SAI幻想 塔矢行洋 (お冨)
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SAI幻想 塔矢行洋
らい予防法の廃止に関する法律
第四条
国は、入所者および再入所者(以下「入所者等」と言う。)の教養を高め、
その福利を増進するように努めるものとする。
日本棋院にその依頼が来たのは、塔矢行洋元名人が引退してから半年が経とうとした頃だった。
内容珍しいものではない。プロ棋士を派遣して、出張指導してもらいたいというものだ。
ただ、その依頼主が厚生労働省という点が目を引いた。さらに派遣場所が国立ハンセン病療養所という点が特異だった。
ハンセン病という言葉がにわかに脚光を浴びたのは、ちょうど元名人が引退し手からだった。
かつてらい病と呼ばれていたこの病気がいかに迫害と偏見を持たれてきたか。法律によって強制隔離され、さらに断種まで強制されてきた元患者の人権侵害がどんなに酷いものであったか。
国に対して出された損害賠償集団訴訟の中で明らかにされたその内容は、マスコミによって大々的に取り上げられ、一気に知名度を高めていた。
患者側の勝訴、控訴断念という国としては画期的な対応、マスコミや世論の高まりの後押しを受けて、らい予防法が廃止されたのは1996年のことだった。
特効薬の開発により完治する病になってから半世紀あまり。家族や親戚、故郷との絆を断ち切られ、強制隔離されていた元患者達は、すでに平均年齢七十歳を超えていた。
せっかく手に入れた転居や職業選択の自由も、高齢と病気の後遺症の前では実現困難だった。その結果、かなりの人数が国立療養所での残留を余儀なくされた。
その人達を支援するために「らい予防法の廃止に関する法律」が制定された。そしてその一文により、国の予算が付いた。
付いた予算は執行されなければならない。
お役所仕事ではあるが、役人とて人の子。できるだけ入所者本人の希望を優先したいと検討したところ、囲碁が取り上げられたというわけだ。
棋院としては、人選で悩むことになった。打診した中堅どころに、ことごとく辞退されてしまったのだ。
なにしろ、らい病である。いくらハンセン病と言い換えたところで、偏見が無くなるものではない。
タクシーの乗車拒否、宿の宿泊拒否、商店の販売拒否などは当たり前。家族にらい病が出たとなれば、解雇、破談、離縁、さらには土地から追い出されたという迫害の歴史があるのだ。
年配の棋士達には、根強く嫌悪感が残っているのだろう。
これは個人の資質ウンヌンではなく、社会や文化というレベルで刷り込まれた感性の問題だ。頭でいくら理解しても、モノが感性である以上、そうそう簡単には変えられない。
それが態度に表れて失礼になっては、棋院の品位にも関わる。
だったら、そんな偏見に染まっていない若手を起用するかという話になったが、これまた不安が残る。
ハンセン病の偏見の一因となった後遺症を、人生経験の浅い若者が平静に受け止められるかという問題だ。
大袈裟な同情や好奇の目を向けたり、騒ぎ立てたりしては、指導客の気分を害してしまう。プロとしてあるまじき行為だ。
若手に任せるにしても、誰かお目付け役が要るが、誰が適任か。
棋院の出した結論は、タイトルホルダーの中で一番若い、緒方精次十段だった。
この案は大成功で、つつがなく初めての訪問指導碁を終えることができた。
その帰り際、緒方は「塔矢先生と一度でいいから打ってみたい」という、客の声を聞いた。
もちろん、言った当人も本気ではなく、叶うことのない夢物語のつもりだった。
「正直、驚きました。こう、カレースプーンで碁笥から石をすくうんです。碁盤の上に滑り落として、ちょいとスプーンの縁で位置を直す。それが一連の動作になって、よどみなく進んでいくんです。あれは見事でしたね」
「へえ、凄いなぁ。指が無くても碁が打てるなんて、想像したこともなかったな」
緒方十段が披露した話に、塔矢元名人の研究会の参加者達は、感嘆の声を挙げた。
並べられた棋譜も、アマチュアにしてはなかなかのものだ。何しろ年季が違う。
ここはこうした方が。
いやいや、アマにその手は、後がむずかしくないか。
それより、こうアドバイスした方が………。
いつになく和やかな雰囲気の検討が続き、「いつかは塔矢先生と」という言葉も話題に上った。
「私で良ければ、一度訪問させていただきたいな」
そんなことを言い出した元名人に、弟子たちは驚いた。
大きなイベントでもないのに、いくら引退したとはいえ、タイトルホルダーがわざわざ指導碁に出かけるなど、勿体なさすぎる。今回の緒方十段の訪問は、特例中の特例だったのだ。
「そんなに驚くことではないだろう。私はもう引退しているのだし、指導料が不要なら、相手方の負担にならないだろう。時間も自由になる。個人の資格で訪問するなら、問題は無いと思うが」
そして、そういうことになった。
広々とした敷地内には緑が多かった。外界と隔離されていた名残だと聞かされれば素直に羨ましがることもできないが、そんな人の思いなど関係なく、明るい光に満ちた空間が広がっていた。
塔矢行洋が一人で訪れたその日、園内には先客がいた。茶髪にピアス、ジーンズの似合う若者の一団だ。
「地元の大学生さんたちですよ。よく来てくれるんです」
ひとしきり碁盤を囲んだ後、世間話のついでに尋ねてみれば、そんな答えが返ってきた。
「本当に、昔は考えられませんでしたよ。今は地元の人がわざわざ来てくれるようになって、ほんにまあ、有り難いことです。ワシらには子供がおりませんから、何やら孫ができたみたいでなぁ」
だんだん涙声になりかけた老人の代わりに、別の声がかかる。
「いやあ、今日は塔矢先生に来ていただけて、ほんとに、皆喜んでいます。いやぁ、ここにサイチャンも居たらなぁ」
「そうだな、サイチャン、塔矢先生の大ファンだったから」
突然出てきたその呼び名に、彼はピクリと反応した。ネットの中の最強棋士、ハンドルネームsaiとしか知られていない伝説の人物を連想させられるからだ。
「失礼ですが、そのサイチャンとは」
「斎藤さんていうたんですわ。それでサイチャン。碁が強くて、私らでは、誰もよう勝てませんでしたわ。一番強かったです。半年ほど前に亡くなりましたが、もうちょっと長生きしとったら先生にお会いできたんに、惜しいことです」
「もしや、その斎藤さんは、インターネットで対局なさいませんでしたか」
少しばかり緊張した声になったが、老人たちは気にしなかったらしい。ウンウンうなずきながら、思い出話に花を咲かせだした。
「ずーっと寝たきりじゃったから、パソコンには触っとらんかったじゃろ」
「ああ、でも、学生さんらが一番初めに持ってきてくれたパソコンで、一杯打っとったぞ。朝から晩御飯までずーっと座り込んでて、そんなに根を詰めるとマウスだこできるぞ言うたの覚えとる」
「一度、相手の人から英語で話しかけて来たな。まさか外人さん相手とは思っとらんかったから、びっくりしてしもうて」
「おおよ、日本語でもいろいろ話しかけてもらってたぞ。キーボードが使えたら、返事できるのに言うとったな」
「ああ、そうじゃった、そうじゃった。今のパソコンなら「アイウエオ」の表が出るから、マウスでカチカチするだけで良うなって。サイチャン時は無かったからな」
それから先を、行洋は覚えていない。気が付くと、玄関先で別れの挨拶をしていた。
また来て下さいと言われ、是非にと返し。
タクシーで最寄りの駅まで走ってJRに乗り。
いつもの道を自宅まで歩いて。
そんな自分の行動を他人事のように感じながら、頭の中は、今日聞いたサイチャンのことを繰り返していた。
ネット碁しかできなかったsai。
決して人前に現れず、誰ともチャットしなかったというsai。
自分を負かすほどの腕を持ちながら、世間では全く無名だったsai。
一時期、連日のように朝から晩まで打ち続けていたのに、突然姿を消したsai。
そして、saiとの関係を必死に隠していた進藤ヒカル。
そう言えば、進藤君が長い不戦敗を重ねたのは、斎藤さんが亡くなった頃ではないだろうか。
確証は何も無い。有るのは状況証拠だけ。それでも、どうしてもサイチャンとsaiが重なるのを止められない。
「もう亡くなられたのか………」
不思議と、進藤君を問い詰めようという気にはならなかった。
もし、サイチャンがsaiなら、身元を隠そうとしたのも納得がいく。長く差別されてきた体の障害を人目にさらすのは、さぞかし勇気の要ることだろう。想像しかできないが、自分にはとても無理だと思う。
今となっては、真相を確かめる術はない。死者の墓を暴いたところで、誰が得をするのか。
センセーショナルにはやしたてるマスコミにもみくちゃにされることだけは避けなければ。
このことは、私の胸一つにしまっておこう。
門の前で立ち止まると、行洋は、静かに黙祷をささげた。
「ただいま」
「おかえりなさい、お父さん。今日は遅かったですね」
「うむ、楽しい一日だったよ………」
いかがでしたでしょうか。
こじつけと辻褄合わせのお冨、本領発揮と自負しております。
この作品を書いた時の時事問題だったんです、ハンセン氏病の集団訴訟。もう、ふた昔も前のことなんですね。
その後も、旅館が宿泊拒否したとか、地元に里帰りが実現したとか、思い出したようにニュースになりました。つい先日には、天皇皇后両陛下が、長年にわたって訪問されていた国立療養所の最後の一つにご訪問されたというニュースがありました。
カレースプーンで石を拾って対局する場面も、テレビの特番で見た映像です。ああ、ここにも囲碁があるんだなと感動しちゃったのが執筆動機でした。
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
この話を
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