偽物にしかなれない私は (流水麺と豪州侍)
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第一部
プロローグ


みんな口にはしないけど、TS美少女になって八幡の性癖を狂わせたい人って結構いると思うんだ。僕もソーナノ。


 

 なにゆえに俺が選ばれたのか? 

 そう自問自答して止まない半生だった。この世に生まれた意味などわからず、変わり映えのしない日常を打刻していくだけの存在。それが俺だ。

 他の人も実際そんなもんなのかもしれないが、俺はとりわけ運命だとかに過敏な質だった。

 晴れ渡る空の下で疾駆する大型トラック。

 なんの変哲もない日常の光景だ。そのトラックの数十メートルほど先の横断歩道に小学生ほどの女の子が歩いていて、トラックが減速する気配を見せないというところを除けば。

 

「おいッ!」

 

 声を枯らして俺は叫ぶ。しかし、それが仇となる。

 突然の怒声に女の子はピクと震えて辺りを見回す。そして、トラックの姿を見つけてしまって足がすくんでしまった。

 トラックは止まらない。ただ、俺が事態を悪くしただけ。なんてこった……!! 

 

「くっ……!!」

 

 俺は無意識に走り出していた。

 子供より図体が大きい俺が飛び出せば、さしものトラックの運転手も気づいてブレーキを踏むかもしれないという打算か。はたまた事態を悪化させた自分への罪悪感か。あるいは、日常を超えた何者になれるかと思ったのか。

 わからない。考えをまとめる暇すらなかった。

 指先が女の子を弾き飛ばして、激痛と共に身体が宙を舞う。

 

「……いてぇ」

 

 静かに呻く。

 目の端に見えた蒼穹はいやに綺麗だった。

 

 …………

 …………

 …………

 

 目が覚める。

 知らない天井に、謎の浮遊感。

 どこか意識がふわふわとしている。

 ああ、そうか。俺は死んだのか。

 自分の生の役割に自覚的だった人間が最後に人を助けて死ぬ。

 なら、いい。これなら最後に意味を見つけられたことになる。

 一人満足して、俺は再び目を閉じる。

 これから目を覚ますことはもう二度とないだろう。……あれ、なかなか意識落ちないな。なにこれ。

 

「あ、また寝ちゃった。せっかく起きたのにな……」

 

「仕方ないさ、まだ赤ん坊なんだから」

 

 ん、赤ん坊? え、まさかこれ転生なのん? 謎の浮遊感ってこれ抱かれてるのか……なんか妙な気分。

 というかカッコつけて散っておいてコレかー? いやーきついでしょ。よもや神め、この有様を見て笑っているな? 

 

「眠っている君には悪いけど、呼ばせてくれ。伽耶、中山伽耶。産まれてきてくれてありがとう。僕たちの可愛い娘、大事な宝物。僕たちはずっと君に逢いたかったんだ……!」

 

 狸寝入りしつつ動転する俺に対して、父はそう寿ぐ。その様は本当に嬉しそうで、申し訳なくなる。だって純粋な意味ではあなた方の娘とは言い難いんだもん。

 かくして、一抹の罪悪感と変えられてしまった性と共に俺の第二の生は始まるのだった。

 



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第1話 三つ子の魂百まで、どころか死んでも変わらん

 

 産まれてから10年が経った。

 俺ももう小学5年生になるが、依然として俺は男であろうと生きていた。

 たとえば、スカートを履くのを嫌がり頑なにズボンを履こうとするとか。女の子に混じって遊ぶよりかは、男の子に混じってがっつり外遊びをするとか公然と女の子らしくあることに抵抗していた。

 

「伽耶、女の子らしくしなさいっていつになったら分かるの? 今日もまた切り傷なんか作って……!」

 

「私の人生なんだから、私の好き勝手にやっていいでしょ? お母さんに迷惑をかけてる訳ではあるまいに……」

 

「減らず口を……!」

 

 金切り声をあげて叱る母さんを尻目に俺は自分で傷の消毒をする。

 今世における母さんはかなり型にはめようとしてくるタイプだった。つまり、すでに前世という型を持っている俺とはすこぶる相性が悪いということだ。

 例えば、母さんが一つ何かしつけをしようとする。ただし、俺は前世があるからすでにマナーができており、それを通そうとする。男女の違いがあるとはいえどちらも現代日本である以上、そこまで生活様式に違いはない。一般常識をそのまま持ってきても使えた。だから、周りの人は何も言わない。……けれど、母さんから見れば頑なに自分を拒まれたように見えてしまう。そして、それが続けば自分が育てたという意識を持ちにくい。年をとればとるほど、母さんとの仲は加速度的に悪くなっていった。

 

「もういい、私は部屋に戻るね」

 

「待ちなさい! お話はまだ終わってないわよ!」

 

 母さんの制止を振り切り、俺は無理やり自室に逃げ込む。

 前世の男趣味と今世の女の子らしい可愛い物が入り乱れた部屋。まさしく、俺の内面を体現していた。

 姿見の前で着替えをする。朝に無理やり着せられたスカートを脱ぎ捨て、キュロットに変えた。

 アメリカ人の母さん譲りの肩にかかる程度の薄紅色の髪に青い瞳。

 顔立ちに至っては可愛くかつ綺麗系で、日本と欧米系の利点すらも併せ持つ反則的な整い方をしている。

 

(見た目は本当に可愛いんだよな、俺……)

 

 本当は分かってる。俺が悪いのだ。

 実際のところ、スカートを履くことも女の子の中に混じって大人しくするのはまぁ嫌だが、出来ないわけでもない。多少は苦労するだろうが普通に女の子として生きていけるとは思う。

 ただ、そのまま言われるがままに女の子になってしまったら、かつて生きた『俺』はどうなるのか、俺が『俺』を殺してしまったのなら、転生してきた意味がないのではないか。

 確かに前世の『俺』は女の子として生きるには目障りだ。だが、打ち捨ててしまうにはあまりにも淋しい。

 この葛藤は俺に常に内在するものだ。

 10年間、女の子として生きてきてなお、俺はいまだ女に成りきれていない。

 

 *

 

 母さんがやかましい家と違って学校はパラダイスだった。

 勉強って言ったって中学受験するわけでもないから前世の知識の流用で足りるし、運動も男子の中に紛れてサッカーやらできるぐらいだから女子の中では確実に頭ひとつ抜けている。

 

「なあ、八幡。今日も帰ったらサッカーしようぜ」

 

「お、おう。いいけど……。だが、俺でいいのか? お前以外に友達なんていないからパスとPKぐらいしかできないぞ?」

 

「別にいいよそれだけでも。八幡は周りをよく見てるからそのあたりは手強いんだよね、いい練習になるんだ」

 

 俺が帰りの会で話しかけたのは、言わずと知れた『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の主人公・比企谷八幡。

 今世における友達と言えば、彼になる。

 前世で俺ガイルは読んでいた。八幡はその中でもとりわけ好きなキャラと言っていい。だからこの世界に来れてよかったとは思う。

 けれど、何故に俺を女にしてしまったのか。ただでさえ人見知りする八幡だぞ? 女子となると向こうが尚更困る。実際、仲良くなるのにかなり苦労して一緒に遊ぶようになったのも、一年ぐらい経ってからだった。

 最初は打算とファン根性丸出しで彼に近づいたが、普通に俺と八幡は相性が良かった。互いに良くも悪くも子供らしくなくて付き合いやすいのだ。

 

「それにしても、お前はやたらと俺とつるんでくるよな。他の友達は放っておいていいのかよ……」

 

「君がいいんだから、仕方ないね」

 

 そんな八幡の欠点はやや卑屈なところだろうか。八幡には八幡なりの良さがあるのに、そう構えてしまっては彼の良さが皆に分からずぼっち街道まっしぐらである。

 だから、俺はかなりの確率で八幡を半ば強引に遊びに連れて行く。

 そんな卑屈なんて、蹴っ飛ばしてしまえと。他ならぬ俺が良いと言ってるんだから、それでいいじゃん。とわからせるために。

 

 *

 

 あのババア、やりやがった……! 

 朝起きて自室の洋服ダンスを見た俺は愕然としていた。

 なぜならば、ズボン類がなくなってスカートしかなかったのだから。

 怒り狂って母さんに問い詰めたら「中学生になったら制服がスカートなんだから耐えられるようになりなさい」と言われた。

 1ヶ月はレンタルスペースに預けたままにしておくらしい。おのれ。

 

「いや、丈が短いなぁ……」

 

 俺が何気なしに手に取ったスカートは結構短い。ロングスカートといえるようなものは一つとしてなく、一番長い丈でも膝が隠れる程度でしかない。

 俺、学校では完全にボーイッシュ系キャラで売ってるんだけど、これ履いたらイメージ変わりすぎて違和感凄いよな……。

 自分自身の見てくれは悪くないのは分かってる。だが、こんなスカートが似合うようなガラではない。

 ……ああ、やだ。絶対クラスの奴らに馬鹿にされるじゃん。

 嫌々学校に行き、クラスに入る。

 すると、やはり奇異の目線が俺に突き刺さる。

 そりゃあそうだ。万年トップスはTシャツとタンクトップ。ボトムスは短パンとジーパンで押し通すような女が、急に甘めのワンピースで登校してきたらそりゃあ誰だってびっくりする。

 その視線と、スカートの中で滞留する空気で身体中がそわそわして仕方がない。

 

「おう……おはよう」

 

 挨拶してきた八幡だって微妙そうな顔をしていた。

 なんというか、どう扱っていいか分からない感じだ。

 

「……おかしいよな、俺がこんな格好をするなんてよ。仕方ないだろ、母さんに強制されてるんだから」

 

 八幡に気味悪がられたくなかった。他の誰かならまぁいいとして、八幡だけには。だから、俺は悪態をつく。

 しかし、あいつは事もあろうに。

 

「……まあ、似合ってるんじゃないの?」

 

 そんな言葉、逆に言って欲しくはなかった。気味悪がられるよりはずっとマシだけど照れ隠しながらに言った八幡の褒め言葉に、思わず俺の心の臓が跳ねてしまった。

 

(なんだよ、これじゃ俺が女の子みたいじゃないか)

 

 いや、実際のところみたいじゃなくて、俺は女の子そのものなのだが。

 けれど、現金な物で俺はその後の一か月間、スカートの嫌悪感が緩和されて無事にスカートを履き通すことができた。

 レンタルスペースからズボン類が戻ってきた日、俺は意気揚々とそれを履いて学校に行ったが、安堵する俺とは異なり八幡はちょっと残念そうな目を向けてきやがった。

 ……なんだよ、お前も可愛い俺の方が良かったのかよ。なら、言ってくれれば、少しは頑張るからさ。そんな残念そうにするなって。

 その後も、週に2回ぐらいはスカートを履いて学校に通うようになった。

 



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第2話 どうにもこうにも人間というのは環境に規制されていくものである。特に男女差

いきなり評価3つもついて驚いた流水麺です。やはり潜在的な需要はあったのか……。やべえとんでもない鉱脈掘り当てちゃったぜ、とガクブルしてます。


 

 6年生になる。

 この頃になると流石に身体も女性のものになってきた。

 胸はもうブラジャーが必要なぐらいに膨らんできたし、陰毛も生えてきている。ネットで調べた限り、もうそろそろ生理が始まる気がする。

 この変化は、俺だけではなく周囲の女子も巻き込んで現在進行形で進んでいた。

 例えば有栖ちゃん(俺よりも小柄でパッチリとした目が特徴的な娘)は身長が140後半ぐらいで伸び悩んで、全体的に細いけど完全に体型が出来上がって生理が来ていた。一方でクラス委員長の岩間さんはようやく胸が膨らみ始めたくらいだ。

 この女子たちの身体的な変化は、男子との距離に決定的な影響を与えている。女子より遅いとはいえ小6なら男子も第二次性徴が始まってくる。すると、異性への興味を持ちだす。日々、身体つきが女性らしくなってくる同級生が目に見えるところにいるのだから、なおさらだ。

 だいたいの女子はそんな男子に嫌悪感を感じて距離を取り出した。一方、俺は心情的に男子のことがわかるので比較的距離を取らずにいる。

 その結果、今いる男子は結構俺の身体をじろじろ見てくるようになっていた。

 

(これは失策だったかなぁ……)

 

 今になって若干その選択を悔いている。

 グラビアアイドルまがいのことをやっていた母親の血が強いせいか、俺の発育はかなり良い部類に入る。それでいて顔も心底可愛いときた。つまり何が言いたいかと言うと、意図せずして俺は男子共の初恋ハンターと化していたらしい。

 

「伽耶ちゃん。僕と付き合ってくださいっ!」

 

「ごめん無理。興味ない」

 

 放課後の校門脇で俺は告白してきた山ノ根くんをバッサリと斬り捨てる。

 小6の5月ぐらいからか、今のように男子から何度か告白を受けるようになった。

 結局のところ、俺の性的志向はよくわからない。有栖ちゃんのような可愛い女の子もイケるし、テレビで見るイケメンアイドルにときめくこともある。ただ一つ言えるのは、他の女子に比べたら性欲は控えめというところか。

 

「……こういうところを目撃すると、そういえばお前は女だったなって思うな」

 

 さっきの告白を見ていたらしい八幡が物陰からすっと出てくる。気を遣って身を隠したんだろうけど、ちょっと変質者っぽくて絵面がエグい。

 

「言うようになったね、君も。最初の頃は俺を女の子だと意識して話しかけられる度に緊張してたくせに」

 

「バカ、あれはそもそも人見知りだからだ。お前に限った話じゃない」

 

「じゃあ、今は?」

 

 そう言って、俺は八幡との距離を詰める。ついでにちょっと伸ばした髪もしれっとかきあげてみよう。

 すると、八幡の顔がやや赤くなっていく。ふう、やっぱり八幡も男の子なんだね、順調に育っているようで何より。お兄さんは嬉しいよ。

 

「……お前、そんなことばっかりやって揶揄うからさっきみたいなことになるんだろ。もうちょい自分を大事にしろ」

 

「あー大丈夫。ここまで露骨にやるのは八幡しかいないから。……で、実際のところ可愛かった?」

 

「……そりゃあな。だが、小町には劣る」

 

 必死に視線を逸らしながら、恥ずかしいけど聞かれたことにはちゃんと答える。でも、それだけじゃ癪だからと小町ちゃんを引き合いに出す。

 なんともいじましい、実に揶揄う価値がある。……それになんだかんだで可愛いと思われてるのは嬉しい。

 

「ならばよし。……そうそう八幡、照れ隠しする時に小町ちゃんを引き合いに出すのはやめときな、もうバレてるから」

 

「はいはいあざとい可愛い。しっかし、お前も最近わからなくなってきたなぁ……」

 

 何気なく八幡が呟いた一言。

 それは、俺の心の柔らかいところに突き刺さる。

 実際問題、俺もまあ自分がわからないのだ。性的志向だけじゃない、ライフスタイルもあらゆることも。

 身体は日に日に女の身体になっていて、ファッションに関しては他の女の子と比べてボーイッシュにキメることがやや多いぐらいになった。対人関係もゆっくり男子の輪から女子の輪(というか有栖ちゃんとべったり)に近づいていっている。

 八幡とは親友だけど、そう無邪気に振る舞っても周りが許してくれるのはいつまでなのだろうか。

 

「まあいいや。一緒に帰ろうよ、八幡」

 

 そう言って八幡の手を引く。

 こんな気軽にこいつを連れ出せるのも、長くはない。

 ふと、寂しさが去来した。

 

 *

 

 八幡と別れて家に帰る。

 ただいま、と言っても帰ってくることはない。

 

「……ああ、帰ってきたの」

 

 それどころかジロリとした目つきで母さんに睨め付けられる。その眼は自分の娘を見る眼ではなく、闖入者を見るようなもので。

 俺は居た堪れなくなって母さんの視界から離れた。

 父さんは仕事でほぼほぼ家に居ないから、母さんがこの家を差配している。

 つまるところ、この家には愛が残っておらず、俺を歓迎するものは居ない。ただ、否定した者と否定された者が向かい合っているだけ。

 

「……だから、帰りたくないんだよなぁ……」

 

 家に帰るとまざまざと見せつけられる。

 俺が『俺』であろうとしたが為に、俺は母さんとその役割を否定した。その結果、母さんはもはや俺への興味を失った。生活のために必要なことは人道的な見地でやってくれているが、かつてのような愛(それにしてはすんごいがんじがらめにしてきたけど)はない。

 本当に『俺』は存在していいのか? さっさと降伏して明け渡せばいいのか? 

 問いかけても、答えはない。

 今世も前世もそこは同じだった。

 

 *

 

 楽しく遊んでいるうちに長かった小学校生活も終わりが近づいていく。

 6年の2学期は八幡と有栖ちゃんを振り回して、完全に私側に囲い込んだ。

 八幡は人見知りで有栖ちゃんは頭が高い性格が災いして友達を作りづらかったからやりやすかった。

 これは俺のこれからに備えた布石である。このトリオを完全に定着させることで、中学時代はこの三人でつるんでても外野からとやかく言われないようにしたつもりだ。

 

「ねぇ比企谷、さっきの国語の板書を見せてもらっていい? あたし寝ちゃっててさ……」

 

「またかよ、二階堂。わかったよ、ほれ」

 

 給食が終わって昼休み。俺と有栖ちゃんが八幡の机を囲む。

 俺だけならともかく、有栖ちゃんが来ると八幡は逃げ出すからいつしか昼休みになったら初手で二人がかりで囲い込むような形になっていた。

 

(こうして女子2人と八幡で机を囲んでいると、少し奉仕部みたいだよな……)

 

 八幡は言わずもがな、有栖ちゃんはあまり愛想がないからゆきのんポジかな。となると、俺がガハマさん役か? うーん、ちょっとしっくりこない。

 こっそり懸念していた八幡と有栖ちゃんの相性は悪くはなかった。有栖ちゃんは気位が高いくせに構ってちゃんなので、八幡にもぐいぐい来る。んで、八幡側は面倒くさそうにしながらも、邪険にはしない。むしろ、懐かれるのが嬉しいのか若干甘やかしている節があった。

 それを俺は柔らかな微笑みをもって眺める。

 家がただ帰ってきて寝るだけに過ぎない場所になってきてる今、俺の居場所はここにしかない。

 ずっとこのまま緩やかに。俺はひたすら祈っていた。

 



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第3話 やはりバルカンと色恋は人類屈指の火薬庫である。

4話にしてバーに色が付き、しかも赤とかいう異常事態に震えてます。
みなさま、本当にありがとうございます。
……まぁ、この後に劇薬を投下するんですけども。


 

「うわー、これから3年間ずっとこれを着るのか……」

 

 3学期も終わりに差し掛かった頃。俺は近所のイオンで採寸が終わった学生服を着せられていた。

 鏡を見て、俺は思わず辟易する。

 原作で比企谷小町が着ていた緑と白のセーラー服。あれ、小町ちゃんがスカートを折り込んで着ているだけかと思ったけど、素の丈自体がかなり短いんだね。俺の脚の長さだとどんなに長く着ても膝上10センチまできちゃうや。

 流石に観念して見た目は女の子として振る舞うようにはなってきたが、そこまで短いスカートをを履く勇気はなかったから、かなり抵抗がある。

 

(仕方ないとはいえ制服のスカートがしっくり来ないな……。どうしても太腿の隙間風が気になってしまう)

 

 一緒に来た有栖ちゃんは無邪気に「可愛いーッ!」って言ってはしゃいでいるけど、俺はそんな気にはなれなかった。

 

 それから数週間。

 中学校の入学式が訪れる。

 

「距離近いから、あんまり新生活って感じがしないね」

 

「まぁな」

 

 新しく下ろした学ランを着た八幡と並んで歩く。

 猫背特有の背中のラインが学ランによって矯正されてちゃんと背筋が立っているように見えた。

 

(八幡の欠点が補正されて、なんかちょっとかっこよくみえる……)

 

 そもそも八幡は顔自体はだいぶいい。けれども腐った目と姿勢の悪さがそれを台無しにしていた。

 あー、正直八幡のこと男としては見れてなかったけど、この成長曲線で育つならナシ寄りのアリだよなー。

 ふと、そんなことを思う。いや、やっぱナイわ。八幡は親友でいてくれる方がしっくりくる。

 奴の腐った目を見れば、この惑いも消え失せるだろう。そう思って、八幡の顔を覗き込んでみる。……腹立たしいことに6年生の間に八幡に身長をかなり追い越されたから上目遣いになってしまうが。

 

「どうした? 急に近くによって来るなよ。びっくりしちゃうだろうが」

 

 ぶつくさ文句を言う八幡。存外整った顔が間近に迫ってくる。……が、その眼はドロリと腐っていた。

 ……ああ、安心した、いつもの八幡だ。少しでも瞳がかがやいていたらちょっとまちがいが起きていたけどせーふせーふ。

 

「いや、さすがに制服を着たら八幡の男振りも上がるなーって思ってさ。やっぱ制服って人をかっこよく見せる効果あるよね」

 

「素でそんなこと言うなよ、タラシかお前は」

 

「八幡にしか……言ってるわけじゃないけど、最近は相手を選んでるから大丈夫だと思う」

 

「女子ってその辺りめんどくさそうだから気をつけろよ」

 

 八幡に忠告されてしまう。無論、俺だってそのことは心得ていた。

 いよいよ周りも男女で付き合い出すのもちょろちょろ現れてきている。小6後半の時点で女子の関係性にも恋愛におけるナワバリ争いが起こり始めていた。

 恋バナとは言うけれど、あれは女子にとって楽しいことばかりではない。俺のような男子に近い女子にとっては地雷原の中をダウジングしながら歩くようなもので、色恋に現を抜かしている女子にとっては国境線を確定しているようなものだ。

 誤って地雷を踏み抜くか、国境侵犯してしまった場合には容赦なく非難の戦闘機が飛んでくる。

 女子らしい女子は常に自分がどれくらい男から好かれてるか、はたまた相対する女がどの男が好きなのかが気になって仕方ない。常に隠し事だらけ、取り繕ってツギハギだらけの冷戦が繰り広げられていた。

 うーん、なんかこの状況どっかで……。

 あ、これス○イファミリーやんけ。

 

 *

 

 その事件が起きたのは、1年生の11月くらい。

 それもクリスマスの足音が着実に聞こえ始めていた頃だった。

 登校してクラスに入る。するといきなり「おい」と胸ぐらを掴まれていた。

 

「何すんのさ、磯子」

 

 俺は胸ぐらを掴んできた女子を睨み返す。

 セミロングの黒髪にウェーブをかけて、耳にはこっそりピアスまで。顔自体はやや良いぐらいだけど、化粧を無駄に塗ってるせいで威圧感が勝つ。

 こいつ……磯子は端的に言ってしまえば、クラスを仕切ってるお局みたいな奴だ。原作で言う三浦優美子みたいなもんである。

 ただ、こいつは三浦と違ってひたすらに自分に自信がなく、押し出しの強さと小細工の巧さで成り上がったような女だった。

 

「この写真、どういうこと?」

 

 ぐっとスマホを突き出して磯子は告げる。

 そこには、彼女の思い人である瀬谷くんと俺の姿。構図は座ってた俺たちの背中側から撮られたもので互いにの左手と右手が近づき、肝心の拳の部分は瀬谷くんのリュックの裏に隠れて見えない。

 ああ、これ寄り道しようと思って帰りに一人でバス待ちしてた時に瀬谷くんが足元に落としたスマホを拾ってあげた時のやつか。

 

「アタシ、瀬谷くんのこと狙ってるって言ったよね! なのにアンタは……」

 

「そうは言われても、私はシロだよ? バス待ちの時にスマホを拾ってあげただけだもん」

 

「じゃあ、この瀬谷くんの緩んだ顔は赤みの差した顔はなんなのよ……! いちゃついた手をしやがってからに……」

 

 歯軋りしながら磯子は、写真の瀬谷くんの顔を指差す。

 あー、確かに緩んだというか間の抜けた顔してるなー。顔は赤いけど、これ夕日が入ってるから原因は多分それだ。

 はぁ……。

 磯子を刺激しないよう静かにため息をつく。

 多分、理屈が通る相手なら逐一釈明すれば誤解だとわかる。けど、今回は条件が悪すぎた。

 なにせ写真の構図が悪い。

 肝心の拳の部分がリュックに隠れてしまってる以上、この時点で真実がどうであれ妄想の余地が生まれてくる。まして、自分に自信がない磯子が悪い想像を始めたならもう手に負えない。あらゆる要素を自分に悪いように捉えて、怒りばかり増幅させる。

 そして、正気に戻ることはしばらくない。

 

(まずったなぁ、これは俺のミスだ)

 

 やっぱ俺は『俺』であることはやめられない。当社比2割ぐらいに抑えてはいたが、なおも足りなかったらしい。

 相手は磯子。一番相手にするのがめんどくさい奴。……これは、長期戦になるかなぁ……。

 

 *

 

 磯子のその後の行動は手早かった。

 取り巻きの女子を集めて逐一俺に非難を繰り返すようになる。

 正直、それは俺が我慢するだけだからいい。

 しかし、俺は思った以上に男子に好かれていたようで、男子が勝手に擁護派をまとめて反論を始める。

 そうなったら、クラスはめちゃくちゃ。そして悪いことに女子側の反撃で『俺が八幡の事を好き』という噂が流れ始める。これは効いた。なにせ俺は八幡のことを明らかに特別扱いしていたからだ。わざわざ有栖ちゃんとトリオを組んでまで、囲おうとしていたから変に弁明できない。

 しかし、変に八幡のことを悪し様に言うのも躊躇われた。それで、八幡の心に傷をつけるのも忍びない。

 だから、俺は手を打てなかった。

 かくして事態は悪くなっていく。俺のガチ恋勢に八幡は迫害されて、俺は女子のグループから省かれている。一番とばっちりを受けたのは有栖ちゃんだろうか、しきりに俺と八幡の悪口ばかり聞かされて辟易していた。

 いつもの3人の集まりも教室の隅から、ファミレスに。ファミレスからカラオケへと人目を忍ぶようなところに移っていく。

 

(全ては俺のせいだな。これは……)

 

 結局のところ、今回の一件は俺が起こした様なものだ。さっさと『俺』でいることを諦めて女の子になりきり、女子のグループに入り込めば男子がここまで活発化することはなかった。

 俺は、いや私はあまりに彼らを勘違いさせ過ぎたのだ。自分が女子であること。それもとびきりの美少女であることの重みを本当の意味では理解していなかった。

 ……痛いなぁ。胸が痛い。私の不始末でこんなことになるなんて、八幡と有栖ちゃんに申し訳ない。

 こんなことになっても、八幡と有栖ちゃんはまだ私と付き合ってくれている。有栖ちゃんに至ってはさっさと尻尾切りをした方が効率がいいのに。

 ……このままじゃ、みんなが壊れてしまう。有栖ちゃんは本格的に攻撃の対象にされかねないし、八幡に至っては私と距離を置かないと迫害が終わらない。

 ……もう、やめにしよう。

 それが、みんなのためだ。

 

「ごめん、八幡。私のためにこうも傷ついて。有栖ちゃんは巻き込んじゃってごめん。私は誓ってシロだけど、この事態は収拾できないや……」

 

「巻き込まれたわけじゃない。だってハナから磯子たちは伽耶ちゃんを陥れようとしてた! 思えば磯子があんな隠し撮りなんて器用なことを出来るわけがない! だから、そいつがいる限りはいつだって変わらないんだよ……」

 

 有栖ちゃんが可愛い顔に憎悪を激らせながら言う。理屈は間違ってない気はする。けれども、私にはもう誰かと争う気力は残っていなかった。

 

「……八幡が、一番辛かったか。直接殴られたりもしたようだし」

 

「なんてことねえよ。二階堂が言うように首謀者は多分いるんだろうが。もうこの諍いは磯子やお前の域を超えて男女の争いにまでなってる。もう俺たちがどうしようが、止まらねえんだ。学年が変わるまで、クラス替えがあるまで大人しくするしかねえ」

 

 対して八幡はより一層眼を腐らせながら事態を分析していた。実際に採るなら八幡の言うように大人しくしているのもいいかもしれない。

 

「2人の言うことはわかるよ。でもこれ以上さ、私のせいで2人に苦労や我慢を強いるのは心苦しい。……だからさ、もう終わりにしようよ」

 

 しかし、私はすでに決断していた。

 この空間でまだ深く息が吸えるうちに、思い出が綺麗なままでいられるうちに、この場所を閉じようと決めた。

 たとえ彼らがそれを望んでいなかったのだとしても、悪意と苦しみにこの場所が歪められてしまうぐらいなら、それがいいと思った。

 

「今までありがとう。さようなら」

 

 カラオケ代をすっと机において、私は部屋を出て扉を閉める。

 

「伽耶ちゃん……! あたしたちをあんまりみくびらないでよ! あたしたちはそこまで弱くない! だから、置いていかないでよ……!」

 

 慟哭する有栖ちゃんの声が聞こえるが、足は止めない。

 いつか、私が正しかったのだと。そうわかる日が来る。

 たとえ、唯一の居場所を失おうとも。それらが在ったという事実だけで救われる日が来ると信じて。

 ……ああ、でも。辛いものは辛いなぁ……。

 一筋、はらりと涙が落ちる。それが嫌にしょっぱかった。

 



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第4話 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。


5話にして日刊ランキングに載せていただきました。
嬉しいっちゃ嬉しいんですが、震えが止まらんのはどうしてか。みなさま、ありがとうございます。
ちなみに、今回は初の八幡視点でお送りします。


 

 中山が一人去った後、残されたのは二階堂と俺だけだった。

 二階堂は拳を握りしめて今も扉の向こうを睨みつけている。可愛い顔をしてこいつは気性が荒く、そしてプライドが高い。だから、中山に全て背負わせてしまった自分に腹を立てていた。

 空気が重い。俺とて二階堂とは知らない仲ではないが、こうも険悪なムードで二人きりになることはなかった。

 

「……比企谷はさ、悔しくないの? あいつらの思い通りにいってさ。あたしは悔しいよ」

 

「悔しいって言えば、悔しいがな……。お前ら以外に友達がいない俺に何が出来るってんだ」

 

「けれど、何かをしないと伽耶ちゃんが帰ってくることはきっとない。あたしはやられたままでは絶対に済まさない。必ず磯子にやり返してやるから」

 

 そう言う二階堂の目は濁りに濁っていた。それに二階堂の気性の荒さを鑑みるにあまり穏便に終わる気が欠片もしない。

 

「なら少しは考えようぜ。中山は俺たちが傷つくのが嫌だから離れた。なら、少しでもこっちに被害の少ない方で戦う他ないだろ」

 

「……一緒にやってくれるんだ?」

 

「お前だけだと危なっかしいからな。2人でやった方がまだ合理的だ」

 

 本当なら、止めるべきだったんだろう。中山ならこんな二階堂の姿なんて見たくなかったはずだろうから。だが、さりとて気性が高ぶっている二階堂を止めるのは難しい。なら、俺に残された選択肢は二階堂の手綱を取って制御することだけ。

 ……それにしても、この中身は闘牛、ガワはポメラニアンな二階堂を御することなど、果たして本当に出来るだろうか。考えるだけで頭が痛くなってきた……。

 

 *

 

 ドリンクバーで飲み物を調達して部屋に戻る。人目を避けるためにわざわざ四街道のカラオケに来てるから多分顔を知ってる相手と出くわすことはないだろう。

 ガムシロを大量に入れたコーヒーをストローで飲み干す。これから今回の騒動について振り返るが、かなり頭を使う。糖分を摂取しておこう。

 

「相変わらず比企谷ってコーヒーにドバドバミルクとか入れるよね……。美味しい? というかコーヒー選ぶ意味ある? それ」

 

「俺だって本当はマッ缶がいいんだよ。だが、ここ持ち込みができねえじゃねえか」

 

「ああ、なるほど。……あんなの好んで飲むのは、子供とアンタだけだよ」

 

 白けた目で俺を見ながら、二階堂はトマトジュースを啜る。カラオケに来て初手にトマトジュースを飲むのも大概だと思うが、黙っておいた。

 互いに対面に座り、これまでの経緯を確認する。

 まず、発端は女子同士の人の狙ってる男を獲ってはいけないという暗黙の了解を中山が破ったことにされたところから始まる。

 中山を嵌めた真犯人がいると二階堂は推察していたが、これを探すのは極めて難しい。発端がもう2週間ぐらい前のことで、その時バス停の周りにいた生徒をあたろうにももう記憶が風化してるし、何より絞り込む当てがない。

 したがってこれはボツだ。

 となると、今のところ活発に動いている磯子を封じ込める必要があった。

 

「なぁ二階堂。なんとか磯子と瀬谷を2人きりにできないか?」

 

「その2人を集めて比企谷はどうしたいのさ」

 

「磯子に告白させて、その色恋を終わらせるんだよ。今回の件は要するに嫉妬だろ。だが、半端に手が届くと思ってるからその余地があるんだ。振られて叶わないとわからせるか、もしくは成就するか。どちらにせよ今の状況から進めないと話にならない」

 

「なら、終業式の日には勝手にそうなっていると思うよ。女子の噂では磯子が瀬谷くんに告るつもりだって」

 

 興味なさそうに二階堂はトマトジュースをさらに啜る。……それにしても肺活量えぐいな。一回で250ミリリットルぐらい飲んでないか? 

 

「だったら、話が早い。磯子は放っておいて瀬谷に当たればいい。……が、俺は瀬谷と話したことがないんだよなぁ……」

 

 瀬谷誠也。

 俺たちのクラスの男子側のカーストリーダー。性格は真面目で面倒見が良い。モテるが、その手の話は苦手なようで瀬谷から誰かが好きだという話を聞いたことはない。

 

「心配はいらないんじゃない? よっぽど忙しくなければ取り合ってくれるよ。いざという時はヘタレだけど」

 

「お前はいちいち瀬谷を詰らなきゃ気が済まんのか……。あいつだって頑張ってただろうに」

 

「けれど、初動で止められなかった。違う?」

 

 剃刀のような切れ味の舌鋒。向けられた相手でない俺でもぞわりと肝が冷える。

 

「あたしは、許してないよ。良い人であることは分かるけど、でもやっぱ不甲斐ないもん」

 

 ……まあ、隔意がある二階堂すら認めざるを得ないほど、瀬谷が良いやつであるのは確かだ。話をするだけなら、付き合ってくれるだろう。

 それに、こいつの挙動に関して一つ気になることがあるのだ。そこを確かめておきたい。

 

 *

 

 裏門の脇で待っていると件の人物は二階堂に伴われてやってきた。

 

「さて、瀬谷くん。こんなところまで呼び出して悪かったわね」

 

「いや、僕はかまわないよ。君たちには負い目があるからね」

 

 そう言って瀬谷は目を伏せる。

 騒動の最初の頃は瀬谷も鎮圧に回っていた。だが、磯子の過熱ぶりがその上をいき「あの女にたらし込まれたアンタが言っても説得力がない」と切り捨てられていた。

 思えば、この時からだろうか。騒動の主題が真偽を問うものから、中山の排斥に変わったのは。それは同時に安易に手がつけられなくなった瞬間であった。

 まあ、負い目を感じているならやりやすくていい。俺は頭の中で予め用意した台詞を読み上げる。

 

「じゃあ、単刀直入に言う。中山のこと、諦めてくれないか?」

 

「……わかっていたのか。誰にも言ったことはないのに……」

 

「少し考えればな。騒動の経過を冷静に観察すれば推察はできる。なにせ、中山を擁護する男子のグループを作ったのはお前だろ」

 

 よくよく考えたら、一部の男子の勢力がクラスで一番勢力の強い磯子の勢力と張り合えるのはなかなかパワーバランスがおかしい。ありえるとしたら、男子側の高位カーストが軒並み中山に味方した場合。だが、それもさすがに中山の独力ではあり得ないことで確実に手を加えた者がいる。

 それほどの影響力がある人物となると、候補は必然限られていた。

 

「そうだ。僕が言っても聞き入れてくれなかったから、やむを得なかったんだ」

 

「だがな、瀬谷。お前のやり方じゃもうどうにもならんぞ。現に一部の男子が言うこと聞かなくて俺に当たりはじめてるじゃねーか。もう、この騒動はまともじゃない。それを口実に気に食わない奴を叩く道具になってしまってる」

 

「確かにな……。けど、どうしたらいい? 何か手があるのか?」

 

 瀬谷も瀬谷でかなり迷って今の事態にたどり着いたはずだ。だが、収まる目処は立たなくて悩んでいた。正味、藁にも縋りたい心境だろう。

 

「ある。が、お前の心次第だ」

 

 だから、俺は盛大につけ込むことにした。

 

「聞こう。正直、僕の恋心よりクラスの騒動の収拾を優先したい。これ以上、不毛な争いを繰り広げるのは望むところではないからね」

 

 真摯な目で瀬谷は答える。かくして密約は成立した。

 

 *

 

 結局のところ、磯子が起こした騒動は終業式の日に磯子が瀬谷に告白し、あえなく振られてその恋に決着をつけさせることでケリがつく。

 俺はその決着の場に瀬谷を引き摺り出したに過ぎない。

 中山擁護の構えを取っていた瀬谷では磯子の呼び出しに応じることはなかっただろう。だから、俺はあの時に瀬谷に中山擁護の男子グループを解体するように頼んだ。かくして、無事に磯子は告白ができて、振られたというわけだ。

 見事に瀬谷に振られた磯子は、争う気力を失い大人しくなった。戦いが終われば、中山を過剰に敵視する理由もなくなるしな。

 不謹慎にも二階堂はしょんぼりする磯子を見て「結局のところ、女子の汚いところを見ると男子は引くんだよ。伽耶ちゃんを蹴落とそうと思った時点で負けだね」と死体蹴りを食らわせていた。磯子もそうだが二階堂も十分怖いわ、戸締まりすとこ。

 

「すまなかったね。……俺は中山のことが好きだったけど、もう告白できる機会を失った。君たちにも悪いことをした……」

 

 件の告白もとい公開処刑の後、瀬谷は律儀に俺たちに頭を下げに来た。

 

「ひどい目にあってるが、冷静に考えてみれば瀬谷は何も悪いことはしていない。謝る必要なんかないぞ」

 

 思えば、こいつも今回の被害者なのだろう。好きな人と出会して喜んでいたら、その場面を中山を恨む奴の謀略に使われて好きな人を貶められただけなのだから。

 

「もう遅いかもだけど、君に当たってる連中を抑えるのに協力するよ。磯子さんが落ち着いた今なら俺でも男子達を抑えられるだろうから」

 

「それは助かる。是非ともお願いしていいか?」

 

「任せてくれ。もう僕は間違えたりはしない」

 

 そう言って瀬谷は去っていく。それを見送った後安堵して俺は長く息をついた。

 これで、騒動は終わる。平穏が帰ってくる。

 中山もまた帰ってきてくれるだろう。

 そうすれば、また3人で……。

 

 *

 

 磯子の沈黙や瀬谷の援護を得た結果、年が明ける頃には俺が迫害されることはなくなった。

 ……けれども、中山は帰ってこない。

 女子である二階堂と中山が一緒に行動することはままあるし、3人で遊んだりもする。

 けれど、俺と中山が2人で行動することは減った。たまに2人で話すことはあっても、前のように肩が触れ合うような距離まで近づくことはない。

 どこか境界線を引かれているような、そんな錯覚を覚える。

 あの日からずっと彼女の一人称は『私』のままだった。

 

(実のところ、小学校の終わりぐらいから覚悟をしていた。中山が俺の横から離れていくことを。何が理由になるかは分かってなかった。けれども、ずっと一緒にいられるわけではないと予感していた)

 

 本当は俺は目を逸らしていた。

 ただ、無邪気に信じたかったのだ。

 磯子が引き起こした騒動が収まれば、中山は帰って来てくれると。

 だが、本質が分かれば筋違いな期待だとすぐにわかる。

 俺たちを隔てたのは磯子の嫉妬ではない。あれは氷山の一角に過ぎず、本当の原因は男子と女子を取り巻く環境とその境界線なのだと。

そして、俺は中山ならその境界線を飛び越えてくれると勝手に期待していた。

 けれど、それは俺が勝手に押し付けたものだ。

 ……本当の中山は俺が傷ついてしまうぐらいなら、その翼を畳める優しい女の子だったのだから。

 



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第5話 夏休みとは学生の特権であり、不輸不入地である。

 
一過性かと思ったら、また日刊ランキングに載せていただきました。 正直、このクソ重しみったれストーリーのどこが皆様の琴線に触れたのかがさっぱりわかりませんが、応援してくださりありがとうございます。



 

 日差しがジリジリと暑くなってきた。

 そろそろ日焼け止めとか塗らないといけない時期かな。私、白人側の血が濃いから日差しに当たってもあまり色が黒くなることはないけれど、反面かなりヒリヒリする性質だからさ。

 そんなことを考えながら、学校からの帰り道を一人で歩く。最近はこれが多い。2年になって八幡と有栖ちゃんとは別のクラスになったこともあるだろうか。

 あの騒動から半年が経って夏が来た。

 八幡と有栖ちゃんの頑張り、あと瀬谷くんの協力で確かに私たちは平穏を再び掴み取った。けれど、もうそれ以前のような距離感には戻れない。

 なぜなら、私は知ってしまったからだ。

 学校というのはあまりに閉じた世界では大人にとっては小さく思えることで揺れ動く。その中でも色恋とそれに付随する事象は最大事であること。

 そして、その中で『俺』を通して男子側に立つことはそれを誘発してしまうことを。

 だから、もう八幡には必要以上に近づかない。あくまで友達の一人として扱うことにする。寂しいが、致し方のないことだった。

 

(私はすでに『俺』であろうとして、母さんを壊したんだ。……だから、もう同じ失敗はしない)

 

 生暖かい風が吹いて、私の髪を揺らす。

 この半年間、私は髪の毛を切らずに伸ばし続けて今では腰まで届くぐらいのロングヘアになっている。セミロングまでにしていた時よりも「女の子らしい」と言われることが大きくなった。母さんも心なしか最近の私を見て安心しているように思う。

 それでいい。

 だって私は女の子なんだから。

 

 *

 

 1学期末に私と熱い夏を過ごそうと告白してきた男子達をあらかた撃墜し、ようやく夏休みが始まる。

 家で母さんと顔を会わせたくない私は、友達と遊ぶ時以外は日がな自転車や電車で千葉のあちらこちらを周っていた。あと、父さんのところに遊びに行ったりもする。

 

「遠かったのに、よく来たね。伽耶」

 

 新幹線に乗って2時間ぐらい。仙台の駅で父さんは私を出迎えてくれた。

 

「お父さん、撮影の方はどう?」

 

「今のところは順調だよ。そっちは?」

 

「うーん、まぁ私はぼちぼちって言ったところかな……」

 

 父さんは映画監督として日本ときどき海外を飛び回っている。賞も何個か取ってるみたいで、映画オタクの友達に聞けば名前が出てくるぐらいには有名らしい。だからか、かなり多忙で家には年間で1か月ぐらいしか帰ってこない。

 

「まあ、伽耶の個性は強すぎるからね。狭い学校の中じゃそりゃあ浮くさ。けれど、それで諦めちゃいけない。伽耶が個性を通し続ければ、いつか向こうから同じぐらいの個性で張り合えるぐらいの人が現れる。その人と友達になればいいのさ。……何度も言ってることだけれどね」

 

 正直、父さんはだいぶ変わっている人だ。人当たりはいいんだけど、どこか超然としているところがある。

 私が『俺』を通しても、母さんは壊れる一方で、父さんはさして変わらなかった。むしろ「僕の娘だ。奇妙奇天烈の方がらしいよ」と明け透けに笑ってしまえるほどだ。

 

「それで、八幡くんとはどうしてる? 久しぶりに聞きたいな」

 

「……ええ。 あんまり話したくないんだけど」

 

「おいおい、それこそ何かあったって言ってるようなものだよ。尚更気になるじゃないか。教えてくれよ」

 

 やたらグイグイくる父さんに私は屈した。

 牛タンとずんだ餅に笹かまぼこ。ついでに萩の月。

 密かに楽しみにしていた仙台名物を「話さなければ食わさない」と言われてしまっては流石の私も降伏せざるを得ない。

 ひとしきり八幡についてゲロった後、父さんは寂しげな笑みを浮かべた。

 

「そうか、八幡くんも違ったのかもしれないな」

 

「そんなんじゃないって八幡は。ただのどこかに埋もれてる男の子。目は腐ってるけど」

 

「世間一般的に言えばね。けれど、子供の頃の伽耶を救ってはいた」

 

 父さんの言う通り、そこは否定できない。

 八幡の前では私は『俺』でいられた。自分を偽らなくていいことが、『俺』がまだ生きていていいことを許してくれていた。また、同時に女としての『私』をも受け入れてくれた。なんというか本当に自分を見てもらえてた気がする。

『俺』も『私』も基本的にはどちらか片方しか人間は受容できない。その数少ない例外が父さんであり、八幡であった。

 つまるところ、私は八幡を引っ張っているようでいて、実のところ甘えていたのだ。

 今になって、そのことに気がついた。

 

「大人になっていくに連れて人との付き合い方は変わる。同じ人が相手でもだ。真心だけで友達ができるわけじゃあない。意識的か否か差はあるけど、僕たちは対面する誰かに役割を求めている。伽耶、君は今の八幡くんに何を求めているのかな?」

 

 続けて出された父さんの問いに、私は答えられなかった。

 多分、これが今後の私への宿題なのだろう。

 あらかた話をした後、私と父さんは牛タンを食べに行った。

 塩味と肉の旨みが効いてておいしい。千葉でもワオンモールとかのフードコートにあったりするけど、高いから学生じゃ手を出せないんだよね、あれ。

 

「さて、そろそろ僕も千葉に戻ろうかな。四十も越えたし、そろそろ撮影のために全国を飛び回る生活も疲れてきたんだ」

 

 食後、父さんが煙草を喫いながら言う。確かに昔に比べると今の父さんはどこかくたびれているところがあった。

 

「それはそれで嬉しいけどさ。お父さん、東京だけで仕事ができる? 偉そうに仕事が選べるほど売れてないでしょ?」

 

「まぁね。けど、この次に撮る映画が当たれば、ワンチャンあると思ってる。大枚叩いて月9の女優さんを主演に引っ張ってきたんだ」

 

「へえ、それはすごい。じゃあ、頑張らなくちゃじゃん」

 

「ああ、頑張るよ。大人になる最後の何年かぐらいは伽耶の側にいてあげたいからね」

 

 親バカ満載な発言をして父さんは笑う。

 正直、家庭人としてはゴミクソだけど父さんがお父さんで良かった。まともな人間だったら、私の存在を肯定することはなかった気がしたから。

 

 *

 

 私が父さんのところから帰ってきたのは、お盆が終わったあたりのことだった。かれこれ3週間ぐらいは仙台にいたことになる。

 その間に経費節約のために私が映画にエキストラとして出演するとかやってたからだいぶ濃い3週間だった。出演料として諭吉4枚くれたのも大きい。

 臨時収入も来て、3週間も八幡や有栖ちゃんを放置しちゃったから埋め合わせで夏休み後半は思いっきり遊んだ。

 例えば、東京の秋川にある某プール施設に3人で行ったり、江ノ島に行ったりした。

 全部千葉県外で物理的に2人を振り回しちゃったけど、致し方ない。だって変に近くで遊んでまた噂が再燃されたら3人が困るし。有栖ちゃんはともかく、八幡は学年でも指折りの美少女2人の水着姿を拝めたのだから、そこはご了承いただきたい。

 

「それにしても、こんなに3人で豪快に遊んだのは久しぶりだよねー」

 

「そうだな」

 

 江ノ島からの帰りの横須賀線で、私と八幡は車窓を眺めながら話していた。有栖ちゃんは疲れてたみたいで、北鎌倉の辺りですでに寝てしまっている。こんな具合に八幡と1対1で話すのはそれこそ半年ぶりぐらいだろうか。

 

「やっぱさ、八幡は気にしてるよね。私がこうやって距離を取り出したこと」

 

「まあな。だが、おかしいことではないんじゃないか? リア充でも付き合ってない奴同士がそこまで男女で一対一になることはない気がする」

 

「なら、間違ってることではないんだね。それがわかって安心したよ。……そうじゃないと意味がなかった」

 

 秋川の時は散々八幡に水着を見せびらかしてからかって遊んでたけど、そんな昔のようなことはよほど環境を整えないとできない。小学校の時のようにクラスを越えて話しかけにいくことも、リスクを知ってしまった今の私ではもうできなかった。

 だから、有栖ちゃんが変わらずに側にいてくれているとはいえ、八幡に寂しい思いをさせてしまっている。

 

「八幡。気づいているとは思うけど、私はもう八幡を傷つけたくない。八幡側が平気でも私がもう耐えられなくなってきてる。だから、もう前みたく気軽に男女の境界線を越えることはできない。そこはわかって」

 

「とうにわかってるよ、そんなことは。……だから、そんな泣きそうな顔をするな」

 

「悪いね。勝手に決めて、勝手に泣きそうになって。でも、それでも八幡とこうしてずっと話せる関係性でいたいからさ……」

 

 言ってて、強い罪悪感を覚える。

 だってこれは私から八幡への『安息地』としての役割の強制だ。原作で八幡がガハマさんやゆきのんに勝手に期待したように、私も八幡に勝手に期待して、それこそ依存した。

 気づかずにやってるなら、まだ良かった。けれど、私は自覚してなお八幡にそれを、『偽物』を強いている。

 

「別に構わねえよ。どうやら俺は元来1人でいてもそれほど困らない性質みたいだからな。ただ、あるべきところに帰るだけだ」

 

 弁解する私に対して八幡は何やら変な見栄を張る。や、その推測は別に間違ってないんだけどね。

 我慢して、取り繕ってまで私はこの関係性を失いたくなかった。

 だとしても、後ろめたさがついて回る。

 本当なら前と同じように『俺』らしくずっと側につるんでいたかった。

 けれど、そうしたら全てを失いそうで怖かった。

 だから、私は逃げ出したのだ。『俺』からも『本物』からも。

 今の私は何者か。

 そう聞かれたら、おそらく私は敗北者としか答えられない。

 



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第6話 旅行はなんだかんだで計画してる時が一番楽しい


一週間ぶりの流水麺です。今までは何故か隔日投稿ができてましたが、正直アレは自分にとっては異常事態です。これからのペースはだいたい今回ぐらいの感じになるかと思います。
ちなみに、浮かれ八幡視点でお送りします。


 

 夏休みという名の確変期間が終わり、日常が訪れる。

 クラスの中でひっそりと佇み、たまに二階堂と話を交わす半ぼっちライフが帰ってきた。

 合唱祭も体育祭もひっそりと陰でやり過ごし、中間試験はきっちり上の下の成績をキープ。なんてこともなく、特別なこともない日々。

 そんな日々を1ヶ月ほど繰り返すと2年生で最も大きな行事である宿泊学習の足音がやってくる。

 そういえば、そういう季節か……。

 クラスは浮き足だっているが、俺としてはあまり興味があるわけではない。知らない土地で刺激を受けるのは楽しいし嫌いじゃないのだが、学校行事で強制されると流石に萎える。

 

「今年の宿泊学習は日光と宇都宮にする。詳しくはこのしおりを見てほしい」

 

 担任に指示されてホームルームの最初に配られたしおりを気だるげにパラパラとめくる。

 1泊2日の行程で1日目に日光入り、日光東照宮を見学した後に宿泊先の湯元温泉の研修施設に移る。そこで夕飯として班別にカレー作りとバーベキュー。部屋割りは班をそのまま流用するらしい。

 そして、翌日の朝に宇都宮に入り、その日は班別に自由散策。最後に宇都宮駅で新幹線に乗り、千葉に帰るというものだ。

 

(……自由行動があるのか。まぁ、俺にとって自由なんてないけどな)

 

 班行動となると、余り物の俺の意見が顧みられることなどない。だってぼっちだし。だから、班の他の奴らの後ろをついて行くことになるだろう。

 

「じゃあ、班決めをするぞー」

 

 説明を終えた担任によってぼっち殺しの特攻呪文が炸裂する。クラスの他の連中はそれぞれめいめいに動き出す中、俺は巨岩のように自分の席に鎮座する。どっちにしろ、結末は変わらないのだ。なら、省エネの方がいい。

 ボーっとクラスの中の悲喜交々を眺めていると、すーっと二階堂がこっちに近づいてきた。

 

「比企谷、とりあえずあたしと組もうかー」

 

「お前、他の男子とそこそこ話してたんじゃねーか。そいつと組んでやらんでよかったのか?」

 

「うーん、明らかにあたし狙いだったから、ちょっと引いてこっちにきちゃった」

 

 無愛想だが純粋な顔立ちで言えば、二階堂はクラスの中で頭二つ抜け出ているからあり得ない話でもない。普段の言動と行動がアレだが、いわゆるこいつは高嶺の花と呼ばれる人種であることをついつい忘れがちになる。

 

「きちゃった。じゃねーよ。なんなの、俺のこと好きなの?」

 

「まぁ好きだよ。2日間ずっとだる絡みして良心が咎めないからね。本当に扱いやすくて大好き」

 

「すげえなお前。可愛い女子に好きだと言われて、ここまで嬉しくないのは初めてだわ」

 

 こうも明け透けに言われると勘違いの余地もない。少しぐらいは希望を持たせて欲しいところだ。

 

「で、どうするの?」

 

「組むわ。2日間、話し相手がいないのもアレだからな。小町の代わりだ、代わり」

 

 そう、俺がこの宿泊学習で耐えがたいのは班行動ではなく、愛しの小町と丸2日逢えないことなのだ。小町抜きで疎外感のスリップダメージをくらい続けたら、さすがのぼっちストである俺のライフが保たないのは明らかだった。

 

「じゃあ、決まりだね」

 

 そう言って二階堂はとてとてと黒板に自分と俺の名前を書きに行く。

 その後は、完全に二階堂に任せた。友達こそいないが、全く物怖じせずなおかつ裏がない二階堂は同じぼっちでも俺と違ってクラス内でもかなり発言力はある方だ。適当に余りを見繕って班決めすることはできるだろう。

 待つことしばし。

 

「君が比企谷くんだよねっ! あたしは折本かおりっ! 同じ班になったからヨロ!」

 

 机に突っ伏す俺に手のひらを差し出して屈託のない笑顔で微笑む彼女。クラスの奴らに興味のない俺でも彼女の名前は知っていた。なにせ中山と二階堂、瀬谷以外で俺に挨拶なんてしてくるのはこいつしかいないのだから。

 

「ああ、よろしく。折本」

 

 差し出された手のひらを握る。

 すべすべで柔らかい、女の子の手。

 やけに距離が近くて、嫌に意識してしまう。

 ……こういうのは、中山で慣れたと思っていたんだけどな。あれから随分と俺の免疫力も落ちたらしい。

 俺は折本の顔を真正面から見ることができなかった。

 

 *

 

 帰宅した俺は自分の携帯を何気となく眺めていた。

 班決めの後、そのまま宇都宮で回る場所の話し合いをしていたが、時間が足りなくて後日に回すことになった。

 その際に、折本のSNSのアカウントを教えてもらったのだ。

 

「『比企谷がいいと思ったところを教えてね』か……」

 

 意図せずとして、俺もまたガッツリと宿泊学習に絡むことになってしまった。中山にあちこち振り回されてるから旅慣れている側だと思うが、他人と行くことなんてほぼ考慮してなかったからこれが案外難しい。

 ネットと家にあったじゃらんを交互に睨み、良さげだと思ったところを二階堂と折本に伝えて意見をもらう。

 二階堂と折本。

 女の子のタイプとしては正反対の2人だから返ってくる反応も正反対で、そのギャップが結構面白かった。

 二階堂が喜んだ場所では折本がつまらなさそうな反応を返し、折本が喜ぶようなところでは二階堂は「騒がしいからやだ」とバッサリ切り捨てる。

 癖が強いこの2人が満足する行程なら多くの人が楽しめる行程になる気がする。不思議と力が入った。

 

「お兄ちゃん、ごはんだよ〜。ってあれ? まだ調べ物の途中?」

 

「ああ、小町か」

 

 パキパキと首を鳴らしながら壁時計を見上げると、7時を越えていた。となると普段ならだいたい小町の飯が出来上がってる頃だろう。よほど俺は集中していたらしい。

 

「飯は食う、今から行くから待ってろ」

 

 カツカツと階段を降りてリビングの扉を開け、食卓に座る。

 今日のメニューはカレーだった。調べ物をしている時に匂いがしたから分かる。

 

「お兄ちゃん気合い入ってたね。有栖さんと宇都宮回るの?」

 

「二階堂とは同じ班だからなあ……同じぼっち同士なら手を組むのが得策だろ? なにせ互いの傷が浅くて済む」

 

「……わあ、流石のお兄ちゃんだ。普通だったら、有栖さんみたいな可愛い人と回れるってなったらもうちょっとテンション上がってると思うんだけど」

 

「ないない、二階堂の見た目がいいのは確かだが、本当に可愛らしいのはガワだけだ。よく食うし、悪態はついてくる。告白はされてるみたいだが、正直なところアレと付き合おうと思うやつの気がしれない」

 

 二階堂は付き合えば必ず苦労する女だと目に見えている。

 義理堅かったり言動が明快だったり、いいところも結構あるっちゃあるんだが、どうしてもアラの方が目立つんだよなぁ、あいつ。

 

「うわぁ、やっぱ有栖さんに当たりが強いなぁ。……でも、頑張るんだよね」

 

「まあな」

 

 それでも、あいつは嫌いにはなれない。喜んでる姿が見たいと思うぐらいにはあいつに対して情が湧いていた。

 

「はいはい捻デレ捻デレ。普段から素直に接しておけば、有栖さんも可愛らしく振る舞ってくれるかもよ?」

 

「だから、二階堂とはそんなんじゃねえよ。なんというかな……」

 

 口に出して分からなくなる。よくよく考えてみたら、定義することをしてこなかった。

 果たして俺と二階堂はどういう関係なのだろうか。なんだかんだで4年近く付き合いがあるから互いの事情も性格も知っている。ただ、それだけだ。

 見た目がいいのは十分思い知らされてはいるが、彼女に対して邪な感情を抱いた覚えはあんまりない。

 恋愛感情はなく、友達というにはあまり馴れ合うことをしなかった。そのくせしていっちょ前に連帯感を持っているのだ。

 ならば、俺とあいつは……。

 

「『仲間』かね、あいつは」

 

 恋愛とも友情とも断定しきれないなら、残された択はそれぐらいしかない。でも、それが不思議としっくりきた。

 

「なんにせよ、小町にはどうでもいいけどさー。せっかくの宿泊学習なんだし、いい具合のお土産話を期待してるよ。あ、今の小町的にポイント高い!」

 

 頬杖をつきながらにっと笑う小町。

 なんだよ、どうでもいいなら深く考えて損したわ。

 ……ただまぁ楽しい旅行になって欲しいとは思う。

 今までと違ってかなりの労力をかけさせられている。ならば、それに見合ったリターンが欲しくなるのが人情ってものだ。

 

「まあ、あんまり期待しないで待っててくれ」

 

 小町にそう返して飯をかっ食らう。

 あいつらが寝る前に追い込みをかけてしまおう。

 計画はまだ立てきれてない。楽しむにしてもまずはそこからやらなくてはならなかった。

 



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第7話 どうにも油物は胃に重たい。

どうも、水着回は書けないくせに油物で一話引っ張れる流水麺です。正直なところ、自分の異質さに震えています。普通は逆でしょ、コレ……。

今回も八幡視点でお送り致します。


 

 カラカラとスーツケースを転がる音が鳴る。

 普段から見慣れている景色だが、こうしてみると新鮮味を感じる。なんかこう合法的にサボれるっていいよね。

 将来、会社をサボって通勤電車を普段とは逆方向に乗る予行練習をしていると、見慣れた赤い髪が視界に留まった。

 

「あ、八幡」

 

「中山か」

 

 俺と中山は学区が同じこともあり、家が近い。だから必然的に学校への経路も重なってくる。

 今まではあえて時間帯をずらしていたから鉢合わせることはなかったが、あいにく今日は集合時間が厳密に決められているためそこまで差がなかったのだろう。

 

「…………」

 

「あはは」

 

 互いに顔を見合わせて、中山が困ったように笑う。

 小学生の時分ならばここから他愛のない会話を繰り広げるのだが、それは今は昔の話。俺はとうに気安く彼女に話しかける術を失ってしまっていた。

 けれど、離れようとは思わなくてちらちらと中山の様子を伺いながら歩いていく。

 トレードマークの赤い髪は腰まで伸びて、手脚もすらりと長くて細いモデル体型。

 胸は去年の時点でも大きかったが、今はさらに大きくたわわに実っている。カップ数は詳しく分からないが、おそらくDカップは越えているだろうか。

 ……なんというか、本当に綺麗になった。小学校の頃の男友達感はいったいどこにいってしまったのだろうとすら思う。

 

「うーん、流石の八幡でもこういった感じで盗み見られるのは少しキツイかな」

 

「……悪い」

 

 窘めるようにじとりと目線を向けられた。

 その空色の澄んだ瞳だけは、昔と変わらない。他があまりにも変わってしまっただけに、より際立って見える。

 

「まあ、いいや。八幡にちょっと盛りのついた猿みたいな目で見られているってことはそれだけちゃんと女の子出来てるってことだしね。……あ、そうだ。せっかくだからコレ渡しとこ」

 

 そう言って中山は鞄からおもむろにタッパーを取り出す。その中には唐揚げが7、8個ほど入っていた。

 

「ちょっと作りすぎちゃってね。班のみんなで分けようかと思ったけど、八幡でもいいかな」

 

「お前、料理できたんだな」

 

「最近やるようになったんだ。味は悪くはないと思うけど、ついつい量を作りすぎちゃう*1んだよね」

 

「とりあえず、ありがたくもらっとくわ。……一つ、食べてもいいか?」

 

「いいよ、ちょっと恥ずかしいけどね」

 

 中山に見守られる中、唐揚げに爪楊枝を刺して口に入れる。少し冷めているが、サクッとした食感があって肉汁もしつこくない。味付けも淡白でちょうど良くていくらでも食べれそうだった。

 ……実のところ、俺は少し中山の技量を疑問視していた。なにせ、中山が料理をするなんてイメージはなかったからだ。小学校の家庭科の授業でも特に目立った何かをしていた覚えはない。

 

「普通に美味いな、これ」

 

「家事をしてた八幡にそう言ってもらえるなら上出来だね。ありがとう自信がついたよ」

 

 褒められて中山ははにかむ。ああ、こういう褒められなれてないところは変わらない。そこに安堵した俺がいた。

 

(それにしても、あの中山が料理ね……)

 

 妙な感慨に囚われつつタッパーを鞄にしまう。

 ますます、俺が知る中山が遠くに離れていく。彼女の成長に対してそんな感想を抱くあたり、どこか俺は拗らせているらしかった。

 

 *

 

 学校に集合した後、俺たちは班ごとに大型バスに詰め込まれていく。

 俺たちの班は7人でバスの座席は左右に2人がけで、バスの座席数はクラスの数より多い。となると分かるな? 俺がぼっち席になることがな! 

 贅沢に隣の席に手荷物を置き、窓の外の景色を眺めた。

 京葉線側の高層ビルや物流倉庫を眺めた後は江戸川沿いを走る。ただ、この区間はトンネルになってしまって景色は見えない。慣れない荷物を持って歩いてきたからか存外体力を消耗していたようで、俺の意識は闇に堕ちていった。

 

 ………………

 ………………

 

 ガタリとバスが止まる音で目が覚めた。

 窓の外を見れば、すでに何人かの生徒がバスを降りているのが見える。どうやらサービスエリアでのトイレ休憩らしい。

 よし、なら俺も……と席から出ようとした時に、肩に何かがもたれかかってくる感触があった。

 石鹸のようないい香りが鼻腔に入り、よく手入れされた髪の毛が首にかかってくすぐったい。

 寝息のたびに二の腕に当たっている胸が上下してえも言われぬ弾力が俺の良心を苛む。

 

「……お前か」

 

 いつのまにか二階堂が俺の隣に移ってきたらしい。ご丁寧に席に載せていた荷物は前の座席の下に置いてあった。

 さすがに邪魔なので軽く揺さぶって起こそうとするが、反応がない。無理に押し除けようにもあまりに体に密着されてて気が引ける。

 

「ここまでしても、起きないか。本当に油断し切ってるなお前……」

 

 長いまつ毛に、硬質さを僅かに感じさせながらもあどけない顔立ち。無防備に眠っているからより可憐さが際立つ。

 本当に顔面偏差値だけは異様に高い女だ。

 いつもこんな風に大人しくしていたら、二階堂はどれだけの男子を堕としていたのだろうか。考えるだけでも恐ろしい。この見た目で気性を荒くしたあたり、なんだかんだで世の中は帳尻が合うように出来ていると思える。

 ……仕方ない、トイレは諦めるか。

 俺はすっぱり諦めて、鞄から中山からもらった唐揚げを出す。

 これから向かう日光東照宮はクラス行動で昼食があり、食べた後にはすぐにバスに乗って湯元温泉ではすぐに晩飯の調理を始めなくてはならない。思えば、お腹が空いてるタイミングは今ぐらいしかなかった。

 のそのそと残ってる分を食べ始める。完全に冷め切ってもそこまで風味が落ちないあたり、本当にあいつの料理の腕が高いのだと分かる。

 ……つーかこの唐揚げのレシピ、マジで教えてくれねえかな。小町に覚えてもらって毎日食いたいんだけど。

 

「ん、唐揚げ……?」

 

 眠気眼をこすりながら二階堂が目を覚ます。そして、すぐに視線が唐揚げに引き寄せられた。

 

「ねえ、比企谷。お腹空いたからそれ少しもらっていい?」

 

「いいぞ。多分俺一人じゃ食い切れねえからな」

 

 中山の唐揚げは味付けこそ食べやすいが、一個一個がかなり大きい。累計で4個食べたがすでにかなりお腹に溜まっている。食い切れないことはないが、日光の昼飯まで食えるかと聞かれたら、正直分からん。

 

「じゃあ、ゴチになりまーす」

 

 言うや否や、二階堂は唐揚げに爪楊枝を刺してそのままかぷりつき、二、三口で咀嚼してそのまま嚥下した。

 うーん、見た目らしからぬ豪快な食いっぷり。俺じゃなきゃ見逃しちゃうね。

 

「やっぱ、伽耶ちゃん料理上手いなあ。冷めても美味しいし」

 

「だよな。……で、なんで中山が作ったとわかった?」

 

「食感だね。伽耶ちゃんが料理作り始めた時によく食べさせてもらってたから、伽耶ちゃんの作り方の癖は分かるよ。何故か茶色い料理作るのが異様に上手い*2んだよね」

 

 なんでもないことのように言うが、俺はそんなことがあったなんて耳にしたことすらなかった。

 

「伽耶ちゃんは料理だけじゃないよ? 他の家事も出来るようになってた。なんというかな、生活力がすでに備わってる。お母さんが最近あまり家に寄り付かないみたいだから、そうならざるを得なかったんだと思うけど……」

 

 そこまで言って二階堂は突然「あ」と口を噤んだ。そして、わたわたと慌て出す。

 

「ごめん、比企谷。今言ったこと忘れて。比企谷に知られたと分かれば、あたしが伽耶ちゃんの料理を食べられなくなっちゃう」

 

「……ああ、わかった」

 

 口では言うが、到底忘れられそうにない。

 あいつと母親の折り合いがそこまで良くないことは、知らされないながらも薄々は気づいていた。

 しかし、母親が家に寄りつかないは相当だ。あいつの父親は変人ながらいい人だが、家に帰ることはほとんどない。となると、最近の中山はほぼ家で独り暮らししていることになる。

 それでいて、二階堂はともかく俺には必要以上に近づかないようにしているなど。

 そうだったら、誰が彼女の寂しさを埋めるのだろう。

 二階堂1人で埋めるにしても、その穴はあまりにも……。

 変わってしまったのではなくて、彼女は変わらざるを得なかったんだと理解する。

 気づいてしまったから、タッパーの重みが更に増したような気がした。

 

「あ、そうそう。料理で思い出したけど、班で料理出来るの比企谷と折本さんしかいないから頑張ってねー」

 

 最後に聞きたくない台詞が飛んできたが、聞いてないことにした。

 

*1
食べる量が前世基準。普通の唐揚げならだいたい15個までは食べれた。

*2
男性の一人暮らしなら割とありがち



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第8話 2つ隣の県は、もはやちょっとした異世界である。


旅行記と青春ラブコメの両方をやろうとして溺死しかけている流水麺です。
旅行パートをちゃんと書きたくて宇都宮のロケハンとかやってたらえらく遅れてしまいました。

今回も八幡視点でお送りします。


 

 佐野のサービスエリアからさらに北上していくと、山並みが車窓に映るようになってくる。

 左側に聳える日光連山は標高408mの愛宕山が県内最高峰である千葉県民には計り知れないほど高く険しく、右側に見える筑波山はまだ千葉県民にとっては馴染みがあるがここでは見慣れた二つに分かれた山頂を拝むこともできず、ただ側面を眺めるばかり。

 旅情が高まるといえば聞こえがいいが、正直、同じ関東とはいえちょっとした異界である。

 

「やばっ! 高っ! ウケる!」

 

 折本をはじめとするクラスの連中は騒ぐ一方で、俺は(帰してくれんかぁ、千葉に帰してくれんかぁ)とうめき続けていた。

 

「へぇ、あれが男体山か……。 標高2000Mオーバーなんて、あたしにはもう想像もつかないや」

 

 意外なことにこういった時に恬淡としていそうな二階堂もまた身を乗り出して窓から山々を見上げている。……ただ、二階堂さん? 間に俺がいることを忘れてません? すんごい石鹸のいい香りがするし、何より顔が近いですよ? 

 だが、それで注意するとめんどくさいのが二階堂クオリティ。機嫌を損ねられてしばらく丁寧に扱わなきゃいけなくなる。悪意がないのはわかっているから大人しくなるまで待つのが吉だ。

 

「あ、ごめんね比企谷。思いっきり寄りかかってた」

 

「別にいい。……それにお前が本質的に外に出るのが好きなのは知ってるしな」

 

「理解がある知人を持ってあたしは嬉しいよ、比企谷」

 

「へいへい」

 

 気だるげに返事をしておく。

 中山と3人でどっかにいく時は発案者の中山が気を配り、俺がめんどくせえと駄々をこねる。そして、二階堂というと不思議なことに1人で楽しみ方を見つけて1番しっかり旅を堪能してくるのだ。

 そういうしなやかなところは俺にも、中山にもないところだった。

 

 *

 

 日光に着いた俺たちを出迎えたのは肌寒さだった。

 思えば、日光は千葉よりも内陸にあり標高も高い。気温が低くて当然だった。

 ここからは、クラス単位の行動となる。

 写り方にすごく困る集合写真という苦難を終えると、それぞれ各自に日光東照宮の見学に移った。

 栃木を代表する寺社であり観光地の日光東照宮は見所がたくさんある。有名なのは『見ざる、聞かざる、言わざる』の三猿の彫刻だろうか。

 子供から悪い物を隠した方がいいという教訓が刻まれたこの彫刻が尊ばれるということは逆説的にこの世が見たくも、聞きたくも、言いたくもないような悪意に満ちていることの証左だと言えた。

 

(それにしても三猿だけじゃあないんだな)

 

 三猿の彫刻を眺めた後、彫刻が描かれている神厩舎の周りを1人で眺める。よくよく見ると、三猿だけではなく八面も猿の彫刻があった。

 観光客に案内しているガイドさんの話から盗み聞いた限りでは、有名な三猿は人の一生を描いた神厩舎の猿の彫刻の一場面でしかなく、そこだけが有名となって一人歩きしてしまったらしい。

 これを知った今では三猿の彫刻が子供たちへの教訓ではなく、都合が悪いことに対して見ようとも、聞こうとも、言おうともしない大人たちへの皮肉が込められているようにしか思えなくなってきたな……。

 満足した後、参拝ルートに戻るが俺のクラスの生徒はいない。おおかた三猿だけを見てそのまんま奥に行ったのだろう。そうなると、俺みたいに三猿の真実を知ることはなかった。

 俺が思うに旅というのは本来は1人で、そうでないのなら出来る限り人数を絞って行うべきものなのだ。

 ただ、周りに気を遣って流されてそこに在る物にしっかり目を向けられなければ、わざわざその地に来る意味などない気がする。

 とりあえず、クラスに戻ろうと奥に進んでいく。道中をちゃんと見れないのは惜しいが、俺がいない事がバレて騒がれるのは厄介だ。

 

「比企谷じゃないか。クラスの方はどうしたんだい?」

 

「置いてかれたよ。どうにも気づかれにくいようでな」

 

 その最中、陽明門の前で瀬谷と出くわした。

 よくよく奴の後ろを見てみると中山の姿も見える。

 中山と瀬谷がクラスが一緒でクラスの中でのカーストが近いことも考えれば、一緒に行動することは特段おかしいことでもない。瀬谷自身も悪くないやつだと過去のやり取りで身をもって知っていた。

 ただ、それでも心臓が早鐘を鳴らしている。

 俺はあいつが悪くないやつだと知っていると同時に瀬谷が中山を好いていることも知っていた。

 なにせ、磯子の騒動の後でも瀬谷は時折中山の姿を目で追っていたのだから。人間観察を特技とする俺がこれしきのことを見過ごすわけもない。

 

「君のクラスは本殿を越えて奥宮の方に向かったよ。走れば、間に合うんじゃないかな」

 

「すまねえ、瀬谷。恩に着る」

 

 瀬谷に礼を言って奥宮へ向かう。

 これ以上、この場にいたらなにか要らぬことを考えていたような気がしてならない。その意味でも礼を言いたかった。

 ……それにしても、がっつり石段だな。斜面も案外急でけっこう堪える……! 

 何かを振り切るように俺は走り、息を切らせて足裏に痛みを覚えながらも石段を坂を登った。

 そうしてようやっと登り切り、視界が開ける。

 

「あ、比企谷やっと来た! めっちゃ息を切らしててウケるっ!」

「本当、比企谷らしいよね……」

 

 何がツボったのかよくわからないが腹を抱えて笑う折本と、目を細めて呆れたように笑う二階堂。

 クラスの他のやつも班の他のやつも近くにはいない。2人だけが階段の近くで待っていた。

 

「いや、俺はウケねえよ……」

 

 正直なところ困惑が勝る。

 二階堂なら気まぐれでやりそうなものだが、折本は分からん。

 

「気づいたら比企谷いないから探しに行こうと思って、ほら一応あたしが班長じゃん? で行こうとしたら帰ってくるのは本当にウケるわ……!」

 

 そう言って折本はまた腹を抱えだす。なんだ、この生き物は。二階堂並みに訳が分からん。一応、責任感はあるみたいだが。

 

「あたしは止めたんだけどね。ちゃんと帰ってくるってさ」

 

 二階堂さんは二階堂さんで俺を飼い猫か何かと間違ってませんか? なんか謎の信頼を感じるのだが……。

 その後は奥宮を参拝し、走ってきた石段を歩いて下った。

 時折、今度こそは見失わないようにと折本と二階堂の視線がこちらに向けられる。それにほんのむず痒さを感じながら、俺たちは東照宮を後にするのだった。

 

 *

 

 日光で昼食を済ませたのち、再び俺たちはバスに乗り込む。

 ぐねぐねとしたいろは坂を越えると、突然視界が開けて青が目に飛び込んでくる。

 中禅寺湖。日光の奥座敷として有名なリゾート地。街道からは外れるが、イギリスやイタリアの外交官の別荘もあるようなちょっとハイソな地である。

 進行方向左手に中禅寺湖。右手には見上げなきゃならんが、男体山が聳え立つ。いよいよ本格的な高原の景色である。

 左の窓側に座らせた二階堂はかぶりつくように景色を眺めている。通路側に座らせてまた跨られる愚は侵さない。

 ただ、そうなってくると退屈なのは、通路側に座る俺だ。左側は二階堂が覆い被さって中禅寺湖が見えず、さりとて右側の景色を見ようにも視線の先の奴らにも気を遣わせてしまう。こんな風光明媚な場所に来て、下を向いて本を読むのも何か違う気がした。

 

「景色、綺麗だね、比企谷」

 

「お、おう……折本か」

 

 突如後ろから話しかけられて吃ってしまう。

 振り返ると折本が座席の横から頭を出して笑みを浮かべていた。

 

「ちょっと比企谷ビビりすぎ。後ろの席があたしなのはわかってたでしょ?」

 

「そりゃあな、だが話しかけられるとは思わなかった」

 

「え、なんで? 同じ班だし近いし、普通話すでしょ」

 

「まぁ、そうだがな……」

 

 ぐうの音も出ない。というか、俺はそもそも普通の関係性をあまり知らないような気がする。中山にしろ二階堂にしろ、あまりにあいつらは普通とはかけ離れていた。そういう意味では折本が一番普通の人間なのかもしれない。まあ俺に平然と話しかけるのは、かなり奇特な部類だとは思うが。

 

「周りが景色に圧倒されちゃって暇だし。よかったら付き合ってよ」

 

「いいが、俺から話せることは特にないぞ」

 

「別にいいよ、あたしが勝手に聞きたいことを聞くだけだし」

 

 それからは俺が折本に質問攻めを食らわされていた。

 好きな食べ物から休みの過ごし方、果ては二階堂との関係についてまで色々と。

 話していて感じたのは、折本は異様に距離を詰めるのがうまいのだ。ファーストコンタクトに躊躇いがないからそれこそ関係性が近くなるのも早い。

 それにフリーダムな振る舞いをしている割には周りもよく見ている。

 思えば、今話しかけてきたのも自分が暇だったのもあるだろうが、手持ち無沙汰にしていた俺を気遣ってのことだったのかもしれない。

 

(人気者にはそうなるだけの理由がある。折本の場合は見た目とその距離の近さか。なんというか、中山が間違わなかったらこうなっていたんだろうなと思う奴だな……)

 

 話している間にバスはさらに高度を上げていく。

 戦場ヶ原は知らぬ間に通り過ぎていた。折本とそれだけの時間を話に費やしていたことが分かって自分でも驚きを隠せない。

 登り勾配はややも落ち着いて、澄み切った湖面が間近に見える。

 どうやら、湯元温泉に着いたらしかった。

 



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第9話 石の街で彼は一人踊る。

帰ってきた人面獣心鬼畜の流水麺です。
まぁ難産でした。だいぶ苦しみましたが、産むと決めたからにはしゃーなしです。遅くなってすいませんでした。
一部他の視点が混入しますが、9割方八幡視点でお送りします。


 

 不安だった夕食作りは折本の協力でなんとか無事に終わった。

 俺が折本に指示を出し、折本が他の班員に伝える。そんな具合でなんとか形になった感じだ。

 正直、俺は指示と自分の調理で手一杯で出した指示がちゃんと通ってるかの確認までは出来なかった。その辺りをちゃんとフォローしてくれたのは折本だった。

 二階堂? あいつは火おこしやってたよ。調理はできないが、そういうアウトドア的な技能は持ってる奴だから、そっちの方で頑張ってもらった。

 

「だが、疲れるもんだな……。人に指示するってのも……」

 

 食器洗いが終わって一息つく。

 嫌に頭にモヤがかかっているのを感じる。

 らしくないことをした自覚がある。今までろくに人と関わらなかった俺が、急に6人の他人を使って何かをやるなんていささか無理がある。

 やらなきゃならないこと、やらせたいこと。それを誰に割り振るか、自分の調理もしないといけないから、ひたすらに頭を回していた。……そりゃあ、疲れるわ。

 

「疲れてんねー、比企谷」

 

「……ああ、折本か」

 

 適当なベンチに腰掛けて休んでいると、折本が両手に紙コップを持ってやってくる。どうやら向こうは向こうで片付けが終わったらしい。

 

「お茶の余りもらってきたから飲も?」

 

「ありがとな」

 

 もらったお茶を流し込む。ああー、この渋みが疲れた身体には効くんじゃあ……。

 ……それで、隣のこいつはいつ戻るの? 他の班員放っておいていいのか? 

 俺は怪訝な目でしれっと隣に座る折本を見やる。すると、折本はくしゃっとした笑みを浮かべて言った。

 

「や、お礼言っとかないとなって。あたしさ料理はできなくもないけど、1人で経験がない6人を仕切るのは流石に無理だからさ。だから、比企谷がいてくれてよかった」

 

「……別に俺はやらなきゃいけないことをやってただけだ。旅先に来てまで不味いものを食いたくなかったからな」

 

 実際のところ、お礼を言われるほどのことじゃない気がする。ちょうどそれを解決する能力を有していたから、それを行使したにすぎないのだから。

 

「素直じゃないね……。そこはちょっとウケるかも。まぁいいや。明日の比企谷が考えてくれた行程、楽しみにしてるから」

 

 立ち上がった折本はそう言って足取り軽く歩いていく。

 ……本当に言いたいことだけ言って去りやがったなぁ……。まぁお茶もらえたから別にいいんだが。

 

 *

 

 翌朝に湯元温泉で朝食を食べたのちは宇都宮に向かう。

 この頃になると山道の移動も慣れたもので二階堂あたりはすっかり寝こけていた。

 そこそこ早く出たが、宇都宮までは1時間少々かかり宇都宮駅に着いた頃には10時を過ぎていた。自由行動の締めが16時だと考えると案外時間がない。

 だから、教師陣からの説明が終わったら俺たちはすぐにバスに乗り込まなくてはならなかった。

 目的地は大谷資料館。この辺り特産の石材である大谷石を切り出していた採石場の跡地だ。

 ただの採石場の跡地なら、わざわざ俺たちが出かけることはない。しかし、俺はじゃらんで断片的ながらあった写真を見た時に圧倒されて、迷わずここを今回の行程のマストにすることを決めた。

 バスで30分揺られ、降りた先にはすでに水墨画のような切り立った断崖が広がっている。

 

「うわ、すご……」

 

 隣で二階堂は目を見開いていた。班員の奴らも反応こそ違えど風景に圧倒されているようだった。

 このまま景色を眺めつつ奥に進むと、資料館の入り口が見えてくる。

 お金を集めて入館料を全員分まとめて払い、潜る。比喩でなしに入るではなく潜るのだ。石段を下っていくほどに肌寒さを感じる。……晩秋にこれは少しきつかったか。

 だが、坑内の中が明らかになっていくたびにその後悔も消え失せる。

 世界史の資料集で見た古代ローマのカタコンベや古代ギリシャみたいな石舞台。

 とても日本の物とは思えない荘厳かつ広大な地下空間が広がっていた。

 

「これライブで見たやつじゃん。ウケる!」

 

 静寂な空間に折本のウケた声が響く。

 この音の響きやすさと幻想的な空間が相まってちょくちょくライブや映画の撮影に使われたりするらしい。

 ただまぁ、今は何かイベントごとをやっている訳ではない。それに空気が冷え切っているから晩秋に入るには寒い。

 折本たちがSNS映えする写真を撮っている間、俺はずっと凍えている。

 その背後から音もなく二階堂が近寄ってくる。思わず俺は飛び退いていた。

 

「らしくないね、比企谷がこういった映えるとこを選ぶなんてさ」

 

「暗がりの中、ぬって出てくるんじゃねえよ。怖いだろうが」

 

「比企谷もこの状況で目を腐らせながら突っ立ってたら怖いよ。まるでゾンビみたい」

 

「なんだと、お前もゾンビにしてやろうか?」

 

「きゃー、比企谷におそわれるー。って茶番はさておき、どういう風の吹き回し?」

 

「吹き回しって言われてもな……」

 

 知らず、頭を掻く。

 いかんせん二階堂の質問の意図を俺は掴みかねていた。

 ただ茶化しているだけな気もするが、時たま二階堂は何かを含ませるような言動をすることがある。

 

「俺だって、こういうところに来たくなる時もあるんだよ。それに小町に話をするときに使いやすいだろ、ここ」

 

「まぁそうだね。で、折本さんたちが終わったら早く出よ? やっぱここ寒いよ」

 

「だな」

 

 この一点だけは二階堂と相違ない。

 考えた俺が言うのもアレだが、ここは完全に夏に来るべき場所だった。

 

 *

 

 大谷記念館を出たら宇都宮の市街地に戻る。割と手短に済ませたはずだが、時刻はもう12時を回っていた。

 ここからはもう市街を回る。

 手始めに俺たちは腹ごしらえとして宇都宮餃子の有名店に向かった。

 だがまぁ、正直見立てが甘かった。さすがは地元に愛されている店なだけなことはある。20分ぐらいは待たされただろうか。

 お腹を完全に空かした状況でお店に通される。

 メニューは完全に餃子とライスのみ。店内の案内を見た限りは2、3皿を頼むのがポピュラーらしいが……。

 

「ダブル……いや、トリプル。スイ、アゲ、ライス」

 

 常連客の真似をしてたどたどしく注文する二階堂。

 いや待て、それ5皿頼んでないか? 

 二階堂慣れしている俺でもちょっと戦慄する。ましてや二階堂とあんまり関わりのない班の男子ならなおさらだ。信じられないモノを見るような視線が二階堂に突き刺さるが、本人はまったく気にしてない。

 

「いやー、本場の餃子楽しみだね〜」

 

 それどころか、楽しげに脚をぷらぷらさせていた。

 待つことしばし、それぞれの目の前に餃子が並べられていく。皿が割と大きいからテーブルが埋まって視覚的に量がかなりあるように見える。俺は3皿頼んでいて、一目見て頼み過ぎたと思った。

 だが、食べてみるとかなりさっぱりしていて食べ進めるのに苦労はない。美味しいし、酢やラー油などで味変ができていくらでも米が進む。正直なところライスが少し足りないなって思うぐらいだ。

 そして、二階堂はこともなげに5皿とライスを完食し、皿を積み上げていた。

 いくら食べやすいからといってあの小柄な体躯にそう易々と入る量ではない。たまに、俺は本気で二階堂という生き物がわからなくなる。

 なにせ、あれだけ食っておいて体重の増減があんまりないらしい。中山が「ちょっと有栖ちゃんは女子としては反則」と漏らしていたのもうなづける。

 ちなみに、身長もほとんど伸びていない。

 二階堂は身長を伸ばすために意図的に多く食べているらしいが、悲しいかな。おそらく彼女の成長期はもう終わっていた。

 

 *

 

 餃子で腹を膨らませた後は二荒山神社とうつのみや妖精ミュージアムを回った。前者は宇都宮の街の由来になった神社で、後者は役所の窓口の隣にあるという変わり種のミュージアムだ。

 小さいながらも妖精ミュージアムは本格的に展示があって男の俺でもついつい見入ってしまう。

 童話の世界のような調度は女子の琴線に触れたのか、折本たちはきゃいきゃいはしゃいでいる。

 対して二階堂は優雅に図書ブースのソファに腰掛けているが、直前に餃子を5皿たいらげていることを知っている身からすれば何を今更お上品ぶってるんだとしか思えなかった。

 かくして、行程を順調に消化していき、ついに最後の場所に辿り着く。

 カトリック松が峰教会。大谷石で作られた建物としては最大級で双塔と白黒の陰影が印象的な教会だ。

 厳かさを感じながら歩く。木材も古いのか、軽く軋む音が中に響いた。それがまた静謐さと味わい深さを増している。

 この空間では、さしもの折本も大人しくならざるを得ないらしい。黙って俺の隣を歩いていた。

 ……珍しい、が好都合だ。この空間なら、おそらく俺の方が先手を取れる。それに、少しばかりクサいことを言ってもいいような気がした。

 

「……ありがとな、折本。お前が行程を俺に任せてくれなかったら、多分この宿泊学習は俺の記憶に欠片も残らなかったと思う」

 

 今までの校外学習の流れならば俺は後ろで黙ってついていき、たまに二階堂と少し話して暇を潰す。そんな受動的で味気ない過ごし方をしていたのだろう。

 だが、折本は意図がどうであれ俺に行程を任せてくれた。まぁしおりの作成や料理でかなりこき使われたが、それでもどこか楽しんでいる自分がいた。

 だから、こう落ち着いた時にお礼を言いたかったのだ。……俺らしくないとつくづく思うが。

 

「急過ぎてウケるんだけど。……でも、楽しんでくれていたならいいか」

 

 くしゃっとした髪の先をいじりながら折本は言う。そして、歩きを止めた。

 

「比企谷、あたしね。あんたとなら付き合ってもいいかもって思ってる」

 

「は?」

 

 思わぬ発言に俺の足も止まる。

 待て、今こいつなんて言った? 

 

「比企谷のこと、最初はつまんないやつだと思ってた。二階堂といる時はちょっと面白かったけどね。でも、ほんとにそれぐらいしか見るとこがなくて」

 

 理解が追いつかない。

 だってこいつは、折本は何度か話すぐらいの間柄だ。だから、好意を持たれる訳がないと思っていた。

 

「比企谷、あたし思ったよりあんたのことが好きなのかもしれない。だからさ、お試しでもいいから付き合ってよ」

 

 呼吸が止まる。

 折本が上目遣いでこちらを見ている。

 わかりきっていたことだが、折本は顔がいい。思ったよりも破壊力があった。たまらず理性がぐらつく。

 けれど、何かが違うと本能が警鐘を鳴らしていた。

 それになぜか、中山の顔が脳裏をよぎる。

 ……どうして、こんなときにあいつの顔が浮かぶんだろうか。わからない。

 

「折本……、俺は……!」

 

 ……それにしても。

 直に向けられた人の想いを前にすることがこんなに辛いとは思わなかった。

 中山も二階堂もずっとこんな身を切るような思いで振ってきたのだろう。改めて尊敬する。

 だが、俺の返事は最後まで言わせてもらえなかった。

 

「うわ、マジで本気にしてる……!」

 

「やっば、これはキモいわ……」

 

 後ろから嘲る2人の声。興味ないから覚えてなかったが、確か折本の友達だった気がする。彼女たちは教会の入り口から顔を出して下卑た視線をこちらに向けてきていた。

 

「……どういうことだ?」

 

「どういうって告白だよ? まぁ罰ゲームの偽告白だけれどね。あんさー、比企谷。あんたみたいな陰キャが本気でかおりと付き合えると思ってたのー?」

 

 盛り上がってたところに冷や水をぶっかけられたような感覚。

 だか、不思議と腑に落ちるような気がする。

 視線で折本に確認を取る。すると彼女は引き攣ったような笑みを浮かべていた。

 

「ごめんね、比企谷。その二人の言ってることはガチ。比企谷のことは嫌いじゃないけど、オーケーされてたら正直なところ困ってた」

 

「そうか……。盛り上がってたのは俺だけだったんだな。……阿呆らしい」

 

 もう何も言う気など起きなかった。ただ恥ずかしくて顔が赤くなっていくのを感じる。

 

「悪いな……、ちょっと頭を冷やしてくるわ」

 

 恥ずかしさやら怒りやらでもうこの場にはいられない。俺は早歩きで教会から出て、二階堂の制止を振り切って何処かへと走り出した。

 走る間、俺はまちがえたのだという意識が頭を支配する。

 またしても俺は折本に勝手な期待を押し付けていたのだろう。いや、期待すら生温い。俺は折本に叶うはずのない幻想を重ねていたのだ。

 その幻想とはなんだったのか、今となってはもうわかりはしないのだけれども。

 要は俺が勝手に舞い上がって勘違いして恥を晒した。

 それだけの話なのだから。

 

 **

 

 走り去る比企谷を見て、あたしは何が起きたのか察した。

 きっと件の偽告白が実行されたのだろう。

 友達が決めた罰ゲームという体で男子人気があって目の上のたんこぶだった折本さんを辱める。手を繋いでいる癖にそうした陰湿さがあるのが女子社会の嫌なところだ。

 それに比企谷が巻き込まれるのは正直腹に据えかねていたから、2日目はできるだけ比企谷の近くにいて見張っていた。なんだかんだで楽しんでいる比企谷に悪意を近づけるわけにはいかない。

 ……けれど、それができたのは松が峰教会までだった。

 

「ごめん、茅ヶ崎くん。付き合うのは無理だよ」

「そっか、なら仕方ない。……ごめんな」

 

 なにせ同じ班の茅ヶ崎くんに告白のために呼び出されていたのだから。

 見た目が愛らしいからか、あたしはよく告白される。けれど、正直なところあたしに告白するなんて無謀なことだ。

 なにせ、あたしは恋を知らない。いや、正確には恋のごく一部分しか知らなかった。

 恋は人を狂わせる。

 その一点だけを今まで思い知らされて生きてきたから。

 伽耶ちゃんが巻き込まれた磯子の一件も、あたしに対する男子の反応も如実にそれを突きつけてくる。

 今回の比企谷の一件もそう。女子間の男人気が折本さんに集まることへの嫉妬と比企谷の『現状を変えれるかもしれない』という淡い期待が混線して起きた事故だ。

 ともあれ、恋を前にすると人は変わらざるを得ない。そして、周りを置いていく。

 だから、あたしは恋が嫌いだ。

 



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第10話 かくして彼は故意にまちがえる。

人を選ぶ作品製造機こと流水麺です。
確実に今回もこの質ですね。……どうにも僕の業はねじれているようでなんとも。基本自分が読みたいやつをないから仕方なく書いてる人なので割とやりがちではあります。

今回も八幡と二階堂視点併用型です。主人公のくせに主観の話を書いてもらえない中山の明日はどっちだ。


 

 知らない街を衝動的に走るのは存外疲れる。ましてや、行き先すらろくに定まってないなら尚更だ。

 走り疲れて俺はベンチに腰掛ける。

 辺りを見回すと土塁と水堀が広がっていた。

 写真で見たことがあるからわかる。ここは宇都宮城公園なのだろう。松が峰教会からは南に若干離れていた。

 

(二階堂たちには悪いことをしたな。衝動のまま抜け出してきてしまった。一応、連絡はしとくか)

 

 二階堂宛に『宇都宮駅での集合時間には間に合わせるから、そのまま先に進んでろ』と送る。

 そこまでやって、俺は項垂れた。どうやら思ったよりメンタルは効いていたらしい。

 不思議と折本とその周りに対する腹立たしさは湧いてこない。

 ただ、やるせがなくなった期待とまた勝手に期待した自分の愚かしさへの怒りが渦巻いていた。

 鞄から水を取り出して一気飲みする。ぬるい。こんなのでは冷めるものも冷めやしない。

 

(……思えば、何で俺はこんなに熱くなってたんだろうな……)

 

 折本に行程を任され、時折言葉をかけられた? 

 確かにそうだ。それで、かなり承認欲求が満たされた自覚はある。

 とはいえ、それが恋愛感情に繋がるとは到底思えない。が。実際のところ、俺は折本の偽告白にぐらついていた。

 ならば、俺にあったのだろう。折本かおりに応えてもらいたい期待が、叶って欲しかった幻想が。

 長いこと考えてもわからない。

 何故に俺は惑ってしまったのか。

 静寂の中、たったったと足音が響く。

 地元の人がランニングでもしているのだろうか、そう思って顔を上げる。

 

 夕凪に吹かれる長い赤い髪。

 形良い唇の端からは吐息が漏れて、その空色の瞳は真っ直ぐ俺を射抜いてくる。

 

 信じられなかった。

 どうして、彼女がここに。

 行程も何も彼女には、中山伽耶には教えてなかったというのに。

 

「探したよ、八幡。さぁ帰ろ?」

 

 息を切らしながら、項垂れる俺に中山は手を差し伸べる。

 俺はそんな中山の姿に記憶の中の折本の姿がオーバーラップさせていた。

 ……いや、違う。

 なんで俺は間違っていたのだろう、俺は記憶の中の折本に在りし日の中山を重ねていたのだ。本当は順序が逆で、俺にも優しく振る舞う折本の姿を見て、俺は勝手に在りし日の中山を重ねていた。

 

「……悪い」

 

 気づいてしまった今、俺は自己嫌悪が止まらない。

 勝手に期待するのは、磯子の件で懲りたはずなのに直っていなかった。

 

「お前、クラスの方はいいのかよ……」

 

「瀬谷くんに後で謝れば大丈夫だよ。それに見逃せる訳がない。あんな辛そうな顔で飛び出す八幡を見ておきながら、置き捨てるようなことは私にはできないよ」

 

「なら、ちゃんと謝っとけよ」

 

 こともなげに言う中山に俺は苦笑してしまった。

 対する中山も「そうだね」と笑って真っ直ぐな空色の瞳を俺に向ける。

 ああ、変わらない。

 誰よりもその在り方に苦しんでいるくせに、優しさは損なわれず、弱さは見せたがらない。

 周りに人はいるように見えて、本質的には常に孤独で、その癖して寂しがり屋で。

 そんなお前だから、せめて俺は一緒にいてやりたいとそう願ったんだった。

 

「じゃあ帰るか」

 

 中山の手を取って立ち上がり、手を離す。そして、歩き始めた。もう自分一人で歩けると誇示するために。

 ……実のところ俺は折本に在りし日の中山の代わりを期待していた。変わっていく中山を見て、もう俺を必要としてなさそうで怖かったのだ。

 だが、そんな必要はなかった。ただ表に出していないだけで、在りし日の中山を構成していた要素が損なわれたわけではない。それを遠くに離れたように受け取ったのは、それこそ俺が変わったからに他ならない。

 人が変化を実感するのは過去と今が地続きではなく、断絶がある場合だ。

 磯子の件で俺たちは一度断絶した。だからこそ、俺は気づいてしまったのだろう。俺は中山に友情以外の別の感情を抱いてしまっているかもしれないことに。

 けれど、俺はその感情を定義する気にはなれなかった。なにせ、定義したらもう戻れなくなる。悲しいことながら、彼女がそれを望んでいないことはとうの昔に知っていたから。

 だから、俺はこの感情が気の迷いである事を望む。秘して時の流れに任せれば、消えてゆく。その類の感情であると信じて。

 

 かくして、俺は故意にまちがえた。

 それがその場しのぎの詭弁であり、おためごかしの欺瞞だとわかっていながら縋ったのだ。

 この事実は俺を酷く苛ませることになる。

 

 **

 

 帰りの新幹線は無言だった。

 比企谷は結局間に合わなかった。けれど、伽耶ちゃんが確保してるみたいだからあまり心配していない。

 ……心配なのは、こちらだ。

 折本かおり。

 偽告白の当事者。告白して比企谷にお断りの雰囲気を出されたことより、友達だった女子2人がしきりに自分を嘲っていることにダメージを受けていた。

 

「……ああいう手合いは、どうしたっても出てくるんだね。……ちょっとしたスキャンダルが大好きなフライデーの記者もどきみたいな女の子はさ」

 

 本当にたまにだがいる。友達みたいな顔をして近づき、伽耶ちゃんや折本さんみたいな太陽みたいに目立つ女子を失墜させて悦に浸るような女が。

 動機に関してはあんまり理解したくない。けれど、劣等感とか男を取られた逆恨みから始まって、身内から脚を引っ張って蹴落とす。そしてその姿を見て自分自身の不足を補った、克服したような気になって悦に浸るのだ。……本当に自分がすごくなったわけでもないのに。

 

「……あたし、わからなかった。あの子達があんな子なんだって、ちっとも」

 

 独り言のつもりで言ったのだけど、折本さんにも聞こえたらしい。なら、仕方ない。今日は彼女と話す日だ。そう思って折本さんの方を見る。

 

「……あたしさ、もっと色んな友達を作りたかったんだ。だってみんながみんな同じノリだとウケるけど、飽きるからさ。だから、あたしは比企谷にも二階堂さんにも、あの子達にも接し方を変えてこなかった。みんな同じだから、気づけなかったんだね」

 

 ああ、なるほど。

 折本さんの独白を聞いて腑に落ちた。

 思えば、不思議だったからだ。クラスの姉御アピールにしても、折本さんはあたしや比企谷とかカースト意識がある連中にはあまり魅力的ではない相手に構いすぎていたから。その理由ならあり得ることだと思う。

 けれど、だからこそ。そこを突かれたんだ。

 違うことは彼女たちにとっての罪なのだから。

 その後も折本さんの後悔を聞いていく。

 ずけずけと人の触れたくないところに触れてしまうだとか、ノリに流されて不本意なことを言ってしまうとか。

 確かにちょっとそういうところあるよね、とこっちが思う欠点は大概折本さんは自覚していた。

 思ったより、人を見ている。

 あたしが折本さんに感じた印象はそれだった。

 このまま彼女の自己省察を聞いてたいところだったけど、あまり彼女はシリアスな空気を持続できないタイプ。自然と話は思わぬ方向に転がっていく。

 

「そういえば、二階堂さんて比企谷とどうして仲良くなったの? 今は話してるけど、あんまり仲良くなりそうな組み合わせに見えないから気になって」

 

「あたしと比企谷? 友達の幼なじみだったから何回か顔を合わせる機会があったんだよ。それで、「こいつ面白いし、雑に扱っても大丈夫だ」って思って今に至る感じかな?」

 

「なにそれ、ぞんざい過ぎてウケるんだけど。でも、ちょっと憧れる。なんか自由って感じでさ」

 

 ここでようやく折本さんに笑みが戻る。

 ほんとのところ、些細なこと過ぎて比企谷と話すようになったきっかけはわからない。けれど、知らぬ間に「ぞんざいに扱っても大丈夫だ」という確信を得ていた。

 それは、今まで可愛い自分しか求められていなかったあたしからしたら『好きにやっていいんだよ』という福音だったのかもしれない。ただ絶対視できるほどのものでもないこともわかっていた。

 

「……自由か。そんなもんじゃないけどね。互いが求めてるものが今のところ噛み合ってるだけだもん。だから、どちらかが変わってしまえば、関係が崩れることだってあるよ」

 

 まるで薄氷を踏むようなバランスで今の関係性は成り立っていることはわかっている。

 あたしだけが知ってることもあれば、比企谷だけが知らないこともある。罷り間違っても何も言わずに通じ合えるような関係性ではない。今だってそう、比企谷が少しずつ変わり始めているのを感じている。

 

「ま、羨ましいからって比企谷はあげないよ。あれは、あたしたちのおもちゃだから。欲しけりゃ自分の手で探しなよ。自分の個性でぶん殴っても倒れない相手をさ」

 

 いたずらに笑ってあたしはカフェオレを口に含む。

 マックスコーヒーに比べるとやや物足りないけれど、それでも身体が必要としている糖分は摂取できていた。

 だから、これから考えていこう。

 変わっていく、あたしたちの関係性について。

 



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第11話 ただ一人、比企谷八幡は知らされずにいる。

中山非主観記録をさらに伸ばした流水麺です。
座右の銘は『本物のヒロインは出席しなくとも圧を加えてくる』です。
なので、このまま主観回を用意しないまま彼女の存在感を発揮させたいところですねー。

今回は八幡視点9割でお送りします。


 

 宿泊学習後、クラスには「折本が比企谷に告白して振られた」という噂が飛び交う。折本を嵌めようとしていた女子たちはほくそ笑むが、折本にはさほどダメージはなかった。それどころか、やや活発になっていた。

 

「有栖ちゃん、おはよー。ついでに比企谷もおはよー」

 

「おい、なんで噂されてるのに平然と俺に話しかけられるんだ」

 

「あーね。あたし、これからは周りをあんまり気にしないことにした。だってさ、目の前の面白いやつにそれで集中できなかったらウケないじゃん?」

 

「説明になってるようでなってねぇ……」

 

「うーん、比企谷と有栖ちゃんがあたしの推しって感じかな。それに有栖ちゃんが教えてくれたんだよね。あたしがあたしのままでいられる相手と付き合いなさいって。多分、比企谷と有栖ちゃんとはやっていける予感がする。だから、これからもよろしく!」

 

 そう言って折本は嬉々として二階堂に絡みにいく。

 絡まれる二階堂はうへぇと嫌そうな顔をしながら、こちらに視線を向けてくる。瞳がちょっと潤んでいてさすがの顔アドにぐらりと来たが、俺は黙殺した。

 助けねーよ、バーカ。自分で蒔いた種だ。自分でなんとかしやがれ。

 俺が踵を返して自分の席に戻る最中「ひきがやー」と恨めしそうな声が聞こえた。

 ……本当に嫌なら、その場を離れるなりなんかする。そういった果断さがあるのが二階堂だ。それがないということは、つまりそういうことです。

 

(ふ、二階堂。折本の相手は俺の手に余る。あとは若い二人に任せるか……。漢・比企谷八幡はクールに去るぜ……)

 

 ちょっとだけ罹患した厨二を炸裂させつつ、折本にもみくちゃにされる二階堂を尻目に後方仲人面を決め込む俺であった。

 

 *

 

 2学期の終業式後のホームルームにて。

 手持ち無沙汰な俺は、頬杖をつきながらクラスを見回していた。

 クラス全体はやはり浮き足だっている。クリスマスに正月。冬休みの楽しい気配が彼らの軽そうな頭を支配していた。

 

「ねえねえ、有栖ー。初詣どうする?」

 

「ごめんかおり。元旦はあたし家の用事があって出られないや」

 

 楽しい気配に支配されてそうな奴ナンバーワンこと折本かおりも二階堂に絡んで初詣の計画を相談していた。

 はっきり言って折本の押しの強さは異常だ。日に日に押し込まれ、折本が絡んでくることを許容して、ついに名前呼びまで許した二階堂を見るとつくづく思う。

 あんまりにベタベタに折本が二階堂に絡んだため、その余録として俺と絡むことも増えた結果、折本の噂はガセネタだということになり期末試験が終わる頃には終息していた。あまりに力技な解決法に苦笑いを禁じ得ない。

 ともあれ、奴のおかげで俺の日常に平穏が訪れた。……平均的なうるささは増した気がするが。

 折本がいる空間に今はまだ慣れない。

 けれど、二階堂と同じように俺もじきに折本の存在を受け入れるのだろうが、今はまだダメだ。どうしても、折本がいたポジションに中山が重なってしまうのだ。かつてそうあれかしと臨んだから尚更に。

 けれど、それはひどく折本に対して不誠実なことだ。

 あれからの折本は傍目から見ても変わった。

 昔のように誰も彼もに愛想を振り撒くことはなくて、二階堂ばかり構う。以前からの友達と接することはあるが、どこか違う。それは声の張り方だったり、笑い方だったり。意識しないとわからないあくまで自然な範囲でやっていることだが、だからこそよりリアルに二階堂や俺とそれ以外に差異をつけていることがわかる。

 なれば、俺もまた折本を中山の代わりではなくちゃんと一人の人間として見なくては釣り合いが取れないだろう。

 思うところありつつ、折本を観察していると彼女の頭がこちらを向く。するとくしゃっと笑いながら、俺の席へと歩いてきた。

 

「なに? 比企谷。そんなにあたしのことじろじろ見たりして。もしかして振らなきゃ良かったと思ってる?」

 

「ちげえよ。そもそも振り振られにすら至らなかったじゃねえか、あれは。というか、よくそれを擦れるな」

 

「そりゃあ、あたしはウケることに全身全霊だからね。身を切るぐらい安い安い」

 

「そんなとこで安売りするなよ……」

 

 からからと折本は俺を揶揄って笑う。それに悪意は感じられない、親しみがあるからのイジリというべきか。

 そうと分かるぐらいには、俺も折本に馴染み始めていたらしい。

 反面、宿泊学習で一緒に帰ってから以降は中山と行動を共にしていない。

 俺の内面の気まずさは確かにある。けれど、思ったよりも中山からの接触がないのだ。

 少し気になって後からやってきた二階堂に問いかけてみる。

 

「そういえば、二階堂。中山って何か正月に予定とかあったりしたか?」

 

「なんで?」

 

「いや、最近会ってないなと思ってな。お前からも中山の話題を最近聞くことがないし」

 

 磯子の件で断絶した後も中山と二階堂のラインは繋がっていた。俺にも知らないところでの交流もあるだろう。

 だから、多少の望みを懸けて聞いたのだが、二階堂はかぶりを振る。

 

「二階堂にもわからないとなれば、仕方ねえな。あいつにもあいつの事情があるだろうし、諦めるか」

 

 父親の映画の仕事を手伝うために独学で勉強をしたり、演技を学んだりと中山は案外色々やっている。その余録で芸能事務所に籍を置いていると聞いた時はさすがの俺も驚いたが、単純に中山は普通の中学生と比べてはるかに忙しい。

 だから、俺たちとは異なる歩幅で彼女は進んでいくに違いない。

 そうして、望むと望まずに関係なく、俺たちは緩やかに離れていく。さながら、それがあるべき形だというように。

 

 *

 

 季節が変わり、また春が来た。

 いよいよ中学3年生となり、受験の足音が近づいてくる。

 最後の学年ではまた俺と中山、二階堂が揃った。

 

「会ったつもりではいたけど、思っていたより八幡の顔を見てなかったよね、今更だけど久しぶり」

 

「まあな。予定が噛み合わなかったり、お前も映画の撮影で早退したりしてたからなぁ。で、確か今日も昼で早退するんだよな」

 

「うん。女優とかっこつけたところで、私はまだ下っ端だからお偉方のスケジュールに合わせなくちゃいけないんだよね、だるいことにさ」

 

 4月のある日の休み時間に中山と雑談する。

 磯子の件ももう丸一年が過ぎれば時効に近い。そして、中山の芸能人としての活動が増えた結果、中山は完全にクラスのカーストからは外れた。

 今の中山はクラスの誰もが無視できない存在であり、クラスの誰もが干渉できない存在でありながら、クラスの輪に入ることが許されない存在だった。

 高嶺の花も極まってしまえば、孤高になるのだろう。おかげで俺と話してもとやかく言われることはなくなった。……ただ単に早退しすぎて同じクラス感がしないだけとも言うが。

 そのまま時間が過ぎて、中山は昼食の後に早退した。

 だが、俺ははたと気づく。中山の課題のプリントが持ち帰られていないことに。

 

「しょうがねえ。家に届けてやるか……」

 

 どうせ、放課後も暇だ。帰りに中山の家に寄ってプリントを置いて帰ったところでどうってことはない。

 放課後になって、俺は記憶を頼りに気だるげに中山の家に向かって歩いていく。

 だが、目的地に着いた時に俺は目を思わずごしごしと擦っていた。それだけ目を疑う光景が目の前に広がっていた。

 

「いや、マジか……。こんなことある?」

 

 なにせ、見覚えのある門から『中山』の表札が剥がされていて、『借主募集』と書かれたチラシが貼られていたのだから。

 困った俺は二階堂の家に行き、彼女にプリントを託して家に帰る。

 その道中、俺は強烈な違和感に首をもたげていた。

 

 **

 

「行ったよ比企谷。それにしても案外勘は働くよね、比企谷ってさ」

 

 比企谷の応対を終えて、あたしは部屋の中にいる彼女に目配せする。

 映画の撮影を一発で終わらせるや否や彼女はあたしの家に転がり込んできた。それも、今日だけじゃない。今年の正月から今の今まででだいたい3日に1回ぐらいの彼女は頻度でくる。

 まぁ、あたしの家は部屋もお金も余らせてるから何泊してくれても全然いいんだけど、こういう時ばかりは困る。

 

「はい、伽耶ちゃん。課題のプリント」

 

「ごめんね、有栖ちゃん。嘘ばかり吐かせて」

 

「別にいいよ、もう慣れたし」

 

 気まずそうに彼女……中山伽耶がプリントの束を受け取る。

 あたし……二階堂有栖はこの4ヶ月間、彼女と歪な半同棲生活を過ごしていた。

 



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第12話 しぶしぶ中山伽耶は物語る。

読者が試される作者こと流水麺です。
言うべきことはただ一つ。
やっとカメラが彼女の元に帰ってきました。


 

 八幡の来訪の後、有栖ちゃんと夕食を食べる。

 なんども、この家でご飯を食べているけどどうにも慣れない。

 なんというか、あまりにブルジョワ過ぎるのだ。

 もともと高級ホテルで働いていたというハウスキーパーさんが作った料理は豪華絢爛だし、今座っている椅子だってヴィクトリア朝時代のアンティーク家具。そもそも家のサイズがそうそうお目にかかれないレベルの大豪邸だ。

 彼女自身はあまり表に出さないけど、二階堂家はかなり太い部類に入る。なにせ、南葛地域の地場の不動産業で一二を争う二階堂ハウジングの創業家なのだから。地域での影響力はそれこそ雪ノ下家と並ぶレベルにあるんじゃないだろうか。

 そわそわと落ち着かない様子を見せる私に対して、有栖ちゃんはこともなげに丁寧にナイフとフォークでステーキ*1を切り分けて口に入れていく。

 学校じゃ全然実感できないけど、ここだと有栖ちゃんが本物のお嬢様だと理解させられた。

 特大ステーキをあっさり食べ終えた有栖ちゃんがことりとナイフとフォークを置く。そして、柔らかな笑みを浮かべた。

 

「でさ、伽耶ちゃん。今ので比企谷にも欠片ぐらいは事態が深刻な状況だと分かった気がするんだけど、いつまでしらばっくれるつもり?」

 

 有栖ちゃんがにこやかに笑った時。思わず、私は息を詰まらせた。

 だってその笑顔に咎めの刃が内包されているのが、ありありと分かったから。

 

「なんとなく伽耶ちゃんの家庭の事情が良くないのは知ってるけど、最近は特におかしいもん。……何かあったんでしょ?」

 

 有栖ちゃんの言う通り、確かに何かはあった。それこそ、私たち家族が住み慣れた家を離れるだけの何かは。

 けど、有栖ちゃんに話すのは躊躇われる。だってこれは、私自身のやらかしの末に起きたことなのだから。

 

「まぁ、そう聞いたところで伽耶ちゃんが話す訳がないからね。手は用意してあるんだ。──伽耶ちゃん、話さないともうお家に入れてあげないよ?」

 

「それはひどいよ、有栖ちゃん。一番卑怯で有効的な手だ」

 

「悪いけど、先に仕掛けてきたのは伽耶ちゃんだよ。『言わないから察して、そして踏み込んでこないで』なんて心底面倒くさい女だよね。ここまでちゃんと言いつけを守ったあたしに感謝して欲しいぐらい」

 

 そう言って有栖ちゃんは口の端を釣り上げる。こうまでされてしまえば、私も諦めて話さざるを得ない、完敗だ。

 正直なところ、新しい家には死んでも寄りつきたくないのだ。有栖ちゃんの家が使えなくなるのは致命傷になる。

 

「追い出されるのは流石に困るから話すけど、聞いても後悔しないでね? とはいっても、どうすればわかりやすく伝わるかなぁ……。うーん、そうだ。……ねえ、有栖ちゃん。突然、実の母親が海外から知らないイケオジを連れてきて「貴女の新しいパパよ」って言われたらどうする?  それもお父さんと離婚してるわけじゃないのに」

 

 言ってしまった。そして言ってしまった自分自身ですら、4ヶ月寝かせておいてもなお事態がイカれてて理解できない。

 こんな特大の情報量を叩きつけられた、有栖ちゃんは一周回って間抜けな顔をしていた。

 

「なにそれ、重」

 

 うん、私は初めて見たよ。

 人が宇宙猫になった瞬間を。

 

 *

 

 思えば、その兆候はあったと思う。

 小学校の頃から母は時々数日単位の外出をして、夏には隔年でアメリカに2ヶ月くらい帰省する。お父さんが一年の中でまず帰ってこないから感覚が麻痺していたけれど、これもこれでかなり異常なことだった。

 もしその離れていた時間の全てがあの男との時間に費やされていたのなら、それはかなりの年月になる。……それこそ家族と呼んで差し支えないほどに。

 ……けれど、分からなかった。疑ってすらいなかった。

 曲がりなりにも同居している私がわからないのならお父さんはなおさら分かるわけがない。とうに私の家族は壊れてしまっていたことに気づいて後悔か、はたまた自責か。ともあれ、よくない感情が渦巻く。

 

「ここを引っ越すわよ、伽耶。引越屋さんはすでに頼んだし、不動産の人とも話はつけた。あの人には『2人で住むには広い』と言ってあるわ。貴女も準備をなさい」

 

 あの男を引き入れてからの母の行動は活発になった。

 まずは家を離れて、近くのマンションに引っ越してお父さんの私物はことごとくレンタルスペースに押し込んだ。

 引越しの後の母さんはよく笑うようになった。お父さんと居た頃には欠片も見せなかった柔らかな微笑みもあの男にはよく見せる。それどころかささやかなキスさえもする。よく眉間に皺が寄っていた母から考えられない姿だった。

 あの男もまた母を優しく撫でて、その甘えた姿に応える。

 一度だけ母とあの男が致しているのを目撃したこともあった。だから、母が妊娠したと聞いた時に、その父親を間違えることもない。

 

「学、早く大きくなりなさい。待っているから」

 

 愛おしそうに新たな命が宿ったお腹を撫でる母。私には、俺には与えられることがなかった無償の愛。ずっと欲しかったモノが私の目の前で他者に与えられている。……正直なところ気が狂いそうになる。

 ……ここまでくれば、嫌でも私は理解できた。

 

(……ああ、母さんは今の方が幸せなんだな)

 

 お父さんの痕跡を塗り潰して、私の存在もまた新しい子供で押し流そうとしている。もう、母は形すら取り繕おうとはしない。

 突きつけられる。もうこの家に私の居場所などないのだと。

 気づいた私はもう耐えられなくて、有栖ちゃんの家に駆け込んでいた。

 

 *

 

「はぁ……。うん、やっぱり重いや。胃腸薬が欲しい」

 

 事情を全部聞き終えた有栖ちゃんは長い息を吐いた。

 あまりに重苦しい沈黙を、有栖ちゃんはよしとはしない。

 

「覚悟は決まったよ。……しばらくはなんとかお父さんたちを説得して伽耶ちゃんが居れるようにはする」

 

「ありがとう、有栖ちゃん。おかげで助かったよ」

 

 感謝して頭を下げる。それに対して有栖ちゃんは「けれど」と遮った。

 

「でも、それも長くはないよ。ずっとあたしの家には居られない。何かが間違って伽耶ちゃんがあたしのお姉ちゃんになることもないだろうし。……だから、いつか伽耶ちゃんは自分の在りどころを見つけなくちゃならない。それはわかってることでしょ?」

 

「そう、だね」

 

 有栖ちゃんに言われなくても自覚していることだ。有栖ちゃんの家が所詮は避難所でしかないことは。

 けれど、新しくあるべき所の見当がつかない。今のままではあの新しい家に帰らなくてはならず、あの家にずっと居ればおそらく私はおかしくなる。それを引き起こすのが嫉妬か憎しみかは分かりたくないけれど。

 おそらく離別か、はたまた独立か。どちらかを選ばなくてはならない。

 ただ、どちらを選ぶにせよこれは私の物語だ。

 物語はいつだって主人公が決断して終わる。

 母さんはすでに決断して、新しい物語を始めた。

 だから、その次は私が決めるべきだろう。

 

「……そうだ。仕方ないから有栖ちゃんには話したけど、八幡には話さないでくれる?」

 

「あたしにバレたなら別に良くない? 比企谷をまた外す理由なんてあるの?」

 

 訝しげに有栖ちゃんは問いかけてくる。その問いかけの答えを私はすでに用意していた。

 

「八幡は優しいから。一度事情を知ってしまったら必ず関わってくる。それも、自分のことすら疎かにするぐらいに。ちょっとしたことなら別にいいんだけど、これは私の問題。今話して八幡の邪魔をしたくない」

 

「それ、あたしの邪魔をしていいって言ってる風に聞こえるんだけど」

 

「邪魔にはならないよ。なんだかんだで有栖ちゃんは要領がいいし、線引きが上手いタイプだ。手遅れになるほど深入りはしないでしょ?」

 

 原作とは異なる理由で八幡は将来的な進路を考えて総武高校を目指している。……けれど、学力*2が足りない。

 私は八幡にはなんとかして総武高校に入ってもらいたいのだ。そうしないと、原作が始まらない。雪ノ下雪乃や由比ヶ浜結衣、一色いろはに出会えない。本物を手に入れることもできないだろうから。

 

(男にもなれず、女にもなりきれない私なんかより彼女たちと絆を育んだ方がいい。どうしたって偽物でしかない私に関わって八幡にその機会を逃させたくない。せっかく、八幡は本物を掴める力を持っているんだから)

 

 私は私で物語を終わらせる。だから、八幡は八幡で新しい物語を始めてほしい。

 それが、今の私が彼に望むことだ。

 

*1
厚さ2センチぐらいで霜降り

*2
特に数学



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第13話 このように中山伽耶は思い知らされ、物語は終わる。

 

 母さんの出産日が近づいていた。

 正月に継父と姿を現した時にはすでに妊娠3ヶ月は過ぎていたらしく、十月十日を踏まえて考えると6月末から7月初旬ぐらいか。

 流石に出産が間近になると、家が慌ただしくなる。

 ベビー用品とかを買い揃えなくてはならないし、身重の母さんの手助けもしなくてはならない。

 私も色々と手伝ったりして、いよいよ父さんに何も言えないまま、その時が訪れた。

 近くの総合病院に母さんは運ばれて、継父と私は車で追いかける。

 無言の車内。それはいつものことだ、継父と私の間に会話が生まれることはない。継父は私をどう扱っていいかわからず、私は継父にあまり関心がないから仕方ないことのように思える。

 けれど、この日ばかりは継父から口火を切った。

 

「この後、どうする?」

 

 まだ日本語を使い慣れてないのかカタコト気味な発音。

 ただ、言外に何を聞きたいのかは分かった。

 

「カヤ、パパが好き。けど、ボクはそうでもない。ちがうか?」

 

「そうです。貴方を、アレックスさんを自分の父親だとは思えていない」

 

「だよね。ボクはキミにとってはインベーダーだから」

 

 寂しげにアレックスさんは笑う。

 人間個人としては嫌いではない。私をちょっと女性的に意識してもそれにすぐ「ゴメンネ」と謝れるような人だ。ほんとうに善良でいい人。家庭人としてなら父さんよりもよっぽど格が上だ。けれど、善良な人だからこそ私の深層を受け入れることはないと予感してしまう。

 ……もし、アレックスさんが私の貞操を狙うような男なら本気で憎めたのに。離れることに踏ん切りがついたのに。

 多分、この暖かさをこそ母さんは望んだのだ。ひたすらに夢の高みを目指して振り返ることのない父さんを捨ててまで。

 

「アレックスさんがインベーダーなら、私はディザスターだよ。だから、気にしないでください」

 

 私が母さんに与えられなかった暖かさ。アレックスさんなら母をそれで満たしてくれるのだろう。短い付き合いだけど、不思議とそう確信できる。

 あの日から私は絶えず理由を探していた。

 

 *

 

 一晩、母さんの出産は続いた。

 私はその闘いを分娩室のガラス越しに見せつけられる。

 母さんが陣痛と分娩の痛みに耐える姿は見てて痛々しい。

 けれど、私は目を離すことはない。いや、出来なかった。

 子宮がうずく。今までの私ではありえなかった反応に苛まれている。

 当たり前なことだが、私にはすでに生理が来ている。そして、身体は同年代の女の子と比べて早熟でもう出来上がりつつあった。法律ではまだだけどとっくのとうに子供を産める身体にはなっているのだ。身体の機能としてはこのうずきは当然なことなんだろう。

 女である限り10年、あるいは20年先には私もああいう風に誰かに孕まされて、誰かの子供を出産する。

 そして、この過酷な戦いを繰り広げなくてはならない。

 そのことを思うと恐ろしくて仕方がなかった。

 なまじ容姿が似通っているために母さんの姿が未来の自分に重なっていく。

 これは、今まで経験した男と女の境界線の苦しみではなく、女が女であることによって起こる苦しみだ。

 

『どれだけ男らしく振る舞おうが、どのみちあなたは女の子なのよ。いつか、そう思い知らされる日が来るわ』

 

 いつかの母さんの言葉がフラッシュバックする。

 結局のところ、母さんの言うことが正しかった。私は俺の延長線上にあるのは確かだけど、私はどうしようもなく女の子でその運命からは逃れることができない。

 怖い怖いと言いながらも、分娩する母さんから目線を切ることができずにいる。その関心こそが紛れもない証左だった。

 

 *

 

 7月2日、朝7時32分。

 ついに私の異父弟、中山学が生を享けた。

 助産婦さんが母さんから学を取り上げてストレッチャーに置く。そして体重が測られた後、アレックスさんは学を抱き上げた。

 

「ありがとうカーラ。産まれてきてくれてありがとう、マナブ……!」

 

 感涙に咽びながら微笑むアレックスさん。

 思えば、私だって最初は望まれて産まれてきたことを思い出す。

 けれど、私は俺で母さんたちの娘には完全になりきれなくて。そうして遠ざけて、厭われて。発端が自分なのはわかっているのだけど。

 それでも、と願う気持ちは確かにあった。もしかしたら、俺を受け入れてはくれないかと。けれど、けれどもその願いは叶わない。

 だって、弟が産まれた時の母の笑顔が、アレックスさんの泣き笑う顔が証明した。

 分娩室のガラスの一枚向こう。

 助産婦さんに促されるまで、俺はついぞ一歩も踏み込むことができなかった。

 

 ならば。これが答えなのだろう。

 

「……君は、私みたいに間違わないでね。約束だよ」

 

 アレックスさんに手渡された学を抱きながら祈る。

 何も知らない彼には、このまま綺麗で居てほしい。そして、それを為すには私は邪魔だ。

 産まれただけの学には罪がないのは分かってる。

 けれども、私がどれだけ望んでも得られなかった母の愛が彼には存分に注がれているのだ。自分の嫉妬で彼の人生を歪めてしまうことだけは嫌だった。

 

「さて、父さんのところに行こうかね」

 

 ぽつりと呟く。

 それに耳を傾けたのは、学しかいなかった。

 

 *

 

 夏休みになって時間ができた私は父さんがいる高知に向かっていた。

 なんでも長宗我部元親の大河ドラマを撮っているらしい。昔のことを考えたら大出世と言えた。無論、出世した代償に仕事は忙しくなっていて、毎年ほぼ帰ってきていた正月に父さんは帰ってこなかった。

 そんな状況の父さんにかかる事態を伝えるのは非常に気が重くて仕方ないが、やらなければならないことだった。

 

「やあ、伽耶。待っていたよ」

 

 高知市の某所。

 ご当地名物の鍋焼きラーメンの店で父さんと待ち合わせした。

 すでに父さんはカウンター席にいて、私を手招きする。

 鍋焼きラーメン自体は中華麺に鶏ガラが効いたスープがよく絡んで美味しい。ご飯も釜炊きだったから香ばしさが食欲をそそる。量があるのも、食べ盛りの私にとってはありがたかった。

 けれど、なんというか話を切り出しづらい。このまま美味しい思いをして帰りたくなる。

 

「なあ、伽耶。何か僕に隠してないかい? やけにそわそわしてるじゃないか」

 

 ただ、父さんはやはり目ざとくて自分から斬り込んできた。おかげで私も覚悟が決まる。

 

「……そうだね、父さん。私には言わなきゃいけないことがあるの」

 

 私は今この手で家族を壊そうとしている。

 究極のところ私が動かなくてもいつかは壊れるのだろうけど、学が産まれた時点でもう不可逆なのだから、いっそのこと今壊した方が収まりがいい。下手に長引かせて学の人生に陰を落とすのも躊躇われた。

 母さんの不倫から学の誕生。

 この一連の流れを父さんは時折目を丸くしながらも静かに聞いていた。

 

「……そうか」

 

 全部聴き終えた父さんは長く息を吐く。

 慮るに怒りは多分なくて、悲しみと諦めと後悔だろうか。複雑にないまぜになった感情を父さんは静かに整理していた。

 

「……かつての僕は彼女に憧れて、映画監督になってデカい作品を作るという夢を認めてくれて、支えてくれた強い彼女を信じていた。……僕はずっとそれに甘えてきたんだろうね。だから、裏切られたなんて言わないよ。信頼というにはあまりに手酷いやつだったから。僕はそこから抜け出せなかった。彼女を助けられるような男になれなかった。そして、伽耶は多分変わらないことを選んだんだろう? ──なら、いい。僕らの道はすでに分かたれたんだ。ならば、せめて彼女が幸せであらんことを祈るほかない」

 

 静かに一組の夫妻の物語は終わる。あまりに歪な形だけど、それでも家族だった。互いに好き勝手やって弾けて。壊してしまったという事実だけが重くのしかかる。

 ……繰り言になるが問いかけずには居られない。どうして私は『俺』のまま産まれてしまったのか。最初から私が『私』でいられたのなら、こんなことにならなかったはずだ。『俺』は結局のところどうしたって男になれない徒花でしかないというのに。

 




読んで下さりありがとうございます。
最後に出てきた流水麺です。
サブタイつけておきながらアレだが、すごい最終話感が漂ってやがる……! まあ、話はまだまだ続きます。とはいえ今話が一つの区切りになることは確かです。


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第14話 着々と開演に近づいていく。


遅れてきた流水麺です。
八幡の誕生日に投稿しようと思っていたのですが、酔い潰れて乙るという醜態を晒してました。
本編の内容としてはこれからの数話が中学時代最後のエピソードになると思います。


 

 8月はほとんど父さんと母さんの離婚調停で埋まった。

 父さんは大河の撮影に穴を開けないように器用にちょくちょく千葉に帰って山のような書類を処理し、母さんは育児に追われながらも着々と準備を進めていた。

 幸いなことにそこまで揉めることなく終わりそうだ。慰謝料はがっぽりもらったがアレックスさんは地味に資産を持っていたから、あまり手痛くないようでポンと出していた。

 

「こんな事態になった以上は流石の僕も千葉に住むよ。……まぁ大河が終わってからの話だけどな。カーラは大丈夫だ。アレックスならまだ信用できる」

 

 父さんと肩を並べて千葉市街を歩く。

 意外なことに父さんとアレックスさんの間に面識があったらしい。父さんがハリウッドで修行していた時に何度か一緒に仕事をしたのだとか。母さんもその時の仕事仲間の一人で酒に酔った勢いで身体を重ねたら私を身籠ったらしい。実に教科書通りのできちゃった婚だった。

 

「カーラは優秀だが、感情が昂りやすかった。……今回も人寂しさから偶然再会したアレックスを組み敷いたらしい。2回も繰り返すものじゃないぞまったく……」

 

 昔を懐かしみながら、父さんは苦笑いを浮かべる。

 父さんは笑ってるけど、地味に生々しくて困る。うそでしょ、私の時もそんな無茶苦茶やってたの……。

 

「前の家に帰りたいところだが、やっぱりあの家は二人で住むには広すぎる。それに僕も有名になってしまったからなぁ……。多少はセキュリティがちゃんとしてるところに住めと友達に言われてしまった」

 

「まあ、私もこれからは女優とか雑誌モデルとかの仕事は増やそうとしてたから、タイミングとしては悪くないんだよね」

 

 まだ若いながらも大河ドラマを撮るような監督とその女優の娘。そして、母さんの不倫と離婚。

 間違いなくフライデーあたりに虎視眈々と狙われているだろう。それこそ撮られたら連日連夜ワイドショーの主役にさせられるに違いない。

 ……今、騒ぎを起こされては敵わない。父さんの夢も私の自立も母さんたちの新しい暮らしも全部頓挫して、誰も幸せにならない。だから、とみにプライベートには気を遣わなくてはならない状況ではあった。

 

「じゃあ、父さん。あそこに住もうよ。幸いお金はあるんだし、あそこならセキュリティもしっかりしてそう」

 

 そう言って私が指を指すのは臨海部に立つタワーマンション。

 半ば冗談で言ったつもりなのだけれど。

 

「そうだな、あそこにしよう」

 

 真顔で父さんは頷いたのだった。

 

 *

 

 そんな馬鹿みたいな理由で私の次の住処はタワーマンションに決まる。それもかなりの高層階。担当者になっていた有栖ちゃんの親戚の人に見せられた物件情報を覗いたら普通に億ションで引いた。

 映画が当たったとはいえ、ノリで億ション買うのはうちのパパだいぶイカれてない? どうやら図らずも私自身もブルジョワになってしまったらしい。全然そんなガラじゃないけど。

 

「で、これを来年までは私1人で2人が住める状況に整えなきゃいけないわけだ。だる……」

 

 目の前に広がるのは東京湾の夕景と……広すぎるリビング。他に8畳の部屋と2つの6畳の部屋。……結局、私たちには広すぎる気がする。

 まずは家具から考えよう。

 冷蔵庫と洗濯機はあまり大きな物は要らない。反面、父さんの仕事上でテレビと音響機器、書類棚とデスクは大きめ。ならソファーもうんと大きい物がいいか。前の家の家具はレンタルスペースに入ってる父さんのやつ以外は捨てた。……名残惜しい物もあるけれど、懐かしんだところであの場所に帰れるわけではないのだから。

 電気屋さんと家具屋さんにそれぞれ注文して届けてもらって、私が配置の指示から支払いまで全てを受け持つ。

 なんかもうあの人たちの会話は専門用語が多くてしんどかった。前世の時に一人暮らしとはいえ世帯主になってなかったら頭がパンクしてたに違いない。

 

「あー、疲れた」

 

 だいたい2週間ぐらいで全てが終わって私は舶来のソファーに突っ伏した。モケットがふわふわしてて気持ちいい。暇だし、これから寝ようかな……。

 そう思って、微睡んでいると不意にインターホンが鳴らされた。

 オートロックの方ではないから、マンション内に住んでいる人だろうか? 

 

「……もしかして、知らず知らずのうちにブルジョワのルールみたいなの破っちゃったりしてる? ちょっと自信ないなぁ……」

 

 ご近所トラブルの予感に震えながら、私はドアスコープに目を通す。

 そして、目を丸くした。

 見間違えるわけもない。最後にその姿を見たのは前世の中だけれども。

 濡羽色の長い黒髪に彫刻のように整った顔立ち。柳のような優美な腕と脚。

 記憶の中と比べるとわずかに幼いけれど、雪ノ下雪乃が確かにいた。

 

(まさか、ここがゆきのんが住んでたタワマンだったなんて……。気づきもしなかった……!)

 

 動揺しながらも俺は扉を開く。

 すると雪ノ下雪乃は丁寧なお辞儀をしてきて告げる。

 

「明日、隣の4015室に入居する雪ノ下雪乃です。よろしくお願いします」

 

「わざわざご挨拶ありがとう、雪ノ下さん。私は中山伽耶。お隣さんになるのなら助け合って行きましょう」

 

 予期せぬ形で原作のメインヒロインとファーストコンタクトしてしまった。動揺するが、そこは一端の女優。ブルジョワのお嬢様(私が考えられる限りの)の演技をして相対する。

 

(こんな綺麗な娘と八幡がくっついて、キスをして、エッチなことをするんだなぁ……。なんかフクザツな気分だ)

 

 こうして本人を見るとその美貌が類稀なものであることだとわかる。私もだいぶ見た目の良さに自負はあるけど、雪ノ下相手に勝ち切れる自信はない。

 

「あの、中山さん。どうかしました?」

 

「いやあ、あんまりに美人で見惚れちゃいました。……それで、ご挨拶はお一人だけですか? 保護者の方は?」

 

 保護者と聞いて、雪ノ下は僅かに身体を固まらせる。

 雪ノ下雪乃の数少ない弱点なだけに効果はてきめんだ。

 原作において彼女は依存してしまいがちなことを悩んでいた。思えば、高校生らしからぬ一人暮らしも家族と折り合いが悪いだけではなく、この欠点の克服も目的に含まれていたのだろうか。

 

「保護者は来ていません。入居するのは私一人なので」

 

「……そうなんですね、実は私も訳あって一人暮らしなんです。だから、雪ノ下さんが来てくれて嬉しいですよ。私と同じぐらいの年の女の子で仲間がいると分かればだいぶ心持ちが違いますから。またお会いしたらお話ししましょうね」

 

「ええ、さようなら。中山さん」

 

 柔和な微笑みを作り、それとなく話題を切り上げて雪ノ下を帰す。これ以上話を広げても仕方がないだろう。

 扉を閉めて、演技を解いてそのままもたれかかる。脱力感がすごい、まさかゆきのんに会うだけでこれだけ緊張するとは思わなかった。

 

「いよいよ、俺ガイルが始まるんだなぁ……」

 

 俺ガイルの世界だから当然のことだけど、それでも転生してから15年は経っているから、今回の出会いにはなかなか感慨深いものがあった。

 今は八幡の隣に有栖ちゃんがいて、近くに私がいる。

 けれど、原作のまま進むならいつかその立場は雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣……奉仕部の2人に明け渡すことになるのだろう。

 それで、彼は本物を手に入れることになるのだとしても、どこか一抹の寂しさがよぎった。

 これから、私たちはどうなるのだろう。

 有栖ちゃんに関してはあんまりわからない。なんとなく八幡のそばを離れなさそうだけど、隣にはいない。むしろ、他に面白い人を見つけてその人に絡みに行ってるのかも。いずれにせよ、有栖ちゃんは面白そうなものを逃がさない、そんな力を持っている。

 

 ……私はどうなのだろうか。

 

 家族を壊し、取り繕うことばかりの偽物ははたして、彼の側にいるべきなのだろうか。

 



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第15話 力強く、二階堂有栖は手を伸ばす。


夏に無性に食いたくなる流水麺です。
またしれっと日刊ランキングに載ってました。最初の頃より、より人を選ぶ作品になった今の状況で載るとは思わなくてすごく嬉しかったです。
皆様、ありがとうございます。


 

 夏休みが終わってもなお、ジリジリとした暑さは引いてくれなかった。

 そろそろ模試の結果が出る。受験というゴールはまだ遠いが、夏休みという勉強に多くのリソースを注ぎ込める期間は終わってしまった。

 夏休みの成果がいかばかりのものか今回の模試で分かる。

 

(まあ、こんなもんだよね)

 

 自分の模試の結果を見て安堵する。

 総武高校には十分届くだろう。

 前世知識で社会科と古文漢文に強く、英語は最早母国語だから苦にならない。元から私は理系に力を注げば事足りるから他人に比べるとだいぶ余裕があるのだ。

 

(八幡はどうだろう)

 

 おそるおそる八幡の方を見やる。

 すると八幡は肩を落として「やっぱ数学かー」とぼやいていた。

 ちなみに有栖ちゃんは興味なさそうに模試の結果を見てた。……まぁ、有栖ちゃんはちゃんとやる気を出せば、あたしより点は取れるからあんまり心配することはないけれど。

 八幡も有栖ちゃんも雪ノ下さんも図らずも総武高校を第一志望に入れていた。

 私の場合は志望校には入ってるけど、第一かと言われると微妙だ。

 なにせ私はまだ志望校を決めかねているからだ。

 普通に考えれば、学力が足りてるなら県下有数の進学校である総武の方がいい。……けれど、私は同時に芸能人でもあるわけだ。活動を続けながら、学力を維持しないといけない。自分の頭の出来を考えると正直両立できるか怪しいのだ。

 

『伽耶が女優として本気で売れたいなら芸能科がある高校か、通信課程があるところがいいと思う。若手女優の勝負の時期はやっぱり10代の後半だからね』

 

 夏休みに父さんに言われたことが引っかかる。

 確かに売れることを考えたらそうした方がいいとは思う。……けれど、もしも売れなかった時、潰しが効かないのもそれはそれで怖いのだ。

 だから決め切れないわけだけど、残念ながら時間はもう長くは残されてなかった。

 

 *

 

 中学最後の修学旅行が終われば、クラスは完全に受験モードに入っていた。志望校は完全に定まり、なんとか射程圏内に収めようと授業中の内職とかも行われるようになる。

 そんな時期になっても、私はまだ惑っていた。

 総武も志望校にはしてるから勉強はやめてないけど、なんというか捗っていない。

 

「場所を変えようかな……」

 

 図書室から津田沼のワックに場所を変える。

 すると、そこには有栖ちゃんがいた。一応受験勉強はしているみたいだけど、それ以上にポテナゲの大が2つ並んでいる様が目につく。

 

「あー伽耶ちゃんだ」

 

 ナゲットを頬張りながら有栖ちゃんが手招きする。

 私もまたビッグワックスペシャルをモバイルオーダーしてから席に座った。

 

「思えば、放課後に会うのは久しぶりだよね」

 

「そうだね。いつぶりだろう」

 

 最後に一緒に過ごした放課後はもういつか思い出せない。

 有栖ちゃんの言う通り、放課後を一緒に過ごすのは久しぶりだった。

 最近の私は父さんの知名度が上がったからか、それに引き摺られてバラエティ番組やトーク番組にも出るようになった。ドラマの1話ごとのゲストとしてスポット的に出演することも増えている。

 だから、必然早退も増えたし放課後はだいたい何某かの収録やレッスンが入ることが多くなった。

 

「それだけ忙しいんだったら、勉強も大変でしょ」

 

「別にどうってことないよ」

 

 そう、何気なく返したつもりだった。

 けれど、何かが漏れ伝わったのか有栖ちゃんの目の色が変わる。

 ゆるゆるした雰囲気から一転して、深淵を覗いた時のようなドロリとした空気が漂い始めた。

 

「……いや、嘘だね。 やっぱり伽耶ちゃんは取り繕う悪癖を持つようになった」

 

 見破られていた。

 もう冬が近いというのに、じとりと背中に汗をかいた。

 

「伽耶ちゃんは、この三年ですごく変わったよね。すごい大人っぽく、綺麗になった。──けれど、それ以上に嘘が上手くなったね」

 

 それは私自身とて自覚している。

『俺』と『私』の比率が変わって女の子らしくなった。でも、それは『俺』に『私』をコーティングすることだ。本当を隠すという意味では嘘と言って差し支えない。

 

「女優の演技力って凄いね。多分、今の伽耶ちゃんは知らない人から見れば、完璧に夢を目指して頑張る女の子に見えるよ。でもあたしは、あたしと比企谷の目だけは誤魔化せない。女優の仕事を増やして、静かにあたしたちとの関わりを減らして。……それであたしたちの前から去るつもりなんでしょ? それぐらいわかるよ」

 

 そうだ、私は八幡と有栖ちゃんから離れるつもりでいる。原作の異分子として存在するリスクも理由にあるけれど、比企谷の邪魔にならないようにという気持ちも強い。

 だから、総武の受験勉強にさしてやる気を感じられなかったのだ。

 

「まぁ本当に女優として大成するつもりなら、あたしは別にいいよ。応援するし。 ……でも、それで伽耶ちゃんは本当に満たされるの? ただ嘘で生きていける場所だからといって逃げてない? あたしから……いや、比企谷から」

 

 臓腑を抉るような舌鋒に、私はたじろいだ。

 仕方がないこととはいえ、有栖ちゃんに私の事情を話してしまったことが悔やまれる。

 有栖ちゃんは遊びはするけど、手加減を知らない。

 容赦なく私の罪と葛藤と迷いを白日の前に引き摺り出してくる。

 

「そうだね。私は逃げてる。八幡から。家族を壊すような碌でもない私なんか捨て置いて、有栖ちゃんたちと幸せになって欲しいと思ってる」

 

「そう? なら、あたしが比企谷をもらうよ?」

 

 こともなげに有栖ちゃんは言う。が。それは私にとっては衝撃的に過ぎた。

 なぜ? という気持ちが渦巻く。だって、有栖ちゃんは今までただの一度も比企谷をそういう目で見てきたことはないはずだから。

 

「言っとくけど、ハッタリではないよ。この気持ちが恋かはわからないけど、あたし比企谷を手放したくないもん。……もしかしたら、比企谷の側にいたら、あたしは本当の恋を理解できるかもしれない。そんな予感があるんだ」

 

 何かを夢見るような少女の瞳、それは有栖ちゃんにはあまり似つかわしいものでもない。

 家庭の事情で可愛さだけを求められた果てに歪んだ好意をぶつけられ、変質してしまった少女。

 それがこの4年間で私が見聞きした二階堂有栖という少女だった。

 そんな彼女でも、変わろうとしている。朧げながらも何かに手を伸ばそうとしている。

 その有り様が私にはとても眩しく見えた。

 彼女ならきっと八幡の隣にいたとしても何かをまちがえることはないのだろうか。

 ……ああ、でも。

 それでも、私の隣にいて欲しい。なんて思わないでもない。

 こんな願いを許された身ではないというのに。

 だが、有栖ちゃんは韜晦も懺悔も許しはしない。ただ、ひたすらに畳みかけてくる。まるで、私の葛藤を手に取るかのように破竹の勢いで。

 

「ほら、やっぱり未練が残ってる。そりゃ割り切れる訳ないもんね、あれだけ一緒にいたなら」

 

 今だって、こんな風に見透かした上でそんなことを言ってくるのだからもう始末に負えない。

 

「罪の意識なんて知らないよ、あたしには。ただみんなで一緒に居たいだけだから。それすら、願っちゃダメなの?」

 

「有栖ちゃんは良くても、私が耐えられない。耐えられないんだよ。どうしても、私なんかって心が軋むの……ッ」

 

「だったらなおさら、逃げちゃダメだよ。それだけ比企谷を大事に思えるなら、きっと逃げて手放したことをずっと悔やむに決まってるから」

 

 ……ああ、その言葉はあまりに力強くて私の心臓を掴んで離さない。

 私はついに理由を奪われた。

 比企谷八幡から逃げる理由を、罪の意識よりもずっと手酷い何か……執着のようなものに気付かされることによって。

 



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第16話 雪ノ下雪乃は見過ごせない。

 

 迷っている暇なんてなかった。

 年末年始、私は地獄を見ていた。

 大河関連のお仕事、私生活ではクソな父さんの付き添いとしてのテレビ局通いと、やる気のなさと忙しさでおざなりにして気づけば、総武高校の合格ラインペースを下回っていた受験勉強の追い込み。

 やばい、身体が2つあっても足りない。どうしよう。

 正月番組がひと段落した1月5日の夕方。

 ようやく仕事から解放された私は力無い足取りでマイバスで食材を調達する。食材といっても忙しいから冷食ばかりだけど。

 

「あら、中山さん」

 

「あ、雪ノ下さんか」

 

 マイバスの中で買い物カゴを持ったゆきのんと出くわす。

 髪型が普段のロングと違ってサイドポニーになってたから分からなかった。原作のお出かけ回の時のツインテールは幼さが強調されててアレはアレで良かったが、今日のサイドポニーはゆきのん当人がまだ中学生なこともあって年齢相応の可愛らしさを感じる。

 

(でも、カゴの中は全然可愛くねえ……)

 

 舶来の香辛料にズッキーニ系のオシャレ野菜。他にも諸々なんか恐ろしく意識高そうな食材が入れられている。

 これが、生まれながらのブルジョワと後天的に成り上がった真正庶民の差か……。

 

「お正月、大変だったでしょう。いくつかの番組で貴女の姿を見かけたわ」

 

「正確には修学旅行が終わったあたりかな。紅白とか生放送のやつもあるけど、だいたい一月ぐらい前に収録を終わらせちゃうの。だから、まるまる一か月ぐらいは大変だった……」

 

 考えてもどんよりする。

 放送時間がないが故に拘束時間が長い正月番組の収録。大河ドラマも最終局面だから、それに合わせて盛り上げようと関連の取材が私と父さんに入る。学校では期末試験があって、遅れていた総武の受験勉強もある。

 うん、よく私ぶっ倒れなかったな、これ。

 

「それにしても、雪ノ下さんって案外テレビ見てるんだね。なんかクラシックとか流して紅茶でも飲んでるかと思った」

 

「クラシックは聞くわよ。テレビは普段あまり見ないのだけれど、貴女が出ると知ればいくばくか興味も湧いてくるわ」

 

「確かに隣の人がテレビに出ると聞いたらやっぱり気になるよね」

 

 互いの近況を話しながら、買い物をして家に帰っていく。

 ゆきのんとは友達というかはご近所付き合いの延長のような感じがする。

 会えば会話はするし、買い物も一緒にする。

 けれど、互いに踏み込むことはなくて、一線が引かれている。

 多分、これは原作が始まっても変わらない気がした。

 

「じゃあ、お先に」

 

 部屋のドアを開けて家に帰る。が、その瞬間に「待ちなさい」と声をかけられた。

 途中で呼び止めるなんてゆきのんらしくない。

 

「どうしたの、雪ノ下さん」

 

「ええ、私もそのまま帰ろうとしたのだけれど、少し見過ごせなくて。……中山さん。貴女が忙しいのは知ってるけれど、ろくに家事は出来ているの?」

 

 ゆきのんに追求された私はぐうの音も出ない。

 だって知ってる。

 忙しい時に真っ先に崩れるのは私生活の質だから。前世の時も決算前だとかは帰ってきてもろくに家事なんてできていなかった。

 前世より不規則なリズムの芸能界で、さらに前世よりは確実に虚弱な女性の身体。そんなんで、到底まともに家事をするだけの余裕が残っているわけがない。

 

「……はあ、その様子では出来てないようね。仕方ない、入るわよ」

 

 ゆきのんの進撃を抑えられるわけもなく、部屋への侵入を許す。

 部屋の中の、リビングの辺りに差し掛かったところでゆきのんは顔を顰めた。

 ……乙女の名誉のために詳細は差し控える。

 あえていうなら、それこそ若い男性の一人暮らしのちょっと汚い方。

 床に物は置いてあるけど、当人が使うには困らない程度。ただちょっと掃除機をかけたりするのをサボっていて若干埃っぽいぐらい。

 汚部屋ではないけれど、これが女の子の部屋だと言われるとげんなりする感じのなんともいえないやつだ。

 無論、ゆきのん的には不合格である。

 

「ゴミ箱にはコンビニのお弁当や冷凍食品の袋ばかり。……水回りには以前洗った食器が有るけれど、拭き損ねたからか水垢になってるわね……」

 

「やめて、雪ノ下さん……。私のライフはもうゼロだよ……」

 

「ゼロなのは、貴女の生活力よ。仕事が忙しいとはいえ、ここまで放置して恥ずかしくないの?」

 

 ピシャリと斬り捨てるゆきのん、いや雪ノ下さん。

 ……これが原作で八幡を切り裂いた舌鋒のナイフか。くぅ、鋭い。

 

「見てしまった以上は仕方ないわね……。中山さん、明日は仕事があるのかしら?」

 

「ないけど……」

 

「なら、明日は掃除の日にしましょうか。今日のところは私が夕食を作るわ」

 

 こめかみを抑えながら雪ノ下さんはキッチンの整理に入る。

 あまりにその動作が流れるようにスムーズだったからか、私は止めることができなかった。

 こうなった雪ノ下さんは止まらない。仕方ないので、私はリビングの整理をしながら待つことにした。

 それにしても、ゆきのんの制服エプロンてすごい堂に入ってるよね。まだ中学生なのに若女将の風格が漂ってる。正直、メイド服や裸エプロンのようなあからさまなやつよりこっちの方がちょっとエッチな気がする。本人に言ったら頭をしばかれそうだから黙ってるけど。

 かれこれ20分ぐらいした辺りから、キッチンから香ばしそうな匂いが漂ってくる。

 

「出来たわよ」

 

 お盆の上にはご飯と野菜炒めと豚の生姜焼きと味噌汁。

 私の家の食材の在庫上、選択肢は必然的に男飯に限られる。私が作ったとしても同じような献立になるけど、雪ノ下さんが作ると少しだけ格が上がった気がする。

 けれど、舐めるなよゆきのん……。こちとら前世では大学生の頃から足掛け8年間、野郎の一人暮らしをやってきたんだぜ? 茶色い男飯で早々に遅れをとってやるわけにはいかねえんだ……! 

 妙な対抗心を燃やしながら、まずは野菜炒めを口にする。

 軽快な食感に、素材の味を殺さず活かす繊細な味付け。焼きタレぶっかけを常套手段にしていた俺では到底不可能な味付けだ。ちくしょう、味付けは薄めなのに満足感が勝る。くっ、次は生姜焼きだ。あっ肉柔けえ、下味もすんごいしっかりついてる。これも味付け澱みねえな……! 

 主菜副菜が美味いと、お米は際限なく進む。つーか肉体年齢が15歳じゃなければ、ビールが欲しい。うう、悔しい強すぎる。……というか8年一人暮らししてたと言っても半ば自堕落な生活だったから技術的な蓄積が年数に見合ってないよ、そういえば。

 

「ごちそうさまでした……」

 

 最後に味噌汁を完飲して、私は雪ノ下雪乃に敗北した。

 

 *

 

 翌日はゆきのんと部屋を掃除し、勉強を見てもらった。

 理系科目は正直なところ自力でやるとドツボに嵌りそうだから誰かに見てもらえるのはありがたい。

 ついでにゆきのんと勉強会をする日は必然的にゆきのんが食事を作り、食事後は私の家の無駄に豪華な機材を使って音楽を流したり映画を見たりして時間を過ごすようになった。

 

 

 そうして、迎えた試験当日。

 受けた感じ、手応えはだいぶ良かった。まあ、スパルタゆきのんに朝から夕飯までしごかれたから、これぐらいにはなってもらわないと困るけど。

 面接は反則気味だけど、女優モードになれば問題はないはずだ。

 つまるところ筆記試験が難関だったわけで、そこをなんとかしてくれたゆきのんへの感謝は尽きない。

 結果として私とゆきのん、八幡と有栖ちゃんが総武高校に合格した。

 ……いよいよ、始まるのだ。

 比企谷八幡と雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣。そして、中山伽耶らが織りなす間違った青春群像劇。私がいる以上、原作通りには進まない気がする。けど、もう逃げも後戻りも出来はしない。

 もはや、私の青春ラブコメははじまっている。

 





なお、後1話原作前にある模様。


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第17話 偽物の笑顔と本物の笑顔

 

 受験は本当に私たちの明暗を分けた。

 1月末に学年末試験が終わった後は自由登校期間になるけど、過ごし方は天と地ほどの差があった。

 推薦ですでに決まっている人は最後の思い出づくりのために登校日以外は姿を見せず、受験が終わった人もこれに加わった。

 反対に一度目の受験に納得がいかなかった人はほぼ毎日学校に来て自習をしている。

 前者には有栖ちゃんがいて、後者には八幡や折本さん、瀬谷くんがいる。

 私は本質的には前者だけど仕事以外は家にいても家事ぐらいしかすることがないから、何気なしに学校に来ていた。

 

「お前な、オフの日ぐらい休んどけよ……。わざわざ学校に出て俺の勉強なんてみてる場合か?」

 

 私の目の前で八幡が目を腐らせながら問題を解いている。

 八幡は一度、総武の受験に落ちていた。聞いた限り数学と英語で足切りにあったらしい。

 ただ幸いなことに受験生全体の平均点が低かったために二次募集が行われ、八幡はこれを狙うことにしたようだ。

 他に瀬谷くんは僅かに点が足りずに総武に落ち、折本さんは記念受験レベルだったらしく海浜総合に志望校を変えた。

 

「私は正直、家にいてもって感じだからね。暇つぶしと思って割り切っといてよ」

 

「まぁ、お前がいると英語のリスニングがいくらでも出来るからな。そこは助かるが……」

 

「まぁ、大人しく勉強しておくことだね。私は横で適当に遊んどくから」

 

「何その嫌がらせ。地味にえぐいんだが」

 

 八幡の抗議を笑って流す。

 図書室の隅っこ。本棚の死角に隠れるようなところで私たちは椅子を並べている。他の生徒はいるけど、自分の受験に手一杯で私たちに絡む暇がある人はいない。だから、心配するようなこともなく気ままに目を腐らせながら静かに勉強する八幡を眺めることが出来ていた。

 ……こんな近くで八幡を見ていられるのはいつぶりだろう。

 周りを気にせずに二人で在れたのはいつぶりだろう。

 こんなにほっとしたのはいつぶりだろう。

 直近を思い返しても当てはまらない。それこそもうずっと遠く彼方、2年前ぐらいか。

 気づいたら、私と八幡は別の時の流れを歩き始めていて、そのあまりの違いに苦笑いをこぼしていた。

 

「……なに笑ってんだよ。悪かったな、数学が死ぬほど出来なくて」

 

 勘違いして拗ねる八幡に私は笑いかける。

 

「違うよ。懐かしいなって、そう思っただけ」

 

「……ああ、そうだな」

 

 果たして、その八幡の言葉に私は素直に笑えていたのだろうか。

 

 *

 

 やがて時は流れ、総武高校の二次募集の結果が出る。

 私は2人の努力の結果を見届けるために再び総武高校に足を運んだ。

 そして、ここでも明暗が分かれた。

 

「……受かるもんなんだな」

 

 半ば信じられず、呆然と立ち尽くす八幡と。

 

「……ッ!」

 

 彼らしくもなく、物陰で歯を食いしばって悔やむ瀬谷くん。

 本番は残酷だ。事前準備をするのは大前提。けれど、どうしても本番の空気感やその日の体調みたいな目に見えない物に左右されてしまう。

 期末試験の結果から考えると順当にやれば、瀬谷くんは合格圏内にはいたはずだ。けれど、2度とも阻まれた。

 その心中はいかばかりか私には推し量ることも難しい。

 

「瀬谷くん……?」

 

「……中山さん」

 

 私が見ていたことに気づいたのか、瀬谷くんは顔を上げて私の方を見やる。

 その僅かな所作の間に瀬谷くんの顔は変貌していた。

 敗北を悔やむ落伍者から、何かを決意した男の顔へと。

 私はもう何も言えなかった。

 

 *

 

 

 卒業式が終わり、クラスのみんなと話した後に私は一人で体育館裏に佇んでいた。

 待ち人がいる。

 特に約束をした訳ではないけれど、場所を教えなくてもきっと来る。そんな確信めいた予感があった。

 ざっざっざっと砂利を踏む音が聞こえる。

 私は足音の主の顔を見た。

 

「────やっぱり、来たね。待っていたよ、瀬谷くん」

 

「ああ、待たせたね中山さん」

 

 向かい合う。

 何かを覚悟した精悍な顔立ち。それは、二次募集の時に見た顔の焼き直しだった。

 1年生の頃はちょっとした可愛らしさがあったけれど、今は違う。どことなく渋みすら感じさせる男になっている。私が変わったと同様に瀬谷くんもまた3年間で変わっていたのだなと不意に気づかされた。

 

「中山伽耶さん。3年間ずっと好きでした。僕と付き合ってくれませんか?」

 

 瀬谷くんは私の前に一歩進み出て、頭を下げて右手を伸ばす。

 その動作に迷いはない。ただ、手はかすかに震えている。何かを繋ぎ止めようと必死に伸ばされた手。

 

「悪いけど、瀬谷くんとは付き合えないよ」

 

 その差し伸べられた手を私は握らない。

 顛末を理解した瀬谷くんは「知ってた」と苦笑いを浮かべた。

 

「もしかしたらとは思ってたけど、どうやら僕にとっては荷が重すぎたらしい。……やはり、彼じゃないとダメなのか」

 

「別に八幡だったら付き合ってた訳ではないけど」

 

「違うよ。僕は曲がりなりにも3年間ずっと貴女を見てきた。けど、磯子さんの件があってからたぶん中山さんは学校で一度たりとも本当に微笑んだことはない。違うだろうか?」

 

 思った以上に、瀬谷くんの目は正鵠を射抜いていた。

 確かに、磯子の件があってからの私はクラスでは終始演技をしていたように思う。あれからは八幡の前ですらも素直に笑えていたか自信がなかった。

 

「1年生の時、僕は君が比企谷くんに向けた無邪気な笑みを見て好きになったんだ。……ああ、こんな綺麗な笑い方をする女の子がいるなんてってね。けれど、磯子さんの件で僕がその笑顔を壊してしまった」

 

 胸の前で拳をぐっと握りしめる瀬谷くん。その罪悪感はいかばかりか類推はできる。彼もまた私と同様に自分のせいで大切なナニカを壊してしまった人間だった。

 

「だから、僕はなんとかして君の本当の笑顔を取り戻したかった訳だけども、ついに今の今まで何もできなかったわけだ。中山さん、こんな情け無い僕を笑って欲しい」

 

「笑えないよ。私には笑えない」

 

 痛いほど分かる。

 何かを壊してしまった罪悪感と本当に欲しいものを得られなかった渇き。

 だからこそ、私は笑えなかった。

 

「だったら、嘘でもいいから笑ってくれ。……そうしてくれないと、僕は終われない」

 

「もう、そういうのは目の前で言われたら何も意味はないんだよ? 瀬谷くんって思った以上に馬鹿だよね」

 

 乾いた笑い。

 けれどそれは驚くほどすっと出てきて、瀬谷くんは目を丸くする。

 

「まいったな……。まさか、最後の最後に叶うなんて、あがいてみるもんだね。……ありがとう、中山さん。これで僕に悔いはなくなった」

 

 満足気に笑って瀬谷くんは踵を返す。

 振り返ることもなく、堂々と。

 

 **

 

「で、いつから見ていたんだい比企谷くん?」

 

「いつからって今来たばかりなんだが?」

 

 瀬谷の質問に質問で返す。

 いや、実際は俺は嘘で返していた。

 二階堂と折本のじゃれ合いが終わり、中山を呼ぼうと体育館裏に出向いた時に、俺は目撃してしまったのだから。それも、かなり最初の方から。

 あまりの気まずさにその場を立ち去ることもできず、意図的に気配を消してやり過ごそうとした訳だがどうやら慣れないことはするもんじゃない。普段通りにしてた方がやり過ごせてたのかもな……。

 

「見てくれていた方が僕には都合が良かったんだが、まあいいさ。……比企谷、中山さんを託した」

 

「託すも何もお前のもんじゃねえだろ、あいつは」

 

「そうだね。ただ僕の叶わなかった願いを押し付けているだけだ」

 

 そう言って瀬谷は自嘲する。

 瀬谷の事情も、願いも俺は既に聞いている。けれど、なぜそれを俺に引き継がせようとしているのかがちっともわからなかった。

 

「お前で叶えられない願いなんて俺には身に余る。他を当たれよな……」

 

 実際問題、俺では瀬谷の願いを引き継ぐには荷が勝ちすぎる気がするのだ。

 3年間ずっと正面からあいつのことを想い続けた瀬谷と、あいつに向ける感情の整理を保留にし続けている俺ではあまりに差がありすぎる。

 

「いや、君じゃないと嫌だ。君なら叶えられても仕方がないなと思える。ずっと前に中山さんの本当の笑顔を引き出せていた君ならば、僕も諦めていいと思える。僕じゃ一時的に垣間見ることしか出来なかった。だが、それでは中山さんが救われない……!」

 

 熱弁されるも、俺にそんな大層なことをしていた自覚はなかったのだ。ただ、あの頃はしがらみが今より少なかっただけでしかない。

 ……だが、きっとこいつは俺以外に頼むことはしないのだろう。

 そうなると、あいつはずっと一人のままで空疎な笑みを浮かべ続けるのだろう。なにせ、誰も踏み込むこともしないのだから。

 俺みたいにぼっちでいても困らないなら、別にいい。

 けれど、あいつはどうしようもなく寂しがり屋なのだ。自分の用事がないというのに、わざわざ俺たちの前に姿を現すぐらいには。

 だから、やっぱり誰かがあいつのそばにいてやらなくてはならない。

 

「引き継いでやるが、あんま期待はすんなよ。借り物の願いほど、価値が分からんものはないからな。お前ほど真面目には出来ないかもしれない」

 

「それでも構わないさ。君がそう言ってくれるだけで僕は安心できる」

 

 瀬谷が破顔する。その表情は晴れやかで、何か憑き物が落ちたかのようだった。反対に俺の肩は心なしか重くなったように思う。

 それだけのしみったれた想いを瀬谷はあいつに抱いていたわけだ。

 配達不能のデッドレターで終わるはずだった願いはまだ潰えたわけではない。届かないのなら何枚だって書けばいい。ポストマンを何人使い倒したって構わない。例え何度届かなくとも、書く手は止めてはならない。

 そうしてしまえば、本当に終わってしまうのだから。

 




第一部、完ッ!
いやー、我ながら初っ端から飛ばしてるなと思いましたまる。
けれど、ここまでの膨大な情報を中途に入れて半端に終わらせたくはありませんでした。だから、そのまま原作から入らずにひたすら時系列順にやるというプレーをかましたわけです。
ひとまずはここまで読んで下さりありがとうございます。第二部もやるだけやるので応援して下さるとありがたいです。


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第二部
第18話 かくして由比ヶ浜結衣の戦いが始まる。


……待たせたなッ! 流水麺様のお通りでいっ!
(意訳:2部のプロットめっちゃ苦戦して遅くなりました。すいません)

後半はガハマさん視点だよっ!


 

 月日が巡り桜が咲く。

 一月にも満たないモラトリアムは終わって、また新しく区切られた時が始まる。

 朝早く起きて姿見の前に立った。

 幼い頃は薄紅色だった髪は今や紅葉のように赤く染まり、長さも肩口から腰まで伸び、平らだった胸も膨らんでネグリジェの胸元をこれみよがしに押し上げる。肢体もしなやかに伸び、女性らしい丸みを帯びていた。

 否応なしに理解させられる。もう今の私にはあの頃の男勝りな女の子の面影はないのだと。

 

「改めて見ると、本当に俺は女の子になったわけだ。特にこれを見るとそう思う」

 

 ひとりごちて鏡の端に映る総武高校の制服に目をやる。

 かつて雪ノ下雪乃や由比ヶ浜結衣が着ていたソレを今度は自分が着るわけだ。

 正直、気が進まない。中学の制服を初めて着た時もそうだったが、セーラー服やブラウスとスカートのツーピースの制服はとことんまで着た人間の性を規定し提示する。この人間は総武高校に通う女子である、と過剰なまでに明確なラベリングを施すのだ。……例え中身に『俺』という異物が混入されていたのだとしても。

 それを自覚しているから少しばかりの嫌悪感があった。

 だが、こうも女らしくなってしまった身体だから何を着たところで自分が女だとすぐにわかる。幸い、諦めることも中学の3年間で慣らされてきた。

 それに約束の時間まであまり余裕がない。早く着替えてしまおう。

 しばし衣擦れの音があたりに響き、そして私は再び姿見の前に立つ。

 脚が長いからかスカートがかなり膝上にくる。そして、胸の強調がなかなかエグい。確実にこれは男子からよくない視線を向けられてしまうだろう。

 

(なかなかどうして似合うな。これは俺でも認めざるをえない)

 

 減らず口を叩く一方で、喜んでしまう『私』がいる。『俺』は制服が嫌いでも『私』はそこまで制服が嫌いではない。可愛い自分を拒絶するほど、『私』は自分の容姿を嫌ってはいない。ただ、母さんのことを思い出してたまになんとも言えない気持ちになるだけだ。

 

「さて、ゆきのんとこに行くかね……」

 

 部屋を出てゆきのんの部屋に向かう。

 本来なら私に早く起きて制服に着替える理由はない。が、ゆきのんにはある。なにせ新入生総代だ。だから、新入生の誰よりも早く学校に行って打ち合わせをする必要がある。そんな彼女に付き合う以上は、私もまた時間を合わせなくてはならなかった。

 

「おはよう、雪ノ下さん」

 

「ええ、おはよう。中山さん」

 

 ゆきのんはすでに身支度を済ませていて紅茶を淹れていた。

 前世から見慣れた制服の姿。彼女の制服姿を見て、私は原作がスタートしたことを意識する。

 

「お父さんはまだ来ないみたいだから、ちょっと待ってようか」

 

 そして、原作が始まるということは八幡が轢かれることをも意味する。原作通りなら八幡はゆきのんの送迎のリムジンにガハマさんの犬……サブレを庇って轢かれる。

 原作のことを思えばこの事故から3人の数奇な縁が始まるわけだが、知人が轢かれることを分かっていながら見過ごすのは夢見が悪いので手を加えることにした。

 リムジンではなく、私の父さんの車で学校まで向かう。父さんには運転気をつけろよと申しつけているから大丈夫だとは思う。

 原作とは違う流れだけどすでに私と有栖ちゃんがいるし、『本物』なら過程が違ってもなんとかなるっしょ! 

 

 *

 

 結果として、父さんの車は何一つ事故をすることなく学校にたどり着いた。

 ゆきのんは打ち合わせに入って、暇な私はクラス分けの紙を先に見させてもらう。

 海老名姫菜、川崎沙希、相模南と見知った名前がちらほら。彼女達とはクラスが違う。ゆきのんは国際教養科だから一緒になることはない。ガハマさんもクラスが違った。有栖ちゃんも八幡もクラスが違う……というかあの2人またクラス一緒じゃん、なんかずるい。

 はてさて、なら私は誰とクラスが一緒なのか。気になって調べてみたら引っかかる名前があった。

 葉山隼人。

 どうやら私はあの完璧で究極のリア充とひとまず1年を送らなくてはならないらしい。他の原作キャラはいなかった。

 ゆきのんを密かに応援しているうちに入学式が終わり、新入生向けの行事も終わる。映画研究会とか案外劇中で語られている以外にも部活が色々あったのには驚かされた。

 初めてのホームルームも終わると、私は仕事という体で懇親会と化していたクラスから抜け出した。

 今日1日、八幡や有栖ちゃんに会っていない。けど、あの2人はホームルームが終わったらそそくさと帰る人種なのはわかりきっている。だから、帰られる前に2人、特に八幡に制服を見せびらかそうと思っていた。

 幸い八幡のF組はまだ終わっておらず、出待ちをする。

 すぐにホームルームが終わってちらほらと生徒たちは帰りだした。だが、おかしい。……八幡がいない。

 

「伽耶ちゃん。待ってても比企谷は来ないよ。先生から聞いたけど、今日そもそも来てないんだって。なんでも、事故に巻き込まれたとか」

 

「……嘘」

 

 有栖ちゃんから伝えられた情報に私は絶句した。

 私はやれることはやったつもりだ。それにあの事故はあの3人の縁を作るためのイベントみたいなものであるからゆきのんを外せば、起こり得ないものだと思っていた。

 ……けれど、事故は実際に起きている。

 それは、逆説的に原作とはいえど絶対の物ではないという証左とも言えた。まあ今は考察はいいや。

 一刻も早く、八幡に会いたい。

 私は有栖ちゃんに情報を吐かせて病院に向かって走り出した。

 

 **

 

 鈍い衝撃音が辺りに響く。

 けたたましいブレーキ音を響かせて停まった車*1

 その横からたどたどしいながらも、あたしの方に向かってくるサブレ。

 けれど、あたしはそれには目を止めなかった。

 血塗れのアスファルトと、道路の向こうで脚を抱えてうずくまって歯を食いしばる彼。

 あたしのせいで、このひどい状況は生まれてる。

 はしゃぐサブレを抑えきれなくて、車道に飛び出たサブレを彼は庇ってくれた。

 どうして? 

 疑問が湧いてくる。

 どうして、この人はこんな目に遭ってまでサブレを助けようと思ったのだろう。

 ……いや、疑問に思ってる暇はない。動かなきゃ! 

 

「……あの、大丈夫ですか?」

 

「……この状況で大丈夫な訳ないだろっ……! 警察と救急車を呼んでくれ……!」

 

「あわわわ、すいません。すぐに掛けますっ!」

 

 ちょっとしたら警察と救急車が来て、事故の処理が始まった。

 そうしてあたしが慌てて対応しているうちに、彼は……比企谷八幡くんは病院に運ばれていた。

 だから結局、聞けないでいる。

 なんで、サブレを助けてくれたのかを。

 だって怖かったはずだ。走ってる車の前に飛び出すなんて。怖いから普通の人なら同じ光景を見ても助けてはくれない。……でも、あの人は違った。

 思っててもやらないことって人間にはあると思う。けれど、彼は迷わずに実行した。こんなことになるってことも多分分かってたと思う。

 

(かっこいいなぁ……)

 

 見た目じゃなくて、なんというかその在り方がかっこいいと思える。

 今までイケてる男子を見ても、こうまで気になることはなかった。

 彼……比企谷八幡くんだけだ。

 あたしが、こんなに心を動かされたのは彼しかいない。

 

「会って謝ろう。それで理由を聞くんだ。それで……」

 

 不謹慎だけど、彼と会うことに心が弾むあたしがいる。

 これが、恋なのかもしれないなぁとキャラじゃないけどしみじみとするあたしだった。

 

 *

 

 入学式が終わったあたしは彼と会うべく、搬送された病院に向かった。

 看護師さんに病室の近くまで案内してもらって、あたしは立ち止まった。

 耳を澄ますと壁の向こうから話し声が聞こえる。

 彼らしき男の子の声と、女の子の声。

 そりゃあそうだ。彼にも友人だっているはずだし。事故にあったと知れば心配してお見舞いにも行く。

 おかしいことではないのに、胸が痛くなる。

 

「まぁ、良かったよ。八幡が生きててくれて。さすがに数少ない幼馴染までは失いたくはないからさ」

 

 とても優しい声。彼女が彼と親密なのがよく分かる。……もしかしたら、彼と彼女は恋人同士なのかもしれない。

 足がすくむ。病室の扉に手をかけたまま動けない。

 けれど、会わなきゃ。会って謝らなきゃ。

 義務感と恐怖が混じったチグハグな心が邪魔して、身体が言うことを聞かない。

 そんな時だった。

 

「比企谷、入るねー」

 

 あたしより背が低い女の子が、すっと割り込んできて豪快に扉を開ける。そうして、あたしの目に飛び込んできたのは、

 

「おお、二階堂と……誰だ?」

 

「ああ、有栖ちゃん来たんだね」

 

 目を腐らせてベッドに寝ている彼ともう一人。

 夕焼けを閉じ込めたような赤く長い髪にお人形さんのように整った顔立ち。スタイルもすんごいよくて、同性のあたしでも見惚れてしまうような綺麗な女の子がそこにいた。

 って、事故の後に話しかけたのに覚えられてないのあたしッ!? 

 

 *

 

 しどろもどろになりながらも、彼……比企谷八幡くんとの話が終わって病室に出る。

 誰かから責められることはなく、許してもらえた。

 けれど、あたしの胸は苦しい。

 

(比企谷くん……呼びにくいからヒッキーの周りにはあんなに可愛い子ばかりいる)

 

 伽耶ちゃんと有栖ちゃん。

 2人ともとても可愛くて美人で、ヒッキーのことを大事に思ってる。彼女たちとヒッキーが作る輪の中は暖かくて、でも外側は寒くて。それなりに長い時間いたけど、あたしは愛想笑いしか出来なかった。

 

「あれ、由比ヶ浜さん。まだいたの?」

 

 一足早く病室を出たのだろう、有栖ちゃんがあたしのもとにとてとてと駆け寄ってくる。

 やっぱり、有栖ちゃんも可愛い。

 顔が綺麗なのもそうなんだけど、肩口まで伸びた黒髪が有栖ちゃんが動くたびにサラサラと揺れて、それがまた有栖ちゃんの可愛らしさが際立っている。

 ……覚えてもくれなかった地味なあたしとは大違いだ。

 

「ちょっとね。でも、大丈夫。すぐ帰るから」

 

「別に帰らなくてもいいんだけどなあ……。あたしとしては由比ヶ浜さんに話があったから正直、ちょうどいいんだよね」

 

「あたしに、話?」

 

 あたしが疑問を浮かべると、有栖ちゃんはうなづく。

 そして、艶っぽく笑った。

 

「だって、由比ヶ浜さん。比企谷のこと好きでしょ」

 

 心臓が止まりそうになる。どうして、あたし自身だって自覚したばかりの想いをどうして彼女が分かるのか。

 

「目線や僅かな口元の動きである程度は分かる。伽耶ちゃんと比企谷のことをしきりに気にしてたし、ドアの前で貼り付いてたからもう確定だよね」

 

 息が詰まる。だって、有栖ちゃんがわざわざ話に来るってそういうことだ。また、いつものようにあたしは好きになった人を誰かに譲らなくちゃならないんだろう。中学生の時もそうだった。あたしが少しいいなって思った人はあたしの友達も好きで、友達と仲悪くなりたくないからいつだってあたしから身を引くの。

 ああ、なんてひどい話なんだろう。初めてあたしが好きになれた人でさえ、こんなことになるなんて。神様もいじわるだ。

 けれど、今回ばかりは嫌だ。諦めきれない。

 知らないうちにあたしは有栖ちゃんを睨んでいた。

 

「ひどいなぁ、少しからかっただけなのに。そんな怖い顔をしないでよ。……でも、本気なんだね」

 

 困ったように笑う有栖ちゃん。けれど、その笑みは次第に楽しげなものになっていて。

 

「うーん、サブプランと見れば悪くないかな。あの2人だけじゃ心許ないし……。うん、決めた」

 

 小声でぶつぶつと言って正確には聞こえない。ただ、何かを決めたのはわかる。有栖ちゃんは滑るようにあたしの耳元に近づいてきて、ボソッと囁いた。

 

「じゃあさ、あたしがその恋路を手伝ってあげるよ」

 

 信じられなかった。だって、有栖ちゃんは伽耶ちゃんの友達で会ったばかりのあたしなんて今ここで話をしたぐらいだというのに。

 

「その代わり、由比ヶ浜さんはあたしに恋を教えてよ。それが交換条件ね」

 

 悪魔のように、こちらを試すかのように有栖ちゃんが笑う。

 底知れない、怖い。でもきっと、あたしだけじゃヒッキーには近づけない。見てももらえないだろうから。

 だから、あたしは──。

 

「お願い、有栖ちゃん」

 

 勇気を出してうなずいていた。

 

 *

 

 初めての土曜日。

 あたしは美容室にいた。

 

「このままのあたしじゃ、ダメだよね」

 

 呟きながら自分の髪をいじる。

 今まで手入れをサボってないからサラサラしてるけど、どうしても野暮ったく見える黒髪。正直、愛着もあるけれどもう迷っている余裕はなかった。

 だって、あたしは知らされてしまったのだから。

 すでにあたしの恋には強大なライバルがいる。彼女がヒッキーをどう想ってるかは知らない。でも、あたしの何歩も先にいて、ヒッキーもどこか気を許していた。

 今から追いつくにはあたしがすごく変わるしかない。それも、あたしを見るしかないほど可愛く魅力的に。

 

「すみません。髪をピンクっぽい感じに染めたいんですけど……」

 

 あの赤に負けないほどの色を手に入れて、ヒッキーを振り向かせて見せる。

 その上でありがとうだけじゃなく、好きですと伝えるんだ。

 だから、そのためにも負けられない。今度こそ、誰かに席を譲りたくないんだ。

 

*1
黒い○リウ○



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第19話 4月は選択の時期である。

生き残り流水麺です。やっぱり僕は人を選ぶ作家さんだと思うんだ。今回もぶっちゃけそうだし。

ちなみに今話は中山編と比企谷編の2本立てです。


 

 4月23日。

 

 入学式から2週間ほどが過ぎる。けれど、まだどこか浮ついたような、足元がおぼつかないような空気が1年生の中には漂っていた。

 通学や授業には慣れてきたけど、人間関係にはまだ慣れない。

 中学からの既存グループに、遠くから単身で来た生徒という構図で繰り広げられるクラス内カースト形成に関わる権謀術数。そして、何よりこの後の3年間を決定づけてしまう部活動選択が彼ら彼女らにのしかかっている。

 部活に関して総武高校は原則加入を生徒に求めてはいないから帰宅部としての道はある。だから、間違いなく八幡はそうするのは明らかだ。

 ただ、普通の生徒からしたら部活は入っておきたいのが心情だろう。なにせ友情も努力も勝利も、果ては色恋さえも部活には内包されているように彼ら彼女には見えている。なにやらアメリカンドリームのようなナニカがそこにあった。

 とかく、高校1年生の4月というのは忙しい。

 それは私とて例外ではない。クラスでは否応なしに目立つ葉山くんに目につかない程度には近づいて立場を作る必要もあるし、部活もやるとなると仕事に差し支えないものを選ばなくてはならない。

 例外と言えるのは八幡と目の前に座る彼女……雪ノ下雪乃ぐらいではないだろうか。

 最近は彼女と朝食を一緒に摂って雪ノ下家のハイヤーで学校の近くまで行って降ろしてもらうのが習慣になっている。手間がないからやっているんだけど、おかげで私までお嬢様とクラスの人に思われていた。

 

「どうかしたのかしら、中山さん」

 

「いや別に。雪ノ下さんって部活は何にしたんだだろうって」

 

 何気なしに言ってしまった意味はない一言。なにせ雪ノ下雪乃は奉仕部を設立することを私は知っている。わかりきっていることを聞くほど無駄なことらない。……けれど、思えばいつ彼女は奉仕部を設立したかは分からない。案外、原作には彼女が1年生だった頃の描写はないのだ。

 

「……そういえば、中山さん。貴女は部活を決めてないのかしら?」

 

「まあね。色々と縛りがあるから」

 

「だったら、良ければ私と一緒に部活動をやってくれると助かるのだけれど……」

 

 ちらちらと上目遣いでわたしを見てくるゆきのん。可愛い。けれど、その内容に私は驚いている。まさか考えた側から奉仕部が作られようとしていたなんて誰が思うまい。

 

「うーん」

 

 テーブルにティーカップを置いて思案を始める。

 奉仕部の理念は確か『飢えた人に魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えること』でボランティアよりかは、お悩み相談と自立支援といった方が近しい。

 雪ノ下雪乃はなぜそのような理念を掲げたのか? 

 それは推測にはなるけど、彼女自身が知っていたからなのだろう。……ただ、与えただけでは依存される結果にしかならないと。

 彼女は奉仕部の活動を通して自己否定を、さらには自己超克をしたかったのではないかと思う。

 けれど、それは比企谷八幡が現れたことで綻びが生じる。

 八幡は雪ノ下雪乃ではできない斜め下の方法で問題を解決、あるいは解消してきた。効率という意味では悪くはないし、依頼者も助けられていた。ただ一方で雪ノ下雪乃が自らの手で依頼を解決するという機会が奪われたことにもなりうるのだ。

 

(私はどうなのだろうか。私が入ることで雪ノ下さんは望むように変われるのだろうか。誰かの後を追うような人になりはしないだろうか)

 

 どう取り繕い、演技をして、希ったとしても人は自分以外の誰かにはなれやしないし、自分を打ち消せない。

『俺』の上にどれだけ『私』というテクスチャを貼り重ねたとしても、『俺』が『私』に塗り変わることはないように。雪ノ下雪乃が雪ノ下陽乃を追っても、雪ノ下雪乃でしかないのだから。

 

「ごめん、部活をやるのはちょっと考えさせて欲しい」

 

 結果的に私は即答を控えた。

 確かに原作を知っている人間からしてみれば、奉仕部に入ることは魅力的だ。ただ、それが雪ノ下雪乃の自己実現の妨げになるならやめた方がいい。比較的彼女にとって気安い間柄の私が奉仕部に入ることは、もしかすると私への依存を招くかもしれなかったから。

 それに私は私の人生がある。

 父さんの手伝いで始めた女優稼業は実に私の肌に合っていた。高校では多少自粛はするけど、あまり勘を鈍らせたくないと思っている。

 奉仕部の活動形態は依頼者が来るまで待ち続ける、あるいは学校行事の裏方などに従事するという形で案外多忙だ。すると、私の女優兼業のライフスタイルは噛み合わないのではないかという危惧があった。

 

「そう、なら仕方ないわね」

 

「こちらこそごめんね。……そうだね。入るのは厳しいけれど、暇な時なら手伝うよ。雪ノ下さんに頼られるのは嬉しかったからさ」

 

 こっちに来てから私はゆきのんにお世話になりっぱなしだった。

 ご飯を作ってくれたり、掃除を手伝ってくれたり受験でも力になってくれた。だから、何かしらの形で借りを返してあげたい気持ちがある。

 その思いが口を動かさせていた。

 

「ありがとう、中山さん。……ここで一度私は自分の部屋に戻るわ。後片付けはお願いね」

 

「わかったよー」

 

 考えている内にゆきのんは朝食を食べ終えていたらしい。手早く自分の食器を流しに戻して帰っていった。

 私もまた時間がないからそそくさと朝食を胃に詰め込む。

 ……ゆきのんが家を出てくれてよかった。口にはしないけど、時折ゆきのんの在り方が私を苛むことがある。

 今日もそう。奉仕部の誘いに私は理屈で返し、蹴った。

 けれど、その理屈は感情に理屈を貼り付けて、ゆきのんを思う演技をしてカモフラージュしただけに過ぎない。

 正しく美しくあろうとする彼女と、偽りで糊塗することに手慣れた女。

 その差が浮き彫りになる。

 外から見た美貌だけではない美しさを雪ノ下雪乃は内に秘めている。

 だから、八幡は彼女を好きになったのだろう。

 本物の美しさを持つ彼女を。

 

 **

 

 4月29日。

 世間ではゴールデンウィークの真っ只中。観光地では今ごろ人混みで混雑していることだろう。

 さすがは人間は群れる動物といったものだ。平日はわざわざ首都圏に固まり、自ら通勤ラッシュに身を投じて果ては休日までも混雑する場所に飛び込むとは、人混みの中でしか生きられない魚とかなの? 周りに誰もいないと死んじゃうの? ……いや、寂しさで死ぬのはウサギだな。いや、人間も孤独死はあるけれど。はっ、もしや人間=ウサギなのでは? 

 いやー、さすがはぼっちを極めたこの俺……比企谷八幡様だ。またしても真理に一つ到達してしまったのか……! 

 世間が湧き立つ中、病室で寝転がる俺は寂しさにもう慣れ親しんだ新人類になっていた。俺クラスともなれば自室で引きこもってようが、病室で引きこもってようがさほど関係ない。……わけない。

 

「暇だ……」

 

 具体的には連想ゲームの果てにどうでもいい大喜利を繰り広げるぐらい暇だ。

 1ヶ月の入院期間も後半になれば、だれて退屈なものになってゆく。

 一月も相手をしてられないと思ったのか、小町や家族のお見舞いも減る。中山はもとより多忙なやつだからお見舞いに来れる絶対数が限られていた。

 二階堂ははじめはそこそこ足を運んできてはくれていたが、病院通いは彼女にとって性に合わなかったらしく来る頻度が週一ぐらいに下がっていた。

 ゲームは持ち込みが禁止され、漫画はあらかた読み尽くし、スマホは触りすぎて目がチカチカしてきたからもうあまり使う意欲が湧かない。

 もうまともな娯楽がどうでもいいことを考えるぐらいしかないのだ。今のところネタ切れの気配はないからやはりぼっちの脳内思考展開力は他の追随をそう容易く許さないものがある。

 さて、次は何について考えるか……。

 思考が流れていこうとした刹那、扉がこんこんと叩かれる。

 俺が返事をすると、開かれた扉からピンク色のお団子髪を覗くことができた。

 

「やっはろー! ヒッキー!」

 

「病室なんだから大人しくしろよ。で、その頭悪そうな珍妙な挨拶は何? 流行ってんのか?」

 

「え、可愛くない?」

 

「知らんがな」

 

 少女の問いかけをバッサリと切り捨てる。

 他の奴らの足が病室から遠のく一方、こいつ……由比ヶ浜結衣は律儀にもほぼ毎日来てくれていた。

 まあ、事件の当事者だってことに責任を感じているのだろう。それにしてもよく来てくれている。

 俺と由比ヶ浜はだいたい数十分ぐらい他愛のないことを話す。話すといっても由比ヶ浜のクラスでの話を適当に聞き流しているだけだが。

 それでも、由比ヶ浜の人となりはなんとなくわかる。クラスの人間に気を使い、容姿にも気を使える。話を聞いた限り、クラスの中のトップカーストの中に入ってるようだ。髪も黒いままだと地味に思ってピンクに染めたのだろう。

 

「ほぼ毎日通ってくれるのはありがたいが、クラスの友達は放って置いていいのか? あくまでお前の居場所は学校だろう。俺もそろそろ入院が終わる。もう、来なくてもいいんじゃないか?」

 

 だから、俺のためにこいつの貴重な放課後を使わせていいのだろうかという懸念が先立つ。俺のせいでこいつがクラスの友達に「付き合いが悪いんじゃないか」と陰口を叩かれていないだろうかと心配になる。

 こいつの話を聞くのが日々の楽しみとなりつつある俺がいるが、それは瑣末なことだ。それはこいつの優しさに甘えてつけ込んでいるだけに過ぎないのだから。

 そもそも俺は何かを得るためにあの犬を助けたわけでもないし、それで怪我をしたところで彼女に償いを求めたこともない。最初に一回会って詫びを入れただけで彼女の義理は果たされているのだ。

 

「お前が申し訳なさで来てるならお見舞いはもうやめろ。こうもお前を拘束していると俺が居た堪れなくなる。いいんだ、由比ヶ浜。お前はもう戻っていいんだ、自分の世界に」

 

「なんで、そんなこと言うの……っ。あたしはぜんぜんそんなつもりはないのに……」

 

 俺の言葉に戸惑う由比ヶ浜。目の端に少し涙が滲んでいていよいよ居た堪れない。でも、告げてしまった言葉はもうどうしようもなくて。

 

「勘違いするな、俺はお前のために犬を助けたわけじゃない。見て見ぬふりをしたら俺が俺を赦せそうになかったからやっただけだ。だから、すでに謝罪を済ませた由比ヶ浜が気に病む必要はない」

 

「わからないよっ! なんでそんな考えになるのかわからないよ……ねえ、ヒッキー」

 

 由比ヶ浜は泣きじゃくり声が萎んでいく。

 俺もそんな由比ヶ浜にかける言葉がなくて、病室は静寂が訪れる。

 ……ああ、これは俺の怠慢だ。甘えるだけ甘えて、俺のスタンスを彼女に伝え損ねた。だから、今この状況で拗れてしまったのだ。

 ほつれて絡まった糸を解き直せるほど俺は対人コミュニケーションが器用じゃない。だから、俺には糸ごと切り落とすことしか出来なかった。

 

「……バカ」

 

 沈黙に耐えかねて、由比ヶ浜が出ていく扉を閉じる音は少し荒々しい。

 ……でも、これでよかったのだ。

 所詮、俺と由比ヶ浜は月とスッポン。求めたとて交わらない。それこそ二階堂のように月の方が墜落して地表にめり込まない限りは。

 変に手が届きそうなところに降りてきて、手を伸ばせば叩かれて手にすることはない。こちらに変に期待をさせて狂わせる。

 狂って勘違いして傷ついて、それで何度中山や二階堂にたしなめられたかわからない。気づけば、俺は求めることすらやめていた。

 叶わぬ夢を見て期待してそんな自分に失望する。

 だから、俺は優しい女の子が嫌いだ。

 



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第19.5話 二階堂有栖の常総グルメツアー

遂に書き上げました。
分割してもアレな気がしたので1話にまとめました。
そのため、1万字を超えた観光ガイドになっております。適宜、休憩を挟みながらお読みください。


 

 5月になって長きにわたる入院生活も終わりを告げた。

 ゴールデンウィークの後半に退院が間に合ったのは大きい。この機に積んでいたゲームを片してしまえるし、溜まったプリキュアも一気見することだって叶う。

 

「だから、喜ばしいことのはずなんだがな……」

 

 しかし、家で一人で過ごすたびに病室での由比ヶ浜とのやり取りが脳裏をよぎる。

 なにも、あそこまでする必要はなかったんじゃないか? 

 いや、それでも俺と由比ヶ浜は立つ位置と取り巻く環境が違う。

 あの異常だった関係を学校に持ち込んだところで歪に変わって俺たち2人を傷つけたことだろう。それこそ磯子の件の二の舞だ。

 だったら、遅かれ早かれこの別れは起きたことになる。ならば、傷を浅くしただけ有意ではないか。

 ゲームに触れても、本のページをめくっても自己弁護の思考が先立つ。心なしが部屋の空気も澱んでいた。

 ……こんなところに居ても埒が開かない。外に出よう。

 ふぅ、シャバの空気がうまいぜい! 

 リハビリを兼ねて家の周りを歩く。心なしか考えもクリアになっていた。

 いくら考えたところで覆水は盆に帰らない。ならば、次のことを考えるべきだろう。

 もう少し遠くまで脚を伸ばそうか、そんなことを考えていた頃にSNSの通知が来ていた。送り主は二階堂。なんでも明後日に旅行に行きたいとのこと。

 

「二階堂と旅行ね……」

 

 中山と旅行に行くことは以前にもあった。だが、二階堂ととなると近所のなりたけを一緒に食べに行くぐらいが関の山だった。

 何の理由があっての誘いかわからんが「行けたらな、行けたら」とほぼほぼ行かない前提の返事をしておく。俺も二階堂も互いがいなければ、ぼっちだ。きっと文意を正しく察してくれることだろう。

 小石と厄介事を蹴飛ばしながら、俺は家に帰るのだった。

 

 1

 

「……──起きて。ねえ、起きてってば」

 

 惰眠を貪っていた俺に激震が走る。

 マイラブリーエンジェル小町ならこんな乱暴なゆすり方はしない。

 誰だ。

 警戒して俺は眼を開く。

 そこには、目を見張るばかりの美少女……っていうか二階堂がいた。

 

「起きたね。さて比企谷、行こうか」

 

「行くか馬鹿。こちとら骨折明けだぞ? 常識的に考えて行けるわけがない。家で安静にしてなきゃダメだろ?」

 

 骨折明けという強烈な手札によるカウンター。

 わざわざ家まで御足労いただいたところ悪いな、二階堂。早々にお引き取り願おうか。

 実を言うとリハビリは後半の方に入ってるからガチでスポーツとかしなければ大丈夫なんだけどネ! 

 卑怯だと思うが、俺は嘘を言ってはいない。ただその詳細を知らせていないだけだ。

 

「でもさ、安静って言っても今日は家で比企谷を見てくれる人はいないよ? 小町ちゃんとお母さんは箱根に日帰り温泉しに行くって言ってるし、お父さんは朝から船橋競馬場で勝負するって息巻いてるし。まさか、カマクラに見てもらうとか言い出さないよね?」

 

「え、小町と母さんが温泉とか聞いてないんだが? ブラフにしては雑だな、二階堂」

 

「ブラフだと思うなら小町ちゃんに聞いてみなよ。あたしはリビングでお茶でも飲んでるから」

 

 そう言って二階堂は下に降りて行った。

 スマホの時計を見てみると5時20分。……かなり早い時間に来たなあいつ。まぁいい、この時間なら小町はまだ寝てるだろう。叩き起こすには良心が咎めるが、二階堂を追い返すにはそれしかない。

 時間もあって優しく小町の部屋の扉をノックする。かなり叩かなきゃならないかと思っていたが、扉はすぐに開いた。

 

「なに、お兄ちゃん? まだ出てなかったの?」

 

「まだも何も俺は旅行なんて約束してねえんだよ」

 

「そうなの? どっちにしろ小町はお母さんと箱根に行くから夜まで帰ってこないよ。どうせなら有栖さんに面倒見てもらったらいいんじゃないかな?   有栖さんなら信用できるし」

 

 小町の話を聞いた瞬間、俺は膝から崩れ落ちそうになった。

 俺はあいつの悪辣さと行動力、そして小町たちへの外面の厚さを見誤っていた。

 小町や母さんが早朝に二階堂を家に入れることを許すほどあいつはあの2人の前では『礼儀正しい可愛らしい幼馴染』を演じていたのだから。その外面を悪用し、行ける状況を整えてきやがったのだ。

 

「お兄ちゃん。これはいうならばデートだよ? だらしない格好で行かせるのは小町の名折れだからさ、ちょっと付き合ってもらうよ」

 

 ガバッと小町に飛びかかられてホールドされた俺は、抵抗する暇もなく着せ替え人形にされていた。

 

「うん、これならお兄ちゃんも目以外は見れたものになったね。じゃあ、行っておいで。今日こそ有栖さんを堕とす日だよ!」

 

「俺はあいつをそういった目で見てねえって何度も言ってるだろうが……」

 

 なんでか小町はやたらと二階堂と俺をくっつけようとしてくる。俺にも二階堂にも多分そんな気はないんだがな……。

 ともあれ、俺は二階堂から逃げられないらしい。

 どうしたものかと、頭を悩ませた。

 

 2

 

 結局のところ、家を6時ぐらいに出ることになる。

 逃げてないか二階堂がたびたびこちらを振り返り、牽制する。

 その度に二階堂の黒髪が朝凪に靡いた。

 

(本当にこいつは見た目だけなら一級品なんだがな……)

 

 黒いホットパンツを着たことで惜しげもなく見せつけられている白い太ももが目に眩しい。

 羽織った赤青チェックの長丈のシャツで上半身の露出は抑えられているが、白いTシャツを力強く押し上げる胸元の存在感は確かでしかも襷掛けのショルダーバッグの紐で俗に言うパイスラが形成されていた。

 黒いスポーツキャップと運動靴でスポーティな雰囲気を演出しているが、なんてことはない。今日のコーディネートはただただ二階堂有栖という少女の素材の良さををこれ以上なくストレートに叩きつけてきているだけだった。

 

「どうしたの、比企谷。立ち止まってさ」

 

 二階堂が怪訝そうな目を俺に向けてくる。

 ただ、見惚れてたなんて絶対に言えやしない。言えばこいつはそれをダシにずっと揶揄ってくるに決まっているからだ。

 

「こんな時間に家を出るなんて、随分遠いところに行くんだなと思ってな」

 

 だから、俺は代わりに疑問に思っていたことを吐き出した。旅行だと聞いてはいたが、行く気が欠片もなかったから何の聞き取りもしてこなかったのだ。

 

「そりゃあ遠いよ。だって行くの茨城だし」

 

「なんだと……」

 

 茨城なんて千葉人の行くところではない。

 一時期は都道府県魅力度ランキングで最下位を独走し、県南の連中はチバラキだなんだと千葉の威を借りるようなそんなところだぞ? 褒められるのはマッ缶の調達が容易いことぐらいだ。

 

「まぁ熱心なチバニアンの比企谷ならこうもなるか。けどさ、比企谷。茨城のなんたるかを知らずに千葉を理解できると思う? 南葛や上総、安房あたりならできるかもだけど、北総と東葛は無理だよ? 一部の地域しかわからない千葉愛は本物と呼べるのかな?」

 

 なるほど、二階堂の言葉は道理だ。歴史的にも地理的にも東葛と北総は茨城との繋がりが深い。それを千葉県側の視点で見ただけでは理解したつもりの偽物でしかない。実に痛いところを突いてきやがった。

 ……安い挑発だとは分かっている。それがこいつの方便だということも。

 けれど、こいつは二階堂有栖は今まさに俺のアイデンティティに足をかけている。逃げれば、俺は俺のチバニアンとしてのアイデンティティを踏み潰されることになるだろう。

 

「上等だ、二階堂……! そこまで言うなら付き合ってやるよ……! 俺の千葉愛に懸けてな……」

 

 語気を荒々しく、二階堂にビシッと指を突きつける。

 それを見て二階堂は。

 

「あは、計画通りだね」

 

 と、やたら艶っぽい笑みを浮かべるのだった。

 5年以上一緒にいるがやっぱこいつ怖えよ……。

 

 3

 

 総武線の駅で電車に乗り込んでからはかなりの長征だった。

 西船橋で武蔵野線に乗り換え、新松戸で常磐線各停(実態は東京メトロ千代田線)に乗り換える。だが、この各停では茨城県には取手までしか入れないし、そもそもほとんどが千葉県内の我孫子までだから茨城に行くには更に乗り換えを要することが多い。

 西船橋には総武線快速は止まらず、新松戸に常磐線快速は止まらない。だから、それぞれ1回は乗り換えを要することが多い。他の南北連絡には新京成線と東武アーバンパークラインがあるが、前者は蛇行して松戸に向かうため時間がかかり、後者は京葉線側だとアクセスしづらいという難がある。正直、この乗り換えの煩雑さが東葛・茨城と南葛の分断を招いているような気がした。

 

「茨城に入るなら柏乗り換えだけど、あたしたちは我孫子までいくよ。そこに第一の目的地があるからね」

 

 二階堂に引き連れられて降り立った我孫子駅。

 武者小路実篤や志賀直哉などけっこうな数の文豪や文化人にゆかりがある北の鎌倉。文学少年気味な俺にとっては一種の聖地とも言えるようなところだ。

 まだ朝早いが、手賀沼のほとりを優雅に散歩するというのも悪くない。俄然モチベが上がる。

 

「違うよ比企谷。こっちこっち」

 

 意気揚々と改札を出ようとしたところを二階堂に引き戻される。そして、そのまま常磐線の茨城方面のホームへと降りて行った。

 

「なぁ二階堂。お前、我孫子が目的地だって言ってなかったか?」

 

「言ったよ、はいここ」

 

 二階堂は返事と共に足を止めた。

 一見するとなんの変哲もない駅そば。けれど、店名を見た時に俺は察する。

 なにせ、この店は俺でも知っているような有名店だったのだから。

 

「皐月軒か……」

 

「ご明察。じゃあ入ろうよ、ここが朝ごはんね」

 

 引き戸を開けて店内に入り左手の券売機へ。

 頼むものはとうに決まっている。唐揚げそばだ(ちゃんとうどんも選べる)。ばっちゃんに食券を渡して待つ間に水を調達し、席を確保する。

 あんまり待つことなく唐揚げそばが出てくる。

 しかし、でけえな……想像以上だ。

 皐月軒の唐揚げそばは唐揚げが大きいことで知られている。大きいと言ってもケン○○キーのチキンぐらいを想像していたが、それよりも大きい。握り拳2つぐらいはあるんじゃないか……? 

 なお、1個のサイズでこれである。2個入りを頼んだ二階堂のどんぶりを見たら唐揚げで蕎麦がほとんど見えてない。だいぶボリューミーだな、これ。

 それで、朝からこんなん食べるの……? 

 

 4

 

 皐月軒の唐揚げそばは美味しかった。

 唐揚げは肉厚で衣もカリッとしていて食べ応えは抜群で、そばの方は素朴な感じでさっぱりしていたため量の割にはお腹にダメージはなかった。

 ただ朝っぱらから2個入りの大盛りを食べてケロッとしてる二階堂はやっぱりおかしい。

 腹ごしらえをした俺たちは揚々と土浦行きの常磐線に乗り込む。最終的に行きたいのは水戸で、俺にとっては千葉、東京、宇都宮に続く4都市目の県庁所在地にあたる。

 電車は我孫子を出てすぐ天王台ー取手間で利根川を渡り茨城県に入る。意外なことに我孫子から一緒に乗り込んだ乗客はそこそこの人数がそのまま茨城県に入っていた。

 東京近郊の人間ならありがちだとは思うが、よほど大きい都市が近くない限りは下り側……東京から離れる方には乗らないと思う。俺も千葉より奥の成田や木更津にはほとんど脚を運んだことはない。が、意外にも常磐線ではその流動があった。

 取手から先は車窓が一変して田んぼが広がるようになる。茨城に入って一駅が経ってすぐにこんな有様だ。なんだやっぱり、茨城は田舎じゃないか! 

 筑波山を眺めつつ、土浦でまた乗り換える。今まで乗ってきたものより短い5両編成だった。関東で県庁所在地に行く列車がこの長さというのは少し寂しさを感じさせる。

 土浦から水戸は羽鳥から高浜の筑波山を借景に恋瀬川を渡るところはエモかったが、他はのどかというか地味な車窓が続く。水戸線との乗り換えがある友部駅を過ぎると多少は市街地が散見できるようになった。

 こうして電車旅をするのも悪くはないな。流れる車窓に身を任せつつ、鉄路の先に思いを馳せる。総武線や京葉線の殺人的な通勤ラッシュしか知らなかったから、この楽しみ方に思い至ることはなかった。沈黙に耐える必要があるから案外ぼっち向けかもしれない。

 え、お前は一人じゃないだろ? ……確かにそうだ。

 だが、ボックス席の対面でだらしなく寝こけているこの女を頭数に数えていいのならという条件がつくが。

 

「そろそろ起きろ、お前が起きないと乗り換えの列車がわからないだろ」

 

 手を伸ばしてぽんぽんと二階堂の肩を叩く。その度にさらさらとした黒髪が手の甲を掠めてくすぐったい。

 

「着いた?」

 

「もうじきな」

 

「じゃあ水戸で鹿嶋神宮行くやつに乗り換えで……zzz」

 

 また寝こけやがったなこいつ。

 諦めて嘆息を吐き、車窓を眺めた。

 

 5

 

 二階堂の指示に従って降り立ったのは大洗駅。そこからバスに乗り換える。

 某戦車アニメで盛大にぶっ壊されていた商店街を抜けて、海の鳥居で有名な大洗磯前神社で下車した。

 

「なんというか意外だな。お前が行き先に神社を選ぶなんてな。逆らう奴は神であろうと容赦はしないとか言いそうなタイプだと思ってた」

 

「たまに比企谷のあたしに対するイメージに突っ込みたくなるけどそこは置いとこう。二階堂の家って古いから案外信心深い人が多いんだよ、単にあたしもその例にもれなかっただけでさ。あたしのは救って欲しいとかじゃなくてその土地を仕切る神様に挨拶しにきたぐらいの感覚だけどね」

 

 素知らぬ顔をして答える二階堂。

 普段はそういう面をあまり見せないが、古式ゆかしい……それこそ彼女の家の伝承を信じれば平安末期から続いている名家の出であることを再確認させられる。

 隣に並んで祈願する時、二階堂の方をちらりと横目で覗き見る。

 居住まいを正して神に祈る二階堂の姿はそれこそ名家のお嬢様らしい気品にあふれていた。

 

「さて、神様に挨拶したところで鳥居の方に行こうか。って、どうしたの比企谷」

 

「……なんでもねえよ」

 

 お祈りを終えてすぐ、いつもの軽い調子に戻る二階堂。その落差に俺は少し眩暈がしそうになる。

 5年以上一緒にいるが案外二階堂については表層的なことしか知らない。

 千葉きっての名門に生まれたお嬢様。類い稀な容姿とそれを半分ぐらい打ち消す気まぐれかつ傲慢な性格。趣味は大食い。

 プロフィールに書かれるようなことはだいたい知ってるとは思う。

 だが、彼女の深層については何も知らない。お嬢様としての顔すらこいつは俺に見せたがらないのだから、俺たちと関わる前の過去なんて知る由もない。

 あいつは「女の子には秘密があった方が魅力的でしょ?」と宣うが普段の距離感が近いだけにやけに距離を感じてしまうのだ。

 それが、たまに寂しいと思うことがある。

 

 6

 

 岩礁の上に鳥居が立つ厳かな光景を見た後、俺と二階堂は大洗の海岸線を2キロぐらい徒歩で北上する。本当はバスに乗りたかったがあいにくそこまでの頻度で運行されてはおらず、2キロぐらいなら歩いた方が早いという局面になっていたからだ。

 そうしてたどり着いたのはアクアワールド・大洗。

 常磐線にいる時に軽く調べた限りでは茨城県が誇る水族館で、サメの展示数では日本一らしい。イルカとかペンギンではなく、サメをフィーチャーした水族館を選ぶのが二階堂らしいというかなんというかズレを感じるわけだが、俺も興味を持ちやすいから助かる。

 夢の国よりは安い入場料を払い、水の世界に足を踏み入れる。

 するとカップルや家族の多いこと多いこと。特に子供なんかはしゃぎ回っている。なんというか、リア充が訪れる場所だった。

 

「やっぱりゴールデンウィークだね……」

 

「そうだな……」

 

 2人して今更な発言をして館内を見学する。

 道中ではなぜか一尾のカワハギを八尾のイシダイが同じ場所で固まって立ち泳ぎをしながらガン見してたり、たまたま餌やりの時間に通りかかったサメの水槽ではサメごとに餌への迫り方が違うのを目の当たりにしたり、アザラシの展示ではやたら女児に媚を売る一頭に対しもう一頭はこれみよがしに水槽の中を所狭しと全力で泳ぎ回るも見学客に一切構ってもらえない光景を目撃した。

 展示の見せ方やそもそもの展示されている魚たちの珍しさもあるかもしれないが、生き物個々の個性というか仕草に俺と二階堂は魅せられていたのだと思う。

 俺たちから見れば、ただの魚類や動物でしかなくてもその個々は確かに独立した生命で、それぞれが違う存在なのだと否応なしに見せつけられる。

 なんか道徳の教科書あたりに出てきそうなお題目だが、純粋にそう思った。

 

「ねえ、比企谷。どうしてあたしたちは、同じであることを強要されるんだろうね? 実際のところそれぞれの自我があるのにさ」

 

 二階堂も何か思うところがあったのか、ぽつりと呟く。俺はそれに対して鼻を鳴らして答えた。なにせ、わかり切った質問だったから。

 

「そっちの方が面倒がないからだろ。実際、俺たちのようにこうして腰を据えて眺めでもしない限り、アザラシのそれぞれの個体の癖なんて分かりはしない。出会った人間にいちいち自我とその傾向を見出して付き合うには人生が短すぎんだよ」

 

「比企谷らしい言い分だね。要はみんな時間を惜しんでるわけか」

 

「まあな」

 

 究極のところ多くの人間は相手に大過なく日々を過ごせる関係性であることしか求めていない。たとえ、そこに違和感を感じたとしても。

 だから、それを呑み込めない俺は世間様にはそう易々と受け入れてはくれない。

 直近で泣かしてしまった彼女もおそらくは受け入れてくれないだろう。俺が知る中でも彼女はかなり世間様の側に近い少女だったから。

 

「でも、あたしはそんな言い訳する側には回りたくないなー。可能な限り話して、それで分かり合えたらそれはそれで素敵じゃない? 決裂したらそこまでだって諦めもつくし」

 

「まあ、そうだな」

 

 少し耳が痛い。

 なにせ、俺には2回ほどその言い訳の心当たりがあるのだから。

 昔は俺も彼女のように言い放てるのかもしれないが、今の俺はもう色々と知りすぎていた。

 その後、しばしの沈黙が訪れる。潮騒と後ろからオットセイの鳴き声がするぐらいで話し声は一つとしてなかった。

 

「うーん、せっかくの旅行だってのにしみったれた話になっちゃうね。これがあたしたちの色なのかなぁ……。どう思う? 比企谷」

 

「まあ、旅先で話すようなことじゃないのは確かだな。ここもほぼ見たわけだし、次の場所に移ってもいいんじゃないか?」

 

「そだね。水戸に戻ろうか」

 

 二階堂の一言に安堵する俺がいる。

 このままあの話が続いていれば、俺は否応なしに向き合わざるを得なかったから。

 こうして、俺は三度逃げおおせたのだ。

 

 7

 

 アクアワールドからは路線バスで水戸まで戻る。だいたい50分ぐらいはかかっただろうか。

 時計を見ると時刻は午後の1時ぐらい。ちょうどお昼時だった。

 

「いやーけっこう水戸に戻ってくる時間がギリギリで焦ったんだよね。だってお昼取ろうとしたお店、お昼は2時までしかやってないからさー」

 

 水戸駅の手前のバス停で降り、二階堂のぼやきを聞きながら少し歩くと小さなラーメン屋が見えてくる。

 行列とかはしてなくて、なんなら屋根も少し古びている。外見からは正直、二階堂がわざわざ足を運ぶほどのお店だとは感じ取れなかった。

 

「比企谷ってスタミナラーメンって聞いたことある?」

 

「や、あんまり他県のラーメンには詳しくないからな……。茨城のご当地ラーメンか?」

 

「まあ、そんなとこ。あたしもちょっと調べただけなんだけど、なんか食べ応えがありそうで気になってたんだよね」

 

 あの二階堂をして食べ応えがあると聞かれたら、ちょっと期待してしまう。食う量ばかり見られがちだが、こいつはあれで中々一端の美食家なのだ。二階堂が勧めるやつに基本的に外れはない。ただ食う量がアレでもう並の女子ではついていけないレベルになっているだけだ。

 席に座り、メニュー表を見る。

 ……いや待て。なんで3玉、4玉が平然とメニューにある? 量が多すぎないか? 困惑しつつもこっそりと気づかれないように隣のサラリーマンの男性を見やる。彼はどんぶりというかちゃんこ鍋に使うような土鍋を豪快に掲げてトロみのついたスープをまくっていた。

 二階堂は3玉の熱盛にさっさと決める一方、俺は決められない。正直なところまだ我孫子で食った分が残っている。

 まだまだ旅は長くなりそうだし、なにより餡が胃に重たそうな気がする。ここは少なめにしておくか……。

 冷やし……つまりは汁なしで二階堂の半分にあたる大盛を頼んで待つ。

 ラーメン自体は俺の方が先に来た。レバーとカボチャ、ニンジンとキャベツが入った餡を混ぜる。平たく言えば具沢山の台湾まぜそばみたいな感じだが、ただ混ぜるだけではなかなか上手く混ざってくれないので天地返しも使用する。

 全体に餡が混ざったことを確認して、まずは麺からいただく。餡は甘辛く、太麺には確かな食べ応えがある。大盛とはいえ、これは手がかかりそうだ。

 ただなりたけや横浜家系みたいほどは脂がキツくないので、するすると食べ進めることはできた。

 どうやら二階堂も感覚としては俺に近かったらしい。割とのんびり食べていたが、ペースは落ちることなくしっかりと3玉を食べ切っていた。

 

「今日、これ一本に絞ってたら4玉行けるね。これぐらいなら無理にまくろうとしなければ食べれると思う。普通に美味しかったし」

 

 けぷーと可愛らしいゲップをしながら二階堂は言う。飾らないと言えば聞こえはいいが、普通に女子がしてはいけないやつだ。まあ、それだけこいつは俺を男として見てはいないという証左にはなる。

 だから、俺は安心できる。こんなに近くにいながらも俺は二階堂に対して勘違いを起こすことはない、と。

 

 8

 

 スタミナラーメンを食べた後に吉田神社を参拝して、水戸を出た俺たちは友部で水戸線に乗り換えて稲田駅で降りた。二階堂曰く石切山脈に向かうらしい。

 石切山脈なんて聞くとなんか大仰に聞こえるが、なんてことはない。ただの砕石場の跡地だった。なんでも跡地に地下水が溜まり湖になってそれが奇観になっているらしい。

 稲田駅から徒歩で少し歩いて向かうが、あちらこちらに切り出した石材が転がっており、割と見てて楽しい。

 まずは入場料を払って湖を見に行く。

 なるほど、砕石で切り立った断崖と溜まった水に上手いこと光が差すのが相まって言われなければ、高山の景色に見える。

 

「思ったよりも広いし綺麗だな……」

 

「前はここで石を切り出してたんだってさ。質がいいのが出なくなってこうしてお払い箱になったたけど、今では観光地だよ。偶然もあったと思うけど、上手くやったよね」

 

「そうだな」

 

 二階堂の言葉に相槌を打つ。

 役目が終わった不要な物でも、まれにこうして違った形で価値を生み出すこともあるのだと、見せつけられたような気がした。つくづく物事は一面性だけでは見られないものもある。

 

「さて、湖は見たからメインのモンブランを食べに行こうか」

 

「普通はモンブランの方がサブなんだがな……。俺も正直なところ甘いものが食いたくなってきた頃合いだしな」

 

 湖の展望所から併設のカフェに移る。

 ここの目玉が件のモンブランだ。しかも作りおきではなくその場で絞る本格派。使う栗も日本一の栗の産地である笠間市のものらしい。

 なんというか二階堂が食いつきそうな内容だ。あいつ量だけじゃなくて味にもこだわるからな……。

 ともあれ、このモンブランの存在が石切山脈の観光地としての価値を更に高めている。

 実際のところ、モンブランは美味かった。口の中に濃厚な栗の風味がぶわっと広がって甘さは控えめで上品な仕上がりだった。

 ただ欠点としてはやや値段が高いところか。俺が食べたのは1000円のもので、二階堂が食べたプレミアムモンブランは1800円する。まぁその代わり量が多いが、直前のスタミナラーメンで3玉で1000円ぐらいなのを目の当たりにするとちょっと金銭感覚がバグってくる。

 会計の時、二階堂はポンと出せていたのに対し俺はやや出すのに躊躇した。こういうところにどうしてもブルジョワと庶民の差を感じざるを得ない。

 

 9

 

 石切山脈を出た後は水戸線でそのまま西に抜ける。後は小山で乗り換えて宇都宮線で南下して千葉に帰る手筈だ。

 

「どうする比企谷、宇都宮まで行って餃子でも食べる?」

 

「行かねえよ。もう時間もねえし、それにお腹いっぱいだ」

 

「じゃあ次の機会に、だね」

 

 小山で乗り換えるときにそんな一幕もあったりしたわけだが、何事もなく宇都宮線に乗り込んだ。

 ゴールデンウィークだということもあり、東北方面に出ていた人たちで車内は混雑していて、俺と二階堂は2人で狭いロングシートに並んで縮こまるしかない。

 夜の列車はガタゴトと揺れ、人々の会話はまばら。ゴールデンウィークの終わりの方ということもあってどこか祭りの終わりのような雰囲気が流れていた。

 

「ねえ比企谷」

 

「なんだ?」

 

「今日の旅行、楽しかった?」

 

 そう言って二階堂は上目遣いで俺を見上げてくる。その瞳はどこか不安げに揺れている。

 

「あたし結構比企谷を好きなように振り回しちゃったからさ。あたしは楽しかったけど、比企谷はどうかなって」

 

「そんなこと心配してたのか。なら、大丈夫だ。全然楽しかったから」

 

 この気持ちは嘘ではない。

 茨城では美味いものも見れたし、綺麗なものを見た。まぁ千葉を茨城側から理解するってのは出来なかったが、代わりに二階堂の様々な一面を見た。

 これは俺が家に篭ってるだけでは出来ないことで、二階堂が連れ出してくれたからこそ出来たことだったと思う。

 

「それにしても、お前から旅行を持ちかけてくるなんてな」

 

 ずっと疑問だった。

 今まで俺と二階堂は一緒に居たとはいえ、どこか付かず離れずのところがあった。例えば中3の時は二階堂は折本にべったりで、折本が他の友達の相手をしている時に絡んでくるような感じだった。

 それが、急に1日丸々旅行を持ちかけてくる。旅の内容はともあれ、スタンスが実に二階堂らしくなかったのだ。

 

「それかー。理由を言わないとダメ?」

 

「別に嫌ならいいけど」

 

「いいよ、別に。ただ、淋しかっただけだし」

 

 淋しいなんて二階堂の口から出るとは思わなかったから驚いた。

 こいつも俺と同じ様にぼっちであることを厭う様な人間ではないと今までの在り方で知っていたから。

 

「驚いてるね、比企谷。うん、あたしも。あたしも今更淋しいと思うとは思わなかった。とっくのとうに斬り捨てた感情だと思ってたのにね。……多分、比企谷のせいだ」

 

「なんでさ」

 

「先月、比企谷が事故で1ヶ月いなかったからね。はじめは何とかなるかなって思ったけど、クラスに面白い人がいなかったし伽耶ちゃんのクラスにはお邪魔するのはちょっとね……。ガハマちゃんとは仲良くなったけど、所詮は他クラスだから」

 

「それ暗に手軽に絡める奴がいないって話だけじゃねえか」

 

「そうとも言う。けど、あたしに淋しさを思い出させたのは比企谷だよ。まぁガハマちゃんに少し配慮してたのもあるけど、先月は淋しかった」

 

 淋しいと何度も口にする二階堂を見て思う。

 意外にも二階堂は俺のことを居て当然と思っていてくれたらしい。なんかちょっとむず痒い気もする。

 

「今日は一日中一緒に居てくれてありがとう。おかげで淋しさはだいぶマシになったよ。学校ではまたクラスが同じだから、よろしくね」

 

「また同じなのか……。それはなんとも」

 

 疲れそうだが、面白くなりそうで。

 やはり苦労させられそうな、そんな気がした。

 



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第20話 逃げるは恥だが役に立つ。ただし二階堂有栖に気取られてはならない。

こちら流水麺、生存を報告申し上げます。
……帰り遅すぎて死ぬかと思った。帰ってから家事して終わりが平均12時半ってどゆこと……? あと普通に飯食ってる間に寝て、4時ぐらいに起きて慌てて残り食わなきゃいけんことあるし……。


 

 退院した後は穏やかな日々が続いた。……いや、一度だけ二階堂に茨城に拉致られたけどそれはそれだ。

 ただ、由比ヶ浜結衣とのやり取りが胸のしこりとなって残っていた。

 その気はなかったが由比ヶ浜と中山が、正確には磯子の件が重なるのだ。互いに立場が異なる2人が変わらずつながりを保ち続けることなどない。そんな古典的なロミジュリは物語の中でしかありえないのだ。

 だから、俺は破綻すると分かっていた関係を未然に終わらせた。対人関係の損切りはぼっちにとっては必須スキル。今回の俺もそれを行使しただけに過ぎないのだから。

 ……それでも。

 泣きじゃくる由比ヶ浜の顔が「本当にそれでよかったのか」と俺を苛む。今更こぼれた水は盆に帰らないというのに。

 

「……考えても無駄だな。ちょうど昼頃だしサイゼでもいくか」

 

 今年のゴールデンウィークは怪我をしたというのに思ったよりも外出が多い。これは引きこもり谷くんの汚名返上か? 違うか。

 どうにも家に居ても落ち着かない。俺は逃げるように外に繰り出した。

 

 *

 

「げっ」

 

 最寄りのサイゼにたどり着いた俺は思わず足を止めていた。

 なぜならば、窓越しからテーブル席を独り占めして料理を広げる二階堂の姿が見えてしまっていたから。

 茨城に行った時の暴食ぶりもだいぶやばかったが、今回も中々だ。少なくとも2人前を優に超える量の皿が並んでいる。

 二階堂とは知り合いだが、この異様な光景の中で変に注目されたくないから渋々別のサイゼに行こうと踵を返そうとする。

 だが、俺は忘れていたのだ。

 こちらが深淵を覗き込んでいる時、深淵もまたこちらをじっと見ていることを。

 踵を返すその瞬間、視界の端で二階堂はニコリと笑って手招きをしてきやがる。

 どうやら来いとのことらしい。

 

「はぁ」

 

 ため息混じりに俺は店内に入る。

 すると、二階堂は料理を整理して俺のスペースを作ってくれた。

 

「結構、今年のゴールデンウィークは比企谷と出くわすよね」

 

「そうだな。いずれもお前に引き摺られてきたようなもんだが」

 

「もしかして、茨城旅行のこと引きずってる?」

 

「……少しな」

 

 二階堂に連れられた茨城旅行は楽しかった。美味いものは食えたし、面白いものも見れた。

 だが、やっぱり高校生の財布ではキツい。母親が諭吉を出してくれたとはいえ、何千円かは自腹を切ることにはなってしまったのだ。

 

「まあ、あれは半ばあたしが強引に連れてったもんだからね……。仕方ない、おわびにあたしが頼んだ料理をいくつか食べていいよ。比企谷ならそれでかなりお腹が膨れるでしょ?」

 

「いや、いい。自分で食うもんは自分で決めるわ」

 

 きっぱりと二階堂の申し出を断る。

 別に彼女を許していないわけではない。ただ、よくよくみると料理にちょこちょこ二階堂が手をつけた形跡があるのだ。つまるところ、俺が食べれば二階堂と間接キスをする羽目になる可能性が高い。メシ代が浮くのはありがたいが、さすがにそれはどうだろうかと俺の理性が押し留めた。

 男子に対してナチュラルに間接キスを勧めるのは、流石に年頃のJKとしてやばいんじゃないすかね、二階堂さん。

 

「まあその頼んだ分はあたしが出すとしてあとはどうする? まだ足りないよね」

 

「や、メシ代出してくれるならそれでいいや」

 

「えーでも後でなんかそれをダシにして強請られるのも嫌だし。……もしかして後で身体で返せとか言わない? エロ同人みたいにさ」

 

 そう言って自分の胸をかき抱く二階堂。でも正直そのポーズの方がパイオツを強調していてエロ同人ぼく見えるのは気のせいだろうか。

 

「言わねえよ、つーかどこからそんなネタ拾ってきたんだ……」

 

「んー、クラスの男子? まぁいいや、そんなことはさ。ちょうどいい機会だし、あたしが比企谷の悩みでも聞いてあげるよ。ガハマちゃんを突き放したことをどうせ悔やんでるんでしょ?」

 

 見透かしたような二階堂の台詞にメニューをめくる手が止まる。

 

「ガハマちゃんには言わないから、話してみそ?」

 

「お前には敵わねえな……」

 

 やはり自分勝手にやっているように見えて二階堂はちゃんと人のことを見ている。

 もしかしたらメシ代を出してくれるよりもそっちの方が今の俺にはありがたいのかもしれない。由比ヶ浜に対するしこりは退院してからずっと俺を苛んできたのだから。

 

 *

 

 ひとしきり由比ヶ浜とのやり取りについて二階堂に話した。

 病室での会話と俺側の動機を余すことなくだ。何やら気恥ずかしいものを感じたが、背に腹は代えられない。

 全てを聞き終えた後、二階堂は何かを噛み締めるように呟いた。

 

「比企谷らしいといえばらしいけど、それで分かるのはあたしや伽耶ちゃんとか誰かを失った経験がある一部の人だけだよ」

 

「……かもな」

 

「仕事とかならともかくさ、普通は最初から自分との関係の終わりを想定して話をする人なんていないよ」

 

 二階堂の言うように出会ってすぐの人間に向けるにはネガティブな感情だったのかもしれない。

 けれど、それでも思い出すのだ。中山を失った日を。本当を塗り潰して虚飾を選んだ日のことを。あの日の寂寥を忘れたことはない。

 あの空白を俺は恐れている。

 だから、不意にもたらされるぐらいなら自分で機会を調整したかったのだろう。

 

「それでもやっぱり自分勝手だよ。ただ比企谷が恐れただけ。ガハマちゃんも比企谷のいいところを盲信してたみたいだから自分勝手なのはお互い様だけど、行動に移したら言い訳はできないね」

 

 二階堂の舌鋒が鋭く臓腑を抉る。胸が痛むが、譲れない。後悔こそあれど確かにあれは俺が出した一つの答えではあったのた。

 

「だがなぁ、なんというか、わからなかったんだよな。由比ヶ浜がなんで俺に構ってくれるのか。……だから、俺は事故の申し訳なさからかと思った。なにせ由比ヶ浜が俺と関わり続ける意義を見出せなかったからな。まだ、悪意や義務感で接しているって考えた方がわかりやすかったんだ……」

 

「ひねくれてるね、比企谷は。まああたしが言えた義理じゃないんだけどさ」

 

「お前も大概だからな……。正直、めんどくさいもんお前」

 

「うう、比企谷が虐める……」

 

 よよよと泣き真似をする二階堂。実に嘘くさくてわかりやすい。

 これだ。こっちに配慮しているのかはわからないが、二階堂は比較的わざとらしいリアクションで主張を伝えてきてくれるのだ。対して由比ヶ浜は他人と合わせる悪癖が染み付いているのかその主張が薄い。俺が由比ヶ浜を図りかねた原因だった。

 

「でもさ、比企谷はそのめんどくさいあたしと5年間居れてる訳じゃん。なんで?」

 

「なんでと言われたらアレだ。時間をかけてお前が早々に離れるような人種じゃないとわかったからな。逆に今が初見なら絶対に関わりを持たないまである」

 

「そこだよ、比企谷。事故と病室で割と濃い時間を過ごしたとはいえ、ガハマちゃんとは一月しか付き合いがないんだよ? それで全てがわかるわけでもあるまいし。それにまだ学校で会ってないじゃん?」

 

 ねえ、比企谷。とテーブルを立って隣に回り込む二階堂。石鹸のようないい匂いと得体の知れない寒気が身体を撫ぜた。

 

「あたしに時間を与えて、ガハマちゃんに与えないというのは不公平なんじゃないのかな? 1ヶ月で分かった気になれるほど比企谷の欲しいものはちゃちなものなの? 結局のところ手を伸ばすのが怖くて逃げただけなんじゃない?」

 

 二階堂は糾弾する。

 お前は不誠実だと。

 お前のしたことはその場凌ぎの逃げの一手に過ぎないのだと。

 お前が忌み嫌った欺瞞の一つでしかないのだと。

 理屈で覆い隠していたものを、彼女は容赦なく白日の元に曝け出す。

 たまらず俺は二階堂から目を背けた。

 けれど、その行為こそがそれが欺瞞だったのだと何よりも強く肯定してしまったのだ。

 

 *

 

 5月6日。

 俺にとっては初の登校日。

 周りにとってはゴールデンウィーク明けの憂鬱な1日だろうか。……ああ、俺にとっても気が重くて憂鬱だ。

 由比ヶ浜が登校するよりも先に彼女の下駄箱の前に立つ。病室での話から彼女が遅刻ギリギリに登校してくることは知っていた。

 だから、由比ヶ浜に現場を見られることはないが彼女と同じクラスの女子の視線が突き刺さって痛い。

 だって仕方ないじゃないか。病室にいる間、俺は由比ヶ浜との連絡先の交換を固辞していたし、さすがに周りの目が辛いからと二階堂に代わってもらえないかと頼んだが「これは比企谷がけじめをつける案件だよ」とにべもなく断られた。

 だったら、最も古典的な手……下駄箱に手紙を仕込むという方法を取らざるを得ない。

 

(まあ、来てくれなくてもいいんだがな。それはそれで答えになる)

 

 間違ったなら、もう一度問い直せ。

 二階堂に俺はそうこっぴどく叱られた。その舌鋒で何度俺のメンタルはズタズタに切り裂かれたことか。

 ……ただ、見方を変えれば二階堂は優しい。

 なにせ誤った答えを、偽物を糺す機会をくれたのだから。

 







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第21話 かくて由比ヶ浜結衣は結い直す。


流水麺です。途中一万字にも及ぶ旅行編を挟んだせいか、20話を出したのが割と昔のように感じられます。
まだ2部の最序盤なんですよね、そういえば。

今回は八幡と由比ヶ浜視点でお送りします。


 

 青空の下で微風が頬を撫ぜる。

 放課後、俺は屋上で由比ヶ浜を待っていた。

『放課後、屋上に来てくれ。もう一度話したいことがある』……なんて未練がましい男のような文章を書いたが、実のところどちらでもいい。

 由比ヶ浜結衣と比企谷八幡は住む世界が違う。本来なら日向と日陰でなんとか交わらないように過ごしていた関係性だろう。

 世の中には出会わない方が良かった関係というものがある。

 まあそう言うと犬猿の仲みたいな関係が想起されがちだが、ただ違うモノを同じところに混ぜるのもそうだ。例えば美味しいからといってバニラアイスをラーメンに突っ込んだりはしないように。同じ高校生だからって陽キャと陰キャを安易に混ぜてはいけないのだ。

 混ぜたら最後、大概は互いが台無しになったり、あるいは片方が大いに崩れたりする。共存することなどまずありえない。

 だから、俺が彼女を切り離したことはだいたいは間違ってはおらず、かつて彼女が俺を切り離したのが間違っていないことも今になってわかった。

 ただ、俺も彼女も間違えたのだ。

 互いに話し合った結果、別れることを決めたのならそれでいい。けれど、俺たちはいつか来る破局に怯えて逃げ出したのだ。

 だから、もう一度向き合うために俺はこの場に立っている。

 

「それにしても来ないな……」

 

 腕時計を見るとすでに15分ぐらい経っていた。

 おそらくはもう由比ヶ浜は来ないつもりだろう。

 だったらいい。それが答えだ。

 寄っかかっていた柵から尻を離し、出口に向かって歩き出す。

 無意な時間を過ごした。帰ったら積んでるゲームをしよう。

 他愛もないことを考えながらドアノブに手をかける。

 するとひねってもないのにひとりでに扉が開いた。そして、開いた扉板で強かに頭を打ちつけてしまう。

 

「痛え……」

 

 思わず呻いてしまう。

 痛みで明滅する視界が回復するのを待って、扉の向こうを見やる。

 

「……ヒッキー」

 

 すっかり見慣れた桃色がかった茶髪。

 待ち人が、由比ヶ浜結衣の姿がそこにはあった。

 その事実に何故か俺は胸を撫で下ろしている。

 

「まぁ、ここではなんだ。座って話そうぜ」

 

 おそらくは長い話にはなる。だから頭も使うし、喉も渇くだろう。

 俺はフタを開けていないマッ缶を由比ヶ浜に差し出した。

 

 **

 

 あたしが有栖ちゃんと手を組んで最初に勧められたことは病室のヒッキーと何度も会話を続けることだった。

 あの後、あたしが事故の時にヒッキーに対して感じたことを言うと有栖ちゃんはなんとも言えない苦笑いを浮かべて言った。

 

「うーん、比企谷ってそんな立派な人間じゃないんだけどなあ。助けてもらったからといって色眼鏡かかってない?」

 

「眼鏡? かけてないよ? 視力はいい方だし」

 

「そういうことじゃないけどね。まぁ、比企谷をよく見ることだよ。そうすれば、自分の気持ちも分かる」

 

 有栖ちゃんの話は言葉が難しくて、そして感覚的な話ばかりで中々その考えを読み解くのは難しい。

 でも、あたしはもっとヒッキーのことを知るべきだということは理解できたし、異論はなかった。だって好きな人のことはもっと知りたいから。

 だから、あたしは翌日からは可能な限りヒッキーの病室に通うようにした。

 はじめはヒッキーは居心地悪そうにしてたけど、次第に慣れてくれてほとんどあたしからだけど話をするようにもなる。ヒッキーは時折相槌を打ってくれて、それがどうしようなく捻くれてて馬鹿らしくて気が抜けてて、少しだけ心地よかった。

 

(ヒッキーって今まであたしが接してきた人とかなり違うんだよね)

 

 今まであたしの周りにいる人は場の空気を読むというか、クラスの中でパワーの強い人のご機嫌取りをしているような感じだった。だから、みんな本心ではないことを言ったり、周りの目を伺ったり好きなようにお喋りができるような感じじゃない。

 今のクラスも似たような感じで、女子は相模南……さがみんが中心のグループでまとまってるんだけど、さがみんは結構人のことを悪く言うから同じグループのあたしたちもまた本心は違うのにその人のことを悪く言わなきゃいけなかったりする。

 けれど、ヒッキーは違う。

 ヒッキーは良くも悪くも取り繕うようなことは言わない。考え方が捻くれていることも、あまり自分に自信を持ってなさそうなところも言葉や表情に出てきている。

 だから、ヒッキーの前ではあたしは自由になれる。言葉を選ばないで話すことができる。気取る必要なんてない、ヒッキーと2人きりの病室の空気があたしは大好きだった。それこそ、有栖ちゃんに勧められたからではなくて自分の意思でほぼ毎日足を運んでしまうぐらいには。

 

『お前が申し訳なさで来てるならお見舞いはもうやめろ。こうもお前を拘束していると俺が居た堪れなくなる。いいんだ、由比ヶ浜。お前はもう戻っていいんだ、自分の世界に』

 

 けれど、あたしが大好きでもヒッキーはそうじゃなかったのかもしれない。少なくとも、戸惑ってはいた。

 

『なんで、そんなこと言うの……っ。あたしはぜんぜんそんなつもりはないのに……』

 

 あたしはヒッキーの言う償いのために来ているわけじゃない。あたしはあたしでただ来たくて来ているだけなのに、それがヒッキーには伝わっていない。あたしにとって事故のことはもうただのきっかけでしかないのに。

 

『勘違いするな、俺はお前のために犬を助けたわけじゃない。見て見ぬふりをしたら俺が俺を赦せそうになかったからやっただけだ。だから、すでに謝罪を済ませた由比ヶ浜が気に病む必要はない』

 

『わからないよっ! なんでそんな考えになるのかわからないよ……ねえ、ヒッキー』

 

 口ではそう言うけど、実のところはうっすらと理由は分かっていた。

 ヒッキーは臆病だ。だって人の嫌なところをたくさん見て来たから。だから、あたしのことをそう簡単に受け入れてはくれなかったんだと思う。けれど、その受け入れてくれなかったという現実を信じたくなかっただけ。

 こうなってしまったら会話なんてできない。お互いに黙って見つめているだけ。そんな時間に耐えられなくてあたしは飛び出した。

 

『……バカ』

 

 最後についた悪態は誰に向けられたものなのか。

 分かってくれないヒッキーに向けたものか、それとも舞い上がっていたあたしに向けられたものなのか。

 わからない。

 けれど、階段を降り切ったあたしの目には涙が滲んでいた。

 あたしの存在でヒッキーの気を病ませるぐらいなら離れよう。あたしは静かにそう決めた。

 

 

 ……そんなことがあったから、もう一度会いたいってヒッキーから手紙で知らされた時は嬉しかった。けれど、足を運ぶのは気が重かった。

 だって一度はまちがえたから。もう一度まちがわないなんてどうして思えるのか。

 あたしは怖かった。

 もう一度まちがえて完全に台無しになってしまうことが。

 手紙を読んでからは授業もさがみんとの会話もあまり耳に入らなかった。

 ああ、けれど一つだけわかる。

 この機会を逃がしたらヒッキーとはもう二度と交わることはないのかもしれないと。多分、良くてもただの知人で終わると思う。

 

『人間ってのはな、何かを選ぶ時は何が良いのかじゃなくて何が嫌なのかで選ぶもんだ。なんだかんだ迷っても結局のところその焦点に収束する』

 

 いつぞやのヒッキーのひねくれた一言を思い出す。

 あたしの嫌なことは……。

 ああ、やっぱり。

 あたし、ヒッキーと会えなくなるのが嫌で。

 もう一度、あの優しい場所に帰りたいだけなんだ。

 ……ありがとう、ヒッキー。おかげで決めれた。

 だから、行くよ。

 

 **

 

 気づけば肌寒さを感じていた。日もだいぶ傾いている頃合いだ。

 俺はもう一度由比ヶ浜に話をした。事故のことや、病室で話をしてた時にどう思っていたかを。

 リピートラーニングみたいなものだろうか、感情にもあえて自分の口に出すことではっきりとその存在を定着させる作用があるらしい。

 知覚した以上、疑り深い俺にも否定はできない。由比ヶ浜結衣と過ごした一月はなかなかに楽しいものだったと。

 そして、なまじ楽しかったからこそ失われることを、俺の勘違いに過ぎなかった場合のパターンを恐れたわけだ。

 

「……ヒッキーって、不器用で臆病で最低だね」

 

 俺に内実を明かされた由比ヶ浜の反応と来たら、それは大層ひどいものだった。ほんと、そんな寂しげに笑わないで欲しい。下手に嘲笑されるよりも心にクルから。

 

「まぁ、それがヒッキーだから仕方ないね。あたしだったら恥ずかしくてそんなこと言えない。でも、言えるヒッキーだからこそあたしは1か月間一緒に居れたんだね」

 

 由比ヶ浜の笑みの質が変わる。

 寂しげなものから、呆れたものに、そして慈しむようなものに。

 その柔らかな笑みが彼女らしからぬ大人っぽさを帯びていて、思わず俺はたじろいでいた。

 

「ヒッキー、あたしもこの1か月間楽しかったよ。あの病室に行くことが大好きだった。だから、これからも続けていきたい。……そう願うのはまちがったことなのかな?」

 

 不安げに問いかける由比ヶ浜。

 しかし、幸いなことに俺はその問いの答えを持ち合わせていた。

 

「……まちがってないだろ、別に。互いが楽しいと思えるならそれでいいんじゃねえのか」

 

「……そだね」

 

 俺の言に由比ヶ浜は頷く。

 ……これで確認は取れた。

 俺はクラスのリア充たちとは違ってなんとなくで関係を作り、うやむやなまま関係を続けるなんてことはおそらくはできないのだろう。故に俺は欲したのだ。

 関係を続けるに足る役目だったり、関係を続けていい了承のようなちゃんとした理由を。その理由があって俺は初めてその関係性を信じられる。気持ちだけではまだ無理だ。

 いつかはもっと上手くやれるのかもしれないが今はまだあまり想像できない。だから今日はこれぐらいで許して欲しい。

 

「さて、と……」

 

 話が終わり、互いに示し合わせることなく、立ち上がる。

 この屋上にはもう用はない。もっと別に相応しい場所が他にあるからだ。

 

「ここじゃ寒いし腹減ったから、サイゼでも行こうぜ」

 

「うんっ!」

 

 2人連れたって屋上を後にする。

 そうだ、小町に『今日は晩飯要らない』って送っとかなきゃな。

 



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第22話 こうして彼と彼女は境を決める。

カピカピになってた流水麺です。
もう一方の作品がある程度キリがいいとこまでいったのでこっちも再開させます。長らく、お待たせ致しました。


 

 気づけば目で追ってしまう存在がいる。

 長く赤い髪に、白く透き通る肌。極めて整った顔立ちは周囲の人の目を否応なしに集めてしまう独裁性があった。

 

「やっぱ、隼人くんもかやちん気になるカンジ? まぁ容姿がダンチで違うからわかるべー」

 

 俺が中山さんを見ていたことに気づいたのか隣の席の森戸がからかってくるが、俺は適当な笑みを浮かべて言った。

 

「そうだね。ほら、やっぱり俺も男だからさ。綺麗な子には目がいくさ」

 

 中山さん……中山伽耶は類い稀な容姿を持っている。それこそ俺が今まで見てきた誰にも引けを取らないほど、まさか雪ノ下姉妹や彼女とためを張るほどの美少女ともう一度に出会すとは思わなかった。

 ……だから、俺がつい中山さんを目で追ってしまっても「美人だから仕方ない」と言い訳できる。

 

「やっぱ隼人くんもかやちん推しか〜、こりゃ大敵出現や……。 夏の恋愛戦線、これは必見ですねえ!」

 

 やたら大仰に解説者ヅラする森戸を雑に捨てて、俺は部活の準備に入る。

 7月になり、最初の期末テストも超えた今。クラスは高校最初の夏休みに向けて浮き足だっていた。甘い一夏の恋に焦がれて気になる相手に鞘当てが繰り広げられるばかり。

 

(俺も、中山さんもここ数週間は苦労するだろうなぁ……)

 

 厄介な未来が見えてきて、憂鬱になる。

 俺が欲しいのは、ぬるま湯のような日常であって燃えるような恋ではないのだから。それに今更それを求められても俺には応えることはできないのだろう。

 あの日、あの時、彼女を前にして。俺は煮えたぎった己の感情に冷や水をぶっかけた。

 それ以来、俺の心が熱を持つことはない。

 

 

 **

 

 終業式の放課後。

 私はとある男子生徒に呼び出されていた。

 相手は同じクラスの吉井くん。葉山くんと同じサッカー部員でクラスの中のカーストも高い。まあまあイケメンで女子の人気もそこそこ。けれどまぁ葉山くんと比べると二枚は役者が落ちる。

 実のところ、彼の用件は分かっている。告白だろう。

 なにせクラスメイトとして過ごしている間、彼は私に対して時折熱を帯びた視線を向けてきていたから。ついにこの時が来たかとさえ思っていた。

 

「呼び出してごめん、中山さん」

 

「別にいいよ。気にしてないし」

 

「そうか……」

 

 吉井くんは息を呑む。それと同時に空気が低く、張り詰めたものになるのを感じた。

 ずっと悩んでた。あるいは機を伺っていたのだろう。

 彼は軽率な男ではない、むしろ腰が重くて不器用な部類に入る。そして、何よりも臆病だった。

 1学期の間は曲がりなりにもトップカーストとしてつるむ間柄だったからよく知っている。ただそばにいるだけなら何もせずとも良かった。けれど、彼は今その安寧を自ら投げ捨てる択を取ったらしい。その勇気はすごく価値があるものだとは思う。

 

「なぁ、中山さん。俺と付き合ってくれないか? まだ早いのかもしれないのはわかってる。……けれども、時をかけている間に誰かに取られたくない」

 

 だからこそ、心が痛かった。

 だってそんな彼の全てを擲つ勇気に対していつも通りに申し訳なさそうな表情を作って、返事をすることしかできないのだから。

 

「ごめんね、私は特に誰かと付き合うつもりはないんだ」

 

「だよな、悪い。……そんな気はしてた。けどなぁ、それでも怖かったんだ、俺は。すまない中山さん、要らない手間をかけさせた」

 

 涙を拭って吉井くんは歩き出す。

 これで関係の精算はできたのだろうか。

 今まで何人も振って来たけれど、いつだって後味が悪いのはその相手と長く時間を過ごした場合だった。

 彼らはちゃんと私を知ろうとして近づいてくる。けれどそんな彼らに対して私は『俺』を出すことはせずにあくまで『私』として応ずる。ほんとうは『俺』を出せたらいいのだけれど、それで幻滅されたくはないしきっと彼らが求める『私』とは外れている。

 つまるところ私は彼らの誠意に偽りで返してるわけだ。この不等式な関係性が後ろめたくてやるせなくなる。

 

(帰ったら八幡に絡みに行こうと思ったけど、そんな気分じゃなくなったなぁ)

 

 近くにあった椅子に腰掛けて気持ちを落ち着かせようと務める。けどまぁなんというか今日はそんな上手いこといかない日みたいで。

 閉めていた扉がまた開いた。

 そこから姿を見せたのはまたも見知った顔。

 心が細波を立てる。何故にこんなところに彼がいるのか。そして何故に今この時に話しかけてくるのか。

 明敏な彼のことだ。この場で何が行われていたのか、察することができないはずもない。実に、らしくなかった。

 

「奇遇だね、中山さん」

 

「なんで君がいるのかなぁ、葉山くん」

 

 葉山隼人。

 クラスの中の最上位カースト。

 成績は学年3位以内を常にキープし、サッカー部では一年生でありながら次期大エースとして嘱望され、その上で人当たりも良い。なによりイケメンである。

 でも、私はそんな彼にある種の近寄りがたさを感じていた。

 理由は彼もまた演技者だから。

 クラスでの彼は皆が求める『牽引者・葉山隼人』を見事に演じている。ただ舞台の上で立つのではなく、己が生活を整然と演出しているのだ。それは緻密な計算と管理が必要で、僅かな綻びにさえ気をつけなくてはならない。それを一日の大部分維持させる。

 こう考えてみれば途方もない労力なのが分かる。だから私は出来る限り彼の演技を邪魔しないように当たり障りのない関係で接していた。

 そんな気遣いをしてあげていたのに、なぜか彼はこの期に及んで私に接触をしてきた。正直なところその意味は計りかねる。

 私は苛立ちを押し込めて、笑顔で彼に応対した。

 

 **

 

 中山さんにあの吉井が告白する。

 その情報を掴んだ時、俺は吉井の後をつけて近くに潜んでいた。

 こんな行動は『葉山隼人』らしくはないのかもしれない。けど、吉井が振られるのは火を見るよりは明らかだった。

 なにせ彼女はクラスの誰に対しても心を開いていないのだから。

 僕は吉井を止めたが、いささかそう断言するにあたっての論拠が弱かった。

 止められなかった以上は彼のアフターフォローに回る。それが俺のプランだ。だから、告白は最後まで見届けた。

 

(それにしても、彼はよく決断したと思う。俺には『葉山隼人』にはああするだけの勇気はない。あの時、俺に彼のような勇気があったのなら、何かが違ったのだろうか)

 

 無駄だとわかっていながら、たらればを考えてしまう。

 まぁ俺と比べれば彼は十二分に立派だ。彼は彼なりに戦って、そして敗れたのだ。その背中に勝負に介在しない俺がかける言葉などない。

 むしろ、彼女の方が気にかかる。何やら彼女は疲弊しているようで。そして、その疲労は俺にも心当たりがあるものだった。

 

(……ああ、だからか。俺が彼女を目で追うようになっていたのは)

 

 すとんと腑に落ちる。

 俺は彼女に下心を持っていたわけではない。だが、彼女の振る舞いに俺は一種の近しさを見出していたのだ。

 誰かのために望まれた振る舞いをして、なおかつ自分の懐には踏み込ませない。それはまさしく俺でのクラスの立ち回りそのものだ。だが、それは自分を削り取るような行為でしかなく消耗が著しいこともまた身をもって知っている。

 きっと俺は見ていられなかったのだ。だから、らしくもなく彼女に口を出していたのだろう。

 

「無理に演技しなくていい。中山さん。吉井を振るのが辛かったら顔を歪ませていいし、俺と話すのが億劫だったらもっと嫌そうにしていいんだ。君はいつも笑顔を作る。心が痛んだ時ほどより穏やかな笑みを作っている。それでは君は学校で心が安らぐことは多分ないのだろう」

 

 俺が言うと中山さんは驚いたように目を見開いたのち、口の端を釣り上げた。その姿にはどこか陽乃さんが重なってしまう。

 

「……へぇ、私に演技をするなっていうんだ、葉山くんは。あくまで女優に対してその物言いは強気に出たね」

 

「演技に対してダメ出しをしているように聞こえたなら謝る。けれど、君はそれで自分を傷つけているような気がするんだ」

 

「なるほど、よく見てる。さすがは同類だね。けれどやめる気はないし、それに葉山くんには言われたくないよ」

 

 明確な敵意を向けられて、思わず俺はたじろいでしまう。蒼天の瞳が俺を制止させ、余計な言葉を紡がせない。

 失策だった。彼女は半端な覚悟と優しさで向き合うべき相手ではなかったのだ。

 

「君がそう振る舞うように、私にも演じると決めた理由がある。教えてあげるつもりなんてさらさらないし、それに踏み込むなんて私達らしくない。違う?」

 

 念押しするように中山さんは俺の瞳を覗き込んでくる。

 夕焼けを溶かしたような赤い髪がさらりと揺れて、女の子特有のいい香りが鼻腔をくすぐる。

 それはともすれば、誘惑のようで。でも、違う。これは強要であり、警告だ。……ああ、こんなところまで陽乃さんに似てくれなくてもいいのに。

 

「わかった。ごめん、踏み込みすぎたね。2学期からは上手くやるよ」

 

 そう言って僕は彼女から離れた。

『葉山隼人』は彼女の近くにいるべきではない。彼女の隣に必要なのは剥き出しの『誰か』であり、それは『葉山隼人』とは両立することはない。

 願わくばその『誰か』が現れてくれることを、俺は祈らずにはいられなかった。

 



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