袴とスカートの距離は  ~和装男子に恋する男子。ライバル同士の剣道男子~ (木下望太郎)
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第1話 袴(はかま)とスカート  第2話 更衣室にて

  ~第1話  袴とスカート~

 

 (はかま)を普段着にしたいよね、ということで、僕ら二人の意見は一致した。

 とはいえ、すでによく履いてはいる。一日に二時間やそこらは。何なら今も履いている、僕らは。

 

 たとえ肩車して竹刀(しない)を振るったとして、決して届かない高さの天井の下。広い板敷きの間に、床を踏み割るかのような彼の足音が響く。竹刀を振るって飛び込んだ、踏み込みの音。

 武道場にはもう、他に誰もいなかった、隣の畳敷きのスペースにいた柔道部も先に帰っていた。居残り練習につき合ってくれた、彼と僕だけがいた。その練習も終えて片づけるところだ、防具は二人とも外している。

 木製の格子の向こうにある窓、蛍光灯の光を反射するガラスの向こうに見える景色は、すでに黒一色。宇宙のように隔絶された黒。

 

 彼は踏み込んだ先で足を継ぎ、足を継ぎ。やがて残心(ざんしん)を――技を放った後相手に向き直り、構え直す動作を――取った後。身を反らせ、竹刀を持ったままの片手を上げて大きく伸びをした。

 それからもう片方の手で、黒髪の荒く波打つ頭をかく。

 

 彼は竹刀を肩にかつぐ。片手で、ばさ、と音を立て、(はかま)(すそ)をさばく。そうして膝辺りの生地をつまみ、しげしげと眺めた。

「まあ普段着は無理にしてもよ。やっぱり(はかま)だよな(はかま)……この開放感、動きやすさ、それでいてこの端正なフォルム……正に武士(もののふ)、侍の装束(しょうぞく)……いい……」

 

 僕もまたうなずき、眺めた。彼のつまみ上げた(はかま)を、そして。彼自身を。

 (はかま)をつまむ骨太な手。汗に湿り、その色を濃くした藍染(あいぞめ)の道着。けして太くはないが、ぎちりとした筋肉を(そな)えた、侍の体格。

 いつも何かに挑んでいるような鋭い目つきは、今だけは緩められ。手にした(はかま)に注がれている。

 

「うん。いいよね。美しいよね」

 僕は彼を――(はかま)ではなく彼を、気づかれないように――見ながらそう言い。

 それからその場でくるくると回り、自らの(はかま)の裾をひらめかせた。

 

 彼の履く(はかま)は、侍の装束として美しくて。

 僕自身が履く(はかま)のことは、別の意味で好きだった。

 

 動きにつれて、ふわり、となびくその装束は、

 まるで、(たけ)の長いスカートのようで。僕自身は決して履けない、スカートのようで。

 

 

 

 

  ~第2話  更衣室にて~

 

 考え込むようにあごに手を当て、哲学的な思索にふけるように視線を落とし、彼は言った。武道場の男子更衣室で。

「いやしかし……女子が着ても、イイよな。袴」

 

 袴を脱いだ後、不意に思いついたように。紺色の上衣と、その裾にかろうじて隠れたパンツだけの姿でそう言った。まばらに毛の生えたすねをさらしたまま、鋭い目で。

 

 柔道着や空手着と違い、剣道着は上衣の裾を袴の中に入れてから帯を締める形になっている。そのため、着るときは必ず上衣から、脱ぐときは必ず袴から――なので、着替えるとなると誰だって、この間抜けな姿を通過することになる。

 

「……なぜそんなバカな格好でバカなことを言い出したの? バカだから?」

 まだ袴を履いたまま汗を拭きながら、僕は言葉のままの意味でそう言ったが。

 

「うん」

 彼は素直にうなずいて、僕は何も言えなくなった。

 何も言わないまま、ずっと彼を見ていたかった。何の混じり気もないその表情を――いや、その格好はどうにかしてほしいが。

 

 けれど彼は、その表情をすぐに崩してまた喋り出す。どうでもいいことを。

「そりゃそうと、イイだろ女子の袴。なんていうかこう、凛とした感じッつうか。非日常感ッていうか」

 

 あー、と相づちを打って僕は言った。

「巫女さんとか?」

「そうそう」

「昔の女学生とか」

「そういうの」

「女子大生が卒業式に着るやつとか」

 彼は頬を緩めて笑う。

「そうそれ! そんなんだよそんなん、分かってンなお前。はーッ、明日になったら袴が制服になってねェかなー、男女とも」

 

「バカ」

 僕は鼻でため息をつき、それでもその明日を想像した。

 そうなったら僕は絶対、行灯袴(あんどんばかま)を履こう。剣道着と同じ形の馬乗り袴とは違う、脚を隔てる生地のない、スカートみたいな形の。

 

 そんなことを思いつつ、僕は袴の前に結んでいた帯を解く。その帯で留められていた、袴の後ろ側の生地が尻の下に垂れた。

「でも、そうなると。皆が皆着替えるとき、この間抜けな格好を経由するんだよねー」

 

 袴を履くときはまず、前側の生地を下腹に合わせ、体を一周するように帯を結んで留める。その後で後ろ側の生地を腰に沿わせ、その帯を体の前で結ぶ。

 なので。袴を履くときも脱ぐときも、男も女も。どうしたってこの――今の僕みたいな――間抜けな格好になる。つまり袴の前だけ留めて、尻が丸出しの状態――実際には上衣の裾で、太ももの半ばまでは隠れるのだが――。

 

「な……ッ」

 彼は不意に目を見開き、息を呑んだ。それから力強く、突き刺すように僕を指差す。

「それ! それだそれ、その概念ッ! 女が! 袴で! 尻丸出し! うッわ、裸エプロンみたいじゃん……いい……すごく……今夜から使える概念じゃねェか」

 

 満面の笑顔で歩み寄り、痛いぐらいに背中をはたいてくる。

「やるなお前! やるやるとは思ってたけど、そこまでやるとはなー! ドスケベ担当大臣だなお前!」

 

 思わず、僕の頬が引きつる。

 固い表情のまま笑みを作り、冗談のような声音で言ってやった。彼に背を向け、上衣の裾をまくり上げ。

「その概念……実際の見本が、はいこちらに」

 汗まみれのパンツを下ろした。彼に向けて、尻を出して。

 

 次の瞬間。思いっきり蹴られた。いい音を立てて、尻を。

 顔を引きつらせた彼が叫ぶ。

「何してくれンだてめェ!」

 

「そう言いたいのはこっちだけど……」

 顔をしかめながら、僕は上衣の裾を下ろす。

 

 その間にも彼は頭を抱えて座りこむ。

「うッわお前、うッわお前、もおおォォ! 何してくれンだよ、その状態想像するとき絶ッッ対お前のケツ浮かぶじゃねーか! あーもォォ!」

 

 その時その瞬間に、彼が僕の姿を思い浮かべるのなら。

それはいいな、と頬を歪め。

 けれど、それで彼が萎えることを思い。僕は何も言わずうつむいた。

 

「だーッ! 消えろ! 消えろ俺の記憶ッ!」

 自分の頭をぽこぽこ殴る彼を横目で見ながら。

 僕はとにかく、パンツを着替えた。

 

 



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第2話  更衣室にて

 

 考え込むようにあごに手を当て、哲学的な思索にふけるように視線を落とし、彼は言った。武道場の男子更衣室で。

「いやしかし……女子が着ても、イイよな。袴」

 

 袴を脱いだ後、不意に思いついたように。紺色の上衣と、その裾にかろうじて隠れたパンツだけの姿でそう言った。まばらに毛の生えたすねをさらしたまま、鋭い目で。

 

 柔道着や空手着と違い、剣道着は上衣の裾を袴の中に入れてから帯を締める形になっている。そのため、着るときは必ず上衣から、脱ぐときは必ず袴から――なので、着替えるとなると誰だって、この間抜けな姿を通過することになる。

 

「……なぜそんなバカな格好でバカなことを言い出したの? バカだから?」

 まだ袴を履いたまま汗を拭きながら、僕は言葉のままの意味でそう言ったが。

 

「うん」

 彼は素直にうなずいて、僕は何も言えなくなった。

 何も言わないまま、ずっと彼を見ていたかった。何の混じり気もないその表情を――いや、その格好はどうにかしてほしいが。

 

 けれど彼は、その表情をすぐに崩してまた喋り出す。どうでもいいことを。

「そりゃそうと、イイだろ女子の袴。なんていうかこう、凛とした感じッつうか。非日常感ッていうか」

 

 あー、と相づちを打って僕は言った。

「巫女さんとか?」

「そうそう」

「昔の女学生とか」

「そういうの」

「女子大生が卒業式に着るやつとか」

 

 彼は頬を緩めて笑う。

「そうそれ! そんなんだよそんなん、分かってンなお前。はーッ、明日になったら袴が制服になってねェかなー、男女とも」

 

「バカ」

 僕は鼻でため息をつき、それでもその明日を想像した。

 そうなったら僕は絶対、行灯袴(あんどんばかま)を履こう。剣道着と同じ形の馬乗り袴とは違う、脚を隔てる生地のない、スカートみたいな形の。

 

 そんなことを思いつつ、僕は袴の前に結んでいた帯を解く。その帯で留められていた、袴の後ろ側の生地が尻の下に垂れた。

「でも、そうなると。皆が皆着替えるとき、この間抜けな格好を経由するんだよねー」

 

 袴を履くときはまず、前側の生地を下腹に合わせ、体を一周するように帯を結んで留める。その後で後ろ側の生地を腰に沿わせ、その帯を体の前で結ぶ。

 なので。袴を履くときも脱ぐときも、男も女も。どうしたってこの――今の僕みたいな――間抜けな格好になる。つまり袴の前だけ留めて、尻が丸出しの状態――実際には上衣の裾で、太ももの半ばまでは隠れるのだが――。

 

「な……ッ」

 彼は不意に目を見開き、息を呑んだ。それから力強く、突き刺すように僕を指差す。

「それ! それだそれ、その概念ッ! 女が! 袴で! 尻丸出し! うッわ、裸エプロンみたいじゃん……いい……すごく……今夜から使える概念じゃねェか」

 

 満面の笑顔で歩み寄り、痛いぐらいに背中をはたいてくる。

「やるなお前! やるやるとは思ってたけど、そこまでやるとはなー! ドスケベ担当大臣だなお前!」

 

 思わず、僕の頬が引きつる。

 固い表情のまま笑みを作り、冗談のような声音で言ってやった。彼に背を向け、上衣の裾をまくり上げ。

「その概念……実際の見本が、はいこちらにー」

 汗まみれのパンツを下ろした。彼に向けて、尻を出して。

 

 次の瞬間。思いっきり蹴られた。いい音を立てて、尻を。

 顔を引きつらせた彼が叫ぶ。

「何してくれンだてめェ!」

 

「そう言いたいのはこっちだけど……」

 顔をしかめながら、僕は上衣の裾を下ろす。

 

 その間にも彼は頭を抱えて座りこむ。

「うッわお前、うッわお前、もおおォォ! 何してくれンだよ、その状態想像するとき絶ッッ対お前のケツ浮かぶじゃねーか! あーもォォ!」

 

 その時その瞬間に、彼が僕の姿を思い浮かべるのなら。

 それはいいな、と頬を歪め。

 けれど、それで彼が萎えることを思い。僕は何も言わずうつむいた。

 

「だーッ! 消えろ! 消えろ俺の記憶ッ!」

 自分の頭をぽこぽこ殴る彼を横目で見ながら。

 僕はとにかく、パンツを着替えた。

 

 



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第3話 痛み、二つ  第4話 剣

(第3話  痛み、二つ)

 

 胸の痛みは熱いが、甘い。

 ひどく熱されたホットチョコレートのようなものだ。たとえ口にしたそれが舌を焼くように感じられても――そして吐き出すことが叶わなくとも――、そこには何にせよ、甘味がある。

 いずれは飲み下せるようにもなる、いずれは――それがいったいいつで、その後どれほどの間、火傷に悩まされることになるかはともかく――。

 

 だが、体を走る痛みは。今、右手と脳天に残る痛みは、焦げつくように熱く、苦い。

 部活で、そして先ほどの練習で、彼から何度も打たれた箇所。そこを走る痛みは。

 

 後から――着替えを終え、分かれて帰途についた今になって――むしろ熱を帯び、強くなる痛み。肉の内側、骨から焦げていくかのような。赤熱(せきねつ)した烙印(らくいん)を押されたかのような。

 

 それで僕は、夜の道を歩きながら。苦く苦く、奥歯を噛んだ。

 

 

 

 彼は強い――普段はあんなバカだが、本当に――。

 うちの部で県大会上位を狙えるのは彼一人だったし、その剣勢(けんせい)からして違う。僕や他の部員が面や小手を打ち、叩くところ。彼は一人、斬り捨てる。刃筋を立てた、ぶれのない一撃を、防具どころかその奥の肉ごと、骨ごと。斬り落とすような剣閃を放つ。

 

 彼の家は道場をやっている。剣道ではなく、伝来の居合術。それを含めた剣術を伝えるものだ――一般の居合(がた)も併せて教示はしている――。

 決してそれだけで食べていけるものではなく、日を限って副業として教えているそうだが。

 

 剣道経験のある者は居合の上達が早く、逆もまた(しか)り、とは聞くけれど。彼はまさにそれだった。幼少の頃から教え込まれたという刀の扱いは、小学校の中ごろから始めた剣道でもその力を発揮した。

 それ以前からの友人だった僕は、彼の試合を見に行って。彼を追うように剣道を始めた。

 そして彼に叩きのめされた。

 

 ずっとそうだ。

 彼は僕の友人で、一緒に剣道をやっていて。何度も何度も、叩きのめされている。

 

 彼に甘い胸の痛みを覚える、ずっと前から。

 僕は返したいと思っている、彼にこの体の痛みを。いつまでも消えず焦げつく、火のような熱さを。

 彼にも味わわせてやりたいと、思っている。

 

 

 

(第4話  剣)

 

 

 夜と、垂れ下がるように茂る木が作る闇の中、古ぼけた電灯の薄明かりの下。重く長く息を吐き、木刀をゆるゆると振る。スローモーションのようにゆっくりと、ただし決して止めることなく。

 

 帰り道、誰もいない神社の境内。そこで僕は一人こうしている。いつものように。

 舟の(かい)のように太い木刀、真剣ほどの重さがあるというそれを、ゆっくりとゆっくりと振るう。

 

 刃筋はぶれていないか。手の内――柄の握り――は固すぎないか、自在に振るい的確に絞めるだけの遊びはあるか。正中線はつまり自らを天から地へと貫く軸はどこにあるか、常に意識しているか。重心の位置は臍下丹田(せいかたんでん)つまりヘソの下、その重みの位置を理解しているか。その重みをどう移動させ、どう剣に乗せるか。

 脚腰の力を、軸を中心に重心の重みを乗せて振り回し。背筋、腹、胸、肩から二の腕。前腕、手首から十指、握りを経て刀身へと伝える、それがすなわち、斬撃。

 彼はそんな風に教えてくれた。この練習方法も。

 

 一かけらも分からなかった、分からないままやっていたこの動作が、その意味が。

 解りかけてきた、つい最近。

 

 ゆるゆると振るう、その力の在りかがどこか解る。軸と重心とに、その重みがかかる。それをゆっくりと導いてやる。腕まで、刀身まで。その先の、想定する敵まで。それを斬り捨てた、その先まで。

 

 つながっている。彼の言葉が、いや、教えが。いいや、彼の感じるものが。

彼の感じている世界、その一端が確かに、僕を貫いている。

 

 

 

 ――見たことがある、彼の居合を。それはまるで、ごく短い舞だった。

 

 袴の帯に差した居合刀、歩を進める彼がその柄をいったいいつ握ったのか、分からぬ間にそれは抜き放たれていた。

 その抜き打ちは速いというよりも、ごく小さな動きだった。おそらく何千回何万回と繰り返したその動きはあらゆる無駄を削ぎ落とされ、彼から目の前の空間まで――つまりはそこにいる仮想敵まで――最短距離を最小の動作で走った。

 

 抜き打ちが仮想敵の右手を――おそらく柄に手をかけ、同じく抜き打とうとしていた敵の手を――斬った、そう僕が気づいたときには。

 彼は刃を返して振り上げ、両手で柄を握り。一息に斬り下ろしていた。対手(あいて)の首元から胸まで、斜め一閃の袈裟(けさ)斬りに。

 

 そして片手で持った刀を額の前へ掲げ、斜め下へ孤を描いて振る。刀身についた血を払うように。

 切先(きっさき)を鞘の口に沿わせ、横に寝かせた鞘へと納刀する。その間も彼の目は、伏した仮想敵を見ていた。再び立ち上がってくることがあれば、その瞬間に再び斬る。そんな目で。

 

 彼の動きは水の流れのように、居つく――止まる――ということがなく、どこにも重さがなく。斬撃を放つその瞬間にだけ、(なた)のような重さを叩きつける。

 それはまるで舞だった。普通の立ち姿から始まり、対手(あいて)の死を以て終わる、ごく短い舞踊。

 

 今まさに敵を斬り殺した、美しい舞い手は。袴の裾を(ひるがえ)し、僕の方へと振り向く。照れたように、視線を落として微笑む。

 

 そして多分照れ隠しに、全速力で走り出して。袴をはためかす音を立て、跳び蹴りをしかけてきた。――

 

 

 

 そして今、僕は愛用の竹刀を取り出す。

 重い木刀をゆるゆると振るった先ほどの感覚を、体に残したまま竹刀を握る。振るう――手の内は決まっているか――振るう――刃筋は立っているか――振るう――体の軸は、重心の位置は――。

 振るう、その感覚を持ったまま。振るう、小さく、素早く。

 やがてその動きは素振りから、中段に構えて、踏み込み、打つ、面打ちの動きに変わる。

 

 剣術と剣道の動きは必ずしも同じではない――いや、はっきりと違う。同じ根から生まれたそれらは、もはや別々の枝に分かれている。

 剣道の技は『打突(だとつ)』と呼ばれる。剣術の『斬撃』でも『刺突(しとつ)』でもない。斬るのではなく打ち、叩く技だ。

 

 剣道はしばしば『その動きでは人を斬ることはできない。日本刀を使うための動きではない』と批判されるのだが。その批判は当たり前であり、同時にひどく的外れでもある。

 剣道の動きは『最小限の動作で素早く人を叩くことができる動き、竹刀を使うための動き』だ。斬るための動きでも日本刀を扱うための技でもない。

 逆に言えば、『剣術は、竹刀で戦うための動きではない』。

 

 つまり。彼の動きや技は決して、剣道に最適化されたものではない。

 現にその動きには無駄が見られる場合もある。手首のスナップを利かせて小さな動作で打てばいいところを、全身の動きを乗せて斬り込んだり。逆に竹刀を打ちながら流すような、()で斬るような動きになって、不十分な打ちにしてしまったり――日本刀を使うのであれば、それが正解となる局面も多いだろう。必ずしも敵の肉体を切断する必要はなく、致命的な失血を強いることができれば目的は果たせる――。

 

 だから。彼が徹底して習得している、双方に共通した技術の骨子(こっし)。それを得た上で、剣道に特化した技術を身につけることができれば。

 充分、勝ちの目はある――はず、だ。

 

 僕はまた構え、踏み込み、竹刀を振るう。何度も、何度も、息が切れるまで何度も。

 そうして息が切れ、わずかに揺らいだ意識の中で。

 彼が居合刀を抜き打つ、あの時の姿が見えて。息を呑み、見惚(みと)れる。できることなら彼に斬られるのが、僕でありたいと願う。

 

 僕は大きく息を吸い、長く息を吐いてまた深く息を吸い。かぶりを振ってその妄念を追い払う。再び、竹刀を振るい出す。

 

 僕は忘れてはいない。腕に走る、焼けつく痛みを。

 

 



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第5話  彼とデート(本当)

 

 今日は日曜。彼とデートだ。本当だ。

 

 部活が終わったら、昼から――二人きりで――一緒に出かけ、――二人きりで――ご飯を食べて、――二人きりで――買い物に行く。電車に乗って、街中に出かけて。

 これはつまりデートだ。絶対そうだ。

 現に、『今日デートだよね?』と彼に聞いたら『え? あーそうそう、それな』というお墨付きを――全く話を聞いていない感じではあったが――いただいた。

 なのでもう間違いない。

 

 そういうわけで今日は、デートだ。部活が終わったら。

 

 

 

 

 午前中で部活が終わり、すぐに僕たちは一緒に出かけた。シャワーも浴びないまま――学校の武道場にそんなものはない――、汗に濡れた道着の入ったバッグを抱えたまま。

 この時点でだいぶ、デートだという論拠には乏しくなってきたのだが。『めっちゃ腹減った』という彼の主張により、昼食は電車に乗る前、地元のうどん屋で摂ることとなった。

 実に飾らない、自然体のデートだと言っていいだろう。

 

 煮しめたような色ののれんをくぐり、立てつけの悪いアルミ製の引き戸を開ける。壁に貼られた、色あせた紙のメニュー表から二人ともざるうどんを注文し、セルフサービスの天ぷらを皿に取る。僕は栄養バランスを考えて、おでん鍋から大根を取っておくことも忘れない。

 

 それぞれ支払いを終え、カウンターで横並びに――テーブル席に座ればいいのに、彼はいそいそとカウンターに座って割りばしを取った――座る。

 一秒を争うかのような勢いで彼はうどんをすすり上げ、麺の端が勢い余って鼻を叩く。

 僕は苦笑しながら、大根を二つに分けて、片方を彼の皿に載せた。

 彼は麺を噛み締めながら礼を言う。

 

 彼を見ながらうどんをすする。ジャージの下からのぞく彼の首筋と胸の辺り、袖をまくり上げた先からのぞく前腕。そこに薄青い、かすれたような跡がついている。

 それと似た跡は、うっすらとだが僕の腕にも。

 

 剣道着や防具の布部分は、藍染(あいぞ)めで紺色に――いや、まさに藍色か――染められている。最近のものだと合成染料のものもあるが、彼や僕はそこそこ立派な道具を使っている。なので当然藍染(あいぞ)めだ。

 この(あい)という染料、非常に色落ちや色移りしやすい。それを着て練習しただけで、腕や体が青くなるほどに。彼は道着を新調したばかりなので、特にひどい。

 

 さらに言えば。この染料、独特の匂いがある。鼻の奥に引っかかるような。

それ自体は決して悪い匂いではないのだが。汗と結びつき、さらに時間が経つことで、すえた汗臭さが鼻の奥に引っかかる、最悪のにおいとなる。少なくとも食事中や、デート中に嗅ぎたいにおいではない。

 

 そんなにおいのバッグを傍らに置いたまま。青く染まった僕らは、熱心にうどんをすする。

 

 

 

 結果だけを言えば、チンピラみたいな格好をする羽目になった。僕ら二人の、素敵なはずのデートは。

 

 街で古着屋を巡るというのが今日のデートの――何度でも言おう、デートの――主旨だ。

「和柄の服とか探したいんだよな」

 電車に揺られながら彼はそう言っていた。

 

 おしゃれになった彼の姿を――僕自身、服には詳しくないので何となくのイメージだが――想像しつつ、僕は何度もうなずく。電車の揺れに合わせて。

 そしてあわよくば、お揃いのものを買おうと思っていた。

 

 

 街に着いた僕らは――笑わないで欲しい。無人駅から電車に乗った僕らは、駅員のいる駅、自動改札機を備えた駅、両手の指では数え切れない乗客の出入りがある駅に下り立っただけで、テンションが上がっていたのだ――、変なテンションだった。だからしょうがない、本当にしょうがないのだが。

 古着屋に駆けていった僕らは、そのテンションのままTシャツをあさり、ズボンの群れをかき分け、ワゴンに山積みされた服を吟味し、その調子で何軒も巡り。

 そしてウキウキで、公衆トイレで戦利品に着替え。洗面所の大鏡を見て、二人とも我に返った。

 

 彼のアロハシャツの背には、身をはみ出させるような勢いで金色の龍が躍り。濃紺のズボンには、片脚の太ももから尻を占領するようにでかでかと錦鯉が泳ぐ。Tシャツの胸には浮世絵の筆致で、妖怪絵らしい髑髏(どくろ)がおどろおどろしく描かれていた。

 

 一方僕のシャツには、全体を青く染め上げるように高波が飛沫(しぶき)を上げ。黒いズボンには妖しく彼岸花が咲き誇る。中に着たTシャツの胸には、日に照らされた富士山が赤くそびえ立っていた。

 

 鏡を前に二人、長く黙り込んでいたが。

「……何で買ったんだオレ」

 鏡を見たまま彼がつぶやき、僕もまた鏡を見たまま言う。

「……二時間前の君に聞けよ」

 

 彼は僕の肩をつかみ、何度も揺さぶってくる。

「何で止めなかったンだよてめェ!」

 

「知るかよ、二時間前に聞いとけよ!」

 実際二時間も前は、僕のテンションもおかしかったのだ。

 

「はあ……」

 彼はため息をつき、もう一度鏡を見る。

 鏡の中のチンピラ二人――しかも相当に頭の悪い奴――は、中途半端に口を開けて僕らを見ていた。

 

 彼は髪をかき回しながら、洗面台にバッグとビニール袋を載せる。

「しまったなァ……この分じゃ他のもやべェかもな……」

 袋の中から、他に買った服も取り出した。

 

 全面に桜吹雪が散っているアロハはいくらなんでも派手過ぎる。

 太ももに大きく般若(はんにゃ)が居座っているハーフパンツは怖過ぎる。

 胸から腹にかけて『四天王』と墨書されたTシャツにいたってはわけが分からない。

 ただ、黒地で背中に大きくスペースを空け、隅に闘鶏を描いたTシャツ。これなんかは水墨画のような空間の取り方で面白いとも思えたし、蒔絵(まきえ)風に紅葉を描いたアロハは、柄こそ仰々しいが暗めの深い赤――彼の好きな臙脂(えんじ)色――で、全体としては落ち着いて見えた。

 

 またため息をつき、彼は服を戻していく。

「マシなのもあるが全体にアレだな……やっちまったな……」

 

「それはまあそうだけど……そういやなんで急に、和柄集めようとか思ったの」

 

 荒く波打つ髪をかきながら彼は言う。

「さすがにほれ、(はかま)を普段着にとかは無理でもよ。和のテイストを日常に取り入れたいッつーか」

 

 その計画は早くも頓挫(とんざ)したようだ。

 

 ため息をついて彼は言う。

「あーあ、あと和を取り入れるッたら何だよ……浴衣(ゆかた)ではもう寝てるしな」

「そうなの!?」

 僕の声は少し大きかったが、彼はこともなげにうなずいた。

「ああ、中学の頃からそうだぜ。安もんだけどよ、帯も『片挟み』にちゃんと結んでる」

 

 夏祭りのときなんかは確かに、浴衣でうろついていた気もする――彼を好きになる前、ただの(おさな)なじみだった頃。僕の中身がこうだと、僕自身気づいていなかったときのこと――。

 その姿を思い出し、あるいは想像して、僕は大きくうなずいていた。

「……いい。いいよそれ、凄くいい……めっちゃセクシーじゃん!」

 変な語彙(ごい)が思わず飛び出し、僕の顔は引きつりかけたが。

 

「セクシー……なるほど、なんかランク高ェ誉め言葉来たなオイ! ダンディなオトナの夜を演出しちまったワケか! ヒューッ!」

 最後のは口笛ではなく言葉として言って。彼は満足げに、鏡を見ながら髪をなでつけ始めた。

 

 だが、不意にその手を止めてこちらへ向き直る。

「悪かったな、今日。変な買い物になっちまって」

 

 急に何かと思っている間に、彼は僕の手を取った。

「お詫びに……もらってくれねェか」

 その手に載せてきたのは、袋から出したTシャツ。背中一面を覆うように大きく、ひょっとこの面が描かれたものだった。

 

「……いらねえ!」

 言うと同時、彼の顔にぶん投げる。

 純粋にいらねえ。

 

 彼は笑ってそれをつかみ、袋の中からさらに別の服も取り出す。

「いいじゃねェかオレの気持ちだって! あ、ほら昼飯ンとき大根くれたろ、あの礼で」

 四天王Tシャツもつけて差し出してくる。

 

「やめろ、ハズレばっか押しつけてくんなよ!」

「いいだろほら、お前誕生日近かったろ、オレの気持ちだって」

「お前のはどうでもいいから僕の気持ちを考えろよ!」

 

 僕が投げ返した服を受け止めた彼は、袋から般若のハーフパンツを取り出してきた。

 不意に真顔になり、姿勢を正す。

 左手で支えたハーフパンツを、右手でそっ、と掲げ持った。宝石箱を開くみたいな格好で。

「……給料、三ヶ月分なんだ」

 

 僕は一瞬黙って、それからようやく突っ込んだ。

「……婚約指輪かよ! それで成立したら嫌だろ逆に!」

 

 彼は表情を崩さない。

「結婚しよう」

 

 僕はどうにか、どうにか言葉を胸から絞り出した。

「……はい……、ってなるかバカ!!」

 

 彼は無言でひざを折り、身をかがめて。

 僕の左手を取り、薬指を、そっ、と握った。そこに通そうとしてくる。ハーフパンツの、般若つきの裾を。

「幸せにしてみせる……必ずだ」

 

 ずいぶんためらった後、僕はやっと。彼の手からハーフパンツをもぎ取り、顔面へ叩きつけた。

「聞けやボケぇぇっ!!」

 

 彼は満足げに笑い、うなずく。

「君の作ったみそ汁を毎日飲みたい」

 

「まだ言うか……」

 僕が息を切らしながらつぶやくと、彼は自分を親指で指した。

「オレと、一緒の墓に入ってくれないか」

「それもう脅し文句だよ」

 僕を指差して片目をつむってみせる。

「ウチの墓は入ると涼しいぜ?」

「入ったことあんのかよ」

 

 言いながらも僕はずっと握っていた。左手を、その薬指を。

 

 

 今日は最高のデートだった。この論理に穴があることは百も承知だが、それでもこう言おう。

 今日は最高の日曜だった。最高のデートだった、本当だ。

 

 

 あと、彼は勢いでタグを全部切っていたため、返品はできなかった。

 僕のは返品した。

 

 



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第6話  何をやってる

 

 何をやってるんだ、と人には言われるかも知れないが。彼と僕はたまに、真剣勝負をする。

 

 というと、いつもは真面目に練習していないと思われそうだが。もちろんそんなわけはない。

 真剣勝負は『真剣にやる』勝負ではない。『真剣でやる』勝負だ――すなわち、刀で。

 

 無論、本当に刀で斬り合うわけはない、竹刀を使うし防具もつける。

 だが、剣道の試合ではなく、刀を使った命がけの戦い――そういう想定で行なう、彼と僕だけの勝負。

 

 真剣勝負である以上、剣道の三本勝負とは違う。常に一本勝負。

 他のルールとしては剣道に準ずるものの、それはあくまで剣道に慣れた僕へのハンデだ。彼が剣道にない、剣術としての技を使ったとしてもとがめる気はない。逆に僕がもしも、砂なんかを握りこんでおいて目潰しに浴びせたとしても。彼は文句を言わないだろう。

 

 だが、今までお互いに、剣道以外の技を使ったことはない。

 ――いや、一回だけあるか。珍しく勝負がもつれ――いつもは長くにらみ合うことはあっても、最終的に彼がきれいな一撃を決めて勝つばかりだった――、(つば)ぜり合いになったとき。

 僕は思わず、頭突きを飛ばした。

 ほとんど同時、彼は足払いをかけていた。

 

 叩きつけようとしていた僕の面金(めんがね)――防具である面の、顔面を覆う網状の金属――は、彼の面金にこすれただけだった。

 一瞬早く、彼の足が僕の足をすくい、跳ね上げ。きれいに――柔道ならそれだけで一本を取られるほどに――倒されていた。床板に背中を打って、内臓に衝撃が波打ち、僕は息を詰まらせる。

 その間に。天から降るような彼の剣に、胴を打たれる。

 

 剣道が剣術だったころ、江戸時代なんかは柔術――柔道の原型となる武術――や居合、小太刀や十手術など、様々な技を併伝(へいでん)していることは珍しくなかった。

 戦前の剣道でも、足払いで倒した後に一撃や、投げ倒した後に面を引っぺがす、そんな攻撃でも一本とされた。

 勝負の後、彼はそんなことを語った、早口で、視線を合わせずに、言い訳するみたいに。けれど熱のこもった口調で、夢中になったみたいに。

 要するに、嬉しそうに。

 

 それは僕も同じで、倒れて天井を見上げたまま、何度も瞬きをし、口を開けたまま。

 湧き上がるように高い、鼓動の音を聞いていた。

 彼を一瞬とはいえ、剣道以外の技に追い込んだことに。その瞬間だけとはいえ、彼とつながっていたことに。手段を選ばす殺すという、その一事で――。

 

 

 

 だが、今。

 真剣勝負で、彼は一撃も繰り出さなかった。

 

 僕が面を打とうと竹刀を振り上げる前に――振り下ろす前ではない、振り下ろすために振り上げる前だ――、彼の竹刀が、僕の小手を押さえていた。何の衝撃もなく、ひたり、と。ただしそれ以上僕が動けば、斬る――そんな圧を持って。

 

 同じだった、間合いを取って構え直した後も。彼の竹刀を打ち払おうとした僕の竹刀はすかされ、伸びくる切先が僕の喉を――面のあごから下がる防具部分を――、ひたり、と押さえる。

 苦し(まぎ)れに出そうとした小手面の連続技、その小手を出すより早く、彼の竹刀が僕の面を押さえる。またも、ひたり、と。

 

 そうして、幾度も幾度も、そうして、そうされて。

 僕は無言のまま、面の中で息を切らしたまま。動かなかった。動けなかった。

 体力は消耗していたが、まだ動ける、まだまだ戦える。なのに、動けなかった。肩に腕に、全身にのしかかる重さを感じて。

 

 読まれている、彼に。全ての動きが、攻撃が。だからこそ彼はその出がかりを――その気になればいつでも斬って捨てられたそれを――押さえられた。

 僕と彼には、それだけの差がある。

 

 構えたままの僕に、構えたままの彼が言った。

「何やってる。(しま)いか」

 

 そうして背を向け、距離を取る。向こうを向いたまま座り込み、竹刀を置いて防具を外した。

 

 僕を見ることもなく声を上げた。自らの背を親指で示して。

「何やってる。……もめよ、肩」

 

 この真剣勝負は今まで何度もやった、彼の思いつきで。そして、負けた者は勝った者の言うことを何でも一つ聞く。そういうことになっている。

 

 今までこの勝負で、彼に勝ったことはない。今まで彼が勝って言い出したことは、アイスの高いやつおごれとか、抹茶パフェの小っちゃいやつおごれとかで。決して、何かをしろと命じたことはない。

 

 きっといつもの僕なら――いや、このところの浮かれた僕なら――、喜んで肩をもんだだろう。彼の体温を、筋肉の堅さを、太い骨の頼もしさを味わいもしただろう。

 

 けれど、今の僕は。

 無言で床板に足を叩きつけ、きびすを返した。部室へ走り、外した防具を棚へぶち込む。

 荷物を抱え、竹刀袋をかついで道場を走り出た。靴をつっかけて、道着のまま着替えもせずに。

 

 

 

 そうして今。

 僕は木刀を振るっていた。例の神社、すっかり日の落ちた闇の中で、社の(のき)から下がる電灯の、薄明かりの下で。

 真剣ほどの重さのある木刀を、ゆるゆるとではなく。力の限り速く、速く。腕をちぎり落とすような力を込めて。斬るように、打ちすえるように――自分自身を。

 

 歯を噛み締める。

 何をやっている、何をやっていたんだ僕は。何を――浮かれていた。

 

 振るいながら思う。

 何が婚約指輪だ、何がデートだ。そんなものただの冗談だ、僕だって分かっている。

 

 なのに、浮かれていた。

 

 何度も何度も素振りをし、そして地を蹴って跳び、踏み込む音を立てて振るう。何度も、何度も。

 

 やがて袴の足がもつれ、前のめりに倒れて。

地に伏せたまま、息が切れてかすれた呼吸の音を聞きながら思う。

 何が。何が袴だ、何がスカートみたい、だ。それはたとえスカートみたいでも、決してスカートなんかじゃない。

 

 歯を噛み締め、震えながら感じた。両脚をさえぎる布の存在と、両脚の間、これもまたさえぎるように。股ぐらにぶら下がるものの存在を。

 

 遠い。あまりにも距離が。

 僕と彼との、剣士としての距離が。

 それとは全く別に、僕の脚と脚との距離も――布地にさえぎられたその距離が。袴とスカートの距離が。

 

 どちらの僕も、彼からはあまりに遠い。

 

 



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第7話  魔女

 

 何言ってるか分からないだろうけど。と、前置きして僕は言った、その()に。

「大好きな人がさ、倒すべき敵で……しかも凄い強くて。その人を斬らなくちゃいけなくて、でもかなわなくて……っていうとき、どうしたらいい?」

 

 本当に何を言っているのかと、自分を問いただしたくなる言葉だったが。

 その()はむしろ身を乗り出した。銀色に染めた毛の混じる、ツインテールの髪を揺らして。

 

「ほほう! ()いなそれ、すごくいい! よだれが出そうにロマンチックではないか!」

 

 制服を着た自らの体を――ただしそのブレザーはひどく改造されている。袖口と襟にレースをあしらい、裾にチェックの縁取りをして、ボタンは全てドクロ型。だいぶ間違った、手作り感あるゴシックロリータかゴシックパンク――自分で抱きしめるようにつかんで続けた。

「倒すべき宿敵で! 叶わぬ悲恋! それは正にあれだ、あの……モーツァルトじゃなくて……ラフカディオ・ハーンは違う……あのほら、あなたはどうしてロミオなの、の――」

 

「シェイクスピア?」

 僕が言うと、彼女は、びし、と指差してくる。

「そうそれ! 『ロミオとジュリエット』! くうぅ~、まさにそれではないか一人ロミジュリではないか! いいなそれ!」

 

 別に一人でやっているわけではないが。

 

 

 この友人を、僕は魔女と呼んでいる。面と向かってではなく内心で、だが。

 今は魔女の部屋に遊びに来ている。二階建て建て売り住宅、四畳半の一室。

 ふすまには魔方陣を描いたポスターが貼られ、風流にも皮のついた桜の枝を(はり)に巡らせた天井からは、極彩色の小さな骨格模型がぶら下げられている。畳の上にはチェシャ猫やトランプ兵、『不思議の国のアリス』をモチーフとしたぬいぐるみ。

 さながらハロウィンの最中みたいな和室だった。

 

 特に期待はせず、しかし重ねて聞いてみる。

「で、どうしたらいい?」

 

 ふ、と笑って彼女は言う。

「決まっておろうが」

 拳を握り、剣を振るう真似をする。

「修行して! 強くなって! ガッ! と斬って! バッ! と抱いて! ブッチュウウウ! ――これしかないであろうが!」

 後半は相手を抱きかかえ、口づけするそぶりをしながら言った。

 

「君は……豪っ快だなぁ……」

 言った後、僕は口を開けたまま――わずかに頬を引きつらせていたが。笑った。息をついて、肩を揺すって。

 

 彼女はバカだ。本当にバカだ。何のとりえもありはしない――いや、料理はすごく上手い。特に美味しかったのは炊き込みご飯、それによく煮込んだおでん、筑前煮――。

 だがやっぱりただのバカで。『人魚姫』の魔女のように、体を変える薬もくれはしない。

 

 ふ、とまた彼女は笑う。

「愚かだな、そなたは。宿敵は叩き斬る、恋は成就される。それで全ては在るべきように」

「その恋は成就されたことになるのかな……」

 

 眉根を寄せて魔女は言う。

「そんなもの頑張れば良いであろうが! 峰打ちでも急所を外すでもすれば良かろうが! よいか、トロッコ問題の正解はな――」

 

 有名な倫理問題。暴走するトロッコの先、レール上に五人がいる。そのままいけば死ぬ五人が。

 だが、ポイントを切り替えればトロッコは別のレールに向かう、一人が線路上にいる方へ。

 果たしてポイントを切り替えるべきか否か、というあれ。

 

「――あれの正解はな。『ポイントを半端な位置、半端なタイミングで切り替えて』『トロッコ脱線、全員無事』……これよ」

 

「それは……いいの? 有りなのそれ?」

 

 魔女は肩をすくめてみせる。

「当たり前よ、欲張らんでどうする。よしんば無理だったとしても、ぞ。最善を希求する、それを怠ってどうするのだ」

 

 彼女は、魔女は。

 僕の親友で、僕にない言葉をくれる人だ。魔法のように。

 それに多分、頭がいい。

 

 魔女はスマートフォンを取り出して言う。

「で、その話。なんていうマンガなのだ? アプリで読めるやつか?」

 

 



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第8話  袴と浴衣の距離は

 

 その日も部活の後、僕は例の神社にいた。道着姿で。とはいえ、この前みたいに飛び出してきたわけじゃない、単に気分を出すためだ。

 

 境内に茂る木の葉を透かして、薄紅い夕日が差す中――今日は道場での居残り練習はせず、すぐにこちらへ来た――、太い木刀をゆるゆると振るう。真剣の重さを持つそれを、ゆっくりと。体を貫く軸と、重心の位置を確かめながら。

 

 魔女の話を真に受けたわけじゃない。全部うまくいくわけなんてない。それでも。

 

 勝ちたい、彼に。それは袴を履いた僕も、スカートを履きたい僕も変わりないはずだ。

 ずっとそう思ってきたのだから。そうやって竹刀を振ってきたのだから。袴とスカートを区別する、そのずっと前から。

 

 だいたい、彼への気持ちをどうにかする(すべ)など――彼の気持ちをどうにかする(すべ)はもっと――分からない。分かるわけがない。

 けれど、彼への勝ち方は分かる。たとえ遠くとも、少なくともそれは、練習の先にある。考え抜いて鍛え抜いた、その先に。

 なら、やるまでだ。それが両方の僕の、一致した意見。

 

 息を吐き、ゆっくりと振り切った木刀をまた掲げた。

 そのとき。

 

「お、こんなとこでやってんのか」

 彼が来ていた。ビニール袋を提げ、草履(ぞうり)型のサンダルを土に擦る、軽い音を立てて。お祭りでもないのに、紺色の浴衣を着て。

 

 僕が目を瞬かせていると、彼は言った。

「しかしお前、ちゃんとそれやってンだな……昔教えたやつ」

 笑う。嬉しそうに。

「すげェな」

 

 僕も笑って――満面の笑顔で――木刀を持ったまま彼の方へ駆け寄る。

「当たり前だよ! やってるよちゃんと、基本だよ基本!」

 

 湧き出る笑みも弾んでしまう声も、両方の僕の一致した行動で。袴を履いた方の僕は内心、苦笑いを浮かべる。

「それにしても……本当に浴衣着てるんだね。普段から」

 

 彼は浴衣の襟をつまんで、ひらひらと振ってみせる。

「普段っつーか、寝るときはほとんどこれだな。冬は寒ィから違うけど」

 今日は早めに風呂入ったからなー、と言う彼を、僕はじっくりと眺めてみた。

 

 その浴衣は、日が沈んだばかりの夜空みたいな紺色。そこに、かすれたような白い線がいくつも縦に走っている。

 腰には灰色の、幅の広い帯がきちっと巻かれていた。旅館の浴衣についているような細い紐ではない、しっかりしたものだ。彼が前に言ったとおり、結び方もちゃんと知っているのだろう。

 

 何というか、道着姿の彼は何度も見ている――今日だって見た――のだけど。浴衣姿の彼には、また違った感動があった。

 何といっても姿勢がいい。地から天へと貫くように、正中線が――体の芯、軸となる一本の筋が――真っ直ぐに通っている。歩いていたときも、立ち止まっても。もちろん道着のときもそうなのだけれど、見慣れぬ浴衣姿では、それが特に(あらわ)になる。

 その姿勢で、浴衣を着崩すことなく、ぴしりと身につけた彼の姿は。真剣(かたな)のような端正さがあった。

 あるいはこれが。(いき)、というものだろうか。

 

 

 僕は視線を伏せ、つぶやくように言う。

「……似合うね」

 

 彼はうなずく。唇の端を緩ませて。

「だろ」

 

「ところで、何でここに? まさかそれ、また――」

 僕は言って、彼の提げたビニール袋に手を伸ばす。

 彼は何も言わず袋を体の後ろに隠し、跳び退く。

 

 彼には酒を呑む悪癖がある。父親が買い置きしてある日本酒の一升パックから、少し抜き取って呑むのだそうだ――取り過ぎたら水をちょっと足してごまかす、という極悪ぶりなのだ、こいつは――。

 

 視線をそらす彼の正面に回り込む。

「返しときなよ、それ」

 

 彼は歯を見せて決まり悪げに笑う。

「いや、聞けって。ことわざにも言うだろ、酒は天からの美禄(びろく)御神酒(おみき)あがらぬ神は無し、酒は憂いの玉箒(たまははき)って――」

「知らねえよだから何なんだよ。いいから返してきなよ」

 

 彼はまた顔をそむける。

 僕はまた回り込み、顔を近づけて言う。

「いいね? 絶対だよ? 適当言って後で呑むなよ? 約束しろ」

 

 彼は視線を伏せながら、つぶやくように言う。小さく舌打ちを響かせて。

「……分かったよ。しゃあねェな、約束するよ」

 

 彼という奴はどんなことであれ、約束を(たが)える男ではない。その義理堅さは彼のいくつかある――僕だけが知っている――美点の一つだ。

 

 僕はうなずき、笑う。

 けれど顔をしかめてみせ、もう一つ言っておく。

「今度やったら駐在さんに言うからね。いい?」

 駐在所の警察官は剣道経験が長いそうで、時々僕らの部へ指導に来てくれる。僕ら二人とはよく知った仲だ。

 

 彼はきびすを返し、足音も高く駆け出した。

「うっせェ知るかバカ! 知らねェからなバーカ!」

 

 僕は手を腰に当て、肩を落として息をつく。

 

 彼という奴は、義理堅い男だ。守れない約束は最初からしない、そういう程度には。

 



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第9話  買っちゃった

 

 せーの、で僕らは一緒に出てきた。

 僕は魔女の部屋の押入れから。魔女は廊下から、彼女の四畳半へ。

 

 魔女は微笑み、小さく何度も拍手した。女の子らしい、白く小さな手。

「おぉ~、良い、良いではないか! 似合うな!」

 

 買ってきた服をそれぞれお披露目(ひろめ)。二人だけのファッションショー。

 いや、ショーというにはあまりに地味だ、僕の方は。

 

 僕が着ているのは浴衣だ、男ものの地味な。紺色に薄(あい)色の線が縦に入った柄。

 要は彼とお揃いを着たかったのだけれど。同じものが見つからず、妥協したのだ。

 

 それはともかく、僕も彼女に笑顔を向ける。

「君こそ似合うよ」

 ふわりと膨らんだシルエットのロングスカートは、黒地に白く有刺鉄線の柄が映える。肩の辺りが丸く膨らんだ、スカートと同じ印象を与えるシルエットの黒い上着。その腹と背には血に濡れたギロチンが陣取っていた――そういう柄だ――。

髪には南瓜(かぼちゃ)薔薇(ばら)と、小さな棺桶をあしらった大振りなカチューシャ。攻めた感じのゴシックロリータ。

 

 僕は大きくうなずいた。

「すごく、君らしい」

 

「で、あるか」

 彼女は満足げに小さく笑う。それから、歯を見せてもっと笑った。

 

 魔女は両手でそっとスカートの裾を持ち上げ、片脚を引いて貴族的に礼をする。それから、その場でくるりと回った。その動きにつれて、羽根の軽さで浮かぶスカート。

 

 無理に回転を続けた彼女は――楽しくなってきたらしい――、そのうち目を回したか、バランスを崩し。脚をもつれさせ、倒れ込んできた。

 

 僕はとっさに手を伸ばし、彼女の背と腰を支える。

「ちょっと、大丈夫?」

 

 魔女は目を瞬かせていたが、やがて僕につかまりつつ、自力で立つ。

「すまぬ……助かったわ。やー、ご苦労ご苦労」

 それから不意に顔を上げ、手を一つ叩いた。

「これはそうか、あれか! 男子に初めて抱かれちゃった日か今日! 赤飯炊こう赤飯!」

 

 色々間違っているが、その色々を指摘するほど僕は親切ではない。

 

 彼女は腕組みをし、しみじみとうなずいた。

「やー、とうとう我も中古かぁ……年貢の納め時というやつだな」

 

 何をどこへ納めるんだお前は。

 そう考えつつ、ふと思った。

 

 僕が普通の――という言い方は変かもしれないが、他に呼び方が分からない――、男子だったら。こんなことでも、恋に落ちてしまうのかもしれない。落ちないかもしれないけど。

 

 それもいいな、と思う。

 女の子に恋をするなら、彼女みたいな子がいい。

 彼女は素直だ、他人ではなく自分に対して。猫みたいに。いつも自分に正直で、見たいものだけを見て。それで、他人に嘘をつくこともない。全てに対して正直だ。

 

 いつか僕だって、女の子に恋する日も来るかもしれない。ずっと昔、幼稚園の頃なんかは、女の子が好きだったこともあった――同じ組の目のきれいな子、いや、先生の方が先だったか、あれは恋でよかったのかな――。

 そんなときは、彼女のような子を好きになれたらと思う。

 

 そうだ、彼がもしも、誰か女の子とつき合うなら。やっぱり彼女みたいな子がいい。

 それならそう、僕も認める。祝福させてもらう、全力で。

 心の底で許すかは別として、だ。

 

 そこまで考えて、ふと気づく。

 もしかして、だが。僕は、彼女のようになりたいのだろうか――いや、あるいは。彼女になりたいのだろうか。

 小さな手、白い肌、小さな顔とくるくるとよく動く目。笑おうが唇を尖らせようが、それぞれに華やぎのある表情。

 問答無用の可愛らしさだ――服のセンスを抜きにすれば――、そこに在るだけで価値のある美しさだ。花のように、在るだけで。

 

 僕は自分の手に目を落とす。来る日も来る日も竹刀を振るい、ハンドグリップを握り、ダンベルを持ち上げてきた手を。節くれ立った指、肉の、筋の、盛り上がった腕を。固い竹刀だこのできた掌を。彼女とあまりにも違うその手を。

 それはたとえ鍛えていなかったとしても、骨の太さ、骨格からして違う。男の手だ。

 

 

 そんな考えを知るよしもなく、彼女は無邪気に口を開く。

「しかし、それはそれで良いのだが。他に可愛い柄はなかったのか、浴衣。もっと華やかなものの方が良かったのではないか」

 

 僕は全身の動きを止めたが。

 

 彼女は構わず言う。花のように微笑んで。

「そうしたものの方が似合ったと思うぞ、華やいで。そなたはきれいだからな」

 

 僕は未だ、固まったままでいたが。

やがて鼻から息をつき、全身の力を緩める。

 

 彼女は花じゃない。彼女の本当の価値は、美しさじゃない。

 彼女は嘘をつかない。自分に対して。それと同じく、全てに対して。

 彼女が似合うと言うのなら、きれいだと言うのなら。間違いなく、そうなのだろう――彼女自身の服装のセンスは、考えないことにしよう――。

 

 

 僕は息をこぼして笑う。

「ありがとう。でも、これが安くてさ――」

 本当は彼のものに近い柄が欲しかったからだ。それに――

「――他に、買いたいものもあるし」

 

 改めて彼女に向き直り、聞いてみる。

「何かこう、和のテイストを取り入れられるものってないかな。和柄の服とか……そういうの好きな人がいてさ。そのうちプレゼントできたらな、って」

 

 魔女は両手を握り合わせ、嬉しそうに目を見開く。

「何と、楽しそうな話だな! そういうことならいくつか見た覚えが――」

 

 本棚から引っ張り出してきたのは彼女御用達(ごようたし)、ゴシック系のファッション誌で。気持ちは嬉しいが――髑髏のついたかんざしだとか、全面に蜘蛛の巣柄をあしらった羽織風コートだとか、そういうのはあったが――、彼の好みに合いそうなものは見当たらない。

 

「ちょっと違ったか……いや、何かなかったか、和の――」

 腕組みしていた彼女は、不意に一つ手を叩いた。

「そうだ、良いものがあったぞ! 我が祖母の部屋に――」

 

 気持ちは嬉しいが、やっぱり当てになりそうにもない。

 

 彼女が一人走り出た後、誰もいない部屋で。

 浴衣の裾を横にずらして広げ、わざと着崩した後で。

 僕はくるり、と回ってみる。そのまま素早く、裾が浮き上がるまで。スカートのように浮き上がるまで。

 

 目を回す前に止まった後。裾を――僕の手、武骨な両手で――持ち上げ、脚を引いて。小さく、礼をしてみる。

 

 不意に廊下のずっと向こうから、(ふすま)ごしに間延びした声が響いた。

「そういえば新しいハーブティー買ったんだ、飲むかー? たぶんマズいぞ」

 

 何で買ったんだ、お前。

 

 



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第10話  夏祭り、その日

 

 まるで女の子になったみたいだ。一緒に並んで歩きながらそう思った。

 

 赤く暮れなずむ西の方を残して、空はもう澄んだ深い青。(あい)色の淡さを通り越した紺色の深さ。彼の浴衣と同じ色。今、隣を歩く彼の着ている。

 

 肌にまとわりつく、湿度を含んで吹く風。どこかの軒先から聞こえる風鈴の音。

 辺りを歩く人たちの中には、僕らみたいに浴衣を着た姿もぽつぽつと見えた。

 金魚の入ったビニール袋を提げて歩く子供。隣を歩く母親の手には綿あめの袋。横では父親が、クリアカップに入ったビールを口にしながら、しきりにうちわで(あお)いでいた。

 

 次第に増えてくる人波の中。道路に響く、僕ら二人の下駄の軽い音。

 やがて見えてきた、道路の両端に立ち並ぶ屋台の端。その先にはずらりと様々な出店が並び、それら全ての軒先には薄(だいだい)色の電球が揺れる。

かき氷機の低く唸る作動音、削られていく氷の立てる、かすれるような音。

 鉄板の上でかき混ぜられる焼きそばから立ち上る湯気、ソースの焦げた香り。

 

 

 夏祭り。その場に彼と二人でいた。

 もっとも、公民館の広場で部活の仲間と合流する約束になっている。二人きりでいられるのはそれまでの間だけ。ほんの少しの距離だけ。

 

 それでも僕らは並んで歩いた。二人とも浴衣で、

 

 人波をかわして歩きながら、僕は言ってみる。どうしたって笑顔になる。

「お揃いだね」

 

 扇子――両側の骨が鉄で造られた黒塗りの鉄扇(てっせん)、彼の愛用の品だ――で(あお)ぎながら彼が言う。

「あ? いやお揃いじゃあねェだろ」

 

 確かに柄は違うのだが。

 負けずに、笑顔のまま僕は言う。

「お揃いだって、浴衣だよ浴衣。他にいないじゃん」

 辺りを見る限り、浴衣姿の女の子や甚平(じんべい)を着た男子なんかはいるのだが。浴衣を着た男となると僕らだけだ。

 

 そーだな、と特に感慨もなさげに言って彼は歩く。

 その歩調に引き離されそうになって、僕は歩くペースを速めた。

 それで気づいた。どうして女の子みたいな気がしたのか。

 

 僕も下駄を履いてはいるが、スーパーの衣料品コーナーで買った浴衣のセットについていた安物。下駄というよりは木製のサンダルといった方が近い、歯のついていない薄っぺらいもの。

 一方彼は、ちゃんとした二本歯のついた、(きり)の高下駄を履いている。

 

 だから身長差が出る。僕らの身長はほぼ同じだけれど、今は下駄の歯の分、十センチ近く。まるで男子と女子のように。

 

「待ってよ、速いって」

 小走りに彼の横へ並ぶ。肩の高さが全然違う。

 そういえば、何かで聞いたことがある。キスしやすい身長差というのがあると。何センチだったかは忘れたが。

 

 帰ったら検索しよう、そう考える間に彼はまた先へ歩く。下駄で歩き慣れているのだろう、快い足音を立てて軽やかに。歩調を緩める気配も見せず。

 薄情な奴だ。

 

 

 また足を速めて、僕が隣に並んだとき。彼がつぶやいた。

「しまったな……下駄で来るンじゃなかった」

 

 ようやく歩調の差に気づいてくれたのか。

 そう思って目を見開き、顔を向けたが。

 

 彼は前を見たまま、顔をしかめて言った。

「この人波、まともに動けるスペースも少ねェ……もし不意に攻撃されたら、下駄じゃあまともに身をかわせねェ」

 歯噛みして、荒く波打つ髪をかきむしった。

「しまったな……脱ぎ捨てるにしてもその一手間が致命的だ、やってる間に斬られちまう」

 

 僕の肩が、がくりと落ちる。

「お前は何と戦ってるんだ」

 

 彼の剣は剣道ではなく剣術、居合。スポーツではなく武術、すなわち護身術であり殺人術。

 それだけに、日頃から想定しているのだという。もしも目の前の人物が、殴りかかってきたらどうさばくか。通りすがりの人間が襲いかかってきたらどうかわし、反撃の機をつかむか。後ろを歩く人が斬りかかってきたらどう逃げるか。ことあるごとに考えているという。

 暇なのかお前は。

 

 気持ちを切り替え、僕は笑いかけてみる。

「まあそーだね、ちゃんと動けないと。何かあったときに僕を守れないもんね」

「いや、お前は自分で頑張れよ」

 

 真顔でそう返され、僕の表情は固まりかけたが。

 

 彼は表情を変えず、こう続けた。

「――強ェんだからよ」

 

 歩きながら、僕の表情は固まったまま、そのままで。鼓動が高鳴り、体温が上がっていく。頬に、額に熱が満ちる。

 

 強いって、僕が。彼が、そう言った。

 

 彼は僕の方も見ず、武術談議を一人で続ける。

「まーそうだな、どうにかかわせたとして武器(えもの)が欲しいとこだな。お前はそら、そこのアイス屋ののぼりを引っこ抜きゃいい。竹刀にしてはちょっと長ェが。オレはそうだな、かき氷屋のシロップのボトル、あれ取って投げつけるか。で、その隙に下駄脱いで、手にはめて殴る。だが、もし相手が刃物持ってたら――」

 

 彼の話は続いていたが、僕の耳には入らなかった。

 横を歩き続けながら、何度も彼の言った言葉が耳に、頭に響く。

 強いって、僕が強いって――そう言った言葉が。

 

 熱い風が僕の髪を、頬をなぶる。けれど僕の体温は、それよりも熱かった。

 

 熱に浮かされたような頭のまま、前を見やる。夕日の赤味が残る空、その下、信号のある交差点。この横断歩道を渡れば公民館まですぐ、二人きりの時間はそれでおしまい。まるでシンデレラだ、下駄を履いたシンデレラ、面白くもない――

 

「おいッ!」

 突然、彼の声が聞こえた。同時、手を握られる。握り潰すように強く。

 抱き締められていた。片腕で、彼の体に押しつけるように。歩いていた僕を無理やり引き止めるように。

 

「何やってンだ! どこ見てるお前!」

 叱るような彼の声に、目を瞬かせて彼を見、辺りを見る。

 赤信号。目の前の横断歩道、歩行者信号はまだ赤で、まさに今、車が通り過ぎていった。

 

「……ごめん」

 僕が視線を落として言うと、彼は腕を離した。力強く、僕を抱き止めていた腕を。

 足下に転がった鉄扇を拾う。アスファルトに打ち当たったそれには真新しい傷がついていたが、何も言わず彼はまた(あお)ぐ。

 

 信号が青になった。彼の後をついて歩く。

 

 彼の背中に向けてつぶやいた。

「ごめん。……ありがとう」

 

「……いいけどよ」

 懐に手をやり、腹をかきながら彼は言う。

「しっかし、こう暑いと呑みたくなるな。冷やした日本酒(さけ)をキュッと」

 

 さすがに僕は言う。

「買うなよ。……君が問題を起こしたら部全体が――」

「分かってるッて。帰ってから呑む」

「しばくぞ」

 

 

 公民館の広場、部の仲間たちを見つけ、そちらへ歩きながら思う。

 どこかにメモしておこう、今日は特別な日。

 

 

 彼に、強いと誉められた日。彼に命を助けられた日。

彼に、強引に抱かれた日。

 ――そういうことに、しておこう。

 

 



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第11話  プレゼント

 

 その日は僕の誕生日だ。そう言ったら、彼が食事に誘ってくれた。

 

 ありがたくその申し出を受け、彼についてやってきた。うどん屋に。

 そして彼は誕生日プレゼントをくれた。かきあげと、エビ天。

 

 僕ら男子はクールな関係を重んじる。なので女子みたいにベタベタと、誕生日プレゼントを贈り合ったりはしない。せいぜいジュースおごってくれるとか、たまたまその日買ってた週刊漫画をくれるとか――贈り主が読み終わった後に――だ。

 

 ちゃんとしたものがあった方が嬉しいんですけど、僕は。

 

 いや、見方を変えよう。プレゼントの基本は消え物――お菓子とかバスボムとか、消費してなくなるもの――だと、雑誌で読んだことがある。

 彼はそれを押さえているのだ。さすがだ。

 そういうことにしておこう。

 

 

「まあまあだったな」

 

 僕が彼からのプレゼントを何度も噛み締め味わっていたとき。彼は不意にそう言った。

 僕が口を動かしたまま目を瞬かせていると、彼は続けた。

「今日の試合」

 

 今日は休日だったが、午前中に部活があった。他校へ出向いての合同練習と練習試合。

 最後に行なった団体戦、先鋒(せんぽう)――試合の順番、一番手――の僕がどうにか勝ちをもぎ取り、中堅――三番手、ここに強い選手を持ってくることはよくある戦略だ――の彼が当然のように勝った。他三人が負けたので、結果としては我が校の負けだが。

 

 まあまあというのが彼の相手に対する評か、僕の試合を言っているのか。それとも部全体のことか。分からないまま僕はかきあげを飲み込む。

 

 僕のことなら嬉しいが――それでも『まあまあ』だ――、そうでなかったらと思うと少し怖くて。僕は黙ったままでいた。

 

 その話はそこで終わったらしく、彼は水を飲んでから言う。

「しっかし、あれだ。まだ探してンだけど、全ッ然いいのがなくてよ」

「え?」

「ほら、前探しに行ったろ。和柄の服とかだよ」

 

 そんなことがあった。そういえばあのときもうどんを食べていた。

 あの日買った服はどうやら、まだ彼の家にあるようで。たまに着ているのを見かける。さすがに上下ともあれではなく、片方だけとか、和柄Tシャツを着て別の上着を羽織るとかだが。

 そういうときに限って僕を見つけて近寄ってくるのは、正直やめてほしい。

 

 通販で探したら、と話を向けたが、彼は首を横に振った。

 道着の跡が青く残る、腕をさすりながら言う。

「肌触りがなー、変だったら嫌だろ」

 

 そんなデリケートな奴だったっけ、お前。

 そう考えながらも、不意に思いついて。僕は密かにほくそ笑んだ――そうだ。あれがあった。あれを使わせてもらえば、きっと――。

 

 鼻息を長く吹いた後に言う。いかにも仕方なさそうに。

「しょうがないなあ……じゃあさ、何かいいのあったら、あげるよ。誕生日にでもさ」

 

 秋口にある彼の誕生日――全く似合わないことに乙女座だ――には、まだ日がある。

 そのときにはプレゼントできるはずだ。今日から準備し始めれば、きっと。

 

「いや、いいよ、悪ィし」

 

 そういう彼に向かって、僕は何度も首を横に振って見せる。満面の笑みを浮かべそうになるのを、どうにかこらえながら。

「いいから、気にしないでいいから。もしいいのがあったら、だよ」

 

「そうか? まあ、ありがと」

 彼は水を飲み干し、席を立った。

「じゃ、オレももう一つプレゼントやるよ。ジュースおごってやる」

 

 僕は彼からのエビ天を噛み締め、飲み込んで立ち上がった。

 

 



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第12話  匂い立つ

 

 全く間に合いはしなかった、彼の誕生日に。

 それでも僕は持ってきた、用意できたそれを。

 

 秋口はもう過ぎていた。コートはまだ必要ないが、冬の制服を着ていても時折震えがくる。襟の後ろを吹き過ぎてゆく乾いた風に。

 

 日はもう暮れていた。部活を終えての帰り道。

 並んで歩く僕らの上、空は墨を流したような黒一色。隔絶された宇宙の色。まるで彼と僕しかいないみたいな、静かな宇宙。時が全て止まってしまったかのように、静かな。

 

 そこに僕らの足音が響く。目印のように点々と続く、白い街灯の下を二人で歩く。数えるほどしか民家のない、田畑の中の田舎道。

 

 無言でいて、なぜだか二人とも無言でいて、靴音の他は道着を入れたスポーツバッグ、その金具がぎしぎしと鳴る音。それだけが大きく響く。

 それと、僕の中で。鼓動の音が密かに、けれどやたらと大きく響く。彼に聞こえないか心配なほどに。

 

 用意してきた、プレゼントを渡す。それだけだ、たったそれだけ。

 なのに、僕は逃げ出したかった。知らないふりをして、このまま何も渡さずに帰ってしまえば、どんなにいいかと思っていた。

 

 僕の内で、スカートを履きたい僕が小馬鹿にしたように笑う。

 その僕の態度に、僕はうなずく。

 ――そうだね、君の思うとおりだ。あり得ないよね、やめるなんて。

あれだけ頑張って用意したから。誰のためでもなく、僕のためでもなく、彼のために用意したから。

 

 僕の内で、袴を履いた僕が重くうなずく。

 その僕に、僕はうなずき返す。

 ――そうだね、君の思うとおりだ。あり得ないよね、逃げるなんて。

一度やると決めたこと。彼に勝つと決めたのと、同じ重さで決めたこと。

 

 スカートを履きたい僕と、袴を履いた僕と、何者でもない僕が同時にうなずく。

 僕らの意見は一致した。いや、最初から一致している。別物ではない、最初からそれは。

 

 僕は思う――あり得ない。今さらやめて逃げるなんて、何がどうなってもあり得ない。

 

 鼻から息を深く吸う。乾いた空気が体の芯を通り抜け、研ぎ澄ますように冷ましていく。口から大きく息を吐く。

 

 斬り殺そうと思った、自分の中の揺れるものを、怖れる気持ちを。

 そうして僕は想う、いつか見た彼の剣を。敵を斬り殺して終わる、ごく短い舞いを。

 その剣が僕の中で、僕を斬る。

 

 

 スポーツバッグのジッパーを開け、汗まみれの道着をかき分けて包みを取り出す。控え目な色の包装紙に簡素なリボンをかけた、両手に乗るぐらいの平たい包み。片手で持てる軽さのそれを。

 歩きながら彼に突き出した。

「おめでとうございました。誕生日」

 

「……過去形?」

 しばらく口を開けていた後、そうつぶやいて。彼はとにかく、包みを手に取ってくれた。

 

 僕は素早く手を引っ込め、バッグを閉める。

 

 そうするうちに彼は立ち止まっていた。

「何だよ急に……って、ああ。言ってたやつだな、誕生日に何かくれるって、和風のを」

 お前よく覚えてたなー。そう言いながら、彼は包みを打ち返し打ち返し眺める。

 

 僕が何も言えずにいると、彼は笑った。

「なんか、悪ィな。無理させたみてェで」

 

 僕は勢いよく、首を横に振り回す。

「そんなことないよ! 約束したし、気持ちだよ気持ち」

 

 彼は肩を揺らして笑う。

「約束だけはちゃんと守るからなー、お前は。立派な奴だよ……いや、ありがとう」

 

 開けるぞ、と言って、彼の手がリボンをほどき、包装紙をはいでいく。

 その手がつかみ上げ、広げたのは。

 全体が深い赤色をした、和風の上着。中にもこもこと綿の入った、半纏(はんてん)だった――僕が作った。

 

 

 いつだったか、魔女が祖母の部屋から持ってきてくれたのは和服の型紙だった。僕はその中から半纏(はんてん)の型紙を選んだ。

 それなら室内着として――着て出歩くような出来ばえでなかったとしても――使えるし、あまりサイズを気にしなくていい。それに彼は、冬は寒くて浴衣を着ないと言っていた。その間に着る和のものとしていいだろうし、彼の誕生日より後に使う時期が来る。

 

 改めて魔女の祖母に頼んで借り受け、写しを取って作り始めたのだが。裁縫経験のない僕には難しく――魔女に教えてもらいたかったが、彼女だってろくな裁縫経験はない。制服を無理やり改造した他は――、こんな時期までかかってしまった。

 

 

 おぉ、と彼はつぶやいて、何度も半纏(はんてん)を打ち返し、眺める。

「これ、お前が作ったのか」

 

 僕は何も言えずうつむいた。

 売ってたやつだよ、と言い張りたかったが。よれた縫い跡や、端の辺りを無駄に何度も縫い止めてある辺り、誰がどう見ても手作りだ。一目瞭然だ、魔女の制服が手縫いによる改造だと、分かるのと同じぐらい。

 

 この型紙を見たときには、これだ、と思ったのだが。

 やはり、やめておけばよかっただろうか。男から――クールな男同士のつき合いである、その友人から――手作りのものなんて。おかしいだろうか。

 おかしかっただろうか、僕は。

 

 僕が重くうつむく間に彼は、半纏を持ち上げ。その生地の中に顔を埋めた。

 すン、と鼻を鳴らす音がした。

 ふふ、と息をこぼす音がした。笑うように。

「匂いがする」

 

 僕が目を瞬かせるうち、口を開くより先に彼は言った。笑って。

「匂いがするな。(あい)の匂い。青い匂いが」

 

 思えば。練習後、帰って風呂に入るより先に、ずっとこれを縫っていた。青く道着の跡が残る手で。汗と、藍染(あいぞめ)の匂いがついた手で――入浴後にも縫ってはいたが――。

 

 よく考えれば今日だって、道着と一緒のバッグに入れてきた――わざわざ別のバッグに入れてくるのも、変に意識しているようで、彼に意識させるようで嫌だった――。

 

 頬が歪む。唇を噛み締める。肩に重く、何かがのしかかる。

 

 しまった。

 しまった、何をやってる――ガサツか、ガサツな男だ僕はただの。なんてことを――

 

 そのとき。彼の手が、僕の背を叩いた。強く、痛いほどに。僕の思考を全て、ぶち抜くほどに。

「ッたくオイ! すッげェなお前!」

 

 僕はよろめいて、一歩足を継いだが。

 彼はそのまま、ぱんぱん、と何度か背を叩いてくる。

 

「えェ? お前、すッげェな! これ作ったの!? わざわざ? 練習の後にか……一人でやってる、自主練の後にか……」

 す、と真顔になって言う。僕の目を見て。

「すげェな」

 

「……ん」

 うつむいたまま、僕はそれだけ言えた。なんだか、唇を尖らせて。

 

 鼻息をついて彼は言う。

「おン前はさァ……律儀だな、ホント。市販の和物が見つからなかったからって、作るか普通」

 

 うつむいたまま僕は思う。

 それは違う。見つからなかったんじゃなく、僕が作りたかった。

 

 彼は言う。

「いや、でもすごい手間だったろこれ、よくやったな」

 

 うつむいたまま僕は思う。

 ううん、何にも。君のためだから。

 

 でも手間はそう、手間はかかった。肌触りを気にする君のため、触り心地のいい生地を探して。暖かなそれを裏地にして、中綿を詰めて。君の好きな臙脂(えんじ)色、深い赤の生地を表側にして、(えり)の色は引き締まった黒に。

 (そで)は半纏としては珍しい角袖(かくそで)、ちゃんとした和服の仕立てで(たもと)がある――振袖(ふりそで)の、(そで)から垂れ下がる長い部分、あれをごく短くしたようなやつ――。君が気に入るようにと思って、筒袖の型紙と角袖の型紙、後者を選んだ。

 

「ありがとう」

 それだけ言って君は背を向け。包み紙を畳んでカバンに入れ。

 音を立てて、半纏(はんてん)を羽織った。

 

 僕は口を開けて、それを見ていて。星空を背にした君を見ていて。神話のような光景だと――あり得ない光景だと――思いながら口を開いた。

「ちょ……いいよ、やめときなよ。匂いつくよ」

 

 君は不思議そうに目を瞬かせる。

「いや、いいだろ。もう匂いついてンだろ」

 

「……ん」

 僕はそれだけ言い、なおいっそう、うつむいた。

 

 彼が歩く。半纏(はんてん)の衣擦れの音を立てて。

 僕も歩く。

 

 君は歩く、半纏(はんてん)を着て。僕の(あい)が染みついた、それを着て。

 

 嬉しげに君は言った。

「いいな、これ。どこへでも着て歩けるぜ。ハワイだって」

 

「……着んなよ。常夏じゃねーか」

 言いながらも思う。帰ったら、僕も着よう。もう一着作ってある同じものを。

 上手く作れる自信がなかったので、一度先に作ってみた。同じ生地で。お揃いのを。

 それを着よう。きっと同じ匂いがつく、それを。

 

 



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最終話  袴とスカートに距離はなく

 

 二人きり。二人きりだ、僕らはまた。半纏(はんてん)を贈った数日後。

 

 僕も彼も、何も言わなかった。互いを見もしなかった――いや、それは違うか。

 夜の道場に残った僕らは、離れた場所で準備を整える。あるいは竹刀をゆっくりと振り、あるいは改めてストレッチをし――ただ、横目で僕らは互いを見ていた。

 

 不意に斬りかかられれば死ぬからだ。何しろ、これから斬り合いだから。

 

 

 何度かやった真剣勝負、竹刀といえどそれは真剣。斬られれば死ぬ、僕か彼かが――いや、彼が。今日こそは彼が死ぬ。僕が勝つ。勝ってみせる。

 

 防具のうち面と小手を外し、胴と(たれ)――胴から下、腰部分に垂れ下がる防具――をつけた姿で。僕はゆっくりと竹刀を振るう。重心を、軸を、刃筋を確かめ、なぞるように。最強にして最短、最高効率の剣閃、その軌跡を想い、なぞるように。

 

 僕の足指が、豆が剥けては治り剥けては治り、分厚くなった足裏の皮膚が。軋む土踏まずが、張り詰めたふくらはぎの筋肉が。がちりと太く厚くなった――武道経験のない者のそれとは違う、ましてや女の子のそれとは似ても似つかない――太腿(ふともも)が。

 勝ちを求めて叫んでいる。

 

 重心の重みを受け止めた腰が、六つに割れた腹筋が、背骨の一節一節が。厚く盛り上がった後背筋が。引き締まる大胸筋が、波に削られた(いわお)のように、堅い丸みを帯びた肩が上腕が。それらの力を余すことなく受け取った、前腕が手首が十指が。

 今日こそ斬ると応えている。

 

 そして、全ての力を(みなぎ)らせた竹刀が、僕の真剣が。

 今、走った。最強にして最短、最高効率の剣閃。その軌跡を、確かに。竹刀で対手(あいて)を斬り捨てられるそれを、初めて。

 

 その驚きを、興奮を悟られぬよう、努めて平静に呼吸をして。僕は(はかま)の裾をさばき、対手(あいて)から顔を背けた。無論、横目の端でその動きをうかがえる位置で。

 

 ふと感じる。両脚を隔てる袴の布地を。その上、股ぐらにぶら下がるものを。

 在って良かったのだと、それを想う。

 

 性ホルモンを由来とする筋肉量すなわち筋力の差。骨格、体格。少なくとも力において、男女の間には遠大な距離が在る――ほとんどの武道やスポーツにおいて、公式戦のそれは男女別となっている。その事実がそれを物語る――。

 それは差別ではなく、区別にしてはっきりとした差異。つまるところ、ただの現実。

 

 腹の底から息をついた。

 良かった、これが在って。良かった、性差による筋力差が無くて。ただでさえ経験と才能の差があるのだ、これ以上の差があってたまるものか。

 

 

 僕は竹刀を構え直した。もう一度繰り出す、最高の剣閃を。今度は踏み込みながらの小さな動き、剣道のそれで。

 

 想う、僕は僕の筋肉の張りを。全身から(あふ)れるようで、しかし無駄のない力の流れを。今、放った剣閃を。――美しい、と。

 空を斬る音を上げたそれは、確かに。対手(あいて)を、仮想敵を討ち倒した。ごく短い舞いのように。

 

 

 そうするうち、彼は無言で道着を整え、床に置いていた小手と面の前に座る。頭に手拭いを巻き、面をかぶった。その間もその視線は、僕の方へと注がれていた。一瞬の油断すらなく。

 

 僕もまた、道着を整えて座し、手拭いと面を着ける。

 斬る。彼を。今日こそ、いや今こそ、ここで。斬る。

 

 そう、斬る――そう考えつつ頭の後ろで面の紐を結んでいたとき、ふと頭をよぎった――ガッ! と斬って! バッ! と抱いて! ブッチュウウウ! ――そう言った魔女の言葉が。

 

 さすがに苦笑した。その一方で頭のどこかが想う。

 この勝負に勝ったとして、何を望む? 勝者が敗者に何でも望める、この勝負に勝ったとして。決して約束を違えない、彼に何を? 僕は、彼に――

 

 ぶんぶんぶんとかぶりを振る。面紐が当たって音を立てる。

 

 落ち着け。落ち着け僕よ、全てはこの勝負の後。彼を倒してからのこと、彼を斬ってからの――ガッ! と斬って! バッ! と抱いて、いや違う、だいたいひど過ぎる、さすがにそれは人として――。

 

 僕はいったん、面を外す。

 深く呼吸を吸って吐き、胸の内に冷たい風を通した後。

ぱん! と強く音を立て、両頬を叩いた。

 

 その熱さを感じたまま面を着け直し、小手に手を通した。

 指先までしっかりと通し、具合を確かめた後。竹刀を取って立ち上がる。

 

 僕は、果たして。

 試合の後、何かを彼に告げるだろうか――それは例えば、秘めていたものをぶつけるような。

 

 さすがに自分を鼻で笑い、小さくかぶりを振る。

 無い、絶対に無い。せいぜいそうだ、「アイス買えよアイス、業務用のでかいやつ」とか。「あんみつでもおごらせてやるよ、あんことクリーム盛り盛りのを」とか。それをそう、彼に「あ~ん」と食べさせてもらって――

 

 面を着けたままの顔をぶん殴る。小手を着けたままの手で、自分で。

 

 彼の目が不審げに瞬いたような気がした――面金の奥ではっきり見えるはずもない――が。

 

 

 僕は遠間から竹刀を構えた。真剣勝負に礼法は無い、戦いはもう始まっている。

 その構えを以て示す――今ので気合は充分だ、と。君の方こそ覚悟はいいか、と。

 

 彼は構えを取る。剣道のそれとは違う形。左足を前に出した、野球の打者のような姿から、肘を寝かせ竹刀を斜め前に倒した構え。おそらくは彼の流派の、居合ではなく剣術としての形。部活の中では見たことのない形。

 その構えは物語る――覚悟なんぞあるワケがねェ、と。あるのはてめェを斬る覚悟だ、と。

 

 僕はうなずく。

彼もうなずく。

 

 つながっていた、僕らは。互いを貫く、熱く堅いもので。

 

 やがて僕が放つ、最高の剣閃。

 同時に彼が放つ、最高の剣閃。

 その行方は、その後のことは。僕ら二人だけが知っている。

 

 

(了)

 

 

 



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