後の最後で一番邪魔になりそうなのはあんただと思ってたから、正直拍子抜けだけどね」

「あはは、私じゃ二乃にはかなわないよ」

「……四葉、私は納得できません」

 

 一花と同じように異論の声を上げたのは五月だった。

 二人は四葉の想いを知っている。

 どれだけ長く想っていたか、どれだけ強く願っていたかを。

 そして五月は昨日の朝、四葉と風太郎が並んで純白の衣装に身を包んだ写真を見ている。

 簡単に諦められるようなら、机の上にあんなものを飾ったりはしないはずだ。

 

「五月が納得しなくても、決めるのは私だよ」

「なら、せめて最後に上杉君と話してみてください」

「……どうして?」

「それが彼の告白に対する答えなら、早く告げたほうがいいはずです」

 

 愛想を尽かしたわけでも、嫌いになったわけでもない。

 ただ四葉は諦めたのだ。

 もともと以前はそうしようと思っていたのだから、収まるところへ収まっただけ。

 これが一方通行なら何も言う必要はない。

 しかし、変則的な形とはいえ、風太郎からの好意は示されている。

 それならば、こちらからの答えを示すというのも道理だろうか。

 

「……うん、そうかもだね。じゃあ行ってくるよ」

「四葉、これを」

 

 歩きだそうとした四葉に、五月は半分に折られた紙片を渡した。

 外側には何も記されてはいない。

 

「なにこれ?」

「上杉君の生徒手帳に入っていたものです。……彼に返却をお願いします」

「ん、わかったよ」

 

 受け取った紙片をポケットに入れると、今度こそ四葉は歩き出した。

 自分の想いの、息の根を止めるために。

 

 

 

 

 

 しかし、風太郎は寝ていた。

 よほど疲れたのか、階段に座って手すりにもたれかかり、寝息を立てている。

 正面に回って顔を覗き込んでも、頬をつついてみても起きる気配がなかった。

 悲壮な決意を固めてきた四葉からすれば、拍子抜けもいいところである。

 だがこれで良かったのかもしれない。

 このまま一方的に別れを告げてしまおう。

 五月には後で何か言われてしまうかもしれないが、やはり風太郎と対峙するのは怖かった。

 初めて会った時と同じように、階段の上、風太郎の背後に立つ。

 自分の想いと決別するのなら、ありのままの自分でいなければならない。

 

「風太郎君」

 

 応えなんて期待していない、これは自分の思い出への呼びかけだ。

 だというのに、あれだけしても反応がなかった風太郎が身動ぎした。

 

「なんだ零奈、またお前か」

 

 振り返らずに、風太郎は姉妹の母の名を口にした。

 どういうことかと四葉は混乱した。

 しかし、以前に風太郎が思い出の少女を零奈と呼んでいたのを思い出した。

 

「今日も色々あって疲れてるから、後にしてくれ」

 

 事実、風太郎はくたびれていた。

 姉妹のために奔走していたのは四葉も聞き及んでいる。

 それが嬉しくもあり、悲しくもあった。

 誰になんと言われようと、風太郎は他の姉妹を大切に思っている。

 自分のためにも走り回って欲しかったなんていうのは、ただのわがままなのだから。

 風太郎の特別にはなれなかったけど、それで十分なのだ。

 今は、思い出の少女として別れを告げよう。

 

「ずっと約束を覚えていてくれてありがとう。私は守れなかったよ……ごめんね」

「……そんなこと気にすんな」

「風太郎君は気にしてないの?」

「まぁ……昔のことより大切なのは今だろ」

 

 その言葉が、胸に虚ろに響いた。

 四葉は自分の想いを、風太郎との思い出を振り切ろうとしている。

 しかし過去を振り切ったとしても、今には何もない。

 先に空虚な未来が広がるのみだ。

 ひどく、寒々しい。

 

「……うん、そうだね」

 

 それでも告げなければならない。

 溢れそうになる涙をこらえる。

 諦念に身を任せてもなお、これだけの熱が残っていた。

 それを冷ますように、ゆっくりと息を吸って吐く。

 

「だがこれだけは言わせてくれ」

「あの日お前と出会って、俺は自分の道を見つけた」

「何もない俺だったが、お前との約束のおかげで何かを得られた」

 

「だから、ありがとう――四葉」

 

 

 

 

 

「風太郎君」

 

 芒洋とした意識の中で、呼びかける声がある。

 慣れ親しんだようで、そうでないような。

 それでも間違いなく懐かしい、そんな声だ。

 また五月かと思ったが、今更あいつがこんなことをする理由はない。

 かといって、他の誰にもそんな理由はないだろう。

 

『……最初は『彼女』に頼まれたからです』

 

 それこそ、五月が語っていた『彼女』にもだ。

 なら、ここはこれでいいだろう。

 

「なんだ零奈、またお前か」

 

 意識は相変わらずふわふわとしていて、いまいち現実感がない。

 そこに今更現れるはずもない零奈が現れたとすれば、自ずと答えは限られてくる。

 こいつは、俺が思い描く思い出のあの子だ。

 疲れた頭が夢見心地に作り出した虚像に過ぎない。

 

「ずっと約束を覚えていてくれてありがとう。私は守れなかったよ……ごめんね」

「……そんなこと気にすんな」

「風太郎君は気にしてないの?」

「まぁ……昔のことより大切なのは今だろ」

 

 我ながら白々しい限りだった。

 今が大切なのは確かだが、あの時の思い出を俺は未だに抱えている。

 そんな女々しい様を、中野姉妹の前で見せたくはない。

 ……いや、今ならいいのか。

 こんな夢の中なら、普段言えないこともきっと口に出せるはずだ。

 

「だがこれだけは言わせてくれ」

「あの日お前と出会って、俺は自分の道を見つけた」

「何もない俺だったが、お前との約束のおかげで何かを得られた」

 

 ずっと気づかないようにしていた『彼女』のことも。

 ずっと触れないようにしていたあいつのことも。

 今なら、こうして声に出して名前を呼べる。

 

「だから、ありがとう――四葉」

 

 

 

 

 

「――え?」

 

 一瞬、その口から出た名前が、自分のものだと認識することができなかった。

 思い出の少女と話していたはずの風太郎が、四葉の名を呼んだ。

 それが示す事実は一つ……気づかれてしまったのだ。

 今この瞬間、もしかしたらもっと前からかもしれない。

 

「――どうして、今なの?」

 

 ずっと気づいて欲しいと望んでいた。

 だけど気づかないで欲しいと願っていた。

 もう終わりにしたはずだった。

 思い出も捨てて未来も諦めて、静かに消え去るはずだったのに――

 

「なんであの時、私じゃないって気づいてくれなかったの?」

 

 六年前、四葉と遊ぶはずだった風太郎は、四葉と思い込んで一花と遊んでいた。

 当時の中野姉妹は、それこそ見分けがつかないほど瓜二つだった。

 知り合ったばかりの風太郎に見分けろというのが無理な相談だ。

 それでも、吐き出さずにはいられなかった。

 

「なんであの時、私だって気づいてくれなかったの?」

 

 旭高校で再会した時、風太郎は四葉のことを思い出してくれなかった。

 名前も教えてなかったし、成長期を挟んでいるため背格好も変わっている。

 なにより風太郎は四葉のことには気づかずとも、約束のとおり努力を続けていた。

 それでも、吐き出さずにはいられなかった。

 

「どうして他のみんなに優しくするの?」

「どうして私だけキスしてくれなかったの?」

「どうして私だけ抱いてくれなかったの?」

「どうして……私だけ見てくれないの?」

 

 もう心の蓋は壊れてしまって、溢れ出す感情を止めることができない。

 それが身勝手な想いだとしても、曝け出すしかない。

 涙で滲んだ視界の中で、風太郎が呆然とこちらを見上げていた。

 

「四葉、お前――」

「いやっ!」

 

 伸ばされた手を払いのける。

 ずっとその手を取りたかった。

 ずっと大好きだと伝えたかった。

 しかし拒絶の意思は、それとは正反対の言葉を吐き出した。

 

「風太郎君なんか――だいっきらい!!」

 

 

 

 

 

 走り去っていく四葉を、呆然と見送る。

 思考が起こった事実に追いつかない。

 未だに夢の中なのかと思いたくなる。

 ただ、払いのけられた手の痛みだけが、これが現実であるということを伝えてきた。

 

「上杉君!」

 

 入れ替わるように、五月が現れた。

 声は切羽詰っているし、表情にも余裕がない。

 立ち尽くした俺に、掴みかかるような勢いで詰め寄ってきた。

 

「何があったのですか!」

「……俺は、また零奈が現れたと思って」

「え……?」

「でもそんなことはありえないから、夢だと思って」

「……それで?」

「あいつの……四葉の名を呼んじまった」

「そんな……気づいて、いたんですか」

 

 五月は愕然と呟いた。

 それから、四葉が何をしようとしていたのかを語った。

 そうするように仕向けたのは、自分なのだということも。

 

「……四葉は、学校から飛び出していってしまいました」

「あいつを見かけたのか?」

「ええ……今は一花が追っています。自分は暇だから任せて、と言っていました」

 

 確かに休学中の一花は、この学園祭において役割はない。

 二乃や三玖は屋台の方があるため、容易には動けないだろう。

 そして五月は、事実確認のために俺のもとへ来たのだろう。

 

「すまん、俺はあいつの気持ちも知らずに……」

「私も、四葉の答えに納得ができなくて……」

「……今は落ち込んでる場合じゃないな」

 

 後悔に俯いている場合でも、どうするかなんて立ち止まっている場合でもない。

 今は何よりも、動かなければならない。

 そうしなければ、二度とあいつの笑顔が見られなくなる。

 そんな予感だけはあった。

 

「五月、悪いが俺の仕事、肩代わりしてくれ」

「……四葉を追うのですね」

「ああ、行ってくる」

「本気で逃げる四葉に、あなたが追いつけるとは思えません」

「かもな。だが、他の奴には任せられねーよ」

 

 資格があるかどうかなんて知ったことじゃない。

 俺が行けば、もっと傷つけてしまうかもしれない。

 それでも、俺はあいつにまだ伝えていないことがある。

 だからこの期に及んで、俺は俺の身勝手な望みを貫くのだと決めた。

 足元がふらつく? 頭がぐらつく?

 なんてことはない、これがベストコンディションだ。

 

「上杉君、せめてこれを」

 

 五月が近くの自販機で買ったペットボトルを差し出してきた。

 スポーツドリンク……一息に飲み干す。

 

「サンキューな、五月」

「ええ、行ってらっしゃい」

 

 

 

 

 

「くそっ、今更、ながらっ、体力、ねーな……!」

 

 しかしながら、精神が肉体を凌駕するなんて都合のいいことは早々ない。

 学校を飛び出してほんの数十メートルで、俺はもはや息を上げていた。

 それでも足は止めないし、同時に頭も回す。

 酸素も何もかも足りないが、無闇矢鱈に知識を詰め込んだこの頭にはいいハンデだ。

 このまま闇雲に走っていても徒労に終わることはわかりきっている。

 ならば向かう先を絞るべきだ。

 懐が寂しすぎるせいで、自分の足以外の移動手段が使えないのが悲しいところだが。

 四葉の行きそうな場所を考えて、真っ先に思い当たったのは自宅だ。

 無堂の言葉に沈み込んだ五月も、あのマンションの自室に篭もりきりだった。

 しかしそれ以外となると、中々思いつかない。

 思えば四葉は一緒に出かけても、自分の望みを口にしたことはなかった。

 そんなあいつが、自発的に向かった場所といえば――

 ポケットの中の携帯が震える。

 この振動の長さは、電話だ。

 速度を緩めて携帯を取り出すと、一花からだった。

 

「もしもし……」

『フータロー君、四葉見つかった?』

「いいや、まだだ……そっちも、見つから、ないか」

『残念ながら見失っちゃってね……家に戻ってみたけど、帰ってきてはいないみたいだよ』

「そうか……」

 

 これで一つ有力な候補が潰れた。

 他に思い浮かばないなら、後はひたすら地道な作業となる。

 こんな時、誰か一人でも中野姉妹が傍にいれば、聞き込みが捗るんだが。

 今のあいつは怒っているのだろうか、それとも落ち込んでいるのだろうか。

 

『ここは私がよく来る公園なんです。ちょっと落ち込んだ時はそのブランコに乗ってみたり……』

 

 ……そういえば、そうだったな。

 頭を回した気でいたが、てんで回っていなかったみたいだ。

 

『フータロー君? もしかして走りすぎてバテてない?』

「……大丈夫だ」

『そう? じゃあ、私はもう一度――』

「いや、心当たりがある。お前は先に学校に戻っていてくれ」

『そっか……なら、任せちゃおうかな』

「ああ、もし夕方までに戻らなかったら、改めて連絡してくれ」

 

 通話を切る。

 そして、昨日撮った写真を画面に表示させる。

 最新機種で撮ったものと比べればしょぼいかもしれないが、これで十分だ。

 あいつにこれを見せれば、きっと伝わる。

 だから、今はただ走る。

 いるかもしれないからといって、いつまでもあそこにいる保証はないからだ。

 

「はぁ、はぁ……くそっ」

 

 流れる汗は止めどなく、悪態が口をついて出る。

 それはなにより俺自身へ向けられたものだった。

 この体力のなさが、人の感情の機微への疎さが、歯痒くて堪らない。

 かつて俺が不要と切り捨ててきたものが、今になって惜しくて堪らない。

 だが、これでいい。

 欠けているからこそ、全力を振り絞れるのだ。

 それぐらいでないと、きっとあいつが流した涙に見合わない。

 

「つーか、いねぇし……」

 

 しかし公園に着いたものの、四葉の姿はなかった。

 ふらふらと、敷地内に入ってブランコに座り込む。

 一気に力が抜けてしまった。

 これで五月の差し入れがなかったら干からびていたかもしれない。

 

「……どうする?」

 

 息を整えながら考える。

 当てが外れてしまって、頭の中は見事に空っぽだった。

 体力の方も限界が近い。

 ……いっそ他の姉妹に助けを求めるか。

 今更格好がつかないが、俺の事情を抜きにすればその方がいい。

 だけどその前に、四葉に電話をかけてみることにした。

 きっと出てはくれないだろう。

 だがしかし、万が一にでも応えてくれるのなら、その声をまた聞かせてくれるのなら。

 縋るような思いで、番号を呼び出す。

 

「――っ」

 

 息を呑むような声とバイブ音。

 茂みが揺れる音に、振り返る。

 ベンチのすぐ後ろの植え込みから、見慣れたリボンが生えていた。

 

「――四葉!」

 

 すかさず駆け寄ろうとしたが、向こうの動きの方が早い。

 四葉はあっという間に公園から走り去ってしまった。

 

「くそっ、結局は追いかけっこかよ……!」

 

 毎度毎度、大事な場面でこうなるのは、最早恒例と言ってもいいかもしれない。

 走らされる側からしたらたまったものではないが、全部つぎ込むのならここしかない。

 残る体力を振り絞り、悲鳴を上げる脚に力を入れ尽くす。

 もう自分がちゃんと呼吸しているのかも怪しいが、幸いな事に視界にまだ四葉を捉えている。

 しかし、やはり地力に差がありすぎる。

 四葉は既に、橋を渡って川を挟んだ反対側を走っていた。

 このままでは遠からず見失ってしまう。

 その前に、なんとしても伝えなければいけないことがある。

 手に持ったままの携帯が軋むほどの力で握り締めた。

 橋の欄干に身を乗り出す。

 ここからなら声がよく通るだろう。

 そして息を大きく吸い込もうとして、嫌な浮遊感。

 ここに来て俺は、自分の体の疲労っぷりを見誤っていた。

 体を支えていたはずの手が滑り、俺の体が落ちていく。

 手に握っていた携帯が、橋の上に落ちて硬い音を立てた。

 視界の上下は反転し、程なくして衝撃が二回。

 着水時のものと、水底に打ち付けられた時のもの。

 落ちた場所が悪かったのか、川幅の割に浅かった。

 おかげで痛みのあまり体が動かせそうにない。

 だがなんにしても、これで終わりだ。

 勝ちを確信して口元が歪む。

 

「――風太郎君っ!」

 

 更なる着水音に伴って、水面が揺れる。

 ……ほら、あのお人好しが助けに来ないわけがないんだ。

 

「だ、大丈夫ですか?」

「はぁ、はぁ……け、携帯……橋の、上……俺の」

「動いちゃダメです! 今持ってきますから」

 

 あっという間に水の中から引き上げられた俺は、地面の上にぐったりと座り込んだ。

 この千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。

 携帯を取りに行こうとしたら、代わりに四葉が行ってしまった。

 また逃げてしまうことを懸念したが、そんなことはなかった。

 

「どうぞ」

「ああ、悪いな……」

「……私はこれで――」

 

 四葉が動くのに先んじて、その手を掴む。

 疲れ果ててろくに体が動かせずとも、決して離すわけにはいかない。

 

「……離してください」

「離さねーよ。もう一歩も動けん……お前に見捨てられたら俺はここで死ぬ」

「携帯は無事じゃないですか」

「もしお前が行ってしまうなら、即座に川に投げ捨てる。それでもいいのか?」

「――っ、卑怯です!」

「何とでも言え。……お前に見せたいものがある」

 

 濡れた指先で携帯を操作して、昨日撮った写真を表示する。

 バンドを組んでいる三人組、被服部の二人、メガネをかけたおさげの女子。

 全員、クラスメイトだ。

 

「こいつらを見て、なにか気づかないか?」

「この人たちは、まさか……」

「そうだ、全員お前が面倒見たやつらだよ」

 

 そしてどいつもこいつも昨日、俺を伝言板に仕立てあげようとしてきやがった。

 もののついでだ、その役割もついでに果たしてやろう。

 

「お前にお礼を言いたがっててな。せっかくだから手伝ってもらった」

「……え?」

「そして肝心の演劇の方だが……ほら」

「この人……もしかして陸上部の部長さん!?」

 

 見せた写真には、エメラルド女王を見事に演じる陸上部の元部長の姿。

 インタビューで放送事故を起こしていた彼女だが、初日から舞台を観覧していたらしい。

 四葉のためならと、代役を買って出てくれた。

 

「でも、衣装は私に合わせて採寸していたはずじゃ……」

「だから手伝ってもらったって言ったろ。被服部の二人だよ」

「そうですか、みんな私のせいで……」

「お前のせいでじゃない。お前のためだから全員協力してくれたんだ」

 

 そう、これも初日にこいつが言っていた、情けは人のためならず、というやつだ。

 あるいは因果応報とも言うべきか。

 善因には、善果が巡ってくるということだ。

 

「そんな……だって、私は自分のためにしか動いてなかったのに……」

「それの何が悪い。理由がなんであれ、助けられたという事実には変わりない」

 

 それが偽善だろうと下心だろうと、そこには行動したという結果がある。

 その結果が今回、四葉を助けたのだ。

 

「……かつてのお前との約束が、今の俺を作っているのは確かだ」

「……うん」

「だが、俺がここまで来られたのは今のお前のおかげだ」

「……」

「お前がいなかったら、とっくに躓いて駄目になってた」

「……」

「お前がいると、お前が笑っていてくれると、どうしようもなく安心できるんだよ」

「……風太郎、くん」

 

 その場に座り込んだ四葉の目に涙がたまる。

 それを拭おうとした瞬間、急にくしゃみが出そうになって鼻を押さえた。

 体が冷え始めたのか、ガタガタと震えて歯の根も合わなくなってきた。

 

「……このままだと風邪ひいちゃいそうですね」

「あ、ああ……」

「うちに行きましょう。ここからなら近いですし」

 

 

 

 

 

「お待たせしました」

「あ、ああ……悪いがシャワー借りるぞ」

 

 ガタガタと震えながら、風太郎は浴室へと消えていった。

 この部屋に着いた時、まずどっちが先にシャワーを浴びるかで議論になった。

 四葉は風太郎を先に、風太郎は四葉を先にと主張した。

 風太郎が疲弊しきっているのは明らかだが、四葉は過労で倒れたばかりである。

 どちらにしても、濡れたまま放置していい状態ではない。

 結局はどちらも折れなかったため、ジャンケンで決める羽目になった。

 その結果、先にシャワーを使うことになった四葉だが、あまり待たせるわけにもいかなかった。

 出来うる限り素早く済ませ、風太郎にバトンタッチして今に至る。

 リビングに一人佇む四葉は、先ほどの風太郎の言葉を反芻した。

 

『お前がいると、お前が笑っていてくれると、どうしようもなく安心できるんだよ』

 

 我ながら現金だと思いつつも、心の中の蟠りが解けていくのを感じた。

 自分は間違いなく、風太郎にとっての特別だった。

 他の姉妹とはベクトルが違うのかもしれないが、それがわかっただけでも十分だ。

 四葉は風太郎の言葉を、友愛から来るものだと解釈した。

 それは望んでいたものとは少し違うけれど、得難いものには変わりない。

 目元を拭って、頬を張る。

 今なら普段通りに笑えそうだった。

 

「あ、そういえば」

 

 自分と風太郎の制服を干すためにハンガーにかけようとして、五月からの頼まれ事を思い出す。

 スカートのポケットから預かった紙片を取り出すと、濡れたせいでふやけていた。

 もうこうなってしまってはどうしようもないので、素直に謝るしかない。

 それとも、最初から挟んでいたことにしておけば問題ないだろうか。

 テーブルの上には、同じくふやけた風太郎の生徒手帳が置いてある。

 なんとはなしに最後のページを開いて、四葉は固まった。

 

「これって……」

 

 そこに収められていたのは、風太郎自身の写真だ。

 カメラから目をそらしたその被写体に、四葉は見覚えがあった。

 そもそも写真はサイズとして中途半端で、まるで半分に折ったかのような――

 恐る恐る取り出してみる。

 ちょうど、五月から預かった紙片と同じサイズだった。

 写真を裏返してみると、そこには自分自身の姿があった。

 これはこの前の修学旅行の際、清水寺で二人で撮った写真だ。

 風太郎には画像データだけ渡していたのだが、プリントアウトしていたらしい。

 どうしてと、頭が疑問で染まる。

 なんで他の姉妹ではなく、よりにもよって自分の写真なのかと。

 これではまるで……

 

「そんな、まさかだよね」

 

 口ではそう言いつつも、手の震えは止まらなかった。

 

『えへへ、写真の子にも会えるといいね』

『ズバリ! お兄ちゃんの初恋なんだよね?』

 

 それは修学旅行前の買い物の際の、らいはの言葉だ。

 五月から預かった紙片。

 風太郎が生徒手帳に収めていたもの。

 半分に折られたそれを開く。

 

「――あ」

 

 金髪の少年と、髪の長い少女。

 かつての風太郎とかつての自分が、その写真の中にあった。

 二つの写真を見比べる。

 お互いに体は成長したというのに、仕草はちっとも変わっていなかった。

 笑みが漏れる、涙が溢れる。

 四葉の中の諦念は、消え去っていた。

 

 

 

 

 

「ぐはっ」

 

 床に背中を打ち付けられ、肺から空気が強制排出される。

 リビングに入った瞬間、四葉のタックルを真正面から受けてこの状態である。

 いきなりなんなんだ、一体。

 

「おい、いきなり何するんだ」

「上杉さん……これ、どういうことなんでしょうか?」

 

 四葉が手に持っているのは二枚の写真。

 年は違えど、どちらも俺と四葉のツーショット写真である。

 こいつ、手帳を勝手に見やがったのか。

 しかしなんで昔の写真まで……

 どうしてこうなったかは置いておいて、とにかく普通に恥ずかしい。

 羞恥のあまり、俺は顔を手で覆った。

 

「つーか勝手に見てんじゃねーよ……」

「ご、ごめんなさい……でも、気になっちゃって」

 

 そうか、ならしかたな……くねーわ。

 俺のプライバシーだとか、そういうものはどこに行ってしまったのだろうか。

 しかしまぁ、ここで吐き出すのにはいい機会なのかもしれない。

 俺が口をつぐんでいた事で、こいつが傷ついたのなら尚更だ。

 

「その、なんだ……気になる子の写真を忍ばせとくって、そんなおかしいか?」

「気になるとは?」

「言ったろ、好きだって」

「他のみんなにも言ってました」

「それはそうだが……お前は特別なんだ」

 

 そもそも俺が恋愛感情を自覚したのはちょっと前だ。

 そしてそれに伴って思い出の少女――四葉への気持ちも定まった。

 俺はきっと、ずっと好きだったのだ。

 

「風太郎君……私はずっとずっと好きだったんだよ……?」

 

 四葉の顔が近づき、距離がゼロになる。

 その薄赤く頬を染めた切なげな表情は、脳裏に焼き付いた光景を呼び覚ます。

 鐘の下でのキス、五月の格好をした――

 

「……もしかして、二回目か?」

「気づいてたんだ」

「どうにかな」

「風太郎、くん……風太郎君風太郎君風太郎君……!」

 

 再び唇に吸い付かれる。

 まるで俺の全てを吸い尽くすかのような、そんな情念がこもったキスだった。

 糸を引きつつも、唇が離れる。

 俺の上に馬乗りになった四葉の目の色は、すっかり変わっていた。

 ああ、やっぱり五つ子だな。

 こんなにも疲れ果てているというのに、頭の中でスイッチが入ってしまった。

 

「――私、もう我慢しないよ」

 

 

 




というわけで終了。

フー君は普段財布に数枚、リュックに箱ごとゴムを忍ばせて使うたびに補充しています。
五月との戦いの後も財布の方に補充したのですが、今回の四葉との戦いで全滅しました。
フー君は体力的に死亡しました。

次は学園祭のシメになると思います。


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後夜祭~風太郎の告白~

お久しぶりです。
約三週間ぐらい放置していたのは、年末に向けての駆け込みだとかゲームとかゲームとか、その他にゲームで忙しかったからですね。

とまぁ、言い訳じみた前置きはさて置き、後夜祭の話に入ります。


 

 

 

「ん~~」

 

 壮絶な戦いの後でソファーにぶっ倒れた俺は、四葉にじゃれつかれていた。

 より正確を期すのならば少し違うのかもしれないが、さながらネコ科の動物がマーキングするかのように体を擦りつけられているのだ。

 あるいはイヌ科の愛情表現だろうか。

 どちらにせよ、精根尽き果てた俺はされるがままだ。

 柔らかいものを押し当てられたまま動かれるのは正直気が気でないが、幸いな事に現在はその手の欲が減退している最中だ。

 四葉との戦いは、ラウンド数で言うのならば過去最高のものになった。

 上に跨られたまま数回、そして汗を流すためという名目で再びの浴室に引き込まれて数回。

 今まで溜め込んできた鬱憤を晴らすかのような、そんな乱れ方だった。

 中野姉妹の暴走に備えて財布に忍ばせてあった近藤さんは全滅した。

 というより、アイテムがなくなったことでようやく終わったと言うべきか。

 なんにしても、俺の命があるうちに終わってくれて本当に良かった……

 昨日の夕方から続く姉妹との戦いや、最後の追いかけっこで体力はほぼ尽きていた。

 こうして虫の息ながらも生きながらえているのは、主に四葉が動いていたからだろう。

 こいつ、初めてだったくせにアグレッシブすぎやしないか?

 残念な頭の方に反して、恐るべきフィジカルである。

 今後こういう機会があるとして、こいつに主導権を握らせるのはヤバいかもしれない。

 

「……四葉」

「なぁに?」

「くすぐったいんだが」

「がまんして」

 

 くすぐったいというよりも、ムズムズというかムラムラし始めてきた。

 こんな風に体を押し付けられて、さらに髪からシャンプーやらの匂いが漂ってくるのも悪い。

 俺自身は力尽きる寸前だというのに、俺の分身はまだ戦えると主張していた。

 その闘争本能は見上げたものだが、状況の判断ができないようでは二流もいいところ。

 もし今四葉がその気になってみろ、今度こそ俺は死ぬ。

 

「わっ、さっきあんなに一杯したのに……」

 

 顔を手で覆う。

 こうして頬を染めた四葉は、思わず抱きしめたくなる程度には心を揺さぶってきた。

 しかしそれをやったら最後、俺の命運は尽きる。

 幸いな事に、体力は尽きそうだが精神力の方はまだ比較的余裕がある。

 中野姉妹の猛攻を、致命傷を受けながらも凌ぎ切った鋼の理性を見せてやるぜ……!

 

「ふ、風太郎君がしたいなら……いいよ?」

 

 鋼の理性の白旗は早かった。

 鉄壁なはずの城塞は、四葉の上目遣いであっさり瓦解してしまった。

 抱き寄せるとさらに体が密着し、顔と顔の距離もより近くなる。

 四葉がそっと目を閉じたのが合図だった。

 今にも尽きそうな体力だとかもうゴムはないとか、そういうことも頭から吹っ飛んでいた。

 ただただ、今は目の前の四葉のことしか考えられない。

 そのまま顔を引き寄せて――

 

「あれ、二人とも家にいたんだ」

 

 俺と四葉は、二人揃って固まった。

 たった今やって来たのか、一花がそこにいた。

 まるで何でもない日常の一コマのように、キッチンへ向かうと冷蔵庫を物色していた。

 そして用が済んだのか、リビングのテーブルについて一言。

 

「あ、気にしないで続けていいよ」

「できるかっ」

 

 

 

 

 

「よくよく考えたらさ、他のみんなとフータロー君がしてるとこ、見たことなかったなって」

「あってたまるか」

 

 距離をとって座り直した俺と四葉の左側、二人掛けのソファーに座って一花はそうほざいた。

 いくら俺達の関係が普通とは違うといっても、それはもう特殊プレイの領域である。

 残念ながら、俺にはそんな嗜好はない。

 爛れていることに自覚はあるが、それは明らかにダメな部類の爛れ方だろう。

 そもそもの話、爛れ方に良いも悪いもあるのかという点に議論の余地はあるだろうが。

 とにかく、俺自身熟練者を気取っているわけではないが、初心者の四葉には刺激が強すぎる。

 いや、決して他の姉妹だったらOKというわけでもないんだが。

 

「そ、それで……一花はどうして家に?」

 

 顔を赤くしながらも質問した四葉は、健闘した方だろう。

 これが五月だったら、その場にうずくまって悶えているのが容易に想像できる。

 しかし相手が悪い。

 この長女は、それが許される場においては喜々として弄ってくるタイプだ。

 俺も散々被害に遭っているから、よくわかる。

 

「四葉、下着ちゃんとしたの着けてた? ほら、この前もう使わないやついくつかあげたじゃん」

「い、一花っ」

 

 ちなみに、お子様パンツとスポーツブラだった。

 中野姉妹の中には、やたら過激なのを着けている奴もいる。

 特に一花はその傾向が強いから始末に負えない。

 ただ着用しているだけなら問題ないのだが、それを使って誘惑してくるのが問題なのだ。

 もちろん俺の理性は容易く屈しはしないが、弘法だって筆を誤ることはある。

 そんなわけで、色気を目的としない実用性重視のものは逆に安心できたりする。

 四葉のあの体にサイズのあっていないお子様パンツは、それはそれでヤバかったのだが。

 ……違う、今は下着の話じゃない。

 危うく一花のペースに乗せられるところだったぜ……

 

「それより、お前は家に忘れ物でもしたのか?」

「そんなとこだね。そしたら二人がくっついてるもんだから、お姉さんビックリしちゃったよ」

「あうぅ……」

「でも安心した。フータロー君を信じていて良かった」

 

 一花の言葉に、少し安心した。

 その信頼に応えられたというのならば、なけなしの体力を振り絞った甲斐がある。

 

「まぁ、そっちの方も頑張っちゃったみたいだけど」

 

 ゴミ箱を覗き込んで、一花は苦笑した。

 そこには俺達が励んでいたのを示す証拠品がある。

 さっきから恥ずかしそうにしていた四葉だが、ついに顔を手で覆ってダウンしてしまった。

 俺だって平気というわけではないが、事ある毎に裁判にかけられて慣れてしまった節はある。

 

「というわけで四葉を連れてくけど、フータロー君一人でも大丈夫?」

「ああ、ちょっと休んだら学校に戻るつもりだ」

「なら、みんなで話があるからまた後でね」

 

 そう言って、二人は部屋から出ていった。

 四葉は不安そうな顔をしていたが、一度手を握ってやるとそれもなくなったようだ。

 一人残された俺は、目を閉じて考える。

 話がある、とはやはりそういうことだろうか。

 これはいよいよ、俺も覚悟を決める必要がありそうだ。

 

 

 

 

 

「みんな、心配かけて本当にごめんっ」

 

 一花に連れられて学校に戻った四葉は、姉妹に頭を下げた。

 本日二度目の謝罪である。

 姉妹からは呆れる声や諌める言葉、咎める者もいたが、根っこで心配していたのは共通だ。

 

「で、したの?」

「ええっと、何のことだか……」

 

 詰め寄ってきた二乃に白を切る四葉だったが、目は思いっきり泳いでいた。

 その様子に疑いの眼差しは深まる一方だが、容疑者は決して目を合わせようとしない。

 業を煮やした二乃は、四葉のワイシャツのボタンを一つ外して中を覗き込んだ。

 

「うわ、すっごい痕残ってるじゃない!」

「わぁ、この量は相当だね」

「セクハラ! これセクハラだよ!」

 

 自分の胸元を覗き込んでくる姉二人に抗議する四葉だが、離してくれる気配はない。

 騒がしくしている三人を横目に、五月はため息をついた。

 服の中を覗き込んで痕が残っているとなれば、そういうことだろう。

 かくいう五月の胸にもしっかりと残っている。

 顔を赤くしながら自分の胸元を覗き込んでいると、同じようにしている三玖と目が合った。

 

「フータロー、おっぱい星人だから」

 

 本人が聞いたら抗議してきそうな一言だったが、残念ながら否定する材料はない。

 事実として、事の最中に風太郎が中野姉妹の胸部に執着してくるのは確かだった。

 元々そういう性癖だったのか、それとも中野姉妹と触れ合ってそうなったのか。

 順序はこの際瑣末な問題である。

 重要なのは、風太郎が毎回決まって胸にキスマークを残していくことであり、四葉の胸に残されたそれは尋常な量ではないということだ。

 たった一度でそうなるとは思えないので、回数としては相当のものだろう。

 

「ちょっとあんた、私たちがいないのを良いことにやりたい放題だったってわけ?」

「ご、誤解だよ!」

「五回ですって!? どんだけヤってたのよ!」

「あわわわわ……そ、そうでもあるけど、そうじゃなくて!」

「まぁまぁ、二人とも落ち着いて」

 

 ヒートアップする二乃と激しく動揺する四葉の間に、一花は割り込んだ。

 長女として姉妹をリードしてきた手前、仲裁ならお手の物である。

 それが高じて五つ子裁判において裁判長を務めたりもするのだが、最近は不祥事を隠していたりすることもあるため、あまり信用されていなかったりする。

 妹達からの疑惑の目に冷や汗をかいたことは、一度や二度ではない。

 

「とりあえず四葉、隠していたわけじゃないんだけど、私たちも――」

「いいよ、一花。私、知ってるから」

 

 気遣わしげに口を開く一花を、四葉は首を振って制した。

 その顔に最早諦念の色はなく、どこか晴れやかですらあった。

 

「そっか、なら改めて説明する必要もないんだね」

「助かる。正直アレは恥ずかしいし」

「右に同じです……」

 

 三玖と五月は、犯行が即座にバレて尋問を食らった口である。

 その結果二人を待っていたのは、五つ子裁判で初体験の概要を自分の口から語らされるという、世にも恐るべき仕打ちだ。

 公平を期すために結局裁判に参加した全員が語ることにはなるのだが、それもまた恥ずかしい。

 一回話したからといって平気になるわけではないのだ。

 比較的動揺が見られない上の姉二人は、時間を経ることで得た余裕の差だろうか。

 本来ならば四葉も五つ子裁判の形を取って尋問されるところなのだが、諸々の事情を考慮した結果、今回は免除されている。

 

「これだけは聞いておくけど、いつから好きだったのよ」

「最初からだよ」

「そう……」

 

 二乃の脳裏に浮かんだのは、ずぶ濡れになった風太郎の姿だった。

 思い出の少女との別れに、かつてないほどに落ち込んでいた。

 

「なら、私はあんたのことを認めないわ」

「……どうして?」

 

 その元となる感情は嫉妬だったのかもしれない。

 風太郎は五人が好きだと、そして選ぶことができないと言った。

 それは他の四人が体を重ねて、ようやく四葉に並び立ったと見ることもできる。

 なんせ、四葉はそういう接触が一切ないにも関わらず、その告白を受けたのだから。

 風太郎にとっては間違いなく特別なのだろう。

 六年前の出会いと一年前の再会。

 その巡り合わせは、まさに運命と言っても過言ではない。

 だからこそ、それを手放すような真似に納得ができなかった。

 それでも、納得ができないだけならまだ良かった。

 四葉があくまでも想いを秘めているだけなら、二乃の前に立ち塞がらないのなら、もやもやとした感情を抱えつつも何も言うつもりはなかった。

 しかし、結果として四葉は自分と同じ舞台に立った。

 風太郎を傷つけたその口で、風太郎への愛を語るのは到底見過ごせない。

 

「あんたは……思い出の女の子はフー君に別れを告げた。そのはずでしょ?」

「二乃、それは私が――」

「いいよ、五月。私が頼んだ事なんだから」

 

 二乃が何に言及しているのかに気づいた五月が口を挟もうとする。

 しかし四葉はそれを止めた。

 あくまで五月は、自分の代わりを務めただけなのだと。

 

「それでも、風太郎君は私を受け入れてくれたよ」

「ええ、そうね。だからこれは私のワガママよ」

 

 当人同士が納得しているのなら、本来ならそこに口を挟む余地はない。

 それは二乃も承知している。

 そもそも、自分自身が相当に酷い態度をとってきたという事実もある。

 時々都合良く頭から抜け落ちるが、忘れてはいないのだ。

 だからこそここで問いたいのは、四葉の想いの強さだ。

 過去の風太郎を変えた思い出の少女。

 積み重ねた時間では、きっと他の誰もが敵わない。

 それでも、その想いが自分に劣るようなものでしかないのなら――

 

「今、ここではっきりと聞かせなさい。あんたがフー君をどう想っているのかを」

 

 自分に指を突きつけてくる二乃の目に、四葉はその本気の程を感じとった。

 ここで下手な答えを返そうものなら、姉妹の縁を切られかねない。

 それほどの激しい感情を持って、二乃は自分と対峙しているのだと。

 いきなりではあるが、その気持ちは納得できるものだった。

 傍から見ても、二乃は姉妹の中で最も強く風太郎に想いをぶつけていた。

 対して四葉は、そういう方面ではほとんど動きを見せていなかった。

 いっそ受身だったと言ってもいい。

 風太郎を連れ回すことはあっても、それはあくまで学級長の仕事の延長でしかなかったのだ。

 そんな自分が他の姉妹と同様に、前から好きだったと言っても納得しかねるのだろう。

 ならばと、一歩前に出る。

 以前の四葉ならここで引き下がっていた。

 姉妹への負い目から、自分の我を通すことを良しとできなかった。

 でも今は違う。

 たとえ誰かを傷つけることになったのだとしても、譲れない想いがある。

 いつかなんて悠長なことはもう言わない。

 自分の夢は、今この自分自身が叶えてゆくものなのだから。

 

「好きだよ。昔からこの気持ちは変わらない……ううん、前よりもっと好き」

「一花にも二乃にも、三玖にも五月にも負けたくない」

「私は絶対に風太郎君と添い遂げるって決めたんだ」

「だから、二乃になんて言われても絶対に絶対に譲らない……!」

 

 四葉の宣言を、二乃は真正面から受け止めた。

 自然と口角が上がる。

 思えば、一足早く五つ子の横並びから飛び出たのは四葉だった。

 トレードマークとなるリボンを着け始め、それにつられるように姉妹は変化していった。

 昔のままでいたいという二乃の願いを破壊したのは、他でもない四葉なのだ。

 そして今は自分と同じ、それ故に相容れない願いを持って対峙している。

 驚く程に好戦的な感情が湧き上がるが、それでいい。

 自分達は血を分けた姉妹であり、同じ目標を目指す同志であり、互いにこれから先一生意識し合うライバルなのだから。

 変化を恐れるような臆病さは、髪を切った時に一緒に捨ててきた。

 

「譲らないって、まるでフー君が今は自分のものみたいな言い方ね」

「うん、だって風太郎君は私のことが一番好きだもん」

 

 四葉のいっそ傲慢ともとれる発言に、二乃のみならず他の姉妹も顔を引きつらせた。

 風太郎にとって特別だというのは間違いない。

 それは過去の事情を全く知らない三玖でも、これまでの会話からそう察することができた。

 しかし、だからといって自分が一番だと思い込むのは如何なものか。

 四葉が風太郎と向き合うことを望んでいた一花と五月も、これは見過ごせない。

 

「四葉さ、ちょーっと頭冷やそ?」

「一花の言う通りです。それに、上杉君は私の胸が一番大きいと言ってましたよ」

 

 四葉に向いてた視線が、今度は五月に向けられた。

 一卵性の五つ子である中野姉妹は、身長やバストサイズも同じなはずなのだ。

 ここに体重も加えたいというのが五月の意見なのだが、他の姉妹の反応はいまいちである。

 とにかく、バストサイズも五等分だというのが姉妹の共通認識だったのだが、今ここに裏切り者が見つかったようだ。

 自分の失言に気づいた五月が目をあらぬ方向にそらしたが、発した言葉は取り消せない。

 二乃と三玖が左右から取り押さえ、一花が五月の胸に手を伸ばした。

 

「ちょっ、一花……んんっ」

「どうなのよ」

「うーん……たしかにサイズアップしてるかも」

「五月、有罪、切腹」

「そ、そんなぁ」

 

 五月は三人に揉みくちゃにされていた。

 ここに栄養を蓄えているのかと、胸とお腹を重点的に攻められていた。

 いきなり蚊帳の外に置かれた四葉は、目を点にするしかない。

 

「と、とにかく! 誰が一番なんて議論は、今のところは不毛なだけです」

 

 ようやく解放された五月は、強引に軌道修正を図った。

 言ってることはもっともだが、それだけでは着いた火は消えない。

 もとより二乃は、言わせっぱなしで黙っているようなおとなしい性格ではないのだ。

 

「一番は私に決まってるでしょ」

「言い切ったね……二乃のその自信はどこから来るのかな」

「私が一番フー君のことを好きだからよ」

 

 ともすれば、それは先程の四葉の発言と大差ない。

 呆れる一花に対して、二乃は堂々と自分の想いが一番強いのだと言ってのけた。

 明らかに四葉に対抗した形だが、こうなれば他の姉妹も黙っていない。

 

「一番は私でいいと思う。フータロー、私に一番優しいし」

 

 基本的に口が悪くやや無遠慮な発言が目立つ風太郎だが、三玖には比較的穏やかな態度をとる。

 それは他の姉妹と比較して、問題行動が少ないことに起因している。

 いち早く風太郎に協力的な姿勢を見せたことも、無関係ではないだろう。

 それは四葉も同じなのだが、それ以上に問題行動が多いため叱られることも珍しくない。

 

「まぁ、フータロー君が一番に甘えてるのは、間違いなく私だよね」

 

 確かに一花と風太郎の間には、共感のような何かがある。

 それは妹を持つ者同士のシンパシーなのか、そういう意味で気を許していると言えなくもない。

 姉妹の中で精神面では最も対等な位置にいると言ってもいいだろう。

 そんな相手に甘える……というか頼るようなこともあるのかもしれない。

 姉妹からも油断ならない相手として認識されている一花だが、頼られているのもまた事実だ。

 

「張り合うつもりはありませんが、上杉君のご家族とは仲良くさせてもらっています」

 

 言葉とは裏腹に、対抗意識は満々だった。

 五月は上杉家を訪問した回数において堂々の一位であり、家族からの覚えもいい。

 言うなれば外堀を埋めにかかっていると言えるだろうか。

 二乃や三玖も風太郎の家まで行ったことはあるが、それだけである。

 それだけでは済まされない行為に及んではいたのだが、今は無関係なのだ。

 重要なのは風太郎の家族とどれだけ親しいのかであり、その点で五月は一番なのだということ。

 ドヤ顔を隠しきれない末っ子だが、姉達の反応は余裕に満ちたものであった。

 

「頑張ってるけど、五月ちゃんはまだまだだね」

「そうね、負ける気がしないわ」

「まだまだ他人行儀」

「ど、どういう意味ですか」

 

 たじろぐ五月に顔を見合わせると、三人は揃って口を開いた。

 

「フータロー君」

「フー君」

「フータロー」

 

 姉三人が示しているのは、風太郎の呼び方だった。

 他の姉妹と違い、五月は基本的に丁寧な口調で話す。

 それは母の影響であり、風太郎を苗字で呼ぶのもその延長だ。

 確かに他人行儀と言われればその通りだろう。

 しかしながら、長年その喋り方を続けていたので、最早染み付いて癖になってしまっている。

 はいそうですか、と切り替えるのは困難なのだ。

 実は既に風太郎とは砕けた口調で話してみたのだが、案の定ぎこちない結果に終わっている。

 母脱却の道もまだまだなのである。

 

「わ、私だって風太郎って呼べたんだから! みんなにも負けてないの!」

「え、なんかすっごい違和感。五月ちゃん無理してない?」

 

 勇気を振り絞ったタメ口だが、風太郎同様に姉妹の顔は微妙なものである。

 普段の口調とかけ離れすぎていて、違和感が半端ないのだ。

 ここらへんはもう慣れの問題なので、地道に続けていくしかないだろう。

 

「そういえば五月、昨日は風太郎さんって呼んでたよね」

「あれは母脱却を考える前だったからというか、将来夫婦になったらを想定してと言いますか」

 

 三玖の疑問に、五月は頬を薄赤く染めながら答えた。

 母親役を志すのをやめたからといって、風太郎と結ばれるという目標は依然としてそのままだ。

 やはり口調は元に戻ってしまったのだが、姉妹はそれよりも聞き捨てならない言葉に引っかかった。

 

「夫婦って……五月ちゃんさ、もしかしてフータロー君に重いとか言われてない?」

「な、なんで一花がそれを!?」

「というか、私を差し置いてフー君と夫婦とか生意気よ」

「五月には荷が重いから私が引き受けるよ。フータローからプロポーズもされたし、適役だね」

「「はぁ!?」」

 

 三玖の爆弾発言に、二乃と五月は目を剥いて声を上げた。

 なにやら心当たりがある一花は一見冷静だが、もしかしたらと疑念は拭えないようだった。

 揉みくちゃの対象が五月から三玖に変更された。

 三人に揺さぶられながら、三玖は気の抜けた声を上げていた。

 その光景を見て、今まで静観していた四葉は耐え切れずに吹き出してしまった。

 

「ぷっ……あはははははっ!」

 

 実を言うと、四葉は相応の覚悟を持ってこの場に臨んでいた。

 最悪、姉妹同士の争いになることも想定していた。

 しかし、蓋を開けてみればこの有り様である。

 緊張の糸はすっかり解けてしまった。

 

「あんたはなに笑ってんのよ」

「えっとね、みんなでこうしていられるのが嬉しいんだ」

「まぁ、もうこんな機会も早々ないわよね」

 

 この学園祭が終われば、いよいよ各々の進路と向き合うことになる。

 今まで一緒に歩いてきた姉妹は、別々の道を歩んでいくことになるだろう。

 

『皆さま、お疲れ様でした。これにて旭高校学園祭三日目を終了とします――』

 

 アナウンスが学園祭三日目の終わりを告げた。

 あれだけ色々あった三日間も、この先の後夜祭を経て終わりを迎える。

 暗くなりつつある空を見上げてから、四葉は姉妹に抱きついた。

 

「ね、せっかくだしみんなで後夜祭回ろうよ」

 

 道が分たれることを惜しむよりも、一緒にいる今を楽しむ。

 ライバルなのだとしても、姉妹なのだから。

 四葉の提案に、姉妹は賛成した。

 

「じゃあ、まずはどこ行く? やっぱりせーので――」

「ストップ。そんなのバラバラになるに決まってるでしょ」

 

 中野姉妹は一卵性の五つ子ではあるが、好みは驚くほどかぶらない。

 その数少ない例外が男の趣味なのだが、それは今は関係ないので置いておく。

 別々の場所を一斉に言っても埒があかないので、とりあえず順番に回ることになった。

 野外ライブのステージ、誰もいないパンケーキの屋台、そして学園祭の出し物の結果発表。

 集計の結果、最優秀店舗は三年一組のパンケーキ屋に決定した。

 体育館のステージ上で、賞状とトロフィーを受け取る愛未と山内に、三玖は目を細めた。

 そして同じく表彰された演劇部員たちを見て、四葉は小さく笑みを漏らした。

 結果発表を見届けると、中野姉妹は体育館の外へ。

 残るは五月の要望だ。

 

「お腹が空いたので、みんなで食べ歩きましょう」

 

 最早空腹を隠すことなく、堂々と五月は提案した。

 お腹の虫の鳴き声も高らかだった。

 これには姉妹も苦笑いである。

 幸い、四葉の無料券がまだ余っていたので、それを使って屋台を回ることになった。

 

「えっと、何から食べに行きます?」

 

 それぞれが思い思いに食べたいものを言葉にする。

 意見が全く揃わなかったのは、言うまでもない。

 

 

 

 

 

 暗色に変じつつある空の下、旭高校へ向かって歩く。

 時計を確認すれば、午後五時をもう過ぎていた。

 つまり、学園祭の三日目は終了している。

 もちろんこんな遅刻をかます羽目になったのには、深い事情がある。

 それはもう疲れに疲れ果てて、中野家のリビングで気を失っていたからだ。

 一花が四葉を連れて行った後、ほんの少し休むつもりが寝入ってしまったのだ。

 起きたらもう四時半を過ぎており、慌てて出てきた次第だ。

 多少体力は回復したとはいえ、それでも歩くのが精一杯である。

 

「お、上杉じゃねーか。どこ行ってたんだよコラ」

「疲労困憊だね。何かあったのかい?」

 

 やっとの思いで学校までたどり着くと、前田と武田が出迎えた。

 どうも、これから出し物の結果発表を見に行くらしい。

 最優秀店舗の発表も行われるため、そのために気合を入れていた男子勢は気になるのだろう。

 

「せっかくだし、上杉君もどうだい?」

「いや、俺は用事がある。お前ら、中野姉妹を見かけなかったか?」

「さっき五人で歩いてるとこを見たけどよ……ぶっちゃけどーすんだよ」

 

 前田の心配は、やはり学級長の噂に対してだろうか。

 今まであまり触れないでいてくれたのだが、見過ごせない程度には広まってしまったらしい。

 流石にそれで学校側からどうこうということにはならないとは思うが、頭の痛い話だ。

 

「いい機会だ。僕も君に尋ねたいことがある」

「なんだよ改まって」

「上杉君……君は僕とのライバル関係と彼女たちとの関係、一体どっちを取るんだい!?」

「なんだその二択は」

 

 この二つを天秤にかけた覚えはさらさらない。

 さらに言うのなら、こいつとのライバル関係なんて意識したことがない。

 何故なら、勉強とはどこまで行っても自分との戦いだからだ。

 しかし武田が言うライバル関係を、勉強に置き換えるなら多少話はわかる。

 言うまでもなく、学生の本分だ。

 中野姉妹に出会う前の俺は、それ以外を不必要と切り捨ててきた。

 勉強という手段だけを盲目的に信じて進んでいた。

 でも、それだけでは立ちいかないことを思い知らされた。

 少なくとも中野姉妹との追いかけっこは、いくら勉強しようがどうしようもない。

 今更ながら体力作りの必要性をひしひしと感じている。

 それと、思い知らされたことがもう一つ。

 

「どっちかじゃなくて、どっちも取るんだよ」

「……君は欲張りだね」

「どうやらそうらしい。俺も最近思い知った」

 

 恋愛にかまけていては勉強が疎かになる。

 そんな過去の自分の発言に反するが、あえて言わせてもらおう。

 そんなのはそんじょそこらの奴らの戯言だ。

 テストの点数という結果を叩きつけてやれば黙るだろう。

 一花が仕事と勉強を両立しているのだ。

 それぐらいやってのけなくては、仮にも教師としての面目が立たない。

 

「で、結局誰を選ぶんだよコラ」

「……」

「やれやれ、固まってしまったね」

 

 前田は容赦なく現実に引き戻してくれた。

 情けない話なのだが、事ここに至って覚悟は固まりきっていなかった。

 誰を選ぶとかそういう話ではなく、選択したことを貫き通す覚悟だ。

 いつか見た夢の光景が頭に浮かぶ。

 俺は、あの道を進むことができるのだろうか。

 こちらの沈黙をどう受け取ったのか、前田が拳を突き上げる。

 

「よーしお前ら、見てろよ。俺は今から一発かましてやるぜ!」

「前田君……いくら勉強が苦しいからといって、窓ガラスを割って回るのは……」

「んなわけあるかコラ! 告白だよ告白!」

 

 真剣な顔で止めに入った武田に、前田が吠え返す。

 噛み合わない会話の内容はともかくとして、告白という言葉が問題だ。

 

『さっぱりわからん! お前ら、どうにかしてくれ』

 

 思い浮かんだのは、選ぶことを放棄したなんとも情けない告白だ。

 その直後の強烈な痛みを思い出して、思わず左頬をさすってしまった。

 

「俺がそこの優柔不断な学級長様に、いっちょ男を見せてやるって言ってるんだよ!」

「ははは、正気かい? この祭りが終われば、受験のただ中に放り込まれるというのに」

「だからこそだ。今日が終わる前に、俺はなんとしてもあいつに告白する!」

 

 あいつというのが誰を指すのかはわからないが、前田の気合は十分だった。

 拳を握ってみる。

 体力的にはボロボロだが、気力はまだ尽きていない。

 なにより、ここまで言われて引き下がるわけには行かない。

 

「……そうだな、いい加減はっきりさせるべきだ」

「上杉君、君もかい」

「お前には反対されるかもしれないが、結構待たせちまったからな」

「いいや、それが君の選択なら、僕からは何も言うことはないさ」

「おいコラ、俺の時と態度違いすぎねーか?」

「はははは」

 

 前田のしかめっ面に爽やかな笑みを返すと、武田は一歩前に進み出て振り返った。

 

「しかし君たちが行動を起こすというのに、僕だけ何もしないのは少し寂しいね」

「つーかお前にそんな相手がいんのかよ」

「いいや、残念ながらね」

 

 学園祭前に相談を持ちかけてきた女子を思い出す。

 口ぶりからは武田に気があるようだったが、あれはどうなったのやら。

 まぁ、それは俺が気にしても仕方のないことだ。

 そもそも自分のことに手一杯で、他人の恋愛を気にしている余裕なんてあるはずもない。

 

「だからせめて、僕はささやかながら君たちのサポートをさせてもらおう」

 

 その言葉に、俺と前田は顔を見合わせた。

 いや、どっちかって言うとそっとしておいて欲しいんだが。

 そんなこちらの視線を意に介することなく、武田は先へ進んでいく。

 

「さあ、ついて来たまえ。僕が君たちにふさわしい、絶好の舞台を用意しよう」

 

 

 

 

 

『今年の最優秀店舗は――――売上第一位を記録した、三年一組のパンケーキ屋さんです!』

 

 マイクを通してスピーカーから発せられる司会の音声が、今年の最優秀店舗を発表した。

 ここからは見えないが、ステージ上のスクリーンにも同じような内容が表示されているだろう。

 聞こえてくる歓声は、恐らくはクラスの連中のものだ。

 うちのクラスは見事、男女が手を取り合って目標を達成したわけだ。

 売り上げ一位を狙って気合を入れていた前田も、さぞ喜んで……はいなかった。

 

「お、おい……マジでやんのかよ」

 

 喜ぶどころか、その声は若干震えていた。

 その気持ちは俺にもよくわかる。

 同じ立場だからこその共感だ。

 俺たちは揃って、こんな状況を作り出した元凶を睨みつけた。

 

「ステージの上で自分の想いを叫ぶ……これ以上の演出はあるまいよ!」

 

 俺たちを舞台裏まで連れて来た武田は、高らかに声を上げた。

 つまり、この観客の目が集まるステージの上で、思いの丈を吐き出せと。

 ただでさえ緊張するというのに、それを衆人環視の中でやれと言うのか、こいつは。

 

「ふふふ、怖気づいたのかい?」

「おおお、怖気づくとかそういう問題じゃねーだろコラ!」

「前田の言うとおりだ。悪いが、見世物にされるのはごめんだぞ」

「見世物……確かにそれは否定できないね。好奇の目に晒され、生半可な言葉は口にできない」

 

 だがしかし、と武田は拳を握り締めた。

 この表情には覚えがある。

 全国模試の後、屋上で俺に夢を語った時の顔だ。

 自分の選択への、覚悟に満ちた決意。

 俺に足りないものが、こいつにはあるのだ。

 

「だからこそ、だよ。あの舞台上での宣言は、これ以上ない覚悟と決意の証明になる」

「覚悟に決意、か」

「もちろん一番槍は言いだしっぺの僕が務めよう。君たちのために、場を暖めてくるよ」

 

 こちらに向けて親指を立てると、武田は表舞台へと出ていった。

 俺と前田は舞台袖まで移動して、事の次第を見守る。

 突然の乱入に司会の女子が驚いていたが、武田のウィンクで黙らされていた。

 それどころか、頬を染めてマイクを差し出していた。

 

「僕は三年一組の武田というものだ。突然驚かせてしまい、申し訳ないと思っている」

 

 朗々と響く武田の声に拮抗するように、どよめきが広がっている。

 こんなイベントは完全に予定外なのだから、無理もない。

 言うなれば乗っ取りなのだが、排除されないのはひとえに武田のプレゼンスのおかげだろう。

 普段から校内で注目を集める存在であることに加え、この学校の理事長を親に持つ。

 生徒のみならず、教師からも手を出しにくい存在であることは確かだ。

 

「だけどどうか、僕たちに少しばかりの時間を与えて欲しい」

 

 その言葉に、どよめきが静まっていく。

 どうやら、この場にいるギャラリーは成り行きを見守ることにしたようだ。

 武田は館内を見回してありがとうと言うと、少し間を置いてから再び口を開いた。

 

「今日この場を借りて、僕は宇宙飛行士を目指すことを宣言したい!」

「もちろん、それが険しい道だということは理解しているつもりだ」

「だけど僕はあの、地面も空も空気さえもない空間への憧れを抑えることができない!」

「この学校を出て、日本という国さえ飛び越えて、あの宙の高みへ至ることを今ここに誓おう!」

「今日この場にいる皆には、その証人になってもらいたい!」

 

 拳を突き上げて、武田は叫んだ。

 普段の爽やかなイメージとは一線を画す、ともすれば暑苦しい宣言。

 だけどこれがこいつの本質だ。

 立場を考えて繕うことをしない、素のままの武田。

 自分を曝け出すのには、いつだって勇気がいるのだ。

 

「清聴、ありがとう」

 

 割れんばかりの拍手と歓声。

 宣言通り場は暖まったのかもしれないが、それに伴ってハードルも上げられたような気がする。

 この後で告白をするのかと思うと、どうしたって気が重くなる。

 しかし前田は違うようで、自分で自分の頬を張ると、こちらに不敵な笑みを向けてきた。

 

「見てろ、上杉。今、俺は男になってくるぜ……!」

 

 そして舞台に出て武田とバトンタッチ。

 マイクを手に、ギャラリーと向かい合った。

 

「俺ぁ、三年一組の前田ってもんだ」

 

 拍手と歓声は止んで、再びどよめきが広がる。

 武田の後にあの厳つい顔が出てきたのだから、それも無理からぬ話だろう。

 しかし、そんなことで前田は怯まない。

 

「細かい前置きはいらねぇ、俺が言いたいことは一つ」

 

 そして、一度目を閉じて息を吸い込んだ。

 

「松井……好きだ、付き合ってくれ」

 

 それは静かな告白だった。

 館内が、痛いほどの静寂に包まれる。

 しばらくの間沈黙が続いたかと思うと、誰かの足音が響く。

 件の松井本人が、ステージに向かって来ていた。

 俯き気味で表情はうかがえないが、歩くスピードは速い。

 そして舞台に登ったかと思うと、真っ直ぐ駆け足で前田のもとへ。

 告白した本人は、それを迎え入れるために両腕を広げた。

 このまま抱き合ってカップル成立……恐らく、この場にいるほとんどがそう期待しただろう。

 

「ぐっ、おお……」

 

 響いたのは何とも言えない苦悶の声だった。

 見る場所によっては、何が起こったのかわからないかもしれない。

 しかしこの舞台袖からは、松井が前田の腹に拳を入れているのがはっきりと見えた。

 俗に言う腹パンである。

 かく言う俺も小学校時代、ふざけて同級生にやったことがある。

 もちろん本気で殴りはしなかったが、今の前田の苦しみ様はガチだ。

 松井の拳には、相当の力が込められていたに違いない。

 

「ま、松井……てめぇ、いきなり何を――」

「信っじらんないっ! こんな大勢の前で言うかフツー!?」

「お、俺は男を見せるために……」

「そんなんどうだっていいよ!」

 

 松井の顔は真っ赤だった。

 その内訳は怒りと羞恥と、希望的な観測をすれば照れも入っているだろうか。

 自分のことばかりですっかり失念していたわけなのだが、告白する以上は相手がいるわけだ。

 つまり、見世物になるのは告白される側も同じというわけだ。

 

「おい武田、どうするんだよあれ」

「はははは、いやぁ……想定外のアクシデントだね」

 

 武田は隣で爽やかに笑いながらも、冷や汗をかいていた。

 色々と残念な面も見え隠れするものの、基本的には思慮深いやつのはずなのだが。

 やはりこいつも、この祭りの雰囲気に浮かれているのだろうか。

 

「あんた、ちょっと来なさい」

「うおっ、んな引っ張んなコラ!」

「いいから!」

 

 そして前田は、松井に引っ張られて退場しようとしていた。

 必死に張っている威勢も、相手が悪いせいか全く通じていない。

 惚れた弱みというやつなのかもしれないが、力関係がはっきりと見えるようだった。

 仮に二人が付き合うことになったとして、前田が尻に敷かれる未来が容易に想像できる。

 もっとも、そこらへんは俺にとっても他人事ではないのだが。

 

「――上杉ぃっ! 後は任せたぜ!」

 

 そして投げ渡されるマイクという名のバトン。

 前田は松井に連れられて、どこかへ消えてしまった。

 ギャラリーはどう反応していいかわからないといった様子だった。

 それは俺も同様で、どうすればいいのかさっぱりである。

 

「あー、俺は先の二人と同じく、三年一組の上杉というものだが」

 

 とりあえず先んじた二人に倣って舞台に上がり、すぐに後悔した。

 容赦なくこちらを照らすライトに、突き刺さるギャラリーの視線。

 武田も前田も、こんな中でよく言い切ったものだと感心してしまう。

 一体俺は何をしにここへ来たんだ……

 一応の名目として、中野姉妹への想いを吐き出すため、というのはある。

 しかし先程の様子を見ると、前田のように名指しで告白するのは考えものだ。

 俺自身はともかくとして、決してあいつらを見世物にしたくはないのだから。

 そして残念なことに、小粋なトークで場を盛り上がらせる能力は俺にはない。

 そうなると、そもそもこんな所に立たないのが一番ということになる。

 ああくそっ、本当になんだって俺は出てきちまったんだ!

 

『武田に前田はわかるけど、上杉って誰だっけ?』

『ほら、学年一位の』

 

 ギャラリーの声が耳に届く。

 色んな音が雑然と混じり合う中で聞き取れたのは、カクテルパーティー効果というやつか。

 武田の顔の広さはもちろんのこと、前田もこの学校では珍しい不良として知られている。

 その二人に対して学年一位の、勉強しか取り柄がない俺ではやはりパンチに欠けるのだろうか。

 

『上杉って、たしか屋台の前で女の子泣かせてたって聞いたぜ』

『あー、それか。少なくとも三股はしてるって話だよな』

『サイテー、女の敵じゃん』

 

 ……前言撤回、俺は悪い方向で有名なようだ。

 学級長の噂はやはり、クラスの壁を越えて浸透しつつある。

 どうにかしたいとは思うが、そもそも今聞こえたのは大体真実だからどうしようもない。

 

『つーかさ、そんな男に引っかかるとか、どんだけ頭空っぽなんだよ』

『それね。バカ女が頭良い男に騙されたって感じ?』

 

 だがしかし、外野に好き放題言われて気持ちがいいはずがない。

 特に、あいつらが悪く言われるのは気に食わない。

 中野姉妹は確かに学校の成績は良くないが、それは本質的に頭が悪いという意味じゃない。

 ただ単に何事にも……そう、恋愛にさえも全力投球だっただけなのだ。

 自業自得だと言われればそれまでだが、到底見過ごせるものではない。

 これは中野家の家庭問題ではなく、俺とあいつらの問題なのだから。

 ならばどうするか……そんなのは決まっている。

 

「――――好きだぁぁああああっ!!」

 

 恥も外聞も投げ捨て、マイクに向かってあらんばかりの声量で叫ぶ。

 頭の良い男が馬鹿な女達をはべらせている?

 そんなのは間違いだ。

 これは馬鹿な男が、恥知らずにも五人の愛を求めて叫んでいるのだ。

 たとえ誰になんと言われようと、なんと詰られようと、蔑まれたって構わない。

 俺は愚かにも、中野姉妹への愛を知らしめるためにこの場に立っているのだから。

 

「夢や自分自身のために強くあろうとするお前が好きだっ! 俺はそんなお前に追いついて、一緒に歩いていけるような男でありたいっ!」

 

 一花への想いを叫ぶ。

 自分の意志を貫く強さ、それでも時には無理をして抱え込んでしまう弱さ。

 あいつが俺の弱いところを包み込んでくれたように、俺も頼られる男でありたい。

 

「真っ直ぐに想いをぶつけてくれたお前が好きだっ! 俺に恋という感情を教えてくれたお前と、この先もずっと傍で新しい世界を見ていきたいっ!」

 

 二乃への想いを叫ぶ。

 想いの強さと、その裏腹の脆さ。

 あいつから向けられる大きな愛情に、応えられるような男でありたい。

 

「自分の不安から逃げずに立ち向かうお前が好きだっ! 俺はこれからもお前と手を取り合って、困難にも負けずに前へ進んでいきたいっ!」

 

 三玖への想いを叫ぶ。

 自分の中の劣等感や苦手、それらを乗り越えて勝ち得た確かな強さ。

 あいつの愚直な努力に、見合うような男でありたい。

 

「今も昔もずっと支えてくれていたお前が好きだっ! 俺はお前がそうしてくれるように、どんな時でもお前の支えでありたいっ!」

 

 四葉への想いを叫ぶ。

 京都での出会いと、この学校での再会。

 あいつが見せる笑顔も涙も、受け止められるような男でありたい。

 

「道に迷った時にそっと背中を押してくれるお前が好きだっ! 俺もお前が迷う時に道を示せるような、必要だと思われる人間でありたいっ!」

 

 五月への想いを叫ぶ。

 思い返せば諸悪の根源、しかしそれすらも俺が進むべき道を示していたのだと思える。

 あいつが示した決意に、負けないような男でありたい。

 

「お前らと一緒にいるためなら、俺の一生を捧げたって構わないっ!」

 

 いつか見た夢の光景。

 五つの道が絡み合って出来たそれは、およそ踏破出来る道ではない……そう思っていた。

 そもそもとしてそれは、道と呼んでいいのかも怪しい代物だった。

 でも、それは単に俺の覚悟が足りなかっただけだ。

 歩いて進めないのなら、しがみついて這ってでも進もう。

 それが俺の望む未来につながるのなら、どんな苦難だって受け入れよう。

 選ばないのではなく、選べないのでもなく、誰か一人を選ぶのでもない。

 ならどうするのかと問われたら、五人全員を選ぶと答えよう。

 恥知らずにも、傲慢にも、俺はあの五つ子への愛を叫んでやる。

 

「俺はっ、お前らがっ、欲しくて欲しくて堪らないっ!」

 

 叫びすぎたからか、酸素が足りなくて頭がクラクラしてきた。

 これでは自慢の知識も役には立たない。

 だがきっと、これでいいのだろう。

 小賢しい策や、小手先の知恵なんかじゃ伝わらない。

 最後の祭りが今夜で終わるというのならば、明日から日常に戻ってしまうというのならば、俺は今この場で全てを吐き出してやる。

 

「要するに――チッ、あーもうめんどくせぇ!」

 

 耳障りな、甲高い音が響く。

 ハウリング――即座にマイクを投げ捨て、一際大きく息を吸い込んだ。

 

「愛してるっ! 誰になんと言われようとっ、俺はお前らをっ、愛してるんだぁぁああああっ!!」

 

 最後は肉声で、喉を枯らす勢いで愛を叫んだ。

 館内を満たす静寂……ギャラリーは俺の告白をどう受け取ったのか。

 驚いているのか、呆れているのか、それとも軽蔑の目を向けているのか。

 流石にこんな愚か者を祝福しようなんて輩はいないだろう。

 祭りの熱に浮かされた馬鹿の一人、なんて思われているのかもしれない。

 なんにしてもステージの上には全てを吐き出した男が一人、肩で息をしている。

 オチも何もなく、言いたい事を言い切った俺はこのまま去るのみだ。

 

「……お見事」

「るせー、こんなことやらせやがって」

「いいじゃないか。かっこよかったよ」

「悪いが、後は任せたぞ。俺は行かなきゃならん」

「彼女たちの所にかい?」

「ああ」

 

 携帯にはメールが一通……内容は至ってシンプルだった。

 

『教室で待っています』

 

 差出人は、代表してか五月だった。

 今度は、あいつら自身に伝えなければならない。

 一方通行では、人間関係は成立しないのだから。

 

「――行ってくる」

 

 

 




というわけで終了。
というかキリがいいのでここで切ります。

なんか書いてて昔のバラエティ番組を思い出しました。
イメージ的にはブタ野郎のつもりで書きましたが。

次で本当の本当に学園祭は終了です。


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後夜祭~五月の森リターンズ~

約半月ぶりにこんばんは。
相変わらずの遅筆で申し訳ない。
これも年末のあれこれとゲームの周回のせいですね。
こんな時期においしいイベントをやってるのが悪いということで。

それはさて置き、今回で学園祭は終了です。


 

 

 

「それにしても、アレって何だったのかしら?」

「アレ?」

 

 後夜祭の食べ歩きの最中、首をかしげた二乃に四葉が聞き返した。

 二乃がアレと呼んでいるのは、学園祭の初日に広場に現れたという自分の偽物である。

 事情を軽く説明すると、四葉は自分の事のように胸を撫で下ろして安堵のため息をついた。

 

「良かった~、それきっとドペゲンだよ。危なかったね」

 

 ドペゲン、略さなければドッペルゲンガー。

 ドイツ語であり、二重の歩く者、二重身などと訳される要はそっくりさんである。

 自分のドッペルゲンガーを見たものは死ぬと言われており、四葉の心配はそれだろう。

 もっとも、二乃自身はそんな心配は欠片もしていなかった。

 そもそもとして生まれてこのかた、自分そっくりの顔を見るのは日常茶飯事なのである。

 

「あ、それ多分私だよ」

 

 答え合わせは唐突で、犯人自らが名乗り出るという形になった。

 入場する際に騒ぎが起きたら困るから、というのが一花の説明である。

 

「ほら、こんなふうにさ……じゃーん、二乃に早変わり」

「なんでそこで私を選ぶのよ」

「特に深い意味はなかったんだけどね……」

 

 追い掛け回された時のことを思い出して、一花は苦笑した。

 本当に姉妹の誰でも良かったのだが、強いて言うのなら被り物をすれば当然頭が重くなるので、髪の短い姉妹を選んだというだけだ。

 そうしたら二乃か四葉の二択になるのだが、まさか二乃が校内で人気者になっているのを予想するのは、流石に無理があるというものだ。

 

「あ、中野一花さん――って、あれ?」

 

 女子生徒が話しかけてきたかと思えば、混乱していた。

 一花が目当てのようだが、タイミングが悪いことに二乃に変装中だった。

 ウィッグを被っただけのお手軽なものだが、他人からすれば十分に見分けがつかないのだ。

 

「ごめんなさい、ちょっとふざけてて」

「ああ、本当に五つ子なんだ。びっくりしちゃったわ」

 

 一花がウィッグを外すと、女子生徒は感心したかのように目を丸くしていた。

 知り合いではないが、その顔にはどことなく見覚えがあった。

 

「それで、私に何か?」

「弟の面倒見てくれたみたいだから、ありがとう」

「あ、もしかして迷子の子の」

 

 学園祭の初日に、風太郎と一緒に面倒を見た迷子の男の子。

 目の前の女子生徒と、その面影が重なった。

 

「これ、うちの屋台の引換券。まだやってると思うから、良かったらどうぞ」

「わぁ、ありがとう」

「弟も応援してるって。頑張ってね」

 

 軽く手を振って、女子生徒は去っていった。

 その後ろ姿を、一花は目を細めて見送った。

 

「一花、なんだか嬉しそう」

「なんだろうね。別にチヤホヤされたいとか、そういうのじゃないんだけど」

 

 たとえ風太郎と出会わずとも、自分は女優を続けていた。

 一花にはその確信があった。

 しかし風太郎がいなければ、今こうして姉妹と食べ歩くことはなかっただろう。

 夢のために切り捨てようとしていたものを、風太郎は拾ってくれたのだ。

 そうして得たものが演技を通じて他者に伝わり、巡り巡って一花の胸の中を満たしている。

 やりがいと言うのは、こういうものなのかもしれない。

 

「というか、また変装道具持ち歩いてたわけ?」

「あはは、今朝は置いてきたんだけどね」

 

 一花が持っている紙袋には、四葉を探すついでに家から持ち出した変装道具が入っている。

 流石に使わないと思って今朝は置いて出たのだが、予期せぬ形で必要と思われる場面があった。

 記憶に新しい、実父との対面である。

 他でもない五月からの要請で五月のふりをした三玖だが、流石にあのくせっ毛は再現できない。

 おかげでクオリティが低い変装に甘んじる羽目になり、密かに不満を募らせていた。

 リベンジの機会があればと息巻いているのだが、恐らくはもう実父と顔を合わせる機会はない。

 そもそも騙しおおせていたためリベンジも何もないのだが、とにかくそういう心境なのだ。

 鬱憤を晴らすために、三玖は一花が持つ紙袋に手を突っ込んだ。

 くせの付いた長髪のウィッグを被って、前髪の左右を星のヘアピンで留める。

 あとはぐにぐにと表情の微調整をしたら、五月の出来上がりである。

 

「んんっ……お腹が空きましたぁ~!」

「上手い上手い! さすが三玖、五月ちゃんそっくりだね」

 

 一花の言葉に三玖はドヤ顔である。

 とりあえずは、これで先程の杜撰な変装の気は晴れた。

 しかし、黙っていないのは真似をされた本人だ。

 

「私、そんなに間の抜けた言い方はしません! そうですよね?」

「え、してるじゃない」

「うんうん、五月といったらあんな感じだよ」

 

 姉妹に訴えかけるが、残念ながら同意は得られなかった。

 ぐぬぬと歯噛みする五月は、一花が手に持ったウィッグを奪い取った。

 

「こうなったら二乃も道連れ……さあ、三玖!」

「ちょっ、なんで私なのよ!」

「私が二乃を抑えてる間に早く!」

「えー……」

 

 いきなり蝶のリボン付きのウィッグを放り渡されて、三玖は困り顔である。

 ぎゃあぎゃあと騒がしい姉と妹にため息をつくと、今度は二乃に早変わり。

 表情の微調整と共に、声色も整える。

 五つ子と言えども体の使い方は違うので、声の出し方にも違いが出る。

 特に二乃は、三玖とは正反対に語気が強めの発声なので、調整は欠かせないのだ。

 

「あー、あー……べ、別にあんたのためじゃないからっ!」

「なによそのツンデレのテンプレート!」

「いやぁ、でも実際こんなこと言ってるしね」

「うんうん、絶妙な照れ具合がまたグーだね」

 

 本人の抗議はともかくとして、二乃の真似は好評である。

 ぐぬぬ顔の二乃に気が収まったのか、五月は拘束を解いた。

 

「お見事です」

「なにホクホクしてんのよ! よくもやってくれたわね、このっ」

「お、お腹をつまむのは反則です!」

「二人とも、喧嘩はよくない」

「「そもそも三玖が人の真似なんてするからでしょうが!」」

 

 二人の意見が揃った瞬間だった。

 口を揃えてそもそも論を引き合いに出されては、おとなしく引き下がるしかない。

 三玖は代打として仲裁に入った一花を見送った。

 

「やりすぎちゃったかな」

「あはは、本当によく似てたからね。三玖はやっぱりすごいや」

「本当にすごいのはみんなの方だよ」

 

 昔から、他の姉妹より自分が劣っていると思っていた。

 足の遅い自分では追いつけない、そう思っていた。

 その自信のなさが、他の姉妹になりきることへのこだわりに通じていたのかもしれない。

 そこには羨望と、なにより自分への失望があった。

 

「でも、そんなことに意味は……ううん、比べる必要すらなかった」

 

 何故なら、自分達は五つ子でよく似てはいても、違う人間なのだから。

 真似をしたところで三玖は他の姉妹になることはできないし、その逆だって同じだ。

 フラペチーノはオシャレすぎて尻込みするし、紅茶は好みに合わない。

 ジュースは甘すぎるし、カレーは飲み物じゃなくて食べ物だ。

 やっぱり自分は緑茶が好きで、そんな自分をようやく好きになることができた。

 

「あ、でもフータローは渡さないよ」

「私だって!」

「あー、こっちもヒートアップしちゃってる。ここは一つ、フータロー君は私のってことで」

 

 向こうの仲裁を終えた一花が、今度は三玖と四葉の間に割り込んだ。

 どさくさに紛れて見過ごせない発言をしているが、それを他の姉妹が見逃すはずがない。

 即座に、四人は口を揃えて抗議した。

 

「「「「それで納得できるわけないでしょ!!」」」」

「あはは、だよねー」

 

 妹達の刺すような視線にさらされて、一花はすごすごと引き下がった。

 何事も引き際が肝心である。

 姉妹間の折衝役を頼まれることが多い一花は、そこらへんの見極めは得意だった。

 そして後は話題を転換してやれば、姉妹の注意もそれていくだろう。

 

「それにしても、まさかお父さんが来てくれるなんてね」

「二乃と私で招待状贈ったんだよ」

「それでも来てくれなかったから、こっちから病院に乗り込んでやったわよ」

 

 その言葉で、三玖は昨日二乃がなぜ病院にいたのかを悟った。

 文字通り、風太郎と二人でバイクで乗り込んでいったのだろう。

 思い切りがいい二乃らしいといえばそうなのだが、それにしても二人乗りは羨ましい。

 

「さすが二乃! あの怖ーいお父さんに立ち向かっちゃうなんて」

「正直、あれはどうなるかと思った……」

 

 三玖は数時間前の出来事を思い出して、ため息をついた。

 いきなり現れた実父は、本当に唐突に中野姉妹と風太郎の関係を暴露した。

 その言い回しには悪意や偏見が見られたものの、一欠片以上の真実が含まれていたのも事実。

 

 父の前に揃って並ばされた時は、どうなることかと肝を冷やしたものだ。

 もっとも、事態はまだ解決の目を見ていないので、また同じような状況がないとも限らない。

 次があるとして、軽く事情を確認する程度のことでは済まないだろう。

 

「全部知られちゃったし、今度はもっとしっかりアピールしないとダメね」

「ちょっと待ってください。今度というのは?」

「だから、またフー君をお父さんに紹介するのよ。昨日のは無効になったようなものだし」

「昨日のはって……二乃は一体何をしに病院に行ったのですか?」

「言ったでしょ。直談判よ」

「それがどうして、上杉君を紹介という流れになるのですか」

「……勢い?」

 

 二乃の無茶を通り越して、無謀とも言える突撃っぷりに姉妹は絶句した。

 あの父に対してそんなことができるのだから、相当の暴走機関車っぷりである。

 やはり野放しにしておくのは危険すぎる……その脅威に四人の意見は一致を見た。

 自分に対する警戒が深まったのを察してか、二乃は肩をすくめた。

 

「あんたたちもやってみなさいよ。あの人、案外話聞いてくれるわよ」

 

 ハードルが高い提案だが、これはやれるものならやってみろという挑発である。

 そしてまた同時に、姉妹が少しでも父と向き合えるようにというエールでもある。

 そういうのがごちゃまぜになった面倒さは、二乃の素直じゃない性格をよく表していた。

 

「今度、みんなでパンケーキ食べましょ。もちろん、お父さんも一緒にね」

 

 父の自分達への想いと、母への愛。

 成り立ちは特殊でも、家族なのだと実感することができた。

 だから、これからは今までの時間の埋め合わせをしていこう。

 向こうが二の足を踏むようなら、こちらから踏み込んでやればいい。

 口数が少なく、鉄面皮で何を考えているのかよくわからない父だが、不器用にも歩み寄ろうとしてくれているのは確かなのだから。

 

「次、どこ行く? 私がもらった無料券はもう使い切っちゃったけど」

「そういえば一花、さっき何か貰ってたよね?」

「ああ、そうだったね」

 

 三玖に促されて、一花は先ほど渡された引換券に目を向ける。

 どうやらポップコーンを販売しているようだ。

 それを聞いた五月が目を輝かせた

 

「ポップコーン!」

「みんなで分けられるし、締めにはいいんじゃないかな?」

「じゃあ、早速行こう!」

 

 

 

 

 

「これは……」

 

 そして辿りついたポップコーンの屋台で、五月はワナワナと声を震わせた。

 ポンポンとコーンが弾ける音と、漂ってくる香ばしい匂い。

 微かに甘さを含んでいるのは、ココナッツオイルを使っているからだろうか。

 それだけでもう五月の口の中は涎で一杯なのだが、恐るべきことにまだ終わりではないのだ。

 貼り出されたメニューには品目が五つ……塩、キャラメル、抹茶、コンソメ、チョコ。

 

「大変です……このままでは骨肉の争いが!」

 

 味付けは五つで、自分達も五人。

 これまでの経験から、選択がバラけるのは目に見えていた。

 しかし引換券は一枚きり――どの味を選ぶかで争う未来は必至。

 そしてさらに困ったことに、五月の腹の虫は全ての味を所望していた。

 ただ一つを選ばなければならない状況に、真っ向から反する望みだ。

 頭を抱えて懊悩する五月に、一花は苦笑しながら提案した。

 

「全部頼んじゃえばいいんじゃないかな?」

「――っ、その手がありましたか!」

 

 気づきを得た五月の瞳が輝く。

 無料券を使って食べ歩いていたため、現金払いという手段がすっかり頭から抜け落ちていた。

 この方法ならば姉妹全員の要望を満たしつつ、誰にはばかることなく全ての味を堪能できる。

 自分達は五つ子なので、当然金額は五等分。

 払う金額は、実質一つ分以下の値段となる。

 受験勉強のストレスからか、買い食いが増えている五月にとってはありがたい。

 改めて、本当に五つ子で良かったと思えた瞬間だった。

 ポップコーンの引換券を握り締め、いざ屋台へと赴かん。

 今こそ姉妹の絆を見せる時である。

 

「言っとくけど、金額の負担は食べた量で決めるわよ」

「そんなぁっ!」

 

 姉妹の絆の崩壊は早かった。

 二乃の釘差しに、五月は絶望的な悲鳴を上げた。

 そして、そんな様子を見かねた店員が声をかけてきた。

 

「あのー、もう塩味しか残ってません……」

 

 こうして事態は微妙な解決を見るのであった。

 

 

 

 

 

「ん~、やはり基本が一番ですね!」

 

 ポップコーンのカップを抱えて、五月は噛み締めるように感想を漏らした。

 もう後夜祭も大詰めなのか、体育館の方は何やら盛り上がっていた。

 自分達が去った後にも、なんらかの催しがあったのだろう。

 

「まったく……ポップコーン引き換えるのにどれだけ時間かけてるのよ」

「わ、私はみんなの意見も考慮して悩んでたんです!」

「あー、はいはい。改めて、五つ子って面倒なことだらけだわ」

 

 意見が一致しないからといって、どの意見も無下にすることはできない。

 主に各々の食べ物の好き嫌いで悩まされてきた二乃の言葉には、実感がこもっていた。

 

「でも、私は五つ子で良かったなって思ってるよ」

「そうだね。私もみんなが頑張ってるから、こんなに頑張って来れたんだと思う」

 

 四葉の言葉に、一花が頷いた。

 五つ子で、生まれた時から横並びだった自分達。

 良くも悪くも近すぎる距離は、常に姉妹に支えられていたことを示していた。

 

「これが普通の姉妹だったら、何か変わってたのかな?」

「とりあえず、あんたは虐められてそうね」

「二乃は虐めてきそう」

 

 二乃と三玖の視線が絡み合う。

 顔を突き合わせてにらみ合いを始めた二人を横目に、五月はそのもしもを考えてみた。

 三玖の言う通り、もし自分達が普通の姉妹だったら、きっと色んなことが違っていただろう。

 横並びの、明確な差がない今の関係。

 生まれる日が違えば、そこに年齢差ができる。

 そうなると、今のように気安い関係ではなくなってしまうのかもしれない。

 そして学年が変われば、人間関係も大幅に変わってくる。

 そうすれば出会うはずだった人と出会わなくなり、またその逆もあるだろう。

 少なくとも、今のように五人で同じ人を好きになるなんて事態にはならないに違いない。

 

『――――好きだぁぁああああっ!!』

 

 突然響いた声に、姉妹全員が動きを止めた。

 聞き間違えるわけがない、今の声は風太郎のものだ。

 マイクを通して、恐らくは体育館の方から発せられている。

 こんな外にまではっきりと届くのならば、相当の声量で叫んでいる。

 顔を見合わせて体育館へ向かおうとした姉妹だが、続く言葉に足を止めた。

 

『夢や自分自身のために強くあろうとするお前が好きだっ! 俺はそんなお前に追いついて、一緒に歩いていけるような男でありたいっ!』

「フータロー君……」

 

 それは一花への告白だった。

 

『真っ直ぐに想いをぶつけてくれたお前が好きだっ! 俺に恋という感情を教えてくれたお前と、この先もずっと傍で新しい世界を見ていきたいっ!』

「フー君……」

 

 それは二乃への告白だった。

 

『自分の不安から逃げずに立ち向かうお前が好きだっ! 俺はこれからもお前と手を取り合って、困難にも負けずに前へ進んでいきたいっ!』

「フータロー……」

 

 それは三玖への告白だった。

 

『今も昔もずっと支えてくれていたお前が好きだっ! 俺はお前がそうしてくれるように、どんな時でもお前の支えでありたいっ!』

「風太郎君……」

 

 それは四葉への告白だった。

 

『道に迷った時にそっと背中を押してくれるお前が好きだっ! 俺もお前が迷う時に道を示せるような、必要だと思われる人間でありたいっ!』

「上杉君……」

 

 それは五月への告白だった。

 

「……やっぱり、そうなるよね」

「……そういうのはもっと早く言いなさいよ」

「でも、そう言ってもらえるのはやっぱり嬉しいな」

「うん……そうだね」

「ここまで堂々と言われてしまったら、いっそ清々しいです」

 

 誰にはばかることなく、風太郎は五人への想いを叫んでみせた。

 名前を呼ばずとも、その告白は各々に伝わっていた。

 五月は風太郎が誰も選ばずに消えようとしていたことを知っている。

 姉妹は風太郎が誰を選ぶのかで悩んでいたのを知っている。

 また、その末に選べないという答えにたどり着いたことも。

 そして一花は、風太郎の選ぶであろう答えを先取りして知っていた。

 

『二乃なら紅茶、三玖ならお茶、四葉はジュースで五月ちゃんはコーヒー、私なら……お水でいいかな?』

 

 誰も選べないという風太郎に、戯れでしてみた提案。

 一つしか選べないようにお金を渡したはずだが、風太郎は全て買ってきた。

 しかも渡された二百円は使わずに、自腹でだ。

 思えば、その時には既に答えを決めていたのだろうか。

 

『お前らと一緒にいるためなら、俺の一生を捧げたって構わないっ!』

『俺はっ、お前らがっ、欲しくて欲しくて堪らないっ!』

 

 なおも体育館からは風太郎の声が響く。

 校内に響き渡る、中野姉妹の愛を求める叫び。

 それを受けて一花は静かに頷いた。

 

「みんな、やっぱりアレやろう」

「ちょっと、本気?」

「いくらなんでも急すぎる」

「風太郎君だって、心の準備ができないと思うし」

「……だからこそだと思います。今だからこそ、やるべきなんです」

 

 一花の提案に三人は及び腰だったが、五月は賛同した。

 今のが風太郎の答えだとしたら、自分達もそれに応えなければならない。

 自分の想いを叫んだ今ならきっと、本気の熱が灯っているはず。

 その状態なら、誤魔化しのない本当の答えが導き出せるはずなのだ。

 それは自分の望むものではないかもしれない。

 だがしかし、ここで引き下がる手はない。

 五月の言葉に、その覚悟の熱に当てられて三人も頷いた。

 

「ま、私が負けるとかありえないしね」

「うん、フータローだったらきっと気づいてくれる」

「悪いけど、みんなには負けないよ……!」

「それじゃあ五月ちゃん、連絡お願いしてもいい?」

「わかりました」

 

 携帯を取り出して、風太郎にメールを送る。

 内容はシンプルに、教室で待っているとだけ。

 ポケットに携帯をしまうと、五月は姉妹に向かって手を差し出した。

 その意図を理解した姉妹も同じように手を出して、五人で指と指を結び合わせて輪を作る。

 幼い頃から変わらない、姉妹の絆の象徴。

 どんな答えが待っていたとしても、自分達の心は離れないのだと。

 

『愛してるっ! 誰になんと言われようとっ、俺はお前らをっ、愛してるんだぁぁああああっ!!』

 

 最後に、そんな声が聞こえた気がした。

 先程までのマイクを通したものと比べると、随分小さく弱々しい。

 ひょっとすると、そんな言葉が欲しくて聞こえた幻聴なのかもしれない。

 けれどそれは中野姉妹全員の耳に、あるいは心に確かに届いていた

 どこまでも愚かで、厚顔無恥で、だけども愛おしい。

 五人は互いに笑い合うと、教室を目指して歩き始めた。

 

 

 

 

 

 薄暗い廊下を、一人歩く。

 校舎内とは打って変わって、窓の外ではまだまだ後夜祭の賑わいが続いていた。

 屋台の間を行きかう人々、グラウンドの中央では大きな火が煌々と燃えている。

 

「……準備するだけして、結局は参加できずじまいだったな」

 

 林間学校での出来事を思い出す。

 結びの伝説なんて迷信があったが、あの時俺は丁度ぶっ倒れていた。

 そもそもとして三日目の記憶はいまいちはっきりとしていないが、あの感触は覚えている。

 寝ている俺の左手、五本の指にそれぞれ触れた誰かの指の感触。

 親指には労わるように、人差し指には不器用に励ますように、中指にはそっと寄り添うように、薬指には元気を送り込むように、そして小指にはこちらに歩み寄ろうとするように。

 それが巡り巡ってこの状況を招いたというのなら、案外伝説とやらも迷信と馬鹿にできない。

 もし約束の通り一花と踊っていたなら、もしくは正体を隠したまま二乃と踊っていたなら……

 あるいは三玖と、四葉と、五月と――

 

「……やめだ、こんな仮定に意味はない」

 

 事実として、俺は答えを定めてしまった。

 中野姉妹への想いを、自分の望みを自覚してしまった以上、もう目をそらすことはできない。

 状況に流されていたことを否定はできないが、育まれた想いに嘘はない。

 たとえやり直しの機会が得られるとしても、俺はまた愚かにも五人の愛を求めてしまうだろう。

 そこにあるのが茨の道だとしても、道なき道を行くものだとしても。

 ……たとえ、あいつらから嫌われてしまうとしても、俺はもう自分を抑えられない。

 きっと傷つけるし、悲しませもするだろう。

 間違っても受け入れてもらえるなんて楽観はしていない。

 だけどこれが俺の答えなのだ。

 

「着いちまったな……」

 

 三年一組の教室、俺と中野姉妹の約束の場所。

 長いようで、短い道のりだった。

 それは単純にここまで歩いた距離の話だけではなく、積み重ねた時間の話でもある。

 あいつらと過ごした時間は、何もかもが予想外の連続だった。

 色味に乏しく凪いでいた俺の生活は、急に絵の具をぶちまけられて極彩色にされてしまった。

 それでも、これまで生きてきた時間と比べれば十分の一にも満たない。

 だけどこの一年余りは、きっと人生の中でも最も重要な時間だった。

 一度深呼吸して、教室のドアに手をかける。

 

『あんたを好きって言ったのよ』

 

 挑みかかるかのような、二乃の告白。

 

『私、君のこと好きだよ』

 

 そっと囁くような、一花の告白。

 

『好き』

 

 羞恥を含みつつも直向きな、三玖の告白。

 

『上杉風太郎君、あなたが好きです。結婚を前提にお付き合いしてください』

 

 肉体的にも精神的にもずしりと来る、五月の告白。

 

『風太郎君……私はずっとずっと好きだったんだよ……?』

 

 そして、ずっと塞き止めていた水が溢れるかのような、四葉の告白。

 どいつもこいつも、並々ならぬ想いだったに違いない。

 それならば、俺の想いも負けてはいないということを示さなければならない。

 一人一人と拮抗する程度じゃまだ足りない。

 二人三人とかち合える程度でも不足する。

 五人全員ひっくるめても押し負けない程の強さで、ようやくスタートラインだ。

 意を決してドアを開く。

 

「……まだ来てないのか?」

 

 が、教室の中に中野姉妹の姿はなかった。

 正確な時間を指定されていたわけではないが、これでは拍子抜けだ。

 あいつらが現れないことには話が始まらないので、ひとまず待っていることにしよう。

 窓際に歩み寄って、空を見上げる。

 もう暗い……じきに後夜祭も終わるだろう。

 

「上杉君、お待たせしました」

 

 ドアの開く音と共に、五月の声。

 呼び出しておいて待たせるとは随分な対応だが、まぁいい。

 そもそもずっと待たせていたのはこちらなので、お釣りをやってもいいくらいだ。

 

「よぉ、待たせたな――」

 

 振り返って、俺は固まってしまった。

 そこには驚きや呆れもあるが、困惑が一番大きかった。

 誰かが欠けているわけでもなく、逆に多すぎるわけでもない。

 五人は揃ってそこにいた。

 

「――お前ら、これは何の冗談だ?」

 

 ただし、五人は全く同じ姿をしていた。

 髪型も、顔も、服装もまさに瓜二つ。

 再びの五月の森――五人の五月が、そこに立っていた。

 

「あなたの告白、しっかりと届いていましたよ」

「全員が欲しいだなんて、本当に呆れてしまいます」

「当然ですが、そんなことを簡単に認めるわけにはいきません」

「だから、私たちにあなたを試させてください」

「チャンスは一度きり……私たちがそれぞれ誰か、当ててもらいます」

 

「「「「「あなたの愛を、証明してください」」」」」

 

 

 

 

 

『ねぇ、フータロー君って私たちを見分けられるのかな?』

 

 後夜祭を回っている最中、ふと一花が口にした言葉だ。

 それに当然見分けられる、と返したのは二乃だ。

 事実として、日常生活において風太郎が姉妹を間違えることはなくなっている。

 

『でも、温泉の時みたいにみんなで全く同じ格好をしていたら?』

 

 そう突っ込まれて、二乃は言葉を詰まらせた。

 当時の風太郎は、五つ子ゲームで惨敗を喫してしまう有様だった。

 かろうじて、ボロが出た四葉を見分けられただけだ。

 信じたいと三玖が言った。

 最後に見つけてもらえたからこそ、今でも一緒にいられるのだと。

 

『でも、私たちやお父さん、おじいちゃんみたいに一発でってわけにはいかなかったよね?』

 

 確かにその通り。

 温泉で風太郎が三玖を見分けられたのも、いわば事前に消去法で選択肢を削ったためだ。

 紙一重の正解だったことは否めない。

 それでも信じていると五月が言った。

 これまで積み重ねてきた時間を、紡ぎ上げた絆を信じているのだと。

 

『一花、もしかして不安なの?』

 

 今度は逆に、四葉が尋ねた。

 問いに、一花は曖昧に首をかしげた。

 不安というと少し違う。

 ただ、風太郎の答えを予見している一花は、現状維持が続くと見越していた。

 ずっと先の将来はともかくとして、当分はそれでも異論はなかった。

 そもそも好きは好きとして、誰が一番なのかを単純に比べることは難しいだろう。

 風太郎は姉妹全員が好きだと一括りにしているが、恐らくは少々ベクトルが違う。

 大体の方向性が、異性としての恋愛感情に一致するというだけだ。

 見分けられるかどうか……その大きさを測るとしたら、恐らくはその一点になる。

 それは中野姉妹への愛情を示す基準でもある。

 つまり一番大きな感情を向けられている者が、一番に見分けてもらえるはずなのだ。

 思いついてしまったものはしょうがないし、道具もすでに家から持ってきてしまった。

 後は上手く姉妹を焚きつけて実行に移すだけ……だったのだが、そこに至極単純な問題がある。

 それは一番を決めてどうするのか、ということだ。

 先程は戯れに誰が一番なのかで騒いでいたのだが、それが戯れでなくなってしまう。

 将来的には定めないといけないにしても、今である必要はない。

 話題に出してみた一花だが、踏み込むのは躊躇われた。

 

『ちょっとミニゲームのつもりで変装道具持ってきたんだけど、どうかな?』

 

 実際に冗談めかして提案してみたのだが、姉妹の反応は色好くなかった。

 あの強気な二乃でさえも躊躇した。

 あるいは全員が同じ予感を抱いたのかもしれない。

 それを実行したら最後、自分たちの関係が決定的に変わってしまう、と。

 答えが出ることを望んでいるものの、全員で一緒にいられる今の関係も捨てがたい。

 要は風太郎と同じように、中野姉妹もまた現状維持を望んでいたということだ。

 しかし、風太郎の叫びがそんな考えを吹き飛ばした。

 向けられた熱意が、自分達を求める言葉が、曖昧に留めおくという選択肢をかき消した。

 選ばないではなく、選べないのでもなく、全員を選ぶという選択。

 風太郎が求めているのは現状維持などではなく、もっともっとその先なのだ。

 ならば自分達も、本気で答えを求めるべきなのだと。

 

「あなたの告白、しっかりと届いていましたよ」

 

 だから一花は願った。

 この先の未来を、共に歩んでいける道を。

 

「全員が欲しいだなんて、本当に呆れてしまいます」

 

 だから二乃は求めた。

 この先の未来を、より大きくなった愛を。

 

「当然ですが、そんなことを簡単に認めるわけにはいきません」

 

 だから三玖は祈った。

 この先の未来を、手を取り合うことで得られる勇気を。

 

「だから、私たちにあなたを試させてください」

 

 だから四葉は望んだ。

 この先の未来を、ずっと変わらない笑顔を。

 

「チャンスは一度きり……私たちがそれぞれ誰か、当ててもらいます」

 

 だから五月は信じた。

 この先の未来を、確かに育まれた絆を。

 

「「「「「あなたの愛を、証明してください」」」」」

 

 たとえそれが相容れないものなのだとしても、もう躊躇いはしない。

 それこそが姉妹の絆――互いに寄せる、信頼の証なのだと。

 

 

 

 

 

「……本当にそれでいいんだな?」

 

 俺の問いに、五人は静かに頷いた。

 こうして同じ格好をした中野姉妹を見分けるのは、まず困難だ。

 一卵性の五つ子というだけあって、顔のみならず各部のパーツも似通っている。

 ちょっとした変装だったら身に付けているものの違いで判別できるが、今は無理だ。

 質問や少しの揺さぶりをかければ、糸口は見つかるかもしれない。

 しかしそれが許される雰囲気ではないし、するつもりもない。

 いや、そもそもがする必要がない。

 中野姉妹を見分けるのに必要なのは愛……言い換えれば関心だ。

 出会ってしばらくの俺は、ノートや答案の文字を追うばかりで多くが見えてなかった。

 そのために、単純な髪の長さにさえ気づかずに間違う有様だった。

 重ねて言うが、これは常人にとっては間違いなく困難な問題だ。

 だが今の俺にとっては――

 

「左から二乃、五月、三玖、四葉、一花だ」

「……へ?」

 

 最後に指さされた五月、即ち一花が素っ頓狂な声を上げた。

 こうも簡単に当てられるとは思っていなかったのだろうか。

 だとしたら俺も舐められたものだ。

 

「合ってるよな?」

「合ってるけど……もっとこう、悩んだり質問をしてくるかなーと」

「しても良かったのか?」

「それは……ちょっとみんな集合!」

 

 中野姉妹は円陣を組むと、その場にしゃがみこんでしまった。

 つーか何がしたいんだよ。

 言われた通り当ててやったというのに、俺は放置である。

 

「ちょっと、一瞬で見破られたわよ」

「当てずっぽうかな?」

「風太郎君はエスパーだった……?」

「それではこの試み自体が成立しませんよ……一花、どうします?」

「うーん、偶然っていうのもなくはないかもしれないし……」

 

 姉妹は立ち上がると、無言で教室のドアを指し示した。

 どうやら一旦出て行けということらしい。

 ひとまず言うとおりに教室を出る。

 

「フータロー君、入っていいよ」

 

 少しの間を置いて、一花の呼び出しに応じて再び教室へ。

 何のために追い出されたのかはいまいちわからないが、着替えるためなら納得がいく。

 口ぶりから、もう五月の振りはやめたようだ。

 ゲームはクリアしたということでいいのだろうか。

 何はともあれ、これでやっと話を進められる――

 

「ふふふ、あれで終わりと思ったら大間違いだよ」

「第二問、ルールはさっきと同じ」

「全員当てられたら君の勝ちってことで」

「言い忘れてたけど、質問もヒントもなし」

「私たちへの愛があるなら、それくらいできるよね?」

 

 ドアを開ければ、今度は五月の森ならぬ一花の森である。

 またしてもご丁寧に、全員が制服を着て格好を揃えている。

 今日の一花は私服だったはずだが、統一する上で不都合だったのだろう。

 

「つーか、チャンスは一回だけじゃなかったのかよ」

「問題が一問だけとは言ってないよね?」

 

 確かにその通り。

 回答のチャンスが、一問毎に一回というわけか。

 先ほどの反応を見ると明らかに急拵えのような気がするが、まぁいい。

 とにかくさっさと正解して、話を次に進めるだけだ。

 

「左から四葉、一花、五月、三玖、二乃だ」

「ちょっ、また即答!? も、もっかい出てって!」

 

 またしても追い出される。

 そして例によって間を置いてから、入室を許可される。

 

「さぁ、あんたにわかるかしら?」

「五月、四葉、二乃、一花、三玖だろ」

「む~、想像以上に手強い……」

 

 そして二乃の森を抜け――

 

「フータロー、ちゃんと私を見つけてね?」

「何回も見つけてんだろうが。三玖、二乃、一花、五月、四葉な」

「や、やっぱり心を読まれてる……!?」

「アホか」

 

 続いて三玖の森も抜け――

 

「風太郎君、きっと君なら――」

「一花、二乃、三玖、四葉、五月!」

「――って、いくらなんでも早すぎません!? 最後まで喋らせてください!」

「知るか」

 

 四葉の森を速攻で駆け抜け――

 

「あなたの告白、しっかりと届いていましたよ」

「全員が欲しいだなんて、本当に呆れてしまいます」

「当然ですが、そんなことを簡単に認めるわけにはいきません」

「だから、私たちにあなたを試させてください」

「チャンスは一度きり……私たちがそれぞれ誰か、当ててもらいます」

「おいなに仕切り直そうとしてんだ。いい加減にしろお前ら」

 

 そして五月の森に戻ってきたところで、流石に俺はキレた。

 セリフまでしっかりトレースしているあたりに、こいつらの動揺っぷりが見て取れる。

 自分達から持ちかけておいてなんだというのか。

 しかし、このまま堂々巡りというのも困る。

 ここらで答え合わせといこう。

 いくらやっても無駄なのだと、わからせなければならない。

 

「まず一花、お前は相変わらず表情を作るのが得意なようだが、逆に完璧すぎる」

 

 未だに五月の振りをする一花の頬を、両手で挟み込む。

 演技を仕事道具にしている一花は、それ故か表情筋が発達しているのだろう。

 求められた表情を瞬時に作るその能力は認めるが、隙がないのは逆に考えものだ。

 五月はもっと間の抜けた顔をしている。

 

「次に二乃、お前は前のめりなところが顔にも出てる。もう少し眉を下げろ」

 

 同じように二乃の頬も挟み込んで、その眉尻に指を添える。

 すると何を勘違いしたのか、目を閉じて唇を突き出してきやがった。

 こんな所も前のめりなのは相変わらずで、思わず笑ってしまった。

 キスの代わりに軽く頭突きして離れると、明らかな不満顔を向けてきた。

 

「三玖、姉妹の真似なら多分お前が一番だろうな。だが、もう少し胸を張れ」

 

 腰と胸に手を当てて、姿勢を直してやる。

 変な声を上げられたが、生憎とその程度で怯むような俺じゃない。

 自信のなさの表れか、三玖は他の姉妹と比べると少しだけ背中が丸まっている。

 姉妹の表情のトレースは本職である一花以上だが、姿勢や動きを含めるとやはり違いがわかる。

 

「四葉、細かいところはともかく、お前は逆に姿勢が良すぎる」

 

 今回はボロを出さずに頑張っていたが、やはり四葉は一番わかりやすい。

 落ち着きがないせいか体が傾いていることが多いし、逆に直立したら姿勢の綺麗さが目に付く。

 どちらも普段の運動で体幹が鍛えられているからだろう。

 指摘してやると照れるように笑ったあたり、最早微塵も隠す気はないようだ。

 

「最後に五月、お前は気を張りすぎだ。少し肩の力を抜け」

 

 緊張しているせいか、他の姉妹に比べて五月の肩は少しだけ上がり気味だ。

 何事につけてもそうだが、真面目さ故の不器用さが表れている。

 それに、こいつは他にも目に見える形で明確な違いがある。

 指に出来たタコにそっと触れると、また変な声を上げられた。

 

「とまぁ、こんなとこだ。何か質問は?」

 

 俺の解説をおとなしく聞いていた中野姉妹だが、話が終わると互いに顔を見合わせ始めた。

 指摘されたことを確認し合っているのだろう。

 またも俺は放置だが、すぐに確認するのが大事なのは勉強と同じだ。

 

「ねぇ、フータロー君。さっき言ってたのって本当?」

「現に全部正解したはずだが」

「よくわからないわよ」

「言われてみればそうかなって気はするけど……」

「それはお前らがなんとなくで判別してるからだ」

「ねぇ、五月。もしかしたら、おでこに何か付いてたりしないかな?」

「そんなものが付いてたら、真っ先に自分たちで気づきますよ」

 

 しかし五人の様子は半信半疑といったところ。

 しょうがない、さらに詳しい解説が必要なようだ。

 早速五月を中心に、一花と二乃を並ばせる。

 

「よく見ろ。一花は口角が、二乃は眉尻がそれぞれ二ミリほど上がってるだろ」

 

 次に、五月の左右に同じく三玖と四葉を並ばせる。

 

「三玖は肩が三ミリほど前に出てるし、逆に四葉は引っ込んでる」

 

 そして最後に、五人全員並ばせる。

 

「それで、五月は他のやつより肩が五ミリほど高い。こんなとこだが、まだ質問はあるか?」

 

 話が終わると、中野姉妹はまたも顔を見合わせた。

 つーか中々話が進まない。

 焦るようなことではないのだが、やはりあの告白が丸着こえだったことに恥ずかしさはある。

 ギャラリーに一方的に喚き散らすのと、告白の対象に聞かれてしまうのでは違うのだ。

 内心でソワソワしているのは、俺自身が答えを心待ちにしている証拠だろう。

 もちろん、望んだ答えが得られない可能性だってあるし、むしろその可能性の方が高い。

 その不安を示すように、中野姉妹は揃って俺に引きつった顔を向けてきた。

 そして口も揃えて一言。

 

「「「「「気持ち悪い」」」」」

 

 き、気持ち悪い……だと?

 中々の衝撃を受けて、俺の足はよろついてしまった。

 なんとか近くの机に手をついて踏みとどまる。

 もしかしたら、ビンタされるのよりも堪えたかもしれない。

 俺なりに中野姉妹へどれだけ目を向けてきたのかを証明したというのに、一体どうして……

 落ち着け、落ち着くんだ上杉風太郎。

 こういう時は、逆の立場になって考えてみるというのが有効だと聞く。

 もし中野姉妹が、俺の一挙手一投足にミリ単位で関心を向けてきたとしたら?

 ……うん、気持ち悪くて軽く引くな。

 

「でもまぁ、それだけ君が私たちのことを見てくれたってことなんだよね」

「髪の長さにすら目が行かなかったのを考えれば、随分な進歩よね」

「最初はリボン付けただけで四葉と間違ってたのにね」

「ええ、四葉の代わりを任された時はどうなるかと思いました」

「私は信じてたよ。だってあの時も……」

 

 何を思い出してか、口元を押さえて四葉が頬を染めた。

 五月の格好をしているせいで、鐘の下でのキスを思い出してしまう。

 というか、四葉も同じことを思い浮かべている可能性が高い。

 連鎖的に俺の頬も熱くなってしまう。

 

「なんで二人して顔赤くしてるのよ」

「む~、そんなすごいプレイしてたの?」

「ち、違うよ! ちょっと私たちのファーストキスのことを思い出してただけで……」

「わたし」

「たち」

 

 四葉が口を滑らせ、二乃と三玖の表情が固まった。

 そのままこっちに顔を向けてくるものだから、率直に言って怖かった。

 即座に顔を背けたが、その先には笑顔の一花がいつの間にか回り込んでいた。

 

「へぇ、じゃあフータロー君の初めては四葉だったんだ」

「ど、どうだかな!」

「え、違うの?」

「ひぇっ」

 

 とりあえず誤魔化してみたが、四葉の冷たい声に思わず竦み上がってしまった。

 普段とのギャップがある分、余計に怖かった。

 つーか四葉にはあれが初めてなんて言った覚えはないんだが。

 まぁ、実際はその通りなんだが。

 

「みんな、落ち着いてください。今この状況で騒いでも不毛なだけです」

 

 場が荒れる前に鎮めにかかったのは五月だった。

 あまりこういう場面で頼りになった覚えはないが、存外に頼もしい。

 

「なにはともあれ、上杉君は見事に私たちへの愛を示してくれました」

「だよねぇ」

「まさかあんな簡単に当てられるとは思わなかったけど」

「完璧に予想外だった」

「うーん……この場合、どうなるのかな?」

「とはいえ、完全に蟠りが消えたとは言い難いでしょう」

 

 俺が中野姉妹全員への愛を証明したとして、受け入れるかどうかはこいつら次第だ。

 つまり、俺はようやくスタート地点に立ったに過ぎないのだ。

 五月はそれを示すように、真正面に立ってこちらを見据えてきた。

 ……何やら頬が赤いような気がするが、きっと気のせいだろう。

 

「ですので、この際色々試してみるべきかと。具体的には……ご、五人同時でも大丈夫か、とか」

 

 おっと、急に気が遠くなって今言ったことが聞き取れなかったぜ。

 なんて現実逃避したかったがしっかり聞こえていたし、眼前には赤く染まった五月の顔がある。

 具体的にと言いつつも言葉を濁しているが、何を指しているのかは明らかだった。

 頼もしいと感じたのは、どうやら勘違いだったようだ。

 

「おい、少しは常識を考えてから物を言えよ」

「そもそも常識外れな告白をしたのはあなたですよ」

「ぐっ……」

「まぁ、最終的にはそこに行き着いちゃうよね」

 

 五月の反論に返す言葉もなかった。

 そして苦笑する一花の言葉に、他の姉妹も顔を見合わせ頷いた。

 どいつもこいつも頬が赤くなっているように見えるのは、目の錯覚だろうか。

 

「待て! 今日これ以上ヤったら確実に死ぬ自信がある」

 

 昨日の夕方から続く姉妹との戦いに加え、四葉との追いかけっこにダメ押しの五回戦。

 少し休んで回復したとは言え、そんな余裕は皆無だ。

 そんな事情を抜きにしたって、五人同時なんてどう考えても無理がある。

 ここで五月の提案に応じれば最後、俺の命は尽きる。

 一生を捧げても構わないとは言ったが、こんな事で命を散らしたいわけじゃない。

 

「あ、それなら心配しなくても大丈夫だよ。ほら、これ」

 

 一花が取り出したのは、小振りなペットボトルだった。

 中身は薄く濁った黄色みがかった液体で、見ようによってはお茶に見えなくもない。

 記憶に間違いがなければ、これは二乃お手製の栄養ドリンクだ。

 効果は抜群なものの、別の意味でも元気になってしまうという困った副作用がある。

 

「な、なんでお前がそれを」

「なんでって、二乃に作ってもらったからだけど」

「忙しそうな大女優様を見兼ねてよ。倒れられても困るしね」

 

 四葉との戦いの後に一花が部屋にやってきたのだが、その時に冷蔵庫から回収したらしい。

 一花の頼みに応じて、二乃が時々作っているようだ。

 姉妹馬鹿のこいつが、完全な善意でやっているのはよくわかる。

 しかし、それを使う一花には別の思惑があった気がしてならない。

 

「おい、一花。お前まさか……」

「まぁ、フータロー君があまりにも頑固な時にちょっとね?」

 

 本当にこの女はどうしてくれようか。

 とりあえず、今後渡された飲み物には警戒するべきか。

 以前は二乃の専売特許だったはずだが、どうしてこうなった。

 

『――これにて旭高校学園祭後夜祭、全てのスケジュールを終了とします』

 

 そんな折に、後夜祭の終了を告げるアナウンスがかかる。

 これを好機と見て、俺はまくし立てにかかった。

 

「さぁ、長居は無用だし帰るぞ!」

「そ、そうですね。ここだと誰かに見られてしまうかもしれませんし、家の方が――」

「そういえば今日は休みかもしれないし、親父さんも帰ってるかもな!」

「今日は帰れないって連絡あったわよ。全く……ま、連絡くれるようになっただけマシかしら?」

「ぐっ……えーっと、その……あれだ! 後片付けとか面倒じゃないか!?」

「ふふふ……実はそこらへんをまるっと解決しちゃう秘策があるんだよね、これが」

 

 必死に先送りにしようとする俺に対し、一花は不敵に笑っていた。

 いや、お前もう頼むから黙っててくれよ……

 

「ラブホ、みんなで行こっか」

「金がない!」

「私にはあるよ?」

「このブルジョワが!」

 

 心の底からの叫びはしかし、一花には全く響いていなかった。

 貧富の差を実感した瞬間だった。

 

「別に構わないけど、この人数で使える部屋ってあるの?」

「あんた相変わらず流行に疎いわね。今は女子会用に大部屋貸してるとこもあるんだから」

 

 三玖同様に俺も知らなかったのだが、そういうことらしい。

 この二人とは利用した事があるが、二乃は一体どこでそういう情報を仕入れてくるのだろうか。

 

「ら、ラブホテル……まさか利用する機会がやってくるなんて……」

「なんか楽しそうだね! それで、えーっと……どんなとこなんだっけ?」

「それは……」

 

 五月に耳打ちされて、四葉は顔を赤くしていた。

 直前のはしゃぎ様を見ると、なにかテーマパークとでも勘違いしていたのだろうか。

 まぁ、ある意味で夜のテーマパークと言えるのかもしれないが。

 ……俺も随分余計な知識が増えてしまったようだ。

 

「じゃあ、タクシーももうすぐ着くみたいだし、外に出よっか」

「お前準備良すぎだろ!」

 

 随分と用意が良いようで、一花はスマホのアプリを立ち上げていた。

 配車予約を見ると、ミニバンタイプのようだ。

 しっかりとこの人数で乗ることを考慮していた。

 その周到さが恐ろしい。

 

「いい加減覚悟決めなさいよ」

「俺が覚悟してたのは、こういうのとはちょっと違うはずだったんだけどな!」

「うん、きっとフータローなら大丈夫」

「いや、大丈夫じゃない。絶対死ぬ……!」

「今更何を言ってるんですか。しっかりと私たちへの愛を示してください」

「愛ってもっとこう、穏やかなもんじゃねーのか!?」

「風太郎君、頑張ろうね……!」

「オイオイオイ、死んだぞ俺……!」

 

 結論、誰一人として俺の話を聞きやがらねぇ。

 引きずられる、あるいは背中を押されるようにして校舎の外へ。

 全員が五月の格好をしているので、傍目には物凄く珍妙な光景だろう。

 校門の前には既にタクシーが到着していた。

 乗り込む、もしくは乗せられる直前、五人が笑いかけてきた。

 こんな状況だが、不覚にも胸が高鳴ってしまった。

 やはり誤魔化しようがないくらい、俺はこいつらのことが好きなのだ。

 しかしそれはそれとして、五人全員揃って目の色が変わっていた。

 俺自身、頭の中でスイッチが入り始めるのと同時に、諦めにも似た悟りも得た。

 即ち――今日が俺の命日なのだと。

 

 

 




というわけで学園祭は終了です。
シリアスは死にました。
フー君の冥福を祈りましょう。

次回以降は地獄の面談とかそっちの話になるかと思います。


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合鍵五つ

色々立て込んでて投稿が遅れてしまいました……という言い訳。


 

 

 

「私もう行くけど、本当に大丈夫?」

「ああ……じっとしてりゃ平気だから心配すんな」

 

 らいはの気遣わしげな声に、よろよろと手を挙げて答える。

 制服を着て登校の準備万端ならいはに対して、俺は布団で寝たまま動けずにいた。

 今日は火曜日なので、当然俺の通う旭高校も登校日である。

 しかし、諸々の無理が祟って限界を迎えた俺の体は、動くことを良しとしなかった。

 歩くことはおろか、立ち上がることも困難なので、学校は休むしかなかった。。

 別段、具合が悪いとかそういうわけではないのだが、ひたすらに体が辛い。

 これはひとえに、体力の限界を越えて激しい運動をした代償に他ならない。

 

『ですので、この際色々試してみるべきかと。具体的には……ご、五人同時でも大丈夫か、とか』

 

 五月の提案に端を発した激しい戦いは、当然日を跨ぎ昼頃まで続いた。

 最初こそ、半ば強引に飲まされた栄養ドリンクのおかげで拮抗できていたのだが、それが切れた途端にあっさり押し負けてしまった。

 ただでさえ疲労が溜まっている上に数の差がある。

 もとより負けは確定していたようなものだったのだ。

 本当なら余力があるうちに逃げるべきだったのだが、飲まされた直後は抑えが効かなかった。

 二乃特製の栄養ドリンクには、そういう副作用があるのだ。

 そして頭に冷静さが戻ってきた時には、到底逃げられるような状況ではなくなっていたという。

 逃げることも抵抗することもできない俺は、為す術なく中野姉妹に蹂躙されたというわけだ。

 駄目、無理、やめてくれとか色々叫んだ気がするが、そんな事であいつらが止まるわけがない。

 最終的に俺は、与えられる刺激に呻きを上げるだけの存在になっていた。

 ……普通に考えてトラウマものなのでは?

 ここまでの仕打ちを受けたら、いい加減女性恐怖症にでもなりそうなものなのだが、困ったことにあの五つ子への気持ちに変わりはない。

 とどのつまり、俺も大概イカれてしまったということだ。

 

「お兄ちゃん! 聞いてる?」

「んあ? 悪い、ぼーっとしてた」

「もー、そんなんじゃ心配で学校行けないよ」

 

 頬を膨らませながら心配してくるらいはを、なんとか宥めて送り出す。

 ここら辺の手腕は、明らかに中野姉妹を相手にして鍛えられたものだった。

 この手馴れてしまった感は少々複雑だが、技術自体に非はない。

 そこに至るまでの俺の足跡に、少々どころではない問題はあるのだが。

 

「……勉強してぇ」

 

 らいはがいなくなり、部屋には俺一人。

 親父は早めに出ていったのでもういない。

 動けない俺を例によって大笑いしてらいはに怒られていたが、大体察してそうで肝が冷える。

 そもそも朝帰りを通り越して、昼どころか夕帰りを果たした時点で何かあったのはお察しだ。

 無堂と対峙した場にいた親父には、全てではないにせよ俺と中野姉妹の関係は知られている。

 それに以前、近藤さんを見られたというのも含めると、猛烈に頭を抱えたくなってくる。

 頭を抱えようにも、倦怠感が半端ないので実際にはやらないが。

 こんな様だから、当然勉強もできない。

 おとなしく休んでおけという話なのだが、落ち着かないのはどうしようもない。

 天井を見上げながら、頭の中で数式を思い浮かべてみる。

 しかし、同時に浮かんできた一花の顔でかき消されてしまった。

 英単語を思い浮かべれば二乃の顔が浮かび、歴史年表では三玖が、慣用句では四葉が、化学式では五月の顔が思い浮かんだ。

 困ったことに、勉強という行為にはあの五つ子が密接に絡んでいるようだ。

 これも家庭教師という仕事の弊害か。

 イメトレさえ封じられてしまったら、いよいよ素直に寝るしかない。

 まだまだ疲労は抜けていないので、目を閉じれば程なく眠気がやって来る。

 後はこのまま眠りに沈んでいくだけなのだが、どうにもそれを阻害する音があった。

 枕元に置いてある携帯だった。

 恐らくはメールの着信で、短い振動を繰り返している。

 確認するのも億劫なので、電源を切って放り投げた。

 さぁ、今日はゆっくり休もう。

 

 

 

 

 

「全然返信してこないわね」

 

 自分のスマホとにらめっこしながら、二乃は面白くなさそうに顔をしかめた。

 現在は昼休みであり、学食にて昼食の最中である。

 もうほとんど食べ終わっているとは言え、食事中にスマホを弄るのは行儀が悪いと見られかねないが、それを注意する者はいない。

 

「同じく、音沙汰なしです」

「見てないのかな?」

 

 同じテーブルについた三玖と五月も、また同じように自分のスマホに目を向けていた。

 三人の心配事は他でもない風太郎の事だ。

 姉妹全員が想いを寄せる家庭教師は、今日は学校に姿を見せていなかった。

 朝のホームルームの際に担任の口から休む旨は伝え聞いているのだが、やはり安否は気になる。

 そこでとりあえずとメールを送ってみたのだが、見事に梨の礫である。

 メッセージアプリなどを使っていれば、せめて読んだかどうかはわかるのだが、残念な事に風太郎は古き良き携帯電話を愛用している。

 おかげで今に至るまで、姉妹は悶々としているのだった。

 ちなみに、こういう場合は話し合い(主にじゃんけん)で決めた代表者が連絡を取るという暗黙のルールが姉妹間にある。

 しかし今回は全員が脊髄反射的に動いたため、風太郎の携帯には着信が連続しているだろう。

 ただ心配なだけならもう少し冷静なのだが、中野姉妹には風太郎が休む心当たりがあった。

 それは先日の大乱闘のことであり、半日以上続いた戦いが終わる頃には風太郎は死に体だった。

 もっとも疲れ果てていたのは姉妹も同じなので、数時間ほど仲良くぐっすりだったのだが。

 体力オバケの四葉も無理が祟って倒れた手前、まだ本調子ではなかった。

 ちなみに一花は午後から撮影があるとのことで、行為が終わるとお金を置いて退散していた。

 二重生活をこなしていたということもあり、流石のタフネスというか切り替えが早い。

 そんな長女に対して姉妹全員、特に比較的新参である下の妹二人が思い知った事が一つ。

 こいつ、明らかにヤり慣れてる……ということである。

 今回のような特殊な状況でもない限り、単純な比較はできなかっただろう。

 行為におけるテクニックでもそうだが、その前後の段取りの取り方が明らかに手馴れていた。

 週二回の撮影と称してナニをヤっていたかは、想像に難くなかった。

 格の違いを見せつけるかのような一花に対して姉妹が奮起したのも、風太郎があそこまで疲れ果てることになった原因と言えるだろう。

 そんなこんなで疲弊した風太郎も、夕方にはいくらか回復した。

 それに伴って帰路についたという次第だ。

 どうにか風太郎を家まで送り届けることはできたものの、ぐったりしながららいはに引き取られていくその姿を見て、姉妹は揃って同じことを考えた。

 その際に代表するように呟いた五月の言葉がこれだ。

 

『もしかして私たち、やり過ぎちゃいました?』

 

 もしかしなくてもその通りである。

 そんなわけで、中野姉妹は自分達がオーバーキルした風太郎の心配をしていたのだ。

 そこに休みの報せが届けば、やり過ぎの件が嫌でも頭をかすめる。

 電話もかけてみたのだが、案の定というかつながることはなかった。

 そうしたらもう直接訪問しかないのだが、放課後まではまだまだ時間がある。

 

「そういえば、四葉は?」

「お昼休みになったら、すぐ教室からいなくなっちゃったけど」

 

 なにか他に約束がなければ、中野姉妹は一緒に食事を取る。

 今日もこうして同じテーブルに着いているのだが、そこに四葉の姿はない。

 風太郎を心配していたのは同じはずなのだが、どこへ行ったのだろうか。

 首を傾げる二乃の脳裏に、電撃が走るようにとある考えが思い浮かんだ。

 

「まさか、学校を抜け出してフー君の様子を見に行ったんじゃ……」

「四葉ならお礼参りに行くと言ってましたよ」

 

 しかし二乃の疑念は即座に否定された。

 五月が言うにはお礼参り。

 大抵は仕返しをして回る事を指すのだが、この場合は純粋にお礼を言いに回っているらしい。

 

「そう、なら心配いらないわね」

「二乃は一体何の心配をしてたの?」

「それはもちろん……四葉がフー君に迷惑かけてないかに決まってるでしょ」

「自分だったらやりかねないと思ってるから、そんな心配してるんだよね」

「どうして私の話になるのよ!」

 

 三玖の半眼視に反発してみせたが、実のところ二乃は否定していない。

 四葉への疑念が自分の考えに基づいているのは、正にその通りだったからだ。

 食べ終わった食器を乗せたトレイを持つと、二乃は椅子から立ち上がった。

 

「ちょっと飲み物買ってくるわ」

 

 向けられた疑念の眼差しをかわして食器を返却すると、自販機へ。

 そしてその前を素通りして、二乃は教室へ向かった。

 いても立ってもいられないのなら、行動あるのみなのだ。

 

 

 

 

 

「この度は、本当に申し訳ありませんでした!」

 

 演劇部の部長に対して、四葉は勢い良く頭を下げた。

 今は昼休みを使って学園祭で迷惑をかけた、もといお世話になった人達へのお礼参りの最中だ。

 自分に代役を託してくれた後輩を訪ねた際、部長がここにいると聞いてやって来た次第である。

 

「いいのよ、気にしないで……と言っても無理でしょうね」

「私のせいで、役に穴を空けそうになったことは事実ですから……」

 

 学園祭で自分の限界を見誤った四葉は、過労で倒れて病院に運ばれた。

 他の仕事はもちろん、演劇部には特に迷惑がかかったはずなのだ。

 代役とはいえ、危うく役に丸々一つ穴を空けるところだったのだから。

 

「だけど、結果的になんとかなった。そしてそれはあなたのおかげよ」

「私のおかげ……」

「ありがとう。中野さんのおかげで、この学校での最後の舞台は素晴らしいものになったわ」

 

 部長は、四葉の手を控えめに握った。

 学園祭が終われば、文化系の部活とはいえ三年生は実質的に引退となる。

 その最後の機会を支えてくれた四葉に、確かな感謝の意を示していた。

 

『お前のせいでじゃない。お前のためだから全員協力してくれたんだ』

 

 倒れた四葉のために協力してくれた人達。

 そして今、四葉のおかげと言って感謝してくれる人が目の前にいる。

 

(ああ、私が走り続けて来たことには、ちゃんと意味があったんだ……)

 

 風太郎の言葉を、今更ながらに噛み締める。

 幼い頃に思い描いた道とは違うけれど、思い描いた目標には確かに近づけていた。

 そう実感できた瞬間だった。

 

「あら、電話かしら」

「あ、私のみたいです」

 

 ポケットの中で震える携帯を取り出すと、着信が来ていた。

 風太郎からかと期待したが、表示された名前は別のものだった。

 江場……今年の春に卒業していった、陸上部の元部長である。

 先日の学園祭において、代役である四葉の更に代役を務めてくれたのがその江場なのだ。

 言うまでもなくお礼参りの対象であり、実際に放課後に会う約束も取り付けていた。

 このタイミングで電話をかけてくるということは、なにか予定に変更があったのだろうか。

 

「はい、もしもし――」

『ななな中野さん!? 約束は夕方だけどいても立ってもいられなくて会いに来ちゃった……!』

「ええっと、大学の方は――」

『お昼もう食べた? 良かったら一緒にどうかな? 私ご馳走しちゃうよ。あ、栄養のことなら心配しないで、いいお店知ってるから。うん、アスリートだったらそういうのにも注意しないといけないもんね。その後だけど良ければ一緒にランニングにでも……ちょっと邪魔しないで! 私は中野さんに会いにいくんだから――』

 

 プツッと通話が途切れた。

 一応説明しておくと、この学校において来訪者が校舎内に入るには手続きが必要である。

 それを済まさずに立ち入ろうとすれば当然、たとえ卒業生といえど部外者として止められる。

 一般客に開放しているのは、学園祭といった行事の時のみなのだ。

 

「……」

「……」

 

 何とも言えない沈黙が、部室内を満たした。

 向こうの声が漏れ聞こえていたのか、演劇部の部長もまた何とも言えない顔をしていた。

 そして数秒、二人して顔を見合わせる。

 

「とりあえず、行ってあげた方がいいんじゃない?」

「……はい、そうします」

 

 

 

 

 

 目が覚めると空腹だった。

 と言うよりも、空腹で目が覚めたと言った方が正確か。

 時計を見ると、既に午後一時を回っていた。

 体を起こしてみると相変わらず倦怠感があるが、どうにか動けそうだった。

 緩慢な動作で立ち上がると、キッチンへ。

 ガスコンロの上に、今朝の残りのお粥があったはずだ。

 箸を握るのにも難儀している俺に、らいはが用意してくれたものだ。

 今日は贅沢にも卵が入っているので、栄養満点だ。

 本当によくできた妹で、これならどこに嫁に出しても恥ずかしくない。

 いや、俺の目が黒いうちはそんなことは許さないが。

 

「……少し温めるか」

 

 鍋から適当な食器に移して、電子レンジにかける。

 本当は電気代を節約するべきなのだが、どうにも今の俺は温かい食事に慣れてしまったらしい。

 少なくとも一年前なら、一人で食べる飯が冷えてようが気にはしなかった。

 お粥が温まるまでの間、部屋をぼんやりと眺める。

 ここまで動けるようになったのなら、もう勉強は解禁しても良さそうだ。

 本棚に並ぶ問題集に目を向け、そしてとあるハードカバーが目に付いた。

 つい懐かしくなってしまい、引き抜いて手に取る。

 この鍵付きの本の中には、とあるブツが保管されている。

 それは思春期の青い衝動との戦いに明け暮れた俺の相棒――エロ本だ。

 最近はもっぱら直接的な手段で発散しているため、こうして取り出すのはいつぶりになるか。

 鍵を開けて中身を確認する。

 当然だが、すり替えられているなんてことはなく、ブツは依然として中にあった。

 

『五つ子ハーレム ~あなたの愛を五等分♡~』

 

 いつ見てもふざけたタイトルだが、今の俺の状況を考えると決して馬鹿にできない。

 もっとも、この本に出てくる男のようなタフネスは俺にはなかったわけだが。

 当時はなんとなくで選んだものだが、今なら理由がわかる気がする。

 要するに、これは代償行為だったのだ。

 目覚めたばかりの俺の性欲が向く先は中野姉妹だった。

 だからといって手を出すことはできないし、妄想の中で使うわけにもいかなかった。

 そこで、あいつらそのものでなくとも、想起させる要素をこの本に求めたのだろう。

 それならあくまで本を使っているのであって、本人達を使っているのではないと言い訳が立つ。

 今となっては虚しい限りだが、当時の俺はどうにか一線を引くのに腐心していたのだ。

 そんな目論見も、お構いなしに攻めてくる馬鹿共のせいでご破産したわけだが。

 その事については後悔してないから、まぁいい。

 なにはともあれ、まずは飯だ。

 温め終わったと音を上げる電子レンジからお粥を取り出す。

 さぁ、こいつを食べ終わったら勉強だ!

 

「――って、誰だよこのタイミングで」

 

 チャイムの音が響いたのはそんな矢先だった。

 平日の昼間となれば、まずこの家に人はいない。

 なのでこんな時間の来訪者に関しては全く覚えがなかった。

 借金取りがわざわざ人のいないタイミングにやって来るとは思えない。

 と言うよりも、今の所返済は順調なのでどやされる謂れがない。

 となると、新聞か何かの勧誘だろうか。

 そうなると素直に出て対応するのは考えものだ。

 なにしろ新聞を定期購読する余裕はうちにはないし、勧誘に来た営業にそんな客にもならない奴の相手をさせるのもどうかという話だ。

 早い話、双方にとってただの時間の無駄にしかならない。

 しかし後顧の憂いを立つという意味で、強硬な態度を取るという手もある。

 これ以上の勧誘は無駄だと悟らせれば、二度と足を運ぶことはないだろう。

 無視か突っぱねるか。

 現在の体調を考えると、わざわざ立ち上がって玄関まで向かうのは物凄く億劫だった。

 そうと決まれば後は簡単だ。

 相手がいなくなるまで、とにかく黙ってこの卵粥を食べていればいいだけなのだ。

 そのまま食べるには熱すぎるお粥を、冷ましながら口に運ぶ。

 俺の舌がどこまで当てになるかはわからないが、我が家のシェフの腕は最高だ。

 それともついつい熱さも忘れて掻き込んでしまうのは、空腹のなせる業か。

 そんな最中にも、チャイムは一定間隔で鳴らされていた。

 連打して来るようなことはないが、いやにしつこい。

 そしてチャイムが止まったかと思うと、カチャッという音。

 俺の勘違いでなければ、これは鍵を開ける際に鳴るものだ。

 親父からいはが帰ってきたのだろうか?

 しかし二人から、特に早く帰るという話は聞いていない。

 いや、そもそも二人の内のどちらかだったら、チャイムを鳴らす事自体がおかしい。

 まさか、空き巣か?

 背筋に嫌な緊張が走る。

 借金取りでも、鍵を開けてまで侵入してくる奴は流石にいなかった。

 心の準備はできないまま、とりあえず身構えてみる。

 そして、こちらの部屋に続くドアが開かれ――

 

「あれ、起きてるじゃない」

 

 入ってきたのは空き巣でも強盗でもなく、買い物袋を提げた二乃だった。

 後ろに倒れこんで、大きく息を吐き出す。

 こいつめ、無駄にビビらせやがって。

 

「で、お前はこんな時間にどうしたんだよ」

「あんたの様子見にきたに決まってるでしょ。連絡も返さないし」

 

 そういえばと、携帯の電源を切っていたのを思い出す。

 確認してみると、一花を除く中野姉妹からの連絡が殺到していた。

 二乃が呆れるようにため息を吐いているが、これには返す言葉もない。

 確かに確認せずに放り投げたのは俺が悪い。

 

「お昼食べてたの?」

「ああ、らいはがお粥を作っといてくれたんだ」

「そ、食欲はあるのね」

「どっかの馬鹿共のせいで体がだるいだけだ。風邪引いたとかそういうのじゃねーよ」

「うっ……あ、あれは私たちもやり過ぎたと思ってるわよ」

 

 二乃はバツが悪そうに目をそらした。

 一応、反省はしているようだ。

 あんなのは金輪際ごめん……と言い切れないのが度し難いところだ。

 好きな女達に囲まれて嬉しくなかったと言えば、それは嘘になるからだ。

 

「つーか、学校はどうしたんだよ」

「早退してきたわよ。フー君が倒れてるって思ったら、いても立ってもいられないでしょ」

「……そうかよ」

 

 その思いやりはあの大乱闘の際に発揮して欲しかったとか、そもそも学校サボるんじゃねぇとか、説教すべき点は色々あるのだが、こうも頬が熱くなっては何も言えない。

 そんな俺の様子に気を良くしたのか、二乃はこちらの頬に軽くキスをしてから台所に立った。

 

「果物、今用意するから食べなさいよ。お粥だけじゃ足りないでしょ?」

「ああ、そうだな。ありがとう」

 

 相変わらず二乃の包丁捌きは大したもので、りんごはあっという間に八等分されて皿に並んだ。

 そこまでは良かったのだが、肝心のフォークがない。

 もしかしたら、置いてある場所がわからなかったのかもしれない。

 五月と違って、こいつはほとんどうちに来たことがない。

 包丁や皿の位置はバッチリだったが、そういうこともあるだろう。

 自分で用意しようと立ち上がろうとして、しかし二乃に押しとどめられる。

 その手にはフォークが握られていた。

 なんだよ、用意してあるなら最初から出してくれればいいのに。

 だがまぁ、こうしてりんごをご馳走してくれるわけだし、文句は言うまい。

 受け取ろうと手を差し出したが、二乃はフォークを渡してくれなかった。

 自分で持ったままりんごに突き刺すと、それをこちらの口元に寄せてきた。

 まさかこいつ、食べさせようとしてるのか?

 

「はい、あーん」

「いや、別に動けないってわけじゃないんだが」

「はい、あーん」

「だから自分で食べれるって」

「はい、あーん」

「……」

 

 こちらの言う事に耳を貸す気はないようだった。

 手っ取り早いのは素直に食べてやる事なんだが、どうにも気が乗らない。

 嫌だとかではなく、単純に恥ずかしい。

 あれだけやっておいて今更何をと言われるかもしれないが、そういうのとは別口なのだ。

 中々受け入れない俺に何を思ったか、二乃はりんごを自分の口でくわえた。

 そのまま食べてしまうのかと思えば、今度はこちらに顔を寄せてきた。

 口移しで食べさせようとしていることに気づいた俺は、無言で首を横に振った。

 こういう時は普通、譲歩するものだと思うのだが、なんで更に行為のレベルが上がるんだ……

 迫ってくる本人の顔は赤く、しっかりと恥ずかしいとは思っているらしい。

 しかしそんなことで止まるのならば、俺と中野姉妹の関係はもう少し穏やかだっただろう。

 こいつがあの日に口火を切らなければ、俺は未だに恋愛感情に理解が至らなかったに違いない。

 ジワジワと詰め寄ってくる二乃に対して、ジワジワと後ずさる。

 しかしながら、壁に区切られた室内においては逃げるにしても限界がある。

 四つん這いでにじり寄ってくる二乃に、俺はあっさりと壁際まで追い詰められてしまった。

 

「に、二乃……待て――」

「んっ――」

 

 唇を割って、甘くザラっとした感触が口内に差し込まれる。

 そして、噛み砕きながらゆっくりと、酸味と甘味が送り込まれてきた。

 同時に舌も絡めてくるため、鳴りを潜めていた性欲が叩き起こされてしまう。

 りんごはすっかり嚥下してしまって、甘い後味を残すのみ。

 本来の目的はどこへ行ったのか、二乃の貪るような口づけは止まらない。

 最早目の色は変わってしまっていて、それがどうしようもなく情欲を煽ってくる。

 頭の中でスイッチが入りかける傍ら、ふつふつと納得のいかない思いも湧いてきた。

 ……なんだって俺はこんないいようにされてるんだ?

 

「――このっ!」

「きゃっ」

 

 逆に押し返して、畳の上に押し倒す。

 調子に乗りやがって。

 こいつは俺がなんで学校を休む羽目になったのか、理解しているのだろうか。

 わかっていないのならば、思い知らせなければならない。

 覆い被さるように顔を寄せ、耳朶を甘噛みしてやる。

 不意を打たれた二乃の甲高い悲鳴のような喘ぎ声が、頭の中のスイッチを更に強く押し込んだ。

 顔を離す。

 見下ろしたその表情は、すっかり蕩けきっていた。

 誘われるように再度、顔を寄せ――

 

「やっぱり、抜け駆けしてた……!」

 

 勢い良くドアを開けて現れたのは三玖だった。

 急いで来たのか、肩で息をしていた。

 珍しく眉を釣り上げ、こちらを睨みつけている。

 突然の乱入に少しばかり冷えた頭で、状況を整理してみる。

 畳の上で仰向けの二乃、息は荒く顔も赤い。

 そしてそれを押し倒した格好の俺。

 ちなみに直前のあれこれで、共に若干服が乱れている。

 状況証拠から見ても事に及ぶ手前であり、事実としてその通りだった。

 

「フータロー、体調は?」

「あ、ああ……ようやく疲労が抜けてきたから、ちょっと怠いだけだ」

「そう、良かった……」

 

 どうやら三玖は純粋に心配してくれているようだ。

 だというのに相変わらずの体勢なので、申し訳なさが半端ない。

 そろそろと二乃の上から退けようとしたが、腕を掴まれて引き止められる。

 下を見ると、二乃が目で続きを催促してきた。

 この状況で続けろというのか……

 

「じゃあ、私が混ざっても大丈夫だよね?」

「えっ」

「ちょっと、なんであんたが入ってくるのよ」

「じゃあ一時間ぐらい時間潰してきて。その間に済ませるから」

「後から割り込んできたくせにどんだけ図々しいのよ!」

 

 二人がにらみ合い始めたので、俺はとりあえず解放される形になった。

 やや現実逃避気味にりんごを口に放り込む、うめぇ。

 さて、使った食器は洗わなければ。

 まとめて流しに持っていこうとしたところで、二つの手にシャツの裾を掴まれる。

 もちろんこの部屋には俺達しかいないので、それが誰かという疑問が介在する余地はない。

 いがみ合うフェーズは終わったのか、二人の息はぴったりだった。

 先日は五人で俺を嫐った事を考えると、まだ序の口だろうか。

 

「フー君」

「フータロー」

 

「「どっちとするの!?」」

 

 俺はなんでこんな選択を迫られているんだ。

 目的語が不在のため、二人が何を言っているのかわからないというのは駄目だろうか?

 やはり、あそこで二乃に対抗してしまったのがいけなかったのか。

 そうすると好き放題にされて、結果的にあまり違いはないのかもしれない。

 どっちにしても、間もなく三玖が現れるのは変わらないだろうしな。

 とりあえず、まずはクールダウンが必要だ。

 

「おい、二乃」

「ふふん、フー君ならきっと私を選ぶってわかってたもの」

「いや、そういうわけでは――」

「じゃあ私としたいんだ。やった」

「そういうわけでもないんだが……」

 

 説得を試みた結果、二人からの圧が強くなった。

 というか、説得に入れてすらいない。

 こいつらには勉強を教える前に、人の話をちゃんと聞くということを教えるべきだったか。

 まるで先ほどの再現のように、壁際まで追い詰められる。

 違う点を挙げるとすれば、彼我の戦力差か。

 二対一……数で優位を取られてしまえば、押し返すこともできない。

 このままでは、再び蹂躙されてしまうのは目に見えている。

 この際誰でもいいから助けてくれねぇかな……

 

「二人とも、そこまでです!」

 

 これまた勢い良くドアが開けられ、今度は五月が飛び込んできた。

 助けを求めた瞬間に現れるというのは、いくらなんでもタイミングが出来すぎている。

 しかし誰でもいいとは言ったが、五月がこの二人をどうにかできるかどうかを考えると……

 

「……お前かー」

「どうしてそこで残念そうな顔をするんですか!?」

 

 五月は基本的に真面目であり、他の姉妹の抑え役に回ることも珍しくない。

 しかしながら、末っ子という境遇もあってか、姉の圧力に負けてしまうことも少なくはない。 

 そしてなにより、感情が高ぶるとこいつ自身が暴走し出す。

 二乃と比べたら頻度はそうでもないのだが、二乃以上に周りが見えなくなるのが問題だ。

 混浴に突撃してきたり、セルフバーニングを見られて逆に迫ってきたり。

 先日の五人同時というのを提案してきたのは、他でもないこいつである。

 言ってしまえば、俺を瀕死にまで追い込んだ元凶だ。

 

「……で、お前もサボったのか」

「えっと、それは……き、きちんと早退の申し出はしてきました!」

 

 とはいえ正当な理由がなければ、それはサボりと変わらない。

 ましてや、クラスメイトの見舞いが理由として認められるとは思えない。

 となると、どいつもこいつも適当に理由をでっち上げてフケたというのが真相だ。

 仮にも家庭教師を名乗る身としては、それを看過することはできない。

 しかし、恋人という立場からするなら――

 

「まぁ、なんだ……心配して来てくれたのは、素直に嬉しい」

 

 二乃や三玖もそうだが、五月にとって罪悪感は相当だったろう。

 そこで俺を優先してくれたというのだから、嬉しくないはずがない。

 サボったことに関して説教しようかと考えていたが、それは引っ込めておこう。

 素直に感情を吐き出したのが功を奏してか、二乃と三玖は距離を取ってくれた。

 流石にそういう雰囲気じゃなくなったのを感じ取ったようだ。

 

「まだ果物あるけど、食べる?」

「ああ、頼む」

「私は飲み物買ってきたよ」

「悪いな」

「肉まん食べます?」

「頂こう」

 

 学校をサボって集まるなんていかにもな不良だが、今日ぐらいはいいだろう。

 こいつらとこういう風に過ごす穏やかな時間は、俺が求めるものと相違ないのだから。

 まぁ、それはそれとして……

 

「よし、じゃあ勉強するか」

「「「えっ」」」

 

 三人が揃って微妙な顔をした。

 何を考えているのかは大体わかるが、家庭教師としてこればっかりは怠るわけにはいかない。

 サボってしまったのは仕方ないとは言え、受けられなかった授業の補填はしなければならない。

 クラスが一緒なので、進行具合が容易に把握できるのは幸いだった。

 午後の時間割を確認して、割り当てられている教科だけに絞れば問題ないだろう。

 そしてこいつらが問題に取り掛かっている間は、俺は自分で時間を使える。

 お預けだった勉強に、ようやく取り掛かれるというわけだ。

 

「お生憎様、教科書の類は学校に置いてきちゃったわよ」

「右に同じく。うっかりしてた」

「わわわ、私もその……」

 

 しかしながら、三人は勉強道具がないと言い張った。

 シレっとしている二人はともかく、五月はこの焦りようだ。

 ぶっちゃけると怪しい。

 

「ならカバンの中を見せてみろ」

「ちょっと、乙女のプライバシーを覗く気?」

「いくらフータローでも、それはさすがに恥ずかしいよ」

「デリカシー! デリカシー法違反です!」

 

 見え透いた嘘を剥ぎ取ってやるために持ち物検査を画策したのだが、拒否されてしまった。

 つーかデリカシー法ってなんだ。

 そんな法律はないぞ、きっと。

 全く……本当に往生際の悪い奴らだ。

 諦めがつくよう、さっさと止めを刺してやるとしよう。

 

「じゃあ俺のを使うか」

「「「――!?」」」

 

 置き勉の是非や真偽はともかく、教科書は当然俺も持っている。

 揃って息を飲んでいるところ悪いが、これで形勢逆転だ。

 さぁ、おとなしく勉強してもらうぜ……!

 

「あれ……あの本はなんでしょうか?」

 

 なにか本棚に気になるものでも見つけたのだろうか。

 それとも話題をそらすための材料でも探しているのか。

 視力の問題でよく見えないのか、五月は目を細めていた。

 涙ぐましい抵抗だが、それに付き合ってやるほど俺は暇じゃない。

 バッサリと切り捨ててやるために、五月が見ているであろうものに目を向け――

 

『五つ子ハーレム ~あなたの愛を五等分♡~』

 

 しまうのを忘れていた例のブツが、本棚の前の床に鎮座していた。

 汗がどっと吹き出す。

 しばらく自分一人だと思っていたから、すっかり油断していた。

 

「フータロー、どうしたの?」

「すごい汗じゃない。まさか本当に具合悪いの?」

「は、ははは……飯食ったから体温上がったのかもな!」

 

 二乃と三玖がこちらの心配している間に、五月は本棚の方へ動き始めていた。

 どうにか気を逸らさせようと声を張り上げてみたが、無駄足に終わった。

 こうなれば直接止めるしか手立てはない。

 大げさな動きを取れば余計な勘ぐりを招いてしまうかもしれないが、背に腹は代えられない。

 即座に立ち上がろうとしたが、俺の体はまだ本調子ではなかった。

 足がもつれて、倒れこんでしまったその先には三玖がいて……

 

「……勉強って、そっちの勉強ってこと?」

 

 見事に押し倒すような格好になってしまった。

 頬を染めて目を閉じる三玖は、受け入れ態勢が万全な様子。

 非常に心惹かれるのは確かだが、背後で凄い圧を発している二乃を忘れてはいけない。

 いやいや待て待て、本当に忘れてはいけないのは五月だ。

 顔を上げると、ちょうど例のブツを手に取ったところだった。

 

「えっと……『五つ子ハーレム ~あなたの愛を五等分♡~』……?」

 

 何故そこで声に出して読み上げるのか。

 もうキャパの限界を迎えた俺の頭では、そんなことを考えるので精一杯だった。

 

「ななな、なんてものを読ませるんですかっ!」

 

 確かに出しっぱなしにしていたことに関して、俺に非があるのは認めよう。

 しかしそれを目ざとく見つけて手に取ったのは、この真面目馬鹿である。

 あまつさえ、求められてもいないのに読み上げるのだからどうしようもない。

 声を大にして反論してやりたかったが、残念ながらそうできない事情があった。

 

「む~、やっぱり一人だけじゃ満足できないんだ」

「もう、みんなでしたいなら最初から言いなさいよね」

 

 五月が放り投げたブツを見て、二人が連携しだしたのだ。

 三玖は首に手を回して俺を引き寄せ、二乃は背中に覆いかぶさってきた。

 中野サンドイッチの出来上がりである。

 ……前と後ろに柔らかいものが同時に触れているせいか、アホみたいなことを考えてしまった。

 

「そ、そういうことなら、仕方ありませんね……」

 

 仕方ないという言葉とは裏腹に、声色は満更でもなさそうだった。

 衣擦れの音がしたかと思うと、ブレザーと赤いベストが床に落ちる。

 五月は既にワイシャツのボタンにまで手をかけていた。

 隙間から覗くブラがなんとも扇情的で、慌てて目をそらす。

 耳元を二乃の吐息が、あご先を三玖の吐息がくすぐってくる。

 ただでさえ中野サンドイッチで触覚面から、密着した二人の匂いで嗅覚面から理性を削られているというのに、視覚情報でも攻めてこられたらいよいよヤバい。

 このままでは、遠からず我慢の限界を迎えるのは明白だった。

 そうすれば先日のように、俺は成すすべもなく蹂躙されてしまうだろう。

 らいはが帰ってくるまでという時間制限があるにせよ、絶え間なく攻められたらまず保たない。

 その程度には、俺は自分の体力に対して負の信頼がある。

 ……一体どうしてこうなった。

 やはり居留守を使うべきだったのだろうか。

 いや、仮にも見舞いに来てくれたのに、その対応ではこちらが心苦しい。

 そこでふと、俺はとある疑問に思い至った。

 そもそも二乃は、どうやって鍵を開けて入ってきたのか。

 らいはが鍵をかけ忘れたという可能性もあるが、あの時は確かに鍵を開ける音がしたはずだ。

 その疑念を足がかりに、性欲をどうにか押しとどめる。

 三玖の脇腹をくすぐってホールドを解くと、体を起こして二乃を引き剥がす。

 不満そうな顔を向けられようと、確認しなければならない事がある。

 

「二乃、お前どうやってこの部屋に入った?」

 

 あからさまに目を逸らされた。

 しかしそれで見逃してやるわけにはいかない。

 無言の圧力をかけ続けると、二乃はようやく観念した。

 

「合鍵! 使ったの!」

 

 ヤケクソ気味に取り出したのは、正しく我が家の鍵だった。

 なるほど、それなら確かに鍵がかかっていても入ってこられるはずだ。

 当然、どうしてこいつがそれを持っているのかという疑問が生じるわけだが。

 

「あーもう! 三玖、あんた来るの早すぎなのよ! 鍵かけといたのに意味ないじゃない!」

 

 やけっぱちな二乃は、今更ではあるが邪魔が入ったことに文句を言い始めた。

 三玖が来なければ、確かにあのまま致していたのはその通りだ。

 二乃がどこまで目論んでいたのかはわからないが、当然その気もあったと見るべきだろう。

 それよりも、今こいつは引っかかることを言った。

 どうやら、この家に入った後に施錠をしたらしいのだ。

 まあ、セキュリティを意識するなら当然だろう。

 その口ぶりから、邪魔が入ることを懸念していたようだが。

 とりあえずわかったのは、合鍵を持っているのは二乃だけではないということだ。

 ジッと三玖に目を向ける。

 またあからさまに目を逸らされた。

 しかし同じように無言で見つめ続けると、観念して合鍵を取り出した。

 

「ごめんね、黙ってて。五月が持ってるのが羨ましかったから」

 

 そして三玖の証言から新たな容疑者が浮かび上がる。

 そいつに目を向けると、例によってあからさまに目を逸らされた。

 五つ子なのはわかるが、ここまで反応が同じだと示し合わせているのかと疑いたくなるな。

 

「五月」

「わ、私はちゃんとお父様から受け取ったんです! 家族公認なんです!」

 

 その言葉の真偽はともかく、ありそうな話だとは思う。

 反応から見ても、恐らく嘘はついていない。

 しかし、ならば何故こっちに報告がないのか。

 

「単刀直入に聞くが、あと何本だ?」

「……二本です」

 

 やっぱりと言うかなんと言うか、中野姉妹の全員がこの家の鍵を持っているようだ。

 五月が受け取った合鍵を複製したのだろう。

 こいつが単独でやるとは思えないので、恐らくは姉妹の総意だろう。

 五月から鍵を取り上げて確認すると、やはり純正だった。

 通常、合鍵では合鍵を作れないのでまさかとは思ったが、大方親父が適当に渡したのだろう。

 今日はあまりうるさい事は言わないつもりだったが、気が変わった。

 流石に勝手に合鍵を増やされては捨て置けない。

 

「よし、とりあえずお前らそこに直れ」

 

 このあと滅茶苦茶説教した。

 

 

 

 

 

「社長、今日もありがとうございました」

「また明日もよろしくね。でも、こんな所で良かったのかい?」

「はい、ちょっと歩きたい気分で」

 

 駅前のロータリーで織田社長に別れを告げると、一花は近くの店に向かって歩き始めた。

 空はもう暗いが、まだ日が沈んでから然程時間は立っていない。

 今日は撮影が早く終わったため、時間には余裕があるのだ。

 

「あれ、四葉?」

「一花! 今日は帰ってこられたんだ」

「なんとかねー。四葉はどうしたのさ」

「ちょっとね……」

 

 偶然出会った四葉は、なにやら声に疲労を滲ませていた。

 バイト帰りなのかと思ったが、それにしては時間が早い。

 制服を着ているので、学校帰りなのは間違いなさそうなのだが。

 

「そういえば、フータロー君大丈夫なの?」

「とりあえず動けるようになったって」

 

 実は昼過ぎに、一花は四葉から連絡を受けていた。

 風太郎が学校を休んで連絡を返さないこと。

 そしていきなり二乃、三玖、五月の三人が早退してしまったことだ。

 前者に関しては、半ば予想していたことではあった。

 一花にもやり過ぎたという自覚があったからだ。

 連絡を返してこないというのも、風太郎の連絡不精っぷりを考えればおかしな話ではない。

 後者の早退の件も、状況から見れば風太郎の見舞いに行ったのだと推察できる。

 あの五月が学校をサボってまでという点は意外だったが、それほどまでに心配だったのだろう。

 そうして事態を大体把握した一花は、四葉に落ち着くように伝えたのだ。

 今の口ぶりからすると、それから何かしらの連絡はあったようだ。

 

「そうだ、せっかくだし買い物付き合ってよ」

「いいよ、どこ行くの?」

「フータロー君のお見舞いに、ケーキでも買っていこうよ」

「ええっ、今から!?」

 

 四葉はごにょごにょと、下着や汗臭くないかどうかを気にしていた。

 放課後に誰かとレジャー施設に行っていたらしい。

 初体験を迎えてからというもの、すっかりそっち方面に気が向くようになったようだ。

 

「むふふ、ついでに新しい下着、買ってっちゃう?」

「い、一花っ」

 

 顔を赤くした四葉を連れて、駅前のデパートへ。

 二人が合鍵を取り上げられる、一時間半前の出来事であった。

 

 

 

 

 

「それじゃ、お疲れ様です」

「ああ、お疲れ。また頼むよ」

 

 土曜日の夕方、ケーキ屋でのバイトを終えてペンタゴンへ向かう。

 今日は家庭教師の仕事はないが、中野姉妹に野暮用があった。

 夕方以降なら全員揃っていると聞いているが、果たして素直に顔を合わせてくれるだろうか。

 数日前に俺が全員から合鍵を取り上げてからというもの、やや不機嫌気味なのだ。

 あからさまに避けられたりだとかはないものの、一緒にいれば非難がましい目を向けられる。

 好きな相手からそういう目を向けられるのは、流石に堪えるものがあった。

 言いたいことは十分に伝わってくるが、物事には順序というものがあるのだ。

 

『……あなたですか。鍵は開けておくので、勝手に入ってきてください』

 

 一階からの呼び出しに応じたのは五月だった。

 不機嫌そうな声音は相変わらずだが、とりあえず通してくれるようだ。

 エレベーターに乗って最上階へ。

 そのまま中野家の扉をくぐる。

 靴は全員分揃っていた。

 

「「「「「……」」」」」

 

 そしてリビングに入った瞬間、五人分の無言の圧力が俺を襲った。

 やはり合鍵を取り上げたことを根に持っているようだ。

 それでもこうして顔を見せてくれるということは、話を聞くつもりはあるらしい。

 ここで下手にもったいぶるのは逆効果だろう。

 五人に持ってきたものを手渡していく。

 

「フータロー君、これって……」

「なによ、一回取り上げたくせに」

「……いいの?」

「良いも悪いもない。こういうのは順序の問題だろ」

 

 五人に渡したのは、俺の家の合鍵だ。

 もちろん、親父やらいはにも許可を取ってある。

 むしろそんなことを気にしていたのかと呆れられてしまったが。

 俺は決して、こいつらが合鍵を持っていたことが嫌だったわけではない。

 ただ順序として、俺が渡したかっただけなのだ。

 

「……そういうことですか。あなたも私たちのことを言えたものじゃありませんね」

「うん、なんというか……風太郎君はめんどくさいね」

「……うるせー」

 

 とは言ってみたものの、これ以上返す言葉はなかった。

 自分自身めんどくさいというか、まわりくどい事をしている自覚はあったからだ。

 呆れか安堵か、なんにしても中野姉妹の表情が緩んだのには間違いない。

 

「とはいえ、悪かったとは思ってる。……だから、機嫌直してくれよ」

 

 その言葉が皮切りだった。

 気がつけば俺は床に倒れていた。

 犯人は五人……言うまでもなく中野姉妹だ。

 俺の顔を覗き込む五つ子の目は、熱を帯び始めていた。

 確かにここ数日そういう接触はなかったが、こいつらどんだけ溜まってたんだよ。

 

「それは君が悪いよ」

「そうよ、あんたが悪いんだから」

「フータローが意地悪したせいだもん」

「風太郎君……私、もう我慢できないかも」

「責任、取ってくださいね……?」

 

 もはや説得が通じる段階は通り越しているようだった。

 この前の時と比べれば体力に余裕があるものの、やはり絶望的な戦いには変わりない。

 諦めて現実逃避気味に目を閉じる。

 塞がれた視界の中で、今後は体力作りにも励むことを誓った。

 これは命に関わる重大な問題だ。

 

「……君たちは何をしているのかな?」

 

 果たしてそれは救いか断罪か。

 たった今帰ってきたという風体の中野父が、玄関からリビングに入ってきたところだった。

 もちろん、俺も中野姉妹も固まった。

 

「とりあえず、彼を解放してあげなさい」

 

 この部屋の主の言葉に、蜘蛛の子を散らすように五つ子は俺から離れていった。

 これは助かったと見ていいものなのか……

 

「さて、上杉君。これから時間はあるかい?」

「そ、それはもちろんっ」

 

 即座に居住まいを正す。

 仮にも恋人の父親と対するのに、寝そべったままでは失礼にも程がある。

 さっきの光景を見られている時点で手遅れだという意見もあるが、そこには目を瞑っておく。

 

「良ければ二人で食事でもどうかな。君とは色々と……本当に色々と話したいことがあるのでね」

 

 冷や汗を流しながらも、俺は大きく頷いた。

 ……もしかしたら今日が命日になるかもしれない。

 

 

 




大乱闘 もしかして:大○交

次回はマルオさんと楽しいお食事会になると思われます


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父親二人

くっそ間が空いて言い訳のしようもありません。
仕事とゲームと積んでたラノベの消化に勤しんでました。

それはともかくとして、今回はマルオさんと楽しい食事会です。


 

 

 

「よう、待たせたな」

「遅いぞ」

 

 仕事帰りの勇也が店に入ると、既に約束の相手はカウンター席に腰を落ち着けていた。

 その隣に同じように座り、適当に注文する。

 普段なら隣席を取ったことを邪険にされそうなものだが、今回呼び出したのは相手側だ。

 不機嫌そうな態度ではあるものの、特に何か言ってくるようなことはなかった。

 

「つっても、別に時間を決めて待ち合わせてたわけじゃねぇだろ」

「ふん、お前は相変わらず大雑把が過ぎる」

 

 約束の相手――中野マルオは鼻を鳴らして吐き捨てた。

 勇也からすればそちらが細かすぎるという話なのだが、ここで議論しても平行線を辿るだけなのは火を見るより明らかだった。

 学生時代にも似たような事でしばしば口論になり、第三者によって両成敗されていた。

 今となっては懐かしい記憶だが、今や二人は立派な大人だ。

 当時のように、すぐに感情的になることは少なくなった。

 

「そもそもお前はいつも――」

「あー、はいはい、その通りだな」

 

 だからか、こうして勇也に対して今のように小言を繰り返してくるのは珍しい。

 いつもなら、極力言葉を交わすのを避ける傾向すらあるというのに。

 マルオの手にはウィスキーグラスが握られていた。

 普段から酒の類を飲まないと言っているマルオではあるが、例外があるとすればそれは祝い事の際か、そうでないとすれば自棄酒だろうか。

 とにかく、今は飲まずにはいられないようだった。

 余程何かに気を揉んでいるのだろう。

 

『上杉、お前と話したいことがある』

 

 つい昨日の話だが、珍しく電話をかけてきたかと思えばマルオはそう切り出した。

 たまに顔見せに行けばすぐさま帰れと突っぱねるのが常なため、意外も意外である。

 ともかく断る理由もないため応じたのだが、会う約束を取り付けてまでする話とは何なのか。

 実のところ、勇也にはその心当たりがあった。

 その心当たりとは先日の学園祭での出来事であり、両者の息子娘達の関係についてだ。

 勇也の息子である風太郎は、どうやらマルオの娘である五つ子と恋愛関係にあるらしいのだ。

 家庭教師という仕事上、一緒に居る機会が多いためそう噂されることはあるだろう。

 かつての恩師、とは口が裂けても言いたくない無堂が切り出した時は、その程度に考えていた。

 しかし、当事者である風太郎や中野姉妹がそれを否定することはなかった。

 もちろん年頃の男女が多くの時間を共にする以上、そのような関係に発展してもおかしくない。

 現に勇也は、息子が五つ子の内の誰かとそういう事になってる場面で気を利かせた事もある。

 当然親として暖かく見守るつもりでいたのだが、まさかの五人全員とは寝耳に水である。

 元々勉強以外に興味を示さないことに心配していたのだが、大人になってから罹患する麻疹みたいなものだろうか、いざ目覚めるとすごい事になってしまっていた。

 これには色々レクチャーしていた勇也も流石に責任を感じざるを得なかった。

 

「……有り体に言って、僕はお前の息子が嫌いだった」

「だった、ね」

 

 それは風太郎自身の問題か、それとも勇也の息子だという事情からか。

 傍から見れば相性は悪くないように思えるが、良い感情は持っていなかったらしい。

 もっとも表現が過去形なので、何らかの変化はあったと見るべきだろう。

 

「だが、不本意ながら彼は結果を示した」

「俺の目に間違いはなかっただろ?」

「うるさい、茶々を入れるな」

「あいあい」

 

 睨みつけられて勇也は口を引っ込めた。

 鉄面皮は相変わらずだが、目が据わっていた。

 アルコールの影響が出ていると見るべきだろう。

 あるいは、酒にでも頼らないと吐き出せないのかもしれない。

 そういう不器用な所は学生時代と変わっていない。

 何をするにしても、理由を探すような性分だったのを思い出した。

 

「二乃君……娘が意中の相手だと紹介してきた時も、特に反対しようとは思わなかった」

「そうかい」

「だが、事もあろうに娘達全員と……一体、君の息子は何を考えているんだ……!」

「あー……」

 

 空になったグラスがテーブルに置かれる際に、一際大きな音を立てた。

 アルコールで自制が弱まっているとはいえ、叩きつけなかっただけ我慢が効いているだろうか。

 突き刺さるようなマルオの視線に、言葉を濁す他ない。

 それが勇也に父親としての責任を追求するものだとするのなら、何よりも不甲斐なさを感じているのは自分自身だからだ。

 

「まぁ、俺の至らないとこは否定しようがねぇよ。あいつらには苦労させちまってるしな」

 

 現に風太郎には経済面で負担をかけているし、らいはには家事を任せっきりだ。

 自分なりに気をかけていたつもりではあるが、それでも見落としていた部分もあるだろう。

 

「でもな? こんな情けない親父でも、自分のガキのことは信じてーと思ってるわけよ」

「……お前は今のままでも構わないと言うのか?」

「それを決めるのは当人同士だってことだよ」

 

 何をするにしても、まずは本人達の納得を優先するべきだろう。

 急を要する事態にでもならない限り、勇也は静観を貫くことに決めていた。

 もちろん、向こうから助けを求められればその限りではないが。

 

(……ま、あそこまで言われちゃあな)

 

 しかし結局のところは私情だ。

 自分の真似をして髪を染めた、幼い頃の風太郎を思い出す。

 世間一般では不良と呼ばれるような素行だが、向けられた無邪気な憧れが嬉しかった。

 時が経った今では、そんな様子もすっかり見られなくなって久しい。

 しかしそれは形を変えて見えなくなっただけで、なくなったわけではなかった。

 先日の学園祭で無堂はマルオを糾弾し、中野姉妹を、そして風太郎を哀れんだ。

 その言葉に終始無言を貫いていた風太郎が、父である勇也を馬鹿にされて初めて怒りを見せた。

 無堂に掴みかかるその姿に、息子が単純な見た目ではなく、もっと深い部分で自分を尊敬してくれていたことを知った。

 単純だと思われるかもしれないが、勇也はそれに報いたいと思っている。

 他人の目から見れば無責任な父親に映るのを承知の上で、息子を信じると決めたのだ。

 

「全く、ふざけている……お前は昔から大雑把で、いい加減で……」

「かもな」

「……だが、自分の子供を信じる……少し、耳に痛い言葉だ」

 

 片や学内でも有名な不良として、片や不動の学年トップの生徒会長として対立していた。

 そんな学生時代の関係を引きずるように、大人になってからもマルオの態度は強硬なままだ。

 今こうして勇也の言葉に感じ入っているように見えるのは、酒が心をふやかしているからか。

 

「風太郎も風太郎だが、俺からしたらお前も大概ブッ飛んでたぜ?」

「身に覚えがないな。一体何の話だ」

「零奈先生にイカれてたって話だよ」

 

 校内でも有名な美人女教師、しかも夫がいる。

 そんな相手に横恋慕していたのが、中野マルオという生徒だった。

 ファンクラブの会長として精力的に活動していたのを、勇也はよく覚えていた。

 そして紆余曲折があったにせよ、十数年越しに想いが報われたのだから感服するしかない。

 たとえそれがどんなに短い時間だったとしてもだ。

 

「……一緒にするな。僕はあの人に一途だっただけだ」

「なら、あいつも嬢ちゃん達に一途なのかもな」

「馬鹿馬鹿しい、矛盾も甚だしいじゃないか」

「ガハハ、飲め飲め! マスター、こいつにもう一杯頼むわ」

「やめろ、背中を叩くな」

 

 不器用な父親同士の、喧嘩じみた語らいはしばらく続いた。

 次の日、マルオは頭痛を堪えながら仕事をする羽目になった。

 もう二度と飲まないという決意の言葉は、秘書の江端しか知らない。

 

 

 

 

 

「旦那様、到着いたしました」

「ああ、いつも済まないね。これからまた出るから、少し待っていてくれ」

「かしこまりました」

 

 車から降りると、マルオは目の前の建築物を見上げた。

 高層マンションのペンタゴン――最上階には娘達のために用意した部屋がある。

 マルオ自身の住居でもあるのだが、あまり帰る機会がないためその意識は薄い。

 とはいえ、それも徐々に変わっていくだろう。

 学園祭での出来事を経て、マルオは娘達と向き合うことを決めた。

 今日は仕事を早めに終わらせて、一緒に夕食に出かけるために帰ってきたのだ。

 父親同士の語らいの後も考えは変わらない。

 風太郎自身から話を聞き、必要とあらば諭して正す。

 万が一にでも無責任な考えでいるのなら、糾弾することも辞さない気でいた。

 もっともその場合、糾弾で済むかは怪しいところだが。

 ただ、その前にもう一度娘達と話す必要性を感じただけだ。

 対話に臨む前に、相手の情報を集めるのは基本だ。

 現状、風太郎と関わりが深いのはその家族か、そうでなければ娘達だろう。

 自分の子供を、延いてはその選んだ相手を信じる。

 決して気に食わない相手の言葉に心を動かされたわけではないが、一理はあるとも言える。

 信じるためには、まず知らなければならない。

 無知のまま無闇な信頼を寄せるのは、ただの盲信だ。

 今日は土曜で学校も休みのはずだ。

 更に長期撮影の最中である一花も、今日は休みで家にいることは確認が取れている。

 内容はどうあれ、久しぶりの家族水いらずの団欒だ。

 口元がわずかに緩んでいるのを自覚しつつ、マルオはエレベーターに乗り込んだ。

 少しばかりの緊張はあるが、それは父親としての経験の少なさからだろう。

 悔しいことに、この道において勇也は確かに先達だ。

 しかし、いつまでも大きな顔をさせておくわけにはいかない。

 少々浮ついた気分で玄関を抜ける。

 普段通りだったら、この時に靴の数に目が行ったかもしれない。

 果たしてリビングのドアを開けたマルオの目に飛び込んできたのは、床の上に仰向けに倒れた風太郎と、その周囲を取り囲む娘達の姿だった。

 どっちがどっちとは言わないが、肉食獣に捕食される寸前の獲物を彷彿とさせた。

 予想外の光景に一瞬空白が生まれるが、それでも気を取り直してマルオは口を開いた。

 

「……君たちは何をしているのかな?」

 

 声をかけられてようやく気付いたのか、六人の体が一瞬だけ震えて硬直した。

 単純に驚いたのか、それとも何か後ろめたい行為に及ぼうとしていたのか。

 マルオは別段、高校生同士の恋愛に否定的な考えは持っていない。

 ただしそこには、節度だとか常識の範疇という言葉が付随する。

 しかしどうにもこの状況は節も度も越え、そもそも一人に対して五人の時点で常識の彼方だ。

 中野姉妹は一卵性の五つ子ではあるが、その個性は五者五様である。

 その決して一緒くたに出来ない五人に対して一途とは、やはり大きな矛盾と言わざるをえない。

 

「とりあえず、彼を解放してあげなさい」

 

 娘達は素直なもので、マルオの言葉に即座に従ってくれた。

 残る問題は、リビングで仰臥する男の存在だ。

 理性は穏便に帰せと声を上げるが、感情は父としての怒りを訴えていた。

 要するに、人の家で娘に何しようとしてやがる、ということである。

 むしろ風太郎が捕食されかかっているような状況だったのだが、頭から抜け落ちていた。

 鉄面皮は相変わらずだが、着実に冷静さは失われつつあった。

 

(……やはり、一度じっくりと話し合う必要があるようだ)

 

 そしてたっぷりと己の立場を分からせなければならない。

 マルオは静かに決意した。

 

「さて、上杉君。これから時間はあるかい?」

「そ、それはもちろんっ」

「良ければ二人で食事でもどうかな。君とは色々と……本当に色々と話したいことがあるのでね」

 

 幸い、娘達とは一緒に食事を取る約束をしていたわけではない。

 食事の相手がこの不埒な男に変わるだけである。

 話し合いの内容如何では、実に楽しい食事会になることだろう。

 

 

 

 

 

「……」

「……」

 

 どこぞの料亭の一室にて、俺は中野父と対峙していた。

 彼我を隔てる座卓の上には、何だか高級そうな和食が並ぶ。

 その上では、なんとも気まずい沈黙が蟠っていた。

 話があると連れてこられたのだが、これは何の試練だろうか。

 空腹は感じるものの、食欲が湧いてこなかった。

 今まで散々中野姉妹から無神経さやデリカシーのなさを詰られてきた俺だが、このプレッシャーの中で平然と食事ができるほどの豪胆さは持ち合わせていない。

 あるいは家庭教師の件や恋人の父親だという事情がなければ、話は違うのかもしれないが。

 

「すまないね。君のような年頃なら、もう少しボリュームのある料理の方が良かったかな?」

「い、いえ! お気になさらずっ」

「そうかい」

 

 料理に手を付けないことを心配されてしまった。

 むしろボリュームの少ない食事には慣れっこである。

 問題はそこではなく、このシチュエーションに起因しているものだ。

 苦手なものはあるが、ご馳走してもらっているという手前、食べないのも失礼に当たるだろう。

 煮物のしいたけを箸で掴み、白米と共に口に運んでから味噌汁を啜る。

 うん、味が良くわからん。

 

「さて、上杉君。先日の病院での事は覚えているかい?」

「……はい、もちろん」

 

 中野父が言及しようとしているのは、二乃との一件についてだろう。

 学園祭二日目の終了後、俺は二乃を連れて中野父を訪ねた。

 言ってしまえば不器用な親子の仲立ちだが、そこは割愛しよう。

 ここで重要なのは、勢い余った二乃が俺達の関係(の一部)をバラしたことだ。

 かねてから中野父には、要約したら娘に手を出すなという釘刺しを頂いている。

 それに照らし合わせれば間違いなくギルティなのだが、何故だか許されてしまった。

 

「度々娘達への接し方について釘を刺していたが、なにも意地悪でやっていたわけではないんだ」

「それは心得ています。娘さん達の心配と、家庭教師の業務に支障が出る事への懸念、ですよね」

「その通り。後は単純に、君の事が嫌いだったというのもあるが」

「えぇ……」

 

 いくらなんでも歯に衣を着せなさすぎるというか、なんとも大人気なかった。

 以前にも五月に対して同じようなことを言っていたが、今度は面と向かってである。

 意地悪ではないと言っているが、やはり私情は少なからずあったようだ。

 ここでそんな感情まで明かしてくれるのだから、腹を割って話すつもりがあるのだろう。

 ならば俺は、出来うる限り誠意を持って応じるだけだ。

 どの道避けられないのだから、この場で踏ん張るしかないのだ。

 

「しかし君は娘達の成績向上のみならず、各々が抱える問題に関してもケアしてくれた」

「勉強を教える上で必要だと判断したまでです」

 

 中野姉妹の赤点脱出までの道程が難航したのには、様々な理由がある。

 その中で最も大きなものと言えば、やはり俺自身への不信感だろう。

 無論、五つ子の基礎的な学力やモチベーションという点も大きいが、全員に腰を据えて勉強を教えるという態勢に素早く移行できなかったのは痛かった。

 ともかく、俺はまず第一に個々の信頼を得るために動かなければならなかった。

 そのために、必然的に内面に踏み込まざるを得ない場面もあったのだ。

 

「その事に関して改めて礼を言わせて欲しい。君のおかげだ、ありがとう」

「俺だけの力では到底無理でした」

「勿論、娘達の努力があってのものだとも認識している」

「……あいつらは、本当によくやってますよ」

 

 調子に乗ると良くないので、本人達の前ではここまで開けっ広げに褒めたりはしない。

 だがしかし、依頼主である父親に言うぐらいなら問題ないだろう。

 勉強に関しては俺からしたらまだまだだが、その努力が形になったことは認めてもいいはずだ。

 

「私は君への評価を改めた。二乃君との仲に口出しをしなかったのもその為だ」

「は、はい……」

「しかしどういう事だろうね? 次の日には五月君が将来の相手として君を紹介したわけだが」

 

 中野父は表情と口調こそ変わらないが、言葉の端々に威圧感が滲み出してきた。

 肌が粟立つのを感じるが、これは予想していた展開だ。

 だから俺は慌てたりなどしないのだ。

 

「……ところで、味噌汁が醤油で黒く染まっているが大丈夫かい?」

「お、お気遣いなくっ」

 

 前言撤回、俺は非常に動揺している。

 俺は刺身用の醤油の投入先を間違えて、味噌汁が醤油汁に変貌していた。

 そもそも最初から小皿に分けられているものであり、漬けるものであって掛けるものじゃない。

 

「……話を戻すが、単刀直入に聞こう。君は娘達の事をどう思っているのかな」

「愛しています」

 

 最早怯んでいても仕方ない。

 いずれにしても、いつかは伝えなければいけないことだ。

 この場で誤魔化そうとしたのなら、それは相手が不信感を抱く事態につながりかねない。

 動揺を飲み込んで、俺ははっきりと言い放った。

 即座の返答に、中野父は目頭を瞼の上から揉みほぐしていた。

 眼精疲労だろうか?

 昨今、デスクワークにおいてはブルーライトが目の負担になると聞く。

 やはり仕事が忙しくて疲れが溜まっているのかもしれない。

 

「すまない、聞き方が悪かったね。君は異性として――」

「娘さん達を全員、女性として愛しています」

「……そうかい」

 

 食い気味に答えたら、今度は額に手を当てたまま俯いてしまった。

 よっぽど疲れているのだろうと思いたいが、どう考えても俺の返答が原因だ。

 自分でも常識外れなことを言っている自覚はあるが、これが包み隠さない本音なのだ。

 異様に長い沈黙が続く。

 これはまた相対性理論が悪さをしているかもしれない。

 果たして実際はどれぐらいの時間が流れたのか……中野父は、大きく深呼吸してから顔を上げた。

 

「僕は君と比べたら古い人間だが、自分の世代の恋愛観で君達を縛ろうとは思わない」

「あくまで自由恋愛だ。学生の内ならそんな関係もあるのかもしれない」

「しかし、余りにも常識の範疇から外れてると言わざるを得ないね」

「君達が大人になって社会に出たらどうなる? 結婚をしたくとも、この国の法律が認めない」

「もし子供が生まれたらどうする? 籍を入れられない以上、全て父親がいない私生児扱いだ」

「あるいは一人とだけなら可能だが、それは彼女達の中に明確に差を生む行為だ」

「同じ籍に入ることで得られる恩恵が、一人に集中する事になる」

「そして当人同士の納得と、外からの評価は間違いなく食い違うだろうね」

「既に女優として知名度を高めつつある一花君や、教職を目指している五月君には足枷になる」

「君を解雇するだとか娘達との関係を断てだとか、今更そういった事を言うつもりはない」

「だが悪いことは言わない、せめて彼女達の中から一人を選んで欲しい」

「辛い選択だろう。しかし、それが君達の将来のためには最善だと断言する」

「どうか、考え直してくれないか?」

 

 言い終わると、中野父は静かにこちらを見つめてきた。

 この人からすれば俺は娘を誑かしたロクでなしであり、怒りは当然あっただろう。

 中野姉妹に対しても、どうしてそんな男を選んでしまったのかという嘆きもあったに違いない。

 しかし並び立てられた言葉から感じたのは、俺達の将来を案じる気遣いだった。

 この人はこの期に及んで、自分の感情よりも娘達への心配を優先したのだ。

 怒りに任せてくれれば、あるいはこちらも心情的には割り切りやすかったかもしれない。

 大人として、父親として向き合おうとしてくれているこの人に、適当な返答だけはできない。

 

「……最初は彼女達をそんな目で見る余裕はありませんでした」

 

 人と接することを切り捨ててきた俺への家庭教師の依頼。

 相場の五倍という賃金に釣られて引き受けたものだが、慣れない事ばかりで余裕は皆無だった。

 そんな状況に一区切りがついたのは、学年末試験を乗り越えた時だろう。

 俺は自分の成績を落とす羽目になったが、中野姉妹は赤点から脱した。

 

「立て続けに想いを告げられて、自己嫌悪で逃げ出そうとしたこともありました」

 

 しかし、そんな俺達の関係に変化の楔が打ち込まれたのもちょうどその頃だ。

 二乃からの告白、更にその後の温泉旅館での出来事を経て、俺の心身にも変化が生じた。

 それが良いものであるかどうかはともかく、伴って中野姉妹との関係も変わってしまった。

 二乃との行為や、一花を抱いてしまったのはその最たるものだ。

 自分の欲望も抑えられない人間が、こんな良い奴らの人生に関わっていいのか。

 俺はそんな思いを抱き、卒業と共に関係を断とうと考えた。

 まぁ、結果的には強烈なビンタに打ち砕かれたわけだが。

 なんにせよ、自分を正してくれる存在がいるというのは、一定以上の心の支えになった。

 

「一人一人と向き合って、傲慢にも選ぶという行為に悩み続けて……結局答えは出ませんでした」

 

 逃げ出さないと決めたところで状況が好転するわけではない。

 修学旅行以降、流されるままに俺は中野姉妹と関係を深めていった。

 正直に言って、その関係が一人とだけならば答えの出しようがあったのだと思う。

 責任を取るという大義名分が出来るからだ。

 もっとも、そんな回答にあいつらが納得するかは別問題だが。

 解法のわからない、そもそもとして正答があるかどうかすらわからない。

 この長くはない人生において最大と言える難問に、俺は答えられなかった。

 

「……あの三日間、学園祭では本当に色々とありました」

 

 家族……父との絆を求めた二乃。

 俺のみっともない部分を包み込んでくれた一花。

 自分の殻を破って前に進んだ三玖。

 迷いを振り切って進むべき道を定めた五月。

 そして、全てをさらけ出してくれた四葉。

 五人との触れ合いの中で、俺はようやく答えを見出した。

 それはきっと、もっと前から自分の中にあったものだ。

 自覚して、恥も外聞もなく掲げてやると決意したのが後夜祭での出来事だ。

 

「これからの人生をあの五人と歩んでいきたい……それが偽らざる俺の答えです」

 

 

 

 

 

「……」

 

 静かながらも力強く答えた風太郎の目を、マルオは無言で見つめ返した。

 正直に言って気に入らない。

 親の存在、過去の無遠慮かつ無礼な言動、そしてこちらの企てを尽く台無しにしたこと。

 問題点を並べ立て始めたら枚挙に暇がないが、これらは最早然程の問題ではない。

 家庭教師業務における有能性、模試で叩き出した文句なしの成績、夏休み中に娘のために奔走していたこと、そして先日の学園祭における立ち回り。

 風太郎に対するプラスの評価は、マイナスの評価をとっくに上回っていた。

 それこそ娘の交際相手として認めてもいいと思うほどに。

 だが一夫一妻の決まりと考えが浸透したこの国では、恋人関係も一対一が常識だ。

 だというのに五人全員というのは、むしろ喧嘩を売っているのかと尋ねたくなる。

 本人にそんなつもりがないのは重々承知だが、それが父親の心境というものなのだろう。

 まだまだ初心者ではあるが、マルオは父としての自覚を強めつつあった。

 このまま怒鳴って叱りつけるのは簡単だった。

 しかし、大人としての義務感が激情を抑え込んだ。

 だから諭すような言葉を投げかけたのだが、提示した問題に対する答えはなかった。

 しかしその言葉には並々ならぬ決意が感じられた。

 無言の中で、マルオは風太郎の目を見定めるように見続ける。

 忌まわしくも懐かしい顔つきだった。

 それこそ、学生時代に毎朝鏡で見ていた程度には見覚えがある。

 

『なら、あいつも嬢ちゃん達に一途なのかもな』

 

 そんな言葉がマルオの頭を過ぎった。

 馬鹿馬鹿しいと思うのは今も変わらない。

 しかし、一方で納得が生まれ始めているのも無視できなかった。

 

「……少し、答えを急かしすぎていたようだ」

 

 ゆっくりと息を吐きだして、置いていた箸を再び手に取る。

 話してばかりではせっかくの料理が冷めてしまう。

 そのまましばらく、無言の食事会は続いた。

 

 

 

 

 

「それじゃあ、俺はここで失礼します」

「まだ君の家は先のはずだが」

「少し腹ごなしに歩きたい気分で」

「そうかい」

 

 家から少し離れた公園の前で、黒塗りの高級車から降りる。

 もう日が暮れて久しく、街灯の光が辺りを照らしていた。

 夕食のお礼に頭を下げてから、運転席に向かって会釈する。

 ハンドルを握っている男性は確か、江端という名前だっただろうか。

 中野父の秘書という立場らしいが、中野姉妹の面倒も見てきたらしい。

 俺自身も何度か世話になった覚えがある。

 こちらに穏やかな笑みを向けてくれた。

 

「上杉君……僕の話を無理に聞き入れろと言うつもりはないが、今一度よく考えてみて欲しい」

 

 最後にそれだけ言い残して、車は走り去っていった。

 少し前なら娘に近づく不埒な男として、問答無用で制裁を下されていただろうか。

 こうして五体満足で家路に着けているのは、幾らかは認めてもらえたということか。

 それにしても……

 

「い、胃が痛かった……」

 

 話の内容も然ることながら、それ以外の沈黙の部分も辛かった。

 そもそもとして俺の苦手分野なのだが、会話の糸口が全然見つからなかった。

 共通する話題は必然的に中野姉妹関連になるのだが、流石にあの状況で口に出すのは憚られた。

 そうなるとひたすら受けの姿勢を取らざるを得ない。

 中野父から積極的に話しかけてくることもないため、気まずい食事会の出来上がりだ。

 

「ただいま……」

「あ、おかえりー」

「らいは……!」

 

 俺の帰りを笑顔で迎えてくれた天使を抱きしめる。

 プレッシャーでゴリゴリと削られた精神の回復を図らなければならないのだ。

 

「どしたの?」

「持つべきものは可愛い妹だな」

「もー、そういうのは五月さんに言ってあげなよ」

 

 軽く小突かれてしまった。

 らいはの中で、俺と五月はすっかり恋人同士のようだった。

 俺達の関係を特別話した覚えはないが、間違いではない。

 ただそこには、五月以外の四人も含まれるというだけだ。

 

「おう、帰ったか」

 

 部屋の中では親父が寛いでいた。

 今日も仕事を終えて気を抜いているようだった。

 同じ父親ではあるが、あの中野父が同じように寛いでいる姿は想像し難かった。

 そもそも、俺はあの人についてほとんど知らないのだから当然か。

 そういえば親父とは同級生だったらしいのだが。

 

「親父、学生時代はやんちゃしてたんだよな」

「ん? ああ……まぁ若気の至りってやつよ」

 

 当時を思い出しているのか、親父はしみじみとしたり顔で頷いた。

 しかし、その若気の至りから未だに抜けきれていないように見えるのは俺の気のせいだろうか?

 素行はともかくとして、見た目は髪を染めた不良中年である。

 

「聞きてーのはマルオのことか?」

「うっ……まぁ、そうだが」

 

 外見は大人気なくとも、重ねた年輪は伊達じゃない。

 徐々に話題をスライドさせていくつもりだったが、あっさりと見破られてしまった。

 中野父については学園祭の最中にも聞いたのだが、如何せん端的に過ぎた。

 どのような人物か理解を深めるのには、情報が足りなさすぎる。

 

「隠すことでもないから別に構わねぇが、何が聞きたい?」

「なんでもいい。どんな人なのかを知りたい」

「お前と同じように成績は良かったな。堅物の真面目野郎だったが、生徒会長もやってた」

 

 ここまでは以前に聞いたのと同じだった。

 学年トップの成績で、それと並行して生徒会長も勤めていたという。

 さぞ非の打ち所のない立派な生徒だったのだろう。

 その両立には素直に賞賛するしかない。

 

「だがまぁ、俺から言わせれば、お前もあいつも大馬鹿野郎よ」

「なんだと」

「あれであいつ、美人女教師のファンクラブの会長なんてのもやってたからな」

「……は?」

 

 今までの情報とまったく別方面の新情報に、頭の中に宇宙が広がった。

 理解が追いつかないので、とりあえず分解して噛み砕いてみることにした。

 美人女教師……読んで字のごとく、美人の女性教員。

 ファンクラブ……特定の個人、または団体を応援する有志の集まり。

 会長……端的に言えば組織のトップ。

 つまり中野父は、美人の女性教員を応援する集まりの頭を張っていたことになる。

 噛み砕いたところで理解が及ばないのは変わらなかった。

 とてもじゃないが、今のあの様子からじゃ想像できない。

 

「相当にお熱だったぜぇ? 当時相手には夫もいたってのによ」

「わ、情熱的だー。それでどうなったの?」

 

 いつの間にか親父の話に、らいはまで興味を持ち始めてしまった。

 しかも話題の中心が中野父の恋愛話にシフトしている。

 俺としてはそこまで深掘りしたいわけではないが、人となりを知る一助にはなるかもしれない。

 しかし普通に考えれば生徒と教師、しかも既婚者ともなれば成就するはずがない。

 現実的に成立し得ない恋。

 先ほどの食事会での言葉が、頭の内で反響した。

 俺と中野姉妹の関係は自分達が認めていたのだとしても、世間の仕組みや常識と食い違う。

 決まりを守っていたのだとしても、それ以外の障害は決して少なくないだろう。

 

「卒業してから十数年越しにめでたくゴールイン! ……惜しいことに亡くなっちまったがな」

「あ、じゃあその人って……」

「ま、そういうこった」

 

 らいはが察した通り、その女教師はきっと中野姉妹の母親だ。

 当時はもしかしたら無堂という姓だったのかもしれない。

 一瞬ハゲでヒゲのおっさんの顔が過ぎったが、すぐに頭から締め出しておいた。

 あいつの事を考えるのは最早時間の無駄だ。

 そもそもこちらからしたら赤の他人だし、中野姉妹にしても既に決別は済ませている。

 

「とまぁ、あいつは普通じゃ叶わないようなもんを叶えちまった大馬鹿野郎だ」

 

 親父の目が俺を真っ直ぐ捉える。

 お前はどうするんだと、そう問われた気がした。

 

「風太郎、お前はお前の好きなようにやれ。他人に迷惑がかからん内は、俺から言う事はねぇよ」

「……ああ、そうさせてもらう」

 

 とりあえずは見守ってくれるらしい。

 らいはは事情が飲み込めないようで、首を傾げていた。

 きっといつかは俺達の関係を話さなければならない。

 その時は呆れるのか怒るのか軽蔑するのか、それとも祝福してくれるのだろうか。

 なんにしても、まずは自分達のことだ。

 どんな風に話したとしても、暗い影が落ちていては祝福がもらえるはずがないのだから。

 

 

 

 

 

「――旦那様、旦那様」

「ん、ああ……済まない、少し考え込んでいたようだ」

 

 江端の呼びかけで、自分の内に向いていたマルオの意識が外に向けられる。

 気づくと車は既に自宅のマンションの前に停まっていた。

 考え事に没頭しすぎていたようだ。

 

「明日は出かける予定はない。君も自由にしてくれ」

「かしこまりました」

 

 急な呼び出しがなければその限りではないが、久しぶりの完全な休日だ。

 今日は急な予定変更があったが、改めて娘たちと過ごすのも悪くない。

 途中でお土産に買ったケーキを持って車を降りようとしたところで、江端から声がかかった。

 

「旦那様、少々お時間をいただきたく」

「どうかしたのかい?」

「差し出がましいとは存じますが、面白い動画を見つけたもので」

 

 マルオが渡されたタブレットに目を向けると、どこか屋内の様子が映し出されていた。

 人が集まっているのか、小さくも雑多な話し声が広い空間内を満たしているようだった。

 外部の光を遮断しているのか、または照明を落としているからか全体的に薄暗い。

 一番奥ではステージがライトに照らされていた。

 

「これは?」

「お嬢様方が通う旭高校で先日開催された学園祭、その後夜祭の様子だそうです」

「音が少し小さいようだ」

「音量はそのままの方がよろしいかと」

 

 どうやら生徒がSNSに投稿した動画のようだ。

 江端がどのようにして見つけてきたのかはともかく、今の所興味を惹かれるような要素はない。

 ステージ上には男子生徒が立っているようだが、遠すぎて何をやっているのか不鮮明だった。

 この動画に何があるというのか。

 マルオが再度尋ねようと顔を上げようとすると、唐突にマイクで増幅された音声が響いた。

 

『――――好きだぁぁああああっ!!』

 

 ステージ上の男子生徒が、恥ずかしげもなく誰かへの想いを叫んでいた。

 興味深いことに、この告白はどうやら複数人に向けたものらしい。

 何故だか娘達の姿がマルオの脳裏に浮かんだが、それもそのはず。

 動画の中で叫んでいるのは、上杉風太郎その人だった。

 

「甚だ軽々な行いだ。若気の至りとでも呼べばいいのかな」

「ええ、青春ですね」

「愚かにも程がある」

「そうかもしれません」

「……彼は、大馬鹿者だ」

 

 しかしマルオは、自分の過去にもそんな愚かな大馬鹿者がいた事を覚えている。

 同志をまとめ上げ、憧れの対象の一挙手一投足に一喜一憂し、日々の情熱の糧とする。

 他ならぬ、学生時代の自分自身だった。

 

「成程……一途、か」

 

 切ろうとしても切れない腐れ縁の言葉が、すとんと腑に落ちた。

 

 

 

 

 

「お、おかえりなさい……お父さん」

「ああ、ただいま」

 

 無言でリビングに入ってきたマルオに、一花が恐る恐る声をかけた。

 家族に似つかわしくない、ギクシャクしたやりとりだった。

 それも自分がすべきことを怠ったせいだとマルオは受け止めた。

 娘達は夕刻に帰宅した時と同様、リビングに集まっていた。

 ただテーブルの上にはノートや問題集が広げられていた。

 どうやら自主的に勉強していたようだ。

 受験も近いので当然ではあるのだが、思わず感心してしまう。

 家庭教師の効果は、確かに出ているようだ。

 

「えっと……風太郎君は?」

「彼なら家に帰したよ」

「そ、そっか……」

 

 これまたぎこちない言葉の応酬だ。

 もしかすると、叱られるとでも考えているのだろうか。

 そうではないと即座に伝えようとして、マルオは口をつぐんだ。

 これも長年の怠慢の積み重ねとでも言うべきか、自分の言葉が予想以上に深刻に受け取られているのには流石に薄々気づいていた。

 テーブルに着いてペンを握りつつも、横目でこちらの様子を伺う五月に目を向ける。

 サンドイッチを頬張った際の、なんとも幸せそうな顔が浮かんだ。

 

「良ければケーキでもどうだい? 食後のデザートというには少し遅いかもしれないが」

 

 すると五月が顔を輝かせて、マルオからケーキを受け取って台所へ持っていった。

 他の姉妹も顔を見合わせると、小さく笑みを漏らしてその後を追った。

 どうやら飲み物の用意もするようだ。

 そんな娘達の姿を見守ると、マルオは階上の自室へ足を向けた。

 

「どこ行くのよ」

「僕のことは気にせず、ゆっくり寛ぐといい」

「座って」

「いや――」

「いいから座って」

 

 二乃に背中を押され、マルオはとりあえず従った。

 以前のような遠慮はなくなっていた。

 戸惑いつつも、僅かに口元が緩んでしまう。

 

「大変です! ケーキの数が……!」

 

 血相を変えた五月が、台所から戻ってきた。

 開けられた箱にはケーキが五切れ……ちゃんと買ってきた個数と相違ない。

 姉妹で一切れずつ食べる分には問題ないはずだ。

 

「う~ん、やっぱ一人分足りないよね」

「君達の分はちゃんと用意してあるはずだが」

「お父さんの分がないよ」

 

 四葉の言葉で、マルオはようやく娘達との齟齬に気がついた。

 娘達は、父親である自分も勘定に入れていたのだと。

 気にせず食べろと言っても難しいだろうか。

 かといって今更この席を立つのも気が引ける。

 つくづく、経験の不足が身に滲みていた。

 

「あ、それなら折角だしアレ焼こうよ。ほら、パンケーキ」

「どうせあんたは食べる係でしょ」

「うっ……まあそうだけどさ。三玖、どう?」

 

 いきなり一花に水を差し向けられた三玖だが、ゆっくりと思案して頷いた。

 そして袖をまくると、自分用のエプロンを身につける。

 

「お父さん、ちょっと待ってて」

 

 そうして焼きあがったパンケーキが三枚。

 キリがいいところまで材料を使い切ったのだろう。

 一人で食べるには少々量が多い。

 フォークを差し入れて、一口分だけ口に運ぶ。

 

「ああ……これは懐かしい味だね」

 

 ポツリとそんな言葉が漏れた。

 エプロンをつけたままの三玖が、照れくさそうに笑った。

 

「君達、お腹に余裕はあるかい?」

 

 マルオの問いかけに、一人を除いて姉妹は首を傾げた。

 二乃は院長室での約束を思い出して、そっと頷いた。

 

「せっかくの機会だ。全員で食べよう」

 

 

 

 

 

「一先ず、君達の関係について口を出すのは控えようと思う」

 

 静かな団欒の中で、マルオが口を開いた。

 風太郎との話し合いで何があったのか。

 認められたのか、それとも……

 

「上杉君には、伝えるべきことを伝えたつもりだ。その上で君達の選択を見守りたい」

 

 勇也が言った、自分の子供を信じるという言葉。

 それに倣って、マルオも自分の娘達を信じてみることにした。

 完全に放任するわけではなく、助けを求められれば手を差し伸べる。

 勿論、誰かが泣くようなことがあれば容赦はしない。

 守り導くのが親の役目なら、信じ見守るのもまた親の役目。

 学園祭の最中に二乃や五月が見せた成長は、期待を抱くのには十分だった。

 

「そしていつか、君達六人で導き出した答えを僕に聞かせてほしい」

 

 マルオの言葉に姉妹は静かに頷いた。

 娘達の顔を見回して、そっと席を立つ。

 

「ごちそうさま。楽しい時間だったよ」

 

 階段を上がり自室へ。

 帰ってくること自体ほとんどないため、生活感というものが抜け落ちていた。

 デスクチェアに腰をかけ、何をするでもなく天井の照明を見上げる。

 見守るという選択が間違いかどうかはまだわからない。

 ただ、父として歩み寄れたことが誇らしかった。

 ほとんど飾りと化しているワインセラーを開ける。

 埃の一つも積もっていないのは、江端が気を利かせてくれているのだろう。

 普段から酒の類を避けて進んで購入もしないマルオだが、例外がある。

 それは何らかの記念だ。

 愛する人と結ばれた日だとか、単純に娘達の誕生日だとか。

 そういった思い出深い日の記念として、ワインを購入するのだ。

 セラーの中から一本取り出す。

 この一本は、姉妹を引き取って初めての誕生日に密かに購入したものだ。

 当然、未開封だ。

 オープナーを取り出してコルクに埋め込んでいく。

 

「ああ……今日は良い日だった」

 

 こうして禁酒の誓いは早々に破られたのだった。

 

 

 




というわけで、ロクにフー君と姉妹が絡まない話でした。
まぁ、絡ませるとヤるかヤらないかのバトルが勃発するんでたまにはいいかなと。

タイトル通り、二人の父親がメインでした
比重で言うとマルオさん寄りですが。

描写されてない部分も多いから捏造が入ってますけど、そこはご勘弁を。


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青春クソ野郎と呼ばれた男・前編

昨日の内に投稿するはずが、うっかり寝過ごしてこんな時間に……

それはそうとお久しぶりです。
最早三週間ペースが常になってしまっています。
もう少し間隔を狭めたいところですが、リバースも出たしなぁ……

それはそうと今回と次回は学園祭後のフー君の日常です。
この前と違ってほぼ五つ子との絡みしかありません。


 

 

 

「憂鬱だ……」

 

 週明けの登校の道すがら、地面に視線を落としつつ息を吐き出す。

 ブルーマンデーという言葉がある。

 これは憂鬱な月曜日を意味し、世の社会人や学生の多くが忌避しているものらしい。

 かく言う俺には学校の授業やテストはむしろウェルカムだったので、無関係なものだった。

 しかしこの過去形の表現が、今はそうではないという事実を端的に示している。

 そう、家庭教師業務を引き受けてから初めて、俺はブルーマンデーを実感したのだ。

 原因は言うまでもなく中野姉妹だ。

 あの問題児どもは、日曜が終わって月曜が来るという憂鬱を俺に覚えさせた。

 勉強漬けの休日が終わってしまう事に、これまでにない哀惜を抱いたのだ。

 しかしながら今この身に降りかかる憂鬱は、これまでのものとはまた別方面のものだ。

 中野姉妹に関係しているのは変わりないのだが、原因は俺自身にあると言っていい。

 学校が近づくと、同じ旭高校の生徒の姿もチラホラと増えていく。

 その視線がこちらに集中しているのが気のせいでないのは、先週の段階で身に滲みていた。

 

「おい、あれ上杉じゃねーか?」

「もしかしてあの学園祭の?」

「ああ、青春クソ野郎だ」

 

 本人達はヒソヒソ話のつもりなのだろうが、残念ながらバッチリと俺の耳に届いていた。

 青春クソ野郎……学園祭が終わり、中野姉妹との激しい戦いによるダウンから復帰して登校した俺を出迎えたのは、そんな呼び名だった。

 流石に面と向かって言ってくる者はいないが、学年問わずあちこちで言われ続ければ、普段からデリカシーがないだの鈍感だのと詰られている俺でも気づく。

 先週の水曜日、つまり学園祭以来の登校の際は気のせいだと思おうとした。

 その翌日の木曜日、無視しようと試みた。

 そのまた翌日の金曜日、流石に現状を認識せざるを得なかった。

 どうやら、俺は悪い方面で有名人になってしまったらしい、と。

 半ば予想していたことではあったが、実際に体験するのはまた違う。

 つーか、他の生徒はこんな地味な男に注目して何が楽しいのやら。

 あるいは、地味なのに目立っているのが気に食わないのかもしれない。

 いっそ昔のように髪を染めてピアスでもしてやろうか。

 二乃あたりは喜びそうだが、真面目な五月はまず許さないだろう。

 心が暗黒面に傾きつつあった。

 いや、多少見た目を変える程度でそれは言いすぎかもしれない。

 しかしストレスの蓄積は確かに感じられた。

 このブルーマンデー症候群が何よりの証拠だ。

 現実逃避気味に、改めて『青春クソ野郎』という言葉について考えてみる。

 ストレスの一端にもなっている呼び名だが、敵を知り己を知れば、とも言う。

 つまり、彼我の正確な認識こそが勝利への道なのだ。

 ……誰と戦って何に勝つのかはともかくとして。

 まず青春……言葉の意味としては、人生の若い時期を指す。

 それだけだと端的に過ぎるが、使用される際には専らある側面を強調される。

 春――即ち、萌芽の季節だ。

 若者が夢や希望、そして恋愛感情を抱き始める時期を指す言葉として使われる。

 なるほど、確かに俺の恥知らずな告白は、青春という言葉に当てはまるのかもしれない。

 思い出すと頭を打ち付けたくなる衝動に駆られるが、こんな往来でやればただの狂人だ。

 次にクソ野郎……これは考えるまでもなく直球の罵倒だろう。

 つまり、俺は後夜祭の出来事が原因で学校中で罵倒されていることになる。

 ……整理してみたところで、現状の再認識にしかならなかった。

 立てられる対策としては――

 

「人の噂も七十五日……よし、これで行くぞ」

 

 ただただじっと耐えて話題に登らなくなるのを待つ。

 およそ二ヶ月半……今からだと正月の三箇日が終わった後ぐらいだろうか。

 その頃には周囲の興味も薄れるだろう。

 幸いな事に精神力には自信がある。

 何があろうと勉強し続けていた、この数年間の賜物だろう。

 中野姉妹に対しては、いまいち能力を発揮してくれないのが悩みどころだが。

 

「あ、フータロー君。おっはー」

 

 どこぞのカフェの横を通りがかったところで、呼びかけてくる奴がいた。

 この甘さの裏に利発さを含ませた声は、一花のものだ。

 恐らくはコーヒー系の飲料が入った容器を手に、壁に背を預けていた。

 相変わらず眼鏡によるカモフラージュは続けているようだ。

 これが有名税というやつなのだろう。

 最早自意識過剰とは言えなくなってきたな。

 

「よう、一花。今朝は撮影はないのか?」

「これから向かうとこ」

「じゃあ仕事前の優雅なコーヒータイムってとこか」

「そ、君の顔も見たかったしね」

 

 度の入っていないレンズ越しに目を細めて、一花は微笑んだ。

 夏休み前は、結構な頻度でこうして待ち伏せていたのを思い出す。

 休学中の身で学校に用事はないので、今は当然制服は着ていない。

 今まではあくまで偶然という体は崩さなかったのだが、今回は直球だ。

 気恥かしさが先行するが、同時に嬉しいという感情も湧いてくる。

 この気持ち自体は以前からあったものだが、こうも素直に受け入れられるようになったのは、やはり自分の中で答えを定めたからだろう。

 憂鬱な月曜日の朝でも、好きな相手の顔を見れば多少はマシということだ。

 

「はい、どーぞ」

「わざわざ俺の分まで用意しなくてもな……」

「心配しないで。ちゃんと甘いやつ選んできたから」

「味の問題じゃないんだが」

 

 差し出された紙製のコップを受け取り、口をつけると抹茶風味だった。

 三玖の好きそうな味だと思ったが、あいつには少し甘すぎるかもしれない。

 俺としては苦味もなく飲みやすいのだが。

 しかしどうにも、コーヒーを飲むにはまだまだ修行が足りないようだ。

 そもそもとして、苦味を美味しいと感じる味覚は後天的に獲得するものだ。

 アクワイアードテイストと呼ばれるもので、酸味や辛味もここに分類される。

 だからこれは極々自然なことであって、俺が特別おかしいというわけではないのだ。

 貧乏舌なのは認めるが、子供舌ではない……はず。

 

「ごちそーさん、美味かったぞ」

「って、飲むの早っ」

「お前もあんまりのんびりしてたら遅刻するぞ。それじゃあ――」

「ちょっ、ストップストップ!」

「ぐぇっ」

 

 通学に戻ろうとしたら、後ろ襟を掴まれて阻止された。

 おかげでカエルのような変な声が出てしまった、

 どうにも、そそくさと立ち去ろうとしたことが気に入らないらしい。

 二乃ほどじゃないが、こいつも段々遠慮がなくなってきているな。

 いや、そもそも写真で脅してきたりと割とやりたい放題だったか……

 

「フータロー君、愛しい愛しい彼女に対してちょっと素っ気無さ過ぎない?」

「愛しいってな……そういうのは自分で言うもんか?」

「違うの?」

「……」

 

 困ったことに違っていなかった。

 一花の口にした『愛しい愛しい彼女』という言葉は、自意識過剰でもなんでもない。

 今も、この朝の時間を一緒に過ごしたいという気持ちはある。

 ただ流石にTPOは弁えるべきだろう。

 ただでさえ、今はお互い目立つ立場なのだ。

 加えて時間的な余裕もそれほどない。

 これで目的地が同じなら、また話は変わってくるのだが……

 そんな俺の中の葛藤を見抜いてか、一花はニマニマとこちらの顔を覗き込んできた。

 

「むふふ、だよねー。あんな情熱的な告白するぐらいだもんねー」

「……うるせー、あんまり調子乗んなよ大女優様」

「あ、そんなこと言っちゃっていいの? ……私で童貞捨てたくせに」

 

 なんでここでそんな話になるのか。

 あまりにも急角度で飛んできた言葉に絶句してしまう。

 確かに事実ではあるが、やはり飛躍を起こしていると思わざるを得ない。

 このままでは、更に危険なワードが飛び出してくる可能性もある。

 どうにかして黙らせたいところだが……

 

「黙らせたいって思ってるでしょ」

「わかってるなら、もう少し口を謹んでくれ……」

「じゃあ、無理やりにでも塞いじゃえばいいんじゃない?」

 

 そう言って一花は挑発的に笑った。

 学園祭の初日に、黙らせるという名目でキスをしたことを思い出す。

 こいつも同じことを考えているのなら、これは明らかな誘い。

 どうやら、この流れに持っていくのが目的だったらしい。

 そうなると、今までのやや強引な飛躍にも納得がいく。

 しかしながら、その提案に素直に乗ってやる義務も道理もない。

 

「ねぇ……どうする?」

 

 それは単に乾燥した唇を湿らせようとしただけか、あるいは期待からの舌なめずりか。

 どちらにせよ、妖しく光る一花の瞳と唇に、他の選択肢は消え去った。

 手を掴んで、建物と建物の間に引きずり込む。

 奥まで進めば影の中、余計な物音を立てなければ注目する者もいない。

 

「んっ――」

 

 お望み通り口を塞いでやると、一花は甘い声を漏らした。

 理性が揺らされるが、グッと堪えて思いとどまった。

 ブレーキの踏みどころを見誤れば、戻ってこられなくなってしまう。

 触れるだけのキスを恐らくは十数秒――相変わらず時間の感覚は曖昧だ。

 互いの唇が離れると、一花は頬を薄赤く染めて艶然と微笑んだ。

 

「よくできました」

 

 あくまでも自分が優位であるかのような態度の一花に、とある欲求が首をもたげてくる。

 この余裕ぶった顔を崩してやったら、一体どんな表情を見せてくれるのだろうか。

 不覚にもそれでスイッチが入ってしまった。

 壁に押し付け、再度唇を塞ぐ。

 

「ちょっ、フータロー君……ダメ――」

 

 この焦ったような表情は演技か否か。

 大嘘つきの仮面を剥がすために、口づけをより深める。

 最初こそ抵抗の声を上げていたが、いつの間にやら一花の手は俺の背中に回されていた。

 これでいよいよブレーキの踏みどころがなくなった。

 最早崖から飛び出して、後は落ちてゆくのみだ。

 そもそも最初に誘ってきたのはこいつなので、たっぷりと責任を取ってもらうとしよう。

 

 

 

 

 

「確かに俺はクソ野郎だ……」

 

 一時限目の授業を終え、自己嫌悪に机に肘をついて項垂れる。

 あれだけTPOを気にしておきながら、結局は致してしまった。

 これでは例の『青春クソ野郎』という謗りも、甘んじて受け入れるしかない。

 この時間、いつもなら復習に予習とやることは色々あるのだが、今は精神的余裕がなかった。

 

『それじゃ、今度の撮影も楽しみにしてるね』

 

 俺の暴走の被害に遭ったにもかかわらず、一花は軽い調子で去っていった。

 撮影には間に合ったようだが、こちらは見事に遅刻した。

 丁度一時限目が始まる直前に、教室に滑り込んだ次第だ。

 学園祭でのやらかしもあってか、教室には色々といたたまれない空気が漂っていた。

 クラスメイトも敵意や害意を向けてくることはないが、隔意はあった。

 教室に顔を出した際、四葉がいつもと変わらぬ調子で挨拶してくれたのが救いだろうか。

 つくづく、あの能天気な声に救われてきたのだと実感した瞬間だった。

 

「おう、重役出勤かコラ」

「君が遅れてくるとはまた珍しい、ね」

「……ノーコメントで」

 

 俺に対して遠慮なく接してくる稀有な例がここにも二つ。

 後夜祭で共にステージをジャックした前田と武田である。

 自惚れを恐れずに言うのなら、こいつらこそ俺の友人と呼べるのかもしれない。

 小学生以来、長らくそんな存在がいなかったため、断言するのは少し憚られるのだが。

 ちなみにこの二人も俺と同様に宣言、もしくは告白を行ったはずだが、悪影響はなさそうだ。

 俺の告白と比べれば至極真っ当なので、当然といえば当然か。

 むしろ武田は夢への挑戦を宣言したことで、校内での人気を一層高めたようだ。

 先週の段階で、昼休みの度に取り囲まれていたのをしっかりと見ている。

 一方、前田は松井共々からかわれる様子が見受けられたが、今ではもう開き直っている。

 昼休みや放課後など、一緒に過ごす機会は増えているようだ。

 あの告白の後で何があったのかを知るのは当人達のみだが、悪い変化ではないのはよくわかる。

 率直に言えば、付き合い始めたということだろう。

 

「フータロー」

「ああ、三玖か。どうした?」

「今朝はまだ話せてなかったから……おはよ」

 

 前田と武田が席に戻ったかと思うと、後ろ手を組んだままの三玖が朝の挨拶をしてきた。

 こちらも挨拶を返すと、同じ教室内にいる二乃と五月に目を向ける。

 目が合うと二乃は軽く手を振り、五月は小さく会釈してきた。

 四葉は誰かに呼び出されて教室にはいない。

 昼休みや放課後となると話は別だが、授業の合間に中野姉妹が接触してくるのは珍しい。

 以前は五月がよく授業のわからない部分を尋ねに来ていたが、夏休み明けはその機会も減った。

 土台が出来上がってきて、答えに自力でたどり着けるようになったのだろう。

 教えている身としては、少しばかり寂しくも喜ばしいことだった。

 話を戻すが、こうして挨拶してくるのには、何か別の理由があるのかもしれない。

 その答えを示すように、三玖は背中に隠し持っていたものを、おずおずと机の上に乗せた。

 青い布に包まれた四角い何か――もしかしなくても弁当箱だ。

 夏休み前に何度かご馳走になった覚えがある。

 

「お昼、一緒に食べよ?」

 

 三玖は顔を近づけて声量を絞っていたが、決して少なくはない視線を感じた。

 辺りを見回すと、あからさまに顔を背けているクラスメイトの姿がチラホラと見える。

 その中には、面白くなさそうな顔をしている二乃もいた。

 三玖のアクションに機嫌を損ねているのかと思ったが、多分違う。

 そもそも気に入らないのなら、真っ先に割り込んでくるだろう。

 となれば、どういうわけか黙認していると見るべきか。

 もとより断る理由もない。

 弁当箱を受け取ると、三玖は嬉しそうに笑った。

 視界の端で武田がウィンクをしながら親指を立てていたので、とりあえずガンつけておいた。

 

 

 

 

 

「「いただきます」」

 

 昼休み、屋上の一角に陣取って、三玖と一緒に弁当箱を開ける。

 学校生活を送る上であまり訪れる機会のない屋上だが、特に出入りは禁止されていない。

 だと言うのにこの人気のなさは、単純に不人気スポットなのかもしれない。

 まあ、多少何か出来そうなスペースはあるが、ベンチなどは一切ない。

 柵もなく扶壁もそれほど高くないので、運動の類は禁止されている。

 ただただ発電や給水のための設備が置かれているだけなので、面白味はないだろう。

 加えて言えば、季節柄か外気温が下がってきている。

 今日は晴れていて風も然程ないため平気だが、寒さは利用者がいない立派な理由になる。

 そんな場所なので、人目を避けたい場合には丁度いいのかもしれないが。

 

「今日のは一段とカラフルだな」

「うん、うちの先生が見栄えも気にしろって」

 

 ご飯の上に黒い海苔、おかずは赤、緑、茶色、黄色……色とりどりだった。

 雑然とした印象はなく、素人目だがしっかり綺麗に並べられているように見えた。

 おかずの見た目自体は少し崩れている部分もあるが、食べる分には支障ない。

 ちなみに三玖の言う先生とは二乃のことだ。

 料理の味のみならず、見栄えも気にするあたりがなんともらしい。

 振る舞われる俺は貧乏舌の上、どちらかといえば食べられればいい寄りの考えだ。

 それでも、三玖の料理の技術が向上しているのはわかる。

 おはぎと見紛うほど黒焦げのコロッケを作っていた時とは違うということだ。

 

「どう、おいしい?」

「ああ、うまいぞ」

「ホント? この卵焼きは?」

「甘くてうまい」

 

 うちの朝食でも時々出てくる卵焼き。

 なんか縦に長い長方形のフライパンで、くるくると巻いて作るあれだ。

 味付けは我が家のシェフの気まぐれだが、三玖のは甘かった。

 本人は苦手そうな味つけなのだが、味のバランスを考えたのかもしれない。

 他のおかずは、どちらかといえばしょっぱい系の味付けだ。

 

「じゃあ、こっちのヤンニョムチキンは?」

「なんかピリッとしてうまい」

 

 そのヤンニョムチキンという料理名に聞き覚えはあるが、実物はこれが初めてだ。

 今日までは、なんとなく韓国の料理ということしか知らなかった。

 見た目のイメージとしては、赤っぽい唐揚げ。

 そしてその見た目を裏切ることなく、辛めの味付けだ。

 

「む~、感想が小学生」

「悪いが四葉みたいな引き出しはないぞ」

 

 もしあいつのような食レポを求められているのなら、残念ながら無理というしかない。

 あれは最早、一芸として昇華されているのではないだろうか。

 五月と一緒に食べ歩きをさせたら、面白いものが見られるかもしれない。

 

「ふふ、じゃあ一緒に練習だね」

「……まぁ、ぼちぼちな」

 

 本当に中野姉妹の笑顔は心臓に悪い。

 こんな関係になっても、まだまだ耐性がつかない。

 照れ隠しにキスでもしてやろうかと思ったが、それはやめておいた。

 今朝に一花とやらかしたばかりだからだ。

 正直に言って、踏みとどまる自信がない。

 

「ともかく、お前は目標に向かって順調なようでなによりだ」

「気にしてくれてたんだ」

「これでもお前の家庭教師だ。進路のことは気にかけてるつもりだ」

 

 とは言っても、専門外の分野なので現状は見守るしかできないのだが。

 三玖が目指しているのは調理師の専門学校だ。

 色んな分野があるため決して一括りにはできないが、概して専門学校は大学よりも入りやすい。

 そもそも筆記試験がない場合もあり、あったとしても難易度は高くないらしい。

 こいつならば問題なく通過できるだろう。

 なので、今やっているのは入った後を見据えた土台作りだ。

 調理師を目指すにあたって、全く知識が必要ないかと言われればそうではないが、やはり重きが置かれるのは技術の面だろう。

 そうなると俺はお手上げなので、こうして努力の成果をいただくのみとなっている。

 

「そういえば、フータローはどうするの?」

「……行く大学は決めた」

「学部とかは?」

「さて、どうだろうな」

「あ、決まってないんだ」

 

 図星だった。

 誤魔化したつもりだったが、あっさりと見破られてしまった。

 しかしなんというか、三玖とは五月以上に進路について話す機会が多い。

 あの食いしん坊の場合は道筋がしっかりしているから、改めて相談する必要がないだけか。

 そう言えば、適当な大学に進学すると言っている二乃はともかく、四葉はどうするのだろうか。

 人のことは言えないが、そろそろ決めないとまずいだろう。

 

「じゃあ、将来の夢は?」

「残念ながら思い浮かばん」

「目標は?」

「金を稼ぐ」

「そこだけは揺るぎないんだ……なら、どんな人間になりたいとかは?」

「……誰かに必要とされるような、そんな人間だな」

 

 五月にも話してはいるが、改めて言わされるのはやはり少し照れくさい。

 こんなことを言っておきながら、中野姉妹と出会うまでの俺はその誰かを寄せ付けない生き方をしてきたのだから、それもそのはずだ。

 つーか、なんで俺が進路相談する形になってるんだよ。

 これでは教師と生徒の立場が逆になってしまっている。

 進路を既に定めた三玖は、確かに先達と言えるのかもしれないが。

 

「それなら、もう叶ってるね。だって、私はフータローがいないとダメだもん」

「……そうかよ」

 

 それにしても顔が熱い。

 この日差しのせいだろうか。

 肩に預けられた頭の重さが妙に心地よかった。

 こうなれば否応なしに心が緩んでいく。

 

「そういえば、夢ってほど大袈裟じゃないが叶えたいことはあったな」

「うん、聞かせて?」

「いや……やっぱ恥ずいわ」

「聞かせて?」

「…………」

「聞かせて?」

「……お前達と、ずっと一緒にいること」

 

 そして心が緩くなれば口も緩む。

 それとも、これは三玖の圧力に負けたというべきか。

 ……日差しが強いので、言わされたということにしておこう。

 あまりにも顔が熱いので手で遮ってみるが、まるで効果はなかった。

 

「……三玖?」

 

 不意に肩の重みがなくなる。

 見ると、なにやら膝を抱えて悶えていた。

 ひょっとして寒いのだろうか。

 

「んんっ……だ、だめ……私たち、まだ学生なのに……」

「おい、大丈夫か?」

「ううん、ウソ……もっとしてほしい……もっと滅茶苦茶にして……!」

「三玖? おーい、三玖さーん?」

 

 どうやら寒さに震えているわけではなく、別の世界に旅立っているようだった。

 少しぐらい揺さぶった程度では戻ってきそうになかった。

 そもそも、学生の身で最早婚前交渉まで済ませているというのに、こいつの頭の中では一体何が繰り広げられているというのか。

 気にはなるが、藪をつついたら蛇どころか竜が出てくる可能性もある。

 こういう時は黙々と別のことをするに限る。

 弁当はまだ残っているので、今のうちに食べてしまおう。

 米とおかずを交互に口に放り込む。

 海苔の下のご飯はただの白米ではなく、かつお節と醤油で薄らと色づいていた。

 焼肉のない焼肉定食を平気で食べられるにしても、やはり味気があるに越したことはない。

 大袈裟かもしれないが、俺は今幸せを噛み締めているのかもしれない。

 

「――フータロー……」

「ようやく戻ってきたか。あんまりのんびり食べてたら、昼休みが終わっちまうぞ」

「子供の名前、どうしよう?」

 

 戻ってきたと思ったのは勘違いだったらしい。

 

 

 

 

 

「ごちそうさま」

「お粗末さまでした」

 

 どうにか三玖を別世界から引っ張り戻して、昼食を終える。

 サイズの違う弁当箱が二つ、空になった状態で布にくるまれていた。

 

「そろそろ戻るか」

「うん」

 

 階段を下りて教室に向かう道中、すれ違う生徒の幾人かがこちらに目を向けてくる。

 例の呼び名が耳をかすめるが、ここで気にしていてもしかたない。

 所詮他人事だろうから、時間が経てば興味もなくなるだろう。

 幸いにも、一緒に居る三玖のことを悪し様に語る声はなかった。

 もしそんなことを言う奴がいたら、流石に黙っていられなくなる。

 自分がどうでもよくないことに対して我慢弱いのは、先日の学園祭で思い知ったばかりだ。

 

「そういえば、フータローは今みたいに先生になろうとか考えてないの?」

「全く考えなかったわけじゃないが、お前らでお腹一杯だ」

 

 しかし教職のみに絞るならば教育学部になるが、他学部でも免許の取得自体は可能だ。

 もちろん相応に苦労するだろうが、どこに行くにしても考慮してみてもいいかもしれない。

 

「しかし、そういえば五月にも教師が合ってると言われたな」

「五月の場合は自分の夢のこともあるし、そうだったらいいなって思ったのかな?」

「ちなみに三玖はどう思う?」

「うーん……」

 

 そこまで真剣に受け止めてくれなくてもいいのだが、三玖は悩みだしてしまった。

 何かの参考になればいいと尋ねてみたが、失敗だったか。

 そう思いつつも、口からは小さな笑みが漏れてしまう。

 きっと、こんな風に誰かの為に直向きになれるから、俺は中野姉妹が大好きなのだろう。

 

「……私がここまで歩いてこれたのは、フータローのおかげ」

「そんなことは――あるな。お前らが自分達だけで赤点を回避できたとは思えん」

「勉強のことだけじゃなくて、フータローが寄り添ってくれたから、私は前を向けたんだ」

「……俺がやったのはせいぜいが補助輪だ。お前はいつだって、自分でペダルを漕いでたはずだ」

「ふふ、それだけで十分だよ。だから、別の誰かにもそうやって寄り添ってあげて欲しいかな」

 

 誰かに寄り添う。

 言葉にしてみれば簡単だが、具体的にというと想像がつかなかった。

 今までの家庭教師という仕事がそうなのかと言われれば、またよくわからない。

 距離感を考える暇もなく、ガンガンやってきた結果が今の関係だ。

 間違っていたと言うつもりはないが、一般的かと言われれば絶対に違う。

 俺のやってきたことは中野父の言う通り、職務の範疇を明らかに逸脱している。

 

「あ、でも浮気したらダメだからね」

「お腹一杯だっつってんだろ。これ以上食ったら胃もたれ起こすわ」

「でも別腹って言葉もあるし」

「生憎と、そっちも一杯だ」

「へぇ、じゃあもう別の誰かに手を出したんだ……」

 

 三玖の目元に影がかかり、にわかに威圧感を発し始めた。

 何故そんな結論に至るのか。

 それとも、俺は誰彼構わず手を出す節操なしに見えるというのか。

 ……あまり否定する材料がないのが、頭の痛いところだった。

 だが、俺が手を出すのは誓って中野姉妹だけだ。

 

「む~~」

「……」

「む~~~~!」

「…………はぁ、わかったわかった」

 

 不満そうな声を上げる三玖の手を引いて、教室に戻ろうとする流れに逆行する。

 昼休みの残り時間は十分と少し。

 それだけでどこまで説得できるかが勝負だ。

 失敗したら、午後の授業には遅刻する羽目になるだろう。

 

 

 

 

 

「クソみたいに疲れたな……」

 

 もうほとんど人のいない教室で、机に突っ伏して疲労を吐き出す。

 昼はそれなりに苦戦したが、なんとか午後の授業には間に合った。

 しかし三玖は満足したわけではないらしく、次の予約と称して首元に痕を残していった。

 やはり本番まで行かないと駄目ということだろうか。

 というわけで、週明けだというのに早速疲れてしまった。

 今は放課後ということで吹奏楽部の演奏や、運動部の掛け声が遠雷のように響いてくる。

 時刻は午後の五時過ぎ。

 もう太陽は姿を隠してしまっていた。

 秋の日はつるべ落としと言うが、本当に日が沈むのが早くなったように思える。

 今日はバイトの予定はなかったが、中野姉妹との予定が合わず勉強会もない。

 なので後は帰るだけなのだが、実を言うと四葉を待っている。

 先程まで一緒に学級長の仕事、もとい雑用をしていたのだが、その後にあいつは先生に呼び出されて職員室へと行ってしまった。

 どれだけ時間がかかるかわからないから、先に帰っても構わないとは言われている。

 しかしながら、俺にとっては時間を潰すことなど造作もない。

 こうして問題集を開けば、みるみると時間が溶けていくというもの。

 そもそも帰っても同じことをするだけなので、多少場所が違おうが関係ないのだ。

 

「あ、ふうた――上杉さん」

 

 問題集を開いてさほど経たないうちに四葉が帰ってきた。

 教室にクラスメイトが残っているのに気づいてか、咄嗟にいつも通りの呼び方に変えたようだ。

 俺としてはどちらでも構わないのだが、本人からしたら恥ずかしいらしい。

 

「待っててくれたんですか?」

「別にどこで勉強しようと変わらないからな」

「わぁ、流石です! 一度は言ってみたいセリフにランクインですよ」

 

 相変わらず大袈裟なやつだ。

 しかしその笑顔は俺の心に効く。

 問題集に取り掛かっている最中だというのに、思わず笑ってしまった。

 

「それじゃあ、帰りましょうか」

「待て、まだこの大問が終わっていない」

「えぇ……本末転倒なのでは?」

「すぐ終わるから少し待ってろ」

 

 四葉の言う通りこれでは本末転倒だ。

 言葉をちゃんと使えているのは、学力が上がった証拠だろうか。

 ともかく、中途半端では座りが悪い。

 用事があれば話は別だが、少し待っていてもらおう。

 こちらに付き合うと決めたのか、四葉は俺の前の席に座った。

 

「じゃあね、四葉ちゃん。それに学級長も」

 

 最後に残っていたクラスメイトが教室から出ていく。

 四葉は笑顔で手を振り、ついで扱いの俺も適当に手を振った。

 こちらに対する遠慮は見えるが、ああやって挨拶してくるだけマシな方だろうか。

 

「~~♪」

「……で、お前は何してんだ?」

「風太郎君を見てるんだよ」

 

 机に肘をついて頬杖をついた四葉は、ハミングをしてご機嫌な様子だった。

 こうしていられるのが嬉しい、と言っているように見えるのは俺の自惚れだろうか。

 二人きりになったからか、呼び方も変わっている。

 タメ口にチャレンジしようとして失敗続きの五月に比べれば、ずっと器用なものだ。

 

「よし、終わったぞ。待たせたな」

「本当? じゃあ――」

 

 問題集や筆記用具を片付けると、四葉は何を思ったか机を引いて俺の膝の上に座ってきた。

 人一人分の体重がかかるが、これぐらいなら問題ない。

 詳細は省くが、こうして上に乗られることには慣れている。

 しかしながら、こうやって頭に頬を擦り付けられるのは話が別だ。

 やはりマーキングでもされているのだろうか?

 

「もしかして、今朝一花と会った?」

「藪から棒になんだ」

「うん、やっぱり一花の匂いがする」

 

 こいつの嗅覚はどうなっているのだろうか。

 確かに一花との接触はあったが、時間は大分経っているというのに。

 それとも、もしかしてカマをかけられているのか?

 

「うーん、三玖のはお昼の時のだよね?」

「……お前は犬か」

「でも一花の方がなんか匂いが強いような……どうしてかな?」

「さ、さあ……なんでなんだろうな?」

 

 なんだか尋問されているような気分になってきた。

 気圧されて、一花と会ったことを誤魔化しそこねてしまった。

 そこでのあれこれが遅刻の原因だと知られたら、流石に呆れられてしまうだろう。

 こういう時は話題を変えるに限る。

 

「そういえば、先生の話って何だったんだよ」

「あ、それならあとで話そうと思ってたんだけど……進路のことでちょっと」

 

 そろそろ聞くべきだとは思っていたが、まさかそっちから進路の話があるとは。

 いまいち進路の定まらない四葉に対して担任がせっついたのかと思ったが、それは違うらしい。

 なんでも、とある体育大学から声がかかっているのだとか。

 あちこちに助っ人として参加して、大会にも記録を残していたのが目に留まったそうだ。

 

「良かったな。お前のお節介は無駄じゃなかったってことだ」

「ししし、情けは人のためならず、だね」

 

 そう言って笑う四葉だったが、次の瞬間には困った表情でリボンをしおれさせた。

 体育大学への推薦となればこいつにとってこの上ないと思うのだが、問題があるのだろうか。

 

「でも、最低限の学力が条件だって……」

「そ、そうか……」

 

 普通の生徒にとっては大したことのない条件だろうが、赤点を免れてはいても未だに低空飛行を続ける四葉には少し辛いだろう。

 結局のところ、勉強からは逃れられないということだ。

 それなら、家庭教師として俺のやることは決まっている。

 

「まぁ、なんだ? 今日は時間があるし、たまにはマンツーマンでやってみるか?」

「ま、マンツーマン……マウストゥーマウスじゃダメ?」

「お前は何を言ってるんだ」

 

 何をどう取り違えたら一対一が口から口へと変わるのか。

 国語力は上がってきても、英語の方はまだまだのようだ。

 これはみっちりしごいてやらねばなるまい。

 久しぶりにスパルタモードで行くとしよう。

 

「くくく……楽しみだぜ」

「うわぁ……風太郎君が生き生きしてる」

「善は急げだな。早速行くぞ!」

「ストップ!」

「ぐぇっ」

 

 四葉を下ろして教室を出ようとしたところ、後ろ襟を掴まれて引き止められた。

 今朝と同じようにカエルの鳴き声が出たわけだが、一花と行動がシンクロしている。

 そんなとこで同調するのは勘弁してもらいたい。

 

「私、頑張るよ!」

「ああ、わかってる」

「うん、頑張る……けど、ご褒美とかあったらもっと頑張れる、かも」

 

 両手の人差し指を突き合わせて、こちらをチラチラとうかがう四葉。

 そこにそういった期待が含まれているのを、俺は見逃さなかった。

 今まで四葉は、ずっと本心を隠してきたはずだ。

 それがこうも甘えてくるようになって、嬉しくないはずがない。

 だがしかし、もし外れていたら恥ずかしいので予防線ぐらいは張っておこう。

 

「なら、やる気が出るように少しなら前払いでも――」

 

 次の瞬間、四葉が飛びかかってきて唇を奪われた。

 壁に押し付けられ、唇を離しては合わせるのを何度も繰り返す。

 これではやる前に答え合わせをしているようなものだ。

 

「――四葉、続きは勉強の後でいいか?」

「うん。私も頑張るから、風太郎君も頑張ってね?」

「お、おう」

 

 ここで俺は四葉のそのお願いを安易に受けるのが、どれほど危険なのかを思い出した。

 貧弱な俺と体力バカの四葉では相性が悪すぎる。

 小手先の技術でカバーするには限界があるのだ。

 いや、だが絶望にはまだ早い。

 その前のマンツーマン授業で消耗させてやれば、いくらかはマシになるかもしれない。

 ならば俺も気張るしかない。

 四葉の進学と身の安全のために、心を鬼にして教鞭を執るのだ。

 

「~~♪」

 

 これから地獄が待ち受けているとも知らず、四葉はご機嫌にハミングしていた。

 くくく、どこまでその余裕が持つか見ものだぜ。

 俺は自分の勝利を確信して疑わなかった。

 

 

 

 

 

「た、ただいま……」

「ふわぁ……おかえりお兄ちゃん。遅かったね」

 

 ボロボロの状態で帰宅する。

 もう日はとっぷりと暮れて、いつも就寝する時間の手前だった。

 最早足腰は限界だった。

 この貧弱な体で四葉に対抗しようというのが愚かだったんだ。

 四葉には勝てなかったよ……

 開けてない近藤さんが丸々一箱全滅したと言えば、その恐ろしさがわかるだろう。

 単にゴムが切れたから終わっただけで、あいつ自身はまだ余裕そうだったのがまた恐ろしい。

 あの体力バカに対抗するには、俺も現状に甘んじるわけにはいかないのかもしれない。

 

「らいは、決めたぞ」

「いきなりどうしたのさ」

「俺は明日から走り込むぞ……!」

「それはいいけど、寝るなら玄関じゃなくてお布団にしてよ」

 

 拳を握りしめて宣言したが、倒れたままでは格好がつかなかった。

 立ち上がろうとしたが、四葉との戦いで足腰がやられていた。

 

「すまん、らいは。起き上がれない」

「もー、しかたないなぁ。ほら、掴まって」

「ううぅ……持つべきものは天使のような妹だな……!」

 

 

 




Q:どうして時間が経っているのに長女の匂いの方が強かったのでしょうか?
A:口以外の粘膜でも濃厚接触したからです。

Q:どうして三女の方が匂いの方が薄かったのでしょうか?
A:フー君が口と手で必死に説得して本番行為に至らなかったからです。

というわけで終了です。
今回出番のなかった二人は次回登場予定です。


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青春クソ野郎と呼ばれた男・後編

どうも、安定の三週間ペースです。

リバースのラスボスがアレだったので、次のラスボスは逆にアレではないのではと思う今日この頃です。

というわけで、後編です。


 

 

 

 日の出と共に俺の朝は始まる。

 親父とらいはを起こさないように布団を抜け出し、着替えを済ませる。

 善は急げ、もしくは鉄は熱いうちに打て、だろうか。

 今朝は昨夜にらいはに言った通り、体力作りのために走る予定だ。

 以前はこの時間を内なる青い衝動の発散にあてていたが、今ではその必要がない。

 何故なら、セルフバーニングが不要になるほどに中野姉妹に攻め立てられているからだ。

 そっと家を出て階段を下りる。

 

「……寒っ」

 

 流石に秋が深まるこの時期の早朝ともなれば、それなりに冷える。

 出鼻をくじかれそうになるが、肝心なのは最初の一歩だ。

 走っているうちに体は暖まるだろう。

 時間帯のせいか人の姿はない。

 とりあえず、まずは運動の前の準備からだ。

 体育の授業はあまり好きではないのだが、こうしていると決して無駄ではないことがわかる。

 この準備体操などは何度も反復させられて、覚える気がなくとも体に染み付いてしまっていた。

 一通り終えると、既に体はある程度暖まっていた。

 最後に一度大きく体を伸ばして、深く息を吸って吐き出す。

 

「よし、行くぜ」

 

 

 

 

 

「ゼェ……ゼェ……さ、流石に……飛ばし、すぎた……」

 

 額を伝い目に入った汗を拭う。

 足を引きずるようにして、近くの壁にもたれかかる。

 意気揚々と走り始めて、順調に進んでいたのはほんの数分。

 その後は徐々にスピードが落ち、ついには立ち止まってしまった。

 振り返れば反省点は多々あったような気がする。

 そもそも、素人が思いつきでやり始めたのが間違いといえばそうなのだが。

 とりあえずは最初から全力で走ったのがいけなかった。

 ペース配分という言葉の重要性をまざまざと思い知らされた。

 昨日の四葉との戦いが尾を引いていないといえば、嘘になるかもしれない。

 息を整えて、来た道を引き返す。

 移動スピードの低下を考えると、そろそろ帰った方がいいだろう。

 家に戻る頃には、既にらいはも起きているだろうか。

 帰ったら朝飯……の前に、まずはこの汗まみれの体をどうにかしないといけないか。

 うちは例によって暖房も必要最小限なので、下手をしたら風邪をひいてしまう。

 

「あら、フー君?」

 

 家に戻る道中、見知った姿を見つける。

 近所というほどではないが、俺の家と中野姉妹のマンションは歩いて通える範囲にある。

 なので、こうして出くわす可能性は無きにしも非ずだ。

 だがそれは、あくまでも自由時間が保証される放課後や休日の場合だ。

 ただでさえ余裕が少ないのが、平日の朝の時間帯だ。

 なので、出歩くのにはそれなりの理由があると見るべきだ。

 二乃はコートの下に制服こそ着ているが、こちらは学校とは違う方角だ。

 つまり、登校する前に済ませる用事があるということだろう。

 

「こんな所で何してるのよ」

「それはこっちのセリフなんだが」

「あんたの家に向かう途中よ」

 

 なるほど、確かにこれで早朝に出歩く理由にも一応の納得がいった。

 後は二乃が俺の家に向かう目的だけだ。

 以前はバイト帰りに、家族への挨拶という名目でついて来たことがあった。

 案内した我が家は残念ながら無人で、その目的は不発に終わったのだが。

 ……よくよく考えてみると、二乃はなんと挨拶するつもりだったのだろうか。

 当時はその部分に関してさほど気にしていなかったのだが、こいつには暴走癖がある。

 既成事実を成すためにと、とんでもない事を口にする可能性だってあったはずなのだ。

 そして俺はあの時、こいつが強引に押し倒してきたのを忘れてはいない。

 流石に家族がいる前で同じことをしてくるとは思わないが、何らかの強行突破の可能性もある。

 ぶっちゃけると、何をしてくるかわからないので遠慮したい。

 親父はともかくとして、らいはの前で何かあったら俺のメンタルがブレイクしてしまう。

 

「それで、フー君は?」

「俺はまぁ、軽い運動をだな……って、こんな時間にうちに何の用なんだよ」

「なんで警戒してるのよ。ただ朝御飯を一緒に食べようと思っただけよ」

 

 二乃は通学用のバッグとは別に、タッパーの入ったビニール袋を提げていた。

 いきなり朝飯にお邪魔することを考えてか、何かしら持ち込むつもりなのだろう。

 その気遣いは大いに結構だが、やはり不安はある。

 しかし、せっかく来てくれたのにという思いもあった。

 早起きをしてまで一緒に過ごしたいと言われて、悪い気がするはずがない。

 一年前の俺なら問答無用で断ることができただろうが、今はすっかり絆されている。

 

「……わかったよ。親父やらいはもいるし、あんま騒ぐなよ」

「当たり前でしょ。将来家族になるんだもの。失礼のないようにしなきゃ」

 

 将来とか家族とかそこらへんはさておき、二乃の外向きの面は十分に常識を弁えている。

 暴走したらその限りではないが、他でもない本人が失礼のないようにと言っている。

 きっと常識的に挨拶をして、常識的に食卓を囲むだけで終わってくれるだろう。

 ……というか、そう信じたい。

 

「それ、こっち寄こせよ」

「持ってくれるの? フー君、ありがと」

「別に大したことじゃねーよ」

「そんな風に優しいとこ、大好きよ」

「……だから、別に大したことじゃねーって」

 

 素直じゃない面も目立つ二乃だが、俺への好意はこうも真っ直ぐだ。

 熱くなった顔をそらしつつ、タッパーの入ったビニール袋を受け取る。

 重量では、何が入っているのか推測するのは無理そうだ。

 液体が動くような感触から、汁気が多い料理なのは辛うじてわかった。

 何にしても二乃のことだから、少なくとも不味いということはないだろう。

 三玖の腕も上達してきているが、やはり長年中野家の台所を担っててきたのは伊達ではない。

 貧乏舌が何を言ってるのかと思われるかもしれないが、流石に大まかな味の良し悪しはわかる。

 もしかしたら三玖の腕と同様に、俺の味覚も成長しているのかもしれない。

 

「じゃあ、行きましょ」

「そうだな」

 

 二乃が空いた手でこちらの腕を取ろうとしてくるのを、少し距離を空けることで避ける。

 別に意地悪をしているわけではないが、今の汗まみれの状態では少々躊躇してしまうのだ。

 恋人に対して汗臭いと思われたくないというのは、おかしなことではないはずだ。

 

「ちょっと、なんで避けるのよ」

「運動してたって言ったろ。汗かいてんだよ」

「へぇ、そうなの」

 

 二乃は悪戯っぽく笑ったかと思うと、今度は真正面から抱きついてきた。

 今回も避けようと思ったのだが、荷物を持ったせいで動きが制限されてしまった。

 あまり大きな動作で揺らしてしまうと、中の料理を台無しにしてしまうかもしれない。

 そんな俺の葛藤も知らず、二乃は俺の胸元に顔を埋めて深呼吸し始めた。

 

「うわ、本当に汗かいてるじゃない」

「だからそう言ったろ……」

「ふふ、ホント最悪……こんなの、我慢できなくなっちゃうわ」

 

 そして顔を上げたその瞳には危険な兆候。

 明らかに目の色が変わり始めていた。

 え、こいつまさか汗の臭いで発情したの?

 

「さ、最悪なら離れようぜ」

「イヤよ。昨日は三玖に譲ったけど、今朝は我慢なんてしないんだから」

 

 言ってることはさて置き、やろうとしていることは明白だ。

 我慢しないという宣言通り、二乃は躊躇なく唇を重ねてきた。

 ふんわりと漂うシャンプーやボディソープの匂いで、シャワーを浴びて間もないことがわかる。

 容赦なく情欲を煽られるが、なんとか踏みとどまった。

 これは昨日散々四葉に搾られたおかげだろう。

 侵入してこようとする舌は歯でブロックした。

 流石にそこまでされたら、今度はこっちが我慢できなくなってしまう。

 不満そうに顔をしかめる二乃を宥めつつ、家へと向かう。

 特に何も言わずに出ているので、あまり遅くなると心配されてしまうだろう。

 歩いている最中もずっと腕に抱きついてきたが、もう気にしないことにした。

 幸いなことに早朝なので、見ている者はほとんどいないはずだ。

 自分の汗臭さと人の目が気になるだけで、俺自身も二乃とこうしているのは嫌ではないのだ。

 

「ねぇ、あの人ってもしかして後夜祭の……」

「上杉先輩ね、青春クソ野郎の」

「うわぁ、昨日は別の女子と歩いてたのに」

 

 ……ところで、世の中には朝練という概念が存在するらしい。

 部活動からは縁遠い生活を送っていたので、すっかり失念していた。

 恐らくは後輩の、女子グループが向けてくる視線が痛かった。

 だがそんなことよりも、威嚇するようなオーラを発し始めた二乃が問題だ。

 歩いている人がほとんどいないせいで、小さくとも声ははっきりと届いてしまっていた。

 

「よせ、構うな」

「わかってるわよ。あんな風に言われてるのも、あんたの自業自得だもの」

 

 意外なことに二乃は冷静だった。

 その言う通り、これは俺が好き放題やった結果だ。

 だというのにこうして不機嫌になったのは、理解に納得が追いついていないからか。

 それはきっと、俺にとって中野姉妹がどうでもよくないように、二乃にとっても俺がどうでもよくない存在だからなのだろう。

 そう思い至ったら、今度は自分の中で青臭い衝動が強まってしまう。

 性欲とはまた違うこの感情の赴くまま、二乃の体を抱きしめる。

 

「ちょ、ちょっと……!」

「いいじゃねーか。見せつけてやろうぜ」

「顔真っ赤にして何言ってるのよ!」

「へぇ、そりゃ奇遇だ。お互い様ってやつだな」

「ホント最悪……汗臭いのよ、バカ……」

 

 言葉とは裏腹に、二乃はしばらく俺の胸に顔を埋めて離れなかった。

 

 

 

 

 

「あ、おかえりお兄ちゃん」

「ああ、起きてたか。おはよう」

「それに二乃さんもいらっしゃい」

「おはよう、らいはちゃん。お邪魔するわね」

 

 パタパタと朝食の準備を進めるらいはが、俺たちを出迎えた。

 炊飯器は沈黙しているので、恐らく今日の朝食のメインは食パンだ。

 となると洋食の雰囲気なので、目玉焼きでも作るつもりだろうか。

 まだ冷蔵庫にお徳用ウィンナーが余っていたはずなので、じきにあの四つ並んだ皿に食パンと目玉焼き共々乗っかることになるだろう。

 ――待て、何か違和感があったような……

 

「おう、二乃ちゃん。よく来たな」

「おはようございます、おじさま」

 

 二乃は既に起きていた親父に挨拶すると、持参したタッパーを持って台所に立った。

 ともかく今は疲労で頭の回りが悪い。

 水道代的にはあまりよろしくないが、サッとシャワーを浴びてしまおう。

 流石に来客の前を裸でうろつくわけにはいかないので、着替えも持参する。

 我が家の浴室はお世辞にも広いとは言えないが、湯船もちゃんとある。

 疲労の回復を意図するならお湯につかりたいところだが、それこそ贅沢だ。

 手始めに頭からシャワーを被り、二乃のことを考える。

 思えば、あいつとの初めてもこの浴室だったか。

 攻めているうちは強気なものの、いざ受身になるとされるがままなのも二乃の可愛いところだ。

 そんな事を考えていたら、下半身に血流が集中し始めてしまった。

 昨日あれだけ酷使されたというのに、最早回復の兆しを見せている。

 煩悩を追い出すためにシャワーを冷水に切り替える。

 その上でひたすらに化学式を思い浮かべていたら、なんとか鎮まってくれた。

 そして同時に頭も冷え、先ほどの違和感が疑問へと変わった。

 

「って、なんで親父もらいはも普通に受け入れてんだよ!」

「お兄ちゃん! ちゃんと体拭いてよ、もー!」

「あ、すまん」

「風太郎、いくら気心知れた仲だからといっても、お客さんの前だぞ」

「ぐっ、確かに」

 

 すごすごと引き返し、体を拭いて着替えを済ませてから再び舞い戻る。

 朝食の準備はすっかり終わっていて、なにやら甘い匂いが漂っていた。

 皿の上には予想通りの目玉焼きとウィンナー、それと申し訳程度の野菜。

 しかしメインは食パンではなかった。

 正確に言うと、ただの食パンではなくしっかりと調理されていた。

 白い部分は黄色く染まり、所々些細な焦げ目が付いている。

 甘い匂いはこのトーストから発せられていた。

 

「二乃さんがフレンチトースト焼いてくれたの」

「へぇ、フレンチトースト。あれだろ? フレンチなトースト」

「あんた絶対わかってないでしょ」

 

 俺の知ったかぶりは一瞬で見破られてしまった。

 言い訳させてもらえるのなら、全く知らないわけではないと言いたい。

 例によって名前しか知らないというアレだが。

 名前から察するに、きっと多分フランス発祥の料理なのだろう。

 なにはともあれ、二乃が下拵えしたものをこちらで焼いたらしい。

 持ってきたタッパーの中身はそれだったようだ。

 

「せっかく二乃ちゃんが作ってくれたんだ。冷めないうちに食っちまうぞ」

「いただきまーす!」

「って、だからなんで普通に受け入れてんだよ!」

「そりゃあ、事前に連絡受けてたからな」

「お兄ちゃんにも言おうとしたけど、昨日はすぐ寝ちゃったし」

「そ、そうか……」

 

 昨夜は疲れ果てていたので、確かに話を聞く余裕はなかったかもしれない。

 しかし、こうして家に突撃してくるあたり、やはり二乃の行動力は抜群だ。

 これが少しは勉強の方に向いてくれたらとは思うが、恐らく無理だろう。

 それでも出会った頃と比べたら学力は格段に上がったので、高望みはするまい。

 後は本人の目標に合わせて、俺が必要に応じて後押しをしてやればいいのだ。

 

 

 

 

 

「「ごちそうさまでした」」

「「お粗末さまでした」」

 

 食べるオンリーの俺と親父、作る側のらいはと二乃。

 食後の挨拶は男組と女組で綺麗に別れた。

 作ってもらった分は感謝とささやかな労働で返すとしよう。

 食器を回収して下げようとしたのだが、二乃に先んじられてしまった。

 

「私がやるから、あんたは座ってなさい」

 

 そう言ってさっさと洗い物を始めてしまった。

 うちに来たのは二回目だというのに、最早台所を使いこなしている。

 五月とは家事の経験の地が違うということか。

 

「わー、二乃さんありがとうございます!」

「そんなにかしこまらないで。もっとフランクに……そうね、お姉ちゃんなんてどう?」

 

 こいつ……外堀を埋めにかかってやがる……!

 どうやら二乃の今朝の目的の一つは、親父とらいはへの良い嫁アピールのようだ。

 将来的にそういう関係になることを考えれば、取り立てて止める理由はない。

 ただ俺の羞恥心と、らいはへの説明がデリケートなのが少々問題か。

 どう口を挟んだものかと思案していると、らいはが天使のような笑顔で口を開いた。

 

「そっか、お兄ちゃんと五月さんが結婚したら、二乃さんもお姉ちゃんだもんね!」

「へー、そうなのね」

 

 表面上は平静を保った二乃だが、その声音の微妙な変化を見逃す俺ではない。

 こうしている間にも、どういうことか説明しろという雰囲気が漂ってきていた。

 勿論それは俺と二乃の共通認識があって成り立つものなので、親父ととらいはは気づかない。

 

「ぷっ、くくくくく……」

 

 前言撤回、親父はしっかりと察している。

 そうでなければ、こうして笑いを堪えているのはおかしい。

 抗議の視線を送ると、いい笑顔で親指を立てられた。

 

「らいはちゃん、五月とは随分仲良しなのね」

「えへへ、五月さんがしばらく泊まってた時も、お姉ちゃんができたみたいで嬉しかったなぁ」

「へ、へー……しばらく、泊まってた……」

 

 二乃は声を震わせていたものの、どこかの末っ子と違って動揺して皿を割ることはなかった。

 やはり家事の年季が違うのだろう。

 いやぁ、それにしてもうちの妹の可愛さは留まることを知らないな。

 

「い~つ~き~~!」

 

 そんな現実逃避は、二乃の小さく低い唸り声によって阻止されてしまった。

 ここは五月(もしくは俺)の冥福を祈っておこう。

 それはそうと、腹を抱えて床を叩いてる親父に一発入れても許されるだろうか?

 

 

 

 

 

「おっはようございまーす!」

 

 教室に元気のいい挨拶が響き渡った。

 この能天気で底抜けに明るい太陽のような声は、四葉のものだ。

 目を向けると、男女問わずクラスメイトに声をかけられ、律儀にも一人一人に対応していた。

 続けて入ってきたのは三玖と五月で、今日も一緒に登校してきたのだろう。

 二乃と俺は一足早く登校したため、既に席に着いて思い思い過ごしていた。

 それは例えばクラスメイトと談笑したり、机に伏せていたり。

 ちなみに二乃は前者で、俺は後者である。

 昨日の疲れと、素人判断で行ったランニングの反動が如実に表れていた。

 それに加えて、今朝の登校での出来事もある。

 クラスの女子と話している二乃に目を向けると、意味深な笑顔を返された。

 俺がこうして机に伏せている原因の半分は、登校途中のあいつの行動によるものだ。

 詳細は省くが、男女で腕を組んで登校してる奴がいたら、それはもう目立つのである。

 当然俺もされるがままではなく、抗議したのだが……

 

『いいでしょ、別に。見せつけてやればいいじゃない』

 

 この一点張りだった。

 どこかで、しかもごく最近聞いた言葉のような気がするが、きっと気のせいだろう。

 でないと原因が巡り巡って、俺の所に帰着してしまう。

 二乃はがっちりホールドしてくる上に、俺の力は余りにも頼りなかった。

 早朝と違って人の姿は決して少なくなかったし、うちの学校の生徒も当然いた。

 人の噂も七十五日とは言うが、その噂を現在進行形で更新するとどうなるのだろうか。

 およそ二ヶ月半の期間もその都度延長し、結局卒業まで続くのでは?

 ……考えると気が重くなるのでやめておこう。

 というわけで、今朝も今朝とて疲弊しているのだ。

 しかも今日は肉体面と精神面のダブルパンチだ。

 

「フータロー、こんな早いなんて珍しいね」

「ちょっと早起きしたもんでな……」

「それにしてもお疲れのご様子ですね。上杉さん、夜ふかしはいけませんよ?」

「四葉……お前、ちょっと自分の胸に手を当てて考えてみろ」

「私は当然快眠で早寝早起きです!」

 

 どうやら四葉には、俺の言いたいことが伝わらなかったらしい。

 一方、三玖は何か察したのか無言で頬を膨らませていた。

 放たれる圧からは顔をそらして目も背けておいた。

 先送りでしかないが、後で機嫌を取っておこう。

 

「上杉君、ちょっといいですか?」

「なんだ? 悪いが食料の持ち合わせはないぞ」

「私を腹ペコキャラに仕立て上げようとするのはやめてくださいっ」

「ちなみに今はカツ丼と天丼、どっちの気分だ?」

「難しい質問ですが、今朝は天丼の気分ですね。揚げたてのサクサクの状態でも、甘~いタレが染みてしんなりした状態でもイケます! 海老天は基本としてイカ天も捨てがたいですねっ! 他にもししとうやナス、根菜の天ぷらもイイですし、かき揚げという選択肢も悪くありませんっ!!」

「お、おう……」

 

 誘導尋問を意図したわけではないのだが、結果的にズルズルと釣れてしまった。

 本人は気づいていないかもしれないが、段々とヒートアップしてボリュームアップしている。

 からかっていたのは事実だが、これでは自分で腹ペコキャラだと喧伝したようなものだ。

 もっとも、そんな事をしなくてもそれは十分に知れ渡っているわけだが。

 実際に周囲の反応は苦笑といった感じで、これはこいつのキャラが定着している証拠だろう。

 自分が何を口走ったのかにようやく気付いたのか、五月は顔を僅かに赤くして小さく咳払い。

 ここで仕切り直すつもりか。

 

「実は、教室に入った時から二乃が妙な視線を向けてきて……」

「気になるなら直接聞けばいいだろ」

「それが出来たらとっくにそうしてますっ」

 

 泣きついてきた五月に促されるまま二乃の方を見ると、これまた意味深な笑顔を返された。

 しかし先ほどのものとは趣が違う。

 端的に言えば、目が笑っていない。

 その原因に覚えがある俺は、五月に同情の視線を向けるしか出来なかった。

 

「五月……強く生きろよ」

「どう言う意味ですか!?」

 

 

 

 

 

 昼休みの学食、いつもの定位置。

 一人で焼肉抜きの焼肉定食に手をつけようとした所、向かいの椅子に五月が腰を下ろした。

 今日は珍しく一人の昼食の予定だったのだが、どういうつもりだろうか。

 しかし、この状況は出会った日のことを思い出す。

 一緒のテーブルに着いた俺達を見て、周囲がヒソヒソ言っているのも同じだ。

 五月は少し照れくさそうにしているものの、あの時のように無理をしている様子はない。

 食欲を我慢するつもりもないようで、トレイの上には相変わらず贅沢なメニューが並んでいた。

 今朝熱く語っていた天丼、の上に更なる追加トッピングと添えられた汁物。

 例によってデザートも完備しており、栄養の偏りを気にしなければ隙のない布陣ってところか。

 かく言う俺の食事も栄養の偏り、というよりも不足に関しては人の事を言えない。

 

「……まずは何も言わずにこちらを」

 

 神妙な顔をした五月が差し出してきたのは、天丼の具の中でもメインと目される海老天だった。

 ……本格的にどういうつもりだろうか。

 こいつが何の理由もなしに食べ物を譲るなんて……まぁ、なくはないかもしれないが。

 ともかく、その何も言わずにという前置きがまず怪しい。

 訝しむこちらの視線に観念したのか、五月は携帯を差し出してとあるメッセージを見せてきた。

 

『五つ子裁判のお知らせ』

『時間:放課後』

『場所:家のリビング』

『被告人:五月』

『罪状:フー君の家での長期間のお泊り』

『判決:一週間晩御飯のおかず一品抜き』

 

 お知らせというか、裁判を開くまでもなく最早判決が下っていた。

 色々すっ飛ばした結論は二乃らしいが、食らわされる立場からしたら堪ったもんじゃない。

 やはり五月には同情しておこう。

 

「大変そうだな。めげずに頑張れよ」

「なに無関係そうな顔をしているんですか」

「俺に何をしろと?」

「上杉君も証言してください」

 

 正直に言って、この話題になった時点で展開も読めていた。

 五月が事情を知る俺に助けを求めるのは、自然な流れだろう。

 しかし、俺には応じる事が出来ない理由がある。

 

 出来ないというよりも、意味がないと言ったほうが正しいか。

 何故ならその件に関して二乃に情報を流したのが、他ならぬ俺自身だからだ。

 俺だって無事だったわけではなく、登校の途中にしっかりと尋問されていたのだ。

 らいはの口から漏れてしまった以上、隠すのは難しい。

 それならばと、二乃の尋問にかこつけて全部洗いざらい話させてもらった。

 なので、今更特に話せる事情はないのだ。

 

「――ごちそうさまでした」

「って食べるの早っ……ま、待ってください!」

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ……み、見つけましたよ!」

「げ、マジかよ……」

 

 早々に飯を食べ終えて不人気スポットである屋上に身を隠したが、秒で見つかってしまった。

 ここなら見つからないと踏んで雲隠れを決め込んだというのに……

 もしかしてあのアホ毛には、センサー的な役割があるのだろうか。

 

「ふぅ……あなたは自分が有名人だというのを自覚したほうがいいですね」

 

 どうやらそこらの生徒に聞いて足取りを掴んだらしい。

 思ったよりも真っ当な探し方だった。

 くそっ、探偵の真似なんてしやがって……!

 なんて心中で悪態を吐いている間にも、五月は距離を詰めてきた。

 扶壁を背に座る俺の前で腕を組んで仁王立ち。

 ムッとした表情も相まって、絶対に逃がさないという気概だけは伝わってきた。

 

「五月、悪いことは言わないから観念しろ」

「イヤです! 一週間もおかずが一品減るだなんて死んでしまいます!」

「俺が二乃にその情報を流したと言ってもか?」

「なっ……う、裏切ったのですか!?」

 

 裏切るもなにも、ただ暗黙の了解で黙っていただけで、特に約束を交わした覚えはない。

 それにこれは俺にとっても仕方のないことだったのだ。

 その事を理解してもらうために、ここで魔法の言葉を一つ。

 

「……らいはがな、喋っちまったんだよ……」

「まさか、そんな……」

 

 五月は愕然としてワナワナと震えた。

 らいはというカードを切れば、その時点でゲームセットだ。

 勿論、俺だってこうなる。

 うちの妹がかわいすぎるから畜生……!

 

「で、ですが……私もリスクを冒している以上、このまま引き下がるわけにはいきません!」

「いや、リスクとか流石に大袈裟すぎだろ。わけわかんねー」

「それは、その……今日は私の番ではないといいますか……」

 

 そこにどんな事情があるのかはわからないが、何らかの順番が決まっているらしい。

 どうも話が見えてこないが、ふと今朝の二乃の言葉が頭を過ぎった。

 

『イヤよ。昨日は三玖に譲ったけど、今朝は我慢なんてしないんだから』

 

 関連があると仮定して推測すると、昨日は三玖の番で今日は五月の番ではないと。

 そして二乃の口ぶりからして、俺が関係しているのは間違いない。

 昨日俺と三玖がしたことといえば、一緒に昼飯を食べたぐらいだが……

 

「私たちもあなたと二人きりの時間が欲しいので、お昼休みを利用しようという話になってます」

 

 五月の話によると、月から金までの平日を一花を除いた四人で分担しているらしい。

 そうなると一日余るわけだが、そこは俺の自由にしてもいいとのことだ。

 ……ここは一日の自由を喜ぶべきなのか、それ以外の不自由を嘆くべきなのか。

 そもそもとして、俺に対する確認が一切ないのはどういうことなのか。

 ちなみにその自由日は今日に当たるらしいが、見事にこいつによって潰されている。

 本人が言うには、リスクを冒しているそうなのだが。

 

「こんな面倒な姉妹に手を出したのはあなたなんです。これぐらい甘んじて受け入れてください」

「クーリングオフってまだ有効か?」

「残念ながら期間外です。全部引き取ってもらいます」

「冗談だ。手放してなんかやんねーよ」

 

 夢や進路があやふやな俺でも、それだけははっきりと言うことができた。

 五月の手を引いて抱き寄せる。

 やはり抱き心地はこいつが一番だ。

 胸が柔らかいのはどいつも一緒だが、五月は全体的に柔らかい。

 上に乗っかられた時の重量感も一番なのだが、これは機嫌が悪くなるので口には出さない。

 からかうのにも時と場合を選ぶ必要があるのだ。

 

「むむっ、何やら邪念を感じます」

「……気のせいじゃねーの?」

「怪しいですね……」

 

 至近距離からの訝しむ視線を、目を背けてやり過ごす。

 しかしそれがかえって疑いを助長したのか、今度は頬を膨らませ始めた。

 一卵性なだけあって、その表情は三玖そっくりだった。

 

「あれ? この痕は……」

 

 果たして、それは三玖のことを考えていたせいか。

 五月は俺の首元を覗き込んで、何かを見つけたようだった。

 そんな所にあるものといえば、答えは自ずと限られる。

 三玖が残したキスマークだ。

 俺の五人全員という答えを受け入れたからといって、姉妹間での対抗意識はなくなっていない。

 実を言うと、昨日の四葉があそこまで燃え上がった理由も、この痕を見たせいなのだ。

 ……実はあいつが一番独占欲が強いんじゃないだろうか?

 しきりにマーキングのようなことをしてくるのも、その表れなのかもしれない。

 ともかく、この痕を見た五月の反応が問題だ。

 更に頬を膨らませるのか、それとも唸るだけの生き物になるのか。

 

「昨日は三玖とお楽しみだったみたいですね」

 

 しかし、予想していたよりもその声は冷静だった。

 どうやら余計な心配だったようだ。

 身構えて若干強ばっていた体の力が抜ける。

 そもそも、分担だか順番だか当番だか知らないが、決めているのはこいつらだ。

 仮にそんな事があったとして、予想の範囲内なのだろう。

 ……ちなみに、首より下には四葉が残した痕がたくさんあるのだが、そっちはまずいだろうか。

 Tシャツを着ているためそこまでは見えないだろうが、一応用心しておこう。

 そして五月に目を戻すと、眉根を寄せて唇を引き結ぶ我慢の表情。

 声音は冷静だったが、内心はそうではないようだ。

 

「ううううう……」

「……」

「ううううううう……」

「い、五月? 二乃からのメッセージの件はどうなったんだよ」

「……はっ、そうでした!」

 

 その上唸り声まで漏れ出してきたので、軌道修正を図る。

 あまり触れたくない話題なのだが、致し方ない。

 このままそっちへ進んでいくことの方がまずい。

 昨日の四葉との戦いで、近藤さんが討ち死にしているのだ。

 

「上杉君、どうか私の弁護をお願いします!」

 

 立ち上がって頭を下げてくる五月に対して、多少の申し訳なさを感じてしまった。

 しかしながら、俺に出来ることがあるかといえば微妙な所だ。

 なんでかと言うと、二乃に話す過程で、情状酌量の余地がありそうな部分も伝えたからだ。

 二乃と五月の仲違いの件や、財布を忘れて家出した件についてだ、

 流石に前者に関してはあいつも言葉を濁らせていたが、その上で五つ子裁判なのだ。

 実際には何もなかったのだが、寝食を共にしたという事実が許しがたいのだろう。

 

「そ、そうです! 上杉君、デザートはいかがですか?」

「なんだ藪から棒に」

 

 中々首を縦に振らない俺を懐柔するためか、五月がそんなことを言いだした。

 確かに物足りない昼食だったが、こんな事で靡くと思われては困る。

 五月自身がそうやって懐柔されてる立場なので、何か勘違いしているのかもしれない。

 まぁ、正直金銭にだったら靡かない自信はないが。

 最近は中野姉妹との(性的な)付き合いがあったり、その他にも何かと入用なのだ。

 受験勉強もあるというのに、悩ましい限りだった。

 

「わわわ私の自前のプリン……い、いかがでしょうかっ」

「……は?」

 

 一瞬何を言っているのかがわからなかった。

 五月は自分の胸を、両手で下から掬い上げるように強調していた。

 もしかしてこいつは、自分を食べろなどと言い出すつもりだろうか。

 顔は火を噴くんじゃないかと危ぶむほど真っ赤だし、テンパって目もぐるぐるしていた。

 無理をしているのが見え見えだった。

 人の振り見て我が振り直せと言うように、自分が怒ろうとした時にもっと激怒している人がいると、かえって冷静になるものだ。

 誘惑しようとしているのはわかるが、仕掛けてくる側がそんなに取り乱していては逆効果だ。

 おかげでこっちはすっかり落ち着いてしまった。

 迫ってくる五月の肩に宥めるように手を置いて、やんわりと首を横に振る。

 

「五月、お前に色仕掛けは無理だ。諦めろ」

「そんなこと言わずに! 大きさも柔らかさも姉妹一の自慢の一品ですからっ!」

「いいから落ち着け、このっ」

「むぐぐ……!」

 

 五月は、他の姉妹に聞かれたら吊るし上げられそうなことを叫んでいた。

 屋外というロケーションは遮蔽物がなく開放的だ。

 開けっぴろげ過ぎて、この大声がどこに届くかわかったもんじゃない。

 なので、とりあえず口を塞いで黙ってもらうことにした。

 さて、次はどうしたものか。

 涙目で睨んでくるこいつが、手を離した瞬間に噛み付いてこないとも限らない。

 五月は余計な感情さえ入らなければ、比較的言う事を聞く方だ。

 つまり、説得をしようにも落ち着かせなければ始まらない。

 この状況で何をすれば冷静になってくれるだろうか。

 残念ながら妙案は思い浮かばなかった。

 ただ、捨て身の策なら一つだけ。

 

「ちょっ――う、上杉君!?」

「なんだ、こうして欲しいんじゃなかったのかよ」

「だけど、こんないきなりだなんて――んむっ」

 

 本人が言うところの自前のプリンを、服越しではなく直に味わう。

 その自己申告に間違いはなく、柔らかさと重量感だったら確かに一番だ。

 姉妹間でそこまで大差があるわけではないが、何度も触っていると違いがわかる。

 そしてついでに、やっぱりうるさいので口も塞いでおいた。

 カスタードとカラメルソースの味――こいつ、しっかりデザートまで平らげてやがったか。

 普段よりも執拗に、激しく責め立てる。

 今の俺が我を忘れていると見せかけなければならない。

 こっちが暴走していると思い知れば、こいつもいくらか冷静になるだろう。

 そう、人の振り見て我が振り直せ、というやつだ。

 この作戦の重要なポイントは一つ。

 それは、俺が本当に暴走してしまわないことだ。

 スイッチが入りきってしまえば、最早自分で自分を止める自信がない。

 新選組局長不在の今では、それは余りにも危険なのだ。

 

「~~~~~っ」

 

 合わせた唇の隙間から漏れ出た声が、一際高くなる。

 同時に、若干の抵抗を見せていた五月の体が脱力した。

 これで多少は落ち着くだろう。

 

「大丈夫か、いつき――」

 

 力の抜けた五月を座らせようと屈もうとして、そのまま前のめりに倒れてしまった。

 どうにか下敷きにしないように手をついたが、起き上がることができない。

 慣れ親しんだ重量感が首から伝わってくる。

 目の前の真面目馬鹿の目の色は、すっかり変わっていた。

 状況が見えればなんてことはなく、こうして俺を引き倒したのはこいつだったというだけだ。

 自分の我慢を考えるあまり、もう一つの重要なポイントが頭から抜け落ちていた。

 それは、五月が冷静になるどころかもっと暴走する可能性だ。

 真面目なこいつのことだから学校では自重するかと思ったが、そんなことはないようだ。

 いや、そもそも自前のプリンとか言い出した時点で、頭が茹だってたのかもしれない。

 

「こ、このままだと起き上がれないんだが」

「こんなこと、イケないってわかっているのに……」

「だよなっ、なら続きは後日ってことで……!」

「全部全部、君が悪いんだから」

 

 引き寄せようとしてくる力に対抗するが、俺が下がらなければ五月の体が持ち上がるだけ。

 唇が再び重なり、俺の腕から抵抗の意思が削がれた。

 二人分の体重を支えていた柱がなくなり、再び体は重力に従い引き戻された。

 地面に打ち付けないよう、五月の後頭部と背中に手を回す。

 抱き合うような格好になったのは、きっと気のせいだ。

 間近に迫った目が嬉しそうに細められたのを見て、不覚にも胸が高鳴ってしまった。

 活発になった心臓の動きに乗じた血の巡りの影響か、体が熱くなってきた。

 このままでは、こちらのスイッチが完全に入るのも時間の問題だ。

 しかし、これ以上踏み込めない理由がある。

 身を切られるような思いだが、ここはお預けにするしかない。

 

「……悪いが、今は避妊具がないんだ。だからまた今度に――」

「大丈夫。こんなこともあると思って……」

 

 五月はそう言うと、スカートのポケットを探り始めた。

 まさか、こいつも一花や二乃のように近藤さんを持ち歩いているのか?

 そうなると無理に断る理由がなくなる。

 その事が残念なわけはなく、むしろ期待に体が更に熱くなった。

 しかしポケットから出てきたものは、俺の予想の上を行くものだった。

 PTPシート……錠剤を保管するための包装だ。

 しかし俺が知っているものより内容量が多く、ざっと30錠近くの収納だ。

 既に半分近く使用済みで、その分は空になっていた。

 これは一体なんなのか……こちらが考えるよりも先に、五月が答えを口にした。

 

「避妊薬、飲んでるの」

「え……は? ひ、避妊薬?」

 

 中々言葉を受け止めきれず、オウム返ししてしまう。

 すると五月は、はにかみながら俺の手を取った。

 

「君といつでも出来るように、準備してるんだから」

 

 俺の精神に、ガツンと鈍器で殴られたような衝撃が走った。

 衝動をなんとか抑え込んでいた自制心の鎖が、激しく揺さぶられる。

 喉がカラカラに渇いてしかたない。

 それを潤すために取るべき行動は、分かりきっていた。

 

「ずっとずっと、君と直に触れ合いたかったの」

 

 掴まれた手がスカートの中へ導かれる。

 そしてどこか柔らかくて濡れた場所に触れ、小さく水音が鳴った。

 

「だから……いっぱいいっぱい、召し上がって……ね?」

 

 自分の頭の中で、何かが切れる音がした。

 結果から言うと、俺は五月の色仕掛けに見事に引っかかったのだった。

 

 

 

 

 

「はーい、これで今日の撮影は終了だね」

「そうか……お疲れさん」

「って、ちょっと待ってよ。なんで私が取り仕切ってるのさ」

 

 俺に代わって監督に就任した一花が突っ込んできた。

 今日は自主制作映画の撮影日だ。

 だというのに、俺は一花に課題を与えるのが精一杯で、こうしてダウンしている。

 疲労を抱えた体を引きずってこのホテルまでやってきたのだが、この有様だ。

 

「すまん、連日の疲れがな……」

「頑張ってるのはわかるけど、無理して体壊したら元も子もないんだよ?」

「わかってる……これでも自重はしてるつもりなんだ」

「ほら、こっち来て休みなよ」

 

 ベッドの上に座り込んだ一花が、自分の太ももを軽く叩いて示した。

 誘いのままそこに頭を乗せる。

 柔らかく弾力のある感触と、ふんわりと漂う一花自身の匂い。

 まるで包まれているかのような安心感。

 下手をするとこのまま眠ってしまいそうだった。

 

「そんなに疲れてるんだったらさ、ちょっと休んでいったら?」

「今寝たら帰れなくなるだろ……ふわぁ」

「アクビしてるじゃん。もう泊まっていきなよ」

「そういうわけにもいかねーだろ。お前だって明日早いんじゃないのか?」

 

 このホテルに泊まるとなれば、ほぼ間違いなく体力を消耗させられる。

 明日も学校があるため、それは避けたいところだった。

 

「んー、純粋に休んだらどうかなって言ってるんだけどね」

「……もちろんわかってたぞ?」

「あはは、フータロー君は誤魔化すの下手だよねぇ」

「逆にお前は上手すぎんだよ。この大嘘つきめ」

「やだなぁ、演技って言ってよ。私、女優だよ?」

 

 抗議のつもりなのか、一花が頬を抓ってきた。

 しかし力は弱く痛みはない。

 そうやってしばらく俺の頬肉を弄んでいたが、次第に頭を撫でる方へシフトした。

 その優しい手つきが、また睡魔を助長させる。

 半開きの視界の中で、一花は穏やかな笑みを浮かべていた。

 

「四葉から聞いたよ、裁判じゃ大立ち回りだったんだって?」

「結局最後は吊るし上げられたけどな」

「なにそれ面白そう。ちょっとお姉さんに話してみてよ」

「野次馬根性丸出しかよ」

 

 どこまで聞いたのかはわからないが、この様子だとほんのさわりだけだろう。

 眠気覚ましがてら、膝枕のサービス代としてはちょうどいい。

 五つ子裁判には巻き込まれたくなかったが、そもそも今日は家庭教師の日だった。

 なので、俺は弁護側に回って速攻で終わらせにかかった。

 五月サイドに付いたことに二乃は抗議してきたが、そこは色仕掛けに引っかかった手前がある。

 もっとも、やった事としては弁護するというより、原告を攻撃したようなものだ。

 攻撃材料は今朝の件。

 確認した所によると、姉妹が分担しているのは平日の昼休みだけらしい。

 こちらの勉強時間を考えたのか、朝と放課後は自重することになっているそうだ。

 つまり今朝二乃が押しかけてきた件は、立派なレギュレーション違反に当たる。

 事前にうちに連絡を寄越したという証拠もしっかりとある。

 昨日の四葉の件は……まぁ、俺から誘ったようなものなので例外だろう。

 ちなみに、登校する際に偶然一緒になる程度ならセーフらしい。

 昨日の朝は一花と一緒だったが、それはあくまでも『偶然』だ。

 実際には偶然というよりも蓋然なのだが、少なくともこいつはそう主張するだろう。

 他の姉妹は一緒に登校することが多いだろうから、それ自体が互いへの監視になっている。

 そんな中で一人だけライフスタイルが違うこいつは、そんな立ち回りが出来るわけだ。

 何というか、時折二乃が女狐呼ばわりしているのにも納得だ。、

 ……話を戻すが、俺は二乃のレギュレーション違反と相殺する形で裁判を終わらせようとした。

 ようとした……のだが、真面目馬鹿がうっかり口を滑らせて昼間の事が明るみに出てしまった。

 そうなると静観していた三玖が騒ぎだし、その場で予約の遂行を求めてくる始末。

 そして四葉は不自然に大人しいのが逆に疑惑を招き、昨日の件もあっさりとバレてしまった。

 その後はカオスが極まって、最早裁判どころではなかった。

 最終的には一致団結して、何故か俺が悪いとの結論に至ったわけだが。

 まぁ、そもそもの話をするなら、こんな関係になった落ち度は間違いなく俺にある。

 幸か不幸か、俺に対する判決が下る前に中野父が帰宅し、状況は沈静化した。

 結果、雇い主に見張られながら仕事をするという、胃に悪い事態になったのだが……

 授業参観の際の教師の心境がよく理解できた一件だった。

 

「えらいえらい、フータロー君はよく頑張ったよ」

「……ガキ扱いすんな」

「そう? ならやーめた」

 

 一花はあっさりとこちらの頭を撫でるのをやめた。

 それどころか太ももという枕も取り上げられ、頭がベッドに着地する。

 もしかして、機嫌を損ねてしまったのだろうか。

 目元を手で覆い、どう宥めたものか考えようとして、不意に腰のあたりに重みがかかる。

 手を退けると、俺の上に一花が跨っていた。

 

「子供扱いが嫌なら、大人扱いしちゃおうかな」

「おい、どういうつもりだ」

「やだなぁ、言わなくてもわかるよね?」

 

 表情こそ笑顔だが、これは裏に確実に何かある。

 その答え合わせをするように、一花はムスッとした顔で俺の胸に手をついた。

 どうやら不満を隠す気はないようだ。

 

「あのさ、他のみんなとイチャイチャしてましたーって話聞いて、我慢していられると思う?」

「あ、明日は学校があるんだが」

「うん、私も朝から撮影があるんだ」

「じゃあ、今日のところは……」

「そうだね、寝坊しないように二人で頑張ろっか」

「い、一花……待て――」

「待ちませーん」

 

 制止も虚しく、唇を塞がれて眠気も理性もどこかへ飛んでいった。

 明日の朝の寝不足が確定した瞬間だった。

 余談だが、らいはにはきっちりと朝帰りを叱られてしまった。

 

 

 




というわけで終了。
裁判に関しては長くなりそうなので割愛しました。

次女に分量割き過ぎたかなと思って五女を少し抑えようと思ったら、それ以上に増えてしまいました。
ソフト&ウェットとはいやらしさ全開でしたね。
これ以上はR18の壁が立ちはだかっているため無理です。
そして軽い気持ちでオチに置いた長女が強いこと……

ちなみにフレンチトーストはアメリカのフレンチさんが開発しただけで、フランスとは関係ないらしいです。

次はもうちょっと早く投稿したいところです。
出来れば一周年を迎える前に終わらせたい……


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一つの約束

リアルが立て込んでて投稿が遅れました……という言い訳。
むしろこれからの方が忙しくなりそう……という予防線。

そろそろ締めに入ろうかと思います。


 

 

 

「いやぁ、すっかり真っ白だね」

 

 制服の上にコートを着込んだ一花が、空を見上げて白い息を吐いた。

 通学路には数センチほど雪が積もっている。

 多少チラつくことはあっても、このあたりでの積雪は珍しい。

 しかし今は一月の半ばを過ぎた頃――所謂センター試験が終わって間もない。

 受験生に追い討ちをかけるかのように、丁度この時期は全国的に天気が悪い。

 今となっては最早落ち着いたものだが、その影響が積雪という形で残っていた。

 

「むむむむ……」

 

 マフラーに口元を埋めながら唸っているのは五月だ。

 いつものように不安や不満を示すものではなく、そこには逡巡があった。

 手に持ったプリントを穴が空くほどに見つめていた。

 

「五月ちゃん、やっぱ結果悪かったの?」

「う~ん……どうなんだろ? 二乃はなんか聞いてる?」

「悪いというか、微妙だったみたいよ」

 

 センター試験後の登校日は、みんな揃って自己採点である。

 その結果を見て、最終的にどの学校に出願するのかを決めるのだが……五月はC判定。

 頑張れば志望校への合格に手が届くかもしれない、という微妙な判定だ。

 これより良い結果だったら迷わず出願するし、逆に悪かったらランクを落とす踏ん切りもつく。

 判定は近年の試験結果を反映した予測に過ぎないが、それでもある程度の信頼性はある。

 どっちつかずというのは、本当に判断に困るのだ。

 

「結局、まともに受験するのは五月だけになっちゃったね」

「私たちは一足先に合格しちゃったしねー」

 

 五月を気遣う三玖に対して、二乃は肩をすくめた。

 この二人は冬休み前に、既に専門学校の受験を終わらせている。

 進路があやふやだった二乃だったが、とりあえずという形で三玖に付き添うことを決めた。

 一人にしたらどうなるかわかったものじゃないという主張だったが、そこはいつものアレだ。

 他の姉妹からの生温かい視線に鼻を鳴らした二乃だったが、その次の言葉が空気を一変させた。

 

『ま、将来の夢はフー君のとこに永久就職一択だけど』

 

 その後に起こったことは語るまでもないだろう。

 些細な姉妹喧嘩はいつものことなのだ。

 

「あはは……受かったのは嬉しいけど、やっぱりちょっと五月に申し訳ないね」

 

 プリントとにらめっこしながら唸る五月を横目に、四葉が苦笑しながら呟いた。

 受験は推薦により、姉二人と同様に二学期中に終わっている。

 その際の基礎学力を測る試験がまた四葉にとっては厳しかったのだが、そこは無事に風太郎とのマンツーマン授業によって切り抜けることができた。

 その授業がこれまた地獄だったのだが、風太郎も別の意味で地獄を見ているのでお相子だろう。

 別の見方をすれば天国と言えるのかもしれないが、毎回命の危機に瀕しているということを考えれば、どちらも大差ないとも言える。

 新選組局長の討ち死にという事態は、尋常ではないのだ。

 

「これで後は学年末試験だけだね」

「「うっ……」」

 

 三玖の言葉に、二乃と四葉が顔をしかめた。

 受験が終わってもまだ試験が残っているというのは、やはり気が重いものなのだ。

 なにしろそこで躓けば台無しなのだから、まだまだ気は抜けない。

 卒業するために切り抜けなければいけないのは五月も同じだが、今は受験で手一杯だ。

 しかしこの話題において、中野姉妹の中で一番気を揉んでいるのはまた別にいる。

 

「正直学年末試験とかさ、やる意味あるのかな?」

 

 そう言った一花の表情はにこやかだったが、決して目は笑っていなかった。

 休学で二学期の授業と試験を丸々スキップしているので、どこかでその補完をする必要がある。

 そこで学校側が特例措置として用意したのが、卒業式後に執り行われる試験だ。

 一花にとっては、正真正銘の卒業試験である。

 

「なんかさ、やるんだったら片方だけでいいよね? わざわざ両方やる必要、ないよね?」

 

 勿論定期試験には、授業内容が身に付いているかを確かめるという目的がある。

 それが学年末のものとなれば、一年の総括として範囲も広くなる。

 その反面浚う内容も浅くなるため、一花が受ける卒業試験は二学期の授業内容が主となる。

 もっと復学が遅ければ試験も卒業式後の一回で済んだかもしれないが、幸か不幸か長期ロケの撮影は年末に終了している。

 足りない出席日数の補填という意味合いもあるため、避けることはできないのだ。

 

「あわわ……どうしよ、一花がなんか闇っぽいオーラ出してる……!」

「自業自得よ。手は出さないで見守っときなさい」

「放っておけとは言わないんだ」

「どうせ言ったって無駄でしょ」

 

 二乃の言う通り、そっとしておく事はあっても、放っておく事はありえないだろう。

 こうして三人は、唸る五月と闇を背負った一花を見守りながら登校するのだった。

 

 

 

 

 

「ふ、ふふふ……ついにこの時が来たね」

 

 登校直後の朝の時間帯。

 中野姉妹に軽く挨拶を済ませて席に着くと、武田が前歯を光らせながら俺の目の前に立った。

 またかと思いつつ、目で続きを促す。

 

「上杉君! センター試験の点数で勝負と行こうじゃないか!」

 

 つまりはいつもの事だった。

 春の全国模試以来、武田はなにか試験がある度にこうして勝負をふっかけてくる。

 毎度毎度撃退してやっているというのに、本当に懲りないやつだ。

 これでは呆れてつい口元が歪んでしまうのも仕方がない。

 

「君もこの瞬間を心待ちにしてくれていたようで、何よりだよ」

「勝手に決めんな。めんどくせーってだけだ」

「ふっ……照れなくてもいいじゃないか」

「うるせー、おらよ」

 

 パーフェクトスコアを叩きつけると、武田はその場にくずおれた。

 せっかくクラスメイトの関心が復学してきた一花に向いているというのに、こいつがこんなことをしていると余計に注目を集めるので勘弁してもらいたい。

 まぁ、残念ながら青春クソ野郎という呼び名は全然廃れていないので、俺自身が悪目立ちしているという可能性も無きにしも非ずだが。

 他の生徒はともかく、同じクラス内の視線が生温かくなっているのは救いか。

 いや、よく考えたらジワジワとダメージ来るやつだな、これ。

 

「恐れ入ったよ……いや、これは当然の結果なのかもしれないね」

 

 しみじみとした表情で、武田が手に持ったプリントを机の上に置いた。

 そこにはセンター試験の自己採点の結果と、志望校の判定が記されている。

 満点が数科目、そして合計点は九割といったところか。

 判定も文句なしのAだった。

 恐らくだが、俺がいなければ堂々のトップだっただろう。

 負けるつもりは更々なかったが、油断をしていたら追い抜かれていた可能性もある。

 俺が勉強をするのは言うまでもなく自分の将来のためだが、こういうやつの存在もまた原動力になっているのかもしれない。

 

『君がまだ僕の上にいてくれる――こんなに嬉しいことはないよ』

『それでも、あなたは私の目標なんです』

 

 立場が人を作るとは、どこの誰の言葉だったろうか。

 誰かの期待に応えたいとかそういうわけではないが、俺にも意地がある。

 少なくとも、自分を見上げてくるやつらの前で、無様を晒すわけにはいかないのだ。

 

「うげっ、オメーらそこまで行くと逆に気持ち悪ぃわ」

 

 横から俺と武田の自己採点結果を覗いてきた前田が、舌を出して顔をしかめた。

 たしかに、凡人には少々刺激が強かったかもしれない。

 俺が多額のお金を持つと手汗がすごく出るように、どうしようもない条件反射なのだろう。

 

「つーか上杉、志望校が空欄だがどーだったんだよコラ」

「……満点ならどこも同じだろ」

「それもそうだ。君だったらSはおろかSS……SSS判定も夢じゃないさ!」

「んだそのスタイリッシュな判定は」

 

 前田の言うスタイリッシュはともかくとして、大学入試の判定はAで打ち止めだ。

 そして俺の欄が空なのには理由がある。

 そう、単純に受験先を決めあぐねているのだ。

 担任からもいい加減に決めろとどやされている。

 出願の期限は実際に迫っているので、たしかに余裕はない。

 どこにでも行けると太鼓判を押されているが、それがかえって二の足を踏ませている。

 これが贅沢な悩みなのはわかっているのだが……

 

「余計な世話かもしれねーが、話ぐらいなら聞いてやってもいいぜ」

「なに、僕達の仲だ。気兼ねすることはないよ」

 

 前田の言うように余計な世話なのかもしれないが、突っぱねる気は起きなかった。

 その程度には、こいつらに俺は気を許しているらしい。

 

「まぁ、でも君なら最後にはどうにかすると信じているよ」

「だな」

「お前ら……」

 

 二人の眼差しがいやに心に沁みる。

 全く、勘弁して欲しい。

 最近はこういうのにめっきり弱くなってしまった。

 

「今でも目を閉じれば思い浮かぶよ……彼女達への愛を叫ぶ君の姿が!」

「この青春クソ野郎がよ!」

 

 こいつら……マジでどうしてくれようか。

 後夜祭のことを掘り返してくるのは万死に値するが、そればかりを気にしてもいられない。

 クラスメイトの生温かい視線に混じって、一際温度の高いものが多分五つ。

 答えなんて確認するまでもない。

 あまり揺り動かすと、後でどんな反応が来るかわかったもんじゃない。

 それがもし五人同時に重なった日には、それが俺の命日になりかねない。

 後夜祭の後の大乱闘は、十分以上に教訓になっていた。

 俺自身の想いがどれだけ強くとも、体がついていけるとは限らないのだ。

 なので、今朝は机に突っ伏してやり過ごすことにした。

 その後程なくしてホームルームが始まったのは、幸いといえば幸いか。

 

 

 

 

 

「是非っ、私にもマンツーマン授業をお願いします!」

 

 昼休みの学食、いつもの席で五月がそう切り出した。

 トレイの上にはカツカレーが、しかもロースの方なので値段もそれなりだ。

 まだまだ節約する必要があるので、俺はいつものアレだ。

 同じテーブルの上だというのに、相変わらず食事の格差が酷かった。

 今日はこいつの番ということで、他の姉妹の姿はない。

 ちなみに、一花が復学したので俺の自由日は消滅している。

 月火水木金と、中野姉妹それぞれとマンツーマンの昼食である。

 事情を知らない奴からしたら、毎日女を取っ替え引っ替えしているように見えるだろうか。

 事実としてその通りなので、残念ながら否定できる要素は見当たらなかった。

 どうやら青春クソ野郎という呼び名は伊達ではないようだ……やっぱ辛ぇわ。

 

「つっても、センター前だってほぼそんな感じだったと思うが」

 

 冬休みからセンター試験に至るまで、家庭教師としての時間はほぼ五月に費やしていた。

 他の姉妹も学校の試験が後に控えているのだが、こいつの方がより喫緊だったからだ。

 進学しない一花や既に受験を終えた三人と違い、五月はこれからが正念場だ。

 必然的に、勉強を見るという意味では優先順位が高くなる。

 

「今までよりも密にお願いします!」

 

 とはいえ、五月は予備校にも通っている。

 となると俺の仕事はその穴埋めのような形になるし、実際そうだった。

 それを改めて密にと言うのなら、さらにどこかで時間を取る必要がある。

 幸い二月からは自由登校になるので、多少の融通は効くだろうか。

 しなければいけない事といえば……他の姉妹の学力を落とさないために適当な課題を与える。

 特に二度試験が控えている一花には念入りにだ。

 勿論自分自身の勉強もしなければならない。

 中野姉妹の面倒を見るのに腐心して転んでしまっては元も子もない。

 そして相変わらずな経済状況なので、バイトにも精を出す必要がある。

 ……よくよく考えたらかなり忙しそうだが、まぁなんとかなるだろう。

 好きな女達のために負う苦労ならば、やってやれない事はない。

 いや、結局は自分のためか。

 だってこれは自己満足なのだから。

 

「お前がそうしたいなら、俺に断る理由はねーよ」

「ありがとうございます!」

「つーか、あれだ。そこまでやらせといて落ちたら承知しないからな」

「望むところですっ」

 

 念の為に少々圧をかけてみたが、こいつなら心配ないだろう。

 自分の夢のために直向きに頑張る純粋さは、この俺も認めるところだからだ。

 

「と、ところで……マンツーマン授業の後はご褒美がもらえると聞いたのですが……」

 

 もじもじしながら上目遣いでこちらを伺う五月の頬は、何らかの期待からか薄赤い。

 マンツーマン授業で思い浮かぶのは、一花と四葉だ。

 それぞれ背景に違いはあれど、二人きりで勉強を見てやったのは確かだ。

 そしてこいつの様子から、その後の行為についても把握していると見るべきだろう。

 それが目的ではなかったのだが、結果的にそうなってしまったという事実も確かにある。

 つまり、動機は思いっきり不純だった。

 

「いたっ……ううぅ~~!」

 

 とりあえずチョップを落としておく。

 その後涙目で唸りながら睨みつけてきたため、食後のキスで黙らせておいた。

 カレー味でムードもクソもない。

 こんな場所でとか、口ではあれこれ言いつつも五月の機嫌は回復した。

 多少の人目は引いたが、青春クソ野郎に怖いものなどないのだ。

 別の言い方をすれば、ヤケっぱちというやつだ。

 

 

 

 

 

「う~む……」

「お兄ちゃーん?」

「う~~む……」

「ごーはーんー!」

 

 カンカンとフライパンを叩く音で、意識が目の前のプリントから引き戻される。

 気づけば部屋の中には美味しそうな匂いが漂っていた。

 台所には、ソース色の麺が山盛りの大皿。

 そういえばと、らいはが焼きそば用の麺が安く手に入ったと喜んでいたのを思い出す。

 我が妹はこの年にして、主婦として必要な能力をすっかり獲得していた。

 その事が涙ぐましくもあり、同時に誇らしくもある。

 いつ嫁に出しても恥ずかしくない、自慢の妹だ。

 もっとも、俺の目が黒いうちはそんな事態を許すつもりはない。

 しかし、らいはが相手のことを心の底から好きだというのならば……

 

「――やっぱり駄目だ! 俺は認めないからな!」

「いいからお皿運んで」

「あっ、はい」

 

 泣く子と地頭には勝てないと言うが、俺の場合は妹にも勝てない。

 兄の威厳が危ぶまれる事態である。

 

「今日はちょっと遅いみたいだから、お父さんの分ちゃんと残しといてね」

「五月じゃあるまいし、そこまで食い意地張ってねーよ」

「んふふー」

「なんだよ」

「お兄ちゃんたちはいつ結婚するのかなーって」

 

 今日も今日とて我が妹はマセていた。

 中野姉妹の悪影響がしっかりと出ていた。

 それはそれとして、期待に目をキラキラさせるらいはは可愛かった。

 

「結婚って、いくらなんでも気が早すぎるだろ」

「えー? でももう籍は入れられるんだよね?」

 

 それはその通り。

 親の同意が必要だが、現状でも法律上の夫婦になることは可能だ。

 親父は恐らく反対しないだろうし、五月一人を選ぶというなら中野父も頷くかもしれない。

 何より、俺自身もあいつとそういう関係になることはやぶさかではない。

 しかしながら、今言ったように気が早い。

 もう籍を入れられるとは言うが、俺達はまだ働きに出てすらいない。

 俺の意地でしかないが、自立してもいないのにそれをする程、面の皮は厚くないつもりだ。

 そして困ったことに、俺がそうなりたいと思う相手はあと四人もいるのだ。

 少なくともこの国において、全てを叶えるのは不可能だ。

 今更ながら、中野父の諫言が重くのしかかる。

 好きな相手と結婚して家庭を作り子供を授かる。

 今の時代だと偏見と言われるかもしれないし、そもそも人が思い描く幸せの形はそれぞれだ。

 そこを敢えて、それらが人並みの幸せだと仮定しよう。、

 俺はそんな絵に描いたような幸せというやつを、叶えてやることができないのかもしれない。

 自分の選択に後悔はないし、あの五人を手放す気なんて微塵もない。

 それでも、あいつらを俺のわがままで振り回しているという自覚はあった。

 

「どしたの?」

「いや、幸せって何なんだろうなって」

「お腹一杯食べられること!」

「ごもっとも!」

「あと、お兄ちゃんが立派になってお嫁さんをもらうこと」

「その話はもうやめようぜ……」

 

 

 

 

 

「おーう、帰ったぞー」

「あ、おかえりー」

 

 勇也が帰ると、らいはが出迎えた。

 ドアを開けると、漂ってくるソースの匂いが食欲を刺激してくる。

 食卓の上には、ラップをかけられた大皿が鎮座していた。

 どうやら今日の夕食は焼きそばらしい。

 

「今温めるから、ちょっと待ってて」

「おう、悪いな」

 

 甲斐甲斐しい娘の姿に目を細めながら、勇也は無言で座り込んだ息子に目を向けた。

 別段、風太郎が父の帰宅に無反応なのは珍しいことではない。

 勉強に身が入りすぎて周りが見えなくなるのは、ままあることだった。

 しかし今は問題集や参考書を開いているわけでも、ノートを広げているわけでも、ましてやペンを握っているわけでもない。

 ただ手に持ったプリントを見つめ、難しい顔をしていた。

 

「全く、飯が不味くなりそうなツラしやがって」

「ん、ああ……帰ってたのか親父」

「勉強に夢中って様子じゃねぇな。また人間関係か?」

「いや……」

 

 ここで言う人間関係とはつまり、女性関係のことである。

 からかうように笑った勇也だが、風太郎の反応は鈍い。

 口には出していないが、それ以外の悩み事があると明言しているようなものである。

 ここ一年で思春期らしくなった息子に対して、それなりに関わってきたという自覚がある。

 これはまた自分の出番かと意気込むも、その前に湯気を立てる大皿がコトリと置かれた。

 

「いいからご飯食べちゃって。このままじゃ片付けられないでしょ」

 

 らいはの笑顔の威圧に、勇也はおとなしく従った。

 そして最近ますます母親に似てきたと、しみじみと頷くのだった。

 

 

 

 

 

「で、今日はどんな悩みだ?」

 

 遅めの夕食を終えた後、勇也は風太郎を外に連れ出した。

 幸いにして外の天気は良好、風もなくこの時期にしては過ごしやすい。

 残る問題は気温ぐらいなものだが、上杉家の男は風の子なのでへっちゃらなのだ。

 

「いや、普通に寒いんだが……」

 

 父はともかく、息子は鍛え方が足りないようだった。

 というわけで手近な喫茶店に入った二人は、共にコーヒーを注文した。

 最初は水だけで乗り切ろうとしたのだが、流石に店員の視線が冷たかったのでそれはやめた。

 閉店時間が近いのもあってか人が少なく、落ち着いて話すには丁度いい。

 風太郎はポケットから折りたたまれたプリントを取り出すと、テーブルの上に広げた。

 

「凄ぇじゃねえか。満点か、それ?」

「あくまでも自己採点だけどな」

 

 センター試験はマーク式であり、マークがミスと見なされれば、たとえ正答であっても誤答、もしくは無回答扱いである。

 なのであくまで自己採点は、マークミスがなければという但し書きが付く。

 その辺の事情は勇也にはよくわからないが、それでも満点が尋常ではないことはわかった。

 

「大したもんだが、なにか問題でもあるのか?」

「……実は、進路を決めあぐねてる」

「前に東京の大学に行くとは聞いた気がするが……」

 

 良い大学に入って、金を稼げる職に就く。

 勉強に没頭し始めた当初、風太郎はしきりにそんな事を口にしていた。

 当時は心配と期待をないまぜにして見守っていたが、果たして息子は今や高校生としてはトップの学力にまで登りつめた。

 学力という基準だけで見るなら、それこそどこへだって進学出来るだろう。

 しかし、それが学費の問題になると話は別だ。

 いくらかの備えはあるものの、好きな所に行けと言ってやれるだけの余裕はなかった。

 

「学費の問題か?」

 

 もっともそれは現状の話であって、もし風太郎が必要だと言うのなら、多少時間はかかってでも用立てるだけの覚悟はあった。

 しかし勇也の言葉は、首を横に振って否定された。

 身構えていただけに、肩透かしを食らった気分だった。

 

「別に学費が馬鹿高い所に行きたいわけじゃない。俺の志望は変わらず国公立だ」

「わからねーな。なら何が問題なんだ?」

「いや、単純にどこの学部にしようか迷ってる」

 

 同じ大学とは言っても、学部や学科の違いが将来の道筋に及ぼす影響も無視できない。

 当たり前の話だが、学部、学科、専攻していた内容と関連している職業にはより就職しやすい。

 大体の人間には得手不得手がある、それによって自分の進路を決めるものも少なくない。

 簡単に言えば、文系が得意なら文系の学部に、理系が得意なら理系の学部に、ということだ。

 しかしながら風太郎の成績には穴がない。

 どこにでも行けるという選択肢の多さが、かえって二の足を踏ませているようだ。

 勇也は贅沢な悩みだと思いつつも、それを口に出すことはしなかった。

 進路のことは、風太郎自身に任せきりだったという自覚があった。

 最終的に決めるのは本人だとしても、親として何か手助けできたのではないだろうか。

 大学進学の経験がない勇也ではあるが、それでも将来についての相談には乗れたはず。

 つくづく、息子の自主性に甘えていたのだと痛感していた。

 

「そういうのは自分の得意なものや、やりたい事から考えていくのが相場だが……」

「それがわからないから困ってるんだよ……」

 

 或いは、これも今時の若者として見るなら珍しくはないのかもしれない。

 明確な夢や目標を持たなくとも、なんとなくで乗り切っていく者もいるだろう。

 思えば、風太郎は金を稼ぐという目的が先行して、その具体的な内容はあやふやだった。

 翻せば、目的が達せられるならなんでもいいという事だったのかもしれない。

 それが今ではこうして進路に悩んでいる。

 それもセンター試験を終えて願書を出す直前の、このタイミングでだ。

 間違いなく余裕のない状況。

 しかし、勇也は自分の不甲斐なさを感じる一方で、息子の変化に喜んでもいた。

 これは間違いなく、中野姉妹と触れ合ったおかげだろう、と。

 女は男で変わるとよく言われるが、その逆もまた然り。

 

「何笑ってんだよ」

「いや、やっぱり男ってもんは単純極まりねぇなって」

「今そんな話してたか?」

「さて、どうだろうな」

 

 とはいえ、進学に関して勇也は門外漢だ。

 風太郎の悩みを受け止めるにあたり、不足する部分もあるだろう。

 なので差し当たって必要なのは、その道に長けた助っ人。

 勇也はコーヒーを飲み干すと、メッセージを送るために携帯を取り出すのだった。

 

 

 

 

 

「いやー、まさか上杉の息子の進路相談にも乗る日が来るなんてな!」

「おう、いっちょ揉んでやってくれや」

 

 所は打って変わってどこぞの居酒屋の個室。

 俺は親父を隣に、呼ばれてきた助っ人二人と対面して卓に着いていた。

 助っ人その1は、スーツ姿でメガネをかけたショートヘアの女性だ。

 その顔には見覚えがあった。

 確か学園祭で、無堂と対峙した場にいた人だ。

 言葉を交わしたことがないため、ただ単に親父の知り合い程度の認識しかない。

 

「私は下田ってもんだ。塾講師をやってる。嬢ちゃんから聞いてねーか?」

「お世話になってる塾講師の先生がいるとは」

「そう、それ私」

 

 五月から多くは聞いていないが、それにしたって想像から外れていた。

 なんというか、口の悪さが隠せてないという印象を覚えた。

 それに加えて目つきが悪……眼光も少々鋭い。

 あまり人の事を言えないというのは、ひとまず置いておこう。

 

「上杉とは高校時代につるんでたんだ。ちょいと口が悪いのは目をつぶってくれな」

「もしかして、五月の母親とも?」

「ご明察。しかし零奈先生の娘に上杉の息子……人生わかんねぇもんだな」

 

 しみじみと細められたその目は、やはり眼光の鋭さが目に付く。

 しかし親父の高校時代の知り合いと言われれば、それも納得だ。

 当時の親父はバリバリの不良。

 つるんでいたとなれば、この人も同じだったと考えるべきだろう。

 それが今や塾講師なのだから、本人の言う通り人生とはわからないものだ。

 ひょっとしたら、この人にも何か切っ掛けがあったのかもしれない。

 その先の生き方を変える出会いというのは、俺にも覚えがある。

 ぶっちゃけると共感を覚えるところもあり、ちょっとした柄の悪さも親しみを覚える一因だ。

 あの場にいたということは、俺と中野姉妹の関係も知っているはずなのだが、それで変な目を向けてこないのも正直ありがたかった。

 その隣に静かながらも威圧感を放つ存在がいるので、それも一入だ。

 

「んでマルオよ、お前はいつまで黙ってるんだよ」

「……さて、そもそも僕は何故呼ばれたのだろうね」

 

 親父に水を差し向けられてようやく口を開いた中野父が、助っ人その2である。

 心強いかどうかはともかくとして、人選的には謎である。

 そもそも親父が素直に呼んだところで、来そうにはない人なのだが……

 

「もちろんこいつの進路相談のためだが」

「娘達に関する重大事だと聞いたのだが」

 

 なんて事を言ってくれたんだ、この親父は……!

 協力を求めてくれたのはありがたいが、呼び出し方があんまりだった。

 抗議の視線を送るが、任せろと言わんばかりに親指を立てられた。

 中野姉妹を餌にした親父と、ロクに確認も取らずに飛んできたであろう中野父。

 下田さんの呆れるような視線は、果たしてどちらに向けられたものか。

 

「風太郎の事ともなれば、嬢ちゃん達にとっても他人事じゃねーだろうよ」

「馬鹿馬鹿しい、帰らせてもらおう」

「あーあー、もしこいつが受験に失敗したら、嬢ちゃん達はどう思うかねー?」

「上杉、貴様……!」

 

 喜々として煽る親父と、明らかに冷静さを失いつつある中野父。

 それぞれにいい加減にしろだとか、落ち着いてくださいだとか言いたいことはあった。

 しかし、今の俺は指をくわえて震えて見ているだけ。

 率直に言うと中野父が恐かった。

 

「そこまでにしとけ、二人とも。ガキの前でガキになってどーすんだよ」

「っと、それもそうか。悪い、ちょっと悪乗りが過ぎたな」

「呼びつけたんだから奢れよな、上杉」

「ガハハ、当然そのつもりだ!」

「だそうだ、院長先生。せっかくここまで来たんだ、話を聞くぐらいはいいんじゃねーか?」

「……そういえば、夕食がまだだったね」

 

 中野父は嘆息すると、メニュー表を手に取って開いた。

 ひとまずこの場に留まるつもりらしい。

 俺の心情的にはあまり楽ではないのだが、心強くはあるかもしれない。

 

「では、この特上海鮮丼と白子の天ぷらを」

「あ、これ見よがしに高いのを選びやがったなテメー」

 

 

 

 

 

「ふむふむ、なるほど……」

「ほう、これは……」

 

 下田さんと中野父が、俺の自己採点結果を覗き込む。

 柄にもなく緊張してしまうのは、曲がりなりにも自分のために動いてくれているからだろうか。

 

「なんつーか、この結果でそんな事言ってるのを聞いたら、うちの生徒が憤死しそうだな」

 

 憤死とは、憤慨のあまり死ぬことである。

 世界史を履修していると、時折出てくる言葉である。

 そのケースについてはいくつかパターンがあるが、その場でパッタリと倒れて死んでしまう……というのが一番わかりやすい例だろうか。

 それはきっと、怒りによる血圧の高まりがアレコレと悪さをした結果なのだろう。

 憤死という言葉に関する考察はともかくとして、概して受験生はセンシティブなのだという。

 自分で言うのもなんだが俺は例外として、五月でそこらへんの事情は十分に味わったつもりだ。

 だからまぁ、憤死は言い過ぎにしても、ブチギレるというのは恐らくその通りなのだろう。

 

「まぁ、実績が欲しい連中はここぞと難易度高いとこを勧めるだろーな」

「下田さんも同じ考えですか?」

「とりあえずな。学部学科に関しては、入ってから転籍するなりで修正の効く部分もあるからな」

 

 その転籍という制度については、寡聞にしてあまり知らない。

 恐らくだが、同じ大学内においてなら制限はつくものの、所属を変えられるのだろう。

 流石に塾講師ともなれば、進路についての話題に強いということか。

 

「しかしわからないね。本来なら、僕達よりも先に頼るべき相手がいるはずだと思うが」

 

 中野父の話は至極正論だった。

 本来ならば真っ先に担任に相談するところである。

 今までもそうする機会はあったはずなのだ。

 これはやはり、俺が成績を盾に干渉を避けてきたところが大きい。

 

「んな堅ぇこと言うな。風太郎は俺を頼って、そして俺がお前らを頼った。それだけだろ」

「ま、親を頼るのは自然なことだわな」

「それは大いに結構。しかし、この段階に至っては出来ることが限られているのも確かだ」

 

 その言葉を噛み砕くなら、相談するならもっと早くしなさい、といったところだろう。

 これに関しては、担任に相談してもほぼ同じことを言われてしまうだろう。

 中野父の視線は冷たさこそないものの、呆れの成分は多分に感じられた。

 

「そりゃあ院長先生の言う通りだ。これで成績が悪いなら口の出しようもあるが、満点ときた」

「そこは塾講師の手腕でどうにかならねぇのか?」

「つっても、うちらのメインの仕事は勉強を教えることだしな」

「やりたい事がわからない……そういう生徒は、僕が高校生の時分にも少なからずいたね」

「そうしみじみと語られると、俺らも年食ったなって感じがしねぇか?」

「それを独身の私の前で言うお前は、ノンデリの化身かよ」

 

 どうやらミスターノーデリカシーの不名誉は、父親側の遺伝によるものだったらしい。

 今までの中野姉妹の冷たい視線の半分は、親父のせいだったということにしておこう。

 にわかに浮つき始めた空気に、中野父が眉間のしわを揉みほぐしていた。

 高校生だった時も、こうやって二人に振り回されていたのかもしれない。

 俺としては共感を覚えるところである。

 しかしこの人にも、ファンクラブの会長を勤めていたという過去がある。

 そんな剛の者が、ただただやられていたわけではないというのは、容易に想像できた。

 

「時に上杉君、君は読書を嗜むのかい?」

「参考書や問題集なら熟読してます」

「それを読書と呼ぶのには、いささか抵抗があるね」

 

 とは言っても、そもそもうちには読書を嗜むための経済的余裕がない。

 図書館に行っても基本勉強なので、腰を据えて読書した経験は恐らくそれ程ない。

 一番記憶に新しいのは、三玖に対抗して戦国時代に関連した書籍を読みあさった時か。

 

「5W1Hというのはミステリーなどで頻出するものだが、君も聞いたことはあるだろう」

「英語の授業でなら」

 

 誰が、いつ、どこで、何を、何故、どのように……これらを指す英単語の頭文字の集まり。

 英文を構成したり読み解く上で引き合いに出される考え方だ。

 

「思うに、今の君に重要なのは『どこで』でも『何を』でもなく、もっと根本の部分だろうね」

 

 どこの大学で何を勉強するのかではなく、何故大学に行くのか。

 中野父が言っているのは、そういうことだろう。

 言うまでもなく、将来稼げるようになるためだ。

 しかし、さらにその理由まで問うのなら……

 

「俺は――」

 

 家族に楽をさせてやりたいという思いは変わらない。

 誰かに必要とされる人間でありたいし、親父に対する憧れも相変わらずある。

 しかし、その上で更に上乗せするものがあるとしたら――

 

「俺は、あいつらを養えるだけの収入が欲しい……!」

 

 世の中は大体金だ。

 将来一緒にいたいというのなら、そう出来るだけの収入がないと話にならない。

 それを自分一人の力で稼ぐというのは、前時代的な考えと言われてしまうかもしれない。

 しかし、それが俺が自分に課す最低限のラインだ。

 

「一つ言っておくが」

「はい」

「僕はまだ、君達の仲を認めたわけではない」

「は、はい……」

 

 途端に増した威圧感に、冷や汗が流れる。

 つい勢いで言ってしまったが、この場においてはそれこそセンシティブな話題だ。

 席を立つと、中野父は個室の出口へ。

 機嫌を損ねてしまったのだろうか。

 

「わかっているとは思うが、時間はあまり残されていない。せいぜい自己分析に励むといい」

 

 言葉には少しトゲがあった。

 何というか、端々から好意的ではないオーラがにじみ出ている気がした。

 それが残念である一方、納得は確かにあった。

 何故なら、らいはがもし彼氏を連れてきたら、俺もそいつに喧嘩を売る自信があるからだ。

 

「その上で医学の道を志すなら、微力ながら力になろう」

「決して楽な道ではない。しかし、君ほどの意地の持ち主なら、きっとやり遂げるだろう」

 

 振り返らずにそう言い残して、中野父は去っていった。

 言葉の温度差で、まだ何を言われたのか把握しきれていない。

 なにか、今までからは考えられないような事を言われたような気もする。

 

「こりゃ驚いた。随分認められてんな、お前の息子」

「へっ、マルオの野郎め、普段からそうやって素直に喋ればいいのによ」

 

 この二人の言うことはともかくとして、ここは好意的に声援を送られたと解釈しよう。

 

「そんじゃま、私もここいらで退散するとしますかね」

「悪ぃな、急に呼び出しちまって」

「たまには悪くねぇさ。それこそプチ同窓会ってやつだな」

「今日はありがとうございました」

「つっても、大したことは言っちゃいねぇが。ま、賑やかしみたいなもんだったな」

 

 カラカラと笑うと、下田さんも立ち上がって出口の方へ。

 そして去る前にこちらを振り返った。

 

「もし興味があんなら、教職もおススメだ。話を聞く限り、そっちも相当なもんらしいからな」

「もしかして五月に?」

「はは……スッゲー惚気けられてる」

「……なんか、すいません」

「まぁ、せいぜい悩んで頑張んなよ、色男!」

 

 こうして助っ人達は去っていった。

 色々と話を聞いてもらったが、実のところ状況は変わっていない。

 相変わらず道は定まらないままだ。

 しかし、俺の心境はどうだろうか。

 刻限が迫りつつあるというのに、焦りが少し薄らいだような気がした。

 

「風太郎、俺達もそろそろ出るか。らいはに留守番させちまってるからな」

「ああ。せっかくだし、なんかお土産買ってこーぜ」

 

 

 

 

 

「寒っ」

 

 屋内の暖かさに慣れると、外に出た時の寒さが辛い。

 風はないが、少し雪がチラついていた。

 この分だと積もりはしないが、視覚的には寒々しい。

 

「ガハハ! お前もまだまだだな、風太郎!」

「うるせー、てか俺より薄着なのになんで平気なんだよ」

「そこは鍛え方だな。四葉ちゃんもそういうとこあるだろ」

「あいつは何というか……もう別の生き物だよ」

 

 それほどまでに、あいつは体力のパラメーターが振り切っている。

 それは学園祭の最終日から今日に至るまで、身をもってたっぷりとわからせられてきた事だ。

 小手先の技術ではどうしようもない事があるのだと、まざまざと思い知らされた。

 

「お前、仮にも付き合ってるのにその言い草はどうなんだ?」

「それこそ余計なお世話だぜ」

「……しかし、東京か。つーことは、お前も家を出てくわけだ」

「なんだよ、改まって」

「男はいつか親元を離れるもんだと思ってたが……中々に寂しいもんだ」

「……気持ち悪ぃんだが」

「まぁ、そう言うな」

 

 本当に、こういうのはやめてほしい。

 いつもカラッとしている親父がこれでは、俺も湿っぽくならざるを得ない。

 

「離れて暮らすようになったら、こういうのを伝える機会も減っちまうからな」

「だとしても気が早すぎだろ。まだ試験を受けてすらいないってのに」

「だがお前が受けるとなれば、もう受かったも同然だろ」

「だから気が早いっての。まぁ、落ちるつもりはないが」

 

 親父は不敵に笑ってみせた俺の頭に手を伸ばそうとして、胸元を拳で軽く叩いてきた。

 どうやら、いつもの子供扱いとは少し違うようだ。

 

「お前も伝えたいことがあったら、しっかり伝えとけよ」

「……わかってるよ」

「ならいい」

 

 あいつらに伝えたいことを伝えるために、俺は一つの決意を固めた。

 

 

 

 

 

「ただいまぁ……」

 

 疲労を滲ませながら、一花が帰宅した。

 長期ロケは終わっても、次から次へと仕事が舞い込んでくる。

 なんとか卒業試験は切り抜けたものの、普通に忙しかった。

 今日は朝が早かったため夕方前の帰宅となったが、いつもならもう少し遅い。

 

「「「「…………」」」」

 

 しかしながら、リビングの空気は沈み込んでいた。

 心配しつつも、一花はどうしたのと問うことはしなかった。

 何故なら、妹達の心境は痛いほどよく分かるからだ。

 

「えっと、その……フータロー君は?」

「……もうちょっとで着くって」

 

 一花の声になんとか応えたのは三玖だった。

 いつも前髪で目元が隠れがちだが、最近はそれに輪をかけて影が覆っているように見えた。

 他の姉妹に目を向けるも、状態に大差はない。

 五月は一人前の食事しか摂らなくなり、元気印の四葉はリボンを萎れさせていた。

 二乃なんて薄らと涙目ですらあった。

 それもこれも全ては二月の始まり、風太郎の言葉に端を発している。

 

『これからしばらく、そういうのはなしだ』

 

 そういうのが何かと言うと、性的な接触である。

 当然姉妹から不満は噴出したが、結局は納得した。

 風太郎に大一番が控えているのは、全員が知るところだったからだ。

 受験を終えた二乃、三玖、四葉も学年末試験が控えているし、一花はさらに卒業試験もある。

 五月は完全に風太郎と同じ立場なので、余裕は一層なかった。

 人間、余裕がないときは余計な考えも起こらない。

 翻せば、暇ができればその余地が生じるということだ。

 順に試験から解放されるにつれ、中野姉妹にフラストレーションが溜まっていった。

 それを真っ先にぶつけに行ったのは、やはりというか二乃である。

 風太郎の試験も終わり、後は合格発表を待つのみとなったタイミングでだ。

 

『わ、悪い……せめて合否がはっきりするまで待ってくれ』

 

 その時の焦った様子から、なにか隠し事があるのだと二乃は確信した。

 そしてそれをすぐさま、それを姉妹で共有した。

 そういう接触がないとは言っても、風太郎は普通に家庭教師としての仕事はこなしていた。

 しかし、二月に入ってからはほとんどが自由登校のため、自ずとそれ以外の接触の機会は減る。

 そこに隠し事の情報が加われば、余計な考えを助長させるのには十分だった。

 つまり、自分達といない間に風太郎は何をしているのだろう、と。

 それまでなら勉強だと信じることができたのだが、前期日程はもう終わっていた。

 万が一の後期日程に備えている可能性もあるが、風太郎が落ちる心配は微塵もしていなかった。

 四葉がらいはと接触して確認してみるも、あまり家にいないからわからない、とのことだ。

 そして卒業式を終えて一花も晴れて卒業を迎え、五月もつい昨日見事に桜を咲かせた。

 風太郎の合格発表も同日であり、見事合格したとの知らせと共に、このメッセージである。

 

『話したいことがあるから、明日の夕方そっちに行く』

 

 姉妹の脳裏に不安が過ぎったのは誤魔化しようがない。

 恋人らしい行為も減り、顔を合わせる機会も減った。

 そして相手には何やら隠し事がある。

 そんなことはありえないと思いつつも、姉妹の頭の片隅には別れ話の三文字が居座った。

 おかげで四人はこの様子であり、一花もなんとか見栄を張っている状態だった。

 

「「「「「――っ」」」」」

 

 そして来訪者を知らせるチャイムが鳴り、五人は一斉に息を飲んだ。

 互いに顔を見合わせる中、どうにか一花が動いて応答した。

 

「――うん、いいよ。鍵開けとくから入っておいでよ」

 

 玄関の鍵を開けてリビングに戻ると、一花はソファーに座り込んだ。

 張り詰めた沈黙がしばらく続き、玄関のドアを開ける音。

 そして、風太郎がリビングに姿を現した。

 

 

 

 

 

「よう、お前ら。いきなりで悪い――って、どうしたんだよ」

 

 リビングに入ると、何やら重い沈黙が蟠っていた。

 どいつもこいつも暗い顔をしているが、また喧嘩でもしたのだろうか。

 まず近くにいる三玖に訪ねようとしたのだが、顔をそらされてしまった。

 その後も順々に確認を取ろうとしたが、誰一人として目を合わせようとしない。

 順番的に最後になった一花だけは顔をそらさなかったが、俯いたまま黙りこくっていた。

 その肩が震えているように見えるのは、俺の気のせいだろうか。

 触れようと手を伸ばそうとして、不意に一花が顔を上げた。

 

「あのさ、フータロー君……話してもいいよ。覚悟は出来てるからさ」

「えっ、ちょっと待て……まさか気づいてたのかよ」

「薄々とだけどね……」

 

 誰にも言ってなかったはずなのに、どこから情報が漏れたというのか。

 姉妹間で目配せをしているところを見ると、全員が知っているようだ。

 もしかすると二乃に詰め寄られた時に、何かを察せられてしまったのかもしれない。

 あの時はまだモノの準備が出来ていなかったため、誤魔化すしかなかったのだ。

 こうなると下手な演出は逆効果か。

 どう渡したものかと、最近はそれに頭をひねらせていたが、いい加減面倒になっていた所だ。

 リュックの中から取り出したそれらを、一人一人に押し付けていく。

 中野姉妹は揃ってキョトンとしていた。

 くそっ、しらばっくれやがって……バレバレの中で敢行するサプライズは惨めなんだぞ!

 

「なにこれ……箱?」

「そういうのはいいからさっさと開けてくれ」

 

 とは言っても小っ恥ずかしいので、腕を組んで目は閉じておく。

 これならどんな反応が飛んできたとしても、初撃はしのげる。

 状況的に五連撃だろうから、無事に済むかどうかは怪しいが。

 もしかすると悶死してしまうかもしれない。

 

「…………」

 

 しかし、どれだけ待てども中野姉妹からのリアクションはなかった。

 どうしたのかと薄目を開けてみると、眼前に同じ顔が五つ。

 中野姉妹が、俺の顔を下から覗き込むようにして迫ってきていた。

 

「おわっ」

 

 驚いて尻餅をついてしまった。

 こちらを見下ろす五つ子は無表情。

 正直言ってかなり怖かった。

 

「ねぇフータロー君……これ、なに?」

「み、見たらわかるだろ」

「指輪、だよね」

「そ、そんなにおかしかったか?」

 

 恐怖か焦りか羞恥か、理由は判然としないが汗が頬を伝う。

 俺はまた、何かをやらかしてしまったのだろうか。

 疑問に答えるように、二乃が堰を切ったように叫んだ。

 

「だっておかしいじゃない! もう、別れるのにぃ……指輪、なんてぇ……」

 

 そしてその場に泣き崩れてしまった。

 咄嗟に抱きしめたが、何が起こっているのかまるでわからない。

 思いがけない言葉に、頭がすっかり混乱していた。

 別れる……誰と誰が?

 

「俺達、別れるのか?」

「フータロー君は、その話をしに来たんじゃないの?」

「え?」

「……あれ?」

 

 無表情だった四人の顔が、困惑に染まっていく。

 二乃の泣き声をBGMに、俺達はしばし見つめ合うのだった。

 

 

 

 

 

「ふむふむ……じゃあ、私たちに内緒でアルバイトに精を出していたと」

「ああ……少し自分で使える金が欲しくてな」

「私は受験勉強で手一杯だったというのに、随分と余裕だったんですね」

「勉強だってしてたに決まってんだろ。おかげで毎日寝不足だったぜ」

「む~~、どうして言ってくれなかったの?」

「いや、バイト増やすなんて言ったら、絶対金の使い道聞かれるだろ」

「そんなにこの指輪のこと、隠しておきたかったわけ?」

「……悪いかよ」

「やっぱりあんた、勉強は出来るけどバカよね。ま、私は信じてたけど」

 

 他の四人の視線が二乃に突き刺さる。

 どの口が言ってるのかと、目で語っていた。

 俺もそう言ってやりたかったが、何よりも泣き止んでくれたことにホッとしていた。

 バカという言葉も甘んじて受け入れるしかない。

 報告、連絡、相談が大事だというのは言うまでもない。

 中野父にも、やんわりと釘を刺された部分である。

 それでこいつらを不安にさせてしまっていたのだから、反省するべきだろう。

 サプライズを図るにしても、もう少し周りに目を向けるべきだった。

 五月に言った通り、他のタスクも同時進行していたため、少々どころではなく余裕がなかった。

 

「良かった~……じゃあ私たち、愛想を尽かされちゃったとかじゃないんだぁ」

 

 リボンがすっかり元通りになった四葉が胸を撫で下ろした。

 それこそありえないが、そんな不安を抱かせてしまったのは俺自身の行動が原因だ。

 仮にもっとセンターの結果がもっと悪ければ、勉強以外をしている余裕もなかっただろう。

 そうしたら今日みたいに、二乃を泣かせてしまうこともなかったのかもしれない。

 いやでも、それだとこうして指輪を買うだけの代金は捻出できなかったわけで……

 なんにせよ、結局は俺の自己満足に帰結しそうだ。

 本当に、これでは本末転倒もいいところだ。

 

「ね、フータロー。これ、はめてみてもいい?」

「ああ、そのために用意したんだからな。右手の薬指ならぴったりなはずだ」

 

 三玖は右手の薬指に指輪を収めた。

 それにならって、他の四人も同じ場所に指輪をはめていく。

 問題なく収まったようで、俺はひとまず胸を撫で下ろした。

 

「本当にぴったりだけど……これ、いつサイズ測ったのよ」

「あれだけ触ってりゃ大体わかるだろ」

 

 どんな機会かは伏せておくが、中野姉妹と指を絡ませ合うのは珍しい事じゃない。

 なんとなくではあるが、各々の指のサイズは大体把握していた。

 

「そ、それはまた……フータロー君らしい、のかな?」

「後夜祭の時といい、あんたちょっと目の付け所おかしくない?」

「正直ちょっと引きました」

「うるせー、いらねーなら回収するぞ」

 

 すると、全員が右手を隠すように背中に回した。

 どうやら返すつもりはないらしい。

 こちらとしても、そんなことをされたら心が砕け散る自信しかないのだが。

 せめて素直に喜んでくれたらとは思うが、そんな状況を用意してやれなかった俺の責任もある。

 

「あれ、指輪の裏に……FとY? 何かの暗号かな?」

「それは多分、風太郎と私たちのイニシャル。私のはFとMだし」

「イニシャルって……あんた、まさかこれペアリングなの!?」

「まぁ、店員に相談したらあれこれと勧められてな」

 

 ちなみに一花と五月はイニシャルが被るので、後ろに続く小文字を一文字プラスしている。

 それにしても、注文した時は店員の目が痛かった。

 それぞれ違う相手とのペアリングを五組も頼んだのだから、ドン引きされるのも仕方ない。

 ペアの都合上、俺の分の指輪は五つ。

 全てはめるのは無理そうだったので、今はチェーンに通して首から下げている。

 

「それが俺の気持ちだ。独りよがりだが、向こうに行く前に伝えておきたかった」

 

 会えない時間が増えれば、寂しい思いをさせることになる。

 だからこんなプレゼントを用意した……というのは建前だ。

 本当は自分のために用意したものだ。

 離れても安心できるように、今の関係を示す何かを形に残して渡しておきたかった。

 言ってしまえば、俺の独占欲の塊と言ってもいいかもしれない。

 そして、この指輪にはもう一つ意味がある。

 

「俺は多分、お前達に人並みの幸せってやつを叶えてやることはできない」

 

 中野父が言った通り、今のこの国に俺達の関係を許容する決まりはない。

 全員と籍を入れるのは不可能だし、関係を維持する都合上、それなりの制限がつきまとう。

 少なからず、窮屈な思いをさせることになる。

 

「だけど……今は無理でも、将来は必ず人並み以上に幸せにすると誓おう」

 

 たとえ世間一般の範から外れたとして、それは幸せを諦める理由にはならない。

 人並みの幸せが望めないなのなら、それ以上の幸せで埋め尽くそう。

 

「だからその指輪は、この約束の証として受け取って欲しい」

 

 伝えたいことを言い終えて、そっと目を閉じる。

 中野姉妹の了解を得てない以上、これはまだ独りよがりでしかない。

 正直に言えば、首を横に振ることはないとわかってはいる。

 それでも不安をぬぐい去ることはできない。

 現実を突きつけられて目が覚めることだってありえるからだ。

 この目を開いたとき、五人ともそこにいてくれるだろうか。

 誰かが去っていくとして俺は引き止めるのか、黙って見送るのか、それとも――

 

「あなたは本当に仕方のない人ですね」

 

 不意に手が握られる。

 目を開けると、五月が俺の手をとってこちらを見上げていた。

 

「私はもう言いましたよ。この手を絶対に離さないと」

「全く……相変わらず重いな、お前は」

「今日の上杉君には言われたくありませんね」

「ならお互い様だ。俺も絶対に離してなんかやらねーぞ」

「ええ、そうしてください」

 

 五月は微笑むと姉妹を見回して頷き、他の姉妹も同じように微笑んだ。

 その中には呆れだとかも見受けられるが、何よりも笑ってくれたのが嬉しかった。

 

「まぁ、その……なんだ? ここ最近、俺も寂しかったっつーか」

「それはフータローの自業自得。私はもっと寂しかったもん」

「うっ……す、すまん」

「もう、本当だよ。ほら、風太郎君はちゃんと謝って」

「ごめんなさい」

「よしよし。それでフータロー君、何か提案しようとしたんじゃないの?」

「ああ、そうだな。せっかくだし、全員で卒業旅行に行かないか?」

「いいんじゃない? それでどこ行くのよ」

「予約も行き先もこれからだ。まぁ、俺の予算的に国内になるとは思うが」

 

 費用の相場は知らないが、国内と国外ではやはり値段に開きが出てくるだろう。

 指輪の代金の残りに、これからかき集める分をプラスしても、国外はちょっと厳しい。

 

「って、おっそーい! 普通そういうのはもっと前に予約しとくものなのよ!」

「いや、受験が終わってもいないのにそれはどうなんだよ」

「そういうものなの!」

「は、はい」

 

 二乃の剣幕に押し切られて頷いてしまった。

 もっと前からと言うが、もし受験に失敗した時は残念なことにならないか?

 すごい勢いでスマホを弄り始めた二乃に恐縮していると、袖が控えめに引っ張られる。

 三玖だった。

 

「行き先で何か希望でもあるのか?」

「それはどうせ一致しないから、ひとまず置いとく」

 

 たしかに、行きたいところを聞いたとして意見が割れる未来しか見えない。

 とは言っても、叩き台を出さないことには話も進まないのだが……

 

「私、寂しかったんだよ?」

「ああ、俺もな」

「じゃあ、いいよね――んっ」

 

 言質を取ったと言わんばかりに、唇を塞がれる。

 しっかりと舌も侵入してきて、やる気満々の様子だった。

 当然、他の姉妹もそれを黙って見守っているほどおとなしくはない。

 ……もしかして、ピンチなのでは?

 

「ちょっと、人が一生懸命旅行先をピックアップしてる時に何してるのよ!」

「お構いなく。二乃はそのまま続けてて」

「お構うわよ!」

 

 二乃は俺を三玖から引き剥がすと、これまた強引にキスしてきた。

 グイグイと押し付けられる体の柔らかさに、段々と理性が溶け出していく。

 ここひと月以上ご無沙汰だったのは俺も同じなので、我慢がきかなさそうだ。

 とは言っても、この状況はあまりにもよろしくない。

 下手をしたら俺は死ぬ。

 

「に、二乃……一旦落ち着こうぜ」

「ここをこんなにして何言ってるのよ」

「ははは、何のことやら……」

 

 密着しているので、当然俺の息子の状態も把握されていた。

 どうにか離れようと腰を引くが、さらに背中から抱きついてくる奴がいた。

 振り返ると存在を主張するリボン……四葉だ。

 

「よ、四葉……そんなに体を擦り付けられると、何というか……」

「ウサギってね、寂しいと死んじゃうんだよ?」

「そ、それは都市伝説――」

「だから、風太郎君には寂しくさせた責任を取らなくちゃ……ね?」

 

 耳裏をかすめる吐息が、抵抗しようとする意思を奪っていく。

 まずい、このままでは……

 

「お、親父さんが帰ってくるんじゃないのか?」

「フータロー君は心配性だなぁ。お父さんは忙しいから今日はいないよ」

「明日は私の合格祝いをしてくれるそうです」

 

 絶望的なインフォメーションに、いよいよ抵抗の力が抜けた。

 押し倒される、あるいは引き倒されるように床に倒れ込んでいく。

 早速と言わんばかりに、中野姉妹は自分の衣服に手をかけ始めた。

 現実逃避気味に高い天井を見上げる俺の顔を、一花が覗き込んできた。

 

「フータロー君も寂しかったんでしょ? なら私たちにいっぱい甘えてよ」

 

 その甘い声に、理性がグズグズに溶かされる。

 そのまま落とされる唇を、ただただ受け入れた。

 東京に行けばしばらく出来なくなる事を考えれば、思う存分やっておくべきなのかもしれない。

 ……いや、やっぱ死ぬなこれ。

 

「では、いただきます」

 

 上に跨ってきた食いしん坊の言葉を皮切りに、俺は考えるのをやめた。

 

 

 




というわけで終了。
旅行先の予約はマルオの伝手でなんとかしてもらいました。
これはもう頭が上がりませんね。
ちなみにフー君はT大の法学部に進学しました。

多分、次回で最後になると思います。


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