転生家庭教師のやり直し授業◆目指せ!教え子断罪回避◆ (タナゴコロ)
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◆始まり◆ 
◆プロローグ◆


 

 ――カチ、

 ――カチカチ、

 ――カチカチ、カチッ……。

 

◆◆◆

 

 外側から窓を塞がれた部屋の中は夏の夕方だというのに暗く、唯一灯りと呼べるものは頼りない蝋燭の火だけ。

 

「《先生、わたくし……死にたくない》」

 

 その言葉を聞いたとき、私は導く立場の者として疑いようのない失敗を突き付けられる。何とか面会を許されたものの、これから数日後には――。

 

 目の前で震えて泣く教え子を抱きしめ「《大丈夫よ》」と、形ばかりの慰めを口にした。勿論嘘だ。第一王子の新しい婚約者を殺害しようと企てた咎で捕らえられ、軟禁された屋敷の自室で処刑を待つ今は気休めにもならない。

 

 ――どうしてこんなことに。

 

 教え子である彼女に非がないとは言わない。けれど、こんなことになるような状況に追い込んだのは、間違いなく本来の婚約者であった彼女を裏切った第一王子だ。それが十歳の頃から勉強を見続けた私の教え子にだけ咎があるだなんて――。

 

 華々しい侯爵家に生まれながら、引っ込み思案な性格から落ち零れ令嬢と軽んじられ、それを見返すために人一倍厳しい私の授業に耐えた教え子が……あんな愚かな男のせいで処刑される?

 

 そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。絶対に間違っている。何もかも。こんなことは悪い夢だ。

 

 間違っている間違っている間違っている間違っている間違っている間違っている間違っている間違っている間違っている間違っている間違っている、全部。

 

「《……逃げましょう、アウローラ様》」

 

 思わず口をついて出た言葉に、腕の中で震えていた彼女が一瞬泣くのを止めて、すぐに「《ありがとう、先生》」と笑った。

 

 自信を持ち堂々と振る舞えるようになったこの数年では、すっかり見なくなった微笑み方が胸に痛い。叶わない何かを諦めるとき、この子はいつも“ありがとう”と笑う。

 

 王妃教育のために城に上がることになり私の手許を離れるまで、彼女のこの癖だけは直せなかった。

 

「《その言葉はまだ口にしてはなりません。外に私が領地で雇っている傭兵達を待たせてあります。脱出に成功したら、いくらでもお聞かせ下さいませ》」

 

 しかしそのとき外が俄に騒がしくなり、剣戟を交わす音と不穏な悲鳴が――……、

 

◆◆◆

 

「あ、あー……嘘、ここまでやらせといて、またバッドエンドルート? 第一王子が馬鹿って設定に偽りがあるだろ。ここで待ち伏せさせてるとかとんだ有能だよ。このゲーム難しすぎる……何回私は教え子を死なせなきゃならないんだ……」

 

 友人からもらった同人ゲームのバッドエンド画面を見つめながら、私はパソコンのマウスを手離して髪を掻きむしる。ゲームのパッケージデザインの可愛さと、世界観の内容がぼかし気味で騙された。

 

 やり込みが好きな私は最近、この【お嬢様の家庭教師(ガヴァネス)~綻ぶ蕾のその色は~】という、タイトルセンスがやや古いゲームにはまっている。

 

 理由は簡単で、シナリオがなかなか意地悪く捻ってあるのだ。ちなみに乙女ゲームではない。ジャンル的には一昔前に流行っていた育成ゲームの亜種だと思う。タイトル通り主人公はゲームに登場するお嬢様の家庭教師となり、落ちこぼれな彼女を攻略対象……というか、婚約者候補のお眼鏡に叶う淑女に育て上げるのだ。

 

 勿論ライバルキャラのご令嬢も出てくる。これがとっても手強い。いつもライバルキャラらしくこちらが足りないパラメーターを持っているので、本当に手強いったらない。

 

 おまけにお嬢様の婚約者候補となるキャラクターにほとんど情報がなくて、誰がどのパラメーターを上げれば食いついてくるのかは、やってみなければ分からないという鬼仕様。

 

 今のところずっと第一王子のルートに入っては【悪役令嬢】として断罪されていて、脳筋系な見た目と発言の割に毎回先回りされて教え子が殺されてしまう。これはライバルキャラのご令嬢が知恵を貸しているからだ。足りない部分を補い合う敵から逃げ切ることの難しさが半端ではない。

 

 それ故にスマホでサクッと遊べるゲームに鞍替えして久しい友人は、このゲームを誕生日プレゼントと称して私に寄越した。最初は不用品を押し付けてきたと思ったけれど、今となっては感謝している。

 

 このゲームの主人公は子爵令嬢で、城に出仕している父の代わりに領地で領主代行を務めている設定だ。領地を馬で見回り、教会や孤児院を慰問しては子供達に勉強を教えて識字率を上げ、領地の管理能力と学力を買われて侯爵家から家庭教師の依頼が舞い込む――……というのがゲーム序盤。

 

 ただしこのゲームは隠しパラメーターが数多く存在しており、領地経営を真面目にしなければ主人公の家庭教師デビューはどんどん遅れる。一番最初のプレイでは何と三十八歳での家庭教師デビューだった。

 

 当然この時点だともうすでに教え子の侯爵令嬢の性格は確定していて、素直にこちらの教えを聞き入れてくれないため、バッドエンド一直線。今でも軽くトラウマな苦々しい初戦だった。

 

「だけど悔しい……面白いからまた始めからやっちゃう……」

 

 再びマウスを手にパソコン画面のカーソルを動かし、右斜め上にある【始めから】の文字をクリックした。育成ゲームのくせに飾り気のない読み込みバーが画面の中心でジリジリと動く。毎度のことながら読み込み遅いのが玉に瑕。

 

「オープニングだけ見たら……明日塾で使う資料を確認し直す、ぞ……」

 

 このゲームにはまったもう一つの理由は、自分の仕事とかぶっていたからというのもある。基本的に何かを教えることが好きなのだ。

 

 けれど最近の塾講師の仕事量は半端じゃない。世の中教職員の過労死が取りざたされるが、不景気で個人の家庭教師枠から弾き出された塾講師だってなかなかだ。離職率もそこそこ高い。

 

 このところ離職した同僚の開けた穴埋めの連勤に次ぐ連勤で、ここ数日頭痛が止まらない。

 

 今日もやっととれた貴重な休日を病院で潰すのが嫌で、市販薬を飲んで誤魔化しているけど、さっきから段々痛みが増してきてる気がする。こんなことなら病院には行かないまでも、一日ゲームなんてしてないで大人しく寝ていた方がよかったのかも――……。

 

 そんな今更すぎる後悔をしていたら急に視界が暗くなってきて、テレビの電源が落ちるようにプツンと音を立てて意識が飛んだ。



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◆第一章◆
*1* これオープニングだわ。


 

「――……ま……きて……い」

 

 どこかでぼうっと人の声のような耳鳴りがして、前夜は体調が悪いくせにゲームの最中に座って寝落ちしたはずが、ゆっくり左右にユラユラと自分の意図と関係なく身体が揺れる。そんな気配で真っ先に思い浮かべるのは――……地震?

 

 最悪だ。独り暮らしで体調不良のときに自然災害はシャレにならない。おかしな姿勢で寝てしまったせいで身体も痛む。

 

「ガスの元栓と……玄関のドアを開けて出口の確保、しないと、」

 

「あら、せっかく今朝はすぐに反応があったと思ったのに。まだ寝惚けているのですか? ベルタお姉さま」

 

 起き抜けに地震、独り言に返事が返ってきただけでも充分驚いた。

 

 おまけに突っ伏していた身体を引き起こした視線の先には、洋画に出てきそうな栗色の髪の美少女。不法侵入者なのにライムグリーンの瞳を笑みの形に細める美少女。ふっくらしたサクランボのような唇が同性から見ても魅力的な、情報が重複するくらいの美少女。

 

 ……どうなっているんだ、私の今朝の目覚めは。

 

 凍り付くこちらにお構いなしにクスクスと楽しげに笑う彼女の様子をこっそり窺う。外人さんの年齢は分かりにくいけれど、十二、三歳前後くらいだろうか? こちらに対して親しげな気配を纏う彼女に、何となく見覚えがある気もする。

 

 ――というよりも、この場面を私は何度も見た(・・・・・)。それこそつい先程寝落ちする前にも見ようとしていた。

 

「それにまたこんなところで力尽きて。いくらお父さまに領地の留守を任されているといっても、張り切りすぎて身体を壊しては大変よ?」

 

 そう言って可愛らしく睨み付けてくる、猫のようなライムグリーンの双眸。つり目つり眉のこの美少女は、私の妹だ。より正確に言えばこの子が呼んだ“ベルタ”の妹である。

 

 どうやら私はゲームにドはまりするあまり、寝落ちしたあとの夢にまで【お嬢様の家庭教師(ガヴァネス)~綻ぶ蕾のその色は~】を持ち込んだらしい。二十八歳にもなって香ばしすぎる案件だ。

 

 自分の痛々しい一面に触れて眉間を揉む私の前に、ゲーム内では領地のスケジュール管理画面でよくお世話になったアンナが手鏡を寄越した。

 

「ほら、ね? こんなに疲れた顔をしてるわ」

 

 そこに映っていたのはこのゲームの主人公で子爵令嬢の、ベルタ・エステルハージだ。顔の中心に散ったソバカスと、ダークグリーンの瞳に赤煉瓦色の髪。顔立ちは垂れ目つり眉で、本人の意思に関係なくやや含むものがありそうな顔……。

 

 両親と妹は美形なものの、一人だけパッとしない容姿なあの(・・)キャラクターだった。絵から血の通った人間になるとこうなるのかと思わせる自然な姿に、妙に凝っている夢だと感心する。

 

 ただ彼女の言う通り私の目の下にはくっきりと隈ができていて、ここだけは現実とさほど変わらないのかと呆れた。

 

「あの……お姉さま、やっぱりどこか辛いなら、一度お医者さまを呼んで診てもらいましょう?」

 

 こんな夢を見る機会は滅多にないからと、ついじっと手鏡に意識を向けていたせいか、私を見ていたアンナが体調が優れないと勘違いして声をかけてくれる。このゲームは製作者側がお金の余裕がないのに、シナリオ分岐のシステムにこだわったせいか、キャラクター達に声があてられていなかった。

 

 おまけにゲーム内でも気のつく娘だったけれど、それがこうして同じ姿で言葉を交わしてみるとより良い子である。

 

 ……公式サイトのない同人ゲームのパラメーター管理キャラに、ここまで肉付けしてしまう自分の妄想力が怖い。でも絶対良い子だ。やたらと塾講師を小馬鹿にするクソ○キッズの中でたまに出会える貴重な良い子。

 

「いいえ、大丈夫よ。まだ少し眠くて調子が出ないだけなの。そんなに心配してくれるだなんて、アンナは優しいわね」

 

 かなりやり込んでいたから主人公(キャラクター)の口調を真似ることは簡単だ。そもそも、物の考え方や捉え方が似ているタイプだったので、そこまで本来の人格と齟齬(そご)がない。

 

 私の言葉を聞いたアンナは「優しいだなんて……普通よ。お姉さまは大げさだわ」と、儚げな見た目に反して結構勝ち気な妹は花が綻ぶように笑った。

 

 ゲームのお嬢様断罪ルートによっては家を巻き込むので、この娘にまで迷惑がかかるものもあったからか、こうして向き合うとなかなか罪悪感が心にくる。ゲームの世界だとはいえ妹だし。

 

 とはいえ現実にも私の家のように、一人娘が大学を卒業した一週間後に家族を解散する家もあるくらいだから、一概に“家族とはこうあるべき”ということもないとは思う。両親はどちらもすでに新しい家庭を築いているのでもう交流もない。

       

 だったらゲームのオープニング場面の夢を見られているうちに、この世界観を楽しむのも面白そうだ。当然のことながらパッと彼女を見たところで、どこにもゲームのときのようにステータスが現れる様子はない。むしろあったら怖い。

 

「そうだわ、ねぇ、アンナ。お願いがあるのだけれど、聞いてくれる?」

 

「お姉さまがわたしにお願い……ええ、もちろん良いわよ!」

 

 ゲームの管理画面で見たときより食い気味に訊ねてくる妹に苦笑しつつ、その頭をゆっくりと撫でてやりながら現在地味に一番気になっている質問を投げかける。

 

「あのね、今日が何月何日で、私が今何歳なのか教えて欲しいのよ」

 

 この質問から数分後『お姉さまが過労でおかしくなった』と勘違いした妹によって、私の部屋に急遽医者が呼ばれた。

 

 ――……本当に変なところでリアルな夢だわ。

 

 病人用に作られた消化に良い食事のあと、アンナが呼んだ医者から処方された薬を口に含んだ瞬間、何とも形容しがたい苦味と酸味が口内を占めた。味覚に連動して嗅覚まで攻められて生理的な涙が滲む。

 

「うぇ……まっずい」

 

 良薬口に苦しとは言うが、飲んだ方が調子を悪くしそうな苦味はもはや毒だ。あまりの不味さに思わずかぶっていた子爵令嬢の皮が剥がれた。慌ててベッドの傍で本を読んだままうたた寝してしまった妹を見やったが、彼女は美しい寝顔のままピクリとも動かない。

 

 安らかな寝息を立てるビスクドールのような美少女。ほぼ横スクロールとノベル展開の同人ゲームが、妄想力をフル活用した夢でVRも顔負けの世界観になるとは予想していなかった。

 

 もう一つ予想外だったのは、アンナのベルタへの懐きぶりと、屋敷の使用人達の献身ぶりだろうか。あの日からすでにゲーム内の日数で四日が経過しているにもかかわらず、アンナと屋敷の使用人達からの監視の目が緩まない。

 

 ――夢の中だとはいえ、確かに私の質問のし方が雑だったことは認める。けれどまさか精神的なものからくる一時的な記憶欠如と診断されるとは思わなかった。

 

 一応ベッドから起き上がっての自室内行動や、入浴などといった衛生的なものは制限されていないが、それ以外は基本的に声を上げればすぐにアンナか使用人の誰かが駆けつけられるこの距離感。

 

「かえってこの方が気が休まらないんだけどね……」

 

 聞き咎められない声音で愚痴りつつ、そっと溜息をつく。けれどまぁ、急に姉が訳の分からないことを言い出したら驚くのが普通なのか。

 

 簡単にこれまでの情報を整理すると、私ことベルタ・エステルハージは現在十七歳。ゲームの通り父の留守中に領主代理として領地内の視察や書類整理をこなし、空いた時間で妹の淑女教育と、教会に隣接した孤児院の子供達に勉強を教えているらしい(・・・)

 

 らしいというのは、純粋にその記憶があやふやだからだ。あと嫌な予感がするのだが、もしかして寝落ちしたと思っていただけで、実は私は自分でも気付かない間に死んだのではないだろうかと踏んでいる。

 

 そうでなければこの五感の生々しさと、きっちり四日は経っていそうな体感時間に説明がつかない。

 

 ならば元の人格を乗っ取ってしまったのかとも思っていたが、どうやらそれも違う。というのも妹や屋敷の使用人達の会話の内容やイベントを私は知っているからだ。感覚としては幽体離脱していた霊体の状態で、肉体の方を俯瞰(ふかん)したまま操っていたといった感じである。

 

 自作自演の人形劇とでも言うべきこの状態も、広域で捉えるなら“転生”に入るのだろうか? しかもほとんど誰も知らないような同人ゲームの、失敗すれば教え子が死ぬという高難易度な育成系に。

 

 一応の救いがあるとすれば、前世で寝る間も惜しんで最高レベルまで上げた授業コマンドの方は生きているようだ。要するにダンスや刺繍といった、現代社会では余程お金持ちのお嬢様でもなければ必要ない技能も、一通りこなせる。

 

 中身が(これ)でこの花のない見た目でなければ、間違いなく淑女と呼ばれる位置に入れる人種だろう。

 

 まぁ、控え目に言って自分のことを何とかするのに手一杯な状況だけど、あれだけ何度も死なせてしまった教え子に愛着がないはずもない。ここがあのゲームであるのなら、彼女も確実にこの世界に存在すると思っていいだろう。

 

 ひとまず他にこの世界で生きていく上での核もないのだから、当面の目標は最短での本編入りを果たす……つまり、これまでのプレイで最年少での家庭教師枠入りを目指す。

 

「確か最後のプレイが最年少記録だったから……二十五歳か。あれでもまだシナリオ的に遅いなら二十……最低でも二十一歳には本編入りしたいな」

 

 幸いにもこれまでのプレイ記録は日記の形として残っているし、初日に突っ伏していた机にあった書類を読んでみた限り、読み書きや計算などの基礎的な一般教養はほぼ問題なくこの身についているらしい。むしろかなりやり込んでいた分、それなり以上にはこの世界の知識がある。

 

 日記の日付にある共通の大きなイベント日は、まず動かないと思っていいだろう。それに前世でも大学を出るまでの学力と社会人としての常識は身に付けたので、いきなり突飛な失敗をしたりはしないはずだ。

 

「いや、そもそも第一王子のルートに入りたくない。自分勝手に裏切っておきながら確実に教え子の首を取ろうとしてくるからな……あの男」

 

 まったく毎度とんでもない奴に目をつけられるものだ。私が子爵家でなく王族に近い地位なら失脚させてやりたいくらいである。ともかくもう少し様子を見て情報を集めないことにはと思っていたら、不意に傍で眠っていた妹の唇が動いた。

 

 寝言を呟いている妹を起こさないように近付いて、その赤く愛らしい唇に耳を寄せてみると――。

 

「……ねえ、さ……寝て……さい」

 

 ふにゃふにゃと力の籠らない声にほんの少しくすぐったいものを感じながら、ぎこちなく妹の頭を撫でる。柔らかい髪の感触と体温に生きているんだなぁと妙な感動を覚えてしまう。これからはセーブもロードもない。この世界が現実なのだ。

 

「これは何と言うか……責任重大だな」

 

 守るものが増えた今、私の第二の人生は、早くに幕切れとなった一度目に比べても極めてハードな予感がした。



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*2* 教えるのは、楽しいよ。

 

 同人育成ゲームというカオスな世界に転生してから二ヶ月。

 

 ここはほんの十年ほど国境線付近で蛮族相手に戦闘を繰り広げ、近頃ようやく相手側に停戦和睦と言う名の従属をさせた以外は、まぁそれなりに安定しているらしい国、ジスクタシア王国。

 

 ゲームの世界に転生して困っているのはひとえにこれ。あまりゲームの中で語られていなかった部分にまで歴史があるとは……西洋史を学び直している気分だ。まさか自国の歴史を今さら妹に聞くこともできないので、使用人の皆や妹が心配しないように深夜にひっそり勉強している。

 

 我が家はジスクタシア王国の一子爵家であり、やや片田舎に位置する場所に領地を頂いている。そんなエステルハージ領は現在はちょうど春から夏に変わろうという頃。薄青かった空の青が濃くなり、土と緑の香りが立ち込める季節だ。

 

 領地はさほど広くないものの、小麦や野菜などの生産力が比較的安定した穏やかな土地である。

 

 日記の内容とゲームの記憶を頼りに帳簿をつけたり、領民の声を聞くべく馬に乗って領内を視察したり、教会や孤児院での識字率向上を序盤の間に上限まで上げるために奔走したり、時々息抜きについてきたがるアンナを馬の前に乗せて領地をぶらついたりしていた。

 

 ゲームのシナリオにあった主人公の“勉強が好きで、社交は苦手。結婚は社交的な妹がいるので父親も強くは言わないでいる”という緩い設定がそのまま使用されているようで、領主代行としての仕事以外はかなり自由がきく。

 

 問題は領主代行の仕事が多忙ということだけど、これは初日にやらかして以降、ゲームと同じようにアンナが協力者としてスケジュール管理などをしてくれるし、父の信頼している家令も手伝ってくれるのでやや軽減された。

 

 どうにも最近前世でゲームの時間が取れなかったので、こちらの世界で短期間にスケジュールを詰め込みすぎていたらしい。私が転生した初日にアンナが手紙で《過労で倒れた》と送ったところ、すぐに早馬で手紙が届いた。

 

 内容的には《すぐに帰れなくてすまない》という簡潔なものだったのだけど……ちょっと嬉しかったのだ。残念ながら母親はすでに他界しているものの、ほぼ理想的な家族像である。

 

 その後は適度に空白のできたスケジュール表は妹管理の下、私が勝手に隙間に仕事を捩じ込まないよう厳重に保管されてしまった。

 

 そんなこんなで、目下の目標は当初の予定通り【最短での本編入り】に固定している。しかしそれと並行して妹や、年に四度ほどしか戻ってこないので、まだ顔を合わせられていない父の幸せも視野に入れて行動を起こすことにした。

 

 取り敢えずまずは十二歳の妹を、国外か国外に親戚を持つ貴族家へ嫁がせられるように教育する。最悪今回ルートを間違えてしまったとしても、妹が国外で生きていけるように手を打つ。

 

 ――ということで。

 

「お姉さま、これはこの訳詞でいいの? 何だかおかしな文章になるのだけど」

 

「発音も聞いてみたいから、声に出して読んでみてくれるかしら」

 

「こ、声に出して……って、間違えていそうなのに?」

 

「ええ。外来語の勉強ですもの。最初から間違えないようになんて無理よ。それにせっかくだからアンナが上達したところを聞いてみたいわ。駄目かしら?」

 

 現在隙間時間の活用と初めてできた妹という存在を愛でつつ、お嬢様(教え子)に出会うまでの準備期間として家庭教師の真似事をしているのだが、これが思いのほか楽しい。前世の終わり頃の苦しさとは無縁だ。

 

 やっぱり基本的に何かを人に教えることが好きな性分は、一度死んだ程度では変わらないらしい。

 

「お、お姉さまがどうしてもって言うなら仕方がないわね。じゃあ、読むわ」

 

 頬を上気させて満更でもなさそうな妹に向かい、ささやかながら盛り上げようと拍手を送る。アンナは嬉しそうにはにかんで、その可愛らしい唇を開いた。

 

「“おお、麗しのジョセフィーヌ。君を想うと心が甘く乱れる。どうかこのわたしを、可愛い貴方の犬にしてベッドの中で愛して欲しい”」

 

 直後に清楚な美少女の口から飛び出した内容に目が点になる。妹のものとは別に、教科書として使っている自分の小説を見てその理由が分かった。

 

「許されるならその――、」

 

「待ってアンナ。もういいわ」

 

 感情を込めて朗読を続けようとしたアンナを笑いを噛み殺して止めると、妹は「だから言ったのに」と唇を尖らせた。お昼間に読むには刺激の強そうな文法間違いをしでかしている。

 

 ……正直この先をどう訳しているか気になるものの、十代向けの恋愛小説が一気に官能小説になってしまうだろう未来しかない。それはそれで非常に興味はあるが。

 

「うん、途中まではいい感じだったわ。この作家の回りくどい文法表現がいけないのよね。まず“ベッドの中で”の部分は“夢の中”と訳して、それからこの部分は“貴方”と“可愛い犬”が混じっているわ。間にあった分からない部分の文法を適当に繋げては駄目よ」

 

 以前塾で“彼は妻の作ったお弁当とパスポートを持って”という文章を、何故か“彼は手作りのパスポートを持って”と訳した強者を思い出した。私的には満点をあげたかったのだが、塾講師としてあれでは困る。

 

 あのときは笑いの発作を鎮めるのに十分ほど要して大変だったけど、他の生徒達と一緒にどこが躓きやすいかを確認するいい機会にもなった。

 

「笑ってしまってごめんなさい、アンナ。でもあんまり一生懸命に間違える姿が可愛くてつい。どこが分かりにくかったのか教えてくれるかしら?」

 

「もう……実は謝る気がないでしょう、お姉さま」

 

「そんなことないわよ。それに貴女には意外と翻訳者としての才能があるかもしれないわ」

 

 教育の上で大切なのは如何に生徒となる人間の興味を惹くかにある。私の提案にアンナの眉がピクリと動いた。実際このジスクタシアのものに限らず、屋敷内にある他国から取り寄せた本の多くが男性の翻訳者である。

 

 中には女性の感覚で翻訳した方が面白い題材のものも多い。恋愛ものなどを高尚にお堅く訳されては魅力も半減だ。口付けの描写だけで空や海が割れるのかと思わせるほど、大袈裟で甘い雰囲気がない。

 

「そうだわ、この次はもっとつまらない本を用意するから、それを使って翻訳者ごっこをしましょう。興味を惹き付ける翻訳なら、もっと面白く読めるものも世の中には多いのよ。瑞々しい貴女の感性に期待しているわ」

 

 かくしてここぞとばかりに持ち上げた私の言葉に、素直で可愛い妹は直前までの不機嫌さをスパッと切り換えて、輝く笑顔で何度も頷いてくれたのだった。



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*3* どちら様だったんだろう?

 

 妹のアンナを非公式な女性翻訳家として起用してから早半年。

 

 彼女は恐るべき速度で語学を吸収してメキメキと才覚を発揮し、私が転生してから八ヶ月がすぎた頃には、教会と孤児院はちょっとした娯楽の場になっていた。

 

 それというのもこれまで読み書きは男性中心の考えだった。そこに必要最低限の読み書きを学んだきりの女性達や、そもそも読み書きの勉強が嫌いな子供達が、妹が翻訳し、私が手直しした絵本や小説に異様なまでに食いついたからだ。

 

 例えば絵本からはいきすぎた道徳観や宗教観を廃し、恋愛小説には回りくどくない甘い言葉を採用した。たったそれだけでも本を読むという行為のハードルは極端に下がる。これは物を学ぶ上でとてもいい傾向だ。

 

 ちなみに妹の翻訳は男性にも人気がある。何というのか……こう、前世っぽく例えるならば、アンナは中学二年生の男子が好む言葉選びも巧みなのだ。現在は八つの頭を持つドラゴンを勇者が倒す冒険譚を翻訳中である。

 

 私は勉強を教えることはできても、それを面白おかしく学ばせる話術は持たないし、直訳ではないにしてもテストで求められる正解の訳詞しかできない。だから我が妹の才能は本当に素晴らしいと思う。優秀すぎて将来が楽しみだ。

 

 領民達も今までの読まず嫌いが嘘のように改善され、一日の仕事を終えれば教会の外の掲示板に張り出された翻訳の前には人だかりができ、最近では読み書きのできるシスターや神父様が瓦版的なものまで出してくれている。

 

 一部年長の子供達の間では役者ごっこが流行っていて、馬で領内を視察しているときなどに披露してくれることもあった。

 

 中には“これは!”と思わせる天才子役もいたりするので、そういう子達には声をかけて月に一回教会で公演してもらい、さらに読み書きに興味を持ってもらえるように活躍してもらっている。

 

 その報酬は領地の帳簿から支払っているが、父も領内の識字率が向上することを喜んでくれているので問題ない。算術などの学問は追々教えていくとしても、この分ならば領内の識字率は今までで一番早い成長を遂げるだろう。

 

「お姉さま、新しい翻訳分ができたから添削をお願い」

 

「ふふ、いいわよ。いつも通り私がアンナ先生の翻訳書を読む一番最初の読者ね。喜んで承りましたわ」

 

「またそんな風にからかって。お姉さまは先生で、わたしは生徒なのよ。だから頑張ったわたしを存分に褒めて下さい」

 

 そう言うや、翻訳された紙束を受け取った私の膝の上に頭を置く妹の姿に苦笑しつつ、その艶やかな髪を優しく梳く。しかし……元のゲームの世界観だとこの子はもっと大人びた印象だったと思う。

 

 ゲームでは授業の選択科目コマンドを選んで、一週間分の時間割を作るのがメイン作業だったため気にならなかったが、実際に教鞭を取ると私の教育方針は学力を上げる代わりに、精神面がやや幼くなる傾向にあるのだろうか――?

 

 考えてみれば個人の家庭教師を引き受けていたときも『先生っていうより、親戚のお姉ちゃんみたい』と評されてきた。だからこそ塾講師になってからは生徒に侮られ、他の同僚達からは『背は高いのに化粧っ気もなくて童顔だから、怒っても迫力がないんだよね』と笑われたのだ。

 

 ほんの一瞬当時を思い出して苦々しい表情になっていたのだろう、こちらを見上げてきたアンナが小首を傾げて「どうしたの、お姉さま?」と可愛らしく訊ねてくる。慌てて「貴女が頑張り屋さんだから、早く疲れが取れますようにって、ね」と答えその髪を梳くと、アンナは嬉しそうに膝に顔を埋めた。

 

 ああ……可愛いなぁ、参ったなぁ。もう【始めから】を押せない今度こそ、失敗したらまだ見ぬ教え子だけでなく、この子も不幸になってしまう。

 

「――良い子ね、アンナ。貴女は姉様の自慢の妹よ」

 

 うつらうつらと夢現になり始めた妹の頬を撫でながら、私は明日教会で行う慰問劇の内容を思い出し、小さく溜息のようにそう零した。

 

***

 

 そして翌日、領内で今年最後となる舞台の日。当然と言うべきか、十二月のやや片田舎の領地に娯楽は少ない。

 

 だからこそ娯楽を増やすためには皆協力を惜しまないので、発案当初は教会の敷地内の空き地で行っていた催しは、いつの間にかちょっとした見世物のための舞台ができていた。

 

 勿論観客席などはなく立ち見だが、皆その方が席取りで揉めることがなくていいと言うからその案を取り入れている。というか、私が勝手に立ち上げた識字率向上を目的としたイベントなので、そこまで手を入れるお金がない。

 

 これについては父が領地に戻ってきたら相談してみようかと思っている。

 

 その皆の舞台でアンナが翻訳し、私が領内からかき集めてきた演者達が、畑仕事や家畜の世話の合間に磨ききった演技力をいかんなく発揮した英雄譚は、拍手喝采の中、大盛況で幕を閉じた。

 

 私はいつも通り裏方に徹していたので、こっそり幕の間から覗き見る程度だったけれど、妹が演者達と最後に舞台上で挨拶する姿はしっかりと見た。正直妹の姿にちょっと感動して泣いたわ。教育者冥利に尽きる。

 

 しかしファンに囲まれた妹に手を振って別れてから、一人でひっそりと余韻に浸っていたところで、慌てふためいた様子の孤児院の子供達に捕まってしまったのが――……ついさっきのこと。

 

 子供達に急かされて駆けつけた先に待っていたのは、随分と立ち姿の美しい青年だった。服装こそ一般的な行商人風ではあるが何か違和感を感じる。それこそ裕福な家の人間がお忍びでもしているようで、触らぬ神に祟りなしな予感だ。

 

 相手はこちらを見て一瞬だけ軽く眉を持ち上げたものの、すぐに穏やかな笑みを浮かべて会釈をしてきた。

 

 赤みをおびた金髪は短く切り揃えられ、眉と瞳はややつり気味。紺色に近い青い瞳は一見すると柔和そうな印象を与えてくるが、その奥は笑っていなさそうな感じがする。

 

 身長は百八十を越えているだろうか? スラリとした身体つきだけれど、結構着痩せするタイプと見た。ますます得体が知れない。

 

「子供達には一番偉い大人を連れてきて欲しいと頼んだのだが、貴方がこの教会の責任者で間違いないだろうか?」

 

 おお……深みの中に微かにビブラートが効いた実に好みの声。とはいえ、ゲームの物語画面でこの彼を見た記憶はない。本当に誰なんだろうかこの人。

 

「ええ。正確にはこの教会ではなく、領主の父は王城に勤めておりますので、私がこの地の領主代理をしております。我が領内で何か問題でもございましたでしょうか」

 

「いいや、とんでもない。実はさっきの舞台を見て感動したので、考案者がどんな人物なのか知りたくなって、子供達に連れてきて欲しいと頼み込んだのだ。元になった本を読んだことはあるが、それより数倍面白かった」

 

 何で最初に少し嘘をついたんだよとは思いつつ、アンナの才能を見抜くとは、こう見えて意外と見る目のあるいい人かもしれない。

 

「まぁ、ありがとうございます。ですがあの翻訳をしたのは妹なので、その称賛はどうか彼女に」

 

 ちょうど私の姿を探しに来たのであろうアンナが視界の端に現れたので、そちらに向かって手招きをすると、たちまち妹がスカートを翻して駆けてきた。翻訳の勉強に傾倒するあまり、最近淑女の勉強がおざなりになっている気がする。

 

 私をロックオンした初速の勢いを殺さず、そのまま「置いていくなんて酷いわお姉さま!」と、抱きついてきた妹の甘えん坊攻撃を正面から受け止めたものの、反動からその場で半回転してしまった。

 

「もうアンナ、淑女はみだりに走ったりしないものよ? 今ね、こちらの男性が貴女の翻訳を褒めて下さっていたの。ご挨拶なさい」

 

 けれど何とか抉り込むような抱擁の衝撃から立ち直ってそう言ったのに、肝心の妹は腕の中で不思議そうな顔をしてこう言った。

 

「お姉さま、こちらの……って、ここにはわたしとお姉さましかいないわよ? どなたのことを仰っているの?」

 

 そんな馬鹿なと半回転する前に向いていた方向を振り向くと、そこには妹が言ったように、誰もいない虚空があるだけだった。



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*4* 領地攻略できたかな?

 

 妹の年内最後の舞台公演に現れた不思議な男が消えてから一週間後。残り少ない年末を家族で過ごすべく、王都から父が帰ってきた。

 

 ハインリヒ・エステルハージ。それが今世での父親の名だ。

 

 転生してから男の家族がいない屋敷の生活を満喫していたので、前日までは緊張していたものの、馬車から降りてきたこの世界での父の姿を見た瞬間妙に懐かしい気持ちになって、気付けばアンナと一緒に抱き付いていた。

 

 いつもはそんなことをしないのであろう私に、父は少し驚きつつも「無理をして倒れたらお父様が恋しくなったか?」と笑って頭を撫でてくれた。生前にはあまり感じたことのない家族っぽさに、胸の内が温かいもので満たされる。

 

 予定よりも帰還が遅かった理由をアンナが訊ねれば、父は苦笑しつつ「王城の方がかなり慌ただしくてね」とだけ言った。あまり歯切れの良くない説明から、どうもあまり詳しく話せない内容なのだろう。

 

 そんな父の気配を素早く察知した家令が「お嬢様、旦那様。積もるお話の続きは、暖かい場所で如何でしょうか?」と声をかけてくれたので、その提案に頷いて暖められた応接室に移動する。

 

 そこでメイドが用意してくれた紅茶と父のお土産のクッキーを口にしながら、徐々にアンナと私の試みへと話題を持っていく。

 

「手紙に書いてあった今年最後の舞台に間に合わなかったのは悔しいが、教会の寄付も増えたそうだし、領民達の識字率が上がるのは悪いことではない……というか、むしろ素晴らしい功績だ。お前達はこのまま励みなさい」

 

 一通り話を聞き終わった父は、そう言って事も無げにカラリと笑った。緊張して話したのにと思う一方で、ゲーム内でもたまに王都から情報を持ち帰って来る際に見せた茶目っ気を覗かせる。

 

「ありがとうございます。やはり持つべきは理解のある父親ですわね」

 

「ありがとうお父さま、大好きよ!」

 

「うんうん、二人とも恐ろしく現金だな。だがそれも良し! 文官の仕事が忙しくて年に三、四回しか戻って来られない領地と可愛い娘達の頼みだ。これくらいで感謝されるなら悪くない」

 

 そんな冗談なのか本気なのか分からない反応を見せる父は、後ろで束ねた栗色の髪と、ダークグリーンの瞳を持つ中性的な美しさの男性だ。妹を気品のある家猫に喩えるなら、父は野生種の猫だろうか。どちらもつり目つり眉なのに、受ける印象は多少異なる。

 

 私とアンナの母親を早くに亡くしてからも社交界の女性達からの人気は高く、何度も後添えの話が持ち上がったらしい。けれど妻以外は愛せないという理由で再婚を断り続け、今年で三十八歳になってしまった一途な人である。

 

 しかし父は何故か見た目と文官という職業を裏切るガサ……剛胆な性格で、製作者側が彼をどう扱いたかったのか判断に困る。

 

 とはいえゲームのどのシナリオルートでも父に関しての話は少なかった。考えてみればあまり領地に戻って来られないのだから当然だろうけれど、今世ではこれから親子としての絆を深めていこうと思う。

 

「だが出資する交換条件として、年明けに城に戻るときにはベルタが監修して、アンナの翻訳した本を数冊くれないか。同僚に自慢したい」

 

「お父さまったら、そんな理由なら絶対あげません。親馬鹿だと笑われます」

 

「アンナったらお父様なりの冗談よ。きっと純粋に貴女が頑張って翻訳した本が読みたいだけだわ」

 

 そう助け船を出してはみたものの、父に胡乱な視線を向ける妹は「本当かしら」と呆れ顔である。たとえ会うことが少なかろうとも、思春期の反抗期は避けられない。それでも父はアンナのそんな姿にも嬉しそうに笑顔を浮かべている。

 

 その後は仕事に忙殺されていると同情を買う作戦に出た父に対し、妹は「それなら、何か心の休まるものを翻訳した方がいい?」と、可愛らしい発言をして父を感動させた。しかしどれだけ綺麗な顔をしていようが、こういうところは普通に世間一般のちょっと鬱陶しい父親なのがおかしい。

 

 紅茶の用意を新しく書庫の方に整えてもらい、この半年で取り寄せた蔵書と格闘するアンナの背中を父と眺めつつ、他愛のない会話と共に紅茶を楽しむ。すると父がふとカップを置いてこちらに愉快そうな視線を向けた。

 

「それでベルタ、領民達の識字率を上げた後のことはどの程度考えている? お前のことだからそれで“はい、おしまい”とはならないのだろう?」

 

 父よ……意外と鋭いな。けれど、まさか“将来自分の教え子になるお嬢様になるべく早く会いたいから”とは言えまい。それにその目標は結構早い段階で軌道修正してしまっている。

 

 今の私は教えることの楽しさと、教えた相手ができるようになったときの顔を見るたびにやり甲斐を感じていた。前世の最後はあんなにもやっつけ気分だったのに、死んでから天職だったのではないかと思うとは因果なものだ。

 

 黙り込む地味な私とはまったく似ていない美貌の父は私を見つめて、ただ言葉を待っている。

 

「勘違いがあっては困るので、これは前置きなのですが……お父様が信用して任せて下さるから、領地のことで頭を悩ませるのは嫌いではないのです」

 

「そうか、ベルタは優しいな。うちは代々女系で男児が産まれ難い家系だから、長女のお前にはいつも迷惑をかけてばかりだ。他所のご令嬢なら、もっと私に対して怒っているところだぞ?」

 

「いいえ。お父様が王城に出仕して下さるおかげで、私とアンナはここでのびのびと暮らしていられるのですもの。怒ることなどありません。ただ――……」

 

 ここで一旦言葉を切った。父は急に会話を止めた私を不思議そうに眺めている。でも父よ、前世を含めても人生初の試みに至るには心の準備が必要なのだ。

 

 そして私はついに自分の中にあった禁忌の蓋を開けて、父に精一杯の上目遣いをしたままこう言った。

 

「皆が各々のできることを少しずつでも増やしていけば、領地の発展にも繋がりますし……王都でお父様に何かあっても、皆に留守を任せてすぐに駆け付けられるようになるかと思って。目指すのはその水準ですわ」

 

 その恥を捨て去った私の一連の攻撃に父は漢泣きをし、そんな事情を知らず本を手に戻ったアンナの心底冷たい眼差しに晒されて、別の意味でも泣いた。

 

 そんな感じで娘達に激甘な父を陥落させ、領地内を引っ張り回し、たった二週間しかない領地滞在期間のほぼ全てを妹と私の相手に費やさせた。はっきり言って鬼の所業である。世の家族持ちの休日返上サービスに脱帽だ。

 

 おまけに王都に帰っていく父が、王城を訪ねた際に使える手形を作ってくれた。愛娘のおねだりの威力、恐るべし。とはいえ、この手形で王城に入ることは叶わない。あくまで父への取次ぎを頼めるだけだ。

 

 しかし持っていて損をするものでもないだろうし、実際に父の身に何かあったときに使えるのだから、もらって嬉しくないはずがない。

 

「それではお父様、行ってらっしゃいませ。次のお帰りは春小麦の収穫頃でしたね。領民一同、お待ちしておりますわ」

 

「お父さま、わたし次のお土産は王都で流行りの海外小説がいいです」

 

「実に対照的な見送りの言葉だな。だがまぁ、頼もしく成長してくれて嬉しい。ベルタ、留守とアンナを頼む。アンナ、お土産は了解だが、ベルタの言うことをきちんと聞いてしっかり学びなさい。皆も適度に身体を休めつつ業務に当たり、娘達に虫が付きそうなら報告を頼む。では行ってくるよ」

 

 父はそんな年頃の娘に嫌われる余計な一言に、何となく一週間前に見た青年が頭を過ってヒヤリとしたけれど、微笑んで受け流す。

 

 そして彼はアンナが寝る間も惜しんで二週間で翻訳した短編小説の写しと、これまで公演したり、教会に張り出したものの写しをトランクに詰められるだけ詰め、月曜日の朝を迎えたサラリーマンのような顔で旅立って行った。

 

 ――この日を境に、私の第二の教育者人生は大きな野望と共に幕を開けたのだ。

 

***

 

 あっという間……ではないにしろ、特別凄い事件があった訳でもなく。かといって平坦なだけでもない日々を重ねるうちに、気付けばこちらに転生して女領主代理としてすごしてから、四年の歳月がすぎていた。

 

 転生してきた当時十一歳だった妹は、今や花も恥じらう十五歳に。私はといえば、ついに当初の目標年齢の二十一歳になってしまっていた。

 

 とはいえここまで下手を打ったつもりはないし、領内では妹のおかげであれからもグングンと識字率が上がり、去年からは優秀な者は王都の学校へ通わせる制度も作った。

 

 若干名いる役者志望の子達は、年に四回戻ってくる父のお墨付きが出ればだ。どちらも三年で芽が出なければ帰って来るようにと言い含めて、父が王都に帰る際に一緒に旅立たせている。

 

 若い働き手が減るかと思ったけれど、他所で噂を聞いたという移住者が一定数入ってきているので、流出ばかりでもない。これが農地開拓ゲームなら割といい線をいっているはずだ。

 

 そしてそんな領地の空を小鳥達が楽しげに歌いながら飛んでいく屋敷の前には、うちの領地で一番立派な馬車が一台停まっている。

 

 それどころかいつもなら細々と働いてくれている使用人達も仕事の手を止め、屋敷の人間総出で美しい当家ご自慢の次女を見送ろうと集まっていた。

 

「お姉さまは、本当に一緒に行かないの?」

 

「ええ、私はまだこちらでの仕事が残っているもの。アンナはどこから見てももう立派な淑女だわ。あのスカートで坂滑りしてた子が……淑女教育がギリギリ間に合って姉様は感無量よ」

 

「も、もうそんな昔の話はいいでしょう、お姉さま」

 

「あら、たった一週間前のことよ。記憶にあるでしょう? 教会の子供達と丘の上から収穫袋を使って滑り降りていたじゃない。見ていたわ。小さい子達と遊んであげて偉いわね」

 

 栗色の髪とライムグリーンの瞳と、サクランボの唇。色白小柄で儚げだった身体は出るところは出て、くびれるところはしっかりくびれている。思っていた通り、美少女からぐんと大人びた美女へと成長中だ。

 

 ――が、何故か行いは前世のこのゲームでは見たことのない方面に突き抜けていた。おかしい……予定表を見せて《今月の内容はこんな風でいいかしら、お姉さま》とはにかんでいた“アンナ”とは、もう別人の仕上がりである。

 

 目の前で指先を弄りながら誤魔化すように苦笑する妹につられて私も笑う。精神年齢だけではなく他の要素も私の教育のせいで改変されたのだろうか? だとしたら父に申し訳ないなと思いつつ、可愛いからまぁいいかとも感じてしまう。

 

「えー……と、それよりも、ほら、王都の屋敷の使用人は初めて会う人ばかりだから緊張するわ。だからお姉さまも一緒の方がきっといいと思うの。それに初めての社交界で失敗したら恥ずかしいわ」

 

「ふふ、まぁ、出立前にお小言は止めておくけれど……向こうの屋敷にはお父様がおられるし、人懐っこい貴女なら大丈夫よ。デビュタントにしてもお父様がエスコートして下さるわ。何よりデビュタントで賑わう会場内に、私と同年代の令嬢がいるとはあまり思えないもの」

 

「確かにお姉さまのように理知的なご令嬢は他におりませんけど……」

 

「嬉しいけれどアンナは私を買い被りすぎだわ。そういう点でも、一人で行動してみるべきよ。領地の外の世界は広いのだから。ね?」

 

 一応領地から出られるイベントルートは一つではなかった。この【妹のデビュタント】も、きちんと領地経営が規定値に達したルートとして存在する。実感が薄いものの、私は当初の目標だった最短ルートの端に引っかかっているはずだ。

 

 本当に数字(ステータス)の見えないゲーム世界で本当に良く頑張ったと思う。でも、まだそれだけ。確定したものは何もない。

 

 若干変わったルート分岐だと、妹のこの誘いに乗って自ら社交界で教え子の情報を探ることもできるが、あのルートは次のルートに繋がる確率の数値が毎回違う。要するに変化球のルートに相応しい運頼み。

 

 この世界で私は今度こそ【お嬢様】を助けたい。そのためには確実性のあるイベントでの本編入りルートが望ましいだろう。確実性のある分岐のうち今の年齢で入りかけているルートは多くて六つ。絞りに絞って二つ。

 

「何かあったら手紙を頂戴。姉様がすぐにアンナの元へ駆けつけるわ」

 

「お姉さまぁ……!!」

 

 こちらの提案に感極まった様子のアンナが胸に飛び込んできたのを抱き留め、華奢な背中を宥めるように撫でる。……若干良心が痛むけれど、許して妹。残りの分岐二つのうち一つは手紙でのルート入りで、もう一つは領内でのイベントなんだよ。

 

 私の最後の一押しで出発の決心をつけた彼女が馬車に乗り込み、屋敷の門を抜けて行ってしまった。

 

 そうしてそんな打算と愛情の板挟みになりながら、彼女の社交界への門出を屋敷の皆と総出で見送ってから一ヶ月後。

 

 ついに王都の父からの手紙が届き、中を検めた私は新しい章のルートが解放されたことに震えた。興奮か、はたまた恐怖か。それはまだ分からないけれど。

 

 ――これは私が今度こそ、教え子を死なせないための物語。



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*5* “お久しぶり”です。お嬢様。

 

 領地で留守を守る私に届いた手紙。その内容はゲームのシナリオ通りのようでいて、ほんの少しだけ異なる部分のあるものだった。恐らく私がこの年齢で本編ルート入りをしたのと、妹の教育を徹底的にしたというのが主な理由だろう。

 

 まず最初に家庭教師にと打診を受けたのは、私ではなく妹だった。

 

 城で文官として働いていた父の翻訳本の噂を聞き付けたコーゼル侯爵……教え子の父親が、父に話を聞くために社交場で話しかけてきたそうだ。何でも『娘の家庭教師をしてくれそうな令嬢を探している』と。

 

 そこで隣にいたアンナの翻訳したものだと話したところ、妹は即座にそれを私の教育のおかげだと言ってくれたらしい。

 

 ただ、私は六年前に社交界デビューをしてから今日に至るまで、ほとんど領地から出てこない謎の令嬢だった。社交が苦手で、女だてらに領主代理を担っている変人。それが前世このゲームでの私の紹介文だ。主人公の説明文が酷い。

 

 当然侯爵は迷っただろう。しかし妹はさすがに家庭教師に迎えるには若すぎる。ならば不安であるにしても『是非一度、ご息女とお会いしてみたい』というしかなかったのだ。

 

 そして今、私はコーゼル侯爵家ご自慢の薔薇の薫る庭園で、新たに教え子となる人物と初顔合わせをすべく、用意されたお茶の席についていた。

 

 しばらくはゲーム内で顔も出てこなかった侯爵夫妻と、教え子の身支度が整うのを待ちながら、庭園の薔薇について語ったりするのだろうかと思っていたのだけれど――侯爵夫妻どころか、メイドの姿もかなり離れた場所に控えた一人だけ。

 

 これもゲーム内では《“華々しい侯爵家かと思っていたが、内情は冷えきった家庭環境のようだ。”》という一文だけで割愛されていた。

 

 向こうから呼び出しておきながら、屋敷を訪ねて来た私に渡されたのは“申し訳ない。急な仕事が入ったので、先に二人だけで顔合わせを”と書かれた便箋一枚。気の長い私でなければここで帰ってしまうと思うぞ?

 

 侯爵家には教え子の他に二人歳の離れた娘がいる。すでに嫁いでいるその二人の出来が良すぎるために、末娘の存在が許せないのだろう。ぼんやりとそんなことを考えていたら、不意に「あの、」と声をかけられた。

 

 一瞬声が小さすぎてどこから聞こえたのか分からずに周囲を見回すと、一番近くにあった薔薇の茂みの陰からとても見覚えのある人物が現れる。

 

 最後にプレイしたときの初お目見えよりも、まだ少し低い背丈。けれど、前世の記憶にあるキラキラと輝く瞳で私を先生と呼んだ面影はどこにもない。

 

「わたくし、もう家庭教師なんて必要ありません。いらしても時間の無駄ですもの。帰った方がいいわ」

 

 そう出会い頭にいきなり澱んだ目で先制攻撃を食らわせてきたのは、誰あろう、私がこの世界で助けたいと思っていた少女だった。しかし囁くようなその声は、はっきりとした拒絶の色を滲ませていた。

 

「それは……何故でしょうか?」

 

 手にしていたティーカップをテーブルに置き、身体をそちらに向け直して瞳を見つめてそう問えば、彼女は俯いて口を開いた。

 

「今までの先生達だって……きっと生徒がわたくしでなければ優秀だったのです。わたくしの物覚えが……悪いだけ、ですわ」

 

 アウローラ・フリーデリケ・コーゼル。現段階ではまだ七歳……だったかな。主人公(ベルタ)と出会った当初は恐ろしく人見知りな子供。何人も家庭教師が辞めて行ってしまうため、家族には侯爵家令嬢の役割をまったく期待されていない。

 

 ふわふわと優しい雰囲気を纏ったよーく見れば美人さん。透き通るような美しい金髪と、ダークブラウンの瞳。垂れ目、垂れ眉。右の目許に黒子があるのもゲーム設定画そのままだ。

 

「貴女も……もしわたくしの家庭教師になったりしたら……今までの先生達のように、次の職場を探すのに苦労する、から」

 

 極度の人見知りなのに、初対面(・・・)の私に懸命に自分といると不利だと告げる少女。腰の辺りで握りしめられた小さな拳が震えている。

 

「いいえ、そのようなご心配は無用ですわ」

 

「――……え?」

 

 転生してからずっと、何が間違っていたのかを考え続けてきた。妹や領地の子供達を教えていくうちに少しずつそれが何だったのか、ようやく思い出せた(・・・・・)。導く者は、決して押し付ける者であってはならない。

 

 席を立ち、不安げに視線を泳がせまごつく少女の眼前まで歩いて、淑女として褒められた行為ではないが、芝生の上に膝をつく。視線の高さを合わせて安心させるために微笑むと、ダークブラウンの瞳が戸惑いと好奇心の狭間で揺れた。

 

初めまして(・・・・・)、アウローラ様。私はベルタ・エステルハージと申します。今日から貴女の得意なことを見つけて、一緒に伸ばすお手伝いをさせて頂く者ですわ。《“新しいことを知る楽しみを、昨日できなかったことができたときの喜びを。私はこれから貴女に差し上げたいのです”》」

 

 この台詞も、前世の最後辺りは綺麗事だと読み飛ばすようになっていた。駄目だなぁ。私、この台詞が大好きだったのに。

 

 それからほんの僅かな間を置いて、ひくりとしゃくりあげる音を聞いたと思ったら。少女のダークブラウンの双眸から、ポロポロと大粒の涙が溢れた。



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◉幕間◉わたしのお姉さま。

妹・アンナ視点です(*´ω`*)


 

 十五歳になって、ようやく本の世界で読んだ社交界デビューを楽しみに王都に来たけれど、目新しい世界に心が踊ったのはほんの一瞬で。

 

 毎回女性にはこう言っておけば良いとでも思っているみたいに、同じような台詞でダンスに誘われるのも容姿を褒められるのも、早々に嫌になってしまった。語彙の装飾が過多なのも少なすぎるのも考えものね。

 

 すぐに領地のみんなと収穫袋をソリにして滑った丘や、高い建物がほとんどないせいで広かった空や、お姉さまの馬に同乗させてもらって見に行った夕焼けが思い起こされた。

 

 王都にいる社交シーズンの間に、こちらでしか手に入らない本を翻訳しておきたいと思って、日中に買いに行ってもらっていた本を読む。内容はどれも領地で待つみんなの人気を意識して、恋愛ものや単純明快ですっきりする英雄譚。

 

 息抜きに必要なのは娯楽で、悲しいことや苦しいことはあまり人気がないもの。だけど――。

 

「はあぁ……一人で翻訳するのって退屈だわ。お姉さま、早く帰って来てくださらないかしら」

 

 思わず声に出して自室のドアを睨んだものの、ドアノブが回る気配は一切しない。さっきから廊下の気配に気を取られてばかりで、ずっと同じ行ばかりを読んでしまっている。

 

 お父さまは仕事でお留守だし、こちらの屋敷の使用人達とはまだ少しだけ距離がある気がするので、実質わたしの本当の味方であるのはここにいないお姉さまだけだ。でもそれを不満に思うのはわたしの我儘だと分かっている。

 

 社交場でお父さまといるときに話しかけてきた、コーゼル侯爵という男性にわたしの翻訳を褒められて、思わずお姉さまの名前を出してしまった。そのせいで社交が苦手なお姉さまを、そんな気ではなかったにしろこちらに呼び寄せてしまったのだから。

 

 今日は、そのコーゼル侯爵家に生徒になるかもしれない令嬢との顔合わせに出かけている。もしも令嬢が気に入ってお姉さまを家庭教師にと求められては、寂しいけれど家格からいってわたし達の家に断る道はない。

 

「相手の令嬢がお姉さまを気に入らなければいいのに……なんて、そんなこと、あり得ないわよね」

 

 優しくて、聡明で、慈愛に満ち、身分に頓着せずに分け隔てなく知識を与え、自分ですら気付けない価値を接する全ての人々に教えてくれる……まるで創生の女神のように素晴らしいお姉さま。

 

 本当は勉強なんてつまらないことは、必要な部分だけを押さえておけばそれ以上頑張る必要なんてないと思っていた。貴族の娘は多かれ少なかれ、淑女の心得を母親から学ぶ。

 

 けれどわたしの家はお母さまが早くに亡くなったせいで、それがほとんど終わっていなかった。お父さまはそれを気にして、城に出仕して領地を留守にする間に家庭教師をつけて下さり、勉強されるお姉さまの隣でわたしは人形遊びをして過ごしたけど……今にして思えば、絶対に邪魔だったわよね。

 

 背筋をピンと正して授業を受けるお姉さまは、けれど、いつもどこか退屈そうで。まだ三十代くらいだった女性の家庭教師は、お姉さまが間違えると手の甲を物差しで打った。

 

 うっすらと赤みを帯びるお姉さまの手の甲を見て、幼かったわたしはとても強い憤りを家庭教師に向け、実際に家令のギルバートに頼んで、王都にいるお父さまに何度も手紙を出そうとした。でもそのたびにお姉さまに先回りをされて、手紙は一通もお父さまの元に届くことはなかった。

 

 そして優秀な生徒だったお姉さまは、あっという間に家庭教師など必要としなくなり、最後の授業を終えた日に『もう教わることはありませんわ、先生。今日までお世話になりました』とお姉さまが仰ったときには、本当に誇らしくて。

 

 それをお姉さまが傲っていると怒り出した家庭教師に、お姉さまはにっこり笑って『お客様(・・・)のお帰りです』と追い出してしまった。あのとき本当はまだ契約期間中だったと知ったのは、ずっと後になってから。

 

 でも期間中に契約を破棄した違約金をきっちり払っていたので、相手も何も言えず引き下がったとギルバートが教えてくれた。本当にお姉さまは凄い。

 

 八歳から家庭教師をつけられたお姉さまは十二歳で家庭教師を解雇し、わたしの教育をしながら、家令の教えと独学に加え領地の領民から話を聞いて、十五歳でギルバートを右腕に領主代理の肩書きを手にした。

 

 貴族の子女に求められるのはお飾り程度の知識と美しさだけだと、どの教本にも載っている。けれどそれでは駄目なのかもしれないと思ったのは、お姉さまを見ていたからかもしれない。

 

 ――十五歳。

 今のわたしと同じ歳。

 

 デビュタントでお姉さまが王都に行ったほんの一瞬だけしか、甘ったれなわたしがお姉さまと離れた記憶はない。それが四年前にお姉さまが過労で調子を崩されたことで、これまでのように甘えたままではいけないと悟った。

 

 お母さまに続いてお姉さままで亡くしては、わたしもお父さまも生きていけない。そんな打算的な考えが半分、役に立って疲労を軽減させて、あわよくば認められたいという……やっぱり打算的な思いがもう半分。

 

 だけど、勉強に今までよりも真剣に打ち込む理由なんてそれで充分だった。お姉さまもそんなわたしの姿勢を喜んでくれ、同時に大袈裟なくらい褒めてくれた。初めて姉妹で領地の仕事をした日はいつもよりうんと褒めちぎられて。夜も褒められすぎて興奮で眠れなかったくらいだったわね。

 

 そこまで記憶を遡らせてから、改めて手にしたままの本に視線を戻す。するとどうしたことだろう。今まで文字の上を滑っていくだけだった視線が文字を拾い上げていく。

 

 一行、一行を視線でなぞり、何度も何度も、気に入った言い回しを思い付くまで紙に書き綴った。ペン先が性急に紙の表面を引っ掻く音と、インクの香りが室内を占める。

 

 もっと、優しい労りの言葉を。もっと、熱烈だけれど素直な愛の言葉を。もっと、心を憎しみに駆られる醜い言葉を。

 

 ――もっと、もっと、もっと、もっと。最初の読者であるお姉さまを驚かせて、その心を楽しませるものを――。

 

 ――……、

 ――――……、

 ―――――……、

 

 気を付けていたのに右手がインクの乾いていない部分に当たり、紙に擦れた跡がついてしまった。軽く舌打ちをしてその頁を床に捨てると、不意にすぐ近くから「淑女が舌打ちをしてはいけないわ」と声がして。

 

 弾かれたように視線をあげた先にあった穏やかなダークグリーンの瞳に、眉間に皺を刻んだわたしの顔が映り込んでいた。

 

「こっちの表現はとても詩的で好きだけれど、こっちの頁の情熱的な意訳も好きだわ。やっぱりアンナの翻訳の才能は素晴らしいわね。原作を崩しすぎない解釈なのに、原作よりも面白くなっているもの」

 

 社交場で聞いたようなお世辞の色のないお姉さまの称賛は、わたしにとっての何よりのご褒美だけれど――。

 

「いつ戻ってきたの?」

 

「そうね、一時間ほど前かしら? アンナがあんまり一生懸命だったから、声をかけそびれてしまって」

 

 そう微笑むお姉さまを見つめてふと思う。

 ――十五歳。わたしは何ができるだろうか。



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*6* まずは得意科目など。

 

 転生してから実質今日が初めての【教育コマンド】の確認日になる。加えて言えば、転生する前のお嬢様に会うまでの期間は領地の発展が主ではあるものの、一応主人公(ベルタ)の教育コマンドもあるにはあった。

 

 とはいえこれはノベル形式に則った性格診断のようなもので、ノベル部分で現れるいくつかの選択肢の中から、自分の考えに沿ったものを入力する単純なものだ。

 

 最も記憶に残っているのは主人公(ベルタ)の家庭教師に対しての返答だったと思うけれど、あんまりにも教育者として嫌なキャラクターだったので、選択肢の中でもかなり厳しいものを選んで入力した。

 

 その内容は家庭教師としては一番屈辱的な【途中解雇】である。幸い前世でこれをされたことはなかったけれど、絶対にされたくない。その前科があるせいか前日は緊張してあまり眠れなかったんだよね……。

 

 しかしそんなことはおくびにも出さず、私は昨日と同じく庭園に用意されたお茶席の正面に座る少女に向かい安心させようと微笑み、口を開いた。

 

「こんにちは。今日からよろしくお願い致します、アウローラ様」

 

 何でもないような発言にも真剣な表情でこくんと頷く姿が可愛らしくて、思わず笑ってしまいそうになるのをグッと堪える。

 

「昨日はあまりお話ができませんでしたので、今日はまずアウローラ様のお好きな勉強を教えて頂きたいのですが、よろしいですか?」

 

 これにもこくんと頷く。妹といい、教え子(アウローラ)といい、この世界の女の子はお人形のように可愛らしい。まぁ、元をただせばゲームの世界なのだから、可愛くない女性キャラクターの方が少ないのかもしれないけれど。 

 

「……何でも、いいの?」

 

 風に震えるスズランの花がその名のように鳴るのなら、きっとこんな声だろう。か細くても可憐な響きを持っている。

 

「ええ、勿論ですわ。お好きなものをと申しあげたのは私の方ですから」

 

 怯えを取り除こうと意図してにこりと笑えば、お嬢様はあからさまにホッとしたように肩の力を抜いた。

 

 前世のこのゲームでの教育コマンドは大まかに分けて、教養(所作やマナー)、芸術(絵画や音楽)、体力(舞踏)、魅力(社交)、知力(学力)と五つに分類されていた。コマンドは初級・中級・上級とランクがあり、各パラメーターを全て上げきるとさらに上位のコマンドを選べるようになるというシステムだ。

 

 これが仮に教え子が男の子だったらたぶん、統率(指導力)、武力(体力)、知力(学力)、内政(領地経営)、魅力(侠気)とかなんだろうか。このゲームシステムが男女で教え子を選べたら面白そうだったのにと思わなくもない。

 

 たぶん上げる順番や上げる科目でストーリーが変わるのだろう。前世の私はこれを全て同じように伸ばすことに腐心した。とはいえ、今回はパラメーターが目視できるわけではないので、この先の成長度合いを測るのは前世で培った家庭教師と塾講師の勘頼りになるだろう。

 

 アウローラは紅茶を口に運ぶ私の顔色を気にしながら、おずおずと口を開いた。

 

「だったら、歴史が好き、だわ」

 

「成程、歴史ですか。では歴史の中のどのようなものがお好みでしょう?」

 

 なんと……ここにきて初めての事実発覚。お嬢様は歴女(レキジョ)だったのか。この三年間密かに勉強しておいて良かった。最初の振り分けは知力か。ご令嬢の好むものとしては渋いけれど、英雄とお姫様のロマンスなども多いから、そちらの方面で好みだとしてもおかしくはないだろう。

 

 ――と、思っていたら。

 

「歴史の中で、戦争のあとに国を建て直す、宰相や文官のお話が好きなの」

 

 うん……七歳にしては着眼点が渋いね? しかし前世からそういう子は嫌いじゃないですよ。この手の子供は興味のあることへの吸収が恐ろしく早い。今世でもすでに妹で実感済みだ。

 

「良い着眼点ですね。では、まずはその辺りの教材を重点的にご用意させて頂くとして、他にご趣味や好きなものなどはございますか?」

 

「ええ……と」

 

「ゆっくりで大丈夫ですよ。時間はまだたっぷりありますから」

 

 そう言って、今度はわざと視線を彼女からずらしてクッキーの載ったお皿に移す。一旦注意を逸らすことで緊張している相手の考えが纏まることも多いからだ。アウローラもご多分に漏れずそのタイプではないかと推測する。

 

 案の定ジャムクッキーを三つほど摘まんだところで、彼女の口から「絵を描くことも、好き」との言葉を引き出せた。もう少し聞き出したいところだけれど、人見知りの子供に一日目でグイグイ迫ると警戒される。今日はこれ以上の情報を聞くのは止めておこう。

 

「まぁ、そうなのですね。私は絵心がまったくないので羨ましいわ」

 

「……大人でも、苦手なことがあるの?」

 

「はい。私は他にも刺繍があまり好きではありません。見本があればその通りに刺すことはできますが、それだけです。絵心のなさが関係するのかもしれませんね」

 

「同じものが作れるのは……すごいと思う、けど……」

 

「ふふ、褒めて下さってありがとうございます。ですが、何枚も同じ構図と色の刺繍があっても困りませんか? たとえば……同じドレスを何着も必要とすることがないのと一緒です」

 

 このたとえ方は想像がつきやすかったのか、アウローラはゲームのスチルと同じく眉を下げて気弱そうな微笑みを浮かべる。こうした他愛のない会話でも積み重ねれば【魅力】が上がるのだけれど――。

 

 純粋に「おかしなたとえ方ね」とクスクス笑う姿は、家庭教師だからということを差し引いても、(アンナ)がいる身としては守ってあげたいと思わせた。

 

 ひとまず当面は【知力】と【芸術】と……大きく離して【魅力】を上げていくことにしよう。今夜からは久々に教材作りに徹夜することになりそうだ。

 

 ――と、実際にそこから次の行動を割り出して行く日々が続いて。

 

 侯爵家からはひとまず社交界シーズンの終わるまでの依頼を受けていたものの、アウローラが私に慣れて警戒心を解くまではじっくりとことを進めたかった。

 

 社交界シーズンは通常四月から八月。エステルハージ領は若干王都から離れているので、三月の終わりに出立して四月の社交界シーズンに間に合わせる。父から手紙が届いた私が到着したのは五月の一週目。初顔合わせはその翌日だ。

 

 限られた時間で雇い主(保護者)と生徒の心を掴み、雇用口を得るのは前世も今世も変わらない。それにどのみち社交界シーズンが終わってから領地に戻るか否かは、私だけでは決められないのも事実だ。となれば、外堀を埋めるという手が後々効いてくると信じて布石を打つのも無駄ではないはず。

 

 そこで顔合わせに一回目。

 好きな科目を聞き出すのに二回目。

 嫌いな科目を聞き出すのに三回目。

 いつか挑戦したいことを聞き出すのに四回目。

 趣旨を変えて私への質問を受け付けるのに五回目。

 

 ――というように距離を縮め、六回目の今日はついに二回目の顔合わせから毎日深夜まで作った教材のお披露目の日だ。

 

「先生、これは……?」

 

 この五日間で再び得られた“先生”の称号に、一瞬前世で最後に見たバッドエンド場面がちらつく。しかし今は優しげなダークブラウンの垂れ目が、テーブルの上に積まれた教本を見て僅かに見開かれているところだ。

 

 うんうん、この思ってもない量の課題を持ってこられて不安そうな顔をする生徒を見るのは、前世も今世も良いものである。徹夜の苦労も報われるね。

 

「日数が足りなかったので数は少ないのですが、アウローラ様がお好きだと仰っていたものを元に、いくつかご用意致しました」

 

「でも……数学と外国語は、嫌いだと言ったわ」

 

「ええ、存じ上げております。けれど中を見て頂ければ分かるかと思うのですが、それぞれの頁の文章を読んでみて下さいませ。アウローラ様ならば、すぐに隠されたそれらが分かると思いますわ」

 

 滞在期間の残り時間が足りないので、市販の教材にちょっと手を加えた。この国で唯一のアウローラ専用問題集である。教科書の隙間に彼女の好きな歴史の人物の豆知識や、そのとき取った政治的な行動などに解答が関係するようにした、いわば即席のゲームブックのようなもの。

 

 ちょっと小狡いやり方だけれど、実際これだけでも教科書の文字を読む際に視線が滑るのを抑止する効果が期待できるのだ。教育は好きと嫌いの抱き合わせ商法が大切である。

 

「問題に正解したら、国外のそういった逸話をお話して差し上げますわ。この国どころか近隣諸国でも訳されていないものを。一度に全部お話しては勉強が進みませんので、小分けにしてですけれどね」

 

「本当? 本当にそんなお話があるの?」

 

「はい。このベルタ、アウローラ様に嘘は申しません。最初は……そうですね、遠い遠い東の国のお話か、同じくらい遠い砂漠の国のお話、草原の騎馬民族のお話などは如何でしょう?」

 

「どれも……聞いてみたいわ」

 

「ではそちらの教本を開いて、分からないところがあれば質問して下さい。取り敢えず三頁できれば、十五分ずつお話を聞かせて差し上げますね」

 

「さ、三頁で十五分は……短いわ」

 

「近隣諸国のどこにも出回っておりませんから。稀少価値の問題です。さ、ペンをお取りになって下さい」

 

 唇を不満げに尖らせる教え子を見て苦笑しつつ、隣に立って教本の表紙を開くまだ穢れを知らない小さな手を見つめていた。

 

 何度もペンを止めて、戸惑いがちにこちらを見上げ、か細い声で質問をされ、手がかりを与えて答えに導き、そこに隠されていた数字を見つけ、どの本の何章を下敷きにしたかを発見したとき、教え子の顔が達成感に輝く。

 

 何度も何度もそんな小さな喜びを感じさせ続けると、子供は放っておいてものめり込む。こうなると大人よりも集中力を発揮させるのは子供の強みだ。要所要所に散りばめたほんの少し難しい問題も、手こずりながら何とか解こうとする姿は領地の子供達と同様に可愛らしい。

 

 子供に限らず人に何かを教えるときに立ちはだかる壁。それを乗り越えられない際に【憶えが悪い】と他者は言う。それは間違いではないのかもしれないが、正しくはない。単に【興味がない】のだ。

 

 何が面白いのか分からないことなど永遠に謎のままでも問題ない。勉強とは本来その人にとって【面白い】ことを探すためにある。好き嫌いを直す方法だってそうだ。苦手な野菜を食べさせるときに、細かく刻んでやるように密やかに混ぜ込み、食べられたあとに種明かしをして達成感を味あわせるのと同じである。

 

 好きか、嫌いか。

 合うか、合わないか。

 面白いか、つまらないか。

 

 この解だけはいつだって簡単に見つけられる。それもまぁ、自分が自分を大切にしていればの話だけれど。

 

 ――いつしか質問が減り、静かな室内にアウローラが走らせるペンの音だけが響くようになる。

 

 時折コーゼル家のメイドが紅茶を淹れ直してくれるので、手をつけないのも忍びない。そのたびに少量ずつ飲んでお腹が少々重たく感じるようになった頃「できたわ!」と、出逢ってからこの方一番大きな声で教え子が教本を叩いた。

 

 興奮状態の教え子の手許にある教本を覗き込めば、結構な計算と綴りの間違いが見て取れたものの、ここは一旦目を瞑ろうか。

 

「では答え合わせはあとにして、先にご褒美のお話にしましょうか。何が聞きたいか決めて下さいね」

 

 そんな私の言葉に大きく頷いて真剣に悩み始めた教え子を眺め、小さな手応えを感じながら紙のよれた教本の頁を撫でる。積み木のように少しずつ。今度は急かさず形にしよう。



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*7* 滑り込みで新ルートが現れた!

 

 社交界シーズンが終わるまでもうあと一週間。まだアウローラに契約期間の話しはしていないので、このままだと私も彼女も一度自分の領地に帰ることになるだろう。

 

 特にアウローラに至っては今回私との顔合わせに王都に呼ばれただけで、まだデビュタントまでかなりあるから、それまで自領から出されることはまずない。

 

 何かしらのイベント分岐があったのかもしれないけれど、初めてのシナリオに沿うことに必死で綻びを見つけることができなかった。残念ながら来年の社交界シーズンにまたこちらに出てきて侯爵に自ら接触をするしか、現状のルートに戻る道はなさそうだ。

 

 しかし最初のうちは私が傍にいる時間にしか課題を開くことのなかった少女は、徐々に解けるコツを掴み始めると、夜の間に九頁ほどを片付けて翌日すぐに前日の話の続きをねだるようになっていった。

 

 この場合、答えが合っていようが間違っていようが構わない。それは確かに合っているに越したことはないのだが、自発的に机に向かって勉強をするということが大切なのだ。

 

 夜な夜な自室に蜂蜜入りのミルクを持ってくるように頼む少女の変化に、まず屋敷のメイド達が気付いた。以前までは侯爵家の令嬢であるのに常にビクビクとし、使用人達からすら逃げていた彼女が自分から話しかけて頼みごとをしたという、そんな些細な変化。

 

 けれどそれを些細かどうか分かるのはいつだって身近な人物である。

 

「昨夜娘がわたしの執務室を訪れて、貴方が作ったという教本の問題のヒントになりそうなことを訊ねてきた。以前までなら考えられなかったことだ」

 

 授業を終えて帰ろうとしていた私に、美味しい紅茶を分けてくれると言う教え子を玄関ホールで待っていたら、珍しく屋敷にいたコーゼル侯爵に呼び止められてそう言われた。

 

「まぁ、それは……ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」

 

「いや、違う。そうではないのだ。そうではなく――……あれは、貴方の授業についていけているのか」

 

「はい。家庭教師としてそのようにお教えしておりますので」

 

 教え子を“あれ”呼ばわりされたことに、少々カチンときてそうやや慇懃無礼に答えると、侯爵は視線を床に落とし、綺麗に整えられた口髭を撫でながら「そうか……」と呟く。

 

 侯爵は教え子のふんわりとした見目とは対照的に、全体的に硬質な印象を纏った人物である。少し暗めの金髪と鋭いダークブラウンの瞳は、見る者に威圧感を与えるし、顔立ちも渋めで整っているのだけれど……威厳を持たせる口髭もあの子の目には怖く映るのだろう。

 

 初めて本物を見たときは、ゲームに登場しなかった人物に出会う不思議さを味わった。ちなみに侯爵夫人はプラチナブロンドにトルマリンの青い瞳を持つ、柳腰のたおやかな美女である。育成ゲームの出番のない夫婦に随分な大盤振る舞いだなと思ったのは内緒だ。

 

 黙り込んでしまった侯爵に位が低い私から言葉をかけることはできない。無言で床に張られたモザイクタイルの数を数えていると、先にお土産の紅茶を持って駆けてくる小さな足音が聞こえてきた。

 

 ――時間切れだ。そう思って床から視線を上げた直後。

 

「エステルハージ嬢。貴方にも領主代理という使命があるのは、重々理解しているつもりだ。こちらから急に頼み込んだ挙げ句、雇用期間まで決めておきながら身勝手な願いだと分かっている」

 

 突然話始めた侯爵がそこで一旦言葉を切る。続きを口にしようか迷いの残るその瞳を見つめ返して、僅かに頷き返すことで先を促した。

 

「どうか娘のためにこのシーズン後は、我が領地まで同行してもらえないだろうか。期間は……半年ほどで。謝礼はそちらの提示する要求額を用意させて頂く」

 

 二つも階級の低い相手に言葉を選ぶ侯爵を見つめながら、内心では“はい喜んでー!”と居酒屋のバイトさんのように元気に返事をしたものの、表向きは令嬢らしく深く腰を落としたカーテシーを取りながら微笑む。

 

「私のような者を相手にそのようなお言葉を……過分なことでございます。ですが、家族と一度話をしてからお返事をさせて頂きたいのですが」

 

「それは勿論だ。一週間後に返事を聞かせて欲しい」

 

「畏まりました」

 

 こうして途中退場秒読みの段階でシナリオに新たなルートが現れた。前世の感覚でいくと親御さんのお試し期間が延長なら、本採用だってあり得るのだ。この好機必ずものにしてみせるぞ!

 

***

 

 半年間の雇用延長と、向こうの領地への同行を打診されたと父とアンナに伝えたら、父は渋い顔をして『階級社会が恨めしいが、嫌だと思ったら途中でもいいから領地に帰れるようにしよう。あまり深入りしないように』と言い、アンナは『そのお嬢さまの成長に期待ね』と真逆の反応を見せた。

 

 反応としては父が正しい。子爵家の人間と侯爵家の人間など、貴族社会においては同じ人間と言うくくりでしかないからだ。

 

 そして今夜は領主代理を一時的に承諾してくれた妹が、シーズン最後の夜会に一度だけ姉妹揃って行きたいと言い出したので、苦手な場所ではあるものの、何故か父が用意していた私用のドレスに身を包んで出席中である。

 

 煌びやかなシャンデリア、視界の至るところで翻る流行のドレス、父以外の貴族男性、アンナと同じ歳頃のご令嬢達のキラキラとした瞳。

 

 触れ合うグラスの音と、さざめく声、談笑の中で弾ける笑い、ひっそりと聞こえる嘲笑。良いものも悪いものも入り交じるこの空気を、きっと六年前に私も味わっているのだろう。

 

 シナリオになかったから知らないだけで。ゲームの舞台裏設定か何かにはあったんだと思う。たぶん。物語(ノベル)部分の行間から心の目で見た……気がする。一人だけ年齢的な場違い感が居たたまれないけど。

 

「お姉さま、この果実水とチーズもとても美味しいわ。あと、こっちのサーモンが乗ったクラッカーも」

 

「ふふ、アンナは素敵な殿方とのダンスよりも美味しい食べ物の方が好きなのね。私がいない間の社交もずっとこうだったのかしら?」

 

「そうよ。そのおかげでお父さまと一番多く踊ったくらい。だからわたしは素敵な男性とのダンスよりも、領地では見ないような美味しいものの方が好き。でももっと好きなのはお姉さまよ」

 

 まだお酒を飲めないアンナは、それでも私が口にする果実酒に興味津々といった風で、時々「一口だけ……駄目?」とねだってくる。傍を離れる予定もないので「ちょっとだけね」と与えれば、嬉しそうに笑う。離れている間の分は、今のうちにしっかり甘やかして愛情を感じさせないと。

 

「あらら、それは嬉しいけれど、随分と勿体ないわね」

 

「だってどの人も同じことしか言わないのだもの。退屈よ」

 

「具体的にどんなことを言われるの?」

 

「ええと……お綺麗ですね、お一人ですか、妖精かと思いました、この会場内で一番お美しい、恋にご興味はおありですか、今夜貴女の瞳に映るのが私だけなら良いのに、よろしければこの後一緒に抜けませんか……とか。そんなのばっかり」

 

 ――妹よ、彼等の何割かは本気で言っていたのだと思うよ。確かにお酒が入っていない状態で聞かされても不審感しか持てない内容ばかりだけど。特に――。

 

「そう。取り敢えず、最後の男にだけはついて行っては駄目よ? すぐにお父様の元に戻って、誰に言われたのか教えるの。良いわね?」

 

「うふふふ。はーい、お姉さま」

 

 私の腕に自らの腕を絡めてふにゃりと笑う美少女に、周囲にいる男性陣からの視線が集中しているのが分かる。隣にいる保護者の私を邪魔に思っている視線も。綺麗な衣装に身を包んだ野獣共の群れから姉である私が妹を守らねば。

 

 ドラマや小説にあるような“身分の低い貴族の娘だから、ちょっとくらい遊んでも”などと思われては堪らない。妹にそんなことをしたら何をとは言わないけど、伐採してやる。こっちも領主代理をする程度には護身の心得くらいあるのだ。

 

 もともとの悪企み顔を利用して周囲をうろつく男性陣を睥睨すると、疚しい者達はそそくさと立ち去っていった。けれど会場の入口付近がにわかに騒がしくなり、遅れてきた主賓かと思ってそちらに気を取られていたそのとき――。

 

「あ、あの!! エステルハージ嬢!!」

 

 突然そう声をかけられて妹と一緒に振り向いた先に立っていたのは、私が人のことを言うのもなんだけれど、垢抜けないぽっちゃり型の青年だった。背が大きなことでかえってぽっちゃりが強調されている。どうやら周囲にいた不埒者達に押し退けられて今まで近付けなかったようだ。

 

 気の毒に酷い癖毛なのだろう。不潔さはないのに絡まった黒い前髪の間から、古酒を思わせる赤みがかった琥珀色の瞳が気弱そうに覗いている。落ち着きなく小刻みに震えている様から彼の尋常ではない緊張感が伝わってきた。

 

 しかし問題はそこではない。私と妹は顔を見合わせ、再び彼へと視線を戻して同時に口を開いた。

 

「「どちらのエステルハージ嬢でしょうか?」」

 

「え、どちらの……とは、そちらの方も……?」

 

 その困惑顔に“あ、似てないからか”と思うのは私だけだったらしく、妹は彼に向かって眉と目尻をつり上げた。淑女教育の賜物か声こそ上げないが、その表情はかなりご立腹である。

 

 ――が、彼はいきなりガバッとその長身を折って「あ、貴女の翻訳書のファンなんです! す、すみません、それだけ伝えたくて!」と、叫ぶように告げて思いのほか機敏な動きで逃げ出した。

 

 妹も、周囲も、勿論私もポカンとして立ち尽くす。何だろう……ここまで注目されることをしたなら、せめて名乗っていけばいいだろうに。ちらりと妹を見下ろせば、困惑の中にほんの少しだけ喜びが見える。せっかく妹の記憶に斬新な登場と台詞を刻み付けられたのに勿体ない。

 

 この会場のどこかにいる父にあとで聞いてみようか――。

 

 彼が走り去った方向を気にしている妹を観察しながらそんなことを考えていると、今度は会場の人々の隙間を縫ってこちらに向かってくる人物が一人。

 

 その人物はいつかどこかで見たような、赤みをおびた金髪と紺色に近い青の瞳を持つ青年だった。

 

 



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★8★ 記憶の糸の先に。

 

 家令が遅れてやってきた俺の招待状の確認を終え、控えていた使用人達が両側から豪奢なドアを開いて中へと誘う。すでに始まってから一時間は経っているだろう会場内の視線が、一斉にこちらへと集中する。

 

 その中から会話を交わしたことのある人物達と軽く会釈を交わしたり、二言、三言会話をしつつ歩を進める。頭上で輝くシャンデリアも、令嬢達のドレスの波も、目に痛いほどだ。

 

 ――……こういった煌びやかな場所は未だに慣れない。

 

 世の中には招かれてでもいなければ絶対に足を踏み入れたくない場所がある。俺の場合はそれが今夜のような社交場なわけだが、長子である自分がそれでは弟の立場を悪くする。

 

 自分のことだけであれば必要最低限の出席で済ますことができるものの、社交シーズンは特に仕事上の問題もあるので断れないのが厄介だ。元の地位であればここまで面倒なことにはならなかっただろう。

 

 今夜招かれた夜会は社交シーズンの最後を飾るものだ。今年デビュタントだったのだろう年若い令嬢達が、各々の家の期待を背負って懸命に将来有望そうな男達との会話に花を咲かせている。

 

 男のように剣を振るわず、血を流さなくとも、ここはすでに彼女達にとっての戦場なのだ。

 

 ――ヴィクトル・ゴーティエとして従軍したのは十六歳の頃。

 

 前年に父を戦場で亡くして当主の座についたばかりだったが、まだ国内では歴史の浅い子爵家であったゴーティエ家に必要なものは箔だと、誰に言われるでもなく感じていた。まだ幼い弟と歳若い未亡人の母。

 

 父の遺した領地と財産を、あまり仲が良好ではない親戚達に奪われないようにするには、戦場で功績を立てて利用価値のある臣下であることを王家に見せつけるべきだと感じ、父のあとに続いて戦場に出たのだ。

 

 長年ジスクタシアの国境線付近を騒がせている蛮族を相手に戦闘を繰り広げ、二十一歳までに挙げた戦果で伯爵の地位を賜り、以降ヴィクトル・ホーエンベルクと姓を変え、八歳下の弟にゴーティエ子爵の位を譲った。

 

 普通に考えれば……この上なく名誉なことである。

 

 そのおかげで守ろうと思った生家から出る羽目になってしまったとしても。身の丈に合わない伯爵という地位に対しての多少の居心地の悪さも、いずれは慣れていくものだ。しかし……そう思っていた俺の肩にその後さらに乗せられたものは、流石に身の丈に合わなさすぎた。

 

 当時従軍した貴族の子息の中でも最年少であり、当主の座についたばかりの俺は、実際にその肩書きだけでも上層部の興味を惹いたらしい。そんな俺が戦場でそれなりの働きをしたことで、王までもが興味を持って下さった。

 

 だが、過ぎた名誉はときにやっかみの種になる。不敬な話だが当時は興味を持たれても有り難迷惑でしかなかった。

 

 伯爵の地位を賜って少し経った頃、俺の元にやんごとなき身分の子息の家庭教師になって欲しいという。表向きは【嘆願】だったが、実際は【勅命】のようなものだ。幼い頃から次期当主として一通りの教育は受けて育った。

 

 むしろ父はかなり厳格な部類であったので、子爵家の跡取りとして以上の教育だったように思う。階級によってはところどころで不足となる点もあるだろうが、大抵の家庭教師を必要とする年齢の子息にならものを教える自信はあった。

 

 けれどそれも家格がそれほど開いていなければの話だ。そう考えるといくら戦果を挙げたとはいえ、件の伯爵という地位の恩賞はこのためだったのかと勘繰ってしまった。

 

 断ることはできないと分かっていたがすぐには答えが出せず、気分を変えるために半年間の暇をもらって他の領地を回ることにしたのだ。

 

 商人と旅人の中間のような格好をして、特にあてもなく馬車で一緒になった人間達から村や町の情報を聞き出し、気になる場所があればそこに向かって足を伸ばして見聞を広げた。

 

 そういえばその中でも商人達の口から一番噂を聞き、現在の要職につく切欠になった領地があったなと当時を懐かしんでいると、どこからか『あ、あの!! エステルハージ嬢!!』という、切羽詰まった声が聞こえて立ち止まる。

 

 領民の識字率が周囲の他領地に比べて異様に高く、運が良ければそこそこの演劇を観ることができると評判の領地。そうだ、確かあの地は“エステルハージ領”だった。馬車の出発時間が圧しているということに気付き、風変わりな彼女と会話の途中だというのに挨拶もせず慌てて走り去った、あの地だ。

 

 吸い寄せられるように向かったその先に、寄り添うように立つ二人の令嬢の姿をみとめ、また当時に記憶が遡る。結果として思い悩んでいた俺の背を押した人物。

 

 領主代理だと言うその令嬢はやや陽に焼け、ソバカスが散った顔に、意思の強そうなつり眉と、その下にある穏やかそうなダークグリーンの瞳、鮮やかな赤煉瓦色の髪を持っていた。

 

 ――……ちょうどいま俺と視線が合っている、目の前の彼女と同じに。



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*9* いざ、新天地へ。

 

 思わぬところで思わぬ人との再会を果たしたときというのは、何故か棒立ちになってしまうけれど、いまがまさにそうだった。相手もこちらに向かってきたはいいものの、どう声をかけようか考えあぐねているのが手に取るように分かる。

 

 間抜けな話だが、私達は前回名乗り合うことすらしていなかったせいで、お互いの名前すら知らないのだ。これでは声をかけた方がいいのか、遠慮した方がいいのか分からない。

 

 おまけにパッと見ただけでも、身に纏っているものから相手の家格の方が高いことが推測できた。やはり若い頃特有の自分探しの旅の途中だっただけの、やんごとない身分の人だったようだ。

 

 だとしたらそんな彼がこちらに来た理由は……あのとき何故か紹介する前に姿を消したから、妹の姿を見たくなったとか? 

 

 そうなるとついさっき走り去った彼同様、ファン同士で妹の好感度が片寄らないように“四年前から貴女のファンの人よ”と口添えすべき? でもそれって受け取りようによってはストーカーっぽく聞こえるよね?

 

 さっきの彼がファン一号……いや、実質こっちの彼がファン一号で、さっきの彼がファン二号なのか?

 

 内心悩みつつ視線だけは逸らさないでジリッと半歩前に出て、妹を背後に庇う形で立ち塞がる。うん、ここはひとまず向こうが話かけてくるのを待とう。私は前世からことなかれ主義なのだ。

 

 ――と、

 

「お姉さま、こちらの方はお知り合いですか?」

 

 一足早くファン二号(仮)が走り去ったショックから立ち直った妹が、私の背後からヒョコッと顔を出す。あちゃー……出方を窺うつもりがこっちから話を振ってしまった。この迂闊可愛い妹め。

 

「ええ……と、以前にお逢いしたかもしれないけれど……知り合いでは、ないわ。そうですわね?」

 

 どうにか妹の質問に答えつつ、相手側に説明責任をぶん投げた。だってあのとき彼が急にいなくなった理由を私は知らないからだ。知らないものは説明できない。

 

 すると彼は「憶えてくれていたのか」と少し意外そうな表情を浮かべる。無言で頷き返せば、何を勘違いしたのか妹が「え、お姉さまの甘いお話?」と、背後から興味津々で囁いてきた。その問いに苦笑しながら首を横に振る。十五歳といえば、箸が転がってもロマンチックが止まらない年頃か。

 

「四年ほど前にお逢いしたときは、名前を名乗らず申し訳ありませんでした」

 

「いや、貴方が謝ることでは――。こちらの方こそ、あのときは呼び出しておきながら急に姿を消してすまなかった」

 

「いえいえ、こちらこそ……、」

 

「いや、しかしこちらが……、」

 

「こちらは姉のベルタ・エステルハージで、わたしは妹のアンナ・エステルハージと申します。そちらのお名前は何と仰るのかお訊ねしても構いませんか?」

 

 お互いに大人の暗黙のルールである“どうぞどうぞ”をやっていたら、背後から頼もしい妹がぐだついた空気を一刀両断してくれた。十代の忖度(そんたく)知らずの強さよ。

 

「ああ、これは失礼した。俺はヴィクトル・ホーエンベルクという。君の姉上とは以前少し言葉を交わしたことがあって――、」

 

「まぁ、妹が申し訳ありません。あとは私が引き継ぎますわね?」

 

 長くなりそうな彼の言葉の途中で口を挟み、諸々余分な箇所をばっさり割愛しつつ、四年前のことをアンナに語って聞かせた。理由は勿論妙な推測を立てられて父の耳に入れられてはかなわないからだ。妹のロマンスは応援したい派だけど、私は今世でそういうのはいらないしね。

 

 アンナは彼の口から直接当時の話をきけないで不服げだったものの、当時会えなかった自身のファン第一号と会えたことで帳消しにしてくれたのだが――……。

 

 ホーエンベルクと名乗った彼に私がここにいることを尋ねられると、妹は得意気に胸を張ってことのあらましを教えてしまった。流石に雇い主の家名を口にすることはなかったけれど、気を許した相手に対しての警戒心が低いのではないかと心配になってしまう。

 

 まぁ、うちみたいな片田舎の領地だと悪事がすぐに広がるから、割と平和なので余計そうなるのかもしれない。

 

「それでは、ベルタ嬢は教育手腕を買われてこちらに来られたのか」

 

「ええ、そうですわ。領地でもお姉さまに教わることができれば、どんなに自分に自信のない子でも、たちまち得意なことを見つけてしまいますもの。わたしもその一人と言うか……筆頭ですわ。ね、お姉さま?」

 

 繋いだ手の指を絡ませてくる妹の無邪気さに呆れつつ「そうね」と答えたものの、そんな私達を微笑ましそうに眺めていた彼の纏う、四年前に感じたものと同じ微妙に油断ならない気配が気になる私なのだった。

 

***

 

 

 長かった社交界シーズンも終わり、王都での滞在生活最終日。

 

 すでにどこのお家も娘と妻を領地に送り返し始め、王都に残る父親や子息達は仕事に追われる日常へと戻っていく。そうしてその例に漏れず、私達家族も各々の持ち場に戻るために集まっていた。

 

「いっぱい手紙を書くわね、お姉さま」

 

「ふふ、アンナは大袈裟ね。たった半年離れるだけよ?」

 

「毎日傍にいたのにあれだけお喋りしていたのだもの。離れたら書きたいことなんていくらでもあるわ」

 

「アンナの言う通りだぞベルタ。姉妹仲がいいのは喜ばしいが、二人とも私にも手紙を出すのを忘れないでくれよ?」

 

「お父様ったら……」

 

「お父さまってば……」

 

「待て、二人ともそんな目で見るな。これは別に過干渉ではないぞ。年頃の娘を心配して何が悪い」

 

 娘から一斉に向けられた呆れを含んだ眼差しに、見目は美しいものの、内面はただの年頃の娘から煙たがられる男親は胸を張ってそう言った。うーん、この美形の無駄遣いぶりよ。

 

 これがつい先日までは、ご婦人方から引きも切らぬお誘いを受けていた男性と同一人物とは思えない。現在反抗期真っ只中で、異性からモテる父親というものを見たことがなかった妹は目を丸くしていた。

 

 実際私もゲーム内でスチルを見たことがなくて字幕のみの情報だったから、社交場でご婦人方に囲まれてよそ行きの笑みを張り付けている父を見て、初めて信じたくらいだ。美形は三日で慣れるとは言うけれど、自分の親ならば尚更そういうフィルターが剥がれるのが早いのかもしれない。

 

「特にアンナは今回のデビュタントで早速狼共から目をつけられたからな。妙な手紙が領地のお前宛に届いたら、すぐに私に転送して来なさい。勿論ベルタもだ。その場合は向こうの親と直接話をつける」

 

 ……おお父よ、娘は少し貴男を見直しました。そしてそれは妹も同じだったのか、隣でちょっと感動している。

 

 けれどそれだとあの夜会で、真正面から妹のファンだと公言していた彼はどうなるのだろう? そう思って父に訊ねようとしたら、不意に父が「まぁ、ヴァルトブルク子爵の息子は、あれはあれで困ったものだがな」と苦笑した。

 

「ヴァルトブルク子爵……アンナのファンを公言していた方ですか?」

 

「あの方、子爵でしたのね」

 

「ああ、彼の父親と私は同僚でね。彼とは仕事の管轄が違うが何度か話したこともある。あの通りの性格だからあまり長い会話をしたことはないがな」

 

 ――となると彼は父親からアンナの話を聞いたか、彼の父親が私達の父に娘自慢として貸し出された翻訳本を読んだのだろう。妹もその可能性に思い当たった様子で半眼で父を睨んでいる。

 

 せっかく直前まで尊敬されていたというのに、これで帳消しになったのではないだろうか? 反抗期の娘は男親への点数が辛いのだ。

 

 けれど妹のジト目にひきつった微笑みを返していた父が、いきなりこちらに「ベルタもホーエンベルク殿に声をかけられたそうだな?」と水を向けてきたので、今度は私が妹をジト目で睨む。

 

 テヘッとでも擬音のつきそうな微笑みを浮かべる妹の頬をつついていたら、父は「彼はその……伯爵だ。しかも面倒な部類の」と言った。その含みのある言葉だけで、父が彼に関して何か知っているのだとは分かる。そして格上から格下が興味を持たれていいことはあまりない。

 

 前世ゲーム内で見たことのない彼がどういう立場の人間か分からない以上、進んで接触しようとは絶対に思わないし、そもそも四年前のこと以外で接点もないのだ。得体のしれない人物は放置するに限る。

 

「私があの場で一番年齢が浮いていたから、気を使って声をかけて下さっただけでしょう。そうでなくとも私は変わり者としてそこそこ有名なようですから」

 

 弁えていると伝えるべくそう答えると、父はホッとしたように表情を緩めた。でもできればそこは変わり者ではないと言って欲しかったなぁ?

 

 そんな風に家族とふざけあっていたら、少し離れたところに停車した立派な馬車から、アウローラが私を呼ぶ声が聞こえてくる。家族に……特に妹に会わせたかったのだけれど、人見知りちゃんはこっちに来られないようだ。

 

「アウローラ様が呼んでいるみたいだから、もう行かないと。二人とも身体に気を付けてね。向こうについたらすぐに手紙を書くわ」

 

 二人から代わる代わる力強い抱擁を受け、教え子の待つ馬車に向かって駆け出す。本当は半年で帰れないかもしれないとは……もしも途中解雇されたりしたら格好がつかないので言えなかった。



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◆第二章◆
*1* 大人の都合ってやつですね。


 

 妹と出席した夜会で四年間謎の人物だった男性の正体を突き止め、デビュタントを無事に乗り越えた彼女が領地に戻り、父が王都に残り、私が家庭教師の延長を引き受けてから一ヶ月。

 

 九月は瞬く間に過ぎ去って行ったものの、その間に週休一日というピッチリと詰まったスケジュールで、教え子との距離は今までのプレイで見たどのルートよりもグッと縮まっている。 

 

 ゲームと違いかなり怒濤の展開で少々疲れ気味ではあるが、一日中授業をするわけでもないので現状に不満はない。むしろがっつりお給金をもらえて教材の作成費用を自腹で支払わないでいい分、前世よりホワイトな感じですらある。

 

 ――が、しかし。

 

「先生……お願い」

 

「いえ、それは流石に私の一存では無理ですわアウローラ様」

 

 今日は趣向を変えて温室内での授業――……の、休憩中。普段なら微笑みあって楽しむはずの紅茶とお菓子を前に、私達は苦悩の表情を浮かべて向かい合っていた。

 

「で、でも……一人でなんて無理だわ……」

 

「現実的に申し上げまして、侯爵家の催しに家庭教師を務める子爵家の人間程度では出席できません。たとえ当日主役のアウローラ様のお願いであってもです」

 

 断腸の思いでそう告げた直後、いつも後ろをついて歩く私の可愛い雛鳥は絶望感に顔を歪めた。何をそんなに揉めているのかといえば、十月の一週目にある教え子の八歳を祝う誕生日パーティー問題である。

 

 去年までは彼女の両親もそれを口実にお客を招待し、相手も贈り物を持って祝いには来るけれど、実際には彼女の両親との親睦のために出席するだけの、いわば形式的なものであったらしい。

 

 何故ならすでに嫁いだ社交的な姉達とは違い、アウローラは人見知りの塊。

 

 例年であれば当日は始めの挨拶にだけ顔を出したら、あとは自室に引っ込んで終わるのを待っていればいいだけだったそうなのに、何を思ったのかコーゼル夫妻は急に今年はずっと会場内にいろと言い出したそうなのだ。

 

 いま上げているのは知力と芸術がメインだ。当初よりマシになったとはいえ、魅力や他の部分はおまけ程度にしか上がっていない。ゲームでだったらパラメーターの一目盛りも上がっていないやつ。アウローラにしてみれば拷問である。

 

 助けてあげたいけれどね、こればかりは階級的に無理。

 

 当日は家庭教師の仕事が休みの日なので、私は領地内に借りている家にいる。屋敷に住み込みしてはどうかとも言われたが、私はプライベートと職場は切り離したい派だから。おまけに家賃は侯爵家持ち。財力があるって素晴らしい。

 

 したがって当日はコーゼル侯爵が私を招待でもしてくれない限り、屋敷に出入りすることも無理だ。

 

「それにこれはアウローラ様の頑張りの成果をご両親やお客様に見せる好機です。淑女の作法も知っているだけでは錆び付いて、本当に必要なときに使えなくなってしまいますわ。ですから当日は、礼儀作法の実技だと思えばいいのです」

 

「礼儀作法の、実技?」

 

「はい。形を教えることは私でも可能ではございますが、アウローラ様は侯爵家のご令嬢。子爵家の私と違い、将来的に公の場に出る立場になられるやもしれません。そのためにも堂々とした振る舞いは実地で憶えるのが一番ですわ」

 

 自分でも無茶を言っている自覚はある。これはただの論点のすり替えであって、解決法でも何でもない。しかし根が素直で他に寄る辺のない教え子は、こんな無茶苦茶な家庭教師の言葉に眉根を下げつつも、頷こうかどうか迷い始めている。

 

 ――よし、あと一押し。

 

 押しに弱いアウローラをこのまま一気に説き伏せてしまおうとしていたら、背後から急に拍手が聞こえてきて、私と教え子は同時に拍手が聞こえてきた方向を振り向いた。そこに立っていた人物を見て私は内心警戒を、アウローラは困惑の表情を浮かべる。

 

「流石はエステルハージ先生だ。素晴らしい。アウローラ、お前もいつまでも侯爵家の娘らしからぬ我儘を言わずに、先生を見習わないか」

 

「まぁ……お褒めに与り恐縮ですコーゼル侯。ですが、私ほど変わり者で可愛げのない女もおりません。アウローラ様には充分に淑女の素養がございますわ」

 

 見苦しくない速さで立ち上がり、カーテシーを取りながらそう侯爵に向かって微笑めば、彼はじっくりと私とその後ろで息を潜めている娘を見つめる。

 

「先生は当日何かご予定はおありだろうか?」

 

 ――ん? というか、何だかすごくいい笑顔ですね侯爵様。娘を怖がらせに来たわけではないのかな?

 

「いえ、予定は特別ございませんが」

 

 休日の過ごし方は前世からあまり変わっていない。だいたいが惰眠を貪るか、教材を作っているか、教材を探しに行っているかだ。今は領地の妹と王都の父に手紙を書くことが加わるけれど、恋人とかは前世も今世もいたことがないのでそもそも予測すらつかない。

 

 私の返事に満足した様子で「そうか」とダンディーな笑みを向ける侯爵。事態が飲み込めずオロオロとした空気を出し始めた教え子を背後に、私はある可能性を見出だす。それすなわち――本採用への最短ルート分岐。

 

「では無理にとは言わないが、当日は娘の隣にいてやってはもらえないだろうか? 当日の手当ては勿論、ドレスなどもこちらで用意させて頂く。翌日から三日ほどは振替休日という形では……どうかな?」

 

 その言葉にまたも“はい、喜んでー!”と荒ぶる心を抑え込み、ついでに背後から痛いくらいに期待を込めた教え子の視線を感じつつ、私は淑女らしく「慎んでお受けさせて頂きますわ」と微笑んだ。



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♕幕間♕醜い白鳥の子。

アウローラ視点です。


 

 四歳の頃。同じ歳の頃からお姉様たちを教えていた家庭教師がわたくしについたとき、彼女は『お姉様方はこれくらいすぐに憶えてしまわれましたよ』と、何度も言った。

 

 その言葉を聞いて、当時五歳ながらも必死に教わったことを憶えようとしたけれど、元から気が弱くて分からないことをろくに質問することもできないのに、どんどん先に進む授業についていけなくなるのはすぐだった。

 

 最初はおっとりしたわたくしに厳しい家庭教師が合わないのだろうと、お父様は家庭教師を穏やかな人に変えて下さった。けれどその穏やかな家庭教師も、先の厳しい家庭教師のように『お嬢様にはまだ難しいのかもしれません』と、やんわり辞退してしまう。

 

 その次に雇われたのは自主性を尊重する家庭教師、姉のような家庭教師、乳母のような家庭教師と、次々に家庭教師は入れ替わっていったけれど……。結局どの家庭教師も、最後はわたくしの物覚えの悪さに辞めて行ってしまう。

 

 いつしかお母様は、歳の離れたできが良いお姉様達とわたくしが並んで絵に描かれることすら嫌がられるようになった。お父様は、そんなお母様を宥めながらも、わたくしに直接言葉をかけて下さることはなかった。

 

 上のお姉様とは一回り。下のお姉様とは十歳離れていたせいで、会話らしい会話を交わした記憶もほとんどない。

 

 大きなお屋敷に生まれたから住まわせてもらっている。そんな風だったわたくしは当然人見知りで無能なまま、いつしか七歳になっていた。

 

 その頃にはもうお姉様たちはお嫁に行って、コーゼルの屋敷にはでき損ないのわたくしだけ。家庭教師を探すことに疲れてしまっていたお父様が『明日、お前の新しい家庭教師が来る』と仰ったのは、社交界シーズンに入った五月の頃。

 

 がっかりされる前に追い返そうとしたわたくしの言葉に、その人は笑って。

 

『初めまして、アウローラ様。私はベルタ・エステルハージと申します。今日から貴女の得意なことを見つけて、一緒に伸ばすお手伝いをさせて頂く者ですわ。新しいことを知る楽しみを、昨日できなかったことができたときの喜びを。私はこれから貴女に差し上げたいのです』

 

 ――あの日、あの言葉を下さったときからずっと、先生は、わたくしの世界の太陽になった。

 

***

 

「まぁ、凄いですわアウローラ様。前回躓いておられた問題が解けていますよ」

 

 ドキドキしながら間違い直しの時間を待っていると、教本をめくっていた手を止めた先生がそう言って微笑んでくれた。元々たれ目がちな先生が笑うと、本当に柔らかい表情になる。緊張で肩に感じていた重みがどこかにいってしまう気がするからとても好き。

 

「だけど……その一問にすごく長くかかってしまったの」

 

「この一問をしっかり理解しようとなさったのですね。素晴らしい集中力です」

 

 ベルタ先生は、決してわたくしに“お嬢様には難しすぎましたね”とは言わない。でも今までそう言った先生達は、物覚えの悪いわたくしに簡単でもいいから少しでも問題を解かせようとしてくれた。

 

「これが解けたのなら次はもっと難しいものが解けますよ。ふふ、次の教材を作るのが楽しみですわ」

 

 でも、先生はこう。そしてこの言葉通り、次はもっと難しくなる。

 

「……新しいお話が聞きたいから、ほどほどがいいわ」

 

「解けるようになれば新しいお話が聞けますわ。そのために私ももきちんとお手伝いします。アウローラ様ならすぐに解けるようになりますわ」

 

 先生は知らない。この言葉の一つ一つが心に降り積もって、どんなにわたくしを浮き立たせるか。先生は誰もくれなかった“できる”の言葉を、わたくしの手に持たせてくれる。

 

「明日は何ができるようになるのか、楽しみですね」

 

 先日お父様が急に毎年出席しないでいいと言っていた誕生日パーティーに、今年は出席するようにと言ったけど……いつもお姉様達と比べられて愛想笑いを向けられることが怖かった。

 

 最初は一緒に出席して欲しいと先生にねだって、礼儀作法に厳しい先生は階級の違いを理由に断られて。それをお父様がわたくしのワガママを叶えるように先生に頼んで、最後には先生も頷いてくれた。

 

 ――嬉しかった。

 ――けど、恥ずかしかった。

 

 ワガママを言って困らせてしまったことが。当日先生に恥をかかせてしまうかもしれないと、急に不安になったことが。だから、誓うの。

 

「先生、わたくし……このあとは、お誕生日の挨拶が練習したいわ。来てくれるお客様にきちんとお礼を言いたいの。できるように……なるかしら?」

 

 そう言ったわたくしを見て少しだけたれ目がちな瞳を見開いた先生は、すぐに頷いて「当然できますわ」と柔らかい微笑みをくれた。

 

 わたくしはもう、恥ずかしい生徒にはならない。

 わたくしはこれから、太陽(先生)の自慢になれる生徒を目指すの。



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*2* 秋薔薇と玉虫色の返事。

 

 アウローラの八歳の誕生日を祝うガーデンパーティー当日。

 

 申し分のない秋晴れのもと和やかに始まった祝いの席に、去年まではいなかった主役の姿をみとめた来客達は、ちょっとだけ様子の変わった教え子の容姿や所作の美しさを褒めた。

 

 ――とはいえ彼等や彼女等の瞳には小さな教え子を値踏みする色が見て取れ、私は微妙に面白くない気分だ。何というのか、こう……大人が子供を見る目ではない。そんな親達に連れて来られている年長の子供達にしてもそうだ。

 

 たとえるなら不動産屋が将来的に収益が見込める物件かを量る感じだけれど、これに関しては侯爵夫妻にも言える。これは今後のアウローラの商品価値を見定める場なのだろう。侯爵家くらいになるとシビアだね。

 

 それでも春よりも深みのある秋薔薇が薫る庭園には、白々しくもお上品な笑い声が響き、私を教え子の精神安定剤として出席させている侯爵夫妻も、娘の客人への対応にご機嫌の様子だ。

 

 ちなみに身バレしていない弱小子爵家の令嬢である私は、気配を殺して教え子が常に視界に私を入れられるよう、会場内をうろうろしている。何で育成ゲームの世界で隠密のような真似をしているんだろうという疑問は捨てた。

 

 家庭教師がいなければまともに挨拶もできないと思われるのは、私も侯爵夫妻も嫌なのである。両者の嫌の理由は恐らく真逆であるが、利害が一致している分には問題ない。

 

 人前に出てくることのない深窓のご令嬢に挨拶をする人が途切れないものの、時折こちらを盗み見てはにかむアウローラに、私も小さく手を振り返す。

 

 ――と、アウローラへと挨拶に近付いて行く人物の中に、赤みをおびた金髪の後ろ姿を見かけた。その色を最近どこかで見かけた気がするので、良くある髪色なのだろうかと思っていたら……。

 

 アウローラがこちらを気にしていることに目敏く気付いたらしい相手が振り返り、こちらを見て動きを止めた。その瞬間、私の方は息が止まった。

 

 何でここにホーエンベルク様がいるの……って、近隣に領地がある身分の高い人なら私がここにいるより不思議じゃないのか。取り敢えず距離はまだある。ここは“目があったりしていませんよ~”作戦で人の中に紛れてしまおう。

 

 私は父親との約束をきちんと守れる良い子ですから。そうと決まればさっさと退散! 先生あとでちゃんと戻ってくるからね教え子よ!

 

 支給品のお高いドレスを優雅に捌いて身を翻して来客達の中へと身を隠し、なるべく不自然さを持たれない程度に、アウローラと勉強をする際に使用する四阿(あずまや)へと移動した。

 

 会場よりやや奥まった四阿に人影がないことと、後ろから追ってくる人物がいないことに安堵し、緊張でうっすらと汗をかいてしまったので汗が引くまで座って休もうとしたそのとき――。

 

「ああ、やはりベルタ嬢でしたか」

 

 私が来た方向と逆の方向から現れた長身の人物は、屈託のない笑みを浮かべてそう言った。心の中に“ベルタは敵に回り込まれてしまった!”という一文が浮かんだ。育成ゲームなのに今度はRPGの世界なのかな?

 

「まぁ、ホーエンベルク様。お久し振りでございます」

 

 動揺する内心を抑えてサッと立ち上がりカーテシーを取ると、彼も応じて礼を返してくれた。彼の方が家格が上なのに随分丁寧な礼だと少し感心する。しかも「ご一緒しても?」と先回りされては、ここからすぐに立ち去ることもできなくなってしまった。

 

「まさかこんなところでお会いするとは思いませんでした。貴方もコーゼル侯爵から招待を?」

 

 ……ほらきた。彼も上級貴族だもの。侯爵家の催しに子爵家の人間がいたらそれは勘繰るよ。でもこっちにも職業柄守秘義務がある。

 

「いいえ、今日こちらに招待されている方のお子様の付き添いですわ。ホーエンベルク様はコーゼル侯爵のお知り合いだったのですね」

 

「知り合いというか……俺はこの領地の近くに自領があるので、ご息女の誕生日に招待されたというよりは近所付き合いの延長だ」

 

 やっぱりそうだよね。しかし自領が近くて……って、規模が広いよ大きいよ?

 

「そういえば以前家庭教師を引き受けていると言っていたな。しかし付き添いが必要な年齢の子はいなかった気がするが」

 

「ふふ、そう思われるのは男性だけですわ。子供は大人が思うより、ずっと繊細なのですよ」

 

「成程、興味深い見解だ。俺は発想が貧困だな。貴方と話していると勉強になる。いや、むしろ見習わなければならないな」

 

「子爵家の人間を見習うだなんて、ホーエンベルク様は充分に発想が柔軟ですわ」

 

「そんな謙遜をしなくとも構わない。俺も本来は貴方と同じ子爵位だ。従軍経験があって、そのときの功績でたまたま上層部の目に留まって爵位をもらった。だからそう畏まらないでくれ」

 

「あら、それこそご謙遜ですわ」

 

 いや、戦争で子爵位から伯爵位をもらう功績を立ててる相手に畏まるなって無理だろう。畏まるわ。というか……一応社交辞令として微笑んではいるけれど、あまりよく知らない人間と一緒の空間って居心地が悪い。

 

 ――とにかくボロが出る前にこの状況から脱出しないと。

 

「ええと……ホーエンベルク様。そろそろ教え子が不安がっているかもしれませんので、本日のところは失礼致しますわね」

 

 この会話のぶったぎり方に無理がないとは言わない。でも実際に教え子の限界も近いはずだ。しかし嵩張るドレスの裾を持ち上げて立ち上がろうとした瞬間、彼の大きな掌に手首を捕まれた。紺色に近い青の双眸が、以前の夜会や四年前と同様の底の知れないものを秘めて私を映している。

 

「あの……ホーエンベルク様……?」

 

「ベルタ嬢、また会えるだろうか。貴方の生徒に興味がある」

 

 ――この人……私がさっき子守のいる子供って評したの聞いてたよね? まさか真面目な顔して変態(ロリコン)なのか? 父が面倒と口走ったのは性癖のことで……もしや四年前は美少女と評判の妹が標的だった?

 

 いやいや、無理無理無理。元子爵だろうが現高位貴族だろうが、変態に教え子に興味持たれるのなんて嫌です!

 

「そうですね……こうして偶然が重なれば。ああ、妙な噂が立ってはそちらの方にご迷惑がかかるので、ホーエンベルク様はもう少ししてから会場にお戻りになることをお勧めしますわ」

 

 にっこりと微笑んで玉虫色の返事と共に手を引き抜き、相手の返事を待たずに踵を返した私は一切振り返ることなく、他に変態が潜んでいるかもしれない会場に教え子の救出のために引き返した。



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*3* 手のひら返しの見本市。

 

「はい、じゃあ確かに王都宛の手紙が一通と、エステルハージ領宛の小包と手紙を一通お預かりさせて頂きました。天候によって配達期間に誤差が生じたり、道中悪路があった場合は多少荷物に痛みが出ますので、そこのところはご了承下さい」

 

「ええ、分かりました。よろしくお願いしますね」

 

 コーゼル領に来てから一ヶ月半。すっかり顔馴染みになった郵便屋さんは、愛想良く「任せといて下さい」とカウンターの向こうで笑って請け負ってくれた。郵便屋さんに手を振って建物の外に出た私が次に向かうのは、授業に使う教材を扱っている本屋だ。

 

 片田舎のエステルハージ領とは違って、ここコーゼル領は王都から比較的近いために本の種類も豊富で、取り寄せたり入荷待ちしなくても新しい本が手に入る。妹に送った外国の本も故郷だと入手が難しいが、ここでなら棚の端から端まであるくらいで、彼女が気に入りそうなものを見つけては買い漁っていた。

 

 ただ店内で見るのは貴族階級や商人階級の人達ばかりだから、まだまだ都市部では民衆の識字率と収入の壁は越えられないみたいだ。とかくこの世は世知辛い。

 

 いつもならそんな本屋で適当に良さそうな教本を見繕い、文を書き加えたり図を差し込んだりしてコラージュ教本を作るのだけど、今日からは違う。さっき出した手紙にはようやく雇い主夫妻と話を詰めたそのことについて書いてあった。

 

『エステルハージ嬢、貴方には本当に感謝してもしきれない。あの娘がまさか人前に出られるようになるとは……これはもう奇跡だ』

 

『もしも先生さえ良ければ半年の契約を二年……いえ、四年に伸ばしては頂けないかしら? 娘がこんなに家庭教師に懐いたのは初めてですの』

 

『勿論この話を受けてくれるというのなら、我がコーゼル家は後ろ楯として援助をさせてもらう』

 

 第一関門だったアウローラの誕生日パーティー翌日、私はそんな見事な手のひら返しを見た。明らかに手に余って教育を投げかけていた侯爵と、最早アウローラを娘として扱う気が失せていた夫人。

 

 一応謙虚さを演じつつ理由を訊ねれば、翌日からアウローラに婚約話がチラホラ持ち上がっているという。要するに“思ったよりもマシだったからキープするか”ということなのか、それとも侯爵家の娘なのだから、もう少し大きな魚がかかりかけたか……どちらにせよ皆様なかなかなものである。

 

 前世のプレイ中に何回か見た記憶があるルートなので、これはまぁ、想定内の事態だ。少し発生時期が早すぎるけれど、こっちのイベントはまだいい。ただわざわざ雇う時期を四年間――……アウローラが十二歳までの指定という方が気になる。

 

 シナリオ内には十三歳で貴族が通う学園に入学する話が持ち上がるルートもあり、そっちのルートに入ってしまうと教育放棄とみなされてバッドエンドだ。教え子と出逢う歳が早かったとしても油断するなということか……。

 

 しかし周囲の手のひら返しは教育者としては名誉だ。子供の立場を考えると大人がクズすぎるけれど、私の今世での目的がループし続ける破滅待ったなしの第一王子ルートから教え子を逃がすことである以上、誰か他の婚約者候補が出てくるのはありがたい。

 

 その中にロリコン疑惑のあるホーエンベルク様の名前がなければさらにいいけど。たとえ篩にかけるのがあの両親でも、これまで見たどのルートでも断罪しかない第一王子よりはマシ。

 

 いや、もしかしたら私の育成が間違っていたからなのかもしれないけど……そこには目を瞑る。失敗を何度も思い出すと、用心深くはなれる。しかし同じ失敗を恐れるあまり同じ沼にはまるのだ。

 

 それに、何にしても――。

 

「今日から私はあの子の本当の先生になれるんだから、頑張らないとね」

 

 そう独り言を口にしつつ立ち止まった目的地(本屋)の前で、気合いを入れるために両頬を叩く。力加減を間違えたのかやや痛かったけれど、気合いを入魂するならこれくらいでちょうどいいはず……と、痩せ我慢をして本屋に足を踏み入れた。

 

 右を向いても、左を向いても、アウローラが興味を持ちそうな本がたくさんある。これらを色々買い求めてたった一人の教え子のためだけに一冊分に纏め直す作業は、パソコンがないこちらの世界だと手書き一択で大変だけど、その苦労も教えていると実感できるせいで充実感に変わるからよしとしよう。

 

 以前から目をつけていた数冊の背表紙を本棚から探し出し、一冊ずつ腕に抱えていく。分厚かったり、薄かったり、背が高かったり、低かったりと定型ではない本達は、抱えている間にだんだんと腕の中でずれてくる。

 

 店内にぎっしりと詰まっている書棚同士の幅はそんなに広くないので、身体を捩って抱え直しながら視線の先に捉えた背表紙に手を伸ばしたそのとき、誰かが背後からヒョイとそれをかっさらった。

 

 反射的に振り返った先に立つ人物を斜め下から見上げて凍り付く。

 

「取りたいのはこの本で良かったか、ベルタ嬢?」

 

 そう言って親切に本を差し出してくれた人物は、またあの油断ならない瞳で手にした本の背表紙の題名を見て微笑んだ。

 

「ほう【大陸百年戦後史】か……なかなか渋いな。他には【開戦前夜】【国庫崩壊】【国を興した男達】か。これは貴方の趣味か? それとも――、」

 

 尋問されているわけでもないのにその微笑みに含みがあると感じるのは、前回逃げるように別れたせいだろう。まだ変態(ロリコン)かも確定してないのに逃げたからね。根に持っているのか。持ってるよね、普通。

 

 通路も狭いし真後ろにいるのだから、今回ばかりは簡単には逃げられまい。でも敵か味方かすら分からない状態で、この変態(ロリコン)(仮)に教え子のことを話すのは嫌だ。でもだからってどうすればいいの、これ?

 

 自分の上に覆い被さるように落ちてくるホーエンベルク様の影に、ゴクリと喉を鳴らしたそのときだ。

 

「おい、ヴィー、真面目に【南国極彩色事典】探してくれよ。急に後ろからいなくなるから、全然知らない人に話かけて恥かいただろーが……って、誰この人? まさかお前がナンパしたのか?」

 

 ひょこっとホーエンベルク様の背後から顔を出した人物は、私を見るやあきらかに“この程度のを?”という目をして不躾なことを言い放った。思わず“そっちこそ誰だよ”と言いたいところだけど、この場面では救世主だ。

 

「女性を前に品のない発言は慎めエリオット」

 

「いや、だってお前が急にいなくなるからだろー? だったら好みの子でも見つけたのかって期待するから。そんな体勢だし」

 

「どういう発想なんだ。お前と一緒にするな」

 

「ま、どっちでもいいけど。怖がってるっぽいよその子。連れがゴメンね?」

 

「ええと……多少驚かされただけですから、大丈夫ですわ」

 

 探している本の題名を体現したような彼は、オレンジがかった茶色の髪を色とりどりのガラスビーズで複雑に編み込み、翡翠の瞳でこちらを注視している。顔立ちは綺麗めでやや女性的なのに、口調が壊滅的に品を損なっている人だ。

 

 とても軽薄そうな雰囲気だけれど、着ているものの質感から結構良いお家の出身者だろう。前世で人気だった“個性を大切にする自由な教育”を推すご家庭なのかもしれない。あれ、学校とか教育現場はだいたい言われても困るやつだから。

 

 ――で、塾で言われても困るやつ。塾は学校教育を下敷きにしてるから、むしろ家庭教師の方がまだ自由がきくんだよね。まぁ、今はそんなことよりも早くこの人をここから連れていって欲しい……って、あれ? 気のせいか何かどこかで見覚えがある気がする。それに彼が探している本の題名なら――。

 

「あの、その本ならこの棚の三つ隣の筋にあるのを見ましたよ。背表紙からは極彩色も南国も感じられない地味な装丁でしたけど」

 

「嘘だろ、何その裏切り。南国って言ったら普通赤とか黄色だと思うよね?」

 

「それは私も思いました。本体は焦げ茶色ですし、そもそも置かれてる棚の分類からしても選別間違いだと思いますよ。料理本の棚の隙間にありましたから」

 

「……聞いただけだと見つけられなさそうだな」

 

 何てことはない大きな書店あるあるだ。分類しようと思ってた担当店員が定時に追い立てられて帰ったあとに、他の棚の担当者が分類が終わってるものだと思い込んで、気をきかせて棚に入れておいてくれるやつ。優しい悲劇。

 

 そしてこの世界には便利な書籍検索システムを搭載した端末がない。一度見失うと見かけた時間の倍以上の時間を使って探さねばならない地獄。男性陣の間に絶望感が漂う。

 

 ――この隙をついて逃げようかと思った。思ったんだけど……検索システムがない中を探すことに多少同情の念が沸く。

 

「あの、私も見かけてから結構経つので大体の場所しか憶えてませんけど……案内しましょうか?」

 

 我ながらとんでもなく気乗りしていない声が出たものの、そこは勘弁して欲しい。本当なら即刻この場を去りたいくらいなのだから。するとエリオットと呼ばれていた彼は、流れるように私をホーエンベルク様の囲いから救い出し、いつ掴んだのか私の手をとっていた。早業か。

 

「目つきが悪いのに優しいお嬢さん。無事に本が見つかったらさ、あとでお礼にお茶を奢らせてよ」

 

 そんな現金で無礼極まる発言と共に私の手の甲に口付けを落とした直後に、ホーエンベルク様から頭に拳骨を落とされて悶絶していたけれど、自業自得だ。

 

 けれどそんな中学生男子のようなやり取りをする二人を眺めていたら、いきなりピシャーンと前世のゲーム画面と、目の前で涙目になっている残念な美青年の姿が重なった。

 

「……エリオット・フェルディナンド?」

 

 思わず零れたその呟きに「あれ、知ってくれてるんだ?」とヘラリと笑う彼と、対照的にムスリとするホーエンベルク様がおかしくて。悪いとは思ったけれど笑ってしまった。



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★4★ 成程、これは。

 

 王都の大型書店で顔を会わせた学生時代からの腐れ縁であるエリオットが、昔から変わらぬ気まぐれを起こし、希少本を探すのを付き合えと言い出したのは三日前。その本が王都ではすでに入手困難となっており、同系列店であるコーゼル領の書店にあると教えられたのが二日前。

 

 俺もベルタ嬢と再会してから触発され、新しい教材の入手に精力的に取り組んでいるため、こうなったら最後までエリオットの探し物に付き合ってやろうと、前回の訪問から半月ぶりにコーゼル領に足を運んだ。

 

 そこで偶然店内を楽しそうに物色している彼女を発見した。前回の誕生日パーティーでは話の途中で別れたので、まだ話をし足りない。誰も彼女の周囲にいないことから、今日ならば訊ねたかったことを聞き出せるかもしれないと、エリオットを放ってその背中を追った。

 

 迷路のように入り組んだ本棚の間を縫うように歩く彼女の腕には、すでに購入予定らしい本が数冊抱えられていたが、端から見ているだけでも時折ふらついて危なっかしい。

 

 だというのに、まだ上の方にある本を取ろうと背伸びをしていたので慌てて近付き、彼女が取ろうとしていたらしい本を抜いて差し出したのだが、彼女は突然現れた俺に明らかな警戒心を見せた。そこで前回のやや不自然に感じていた話の終わりが拒絶からくるものだと理解する。

 

 しかし、その理由が分からない。だが内心ムッとしたのも束の間で、意識はすぐに彼女が手にしていた本の題名に吸い寄せられた。

 

 彼女が家庭教師を勤めているということは、生徒は子女であるはずだ。なのにその腕に抱えられているものはどれも子息教育に用いそうなものばかり。もっと言及するのであれば、それは宰相や高位文官の子息に必要とされるような教育に使われるものである。

 

 瞬間、歓喜に胸が高鳴った。やはり彼女こそが俺の探し求めていた人物だと。

 

 だが会話を続けようとしたそのとき、すっかりその存在を忘れていたエリオットが割り込んできた。しかも俺のせいで彼女が怯えていると指摘されてしまい、その後はうやむやのまま当初の予定通りエリオットの探し物に付き合わされた。

 

 ――……そして現在、エリオットが本のお礼にと彼女を女性に人気がありそうなカフェに誘い、俺も一緒に席についている。

 

「私の教え子が貴男の描いた絵がとても好きで、良く画集を見せてくれるのです。貴族のご子息で絵描きをやっている方だとはお聞きしていましたが、お顔は存じ上げなかったものですから。気付くのが遅れてしまいましたわ」

 

「へぇ、そうなんだ? 面と向かってファンだって言われると照れるね。うちは全員芸術バカだから割と他の家より自由かな。それに慣れてるとはいっても、やっぱ得意分野で褒められるのは悪い気しないね。領地の仕事もしなきゃだし、本職に比べれば作品数はないけど」

 

「それはそうかもしれませんが、数を描くだけが絵描きではないでしょう」

 

 しかし何と言うのか……とにかく疎外感が凄い。友人を手放しで褒められるのは悪い気はしないが、それでもこの二人の目に自分が映っているのか流石に少々気になり始めている。

 

 とはいえ会話が盛り上がっているところに口を挟むのは大人げがない。年齢を聞いたことはないものの、二十五歳の俺より二つ歳下のエリオットと彼女は歳が近く見える。

 

 仕方がないので購入した教材を開き、次の授業ですぐに使用できるように読み込んでおくことにしたのだが――。

 

「作品数が少なくとも貴男の絵には一枚一枚にその世界観が感じられて、見ているだけで違う場所に行けそうですもの」

 

「あー……うん、そっか。それはどうもありがとね」

 

 右斜め前に座る彼女が穏やかな声でそう褒めると、普段から女性を口説き慣れているエリオットが珍しく口ごもった。そんな二人のやりとりに耳を傾けながら、頁をめくるうちに意識が本に向き始める。

 

「あれ、ヴィー、女性とお茶をしてる最中にまで教科書の確認かよ。マナーがなってないんじゃない?」

 

 ふとそうエリオットに声をかけられて視線を上げると、彼女の視線が俺の手にした本の表紙に注がれた。奇しくも彼女がさっき本屋で手にしていたものと似たような内容である。

 

「エリオット……お前がマナーについて語るのか」

 

「だーってお前、さっきからずっとだんまりだろ。いつも人に礼節を説く割に女性の前でそれは失礼じゃないのか?」

 

「人と人の会話に割り込まないのもマナーだ」

 

 俺の手から本を奪おうと絡んでくるエリオットを押し返していると、今度は彼女が困惑気味に「教科書ですか?」と訊ねてくる。そういえば前回伝えようと思っていたのに中途半端な別れ方をしたせいで、まだ同業だとは言っていなかった。

 

「ああ……俺も一応同業だ。だから貴方の会話を聞いていると、生徒を持つ教育者として勉強になる。前回はどんな授業内容なのかそちらの生徒に直接聞いてみたかったのだが、驚かせたようですまない」

 

 “勿論それだけではないが”とは、まだ言わない方がいいだろう。いくら優秀な教師がつこうとも、相手の生徒は未だ海のものとも山のものともしれない。けれど第一王子派閥に先に目をつけられるのも困る。とはいえこちらの教え子に目会わせるにはもう少し時間を置きたいが――。

 

「ふふふ、それは企業秘密ですわ。お互いに守秘義務がある雇われの身は厄介ですね、ホーエンベルク様。フェルディナンド様、先程のお話ですが是非ご検討下さいませ。申し訳ないのですけれど、この後もまだ用事がありますので失礼しますわ」

 

 そう言うが早いか彼女は楚々とした微笑みを浮かべながら席を立ち、エリオットの「じゃーねー」という気の抜けた声に頷き返すと、俺が引き留める間もなくテーブルの隙間を縫って去って行く。

 

 礼節に気を払う彼女にしてはやや露骨な線引きに、ようやく合点がいった。どうやら彼女は権力の陰がお気に召さないのだろう。堅実な女性は好ましい。それでこそ家庭教師(ガヴァネス)だ。

 

 彼女から何か頼まれ事をしたらしいエリオットに探りを入れると、ニヤリと笑って「守秘義務ってものがあるからなー」と躱された。面白いとその顔に描かれている。成程、流石は腐れ縁とはいえども気心の知れた友人だ。



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*5* 得意を伸ばす!教育の細分化。

 

 ふと見やった十二月の窓の外は雪で真っ白に染まり、空は毎日鉛色の雲に覆われている。前世でこんな寒々しい季節を生きるために必要なのは、想像力と芸術だと語るネズミの絵本があったなと思い出す。

 

 手にした読みかけの便箋には領地のアンナから冬支度が済んだことや、王都の出版社から翻訳本を出して欲しいと頼まれたこと、例のぽっちゃり子爵の子息からファンレターが届くようになったことなど、小さなものから大きなものまで様々な情報が記されてある。

 

 というか、ぽっちゃり子爵の話をもっと詳しく知りたい。これは大きな事件の方に入りますよ。姉さん事件ですって教えて欲しい。

 

 可愛い妹にファンレターを送るふりをして、ジワジワ仲良くなろうとする腹黒なら父の手を借りて遠ざけたい。でも純粋にファンとして交流するうちに妹との仲が進展するとかいうのなら、姉として滅茶苦茶応援する。

 

 そんなことを考えていた私が窓の外から視線を室内に戻せば、そこには瞳を興奮で輝かせる教え子と、新たな専門職教員(追加戦士)の姿があった。季節的に領地から手が離せるようになった一ヶ月前から特別授業をしてもらっている。

 

「今日はこのウサギの縫いぐるみを描いてみよう。角度はどこからでもいいからひとまず十枚。デッサンってのはつまらないけど、何でも基本が大事だから」

 

「は、はい!」

 

「うんうん、良い返事。素直でよろしい。描けたらいつも通りこの題材に使った縫いぐるみは君のものだよ、お姫様。それじゃあひとまず始めるか」

 

 ……端で聞くと少し背筋がざわつく発言も、憧れの人から聞くと嬉しいものらしく、教え子はうっすらとまだ柔らかそうな頬を染めて頷いた。そしてパッとこちらを振り向いて手を振ってくる彼女に微笑み、頷いて見せる。

 

 ベルベット製のウサギの縫いぐるみは、さほど縫いぐるみに興味のない私から見ても可愛い。題材は毎回彼が持参する。今日の狐色の毛に右が赤、左が青の瞳というウサギとしては一風変わった配色も、芸術家肌の彼らしくて悪くない。

 

 新たに加わった講師のエリオット・フェルディナンド子爵。主にゲームの中では育成お助けキャラクターとして登場し、芸術とダンスのレベルを短期間で飛躍的に上げてくれる。偶然とはいえこんなに序盤で隠しキャラ的な彼の存在を発見できたことは僥倖だ。

 

 フェルディナンド家は芸術家を多く輩出する一族として有名で、絵画や音楽、ダンスに詩など様々な分野を極めており、彼の一族の作品はどれも市場で恐ろしい価格で取引される。たとえ領地にこれといった特産がなくとも、フェルディナンド家の財は揺らがないのだ。

 

 おまけに本人が『面白そうだし』という理由で引き受けてくれたので、講師として雇う賃金は一般的な家庭教師と同じ費用である。

 

 コーゼル侯爵はしきりに王家のお抱えの話すら躱してしまう一族の長子を、どうやって勧誘したのか訊ねてきたけれど、頼んだら頷いてくれたとしか言いようがない。もしくは本を見つけたお礼だろうか。

 

 実際彼はどのルートで出会ってもかなり協力してもらうのが難しい。ゲームでは芸術家らしくひどく気分屋で協調性がなかった。貴族らしからぬ砕けた口調なものの女性には優しく、芸術家仲間以外にはあまり親しい人物はいない。自身の興味のないことには指一本動かさないキャラクターだった。

 

 そんな彼がこの早い段階で協力してくれているのは、恐らくゲームでは存在を見かけなかったものの、彼の友人であるというホーエンベルク様のおかげだろう。本屋で偶然何らかのイベントを起こしてしまったらしいけど、どの分岐を選んでしまったのか分からないのが怖い。

 

『ああ……俺も一応同業だ。だから貴方の会話を聞いていると、生徒を持つ教育者として勉強になる。前回はどんな授業内容なのかそちらの生徒に直接聞いてみたかったのだが、驚かせたようですまない』

 

 あの発言を聞いたときに思ったのは“ちょっと待て。同じ教育者? 伯爵なのに教育者なのこの人?”と“変態だと勘違いしてごめん”だった。しかしともすれば尚のこと、伯爵を教育者につけられるような地位の人の下で働いてる自慢でもない限り、非常に地雷の予感がする。

 

 現時点でアウローラは全然教育が足りてないはずなのに、何か分からないけど変な方向にルートが開きかけてる気がする。あの人がどういう人物の家庭教師なのかは知らないけど、男性の家庭教師をつけられているなら生徒は子息。

 

 しかも伯爵位を持つ人物に教えを乞うレベルの家の子だ。もしやこの流れは婚約者候補のキャラクターの一人? これまでの失敗(バッドエンド)から学んで、感覚的なものではあるが第一王子ルートに入らないようには調節してある。知力と芸術を伸ばしたせいでルートが成立するキャラクターがいるのか? 

 

 いや、もしかすると全くゲームのシナリオに関係ない上級貴族の子息である可能性もあるが。だとしてもまだ目をつけられたって太刀打ちできない。

 

 先のことを考えて頭を悩ませていたら、いつの間にか俯いてしまっていた視界の中に、男性用の靴の爪先が映っている。顔を上げるとそこにはフェルディナンド様が立っていた。

 

「そんな難しい顔してどーしたの?」

 

「難しい顔……ですか?」

 

「そ。こーんな顔」

 

 そう言って眉間に皺を寄せた彼の表情は、元がいいはずにも関わらずなかなか面白い顔になっている。元が平凡な場合はまぁ、お察しいただけるだろう。

 

「アウローラ嬢が、大好きな先生がそんな顔してるから心配してウサギを観察できないんだよね。これは授業の妨害に繋がる――……ってことだから、ほら、君もこっちに来て。罰としてウサギを抱いて一緒にモデルになってもらうよ」

 

「ええ? あ、あの、ちょっとモデルには不向きな見た目なので辞退を――、」

 

「ダメダメ、罰だって言ったでしょ。君に拒否権はない。それにオレが君を描きたいんだよね。フェルディナンド家の次期当主に描かれる機会なんてそうないから、将来自慢になるよー」

 

「でも……そうだわ、アウローラ様の許可が――、」

 

「先生も一緒に描きたいって言い出したのは彼女だよ。分かったら諦めてさっさと座った座った」

 

 そう愉快そうに笑いながら強引に手をひかれ、椅子を用意していた教え子に「上手に描くわね」と言われてしまっては、最早逃げ場もない。可愛いウサギを可愛いポーズで抱かされて描かれるという苦痛の時間は、私から悩みを奪って羞恥と疲労を植え付けたのだった。



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▣幕間▣正反対の同系統。

フェルディナンド視点です。


 

 借り暮らし中の部屋の暖炉の火が弾け、この季節らしい音を奏でる。

 

 ひょんなことから家庭教師の補佐役を請け負ってから早一ヶ月半。時間に縛られるのは嫌いな性分だが、意外なことにこの生活も悪くないと思っていた。

 

「ほらヴィー。これが今週の分だ。なかなか良く描けてるとは思うけど、いつも通り雇い主の情報は欠片も拾わせない。ま、悪く思うなよ」

 

 まだピンで画板に張り付けてあった絵を数枚まとめて剥がし、向かい合わせた席で脚を組む友人へと手渡すと、奴は紙が指先に触れるかどうかというところで、サッとこちらの手から絵を取り上げた。

 

「無理を言っているのは俺の方だ。相手やお前の不利益になる情報は必要ない。報酬は前回と同様に実家(うち)の領地《ゴーティエ》のワインでいいのか?」

 

「もちろん。昔からなんか好きなんだよなー、ヴィーのとこのワイン。よそと製法が違ったりするのか?」

 

「いや、そんなことはないと思うぞ。そもそもあれは母上の差配で作っているから、俺も詳しくは知らんのだ。弟なら何か知っているかもしれんがな」

 

 そう言った友人の瞳にフッと影が落ちる。話題選びに失敗したと内心舌打ちをするが、一度舌先から離れた言葉は混ぜてしまった絵の具と同じく戻らない。これだから人との会話は億劫だ。濁った絵の具は捨てることができても、言葉はどうしようもない。

 

 歴史が古く自由気ままに自らの美学を磨く家柄のフェルディナンド家と、歴史が浅く幼い頃から厳しく育てられてきた武門の家柄のヴィクトル・ホーエンベルク。学生時代に知り合ってから今日まで、真逆の性格でありながら何となく馬が合う腐れ縁だった。

 

 家の存続のために学園を卒業せずに従軍したこの男には、そこまでして守ろうとした居場所がもうない。おまけに歳の離れた弟を当主に据えたことを気にして、実家に帰ることを躊躇うような馬鹿だ。

 

 オレは昔からよく芸術に疎い友人の意外に繊細な心を傷付けてしまう。これは何もオレに限ったことではなく、いわばフェルディナンド家の人間の持つ持病のような特性だった。おかげで同じような芸術にかぶれた連中とでないとつるめない。

 

 だがそんな二歳上の友人にもどうやら最近気になる異性ができたらしい。それが現在家庭教師の補佐役を務めているベルタ・エステルハージ嬢である。ここにオレが一時的に居を構えてから、こいつは王都から雪の中を二週間に一回訪問するようになった。

 

 遅めの春――……と言いたいところだが、実態はそんな甘酸っぱいものではなく、将来的に自身が家庭教師を務めている立場の弱い第二王子(・・・・)の伴侶に、彼女の教え子を推挙したいという目論見が見え隠れしていた。

 

 この一見無意味に思える情報の少ない絵の観察も、オレが写実的に描く彼女の表情や雰囲気から人格を見極めるとか何とか理由をつけている。人相見ができるという特技を聞いた記憶はないんだけどな。

 

 本屋で探し物に付き合ってくれた彼女は一言で言えば変わり者だ。それに彼女もこいつが誰の家庭教師をしているかは知らないようだったけど、明らかにそのことに気付いて牽制してきた。

 

 彼女は数年前に社交界デビューしてからは一切王都に近寄らず、表立っては領地で父親の代わりに領主代行をしている才女だと聞くが、裏では妹と両親との見目の違いを気に病んで領地に引き込もっているという噂まであった。

 

 ま、実際に会って会話をしてみれば、後者は根も葉もない馬鹿げた噂だったのだと分かる。あれはなかなか面白いご令嬢だ。少し言葉を交わしただけだったものの、本人に自覚はないのだろうがかなり人たらしの才があった。

 

 自分でも無自覚だった褒められたいところを的確に褒めてくる。それも本当に心底からの言葉だと思わせる熱量で。上昇思考を潰すか、活かすか。そういう危険な感じのする人物。

 

 エステルハージ領といえば領地はそう広くないものの比較的土地がいい。片田舎なので景色もいいから、うちの一族の人間も昔誰かが写生に行ったようで、古い油絵の中に何枚か残っている。彼女の治めていたという土地を、是非オレも機会があれば一度訪れてみたい。

 

「これは……彼女の目が死んでるように見えるが。この前後に何かあったのか?」

 

 ペラペラと絵をめくっていたヴィーが、ある一枚に目を留めてそう訊ねてきたので覗き込んだが、その直後に唇が愉悦に歪む。

 

「あー、自分の見目に自信がないって直前まで抵抗されてね。でもま、可愛い教え子ちゃんのおねだりで大人しくなったよ。教え子のデッサン練習の手前、嫌そうに見えないように装おうとしてたけど、オレの腕をもってしても目が死んだ」

 

「……そこまで酷い構図でもないと思うが」

 

「可愛いものが似合わないからって、最初は縫いぐるみで顔を隠してたくらいだし、妹は今年社交界の話題をさらったあのアンナ・エステルハージ嬢だろ? あそこは姉妹だっていうのに、顔立ちがまったく似てないらしいな」

 

「ああ……まぁ、確かに似ているとは言えないが、血縁者なのは分かるぞ。妹といるときの方が彼女の雰囲気は柔らかくなる」

 

 そう無意識に零した言葉と表情の揚げ足を取ろうかどうか一瞬悩んだものの、オレとのさっきの会話で開いた傷口が塞がっているようなので口をつぐむ。流石は気心の知れた友人だ。正反対なのに昔から興味を持つのものは同じなんだよな。



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*6* 嘘ではなくて、予言です。

 

 十二月も終わりになると、王都から戻った上級貴族達は屋敷で大きな夜会を開く。それは教え子の生家であるコーゼル家とて例外ではない。

 

 侯爵家らしい豪奢な会場内は招待客の紳士淑女で賑わっていて、原作ゲームの(ベルタ)のキャラクター設定を忠実に再現するわけではないけれど、はっきり言ってしまえばこの手の場所は苦手だった。お酒の席は好きなのだけれど、賑やかすぎるのは嫌いというやつだ。

 

 ただでさえ会場の天井が高かろうが酸素が薄い気がしてならないのに、周囲にいるのはいずれも格上の家ばかり。男性はともかく、女性はコルセットをしていなければならないから尚更息が詰まる。

 

 そして気まずさの点でいえば、後ろ姿で知り合いだと思って背中を叩いて挨拶したら、間違えて全然別人だったときくらいの地獄。できれば出席を遠慮したい類いの催しだわ……。

 

「わ、わたくし頑張るから、見ていて下さいね?」

 

「ええ、勿論ですわ。しっかりアウローラ様の雄姿を見守っています」

 

 だが、少なくとも私にとってこれは可愛い教え子のためだからまだいい。むしろここで一番のとばっちりを受けているのはまず間違いなく――。

 

「そんなガチガチにならないでいーよ。ベルタ嬢とここで見ておいてあげるから。パパッと行って、適当に挨拶しておいで」

 

「は、はい! フェルディナンド様」

 

「だーから、堅いってば。そんな風だとすぐに疲れちゃうから」

 

 何故か今夜ここに付き合わされている彼である。本来なら補助としてほぼ“面白いから”という善意のみで手伝ってくれている彼は、自領に戻っていて然るべきで……ここにいる必要はない人だ。

 

 実際にこの夜会が終われば彼は一旦領地に戻る手筈になっている。現在取り付けている授業の契約は農地の準備が本格的に始まる前の一月半ばから、粘っても三月の一週目までだ。

 

 力強く頷いてドレスを翻すアウローラの背中を二人で見送り、来客達に声をかけられてカーテシーをとる姿を見つめる。初めて会ったときは猫背気味だった背筋を伸ばして挨拶をする教え子の成長に、ちょっぴりうるっときてしまう。

 

 すると隣から「なー」と間延びした声をかけられたのでそちらを向くと、やや不満そうな表情をしたフェルディナンド様がいた。

 

「あの子、やっぱりまだオレを先生呼びしないよね。何でだと思う?」

 

 オレンジがかった茶色の髪を纏めるガラスビーズを指で弾き、アウローラの方に向けられた翡翠の瞳は、シャンデリアの明かりを反射して一級品の宝石みたいだ。

 

「そうですね……考えられるとすれば、憧れの人を先生呼びにするのが畏れ多いのではないでしょうか」

 

「ふぅん? 乙女心は複雑だ」 

 

 納得していないようなのに肩を竦める仕草に思わず笑ってしまうけれど、彼の方も私を見て苦笑する。

 

「オレにはあの子にとっての“先生”っていうのが、君だけなんだと思うけど。他の大人は誰でも“それ以外”って感じがするね」

 

「そうでしょうか? アウローラ様は裏表のない、どなたにも分け隔てのない方だと思いますが」

 

「ま、裏表のない性格なのは分かるよ。授業態度も素直だしねー。ただ、甘える相手をあの歳できっちり決めている。そして甘えるのは君にだけ。美しい師弟愛だ」

 

 フェルディナンド様はその格好からゲーム中屈指のちゃらんぽらんに見えて、実のところ結構政治的な立場に敏感だ。古来より芸術家を囲うのは貴族の嗜みとされている。その上に彼は自身の身分も子爵ということで、平民嫌いな上級貴族にとっては喉から手が出るほど欲しい人材なのだろう。

 

 だから《“フェルディナンド家は、代々他家との交流にあまり熱心ではない”》と、ゲーム内の説明にもあったに違いない。

 

 そしてまさにそれを今夜の夜会でコーゼル家は自慢したかったのだ。教え子の幸せな未来のため引き込んでしまった身としては、本当に申し訳ないと思っている。私が彼に返せるものなどあまりないだろうけれど、今後もしも何か協力を求められたら可能な限り引き受けるつもりだ。

 

「アウローラ様は本来もっと多くの人に愛され、評価されるべき方ですわ」

 

「一介の家庭教師のその考えがどこまで理解されるかは分からないけど、今のままだと難しいだろうなー」

 

 う……ヤバイ。鎌をかけているだけだと分かっていても、的確に突かれてヒヤリとしたものが背筋を伝う。

 

「ふふ、手厳しいけれど冷静なご指摘をありがとうございます。来年度からの指導の参考にさせて頂きますわ」

 

 確かに今のままでは難しい。現在頭二つ分ほど抜けているのは教養と知力。追いつく勢いで伸びを見せているのが芸術。この三教科は元々伸び率が高いので、同年代より抜きん出ている自信がある。

 

 しかし彼の合流で私だけで教えるよりも魅力と体力の上がりはいいけれど、前者の三教科と違って後者の二教科は同年代のご令嬢達の足元にも及ばない。

 

「見たところあの子はオレが知るような同年代のご令嬢達よりも出遅れてるけど、君は割と余裕だね?」

 

 実際その通りだけど、あまり急かして適当に付け焼き刃な授業はしたくないというジレンマ。

 

 でも自信のまったくない子だから得意なことから伸ばして、褒められる自分というものに慣れさせてから次の段階に進みたい。だからこそここで彼に見切りをつけられるわけにはいかなかった。

 

「あの年頃はまだほんの若葉ですもの。アウローラ様は大輪の花を咲かせる素養がございます。他のご令嬢方と同じように言葉という肥料を与え続ければ、必ずご自身の力で開花されるでしょう」

 

 頬がひきつらないように細心の注意を払ってそう微笑めば、フェルディナンド様はガラスビーズを弄りながら翡翠の双眸を細めて笑う。家庭教師仲間を相手に及第点というところか。

 

「ですので……フェルディナンド様も、守秘義務の範囲を緩めすぎないようにお願いしますわね?」

 

 友人のホーエンベルク様への軽い情報漏洩は知っているので、そこをちょっとだけつつくと、彼は「仰せのままに」とおどけて見せた。



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*7* 日々コツコツとアップデート。

 

 ――合同教育、一月二週目。

 

「うん……まー、それなりに形になってきたって感じかなー? ベルタ先生(・・)の指導のおかげで、アウローラ嬢は姿勢がいい。あとはステップがもっと早く憶えられると尚いいんだけどねー」

 

 初級のステップをつっかえながらも一通り流して肩で息をする教え子は、フェルディナンド様からのそんな厳しめの指摘に唇を噛み、けれどしっかり頷き返して「もう一度最初からお願いします」と言った。

 

 憧れの人物に教えを乞うと、人は貪欲になる。彼を説得できたことは、この後の教え子の成長に大きく影響を及ぼすだろう。しかしやる気があるのは結構なことなのだけれど、最初から飛ばしすぎるのはあまり良くない。

 

「フェルディナンド様の仰ることにも一理ありますが、まだデビュタントまでは時間がありますしその辺は追々で大丈夫ですわ。今は見分けがつかなくともいずれ憧れのステップが見つかれば、集中力の高いアウローラ様ならすぐに憶えてしまわれますよ」

 

 詰め込み教育よりも少しゆとりがある方が人は伸びる。これには大人も子供もないはずだ。隣のフェルディナンド様に目配せすると、彼は心得たとばかりにニヤリと笑った。

 

「ま、それもそうかもね。じゃあこの後アウローラ嬢は一旦休憩しながらオレとベルタ先生が踊るところを見ててよ。初級から上級まで一通り流すから、気になるステップがあったらそこで声をかけて」

 

「でも、まだ基本もできてません。次はもっときちんと――、」

 

「アウローラ様、そこにこだわりすぎて苦手になってしまっては勿体ないですわ。何かを習うならまず克服より“楽しそうなこと”からです。ティータイムのお菓子のように好きなものから選びましょう」

 

 真面目なことは美徳であるけれど、この場では一度忘れてもらおうとの思いからそう言えば、食い下がっていた教え子は「ええ?」と困惑した声をあげる。

 

「あー、それは分かる。嫌いなものが食卓に並んでるときは、その倍は好物を並べたくなるよ。キュウリのピクルスを出されたら、カボチャのポタージュが鍋いっぱい飲みたくなるとか」

 

「えっと……分かるような……分からないような?」

 

「その場合キュウリのピクルスは残さず食べると考えれば大丈夫ですわ。あくまでも偏食がすぎなければですが。好き嫌いをしないことも、基本をしっかり守ることも大切です。でもやっぱり美味しいと楽しいがある方が良いですわ」

 

 可愛らしく小首を傾げている教え子が新たな悩みを拗らせる前に、やや強引に会話をぶった切れば、フェルディナンド様は整ったご尊顔を芸術的な微笑みで彩って「ま、とりあえず踊ろう」と、私の手を取り会話を締め括った。

 

***

 

 ――合同教育、二月一週目。

 

 苦手な数式とかれこれ四十分睨み合う教え子にヒントを出していたら、温室の入口の方から冷たい風が流れ込んできたのでそちらに顔を向けると、まだここにいるはずのない人物がこちらに手を振る。

 

「あれー、ちょっと来る時間早かった?」 

 

 問われたので素直に教え子と頷けば彼は誤魔化すように笑って近付き、テーブルに広げられた教材を覗き込んだ。

 

「お、難しいとこやってるなー。でもこの公式だと永遠に解けないけど。どれくらいかかってるの?」

 

「さん……いえ、四十分くらい、です」

 

「結構かかってるのに解けてないってことは、お姫様は数学が苦手なんだ?」

 

「ええ。他の科目に比べてやや、程度です。ちょうど今から解くコツをお教えしようと思っていたところですわ。次の授業枠までに間に合わなかったら課題にしますので、もう少々お待ち下さい」

 

 言外に余計なことを言ってやる気を下げないでと念を送ると、彼は何を思ったのか、今日この後の授業に使用する縫いぐるみが入っているのであろう紙袋を漁り、ズルリと何か長い斑の物体を引きずり出した。

 

「これ、二人には何に見える?」

 

 そんな謎かけと共に現れたそれは、頭から赤→橙→黄→緑→青→藍→紫と色を変えるある生き物だった。色的には虹と同じ。人が視認するプリズムの順番だ。

 

「「虹色の――、」」

 

 一瞬だけ教え子の可愛らしい声と私の低めの声が重なる。

 

「ヘビ、です」

 

「ご不浄かしら」

 

 前者がアウローラで後者が私のその答えに、フェルディナンド様が貴族らしからぬ声を上げて「ベルタ先生、発想が小さい男子」と笑い、教え子がポカンとした表情を浮かべた。

 

「まぁ……ふふ、申し訳ありません。領地では小さい男の子にも教えていましたから、つい発想まで寄り添ってしまったみたいですわ。お忘れ下さいませ」

 

 慌てて訂正したけれどテーブルの上でトグロを巻くように置かれたら、ついそう見えたのだ。確信犯でないのなら彼の方が無自覚な小学生男児を心に飼っている。私は無実。セミの脱け殻もヘビの脱け殻も宝物にはしていない。

 

 フェルディナンド様は、私の失敗にクスクスと愛らしく笑うアウローラの頬にヘビの縫いぐるみの口を押し付け、呆れた様子で苦笑する。

 

「ベルタ先生がおかしなこと言うから、せっかくお姫様に力を貸そうとして下さった知恵の神のキスが台無しだ」

 

 芝居がかった動作で虹色ヘビの縫いぐるみを肩にかけた彼のキザな台詞に、純粋な教え子がほんのりと頬を染めた。

 

***

 

 ――合同教育、二月四週目。

 

 コトッ、トッ、ト……と軽い音を立てて、厚紙で作ったサイコロがテーブルの上を転がる。ゆらゆら揺れながらもう一つ転がるかと思ったサイコロは、残念ながら踏み留まってしまった。

 

「六か……って、うぅわ、またマスに何か書いてある。もう嫌だ。自分で読みたくない。オレの代わりにどっちでもいいから音読して」

 

「フェルディナンド様……最初の頃『たかだか素人が手作りしたボードゲームだ。悪いけど一人勝ちさせてもらうねー』と仰っていた覇気はどうされたのですか?」

 

「強気のオレは死んだと思って。いいから読んでよ。それで残り少ない有り金巻き上げればいいんだ」

 

 休憩時間に三人で私の作った双六に興じていた最中に、思ったよりも幸運値の低い体質らしいフェルディナンド様が天を仰いだ。その様子を向かいの席から心配そうに眺めるアウローラは、今日も今日とて良い子である。

 

「それでは遠慮なく。“相手国から戦争賠償を求められ戦後復興に充てる国費を全て失うが、それでも足りない。不足分の支払いをどう支払いますか?”ですね。方法は三択で同盟国に借金をするか、国債の発行を増やして賄うか、税金を上げて捻出するかです」

 

 ちなみにこの双六の名前は【宰相ゲーム】という。プレイヤー達はそれぞれ五つの国の宰相となり互いに策を使って騙しあったり、共闘したりという教え子の好みに全力で応えただけの代物なので、意外と内容がシビアだ。

 

 最大で五人まで遊べるけれど、今のところ私達三人しか遊んだことがない。双六と言いつつもゲーム的には○生ゲームに寄っている。五人で遊べる仕様にしてしまったがために、五勢力分のお札と国債の紙を作るのにとても苦労した。転生してから身に染みるコピー機のありがたさよ……。

 

「はー……ベルタ先生は、よくもこんな底意地の悪いボードゲームを幼気(いたいけ)な生徒の教材用に作ったね?」

 

「お褒めに与り光栄ですわ。それで、どうなさいますか?」

 

 不貞腐れるフェルディナンド様を適当にあしらいつつ、偽札の束を手にして銀行員の如くお札を繰っていたら、アウローラがおずおずと口を開いた。 

 

「あの、フェルディナンド様……わたくしが同盟国なのでお金をお貸しします。サイコロの出た数で貸し出しの金額と、借金返済までの年数になりますから、できるだけ大きな数字を出して下さい」

 

 作ってから何度も遊び倒しているのでだいぶくたびれた偽札を握りしめ、ボードゲーム内とはいえ推しに課金をしようとする彼女にほっこりしてしまう。これが元のゲームなら今頃魅力が上がっているに違いない。

 

 けれど結局引きの悪いフェルディナンド様はそんな彼女の献身に感動しかけ、すぐに「いや、でもそれだと借金の数字も大きくなるんじゃない?」という、至極尤もなことに気付いてしまった。

 

 ああ、残念。彼女が歴史に名を残す憧れの宰相になるには、もう少し狡猾さと勉強が必要なようだ。



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*8* 蝶が羽ばたくと嵐がおこる。

 

 先人達が時間の過ぎ去る早さを光陰矢の如しと評したのもさもありなん。やることが多すぎると人間時間の概念が吹き飛んでしまう。

 

 一月半ばから三月の一週目まで、フェルディナンド様の授業枠を一日三枠(一枠で一時間)絵画が一・ダンスが二の割合で受け持ち、私が一日四枠で教養二・知力二の割合で受け持つという勉強三昧の強行軍を決行した。

 

 おかげでかなり教え子の令嬢レベルも上がったように感じる。手応え大だ。例えるならそれぞれメモリ二~三の上がり幅。一部は早くも初級の真ん中を少し越えたかもしれない。

 

 その彼も先日『次に来るときまでに作り直すから、このボードゲーム貸してよ』と言って【宰相ゲーム】を持って領地に帰って行った。

 

 そんなこんなでいつの間にか二十二歳の誕生日も通りすぎ、暦は教え子との出逢いから二度目の社交シーズンへと突入したのだけれど、本来まだ社交界の関係ない彼女は王都に出る必要はない。

 

 しかし野心家なコーゼル侯爵は社交シーズンに、王都で行われるお茶会へアウローラを出席させると言い出した。人慣れし始めた娘の顔を売り出すのにちょうどいいと踏んだのだろう。

 

 まぁ、そろそろ度胸をつけたり自信を持たせるためにも、さらに大きな集まりを想定して人前に出すのはいいことだと思う。

 

 ――というわけで、私とお嬢様は本日某・伯爵家のお茶会に潜入しているところだった。ちなみに本日は非番のはずだったので、お手当ての方は倍率ドン。教え子の可愛さは数値化できないものの、特別手当ては数値化できる魔法の言葉だ。

 

 伯爵家が主催だけあって華々しい会場は、下は八歳から上は十二歳までの子供達だけを集めた場ではあれど、お遊び感など一切ない。どのご令嬢も両親から他家と“縁”を繋ぐように言い含められて来ている立派な仕事人だ。

 

「アウローラ様は今日の出席者の中では上の立場ですので、話しかけられることを待っていてはいけません。事前に一緒に暗記した出席者の中で、憶えている範囲で家格の低いご令嬢達には積極的に挨拶なさって下さい」

 

「は、はい! やってみますわ」

 

 周囲にサッと視線を走らせて見たところ、すでにここに招待されている家々のご令嬢逹で、顔見知り同士“仲良しグループ”という名の社会が形成されつつある。これは前世での入学直後のグループ分けに等しい。

 

 はっきり言ってこれは貴族の子女間における、某・魔法学院の組○け帽子よりもずっと重い意味合いのあるものだ。これに乗り遅れれば後々社会的に詰む。

 

「あとは同格のご令嬢達は作法を知っているでしょうからそれなりに。様子を見つつ大丈夫そうな方に話しかけてみて下さい。会話を無理にする必要はないので、一通りの挨拶が終われば一度こちらにお戻りを」

 

「わ、わたくし頑張ります、先生」

 

「ふふ、そんなに気負わないでも大丈夫ですわ。今日だって本当ならもうアウローラ様お一人で出席なさっても平気なのに、侯爵様達が心配されて私を付き添いに選ばれただけですもの」

 

 しかしこの言葉にはそれまで緊張気味ながらも、素直に肯定の返事しか返してこなかったアウローラが表情を曇らせた。

 

「……お父様やお母様がわたくしを心配するはずがありませんわ」

 

 そうふと大人びた翳りのある微笑みを浮かべた教え子の表情に、かつて何度も見たバッドエンドルートを思い出してドキリとする。

 

「でもどんな場所でも、先生がついていて下さるなら平気です。でき損ないのわたくしでも、先生が褒めて下されば何だってできる気がするの」

 

 憐れで、健気で、いじらしい。この世界が元はゲームであろうとも、私は彼女にとって初めての理解者であり指導者だ。

 

「アウローラ様。貴女はできることを知らなかっただけなのですから、でき損ないではありません。さぁ、分かったらお行きになって下さいませ」

 

 本来格上の家の相手にするには許されないものの、アウローラの小さな頭に手を置いてそっと撫でれば、彼女は嬉しそうに笑って頷き、ドレスを翻してご令嬢達の集団の方へと歩いて行った。

 

 そんな後ろ姿を見送りつつ、会場内にはほとんど私と同年代の人間がいないので暇を持て余す覚悟をしていたら、少し離れた場所から「少しよろしいかしら~?」と、だいぶ間延びした声をかけられ、つい反射的にそちらを向くと……。 

 

 そこにはひどく見覚えがあり、しかしまだ出会うわけにはいかないというか、いつか対決することがあるとしても、絶対に今は出会いたくなかった人物の姿があった。え、このキャラクターは何でこんなに早く登場したの?

 

「ね、もしもお暇でしたら、一緒にお話しません~?」

 

 のんびりした口調に似合わないボリューム感のある亜麻色の髪を縦ロールに、やや色味の鮮やかすぎるドレスと、バッチリお化粧をしていてもそれらを薄味に変えてしまう糸目のご令嬢――。

 

「あら、初めましてが先でしたわね~。わたし、アグネス・スペンサーと申しますの。貴女のお名前をお訊ねしてもよろしいかしら~?」

 

 言葉を発せず凍り付くこちらに、笑っているのか地顔なのか判別に困る表情でそう自己紹介をしたのは、紛れもなく前世で教え子のライバルである令嬢の家庭教師を務める、私のライバル令嬢その人だった。

 

 呼吸が止まったのはほんの一瞬。教え子に発破をかけておきながら、その本人がすぐにみっともない姿は晒せない。

 

「初めましてアグネス様。私はベルタ・エステルハージと申します。会場に親しい方がいなかったものですから、お声がけ下さって光栄ですわ」

 

 何とか動揺を飲み込み、骨身に染み込ませた微笑みを浮かべて体勢を立て直してそう返すと、彼女は嬉しそうな笑み(?)を浮かべて「まぁまぁ、やっぱりそうでしたのね~」とはしゃいだ。今にも跳び跳ねそうな動きが彼女という人柄(キャラクター)を表している。

 

 ライバルキャラクターはどんなゲームにおいても対。対になっているということで分かるだろうが、ゲーム内での(ベルタ)は陰、彼女は陽の立ち位置だ。そして対になっているということは、どちらかが先に突出することはないということである。

 

 前世で国民的な人気を博したポ○ットモン○ターのライバルよろしく、大抵の場合は“何で今日一緒に旅立つの?”という日程を嫌がらせの如く組んでくるのに、どうして今までそんな簡単なことを忘れ去っていたのだろうか。

 

 今回ここに彼女がいるのも、恐らく私が教え子に出逢うためにイレギュラーな行動を取ったせいだろうけど――というか、んん?

 

「ええと……申し訳ありませんアグネス様。こちらの聞き間違いでなければ今“やっぱり”と仰いました?」

 

「あら……まぁ嫌だわ、わたしったら~。初めましてと自分から言ったのにごめんなさいね」

 

「いえ、こちらこそ少し前まで自領に引きこもっていたものですから、あまりこういった場には馴染みがないもので。どなたかと勘違いなされたのでは?」

 

 正直同じ子爵家の令嬢で、同じ歳で、正反対の気質を持つライバルという設定以外の接点がない。並べると盛り沢山すぎるだろうと感じるけれど、ゲームとは常にそういうものだから仕方がないだろう。

 

 そして将来的に接点を持つのが免れないのなら、せめて今はまだ心穏やかに教え子の育成に専念したいのだけれど……。

 

「去年の社交界シーズンに貴女と妹さんの噂を耳にして、とっても素敵だと思ったのです~。まだまだ世間では女性や子供が学を持つのを嫌がる方も多いのに、何て先進的なのかって。それで憧れがすぎて色々噂を耳にする間に“初めて”感が薄れてしまったのね~」

 

 そう指をモジモジさせながら楽しげに笑う彼女からは、同じ歳とは思えない無邪気さを感じる。まるで少女が無垢なまま大人になったようで、他の同年代のご令嬢達からたまに向けられる悪意がまったくなかった。

 

 警戒していてもするりと懐に入って来てしまう。それがゲームのノベルシーンでは知り得なかった彼女(アグネス)という人物の本質らしい。

 

「貴女の功績のおかげで、わたしの両親が学問を続けることを許してくれたのですわ~。そこからご縁があって家庭教師をさせて頂けるようになりましたの~。ですから今日はお見かけしたときからそのお礼を言いたくて」

 

「ふふ……まぁ、そうだったのですか」

 

 ここに来て突然のピンチの原因は私だっただと? まさかの自分で墓穴を掘るスタイル。何なら片足の爪先を棺桶に突っ込んでいる状態だ。これではチキンレースもとい究極のマッチポンプ。

 

 おまけにそれで将来的に負けるとか、最初は強くて徐々に大したことがなくなっていく系のライバルキャラかな?

 

 表面上はにこやかに微笑みあってはいるものの、はてさてこれは困ったことになったと思っていると、パステルカラーなドレスの森からもう教え子が戻ってくる姿が見えた。

 

 しかもやけに嬉しそうに頬を赤らめた姿を見て、本能的に何だかまずいものを察知する。その証拠に遠目にも教え子の手を引いてこちらに向かってくる少女の、明るい紅茶色の髪には見覚えがあった。これは回避したかったフラグのうちの一本を早くも回収してしまったな。 

 

 綺麗な若草色の瞳は子猫のようで、大人しいアウローラとは正反対に活発そうな印象の少女は、紛れもなく前世で散々苦しめられたあの子だ。けれど今はまだライバルではない。

 

「アグネス様」

 

「はい、何でしょうか~、ベルタ様?」

 

 ここまで来たら腹をくくれ私。これでむしろ今後の動向に目を光らせやすくなると思えばいい。昔から敵を知り己を知れば百戦危うからずと言うし、彼女達の真逆に育成して少し様子を見ることにしよう。

 

「もしよろしければお互いに学問を志す女性同士、教え子も交えて仲良くして頂けると嬉しいですわ」

 

 だって敵になるより味方に引き入れる方が断然生存率は上がりそうだもんね?



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★9★ 社交シーズンの到来と試練。

 

 暖炉中で火に纏わりつかれていた薪が、ゴトリと音を立てて崩れた。もう少し前までのように慌てて薪をくべるような気候ではないものの、その音で一瞬だけ途切れていた会話が再び動き出す。

 

「ヴィーもマメだよなー。あと三日もしたらオレは領地に帰るんだし、それからうちの屋敷を訪ねて来たっていいだろ。その方がベルタ嬢に目撃される心配もしないで済むぞ?」

 

 貴族同士の交流が嫌いなエリオットが、住込みではなく仮暮らしであるとはいえ、特に問題も起こさず任期を勤めきるとは正直思っていなかった。それだけ彼女との仕事はこの自由人な男にとって居心地が良かったのだろう。

 

 手許にある彼女を描いた絵にも、いつの間にか瞳に穏やかそうな感情が宿っている。やや斜めを向いた視線の先にいるのはおそらくだが、教え子の令嬢に違いない。ヘビの縫いぐるみを肩にかけて頭を持ち上げる様は、失礼ながら童話に出てくる魔女のようだ。

 

「彼女の教育方針や生徒のことを聞けるのなら、別にそれぐらいの危険は構わん。今まで存在は知っていても、親の期待に沿えず社交界でも噂を聞かなかった娘が注目され始めた。社交場で脚色される前の情報を得る伝手があるなら使うさ」

 

「とか言って、ヴィーはほとんど授業風景についてしか興味ないだろ。使った教材や授業の内容とか聞いてこないし」

 

「教材は全て彼女の手製なのだろう。ならばそれは彼女とその教え子の財産だ。授業内容の組立てもな。俺が知りたいのは生徒への接し方だ。何でも無表情でこなしてしまうあの方の表情を引き出すのも、俺の教育者としての仕事だからな」

 

「相変わらず頭が固いねー。そんなだから五年目にもなってまだ生徒と距離があるんじゃないの? 確かそっちの生徒は十歳だったよな」

 

 その容赦ない発言に苦笑すれば、エリオットは言いすぎたと感じたのか珍しく「……悪い」と言って頭を掻いた。乱暴にかき混ぜられた髪のガラスビーズがチャラチャラと鳴り、気まずそうな表情でありながらどこか間が抜けて見える。

 

 第一こいつが謝罪の言葉を普通に口にすること事態本当に珍しい。少なくとも以前までなら口を滑らせたという表情を見せる程度だった。

 

「お前が殊勝に謝っても気味が悪いだけだ。止めておけ」

 

「あーあ、言ってろバーカ。単にオレもちょっとお前の苦労が分かったって言いたかったんだよ」

 

「それはそれは……俺の苦労も軽く見積もられたものだな。しかしお前にそんな一般人の感覚を植え付けた彼女には敬意を抱く。俺も家庭教師としての心得を彼女にご教授願いたいものだ」

 

 学生時代から変わらない軽口の応酬をしつつ、脛を蹴ろうと伸びてきたエリオットの爪先を回避する――が。

 

「たぶんだけどなー、ベルタ嬢は今年も社交シーズンに王都に行くぞ。雇い主が今まで見向きもしなかった子供の顔出しに張り切ってる。その都合で本人もどこかの夜会とかに出席するかもよー?」

 

 何故そこで彼女の名を持ち出すのかとは思ったものの、確かにニヤリとしたエリオットのその言葉に心が揺れたのは、悔しいから黙っておいた。

 

◆◇◆

 

 社交シーズン到来の四月。

 

 ……別に一ヶ月前にエリオットの寄越した、あやふやすぎる情報を鵜呑みにしたわけではないが、それでも彼女やその妹の出席していそうな夜会や茶会を当たっている自分が情けない。

 

 去年までは社交界シーズンと呼ばれるものが億劫で、本当に必要なものにしか出席していなかったくせに、今年はシーズン開始直後から、すでに前年出席した数の倍の夜会と茶会に出席している。

 

 しかし精査しているとはいえ、運に賭けるような出席方法でそう易々と彼女に出逢えるはずもなく。今日も演劇好きで有名な某・子爵家の夜会に出席したものの、あまり期待はしていなかったのだが――。

 

『ねぇ、お姉さま。こちらのケーキも美味しそうですわ』

 

『あら本当ね。でも……ふふ、アンナは去年からさらに綺麗になったのに、夜会の楽しみ方は去年からあまり変わっていないのね?』

 

 男性出席者達が不自然に足を止める会場の一角から探していた人物の声が聞こえ、慌ててそちらに向かおうとした矢先に急に肩を誰かに捕まれた。邪魔が入ったことに若干の苛立ちを感じつつも、笑みを張りつけて振り返ったそこに立っていた人物は――。

 

「ああ、やはりホーエンベルク殿でしたか。娘達にご用件でも?」

 

 目の奥がまったく笑っていない美貌の文官。早くに妻を亡くして以来再婚もせずに、社交界で女性達の羨望を集めるハインリヒ・エステルハージその人だった。

 

 

「これはエステルハージ殿。このように夜会で顔を会わせるとは珍しいですね」

 

「はは、確かにそうですな。しかしそれは貴方が本来この手の催しにあまり顔を出さないからでは?」

 

 体勢を整えようとしたところでにこやかに心理的な足払いをかけられる。流石は城に勤めている文官の中でその見目だけでなく、仕事ぶりでも信頼されている人物だけあって防御が堅い。

 

 領地こそ小さいが、元々エステルハージ領は昔から安定した土地柄だ。それが近年ではベルタ嬢とその妹の尽力でさらに評価が上がっている。加えて第一王子派とも第二王子派とも距離を置く当主の彼は、容易に政治的中立派の姿勢を崩すつもりはないだろう。

 

「ご用件があるのであれば私がお聞きしよう。娘達は先程まで挨拶回りをしていたところで疲れている。休ませてやりたい親心です」

 

 要約するに“耳に入れるかどうかはこちらで決める”ということか。だとしたら明らかに教育について語るのは避けた方が無難だ。それに何より俺自身が何と話しかけようかまったく考えていなかった。

 

 ただ彼女の声が聞こえたから、反射的にその声が聞こえた方向に向かおうとしただけの何の意味もない行動だ。有効な言葉を思いつけずに口をつぐめば、エステルハージ殿が呆れ顔で短い溜息をついた。

 

()もそうだと言うわけではないが、次女の気を惹くために長女に話しかける無礼な輩が多くてね。ついこうして尋問官のようなことをしている。美しい娘を二人も持つと男親は気苦労が絶えん」

 

 不機嫌に表情を顰めた彼がそう口にした言葉に、こちらまでその無礼な輩とやらに不快感を抱く。彼女の価値が分からない三流以下の連中に対して、殺意に似た感情すら持った。

 

「心中お察し致します。ベルタ嬢もアンナ嬢も、共に素晴らしい能力をお持ちだというのに。俺が親でもきっとエステルハージ殿と同じことをするでしょう」

 

 波立つ感情を抑え込んでそう答えると、彼はご婦人方を骨抜きにするダークグリーンの双眸を細め、薄く笑った。

 

 一見穏やかそうに見えるその微笑みを向けられた俺は、ここが人気の多い夜会場であることに内心感謝する。真意の見えない微笑みを向けられるのは、抜き身の剣を向けられるのと相違ない。

 

「まぁ、こちらの言いたかったことは以上ですな。それで、貴方が娘に話しかけたい会話の内容は思い出せただろうか?」

 

「はい。ベルタ嬢になかなか心の距離が縮まらない生徒との関係に、何か助言をもらえたら……と」

 

「成程。その質問内容なら確かに私の長女が適任だ。あの子から有意義な答えが引き出せるよう祈っているよ」

 

 今度こそ親の公認が下りた。すると彼はもう話の済んだ俺に興味をなくしたのか、こちらのさらに後方へと視線を向けて「君もいつまでそこにいるつもりだ」と、やや柔らかい口調で声をかける。

 

 振り向くと少し離れた場所に長身を丸めたヴァルトブルク殿が立っていた。熊の身体にノミの心臓と揶揄される気の弱い彼にしてみれば、エステルハージ殿の前に辿り着くまでに心の準備が必要だろう。

 

 手にしている本の題名を見るに彼のお目当ては妹のアンナ嬢の方だ。そのことに若干安堵する自分に戸惑いつつも、せっかく取り付けた許可をグズグズしている間に撤回されても困るので、彼には一人で立ち向かってもらうしかない。

 

 背後のヴァルトブルク殿と正面のエステルハージ殿に会釈をし、ようやく彼女達が会話に花を咲かせるテーブルへと近付くと、こちらの接近に気付いたアンナ嬢が悪戯っぽく微笑んだ。

 

「ふふ、見てお姉さま。お父さまのお許しを得た勇者がいらしたようよ?」

 

 その言葉でこちらに背を向けていた赤煉瓦色の髪の令嬢が、ゆったりとした動作で振り返る。

 

「まぁ、どなたかと思ったらホーエンベルク様でしたのね。妹にご用の場合は私が最後の防壁として立ち塞がりますが、どちらにご用なのかしら?」

 

 家族が近くにいるせいか、いつもより心持ちあどけなさの残る微笑みを向けられたせいで、本題を切り出すのが一拍遅れた姿に気付いたアンナ嬢に笑いを提供してしまったのだった。



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*10* 家庭教師の教師。

 

 春の陽射しが降り注ぐカフェテラスの一角の丸テーブルを囲み、三者三様休日の装いに身を包んで向かい合う。集まった人物は私、アグネス様、ホーエンベルク様の三人。

 

 人間というのは不思議なもので、同業者が集まっているとそこから一種独特の匂いを感じることがある。今日であれば言わずもがな。関係性は三人共に上級貴族の子息と令嬢を教え子に持つ家庭教師だ。

 

「それでは揃ったところで改めまして、本日はお二方ともこの勉強会にお集まり頂いてありがとうございます」

 

「うふふふ、同年代の家庭教師同士で集まるなんて初めてで緊張しますけれど、憧れのベルタ様に教えを乞えるだなんて楽しみですわ~。本日はどうぞよろしくお願いしますね~」

 

「こちらこそせっかくの休日にこのような場を設けて頂いたことに感謝する。今日は是非ご教授頂きたい」

 

 前回アンナと出席した夜会でホーエンベルク様に見つかってしまい、そこで教え子との距離の詰め方を教えて欲しいと頼まれた。

 

 断っても良かったのだけれど、変に避けてこれ以上興味を持たれるのは下策ということで引き受けたのはいいものの、いくらなんでも結婚する予定もつもりもなかろうが、世間的に見れば私はまだ婚前の令嬢。

 

 男性と……しかも身分の釣り合わない人物と二人きりでいるところを誰かに見られでもしたら、あっという間に社交界のお嬢様や奥様方の噂の的になってしまう。

 

 妹の周囲で青春の気配を感じている今、ただでさえ変人と噂されている身としてそれは何としても避けたい。私は今世でできた可愛い妹の幸せを見届けたいのだ。そのためには誰かに見られても疚しくない関係の人間が必要不可欠。

 

 そこで白羽の矢を立てたのがアグネス様だった。彼女なら同じ階級の子女で、同業者。おまけに教え子の階級もピタリと合うので、ホーエンベルク様の目からアウローラの存在を隠すのにも有効だ。

 

 似た年頃の子女が二人いるとなると、見極め対象が散って結局どちらも選ばれないということもままある。今回はそれを狙っての策だ。

 

 しかし二人とも私とは面識があるもののお互いに面識はない同士なせいか、アグネス様は通常運転であるけれどホーエンベルク様の表情がやや固い。

 

「それでは一応自己紹介から始めましょうか。私はエステルハージ子爵の長女でベルタ・エステルハージと申します。お二人のどちらとも面識がありますから、こちらからの紹介は以上とさせて頂きますわ」

 

 両者から余計な詮索が入る前にサックリと自己紹介を終えて微笑み、次の自己紹介を促すと、本日もお忍びにしては目立つ立派な縦ロールをしたアグネス様が小さく挙手した。

 

 そんな彼女を見たホーエンベルク様が頷き、彼女の方も軽く会釈を返す。何となく前世の新学期にあった塾講師同士のミーティング風景を思い出すな……。

 

「わたしはスペンサー子爵家の長女でアグネス・スペンサーと申します。教え子との関係性は良好だけれど、授業が途中で脱線しがちなのが悩みかしら~? 時間内に一つの分野に集中させるにはどうしたら良いのか、今日はその辺りの対処法を教えて頂けると嬉しいわ~」

 

 のんびりと小首を傾げてそう微笑む彼女に頷き返し、視線でホーエンベルク様を促すと、彼も律儀に小さく挙手してから口を開いた。

 

「俺はホーエンベルク伯爵家の当主でヴィクトル・ホーエンベルクだ。元はお二人と同じ子爵家の出身だから家格は飾りだと思ってくれ。今日は授業態度に問題はないのだが、どうにも教え子との距離を感じているので、それを詰める方法をお二人にご教授頂きたい」

 

 流石にホーエンベルク様もアグネス様も自身の欠点というか、足りない部分の洗い出しはしてきているようだ。二人は互いに現在困っている点を簡潔に述べ合うと、再びこちらに注目した。

 

 見つめられる私はといえば、塾の主任講師にでもなった気分だ。ちなみに前世の職場では最もなりたくない立場でもあった。給金は多少上がるけれど責任を背負わされる割に権限が少ない。きちんとした塾ならそうでもないのだろうけれど、私のいた塾では実質一つ上の社畜である。

 

 当時を思い出して身震いしつつも、教えを乞われては教育者としての血が騒ぐ。まだまだ古い考えを根底に抱えた指導方法が根強いこの世界(ゲーム)では、前世で私のとっていた方法は邪道と受け取られかねないけれど、取り入れるか取り入れないかは各々の判断だ。

 

「成程、お二人の苦手としておられる分野は大体分かりました。それでは僭越ながらこれより個別に対処方法について教授させて頂きますので、ペンとノートのご用意をどうぞ」

 

 つい前世の授業開始の癖で軽く両手を打ち鳴らすと、二人が一斉にテーブルにノートを広げたものだから、思わずその素直さを褒めようと教え子にするように二人の頭に手を伸ばしかけ――。

 

 直後に正気に戻り、手を引っ込めて「では始めます」と誤魔化した声が少しだけ上擦ったことが、どうか二人にはバレていませんように。

 

 

 ――特別講習の開始から三時間後。

 

 いつの間にか三人で囲んだ丸テーブルの上は、空になった軽食のお皿やケーキ皿、ティーカップや書き損じたノートの切れ端でいっぱいになっていた。

 

 真剣な表情で私の話した内容を精査する二人をよそに店員さんに空いた食器を下げてもらい、新しい紅茶を注文して喉を潤したり、甘いものの追加をしたりして質問を待ったり。

 

 その光景を見て前世のテスト期間中の光景を思い出して微笑ましかったけど、二人は真面目に書き殴った内容を纏める作業に没頭していた。私は私で二人との会話内容から彼等の教え子の能力値を予想し、次回のアウローラの授業内容を組み立てるという作業がある。

 

 アグネス様の教え子であるマリアンナ・エルベーヌ・ハインツ嬢は、今のところ体力、教養、魅力がずば抜けて高いようだ。

 

 思っていた通り能力値がアウローラとは逆になっている。知力と芸術はそこそこらしいので、だとしたらこのまま育てていけば大丈夫……かといえばそうでもなく。

 

 困ったことに現状だと、顔も知らないホーエンベルク様の教え子とやや能力値の相性が良いことになっている。どうにもあちらの教え子は統率、知力、内政が得意分野らしい。

 

 かといって相性をずらすためとはいえ、いきなり体力に全フリするとバランスが悪いしなぁ……などと考えている間にも、時間は着々と過ぎ去っていった。 

 

 ――そして家庭教師だけの特別講習開始から四時間半後。

 

 アグネス様のお屋敷から迎えの馬車がやってきたところで強制終了。お昼から座りっぱなしだったせいで腰と背中が痛いし、あとはずっと書き物をしていたから肩と首も。要するに全身が痛い。

 

 けれど私とアグネス様とは身体の鍛え方が違うのか、ホーエンベルク様だけは最後まで涼しい顔をしていた。

 

「はぁ~……こんなに有意義に自分の勉強をしたのは久しぶりですわ~。お二人ともありがとうございます。今日教わったことは、早速明日からでも授業で実践してみますわね~」

 

「俺もベルタ嬢に譲ってもらったこの盤上遊戯を、教え子との休憩時間にやってみようと思う。ためになる情報と道具の提供に感謝する。だが本当に今日の報酬はここの支払いだけでいいのか?」

 

「そうそう、こんなにお世話になったのですもの~。今日はもう家から迎えが来てしまったけれど、次にお会いするときにはもっと何かお礼がしたいわ~」

 

「いいえ。今日の集まりは同業同士交流の意味合いの方が強いですし、何よりあまり大したことをお教えできなかったのに、お二人のご厚意に甘えて飲食代を全部出して頂いて申し訳ないくらいです」

 

 もともと前世から奢ったり奢られたりということは苦手なので、むしろこれでもかなり譲歩したのだ。本当ならマク○のポテトですら奢られたくない。辛抱強くそう説けば、不満そうな表情ではあったけれど二人とも折れてくれた。

 

 その後はアグネス様が乗り込んだ馬車をホーエンベルク様と一緒に見送り、私は帰りに本屋に寄る用事があったので、彼とはカフェ店の前で別れようと思っていたのだけれど――。

 

「ベルタ嬢はこの後は何か予定があるだろうか」

 

「はい。もうすぐ妹の誕生日なので本屋に寄って贈り物を探そうかと」

 

「アンナ嬢の贈り物を……本屋で?」

 

「ええ。せっかく王都に出てきたのですもの。ここでしか手に入らない貴重な国外からの書籍もあるでしょうから、それを探して贈ろうかと思いまして」

 

 聞いておきながら困惑の表情を浮かべた彼を見て、そんなに本屋で贈り物を探すのは特殊なことなのだろうかと思ったものの、我が家ではこれが普通なので問題ないのだ。

 

 第一、宝飾品や可愛い小物は本人の趣味に合わないと地雷でしかない。仲良し姉妹を自負する身ではあるが、万が一にも外したらと思うと嫌だ。それに私がそういうものに疎い。

 

 その点アンナの翻訳の才能を伸ばす際に色々教えた身としては、本の趣味ならまず間違いなく当てられる自信がある。

 

「あまり帰りが遅くなるとアンナと父が心配しますので、もう行かないと。本日はここで失礼しますわね」

 

 そう別れの言葉を告げて反転したのに、急に肩を大きな手に掴まれて一歩を踏み出すのを阻まれた。いきなり邪魔をされるわけが分からず振り向けば、そこには自分で足止めをしておきながら驚きの表情を浮かべた彼が立っている。

 

「あの、まだ何か?」

 

「いや、その……俺もついて行っても構わないだろうか」

 

「それは別に構いませんけれど。ホーエンベルク様も本屋にご用事が?」

 

「先程教わったことを忘れないうちに新しい教材を買いに行こうかと。もしも迷惑でなければ、片手間で構わないので助言をもらえるとありがたいのだが。遅くなるようなら屋敷の近くまで送り届ける」

 

 ついさっき勉強会が終わったばかりだというのにもう応用。冷静そうな見た目によらず教育熱心なようだ。贈り物を選ぶのには邪魔だけれど送ってくれると言うし、悔しいことに同じ家庭教師としてちょっと感心してしまった。

 

「そういうことでしたらお付き合いしますわ」

 

 何より男手があれば、自分だけで持ち運ぶのには苦労する重い本も買えるな~、なんて? 思ってませんとも、ええ、本当に。



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★11★ 向き合うということ。

 

『内気な教え子と距離を縮めたいのなら……そうですね、簡単なゲームを休憩時間に一緒にやってみるのも効果的かと思いますわ』

 

 ――遡ること二週間前。

 

 勉強会で訪れたカフェのテラス席で紅茶を飲みながら、彼女が発した提案に生徒が一を教えて十を知る相手だと答えたところ、ベルタ嬢は『実はご相談を受けた日に、ちょうどいいものが手に入ったのですよ』と笑って、あるものを差し出してきた。

 

『これ本当はフェルディナンド様が帰られたら、一緒にゲームをして遊ぶ頭数が減ってしまうので、教え子と遊ぼうと思って工房に発注していたものです。ですがそちらの方がお困りのようですし、試作品ですが良ければお持ち下さい』

 

 そんな台詞と共に彼女から手渡されたものに、単純極まる作りから最初はからかわれたのだと本気で思ったのだが――。

 

 目の前で無表情にマス目で区切られた盤上に置かれた、両面を白と黒の二色に塗り分けられた木製の丸い駒をじっくりと眺め、そのうちの一枚を黒から白に返した教え子が顔を上げた。

 

「先生の番です」

 

 感情の薄い声音は声変わりの予兆をみせて掠れ、出会ったばかりのときより高くなった視線に子供の成長の早さを知る。大人は四、五年程度で見た目が変わることはほとんどないが、子供は背丈や顔つきまでまるで違ってくるものだ。

 

 子供特有の一片の曇りのなかった金髪は成長と共に暗く深みを増し、切れ長なトルマリンの目に個を形成する力が宿る。少女のような線の細さだった骨格も、やや少年らしさを持ち始めた。

 

「そうだな……それなら、ここに」

 

 サッと駒を置かれた場所と空いた盤上のマス目を眺め、自分の手許から一枚取り出して斜め三マスと横一マスの陣地を取る。それを見ていた教え子は、再び盤上に視線を集中させた。

 

 何を考えているのか分からない。いったい誰がまるで魚の棲めない清水のようで、人の認識が及ばない無色透明さすら感じさせるこの少年が、ジスクタシアの第二王子であると思うだろうか。

 

 フランツ・ルドルフ・ジスクタシア。四年前に戦場で功績を上げて伯爵位と共に彼の世話役を任されたときは、こうまで長く務めるとは思っていなかった。

 

 第一王子である兄のマキシム・ニコラウス・ジスクタシアとは二歳違いでありながら、置かれた環境や立場はかなり違う。人格も後ろ楯も真逆の二人には、兄弟としての触れ合いはほとんどない。それはすでに互いの派閥が水面下で動いているからだ。そこに彼等の心は加味されない。

 

 天真爛漫で恐れを知らず、人好きのする武術一辺倒の第一王子と、冷静沈着で余計な言葉を発さず、人を遠ざける冷たさを放つ第二王子。

 

 王族だけでなく、貴族社会ならば当然ある本命とスペア。しかしもしも本命(第一王子)がこの先何らかの事柄で儚くなったところで、現状のスペア(第二王子)は本命に成り代わることはできない。フランツ様は人の心を知らなさすぎる。

 

 小さく「……あ」と呟いたその表情が盤上の先見を立て、微かに年頃の子供らしさが覗いた。こんな些細な変化さえ、四年以上かかっても引き出すことができなかったのかと、自分の家庭教師としての不出来さに呆れる。

 

『どんなに大人びていても、相手が子供であることを忘れないであげて下さい。もし子供扱いされることを嫌う子なら、勝ち負けはしっかり数えてご褒美(アメ)課題(ムチ)を与えるといいですよ』

 

 あの日一緒に教材を選んでくれた彼女の言葉を思い出していると、パタ、と駒が返る音がした。そういえばそのときの礼をまだしていなかったことを思い出す。

 

 ――パタ、パタ、パタ、パタ、パタ、パタ。

 

 角の一つを失ったせいで、立て続けに駒が白に返されていく。予定通り白がやや優勢になるよう持ち込めたことに内心安堵し、次いで「先生の番ですよ」と少しだけ得意気に聞こえる声音で彼が顔を上げる。

 

 将来ご令嬢達が放っておかないであろう怜悧な美貌の教え子も、彼女が持たせてくれたこの盤上ゲームだけは随分気に入ったようだ。普段なら授業を終えた後の休憩時間にも自習をする彼が、このゲームを持ち帰って初めての休憩時間に一戦してからは、素直に一戦、多ければ四戦はしたがる。

 

 ジスクタシアどころか近隣諸国でも見たことのないゲームだが、彼女に訊ねても『異国で見たものの模造品ですわ』とはぐらかされてしまったので、他にその国にある盤上ゲームを仕入れることは難しいだろう。

 

「ああ……もうどこに置いても勝算はないな。今回の勝負はフランツ様の勝ちだ。これで勝ち数が五。何かしてみたいことは?」

 

 次の手を待つフランツ様にゆっくりと首を横に振ってそう問えば、彼は迷わず答えた。

 

「では……もう一戦したいです、先生」

 

 他者が見ればほぼ無表情に見えるであろうその頬に、うっすらと血の気が通う。喉の奥から笑いがせりあがってくるのを飲み下しながら、盤上の駒を半分ずつになるよう数え直して、彼女から手渡されたもう一方の情報を思い起こす。

 

「次はこちらが白だ。勝ったら課題を増やす。覚悟はいいな?」

 

 軽い挑発に無言で頷く教え子を前にコトリと最初の白を置けば、魔法のように彼に眠る“子供らしさ”が目を覚ました。



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*12* 夢のないガールズトーク。

 

 青々と繁る若葉と手入れの行き届いた芝生。その中に溶け込む甘やかなバラの香りは春のお茶会の醍醐味だと思う。

 

 しかし大人にしてみれば、ガーデンパーティーの目的は財力を現す庭の自慢だけれど、子供にとって大切なのはどこの世界も甘いお菓子だ。お育ちのよろしいご令嬢達も春の新作と言われたら飛び付かないはずもない。

 

 世界の共通認識として女の子は砂糖菓子でできている。平和なことだ。

 

 イチゴを使ったものがとくに多い様子で、赤い瑞々しい実をそのままあしらったものや、ジャムにして添えたもの、ペーストにして生地に練り込んだものと様々な種類があり目にも楽しい。

 

「ねぇ、あのテーブルのお菓子も美味しそう。次はあそこに行ってみましょうよアウローラ。そのついでに挨拶をして回ればきっとお父様達も怒らないわよ」

 

「本当にマリアンナの頭の中はお菓子のことばかりね」

 

「でもお庭を褒めて挨拶だけなんてつまらないもの。お菓子の方が大事よ! それにアウローラだってさっきからチラチラ見てたでしょ?」

 

「それは、そうですけれど」

 

「だったら素直にならないと損よ損。我慢してるところを“慎ましい”なんて褒められても少しも楽しくないわよ」

 

 いやもう本当に頼もしいわマリアンナ嬢。ゲーム内では会話シーンがほとんどないから、こんなに陽気な子だったとは知らなかった。

 

 内気で自分から話しかけられないアウローラをグイグイ引っ張ってくれるから、割とどこのご令嬢達もすんなり輪に加えてくれる。こればかりは同年代の友人しかなし得ないことだ。

 

「もう……分かったわマリアンナ。先生の分も頂いてきますから、どんなものが好きか教えて下さい」

 

 できればあまり奇をてらわないものがいい。実際に前世で頂き物のバラのジャムと花弁を練り込んだクッキーは、美味しいとか美味しくないとか以前の問題だった。あくまでも一個人の感想であるけどね。

 

「ふふ、ありがとうございます。ですが本来私は付き添いの立場ですので、そのお気持ちだけで充分ですわ」

 

 私の返答にそれまで笑顔だった教え子は目に見えて表情を曇らせた……が。

 

「心配しないで大丈夫ですわアウローラ様。ベルタ先生はわたしと一緒にお酒入りの大人のお菓子を楽しみますの~。ですから、アウローラ様はマリアンナ様と一緒にあちらのお菓子を楽しんで下さいませ~」

 

 後ろから突然ヌッと現れたアグネス様の陽気な声で驚きに変わった。彼女の手にするお皿の上には、鼻を近付けなくても分かるほど洋酒の香るケーキと、これも明らかに洋酒が入っているのだろうチョコレート。

 

 ……そう。私達には子供向けのお菓子を食べている暇などないのだ。今日のお茶会の主催者は、まだお茶会に慣れない令嬢達の子守りとして付き添う人間のことを理解してくれる人らしい。

 

「あ、先生ー。いないと思ったらそれを取りに行ってたのね?」

 

「うふふふふ、ごめんなさいね~。あちらのテーブルから美味しそうな香りがしたものだから、つい。これを食べている間はここから動かないから、貴女達も召し上がっていらっしゃい~?」 

 

 そう言って空いた方の手を振るアグネス様に頷き返したマリアンナ嬢は、サッとアウローラの手をとって「ほら、早く行きましょうよ」と笑う。

 

 そんな友人に一瞬だけ戸惑った様子を見せる教え子に「ここにいますわ」と言えば、彼女はようやく「行ってきます、先生」と淡く微笑んで、他のご令嬢達が集まっているテーブルへと近付いて行った。

 

 ――と、いうことで。

 

 教え子達が他のご令嬢達に合流したのを見届けた私とアグネス様は、早速お皿の上に乗った小さいケーキやチョコレートに手を伸ばし、この年齢まで婚約者のいない令嬢同士他愛のないお喋りを始める。

 

 話題は大抵お互いの授業の進行状況、教え子の交友関係、雇い主へのちょっとした愚痴、それから――……夢のない明け透けな結婚話だ。

 

「この間の“婚約者に求めるもの”の答えですけれど、やっぱりわたしがお相手に望むものは顔かしら~。顔さえ良ければ愛人がいようが、隠し子がいようが、男爵家の三男坊だろうが、多少なら借金があったって構いません」

 

「あら、アグネス様の条件はいっそ清々しいですわね」

 

「わたしはこの見目ですもの。貴族の子供でこの顔に生まれてしまっては将来苦労しますわ~」

 

 彼女はそう言いながら細い目を指した。その目許を縁取る長い睫毛の隙間からは僅かに菫色の瞳が覗く。しっかり目を開けたらさぞや綺麗に見えるだろう。

 

 聞けばあまり似合っていない髪型も、奇抜なドレスも、お化粧も、全部地味な見た目を少しでもくっきりさせようという努力の結果だそうだ。方向性が誤っているとはいえ頑張るところが凄い。

 

「私はアグネス様の優しげなお顔が好ましいので、そうは思いませんけれど」 

 

「うふふ、嬉しいですわね。でも実際問題女性で家督は継げないから、結婚と出産は必須でしょう? だから顔のいい方と男の子ができるまで結婚生活を送って、できたら相手側の非を白日の元に晒して離婚しますわ~」 

 

 ほわほわとした柔らかな語り口調と内容のエグさの乖離が酷い。彼女は前世の私などよりずっと結婚を乾いたものとして見ていた。

 

 貴族の娘であることを理解し一人娘として義務を果たそうとする姿は、凜としていて美しいと思う。その一方で、私は結婚の話に触れてこない父とアンナに甘えっぱなしだ。人としてこの差は大きい。

 

「ベルタ様はどんな男性がお好みですの~?」

 

 小首を傾げたアグネス様の肩から見事な縦ロールが流れ落ち、頬の横でふわんと揺れた。視界に入ったそれを目で追いながら、ふと頭に浮かんだ言葉をそのまま唇に乗せる。

 

「きちんと仕事をして、労働の対価に得た収入を家庭に入れる人……ですね」

 

 至って大真面目な私の答えを聞いたアグネス様は、静かに「流石にもう少し夢を語りましょう?」と駄目出しをくれた。



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*13* 初めてのおつかい。

 

 春先の柔い新緑から、少し深みと硬質さを増した緑が目映い六月中頃。

 

 教え子は前世のゲーム内ではライバルキャラであったマリアンナ嬢と友人になり、お互いを“マリー”と“ローラ”と呼び合う仲になったことで、だいぶお茶会にも慣れてきているように見受けられた。

 

 かくいう私もアグネス様とは今のところ至って良好な友人関係である。やはり同性で同職の友人というものはありがたい。

 

 そこでそんな教え子の様子から、そろそろ私の付き添いがなくても一人で出席できるのではないかと思い進言したところ、一応会場までの送り迎えはするという条件付きで本人と侯爵共に色好い返事をもらえた。

 

 では教え子がお茶会に出席している間や休日は暇をしているかといえば、それはそれなりにやることはあるもので――。

 

 朝七時半に起床して身支度を済ませた後に向かうのは隣の部屋。軽くノックをしてドアを開け、ベッドの上にある膨らみの隣に腰かけてリネンの繭玉を引き剥がした。中から現れたのは我が家のお姫様である。

 

「アンナ、そろそろ起きて。今日は昼からお茶会があるのでしょう?」

 

 四月で十六歳になった妹にそう声をかけるが、朝に弱いアンナは「お姉さま……あと五分だけ」と枕に顔を押し付けてしまう。ちなみにここで甘い顔をしたら絶対に起きないと断言できる。

 

 領地にいるときなら手慣れた侍女達の手によって整えられる身支度も、社交界シーズン中はこうしてこちらの侍女達の手を焼かせてしまう。苦笑しつつ多少強引にリネンを取り上げると、今度は腰にしがみついて抵抗される。

 

「また昨夜も遅くまで誕生日にあげた本を読んでいたのね」

 

「……そんなに遅くまで読んでない」

 

「ならいいけれど。今起きられたら髪を梳かしてあげるわよ?」

 

「……じゃあ、起きる」

 

 妹による可愛らしい抵抗はあっさりと終わりを告げ、ドレッサーの前で髪を梳かした後は、廊下に控えていた侍女達に任せて食堂へと向かう。食堂につくと、そこではすでに朝食を終えた父が紅茶を飲んでいるところだった。

 

「おはようございますお父様」

 

「おはようベルタ。今日もアンナを起こしてからきてくれたのかい?」

 

「ええ。アンナは昔から朝に弱いですから」

 

「アンナはルイーゼに似たんだろうなぁ。だとしたらお前が朝に強いのは私似だ」

 

 そんなことを話ながら席につき朝食が運ばれてくるのを待っていると、食堂の入口からまだ眠たそうなアンナが入ってきた。私の隣の椅子をギリギリまでこちらに寄せた妹は、そのままこちらの肩にもたれかかってパンを千切って頬張る。

 

 食べにくいだろうし行儀も悪いものの、私も父もその行動を注意したりはしない。それというのも普段は王都にいる父と、領地で領主代理を引き受けてくれる妹と、コーゼル領に雇われている私。

 

 一年の中でこうして家族三人が揃うのは珍しいからだ。そういうわけで家族で食事を一緒にとれるときは、できるだけ甘えさせておけばいいというのが父と私の見解である。

 

 城での仕事がある父は、食事をする私達に「それじゃあ行ってくるよ。ゆっくりたくさん食べなさい」と幼子に言い聞かせるように笑って出かけた。

 

 けれどそれからしばらく経った頃、少しだけ廊下の方が騒がしくなった。何かあったのかと私達が顔を見合わせていると、食堂の入口から執事が分厚い封筒を抱えて現れた。

 

「お父様が忘れ物をなさるだなんて珍しいわね」

 

「わたしとお姉さまに届けて欲しくてわざと忘れたのかしら?」

 

「「…………」」

 

 あり得ないとは言い切れないのが父のすごいところだ。思わず無言になって見つめるテーブルの上には、書類のみっちり入った分厚い封筒。

 

 けれどアンナは昼からお茶会なのでそろそろ準備の必要がある。ということは、珍しく非番で予定の空いている私が一人で届けに行った方がいいだろう。

 

「私達ではこれが今日必要なものかどうかの判断がつかないし、仕方がないわ。アンナ、手形を用意してくれる?」

 

 以前王城を訪ねる際に使える手形を作ってくれたけれど、まさか王都にいるときに使うとは思っていなかった。手形で王城に入ることは無理だが、父への取次ぎを頼むくらいはできる。そう思って軽い気持ちで王城へと出向いたのだけれど――。

 

『エステルハージ様の娘が来たって言うから見に来たのに、誰だあれ?』

 

『何て言うのか目つきが悪いし、地味だな』

 

『あー……ほら、あの変わり者の姉の方だよ』

 

 見張りが出入りする小さい門の前で待っていたら、割と近い場所から門番達の会話が聞こえてきた。まぁ、こうなる予想がついていなかったわけではないけれど、笑えるくらいに素直だなと。

 

 せっかく持ち場を離れて美女と名高い妹を見に来たら、ハズレの姉の方でがっかりしたってことですね。分かります。

 

 ここは聞こえていないふりをしてあげよう。それに父が到着する前に口を閉じなかった彼等がどうなるのかも見物だし。

 

『ほう、これはこれは。エステルハージ殿は大変に家族思いな方だと聞いていたのだが……君達の今の発言を彼に告げれば、どうなるだろうな?』

 

 しかしそんな私の密かな楽しみをぶち壊したのは、それまでの男子高校生のノリのある声とは違い、真意を読ませない聞き覚えのある声だった。あの人はよりにもよって城に出入りする格の家庭教師だったのか……。

 

 門の裏側では何やら声を潜めて話し合っている気配がするけれど、正直こんなところであんな風に言われているところを知られたら、このまま顔を合わせるのも気まずい。いまからでも回れ右して帰ろうか。

 

 そう思って一歩後ずさったところで閉ざされていた門が勢い良く開かれる。そしてそこから現れたのは珍しく表情の読めるホーエンベルク様の姿だった。



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*14* 番外編扱いのイベントなの? 

 

 思わずそんなに仲が良かったかと錯覚してしまいそうな笑顔。満面の笑みというのはこういうものだろうか? 一瞬あまり同年代から向けられることのない類いの笑みにたじろぎそうになった。

 

 門を潜ってこちらに歩み寄る人物を見上げて内心を隠したまま微笑むと、彼もこちらに向かってさらにきらきらしい微笑みを返してくれる。その背後に慌てて走り去る若い兵士達の姿が見えた。

 

「お久しぶりです、ホーエンベルク様」

 

「ああ、久しいなベルタ嬢……と。いつもこの挨拶だな俺達は」

 

「言われてみればそうですね。ですが前回お会いしてから二ヶ月ほど経ちますし、やはり“お久しぶり”が相応しい挨拶だと思いますわ」

 

 こちらの答えに「確かにそうだな」と笑いを含んだ彼の言葉に、ほんの少し救われた。もしもここで彼が私を気の毒がるような表情を浮かべて現れていたら、即座に帰っていただろう。

 

 私はこちらの世界の家族に負い目を感じたりしていない。見目のことで誰に何を言われようとも気にならなかった。

 

 うちの家族は見目がいい。これは紛れもない事実。前世だったら父も妹も雑誌モデルにスカウトされるのではなく、一足飛びに世界に出てランウェイを歩いていただろう。

 

 けれどそれ以上に家族仲がいい。私にとってはそれが一番大切な事実だ。

 

「その……ベルタ嬢。もしよければだが、久しぶりついでに、エステルハージ殿が到着されるまで少し話でもしないか?」

 

「それは構いませんが、ホーエンベルク様のお仕事はよろしいのですか?」

 

「はは、そもそも駄目なら自分から提案したりしない」

 

 言われてみればそれもそうだ。彼の性格からして堂々とサボり宣言をするようにも思えない。しかも勝手に王城(ここ)で彼が家庭教師をしていると思っていたけれど、一応伯爵位を賜った実力の持ち主なのだから他の仕事もあるだろう。

 

 まだ油断はできないけど、疑ってかかりすぎて交友関係を狭めるのも今後のことを考えれば得策ではない。何が教え子の生き残りを左右するか、現時点ではまったく分からないのだから。

 

「ではうっかり者の父が忘れ物を受け取りに来るまでの間、私とのお喋りにお付き合い願えますか?」

 

 腕に抱えた分厚い封筒を指してそう乞えば、ホーエンベルク様は「喜んで」と楽しげに笑った。

 

 それからは天気の話を皮切りに、最近読んだ本、好みのお酒の銘柄、現在使っている教本、愛用している文具、王都で流行りの芝居や戯曲などなど。意外なことに話題は多岐に渡って弾み、気詰まりして会話が途切れるようなこともない。

 

 父も仕事の手が離せないのかまだ現れないから、結果として彼からの申し出を受け入れておいて正解だった。それでも途切れることのない会話で目ぼしい話が一周してしまったところで、そんな一番ありふれた話題に行き着いた。

 

「私の好きなもの……ですか。趣味や趣向的なことでしょうか?」

 

「趣味でも趣向でも、何でも思いついたもので構わない」

 

 むしろ今まで話題に出ていなかったことに軽く驚いたものの、現在やりたくてもできないことと言えばあれしかない。

 

「馬ですね」

 

「“うま”……とは、背に乗ったり車を牽かせて移動する動物のことだろうか」

 

「残念ながら私の知っている範囲内で“うま”と言えば、それしか思い付きません」

 

 仮に“さくら”と言われたら馬肉かもしれないなとは思うけれど、こちらの世界で馬肉を食べる習慣はない。なので、何故彼が馬に対して認識の齟齬があったのか甚だ疑問だ。

 

「いや、すまない。前回の教本と遊戯盤の礼をしようと思って訊ねたつもりだったのだが、流石に令嬢の口から馬が出るとは思っていなかったせいで少し混乱した」

 

「ああ、そういうことでしたか。自領で領主代理をしていたときは視察をする際に手放せなかったのもあるのですが、もともと幼い頃から乗馬が好きなのです。家庭教師を引き受けてからはできていないものですから、あの風を切る感覚が懐かしくなってしまって」

 

 前世だと車の免許を持っていなかったので、風を切ろうと思えば自転車を全力でこぐか、全力疾走するくらいしか手段がなかった。

 

 だからこちらに転生してからというもの、ゲーム内では移動(スキップ)手段でしかなかった乗馬に物凄くハマったのだ。馬を走らせてその背で風を切る感覚は格別である。主人公(ベルタ)のスキルを上限値いっぱいまで上げておいて本当に良かった。

 

 とはいえ流石に馬の手配は無理だろうし、アンナとおやつに食べる焼き菓子でも適当に頼もうと思っていたら――。

 

「ベルタ嬢の次の非番はいつだろうか」

 

「え? 六日後です……というか、今日も非番ですね」

 

「このあとの予定は?」

 

「屋敷に戻って着替えてから本屋にでも行こうかと思っておりますが」

 

 訊ねられたからそう答えたというのに、ホーエンベルク様は眉間に深い皺を刻んだ。前世だとまだまだ結婚適齢期内であるものの、貴族の尺度で測れば恋人もいない侘しい休日の過ごし方だと思われているのだろうか?

 

 だとしたらちょっと腹立たしいななんて思っていると、ホーエンベルク様は何やら意を決した表情になった。何だろうか……圧が凄い。

 

「質のいい馬具を取り扱っている店を知っている。もし良ければ案内させてくれないか。馬をすぐに用意することはできないが、何か形のあるもので礼を返したい」

 

「えっ……と、はい。ではお願い致します?」

 

 彼の身体から漲る圧力というか緊張感というのか、押しに弱い前世の国民性の前に、取り敢えずわけの分からない状況にもかかわらず頷く。どこかホッとした風にはにかんだ彼は、見た目の割に少しだけ可愛らしくて。

 

 しかし理由はどうあれゲームで見たこともない人物(キャラ)とここまで仕事に関係のない会話をするのは新鮮だったのだが――。

 

「やあベルタ、すまない待たせたね。ホーエンベルク殿も娘の相手をして頂いて申し訳ない」

 

 その直後に見計らったように颯爽と現れた父に、思考を拐われてしまったわ。



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*15* 番外編は時に本編より過酷である。

 

 銀を持ち手に使用した乗馬鞭、

 緻密な蔦柄を彫られた飴色の鞍、

 馬体に沿うよう優美な曲線を描く鐙、

 一本一本植毛して丁寧に仕上げられた馬の手入れ用ブラシ、

 熟練の職人の手で生み出される完全受注生産の乗馬用ブーツ、

 外国製とおぼしきコイン飾りがシャラシャラと涼しげな音を奏でる手綱――。

 

 乗馬用の服も注文できるのか、奥には試着室のような場所もある。ホーエンベルク様が案内してくれた“良い店”は、確かにこれ以上ないほど良質な品物を揃えていたけれど、実質は一般人が入れないような“値段の良い店”だった。

 

 とてもではないけれどいちいち棚から手に取って眺めるのも恐ろしい。私は早々にまだ一番お礼として受け取れる値段のものを見繕って店を出た。

 

「本当に乗馬用の手袋だけで良かったのか?」

 

「はい。ちょうど新しいものが欲しかったんですよ。それにどれもお礼として戴くには高価すぎます」

 

 お礼にと誘ってくれたから油断したけれど、この金銭感覚の差はデートだったら絶対相手が引いて失敗するやつだと思う。田舎の馬具店とは違い、王都の貴族御用達店とあって値段は天と地ほどの差だ。

 

「前回の礼にしては安価すぎると思うが。遠慮は必要ないぞ?」

 

 ……彼の金銭感覚はどうなっているのだろう。元が同じ子爵家出身者とは信じられない。飴色の革を使って作られた乗馬用の手袋も、シンプルなデザインながらその上質さから、実家で使っていたものなら六セット分買える金額なのですが?

 

 それとも数年間の従軍経験があったというから、前世で聞いたことがある“戦場ではカッ○ヌードルが一個○万円”という金銭感覚になっているのかもしれない。

 

「まぁまぁ、こういうのは値段ではなくて気持ちが大事なんですよ。私は新しい乗馬用の手袋が欲しくて、ホーエンベルク様はお礼として私の欲しいものを買って下さったのですから、これで充分です」

 

 あれから一度その場で解散し、残りの仕事を片付けたホーエンベルク様が屋敷まで迎えに来てくれたのだけれど、何故か直前になって急に侍女達にヒラヒラした服に着替えさせられた。

 

 着替えさせられる前の服の方が、明らかに今より街歩きに適した服装だったのにと不満に思ったけれど……今のお店に入るにあたっては正解だ。しま○らに入店するのと○越に入店するくらいの格差。

 

 彼女達には、高級レストランでマジックテープ財布を開けるような恥をかかずに済んだお礼に、ちょっと高いお菓子をお土産に買おうと心に決めた。

 

「まだ何か入り用なものがあれば店に戻るが」

 

「いいえ、本当に手袋だけ(・・)が欲しかったので。それよりも早く次の目的地の本屋に向かわないと、教材を選ぶ時間がなくなってしまいますわ」

 

 同僚(?)のホーエンベルク様の前で父の過保護ぶりが炸裂し、お礼をしてもらうために外出するのは構わないが、夕食までには帰宅するようにと念を押された。二十二歳にもなって夜の七時が門限であるとバレるのは恥ずかしい。

 

 けれど結果的に考えてこの先もこの調子で案内されるくらいなら、門限を先に提示されていて良かったと本気で思う。その後はさらに他の高そうな店を見ようと勧める彼を、やや強引に本屋へと誘導する羽目になった。

 

 無事に本屋の入口を潜ったときの安心感といったらもう――……。紙とインクと埃の匂いに涙腺が緩んだのは、前世と今世を合わせても初めての体験だ。

 

 流石に本屋に入店してからは本来の家庭教師としての自覚が勝ったのか、時間ギリギリまで二人で教材を選ぶことに夢中になることができ、購入する本の種類がかぶることから、後日授業に使った感想などを交換しようと盛り上がった。  

 

 そして侍女達と家族へのお土産も彼の奢りを断り自費で購入し、何とか無事に番外編(ミッション)を終えて屋敷に送り届けてもらった頃には、私の生命力と注意力と精神力はすでに失われつつあり――。

 

「結局今日も随分と貴方の世話になってしまった。また礼のために誘っても構わないだろうか?」

 

「うふふふ、それは少し考えさせて下さい(機会があればまた)

 

 本音と建前が逆になっていたと気付いたのは、不自然にふらついて帰る彼の背中を見送って、玄関ホールでアンナと父に出迎えられてからのことだった。




短いのでもう一話投稿します。


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♛幕間♛人間らしい人。

ヴィクトルの教え子、フランツ視点です。


 

 私には国で一番尊い地位に立つ父と、二歳上の兄がいる。母は残念ながら物心をつく前に亡くしてしまったが、仮に存命だったとしても普通の家族のような関係性にはないため、必要と感じたこともなかった。

 

 母の姿も心も“王妃(彼女)を愛した()”だけが知っていれば良いことだ。彼女の絵は今も父の自室で美しい微笑みを浮かべている。

 

 生きて動いている姿を辛うじて憶えている兄ですら、乳母に抱かれたことしかないのだから。王族であればそれが普通のことだと、幼子ですら知っている。それどころか生まれ落ちた瞬間から仕事も決まっているのが普通だ。

 

 そして私と兄には父母が同じだということ以外、もうほとんど接点らしい接点は残っていなかった。たまに窓の外や廊下に気配を感じるだけで、会話らしい会話も、もう何年も交わしていない。

 

 兄は次の王に。

 私はそのスペアに。

 

 道はこの二本だけ。選ぶのではなく決まったこと。何の不自由も無駄もない。

 

 必要なものは与えられるし、自分が本当に欲しいものは分からない。それはきっと兄も同じことだろう。

 

 私達は最初から全てを持って生まれ、その後の一生を国のため、民のため、何も求めるなと言われて育つ。

 

 昔から感情が抜け落ちたような子供だと言われて育った私は、父に良く似て人に頼り、頼られる人懐っこい兄とは違い、あまり他者に良い印象を与えない。

 

 王とは一人で全てをこなせる者が就く仕事ではなく、他者を上手く頼り、信頼を得て、使役できる者が就くもの。しかしそのスペアは真逆で、一人で全てをこなせる機構としての働きを求められる。

 

 兄弟で言葉を交わした記憶はほとんどないにもかかわらず、私と兄は実に上手く自分達の役目を演じ分けられていた。

 

 けれどそれでいて陰で耳にした私の噂を要約すれば“情がない”そうだ。だからだろう。今から五年前、父は私に“情の深い”優秀な人材を与えてくれた。

 

『今日から貴方の師としてお側に遣えさせて頂くことになりました。戦場上がりの粗忽者ではありますが、フランツ様の疑問に一つでも多くの解を差し出せるよう最善を尽くしましょう』

 

 彼は父親を亡くした直後、残された家族のために学生を止めて戦場に赴き功を挙げ、そこから異例の出世を果たして……結果的に、そこまでして守りたかった家族を捨てさせられたのだ。

 

 情のない私のために用意された彼は、それでも恨み言一つ溢さずに今も馬鹿がつくほど生真面目に、私の“先生”を務めてくれている。

 

 一方通行な情をそうと分かっていながら一心に向けてくれる彼にだけは、できるだけ“人間らしく”接したいと思っていた。こんな感情は父にも兄にも抱いたことはないから、実質彼が一番私に近しい人物なのだろう。

 

 二ヵ月ほど前にはどこからか珍しい遊戯盤を持ち帰ってきてくれて、以来、授業の休憩時間には二人でずっと興じている。

 

 単純な作りの割に飽きの来ないそれに興じるとき、先生は少しだけ授業中には見せないような笑みを浮かべることがあって。そういうときはまるで彼の弟になった錯覚を覚えた。

 

 しかし……数日前からそんな先生の様子がおかしい。

 

 授業は問題なくこなしてくれるものの、授業中のふとした瞬間に無自覚に溜息をつく。やたらと物を取り落とす。新しく持ってきてくれた教材をめくる際に眉間の皺が深くなるし、休憩時間に遊戯盤を見れば身構える。

 

 普段他人に対しての興味や共感力がまったくない私でも気になるほど、先生らしくない。何がそこまで先生の気分を乱すのか、純粋に興味があった。

 

 ――パタパタ、パタ……パタ。

 

 指を動かした盤上で、黒い駒が白になる。すると盤上を眺めていた先生が「なかなか良い手だ」と力なく笑った。

 

「……先生の番ですよ」

 

 今日のこの一戦に勝てたなら、何回かに一度は不器用に負けて、願いの少ない私に勝ちを譲ってくれる先生の悩みを、聞いてみたいと言ってみようか。



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*16* 今度は何の分岐なのかしら……。

 

 久々にお茶会のない一日を手に入れたので、教え子と二人、朝から温室の一角でのんびりと貯めていた教材を消化していく。このところ少し授業が遅れ気味ではあるけれど、焦って詰め込むのは駄目だ。

 

 楽しんで憶えなかったことは驚くくらいあっさりと忘れてしまうものだから、授業の開始が朝の十時からと早目ではあるものの、いつものように小休止を挟んでのミニゲームも忘れずこなす。

 

 ちなみに今回は彼女好みの政治家穴埋め問題である。枯れ専というのとはまた違うのだろうけれど、政治に携わる人物は比較的年齢層が高くなるため、どうしても渋い感じになるのは否めない。

 

 けれど途中まで水を得た魚のように穴埋め問題を解いていた教え子が、ふとその手を止めた。それに伴い生き生きというよりも爛々としていた瞳の色が翳る。

 

「あの……先生、質問したいことがあるのですが」

 

 その控えめな声量と歯切れの悪い物言いに、こちらも次に出題する問題を選ぶのを止めて視線を彼女に合わせ「どうぞ」と先を促した。

 

「わたくしも、お姉様達のように結婚しなくては駄目なの……?」

 

 ややあって教え子の口から発された言葉の背景にあるものを大体察した。そしてそういう将来のために私は彼女の傍につけられている。

 

 ここが仮想(ゲーム)世界ではなく現実である以上、今度こそ失敗は許されない。最近は比較的暢気な時間が流れていたけれど、目指すものは最初からこの子のバッドエンドを潰した先にある幸せな未来だ。

 

「侯爵……お父様がそう仰られたのですか?」

 

「いいえ、お母様です」

 

 そういえばそっちもそんな感じだったかと舌打ちしそうになった。両親共に野心家だと子供の気苦労も絶えないだろう。前世でも教育熱心な親御さんが子供に期待をかけすぎる場面をよく目にしたけれど、ここでもそれは変わらない。

 

 むしろ家同士の繋がりを強固なものにするための責務がある分、こちらの世界の方が子供への干渉は過剰だ。恐らくだが、このところアウローラがやればできる子だというところを見せすぎたのだろう。

 

「結婚はいずれはしなければならないものではありますが、今のアウローラ様はまだお勉強が必要な時期です。この頃はお茶会に顔を出すことが多くなってお勉強が遅れがちですから、私から少しお茶会への出席を減らして頂けるよう侯爵様にお話しておきますわ」

 

 こちらが意図してのことではなかっただけに油断したけれど、このままではまずいということが分かった分だけ早く軌道修正ができる……が。

 

「先生は? 先生もいつか結婚してどこかにいってしまうの?」

 

 急に何かに急き立てられるように声を上げ、しがみついてくる小さな手。その意外な力強さにほんの少し驚いた。

 

「それもお父様かお母様に仰られたのですか?」

 

「は、はい……」

 

 やれやれ、本当にろくなことを吹き込まない両親だ。せっかく味方が現れたのにいなくなると言われたら、誰だって動揺するだろう。ましてやこの子はまだ子供。庇護する立場の大人が脅してどうするというのか。

 

「ではアウローラ様が今より少し大人になって、将来結婚してもいいと思える素敵な婚約者を見つけられるまで、私は結婚して家庭教師を辞めないと約束します。それなら安心できますか?」

 

 本音は単に結婚に対して無関心で、そもそもできるか分からないだけなのだが、そんなことは言わなくてもいい。

 

 その後は落ち着きを取り戻したアウローラと一緒に再び課題をこなし、門限である七時に間に合うように帰宅したけれど、帰宅直後に執事から受け取った伝言の内容に苦笑したのだった。

 

***

 

 伝言を受け取ってから四日後の非番。

 

 差出人は前回うっかり本音と建前を逆に伝えて凹ませてしまったある人物。懲りずに誘われて最初は戸惑ったものの、内容的には授業の意見交換といういつものものだったので、それに応じる旨の返事をしたのだけれど――。

 

 待ち合わせ場所に指定していた本屋の前に立っていたのは、ホーエンベルク様と見知らぬ美……少女なのか少年なのか、性別のあやふやな子供だった。

 

「今日は急に呼び出したりしてしまってすまなかった。休日だというのに応じてくれてありがたい」

 

「いえ、そんな。一人で授業の組み立てをしていては思考が固定化しますし、意見交換をするのは刺激があって有意義ですもの。こちらこそ呼んで頂きありがとうございます」

 

 そう私達が表面上にこやかに挨拶を交わす間、彼の隣にいる人物はジッとこちらを見つめてくる。パッと見た感じだと儚げな美少女だけど、服の袖口から覗く手は同じ背格好の少女に比べてて男性的だ。

 

 肩口で切り揃えられた髪を結わずに流しているせいで性別の判断が揺れる。まさかこのゲーム内に、フェルディナンド様並の中性的美人(?)がいるとは思っていなかったからちょっと驚きだ。最近は育成ゲームのキャラクターも、随分綺麗な顔立ちをしているものらしい。

 

「ええと……そちらは?」

 

「母方の親戚で俺の従兄弟だ。うちの屋敷を拠点に遊びに来ているのだが、本屋に行くと言ったらどうしてもついて来たいと言うので連れてきた。邪魔をしないように言い含めてあるから気にしないでやってくれ」

 

「まぁ、そうでしたのね」

 

 一瞬チラリと彼の教え子である可能性も考えた。明らかに胡散臭い説明だけど……いきなり疑えるほど彼の家族関係を知らないし、何より外見が似ていないのも血が遠いと言われてしまえばカタがつく。

 

 しかし今日ここにアウローラがいないのであれば、彼がここに教え子を連れてきた理由が分からない。それともこれも何かしらの分岐点なのだろうか?

 

 ただ何にしても、下手に詳しく聞き出そうとしてゲームで説明のなかった地雷を踏むのも困る。相手は多感なお年頃。教育に携わるものならば細心の注意を払って挑むべき対象だ。

 

 気を抜けば胡乱なものを見つめる視線になりそうなところを、グッと堪えて「初めまして」と微笑めば、それまでホーエンベルク様と私を興味深そうに眺めていた少年も、ドキリとするくらい艶のある微笑みを返してくれた。

 

 暗く深みのある金髪に、切れ長なトルマリンの色を宿す目。美少女と見紛う美少年は私に向かい、艶めいた微笑みそのままに薄い唇を開いた。

 

「初めましてベルタさん。僕はルド。大きな本屋に行くとヴィー兄さんに聞いたので、無理を言ってついてきてしまいました。今日はよろしくお願いします」

 

「あら、もう私の名前を知っているのね。それでは自己紹介は必要ないかもしれないけれど、私はベルタ・エステルハージ。お兄さんの同僚……みたいなものかしら。こちらこそ今日は一日よろしくね?」

 

 親戚説を信じたわけではないけれど、向こうがそう言い張るなら仕方がない。同じ子爵家の十代前半の子に接する態度を貫こうと腹を決めた。

 

 そんな私達の自己紹介を見ていたホーエンベルク様は、常と変わらず真意が読めない一見柔和な微笑みを浮かべて頷く。出会った頃より笑うと下がる眉と紺色に近い青い瞳には、同僚への親しさが込められているようで悪い気はしない。

 

 そんなわけで私達は大人二人に美少年一人という奇妙な組み合わせで、教育業に従事する人間からしてみれば、垂涎ものの品揃えを誇る大型書店のドアを潜った。

 

***

 

 同じ建物内に相当数の人間を収容しているはずなのに、紙に音と気配が吸収される異空間に溶け込んでから二時間ほど。

 

 延々と壁一面、天井までみっしりと本を納められた棚の間を、ホーエンベルク様と手分けして次の授業に使えそうな本を探し、前回購入した教材と内容のかぶった部分がないかを確認する。

 

 この作業は人手があればある方が楽なので、今日の誘いを受けたのも実はほぼこのためだ。二人いれば単純に二倍の早さで目的の物を発見できる。

 

「何かいいものは見つかっただろうか、ベルタ嬢」

 

「こちらの本の内容がとても気になるのですが……前回購入したものと一章目がほとんど同じ部分の歴史に割かれているんです。七章仕立ての本の一章を丸々捨てると考えると少し悩みますわね。そちらはどうですか?」

 

「こっちも似たような感じだな。学術書の出版物は内容かぶりが多くて困る」

 

 歴史書は出版された年代や作者によって内容に結構な差が出る。それというのも、作者がその時代のどの英傑や国が好きであったかで視点が変わるからだ。本来教材としてあってはならないことだけれど、注釈に主観を挟む作者もいる。

 

 しかしそれも一概に悪いとは言えない。歴史を学ぶ人間にはオタク性を強く持つ人が多いからか、歴史の狭間に埋もれた物語を掬い取る教材に当たったときは、小説を読む気分で勉強できてお得なのだ。

 

 あと、飽きがこなくて非常に捗る。前世はこの手でイケメン俳優が出てくるドラマや映画の出版物を教材代わりに使用して、かなり歴史の点数を稼がせて頂いた。

 

 歴史の中に埋もれたロマンス。親友や兄弟との訣別の末に繰り広げられる死闘。萌え(ドラマ)は学力の底上げにとても有効である。

 

「歴史系は特にそうですものね。でもその中から物語性が強くて面白そうなものを探すのも私達の仕事の内です。教え子のやる気のために頑張りましょう」 

 

「そうだな……それなら少し探し方を変えてみよう。同じような内容でも、出版された年代と作者別に並べてある棚がないか聞いてくる。ベルタ嬢はルドと一緒にこの辺りで待っていてくれ」

 

「分かりました。よろしくお願いしますね」

 

 段々と様になってきた連係プレーを駆使して会話を切り上げれば、いつからこちらを見つめていたのか、美しいトルマリンの瞳と視線がぶつかる。

 

「本当にまったく構えないでごめんなさい。私達は本を探し始めるといつもこんな風なのよ。退屈していない?」

 

「はい、大丈夫です。今はこちらの棚にある本が初めて見る形のものばかりなので、どういったものなのか興味があって眺めていました」

 

 こちらの問いかけにそう答えたルド少年(仮)の手には、きちんとした製本をされていない、前世で言うところの同人誌本があった。

 

 普通の小さな本屋にはないけれど、ここくらい大きな本屋になると、才能の先物買いとして無名の作家の本や、作曲家の楽譜を買い取って棚に並べている。中には本の形にすらなっておらず、木箱に頁数を書き込んだ原稿を入れただけのものまであるのだ。

 

 多種多様で不格好で、それでも触れれば熱を持っていそうな本達は、彼でなくとも気になって手を伸ばしてしまう魅力があった。実はアンナの翻訳した本も数冊並んでいたりする。

 

 できあがれば初版のものを送ってきてくれるのだが、売上に貢献したくて自費でも購入しているのは内緒だ。

 

「ここは色々な本があるから私も良く覗くの。何か面白そうな本はあった?」

 

 訊ねながら彼に近付き、その間に本棚に並ぶ背表紙に視線を走らせる。前回来店したときには見かけなかった本があったので、それをついでに引き抜きながらルド少年(仮)の隣に並べば、彼は「僕はこれが気になりました」と言って、手にしていた本の表紙を見せてくれた。

 

 その表紙の題名と翻訳者の名前を目にした途端、私は自分の中で勢い良く警戒心メーターが下がっていくのを感じた。

 

「どうしてこの本が気になったのか聞いてもいいかしら?」

 

 最早完全に地につきそうな警戒心メーターを、諦め悪く人差し指の第一関節分くらいで持ちこたえて訊ねる。

 

 するとルド少年(仮)は、一瞬だけ口ごもってから「ドラゴンが出てくるので……」と教えてくれた。ああ、ちゃんとこの年頃の男の子らしい理由だ。当初よりこの子を見る色眼鏡の度数がガクンと落ちてしまった。それというのも――。

 

「この本が気になってくれて嬉しいわ。翻訳者のアンナ・ホテクは私の妹なの」

 

「え? でも……姓が違いますが」

 

「ホテクは母方の姓よ。本名はアンナ・エステルハージなの。妹の翻訳した本に興味を持ってくれてありがとう」

 

 視線の高さを合わせるために屈んでそう囁けば、ルド(・・)は作り物めいたその頬を少しだけ緩めて「ヴィー兄さんにねだってみます」とニコリ。雪解けのような笑みを浮かべた。



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*17* ばいばい、またね。

 

 色々な棚を渡り歩き、満足する内容の本を手に本屋から出た頃には、夏の午後でまだ明るいながらもすでに六時。完全に時間配分を失敗した。今から帰れば門限の七時を少しすぎてしまうだろう。

 

「僕たちは思ったよりも長く店内にいたようですね。建物の陰が長い……」

 

「本当ね。本屋の中はあまり明るくないから気付かなかったわ」

 

 地面に伸びる陰に感心するルドの言葉に苦笑してそう返しつつ、内心はちょっぴり焦っていた。スマホも携帯も公衆電話もないこの世界で門限に遅れると、家族に連絡する術はまったくない。

 

 王都にいる間は心配性の父との同居なので、こういうときは結構困る。そんな私の様子に気付いたのか、ホーエンベルク様が申し訳なさそうな表情で口を開いた。

 

「今日は一日中付き合わせてしまってすまなかった。門限には……間に合わないな。そちらの屋敷まで送って行く。エステルハージ殿に謝罪させてくれ」

 

「いいえ、そんな大袈裟ですわ。こちらこそ新しい教材を揃える手助けをして頂いたのですから、謝罪は必要ありません。一人だと一日でこれだけの数を探すのは難しいので」

 

 というか、この歳になって帰宅時間に遅れた理由を同年代の人間に一緒に謝ってもらう方が恥ずかしい。前世でもした記憶がない分、羞恥心は計り知れないことになるだろう。

 

 何とか送ってくれようとするホーエンベルク様に諦めてもらおうと思っていたら、隣で私達のやり取りを見ていたルドが「まだベルタさんとお話し足りないです」と。しょんぼりと肩を落として言われてしまった。

 

「ルドもこう言っていることだし、どうだろう。送りがてら話をしてやってくれないだろうか?」

 

「ええ? ですが急にそう言われても私はそんなに面白い話題なんて――、」

 

「駄目、ですか?」

 

「うっ……」

 

 知り合って間もないとはいえ、子供のこういうおねだりは卑怯だと思う。結局私は二人の連携の取れた申し出に頷く羽目になったものの、一応最後の一線として、屋敷の角で別れる約束を取りつけて帰路につくことに落ち着いた。

 

 購入した本は全部ホーエンベルク様が持ってくれたので、私は手持ち無沙汰。ルドを真ん中に挟んで横一列に並び、三人で夏の香りのする石畳を歩き始める。

 

 道の両側に建つ民家の開いた窓から夕食の準備をする音と香りが流れ、子供達が夕食の献立を予測し合いながら家へと駆けて行く。慌ただしく仕事へと向かう朝とは違い、憩うために足早になる人々。

 

 そんな人の営みを強く感じるこの時間帯が、私は一日のうちでもっとも好きだった。これも前世にはなかったことだから、憧憬に近いのだろう。

 

 私とホーエンベルク様はお互いに教え子のことに触れる話題を避けるため、会話の内容はほぼルドが選択することになったのだけれど――。

 

 ルドは家庭での躾がしっかりしているのか行儀が良いものの、やはり普段自身の見る世界とは別の景色に憧れるものらしい。

 

 何が面白いのか、いつしか話題は主に私の故郷であるエステルハージ領のものになり、ついにはホーエンベルク様との出逢った頃の話にまで及んだ。

 

「それではヴィー兄さんは、偶然ベルタさんの領地の噂を思い出して立ち寄っただけだったんですか?」

 

「ええ。だけど当時は会話の途中で急にいなくなったから、てっきり白昼夢でも見たのかと思ったわ。四年も経って再会したときに、初めて実在したのだと分かって驚いたくらいだもの」

 

「……ヴィー兄さんにもそんな頃があったんですね」

 

「当時はすまなかった。だがあのときは馬車が出る時間がギリギリで……そういえば再会したときはお互いに謝罪から入ったな。アンナ嬢に自己紹介を挟んでもらわなければ、いつまでも話が進まなかっただろう」

 

 ホーエンベルク様がそう苦笑して、私もその言葉に同じような表情を浮かべて頷き返す。するとルドは私達の顔を交互に見上げ、すぐに視線を自身の腕に抱えた本へと移した。

 

「この本を翻訳した方で、ベルタさんの妹さんですよね。まさか本屋に作品が並ぶ人のご家族に会うとは思ってもみませんでしたが……勉強はやはりベルタさんが教えてあげていたのですか?」

 

 次に視線を上げたルドがそう訊ねてきたので「基礎を少しだけね」と答えた。実際に私がしたことは、元からその方面への素養が少し高かった妹に道を示して褒めたことだけ。

 

 バッドエンド阻止のためとはいえ、彼女の未来を誘導したと言えなくもない。結果的にそれがアンナの好きなことになり、翻訳の仕事ができるまでに至ったのは、ひとえにあの子の努力が実を結んだということだ。

 

「それは謙遜がすぎるのではないか? 同業としては、領民の識字率を飛躍的に上げた君にそう言われると立つ瀬がないぞ」

 

「ふふ、ですが本当のことですわ。妹はもともとがとても努力家ですし、領地の人達も学ぶ切欠と環境さえあれば学びたいと思うのは当然です。知識は武器を持たない者達が己を守る鎧となる。言い方はあれですけれど、私は自領の者達に鎧を纏わせたかった」

 

 他者に踏みつけられても立てる強さを。たとえ立ち向かう力は持てなくとも、逃げることに、生き延びることに、知識は嘘をつかない。

 

 自我は知恵と強く結び付く。家庭教師をしていて思ったのは、何も学力の知恵だけが知恵と呼ばれるわけではないということだ。

 

「私は知識は【興味】と言い換えることができると思います。それは決まった階級の人々だけが持っているものではないでしょう?」

 

 一つだけでいい。特別抜きん出ていなくても、得意でなくても構わない。

 

 大切なのは“興味をもつこと”と“これならできる”と自分を思い込ませること。それはいつか辛いことにぶつかったときに、卑下して俯いてしまう自身の心を踏み留まらせる。

 

「知恵の鎧、ですか。ベルタさんは面白いことを考える」

 

「そういうルドも詩的な表現が上手ね。作家に向いているかもしれないわ」

 

「……そんなに簡単な紐付けでいいんですか?」

 

「こういうものは直感よ。あとは貴男が【興味】を持つかどうかだけね」

 

「待ってくれベルタ嬢。ルドが作家になりたいと言い出したりすれば、俺が親戚に大目玉をくらってしまうだろう」

 

 ――などという他愛のないお喋りを延々としていたら、いつの間にか屋敷の塀が見えてきた。もっと気詰まりな時間をすごす覚悟でいたのに、意外なことにそれなりに楽しい時間だった気がする。

 

 それはルドとホーエンベルク様も同じだったようで、ルドに至っては別れる間際に「今日は本当に楽しかったです。また会えますか?」と訊ねてくれて。

 

 もうすぐ社交シーズンも終わり、教え子とコーゼル領に帰ってしまう私は答えに窮したけれど、ホーエンベルク様の困ったような視線に気付いて「来年の社交シーズンに」と約束してしまったのだった。



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★18★ 今日の終わりに。

 

「先生、今日はゲームの勝敗とはいえ、私の我儘を叶えて下さってありがとうございました。先生が気にされるだけあって、エステルハージ嬢は面白い……いえ【興味深い】方でしたね」

 

 彼女を家まで送り届けた後、王城に戻った教え子の第一声に苦笑する。まさか授業の休憩時間に嗜む遊びの勝ち数で、遊戯盤(アレ)の入手元を訊ねられるとは思っていなかったものの、彼女とすごした時間は無駄にはならなかったらしい。

 

 常なら平坦な声に一日無理に抑揚をつけた弊害だろうが、やや安定しない声でそう言われると本当に普通の子供のようだ。

 

「満足頂けたなら何よりだ。フランツ様も初めての割に、俺の親戚の子供(ルド)役はなかなか上手く演じられていた」

 

「意地が悪いですね……先生も彼女が訝かしんでいることに気付いていたでしょう」

 

 そう言って持ち帰った教材を開いて中身を確認する横顔を淡い笑みが彩る。その様子から次の授業もすぐに内容を吸収してしまうだろうと思わせた。彼女の手を借りて教材を選ぶようになってからは特に授業の進みが早い。

 

 最近第一王子派にはそのことで妬まれることも多いが、彼女なら教え子の興味を引けない時点で職務怠慢だと笑うだろう。

 

 明日の授業を待たずに教材全てに目を通そうとする教え子の手からそれらを取り上げ、代わりに“ねだられて”購入したアンナ嬢の本を手渡すと、彼は大人しくそれを受け取ったのだが――。

 

「先生は、彼女を傍に置きたくはありませんか」

 

 ……天才型にありがちなことではあるが、凡庸な俺では教え子のこうしたところに時々ついていけない。

 

 だがここで単に“人は人を簡単に所有できない”という根本的なことを説くのは無意味だろう。実際にその方法でこの地位につけられた人間が言えば尚更だ。

 

「そんなに彼女が気に入ったのか?」

 

「彼女の考え方に興味が沸きました。王に進言すれば彼女の教え子は私の婚約者候補になるかもしれない。そうすれば自ずと彼女も王城(ここ)へ来るのではないですか?」

 

 すでにこちらが相手の家名を割り出していると疑っていない発言には苦笑した。確かにエリオットに本気で頼めば彼女の教え子を割り出すことは簡単だ。ただそれをしてしまうと、何か大切なものが壊れてしまうだけで。

 

 これまですぐに内容を吸収して新しい教材を求められたことは数あれど、人間を欲しがられたことはない。身支度をさせる人材をもう少し増やしてはどうかと提案したときも、周囲に他人を増やすのは嫌だと断られた経緯もある。

 

「王に進言するには元が子爵位で、急拵えな伯爵位を賜った俺の階級では足りない。彼女の教えを無駄にしないご令嬢なら、いつか自身の才能で婚約者候補の中に名を連ねるだろう。それまで教師は俺だけで我慢してくれ」

 

 ただ俺の口にできることといえば、彼にはつまらないであろう正論だけだ。彼女と再会した初期の頃は、フランツ様と同じような理由で近付いたはずであったのに、いつの間にか無理にそこへと導くことを厭う自分がいる。

 

 フランツ様に幸せになって欲しいと思うこちらと同様に、彼女も自身の教え子に対して同じことを感じているはずだからだ。

 

「次に彼女に会えるのは、来年の社交シーズンになりますよ」

 

「そうだな。そのときにはまた彼女を社交場で探し出して、今日のように三人で会えるように頼んでみよう」

 

「先生がそれでいいなら構いませんが……」

 

 奇妙な言い回しをする教え子に首を傾げていると、フランツ様は大切そうに抱えていた翻訳本を本棚に戻し、代わりにあの遊戯盤を取り出してこちらを振り向く。

 

 すでに業務時間はすぎているがこの一日の締めくくりに、一局くらいは付き合ってもいいだろう。



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◆人物紹介◆
女性陣オンリー


◆主人公◆

ベルタ・エステルハージ 転生時17歳。

            前世の享年28歳。 

 

一人称は私。呼びかけは 貴女、貴男。

誕生日は2月の4週目。

 

本作の主人公で鉄面皮な子爵令嬢。        

家族は美形揃いなものの、一人だけパッとしない容姿。

ソバカスあり。ダークグリーンの瞳に赤煉瓦色の髪。

顔立ちは垂れ目つり眉。髪だけは自慢。

身長は女性にしてはやや高め(167センチくらい)。姿勢が良い。

 

勉強が好きで、社交は苦手……というか、嫌い。

結婚は社交的な妹がいるので父親もま、いいか、程度。

逆行したからには目指せクズの第一王子とのルート消滅。

望みは教え子の幸せな結婚。

 

 

◆すぐ死ぬ教え子◆

アウローラ・フリーデリケ・コーゼル 享年18歳。

              (出会う時点では7歳)

 

一人称はわたくし。呼びかけは 貴女、貴男。

誕生日は10月の1週目。

 

侯爵家令嬢。

ふわふわと優しい雰囲気を纏った、よーく見れば美人さん。

透き通るような美しい金髪と、ダークブラウンの瞳。

垂れ目、垂れ眉。右の目許に黒子がある。身長は平均。

 

ベルタと出会った当初は恐ろしく人見知りな子供。

何人も家庭教師が辞めて行ってしまうため、

家族には侯爵家令嬢の役割をまったく期待されていない。

末っ子なので、両親も普通に結婚できればいい程度。

 

姉二人は立派な淑女。アウローラとは歳の差がある。

出会った時点でもうすぐ結婚するくらい。

コーゼル領から王都までは馬車で2日。

 

 

◆主人公の妹◆

アンナ・エステルハージ 主人公の五歳下。

 

一人称はわたし。お姉さま。 呼びかけは あなた。~さま。

誕生日は4月の2週目。

 

栗色の髪とライムグリーンの瞳と、サクランボの唇。

色白小柄で儚げなように見えてしっかり者。

将来絶対に美女になる、現在美少女。

 

ゲーム内では領地のスケジュール管理をしてくれる。

見た目の割に勝ち気な性格と口調。

 

 

◆教師仲間◆

アグネス・スペンサー 主人公と同じ歳。

 

一人称はわたし。 呼びかけは 貴女、貴男。

子爵令嬢。

のんびりした口調。

誕生日は5月の1週目。

ボリューム感のある亜麻色の縦ロール。

化粧をしていてもそれらを薄味に変えてしまう糸目の持ち主。

そのせいでぼんやりとした印象を持たれるので、

化粧やファッションがやや派手め。

ゲームではライバルキャラだったが、今回は主人公の親友ポジ。

 

 

◆教え子の親友◆

マリアンナ・エルベーヌ・ハインツ 教え子と同じ歳。

 

一人称はわたし。 呼びかけは 貴方。

明るい紅茶色の髪。ストレート。

若草色の瞳は子猫のようなつり目。

人懐っこくて全体的に活発そうな印象。

あまりご令嬢っぽい感じではない。

猫かぶり(TPO)を弁えて行動出来る子で、勝ち気。

ゲームではライバルキャラだったが、今回は教え子の親友ポジ。

誕生日は9月3週目。



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◆隙間編◆
◉1◉ 仕事と趣味友。


その頃領地では……みたいな。
これからたまに章と章の間に挟むかもです。
本編には出てこない設定なので箸休めとして2話くらいずつ。
箸休めが嫌いな読者様は箸置きに箸を置いてお待ち下さいませ。


 

 いつからか忘れてしまったけれど、わたしにとって紙とインクの匂いはお姉さまの香りだった。

 

『次に会えるのは来年の社交シーズンになるでしょうけど……それまで領地の皆と元気にしていてね。何かあったら手紙で教えて頂戴。どこにいてもすぐに駆けつけるわ。私の可愛いアンナ』

 

 そう言ってあの香りごと抱きしめてくれたお姉さまと別れて領地に戻ってから、早いものでもう二ヶ月。執務室の窓の外に見える木々は生命力の深緑から一転、どんな絵の具にも再現することが難しいような艶やかな色に染まっていた。

 

 書類の山を目を通しやすいよう用件別に纏めて島を作る。

 

 内容は農地と牧草地の話に、家畜小屋の修繕や教会の整備、領地を訪れる商人が増えたことで馬車の通る道の補修に割く人手の確保や、領内で上演する舞台の設営など。

 

 季節柄決めることは多いけれど、お姉さまの残していってくれた知識(もの)が、人が、まだ半人前のわたしを助けてくれた。それに資金もお父さまだけでなく、お姉さまの仕事先から援助を受けられるから、余程馬鹿な計算間違いでもしない限りは何とかなる。

 

 だけど一番嬉しいのは資金の心配をしないでいいことではなくて。お父さまに似て大の心配性のお姉さまが、毎週一通は手紙と本を送ってくれることだった。当然のようにお父さまも分厚い手紙を送って下さるから、たまに一日に読む書類の量と同じような分量になる。

 

 そんな嬉しいけれど悩ましい家族の愛情に加えてちょっと心配なのは、このままだとそのうち書庫を建てなければならなくなることかもしれないけれど……それはそのとき考えればいいわね。

 

 わたしからはそのお返しになるかは微妙だけれど、翻訳をして同人誌の形で発行された本を送っている。でもお姉さまは毎回その感想を返してくれるから、やっぱりこちらがもらってばかりだわ。

 

 二人からの他に送られてくる手紙は大抵気持ちの悪い詩や、しつこい求婚の手紙なので、それらは一纏めにしてお父さまに転送する。

 

 ――……例外は、そう。

 

「そろそろ感想を書いて送らないと駄目ね」

 

 書類をめくる手を止めて、先日王都のお父さまの手紙と一緒に届いた封筒を手に取る。差出人は一年前にデビュタントで知り合った、ヨーゼフ・ヴァルトブルク様。第一印象はぽっちゃり体型なのに背が大きくて、存在感が凄いのに気弱な人。

 

 第二印象は酷く絡まった黒髪の隙間から、赤みがかった琥珀色の瞳でビクビクとこちらを見ていたくせに、急にわたしの翻訳本のファンだと叫ぶだけ叫んで逃げ出した変な人。

 

 第三印象はお姉さまとわたしを姉妹と認識できないなんて、目が節穴にもほどがあると思ったけれど、誰も彼も一方的に同じ言葉でしか話かけてこなかった社交場の中では、一番強く印象に残った人。

 

「今回はヴァルトブルク様にしては珍しく恋愛ものだったし……もう一回最初から読み直そうかしら」

 

 そんな独り言を呟きながらも、胸が踊る。封筒から薄い小冊子を取り出して執務机の上に開くと一番最初に目に入るのは、中に挟まれた彼の手紙。

 

“前回の雪の女王を題材にした翻訳も、繊細でとても素晴らしかった。君の翻訳した本を読んでいたら、僕もどんどん話を思い付けるんだ。今回の作品は苦手を克服したくて書いたので自信はあまりないけど……次の脚本の公募に出してみようかと思ってる。忌憚のない意見を聞かせてくれると嬉しい”

 

 わたしは翻訳で、彼は脚本。どちらも貴族らしくない同人誌書き(シュミ)仲間。彼とのこうした意見交換は日々の仕事の癒しだった。

 

「……手紙だとこんなにお喋りなのに、社交場では全然だなんておかしな人ね」

 

 思わず漏れた笑いを堪えてめくる頁のその先は、笑いがなりを潜めるような、甘く切ない恋物語。



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◑2◑ 憧れの人。

 

 下級文官の仕事の多くは上級文官から頼まれる調べものが大半を占める。一日中書庫を行ったり来たりする意外と過酷な城での仕事を終え、ようやく帰って来た屋敷の玄関ホールで執事に出迎えられた。

 

「お帰りなさいませヨーゼフ様。旦那様方もそろそろお戻りになられますでしょうから、すぐに夕食のご準備を致します。それまでは今しばらくお部屋にておくつろぎ下さいませ」

 

「ああ、ただいま。そうしてくれると助かるよ。今日は昼食を食べる暇がなかったからお腹が空いてしまって」

 

「左様でございますか。でしたら準備を急がせましょう。それと、こちらいつものお手紙が届いておりましたよ」

 

 柔和に微笑む老執事から差し出されたのは、薄桃色の可愛らしい封筒だ。短く礼を言って手紙を受けとると、彼はそのまま自身の仕事へと戻っていった。

 

“送られてきた貴方の作品を読んだわ。意外とロマンチストなお話を書くのね。あのままでも素敵な内容だとは思うけど、公募に出すから忌憚なくということだったし、はっきり書くわね。”

 

 自室に戻るなり封を切って便箋に視線を走らせ、そんな彼女らしい書き出しに仕事で疲れていた心が和んだ。

 

「書き出しからこうだと……やっぱり、少しはお手柔らかにと書いておけばよかったかもしれないなぁ」

 

 昔から何をするにも人より愚図だった。そのくせ“適度”や“適当”という指示が分からず、相手が頼んだ以上のことをこなして、相手から頼まれていた時間内にこなせないという失敗を何度もした。

 

 六歳くらいの頃に、両親から『落ち込むことがあったときには、甘いものを食べるといい』と言われてからは、それにすがった。以降は別に甘いものが好きなわけでも、そこまで空腹ではなくても食べれば“安らげる”と。

 

 当然体重は増えていき、身長もそれに見合った伸びを見せ、同年代の子供よりも背の高い肥満児というどうしようもない姿になった。

 

 十歳をすぎて面と向かって要領が悪いと注意をされてからは、細かく時間を区切った予定表を作っていくらかマシにはなったものの、予定にない突発的なことには手も足も出ない。

 

 だけど家族は同年代に比べれば、だいぶ内向的な僕の趣味の詩作や文筆を認めてくれた。

 

 父の仕事を手伝える歳になってからは、何とか下級文官として城に勤めることになったけれど同僚の中に馴染めず、毎日誰とも会話をせずに仕事をこなして帰宅するだけだったある日。

 

 父の書斎に書類を届けに入ったとき、執務机の上に穴を開けて簡単に綴っただけの本を見つけた。普段父が読むものとは方向性が異なる。少し興味を引かれてその本を見つめていたら――、

 

『同僚の娘さんが翻訳した小説だよ。もう一冊は読んだんだが、なかなか面白かったぞ。ただ仕事が立て込んでいてなかなか読む暇がないんだ。気になるなら先にお前が読むといい。感想を教えてくれると助かるよ』

 

 ――と。

 

 彼女の翻訳を知ることになった切欠はそんな偶然だったものの、内容を読んで胸が踊った。本はどこかでまだ男性が読むものという風潮が強い中で、女性の細やかさを取り入れた翻訳は新鮮で。読み込めば読み込むほど、自分でも何か創作物を書きたくなった。

 

 彼女の翻訳したものと、他の翻訳家が翻訳した同書、さらには原本を取り寄せて読むうちに、どんどん感想を伝えたい気持ちが勝って……彼女がデビュタントに王都を訪れると父から聞き、ついにあんな失態(こと)まで演じてしまった。あのときのことを思い出すと今でも膝が震える。

 

 ――だけど。

 

“恋愛ものに恋の好敵手がいるのはいいと思うのだけど、顔も良くて地位もお金もあって、女性に人気があるって設定。あれだと普通すぎて途中で盛り下がる人もいると思うの。いっそ設定はあのままで、好敵手を男装の麗人にするとかどうかしら……は、飛びすぎよね。でもそういう驚きが欲しいわ!”

 

 あのとき身の程知らずでもなけなしの勇気を出したおかげで、今こうして同人誌を書く上で神と仰いだ彼女からの進言をもらうことができるのだ。本当に勇気を出して良かったと心底思う。

 

「や、確かに飛んでるけど……悪くない、かも。それだと最終的にヒロインを交代した方が盛り上がるかな?」

 

 彼女のくれた新しい構想が血液内を駆け巡る。空腹だったことも忘れてペンを手に作品の手直しにとりかかり、熱中しすぎて危うく夕飯まで食べ損ねそうになったのだ。




昨日から本編全然進んでないので、
今日はお昼にもう一話投稿します。


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◆第三章◆
*1* ルート踏んじゃった。


 

 王都での社交シーズンを無事に乗り切り、コーゼル領に戻ってからのアウローラの九歳の誕生日……も、無事に一人で出席させることができた。

 

 感情移入がすぎて当日は少し泣いてしまったくらいで、気分は未婚なのに初めてのお◯かいを見守る母親である。

 

 たとえそれが友人代表であるマリアンナ様が招待されていたからだとしても、最初の頃から考えると充分な快挙だ。そのおかげで今年は招かれていたであろうホーエンベルク様に会わずに済み、心の安寧を保たれた。

 

 しかしそれに伴い、私は現在あるイベントの分岐が潰えていなかったのではないかという、恐ろしい局面に立たされている。今日は貴重な非番なのに。

 

「いやぁ、この短期間であれがここまで成長するとは……。以前から親としてずっと心配していたのだ。先生の指導のおかげで、このままなら心配していた学園への入学も夢ではないかもしれん。これまでの肩書きばかりの教育者達と違い、貴方の指導力は本物だ」

 

 相変わらず惚れ惚れするほど見事な掌返し。だから自分の子供を……いや、私の教え子を気安く“あれ”呼ばわりするな。

 

 ろくに子供のことを見もしないで勝手に色々押し付けようとか、調子が良すぎるとは思わないのですか?

 

 第一そういうのは百歩譲って、本当に子供のことを思っていればこそ許される発言で、貴方達みたいな製造だけした肩書き【親】の人間が口にしていい言葉ではありませんよ? 

 

 ――と、いまこの場でぶちまけられたらどれだけ胸が透くだろう。言えないけど。

 

「ええ、もう本当に。今までは上の娘達との違いに戸惑ってばかりいたのだけれど、ようやくコーゼル家の者として自覚が足りてきたようで安心しましたわ」

 

 そう私の前で満面の笑みを浮かべているのは可愛い教え子ではなく、出されている紅茶もいつも授業休憩に出される中級の茶葉ではない。この場を表現するなら、前世で非常に胃を痛めた記憶のある三者面談。

 

 実力テストと期末テストの点数の伸びが思った以上に良くて、まだ中学一年の三学期だというのに、難関校のパンフレットを持ってくるご両親に似ている。ただでさえ多感な時期なのに、そんなに先のことで圧をかけられても困るやつ。

 

「まぁ、お二方からそのように過分なお言葉を頂けて恐縮ですわ。ですが以前より社交的になられたのも、学問に前向きなのもアウローラ様ご自身のやる気がなければ始まりません」

 

 おかしい……と、頭を抱えたくなったものの、実はそれほどおかしくなかった。王都に滞在中に教え子とした約束を守り、お茶会への顔出しを減らすことで増やした勉強時間。

 

 あのときはそれで間違っていないと確信しての行動だったのに、こちらに戻って蓋を開けてみたら、学園入学ルートが四年も早く発動するという大誤算。こんな序盤でイベントの大盤振る舞いして、あとから出すイベントは残っているのだろうかと疑問すら浮かぶ。

 

 ここで謙虚さを出しすぎると、今度は本当に教え子の能力が純粋に上がったのだと思い込んで、もっと家格の高いご令嬢を家庭教師に据えるだろう。そうなってしまえばこの転生はそこで詰む。

 

「ですので、今後もアウローラ様との二人三脚で頑張っていきたいと思います」

 

 そんな上辺だけの微笑みとそこだけは心からの言葉を述べれば、雇い主夫妻から今までにないくらい熱心に褒めちぎって頂き、苛立ちだけを胸に応接室をあとにしたけれど――。

 

 自然と足が向かった温室の中で、動物園の熊のごとく右へ左へとウロウロしながら、この先に取れる行動と陥りそうなバッドエンドを洗い出す。

 

「とりあえず現在考え付くバッドエンドルートは……【貴女もわたくしを見捨てるのですね】かなぁ」

 

 ちなみにこのルートでも教え子は、手に入れた知恵と社交性で見事な悪役令嬢になって断頭台行きなのだけれど、実はこっちはまだマシなルート。これは少なくとも信頼度がかなり高めで失敗して、憎悪から悪に走るというある意味前向きなルートだからだ。

 

「もしくは【わたくし、頑張りますわ】だよねぇ。まだ年齢的にはゲームの序盤も序盤なわけだし」

 

 一方でこちらのルートは、何度見ても鬱になる。こちらは前者よりも前向きな発言の割に自死してしまう。分岐が分かりにくいけれど、直前までの信頼度がやや低かった場合はこちらが多い。

 

 ただ絶対に言えるとこはどちらにしても教え子が死ぬことだ。せっかく転生したのだから、前世からの目標としてそれだけは絶対に阻止する。

 

「あとはアグネス様に手紙を出すでしょう、それからマリアンナ様の授業内容を聞いて……そこから逆算していまのアウローラ様の学習バランスを崩して……ギリギリ第一王子に目をつけられない感じに……」

 

 段々と軌道修正の筋道が立ち始めていたろころで、不意に温室のドアが開いた音がして。そちらを振り返るとそこには温室で自習をするつもりだったのか、課題に出した教材を抱えたアウローラの姿があった。

 

「先生!! 今日はお休みのはずなのにどうしたのですか?」

 

 さっきの今では関心するよりも心配になる勤勉さを見せる教え子に、微笑もうとしたのに上手くできずに。代わりに駆け寄ってくるなり腰にしがみつく教え子を抱き止め、小さな頭を優しく撫でた。

 

***

 

 

 三者面談というか、最早圧迫面接の体をなしていた呼び出しの翌日から、私は教え子救済エンドのために動き出した。

 

 まず当初の予定通りアグネス様に手紙を出したところ、筆まめな彼女のおかげで最短日数で届いた授業予定表によれば、マリアンナ様は一旦体力、教養、魅力の値を控え、現在は知力に特化させているとのこと。じっとしているのが苦手だとかで芸術はほぼ上げていないようだ。

 

 それに伴いこちらの教え子は知力と教養を抑えて体力と芸術の方面を伸ばし、あとは本人のやる気に任せることにした。ときには自主性を伸ばすのも大事。

 

 あと侯爵に確認したところ最初の半年契約の直後に結び直された四年契約は、始めの数ヵ月はお試し雇用期間として受理されていたので、契約を結び直した日からきっちり四年契約の計算となっていた。

 

 ――なので。過去最短で教え子に出逢えたことを活かそうと、今から十三歳までの残り四年間は芸がないけれど、前世と同じく最悪の場合に備えて逃亡するための軍資金を稼ぐことにした。

 

 手始めに前回ホーエンベルク様にあげてしまったオ◯ロもどきと、新たに◯ェンガもどきを加えて試作品を工房に発注しておいたんだけど……。

 

 一つ心配なのはこの世界でこの手のゲームがどれだけ売れるかということだ。前世では家庭教師と塾講師しかやっていなかったので、当然ながら物品販売については何の知識もない。

 

 この件で実家には頼りたくないし、家庭教師で稼いだお金で投資するにしても、一回の失敗でかなりな痛手を食らうのは間違いないだろう。

 

 何よりもネームバリューのない子爵家の娘が発案したものに、その道のプロである商人達が食い付く可能性は限りなく低い……が。

 

「よっ、ベルタ先生、久しぶりー。元気してた?」

 

 コーゼル領に滞在する間はお定まりになったカフェで待っていると、背後からそう明るい声をかけられ、待ち人の到来に思わず弾かれたように椅子から立ち上がって振り返った。

 

「お久しぶりです、フェルディナンド様。私達は元気にしておりましたが、そちらの方は……こちらの我儘から長く留め置いてしまったので、領地での評判は大丈夫だったか気になっておりまして。それに今回の不躾なお願いも――、」

 

「はいはい、会って早々堅苦しいのはやめー。面白そうだって残ったのも、今回の申し出に乗ったのもオレの意思。別に心配するようなことは何にもないよー。むしろ働きに出てることに驚かれた。酷くない?」

 

 頭を下げようとする私の目の前で面倒そうに彼が頭を振ると、髪に編み込まれたガラスビーズが軽やかな音を立て、陽の光を反射して輝く。男性に使う表現ではないかもしれないけれど、本人がすでに美術品のようだ。

 

 これで口を開かなければ一級品の彫刻みたいなんだけどな……。

 

「そんなことより座った座った。前回持って帰ったあれね、うちの領地の職人にオレの絵を渡して作ってもらったよ。ベルタ先生には一番最初に見せてあげる」

 

 行儀悪く椅子を足で引いた彼はそのままドカリと腰を下ろすと、事も無げにそんな驚きの発言を投下した。

 

「えっ、前回の遊戯盤ですよね? フェルディナンド様が作画を担当して、わざわざそちらの領地の職人さんの手まで借りて下さったのですか? てっきり私の作ったあれを元に紙に描き直すくらいだと……」

 

「分かってないなー。遊びは本気でないと楽しめないだろ? ま、確かに小さい頃から馴染みの職人には『またですか坊っちゃん』て言われたけど。皆もオレの思い付きには昔から付き合わされて慣れてるから、割と乗り気で作ってくれたよ。これが結構な力作なんだ」

 

「制作費用はおいくらでしょうか。流石にお支払しないと申し訳が立ちません」

 

「あーもー、そういうのもいいよ。最初に持って帰らせろって言ったのはこっちなんだから。つまらないこと言ってないで、ほら見てよ」

 

 そう大袈裟に溜息をついた彼が、小脇に抱えていた厚手の生地のようなものを得意気に開く。大きさにして新聞を開いたくらいのそれは、私が製作したあの子供の図工作品を下敷きにしたとは思えない。

 

 色味を抑えたベージュ地に、古地図を彷彿とさせるタッチで描かれた五国。色味は深みのある煉瓦色、紫紺色、芥子色、苔むし色などなど。どれも単品では地味な色ながら、全部が集結すると品のいい美しさだ。

 

 山脈や陸路、海路には名称がつけられ、リボンに見立てた名札まである。領地ごとに色分けされた中にはそれぞれの国旗まで考えてくれたのか、ドラゴンや獅子のレリーフまで織り込まれていた。

 

 分かりやすく例えるなら、お屋敷の中でよく見かける美術品の壁掛け(タペストリー)。間違っても子供が遊ぶ遊戯盤(ボードゲーム)感はない。

 

 おまけに盤というか本体だけでもその品質なのに、駒と紙幣までとんでもない品質だった。もしもこれを商品化したとして、全部合わせて購入したらいくらになるのか……想像もつかない。

 

 まさか人◯ゲームもどきの双六を、ここまで芸術的にデコれる人がいるのかと感動してしまった。

 

「これは……結構どころか……かなりな出来映えなのですけど……」

 

 あまりの彼の遊びに対する本気を見せられて絶句していると、当の本人は涼しい顔で店員に紅茶と軽食を注文していた。これをテーブルに広げたまま食事を注文する神経に心が麻痺してくる。食べ零したらどうするの、これ。

 

「お、いい反応。早くアウローラ嬢に見せてやろうな。それから何だっけ。商品を売るときの名義貸しと、意匠の相談だった? 面白そうだったらオレも出資するしさ。その辺のは食べながら話そう」

 

 流石は芸術家貴族として名を轟かせるフェルディナンド家。商人達を納得させるネームバリューとしては文句なしの逸材。

 

 こちらのことをさらっと流して肘をつく目の前の人物に、やはり持つべきものは面白がりでイカれた協力者だと心底思った。



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*2* 悩むよりも、楽しもうか。

 

 運ばれてきた軽食をペロリと平らげて、紅茶のお代わりを飲むフェルディナンド様を前に、今回の試みの概要をかいつまんで説明する。

 

 教え子のことに触れて話をすると色々とボロが出そうなので、その辺は伏せて用意しておいた適当な理由を充てておいた。

 

「ふーん、新しい玩具の製作販売ね。試みとしてはなかなか面白そうだけど、うちの名前を貸すからにはそれなりのものを作って売ってもらうよ。あと売上げの取り分とかは考えてるの?」

 

 もっと突っ込んだ質問をされると思っていたけれど、どうやら平気らしい。さっき唖然とさせられたやり取りの余韻が残っていたので、こちらも深く考えずに流して会話を続けることにする。

 

「ええと……実質私の趣味のようなものですし、名義を貸して頂く身ですから、そちらが六で私が四くらいと考えておりますわ」

 

「あ、趣味なの? 実家の領地の経営が厳しいからとかじゃなくて?」

 

 今度は普通に突っ込まれた。どこに興味を持つのか分からない人だな。しかも彼の中ではいつの間にかそういうことになっていたのか。

 

 だとしたら手紙を出したときに二つ返事で名義を貸すことを了承してくれたのも、こっちの領地状況を心配してくれてのことだったのかもしれない。

 

「はい、完全なる趣味です。アウローラ様の喜ぶ顔を見ていたら、つい教材作りから発展した子供向けの知育系玩具に目覚めてしまいまして」

 

「何だ、趣味かー……。ベルタ先生って大人しい悪人顔なのに、相変わらず発想が斜め上で面白いよね。フェルディナンドの名義を借りて小さく纏まるとか無理。これ結構大がかりな遊びになるよ?」

 

 両肘をついた手の甲に顎を乗せて苦笑するその表情に、口調の軽さより心配してくれていたのだと分かる。私が曖昧に笑えば翡翠の双眸が愉快そうに弧を描いた。

 

「預けていたあの質素なものから、こちらの出来になっている時点で察しました。それよりも、大人しい悪人顔って何ですか」

 

「ははっ、悪い。でもここまで考えたならいっそもっと豪華にしてさ、貴族向けの商売にすればいいんじゃない? 子供向けにしては難易度高いし、大人でもできるよ。むしろこれで負け越したオレを前にしてよく子供向けって言えたよね」

 

 前回アウローラにこのゲームで身ぐるみを剥がされたことを、まだ根に持っているらしい。

 

 まぁ、このボードゲームはサイコロの目でマスに止まるのは運だけれど、その後の政策についてはプレイヤーの判断だから、弟子の政策は師である私の政策でもあるわけで。ごめんあそばせ?

 

「あれは初心者同士でしたから。次は簡単に勝たせては頂けないのでしょうね」 

 

「……ま、いいや。玩具の設計はそっちが出してるんだし、こっちだって遊びのつもりだ。分け前はそっちが六で、こっちが四。その代わり意匠の最終的な決定権はこちらがもらう。それで構わない?」

 

「フェルディナンド様がその内容で構わないようでしたら、こちらからは何も。むしろこちらの利が大きすぎて申し訳ありません」

 

 そう視線をテーブルの上に置かれた新遊戯盤(布製)に落とすと、彼はその美貌を輝かせて「面白ければ問題なしだ」と笑った。

 

「いまは工房に発注してるのと合わせても、まだ三種類だったっけ? ちょっと数が足りないからさ、この遊戯盤の種類も増やそう。陸だけじゃなくて海図とかから拾えばそれなりの種類になるから。あと女の子向けの玩具とかもあれば欲しいよな。家によっては兄妹ごと取り込めるぞ」

 

 彼のその発言を皮切りに、現在試作品を製作してもらっている玩具のデザインの話に移った。オ◯ロもどきには裏と表の色はそのままに、黒い面には銀で、白い面には金でそれぞれ王様っぽい人物の横顔のレリーフを刻印することに。コインっぽくて素敵だ。

 

 ◯ェンガもどきの方は元のゲームが崩した方が負けと地味なので、材質の表面に職人が一点ずつ財宝の絵を描き込んで、最終的に自分の前に財の山を作れるようにした。ゲームの根本は変わらないが、これだと見た目的に盛り上がる。

 

 女の子向けには教養系の基礎を詰め込んだ双六は、お金にあたるものを小物やドレスを描いたカードとして手に入れられるように変更。ゴールは素敵な殿方との結婚か、途中で見つけた夢を叶える二択。遊戯盤の上だけでも選択肢を選べる仕様にした。

 

「フェルディナンド様……どうしましょう」

 

「うんー?」

 

「もの凄く合理的で頼もしい上に、とっても楽しいですわ」

 

「だろ? 取り敢えずこの手のが好きそうな知り合いに声をかけてみるからさ、相手側の反応が良ければ出資しないか持ちかけてみるわ。手始めにヴィーの奴を誘いたいんだけど、今回アウローラ嬢は関係ないからいいよね?」

 

 しまった、そういう方向に行ってしまう可能性を考えていなかった。何だか上手く誘導された気がしなくもないけれど、ここまで乗り気で付き合ってくれる人材はそうはいない。

 

 何より……最初は教え子の逃走資金のためにと息巻いていた私も、段々楽しくなってきてしまっているから。

 

「勿論ですわ。私も知り合いに声をかけてみます。それとこの新しい遊戯盤を元にして、もう一枚新しいものを作って頂くことは可能でしょうか?」

 

「んー? もうノウハウは掴んだって言ってたから、こっちに来る前に一枚と言わず、見本用と販促用に三十枚は発注してきたから構わないけど。その一枚はどうするの?」

 

 おお……まだ打ち合わせくらいの体で現れたのに……仕事が早い。あまりの有能さに思わず無言で拝めば、向かいに座った彼から笑い声が上がる。それが治まってから私は白々しい彼の演技に付き合って話の続きを口にした。

 

「その一枚はフェルディナンド様がそうしようとなさっていた通り、ホーエンベルク様の教え子に。その際には“遊んでみた感想を是非お聞かせ下さい”と一筆を添えて下さいね?」

 

 そんな私の言葉を聞いて彼はニヤリと悪い顔で了承の意を告げた。あとは追々楽しんでいきましょうか。



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★3★ 忖度がなさすぎる。

 

 色味を抑えたベージュ地に、古地図を彷彿とさせるタッチで描かれた五つの領土。色味は深みのある煉瓦色、紫紺色、芥子色、苔むし色など、どれも単品では地味な色ながら、全部が集結するとなかなか見応えがある。

 

 山脈や陸路、海路には名称が添えられ、領地ごとに色分けされた地にそれぞれの国を表すドラゴンや獅子の意匠が施されて、一見すると精緻な装飾を施されたタペストリーのようだ。しかしこれはただのタペストリーなどではない。

 

 十日前にコーゼル領にいるエリオットから、謎の手紙と共に届けられたベルタ嬢考案の新作だ。しかも商品化前の。これを見せたときのフランツ様の瞳の輝きは、世話をしてきた年月の中でも一番だった。

 

 ただ、手紙には“秘密厳守”の注意書があり、一緒に遊べる人材の選定が困難かと思われたのだが――。

 

 視線の先で転がっていたサイコロが動きを止め、ふくふくしいヴァルトブルク殿の指に摘ままれた獰猛そうな熊の駒が、柔らかい盤上を一マスずつ踏みしめながら前方にいる牡鹿の駒に近付いていく。今回牡鹿の駒の持ち主はフランツ様だ。

 

 やけに見目を本物に寄せてあるので捕食者と獲物のように見えなくもないが、牡鹿の方もただで捕食される側には見えない――……と、熊の駒が黒地に白く星を描いたマスに止まった。その瞬間、空気に緊張感が走る。

 

「おやおや……これはこれは。ホーエンベルク殿、説明書を頂けるかな?」

 

 そう言ってこちらに手を伸ばしてきたのは、鷹の駒を操るエステルハージ殿だ。この中で一番の年長者である彼の申し出に応じ、ビロードの表装を施された説明書を手渡す。

 

 盤上のマスには短い文章は綴られているが、長文になると別添えの説明書裏にある図案に直接書き込まれている。

 

 エステルハージ殿は蛇腹に折り畳まれたそれを開き、遊戯の説明が書かれた面とは反対の面を眺めて薄く笑うと、そこに書かれていた文面を読み上げた。

 

「“領内で他国の間者を捕まえる。その間者を送り込んだ国名を近隣諸国に晒し信頼度を落として三周経済行動不能にするか、サイコロを振って出た目の数を以下の数字にかけて賠償金を請求して釈放する。どちらかを選べ”……だそうだ。相手国はどこを選んでもいいらしい。ふふ、あの子らしいな」

 

 器用に片方の眉を持ち上げて愉快げに微笑む様は、年頃の娘が二人もいるようには見えない。

 

 その内容を聞いたヴァルトブルク殿はやや考えてから、二周前フランツ様に奪われた鉱山の仕返しか「で、では……フランツ様、三周行動不能で」と言った。

 

 確かにサイコロの出目に使う運や、国としての活動を妨げられている間の経済を止められるのは痛い。フランツ様も眉間に皺を刻んで「分かり、ました……」と悔しげに唇を噛んだ。

 

「なかなかやるじゃあないか、ヴァルトブルク殿。これで最後まで勝負が分からなくなってきた」

 

「は、はい、次は……エステルハージ様も、お覚悟、願います」

 

 エステルハージ殿の褒め言葉に、ヴァルトブルク殿も宣戦布告の言葉を返す。

 

 現在アンナ嬢との文通を唯一続けられていることからも、彼は見た目の通りおどけるだけの人物ではないのかもしれない。

 

「ははは、言うじゃないか。前回小麦の相場が荒れたのは私のせいではないぞ?」

 

「いや、あれは直前でエステルハージ殿が市場操作を乱発したせいですよ。私も砂糖で大損しました」

 

「おや、フランツ様。情勢は天候と同じく目を離してはいけません。きちんと加減(・・)しようと、若者達が領土の奪い合いをしている間に、数周かけて根回ししていたのですよ。その間はとても大人しかったでしょう?」

 

「た、確かに……不自然なくらい、静か、でしたね」

 

「ほら、ね? 見落としたフランツ様とヴァルトブルク殿が悪い。私としても、一番はめたかった相手を巻き込めなくて悔しかったのですよ?」

 

 そう意味ありげな視線を向けてくるエステルハージ殿に「回避してしまって申し訳ない」と返せば、彼はつまらなさそうに目を眇めた。

 

 ベルタ嬢の知り合いだけで構成された新たな二人の面子は、第二王子を相手にまったく忖度をすることがない。そういう人材を探してきたのは俺だが、多少胃が痛むこともある。

 

 この遊戯盤を早く試してみたかったのだろうフランツ様が、最初に二人に『ここでは階級のことは忘れて下さい』と言ったがために、一切の手加減をせずに全力で負かしにくるのだ。

 

 今まで俺としかこういったことに興じてこなかった教え子は、初めて完膚なきまでに負かされて悔しがる十一歳の子供の顔をした……と。

 

「先生、次は先生の番ですよ。早く進めて下さい」

 

「あの……サイコロ、どうぞ」

 

「娘の作った遊戯盤での対戦中によそ見とは……ふふ。教え子といえども、今の彼は一国の王だ。足許を掬われないように気をつけなさい」

 

 三者三様の言葉をかけられ、サイコロを握る。振ったサイコロの出目は六。自分の駒である獅子が止まったのは、またも黒地に白く星を描いた波乱のマス。

 

「――……いざ勝負といきましょう、エステルハージ殿」

 

「はは、その国力で宣戦布告か? 望むところだ、ホーエンベルク殿」

 

 結局のところ、この美しくも醜い盤上遊戯で大人気を失うまでに、誰しもさほど時間はかからなかった。



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*4* 日々、鋭意製作中!

 

 ――水色のヒツジ、赤いクマ、紫のネコに、橙色のリス。

 

 いったいフェルディナンド様はどこで購入するのか、日に日に増える色彩豊かな縫いぐるみ達。そんな縫いぐるみ達のデッサンに、時折混じる顔を隠した私のデッサン。

 

 またある日は、オルゴールのバレリーナのように華奢な身体で基礎のステップを踏む教え子に、フェルディナンド様と一緒に完成形を踊って見せた。

 

 初期の頃より芸術と体力が上がりやすい手応えを感じたのか、教え子は勿論のこと、飄々としているフェルディナンド様ですら教育者の顔になり始めている。

 

 そしてそんな最近の休憩時間のすごし方といえば、フェルディナンド様の『これも広義では芸術の授業』という鶴の一声で決定した、教え子と一緒に女の子向けの遊戯盤に使用するドレスのデザイン選定だ。

 

 当初は家庭教師を勤めている身で始めた副業に、この試みに手を出す切欠となった教え子を巻き込むつもりはなかった。けれど、フェルディナンド様からかけられた『いまは人手がいるし、隠し事ってバレたときの方が面倒だよ?』の言葉から踏ん切りをつけたのだ。

 

 ――無論、この副業のことは雇い主には内緒である。

 

 あとは王都のホーエンベルク様から届いた遊戯盤の感想の中に、父の名前とヴァルトブルク様の名前を見つけて苦笑したり、残りの二十九枚の遊戯盤が届けられた家からの感想を読んだり。

 

 二十九件に関しては資金援助の申し出と、そのうち数件の家から女の子向けの遊戯盤の完成を心待にしているとの声も頂いている。滑り出しはなかなかに順調だ。

 

「先生、見て下さい。こちらのドレスも素敵だけど、こちらのドレスも可愛らしいですわ。先生はどちらのドレスがお好きですか?」

 

「私はこちらの方かしら。落ち着いた色味でどんな場面でも着やすそうだわ」

 

「こちらですね? 先生の好きなドレス……憶えておきますわ」

 

 いつも通りのそんなやり取りをしていたら、横からフェルディナンド様の手が伸びてきて、私が選んだ山吹色のドレスを描いたカードを取り上げてしまった。

 

「あ、ごめん。このデザインは没案のやつだ。最初に弾き忘れたかな」

 

「まぁ……このデザインはそんなに駄目ですか?」

 

「駄目って言うかさ、この遊戯盤は女の子向けだよ? 大きくなるにつれて美意識は変わるけど、小さい頃は可愛らしくないと女の子は食いつかない。落ち着いた色味のドレスは必要ないと思うね」

 

 そう言われてもう一度取り上げられたカードを見てみると、確かに他の可愛らしさを前面に出したドレスよりも大人びている。やや“女の子向け”の範囲から外れているかもしれない。

 

 そこで「それもそうですね」と応じかけたそのとき、横から今度は細い教え子の手が伸びてきて、フェルディナンド様の手からおずおずとカードを引き抜いた。

 

「わたくしは、この先生の選んだドレスも着てみたい、です」

 

「ふぅん……でもさ、地味じゃない?」

 

「“たようせい”が、大事だと思います。色んなドレスがあった方が、楽しいです」

 

「たよう……あー、はいはい。多様性ね。いいけど、例えばどんなの?」

 

 珍しく自身の意見を口にしたのに問い返されることを考えていなかったのか、教え子が急に不安そうな視線をこちらに寄越す。頑張ったけどここまでか。でも意見を口にするようになれたのは進歩だ。

 

「そうですね……一般的な意見ではないのであてになるか分かりませんが、私は領地だと乗馬服をよく着ていましたわ」

 

「へぇ、ベルタ先生って乗馬するんだ?」

 

「はい。領内の視察にできた方が便利だったもので。収穫期なんかはほぼ乗馬服でしたわ。そういえば女性用でも可愛らしいものは少なかったかもしれません」

 

「成程ね、うん。女性用の乗馬服か。意外性があって面白いね」

 

 思い付きで出した案があっさりと受け入れられて拍子抜けしていると、教え子からキラキラとした瞳で「乗馬ができるなんて、素敵です」との評価を受けた。家族と領民以外からはあまりいい顔をされなかっただけに、ちょっと照れ臭い。

 

「それにしても、ごめんな二人とも。こんなに大量のデザイン選ぶのに付き合わせて。この件で名義貸すって言ったときの一族の女性陣が予想以上にはしゃいでさ」

 

「人気があるカードのデザインは、商品化するんですよね?」

 

「そーだよ。お姫様も気に入ったのがあったら教えてくれれば、直接オレから製造元に発注かけられるから一番早く入手できるぞ」

 

 身を乗り出した教え子に向かい、彼がニヤリと笑う。

 

 遊戯盤での売り上げの取り分はこちらの方が多いけれど、これならフェルディナンド様側も損はしない。こんなことができるのも、偏に彼の一族が芸術関係に明るいからこそだ。

 

 ふと頬杖をつく彼の髪に輝くガラスビーズが視界に入った。今日は赤いスグリのような中に金色の粒が泳いでいる。冬場に見ると暖炉を思わせる色使いだ。

 

「そういえばフェルディナンド様の髪に飾ってあるガラスビーズも、季節ごとに色が違いますね。これも一族の方のデザインですか?」

 

 何の気なしにそう言葉をかければ、彼は教え子に向けていた視線をこちらへ向けてヘラリと笑った。

 

「お、気付いてたの? なんか照れるなー。これはオレの趣味の一つ。工房借りてデザインも製作も自分でやる。本来は他人に作ったりあげたりしないんだけど、ベルタ先生になら作ってあげてもいいよ」

 

 得意気にそう言った彼があまりにも楽しそうだったので、普段はまったく装飾品に興味のない私でも思わずその場で注文してしまったわ。

 

***

 

 雪の白さが世界を覆う十二月。

 

 去年と時期を同じく開かれたコーゼル家の夜会には、去年までは見かけなかった顔触れが増えていた。考えられる原因は二つほどある。

 

 一つは長年愚図と言われ秘されてきた教え子の存在が、一定の貴族達の目に留まったこと。去年と今年の社交シーズンに、彼女が王都のお茶会でとった振る舞いが評価されたのだ。

 

 教養があり表舞台に出られ、ひいては家同士の繋ぎに使える、婚約者のいない上級貴族の娘がまだいるのだと。

 

 毎年参加している来賓ですら、去年の秋口からアウローラの立ち居振舞いに変化が出始めたことを知っていて驚くのだ。新規の人々は笑い話でしか耳にしていなかっただろうから、実物を見てさらに驚いたことだろう。

 

 正直この件に関しては教え子の努力の結果が誇らしくて仕方ないけれど、急な成長は出る杭と同義。これからは徐々に見せ方を調整していった方がいい。

 

 そして顔触れが増えた原因のもう一つは、純粋にアウローラの知人寄りの友人が増えたからだ。貴族社会では友人と書いてコネと読む。子供の友人として招いたり招かれたりというのはよくある。

 

 ――……ということは。

 

 周囲の風景からポリゴンめいた浮き方を見せる私の同僚兼友人も、自身の教え子でアウローラの親友(・・)を連れて出席しているということだ。

 

 今夜の彼女も絶好調にとんがっていたので、大勢いる招待客達の中から一発で見つけられた。しかも見慣れ始めているのか、可愛く見える。 

 

 そんな彼女の今夜の装いは、いったいどこで仕立ててもらったのか、どうして仕立屋や周囲の人間は止めなかったのかと言いたくなる、ショッキングピンクのゴスロリドレスにガッチガチの縦ロール。メイクも厚めに塗られた頬紅のせいで発熱しているように見えた。

 

「こんばんは、ベルタ様……って、まあぁ~……そちら顔好。婚約して下さいませ」

 

「アグネス様、語彙。望むものを見つけて荒ぶるお気持ちは分かりますが、せめて自己紹介が先かと思いますわ」

 

 初手で美形相手にいきなり突き抜けたキャラクター性を存分に発揮する辺り、彼女は本当に私と真逆の明るい人だ。思わず吹き出しそうになって頬の内側を噛む。一瞬絶対に笑ってはいけない某コメディー番組を思い出した。

 

「あら、いけない~。そうですわね。初めまして顔好様。わたしはアグネス・スペンサーと申します。当方見目の良い婚約者を募集しておりますの~」

 

「ははっ、オレはエリオット・フェルディナンドだ。よろしくアグネス嬢。随分お目が高いようだけど、この独特の美的感覚を持った面白いご令嬢はベルタ先生の友達なの?」

 

 フェルディナンド様の言葉の中にあるのが、本当に“面白い”という響きだけだったことに安堵しつつ、もしもそれ以外の感情が混じっていたら横腹に決めようと思っていた拳をソッと下ろす。

 

「はい。女性の家庭教師同士仲良くしてもらっております。教え子同士も友人で……ほら、あちらでアウローラ様とデザートを一緒に食べている子ですわ」

 

「ああ、あの凄い勢いでデザート消費して、アウローラ嬢に苦笑されてる子?」

 

「そうです、そうです。あの子ったら、少しでも目を離すとすぐああですの~。あとでちょっと注意しないと駄目かしら~」

 

 まずい、脱線の気配を察知。取り敢えずあちらのことはまだ実害もないし、後回しにしてもらわないと困る。

 

「それで話を戻しますが、私の方で声をかけたい人物は彼女ですわ。女の子向けの試作品の話は手紙ですでにやり取り済みですので、今夜はせっかくこの三人で顔を合わせられる機会でしたから、今後の話などしようかと思いまして」

 

 やや強引な会話の引き戻し方をした気はあったものの、二人は特に気にした様子も見せずにこちらに向かって頷いた。

 

「じゃあひとまず場所移動する? オレは婚約者探しとかまだそんなに興味ないんだけど、ベルタ()とアグネス嬢はそれで大丈夫?」

 

「ええ、それはもうご心配なく~。今夜のこの会場内で一番お顔の整っている殿方は間違いなく貴男ですもの。わたしの婚約者に求めるものは顔ですから、もうここにいても比較する対象がおられないので平気ですわ~」

 

「随分熱烈に褒めてくれるねー。オレの顔、そんなに好みなの?」

 

「顔が整っている方はすべからく好みですわ~。それに顔以外を褒められるほどまだ貴男のことを知りませんもの。ああ、ですが交際関係は六股まではかけていても平気です~」

 

「初見なのにオレの人相に対しての風評被害が酷いね?」

 

「そこまでお顔が良くて一途な方にまだお会いしたことがございませんので~」

 

「ああ……そう、成程ね」

 

「ぅふ……んふふっ、私も、それで問題ありませんから、もう、移動しましょう」

 

 突然始まった漫才のような二人のやり取りに、ついに堪えきれなくなって笑いが零れた。その後三人で会場の隅に移動して今後の策を練ったけど……ふとここにもう一人突っ込み役が必要だと切実に感じたのは、私の笑いの沸点が低いせいではないと信じたい。



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★5★ 何がどうしてそうなった?

 

 狭い調理場の方から陶器の触れ合う音が聞こえ、暖炉の中でさっき追加したばかりの薪がはぜて火の粉を散らす。こうして気まぐれな友人の仮住まいの暖炉に火が灯るのを見るのも一年ぶりだ。

 

 ――と言っても、もう一週間後にはエリオットはここから自領に帰るのだが。

 

 手許の彼女が描かれたデッサンに視線を落とした直後、追加のツマミが乗った皿を手にしたエリオットが戻ってきたので、デッサンを汚さないよう避難させ、テーブルの上にあったワインの空き瓶を床に置いて皿の場所を確保した。 

 

「いやーホント、今回はいままでほとんど訪ねて来ないからどーしてんのかと思ってたけど。まさか休憩時間に存分に遊ぶために授業の前倒しとか……王子様よっぽど気に入ったんだなー。あの悪魔の遊戯盤」

 

 手土産に持ってきた二本目のワインをすでに半分開けたエリオットはそう言うと、チーズを乗せたクラッカーの皿をつつく。食べろということだろう。

 

 勧められるままクラッカーを一つ取り、甘めの赤ワインの余韻が居座る口に塩気を足そうと齧った。

 

「その呼び名はどうかと思うが……確かに気に入ってるどころか、最近はわざわざこちら派閥の人間を捕まえて参加させている。しかもそのうちの何人かはまたやりに来るから、一種の中毒性があるのは認めよう」

 

「へぇ、それは発売前にいい情報だな。いっそ発売するときは“王家御用達”とか銘打ってみるか?」

 

「……不敬な上に笑えない冗談は止めてくれ。実際に『私も出資ができればいいのに』と最近ことあるごとに口にしている。ヴァルトブルク子爵が出資者に名乗りを挙げてくれたから事なきを得たんだ」

 

「王子様のご厚意はちょっと下級貴族の肩には余るね。遊びに本気を出すのは好きだけど、権力者の寵愛を受けてやっかまれるのも嫌だからな」

 

 そう肩をすくめるエリオットはふざけているように見えるが、瞳の奥は真剣そのものだ。この遊びを誰にも壊されたくないと思っているのだろう。

 

 しかし熱しやすく飽きっぽいエリオットが打ち込むのも分からないではない。ベルタ嬢の持ち込む発想は旧態依然とした風潮に凝り固まった貴族の枠組を、意図も容易く越えてくるからだ。

 

「これは俺の他に誰が参加してるんだ?」

 

「オレとベルタ嬢とアグネス嬢と、試作品を配った貴族だけだ。けど一番最初に声をかけられたのがオレでごめんなー?」

 

「別にそれは構わんが……アグネス嬢に会ったのか」

 

「ああ。何か独特の配色と感性で、ベルタ嬢とは違う方向で面白かったよ彼女。彼女には王子様にあげた遊戯盤の女の子向けを手伝ってもらってる。何せドレスの点数が多いからな。オレとベルタ嬢と教え子ちゃんだけだと手が足りない」

 

 それを聞いてやはりこの男の根は貴族ではなく芸術家なのだと思うと同時に、人を測る評価基準がどちらも“面白い”というぶれない点に苦笑する。

 

「そういえば遊戯盤以外に渡した玩具の手応えはどんな感じ? あんまり反応が良くないようならそっちの初動少なくして、遊戯盤の方に力と資金を注ごうかと思うんだけど」

 

 早くも並々と注いだばかりのワイングラスを空にしたエリオットは、唇を一舐めしてそう言う。しかし一回興じるのに時間を有する遊戯盤と同じくらい、単純でそこまで時間を割かなくてすむ他の玩具も好評だ。

 

「いや、あとの玩具は遊戯盤よりも対象年齢が低くてもできると、一部の子供のいる貴族からは評価が高い。むしろ遊戯盤より製作時間が短くて安価なあちらの初動を増やす方がいいかもしれん」

 

「分かった。ベルタ嬢にもそう伝えとく」

 

「ああ、そうしてくれ。それと……エリオット。気のせいかお前、少し絵のタッチが以前と変わったか?」

 

 学生時代から描いたものを良く見せてもらっていたが、当時と比べても僅かにだが雰囲気が変わったように感じる。昔は描く対象者の表面を美しく模写していたのが、最近は何となく全体的に柔らかい。

 

 特別芸術に造詣が深いわけではないものの、そう思って何気なく発した言葉を聞いたエリオットは一瞬だけ目を眇め、避難させておいたデッサンの方を気にする素振りを見せる。

 

 ――が、直後にまたいつもの飄々とした笑いを浮かべて口を開いた。

 

「オレの絵に偉そうに口を出せるのはヴィーくらいだけど、その生意気さに免じて耳寄りな情報を教えてやるよ」

 

「耳寄り?」

 

「ベルタ嬢さー、一月から社交シーズンの四月直前まで、教え子ちゃんを連れて自領に帰るんだってさ」

 

 驚きで一瞬動きを止めたこちらを満足そうに見つめたエリオットは、ガラスビーズを指先で弄りながら説明の補足をしてくれたのだが……。

 

 その説明内容がまったく理解できずに溜息をついたのは、何も俺の頭が堅いせいばかりだとは思えなかった。




短いのでもう一話投稿します。


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*6* ここで頂き物の出番です。

 

 十二月も終わるというときに、コーゼル侯爵から上の娘が旦那の浮気で家出してくるとかで、教え子が実家にいると羽根を伸ばせないだろうから、向こうと話がつくまで預かってくれと言われたときは、本気で顔面を凹ませようかと思った。

 

 でもまさかそんな悲劇的終幕(バッドエンド)を己の拳で生み出せるわけもなく、私は微笑んでその申し出を受け入れ、教え子を連れての帰郷を決めた。

 

 ――が。それに伴い、皺寄せを受けた人物が一人。

 

 我がエステルハージ領はフェルディナンド領から距離があるので、残念ながら去年のように一月半ばに彼を呼び寄せることができなかったのだ。

 

 しかし彼はそのことを告げると『じゃあ、来年は四月の社交シーズンに王都に行くよー。普段は面倒だから行かないんだけど、授業と遊戯盤の打ち合わせがあるならしょうがないもんな』と二つ返事で快諾してくれた。神である。

 

 実のところ私も少しだけ里帰りができるということの魅力に心が動いたし、領地に帰ったときの妹の喜び方も凄まじくて。華奢なあの腕に背骨をへし折られるかと思うほど熱烈な抱擁を受けた。

 

 初めての顔合わせにしては強烈な出会い方だったにもかかわらず、教え子と妹はあっという間に三人姉妹の次女と末っ子のように打ち解け――……何だかんだ二月もあと少しで終わるという今日に至る。

 

 今朝は一月から降っては止んでを繰り返していた雪が落ち着いたので、妹に留守番を頼んで教え子と外出中だ。

 

 凍てつくような一月の寒さからほんの僅かではあるものの、服で覆えない額や目蓋の上を撫でる風の冷たさが(ぬる)んだ気がしないでもない。とはいえまだまだ寒いものは寒い。

 

「せん、先生、凄いです。馬の上って、こんなに高いんですね。とっても、遠くまで、見通せますわ。それに温かくて、馬車をひいて、くれていたの、が、この子達だなんて、信じられません」 

 

 寒さで歯の根が合わないのか途切れ途切れにそう言って、小さな手で馬の首筋を労るように撫で、気を良くして振り向いた馬の黒々とした瞳を覗き込む。

 

 そんな彼女を見つめ返す歳を経た牝馬の瞳は、まるで孫娘を見つめる優しい祖母のようだ。

 

 薄日に照らされてキラキラと輝く雪原を前に屈託なくはしゃいでいる姿を見ると、ここに来る経緯はどうあれ、この子の情操教育上良かったのかもしれないと思い直している。

 

 こんな光景(スチル)のあるルート分岐は見たことがないけれど、バッドエンドに入っているような嫌な空気は感じない。隠しイベント的なものなのかも?

 

「アウローラ様に喜んで頂けて良かったですわ。それとこの子は重種馬なので、普段アウローラ様が乗っている二頭立ての馬車くらいは軽いものですよ」

 

「力持ち、なんです、ね」

 

「はい。気性も大人しいものが多いので、騎乗には手間取りますが、乗ってしまえば大抵は言うことを聞いてくれますわ。勿論乗せてくれることに感謝して、優しくお願いすることを忘れなければ……ですけれどね」

 

 前に相乗りさせたアウローラの子供体温と、馬の体温のおかげで一人で乗るときよりも断然温かい。幼い頃の妹を乗せていたときも思っていたけれど、何というのか湯たんぽを抱えているみたいな気分である。

 

 それとようやく長らく所有しているだけだった、ホーエンベルク様からの頂き物の乗馬用手袋をはめることができた。馬に乗れないコーゼル領では宝の持ち腐れ感があったけれど、ここでは使える宝物。

 

 飴色の革はしっとりと手指に吸い付くように馴染み体温を逃さない。悔しいけれどやっぱり上質で高価なものは品質に跳ね返るのね……。今度会ったらもう一度しっかりお礼を言おうと思う。

 

「今日のように雪の残る季節は重種馬での移動になりますが、雪が溶けて暖かくなれば、もっとほっそりとした中種馬に乗れますよ。あちらは脚がこの子達より弱いですが、とても早く走れるので風になった気分が味わえますわ」

 

 ただ、この気候と状況になれている私はいいとしても、侯爵家のご令嬢である教え子にはもう限界だろう。馬の耳許に唇を寄せて「そろそろ帰りましょう」と声をかけて手綱を引けば、長年私を乗せてくれている彼女はお安いご用だと言う風に鼻を鳴らし、ゆったりとした動作で方向転換をしてくれる。

 

 しかしちょっぴり予想はしていたものの、案の定前に乗せていた教え子が振り向いて「あの……もう、帰るのですか?」と、歯の根も合っていないくせに屋敷への帰還を渋った。

 

 その姿に現在は後ろに乗せるようになった妹の幼い頃を思い出して、微笑ましい気持ちになる。

 

「乗馬は大好きなのですが、私は寒がりなので。屋敷の暖炉の前で温かい蜂蜜ミルクを飲みながら読書がしたいなぁと。お付き合い願えると嬉しいのですけれど?」

 

 そう昔は妹に使った決まり文句は、教え子の表情の輝き方を見るに、いまでもまだまだ、現役みたいだ。



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♕幕間♕ずっと続けば良いのに。

 

 お姉様が嫁ぎ先のお屋敷から帰っていらっしゃるからと、お父様がわたくしを先生に預けられてから二ヶ月半。初日から一日過ごすごとに暦につけられた丸印は、三月の二週目までを埋めてしまっていた。

 

 丸がつけられる日々を先生は当然のように、アンナお姉様もわたくしを本当の妹のように可愛がって下さる。朝起きてから、夜ベッドに入って、翻訳本の朗読を聞かせてもらいながら眠りにつくまで。

 

 一日中お二人から与えられる幸せをどう表現すればいいのか、わたくしはまだ分からないでいた。

 

 午前中は先生が領地のお仕事をする横で、アンナお姉様が翻訳のお仕事をして、その隣に用意されたテーブルでわたくしも自習をして。休憩時間に答え合わせをして下さったあとは、午後から三人で馬に乗って領内の散歩をする。

 

 初めて馬の背中に同乗させてもらったときに、先生が約束してくれた風になる体験は、雪解けが少し遅れているからまだ実現されていないけど、それ以外の憧れていたことは何でも叶った。

 

 毎日温かいお湯に浸されるみたいにユルユル、好奇心旺盛なコマドリのようにキョロキョロしてすごす時間は、とても楽しい。ずっとずっと本当のお姉様が領地にいて下されば、わたくしもこの先生達の暮らす領地にいられないかしらと。

 

 ずっとそんなことを考えながら暦の数字を丸で囲んだ。バツではなくて丸なのは、先生が『間違えていないことにバツをつける必要はありませんわ』と。そんな風に仰ったから。

 

 だから理由はそれだけでも、減っていくここにいられる時間を見て悲しまないで済む気がした。今日も三人で食事を終えて集まる談話室で、一日の終わりに暦の数字を丸で囲む。

 

 するとこちらを振り向いたアンナお姉様が、薔薇のように華やかな笑顔を浮かべて下さった。

 

「さて……と、キリもいいところまで訳せたし、ちょうどいい時間だわ。お姉さま、今夜のローラの身柄はわたしが預かっても良いかしら?」

 

 そう言うアンナお姉様の腕がわたくしを包むように抱きしめ、頬擦りをされる。柔らかいハーブ石鹸の香りが心地よくて、すでに眠気で重くなり始めた目蓋をさらに重たくさせた。

 

 対してソファーに腰かけて書類を見つめていた先生は顔を上げると、書類を膝の上に置き、アンナお姉様の言葉とわたくしの顔とを見比べて、勿忘草のような控えめな微笑みを浮かべる。

 

「ああ、昨夜は私だったものね。アウローラ様が温かいからといって抱きしめすぎては駄目よ? アウローラ様もアンナの寝相のせいで寝苦しかったら、私はまだしばらく仕事をしておりますので、いつでもこちらの部屋にいらっしゃい」

 

 けれど、先生の穏やかで女性にしてはほんの少し低い声音に、わたくしの眠気がついに限界を迎えて、はしたないくらい大きな欠伸が出てしまった。

 

 コーゼルの屋敷では怒られる行為に慌てて口を両手で隠すと、隣でアンナお姉様が大きな口を開けて欠伸をして、最後に先生が一つ咳払いをしてから恥ずかしそうに欠伸をした。

 

「欠伸って、誰かがするとつられてしまいますわね。ローラの“眠たい”がわたしにも飛んできたわ」

 

「ご、ごめんなさいアンナお姉様」

 

「もう、アンナったら冗談ばっかり。アウローラ様も素直がすぎますわ」

 

「え……冗談、ですか?」

 

「そうよ。冗談に本気で返されると恥ずかしいわ」

 

「ふふ、困った妹でごめんなさいね。でも眠気が飛んでくるのは冗談にしても、二人がここでこれ以上欠伸をしたら私まで本当に眠たくなってしまうから、もう部屋に戻りなさい」

 

 そう言うと先生はソファーから立ち上がり、わたくしとアンナお姉様の額におやすみの口付けを落とす。ここに来るまでなかったこの習慣は、魔法みたいに眠気を強くしてしまう。

 

「おやすみなさい、可愛い妹達。明日の朝こそは起こしに行ったとき、素直に起きて頂戴ね?」

 

 こちらに来てからついた寝坊癖を言われてドキリとしていたら、隣でアンナお姉様が「一応の努力はしてみます」と笑う。だからこれは、先生なりの冗談なのだと思って同じように返事をしようとしたら――。

 

「ここ数日様子を見ていたけれど、明日の朝にはもう地面も乾いているでしょうから、前からの約束通り三人で遠乗りに行きましょう」

 

 その答えを聞いたわたくしとアンナお姉様は手に手を取って、大急ぎでベッドに潜り込むために廊下を駆けた。




短いのでもう一話投稿します。


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*7* こんなところにも落とし穴。

 

 冬の土を覆い隠す雪の香りがすっかり失せ、空は淡い春先の水色。晴天とはいえ陽射しも優しい。なかなかの乗馬日和だ。

 

 以前まで妹と相乗りしていた黒毛の牡馬に教え子を乗せ、一人で馬に乗れるようになった妹は栗毛の牝馬に乗っている。番の二頭は仲睦まじく時々鼻先を寄せ合いながら、長閑に目的地を目指す。

 

「アンナその調子よ。手綱を扱うのが上手になったわね」

 

「うふふふ、こう見えてお姉さまがこちらにいない間に、たくさん練習しましたもの。最初の頃はお尻と太股と脹ら脛が痛くて痛くて。これで褒めて頂けなかったら、拗ねてしまうところだわ」

 

 私が家庭教師として領地を出た直後から乗馬の練習をし始めた妹は、そう言って馬上で胸を張った。まだ私が褒めて喜んでくれるところが実に微笑ましい。

 

 前に座っていたアウローラもしきりに頷いていたかと思うと、意を決した様子でグッと拳を握りしめ、口を開いた。

 

「凄いですわアンナお姉様。まるでお伽噺の姫騎士みたいです」

 

「え……そ、そうかしら?」

 

「はい。まるでアンナお姉様が翻訳していらっしゃる本の中から飛び出したようで、とても素敵ですわ」

 

 どうやらあの謎な頷きと拳は言葉を探している状態だったようだ。アウローラからの素直な称賛に「これくらいで褒めすぎよ」と答えるアンナの表情は、言葉とは裏腹に緩みきっている。

 

 美少女はしまりのない表情まで可愛い。可愛さレベルで表すなら、朝起こしに行ったときのちょっとあれな寝相と寝顔のときと同じくらいだろうか。

 

「それじゃあ、もう私が隣にいなくても丘の上まで一人で来られるわね?」

 

「え? お姉さま?」

 

「アウローラ様との約束があるから、私達は一足先に丘の上まで駆けるけど、アンナはあとからゆっくりいらっしゃい」

 

 自信満々だったその表情が急に不安げに曇ったけれど、妹の乗っている牝馬は気性の大人しい子だから、余程下手なことでもしない限り大丈夫だ。

 

「上からアンナの頑張りを見ているから、しっかりね」

 

 そう言い残して黒馬の脇腹を足で軽く蹴ると、合図を受け取った黒馬はそれまで咥えて遊んでいた馬銜を噛み直し――……前方に見える緩やかな丘の頂上を目指して、風のように駆け出した。

 

 ――、

 ――――、

 ――――――……。

 

 あっという間に丘の上まで駆け上がってしまったものの、アンナの乗った栗毛馬は、まだ結構遠くに見える。到着直後は馬上ではしゃいでいたアウローラの興奮状態も、通常時よりやや高めくらいまで収まってしまった。

 

 人間を二人も乗せて頑張ってくれた黒馬は、お駄賃の角砂糖を与えて近くの木の枝に手綱を結んで休ませてある。頭上を小鳥達が軽やかに飛んでいき、若葉の間から覗く小花には蝶が遊ぶ。

 

 私達もそんな丘の斜面に腰を下ろし、言い残した通りゆっくりとこちらを目指すアンナを見守っていたけれど、そのときふと隣に座る教え子が口を開いた。

 

「先生、もしも……もしものお話ですけれど」

 

「はい、何でしょうか?」

 

「お父様もお母様も、お姉様達もいなくなることがあれば……ずっとここにいてもいいですか?」

 

 瞬間、心拍数が跳ね上がった。この台詞にとても良く似た、途中までは穏やかなバッドエンドを私は知っている。一定のバッドエンドイベントを回避し、教え子との距離が近付きすぎて好感度が満タンになっているときだ。

 

『“わたくしね、先生がいれば、皆いなくなっても平気なの。だから――”』

 

 能力値は全上限いっぱい。自信をつけて美貌も手に入れた彼女は蕩けるように艶やかに微笑んで、画面越しにこう言うのだ。

 

『“他にはみーんな、いなくなって(・・・・・・)もらったわ”』

 

 あのスチルを思い出してドッと吹き出した冷や汗が背中を濡らす。製作者側の正気を疑い、頭を抱えたヤンデレ百合ルート。

 

 その場合ベルタ()は教え子の雇った裏家業の人間に馬車に詰め込まれ、彼女と一緒に侯爵一家殺害の犯人として逃避行に出なければならない。ふふ、怖。

 

 可愛い教え子の変貌ぶりに心を病みつつ、見捨てることなどできないベルタの最後は、育成ゲームとはいったい何ぞや? という哲学にまで思考が及ぶ見事なバッドエンドだ。

 

 返事をしない私を気にして振り向いた教え子の不安げな表情に、声に動揺が混じらないよう注意しつつ「ええ、勿論ですわ」と答える。すると彼女はみるみるうちに笑顔を取り戻した。

 

 この笑顔を守るためなら、もっと甘やかしてあげたい。外界からの酷い言葉など聞こえてこないように、柔らかな綿花でくるんでやりたい。でも――。

 

「そんな悲しいことを想定しないでも、ここに滞在したいときは仰って下さい。私から侯爵様に話をしてみますので」

 

「本当ですか? 本当の本当に?」

 

「ええ。本当の本当の本当にです。きっとアンナも喜びますから」

 

 そう言いつつ丘の下から必死で馬を操る妹の方へと視線を向ければ、教え子もつられてそちらを見下ろす。

 

 教育者の端くれとして育った環境が特殊で肩入れしてしまったからといって、甘い言葉と優しさだけを与えてはいけない。だというのに私は、散りばめられた教え子の卑屈な言葉に対して『“貴女のせいではありません”』を連発した。

 

 ――あれが、後々ボディーブローのように効いてくるとも知らずに。

 

 いや、でもあれは十七歳くらいのルート分岐ではなかったのかな? まだ十歳にもなっていないのにその片鱗を見せるとか早くない? これは油断とかじゃなくて流石に予想不可能。

 

 このゲームには隠しパラメーターで【依存度】とかがあるのだろうか……。

 

 何にしてもいまのままだと情操教育に問題があるみたいだ。誰でも良くはないけれど、ここは教え子がヤンデレ百合に目覚めないうちに、歳の近い異性に出会わせた方がいい。

 

 そのとき私の貧相な人脈ネットに引っかかったのは、去年の社交シーズンに出会った一人の少年。ホーエンベルク様の遠縁(仮)で、物腰の穏やかで賢そうな彼ならあるいは……と考えた、が。

 

 いくらなんでも手近すぎな上に私の都合すぎる。自分の教え子が同じ扱われ方をされたら絶対激怒するのに、それをホーエンベルク様にしようとするのも如何なものかと。

 

「……情操教育がいるのは私の方よね……」

 

 こっそりと溜息混じりに呟いた言葉は、半泣きになったアンナの応援をする教え子の声に紛れて消えた。



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*8* お久しぶりからの途中経過発表。

 

 教え子と妹と一緒に王都までの道程を楽しくすごし、王都内に入ってからはお互いの戻るべき場所に収まり、コーゼル侯爵夫妻から教え子へ形ばかりの謝罪と、私への礼の言葉を頂いてから五日後。

 

 そのたった五日で、アウローラがすでにエステルハージ領にいた日々を懐かしみ出した。しかも問題の姉君と夫君の関係は未だに修復できておらず、冷却期間と称してまだコーゼル領の屋敷にいるらしい。

 

 ここまでの出来事で以前までの教え子は闇落ちしているところだが、今回はまったく気にしていなかった。それどころか――、

 

『領地にいるよりも、先生のところの方が楽しかったので大丈夫ですわ』

 

 ――と、言い放ったのだ。三ヶ月離れた間の末娘の変わりように侯爵夫妻は驚いた様子を見せたものの、肝心のアウローラは『先生、お勉強しましょう』と満面の笑みを浮かべ、私の手を取ってさっさとその場を離れてしまった。

 

 自立心の芽生えが嬉しい反面、着々とヤンデレ百合ルートを爆走している感じがして安心できない。ふふふ、怖いわ……。

 

 その後コーゼル夫人は傷心中の娘を慰め……もとい、実家に籠城中の娘を宥め透かすために領地に戻って行った。侯爵も連日朝から社交場へと入り浸っている。

 

 七日目、久々に再会したフェルディナンド様にそのことを教えたら、彼は爆笑しながらアウローラを良い笑顔で褒め讃えていた。本人はキョトンとしていたので、あの発言に他意はなかったのだろう。

 

 それから『これ、約束してたやつね』と、彼が何気なく差し出した握り拳の下に掌を広げれば、若草色に金と銀の掠れが入った楕円形のガラスビーズでできた葉っぱのイヤリングだった。

 

 お代を渡そうとしたら固辞されてしまったので、二月に二十四歳の誕生日を迎えていたから、そのプレゼントだと思って頂戴すると言えば『もっと早く教えてよ』と笑われた。

 

 ――王都に到着してから十日目。

 

 今日は教え子はマリアンナ様と昼からお茶会に出かけて、アンナは夕方からヴァルトブルク様も出席している社交場へ。残された私はと言えば――……。

 

 二時から教え子の逃走資金を集めるために展開した、知育玩具事業の第一回報告会議に顔を出していた。ちなみにすでにフェルディナンド様の采配により、一部の界隈で完全受注生産として商品化している。

 

 報告会の出席者は四人。フェルディナンド様、アグネス様、ホーエンベルグ様、そして私である。要するにいつもの面々だ。久しぶりの再会に使ったのはあのカフェではなく、フェルディナンド様が王都滞在に使用するお屋敷の一室だ。

 

 最初は和やかな近況報告で幕を開けたので、何故いつものカフェで集まるのではいけないのかと首を捻ったけれど……たったいま、その理由が知れた。

 

「あのですね、フェルディナンド様。これはどうなっているのでしょう」

 

「んー? 何か取り分の計算で分からないとこでもあった?」

 

「その、頂いた取り分の明細の桁が思っていたよりも一つ多いのですが……これで計算合ってますか?」

 

 興奮から声と指先が震える。同じ書類を持っている三人は自身の手許の資料に視線を落とし、私が示した箇所を確認してくれた。

 

「いや……特段エリオットが用意した書類に不備はないが。スペンサー嬢は何か気付いただろうか?」

 

「いいえ~? 分配金額はきちんとベルタ様が六でフェルディナンド様が四です。全売り上げの金額から集計したら一人頭この数字で間違いありませんわ~」

 

 出資してくれた人達にはクラウドファンディングと同じで、新商品の予約待ちの順番が優先的に早くなることと、割引がある。現在は一旦締め切っているものの、商品の質を上げる際には再び受け付けるつもりだった。

 

 けれど現在見ている額面からすれば、しばらくはその必要もないかもしれない。お金持ちはもう何にお金を使えばいいのか分からないのだ、たぶん。

 

「最初に上級貴族向けの商品にするって言ったでしょー? そうしたら完全受注生産でもこれくらいにはなるってば。中にはうちの家名で売り出したから、美術品として手許に置きたいって人もいるけど。大抵は本来の目的通りの購入層だよ」

 

 お金持ち相手の商売でこの程度の金額は慣れっこなフェルディナンド様と、城勤めで金銭感覚の緩いホーエンベルグ様、そう言った事柄を言葉にはしなさそうなアグネス様。ものの見事に金銭感覚を共有できる味方がいない。

 

「そういえばそれについて要望というか……一部からロイヤル版の製作予定はないのかという声が上がっていたな」

 

「ロイヤル版?」

 

「簡単に言えば親世代が遊べるようなものだな。もっと遊戯盤の装飾を凝らして地形も増やして欲しいだとか、子供用は一国ごとの宰相が主人公だが、ロイヤル版は一国の王を主人公にして作れないかという内容だった」

 

 ホーエンベルグ様の口からまさかの案が飛び出した。言うは易しという言葉がこれほど相応しい場面もないだろう。でも明らかにお金になりそうな魅力的な申し出ではある。

 

「要するに英傑の出揃う国盗りものですか。確かにできなくはありませんが……」

 

 完全に三國志か戦国時代か百年戦争が下敷きになることを考えると、錆び付いた記憶のひきだしを開ける手間を考えるだけでゾッとする。人気のローマ史は残念ながらあんまり憶えていないんだよな……。

 

 ――が、やっぱりやってみたい。

 

 相棒であるフェルディナンド様の方を見れば、彼も「もっと面白くなりそうだよねー?」とニヤリ。これで方針はほぼ決まった。

 

「あら素敵、それなら世界観に合わせたドレスや装飾品も増えますわね~」

 

 ただアグネス様のその無邪気な一撃に、ドレスのデザイン選択もあることを思い出して、遣り甲斐にちょっぴり影がさしたわ。

 

***

 

 

 収益の計算と、今後新しく製作する遊戯盤の方向性に関する打ち合わせが終わる頃には、外は暗くなり始めていた。

 

「あれ、意外と時間経ってたみたいだなー。あの部屋は普段創作に使うから耳障りな音がする時計は置いてないんだ。ご婦人方に悪いことしちゃったね。お家の方は大丈夫?」

 

「うちは結構緩いので平気ですわ~。それに両親には出かけしなに友人達と遊ん……芸術について熱く語ってくると言っておいたので」

 

 成程、会議をしていた部屋に時計がなかった理由は分かった。実に芸術家らしくて格好いい。

 

 ただ確実に門限は越している。屋敷に父が帰宅していないことを祈るしかないものの、たぶん無理だろう。でもそれを悔やむ気持ちが不思議なほどないのは、今日のこの集まりが純粋に楽しかったからだ。

 

「アグネス様、そこはもう正直に“遊んでくると言ってきた”で構いませんわ。実際に論を交わすのが楽しくて、ここにいる全員が時間を忘れていましたし」

 

「確かにそうだが……ここまで遅くなる原因を投下した身からすると、女性二人には申し訳ないことをした」

 

 根が真面目なホーエンベルグ様がそう言うと、フェルディナンド様が閃いたとばかりに指を鳴らした。

 

「ならうちの馬車を貸すからお前がベルタ嬢を送っていって、遅くなった理由を話して謝ればいいだろ。で、オレがアグネス嬢を送っていく」

 

「あら。フェルディナンド様ったら、さりげなく怒られない方を選ぶだなんてやりますわね~。でもお顔のよろしい殿方と二人きりで馬車に乗る機会なんて滅多にないから役得ですわ~」

 

 うふふ、あはは、と笑い会うフェルディナンド様とアグネス様は、実は意外と馬が合う。

 

 そんな感じであとはトントンと馬車の準備が整えられ、フェルディナンド様はアグネス様と同乗してスペンサー家へ。ホーエンベルグ様は私と同乗してエステルハージ家へと馬車を出した。

 

 ――が。

 

 今世では父以外の二人きりで馬車に乗るという経験はなかったので、馬車が動き出してしばらくすると、向い合わせで座っているのに、窓の外を見ているホーエンベルグ様との間に横たわる沈黙に耐えられなくなった。

 

「あの、ルドは元気にしていますか?」

 

 努めて明るい声音でそう訊ねると、彼は窓の外に向けていた顔をこちらに向け、少しだけ驚いた様子で口を開いた。

 

「ああ……今回もこちらに遊びに来ている。相変わらず口が達者だが、書店に行く際は、常に貴方の妹の新刊が並んでいないか気にしていた」

 

「この間のドラゴンが出てくるお話でしたらまだ翻訳中ですので、もう少しかかるかと思います」

 

 前回あの少年が選んだ本を思い出してやや申し訳ない気持ちでそう答えると、彼はフッと目許を和らげ、ゆるゆると首を振って笑った。

 

「いや、いま読んでいるのは国を失った骸骨騎士と魔女の話だった気がする。少し読ませてもらったが、あれの原作は大人でも読んでいて悩む言い回しが多かったのに、上手く噛み砕いた翻訳になっていて面白かった。ルドが読み終えたら俺も借りて読むつもりだ」

 

 彼の口から出てきた本の内容に思わず苦笑が漏れる。あれは一応恋愛物のカテゴリーではあるけれど、物悲しく仄暗い作風で読む人を選ぶ。ルド少年の年頃であの作品を選ぶとはなかなかだと思う。

 

 でも、だからこそお世辞の混じっていないであろうその評価に、胸の内側が暖かくなった。アンナの努力を褒められるとついつい嬉しくて、締まりのない笑みを浮かべそうになる。姉馬鹿というやつだろうか。

 

「ありがとうございます。妹にも伝えておきますわ」

 

「是非頼む。それから貴方に少し頼みたいことがあるのだが――、」

 

 和らいだ表情から一転、かつて戦場に出て武功を上げた大きな身体を縮こませ、遠慮がちにこちらを窺う姿が何だかおかしくて。

 

「何でしょう? ホーエンベルグ様にはお世話になっているのですもの。私にできることでしたら協力しますわ」

 

 ――気付けばついそんな言葉が零れてしまっていた。すると本当に困っていたのか、ホーエンベルグ様があからさまにホッとした表情を浮かべる。

 

「今度また時間の空いている日に、ルドに会ってやってくれないだろうか。前回貴方に遊んでもらったことが余程楽しかったらしくて、あれから貴方のことばかり話題にする」

 

 そんな彼の申し出に「構いませんわ」と答えたけれど、一瞬“教え子と会わせる好機なのでは?”と思ってしまったことに罪悪感を感じつつ、この期を逃した場合ヤンデレ百合ルートをどう回避するかと悩むのだった。



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♗幕間♗美しいは【愛でる】もの。

アグネスの視点です。


 

 ベルタ様とホーエンベルグ様の乗った馬車と、わたしとフェルディナンド様が乗った馬車が、屋敷門から正反対の方角へと別れていく。

 

 くぐり抜けるときに馬車の窓から見上げたけれど、おそらくあの門すらフェルディナンド家のどなたかの作品なのね。精緻なレリーフが施されたそれは、同じ子爵家のものだと言われても信じられないくらい。

 

 伯爵家か侯爵家だと言われてようやくと言ったところかしら。それにこの馬車にしたってそう。フカフカのベンチシートは無地ではなく、植物と鳥の刺繍が施されていて、お父様の書斎にある椅子よりも高価ねぇ、きっと。

 

 馬車の揺れや地面の凹凸を拾う衝撃も吸収してしまうだなんて凄いわ。確か何代か前の王妃様の王冠を作ったのも彼の一族だったはず。だとしたら不思議はないのかもしれない。

 

 手触りのいいシートを指先で熱心に撫でていたら、不意に正面から視線を感じて顔を上げる。するとそこには先ほどまでの砕けた表情から一変、彫刻のように血の通わない美しさを持つフェルディナンド様のお顔があった。

 

「あらまぁ……そんなに熱心に見つめられると照れてしまいますわ~」

 

「うんうん。やっと顔上げたねー。そんなにこのシート気に入ったの?」

 

「ええ、とっても。先程くぐった屋敷の門も素敵でしたし、大切な友人と美形を交えての楽しい語らいのあとに、こんな美しい馬車で送ってもらえるだなんて。今日は役得な日ですわね~」

 

 のんびりとそう答えながらシートを弄るのを止め、今度は正面の本人が芸術品のようなフェルディナンド様を観察することにした。

 

 オレンジがかった茶色の髪は、残念ながら外光が少なくてあまりはっきりとは見えないけれど、その髪に編み込まれたガラスビーズと翡翠色の瞳は、ただそこにあるだけで目と心を楽しませてくれる。

 

「うふふ、男性にこんなことを言っては失礼かもしれませんけれど、本当にどこもかしこも綺麗な方ですね。羨ましいわ~」

 

 フェルディナンド様はそんな不躾なわたしを見つめ返し、数度瞬きをした。お人形が魂を持ったらこんな風かしらと思っていると、お人形ではない彼は薄くて形のいい唇を開く。

 

「そんなにうちの作品と綺麗なものが好きならさー、せっかく出資したのに何か欲しいもの注文しないの?」

 

「あら? おかしいですわね~。ちゃんとドレスを三点教え子の家名……ハインツ家で注文をしたはずなのですけれど」

 

「ああ、そっちは受け取ってるから安心してよ。いまのだとこっちの聞き方が悪かった。君の注文が入ってないみたいだけどって言いたかったんだよね」

 

 そんな彼のおかしな言葉に今度はわたしの方が瞬きをする番ねぇ。一瞬だけ、目の前のフェルディナンド様を珍獣を見つめる気分で眺めてしまった。

 

 シートを弄っていた指先で視界に溢れる亜麻色の縦ロールを絡めて、みよんみよんと伸ばしたり縮めたりしてみる。これで気付くかしら?

 

「わたしも流石に自分が身につけていいものくらい弁えておりますわ~」

 

「値段のことなら応相談だよ。この件で最初に手を挙げてくれた出資者には、そういう特典つけたはずだけど」

 

 んー……気付かなかったわ。残念。ベルタ様なら一緒になって頷いて下さるのに。この手のことを美しい方に説明するのは面倒だけど、仕方がない。

 

「いえいえ~、そうではなくて。金額面のことは勿論ですけれど、この見目であんなに洗練されたドレスを着ては……ね~?」

 

 確実に浮く。しかもいつものように狙った風ではないから、より一層浮く。わたしにも一応美醜の基準はあるし、むしろ基準だけなら人並みだという自負もある。

 

 美しいものは【愛でる】もの。足しても足しても足りない者は、それを見て満足するのが普通。憧れの作品の美しさを損なわないための礼儀ともいうのかしらね? 教え子に着てもらって眺めるのがわたしの楽しみ方なの。

 

 ――だというのに。

 

「んー……そうは言うけど、君は姿勢や所作はその辺のご令嬢より綺麗だ。この髪も少しだけ傷んでいるだけで、無理に巻いたりしなければもっと艶も出るし長いよね? どれくらいか分かる?」

 

 自身が芸術品のような芸術家様は、そんな風に諦め悪く食い下がってしまうから、こちらもつい「大体の長さでいいのでしたら……腰の辺りまで伸びますわ」と口走ってしまったけれど。

 

 ……困った方ねぇ。子供みたいだわ。

 ……困ったわねぇ。ワクワクしてしまうみたいだわ。




短いのでもう一話投稿します。


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*9* 妹のやる気スイッチ入りました。

 

「こっちとこっちなら、二人はどっちの方が好みー?」

 

「私はこちらですね。新しい遊戯盤の時代設定なら、こちらの少し古めかしいデザインのレースが合います。長い手袋も欲しいですね」

 

「わたくしも先生と同じでこちらの方が好きですわ。膨らんでいないドレスなんて珍しいですもの」

 

 前回の集まりから一週間。ホーエンベルク様とアグネス様とはあの日からまだ会っていないけれど、家庭教師補佐のフェルディナンド様とは普通に毎日会う。

 

 なので休憩時間に彼の持ってくる新しい遊戯盤のドレスのラフや、私の持ってくる王国物語の素案をテーブルに広げ、思い思いに案を出していくのが日課だ。

 

 今回は少し趣向を変えて、ドレスの方もクリノリンを使わないストンとしたものが多い。感じとしては神話の女神が着ているようなドレープを多用した、ふんわりと軽やかなものだ。

 

 アウローラはそれが珍しいのか、興奮気味に手許のラフを眺めては「これはどうしてこんなに後ろを長くするのですか?」といった質問を挟んでくる。それについては私も謎なので答えようがない。

 

 困ったときはフェルディナンド様に微笑みかければ、大抵彼が答えてくれた。美への造形の深さに性別は関係ない。女性物のドレスであっても淀みなく説明する彼を見て心底そう思った。

 

「そうそう、これベルタ先生に渡しとくね。気が向いたら来てよ」

 

 フェルディナンド様はそう言いながら、臙脂色に金の封蝋を捺した封筒を差し出してきた。香が焚かれているのか、ふわりと甘くバニラが香る。

 

 興味津々な表情で覗き込んでくるアウローラに向かい、ニヤリとしながら「お姫様が来るにはあと七年ほど早いよ」と言った。

 

 その答えに「そんなにですか?」と唇を尖らせる教え子は可愛いけれど、できれば七年後でも仮面舞踏会への参加は止めてもらいたい。何と言うのか……家庭教師的に不安な場所だ。

 

 けれどそんな私の複雑な表情で内心を察したのか、フェルディナンド様はさっきまでの少し悪い笑みから、いつものカラリとした笑みへと表情を変える。

 

「ベルタ先生の思ってるようなのじゃなくて、うちの親戚が今度小規模な仮面舞踏会をやりたいって言い出してさー。でもうちの家系ってあんまり他の貴族と付き合いがないから、身内の人間に声をかけて友人を連れて来いって。何でそれでやりたがるかねー?」

 

 呆れたように肩を竦めて見せる彼につられて苦笑すると、アウローラが「先生の思うようなのは、どんなものなのですか?」と訊ねてきたので、私も彼に倣ってその無邪気な問いに答えた。

 

「そうですね……七年後、アウローラ様が立派な淑女になっていればお教えして差し上げますわ」

 

 当然のように直後教え子から不満の声が上がったのは言うまでもない。

 

***

 

 教え子からの『先生もフェルディナンド様も、七年後には絶対教えて下さいませね!』という圧に二人して誓約書を作らされ、微笑ましさと強かな成長を感じつつ帰宅したその夜。

 

「んん……ベルタ。新しい仕事で生き生きしているお前を見るのも、お前が作った作品で頭を抱える若造共を見るのも、凹ませるのもとても好きだがな、最近その……どうなんだ?」

 

 夕食を終えて食後の紅茶を談話室で楽しんでいる最中、向かいに座った父が苦い表情でそう言った。まともな父親発言の中にさらりと黒い発言が覗くのは如何かと思うのですよ。

 

 しかし娘を心配する親の言葉というものを前世であまり聞かなかったので、斜め上な発想や発言であっても嬉しいものだ。

 

「最近仕事に関してはお父様にもアンナにも自由にさせて頂いておりますので、とても充実していますわ。けれどその後の“どう”に関しては、一体何を指しているのでしょう?」

 

 カップをソーサーに戻して小首を傾げると、父は一層渋面になる。いや、聞いてきたから答えたのに何故そんな表情を……? 

 

 そう思って口を開きかけたそのとき、ソファーの隣に腰かけていた妹が「そんなことよりもお姉さま。ちょっとお話したいことがあるの」と無情な割り込みをかけてきた。

 

「まぁ、アンナ。会話の最中に割り込むのはマナー違反よ? 話ならお父様のあとで聞くから少しだけ待っていて?」

 

「どうせお父さまは最後まで気になっている質問をする勇気はないから、まったく気にしないでいいわ。そうでしょうお父さま?」

 

「そ、そう言われると……確かにこの質問はまだ早いかもしれないな。うん。そういうことだからベルタ、アンナの話を聞いてやりなさい」

 

 おーい……娘が可愛いとはいえ、流石に引き下がるのが早すぎるぞ父よ。とはいえ本人はもうそれでいいことになったのか、こちらを気にする素振りを見せつつも、手許の新聞に視線を落としている。

 

「もう……困った子ねアンナ。それでどうしたの?」

 

「あのね、この間ヴァルトブルク様と社交場でご一緒したときに、二人でお姉さまが作っている遊戯盤のことについて話をしたのですけれど」

 

「ああ、彼もあの遊戯盤で良くお父様達と遊んで下さっているものね」

 

「ええ。それでね、あの遊戯盤は貴族の間でだけ浸透しては勿体ないと思うの。お姉さまが目立つことがお嫌いなのは分かっているわ。でも、わたしはもっとお姉さまのことを沢山の人に知ってもらいたいの」

 

「う、うん? ありがとう?」

 

 自らの相反している言葉に気付かないのか、アンナは瞳を輝かせ、ソファーに座り直すとガッと私の手を掴んだ。美人の目力は至近距離だと身内であっても怖いものだと初めて知ったわ。しかも話の方向性がまったく見えない。

 

 ――と、思っていたら。

 

「お姉さまの作ったあの遊戯盤が買えない人にでも楽しんでもらえるように、わたしが創作小説を書いて、それをヴァルトブルク様が劇のシナリオに直して、小さくて借り賃の安い舞台で、王都にいる領地の皆に演じてもらうのはどうかしら!」

 

 ――……斜め上の発想や発言は、存外色濃く遺伝するものみたいだ。



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*10* 強かに、しなやかに。

 

 応接室からアンナの部屋へと場所を移し、明らかに今夜私に了承を取る前から書き溜めしておいたのであろう紙の束を受け取り、熱意に押されるままベッドに腰かけて読み始めたのだけれど――。

 

 物語の主人公はまだ宰相である父親の背中を追いかける、若く野心家で人を見下す悪癖のある次期宰相候補。

 

 そんな彼は父親の補佐をする日々に辟易し、自分の力を試したいがために戦が起こればいいと思う危険な思想の持ち主だ。

 

 しかしそんな彼の望みを天は叶えてしまった。ひねくれた主人公が成人した数日後、これまで不戦の同盟を結んでいた五国の間で、百年ぶりの戦が始まってしまうのである。

 

 そこで父親が友好国であった隣国で開かれる会議へと向かうのだが、何と隣国はすでに主人公達の国を裏切っており、宰相である主人公の父親を殺害。

 

 首だけとなって戻った父親の無念を晴らし、愚かな望みを抱いた自身の手で大戦を止めようと主人公が乱世に身を投じる――……といった、いかにも大衆受けをしそうな感じの内容が、サクサク読める台詞回しと地の文で綴られている。

 

 勿論物語には麗しいヒロインも出てくるし、熱い友情や涙の裏切りまである欲張りセットだ。こちらの長編小説は神話を下敷きにしたものが多く、重厚すぎて読み手を選ぶものが主流なので、これなら充分通用するだろう。

 

 ――というか。

 

「……やだ、うちの子ってば天才すぎ?」

 

「んもう、お姉さまったら褒めすぎですわ!」

 

 思わず思ったことが口から飛び出すくらいには、アンナの書いた遊戯盤の二次創作小説は面白かった。いままで多くの翻訳を手がけてきたのだから、文章力が上がっているだろうとは思っていたけれど、まさかこれほどとは。

 

 何よりあの遊戯盤のマスに書かれた情報を膨らませる妄想……もとい、想像力。書いた本人は完全にお世辞か身内の欲目だと思っている様子で、クネクネと身を捩らせながらニコニコしている。

 

 前世なら即日ネット小説サイトにアップすることを勧めるレベル。この出来映えなら一週間で書籍化も夢じゃないぜ? と思うのは、何も姉の欲目だけではないはずだ。けれどだからというべきか、妹の初舞台に使う作品をこれにすべきではないと思う。

 

「アンナ、私は本当に本気よ。いつの間にこんなに文章を書けるようになったの? あの遊戯盤だけでこれだけ凄いものを書けるなら、最初に舞台にするのは貴女の思うままの世界を書いた方がいいわ」

 

 姉としては妹の用意してくれた舞台を借りるのは忍びない。そう思っての発言だったのだが、妹はクネクネするのを止めて「絶対嫌よ」と唇を尖らせた。

 

「わたしはお姉さまの作品に“世界”を見たの。この世界で自分ならどう振る舞ってどう生きるか、ずっと考えて、寝る間も惜しんで書いたわ。それとも……お姉さまにとって、わたしの“世界”は退屈だった……?」

 

 さっきまでの満面の笑みが消え失せて、くしゃりと顔を歪めた妹を見た瞬間、私の中で姉としての矜持が砕け散る。

 

「そんなわけないでしょう! こんなに面白い“世界”を退屈だなんて一欠片も思わないわ! むしろこの作品をもっと先まで読みたい。貴女が生み出した主人公がどう成長していくのか見てみたい。これが貴女の見た世界なら、このまま最後まで旅をして書ききって頂戴」

 

「ああ……お姉さま! お姉さまならきっとそう言ってくれると思っていたわ!」

 

 感極まった様子でそう口にしたアンナを固く抱きしめようとした……次の瞬間、妹はスルリと私の腕から逃げ出して、ニンマリと口角を上げた。

 

「実はね、もうすでにここに最後まで書き上げた原稿があるの。明日からは本格的にヴァルトブルク様のシナリオの清書を急かしてくるわ。舞台の練習も前半のところは始まっているのよ。七月の終わり頃には公演できると思うわ!」

 

 絶対に昨日今日の企てではない根回しの良さに、これが最初から事後承諾を引き出すための茶番だったことを知った。

 

 ――その翌日。

 ――の、昼下がり。

 

 身内に悶々とした気分にさせられた次の日が休日というのは、本当にありがたいものだ。それすらもアンナの策なのだろうとは思うものの、別段腹が立つところまでのことでもない。

 

 妹は昨夜の今日で、ヴァルトブルク様の出席するガーデンパーティーに『話を詰めてくるわ!』と言い、意気揚々と出かけて行った。父は当然仕事だ。

 

 次の授業で使う教材の整理が終われば、屋敷の中での仕事はなくなる。そうなると自然、私の足はいつものごとく本屋へと向かったのだけれど――。

 

「ははは、成程、それは実に行動的なアンナ嬢らしいな。貴方を唸らせるほどの作品ならいまから楽しみだが、舞台公演の前売り券などはあるのだろうか。小劇場だとそんなに発券数はないだろう?」

 

「さぁ、まだそこまでは。ですがホーエンベルク様の分くらいであれば、私からアンナに話せば取っておいてくれると思いますわ。むしろ遊戯盤の出資者として無料でもらえるかと」

 

 流石にそこで偶然こうして顔見知りに会うとは思ってもみなかったが、彼と本棚の間で言葉を交わすのは嫌いではない。むしろ暇があれば本屋に来るような人種には強い仲間意識を持ってしまう質である。

 

「それは駄目だ。作品の対価に料金を払わせてくれ。あと……できれば券は二枚欲しい。出資者特権はそこにも適用できるだろうか」

 

「ああ、ルドの分ですね? 分かりました。適用できるように頼んでおきます」

 

「お見通しなようで助かる。今日は俺だけで出かけることにゴネていたから、ちょうどいい土産話ができた」

 

「ふふ、それは良かったわ」

 

 小声で談笑しながら店内を巡り、時折こちらを見下ろすホーエンベルク様が「この本か?」と、私の視線が長く留まっていた本の背表紙に触れ、抜き取って差し出してくれる。

 

「貴方のことを見ていると、教育方針は勿論だが、相手の観察が一番大切なのだと思わされるな。俺はあまり得意でないから学ぶことが多い」

 

 穏やかに微笑む彼に“いまそれができていますよ”とこの場で言うのは、何だか勿体無くて。細かな埃と紙とインクの香る本の森で、そんなことをふと思った。



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*11* 人生初・仮面舞踏会

 

 右を向いても仮面。

 左を向いても仮面。

 

 一口に仮面と言ってもサングラス型のものから、顔面をほぼ覆ってしまうもの、鼻まで隠すものなど、形状だけでも種類がある。どれも目を惹く装飾を施されているだけあって圧が凄い。

 

 そこにイヌ、ネコ、シカ、トリ、ウサギ、などなど、まるで鳥獣戯画の中に入り込んでしまったのかと錯覚するデザインに、これが現実のできごとなのか夢なのかすらあやふやになる。

 

 三週間前にフェルディナンド様に誘われた仮面舞踏会の会場なのだから、ある程度は覚悟していた。しかし小規模な身内だけのものという言葉には偽りありと言わざるを得ない。

 

 かなり賑わっているうえに煌びやかだ。しかも決して悪趣味にゴテゴテとした装飾がしてあるわけではなく、フェルディナンド家に縁があるのだなという品のある会場内。これは結構な倍率で皆さんお呼ばれしたのではないだろうか。

 

『当日はあっちで偶然会った方が楽しいからさー、どんなのが送ってこられたかは教えないでね?』 

 

 招待状を手渡した友人や知人には、後日招待したお屋敷の方からランダムに当日着用する仮面を送られる。手続き的には前世のマラソン大会のランナー達に送られるゼッケンと同じだが、かかっている金額が明らかに違うだろう。

 

 どれも個性的で美しい仮面は、当日会場で主催者側に返還するか、気に入れば購入ができるとは聞いている。けれど、ほとんどの人が購入するから毎回新しいものになるというのも頷けてしまう出来映えだ。

 

 ちなみに私がいま着用しているのは、翡翠色のベルベッド地に黒色の刺繍糸で細かく目許に幾何学模様が描かれているもの。鼻の先まである仮面はメグロかウグイスを思わせる。髪色とちょうどいい感じに釣り合いがとれているので、パッと見そこまでおかしくはないはずだ。

 

 ドレスは主張の少ない地味なものを……と、思ったのに、父と妹と、何故か教え子までもが張り切って素敵なものを選んでくれた。

 

 上半身から下半身へと徐々に色の濃さを増す黄色のドレスは、袖が着物のように広がるタイプで、髪型はいくつか作った三つ編みを水引の梅の花っぽく纏めた。ドレスや仮面と相まって、そこはかとなく東洋風(オリエンタル)

 

 本当はフェルディナンド様お手製のガラスビーズのイヤリングをしたかったけれど、正体のばれるものをつけてきては彼の言っていた楽しみが半減するだろうと思い、今回は置いてきた。代わりに形が不揃いで、色の差が楽しい淡水真珠の房形イヤリングをつけている。

 

 誰か一人くらいと言わず、二人くらいはいそうな知り合いを探して周囲を見回していたら、ふとある女性の姿に視線が吸い寄せられる。淡い紫色のドレスは首の後ろで結ぶホルターネック。大胆に開いた背中はヒラヒラと羽衣のように流れる首のリボンに隠れて、そこまで露出が目立たない。

 

 仮面は黒と紫のグラデーション。鼻の部分まで覆う形は鳥の嘴を思わせた。細い三つ編みを緩く両側で纏めている髪飾りが孔雀の羽根でできているせいもあって、何と言うか、かなり神秘的な装いである。

 

 ――けれど、入場して一時間でようやく出会えた知り合いだ。

 

 見失う前にさっさと距離を詰めて捕獲してしまおうと、招待客達の間をすり抜けて紫色のドレスの女性を追いかける。そして肩を叩ける距離まで近付いた私は、その背中に声をかけた。

 

「こんばんは、アグネス様」

 

 すると驚かせてしまったのか、思っていたよりも勢い良く振り返った女性は、こちらの頭の天辺から爪先までをザッと眺めてから、ゆっくりと息を吐き――。

 

「まぁまぁ、ベルタ様。この大人数の中で良くお気付きになられましたわね~」

 

 そう言って、唯一覗いた口許で親しみのある微笑みを浮かべてくれた。のんびりしたいつもの話し方も、仮面をしているとやけにミステリアスでよろしい。成程、これが仮面舞踏会の楽しみ方なのかもね。

 

「ふふ、所作で何となく。今夜は髪を巻いていないのですね。新鮮だわ。それにそのドレスも……とても良く似合っています。シンプルなものの方が、アグネス様の姿勢の良さが際立つのね」

 

「そういうものかしら~? 自分ではこの仮面がないと地味すぎて……せっかく素敵なドレスを着ていても、煌びやかな空間ではかえって浮いている気がしますわ~」

 

「大丈夫です。とても良い意味で目立っていましたわ。同性なのに思わず見惚れていたらアグネス様だと気付いたくらいですもの」

 

「あら、お上手なんだから。そう言うベルタ様も、いつものカッチリとした装いとは違って新鮮でお綺麗ですわ~」

 

 お互い一人で不安のピークだったせいもありその場で褒め合っていると、背後から「あれー? もうお互い見つけたの?」と声をかけられる。二人揃って振り返れば、そこにはフクロウを模した仮面の男性が一人。

 

 楽しそうに唇を笑みの形に持ち上げたその相手を「「フェルディナンド様」」と呼んだのは、私も彼女もほぼ同時だったと思う。

 

 ガラスビーズこそつけていないものの、飄々とした声と特徴的な髪色ですぐに正体が知れるのも考えものだ。今夜の趣旨に一番そぐわないのは、言い出した側の彼だったらしい。

 

「今夜はお招き頂いてありがとうございます」

 

「最初に伺っていたよりもだいぶ人が多いですわね~?」

 

 アグネス様と揃ってカーテシーをとれば、フェルディナンド様も胸に手を当てて応じてくれた。こういうところはちゃんと紳士らしくてギャップがある。

 

 ――が。

 

「それね。オレももっと少ないかと思ったんだけど。やっぱり話題の遊戯盤の発案者が紛れてるって噂が流れてたからかなー。出不精で普段は絶対にこういうところに出てこない一族の奴もいたよ」

 

 見直した直後にこうやってわざわざやらかしてくれる。しかしゲームのときのように、ひどく気分屋で協調性がなかったりはしない。芸術家仲間ではない私達とも砕けた様子で話してくれるけど……それはそれだ。

 

「あら、何か聞き捨てならない発言が混じっていた気がしますわ」

 

「いやいや、誤解だ。噂を流したのはオレじゃない。でもま、製作するときのやる気とか、これから協力を仰いだり、出資したがる人間を増やすのにはちょうど良かったかもよ。七月の終わり頃には妹さんのお芝居もあるんでしょ?」

 

 お小言モードに入ろうとした私の言葉をそんな風に軽くいなし、口許だけでヘラリと笑いながら、逆に「それよりさー、二人とも今夜何人くらいに声かけられた?」と話題を振ってきた。

 

 いきなりの謎な問いかけに「はい?」と声を上げた私とは違い、隣にいたアグネス様が「それなんですの!」と、突然興奮気味な声を上げたので吃驚する。

 

「何故だか今夜はやたらとダンスに誘われるんです。いつもはほぼ壁の花でしたのに。きっとフェルディナンド様の助言に従って縦ロールを封印したのと、注文したこのドレスのおかげですわ~。仮面を脱げばすぐにいつも通りでしょうけれど、生まれて初めて舞踏会を満喫しておりますの~」

 

 嬉しそうに両手を胸の前で組んだアグネス様は仮面をしているけれど、まるでデビュタントを終えたばかりの少女のように可愛らしい。ゲームの種類が違えばヒロインになれる素質がある逸材だ。

 

 この世界の男はいったいどこに目をつけているのだろうか。妹の想像力を分けてやりたい。するとそんなアグネス様の言葉を聞いたフェルディナンド様は、一瞬考える素振りを見せた後、再び口を開いた。

 

「うちの一族は才能とか振る舞いに惚れる奴が多いから、仮面を脱いでも平気だと思うよー。異性の小指の爪の形を熱く語られたことがあったくらい好みの幅が広い。ただ相手がうちの一族で、本気で相手をするのが嫌なら“美しくない”の一言で離れていくから。声が好みとかの場合は何度か言わされるけど」

 

 人間に対する対処法というより、物語の中に出てくる妖精とかの扱いに近いけど……一族相手にいいのだろうかそれで、とは思わなくもない。あと地味にフェチな人が多いのは分かった。

 

 ここまでくると芸術家とフェルディナンド家への認識が、私の中で段々と残念な方向へ傾いていっているのは仕方がないことだろう。

 

「それはまた何と言うか変……こだわりが強いのにガラスの心臓ですね」

 

「変態っぽくて傷付きやすいって素直に言ってもいいよ。たぶん皆自覚はあるから。それに芸術家なんて大抵そんなもんだって」

 

 ヒラヒラと手を振りながら適当なことを言うフェルディナンド様を、仮面の下からチベスナ顔で見つめていると、アグネス様が「んふふふふ」と肩を震わせて笑っていた。

 

「まぁ、素敵。わたしのような地味顔にとっては持ってこいな夜ですわね。むしろ望むところです。燃えますわ~」

 

「うん。自信を持ってくれたようで何よりだ。それじゃあ一旦解散しない? オレも合流し損ねてる迷子のヴィーを探してくるからさ」

 

 先に身を翻したフェルディナンド様の背中を見送れば、隣のアグネス様もグッと拳を握りしめて戦闘体勢に入る。

 

「ではベルタ様、今晩中にお互いに戦果を上げられるよう頑張りましょうね~」

 

 彼女はそう言うと、さっきまでの心細そうな雰囲気とはうって変わり、機敏な足取りでダンスホールの方へと去っていった。

 

 アグネス様とは違い、未だ妹と父に甘えて明確に結婚する未来が全然見えない私は、せめて真面目に取り組む人達の邪魔にならないようにと、壁の花になることを選んで会場の端へと移動する。

 

 ありがたいことにそんな僅かな時間でも、幾人かが呼び止めてダンスに誘ってくれたものの、それらを全てお断りして会場内の端まであと少しというところで、グンッと手首を誰かに掴まれる。

 

 急なことに驚いて振り返れば、渡りガラスをモチーフにしたらしい仮面をつけた、全身真っ黒な衣装に身を包んだ男性の姿があった。掴まれた手首は振り払えばすぐに離されるだろうけれど、引き抜けるほど弱くはない絶妙な力加減。

 

 誰かは知らないけれどはっきりと分かるのは、この男性に“美しくない”と言ったところで手を離さないだろうということだ。そういった冗談の通じそうな友好的な気配がない。

 

「あの……どなたかお知り合いとお間違いになっているようですが、離して頂けますか?」

 

 内心困惑しつつ、刺激しないようにそう言ったそのとき。ヌッと横から現れた大きな手が、私の手首を捉えていた男の腕を掴んだ。新たな人物の登場に視線を手の伸びてきた方向へと向ければ、そこには狼をモチーフにした仮面の男性が。

 

 目の部分からは見知った紺色に近い青い瞳が覗いて、こちらの視線に気付くと“もう大丈夫だ”というように頷いてくれる。

 

「彼女は俺の連れだ。悪いがダンスパートナーなら他を当たってくれ」

 

 そんな十代の女の子が好む小説の台詞を耳に拐われるという貴重な体験は、後にも先にも今日だけだろうけれど。握られた掌の温かさが、不安に冷えた心に心地良かった。

 

 人気の少ない壁際付近から、賑わう中心のダンスホールへと招待客達の間を縫って向かう。その間も握られたままの手に少しの気恥ずかしさを感じて、前を歩くホーエンベルク様の広い背中を見つめるけれど、彼の歩みが止まることはない。

 

 けれど彼のお陰でさっきの人物について考える暇が少しできた。ただ現状だと恐らく初対面だと分かるだけだ。あり得る可能性としては、また気付かないうちに知らないルートを踏んでしまったとかだと思う。

 

 現に今夜の仮面舞踏会もいままで見たことがないルートだし、もっと挙げるならここに至るまでのことも色々初めてのことばかりだ。少しずつプレイしたことのあるルートが重ならない、未知のルートに切り替わっている可能性がある。

 

 帰ったらここまでの数年間の情報と、憶えている限りのルートを整理した方がいいだろう。そうすることで何か新たな切り口を見つけられるかもしれない。 

 

 そんなことを考えながら周囲に視線を巡らせれば、そこには仮面の人々が交わす談笑と、音楽を奏でる楽団員達に向けて指揮者が振る指揮棒(タクト)の輝き、グラスの回収に忙しそうな給仕係、楽しげにダンスに興じる男女の姿がある。

 

 進行方向にあるダンスホールの中心近くにはちらりとアグネス様らしき姿も見えた。そうした光景を見ていると、段々と不整脈気味だった心臓も落ち着いてくる。さっき大きな声を出していれば、この空間を台無しにしてしまうところだった。

 

 渡りガラスの男が追いかけてくる気配がないことに安堵しつつ、それでも後ろを気にしていると、いつの間にかダンスホールの端に立っていて。ホーエンベルク様に手を引かれ、演奏が次の曲に移る間を逃さずダンスに加わってしまった。 

 

 しかし身体に染み付いた慣れとは恐いもので、飛び込み参加であろうが勝手にパートナーと向かい合って手を組み、曲に合わせたステップを踏んでしまう。背中ばかり見ていたホーエンベルク様と対面したのは、今夜はこれが初めてだ。

 

 髪型をオールバックに整え、深い紺色の正装に身を包んだ彼は、やや年齢不詳な感じになる。これで仮面が戯曲に使われるものならオペラ座の怪人みたいだ。長身で姿勢の綺麗な彼はさぞや舞台に映えることだろう。

 

「すまない。さっきは知り合いかと思って少し様子見をしたせいで、助けに入るのが遅くなった」

 

「いいえ、そんな。助けて下さってありがとうございました。けれどよく私のことがお分かりになりましたね?」

 

「別に助けたというほどではないだろう。それに貴方の姿なら遠目でも分かる。髪色と……歩いているときに頭があまり上下しないし、姿勢がいい。あとは、あまりこういう場は得意でないだろうから会場の端にいそうだと思った」

 

「ああ、成程そうでしたか。てっきり上手く装えずに、会場内で浮いているのかと思ってしまいましたわ」

 

 確かに妹と一緒に出席したときもやや壁に近い辺りにいることが多かった。そんなことまで考えて周囲を見ていてくれたホーエンベルク様に感謝だ。そうでなければ今頃まだあの見知らぬ渡りガラスに捕まっていたに違いない。

 

「浮いてなど……こちらとしては、貴方が咄嗟に大声を出さないでいてくれたことに礼を言いたいくらいだ。エリオットの一族が催す舞踏会で騒ぎになるのは好ましくなかった」

 

 被り物型ではなく目許を隠すだけとはいえ、リアルな狼の仮面をつけた口からそんな労りの言葉が飛び出したので、思わずあまりのチグハグな絵面に噴き出しそうになってしまった。

 

 見た目的に上背もあって威圧感のある仕様なのに……この狼、紳士である。ただ私達が三人とも鳥なのに対して彼だけ狼とは、主催者側にこれを送るように何者かから指示があったとしか思えない。

 

 というか、絶対フェルディナンド様が面白がって送ったと断言できる。仮面をしていても分かるというよりは、仮面の元になっている狼の顔がどことなく着用者に似ている……とは、本人を前にしては言えまい。

 

「ホーエンベルク様はリードがお上手ですね。とても踊りやすいわ」

 

「お褒めに与り光栄だ……と、素直に言いたいところだが、意外だったか?」

 

「ええ、実はほんの少し」

 

「これでも父が厳しかったので一通り必要なことは憶えている。貴方こそ社交場が苦手だと聞いていたのに、意外と見事なステップだな」

 

「教え子の前でみっともないステップは踏めませんもの。それにいつもあの子の授業ではフェルディナンド様がお相手なので、より一層」

 

「はは、流石に俺もエリオットとは比べるべくもないがな。あいつは芸術にかけては一切妥協をしない。その代わりあれに付き合えば、大抵の場所で気後れせずに踊れるようになるだろう」

 

 そう言いながら軽く促されて一回クルリ。ステップの合間も途切れない会話にようやく楽しもうという気分が追い付いてくる。

 

 腰に添えられるだけの掌も、拳一つ分開いた場所にある身体も、中性的なフェルディナンド様と比べてしっかりと男性らしいのに、不思議と安らぐのはリードの穏やかさだろうか。

 

 初めて会った頃には何を考えているのか分からなかった瞳の奥も、いまではちゃんと笑っている。

 

「そういえば、フェルディナンド様達にはもうお会いになられましたか?」

 

「いや、まだだ。というよりも、仕事を抜ける時間が予定より遅れてしまってな。つい先程到着したところなんだ」

 

「まぁ、それでは私が一番最初の顔見知りだったのにお手間を取らせてしまったのね。申し訳ありません。この曲が終わり次第、フェルディナンド様達を探しに行きましょう」

 

「いや、あー……その、このままもう少し踊らないか。せっかくの舞踏会だ。しかもこんな奇妙な格好でというのも新鮮だろう?」

 

 こちらの提案に彼はそう言うと、ステップに合わせて私の身体をターンさせた。しかし成程、妹の社交界デビューで王都に来るようになってから、舞踏会というのは今回がお初だ。

 

 おまけにここまで凝った鳥獣戯画空間は、他ではまずお目にかかれないと思う。それならば彼の言うように、少しくらいこの雰囲気を楽しんでみるのもいいか。

 

 そう思い直して若干気恥ずかしさを感じつつ「では、もう少しだけ」と答えれば、彼の口許が「喜んで」と動いて綻んだ。

 



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*12* 未知の領域に入ろうか。

 

 小鳥の囀りが響いてきたら、ベッドから身を起こして窓辺に寄って勢い良くカーテンを開く。もうすっかり夏になった朝の日射しを部屋に招き入れつつ身支度を整え、書き物机のひきだしから取り出した分厚い日記帳を前に瞑想する。

 

 心を強く保ってそれを始まりの頁とは逆開き……つまり一番最後の頁から開いた。

 

【ありがとう、先生】         追い詰められて断頭台。

【わたくし、頑張りますわ】      孤独と絶望からの投身自殺。

【貴女さえいなければ……!】      嫉妬からマリアンナ殺害。

【愛していました、さようなら】    第一クズ王子の前で自害。

【母国の終わりを見てみたいわ】    追放されたのち他国で情報漏洩。

【裏切り者の王子に魔女からの罰を】  身重のマリアンナを階段からドン。

【それが先生との最後の授業でした】  途中退場(学園入学)(のち断頭台回想)。

【どうして誰もわたくしを見ないの】  しくじり後獄中死。

【ずぅっと……一緒にいましょうね?】  一族殺害後ヤンデレ逃亡劇。

【貴女もわたくしを見捨てるのですね】 誤解から始まる悪女物語。 

 

 ――ザッと過去に通ったことのある共通ルートを書き出しただけでも、この狂気のラインナップ。これだけでも相当にイカれているけれど、これでもまだほんの一部なのだから恐れ入る。

 

 ゲームジャンルが育成系だとはとても思えないというか、むしろホラーサスペンスの域だ。ここにさらに新情報【謎の男?】が追加され、これで推理も加わりとんだ欲張りセットが完成してしまった。不穏要素しかない。

 

 あの鳥獣戯画舞踏会から一ヶ月後の六月に入った時点で確信した。いま歩んでいるこれは、間違いなくこれまでのシナリオから独立した完全な新ルートだと。まぁ、そもそもの話としてスタートが早すぎたから、元より普通に物語が進むとは思っていなかった。

 

 イベントは出会った時点の年齢から換算して枝分かれするものと、途中までは共通するイベントも多々ある。でも今回は時系列が滅茶苦茶。

 

 ただしライバルのマリアンナ嬢との関係性も良好だし、遊戯盤とその他のアイテムも順調に売れているから、逃走資金も現時点で結構貯まっている。あと四年もあればそこそこ纏まった軍資金になるだろう。

 

 その他にはできる限りバッドエンドルートの可能性を潰していくこと。手始めにヤンデレ百合ルートをへし折る。今日はその切欠としては最良の日に違いない。

 

「……待ちに待ったアンナの晴れの日よ。姉の私が緊張で情けない顔なんてしていられないわ」

 

 日記帳を閉じ、気合いを入れるために両頬を軽く叩いて、椅子から立ち上がる。目指すはこんな日にもぐっすり眠って起きないであろう妹の部屋。我が家の眠れる森の美女を起こすのは、伝説の剣でドラゴンを眠りにつかせるよりも難しいのだ。

 

***

 

 朝の身支度をさせる時点では開演に間に合わないかと肝を冷やしたけれど、現在は無事に小さな劇場前でモギリの真似事の真っ最中である。お客は知り合いだけだと思っていたのに、意外にも知らない人の姿が圧倒的に多いことが嬉しい。

 

 握ってしまったのか、クシャクシャになってインクの滲んだ券を差し出してきた子供や、結構身形の良いおじ様や、若い騎士見習いっぽい人、ごく稀に女の子やご老人もいたりして、客層も様々だ。

 

 興味深く観察しつつモギリを楽しんでいると、背後から急に抱き付かれる。苦笑して振り返ると、唇を尖らせたアンナがぴったりくっついていた。

 

「お姉さま、こんなところにいたのね。雑用なんてわたしがするから、開演まで中で待っていてくれればいいのに」

 

「いいのよ、アンナ。こうして貴女とヴァルトブルク様と、領地の皆が頑張って作り上げた舞台を見に来てくれた人達を迎えるのは楽しいもの。それよりアンナこそ、原作者様がこんなところを彷徨いていては駄目よ。今日は大切な初日よ? 開演まで舞台袖で挨拶の練習をしていなさい」

 

「ええー……それなら、お姉さまが傍で聞いててくれないと嫌だわ」

 

「またそんなことを言って。いつまで経っても可愛い妹ですこと。あと六人分の券をモギれば中に戻るから、先に戻って。ね?」

 

 そう言って頭を撫でれば、ようやく納得したのか「絶対すぐに来てね」と念を押して戻って行った。もしかするとあの子なりに、今更緊張してきていたのかもしれない。

 

 少しだけ後ろ髪を引かれてその後ろ姿を見送っていたら、すぐ近くから「ベルタ嬢」と声が聞こえて振り向けば、ホーエンベルク様とルドの姿があった。

 

「本当にいらして下さったんですね、二人とも」

 

「勿論です。これを……初演のお祝いに。楽屋の皆さんで召し上がって下さい」

 

 相変わらずそつのないルドが大きなお持たせの箱を差し出す後ろでは、ホーエンベルク様が微笑ましそうにその姿を眺めている。私と視線が合うと、彼は懐から券を二枚取り出して、こちらに差し出してきた。

 

「前売り券を買うくらい楽しみにしていたのだから当然だ。余計かとは思ったが、興味を持ちそうな同僚にも声をかけておいた。たぶんエリオットの奴も知り合いの舞台記者辺りを呼んでくるだろうが……こちらは良し悪しだな。本業の目は俺達より厳しい」

 

 人気があれば公演期間が伸びる。それは前世と変わらない。新聞に広告を掲載するような予算はなかったから、フェルディナンド様が連れてくる舞台記者に記事として取り上げられるのはありがたい。

 

 しかしそこで酷評されれば、この公演は失敗に終わるだろう。でも――。

 

「余計だなんてとんでもありません。ありがとうございます。それにこんなに小さな劇場に本業の方がいらっしゃることも、貴重な意見を聞ける機会もそうはありません。どんなことを書かれたとしても糧になりますわ」

 

 うん、まぁ……本音は集客の期待できるようなものを書いて欲しいけど。そんな若干邪なことを考えながら微笑めば、ホーエンベルク様は「成程」と頷き、ルドは「そんな風に考えられるのは素敵ですね」と感心しきっている。

 

 そんな素直な反応をする二人にやや心配を感じつつ、視線を彼等の後ろに向ければ、ぞろぞろとこちらに向かってくる一団が視界に入った。そちらに向かって手を振ると、一団の中から一人、弾かれたように走ってくる姿。

 

「先生!!」

 

 私をそう呼び慕う、可愛い教え子。

 ――さぁ、ほんのちょっぴり強引だけど、君のための物語を動かそうじゃないか。



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♝幕間♝ちょっと苦手な人。

アグネスの教え子、マリアンナ視点です。


 

 わたしの親友は年齢の割に大人びていて、自己評価が低いけど優しくて、引っ込み思案だけど好奇心は人並みにある不思議な子。初めて出会ったのは、先生と出席したどこかの伯爵家のお茶会。

 

 あのときは初めて会った相手だとは思えないくらいに話が弾んで、きっと一生の親友になれる子だって直感で思った。それはわたしだけじゃなくて先生にとってもそうだった。

 

 親友の先生はわたしの先生の憧れの人で、彼女がいたからアグネス先生はわたしの家庭教師になれたのだと言っていたけど……。残念ながらわたしから見たベルタ先生は、そこまで魅力的な人とは言えなかった。

 

 むしろいつもどこか一歩引いたところからこちらを見ているみたいで、少し苦手。単に目付きが悪いからそう見えるだけだろうけど、笑っていても何か企んでるように見えるんだもの。

 

 でもアウローラの口から聞くベルタ先生の話は、毎回どれだけ彼女が完璧な淑女で素晴らしい先生かということばっかり。アグネス先生からも同じような評価。だけど社交界での彼女の噂は二人とはまるきり正反対で、変わり者の令嬢としての方が有名。

 

 親友のご両親を悪く言うのは気が引けるけど、野心家なところを隠さないあの人達は、アウローラと先生が完璧な人だと讃える彼女をどこか軽んじている。 

 

 親友はよく『先生と出逢えたから、貴女とも親友になれたのよ』と言うけど、わたしはコーゼル侯爵が招待客に、見違えたアウローラの現在の家庭教師は誰かと訊ねられたときに『お教えするほどの者では』と笑ったのを見た。

 

 そしておかしなことに、それをベルタ先生もどこかで分かっている風なのよね。だけどそれでもあの人はいつも笑っている。わたしなら絶対にあとで怒られたって悪戯して仕返ししてやるのに。

 

 ――そういうところが、お人形みたいで苦手。

 

 アグネス先生はしたいことをしてみて、失敗したら『失敗したわね~』と見たままのことを笑って言う人だから安心する。ちょっと妙な髪型とお化粧と服装も、見慣れてしまえば可愛いし、個性的で素敵……だったのに。

 

 あの人と一緒に仮面舞踏会に行った翌日から、普通の令嬢みたいな格好をしている。いままでわたしがどんなに髪型を弄らせてと言っても、絶対に縦ロールを止めなかったのに。それが急に薄化粧で真っ直ぐに髪を下ろして、普通のドレスになってしまった。 

 

 ベルタ先生の言葉は人を変えてしまう。操ってしまうと言ってもいいと思う。そういうところも……やっぱり苦手。それなのに今日はよりにもよって、そんな彼女の妹さんが手がけた舞台をお忍びで見に来ていた。

 

 一緒に来たフェルディナンド様と、こちらで合流した他の二名は、男性だけで固まって鑑賞したいからと離れた席に座っている。男の子の方をどこかで見たような気がするけど、誰かまでは思い出せなかった。

 

 いまも客席の人達は真剣に舞台を観ているのに、元があの難しくてさっぱりルールが分からない遊戯盤を下敷きにしたお芝居なんて、わたしにはさっぱり。アウローラと先生に誘われたから来ただけだから、少しも楽しめなくて。

 

 それに、それよりも――……。

 

「ねぇ先生、わたしお手洗いに行きたい」

 

「え、え~……と。もう少しだけ我慢できないかしら~?」

 

 確かにちょうど劇中でも重要なところだけど、さっきから我慢していた生理現象をこれ以上は我慢できそうにないわ。助けを求めてチラリと隣のアウローラを見てみるけれど、彼女も舞台に釘付け。

 

 仕方がないから一人で行こうかと思ったら、先生の隣に座っていたベルタ先生が「私もちょうど行きたいと思っていたところでしたの」と、また笑った。ついてきてくれるのが彼女なのは少し複雑だったけれど、背に腹は替えられず……。

 

 ――、

 ――――、

 ――――――。

 

「マリアンナ様、もう少し外の空気を吸ってから戻りませんか?」

 

「大丈夫ですわ。それに早く戻らないと舞台が分からなくなってしまうもの」

 

「ですが“つまらないに決まってる”と顔に描いてある観客を、妹の初舞台の客席には戻せませんわ。我が領の子達の晴れ舞台でもありますし」

 

 無事に劇場内のお手洗いを借りて、気乗りはしなかったものの戻ろうかと思っていたら、急にベルタ先生がそう言った。心の中を言い当てられた動揺で、思わず「どうして?」と言葉が出てしまう。

 

 でも彼女はそんなわたしを見ておかしそうに小首を傾げ、言葉を続けた。

 

「ずっと舞台を睨んでいらしたでしょう? 原作の下敷きになっている遊戯盤もお好きではないのではありませんか?」

 

「そんなこと……」

 

「今日はアグネス様とアウローラ様に強引に誘われたのでは?」

 

「…………う」

 

「最初から“つまらないに決まってる”と思われて観られるのは、彼等や彼女等のこれまでの努力に見合いません。どうぞ終わるまでここに。マリアンナ様の苦手な私がお相手ではお嫌かもしれませんが、護衛をしないわけにはいきませんから」

 

 何でもないことみたいにそう言った彼女は笑っている。お手本のように完璧な微笑。でもその瞳はいつもアウローラに向けられるものより、どこか冷たく見えた。

 

 ――……まさか怒っているのかしら? お人形みたいなこの人が?

 

 瞬間、背筋に汗が浮き、奇妙な興奮が身体の内側に沸き上がる。お人形みたいなこの人が怒った。やっぱり皆が言うみたいに完璧な人じゃないじゃない。それなのにどこかがフッと軽くなった気がして。

 

「わたしがベルタ先生が苦手だって、いつから気付いていたの」

 

「さぁ、いつでしょうね?」

 

「ベルタ先生のそういうところが苦手なのよ」

 

「そうですか。でも苦手な物や人を無理に好く必要はありません」

 

 はぐらかすのとは違うけれど、そう言って“ニヤリ”といつもの微笑みとは違い、悪い大人の顔でベルタ先生が笑うから。

 

「いま、少しだけ苦手じゃなくなりました」

 

「あら、それは良かったですわ」

 

 やっぱり何だか変な人だけれど、ほんの少しだけアグネス先生とアウローラの好みに触れた気がするわ。



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*13* 上演中はお静かに?

 

 マリアンナ嬢の告白を聞いてから十五分ほど外で時間を潰し、再び上演中の劇場内にそっと戻れば、そこではちょうど主人公の独白シーンの真っ最中だった。あの子は領内で一番最初にスカウトした最古参だ。

 

 こちらに出てきてからは下積みをしていたと聞いているけれど、大半は下積みとは名ばかりの雑用係だったらしく、今回が王都に来てから初めての役者業。

 

 他の子達も似たような扱いだったそうで、貴族の後ろ楯があるとはいえ、田舎の子爵領出身者には狭き門なのだと実感する。それでも腐らず彼等、彼女等は、この話が持ち上がるまで私の元に弱音を吐きに来ることもなく、堪えてくれていた。

 

 だからこそマリアンナ嬢を連れ出したわけだが……今回の舞台が終わったら、私と妹の稼いだお金で小さな劇団として旗揚げさせようと思っている。これを田舎貴族のエゴだと嗤う輩は無視。領民の信頼に応えるのは領主家の義務だ。

 

 席に戻るために暗い劇場内をコソコソとマリアンナ嬢の手を握って移動していたら、舞台上の彼とバッチリ目が合ってしまった。

 

 上演中に席を立っていたことに気付かれたことに気まずい気持ちでいると、彼は心持ちこちらに身体を向け直し、何事もない風に独白シーンを続ける。

 

「“僕は常に自分の実力を認めない父に苛立ち、父の息子であるというだけで彼と比べる周囲に憤っていた。いつかこの国に僕自身を認めさせてやる。父の影など誰も思い出せぬようにと……そう思っていた”」

 

 彼の瞳が私を捉え、私も彼を見上げたまま一つ深く頷いた。領地の皆で作った舞台の上で照れ笑いを浮かべていた彼の成長が喜ばしい。

 

「“けれど戦禍が広がり逃げ惑う民衆や、略奪を働く自国の兵士の話を聞くたび、自分は父に実力を認めて欲しいがために、この地獄のような惨劇を望んでいたのかと気付いて――……その浅ましさに怖気が走る”」

 

 両腕を広げていた彼が頭を抱え、台詞に合わせて肩を抱いて視線を下げると、観客達の視線はかえって舞台上の演者をもっと良く見ようと上向く。そのおかげで、こちらに非難の眼差しを向けていた数名の観客の視線も前に釘付けとなった。

 

「“僕が望まなければならなかったのは、もうここにはない平和を長続きさせることだった。あれほど腰抜けだと内心で詰り、憎んだ……父のように”」

 

 彼の独白に神経を集中させながらも、姿勢を低くして教え子達の待つ席を目指していたのだけれど、ふとすぐ近くから「ベルタ先生、こっちおいでよ」と声をかけられ、動きを止める。

 

 周囲に視線を巡らせると、フェルディナンド様が私達の方に向かって手招いていた。けれど私がそちらに向かおうとすると、マリアンナ嬢は「あの人達のことはあまり知らないから、わたしは先生のところに戻るわ」と言い出し、繋いでいた手を離して元の席へと戻って行く。

 

 内心で自由人だなーと思いつつ、仕方がないので単身でフェルディナンド様達、男性陣のいる席へと向かう。五人がけのベンチシートの端に座っていた彼は、私の座る場所を開けてくれようと身体をずらす。

 

 軽く会釈をしてそこに腰かけると、フェルディナンド様が「隣の二人、見てみなよ」と小声で耳打ちしてきたので、彼の肩越しにそちらを見てみると――。

 

 いつもは大人しく穏やかな表情をしているルドが、眉間に深い皺を刻んで食い入るように舞台上の彼を睨んでいた。より厳密にいうと、彼に引っ張られている(・・・・・・・・)。共感や同調の類にしても、ルドの年代の少年が浮かべる表情としては気にかかった。

 

 そのさらに隣では、同じように深刻な表情をしているホーエンベルク様の姿が。ただどちらにしても、両者共に新たに加わった私の存在に気付いていない。苦笑する私に「熱中してて感想言い合える雰囲気じゃないんだよね」と、フェルディナンド様が笑う。

 

 この感じだと彼は映画館で面白いシーンがあれば、隣の席の友人に話しかけるタイプに違いない。しかし私も彼と同じタイプの人種だ。

 

「フェルディナンド様から見て、今日の舞台はどうですか?」

 

「んー……そうだな、演技はまだまだ粗削りで固いけど、悪くないね。役を“演じる”よりも“憑かせる”感じがいい。狙っての効果じゃなくて、ただの自己投影かもしれないけど。無名ならではの勢いがあるよ」

 

「成程。では芸術方面に明るい貴男から見て、彼等が今後私と妹が出資したとして化ける可能性は?」

 

「え、何それ。今日の演者集めて劇団作るつもりなの?」

 

「はい。元より彼等は全員うちの領民なので。それで可能性はありますか?」

 

 芸術面で信頼の持てる人物にタダで訊ねられる好機を逃すまいと、やや食い気味に訊ねたところ、彼はそれまでダラリとかけていた姿勢を正して、きちんと鑑賞する体勢になった。

 

 一瞬で気のおけない友人から鋭い観察者の横顔になってしまった彼に、それ以上は言葉をかけられず……。

 

 私は幕が降りる最後に彼等や彼女等に降り注ぐのが、拍手と喝采であればいいと祈ることしかできなかった。

 

***

 

 夕方の気配から夜に近付き始めた空色の下、ランプの明かりが照らし出す劇場内で一人、また一人と惜しむように席を立つ。

 

 演者達が礼を述べながら外に案内していく観客達の中には、欠伸をするまいと唇を引き結んでいるマリアンナ嬢と、こちらに手を振るアグネス様の姿もある。二人は今日のところは迎えの馬車でハインツ家の屋敷に戻り、後日また感想文を持ってきてくれるそうだ。

 

 私自身も(・・・・)最後の観客と握手を交わして劇場内から送り出した直後、フェルディナンド様とアンナとヴァルトブルク様の三人をジト目で睨む。

 

「さて……お客様も帰られましたし、お小言をきく準備はできましたか?」

 

 結果から言えば劇は拍手喝采の大成功を納め、幕は無事に降り――なかった。

 

 というよりも一度はちゃんと降りたのだが、再び挨拶のために開いたのだ。しかしカーテンコールはどんな舞台でもあることだから、それ自体は何の問題もない。けれど問題は幕が上がったときに起こった。

 

 私も観客席から他の観客と同じように拍手を送っていたのに、急に隣に座っていたフェルディナンド様が『行くよ』と言い出して、何とそのままズカズカと舞台の上に上がってしまったのだ。

 

 これには、ようやく同じ席に並んでいたことに気付いたホーエンベルク様とルドもびっくり。まぁ……一番びっくりしたのは私だったのだけれど。

 

「えー? でもそう言うベルタ先生だって劇団作るつもりなのをオレに黙ってたんだし、おあいこだって。それに記者の反応も悪くなかった。新しい劇団の話題作りとしては悪くないと思うよー?」

 

「だとしても、できればああいったことは、事前に報せて頂けると嬉しかったのですが。皆の初舞台が台無しですわ」

 

「で、ですが……エステ……いえ、ベルタ様。今回の舞台も、遊戯盤も、全て元を辿れば貴方の功績です。僕達がそこに、便乗しました。真ん中に立つのは、貴方が一番、相応しいと思います」

 

 突然の暴挙に舞台袖から出てきた妹とヴァルトブルク様は、驚くどころか至極当然というように舞台の中心に隙間を空け、私とフェルディナンド様は演者を差し置いてそこに収まり、あろうことか彼等は私を劇の発案者だと公表したのだ。

 

 裏方に徹したい身としてはすぐにも失神したいところだったものの、同じくらい失神したがっている様子のヴァルトブルク様を見て落ち着けたくらいである。

 

「いいえ。その言い分だと脚本を書いたヴァルトブルク様と、原作を書いたアンナ、全面的にお世話になっているフェルディナンド様だけで充分です」

 

 フェルディナンド様を援護しようとする彼の言葉をバッサリと切り捨てると、大きなクマの縫いぐるみめいた巨体を縮め、アンナの方へと助けを求めるように顔を向ける。

 

「フェルディナンド様とヴァルトブルク様の仰る通りよお姉さま。それに皆も事前の打ち合わせで納得してくれていたからああしたの。そもそもお姉さまに事前に教えてしまえば、今日の公演に来てくれなかったでしょう?」

 

 すると彼の救援要請を受け取った妹に図星を刺され、思わず口ごもってしまった。いつの間にか口が達者になってしまったものだ。姉として妹の成長が嬉しいけれど味方をしてくれないことが悲しくもある。

 

「俺もたまには貴方も表立って褒められるべきだと思う。貴方がいくら否定したところで、ここに集まった者達は貴方に見出だされた者ばかりだ」

 

「ホーエンベルク様までそんな……買い被りすぎですわ」

 

 現にマリアンナ嬢のように私の本質を鋭く見抜く子もいた。私は彼等の優しさにつけ込んでいるのに他ならないのだ。流石に自分のエゴを突き付けられた当日に、丸っとその言葉を受け取れるほど図太くないのだけれど――。

 

「先生とアンナお姉様の舞台……本当に、本当に、素晴らしかったですわ! わたくし、次回からは絶対に牡鹿の駒を選びます!」

 

 それまで一言も発言せずにモジモジしていた教え子が、そう力強く言いながら頬を薔薇色に染めて抱きついてきた。あまり大きな声を出すことのない子なので、少し驚きつつその身体を抱き留める。

 

 ――と、その後ろからルドがしがみつくアウローラの背中と、私の顔をじっと見比べたまま何かを思案していた。その様子にこちらがどうしたのか訊ねようかとするより早く、ルドが口を開く。

 

「あの、ベルタさん。今日の舞台は皆さんが仰るように、間違いなく最高のものでした。次回からは券を買うのも難しくなりそうなので、今日ここに来られて良かったです」

 

「ふふ、アンナの本の熱心な読者である貴男にそう言ってもらえると嬉しいわ」

 

 何だか前回よりも大人びたように見えるのは、純粋に身長が伸びただけなのだろうけど、微笑み方だけは以前と変わらず中性的で儚げな印象だ。

 

 こちらの発言にその表情の中に微かに照れが含まれた。子供らしくていい兆候だ。ルドの斜め後ろに立つホーエンベルク様に目配せすれば、彼も静かに微笑む。

 

 あとの三人もこれで褒め言葉を受け取るしかなくなったと踏んだのか、生暖かい笑みを浮かべている。ちっとも懲りてないな……これは。

 

「それといまのお話を聞く限り、そちらの彼女もベルタさんの発明した遊戯盤を嗜んでいるのでしょうか?」

 

「ええ。私とフェルディナンド様と一緒に、この子の授業の休憩時間に対戦しておりますわ。なかなか強いのですよ」

 

「そうか。同年代の女の子で嗜んでいる人を見たのは初めてです。よければ是非一緒にやってみたいのですが……君、どうだろうか?」

 

 突然のご指名に身体を固くさせていたアウローラがこちらを見上げ、不安そうに「先生」とすがるものの、私は視線を合わせてゆっくりと首を横に振る。

 

「アウローラ様がお決めになられて下さい。そのときは私もご一緒いたします」

 

「では、あの……是非」

 

 そう言っておずおずと振り返って頷いた教え子を見て、ルドが嬉しそうに淡く微笑む。多少想定外のできごとはあったけれど、これで当初のヤンデレ百合ルート回避のための布石は打てた。

 

 うーむ……当初の予定とは少し異なる波乱ぶりを見せたけど、まぁ、これはこれでありですかね。



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★14★ ああ、無情だな。

 

 あの裏通りに面した小さな劇場での初公演から二週間。

 

 エリオットが呼んだ記者の書いた小さな記事のおかげで、エステルハージ姉妹(・・)は一躍社交界で注目を集め、舞台は初演の翌日から貴族や平民の垣根を問わず満員御礼。全部で六十席しかない小劇場ではあれど、無名の劇団が王都で初上演したにしては上々の滑り出しだろう。

 

 しかし俺にしてみれば、あの日は出逢ってから初めて彼女の信頼を得られた日だ。彼女が掌中の珠の如く隠し、慈しんできた教え子の姿を明かしてくれた。

 

 蓋を開けてみればその正体は以前から知っていた侯爵家の娘だったが、以前は人見知りだった彼女が、最近急に人が変わったように社交的になったと評判になり始めていたのも合点がいった。

 

 アンナ嬢はあの日から劇団の営業のために茶会や社交場を飛び回り、ヴァルトブルク殿は文官業務の傍ら、新しいシナリオの執筆に精を出している。

 

 アグネス嬢とマリアンナ嬢は茶会でエリオットの一族が手がけるドレスの広告塔を。俺達はといえば僅かな時間を見つけては、お忍びでフランツ様とアウローラ嬢を交えて遊戯盤で交流していた。

 

 アウローラ嬢は引っ込み思案だという印象が強かったのだが、意外と遊戯盤での戦略や政策を見るに、フランツ様とは馬が合うように思えた。要するに現実的で手堅い。師が彼女であるのだから当然と言えば当然ではあるものの、教えを吸収して活かすというのは才能だ。

 

 第二王子という立場のフランツ様との家格的にも釣り合いが取れる。ただそれ故の問題が一つあった。それが――。

 

「明日がついにベルタさん達に本当のことを話す今年最後の機会ですね、先生」

 

「……明日こそは俺から彼女にフランツ様の出自を明かさないと不味いだろうな」

 

 目の前で黒から白に裏返される駒を眺めていたものの、ほぼ同時に零れた言葉に視線を上げれば、珍しく眉根を下げた教え子の顔があった。

 

 あの日以来ヴァルトブルク殿やエステルハージ殿が多忙になり、城内で集まりにくくなった。休憩時間はこうして以前のように二人で白黒の遊戯盤を挟むも、どうにも気が入らないせいかこうした表情をよく見る。

 

 年相応の子供らしい表情ではあるが、あまり連日見ていると表情が豊かになったことへの安心よりも、心配が勝ってくるものだ。

 

「もし明日私が正体を明かしたところで、これまでも薄々警戒していた彼女が取り乱すとも思えませんが……騙されていたことが分かっても、ベルタさんはこれまでのように接してくれるでしょうか?」

 

「そうだな……」

 

 不安げに駒を弄る教え子に軽々しく大丈夫だというのも憚られ、言葉を探しつつ駒を裏返していく。とはいえ脳裏に浮かんだのは、先日城内を移動中に出くわしたエステルハージ殿の言葉だった。

 

『君なら知っているとは思うが、私は中立派なんだ。くれぐれも長女を下らない派閥争いに巻き込んだりしてくれるな――と、まぁ、それらしいことは言ってみたが。要するに私はさっさとベルタに君達の嘘が露呈してこっぴどく叱られるところが見たい。以上』

 

 仮にも第二王子付の家庭教師に対して、彼のあの忖度をしようという気の一切ない発言は清々しい。

 

 そしてその言葉が純粋に娘可愛さからくるものだと分かる分、胃が痛む。あれはもしもこちらが身分を偽り続けるつもりなら、父親として彼女に告げるという牽制でもあるのだろう。

 

 そんなことを考えつつ白い駒を黒に転じさせていたら、思わず深い溜息が零れて。それがどんな言葉より雄弁に語ってしまったらしいと気付いたのは、盤上から視線を上げた先で見た、眉根の下がった教え子のせいだろう。




短いのでもう一話投稿します。


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*15* 小エビで鯛を釣る。

 

 あのびっくりな幕引きを見せた初公演から約二週間。

 

 あれから小さな舞台演劇を中心に記事を書く出版社や新聞社から、細々としたインタビューを受けたせいで、雇主であるコーゼル侯爵にこの試みがバレてしまったことが悔やまれる。

 

 けれどすでに彼等が口出しをできる規模ではなくなっていたし、元より私個人の自由を奪える契約はしていないので、副業については特に何のお咎めもなし。

 

 ホーエンベルク様から要請のあったロイヤル版や、アグネス様の要請があった女性向けの方も、テストプレイを頼んだ顧客達からの評価は上々。どちらも来年の春頃には商品化ができるだろう。

 

 むしろ気になるのは、最近やけにご機嫌で授業の休憩時間を覗きに来るコーゼル侯爵だ。娘の成長を喜ぶというよりも、何を企んでいるのかと深読みしてしまうのは、彼のこれまでの行いのせいだと思う。

 

 教え子の方も疑っているようで、何かしら以前までの父親に対する怯えよりは、早めの思春期のような反応を見せていた。要するに“お父さん気持ち悪い症候群”だ。親子の溝は深まるばかりである。

 

 多少我が家の子煩悩が炸裂してスクラップブックを量産する父を見習って欲しい。写真がない世界でああまで同じ【娘達の活躍録】という背表紙が並ぶのは凄いぞ? そう広くない王都の屋敷で場所を取る困った趣味ではあるけど。

 

 ――で、何はともあれ本日は社交シーズン最終日。

 

 そして現在目の前では領地へ戻る馬車の手配が整うまで、我が家にて今回の社交シーズン最後の一戦中だった。

 

「あ、ちょい待ってヴィー。その手を使われるとオレの国が終わる」

 

「終わらせるために打つ手を止めようとするな。大体さっきは一度待ってやっただろう。二度目はない」

 

「あの、フェルディナンド様、資金援助が必要ですか?」

 

「いやー……お姫様から借りるとあとが怖いから止めとく。貸し剥がしの鬼だから」

 

「でもフェルディナンドさん、いまここで彼女の援助を断ると詰みますよ。それとも僕がお貸ししましょうか?」

 

「似たり寄ったりのことになりそうだから遠慮しとくよ。本当に二人とも双方の先生に似ていい性格だよねー」

 

 盤上でホーエンベルク様の手により早くも亡国状態に持ち込まれ、八方塞がりになったフェルディナンド様が、ルドとアウローラに板挟みに合って憎まれ口を叩く。毎回派手な外交を好む彼は序盤のうちに国庫を空にする癖があるので、大抵こうして一番最初の脱落者になるのだ。

 

 舞台が社交シーズンの終了二週間前の公演開始だったがために、こうして少しでも暇ができれば遊戯盤を囲む仲になれたのは良かった。まぁ……ルドを連れてくるホーエンベルク様の疲れた見た目がやや気になるけど。

 

「というわけでベルタ先生、お金貸して?」

 

「うふふ、お断りしますわ。前回の返済がまだです。一度焦げ付かせると信頼が回復するのに八ターンは必要かしら」

 

「それだけ待ったらオレの国滅んでるよー。家庭教師仲間として何卒お慈悲を」

 

「だったらその金遣いの荒らさを見直せエリオット」

 

 ……というような賑やかなやり取りを挟んで一時間半後。

 

 大敗を喫したフェルディナンド様を励ます教え子達と、呆れた様子で話しかけているホーエンベルク様の姿を眺めていたら、廊下に呼び出されて馬車に最後の荷物を積み込めたとの報告を受けた。

 

 これであとはアンナが戻ってくるのを待つばかりだと思っていたら、いつの間に廊下に出てきていたのか、ホーエンベルク様が背後に立っていた。

 

「あら、ホーエンベルク様。まだ妹が戻るまで時間がありますので、応接室に紅茶のお代わりを運ばせましょうか?」

 

「いや、それもありがたいが……ベルタ嬢、貴方に話したいことがある。少しだけ時間をもらえるか?」

 

 怖いくらいの真顔でそう言葉をかけられて無理ですと答えられるはずもなく、私は「では場所を変えましょうか」と応接室の隣にある部屋に彼を通すことに。

 

 しかし部屋のドアを閉めてすぐ「貴方に謝らなければならないことがある」と告げられ、目の前で直角に腰を折られた直後に思い浮かんだのは、申し訳ないことに“やっときた!”だった。実は二人の好感度が足りなくて、このまま何も教えてくれないのではないかとここ数日ハラハラしていたのだ。

 

 顔を上げた彼の苦悶に満ちた表情を見て必死に平常心を保つ。こうなる未来はルドと教え子を引き合わせた時点で考えていた。そこで深呼吸を一つ、心を穏やかに保って彼の懺悔と私の博打の結果を傾聴しようとしたのだけれど――。

 

「ルドの本当の名についてなのだが……彼はフランツ・ルドルフ・ジスクタシア。この国の第二王子だ」

 

「…………ん?」

 

 謝罪文は右の耳から入って左の耳から抜けかけた。思っていたより大物すぎて思考が混線する。

 

 いや待て。流石に他にもいるでしょう、外交官とか、宰相とか、高位文官とか。このゲーム王家縛りが強すぎるでしょうが。それとも何か次世代の人材不足問題とか抱えていらっしゃる? 

 

 もしくはここまでの私の育成方向が間違ってるのか。世間一般のご令嬢のパラメーターってどんなだ。いま切実に教え子の育成パラメーターが見たい。ステータスオープンとか言ったら出てこないものだろうか。

 

 そんな詮のないことをツラツラと考えていると、気遣わしげにこちらを見下ろしていた彼が再び口を開いた。

 

「驚くのも無理はない。身分を隠すつもりはなかった。結果としてここまでギリギリになっては、ただの言い訳にしかならないと理解している。しかし俺とフランツ様は、貴方達に対等な友人として見てもらいたかった。それだけは信じて欲しい」

 

 蜘蛛の糸の如く細くて強靭な記憶の糸の先。確かにそんなキャラクターがいた。

 

 それこそスチルの一枚も、名前すら明かされないままノベル部分でチラッと隣国に遊学に行ったり、第一王子派に暗殺されたり、その逆だったりした気の毒な【第二王子】が。扱いが悪すぎて主要キャラに入ると思わなかった。

 

 もしやルートによってはただの不遇だった彼のシナリオもあり得るということか。だとしたら相変わらず地雷を埋めるのに余念がないスタイルである。

 

 ――とはいえ、ここは正念場。女は度胸だ、腹をくくれ私。

 

「ホーエンベルク様……そんな大きな秘密を私などに打ち明けて下さって、ありがとうございます。そこまで信頼して下さったこと、大変嬉しく思いますわ」

 

「貴方とアウローラ嬢を騙していたことを怒らないのか?」

 

「怒るなどとんでもない事でございます。人には他者に打ち明けにくいことの一つや二つございます。ですが友人として一つ忠告をするならば、貴男が頭を簡単に下げてはルド(・・)の立場も低く見積もられてしまいます。次回からはお気をつけ下さいませ」

 

 まだルド改めフランツ様には人の話に耳を傾ける分、脳筋第一王子よりはまだ希望がある。奴に知恵を授けるマリアンナ嬢の身柄も確保済みだ。

 

 内心の計算を悟らせまいと微笑みを浮かべた私を相手に、ホーエンベルク様は「感謝する」と憑き物が落ちたような笑みを返してくれて。彼を悩ませていたのがこの一件だったのかと思うと、身につまされる気分であった。



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◆隙間編◆
◉1◉ 手紙の言葉で。


 

 領地に戻って三週間。一月から社交シーズン終了までを、丸々お姉さまと一緒にすごした反動で、すっかり自分で起きるという習慣が抜けてしまった。

 

 王都の屋敷にいる使用人の皆とは違い、生まれた頃から世話をしてくれる遠慮を知らないこっちの皆は、わたしが抵抗してくるまるシーツごとベッドから引きずり下ろし、ドレッサーの前に座らせる。

 

 欠伸を噛み殺して鏡越しに睨む自室の壁には、王都の屋敷前から別々の馬車に乗り込む際にお姉さまが『これを見て生活習慣を取り戻してね』と、手渡してくれた円形の予定表。

 

 たとえば夜は遅くても十一時就寝、朝は七時起床。八時までに朝食を終えて、十二時までは書類整理や翻訳の仕事……などという内容が、お姉さまの直筆で書き込まれている。わたしがこれを眺めるのが嫌にならないよう、端々に押し花をあしらってくる心遣いが素敵だわ。

 

 今日もそれを見ながら予定を当てはめて仕事をこなしていると、三時頃に郵便物が二つ送られてきた。一つはお姉さまからの手紙で、中身を少し確認したところ、ローラとの楽しそうな日常を綴ってある。

 

 こっちは夜寝る前にじっくり読もうと決めて、机の端のインクが飛ばない場所に置き、もう一方のヴァルトブルク様から届いた小包を開けてみたら――……。

 

 中には深緑の地に銀で牡鹿のレリーフが箔押しされた舞台のシナリオが一冊と、同じ装丁の施された一冊の小説、それに手紙が同封されていた。裏返して最後の頁をめくり、そこに捺された王都の出版物であることを示す初版印に思わず溜息が漏れる。

 

 表紙に戻って頁を開けば、原作者の部分にはアンナ・ホテク。原案者の部分にベルタ・ホテクと綴られていた。

 

 これまで顔も知らない原案者の名が載っていた部分にお姉さまの名前があって、原作者としては載せたことのない自分の名前がある。それがこんなに嬉しいとは思わなかった。

 

「綺麗……」

 

 表紙の牡鹿を撫でる指先が震え、見つめるタイトルの文字が滲んだ。

 

「本当に綺麗だわ……」

 

 一人きりの執務室で自分に言い聞かせるようにそう噛み締め、今度は舞台のシナリオを開いてみる。すると一番最初の頁にはやはりわたしとお姉さまの名前が書かれているものの、彼の名前は見当たらない。

 

 訝かしみながら一頁ずつ最後の頁までめくると、舞台の出演者達の名前が書かれている最後尾に、ちらりとそれらしい名前が載っていた。

 

「たぶん“ヴァルト・ブルックス”っていうのが、ヴァルトブルク様よね?」

 

 わたしと同じく本名で載せてはいないけれど、彼の偽名からはどことなく別人になりたい願望が透けて見える気がした。身長の高い彼のオドオドとした猫背と、絡まり気味の黒髪の隙間から見える赤みがかった琥珀色の瞳と、ふくふくしい大きな手を思い出してみる。

 

 彼は社交シーズン中どの会場にいてもいつも嗤われ、そのことを怒っているところを見たことがなかった。わたしが相手に噛み付きに行こうとすれば、彼は『本当のことだから、いいんだ。危ない目に合うことは、しないで』と。

 

 そう苦笑しながら体温の高い掌が肩に置かれるたび、胸の内側がモヤモヤとして悔しかった。彼の困った表情と、気弱に笑う以外の表情を見たことがない。

 

 ――思えば、社交シーズンの最終日もそうだった。

 

 領地に帰る前に劇場の皆のところへ寄り、家族への言付けや荷物を預かって待たせていた馬車で屋敷に戻ろうとしていると、向こうから癖毛の大きな身体が近付いてくるのが見えて。

 

 そこで荷物だけ馬車に積み込み、裏通りの子供達にせがまれるまま、上着のポケットから飴を取り出して手渡すお人好しな彼を待つこと数分。ようやくわたしの前に辿りついた彼は、開口一番他人のことで謝った。

 

 ルドという名のわたしの読者はいないと。その少年のことについて秘密を明かし、悲しそうに『黙っていて、ごめんね』と言ったお人好しさには呆れたわ。別にお姉さまさえ気にしていないならわたしにとってはどうでもいいし、彼がそのことで謝る必要なんてないと思った。

 

 あのときの少し腹立たしい気分がぶり返して、つい苛立ったまま手紙の封筒を開ける手つきが乱暴になったけど、中に入っていた穏やかな書き出しの文章に気持ちが落ち着いていく。

 

 初版を刷ってもらったから書店に並ぶ前の一冊を譲ってもらったこと、わたし達が領地に戻ってからの劇団のこと、新人賞に応募しようと思ってる新しい脚本のこと、次の舞台の演目のこと。

 

 手紙の中の彼はお喋り上手で博識だ。こんなにたくさん話すことがあるのなら、社交場でもっと堂々としていたらいい。そうすればきっと誰にも軽んじられることなんて――。

 

「そう……本人が別人になりたいのなら、なれないはずがないわよね」

 

 独り言にしてはやや大きな言葉と突飛な思い付きは、何だかストンとわたしの心に落ちてきた。



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◑2◑ 僕の言葉で。

 

 彼女が王都から領地に戻って一ヶ月半が経ち、舞台の人気も徐々に落ち着きを見せ始めている。しかしこれは仕方がないことだった。

 

 王都には他にも当然多くの劇団があり、どこも脚本家や役者を大勢抱えているからだ。そんな劇団がゴロゴロといる王都では、新進気鋭と銘打って新聞で取り上げられたところで、半年もすれば人々の噂に上ることもなくなる。

 

 元々が単発上演を目指した【五国戦記】は一人を主人公に仕立てて書いたもので、他の四国のキャラクターの人物像までは考えていなかった。けれど一作目で思わぬ人気を博してしまった以上、当面はこの演目を上演し続け、次回作の構想を膨らませて行くしかない。

 

 初舞台が無事に終わった直後からそんな不安に苛まれていた僕に、彼女は華やかな笑みを浮かべて。

 

『次の一作は貴男の作品ね。ほら、見る目のない審査員に落とされたやつがあったでしょう? 前に手紙であの作品のことを聞いてから、ずっと舞台で観てみたいと思っていたの。だから新聞で結果発表を見たときに凄く腹が立ったのよ』

 

 華々しい作品の数々に埋もれ選考の講評すらつかなかった僕の作品を指して、最終選考に残った作品名とその傾向までつらつらと考察してくれた。彼女いわく僕の作品には目立った華がないとのことで、けれどそこが好きだとも。

 

『領地の皆にあの脚本で舞台をしてもらえたらとても嬉しいわ。脚本はまだ捨ててないのでしょう? だったらすぐに稽古の準備をしないと。その間にわたしも五国戦記の続きを考える。ね、楽しみになってきたと思わない?』

 

 ――と。憧れの人物にそうまで言われては、流石の僕でもやる気にならないわけがない。わけがないの、だけど……。

 

 生き物は息をしないと死ぬ。そんなことは分かっているのに、中途半端に折り曲げた身体はそれ以上動かず、喉の奥が狭まって呼吸ができない。額に汗が浮いて顔に血液が集中しているのが分かる。

 

 何でこんな苦しいことをしているんだろうと頭では思うのに、足を押さえられているせいで途中で投げ出すこともできない。地獄だ。

 

「ヨーゼフ様、あと十回です。頑張って下さい!」

 

「大丈夫ですよ、前より床から背中が離れるようになってますから!」

 

「下腹を意識して、そのままぐーっと……そうそう、できてます」

 

 仕事の非番の日は体力作り中の劇団員達に混じった。すでに自身の目標回数を達成した彼や彼女等が、陸で干からびかけたカエルのようになっている僕を口々に励ましてくれる。ちなみに彼等のこなす回数は当然もっと多い。

 

 ――が、元の体力と体重が違うせいでこれでも充分すぎだった。普段ほとんど運動らしい運動などしない肉体に、たとえ五十回程度でも腹筋は辛すぎる。

 

 このあとに腕立て伏せが三十回と走り込みがあることを考えれば、意識を手放したくなった。

 

「「「ごー、ろーく、なーな、はーち……」」」

 

 けれど周囲からそう声をかけられると、まだギリギリ自分の中に残っている意地のおかげで乗り切れた。その後は小休止を挟みつつ何とか全てをこなしきり、ようやく舞台の練習に入る。

 

 各々が台本を手にして相手を探し、二人か三人一組で台詞の練習をするのだけど、台詞の読み合わせ練習をしようにも手の空いている役者がいない。

 

 若手だけで構成された劇団では上演できるものの年齢幅が狭すぎる。いまの舞台も何人かは衣装と化粧を変えて一人二役の人がいるくらいだ。だから――。

 

「台本の読み合わせ練習に付き合ってもらって、本当に助かります。ヨーゼフ様のおかげで皆も練習の時間が増えたって喜んでるんですよ。おまけに新しい団員の面接までしてもらっちゃって……お城の仕事もあるんですから、疲れてるときは“無理!”って言って下さいね」

 

 要は消去法の一種であり、その弱点に気付いた彼女が僕に手紙を寄越してくれたから、こうしてらしくもない無謀なことをやっているのだ。

 

 不思議なことに台本の台詞であれば、僕もつかえずに話すことができた。それは恐らくそこに書かれた登場人物達が、僕という人格と乖離しすぎているからだ。やってみると結構次の作品の構想も練りやすくなってちょうどいい。

 

「あ、うん……いや、平気、だよ。僕は、アンナ嬢とベルタ様に、君達のことを頼むと、言われているから。それに、ここにはまだ、役者が少ないし。駆け出しの劇団の面接官がこれだと、役者も舞台も、安く見られてしまう。多少キツくても、僕ができることなら、やりたい」

 

 グッと前のめりにそう力説されて思わず少し身を引いてしまったのに、彼は気を悪くした様子もなく「あ、距離近かったですかね?」と後ろに身を引き、屈託なく笑う。ここの劇団にいる団員達は皆こういう性質だ。

 

 それが彼女達姉妹を育てたエステルハージ領の気風なのかもしれない。

 

「そんな風に思って下さってありがとうございます。俺たち貴族様ってベルタ様やアンナ様や領主様しか知らないから怖かったんですけど、劇団の共同責任者がヨーゼフ様で良かった。次の公演も皆と頑張って成功させましょうね。そうだ、せっかくならヨーゼフ様も一緒に舞台に立ちましょうよ!」

 

 一際大きな声でそう言った彼の言葉に気付いた団員達から、波紋が広がるように「それ良いねー!」「脚本家兼役者とか話題性の塊」「よし、もう少し体重絞りますか」「面白そうッス」「身長活かした役にしないとな」と、無責任で楽天的な言葉が連なっていく。

 

 いつも嘲笑含みの話題にしか上らなかった自分の名前が、好意的な笑い声の中に紛れて弾ける。ただ皆の好意は嬉しいものの、この笑いが収まったら舞台の出演は絶対に断わろうと真剣に思った。



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◆第四章◆
*1* 分岐点……消失してる?


 

 流石は侯爵家の娘の十歳の節目とあって、今年のアウローラの誕生日を祝うガーデンパーティーは、人の多さが去年より多い。初めて同席した八歳の頃は、秋バラの香りを重荷に感じた様子で俯いていた教え子も、今日は小さな淑女の微笑みを浮かべている。

 

 白々しい笑い声を交える挨拶の中にも、純粋に彼女の成長に感心する招待客の声が混じり、侯爵夫妻もいけしゃあしゃあと娘自慢をしていた。離れた場所から観察しているだけでも教え子の顔が一瞬無になるのが見えて、両親との心の距離が段々と開いているのが分かる。

 

 でもこちらとしては得られない愛情を求めて鬱屈していくより、客観的に両親を見て冷静に育ってくれた方がありがたいので、これからも敢えて家庭のことには口は出さないつもりだ。

 

 私も一昨年は隠密、去年は欠席という過程を経て、今年はきっちりと招待状を受け取り、他の招待客達と同じように出席者名簿に名前を書いてここにいる。バラの香りを楽しみつつ、飲み口の軽い果実酒を少々。

 

 そんな家庭教師の顔をしていない私に対し、教え子のチラチラとこちらを振り向く癖だけは治らない。苦笑しつつ侯爵達に伴われて挨拶をする彼女の姿を見守っていたら、見知った令嬢がアウローラに駆け寄って抱きついた。

 

 寄り添うように立っていた侯爵夫妻が驚くのも構わず、むしろ無邪気さを装って押し退けるように間に挟まった令嬢は、どう見てもマリアンナ様だ。前世のゲームで見た性格よりも若干人の機微に敏い彼女のおかげで、教え子のガードが守られて助かるわ。

 

 マリアンナ嬢はわざとらしくない程度にはしゃいで見せた後、侯爵達にそれは優雅なカーテシーを披露して、追い付いてきたアグネス様の手から小さな箱を受け取ると、それをアウローラに押し付けた。

 

 たぶん誕生日のプレゼントだろう。大きさからしてアクセサリーか小物だとは思うけれど、普通は直接本人に手渡しで贈る令嬢は少ない。大抵お家同士の付き合いだからだ。

 

 教え子の狼狽え方から、手渡された箱をすぐに開けろと催促しているのが離れていても分かる。両親に許可をもらっておずおずと開けた箱の中に入っていたのは髪留めだったらしく、すぐに自身の髪にあてがう教え子。

 

 親友からの贈り物にはしゃぐその姿をあてに果実酒を飲んでいると、どこからか「ベルタ嬢」と呼ぶ声が聞こえたので周囲を見回せば、少し離れた場所からこちらに向かってくるホーエンベルク様が見えた。

 

「ホーエンベルク様。貴男もいらしていたのですね」

 

「ああ。今年はようやくここで直接貴方に話しかけることができてホッとした。一昨年も去年も、職業倫理の強い貴方には逃げられてしまったからな」

 

「ふふ、その節は申し訳ありませんでした。ですが今年からはきちんとお相手できますので、苦情はもうそのへんで。今日はルドも一緒ですか?」

 

「まさか。流石に一貴族の娘の誕生祝いの席に王族を連れてくるわけにもいかない。ルドからは友人(・・)の誕生祝いの贈り物を預かってきた。貴方からあとで渡しておいてくれると助かる」

 

 そう言って上着の内ポケットから細長い箱を取り出した。パッと見た感じ、装飾品の入るような長さの箱ではない。もっと小さくて細い……前世で受験シーズンの頃に、やたらと塾で配った系の大きさをしている気がする。

 

「もしかして……中身はペンですか?」

 

「そうだが、何故分かったんだ?」

 

「いえ、何となく大きさがちょうど毎日使うペンくらいだなと。子供らしくて可愛い贈り物ですね」

 

 実際は【合格】の文字が入った受験用の験担ぎアイテムに似ていたのだけれど。しかし十歳の女の子の誕生日に贈るのが筆記用具とは。王子様とはいえそこは小学生のセンスなのだなと、妙なことに安心してしまった。

 

「いや、クリスタル製だから可愛らしいというよりは綺麗寄りだと思う。確か授業中に気分の良くなる物を傍に置けば集中力が上がると言っていた」

 

「あ……そうなんですね」

 

 クリスタルといえばこちらの世界でもバリバリの高級素材だ。流石王族。私の知っている“学校横の文房具やさんで購入”という一般的な常識が通用しなかった。友達への誕生日プレゼントの金額が可愛くない。

 

「さて、これでルドに頼まれた用事は済んだ。次は俺の番だが……貴方に報告したいことがある。ただ少しここでは話しにくい内容なので、一昨年貴方が逃げ込んだ四阿に場所を移動したい。構わないか?」

 

「報告したいこと、ですか。その仰り様から察するにあまりいいお話ではないとお見受けしますが……」

 

「ああ、おおよそその認識で間違っていない。まずいことになった。できればあちらにいるアグネス嬢も一緒に聞いて欲しい」

 

「分かりました。では彼女を呼んで参りますので、ホーエンベルク様は先に四阿の方へいらして下さい」

 

 もうこの世界に転生してから何度目だという嫌な予感がする。しかも今回はご丁寧に申告までされてしまった。でもさ……信じられる? 今日は私の教え子の十歳の誕生日なんだぜ。

 

 なので一応無駄だと知りつつ、それでもできるだけ軽く済む問題でありますようにと祈るだけ祈った。

 

 アグネスの助力を求めて渋るマリアンナ嬢を宥め透かし、侯爵夫妻に当たり障りのない挨拶をした後に向かった四阿には、先に到着して周囲を警戒するホーエンベルク様の姿があった。

 

 彼の姿を捉えたアグネス様が、急に『逢引のお邪魔はできませんわ~』とか言い出したときには驚いたものの、冗談は聞き流すタイプの彼のおかげでささっと着席を求められ、ようやく内緒話が始まったのだけれど――。

 

「まあぁ、ではベルタ様が第一王子の家庭教師に抜擢されたんですの? 貴族女性では初の快挙ですわね~!」

 

「アグネス様、もう少し声の大きさを抑えて下さい」

 

「まだ正式な通達があったわけではない。現状ではそういう声が一部の高位文官から上がっているというだけだ。いまはまだエステルハージ殿がのらりくらりと躱しているが……恐らく年末までには通るだろうな」

 

 会場のあるバラ園から奥まった場所にあるとはいえ会話の内容が内容だ。そしてむしろこの場で一番大声を出していいのは私しかおるまい。いつの間にどこからそんなふざけた案件が飛び出してきたんだ?

 

 手紙にはそんなことは一言も書かれていなかった。私に心配をかけないように気遣ったのだろうけれど、そこは報連相してくれ父よ。しかし子煩悩の塊である父が押されているとなると、このままではルート分岐どころの騒ぎではない。

 

 教え子と私を繋ぐ接点がなくなってしまうか、最悪第一王子の婚約者になり、人を信用しなくなった彼女のルートで再会という絶望的な状況に陥ってしまう。

 

「そんな……どうして子爵家の私に? 第一王子でしたら他にもっと家格の高い家庭教師がついていたはず。それにさっきのお話だと、第一王子はルドより二つ歳上ですよね? だったらすでに学園に入っている年齢ではありませんか」

 

 つい荒げそうになる声を何とか低く絞り出すことで耐え、苛立ちの混ざった声音ではあるものの、感情的になることは避けた。けれど間違いなくどこかでルートが捻れていっている。予め予想していた嫌なことを遥かに上回る緊急事態。

 

 このゲームはあくまでも【お嬢様の家庭教師】がコンセプト。どのルートを通ったとしても、主人公が他のキャラクターの家庭教師になることはあり得ない。それにしてもやっぱり祈っても無駄だったか。神様ちょっと職務怠慢すぎでは?

 

「前者については貴方がいままで積み上げてきた功績によるものが大きかった。高位文官達の中にも貴方が作った遊戯版の支援者は多い。ロイヤル版の試作品を試したことでさらに支持が集まってしまった」

 

 あっ……思いのほか捻れが見つかるのは簡単だったわ。そこか。あれか。私は自ら進んで設定をねじ曲げる行動をとってしまったらしい。凄腕の販促(フェルディナンド)様がいたからつい調子に乗りすぎた。神様ごめん。

 

「後者については非常に触れにくい話になるので俺からは何とも言えない。それに第一王子の家庭教師は王妃の一族だ。戦場で成り上がった俺が何かを言えるはずがないだろう」

 

「その方の指導者としての腕に問題があったせいで、学園の入学試験の点数が足りなかったんですね?」

 

「いや、だから……ああ、もう。どちらの名誉のためにもこれだけは言っておくが、一応足りて()いた」

 

足りては(・・・・)ということは、ギリギリなのかしら~?」

 

「ははぁ、成程。入学はできてもその後に本格的な授業を受けて、試験が始まったら馬脚が現れる程度の学力だと。確かに王族の長子がそれではお粗末ですね」

 

「ど、どうしたんだ、ベルタ嬢。今日は随分と言葉の選び方が過激だが」

 

 ――おっと、いけない。前世からの私怨がダダ漏れてしまった。ゲーム内で直接手を下されたわけではないアグネス様やマリアンナ嬢と違い、直接バンバン手を下しまくった第一王子だけは今世でも許せる気はしていない。

 

 いまの教え子の学力と社交力なら、私がいなくなれば学園入学は確定事項だ。無能な第一王子の婚約者には勿体ない。でもあの侯爵なら娘を未来の王妃にとか言われたらあっさり差し出しそうだ。

 

「うふふふ、すみません。上に立つ者として以前に、国民の血税で育っているという自覚が足りないように思えましたもので」

 

「ベルタ様ったら正論のど真ん中を抉って参りますわね~」

 

「ここは二人を不敬だと諌めなければならない場面なのだろうが……まったくの正論過ぎてぐうの音も出ないな」

 

「「恐縮です」」

 

 国王が父親であるということに胡座をかいている奴なんて、将来ろくなもんにならない。というか、実際ろくなもんじゃなかった。どんだけ執拗に周到に私の教え子を殺したことか。

 

 駄目だ。こんな状態だと顔面見ただけでぶん殴ってしまいそう。そんなことをしたら家が終わる。

 

「とにかく、私は現在アウローラ様の家庭教師です。他に生徒を受け持つつもりはありません。お話を頂いても丁重にお断りさせて頂きますわ」

 

「いいや、残念ながらことはそう簡単にはいかないだろうな。現に貴方の目の前にその一例がいる」

 

 きっぱり言い切って話を打ち切ろうとしたのに回り込まれてしまった。

 

 そう言われるだろうとは薄々思っていたけれど、実際にその犠牲に一番最初にあった人物の口から聞かされると、逃げ場がない事実を認めざるを得ない。

 

「ということはベルタ様の回避は絶望的で、お城でホーエンベルク様と同僚になってしまうということかしら~? でも、もしもそうならアウローラ様は――……」

 

 空気を読まないアグネス様の容赦も慈悲もない発言に、ほんの僅かに前世のパソコン画面越しに憎いと思ったライバルの面影を見たわ。



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♞幕間♞上からここが見えるかい?

ベルタとアンナの父、ハインリヒ視点です。


 

 城内の下級文官が使用する渡り廊下。いくつもある柱の一本にもたれ、懐から古びた煙草入れを取り出す。箱の中には一本だけの葉巻とマッチ。

 

 火をつけるのに失敗したら諦めようと思っているときに限って、マッチは折れずに火花を散らした。仕方なく葉巻を口に咥えてマッチを近付ける。

 

 深く吸い込んだ苦味を舌の上で味わってからゆっくりと吐き出すと、ゆらゆらと紫煙が常の空より高く見える秋空に上っていった。

 

 昔はあんなに吸っていたのに、久し振りだと苦い。そのあやふやで心許ない煙を見送りながら、しばらくぼんやりと同じ行為をくり返す。

 

 ベルタが妻のお腹に宿ったときに止めて、最後にこの煙をもう一度口にしたのは彼女を埋葬した日の夜だった。

 

「……十二年ぶりか」

 

 当時ベルタは九歳で、アンナは二歳。身体の弱かった彼女から本格的に手習いを始めてまだ二年しか経っていなかったベルタは、姉の立場から一気に母親の役所になってしまった。

 

 残された人間が故人を忘れるとき、最初に思い出せなくなるのは声だという。彼女の声がベルタに似ていたのか、アンナに似ていたのか……もうほとんど思い出せない。彼女に贈られた数々の言葉だけが鮮明に残っている分、その言葉が正しい声で再生されないことがやるせなかった。

 

 十七歳でベルタを産んで、二十六歳でこの世を去った妻は、生きていれば立派な淑女になった娘達にどんな言葉をかけていたのだろう。王都と領地に離れて暮らす生活で、ベルタに母親と父親の両方の役を演じさせた不甲斐ない私を、彼女は……ルイーゼは怒るだろうか。

 

 没落した男爵家の娘だった彼女の実家も、いまはもうない。彼女が亡くなってしばらく経った頃に、エステルハージの名で借金を残してこの国から消えた。

 

『ねぇ、ハインリヒ……春が来たら、遠乗りに連れて行って。夏が来たら、小川に。秋が、来たら……あの子達も、つれて、皆で楓の紅葉を……』

 

 かさついた唇で最後にそう言った彼女が眠りについたのは、凍てつくような冬の早朝だった。あの日の声が思い出せない。彼女が冬にやりたい言葉を残さなかったことが、いまもずっと気になっている。 

 

 顔立ちはベルタの方が彼女に近いが、性格は幼い頃の引っ込み思案なアンナに近かった。しかしベルタがアンナの面倒を見てくれる間に、すっかり別人のように活発な性格に成長していったことから、さらにルイーゼの面影は薄れていく。

 

 ――ただ、娘達のその姿に救われた。

 

 それにベルタに乗馬を教えたのも、元を辿れば彼女が遠乗りに行きたいと言ったからだったように思う。彼女の面影を残す娘が馬で野を自在に駆ける姿は、私の虚ろだった心を何年もかけて埋めてくれた。

 

 ――どちらも、大切な私と彼女の娘だ。

 

 最後の一息分を吸い切るというそのとき、ようやく待ち人が歩いてくる姿が見えたので、葉巻を踏みつけて火を消す。向こうからやってくる人物はこちらに気付くと、ほんの僅かに緊張したように見えた。

 

「やぁ、待っていたよ。ホーエンベルクの坊や」

 

「エステルハージ殿……」

 

「“その呼び方は止めてくれ”と顔に書いてあるようだが、それは無理と言うものだ。君はこの短期間で私との約束を何一つ憶えていなかったらしい。よくも娘を下らない派閥争いの中に引きずり込んでくれたな」

 

 柱にもたれていた背を離し、目の前で立ち止まった彼にそう意地悪く声をかけると、その長身が萎んだように感じた。

 

「……申し訳、ありません」

 

 戦場向きの体躯から発された絞り出すような謝罪の言葉に、内心で渦巻いていた毒気が薄まる。それに元より本気でかけた言葉でもなかった。

 

「冗談だ。子爵も伯爵も、王族の前では平民とそれほど変わらないだろう。王命に逆らえる貴族などいないさ。ベルタも忠告したのに深入りしすぎた。あの子にしては珍しい失敗だ。しかし同時にいままで見た中で一番楽しそうにも見える」

 

 こちらがあっさりと非を認めて謝罪した内容を笑えば、ホーエンベルクは一瞬その目を丸くした。彼にしてみれば私がベルタの非を認めたことが意外だったのだろう。次第にその表情に困惑が混じる。

 

「私の妻は身体があまり丈夫ではなくてね。本当はベルタ一人の出産でだいぶ命を削った。けれどもしも一人娘が自分に似て身体が弱ければ、私が一人で残されてしまうからと、無理をしてアンナを産んだ」

 

 私達以外に人気のない渡り廊下で足下の葉巻を拾い上げながら、そんな彼を無視して話を続ける。

 

「案の定、アンナを産んだ後の肥立ちが悪くて。ベッドの中や長椅子の上からベルタに手習いを教えられたのは、たったの二年だ」

 

 日に日に痩せ細っていく彼女は、それでも毎日愛おしそうに娘達の髪を結い、糸と針を持って刺繍を教え、本を読み聞かせて、淑女のマナーをベルタに口頭と書物で教えた。

 

 ベッド脇にずっといる私に『ハインリヒは心配性ね。わたしも明日には元気になるから、貴男は自分の仕事をしないと駄目よ?』と。優しく儚い嘘を毎日ついた。

 

「忠告を忘れて引きずり込んでしまった君には、ここでの生き残り方をあの子に教えてやって欲しい。できなければそのときは、全力で君をいまの地位から引きずり下ろす。どんな手を使ってもだ」

 

 私の八つ当たりからくる脅迫めいた言葉に、ホーエンベルク殿は背筋を伸ばし、咄嗟に貴族式ではなく騎士の敬礼を返してくれた。可愛い娘をいつか拐いに来るかもしれない彼の動向を、一緒に見守ろうか、私の君。



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*2*拐われて王都、ここで会ったか百年目。

 

 十一月も終わりとなれば、時計の針がまだ六時にもなっていないのに、窓の外は夜を感じさせる。あの教え子の誕生日にあった重大発表から一ヶ月と三週間。

 

 もうすぐ第一王子の家庭教師に引き抜かれるのだと思うと、焦りから授業の質や量もかなり詰めているのに、教え子は弱音や不満の一つも吐かない。むしろ教われる範囲が増えたことを喜んでいる節すらある。

 

 そんな健気な彼女を前に今日も今日とて大切な話を切り出せないまま、メイドから帰りの馬車の準備が整ったとの報せを受けて、一日の授業(ノルマ)が終わってしまった。

 

 この屋敷から仮屋までの距離は大したものでもないけれど、一応貴族の令嬢と子息を暗い時間帯に帰すのは危険なので、冬季は大抵朝は自分で屋敷を訪れ、夕方にはこうして馬車を用意してもらうのだ。

 

「もうそんな時間ですか……。ベルタ先生、フェルディナンド様、今日も授業と楽しいお話をありがとうございました」

 

「今日もいっぱい勉強お疲れお姫様。最後に描いたやつはなかなかいい感じに描けてたし、彩色教えるのは年明けにしようかと思ってたけど、この分だともう十二月からは彩色の仕方を教えてもいいかもね」

 

「ほ、本当ですか?」

 

「うん。最初はまずいつも通り基本練習だから、一色だけ使って濃淡のつけ方を教える。油絵は最終授業に回す予定だから、使うのはパステルか水彩ね。どっちがいいか明日までに決めといて」

 

 憧れの画家にいよいよ彩色を教われるとあって、喜びの興奮からか教え子の頬にみるみる赤みがさしていく。しかし彩色の話が出たと言うことは、芸術レベルが中級の中くらいに届いた頃か。

 

 ダンスの授業でも、一通りのステップを詰まることなく流して踏めるようになったから、間違いなく中級の下には引っかかっているだろう。

 

 学力の方は数学で苦戦しているけれど、十二頁に及ぶ近隣諸侯百年の歴史年表を八頁まで暗記できているし、外国語もエステルハージ領でのアンナとの勉強で飛躍的に伸びたから、上級の下に食い込めるまであと少しと言ったところ。

 

 十歳でそのレベルに到達できるとは、流石は私の教え子。前世ではこの域に到達するのはまだだいぶ先だったから、育成記録を大幅更新してしまった。

 

 いつも通り屋敷の玄関ホールまで見送られ、そこで一度今夜の予習分を口頭で確認し、教え子の「また明日もお待ちしておりますわね」という言葉を合図にドアをくぐり、待たされていた馬車に乗り込む。

 

 ゆっくりと動き始めた馬車の速度が一定になり、外への音が漏れ聞こえにくい速度になったところで、前の座席に腰かけたフェルディナンド様が口を開いた。

 

「ベルタ先生さー……あんま追い詰めるようなこと言いたくないんだけど、いつアウローラ嬢に家庭教師ができなくなるって言うつもり?」

 

「……あ、明日には、言うつもり……です」

 

「そう言い出してから今日まで引っ張ってるんだけど。明日から十二月だよ? そろそろ話しておかないと、あれだけベルタ先生に懐いてるんだ。オレが引き続き家庭教師を受け持つって言ったって、なかなか納得しないと思うんだよねー」

 

 フェルディナンド様はそう苦笑しつつガラスビーズの髪飾りを弄って、こちらにダメージを与える正論を口にする。彼の言うことは至極尤もだ。これ以上告げることを引き伸ばしては、教え子を宥め諭すことにかける時間がなくなる。

 

 けれどそんな正論で割り切れない思いが私の胸の中にあるのも、また事実なのだ。返す言葉を失くして俯いていると、不意に顔を隠すように流れ落ちていた髪を一房掬い上げられる。

 

 二人しかいない馬車の中でそんなことをしてくるのは、当然フェルディナンド様しかいない。恨めしい気分で少しだけ視線を上げれば、美しい翡翠色の双眸がこちらを覗き込んでいた。

 

「そもそもさー、ベルタ先生は第一王子の家庭教師に抜擢されることの何がそこまで嫌なの? ある意味教育者としての頂点じゃない?」

 

「それを貴族同士のしがらみから逃げているフェルディナンド様が問います?」

 

 彼の指先からやんわりと髪を抜き取り耳にかけ、彼の翡翠色の双眸をジト目で睨んでそう返すと、フェルディナンド様はニヤリと笑う。意地の悪い笑い方なのに嫌な感じがしないのは、ひとえにこの人の持つ飄々とした雰囲気のせいだろう。

 

「おっと、墓穴掘ったかー。でもどうなるにしても、アウローラ嬢の家庭教師役はオレだけになっちゃうってことか。劇団と遊戯盤は引き続き相棒でいられるけど、やっぱりちょっとつまらなくなるなー。それに絵画とダンスは自信あるけど他の教科は普通なんだよね」

 

 座席に深く腰かけ直したフェルディナンド様は、そう言って顎を撫でる。男性とは思えない女性的なラインを持つ輪郭の彼が取るこういう動作には、いちいち色気があって時々羨ましい。

 

「それについてはアグネス様に文通方式で出題と添削をして頂けるよう、すでに手を打ってあります」

 

「うわー、まさか最初からあてにされてないとは思ってなかった」

 

「フェルディナンド様をあてにしていなかったわけではないのですが、確実性を求めた結果ですわ」

 

「はは、どうだかー……っと、先生の家の前に到着したみたいだな。それじゃあ今夜一晩しっかり眠って、明日こそはお姫様に伝えられるように祈ってるよ」

 

 ――と、いうような会話をして別れた翌日。

 

 身支度を整えて、さぁ今日こそ伝えるぞと気合いを入れて仕事に向かおうというときに、家のドアがノックされた。一瞬フェルディナンド様かと思ったものの、どのみち昼にはコーゼル伯爵の屋敷で会えるのだ。彼であるはずがない。

 

 そもそもコーゼル領で与えられているこの仮屋に来客があったことなど、いままでなかった。訝かしみながらもドアを開ければ、そこには上質な服を隙なく着込んだ人物が数人立っていて――。

 

「おはようございます。ベルタ・エステルハージ嬢ですね? 我々は陛下の命により、王都から貴方のお迎えに上がりました。本日はコーゼル伯爵にお許しを頂いておりますので、このまま王城までご同行願います」

 

 あんの顔だけ良いタヌキ親父めぇ!! ズルズル引き伸ばしても年末まで時間があると思っていた私も私だけど、こんなことならフェルディナンド様の言うように、昨日のうちに言っておけば良かったわ。

 

 身なりのキチンとした人攫いに馬車に押し込められて、教え子に伝言もできないままコーゼル領を出立してから二日後。私は一人王城の中にある図書室のような場所にいた。

 

 煌びやかな柱時計を見やれば、昼過ぎに王城に到着し、馬車を護衛してきた人達の中で一番偉そうな人にここで待つように言われてから、すでに一時間半ほど放置されている。

 

 あからさまな招かれざる客の扱いを拐って来た人間にするとは……傍迷惑を通り越して無礼だ。

 

 図書室という空間で暇を持て余すことがないのがせめてもの救いか。待っている間に本に触るなとは言われていないので、棚から興味のあるものを見繕って机に積み上げ、読書をしながら時間を潰す。

 

 時々私がこの部屋から抜け出していないか城のメイドが覗きにくるが、城勤めとなれば子爵家どころか伯爵家のお嬢さんもいる。身形が地味な私を一瞥したその表情に嘲りの色が浮かんでいるのを見て、思わず“そんなに暇ならさっさと誰か呼んで来い”と言いそうになった。

 

 そもそもこっちは冬の最中二日間も馬車で移動して来たのだ。正直眠気すら感じる。これ以上待っても誰も来ないなら、この図書室を出てまともそうな人に伝言を頼んで王都の屋敷に戻ろうと考え始めた――……そのとき。

 

 廊下から城内で耳にするには相応しくない、バタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。それはどんどんと近付いて来て、図書室のドアの前で止まる。

 

 足音からしてメイドではないだろうと踏んでいたら、勢い良く重い両開きのドアが開かれ、見覚えのある配色の少年が飛び込んできた。

 

 出たな……マキシム・ニコラウス・ジスクタシア。将来的にはとんでもないクズに成長する男も、現時点では流石にルドの兄というだけあって、類似箇所の多い整った顔立ちだ。

 

 奴は一瞬だけこちらを見たもののすぐにフイッと視線を外し、誰かを探すように周囲をキョロキョロと見回す。私はまだ第一王子の顔を知らないふりをして、声をかけられるまでは放っておこうと観察を始める。

 

 深みのある金髪に、闊達(かったつ)そうなトルマリンの瞳を持っているのがコイツだけではないと、ルドの存在が明らかになったことで初めて知った。成長しきると全然見目が変わるけれど、全体的に彼をややワイルドにした雰囲気である。

 

 何というかテストの点数が毎回赤点で、顧問の先生に“次のテストで赤点取ったら、しばらく試合に出さんからな”とか言われるバスケ部男子っぽい。前世の塾では割と聞く話だったな――と。

 

「新しい家庭教師が来ていると言われたのだが、そこのメイド。お前、ここでそれらしい人物を見ていないか?」

 

「さぁ……私は朝勤め先に向かおうとしたところを拐われたので、ほとんど何のお話も伺っておりません。ここで誰をお待ちすればいいのか分からないまま、かれこれ一時間半ほど過ごしておりました」

 

 メイド呼ばわりされたことが腹立たしかったわけではないものの、手にしていた本を閉じて暗に非難してみる。すると奴は初めて私に対して興味を持った風に向き直り、上から下まで値踏みするように見つめた。

 

「……次の家庭教師はまさかとは思うが、お前か?」

 

「私をここへ連れて来られた方々の気の迷いでなければ、恐らくは」

 

「だがお前は女ではないか」

 

 間髪を入れずに返してきたその言葉に、前世も決して浸透していたわけではないにしろ、根本的に男女平等という認識がない世界に転生したのだなと、改めて妙な感動を覚える。

 

 今の発言を前世でしようものなら、ニュースや新聞で三週間は引っ張られるに違いない。ここが魔法の使える世界で、もしも私に転移の魔法が使えたら、すぐにもあっちの世界に送ってやりたいくらいだ。

 

「ええ、仰るように私は女です。しかしそれが家庭教師をする上で何か弱味になるのでしょうか?」

 

「女にそこまでの学は必要ないだろう?」

 

 ああ、その台詞画面で見たことがあるわ。確か学力をカンスト間際まで上げたとき、アウローラに向かって憎々しげに言ってくれたよね。あのあと一時的に教え子の教育コマンドからしばらく学力を選べなくなった。

 

「成程。男は強く賢く、女はか弱くて馬鹿であれと」

 

「べ、別にそこまでは言っていない」

 

「仰ったも同然ですが……深く考えてのことではないでしょうから、このお話はここまでに致しましょう。それよりも新しい家庭教師が来ていると告げられたのに、いらっしゃるのが遅かったことの方が気になります。家庭教師であればいくら待たせておいても平気だと?」

 

 今度は分かりやすく二重の意味で非難する。一つはそのまま“馬鹿なのね”と。もう一つは“傲慢な奴だ”と。

 

 いくら脳筋でも言葉の端々から私の発する多少の毒気が分かったのか、みるみるうちに表情を険しくさせていく。前世パソコン画面越しに見たコイツの成長した面影と一瞬重なる。

 

 その顔を見て思い出すのは毎回死に至るアウローラ。可愛い私の教え子。彼女は私という味方を突然失って、今頃泣いているだろうか。

 

 ――というか、本当なら出会い頭に顔面に拳……は、私が痛いから、お高い鼻っ柱に鼻血が出る勢いで肘鉄かましてやりたいくらい鬱憤が溜まっている。

 

「私は勉強をしたくないという生徒に無理強いすることはありませんが、単純に不真面目なだけの生徒は苦手です。時間は有限なものですから」

 

 読みかけの本を片手に近付き、視線一つ分低いトルマリンの瞳を正面から見つめる。カーテシーはしない。だって私達はまだお互いに名乗ってすらいない。私は彼の正体を知らない(・・・・)のだから。

 

「貴男はどちらでしょうね?」

 

 使い慣れた微笑みを張り付けたこちらの問いかけに、まだ教え子(アウローラ)を知らない宿敵は、気圧されつつも持ち前の我の強さを発揮して、挑むように私を睨んだ。



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♕幕間♕寂しがり同盟。

 

 暖炉の薪が弾ける音と、揺れる火が部屋の壁に濃淡をつける。冬の薄日の他には暖炉の火しか明かりのない自室で、フェルディナンド様と二人、小さな画板に赤一色で描かれた素描に向き合う。

 

 けれどすでにモデルをして下さる先生はここにはいない。下絵になっているのは、以前フェルディナンド様が描かれたいつかの先生だ。

 

「ちょっと待って……その線の部分、少し薄いよー。光と影を良く見て。これは秋の夕方に描いた設定のベルタ先生なんでしょ? この影のつき方なら窓の位置はどこだと思う? その時間帯の日の角度と窓の位置を意識して」

 

 背後からフェルディナンド様の持つ赤を含んだ絵筆の先が、わたくしが描いた先生の髪をなぞっていく。淡くぼやけていた髪の輪郭線は、記憶にある暖かい先生の色に染まる。

 

「ほら、これが正しい夕方の色と窓から射し込む光の角度だ。さっきの淡さだとそれっぽいだけの色になる。いまの説明で分かる?」

 

「はい、分かります」

 

「ん、理解の早い生徒で嬉しいね。ならこのまま続けてみて」

 

 絵筆を持つフェルディナンド様の手が引かれ、わたくしは言われた通り夕方の先生との授業を思い出しながら、淡すぎると思える場所に少し濃い赤を足す。それだけでグッと朧気だった先生の姿や声が鮮明になった。

 

 先生がいなくなって、今日で三週間。こうしてまともに座って授業ができるようになったのは、九日前。

 

 先生がいつもの時間に現れないことを不思議に思っていたら、急にお父様が授業部屋にいらして、他に教えを乞いたいと言う有望な生徒が現れたので、先生はそちらの方へ行ってしまったと仰った。

 

 誰のところに行ったのか聞いても、お父様もお母様も先生の出世を喜びなさいと仰るばかりで。

 

 最初はそんなはずがないと信じられず呆然としたけれど、どこかで“見捨てられて当然だ”と。もう随分感じていなかった劣等感が囁きジワジワと心を蝕んだ。

 

 一日目は涙は一滴も出なくて、二日目は涙が止まらなくて、三日目は交互で、その間は誰も……フェルディナンド様すら部屋に近寄らないでと喚いて、水も食事も絶った。お父様とお母様は、そんなわたくしを子供の癇癪だから放っておくようにと使用人達に言付けた。

 

 潜り込んだベッドの中ではいままで感じたことのない怒りに押し潰される。お父様に、お母様に、フェルディナンド様に、わたくしを置いていった先生に。そして、何よりも先生を引き留められる能力に到達できなかった自分自身に。

 

 部屋に籠って食事を拒み続けていれば先生が戻ってきてくれるなら、飢えても涸れてもいいと本気で思った。先生がいなくなって元通り愚図で無能な子供に戻ってしまえば、お父様が呼び戻して下さるかもと狡いことも考えた。

 

 ――だけど。

 

『あのさー、お姫様。そろそろ泣いてもベルタ先生が帰って来ないことくらい分かってよ。本気でベルタ先生が望んで行ったと思うのー? このままお姫様が泣きすぎて死んじゃったりしたら、オレがベルタ先生に怒られるんだよね』

 

 四日目の朝に部屋のドアの前でフェルディナンド様がそう仰った。いつも明るいフェルディナンド様のとても疲れた声。

 

 そこで初めて自分ばかりが悲しいと思い込んでいたことに気付いた。同時に自身が先生を信じきっていなかったことにも。

 

 四日間何も口にせず弱りきった身体を引きずってドアをほんの少し開ければ、隙間から素早く入ってきた綺麗な指先が、一気にドアを開けてしまって。堪えきれずによろけた身体を、フェルディナンド様の腕が抱き留めてくれた。

 

『先生の新しい生徒が誰か教えてあげるからさ、顔を見に行こうよ。その代わりただ顔を見に行くだけでもかなり頑張らないと駄目な相手だけど。協力してくれそうな人ならお姫様も知ってる人だ。やってみる価値はあるよ。横入りされて泣き寝入りとかつまらないでしょ』

 

 そう言ってぎこちなく頭を撫でてくれたフェルディナンド様を見上げたら、そこにいつものフワフワとした笑顔はなくて。困ったように眉を下げた笑顔は、太陽を失った花みたいだった。

 

 そのときのことを思い出していたら、後ろから画板をトン、と叩かれる。

 

「あー……ここはあと少し水を含ませた方がいい。せっかく主線がない水彩画なんだし、ぼかして魅せる手法もありだ」

 

 注意された箇所を確認して頷けば、今度は訂正の筆先は伸びてこなかった。緊張しつつ、自分の持っている赤一色を乗せたパレットの上で、水を含ませた筆先をすでに緩く溶かした水彩絵の具に浸す。

 

「この授業が終わったらアグネス嬢から届いてる課題内容の見直しと、今月末の夜会に向けて社交術の特訓ねー」

 

「はい! 先生をこちらに取り戻すためにも、ご指導よろしくお願いしますフェルディナンド様」

 

「アハハッ、良い返事だ。その調子でバリバリやっていこっか」

 

「全身全霊をかけて頑張ります」

 

 先生からの手紙は一通も届かないけれど……いまのわたくしは先生と、先生が残していってくれた味方を信じているから大丈夫。だから次に貴女の前に立てるまで、待っていて下さいわたくしの太陽。



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*3* 問題児と私。

 

 貴重な文献がひしめく城内の図書室の中、明かり取り用に設けられた窓から薄く射した陽光の中を、普段肉眼では見えないような細かな埃が舞う。一瞬ただの塵芥が美しく見え、教材を探す手が止まった。

 

 荒んだ心に静寂はこの上ない宝である――が。廊下からバタバタと騒がしい足音が聞こえてきたことで、それも終わりを告げる頃だと諦めて手にした本を抱えたまま梯子を降りる。

 

「お前……いい加減に探しに来ないか! わたしの家庭教師なのだろう!?」

 

 すると案の定その直後にドアが乱暴に開かれ、鍛練場から着替えずに直行してきたのだろう、埃っぽい服装のお馬鹿さんが乱入と共にお粗末な第一声を放つ。静寂を守るために足音を吸い込むための絨毯も、こうなると形無しすぎて笑えてくるというものだ。

 

「あら、初日の言葉をお忘れでしょうかマキシム様。私は教わる気のない生徒にものを教えるほど暇ではありません。ですので、せっかく王城内にある貴重な文献を納めた図書室があるのですから、自身の指導力向上に役立てようかと」

 

「それは聞いたが……職務怠慢すぎるぞ」

 

「私が職務怠慢なのではありません。マキシム様が学業怠慢なのです」

 

「お前、雇われている自覚はないのか?」

 

「少なくとも国民の税で雇われている自覚はあります。しかしそれを私のような子爵階級の家庭教師が、王家の方に説明するなど烏滸がましいというもの。何より二日に一度授業から逃げる生徒を探し回るには、この建物は広すぎますわ」

 

 言い返す隙を一切与えない長文の煽りに、第一王子はその顔を真っ赤にして言葉を失う。ふ……今日もまたつまらぬ論破をしてしまった。

 

 そして毎度のことながら捨て台詞を思い付かないのか、入ってきたときよりも乱暴な足取りで図書室を出て行く。その怒れる背中を見送りながら、そろそろ仕掛ける頃合いかと思案する。

 

 これでも一応家庭教師という職務を忘れているわけではない。たとえとんでもなく憎い小僧であっても、税金で雇われ教育者という肩書きを持つからには、それ相応の仕事を果たす義務がある。

 

 彼の精神年齢は十四歳という年齢の割に少し幼い。しかし本人は不思議なことに、そのことに気付いていないわけでもなさそうなのだ。なのに、感情の爆発を我慢できない。それは何故か?

 

 そこが微妙に心の中で引っかかっている。もしも初めて逢ったときのアウローラのように、どこかにそうなった理由があるのかもしれない。持論ではあるが、教育者に必要なのは指導力の前に観察力だと思っている。

 

 理解しないと教えられない。

 教えられないのは理解が足りていないからだ――……と。

 

 大きな音を立てて閉ざされたドアが開いて、マキシム様と入れ替わるように、遊戯盤を抱えたホーエンベルク様とフランツ様がやって来た。そこで二人に目配せをして、心持ち大きな声で「まぁ、お二人ともいらっしゃいませ。お待ちしておりましたわ!」と言ってみる。

 

 たぶんあの王子のことだ。廊下の角辺りで聞き耳を立てている頃だろう。私の内心をうっすら察している二人は、苦笑しながらもこの茶番にかれこれ一ヶ月付き合ってくれている。

 

 二人の方を向いたまま唇に人差し指を当て、耳を澄ませること数秒。壁を蹴る鈍い音が響いてきた。やんちゃなことである。

 

「いま出ていったのは……兄上ですか」

 

「足音の大きさと壁の音からして、また壮絶に腹を立てていらしたようだが」

 

「城内を騒がしくして申し訳ありません。少々気になることがありまして。暫くは大目に見て下さると嬉しいですわ」

 

 廊下の方とこちらに交互に視線をやる二人に肩をすくめ、軽口を叩いて誤魔化すと、それを見たホーエンベルク様が苦笑を深める。

 

「何か考えがあってのことなら構わない。貴方の訊きたいことで俺の答えられる範囲であれば教えよう」

 

「私にも答えられることがあれば良かったのですが……血を分けた兄弟なのに、兄のことはほとんど知らなくて。お役に立てずすみません」

 

「どこの家庭でも兄弟、姉妹で分からないことなんて山程ありますわ。フランツ様が特別お兄様を知らないということはありません」

 

 真面目なフランツ様が落ち込む姿を見ていられなかったのと、実際世間的に考えれば割と普通なことなのでそう慰めれば、彼は年頃の少年らしく笑った。

 

 この二人とヴァルトブルク様を除けば、ここで会う人達は新参者の私に対して冷たい。昼食やお茶もマキシム様と一緒でなければ出さないつもりなのか、持参しなかった最初の二日は空腹と喉の渇きで早々に屋敷に帰った。

 

 そんな私の異変に気付いた父がホーエンベルク様に見張りを頼んでくれたおかげで、一人のときでも冷めたお茶を出してもらえるまでになったけれど、食事は未だに持参である。

 

 孤立すればするほど教え子とフェルディナンド様との日々を思い出すのは、教鞭を握った立場としては情けなかった。

 

 もう手紙を十通ほど送ったにもかかわらず、返事は一通も返ってこない。ホーエンベルク様に出して頂いても結果は同じだった。あの侯爵が本当のことを伝えているとは思えないことから、突然約束を破っていなくなってしまったことを怒っているのかもしれない。

 

 それは仕方がないとして、意外なことにマキシム様はいざ教えてみると、そこまで飲み込みが悪い生徒ではなかった。

 

 確かに二日に一度授業をサボり、出しておいた課題の回答が全部間違っていたりはする。でも一応は全ての問題を解こうと書き込まれてはいるのだ。そこから察するに、彼は根っから不真面目なわけではないのだろう。

 

 とてもチグハグな印象を受ける少年。それがこの一ヶ月間に渡って観察した第一王子の人物像だった。

 

「私もそろそろ打ち解けたいのですが、ご存じのように嫌われておりまして。以前の家庭教師の方とは余程良好な間柄だったのでしょうね?」

 

 などと曖昧にぼかして言ってはみるものの、実際は前任者を呼び戻すのは止めておいた方が懸命だと感じている。それというのも、彼の態度には初対面のときから家庭教師に対する怒りと不信感があった。

 

 きちんと授業をしていたかどうか怪しい。この場合はマキシム様がというよりは、相手の家庭教師の側がという意味だ。

 

 するとこちらが含む疑問点に気付いたらしいホーエンベルク様が、テーブルの上に遊戯盤を広げながら何やら苦い表情を作った。

 

「ホーエンベルク様、同僚の方のことを疑うのは心苦しいかとは思われますが、何か思い当たる節があるのでしたらどんな小さなことでも構いません。お聞かせ頂けませんか?」

 

 心置きなく奴を追いかけて躾ねば。私の教え子の未来のためにも!



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*4* 拝啓教え子様、先生は元気です。

 

 授業場所の図書室に入ってくるなり、お馬鹿さんの私を見る目が胡乱なものを見つめるそれに変わる。いつもの地味目なドレスではなく、上から下まで男性の衣装に身を包んだだけでこの視線。

 

 せっかく人が昨日苦労して、仕事終わりに一番小さい男性用のお仕着せを借りたというのに。

 

「今日は四日前の授業からお教えした部分の問題を纏めたものを、二枚ほど解いて頂きます。一枚につき一時間の持ち時間となっておりますので、ゆっくりと解いても最後まで辿りつけるかと思います。では始め」

 

 サボった翌日はやはり真面目に図書室に現れた第一王子にそう告げ、手許に置いた一回十五分の砂時計をひっくり返す。これを四回くり返すことで一時間。

 

 わけの分からない私の指示に露骨に顔を顰める彼を急かすために、コツコツと無言で机を叩いてさっさと始めるように促す。

 

『マキシム様の家庭教師は彼の厭うことは何一つさせなかった。それだけ聞けば良いことのように思えるかもしれないが、勉強中にマキシム様が机の上のものを叩き落として席を立っても片付けさせもせず、追いかけもしない。解けなかった問題は次回から出題せず、すでにできている問題ばかりを延々解かせていた』

 

 あの日ホーエンベルク様のお話を伺って四日が経った。

 

 その間も一日おきのサボりと授業のバランスは崩れず。唯一これまでと違いがあるとすれば、私が彼のサボりに使う室内鍛練場と騎士の詰所、朝食用と昼食用の厨房にお邪魔したくらいだろう。

 

 不思議と向かう先々で彼の暴言は聞かれず、むしろ騎士や料理人達に混じって良く笑う人当たりのいい王子様だった。

 

 いま目の前にいる彼は見る陰もなくこちらを威嚇しているが。それでも渋々といった様子で用意しておいた問題用紙を睨みつけ、その歳の割に荒れて節くれだった手でペンを取った。

 

 今回のこれで理解しておきたいことの何割かは埋められると思う。

 

 ホーエンベルク様からもらった情報に感謝しながら、注意深くルド……もとい、フランツ様と似た顔立ちをした少年の動向を見つめる。

 

 最初の十五分。

 ペンはあまり止まらずに問題を解いていく。

 ここで一度砂時計をひっくり返す。

 

 加算された十五分。

 ペンは時々迷いを見せるものの、まだ止まる様子はなく問題を解いていく。

 けれど砂が三分の一になった頃に、机の下で小さく膝を揺すっている気配。

 ここでもう一度砂時計をひっくり返す。

 

 さらに加算された十五分。

 ペンは明らかに動きを鈍らせ始め、本人も苛立ちを隠そうとしなくなる。

 膝の振動が上半身にまで伝わり、小刻みに揺れて問題用紙を歪ませた。

 残す問題はあと僅かなのに、視線は問題の上を滑るばかりだ。

 ここでさらにもう一度砂時計をひっくり返す。

 

 最後の十五分。

 ペン先のインクが問題に垂れて染みを作り、慌てて擦ったせいで破れた。 

 こうなってくるともう問題を読むどころではなくなり、表情が焦りに歪む。

 前半の問題の正解率が嘘のように珍回答が増えていく。

 これでこの実験は終わりだ。

 

 一応問題用紙を彼の手から受け取って採点をしていくけれど、知りたいことは正答率ではない。

 

 私が知りたかったのは、この世界に類似する言葉のない彼の症状。短い時間しか集中力が持たず、一定の時間を越えると落ち着きがなくなり苛つき始めるそれは、前世の塾の生徒でも見たことがあった。

 

「はい、大体分かりました。ですのでいまから三十分は休憩にしましょう。マキシム様用に用意して頂いた防寒着がありますので、そちらを羽織って下さい」

 

「……は?」

 

「窓から見えたのですが、あそこは誰も歩いていないみたいで足跡一つない新雪でしたよ。外に出て足跡をつけに行きましょう。適度な運動は脳の活性化に繋がりますから」

 

「……はあ?」

 

「ついでに雪玉投げでもして身体を動かしましょう。この砂時計を持っていきますので、三十分経ったらここに戻って来ます。ちなみに当然ですが移動時間は含まれません」

 

「おい、本当に何を言ってるんだお前。気でも触れたか?」

 

「そう難しいことは申しておりませんので、憎まれ口を叩く暇がおありでしたら早く準備を整えて下さいませ」

 

 私は専門家ではないから細かい診断はできないけれど、マキシム第一王子は恐らくだが、やや多動症の気がある。

 

 人によってその程度や行動は様々だが、彼の場合はそこから生まれる暴力衝動を自分でも無意識に武術に打ち込むことで、他者に衝動を向けないよう軽減させようとしていたのかもしれない。

 

 まるでコップに並々と注がれた水。彼のそれは何度もアウローラを死に追いやる【暴力性】であったわけだ。ただ何にせよ舐めてるのかコイツとは思う。人の可愛い教え子をサンドバッグ代わりにしてんじゃねぇぞ、と。だって人間だもの。

 

 前世でもなかなか理解されにくい症例ではあったものの、近年は浪漫を食べて生きる歴史学者達のおかげで、この特性を持つ歴史上の英雄は多いという研究結果も増えてきていた。有名なところでいうと、織田信長がそうであったのではないかと言われている。

 

 彼の前任者達は皆この症状の理解を早期に諦め、耳当たりの良い言葉で褒めそやすことで難を逃れようとしたか、或いは“第一王子の家庭教師”の肩書きを持ち続けることで、自分達の発言力を失わせまいとしたのかもしれない。

 

 ――が、そんなことはこっちの知ったことか。

 

「あらあら、どこに向かって投げてるんですか? 当てる気あります?」

 

「お前と違って冬場にこんなことをしたことがないんだよ! 何で雪の上でそんなに動けるんだ!?」

 

「うふふふ、田舎者ですので。都会育ちのマキシム様にはちょーっと難しいかもしれませんわ……ねっ!」

 

「はっ、お前こそどこに向かって投――……うわぁ!?」

 

 大暴投に見せかけた雪玉が第一王子の隠れていた木の枝にヒット。枝をたわませるほど積もっていた雪は、得意気な顔になっていた彼を埋めた。

 

 年末にあった夜会を無事に切り抜けられたかという手紙を出したのに、まったく返事をくれない教え子。フェルディナンド様とアグネス様にも宛てたのに梨の礫。この望まない地獄に放り込まれた私の内に沸き上がる暴力衝動の露となれ小僧。



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*5* 着地に失敗した猫の気分。

 

 翌日が十二月という状況で拐われてきてから、一ヶ月と三週間。

 

 要するに一月も残すところあと一週間という現在は、夜中の十一時。場所は屋敷(自宅)の応接室。そこにある暖炉の前に陣取って内職中だ。

 

 あくびを噛み殺しながら、手許にある厚紙を丸く切り張りしたブツに絵具を塗る。夜は塗り重ねては重石をして反らないように整え、日中仕事に出向いている間は暖炉のある部屋に移動させて乾かしていた。

 

 その正体は前世の祖国にあった古の玩具、ジャパニーズ・メンコ。

 

 華やかな絵の描かれた遊○王やポ○モンといった頭脳カードゲームは、じっとしていられない彼には向かない。

 

 そこで野性味溢れる昭和の男児達がこぞって熱いバトルをくり広げ、勝敗を握るのは振りかぶって叩きつける体力と、ちょっとした技量という脳筋ゲームに白羽の矢を立てた。

 

 まぁ、それというのも、五日前にあることで中庭の出禁をくらってしまったからなのだが。

 

 雪に埋めた翌日から奴は毎日図書室に顔を出すようになった。いいことではあるものの、一日に二時間の授業と合計一時間の休憩を挟む日々は、着実に私の体力を奪い、代償にちょっとの筋力を付与している。

 

 毎日お昼の休憩時間に図書室でホーエンベルク様達と遊戯盤に興じていると、翌日『お前は誰の家庭教師なんだ』と詰ってくる面倒な生徒(仮)。お前のではないなと答えたいところをグッと我慢するのも大人の務めだ。

 

 そんなこんなで、第一王子のために屋敷に戻ってからの就労時間外まで教材を作るのは業腹だが、こうして奴の気を紛らわせるものを製作するしかない。

 

 さっきメイドに今夜最後の珈琲を頼んで下がらせたし、明日は週に一度の非番。根を詰めて仕上げ作業をするには持ってこいの静かな夜だ。静けさの中に薪のはぜる音ともったりとした暖かさが眠気を誘うものの、何とかそれを遠ざけて絵筆に集中していると応接室のドアが開いて、そこから父が現れた。

 

「またそれをやっているのかベルタ。あまり根を詰めすぎるものじゃないぞ?」

 

「お父様こそ、まだお休みになっておられなかったのですね」

 

「ああ、明日の分の仕事は片付いたから、明後日の仕事をしているところだ」

 

「それは根を詰めているとは言わないのですか?」

 

「お前ならそう言うだろうと思って、ちょうど休憩しようかと思っていたところだ。少しの間ここに居座っても構わないかい?」

 

 父の言葉に頷いて暖かい席を譲ろうとしたら手で制されてしまったので、もう一度上げかけた腰を下ろした。すると父は私の隣に立って手許を覗き込む。

 

 いい歳をして図画工作のようなことに励んでいるところを親に見られるのは、何となく気恥ずかしさを感じるけれど、まだ色を重ねていないメンコを一枚サイドテーブルから取り上げた父が、小さく笑った。

 

「これはあの遊戯盤の旗印か。器用なものだ。とても良く描けている。コーゼル侯爵のご息女とフェルディナンド殿の授業を受けた賜物だな」

 

「――……ええ、思わぬ副産物でした」

 

 一瞬あの穏やかな日々が懐かしくなって俯いた私の頭を、大きな手が撫でる。見上げた先の微笑みに少しだけ虚ろな心が慰められた。

 

「しかしお前達が中庭に謎の雪像を乱造して、夜警の兵士達から気味が悪いと苦情が入らなければ、今頃こんなことをしなくても済んだだろうに」

 

 父の言う通り出禁をくらった原因というのは、雪ダルマの乱造をしたせいだ。最初は雪合戦を不敬だと封じられ、次に先の理由で雪ダルマをも封じられた。

 

 これ以上に体力を使う冬の雪遊びは最早かまくら以外にないのだが、あれはコツと熟練度がいるので早々に除外し、代わりに大中小と様々な大きさと形の雪ダルマを連日作りまくったのだけれど……。

 

「あれは不可抗力ですわ。皆様お城の警備をなさっていらっしゃる割に、怖がりすぎるのです」

 

 真円を作れず四苦八苦した雪ダルマは、廃寺の地蔵群か朽ちかけのトーテムポールといった様相を持ち、城の兵士達から大目玉をくらったのだ。せっかく春先まで置いてグロテ……もとい、もののあはれな光景を見ようと思ったのに。風流を解さない人達である。

 

「こちらに来てもうすぐ二ヶ月。王命を授けられてしまった敏腕家庭教師のお前から見て、この国の第一王子はどうだ?」

 

「最初はどんな愚……問題児かと思っておりましたが、正直なところそれほど飲み込みは悪くありません」

 

 唐突な父の問いかけに思わず本音がポロリとしそうになったが、寸でのところで飲み込んで答えた。本当に認めたくないし絶対に赦せもしないのだけれど、教育者としては正当な判定を下すしかない。

 

 私の内心複雑な返答を聞いた父は「そうかそうか」とニヤリ、悪そうに笑う。身内ながらこうも顔がいいと前世の映画俳優の半分は霞むが、そんな父はその表情のままにガウンの懐に手を入れ、どこか見覚えのある封筒を一通私の目の前に翳す。

 

「それはそうとなベルタ。明日はヴァルトブルク殿の新作の初日公演だったのではないか? 書庫にこれを置き忘れていたぞ。私も含め、大事な用件の結果を聞きにいくのだろう?」

 

 その言葉に慌てて広げていたメンコと絵具を片付け、苦笑する父におやすみの挨拶をして自室のベッドに潜り込んだのは深夜の一時。劇団二作目の公演開始とホーエンベルク様との合流まで、あとたったの十時間だった。

 

***

 

 昼からの公演時間に間に合うよう少し早めに屋敷を出ようと思いつつ、十時頃に自室で身支度を整えていたら、にわかに階下の玄関ホールが騒がしくなった。

 

「何か下が騒がしいですね。お客様でしょうか?」

 

「変ね……お父様からは特に誰かが訪ねて来るとは言われていないのだけれど。あとは一人でもできるから、貴女は少し下の様子を見てきてくれないかしら?」

 

「畏まりましたお嬢様。それでは少し失礼致します」

 

 というような一連のやり取りを経て、鏡台の前で髪型の最終チェックを行っていたのだが……。

 

 何故か戻ってきた彼女とその援軍に再びひんむかれ、私の持っている服の中でも色味の華やかものに着せ替えられた。髪型もそれに合わせて緩い三つ編みから、やや手の込んだ編み込み風に。

 

 さらに最初の髪型に合わせて耳許を飾っていた小さな淡水真珠の耳飾りも、勿論選手交代。その場所をフェルディナンド様お手製の、若草色に金と銀の掠れが入った葉っぱのイヤリングに席を譲った。

 

 こちらが口を挟む間もなくあれよあれよと整えられたのち、着飾ることに不慣れな私はフラフラになりながら、侍女に「応接室にお茶の用意がございます!」とやけに元気に伝えられて向かったものの、そこにはすでに先客の姿があった。

 

「おはようベルタ嬢。待ち合わせまでの時間の潰し方を思い付かなくて、迷惑だとは思ったのだが立ち寄らせてもらった」

 

 そう言いながら謎の歓待ぶりに困った表情を浮かべるホーエンベルク様と、やけに理解のある表情でやりきった感を出す我が家の使用人達。その対比に思わずこちらまで苦笑してしまった。

 

「おはようございます、ホーエンベルク様。ちょうど私も支度を整えていたところでしたので、紅茶を飲み次第お話しながら劇場までご一緒しましょう」

 

 ――三十分後。

 

 ニコニコ顔の使用人達に見送られながら屋敷を出発し、夜の間に降った雪の積もる街路を並んで歩く。その途中で雪かきをしてくれている商工会の人達に会釈をしたり、されたり。滑りやすい足許に気をつけて歩くせいで、会話も散発的だ。

 

 寒い冬空の下をわざわざ徒歩で出かけるのは、今日の公演場所も前回と同じ裏通りの小劇場なので、馬車を使っては混雑するからだ。お客の馬車で混雑するならまだしも、主催者側の馬車が混雑を生み出してはどうしようもない。

 

 そういった理由から本来であれば、屋敷の人間と一緒に出かける予定だったのであまり気にしていなかったけれど……伯爵家の人間が雪道を徒歩で移動って、どうなんだろうか? 今さらこんなことに気付くのって、社会人としては大失敗では? 

 

 しかし引き返して馬車を手配しようにも、すでに結構歩いて来てしまった。だったら街の辻馬車に……とも思ったけれど、一般人との相乗りは嫌だと言う貴族は多い。というより、現在の職場環境からはむしろ全体の九割がそうだ。

 

 さっきから会話が途切れているのも辛いし……ええい、ままよ! と、気合いを入れて口を開こうとした次の瞬間。

 

「その耳飾りは……エリオットの自作か?」

 

 いきなりホーエンベルク様に出鼻を砕かれた。いや、正確には彼なりに気を使って会話を探してくれていたのだとは思うけど、いまかー。

 

「ええ。良くパッと見ただけでお分かりになりましたね。流石長年のご友人ですわ。以前フェルディナンド様が髪につけられているガラスビーズに言及したら、去年の誕生日に頂いたのです」

 

「そうか。相変わらずあいつの装飾品の見立ては確かだな。貴女の優しげな雰囲気と今日の装いにとても良く似合う」

 

「は……い……?」

 

 まったく褒め言葉を予期していないところで、いきなり微笑み混じりにそんなことを言われたものだから、ジワジワと頬に熱が集中する。前世で同僚の異性にかけられた言葉と言えば、

 

『親御さんから“この塾ってブラックなんですか?”って聞かれたけど、あれお前のことだろ。隈すごいから本部の視察がくる前に化粧で隠しとけよー』

 

デスマーチ期間(受験シーズン)だからって、肌荒れ酷いよ○○先生』

 

『はー……たまには華やかな色の服でも着て、彩り添えてくれたらいいのに』

 

 などなど。誰もが限界の状況下、ギスギスしい事務所内で主にマイナスの発言しかされてこなかったせいか、こういう場合の免疫が少ない。インフルエンザだって一度かからなければ抗体ができないから。

 

 勿論言われっぱなしになるのは嫌だが、言い返して次の授業に使う体力が減るのも面倒だったので、相手に手持ちの手鏡を印籠のように翳して『そっちもね』とは言ったけど。

 

「ベルタ嬢? どうかしたのか?」

 

 自分でも知らない間に立ち止まっていたらしく、彼がそう言って顔を覗き込んできた。赤くなっているだろう顔を見られたくなくて、一歩下がっ――。

 

「えっ?」

 

「危ない!」

 

 いきなり後ろに倒れかけた身体は、真逆の力で引き起こされて。気が付けば私はホーエンベルク様の腕の中にいた。

 

「靴の踵が雪の塊を踏んだようだ。大丈夫だったか?」

 

「は、い、ご迷惑を……おかけしました」

 

「はは、これくらいで大袈裟だ。雪のせいなのだから気にしないでくれ。それよりも足首や膝に痛みはないか?」

 

「たぶん……ありませんわ」

 

「“たぶん”はかえって心配になるな」

 

 彼は私を抱き留めた状態のまま笑った。冬の空気で冷えていた身体は冗談のように熱くなる。恥ずかしい。

 

 考えてみたらこの気温で頬が赤くなっていることなんて普通だ。それを焦って自意識過剰な動きを見せたりするからこうなった。恥ずかしい。

 

「また転びそうになるのは心配だ。貴女さえ嫌でなければだが……劇場まで杖の代わりとしてでも頼って欲しい」

 

 そう身体を離した彼が、見た目通りの逞しさだった腕をこちらに差し出して、エスコートを待つ姿になる。

 

「……では、これ以上みっともない姿をお見せしないで済むよう、お言葉に甘えさせて頂きますわ」

 

 涼しい顔でそう言い繕うのが、何気に一番恥ずかしかった。



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*6* 情報は千金の価値あり。 

 

 ホーエンベルク様の手を借りて劇場に近付くにつれ、段々と人の気配が濃くなっていく。そのことにさっきまでの気恥ずかしい気持ちが高揚感となり、同時に緊張感へと繋がった。

 

 するとそれが掴んだ腕越しに伝わってしまったのか、ホーエンベルク様がこちらを見下ろしてフッと表情を和らげる。

 

「そう言えば今回はヴァルトブルク殿の書き下ろした脚本だと言っていたな」

 

「はい。私もまだ脚本を読ませて頂いたことがないものですから、内容を知るのは本当に今日が初めてで」

 

 城内勤務中にも時間の都合がつけば、図書室での遊戯盤に参加してくれる彼だが、この件に関してはどれだけ探りを入れても『と、当日までは、秘密です』と言葉を濁すだけだった。

 

 もしや私が彼の作品に口を出すとでも思われたのかとショックだったので、それ以上は突っ込まなかったのだ。そもそも彼はアンナとの仲は良好であっても、私との仲は未だに未知数。妹の婚約者候補に入るかもしれない人物に嫌われるのは避けたい。

 

「そうか、それなら今回は話の筋書きを知らないもの同士の会話ができるな。前回の公演は、貴方とアンナ嬢とヴァルトブルク殿の掌で踊らされっぱなしだったから楽しみだ」

 

「まぁ……掌で踊らされたのですか?」

 

「ああ。悔しいことに最後までな。今日は連れ出せなかったが、フランツ様も同じ気持ちだったのではないかと思う。それくらい刺さった(・・・)

 

 どこまでが本気なのか、そうおどけるように言いながらトンと胸を人差し指で突く彼の動作に、思わず普通に(・・・)笑ってしまった。

 

「心配しないでも、きっと今回も前回の演目と同じように大入りだ。それに今日は他に確認することもある」

 

 ――彼のその言葉には、それまでのような微笑みはなかった。

 

「俺もフランツ様の家庭教師に抜擢された当初は、わけの分からない嫌がらせや誹謗中傷を受けた。しかし貴方のように手紙を止められたことはない。単に俺が実家に手紙を送ることが少なかったこともあるだろうが、貴方の一件は奇妙だ」

 

 まるで親しい人間との接点を奪うことで、徐々に逃げ場を潰していくような動きは不気味だった。細々としたものまで数えると、嫌がらせをしてくる相手の数が多すぎて犯人を特定できない。

 

 仮に特定できたとしても、相手が本当にただ大した考えもなしにこの手紙を止める嫌がらせをしていて、私が神経を尖らせすぎているだけかもしれないのだ。おまけに城内にいる貴族の中では弱小もいいところなので、相手側の家格が高ければ揉み消されてしまう。

 

「考えすぎであることに賭けたいところですわね」

 

 実に納得のいかない問題ではあるものの、前世も今世も派閥争いとはかくも熾烈なものである。

 

 その後はホーエンベルク様の助けもあり、何とか転ぶことなく劇場前に辿り着くと、半券の確認をする団員達に混じって、輝くように美しい栗色の髪をした少女を見つけた。アンナだ。

 

 こちらに背中を向けて話し込んでいた妹に、ヴァルトブルク様が私の存在を伝えてくれたらしい。髪が翻る勢いで振り返った妹はそのままこちらに駆け寄ろうとして、さっきの私の二の舞になることを察知したヴァルトブルク様に止められる。

 

 代わりに私はホーエンベルク様の杖としての能力を信じ、急く心のままに妹の元へと足を踏み出した。

 

「お姉さま……!!」

 

「アンナ……!!」

 

 団員とお客のいる前で生き別れていた姉妹の如く固く抱き合い、互いの無事を喜び合った。

 

 傍目から見たらさぞかし奇異に映っていることだろうと思っていたら、ポソポソと『次回作の広告かな?』『姉妹ものかぁ』などという声が聞こえてくる。それを拾ったのか、ヴァルトブルク様が“その手があったか”みたいな顔をしていたけれど、敢えて触れまい。

 

「良かった……やっぱり新聞は見張られていなかったのね。ごめんなさいアンナ。私やお父様からの手紙が届かなくて心配だったでしょう?」

 

 しっかり顔を見るために身体を離してそのバラ色の頬を両手で挟むと、アンナはフニャッと表情を緩めて泣き笑いのような微笑みを浮かべた。

 

「ええ。でもお姉さまがこうして元気ならもういいの。ヴァルトブルク様にそのお話について伺っていたところよ」

 

 妹の言葉に、後ろに控えていたヴァルトブルク様が頷く。

 

「新聞広告の、記載は、公演の一ヶ月以上前から、決まっていたので。ベルタ様の、読み勝ちです」

 

「この分だとアグネス嬢とエリオットも領地から出て来るだろう。案外もうこの辺に居るかもしれないぞ?」

 

 ホーエンベルク様のそんな言葉に割と近くの人垣から「は~い」と。間延びした朗らかな声が聞こえた。




短いのでもう一話投稿します。


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★7★ 彼女の本質。

 

 二週間前から俺と彼女の間で話題に上がっていた劇団の新作公演が、ついに明日始まるという前夜。明日の非番を前に翌週分の仕事を片付けながらも時間を気にしては、時計の進みが遅い気がして首を捻った。

 

 何度か新聞の端にあった広告の切り抜きを手にし、そこに書かれた【ミステル(宿り木)座・新作公演】という箇所を確認する。場所は以前と同じ裏通りの小劇場。馬車の往来が難しい地区だ。

 

 ふと気になって自室のカーテンを開けて窓の外を覗けば、ランプと暖炉の明かりにぼんやりと照らし出された闇の中、白い雪が淡く揺蕩(たゆた)っていた。しかし、ただそれだけのことだ。冬に雪が降ることに何の不思議もなければ、面白味があるわけでもない。

 

 けれど、ふと。彼女もあの裏通りの道幅を知っていることに気付く。彼女の貴族の子女としての振る舞いに不安を感じたことはない。だが、常識の枠が貴族よりも平民に近いと感じることがたまにある。

 

 だとしたら、明日は徒歩で約束の場所まで向かおうとするかもしれない。けれどその道のりを一人で歩く彼女ではないはずだ。だとしたら誰と向かうのだろうか。

 

 ――そこまで考えて、不意に苦い気分になった。

 

 別に彼女が誰を伴って約束の場所に現れようと、それをとやかく言う権利は俺にはない。だというのに――。

 

「……面白くないな」

 

 ポツリと漏れた独り言は深夜の静けさの中にやけに鮮明に残って。

 

「良識的な彼女なら……明日の朝突然屋敷に迎えに行ったとしても、追い返されはしない、か?」

 

 自分でもどうかしていると思う。約束と違う行動を取ることに良識がないのも重々承知だ。ただ、どうしても一度思い至ってしまうと行動に移したくなる。かつて従軍中に夜襲を思い付いたときもそうだった。

 

 それに明日は、間違いなくエリオットも来るだろう。だとしたら、もう俺と彼女の接点は城内で働くただの同僚になる。彼女の教え子の情報を共有できるのはエリオットだけだ。

 

 あいつとの付き合いは彼女との付き合いよりも長い。女性とあまり長続きする質ではないあいつが、珍しく彼女のことを気に入っているのも分かっている。

 

「……まぁ、似合いの二人だろうな……」

 

 窓ガラスにうっすらと苦笑と溜息の入り交じった情けない表情が映り込み、家名を変えた日のことを思い出しそうになって、カーテンを閉めた。

 

◆◇◆

 

 翌朝、昨夜の予定通りに彼女の屋敷へ向かった俺を、エステルハージ家の使用人達は嫌な顔一つせずに歓待してくれた。まったく予期していなかった歓待ぶりに戸惑う俺を見た彼女も、嫌な顔はしていなかったように思う。

 

 道中彼女の耳許に揺れるガラスの耳飾りにエリオットの気配を感じ、あいつの見立ての正しさと、彼女の常では見られない華やかな装いに言及したりもした。

 

 その後の彼女にとっては事故的なことで、こちらにとっては少々喜ばしいことがありつつも、無事に劇場前でアンナ嬢や、アグネス嬢と一緒に来ていたエリオットと合流できた。

 

 ただ教え子達二人を演劇を見せるためだけに、今日ここへ連れて来ることはできなかったという話を聞かされた彼女は、僅かに表情を曇らせた。恐らく本人もそうそう都合の良いことは起こらないと分かっていても、期待せずにはいられなかったのだろう。

 

 けれどすぐにまたいつもの穏やかな微笑みを浮かべ、エリオットとアグネス嬢に今日訪れてくれたことへの礼を述べていた。

 

 ひとしきり再会を喜んだところで公演開始の合図であるベルの音が鳴り、急き立てられるように一同会場内に入場して観劇したのだが――。

 

「王道にちょっと捻りを加えた作品で素晴らしかったですわ~。まさか途中でヒロインが交代するだなんて。しかも何だかちょっぴり背徳的な恋愛模様まで入っていましたわよね? ヒロイン×ヒロインの匂わせ……新しい境地でしたわ~」

 

「ええ、本当に。男装の麗人という設定はたまに見かけますが、ヒロインが麗人の正体に気付かずに恋をしている設定はなかなか面白かったですわ。麗人にまったく歯が立たないヒーローの立場の弱さも、対比としては新鮮でした」

 

「あ、あれは、アンナ嬢の発案で……その……」

 

「わたしが口を挟んだのはそこだけでしょう? ほとんど原案のままなのだから、この作品は貴男のものよ。変に謙遜なんかしないで、貴男は素直に称賛されていればいいの」

 

 いつものカフェに立ち寄って席に着くなり、目の前では次々と今日の公演内容についての感想を述べ合う彼女達に、ヴァルトブルク殿が助けを求めるようにこちらを見るが、そっと視線を外す。

 

 正直恋愛物についての感想や、そのことに伴う称賛対象の行方を決めるのはこちらの手に余る。それに今日皆に会って近況を聞くことを楽しみにしていた彼女が、こうもこの話を続けることに乗り気なのも不思議だ。

 

 てっきりもっと早くに教え子の近況を聞き出すと思っていた身としては、肩透かしを食らった。しかしほぼ皆の会話に聞き耳を立てるだけだった俺の肩を、隣に座っていたエリオットが軽く叩く。

 

「女性陣はこういうのが好きだよねー。でも実際さ、騎士団に性別を隠して入団したってすぐバレそうなものだけど。そこらへんってどうなのヴィー?」

 

「あら、それは興味がありますわね~。ホーエンベルク様のお見立てはどうなのでしょう?」

 

「え、あー……まぁ、そうだな。女性とは根本的に身体の作りも基礎体力も違うから、夢のない話をすれば難しい」

 

 突然話を振られたことで咄嗟にそう答えた瞬間、ヴァルトブルク殿の肩が落ち、アンナ嬢の非難するような視線が刺さった。そんな理不尽な……と思う一方で、彼女の表情が気になってそちらを向くと、意外にも楽しげに笑っている。

 

 ――それどころか、

 

「ではどのような設定であれば、今回のような物語でも女性だと疑われにくいと思われますか?」

 

 ――と、訊いてきた。

 

 すると今度はヴァルトブルク殿の肩が上がり、姿勢も正した風に見える。アンナ嬢の視線も非難から興味に切り替わった。その様子に成程と、こちらも今更ながらに質問の意図を理解する。

 

「どんな設定なら、か。この作品の主人公のように武の素養がまったくないような男か、平民階級の者達が集められる下級騎士団なら、武術が達者な女性であれば或いは……といったところだ。ただし何事も現実の世界に忠実であればいいというものではなく、娯楽として楽しむ分には再現がくどくなりすぎないよう注意が必要ではあるだろう」

 

 そう少し悩みつつも口にした俺の言葉を、どこから取り出したのか、分厚いよれたノートに書き込むヴァルトブルク殿と、横からそれを覗き込むアンナ嬢。

 

 褒め合うだけでは気付きは生まれない。

 認め合うだけではただの依存だ。

 

 俺の回答と二人のその姿に満足げに微笑む彼女と、頷くエリオットとアグネス嬢を見て、ふと。どうやらここには教育馬鹿しかいないようだと、わけもなく笑い出したい気分になった。



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*8* シナリオが、忘れた頃に牙を剥く。

 

「おいお前、顔色が悪いぞ」

 

 ぼんやりとしていたのか、そう声をかけられても反応するまでに僅かな間ができた。そのことに気の短い声の人物は苛立ったらしく、私が視線をそちらに向けたときには、すでに椅子から腰を半分上げかけている状態だった。

 

「ああ、いえ……ご心配ありがとうございます、マキシム様。ですが体調不良ではないのでお気になさらず。昨日友人達と久しぶりに会えたことで、少々羽目を外しすぎただけですから」

 

 顔色の悪い元凶に心配されたところで嬉しくない――……は、いくら何でも大人気がなさすぎるか。とはいえ、このお通夜気分とまったく無関係でもない人物に対して笑顔を向けるのは、現在の体調的に辛すぎる。

 

 マキシム様はこちらの答えに「だ、誰が心配などするか。自惚れるな」と返し、再び問題を解くために教材へと視線を落とした。

 

 そこで十五分の砂が落ちきっていることに気付き、砂時計をひっくり返す。

 

 ――昨夜。

 

 初日公演を無事に終え、カフェでの反省会を済ませたのち、劇場を借り上げての打ち上げの席で団員達がヴァルトブルク様を胴上げして、私達はそれを見ながら買ってきたお酒とオツマミで飲んだ。

 

 その席で右手にアンナ、左手にアグネス様という両手に花の状態な私と、明日も私同様仕事なホーエンベルク様が、フェルディナンド様のお酌を避ける様子を見て笑っていたときのこと。

 

『お姫様は元気だよー。いまは四月の社交シーズンに向けて仕上げに取りかかってるけどさ、気迫が凄いんだよね。ベルタ先生に成長した姿を見せるんだって意気込んでる。それにもっと言うなら、もう少し早くこっちに出てこられる可能性もあるけど。聞きたい?』

 

 王都に三日ほど滞在するからと、強いお酒ばかり嗜んですでにできあがったフェルディナンド様のその発言で、突然それまでのほろ酔い気分から一転、雷に貫かれたように素面に戻った。

 

 四月の社交界シーズン前にこちらに出てくる可能性。そんな中途半端な時期に思い当たるイベントなんて一つしかない。ここに来て教え子のルートが消えたわけではなく、潜伏していただけ疑惑が持ち上がった。

 

 時期は三月の一週目。イベントは【第一王子の誕生式典】で、内容は婚約者候補として目をつけられるというもの。

 

 何度目かのプレイ中に踏んだときは、これが正式なハッピーエンドの分岐だと信じて疑わなかった。だって王子様だもの。乙女ゲームはやったことがなかったものの、王子様といえば絵本でだって安心安全の鉄板キャラクターだ。ただし、人魚姫の王子は除外とする。

 

 ――が、結果は何度も通ったバッドエンドルートのうちの一本。

 

 モラハラでパワハラなモンスターと化した第一王子が、あの手この手で教え子を虐げ倒して死に追いやる。私に会いたさに努力してくれる健気可愛い教え子をだ。

 

 しかしこれもだいぶ時期が早まっているのは、もう神の意思(シナリオ強制力)としか表現しようがないのではないだろうか? とんだ邪神(製作者)がいたものだ。

 

 でもあの楽しそうなフェルディナンド様の言葉を遮って、絶対聞きたくないとは言えなかった。

 

『コーゼル侯爵がお姫様がいないときに教えてくれたんだけど、第一王子の誕生日に招待される可能性があるんだってさー。で、それがベルタ先生を紹介したかららしいんだよ。本当にいけ好かない人だよね。絶対死ぬときは地獄行きだ』

 

 ほろ酔い気分っぽかったというのにとてもいい笑顔で悪態をついていた彼も、絶対にあの侯爵に思うところがあるに違いない。本来自由人で一処に縛られるのも、身分に縛られるのも嫌いな人なのだ。

 

 それを階級を笠に着てあれこれと指図されるのは、前世のブラック塾の縦社会に慣れきった私には想像できないくらい屈辱的だと思う。

 

 ――と、そんなことを考えていたら……。

 

「砂時間! もうこの授業分は終わってるぞ! 何をボーッとしているんだ!」

 

 机を叩く大きな音と同時にそう吠えた彼の手には、何度も斜線を引いたあとの残る問題集。慌てて言葉の真偽を確かめようと時計を見れば、確かにすでにこの授業の持ち時間は終わっている。何という体たらくだ。

 

「申し訳ありません。すぐに採点を済ませますので少々お待ち下さい」

 

 問題集を不機嫌顔の彼の前から引き寄せて、赤いインクに浸したペンを構える。ザッといつも彼が間違える公式を重点的にさらっていくが――。

 

「あら、まぁ……間違いが見当たりませんね。これまで四度躓かれていたところもできています。素晴らしいですわ、マキシム様」

 

「何っ、ほん……と、当然だ」

 

「笑いませんので、もっと素直にお喜びになられてもよろしいのでは?」

 

「……うるさい」

 

「左様ですか。それでは私からとっておき(・・・・・)の印を描かせて頂きます」

 

 難しいお年頃の彼にそう言ってから、久しぶりにあの(・・)特別な丸を示す赤い花を頁いっぱいに描いた。途端にその表情が低学年の子供のような無邪気な輝きを放つ。どうしてこのまま成長できなかったのか。

 

 あ、でも待てよ。このまま成長したところで、ツンデレ俺様気質になる未来しかないなと思い止まる。あれは相手にマゾっ気がないと非常に辛そうだし……やっぱりどのみち矯正するしかないのか。

 

 満更でもなさそうに問題集の頁を眺める推定暴君に「休憩行きましょうか」と言えば、彼は生意気にも「グルグルバットは嫌だぞ」と、一時テレビでお笑い芸人達の三半規管を狂わせた、かのゲームを拒否した。

 

 あれをやった後に走らせて中庭に人形のアートを作るのが楽しいのに。私は適度に速度を調整している。全力で回る彼がお馬鹿さんなのだ。

 

「明日には新しい遊びをご提供しますので、今日はグルグルバットにしましょう。それとも最後まで私の走行距離を抜けないままお止めになられますか?」

 

 こちらの安い挑発に「馬鹿にするな! 今日はわたしが勝つ!」と意気込むその姿に、いっそ憐れを催す。それに心配しすぎていい結果を残せるわけでもない。ここはプレイ中にはあまり使わなかったコマンド【様子を見る】に一票と判断し、マキシム様と図書室を出た矢先――。

 

「おお、マキシム様、ここにおられましたか」

 

 そう見知らぬ身形のいいナイスミドルに呼び止められた彼が、形容しがたい表情になって動きを止めた。



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*10* 巻き込まれ家庭教師の受難。

 

 四十代の後半くらいだろうか。アッシュグレーの髪と、アイスブルーの瞳に、形のいい薄い唇をしたナイスミドルは、当然のように知らないキャラクターだ。

 

 ここまで知らない人物ばかりだと、かえってこの世界に“生きている”んだなという実感が湧く。最早前世のパソコン画面で見た人物相関図だけでは生きていけないようだ。某海外の貴族の一族を主役にしたドラマのように、愛憎関係も無限大とかだったらどうしよう。

 

「ランベルク公……所用で国を空けていると聞いたが、もう戻ったのか」

 

 一瞬の逡巡の後、ついさっきまでの子供っぽさを消したマキシム様は、第一王子らしいやや高圧的な物言いで、お相手のナイスミドルにそう問うた。

 

 とはいえ私は確実にお相手よりは格下なので、口頭では“こう”が“公”なのか“侯”なのか分からないのは不便だなー、などと考えつつ壁際に身を寄せた。この場での私の立場は空気。マキシム様から紹介をされるか、向こうから訊ねられるまで喋らない方がいい。 

 

「つい先程です。それよりもマキシム様が私が国を離れた間に、また家庭教師を解雇したと聞き及びましたので。なに、人間同士、合う合わないはございます。すぐに新しい家庭教師を手配致しましょう」

 

 まるでこちらを見ないでそう口にするナイスミドルに、正直願ったり叶ったりなのでよろしくどうぞと念を送るも、彼の言葉を聞いたマキシム様の表情が一気に険しくなった。

 

 何で急に苛立っているんだこの子は……と、そこでふと彼の言葉の違和感に気付く。いまこの人は“家庭教師を手配する”と言った。だとしたら前回までマキシム様を受け持っていたやる気のない家庭教師を紹介したのは――。

 

「……必要ない」

 

「そういうわけにも参りますまい」

 

「すでにこの者に家庭教師を任せている」

 

「ほう、こちらの者が? 失礼ながらメイドかと思っておりました」

 

 そう声だけは穏やかに。けれど身に纏う気配や言葉や表情から、ナイスミドルがこちらを小馬鹿にしきっていることが窺える。まぁそれは“公”にしても“侯”にしても、どちらの階級でも子爵家の人間なんて取るに足らない存在でしょうが?

 

 どう考えても最悪すぎる自己紹介のパスに“下手くそか!”と内心突っ込みつつ、表面上は笑みを保って、失礼すぎるナイスミドルにカーテシーをとった。

 

「お初にお目にかかります、閣下。私は城で文官を務めております、ハインリヒ・エステルハージの長女で、ベルタ・エステルハージと申します。現在ご縁がありまして、マキシム様の家庭教師を務めさせて頂く栄誉を賜っております」

 

 その言葉を聞いたマキシム様が胡乱な視線を送ってくる。普段はほとんど栄誉を賜っているようには見えないからだろうが、私も大人ですので。

 

 するとこちらの自己紹介を聞いたナイスミドルは鼻で軽く嗤う。嫌な感じだな、来るぞ来るぞと身構えていると、案の定。

 

「聞いたことがあったかどうか思い出せんが……その歳で生家の家名を名乗るとは、余程家族仲が良いのだろうな」

 

「はい、恥ずかしながらそれはもう。ですが閣下が仰るように、我が家は家族仲の良さ以外はさしたる功績もない子爵家ですので、ご存じではないのも当然かと思われます」

 

 前世だとセクハラ待ったなしの皮肉に反応するのも面倒だ。皮肉の続きが出てこないうちに会話の糸口を断ち切れば、相手は眉を僅かに不愉快そうに顰めた。先にふっかけてきたのはそっちだろうが。お前なんかもうただの中年(ミドル)で充分だ。

 

 ――と、何を思ったのか、急に私と中年の間にマキシム様が割り込んできた。

 

 まだやや私の方が背が高いものの、それでもほとんど身長差のない彼が前に立つと、私と中年の視線が合いにくいのは確かだ。もしや庇われているのかな?

 

「ランベルク公、用件がそれだけならわたし達は所用がある。この者を家庭教師に据えた経緯は、陛下か宰相にでも直接訊ねればいい」

 

「成程、畏まりました。足をお止めさせてしまい申し訳ありません」

 

 常の授業姿を見ている身としては一丁前に小生意気なことをと思うが、ここは素直にこの若い権力者に守られておこう。

 

 そして台詞のわりに慇懃な感じのする礼をした中年を一瞥したマキシム様は、こちらに向かい「構わん。行くぞ、ベルタ」と、勝手に呼び捨てにした挙げ句、私の手を掴んでその場から歩きだしてしまった。

 

 引っ張られながらも一応中年を振り返って会釈したけれど、直後に凄い視線を向けられる。

 

 非常に納得いかない気分になりながらも、中庭とは反対側の鍛練場へと歩を進める彼に、今後のためにも奴の正体を確かめておかねばなるまい。

 

 周囲に誰もいないことを確認して、前を歩くマキシム様の後頭部に「先程の方は結局のところ、どなただったのでしょうか?」と訊ねれば、彼は振り返ることも歩みを止めることもなく、ポツリと。

 

「亡くなった王妃の兄で……わたしとフランツの伯父だ」

 

 情報としてはたったそれだけ。しかしそれだけでもそれなり以上に、面倒事の匂いしかしない自己紹介を述べてくれた。



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*11* 見落としがちなこと。

 

 就寝にはまだまだ早い時間帯。

 場所は自室のベッドの上。

 目の前には明日の昼に帰ってしまうアグネス様と、アンナの姿。

 女性三人、ドレスコードはパジャマ一択。

 

 これで何も起こらぬわけがない――……ので、現在明日には領地に帰ってしまうアグネス様とアンナをゲストに招き、教え子がお泊まりしていたとき以来のパジャマパーティーを開催中である。

 

 昼間の中年とは違ってきちんとイケてる我が家の父は、婚姻前のご令嬢が泊まりに来ている屋敷に自分がいては世間体が悪いからと、ヴァルトブルク様のお屋敷に泊めて頂く手筈を整えて城で別れた。

 

 会話の順番は最初はアグネス様から。内容はアウローラの手紙から推測される学習の成長。一応手土産として最初に私がコーゼル領を離れてから、添削して送り返した以外の教え子の手紙はもらったけれど、細かい勉強内容は同僚から直接聞くに限る。手紙は二人が帰ってしまってから大切に読むつもりだ。

 

 その次はアンナの番。劇団での出来事と、本人は無自覚に並べるヴァルトブルク様とのアオハルなやり取りを聞き、アグネス様とキュン成分を全身に浴びて、目配せで“可愛い!”を叫びあっていた。

 

 実際同僚とはいえ父が今夜すんなりあちらのお屋敷にご厄介になれているのも、何となくではあるが無関係ではない気がしている。早くこの二人を公認で推せる日が来ることを願って止まない。

 

 そしてこの集いのオオトリを飾ったのが、昼間遭遇した中年と私と王子の話だったのだけれど――。

 

「まぁまぁ、それは災難でしたわね~。オー人事待ったなし案件ですわ~。花も恥じらう女性にそんなことを仰るなんて、その方はきっと木の股からお生まれになったのよ。もしくはご自身で単体生殖されたのかしら?」

 

「本当に最低で無礼な方だわ。お姉さまは全面的な被害者なのに。それに不敬を問う人間がいないから言いますけど、これまで第一王子が真面目でなかったことがそもそもの元凶じゃない」

 

「ふふ、そうね。でも何だか斬新な悪口を聞いたなとは思ったのよ。実際面白いかどうかは別として」

 

「まぁ……うふふ、そんなに眉間に皺を刻んで言われても説得力がありませんわ~」

 

「アグネス様の仰る通りです。わたしは絶対そんな人とは結婚したくないわ」

 

 勿論守秘義務として中年の身許や関係性はぼかし、ただの高位文官として話したものの、出るわ出るわの絶許感想に心が浄化された。

 

 ――その翌日。

 

「それじゃ早かったら三月、遅くてもまた四月に会いに来るよー。取り敢えずベルタ先生は嫌味中年と二人きりにならないよう注意して、ヴィーはしっかりベルタ先生のこと守ってやりな。お姫様が来る前に先生に何かあったら絶交だから」

 

「肝に命じておく」

 

「ベルタ様、もしものときは“急所を狙って回避”を常に心がけて下さいませ。目でも鼻でも脛でも。あとは……はしたなくて言えませんわね。では、アウローラ様の成長ぶりとマリアンナ様の改造ぶりをお楽しみに~」

 

「アウローラ様の成長はともかく、マリアンナ様の改造ぶりが気になりますけど……楽しみにお待ちしておりますわ」

 

 ――と、仕事であまり私とホーエンベルク様が遊べなかった代わりに、三日間の滞在をほぼ二人で遊び回ったアグネス様とフェルディナンド様は、お互いの馬車に乗り込む前にそう言い残して去って行った。

 

 残された私とホーエンベルク様は二人の発言に苦笑しつつも、互いに王子を担当する同僚としての結束を固めた。

 

 ――、

 ――――、

 ――――――日から一ヶ月と八日。

 

 時間が、溶けた。本当にそうとしか表現しようがない。気がつけば明後日はもう第一王子の十五歳を祝う生誕パーティー当日である。

 

 正直私は舐めていたのだ。

 王族の関係する催しの詰め込み形式典の準備期間を。

 準備を始める最良の日を占いで決めるという非効率的な習慣も。

 前世の母国の催しだともっとゆったり準備をしているように見えたのに。

 

 それに伴いせっかく作ったあのメンコ達は未だに活躍していないし、教え子の手紙はまだ半分も読み終えていない。

 

 その間にヴァルトブルク様の舞台は、新風を求める女性達の口コミから火がつき、隣国からも上演したいとオファーが飛び込んだり。

 

 それに同行するよう求められた妹が商魂逞しく、隣国でまで私とフェルディナンド様の合作である遊戯盤見本を持ち込み、ヴァルトブルク様の舞台の後に第一シリーズの公演をして、富裕層を相手に注文販売を受け付けたり。

 

 父が死んでも望んでもないのに二階級上の部署へと大抜擢され、毎日面倒がって登城拒否をしていたり。

 

 ただ不愉快な中年は初めて顔を合わせて以来、一度もこちらに接触してくることがない。平穏なのは助かるが、かえって不気味なものを感じる。しかし本当に何だかんだと急に周囲が騒がしくなってきて、私も暦を二度見どころか三度見する早さで日々の時間を消費していた。

 

「いいですかマキシム様、流石にご自分の生誕パーティーで二時間着席していられないのは問題ですから、当日はなるべく大人しくなさって下さいね」

 

「お前、日毎に念押しがしつこくなってきたな。分かっていると言っているだろ。大体去年までより仰々しい服装で二時間席から動くなとか……拷問だぞ?」

 

「えぇ、まぁ……それは本当にお気の毒ですが、十五歳の節目ですからね」

 

「五年事の節目は嫌だ。せめて十年単位にしろ。わたしは二時間席に座っているよりも、二時間ずっと踊っている方がマシだ」

 

 そう言われてパッと脳裏に浮かんだのは前世で有名だった残酷童話だ。教会に赤い靴履いて出かけた女の子のやつ。いや、それは招かれる側が地獄だろう。

 

 将来暴君になるルートがある人物が言うと、ああいう最後が待っていそうで洒落にならない。重みが違う。しかしこの短期決戦中に裏の手を発動させたので、仕上がりはまぁ、及第点といったところだ。

 

 裏の手の正体は適度な鞭と、過度の飴。普段と同じ努力をさせ、普段の倍は甘やかす。問題は若干の中毒性だがそこには目を瞑った。

 

「一家庭教師ごときにそう申されましても。あ、でしたらご自身で戴冠なされてから、そのように王族の節目を定められてはどうでしょう?」

 

「陛下はまだご健勝だ。一歩間違えたら叛乱罪に問われるぞ、お前」

 

「それが分かっておいでなら、当日はよろしくお願いしますね?」

 

「お前こそ約束通り当日はわたしの傍にいろよ」

 

「マキシム様こそ念押しが強いですわね。畏まりましたともう何度も申し上げております。限界になったら見極めて退席するお手伝いをさせてい――……」

 

「どうした? 変なところで話を切るな」

 

「いえ、何も大したことではありませんわ。当日が楽しみですわね」

 

 嘘である。それも特大の。すっかり失念していたのだ。家庭教師で子爵の自分が、王城の舞踏会で見劣りしないドレスを持ってなどいないということを。

 

 その後訝かしむマキシム様を強引に時間を理由に言いくるめて別れた私は、別の部屋で同じく式典に向けてのおさらい中のホーエンベルク様達の元を、恥を忍んで強襲した。久々に再会する教え子にみっともない格好は見せられないもの。



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*12* 魔法使いとドレス探し。

 

「え、ドレスをまだ用意していない……ですか」

 

「いまはどこの婦人洋品店も最後の微調整で大変だと、城内のあちこちで耳にする。どうしても手持ちのドレスでは駄目なのか?」

 

 知恵を借りに飛び込んだ先でフランツ様からは宇宙を感じる猫の顔をされ、ホーエンベルク様からは沈痛な面持ちをされてしまった。やはり今更気付いたところで絶望的なのか。泣きたい。

 

「それが……知り合いの元を訪ねるものか、街を歩く程度のものしか持っていなくて。ですが流石に無理ですわよね。授業のお邪魔をしてしまって申し訳ありませんでした」

 

 諦める気はないが、収穫があるかどうかも分からないことに二人の手を借りるのは如何なものかと、急に冷静になった。一人で探そうと思って早々に部屋を立ち去ろうとした私の背中に「少し待ってくれ」という声がかけられ、フランツ様がこちらに向かって頷いてくれる。

 

「毎年の行事なので、ほぼ当日の手順は憶えています。先生、ベルタさんの手助けをしてあげて下さい」

 

「そういうことだベルタ嬢。仕立て屋なら腕のいい人物を一人知っている。引き受けてくれるかは分からないが、いまからすぐに向かってみよう」

 

***

 

 ホーエンベルク様に連れられて向かったのは、表通りの一等地……よりはほんの少し外れにある、そこそこ歴史の古そうな小さな仕立て屋だった。

 

 七十歳の品の良い店主に来店した経緯を伝えると、にこやかだったその表情が段々と難しいものになる。

 

「ホーエンベルク様に腕をかって頂いたのに残念ですが……女性ものは男性ものと作りがまったく異なります。納期が今日を入れて三日で全てとなると、絶対に仕上げられませんなぁ」

 

「そう、ですか……」

 

 至極当然すぎる言葉に項垂れそうになった。肝心なところで抜けている我が身を呪っていると、気遣わしげな表情のホーエンベルク様と目が合う。自分の責任ではないのに酷く辛そうな表情をしてくれる彼に、ここまで付き合ってくれたお礼を言おうと口を開きかけた――そのときだ。

 

「ですのでここは一つ何かしら使えそうな女性ものの既製品を下敷きにして、上から被せるようにして繋ぎ合わせてみましょう。生地の色味は少ないですが、うちの品は一級品ばかりです。それにかえって奥様の髪色が映えると思いますよ」

 

「お、奥様……?」

 

 提案の内容も勿論気になった。気になったけれどそれを上回る単語が飛び出したことに驚いて、思わず復唱してしまう。

 

「店主、違う。彼女に失礼な誤解をしないでくれ。彼女は俺の同僚で、今回少し手違いがあって衣装が用意できなかっただけだ」

 

「おやおや、左様でございましたか。失礼しました。これでも昔はお客様のご関係を見る目には、少々自信がありましたのに。まぁ、今日はもう店を閉めるところですし、早速これから材料探しに出かけますかな」

 

 直後に入ったホーエンベルク様の修正のおかげですぐに誤解は解けたものの、一生言われないだろうと思っていた呼称に火照る頬を押さえ、ノリのよろしい店主の提案に従って店を出た。

 

 ――が。

 

「店主、これはどうだ? 女性らしい形だと思う」

 

「いえ、これは……駄目ですなぁ。生地が柔らかすぎて、上から紳士服の生地を被せると型崩れしてしまいます」

 

「全体的に被せないで、生地の間からだいぶ溢れてしまっても構いません」

 

「うーむ、それでは上から被せる生地に大きくスリットを入れてみましょうか。その間から零れるように引っ張り出せば多少の型崩れはあっても、そこまで気にはならんでしょう。ただしデビュタントに好まれるもののように膨らみすぎるものはいけません。着る方の年齢と雰囲気も考慮しなくては」

 

 しばらく三人で表通りの既製服店にあるショーウィンドウを見て回るも、意外にも布の相性というものは難しいらしく、なかなか店主からの合格がもらえないまま時間だけが過ぎて行く。

 

 それに表通りのものは華やかで店主の言うようにデザインも若い。そこで「裏通りも覗いてみましょう」と言う彼について、幾つかの裏通りにある小さなお店のショーウィンドウを見て回っていると――。

 

「……ご店主、あれは? あれはどうでしょうか?」

 

 指差した先には店のショーウィンドウに飾られた、やや日焼けしてクリーム色に変色したコルセット型のウェディングドレスの見本。上半身は極めてシンプルだが、下半身は緩くドレープが施されている。

 

「ほぅ、小さい店だがあれは結婚式用のドレス見本ですか。下請けのお針子の店のようですが……良いですな。交渉してみて下さい」

 

「ああ、任せてくれ!」

 

 ――というわけで、ホーエンベルク様が言い値で購入すると申し出たところ、かえっていきなり現れた貴族に怯えたその店のお針子兼、店主が日焼けした分を差し引いた良心的な値で譲ってくれた。

 

 朝は職場に向かうだけだと思っていた私の財布には、当然の如くあまり大きな金額は入っていなかったため、お店の人に頼んで書留を用意してもらおうとしたら、横から現れたホーエンベルク様が無言のまま立て替えてしまう。

 

「あの、ここまでして頂くわけには……」

 

「書留だと店に支払うまで時間がかかる。ここの店には他に従業員もいないようだから、引き換えに向かわせる人間がいないだろう。現金で支払った方が店側の負担にはなりにくい」

 

「あ、はい。では明日にでもお支払いを……」

 

「乗りかかった船だ。仕立てが済んでからで構わない」

 

 珍しく会話に被せる勢いでそう言われたので、ひとまずは素直に頷くことに。そこでついでに生地も少し買い足し、それら一式を抱えて店に戻り、すぐに採寸に取りかかることになった。

 

「日焼けのせいで多少のシミがありますが、上から生地を被せれば隠れるでしょう。生地も年代物だがちゃんとした絹だ。あんな場所にある店にしては珍しい」

 

 そうホクホク顔をしながら言う老紳士は何だか可愛らしい。まるで思いもよらない玩具を手に入れた少年のようだ。

 

「うちに女性用のトルソーはありませんので、これを着て頂いた上から、直接裁断した生地を載せて仮縫を行いましょう。ホッホッ、今日は久々に徹夜ですかなぁ。明日また夕方にいらして下されば、そのまま本縫いに入ります。仕上がりはギリギリ当日の朝になりますが構いませんかな?」

 

 心底楽しそうにそう言ってくれる店主と、こちらに「何とか間に合いそうで良かった」と笑いかけてホーエンベルク様を前に、張り詰めていた緊張の糸が緩んで思わず少し泣きそうになった。



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*13* ガラスの靴ではないけれど。

 

 第一王子の生誕式典当日の朝。

 

 他の式典準備に追われるホーエンベルク様と違い、私の仕事は夕方からの本番にマキシム様の傍で目を光らせるだけなので、それまでの時間は自由だ。

 

 そこで店主の手によって届けられたドレスの最後の試着をし、細かな部分の微調整をしてもらうことになったのだけれど、侍女の手によって本格的に着付けられた私の姿を見て、店主は顔を綻ばせてくれた。

 

「おやおや、まるでツバメの王女様ですなぁ。実にお似合いです」

 

「お褒めに与り光栄です。その、王女様……は、ともかくとして、ツバメはこのドレスにぴったりの表現だと思います。短期間でここまで素晴らしいものを仕立てて下さって、本当にありがとうございます」

 

「なんの、こちらこそこの歳になってまだ新しい試みができたことと、試行錯誤の楽しみを与えて下さって感謝致しております。こういうのもなかなかどうして、面白いものですよ」

 

 コルセットと燕尾服が合体したような不思議なドレスは、前面にはグレー系のオーガンジーで地のドレスを覗かせ過ぎず、後ろの燕の尾のような大胆に裁断された布地の下からは、年代物でややクリーム色に日焼けをした絹のウェディングドレスが零れる。

 

 上半身の元のウェディングドレス部分は、燕尾服のドレスと共布の黒い生地で前面から見た姿は紳士服のジレに見立て、背中の部分にあしらわれた赤いリボンで女性らしい華やかさを添えられていた。コルセット型の原型を上手く活かしている。仕事も確かで手直しも必要なさそうだ。

 

「ふむ、どこも問題ないようですな。ではこちらの黒い長手袋(オペラグローブ)はオマケです。それと靴ですが……遊びすぎだと思ったのですけれども、参考程度にお持ちしたものがございます」

 

「ご店主のお見立ててあれば是非見せて頂きたいですわ」

 

「そのように仰って頂けると嬉しいですなぁ。では、こちらを」

 

 ここまでが完璧すぎたので俄然興味が湧いてそう答えると、店主はニコニコと靴の入っている黒い箱を差し出してくれ、その箱の蓋を開けた瞬間、私の店主への信頼感が天元突破した。

 

 しかもサイズもぴったり。驚く私に「目測とはいえ、採寸中にご婦人の足を盗み見たことを、どうかお許し下さい」と彼は笑った。

 

「やはり素晴らしいお見立てでした。実を言うと私はあまり着飾ることが得意ではなくて。ですがご店主のおかげでいまから今夜が楽しみになりましたわ。それと早速で申し訳ないのですが、ドレスの仕立て代金と、こちらの靴の代金を教えて下さいますか?」

 

 お世辞抜きのウキウキ感を前面に出してそう告げれば、店主はさっきまでよりも一層笑みを深くしてゆったりと首を横に振る。訝かしむ私の前で人指し指を唇の前に翳した彼は、悪戯っ子のようにパチリとウインクを一つ。

 

「お代はすでに全額ホーエンベルク様から頂いておりますので、必要ありません。この度はディック・ワース紳士服店をご利用頂き、誠にありがとうございました。どうか楽しい時間をお過ごし下さいませ」

 

 そう言って美しい礼をとった老魔法使いは、紅茶と一緒に出したクッキーとマドレーヌをお土産に帰って行った。

 

***

 

 そして、ついに教え子の明暗の行方を左右する夕方。

 

 大舞踏会場でフランツ様と最終確認をしていたホーエンベルク様を見つけ、ドレスの代金について問い合わせをしようと近付いたのだけれど――。

 

「ああ、ドレスが間に合ったんですね。斬新なデザインですが、全体的に不思議な調和があって、ベルタさんに良く似合っています。これならアウローラ嬢もすぐに貴方を見つけられますね」

 

 近付いた瞬間に正装した美少年から先制攻撃を受けた。元から女の子のようだった綺麗な顔立ちに、ここ最近男の子らしさも出始めたフランツ様は、今夜の主役である兄王子の存在感を食べてしまう勢いだ。

 

「こんばんは、フランツ様。過分なお褒めに与り光栄ですわ」

 

 そう微笑んでカーテシーをとったものの、何だろうな……兄弟揃って方向性の違う美形というのか、視覚から入る情報が多すぎる。乙女ゲームではないからエフェクトはなかったはずなのに眩しい。

 

 しかしフランツ様はすぐに「私は自分の手順の確認をしてきますね」と言い残し、美しい所作を崩さずに立ち去ってしまった。そんなに長く引き留める用件でもなかっただけに申し訳なさを感じる。ただ、まぁ、子供の前でお金の話をするのも気が引けるからちょうど良いかな。

 

「あの、それでホーエンベルク様にお訊ねしたいことが――、」

 

「首飾りと耳飾りはルビーにしたのか。今夜の貴方はまるでツバメ姫だな。それにその靴も良く似合う。店主が選んだのか?」

 

 ――……ひぇっ。

 

 淡く微笑みを浮かべた彼の言葉に、思わず頬が熱を持つ。やっぱり雪の日の一回では耐性はついてくれなかったか。

 

 咄嗟に足許に視線を落として小さく頷いたけれど、ホーエンベルク様に褒められたドレスの裾から覗く爪先は、女性用のそれではない。

 

 あのとき店主に渡された箱の中に入っていたのは、タップダンスを踊るときにはくものに良く似た、白黒ツートンの可愛らしい靴だった。恐らく元は黒なのであろう靴ひもが、ドレスの後ろのリボンと同じ赤に差し換えられている。

 

「七十代なのに発想が若いな」

 

「ええ、本当に」

 

「履き心地は大丈夫なのか?」

 

「はい、大きさもぴったりです。ヒールも少しついているのですが、女性用よりも安定感があるので、むしろいつもより快適な履き心地ですわ」

 

 あ、間違えた。履き心地を聞かれただけなのに余計なことまで口走ってしまった気がする。これではまるで、今夜の式典のあとにあるダンスに誘って欲しいと言ったように聞こえるのでは?

 

 自身の失言に慌てて顔を上げ、深い意味はないと弁明しようとしたら、何かを言い出そうと口を開きかけたホーエンベルク様と視線が合った、次の瞬間に「ベルタ、こんなところにいたのか」と肩を掴まれた。

 

「ま、まぁ、マキシム様。どうなさいました?」

 

 呼び捨てるなよと思いつつも、程好く驚かされたことで自然にそちらを振り返れて、図らずも頬の火照りを彼に気付かれることを回避できた。今回ばかりはでかした小僧。これで私の自意識過剰な失敗も帳消しになる。

 

「もう式典が始まる。ホーエンベルク伯もわたしの家庭教師相手に油を売っていないで、フランツを連れてそろそろ持ち場につけ」

 

「あら……マキシム様? 何かお忘れではありませんか?」

 

 誰がいつお前の家庭教師になったんだ。あと、次期国王になるとはいえ“歳上相手に居丈高になりすぎるなよ?”と釘を刺す。歴史上だと若い王様が一番暗殺される理由だぞ?

 

 案の定というか、少しだけ振り向いて見たホーエンベルク様の表情も固い。なかなか続く言葉を言い出そうとしないマキシム様に、わざとらしく「私の教育力不足ですわね」と微笑んで見せる。すると、小生意気な小僧の表情に変化があった。

 

「うっ……くそ……ホーエンベルク伯も、退屈な時間に付き合わせるが、頼んだ。これでいいだろう!」

 

「ええ、思いやりのあるお言葉でよろしいかと。ちゃんと“人に物を頼むときには一言添えて”を憶えていて下さったのですね。上の者が下の者に対して丁寧な対応ができることは素晴らしいことですわ。流石ですね、マキシム様」

 

 いまの私は養殖女子(ブリッ娘)

 心を無にして唱えろ魔法の言葉さ・し・す・せ・そ。

 

 目の前で寸劇を見せられたホーエンベルク様の肩が若干震えている。笑いを取りたかったわけではないのだけれど、これはこれでありかな。

 

「ホーエンベルク様、お話の途中で申し訳ありませんが、続きはまたあとで」

 

「ああ、ではまたあとで。マキシム様、御前を失礼致します」

 

 そう彼らしい生真面目な一礼をして、フランツ様を探しに翻されたその背中を見つめていたら、不意に肩口辺りで「次からは、わたしに一番に見せに来い」と。

 

 どこか拗ねた声音で呟いたマキシム様に、つい反射的に「それはちょっと」と答えてしまい、式典の前にご不興を買ってしまったわ。でも素直で可愛い教え子との再会まで、あと少し。



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*14* 再会と、ダンスと、軋轢と。

 

 式典の開始から体感で一時間。

 

 この一ヶ月と少しの間に調……教育したおかげで、未だ豪奢な椅子に脚を組まずに座るマキシム様の姿を見てホッとする。

 

 式典の流れとしては、まず開始のありがたいご口上が述べられ、次いで招かれたお客達の家名と、娘を連れての出席の場合はその娘の名前も読み上げられ、式典の主役足る第一王子の御前に跪いて、恭しく祝いの言葉を献上する。

 

 順番は近隣の友好国からの使者や、年齢の近い王子や王女から。それが終われば自国内の上級貴族の順に名を呼ばれていき、これが大体二時間続く。

 

 一段下がった場所に席を設けられたフランツ様とホーエンベルク様も、微笑みを浮かべてはいるが人形のようだ。アグネス様とフェルディナンド様は、恐らく付き添いの人達が通される別の間にいるだろうから、あとで自由の身になったら会いに行こうっと。

 

 各貴族からの挨拶が済めば、第一王子が自らのファーストダンスのお相手を出席者のお嬢様方の中から選んで踊り、次にフランツ様がそれに続き、全て終われば他の出席者達も各々の相手を探して踊る。

 

 こういう場合本当は王族一家が最初に踊るのがお約束なのだが、上階のテラス席から会場を見下ろしておられる陛下は、亡くなったお妃様以外の女性と踊るのを良しとしないらしく、息子二人だけが踊るのだそうだ。確かに祝われる側にとって苦痛しか感じない誕生日である。

 

 時々マキシム様の席から二歩ほど後ろに立つ私に、出席者からの胡乱な視線が向けられるのがいたたまれない。どの顔にも“誰だコイツ”と浮かんでいる。ただの片田舎の子爵令嬢なのだから当然だ。演劇や小説や遊戯盤のおかげで多少名前の露出はあったものの、顔自体はあまり知られていない。

 

 こちらとしてもどうせなら、当初の通りもっと斜め後方の人目につきにくいところに立ちたかった。しかしさっきの返答の腹いせか、直前に立つ場所を変えられてしまったのだ。

 

 けれど数名のご令嬢達からは何故か羨望の眼差しを向けられた。特に、隣国の小さな王女様から。一瞬頭に妹の行方が浮かんだけれど……まさかね?

 

 現在は外から訪れた来賓の挨拶が終わり、徐々に国内の選ばれし者共が名を呼ばれ始めたところだ。

 

 まぁ当然というか、一番最初に呼ばれたのはあのいけ好かない中年・ランベルク公爵。王妃の兄という肩書きは本人の死後も有効らしい。娘はいないのか、一人での出席だ。これには一応マキシム様のことを思って安心した。もしも娘がいたら絶対に選ばなければならないところだっただろう。

 

 マキシム様の前で臣下の礼をとり、祝いの言葉を述べる様は悔しいが絵になる。しかしほんの一瞬こちらに向けた視線は、あの日と同じく背筋が粟立つようなものだった。

 

 次いで国の重鎮達が続き……アグネス様が“改造”と称した【清楚でおしとやか】なマリアンナ様が現れて、私の度肝を抜いてくれた。しかし去り際にこちらに向かってニヤリとした彼女は、どうやら分厚い猫の皮を被っていただけだったようだ。

 

 その後も二組ほどが呼ばれ、それが途切れたところで「コーゼル侯爵、息女アウローラ」と。ついに待ちに待った名前が呼ばれた。

 

 赤い絨毯で隔てられた両側の来賓達の間から一組の親子が進み出て、真っ直ぐにこちらへと歩いてくる。

 

 臆することなく天井から糸で吊られたように背筋をピンと伸ばし、顎をクッと持ち上げて。人々から向けられる視線の中を、淡いピンクのドレスを翻しながら颯爽と歩くその姿に、感極まりすぎて視界が滲んだ。

 

 フェルディナンド様のおかげで、彼女は自信を持って綺麗になった。

 

 透き通るような美しい金髪と、優しげに垂れたダークブラウンの双眸、右の目許にある黒子はそのままに、私の前では蛹か雛鳥だった教え子は、いつの間にか蝶々で白鳥な女の子になっていた。

 

 壇上の下からこちらを見上げる凛とした表情。三段ほどの階段を上ってくる間も、視線は食い入るように私を捉えて。その視線に僅かに頷き返せば、アウローラは途端にパッと私が一番良く知るあどけない笑みを零した。

 

 ――が、感動の再会はここまでだった。

 

 隣で父親であるコーゼル侯爵が祝いの言葉を口にしている間も、視線はとにかく私にのみ注がれ、その小さな唇が【せんせい】と微かに動く。あとでいくらでも甘やかしてあげるから、いまは前を向いて欲しい。

 

 ハラハラしながら侯爵の口上が終わる直前に視線で促して、ようやくマキシム様に視線を向けたかと思ったら――。

 

「今日の善き日にお目もじ叶いましたこと、身に余る光栄に御座います」

 

 今度はまるで熱の籠らないお祝いの言葉にチベスナ顔。待て待て、さっきまでの蕩けるような微笑みはどこにいったのアウローラ。

 

 いや、決して魅力的な微笑みを向けて興味を持たれて欲しいわけではないけど、相手は将来の暗黒俺様王子なのよ? 絶対にあとで“あいつは他の女と違う”って興味持たれちゃうから! 

 

 ――と、そんな心臓に悪い再会を果たしたあとは、つつがなく式典は進行していき、残すところはマキシム様のファーストダンスのお相手探しのみとなった。

 

 心なしか来賓達の中にいるご令嬢達がそわそわしている気配がして微笑ましい。しかしそんなことを思って油断していた私を、次の瞬間不運が襲った。

 

「今宵のファーストダンスは、今日の善き日に導いてくれた我が師(・・・)ベルタ・エステルハージに決めた」

 

 彼のその行動で会場内から一切の音が失われ、直後に、これまでとは違ったざわめきが来賓達の間から起こる。

 

「――……は?」  

 

 自分の間抜けな声が喉を震わせるのと、承諾をしていない手を奴にとられたのは、ほぼ同時だった。

 

 もうじっとしている我慢も限界だったのだろうマキシム様が「行くぞ」と急かし、階段を下りる最中にギョッとした表情を浮かべるホーエンベルク様達の隣を通り抜け、わけも分からず会場の中心に引きずり出された私の耳に、楽団が奏でる音楽が届く。

 

 宇宙猫状態であっても身体は染み付いたステップを踏み、悪戯が成功した達成感に「さっきのお前の顔は見物だったぞ」とマキシム様が笑う。

 

「やってくれましたねマキシム様。明日からの授業は覚悟して下さいませ」

 

「明日は明日のことだ。今夜お前を驚かせてやったことの方が愉快だ」

 

「まぁ、いい性格ですこと」

 

「お前ほどじゃ……いや、お前の性格は極悪だな」

 

「それが分かっていながらの悪戯、受けて立ちましてよ?」

 

「そんなに長い曲じゃない。すぐに終わるからあまり根に持つな」

 

「このあとは二時間でも三時間でも踊られればよろしいですわ。別のご令嬢と」

 

 軽口を叩き合いながらステップを踏み、周囲にざっと視線を巡らせた。観客達の表情には、困惑、嫉妬、怒り、愉悦、呆れと、様々な色が乗っている。

 

 その中に特大の嫉妬の炎を纏ったアウローラと、愉悦一色に染まっているマリアンナ様の姿もあった。相変わらず対極的で面白い子達だ。そんな風に大体は予想通りの表情だったものの……約一名の表情に何故か胸がざわついた。

 

 てっきり怒りに染まり切っているだろうと思っていたランベルク公爵が、愉悦の表情を浮かべていたのだ。見間違いかと思い、ターンを決めて奴のいたところを再び見たときには、すでに姿はなかった。

 

 曲は段々と終盤に向かい、岸辺に舟を寄せるように戻ってきた私達と入れ替わりに、フランツ様とアウローラがホールへと出てきたものの、すれ違い様に彼女が凄まじい表情でマキシム様を睨み付けた。

  

 そんな教え子の不敬とも思える対応に応じるように睨み返すマキシム様。両者の間に心配していたようなロマンスの生まれる気配は微塵もない。

 

 マキシム様を他のご令嬢達の輪に放り込み、せっかく教え子の勇姿を見ようと思ったのに、付き纏う来賓達の好奇の目から逃れねばならず、もう先に別室のアグネス様達と合流しようかと思っていたら――。

 

「さっきの話の続きなんだが……王子達が躍り終えたら、俺と一曲踊ってくれないかと言いたかった。いまからでも申し込めるだろうか? 場所はここではなく、本来の俺達がいるべき別の間になるが」

 

 そう少し困った様子のホーエンベルク様に誘われて。

 

 頬に熱が集まるのを感じて咄嗟に俯いた足許には、老魔法使いから授かった、白黒ツートンのタップシューズ。



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★15★ 金の分銅、銀の分銅。

 

「あー、それじゃあさっき一瞬向こうから聞こえたざわめきの原因は、ベルタ先生のせいだったわけか」

 

「その言い分だと語弊があるぞ、エリオット。あの場で彼女がマキシム様の誘いを断ることはできなかった」

 

 曲線を描くドーム型の天井に大舞踏会場の楽団が奏でる曲が、目に見えない音の滝となって降り注ぐここは、小舞踏会場だ。

 

 名前の通り上級貴族しかいない静かな大舞踏会場とは違い、あちらの余り物貴族で構成された小規模なこちらは、舞踏会というよりもサロンの延長といった気安いものである。

 

 成り行きとはいえ第一王子と踊ってしまったことで、会場内の貴族達からの視線が集中して居心地の悪そうだったベルタ嬢を誘いこちらに移ったが、広さ故に割とすぐに目立つこの二人と合流できたのは良かった。

 

 木を隠すなら森の中というが、隠すほどの木がない場合は、かえって目立つものの近くに置いておく方が安全なこともあるからだ。

 

「いえ、まぁ……私もその場ですぐ上手く言い逃れる言葉を探せれば良かったのですけれど。生憎と何も思い浮かばなくて」

 

「あら、でも貴重な体験だったのではないかしら~? 子爵家の令嬢が王子様と踊るだなんて、物語の中だけのことかと思っておりましたもの~」

 

 曲に合わせて彼女をターンさせると、燕尾服に良く似たドレスの裾が風をはらんで翻る。日に焼けたクリーム色の花嫁衣装の裾から、白と黒の配色に赤いリボンをあしらった紳士靴が彩りを添えた。

 

 隣で同じくエリオットにリードされたアグネス嬢がターンを決め、春を先取りした鮮やかなミモザ色のドレスが翻った。こちらは若草色の少女めいた靴だ。

 

「そんな風に考えられるだなんて……アグネス様は大物ですわ」

 

「事実は小説より奇なりと言いますけど、これで本当にまったくあり得ないとも限らなくなりましたわね~。少なくとも夢は持ってみるものだって証明できました。妹さんの新しい作品の題材にも使えるかもしれませんわよ~」

 

 俺と向かい合ったままの姿勢で虚ろな笑みを浮かべるベルタ嬢と、生気に満ちた笑みを浮かべるアグネス嬢は対照的で面白い。

 

「確かにそうかもなー。アグネス嬢ってば良いこと言うね。オレはてっきりベルタ先生が着てるそのドレスが、前に観た男装の麗人の舞台広告なんだと思ってた」

 

「エリオット……流石に王家の式典でそんなことをしようとしたら、俺も止める。このドレスは偶然そうなっただけだ」

 

 ベルタ嬢もだが、アグネス嬢も相当ダンスが上手い。エリオットのリードに動きを合わせているものの、補助をしなくとも重心がぶれたりすることはないに違いない。見た目が奇抜でなくなった彼女は、これまで目立たなかった所作の美しさや洗練ぶりが人目を惹く。

 

 逆にエリオットが面白がってデタラメなステップを踏もうとすれば、さりげなく自身の爪先でエリオットの爪先の着地場所を誘導していた。

 

「でも本当に子供の悪戯は予測不可能で驚かされますわ。それに、成長にも。お二人のおかげで今夜のアウローラ様はとても堂々としていて……本当に見違えてしまいました。ありがとうございます。それにマリアンナ様の改造もお見事でした」

 

「いえいえ。あれはお姫様のベルタ先生に会いたさ故の頑張りってやつ。師妹愛の成せるわざ。オレも早くベルタ先生に会いたかったしね」

 

「そうですわ~。アウローラ様からしっかり課題が返ってくるおかげで、うちのマリアンナ様も真面目に取り組んで下さったのですもの。お互い様です」

 

 第一王子をつかまえて“子供”と評する彼女の言葉に若干呆れる。エステルハージ殿が心配していたところは、彼女のこういうところなのだろう。聡明であるはずなのにどこか迂闊で、自身を取り巻く物事への判断が甘い。

 

 教え子や妹を取り巻くことに対しての警戒心は高いのに、自身のことへはからきしだ。さっきの第一王子の行動は“子供の悪戯”では済まない。恐らくマキシム様もそれを理解しての行動だった。

 

 あれだけ多くの上級貴族を前に彼は宣言したのだ。一子爵令嬢に過ぎない彼女を【自身の一部だ】と。ただ結局のところ俺も“子供”と思って油断した。理性的なフランツ様とは違い、直情径行で行動の読みやすい“子供”だと。

 

 しかし彼はベルタ嬢と出会って我慢を憶え、忍耐と思考力を手に入れた。彼女がマキシム様の家庭教師に就く前は、政権交代が第二王子派閥にとっても望みがある状態だったし、実際に第一王子派閥筆頭のランベルク公爵以外は身の振り方に迷いが生じていた。

 

 しかし当初第二王子派閥かと思っていたベルタ嬢が、王命とはいえ第一王子派閥の引き抜きに合い、優勢の状況が拮抗状態にもつれ込んだ。

 

 彼女は天秤に載せられる分銅から、いつの間にかその役所を天秤本体の方に変えてしまった。分銅は二人の王子。

 

 おまけにそれぞれが彼女を慕っている。彼女の立場は次代を担う権力者の双方から親愛を向けられる存在となった。それは第一王子派閥からも、第二王子派閥からも監視される対象になるということだ。

 

「ベルタ先生はさ、上級貴族の執着心の怖さをもっと警戒した方が良いよー? 本当にしつっこいから。下手な婚約話持ちかけられても断ってねー?」

 

 同じことを考えていたのだろうエリオットが、そう言いながらこちらに意味深な視線を寄越す。無意識に彼女をホールドする腕に力がこもり、そのことに気付き慌てて見下ろした先には、こちらを困惑気味に見上げて頬を染める彼女の姿。

 

 そんな場合ではないのにこの気まずさは癖になりそうだと、馬鹿げたことをちらりと感じた。



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*16* 悲しい恋はもうさせない。

 

 ――パシンッ!

 ――べチッ。

 

 ――スパンッ!

 ――べタッ。

 

 鍛練場の片隅、丸く相撲の土俵のように取った円の中で、お手製のメンコが乾いた音を立てて砂埃を巻き上げる。ちなみに前者の音が私、後者の音がマキシム様だ。少し遠巻きにこのゲームの光景を見守る兵士達は、次々に床から減っていくメンコの枚数を気にしている。

 

 何故こんなところでメンコなのかといえば、城の中で絨毯が敷かれていない場所で、通行人の邪魔になりにくく、警護の目もそれなりにあり、メイドの邪魔が入りにくいという難題を全部クリアできたのがここだったからだ。

 

 この遊びは結構な体力を使うので、頻度は二日に一度。十五分ずつ二回に分けての真剣勝負である。初日の翌日は筋肉痛になった。

 

 マキシム様は未だにメンコを投げるときに大きく振りかぶって、力任せに真上から床に叩きつける。風圧で一枚だけ端が浮くも、ひっくり返るまでには至らなかった。悔しそうな表情をする様は子供らしくて可愛気がある。

 

 一見簡単なこの遊びにも投げ方や持ち方にコツがあるのだが、教えると勝負が長引いて面倒なので教える気はない。

 

 対する私はマキシム様が返し損ね、隣のメンコに端を乗り上げたそれに狙いを定めてひっくり返した。同時に隣のもう一枚もひっくり返る。一度目のも合わせれば通算十五枚目だ。対する彼は四枚。

 

「今日も五枚以上の差で私の勝ちですねマキシム様」

 

「……見れば分かる」

 

「では明日までに課題を三頁追加しますね。分からないところがあれば、翌日の授業で質問を受け付けます」

 

「それも毎回言わずとも分かっている。皆、騒がせた。ベルタを送って戻ったら、わたしも鍛練に混ぜてくれ」

 

 兵士達に向かってマキシム様がそう言うと、彼等は苦笑混じりに頷いていた。けれどいつものごとく私が会釈をすれば居心地悪そうに視線を逸らす。まぁ、彼等からしてみれば、こんなところに家庭教師がやって来るのは面白くないのだろう。

 

 マキシム様の誕生式典から三週間。四月の社交界シーズンを目前に控えている午後の空気は、春の気配を感じさせる。

 

 妹はまだ隣国でロングラン上演中で、先日も分厚い手紙と向こうの新聞記事の切り抜きが届いた。毎回手紙を止めてくれた誰かさんも、流石にあちらの国営郵便馬車で送られてくる郵便物には手が出せなかったらしい。

 

 他国内から直送される郵便物に手を出すのは、政治的な介入と取られても仕方がないからだ。何にせよその手紙に来月には戻るとあったものの、社交界シーズンの最中に団員の皆も一緒とはいえ、婚約者でもないヴァルトブルク様との帰還。

 

 世間の目はどうでもいいとして、姉としては密かに甘い話を期待してしまう。

 

 それにしても教え子の逃走資金確保に始めた試みは、どんどん私の予期していない規模に発展していっている。

 

 それに伴い現在フェルディナンド様は新製品の最終確認に領地に一旦戻り、四月の二週目頃に新しい遊戯盤を持って再登場予定。

 

 アグネス様とマリアンナ様も女性用の遊戯盤の広告に、知り合いのお茶会へと足を運んでくれている。

 

 一方私の教え子は――……と、不意に隣を歩いていたマキシム様がこちらに向かい、ズイッと手に持っていたメンコの一枚を差し出してきた。五国シリーズ中で私が愛用している紫色の大蛇のメンコだ。

 

「おいベルタ、本当にこのメンコという遊びにはコツがあったりしないのか?」

 

「さぁ、勘では? 勘を掴むことならマキシム様はお得意でしょう」

 

「お前のそういう言い方はどうも信用ならない。本当はあるんじゃないのか?」

 

「どうでしょう? 最初にお見せしたときは『こんな子供騙しな遊びがあるか!』と怒っていらしたのに。夜中に睡眠時間を削ってまで製作しましたから、あれには少々傷付きましたわ」

 

 そうからかった途端に気まずそうな表情になることがおかしくて、ついその手から受け取ったメンコで額をペチペチと叩けば、彼は小さく「最初はそう思ったんだ……悪かった」と素直に謝る。話題の誘導に引っかかりやすい子だ。こういうところが時々心配になる。

 

 あの夜のファーストダンスに交わした約束通り、翌日から休憩時間はそのまま授業時間を十五分延長し、このゲームに負けるごとに課題を三頁追加するという書面を作らせた。

 

「いいえ、分かって頂ければいいのです。これは私がマキシム様のためだけに作ったものですから」

 

 本音は“現在勝ちっ放しなおかげで遅れ気味だった授業が捗って仕方がない。このままコツの追及など忘れて勉学に励んでくれたまえ”なのだが、根は素直らしい彼は「わ、分かった」と頬を赤らめて頷いている。

 

 そんな様子を微笑ましく(しめしめ)と眺めていると、進行方向から軽やかな足音が響いてきて、そちらに視線を向ければ――。

 

「ベルタ先生! お迎えに上がりましたわ!!」

 

 第二王子の婚約者候補の座をどこのご令嬢達より早く射止めた、私の可愛い自慢の教え子がこちらに駆けてくるところだった。

 

 勢いを殺さず駆け寄ってきた教え子は、そのまま私に抱きついて停止した。

 

「ふふ、元気なご登場ですこと。アウローラ様お一人ですか?」

 

「いいえ、ここまではお城の兵士の方に送って頂きました。フランツ様とホーエンベルク様はまだお勉強中ですの。けれどわたくしが先生に早く会いたくて。三時のお茶にはまだ少し早いのですが、無理を言って連れてきてもらいました」

 

 別れてから少し背が高くなったアウローラの頭は現在私の胸の高さ程度。ギュッと抱きつかれると母性を刺激される高さだが、見下ろす私と見上げる教え子の二人の世界に「ふん、それで護衛の兵士を置いて走って来たのか? はしたない」と、刺々しい横やりが入る。

 

 そう言った彼の視線の先には、通路の向こうからこちらに敬礼する兵士二人の姿が見えた。彼等はマキシム様が軽く手を振ると、最敬礼をして引き返していく。持ち場に戻ったのだろう。

 

「あら……いらっしゃったのですねマキシム様。先生をここまでお連れして下さって感謝致します。それではまた明日お会いしましょう。ご機嫌よう」

 

 輝く微笑みと背景にお花を背負っての登場から一転、スンッと表情をチベスナ装備に切り替える教え子。フランツ様の婚約者としてほぼ毎日城に姿を見せるのだが、毎回このテンションの低いご機嫌ようでマキシム様をたたみかける。

 

 どうやら式典の席で、私を拐ったのが彼のためだったらしいと理解してから敵視しているようなのだが、前世のぞっこん状態では考えられなかったほど当たりが冷たいのだ。

 

 まぁ、それでも前世ではほぼ虐げられての泣き顔か、理不尽な仕打ちを受けるときの悲痛な表情しかなかったものね……うん、そうだな。チベスナでもいい、天寿まで生きろ。

 

「こちらは事実を言っただけだというのに、聞く耳も持てないのか。これでは弟も今後苦労させられそうだな」

 

「申し訳ありませんけれど……先生のことを毎日振り回してばかりのマキシム様にだけ(・・)は、指摘されたくございませんわ」

 

「何だと?」

 

「正直なお言葉を頂きましたので、こちらも事実を申し上げただけでございます」

 

「お前……口を慎めよ」

 

 ここで恒例の言葉のドッジボールが勃発。十五歳と十歳の舌戦。教育者として感じることだが、相手を的確に詰る言葉を憶えるのは女子の方が男子よりも早い傾向にある……と思う。しかし流石に王城内で言い負かすのは子供同士の諍いとはいえよろしくない。

 

「マキシム様、歳下の令嬢の言葉にそう簡単に振り回されてはなりません。歳上の殿方はもっとおおらかな方が素敵ですわ」

 

「それでしたら、先生。フランツ様はおおらかな歳上の素敵な殿方ですわね」

 

 こちらの火消しに間髪入れずにガソリンをまく教え子。多少こちらの話に耳を傾ける姿勢になっていたマキシム様の表情が険しくなった。前世を思えば教え子に肩入れしてやりたいところだけれど、ここは喧嘩両成敗が正しいか。

 

「アウローラ様、マキシム様の仰ったことの半分は、言い方に問題があれ正しいことです。フランツ様の婚約者候補となった以上、常に行いには注意が必要です。それと個性は人それぞれのもの。からかわれると嫌な気持ちになりませんか?」

 

「うぅ……」

 

「マキシム様、私は貴男にだけ我慢をするよう申し上げているのではありません。ただ無用な諍いの種になりますので、攻撃的な物言いはあまりなさらないで下さいませ。貴男の資質を誤解されては勿体ないですわ」

 

「……分かった」

 

 こうして諭せばきちんと反省できるうちはまだ大丈夫だ。仲直りの握手をさせる趣味はないので、マキシム様の方に「また明日の授業でお会いしましょう」と伝えれば彼は小さく頷いて、兵士達と約束をしていた鍛練場へと戻って行った。

 

 その背中を見送ったのち、目的地までの廊下を並んで歩く教え子にふとした疑問をぶつけてみる。

 

「アウローラ様はマキシム様をどう思われます?」

 

「……絶対に誰にも言わないですか?」

 

「ええ、勿論ですわ。私とアウローラ様だけの秘密です」

 

「先生と二人だけの秘密なら特別お教えしますわ」

 

 そこで立ち止まり、爪先立った教え子の口許に屈んで耳を近付けると――。

 

「あの方とだけは何があっても絶対に婚約したくないな、という方です。お父様は少し残念がっておいででしたけれど、わたくしの婚約者候補がフランツ様で安心しましたわ」

 

 ポソポソと耳打ちされた、子供らしさと大人っぽさの入り交じった言葉にほんの少し笑ってしまったけれど、前世では散々手を焼かされた報われない恋心のルートは、今世でようやく粉微塵に砕け散ったようだ。

 

 今度こそこのルートで逃げ切り勝ちをさせてみせる――……!

 

 ためにはまず、これまではほとんど送られてくることのなかった、見合いの釣書へ対して断りの手紙を量産する必要があるのだけれど。

 

 多忙な父の目を掻い潜って送られてくる釣書の枚数は日毎に増え、酷い日には朝断りを入れたはずの相手から入れ違いに恋文が届く。顔も名前も知らない人物からの手紙は怖いものだ。

 

 嬉しそうに手を繋いでくる教え子の姿を見下ろしつつ、いまから帰宅後に執事から手渡される郵便物の量を考えて、密かにゾッとするのだった。

 

 



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*17* 朝の挨拶と微妙な変化。

 

 起床してから朝の挨拶をする順番は、大体の人が決まっているのではないかと思う。私の場合は一番目は家族、二番目は屋敷の使用人の皆、そして三番目が――。

 

「おはよう、ベルタ嬢。今朝も時間ぴったりの登城だな」

 

「おはようございます、ホーエンベルク様。毎朝ここで待って頂いて恐縮ですわ」

 

「毎朝言っているが、貴方が気にすることはない。本来ならこちらが屋敷まで迎えに行かなければならないくらいだ」

 

「いいえ。毎朝ホーエンベルク様がここに立って下さっているだけでも、この職場に味方がいる安心感がありますもの」

 

 生誕式典の翌日から心配症な父に頼みこまれ、城の通用門前で私と待ち合わせをしてくれている彼だ。正直この歳で門の前で待っていてもらうのは少々恥ずかしいのだけれど、これもやむを得ない事情があった。

 

 実際に登城して図書室に向かう途中でメイド達の陰口をBGM代わりに聞き、廊下の角で待ち伏せされては顔も知らない人から手紙を読んだかと壁ドンで問われ、頭上から雑巾を絞ったらしき水が降ってきたり鉢植えが落ちてきたら……流石に頼る。自力でどうにかできるのは一番最初の陰口だけだ。

 

 いくら護身術を習っているとはいえそこまで過信するのは愚かだし、万が一撃退できても傷が付くのは家格の低い我が家である。貴族も家格が低いと下手をすれば平民よりも世知辛いと気付いたのは、転生してからのことだった。

 

 何の自由もないのに、責任だけはある。まぁ、領地を持っているうちはまだいいだろうけどこれが騎士爵や男爵などだと、もう責任だけがある状態だ。

 

「毎朝そんな覚悟を持たせてしまってすまないな。目が少し赤いようだが……あまり眠れていないのか?」

 

「ああ、これは釣書へのお断りの手紙を書く時間が夜しかないもので。けれどマキシム様がもう少し長く授業を受けられるようになられれば、私の役目も終わります。この作業もいまだけだと思えば堪えられますわ」

 

 二人で並んで図書室へと歩くまでの会話が、私達の就業時間までのカウントダウンになっている。

 

 内容は日によって様々だけれど、今日はついに寝不足気味なことに触れられてしまった。隈は化粧で隠してもらえても、目の色までは誤魔化せないからなぁ。言及されるくらいだからやはり目立つのだろうか?

 

「もしそうなったとして、ベルタ嬢はその後どうするつもりだ。コーゼル侯爵に雇い直される気はないのか?」

 

 ――どうやら話は違う方面に飛んだらしい。良かった。

 

「そうですね、アウローラ様はもうフランツ様の婚約者候補……というか、現状ほぼ婚約者ですし、王家の子女の教育は専門の家庭教師が就くのではありませんか? 勿論雇い直して頂けるなら嬉しいのですけれど、できなければまた領地に引っ込むでしょうね」

 

 今世がどこまでこの状況が続くのかは分からないが、前世のルートまでならそうなる。教え子は他の教育者の手に渡り、アンナがヴァルトブルク様と結婚しない限りは、私はいままで通り領地で領主代理の仕事をして暮らすことになるだろう。

 

「妹が結婚したら屋敷を出て、領内で家庭教師でもしようかと思っておりますわ」

 

「……貴方自身の結婚は考えていないのか?」

 

「うーん、どうでしょう。明日からの社交界で良い出会いでもあれば……いえ、やっぱり分かりませんね。自分が結婚するという未来がいまひとつ想像できなくて」

 

 などという話をしていたら、進行方向前方に私達を待つマキシム様とフランツ様の姿が見えた。さぁ、就業時間だ……と思っていたら、どうもお互いの教え子の様子がいつもと違う。

 

 よくよく見ればフランツ様がマキシム様の腕を掴んでいるようだ。どうかしたのかと一瞬ホーエンベルク様と二人で目配せをして歩む速度を早めると、マキシム様は嫌そうに、フランツ様は微かにだが楽しそうに見える。

 

「おはようございます、マキシム様にフランツ様。お二人が並んで私達を待っているだなんて珍しいですね。兄弟喧嘩でもされましたか?」

 

 私の単刀直入な質問にホーエンベルク様がギョッとした様子になったが、続くフランツ様の「兄上が五国戦記に興味を持たれたようなのです」との言葉に、今度は私が目を丸くする番だった。




短いのでもう一話投稿します。


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*18* 誰が為の分岐点。

 

 ついにやって参りました、社交界シーズン初日。

 

 現在地はホーエンベルク様の所有するお屋敷の、主に似て質実剛健な応接室だ。いつもお世話になるフェルディナンド様のお屋敷でないのは、もう子爵家に集められる面子ではなくなってしまったからなのだけれど――。

 

 未だかつてこんなに待ちに待った社交界シーズンはなかった気がする。それくらい目の前に広がる和やかな光景は、私のこの世界(ゲーム)で散々痛めつけられた教育者心を癒してくれた。

 

「新作持ってきて早々にあれなんだけど……この遊戯盤ってさー、上級貴族とか王族集める魔法でもかかってるの?」

 

「まさか、と言いたいところですけれど、確かにそう言われても仕方がない光景ではありますね」

 

「侯爵家の令嬢二人に第一王子と第二王子だからな。何かしらの吸引力があるのは間違いなさそうだ」

 

「権力の縮図とも言えそうな遊戯盤に群がる上級貴族の娘さんと王子様たち……。うふふ、なんだか面白い絵面ですわね~」

 

 四者四様、ティーカップに揺れる紅茶の香りを楽しみつつそんなことを言い合う前では、テーブルの上に広げられた新しい遊戯盤へ前のめり気味に向き合う四人の子供の姿。

 

 アウローラはともかく、マリアンナ様まで混ざってくれるとは思っていなかったものの、先程アグネス様が教えて下さった内容によれば、前回の観劇で彼女も多少興味を持ったそうで、親友である教え子がハマっているならと憶えてくれたらしい。流石は元ライバルキャラ。潜在能力が高い。

 

「しかし……早速第一王子がカモにされているようだな。次期国王の初戦は大敗か」

 

「うーわ、可哀想に。一度敗けが込み始めると、このゲーム立て直すの目茶苦茶難しいんだよなー。初心者にはキツいよ」

 

「遊ぶというより、遊ばれてますわね~」

 

「あー……マキシム様ったら、またあんなところに城壁建設して……」

 

 しかも執拗にマキシム様の国に攻め込んでいるのはアウローラだ。活発なマリアンナ様がその同盟国だからしかたないとしても、あんなに攻撃を仕掛けるところは初めて見る。

 

 遊戯盤初心者のマキシム様は防戦一辺倒。元が好戦的な彼にしてみれば不本意極まることだろう。

 

 残るフランツ様は内需拡大政策型。兄に多少の援軍は出しているようだけれど、チラリと手持ちの軍勢カードを見るに、肝心の兵士の練度が全く足りていない。

 

 アウローラの国は正規軍の練度カードがカンスト。マリアンナ様はお金にものを言わせて元から練度が高い傭兵カードを持っている。

 

 なんて恐ろしい……これが私とアグネス様とホーエンベルク様の教育方針の違いなのか。ちなみにこの遊戯盤の内容だと、フェルディナンド様の教育方針の出番はまずない。芸術家は美しいもので溢れる平和な世の中に生きてこそだ。

 

 ――……何というのか、盤上は段々と家庭教師陣の代理戦争と化している。

 

 うーむ、マキシム様も興味を持った翌日にあれでは、楽しむより先にトラウマになるだろう。何より一方的なゲームは見ていて楽しいものでもない。そこで。

 

「さて、と。私も新しい遊戯盤にちょっと参戦して参りますわ」

 

 そう言って紅茶をテーブルに置いて席を立った私を見て、ホーエンベルク様も「では俺も――、」と腰を浮かせようとしたものの、隣からフェルディナンド様に「面白そうだから見てよう」と絡む。

 

 ファインプレーですフェルディナンド様。大人が二人参戦しては子供のやる気はダダ下がるものだ。お正月のウ◯然り、人生◯ーム然り、カルタ然り。ノリで参戦する親戚の大人は一人で充分。

 

「うふふ、いってらっしゃいませ、ベルタ様。子供たちに大人の本気を見せてやって下さいませ~」

 

 ヒラヒラと優雅に手を振るアグネス様に微笑みを返し、私は泥沼化している遊戯盤の試合を一時中断させて、最初から始めることを子供達に提案したのだった。

 

***

 

 華やかな社交界シーズンが始まって二週間。

 

 けれど生憎と四日前からお天気に恵まれず、図書室から眺める窓の外の空は今にも泣き出しそうな鈍色だった。おまけに風も強いのか、閉めきられた窓ガラスがひっきりなしにガタガタと音を立てている。

 

「つまらん。今日も雨か」

 

「風も強いですし春の嵐ですね」

 

 本当につまらなさそうにそう言うマキシム様の声に苦笑しつつ答えれば、彼は不服そうな表情で頷いた。

 

 それに私も本音では、この悪天候で二日前に戻る予定だった妹の帰国が遅れているのでつまらない。しかし目の前で授業に使った教材を片付けていたマキシム様が、ふとその手を止めた。

 

「……雨の日はお前がわたしのために作ったメンコが湿気ってしまうから嫌いだ」

 

 そう言いながら、変形しないように教材の間に挟んであったメンコを一枚抜き出し、ペタペタとよれがないか確認する姿につい声を立てて笑ってしまった。

 

「ふ、ふふっ、あはは! 随分と可愛らしいことを仰って下さいますね」

 

「なっ――……ば、馬鹿か! 気持ちの悪いことを言っていないで、さっさと昨日の雪辱を果たしに行くぞ!」

 

 どうやら雨続きで身体を動かす遊びが減ったことで零れた愚痴だったようだ。ここ数日は毎日お茶の時間に、アウローラとマリアンナ様をフランツ様の名で招いて遊戯盤を囲んでいるから、鬱憤が溜まっているのだろう。

 

「ふふふ、はー……おかしかった。ですが雪辱を果たすのはマキシム様だけですわ。私は昨日の大陸統一国ですよ?」

 

「う、うるさいな。大体お前の場合は昨日()だろうが。それに教え子の敗けは教師の敗けだ」

 

「まぁ、またそんな屁理屈を……」

 

 顔を真っ赤にしてお馬鹿な発言をする姿に、もう少しからかってやろうと言葉を続けようとしていたら、図書室のドアがノックされて。マキシム様の「入れ」という声に続いて現れたのはホーエンベルク様だった。

 

 けれど入室してきた彼に直後に違和感を感じて、すぐにそれが久々にその表情が読めないせいだと気付く。マキシム様もすぐに用件を言い出さない彼を訝かしむ。

 

「マキシム様、先にフランツ様達と昨日の敗因について論じておいて下さい」

 

「お前は?」

 

「すぐにホーエンベルク様と参りますわ」

 

 暗に二人きりで話がしたいということを含ませると、マキシム様は気紛れなネコのようにすれ違い様に私の肩にぴったりと身を寄せてきて――。

 

 私にしか聞こえない声で「おかしなことをされそうになったら、わたしが許す。蹴り上げろ。揉み消してやるから」と。何やら十五歳とは思えない不穏な許しを残して図書室を出て行った。

 

 足音が遠ざかって聞こえなくなったところで、ようやく私とホーエンベルク様は再び向かい合う。

 

「……第一王子を人払いするほどの何かがあったのですか?」

 

 そう訊ねる声がやや緊張を帯びているのが自分でも分かる。彼はこちらの問いかけに一つ頷くと、懐から紙片のようなものを取り出した。

 

「つい先程エリオットがこれを届けに来て、アグネス嬢とこの劇場に観客として出かけたところだ」

 

 固い表情のホーエンベルク様に手渡されたのは、雨でよれた新聞の……新作劇を紹介するあの頁だった。嫌な予感が胸の内を占めて指先が震えるけれど、何とかその記事に視線を走らせる。

 

 劇場の名前も、そこを拠点に活動している劇団の名前も、国中の演劇ファンなら誰でも知っているほど有名なところだ。

 

 そこが今日から上演するという作品の内容は――。

 

 一人の下級貴族家出身の家庭教師の女が、大貴族の跡取りである兄と、その弟を意のままに操って身代を乗っ取ろうとするいう……悪役令嬢物語だった。



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◆隙間編◆
◉1◉ 知らない世界。


ちょっとだけ時間軸が前後します。


 

 王都のお姉さまと別れてから二週間後。

 

 大好きなお姉さまとそれなりに好きなお父さまのいない日常に戻り、ようやくお姉さま成分のなくなった日常に身体が慣れ始めた頃、王都から早馬で団員がわたしを呼びに来た。

 

 お姉さまの真似をして馬で領内の見回りを終えて屋敷に帰ったら、王都から早馬が来ていたときは驚いたけれど、隣国からの旅行者が向こうの劇団関係者で、わたし達の公演を是非やって欲しいと依頼を受けたと聞かされたときは、さらに驚いてしまった。

 

 団員の口からヴァルトブルク様が渋っていると聞き、この好機を不意にする気なのかと思ったら腹が立って。

 

 家令に相談してみたら、あっさり領地内の仕事の工程表を作ってくれ、その通りに領地経営をしておくと請け負ってくれたので、呼びに来てくれた団員と一緒にヴァルトブルク様のお尻を叩きに王都まで舞い戻り、そこからはすぐに皆と名刺を残して行ってくれた隣国の劇団を訪ねる旅に出た。

 

 名刺をくれた隣国の劇団はそこそこ名の通っているところだったらしく、最初のうちはずっとわたしに謝っていたヴァルトブルク様も、隣国の劇団についてからは脚本家らしく振る舞ってくれて。

 

 何よりも彼が生き生きした表情で招待してくれた劇団の脚本家と話をしている姿を見るのは楽しかった。

 

 初めてお姉さまの同伴もなく自国から出て、初めて自国のものとは異なる舞台を見たときは、圧巻の一言。女性だけが立つ舞台というものを初めて目の当たりにしたけれど、招待された理由は成程これかと思ったわ。

 

 艶やかな男装の麗人。

 男性優位の演劇界に新しい風を吹き込ませる、そんな舞台。

 

 うちの団員達も先方の団員達と打ち解けて、前座として公演をさせてもらう傍ら、一緒に演技の稽古をしたりと毎日が刺激に満ちていた。勿論お姉さまの作った遊戯盤見本を持ち込んで、ヴァルトブルク様の舞台の後に第一シリーズの公演をして、富裕層を相手に注文販売を受け付けるのも忘れなかったわ。

 

 ――でも、そんな日々に段々と差が出始めた。

 

 彼や団員達は乞われて来たけれど、わたしはと言えば、渋る彼のお尻を叩いて隣国に連れてきただけ。

 

 作家として全然無名なのは彼もわたしも変わらないものの、彼はオリジナルの作家で、わたしは翻訳元の作品やお姉さまがいないと何も生み出せない複製作家。

 

 演者の団員達とも、脚本家と作家を兼業できる彼とも違う立場のわたしは、先方の劇団の男性団員達に顔立ちを褒められるだけで。挙げ句“うちの女優にならないか”と声をかけられ、徐々に居たたまれなくなっていった。それでも、お姉さまに送る手紙だけは“毎日充実してるわ”と強がったけど――。

 

 誰にも弱いところを見せたくない見栄っ張りなわたしの緊張の糸が、プツリと切れたのは二ヶ月目の今朝。

 

 ――そう、今朝よ。

 

 忙しく公演する日々でだいぶ身体のお肉が引き締まり始めた彼に、先方の劇団の女優と談笑しているところを目撃してしまったのだ。咄嗟に“もうわたしにできることなんてない。お姉さまのところに帰ろう”という考えが過った。

 

 何かよく分からないけれど、何だかもう限界。わたしがいなくても彼は大丈夫そうだし、団員の皆も楽しそうだもの。帰ってお姉さまに甘えたい。褒めてもらわなければ死んでしまう。

 

 こういうときは、思い立ったらすぐ行動。そういうわけで自分に宛がわれた一人部屋に荷物を纏めに戻り、それを持って彼の部屋の前で、一日の舞台終わりに脚本談義に花を咲かせている彼を待っていた。

 

 何度も帰ると伝える言葉を練習していたらようやく待ち人が現れて、部屋の前で大荷物を持ってわたしに気付くと、驚いた表情で「どうしたの?」と足早にこちらに向かってくる。

 

 困惑した表情でわたしの前に立った彼を見上げ、なるべく声に卑屈さが出ないように心がけて、笑った。

 

「どうしたのって、この荷物よ? 分かるでしょう。わたしだけ一足先にジスクタシアに帰るわ」

 

「そ、それは……その、どうして? 誰かに、何か、嫌なこと、されたの?」

 

「違うわよ。単純にここにわたしがいる理由がもうないから」

 

「そんなこと――、」

 

「あるわよ。あなたの背筋、わたしが注意しないでももう伸びてるし、一人でうちの団員じゃない人達とも話せてるわ。だからわたしの役目は終わり。それにもうすぐ社交界シーズンだもの。帰ってその準備をしつつ、次の公演に使う五国戦記の原作を考えるわ」

 

 嘘は一つもついていない。だけど何故か彼の赤みがかった琥珀色の瞳を直視できなくて、足許に視線を落とした。彼の靴の爪先だけが視界に入る。

 

 それを見つめたまま「それじゃあ、この時間最後の馬車が出ちゃうから」と告げて、彼の横をすり抜けようとした瞬間、いきなり腕を掴まれた。驚いて視線を上げれば、うねった黒髪の隙間から、琥珀色の瞳がこちらを見据えている。

 

「ねぇ、馬車に間に合わなくなるわ。離して」

 

「い、嫌だ」

 

「どうしてよ。どうせ向こうに帰ったらまた劇団で会えるじゃない」

 

「違う。そうじゃなくて……その」

 

 自分から腕を掴んだくせに挙動不審になる彼に、思わず「じゃあ何よ?」と苛立った声が出てしまった。すると彼は一度唇を噛みしめてから、震える声で「僕も一緒に戻るから、一人で、社交界の準備をしに帰らないで」と。

 

 廊下を照らし出す薄明かるいランタンの光でも分かるくらい、耳を赤くしてそう言った。



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◑2◑ 君がいないと駄目なんだ。

 

 帰国予定の社交界シーズンが近付いてきたこともあり、連日女性に人気の台詞を書くのが得意な脚本家仲間に頭を下げ、何度も駄目出しをされながら必死にそれ(・・)の仕上げ案を固めて帰ってきた部屋の前に、不安そうな表情で旅行鞄を手に佇んでいる彼女を見た瞬間……背筋が凍りついた。

 

 そこから続いた彼女の言葉にさらに胃が重く冷たい鉛のようになり、自分の失態の大きさがここで初めて分かるほど馬鹿だった。

 

「僕も一緒に戻るから、一人で、社交界の準備をしに帰らないで」

 

 覚悟を決めた表情で単身国に帰ると言った彼女に対して絞り出した、どこまでも身勝手な願いだと思う。それにこんな図体の男に急に腕を掴まれたりしたら、誰だって怖いに決まっている。

 

 ――だけど。

 

「君の不安に気付かなくて、ごめん。自分勝手で、ごめん。でも……ごめん。僕は……君を、失うのは、嫌だ」

 

 声が震えて視界が滲む。彼女にせっかく褒めてもらったばかりの背筋もまた丸くなってしまった。

 

 彼女の旅行鞄が床に落ちる音。

 掴んだ華奢な腕が震えている。

 怖がらせているのだ、彼女を。

 

 でも今この手を離して、彼女が去ってしまう方がずっと怖い。彼女はそんな小心なこちらの心を見透かすように見上げたまま、一言も発することなく唇を引き結んでいる。美しいライムグリーンの瞳と栗色の髪に見惚れた。

 

 いつも僕を知らない世界に連れて行ってくれる……憧れの女性(ヒト)の目だ。

 

 一度彼女と王都で別れ、その後に急に我が身に降りかかった一大転機に、僕は喜びよりも先に恐れを感じた。隣国の劇団から持ち込まれた公演依頼。

 

 駆け出し弱小劇団に依頼されるには思いもよらない大仕事に、団員達の盛り上がりは凄まじいものがあったけれど、僕はそのことでくるかもしれない揺り戻しの方が怖かった。

 

 上手くいけばこれ以上ない弾みがつく。でも上手くいかなかったときの風評も同じくらい大きくなる。それなのに、普段なら天秤にかけることすらしない二択を前にして、僕は迷った。

 

 劇団としての岐路がこんなに早く現れるとは思ってもみなかったこともある。それに失敗したときの責任の重さも。

 

 だけどそんな僕の背中を押してくれたのは、共に舞台を作り上げてきた団員の皆と、憧れの世界に足を踏み入れる切欠となったアンナ嬢だった。彼女は狼狽える僕を前に声をあげて楽しげに笑い、歌うように『やってみましょうよ。できるところまで!』と、さも簡単に見知らぬ世界に飛び込んだ。

 

 そんな眩しい彼女に、僕はいつしか分を弁えないものを感じるようになり、それを伝える自信と言葉を持てないもどかしさから、こちらに来て脚本の台詞に悩む時間も増えていった。

 

「あ、あの、聞いて欲しい、ことが……あ、あるんだ」

 

「そう……何かしら?」

 

「ちょ、ちょっと待ってて、すぐに用意する、から」

 

 彼女が猶予をくれた。そのことに慌てて上着のポケットに入っているそれ(・・)を引っ張り出そうともがく。それ(・・)は脚本家仲間に教えてもらった、女性に好意を伝える情熱的な台詞が書かれている、いわば“脚本”だ。

 

 けれど、こちらを真っ直ぐ見上げてくれる彼女を前にして、ふと、疑問が頭をもたげた。これは、果たして彼女に聞いてもらいたい僕の言葉だろうか、と。

 

 ジスクタシアでは貴族や一部の裕福な市民の嗜みでしかなかった演劇が、この国では辻や宿や酒場の小さな舞台でも行われている。最初は尻込みしていたのに、いつの間にか僕は他の団員達と一緒になって、演劇一色の日々を送っていた。

 

 時折こちらの団員達に彼女との関係性を訊ねられても、一方的に憧れているだけの僕には答える術もなく。下手でも笑ってさえいれば、そのうちにそういった話題から逃れるコツも掴んだ。

 

 ――昔の自分とは、変わったと思う。

 ――彼女のおかげで、変われたと思う。

 

 でも、それは同じ趣味を共有して、離れた場所にいる彼女と、重ならない時間を手紙で交わした言葉から変わっていったものだった。

 

「僕は……君がいないと、駄目なんだ。君がいないとペンも執れない。君がいないと物語が思い浮かばない。君がいないと背筋も伸ばせないし、また王都で会えると分かっていても……君と離れることが……寂しいんだ」

 

 上着のポケットに手を突っ込んだままの僕の唇からは、手伝ってもらった“脚本”の格好良い台詞とは、全然似ていない言葉が零れた。

 

「アンナ・エステルハージ嬢、こんな情けない男ですが……あ、貴女に、婚約を申し込んでも、良いですか」

 

 きっと彼女が今までの人生で聞かされてきた台詞の中でも、一番格好悪くて、幼稚で、詩的さの欠片もない駄作だったのに――。

 

「そうね……垢抜けないけど、悪くはないわ。国に戻ったら、今の台詞をもう一度お父さまとお姉さまの前で聞かせて頂戴」

 

「が、頑張ります!!」

 

 そんなあがり症の僕にとって特大級の舞台を用意されたとしても、格好悪くても最後まで演じきってみせるんだ。




もう一話投稿します。


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◆第五章◆
*1* 求む、強制スキップ!


 

 不安を抱えたまま一日の授業と盤上遊戯を終え、教え子達を各々の屋敷の迎えに引き渡してから落ち合ったのは、前回同様ホーエンベルク様のお屋敷。

 

 いつものカフェでないのはあまり食事をとる気になれなかったことと、話題の内容の危うさからだけれど、軽食とお酒の用意されたテーブルを囲む光景だけなら、前世の同期との飲み会にも似ている。

 

 重苦しい空気を誤魔化すために男性陣は度数の高いワインとエール、女性陣はシードルと呼ばれる微炭酸のリンゴのお酒を手に、テーブルマナーはそっちのけで全員が一杯目を一息に空けた。

 

「いやー……観てきたけどまずいね、あれは。一般人には何てことのない物語でも、男爵以上の貴族なら個人を特定できる話だ。新進気鋭のアンナ嬢達の劇団を潰しにかかろうとしてるんだろうけどさ、何か嫌な感じ」

 

「右に同意ですわ~。あのお話の脚本家の名前、無名なんですもの~。あんなに大きな劇団でそんなこと、普通はまずあり得ません。あれでは実在する方かどうかの判断ができませんわ」

 

 何となく予想していたこととはいえ、偵察から戻ってきた二人の発言は芳しくなかった。田舎の子爵家が王家に近しい場所にいることが面白い貴族など、いるはずがないのだから。

 

「誰かが貴族にだけ分かる方法でベルタ嬢を貶め、妹のアンナ嬢と劇団を潰そうとしている、ということか」

 

「やはり流れ上そうなりますよね。ですがこれは一般の劇団だけの犯行ではないでしょうし、背後に貴族の後ろ楯がいるのは間違いありません。ただどちらの方のお怒りをかったのか、該当者が多くてすぐには絞り込めそうにないのが……」

 

「んー、まぁ、それも問題と言えば問題なんだけどさー……ね?」

 

「ええ、ええ。ひとまずこれをご覧になって下さいませ」

 

 そんな風に歯切れの悪い二人が差し出してきたのは、今日の演目が記された二冊のパンフレット。流石は大手。箔押しの美しいパンフレットは、それだけでも手元に置いておきたくなる作りだ。

 

 勧められるままそれをペラペラとめくっていくうちに、段々と眉間に力がこもってくる。向かいに座るホーエンベルク様も複雑そうな表情だ。

 

 それというのも――。

 

「これは劇としてきちんと完成されている。悔しいが面白い」

 

「そうですね……確かに、興味をそそられます」

 

 最後の頁にある名前は確かに聞いたことのない脚本家の名前だけれど、それを除けば読み応えのある内容だ。これはもう絶対にプロの犯行である。配役は私でも名前を聞いたことがある女優や俳優達。

 

 パンフレットでこれだけ興味を引かれるのだから、実際に本物を観てきた二人にしてみればもっと複雑な気分だったことだろう。

 

 王都の老舗劇団と貴族、その両者の怒りに触れてしまった田舎子爵家の姉妹。現状の旗色は限りなくこちらに不利だ。もう少し時間が経てば、父の職場でも話題になるかもしれない。

 

 教え子の断罪ルートからは遠退いた手応えがあるのに、こんなところで新たな不安の種が芽吹くだなんて……私はまた何かを選び間違えてしまったのだろうか? 今度の犠牲者は父と妹? そんなのは冗談じゃない。

 

 何か早急に次の手を打たないと――と、思っていたら、そんな私の内心を見透かしてか、フェルディナンド様がこっちを見つめて口を開いた。

 

「まぁ、取り敢えずしばらくは様子見するしかないだろうね。表向きはただの演劇の新作なんだ。向こうはこっちが目くじらを立てて騒ぎ出すのを狙ってる。見えてる釣針に引っかかるのはお利口じゃないよー?」

 

 いつものように飄々とした物言いではあるけれど、正論過ぎてぐうの音も出ない。他の二人も同様に「そうですわね~」「妥当だろうな」と渋い顔。私も誤魔化すように笑って二杯目のシードルを口にするも、腹の底では微炭酸酒が過発酵を起こしているような錯覚に陥ったけれど――。

 

 たぶんこれは他の誰でもない、本来の原作にあるはずのなかった(ベルタ)のルートだ。家庭教師の派生系シナリオという全力でスキップしたい案件を受け止めきれず、この後私は三人が止める声に耳を貸さないでひたすらグラスを空け続けたのだった。



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*2* 目が覚めるとそこは――。

明けましておめでとうございます(⁠*⁠´⁠ω⁠`⁠*⁠)


 

 目が覚めるとそこには見知らぬ天井が広がっていた――……とかいう導入って、本当にあるのか。昨日ホーエンベルク様達と四人で飲んだことは憶えているのに、その後の記憶がない。

 

「…………嘘でしょ」

 

 前世でもお酒の失敗なんてしたことがなかった私が、転生先でお酒の失敗を? いや待て早まるな、これは夢だ。私はまだ寝惚けているだけに違いない。そう言い聞かせて諦め悪く寝返りを打ってみても、まるで知らない柄と肌触りの寝具にそんな都合のいいことは起こり得ないと教えられる。

 

 うちの屋敷の清潔な普通のリネンと違い、もう、明らかに選ばれし素材で作られたリネン。最早同じリネンくくりではなく別物だ。香りも純粋に太陽と石鹸の香りではなく、安眠作用のあるラベンダーの香が焚かれている。

 

 うっすらと目蓋を持ち上げれば、シックな色合いで統一された家具と壁紙が視界に入った。もう、疑う余地がない。

 

 ここがベッドでなく穴ならちょうど良かったのに……。

 

 前世の死ぬまでの人生も込みで、生まれて初めて外泊をしてしまった。それも深酒が原因で。教育者としてあり得ない。あと当たり前なんだけど二日酔いだ。

 

 情けなさで泣きそうな気分になりながらガンガン痛む頭を押さえ、何とかベッドから起き上がって備え付けの鏡の前に立つ。前日の服のまま寝ていたらどうしようかと思ったけれど、どうやら誰か使用人の夜着を貸してもらえたらしく、簡素だが清潔なものを着せてもらえていた。

 

 身形を整えようとしていると控えめに部屋のドアがノックされ、外から『お目覚めでしょうか、エステルハージ様。お支度のお手伝いに参りました』と知らない女性の声がして。限りなく恥で死ねそうなか細い「お願いします」を返した。

 

 そして――……他家のメイドさん達に手厚く磨かれること三十分後。

 

 爽やかな朝の日差しが差し込む食堂に相応しいよう、間違えてもお酒の臭いを髪からさせない令嬢にしてもらい、朝食をとりながら新聞を読むご当主様の前の席を勧めて頂く。

 

 当然のように、食堂内にフェルディナンド様とアグネス様の姿はない。愚か者は私だけだということか。気分的に、翌年の契約更新があるかどうかの面接時くらいの拷問だ。

 

 彼はこちらの入室直後からこちらの顔色を気にしてくれていたものの、私が正面に腰を下ろすと新聞を脇に追いやり、開口一番「大丈夫か?」と訊ねてくれた。

 

「あ、はい。大丈夫は大丈夫なのですが……ただ、ホーエンベルク様……昨夜は本当に、ご迷惑をおかけしました」

 

「いいや、あれだけ不安になる話を聞かされた直後では仕方のないことだ。そちらの屋敷には昨夜の内に連絡を入れてあるから心配ない。それよりも食事をしないで飲んだせいか、酔いが早く回っただろう。顔色が悪いが二日酔いには?」

 

「……なってます」

 

「だろうな。それでは朝は軽めのものがいいか。パンと、サラダと……飲み物は珈琲や紅茶はまだ辛いだろう。牛乳か……酸味のあるものなら、リンゴとオレンジならどちらが好みだ?」

 

「リンゴは昨夜失敗したので、オレンジでお願いします……」

 

「はは、分かった。すぐに用意させよう」

 

 そう言うと壁際に控えていた給仕にテキパキと指示を出してくれる彼に、居たたまれなさが拍車をかけた。ここが前世なら土下座して謝罪したい。通じないからしないけど、心の中ではめちゃくちゃしている。

 

「その顔色だと今日の仕事は休んだ方がいいだろう。アウローラ嬢が驚く。それにマキシム様も最近ではだいぶフランツ様と打ち解けられているから、一日程度ならこちらで一緒に授業を受けさせられると思う」

 

「本当に、もう、重ね重ね、申し訳ありません」

 

「そんなに何度も謝らなくていい。貴方は第一王子付きにいきなり抜擢されたのに、本当に良くやっている。時間外も教材を作っていただろうから、ここまでほとんど休みもなかったはずだ。何なら二日ほどしっかり休むと良い」

 

 運ばれてきた食事を口にしながら、幾つかの会話を経由してそんな話に至ったのだけれど――。

 

「いえ、流石にそこまでご面倒をかけるわけには参りません。それに休みに関してなら、ホーエンベルク様もあまり変わらないのでは?」

 

「性別もそうだが俺は元々軍隊畑だ。貴方とは基本の体力が違う」

 

「確かにそうですけれど……体調管理の失敗に性別を持ち出すのは気が引けますわ」

 

「その真面目さは貴方の美徳の一つだが、努力に性別を持ち出すのは非現実的だと思う。ベルタ嬢、貴方は本当に教師として素晴らしい人だ。俺は――、」

 

 直後、話の途中だというのにホーエンベルク様が不自然に口をつぐんだ。慌てた様子で手を宙に彷徨わせている主人に気付いているだろうに、誰もこちらに近付いて来ない。

 

 何て気遣いの行き届いた使用人達なのだろうかと感謝し、マナーが悪いとは思ったものの、咄嗟にナフキンで目許を押さえる。

 

 ただでさえ前夜から引きずっている不安と、初めてのお酒の失敗で心が張り詰めていたのに、ここでそんな言葉を不意打ちでかけられたらもう無理だわ。

 

 泣き終えた頃を見計らったように給仕が差し出してくれた蒸しハンカチと、冷たいハンカチを目蓋にあてていたら、それまでだんまりだったホーエンベルク様が空咳を一つ。

 

「あー……その……まだ少し時間が早いが、エステルハージ殿が気を揉んでいるだろう。登城ついでに馬車で送ろう」

 

 そんな風におっかなびっくりそう声をかけてくれた彼の優しさに、今度こそ私も笑って「はい」と頷けた。

 

 ――しかし。

 

 屋敷に送り届けられて出迎えてくれたのが、一睡もしていなさそうな土気色の顔をした父と、昨夜のうちに帰国していたらしいアンナと、使用人の皆の期待で輝く瞳であったのは……とても大きな誤算だったわ。




元旦なのでもう二話投稿します。
一時間おきに投稿しておきます。


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*3* 主演男優は未来の義弟。

 

 朝の帰宅後すぐにでも始まるかと思った尋問は、妹の『夕方まで休んではどうかしら?』という意外な申し出によって延期となり、私は自室で泥のように眠った。

 

 ――そして、現在。

 

 私はまだ軽く残る二日酔いの頭痛をものともせず、七回目のリテイクを演者に強要している真っ最中。部屋の外から覗き込んでいる使用人(観客)達も、私と同様に真顔で審査中だ。

 

 仕事から早く帰るように言われていた父は、隣の一人がけソファーで失神一歩手前だけれど、そんなことはちょっと置いておく。どのみち父にとってはどれも致死攻撃なのだし。

 

「ヴァルトブルク様……恥ずかしいのは分かりますけれど、今の台詞の言い方では早口になりすぎです。もっと溜めて恥じらいがある方が誠実そうに見えると言いますか。二回目の台詞が今のところ一番アンナを幸せにできそうでしたわ」

 

「お姉さま……そんなに厳しい目で見てくれて嬉しい」

 

「当然よアンナ。貴女の幸せを願う姉として、厳しく審査させてもらうわ」

 

 自分史上一番の笑顔を浮かべてそう答える私の視線の先では、膝をついて頭を抱えているヴァルトブルク様の姿。どうやら父とは違って自家中毒を起こしているようだ。

 

 しかしすまない、青少年。私は君が婚約申し込みの再現をするたびに頬を染める妹の幸せそうな顔を見たい。使用人の皆を含め、身内ってそういうものなのよ。

 

 頭を弱々しく振って再び立ち上がった戦士に、期待を込めて「どうぞ」と進める。ソファーの上で陸に打ち上げられた魚類のようになっていた父の身体が、ビクンと一つ大きく跳ねた。これで最後にしないとそろそろ男親の心が死ぬ。

 

 それを知ってか、こちらに真剣な眼差しを寄越したヴァルトブルク様は、頬を染める妹の前に跪いてその手を取った。さぁ、最後の一勝負といこうか坊や。

 

「ぼ、僕はっ……君がいないと、駄目なんだ。君がいないとペンも執れない。君がいないと物語が思い浮かばない。君がいないと背筋も伸ばせないし、また王都で会えると分かっていても……君と離れることが……さ、寂しいんだ」

 

 一周回って最初の初々しさが戻ってきたヴァルトブルク様の求婚に、妹の頬に赤みが射す。見たか世界よ。うちの妹がこんなにも可愛い。

 

「アンナ・エステルハージ嬢、こんな情けない男ですが……あ、貴女に、婚約を申し込んでも、良いですか」

 

 そう告げるヴァルトブルク様の方も、耳の先まで赤くなっているところが好印象。アオハルだなぁ……彼を義弟と呼ぶ日も近いな。通算八回目の求婚劇で私と使用人達の心からの拍手を受けたヴァルトブルク様は膝からくずおれ、妹はそんな彼の隣に屈み込んでこめかみに触れるだけのキスを送る。

 

 こうしてアンナとヴァルトブルク様の可愛らしい求婚劇は、屋敷の使用人達も含む拍手の中で幕を閉じた。

 

 ――が、ここで綺麗に終わってくれないのが我が家。妹の白い手が上がると、使用人達の拍手がピタリと止んだ。

 

「それで……あの、お姉さまの方はホーエンベルク様と……?」

 

 満足したらしいアンナが矛先をこちらに向ける。どうやってしらばっくれようかと微笑みを浮かべていると、隣から良いタイミングで「もう、止めてくれ……」というか細い声が聞こえてきた。

 

「もう……一日のうちに娘達のそういう話を立て続けに聞くのは、父様堪えられない。皆も面白がっていないで仕事に戻りなさい……」

 

 あー、鼻声になってる。これはかなり本気でショックなんだろうな。助かったけれど結果としてかなり身内をオーバーキルしてしまった。流石に可哀想だと思ったのだろう。私の方を見つめる妹は切なそうな溜息を一つつくと、使用人達に夕食の準備に戻るように声をかけた。

 

 追求を逃れた私は、おおよそ満足気な表情になったアンナと、疲労が見てとれるヴァルトブルク様に件の演劇のパンフレットを見せてみることにしてみた。反応は二分。パンフレットの内容に怒り狂うアンナと、興味深そうに演出を読み込むヴァルトブルク様。

 

 話題を逸らす苦し紛れにと思ったものの、才能ある若い二人はパンフレットを前にふと面白いことを言い出した。

 

「ねぇ、お姉さま。思うのだけど、向こうが演劇で代理戦争をふっかけてくるつもりなら、こちらも演劇で応戦すれば良いのよ」

 

「そ、それなら、僕も、お手伝いができるかも……です。ね、ベルタ義姉さん」

 

 美しいながらも不敵に微笑む妹と、多少嵩が減ったとはいえ未だ大きな身体を縮め、顔を真っ赤にしてそういう“義弟”に、私の心臓は撃ち抜かれたのだ。



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♖幕間♖おかしな女家庭教師。

現ベルタの教え子、マキシム視点です。


 

 わたしには国で一番尊い地位に立つ父と、二歳離れた弟がいる。最近までは会話をするどころか、ほとんど同じ空間にいた記憶もない、血の繋がりがあるだけの赤の他人のような弟だった。

 

 記憶の中に朧気に残る身体の弱かった(王妃)を、()は愛した。

 

 母が生きていた頃から乳母にしか抱かれたことがなかったせいか、実在した人物としての認識は極端に薄い。わたし達は最初から全てを持って生まれ、その後の一生を国のため、民のため、何も求めるなと言われて育つ。

 

 しかし元々王族では情など持たないことが普通だ。弟もわたしも、ただの父のスペア。父が崩御すれば長子であるわたしがその座につく。

 

 ――……最初だけは。

 

 弟は何をするにも冷静でソツなく優秀。癇癪持ちで何をやっても一度でできた試しのないわたしの目の上の瘤だった。

 

 幼い頃から臣下の者達が、影で弟が長子であったならとぼやく姿を何度も耳にし、口には出さずとも父が王としてそう感じているのも知っていた。だが父は母を愛していたが故に無能なわたしを玉座に据え、その補佐に優秀な弟を置くことで母への愛を貫こうとしている。

 

 母の兄であった伯父は唯一わたしを何くれとなく気にかけてくれたが、それが情などでないことは、いかに馬鹿なわたしにでも分かっていた。彼から紹介される家庭教師は皆一様に従順で、こちらができないことを何一つさせない。

 

 王家に生まれた者ならできて当然のことを半分もできないわたしを、彼等は大袈裟に褒めてみせる。無能と謗られるより尚辛くて惨めな苦行。弟とわたしの間の溝は段々と大きくなり、捻れは歪みへと変化していった。

 

 王家の道化。

 

 そうとしか言い様のない自分の立場に苛立ちは日々募り、年々癇癪は酷くなっていった。解雇した家庭教師の代わりはすぐに伯父から新しい人材を送られ、また繰り返される煩わしい日々。

 

 そんなわたしを憐れに思ったのか、騎士団の者達が剣の鍛練に度々誘ってくれるようになってからは、血の繋がった“家族”よりも彼等の方が近しい存在になり、彼等以外と過ごす時間の何もかもが無駄なことに思えるようになっていった。

 

 ――……そのはずだった。

 

 それが今から五ヶ月ほど前に現れた、通算何人目になるか分からない家庭教師のせいで一変した。

 

 うっすらとソバカスの散る顔に、ダークグリーンの瞳と赤煉瓦色の髪。垂れ目でつり眉の悪人顔のメイドだと思ったその人物は、信じられないことに新しい家庭教師だった。

 

『私は勉強をしたくないという生徒に無理強いすることはありませんが、単純に不真面目なだけの生徒は苦手です。時間は有限なものですから』

 

 こちらの正体を知らずにそう言い放った人物は、これまでの人選で初めての女家庭教師であり、伯父の手を介して入ってこなかった教育者で。こちらが第一王子と知っても尚、慇懃無礼で不遜な態度を改めることはなかった。

 

 今まで何をしても諌められることのなかったわたしを、容赦なく言葉と行いで諫め、ときに雪に生き埋めにもする恐ろしい女だ。

 

 弱味を掴もうと宰相に身許を吐かせたところ、違う生徒を受け持っていた人物で、それを父の命で無理矢理連れてこられたのだと知ったときは、流石に悪いことをしたような気になった。

 

 できの悪さを嫌われることを恐れるようになり始めたのも、その辺りからだ。いつもより少し癇癪を堪えて授業を受けると喜び、解けなかった問題を三日かけて解けば大袈裟に褒める。

 

 ――そんな姿を、もっと見たくなった。

 

「どうしました兄上、手が止まっているようですが……軍事費用が尽きましたか?」

 

「国庫を潤す内需に力を入れなければ、平時は予価で賄う軍事費用が尽きるのは当然です。それよりもマキシム様が駒を進めて下さらないと、わたくしとフランツ様とホーエンベルク様の順番が回ってきませんわ」

 

「二人とも、そう急かしては集中できるものもできないだろう。そもそもアウローラ嬢が侵略し続けるせいで内需に力を入れられないのだが……まぁ、マキシム様も気になさらず熟考なさって下さい。これは本来そうした遊戯だ」

 

 目の前に広げられた色とりどりのタペストリーのような遊戯盤。気に食わなかった弟、ベルタの元教え子で現在は弟の婚約者の小生意気な令嬢、わたしと城内ですれ違うたびに微妙な表情を浮かべていた弟の家庭教師。

 

 不思議なことに遊戯盤を取り囲む面々は、今まで絶対に相容れないと思っていた者達ばかりだ。

 

 けれどいつもならここに加わるはずのもう一人の姿はない。病欠中だ。考えてみれば誕生日からこちら、ずっと無理をさせていたのかもしれない。

 

 ――とはいえ。

 

「ああ、もう急かすな! わたしは以前までより熟考派になったんだ! ベルタめ、こんな底意地の悪い元教え子を残して休むなど……戻ってきたら憶えていろよ」

 

「まあっ! 元じゃなくて今もわたくしは先生の生徒ですわ。横入りしてきたマキシム様は二番目の生徒です。生徒の順番なら弟分でしてよ?」

 

「兄上、アウローラ、場外乱闘は抑えて。争うのは遊戯盤の上だけにして下さい」

 

「フランツ様……その仲裁は果たして仲裁と言えるかどうか……」

 

 騒々しい。煩わしい。楽しい。おかしい。

 

 王になれば、ベルタを傍に置くことができれば、これからもずっとこの関係で居続けることができるのだろうか。



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*4* 続編はファンの反応が大事。

 

 アンナとヴァルトブルク様の求婚劇を見たあと、早速三人で取りかかった新しいシナリオのお話が膨らみに膨らんで寝る間を惜しみ、まったく休暇にならなかった休み明け……の休憩時間。

 

「先生がお休みだった間にアンナお姉様が婚約されたのですか!? 大変、急いでお祝いのカードと贈り物を考えないと!!」

 

「それにお相手が脚本家のヴァルトブルク殿で、小説担当のアンナ嬢と一緒に五国戦記の新作を製作中ですか……素晴らしい。公演はいつ頃です? 今回も遊戯盤の支援者には優待があるのでしょうか?」

 

「お二人とも落ち着いて下さい。まだゲームの途中ですわ。それに喜んで頂けるのは嬉しいのですが、アウローラ様は声の大きさが少し……」

 

 普段の優等生と淑女ぶりはどこへやら。食い気味に遊戯盤の上に身を乗り出すフランツ様とアウローラに気圧される。この分だと案外この子達は、将来似た者夫婦になれそうだ。

 

「二人とも騒がしいぞ。あと、早く駒を動かせ。順番が回ってこないだろう!」

 

「はは……ベルタ嬢が不在だった二日間とはまるきり逆の光景だな」

 

 一日の授業を少し早めに切り上げての休憩時間は、夏休み初日の塾に似ている。全然別の校区の子達が一斉に集まるから、塾だけでしか会う機会のない友人との会話に熱が入るのだ。

 

 大体そういった初日の授業はこういう浮わついた空気のままで終わる。今日の場合は遊戯盤で遊ぶ時間がこの話題で潰れることになるだろう。

 

 せっかく二日分の敗けを取り戻すために、今日の授業のほとんどを遊戯盤で用いる戦術に割いたマキシム様は悔しそうだ。こちらとしては広域で考えれば統率と知力の能力に振り分けた授業と言えなくもないので問題はない。

 

「申し訳ありません、ホーエンベルク様にマキシム様。教える時と場所を見誤ったようですわ」

 

「「そんなことはありませんから、情報開示の続きを」」

 

 いや、こっちが構うしハモるな。絶対に見誤ったわ、これ。せめて一回ゲームをクリアしたあとに言うべきだった。所在なさげな盤上の駒達が切ない。

 

「すまない、フランツ様は一度興味の対象を見つけると俺の声も届かなくなる。何より俺もその新しい脚本というものに興味があるな」

 

「――だ、そうだぞベルタ。今日はもういい、諦める」

 

 ホーエンベルク様の補足に不貞腐れた声でそう言うマキシム様に苦笑を向ければ、彼は憮然としながらも続けて「後で妹の名を教えろ。祝いの品を贈る」と言ってくれた。

 

 おお、心遣いが成長してる。他人を気遣う精神が……分かりやすく言うと魅力が上がってきているとみた。統率、知力、魅力か。王様らしい王道な学習コマンドの上がりと言えるだろう。

 

「妹にお心配りを頂きまして、光栄です。マキシム様からのそのお言葉だけでも、千金の価値がございますわ。そのように自然に心配りができる殿方は素敵だと思います」

 

 できなかったことができたら、小まめに褒める。今回は以前のような養殖のものではない自然な言葉で褒めることができた。マキシム様は「当然だ」と言いつつも、照れているのか頬を赤らめている。

 

 すると横からアウローラが「わたくし、珈琲を無糖で飲めるようになりましたわ」と勢い良く挙手し、その隣で「私は模擬剣で素振りを百回できるようになりました」と控えめな挙手。

 

 そして何故か三人の権力ある子供の頭を順繰りに撫でる羽目になった私。この場を他の貴族に見られていたら、あのライバル劇団とその後ろ楯の脚本を鵜呑みにされてしまうことだろう。

 

 ホーエンベルク様はそんな私達を微笑ましそうに眺めつつ、途中で放り出された盤上遊戯の戦場を片付けてくれた。本物の戦場も掌に収まるものならいいのに。

 

 すっかり広くなったテーブルの上に、ワゴンから直接サーブしていたお茶菓子と紅茶のアフタヌーンティーセットを並べ、興味津々の四人に、この二日間アンナ達と練った新たな脚本の概要を話すことになった訳だが――。

 

 前作の五国戦記の舞台と小説を知らないマキシム様から度々飛び出す質問に、説明は難航。途中でアウローラとフランツ様の二人が焦れ、フランツ様が自室から前作の小説版とパンフレットを持ってきたのには笑ってしまった。

 

 先に前作の世界観を叩き込むからと一時中断された説明と、仲良く小説とパンフレットを開いて覗き込む子供達。時々注釈を加えられて素直に頷くマキシム様と、若干オタクの片鱗である早口で作品内容を教えるフランツ様とアウローラ。

 

 そこに前世の殺伐とした関係性は欠片もない。微笑ましい気分でそんな子供達の姿を眺めていたものの、ふと視線を感じてそちらに顔を向けると、ホーエンベルク様の紺に近い青い瞳とぶつかった。

 

 気付いてしまったからにはこちらから逸らすのも感じが悪い。そう思って見つめ合っていると、彼が僅かに笑みを深くする。たったそれだけのことなのに、何となく頬が熱くなった。

 

 視線の逸らしどころを失くした見つめ合いは、マキシム様の「成程……では次の物語の主人公は、ベルタが良く使うメンコのキャラクターなのか!」という、合点の声でようやく解けた。

 

「え、ええ、そうですわ。憶えていて下さってありがとうございますマキシム様。次回はあの紫の大蛇が紋章の国の宰相が主人公になる物語なのですけれど、当初の予定と内容を大幅に変えておりまして――……、」

 

 説明の内容に食い付きを見せる子供達と、説明の途中でこの脚本の意図に気付いて悪い笑みを浮かべる大人。両者の対比に満足した私は、可愛い妹と義弟の読みが当たったことに安堵したのだった。



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*5* 私に拒否権はないようです。

 

 四月の婚活シーズン、もとい、社交界シーズンが始まってから一ヶ月が経った。現在は五月の一週目だが私は社交に出かけることもなく、妹と義弟が書き上げた脚本を元に、劇団の皆と急ピッチで五国戦記の第二部を製作中だ。

 

 娘を立て続けに婚約させたくないという男親の援護が手厚いおかげで、第一王子の家庭教師という肩書きの私相手に、下心満載で婚約を申し込んでくる貴族男性達をバッサバッサと門前払いしてくれている。

 

 ――というか妹の婚約が決まってからこの方、私の手許には今まで頭を悩ませていたうすら寒い恋文すら届かないのだ。裏で父がどんな手を使っているのかは怖いので考えない。

 

 悔しいけれど流石に練習を積まずに大劇団とやりあうのは得策ではない。けれどすでに新聞には広告を載せてもらっているので、前作を見た一部の貴族や商人達から噂となって広がっている。

 

 泣いても笑っても舞台の初演まであと十日ということで、今日は非番を利用して舞台演出家の先生二人と最終確認作業中である。

 

「ベルタ様、今舞台の上で演じている部分だと、演出の色は暗いのかしら~?」

 

 舞台上で練習をする団員達を眺めそう訊ねてくるアグネス様の言葉に、一瞬台詞の内容から脚本のどのシーンを練習中なのかを割り出す。

 

「ええ、そうです。最初の見せ場の背景に鮮やかな赤を使いますから、対極に暗めの色を持ってきています」

 

 今回の脚本は、それまで情報を武器に中立国の立場を保っていた主人公の国が、赤い獅子の紋章を持つ国から攻め込まれ、初めての派手な戦争に巻き込まれるシーンから始まる。

 

 主人公は攻め込まれる国の宰相の一人娘(・・・)。父親と婚約者の戦死を受け、踏みにじられ、蹂躙されようとしている祖国と、愛する者達のために獅子の国への復讐に立ち上がる――……という物語。

 

 だから最初は紋章だけでなく、戦火や血を思わせる鮮やかな赤なのだ。しかし問題は元は男性で考えていたキャラクターの性別変更。当初予定していた男性キャラクターなら衣装の幅は前作と同様で良かったものの、男装の麗人という設定だとどうしても美しいドレス姿が期待される。

 

 そしてこの暗い色合いのシーンに使うドレスの色が、先に製作してもらっているドレスのどの色を合わせるかで意見が割れているのだ。ちなみにドレスの出番は作中に二回ほどしかない。

 

 それなのに十着以上も製作されている。そんなコスパが最悪でも許されるのは、フェルディナンド家の助力あってのことだ。

 

「確か背景に濃い紫を持ってくるんだよねー? なら、やっぱり対比としてあの淡い白に近いくらいの紫のドレスじゃない? 背景から浮くから浮世離れして見える。女性としての主人公が出る最後のシーンの印象付けには良いと思うよ」

 

「ありですわね~。あのドレスなら見せ場の割に形はシンプルで済みますし、夜会にも重宝するでしょうから、舞台を見た女性客からの注文も入ると思いますわ~」

 

「それは一理ありますが、薄い紫だと広告にした際に目立たないのでは?」

 

「その辺は絵の具の中に少量の銀粉を混ぜれば、光の加減で良い感じに映えるよ。ドレスにはそうなることも考えて最初から銀糸を混ぜてあるし、広告の絵を裏切ったりしないんじゃないー?」

 

「先見の明が素晴らしいですわ、フェルディナンド様。その口調ならすでに広告の絵も完成されていたりしますか?」

 

「ふふふ、勿論。オレは最初からあのドレスを推すつもりでいたからねー。むしろあのドレスの絵と、男装した後の一枚しか描いてないよ」

 

 推したいものしか描かないとか……彼の中の芸術家魂は健在のようだ。最近は美術監督や営業代表者として忙しくしていたから、本人もうっかり失念しているのかと心配していたので嬉しい。

 

 教え子の好きな画家の彼に絵以外の仕事を頼むのは、実は少しだけ後ろめたかったりする。本当なら彼はゲームの原作通り領地が暇なときは旅をしながら絵を描く芸術家なのだ。

 

 そのためにせめて少しでも絵を描く仕事を多くしてもらおうということで――。

 

「フェルディナンド様。ちょっとしたお願いしてみたい試みがあるのですが、お聞き頂けますか?」

 

「あら何かしら~、ベルタ様のことですから楽しいことでしょうけれど」

 

「だね。良いよ、ベルタ先生のことだから何か面白いことだろうし言ってみて」

 

「ふふ、ありがとうございます。前回の物も含め今後の舞台の広告を収録して、数量限定のフェルディナンド様の画集を作りたいな、と。フェルディナンド様の本質は画家ですもの。それにアウローラ様が是非欲しいと仰っておいでなので」

 

「ふむふむ。それでしたらついでに広告の方は枚数をわざと少なくして、公演が終わった後に価値を引き上げて売りに出しません~? 真にこの作品の追っかけなら必ず買いますわ~」

 

 おっと、私よりもさらにえげつない商法を考えるとは流石アグネス様だ。良家のお嬢様なのに商魂逞しい。実際に商人になったとしても、彼女なら上手くやっていけそうな気すらする。

 

「それは素晴らしい案ですね。一考の余地ありです」

 

「お褒めに与り光栄至極ですわ~」

 

 そんな風に私達が盛り上がっていると、フェルディナンド様は急に黙って大きな溜息をついて、その場でしゃがみ込んでしまった。しかも顔を覆ってさらに深い溜息をつく。

 

 しまった……芸術家はお金の話を極端にすると機嫌を損ねる人もいるのだったっけ? 芸術はもっと純粋な目で見ないといけなかった。慌てて謝ろうと彼の前に膝をつけば、フェルディナンド様は顔を覆っている手の隙間から翡翠の瞳でこちらを見つめてくる。

 

「あーもー、ベルタ先生はさー、いちいちこっちの嬉しくなるようなことを前フリなく言うよね。心臓に悪いよ」

 

「……へ?」

 

「いいよ、面白そうだし。やろうよ。その代わりさ……画集の中にベルタ先生の絵も入れさせてくれる?」

 

 見た目の中性的な美しさを裏切る男らしい仕草で頭を掻く彼の動きに合わせ、前髪のガラスビーズが弾む。今日は薄い黄色に水色の配色でこの時期特有のポヤポヤした気候にぴったり――……って、そうじゃない!!

 

「いえいえいえ……私みたいな冴えない者よりも、原作者のアンナを描かれた方が購買者が増えるかと思いますが?」

 

「ベルタ先生を描かせてくれなきゃ画集の出版は引き受けられないなー」

 

「えええ?」

 

 何その謎思考。どういう理屈のどういう拷問の一種なのだそれはと叫びたい衝動にかられたものの、背後からポンと優しく肩を叩かれて。ギギギっと我ながら音がしそうなほどぎこちなく振り返った先には、優しげな糸目のご尊顔。

 

「良いではありませんか、ベルタ様。きっとわたしのように、貴女に憧れる子女の購買者が増えますわ~」

 

 彼女から発される有無を言わせぬ圧を前に、私はハイかイエス以外の答えを持つ勇気はなかった。



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▣幕間♗気になる同僚。

前半フェルディナンド、
後半アグネス視点でお送りします。


 

 二度目の舞台の本番まであと八日。

 

 今日は場面ごとに使う衣装の最終確認にベルタ先生に呼ばれ、すでに仕上がっている広告の話に加え、新たに画家として画集の依頼まで受けることになった。彼女はなかなかに人使いが荒い。

 

 けれどそれは毎回面白いことへの布石なので、これまでに嫌な心地にはなったことは一度もなかった。最近はあまり絵だけの仕事というものを受けていなかっただけに、いまからどの画材を使用するか考えるだけでも血が騒ぐ。

 

 それに画集に彼女の絵を載せる許可もアグネス嬢の協力を得てぶんどった。五時間の滞在で細々としたドレスの修正の話も済ませ、後日画集に載せる絵のスケッチをする約束も取りつけられた。

 

 隣国での演劇に触発されたらしい団員達も、これから国内屈指の大劇団相手に喧嘩を売るのに士気が高い。貴族社会の表面的な華やかさより、ここでのお祭り騒ぎの雰囲気の方がずっと居心地が良かった。

 

「今日はありがとうございました。私だけでは舞台の演出の仕方はさっぱりなものですから、お二人の意見や発見のおかげでとても助かりましたわ。社交シーズンでお忙しいのに申し訳ありません」

 

 劇場の表まで見送りに出てきたベルタ先生は、化粧気のない顔に苦笑を浮かべてそう言うものの、オレとアグネス嬢の見解は彼女とは違う。

 

「意見を出しても聞かない奴は聞かないし、こっちの感覚を信じてくれるならやりがいがあって良いよー。何より退屈な社交場に出なくて済むし」

 

「わたくしも今回はあまり焦らずに獲物を探そうと思っておりますから、平気ですわ~。それにこっちの方が面白さは断然上ですもの」

 

「社交場にいる殿方達が獲物ですね。アグネス様が仰ると、何だか格好良い響きに聞こえますわ」

 

「えー……それ令嬢って言うよりは最早狩人の言い分じゃん」

 

「うふふ、狩人上等です~。ですが以前までは追いかけて弓を使うものでしたが、これからは罠を張って待っている方に致しましたの」

 

「「その心は?」」

 

「わざわざ罠にかかりにくる時点で脈ありってことですわ~」

 

 そう言ってコロコロと笑うアグネス嬢の発言に妙な説得力を感じて、思わずベルタ先生と一緒になって頷いてしまった。アグネス嬢は相変わらず普通の令嬢達より発想が斜め上にブッ飛んでいて退屈しない。

 

 ひとしきり劇場前で三人で笑った後、大通りに出て二人乗り用の馬車を止めて、先に御者に行き先を告げてから乗り込む。アグネス嬢を馬車に引っ張りあげようと手を伸ばせば、すぐに手袋をした掌が重ねられた。

 

 座席に座った直後に馬車が走り出し、窓の外の街並みがスルスルと流れていく。普段あまり用のない王都の街の景色を眺めるのは嫌いじゃない。正面に座るアグネス嬢も同じなのか、馬車の外の景色を楽しんでいるように見えた。

 

「ベルタ様にあんなに控えめなアプローチでは気付かれませんわよ~?」

 

 ……窓の外からこちらに顔を向けて、いつもと同じ笑みの形をした糸目のままそんな冗談を言い出すまでは。

 

***

 

 こちらの言葉に、いつも飄々とした笑みを浮かべているフェルディナンド様が一瞬固まり、ややあってから「別にそんなんじゃないよ」と下手くそに笑った。

 

 それなのに美しい翡翠色の瞳は、次の言葉を用心するようにジッとわたしを見据える。こうして何度も同じ馬車に乗って行動をしているのに、何度見ても飽きないから、美人は三日で飽きると言うあれは絶対嘘ねぇ。

 

「あら、わたしったら勘違いだなんて恥ずかしいですわ~。失言をお許し下さいませ、フェルディナンド様」

 

「はは、いいよ。でも女性って本当にそういう話が好きだよねー」

 

 こちらの訂正にまだ翡翠色の瞳の奥は揺らいでいるものの、声と態度はさっきまでより軟化した。美しいものを愛でるのは好きだけれど、悪戯に触れてはいけないこともあることくらい心得ている。

 

 わたしも自信を植え付けてくれた恩人に強引にお節介を焼いて嫌われたくはない。この辺りで何でもなかったみたいに話題を変えて軌道修正してしまおう。

 

「ええ、それはもう。内容にもよりますけれど、恋愛小説は滾りますわね。虚構の物語だとは分かっていてもつい胸がトキメキますわ~」

 

「あー、分かったあれでしょう。真実の愛とか言うやつ」

 

「うふふ、そんな存在のあやふやなものはどうでも良いのです。ただ、わたくし達貴族社会の女性の場合は両親が結婚相手を選びますから、憧れがあって」

 

「そこは男もあまり変わらないよ。貴族社会に自由恋愛の発想はないからねー」

 

「それもそうでした。でも一度で良いから身を焦がすような恋とか、してみたいですわね~」

 

「オレはいいや。終わるときが面倒そうだし」

 

 座席で気怠気に伸びをしながらそう言う彼には、その言葉通りそんな経験はありそうにない。けれどガラスビーズを弄る彼は、恋愛にまつわる嫌な思い出でも回想してしまったのか、渋い表情になっている。可哀想なことをしたかしら……?

 

「出ましたわ強者(モテ)の発想。狩りに行かないでも選り好みできる方は良いですこと」

 

 様子見のために冗談めかしてそう言えば、フェルディナンド様は「それはそれで苦労するんだよー?」と、いつもの飄々とした笑顔に戻ってくれた。まるで子供と大人の間の笑みね。

 

 はあぁ……ごめんなさい、ベルタ様にホーエンベルク様。わたしはお互いに惹かれ合っている貴方達を知っていても、この美しい恩人の不器用な初恋を、応援したいと思うのです。




短いのでもう一話投稿します。


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*6* 二度目の公演初日……って?

 

 勝負の日の朝というのは、人生で何度味わったところで慣れることなどないのだろう。小さな劇場前はすでに前回初日の観客数を越え、今日の舞台が前回よりさらに期待されているのだと分かる。

 

 そこで前回の舞台乱入(ハプニング)の経験をいかして、今日はいきなりどこに出されても恥をかかないように、侍女達任せのコーディネートで全身を固めてあった。

 

 新緑のスカートに山吹色のブラウスと白いレースショール。髪は半分を編み込み、残りは束ねてハーフアップ。ちょっと可愛らしすぎる気もするが、彼女達の美的感覚の方が私よりうんと良いのは揺るがない事実。

 

「いやー前回の初日公演といい今日といい、良い天気で良かったねー。晴れてる方が広告のドレスも目立つから注文数に期待が持てるよ」

 

「うふふ、これもわたし達の日頃の行いの良さですわ~。せっかく素敵な格好をしているのに雨では気分が下がりますものね~」

 

「アグネス嬢の言う通りだ。しかしこの天気で公演初日とは、帰った後のフランツ様達の機嫌は最悪だろうな」

 

 三者三様の言葉ではあるものの、私は最後のホーエンベルク様の言葉に同意の意を込めた苦笑を浮かべる。

 

「それは仕方がありませんわ。この人混みですもの。それにきちんと最終的には納得して下さいましたし」

 

 前日の授業後のお茶の時間は散々アウローラ達に駄々をこねられたけれど、流石に第一王子と第二王子とその婚約者を、人でごった返す初日公演に連れてこられるわけがない。だからこうして家庭教師陣だけを先にご招待してあるのだ。

 

「ベルタ先生、オレ達の相手はもう良いからさ、そろそろ準備に戻りなよ」

 

「あら、そうですわね~。挨拶だけのつもりだったのに、引き留めてしまってごめんなさい」

 

「公演が終わったらまた劇場の裏口で落ち合おう」

 

「気を遣わせてしまって申し訳ありません。では、また後で」

 

 三人に背中を押される形で開演まで残り四十分を切った劇場の中に駆け込み、最終確認作業に従事する。うちは雑用や大道具も基本的には皆でこなすものの、こういう時に手が空く人材はほとんどいない。理由は単純に全員が役者だからだ。

 

 視界の端ではヴァルトブルク様が団員達と最後の台詞合わせをし、その隣では今日の舞台の主人公のドレスと同じものを身に纏ったアンナが、観客への挨拶の練習をしているところだ。すぐ傍には同じ格好の女性団員もいる。

 

 主人公役の女性団員は背格好も妹と似ているので、並ぶと遠目にはまるで双子のようで微笑ましい。彼女も勿論我が領地の子だ。皆がどんどん成長していく姿を見ていると、時々あの領地で初めて舞台を上演した日から、随分と遠くに来てしまったように感じる。

 

 教え子の人生を変えるためにここまで精一杯走って来られた。だけどここから先、何を目標にして走って行くのだろうかと感傷的なことを考えてしまう。しかしその時、舞台の裏口から誰かが入って来るのが見えた。照明が暗めなのでここからだと顔が見えにくい。

 

 前回もお世話になった舞台記者かとも思ったものの、彼とはさっき表で顔を合わせたところだ。背格好も違う。では団員かとも思ったが、いまは皆舞台の方で最終打ち合わせ中だ。

 

 マナーのなっていない部外者かもしれない。皆開演直前で忙しそうだ。声をかけて緊張の糸が切れたらまずい。

 

 でももしも暴れられたら一人で取り押さえられるだろうか? しかし悩んでいる間にも裏口から楽屋の方へ歩み去ろうとする侵入者の姿。

 

 あちらには劇の最中で着替える服がいっぱいあるのだ。あれがライバル劇団の人間なら何をされるか考えて――……覚悟を決めた。最悪狭い通路を抜けた先にある楽屋からここまでは、全力で叫べば何とか聞こえるはずだ。

 

「ええと……背後から誰何(すいか)するのはかえって危ない。気付かれる前に狙うのは、脚、男なら◯◯、女なら何とかなるとして……話が通じなさそうならとにかく叫ぶ。上半身は避けられやすいから、無理に攻めない。覆い被さられたら、唾を目に吐きかけて、そのあとは……」

 

『いいかいベルタ。目は柔らかいから、女の子でも簡単に潰せる。目を潰して相手が怯んだら、次は耳を両側から全力で平手打ちだ。三半規管が死ねば、もう何もできないからね。後片付けには父様を呼びなさい』

 

 幼い頃からの父の教えを思い出しつつ武器に使えそうなホウキを手に、侵入者の後を追った。

 

 侵入者は案の定衣装が沢山かけられたラックの前に立っていた。しかし問題はこちらに背中を向けていなかったことだ。侵入者は、私を待っていた(・・・・・)

 

 俯き気味な相手の顔は、照明の薄暗いここでは見えづらい。咄嗟にホウキの柄を握りしめて距離を測る。ここまでの道は一本。勢い込んでギリギリの間合いまで近付く前で良かった。

 

「申し訳ありませんが……ここは関係者以外は立ち入り禁止です。公演を観に来られたのなら、表から入場して下さると嬉しいのだけれど」

 

 よく分からない相手に背中を見せて逃げるのは下策。話しかけつつジリジリと後ろに下がると、当然相手は無言で一歩こちらに近付く。何故かこの緊張感に憶えがある気がして――。

 

「……渡りガラス」

 

 気付けばそう呟いていた。フェルディナンド様に誘われた仮面舞踏会、全身真っ黒な衣装に身を包んだ、冗談の通じなさそうな渡りガラス。私は飛んで火に入った虫だったらしい。

 

 こちらの呟きが聞こえたのか、男がまた一歩こちらに踏む出す……と、言うよりも摺り足だ。明らかにカタギのお仕事をしている感じはない。明らかに前回も今回も私が叫べない場所を狙っている。

 

「私を拐うつもりなのかしら?」

 

 浅はかで無駄な時間稼ぎ。そう思ったのだろう相手は懐に手を入れる。殺すつもりだという無言の意思表示を受けて……嘗めんなと。

 

「大変、靴が足りないわ!!!」

 

 相手の予想を裏切って思いっきり叫んでやった。ここが楽屋だというのは旗色が悪いが、普通のご令嬢のように簡単になど拐われてやるものか。突然叫ぶと思わなかったのだろう。物騒な侵入者は一気にこちらへと駆け寄――る膝の高さにホウキをぶん投げる!

 

 真横に投げられたホウキを避けようとした男が片足を上げたところで、避けきれなかったもう片足がホウキの柄にひっかかって態勢を崩した。

 

 ――……好機到来! 

 

 近くにあった鏡台から香水瓶を手に取って男めがけてぶちまけたら、完全には背を向けない格好で壁を伝って用水路のザリガニバック!

 

 すぐに態勢を立て直したものの目に香水が入ったのか、闇雲に怒れる男がこちらに手を伸ばすのと、背後から「靴が足りないって本当ですかっ!?」という団員の声はほぼ同時。

 

 一本道の通路で逃げ場を失くした男と私が対峙する場面に駆けつけた数名の団員は、香水の臭いを全身からさせる男の異様さに気付き、狭い通路を横一列に塞ぐ。目の痛みと形勢逆転に相手が戸惑っている間に、団員達は一斉に飛びかかって侵入者を取り押さえた。見たか、我が領地の結束力を!

 

「ベルタお嬢様、お怪我はありませんか?」

 

「ええ、大丈夫よ。それよりもこの人は武器を持っているようなの。懐から取り上げてから、その辺りを警邏している騎士団の方をお連れして」

 

 少ない指示で察してくれた彼等はあっという間に役割分担をし、怪しげな薬瓶とナイフを取り上げられた侵入者は、街を警邏中だった騎士団の兵士に引き渡され、後日詳しい状況を聞きに来るということで裏口からひっそり退場した。

 

 けれどその時にはほとんどの団員達が準備の手を止めて、不安そうに私の周囲に集まってきていた。当然だ。この中で彼等や彼女等が頼るのは、領主代行の私しかいない。

 

 ――開演まで残り十分。

 

 せっかく高まっていた団員達の士気は、いまや見る影もなく下がっている。このままでは舞台公演初日は悲惨な演技になってしまう。

 

 考えろ、ベルタ。この落ちきったお通夜の雰囲気は、前世で生徒が入試前最後の全国模試の紙を持ってきた時にも味わった。志望校の合格判定はD。

 

 まぁ、あれは生徒の息抜きのゲーム時間が、勉強時間より長かったのが問題ではあるけれど……あの時のピンチを巻き返せたのだから、今回だってどうにかなる。

 

「お姉さま……!」

 

「義姉上が、ご無事で良かった。でも、まさかここまでするとは……」

 

 抱きついて震えるアンナの背中を撫でてやりながら、固い表情の義弟の言葉に「どうして?」と微笑み返す。すると信じられないものでも見るかのような皆の視線が一斉に私に集中した。この緊張感……なかなか演者の立場は大変そうだ。

 

「こんなに小さなこの劇団をそこまで憎んでくれるだなんて、光栄なことではないの。あちらは私達を恐れている。今日はきっと下剋上には持って来いの公演初日になるわ。そうでしょう?」

 

 唇に微笑みをのせ、小首を傾げて周囲の皆の目を一人ずつ見つめていく。

 

 ――開演まで残り五分。

 

 皆の瞳に闘志の光が灯る。



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*7* 明日の紙面が楽しみです。

 

 全員で輪になって手を繋ぎ精神統一を終えた頃、ちょうど開演を告げる鐘が鳴らされた。団員達の表情はまだ少し固いものの、その瞳には演じることに魅せられた者達の放つ色がある。

 

 街娘、下級兵士、貴族、老人、聖職者、農民、文官、騎士、乳母、使用人、父親、婚約者、母親――……主人公。

 

 全員無言で頷き合ったのち、それぞれの出番順に舞台の袖へと並び、その先陣をアンナとヴァルトブルク様が切る。二人が舞台袖から表に出た瞬間、弾ける拍手が舞台裏の空気を震わせた。

 

 必死に練習していた挨拶の言葉を述べた二人が戻ってくるのと入れ替わる前に、舞台の背景が深い緑から一転鮮やかな赤に彩られ、その変化と同時に兵士役と民役の子達が飛び出していく。

 

 一番最初の場面は突然始まった戦争に巻き込まれる民や兵士に焦点を合わせ、口々に台詞を重ねて奥行きを出していく手法。さっきの今でだいぶ鬱憤が溜まっているからか、怨嗟と興奮が演技なのか本音なのか判別がつかない。

 

 要するにとても自然で良い感じだ。そしてそんな騒然とした場面から、重苦しい静寂を纏った深紫の背景に変わったところで、主人公役の子が出ていく。

 

「“嘘よ……お父様とあの人が死んだなんて。だって二人とも言ったのよ? 危ないことなど何もないから、半月後の式の心配をしておいで、と。なのに何故なの? 何故二人は戻らず、こんな紙切れ一枚が届いたの?”」

 

 領地にいた頃から変わらない高く澄んだ声。役者としては背が低めな彼女の強みは、この美しい声だった。怖い思いをしたあとなのに、きちんと出ている。

 

「“お父様は私をとても可愛がってくれたけれど、幼い頃は時折私が男であればと仰った。でも、それでも良かった。両親が愛してくれていると知っていたから。大好きな幼馴染みのあの人と一緒になれるなら、女で良かったと思っていた”」

 

 彼女の悲しみに震える声に袖で出番を待つ子達も何度も頷いているから、きっと表で観ている観客はもっと引き込まれていてくれるはず。アンナとヴァルトブルク様も耳を澄ませて聞き入っている。

 

「“ああ、あの赤い旗……ああ、憎い、あの獣の国が。貴様達が我等の国を食らおうとするのなら、座して死を待ってなぞやるものか! この大蛇の牙でその浅ましい喉笛に食らい付き、この身の内に宿る毒で奴等の腸を腐らせてやる!!”」

 

 ここで途端に低めでドスの効いた声に変わる場面は、練習中に彼女が尤も苦心していたところだけど……さっきの恨み辛みはここでも良い感じに作用しているみたい。敵に塩を送るとはこのことだ。

 

 場面が変わる、皆の表情も、覚悟も……なんて格好をつけたところで私がこの場でできる役はもう、後方腕組み待機おじさんしかなかった。

 

 ――四時間後。 

 

 開演よりさらに大きな拍手の波が沸き起こり、今回は前回よりも観客がカーテンコールを多くアンコールしたため、本来の上映時間である三時間半を少し過ぎてしまった。四度も舞台袖から出ていってお辞儀を繰り返すことになった団員達は、それでもとても誇らしげな表情で。

 

 三度目まではニコニコと後方腕組み待機おじさんの体で見送っていた私も、妹と義弟に引っ張り出されてお辞儀をする列に組み込まれてしまった。その後舞台記者の取材を受け、ようやく自由になれたのはさらに二時間後。 

 

「まぁまぁ……大丈夫ですかベルタ様?」

 

「お疲れさま。舞台良かったよー。あの主人公役の子だけじゃなくて、皆の演技に迫力があった。まるで本当に恐怖や憎しみを身近に感じてるみたいだった。今日の出来映えなら、オレとアグネス嬢で観に行ったあの劇と遜色ないくらいだ」

 

「ベルタ嬢、エリオットは普段の言動の七割は冗談だが、こういうことで冗談を言う質ではない。俺も今回の舞台は前回のものに輪をかけて良かったと思う」

 

「ヴィー、七割は酷い。せいぜい六割ってところでしょ」

 

「いや、むしろ七割でも譲歩している方だろう。お前の話を信じて酷い目にあった回数は絶対に俺が一番多いぞ」

 

 初日の成功を祝う食事会に繰り出す妹と義弟含む団員達と記者を見送り、人気のなくなった観客席で、やっと余裕のある領主代理の仮面を外して緊張を溶けた。生ける屍になった私に優しい言葉をかけてくれるのは、気心の知れた友人達。

 

「うふふ……もしも殿方達がうるさいようでしたら、何か表で甘い物でも買って来させましょうか~?」

 

 細分化しよう。優しくて毒舌な友人と、優しくてお調子者の友人と、優しくて生真面目な友人だ。アグネス様の【おこ】に男性陣はピタリと口を閉ざした。

 

「いえ、大丈夫ですわアグネス様。ちょっと公演前に不審者に襲われた気疲れが今更出たみたいで……」

 

 グラグラ揺れる視界を持て余して苦笑した私に、三人からの深海数千メートル級の圧を感じたのは、致し方ないこと……なのだろうか?

 

***

 

 開け放した窓の外は六月の日差しが降り注ぎ、木々の葉の色の鮮やかさと芝の香りが鼻腔をくすぐる。

 

 そんな外の景色に気を取られていたら、くんっと服の裾を引っ張られて。振り向けばそこには眉間に可愛らしい皺を刻んだ教え子が立っていた。

 

「先生、またよそ見していたわ。フェルディナンド様と二人で視線をこっちに下さいって言ったのに」

 

「あぁ、ごめんなさい。でもジッとして絵に描かれるのはどうしても苦手で……」 

 

「大丈夫だってベルタ先生、絵のモデルは慣れだから。というわけでもう一回視線下にしてて良いからこっち向いてー」

 

「フェルディナンド様はこう仰いますけれど、わたくしはもっと視線がこちらに欲しいです、先生」

 

 デッサン用の木炭を手にした二人にせがまれ、苦笑しつつポニーのぬいぐるみを抱いて向き直る。こちらが折れた姿に納得したのか、満面の笑みを浮かべて画板に向かい猛然とデッサンを始める教え子。

 

 その隣でフェルディナンド様は教え子の手許と私の間に視線を走らせ、時々教え子の描くデッサンに影を入れたりしている。

 

 こちらと視線が合うと、彼は柔らかく微笑む。ガラスビーズに彩られているからか元から顔がいいからかは不明だけど、キラキラしい。そんな彼に微笑み返すのはなかなかに勇気のいることだ。

 

 私の手を離れてフェルディナンド様に家庭教師を任せてからは、やはりというか主に芸術面に特化しているようで、自分の目で成長過程を見ていないから推測だけど、たぶんダンスと絵画は上級の中まで達したと思う。

 

 鬼気迫る木炭さばきに驚いたのも以前までのようなこの環境に戻って三日目まで。以降はただただこの才能が前衛的なピカソではなく、印象派のモネ方向に伸びてくれることを祈った。

 

 単に好みの問題だけれど、凡人の私が理解して褒めてあげられるのは断然後者だ。ピカソも後生の絵は前衛的なものばかりだが、子供の頃のデッサンは恐ろしく精緻な模写型だったらしい。天才と呼ばれる人種の振れ幅が怖い。

 

 五国戦記の二期公演初日から三週間。

 

 あの事件の翌日の新聞記事は思っていた通り公演内容を絶賛するもので、先に公演されていたライバル劇団のものより性別年齢を選ばず評判が良かった。戦記ものの強みである。

 

 今回もあと一ヶ月はやること間違いなしのロングランコース。お世話になっている記者によれば、今年の国内演劇優秀賞作品にノミネートも狙えるとか何とか。

 

 ちなみに小さな劇場の収容人数問題はある一件で物理的に解決してしまった。簡単に説明すればややお高い中規模劇場の次の公演が決まっておらず、今後の興業収入を見越して空いていたそこにお引っ越ししたのだ。

 

 ――と、ここまでなら輝かしい成り上がり物語なのだが……現在私がいるのは王城ではなく、以前までよく訪れていたコーゼル家の王都にあるお屋敷。別にマキシム様の家庭教師から解放されて雇い直されたわけではない。

 

 一番の問題である初日に捕らえた不審者の行方が分からないのだ。あの日の公演後に口を滑らせて三人から吊し上げられたあと、ホーエンベルク様は即行で王城に引き返し、警邏中の騎士に引き渡した不審者との面会を申し出てくれた。

 

 しかし彼が何度引き渡した騎士達の名乗った所属部隊の隊長や隊員に説明しても、その時間帯に劇場の周辺を警邏していた隊員もいなければ、捕縛された不審者情報もないと言う。

 

 彼が翌日劇場に訪れて教えてくれたその内容に、私や妹は勿論のこと、劇団の皆とヴァルトブルク様も戸惑い、正体不明の敵の恐怖に震えた。中規模劇場を借りたのは、周辺に警備員を配置しても物々しく見えないようにとの意味合いもある。

 

 まぁ……そのおかげで王子達が日にちをずらしてお忍びが出来たのだけれど。

 

 とはいえあの日の騎士団の隊員達の服装は、正規のものと見分けがつかなかった。国の威信を司る騎士団の制服の模倣はご法度だ。それを知っていて行うには、国で一、二を争う劇団であろうともリスキーすぎる。

 

 なので最初のライバル劇団の線が薄れ、背後にある貴族の線が大きくなった。共同体なのか個人なのかは分からないが、騎士団の人間に嘘をつかせることの出来る地位の可能性も考えられる。

 

 そこで王家に近いせいで怨みをかってしまったのなら、一度私を王城から引き離し、第一王子とも第二王子とも距離を取らせようということになったのだ。意外なことにコーゼル侯爵も快く受け入れてくれたので、こうしてお世話になっている。

 

 アグネス様は三日に一度の頻度でマリアンナ様を連れて遊びに来るのに、一緒に授業をしようと提案したら『今は数学と歴史が専攻ですのよ~』とやんわりお断りされてしまった。寂しい。

 

 教え子を含めマキシム様とフランツ様にも事情をぼかして話したものの、あのマキシム様から何の文句も出なかったところを考えると、敏い子供達は何かを察しているのかもしれない。

 

 二人の王子に授業をつけるホーエンベルク様の負担は大きいだろうに、この間に六度ほど姿を見せてくれた彼の口からは、こちらを労る言葉しか聞いたことがない。皆に迷惑をかけている現状が心苦しい――……けど。

 

「先生、少しだけ笑ってみて下さいませんか? わたくし、先生の笑ったところを額に納めたいの」

 

「うんうん、オレも同感ー。今度の画集に欲しいからさ、練習だと思って」

 

 気落ちしていることを察した二人がかけてくれる言葉と、以前までの生活を思わせる懐かしい空間に、少しだけ時間が過去に戻ったような気がした。途中の小休止を挟んでモデルをすること三時間半。

 

 部屋の時計を見たアウローラが「時間切れですわ……」と溜息をつきながら、すっかりちびた木炭を手放し、濡らした布で指先を拭った。つられて私とフェルディナンド様もそちらを見やれば、すでに時計は二時を指している。

 

「え、あっ……もうこんな時間! アウローラ様、お早くお召し替えになって登城の準備をしないと、フランツ様とのお茶会に間に合いませんわ」

 

「げ、本当だ。三人もいるんだから誰かもっと早く気付こうよー。でないとヴィーが城から馬車で迎えに来てオレが怒られるじゃん」

 

「だって先生ともっと一緒にいたくて……」

 

 せっかくフェルディナンド様のおかげで大人びていた教え子は、ここしばらくでまた元の甘えん坊に戻ってしまった。だけどそれを嬉しいと感じてしまう自分がいるのもまた確かで悩ましい。

 

「アウローラ様。私は明日も参りますから、早くベルでメイドを呼んであげて下さい。きっと皆ドアの前でヒヤヒヤしながら待っておりますわ」

 

「オレだけの時はそんな我儘言わなかった……こともないか。ベルタ先生のことを独り占めしてるのは誰だーって、オレにしつこく聞いてきたもんね」

 

「フェルディナンド様、それは秘密だと約束しましたのに!」

 

「えー? そうだったっけ?」

 

 そんな軽口を叩き合いながらパタパタと片付けに追われる夏の午後は、今日も嵐の前触れもなく穏やかに通りすぎていく。



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★8★ 天秤の不在。

 

『マキシム様は集中力の持続性にムラがあるのでお手数だとは思いますが、この砂時計の砂が落ちきったら、三十分ほど息抜きを挟んでさしあげて下さい』

 

 そう言って彼女に手渡されたのは、六十分と十五分の砂時計。

 

 いま彼女の助言通りにひっくり返されている六十分の砂時計の残り時間は、残すところ半分となった。

 

 以前まではあまり馴染みのなかった王城内の図書室で、全体的に色味は似ているものの、中身の性格はまったく異なる王子達の授業を一人で受け持つことになって三週間。

 

 マキシム様とフランツ様は二歳違いではあるものの、マキシム様の方がベルタ嬢に出会うまでの学習に遅れがある分、学ぶ内容はそう変わらない。

 

 そのため授業に使用する教材の用意に苦労はないのだが、代わりに時間配分に注意を払う必要がある。いや、あった(・・・)。以前までは。

 

 本来ならば興奮と緊張だけで良いはずの舞台公演初日。公演後の劇場内で不審者に襲われたと聞かされて以来、こちらから六度ほど彼女を訪ねはしたが、彼女が登城したことはない。

 

 三日ほどベルタ嬢が登城しないとなれば、当然マキシム様とフランツ様から説明を求められ、彼女は子供にそういった情報を教えることは好まないだろうとは思ったが、隠すことで変に誤解が生じるよりはと説明をした。

 

 二人の王子は意外なほどすんなりと彼女の状況を受け入れ、以後毎日をこの図書室で共に過ごしている。

 

「私がこの二週間で怪しいと思った人物は、新たに四家といったところでしょうか。調べさせたところこの四家は第一王子派閥でも、第二王子派閥でもありません。だからといって中立派でもない」

 

「ふん、相変わらず文官の家は風見鶏のような連中だな。騎士団の者達にそのような腰抜けはいないぞ」

 

「あの、兄上……それでいくとベルタさんのエステルハージ家も文官家系ですが」

 

「――……文官家系にも例外はいる」

 

「そうですね! では話を戻しますが、兄上が気にされていたランベルク公の名はやはまだ上がっていません。それどころか彼女の擁護派に回っています」

 

「そんなはずはない。ランベルク公は絶対にベルタを快く思っていなかった。それにベルタが登城しなくなってからしばらく経つのに、まだ一度も新しい家庭教師を寄越そうとしてこないのも妙だ」

 

 半分より薄いとはいえ、彼等の血の繋がりがある伯父に対しての評価がそれなのだと思うと、もう随分長く会っていない自分の弟もこんな風に思っているのだろうなと苦笑してしまった。

 

 本日の授業を潰しての議題も、城の中でベルタ嬢に害をなすかもしれない貴族の洗い出し作業だ。以前までは廊下ですれ違おうとも道を譲る立場と、譲られる立場でしかなかった兄弟が、互いにかき集めた情報を共有して論じている。

 

 兄は軍事畑、弟は政治畑を。どちらの情報も合わせることができれば、平たい机上の空論も少しは立体的なものになるものだ。

 

「それは単にベルタさんの代わりが務まる人材がいないからでは?」

 

「あのな、フランツ。お前はあまり接点がなかったから知らんだろうが、ランベルク公はそういう男じゃない。実際以前までならそういう人材しか送り込んでこなかった。ホーエンベルク、お前はどう思う。意見を聞かせろ」

 

 そう言いつつ机の上に脚を乗せて座るマキシム様には、恐らくもう結構前の段階で渡された砂時計の時間を越える集中力が身に付いている。彼は自分に手を焼きつつも、正面から向き合おうとする彼女に甘えていたのだろう。

 

 さらに彼女が隣に座って教えた遊戯盤の戦法を少しずつ吸収していたマキシム様は、次代の王としての片鱗のようなものを見せ始めていた。今はまだ小指の爪ほどしかない鱗だが、ここまでの成長の早さを考えれば、あっという間に大きくなるに違いない。

 

 しかし諫める彼女の不在により、この三週間ですっかり横柄な物言いに戻ってしまったマキシム様から水を向けられ、ザッとテーブルに広げられた紙の上に並ぶ家名を流し読み、その中から気になる名前を幾つか拾い上げた。

 

「は。では、僭越ながらお二人の情報に補足をさせて頂きます。まずこちらの歴史ばかりある子爵家は無視しても問題はありません。ただこちらの子爵家は二代前に金で爵位を買った成り上がり者ではありますが、情報網の広さは侮れないかと」

 

 説明を進めるうちに六十分の砂時計の砂は落ちきり、足された十五分の砂も残り少なくなった頃、図書室のドアがノックされ、アウローラ嬢が訪ねてきているという先触れが入った。

 

「ちょうどいい時間帯だ。そろそろ一度休憩を挟みましょう」

 

 毎回落ちきった砂時計を回収するこちらの手許を見つめた二人の王子が頷くたびに、彼女の天秤としての存在の大きさを実感するのだった。




短いのでもう一話投稿します。


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*9* 退場の仕様は選ばせてよ!

 

 手持ちぶさたな昼下がり。コーゼル家での家庭教師日は以前までと変わらないので、非番の日も当然同じである。

 

 いつもよりゆっくり起床して、いつもよりゆっくり食事をとり、いつもよりゆっくりお茶の時間を楽しんでも時間が余ったので、これまでの出来事をちょっと振り返ってみることに。そうしてみたことである答えを導き出せた。

 

「うん。やっぱりそうしよう」

 

 書き物机の上に広げた分厚い日記帳をめくり、薄れ始めた前世のゲームチャートを組み立ててきた頁を見て結論が出た。転生した日付の頁に走り書きを加え続け、そのたびに回避をしまくったチャートが繋がるバッドエンディングは、もう今の時間軸には存在しない。

 

 事件からもうすぐ四週間。

 その間に登城した回数は、ゼロ。

 

 危険が及ばないようにとお互いに距離を取った結果、ホーエンベルク様達とも何となく疎遠になってしまったのだ。捜査のことで簡潔な伝言が届きはするものの、事件の全貌どころか敵の尻尾先の毛一本むしれていない。

 

 八方塞がりだけれど最近ふと思うのだ。毎日コーゼル家に出向いて教え子の授業をし、時にフェルディナンド様やアグネス様とのお茶を楽しみ、遊戯盤の構想を練ったりしていると“もうこのままでも良いのではないか?”と。

 

 私の現状は絶対死ぬ未来しかなかった教え子にこれまでとは違う婚約者ができて、いわば当初の目的を達成した上で元の生活に戻っただけだ。このままゆっくりと王都の生活からフェードアウトしていって私が領地に戻れば、このおかしな状況も解決する気がしてきた。

 

 ――……単に進捗情報がなさすぎて疲れただけと言えなくもないけれど。

 

 それに元々の狙いが私達姉妹の存在なのであれば、劇団の方は被らなくていい被害を被っただけだ。仮に結婚後アンナがヴァルトブルク様とこちらに住んで劇団を続けるなら、領地経営の方は昔と同じく私がやればいい。

 

 ヴァルトブルク様が元々向いていない王城勤務をしたくないのなら、これからは劇作家一本に絞ってしまうのもありだし、むしろその方がアンナも喜ぶだろう。フェルディナンド様とアグネス様とは子爵家同士の間柄だから、今後も付き合いを続けることは可能だ。

 

 まぁ……ホーエンベルク様とは難しくなるだろう。マキシム様とフランツ様、それに可愛いアウローラに至っては言うに及ばない。寂しいけれど潮時だ。

 

「うん……よし、破綻が一切ない完璧なプランだわ。今晩アンナとお父様が帰ってきたら相談してみようっと。たぶんアンナは多少ごねるだろうけど、お父様は元から私が王城に上がるのを嫌がっていたから大喜びしそうね」

 

 独り言を呟きつつも、毎晩疲れた顔をして帰ってくる父の疲労の何割かが、私がここに残り続ける我儘のせいだと知っていた。子煩悩で反抗期のアンナには少々煙たがられていても、父は有能な文官だ。

 

 一日の仕事量をこなすくらいわけもない。なのに毎日疲れているのは、私へ送られてくる手紙の妨害作業と、話したこともない同僚から持ちかけられる縁談話を煙に巻く作業が足を引っ張っているからだ。

 

 本来ならあんなに大量に求婚の手紙をもらえる器量ではないのに、私が侯爵家の娘に続き、第一王子の家庭教師に抜擢されたばかりに父には迷惑をかけた。

 

 でも自分が結婚して家庭を持つビジョンはまだ浮かばない。幸い嫁がないでも気にしないでいてくれる感じなので、この先私が文字通り独身貴族で過ごしても何も言われないだろう。次の目標は少し気が早いけど、妹の子供の家庭教師になることに設定しようか。

 

 最後に引っ張ったチャートの先に“ハッピーエンド”と書き添えて、上から大きく花丸を描く。これであの子はもう大丈夫。あとは私という舞台装置が去れば、この世界(ゲーム)は完結だ。今後は私が自分の人生を天寿まで生きれば良い。

 

 新しく立てた人生プランに満足して表紙を閉じ、日記帳の端についている小さな鍵をかけて鍵と本体を別々の場所に隠していたら、部屋のドアがノックされた。

 

 カモフラージュのためにベッドまで移動して「どうぞ」と応じれば、入室してきた侍女から「アンナお嬢様から伝言が届いております」と、可愛らしいカードを手渡される。

 

 そこには留め跳ねに癖のあるアンナの文字で“劇場の皆と次の公演の演目で意見が割れちゃったの。わたしの味方に来てお姉さま!”と書かれていた。

 

「ふふ……姉使いの荒い子ね。少し劇場まで出かけるから馬車の用意をお願い。遅くはならないと思うけれど、もしもお父様の方が早く戻ったら、私が話したいことがあるので帰宅後の気付けは一杯だけにしてと言っていたと伝えて頂戴」

 

「はい、かしこまりました」

 

「それと何か大人数で分けて食べられるお菓子で、美味しいお店があれば教えて欲しいの。使用人の皆なら知っているかしら」

 

「劇団員の皆様へのお土産ですか?」

 

「ええ。美味しいものを食べながらの方がきっと話も上手くいくわ」

 

 正確には胃袋を掴んで大人しくさせてから、妹の都合が良い方向へ話題の誘導をしようという姉心だけど。隣で「責任重大ですね」と表情を引き締めてくれる優しい侍女には言わずにおこう。

 

 使用人達の出してくれたお持たせ十選の結果を元に、上から四番目のクッキーとマドレーヌの焼き菓子セットを購入することに決め、用意された馬車に乗って屋敷を出たのは二時半。

 

 一番人気ではなく四番人気のものを選んだのは、純粋に行く道の途中にお店があるからと、何となく上位三番目までだとお店が混んでいそうだったからだ。それにどうせなら一日に二回ある公演の、三時の休憩時間を少し過ぎたくらいで劇場に到着できる方がいい。

 

 ちょい乗り用の小さな馬車は軽快に石畳の上を走り抜け、目的のお店から少し離れた場所で停めてもらった。我が屋敷独自集計の四番人気と言えど、お店はお馴染みさん客でそれなりに繁盛している。そんなところに馬車を横付けにするのはお店に迷惑がかかってしまう。

 

 若夫婦でやっている三角形の敷地に建つ素朴でこぢんまりとした店は、両側に出入口がある造りをしているが、基本的には馬車を停めている通りに面した入口の方からお客が入るからだ。

 

 心配してくれる馭者(ぎょしゃ)に目視できる距離なら一人でも大丈夫だと伝え、店内で、詰め合わせにしてもらう商品を注文し、それを包装してもらう間に店内の他の商品を眺めていると――。

 

 馬車を停めた方向の入口から反対側の住宅地に面した入口の外で、荷物を抱えた子供がお財布を落とすのが見えた。子供はそのことに気付かず住宅地の路地に向かって歩いて行く。

 

 店内のお客も、包装と注文を取ることで忙しい店主夫婦もその様子を見ていなかったのか、誰も何も言わない。手が空いているのは私だけだし、あの子が路地の奥に行けば土地勘のない私では店まで戻って来られないだろう。

 

 馬車で待ってもらっている馭者から見えにくくなることに少し迷ったものの、あれが全財産だったら大変だ。

 

「あの、ちょっとだけ外します。すぐに戻りますから」

 

 カウンター内の忙しそうな二人に聞こえたかは怪しいけれど、見失う前に追い付きたかったので、返事を聞く前に店の外へ出た。子供の背中は路地の角を曲がる寸前。声が届くか……考えるよりも先に財布を拾って走った。

 

「そこの子、待って! お財布を落としたわよー!」

 

 石畳の上をヒールで走るのは至難の技。子供の背中が消えた角を曲がった直後、いきなり何かが口に捩じ込まれた。生理的な涙が滲んでえづいていると、上から袋のようなものが被せられて視界が暗くなる。

 

んんんんんんんんんっ(なになになになになにっ)!?」

 

 叫んだものの言葉にならない。同時に爪先が地面から離れた感覚に、抱えあげられたのだと理解して暴れたけれど、あっという間に脚を押さえつけられる。ええええ、嘘、ちょっ、袋の上から縛った!?

 

んんんんんんっ(何をするのですっ)んんんんん(離しなさい)!!」

 

 異世界ってこんな町中で白昼堂々とした人攫いってあるの? というか、ゲームの世界観も違うし、キャラクターだって違うでしょう!? 

 

「“チッ、うるさいお嬢様だな”」

 

「“大人しい女だって聞いてたのに、これなら依頼料追加させてもらおうぜ”」

 

「“それ言うなら賢いって話だっただろ? 実際はこんな手に簡単に騙されてんだぜ。小遣い欲しさに手伝うスラムのガキよりバカ”」

 

「“ハハッ、違いないな。しかし、まさか本当にこんなカードで釣れるとは思ってなかった。代筆屋さまさまだ”」

 

 袋の外から聞こえた会話で唯一分かったのは、誘拐班が二人組の雇われで、他にも代筆屋が噛んでて、さっきの子供は無事だってことかな! それよりこのテンプレなチンピラめ……人のことを袋詰めにしといて好き勝手言うなよ! 

 

 こんな乙女ゲームヒロインみたいな事件(イベント)を起こされたって、こっちにはヒーロー不在なんだぞ!? 最悪殺されるやつじゃないか!!

 

んんんんんん(誰か助けて)ーーー!!」

 

 必死の抵抗も虚しく、モガモガ叫ぶ私が最後に聞いたのは「“うるせー寝てろ”」と言う声と、鳩尾辺りに走った痛みだった。



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*10* まさかのスライド式断罪ルート。

 

 どれくらい意識を失っていたのだろうか……固い床に下ろされる感触に目が覚める。乱暴に運ばれて来たのかまだ浮遊感が残っていて気持ち悪い。袋からようやく顔を出せた時は、泣きそうになった。主に鉄格子の内側にいる不安で。

 

 ――が、目の前でニヤニヤと嗤う二人組のチンピラを前に、すぐに浮かびかけた涙も引っ込んだ。モブ仲間のはずなのにちっとも親しみを感じない顔。前世で見かけたら避けてた深夜コンビニ前でたむろしておられるタイプ。

 

 誰でも良いからこの状況を冗談だと言って欲しい。この歳で簡単に攫われるとか格好悪すぎるし……怖い。攫われるのってこんなに怖いのか。

 

「こ……どもに、悪事の片棒を担がせたのね」

 

 けれど泣くのも癪だ。涙の代わりに喉に込み上げてくる胃液を飲み下して、何とかそれだけは言った。前世も今世も教育者の身としては許せない。

 

「お貴族様らしい言い分だな。子供だって飢えりゃ悪事を働くさ。金がもらえるならなおのことな」

 

「ぬくぬくと育った連中には分からんだろーがね。何せ人を疑うことを知らんくらいだからな」

 

 ……確かにそれはどっちもごもっとも。図星を指されて睨み付けることしかできないこちらに向かい、男が嫌味ったらしく指先で弄んで見せるのは、私の持っていたアンナからのカードだ。

 

 でもこれでまた分かったことがある。たぶんこの誘拐計画は結構前から練られていたのと、最初から私だけが狙われていたということだ。そこだけは本当に本っ当に良かった。アンナのように綺麗な子なら、ここで一気に青年指定のとんでもない案件になっていたに違いない。

 

「おい、怖くて声も出ないのか」

 

「ふふ……そう見えるのなら、そうでしょうね?」

 

 そうだよ。怖いよ。怖くないように見えるなら、悪役顔が一役かっちゃってるんでしょうね! ちゃんと怖いし一人になった方がまだマシなんだから、さっさと失せてくれませんか?

 

「チッ、可愛げねーの。あぁ、それと奥に先客がいるから仲良くしろよ」

 

「地下牢に先客?」

 

 もー……結局一人にはなれないのか。しかもこの状況下ではその先客とやらも絶対にろくな奴じゃないな。男達は私だけを鉄格子の内側に残して外へ出ると、人をいたぶるのが大好きだと言わんばかりの下卑た笑みを浮かべる。

 

「あんたが少し前に俺たちに付き出した“不審者”だよ。貴族の娘を拐うにしても、殺すにしても二度も失敗したからな。散々絞られて転がされてる。あんた恨みをかってるだろうから、殺されないように気をつけな」

 

 ほら見ろ。名推理すぎて泣けるわ。動物園の猛獣小屋に放り込まれた気分。生意気な貴族への意趣返しのつもりだったのだろう、こちらを見る男達のニヤニヤ嗤いが一層深くなる。

 

「そう言うなら、せめて入れる牢屋を変えて頂戴」

 

「ダメダメ、贅沢言うなよ。世話をさせられる身にもなれって。第一普通ここは出してとか逃がしてとかじゃねーの?」

 

 あのな、自分を殺そうとした相手と相牢屋だぞ? この男の頭の中で贅沢の項目がどうなっているのか、是非とも見てみたい。お前それ猛獣がうろつくサバンナの真ん中でも同じこと言えるのか?

 

「牢屋を変えてと頼むだけで駄目なら、頼んだって無駄でしょう。できないことをねだるほど子供ではないの」

 

「はっ、そりゃそうだ。アンタあんま美人じゃないけど、ここでキャンキャン泣き出さないのは上出来だね。賢くはないけど肝が座ってら」

 

 せせら笑って言いたいことだけ言うとこれ見よがしに鍵をかけ、男達は来た方向らしき方へ消えた。人殺しとどう仲良くすればいいというのか。せめて手足の自由があるかどうかくらいは聞いておけばよかったと後悔する。

 

 少し離れた場所にあるトーチカの明かりが、カビた石造りの地下牢の床をうっすら照らし、奥で蹲っている男の背中らしき影を映す。でも……気のせいだろうか、あのトーチカの形に見覚えがある気がするのは。

 

 正直さわらぬ神に何とやらなのだけれど、こちらを捕まえるのに失敗したせいでリンチにあって転がされていると聞いたら、流石に気になる。人間だもの。第一後ろで死なれたりしたら怖すぎる。

 

 前世でそんな経験をすることは当然なかったし、ニュースで流れるのを他人事として耳にした程度だから馴染みがない。

 

「その怪我を負う羽目になった原因が言うのもおかしいけど……大丈夫?」

 

 いや、元々はそっちが悪いんだけども。ビクビクしながら声をかければ、その背中がもぞりと動く気配がした。しかも何やらブツブツ譫言(うわごと)を言っている。これでもし“殺してやる”なら追加で一撃入れよう。

 

 けれど私が非情な決意を胸に不審者ににじりよってか細い声を拾う前に、男達が去って行った方角から怒声のようなものが聞こえ、思わずそちらを振り向いた。身代金の分け前か何かで仲間割れだろうか?

 

 切れ切れに聞こえてくる会話内容が気になって、目の前に転がっている不審者への興味は一気に失せた。鉄格子の方まで戻り、息を詰めて聞こえてくる会話に耳をそばだてる。

 

 ――いわく、

 

 “もっと悪評を浸透させてから”だとか。

 “まだあの娘の筆跡で手形が切れた”だとか。

 “王子を悪様に書いた手紙の公表を早めろ”だとか。

 

 ――とまぁ……要するに、行方知れずになっていた手紙の真相がこの言葉達に集約されていた。しかも驚くべきことにうっすらと見覚えのあるトーチカとこの現状が、朧気だった記憶をビビッと刺激して、幾つ目だったかのバッドルートを思い出させてくれた。

 

 実際悪役令嬢ならではのお約束過ぎる断罪ルートは、原作ゲームだとガッツリ悪事に手を染めた教え子が見られましたけども。ノベル画面で一人で過去を回想する教え子のシーンで、今そこに見えているトーチカが映り込んでました。ええ。

 

「これって……もしかして私がシナリオ通りに動かなかったから、そのしわ寄せで罪状をでっち上げられて断罪されるルート……?」

 

 キャラクター変えてスライド式断罪ルートとか、原作脚本の理を曲げられないのは乙女ゲームだけの特権にして欲しいと、どこに嘆願すれば良いのでしょうか転生の神様?



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*11* (脳内の)父がそう望まれたので。

 

 無駄と知りつつ、この世界に転生させてくれちゃった神様のお言葉を待つこと体感十分。当たり前だが脳内に直接女神様の声などが届くはずもなく。

 

 言い争う声も違う場所に行ってしまったのか聞こえなくなったので、仕方なく相牢屋することになった不審者の様子を確認することにした。解けない問題を考え続けるより切り替え大事。ヒーロー不在でヒールがいる世界なら、自分で逃げ出せるモブにならねば。

 

「……と、その前にコルセット緩めるかな」

 

 こんな場所に閉じ込められてただでさえ身体が強ばっているのだから、少しでも負担を減らさねば。背中を向けている不審者はまだ目覚める気配もないし、さっきのチンピラ達もすぐには戻ってこないだろう。

 

 モタモタとしている暇はないので、羞恥心を捨ててズバッと脱ぐ。比較的着脱しやすい外出着にしておいて良かった。夜会のドレスだとこうはいかない。コルセットもボーンが少ない簡易のものだったので、一人でもパパッと取り外せた。

 

「うん。納めてるのがささやかな膨らみで幸いだと思ったのは初めてだけど、こういう時は便利ね……」

 

 外出着を着直したところでしみじみ目立たない胸元を確認して、思わず複雑な心境の独り言が溜息と一緒に零れる。取り外したコルセットはトーチカの明かりが届かない牢屋の隅っこに追いやり、今度こそ不審者に近付いて傍に膝をつく。

 

 幸い両手足はベルトのようなもので拘束されている。これなら暴れられる心配もないだろう。

 

「まぁ、普通に考えてリンチにかける相手の手足を自由にしておくはずはないか。さてさて前回も前々回も怖くてしっかり顔を見てなかったけど、人の命を狙ってくる奴はどんな顔をしてるのかなー……と」

 

 横向きだった身体を上向きにし直し、汚れてベタついた髪と、放置されている割に薄いヒゲを指先で引っかけて顔立ちを確認したのだけれど……何か思っていたのとは違った。しかもやり辛い方向に。

 

「これは……子供……ではないにしても……大人でも、ない、かな?」

 

 絶対に中年よりは若いにしても、さっきのチンピラくらいの年齢だと思っていた不審者は、白人系で年齢が分かりにくいにしても、マキシム様とフランツ様の兄弟と比較しても二十歳に届いていない年頃に見えた。たぶん十六~十八歳くらい。しかもかなり乙女ゲーム顔風では?

 

 教え子のルートが確定した後で良かった。まさかとは思うけれど、このゲームだと攻略キャラとしてあり得ないとも言い切れない。こんな危険そうな恋に憧れられたら大変だ。

 

 ――とはいえ、気付かなければ良かったことに気付いてしまった。

 

「あーもー……十六~十八歳は前世的には子供だよね……どうしよう」

 

 少し触れただけでも分かるくらい熱かった。暴行を受けたあとにろくに手当てもされていないなら当然だ。着替えもだけど、身体もたぶん水を直接かけられている程度で、洗っていない。ご飯はどうしてるんだろう? 何にしてもここは怪我人にとって最悪の環境だ。

 

 できることなら、私はすぐにでもプリズンブレイクしなければいけない。一晩帰らなかっただけで発狂しそうになるくらい心配する家族が二人もいるんだ。そのためにも余計なことに関わるのは極力避けたい。でも――。

 

「アンナと同じ年頃の子を見殺すのは寝覚めが悪いし……そもそもこの子、あのチンピラ達と雇主が違うわよね」

 

 そうでないと、貴族しかいない仮面舞踏会に紛れ込んだりできないはずだ。そしてそんなことをしてまで恨みをかっていそうな相手を、現在私は一人しか思い付かない。一つ良いことがあるとすれば、待っていても攫ったその日にここに来るような馬鹿ではなさそうな相手だということか。

 

 言い争っていた内容から察するに今日私を攫わせたのは、腰の引けた複数人の貴族っぽい。

 

 仲間割れか、単に私が気付かなかっただけで、本当に複数の貴族から殺したい奴リストに入れられていたのかは不明なものの、もうしばらくは殺す殺さないで揉めるだろう。今が何時かは分からないけれど、少なくとも一回分の食事くらいは出るはずだ。

 

「さっきはいきなりで油断してチンピラに遅れを取ってしまったけれど、次はお父様の教えを無駄にしないようにきっちりやらないとね」

 

 そうと決まればヒールを脱いで屈伸運動。自慢の髪をしっかりとした三つ編みに編んで、その時を待った。

 

 ――……数時間後。

 

 石の床を歩く音と食器が触れ合うカチャカチャという音を耳にして、柔軟運動を止め、怯えるご令嬢に見えるよう明るい場所へと身を移す。面倒くさそうにこちらに歩いて来るのは、さっきのチンピラのうちの一人だ。女だからと舐めてくれてありがとう。

 

 こちらに気付いたチンピラその壱がニヤニヤ嗤いを浮かべて近付いてきたので、精一杯心細そうに「あの人、息をしてないの」と男に訴えた。

 

 直後に嗤いを引っ込めた男が食事の乗ったトレーを床に置き、舌打ちをしながら「面倒くせぇな」と言いつつ鍵を開けると、何の身構えもせずに鉄格子の中に入ってくる。鍵をかけ直しはしたものの、鍵の隠し場所はバッチリ見た。

 

 元いた場所より奥の暗がりに押し込んだせいで目視しにくいため、男は疑いなく不審者(仮)の傍に膝をついて呼吸を確認しようとこちらに背を――……今!!!

 

 脱いだヒールを右手で振り抜き、こめかみを強襲!! 一瞬前後不覚になった男の背後に回り込み、首に固く編んだ髪を巻き付け背負うように締め上げる!!

 

 しばらくもがいた男が重たくなったところで締め上げる髪を緩め、背中から床に落とす。口許に手をやって呼吸を確認したら奥の暗がりに引きずっていき、男がつけていたベルトを抜き取って、後ろ手に拘束して転がしておく。鍵を取り上げて口の中にハンカチを詰め、ひとまずこれで一人目の準備が完了。

 

『いいかいベルタ。こめかみはあらゆる神経系の弱点の中でも分かりやすい。不意を突くのが難しいのが難点だけれど、頭に一番近い分与えられる衝撃も大きいんだ。それと首を絞めて相手を落とすのは女の子の力では無理だと思うだろうけれど、意外と背負うようにして絞めれば相手の重みで何とかなる。後片付けには父様を呼びなさい』

 

「実践は久し振りだったけど……意外と身体が憶えているものね」

 

 このまま逃げてもいいけれど、相方が帰って来ないともう一人が見に来るだろう。見張りの数が何人いるのかは知らないけれど、人数を減らしておくに越したことはない。

 

 頭の中の父が『やってしまいなさい』と言った気がしたので、この調子でもう一人もサクッと襲ってから考えましょうか。



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★12★ 規格外の令嬢。

 

 二日前。

 

 ベルタ嬢が拐かされたという一報が入った時、身体中から血の気が引いた。城に籠ってランベルク公とその一派を見張っていた矢先の出来事だ。張り付いていれば大丈夫だと楽観視していたわけではない。

 

 ただ、まさかここまで短絡的で稚拙な横槍が入るとは思っていなかった。明らかに犯行の手口が狡猾なランベルク公とは繋がらない。しかしそうだとしても彼が望んだようにことが運んでいるように思えたのは確かだ。

 

 幸い一報は俺と、エリオット、そしてアグネス嬢という彼女の同僚である面々にしか送られなかったようで、フランツ様達の耳には届いていなかった。もしも知られてしまえば、あの幼さの残るアウローラ嬢ですら持ちうる権力を使って何をしでかすか分かったものではない。

 

 フランツ様に体調不良を訴え、エステルハージ殿と交わした約束を違え、彼女を護りきれなかったことへの謝罪にすぐにかの屋敷に駆け込めば、そこにはすでに後の二人も呼び出されており、その中心では沈痛な面持ちのアンナ嬢と、彼女を慰めるヴァルトブルク殿の姿があった。

 

 エリオットを呼んで話を訊けば、拐かしはアンナ嬢の名を借りたカードで行われたらしく……かなり泣いたのだろう。目蓋が腫れて痛々しかった。

 

 けれど意外なことに、痛ましい姿で項垂れる娘を慰めているかと思われたエステルハージ殿は、集まった俺達に向かってこう言った。

 

『一応報せをと思っただけだったのだが……随分とベルタは好かれているようだね。でもあの子には領主代行を任せる上で教えられることは何でも教えた。そこまで心配しなくとも大丈夫だよ。案外自力で帰ってくるのではないかな?』

 

 ――と。

 

 一瞬耳を疑ったが、その後すぐに『私はこれから登城して塵を一掃する準備作業があるから、もう仕事に戻るとするよ』と言った彼は、辞書のような書類の束を手に本当に出かけていってしまった。

 

 残されたアンナ嬢も意気消沈しつつ『お姉さまから何らかの形で連絡があるか、自力で戻られた場合には皆さんにお伝えします』と。これもまたそんなことが可能であると信じているように言い切った。

 

 集まった俺達は困惑の中、勧められるまま出された紅茶を飲んだのだが……彼女に対する絶大な信頼を持つエステルハージ家の面々を前に誰も口を挟めず。

 

 アンナ嬢が慎ましく鼻を鳴らしながら説明する、“姉がとりそうな行動分析”を聞かされる茶会になった。

 

***

 

 四日目。

 

「アグネス様、フェルディナンド様……ホーエンベルク様、この度はご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありません。少し囚われた先の後始末がしやすいように片付けてくるのに手間取ってしまって」

 

 帰還の一報を受けて集まり通されたエステルハージ家の応接室で、そう言いつつ困ったように紅茶のカップを持ち上げるベルタ嬢は、どこからどう見ても淑女教育のお手本のように見える所作で、恐ろしく不穏なことを口にした。

 

 ちなみに俺達がさっき玄関ホールへと足を踏み入れたのと入れ替わるように、非常ににこやかな表情を浮かべたエステルハージ殿とすれ違ったわけだが……。娘が無事に戻ってきたのに何をしに出かけたのかという疑問が晴れた。

 

 しかし少々疲労の色が見えるものの目で見える範囲に怪我もなく、おおよそ健康そうな彼女の姿に安堵する。

 

「いいえ~、こうしてご無事に戻られたことでチャラですわ~。アンナ様もエステルハージ様も心配するなと仰っておられましたし、わたしもベルタ様なら何とかなさりそうだと思ってしまいましたもの」

 

 本当は今日の一報が入るまで実家のスペンサー家と、雇用主のハインツ家に頼み込んで情報を探らせていたアグネス嬢が涼しい顔をして嘯く。寝不足で顔色が悪いのだろう、以前のように厚く塗られた化粧が彼女のプライドを表していた。

 

「そうそう、実際に自分で荷馬車を操って帰ってきたんでしょ? その辺何があったのか詳しく聞かせてよー。オレ達はベルタ先生の家族じゃないからどこまでが本気か分からないで心配したんだし」

 

「それは確かに聞いてみたい。一人で逃げるのに荷馬車は非効率だろうに、どうして馬だけで戻ってこなかったんだ?」

 

 エリオットにしてはまともな問いに、そういえばさっき劇場の団員達に無事を報せると、ヴァルトブルク殿と出かける途中だったアンナ嬢が『お姉さまが操れば、ボロい荷馬車も戦車(チャリオット)のようでしたわ!』と興奮していた様子を思い出す。

 

 基本的にこの家の人間は失礼ながら、領地が長閑な片田舎にあるとしても、貴族家としての教育方針と価値観がおかしい気がするが……。

 

 ――ともかく、どの程度の腕前なのか興味が湧いたが、それでも馬だけにして逃げた方が断然早いはずだ。すると彼女は少しだけ困ったように微笑み、紅茶を一口飲んでから口を開いた。

 

「フェルディナンド様に招待して頂いた仮面舞踏会と、五国戦記の第二期公演で私を襲った不審者を連れ帰って来たのですわ。アンナと同じ年頃の子供でしたし、だいぶ弱っていたので捨てて逃げるのも忍びなくて。それにこの一件の黒幕の正体を暴く切り札になってくれそうだなー、と」

 

 この時ベルタ・エステルハージという型破りな令嬢を前にした俺達の心情は、恐らく“何でそうなる”という言葉で満場一致していたに違いない。



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*13* 開き直って行こう。

 

 自力で見張りに残された誘拐犯五人を各個撃破し、拉致された隠れ家から荷馬車を奪い、恐らく暗殺者と思われる子供を連れてアイルビーバックした二日後、私は城に向けて馬車に揺られていた。

 

 何ということはない。逃げ隠れしても攫われるなら、もういっそ登城してしまおうと開き直ったのだ。

 

 それに私が無事な姿で闊歩する様を見せつけることで、多少のことでは奇人と名高いエステルハージ家の長女を黙らせられないと、一定の貴族達に圧力をかけることもできる。

 

 最悪私が死ぬことで教え子のルートや、家族の人生が変わってしまう可能性もあるかもしれない。帰って来た日に薄汚れた私を無言で抱き締めてくれた父の力強い腕と、泣きすぎて両目と鼻の頭を真っ赤にしたアンナを見て、そう思った。

 

 妙なことかもしれないけれど、モブの私が攫われたことで、この世界がゲームのシナリオだけで成り立っているわけではないと……そんな当たり前なのに、当たり前ではないことに気付いたのだ。

 

 (ベルタ)というキャラクターが死んだらゲームオーバーなのではなくて。私という個人が死んだら、家族や、教え子や、同僚や、領民や……色々な人が悲しんでくれる。それって結構責任重大だ。

 

 ――そんなことを考えていたら、馬車がゆっくりと停車した。

 

 攫われた日からすっかり心配性になった馭者に見送られながら、王城に続く石畳の道を歩く。するといくらもしないうちに、視線の先、城の通用門前に立つ人物がこちらに向かって手を振っていた。

 

 僅かな気恥ずかしさと懐かしさを胸に足早に近付いて行くと――。

 

「……おはよう、ベルタ嬢。今朝も時間ぴったりの登城だな」

 

「おはようございます、ホーエンベルク様。またここで待って頂くことになってしまって恐縮ですわ」

 

「前にも言ったと思うが、貴方が気にすることはない。本来ならこちらが屋敷まで迎えに行かなければならないくらいだ」

 

「いいえ。前にも申し上げましたが、ホーエンベルク様がここに立って下さっているだけでも、この職場に味方がいる安心感がありますもの」

 

 久し振りのやり取りに微笑み合い、どちらともなく歩き出す。向かう先は図書室。城内を歩く私の姿を見て数人のメイド達が顔を背けた。考えてみれば敵は彼女達の父親になるのだろう。顔を背けたメイドは要注意だ。

 

 誰もいない廊下でホーエンベルク様が、周囲を気にしつつ「彼の容態はどうだ?」と訊ねてきた。

 

「ええ、もうだいぶ熱も下がりましたし、お医者様のお話では、もう少ししたら熱で混濁している意識もはっきりするだろうとのことでしたわ。その節は本当に助かりました」

 

 その節とは連れ帰った暗殺者の彼の意識がない間に、熱があるのは承知の上で先に不衛生さをどうにかしようと、ホーエンベルク様の手を借りて入浴の手伝いをしてもらったことだ。

 

 ちなみにヒゲと髪の手入れはフェルディナンド様が担当してくれ、手当ては私が……と思っていたら、アグネス様まで『久々の共同作業ですわ~』と、痛々しい傷跡を残す彼を前に嫌な顔一つせず手伝ってくれた。良い友人達に恵まれている。

 

「それは……良かった、な」

 

「無理をなさらないで下さい。愚かなことをしている自覚はあるのです」

 

「いや、そんなことはない。貴方の判断は人として正しいことだ。愚かなのは……何年経っても国境線の戦場を忘れられない俺の方だ」

 

 自身が子爵から伯爵になった武功を立てた戦場のことを指しているのだろう。一瞬翳った彼の横顔に胸が痛む。

 

 前世も今世も戦場とは無縁の生活をしていた身では、どう言葉をかけたところで軽くなってしまう。本来は穏やかだろうこの人に寄り添える言葉を持たないことが、悔しかった。

 

 十年ほど国境線付近で戦闘を繰り広げ、近頃ようやく相手側に停戦和睦と言う名の従属をさせた、灰髪に紫の瞳を持つ異民族。その際に捕まって奴隷へと身分を落とされた者達も多かったと聞く。それがあの暗殺者の正体だった。

 

「俺が彼のような立場の者達を作ったというのにな」

 

「ホーエンベルク様のせいではありません。仮に貴男にその責があると言うのなら、この国で平和に暮らす私達の責でもあります」

 

 精一杯の偽りのない言葉でそう返せば、ホーエンベルク様が「貴方は本当に……」と言葉を探すように口ごもる。

 

 だから続きを待とうと立ち止まりかけたのに、そこへ「ようやく来たかベルタ!」「兄さん、少しは空気を読んで下さい!」という二人の王子の声と足音が割り込んでしまったせいで、続く彼の言葉は「就業時間だ」になってしまった。

 

 久々の王城勤務を一日こなし、お泊まりに来たいと駄々をこねる教え子と、何故かそれに便乗しようとする王子二人をホーエンベルク様の助力で引き剥がし、疲弊して屋敷に戻った。

 

 父もアンナもまだ帰っていなかったので、着替えもそこそこにあの少年を寝かせている部屋を訪れる。

 

 私の留守中に看病してくれるよう頼んでいたメイドと交代し、部屋の外で執事に待機してもらって、ドアを開けたまま部屋に入り、ベッド脇の椅子に腰をおろす。病人ではあるものの流石に暗殺者という職業柄物騒なので、きっちりと両手足を拘束してある。

 

 固く目蓋を閉ざした銀灰髪の少年の額を、いつものように水を絞った布巾で拭おうと手を伸ばしたそのとき、いきなり彼が目蓋を持ち上げて飛び起き――。

 

「……ヴィテッチェ!! スラーブラカ・ラマ!!」

 

 聞いたことのない言語でそうまくしたてたかと思うと、生暖かい感触を頬に感じる。それが目の前でベッドに飛び起きた少年が吐きかけた唾だと気付くのに、ほんの一瞬間が空いた。

 

 ――が。

 

 部屋の外にいた執事が飛び込んできたかと思うと、少年の顔面に往復ビンタをかまして再び寝付かせてしまった。我が家の使用人は少々戦闘力が高い。領地の家令も槍術を嗜んでいて、よく簡単な体捌きを教えてもらったものだ。

 

 初老とは思えない滑らかな手首のスナップに感心していると、振り返った彼が好好爺の顔で「お嬢様、お顔を洗って来られては?」と、胸ポケットから取り出したハンカチーフでサッと唾を拭ってくれる。紳士の鑑。

 

 突然のことだったので、ぼうっとしたまま「そうするわ」と返して部屋を出たものの、私と入れ代わりに部屋に呼ばれたメイドに「物置の片隅を片付けて、荒縄と水瓶の用意を頼みますよ」と言っているのを聞きつけ、慌てて部屋に舞い戻った。

 

 残念がる執事を宥め、父とアンナを出迎える準備を頼んで部屋から退場させ、もう一度椅子に腰をおろす。二十分ほど汗を拭ってやり、部屋の外にいるメイドにボウルの水を換えてもらったけれど、少年はその間に何度か譫言を呟いた。

 

「良い子ね……大丈夫よ、ここにいるわ」

 

 何と言っているのか分からないのに、思わずそう声をかけてしまうような表情は見ていて胸が痛む。小一時間ほどしてにわかに階下が騒がしくなり、父とアンナが帰宅したとの報せを受け、部屋を出て二人を出迎えたのだけれど――。

 

「彼が目を覚ましたそうじゃないかベルタ。父様も挨拶したいからそこを開けてくれないか?」

 

「いいえ、お父様。失礼ながら明らかに挨拶したい目ではありませんわ」

 

「そんなことはないさ。執事(ショーン)から彼が寝惚けているようだと聞いたから、少し顔を洗う手伝いをしてあげるだけだよ」

 

「逆さ釣りにして水を張った水瓶に浸けようとする行為は“少し顔を洗う”ではなく、拷問です。落ち着いて下さい」

 

「ではお姉さま、言葉が通じないらしい彼に、名前の綴りを訊ねるくらいは構いませんわよね?」

 

「普通に紙とインクとペンを持ってくるなら構わないけれど……どうしてそんなに分厚い小説の書き損じを持ってきたのか聞いてもいい?」

 

「ふふ、お姉さまったら両手を拘束しているのにペンは持てないでしょう? 紙の端で指先を切りつければインクと筆記具が揃うじゃない」

 

「アンナの発想力は凄いわね。でも駄目よ。紙の端で切った傷は治りが悪いわ」

 

 ……一歩遅かった。執事からすでに一部始終の情報を聞いてしまったらしい。

 

 彼を逆さ釣りにして水を張った水瓶に浸けようとする父と、小説を書き損じた紙束の端で彼の指先を更に切りつけようとする妹を前に、愛が重すぎる故の狂気に戦慄する。

 

 ちなみに執事は普通(?)に天井からぶら下げ、下穿きを着用させずに下に空の水瓶を置いておけば必要最低限の世話で済むと豪語して、私を震え上がらせた。

 

 ここにオフェンス=屋敷の全使用人と父、妹。ディフェンス=私。という世紀のアウェー試合が幕を開けようとしていた。この屋敷内で彼の人権を守れるのは、どうやら拾ってきた私しかいないようだ。

 

 その後ようやく二人を宥めて夕食の席に着き、今日の出来事を話しながらの穏やかな団欒に持ち込んだものの、やはり話題は未だ落ちたままの少年のものになる。

 

「――というわけで、私には彼が何と言ったのかさっぱり分からなくて。短い言葉でしたが、少なくとも近隣国の言葉との接点はないように思えます」

 

「ふむ。しかしベルタを害するように命を受けたのは間違いないのだから、ひとまず言葉が通じないとは考えにくい。単に起き抜けで動揺したから母国語が飛び出しただけならいいが、あれは国境線で揉めていたリベルカの民だ。この国であの者達の言葉をわざわざ通訳しようとする人間はいない」

 

「では、彼がこちらとの意志疎通を拒絶してわざと母国語を使っている場合、誰にも通訳できないということでしょうか?」

 

「そういうことだ。その場合はあれから有用な情報を引き出すのは難しいだろう」

 

 私の問いかけに父がパンを千切る手を止めて眉間に皺を刻む。すると隣で私達の会話に耳を傾けながらポタージュを飲んでいたアンナが、さも名案が浮かんだとばかりに笑みを深めて口を開いた。

 

「ならもう城の騎士団に直接引き渡してしまえば良いのよ。そうすればお父さまもわたしも手を汚さずに済むもの。あんな無礼者をこのまま置いていても、使い古したホウキより我が家の役に立ちませんわ。ね? そうしましょうお姉さま」

 

 ――我が家のお姫様はキレッキレである。どうにも父とは違い、未だに彼への殺意の波動が抑えられないようだ。歳が近い弊害だろうか。

 

「まぁ、アンナったら……舞台映えしそうな台詞ね。可愛い悪女さん」

 

「え、そう? お姉さまがそう言うなら次の作品に加えようかしら」

 

 まずい……私の遠回しな窘めの言葉が、ポジティブな変換をされて大変なことになろうとしている。チラリと救援を求めて父の方に視線をやれば、すぐに察してくれた父が頷き、口を開く。

 

「では、一度ホーエンベルク殿に訊ねてみてはどうだ。彼は国境線での従軍経験がある。恐らく捕虜にしたリベルカの者達と言葉を交わす機会もあっただろうし、彼はお前ほどではないが語学が達者だ。当時を思い出すのは面倒だろうが、ベルタの役に立てるなら彼も喜ぶさ」

 

 結論。

 我が家は身内に対して以外はドSしかいないらしい。



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*14* 言葉を尽くしたんですよね?

 

 ホーエンベルク様の複雑な立場を思えば、父がのたまった案をなかなか実行に移せなかった……と、言いたいところなのだが、翌日には早速城で就業時間前に助けを求めてしまった。

 

 まだ名前も知らない少年があの後再び目覚め、私の制止を聞かずに父の行った無慈悲な給餌でフォアグラにされてしまうかもしれないという恐怖の前に、私は折れた。地下牢から連れ帰って来たのにお粥の誤嚥性肺炎とかで死なれては目もあてられない。

 

 しかしあの一件から私一人では部屋に近付くことすら禁じられ、父が執事と給餌のために入室するときに部屋の外から覗くのだが、そのときに彼と目が合うと何かを目茶苦茶に叫ばれる。表情からして絶対悪口だと思う。

 

 大抵すぐ父の手で襟首を締め上げられて黙ってしまうのだけれど、あれは相当逆恨みされているに違いない。

 

 ――ということで彼が目覚めて三日後。

 

 本日はホーエンベルク様を講師にお呼びして、第一回エステルハージ家応接室開催のリベルカ語学習会となったのだ。

 

 本当なら使用人達の気配がする屋敷ではなく、いつものカフェで待ち合わせて勉強を教えてもらいたかったものの、まだ攫われた記憶の新しい身としては断念するしかなかった。

 

 しかしまさか、転生先で家族がいる家に異性の友人を呼ぶ気まずさを味わうことになろうとは……。先に休憩時間を指定したから、変なタイミングでお茶のお代わりを持ってきたりはしないだろうけど、何となく落ち着かない。

 

「今日はせっかくの非番なのに、こちらの都合で屋敷にお呼び立てしてしまって申し訳ありません」

 

「いや、構わない。目を覚ました彼の言葉を知りたいとのことだったが……貴方に教える立場になるのは不思議な気分だな」

 

 城で見るよりもラフな格好で訪ねて来てくれた彼はそう言って笑うと、筆記具とノートの用意をテーブルに広げる。その中に数冊古びた手作り風のメモ帳が混ざっていた。恐らく生真面目な彼が戦場で纏めた単語帳か何かだろう。

 

 泥とインクと水か汗か……そんなもので汚れたメモ帳は、ひどく私の心を惹き付けた。戦場で功績を立てたとなれば武勲だろうに、この人は最後まで対話を諦めなかったに違いない。このメモ帳はその証なのだから。

 

「そう言われてみれば本当ですね。今日はご指導よろしくお願いします……ホーエンベルク先生」

 

「あ、ああ、了解した。俺もそうリベルカの言葉が堪能というわけではないが、少しは力になれると思う」

 

 貴重な資料と知識を少しでも多く身に付けようと心持ち身を乗り出せば、ホーエンベルク様はぎこちなく頷いてそう応じてくれた。こちらのやる気が伝わったのか、彼の頬にもやや赤みが差している。いい授業になりそうだ。

 

「ええとそれでは早速なのですが、ホーエンベルク先生に質問をしても?」

 

「ん、ん……どうぞ」

 

「彼に起き抜けに“ヴィテッチェ、スラーブラカ・ラマ”と言われたのですが、どういう意味なのかと気になっているのです」

 

 むしろまだ私はそれしか聞けていない。あとは全て父の給餌中に室内から切れ切れに聞こえた悲鳴のようなものだけだ。食事の時間がトラウマになっていたりしなければいいのだが。

 

 ――と、私の質問を受けたホーエンベルク様が急に表情を曇らせた。

 

「彼は確かにそう発音したのか?」

 

「ええ、確かにそう言っていました。言葉は分からなかったので、あくまで音の響きとして感覚的に捉えただけなのですが……悪口かなと思います」

 

「大まかに言えばそれで合っている。ベルタ嬢は耳が良いのだな。質問がそれだけなら、先に単語と接続語の説明をしようか。完全な表記ではないかもしれないが、文字も教えよう」

 

 良くない言葉だとは思っていたものの、ホーエンベルク様のあからさますぎる会話の打ち切り方に思わず笑みが零れた。本当に生真面目で優しい人だ。メモ帳を開くこともしなかったことから察するに、きっと彼も何度も投げかけられた嫌な言葉なのだろう。

 

「いえ……できれば先に彼が言った言葉の意味を知りたいのです。ただの悪口だったとしても、何か訴えたいことがあったのかと気になっていて」

 

 生徒(こちら)の問いかけに、先生()は一瞬だけ手近にあったメモ帳を握りしめると、溜息をついて口を開いた。

 

「……“ヴィテッチェ”は触るなという拒絶で“ラマ”は女や女性を表す」

 

「“スラーブラカ”は何なのでしょう?」

 

「そうだな……不完全、だ」

 

「成程。それなら彼は“触るな不細工女”とでも言ったのですね」

 

 スラスラと答えてくれるホーエンベルク様の苦々しい表情と気配から察するに、本当はもっと激しいスラングなのかもしれない。けれど彼は私を傷付けないように元の言葉より柔らかく訳してくれた。悪口を教わったはずなのに、そのことがとても嬉しくて悪い意味が霞んでしまう。

 

「……他には?」

 

「え?」

 

「他にもあるのだろう。何を言われたか教えてくれ。今度ははぐらかさずに最初から答えよう。できる限りだが」

 

 どこか不貞腐れたようなホーエンベルク様のその言葉を皮切りに、私は次々と少年が叫んだ言葉を彼に伝え、優しい意訳を教えてもらっていたのだけれど――。

 

 二十個目の単語を質問したところで、ホーエンベルク様が不意に立ち上がり「彼の部屋に案内してくれ。直接話したい」と微笑んだ。

 

 ちょっと見たことのない有無を言わせぬ笑みに思わず頷いてしまい、応接室の外に控えていたメイド達を散らして二階の少年の部屋まで案内するも、彼は「俺が応接室に戻るまで、決してこの部屋に近付かないでくれ」と。まるで昔話の鶴のようなことを言い残して室内に姿を消した。

 

 一抹の不安を感じながら階下の応接室に戻ってしばらく経った頃、急に階上から激しく口論するような声が聞こえてきた。慌てて部屋を飛び出して階段下まで行くと、彼に見張りを頼まれたのだろう執事に「お戻り下さいお嬢様」と応接室に連行されてしまい……。

 

 自邸だというのに、階上で繰り広げられる言い争いを悶々としたまま聞き続けるという謎時間を過ごす羽目に。

 

 そのままメイドが気を遣って淹れてくれた四杯目の紅茶を眺めていると、ようやく言い争う声が途切れて階上でドアの開く音が聞こえ、ややあってから応接室のドアがノックされた。

 

 直前まで散々紅茶を飲んでいたのに、緊張からカラカラになった喉で「どうぞ」と応えるとゆっくりとドアが開き、少年を狩りの獲物の如く肩に担ぎ上げたホーエンベルク様が入室してきて――。

 

「彼が貴方のことを誤解していたから謝罪をしたいそうだ。なぁ?」

 

 そうにこやかな表情を浮かべつつ、最後の一音に含みを持たせたホーエンベルク様が床に立たせた少年は、明らかに怯えの見える表情で、小さく一言「ごめん」と言った。



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▶幕間◀無声の誓い。

新参者の彼視点です。


 

 この四肢が自由になるのは、リベルカ人を“獣”と呼ぶ仮面の男が持ってくる仕事(・・)のときだけだった。戦に勝てば敗けた方を隷属させる。それは俺の知らないくらい昔から、ずっとやってきたことだったらしい。

 

 檻の中に閉じ込められる生活は九歳の頃からだ。戦闘が激しくなってきた国境線沿いにあった村から、親と逃げる途中にはぐれて攫われた。檻の中には同じように連れてこられた同族ばかり。

 

 親とはそれきり会っていない。きっと死んだのだろう。最初の頃にはあった悲しさと怒りは徐々に擦りきれていって、だんだん真っ黒に塗り潰されていった。もともとリベルカ人は血の気の多い民族だ。貴族が持ち込む裏の仕事を憶えるのに、そう時間はかからなかった。

 

 仕事があればこの四肢が自由になる。仕事が成功すれば、その回数と報酬で檻の外で暮らせると教えられてきたから、同じ檻の中にいた奴等とは毎回仕事を請ける権利を争った。勝たなければ仕事があっても出られない。

 

 一人ずつ争う奴等が減っていくことが、仕事の失敗を意味しているのか、自由を得たのかも分からないのに、毎回肉を取り合う獣のように争う。そんな生活も気付けば七年目になっていた。

 

 ――だから、あの夜も。

 

 渡りガラスの仮面をつけて、翡翠色の鳥の仮面をつけた見るからに弱い女を殺せばどれだけ自由に近付けるのか、そんなことを考えていた。

 

 それなのに狼の仮面をつけた男に邪魔をされ、翡翠鳥の女は攫われた。短い四肢の自由時間。殴られ連れ戻された檻の中で、次の仕事を待った。

 

 それから幾つかの仕事をこなした頃、また同じ仮面の男が、また同じ女を攫ってくるようにと仕事を依頼を持ち込んだから、その仕事を取れるように同じ檻の連中を殴って勝ち抜いたのに――。

 

 次に会ったあの夜の翡翠鳥女は、少し見ない間にこちらを殺そうと牙を剥く狼女になっていた。二度目の失敗のツケは大きく、檻の中で待ち構えていた連中はさらに手酷く殴り付けてきた。

 

 少し前まで、俺の世界はそういうもので。失敗の原因を作った翡翠鳥女が憎くて憎くて、世界で一番殺してやりたい存在になった。

 

 ――でも。

 

「ガンガルはリンゴジャムが好きなのね。あとで厨房に追加で作ってもらえるように頼んでおくわ」

 

 自由になった両手を使って甘いパン粥を一匙口に入れたら、そう言ってベッド脇の椅子に座っていた翡翠鳥女(ベルタ)が笑った。

 

 朝と夜が十四回ずつ通りすぎるくらい名前を呼ばれたのに、まだ慣れない。親とはぐれてからずっと呼ばれなかった名前は、もうすっかり自分のものではなくなってしまったみたいだ。

 

「他に好きなものはあるかしら? 消化に良いものなら応相談よ」

 

「……リンゴより、ナシのジャムが好きだ。あれは喉にいい」

 

「そうなのね。それならガンガルは声が良いから、次にナシが手に入ればジャムにしてもらいましょうか」

 

 高すぎず、低すぎない、心地良い声。歌うことが好きなリベルカ人に聞かせたら、十人中八人は好ましいと答える声の持ち主だ。

 

 けれどベルタはリベルカ人の女と比べて不美人だ。でもそれを言ったことがあの夜ベルタを攫った狼男にバレた日は、殺されるかと思った。

 

 あいつはベルタを俺の命の恩人だと言ったが、元はベルタを攫って始末し損ねたのせいで殺されるところだったのだから、信じなかった。どうせこの国の人間には分からないと思ってリベルカ語で罵れば、全部をそれ以上にキツい言葉で罵り返されて驚いた。

 

 リベルカ訛りが懐かしいというより、それだけこちらの言葉を理解しているジスクタシア人に罵られることが恐ろしかったと言った方が正しい。

 

 その上で『次に彼女に向かって汚い言葉を吐けば、その首が胴から離れる覚悟をしろ』と脅された。あの殺気は駄目だ。逆らえば殺されると本能が叫んでいた。ベルタの番かと思ったけど、そうでもないらしい。変な男だ。

 

 あの狼男もそうだが、この屋敷の人間はベルタを除けば全員怖い。特に当主と妹と執事が。

 

 ベルタは、俺の命の恩人。

 

『ホーエンベルク様が大袈裟に仰っただけよ。貴方のことをあそこから連れ出すのなんて馬のお産の手伝いより楽だったし、領地のお祭りで食べる為に潰した子牛より、貴方の方が軽かったわ』

 

 助けてくれた夜の話を聞いたらそんな風に笑ったけど、あの男は下らない嘘をついたりしないと思う。

 

 ――だから。

 

「早く体調を戻して、お嬢のために働く。俺を使ってお嬢を殺そうとした男の顔は見ていないけど、声と匂いで分かる。絶対、役に立つ」

 

「あのねガンガル? そのお嬢っていうのは……ちょっと違う職業と誤解されそうだから、普通に名前で呼んで欲しいわ」

 

「そんなことしたら、執事と当主に殺される。お嬢の妹も怖い」

 

「んー、それは困るわね。でもそれならアンナは何て呼ぶつもりなの?」

 

「妹様」

 

「成程、そうきたか……」

 

「諦めろお嬢」

 

 また俺のことを大鷹(ガンガル)と呼んで、四肢の自由をくれた()の名をこの唇が紡ぐことはないけれど。大鷹は生涯の主を一度決めたら何があっても絶対に裏切らない。




短いのでもう一話投稿します。


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*15* とある昼下がりのこと。

 

「マキシム様はもう少し戦略を練った方がよろしいですわ。穏健派なのはよろしいですけれど大概になさらないと。毎回友好国のフランツ様に兵を借りてばかり。借金まみれの敗戦国が板につきますわよ?」

 

「お前こそ現実的に物事を考える頭を持て。第一マリアンナ嬢の手勢をあてにしているのはそっちもだろ。遊戯盤の上だからといって、対外戦争でばかり金儲けをしていては第二王子の婚約者として心配だ」

 

 すでに恒例行事になりつつある試合後のディスり合い。何回目くらいまでお互いに猫を被れていたのか分からないが、性別を越えた気の置けない友人と言えなくもない。見ようによってはだけど。

 

「ローラもマキシム様もこれは遊びなんだし、そろそろもう少し肩の力抜いて楽しんだらどうかしら? それに確かにどっちの言い分も正しいのだし」

 

「成程。マリアンナ嬢の言う通り反りの合わない相手同士の方が、お互いに急所を見破りやすいのかもしれませんね。だとしたら無理に関係性を矯正しない方が良いのか……?」

 

「フランツお前な……せっかく減った対立し合う派閥をまた増やそうとするな」

 

「フランツ様、そういう政治的な発言は心の中にしまっておきませんと」

 

「国のためなら兄と婚約者も使おうってことね。この中で一番危険な思想持ってるのはフランツ様かもですけれど、わたしは何があってもローラの味方ですから」

 

 和気あいあいというのにはやや黒いものを感じるものの、タペストリー型の遊戯盤の上を一度全部撤去して、もう一戦しようと駒を選り分ける子供達の姿は微笑ましい……と、思う。というか思いたいなと感じていたのだけれど――。

 

「うん、何だろ……遊戯盤で遊んでるだけなのに可愛げのない会話だなー。それに意外とマキシム様、穏健な賢王の適正持ってない?」

 

 やっぱりそうなりますよねというツッコミがフェルディナンド様の口から零れた。ジャムクッキーを片手に長い脚を組んで子供達を眺める姿は、普通のご令嬢なら目を奪われることだろう。

 

 けれど今ではすっかり耐性のついてしまった私とアグネス様からは、残念なことにそんな乙女心は失せてしまっている。視界の端に入れば“お、綺麗”と一瞬思う美術品扱いだ。綺麗なものに慣れるって悲しい。

 

「将来の関係性の縮図が透けて見えますわね~。でもそれでいくとうちの子は愚直な将軍適正かしら?」

 

「私の教え子はいつの間にか覇王適正を持ってしまったみたいですね。できれば軍師適正を持って欲しかったのだけど」

 

「各々が戦況を冷静に見つめ直せるだけでなく、人心の動きや適材適所まで分かる良い教材だ。フランツ様は参謀適正か……授業で取り入れてみよう」

 

 いつかのように四者四様、ティーカップに揺れる紅茶の香りを楽しみつつそんなことを言い合う前では、テーブルの上に広げられた遊戯盤へ前のめり気味に向き合う四人の子供の姿。

 

 マリアンナ様は五国戦記の第二期で女主人公にはまってしまったらしく、何度もアグネス様に劇場に同行するようせがみ、先日ついに主演の子を出待ちして握手とサインまでしてもらったそうだ。

 

 以来割とこのメンバーでの集まりに乗り気で、今日の王城でのお誘いにも臆することなくやってきた豪胆な元ライバル令嬢である。

 

「こうやってこんな風にお茶を飲んでると思うんだけどさ、もうこの集まりがなかったときに自分が何してたか思い出せないなーって。自分ではそこまで退屈に生きてきた気はしてなかったんだけど……変だよねー」

 

 子供達の遊ぶ姿に視線を合わせていたら、ふとフェルディナンド様がそんなことを言い出した。

 

「言われてみればそうですわね。でもわたしはベルタ先生の存在を知らなければ、たぶん今もまだ無謀な婚約者探しに奔走していたと思いますわ~」

 

「俺もベルタ嬢が始まりだな。貴方と出会わなければ俺はフランツ様の家庭教師を拝命せず、かといって弟と母のいる元の領地に戻ることもできずに、今頃どこかの酒場で用心棒でもやっていたかもしれない」

 

 フェルディナンド様の言葉につられるように、アグネス様とホーエンベルク様までもがそんなことを言ってくれた。けれど私は何故か三人の言葉に上手く言葉が出てこなくて、会話に乗り損ねてしまった。

 

「コーゼル侯爵がさ、うちのお姫様を次の誕生日で城に上げるんだって。第二王子の婚約者としての教育に入るみたいだ。まだあんなに弱っちそうなのに、あんな策謀渦巻く場所に放り込むのは心配だよねー」

 

 彼の視線に大切な生徒を労るような気配が揺れたけれど、私の心はそれ以上に大きく揺れた。あと三ヶ月もない。アウローラはまだ次の誕生日で十一歳だ。

 

 現状のルートだと、十三歳での学園に入学する話は立ち消えになったと思って良さそうだ。それに仮に城に淑女教育に上がってきても、私は第一王子のマキシム様つき家庭教師だから、大丈夫。まだ繋がりは切れていない。



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*16* 気心知れた友人達と。

 

 今年も波瀾万丈な社交界シーズンが終わりに近付き、七月も残すところ一週間となったところで、

 

『あ、そうだベルタ先生、オレ達そろそろ領地に一旦戻るから』

 

『マリアンナ様はシーズンの終わる直前までハインツ家の方と行動されますし、ホーエンベルク様は職場が一緒な分、わたし達よりベルタ様を独り占めしていますから、今年は三人でデートしましょう~?』

 

『そーいうことー。ま、半分は冗談だけどさ、画集分のスケッチとかもしときたいんだよね。たっぷり五日間くらいお休みもぎ取ってきてよ』

 

 ――とフェルディナンド様達が誘ってくれたので、ホーエンベルク様に相談したのだけれど……意外なことにアウローラが引き下がり、マキシム様がごねた。

 

 でもそこはフランツ様の『兄上はベルタさんが大好きですね』という煽りのおかげで、無事五日間のお休みをもらえることに。教え子の婚約者が有能で嬉しい。

 

 一日目は、私が攫われたりしたゴタゴタでまだ観ていなかった、我がミステル座が誇る五国戦記の観劇に出かけ。

 

 二日目は、街歩きをしながら画材屋さんを覗いたり、露店の雑貨を眺めて歩いたり、買い食いをしたりと、普通の若者らしいことを楽しんだ。

 

 ちなみに休暇中の護衛は、

 

『うちの一族は狙われやすいのにフラフラ出歩くしとにかく弱いから、護衛はめちゃくちゃ強いよ。いつもはだいたいヴィーと一緒だからいらないんだけどね』

 

 と言うので、フェルディナンド様のお屋敷の方々をお借りさせてもらっている。正直どこにいるのかまったく分からない。護衛される側にストレスを感じさせないのは凄いことだ。しかしそんな護衛の存在をいらないと言わしめるホーエンベルク様の武力がちょっと気になる。

 

 三日目は、女の子向けの遊戯盤に出てくるアイテムを扱っているお店の視察へ。いつの間にかかなりの品数になっていて、店内は遊戯盤の攻略について熱く語り合うご令嬢で賑わっていた。見目麗しきオタク達である。

 

 私はあまり服に詳しくないものの、アグネス様が数着王都限定のドレスを注文するのを眺め、フェルディナンド様が見立ててくれた小物を数点購入して店を出た。その後はいつも利用するカフェに寄り、ケーキと冷たい飲み物で遊び疲れた身体を癒やすことにした。

 

「うふふ、買いましたわね~」

 

「私も可愛らしいものが多くて珍しく購入してしまいましたわ。それにお店も大盛況で驚きました」

 

「でしょー。第二期の公演が始まってからは女主人公だしと思って、こっちでも商品を扱ってみたら大当たり。さらに人気が出てきたよ。劇中のドレスは注文できるけど、合わせる小物の中には王都限定のものもあるからね」

 

「何を隠そう、わたしもそれを購入しに来たのです。マリアンナ様がどうしても欲しがられて。ほら、このイヤーカフがそうですわ~」

 

 そう言ってアグネス様が見せてくれたのは、透かし彫りにされた銀細工の大蛇の紋章と、そこに嵌め込まれたアメジストが揺れるイヤーカフ。劇中では男装をする主人公の耳許についている……らしい。

 

 かなり前列の良い席を押さえないと見られないのだが、広告の絵には確かに耳許に描かれている。芸の細かさに思わず溜息が漏れた。

 

「まぁ……大蛇の紋章って女の子は嫌がるかと心配しましたけれど、格好良いのに可愛らしくできていますね」

 

「うちの一族は芸術系にだけ特化してるからねー。これくらいは当然だよ。職人の技が光ってるでしょ」

 

「流石にこれをつけて大きなお茶会には出られませんけれど、こういう小物で仲間を探すのも楽しそうですわよね~」

 

 小休憩のつもりがいつの間にか新しい商品の話に広がり、さらに次の女の子向け遊戯盤の話にまで及んで……。

 

 ――、

 ――――、

 ――――――四時を告げる鐘の音で正気に戻った。

 

「いけない、もうこんな時間。今日はもう場所を移動するには遅いですし、明日の予定だけでも先に立ててしまいませんか?」

 

「ホントだ。時間配分まずったねー」

 

「でも楽しかったのだから、こういう失敗もたまには構いませんわ~」

 

「だね。残すところはスケッチだけど……枚数描くから二日は欲しいな。どこか公園にでも行く?」

 

 肩をすくめたフェルディナンド様が出した案に頷きかけたものの、横から銀色に輝くフォークを持った手で制したアグネス様がゆるゆると首を横に振る。

 

「こんな季節に野外などお肌の大敵です。スケッチでしたら、是非我がスペンサー家にお越し下さいな~。大した屋敷ではないのですけど、わたしのお見合いに使う絵を描いてもらう専用の部屋がありますの」

 

「へぇ、良いねー。じゃあせっかくだし借りよっか?」

 

「ではアグネス様のお言葉に甘えさせて頂きますわ」

 

 ――という感じでトントン拍子で場所決めも完了し、メンバー中で一番門限の厳しい私に合わせてくれた二人と一緒に三日目を終えた。

 

 ――翌日。

 

 前日にフェルディナンド様お手製のイヤリングをつけてくるようにとの指定を受けたので、それに合うちょっとだけ可愛らしいドレスを着てスペンサー家にお呼ばれした。

 

 アグネス様の評価と違い、庭に力を入れたスペンサー家の屋敷は可愛らしく、前世で世界的に有名だったコーギーとお婆さんの庭を彷彿とさせるところだった。

 

 案内されたお見合いの絵を描いてもらう専用のお部屋は、窓から庭を一望できる角部屋で。開け放ったバルコニーから夏草と花の香りが流れ込むこの一室が、彼女の自慢なのも頷けた。

 

 そんな素敵な一室で用意された紅茶を飲んだり談笑を交えながら、私一人の立ち絵や、アグネス様とのツーショットを描いてもらうこと二時間。

 

「ねぇ、お二人さん。わたし少々目蓋を持ち上げることに疲れたので、そろそろ一度休憩を挟みませんか~?」

 

 私の後ろで椅子の背もたれに身体を預けていたアグネス様が、のんびりとした声でそう告げたことで、さっき部屋に用意されていた紅茶を飲み切ってしまったことを思い出した。

 

「被写体が疲れたら良い絵が描けないから休憩は賛成だけど、目蓋を持ち上げるのに疲れるとか、アグネス嬢は相変わらず斬新だなー」

 

「でも確かに少し疲れましたね」

 

「ほら、ね? この辺で一度しっかりした休憩を挟んだ方が、きっと良いものができますわ~。ということで、紅茶のお代わりとお茶菓子を用意してもらえるように手配して参りますから、ちょっと席を外します~」

 

 そう言うやササッと椅子から離れたアグネス様は、軽やかにドレスを翻して部屋から出ていってしまった。残された私達はその素早さと、廊下から聞こえてくる彼女の鼻歌にどちらともなく顔を見合わせ、クスリと笑う。

 

「あれは眠かったって言うよりも、きっとお喋りがしたくなったんだと思うね」

 

「ですね。でも、私もそろそろ二人とお喋りしたかったから嬉しいですわ」

 

「お嬢様方は暢気だなー。こっちは良い絵を描こうと思ってスケッチを量産してるっていうのに」

 

「ふふ、ごめんなさい」

 

「いーよ、冗談。だけどお茶が来るまでの間、ベルタ先生の絵だけもう数枚くらい描いていい? 楽に座ってくれてていいから」

 

「はい、勿論ですわ」

 

「ありがと。じゃあついでにちょっと砕けた感じの表情が欲しいから、お喋りしながら描くねー」

 

 画板越しに聞こえるフェルディナンド様の間延びした声に笑うと、彼も画板から半分だけ覗く美しい顔を綻ばせた。

 

 一瞬話題を探しているのか、シャシャッ、と紙の上を走る木炭の音だけが室内に響く。けれどすぐに画板の向こうで翡翠色の瞳が笑みの形に細められ、彼が口を開いた。

 

「ベルタ先生に質問なんだけど、結婚願望とかってある方?」

 

「うっ……結婚願望ですか。アウローラ様とお約束したのもありますが、今はまだ私自身も結婚についてフワフワした考えしかなくて」

 

「ふーん? だったら仮にどんなときなら結婚しようとか思うの?」

 

「ええと……」

 

「まさかの未来予想図なし?」

 

「……うふふ?」

 

「ま、いいや。じゃあさ、相手に求める理想はどんな感じなの」

 

「それなら答えられます。きちんと仕事をして、労働の対価に得た収入を家庭に入れる人ですわ」

 

「待った。それは割と普通のことだって、普通からずれた一族出身のオレでも言うわ。流石にもう少し夢を語ろう。背が高い方がいいとか、腕節が強いとか、アグネス嬢みたいに顔がいいってのもありだと思うよー」

 

 確かこのやり取りは前にもしたな。そしてまったく同じ答えをもらった記憶がある。教え子や妹と違って、私はほとんど成長していないらしい。ここにアグネス様がいたら笑われてしまうところだ。

 

「お、思いやりがある人?」

 

「やけに抽象的だし疑問系ときたね。それならー……たとえばミステル座の中でなら誰が男前だとか、ベルタ先生が拾ってきた番犬クンとかは? あの子は顔立ちが異国風で絵になるよね」

 

 ちなみに番犬クンとはガンガルのことだけれど、これは彼のことを嘲っての渾名ではなく、ベッドから起き上がれるようになった彼が屋敷の中でどこに行くにも私についてくるからだ。

 

 妹に加えて弟ができたみたいで可愛い。アンナが何くれとなくお姉さん風を吹かせていて、餌付けというのか、毎日劇場の帰りにジャムをお土産に買ってきてはガンガルに食べさせている。

 

 最初のトゲトゲした空気が日に日に丸っこくなっていく姿は、屋敷の使用人達にも伝播し、父も政敵の話を聞き出す際に褒美と称してブランデー入りのチョコを与えたりしていた。我が家の人間は基本的に一度懐に入れてしまえば甘やかすタイプなのだ。

 

「流石に妹より歳下の子をそういう対象としては見られませんわ」

 

「真面目か。でも理想がないんだったら、オレなんかどう?」

 

「あら、フェルディナンド様は私のお相手には勿体無いですわ」

 

「えー、何それ? オレはベルタ先生はイイ女だと思うから言ってるのに」

 

 半分だけ覗いた彼の表情はこちらをからかうように微笑みを浮かべ、木炭を走らせる手の動きは少しも止まらない。彼の目に私は今どんな表情を浮かべて映っているのだろうか?

 

「ふふ、ありがとうございます」

 

「ちぇっ、絶対信じてないやつだ、その返し方」

 

 言いながら、チシャ猫のように目を眇める彼を見て思う。きっと今の私は友人とのお喋りに満足して、楽しげに笑っているのだろうと。



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♗幕間♗解けない魔法。

 

 ベルタ様をフェルディナンド様とわたしで二人占めして、今日で五日目。

 

 前日と同じくベルタ様のスケッチをするフェルディナンド様の横顔は、普段は見せない穏やかさで。彼の少し後方から覗き込んだ画板のベルタ様は、通常女性の顔を描く上では描かない方がいいソバカスをきちんと配されても美しかった。

 

 屋敷内でも自然光が優しく注ぐこの部屋は、少しでも自分を美しく描いてもらうのにうってつけ。けれどこの部屋から一歩でも出てしまえば、後日送られてくる自画像と自分の顔の落差に笑ってしまうことがある。

 

 ――でも、あれはわたしの思い違いだったのねぇ。

 

 報酬を受け取って美しく描こうと努めてくれる腕の良い画師と、報酬を必要とせず想い人を描く腕の良い画師を比べてみて、初めて分かった。あれは被写体に対して抱く想いの問題だったのだと。

 

 “美しく描かなければならない(・・・・)

 “美しいと思うから美しく描く”

 

 ベルタ様の絵はきっとこの部屋から持ち出されても魔法が解けず、美しいままに違いない。大見得を切って紹介した手前、大切な友人ががっかりするようなことがなさそうで良かったわ。

 

 ――だというのに……。

 

『“真面目か。でも理想がないんだったら、オレなんかどう?”』

 

『“あら、フェルディナンド様は私のお相手には勿体無いですわ”』

 

『“えー、何それ? オレはベルタ先生はイイ女だと思うから言ってるのに”』

 

『“ふふ、ありがとうございます”』

 

『“ちぇっ、絶対信じてないやつだ、その返し方”』

 

 不意に昨日の二人のやり取りが思い出されて内心で溜息をつく。休憩を口実にせっかく二人きりにしてさしあげたのに、肝心のフェルディナンド様の悪い癖がまた発揮されて、結局誤魔化してしまったのは勿体なかったわねぇ。

 

 あそこであともう少し踏み込めていたら、多少は次に会う際の意識のされ方にも違いが出たのに!

 

 明日からはまたホーエンベルク様の独壇場になるのに……と、しみじみと意気地のないフェルディナンド様の姿を見つめていると、彼が急に振り返ってわたしを手招いた。

 

「次、アグネス嬢も入ってよ」

 

「え……嫌ですわ~」

 

「何で? 昨日は入ってくれたじゃん」

 

「何でって、昨日はそういう気分だっただけですもの~。今日はベルタ様も緊張なさっておりませんし」

 

「そんなことはありません。アグネス様がご一緒して下さる方が心強いです」

 

「あらあら、ベルタ様にそう言って頂けるのは嬉しいのですけれど、二人分描くとなればフェルディナンド様の負担になりますわ~」

 

 本当はついさっき気付いてしまった理由のせいだ。ここから出て魔法が解ける自分の絵など見たくない。昨日目蓋を頑張って開いたのだって、席を外す言い訳工作のためだったのだから。

 

「それに残念なのですが、昨日の今日で目蓋が疲れておりますの。そもそもわたしは画集に入りませんし、今日はご容赦下さいませ~」

 

 やんわりと嫌われない程度にそう辞退すると、ベルタ様とフェルディナンド様はお互いに目配せして頷き合った。そこでこの話は終了したものだと思ってホッとしかけたそのとき――。

 

「画集に載せるって言ってなかったっけ?」

 

「はいぃ?」

 

「画集の中に“女性用遊戯盤監修者=アグネス・スペンサー嬢と”って。だから入って欲しいって言ったんだけど」

 

「……聞いておりませんけど?」

 

「ごめん、伝言漏れだ。じゃあひとまず、いま言ったから入ってよ。それともし良かったらアグネス嬢一人の立ち絵か、座ってるやつが欲しいんだよねー。目蓋を開けるの疲れるなら閉じてて良いからさ」

 

 フェルディナンド様が顔の前で両手を合わせてウインクするあざとさに呆れ、ベルタ様の方を見たのだけれど……彼女も同じことをしていたので諦めた。

 

「もぅ、仕様のない方達ですわね~。ではもっとマシに見える格好に着替えて参りますので、しばらくお待ち下さいませ」

 

「何で? そのままで良いよ」

 

「せっかくベルタ様の画集にご一緒させて頂けるのに、普段着では見劣りしてしまいますもの~。すぐに用意して参りますので、先にベルタ様を描いて差し上げて下さいませ」

 

「ん? だからさ、そのままで綺麗に描けるから良いよ?」

 

 こういうとき、素のままで美形な方というのは無神経なもの。こちらがどれだけ周囲に許される程度に見えるよう気を使っているのか、少しも考えてくれはしないのだから。

 

「己の腕を過信されるのはよろしいですけれど、後悔なさいますわよ~?」

 

 非常に気が進まないものの、おっとりとこちらのやり取りを見つめるベルタ様をお待たせするのも気が引けて、ノロノロと昨日のようにベルタ様のかけている椅子の後ろに回ろうとしたら、不意に彼女が椅子から立ち上がった。

 

「今日は私が後ろに」

 

「いいえ、それはいけませんわ~。遊戯盤の考案者はベルタ様ではないですか」

 

「それこそ“いいえ”です。私は本当に服飾や装飾品の類いには疎いので、実質は案を出しただけ。それでも女性用の遊戯盤に人気が出たのは、アグネス様のお茶会や夜会での丁寧な宣伝のお陰ですから」 

 

 そう言ってふわりと柔らかく微笑む彼女からは、我がスペンサー領自慢の紅茶の香りがした。

 

*** 

 

 ――翌日。

 

 王都から一度領地に出立するわたしの元へ、わざわざ仕事前に見送りのために屋敷までベルタ様が訪ねて来て下さって。次に会えるのはアウローラ様のお誕生日になるだろうというような話を交わし、彼女の馬車を見送った。

 

 それから荷物の積み終わりを自室で待っていたら、屋敷の者がお客が来ているとわたしを呼ぶので応接室に出向けば、そこにはやや寝不足気味なお顔のフェルディナンド様の姿があって。

 

「はー……アグネス嬢が帰る前に間に合って良かった。これ、見てよ。オレが嘘つきじゃなかったって証拠だからさ」

 

 そう言って得意気な彼に差し出されたのは一枚のスケッチで。

 

「……まぁ、お上手ですこと?」

 

「疑問系なの? 今日に間に合わせるのに必死だったから、多少仕上げが粗いのは許してよ。次はもっと丁寧に仕上げるからさー」

 

「ふふ、そうではなくて、とても嬉しいってことですの~」

 

 いつもお見合いの絵を描いてもらう角度で椅子に座っていたのに、あの部屋を出ても、わたしにかけられた魔法は解けてはいなかった。



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◆隙間編◆
◉1◉ 婚約者の不在。


 

 王都から一人で領地に戻るのは、流石にもう慣れたと言いたいところだけれど、今回はいつもと違って王都からというよりも、ある人から離れがたかった。

 

『君が、領地で頑張っている間に、僕も、隣国公演を皆と頑張る、ね。エステルハージ様に、君を任せても大丈夫な男だって、思ってもらえるように。それで……その、戻ってきたら、義姉上に領地経営を習うよ』

 

 前回同様に五国戦記の第二期公演も隣国に招かれ、けれど今回はわたしに同行をして欲しいと申し出てこなかった彼は、そう言って気弱な微笑みとらしくもなく大きな決意の言葉を残して旅立った。

 

 そんなことをお父さま相手に証明しなくても、もう両家の間で来年の八月に結婚式をすることは決まっているのに。だけどそれでもついて行くと言えなかったのは、わたしが彼の決意表明を嬉しいと思ってしまったから。

 

 ――それなのに、彼と別れてから一ヶ月でこうも心配になるなんて大誤算。

 

 隣国に行くとはいっても、ミステル座の皆と一緒なのだから実質それなりの人数での移動にはなるけれど、お人好しな彼が何かに巻き込まれることがないかと不安になるのだわ。

 

 だから次の五国戦記の小説の進みが思わしくないのよ、きっと。別に熊の国の主人公に煮詰まっているわけではないわ。たぶん。

 

“アンナ嬢、風邪など引かずお元気ですか? こちらでの公演は順調に進んでいます。前回一緒に稽古をした劇団員達が君の不在を嘆くのは相変わらずですが、僕は君がここにいないことを寂しいと思うと同時に、少し安堵しているよ。こちらの脚本家仲間が君のことをいたく気に入っているから……”

 

 何度も読み返した彼からの手紙のそんな風な書き出しに、思わず「馬鹿ね」と苦笑と独り言が零れた。けれど彼のように的外れな心配は、わたしの中にも確かにあって。前回の色っぽい女優を思い出し、内容の最終確認をしていた返信の一部に“浮気しないでね”と書き足した。

 

 子供っぽいかとも思ったけれど、社交界では、仕事が上手くいっている最中の男性が羽目を外す話を嫌というほど耳にするから、婚約者なのだしこれくらいの釘を刺しても良いわよね?

 

「お待たせガル。返事の手紙の準備ができたわ。起きて」

 

 手許の便せんを整えて封筒に入れ、執務室にある来客用のソファーに向かってそう声をかけると、少しだけ眠たそうなガンガルが起き上がって顔を出した。

 

「ん……妹様、今度こそ(・・・・)王都に持ち帰る手紙は全部?」

 

 こちらを窺うような視線に、すでに彼を一日足止めしてしまっていることへの罪悪感が芽生える。

 

「ええ、正真正銘、今度こそこれで全部よ。王都のお姉さまとお父さまへの返事はこれとこれ。こっちはヴァルトブルク様への国際郵便ね。次に王都の屋敷に彼からの手紙を向こうの配達員が持ってきたら、しっかり渡して頂戴」

 

「妹様の手紙、今回も二通分厚くて、一通薄いね」

 

「お姉さまとヴァルトブルク様には伝えたいことがいっぱいあるから。お父さまへは……まぁ、そこそこよ。帰りの荷物の方が重くなってごめんなさいね」

 

「ううん。大切なもの、重いの平気。それに帰りに食べるジャムももらった」

 

 ガンガルはそう言うと、屋敷の厨房でもらってきたリンゴとアンズのジャムを嬉しそうに鞄から取り出して見せてくる。次に来るときにはガンガルの好きなナシのジャムの季節だろう。

 

「いっぱいあるからといって、歩きながら食べちゃ駄目よ? それから早く届けてくれるのは嬉しいけど、夜はちゃんと渡してあるお金で宿を取って休みなさい。お姉さまからの手紙にも、渡した旅費がそのまま手元に返ってくるから注意しておいて欲しいとあったわ」

 

「……でも、俺、一晩中歩ける」

 

 この一ヶ月、彼はお父さまに頼まれて、手紙を直接王都から運んでくれていた。

 

 理由は以前お姉さまが攫われたときに、途中で盗まれていた手紙が悪用されたから。今回から奪われそうになっても戦闘ができる郵便配達要員として、ガンガルが抜擢されているのだ。

 

 お姉さまは最後まで危険なことをさせないで欲しいとお父さまに頼んだものの、流石にわたし達に甘いお父さまでも、一度はお姉さまを攫う片棒を担いだ彼のことを簡単に許すわけにはいかない。わたしもそう思う。

 

 ガンガルもそれが分かっているから、自らお姉さまを止めてこの仕事を引き受けてくれている。ただ、だからといって彼に無茶なことをして忠義を示して欲しいわけではないのだ。

 

「歩けても駄目。お姉さまに朝起きて、夜は眠るように生活習慣を整えなさいって言われているでしょう?」

 

「んー……」

 

「お姉さまに嫌われるわよ。今から手紙に“ガルが言うことを聞きません”って書き足されたい?」

 

「うぅ……分かった、直す」

 

 不承不承というように頷くガンガルを見て、何となく弟を持つ姉のような気分になってしまう。

 

 それは何もお姉さまに『ガンガルがアンナより一つ歳下なだけなのに幼さが残るのは、辛い目にあった子供の特徴なの。だから優しく接してあげてね』と言われたからだけではなくて、彼の根の素直さのせいだ。

 

 だいたい馬車を使った郵便手段より早いというのは……どういうことなの。どんな速度で移動しているのか怖くて聞けないじゃない。

 

「でも、ひとまずはガルが帰る前にお茶にしましょう。持ち帰るのには向かないけれど、美味しいミルクジャムがあるのよ」

 

 わたしの言葉にすでに帰ろうと腰を浮かせかけていたガルが、もう一度ソファーに座り直す姿を見たら、ヴァルトブルク様の心配でいっぱいだった胸に、ほんの少しだけ余裕ができた。



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◑2◑ 頑張らないと。

 

 一日一度の公演を終え、団員達との読み合い稽古も一段落したところで、舞台裏に降りて今朝公演が始まる前に届いたらしい国際郵便の封を開く。

 

 すると便せんから仄かにラベンダーの香水が香り、ここにはいない彼女の存在を近くに感じた。

 

“お元気ですか。わたしの方は変わらず元気よ。うちの領地は空も広いし、空気が良いんだもの。あなたもそっちでの公演が無事に終わったら、式の前に一度遊びに来たらどう? 団員の皆は元気かしら”

 

 さっきまで感じていた一日の疲れも忘れて、流れるような筆致で綴られる彼女の言葉を視線で追っていると――。

 

「お! またアンナ嬢からの手紙読んでるのか、ヨーゼフ」

 

「うわぁっ!?」

 

「ははっ、驚きすぎだヨーゼフ。ミステル座の座長としてこっちにきたってのに、そんなに肝が小さくてどうする。可愛い婚約者に怒られるぞ?」

 

「そうそう、せっかく俺たちが頭悩ませて考えた脚本を無駄にして、自力で手に入れた美人の婚約者だ。がっかりされるところは減らしなよー」

 

 一人、二人と僕の背中にもたれかかりながら、そうからかってくる脚本家仲間達に覗き込まれないよう、苦笑しつつそっと便せんをたたんだ。

 

「ご、ごめん」

 

「いや、からかっただけだから。そこまで深刻ぶられると反応に困るって」

 

「うんうん。キミのそういうところは美徳だけどね。脚本家なんてつまんなかったら客から叩かれる仕事なんだし、あんま何でも真剣に聞くと保たないよ?」

 

「お前達が驚かすからだろう。ヨーゼフは繊細なんだ。作風にも出ている」

 

 この劇団では三人の脚本家を有している。それが面倒見の良いヴィックと、気安いドリー、彼等の兄のような存在のパーシヴァルさんだ。

 

「はいはい、社会派書きはお堅いんだから。だけど酷いじゃない……どうせオレみたいな恋愛物書きと、」

 

「ボクみたいな喜劇書きをバカにしてるんだわ、そうでしょう!」

 

 ちなみに、ヴィックが恋愛物、ドリーが喜劇、パーシヴァルさんが社会派と、住み分けもされている。いつか僕達ミステル座にも、こんな風に色んな脚本家を集められたらいいと思う。

 

 おどけて寸劇を始めた二人の頭を丸めた台本で叩いたパーシヴァルさんは、首を横に振りながらこちらを振り返った。

 

「二人が驚かせてすまなかったなヨーゼフ。本題に入ろう。お前の持ってきた義姉のことを下敷きにしてるらしい脚本を、付き合いのある他劇団の脚本家連中とも回し読みした結果、誰の作品か何となくだが分かったかもしれん」

 

「本当ですか!?」

 

「びっ……くりした……おま、そんなでかい声出せたんだな」

 

「あ、ごめん」

 

「いーよいーよ、その流れは。でね、ボクたち三人の見解では、コイツちょっと前までこの国で他の劇団に雇われてた若手の脚本家じゃないかって」

 

 小説と同じように劇の脚本にも書き手の特色が出る。お客さん達はその書き手の癖を見定め、数多ある劇場の中から自分の好みの脚本家を探すのだ。

 

 一人で今まで観劇した国内の脚本を読んでみても、今回僕が三人に義姉上の立場を題材に揶揄った脚本の作者は分からなかった。そこで駄目元で隣国の彼等を頼ってみたのだけど……駄目元どころか、大当たりだったみたいだ。やっぱり仕事数の違いは大きい。

 

「あ、あの、それで、どういう脚本家なのか、教えて欲しいんだ。何でもいい。情報が必要なんだ」

 

 緊張でもつれる舌を何とか動かして伝えれば、三人は同時に頷いてくれた。

 

「所謂ゴシップ書きって言えばいいのかな。貴族とかのそういう話を下敷きにして、結構際どい脚本を書いてた奴だよ。最初は庶民に人気があったんだけどね、そのうちに下敷きにされた貴族連中がそいつのいた劇団を訴え出してさ」

 

「劇団側が賠償金を払って火消しはできたが、以降その脚本家を使わなくなった。当然他の劇団もそんな危険な奴を使うことはしない。仕事を失ったそいつはいつの間にかこの界隈から姿を消した」

 

 記憶の糸を辿るようにこめかみを押さえて話すドリーの言葉に、パーシヴァルさんがその後の脚本家の情報を補足してくれる。

 

「オレ遠目にそいつ見たことあるけど、脚本家ってより役者みたいな綺麗な顔立ちの男だったぜ」

 

「ボクも見た。目鼻立ちが彫刻みたいに整っててさ、同性から見ても色気があったよ。実際役者としてなら使ってやるっていう劇団もあったんじゃなかったっけ? パトロンをしてたご婦人達からツバメに誘われてたって話も聞いたなー。ま、どれも噂の域を出ないけど」

 

「確かに薄幸そうな見た目の青年だった。そう言えば、母親が昔どこかの劇団で有名な女優だったという話があったな。大貴族と不倫をして国にいられなくなったとか。彼がいなくなったとき、本人が一番ゴシップの脚本向きな生い立ちだと笑ってる脚本家連中がいた」

 

 そこにさらにヴィックが見た目の情報を付け足し、他の二人がまた憶えている限りの情報で肉付けていく。脚本家が三人揃うと、情報がどんどん結び付きあって脚本の一部めいてくるのは不思議だ。

 

「やだやだ。上を目指さないで上にいた奴を引きずり下ろす方に熱を入れるとか、みっともねーよ。オレなら劇的な悲恋物の一本でも書くね」

 

「ボクなら特別おかしな喜劇にする」

 

「私なら格差社会の闇を描くだろうな」

 

「「うるさい、格差婚の権化め」」

 

 パーシヴァルさんの奥方は大商家の娘さんだから、確かに格差婚と言えなくもないけれど、今それよりも僕が気にすべきことは――。

 

「そ、その人の名前っ、うろ覚えでもいいから教えて!」

 

 大切な婚約者が敬愛する優しく厳しい義姉上を見世物にした、その脚本家の尻尾の先を掴む糸口だ。



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◆人物紹介◆
男性陣オンリー


◆妹のファン◆

ヨーゼフ・ヴァルトブルク 

 

一人称は僕。 呼びかけは 君、~殿、~嬢。

垢抜けないぽっちゃり型。

誕生日は3月の4週目。

アンナより2歳上。

背が大きなことでかえってぽっちゃりが強調されている。

酷い癖毛。黒髪。古酒を思わせる赤みがかった琥珀色の瞳。

口下手なオタク気質。動けるデブである。

のちに痩せて猫背気味の気弱系男子になる。

 

 

◆教師仲間◆

ヴィクトル・ホーエンベルク 

一人称は私、砕けた間柄だと俺。

(初めて出会う時点では21歳)

 

第二王子の家庭教師。

誕生日は11月の2週目。

元は子爵家の長男だが16歳で国境線の戦場に従軍してから、

21歳までに手柄を立て、伯爵の地位を賜り弟に子爵の位を譲る。

弟はヨハン・ゴーティエ。8歳下。

 

物腰は穏やかで表情は明るく見えるものの、

瞳の奥は常に排除する対象を見極めている。

 

野心や出世欲は普通。

 

赤みをおびた金髪。長さはようやく結える程度。

紺色に近い青い瞳。眉と瞳はややつり気味。

身長は高め(185センチくらい)

文武両道で結構着痩せするタイプ。

 

 

◆教師仲間の教え子・第二王子◆

フランツ・ルドルフ・ジスクタシア  第二王子。

一人称は私。呼びかけは 君、~嬢、~殿。

 

若干暗く深みのある金髪、切れ長なトルマリンの瞳。

第一王子である兄とは2歳違い。

 

少し厭世家のきらいがある子供だったものの、

ベルタに出逢った後のヴィクトルの新しい教育方針により関係が改善。

アウローラほどではないがベルタ信者になる。

 

自分の家庭教師であるヴィクトルの前途多難そうな恋を応援している。

 

誕生日は12月2週目。

 

 

◆元・バッドエンド作製担当◆

マキシム・ニコラウス・ジスクタシア 第一王子。

一人称はわたし。呼びかけは お前(ベルタ限定)、~嬢、~殿。

 

誕生日3月一週目。

天真爛漫で恐いもの知らず。

人好きのする武術一辺倒。脳筋。

……というのは、前家庭教師である王妃の親戚が作り出した姿。

 

実際のところは本人に多動症の気があり、

長時間じっとしていることに極度のストレスを感じる。

そのために集中力が散漫になって授業に集中できない。

 

動けないことで暴力衝動が高まることを本能的に察して、

武術の稽古で身体を動かして発散しようとしていたのが実像。

他者を暴力で害さないようにという彼なりの防衛技術。

 

 

◆享楽的な芸術家・教育補佐仲間◆

エリオット・フェルディナンド 

 

一人称はオレ。

ヴィクトルとは昔馴染み。2歳下。

誕生日は7月の3週目。

オレンジがかった茶色の髪を

色とりどりのガラスビーズで複雑に編み込んでいる。

翡翠の瞳で顔立ちは綺麗めでやや女性的。

口調が壊滅的に品を損なう人種。

アウローラが敬愛する絵描き。

 

11月~12月までの1ヶ月間と、

(半月休んで)1月半~3月4週目までは勉強に付き合ってくれる。

 

 

◆健気な弟分◆

ガンガル  

 

元暗殺者。

灰髪と紫の瞳が特徴。

国境線付近を荒らし回っていた少数異民族リベルカ人。

気質は荒々しく武芸に秀でている。

起き抜けにベルタにスラングと唾を吐いて沈められる。

その後エステルハージ家の傘下に下り、諜報に専念する。



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◆第六章◆
*1* 欲望渦巻く誕生日。


 

 今年のアウローラの誕生日を祝うガーデンパーティーは、人の多さがピークだと思われていた去年よりさらに多い。しかしそれも教え子の滝登りで龍になったくらいの出世魚ぶりを考えれば、無理もないだろう。

 

 以前からずっと出席していた招待客は当然のこと、新規で出席している招待客達も弱冠十一歳でしかない少女の家と懇意にすることで、王城での自分達の家名の憶えをめでたくしようと目論んでいるのだ。控え目に言ってもク○である。

 

 バラの香りが漂うこの庭園に、教え子の誕生日を祝う気持ちが本当にある大人など、ほんの一握りほどしかいないと思うと切ない。

 

 ――けれど。

 

「十一歳のお誕生日おめでとうローラ! これでまたわたしと同じ歳ね。はい、これ、開けてみて!」

 

「うん、あのね、マリー……凄く嬉しいけど……ここで開けるの?」

 

「勿論よ。贈り物って目の前で開けてもらった方が、次の贈り物を選ぶときに参考にしやすいじゃない。開けたときの表情で大体正解か不正解か分かるもの」

 

「そんなこと……せっかく選んでくれたなら、何をもらっても嬉しいわよ」

 

「そういう良い子な反応はいいから、ほら早く開けてみて」

 

 うーん、この既視感(デジャヴ)よ。目の前で繰り広げられるやり取りも会話内容も、去年の誕生日とほぼ同じに違いない。でも本当に教え子の誕生日を喜んでくれていることが分かるから、彼女の存在はとても嬉しいものだった。

 

 しかしそんな彼女の存在こそが、ここに招かれた客人達に分不相応な夢を見せているのもまた事実だ。元のゲームではライバルキャラだったマリアンナ様は、今年教え子の学友として共に王城に上がる。

 

 十一歳で第二王子の婚約者として王城に上がる教え子も珍しいが、婚約者でもない令嬢が婚約者として扱われる令嬢と親友同士だという理由で抜擢された。名目上は、幼い第二王子の婚約者が王城内で孤立してやる気を失わないようにとの気遣いだが、それでも異例の人事であることに違いはない。

 

 招待客達はそんな彼女の家とも繋がりを持ち、あわよくば自分の娘や息子もと二匹目のドジョウを狙っているのだろう。ご苦労なことだ。

 

 対して今年はもう第二王子の婚約者の席を射止めた末娘の自慢のため、侯爵夫妻は私に当の自慢の種である教え子を預け、忙しく招いた客の間を渡り歩いている。あれはあれで本当にブレないな……。

 

 だからというか、ホーエンベルク様は今年は欠席だ。当然ながら婚約者のフランツ様も来ない。

 

 理由は簡単で、第二王子の婚約者といえども、まだ婚約者の肩書きでしかない一貴族に肩入れしすぎると余計な反感を買うからだ。視界の端に写る侯爵夫妻があのような振る舞いを取るせいでもあるけど。

 

 とはいえ下手な緊張感を与えてくるだけの夫妻が隣にいない方が、教え子も楽しめるに違いない。プレゼントの包装紙を破かないよう、モタモタとした手付きでそれを剥がす教え子を、彼女は根気強く待っている。

 

 微笑ましい気分でその光景を眺めていると、横からヌッと果実酒の入ったグラスを持った華奢な手が現れた。

 

「まぁ、お帰りなさいアグネス様。今度のこれは何の果実酒でしょう?」

 

「うふふ、ただいま戻りましたベルタ様。これはブルーベリー酒だそうですわ~。香りも色も良かったので、つい注がれた量が多いものを見極めるのに時間を取られてしまいました」

 

 およそ令嬢らしからぬ彼女の発言に笑いながら礼を述べ、グラスを受け取る。確かに一口含めば華やかな香りと甘味がパッと広がった。

 

「……美味しい!」

 

「そうでしょう~? 見極める際に試飲と称して二杯も空けてしまいましたもの」

 

 常に笑っているような細い目を、さらに笑みの形にしてアグネス様はそう言うと、三杯目になるブルーベリー酒をクーッと空けてしまった。

 

 最近知ったけれど、アグネス様は結構お酒に強い。私は一度失敗して懲りたので、つられないよう気を付けてチビチビ飲むことにしよう。

 

「ふ~……美味しい。それにしても、今年もお招き頂けて良かったわ~。マリアンナ様は去年の前科があるから、ハインツ侯爵夫妻と直前まで招待状が届くかドキドキだったのですもの~」

 

「ああ……去年は私達が会場を離れた隙に、果実酒の盗み飲みで酔われて大変でしたからね」

 

「あのときは監督不行き届きでクビを覚悟しましたけれど、ハインツ様が『うちの野生児のやることは予想ができないから』とお許し下さって。持つべきものは理解のある雇い主ですわね~」

 

 ハインツ侯爵の娘評が酷いなと感じつつも、クスクスと楽しげに笑う彼女につられて笑ってしまう。そういえば去年の今日はここでホーエンベルク様に、マキシム様の家庭教師に抜擢されそうだという話を聞いていたんだよなぁ。もうあれから一年経ったのかと思うと感慨深い。

 

 塾や個人の家庭教師をしているとき、授業計画を進めていくうちに、ふと生徒の成長具合と進行がずれることがある。

 

 無理はさせないで褒めて伸ばす私の教育方針は、その実、塾でも個人の家庭教師でも、親御さんからの評判があまりよくなかった。理由は分かっている。いくら生徒が懐いてくれても、結果が出るのが遅いのだ。

 

 だから、しがない家庭教師のベルタでプレイする育成ゲームである【お嬢様の家庭教師(ガヴァネス)~綻ぶ蕾のその色は~】は、私にとって良い教材でもあった。

 

 シナリオルートは多いから特にタイムリミットが決まっているわけではない。それでも結果を出せないと生徒と引き離されてしまうのは現実と同じだった。

 

 家庭教師や教育者と名乗るからには、教え子が夢を叶える瞬間に立ち会いたいし、一緒になって喜びたい。

 

 私は、もう【教え子が喜ぶ顔】という【手柄】を、誰にも取られた