どうか貴方に、溢れんばかりの幸福を (野崎エミヤ)
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プロローグ 始まりの別れ
別離の日
◆◇◆◇◆◇
「ねぇ、ホントにいいの?」
どこまでも広がる青い草原で。風が若草を揺らし、海のさざ波のような音が奏でられる。
まるで物語の
「別に、わざわざアンタが行く必要ないじゃない」
自身に背を向けている眷属に、女神そう問いかける。
「いいえ、それは違いますよ、神アフロディーテ。貴女たち神々が望む
男が振り返る。
どこか浮世離れした雰囲気を持つ男だった。絹のような柔らかさを感じさせる金髪に、
まあ私の美の方が優れているんだけどね! とアフロディーテと呼ばれた女神は内心、妙な対抗心を燃やしつつ、一抹の不安とともに再度問いかける。
「……私の、私のファミリアは…嫌い?」
それは一種の、懺悔のようだった。
自分が不甲斐ないから、彼は出ていくことにしたのではないか。娯楽を優先する神々に嫌気が差したのではないか。はたまた自分では変えることが出来なかった彼の
男は予想外だったのか、目を丸しくて驚いたかのような顔を浮かべた後、すぐに堪えるような小さな笑い声を零す。
「ふふ、くッ、はははははははっ! いや、すみません。笑うつもりはなかったんですが、あの
「ちょっとそれどういうことよ! 喧嘩なら言い値で買うわよゴラァ‼ てか、いま名前のとこで絶対馬鹿にしてたでしょ! いい加減にしないとイジめるわよ!」
途端にキーキーと騒ぎ出すアフロディーテ。
愉快なその光景を
「貴女のファミリアのことは好きでしたよ。最初のファミリアは捻くれ者で
「その話は聞いたわ。でも、苦労していたと言っていたのにアンタ、楽しそうに話すんですもの。あの時ばかりは
女神の嫉妬とは怖いですね、と男は笑い、空を見上げる。
「ええ、楽しかった。本当に楽しかった。あの
「ちょっと待ってそれ聞いてないわ何してんの⁉ てか、
今になって明かされる衝撃の事実に、アフロディーテは驚愕とともに声を荒げる。
「特に極東の件は面白かったですよ。結局脱出のとき衛兵に見つかってしまったのですが、逃走中に主神は明らかに
男は眼を閉じて、当時の光景を思い出しているのか、柔らかい笑みを浮かべて楽しそうに語っている。
その様子に、アフロディーテも堪えるような笑い声を漏らす。
「ふふっ、何よそれ。ちょっと見てみたかったと思ったじゃない」
「実際、本当に愉快な旅でした。同時に気苦労も絶えませんでしたが、まあそれはそれです。ですがそれと同じくらい、貴女のファミリアでの生活も悪くないものでした」
男はまるで騎士が姫に対して行うように、洗練された動きでアフロディーテの前で膝をつく。
「だから貴女に感謝を、女神アフロディーテ。貴女のおかげで、僕の人生には新たな色彩で満たされ、たくさんの美しいものをこの眼で見ることができました」
貴女との出会いは間違いではありませんでした、そう語る男に、アフロディーテは少しばかり意外な面持ちを浮かべる。
男がこれほど素直に自分の本心を語るとは思っていなかったからだ。
「……思っていた以上の評価で少しびっくりしたわ。いつもそういう感じで敬ってくれるともっと嬉しかったんだけど」
だから、少しだけ不満を漏らしてもバチは当たらないだろう。
そう思っていたのだが───
「いや、人のベッドの上で枕に顔を埋めて『フヒヒ』とか奇妙な笑い声をあげながら転げ回るような
───予想外すぎる
「な、ななななななな……アンタ、見たの! 見てたの⁉ 信じられないわこの変態‼」
「実際に見たのは一度だけでしたが、何度か似たようなことをしていましたよね? 流石に酒を飲んだ後にそういうことをしていれば嫌でも匂いが付きますよ。まあ僕以外に気付いている人はいなかったようですけど」
「あ、あばっあばばばばばばばばばっ‼⁉」
見られたことに対する怒りと羞恥がごちゃ混ぜとなり、
もはやまともな思考ができなくなり、
ちなみにこれから数刻の間、アフロディーテは正気を失っていた。
「ゴホン………はあ、もういいわ。いや全然良くはないけど! 叶うならアンタの頭を死ぬほどぶっ叩いて記憶を消したい気分なんですけど! 私は寛大な女神様だから、アンタの不敬の百や二百程度、許してあげるわ。感謝しなさい!」
未だ頬に熱が残っているものの、アフロディーテは胸元に手を当てながらふんぞり返るようにそう言った。
「勢いでごまかそうとしてますね。まあ貴女らしいと言えば貴女らしいので別段構いませんが」
「うっさいわね! とにかく! 覚えているのは構わないけど言いふらすような真似をしたら本当に許さないからね! もし誰かに喋ったら、地の果てだろうと天界の果てだろうと
「おっと、それは怖い。前の主神から『女神の執念ほど怖い物はない』と聞いていますから。はい、今の忠告、この胸にしっかりと刻んでおきます」
不安・懺悔・驚愕・感傷・動揺・怒り。
いつもなら、ここまで語らない。
でも、互いにゆっくり語り合うことができるのは、恐らくこれが最後。
ならもう少しだけ、あと少しだけ、この時間が少しでも長く続くように、アフロディーテは言葉を重ねる。
だが、やはり物事には『終わり』がつきものである。
「では、神アフロディーテ。僕はそろそろ行かなければなりません」
唐突に告げられた男の言葉に、アフロディーテの体が飛び上がる。
嫌だ。
許さない。
行かないで。
そういった言葉が次々と頭の中で浮かび上がり、何度も喉から突き出そうになる。
でも、それは出来ない。そう、出来ないのだ。
「……私はまだ、アンタに知ってほしいことが、見てほしい物がいっぱいあるわ。それこそ、数えきれないくらいに」
だから、今のアフロディーテに出来ることは、一つだけ。
「アンタのやるべきことが全部終わったら、また私のところに帰ってきなさい。それが出ていく条件よ」
それは約束。
魔法も紙の契約書もない、ただの口約束。
「言っとくけど、この
でも、目の前の男に誓わせるなら、こっちの方が良い。
何かしらの形に残るものを、男が好んでいないのは知っていたから。
アフロディーテの言葉を受けて、男は笑みを浮かべる。
心底嬉しそうに、優しい笑みを浮かべていた。
そして───
「はい、わかりました。全てが終わった暁には、必ず貴女の元へ帰ると誓いましょう」
───高潔な騎士のように礼拝を行い、そう告げると、男はそのまま進みだした。
◆◇◆◇◆◇
男の姿は、すぐに見えなくなった。
視線の先は広い、広い草原である。
しかし、世界的に見ても上澄みも上澄みの実力を有している自身の眷属だった男は、僅かな時間で草原地帯を抜け、あっという間に見えなくなってしまった。
不意に、アフロディーテは頬が濡れていることに気が付いた。
いつの間にか、自身は泣いていたらしい。
しかし、それは別れの悲しみ故の涙ではなかった。
「…………嘘つき」
最後の最後に、出会ってから初めての嘘をつかれたが故の涙だった。
神には嘘が見抜けるということを知っているはずなのに。
「他人の運命は簡単に捻じ曲げて救っちゃう英雄のくせに、なんで自分のことは救おうとしないのよ。この空前絶後の
膝から力が抜け、服が汚れるのも構わずにアフロディーテは草原に腰を下ろす。
瞳から零れる涙は、止まらないばかりか時が経つに連れてどんどん溢れ出てくる。
どれほどの間、そうしていたかは分からないが、風が冷たく感じる時間帯になってようやくアフロディーテは動き出す。
しかし、動き出したものの、その場から動くことはなかった。
アフロディーテは片膝立ちの姿勢をとり、両手を組んだ。
所謂、祈りの姿勢である。
「女神の私がこんなことするなんておかしな話だけど、どうか祈らせて。貴方の無事を。貴方の未来を」
不自由であるということが、これほどまでに辛いことだとは思わなかった。
あるいは、何もできない自身の罪悪感を満たすためだけに、このようなことをしているのかもしれない。
でも、それでも。
───貴方の行く先が、どうか明るいもので満たされていますように。
頬を濡らして願う女神の祈りの行く末は、天界の神々すらも見通せるものではない。
ただ確かなのは、男の物語は下界の『未知』であることだけである。
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