樋口円香の事件簿 (あさなが かんなぎ)
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樋口円香の事件簿『ENJOY 炎上ING』

「これぞまさしく、楽屋から火を出すってやつだな」
雑誌の写真撮影のためにスタジオに来ていた透&円香&プロデューサー。撮影は順調に進んでいたが、休憩の最中にスタジオ内の火災報知器が作動した。火の手が無かったため誤作動かと思われたが、その後もトラブルが発生してしまう……。

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出火

 

 どうやらこの白ホリゾントの舞台に、寝不足をこじらせた人間は場違いのようだ。

 目が痛くなるような眩さにすっかりやられた俺は、スタジオ外の廊下に置かれた自動販売機の前で休憩をしていた。知り合いは俺の仕事(アイドルのプロデューサー)のことを、目の保養になっていい仕事だなどと言うが、それは全くの見当違いだろう。ひとたび眠い目を擦りながらファッション誌の撮影に立ち会ったら、そんなことは冗談でも言えなくなる。

 眠気を洗い流そうとコーヒーを買う。この自販機は、省エネのために昼間は電気を消しているらしい。素晴らしい心がけだ。あのストロボにも少しは見習ってほしいところだが、そうなるとモデルの仕事に影響が出てしまうので、あまり贅沢は言えないだろう。ヴァンパイアじゃあるまいし、眩しいのは嫌だなど言ってられない。

「あれ、プロデューサーじゃん。どしたの」

 横を向くと、透が廊下に立っていた。のび太君よろしく廊下に立たされているのかと思ったが、どうやら俺と同じように飲み物を買いに来ただけらしい。透は自販機の前に立つと、ポケットから百円玉を二枚出して投入口にいれた。

「何買ったの、プロデューサー」

「この缶コーヒーだけど、コーヒーが飲みたいのか?」

 透は小首をかしげて少し悩むようなそぶりの後、上の段に手を伸ばして桃味のいろはすのボタンを押した。どうやら香るブラックの進化したコクと香りはお気に召さなかったようだ。二百円を投入して買ったいろはすは、やけに耳障りな音で受け取り口に収まった。そして、それに続いて釣銭の返却口で鳴る小銭の音。

 桃味のいろはすを一口飲んだところで、透は口を開いた。

「樋口の撮影、見てたんでしょ? まだ撮影中?」

「ああ、もうすぐ終わると思うけど――」

 時間を確認しようと腕時計に目を落とす。既に休憩時間になっていることに俺が気付いたのとほぼ同じタイミングで、少し離れた扉が開いた。数人のスタッフが部屋から出てきて、最後に円香がスタジオの中から廊下へと顔を出した。透と俺がいるのに気付いて、そのまま出てきてこちらに歩いてくる。撮影用の肌寒そうな装いに、いつもと違う髪型と整髪料の淡い香り。

「一足先にご休憩ですか、寝不足が祟りましたね」呆れたように円香が言う。

「全く面目ない……。って、なんで寝不足だって知ってるんだ?」

「車の中にあったブラックガムのボトルが開きっぱなしだったので、そうかなと。運転する前に食べてからそのままだったんでしょう?」

 空恐ろしい。眠気を隠すのは慣れているが、いやはや思わぬところから露見するものだ。こんなふうにして夫の不倫を見抜く妻のドラマを見たことがあるような気がするが、もちろんそれを口に出すことは慎んだ。円香は溜息を一つして、それから手に持っていた財布を開けた。

「樋口はどれにする? おいしいよ、桃のいろはす」

「それ、ケータリングにあったでしょ。わざわざ買ったの?」

「え、まじ。もったいない」

 円香は財布を開けて小銭を取り出した。どうやら獲物を定めたようだ。百円玉と十円玉数枚が自販機に飲み込まれて、ボタンを押そうとしたところで、円香の手が止まった。

「どうしたんだ。売り切れだったか」

「いえ、そういうわけでは……ありませんが」

 何かと思って俺と透が自販機に目をやると、コーヒーが並べられた下段に虫が止まっている。小さな虫だ。おそらく蠅か何かの親戚だろう。どうやら円香の恨めしげな眼差しは、この虫に固定されているらしい。あの視線を無視して立っているとは大した虫だ。

 しばらく時間を止めたようにも思えたその小さい虫は、俺達には目もくれないで、やにわに飛び立った。そのまま廊下を飛んで、先ほどまで円香が撮影していたスタジオの方向へと飛んでいく。俺の天敵である白ホリゾントの眩しさが、あの虫にとっては希望の光にでも見えているのだろう。

 虫の航空路をぼんやりと眺めていると、カフェオレが落ちてくる硬質的な音が、負け惜しみのように廊下に響いた。ゆっくりと息を吐いて、円香は受け取り口のカフェオレを手に取る。不慣れな様子でプルタブを引いた。

「カフェオレ、好きなのか?」

「いえ。何となく、カフェオレの気分だっただけです。ケータリングにも無かったので」円香はそう言ってカフェオレを飲む。

「ふふっ。買い物上手じゃん、樋口」

 茶化しているのか感心しているのか、透がいつもの比類なき微笑を浮かべながら言った。

 少し呆れたような顔をした円香は、おそらくその言葉に言い返すなり、あるいは何かを諭すなりしたのだろう。俺には、彼女の言葉を聞き取ることはできなかった。そして、おそらく透も。開きかけた口が何を語ったのかは、この場にいる誰も聞き取れなかっただろう。

 唐突に鳴った火災警報が、全ての音を押し流して館内に響いた。

 

「これぞまさしく、楽屋から火を出すってやつだな」

 出火元は、円香の控え室だった。とは言っても本当に火が出たわけではなく、どうやら誤報だったようだ。備え付けの消火器と決死の覚悟を持って飛び込んだ部屋には、煙の代わりにヘアスプレーの香りが頭の痛くなるほど充満しているのみ。子どもの頃に憧れた消防士というヒーローの夢は、ケミカルな匂いにまかれて煙のように雲散霧消した。

 ヘアスプレーと火という取り合わせは、大昔に学校の同級生がその類のスプレーと親からくすねたライターを使って火炎放射器を作っていたことを思い出させた。もしあの部屋のなかで火を点けたら爆発でもするのだろうか。大いに気になるところだが、俺はそんな大科学実験をするほどネジの外れた大人ではない。

 安全確認は建物のスタッフに任せて、俺たちはスタジオで話していた。念のために控え室には確認が終わるまで近づかないでください、と大仰なことを言われたが、目に見えて火が無いようではきっと誤報なのだろう。安全確認はすぐに終わりそうだった。

「まあ、本当に火が出ていなくて良かったです。あなたにとってはSNSでの火事のほうが、消火器持って走り回る火事より対処法を知っていそうですからね」

「どちらも見ずにはいれない(水に入れない)、ってね。……いや、俺はそんな話をしているんじゃなくてな」

「分かってます」円香はそう言って大きく息を吐いた。「――無事でよかったです、本当に」

 火災警報のサイレンなんてめったに聞くものではない。小学校のときには年に一回ぐらい鳴らすやつがいたが、大人になってからは初めてだ。何でもないような態度をしているが、内心では円香も怖かったのだろう。少し怯えたような表情は、先程からこの部屋を飛び回っている小さな虫のせいだけではあるまい。

 安全確認が終わってから、撮影が続行される運びになった。楽屋に火が点いても仕事の尻に火は点けられないらしい。俺は念には念を入れよという先人の知恵に従って、引き続き円香の撮影を見ていくことにした。どうやらあの大きすぎるアラームの音で俺の眠気は完全に引っ込んでしまったらしく、白ホリゾントの壁に照明が当たっても目が痛くなることは無かった。

 小さなバッグを持った円香の前に立ったスタイリストが、カメラマンやディレクターと確認しながらメイクを直していく。普段コンビニで目にする雑誌の裏側を覗いているような感じがして、俺はこの時間が好きだ。その真ん中にいるのがプロデュースしているアイドルとなれば、この光景はプロデューサー冥利に尽きるというものだろう。

 しばらくして、スタイリストがカメラの画角から外れた。そろそろ撮影が始まるのだろう。見ているだけの俺が少し緊張してしまうが、辺りを見渡すと、どうやら緊張しているのは俺だけらしい。その状況に気付いて、俺は少し笑った。被写体となっている円香も自然な笑みで、いい写真が取れそうだと確信させてくれる。

 いきまーす、と掛け声が入って、カメラマンがファインダーを覗いた。俺が焚かれるストロボに身構えて目を細めていると、カメラがシャッターを切った。

 いや、この場合は「空を切った」とでも言うべきだろうか。

 シャッターボタンを押した瞬間、眩しい光を放つはずのストロボは聞きなれない音を発した。それから噴火でもしたかのように煙が立ち、辺りに焦げたような臭いが広がる。嘘だろ、と周囲の視線を集めるカメラマン。その視線の真ん中で最高に気まずそうな顔を見せるカメラマン。その向こうで、脱力と呆然の入り混じった顔を浮かべる円香。

 今度は本当に火が出たな、とでも言いたげなディレクターの形相から、俺は思わず目を逸らした。

 

 

 

消火

 

「それでさ、なんだったの。あの、火事のベルって」

「結局、誤作動って話だったけど……。でも、あのあとにカメラも壊れたからな」

「それだって、使い続けてたら故障することもある、という話でしたが」

 云々。帰りの車中では、透の疑問から端を発した謎解き会議が行われていた。当事者の一人としてごたごたの渦中にいた円香は、思い出したくもないと言いたげな顔を窓外に向けながら議論に参加している。疲労ゆえか物憂げなまなざしが、アンニュイな夕方の街に似合っている。

 円香の隣で後部座席に座る透は、対照的にこの一連の事件に興味しんしんの様子だ。確かに、火災報知器が鳴りだしたのもカメラのストロボが爆発したことも、両方とも火にかかわる出来事だから、二つの出来事に因縁めいたものを感じる透の気持ちも分かる。偶然と言ってしまえばそれまでだが、彼女は何か腑に落ちないところがあるのだろう。

「ベルが鳴って俺が部屋に入ったときにヘアスプレーの匂いが凄かったけど、あれはそういうので鳴ったりするのか?」

「だとしたら、あの控え室では撮影のたびに火が出ていることになりますね」

 駄目らしい。棄却された俺の意見を見送って、透が訊ねる。

「カメラの爆発って、勝手に火がついたの、あれ」

「あのカメラマンの話では、発光管が古くなったり、コンデンサが接触不良を起こしたりすると爆発するそうですね。今回もそうじゃないかと」

「じゃあ、両方とも故障だったってことか……」

 その結論に納得がいかないのか、透が首をかしげて小さく唸る。

「故障、だったのかな。本当に」

「故障だったのかって……。故障じゃないとしたら、わざと壊したってことか? そっちの方が納得できない気がするが」

 ますます深い思考の沼に潜っている様子の透をバックミラーで目端にとらえながら、俺は透の発言を考えていた。もし故障ではなかったとしたら、二つの出来事は故意に引き起こされたことになる。はたしてそんなことがありうるだろうか? もしそうだとしたら、それらは誰が何のために行ったことなのだろう。透に手を引かれるように潜り始めた沼の中で、俺の考えは堂々巡りを始めた。

 沼から二人を引き上げたのは円香だった。

「もしかしたら、どうしてあの出来事が起こったのか、説明できるかもしれませんけど」

 窓の外を見ながら、彼女は素っ気なくそう言った。

 

「火災報知器が鳴ってあなたが部屋に入ったとき、部屋の中はヘアスプレーの匂いがしてたんですか?」

「ああ、あまり息をしたくないぐらい強い匂いだったぞ」

「え、樋口ってそんなに使うの?」

 髪に触ろうと手を伸ばす幼馴染の腕をいなして、円香は続ける。

「そのとき、部屋の中には誰もいませんでしたか?」

「……えっと、ドアを押し開けて部屋の中を見たけど、火が出てる感じが無かったんだ。それで、消火器を持ちながら入ったら匂いがきつくて、息を吸わないようにしてたら後ろからスタッフさんが様子を見に何人か入ってきたな」俺は部屋に入ったときのことを記憶の中でシミュレートしながら答えた。

 俺の回想を聞いて、円香は一つ小さく頷いた。彼女の得心のいったような顔から察するに、何らかの答えを掴んだのだろう。実際に現場にいた俺が何も気付けていないのに、後ろで見ていた円香が事態の真相を掴んでいるというのも妙な話だが。

「それで、わかった? 火事のベルが鳴った理由」

 透が焦れたように言う。早く答えを聞きたい気持ちは俺も同じだ。二人で円香の言葉を待っていると、彼女は満を持して口を開いた。

「火災報知器が鳴った理由は、多分あの虫のせいだと思います。あなたも見ていたので知っていると思いますけど、あの部屋の中には小さな虫がいましたから。きっとあなたがあの部屋に入ったときに入れ違いで外に出たんでしょう」

「なら、火災報知器が鳴ったのは虫のせいか? ストロボの爆発とは関係がないのか」

「いえ、火災報知器が鳴ったとき、あの部屋には虫以外にもう一人いたんだと思います。そして、その人は火災警報を虫のせいだとは思わなかった。だから部屋中にヘアスプレーを噴いて、火災警報を誤報にしようとした」

 ためらうように円香は言った。歯切れの悪い彼女の言葉に妙なものを感じながら、俺は訊ねた。

「待て。本当にその人が部屋にいたとして、火災報知器を自分が鳴らしたと思い込むようなことってなんだ? それがヘアスプレーで掻き消せるって――」

 そこで俺は、はたと思い至った。火災報知器を自分が鳴らしたと考えるもの。そして、ヘアスプレーで存在があいまいになるもの。

「――タバコを吸っていたのか、控え室の中で」

 そうだ。禁煙の控え室の中でタバコを吸っているときに火災報知器が鳴ったら、誰だって自分が鳴らしたと思うだろう。そこで、控え室には当然置いてあるヘアスプレーで証拠を隠滅した。あのヘアスプレーの匂いが充満した中では、タバコの煙の匂いなんて残るはずがない。

「おそらく、そういうことです。そして、タバコを吸っていた証拠を消した後、あなたが押し開けたドアの後ろに隠れて、タバコを消した。あの部屋の中で吸うということは、携帯灰皿を持っているのでしょう。そして、タバコを消した後で様子を見に来たスタッフに紛れればいい」

 透も俺も、言葉が出なかった。見てきたように謎を解いていく円香は、先程と同じように窓の外を見たままだ。彼女の捉えている視線の先には何があるのか、俺にはわからなかった。

「部屋の中でタバコを吸っていたのは、おそらくカメラマンでしょうね。休憩中もディレクターと写真の確認をしますから、喫煙所に行く時間はありませんし、手近なあの部屋でタバコを吸うことにしたんでしょう。急いでたとすると、控え室にカメラも持って行ったかもしれません。そして、ヘアスプレーがカメラにもかかった。もちろんストロボにも。

 知り合いのカメラマンに聞いた話ですが、ストロボが爆発する原因には、さっき挙げた以外にも理由があるそうです。彼の話によると、ストロボの中にある発光管に素手で触れると、皮脂が発光管に付着して、ストロボを焚いたときに皮脂が過熱されて割れる、ということがあるようです。ヘアスプレーの成分は髪を固める樹脂と、溶剤のエタノールですから、発光管にヘアスプレーが付着したら、おそらく発光管は爆発するでしょうね」

 そこまで話して、円香は口を閉ざした。語るべきことはもう終わった、ということだろう。

「――でも、したことないよ、爆発。ヘアスプレー使ってるけど」透が戸惑っているような顔で訊いた。

「いや、ああいうスプレーに入ってるアルコールは割と簡単に火が点くんだ。俺が子供のころ、スプレーの噴射口に火を近づけて火炎放射器を作ったことがある。男の子ならだれでもやるいたずらだよ」

 俺はそう言いながら昔のことを思い出した。学校の同級生と近所の河川敷でやった、くだらない遊びの記憶。長いことタンスに仕舞ってあった思い出を久しぶりに眺めていると、円香が呆れたように言った。

「あなたにも、そんな馬鹿なことをやってた過去があるんですね」

「ははっ、坊やだからさ。男の子ってのは多かれ少なかれ、皆そんなもんだ」

 言い訳のような、あるいは自慢のような俺の台詞は、花も恥じらう女子高生には響いていないらしい。俺はどこか空々しい居心地の悪さを感じながら、昼間を忘れ始めた街の中で事務所へと急ぐ。高層ビルの隙間で灯る夕日がやけに眩しかった。夕焼けに照らされる円香の顔を見てみたくなったが、そんなことをしては、彼女にわき見運転と注意されてしまうだろう。橙色を反射する帰り道で、俺はハンドルを握り直した。

 

 

 

余談

 

「さっきの話、あまり真に受けないでくださいね」

「ん? ああ、車の中でした話か。驚いたよ、円香は探偵になれるかもな」

「なりたくありません。それに、あの話は全て想像です。まったくの作り話」

「それでもすごいと思うぞ。俺は何も考えつかなかったからな」

「たまたまです。別にすごくなんてありません」

 

「どうやってあれを思いついたんだ? なんて言うか、考える筋道みたいな、プロセスが分からなくてな」

「一番最初に違和感を感じたのは、カメラマンのデニムのポケットです。撮影のとき、四角い何かが入っているように見えて、私はそれをたばこの箱だと思ったんです。それで、彼は喫煙者なのかなと」

「それがあって、火災報知器とたばことヘアスプレーを結び付けたのか。すごいな」

「まあ、きっとあれは、カメラのバッテリーなんでしょうけど」

 

「浅倉は、あれで納得していましたか?」

「ああ、樋口はすごい、ってさ。名探偵だって言ってたぞ」

 

「……あれは、浅倉のために作った話なんです」

「透のためって、どういうことだ?」

「――いや、ためなんて言い方は押しつけがましかったですね。自分のための予防線です」

 

「一度こだわったら、なかなか他に目を向けないので。先に答えを出しておけば、後で質問攻めにされなくて済みます」

「幼馴染流の対処術――予防線か。でも、俺もあの話は面白かったから聞けて良かったよ」

「それでも、まったくの作り話です」

「それでも、俺は面白かったけどな」

 

「的を外した解決を好むなんて、変わった人ですね」

「このブラックコーヒーみたいなものだよ。人の好みはいろいろある。甘いのが好きな人もいれば苦いのが好きってやつもいる。こういうの、ことわざでさ――」

「蓼食う虫も好き好き」

「そう、それだ」

「私は苦くて飲み下せませんけどね、あなたの好きなそれ」

「でも、この自販機には置かれてるってことは、好きこのんで買う人がいるんだ。その一人が俺」

 

「そうですか」

 

 




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樋口円香の事件簿『Who tricked that man? 』

「いいじゃん、探偵。おもしろそうだし。やろうよ」
 仕事の休憩にマフィンを焼いていたプロデューサーは、ふとした瞬間に居眠りをしてしまう。少し経って目が覚めたプロデューサーはマフィンを焦がしてしまったかとオーブンを開けると、中にあるはずのマフィンが一つ消えていた。消失(失踪?)したマフィンの行方を追うために、浅倉透は探偵役を買って出る。

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消除、あるいは小序

 

「発達した高気圧が日本列島を東西に覆うため、本日は全国的に気持ちのいい陽気となるでしょう」

 しばらく降り続いた長雨も止んで、久しぶりに太陽が顔を出した。夏休みも近くなってきているからと、天気の神様が気を利かせてくれたみたいだ。少し顔を合わさなかった間に、太陽はなかなか暑苦しいやつへと変わったらしい。どこかの誰かと負けず劣らず高燃費だ。俺は数日ぶりのお天道を窓の外に眺めながら、近々舞い込んでくる仕事のことに考えを巡らせていた。

 毎年この時期は、梅雨が渇くのと夏休みが控えているのとで、決まって忙しくなる。雨が降っているときにはできなかった屋外でのイベントや、学生には難しい朝から昼にかけての仕事なんかを遠慮なく入れられるからだ。おかげでスケジュール調整役の俺も、夏休みが近づいてくるにつれて睡眠時間が減っていく。さんさんと輝くあの朝日だって、舞い込んできた仕事についてカレンダーと相談し続けた末に拝んだものだ。それが238プロの商売繁盛と、ひいてはアイドルたちの活躍にも繋がっているのだから文句など言えないが。

 いつの間にやらマグから消えているコーヒーを補充しに、席を立ってキッチンへと向かう。給湯器の前には先客がいて、彼女が持っているマグからもコーヒーの香りが立っていた。きっと、いつものカフェラテだろう。

「はづきさんも休憩ですか?」

「ええ。せっかく晴れたのに、お仕事ばっかりしているのももったいないですからね。プロデューサーさんも、根を詰めすぎてはいけませんよ?」

 彼女は、我らが283プロの貴重なアルバイト事務員である七草はづきさんだ。彼女がいなければ、283プロダクションはその溢れんばかりの仕事量を抱えきれずに爆発してしまうこと間違いなし。まさに283の生命線なのだ。

「分かってます。でも、そろそろ忙しくなる時期ですからね。あんまり気は抜けませんよ」

「ずっと気を抜けないままでは疲れてしまいますよ。暖かい飲み物を飲んで、今はいったん休憩にしませんか?」

「……そうですね。さすがに、ほぼ徹夜でパソコンとにらめっこは疲れますから」

「プロデューサーさんの言うことも分かりますけどね。私だって、結局は事務所に泊まり込みになっちゃいましたから」

「毎年、この時期は大変ですね」

 俺がそう言うと、はづきさんはくたびれながらに微笑んだ。彼女の優しさと、その手に持ったカフェオレの香りが、忘れかけていた疲れを思い出させる。途端に眠気をぶり返させる瞼を持ち上げるため、俺はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。俺と一緒にこいつも徹夜明けだ。

 マグを所定の位置に置いて、コーヒーメーカーのボタンを押す。俺はいつも同じボタンしか押さないため、そのボタンだけ印刷が剥がれかかっている。寝ているところを叩き起こしたみたいに不機嫌そうな唸り声をあげて、注ぎ口からゆっくりとコーヒーが出てくる。俺がその光景をぼんやりと見ていると、後ろから声をかけられた。

「プロデューサーさん、牛乳が少なくなってしまったのでスーパーまで買いに行きますけど、何か買ってきてほしい物はありますか?」

 カフェオレを淹れているときに気付いたのだろう。彼女のその申し出は、今の俺にとっては非常にありがたかった。

「そうですね……。それでは、まだ朝ご飯を食べれてないので、パンとかおにぎりとかの軽食を買ってきてもらえますか。種類はお任せしますので」

 俺のその注文に、彼女は分かりましたと答えて事務所の外へと向かった。きっと、はづきさんも朝食をまだ食べれていないだろう。そういえば昨日の朝もこんなやり取りをしたなと思い出す。朝食のメニューを利便性だけで決めるのは褒められたことではないというのは理解しているが、二十四時間ぶっ続けでネクタイを締め続けた人間というのは、そんなことには頭が回らない。社会人として一人前になるメソッドの一つに、朝食をコンビニ飯の類で済ませることの不健康さを忘れることがあるということを、俺はこの何年かで学んだ。

 働き者のコーヒーメーカーが仕事をしている間、俺は冷蔵庫から取りだされた牛乳と向き合っていた。はづきさんが少なくなっていると言っていたこいつを使い切るためだ。コップに入れて、土曜日のさわやかに晴れた朝と一緒に飲み干すのも悪くはなさそうだが、それをするにはいささか量が足りない。かと言って、このまま排水管に流すのも気が引ける量だ。

 しばらく考えた俺は、休憩がてらにマフィンを作ることにした。いつかの仕事先で教えてもらってから、差し入れやおやつ代わりにたびたび作っているもので、それなりのものを作ることが出来るとは自負している。この牛乳の分量だと、おそらく六個ほど作れるだろう。俺は流し台の下からマフィン型を取りだした。プレート式で六個のマフィンが作れる、スチール製アルタイトのマフィン型。

 ホイッパーで卵をかき混ぜていると、仕事の悩みとか日々の疲れとかを自然に忘れていく。ボウルの中でぐるぐると回る卵を見ている最中は、忙しなく動く卵の黄白と対照的に、俺の心は静かな水面のようになっていく。禅の修行のようなものだろうか。あるいは催眠術かもしれない。なんにせよ、この時間は好きだ。

「ちゃ~う、ちゃうちゃう♪ ……いや、こんなことが前にもあったな」

 知らず知らずのうちに口ずさんでいた歌が、俺を現実に引き戻した。あの時の辛辣な訪問者が背後にいる気がして、俺は後ろを振り返る。彼女の今日の仕事は昼前からのため、こんな朝方に事務所にいるはずはないのだが。

 無益なことをつらつらと考えながら、たねを入れた型をオーブンの中に置いた。タイマーを二十五分に設定し、中でオレンジ色の光が点いたのを確認してオーブンを離れる。焼き上がるまでの間だけ休憩をしようと、ソファーに座ってテレビの画面を眺める。コーヒーはもう冷めていた。

 テレビでは銀座のスイーツ店を特集していた。いかにも朝らしい、健康的な朝食みたいにヘルシーな番組。あそこのフィナンシェは前に差し入れで貰ったことがある。誰に貰ったかを思い出そうとしたが、午前七時の脳みそは期待に応えてくれそうもない。

 冷めたコーヒーを一口すする。夏らしい熱線が窓から差している。あけぼのを過ぎた日光は本調子を取り戻しはじめて、ソファーに身を預ける俺を照らす。このクーラーの効いた事務所の中にいる限り、夏はまったくいい季節だ。俺はそう思いながら、ゆっくりと目を閉じた。

 

「――というわけなんだ。それで、起きて気づいたら、なんと言うか……」

「もうマフィンは消えた後だった、と? 面白い話ですね」

 どうやら俺とマフィンと樋口円香は、混ぜたら危険な取り合わせらしい。

 マフィンが焼けるのを待っているうちにソファーで寝不足の発作をおこした俺は、抗うことなく居眠りをしてしまったのだ。それも、キッチンでマフィンを焼いたままの状態で。目が覚めて真っ暗なテレビに反射した俺のひどい顔はしばらく忘れないだろう。仕事中に仕事場のソファーでオーブンを点けっぱなしにして寝た大罪人の顔だ。大罪人なのに罪を自覚しないであくびなんてする大馬鹿の顔だ。

 寝惚けた頭でマフィンのことを思い出して、キッチンに走った頃にはオーブンが冷たくなっていた。火事にはならなくて済んだと安堵して、オーブンの中身を取りだしたらマフィンが一つ消えていたのだ。どう考えてもマフィン泥棒より俺の方が罪が重い。

 しかしながら罪の軽重はさておき奇妙な出来事ではあるので、しばらくして帰ってきたはづきさんに事情を説明し、寝不足と居眠りについて一通り注意されている最中に入ってきたのが、昼前から仕事のある樋口円香その人である。何してるんですかと言う冷ややかな第一声に、俺は心の髄から震え上がった。

 そして彼女からも小言を頂戴し、さらにその途中で透も事務所にやってきた。透は俺の失態を怒っている様子はなかったが、このところ寝不足が続いていることをかなり心配されてしまった。

 透が大事そうにマフィンの包み紙をはがしていると、カフェオレを飲んでいたはづきさんが唐突に言った。

「プロデューサーさんも反省したみたいですし、気分転換に謎解きをしてみませんか?」

 謎解き、とおうむ返しをする俺を見て、はづきさんは机の上の何も載っていない皿を指さす。さっきまで五つのマフィンが行儀よく並んでいた皿だ。本来なら六つのマフィンが並んでいたはずの皿。本来ならば。

「ああ、確かに。どうしてマフィンが無くなっていたんでしょう」はづきさんは俺の疑問に頷いた。

「はい。プロデューサーさんが夢の世界にいた間に、事務所のマフィンには何が起こっていたんでしょうか?」

「マフィンのことも、夢の世界まで持っていけてたらよかったんですけどね……」

 円香の冷ややかな視線から逃れるように、俺はオーブンのあるキッチンスペースへ顔を向けた。出て行ったマフィンたちの書置きでもあったらよかったのだが、生憎そこには何もなく、いつも通りの光景があるだけだった。

「でも、なんで無くなったのかな。勝手に出ていったとか?」

 いつの間にマフィンを食べ終わっていたのか、今まで静観していた透が口を開いた。手が汚れないようにマフィンを包んでいたラップを、所在なげに手の上で丸め転がしている。

「マフィンが勝手に出ていくわけないでしょ。あなたが寝惚けて食べたのでは?」

「いくら寝惚けてても、そんな夢遊病みたいなことにはならないだろ。いやでも、そうじゃないとなると、マフィンを持ち去った第三者がいることになるのか」

「私が帰ってきたとき、玄関には鍵がかかっていましたし、防犯システムも作動してませんから、それはないと思いますよ?」

 確かに、俺が眠りこけていた間、事務所は完全に施錠されていた。いわゆる密室状態というやつだ。マフィン泥棒が忍び込んだ可能性はゼロに近いと言えるだろう。となると、マフィンを動かせたのは室内にいた俺だけだが、当の俺はぐっすり眠ってしまっている。必然的に、残された可能性は――。

「やっぱり、自分で出ていったんじゃない。オーブン、熱いし」

「そんなわけ……。それなら、この人が空腹でマフィンをつまみ食いして、それを隠すために嘘をついてる可能性の方が現実的」

 円香はちらと俺の方を見る。疑いの目というやつか。

「そんな、それに関しては濡れ衣だ」

「――まあ、なんでもいいです。私は探偵の真似ごとをする気はありませんから」

 俺の反論には耳を貸さず、円香はソファーから立った。そのまま、今日の予定が書かれた壁掛けのホワイトボードを確認しに行く。彼女はすでにこの一件からは離脱したようだ。すっかり興味を失ったふうの横顔は、俺に何か皮肉を言っているようにも思えた。

 そろそろ俺も仕事に取り掛かるべきかと視線をパソコンの画面に移したとき、何かを思いついた様子の透が、離脱済みの円香に呼び掛けた。何、と彼女は振り返る。

「いいじゃん、探偵。おもしろそうだし。やろうよ」

 寄りかかっていたデスクから腰を浮かせながら、名探偵・浅倉透はそう言った。

 

 

 

捜索、あるいは創作

 

 ソファーの下をのぞき込んでいた体を起こして、透はまた静かに考え込む。しばらく続いているマフィン探しは進展が一切見られず、捜査は行き詰っていると言ってもいい状況だった。透はこの「失踪事件」を、マフィンが自らオーブンから脱走したものである、という線で捜査している。私はその捜査方針に大きな疑問を抱いていたが、それを指摘して私も捜査に加わる羽目になるようなことは御免だった。午後からは女性雑誌のインタビューを受けなければならず、その際に話す内容を頭の中で慎重に成形していたからだ。

 透はにわかに立ち上がって、今度は窓の方へと歩いていく。クーラーをきかせるために窓は固く閉ざされている。窓の鍵が閉められていることを確認し、不思議そうに首をひねった。そうしたあとにまた、今度は鍵のかかったままの状態で窓を開けようと試みる。この名探偵はおそらく、マフィンの逃走経路を探しているのだろう。ハムスターが逃げ出したのではないのだから、もう少し頭を使って考えろと言いたくなるが、口を出したら面倒なことに巻き込まれてしまうのは明白なため、私は透を無視して次の仕事の準備を進める。事前に渡されたインタビューシートを見ながら、想定問答を組み上げていく。

 インタビュアーが質問する。今回の企画は「等身大のnoctchill」ということで、アイドルではなく女子高生としての樋口円香さんの素顔を見ていこうと思うのですが――noctchillの皆さんは幼馴染ということですが、幼馴染だからこそわかる、メンバーの良いところなどを――アイドルと女子高生の両立というのは大変なことのように思えますが――樋口さんから見て、アイドルという仕事は――

 以前に見たことがあるような質問が並ぶインタビューシートを眺めながら、今回はどう答えようかと思案する。同じ内容の回答でも言い回しが変わるだけで、読者は樋口円香の新しい一面を見た気になるということを、私はこれまでの経験で知っていた。私はインタビューで同じようなことを答えて、ファンは同じような感想をSNSに書く。まるで合気道の演武のように、定められた型をお互いに演じ合う。その調和のとれた奇妙さは、毎度のことながら少し可笑しい。

 noctchillが幼馴染四人で構成されたグループということもあってか、四人のオフの様子はよく記事のトピックになる。そうでなくても、超然とした雰囲気を纏う透の私生活は、野次馬的な興味を掻き立てる話題だろう。実際はそんな大層な生活を送っているわけではないのだが、ファッション誌の大きなページを飾る透の表情からそれを察するのは難しい。世間から見られる印象から実態が遊離しすぎている。現にいま、透は――

「どこにもなかったよ、マフィン」

 インタビューシートから顔を上げた私に気付いた透は、パーテーションに少し体重を預けながらそう言った。先ほどより少し髪が乱れ、顔が薄赤くなっている。おそらく、パーテーションの向こうにあるベランダにマフィンがいないか見るために、窓から体を出して覗き込んだのだろう。上半身を思い切り窓の外に出して、頭に血が上ったのだ。

「まだ探してたの?」

 私が投げやりにそう訊くと、透は悩ましげな顔で頷く。どうしてたかだか一つのマフィンのそこまで心を砕くことができるのだろう。私に何も用事がなければ、暇つぶしがてらに透のマフィン捜索を手伝うこともできるのだが、あいにく今はそこまで暇ではない。私は再びインタビューシートに視線を落として、透との短い会話を終わらせる。透はまだマフィンの隠れ場所を勘案しているのか、小さく唸りながら天井を見上げている。この様子を見る限り、この「失踪事件」は迷宮入りに終わりそうだ。そも、マフィンが自分の足でどこかに逃げた、という仮定は荒唐無稽にもほどがある。

 それに――私は事務所のデスクでコーヒーブレイクをたしなんでいる二人を一瞥する。聞こえてくる声から察するに、あの二人も無くなったマフィンの謎を考えているようだ。プロデューサーという立派な看板はしばしの間降ろしておくと決めたらしく、あの男は先ほど淹れたコーヒーで残りのマフィンをつまんでいる。はづきさんも、いつものマグにカフェオレを淹れて、マフィンの行方を議論している。

 透は気付いていない様子だが、この「失踪事件」の謎を解くには、マフィンを探すより先に、もっと話を聞かなくてはならない相手がいる。

 私は手元の紙を机において、ちらと腕時計を見遣る。文字盤は事務所を出る時間が近づいていることを示していた。私はおもむろに立ち上がる。最後にカフェオレを一杯淹れるためキッチンへ向かう。使い込まれたコーヒーメーカーのスイッチを押し、冷蔵庫から牛乳を取りだす。冷蔵庫の中にマフィンがないかと目を走らせている自分に気づき、少し苦笑。戸棚を開けてスティックシュガーを取りだす。戸を閉めようとしたとき、透に背後から声をかけられた。

「ねぇ、樋口。マフィン、どこにあるか分かんない?」

「あんなに探しても見つからないなら、無いんじゃないの」

 私は振り返らず、戸棚を閉めてコーヒーメーカーの方へ歩く。真っ黒なコーヒーが溜まっているマグを取り、ゆっくりと牛乳を注ぐ。マグの中程までを満たしているコーヒーは、かさを増していくごとにその色を薄くしていく。最後にスティックシュガーの封を破り、砂糖をさらさらと溶かし込む。

 このカフェオレを飲み終えたら、私は事務所を出発して駅に向かう。透の予定は昼過ぎにあるプロデューサーとの打ち合わせだけだったはずだ。私がここを出てからも、透はしばらくの間、マフィン探しを継続するだろう。

 いつも通りのカフェオレができたところで、一連の工程を後ろから見ていた透が口を開いた。

「樋口は分かる? マフィン、どこ行ったか」

 出来上がったカフェオレを片手に、私は浅倉の方へ向き直る。

「ねぇ……本気で、マフィンが自分でどっかに行ったと思ってる?」

「そうじゃない? じゃないと、なくならないでしょ」

「そんなわけない」

 いつかのように探偵の真似事をする羽目になるとは、と心の中で運命に悪態をつきながら、慎重に透の思考を誘導していく。

「生き物じゃないんだから、いくらなんでもマフィンが動くわけがない。それは分かるでしょ? でもマフィンは動いてる。なら、どうして動いたの?」

「誰かが動かしたとか? でも、誰もいなかったって言ってたじゃん。鍵かかってたんだし」

 そうだ、と私はひとつ首肯する。この問題をややこしくしているのは明らかにはづきさんとあの男の二人だ。あの男が、他人から言われたことの裏を読まないようなお人好しでなければ。そして、はづきさんがあんな言い方をしなければ。どちらも共感し難い精神だ。

「鍵がかかってるからって、開かないわけじゃない。いるでしょ、鍵のかかった事務所の扉を開けて、マフィンを消すことができる人が」

 そこまでヒントを出したところで、私は使い終わったスティックシュガーの紙を捨てようと、ゴミ箱の蓋を開ける。まだ中に砂糖が少し残っているのを指が感じ取って、カフェオレに入れてしまおうかと少し逡巡したとき、視界の端に何かが映り込んだ。私はそれが何か重要なものだと直感し、衝動的にゴミ箱から拾い上げる。それは軽く丸められたサランラップで、中にパンくずのようなものが閉じ込められているのが見える。そして、ところどころに滲んだ薄紅色。数秒の間それを見つめていると、透が後ろから覗き込んできた。

「なにそれ、ごみ?」

「そう、ゴミ箱の中に入ってた」

「へえ。なんでそんなの……」

透の言葉は途中で途切れた。訝しんで顔を向けると、透は目を大きく見開き、視線を私の指先の一点に固定している。半開きになった唇からは白い歯が垣間見える。息をするのも忘れているようだ。

 透は気づいたのだろう。この失踪事件の犯人に。

「ねえ、樋口」

 我に帰って、透は私を見つめる。私が一つ小さく頷くと、彼女の天色の瞳が揺れた。

 

「分かったよ。マフィンの場所」

 コーヒー片手に談笑するあの男のデスクに駆け寄って開口一番、透はそう言い放った。驚いた顔が二つ。彼らにとって、透のこの行動はかなり予想外だったのだろう。呆けた顔をやっとのことで軌道修正した二人は、透の発言の真意を問う。

「透、マフィンの場所って……。と言うか、まだ探してたんだな。てっきり、その」

 そう言って、あの男はキッチンから様子を伺っていた私の方を見る。もしや、私が透と共謀してなにか悪ふざけでも企んでいると思われているのだろうか。そうだとしたら甚だ心外だ。私は眉を顰めて不躾な視線の主を見つめ返す。気まずそうに目を透の方へ戻して、あの男は再び尋ねる。

「マフィンの場所がわかったって、あのなくなったマフィンの話だよな? はづきさんとも話したけど、あれはきっと俺が寝惚けてたんだよ」

「寝惚けてたって、忘れないでしょ。自分で作ったんだから。あと、型に付いてたし、油」

 私はその発言に少し驚いた。六つのマフィン型全てに油がついていたなら、確かにそれはマフィンを五つでなく六つ焼いたという証拠と言えるものだ。おそらく先ほどのマフィン探しの際に確認したのだろう。捜索は意外と真剣に行われていたようだ。

「え、そうだったか。でも、だからと言ってマフィンがどこかに行ったってのは無理があるんじゃないか?」

「そうですけど……だとすると、事務所にマフィン泥棒が入っていたことになりますよね〜。防犯には気を遣ってますから、そんなとこはありえないと思いますよ?」

 二人は透への疑念を隠さずに問いかける。それを受けても一切の不安を見せずに、透はいつも通りの微笑を浮かべて立っている。アイドルとして舞台に立つことが増えて、妙な度胸でも付いたのだろうか。不遜とまで形容できそうなその立姿は、大理石で造られた一躯のギリシア彫刻を連想させる。

「違うよ。マフィンが自分で出ていったのも違うし、マフィン泥棒が鍵を開けて入ってきたのも違う。マフィンは、本当は……」

 二人は固唾を飲む。大人二人してそんな真剣な表情で何を聞いているのだろう。

「ペットショップの動物たちと一緒に逃げ出したんだよ。人間から」

 沈黙。処理しきれない情報が飛び込んできてフリーズしてしまったのだろう。二人とも固まっている。

「マフィンも、ペットショップの犬とかも、閉じ込められてるじゃん。だから一緒に逃げ出したんだよ、協力して。マフィンだったら中から窓開けれるし、鳥とかいたら、そこから飛べるから」

 探偵の口から語られたのは壮大な冒険活劇だった。似たような筋立ての絵本を読んだことがあるような気がする。二人とも唖然としている。いち早く正気に戻ったはづきさんが推理の矛盾を指摘する。

「その、それは……不審者が入ってきたより非現実的な気がしますけど〜」

「そうだぞ透、色々とツッコミどころが多すぎる! まずその、動物が協力してくれたってのはどういうことだ。マフィンが一階のペットショップに助けでも求めたのか?」

「だって、暑いでしょ。オーブンの中。出たかったんじゃない? ペットショップの犬とかも閉じ込められてるし、共感した、みたいな」

「あまりにもファンタジーだ透……! 発想としては面白いと思うけど、さすがにそれが真実ってのは……、ちょっとどうだろうな?」

 彼はそう言った後、横目で私に助けを求めてきた。私はその視線を外すために、先ほどから右手を温めていたカフェオレを呷る。どうやら透はこの混沌とした状況をこそ求めていた様子だ。いつかのように、私が探偵役としてでしゃばる必要はもうないだろう。

 私はカフェオレを飲み干し、体重を預けていた壁から離れてシンクにマグカップを置いた。背後から聞こえてくるのは、困惑するあの男と透の超自然的議論。私はそれには目を遣らずに、そのままソファに置いたバッグと答弁書を取ってリビングのドアに手をかける。行ってらっしゃい、と投げかけられた声に一瞥を返し、私は扉を開けて玄関へと向かった。防犯に気を遣っているというはづきさんの言葉通り、鍵が掛けられた玄関扉を開ける。

 我が物顔で空に浮かぶ梅雨明けの太陽は、さながら誰かさんのように暑苦しかった。

 

 

 

余談、補ってなお余りある話

 

 それから、私は時間通りに事務所を出て打ち合わせへと向かった。休日の電車は混んでいたが、その類の不都合を無視して通り過ぎることができるくらいには、私はこの環境に適応している。あるいはこれを摩耗と言ったりするのかもしれない。使い続けて簡単に外れるようになったボールペンのキャップみたいなものだ。削れていけば、そのうち許容することも簡単になる。

 塑性の低い人ごみの中で吊革に掴まって、見慣れているようで覚えていない窓外の景色に目を遣る。その向こうにある、定規で区切られたような青い空は、思ったよりきれいなものでも、清々しいものでもなかった。それでもこの車内よりはましなのだろう。息が詰まるこの電車に乗った時の後悔は、いつも私の肩を重くする。

 二駅分の距離は、きまって引き延ばしたように遠く感じる。退屈なのか苦痛なのか判別のつかない時間は、思考を思いがけない方向にシフトさせていく。居眠り運転でハンドルを切り損ねたみたいに、考えなくていいことにまで、言うことを聞かない奴が手を伸ばしている。私は、さっきまで自分が関わっていた事務所での出来事について考え始めていた。

 

 たぶん、透もあの突拍子もない推理が正解だなんて思っているわけではない。あんなものは、推理とも呼べないただの空想だ。それは透だって分かっている。しかし、それでもなおあんな茶番を演じたのは、きっと透なりの理由があるのだろう。透明な脳細胞が弾き出した、あの場でそうするべき理由。

 なんとなく、私にも分かる。

 マフィンを食べたのははづきさんだろう。おそらく彼女は、牛乳の買い出しから戻ってきたときに、ソファーで眠っているあの人を見つけた。仕事の疲れで眠っているのだろうと思った彼女は、つけっぱなしのテレビを消した。テレビを消しにソファーの近くまで行ったのなら、マフィンを焼いている匂いにも気が付いたはず。火災予防のためにこれまた点けっぱなしになっているオーブンも消しに行った彼女は、オーブンで何を焼いているのかを見た。

 中に入っているマフィンを見つけたときに、彼女が何を思ったのかは知らない。しかし、悪戯心か、あるいは朝食を抜いてとてもお腹が減っていたのか、彼女は中のマフィン型を取りだして、型からマフィンを取りだした。手を汚さないように、そして欠片を零さないように、取りだしたマフィンをラップでくるんで食べた。

 ごみ箱に捨てられていたラップには、マフィンの欠片と、それを食べた人の口紅が付いていた。うちの事務所であの口紅を使っているのは彼女だけだ。あの控えめなラメ感が高級さを醸す口紅を、私は一度見たことがある。見つけた時の反応からすると、おそらく浅倉も。

 知っていながらも、はづきさんが犯人であると言わなかった理由。考えてみれば簡単な話だ。最初に四人で話をしたとき、彼女はこう言った。

 ――せっかくですから、いったん休憩にして謎解きをしてみませんか?

 あの台詞は彼に言ったものだ。そして、それを受けて彼は、謎解きがてら一時休憩をした。彼女のあの発言の狙いはおそらくそれだったのだろう。マフィンを食べた時からそれを想定していたかはわからないが。狙い通りに彼は、私たちが探偵ごっこに興じている間にコーヒーを飲み、茶菓子をつまみながら休憩をしていた。

 彼の話によると、最近あまり休めておらず、明日明後日にはまた仕事が増える。プロデューサーという仕事の大変さは、彼女が一番よくわかっているだろう。だから機転を利かせて、消えたマフィンを口実に休憩を取らせた。きっとそうでもしなければ、プロデューサーというネクタイに繋がれたワーカーホリックなあの男は、居眠りの失態を挽回しようとキーボードにしがみついて手を離さないのだ。そして、はづきさんと同じく寝不足を心配していた透は、そんなはづきさんの意図を途中で察した。だからあそこで犯人当てをせず、見当違いな推理を乱発してマフィンの謎を謎のままにしたのだろう。そうすれば、私が仕事に行った後も、マフィンの謎解きは継続される。そしてもしかすると、彼の休憩も。

 

 結局のところ、この失踪事件に名探偵は必要なかったのだ。シャーロック・ホームズも明智小五郎も、あの仕事中毒の手を止めさせることはできなかっただろう。透は名探偵の椅子を降りることによって、あの事件を「解決」へと導いた。

 お人好しなあの男のことだ。きっと、はづきさんが犯人だとは微塵も思っていないかもしれない。今も見当違いな方向に想像を膨らませているのか、もしかしたらそろそろ真相に気が付いているところか。

 この仕事が終わったら、彼にチェインして問題が解けたか聞いてみるとしようか……。解けたと言うか、解けなかったと言うか。あるいは透の語った与太話を信じることにしたと言うか――。

 気付けば、私はその想像をしばらく追及していた。電車に揺られる私の肩は、いつの間にか少し軽くなっていた。

 

 



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