少年提督と野獣提督 (ココアライオン)
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第1章

 波の音が遠くに聞こえる。早朝の鎮守府はとても静かだ。冷え澄んだ朝の空気に、白みかけた空の蒼さが冴えている。雲は無い。快晴である。歩きながらゆったりと息を吸い込むと、潮の香りがする。普段から慣れ親しんだ香りだ。不思議と落ち着く。もう少しすればいつも通り、騒がしくも忙しい一日が始まる。提督を起こす為、彼の部屋へと向う廊下から窓の外を見遣り、広すぎる海に眼を細めた。

 

 遥か昔から、海には神が居ると信じている人々は多い。海神という奴だ。船旅の安全を祈り、大漁を願い、人々は寄せては返す波に手を合わせたのだろう。ただ、艦娘の立場から見ると、海の神とやらには、人類に対する敵意が伺える。最も分かりやすい例は、明らかな害意と悪意を持って海を跋扈していた深海棲艦の存在だ。母なる海という言葉もある程、海は多くの生命を抱えているし、その起源でもある。深海棲艦達は、人類をその母なるものから追放しようとする、自然の意思の様に思える。それに対抗すべく、人類の中からも特殊な力を持つ者達が現れる様になった。

 

 金属で建造された“艦”という兵器から、其処に宿る“艦娘”という命や自我、意思の造形を、この世界に招き入れる者達。かつて海に沈んだ艦船から、誇りや魂を呼び戻し、その艦娘達の機能や姿へと鋳込む者達である。それは『召喚』と言うよりも、海の底に巍巍として鎮座している力の『召還』である。こうした神秘に触れ得る者達を、現在“提督”と呼んでいる。

 

 私達は、自らをこの世界に召んでくれた“提督”の元で、日々命令に従っている。今はそれが全てだ。確かなものは、眼に見えるもの、或いは、自分の心に在るものだけだ。窓の外を眺めながら、廊下を歩く足を止めた。潮風がほんの少しだけ強くなった。雲の無い悠遠な蒼い空と、遮るものの無い渺茫とした碧い海が、地平まで続いている。眼の前に広がる広漠な世界が、艦娘の現実であり、また戦場であり、生きる場所でも在る。そしてこの鎮守府が。私達を召んでくれた、彼の居る此処が。自分たちの返ってくる場所だ。鼓動が高鳴るのを感じる。甘いような、少し苦しい様な、心地よい高鳴りだった。それを落ち着かせる様に。もう一度深呼吸をして、また歩き始める。今日は、私が秘書艦を務める日である。

 

 彼が最初に召んだ艦が私ということで、艦隊の規模が小さい頃は、朝も無く夜も無く、秘書艦として彼を傍で支えたものだ。彼は頼り無かった。執務と戦果に追われ、いつも右往左往していた。だが、彼は次第にその才能を開花させ、非常に優秀な提督として知られる様になった。数多の艦娘を召び、その悉くを轟沈させることなく、分け隔て無く育み、労ってくれる。誰も沈まぬ様に、皆が帰って来れる様に、彼は日々粛々と作戦を練り、任務にあたっている。

 

 少し昔。まだ、深海棲艦との戦いが激しかった頃。戦果を急かない、徹底した艦娘第一主義を取る彼の下。海域解放が他の鎮守府よりも遅いことについては、何度も本営から通達が届き、彼を無能扱いする者も少なくなかった。それでも彼は、頑なに捨て艦法などの効率重視の強行策は採らなかった。それが、余計に彼の評価を落とした。しかし、提督の愚直なまでの艦娘第一主義が実を結び始め、シビアな資源運用の中、錬度の高い艦娘の数が増えるにつれ、我が鎮守府の戦果も大きくなっていった。自らの提督への侮辱的な評価への憤激を糧に、艦娘一人一人が奮戦し、激戦を戦い抜き、連勝を続けた。他の提督では手に負えないような危険な海域でも次々と解放し、人類の進撃に大きく貢献した。正に快進撃と言って良かっただろう。

 

 結果として、彼は勲章をいくつも進呈され、非常に優秀と評される提督の一人として数えられる様になり、同時に、今までの低評価に対する冷笑に代わり、強い嫉みの視線を向けられる様になった。だが彼は、そういった周りからの評価には、一顧だにしなかった。ただ艦娘達の無事に安堵し、授かった勲章の名誉を皆と分かち合い、感謝と労いを伝えるだけだった。彼は他の追随を許さない程ストイックに、一人の提督として在り続けている。御蔭で、彼に対する本営からの高評価や、他の鎮守府、提督からの嫉みの視線、根も葉もない流言飛語の類いは、徹底して空回りしていた。

 

 変わった提督だと思う。だが、そんな彼の事を、この鎮守府に居る艦娘達は皆慕っている。艦隊の規模が大きくなるにつれ、秘書官も交代で務めることになったのが良い証拠だ。彼の存在が、ふっと遠のいて感じたのも、丁度、彼が力を伸ばし始めた頃だったろうか。多くの艦娘に慕われる彼に少しの寂しさと、広がっていく距離を感じたのを強く憶えている。私は手袋をしたまま、何も嵌っていない自身の左手の薬指に、右手でそっと触れた。ケッコンカッコカリ。錬度の高い艦娘の力を、更に解放する為の特殊な儀礼だと聞く。

 

 彼は、一体誰を選ぶのだろう。戦艦か。空母か。重巡か。軽巡か。潜水艦か。それとも、駆逐艦か。彼がどんな女性を好むのかという事に関しては、艦娘達の間で話題となる事も多い。だが、一向に答えが見えてこないのが実情だった。彼は、誰かを特別扱いしたりしないし、そういった素振りも見せないから余計だ。思い遣りや真摯な優しさは向けてくれるのだが、その心の内を見せてくれないと言うか。艦娘一人一人の性格や意思や自我を尊重してくれるが故に、彼は艦娘の心へ深く踏み入ろうとしない。勿論。彼に信頼されているのも分かるし、大事にされていることは、皆実感している。だからこそ、彼との間に時折感じる溝のようなものは、いやに深く、広く感じるのだろう。そんな事を考えていると、困った様に優しげに微笑む彼の顔が脳裏に浮かび、緩く頭を振る。気持ちを切り替えないと行けない。駄目だ。暑い。と言うか、妙に顔が熱い。

 

 歩いていて、気付くのが少し遅れた。提督の部屋は、もう眼の前だ。胸が更に高鳴りそうになったが、軽く眼を閉じて気持ちを落ち着かせる。それから、扉の前で身だしなみを整え、髪の毛が乱れていないかを再度チェックする。緩みそうになる頬を必死に引き締めつつ、軽く咳払いをして、ノックをしようとした時だ。多分、気持ちの昂ぶりにあわせて、身体の感覚が研ぎ澄まされていたからだろう。微かに。本当に微かにだが。中から気配を感じた。彼のものでは無い。別の人の気配。

 

 今日は彼の秘書官という事で、その事で頭が一杯で失念していた。この鎮守府には、“提督”は彼一人では無い。もう一人居る。嫌な予感がした。ノックをせずにドアノブを回そうとした。回らない。中から鍵が掛けてあるのだ。扉に耳を当てる。すると、中から声が聞こえた。「起きんなよ……起きんな……(囁き声)」男の声だ。私は即座に扉を蹴破った。「司令、おはようございます……!」バァンという派手な音が響く。蹴飛ばされて吹き飛んだ木製の扉が床でバウンドして、壁に激突する。

 

「ファッ!?」

 

 ベッドで眠る彼に覆いかぶさっている男が、奇妙な驚き声を上げて床に転げ落ちた。昨日も夜遅くまで仕事をしていたのだろう彼は、まだ眠ったままだ。起きる気配は無い。彼は基本的に、目覚ましが鳴らないと起きない。揺すろうが傍で騒ごうが、ぐっすりである。そういう彼の体質は、まぁ、今は問題では無い。

 

「起こしに来るの早スギィ……!! 普段はもう一時間位経ってからじゃん!? アゼルバイジャン!? (意味不明)」

 

 問題なのは、ベッドから落ちた拍子に腰を強打し、黒のブーメラン水泳パンツ一丁でM字開脚をしている侵入者である。

 

「って言うか鍵がしてあっただルルォ!? 扉を蹴破って入って来る秘書艦とかおかしいだろそれよぉなぁ!?」

 

 床にひっくり返ってM字開脚のまま喚くこの男も、一応、この鎮守府の提督である。優秀な提督であり、艦娘達の運用にも長けているのだが、素行に問題が多すぎて好きになれない。その浅黒い肌と筋肉質な身体、眼つきなどから“野獣提督”、“野獣司令”と呼ばれる彼は、ほぼ間違いなく男性好きだ。若い憲兵を手篭めにしただの、正体はサイクロップスなどと言った、黒くて妙な噂が絶えない男だった。

 

「失礼致しました。何やら不穏な空気を感じ、“司令”の身に危険が及ぶのでは無いかと思ったので、ドアを破りました。すぐに修理に掛かります。…しかし」

 

 居住まいを正し、深く頭を下げた私は其処で言葉を切り、顔を上げて“野獣”を見据えた。私は右眼だけを窄めて、ゴキッと右手の指を鳴らして見せる。眉間に皺が寄っているのが自分でも分かった。

 

「“野獣司令”は何故、この時間に此処に……? 鍵は内側から掛けられていましたし、“司令”のベッドに乗り掛かっていた様に見えたのですが……」

 

 何の為に此処になど。別に聞かなくても、状況を見れば誰でも分かるだろう。そう。簡単な話である。“野獣”はこの明け方に、“彼”に夜這いを掛ける為に忍び込んだのだ。夜中は、その日の担当となった艦娘が鎮守府内を見回っているが、明け方から全員が起床するまでこの時間は、若干警備が緩む。その時間を選んで、この部屋に忍びこんだのだろう。もしも今日、私が秘書艦で無かったならば、“彼”は野獣の毒牙にかかっていた筈だ。卑劣漢め。鎮守府内だというのに、油断出来ない。私は“野獣”を睨み殺すつもりでねめつける。

 

 

「あ、朝のトレーニングに誘いに来ただけだから……(震え声)」

 

 私の視線に気圧されたのか。言いながら、“野獣”はへっぴり腰になりながら立ち上がり、後ずさった。

 

「そうでしたか。では、私の方から伝えておきましょう。他には、何か?」

 

 思いっきり下目遣いで、私は有無を言わさぬ口調で告げる。“野獣”の行為には深く言及しない。無論これは、さっさと失せろ、のサインなのだが、一応は伝わった様だ。「オッスお願いしまーす……(敗北宣言)」 と早口で言いながら、そそくさと部屋から走り去ってしまった。まぁ、流石にブーメラン一丁の姿では私に食い下がる事はおろか、先程の状況を弁明する事も不可能だ。そういった意味では、まだ賢いと言うべきか。褒めるつもりはさらさら無いが。嫌悪感を隠さない貌で、“野獣”の走り去った方を睨みながら、舌打ちしようとした時だ。背後。彼の枕元にある目覚ましが鳴った。

 

 「ん……」という小さな声と同時に、“彼”がベッドから身体を起こす気配。しまった、と思った。“彼”の寝顔を見れるのは、秘書艦の特権だと言うのに。久々に。久々に“彼”の寝顔を堪能出来るチャンスだったと言うのに。さっきの騒ぎのせいで、そのチャンスを逃してしまった。あぁ、何てことだろう。これも、全部あの“野獣”のせいだ。許せない。もう。もう、あとで消そう。胸中で悪態をつきつつ、私は慌てて彼に振り返り、思わず凝視してしまった。今までに遭遇した事の無い、衝撃的な光景を目の当たりする事になったからだ。

 

 ベッドから身を起こした“彼”は、寝巻きの代わりに白い被術衣を着ている。その胸元がはだけて、柔肌が顕わになっていた。そこから覗く、桜色の蕾がががが。まるで女性の様だ。だが、ある意味で男性特有の色気と言うべきなのだろうか。私は自身の下腹部から脳天へ、何かが突き抜けて行くのを感じた。胸が熱い。“彼”がゆっくりとベッドから降りる際には、その脚も顕わになり、眼のやり場に困ってしまう。枕元に置いてあった眼鏡を掛けて、眠そうな眼を瞬かせた“彼”は、此方に向き直り、緩く頭を下げてくれた。

 

 「おはようございます。不知火さん。少し寝坊してしまいましたね。すみません」

 

 丁寧な言葉で挨拶をしてくれた“彼”は、私よりも少し背が低い。“彼”は少年らしい腕白さとは無縁で、非常に大人しく、もの静かである。ひっそりとした“彼”の微笑みには、此方に対する深い信頼が伺え、胸の熱さが加速する。

 

 「ぅ、い、いえ、しょの……。まだ、寝坊などと言う時間では全くありませんので、お気になさらず……」

 

 熱暴走を起こしそうになる頭を何とか働かせようとするが、駄目だ。しゃっくりみたいに声を引っくり返しながら、そう答えるのがやっとだった。さっきの光景が脳裏に焼きついて、まともに思考が回らない。刺激が強過ぎた。真面目な表情を維持するのが困難になりつつ在る。頬の肉が攣りそうだ。部屋を見回していた“彼”も、どうやら私の様子に気が付いたらしい。

 

 「不知火さん、具合でも悪いのですか? 顔が赤いようですが」

 

 心配そうに此方を見上げて来る“彼”の表情は反則だった。

 

 「体調は、りょ、良好です。問題は在りません」 

 

 私は慌てて眼を逸らしながら、一歩後ずさる。それを見越していた訳では無いだろうが、“彼”がすっと歩み寄って来た。実戦を幾度と無く経験した私でも、捉え難く、反応しにくい静かな動きだった。以前から気になっていた事だが、やはり“彼”には何か武術の心得があるのかもしれない。気付けば。私の左頬に、小さな“彼”の掌の優しい感触が在った。ひんやりとした掌だった。背筋に強烈な甘い痺れが走って、変な声が出そうになったが、ぐっと堪える。

 

「少し、熱いですね……。本当に大丈夫ですか?」 

 

ああ。そんな。何て、近い。近い近い。こんな近い距離で、“彼”の声を聞いたのは初めてだ。熱い吐息が零れた。耳朶を擽る、澄み渡った“彼”の声は、脳に直接染み入ってくる様に感じた。

 

「は、はい……。いえ、す、少し、どうにかなりそうです……」

 

 大丈夫だと。私に不調な箇所な何処にも無いと、そう言うべきなのだが。眼を合わせる事も出来ないまま、もう何と言うか、掠れた声でそうとしか言えなかった。私の頬から、“彼”の掌が離れる。その名残惜しさに、情けない程胸が軋んだ。しかし、不甲斐無い私を見て“彼”は、またその幼さには不釣合いな、静かな微笑みを浮かべて見せた。

 

「体調が優れないのであれば、今日の秘書艦の交代を……」

 

「いえっ! その必要はありません。秘書艦は私が務めます!」

 

 咄嗟に言葉を返したものの、縋る様な声音になってしまった。それに、思ったよりも大きな声が出てしまい、“彼”も少し驚いた様な貌になっている。しかし、すぐに微笑んで、頷いてくれた。

 

「分かりました。では、宜しくお願いします」

 

“彼”の穏やかな声音には、不思議な包容力が在り、その外見の幼さには似つかわしくない、大きな父性の様なものが在る。

 

「でも、無理はしないでください。辛くなったら頑張り過ぎないで、遠慮せずに仰ってくださいね」

 

 鼻血が出そうだ。俯いてしまう。不味い。今口を開くと、変なことを口走りそうだ。一人で勝手に盛り上がっている自分に自己嫌悪を覚える。何とか心を静めようとする。そんな私の葛藤になど、“彼”は全く気付かない。

 

「頼り無いかもしれませんが、僕に出来ることでしたら、もっと頼って下さいね」

 

 打算も下心も無い、あまりに真っ直ぐなその言葉を聞いて、“あぁ^~、ダメになる~”という感覚を何となく理解した。朝から何を一人でトキメキまくっているのかと、更に深まる自己嫌悪を抱えて、「はい……」とだけ言葉を返した。私の返事に、“彼”は満足そうに頷いてから部屋を見回した。

 

「所で、扉が壊れているのですが、何か在ったのでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陽炎は食堂のテーブル席に一人腰掛け、不知火と提督の二人がやって来るのを待っていた。何を食べようかな~、なんて思いながら、昨晩の不知火の貌を思い出す。秘書艦の番が回って来て、嬉しいのに困った様な表情を浮かべていたのを憶えている。他の艦娘が見たら仏頂面にしか見えないかもしれないが、少なくとも陽炎にはそう見えた。久しぶりに提督と一緒に食事を摂る事になって、間が持たなくなったら困るわね。そんな風に冗談っぽく言ってみたものの、では、少し助けてくれませんかと頼まれるなどとは思わなかった。

 

 秘書艦が不知火の時は、提督と不知火はだいたいこの時間に朝食を採っている事は知っていた。普段、陽炎が食堂に向う時間よりもかなり早い時間である。今も眠気がまだ抜けていない。油断すると大あくびが出そうだ。これは不味い兆候である。自分の体のことだから、大体分かる。恐らく、この眠気の山は一度乗り越えても、昼過ぎには猛烈な睡魔となって襲ってくる事だろう。気合を入れて、極端に早起きして動き出した日は大抵そうだ。だから、不知火から今朝の朝食に誘われた時は、ちょっと迷った。昼に来る睡魔の強さは半端じゃない。出来れば戦いたくない。しかし、他ならぬ不知火の誘いだ。了承して今に至る。欠伸を飲み込んで時計を確認した。時間的にはそろそろ現れても良い頃の筈である。お腹も良い感じに空いて来た。陽炎は、ちらりと周りを見回してみる。

 

 此処、鎮守府内に在る食堂は、飯時には艦娘達で大きな賑わいを見せる。大人数の艦娘達の胃袋を引き受けるだけあって、品書きも建物も相当立派であり、味も良い。ある意味で彼女達のオアシスでもある。朝餉の香と、活力を感じさせる彼女達の騒々しさは、此処の一種の名物だ。だが、今はまだ賑わうには早い時間で在る為、食堂はがらんとしている。現在食堂に居るのは、テーブル席についた陽炎。その近くには、向かい合って座り、笑顔を交えながら何かを話し合っている大和と長門。それから、遠征から帰って来てすぐの天龍と、暁、響、雷、電。天龍の朝食に付き合っているのは摩耶。二人もテーブル掛けで、向かい合って座っている。暁達は四人で一つのテーブルを囲み、朝食を採りながら、今回の遠征についての話で盛り上がっている。後は、朝の支度が早い赤城と加賀の二人と、金剛、比叡、榛名、霧島の四人だ。赤城、加賀の二人はテーブル席に。金剛達は座敷席に陣取っている。

 

 普段は熾烈を極める戦場で、勇猛果敢に戦う彼女達の表情には、安らぎの様なものが伺えた。陽炎にとっても、提督に報告している時の次に、帰って来たんだと実感する場所が此処でもある。ホッとすると言うか。不思議な安心感が在る。仲間達と語らえる場所でもあるからだろう。いつもより静かとは言え、憩いの場としての此処は、穏やかで暖かな空気が在った。

 

 

「えぇ~! “司令官のミルク”飲ませて貰ったの!? 一人だけずるーい!!」

 

 

 しかし、不意に響いた暁の声のせいで、食堂の空気が凍りついた。食べているものや、飲み物を噴出す音が聞こえた。ガタっ!、と立ち上がったのは金剛だったが、何も言わず、すぐにまた座った。挙動不審である。周りに座っていた比叡、榛名、霧島は、頬を赤らめつつ視線を彷徨わせている。他の艦娘達も皆同じような様子で、下手な事が言えない様な、何だか気まずい空気だ。例えるなら、家族団欒の最中に見ていたテレビドラマが、突然いやらしいシーンになった様な感じだった。

 

 司令官のミルクって……アレ、だよな? いや、さぁ……。多分……。みたいなアイコンタクトを交わしているのは、天龍と摩耶である。赤城や加賀も何事かと箸を止めているが、最も重症なのは向かい合って座っていた長門と大和だろう。首筋まで真っ赤にして俯いている長門はしきりに下唇を噛んでいるし、さっきまで上品に食事をしていた大和は、激しく噎せ返っている。

 

 こんな空気にした張本人、いや張本人達と言うべきか。暁、響、雷、電、の四人は、周りの空気など何処吹く風で、楽しげにテーブル席で談笑中である。この場に居るほぼ全員の視線が、四人に注がれているが、盛り上がっている暁達は気付いていない。テーブル席で朝食を囲む暁達の姿は、実に可愛らしく微笑ましいというのに。彼女達の食事風景を、こんなにハラハラした気持ちで見守った事など、かつて在っただろうか。

 

 

「別にずるくなんて無いでしょ! 飲んだのは私だけじゃないもの。ね、電」

 

そうは言いつつも、ちょっと自慢げな雷は、隣に腰掛けた電に笑いかける。

 

「はい。私も一緒に、コップ一杯分だけ頂きました。とっても濃厚で美味しかったのです」

 

 

 

 

 食堂に居た他の艦娘達にざわめきが広がる。「こ、コップ一杯……」と、羞恥に震える声で呟いたのは榛名だ。「濃厚……」と呟いた霧島も、頬を染めつつ生唾を飲み込んだ。この二人の視線は座敷テーブルに置かれた、牛乳の入ったコップに注がれていた。比叡が飲もうと思って頼んでいたものである。「ひ、ひぇ~……」と零した比叡は、重さを確かめるみたいに牛乳の入ったコップを持ち上げて、コップの中に揺れる白い牛乳を見詰めていた。

 

「比叡、あの、……チョット貸してみなサイ」 

 

恥ずかしそうに言いながら、金剛は比叡からコップを受け取った。それから赤い貌のままで、何処か愛おしそうにゆっくりとコップを揺らして見せる。

 

「Oh^~、何デスかこの量はぁ……。たまげたネー……」

 

そう熱い溜息を零してから呟き、金剛はコップを傾け、ゆっくりと牛乳を飲んでいく。うっとりとした表情で牛乳を嚥下する姉の姿に、比叡、榛名、霧島は眼を奪われている。

 

 

 

「何やってんだあいつら……(興味津々)」

 

 摩耶は金剛達が陣取る座敷席を横目で見ながらも、暁達の話に耳を欹てた。一方で天龍の方は、頬杖をついてそっぽを向いている。興味無い様な振りをしている様だが、艤装の耳がピコピコと動いている辺り、しっかりと聞いている様だ。暁達から少し離れた席に座っている赤城は、頬を染めながら人差し指で頬を掻いている。しょうがないですね…、みたいな、大人のお姉さん的な感じだ。一方で、加賀の方は真顔で暁達の方を凝視していた。敵意や殺意こそ無いものの、その眼光の迫力は相当のものだ。ちょっと怖い。

 

 

「響はどうなの? 飲んだ事あるの?」

 

 妙な緊張感の中、暁の可憐な声が響く。誰かが息を呑む音が聞こえた。多分、加賀と長門だ。陽炎も固唾を飲んで、響の言葉を待っている。勿論、食堂に居る全員がそうだ。心は一つである。しかし、響はすぐには答えない。もったいぶるみたいに落ち着いた様子で朝のコーヒーをゆったりと啜っている。長い。早く。早く回答を。まるで。焦らされているかの様だ。緊張感が高まっていく。知りたい。他の艦娘が、どんな寵愛を受けているのか。知りたい。除け者にされたくない。私だってと声を上げたい。陽炎は膝の上で拳を握り固める。不知火や他の艦娘が、“提督”を慕っているのは当然知っている。“提督”とはつまり、私達“艦娘”をこの現世に召び入れ、身体と意思、能と優を与えてくれた人物なのだ。金属から肉体を。兵器としての存在意義から魂を。艦という枠からは誇りを。私は其々授かったのだ。もうその時点で、艦娘達にとっては在る意味で、父であり、上官であり、恩人でもある。

 

 それを笠にかけ、不埒な行為に及ぶ提督も少なくは無い。若い女性の見た目なのだから、無理からぬ事なのかもしれない。しかし、この鎮守府の提督は二人居るのだが、彼らに関してはそういう噂は殆ど聞かない。多分、今が初めてだ。だから、暁達の話が凄く気になる。いやもう、凄く気になる。見ればいい。大和も長門も金剛姉妹も、一航戦の二人だって、誰も喋って無い。陽炎だってそうだ。“提督”を慕っているのだ。別に何が何でもケッコンしたいとか。一番になりたいとか。独り占めしたいとか。そんな事は思っていない。一緒に居られるなら、それだけで十分だ。“彼”の下で、“彼”の為に戦えるのなら、もう何も要らない。そう思う。思っていた。でも。だって。何と言うか。羨ましいでは無いか。敬愛する人との繋がりが欲しいと思うのは、誰だってそうだ。それに何だ。“提督のミルク”とは。もう。直球ではないのか。何故こんな早朝から下腹部を熱くせねばならないのだ。切なさとやる瀬無さが募り、響の沈黙が重みを増していく。もう、早く。早く答えを。教えて下さい。何でもしますから。

 

 叫び出しそうだ。陽炎が顔を上げてちらりと横を見ると、下唇をぎゅぎゅぎゅーと噛んだ長門が、俯いたままモジモジとしているではないか。しかも、さっきまでは無かった筈の艤装が現れていた。いや、ビッグ7よ。昂ぶり過ぎだろう。陽炎は心の中でツッコミを入れるに留まる。というか、その長門と一緒に居る大和の方も大概やばい。赤い顔で俯いたまま、頻りに瞬きをする大和の身体からは、モッファ~~と蒸気が立ち上っている。明らかに暖まり過ぎである。このままだと食堂がサウナになっちゃう。ヤバイヤバイ……。というか、もうちょっと熱い。ただ、そんなツッコミが出来る程、陽炎も冷静では無かった。そろそろ限界を迎えようとした時だ。「あるよ」と。響が短く答えた。

 

 

「ちょっと前にね。頂いた。美味しかった。お代わりもさせて貰ったよ」

 

 

 凍り付いていた食堂の空気が、粉々に砕け散った。戦場海域に突入したみたいな緊張感だ。というか、もう食事をするような空気じゃない。「じゃあ、飲んだ事無いの私だけじゃない!」暁が可愛らしい非難の声を上げるのを聞いて、私も無いわよ!、と絶叫しそうになったのを、陽炎は飲み込む。それから搾り出すようにして息を吐き出して、腕で額の汗を拭った。顔あっつ……。ちらりと大和と長門の様子を伺う。大和は、上品な仕種で鼻を押さえて、何故か天井を振り仰いでいた。何処かの神に祈りでも捧げているのかと思ったが、多分、鼻血でも出たんだろう。長門も、耳まで真っ赤にして両手で顔を抑え、艶っぽくも灼熱の溜息を漏らしていた。

 

「お代わりまで出来るのか……(混乱)」

 

ボソッと呟いたビッグ7の言葉に、胸が熱くなる。見れば、加賀も似た様な有様で、何を想像したのかは分からないが、右手で頭を抱えて悶絶している。それを見て苦笑している赤城の余裕を見習うべきなのだが、無理だ。出来ない。座敷席に居る金剛達は揃って牛乳をお代わりしようとしているし、天龍と摩耶に至っては無言で固まっていた。クールダウンが必要だ。深呼吸をして、少し落ち着こう。そう思った時だ。

 

 

「ぬわあああああああああああん、疲れたもおおおおおおおおおおん!」

 

ぴちぴちの黒ブーメランパンツ一丁の筋肉質の男が、食堂に現れた。それに続いて入って来たのは、眼鏡を掛けて提督の正装をした少年である。やたら眼力のある不知火が秘書艦として背後に控えているせいもあり、不思議な存在感の様なものが在る。二人共、この鎮守府に配属されている“元帥”の称号を持つ提督だ。

 

 少年の方は、他の鎮守府と同じく“提督”、“司令”と呼ばれ黒パンツ一丁の方は、皆から“野獣”、又は、“野獣司令”などと呼ばれている。ちなみに、先程まで暁達の話題に上がっていた“司令官”とは、少年提督の事だ。食堂に居た全員が起立し、敬礼をしようとした。だが、さっきまでの妄想炸裂状態のせいで皆タイミングが遅れていた。しかし、「いいよいいよ。そのまま喰ってて、どうぞ(適当)」と野獣に手で制される。何かムカついた。陽炎が眉間に皺が寄りそうになるのを堪えていると、提督の後ろに控える不知火と眼が合った。不知火は、ふっと優しげに目許を緩めてくれたのだが、さっきまでの自分の盛り上がりっぷりを思い出して恥ずかしくなった。

 

 天龍と摩耶も気恥ずかしさからか、挨拶もソコソコに、そそくさと提督達と擦れ違うように食堂を後にした。

 

「へぅ、へ、HEY、テイトクゥーー! セ……セッ、ク……、あの、えぇっと! 時間と場所を弁えなヨー!!(目的語喪失)」

 

 眼を合わせずに声を裏返しながら挨拶をしたのは、座敷席から身を乗り出し、眼をグルグル回している金剛だ。と言うか、何を弁えるんだろうか。いや、まぁ。ナニを弁えなよと言うことなのだろうか。ナニって何だよ(哲学)。比叡は手にした牛乳の入ったコップと提督を見比べながら、改めて「ひぇ~……(戦慄)」と呟いていた。金剛に続いて深々と礼をした榛名も、俯き加減のままぎゅっと裾の辺りを掴んでいる。霧島は提督を熱い視線で見詰めながら、コップの牛乳を喉を鳴らして飲み干した。金剛姉妹は流石というか、陽炎ではちょっと敵いそうにない。

 

 

 長門と大和は、先程最敬礼をしてから、自分の座っている場所から動かない。二人共、頬に朱を指したままで、チラチラと提督の方を伺っているだけだ。ただ、大和の方はそろそろ落ち着いてきたらしく、放散していた蒸気が止まっている。食堂が大和サウナになるのは未然に防がれた。長門の方は、まだ戦闘体勢が解けていない。仰々しい艤装が召還されたままだ。暴発しそうだが、大丈夫なんだろうか。逃げようかな。

 

 暁や響、雷、電達から元気良くも可愛らしい挨拶を受け、提督は優しげな微笑みを返している。野獣の方も受けた挨拶に対してちゃんと返している辺り、一応はまともなのだ。ただ、黒パン一丁なのはどうなのか。自身の肉体を見せびらかしたいのかどうかは知らないが、朝から見ていて気分の良いものじゃない。自重して欲しいところだ。そうこうしている内に、暁達や金剛達も、天龍達に続いて食堂をあとにした。彼女達の背中を見送った不知火と提督が、すぐ傍まで歩み寄って来る。陽炎は立ち上がり、居住まいを正す。そんな陽炎を見て、提督もすっと頭を下げてくれた。

 

「おはようございます。陽炎さん。お待たせしてしまいましたね。此方、宜しいですか?」

 

「は、はいっ! あの、どうぞ!」

 

 丁寧な挨拶と共に、提督が陽炎の正面の席に腰掛けて、不知火が陽炎の隣に座った。その不知火が、陽炎にだけ聞こえる声で耳打ちしてきた。

 

「……食堂で何か在ったのですか? どうも空気が不穏なのですが」

 

まぁ、気付くよね。だが、正直に言うのは気が引ける。どう言えと言うのか。

 

「いや、別に何も無かったよ?」とだけ言葉を返す。

 

鋭い不知火は怪訝そうに眉を顰めているが、気付かない振りをした。自分でもこれは苦しいと言うか、白々しいと思っていると、不知火の正面の椅子が引かれた。テーブルは四人掛けだから、一つ席が余っている。

 

「お、空いてんじゃーん!(強引)」

 

其処に野獣が腰掛けたのだ。不知火が舌打ちするのを、陽炎は聞き逃さなかった。多分、今は陽炎も露骨に嫌な顔をしているだろう。穏やかな表情なのは提督だけだ。

 

「他にも席はいくらでも空いていますが」

 

即座に不知火が噛み付くが、野獣は無視して、提督に向き直った。

 

「俺も仲間に入れてくれよな~、頼むよ~(ねっとり)」

 

 

 

 

 結局。優しい提督が言葉を拒むことなど無く、野獣、提督、陽炎、不知火の四人で朝食を摂る事になってしまった。普段は執務室で一人朝食を摂る提督と、せっかく食堂の空き時間に一緒に朝食を摂れると思ったのに。あ~、もうめちゃくちゃだよ(辟易)。さっきから喋っているのは野獣だけだし、嫌な貌一つせずに聞き役に徹しているのは提督である。苛立ちを通り越して、無表情なのに何処かしょんぼりしている不知火が可哀想になってきた。少しはこっちの事情も考えてよと、朝からラーメンを啜る野獣を少しだけ睨んだ。まぁでも、表立って噛み付いたって余計に空気が悪くなるだけだ。我慢しよう。陽炎はサンドイッチに齧りつく。

 

「あ、そうだ(唐突)。最近ボーキの減りがスッゲー早ぇんだよなぁ、お前のトコどう?」

 

「ボーキサイト、ですか? いえ……。僕達のところは、其処まで大きな動きは在りませんでした」

 

提督は不知火に視線を向ける。不知火は頷いて、テーブルの端に置いていたファイルを手に取る。中の書類をペラペラと捲りながら、頷きを返した。

 

「仰る通りです。資材量は十分な筈です」

 

陽炎は、不知火の持つファイルを横から覗き込んだ。其処には、提督が管理している鉄、油、弾、ボーキサイトの項目に、提督がその備蓄量が表示されている。不知火がペラリとファイルの書類を捲った。野獣管理の資材の項目が目に入り、陽炎は食べていたサンドイッチを噴き出した。汚いですよ、陽炎。そう不知火に注意されたが、私は悪くない。誰だって噴き出すよ。こんなの。だって。

 

「あの、他の資材が各6桁ずつ在るのに、ボーキサイトだけ2桁なのは大丈夫なんですかね……(恐怖)」

 

陽炎は口許を拭いながら野獣に聞いた。

 

「大丈夫な訳無いんだよなぁ……。まぁ、犯人の目星はついてるから、まぁ、多少はね?(野獣の眼光) おいAKGィ! KGも見てないでこっち来て!」

 

 野獣は陽炎にウィンクしてから、食堂を後にしようとする赤城と加賀を呼び止めた。無表情な加賀がこっちを振り返り、面倒そうに何度か瞬きをしてから歩み寄って来る。「はい、何でしょう野獣提督」と、素直に返事をしたのは赤城だ。席に座る陽炎の隣に、一航戦の二人が並んだ。すぐ近くに感じるその存在感と威風に、おぉう…、とやはり陽炎は身を引いてしまう。その錬度の高さから、この鎮守府でも主力を担う彼女達は、その立ち姿も凛然としていて隙が無い。この二人とどういう関係が在るのか。野獣提督はラーメンを食べていた箸を置いた。それから、真面目くさった貌になって、一航戦の二人に向き直る。

 

「ボーキを喰い散らかしたのは、君達だね?(言い掛かり)」 ど直球だった。

 

「えっ(困惑)」赤城は、野獣の言葉をイマイチ理解出来ていない様子だ。

 

「は?(威圧)」加賀の方は低い声で言いながら、不機嫌オーラを放ち始める。

 

 提督と不知火は、黙したまま野獣と一航戦の三人を見守っている。正直、加賀の不機嫌オーラをすぐ近くで浴びている陽炎にとっては、この展開は災難以外の何物でも無い。

 

「とぼけちゃってぇ……。ボーキがガバガバになるって言ったら、君達ボーキサイターの仕業だって、それ一番言われてるから(したり顔先輩)」

 

 よくそんな理由で一航戦の二人を呼び止めたなと、陽炎は呆れるよりも先に感心した。ひょっとしたら、本当にこの野獣という提督は、途轍もない大物なのかもしれない。そんな風に思い掛けた時だ。「憶えていませんか?」と。ドスの効いた声で言いながら、加賀が懐から何かの書類を取り出した。加賀の言葉を引き継いだのは、隣で所在無さげに立っていた赤城である。

 

「一週間程前になりますね。ビールを浴びる程飲んでガンギマリ状態になった野獣提督が、私達だけでなく、保持している空母全員にボーキサイトを振舞ってやろうと仰ってくれたのですが……」

 

「資材の浪費なので私たちは断ったんですが、艦載機の開発に“突っ込め”と……。野獣提督に喚かれましてね。資材使用の許可については、サインも頂いていますよ」

 

 加賀が野獣に広げて見せた書類には、確かにボーキサイトの使用許可と、野獣のサインが在る。

 

「あっ、ふ~ん。そうなんだ……(小声)」

 

 眼を逸らした野獣には反論材料が無い。自分でやらかした事である。白けたような空気が辺りを包んだ。気の毒そうな貌をしている提督だけで、不知火は半目の下目遣だ。陽炎も、もう何も言えなかった。ちょっと野獣を見直しかけた自分にムカついたが。

 

「まぁ、大胆な資材浪費は提督の特権だからね。しょうがないね(開き直り)」

 

 赤城が愛想笑いに失敗したみたいな苦笑を浮かべ、加賀は無言のまま書類を懐にしまった。そういえば、野獣の秘書艦は、加賀か長門であることが多い。二人の手が空いていない時は、陸奥をはじめ、他の艦娘が秘書艦をしたりしていた筈だ。赤城、加賀の二人を召んだのは野獣である。この場に居る者で言えば、長門、比叡、榛名もそうだ。其処まで考えて、改めて実感する。この野獣も、名だたる戦艦である彼女達に人格と肉体を与え、この世界に招き入れた、非常に高い力を持った提督なのだ。また本営に“課金”する派目になるのか壊れるなぁ……。そう呟いた野獣は、ゆっくりと息を吐き出した。

 

「じゃあ、資金どうっすかなー。俺もなー。それじゃ此処は一つ、一航戦の二人に一肌脱いで貰ってさ、レズビに出て貰って終わりで良いんじゃない? おっ、そうだな(自問自答)」

 

野獣の発言に、赤城の頭の上には?マークが浮かんでいる。ただ、陽炎と加賀は同時に吹き出した。勿論、即座に噛み付いたのは加賀だ。

 

「じょ……、冗談では無いですね。いくら相手が赤城さんとは言え、お断りします」

 

「目線も入れるし大丈夫、大丈夫だって(無責任)。 ヘーキヘーキ、安心しろよ~(モザイクを入れるとは言っていない)」

 

 これは、何だか凄いことになりそうだ。赤城さんも加賀さんも、モデルが裸足で逃げ出す様な飛び切りの美人である。艦娘達の写真なんて、割りと出回っているし、特に美人だったりグラマラスな艦娘にはファンだって存在する。ビデオを見た視聴者だって、例え目線が入っていたとしても(あれ、これ一航戦の人じゃねぇ)、ぐらいは思う人も居るだろう。そんな噂が広まり、コレクター的なプレミアがついたりしたら、どんな値段になるのだろうか。妙なことを考えていると、隣に座る不知火の真剣な眼差しに気付いた。

 

「どうしたの、不知火」

 

「陽炎。レズビとは何ですか?」

 

「えっ」 

 

そう来たか。

 

「えぇっと……」 

 

 顔を強張らせながら、陽炎が不知火から視線をずらすと、提督と眼が合った。少年らしくない、菩薩の様なひっそりとした微笑を浮かべている。ヤバイと思った。

 

「“れずび”とは何なのか、僕にも教えてくれませんか?」 

 

その通りになった。不意に視線を感じて、不知火と反対隣を見上げる。なー頼むよー。絶対嫌です。などと遣り取りしている加賀と野獣の隣に居た、赤城と眼が合う。「私にも教えて頂けませんか?」と、赤城も微笑んで来た。

 

 え、何この状況? 説明するの? 私、火傷確定じゃない? アー泣キソ。

 

「その、レズビっていうのは……女性同士で、その、女性の魅力を訴える、えっ、……ち、じゃなくて、え、映像作品って言えば良いのかナ(しどろもどろ)」

 

 輪郭を暈しすぎて全く何も伝わらない説明に、不知火は二回程まばたきをした。

 

 察してくれと祈るしかない陽炎は、不知火に眼を合わせず、すっとぼけた答えを返して、誤魔化そうとした。だが、それが不味かった。「立派な活動なのですね」と提督が頷いた。不知火も頷く。「魅力を伝えるという事ならば、陽炎も出てみてはどうですか」と言われて流石に耳を疑った。陽炎は、不知火の事を無二の親友であり、最高の相棒だと思っている。不知火が困っていたら、何としてでも助けたいと思う。

 

 そんな不知火から、レズビに出たらなんて言われる日が来るなんて誰が思うだろう。心に罅が入る音が聞こえた気がした。何処にも逃がせない悲しみの様なものが水位となって上がってくる。あ。やばい。鼻の奥がツーンとしてきた。泣きそう、いや泣く(確信) いや、泣くな。そうだ。不知火は、レズビが何なのか知らないのだ。悪意なんて無いのだ。自分に言い聞かせる。きっと、陽炎は魅力的だよ、という事を不知火は言いたかったのだ。そうに決まっている。

 

「どうしたのですか、陽炎。私は何か、酷いことを言ってしまいましたか?」

 

 悲しみに歪みそうになった私の貌を見て、不知火まで悲しそうな貌になっていた。ううん、別に何でも無いよと答えて、微笑みを返した。洟をすする。そうだ。悪いのはこんな訳の分からない話題を出した野獣だ。おかげで心に傷を負ったじゃないか。非難めいた視線で野獣を睨んでいると、向こうも気付いた。

 

「お、KGRUも出るか(半笑い)」

 

「絶対出ません!!(蒼き鋼の意思)」

 

「話は聞かせて貰ったぞ。野獣」

 

 突然だった。不知火と陽炎の背後に、巨大というか強大な雰囲気を感じた。長門と大和だった。腕を組み野獣を見下ろす長門は、呆れている様な貌だった。

 

「また資源を無駄遣いしたようだな。加賀や赤城には、後輩達の訓練や演習の任務もあるんだ。余計な手間を掛けさせるものでは無いぞ」

 

 野獣を諫める長門の視線は鋭く、有無を言わさない迫力が在った。しかし、やはり自分が召んだ艦娘に対しては、かなり強気に出れるのか。「ん、おかのした(適当)」と、野獣は上の空な返事を返す。「貴様……」と、長門の眉が釣りあがる。大和が、まぁまぁと野獣と長門の間に入る。加賀と赤城は何も言わなかったが、目礼をして見せる辺り、長門の気遣いに感謝している様だった。

 

「あ、そうだ(唐突)。これ渡すの忘れてたゾ」

 

 野獣はゴソゴソと黒海パンの尻部分から、何かを取り出した。陽炎はぎょっとした。流石の不知火も驚いた貌をしている。うっ……! と後ずさったのは、加賀だ。赤城も身を引いていた。提督と大和は、怪訝な貌でそれを見詰めている。野獣が長門に差し出したソレは。

 

「御札……ですか?」

 

「そうだよ(肯定)」

 

 そうだよ、って……。陽炎は、困惑しながらも野獣が手に持った御札の束を凝視してしまう。複雑な紋様と、墨でびっしりと書き込まれた文言はえらく本格的で、直感的に何だかヤバイものだという事が分かる。その御札を差し出された長門は、余裕の無い真顔になっていた。

 

「……何だこれは」

 

「御札でしょ」

 

「そうじゃない。何故私に渡すのかを聞いているんだ。悪ふざけならば、やめろ。そういうのは」

 

 長門は腕を組みながら、差し出された御札から逃げるみたいに半歩だけ後ずさった。

 

「悪ふざけとかじゃ無いんだよなぁ…。長門が自室に使ってる部屋にぃ、何か色々、出るっらしいっすよ。じゃけん、御札張っときましょうね(他人事)」

 

「な……ッ! 初耳だ!!」

 

「ビッグ7の部屋怖いな~。とずまりすとこ(棒)」

 

「貴様が部屋を割り振ったんだろうが! そんな曰くつきの部屋を私に押し付けるなど、もう許せるぞオイ!!」

 

 長門が怒鳴った瞬間だった。ガタっと音がした。陽炎は、思わず椅子ごと身を引いて立ち上がった。全員が長門の後ろを凝視する。鳥肌が立った。誰も居ない筈のテーブル席の椅子が、全部引かれた状態になっていた。断言出来る。さっきまでは絶対に、椅子は引かれて居なかった。寒気がした。ポルターガイストという言葉が脳裏を過ぎる。正直、ちょっとおしっこが漏れそうだった。自分の背後を振り返った長門は、今まで見たことの無いくらい蒼褪めた貌で、陽炎達を順番に見た。

 

「こ、こういうな。あく、悪質な悪戯は、やめにょ、おいやめろ」

 

 誰に言っているのか分からないが、こんな追い詰められた長門を初めて見た。表情がガチガチで、泣きそうになっている様に見える。もう何と言うか、一杯一杯である。だが、それは陽炎も同じだ。不知火も立ち上がり、陽炎の隣に並ぶ。ヒヒヒヒヒ。何処からか声がした。此処に居る誰のものでも無い声だった。陽炎は血の気が引いた。ちょっと漏れたかもしれない。

 

「おや、声がしましたね」平気な顔をしているのは提督だけだ。

 

「な、長門はさ、もうちょっと此処でゆっくりしてて良いから(良心)」

 

流石に、野獣の貌も蒼褪めている。

 

「あ、そうだ(天才のひらめき)」

 

野獣は何を思ったか、手にした札の束を自分の体にペタペタと張り出した。なる程、御札を使用することで、自身の身だけは守れるという事か。提督の屑がこの野郎……(憤怒)。陽炎がそう思うのと同時か、それより早かったか。

 

「ぬあぁぁあん! 怖いもおおおぉぉおおん!」

 

 野獣が陽炎達を置き去りにして、一人だけ走って出口に向って走り出す。またガタガタっと音がした。「私達も…!」「あっ」大和が提督を抱えて駆ける。それに続き、陽炎、不知火も駆け出す。赤城、加賀も。

出遅れた長門も半泣きでそれを追う。皆で一斉に食堂から逃げ出した。本当に、散々な一日のスタートになった。ちなみに、あとで分かった事だが、暁達の言う“司令官のミルク”の正体とは、提督宛に時折送られてくる、新鮮な牛乳の事であった。何でも、牛乳が好きな提督が、定期的に注文をしている品だという。“司令官のミルク”という言葉に対し、自分が何を想像したのかを思い出して、陽炎はその夜悶えに悶えて眠ることが出来なった。



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第2章

 空調の効いた執務室には、万年筆を走らせる音と、紙の擦れる音が響いている。現在、ビスマルクは秘書艦用の執務机に座り、一人黙々とデスクワークをこなしていた。詰まれた書類は山を成しているが、その殆どは既に提督が処理済みである。手を付けねばならないものは、そんなに多く無い。知れている量だ。ミスもしない。さっさと終わらせてしまおう。この束で終わりだ。ビスマルクは軽く息を吐き出す。出撃、演習以外でも、こうして提督の役に立てる事は嬉しいものだ。

 

 秘書艦にも負担を掛けまいとする我らが提督は、割りと一人で何でもこなそうとする。指揮や作戦において、一人で苦心する姿を見た事は一度や二度では無い。何と言うか、彼は極端なのだ。勝利の喜びは皆で分かち合うのに、死ぬ時は一人で去ってしまう様な、度を越えたストイックさを伺わせる。そんな彼は、身分や健康などは二の次に置いて、艦娘全員が生き残る術を模索し続けてくれている。深海棲艦との戦いが終わった後、艦娘達の処分がどうなるのかなど、ビスマルクには全く分からない。本営の思惑など窺い知る余地も無いし、何か口を出すような権利も無ければ、立場でも無い。

 

 “艦”としての記憶と共に、肉体と精神を与えられた艦娘達は、自らを召んだ提督には、基本的には逆らえない。倫理的な見地から推奨こそされていないが、その気になれば、“提督”は保持する艦娘達から思考を奪うことも可能だ。徹底した効率重視と玉砕主義の下、“捨て艦法”などと呼ばれる作戦が確立しているのも、それが理由である。例外無く、全ての艦娘達の意思と精神には、各々の提督の手綱が掛けられている。抵抗は出来ても、反逆は不可能だ。

 

 無論ではあるが、この事実は一般には公表されていない。捨て艦として散って行った艦娘達については、誇り高い艦娘の“報国”として世間に伝えられている。戦況が人類優位に固まった今。その安堵感も手伝って、こうした戦史の裏側を知ろうとする者は少ない。ただ、薄情とも思わない。兵器とは本来、そういうものなのだろう。例え肉の身体を持ち、感情を宿していても、艦娘は兵器の枠を出ない。それが、人類の持つ艦娘に対する認識である。ただ、それだけの事だ。ビスマルクは走らせていたペンを置いて、軽く息を吐き出しながら瞑目する。果たして、一体どれほどの数の“ビスマルク”が、かつての激戦で海に沈んだのだろうか。正確な数を知る術は無い。艦娘と深海棲艦は縺れ合うようにして、成りては沈み、沈んでは生るを繰り返している。まるで繰言の様だ。

 

 人類同士が争った大戦の後。人類はその悲劇を繰り返さぬ様に手を結び合い、平和と繁栄を願った。しかし、物言わぬ海との共存を願い損ねた。数多の屍と骸と艦を飲み込んだ海は、深海棲艦という形で、人類に敵意を向けている。人類が優位に立ってはいるが、この争いに、まだ終わりは見えていない。是非も正義も問うつもりは無い。ただ、水底で海霧に抱かれ、潮に包まれた本当の“私”は、誇りと共に何を望んでいたのだろう。

 

 

 

いや。“今の私”には関係の無い事か。力無く鼻を鳴らしてから、顔を上げて時計を確認する。軽く伸びをして、いくつか書類をファイルに丁寧に綴じ込んだ。書類を捌いていく中で、野獣宛の書類が混ざっているのを見つけて、脇に退けていたものだ。提督に声を掛け、忘れない内に届けておく必要が在るが、……もう少し後でも良いだろう。

 

 時刻は、12時半過ぎ。軽く昼食を済ませた提督は現在、ソファで仮眠中である。昨日も夜遅くまで起きて仕事をしていたと聞いていたので、ビスマルクが強く勧めたのだ。仕事熱心な彼の御蔭で、彼の秘書艦は手持ち無沙汰になることも珍しい事でも無い。それを利用して、提督に休息の時間を作ろうと考えた。別に、やましい気持ちは無かった。実際に、提督が休息を取っている間に、残りの執務は片付ける事が出来たのだ。何も後ろめたいことは無い。断じて無い。「では、御言葉に甘えて。……少し休ませて頂きますね」そう言った提督は、自身の多機能腕時計にアラームを設定していた筈だ。ビスマルクも、目覚ましのアラームが鳴らなければ、どれだけ周りが騒いでも眼を覚まさないという彼の体質を知っている。

 

 提督が寝息を立て始めて、そろそろ15分程経っただろうか。穏やかで静かな寝息を立てる彼の姿をチラリと見て、胸に何か熱いものが満ちてくるのを感じた。“元帥”クラスの提督に送られたソファはブラウンの本革であり、それに合わせた鋲飾りも重厚感に溢れている。彼は、そのソファに横になっている訳では無い。深く腰掛け、背中と首筋をゆったりと背凭れに預けている。眼を閉じた彼の貌は、まるで人形の様だ。長い睫と、通った鼻筋に、形の良い薄桃色の唇。サラサラとした黒髪と、柔らかそうな白い頬。微かに聞こえる、吐息。純真無垢な、安らかな寝顔。ビスマルクに対する信頼の証でもある、その余りに無防備な彼の姿は、理性を動揺させる。やましい気持ちは無かった筈だ。その筈だ。誓っても良い。私は清廉潔白だ。言い聞かせる。必死に言い聞かせるが、駄目だ。さっきまでは人類や艦娘、果ては深海棲艦の未来について憂いていた真面目なビスマルクは、もう何処かに行ってしまった。

 

 あぁ…。ソファになりたい。彼の身体を優しく、柔らかく、しっかりと抱きとめているソファになりたい。

いつも頑張っている彼を、私が抱きしめて上げたい。あぁ、ソファ。……この、ソファめ。ずるいぞ。そんな訳の分からない事を考えている自分を、冷静な自分が止めようとする。しかし、やはり駄目だ。

 

 何時からだろう。こんな風になったのは。提督の表情や、その心遣い、向けてくれる信頼、仕種の一つ一つが心に響いてやまないのは。というか、寝顔を見せてくれる程までに心を許してくれていると思うと、もう何とも言えない気持ちなる。一歩。吸い寄せられる様に、寝ている彼に近付く。自分が何をしようとしているのか。良く分からない。“お、待てぃ(江戸っ子)”そんなビスマルクの脳裏に、“鍵閉めて鍵閉めてホラ(アドバイス)”という、悪魔の囁き声が響いた。抗い難い、強烈な魔力の様なものを確かに感じた。“もっと自分に正直になるべきなんだよなぁ?”。悪魔は優しい声でビスマルクを翻弄する。それに抗うよりも先に、ビスマルクの身体は動いていた。

 

 足音を立てぬように執務室の扉まで歩く。それから、そっと扉を開けて、廊下に誰も居ない事を確認した。扉を閉めて鍵を掛ける。心臓の音が聞こえる。鼓動が。頭の中で響くほどに暴れている。息が荒くなる。身体が火照る。熱い。喉が渇く。深呼吸する。彼に近付く。彼が身を預けているソファに、ビスマルクはゆっくりとのし掛かる。彼との距離が一気に近くなる。彼に覆いかぶさるような体勢だが、彼が起きる気配は無い。穏やかな寝息を立てている。胸がザワザワとする。抱きすくめられる距離に、彼が居る。唾を飲み込んでから、ビスマルクは唇を小さく舐めて湿らせた。

 

「て、提督……。お休みのところ失礼するわね。相談、し、したい事があ、あるのだけれど……」

 

 触れる。彼の左肩に。起きないと知っていながら、軽く揺すってみる。ワザとらしく声を掛けてみる。彼は眼を覚まさない。ビスマルクは更に身体を寄せる。今度は彼の手に触れてみる。小さな手だった。私を召んだ、手だ。頬ずりしたい。いや、もう食べてしまいたい。彼は手袋をしている。ビスマルクは慎重な手付きで、その左手袋をゆっくり、ゆっくりと脱がしていく。“foooo~↑”。“良いゾ~コレ”。悪魔の声を頭の隅で聞きながら、手袋を完全に脱がした。ビスマルクはその手袋を、自身の軍服のポケットに仕舞い込む。“やりますねぇ!” 悪魔の称賛の声が聞こえた。次の瞬間だった。ピピピピピ、と。電子音が鳴り響いた。彼の腕時計からだ。心臓が口から飛び出るかと思った。ビスマルクは慌てて飛び下がったが、自分の脚に蹴躓いて臀部を床で強打した。

 

「~~~~~~ッッッ!!?」 

 

悶絶する。超痛い。いや、でも立たないと。座り込んでいる訳にもいかない。お尻を擦りながら、ビスマルクは慌てて立ち上がって居住まいを正す。頭から一気に熱が引いていく。今になって恥ずかしくなってきた。

 

 電子音のリピートは無い。アラームは一周のみだ。それでも、提督は絶対に眼を覚ます。寝息が止まり、一際大きく息を吸い込んで、彼はゆっくりと瞼を持ち上げて、軽く伸びをした。それから、宝石の様な黒瞳でビスマルクを見上げた。「すみません。お時間を頂きました」と言う、彼の微笑みを真っ直ぐ見る事が出来ず、俯いてしまう。咳払いをして、貌の赤さを誤魔化そうとした。何事も無かったかのように振舞おうとするのだが、喉がカラカラで上手く舌が回らない。

 

「いえ、問題無いわ。……残っていた書類も片付けて置いたから。後はこれを確認しておいて。野獣宛の書類も混じっていたから、届けに行ってくるわ」

 

ビスマルクは早口で言いながら、手の甲で顎を伝う汗を拭った。

 

「え、先輩宛の、ですか?」

 

 提督は胸ポケットから眼鏡を取り出しながら、ソファから立ち上がる。

 

「えぇ。これよ」

 

 ビスマルクは、執務机に置かれたファイルを手に取り、提督に手渡す。先程、書類を綴じたものだ。提督はその書類に眼を通しながら、あぁ、と得心が行った様に頷いた。

 

「僕宛にも来ていましたね。午前中に眼を通した書類の中に、同じものが在りました。ビスマルクさんの御蔭で執務も一段落着きましたし、……あれ?」

 

 提督は、ファイルを持った左手と、何も持っていない右手を見比べた。どうやら、手袋が無くなっている事に気付いたらしい。ソファや床にも視線を向けている。ビスマルクは無意識のうちに、自分のポケットを片手で押さえていた。「……どうしたの?」と。すっとぼけるように聞いたその声は、僅かに震えていたと思うが、提督は気付いていない。

 

「いえ、手袋を失くしてしまったみたいで」

 

 提督は、ちょっと気恥ずかしそうに微笑んで見せた。胸に痛みが走った。さっき拾ったけど、これかしら。そう言って、ポケットから手袋を渡すべきだ。しかし、ビスマルクが何かを言う前に、提督は右の手袋を外して、執務机の上に置いた。それから、ファイルを左手で開いたまま、右手で眼鏡のブリッジを押し上げる。

 

「手袋は、また後で探しておきます。取り敢えずは、先にファイルを先輩に届けに行きましょうか」

 

「え、えぇ…、そうね」と、ぎこちなく頷いて、ビスマルクは提督の後に続く。

 

 扉を開けようとした提督は、鍵が掛かっている事に気付いた。何故内側から鍵が掛かっているのかと、提督が不思議そうに首を傾げていたが、気付かない振りをした。

 

 

 

 廊下に出ると、熱気が押し寄せて来た。空調の効いた執務室に居たせいもあり、照り付ける日差しはもとより、湿気の高さも相まって余計に暑く感じる。日本の夏は暑い。汗ばんで仕方が無い。暑いし、熱い。鼓動が弾んで落ち着かない。提督の斜め後ろに控え、その後に付いて廊下を歩くビスマルクは汗が頬の端を伝うのを感じ、親指の腹でそっと拭う。

 

 自分を落ち着かせるみたいに緩く鼻から息を吐き出してから、斜め前を歩く小柄な背をチラリと見遣った。

白の提督服で正装している彼は、手に持ったファイルに眼を落としている。彼の表情は見えないが、きっと真剣な表情で綴じられた書類に目を通しているのだろう。今日も暑いわね、提督。そんな風に何か声を掛けてみたいとも思うが、それは憚られた。代わりに、提督の白いうなじに視線が吸い寄せられ、思わず見詰めてしまう。だが、すぐに首を振って視線を外す。いけない、いけない。いい加減にしないか。今日の私は秘書艦なのだ。彼の傍に在り、彼を支えねばならない。頭では理解している。

 

 その立場を良い事に、彼を厭らしい眼で見るなど言語道断だ。彼の信頼を裏切る訳にはいかない。いや、もう何と言うか。手遅れと言うか。先程の自分の行動を思い出すと、顔から火が出そうだ。今になって忸怩たる思いが込み上げてくる。彼の背を見詰めていると、不意に彼が肩越しに振り返った。心臓が跳ねるのを感じたビスマルクは一瞬で我に帰ったが、眼を逸らせなかった。ゆったりと歩きながら、彼が優しげに微笑んだからだ。此方に向けられたその儚げな面差しに、背徳感にも似た甘美な切なさが胸を締め付けた。

 

「今日も暑いですね」

 

 つい今しがた、ビスマルクが言おうとしていた言葉だ。彼はビスマルクの答えを待たず、前に向き直った。

ビスマルクは慌てて自分の顔に触れる。頬が緩んでいないかを確かめながら、「そ、そうね」と素っ気無い言葉を返した。心臓が早鐘を打っているのを隠しながら、上擦った声で平静を取り繕う。どっと汗が出て来た。

それに対して、提督服を着込んでいる提督の方はほとんど汗を掻いていない様に見える。

 

「何か、……気に病むことでもありましたか?」

 

 ほんの少しの沈黙の後。穏やかな声音で聞かれて、ギクっとした。噴出してくる汗は、暑さからじゃない。冷や汗だ。もしかしたらと思う。提督は、起きていたのでは無いか。気付いていたのでは無いか。知っているのでは無いか。思わず、提督の手袋を入れているポケットをまた押さえそうになったが、何とか堪える。

 

「別に何も無いわ。どうしてそんな事を聞くのかしら?」

 

「いえ。何処か、思い詰めた貌をされている様に見えたものですから」

 

 彼はまた、歩きながら肩越しにビスマルクに視線を寄越し、ふっと目許を緩めて見せる。ドキッとした。それから彼はすぐ前を向いて、安堵したように軽く息を吐き出した。

 

「何も無いのであれば、良かったです。

 すみません……。変な事を聞いてしまいましたね」

 

 何だか、何も言葉を返せなくなってしまった。他者のことを良く見ていると言うか、彼はその心の機微に敏感なのだろう。艦娘達一人一人の苦悩、寂寥、悲哀と言ったものを感じ取り、その想いを汲んでくれる。他の鎮守府では彼の事を偽善者だ、甘い奴だ、間抜けだと、悪罵する者は少なくない。だが、そういった誹謗の声が完全な的外れである事を、ビスマルクは知っている。その小さな背で、何でもかんでも背負い込んでしまおうとする彼を、支えたい。これからも傍に居て、彼の力になりたい。正直にそう想った時だった。

 

 

 

 

「ハッ……ハッ……アッーー! アーツィ! アーツ! アーツェ! アツゥイ!

 ヒュゥーー、アッツ! アツウィー! アツーウィ! アツー! アツーェ!!

 すいませへぇぇ~~ん! アッアッアッ、アツェ!! アツェ!!

 アッーーー! 暑いっす! 暑いっす! ゥアッーー!! 暑いっす! 暑いっす!

 アツェ! アツイ! アツイ! アツイ! アツイ! アツイ! アツイ!

 アーーーー……アツイ!!!!!」

 

「五月蝿いですね……。デスクワークくらい黙って出来ないんですか(半ギレ)」

 

 廊下の先。野獣の執務室から、叫び声と滅茶苦茶に不機嫌そうな女性の声が聞こえて来た。野獣の叫び声でSMプレイかな? とも思ったが、まぁ違うだろう。女性の声は加賀のものだった筈だ。冷静沈着でクールな彼女が、あそこまで苛立った声を出すのを、ビスマルクは初めて聞いた。女性のものとは思えない程ドスが効いていて、正直ちょっと怖い。執務室に入るのは足踏みしてしまいそうだ。また中から怒号が響いた。

 

 

 

おいKGァ!! 見ろよコレぇ! この無残な開発状況をよぉなぁ! お前がさぁ、資材こねこねしたらペンギンしか出来ないっておかしいだルルォ!! もしかしてワザとかぁ! オォン!? お陰でペンギンまみれじゃねぇか俺の工廠ィ! えぇ! どうすんだよコレェ!?

 

 ……… I did it .

 

 ファッ!? 『やったぜ。』じゃねぇだろオラァァァァン!? もう艦載機の代わりに、失敗ペンギンにプロペラ付けて飛ばす位の勢いでIKEA!! 1145141919810機積み込んで出撃、しよう!(ヤケクソ)

 

 宇宙コロニーか何かですか?。……一応、これが資材の現在状況です。

 

 各種資材が………36! 普通だな(白目)!!? 

 

 やらかしました。

 

 減り過ぎィ!? ウッソだろお前、笑っちゃうぜ!(虫の息)。(何が起きたのか)これもう分かんねぇなぁ……お前どう?

 

暑さにやられた妖精さん達が、大型建造指示書の数値を、桁一つ読み間違えたみたいね。あと回数も。妖精さん達の不調も在り、建造された“艦”は形を成さないまま、艦娘を宿すに至らず解体破棄との報告が来ているわ。

 

はぁ~~~~~……(クソデカ溜息) アー死ニソ……。

 

 

 

 中から聞こえてくる遣り取りからするに、結構な修羅場なんじゃないだろうか。扉の前に立ち、ビスマルクはチラリと隣の提督の方を見た。後で来ましょうと言おうと思ったからだ。だが提督の方は、まったく少年らしく無い、微笑ましいものを見るような、慈しみに満ちた表情でビスマルクに頷いて見せた。

 

「先輩と加賀さんは、いつも仲が良いですね」

 

 多分、あんまり良くないと思うんですけど……(名推理)。ビスマルクがそう言うよりも先に、提督は扉を軽くノックした。「入って、どうぞ!(不機嫌声)」と、何だかヤケクソみたいな声が中から聞こえて来た。

本当に後から来たほうが良いんじゃないかとも思ったが、提督は全く臆さない。提督が扉を開けて、それに続いてビスマルクは入室して少し驚いた。

 

 野獣の執務室には空調が全く効いていない。そりゃあ暑いだろう。今まで歩いていた廊下に満ちた熱気にも負けないくらいの暑さと湿度だった。この中で執務をしろと言われても、中々ツライものがある。そんな中でも、加賀は一度起立して提督に敬礼をし、ビスマルクに向けても丁重な礼で迎えてくれた。一方で、野獣は何時もの黒のブーメラン海パンと、白地に黒のロゴの入ったTシャツを着用している。普段は必要以上に身体を黒光りさせている野獣だが、今は何だかちょっと覇気が無い。外から聞いていただけだが、どうやら備蓄資材がのっぴきならない状況らしいし、無理も無いだろう。提督は手にしたファイルを、項垂れ気味の野獣に手渡した。

 

「僕宛の書類の中に、幾つか先輩宛のものが混ざっていました」

 

「ん、ありがと茄子」 

 

 野獣は意気消沈しているなりに、書類を届けてくれた提督に軽い笑顔を見せる。それから、渡された書類に眼を通しながら、執務机から椅子を引いて、ドカッと腰掛けた。

 

「ふーん……、艦娘だけが罹患する病とか怖いな~……。とずまりスト4(思案顔先輩)」

 

「病魔については、僕達では予防に徹する程度しか対抗策がありませんからね」

 

「お、このHAYARASE-KORAって、特に怖いゾ。艦娘が……艦息子になっちゃう!」

 

「生殖器に変質を齎す病気みたいですね。治療法は比較的簡単みたいですけど…」

 

「SGRとYUDTでユニット組んで、こくまろ☆ゲリラ豪雨をやらかした鎮守府がありますね…、間違いない(狂気)」

 

 

 どうも、結構重要な書類だったらしい。野獣と提督が話を始めたのを尻目に、ビスマルクは加賀の傍に歩み寄った。

 

「空調、全然効いて無いみたいだけど…壊れてるの?」

 

「えぇ。どうも調子が悪いみたい」

 

「暑い中で野獣と一緒だと、余計に大変ね」 

 

 別に嫌味では無い。少しだけ冗談めかして、労うように声を掛けた。加賀の方も、そっと眼を閉じて息を吐き出してから、唇の端を少しだけ持ち上げる。「もう慣れたわ」と、短く言葉を返してくれた。疲れた様なその声音に、ビスマルクも少し笑う。

 

「廊下まで聞こえてたけれど……うわっ。ホントに資材が枯渇寸前なのね」

 

 加賀のデスクの上に置かれた書類を覗き込み、ビスマルクは笑顔が引き攣るのを感じた。対して、加賀の方は何とも無い様な無表情で、鼻を鳴らしながら肩を竦めて見せる。

 

「焦る必要は無いわ。どの道、数日中に本営からの補給が在るもの。遠征に出てくれている子達も居るし、次回、次々回の出撃分くらいなら十分確保出来る筈」

 

「あぁ、そうだったのね。野獣は随分と慌てていたみたいだけど……」

 

 其処でビスマルクは言葉を切って、なにやら話し込んでいる提督と野獣を見比べた。加賀もその視線を倣ってから、「えぇ。補給がある事も伝えていないもの」と、小声で教えてくれた。どっしりと構えているというか、何事にも動じないというか。本当に肝が据わっている。

 

「ふふ。ひどい秘書艦ね。私には真似出来ないわ」ビスマルクも小声で言いながら、笑うのを堪える。

 

「浪費癖を直す良い薬になるわ。まぁ、貴女の提督には、そんな必要も無いでしょうけれど。羨ましいものね」

 

「そう言われると、確かに誇らしいわね」

 

「でも、彼は危ういわ」

 

 不意に、真面目になった加賀の声に、ビスマルクは押し黙った。

 

「艦娘を大事にし過ぎるひとは往々にして、私達の轟沈という事実を消化するのに、とても時間が掛かってしまうものだから。何かあった時、潰れてしまわないよう……支えてあげて」

 

 その声音からは、加賀が提督の身心を案じている事を、確かに感じた。戦場に関わり、前線をうろつく事になる部下を持つ以上、死別の経験は付いて回るものだ。避けて通れない経験であろうことは、ビスマルクも薄々感じている。

 

「優しいのね、加賀は。でも……」

 

 ビスマルクは加賀と眼を合わせてから、野獣との話に花を咲かせる提督へと視線を向けた。

 

「彼はきっと、誰が沈んでも微塵も動揺したりしないわ」

 

 提督と野獣には聞こえないように、声を潜める様に呟かれたその言葉に、何を感じたのか。加賀に驚いたような貌で凝視されて、ビスマルクは慌てて手を振ってみせた。

 

「あっ、ご、誤解しないで! 勿論、提督が冷血人間だなんて言うつもりは全然無いわよ。ただ提督だって、今までに葛藤や苦悩も経験してこそ、今の“元帥”の称号が在る訳だし……」

 

 戦いが激しかった頃の事は、ビスマルクも不知火から聞かせて貰っている。今でこそ人類は優勢を保ち、海上での脅威を抑えて、平穏とすら呼べる日常を取り戻しつつある。だが、現在に至るまでの激戦期には、それこそ数えるのも馬鹿馬鹿しい程の艦娘達が轟沈していった。将棋倒しのように、次から次へと沈んでは建設され、召還され、戦場に送り出され、海の底へ消えて行った。建造された艦から、其処に宿る艦娘を召還出来る、“提督”としての適正を見出された幼い彼も、その光景を知っている筈だ。人類の希望である“提督”となる為の訓練を積んでいる以上、戦況の実情を知らされない筈が無い。

 

 凄惨を極めた当時の各鎮守府や基地、泊地の状況は、幼い彼の精神に多大な影響を与えた事だろう。戦争は、彼が持って生まれた筈の価値観、死生観、善悪、倫理道徳、それら全てを破壊した。死というものが、本当にすぐ身近にあった。提督は、自分の召んだ艦娘から死を遠ざけようとした。結果として。彼は、誰も沈ませない事に重きを置いた。無理な進軍は絶対しない。中破、小破での海域撤退は当たり前。もう慎重を通り越して、臆病としか言いようの無い、当時はどうしようも無い提督だったと、不知火は語っていた。恐らく、本営を含め、他の鎮守府、諸提督の全員がそう思っていた筈だと。まぁ、鎮守府での居心地も最悪だったろう。一時は、彼が召還した艦娘全てを剥奪されそうになった事もある程だったそうだ。

 

それくらい、当時の幼い彼は毛嫌いされ、疎まれ、侮蔑され、攻撃された。他の提督との擦れ違い様、腹を蹴られたり殴られたりも茶飯事だったらしい。それでも尚。艦娘達が当たり前の様に沈んでいく中で、彼は自身の召還した艦娘達を守ろうとした。其処に矛盾は無かった。建造された“艦”に“艦娘”が宿っている以上、彼が召還しなければ、他の提督が召還していたからだ。尊厳も何もかも踏み躙られても、彼は誰かを危険に曝すような作戦を通さなかった。彼は侮辱と暴力と、其処彼処からの白眼視に曝され続けた。しかし。それからすぐに、彼を取り巻く環境は一変する事になる。

 

 建造されて以来、その魂の造形を、誰も招き入れる事が出来なかった艦娘。

 長門と陸奥、そして大和と武蔵の顕現である。

 

 この時、長門と陸奥を召び込む事に成功したのが、野獣だった。

 そして、大和と武蔵を召び込んだのが、提督だった。

 

 人では無いとされる艦娘達の命を守りたいという、幼い彼の願いに、大和型の魂が応えたのだ。この二人を迎えた彼の艦隊は、感情や思考を取り払った木偶では絶対に不可能である、感情を力に変えるだけの“錬度”の高さを実現させた。長門と陸奥、大和と武蔵を旗艦に据えた彼らの艦隊の快進撃は、一部では人類の反撃とまで称されている。もともと評価の高かった野獣はとにかく、周囲を驚かせたのは、やはり“彼”だった。

 

 貴重な戦力である“提督”であるにも関わらず、何の役にも立たなかった筈の子供とその艦隊が、恐ろしい程の戦果を挙げていく様は本営としても思わぬ誤算だった事だろう。誰よりも優しく、争いを好まず、自身が召んだ艦娘達が生き延びる事に全力を注いだ彼の下。どんな危険な海域にも勇猛果敢に突撃し、並み居る深海棲艦の群れを崩し、破壊し、叩き潰し、殺しまくる、強大な艦隊が出来あがっていた。それを機に、彼はもっとも多くの深海棲艦を沈めたとされる提督の一人に数えられるようになり、更に紆余曲折を得て今に至る。

 

 こうした彼の過去は、意外と知られていない。この鎮守府に居る艦娘達は、激戦期が去った後に建造され、召還された者も少なく無いからだ。ビスマルクもその内の一人である。口振りからすると、加賀だってそうだろう。不知火からこの話しを聞いて、提督と野獣の不思議な友情と言うか、その信頼関係にも妙に納得したのを憶えている。艦娘達を大切に想い、信頼する彼は、まだ自身が召還した艦娘が沈むという経験をしていない。有体に言えば、彼には免疫が無いと、加賀は言いたいのだろう。しかし、そんな事で彼がどうこうなるとは、ビスマルクには不思議と想像出来なかった。

 

 

「提督は、私達が思っているよりもずっと強いと、…そう言いたかったのよ」

 

 ビスマルクは、此方を見詰めて言葉を待つ加賀に、首に掛けた細いチェーンを揺らして見せた。提督の間で“ロック”と呼ばれている、薄朱のハート型の金属に、鍵穴を空けたネックレスである。その効果は、提督から艦娘に対する、強制的な思考排除へのプロテクトだ。このネックレスの御蔭で、他の提督からの精神的な干渉はブロック出来る。信頼や愛情の表現だなど、駆逐艦の子達は騒いだりしているが、強ち間違っていない様な気もする。自身が保持する艦娘の、精神へのプロテクトの構築とは即ち、艦娘の自我と意思の尊重に他ならない。捨て艦などには、君を使わないという提督側からの意思表示なのだ。加賀の首にだって、同じものがされている。

 

「もしも私が沈んでも、彼はきっと悲嘆に暮れることなんて無いでしょうけど……。代わりに、彼は“私”の事を決して忘れずに何時までも、覚えてくれていると思うわ」

 

 例え、“私”が沈んだ後で、“別のビスマルク”が、彼のもとに召ばれたとしてもね。加賀が提督の身を案じてくれていた事に感謝しつつ、そう言葉を紡ぐ。それから、肩の力が抜けたような自然な笑みを浮かべて、ビスマルクは肩を竦めて見せた。提督を一瞥してからビスマルクに視線を返した加賀も、ふっと目許を緩めた。

 

「彼の傍に居る貴女がそう言うのであれば、どうやら杞憂だった様ね。確かに、憶えてくれている人が居るというのは、私達にとっては幸せというべきかしら」

 

 こういう柔らかい表情をすると、加賀は本当に美人である。ビスマルクは、私の言いたい事が伝わって良かったわ、と。そう言おうとしたが、出来なかった。こうして話をしている内に、加賀とより強い信頼関係を結べた様に思い、二人で提督の方へと視線を戻した時である。

 

「女の子みてぇな腕してんな、お前なぁ。こんなんじゃ虫も殺せねぇぞ(イケボ)」

 

「んっ……、その、なかなか筋肉が付かない体質みたいで、んぅっ」

 

 何時の間にか野獣が、提督の腕や胸や腹や腰を、服の上から無遠慮に弄っていたからだ。その手付きがねっとりとしていて妙にいやらしく、もう愛撫に近い。少年らしからぬ、やたら艶かしい声を漏らす提督は、何かを堪えるような赤い貌をしている。余りに突然の展開に、ビスマルクと加賀は硬直してしまった。

 

 ゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえた。それが自分のものであると気付くのに少し時間が必要だった。喘ぐような提督の声は、聞いていたビスマルクの背筋にゾクゾクとしたものが走るほど可愛らしい。野獣は左手で提督の身体をまさぐりながら、右手で器用に提督服のボタンを外していく。提督の方も、身を捩ったりして逃れようとしているが、力強い野獣の手がそれを許さない。巧みにその抵抗を抑え込んで、思う様に提督の身体を弄ぶ。困惑したような貌の提督はされるがままで、乱暴な快感に翻弄されている。これは夢なのか。現実なのか。空調が壊れた執務室の昼下がり。過熱した欲望が、危険な領域に突入しようとしている。

 

 屈強な男が、矮躯の美少年を手篭めにする展開から眼を離せない。良いですわゾ^~、コレ。いや。いやいや。ちょっと待て。冷静にならねば。こんな。食い入るように見ている場合では無い。提督の貞操を守るのも、秘書艦の役目だ。そう不知火が力説していたのを思い出す。

 

「まずうちさぁ、こういう細身の体型にぴったりの衣装、完成したんだけど……着ていかない?」 

 

「うっ、く、……あの、僕に、んんっ、何か用意してくれたんですか……?」

 

「Yeah!! 準備万端デーーース!!」

 

 ビスマルクは頭を振って、野獣の狼藉を止めようとしたら、今度は扉がバァン!!と勢い良く開かれた。

加賀とビスマルクは、仲良くビクゥ!、っと肩を跳ねさせた。何事かと思った。執務室に走りこんで来たのは、満面の笑みを浮かべる金剛だった。その手には、何故か島風のコスチュームが握られている。何てタイミングだ。外で聞き耳でも立てながら、頃合を見計らって居たとしか思えない。きっと外でスタンバっていたのだろう。気さくで面倒見の良い金剛は誰とでも仲が良いし、野獣とも別に険悪な関係には無い。寧ろ、色々と協力関係にあるような節が在る。今だってそうだ。さっきまで加賀とビスマルクが話しをしている間に、何らかの方法で野獣が金剛に合図を送ったに違い無い。

 

「最近は特に暑いケド、これなら提督のクールビズにもぴったりネー!」

 

 何がそんなに嬉しくて楽しいのか。金剛の声は弾みまくっていて、其処には悪意も害意も感じられない。

ただ只管に提督LOVEを貫き続ける彼女の笑顔に、流石の提督も困惑顔だ。島風コスを見せつけるみたいに、金剛はずいっと提督の目の前に迫った。提督は、「あ、あの……」と、金剛の嬉しそうな笑顔と、金剛の持っている島風コスを何度も見比べている。

 

「ぼ、僕が着るんですか?」 

 

「Yes! 提督の事は何でも熟知してるから、サイズもピッタリの筈デース!」

 

 未だ困惑している提督に、勢いに任せて島風コスを受け取らせた金剛の言葉には、聞き捨てならないフレーズが在ったが、問題はその後だった。「ンフッ♪」っと、今までと種類の違う、妖しい笑みを浮かべた金剛が、チロリと唇の端を舐めるのを、ビスマルクは見逃さなかった。

 

「おっと、提督はじっとしてて下サイ! 私が着替えさせて挙げマ〜ス!」

 

 提督は金剛から受け取った島風コスで両手が塞がっている。金剛はその隙を狙ったのだ。流石は高速戦艦とでも言うべきか。飛び掛る豹みたいにすばやく身を沈めた金剛は、提督のベルトをカチャカチャとやり始めた。

 

「あの!? こ、金剛さん!?」 

 

流石に提督も腰を引いて逃げようとしているが、それを阻んだのは野獣だった。「お、大丈夫か? 大丈夫か?(一気呵成)」とか言いながら、後ろからも提督の下穿きを脱がそうとしている。酷い絵面だ。

 

「ちょっと! 提督が困っているでしょう!」

 

「其処までよ」 

 

 ビスマルクは金剛を提督から慌てて引き離し、デスクから立ち上がった加賀も、音も無く距離をすっと詰めて、提督にまとわりつく野獣の右脛をトーキックで蹴飛ばした。ゴッ、と言うか、ゴツッ、とも言えない、鈍くて重い音がした。「ヌッ!?(悲鳴)」 野獣が脛を押さえて蹲る。超痛そうだが、まぁ大丈夫だろう。余りに過激なスキンシップを諫めようと、ビスマルクも金剛に向き直るが、突然ハグされた。

 

「ぅえ……!?」 

 

ビスマルクは驚きの声を上げてしまったが、すぐにそのハグは解かれた。途轍もなく嫌な予感がした。ビスマルクの両肩を掴んだ金剛の眼が、キラキラと輝きを増していたからだ。

 

「Good afternoonデース! ビスマルク! 心配要りまセン、No problemデス! ちゃぁんと、Youの分も在りますカラ!」

 

「……え?」

 

 詰め寄って来たビスマルクを一度抱きしめて混乱させた金剛は、バチコーン☆と、ウィンクをして見せてから、指をパチンと鳴らした。執務室の扉が開いた。戦慄せざるを得ない。金剛型姉妹のチームワークはかなり強固と言うか、何でこんなに全力過ぎるのか。其処に野獣が加わることで、セクハラコンビネーションに深みが増す。それをお互いに理解している辺り、相当性質が悪い。今日だってそうだろう。きっと普段から色々と準備したりして、訪れたチャンス(?)を活かし切る為の作戦を立てているのだ。そうとしか考えられない。でなければ、金剛と同じように島風のコスチュームを手にした比叡、霧島までこの場に登場するなんて在り得ない。死ぬほど恥ずかしそうな貌で、最後に執務室に入って来た榛名に到っては、もう島風のコスチュームを着ていた。……榛名改三かな? というか何だこいつら(素)。

 

 あまりのことに暫く動けなかった。野獣の向う脛を蹴飛ばした加賀だって、ビスマルクの隣でポカンとしている。島風コスを着せられ、眼に光が灯っていない榛名が、そんなビスマルクと加賀を交互に見た。それから、今にも爆発しそうな程に顔が赤い榛名は、泣き出す寸前みたいな微笑みを浮かべて見せた。

 

「は、榛名は……だ、大丈夫ですか?(小声)」 

 

 どう見ても大丈夫じゃありません。本当に有り難う御座いました。そんな事を誰が言えるだろう。ビスマルクと加賀は、何も言わずに榛名からそっと眼を逸らした。提督はと言えば、律儀に島風コスを持ったまま、脛の激痛に蹲る野獣に心配そうな視線を向けている。気まずい沈黙が、数秒降りた。ただ、その間にも状況は悪いほうへ突き進んでいく。比叡と霧島が、何かを成し遂げた様な満足そうな笑顔で、ビスマルクと加賀に、そっと島風コスを差し出して来た。えぇ……(困惑)。

 

「痛過ぎてアー泣キソ……。まぁ、取り合えず用意しといたからさ、お前らの分も(優しさ)」

 

 痛みを堪える半泣きのままで起き上がった野獣は、金剛に親指を立てて見せる。それから加賀とビスマルクを見比べた。 

 

「早く着て見せて、どうぞ」

 

「はぁ!? 着る訳無いでしょう!?」 

 

 ビスマルクは差し出された島風コスから、一歩下がろうとしたら、

 

「きっと似合います!」と、眼の前に居る比叡が、力強く頷いてくれた。

 

 笑顔の霧島を眼の前にしている加賀の方は、無言で視線を逸らしたままで黙っている。完全拒否の構えだ。

 

「コス作りは俺も手伝ったのに、着てくれないのは悲しいなぁ…(諸行無常)。まぁ、二人にもファッションの好き嫌いが在るから、仕方ないね(レ)」

 

 睨みつけて来るビスマルクと加賀に対して、野獣は芝居掛かったわざとらしい溜息を吐き出して見せた。霧島と比叡の方は、割りと普通に残念そうな表情で申し訳無く思ったが、島風コスはちょっとお断りさせて貰いたい。というか、妙だ。やけにあっさりと引き下がったのが不気味だが、その理由はすぐに分かった。野獣がにやりと笑ったのだ。

 

「それじゃ無茶言ったお詫びに…。HEI。BSMRKとKGに、美味しいカレーを作ってあげて、どうぞ(ゲス顔)」

 

 クールな加賀の表情が引き攣った。比叡カレー。聞いた事が在る。かつて、余りものを使って夜食用に三人分だけ作られた伝説のカレーらしい。赤城を放心状態に陥れ、加賀を寝込ませ、半泣きにさせた武蔵に「もう……もう、何も喰わん……」と言わしめた逸品だという。比叡本人は割りと料理が好きらしいのだが、その料理に向ける情熱が、味とは完全に明後日を向いている良い例だ。

 

「えっ!? 今日は厨房を使わせて貰って良いんですか!?」 

 

「良かったですね、比叡お姉様」

 

そんな無邪気な比叡と姉想いの霧島の、微笑ましい遣り取りがやけに遠くに聞こえる。

 

「それじゃ一応、鳳翔さんや間宮さんにもお話を通して参りますね! 材料も買って来ないと!」

 

「お、頼むゾ。霧島も手伝って上げてホラ」 

 

もの凄く嬉しそうな比叡に、野獣は鷹揚に頷いて見せる。

 

「比叡お姉様のフォローはお任せ下さい。行って参ります」

 

比叡と霧島は一同に深く礼、提督と野獣には敬礼をして、執務室を後にした。

 

 気の毒そうな貌をしている榛名と金剛は、無言でそっぽを向いている。ここで重要なのは、提督である“野獣”の“命令”が、何処まで有効かという事だ。大破進撃命令の様な、艦娘の思考を奪ってしまう高次の意思洗脳施術における命令は、ロックの掛かった艦娘を対象に取れない。しかし、“規律を守れ”とか、そういう極めて軽微な命令ならば、強制履行させる事が可能である。かつて、赤城、加賀、武蔵の三人が比叡カレーを残すことが出来なった理由も此処にある。“用意された食事は、残さず食べなさい”という、至極当たり前の命令は、艦娘を拘束可能であった事が要因だ。

 

 “命令”としての言葉には、艦娘にとっては特別な力が宿る。簡単に言えば、意思では反対であっても、肉体が提督の“命令”に従ってしまうのだ。艦娘には、もともと“艦”としての生涯が在った故の名残だろうが、それが今、死活問題になろうとしている。見れば、加賀はひどく怯えたような様子で、体をカタカタと震わせながら床を見詰めていた。隣に居るから分かる。顔面を蒼白にさせた加賀の呼吸が、明らかに浅く、速くなっている。え? そんなにヤバイの? 比叡カレー。私も食べるの? ビスマルクは恐ろしくなって来た。

 

「加賀さん、大丈夫ですか? 顔色が……」

 

「KGはちょっと夏バテ気味だけど、ヘーキヘーキ! 比叡カレーを“お代わり”したら、元気百倍だから!(情け無用)。いっぱい食べろよ、KG^~! ホラホラ、嬉しいダルォォ!(キチスマ)」

 

 心配してくれている提督の声を遮ったのは、野獣の濁声だった。

 

「そ、それだけは……! 何でもするわ! だから比叡カレーは……! お、お代わりだけは……!!」

 

 

 ビスマルクはぎょっとした。加賀が、崩れ落ちるみたいに両膝を床につけた。唇を噛み締め、慈悲を願い、縋る様に床に手を付いたのだ。これが悪ふざけでも冗談でも何でも無いことくらい、加賀の追い詰められた表情を見れば、誰だって分かる。しかも、ビスマルクにとっても他人事では無い。このままでは、加賀がこれほどまでに恐れる“比叡カレー”を食べる事になる。断崖絶壁の淵に立たされ、突風に煽られているような気分になって来た。命の危険を感じ、ビスマルクも頭を垂れる。それしか出来ない。

 

「ん? 今、何でもするって言ったよね?(予定調和)」

 

 その野獣の静かな声を聞いて、しまったと思ったがもう遅かった。

 

 

 

 

 

 10分後。ビスマルクと加賀は、羞恥に身体を震わせながら島風コスに身を包み、執務室の真ん中に立っていた。脇に大きくスリットの入った上着に、穿いている意味が在るのかどうかも怪しい程に短いミニスカート、ハイレグ黒パンツ姿である。ビスマルクと加賀のグラマラスな身体付き故に、島風の可愛らしさを引き立てている筈の黒の兎耳リボンも、ただただ扇情的だ。

 

「やっぱり、私の眼に狂いはありませんデシタ!」 

 

二人が島風コスを着てくれた事が余程嬉しかったのか。ノリの良い金剛も、何故か島風の格好に着替えている。その金剛の姿に微笑みを浮かべた榛名の瞳にも、ようやく光が戻り始めていた。ちなみに、カレーの調理がキャンセルされて、しょんぼりしている比叡や、その比叡を励ます霧島も、既に島風コスである。要するに、全員島風状態だ。どうしてこうなった。 ビスマルクが深く息を吐き出し、この世の不条理を嘆いていると、扉がノックされた。「失礼致します」 扉の向こうから聞こえて来た声に、加賀は弾かれた様に頭を上げた。この声は。確か、ニ航戦の。

 

「ま、待ちなさい! 駄目! 飛りゅ……っ!!」 

 

加賀の焦った叫びが虚しく響くのと、扉が開けられたのは同時だった。

 

「あの、野獣提督への報告書ヲァッ!!??」 

 

 相当驚いたのだろう。執務室に入りかけた飛龍は、加賀達の格好を目の当たりにして、驚愕の声を上げて後ろにひっくり返った。その拍子に、書類が廊下に散乱した。無理も無い。ビスマルクが飛龍の立場だったら、同じような反応をしていた筈である。それくらい、今の執務室の様子は異常だ。ただ、執務室に訪れたのは、飛龍だけでは無かった。加賀の表情が、泣きそうに歪んだ。あぁ、何て事だろう。よりにもよって。散らばった書類をテキパキと拾ってくれたのは、飛龍について来ていた瑞鶴だった。

 

「もう~、何やってるんですか飛龍さ、んぉ……」 

 

 この世の終わりみたいな貌をした加賀と、妖怪と出くわしたみたいな貌の瑞鶴の眼が合った。時間が急停止した。飛龍は驚愕の表情のまま、床に尻餅をついた姿勢で金縛りに遭っている。口から魂が抜け掛けているみたいに見えるが、多分気のせいじゃない。ビスマルクは、執務室と廊下を隔てる扉を境に、温度が激変していることを感じた。何だか、果てしなく遠い所に置き去りにされたような気分だ。暑いのに、酷く寒い。飛龍と瑞鶴には、この世界が今、どう見えているのだろう。

 

 ビスマルクはそっと周りを見た。金剛は、何故か自信に満ち溢れたドヤ顔で、腰に手を当てて自身の姿を曝している。比叡は、“に、似合いますか?” みたいな、はにかんだ笑みを浮かべている。霧島は、“変なところは無いですか?”みたいな、冷静な貌のままだ。榛名は、首筋まで赤くさせたまま、じっと床を見詰めている。ビスマルクも榛名と似たような貌になっている事だろう。あー、もう無茶苦茶だよ(棒)

 

だが本格的に無茶苦茶になるのは、多分これからだった。瑞鶴が、五航戦の意地を見せたのだ。

 

「そ……、の……か、可愛い、ですね。加賀しゃ……加賀さん。あ、あにょ、あの、す。……凄く、似合ってますよ?(震え声)」

 

顔の筋肉をフルに使って頬を引き攣らせながらも、健気にも笑顔を浮かべて見せた。愛想笑いや苦笑を超越した、誰かを傷つける事を拒む為の、優しい笑顔だった。急停止していた時間が、急発進した。

 

「パッと見はその! “うわぁ……”って感じでしたけど、その、良く見てみると、な、何て言うか、“……うわぁ”って感じって言うか!(精一杯) ねッ! ひ、飛龍さん! ねッ!!?(必死)」

 

 眼を泳がせまくる瑞鶴は、叫ぶように言いながら、床にへたり込んでいる飛龍の襟元を激しく揺する。その御蔭で、抜けかけていた魂が還って来たのか。飛龍が蘇った。大急ぎで立ち上がり、「お、そうわねっ! 似合ってます似合ってます!(喰い気味)」と、ぎこちない笑顔を浮かべて見せる。先輩を気遣う後輩達の想いに、普段は厳しい加賀も目頭が熱くなったのか。何も言わずに頭を垂れ、右手で顔を覆った。あぁ、居た堪れない。……何も言えねぇ。ビスマルクは逃げ出したくなったが、そうも行かない。肝心の野獣が帰って来ないのだ。瑞鶴と飛龍は、「「し、失礼致しました!」」と勢い良く頭を下げて、一目散に執務室を後にした。

 

 

 それから少しして、加賀が何とか持ち直した頃だ。「お ま た せ」と、えらく高価そうな録画カメラを携えた野獣が帰ってきた。島風コスに着替えた提督も一緒だ。しかし、……凄い破壊力である。改めて島風服の過激さを認識した。

 

 提督の島風コス姿は、未成熟さ故の危険な色気に満ちており、多分、この場に居る全員が生唾を飲み込んだ。野獣のこだわりなのか。眼鏡をして兎耳リボンを着用しているのに、提督はウィッグをしていない。化粧もしていない。いつも通り、ビスマルク達が知っている提督なのである。それが、余計に倒錯的で、背徳的だ。

 

「着心地は、確かに涼しくて軽いですね。トレーニングにはいいかもしれませんが、流石にちょっと恥ずかしいですけど……」

 

「でもその分、色々と効果(意味深)も在るから、多少(の露出)はね?」

 

 提督の華奢な身体と島風コスの親和性はもとより、男の子のものとは思えないような白い脚。恥ずかしげな表情。短すぎるスカートから覗く、黒パンの紐と、太腿、お尻。そして。スカートの前面を持ち上げる、提督の――――何か、凄く、お、大っきくない?

 

 ビスマルクだけでなく、全員が食い入る様に、提督の股間に視線を注いでしまう。想像していたのと違う。もっとこう、ふっくらとしているのを想像していたのに。違う。ふっくら、と言った感じじゃない。ずっしり♂と言うか、こんもり♂と言うか。これマジ? 可愛らしい外見に比べて、下半身(意味深)が凶悪過ぎるだろ……。流石に、このサイズは想定外だったか。

 

「あっ、金剛さん! 鼻血が……!」 

 

 ビスマルクも頭が上せてきていたが、金剛の方はとっくに限界突破していた様だ。提督とのスキンシップも割りと過激で、普段はノリノリの癖に、変なところで初心らしい。鼻を押さえて手を振り、「心配りいまセン! こ、こんなの大丈夫デース!」 と、平気そうに振舞う金剛は、微妙に提督と眼を合わせようとしない。余りに今更過ぎるが、もしかして照れているのか。霧島や、比叡も同じ様な様子だ。提督の島風コスの御蔭で、榛名の顔の赤さも加速気味だ。

 

「私を甘く見て貰ったら困るヨ! チョ、チョット提督のペニ……、いや、えぇと、おちん……ッ! でもなくて! オフィンポが気になっただけデス!(魔球)」

 

 加賀とビスマルクは噴出した。何を言い出すのかこの高速戦艦は。

 

「え、ティンポポ?(聞き間違い) タンポポの仲間か何かですか?」 

 

 心配そうな貌をした提督が、首を可愛らしく傾げる。

 

「そんなの聞き返さなくて良いから(良心)」

 

 会話を切ってきた野獣が、手にしたカメラを構え、全員を画面に収めるみたいに何歩か下がる。いい加減、野獣が何をしたがっているのか理解出来た。ビスマルクが何かを言う前に、加賀が野獣をねめつける。

 

「こんな服まで用意して、何をさせられるのかと思えば……。結局、いかがわしい映像を撮ることが目的だったのね」

 

「ちょっと違うんだよぁ。去年は無かったけど、今年は山向こうの街の神社でぇ、デカイ夏祭り、あるらしいっすよ。じゃけん、地域貢献に俺らも参加して、祭りを盛り上げましょうね~(企業並感)」

 

 

「……え?」 と、加賀が意表を突かれた様な貌だ。

ビスマルクも、思わず眼を丸くしてしまった。

 

「社会全体で見たら、まだまだ“艦娘”とかへの理解も足りないからね。人格が在る以上、艦娘一人一人が道徳の主体である事は、揺ぎ無い事実だって、それ一番言われてるから(未来への憂い)。だから本営にもアピール出来るように、PR映像撮りますよ~今日は~。撮る撮る」

 

 野獣は言いながらカメラを構え、なにやら色々と設定しているのか。ボタンを操作しつつ、金剛、比叡、霧島、榛名の顔を順番に見て、一つ頷いて見せた。その頷きに最初に応えたのは、比叡だった。

 

「社会の人々と触れ合う良い機会として考え、私達も積極的に動いてみようと考えた結果が、この格好と言う訳です!」

 

「最初は流石に、自治団体の皆さんから反対されましたが、提督と野獣司令の粘り強い交渉の御蔭で、参加のOKが出たのですよ。街のパトロールや、ゴミ拾いなどのボランティア活動にも漕ぎ着けました」

 

 加賀とビスマルクに向き直った比叡が、嫌味の無い笑顔で力強く言う。それに続いたのは、眼鏡を理知的にキラリンと光らせた霧島だ。

 

「そうと決まれば、後は如何にImpactを与えるか。これに尽きマス! 後は日程を合わせる必要が在ったので、お祭り日に非番のお二人にお願いしたかったのデス!」

 

「インパクトのある格好と言うことで、島風さんの服装を思い付いたのは私です。けど……ちょ、ちょっと思い切り過ぎました」

 

 不敵な笑みを浮かべた金剛に続き、榛名は恥ずかしそうにそう零した。確かに、これだけ回りくどい事でもされなければ、加賀が島風コスなど着る筈も無い。ビスマルクだって絶対に断っていた。成る程。比叡カレーを利用したのは、確実性を持たせる為だったのか。比叡が全く機嫌を損ねた様子では無いところを見ると、利用された事には気付いていない様だ。島風コスも、一度着せてしまえば慣れるだろうと思っているのだろうが、それに関しては野獣の誤算だ。恥ずかしいものは恥ずかしい。これを着て、大勢の前に出ることを考えると、顔から火が出そうである。どうしようかと視線を彷徨わせていると、提督と眼が合った。いつもの様に、ひっそりとした穏やかな微笑みを浮かべてくれる。

 

「僕達“提督”についての認識も、変えて貰える切っ掛けになればと、考えているんです。艦娘の皆さんを、ただの道具として扱っている訳では決して無い事を、知って貰いたいですね…」

 

 提督が静かに紡いだ言葉に、ビスマルクは拳を軽く握った。艦娘は、ただの兵器では無い。艦娘の指揮を取る提督もまた、艦娘をただの兵器として扱っている者ばかりでは無い。提督は、それを知って欲しいと言う。それは、きっと難しいことだろう。艦娘は人間の道具だと。戦うだけの人形だと。金属が人の身体を借りただけだと。未だ、心無い事を言う者も居るだろう。残念なことだが、これが事実だ。しかし少なくとも、歩み寄ることは出来る。

 

波濤を超え、水平線へと徒歩渡る艦娘も。

陽の廻りに急かされ、地平で喘ぐ人間も。

皆。傍に居る誰かと心を通わせて、彷徨い、いつかは沈むのだ。

そうして沈んだ者達を思い詫ぶ気持ちに、人も艦娘も無い。

提督達が垣間見る淡い希望の先に、ヒトとフネが寄り添う姿が在るのなら。

私も、何か力になりたい。そう思う。正直な気持ちだ。

 

「こんな格好までしてるんだもの。手伝うわ…。私の活躍に期待しなさい」

 

ビスマルクは静かに深呼吸してから、提督に深く、力強い頷きを返す。

 

「………仕方無いわね」と、加賀も、渋々と言った感じで了承した。

 

「うっし、そうと決まればパパパッと色々撮って、終わり! その為の島風コス? あと、その為の余興? 艦娘達の貢献! 皆の笑顔! 金!って感じでぇ!(ノリノリ)」

 

 「金……?」 加賀の眉が吊り上がった。

 

 「あっ(口を滑らせてしまった、と言う貌)…………はい、じゃあケツ出せぇ!(開き直り)」

 

 再び、加賀の殺人トーキックが野獣の脛に炸裂した。

 



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第3章

 ソファに深く腰掛けた鈴谷は、退屈そうに息を一つ吐き出しながら、野獣の執務室の天井を仰いでいた。今日は一応非番である。別に、邪魔さえしなければ何処に居ても良い。此処に足を運んだのは、熊野が秘書艦を務める事になったからだ。その理由も単純である。長門と陸奥、赤城と加賀が演習に出ているからである。別に珍しい事でも何でも無い。

 

 大規模な作戦に於いては、この鎮守府からでも大量の戦力が投入されることになるし、大破、中破して帰ってくる艦娘も少なく無い。人類が優位に立ってから、深海棲艦の動きは小さくなってはいるものの、戦艦レ級等の様な、より強力な固体の発生が目立つようになった。“エリート”などと呼ばれる個体や、“鬼”、“姫”、の名で呼ばれる、深海棲艦の人型の中でも、更に上位の個体の確認も増えて来ている。前の作戦でも、こうした強大な力を持った深海棲艦の特殊体との戦闘、討伐に重きが置かれていた。かつての激戦期には及ばないにしても、激しい戦闘だった。勝利こそしたものの、当然、沈んだ艦娘も少なくは無い。錬度の低さや判断ミス、不運が重なったりすれば、どんな瑣末な事でも轟沈に直結する。そんな厳しい戦いだったが、この鎮守府では誰も沈むこと無く、無事に作戦を遂行し、終えることが出来た。この戦果も、艦娘一人一人の錬度の高さと、それを支える“提督”の指揮があってこそだろう。どちらが欠けても、駄目なのだ。

 

 こうした艦隊の強さを構築、維持する為には、それなりの規模の演習も、どうしても必要になってくる。その為、大和や武蔵、長門や陸奥の居るこの鎮守府には、かなり本気の演習依頼が入る事もしばしばである。今回は野獣が編成した艦隊が演習に出ることになった。ちなみに、この戦艦と空母だけの編成は、相手方の希望である。戦艦枠は別に誰でも良かったのだが、長門の“どうしても”という強い希望が在り、陸奥との出撃となったのだ。

 

 まぁ、勝ち負けについて言えば、まず負けて帰ってくるだろう。“元帥”クラスの提督が演習を受けるという事は、胸を貸すというか。相手方に花を持たせてやるという意味合いが強い。錬度の低い艦隊に、戦闘の経験と、勝利の経験を与えることを目的としているのが、実際のところである。意義深い演習にするのも当然神経を使うし、楽な任務という訳でも無い。

 

 演習から帰還してきた長門達の負担を軽減させる為に秘書艦を買って出る、真面目な熊野の気配り上手なところは、やっぱりお嬢様だなぁ、とか思ってしまう。鈴谷も何か手伝おうと思って執務室を訪れたものの、何でもテキパキとこなしてしまう熊野の御蔭で、出る幕は無いのであった。まぁ、秘書艦用の執務机も一つしか無いし、手持ち無沙汰になるのも仕方無い。おやつでも用意してあげようかな、とも思った。だが鈴谷が動くよりも先に、鳳翔さんがお茶と茶菓子を持って来てくれた。えらく高価そうな羊羹だった。凄く美味しそうなのだが、ソファテーブルに置かれた羊羹に、まだ鈴谷は手をつけて居ない。こういう穏やかな時間を感じる機会が増えたせいか。つい先程の鳳翔さんの微笑みが、嫌に印象に残っているからだ。

 

 前の作戦に、鳳翔さんは出撃していない。それを責めるつもりは毛頭無い。と言うよりも、本当に頭の下がる思いである。鎮守府に残り、戦場へ向う艦娘達を笑顔で見送り、無事を祈りながらじっと待ち続けなければならない苦しさは、果たして如何ほどか。帰って来た艦娘達に、いつも通りの、ホッとするような笑顔を向けられる、その芯の強さには本当に敵わない。作戦発動中はじっと待つしか無い提督や野獣も、鳳翔さんのそういう心の強さに救われている筈だ。彼女が居なければ、この鎮守府はもっとピリピリしている事だろう。そんな事をつらつらと考えてから、ふと思う。或いは。鳳翔さんの強さも、提督や野獣が居るからこそなのかもしれない。鈴谷は少しだけ体を起こし、視線だけで野獣を見た。

 

 

「アー吐キソ……(弱音先輩)」

 

 野獣は、参った様な貌でボリボリと頭を掻きながら、書類の束に眼を落としている。

 

「少し休憩に致しましょうか。丁度、折角淹れて頂いたお茶も冷めてしまいますし……」

 

 熊野の方は、捌き終わった書類をトントンと束ねながら、鈴谷と野獣を交互に見た。執務も一段落着いたと言うことだろう。「お疲れー」と、鈴谷は熊野に軽く笑って見せてから、ソファに浅く座り直す。

 

 野獣の方も、溜息を吐き出しながら持っていた書類を執務机に乱暴に置く。傍に置かれた湯吞みを引っ掴み、勢い良く飲もうとして「アツゥイ!」火傷していた。鳳翔さんが淹れてくれたお茶なんだから、もっと味わって飲めば良いのに。少しだけ可笑しそうに笑う熊野に釣られて、鈴谷もちょっとだけ頬が緩んだ。誰かと微笑みを交し合う様な、こういう穏やかな時間の中に居ると、出撃中に味わう緊張感を思い出せなくなりそうだ。まぁ、別に忘れても良いじゃん、とか思う。どうと言う事は無いだろう。頭で思い出せなくても良い。

艦娘である鈴谷を“鈴谷”たらしめている、あの五感が研ぎ澄まされていく感覚は、ちょっと言葉では表すことが出来ない。

 

 しかし、戦いの感覚は無意識の部分に刻まれている。いざ艤装を纏って海に出れば、鈴谷の身体は勝手に戦闘体勢に入ってくれるのだ。極端に言ってしまえば、緊張感とか、覚悟とか、気合とか、絆とか、感情とか、そんなものは必要無い。艤装を纏えば、鈴谷は“兵器”なのだ。習い性とか、癖とか、そんなものじゃない。鈴谷の魂に、誇りと共に刻まれた感覚なのだ。ある意味で、それが艦娘の正体なんだろうとか思う。“鈴谷”から余計なものを全部削ぎ落とした時。其処に残るのは、深海棲艦と戦う為の艤装と、その艤装にひっついた、肉で出来た人型の部品だ。

 

 ソファテーブルに置かれた羊羹を竹楊枝で一口サイズに切り分けて、鈴谷は一つ口に放り込んだ。溜息が出るくらい美味しい。湯吞みを傾けて茶を啜れば、五臓六腑に染み渡る様な、安らぎとも何とも言い難い、幸福感の様なものを感じる。こういう艦娘の感覚や感情を無駄と斬り捨てるか、尊重して育もうとするかで、“提督”というものが二種類に分かれているのが現状と言える。前の作戦海域にて、大破にも関わらず進撃を命じられた、別の鎮守府の“鈴谷”の貌が脳裏を過ぎる。

 

 情動が欠落した様な青い顔。光の消えた虚ろな眼。生気が感じられないのに、不気味な程に瑞々しい、応答の声。思い出すと、背筋に寒いものが走った。野獣に召還された私は、まだ恵まれてるんだなぁ…とか、しみじみと思ってしまう。やっぱり彼女は、沈んだんだろうなぁ。“ロック”、掛けられて無かったもんなぁ……。捨て艦だったのかなぁ。そんな思考が、ずっと頭から離れずにこびりついたままだった。

 

 

 鈴谷は緩く息を吐き出しながら、野獣と熊野を見比べる。野獣は、苦虫を噛み潰すと言うか、便所コオロギをしゃぶっているみたいな貌で、書類に眼を通していた。熊野は、やっぱり上品な仕種で湯吞みを傾けて、鳳翔さんが淹れてくれたお茶を味わっている。空調の修理が終わった執務室は、過ごし易い涼しさが保たれているし、外から聞こえる蝉の声も、心地よく感じる。窓から外を見遣ると、羊雲が揺れる晴れた空が広がっていた。「ねぇ、野獣提督」窓の外を眺めてから、別に用も無いのに、何となく声を掛けてみる。野獣は黙ったまま、鈴谷の方へと視線だけ向けた。鈴谷は冗談っぽく笑った。

 

「さっきからしんどそうな貌してるけど、お腹でも痛いの?」

 

「別に腹の調子は悪く無いけど、具合悪いのはこのJNYUの報告書なんだよなぁ…(憔悴)」

 

 野獣は万年筆を走らせて、書類にチェックを付けて居る。それも、かなりの頻度である。その手元を横から覗き込んだ熊野が、ふすっ……、と変な息の吐き方をした。多分、笑いを堪えようとしたのだろう。ちょっと気になった。「どんな事書いて在るの?」ソファからじゃ見えない。鈴谷はちょっとだけ首を伸ばした。隼鷹が出撃から帰って来て、酒を煽りながら報告書を作成するのはいつもの事だし、割りと有名だ。

 

「出撃海域=E364364―1919810って何処だよ(未知のエリア)」

 

「えぇ……、宇宙……かな?」 

 

「平行世界かもしれませんわね」

 

「何で一人だけ時空を超えてるのか、理解に苦しむね…(万年筆ペチペチ)。そもそも、地球上に存在しない海域に出撃するのは流石にNGなんだよなぁ。こんなモン修正するこっちの身にもなってよ……。お仕置きほらいくどー(無慈悲/no mercy)」

 

ふふっ、と、上品そうに笑った熊野は、一口茶を啜った。それから、野獣に向き直る。

 

「そう言えば今日の夜、先の作戦の成功と、私達の慰労を兼ねて、何か余興を開いて下さる予定だとお聞きしましたが、そろそろ教えてくれても宜しいのでは無くて?」

 

 ちょっと楽しそうな熊野の言葉を聞いて、あぁ、そう言えばと思い出した。そんな事を言っていた気がする。あれは確か、作戦が始まる前。山向こうの夏祭りに、鎮守府の艦娘達がボランティアやらパトロールに出張った時だった筈だ。祭りを楽しみ来ていた街の人々からも割りと好評を貰い、提督と野獣の試みは好感触だったので、打ち上げ代わりに鎮守府で何かやろう。確か、そんなノリだった様に記憶している。苛烈な作戦をこなした後だったので、すっかり忘れていた。熊野の視線を受け止めた野獣は、言うか言わまいか迷うように視線を泳がせてから、“まぁ、もう言っちまっても良いだろう”みたいに、肩を竦めて見せた。

 

「間宮の無料券を景品にぃ、肝試し大会みたいなの、やるらしいっすよ。じゃけん、夜までにやる事は全部片付けちまいましょうね~(仕方無し)」

 

「へぇ~、そんなの企画してくれてたんだ」 

 

作戦を挟んだせいで、ちょっと季節的にはヒットしていないかもしれないが、まだまだ熱いし、丁度良いだろう。鈴谷は、野獣の事をちょっと見直し掛けた時だ。「あっ……」と、熊野が何かを察したみたいに声を漏らすのが聞こえた。

 

「どうしたの、熊野?」

 

「い、いえ、野獣提督が今日の演習メンバーを選ばれる際、長門さんが妙に食い下がっていらした理由が分かった気がしまして……」

 

 鈴谷も、あっ(察し)、と言いそうになるのを堪えた。

 

 凛然とした実直さと不屈の闘志を備え、戦場では修羅の如き強さを発揮する、戦艦長門。かつての激戦期を野獣と共に戦い抜いて、数多の深海棲艦を撃破した、百戦錬磨の“艦娘”である。戦場では味方を守り、鼓舞し、敵を討ち斃す。大和や武蔵、陸奥と共に、彼女は現在の護国の化身だ。しかし、そんな強大な力を持った彼女にも、どうやら苦手と言うか。これだけは駄目だと言うものが在るらしい。それが、幽霊やお化けと言った、オカルトやホラーの類いだという事も、噂では聞いた事があるのだが。

 

「入渠時間稼ぐ為に、NGTは大破して帰って来ますね。クォレェハ……(確信)。ついでにKGも中破あたりですね……間違い無い。MTとAKGは……普通だな!」

 

「流石にそこまでは……。長門さんが旗艦で大破までいくかなぁ? と言うか、加賀さんもお化けとか駄目なんだ?」

 

「意外ですわ」

 

「NGTとKGは、夜中にトイレ行く時に艤装展開してるから、ま、多少はね?(いじめっ子特有の暴露)」

 

 何だか。こういう馬鹿な話をするのも、何だか凄く久しぶりな気がして来た。ふっと、あの“鈴谷”の貌が過ぎった。鈴谷は、自分の首に掛かったネックレス型の野獣の“ロック”を確認するみたいに触れる。ただそれだけで、奇妙な程安心している自分に気付いて、苦笑が漏れそうだった。確かなものってなんだろう。誇りだろうか。勝利だろうか。分かんないや。

 

「野獣提督。鈴谷が好きだって告白したら、ケッコンしてくれる?(唐突)」

 

 何となく聞いてみた。茶を啜っていた熊野が盛大に噴出し、激しく噎せ返り過ぎて椅子から転げ落ちた。その様子を横目で見ていた野獣の方はと言うと、疲れた様な顔になった後、ひらひらと手を振って見せた。

 

「冗談は後にして、どうぞ(無関心)。そろそろ執務に戻らないと、夜までに終わらなくなっちゃう、ヤバイヤバイ……」

 

 隼鷹の報告書を脇に退けた野獣は、また別の分厚い書類に眼を通している。先程とは違う、妙に真剣味な様子だ。何か深刻なことが記されているのだろうか。また鈴谷が書類について聞こうとしたが、出来なかった。咳き込みながら猛然と立ち上がった熊野が、凄い勢いで詰め寄って来たからだ。ずんずんと凄い剣幕で迫ってくる熊野に、思わず身を引こうとしたところを、熊野に優しく、強く抱きしめられた。

 

「気を確かに! さぁ、今から本営の医務機関に向いますわよ!!」

 

ぐいっと腕を引っ張られ、無理矢理立たされる。熊野の眼はマジだった。

 

「ちょ、ちょっち落ち着いてよ、熊野! 私はへ、平気だから! 正気だから!」

 

何とか宥めようとするが、親友の身を案じる熊野は止まらない。というか、大粒の涙をポロポロ零して泣き出した。

 

「ごめんなさい鈴谷……。貴女の心の悲鳴に気付いて上げられなくて……」

 

慙愧に耐えないと言った様子の熊野の言葉は、真剣そのものだ。

 

「く、熊野! 冗談! 冗談だから、ね!? 冗談に決まってるでしょって! 野獣とケッコンとか有り得ないって、それ艦娘達の中で一番言われてるじゃん!」

 

 本人が此処にいるんだよなぁ……。書類に眼を落としたままの野獣が、耳を小指でほじりながら呟くのが聞こえたが、まぁ良い。鈴谷は超笑顔で、熊野を安心させるようにハグを返す。その御蔭か、何とか熊野の眼に冷静さが戻り始めた。「大丈夫だってー、安心してよー」と、割りと必死な鈴谷の呼びかけに、熊野は洟を啜って、鈴谷と野獣を見比べた。何かもう、マジで困ってるのに笑うしか無いみたいな鈴谷と、醒めた様な貌の野獣の様子に、冗談だと理解してくれたらしい。

 

「ぅ、うぅ……羽毛(?)!!」

 

 たぶん、“もう……!”と言おうとしたのだろうが、勘違いした恥ずかしさからか、舌が縺れたのだろう。熊野はスカートポケットからハンカチを取り出しながら、秘書艦用の執務机に足早に戻った。こけた椅子を立たせて座り、ハンカチで顔を拭いながら拗ねたみたいにそっぽを向いた。

 

「そういう冗談は感心しませんわ! 吃驚するでしょう!? 御蔭でもう顔中、お茶と涙まみれですわ!! 御覧にならないでっ! この無残な私の姿!!」

 

「ごめんって、熊野~。ね、許して。今度何か奢るからさ~」

 

 別に、鈴谷が熊野に何か直接悪い事をした訳でも無いのに、何だか鈴谷が悪いみたいな雰囲気になったので、取りあえず熊野に謝った時だった。秘書艦用の執務机の上に置かれていた、通話機能を備えた携帯端末が電子音を鳴らした。ディスプレイには、“艦隊帰還”の文字が点滅しているが見える。ついでに、“敗北”の文字。更に言うと、“長門、大破”“加賀、中破”の文字が交互に点滅している。野獣の予想が的中した。「ドックからですわね……」熊野はまた洟を啜ってから、端末を野獣に渡した。それを受け取った野獣は、手にした書類を置いて、端末を耳にあてる。

 

 

「ちょっと遅かったんちゃう?(クレーマー)」

 

『……予定通りの時間だろうが』

 

「あのさぁ……。予想はしてたけど、本当に大破して帰ってこられたら資材が吹き飛ぶんだよなぁ。相手に花持たせてやるのも良いけど、クソデカ作戦の後の後やで? どうしてくれんのコレ?(ネチネチ)」

 

『……あぁ、その事については……私も反省している。……今日の私には、何処か迷いが在った。入渠している間、少し頭を冷やしたい。己を見詰め直す時間が欲しいんだ』

 

「んにゃぴ、……真の敵は、いつも自分の中にあるからね。仕方無いね(適当)」

 

『!……あぁ、だから今日は……、“バケツ”を使わないでくれ。私が、私自身の弱さに打ち勝つ為の、時間をくれないか。……“バケツ”は必要無い』

 

 

 念、押すなぁ……。端末から漏れてくる長門の音声は、鈴谷と熊野にも聞こえていた。長門の凛として芯の通った力強い声は、それだけで周りに居る者達の気持ちを引き締める。しかし、今はちょっと違う。何だろう。この違和感と言うか、可愛らしさと言うか。この真面目くさった長門の台詞が、芝居がかっていると言うか、嫌に必死に聞こえてくるのだ。普段の勇猛果敢さや、苛烈、熾烈な彼女の面影は無い。

 

 あれ? 長門さんって、こんな親しみ易そうな人だったかな? 彼女のその強さ故か、近付き難い、無骨な印象を持っていただけに、軽い衝撃を受けているのが正直なところだ。野獣にしても、すっとぼけた様な遣り取りを続けているし、ちょっと笑いそうになる。見れば、さっきまで涙を拭って洟を啜っていた熊野も、俯いて肩を震わせていた。笑うのを堪えているんだろう。というか、長門さん、そんなに肝試しに参加するの嫌なんだ。

 

「一応確認するけど、MTとAKGは小破、KGは中破でOK? OK牧場?」

 

 野獣の執務机には、工廠や母港、編成、改装、補給などの指示を行える板状の端末が置かれている。ディスプレイに触れて操作するタイプのものだ。他にも、戦績やら任務などの情報の確認も可能である。野獣は、ディスプレイに触れて操作しながら、面倒そうに聞いた。

 

『あぁ。それと、加賀も自分を見詰め直す時間が欲しいそうだ』

 

『……はい。私もバケツは要りません。今日の余興は、私抜きで行ってくれて結構よ』

 

 長門の音声に続いて、少し遠くから響くような形で、加賀の声が聞こえた。その音声の背後の方で『あらあら』『ふふふ……』と、可笑しそうに小さく笑っているのは赤城と陸奥だ。まぁ、其々のドッグは一人用だけど声も響くから、このやりとりも筒抜けなのだろう。

 

『すまんな……。私の我が侭を聞いてくれるか(熱い言葉)』

 

「お、そうだな(端末ディスプレイのバケツ使用指示を連タップしながら)」

 

『…………ん? お、おい! 妖精達が“バケツ”を用意し始めたぞ!? 要らんと言っただろう!』

 

「あ~、もう一回言ってくれ(連タップしながら)」

 

『だ、だからっ!! お、オイ! ヤメロォ(絶叫)!! ヤメぼばばばば(高速修復)!!』

 

 野獣の持つ端末から、ザバァァァ!!と、盛大に何かをぶっ掛ける様な音が聞こえた。きっと、妖精さん達が“バケツ”を使って、一生懸命に長門達を治そうと頑張ってくれているのだろう。

 

「Fooooo↑! 気持ちィィ↑! 修復剤まみれで気持ち良いかNGTァ!!? 入渠に25時間とか甘ぇんだよ! 任せろォ、25秒で治してやるからなぁ(優しさ)!?」

 

『や、やめ、やめてくれ(懇願)! あばばばば(高速修復)! い、行かんぞ! 私は! ごぼごぼごぼ(高速修復)! 肝試しなど! 絶対に行ばばぼぼぼ!!(高速ry 溺れる!! 溺れる!!』

 

野獣の持つ端末から、バッシャアアア!! ザッバァアアア!! みたいな轟音が繰り返し聞こえてくる。“バケツ”使うにしたって、妖精さんもやり過ぎだろう。嵐が来た時の波浪音みたいだぁ……(直喩)。入渠ドッグこわれちゃ↑~う。阿鼻叫喚のドックの様子に、鈴谷と熊野は戦慄した。

 

「どうしてお前はそう、ホラーに対して根性が無ぇんだ? バミューダトライアングル一周して、土産に幽霊船10隻ぐらい曳航してくる勢いでIKEA! 序にグラ○ドラインも制覇して、海賊王も目指したれや! ウェア!(麦藁帽子並感)」

 

『そんな事出来る訳無いだろ!! いい加減にしぼぼぼぼぼばば!!(溺れ気味)あ~^傷が癒えるぅ↓! 癒えてしまう~↑! む、陸奥ぅ! 私を撃てぇ(錯乱)!!』

 

「更なる高速修復、イクゾォォォォォォオオオオ!!! オエッ!!(ガンギマリ)」

 

 

 

 

 

 海から見て鎮守府の裏手には、街に続く広い道路が通っている。その道路を挟み、向かいの山裾へは茫々と森林が広がっており、割りと自然が豊かだったりする。単純に、この沿岸一帯に人が寄り付かないだけなのだが、深海棲艦が現れるまでは、それなりに人が訪れていた様だ。鎮守府内に建てられた艦娘寮の屋上などからは、手入れなどまるでされていない茂みの先に、こじんまりした廃旅館も見て取れた。その他にも、ポツポツと建物らしきものが見えていたので、廃村と言わずとも、あの規模では廃集落とでも言うべきか。そうした建物を再利用しようという動きが在ったのは、つい最近だ。

 

 本営が手配したのだろうが、いかつい軍用作業着を着込んだ男達が多数の重機と共にやって来て、鎮守府裏手の山裾に広がる茂みを整備してくれたのである。無秩序に生えまくった木を切り倒し木材に変え、荒れ果てた獣道を舗装して、廃集落へと入り込めるだけの道を整備してくれたのだ。投入された作業員の数や範囲から見ても、かなり大掛かりな工事だった。“元帥”クラスの提督を二人抱えるこの鎮守府の傍に、本営は何か特別な設備を設けたいのだろう事は、誰の眼にも明らかだった。

 

 本営が何を拵えようとしているのかも、すぐに分かった。提督の下に、『深海棲艦鹵獲計画』の文字が記された、分厚い書類が送られて来たからだ。以前の様な大規模な作戦に備える為、或いは、人類優位を更に磐石にする為だろうが、どうもキナ臭い。とは言え、本営が何を考えているのかなど、ただの艦娘には関係の無い事だ。そう割り切る。考えたってしょうがない。まぁ間違い無いのは、深海棲艦を捕まえて来て、研究の為に飼うとなれば、相当な準備が必要になるという事だ。

 

 ただ立地確保は済ませても、鹵獲が計画の段階にある以上、重機や資材を持ち込んでいきなり着工という訳では無いようだった。取りあえずの地ならしが終わった時点で、軍用作業着の男達の部隊は、提督や野獣に最敬礼をして帰って行った。あとに残された廃集落の建物については、着工までの間、一般人は立ち入り禁止だ。しかし、艦娘や提督の様な、軍部関係者なら別に良いとの事だ。

 

 野獣から聞いた話だが、軍用作業着達を率いていた男に、『この建物が残ってる辺り、肝試しに良さそう……肝試しに良さそうじゃない? ですよねぇ(自己完結)』と、野獣が訳の分からない事を聞いたらしい。そしたら、施設建設が始まるまでは、この土地は自由に使っても良いという、本営からの指示が出たと言うのだ。“元帥”である野獣に対するご機嫌取りか。はたまた、この土地に対する執着が、やましいものでは無いことをアピールする為か。本営が何を企んでいるのかは理解出来ないのは何時ものことだが、まぁ野獣の考えていることも大概分からない。

 

 

 ちなみに廃集落については、補強すればまだ使えるレベルで残っているものから、朽ちて傾いているものまで様々だ。獣道や雑木が整備されたおかげか。狭くても平穏で、長閑な田舎みたいな、ちょっとした風情が在る処だった。ただ、夜になると一変する。むっちゃ暗い。やばい。雰囲気出過ぎ。

 

 昼間に、肝試しを楽しみにしていた駆逐艦の子達が、道沿いにいくつか電気ランプを立ててくれていなければ、まずゲームにならないレベルで怖い。鎮守府から一番近い位置にあった廃旅館は、割りとしっかりとした建物のようで、壁の崩れや傾きも見られない。此処が、取り合えずの拠点だ。かなり広い駐車場も在るし、キャンプファイヤーみたいに焚火を起こしても、燃え広がったりする心配も無い。

 

 肝試しのゲームが始まって、2時間程が経過した。長門含む脱落者多数。クリア者は無し。脅かし役は野獣と、艦娘が何人か。悲鳴が遠くで聞こえた。ビクッとしてしまう。山奥へと延びる道を歩きながら、叢雲は自分を落ち着かせる様に深く息を吸い込んだ。蒸し暑い筈なのに急に寒くなったような気がして、両腕で自分を抱くようにして腕を擦る。「み、みんなビビリ過ぎなんだよなぁ(震え声)」 叢雲の隣を、懐中電灯を持って歩く天龍は、手と脚が同時に出ていた。その天龍を挟む格好で、並んで歩いている摩耶は無言のまま。しきりに下唇を噛んでキョロキョロしている。

 

 この三人で1チーム。肝試しのルールは簡単だ。廃旅館を三~五人組でスタートし、山奥へ入り込んでいく道を登っていく。山道を登っていくと、道沿いに廃集落の建物が疎らに残っている。その中には、昼間に用意しておいたスタンプが在るから、それを押して帰って来るだけだ。崩れかけた納屋や小屋にはスタンプは置かれていない。あくまで対象は、中まで入っても大丈夫な建物に限定されている。

 

 各スタンプには数字がふられていて、山の奥の建物へ行けば行くほど、数字が大きくなる。押せるスタンプは一種類のみ。スタンプを押して帰ってくればクリアである。そして、廃旅館まで帰って来た時点で、スタンプの数字が大きい者が優勝という流れだ。得点が同じなら、帰って来るまでのタイムで優劣を付ける。天龍達は今の所は順調に坂道を登っている。ただ、未だクリアしている者が居ないのは、少々不気味であった。それに、いくら道として整えられたとは言え、急ピッチでの工事だ。完全にという訳では無いし、茂みや打ち捨てられた納屋などの存在感はなかなかである。

 

「参加賞品が間宮のタダ券じゃなかったら、絶対参加してないわ」

 

生温い風が背筋を寒くさせる。しかし、結構昇って来たなぁ……。叢雲はボソッと言いながら振り返り、下の方に見える廃旅館駐車場の焚火を見遣った。「そりゃあな」と、相槌を打った天龍の声は相変わらず震えている。

 

「あと、不参加ペナルティがデカ過ぎる」

 

続いてそう呟いた摩耶が、今どんな表情をしているのかは、叢雲からはよく見えない。だが、平常とは言い難い状態だということは明らかだ。こんな平たい声で摩耶が喋るのを初めて聞いた。

 

「何だよ、摩耶。トイレでも我慢してんのかよ(強がり)」 

 

 若干裏返った声で煽って来る天龍の声にも、摩耶は応えない。不参加のペナルティは、最近、焼き飯に嵌っているらしい夕立と、カレーを極めようとする比叡の料理練習に付き合う、というものだった。比叡の方は言わずもがなだが、夕立にもいくつか逸話が在る。食堂にて、時雨を含む8人程が大破した、通称“ぽいぽいチャーハン事件”は記憶に新しい。流石に夕立もショックだった様だが、失敗は誰にでもあるよ(大天使)、という時雨の暖かな慰めにより、夕立は時雨に料理上達を誓ったと言う。

 

 ちなみに。泥酔状態で報告書を作成した罰として、隼鷹の今日の夕食は、“ぽいぽいチャーハン”に“比叡カレー”をかけた“ソロモンの悪夢セット”だった。再起不能に陥った隼鷹の姿は、特に理由も無く肝試しに参加しなかった者の末路を示していた。

 

 あんな状態になる位なら、ちょっと怖いのを我慢して、パパパッとスタンプ押して来て、終わりッ! そう思って参加した者も少なくないだろう。しかし、そう上手くは行っていないのが現在である。スタンプが設置された建物の中には、ご丁寧に脅かし役が潜んでいるからだ。クリア者が出ていないのは、脅かし役達に相当気合が入っているせいか。叢雲はそんな事を考えながら山道を登っていると、スタンプが設置されている筈の長屋が見えて来た。簡単なマップを取り出して確認する。スタンプのポイント的に、上から二つ目だ。

 

 「此処らで手ぇ打つか……」 

 

 天龍は言いながら、懐中電灯と一緒に、頭に装備してある艤装の照明を点けた。その明かりで山道の上を照らすと、やはり、上には一軒家の廃墟がポツンと立っているのみだ。何だよ、俺ら凄ぇ高得点じゃん(強がり)。冗談めかして言う天龍の言葉に、「……行くのか」と、摩耶が相変わらず平たい声で言う。次の瞬間だった。

 

「うわぁぁああああああああああ!!!!」

「………………………………っっっ!!!!!!!!!」

「お、おい!? はぶっ!? ま、待てぇ!! 私を置いて行くなぁ(涙声)!!」

 

 悲鳴を上げる皐月と、無言のままで涙を堪える霰が、長屋の廃墟から飛び出して来て、叢雲達の脇を走り去って行き、玄関ですっ転んで涙目になった長月が、その二人を追うようにして、また叢雲達の脇を走り去って行った。その三人組の背中を見送った後。ゆっくりと顔を見合わせた叢雲、天龍、摩耶は、同時に廃墟へと視線を向けた。何が起こったんだろう。と言うか、あの怖がり方からして、脅かし役は本当に“艦娘”なのか。本当に……? あの勇敢な皐月達、駆逐艦の怯えっぷりに、叢雲達は暫く、誰も何も言わなかった。沈黙の後。天龍が咳払いをした。

 

「別に怖く無ぇけど、もう一個上行くか? 此処じゃ無くても良いしな。いや、別に怖く無ぇけど、せっかくだしな。最高点で帰ろうぜ(努めて明るい声)」

 

「お、そうだな(即便乗)」摩耶が頷いた。叢雲も無言で頷いた。

 

 そうと決まれば、さっさと行ってさっさと帰ろう。生温い風が強さを増している。いやな感じだ。悪寒がする。叢雲達が早足で山道を登り、見えていた日本家屋の廃墟の庭へと踏み込んだ。丁度そのタイミングで、天龍の持っていた懐中電灯の明かりが、弱々しく点滅し始めた。肝試しに参加した艦娘達が使い廻していたから、電池切れか。「マジかよ……」と、天龍は廃墟に入ったところで立ち止まり、懐中電灯を振ったり揺すったりし始めた。艤装の照明装置も在るから、其処まで深刻では無いし、暗がりに眼も慣れて来ている。

 

 月明かりもあるから、まだ見える。天龍を置いて少し中に入ってみると、座敷に縁側、朽ちた仏壇が在った。和室か。埃塗れの畳机の上に、スタンプが置かれてあるのが、暗がりの中に見えた。ほっとした。何だ。脅かし役なんて誰も居ないじゃないか。なるほど、此処は当たりだ。思い出す。確か野獣は、一軒だけ脅かし役を配置しないと言っていた筈である。“人員が少ないなりに、まぁボーナスステージは必要だよなぁ?(意味深)”。野獣はそんな事を言っていた様に思う。

 

「な、何だよ! 拍子抜けだな! 何も無ぇじゃん(確認)!」

 

 叢雲と一緒に和室に踏み入った摩耶は、あからさまに安堵した声音で笑った。良かった。取り合えず、後はスタンプを押して帰れば良いだけだ。クリア者もまだ居ないし、賞品も貰ったも同然だろう。作戦明けだし、叢雲にも明日からちょっと長めの休暇も出る。せっかくだ。鱈腹になるまで、間宮で甘味を楽しもう。充実した休みになりそうだ。そんな風に油断していた時だった。違和感を覚える。次に、油断した自分を恨む事になった。叢雲は呼吸が止まり、全身に鳥肌が立つのを感じた。

 

「ま、摩耶……、摩耶」と、言いながら、一歩、ゆっくりと下がる。

その動きに合わせて、暗がりの和室で何かが動くのを感じた。いや、正確には蠢いている。

 

「ん? 何だよ? 急に震えた声出して」

 

「ゆっくり……、ゆっくり出よう。ヤバイ……。此処ヤバイ……」

 

「何がヤバイんだよ? 何も居ねぇし、崩れる心配も無ぇだろ。床とかもすっげぇしっかりして……」

 

 其処まで言葉を紡いだ摩耶が、全身を強張らせた。気付いた様だ。顔を引き攣らせた摩耶が一歩後ずさると、また暗がりが蠢いた。カサカサ……、ともガサガサ……とも付かない音がした。漣みたいな音だが、ちょっと違う。まるで、硬い物が細かく擦れ合うみたいな音だ。ねぇ、もうホント無理……(絶望)

 

 和室の床や壁、天井に、びっしりと黒い楕円形の物体が引っ付いている。アーモンドのチョコレートかな? とか思いたいが、そんな訳が無い。絶対違う。触覚が在るし、微かにキーキー言ってるし、カサカサ動いている。糞デカゴキブリだ。仄かな甘い匂いは、餌か何かを壁に塗ってあるのか。野獣の言っていたボーナスステージの意味を理解した。アーキレソ……。だが、キレてる場合じゃない。逃げなきゃ……(使命感) 

 

 そう思った時だ。止める間もなかった。「悪い悪い、遅くなったな! 懐中電灯も復活だ! やったぜ!」

明かりを持った天龍が、和室に勢いよく走りこんで来た。そして、こけた。「げっ……!!」天龍も気付いた様だが、もう遅い。叢雲、摩耶、天龍は見た。暗がりがこっちに向かって来る。照らされた和室の中で、夜よりも暗い闇が起き上がり、無数の羽音を響かせる。月の枯れ明かりに濡れた翼を広げて、大粒の闇が群れを成し、叢雲達を優しく包みこんだのだ(ノムリッシュ)。

 

「ぎゃああああああああああああああああああああああああ(叢雲)!!!!」

 

「だぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああ(摩耶)!!!!」

 

「びゃあああああああああああああああもあもあもあもあもあも(天龍@精神崩壊)!!!」

 

 三人は絶叫しながら、転がるみたいにして外に飛び出る。

 

 バサバサバサという硬い羽音が耳元で聞こえる。もう轟音だ。気が狂いそうだ。叢雲は気絶しそうになる。服の中に闇が入って来てる。スカートの中もだ。最悪過ぎる。もう服を脱ぎ捨てながら、逃げる。上着も下着もへったくれも無い。脱ぐしかないし、逃げるしかない。正直、喰われるかと思った。凄い恐怖だった。漏らさなかった自分を褒めてやりたい。服を脱ぎ散らかしながら山道まで走り戻って、一目散に駆け下りる。

 

 三人とも身に付けて居るものはブーツと“ロック”のネックレスだけだ。何てことよ。少し走って、頭の片隅に冷静さが帰って来る。流石にこのまま、拠点となっていう廃旅館まで戻るのは流石に不味い。誰かと擦れ違ってもキツイ。肝試しどころの騒ぎじゃなくなってしまう。咄嗟に、叢雲は走る方向を変えた。考えることは、摩耶や天龍も同じだったらしい。三人は先程、皐月達が泣いて出て来た長屋の廃墟に走り込んだ。

 

 

「ファッ!!? 何だお前ら(素)!?」 

 

 長屋の中には、野獣が足を投げ出して座っていた。裸を見られる羞恥よりも、怒りが勝ったのだろう。摩耶は距離を詰めて、立ち上がろうとする野獣に延髄切りをぶち込んだ。「ヌッ!?(昏倒)」野獣が倒れた隙に、叢雲と天龍は、長屋の戸の影に身を隠す。ペッと唾を吐いた摩耶も、腕で身体を隠して、叢雲達と同じように、襖の陰に身を隠した。ちょっと気が晴れたが、状況が好転する訳でも無い。何故自分は、こんな山奥で裸なのか。それを思うと、羞恥と絶望を通り越して、悲しみが胸中に広がりつつある。叢雲はお尻を床に着けない姿勢で、膝を抱えるようにして座り込む。溜息しか出ない。

 

「オォン、アオォン、ハーイッタ……。あのさぁ、三人はどういう集まりなんだっけ?(インタビュー)」

 

 摩耶の延髄切りを喰らって、首を擦りながらでもすぐに起き上がって見せる辺り、野獣も大概タフだ。

 

「盛り合うのは勝手だけど、場所と時間を弁えてくれよなー。頼むよー(KNGU並感)」

 

「これが盛り合ってる様に見えんのか!? テメェのせいで、ゴキブリに喰われそうになっただろうが!!」

 

 天龍も叢雲と同じように身体を隠すように蹲り、野獣を睨んだ。女性の裸を前にしても、えらく冷めた様な貌の野獣は、とぼけた様に肩を竦めて見せる。

 

「イベントにハプニングは付き物だし、ま、多少はね? というか、全裸になって走り込んで来るとか、予想不可能だから(半笑い)」 

 

 「……この野郎」

 

 呻くみたいに呟いた摩耶は、飛び出そうとした様だが、動かなかった。そりゃあ、裸だし……。冷静になればなる程、身動きが取れないのだ。自分も裸だから分かる。恥ずかしいのは当たり前だが、服を着ていないだけで大分に心細い。……もう帰りたい。だが、何か着るものも無ければそれも無理だ。野獣に噛み付いてばかりいても埒が明かない。ずっと此処に居るわけにもいかないし、そんなのは絶対に嫌だ。

 

「……野獣提督。お願いがあるんだけど」 

 

しゃがみ込む姿勢のままで、長屋戸に隠れたままで叢雲は真面目な声で言う。

 

「ん? 今なんでもするって言ったよね?(幻聴)」

 

「言ってない。ふざけないで。何か着るもの持って来て」

 

 叢雲は、隠れた戸から顔だけ出して、野獣を睨む。摩耶や天龍も、黙ったままで、野獣の言葉を待っている。

 

「ふーん……。(思案顔先輩) じゃあこれ」

 

 似合わない真面目な貌になった野獣は、海パンの尻部分から何かを取り出して、叢雲に放ってパスした。

戸から隠れたまま腕を伸ばして、叢雲はそれを受け取る。可愛いキャラクターがプリントされた、10枚入りの絆創膏の箱だった。叢雲は久しぶりにブチ切れた。

 

「ちょっとォ!! 殺っちゃうわよ!? 殺っちゃうわよ!!?」 

 

「良いだろお前、プリ○ュアの絆創膏だぞお前(意味不明)。一人三枚使っても一枚余るダルルォ!」

 

「あ、そっかぁ……(分析)、あったまきた……(怒髪天)」 

 

「は~~~、しょうがねぇなぁ(悟空)。俺が(お前らの服)拾って来てやるか」

 

 最初からそう言えよ……。低く呟いた天龍の声がいやに良く通った。あく行けよ。続いて呟いた摩耶の声には、ほんのりと殺意が滲んでいた。叢雲も、舌打ちをしてから鼻を鳴らす。何とかなりそうだ。ちょっとホッとする。脅かし役の野獣が居なくなるが、まぁ良いだろう。それがどうしたと言った感じだ。

 

「こ↑こ↓は、ラッキーポイントで脅かし役とか誰も居ないからさ。スタンプでも押して、安心して隠れてて、どうぞ(申し訳程度の優しさ)」 

 

 煙草を咥えた野獣が、出口に向かう。

 

「……えっ?」 上擦った声が出た。

 

 叢雲は、隣で座り込む天龍と、顔を見合わせた。見れば、摩耶も真顔になっている。だって。おかしい。さっきは、皐月達が泣きながらこの長屋から飛び出して来たのだ。てっきり、野獣か、他の艦娘が脅かし役で、中に潜んでいるとばかり思っていた。

 

「その手は喰わねぇぞ、野獣! 皐月達をビビらせたのって、どうせお前なんだろ!? ……お前、だよな?」

 

「STKくんには会って無いゾ。カリに此処に来てたとしたら、さっき俺が裏に花摘み(大の方)に行ってた時だと思うんですけど……(名推理)」

 

 そんな馬鹿な。此処が、脅かし役無しのボーナスポイント? それマジ? 野獣は何もしていないと言う。じゃあ。皐月達は。此処で何と遭遇したのか。何を見てあんなに怯えていたのか。艦娘でも野獣でも無い、何かが。此処に居るのか。

 

「やべぇよ、やべぇよ……」

 

 天龍が半泣きでソワソワし始めた。摩耶の表情も凍り付いている。動くことも出来ない辺り、摩耶の方が若干重症だ。唇が震えてくる叢雲も、暗がりの長屋の中を見回す。何も無い。誰も居ない。その筈だ。逃げ出したくてたまらないのに、裸なのでそれも出来ない。そんな叢雲達を、野獣は鼻で笑う。

 

「ちょっと昔の事調べてみたら、この辺にぃ、“一つの鍵”って書いて、“ピンキー”って呼ばれた魔物が居たらしいっすよ。でも今じゃ廃集落になってるし、そんなモン居ないってはっきり分かんだね(先輩風)」

 

 だから何も無ぇって、安心しろよー。そう言いながら、くわえた煙草に、野獣はライターで火を点けた。ライターが灯した火の明かり。その瞬きに。野獣のすぐ傍。背後に。“女”の姿が浮かび上がった。「クぅーン……(子犬)」天龍が失神して、「ポッチャマ……(ポケモン)」摩耶が卒倒した。叢雲は、心臓が一瞬止まるのを感じた。巨大な眼に。巨大な口。顔を隠す程の長い髪。井戸の其処から聞こえる様な、澱んだ声。イチマンエンクレタラシャブッテアゲルヨ。確かに聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何かが聞こえたのだろうか。書類から顔を上げた提督は、何も言わず窓の外を眺めた。雷も、それに釣られて、窓の外を見遣った。黒い空には星が瞬いているのが見える。後は、欠けて瘦せた月が、黙に冴える様な柔らかな光を湛えているだけだ。特に何も無い。いつも通りと言うか。何の変哲も無い、夜の空だ。現在。暁、響、電の三人は、肝試しに駆り出されている。雷は、今日の秘書艦という事で、まぁ難を逃れたと言うか、何と言うか。緊急時に備え、大和と武蔵は鎮守府に残っているが、それでも今日の鎮守府は静かだ。

 

 

「どうしたの、司令官? ぼーっとしちゃって」

 

「いえ……。先輩と、叢雲さんの悲鳴が聞こえた気がして……」

 

「あー……。今日は肝試しやってるものね。あそこの土地利用って、やっぱり司令官達でも口出し出来ないの?」

 

「工事が本格的に始まれば、僕達の立ち入りも制限されるでしょうね。だから、今のうちに、艦娘の皆さんの慰労に利用しておこうと、先輩は言っていました」

 

 鎮守府裏手の山裾に、大々的に人の手が入る事は雷も知っている。廃集落を包んでいた茂みや木々を開いて土地造成が行われたのも、軍事施設の為だ。それもかなり特殊と言うか、人の眼に着かせたく無い様な、そういう施設なのだろう。“元帥”二人を抱えた鎮守府に干渉してくる以上、そう勘繰ってしまう。

 

「偉そうな人が来るの、ちょっと嫌だなー。違う処に建ててくれれば良いのに」

 

「街から外れて、人の気配が遠いこの土地は、本営にとっても魅力なのでしょうね」

 

 提督の言葉には、確かに憂いが含まれていた。それを気取られまいとする様に、提督は雷に、ほんの少しだけ微笑んで見せる。彼の言葉は、確かに信じられる。今までも、彼は本営からの無茶な指示には、絶対に首を縦には振らなかった。それが原因で、彼自身が煙たがられることもあった。前の作戦でもそうだ。艦娘を兵器として運用する諸提督から、彼は糾弾の声を浴びている。だが、いざ作戦が始まってみれば、艦娘を沈めることなく挙げられた貴重な彼の戦果が、その正当性を物語っていた。

 

 艦娘は、ただの兵器では無い。一人の兵であり、其処には意思が在る。そう主張するかのように、彼は前の作戦でも徹底して、慎重さを貫いた。惜しむ事なく資材を溶かし、“バケツ”を使い、艦娘一人一人の疲労に気を配っていた。激しい戦いが続いた前の作戦では、轟沈まで行かずとも、自身の母港へ戻ることすら出来ない程に負傷した艦娘が多数いた。当たり前だが、そう言った艦娘達は、修復が受けられない状態が続けば沈むしか無い。治せる傷も、時間が経てば手遅れになる。故に彼は、必要であれば他の提督が召還した艦娘にも、ドックを解放した。勿論、修復に掛かる資材は自腹だ。彼は作戦中、脇目も振らず、ただ只管に艦娘達を支え続けた。愚直なまでのその姿勢を、笑うものも大勢居た。

 

 挙句の果てには、ワザと疲弊した艦隊をこの鎮守府に送ってくる者も居た。彼は何も言わず、ただ微笑んで傷付いた艦娘達を受け入れた。各6桁まで在った資材は現在、もう底をつき掛けていた。おかげで、出撃もままならないから、本営からの支援待ちの状態だ。野獣の演習がギリギリだった。本来、此処まで窮すれば、提督の作戦指揮の責任になるところだが、本営からのお咎めは無しだった。その実情を、向こうも知っているからだ。

 

 本営は、彼を絶対に手放したく無い筈だ。同時に。最大限、彼や野獣を使い潰す腹積もりだ。間違い無い。きっと、彼自身も理解している。それを案じる艦娘達の声を聞いても、彼はやっぱり、困った様に薄く微笑むだけだ。どれだけ心配しても、どれだけ訴えかけても、彼には届かない。凄く歯痒い。今だってそうだ。彼は自分の心配なんて全然していない。艦娘達の事ばかり気に掛けている。その所為で、自分を痛めつけるみたいに苦労ばっかり抱え込んだりしている。

 

「もし誰が来ても、艦娘の皆さんへ余計な干渉はさせませんから。安心して下さい」

 

「……うん」

 

 そう短く答えて、雷は彼に造って貰った“ロック”のネックレスをぎゅっと握った。もっと私を頼って良いのよ。その言葉を飲み込んで、にっこりと笑う。

 

「ね、司令官。ちょっと休憩しない?」

 

「えぇ、少し肩が凝りましたね。一息入れましょう。……それじゃあ、今日は、僕が飲み物を用意しますね」

 

「えっ!? そんなの駄目よ! 私が淹れるって決まってるんだから!」

 

「えっ、そ、そうなんですか?」

 

「そうよ! 今は私が居るんだもの!」

 

 訳が分かるような、分からない様な理論で彼を黙らせて、雷はせっせとお茶の準備をする。彼の視線を背中に感じ、ちょっとだけドキドキした。こういう時の為に、雷はお茶の淹れ方を練習してきた。鳳翔には美味しい緑茶の淹れ方を教わり、金剛には美味しい紅茶の淹れ方を教わった。暁や響、電を相手に、自分でも美味しいと思えるまで練習した。その成果を見せる時だ。チラリと、彼を肩越しに見た。彼は雷の視線に気付き、ひっそりと静かに微笑んでくれた。慌てて眼を逸らしてから、深呼吸して、集中する。

 

「司令官は何が良い?」

 

「では、コーヒーをお願いしても良いですか?」

 

「え゜っ!?(スタッカート)」

 

「えっ?」

 

「にゃ、な、何でも無いわ! 任せといて!」

 

 せっかく練習したのだが、コーヒーと言われては仕方無い。しかも、提督はインスタントの方が好きのようで、コーヒー瓶が置かれてあった。お湯を入れるだけで手間も掛からないのだが、やっぱり残念だった。まぁ、練習が無駄になった訳では無い。次に活かせば良い。

 

 気を取り直して、雷もコーヒーにした。彼は砂糖もミルクも入れない。ブラックのままの熱いコーヒーをチビチビ飲んでいる。雷もブラックのまま啜ってみた。……にが。文字通り苦い貌で、ペロっと舌を出したら、彼と眼が合った。彼は、ふふ……と、少しだけ可笑しそうに笑った。いつもの静かな微笑みでは無い、少しだけ弾んだ笑みだった。ドッキーン☆とした。そんな風に彼が笑うのを初めて見た。視線を慌てて逸らして、逃げるみたいにコーヒーをまた啜ったら、うぇ……、ってなった。やっぱり苦かった。顔の赤さを誤魔化す為に立ち上がって、砂糖とミルクを取って来て、いっぱい入れた。

 

「こんな苦いの良く飲めるわね……」

 

「……僕は、少し大人ぶっているだけですよ」

 

「あ、それ嘘ね。だって、美味しそうに飲んでるもの」

 

「ふふ、もう言い掛かりですね」

 

 彼が、また少し微笑んだ時だった。扉がノックされた。彼がどうぞと言い終わる前に、扉が開かれた。のそっと入って来たのは武蔵だった。眠たそうと言うか、気の緩んだ様な貌をしていた。普段の番長的な威圧感は全然無い。失礼かもしれないが、凄く大きい猫みたいだ。「む……」と。入って来た武蔵は、今更な驚いた様な貌をして、提督と雷を見比べた。それから、いつもの真剣な貌に戻って、「……邪魔をしたな」と、帰っていこうとした。何をしに来たんだろう。もしかすると、提督と二人だけでする様な話でもしに来たのだろうか。ただ、先程の気の抜けた様な武蔵の様子からすると、どうもそんな深刻な話では無い筈だ。

 

「……海に、何か異常でも在りましたか?」

 

 そう言った彼の声音に、また驚かされた。

雷には絶対に見せない様な、信頼というか、親しみの様なものが込められた声音だった。先程までの胸の高鳴りは、今度は一転して雷の胸をきつく締め付けた。苦しい。口の中に残ったコーヒーの苦味が、強くなった気がした。

 

「いや、何も無くてな。大和が番をしてくれている間は、余りに退屈だったんで此処に来たんだが、執務中だという事を失念していた」

 

「……すみません。苦労をお掛けします」

 

「何を言う。私などより、雷の方が余程苦労をしているぞ。すまんな、雷。こいつは部下の管理も下手だが、自己管理はもっと下手とかいう、どうしようもない奴だろう」

 

 昔からつるんでいる悪友の欠点を笑うみたいに、武蔵は楽しげに言う。彼も、擽ったそうにそれを聞いている。この二人の間に在る、特別な何かを感じた。雷は何とか笑みを浮かべて見せて、「えぇ、私もそう思うわ」と、冗談で返す。そうだろう、と。武蔵は、喉を低く鳴らすみたいに笑ってから、彼と雷を見比べた。そして、安心したと言うか、何処か満足したみたいに頷いて、雷の肩を叩いてくれた。

 

「……戦う事しか知らん私の代わりに、皆でこいつの事を支えてやってくれ」

 

 頼んだぞ。最後にそう言い残して、武蔵は執務室を後にしようとした時だ。執務机に置かれた携帯端末が、電子音を響かせた。ディスプレイには、“大和”の文字。武蔵は扉に手を掛けていたが立ち止まり、提督に向き直った。

 

「……大和からか?」

 

「はい」と、提督は短く頷き、端末を耳にあてる。

 

「僕です。大和さん。何か在りましたか?」

 

 彼は、短い遣り取りの後、瞑目し、深く息を吐きだした。雷は何も言わず、ただ彼の言葉を待つ。武蔵も同じだ。彼は椅子から立ち上がった。

 

「……航行不能に陥っていた艦娘の方が一人、埠頭脇の浅瀬に漂着したとの事です。埠頭に行って参ります。雷さんは、此処で待っていて頂けますか?」

 

「え、わ、私は秘書艦よ! 勿論行くわ!」

 

「……分かりました」

 

食い下がる雷に、彼は特に何も言わなかった。

 

 

 

 

 彼が何故、雷を執務室に残そうとしたのか。それは埠頭に付いて、すぐに分かった。少しだけ、着いて来た事を後悔しそうになった。手が、脚が震えた。動けなかった。ただ、見詰めている事しか出来なかった。

埠頭にて、大和に抱きかかえられた彼女は、艤装を装備していなかった。小柄な少女だった。右腕が無い。左脚の膝から先が無い。欠損している。駆逐艦だ。ボロボロだけど見覚えのある、血が滲んだセーラー服。濡れて、その頬に張り付いている、明るい茶色の髪。人間の肉体と違い、艦娘の身体は水を必要以上に吸わない為、顔も判別出来る。

 

 前の大戦で大破轟沈の寸前まで行って、何とか生き延びようと足掻いたに違い無い。彼女は大海原の果てから、右腕と左脚を失って尚、もがくようにして陸を目指し泳いで来たのだ。そして作戦が終了し、轟沈した艦娘達のカウントが終わって暫く経って、ようやく。ようやく辿り着いたのが、この鎮守府だったのだ。彼女は。“雷”は、立派に作戦を遂行したのだ。それは間違いなく、彼女が握り閉めた、生きようとする執念の“勝利”だった。その勝利を祝う者は居ない。代わりに、“雷”の体からは、微かに光の粒子が漏れていた。艦娘である“雷”が、“雷”として生きるための大切な何かが、零れ落ちている。

 

「……助かるでしょうか?」

 

 “雷”を海から引き上げてくれた大和は、不安げに言いながら、そっと提督に“雷”を抱き渡した。提督は腕の中の“雷”の様子を見て、苦しげに眼を細めてから、ゆっくりと瞑目する。そして、息を吐き出した。

 

「……肉体と精神の消散が始まっています。もう、修復ではどうしようもありません」

 

「救えんのは、お前の所為じゃない」

 

 武蔵は“雷”を見詰めながら、彼女を抱える提督の頭をぐしぐしと乱暴に撫でた。提督は何も言わない。じっと、身じろぎ一つしない“雷”を見詰めている。

 

「では……。せめて、皆で送ってあげましょう」

 

悲しげな貌をした大和が、提督を慰めるように言った時だ。夜の海と、暗がりの埠頭に融けて消えてしまいそうな程に、小さな声がした。“雷”が、喘ぐように何かを呟いたのだ。雷も、思わず駆け寄って、顔を覗きこむ。青白い唇に、濃い隈。やつれた頬に、痛んだ髪。潮水に濡れた肌。それらが、光の粒となって融け出していく中で、“雷”は、薄っすらと眼を空けた。大和や武蔵、提督の声に反応したのだろう。

 

 し。れ。……い。か、ん。……ど。こ。

 

 今にも消えてしまいそうな程に掠れ、罅割れた声で。うわごとの様に呟いた。“雷”は、視線を彷徨わせる。しかし彼女の濁った眼は、もう何も映していない。何処も見ていない。だが、“雷”は、残った左腕を、何かを掴もうとしする様に持ち上げた。提督は彼女を横抱きするような形で、そっと“雷”を地面に横たえ、右腕でその右肩を支える。そして左腕で、彷徨う“雷”の左手を、しっかりと握った。彼は、「此処に居ます」と、優しく声を掛けた。

 

 彼の掌のその感触と声に、“雷”が、心から安心した様に、細く、本当にか細く、息を吐き出した。何も視えていないだろう瞳に、涙がゆっくりと満ちていくのが分かった。それは“雷”の頬を伝ったが、すぐに光の粒に還ってしまう。黙ったまま、その“雷”の様子を静かな表情で聞いていた提督は、何かに気付いた様だ。「雷さん」と。不意に名前を呼ばれた。彼は、怖いくらいに凪いだ穏やかな表情で、雷を見詰めていた。

 

「彼女には、“ロック”が掛かっていません。……今ならまだ、“改修”が間に合います」

 

「他所の艦を“改修”するのは久しぶりだな。中へ連れて行くか。開けてくるぞ」 

 

「いえ、準備をしていたのでは間に合いません。この場で行います」

 

 武蔵が踵を返そうとしたが、それを提督が呼び止めた。

 

「ただ、設備も何も無いので、大和さん、武蔵さんへの“改修”は出来ません。僕が対象に取る事が可能なのは、事実上の同型である雷さんのみになりますが……」

 

 そして再び、彼は雷に向き直る。真剣とも、狂気とも違う。穏やかで、静かな眼差しだった。“改修”とはつまり、一人の艦娘に、別の艦娘の魂を鋳込む、高等施術の事だ。本来なら、妖精さんの協力のもと、十分な設備が無ければ不可能な施術である。それを、ただ一人で彼は行うと言う。言っている意味が、いまいち理解出来なかった。 だが、かなり危険な行動だと言う事は、顔色を変えた武蔵の様子ですぐに察する事が出来た。 

 

「提督よ……。一応聞くが、自分の寿命をどれだけ縮めるつもりだ」 

 

その武蔵の声を聞き流した彼は、雷に向き直る。

 

「雷さんが、彼女の魂を受け取ってくれるのならば、“改修”を行います。もしも不安なのであれば、……行いません。海に還る彼女を、見送ってあげましょう」

 

無理強いはしません。提督は、そう言って微笑んでくれた。雷は、大和と武蔵を、順番に見た。大和は、深く頷いてくれた。武蔵も同じだった。

 

「司令官。お願い」

 

「分かりました……」

 

 提督は頷いてから大和を見て、「眼鏡を取って貰えませんか」と、“雷”の微かな声を消してしまわない様に、小さく言葉を紡いだ。神妙に頷いた大和は、提督が掛けている眼鏡をそっと外し、大事そうに畳んで、手に持った。有り難う御座います、と。提督は微笑んでから、今度は雷に向き直った。

 

「彼女の左手を握ってあげてくれますか」

 

 雷は言われるまま彼の傍に屈んだ。そして、彼の腕の中で消えようとしている“雷”の左手を、両手で握った。それを確認した彼は、空いた左手で、提督服のポケットにしまっていた携帯端末を操作する。これから行う“改修”を記録する為だろう。今度は、その端末を武蔵に手渡した。その束の間に雷は、“雷”に小さく声を掛ける。

 

「司令官は大丈夫よ。私が居るし、“貴女”が居るじゃない」 

 

 言葉が、“雷”に届いたかどうかは定かでは無い。だが、彼女は、応えてくれた。消滅の最中に在りながらでも“雷”は、なけなしの力を振り絞って、雷の手を握り返したのだ。

 

あ。の……。ね。し、れ。い。か。……ん、ご。め、ん。ね。

 

 波音に攫われてしまいそうな程に、小さな声だった。しかし間違い無く、“雷”の声だった。それを聞いて、雷の視界がぐちゃぐちゃに歪んだ。涙で、前が見えなくなった。滂沱として溢れてくる。嗚咽を堪えるので必死だった。

 

み。ん。な、し。ず、ん……。じゃ……、った……。ん。だ。

あ。か。つ。き……。…も。……、……、ひ、び。き、も……。……い。な、づ……ま…も。……わ。た、し……。も。

で。も……、わ、た、し……。が。い。な、い。と、……、し。れ、い。……か。ん、は。……だ。め……だ、も……ん、ね。

だ、か。ら。……か……え……っ……て。き。た。の……。

 し。れ。い。……か。ん。……ど。こ……。……。も、う。こ。え。……が……き。こ。え……な……。

………………………………。…………………………。

……………………。………………。…………。

 

 雷の声が、遠い波音に攫われた。何も聞こえなくなった。無慈悲に零れていく光の粒子は、まるで嫌味みたいに綺麗だった。雷は、“雷”の手をずっと握っていた。“雷”の手から力が抜けていくのを感じた。自分の掌から、“雷”の命が零れていく感触が確かに在った。掬い直すことも出来ない。だが雷の代わりに、彼が“雷”から零れる光を、優しく掬い直してくれた。

 

 淡い蒼色の微光が、提督と雷、そして“雷”を包むようにして渦を巻く。複雑な紋様が、力線として編まれてコンクリートに奔って、陣を描きだした。海からの波や、風の音が消えた。代わりに、地面に走った力線が、蒼い明滅を始める。夜空の星と月を含む全てが、息を潜めて彼の施術を見守っているかの様だ。澄んだ蒼い光は、右手で“雷”の身体を横抱きにした、提督の右掌から伝い、溢れている。優しくて、何処か悲しい、暖かくて、少しだけ冷たい、蒼色だ。風ならぬ風が、傍で見守る大和と武蔵の髪を靡かせた。“改修”施術”が始まったのだ。

 

 蒼い微光は帯の様に編まれて、消散を続けていた“雷”の体を優しく包んだ。それに合わせて、微光編みの帯がゆっくりと解けるようにして、“雷”から雷へ。繋がれた小さな手を伝うようにして、流れ始める。“雷”の孤独な戦いと、比類無い献身を分かち合い、その魂を雷へと鋳込み、弔うべく、彼は無表情のまま朗々と文言を紡いでいく。

 

 優れた芸術家は、石柱の中に居る天使を、外の世界へと解放している。昔の詩にて、そう表現されたらしい。故に“造形”とは、その精密さを上げるにつれて、削られた石としての、その質量が減るのだと。艦娘も同じだ。“艦”という造形から、“艦娘”としての造形を召ぶ“召還”のとき、その質量は大きく減少する。生きていないものを生かす為だ。故に、艦娘には、“死”という概念が生まれ、“魂”という概念が生まれる。肉体と共に、意識や自我や精神が発生する。それらを抜き取り、また別の造形へと移し変える事が出来る者のことを、この時代では“提督”と呼ぶ。つまり提督とは、職業軍人である以前に、生命鍛冶と金属儀礼の“シャーマン”である。それをほんの少し、彼は分かり易くしているに過ぎない。

 

 彼が編んだ光は、光の粒として消え去ろうとする“雷”の魂を、雷へと注いで手渡した。蒼い光が消えていく。同時に、力線も薄れるようにして消えて行き、渦を巻いていた微光は、潮風に塗され、攫われて行く。

彼の腕の中に横たわっていた“雷”も、もう消えていた。代わりに、海風と波の音が還って来た。月と星が、語らいを始める様に瞬いている。生り零された光は、全て雷へと託された。“改修”が終わったのだ。妖精の助けも設備も無く、此処まで完璧に施術を行える者など、“元帥”クラスでも数人だ。

 

 性能を上げる為でも何でも無い、この施術はしかし、決して無意味では無い。確かに、雷の中に、暖かな何かを感じた。とても尊い、大事な何かが、雷の中で実を結ぶ。意味不明な激情と共に、嗚咽が漏れそうになった。それを堪えていると、提督が手を優しく握って、立ち上がらせてくれた。彼は、雷を抱きしめるでもなく、頭を撫でるでもなく、いつも通りひっそりと微笑んだ。

 

 きっと、激戦期を乗り越えて来た彼は、こんな経験なんて山ほどしてきたのだろう。慣れてしまって、麻痺しているのだ。雷は何も言えず、彼の眼を見詰めた。黒い彼の瞳は、何処までも澄んでいる。宝石みたいにも見えるし、安っぽいビー玉にも見えた。彼の微笑みの裏に累々と積み上げられた、壮絶な苦悩と自責を垣間見た気がした。大和と武蔵も黙ったまま、彼と雷の様子を見守っている。彼は、微笑を崩すことなく雷に小さく頷いた。

 

「彼女の分まで、生きてあげて下さい」

 

 それだけ言って、彼は提督服のポケットから、“ロック”のネックレスを一つ取り出し、雷の手に握らせてくれた。きっと、さっきの“雷”の分だろう。それを握り閉めてから、雷は服の裾で、ぐいっと涙を拭った。息を吸い込んで吐いた。彼のいつも通りの微笑みの御蔭で、心が落ち着いた。

 

「うん。任せといて、司令官。もっと頑張っちゃうんだから」 

 

 そう言って、いつもみたいに笑う事が出来た。……出来たと思う。見れば、こちらを見守っていてくれた大和と武蔵も、安心したみたいに微笑んでいた。この鎮守府に召還されて、本当に幸せだと思った。せっかく笑ったのに、ちょっとだけ泣いてしまった。



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第4章

 飴色の空と、昏い色に沈む海のコントラストには美しさと不気味さが共存し、調和している。艤装を纏って海を航行している時には別に気にならないが、こうして陸に足を着けて海を眺めていると、そんな風に感じてしまう。普段とは見え方が違うと言った方が正しいのかもしれない。艤装を装備している時と、そうで無い時とでは、やはり違う。見えている景色が同じでも、まるで何らかのフィルターが掛かった様な違和感だ。

 

 鎮守府の平和で穏やかな時間の中から海を見詰めると、畏怖の様なものを感じる。海の中に潜む害意と悪意を思い出すと、足が竦みそうになる時だって在る。しかし、いざ戦場海域の海原に出てしまえば、感じる事が出来るのは緊張と使命、警戒だけだ。

 

 埠頭から眺めている今の様な、海に対する美しさも不気味さも、殆ど感じない。仮に不気味さを感じたとしても、怯むことは無いし、冷静さを欠くことも無い。戦いの最中では、恐怖も感じない。油断も躊躇もしない。仲間を守る為に勇猛に戦い、遠征任務もこなし、容赦無く勝利を積み上げて来た。黙ったままの海は凪いだり荒れたりと表情こそ変えるものの、結局、漫然として足元に広がっているに過ぎない。

 

 

 陸と海に居る時とで感じるこの感覚のズレは、やはり艦娘が兵器としての側面を持っているが故だろうか。もしくは、“艦”の誇りがそうさせるのか。茜に燃える水平線は、幽渺、幽遠さを湛え、走り去ろうとする雲の群れに、夕陽を塗している。電は、書類が綴り込まれたファイルを大事そうに手に持ち、執務室に向う提督の斜め後ろを歩いていた。出撃から帰投した艦娘達を出迎えに出て、彼女達が入渠ドックに入るのを見送った帰りである。薄暮の埠頭には、緩い潮風が吹いている。彼も、波の穏やかな海を眺めながら、静かな足取りで歩いていた。その表情は普段と変わらない。静謐な面差しで水平線を見据えている。感情を伺わせない彼の黒い瞳に、暗い茜色が写っていた。

 

 彼には、この海がどう見えているのだろう。そう思ってから、じっと彼の横顔を見詰めていた事に気付く。電はそっと視線を外して、軽く咳払いをした。序に、そういえば会話も無く黙ったまま歩いている事にも気付いた。気まずい。いや、気まずいと思ったのは、多分電だけだろう。海を見遣る彼は、そんな事は気にしていない筈だ。彼は、黙っていても苦にしない性格とでも言うか。誰かの機嫌を取ろうとしたりする事も無かった。今だってそうだろう。自分の事も話そうとしないし、自身を理解して貰おうとする素振りも見せない。

 

 電は、他の艦娘達と同じく、彼と固い信頼関係を築けていると思う。しかし、心を通わせているかと聞かれれば、他の艦娘と同じく、素直には首を縦にふれない。彼の来歴を知っても、彼自身の心の内を明かして貰った事はほとんど無い。確かに、感謝や信頼は伝えてくれる。優しくしてくれる。だが今、彼が、海の果てに何を見ているのかなんて事は、全然分からない。聞いてみても、彼は答えてくれないだろう。いつもみたいに、困った様な、優しげな微笑を浮かべて見せるだけだ。

 

 彼の本心を知っている艦娘が、この鎮守府に一体どれだけ居るんだろう。この海が、どんな風に見えているんだろう。電も、彼の視線の先を追ってみた。其処にはただ広漠とした海が在るだけで、やはり彼が何を見ているのかは分からなかった。でも、分かることも在る。

 

「帰還された皆さんに、大きな怪我も無くて良かったのです」

 

 黙ったままの背中に、そっと声を掛けて見る。

 

「えぇ、本当に……。中破したという報告を聞いていましたが、皆さんの元気な顔が見ることが出来てホッとしました」

 

 電の言葉に、彼は安心したように微笑んでくれた。彼は誰よりも皆の無事を喜び、安堵してくれている。それは間違い無い。今はそれで十分だと自分に言い聞かせ、微笑を返しながら電も頷く。

 

「きっと帰還した皆さんも、司令官の顔を見れて安心したはずなのです」

 

「いえ……、僕なんて、心配ばかりしている弱虫な奴だと思われている筈ですよ」

 

 電は、ついさっきの事を思い出して、自分の笑みが苦笑に変わるのを感じた。今日の帰投した艦隊の中には、曙や霞、満潮が参加しており、出迎えに行った提督に彼女達が少々きつく当たったのだ。ただ、無意味に罵詈雑言を浴びせかけられた訳では無いし、彼女達も意味も無く提督に噛み付いたりしない。

 

 曙は腕を組んでそっぽを向いたまま、“そんなに私達の心配ばっかりするなら、自分の心配もちょっとはしたら”と、つっけんどんに言っていた。霞も不機嫌そうに鼻を鳴らして、“私達は子供じゃないわ。気に掛けてくれるのは在り難いけど、出迎えなんて不要よ”と言い放っていた筈だ。満潮はと言えば、特に何をいうでも無く、そっぽを向いて鼻を鳴らすだけだった。彼女達の言葉や態度の裏には、彼に対する思いやりが感じられた。彼女達なりの、彼に対する信頼の表現方法の様なものなのだろう。実際、あの3人が彼の身の振り方に対して、気を揉んでいたりするのも知っているから余計にそう思う。

 

「僕は、何処までも臆病者です。業突く張りで、いぎたなくて……、どうしようも無い子供のままです」

 

 彼は自嘲するみたいに言ってから僅かに俯き、歩く速度を落とした。また、彼が肩越しに振り返った。

 

「電さんは、……海に出るのは恐ろしいと思う事は在りますか?」

 

 澄み切った黒い瞳が、電を映している。

 

「えっ」

 

 そんな事を聞かれたのは初めてだった。というか、電が戦いに参加するようになって、もうかなり経つ。

余りに今更な質問の真意が咄嗟には掴めず、ポカンとしてしまう。落ち着き払った抑揚の無い彼の声からは、見た目の様な少年らしさは感じられない。やたら温みのあるその声音は、耳と言うより心に響く。それは、電が彼に召還されたから、という理由だけでは無いと思う。見詰められると、眼を合わせることが出来ない。

 

「い、いえ……、海に出る時は、他の艦娘の皆さんと一緒ですし、怖くは無いのです」

 

 不自然な伏し目がちになりながらも、言葉を紡ぐ。

 

「……電さんは、強いのですね」

 

 そう呟くように言った彼の声音と、真摯な眼差しには、電に対する尊敬と信頼が在った。ドキッとしてしまう。電は「い、いえ、そんな! 強くなんて無いのです!」と、手を振って見せた。慌てたせいでファイルを落としそうになった。自分を落ち着かせるみたいに息を吸い込んで、海を一瞥した。

 

「海に出る時は緊張しますし、この鎮守府の誰かが沈んで還って来ない事を考えると、…凄く怖いのです」

 

 電は、“艦”としてでは無く、感情を持つ“艦娘”として答える。答えてから、埠頭から見る海に感じた不気味さの正体が、今更になって少しだけ見えた気がした。海とは戦場であり、茫洋極まる墓所でも在る。沈めば、もう帰っては来れない。電に倣い、海へと視線を向けて居た彼は、少しだけ苦しそうに眼を細めて、前を向いた。少しの沈黙が在った。埠頭のコンクリートに、彼と電の影が伸びている。風が緩く吹いている。電は、何かを決心するみたいにきゅっと下唇を噛んで、夕陽に染まる彼の背中を見詰めた。

 

「でも、沈んだ敵も出来れば助けたいと思うのは、その、おかしいですか?」

 

 深海棲艦との戦争には勝ちたいが、命は助けたい。他の艦娘には伝えたことの無い、電の本心だった。電は其処まで言って、彼の言葉を待つ。こうして打ち明けるのにも、思ったより勇気が必要だった。胸がドキドキしている。空にまだ星は無い。夕雲が流れているだけだ。彼が静かに、しかし深く息を吸い込んだ。それをゆっくりと吐き出してから、彼はまた、歩きながら肩越しに視線を寄越した。僕も、そう思います。そう言った彼は何時もの様にひっそりと微笑んでから、頷いてくれた。凄くホッとした。彼の表情は本当に暖かくて、優しい世界を希うような微笑みだった。

 

「深海棲艦との共存は、今の段階と状況では非常に難しいでしょう。ですが……」

 

 彼は其処まで言って、海へと視線を向けて、ゆっくりと二度瞬きをした。その一度目の瞬きの瞬間だった。

 

「条件さえ揃えば、“海”から平和を買う取引は、……可能かもしれません」

 

 怖いくらい抑揚の無い彼の声に、ゾッとした。電は思わず息を呑んで、身構えそうになる。海を見詰めながら、一度目の瞬きをした彼の黒い瞳に。暗紅色の光が灯った様に見えたからだ。見た事がある種類の眼の光だ。あれは、確か。海で。海原で見た。深海棲艦の、“鬼”か。“姫”だったか。海にも、深海棲艦にも感じた事の無い種類の感覚だ。恐怖。いや、これは畏怖だろうか。身体を強張らせる電には気付かないまま、海を見詰める眼をすっと細めた彼は、細く息を吐き出した。そして、二度目の瞬きが終わった時には、彼の眼に宿っていた、鬼火の様な紅のゆらめきは消えていた。やはり気のせいだったのか。

 

 優しげで、ちょっと頼りなさそうな、いつもの彼の眼に戻っていた。澄みきった彼の黒い瞳が、海から電へ向けられる。一歩後退りそうになったが、何とか堪える。すぐに言葉が出てこなかった。彼はそんな電を見て、やはり微笑むだけだった。その微笑も、何時もと違った。顔全体を引き攣らせながら歪ませて、何とか笑って見せた様な印象を受けた。電の視線から逃げるみたいに、すぐに彼は背中を向けて、歩き出した。その小さな背中が何時もより小さく、でも大きく、遠くに見える。やはり、言葉を掛けることが出来なかった。暫く、彼の後ろを黙って歩いた。

 

 埠頭に並ぶ倉庫の前を歩きながら、地面を見詰める。彼の事を、怖いと思ってしまった自分が、何だか凄く嫌だった。今しがた見た、彼の紅い鬼火の宿る瞳が、深海棲艦の上位個体の視線と重なって見えた。黙って彼の後ろを付いて行きながら、ぎゅっと、手にしたファイルを抱きしめる。

 

 深海棲艦に付けられた“鬼”の銘は、“棲”の文字と共に付けられている。南方棲鬼。泊地棲鬼。南方棲戦鬼。港湾棲鬼。離島棲鬼。どれも、“棲む鬼”と称される。更に、“姫”の銘を称されるものは、“戦艦棲姫”、“飛行場棲姫”など、場所だけで無く、建築物、造物に“棲む姫”と称されている。無機物に宿った、人類に対する敵意と害意と殺意の総称である。では、もしも有機物に“棲む何か”が居たならば、それは何と呼ぶべきなのだろう。場所。方角。金属。それらに宿る“鬼”や“姫”と同じく、“人”の中に“棲む何か”が居たのならば、それは“鬼”か“姫”か、或いは、もっと別の何かなのか。其処まで考えて、電は自分では気付かない内に足を速めて、彼の提督服の袖をきゅっと摘んでいた。

 

「ど、どうされました?」

 

 一旦立ち止まって振り返った彼も、さすがに少し驚いたようだった。その貌を真っ直ぐ見ることが出来ず、電は微かに震える指先で彼の袖を摘んだままだ。「あの、司令官さんは、そ、その……」俯くようにして、電は言葉を詰まらせる。何か言葉を伝えようとして、彼の袖を摘んだ訳では無い。

 

 だが、先程の彼の様子を見て、彼が、何処か遠くへ行ってしまう様な気がしたのだ。仲間の誰が沈んでも、それは凄く悲しい。帰って来ない事を考えると本当に怖い。それと同じだ。彼が居なくなってしまう事を考えると、底の無い奈落へ落ちていく様な気持ちになる。だから、今みたいに縋るようにして、彼の裾を摘んでしまった。不安や焦りの様なものを強く感じてしまったのだ。急に恥ずかしくなって来た。

 

「あ……ぅ、な、何でも無いのです! 先に執務室に戻って、コーヒーの準備をして待っているのです!」

 

 彼の袖から指を放しながら早口で言って、電はペコリとお辞儀をした。それから、呼び止めようとする彼の隣を走って通り過ぎる。埠頭倉庫の角を曲がろうとした。出来なかった。同じタイミングで、角から走り出て来た誰かとぶつかったからだ。黒のブーメラン海パンとTシャツ姿の野獣だった。咄嗟に、身体へ“艦娘”としての力が入ってしまった。

 

「はにゃぁ!?」 

 

「ヌッ!?(電のオデコで鳩尾強打。吹き飛んで悶絶)」

 

 後ろに倒れて尻餅をついた電は、すぐに起き上がって野獣に駆け寄ろうとした。

 

「痛たた、あ、あの! だ、大丈「捕まえたぞ、野獣……」

 

 だが、彼女は電よりも速かった。地面に伏せて鳩尾を擦る野獣に詰め寄って、その胸倉を引っ掴んで無理矢理立たせた。軍人と言うか、武人然とした凛とした声音には怒気が滲んでいる。那智だ。眼つきの鋭さも相まって、相当怖い。普段は結構タフな癖に、今回は当たり所が悪かったのか。電にぶつかったダメージが抜けていない野獣は、痛そうな貌で鳩尾辺りを擦っている。と言うか、あの不機嫌そうな那智を前に、痛がるだけで怯んだりしない辺り、神経の図太さもかなりのものだと思う。取りあえず、那智と野獣の間に入れない電は、はわわわ……、みたいになるしか無かった。見守るだけである。

 

「貴様、私を見るなり逃げ出したところを見ると、やはり悪い事をしている自覚は在った様だな。もう許せるぞオイ」

 

「お腹痛いにょ……。まま、そう怒んないでよ。ちょっと呑んだだけから。ヘーキヘーキ。ヘーキだから(棒)」

 

「何が“ちょっと”だ! 飲み干しているだろうが! そもそも貴様が平気でも、私は全く平気でも何でも無いぞ!」

 

 やれやれみたいな野獣に対して、那智のボルテージは上がりっぱなしだ。と言うか、二人の間に何が在ったのだろう。立ち去るに立ち去れず、立ち往生していると、「怪我は在りませんか!?」と彼が駆け寄って来てくれた。「はい、私は大丈夫なのです。でも、その……」と尻すぼみに答えながら、電は野獣と那智へと視線を戻す。丁度、そのタイミングで那智と野獣も、電と提督の存在に意識が向いた様だった。野獣の胸倉を掴んでいた手を慌てて放した那智は、ピシッとした動作で提督に最敬礼をして見せる。

 

「INDMも大丈夫か? 大丈夫か? 俺もNTに追い掛け回されてて、前方不注意だったんだよなぁ(分析)。許して下さい、オナシャス! センセンシャル!」

 

 一方で、那智の手から逃れた野獣は、ワザとらしく首元を擦って痛がりながらだが、一応電に謝ってくれた。電の方は全く怪我は無いし、むしろ艦娘に激突した野獣の方こそ心配すべきなのだが、見た感じでは全然問題無さそうだった。だが、その野獣の言い草に、那智の眉間に見る見る皺が寄っていくのを見て、彼が真面目な貌で野獣と那智を見比べた。

 

「あの、改装か編成か何かで、問題でも在ったのでしょうか?」

 

 彼の質問に、那智の表情が少しだけ苦くなった。というか、普段は落ち着いた彼女が此処まで怒るとなると、何か在ったのだ。野獣の艦娘運用について、何か口を出したりするつもりは無いのだろうが、やはり彼も気になったのだろう。電としても気にはなったが、どうも野獣の様子を見るに、そんなに深刻なことで怒っている訳では無いのは、何となく分かった。らしくも無く視線を彷徨わせた那智が、「それは……」と、言い澱んでいる。野獣が、つまらなそうに鼻から息を吐きだして、肩を竦めて見せた。

 

「HUSYUのトコの酒を一本くすねて呑んじまったら、それがNTの取り置いてあった大吟醸だったんだよなぁ。すっげぇ~美味かったゾ^~(ご満悦)」

 

 電は、先程までの那智と野獣のやりとりを思い出して色々と察した。彼の方も「あぁ、そうでしたか……」と、なんとも苦しい笑顔を浮かべていた。先程は電にも素直に謝って見せたのも、野獣なりの挑発だったのだろうか。憶えておけよ(小声)、と。歯軋りをした那智は、横目で野獣を睨み付けている。かなりおっかない。だが、大の男でも震え上がりそうな視線を平然と受け止める野獣は、提督に歩み寄って、その肩を叩いた。

 

「だからそう怒るなつってんじゃねーかよ(棒)。今日の晩、こいつと一緒にHUSYUのトコに行く約束してるから、NTも、良いよ来いよ。其処で何か奢ってるやるから、それで許して、どうぞ(上から目線)」

 

 野獣に肩を抱かれる状態だが、彼は特に嫌がる素振りも見せず、那智に快く頷いた。意表を付かれた貌の那智は、彼の微笑みにたじろぐみたいに一歩下がった。だが、すぐに野獣を睨み返す。

 

「いや。その必要は無い。弁償しろ。それで許そう」

 

「はぁ~、面倒くさ。NTさぁ~ん。俺、知ってるんですよォ~(ねっとり)。AOBから色々、また買ったんでしょう? 良いよなぁ~、俺にもちょっと回して下さいよ」

 

「なっ!?」那智の頬に、さっと朱が差す。

 

「はわっ」電も、自分の顔が熱くなるのを感じた。

 

 実は、以前の“提督の島風姿”の写真が出回った事を切っ掛けに、この鎮守府の艦娘の間では、提督のその手の写真が高値で取引されたりしていた。彼の写真が流通するのは、野獣が召還した艦娘が優先である。彼が召還した艦娘には、順番とは言え、秘書艦として一日一緒に居られる機会が在るからだ。秘書艦になれば、彼が起きていない早朝に自室に向かえば寝顔も見放題だし、肩を揉むという名目のもと、ボディタッチも可能だ。控えめな電も、今日は……やったぜ。なのです。

 

 ただ、野獣に召還されてしまった艦娘はそう言う機会には殆ど恵まれない。そんなのは余りに不公平だ、訴訟。という流れになったのだ。その解決の為、流星の如く現れた救世主が、青葉だった。彼女の“皆にも彼の良さを伝えたい”という熱意と、“彼を撮りたい”という情熱。其処に、“あ^~、良いっすね^~”という助平心。その三つが作用し合うことで、彼に大胆なポーズを要求し、風呂場に潜入して盗撮まがいの事を平気で行い、強引な『知る権利』を振りかざす、とんでも無いパパラッチ娘が誕生したのだ。

 

 しかも、彼の写真を販売することを、彼自身から許可を取ったと言うのだから、もう意味が分からない。彼は、『僕の写真なんて、誰も欲しがりませんよ』と苦笑していたらしいが、そんな訳が無かった。需要はかなり在ったりする。青葉自身が、以前の激戦期を生き抜いた艦娘であり、その間、彼を支え続けた一人でもある。それ故に、彼からの信頼も厚いという事もあるのだろう。ただ流石に、無修正モロ出しボンバー☆みたいな写真は出回ったりはしていない。その辺りは、青葉も弁えている様だ。

 

 艦娘の皆も、青葉のセンスというか、命を燃やすかのような素晴らしい写真には惜しみ無い称賛を送っている。写真の種類は多岐に渡り、彼の寝顔や横顔、項や手、腕、脚、お尻など、様々なフェチ達の要望に応えられるラインナップである。ちなみに電も一度、青葉が撮って来た彼の写真を見せて貰ったことが在る。何と言うか、途轍もない衝撃で価値観が変わりそうになった。

 

 あの肌色まみれの写真のせいで、その夜は悶々として眠れなかったのを思い出す。一枚だけプレゼントして貰った彼の写真は、シャワー中の彼のハダカの上半身を、背中から撮ったものだった。どうやって撮ったのか凄く聞きたかったが、そんな疑問を吹き飛ばす代物だった。少女のようなきめ細かな彼の肌と、少年らしい瑞々しさに溢れた背中の躍動感。滴り伝う、水の球。くゆる白い湯気に、冴える様な艶やかな肌香と、濡れた髪。背のラインから続くお尻への曲線は、写真から見切れていたが、それがまた芸術的だった。正直、感動したのを覚えている。青葉は天才だと、本気で思った。

 

 提督のこんな嫌らしい写真なんて撮るなぁ!(建前)ナイスぅ!(本音)というのが全体意見であることに、心から納得した。噂によれば、まるで密売みたいに本営にも何枚か送られているらしい。誇り高く錬度の高い艦娘が揃い、多大な戦力を保持しているこの鎮守府の、ちょっとした闇の部分とでも言うか、そんな感じだ。この事については野獣にはバレ無いようにしていたらしいが、どうやら無駄だった様だ。

 

「な……、何の事だか分からんな」

 

那智が、いかにも苦し紛れといった風に眼を逸らした。

 

「あ、そっかぁ……、俺の勘違いかぁ(ゲス顔)」

 

 対する野獣は、肩を抱いた彼からは見えないように、海パンの尻部分から、写真を3枚取り出して、それを那智にチラつかせた。那智の表情が強張った。野獣が手に持っていた写真は、3枚とも彼の島風姿だった。

一枚は、島風服の脇の切れ込みから、彼の桜色の蕾が覗いている。所謂、胸チラ写真である。もう一枚は、島風服の彼のお尻を強調する様なアングルの写真。あと一枚は、彼のスカートを持ち上げる“ふくらみ”のアップ写真だった。今までに無いほど扇情的と言うか、性的というか。割りと直球だ。電は自分の鼻をさっと触って、鼻血が出ていないかそっと確認した。大丈夫だった。ただ、那智の方は結構やばそうだった。顔が紫色になっていた。

 

「き……、き、貴様……、ひ、人のモノを(レ/震え声)」

 

「被写体“本人”に言うべきかなぁ、コレ。どうすっかなー、コレなー(いじめっ子)」

 

 那智の様子から見るに、間違いなくあの写真3枚は、那智が所有していたものだろう。焼き増しの可能性も在るが、多分違う。写真の彼のお尻や、胸の蕾の辺りに、何やら桃色ペンでハートマークが書かれているからだ。電もちらっと見て、あっ……(察し)と言い掛けたのを、ぐっと飲み込んだ。那智と視線が合いそうになり、すっと眼を逸らす。遣り取りの意味を理解出来ていないのは、瞬きをしながら那智と野獣を見比べた彼だけだろう。

 

「あんな高そうな酒の弁償なんて無理だからね、仕方ないね(レ)。じゃけん、酒の席で奢るくらいで勘弁してくれよなぁー。頼むよー(鼻ホジ)」

 

「な、ぐ……ぅ。わ、分か……った」

 

 俯き加減でぎゅうぎゅう手を握り締めて、ぶるぶる肩を震わせながら、半泣きの那智が言う。気の毒だったが、電の力ではちょっとフォロー出来そうになかった。「では、また後程。楽しみにしています」と、彼が、微笑んだ。夕陽に照らされた無垢な彼の笑顔が届いた先は、那智の心の中に在る罪悪感か、それとも萌えなのかは分からない。苦しそうな貌になった那智は「し、失礼しゅる!!」と噛み噛みに言いながら敬礼をして、競歩みたいな速度で、去って行った。野獣に噛み付いて大火傷をした艦娘は、これで何人目だろう。電は、何だか切ない気持ちになった。

 

 

 

「真面目過ぎるNTには困ったもんじゃい……(なすり付け)。そういや、怪我無いかINDMァ」

 

 那智を見送りながらも、全然悪びれた風じゃない野獣は、彼の肩を抱いていた腕を解いて、ボリボリと頭を掻いた。それから、電の方へと向き直る。

 

「はい。で、でも、電が身体に力を入れて踏ん張ってしまったので……。ごめんなさいなのです。野獣さんの方こそ、お怪我をされていませんか?」 

 

「ヘーキヘーキ。今回は俺が悪かったんだからさ。別に謝らなくても良いゾ。そんなに簡単に謝ってたら、気が弱い奴だと思って付け入られちゃう、ヤバイヤバイ(危惧)」

 

 

 思案顔になった野獣が、顎に手を当てて何か考え始めた。電の傍に居た彼の方も、野獣の言葉に、納得したみたいに頷いている。

 

「電さんはとても優しい方ですから、それを逆手に利用しようとする人も、居ないとも限りませんね」

 

「そうだよ(便乗)。じゃけん、ちょっとこういう状況になった時の為に練習、しときましょうね~(名案)」

 

「えっ」

 

 何だか、変な方向へ話が進もうとしている。助けを求めるみたいに彼の方へ見ても、「それは良いかもしれませんね」と、笑みを浮かべていた。

 

「シチュエーションに弱いのを克服する為だから、イメージし易い方が良い……イメージし易い方が良く無い?」

 

「僕は機転の利かない人間なので、すみません。アイデアは先輩にお願いします」

 

「あ、そっかぁ(熟慮顔先輩)。それじゃ、今みたいに、誰かがぶつかって来たっていう状況で、はい、ヨロシクゥ! フリースタイル(?)で一回やってみて、どうぞ」

 

 オロオロする間も無く、何か始まった。「え、あの……」と、電は野獣と彼の顔を交互に見る。二人とも、やたら真剣な表情で、電の一挙手一投足を注視していた。フリースタイルって何なのです……?(素朴な疑問)。ラップ対決みたいな感じだろうか。ただ、何と言うか。二人とも電のことを馬鹿にしているとか、いじっていると言う風でも無い。気の弱い電が、もしも何らかのトラブルに巻き込まれた時に、オドオドしてしまって付けこまれてしまわない様に心配してくれているのだ。きっとそうだ。そう前向きに捉える。眼を閉じる。一つ深呼吸する。薄暮の埠頭に吹く潮風を吸い込んで、吐き出す。

 

 集中力を高める。気が弱くても良い。でも、悪い人には凛然と立ち向かうのだ。電は、駆逐艦なのだ。“艦”なのである。自分に非が有る時は、誠意を持って謝罪する。だが、非が無い時にまで、弱気になる必要は無い。強気に行け。野獣はそう言っているのだろう(早合点)。そうだ。もっと強気に。ガンガン行くのです。電は自分の中に、シチュエーションを思い描く。イメージする。強気な自分を。誰かがぶつかって来た状況を、イメージ……、イメージ!

 

「お、オイ、コラァ! 降りろォ! なのです!!(><)」

 

「ファッ!?」

 

 野獣が驚愕していた。提督もポカンとしている。でも、二人の様子は、余り気にならなかった。今はただ、イメージした自分を表に出す努力をするのだ。強い電を。敵も助けられるくらい、強い自分を。ぎゅっと手を握り締めて、電は息を吸い込む。イメージを加速させる。

 

「め、免許持ってんのかぁ! なのです!! にょ、よーし、電のクルルァに続いて、鎮守府まで着いて来い! なのです!(><)」

 

 徒歩じゃなくて、車に乗ってる状況の上に……、鎮守府まで連れて来るのか(困惑)。野獣は驚いた様な貌で呟いていたが、提督の方は無言のまま、真っ直ぐに電を見ている。まるで、電が少しずつ変わろうとするのを応援してくれているみたいだ。凄く心強い。力が漲ってくる。気持ちが高揚してくる。彼の傍に居られる様に、強くなりたい。

 

「よ、ヨツンヴァインに、にゃ、なるのです! あくするのです!」

 

 前の肝試しの日からだ。雷の様子が少し変わった。何が在ったのかも聞いた。雷が、彼の事を話そうとしなくなった。寝る前や休憩時間、非番の日には、時間が許す限り、雷は難しそうな本を読み込む様になった。彼の傍に居て、彼の役に立つにはどうすれば良いのかを、必死に考えているのだろう。姉妹だから、何となく分かる。彼の力になる為に、何か出来る事が無いかを探している。“元帥”の地位に居る彼に、これからどんな任が与えられるのかなんて分からない。もしかしたら、一緒に居られなくなるかもしれない。そんなの、嫌だ。

 

 だから、彼の傍に居ても、おかしくない自分になる為に、私も強くなりたい。彼が手を引いてくれる様な存在になりたい。“提督達”が扱う術式の勉強を始めた雷だって、きっとそう思っている。雷はあの日以来、口癖の様に言っていた“私が居るじゃない”というフレーズを一度も言っていない。心からそう言える様に、雷は努力しているのだ。負けられない。

 

「め、免許返さねぇぞ! なのです! う、ぅう、撃つぞコラァ! なのです!(><)」

 

「物騒過ぎィ!? そんな苛烈に攻め立てなくて良いから(良心)」

 

「ふにゃ……、ふざけんなのです!!(声だけ迫真) 死ぬ寸前まで痛めつけてやるのです!!(><)」

 

「もう許して! 優しいINDMのイメージ壊れちゃ↑~^う!!」

 

 野獣の言葉に、電ははっと我に帰る。握っていた手を開いてみると、じっとりと汗が滲んでいた。こんなに声を出したのは、初めてかもしれない。普段の電を知る暁達が近くに居たら、驚きの余りひっくり返っていただろう。それくらい、思いっきり強気になった。凄くすっきりした。でも、その高揚感は長くは続かないことを、電は何となく知っていた。埠頭に吹いてくる風が心地よい。腕で、額の汗を拭った。深呼吸して、野獣と彼とに向き直る。野獣は、たまげたなぁ……、と、うろたえるみたいな貌で電を凝視していた。彼の方は、頼もしい仲間を見るような、信頼感に溢れた微笑を浮かべている。急に恥ずかしくなって来て、電は俯き加減でペタペタと前髪を触った。

 

「あの、こ、こんな感じが電の本気……じゃなくて限界な、なのです」

 

「十分だと思うんですけど……(冷や汗)。お前、どう?」

 

「普段は優しくてお淑やな電さんが、こんな芯の強さも持っていることに驚きました」

 

 彼の微笑みはひっそりとしているのに、何処か嬉しそうで、電も何だか照れてしまう。俯いた電も、そ、そんな立派なものじゃないのです、と小さな声で返すも、その声は多分届かなかった。くぅ~、と、ちょっと大きめにお腹の音が鳴ったのだ。電のお腹からだ。顔から火が出そうだった。

 

「声出したら、INDMも腹減ったろぉ?(思い遣り先輩)よし、じゃあ今日の呑みの席に、INDMもぶちこんでやるぜ!」

 

「へえぇぇ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんて状況だろう。鎮守府の敷地内に拵えられた、鳳翔の店のテーブル席に座り、電は戦線恐々としていた。那智だって何だか居心地が悪そうだ。提督だけは、いつもの自然体でメニューに眼を通している。野獣は、「ビール! ビール! 冷えてるか~?」と、鳳翔へ手を振って見せていた。ちなみに、隣のテーブル席には、今日の夕方に帰投した曙、霞、それに満潮、潮の姿が在る。

 

 潮を除く三人の貌は、もう不機嫌極まり無い。三人は野獣をめっちゃ睨んでいる。もう睨み殺す勢いだ。食事をするポジショニングとしては、本当に最悪だ。全然落ち着かない。見れば、電と同じようにハラハラとした様子で食事どころでは無いのは、潮も同じようだ。電と眼が合った潮は、『もう参っちゃうよね』みたいな、力の無い笑みを浮かべて会釈してくれた。

 

 きっと自分も、同じような貌をしているに違い無い。こんな日に限って、暁と響は遠征に出ているし、雷は昨日も夜遅くまで起きていたせいだろうが、提督が声を掛けに行ったら、もう寝ていたらしい。正直言って、この状況で夕御飯を食べることになるのなら、電だってちょっと遠慮したい。店内を見渡してみると、曙達の他にはまだ客の姿は無い。そろそろ増えてくる時間だ。ちなみに、この場に居る艦娘の中で、野獣に召還されたのは那智だけだ。後は全て、鳳翔も含め、提督が召還した艦娘である。

 

 テーブルにお通しを持って来てくれた鳳翔に会釈をすると、彼女も微笑んで会釈を返してくれた。本当にホッとする。その暖かさに救われる思いだ。だって、隣の席からは、冷凍ビームみたいな視線が3つ飛んで来ている。それが野獣に向けられているものであったとしても、居づらいことに変わりは無い。平然としているのは提督だけだ。那智の方は、この状況だからこそだろう。既に冷酒を頼んでいた。呑まねば損だと考えたに違い無い。電は取りあえずオレンジジュースを頼んで、美味しいと評判のおでんを頼んだ。彼も電に続いて、おでんを頼んでいたが、飲み物はお冷だけだ。

 

 もうこの状況では、静かに落ち着いて食べることなど望むべくも無いのだが、せっかくである。美味しいものを食べて、気分を紛らわそうと思った。でも、やっぱり無理かもしれないと思った。

 

「クソ野獣。何で隣に座るのよ。……あんただけどっか行きなさいよ」

 

冷気そのものみたいな声で、曙が野獣に噛み付きだしたからだ。

 

「そんな邪険に扱わないでくれよな~、悲しいなぁ(半笑い)。皆仲間だから、仲良くしないとね、ンハッ☆」

 

野獣は全く怯まない。潮が曙を止めようとするが、それに続く霞が舌打ちした。

 

「私達、アンタみたいな屑に召ばれた訳じゃないから。気安く話しかけないで」

 

「Fooo↑ 背筋がサムゥイ! おでん頼むかなー、俺もナー」

 

大人でもビビらせる霞の眼光をもろに受けても、野獣は怯むどころか煽り返している。

 

「ホント五月蝿いわね。窓際行って、……正座しながら飛び降りたら(無慈悲)」

 

満潮は野獣をねめつけながら、ボソッと呟いた。相手にされないのを知っているからだ。

 

 

 あー、もう無茶苦茶なのです(諦観)。とは思ったものの、少し時間が経って気付く。激昂したりしない野獣の御蔭で、妙な話だが、不思議とこの場の雰囲気がピリピリしていないのだ。本当に最初はどうなる事かと思ったが、意外と大丈夫と言うか。野獣が匙加減を心得ていると言うか。ビールを運んできてくれた鳳翔さんも何だか楽しそうに微笑んでいるし、那智も冷酒をあおりながら、唇の端を持ち上げていた。

 

 罵詈雑言を適当に受け流す野獣の様子を見るに、何と言うか、ボロクソに言われる為にこの席に座ったような印象を受ける。曙達をおちょくるつもりで、この席を選んでいると思っていた。だが実際のところは、曙達に好きなだけ言わせて、ストレス解消でもさせてやる魂胆なのかもしれない。野獣だって“元帥”なのである。帰投して来た曙達が中破まで追い詰められていた事だって知っている筈だ。曙や霞、満潮にしても、彼の事は決して嫌いでは無い。それは、彼女達が帰投した時の表情を見れば分かる。大事にしてくれる彼の為に、思うように活躍出来なかったことが悔しかったのだ。鬱憤だって溜まっているだろう。

 

 こうやって言いたいだけ言わせてやるのが、きっと野獣なりの曙達に対する思い遣りなのだ。みんなで幾つか料理を頼み、ビールを飲みながら曙達を適当にあしらい、煽り返す野獣との曙達の遣り取りは、次第に聞いていて楽しくなって来た。煽る野獣に反発する曙達を潮がなだめ、曙達のフォローに提督が入り、那智は可笑しそうに小さく笑っている。電も、ちょっとずつ楽しくなってきた。鳳翔が運んできてくれたオレンジジュースをちびちび飲みながら、おでんを口に運ぶ。凄く美味しかった。持ち帰りもさせてくれるらしいので、雷達の分も買って行ってあげようと思った。ちょっとしてからだ。

 

「あ、そうだ(唐突)」と、野獣が嫌らしい貌で、隣に座る彼に向き直った。

 

「この前の肝試しの時に、青葉が撮ってた写真が出来上がったんだゾ! 前に話した時、お前見たいって言ってたからなぁ~(優しさ)。ホラ、見ろよ見ろよ」

 

 何と言うか、ワザとらしいタイミングだった。野獣は海パンの尻部分から写真の束を取り出して、テーブルの上に広げて見せた。ギクっとした様子の曙、霞、満潮には、彼は気付かなかった。那智も苦い表情だった。実は、肝試しをクリアし、間宮の無料券という豪華賞品を手に入れたのは、暁、響とチームを組んだ電だったりする。

 

 最後に出発することになった電のチームは、それまでに他のチームが一つもクリアしていない事を利用して、全く冒険しなかった。響の提案で、山道を上がって最も近くにある廃平屋、その一番点数の低いスタンプだけを押して帰ってきたのだ。白い着物を着た扶桑と山城が脅かし役として、廃平屋の縁側で足元から淡いライトで照らされて佇んでいたのを思い出す。二人とも美人だから、暗がりに浮かび上がる彼女達の恐ろしさは凄まじく、おしっこを漏らす程怖かったのを憶えている。卒倒した暁をおんぶした響と、腰が抜けそうになった電は、しかし何とか拠点ポイントである廃旅館まで辿り着いたのだ。

 

「あの肝試しは酷かったな。確かに恐ろしかったが、それ以上に大変だった。羽黒は途中で気絶するし、恐怖を中和するとか言って、酒を呑んでいた足柄は始める前からベロベロだったからな」

 

 はぁ~、と重い溜息を吐き出した那智は、コップに注いだ冷酒をあおった。確か那智は、妙高、那智、足柄、羽黒の四人のチームだった筈だ。このうち二人が行動不能に陥れば、リタイアするしか無かっただろう。妙高姉さまが居なければ、本当にどうなっていた事か……。そう呟いた那智は疲れたような、それでいて懐かしむみたいに言いながら、テーブルの上に並べられた写真に手を伸ばした。

 

「しかし、良く撮れているな。……そう言えば、確かに青葉が色々と動いていたな」

 

「僕は参加していませんが、皆さんの表情も活き活きしていて、眺めているだけでとても楽しいです」

 

 彼の言葉に、電はちょっと反応に困る。活き活きしてるかなぁ……。寧ろ、みんな眼が死んでる様な……。青葉が撮って来た写真は、基本的にスタート拠点として利用していた廃旅館の駐車場で撮られたものだ。順番待ちしていた艦娘の貌なんてどれも真っ青で、全然楽しそうじゃない。今にも吐きそうな貌をしている者ばかりである。この写真を見て“楽しそう”なんて感想が出る辺り、提督はひょっとしたら結構なS気質なのだろうか。

 

 そんな事を思いながら、電も写真を眺めていると、ある事に気付く。監視カメラの映像みたいな撮り方をしている写真が幾つか在る。斜め上からだったり、異様に遠いポジションで艦娘を撮っているものが混じっていた。首を傾げた那智も気付いた様だ。「野獣。この写真、妙じゃないか? どうやって撮った?」という、那智の質問に答えず、野獣はまた海パンの尻部分から、掌大の端末を取り出した。そして、そのディスプレイにタッチしながら操作して、画面が見えるように彼に向ける。

 

「脅かし役が皆、気合入りまくって良かったゾ~コレ(称賛)。特に、廃墟にブービートラップと立体映像ギミックまで仕込むAKSは、工作艦の鑑。はっきり、わかんだね。もうマジで良くできたお化け屋敷だったんだよなぁ……(感銘)」

 

「そんな手の込んだ仕掛けまで作っていたんですか。明石さん担当の廃墟に入った方は、幸運だったのですね」

 

 明石の情熱を讃える彼は、相変わらず全く少年らしく無い微笑みを浮かべている。というか。幸運だなんて本気で言ってるんだろうか。電はちょっと怖くなって来た。那智の方も、何だか困惑した様な貌である。隣のテーブルに居る曙達が不自然な位、妙に静かだ。

 

「お、そうだな。これが、その時の様子だから、見たけりゃ見せてやるよ(勝利宣言)」 

 

 言いながら野獣は、セットした端末ディスプレイに表示された、再生マークをタップした。再生された映像には、やはり監視カメラのように、廃墟の室内斜め上から移された映像だった。暗視仕様なのか、画面が全体的に薄緑色だが画質は良い。御蔭で、其処に映っている人物達が誰かぐらいはすぐに分かった。

 

「あ、この方は、満潮さんですね」ディスプレイを見詰める彼が、ポツリと呟いた。

 

 それを聞いて、隣のテーブルに座っていた満潮が、飲もうとしていた炭酸水を盛大に噴き出した。ケホッ! ぅ、ヴふっ……! かなり苦しそうだ。きっと鼻の中で、炭酸がシュワシュワしているのだろう。だが、死刑宣告を受けた様な、『ま、まさか!?』みたいな貌になった曙と霞が、同時に野獣を凝視した。潮はもう、お通夜みたいな貌で、気の毒そうに三人を見ていた。ディスプレイに再生される映像には、無慈悲にも、曙と霞も登場した。潮も居る。曙達は映像の中で、廃墟と化している日本家屋の居間にて、スタンプを押そうとしているところだった。

 

何よコレ。よ、余裕ね。何にも起こらないじゃない。

まったく。あんな汚獣の気紛れになんて付き合ってらんないわ(震え声)

ほんとね。……時間の無駄だわ。は、……早く戻りましょう。

脅かし役の人って、此処には誰も居ないのかな……。

 

 懐中電灯の揺らぎと共に、会話が聞こえてくる。声の順は、曙、満潮、霞、潮だ。

 

 四人の声は震えていたが、何処かホッとしているのが、映像越しでも伝わってくる。彼女達がスタンプを押して、暗がりの居間から出ようとした時だった。突然だ。急過ぎる。何の前触れも無かった。曙達が居る居間の床が、バッコーン!! と抜けた。見ている電と那智でも、ビクっ!!となった。いや、抜けたと言うか、不自然に開いて、潮以外が落っこちた。ついでに、懐中電灯の明かりも消えた。ディスプレイの映像は、暗視仕様なので問題無く見えるが、現場では当然真っ暗闇だった筈だ。いきなりの事に、曙達はパニックに陥っていた。

 

『ああああああああああああああああ↑ !!!!! あああああああああああああああああああああああああああああ ↓ !!!!!!!』

 

 甲高い悲鳴が再生された。絶叫の輪唱である。潮だけが、「あ、あの! 皆、大丈夫!?」と、冷静に呼びかけていた。曙達が落とされた下には、怪我をしないように発泡スチロールが敷き詰められていた。だが、ドッキリはまだ終わらない。明石がセットした立体映像ギミックが作動したのだ。暗い室内に浮かび上がったのは、無数の火の玉と生首、髑髏の群れだった。しかも、その一つ一つが凄まじいリアルさだ。聞こえてくる怨嗟の声も、途轍もなく生々しい。夢に出そうだ。正直言って、見てるだけでめっちゃ怖い。電は直視できなかった。こんなの作るとか、明石さんちょっとやり過ぎなんじゃ……(率直な感想)。ディスプレイを見ていた那智だって「ぅおぉ……」とか、震えた変な声を出していた。提督の方は「うわぁ、凄いですね」と、明石の技術力に素直に感動している。

 

 一方、画面の中の潮が、曙達に怪我が無い事に気付いた様だ。ほっとしているのが分かる。ついでに、此処まで凝った演出を純粋に凄いと思ったのだろう。安堵すると同時に落ち着いて、プラネタリウムでも見上げるみたいに、室内に満ちたおぞましい魑魅魍魎の群れを見上げて、潮も感嘆の声を上げていた。どうやら潮の感性は、提督と通じるものが在るらしい。だが、パニック状態の曙達にとってはそれどころじゃなかった。真っ暗闇の中。生首と髑髏の群れが、呻き声を重ねながら、曙達にゆっくりと迫り出したのだ。

 

怨怨怨怨怨怨怨怨怨。

啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞啞。

宇宇宇宇宇宇宇宇宇宇宇宇。(全部迫真)

 

「ああああああああああああ!! あ゜あ゜あ゜!!! もうヤダぁぁああああああ!! ていとく助けてぇぇ!!!(素)」

 

曙は両手で頭を抱えてしゃがみ込み、蹲るみたいにして泣きじゃくっていた。

 

 

「ぉおおお化けさん!! お化けさん許して!! 膀胱壊れちゃぁぁぁ^↑↑~~ぅぅぅぅぅぅうううぅッ!! (最後に司令官にもう一度)出逢いたいッ!!!(錯乱)」

 

霞も曙と同様に、背中を震わせてその場に蹲っていた。

 

 

「しれぇかぁぁあん!! しれぇええかぁああああん!!! 見てるーーーっ!? 今までありがとぉぉぉぉおお!!! 大好きぃい!! 素直じゃなくてごめぇぇぇえへぇええん!!! フラーーーーーーーーッシュ(?)!!!(覚悟と共に)」

 

 追い詰められた満潮は何かを悟ったのか。魂の叫びと共に、全てを受け入れるみたいに、両腕を広げて歯を食いしばり、暗闇を仰いでいた。映像が其処まで流れたところで、一旦暗くなった。

 

 野獣がディスプレイの停止マークをタップしたのだ。鳳翔の店の中が、耳が痛いほど静まり返っている。えらいこっちゃである。凄い映像だった。と言うか、間違い無くヤバイものを見てしまった。気付いたら、鳳翔さんも提督の後ろからディスプレイを覗き込んでいた。あらあら……、みたいな、何とも言えない表情になっている。

 

「AKBNォ、ついでにKSMもMTSOも冷えてるか~(挑発)?」

 

 野獣は、隣のテーブルの曙達に向き直るが、曙達の反応は無い。皆一様に俯いて肩を震わせている。泣いているとかじゃないが、三人とも首まで真っ赤だ。潮だけが、引き攣った愛想笑いを浮かべている。何て空気だ。

 

「昼間に録画カメラを設置しといたけど、結構良く撮れてるよなぁ(分析)」

 

「……なんだと?」 

 

 那智の声が低くなった。いや、強張ったと言うべきか。野獣の言葉に、電も普通に驚いた。全く気付かなかった。この不自然な撮れ方をした写真の理由が分かった気がした。

 

「俺もクッソ怖い目に合ったけど、色々収穫が在ったゾ(ゲス顔)。今でこそ平気そうにしてるけど、NTも結構、可愛いところあるじゃん(空気)」

 

野獣が、ニヒルな感じに唇の端を持ち上げた。全然似合って無い。たが、那智は、うぐっ……、と低く呻いてから頬を朱に染め、視線を逸らしてぎゅっとコップを握った。どうやら、那智も肝試しでは何かやらかしていたらしい。物凄く恥ずかしそうだ。電は会話に入る切っ掛けが掴めない。どんどん進みすぎである。マイペースなのは提督と鳳翔だけで、彼はお冷を頼んでいる。この状況で、凄い強心臓だ。

 

「ちょ、ちょっと!! 録画カメラなんて、き、き、聞いてないわよ!!」

 

 ガタッ、と。何とか反撃に出るべく、隣の席で曙が立ち上がった。顔は異様に赤いままで、唇が震えている。満潮も、野獣に何か言おうと睨み付けて居るが、口をパクパクさせるだけで、言葉が出てきていない。一番の重症は、最後に顔を上げた霞だろう。本当に泣く寸前だった。いつもの力強さは何処へやら。眼が潤んでる。

 

「そりゃ言ってなかったからね、しょうがないね(屈託の無い笑顔)」

 

「こ、この、クソ提督……」

 

「お、そんな事言っての? やっちゃうよ? やっちゃうよ? 良いんだぜ俺は。別にこればら撒いてやっても……(屑)。ばら撒くぞこの野郎(豹変)!!」

 

「な……!? まだ何も言ってないでしょ!! 良いわよ(自暴自棄)! やりたきゃやりなさいよ!! 私は屈しないわ!!」

 

 曙は果敢に噛み付く。しかし、野獣は肩を竦めた。

 

「うそだよ(ウィットに富んだジョーク)」

 

 そう言って、野獣は再生していた端末を、曙に緩く放って寄越した。それから、軽く鼻を鳴らす。咄嗟の事に両手で端末を受け取った曙は、手にした端末と野獣を見比べた。満潮、霞も同じく、野獣の突然の行動にポカンとしている。潮も、安堵したみたいな緩い溜息は吐き出した。

 

「そんなモンばら撒く訳無いゾ。ただ、KSMにしろ、MTSOにしろ、AKBNにしても、何時もコイツにツンケンしまくってるからね。そんなんじゃ育つ絆も育たねぇぞお前(アドバイス)。たまには、そういうトコもちょっと†悔い改めて†」

 

 割りと普通なことを言い出した野獣に、今度は電と那智までポカンとしてしまった。お冷を少しだけ飲んだ彼が、薄く、小さく微笑んだ。「そんな事は在りませんよ、先輩」。その声は澄み渡り、落ち着き払っていて、とても少年のものとは思えない程凪いでいる。

 

「僕は皆さんの御蔭で、こうして此処に居ることが出来るのです。恥ずかしい話ですが……、僕一人では何も出来ません。本当にお世話になりっぱなしです」

 

 彼に召還された艦娘で、この声を聞いて平然としている者は、多分居ない。あの武蔵だって彼に名を呼ばれると、彼女の野生的な瞳の輝きが増すのを電は知っている。ずっと聞いていたくなる声音だ。彼の黒い瞳が、順番に曙達を見た。曙達は、真っ直ぐに見詰められて息を僅かに詰まらせて、怯むみたいに身を引いた。だが、彼は、はにかむみたいに、嬉しそうに微笑んだ。

 

「僕は、まだまだ全然駄目な奴です。……これからも、また色々教えて下さい」

 

 曙達は、何かを言おうとした様だが、結局、誰も何も言わなかった。赤い顔でそっぽを向いてしまった。潮も、赤い顔で俯いている。電は、少しだけ微笑んだ。鳳翔も、頬に手を当てて、皆を見守るみたいに優しい笑顔を浮かべている。那智だけが、何だか羨ましそうな貌で、コップの冷酒をあおっていた。

 

ちょっとしんみりしそうな空気だったが、野獣が再び焚き付ける。

 

「たまには素直になるのも良いだルルォ、AKBNォ!! “ていとく助けてぇぇ”(裏声)」

 

「ぉ、うぁ、ぅ、うっさいのよ!! そんなの言ってないわ!! 聞き間違いよ!」

 

「あ、そっかぁ(再び鼻ホジ)。KSMも怖かったろォ? あの後トイレ間に合わなくて、ビショビショになっ「殺すわよ!!?」

 

真っ赤になったままの霞の必死な声が、野獣の声を掻き消した。

 

「それ以上言ったら!! 本当に撃つわよ!! YO!! ねぇ、もう死んじゃう!!??」

 

霞が掴み掛かる勢いで立ち上がるが、野獣はヒラヒラと手を振って見せた。

 

「MTSOなんてもう、全てを曝け出してたからなぁ。どう、(もう一回あの台詞此処で)言えそう?(追い討ち)」

 

 気のせいだろうか。満潮のこめかみの辺りで、ブチっという音が聞こえて来た。眼を据わらせた満潮が立ち上がろうとしたら、彼も、満潮に向き直った。

 

「僕も、満潮さんの事は大好きです。これからも宜しくお願いします」

 

 彼は、先程の映像の満潮の台詞を、全身全霊で受け止めていた。恋愛要素なんて皆無の、余りに真摯なその彼の声は真っ直ぐ過ぎる。純粋な信頼だけしかない。それでも十分な威力だった。唐突な彼の言葉に満潮がフリーズした。いや、満潮だけじゃない。全員だった。何て威力だ。クラクラする。曙も霞も潮も、果ては野獣まで、今まで見たことの無い貌になっていた。電は、きゅっと手を握る。何だか、凄く羨ましかった。数秒してから、今度は満潮が泣き出した。彼はおおいに焦ったようだが、同時に鳳翔の店の暖簾を潜って、他の艦娘達がやってきた。まだまだ、騒がしい夜は始まったばかりだった。



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第5章

 日本では古来より、アニミズムの意識が根付いている。

人々は自然物や人工物には魂が宿ると考え、それらは付喪神と呼ばれていた。

優れた職工、職人達も、自らが造り上げる物に“魂を込める”、と言う。

例えば、母が子にマフラーでも編むときだって、“心を込める”と表現したりする。

物に“魂”や“心”が宿れば、次に芽吹くのが“意識”や“思考”、“感情”である。

それらを縫い綴じた“意思”を持ち、万物の内側から人々に語りかける者達を“カミ”として奉り、時に畏れた。

目には見えないこうした不確かな存在に触れ得る者が、現在では提督と呼ばれている。

 

 深海棲艦の上位個体には、確かに“意思”が在る。

人の話す言葉を理解し、また、意味の在る言葉を発することも出来る。

深海より出現する彼女達も“思考”を有し、“感情”としての憎悪と敵意を宿していた。

姫、鬼と称される彼女達は、金属から発生したであろう頑強極まりない肉体と、高度な知性の融合である。彼女達のオーナーの正体は未だ不明だ。

強いて言えば、“海”そのものと言えるだろうか。彼女達がどうやって生まれてくるのかも、諸説あるが、どれも確かでは無い。

だが、本営にとってはそんな事はどうでも良いのだ。提督の執務机に置かれてあった『鹵獲計画書』をパラパラと見て、龍驤は確信した。

この計画は、人類の勝利と平和だけを目的としている。要するに、海の支配を取り戻す事が肝要なのだ。

記された文面から滲み出ているのは、深海棲艦への征服というものに対する、本営なりのより残虐な解釈だけである。

 

 深海棲艦は、人型に近付けば近付く程、強力になる。

しかし、自我や精神が付随してくる以上、それが大きな弱点でも在るという事だ。

極論を言えば、人型の深海棲艦を相手にした時、その強固な肉体と戦う必要は無い。

反抗心。抵抗心。憎悪。殺意。そういった思考を取り除き、精神を抑えてしまえば良い。

自我へ手綱を掛ければ、如何様にも支配出来る。上手くすれば、深海棲艦を手駒に取ることも可能である。

 

 この鹵獲計画の目的は、その施術法を確立する為のものだ。

提督達の持つ、“艦”の金属から、“艦娘”という生命の造形を彫り起こす力。

これを利用して、棲鬼、棲姫達の精神を刻んで象り、完全な道具へと造り替える。

人類が思うがままに、彼女達から意思や思考を剥奪する為の研究である。

海と金属から発生した彼女達に宿る、“魂”や“心”を取り出し、都合の良いように精神構造を造り替えることを目的としているのだ。

“元帥”クラスにもなると当然だが、提督としての資質である、艦娘を召還する為の施術精度も高い。

艦娘召還の力は、其処から枝分かれして伸び、“改修”、“解体”、“補給”、“建造”などの施術へ繋がっている。

艦娘の肉体と精神へと深く干渉する、こうした提督の力を、深海棲艦を対象に取る施術へ流用しようと、本営は目論んでいるのだ。

 

 意思を持たず、命令にのみ従う従順な深海棲艦ほど、素晴らしい兵器は無い。

死を恐れず自己の力のみで肉体を修復し、海に沈んだ鉄屑や金屑を、艦載機や艤装として召び出す、自立する兵器だ。

特に、“姫”や“鬼”と称される彼女達の強さは、並みの艦娘の戦闘力を凌ぐ。個の力で艦隊を相手に出切る程である。

本営が欲しいのは、深海棲艦達の武力なのだ。平和とは、その支配と撃滅の結果に過ぎない。それもまた世の常か。

 

 

 

 頭の隅っこの方でそんな事をつらつらと考えながら、一つ息を吐き出す。

夕飯時の鎮守府。野獣の執務室に、龍驤はタコ焼きセットを持ち込んで、せっせと焼いていた。

 

『何かタコ焼き食べたい……、

タコ焼き食べたくない? 俺もソーナノ、……ソーナノ(フェードアウト)』

と、訳の分からない野獣からの連絡が、非番であった龍驤の携帯端末に入ったのだ。

相変わらず突飛な連絡だったが、まぁ断る理由も特に無かった。

 

 艤装の整備と、艦載機召還用の式神の用意以外は別に何をするでもなく、ぼんやりと考え事をしていただけだった。

夕食も、同じく非番であった大鳳と一緒に適当に済まそうと思っていたから丁度良い。

ただ、執務室でタコ焼きを焼けと言われた時には、流石にちょっと面食らった。

 

 提督達の使う執務室が、其々の鎮守府で、様相も間取りも全く違うのは知っていた。

ある鎮守府では執務室に檜風呂が在るらしいし、学校の教室の様に、机や椅子を揃えているところも在ると聞いている。

野獣の執務室には、洗面所とシャワールームが在る事は知っていたが、その奥に、小さなキッチンスペースが備わっているのは、今日始めて知った。

ちゃんと水道も出るし、コンロも備え付けられている。結構しっかりしたキッチンなのだが、比叡には絶対に此処の事は言うなと釘を刺された。

 

 食材に関しても、野獣は自身で色々と手回しして、面倒なものはある程度揃っていたりする。

タコ焼きの生地や具、トッピングなどを用意までしていた辺り、余程食べたかったのだろう。その行動力には驚かされた。

言ってる事もやってる事も無茶苦茶な癖に、変に用意周到なのだ。

 

「ソースと鰹節の香りが、あぁ^~、たまらねぇぜ! 

やっぱりRJが作る……タコ焼きを……最高やな(ご満悦)」

 

「もう直皆来るやろし、つまみ食いはアカンでー。……でも、我乍ら美味そうに焼けたわ」

 

 カセットコンロ式のタコ焼き機、生地の入ったボウル、トッピングなどを高級そうなソファテーブルに布巾を敷いて、その上に並べている。

龍驤のたこピック捌きも手馴れたもので、焼きあがるタコ焼きは綺麗な球状で、焦げ目のつき方も食欲をそそる。ここまで来ると職人技だ。

野獣は執務椅子をソファテーブルの傍まで引っ張って来て座り、龍驤の焼いたタコ焼きを小皿に取って、爪楊枝で口の中に放り込んでいた。

美味しそうにタコ焼きを食べる野獣を見て、龍驤はちょっとだけ笑ってから、自分もタコ焼きを口の中に放り込んだ。まぁ、ちょっとくらい摘んでもええやろ。

ちなみに、テーブルの上にはホットプレートも用意されており、タコ焼き以外も焼ける状態に大鳳がセッティングしてくれている。

『流石にタコ焼きだけで腹一杯にすんのは、ちょっとしんどいんちゃう?』という龍驤の意見からである。せっかくだし、色々持ち寄ろうという話なったのだ。

ちなみに、龍驤と大鳳は共に野獣では無く、提督に召還されており、二人とも激戦期を経ている。

 

 後は提督と、大和、武蔵、長門、陸奥の五人が此処に来る予定だ。

この組み合わせも野獣に何らかの意図が在ったと見るべきか。いや、考えすぎか。

とにかく、型破りな男だと思う。自分の執務室でプレートパーティをかます提督など、各地にある鎮守府の中でも此処くらいのものだろう。

キッチンも在るし、野獣が食堂に姿を現さないことも珍しく無いから、もしかしたら日常的に執務室で何か作って食べているのか。

執務机の下に、スプレー型の消臭剤を山のように常備しているのをさっき見つけたし、聞けば、明日には執務室の壁紙を取替えて、模様替えもするらしい。

どうせ替えるんだから、今のうちに匂いでも沁みでも何でも付けろ、というノリだ。そういう予定でも無いのであれば、今日の秘書艦である長門が許す筈が無い。

 

 

「あ、龍驤さんも食べてるじゃないですか」

 

 羨ましそうな声で抗議したのは、ホットプレートの温度を調節しながら、油を敷こうとしている大鳳だった。

小柄ながら、普段は大人びて落ち着いた雰囲気の彼女が、ちょっとだけムッとしている。いつもとは違う可愛らしさに負けて、龍驤も困ったみたいに笑った。

この良い香りの中。空腹を我慢している大鳳には、野獣達のつまみ食いが非常に羨ましく感じたに違い無い。

 

「いやまぁ、まだ焼くしええやん。許して」

 

「そ、そういう問題では……」

 

「大鳳も一個いっとくか? 共犯って事で、ウチも黙ってるさかい」

 

 龍驤は言いながら、焼きたてのタコ焼きの一つに爪楊枝を刺して、小皿に取る。

それを大鳳の方へと差し出してから、小皿を持っていない方の手でゴメンのポーズを作る。

『秘密にしといてや』の合図である。龍驤とタコ焼きを見比べた大鳳は、唾を飲み込んだ。

瞳が揺れている。くぅぅ……、という可愛らしい音が、彼女のお腹から聞こえた。

だが、大鳳は自分のお腹の音にも気付いていない。彼女の眼は、タコ焼きを見詰めている。

きっと、小皿のホカホカのタコ焼きが、キラキラと輝いて見えていることだろう。

大鳳はその魔力に直ぐに屈した。無言のまま受けとってから、「……頂きます」と呟いた。

「一杯食べてや。ちゅうても、この生地の量やったら、少ないかもなぁ」

龍驤は笑顔を返しながら、たこピックを操っていく。

 

 何だろう。

 本当に微細な、違和感とも何とも言えない、この妙な感じ。

 横目でチラリと大鳳の様子を伺う。

 今日会った時から思ったが、今日の大鳳は、何だかソワソワしていると言うか。

 そうかと思えば、ぼんやりしていたり、溜息を吐いたりしている。

 

 プシュッと、良い音がした。

 見れば、野獣が缶ビールを傾けて、一人だけゴクゴクやっていた。

 

「あぁ^~、うめぇな!(自分勝手)」

 

「乾杯は流石に待とうや……。まぁ、ええけど……」

 

 龍驤が苦笑を漏らしながら言うのと同時だった。野獣が窓を少しだけ開ける。

夕昏の涼しい風が入って来た。執務室に潮の香が微かに混じった。同時に、遠くで重機の唸り声が重なって聞こえてくる。

鉄のぶつかる様な甲高くも鈍い音も、小さく聞こえる。工事の音だ。龍驤は窓の方は向かずに、手元に視線を落とした。

鎮守府裏手に広がる山裾では、深海棲艦を捕らえておく為の施設の建設が進んでいる。

 

 皆、また彼や野獣の負担が大きくなるのでは危惧していた。

龍驤は、激戦期を生き延びた艦娘の一人である為、本営が深海棲艦に対する研究に、躍起になっていたのは知っている。

現在、『鹵獲計画書』なるものが各鎮守府にばら撒かれているが、そんなものが配布されるよりも遥か前に、研究自体は秘密裏に行われていたのも間違い無い。

激戦期の終盤には、龍驤が参加していない海域での戦闘で、大和と武蔵、長門と陸奥の四人掛かりで、一人の戦艦棲姫を捕らえたという戦果が在った筈だ。

捕らえられた深海棲艦達が何処へ送られたのかも、艦娘達の中で知っている者は、殆ど居ない。ごく一部だろう。少なくとも、龍驤は知らない。

本営が徹底的に情報を外に漏らさない様にしているのだろうが、どうせ棲姫は身体の隅から隅までバラして研究され尽くされて、標本にでもされたのだろう。

そんな噂が流れたりもしたが、あながち間違ってもいないとは思う。

 

 勝利と殺戮が紙一重で存在していた、あの地獄の様な戦闘は、煮詰まるにつれて狂気を増して行った。

人類の勝利に収束していきつつあった激戦期終盤は、その最高潮だっただろう。倫理や道徳など、二の次だった。

ダメージレースでの勝利を確信した本営は、ギリギリまで実利を求め始めた。深海棲艦の鹵獲と、利用を目指したのだ。

駆逐イ級に始まり、ロ、ハ、ニ、ホ、へ、ト、ヌ、カ、ヨ、ソ級などを捕まえる指示が、表立って出ていた。可能であれば、人型も捕らえて来いと言う通達も在った。

特に人型の上位個体はその強力さ故に、捕らえるのは非常に困難だったが、捕らえれば褒美として、多大な評価を本営から得られる事も事実だった。

 

 提督達は下級の深海棲艦を捕らえつつ、そのチャンスを伺っていた。加速する狂奔の中。

戦況の優位さに油断したのだろう。武勲の誘惑に負けて無茶な鹵獲に走り、保持している主力艦娘を全員轟沈させる者まで出始めた。

それが合図だったかのように、深海棲艦達の抵抗も激しさを増した。昼も夜も無く、艦娘達は戦い、敵を殺して、殺されて、沈んで、また召還された。

沈んだ艦娘は人数で数えるより、もう量で見るべきだろう。赤い海に浮かび、千重波に揺れる破片と金屑、臓物と肉片の群れは、今でも鮮烈に憶えている。

 

 艦娘の轟沈数が一向に減らなかったのは、あの泥沼化が要因の一つだろう。

救えない話だが、人型鹵獲の為に動いた艦隊は、野獣達の艦隊を除き、ほぼ碌な成果無く沈んだと聞いている。

ル級、ヲ級、タ級などを捕らえたという報告も、片手で数える程度だった筈だ。つまり、後の艦娘達は残らず沈んだという事だ。

結果として、欲に眼が眩んだ本営とそれに賛同した諸提督達は、艦娘達に大出血を強いたのだ。

下手をすれば、人類優位が揺らぎかねない損害だったあの状況で、戦艦棲姫を捕らえた野獣達の功績は、一体如何ほどだったのか。

確かな事は分からないが、あの一件があったが故に、野獣と提督は同じ鎮守府に配置されているのだろうと、龍驤は勝手に思っている。

再び深海棲艦を捕まえる計画が立ち上がった時に、野獣と提督をセットで事に当たらせる為だ。戦艦棲姫を捕らえた実績は、それだけ本営にも魅力なのだろう。

深海棲艦を飼い殺し、或いは手懐ける為の研究施設の工事も進んでいる。また、あんな下らない事を本気で始めるつもりなのか。

人類が優位に立ってからでも、野獣や提督が本営に何度も召集されていたのも、今思えばかなり怪しい。

戦果報告、会議、その他諸々の為の招集だったのだろうが、本営の真意は恐らく、深海棲艦の研究絡みだったのではないか。

何となくだが、龍驤にはそんな確信が在った。出そうになる溜息を飲み込んで、視線を上げる。

すると、タコ焼きをふーふーして口に放り込もうとする大鳳と眼が合う。

 

 

 

 ちょっと気まずそうな感じで、先に眼を逸らしたのは大鳳だった。

「お腹空いて来ると、頭冴えて来て色々と考えてしもてアカンなぁ」龍驤は誤魔化すみたいに笑って、タコ焼きをもう一個つまみ食いしようと思った時だ。

ノックの音が響いて、執務室の扉が開いた。最初に入って来たのは長門と陸奥だった。提督と大和、それから武蔵の五人がぞろぞろっと入って来た。

長門達の両手には、食堂から分けて貰えるように野獣が手配していた焼肉用の牛肉や、ウィンナーやフランクフルトなど加工品が詰まったビニール袋を提げている。

凄い量だが、大和型、長門型が揃っているのだ。あれでも足りない。

 

 丁度、熱々のタコ焼きを口に入れた大鳳には、かなり最悪なタイミングだったことだろう。

五人全員の視線が、とりあえず大鳳に注がれた。

 

「むぁ!? はふっ!! あふ! あ、あも! 

 ほれはっ! はのっ! はふ、む……! ほふ! ほふっ!」

 

 めっちゃ慌てた大鳳が、口元を片手で押さえながら立ち上がり、ハフハフしながらワタワタし始めた。

「みんなを差し置いて喰うタコ焼きは美味いかぁTIHUぅ~、(自分の事は棚上げ)」と、野獣が言い出したから堪らない。

 

既に一人ビールをあおっている奴の台詞とは思えない。なんて奴だ。

大和達も、大鳳では無く野獣を非難めいた眼で見詰めている。そりゃそうだろう。

野獣の口の周りにはソースがついているし、手にした缶ビールは言い訳の仕様が無い。

 

「むふぁっ!? はふっ! はほふっ! 違いまふっ!!」

 野獣の言い草に驚いた大鳳が、もう泣きそうな貌になりはじめたので、「まぁまぁ」と、龍驤が助けに入る。

 

「つまみ食いっちゅーか。

ちゃんと焼けてるか、大鳳にも試食してもろてたんや。

ウチも一個食べてるさかい、堪忍したって」

 

 龍驤の言葉に、提督もいつも通り、ひっそりと微笑んで頷いてくれた。

「いえ、遅くなったのは僕のせいですし……。準備をおまかせしてしまって、すみません」

 

 

 

 

 

 それから全員でソファテーブルを囲み、食事会のようなものが始まったのだが。

何と言うか、戦艦達がその気になって食べ始めたら、食料が幾らあっても足りない。それを改めて実感した。

龍驤はタコ焼きを焼きながら、ちょろちょろっと焼いた肉やらを摘んでいるが、見ているだけでもうお腹一杯だった。大鳳も似たような様子である。

別に乱痴気のドンチャン騒ぎをしている訳でも無く、普通に食べているだけなのに、凄い迫力だ。皆の箸が止まる気配が無い。

大和や武蔵、長門や陸奥は本当に美人だし、食べている姿に品がある。だが、その妙な迫力のせいで台無しだ。

普段、食堂で食べている量では、絶対に満足していないだろう。

 

 あれだけの量の食材を用意して食べ始めたのに、もう終わりが見えている。

まるで竜巻みたいだ。食べ物が吸い込まれて消えていく様な、奇妙な錯覚に陥った。

まぁ、ウチも今日はソコソコ食べたしな……。腹大きいわ(感覚麻痺)。

序に食欲まで周囲に吸い上げられ、龍驤はそろそろ、生地の続く限り延々とタコ焼きを生産し続ける機械となりつつあった。

戦艦達は龍驤のタコ焼きをえらく気に入った様で、作った端からタコ焼きが消滅していく。ウチは魔法使いか。

 

 ただ、幸せそうな貌で食べてくれる大和達の貌を見ていると、やはり嬉しいものだった。大和や武蔵、大鳳とは激戦期からの付き合いだ。同じ海域で共に戦ったことも何度も在るし、龍驤は絆の様なものを確かに感じている。

野獣や長門、陸奥達のことも強く信頼しているし、掛け替えの無い仲間だと心から思っている。

提督に対してだってそうだ。龍驤は彼を敬愛している。彼の為になら、幾らでもこの身体を張れるつもりだ。

 

 龍驤は横目で彼を伺ってみた。

彼はやっぱり、薄い微笑みを浮かべていた。

まるで、この場に必死に溶け込もうとしているみたいに見える。

しかし同時に、この場から消えてしまおうとしている様にも見える。

今も、大和が彼の名を呼ばなければ、そのまま消えてしまっていたかもしれない。

そんな風に錯覚する時がしばしば在る。秘書艦になった時などは余計だ。

考えすぎだ。気のせいだと、龍驤が自分に言い聞かせている内に。

彼はまた別の誰かに声を掛けられて、その微笑みに、ようやくまた暖かみが宿る。

戻ってくる。彼が、彼になる。そんな印象を受ける。それは、激戦期の頃から変わらない。

彼があんな風に笑うようになったのは、一体何時からなのだろう。

龍驤が彼に召還された時には、すでに彼は、今の彼だった。

少なくとも龍驤は、彼が泣いたり、怒ったりする感情の起伏を見た事が無い。

もっと古株の不知火達ならば知っているかもと思うが、詮索するのは気が引けた。

龍驤の前では、彼は、ずっと彼のままだ。それが少しだけ寂しい。

タコ焼きを引っ繰り返しながら、出来上がった一個を口に運んだときだった。

野獣がソファに座りなおした。

 

「そういや本営から、また『広報用の映像撮って送ってこぉ↑~~~い!』って、

指示書が来たんだよなぁ……。お前らにも協力してもらうから、覚悟しとけよしとけよ~(事前通告)」

 

「そう言えば、数日前に来ていたな。そんな書類も……。

お前が中々言い出さんから、もう無視するものだとばかり思っていたぞ」

 

 タコ焼き三個を丸呑みするみたいに食べた長門が、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

それでも、その凛とした美貌故か、所作の一つ一つに品が在って、妙にちぐはぐだ。

長門の隣で、へぇ……、と感心したみたいな声を上げたのは陸奥である。

 

「前に野獣が撮って、本営に送ったフィルム……、あれ好評だったんだ?」

 

「そうらしいな」 

低い声で言ってから、タコ焼きをまた口に放り込んで、長門は視線だけを野獣に向けた。

 

「カメラマンが優秀だったから、まぁ、多少はね?(撮影者の風格)」

その視線を受け止めた野獣は、得意気な貌でビール缶を傾ける。

 

 龍驤も一応、以前撮影されたフィルムについては知っている。

長門達が執務室に訪れる前に、野獣から話のさわりだけは聞いていた。

金剛や加賀、それにビスマルク達の島風姿をしたPR映像に目を付けた本営が、

艦娘達の存在を兵器としてでは無く、もっと親しみ易い形で発信する為の映像を、試験的に何パターンか欲しいと通達を寄越して来たとの事だった。

 

 可能ならば、短い映画の様なものが望ましいとのことであり、つまりは、プロパガンダ用の映像作品などを作る素材が欲しいのだろう。

今までもこういう取り組みは、映画会社などに依頼して少しずつ行われていたが、そのどれもが『命令によって動く、従順な兵器としての艦娘』に焦点が当てられていた。

それは艦娘という存在に対する、人々の恐怖心と猜疑心を取り除く為のものだったからだ。反抗心を持ち得ない、完成された兵器としての艦娘の姿が必要だった。

深海棲艦の脅威に曝される中で、艦娘達からまで反旗を翻されては、もう人類は目も当てられない。そういった人々の不安を払拭するのが目的であった。

艦娘達が、より人間に近しい存在である事をアピールするような宣伝は、極少数だった。悪い言い方をすれば、あれは電化製品の宣伝映像に近い。

映画会社などに依頼して、計算し尽くされた構成と演出であった今までの広報映像では、艦娘の人間性などは表にあまり出てこなかった。

 

 しかし、“元帥”としての野獣が撮影した映像には、自我や意思を強く育ませた、艦娘達の持つそれぞれの人格を見ることが出来るものであった。

造り物では無い、表情や感情、生気の篭る声と、他者と触れ合う艦娘の姿に、彼女達を大切にしようとする他の提督達にも大きな反響が在ったと言う。

一方、艦娘を完全な道具として見る提督達からは不評ではあったが、本営は、野獣が啓示した艦娘の“人間性”に、何らかの有効性を見出しつつ在るのだろう。

人類にとっては、何処まで行っても艦娘は道具であり兵器でしかない。そういう考え方に異議を唱えながら、

深海棲艦に対して人類が優勢に立っている今、新しいプロパガンダのモデルとして、野獣の提出したPR映像が注目されているという状況だ。

本営としては、より洗練された映像では無く、ハンドメイド感の在る映像が欲しいとの事である。

 

 野獣本人も、本営からこんな要請が来るとは考えていなかった様だ。

短い映画の様なもの、とかいう抽象的な表現だけして、満足するものを要求する辺りは、もしかしたら嫌がらせの類いなのか。

現場を理解しない上層部の無茶振りと言うか。まるで、執務や出撃、演習などの合間にでも、パパパッと撮って、終わりッ! とでも思っているのだろう。

迷惑な話だが、完全に無視する訳にも行かない。考え様によっては、各地の艦娘達の待遇を改善するチャンスでも在る。

それを活かすべく、この集まりで色々とアイデアを吸い上げたいと、野獣は言っていた。

 

 

「撮る映像としては、此処はやっぱり王道を征く……ドラマものですか(王者の風格)」

 

 その野獣の言葉に、一同が顔を見合わせた。

大和、武蔵、長門、陸奥も、揃って『は?』と言った貌である。龍驤だって、手を火傷しそうになった。

提督だけが、静かな表情で野獣を見ている。

 

 野獣な突飛なことを言い出すのは何時ものことだが、此処までぶっ飛んでいるのは珍しい。いや、今日は敢えて更にぶっ飛ばしているのか。

権力や上下関係に頓着しないと言うか、鬱陶しがっている様なきらいが在る野獣の事だ。これは、本営に対する嫌がらせ返しなのかもしれない。

 

「あ、あの、ノンフィクションと言いますか……。

本営からは、ドキュメンタリー的な映像が求められているのでは無いでしょうか?」

おずおずと手を挙げた大鳳は、困惑した貌で言葉を紡ぐ。

 

「私達が、その…、劇みたいなものを演じるんですか?」

大鳳に続く形で野獣に向き直った大和も、反応に困った様な表情を浮かべている。

というか、全員そうだ。野獣の言っている意味が、いまいち理解出来ない。

 

「そうだよ(肯定)」だが、野獣は大和に頷いて見せた。

武蔵は、『何言ってんだコイツ』みたいな貌だ。長門も陸奥も同じ様な貌になっている。

怪訝そうな一同を見回して、「はぁ~~~~~~……」と、野獣はこれ見よがしにクソデカ溜息を吐き出した。

 

「あのさぁ……。勿論、ドキュメンタリーと言うか、もう幾つか

そういうのは用意したけど、それだけじゃちょっともの足りないダルルォ!?」

 

「ちょっと野獣」 

やんちゃな弟を諫めるみたいな声で、陸奥が割り込む。

 

「別にそんな奇を衒う必要無いんじゃないかしら?

 普段通りの此処の鎮守府を映せば、それで十分だと思うけれど」

 

「陸奥の言う通りだ。

 意思や自我を育んだ艦娘達が、此処まで人間性を確立させている鎮守府も少ない……。

 だからこそ、此処の“元帥”のお前にこんな要請が来たんだろうしな」

 

 提督やお前が召還した艦娘達の姿が在れば、それで本営も満足するだろう。

其処まで言ってから、長門は眉間に皺を寄せたままで茶を啜った。

 

「映像を撮って寄越せなどと言ってくるのは、野獣に対する圧力かもしれん。

 ……まぁしかし、踏ん反り返っている本営の度肝を抜いてやるのも、一興だろうがな」

 

 言いながら書類から視線を上げた武蔵は、喉の奥を低く鳴らすように小さく笑う。

嫌味の無い笑い方だった。意外なことに、武蔵は野獣の意見には割りと好意的な様だ。

「何となくですが、先輩の言いたい事も分かる気がします」提督も小さく頷いて、武蔵の言葉に続く。

 

「自分以外の何かを演じ、観る人の心を動かすには、演じる人に感情が無ければ不可能でしょうし……、

それが出来ればドキュメンタリーより、もっと身近に艦娘の皆さんを感じて貰うことが出来るかもしれません」

 

 そういう事なんだよなぁ……。野獣は言いながら、大和や大鳳、長門と陸奥の方を見た。

 

「こういうのは、下手糞でも拙くったって良いんだよ。

心の篭ったマジの演技なんて、ただの機械には無理だからね。

人間にしか出来ないことを艦娘が出来るって事は、それは人間って事で良いんじゃない?(調和への光明)」

 

今までとは少し違った、真剣味のある貌だった。

 

「『こいつらにも感情とか人格あるな』って、パッと見で伝わるんだから、

今までみたいに、押し付けがましくて胡散臭ぇ御託並べる必要なんて無ぇんだよ!(せっかち)。

難しい話は見てる方も眠たくなってくるって、それ一番言われているから」

 

長門は少し驚いた様な貌をしていたが、すぐに唇の端を持ち上げて見せる。

「強引な理屈だな……」。陸奥も肩をすくめて、小さく笑う。「野獣らしいわ……」

提督も微笑みを深めて、缶ビールをあおる野獣を見詰めていた。

龍驤と大鳳は、顔を見合わせて、お互いに肩を竦める。

 

「その攻めの姿勢、私は嫌いでは無いぞ」 武蔵が頷きながら言う。

 

「しかし、そういう視点で映像に残されると思うと、緊張してしまいますね……。

 野獣提督には、撮影内容についての案も、もうお在りなのですか?」 

 

 その大和の問いに、野獣は「お、そうだな」と頷いて見せた。一応の案も、野獣は幾つか考えていた様だ。

やおら立ち上がり、ビール缶を傾けながら執務机に置いてあった紙束を手に取り、それを大和達に配り始めた。

その時だった。ピピピピピっと電子音が響いた。提督の懐からだ。

彼は、「失礼します」と皆に一度断ってから、取り出した端末のディスプレイを確認する。

龍驤には、その彼の横顔がほんの少しだけ曇った様に見えた。微細な表情の変化だったので、気のせいかもしれない。

彼はすっと立ち上がって、すまなさそうに皆に頭を下げた。

 

「医務室からの連絡でした。申し訳ありません。……この辺りで少し席を外させて頂きます。

僕の事は気になさらず、ゆっくりとしていて下さいね」

 

 着いて行こうとして立ち上がろうとする大和や武蔵を手で制しながら、彼はまた微笑んだ。

こういう時の彼の微笑みには、奇妙な圧力を感じさせる。言外に、“一人にして欲しい”と言っている様に見えるのだ。

壁とも溝とも言えない、遠い距離を感じる。御蔭で、大鳳と龍驤も何か言おうとしたが出来なかった。

黙っている長門や陸奥も同じだろう。しかし丁度立ち上がっていた野獣だけが、黙って彼の頭をぐしぐしと乱暴に撫でた。彼も、それを拒まなかった。

 

「そういうことなら仕方ないね(レ)。

あと、一人で行くんじゃなくて、YMTとMSSも連れてってやれよ?(イケボ)」

 

 そう言えば、彼の今日の秘書艦はあの二人だったか。

「……はい」 彼は素直に頷いてから、大和と武蔵を交互に見遣った。

その彼の視線に応え、二人は立ち上がる。「では、失礼致します」静かに頭を下げた彼に、続き、大和達も執務室を後にした。

その背中を見送ってから、野獣が緩く息を吐き出した。まるで弟を心配する良き兄みたいな表情だった。

こうしていると、野獣という男には色々な貌がある事に気付く。

普段のちゃらんぽらんな貌や、ムチャばかりする馬鹿な貌は、それこそ野獣なりの演技なのだろうか。

ふと、そんな事が脳裏を過ぎる。だが、すぐに野獣が身を翻して、ニカッと笑って見せた。

 

「すっげぇ考えたんだゾ~、コレ(自信満々)。オラ見ろよ見ろよ」

丁度タコ焼きを作り終え、ソファに座った龍驤にも一部渡してくれた。企画書類である。

撮影案と銘打たれた幾つかの仮題タイトルと、登場人物達の設定などが、必要以上に細かく記載されている。

仮題には、『駆逐艦達のさくらんぼ』、『巡洋艦は欲求不満』、『夜戦主義(ハート)の戦艦達』、『男達と長門(直球)』という文字が並んでいた。

龍驤は眩暈がした。他にも、『空母達の熟れた午後』、『びすまるく☆みるく』、『アイスティーロマンス』『陸奥と夜の火遊び』とかも在るが、……まぁええわ。

眼をぐるぐるさせて体を硬直させた大鳳は、赤い顔のままで手と肩を震わせながら、企画書の文字を追っていた。

陸奥は、仮題タイトルだけを見てから、溜息を吐き出して書類を読むのを止めた。

「おい野獣っ!!」テーブルを蹴飛ばすみたいにして立ち上がったのは、顔を真っ赤にした長門だった。

 

「今までの真面目な話の流れで、何でこんな糞戯けたピンクドラマの撮影の話に繋がるんだ!?

仮題なんて、どれもいかがわしさ全開だろうが!! 私と陸奥なんて名指しだぞ!!?」

 

「良く見ろよなぁ。ビスマルクも居るダルォ? 

モザイクも目線もバッチェ入れるし、時間も30分くらいで短いから、バレないって! 

ヘーキヘーキ!(意味不)」

 

「目線が在っても名前が既に出てるだろうが!! 

 時間の問題でも無い!! それに、“男達”とはどういう事だ!?」

 

「心配すんナッテ。 とりあえず匿名OKで、これから適当に募集かけるから(棒)」

 

「そんなもの募るんじゃない!!」

 

 長門の怒鳴り声に曝されても野獣は落ち着いたもので、全く動揺するような素振りも無い。

飲んでいたビール缶をソファテーブルに置いて、腕を組んだ。

いつもの、似合わない思案顔だ。

 

「あと一応、『アイスティーロマンス』は、俺とアイツが共演する予定だゾ。

 健全な友情ストーリィだから(大嘘)。安心して、どうぞ」

 

「艦娘の人間性をアピールする為の広報映像を、男だけで撮るのか……?(困惑)」

 

 長門が戦慄した声で呟いた。

 一般広報の中にボーイズラブ映像が混じることになるのだろうが、それは大丈夫なんだろうか……。

 

「ロマンスとか言ってる時点で友情じゃないわよね……(お見通し)」 

言い合う野獣と長門を横目で見て、陸奥は苦笑を浮かべて、疲れたみたいな溜息を吐き出した。

釣られて、龍驤も溜息を吐こうとした時だった。野獣が周りを見回して、半笑いを浮かべた。

「あ、そう言えばTIHUさ、お前もさ。朝一に大浴場に行って、ラッキースケベに遭遇したよな(脱線)」

何で知ってるんだ、という疑問は別に抱かなかった。どうせその情報も青葉経由だろう。

 

 突然の野獣の言葉に、大鳳は弾かれた様に顔を上げて野獣に反論しようとした。

だが、何かを言いかけて止めた。ぎゅっと手を握り締めている。

耳まで赤くした大鳳は、下唇をきゅっと噛んで俯き、また無言で座りなおした。

あれは、事実上の敗北宣言だろう。興味深そうに「あら^~」と呟いたのは陸奥だ。

長門も「む……」とか低い声を漏らして、ちょっとだけ頬を染めて大鳳を見詰めた。

 

「ウチもやりかけた事あるけどなー。男湯と女湯の時間帯、見間違えたんやろ?」

ちょっとだけ同情するみたいに龍驤が聞いてみると、大鳳は小さく頷いて見せた。

「その……。何と言いますか……」赤い顔のままで、大鳳はぽしょぽしょと蚊が鳴く様な声で言葉を紡ぐ。

ただ、龍驤にも答えてくれているところを見ると、大鳳もワザとでは無かったのだろう。

 

 他の鎮守府と同じく、この鎮守府にも艦娘用の入渠ドッグの他に、大浴場が完備されていた。ただ、これは予算の都合で男女兼用である。

時間帯で入る時間を分けているのだが、旅館や銭湯の様に入り口に暖簾を掛けて、大きく男湯、女湯と表示している訳では無かった。

入り口に、男湯と女湯の時間帯が表示された表が張ってあるだけである。龍驤も、これについては、意外と優先して改善されるべき点では無いかと思っていたりする。

時間帯が固定されていたならば間違いも少ないのだろうが、浴室の掃除をしてくれる鳳翔の都合も在る為、その日その日で全然違ったりするのだ。

前の日に時間帯をチェックしていても勘違いしていたり、寝惚けていたりすると普通に間違う。龍驤も寝惚けてやらかしかけた時が在った。

だが、脱衣所で服を脱ごうとした瞬間、浴場の方から“fooo↑”という野獣の声が聞こえたので、慌てて外に飛び出し事無きを得た経験は、今でも憶えている。

大鳳の様子からすると、どうも遭遇したのは野獣では無い。ということは、提督と遭遇したのか。何や……、……えぇやん(素)。

朝から様子がおかしかったのは、その所為か。

 

 野獣は言い合う長門の前からすっと移動して、今度は大鳳の前に立った。

それから、全然似合わない優しげな微笑みを浮かべて見せた。

「アイツの裸は見れましたか……(小声)」 野獣が聞いた。

 

「あの……。は、はい……(小声)」 

らしくも無く照れ笑い、え、えへへ……、といった感じで大鳳が答えた。

次の瞬間だった。「じゃあオラオラァ!! ペナルティだ来いよオラァッ!!!(豹変)」

野獣の動きを眼で追えなかった。一瞬の早業だった。

 

 スパパァンっと言った感じで、大鳳の両手首が、まるで手錠でもするみたいに革ベルトで縛られていた。

さらに同じベルトで、大鳳は目隠しをされていた。というか、何処に仕込んでいたのか。

「ファッ……!?」大鳳が驚愕した更に次の瞬間には、もう一度スパァンと音がした。

今度は、大鳳の両足首だ。ベルトでガッチリ固定してしまった。此処まで、ものの数秒だ。

龍驤だけで無く、呆気に取られた長門と陸奥が呆然としている間だった。

その間にも野獣は、ソファテーブルの隅に置かれたスーパーの袋を右手で引っ掴んだ。

 

「アイツの象さんのサイズは、野菜で言うとどの位だ?(セクハラ)」

言いながら、野獣は左手で大鳳の縛られた両手首を掴んで、抵抗を封殺した。

拷問椅子に座らされたみたいな状態の大鳳は、あれでは立ち上がる事は出来ても移動は困難だろう。

「え……、それは……」目隠しをされた大鳳は何かを思い出したのか。

困惑した表情に、さっと朱が差した。龍驤だって困惑した。

そこは照れるトコちゃうやろ……。

 

 大鳳の様子を見下ろしながら、野獣はスーパーの袋から太いきゅうりを取り出した。

食堂で貰っては来たものの、プレートで焼くには不向きだったので、手をつけないで置いていたものだ。

野獣はそのきゅうりで、大鳳のほっぺをペチペチと軽く叩いたり、突っついたりし始めた。

とんでも無く卑猥な感じだった。

 

「ホラホラホラホラ(鬼畜)」

 

「あ、あの、やめ、あぁっ! こ、これ……、く、屈辱的過ぎィ!!(興奮)」 

若干ハァハァした大鳳が悲鳴(?)を上げる。

 

「やめんか馬鹿タレ!!(憤怒)」

 

 我を取り戻した長門は、野獣と大鳳の間に割りもうとしたが、出来なかった。

体を沈めた野獣がすっと身を引いて、迫ってくる長門から距離を取ったからだ。

それから肩を竦めて見せて、ワザとらしく溜息を吐き出した。

 

「そんな怒ることじゃ無いんだよなぁ。TIHUもちょっと嬉しそうだったダルルォ!?」

 

「た、大鳳の趣向嗜好の話では無い! 風紀の問題だ! 

 とにかく! 難癖付けては艦娘を弄り倒すその悪癖を改めろ!

愛宕が男性恐怖症に陥ったのも、そもそも貴様が原因だろうが!」

 

「あ、ちょっと待って! ビスマルクに電話させて貰うね(唐突)」

 

「おい! は、話を聞け!」

本当に唐突だった。野獣は携帯端末を取り出し操作して耳にあてる。

その様子を見ながら、龍驤と陸奥は、大鳳を縛るベルトを解いてやった。

「あの、その……、ご、ごめんなさい」解放された大鳳は、恥ずかしげに俯いた。

微かに息が乱れて、頬が上気していた。こんな艶っぽい大鳳を見た事が無い。

龍驤は気づかれない様に唾を飲み込んだ。陸奥だって、何だか照れた様な貌だ。

だって……。提督の象さんを思い出すだけで、真面目な大鳳がこんなになってしまうのか。

一体、どんな象さんだったのか。想像だけでは、届かない。興味は尽きない。

とろんとした眼の大鳳は、ゆっくりと手を伸ばして、テーブルの上に転がったきゅうりを手に取った。

そのきゅうりをじっと見詰めて、「……提督」と、熱っぽい声で呟く。それを聞いた龍驤は、「えぇ……(赤面)」と呻いた。

きゅうりがデカ過ぎる。「何て立派な……」陸奥も今まで聞いたことの無いような、うっとりとした声を漏らした。

 

『な、何かしら……? 今、ちょっと取り込んでいるのだけど…』

丁度そのタイミングで、野獣の端末がビスマルクに繋がった様だ。

執務室は異様な空気の割に奇妙なほど静かだったから、端末から漏れるビスマルクの声が、龍驤達にも聞こえた。

野獣が長門の説教をかわす為に、適当なことを言っている訳では無い様だ。通話が繋がってしまったので、長門も野獣を睨むに留まっている。

 

「あ、もしもし! BSMRKですか!? 

ウチの鎮守府にィ、提督の手袋を勝手に持ち出して、

今まさにセルフエンジョイ(意味深)してる変態戦艦が入り込んでるんですけど!

不法行為ですよ、不法行為! ちょっと俺の執務室まで来て下さい!(迫真)」

 

 野獣が言い終わったと同時に、ドンガラガッシャンと端末の向こうでかなり派手な音がした。

家具が倒れるというか、椅子から何かが落ちたというか。硬いもの同士がぶつかるような音だった。

『何で知っ……!!』っと、尋常じゃなく焦りまくったビスマルクのくぐもった声が微かに聞こえた。

しかし彼女はすぐに咳払いをして、数秒の無言を返した後、『あ、あら……、よ、よく聞こえないわ』と切り返して見せた。

さすがは戦艦。中々に豪胆だ。端から見ていた龍驤と陸奥も、何と表現すれば良いのか分からないが、ビスマルクを応援したくなった。

 

『で、電波障害かしら?(すっとぼけ) 

 何言ってるか分からないから、えぇっと、……ど、ドイツ語でお願い出来るかしら?』

 

「お、やべぇ! 110番だな!(少年提督への報告)」

 

『ちょ、ちょっと待って!! ごめんなさい!! 聞こえてます聞こえてます!!(必死)』

 

「まず俺の執務室さぁ、ちょっとこれから重大会議始めるんだけど……、参加してくれない?」

 

『えぇ!? あの……でも (パ ン ツ を 穿 く)』

 

「つべこべ言わずに来いホイ」

 

『……うん(涙声)』

 

 野獣は其処まで言ってから端末ディスプレイを操作して通話を切り、長門に向き直った。

 

「お ま た せ(完全勝利)」

 

「だからそういうのを止めろと言っているんだ!」 長門が詰め寄る。

 

「BSMRKは貴重な海外艦やし、御蔭で広報対象も広がるから、ま、多少はね?(よくばりセット)」

 

 だからまぁまぁ、怒んないでよ。

そう言いながら長門に手をひらひら振って見せた野獣は、あれで宥めているつもりなのか。

噛み付くだけ無駄だと悟ったのだろう。長門も、右手を腰に当てて、左手でこめかみを押さえた。

 

「役者も揃いそうだし、此処はいっちょ、広報映像は学園モノにでもすっぺすっぺ。

 明日の執務室の模様替えで、教室セットぶちこめば良いんだ上等だろ?

NGTとMTの二人が、駆逐艦からビッグ7にまで成り上がる、努力と友情、恋のストーリィで良いんじゃない(迷案)」

 

「……ちょっと待て、既におかしいぞ。私と陸奥は生まれながらビッグ7だ。

 そもそも艦船は、駆逐艦から戦艦へ成長するとか、そういうものでは無いだろう」

 

「だから分かり易さ重視だっつってんじゃねぇかよ(棒)

 NGTとMTはさ、レスリング部とウェイトリフティング部、あと柔道部を掛け持ちする、内気な女子って設定だから(小学生のノリ)」

 

「百歩譲って、私と陸奥のキャラ被りと、頭の悪そうな狂った設定には眼を瞑ろう。

だが、私達と駆逐艦のフィジカルの差を考えろ。正々堂々でも何でも無いぞ」

 

「細かい事は良いんだよ! お嬢様キャラ的ライバルポジは、YMTで決まり! 

 MSSは……、土方の兄ちゃん役で、NGTの恋人ポジだな(ナイスアイデア)」

 

「劇中で武蔵は艦娘ですら無いのか……(困惑)」 

 

「しかも男役やしな…」

 長門と同じく、唐突な土方の兄ちゃんの登場には、流石に龍驤も驚きを禁じえない。

「じゃあ、私の恋人役は誰なの?」ソファに深く凭れた陸奥の貌が、不安そうに曇った。

 

「俺かな?」

 

「あっ、ふーん……(艤装召還)」陸奥の眼はえらくマジだった。

 

「冗談に決まってるんだよなぁ(冷や汗)」 

 

焦る野獣を見た陸奥は艤装召還を解いて、つまらなそうに小さく鼻を鳴らした。

それに続いて、あの、ちょっと良いですか……、と大鳳がすっと挙手する。

 

「野獣提督は、先程役者が揃ったと仰っていましたが、私も出るのでしょうか? 

私達は駆逐艦では無く、空母ですけど……」

 

「どうせ野獣の事や。

 ウチらのおっぱいが駆逐艦並みやって言いたいんやろ? もう許せるでオイ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな馬鹿馬鹿しいことを言い合っているうちに、更に時間が経ち。

執務室にビスマルクが現れて更に収拾がつかなくなり、結局、何も決まらず解散と相成った。

本当にビスマルクにとっては災難だったことだろう。終始半べそだった彼女が可哀相で仕方無かった。

取りあえず、野獣の執務室の片付けも終えて、タコ焼きセットも自室に片付けた龍驤は、着替えとタオルを引っ掴んで大浴室へ足を向けた。

今日のこの時間なら、艦娘が使用できる時間だという事は把握している。龍驤は長湯をする方でも無いので、さっと入って来るつもりだった。

今は夜だから無理だが、大浴室は海に面していて、昼間や朝に入れば、ちょっとした眺望を楽しむことが出来る。

ウチも風呂入りに行ったら、脱衣所に裸の提督居らんかなぁー。えぇなぁ大鳳。……えぇなぁ。

 

 ぼんやりとそんな事を考えながら大浴室の脱衣所に入った。

時間表を確認すると、やはりこの時間は艦娘達が使用出来る時間だ。

脱衣所に、龍驤以外の人の気配は無い。

……妙な期待をしていた自分がちょっと恥ずかしくなった。

変な溜息を吐き出しながら、自分を落ち着けながら服を脱いでいく。

そらな。見たいで? ウチかてな? 彼の事をな。熟知したいで? ん? あかんのか?

熱を冷ますみたいに自分に言い聞かせる。と言うか、居もしない誰かに心の中で熱く語りかけた。

 

 だって知りたいやん? 仲良くなりたいやん? 

大切にしてくれるんやもん。惹かれるやん。色々知りたいと思うやん?

ちょっと、彼はその。アレや。ショタっちゅうんか? まぁ聞けや。ちょっと教えたる。

彼のな? 無邪気な腕白さとはまた違った、無防備で儚げな感じとかな? えぇやろ? 

ウチの事をな? 信頼しきった声でな? 『龍驤さん』とかな、呼んでくれるんやで?

あんな透き通った声で呼ばれたらな? なぁ、たまらんやろ? まぁええから聞けや、な?

こんなな? 年上のお姉さんをな? イケナイ気分にさせる子にはな? やっぱりな?

お仕置きが必要やな? そう思うやろ? 嫌らしい意味と違てな? 彼の象さんをな? 

勃っ……パ、パオーンさせてな? こうやってな? ビュルルルってな具合でな? 

一番絞りをな? あ^~、たまらんなぁ。「あ……、龍驤さん?」お! せやな? 分かってるやん。

この声やな? ええ声やろ? ちょっと戸惑ってる感じもな。セクスィーやな? うん。

ちょっと待って? 今の声、どっから聞こえたん?

 

 取りあえずタオルで前は隠して在るが、龍驤はもう全裸だ。

ゆっくり顔を上げて、高級旅館みたいに立派な浴場入り口の石畳へと視線を向ける。

うせ(嘘)やろ……? 心臓が凍りつくと同時に、身体が燃え上がるように熱くなった。

汗が噴出してくる。驚いた様な貌をした彼が、其処に立っていた。勿論、裸だ。

一瞬、いつも掃除をしてくれている鳳翔が、彫刻でも買って来て飾ったのかと思った。

それ位、水滴を滴らせる彼の裸形は美しくて、神秘的ですらあった。

 

 彼は少し恥ずかしそうに頬を染めて、龍驤から視線を外している。

もう全部見られているから、今更隠すのも変だと思ったのか。手にした手拭で前を隠そうとしない。

手拭を掴んだ手は、胸の前できゅっと握っているだけだ。女の子みてぇな反応しとんなぁ、とか、湯だった頭の隅の方で思った。

彼の濡れた肌に落ちる陰影と、微かに湯気を纏う華奢な肉体の造形に見惚れた。

眼を奪われる。龍驤は動けなかった。魔性に魅入られたと言うか、金縛りに会ったというか。

とにかくそんな感じだった。彼は頬を微かに染めたまま、呆然とする龍驤に頭を下げた。

 

「ごめんなさい! ぼんやりしていました。

 艦娘の皆さんが入られる時間だったのですね。申し訳ありません、すぐに出ます」

 

「いや……! 別にウチは、気にして無いで!? こっちこそ何か、ごめんな!?

キミさえ良ければな? 一緒に入ろか! ぐらいのノリやしな! うん!

寧ろ、ありがとうって言うかな! その、今からもう一回一緒に入ろか! 違うか!?

まぁアレやな! 他の艦娘が来たら、また騒ぎになるやろうしな! 出た方がええな!?

ざ、残念やな! ま、また見……、ちゃうちゃう! えぇと!」

 

 混乱の極地にあった龍驤は、大慌ての早口で捲くし立てた。

彼が身体を拭き、被術衣を着るまでガン見していた自分自身が、ちょっと嫌になった。

しかし、彼には龍驤の言葉に優しさ(誤解)を感じてくれたようだ。

顔を上げた彼の悄然とした表情が、少しだけ明るくなった。

「誰にも言わんから、あ、安心しぃや! 今度からは気を付けやなアカンで!?」

舞い上がってしまっている龍驤へと、すまなさそうに頭を下げた彼は、足早に脱衣所を出て行った。

 

 

 その背中を見送り、脱衣所に残された龍驤は一人、万感を込めた深い深い溜息を吐き出した。

身体が熱い。熱くて熱くて仕方が無い。爆発しそうだ。もうどうしようも無い程に、心臓がバクバクしている。

ふらふらとした足取りで取りあえず浴室に入り、並ぶ洗面台の一つに腰掛けて、シャワーを手に取る。

もう一度溜息を吐き出し、先程の光景を思い出す。きゅうりよりデカいんちゃうか……あれ。

そんな切なげな呟きが思わず零れてしまう。そう言えば。彼が手拭で隠した胸元に、何か黒い紋様のようなものが見えた気がした。

だが、彼は刺青なんてしていなかった筈だし、先程は気が動転してしまって冷静ではいられなかったから、まぁ見間違えか。

そこまで考えると、また彼の裸が脳裏に浮かんで来て、身体が熱くなってくる。

いかんいかんいかん、危ない危ない危ない危ない……(レ)

頭を冷やす為に、龍驤は深呼吸して、シャワーで冷水を頭から被る。

「冷たぁっ!?」思ったより水が冷たくて、龍驤は椅子からひっくり返った。

 

 



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第6章

 今日の提督の秘書艦である高雄と愛宕は、執務室にてデスクワークに勤しんでいた。

高雄は、普段提督が使用している執務机で業務を行い、愛宕は秘書艦用の執務机に座っている。

特に会話を弾ませることも無く、高雄と愛宕は黙々と万年筆を書類に滑らせて行く。

普通なら秘書艦は一人なのだが、提督が執務室を空ける予定が在った為、こうして二人で執務にあたっていた。

今日は朝から、提督は野獣と共に、鎮守府裏手の山裾に建設されつつある、深海棲艦の鹵獲と捕獲、研究を行う為の施設へと出向いている。

チラリと顔を上げて時間を確認すると、昼を越えて、もうじき午後三時だ。提督はまだ帰って来ていない。

軽く息を吐き出してから、手元に視線を戻して書類の束を捲り、処理していく。

そして、ある一冊の書類束の表紙を見て、思わず手の動きが止まった。

“深海棲艦への精神拘束制御施術と、ケッコン(仮)の報告”と記された分厚い冊子だった。

こうした艦娘に対する施術報告書については、艦娘達も閲覧禁止では無い。だが、秘書艦であっても眼を通すことは殆ど無い。

“艦娘の召還”という神秘を実現する“提督達”への報告書については、基本的に処理しないのが、何処の鎮守府でも普通である。

理由としては、報告の概要を把握することが出来ても、内容を理解することが不可能だからである。眼を通したところで、処理のしようが無い。

 

 以前に提督宛に送られてきた『鹵獲計画書』については、高雄を含め他の艦娘達も眼を通し、熟読している。

だが、それは飽くまで『計画書』だったからである。提督達の扱う異能の力についての報告などは、見ても聞いても艦娘達には理解出来ない。

この冊子については、高雄が処理すべきでは無い。重要書類としてファイルに分けて、提督が帰ってきてから報告すべきだ。

それで問題は無い。これは、私が見るべきでは無い。見てはならない。知るべきでは無い。そんな、直感とも言えない何かを感じた。

ケッコン(仮)という文字にも興味を引かれたが、それ以上に、深海棲艦への精神拘束制御という文字に強く引き付けられた。

高雄は無意識のうちに、視線だけで愛宕の様子をチラリと伺っていた。執務室は静謐だ。時計の針が動く、規則正しい音がやけに大きく聞こえる。

執務机に座り書類を処理している愛宕は、高雄の視線には気付いていない。黙々と作業を続けている。高雄は唇を舐めて湿らせて、黙ってデスクに視線を戻した。

別にこんな風にコソコソする必要は無いのに、何故か緊張してしまう。どうしよう。愛宕にも声を掛けてみるべきか。仕事の邪魔をしてしまうだろうか。

いや。考え過ぎか。この報告書も、以前の『鹵獲計画書』の延長線上のものに違い無い。冷静に考えれば良い。

艦娘の目にも届く様な書類である。身構えるようなものでは無い筈だ。高雄は椅子を少しだけ引いて座りなおしながら、高雄は冊子を開いた。

 

 

 眼を通してみる。やはり内容については、提督達が艦娘を対象に行う施術式の、深海棲艦への応用が主体であった。

思考と意思、感情の剥奪に始まり、肉体の隷属を目指す施術式の開発。深海棲艦の艦娘化を目指す実験と解析の報告である。

難解な単語と数式で埋め尽くされた書類の中から、睨むようにしてページを捲っていくと、“ケッコン”の文字が目に入った。

『チ級、リ級とのケッコン施術に於ける報告』。その一文は、異様な程の存在感を持っていて、すぐに目に付いた。更にページを捲ると、写真が載っていた。

高雄は息を飲み込む。写真には、大掛かりな研究室の内部で、巨大な施術椅子に拘束された人型の深海棲艦の姿が在った。

それを取り囲んでいるのは、白衣とマスクを身に付け、手に工具らしきものを持つ研究者達。そして、両の掌に蒼い微光を灯した、提督服を着た男が二人。

背筋に寒いものが走る。艦娘である高雄の目から見て、この写真越しに見る『人間達』は、深海棲艦なよりも遥かに恐ろしく、忌むべき者に見えた。

報告内容を、更に視線で追っていく。

 

 

『我々は艦娘達の錬度の高さを現す指標として、“Lv”という単位を使用している』

『“Lv”の上昇には、艦娘達の戦闘経験によるものが大きい。戦闘を重ねることで、艦娘は強くなる』

『艦娘達には知能が在る。学習する。これは人間と同じである。繰り返すことで、その錬度は上がる』

『しかし、計測可能な錬度の高さは“Lv99”である。これ以上は数値化出来ず、艦娘達の能力的な成長は著しく低下する』

『生体兵器としての艦娘達の限界数値が、この“Lv99”である。肉体と精神を持つ以上、如何に強靭であろうと限界が存在する』

『しかし、ケッコン(仮)施術により、この限界数値を超えた“Lv150”まで錬度を高める事が可能である』

『ケッコン(仮)を行う条件は、対象の艦娘が“Lv99”である事。そして、人格を潰していない状態である事。この二つである』

『捨て艦用として、艦娘達の思考や自我を破壊する提督は多い。しかし、一度破壊された人格は二度と再生しない』

『完全な兵器となった艦娘には、ケッコン(仮)の施術は効果を発揮しない。これは研究によって既に解明されている』

『しかし、今回の深海棲艦を対象にしたケッコン(仮)で、更に条件が一つ加わると考えられる』

『それは対象となる艦娘と、術者である提督との間に、感情的、精神的な繋がりが必要であるという点である』

『実験にて、チ級、リ級を、自我を潰さぬ様に細心の注意を払いながら、学習装置によりLv99への矯正を終了させた』

『莫大な予算と時間を掛けた準備により、ケッコン(仮)への条件である“Lv99”と“自我の生存”はクリアしている筈だった』

『しかし、チ級、リ級に対してのケッコン(仮)施術は、悉く失敗に終わっている。我々、“元帥”の力を持っても不可能であった』

『此処で、ケッコン(仮)を実現している提督と艦娘達を見直してみると、やはり両者の間に信頼関係、或いは、恋愛感情にも似た繋がりが必要であると考えられる』

『この点に於いて、友好的な“感情”を持ち得ない深海棲艦とのケッコン(仮)には、余りに大きな問題が在る』

『人型である深海棲艦が持っている感情は、人類に対する憎悪のみしか観測できない。人格が生きている以上、それを払拭する事は不可能である』

『やはり、深海棲艦は、人類の不倶戴天の敵である。利用価値としては、やはり消耗品止まりであると、我々は結論付ける』

『チ級、リ級については、艦娘達への施術式を応用し、既にその思考の破棄、人格の破壊に成功。意思を持ち得ない、完成された兵器として運用を目指し、調整中である』

『共にLv99である為、実戦でも活躍が期待出来る。我々は更に研究を続け、より完璧な精神制御と支配を目指す』

『捕獲状態であるタ級、ル級、ヲ級、そして、戦艦棲姫については、チ級やリ級などに比べ、更に強靭な精神力を有しており、人格の破壊は不可能であった』

『学習装置による効果や、我々の精神制御施術の効果も共に薄く、未だ不明な点が多い。判明しているのは、解体施術による艤装無力化が可能である点のみ』

『タ級、ル級、ヲ級、戦艦棲姫の四体は、今回の実験後、我々の手を離れる。だが、その精神制御、支配が優先して求められるであろう』

 

 

 

報告内容の流れ把握しつつ、高雄は指先が微かに震えるのを感じた。

人類は伊達や酔狂では無く、本気で深海棲艦達をその支配下に置くつもりなのだ。

その為の実験も、着々と進んでいる。末恐ろしい。もしかしたら、と思う。

高雄が思っている以上に、人類は、非常に優れた戦闘種族なのかもしれない。

自分を落ち着けるように静かに息を吐き出し、高雄は冊子を閉じようとして、気付く。

冊子の裏表紙には地図の様なものと、複数の建物の写真が印刷されてあった。見覚えが在る。

ついこの間、同じものが印刷された書類を渡され、提督から説明を受けていたからだ。

簡単な連絡事項の様なものだったが、やけに印象に残っているから、間違い無い。

鎮守府付近にて建設されつつあり、今日、提督達が出向いている深海棲艦研究の施設だ。

現在でも、深海棲艦達を捕らえておく為の特別捕虜房が幾つかと、其々の房室に備え付けられた強化ガラスシリンダーなど、既に一部の施設機能は稼動していると聞いた。

山裾に在った廃集落地区のほぼ全てを覆う規模の施設ではあり、その機密性、重要性から、警備に立つ兵も、かなりの数が配備されていた。

施設の外見はシンプルで、白い棟が立ち並んでいる程度のものだ。だが、その建物の全てに窓が無く、かなり異質な雰囲気を醸し出している。

窓の代わりに棟に備えられているのは、“搬入口”とでも言うべき規格の分厚いシャッターだ。出入りしているのは、装甲車と見間違える程に無骨な“生簀トラック”だけ。

敷地内には、舗装された広いアスファルト路が四方に伸びており、保護房棟、研究棟へと“生簀トラック”で深海棲艦を運搬できる様になっている。

 

 冊子の裏表紙を見詰めていると、いましがた読んだ報告内容が脳裏に蘇った。

『捕獲状態であるタ級、ル級、ヲ級、そして、戦艦棲姫は、我々の手を離れる』。

確か、そんな内容の報告が在った筈だ。

そして、冊子の裏にこの施設の写真が印刷されているという事は、つまり。「高雄?」

「えっ? ……ぁ…」弾かれた様に顔を上げると、愛宕と眼が合った。

 

「どうしたの? 何だか、もの凄く深刻そうな貌をしていたけれど…」

 

心配そうな貌をした愛宕が、高雄の貌を見詰めて来る。

高雄はその視線を受け止めつつ、すぐに返事は返さなかった。

肩を竦めながら、広げていた冊子をファイルに綴じて、横にどける。

それから、「そうかしれないわね…」と、ちょっと苦笑して見せて、軽く息を吐いた。

 

「提督が、艦娘達の精神に干渉出来るのなら、

貴女の男性恐怖症も治せるんじゃないかしらと…、そう考えていたのよ」

 

冗談っぽく言いながら、高雄は執務机に座りながら軽く伸びをする。

ただ愛宕の方は、何だか申し訳無さそうに視線を逸らして、俯いてしまった。

 

「……試して貰おうと頼んだ事も在るけど、断られたわ」

 

「え、どうして?」

 

「提督が仰るには、そういう施術は、私達の人格に大きな負担を掛けることになるらしいの。

人間と同じで、恐怖心の克服には、艦娘自身の経験か、意思の力によってにしか無理だそうよ」

 

苦笑を返してくる愛宕は、やっぱり何処か申し訳無さそうである。

 

高雄は何も言えず、ただ愛宕の言葉を反芻していた。

 先程まで読んでいた報告書の所為で、人格への負担という言葉に、強く反応してしまう。

 黙したままの高雄に、愛宕も何かを感じたのか。「大丈夫よ。高雄」

何時もどおりの柔らかな声で言いながら、愛宕は何時と同じように笑って見せた。

 

「こんな事で、提督に手間を掛けさせたく無いもの。

少し時間が掛かるかもしれないけれど、自分で克服してみせるわ。だから心配無用よ」

 

その愛宕の笑顔に、やはり高雄はうまく言葉を返すことが出来なかった。

やはり心配そうな貌をしているであろう自分に気付いて、咄嗟に、困ったみたいな笑顔を返した。

 

「あら。でも、提督は提督で、色々と世話好きな一面も持っておられるわ。

 もう少しくらい甘えて差し上げた方が、提督もお喜びになるんじゃないかしら?」

 

「ふふ…♪ そうねぇ。ただ…、提督のあれは世話好きと言うよりも、

私達に対する提督なりの気遣いなのでしょうけれど…」

 

その愛宕の言葉に不思議な重みを感じつつ、高雄は、そういえば…、と思い出す。

 

「野獣提督の執務室で、提督が耳かきをして下さるのは……確か、今日からだったわよね?」

 

「えぇ。その筈よ。お夕飯を食べたら、

提督がどんな感じで耳かきをしてくださるのか、覗きに行ってみたらどう?」

 

 声を少し弾ませた愛宕に、高雄は力強く頷いた。提督が、野獣の執務室のスペースを借りて、極々小さな耳かきサロンを開く事になったのは数日前。

事の発端は、鎮守府に居る艦娘達全員に、提督や野獣に対して、何か望むことは無いかと行った青葉のアンケートである。

提督に対する要望については、“これからも、お傍にいさせて欲しい”、“お体を大切にして下さい”、などの意見が多数であった。

一方で、野獣に対する意見には、“くさい”、“きたない”、“がんばれ”、“かえれ”、“くだけちれ”、など、辛辣な一言が非常に多かった。

高雄も一応はアンケート用紙を渡されていたので、提督への要望として“御身をご自愛下さい”と記して提出した。

無理ばかり重ねる提督に対する高雄の、本心からの切なる願いである。“添い寝させて頂きたい”と書きそうになった事は秘密である。

そういったアンケート結果の中に、“耳かきをして欲しい”という要望が在ったのを、青葉がピックアップしたのだ。

青葉と野獣は割りと仲が良いし、面白そうな記事ネタになるのを確信しての事だろう。

以前も何やら寸劇の撮影なども行っていた様だし、野獣の行動力には舌を巻くしか無い。

 

 今回にしても、どれだけ悪罵されても涼しい貌の野獣が、また面白がって色々と用意を進めていたのだ。

既に野獣の執務室は、妖精さん達の協力のもと、執務机を残したままで立派な耳かきエステのフロアへと変貌を遂げている。

それを知った長門は激怒し、陸奥は呆れて、加賀は無表情のまま溜息を吐き出していたし、赤城は、苦笑を漏らしていた。

艦娘達のガス抜きが目的なのか。それとも、青葉との協力体制のもと、艦娘達へのいびりネタでも集めたいのか。

野獣の真意が測れずに居る高雄だが、実は本心では野獣に感謝していたりする。だって、公然と提督に耳かきをして貰えるのである。

望外の幸せである。正直、落ち着かない。期待でウキウキしてしまう。だが、それは高雄だけでは無い筈だ。間違い無い。他の艦娘達だってそうだ。

 

「そうね。まず、雰囲気というか…、ムードを体験しておくのは大切よね」

 

頷いた高雄は、思わず真顔になってしまった。

「そんな大袈裟なものでも無いと思うけれど…」と、愛宕が苦笑する。

 

「ぬわぁああああああああああああああああああああああああん!!

 疲れたもぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおんんん!!!」

 

 高雄と愛宕が、冗談めかして微笑みを交し合う。その瞬間だった。

執務室の扉が勢い良く開かれて、濁声なのに妙にトーンの高い声が大きく響いた。

突然だったから、かなりびっくりした。高雄と愛宕は、二人揃って肩を跳ねさせる。視線を扉に向ける。

野獣だった。相変わらず、ブーメラン海パン一丁に、ISLANDERSロゴ入りの白Tシャツ姿である。

確か提督と共に、新しく建設されつつある鹵獲・研究施設へ出向いていた筈だが、もしかしてあの格好で行って来たのか。

非常識というか、もはや挑戦的行為では無いだろうか。施設の研究員達もたまげたに違い無い。

ずかずかっと執務室に入って来た野獣は、ソファにどかっと座り、手脚をだらしなく投げ出した。

 

 高雄は、近くに居る愛宕が微かに息を詰まらせたのを感じた。

微笑みこそ崩していないが、明らかにその表情が強張った。

だが、すぐに愛宕は「あら、お帰りなさい」と、その笑みを深めて敬礼して見せる。

高雄も続き、敬礼の姿勢を取った。それと同じか、少し遅いくらいかだった。

「ただいま戻りました」また扉が開いた。次に執務室に入って来たのは、穏やかな表情を浮かべた提督だった。

分厚いファイルを小脇に抱えた彼は、高雄と愛宕に向き直り、軽く頭を下げる。

「今日は、お二人に執務を押し付ける形になってしまって、申し訳ありません」

 

「い、いえ! これも秘書艦の務めです」 高雄は背筋を伸ばし、敬礼する。

「お役に立てれば光栄です」 隣に居た愛宕も、微笑みを浮かべたままで、高雄に倣う。

 

「…いつも有り難う御座います。

 では、少しだけ休憩にしましょう。どうぞ、座っていて下さい」

 

 労ってくれる彼の言葉に抗えず、敬礼を解いた高雄と愛宕は顔を見合わせて、頷きを返した。

彼は、執務室に備え付けられている小振りな食器棚から、カップやソーサーを人数分用意してくれている。

慌てて高雄と愛宕が手伝おうとしたが、微笑んだ彼に、「僕にさせて下さい」と言われては、何も言い返せない。

結局、大人しく彼に紅茶をお願いして、座り直すしか無かった。

 

「お、俺はコーヒーを頼むゾ(お客様気取り)

しかし、お前ンとこの艦娘は提督思いで羨ましいなぁ…。

 俺の保持してる艦娘なんて、まるでゴキを扱うみたいなノリで接して来るゾ(自業自得)」

 

 提督と高雄、愛宕の遣り取りを、ソファに座り鼻をほじりながら見ていた野獣が、羨ましそうに呟いた。

「え…、それは…」その発言は突っ込み待ちなのか。それとも、素なのか。高雄には判断出来なかった。まぁ、別にどうでも良いか。

そう思い掛けた時だった。愛宕が、野獣の方に向き直った。

 

「そうでしょうか? 

野獣提督を慕っている艦娘達も、大勢居ると思いますけれど」

 

 そう言った愛宕の声音や表情は、少々強張っていた。敬語も何処かぎこち無い。

呼吸が少し浅くなり、唇や肩も微かに震えている。野獣から逸らされた瞳が揺れていた。

一見すれば確かに、愛宕が野獣に対して恐怖心に近い何かを抱いている様にも見える。

だが傍に居る高雄には、愛宕の声や様子からは、嫌悪や悪意は感じられなかった。

言葉自体にも嫌味は無い。寧ろ、其処には敬服に近い感情が伺える。何処か妙な感じだ。

まぁ、多少はね…、と。野獣は横目で愛宕を見てから、軽く唇を持ち上げた。

 

「何だ何だATGァ…、まだ俺の事が怖いのかぁ?」

 

 野獣の視線に、愛宕は何か言おうとした様だが、それは言葉にならなかった。

視線から逃れて自分を抱きしめるように、右手で左腕を掴んだまま、愛宕は俯いた。

顔を伏せたまま唾を軽く飲み込んで、その身体の震えを強くさせている。

「……はい」。蚊の鳴く様な声で、何とか愛宕がそう答えた。

提督も、飲み物の準備をしながら愛宕の様子を見ているが、特に何も言わなかった。

 

「しょうがねぇなぁ~(悟空) 

ほら、お前も見てないでこっち来て」

 

 ソファに凭れかかっていた野獣は身体を起こして、提督を手招きした。

「? はい、何でしょう?」 提督は紅茶の入ったカップを、高雄、愛宕に渡してから、野獣に歩み寄る。

その無警戒、無防備な彼の仕種に、高雄は一種の不安の様なものを感じずには居られない。

無垢な彼が、もう既に野獣に誑かされ、毒牙に掛かっているのでは無いかと勘繰ってしまう。

いやいや、そんな事は在る訳が無いと。高雄はきつく眼を閉じて、自身の下世話な心配を頭から追い出そうと務める。

 

「先輩も、此方をどうぞ」 彼は、コーヒーの入ったカップを野獣に差し出す。

それを受け取った野獣は、礼も言わずにゴクゴクと飲んで、カップとソーサーをソファテーブルに置いた。

それから糞真面目な貌になって、提督と愛宕を交互に見て、深く頷いて見せた。

 

「ATGが男性に怯えていらっしゃるよ。脱いでさしあげよう(提案) …脱げ(強制)」

「えっ」 提督がきょとんとした貌になっていたが、高雄はそれよりも早く立ち上がり、異議を唱えた。

 

「ちょっと待って下さい!? 意味が分かりませんよ! 

何で提督が此処で裸になる必要なんかあるんですか(正論)!?」

 

「ATGが男性恐怖症を克服する為に決まってるダルォ!?

 こういうのはショック療法が最も効果的だって、それ一番言われてるから」

 

「何処でですか!? というか、今の状態の愛宕に、そんな強いショックは逆効果です!

 より悪化しますよ! 愛宕がひきつけでも起こしたらどうするんです!?」

 

「どうせ濃厚な“おねショタ”展開になるだけだから、ヘーキヘーキ(暴論)」

 

「なりませんよ!」

 

「あの…、野獣提督」

 

言い合う高雄と野獣の間に、ちょっと苦しそうに微笑む愛宕が入る。

 

「ご厚意は大変在り難いのですが…、その…」

 

「愛宕さんは、自身の力で克服すると仰っていました。

 先輩もご存知の通り、艦娘の皆さんも、人も、その精神構造はほぼ同じです」

 

 声を震わせる愛宕の言葉を引き継いだのは、提督だった。

彼は、いつもと同じ、ひっそりとした微笑を湛えながら、野獣と愛宕を見比べる。

 

「克己が容易いもので無い以上、愛宕さんにも、まだまだ時間が必要だと思います。

 死への畏怖とは違い、こうした恐怖心は少しずつでしか拭えませんから…」

 

 彼の声は、澄んでいて良く通る。落ちつき払った声音は、まるで老人のものの様だ。

少年らしさを完全に欠落させた彼の声を、似合わない思案顔となった野獣は、どんな心持ちで聞いているのだろう。

高雄と愛宕は、野獣と提督を見守る。その沈黙は、二秒か三秒程だった。野獣が、すぐに「お、そうだな」と頷いたからだ。

その野獣の顔には、何処か安心した様な、満足そうな表情が浮かんでいた。

 

「俺もATGが心配だったから、解決方法を急いちまったなぁ…(分析)

 困ったことが在ったら、俺にも声掛けてくれよなー。頼むよー」

 

 言いながら、野獣はソファから立ち上がって、ゆっくりと伸びをした。

そして、首を軽く回しながら、執務室への扉へと向う。途中で、高雄と愛宕にウィンクして見せた。

高雄は顔を顰めてしまったが、驚いたことに、愛宕は深々と頭を下げている。ちょっと混乱しそうになった。

 

 この鎮守府に配属されている高雄と愛宕は、共に提督が保持している艦娘ではあるが、顕現した時期はかなり違う。

愛宕はかつての激戦期に召還されているが、高雄が提督に召還された時期は、既に人類の優位が固まっているタイミングだった。

よって高雄は、愛宕が男性恐怖症を患うことになった切っ掛けについては詳しく知らない。野獣の所為である、という話は聞いた事が在るという程度だ。

 

 ただこの話については、今の愛宕を見ると、どうも信じられない。

愛宕の、野獣や提督への態度や様子を見ていると、微かな違和感を覚えるのだ。

引っ掛かる。本当に、愛宕は男性恐怖症なのか。もっと違う、何かではないのか。

ただ、男性恐怖症という事にして、愛宕は何かを隠しているのでは無いか。

猜疑心の様なものが、高雄の心の中で首を擡げてくる。過去に何が在ったのだろう。

「あ、そうだ(唐突)」 扉から出て行こうとする野獣が、肩越しに提督に振り返る。

 

「今日の耳かきイベントは、島風コスで頼むゾ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高級耳かきサロンと化した野獣の執務室の中。

順番待ちの為に用意された長椅子に腰掛けた高雄は、軽く俯いたまま、色々な感情を混ぜ込んだ溜息を吐き出した。

室内には、心をリラックスさせる様な香りが満ちている。アロマポットが置かれてあるから、其処からの香りだろう。

だが、効果はあまり感じられない。全然くつろげない。何せ、凄い緊張感と期待感だった。ドキドキし過ぎておかしくなりそうだ。

変な話だが、いかがわしいお店に初めて訪れる青年の気持ちが理解出来る気がした。体がもの凄く熱っぽいし、喉が渇くし、手が震えて来る。

 

ちなみに、愛宕は用が在るとのことで、此処には不在だ。

高雄は視線を上げて、室内と長椅子の隣へと視線だけを向けた。

清潔感に溢れた室内には、本格的な施術ベットが二つに、ワゴン、アロマポット、ホットキャビネット、待合用の長椅子が二つ用意されている。

二つある長椅子に腰掛けて居るのは高雄の他に、朝潮、陽炎、不知火、長門、赤城、翔鶴が居た。

 

全員、ホットタオルで耳と首筋を暖めている状態である。

執務室の外では、ずらっと艦娘達が列を成していることだろう。

廊下の方からは、異様な熱気と共に騒がしさを感じる。

提督や野獣が予想していたよりも、遥かに多くの艦娘達がほぼ同時間に押しかけた為に、早い者勝ちでは無く、くじ引きで順番を決めたのだ。

提督にも明日の仕事が在る為、全員分の耳かきを終わらせることなど不可能である事を考えれば、まぁ妥当な判断なのだろう。

現在、執務室内の長椅子で順番待ちをしている第一斑は、高雄を含め、いわば大当たりを引いたのである。

続く第二、三、四、五班は、執務室の外で待機している状態だ。ちなみに、2時間という時間制限も設けられている為、第三班まで回る事は無いだろう。

実質、第二班までだ。それでも待っている辺り、籤で漏れた艦娘達の無念が伺える。その辺りの救済処置としては、第三班以降は、明日から順序が繰上げられるとの事だ。

しかし、それでも諦めて自室へと帰る艦娘達が居なかったのは、『施術の様子を公開しては如何でしょう』という、青葉の提案が在った為だ。

こういう展開も読んだ上で、野獣は提督に島風コスを着させたのだろうか。

 

色々と考えていると、掠れた様な吐息を吐き出す音が聞こえた。朝潮だった。

拳を両膝の上に置いて背筋を伸ばし、まるで面接でも受けるみたいな体勢である。

普段から真面目な彼女は、もう可哀相なくらい緊張した様子で、床の一点を見詰めていた。

その眼は涙ぐんでいるし、膝の上の拳は震えている。……大丈夫なんだろうか。

だが、声を掛けるのも何だか無粋というか、野暮というか、そんな気がして来る。

朝潮の隣に腰掛けた陽炎の方は、多少は落ち着いた様子ではあるが、冷静とは言い難い状態である。

せわしなく視線をあちこちに飛ばしているし、顔も少し赤い。下唇をしきりに噛みながら、額や顎の汗を拭っている。

一方で、不知火の方はかなり深刻な様子だった。“戦艦クラスの眼光”などと言われるその鋭い目つきを、更に鋭くさせた彼女は、動かない。

微動だにしない。死地に向う直前みたいな貌で、今にも艤装を召還しそうな雰囲気だ。

さっきから座ったり立ったり、室内をうろうろしている長門は、今まで見た事が無い程に挙動不審であり、表情はビキビキと強張りっぱなしである。

翔鶴に到っては、全てを悟り切った様な穏やかな表情で、手に紙と筆ペンを持って何かを書き綴っている。

どうやら遺書か何かの様だが、多分、一斑の籤を引いてしまった事で、自身の運を使い果たしたとでも思ったのだろう。

そんな大袈裟な、と。冗談めかして笑いたいところであるが、そんな事が出来そうな空気でも無い。空気が重過ぎる。此処は魔界か。

だが、赤城だけは普段通りで、泰然自若とした様子で佇んでいる。流石は一航戦と言うべきか。

高雄もそろそろ限界だ。手汗が凄い。そろそろ呼吸が上手く出来なくなって来た時だった。

廊下の方で、「あぁ……!(歓声)」、「ヴォエッ(嘔吐)」という、種類の異なる低い声が幾つか聞こえたが、誰かがリバースしたらしい。

扉が開かれると同時に、「お ま た せ(王の帰還)」という、トーンの高い濁声が響いた。

高雄も、思わずえづきかけた。入って来たのは、何故か島風コスに身を包んだ野獣と提督、そしてカメラを構えた青葉だった。

扉が開かれたことで、外で待機中だった艦娘達が、ゾロゾロッと執務室内に入って来た。もう野次馬と呼ぶべきかもしれない。

提督は耳かきと綿棒を手に持って、施術ベッドにゆっくりと座ってから、高雄達に微笑みかけてくれる。

その微笑みに、高雄達の周りで張り詰めていた空気が、優しく解き解されていくように感じた。

 

「それじゃあ、始めるゾ。第一斑の奴らにも順番着いてるだろうから、

一番のヤツは、コイツの太腿に頭乗っけて横になって、どうぞ(怪しい笑顔)」

 

野獣の言うとおり、確かに番号札は渡されてある。高雄の番号は、一斑でも最後だ。

唾を飲み込んで立ち上がったのは、「は、はいッ!」上擦った声を出した朝潮だった。

彼は、「どうぞ。よろしくお願いしますね。朝潮さん」と、優しく微笑んでいる。あぁ……。島風コスの罪深さよ。

朝潮は、必死に彼の下半身から眼を逸らしたままで、施術ベッドの彼の隣に腰掛けた。既に、朝潮は限界みたいだった。

過呼吸気味になって、顔が赤色を通り越して青色になっている。しかし、生真面目な彼女は、此処でも全力だ。「し、失礼致します……」

消え入りそうな声で言いながら、朝潮は、彼の生太腿の上に、自身の頭を乗せる格好で寝転んだ。

無論と言うか、右耳を上に向けて、彼の下腹部に後頭部を向ける姿勢である。それでも、朝潮にとっては刺激が強かった様だ。

眼を見開いて、自身の左頬に感じる生太腿の感触に翻弄されている。というか、もう泣きそうな貌になっていた。

だが、こんなものは序の口だった。「……では、始めますね。まずは、マッサージをさせて頂きます」彼の囁き声が聞こえた。彼の声は良く通る。

それに、体の中に沁みこんで来る様だ。施術ベッドから離れた長椅子で聞いているだけで、背筋にゾクゾクとした甘い痺れが走る程である。

その悪魔染みた囁きを至近で受けている朝潮は、何かを必死に堪えるみたいに、眼をぎゅっと閉じて、ふーっ……、ふーっ……と息を殺している。

見れば、小刻みに肩やら脚やらが震えていた。彼は、そんな朝潮に容赦しない。優しく微笑みながら、朝潮の耳をくにくにとやり始めた。

「こうやって耳のツボを刺激すると、新陳代謝が高まって、耳垢が取れ易くなるそうです」彼のその言葉を、今の朝潮が理解出来ているとは思えない。

朝潮の体が脈打った。「っ……ぁ、はっ……! ふぅ、んんん!」切羽詰った甘い悲鳴を押し殺している。長椅子に座っている高雄達も、固唾を飲んで見守っている。

一方で、野獣と青葉は、二人してその様子をカメラに収めていた。写真は青葉。ビデオは野獣である。

しかし、誰もそれを咎めようとしない。そんな余裕が無いのだ。待機している野次馬の艦娘達も、その様子を食い入る様に見詰めている。

どれ位の時間が経っただろう。数分だった筈なのに、もの凄く長く感じた。そして、とうとう、その時がやって来た。

 

「それでは、耳かきをさせて頂きますね。

痛かったら遠慮せずに、すぐに言ってくださいね?」

 

彼は微笑みながら囁いて、耳かき棒を構え、朝潮の耳の中にそっと滑り込ませた。

「……ふ、ぁ!」 朝潮の眼が見開かれて、次の瞬間には、その表情が弛緩し始める。

普段の凛々しさに溢れる朝潮の表情が、快楽に溶かされていく瞬間を、高雄達は目の当たりにする事になった。

 

「あ、あ、……! あ! し、司令か、……し、れ、……ぅぅううう、ふぅう……!」

「気持ち良いですか、朝潮さん? リラックスして下さいね」

色々とトロトロになってしまっているであろう朝潮のあの状態は、最早リラックスもへったくれも無い。

あれはもう、リラクゼーションの名を借りた、エステティック・バイオレンスとでも言うべき、一種の暴力だ。耳掻きって何だよ……(哲学)。

両耳の掃除が終わった頃。精も根も消耗し尽くした朝潮は、ぐったりとした様子で提督に頭を下げて、ふらふらとした足取りで執務室を後にした。

執務室に静寂が訪れる。何かを決心したかのように、短く息を吐き出した陽炎が、すっと立ち上がった。「次は、私の番ね……。司令! お願いします!」

 

表情を引き締めた陽炎は、傍にいる不知火と、野次馬の艦娘達の中から黒潮を見つけて、両者に視線を送った。

不知火も黒潮も、心配を通り越した悲愴な表情を浮かべている。まるで生贄に選ばれた姉妹を送り出すみたいな貌だ。

だが陽炎はそんな二人に、いつもの快活そうな笑顔を浮かべて見せる。流石はネームシップというべきか。何故か感動的に見える(錯覚)。

いや、冷静に考えれば、別にそんな事をする必要など全く無い。これは御褒美イベントなのだ。解体者選抜でも何でも無い。

高雄は、場の空気に飲まれ過ぎて、若干錯乱気味な思考を何とか正常に戻そうと努めつつ、陽炎の歩みを注視する。

「はい。どうぞ……、横になって下さい」微笑む提督は、徹底して無垢だ。邪念など欠片も無い。

陽炎は頷き、その身を施術ベッドに横たえる。頭を提督の太腿に預けて、深呼吸した。

 

「司令。私、マッサージは大丈夫だから。いきなり耳掻きからやっちゃって!」

陽炎の強がった声は、僅かに上擦って居た。

どうやら、じっくりと彼に耳に触れられると不味いと判断した様だ。

誰かが唾を飲み込む音がした。沈黙は無かった。彼がすぐに、快く頷いたからだ。

 

「分かりました。それでは、耳かきから始めさせて貰いますね……」

陽炎の右耳に、彼の手が触れる。耳掻き棒が、耳の中へ入る。「んっ……、く、ぅ」

 

漏れそうになる声を必至に堪える陽炎の表情は、女性の高雄から見てもかなり扇情的だった。

「いいゾ~これ(下衆)」という、ビデオカメラを回す野獣の呟きが聞こえたが、そんな事が瑣末に感じられる程、陽炎は頑張っている(?)。

「陽炎さん、痛くは無いですか?」彼の囁き声に耳朶を擽られても、唇と体を僅かに震わせるだけに留め、「ん、ぁ……、ぅ、うん、へ……、ヘーキヘーキ(震え声)」と返す。

荒くなりそうな呼吸を必死に抑えながら、陽炎は貌を引き攣らせて笑顔を作って見せた。

 

「し、司令も結構……、耳掻き、……はぁ、ん……。う、ぅ、上手いじゃん(擦れ声)」

健気な強がりが、陽炎の可憐さをより一層引き立てている。

どんな困難にも立ち向かう、凛とした彼女の強さが其処には健在していた。

 

「ふふ、有り難う御座います」

 

「あ、そうだ(悪魔の教示者)

 KGRUは今日帰投したばっかりだから、きっと疲れが溜まってると思うゾ(ゲス顔)」

 

陽炎の悶える姿をビデオカメラに収めながら、野獣が嘯いた。

 

「リラックス効果を高める為には、体の感度を高めるのが良いって聞いたゾ(適当)

 じゃけん、陽炎の感覚を鋭くして、より高いリラクゼーション効果を得ましょうね~(更なる高みへ)」

 

「先輩は物知りですね……。(誤った感服)

 分かりました。陽炎さん、少しだけお待ち下さい」

 

そう囁いてから、彼は短く文言を唱えた。

耳掻き棒を持っていない左手に、蒼色の微光を纏わせる。

その微光は、すぐに煙の様に霧散した。

だが代わりに、横たわる陽炎の額辺りに、一瞬だけ蒼い光球が浮かんですぐに消えた。

何が起こったのか。高雄や長門、不知火や赤城、野次馬達にもすぐには理解出来なかった筈だ。

だが、陽炎の様子がおかしい事にはすぐに気付いた。

今までの、余裕の振りをする演技や強がりは、もう何処にも無かった。

あれは提督達だけが扱える、艦娘の感覚を鋭敏化させる施術だ。「えっ? えっ!? な、何……! 何なの……!?」

赤い貌の陽炎は、怯えるみたいにきつく眼を閉じたままで、顎を震わせている。

自分の内から押し寄せる何かを、必死に押し留めようとしているかのようだった。

「どうだKGRUァ~。キモティカ=キモティーダロ? for iph●ne」

ビデオカメラを構えてニヤニヤする野獣を、陽炎は涙目で睨み付けた。

しかし、その眼に力は殆ど残っていない。快楽に吹き消される寸前の、儚い灯火だ。

「それじゃあ、続けますね(処刑宣告)」彼が、優しい手付きで陽炎の右耳にそっと触れた。

その瞬間、陽炎の体が一際大きく跳ねた。「ぅあ……!!? ぁ……こ、れ……、ヤバ……ッ!!?」

「じっとしていて下さいね~」彼は再び、優しい手付きで、耳掻き棒を動かし始める。

「司令! 待って! や、止め……!!」切羽詰った陽炎の声は、すぐに甘い悲鳴に代わることになった。

ぅはぁッ……、あぁあ!! はぁ! ぁあああ! ちょっ! し、しれぇ! 待っ……! 

あひぃっ……! 漏っ……、漏れっ……! 駄目ぇ!! い、イキスギィ!! ンアァアアアアアアアーーー(≧Д≦)!!!

 

高雄は見て居られなくなって、俯いた。

不知火と黒潮、長門は、“な、何だか凄いことになっちゃってるぞ……”みたいな貌で、呆然と彼の施術を見詰めていた。

赤城は、ふふふ……、と涼しげな大人の余裕を醸しながら、微苦笑を浮かべていた。翔鶴の方は、真っ赤な顔をしたままで、彼を凝視している。

流石の青葉も“うわぁ……”みたいな貌である。野次馬達の方からも、生唾を飲み込む音が何度も聞こえてくる。

「アーイイヨイイヨイイヨー(ご満悦)」野獣は相変わらずのゲス顔で、放送出来ないレベルに蕩けてしまっている陽炎にビデオカメラを向けている。

数分後。両耳を丹念に掃除して貰った陽炎は、自力で立ち上がる事が出来なくなり、不知火と黒潮に支えられて、自室へと戻って行った。

順番的に次は不知火だったのだが、余りの快感に前後不覚になってしまった陽炎が心配になったのだろう。

一人抜けて、順番が繰り上がる。「……次は私か」低く呟いたのは、ビッグ7の長門だ。

 

「お、NGT大丈夫か? 大丈夫か?(挑発)

 あ、そうだ(See Beyond) じゃあ、コレ」

 

あのピチピチの水泳パンツの何処から取り出したのか。

野獣は、彼に彫刻刀を手渡そうとした。長門が憤激する。

 

「貴様は私を何だと思ってるんだ! 私への扱いも、そろそろ許せるぞオイ!!」

 

「あ、そっかぁ(適当)」

 

「ふん……。この長門、耳掻きなどには絶対に負けん!!(ビッグ7特有のフラグ)」

 

ニヤニヤと笑う野獣に、長門はキッと睨み返した。

その8秒後。「ンアァアアアアアアアーーー(≧Д≦)!!!」

「イクの早過ぎィ!? お前の決意ガバガバじゃねぇか!?(全部録画中)」

 

「だ、だま、れぇ……。

ひぐっ……! ぁあぅ、ぐっ! と、撮る、……な! ……ぁあ!(カメラ目線でトロ顔)」

 

「あの、野獣提督? ヌードとかでは無いんですけど……、その……、

さっきから大分ヤバい写真ばっかり撮れてるんですが、それは大丈夫なんですかね……?」

 

流石の青葉も、若干顔が赤いし、声が裏返りそうになっている。

いや、提督は別にやましい事など何もしていないのだが、与えられる感覚が強過ぎるのだ。

 

「コイツの耳掻きの練習に付き合ったYMTとMSSなんて、もっと凄い事になってたからね。

 NGTがちょっとアヘってるぐらい、ヘーキヘーキ! 大丈夫だって、安心しろよ~(屈託の無い笑顔)」

 

秘書艦であった高雄は、夕刻に入渠ドッグの状況について確認していたから、ドッグが二つ埋まっていたのを覚えている。あぁ、なる程。あれは、大和型の……(察し)

「えぇ……(困惑)」と、青葉が言葉を失っている間にも、長門への施術は続く。抵抗も、ものの数分だった。高雄も戦慄した。

彼の膝枕に抱きついたまま轟沈した長門は、野次馬の中に居た陸奥に抱きかかえられて、執務室を後にする。

何だか、羨ましそうな貌をした陸奥の横顔が、やけに色っぽく見えて印象的だった。

 

 

「その、……提督。や、優しくお願いします……」

次に彼の太腿に頭を預けたのは、イケナイ期待で貌も身体も強張らせきった翔鶴である。

震える声で紡がれたその声は、女性的な艶やかさと共に、不安感が見え隠れする初々しさが在った。

翔鶴の潤んだ瞳が、昏い蒼味を帯びた彼の黒瞳へと向けられる。彼は、にっこりと微笑んで頷いて見せた。

全てを許し、受け入れてくれそうな笑みだった。「はい。勿論です。肩の力を抜いて、気を楽にして下さいね」

それは、他所の鎮守府では、被害担当艦などと揶揄されたりする翔鶴が、ようやく掴んだ幸運の瞬間だった筈だ。

 

「SYOUKKはさぁ、実況っていうのは、した事ある? 今日はちょっとそれをして貰うから」

 

しかし、その束の間の幸運に割り込む存在が居た。ビデオカメラを構える野獣だ。

提督の太腿に頭を乗せた姿勢の翔鶴は、戸惑う様な表情を浮かべるものの、最早抵抗する術を持たない。

 

「マジ簡単だから、

ちょっと自分の身に起こってる事を、言葉に出してくれるだけでいいから(良心)」

 

「は、はい。えぇと、わ……、分かりました」

 

翔鶴は横になったままで軽く頷き、すぐに施術は始まった。高雄は、祈るしか無かった。

だが、マッサージを何とか耐え抜き、本番の耳掻きが始まる頃には、やはり翔鶴も限界だった様だ。

「て、提督ッ、……の、棒が、ぁ……、わ、わた…、私のナ、カをぉお……、や優しく、動いてまひゅ……ぅう!!」

溶かされつつある幸せそうな表情のままで、呂律の怪しい言葉を何とか紡いでいる状態である。

「あー、良いねぇ、道理でねぇ!(玄人気取り)」 野獣は満足げだが、青葉の方は流石に顔が赤い。

静まり返っている野次馬の艦娘達の方を見てみると、湯だったみたいな赤い顔で「あわわわわ……(背徳的興奮)」となっている瑞鶴の姿も見えた。

加賀も似たり寄ったりだ。こんな状況にありつつも、赤城は微笑ましいものを見るような表情で、高雄の隣で佇んでいる。

不意に、赤城と眼が合った。ギクッとした高雄を他所に、赤城は穏やかな表情を崩さないまま、また提督達を見遣った。

 

「艦娘達と提督が、互いに信頼と身を寄せ合い、

こんな風に触れ合う時間を持てるという事は、とても喜ばしい事ですね」

 

しみじみとした様子で語る赤城に、高雄はちょっと混乱した。赤城には、あの凄惨な光景がどんな風に見えているのだろうか。

いや、まぁ確かに。その言葉は間違っては居ないとは思う。しかし、絵面だけ見たら、とてもじゃないがそんな解釈は出来そうに無い。

今だって、翔鶴が「ふ……、ぅぁ! てい、と、く…! そ、其処は……!」悶えながら実況しようとしている姿は、平穏とは程遠い。

耳掻きって何だよ……(深淵への問い掛け)。高雄が現実から眼を背けようとした時、翔鶴が右耳だけで限界を迎えた様だ。

野次馬の中から慌てて飛び出して来た瑞鶴が、満たされた様な貌のまま気絶している翔鶴を抱かかえながら、ペコペコと提督に頭を下げている。

 

「Fooooo↑!! (良い映像が一杯撮れて)キモチィー↑!!

 でもそろそろ急がないと、このペースじゃ夜が明けちゃう、ヤバイヤバイ……(タスク管理)」

 

瑞鶴達の背を見送った野獣は、ぶつぶつ言いながらビデオカメラを執務机の引き出しに片付けて、手に耳掻き棒を持った。

それから、提督と同じ様に施術ベッドに腰掛けて、野次馬達の方へと向き直った。「俺も耳掻きしてやるからさ、お前らの為に(優しさ)」

野次馬一同が、えっ……、と言うのを、高雄は聞き逃さなかった。隣に居た青葉だって、信じられないものを見るような貌で、島風コスの野獣を凝視している。

 

「あ、……あの、野獣提督も、なさるんですか?(恐怖)」青葉が、深刻な貌で野獣に訊ねた。

サロンと化している執務室が、水を打ったように静まり返った。誰も動こうとしない。

そりゃそうだろう。島風コスの野獣に耳掻きをされるなど、拷問に近い。

「先輩の耳掻き、気持ち良さそうですね」凍りついた様な空気の中、提督が少しだけ楽しそうに笑った。「お、そうだろ(何処と無く誇らしげ)」

 

「まぁ、俺も元帥のはしくれだし、艦娘の心身のケアも、ま、多少はね?」

 

何故か得意げな貌になった野獣は、施術ベッドに腰掛けたままで、室内をゆっくりと睥睨した。不穏な空気が漂い始める。

 

「まぁ、俺も元帥のはしくれだし、艦娘の心身のケアも、ま、多少はね?(たいせつたいせつ!)」

 

「いや、別に二回言わなくても……」

顔を不味そうに歪めて言い澱む青葉に、野獣は微笑みかけた。

 

「それじゃあ特別に……、AOB! お前からやってやるよ(大サービス)」

 

「冗談はよしてくれ(タメ口)」

今まで聞いた事が無い程低い声で、青葉がキレ気味で答えた時だった。

高雄の隣に座っていた赤城が、穏やかで、それでいて嬉しそうな貌で、すっと挙手した。

何が起こるのか、もう予想出来ない。執務室は静まり返ったままだ。ただ、提督だけが微笑んでいる。

 

「青葉さんが辞退されるのでしたら、私がお願いしても宜しいでしょうか……?

耳掻きの順番的にも次が私でしたので、問題は無いと思いますし……、その……」

 

少しだけ気恥ずかしそうに言いながら赤城は、野獣から視線を逸らした。高雄は驚愕する。

普段から纏う雰囲気こそ優しげではあるものの、立ち居振る舞いは厳格な軍人である赤城が、もじもじと言い澱む姿が、余りに可憐だったからだ。

不覚にもドキッとしてしまった。いや、それよりも驚愕したのが、そんな初々しい態度を向ける相手が、野獣だという事実である。

度肝を抜かれたのは、どうやら高雄だけでは無い様だった。野次馬達の方からも、どよめきが起きていた。

 

野次馬達の中に居る加賀も、魂が抜け落ちた様な貌で、野獣と赤城を何度も見比べている。明らかに眼が死んでいた。

それから「赤城さん。赤城さん。赤城さん。赤城さん……」と、低い声で呟きながら、ガッシュガッシュと凄い勢いで腕立て伏せを始めた。

加賀にとって今の執務室の光景が、どれほど衝撃的だったのか。高雄は推し量る事が出来そうに無い。

周囲に居た野次馬達も、加賀のことを気の毒そうに見守っている。

現実に心を破壊されまいと必死に抵抗する加賀を、一人にはしない。

そんな決意を顔に浮かべた飛龍と蒼龍が、加賀に並んで腕立て伏せを始めた。

残酷だが、優しい世界が、其処には在った。

 

「あ、良いっスよ(快諾) 

赤城に耳掻きしてやるなんて久ぶりだからなぁ。

よし! じゃあ(耳掻き棒) ぶちこんでやるぜ!」

 

「ふふ、普通にお願いします」

赤城は照れ笑うみたいにはにかんで、静かに施術ベッドに横たわる。

野獣の太腿に頭を預けた赤城は、自身の全てを委ねるかのように、そっと眼を閉じた。

耳に掛かった赤城の髪を、手櫛で梳いた野獣の手付きも、信じられない位に優しいものだった。

安らいだ様な、静かな呼吸音が聞こえる。赤城のものだ。加賀の腕立て伏せのスピードが上がった。

 

「Foooo↑ 気持ち良いかAKGァ!」

 

「はい、……とても」 眼を細める赤城は、本当に幸せそうだった。

何だこれは、たまげたなぁ(素)という感想しか出て来ない。

加賀が、腕立て伏せからスイッチして、今度は凄まじい勢いで腹筋を始めた。

呆然と立ち尽くしていると、提督と眼が合った。

 

「では……、赤城さんの次は、高雄さんですね」

彼が、微笑みながら頷いてくれた。そう言えばそうだった。

とうとう、来た。私の番が。「は、はい。お願い致しましゅ……」

噛んでしまったが、まぁ良い。誰も気にしていない。

誰も彼も、赤城と野獣に気を取られている。実際、高雄だって気になる。

気にはなるのだが。施術ベッドに横になると、そんな余裕も吹き飛んでしまった。

左頬に感じる。少しひんやりした、瑞々しく弾力のある太腿の感触。涎が出そうだ。

しかし、堪える。堪えた瞬間、耳朶に軽く吐息が掛かった。甘い痺れが、脳天を突き抜けていく。

 

「マッサージからさせて頂きましょうか? 

それとも、もう耳掻きだけの方が宜しいでしょうか?」

 

彼のウィスパーボイスが、脳を溶かしてくる。身体が脈打ってしまう。

あぁ^~、駄目になるぅ^~(思考停止)。高雄は、崩壊し掛ける理性の中で、色々と覚悟した。

怖気にも似た快感に、身を委ねそうになった時だ。

 

「野獣提督……。次の作戦が、『MI作戦』、と言うのは、本当でしょうか?」

不意に、赤城の声が聞こえた。彼女らしく無い、微かに震えた、強張った声だった。

横になったままの高雄には、今の赤城がどんな表情で居るのかは見えない。

「お、そうだな」と、無駄に明るい感じで答えた野獣の声も、よく聞こえた。

ほんの少しだけ、執務室の騒々しさと言うか、熱気の様なものが引いて行くのを感じる。

 

「AKGが身構えるのも理解出来るゾ。色々と在ったし、まぁ多少はね?

 作戦名にしてみても、単に“運命を覆そう(迫真)”的なノリを表しているだけだゾ」

 

「……運命とは、覆らないから“運命”と呼ぶそうですよ?」 本か何かで読みました。

そう冗談っぽく言葉を付け足した赤城の声は、やはり微かな震えが在った。

高雄は顔を上げた。手を止めた提督も、赤城と野獣に視線を向けている。

腹筋からスクワットへとスイッチしていた加賀も、

それに付き合っていた飛龍と蒼龍も、その動きを止めて、野獣を見詰めていた。

 

「そんな風に言うヤツも、まぁ確かに居るんだよなぁ……(諸行無常)」

野獣は、野次馬を含めたそれらの視線を受け止めながら、再び室内をぐるっと見回した。

 

「でも、“運命”なんて言う訳の分からないモンに、黙って頭下げるなんておかしいダルルォ!?

作戦名だけでネガティブになるなんて甘ぇんだよ! “運命”なんざ俺が黙らせてやるから、見とけよ見とけよ~(概念への突入)」

 

力強く言った野獣は真剣な貌になって、自身の膝の上に乗せている、赤城の貌を覗きこんだ。

流石にその剣幕に圧されたのか。赤城が怯むみたいに息を飲み込む。

しかし、野獣はすぐに相好を崩して、嫌味の無い少年みたいな笑顔を浮かべて見せた。

それから、ぐしぐしと乱暴に赤城の頭を撫でくりまわす。

 

「とは言っても、深海棲艦も強くなってるからなぁ……。

ヤバイと思ったら帰って来いよ(空気) 俺にとっての“赤城”と“加賀”は、

お前らしか居ないって、それ一番言われてるから(絆への確約)……他の奴らだってそうだゾ」

 

野獣は、遠巻きに見ている野次馬達をもう一度見回して、疲れたみたいに肩を竦めた。

 

「俺達提督は、艦娘と妖精が居てくれて、初めて“提督”なんだよなぁ……。

 お前らが居なきゃ、俺は“元帥”でも何でも無いって、ハッキリ分かんだね。

 だから轟沈なんかしたらもう許さねぇからなぁ? 頼むよー(自己中)」

 

良い事を言おうとしているのに、その言葉の端々に利己心が垣間見える言葉だった。

だからこそか。こうした偽善にも似た虚飾に紛らわすしかない野獣の本心が、其処には隠れているのだろう。

野次馬の艦娘達も、お互いに顔を見合わせているし、加賀も黙ったまま俯いている。

横になったままの赤城も、「……はい。野獣提督」と、静かな声で応えるのが聞こえた。

「急に真面目な事を言うと、何だか普通の人みたいに見えますね……。野獣提督(辛辣)」

 

「ファッ!? あのさぁ……、AOB……。

お前の冷静な分析から来る鋭い言葉は、結構傷付くんだよなぁ……(しょんぼり先輩)」

 

先程までの様子から一転して、もう野獣は、普段通りの“野獣”へと戻っていた。

 

提督は、そんな野獣を眩しそうに眼を細めて見詰めて居る。

彼の表情は微かに苦しげだった。彼の眼差しに在るのは、尊敬と敬服。

そして、僅かな自己嫌悪だろうか。「あの一つ……、お聞きしたい事が在ります」

言葉を紡ぐのも精一杯だったが、彼だけに聞こえる小さな声で、身を起こした高雄は呟いた。

 

「……はい、何でしょう?」 

彼も高雄に合わせ、囁き声で返してくれた。

施術ベッドに座り直し、高雄にゆっくりと向き直る。

その瞳に、野獣に向けて居たであろう感情は消えて居た。

蒼味掛かった彼の黒い瞳は、虚ろに見える程に濁りが無い。

高雄はその瞳を見据え、唾を飲み込んだ。

 

「この鎮守府に居る“愛宕”についてです。

……過去に何が在ったのか、教えて頂けませんか?」

 

高雄は、一つ呼吸をしてから、彼の方を見詰めたまま言葉を紡ぐ。

 

「勿論、今で無くても構いません。提督の御都合が悪いのであれば、何時までも待ちます。

 ただ、……こうしてお声を掛けさせて頂ける好機が、今しか無いように思えたのです」

 

彼以外の誰にも、この声は聞こえて居ない筈だ。それでも、慎重に。彼に訊く。

常に秘書艦が傍に控えている彼に、こうした込み行った話を聞くのは、意外と難しい。

彼が、殆ど話そうとしないからだ。彼は、艦娘達に提示する過去を、恣意的に選別している。

それは恐らく、彼自身では無く、艦娘達を思っての事に違い無い。世の中には、知らない方が良い事も少なく無い。

特に、深海棲艦などと戦っている、本営の思惑に繋がる様な事なら尚のこと。余計な詮索は比喩でも何でも無く、命を縮めるだろう。

しかし、高雄はどうしても気になった。この場に居ない姉妹艦の、思い詰めた様な微笑みが脳裏を過ぎる。今しか無いと思ったのだ。

奇妙な熱気のようなものが渦巻く今の執務室で、過去の話へと耳を傾けようとしているのは、恐らく、高雄だけだ。

少しの沈黙を返した後。彼は困ったように微笑んだ。

 

「分かりました……。では、今晩の12時に、工廠の裏に来て頂けますか?」

 

やはり彼も、高雄にだけ聞こえる声で言う。

抑揚の無い澄んだ声音には、微かな熱が篭っている様に感じられた。

 

 



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第7章







 明らかにヤバイと感じる戦場海域に突入した時。姫とか鬼とか、そんなクソ強い深海棲艦共と対峙した時。他所の艦隊の艦娘達が、隣で沈みまくっていく時。

そういう死線とでも言うか、瀬戸際とでも言うのか。“あぁ、もう駄目かもしれねぇなぁ”みたいに思う時は、少なくなかった。だが、恐怖を感じた時は無かった。

ビビった事も無い。寧ろ、生きるか死ぬかみたいな感覚は、結構好きだったりする。神経を磨り減らす様なスリルが好きなのか。相手をぶっ殺すのが好きなのか。

そんな細かいことはイチイチ考えた事が無いから、自分では判断が出来ない。でも、多分、両方なんじゃねぇかなぁ。まぁ、戦えれば何でも良いや。

艦娘としてフォーマットされた俺の人格は、取り合えずそんな感じで、足柄とはまたちょっと違った種類の戦闘好きだった。

 

 そういう思考回路だったから、小破で撤退を繰り返す今の提督に召還されて最初の頃は、戦闘から遠ざけられている感覚に、苛立ちの募る毎日を送ったものだった。

その提督が、ナヨナヨした弱っちい感じの餓鬼だったのが、余計にムカついた。部下でもある艦娘にペコペコしまくってよ。何だよコイツ。

自分が召還した艦娘に、腫れ物でも扱うみたいに接してきやがる。いっつも引き攣ったみたいに貌を歪ませて笑いやがって。それで愛想笑いのつもりかよ。

何時までも執務と戦果に追われて、右往左往して、艦娘への進撃命令も必要以上に躊躇って、結局、何の成果も得られないまま無駄に時間が過ぎていく毎日だった。

 

 あぁ。コイツは駄目だ。仮に“提督”としての適正と資質が在ったとしても、致命的に向いてねぇよ。正直、そう思った。きっと不知火だってそうだった筈だ。

進撃指示もビビッてまともに出せないような臆病者と来たモンだから、鬱陶しがられて、他の提督共からリンチされてるのを知った時も、ふーん……って感じだった。

殴る蹴るに加えて、小便まで掛けられて、踏んづけられて。そりゃあ勿論、何度も助けに入ったが、自業自得だよなぁくらいの感想しか持てなかった。

艦娘達を海に出してはすぐに戻して来て、碌な戦果なんか挙がる筈が無ぇ。その癖、資材も入渠ドッグだってしっかり利用してたんだ。眼を付けられたってしょうがねぇよ。

分かり易く言えば、提督は“足手まとい”ってヤツだった。どうしようもねぇ。本営だってそう判断したんだろう。餓鬼だった提督は、単身で何処かに転属になった。

あれは、確か3ヶ月くらいの間だったか。その間も、提督が召還した艦娘達である俺達は、輸送船の護衛などに狩り出される事になった。

思えば、あの空白の期間が、大きく状況を変える事になる切っ掛けだった筈だ。

 

 鎮守府に帰って来た彼は、おどおどビクビクとした臆病な少年では無くなって居た。不自然なくらいに落ち着き払ったその様子は、奇妙を通り越して不気味な程だった。

鎮守府に提督が帰って来た時に、愛宕を連れていた事も気になる。あの3ヶ月の間に、何が在ったのか。

野獣から聞いたことだが、あの3ヶ月の間に本営では、提督の保持している艦娘を剥奪しようとする動きも在ったらしい。 

しかし、提督が何処で何をしていたのかは、野獣に聞いてみても、教えてくれなかった。「知wらwなwいwよ」と言われた。まぁ、だいたい言いたい事は分かる。

あれは多分、聞かない方が良いというサインだ。付き合いもソコソコだから、そういう雰囲気くらいは、いい加減分かって来る。

ただ、何か普通じゃないことをやっていたのは間違い無いだろう。そうじゃ無けりゃあ、人間はあんな変わり方なんかしねぇよ。

提督本人に聞こうと思った事も何度か在るが、結局、出来ずに居る。戦いでビビッた事は無いが、これに関してはちょっと足踏みしているのが正直なところだ。

 

 再会した時の事だ。『ただいま戻りました』と。出迎えた不知火達に、彼は、その幼さに全く似つかわしくない、ひっそりとした微笑を浮かべて見せた。まるで別人だった。

明らかに、彼は変わった。変節していた。感情や情動と言った、心の動きを全部押し潰して真っ平らにしたみたいな声は、今でも強烈に耳に残っている。

あの声を聞いた時は、血が凍った。誰だよお前。そう言いそうになった。だが、そんな言葉も出てこなかった。身体が動かなくなった。立ち竦んだ。

不知火達があの時、どんな感覚や印象を彼に抱いたのかは分からない。だが、天龍があの時感じた、魂が揺さぶられる様な感覚。あれは多分、強い畏怖だった。

あんな泣虫で弱虫だったガキ一人に、完全に呑まれていた。蒼味が掛かった彼の眼に、俺は鷲掴みにされた。震える声で、「お、おう……」と返したのは憶えている。

 

 それからだった。彼がその頭角を現して来たのは。艦娘第一主義を徹底していながらも、戦場海域へ艦娘達を送り出すことに躊躇をしなくなった。

無理強いた進撃命令こそ無かったものの、遠のいていた戦場の匂いが、一気に濃くなった。上等だった。ようやく、艦娘としての本分が果たせる。俺は嬉々として前線で戦った。

深海棲艦を殺して、殺して、殺しまくった。このまま、行けるところまで突き進んでみたい。そう思った時だって何度も在る。だが、それは無理だった。

提督からの撤退“命令”には逆らえない。これは理屈じゃない。艦娘はそういう存在だからだ。それでも、それなりに充実した毎日だった。

彼は、自身が保持する艦娘達から死を遠ざけようとする一方で、あの激戦期を誰よりも受け入れていた。そんな、ある種の矛盾を抱えた彼のもと、俺達は戦いの坩堝の中に居た。

 

 戦闘を繰り返すことで錬度も上がり、自分でもはっきりと分かる程に俺は強くなって行った。不知火を含めた、彼の保有する他の艦娘もそうだった。

何時の間にか、他の艦隊に比べても、俺達が所属していた彼の艦隊の強さは群を抜いている様な状態だった。その理由に、艦娘の人格成長を阻害しなかった事が挙げられている。

精神力と思考は、強力な武器だ。結果として、彼の艦娘第一主義は、非効率ではあるものの、艦娘達の強さを最大限まで引き出したと言えるだろう。

そして、とうとう大和型の二人を召還するまでに至り、これまでの多くの作戦の功労者として、その存在を知らしめるまでになっている。

各地の鎮守府に所属している多くの艦娘達が参加した、最近のMI・AL作戦でも、彼の艦隊は、野獣と並び大きな活躍を見せた。

 

 MI・AL作戦は、今までに類を見ないほどの大規模な作戦だったが、人類は勝利と、大きな戦果を収めた。

数多くの深海棲艦の捕縛、海域の解放も進み、人類の優位はより磐石となった。そのコストとして多くの艦娘が沈み、また多くの艦娘達が召還された。

作戦成功に伴い、捕らえた深海棲艦の数も大きく増えたことを受けて、鎮守府裏手の山裾に設立された深海棲艦の研究所である此処も、その全機能を稼動させている。

深海棲艦用の研究設備だけで無く、艦娘に対する施術も行える様になっているらしい。山裾を拓いただけあって敷地も広いし、とにかく大規模な施設だった。

今日はこの施設に用が在るとの事で、提督は此処に足を運んでいた。その用件というのも、深海棲艦に関するものらしい。一緒に居る天龍は、今日の秘書艦である。

ちなみに、天龍はこの施設の敷地内に入るのは初めてだった。軍事施設特有のものものしさの様なものは特に感じられない。静謐で、落ち着いた雰囲気だった。

それがまた胡散臭いと言うか、薄ら寒い感じがして、どうもこの場所は好きになれそうに無い。

 

 

 「おい……」

 

 「? はい、何でしょうか?」

 

 頭の後ろで手を組んだまま、行儀悪く歩いていた天龍は、隣に並んでいる提督に横目で視線だけを向ける。

気の無い声の天龍の呼びかけにも、彼は静かな微笑みを浮かべてくれている。其処に、以前には感じられた、天龍を圧倒するような雰囲気は微塵も無い。

だが、彼の声は穏やかで優しいものの、気味が悪いくらい落ち着いていて、普段には感じられない不思議な重みの様なものを感じた。

場所の所為もあるだろう。天龍は彼から視線を外して、周りへと視線を巡らせて、鼻を鳴らした。「そんなに俺達ってもの珍しいか? さっきから凄ぇ視線を感じるぜ」

辟易したように言う天龍に対して、「……そうかもしれません」と、彼はまた微笑んだ。

歯切れの悪い彼の言葉に、天龍はまた鼻を鳴らしながら眉間に皺を寄せて、周りにガンを飛ばす。

 

 此処は、外も中も、とにかく白い建物だった。雰囲気としては病院に近い。さっきから歩いている廊下も広く、床も壁も天井も真っ白だ。

窓なんてものは殆ど無いから、圧迫感というか、かなりの閉塞感を感じる。その所為だろうが、この建物の白色が酷く傲慢で、容赦無い色に思えてきてしまう。

少し離れた所から此方の様子を伺っている、白衣を着た研究員達と眼が合う。研究員達は、慌てて天龍から眼を逸らした。

だが、すぐに何やらヒソヒソと言い合いながら、忌避する様な視線を此方に向けて来る。此処に来てからずっとこんな感じで、流石に居心地が悪い。

彼、或いは、彼女達研究員が視線を向けているのは、実のところは、天龍では無い。天龍の隣に居る、彼を見ているのだ。自分が見られるよりも鬱陶しく感じる。

見せモンじゃねぇぞ……。鬱陶しそうに呟いて、天龍は不機嫌そうに貌を歪めた。空気がこんなに不味いと感じたのは初めてだった。

 

やたら広くて長い廊下を歩いて行く。その突き当たりで、厳重なセキュリティが施されたエレベーターの前で、提督は立ち止まった。すげぇなコレ。天龍は思わず呟いた。

確かにそれはエレベーターだが、まるで巨大金庫の施錠扉みたいに、分厚い金属板が何層にも重ねられている。扉の中心には、円筒形のロックが掛けられていた。

見れば、エレベーター自体が建物から独立している様だ。上の階へと伸びる操作パネルは備え付けられていない。地下行きのエレベーターである。

重厚で、厳かささえ感じさせる鋼鉄の扉の両脇には、武装した警備兵が二人立っていた。体格を見ても、野獣より幅も厚みも在る。鍛え抜かれた、屈強な兵士達だ。

だが、提督の姿を見て、すぐに最敬礼の姿勢を取った警備兵達の表情は、酷く強張っていた。顎先と唇、指先と呼吸が震えていた。明らかに、怯えていた。

天龍はそれに気付かない振りをしながら、警備兵達がエレベーターを動かすのを待つ。その時だった。「あ、待ってくださいよぉ!(滑り込み)」と、声がした。

背後を振り返ると、小走りに駆け寄って来る、海パンとTシャツ姿の野獣と、それに続く、時雨の姿が在った。

 

 

 

 

 

「Fooo↑ 走って来たからアッツゥ~! 

なぁ、時雨もちょっと疲れたろぉ?(申し訳程度の気遣い)」

 

「ううん。僕は全然疲れて無いよ(天使の微笑)」

 

「お、そうだな(予知夢)」

 

 エレベーターに提督と一緒に乗り込んでから、野獣は手で顔を扇いでいる。時雨の方は涼しい貌で、手にしたファイルに眼を通していた。

普段、野獣の秘書艦を務めているのは、長門か加賀だ。ただ、時と状況によっては、鈴谷や熊野など他の艦娘が勤める事もある。

だから、時雨が秘書艦をしていても不自然では無いのだが、この二人の組み合わせは結構珍しいかもしれない。だが、仲が悪い様では無さそうだ。

長門や加賀が秘書艦のときは、しょっちゅう執務室から怒号が響いているのだが、そんな雰囲気は全然無い。寧ろ、時雨が何時もより活き活きしている気さえする。

野獣と割りと仲が良いとされている青葉や金剛と接している時とはまた違った、互いに対する信頼感の様なものを感じるのだ。

「なぁ……。ちょっと良いか?」天龍は、野獣と時雨を見比べてから、提督にそっと耳打ちした。

 

「野獣と時雨って、仲良いのか?」 

 

 怪しむみたいな聞き方になってしまったが、仕方無いだろう。

提督は天龍の問いに少しだけ笑って、ひっそりと頷いた。……マジかよ。

何だか軽い衝撃を受けてしまって、天龍は息を吐き出しながら後頭部を掻いた。

たまげたなぁ……。そう呟きかけた時だった。「時雨さんは、先輩の初期艦だったそうです」

野獣と時雨の二人には聞こえないくらいの声で、微笑んだ提督がそう教えてくれた。

天龍は何も言えなくなって、提督から視線を逸らす。やたら広いエレベーターの駆動音が、さっきよりも大きく聞こえた。

軽く息を吐き出してから、天龍は野獣に向き直った。

 

「おい、野獣……。こういう所に来る時は、提督服着て来いよ。

 時雨まで変な目で見られちまう。 ちゃんと持ってんだろ? 詰襟のヤツ」

 

「お、そうだな(適当)」

 

「いや、真面目に聞けよ」 天龍が呆れ顔になった時だ。

 

「僕なら、大丈夫。もう慣れちゃったよ」 時雨が微苦笑を浮かべた。

 

「余計駄目だろ。時雨からもビシッと言ってやれよ」

 

天龍が困った様に言うが、時雨の方は微苦笑を崩さない。

ちらりと野獣の顔を一瞥してから、肩を竦めて見せるだけだった。

 

「これが野獣の持ち味だし、格好良いところも在るから、僕はこれで良いと思うんだ。

今まで本営での会議もこの格好で参加して来たし、まぁ、多少はね?」

 

「お前、精神状態おかしいよ……(心配)、良くは無いだろ……。だって、お前コレ、

この格好で他所の提督達と顔つき合わせて会議するとか、ちょっと想像出来ねぇよ(困惑)」

 

 

 時雨の言葉に、天龍は戸惑いを隠せない。

本営も本営で、この野獣の自由過ぎる振る舞いを咎めないのは、何か理由や思惑が在っての事なのだろうか。

ちょっと良く分からないが、提督も穏やかな表情で時雨の言葉を聞いているので、まぁ、本当なんだろう。

戸惑う天龍の様子に、野獣が得意げな笑みを浮かべた。

 

「俺みたいに純朴で、何処までも真っ直ぐなピュアな男は、

自分を偽る事なんて出来無いからね。しょうがないね(己を見詰める)」

 

「……少なくとも、本当に純朴でピュアな奴は、

そんなラフ過ぎる格好でうろつかねぇと思うんだけどな(名推理)」

 

 天龍がボソッと言った時だった。エレベーターの低い駆動音が緩まり、止まった。

僅かな揺れと、静寂。どうやら、地下施設に到着したらしい。円筒状のロックが重々しく回転し、幾層に編まれた鋼鉄の扉が、ゆっくりと解ける様に開いていく。

僅かな緊張と共に、天龍は開いていく扉に身体を向ける。時雨の表情も、少々硬い。天龍と同じく、緊張しているのか。野獣ですら無駄口を叩かず、黙ってしまった。

穏やかな表情のままなのは提督だけだ。ゴウン……と、腹の底に響いてくる音と共に、鋼鉄の扉が完全に開かれた。其処は白く、やけに広い部屋だった。

だが、地上階ほど殺風景では無い。だだっ広い倉庫か、地下駐車場の様な印象を受ける。或いは、巨大な手術室だ。傷一つ無い白一色の壁面は、特殊な金属の様だ。

何かを運搬する為のだろう。大型のフォークリフトが数台と、固定に用いるのであろう鎖やフックなどが壁に大量に掛けられている。

他にも、施術用の拘束椅子、施術用の拘束ベッド、天龍では使い道が分からない大掛かりな器具が並んでいた。

 

 時雨が軽く息を呑む気配がした。どうやら、寒気がしたのは天龍だけでは無さそうだ。

部屋全体の雰囲気と相まって、この部屋を染めている白色が、とにかくキツイ。かなり精神的に来る。落ち着かない。

天龍達が降りたエレベーターの反対側の壁には、やはり鋼鉄板を折り合わせ、円筒状のロックを掛けた様な扉があった。

ただ、天龍達が乗って来たエレベーターよりも、更に大型のエレベーターだ。鋼鉄の扉の大きさも、2回り以上大きい。明らかに、人が乗るものじゃない。

成る程な、と思いながら、天龍は部屋を見回す。向こうは、外から運ばれて来た深海棲艦が、生簀トラックごと此処まで降りてくる為のエレベーターだ。

多種多様な器具が置かれているものの、この部屋には余裕がかなり在る。装甲車程度なら、不自由無く方向転換も出来るだろう。

そして此処で“荷降ろし”を行って、適切な処置を行った後、あの奥の扉に運んで、捕獲しておく訳か。

天龍の視線の先には、やはり大掛かりな施錠が施された扉が在る。扉の横には、指紋やら顔貌、声紋などを認証する為の装置が備え付けられていた。

提督は穏やかな表情のままで、奥の扉に向って歩き始めていた。扉までの距離はそこそこ在る。

野獣がそれに続き、取りあえず、天龍と時雨もその後に続く。沈黙が降りた。足音だけが響いている。

天井には一応の空調設備も在り、空気は澱んで居ない筈だが、やけに息苦しい。嫌な感じだった。

 

「時雨は、此処に来るの初めてか?」

 

「ううん。初めてじゃないさ。二度目だよ。前に野獣に着いて来た事は在るけれど……。

 やっぱり、此処の空気はどうしても好きになれないな。正直、ちょっと怖いよ」

 

「俺もだ。初めて来たが、此処は好きになれそうにねぇ。

 この先に、捕まえられて来た深海棲艦共が居るんだろ? 生臭ぇ筈だな」

 

「そうかな? 別に、臭いはしないけれど……」

 

「ものの例えだ。空気が悪いって言いたかったんだよ」

 

 天龍と時雨が軽く言葉を交わしている内に、提督はもう扉の前に辿り着き、その施錠を解いていた。前を歩いていた野獣が、此方を肩越しに一瞥するのが見えた。

重く軋む音が響いて、大掛かりな鋼鉄板が、壁面に沈むようにして開いていく。野獣と天龍と時雨は、互いに顔を見合わせてから、歩く足を速めた。

天龍は唾を飲み込んでから、唇を舌で舐めて湿らせて、提督や野獣に続き扉を抜けた。相変わらず、白い通路が伸びている。その両側には、広い施術室が幾つか並んでいた。

人型の深海棲艦を飼っておく為の捕虜房でも在る。どの部屋にも、滋養カプセルとして、人間が楽に入ってしまえるだけの巨大なシリンダーが備え付けられている。

提督と野獣に続いて入った或る一室では、計四本のシリンダーが薄緑色の液体で満たされていた。その其々の中で、彼女達は眠る様に静かに佇んでいた。激戦期の終期に捕らえられたというのは、こいつらか。

提督や野獣の間を抜けて、天龍は彼女達に近付く。脳裏には、ホルマリン漬けの標本が浮かんだ。実質は同じようなものだろう。

だが、決定的に違う点が在る。彼女達も、天龍達の気配に気付いて、ゆっくりとその眼を開いた。

並んだシリンダーの左から順に、戦艦タ級、戦艦ル級、空母ヲ級、そして、戦艦棲鬼が並んでいる。彼女達は死んでなど居ない。生きているのだ。

彼女達は何も身に付けていない。その裸形の造形は、人間の女性や艦娘と変わらない。顔、胴、乳房、腕、性器、脚、指の一本に至るまで同じである。

彼女達が持つ頑強な白磁の肉体も、今では徹底的にスポイルされ、ほぼ見た目通りの人間程度の力しか出せない様にされている。シリンダーを破るのは不可能だ。

更に、解体施術を受けており、艤装の召還も不可能にされてある。肉体の機能を破壊された彼女達には、食事、排泄、睡眠といった行動の必要も無い。

ただこの培養液の中に浸されて、人類が納得行くまで、半永久的に生かされるだけの存在である。彼女達は、薄く開けた眼で天龍達を睥睨してくる。

 

 今の彼女達の眼には、海で対峙した時に見せる様な、殺意に満ちた煌々とした強い光は宿っていない。しかし、此方を射竦めてくるだけの迫力や存在感は健在だ。

彼女達は天龍が知っている、獰猛で狂猛極まり無い深海棲艦であった事を強く実感する。無数の艦娘達を屠り、海の底に沈めて来たであろう彼女達が、眼の前に居る。

それも完全に無力化された状態で、こんなシリンダーに押し込まれたまま何の抵抗も出来ない彼女達の姿に、改めて人類の容赦の無さを思い知った。

深海棲艦達が鹵獲され、研究対象として人類が捕らえるまでになっている事は、天龍も当然知っていた。だが、いざその現実を目の当たりにして言葉を失う。

時雨も、険しい表情で黙したまま、彼女達の視線を受け止めている。その隣に居る野獣は、欠伸をしながら尻をボリボリと掻いていた。

少しの沈黙が在った後。何かに気付いた彼女達に動きが在った。シリンダーの中に居た彼女達が、此方に身を寄せて来たのだ。流石に驚いて、うっ、と天龍は身を引く。

その代わり、彼がゆっくりと歩み出て、並んだ四つのシリンダーの前で、微笑んで見せた。

 

「……お久しぶりです。お変わりありませんか?」

彼女達を順番に見ながら、優しく紡がれた彼の言葉に、明らかに彼女達の様子が変わった。

今までの冷え冷えとした彼女達の無表情は一変して、まるで離れ離れになった家族か、想い人とようやく出会えた様な、安堵と喜びを滲ませた表情だった。

彼は、すぐ眼の前に在るヲ級のシリンダーに、そっと左掌を這わせる。その彼の動きを追う様に、ヲ級もシリンダー越しに自分の右掌を、彼の左掌に重ね合わせた。

タ級、ル級、戦艦棲姫達が見守る中。微笑みを浮かべる彼と、ヲ級が暫く見詰め合う形になる。

培養液の中に在っても輝きを失わない、琥珀色をしたヲ級の瞳が潤む様に揺れていた。少しだけ苦しげに、何かを抱きしめる様に左手を胸前でぎゅっと握っている。

それから、ゆっくりと眼を閉じたヲ級は、シリンダーの内側にそっと額を預けた。提督も彼女に応え、帽子を脱いで瞑目し、シリンダーに額を寄せる。

彼の身体からは、微かに蒼色の光が漏れていた。それが、シリンダー越しに触れ合う彼とヲ級の掌を、肉体の接触では無い何かで繋いでいる。神秘的な光景だった。

天龍も時雨も、黙ったまま、その光景を見ているしか無かった。

 

 お会イしとう御座いまシタ……。

数秒か。数分か。短いような、長いようなその沈黙の時間は、怖気を誘う様な妖艶な声で途切れた。

それはヲ級のものでは無い。右隣のシリンダーから提督を覗き込む様に身を寄せて来ていた、戦艦棲姫のものだった。

「僕もです。皆さんが元気な様で、ほっとしています」 彼は言いながら眼を開けて、そっとヲ級のシリンダーから身体を離した。戦艦棲姫に向き直り、また微笑む。

端から見ていて気の毒になるくらい、離れて行く彼の背を見詰めるヲ級が、名残惜しいというか悲しそうな貌になっていた。何だか、現実感の薄い光景である。

これも野獣から聞いた事だが、研究素体として扱われ、衰微しきっていたこの四体の深海棲艦を救い上げ、こうした形でこの施設に引き入れたのは彼である。

彼は激戦期後も、招集により本営に出向く度、データを収集する為に、身体を破壊されては修復されるを繰り返す彼女達に、活力を与え、苦痛を取り除いて来た。

戦艦棲姫の言葉が、若干流暢に聞こえるのは、そうした彼との接触の中で、コミュニケーションの機会に恵まれた故だろう。

そして最近になって、解剖と解体施術以外は、人型の上位個体には効果が上げられないという結論が出た事も、彼にとっては追い風だった。

彼は先程と同じように蒼い微光をくゆらせながら、戦艦棲姫のシリンダーに手を触れる。戦艦棲姫は陶然とした様子で、彼と掌を重ね合わせた。

 

「私モ……、貴方が壮健ナ様子デ居られル事ニ、心ヨり安堵して居リマす」

 

「僕には、支えてくださる優しい人達が居ますから」

 

 彼の言葉に、戦艦棲姫は天龍や時雨、それに、野獣を順番に見てから、目礼して見せた。突然のことだったので、流石にぎょっとした。

思わず目礼を返してしまった時雨を横目に見て、天龍はぐっと戦艦棲姫を睨んだ。だが、奴は敵意も殺意も無い、薄い笑みを浮かべただけだった。

すぐに彼に視線を戻して、彼に縋る様にシリンダーに身を寄せた。

 

「捕らエラレた他ノ者達の事モ、どうカ……、貴方ノ元に置いて頂きとウ御座いマス」

 

「全員は不可能ですが、出来る限りの努力はします」

 

「はイ………」

 

 赤い舌で、自身の唇をゆっくりと舐めた戦艦棲姫は、熱っぽい眼差しで、ひっそりと微笑む彼を見詰めている。時雨が少し赤い貌で息を呑んだ。

無理も無い。ヲ級の時と違い、戦艦棲姫の纏う雰囲気が官能的過ぎて、何とも言えず淫靡な感じがするのだ。天龍だって何だか気まずい。

 

「あ、そうだ(唐突)。

一昨日の夜にぃ、KUWNSIKも、此処に送られて来たらしいっスよ。

 じゃけん、捕獲状況の報告書資料の為に、そっちにも行きましょうね~(せっかち)」

 

 詰まらなそう貌で鼻をほじっていた野獣が、思い出したみたいに彼に声を掛けた。

丁度、戦艦棲姫のシリンダーから離れた彼が、今度はタ級、ル級の前に歩み寄った時だった。

野獣の言葉に頷いた彼は、野獣とタ級、ル級を見比べてから、すまなさそうに微笑んだ。

 

「また、会いに来ます……」すまなそうなその言葉と共に、

シリンダーから離れていく提督を見ていたタ級、ル級は、『あっ、あっ、あのっ、あのっ……』みたいな感じだった。

御褒美のお預けを喰らった子犬の様な、切ない貌のタ級と。唇を噛みながら野獣を睨み、内側からシリンダーをドカッと叩いたル級の姿が印象的だった。

 

 

 深海棲艦に壁ドンされる提督なんて、多分、野獣が人類史上初じゃないだろうか。

何だか凄ぇなぁ……、などと思いながら、提督と野獣の後に続き、また別の施術室兼捕虜房へと足を運んだ。

その房室も、やはり厳重なロックが施されており、中に捕らえられている深海棲艦が、強力であった事を伺わせる。

房室は二部屋に分けられていて、天龍達が入った部屋からは、奥側の部屋の様子が見える様に、大きくマジックミラーが張られていた。

ミラー向こうの真っ白な部屋には、養液で満たされたシリンダーが二つと、簡素なベッドが一つだけ置かれている。殺風景なその部屋に、彼女は居た。

白い肌と白い長髪。額から伸びる角。袖から覗く、装甲に覆われた禍々しく大きな手。十分過ぎる程に女性らしい、豊満な肉体。右眼に黒い眼帯をしている。

港湾棲姫。眉をハの字にした彼女はベッドに腰掛けたまま、心細そうな様子で、じっと床を見詰めている。凶暴さや獰猛さとは無縁の雰囲気だ。

奥側房室への解錠を行っている野獣の背中と、港湾棲姫を交互に見ながら、天龍は色々と記憶を手繰ってみた。

提督や野獣が関わったという話は聞かないから、他所の鎮守府の提督達が鹵獲したんだろう。

しかし、よく鹵獲して来たもんだと思う。生きて捕まえるのなんて、ただ撃沈させるよりも遥かに難しいし非効率だ。

イ、ロ、ハ、ニ、ホ、へ、ト級、或いは、ワ、カ、ヨ級などとは違い、戦艦や“鬼”、“姫”クラスになると、強過ぎて麻酔弾も捕獲トラップも通用しない。

スマートに捕まえるなんてのは、実際のところ不可能だった。結局、一番シンプルで、艦娘達に一番労力と負担の掛かる方法しか残って居ない。方法自体は簡単である。

対象となる“鬼”や“姫”クラスの深海棲艦の艤装だけで無く、自己再生が追いつかないレベルで、腕や脚などを破壊し尽くす事で、抵抗力を奪うのだ。

死ぬ寸前までそれを続け、行動不能になって沈黙した深海棲艦を、生き残った艦娘達で曳航してくる。踏まなければならないステップは少ないが、過酷である。

大和や武蔵、それに長門や陸奥が協力して、戦艦棲姫を捕らえた時も、この方法だった。胸糞の悪い話だが、多分、港湾棲姫も同じだろう。

現場に居合わせたことの在る天龍は、鹵獲の難しさや負担の大きさを知っている。ただ、その過酷さ故に、本営からの多大な評価も約束されているのだ。

くだらねぇな……。天龍が呟いた時だった。

 

 野獣が扉を解錠した。重々しい音と共に、鋼鉄で編まれた扉が軋みを上げて、壁に沈むようにして開いていく。

その低い音に、中に居た港湾棲姫がビクッと肩を震わせて、マジックミラーの方へと顔を向けて来るのが分かった。

 

「一々報告書送って来いとか、は~~面倒クサッ!

 KUWNSIKの捕獲状況の整理、イクゾォソオオオ!!!

 ♪デデデデッ♪ デッデッデッデェェェ―――――――……「カエレッ!!!」

 

 ズズズズ……、と扉が開き切った時だった。

意味も無く何故かテンションを上げ、室内に乗り込もうとした野獣の濁声を遮り、さっと小さな人影が立ち塞がった。

なかなか鋭い踏み込みだった。小さな人影は叫び声と共に、捻りの効いたストレートパンチを、野獣の股間にぶち込んだのだ。

「ヌ゜ッ!!!!!!????(一つ上の男の危機)」 裏声で悲鳴を上げた野獣が、股間を押さえてその場に崩れ落ちる。

捕獲された深海棲艦の反逆かと思ったが、それは在り得ない。解体施術により艤装召還を不可能にされ、肉体の力も封殺されているのだ。

彼女達は人間の女性と変わらない。或いはそれ以下だ。仮に港湾棲姫と野獣が取っ組み合いになっても、軍属の野獣が負けるなんて事はないだろう。

野獣が悶えているのも、単純に当たり所が悪かっただけだ。だが、黙って見ている訳にも行かない。天龍と時雨は、野獣を庇う形で前に出る。

 

「ア……ダ、駄目……!」

 

 それと同時だったろうか。ベッドに腰掛けて居た港湾棲姫が駆け寄って来て、野獣の股間を殴りつけた彼女を、後ろから抱きしめた。

この場合、優しく羽交い絞めにしたといった方が正しいかもしれない。彼女は、港湾棲姫の腕の中で、「カエレ、カエレ……!」と言いながら、ぶんぶん腕を振り回している。

彼女がマジックミラーよりも背が低かったせいで、天龍は港湾棲姫しか見えなかった。北方棲姫。港湾棲姫と良く似た容姿だが、かなり幼い。赤みが強い橙色の瞳が印象的だ。

 

 天龍と時雨は、一応臨戦態勢で飛び出したものの、反応に困った。

此方に敵意満々な北方棲姫も、解体施術によってスポイルされている以上、見た目通りの少女程度の力しか無い。

その北方棲姫を抱きかかえる格好の港湾棲姫にしたって、怯えた様なその表情には反抗の意思なんて微塵も感じられない。

艦娘としての力を有する天龍達がこのまま攻撃しようものなら、捕虜への虐待行為になってしまう。天龍と時雨は顔を見合わせてから、臨戦態勢を解いた。

敵意は在っても、戦意の無い相手に艤装を召還するのも気が引ける。面倒そうにガシガシと頭を掻く天龍を見て、時雨は苦笑を浮かべている。

その様子に、港湾棲姫はホッとしている様だったが、すぐに表情を強張らせた。

心配そうな貌をした提督に、腰の辺りをトントンと叩いて貰いながら、「アー死ニソ……(ゴールデンブレイク)」と呻いていた野獣が、ふらふらと立ち上がったからだ。

 

「HPPOUSIKも一緒に居るの、忘れてたなぁ……(痛恨のミス)

 出会い頭に人のマンモスにパンチくれるとかさぁ、いい度胸してんねぇ! どうりでねぇ!(半泣き)」

 

 内股になってぷるぷると脚を震わせている野獣の憤怒には、言葉ほどの迫力は無かった。

これからどうなるのかと戦々恐々としている港湾棲姫に比べ、北方棲姫はムッとした貌のままで、全然怖がる様子が無い。

「ホ……ホラ……、教エタ通リ……、チャント、謝ッテ……!」 港湾棲姫は慌てた様子で、北方棲姫に何事かを言い聞かせている。

狼狽する港湾棲姫に、北方棲姫は可愛らしくコクンと素直に謝ってから、トテテっと、野獣の前まで移動した。それから、じっと野獣を見詰め出した。

野獣の方は、「ヌッ!?(警戒)」と、あからさまに身構えている。『ごめんなさい』でもすんのかな。天龍はふと思った。傍に居た時雨も、雰囲気的にそう思った筈だ。

だが、違った。「カエレ!!(二撃完殺)」 フワフワ手袋を嵌めた拳を握り固めて、北方棲姫は再び野獣の股間を狙った。

ブオンと音がする、救い上げる様ないい感じのショートアッパーだ。だが、野獣も伊達に“元帥”では無かった。

「ヲッ!!(緊急回避)」 腰を引く様にして、咄嗟にかわして見せた。

 

「謝れって言われてんのに二発目来るっておかしだルルォ!?(正論) オオォン!? 

 俺が女の子になっちゃったらどうしてくれんだオラララァァ~~~ン!!?」

 

 最初の一撃のダメージが抜けていない野獣は、まだへっぴり腰だ。

そんな野獣を見据えながら、北方棲姫は、ふんすふんす! と鼻息を荒げて、ファイティングポーズを取って見せる。「カエッテ、ドウゾ(問答無用)」何て腕白さだ。

見れば、港湾棲姫の方は青い貌をして、あわあわしている。このままでは、無礼を働いた北方棲姫が、野獣に解剖でもされるんじゃなかろうかと心配しているんだろう。

天龍が港湾棲姫をチラッと見てみると、まだ消え切って居ない傷跡が、その白い肌に幾つも在る。あれは、戦いで負った傷じゃない。解剖の痕だ。

大分派手にやられた上に、眼球の摘出までされたのだろう。右眼の眼帯も、近くで見ると酷く痛々しい。

 

 鹵獲・研究が行われる中で、深海棲艦の上位個体には、精神拘束施術の効果が薄いことが分かっている。だが、その肉体の分析はかなり進んでいた。

深海棲艦は、艦娘を上回る生命力を持つ。身体の部位や、臓器などを破壊しても、人の手によって修復が、いや、もっと言えば、“復元”する事が出来る。

勿論、これには妖精達の協力に加え、高等な施術を扱える“提督”の存在が前提では在るが、本営直属の研究機関でならば、そういった人材には事欠かない。

艦娘では廃棄するしか無い様な損傷でも、深海棲艦ならば蘇生させる事が可能なのだ。これを利用して本営は、鹵獲した深海棲艦に対しての解剖、拷問を是としていた。

人型の深海棲艦が“捕虜”として扱われるのは、身体を弄繰り回され、切り刻まれて、生と死の淵から蘇生術で無理矢理引き摺り上げられた後である。

先程のタ級、ル級、ヲ級、戦艦棲姫も例外じゃない。全員、一度バラバラに分解される様な憂き目に遭っている筈だ。それが事実だから、変な噂も広まったりした。

以前、報告書に纏められて鎮守府に送られて来た、深海棲艦とのケッコン施術についての研究も、こうした活動の延長線上に在るものだ。

ただ、北方棲姫に関しては、まだ解剖も行われていない。港湾棲姫を解剖するのなら、同型である北方棲姫にまで、同じ施術を行うのは非効率だとして、野獣が本営に噛み付いたからだ。

とりあえず、北方棲姫とまだ睨み合うと言うか、じゃれ合うと言うか、その腕白さに付き合っている野獣に、何時まで遊んでんだよ……、と声を掛けようとした時だった。

彼が、野獣と北方棲姫の間に、すっと入った。

 

「どうか、そう警戒しないで下さい。

 僕達は何もしません。ただ、お二人の様子を見に来ただけです」

 

 北方棲姫は、野獣から微笑む彼に向き直り、上目遣いで、じっと睨むようにして見詰める。

彼はその視線にも動じない。ただ、その警戒を解すかのように、穏やかな表情を浮かべている。

ただ、ガタイの良い野獣はともかく、華奢な彼に北方棲姫が掴み掛からないとも限らないので、それを防ぐ為に天龍も彼の隣に並ぶ。

しばらく黙ったまま、北方棲姫と港湾棲姫を交互に見ていた彼は、左の掌に蒼い微光を灯した。微笑みを深めて、一歩だけ北方棲姫に歩み寄る。

怒りや凄み、威圧感とも違う。こういう時の彼には、無視出来ない独特の迫力が在る。怯えた様に顔を強張らせた北方棲姫が、二歩後ずさった。

彼が纏った雰囲気に、危険な何かを感じたのかもしれない。港湾棲姫がまた慌てた様子で走り寄って膝を着き、北方棲姫を庇う様に抱きすくめる。

彼は穏やかな表情を崩さないまま、右手で提督服のボタンを上から三つ外した。そして、その懐から、黒い板状の金属塊を取りだした。丁度、携帯端末くらいの大きさだ。

 

「何だよそれ?」

隣に居た天龍は、彼が右手で持つ鋳塊を覗き込んだ。見た感じ、ただの鋼材では無さそうである。

 

「深海棲艦の肉体と親和性の高い、特殊合金です。

此処に来る前に妖精さんにお願いして、特別に用意して貰いました」

 

 落ち着いた声で答えながら、彼は掌に灯した蒼い光を、炎の様に強く揺らめかせる。

それと同時に、彼の左手の中に在る黒い鋳塊の輪郭が崩れて、熔解を始めた。

蒼い微光の揺らめきは、鋳塊を更に光の粒子にまで分解し、彼が掌に宿す蒼色に融けていく。

金属儀礼の施術を極めつつ在る彼は、優れた職工でもあり、工匠でもある。造物から招き入れた命に、提督である彼に鋳込めぬものなど無い。

「……少しだけ、じっとしていて下さいね」 彼は北方棲姫から、港湾棲姫へと視線を移してから、ゆっくりと歩み寄る。港湾棲姫は頷きもしないが、抵抗もしない。

ただ、彼から眼を逸らせない様だ。身体を硬直させている。しかし、北方棲姫の方は違った。港湾棲姫の腕から飛び出して、彼に組み付こうとしたのだ。

 

「おぉっと、お前も大人しくしてろって」

 

 そんな北方棲姫を、艤装を召還した天龍は、ひょいっと持ち上げる様に羽交い絞めにした。

ハナセ! ハナセ! と、北方棲姫がジタバタするものの、スポイルされた身体の力なんて、本当に微々たるものだ。

艦娘としての力を発揮している天龍からしてみれば、どんなに激しく暴れたってヌイグルミみたいなものである。

身動きが出来なくなった北方棲姫に、野獣が「もう許さねぇからなぁ?」と、容赦の無いくすぐり攻撃を開始した。

北方棲姫が身をよじりながら、悲鳴にも似た笑い声を上げる。「止めなよ野獣……」と時雨に諫められていた。

 

 

 野獣達の平和な様子を横目で見て、少しだけ可笑しそうに笑った彼は、膝を着いたままの港湾棲姫の右眼を覆う眼帯に、左手でそっと触れた。

上背の在る港湾棲姫は膝を着いたままでも、頭の高さは立ったままの彼と同じくらいだ。港湾棲姫と眼を合わせた彼は、彼女の不安を払拭する様に一つ頷いて見せる。

同時に、彼の掌に宿る微光の蒼い揺らぎが、ゆっくりと濁る様に血色へと変わり始めた。いや、微光の色だけでは無い。彼の眼にも、鬼火が宿り始めている。

あの色は、“姫”や“鬼”の眼に宿っているものと同じだ。怪しい暗紅色の揺らぎは、彼の手が触れている港湾棲姫の眼へと注がれ、流れ込んで行く。

それは、深海棲艦達にとっての活力の波だ。金属の経。造物の経。彼が朗々と紡ぐ文言に合わせて、脈打つ様な赤黒い明滅が、白い部屋を暗く染める。

その度に、港湾棲姫の身体から傷跡が拭われて消えていく。天龍も、天龍の腕に捕まっていた北方棲姫も、その光景に眼を奪われていた。

ふざけていた野獣も、それを諫めていた時雨も、今は黙って彼の施術を見守っている。やはり、それしか出来ないからだ。

恍惚の表情を浮かべた港湾棲姫は吐息を漏らし、自身の顔に触れている彼の左手、また左腕に、その禍々しい装甲に覆われた両手で、縋るように触れた。

大きな力のうねりが、彼の膨大な精密作業によって、実体と輪郭を持ち始める。その正体は、摘出された眼球の復元と、奪われた視力の復活である。

港湾棲姫の顔に触れていた左手で、彼は彼女の右眼の眼帯を外した。きつく閉じられた港湾棲姫の右瞼からは、透明な雫が伝っていた。

「瞼を開けてみて下さい。……見えますか?」 彼が言葉を紡いだ時、血色の明滅は薄れ、代わりに、澄んだ蒼い光がその掌から漏れ始める。

しかし、すぐにその光も煙の様に呆気無く霧散した。彼の眼に宿っていた暗紅の鬼火も消え、まるで何も無かったかのように静寂が満ちていく。

 

「……! ……見エ、ル……」 

彼の左手、左腕を縋るように両手で包む姿勢のまま、港湾棲姫は右眼をゆっくりと開き、彼の蒼味掛かった昏い瞳を凝視している。その声は、驚愕に震えていた。

空洞だった筈の眼窩に、ちゃんと彼女の眼が在った。それは、鎮守府で行われる“修復”、“改修”とはまた違う、より万能に近い施術に見える。

艦娘召還の応用になるのだろうが、この出鱈目な治療施術を目の当たりにして、正直なところ天龍もかなり驚いていた。

 

 今の人間は、艦娘や深海棲艦という存在に対して、此処まで干渉することが出来るのか。

提督一人で此処まで出来るんだったら、工作艦の明石や妖精が居て、設備が整ってさえいれば、死んだ艦娘を蘇らせる事だって出来るんじゃねぇのか。

いや、そうじゃない。感覚が狂いそうになるが、提督なら誰でも、彼の様に高度な施術応用が出来る訳じゃない。彼が持つ、提督への資質や適正が特殊なのだ。

だからこそ、あれだけ足手まといだった提督が、保持している艦娘の剥奪命令を免れたのだ。それを確信したのはもう随分前だが、改めて薄ら寒さを感じる。

天龍は軽く頭を振ってから、呆然とした様子の北方棲姫を地面に降ろしてやった。北方棲姫は天龍の方なんて振り返らずに、港湾棲姫の元に駆け寄って行く。

北方棲姫に気付いた彼は、そっと港湾棲姫の巨大な手を解き、数歩下がって距離を取る。そのすぐ後に、北方棲姫が港湾棲姫に抱きついた。

パシャッ、と、シャッターが切られる音がした。携帯端末を構えた野獣だ。

 

「鹵獲状況の報告資料用に、写真の一枚も、まぁ、……多少はね?

 どうせ形だけのレポートだから、基本的には『異常ナシ』なんだよなぁ」

 

「はい。有り難う御座います。

 港湾棲姫さんへの治療も済みました。そろそろ鎮守府へ戻りましょうか」

 

「お、そうだな。もうオヤツの時間も過ぎてるゾ。

 早く帰って、昨日取り寄せといたイチゴのケーキ食べなきゃ……(使命感)。

 おいSGRぇ! ビールも冷えてるか~?(呑んべぇ先輩)」

 

「来る前に一応、執務室の冷蔵庫に冷やしておいたけど。

 野獣は、ケーキをツマミにしてビールを呑むつもりかい……?(困惑)」

 

「時雨も気が利き過ぎだろ。まぁ、突っ込むトコは其処じゃねぇな。

 普通に仕事残ってんだろ? 呑むなよ、野獣。またぞろ長門にどやされんぞ?」

 

「ヘーキヘーキ! 

 お前とTNRYUにも分けてやるから、帰ったら俺の執務室に良いよ! 来いよ!」

 

「マッテ!」

 

 馬鹿な事を言い合いながら、天龍達がこの捕虜房から出ようとした時だ。声がした。

天龍達が振り返ると、北方棲姫が彼の提督服の裾を、これでもかと両手でギュッと掴んでいた。傍には港湾棲姫も歩み寄って来ており、ちょっと身構えそうになる。

彼にしてみても、裾を掴まれたのはいきなりだったので、後ろにコケそうになっていたが、倒れずには済んだ様だ。体勢を立て直した彼も、振り返る。

彼が立ち止まった事で、一応満足したのか。北方棲姫は彼の提督服の裾を放して、一歩彼から離れた。

そして、「アリガトウ」と言葉を紡いでから反応を待つように、真っ直ぐ彼の顔を見詰めている。

あの“アリガトウ”は、港湾棲姫の眼を治してくれて有り難う、という意味と捉えて間違い無いのだろう。

だが、やはり衝撃的ではある。今日は驚くことばかりだったが、これがハイライトだ。

深海棲艦の口から、ありがとうなんて言葉を聞く日が来るとは。

 

 人類と深海棲艦の意思疎通は、今まで成功した例が無いとか何とか聞いた気がするが、アレ、嘘じゃねぇ? 出来てんじゃねぇか。意思疎通。

いや、まぁな。さっきの戦艦棲姫とかでも言える事だが、話くらい普通にしてたしな。バッチリだったじゃん? 何だこれ。本営の野郎、適当な情報くれやがって。

いや。違うな。そうじゃない。やっぱりこれに関しても、彼が特殊過ぎるせいだ。常識じゃ測れないというか、判断出来ない部分の事象なのだ。俺は大丈夫。OK牧場だ。

若干錯乱気味な頭をフル回転させていると、今度は「……感謝……スル」と、静かに頭を下げた港湾棲姫が、呟く様にして続く。

彼は二人をまた交互に見てから、黙ったまま静かに微笑んで、頷きを返した。

 

 

 

 

 

 鎮守府に帰って来た天龍と彼は、取りあえず一服も兼ねて、野獣から分けて貰ったケーキを突きながら、コーヒーを飲むことにした。

今日はいろいろ在って、出撃した訳でも無いのにどっと疲れた。甘いものが喰いたい気分だったので、丁度良い。生クリームがめちゃんこ美味い。

特大の溜息を吐き出しながら、天龍はソファに凭れかかったまま天井を仰ぎ、ぐでぇ~と四肢を投げ出している。「秘書艦向いてねぇな、俺」

何気なく零した言葉に、彼が此方を一瞥してくるのが分かった。天龍も視線だけを返しながら、へへっ……、と力なく笑った。

 

「そう言や、地下の特別捕虜房に行ったのは今日が初めてだったのか?」

 

「はい。何度か訪問させては頂いていましたが、実務で関わる方々への挨拶周りが中心でしたので。

先輩の方は、そういうのを無視して、色々と独自に動いていたみたいですけど……」

 

「あぁ……。野獣が、もう何度も地下房に足を運んでるふうに見えたのは、そういう理由か」

 

 アイツは何処でもやりたい放題だな。

そう呟いた天龍に軽く笑った彼は、コーヒーを啜った。

執務室に差し込む日の光には、微かに朱が混じり、茜色に変わりつつ在る。

遠くに聞こえる波音を聞きながら、天龍もコーヒーを啜る。

 

「あの港湾棲姫共も、やっぱり本営に押し付けられた訳か。

わざわざ足を運んだのも、治療してやる為だったんだろ?」

 

「……飾らない言い方をすれば、そうなります。

彼女の解剖の傷については、報告を受けていましたから」

 

「上位個体には、精神施術の類いは効かねぇそうだしな。

 そういう手に負えない奴らを此処に集めて、お前が『何とかしろ』って訳だ」

 

「えぇ。“姫”クラスの強靭な精神を、自由に制御出来るだけの施術式を編め、という事なのでしょう。

 ただ今の所は、生きたままで彼女達を保持し、状況を報告するよう指示が出ているだけですから……。

本営としても、これ以上の研究成果は期待していないのだと思います」

 

「まぁ、仮にお前が新しい施術式を編めなくても、

“姫”共がお前に懐いてれば、利用出来る機会まで飼い殺す事も出来るしな。

 ……良い様に使われ過ぎだろ。文句の一つでも言ってやれよ」

 

 不機嫌そうに言う天龍に、彼はそっと微笑むだけだった。

 

 彼の微笑みには、幾つか種類が在る。嬉しそうだったり、悲しそうだったり、困ったみたいだったりする。だが、今の微笑みは、そのどれとも違った。

以前、彼が単身転属から帰って来たときの微笑みに近い。落ち着いていて優しげな癖に、絶対に相手を心の内にまで踏み込ませない微笑みだ。

他の艦娘達はどうか知らないが、全然子供っぽく無い彼のあの笑顔が、天龍は余り好きじゃない。まるで仮面みたいに見えるのだ。もっと言うと、人形染みてる。

こうしてサシで一緒に居ると余計に思う。言葉の真意や、感情を伺わせないあの笑みは、時に、彼が何を考えているのかマジで分からなくさせる時が在る。

感情の動きを押さえ付けて、覆い隠して、何もかもを我慢してるみたいな、あの、ひっそりとした微笑みを見ると、胸がムカムカしてくる。

だが、気持ちを乱したところで、何の意味も無い。それは、天龍が一番良く理解しているつもりだ。

彼の負担が減る訳でも無いし、何かをひた隠しにしている彼の心を、軽くしてやれる訳でも無い。

自分を落ち着けるみたいに一度ゆっくりと瞑目してから、ソファにだらしなく座ったままの天龍は、再び天井を仰いで深呼吸した。身体を起こして、彼に向き直る。

 

「お前が何考えてんのかなんて、俺には全く分からねぇし、

 何を背負い込もうとお前の勝手だけどよ。まぁ、何だ……。無理すんなよ」

 

 コキコキと首を鳴らしながら言って、唇の端をニッと持ち上げて見せた。

 

 天龍は置いてあったフォークを、残っていたケーキに乱暴にぶっ刺した。

ケーキを口の中に放り込んで、コーヒーで流し込む。ついでに立ち上がって、大きく伸びをした。

それから、執務机に座る彼に歩み寄って、彼の頭をぐしぐしと撫でた。

彼は珍しく驚いた様な貌で、天龍を凝視していた。彼の仮面みたいな微笑がちょっとだけ剥がれた。

取り敢えず、今のところはそれで満足だった。

 

「初めて会った時は、何だコイツと思ったけどよ。今じゃ、俺の提督はお前だけだ。

 付き合いも長いし、世話にもなった。やべぇと思ったら何時でも言えよ。……力になるぜ」

 

見上げてくる彼の貌を覗きこんで、笑ったまま頷いてやる。

 

「お前が何をやらかしたって、俺はお前の味方だからよ」

 

 頼りにしろよなぁ? と、冗談めかして言った次の瞬間、天龍は、ばっと彼から離れた。

天龍を見上げる彼の眼から、ぽろぽろっ、と涙が零れたからだ。あぁん、何で?(レ)

彼が今まで心の内に押さえ込んでいた何かが、天龍の優しい言葉でせり上がってきたのか。

ちょっとよく分からないが、正直、クソ焦った。え、マジ? 泣く? 泣いちゃう? 

馬鹿みたいに動揺していると、最悪のタイミングで扉がノックされた。待ってくれよ。

入って来たのは不知火だった。ウッソだろお前、笑っちゃうぜ……(ふふ恐)。

 

「失礼致します。司令、少し御相談したい事が……」

 

 其処まで言った不知火が、涙を拭っている彼に気付いた。

それから、その傍に突っ立っている、強張った表情の天龍を見た。

きっと、天龍が彼を苛めたとでも思ったに違い無い。

もともと鋭い不知火の眼が、刃物みたいに細められて、艤装が召還された。

 

「不知火です(強襲姿勢)」

 

「知ってる知ってる!!(喰い気味) お、おい! フザケンナヤメロバカ!!」

 

 戦闘海域では恐怖を感じた事は無いが、割りと洒落にならない殺気を放散させながら近寄って来る不知火は、素で怖かった。

涙を拭い終えた彼が、「すみません。不知火さん。見苦しいところをお見せしてしまって……」と、声を掛けてくれなかったら、どうなっていたのだろう。

想像するとちょっと良い気分では無いが、一先ずは胸を撫で下ろす。「い、いえっ、その様な事はありません」

よく訓練された猟犬みたいに、不知火はすぐに艤装を解き、彼の傍に控えた。

 

「しかし、どうなされたのです? 

 やはり天龍さんが、何か性的な嫌がらせを……」

 

「失礼過ぎィ! してねぇよそんな事!

 ちょっと元気づけてやってただけだっつの!」

 

「やっぱりセクハラじゃないですか(憤怒)。 不知火です(覚醒)」

 

「お前は助平な事しか考えられないのか……(焦り)」

 

「いえ、……天龍さんからは、本当に元気を貰いました」

彼は、言い合う天龍と不知火の言葉を間を縫って、やはり微笑んで居た。

それは、仮面の様な微笑みでは無く、信頼する家族に向けるような、無垢な笑みだった。

「有り難う御座います。天龍おねぇちゃん」などと彼が言ってしまった辺り、

凝り固まった彼の心を、先程の天龍の言葉が解してくれたのかもしれない。

 

「えっ」 余りに急な事に、天龍は間抜けな声が出てしまった。

 

「!……!?……!??」 

驚愕した様子の不知火が、天龍を二度見、いや、三度見した。

 

 言ってしまった彼の方も、気付いたようで、「あっ、す、すみません……! 失礼なことを……」と声を漏らしていた。

少し赤くなった貌を隠す様に、彼は恥ずかしげに帽子を目深く被って、天龍達から眼を逸らす。

 

「いや、べ、別に構わねぇよ。呼びたい様に呼べば良いけどよ……」

その仕種に不覚にもトキメキを覚えてしまい、天龍も何だか気恥ずかしくなって来て、うまく言葉が出てこなかった。

ただ、今の彼の発言が、無意識の内の言い間違いであるのならば、普段から彼は天龍の事を、“おねぇちゃん”として認識していたと推察出来る。

嫌な沈黙が続くかと思ったが、そうはならなかった。「司令」と、嫌に真剣な貌で、不知火が彼を見詰めたからだ。

 

「不知火の事も、“不知火おねぇちゃん”と、そう呼んで下さっても構いません」

天龍は、思わず不知火の横顔を凝視してしまう。糞真面目な貌で何を言い出すんだコイツは。

言葉の端々に妙な迫力が在って、隣にいるのに気圧されそうだ。

「えぇ、と……」と、反応に窮する彼に、不知火は力強く頷いた。まるで威圧してるみたいだ。

 

「不知火おねぇちゃんは大丈夫です(HRN並感)」 

 

 自分から言っていくのか……(困惑)。

天龍が戸惑う前で、執務机に座っていた彼が「不知火……おねぇちゃん?」と、ちょっとだけ恥ずかしそうに、不知火をそう呼んだ。

中々の破壊力と言うか、顔があつくなるのを感じた。提督LOVE勢などと揶揄されたりする艦娘達の気持ちが、ちょっとだけ分かった気がした。

恍惚とした様子で大きく深呼吸をした不知火は、今度は天龍の方へ顔を向けて来た。その表情には、自信と誇りが満ちている。

 

「ぬいぬいおねぇちゃんです(達成感)」

 

「呼び方変わってんじゃねーか……。何勝手にランクアップさせてんだ。

 あと、ライバルを見るみたいな眼で俺を見詰めて来るのを止めろ」

 

「では、……ぬ、ぬいぬいです(お気に入り)」 

 

「誰だよ(一刀両断)。つーか、照れてんじゃねぇよ……。

 もう、“おねぇちゃん”通り越して“恋人呼び”みたいになってんじゃねぇか……。

 お前も、もう普通に呼べよ? こんなのに付き合わなくて良いからな?(良心)」

 

 天龍と不知火の遣り取りに、彼は可笑しそうに小さく笑って頷いた。

その彼の様子を見て、不知火も何処か安心したように目許を緩めている事に、天龍は気付く。今更ながら思う。こうして三人で色々と話をするのも久ぶりである。

不知火は彼の初期艦だし、天龍も彼が召還した艦娘の中では、一番の古株メンバーに入る。互いに付き合いも長いし、信頼出来る仲間だ。

あれから、本当に仲間の数は増えた。此処の鎮守府には野獣が居て、他の艦娘達だって大勢居る。

こうして結ばれた今の絆が、彼が抱えた苦悩の火を、少しでも緩めてくれればと。

一人の艦娘に過ぎない天龍は、ただ願うばかりだった。

 

 














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第8章

◎御報告

前書きを修正させて頂き、警告タグを追加させて頂きました。


 本営から、艦娘達の心身の管理について今までより一層努めるよう通達が来たのは、一月程前だったろうか。

丁度その日、彼の秘書艦をしていてその通達書類を眼にした大鳳は、思わず眼を擦ってしまったのを憶えている。

戦果や作戦効率の為ならば、捨て艦法や大破進撃であっても、平気で容認する本営らしく無い、かなり気味が悪い通達だった。

他にも、他所の鎮守府が数箇所、深海棲艦に襲撃され、提督達が殺害・拉致された事件などの報告書もあったが、こっちの方がよっぽど異質である。

何を今更とも思ったが、MI・AL作戦の成功によってより大きな戦果を得た本営は、今度は陸からの眼にも備え、体裁を繕うべきだと考えたのだろう。

一般社会にも、この大きな作戦の成功は当然報道されているし、平和を取り戻す為に戦ってくれる艦娘達にも注目が高まりつつあった。

そんな中で、艦娘達の社会的な立場について問う人々も増えて来た。世論を敵に回すのは上手く無い。最低限の外面だけでも取り繕おうとしているに違い無い。

捨て艦法や大破進撃を、明確に禁止するという旨の文章では無かったところを見ても、『ポーズだけでも取っておけ』という“指示”なのだろう。

罰則の規程も無いので、艦娘を“道具”として扱うことを咎める訳でも無い。艦娘を“人”として扱うことを善しとする訳でも無い。

必要なのは、人類にとって都合の良い武力だ。そして、人類による深海棲艦の撃滅、支配、征服という結果である。

結局、何も変わっていない、というのが実際のところだろう。艦娘の人格の是非など、本営にとってはどうでも良いのである。

そして、我らが提督も変わらない。普段から艦娘達のコンディションには細心の注意を払ってくれているし、人格に負担を掛ける様な施術を行う事も無い。

たとえ効率が悪くとも、艦娘の人格を尊重する今までのスタンスを崩さなければ、それが最適な取り組みであろう。通達にも応えているし、問題無い筈だ。

 

 しかし、此処で大人しくしていないのが、野獣という男だった。

あれは、確か通達が来た日の夜。大鳳が、提督と共に夕食を摂りに食堂に足を運んだ時だ。其処でばったり、野獣と、その日の秘書艦であった長門と出くわしたのだ。

当然、野獣にも通達は来ている筈だし、何やら長門と話し合っていた様子だったのを覚えている。いや、あれは長門が野獣を窘めていた、という方が正しいだろうか。

四人で食事を囲んで、これからの鎮守府の運営方針に少し話をしたが、考える事は同じだった様で、まぁ、無理に変更すべき点は無い、というのが結論だった。

艦娘達のストレスを軽減し、疲労を和らげ、滋養の為の時間や空間を、どうやって提供するか。それが提督達の課題であり、既にそうした取り組みは実現されて来ている。

この鎮守府では、艦娘が利用できる大浴室や、美味しい酒なども呑める鳳翔の小料理屋に、野獣の執務室を改装した耳掻きサロンも絶賛運営中だ。

他の鎮守府と比べてみても、艦娘達に対する待遇はかなり良いと言えるし、その点は本営からの評価も高かったらしい。

そういう状況だったので、あの場では現状維持に意見が落ち着こうとしていたと言うのに、野獣は何かを思い付いていたらしい。

「あ、そうだ(恐るべき天啓)」と、野獣が小さく声を漏らしたのを、長門は気付かなかった様だが、大鳳は聞き逃さなかった。

あれから、本当に薄っすらとだが、日々嫌な予感はしていた。自分の身に、何か無茶振りが飛んでくるのではと。漠然とした不安が在った。

それが現実になろうとしていると言う事も、何となく感じていた。非番の日に野獣から呼び出しを喰らっても、“とうとう来たか”みたいな気分だった。

 

 

 

 大鳳は現在、野獣の執務室で、執務机に座ったまま大欠伸をしている野獣の前に立っていた。時刻は昼前。執務を片付けてしまった野獣は、携帯端末を弄っている。

ちなみに大鳳の隣には、不服そうな顔をした陸奥が腰に手を当てて立っていて、何だか不機嫌そうな山城が野獣をねめつけている。取りあえず、さっきから皆無言だ。

秘書艦用の執務机には、腕を組んだ長門が渋い表情で座っている。何とも言えない気まずそうな貌だ。そりゃそうだろう。この空気だ。大鳳だって、もう帰りたい。

まぁ、何でこのメンバーが集められたのか、というのも大体察することが出来る。その辺りが、この沈黙の微妙な重さの正体なのだろう。

ただ、野獣の方は相変わらず『我が道を征く』と言うかマイペースな感じで、この雰囲気を気にしている風でも無い。

野獣は携帯端末を手にしたまま、大鳳、陸奥、山城を順番に見て爽やかな笑顔を浮かべて見せた。

 

「三人は、どういう集まりなんだっけ?(聞くまでも無いけど、一応)」

 

 やっぱりな(レ)。

不幸ォ……、と言いそうになった大鳳は野獣の方を見ずに、視線を逸らすようにして床を見詰めた。

むっすぅーーーとした貌になった陸奥も、唇を尖らせてそっぽを向いた。山城は片方の眼をすっと細めて舌打ちをした。だが、取りあえずは沈黙を守っている。

何も言い返せないのが歯痒い。“運”。これだけはもう、錬度とかではどうしようも無い部分だ。その癖、戦果に多少響いたりする厄介な要素だ。

 

 艦娘達には個々にパーソナルデータが存在し、耐久、装甲、回避、火力などが数値として表されている。

その中に、“運”という、身も蓋も無い数値項目が在る。大鳳と陸奥、その数値が特に低いとされていた。

平均が大体10なのだが、大鳳は4、陸奥が6である。ただ、この低さは本当にどうしようも無い。こういうものなのである。

以前までは扶桑も“運”が低いとされていたが、現在では更なる改装を実現し、その“運”の低さを克服していたりする。ただ、その点においては、山城も同じはずだ。

改装施術を受けて、数値は平均の10まで回復した。そう言って、提督と共に山城が喜んでいたのは知っている。ちょっと妙である。

 

其処まで考えて、また嫌な予感がして来た時だ。

 

「野獣。“運”は絶対の要素では無い。

戦いで重要なのは、錬度と装備、それから……、お前と、私達自身の心の強さだ」

 

秘書艦用の執務机に座っている長門は、深みのある凛々しい声音で、ゆっくりと言葉を紡いだ。

彼女が本気でそう思っているからこそだろう。野獣を見据えるその眼差しには、迷いや濁りが無い。

 

「そうよ(陸奥)」

「そうわよ(山城)」

「そうですよ(大鳳)」 

(ジェットストリーム便乗)

 

 大鳳達の言葉を受け止め、鷹揚に頷いて見せた野獣は、ゆっくりと全員の顔を見回した。

 

「確かに、NGTが言う事も一理在るゾ。

 でも、不幸属性ってのは一種の個性だし、ステータスだからね。

 これを生かして、3人はNKちゃんに続くネットアイドルになろっか(唐突)」

 

 大鳳と山城、陸奥は、三人揃って「えっ」、と声を漏らした。

「また訳の分からん事を……」長門の方はと言うと眉間に皺を寄せて、横目で野獣を睨んでいる。

 

「艦娘達が非人道的な扱いを受けてないアピールの為に、また色々やれって通達が来たんだよなぁ。

 今更必死過ぎなんだよね。それ一番言われてるから(辟易)。とは言え、それなりに効果も在るから、ま、(手の込んだPRも)多少はね?」

 

 しかし、野獣はそんな視線を全く意に介していない。手にした携帯端末を弄りながら、今度はデスクの上に在るタブレット型端末のディスプレイを大鳳達に向けた。

ポカンとしてしまう大鳳達を尻目に、野獣は携帯端末の操作を終わらせて、タブレット端末の方で、あるページを表示した。見た事がある。有名な動画サイトだ。

ディスプレイをタッチしていく野獣の手元を見ていると、動悸がしてくる。凄い不安感だ。大鳳だけで無く、陸奥や山城、長門も、怪訝そうな貌で操作を見守っている。

 

「昨日の内にぃ、俺とアイツで、

このチャンネルと特設ページ作っといたから。お前らの為に(優しさ)」

 野獣が開いたページは、幾つかの動画チャンネルが並んでいる画面だった。

宣伝額や投稿された動画数、参加人数などが表示されている。其処に、長門が居る。

クリック出来る四角い枠の中で、凛々しい長門の画像が順番に切り替わっているのだ。

チャンネル名には、ふわふわフォントで『大本営☆ちゃんねる(非公式)』と表示されていた。

全員が言葉を失い、ディスプレイを凝視する。これマジ? 

表情が凍り付かせた長門が、野獣を見詰めた。

 

「ちょっと待ってくれ。

いや……。いや、ちょっと待ってくれ。こ、此れは本営から許可が出たのか?」

 

「許可と言うか、これも一応指示通りなんだよなぁ(したり顔)。

 こういう柔軟なアプローチは、年喰うと苦手になるからね。

新進気鋭の若手の俺達にお願いが来るのも、仕方ないね(レ)」

 

 長門に応えた野獣は、ウィンクして見せた。それと同時だったろうか。

野獣の携帯端末に着信が入った様だ。電子音が響いた。「げっ、広報部からじゃん。……話したくねぇなぁ」

野獣は面倒そうに言いながら、携帯端末を耳にあてる。次の瞬間だった。端末から怒鳴り声が漏れた。ちょっとやばそうな感じだったが、流石野獣だった。

怒涛の勢いで大声が漏れているのだが、「お、大丈夫か? 大丈夫か?(心配はしていない)」とか言いながら、適当に聞き流す野獣には全然届いていない。

サイトを見たぞ、とか。あんな威厳もへったくれも無い文字は許さん、とか。広報部とやらの先方は、そんな感じの事を野獣に怒鳴り付けて居る。

だが話の内容からして、デザインの変更を強く“要請”しているだけだ。強制的な“命令”じゃない。要するにイチャモンである。

「あ、そっかぁ。でもなぁ、これ、MURとKMRの二人の要望なんだよなぁ……」野獣が、困った振りをするみたいに言うと、先方の怒鳴り声が止んだ。

 

「どうっすかなー、俺もなー……。お偉いさん二人の要望を無視するとか、

(どんな処罰が下るのか)もうこれ分かんねぇな。……お前どう(なってもしらねぇぞ)?」

 

 野獣が声のトーンを落とすと、妙な貫禄と存在感が在って、大鳳は思わず背筋が伸びた。

長門や陸奥、山城も、意外と言うか、不思議そうな貌で野獣を見詰めている。沈黙が降りる。

携帯端末の向こうから漏れていた怒声も、もう聞こえて来ない。野獣に言葉を返せないのだろう。

悔しげな呻き声のようなものが、野獣が手に持った端末の向こうから微かに聞こえた。

 

「まぁ、そういう要望が在ったっていう事は、二人には伝えておくから。

 デザイン変更の許可が出たら改善してやるって! 安心しろよー、もー(窓口先輩)」

 

 また雰囲気をコロッと変えた野獣が、端末向こうに居る人物に言葉を返す。

その時には、また普段のちゃらんぽらんな感じの野獣に戻っていた。

端末の向こうの人物が、『……了解した』と苦しげな声で答えるのが聞こえた。

それから、すぐに通話は切れた様だ。野獣は端末を机に置いてから、軽く鼻を鳴らす。

 

「まったく広報の奴らにも困ったもんじゃい(疲れ顔先輩)」

 

「あの……、こういうメディアへの働きかけは、広報部の仕事じゃ無いんですか?」

 

 何だか胡散臭そうな顔をした山城が、机の上に置かれたタブレットと野獣の顔を見比べる。確かに、大鳳もその点には気になっていた。

何故、わざわざ野獣と提督がチャンネル開設という仕事を引き受けたのか。また、引き受けられたのか。

今しがたの通話の様子を見ても、広報部は野獣には任せたくなかったのでは無いか。何か大きな力を感じる。

「お前らは此↑処↓の鎮守府に所属してる艦娘で、人格を持ったお前らを召還したのも俺達だからね」ただ、野獣の方は肩を竦めて、両手を広げて見せた。

 

「少なくとも、お前らは俺達の部下なんだよなぁ。

それを偏見塗れの広報部の人間だけに任せるのは、いや~キツイっす(素)。

だからお偉いさんにお願いして、この件に関しては俺達で預かる流れになったんだゾ」

 

「それで、仕上がりが気に喰わんから、

 部外者扱いされた広報部からクレームが来たという訳か。面倒な話だな」

 

 下らなさそうに言う長門は、腕を組んだままで鼻を鳴らした。

 

「人格を確立させつつある艦娘達の露出が多くなれば、困る奴も居るからね。

 広報だけじゃなくて他の部署にも、そういう奴らの圧力が掛かってるのはしょうがないね(組織並感)」

 

 人々と艦娘達の距離を縮める切掛けになる、こういう野獣の取組みを煙たがる輩。

それはつまり、艦娘を兵器であり、道具としか見なしてこなかった提督達の事だろう。

激戦期が明けて、海を巡る趨勢は変わった。人類の技術は進化し続けている。

以前のMI作戦の成功によって、艦娘達の存在に対する世間からの視線も変わりつつある。

艦娘とは、窮地に立たされていた筈の人類を、勝利に導いてくれた立役者なのだ。

功労者でもあり、英雄でもある艦娘達へ感謝を寄せる人々も、決して少なくは無い。

命を賭して戦ってくれた艦娘達を、兵器では無く、もっと身近な存在として感じてもらうべく、野獣と提督は動いている。

社会、地域行事への貢献や、従来とは違った広報スタイルの提案などは、間違いなく、世間の人々に届きつつある。

そしてそれは、艦娘達が世間の認識の中で、道徳の主体となって困る者達の暴虐を縛りつけ始めている。

先程のように、広報が直接的に野獣へと噛み付きに来たのを見ても、それは間違い無いだろう。

 

「他所の艦娘達の待遇も改善されつつ在るし、良いゾ~これ。

 これも、協力してくれたお前らの御蔭だゾ。俺とアイツだけじゃ、ぜって~無理だったぜ?」

 

 不意に、落ち着いた声音になった野獣が、少しだけ目許を緩めて見せた。

言葉自体は軽い感じだったのは、其処に込められた感情の重さを隠す為だろうか。

提督と同じく、この野獣という男も、他者に本心を読ませないところが在る。

ただ、彼よりもほんの少し、それが下手なのだ。声から滲む真摯さを、隠せていない。

軍の中には“個”は無いけど、艦船っていう兵器の中には“兵”っていう“個”が居るって、それ一番言われてるから(カタパルトの兵長並感)。

野獣はまた、大鳳達の顔を一人ずつ順番に見てから、言葉を紡ぐ。

 

「“兵”としての人であるお前らが必要なんだよなー、頼むよー。

さて、何処まで話したかな。あ、そうだ(思い出し) お前らをさ、

ネットデビュー、しゃしてや、デビューにしたっっ……、しっ、した、てやんだよ(ヤケクソ)!」

 

 ……何でそんな噛み噛みなんだ。軽く笑いながら、ボソッと言う長門を横目に見て、陸奥は腰に手を当てた姿勢のままで、鼻から大きく息を吐き出した。

「で、……具体的に私達に何をやらせたいのよ?」と聞くあたり、陸奥は野獣の提案に付き合う気になったらしい。

「私達も、『那珂ちゃんだよー!』ってやるんですか? ……私、絶対に合いませんよ?」

そう言った山城も、多少困った風ではあるものの、断る気配は無い。

二人の様子を見て、大鳳は小さく笑った。こういう、『もう、しょうがないなぁ……』みたいな雰囲気にしてしまうのは、野獣という男の人徳なのだろう。

見れば長門も、『しょうがない奴だ』みたいな貌で、微苦笑を浮かべている。だが、穏やかな空気になるのは、ちょっと早かった。

 

「アイドルって言うと、ちょっと御幣があったゾ。

 お前らには、今話題の“まいちゅーばー”になって貰ったり、生放送して貰ったりするから(業務連絡)」

 

 野獣は顎を撫でながら、片手でタブレット端末のディスプレイをタップした。それから、執務机の引き出しからビデオカメラを取り出す。

 

「扶桑も呼びたいところだったけど、

 “運が低い艦娘と聞いて、誰をイメージしますか?”っていうアンケートで、上位3人がお前らだったんだよなぁ」

 

「……そのアンケートは何処で取られたんですか?(震え声)」

 大鳳は恐る恐る聞いてみた。

 

「本営の公式ページだゾ(麒麟児の風格)」

 

「命知らず過ぎませんか……」 山城が愕然としている。

 

「ちなみに、“弱そうな艦娘(何処がとは言って無い)”っていうアンケだと、

 NGTとBSMRKが他の追随を許さない、互角のツートップだったゾ(半笑い)」

 

「ダニィ!?(BZーT) そんな馬鹿な!?」 

 聞き捨てならんと猛善と長門が立ち上がる。同時に、陸奥が何かを察した様に「あっ……」と声を漏らした。

大鳳も、喉元まで「あっ……」という言葉が出てきていたが、寸でのところで飲み込む。山城は頬をさっと朱に染めて、黙ったまま俯いた。

 

「陸奥まで!? 『あっ……』とは、何だ! 『あっ……』とは!!」

 

「違うわよ!? その、強いとか弱いとかじゃなくて……、その、えぇと。

 あれよ! ほら、あの……。男性が苦手とか、そういうアレよ!(必死のフォロー)」

 

「そ、そうですよ! 凛々しくて強い女性程、男性に免疫が無かったりしますし!

 ギャップ萌え的な願望も合わさって、そういう結果になったんですよ!!(力説)」

 

 陸奥に続いて、大鳳も適当なことを捲くし立てる。必死に誤魔化す。

赤くなって黙り込んだ山城の様子で、勘付かれないかとヒヤヒヤものである。

ただ、長門は釈然とはしないようだったが、納得してくれたようだ。

「……そういうものか」と呟きながら、難しい貌になって再び座ってくれた。

大鳳が安堵の息を静かに漏らすと、陸奥と眼が合う。陸奥は、茶目っ気のあるウィンクをしてくれた。フォローありがとう。そう言われた気がした。

「脱線ついでに、あの、お聞きしても良いでしょうか?」 こほん、とワザとらしく咳をして見せ、話題を逸らした山城も、なかなかのナイスプレーだった。

 

「このページにある、プレゼントの応募っていうのは、何なんですか?」

 

 山城の言葉に続いて、全員がタブレットの画面に視線を向けた。

其処には、『提督達の手作り工房』と、可愛らしいフォントで表示されている。

 

「お、何だYMSRォ! 興味あんのかよぉ!(ノリノリ) 

 プレゼントは毎週、俺かアイツが作って、抽選で当選者を決めるんだYO!

実物はもう出来てるから。ほら、見ろよ見ろよ!(職工の誇り)」

 

 そう言って野獣は執務机の下から取り出したのは、硝子ケースに入れられた艦船の模型だった。ちょうど、ペットボトルくらいの大きさだ。

大鳳達は思わず感嘆の声を漏らし、眼を奪われた長門は息を呑んで居る。言葉を失ってしまう程に、途轍もなく精密で緻密、巧緻な模型である。

確かに、この時代の“提督”には、鋼術細工師的な側面も在るが、此処まで来ると正に職人技と言えるだろう。

いや、此処までのものを造ろうと思ったならば、技術だけでは足りない。それこそ、愛とでも呼べる情熱が無ければ不可能だ。

大鳳が艦娘だからかもしれないが、まるで金属に命を吹き込んだかのようにすら思える、“戦艦長門”の模型である。

造形に命が宿り、その武力に誇りが生まれる。もしもこの模型に人格が芽生え、それが野獣に応えたのならば、幼い姿の長門が召還できそうな錯覚すら覚える。

 

「コレ、何だと思う?(ミキプ●ーン並の口調)」

 

 野獣が、穏やかな声と表情で言いながら硝子ケースを開けて、長門を見た。

不意に掛けられた優しい声音に、長門は不覚にも、ときめいてしまったのかもしれない。

長門の白い頬に、さっと頬に朱が差した。それから、野獣と模型を見比べて、視線を逸らした。

 

「……戦艦の私だ」

 

「そうだよ(肯定)

 これはね、…………長門型、麻酔銃」

 

目が点になった大鳳は、自分の耳を疑った。

隣に居た陸奥も、「えゅ?」とか、変な声を出していた。

ずっこけそうになっているのは山城だ。長門が真顔になった。

自信満々な様子の野獣は、また全員の顔を順番に見回して、似合わない微笑を浮かべる。

「これはね、麻酔針を打ち出すタイプなんだよ(仕様説明) 装弾数は36。普通だな(確認)」

別に聞いてねぇよと言いたかったが、言い出せる空気でも無かった。

 

「ちなみに、発射ボタンを押すと長門のボイスが流れるゾ(重要)」

 

 野獣が、何かのボタンを押した。カチッと小さい音が聞こえた瞬間だった。

大音量で、ンアァアアアアアアーーー(≧Д≦)!!、という叫び声が再生された。

勿論、長門の声だった。鼻水を噴き出しそうになった大鳳は、大慌てで俯く。

山城が困惑したような貌で、「えぇ……(困惑)」と言葉を漏らしている。

陸奥の方は、笑いを堪えるみたいに肩を震わせて俯いている。

 

「どうだよ?(栄光の頌歌)」

 

「どうもこうも在るか馬鹿タレ!! しかも、そ、その音声は……ッ!!!」

顔を真っ赤にした長門がまた立ち上がった。

 

「前の耳掻きの時に録音したのを、ちょっと弄ってみたんだゾ。

 ノイズも消えて艶も出るし、中々高音質でセクシー、エロいッ!(確信)」

 

「それを一般のプレゼントに送るなど、……正気か?(恐怖)

 普通に暮らしている民間人が麻酔銃を使う機会など、ほぼ皆無だぞ!」

 

「何処かの名探偵KNNが使うかもしれないだろ!! いい加減にしろ!!

 真実は、いつも一つ! っていう名台詞を知らないのかよ(BRNT)」

 

「そんな模型を腕時計に付けていたら、ただの変な奴だろうが!

 発射音で音声が流れるにしても、普通に『てぇーーッ!』とか在るだろう!?」

 

「他のボイスパターンは『パパになっちゃえ(はぁと)!!』とかだけど、良いかな?(素)」

 

「良い訳あるか!! 尚悪いわ!! というか、そんな卑猥な台詞まで合成したのか!?」

 

「そうだよ(正直者)」

 

「ふざけるなよ貴様……。

 もう許さんぞ! 本営に陳情を――……『ンアァアアアアアアーーー!!(≧Д≦)』

 おい! 私が話そうとする所に――……『ンアァアアアアアアーーー!!(≧Д≦)』

 被せてくるな!! ――……『この変態を見たかったの!!』

 やめろ! おい! やめ――……『ンア『ンア『ン『ンア『ンアアーーー!!(≧Д≦)』

 ごめんなさい! ほんともう、すみません! 連打やめてやめて!! 謝るから!(涙声)」

 

「まぁ、冗談は置いといて……。色々と(法律的な意味で)引っ掛かりそうだから、

応募者プレゼントは、予備で造っといた普通の模型にしとくゾ(冷静な判断)」

 

 喉を鳴らすみたいに低く笑った野獣は、慎重な手つきで長門型麻酔銃を硝子ケースに直した。

それからケースを持って立ち上がり、模型を執務室の箪笥の上に置いた。「捨てるのも勿体無いから、此処に飾っとくゾ(御満悦)」

コキコキと首を鳴らしながら執務机に戻ってくる野獣は、半泣きのまま呆然としている長門に軽く笑って見せた。

いつもの、笑えない冗談だと言うことだろう。恨めしそうに野獣を睨んだ長門も、洟を啜ってそっぽを向いた。

さっきの合成音声の中に、大鳳らしきものが混じっていたのが凄く気になるが、まぁ置いておこう。

 

 次はMTのを造るかなー。俺もなー(金属細工師並の感想)と呟く野獣に、陸奥は、ふふ……、と笑みを零した。

 

「先に時雨のを造って上げたら?」

 

「SGRのは、前にもう造ったんだよなぁ(遠い眼)」

 

「そう言えば、時雨の自室に凄く素敵な艦船模型が飾られてありましたけど……。

 あ、……あの西村艦隊の模型ってもしかして、野獣提督が造られたものなんですか!?」

 

 興奮した様子で身を乗り出したのは山城だ。「そうだよ(肯定)」と答えた野獣に、山城の瞳の輝きが増した。

「じゃ、じゃあ! あの扶桑お姉様の艦船模型も……!」「だから、そうだっつてんじゃねーかよ(棒)」

次の瞬間。山城は執務机に頭をぶつける勢いで下げた。隣に居た大鳳や陸奥が、思わず身を引いてしまう程の気迫だ。長門だって驚いた顔で、山城を凝視している。

 

「わ、私にも扶桑お姉様の模型作って下さい!! オナシャス!! 何でもしますから!!(禁句)」

 

 あーあ、言っちゃった。

 

「ん? 今、何でもするって言ったよね(様式美)?」

 

 野獣は眼を鋭く光らせて、執務机の引き出しからビデオカメラを持って立ち上がった。

 

「それじゃあ、“運”のパラメーター、

 1145141919364364まで上げる様子を撮影して、投稿しよっか、じゃあ(やってみた系)」

 

「隕石でも呼び寄せるんですか?(恐怖)」大鳳は思わず聞いてしまった。

 

「超科学兵器って言うか、多分、ラッキー●ンみたいになっちゃうと思うんですけど、

それは大丈夫なんですかね?(震え声)」 流石に山城も鼻白んだ。

 

「砲撃や艦載機を用いず、

 因果律を捻じ曲げる事によって、間接的に敵艦隊を攻撃する戦艦とか、あぁ^~、たまらねぇぜ!!

 TIHUもMTも、見習わんといかんのと違うんか!?(イニ義)」

 

「もうそれ、戦艦て呼べるのかしら……。

 って言うか、そんな天文学的な数値まで上げれないじゃない(現実問題)。

 確かに私たちの“運”は低いけど、動画的に其処まで極端な不幸ネタでなくても良いでしょ?」

 

 冷静な陸奥の突っ込みに、野獣が鼻から息を吐き出し、頭をボリボリと掻いた。

 

 そうだよって言いたいけどなー。俺もなー……(意味深)。

 野獣がごそごそっと書類を取り出したのを見て、悪い予感が加速する。

 

「ちょっとお前らのデータに変化起きてんよー(指摘)

 ほらコレ。見ろよ見ろよ」

 

 渡されたのは、此処の鎮守府名と、所属艦娘が記された数値表だった。

艦娘の型や艦種、それに各種パラメーターの数値などが細かく記載されている。

大鳳が渡された表紙には、ちゃんと大鳳の顔写真と、召還した提督の顔写真が載っていた。

少し前に検査を受けたから、その結果が出たのだろう。別に珍しくも何とも無い、ただの艦娘管理の為の資料。その最新版である。

 

野獣に促されるまま、記された数値を眼で追って、大鳳は愕然とした。これマジ?

ちょっと。ちょっとちょっと。減ってる。下がってるんですど。コレ。“運”。1。1、しか無いんですど。

いやいや。そんな馬鹿な。確かに、大鳳は“運”が低い。初期値は2だ。艦娘の中で、最も低い数値だった。だが、改装を受けて4まで上がったのだ。

だというのに、何コレ? 初期値より低い1って……。どうしてくれんのコレ? 提督が、私のために2も上げてくれたのに。一緒に喜んでくれたのに。

鼻の奥がツーンとして来た。ヤバイ。凄く悲しい。視界が歪んでくる。横隔膜が震えて来る。洟を啜った。泣きそう。

無慈悲な数字に打ちのめされ、唇をむにむにと動かしながら泣くのを必死に我慢している大鳳の横で、涙目になった陸奥が悲痛な叫び声を上げた。

 

「私の“運”が0.5って何よ!? ふざけてるの!?」

 

「お、落ち着け、陸奥! 小数点以下繰上げで1だぞ!」

 

「フォローになって無いわよ!(半泣き)」

宥めようとする長門の様子を見るに、この数値変動の件については知っていた様だ。

流石に0.5まで行くとかなりの衝撃だったに違い無い。陸奥は蒼褪めた貌で書類を睨みつけている。

ただ、より深刻なのは山城の方だった。

 

「野獣提督……。

 私のは、“運”の数値欄が空白よ……。死ゾ……」

 

 おかしな口調と虚ろな声音になった山城の瞳からは、もう光が消えて居る。

深い悲しみを背負ったその眼は、微妙に焦点が合っていない。抜け殻みたいになっている。

減り幅だけで言ったら山城がダントツだ。そりゃあ、心にダメージだって負うだろう。

 

「“運”数値がブレる事自体は珍しく無いけど、此処まで大きな幅で動いたのは初めてだゾ。

 まぁ、次回計れば元の数値に戻るだろうけど、何かお前らにも心当たり無ぇか(推理先輩)?」

 

言いながら野獣が大鳳達に向った時、けたたましい警報音が鎮守府に響いた。

 

 

 

 

 

 

 私は、他の艦娘とは違う。私は、命令さえあれば人間を殺せる。

そう作り変えられた。普通の艦娘達は、人間を相手に武力を振るう事は出来ない。

思考を剥奪する洗脳施術的な命令でも不可能だ。それは、艦娘とはそういう存在だからだ。

 

 人類の敵として深海棲艦が現れ、それに対抗すべく艦娘達も顕現する様になった。

まるで誰かが準備し、仕組んでいたかの様な薄気味の悪い連鎖だった。

だが、存亡の危機に立たされた人類は、そんな瑣末な事など疑いもしなかった。

艦娘という希望の光に、蛾の様に群がって縋りながら、貪るように解明と解析、分析を行った。

現在では深海棲艦の研究も相当に進んでいるが、その前の段階には、まず艦娘への“研究”が在った。

絶望的な危機の中。差し込んだ一縷の望みは、人類の道徳と倫理の壁に穴を空けた。

施術台の上で解体された艦娘達の数は、海で沈んだ艦娘達の数に迫るのでは無いかと。

未だに、艦娘を用いた人体実験が行われ続けていることを考えれば、トータルで見れば、それが冗談で済まされない程に現実味が在る。

 

 龍田は、彼が召還した艦娘でも、野獣が召還した艦娘でも無い。

正直なところ、誰に召還されたかもよく分からない。記憶に無い。

気付けば、本営直属の研究機関で召還され、施術台に寝かされ、拘束されていた。

今でも夢に見る。此方を見下ろす研究員達の、まるで虫でも見るかのような無機質な眼。眼。眼。眼。眼。

そして彼ら、彼女らの掌に灯る、蒼い微光。肉体にメスが入れられる事は無かったが、変わりに、龍田は精神を刻まれた。

フォーマットされた『龍田』という人格への干渉は、想像を絶する苦痛を伴った。地獄だった。

もともとが兵器だった故か、艦娘達は恐怖という感情に疎い。その筈だったが、一度得た自我の危機に伴う恐怖は、耐え難い程大きかった。

叫び出したいほどの頭痛と、自我の大出血に晒され、施術台の上で何度も気を失い、叩き起こされた。研究員達は容赦無く、蒼い微光で『龍田』を刻んだ。

彼らにとって、艦娘の精神や魂とは、眼に見えない金属なのだ。龍田の“心”への彫金、調律、鋳造を行った彼らも、何処かの鎮守府の提督だったのだろう。

殺してくれと叫んだ龍田を静かな眼で見た彼らは、特に何かの反応を返すでも無く、ただ事務的に龍田の人格を刻んだ。死の懇願も受け入れられなかった。

実験動物としての価値しか持たされなかった。どれ程の時間を、あの施術台の上で過ごしただろうか。よく分からない。数日か。数週間か。数ヶ月か。数年か。

長かったようで、短かったような気もする。時間の流れなど、気にする余裕も無かった。冷たい鉄の臭いと、薬品の臭い。薄暗い部屋。施術台を照らす、明る過ぎる照明。

覚えているのはそれだけだ。艦娘の生命力や適応力は相当なもので、苦痛にもだんだんと慣れてきて、心の動きが弱まってくるのが自分でも分かった。

痛みや恐怖という感覚が、やけに希薄で、遠く感じるようになった。自分という『人格』、その輪郭が暈けて来て、境界が無くなってしまう様な感覚だった。

御蔭で、生まれて来た事を後悔する程の恐怖と苦痛も、鮮明には思い出せなくなっていた。私は恐らく、何処かが壊れたんだろう。いや、意図的に壊されたのだ。

『人類への攻撃不可』という枷を外され、龍田に対する命令の効果はより強化された。人類に対する殺意や憎悪は在ったが、精神に嵌められた手綱が反抗を許さない。

 

 文字通り、龍田は命令によって人間を殺せるキリングマシーンに改造された。

どうやら本営に配備する親衛兵として、改造された艦娘を起用しようとする案が在ったらしい。

ただ、もうどうでも良かった。好きなようにすれば良い。もう考えるのも面倒だった。

どうせ人間を殺しても、私は何も感じないのだろう。そういう風に調律されたのだ。

生きる事も、死ぬ事も、許可が無ければ許されない。

希望など無いから、絶望のしようが無かった。

 

 龍田は施術台から解放され、親衛兵とは違う仕事を与えられることとなった。

それは、廃人同様になって使い物にならなくなった艦娘達の廃棄処分に携わる、ある提督の監視であった。

 

 其処で、龍田は“彼”に出会った。

当時、龍田が居た研究施設では、運用しきれなくなり、不要となった艦娘が各地から集められ、解体施術を受けた上で送られて来ていた。

激戦の最初期のあの頃はまだ、“近代化改修”と言った施術式も確立していなかったせいで、乱造された艦娘の管理に手を焼く提督が続出した事が背景に在る。

彼女達は残らず、人体実験の材料になった。最後にはその肉体も解体されて、一山幾らの質の悪い資材に還る。そして、より有用な形で利用されていた。

その最後の施術は研究員達が大人数で行っていた。有機の肉体を、無機の金属へと還す施術は、それだけ大掛かりで膨大な精密施術だった。

だが、ある時、その施術業務を一手に引き受ける形で、一人の少年提督がこの施設に配属されて来たのだ。

いや、正確には彼の持つ特殊な資質に眼を付けた本営に、無理矢理に押し付けられたと言うべきだろう。

 

 人格と思考、肉体の機能を破壊された艦娘達は、研究員達が“処理槽”と呼んでいた特別処置室へと放り込まれた。肉体を金屑へと還す為の施術室だ。

彼女達は身に何も着けて居ないし、自我を潰された上で、『許可が在るまで身動きをするな』という命令を受理している為、一見すると死体の様だった。

それが、錆の浮く鉄の部屋に、足の踏み場も無い程に累々と積み上げられている光景は、彼の眼にどう映ったのだろう。彼は、ただ立ち尽くしていた。

その場に崩れ落ちて、咳き喘ぐ様に泣いていた。まるで、溺れているみたな泣き方だった。龍田の仕事は、そんな彼を“激励”することだった。

ほらぁ~、施術を始めて下さいねぇ~。龍田は優しく言いながら、頑なに彼女達を廃棄しようとしない彼を、手にした槍の石突で、何度も何度も打った。

他の艦娘では絶対に出来ない、人間への攻撃。生々しい、暴力の感触が在った。ただ、苦しみ、のたうち回る彼を見ても、特に何の感情も抱けなかった。

顔と言わず、腕と言わず、胴と言わず、脚と言わず、彼を打って打って打ち据えて、打ち据えぬいた。血反吐を吐きながらも、彼は決して頷かなかった。

彼は非力な癖に強情だった。何をそんなに頑なに拒んでいるのか。何故、艦娘達の為に涙なんて流すのか。龍田は不思議だった。

「貴方が彼女達を廃棄しないというのならば、貴方は提督で居られなくなりますよぉ? ついでに、貴方が保持している艦娘が全員、此処に並ぶ事になりますよぉ?」

だから、そう聞いてみた。すると彼は泣き止み、血だらけの顔を上げた。じっと龍田の顔を見つめて来る。絶望の色が、ありありと浮かんで居た。

多分、施術台に居たときの自分も、最初はこんな貌をしていたんだろうかと。ぼんやりと頭の隅っこで考えたのを憶えている。そして、ついでに確信している。

 

 顔を血と涙でグシャグシャにした彼は、龍田の眼を見詰めながら、唇を噛み千切った。

この瞬間だった筈だ。果てしない絶望を前にした彼の心の中に、邪悪な閃きが生まれたのは。

 

 それから。彼は山積みにされた艦娘達の肉体を、順番に金属に還して行った。

だが、今まで研究員達がして来た様な、規模だけ大きくて粗雑な施術では無かった。

彼は、彼女達がまだ生きている事に着目した。死んで居ない事を、利用した。

身動き一つせず、呻き声一つ上げない彼女達には、しかし、魂が宿っているのだ。

意識や思考を破壊された彼女達の肉体を解き、魂を取り出す術を、彼は知っていた。

彼は、自分の中に在った多くを捨てた。それこそ、彼は自分の人格を破壊したのだ。

大事につくり上げて来た筈の、大切な自分を殺した。脱ぎ捨てて、破り捨てた。

その代わりに、救われない艦娘達の魂を、空っぽにした自分の心に鋳込むことを選んだ。

 

 

 彼が初めて艦娘を破棄した瞬間の、あの光景は、絶対に忘れられない。

蒼い光の粒となって消えていく、裸形の艦娘の肉体。

其処から取り出された魂の陰影は、同じく裸形の艦娘を模していた。

微光の揺らぎに象られた彼女へと、彼は小さな両腕を差し出して文言を唱える。

朗々と響く声に応え、空洞になった彼の心は、熔鉱炉の如く燃え盛っていた。

彼が唱え紡いだ煮え滾る灼熱の経は、艦娘の魂を捕らえて、彼自身の魂の内へと引きずり込んだ。

彼が、彼で無く、別の何かに生まれ変わるその刹那。

秒と秒の隙間に。揺らぎ、澱み擽る、墨溜まりの様な静寂の中。

彼の頬を流れた、たった一滴の人間性に、その尊さを教えられた。

龍田は、人間の心に狂気というものが訪れる瞬間を、間近で目の当たりにした。

激しい自責と無念を超越し、極限まで苛まれ抜いた彼の魂に、究極の価格が付いたのだ。

 

 彼は次々に艦娘達の魂を、自らの魂に刻み込み、融かし込み、鋳込み、飲み込んだ。

それは、無残に廃棄された艦娘達を弔う為か。それとも、自身の良心を満足させる為の、言い訳がましい偽善だったのか。

もしかしたら、その両方かもしれない。いつしか彼は、仮面の様な微笑みを浮かべるようになっていた。

彼は、肉体と金属と海水の狭間で、金属儀礼の秘儀とでも言うべき何かを見つけたのだろう。

極めて限定的だが、条件さえ揃えば、破壊された艦娘の自我の修繕すら可能にした。その際に、彼にもう一度生を与えられたのが、愛宕だった。

3ヶ月ほどで、施設に打ち捨てられた艦娘の魂全てを自らの内に飲み込み、刻み込んだ彼は、愛宕を連れて、もとの鎮守府へと帰って行った。

龍田と同じく実験材料にされて、人類の無慈悲に晒され続けていた愛宕は復活してからも、艦娘にしては珍しく人間恐怖症を患っていたのは、前に聞いた。

今は野獣の協力も在り、男性恐怖症ということで誤魔化しているようだが、今は克服すべく努力を続けている様なので、龍田が余計な口を出すべきことでも無い。

 

 あの3ヶ月で、彼と龍田が声を交わしたのは最初だけだった。

そして、激戦期が中盤に差し掛かると、近代化改修に於ける施術式が構築され、この施設に送られてくる艦娘達の数も、大きく減った。

龍田も前線基地である鎮守府に配属される流れとなったが、何処も引き取ろうとするところが無かった。皆、改造された龍田が恐ろしいのだ。

人に危害を加えることが出来る艦娘など、あの頃の提督達は、絶対に傍に置きたがらなかった。

だが、たった一人だけ、龍田を是非招きたいという人物が居た。

久ぶりに会った彼は、龍田に頭を下げてから、微笑みを浮かべて見せた。

それは仮面の様な微笑みでは無かった。いくらかの温もりを取り戻しつつある微笑だった。

 

 

 

 

 

 

「此処まで接近を許してしまうなんて、珍しいですねぇ~。

 やっぱり、深海棲艦達も、日々進化しているという事でしょうか」

 

「えぇ、楽観は出来ませんね……。

恐らく、各地の鎮守府を襲撃していた深海棲艦と同じでしょう」

 

 現在。鎮守府近海にて、深海棲艦の大艦隊を捕捉したとの報告が入ったのだ。

その討伐に向けて、彼と野獣の第一、第二艦隊が出撃している。

大和や武蔵を含む主力艦隊を送り出し、彼と龍田は埠頭に立っていた。

 

「タイミングが悪ぃんだよ……。

 俺がドックから出てから来いよなぁ。御蔭で留守番じゃねぇか」

 

「どのタイミングで来ても、どうせ文句を言うじゃないですか」

 

「おめーもドックでぶつくさ言ってただろーが」

 

 彼と龍田の背後では、恨めしそうな声を出した天龍に、不知火がやれやれと肩を竦めていた。

ついでに、龍田達から少し離れた場所には、野獣や長門、それに陸奥と大鳳、山城の姿も在る。

天龍と同じく、出撃組みに入れなかった長門も相当不満だったらしく、何やら野獣と言い合っている様だ。

主力戦艦をある程度残して置いたのは、先程入った本営からの指示だった。

報告によれば、襲撃を受けた鎮守府はいずれも、敵の上陸を許しているとの事だった。その上で、全艦娘の喪失と来ている。キナ臭い話だ。

普通なら野獣も無視しそうなものだったが、今回は大人しく従っている。野獣独特の嗅覚が働いたのかもしれない。

 

 波音や、晴れた空まで不吉だ。海の風が妙に澱んでいる様な、胸騒ぎの様なものも感じる。

「海は穏やかに見えますが、それが不穏でもありますね」彼が一歩、海の方へ歩み出た。

龍田や不知火、天龍達からは、二歩分離れる。今日はその一歩が、やけに遠い。天龍は、今までに無い種類の不安感を感じた。

 

 次の瞬間だった。

野獣達の方から、轟音が聞こえた。砲撃かと思ったが、違う。

海から何かが飛び出して来て、野獣達の前に着地したのだ。

地面が揺れた。とんでも無い重量感を持っている癖に、飛び出して来た何かは小柄だ。

人の形をしている。青白い肌。黒いフード付きのツナギ。マフラー。

それに、小柄な身体に不釣合いな、強大な尻尾。琥珀色に揺れるオーラ。

尾の先には、砲身を生やした獰猛な金属獣の頭がくっついていて、低い呻りを上げている。

 

 野獣達の眼の前に着地した奴は、まず手始めに尻尾をグオォーンと振り回して、陸奥と野獣をぶっ飛ばした。

そのついでに大きく身を沈めて、山城の足首を引っ掴んで持ち上げて、すぐ近くに居た大鳳を、“山城で”殴りつけた。

此処まで聞こえるヤバイ音がした。おまけとばかりに奴は手に持った山城を、咄嗟に応戦すべく、艤装を召還した長門目掛けてぶん投げた。

野獣と陸奥と大鳳は埠頭に立ち並ぶ倉庫をぶっ壊しながら、派手に吹っ飛んでいく。

空中を移動する事になった山城と長門が、工廠の壁に激突して、工廠自体が崩落した。

 

 瞬く間に五人を薙ぎ倒した奴は、建物が崩れる轟音を聞きながらクルッと回れ右をして此方を向いた。そして、何故か右手で敬礼して見せた。

奴は笑っていた。あれは、楽しいとか嬉しいとか、そういう感情から来る笑顔じゃない。ぶっちぎれてる奴特有の、ヤバイ系の底抜けに明るい笑顔だ。

奴はこっちを見て、「見~っけた☆」みたいに、そのヤバそうな笑顔を更に深めて見せた。

いや、違う。こっちじゃない。彼を見て、笑ったのだ。

奴が笑うのと同時だった。ざばぁっと、海からまた何かが飛び出して来た。完全に不意討ちだった。「くっ……!」 嘘だろ? もう一匹追加だ。赤い鬼火の様なオーラを纏っている。

白過ぎる肌に、白い絹の様な髪。鋼色のジャケット。金属の獣とも、艤装とも言えない装備で両腕を固めた、南方棲鬼だ。後から出て来た奴は、彼に飛び掛って捕まえた。

ゴツいガントレットを嵌めた右手で、彼の喉首をがっしりと掴んで、彼の体を持ち上げている。小柄な彼は、宙吊りにされた。

 

 南方棲鬼は、見る者に命の危険を感じさせる様な、艶美で嗜虐的な笑顔を浮かべている。

しかし、苦しげに表情を歪めながらも、彼は気圧されて居ない。その眼は冷静そのものだ。

奴を睨み返している。それだけじゃない。彼は、もう既に何かを唱えている。

彼も戦うつもりか。しかし、どうやって。いや、どうもこうも無ぇ。

完全に奇襲だった。艦載機共が居ないのは、極限まで隠密性を高める為か。

天龍は舌打をした。あんな奴らが上陸してくると思うかよ。ステルス機能でも身に付けたのか。

聞いてねぇぞ。もしもーし。本営さんよ。どういう事っすかね。まぁ、何でも良いけどよ。

野獣の奴。あれ、死んだんじゃねぇか。マジかよ。何死んでんだよ。ふざけんな。

いや、そうじゃねぇな。悪いのは野獣じゃねぇ。あいつはな。アレはアレで、良いトコも結構あるんだよ。

お前だよお前。おい。レ級。何笑ってんだ。殺すぞ。マジで。だが、もっと許せねぇのは。

いきなり人の提督をネックハンギングしてるテメェだよクソ野郎。

 

 天龍は地面を蹴って飛び出す。同時に、艤装を召還する。

龍田と不知火も前に出る。その出鼻を挫かれた。ズゴンッ!! という、コンクリが砕ける音がした。ちょっと離れた場所からだった。

それが、野獣達を薙ぎ倒したレ級が、地面を蹴った音だと理解した時には、もう距離を潰されていた。天龍のすぐ横に、奴のスーパースマイルが在った。

何だコイツ、やべぇ。砲撃なんてして来ない。ただぶっ壊しに来てる。舌打ちするよりも先に、天龍は地面を這うみたいにして伏せた。

その頭上を、凄まじい勢いで尾が通り過ぎていった。即座に横っ飛びに転がると、今まで天龍が伏せていた地面を、レ級が踏み砕いて陥没させた。

逃げる天龍を眼で追うレ級は、「KAHAッ」笑った。笑いながらも、横合いから踏み込んで来ていた龍田に、奴は気付いていた。

普通だったら絶対に喰らっている筈だ。あんな鋭い踏み込み、反応出来る奴なんてそうそう居ねぇよ。

奴は顔面目掛けて突き出された龍田の槍を、口で、いや、歯でがっちり噛み付いて止めて見せた。ついでに、がぶがぶっと刃の部分を噛み砕きながら、槍を引っ掴んだ。

龍田の表情が強張った。ヤバイと思った。天龍も踏み込む。袈裟懸けに刀をぶち込んだ。その筈だった。違った。奴は刃を掌に減り込ませながら、素手で刀を受け止めていた。

驚愕するほど余裕は無かった。今度は、上から来た。クソデカ尻尾が降って来る。避けろ。後ろは駄目だ。横だ。天龍は咄嗟にサイドステップを踏んで避ける。

尻尾が振り下ろされ、地面のコンクリがバキバキのグシャグシャになった。避けた筈なのに、風圧で後ろに押された。「龍田! 避けろ!!」

その声が届く前に、レ級は地面を踏み砕きながら龍田に迫り、蹄みたいな足底をぶち込むようなケンカキックを繰り出した。鈍い癖に、鳥肌が立つ様な派手な音がした。

龍田は避けれなかった。インパクトの瞬間。咄嗟に槍の柄を構えて防御姿勢を取って、後ろに身を引いていた。それでも、ダメージを殺しきれたとは到底思えない。

 

 弧を描いて、くるくると回りながら飛んで行く龍田を見て、頭の血管がブチ切れるのを感じた。

だが、ギリギリで冷静さを保てたのは、「沈め……ッ!」という、低くてドスの効いた声が聞こえた御蔭だ。

叫びながら突進しようとする天龍の反対側から、先に不知火が距離を詰めていたのだ。もうかなり近い。至近だ。レ級は咄嗟に右拳を振り被って、不知火を殴りつけた。

だが、その拳は空振る。不知火は不用意なレ級のパンチを、クロスカウンターで返した。右手に握った酸素魚雷を、レ級の口にガボンと無理矢理突っ込んだのだ。

「FuGa!」酸素魚雷を咥えたままのレ級は、今度は左拳を振り上げて不知火を狙ったが、出来なかった。天龍が踏み込んで、レ級の左腕を斬り飛ばしたからだ。

不知火と天龍の目が合う。同時に、二人は大きくバックステップを踏む。流石の冷静さだ。不知火は、レ級の顔面のど真ん中に砲撃をぶち込んだ。

同時に、レ級が咥えた魚雷が良い感じに誘爆した。ボウン!! と、派手に火柱が上がる。

海の上じゃ無理な戦い方だが、上手く行った。そう思った。大間違いだった。

爆炎を吐き出したレ級は、左手を振り上げた姿勢のまま、ゆっくりと倒れる。と、見せ掛けて、不自然な動きでビョイーンと跳ねた。

首から上を真っ黒焦げにされながらも、レ級は止まらなかった。凄い速さだった。

不知火は反応出来なかった。肉と骨が潰れる、嫌な音が聞こえた。

飛び掛ったレ級の頭突きが、不知火の胸板にぶち込まれたのだ。「がっ……はっ――……ッ!?」

不知火は吹っ飛ばされて、血反吐を吐きながら埠頭の端までゴロゴロと転がって行った。艤装が軋みを上げている。

コンクリの上をバウンドする度に、「うっ」とか「あっ」とか、苦しそうな声を漏らしていた。

ようやく勢いが死んで、地面の上にうつ伏せに倒れる形になった不知火は、もう起き上がって来なかった。

今度こそ、天龍はキレた。鋭く息を吐き出して、レ級に迫ろうとした。だが、そのタイミングを潰された。

背中に強烈な衝撃と熱を感じた。爆音。艤装に砲撃を喰らった。南方棲鬼だ。天龍の動きが止まった。その隙に、顔面黒焦げのレ級が距離を詰めて来ていた。

中々のコンビネーションだった。天龍は、痛みよりも先に衝撃を感じた。気付けば、宙高く打ち上げられていた。蒼い空を見ながら、空中で血反吐をぶちまける。

何だ。何された? 痛ぇ。霞む視界を地面にずらすと、レ級の奴が尻尾を振り上げた姿勢で立っていた。野球のバットの要領で、尻尾をアッパースィングしやがったのか。

 

 急な放物線を描いて、天龍は地面に肩からグシャッと墜落した。衝撃と激痛で、眼の前が真っ白になってから、真っ暗になった。あぁ、クソ。俺、どうなってる。

艤装は多分、大破だ。うぜぇ。視界が徐々に戻ってくるのに、数秒掛かった。俺は倒れてる。うつ伏せだ。体が動かねぇ。いや、動かせ。起きろ。立て。顔を上げろ。

 

 地面に右手をつこうとしたら、腕が変な方向に曲がっていて上手くいかない。「ぐ……、がぁあぁああああああああ!!」

ムカついたから、どうやらギリギリ無事だった左手で拳を作って、なけなしの力を振り絞って、地面をぶん殴るみたいにして身体を起こした。

そうだ。寝てる場合じゃねぇんだよ。俺は、一応、アイツの“おねぇちゃん”みてぇなモンだからな。手の掛かる弟を助けてやらねぇと。

顔を上げると、死掛けみたいになっている此方を見下ろす南方棲鬼と眼が合った。奴は、まだ右手で彼の喉首を掴み上げたまま、怖気を誘う様な笑みを浮かべている。

ものの数十秒程で天龍達を大破状態に陥れたレ級の方は、再生していく自身の左腕を見ながら、「Aha♪ ahahahahahaha♪」と、楽しげに笑って居た。

驚愕すべきはその再生能力だ。上顎や下顎が魚雷で吹き飛ばされた癖にもう復元しているし、黒焦げだった顔貌や艶の在る白い髪も、もう元に戻りつつある。

 

 

 殺意に満ちた天龍の眼差しを受け止めながら、南方棲鬼は首をゆっくりと傾けて見せた。

「アナタモ……味ワイナサイ。絶望ヲ……」それは、愉悦に歪んで罅割れた声だった。

南方棲鬼が言い終わると同時だった。奴は右手で掴みあげている彼の右腕を、空いている左腕で、万力の如き力でゆっくりと捻じり始めた。

まるで、人形の腕を捻り潰すような仕種だった。ボキボキ、ブチブチブチ……、という、彼の骨や筋肉が断裂する音が聞こえた。

だが、彼は悲鳴を上げない。首を掴み上げられたままの彼は、呻く様な掠れた声で、読経の様に何かを唱えている。痛みを感じていない筈が無いが、何て集中力だ。

天龍を見下ろし嗤う南方棲鬼は、彼の右腕を捻じ切った。彼は、それでも悲鳴を上げなかった。代わりに天龍が、悲鳴とも呻きともつかない声を漏らした。

それを聞いて、南方棲鬼は愉悦に貌を歪めた。そして天龍を見下ろしながら、ガントレットを装着した左手の指先を、今度は彼の右眼へと近づけた。

天龍は立ち上がり駆け出そうとしたが、すぐに膝が崩れて前のめりに倒れる。不覚にも、涙が滲んだ。声が出ない。呼吸が震える。やめろ。やめろ。止めろ。止めてくれ。

南方棲鬼は容赦しない。ガントレットの鋭い指先を、彼の右眼を摘むようにして差し入れる。それを天龍に見せ付けるかのように、嫌味な程にゆっくりとした優雅な仕種だった。

お願いだ。止めてくれ。止めて。お願いします。止めてください。何でもします。死ぬ。死んじまう。死んじゃうよ。彼が。そんな。止めて。止めて。

天龍の声に成らない懇願を聞きながら、南方棲鬼は彼の右眼を抉り出した。彼の身体が、僅かに痙攣した。それは、天龍が何とか守ろうとした彼が、踏み躙られる瞬間だった。

南方棲鬼は、抉り出した彼の眼球を、淫靡な仕種で口の中に放り込み、咀嚼、嚥下した。そして、極上の饗宴を食したかの様に「ほぅっ……」と溜息を吐き出した。

天龍は血を吐き出しながら、南方棲鬼を睨んで絶叫する。それしか出来かった。だが、右眼を繰り抜かれた彼は、それでも尚、何かを唱え続けている。

 

 南方棲鬼が彼の眼球を喰うのを見て、腹でも空いたのか。今度は、レ級が動いた。

彼の方へでは無く、倒れ伏した姿勢のままで、何とか上半身を持ち上げている天龍の方へ。

「Ufufu♪」と笑ったレ級は、尻尾の金属獣の口を開いて見せた。

天龍を喰う気か。だが、天龍はただ睨むだけしか出来ない。

それが、死ぬほど悔しい。だが、諦めるのはまだ早い様だった。

「がぁあああああああああああああ――――――……ッッ!!!!」

空気を激震させる様な、裂帛の気合と共に、埠頭倉庫の瓦礫山の一部が吹き飛んだ。

さっきのレ級にも負けない勢いで、何かが飛び出して来た。長門だ。

艤装の砲身はほぼ大破状態だったが、それでも、その膂力は健在だった。

天龍を庇う体勢で割って入り、「Bu!?」 レ級の金属獣を、横合いから殴り飛ばしたのだ。

金属が拉げる音と、何か硬いものが砕け散る音が、鈍い重低音に混じる。

 

 地面を震わせる様な超重量級のパンチを喰らい、尻尾の金属獣は折れ曲がるみたいにしてグチャグチャに飛び散った。

だが、バックステップを踏んだレ級自身は、「うぉースゲー! 何だ、結構やるじゃん!」みたいに、楽しそうに笑っただけだ。

拳を振りぬいた姿勢のままで、長門は荒い息を吐き出している。その眼は、倒れた天龍を見ていない。長門の頬に、涙が伝った。

瓦礫の山と化した埠頭倉庫と工廠跡を見れば、陸奥と山城、大鳳は無事だった様だ。だが、瓦礫を押し退け立ち上がっているのは三人だけだ。

陸奥が、震える声で野獣を呼んでいる。大鳳も、山城もだ。だが、返事は無い。野獣は人間なのだ。金属より生み出され、強化された肉体を持つ艦娘とは違う。

眼の前で野獣を殺された無念さか。それとも、余りにも唐突な襲撃に、何も出来なかった自分が許せないのか。

だが、長門が天龍を守った一撃が、場の流れを変えた。埠頭のコンクリートに力線が奔り、術陣が浮かび上がったのもその時だ。

南方棲鬼が掴み上げている彼を中心にして、微光が渦を巻いた。その色は、蒼でも紅でも無い。深紫だ。流石に、彼を持ち上げている南方棲鬼も、身の危険を感じた事だろう。

轟々と吹き荒れる、微光を塗された風ならぬ風。力の脈動だ。南方棲鬼は、彼を地面に放りなげて飛び下がった。

右腕と右眼を失い、投げ捨てられた彼は、いつもの凪いだ表情のままで、ゆっくりと立ち上がった。それから、倒れ伏す天龍や不知火を見て、崩れた埠頭倉庫や工廠を眺めた。

彼は右眼と右腕からボタボタと血を零しながら、普段と変わらない、場違いなひっそりとした微笑を浮かべて見せて、天龍と長門の方へと歩み寄る。

彼が歩く度に、ズシン……! ズシン……! ズシン……! と、その足元の地面が陥没した。

何か、途轍もなく、そして途方も無い何かを、彼が背負っているかの様だ。

 

 丁度、南方棲鬼やレ級から、二人を庇うような位置で、彼は立ち止まる。

立ちはだかる。肩越しに振り返る彼は、残った左眼を、優しげに細めて見せた。

“「『すぐに修復施術を行います。もう少しだけ……待っていて下さい』」”

 

 長門と天龍にそう言った彼の声は、何十にも重なって聞こえた。明らかに、一人の声じゃない。

聞いた事のある声が、波折の様に積み重なっている。天龍の声。龍田の声。それに、不知火の声。陽炎。黒潮。高雄。愛宕。他にも、まだまだ重なっている。

立ち上る深紫のオーラは揺らめき、彼の背後に何かを象り始める。それは。激しい憎悪と怨恨に表情を歪ませた艦娘達の陰影だった。とにかく凄い数だ。

象られた艦娘達の陰影の中には、腕や脚を欠損させた者、首の無い者、髑髏と化している艦娘も居る。死の群れだった。余りの光景に、呑み込まれる。

 

長門も、天龍も動けない。

陸奥や山城や、大鳳も、身動きが出来ずに居る。

意識を取り戻し、体を何とか起こした不知火の表情は、驚愕や恐怖よりも、悲哀が滲んでいた。

蒼い空に輝く、日輪の頂点の下。今まで彼がひた隠しにしていた全てが、溢れ出た。

 

 

 南方棲鬼はその光景を前にして明らかに戦慄していた。逃げ出そうとしている様だが、無理だ。

海への退路を阻む形で、彼が引き連れた艦娘達の遺骸が陰影として立ちはだかる。

レ級の方は、イマイチ状況を理解していないのか。ぽかーんとした貌でその様子を見ている。

 

 彼を中心に広がる術陣は、埠頭全体を覆う程に広がり、明滅の脈動を繰り返している。

引き千切られた肩口から零れ、彼の足元に出来た血溜まりも、力線に飲まれて燃えていた。

身体の右半身を、炎煙を思わせる深紫の揺らぎが包む。彼の炎血、沸血が編んでいく力線が、コンクリートを灼く。

「ぬわぁぁぁああああああああああん!! 死ぬかと思ったもぉおおおおおおん!!」という声が聞こえなければ、天龍達はずっと呆然自失としたままだったろう。

聞き覚えのある声が瓦礫の中から響いた御蔭で、天龍達は、はっと我に帰った。野獣。長門と、陸奥が泣きそうな声で名を呼んだ。アイツは、それに応えた。

「ヌッ!!(本気モード)」と、気の抜ける様な声と共に、積もった瓦礫を持ち上げて投げ飛ばした野獣が、のっそりと立ち上がった。アイツは、ほとんど無傷だった。

どれだけタフなんだと思ったが、破れたTシャツから覗く野獣の肌に、鈍い鋼が見えた。腕や脚にも、塗膜のように鈍色を纏っている。

 

「何驚いた貌してんだオララァーーーン!?

 海じゃ戦えない俺達が、陸まで攻めて来られた時の事を考えて無い訳無いだルルォ!?」

 

 矮弱で繊弱な筈の人間の、思いがけない復活に驚愕する南方棲鬼。

ただならぬ雰囲気を感じ取って、強敵の予感に興奮している様な様子のレ級。

両者を交互に見て。野獣は鼻を鳴らす。

 

「俺も、独自に施術法を編み出したりしてるんだからさ。

(人間の意地)見たけりゃ見せてやるよ」 その手には、一振りの刀。いつの間に。

物干し竿とでも呼ぶのか。その長い刀を一息で抜き、鞘を捨てた。それから、辺りの惨状を見渡す。

「良し! 死んでる奴は居ないな!(最重要)」ゴキゴキと首を鳴らした野獣は、彼の様子には気づいているが、それがどうしたと言った感じだ。

相変わらず何が入っているのか分からない海パンから、黒いゴーグルを取り出して、装着した。

 

「MT、YMSR、それにTIHUは手分けして、

 ダメージがやばそうなNGTとTNRYU、TTT、SRNIを連れて、此処から離れてろ。

 俺とアイツが、あのクソザコナメクジ共を、パパパッとやって、終わり! 

 全員が生き延びる為に、はい、よろしくゥ!(Daredevil先輩)」 

 

 口許を緩めて見せた野獣は、ほぼ大破状態だった陸奥達を一旦この場から離れさせるつもりなのだ。

早口で言い終わった野獣は、陸奥たちの返事も聞かずに、スニーカーを履いた足で地面を蹴って飛び出す。

一歩目で身体を大きく倒し、二歩目でトップスピードになっていた。疾い。明らかに南方棲鬼が怯んだ。後ずさった。

その隙が致命的だった。深紫の揺らぎが象った、膨大な数の艦娘達の陰影。それが狂濤となって南方棲鬼を飲み込んだのだ。あっという間だった。

「ゥグゥウウ……! ハナセェェェ……!!」もがく南方棲鬼に、艦娘達の陰影が纏わりつき、その艤装や装甲を剥がし、解かし、消散させていく。

それは、無慈悲な解体施術だった。初めて見る施術だが、本能的に理解出来る。あれは、艤装だけで無く、肉体に宿る力すらスポイルする施術だ。

その様子を、菩薩のような凪いだ表情で見詰めながら、彼は朗々を施術式を編み上げていく。

 

一方で、レ級の方は、怯むどころか前へ出る。既にレ級の尻尾も腕も完全に再生している。

砲身を生やした金属獣の首を擡げて、野獣に向けた。「私とあーそぼ☆」って感じだ。

 

 恐らく、このレ級は強過ぎた。

今まで、苦戦も創意工夫も、努力も思慮も無かったのだろう。

ただ貪るように殺戮を繰り返して来たのだ。故に、経験と学習の機会に恵まれなかった。

砲雷撃戦の能力など微塵も無く、こんな近距離で、しかも陸の上でしか戦えない者など、取るに足らない。

敵の数にも入らない木っ端に過ぎない。いくら特殊な施術で身体能力が上がっていようが、所詮は人間。

その筈だった。だが、野獣は違った。レ級は砲撃の目測を見誤った。

 

 野獣が、踏み込む速度を変えたのだ。疾くなり、遅くして、更に疾く踏み込んで見せた。

レ級が砲撃体勢を解くよりも先に、野獣は間合いにレ級を捉えていた。霞みかけた視界で、天龍は正直見惚れた。

特別に打ち鍛えたのであろう、あんな扱い難そうな長い刀を、どうやったらあの速度で振り回せるのか。

物干し竿を振るう野獣の腕の動きが見えなかった。シュパパって感じだった。次の瞬間には、レ級の両腕が飛んだ。

だが、流石はレ級と言ったところか。あの野獣の刀の動きを眼で追ってやがった。

そうでなければ、頚を狙って放たれた斬撃を、バック宙で交わすなんて芸当は無理だ。

ついでに、ツナギのスカートの奥から魚雷を、バラバラバラっと野獣目掛けてばら撒いた。ヤバい量だった。

宙返りを決めながら尻尾の金属獣が、その内の一本に砲撃をぶち込んだ。大爆発が起こった。

 

 不知火と龍田を抱き上げ、回収してくれた山城と大鳳も、尻餅をついたり、ひっくり返ったりしている。

彼の背後に守られていた天龍と長門も、後ろに吹っ飛ばされそうになったが、駆け込んで来てくれた陸奥が、庇ってくれた。

天龍も自分の顔を腕で覆う。長門が、野獣の名前を叫んだ。野獣はすぐに応えた。

 

「大丈夫だって安心しろよ~、もー(全身塗鋼)」 

 

炎の中から、野獣は頚を鳴らしながら歩みでて来る。

強敵との遭遇に、狂気染みた喜びを滲ませて、レ級は「Gyahyahya!」と笑う。

ただ、レ級の両腕は再生していない。野獣の持つ刀のせいか。

そんなの関係ねぇと言わんばかりに、レ級は身体を駒みたいに高速で振り回した。

あの巨大な尾っぽを竜巻みたいに回転させて、小旋風と化して野獣に飛び掛る。

だが、野獣の刀捌きは、レ級の巨大な暴力を上回って居た。

 

「ちょっと、刃ぁ当たんよ~……(王手)」

 

 すっ、と音も無く身を沈めた野獣が、突っ込んで来るレ級竜巻との距離を詰めた。

すり抜けた。少なくとも、天龍にはそう見えた。次の瞬間だった。レ級竜巻は空中分解して、地面にぶちまけられた。

野獣が、金属獣ごと、レ級の尾を微塵に斬り潰したからだ。

どしゃっ、と墜落した本体の方は、それでも尚起き上がろうとした。

だが、それは彼が許さなかった。小柄なレ級の本体に、深紫の陰影が覆いかぶさった。

レ級は暴れるが、もはやそれは抵抗になり得なかった。

 

“「『聞かねばならない事も在りますし、逃がす訳にも行きません……』」”

 

 抑揚の無い声で言う彼の右眼や肩口からは、もう出血が止まっていた。

南方棲鬼とレ級の無力化、そして拘束を確認して、彼は纏っていた深紫の揺らぎを解く。

消え始めた艦娘達の陰影は、潮風に溶けて、還っていく。

十数分程の、束の間の激戦は、野獣達が勝利した。

 

 

 

 

 

 

「ぬわ疲! 止めたくなりますよぉ~、深海棲艦との直接戦闘ぅ~(タイムリミット)」

 

 全身塗鋼の肉体強化施術を解いた野獣は、ゲホっと血を吐き出してから、その場に座り込んだ。身体に無茶苦茶負担が掛かるような施術なんだろう。

野獣も、口許の血を拭いながら、この場に居る全員の顔を順番に見て、安堵の笑みを浮かべている。

腕や眼をついさっき失った癖に、今では痛がる素振りを全く見せない彼に言及しないのは、野獣なりの気遣いなのだろう。

座り込んだ野獣に身を寄せ、肩に額を預けたのは長門だった。「死んだかと思ったぞ……」と、ぽそぽそっと言う長門の頭を、野獣はやれやれと撫でてやる。

 

 大鳳に肩を貸して貰い、立っている不知火。

同じ様に、山城に肩を貸して貰い、立っている龍田。

野獣と長門を、嬉しそうに見守る陸奥。皆、一様に安堵の表情を浮かべている。

 

 彼は、何だか申し訳無さそうな貌になって、周りに居る艦娘達を見回した。

そして、無事とは言えないものの皆が生きている事に、心の其処から安堵した様に息を吐き出す。

「本当に、良かった……」 そう呟いた彼の声は、もう何時もの声に戻っていた。

幾人もの艦娘達の声が一つになった様な、不思議な響きが在った。

 

あのさぁ。お前は他者の心配じゃなくて、自分の心配をまずしろよ。

お前、片腕と片目が無くなってんだぞ。何でそんなに平気なんだよ。

もしも身体がいつも通り動くのならば、天龍は彼をぶん殴っていたかもしれない。

取り合えず今は、お前が何を隠していたのか何て、誰も気にしねぇよ。もう良いだろ。

全員生きてて良かったじゃねぇか。他に何か要るのかよ。そんな哀しそうな貌すんなよ。

山城に肩を貸して貰った天龍が、上手い言葉を見つけるよりも先に、緊張の糸が切れた彼が倒れた。

海鳴りが遠くで聞こえた。まるで、海が彼を呼んでいるかのようだった。

 








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最終章

 レ級と南方棲鬼の強襲を受けた鎮守府は現在、工廠と、幾つかの資材倉庫の崩壊によって大きなダメージを受けた事もあり、その機能を大幅に制限されていた。

本営からの協力と支援により、現在は復旧工事が行われているが、完全にその機能を取り戻すにはまだまだ時間が掛かるだろう。ただ、不幸中の幸いと言うべきか。

ドッグの方は無事であった為、埠頭で大破状態まで追い詰められた天龍、龍田、不知火、長門、陸奥、それに、山城、大鳳達の修復施術は行う事が出来た。

誰一人欠けること無く、この鎮守府の戦力は維持されている。負傷し、約一週間ほど昏睡状態であった彼も、今では意識を回復させている。更に、其処から2週間経った。

 

 

 

「そろそろ、窓をお閉めになりませんか? 御体に障ります」

 

「はい。でも、もう少しだけ……。外の空気が、何だか恋しくて」

 

 彼は、優しげにひっそりと微笑んだ。薄手の被術衣を着た彼は、ベッドから身体を起こして、直ぐ傍に在る窓の外を眺めている。

夕涼みの優しい風がカーテンを揺らし、滲む様な茜色が、手狭では在るが清潔感の在るこの個室を染めていた。遠くには、海と空が見える。

此処は、鎮守府の傍に建設された、深海棲艦研究施設の一室。大掛かりな機械やデスク、医務器具も置かれて居ないので、病室と言った風情である。

彼は、顔の右半分を覆う様な、拘束具にも似た黒い眼帯を付けている。そのせいで、いつもの微笑みが痛々しく見えた。酷く窮屈そうだ。胸が苦しくて、痛む。

ベッドのすぐ傍に木製の丸椅子を置き、其処に腰掛けて居た愛宕は、彼の顔を覆う眼帯にそっと手を伸ばした。静寂の中。手袋を外してから、彼に触れる。

冷たい感触だった。それを嫌がる素振りを見せない彼は、静かに眼を閉じながら、自分の左腕で、自分の右腕を掴んでいる。その右腕も同じく、黒い拘束具で覆われている。

愛宕は、彼の眼帯に触れた手で、そのまま彼の右肩、そして、右腕に触れた。彼の温もりが、悲しい程に遠い。凍みる程に、冷たい。涙が零れそうになる。

 

 彼は失った右眼、そして右腕の代わりに、深海棲艦の肉体部位を移植された。

それが本営からの命令である事を、本営の上層部に太いパイプを持っている野獣が教えてくれた。

 

 意識を取り戻した彼に最初に面会したのは、彼が召還した艦娘でも無く、野獣でも無かった。

本営の命により派遣された、研究員のグループだった。彼が意識を取り戻してすぐの頃、本営は、野獣や艦娘達が、彼と面会することを一切許可しなかった。

かつて、艦娘や深海棲艦を相手に行って来た移植実験は、とうとう“人間”を用いて行おうという段階に来ていた。それを邪魔されたく無かったのだ。

高度な金属儀礼施術を用いた、初の人体実験の検体として、瀕死となった彼が選ばれた。どうせ死ぬなら、役に立ってから死ねと言う魂胆なのだ。

他にも、彼自身が優れた金属儀礼の施術者である事や、多くの艦娘を制御し得る、優れた生命鍛冶の工匠で在った事も、大きな理由だった筈だ。

彼への異種移植のオペレーションは、麻酔無しで行われた。寧ろ、移植施術そのものを、彼自身が行ったと言っても過言では無い。

彼だからこそ可能だった。本営は、その貴重な実験結果を欲し、死掛けた彼を利用した。自らの手で、自身の肉体を“改修”して見せろと命令したのだ。

彼は、その命を受け入れた。自身の持つ高度な施術式と、研究員達の外科処置を組み合わせることにより、彼は、もはや人間とは言えない身体に成り果てた。

一命を取り留めた彼は、しかし、人間である事を許されなかったのだ。

 

 野獣からこの件の真実を聞いて、愛宕は本気で、人類など滅んでしまえと思った。激しい怒りと共に、薄ら寒いものを感じた。

彼から、“人間である”という枷を外したのは人間だ。それは、これから人類が背負うであろう、余りに巨大な負債の始まりの様にも思えた。

人間のルールでは、もう彼を縛れない。いや、それすらも、彼次第なのだ。彼を繋ぎ止めているものは、艦娘達との絆であると、そう信じたい。

何も言えず、唇を震わせながら引き結ぶ愛宕に、彼はやはりひっそりと微笑んで見せる。

 

「身体に違和感も在りませんし、痛みも在りません。

軽い運動くらいなら、もう平気です。少し、歩いて来ても良いですか?」

 

 愛宕の様子に、何かを感じたのだろう。

こんな風に、彼が冗談めかして何かをいうのは珍しい事だった。

 

「何を仰るのです。……今も、地下房から帰って来たところじゃないですか」

声が震えそうになるのを、必死で堪える。

 

「彼女達の肉体の調律は、現状では僕しか出来ない状態ですから」

 

 少しだけ申し訳無さそうに言う彼は、微笑んだまま、困ったみたいに眉尻を下げた。

その頼りなげな表情からは、決して想像出来ないだけの覚悟を持って、彼は本営に取引を持ちかけていた。

自身の肉体を差し出す代わりに、保護している深海棲艦達を、自身の配下とする事を申請したのだ。前代未聞のことであった。

当然の事だが、彼が深海棲艦を率いて、人類側に反旗を翻す事を危惧した本営はそれを却下した。だが、最終的には、その要望は聞き入れられた。

陸戦でレ級を撃破出来る野獣が監視役として居るのであれば、肉体をスポイルさせたまま、尚且つ、海へと出さない事を条件に、捕虜としての深海棲艦を任せられたのだ。

言い方が悪いが、彼は、この施設に保護されている深海棲艦達の所有権を手に入れた。

 

 その報告のため、彼と愛宕は先程まで、この施設の地下房にて、戦艦棲姫をはじめとした深海棲艦達にその旨を伝えに行っていた。

シリンダーに押し込まれた戦艦棲姫が、移植手術を受けた彼の姿を見て、驚愕の表情を浮かべた後に、恩赦を受けるが如く深く頭を垂れていた。

「アぁ……、“よウこそ”」と。待ち侘びた瞬間を迎えた様に、彼女が彼に紡いだその短い言葉には、敬慕と敬愛が深く滲んでいた。他の深海棲艦達も同じ様子だった。

ようこそ。それは、地下房に再び会いに来てくれた彼を出迎える言葉だったのか。

それとも、彼が人間では無く、深海棲艦という生物のカテゴリに足を踏み入れた事に対する歓迎か。

或いは、そのどれとも違う、もっと違う意味が在ったのか。愛宕には分からなかった。

 

 レ級と南方棲鬼についても、その肉体のスポイル、解体施術も、未だ回復しきらない体を推して、彼が自ら行った。

港湾棲姫、北方棲姫と同じく、レ級と南方戦鬼の二人も、今では地下房にて保護されている状態である。

鹵獲された深海棲艦の一極集中によるリスクに関しては、本営でも危険視されている筈だ。

だが、彼の要望が通った点を考えれば、こうした決定にかかる思惑に、野獣の存在が一枚噛んでいるのも間違い無い。

 

 もしかしたら、と、思う。

この鎮守府の襲撃に始まり、捕虜としての深海棲艦を所有するまでの流れは、予定調和なのでは無いか。

彼と野獣は、こうなることを何処かで、既に予想していたのでは無いのか。今のこの状況は、彼らが定めた着地地点の一つでは無いのか。

彼が負傷し、その肉体に深海棲艦の細胞を移植する事まで、全ては想定内のことであり、敷かれたレールの上なのではないか。

 

 愛宕は、其処まで考えて、彼の顔を見詰めた。彼は、その微笑を崩さない。

また、緩い風が吹いた。涼しくて、心地よい風だった。夕陽の赤橙に混じる暗がりが、濃さを増していく。

沈黙が降りた。愛宕から視線を逸らした彼は、また窓の外を見遣る。彼は遠くを見ている。

此処では無い場所を見ている。何を考えているのかも分からない。教えてくれない。

愛宕は黙ったまま、ぎゅうぎゅうと膝の上で拳を握る。俯いて、唇を噛む。

いつもそうだった。彼は、微笑みで壁を作る。すぐ傍に居るのに、近付かせてくれない。

自我を破壊され人形に成り下がった艦娘達が、累々と折り重なっていた、あの艦娘廃棄施設の処理槽で、初めて彼と出会った時もそうだった。彼は微笑んで居た。今でも、はっきりと憶えている。

彼は、愛宕をあの地獄から救い上げてくれた。しかし、愛宕は、彼に何もしてあげることが出来ない。それが悔しい。

 

 提督。正直に言って良いですか?

 私は、貴方さえ無事なら、傍に居させてくれるなら、後はどうでも良いのです。

何処の鎮守府の艦娘がどれだけ沈もうが、知ったことではありません。

勝手にすれば良い。どうせ人間も艦娘も、そぞろ泳いで消えていくのです。

群れているから、その本質が見えていないのです。等しく、誰も救われない。

此処には、光の差す道理などありません。もう、光など来ません。

深海棲艦を撃滅した先に、艦娘の未来などありません。

人類や艦娘を、果ては、深海棲艦の未来まで憂い、終戦と共存、不可侵の道を探ろうとする貴方を、本営は生贄に捧げたではありませんか。

私は、人が怖い。恐ろしい。でも、それ以上に、今は人間が憎いのです。ただただ、憎い。許せない。赦せない。

貴方をこんな姿にして、貴方の優しさにつけ込んで、利用して、追い詰めて、使い潰そうとする本営の意思に、激しい憎悪を憶えるのです。

もう、良いではありませんか? こんな世界、守る価値などありませんよ。放っておきましょう。命を掛けて戦うなんて、馬鹿馬鹿しい。そうは思いませんか?

私達、艦娘の為に、深海棲艦の為に、貴方がどれだけ苦悩しても、本営は知ったことでは無いのですよ。止めましょう。貴方は、貴方を大事にして下さい。

 

 そんな風に懇願しても、きっと彼は、困った様にひっそりと微笑むだけだろう。

あぁ。本営で踏ん反り返り、高みの見物を決め込んでいる者たちよ。見えているか。

曙光に顔を焼かれ、烈日に胸を焼かれ、残照に背を焼かれ、苦悩火に心を焼かれた彼の姿が。

微笑む彼の胸の内に、激しく燃え盛る、数え切れない程の艦娘の怒り、憎しみ、悲しみ、復讐心、それら瞋恚の業火が。

それでも日々昇る太陽の様に、只管に艦娘や、深海棲艦の未来の為に、身と心を砕いて来た彼の絶望が。

持って生まれた筈の全てのものを捧げた、彼の偉大さなど。貴様たちには分かるまい。

もはや海への侵略戦争の様相を呈してきたこの戦いを、嬉々として続ける貴様たちには分かるまい。

彼の居ないところで、勝手にするが良い。貴様達が正しいのだと本当に思って居るのなら、勝手に進め。

進め。進め。進め。征け。征け。征け。征け。死ね。「夕陽が沈みますね……」

静かに言う彼の声音は、穏やか過ぎて、まるで存在感が無かった。

 

 顔の見えない、誰かとしか言いようの無い者達への怨嗟の念に囚われてこそ居たが、病室の外の気配には気付いて居た。

ノックの後、静かに扉を開けて入って来たのは、穏やかな微笑みを浮かべた龍田だった。手には、果物が盛られた籠を持っている。

龍田は彼に軽く頭を下げてから、愛宕の貌を見て、クスクスと小さく笑った。「提督の傍で

、そんな怖い貌をしていては駄目よぉ」

諭す様に言われ、愛宕は彼から顔を隠すようにそっぽを向いた。それから、自分の頬をペタペタと触ってから、緩く息を吐き出した。

「提督が甘えて下さらないから、少し残念がっていただけですよ」。冗談めかして言うが、深く追求もして来ない龍田は、愛宕の心情を見抜いていることだろう。

温和に見えて激情家で、そう見せ掛けた上で、更に冷静沈着な龍田の事だ。言葉は交わさなくとも、色々と察してくれている。

龍田は、愛宕には深く絡まず、扉の傍に置かれてあった丸椅子を持って来て、愛宕の隣に腰掛けた。

ついでに、ベッド横に備え付けられてあった木製の台に籠を置いてから、ぬぅっ、と、彼の顔を覗きこんだ。

それから、すぐに微笑みを深めて見せた。

 

「顔色も大分良くなりましたねぇ、提督」

 

「はい。御蔭さまで」

 龍田の異様な迫力にも全く怯まず、彼が微笑みを返せるのは、慣れと言うよりも信頼だろう。

 

「他の娘達も、提督に会いたがっていましたよぉ。 

 そろそろ、面会の許可を出して上げても良いんじゃないでしょうか?」

 

 現在。面会禁止の命令を引き継いでいるのは彼である。

すぐにでも他の艦娘達を此処に呼ぶことも出来る筈だが、彼はそれをしようとしない。

頑なに、それを拒んでいる。

 

「……いえ。もう、僕には皆さんにお会いする顔が在りません」

 

 その龍田の言葉に、彼がほんの少しだけ眼を伏せて、息を詰まらせるのが分かった。

表情も、一瞬では在ったが僅かに強張ったのを、愛宕は見逃さなかった。

彼は、他の艦娘達と顔を合わせたく無いのかもしれない。

実際、この病室に入ることを許されているのは、愛宕と龍田だけである。

つまり彼の過去、その最も深い部分を知っていた二人だけだ。

 

 ただ、確かに状況は変わった。今回の強襲の中で、彼の過去が曝されてしまった。

彼の身体から滲み出た、死と怨嗟の陰影。姿と機能を持った、無数の艦娘達の亡霊渦。

あの現象を隠し切ることなど不可能だ。何れこうなる事を見越して、彼は野獣に頼んでいたのだろう。

野獣は、余計な混乱が起きる前に、彼の過去と真相を、鎮守府に居る全ての艦娘達に伝えてくれた。

愛宕や龍田の過去や来歴に関しては、野獣は伏せてくれたものの、流石に皆、動揺した様子だった。平静を保っている艦娘など居なかった。

龍田の方は施設と鎮守府を行ったり来たりしているが、あれから、愛宕は鎮守府に戻っていない。

自分の居場所なんて無いような気がしたからだ。それは、彼も同じだったのだ。

 

「皆が会いたいと言っているのにですかぁ?」

 

「えぇ……。もうじき、僕は提督では無くなります。

 末端の研究員として、此処の施設への配属となる事でしょう」

 

「ぇ……」と声を漏らしたのは、愛宕では無く、眼を僅かに見開いた龍田だった。

 

 彼の言葉に、ハンマーで頭を殴られた様な衝撃が在った。全身に悪寒が走る。震えが来た。

龍田へと向き直った彼の表情は、普段と同じく、凪いだ仮面の様な微笑みに戻っている。

本当に、冗談抜きで景色がぐにゃぐにゃと歪んで見えた。

愛宕は思わず立ち上がり、ベッドに身体を起こしている彼に詰め寄った。

縋る様に、左手で彼の右肩を掴んで、右手で彼の左腕を掴んだ。

拘束具の冷たい感触が、更に強まった気がした。この部屋は、こんなに寒かっただろうか。

龍田が呆然としているのなんて初めて見る。だが、それを珍しがる心の余裕なんて無い。

 

「そんな……、どうして!」

 

 もの凄い焦燥感だった。彼を見上げるような姿勢になった愛宕は、縋りつく様に叫ぶ。

しかし、夕陽を横顔に浴びた彼は、またひっそりと微笑むだけだった。

だが、すぐに愛宕は息を呑むことになった。

 

「本営が僕に求めているものが、

 深海棲艦の撃滅でも、洋上の平穏を取り戻す事でも無いからです」

 

 落ち着き払った微笑みを浮かべている背後に、深紫の陰影が滲んだ。

その揺らぎが、数人の艦娘の貌を象り、此方を見下ろしていたからだ。

気のせいかもしれないが、少なくとも、動揺していた愛宕にはそう見えた。

 

「僕に寄せられた期待は、

 深海棲艦や艦娘の皆さんへの肉体、精神への干渉施術を、“人間”へと応用する術を探る事です」

 

 龍田と愛宕は言葉を失いながら、彼を見詰める。

ベッドに身体を起こしている彼は、自身の腕を掴んでくる愛宕の両腕に、そっと触れる。

それから、愛宕と龍田を順番に見て、ゆっくりと瞑目する。静かに息を吐き出した。

何もかもを受け入れて、決心を固めたかのような呼吸だった。

 

「精神施術の応用は、対立者の洗脳の為。肉体施術の応用は、権力を保持する不老の為。

 本営が、僕の様な子供を“元帥”に据えている理由は、こうした俗っぽい欲望によるものでした」

 

ゆっくりと開かれた彼の左眼には、今までに無い程に醒めた光が宿っていた。

すぐ傍でその眼を見詰める愛宕には、人間の眼とは思えない程、無機質な瞳に見えた。

 

「精神や思考への応用は未だ不完全でしたが、

 肉体への金属儀礼の応用は形になりつつありました。

 本営の方々が求める、不老不死の回答の一つが、“此れ”という訳です」

 

 彼は、いつも以上に仮面染みた微笑を浮かべて、自身の右腕を一瞥して見せた。

異種移植。その狂気の実現の為に、本営は、彼が負傷したこの機会を利用したのだ。

彼はそれを拒まなかった。そして見事、自身の身体改修を成功させている。

死や病、衰微や疲労を知らない頑強な肉体が、彼をモデルに完成しつつある。

故に、本営はその魅力に眼が眩んだ。彼を前線基地から外して研究に回したのは、一刻も早く“不老不死”が欲しいのだ。反吐が出る。

 

「提督は、……何故、そうまでして本営に従うのですかぁ?

 今回の件に関しては、本営は完全に提督を使い捨てようとしていましたよねぇ?

 施術が成功したから良かったものの、もし失敗していたら、死んじゃってたんです よぉ?」

 

 今まで黙っていた龍田が、音も無く丸椅子から立ち上がって、ベッドの傍に立った。そして、提督を静かに見下ろした。

声音こそ優しく、表情も笑みを浮かべてこそいるものの、その眼は笑って居ない。怒っているのだろうか。

 

「今のところ、そんな無茶をしたのを知っているのは私達だけですが、

これが大和さんや武蔵さんだったら、朝までお説教ですよぉ?」

 

「……やはり、私達を人質に脅されたのですか?」

 

 愛宕の問いに、彼は黙ったまま答えなかった。別に答えてくれなくても良い。

きっとそうなのだろう。彼は、艦娘達を捨てたりしない。誰一人犠牲にしない。

ずっとそうだった。もしかしたら、私達の存在が、彼の重荷になっているのだろうか。

だから。彼は、鎮守府から居なくなってしまうのではないか。

そんな短絡的な思考が脳裏を過ぎった時だった。彼が言葉を探すように俯いた。

 

「僕は、父と母と過ごした記憶が在りません。

 物心ついた頃には、孤児として施設で育てられていました。

 臆病で人見知りな僕は、いつも独りで、孤独でした」

 

 彼は俯いて、訥々と言葉を紡ぐ。愛宕と龍田は、黙って彼の話を聞いていた。

この部屋からだと、山の稜線とその向こうに海が広がり、茜色に燃える水平線が見える。

橙に輝く遠い海と、沈んでいこうとする夕陽を見詰めながら、彼は眼を細めた。

 

「でも今では、こうして僕の事を心配してくれる艦娘の皆さんや、先輩が居てくれます。

鎮守府に戻れば、僕が居ても良い場所が在って、僕を暖かく迎えてくれる皆さんが居てくれるんです。

僕にとっての故郷は、皆さんが居てくれる場所です。僕にとっての家族は、皆さんなんです。

だから、掛け替えの無い家族や故郷を、僕に出来る戦いで守りたいと、ずっと思っていたんです」

 

 淡々と話を続けていた彼は窓の外から視線を戻し、愛宕と龍田を順番に見た。

真剣な眼差しだった。彼が、自分の事をこうして話してくれる事なんて初めてだから、ちょっと驚いてしまう。

 

「僕は皆さんに会うまで、家族や故郷と呼べるものを持ったことがありませんでした。

 でも、それが守らなければならないものである事は、知っているつもりです」

 

 だからこそ、彼は自身の犠牲を躊躇しない。

其処まで言った彼は、照れ笑う様に小さくはにかんだ。

 

「でも、今の僕には、もう鎮守府に戻る資格なんて無いような気がするんです。

 皆さんの傍に居て、一緒に笑っていては、いけない様な気がするんです。

過去を隠したままの僕は、皆さんを騙して来ました。謝っても、許して貰えないでしょう。

それに許して貰おうとも思いません。命令とは言え、僕は幾人もの艦娘の方々を破棄し、その魂を身の内に取り込んで来た事は事実なのですから」

 

聞きたくない。そんな彼の言葉を聞きたくなかった。

 

「鎮守府から出れば、僕はまた一人ですが、……もう孤独ではありません。

 僕は、得難いものを皆さんから沢山貰うことが出来て、本当に幸せでした」

 

 何で。今。そんな事を言うのか。まるで、今生の別れの様では無いか。

まるで憑き物が落ちたみたいに、肩の力が抜けた彼の微笑みに、胸が締め付けられた。

彼の微笑みが、発動の合図だったのだろう。不意に、キィィィ――……ンと耳鳴りがした。

それは、音と言うよりも、音波と言うか、不吉な鳴動だった。

 

 ベッドの傍にしゃがみ込み、彼の両腕を掴んでいる姿勢のままで、愛宕は慌てて自身の胸元に眼を落とした。

驚愕する。彼から貰った“ロック”のハート型のネックレスが、微振動を起こしながら微光を発し、複雑な術陣を発生させていた。

微光の色は、やはり深紫。彼の顔の右半分を覆う眼帯や、被術衣の上から装着された右腕の拘束具からも、深紫の揺らぎが漏れている。

微光が象る術陣が、艦娘への自我や思考への干渉を行うものであることは、直感的に分かった。同時に、身体が動かなくなった。硬直する。

違う。これは、拘束施術だ。愛宕と龍田の喉首、手首、足首に、彼が編んだ術陣が浮かんでいる。

 

「提督……ッ、何を……!?」

 

 彼の腕を掴んだまま身動きが取れなくなった愛宕は、何とか立ち上がろうとする。

龍田の方も動こうとしている様だが、ぶるぶると腕や肩、脚が震えるだけで動けない。

艦娘は、提督には抗えない。反発は出来ても、抵抗は出来無い。“命令”は絶対である。

この根本的なルールを、この土壇場で思い知る。深紫の微光を左掌に灯した彼は、微笑んでいるのに、苦しそうだった。

愛宕の知る限り、彼がこういう類いの術式を、自身が保有する艦娘に発動するのは初めての事だ。動揺よりも先に、悲しみが胸の内に広がる。

彼が何をしようとしているのか。その微笑から察して、心が引き千切れてしまいそうだ。ああ。そんな。嫌です。嫌です、提督。止めてください。

声が出ない。愛宕の唇から漏れるのは、ヒュー、ヒューという、か細い吐息だけだ。

 

「僕が提督で無くなっても、皆さんの事は、先輩が引き受けてくれます。

後は、完全に僕の我が侭になりますが……、皆さんには、僕の存在を憶えていて欲しく無いのです」

 

 彼は、淡々と継げながら、術陣を左掌の上に編み上げていく。

その明滅に応え、“ロック”のハート型ネックレスが共鳴するように震えが強くなる。

 

 艦娘への記憶に関わる施術式ともなれば、当然、高度なものになるし、時間も必要になる。

だが、彼は普段の様に、文言を唱えて術式を編んだりしていない。だというのに、着々と効果解決の為のシーケンスが進んでいく。

その事に気付き、愛宕は愕然とする。最初から。この“ロック”の為のネックレスに、彼が記憶操作の施術式を組み込んでいたのだ。

 

「これが、最初で最後の“命令”です。僕の事を忘れて下さい」

 

 間違い無い。彼が左掌に宿した深紫の術紋は、起動の為のもの。

つまり、この場に居る愛宕や龍田だけで無く、鎮守府に居る彼の保有艦娘全てを対象に取る。

 

「周到なんですねぇ……。でも、この方法では、

 野獣提督の召還した艦娘達には効果は及びませんよぉ?」

 

 身動きが出来ない龍田は、身体を小刻みに震わせながら食い下がる。

この状況で不敵な笑みすら浮かべて見せる辺り、流石と言うか、凄い胆力だ。

だが、彼はその言葉にも動じない。緩く首を振って見せるだけだった。

 

「いえ……。効果は全員に及びます。先輩には謝らないといけませんね。

僕達の鎮守府で使用されていたネックレスは、全て僕が用意したものですから……。

先輩が召還した艦娘の皆さんのものにも、同じ施術式が組み込まれています」

 

 きっと今頃鎮守府では、突然鳴動を始めた“ロック”のネックレスに大混乱が起きている事だろう。

リモートによる術式の遠隔起動を、この規模でやってみせるなど、人間の精神力の限界を超えている。

彼の言葉を聞いて、ぐっと睨んでくる龍田の視線を受け止めながら、彼は困ったように小さく笑った。

 

「精神や自我への負担は極力抑えてありますので、後遺症の心配もありません。

僕に係る記憶の矛盾も、取るに足らない瑣末な齟齬として忘却される事でしょう。

被害が出た鎮守府にも復旧の手が入っていますし、今まで通りの日常は、すぐに戻ってくる筈です」

 

 彼は、愛宕や龍田の不安を拭うように、優しく言う。

何もかもが、彼の想定内だったのだ。自身の過去が、何れ露見する事も。

艦娘達を人質にして、道徳や倫理を無視した命令が本営から下されるであろう事も。

その後。艦娘達の心に、自身の存在が影を落とすであろう事も。

だから、そうならぬ様に、艦娘達の記憶の中から、自身の痕跡を消すことを選択したのだ。

そうなれば、残された彼の写真や映像を見ても、誰だか分からなくなる。

哀しくもなんとも無くなる。思い出せない。自身の経験が、彼の存在に結びつかない。

本当に微かな違和感だけを残し、艦娘達の記憶の中から、彼は消える。

艦娘の意思は、提督に対抗しえない。無力だ。ネックレスから漏れる明滅が強さを増し、術式が解決、その効果の適応が始まる。

 

 痛みや苦しみは無かった。温もりすら感じる暖かな微光が、愛宕と龍田を包む。記憶消去の施術処置だ。声が出ないのに、叫び出しそうになる。

今。眼の前に居る彼が。誰なのか。分からなくなった。必死に思い出そうとする。彼と過ごした時間を、掴み止めようとする。

なのに。全く思い出せない。掛け替えの無い想い出は、たくさん在る筈だと断言出来る。しかし、それが記憶として形を成さない。

虚ろで薄弱な、掴み処の無い幻か。感触の伴わない夢を思い出すよりも難しい。思い出せ。彼は。誰だ。知っている筈だ。大切なひとだった筈だ。

なのに。分からない。分からない。知っていると証明出来るものが、自分の記憶から抜け落ちて行く。

淡い感覚が、動けない身体を蝕む。しかし、喪失の予感への恐怖は、耐え難い程に現実的だ。

同時に、気を失いそうな程の眠気が来た。瞼が重い。視界が急速にぼやけて来る。

 

「記憶消去の後、お二人には24時間の睡眠を設定してあります。

 鎮守府の自室で眼を覚ます事になる筈ですから、安心して身を委ねて下さい」

 

 安心。安心なんて、出来る訳無い。“私”が“私”である為に大切なものが、薄れて消えていく。優しく、拭い去られていく。

だからこそ、惨い。あんまりだ。酷すぎる。「……許さない、からぁ」。そう聞こえた龍田の声は、明らかに涙声だった。龍田が泣いているところなんて、やっぱり初めて見た。

彼の子供らしく無い、ひっそりとした微笑を見ても、まるでデジャブを見ているかの様な、違和感と既視感しか無かった。

彼が、どんな顔で笑っていたのか。分からない。思い出せない。彼は、誰だったか。

自身の中に渦巻く激情が、悲しみなのか怒りなのかも分からなくなった。

眠気と共に、意識の輪郭が暈けて来て、彼の笑顔が暗くなった。次の瞬間だった。

 

 突然。愛宕や龍田を包んでいた微光が霧散した。消えた。

拘束施術が解け、眠気も消える。同時に、彼が誰だったのかを思い出す。

まだ、彼との絆は生きている。温もりが在る。混乱する。

愛宕と龍田は、拘束されていた姿勢のままで固まってしまう。

それは彼も同じで、「えっ……」と、簡単な計算問題を間違えたみたいな顔をしていた。

三人とも、何が起こったのか理解出来なかった。

 

「ぬわぁぁぁん!! 術式キャンセル間に合ったもぉぉぉん!!!」

大声で言いながら病室の扉を開いたのは、黒海パンとTシャツ姿の野獣だった。

その額にはびっしょりと汗が浮かんでおり、右の掌には葵色の微光が灯っている。

驚愕している様子の彼に、野獣は額の汗を腕で拭ってから、ニッと笑って見せた。

 

「あのさぁ……。申し訳無いけど、

一緒に過ごして来た艦娘達の記憶から、大切な想い出をぶっこ抜いちゃうと、

お前の事を覚えてるのが俺だけになるから流石にNG(分かち合う絆)」

 

 嫌味な無く笑う野獣の御蔭で、愛宕と龍田は、その記憶を失わずに済んだ。

それを理解し、龍田は涙を拭いながら深く礼をして、野獣に道を譲るように一歩引く。

ベッドの傍にしゃがみ込んでいた愛宕は、安堵と共に、彼の胸に顔を埋めた。

彼が驚くと言うか、戸惑うような気配を感じたが、もうどうでも良かった。

彼の香り、温もり、感触、記憶。すべて此処に在る。思い出せる。嗚咽が漏れた。

痛い程に抱きしめて来る愛宕の右肩に、彼は左手で触れる。

その抱擁を解こうとしたのかもしれない。だが、彼は、触れただけに留まった。

野獣を見上げて、少しだけ唇を噛んで、すぐに参った様に微笑んだ。

 

「流石は先輩ですね。気付いていたのですか」

 

「いや、俺は気付けなかったゾ(正直者先輩)」

 

「では、誰が……」

 

「私よ。司令官」

 

 可憐な声がした。愛宕も、彼への抱擁を解いて振り返る。

野獣の後に病室に入ってきたのは、眼鏡を掛けた雷だった。

彼は何かに気付いた様に、微かに呻いた。

 

雷の方は、ちょっと怒った様な貌で、腰に右手を当てている。

左手には、“ロック”の為のハート型のネックレスが握られていた。

そして雷自身も、ネックレスをしている。雷は、ネックレスを二つ持っていた。

以前、漂着した他の鎮守府の“雷”を、雷へと改修した話は、愛宕も聞いている。

あの二つ目のネックレスは、その時のものだろう。

 

「気付いたのは、完全に偶然だったわ。

司令官の役に立てるように、いろんな文献を読んだり、艦娘の召還術なんかについて勉強してる内にね。

私にくれた最初の“ロック”に、ちょっと違和感を感じるようになったの。それで自分なりに調べてみたら、って感じだったわ」

 

 雷は左手にもったハート型のネックレスに視線を落としてから、また彼に向き直った。

艦娘達も、それぞれ艤装の召還や解除を、超常的な部類の力で行っている。

その力の延長線上に、“提督”達の持つ召還や改修、解体、装備の造成などが挙がる。

造物に機能を込める事や、無機から有機への変換を司る儀礼術についても同類だ。

艦娘の身でありながら、雷は独学でその領域に手を伸ばしつつあるという事か。

 

「それで相談を受けた俺が、IKDCと協力して、さりげなくディスペルして回ってたんだよなぁ。

 誰にも勘付かれない様にコソコソ動くなんて慣れてないから、すっげぇきつかったゾ~(遠い眼)

まぁ、お前が俺の行動に勘付いてたら、もっと複雑で解き様の無い施術を用いてただろうし、ま、多少はね?(したり顔先輩)」

 

「なる程。敵を欺くには、まず味方から、という訳ですね。

 艦娘の皆さんには、そんな素振りもありませんでしたから……、気付かれているとは思いませんでした」

 

「まぁ流石に、最後の最後に、ATGとTTTを傍に置いとくのは予想出来なかったゾ。

 御蔭で、ギリギリだったんだぜ☆(MRS)」

 

 野獣の言葉からすると、どうやら鎮守府に居る他の艦娘達への施術も、既に解除されている様だ。

愛宕は安堵し、龍田も緩く息を吐き出している。「先輩は、意地悪ですね」

そう軽く呟いた彼の微笑みは、迷子になった子供が、無理に笑っているみたいだった。

 

「意地悪なのはお前の方だって、それ一番言われてるから。

 と言うか、何勝手に人の記憶から消えようとしてるワケ? 寂しいんだが?(BRNT)」

 

 野獣は特に怒り出したりするでも無く、自然体のままで口許を緩めている。

 

「お前は二回も身を挺して艦娘達を守った。それが事実ダルォ!?

 もっと胸張ってホラ。ウジウジして自分だけ消えようとか、そんなんじゃ甘いよ(棒)」

 

 彼は、黙って野獣の言葉を聞いてから俯いて、無言のまま左手を握り締めた。

唇を噛み締める彼の心には、どんな想いが去来しているのだろう。「ねぇ……。司令官」。

不意に、雷が彼のベッドの傍に歩み寄った。多分、彼も動揺していたに違い無い。

いつも通りの、だが、明らかに不自然な微笑みを慌てて浮かべて、雷の方を向いた。

真剣な貌をした雷は、彼の表情には言及しなかった。

 

「司令官って、いっつもそうよね。大変な事が在っても、笑って誤魔化して。

 ニコニコ笑って『大丈夫ですよ』って言う癖に、今なんて全然大丈夫なこと無いじゃない。

 司令官を支えたいって皆思ってるのに、私達の力の及ばないところで無茶ばっかりして。

挙句、最後にはみんなの記憶からも消えちゃおうなんて、馬鹿みたい。許さないんだから。

私にとって、司令官との想い出は全部、宝物なんだからね! だか、らっ……!」

 

 続けて、雷が何かを言おうと口を開けた瞬間。

その大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れた。

驚いた様子の彼が何かを言う前に、雷が彼の胸の中に飛び込んだ。

雷の顔は、すぐに涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった。

 

 持って行かないで。私の大切な宝物を、持って行かないで。此処に居て。多分、雷はそんな事を言おうとしたのだろう。

だが、嗚咽に混ざってしまった雷の声は、もうその言葉の体を成して居らず、泣き声の一部と化している。

それでも。彼の過去を知って尚、変わらない信頼と敬愛を向けてくれる雷の声は、間違い無く、彼の心に届いていた。

彼の微笑みが、大きく崩れた。彼は狼狽していた。その深い愛情に打ちのめされ、驚愕していた。

 

 そんな彼に追い討ちを掛けるべく、野獣は既に手を打っていたのだろう。

病室の扉が乱暴に開かれた。ブチ破るような勢いだった。「軽巡だ!!(天龍型一番艦)」

部屋に飛び込んで来た天龍だった。肩で息をしている。

天龍は鬼の形相で彼に詰め寄ろうとして、勢い余って途中ですっ転んだ。

「不知火です!(奇襲)」「ぅぐぇえっ!?」

その天龍の背中を踏んづけながら、不知火が彼の傍に駆け寄った。

突然の二人の登場に、流石の彼も眼を真ん丸にして驚いている。

そりゃあ、面会禁止の筈なのに、こんな全力疾走で病室に走りこんで来る奴が居るなんて、普通は思わない。

不知火はその戦艦クラスの眼光で彼を見詰めたあと、すぐに唇を震わせて涙を零した。

何かを言おうとした様だが、結局何も言わず、彼の左肩に額を寄せる。

 

「くそ……! おい不知火テメェ!」

 天龍が起き上がろうとした時だった。扉の方から、ポポポポポポポ……、という音がした。

「えぇ……(困惑)」愛宕は思わず二歩引いた。病室の様子を見守っていた龍田は、あらあら、と小さく笑った。

 

「TARGET……(金剛)」

 

「CAPTURED……(比叡)」

 

「ぼ、BODY SENSOR……(榛名@ちょっと恥ずかしげ)」

 

「EMURATED……(霧島)」

 

 次に病室に入って来たのは、ゴツイ黒ゴーグルを装着した、金剛四姉妹だった。

基本的に何でもノリノリな金剛達も、ここまでぶっ飛んで来ると、流石にちょっと反省すべきだと思う。

というか、四人共服を着ていない。紐ビキニの上から、金色に輝く塗鋼術が施されている。

間違い無く野獣の仕業だ。流石のインパクトに、立ち上がろうとしていた天龍が尻餅を付く。

不知火と雷の眼からは涙が引っ込んでしまっているし、彼の表情だって凍り付いている。

 

E M U R A T E D。

E M U R A T E D。

やたらキツイというか、しつこいエコーが掛かった声を揃え、金剛達は横隊で彼に迫った。

異様な迫力だ。「あぁ^~、良いっすね^~(御満悦)」。ただ野獣だけが満足そうに頷いている。

咄嗟に噛み付いたのは、金剛達の圧力に圧し負け、道を譲るみたいに部屋の隅に寄った天龍だった。

 

「おい野獣! 金剛達と何かやらかすにしたって、時間と場所を弁えろよ! 

 俺が話の輪に入るタイミングを完璧に潰されたじゃねーか!!」

 

「そんな泣かなくっても、あいつと話なんてまた一杯出来るから、ヘーキヘーキ(優しさ)」

 

「ばっ、馬鹿野郎お前! 俺は泣いてねぇぞお前!!」

 

 怒鳴る天龍の声には、しかし、明らかに涙声だったし、安堵と感謝が滲んでいる。

金剛四姉妹が彼に迫る最中。次に部屋に転がり込んで来たのは、曙と満潮、霞と潮だった。

曙と霞は泣き怒るみたいな貌だし、満潮と潮は普通に泣いている。

 

「ちょっとぉーーー! このクソチビ提督!!

 私達のネックレスに何仕込んで……うわぁあぁあああああ!!?」

 曙がひっくり返った。

 

「ちょっ!? 何て格好してるのよ! こ、怖過ぎるッピ(錯乱)!」

 口調をバグらせた霞が、たたらを踏んだ。

 

 四人がベッドに横たわる彼に詰め寄ろうとしたのと同時に、サイクロップス四姉妹が一斉に振り返ったからだ。こういう異質系ホラーにも弱いのか。

「ファッ!? ウーン……(気絶)」。満潮が気を失う。「ひっ!?」と悲鳴を漏らした潮が、満潮を抱き止める。

サイクロップス四姉妹は、くるっと踵を返して、四人に向き直る。そしてすぐさま、

 

EMURATED。

E M U R A T E D。

E M U R A T E D。

と、輪唱しながら、曙達に向って揃って猛ダッシュした。

まるで陸上選手の様な美しいフォームだ。

 

 「ぴゃあああああああああああああ!!?」

 満潮以外の三人は悲鳴を上げて、病室の外へと走り出た。

追い掛け回す気か。サイクロップス四姉妹も病室の外へと駆け出していく。

あのツンツン娘である曙や霞が、せっかく彼との絆を深めると言うか、

去ってしまおうとした彼に、各々が素直な気持ちを伝えに来たのだろうに、追い払うとは。

まぁ、金剛達の行動も、野獣の考えと言うか、指示あってのものなのだろうが、愛宕は、曙達が少しだけ可哀想になって来た。

 

 「うあああああああああああああああああああ!!?」

 廊下の方で、曙達以外の悲鳴が響いた。声からして、長月や皐月を含む、他の駆逐艦娘達だろう。

他にも、この施設の研究員達の悲鳴まで混じっている。どうやらサイクロップスに遭遇したらしい。

 

 それからは、とにかくもう無茶苦茶だった。

 暁や響、電が病室に現れて、やっぱりベッドに身を起こす彼に縋りついて号泣し始めて、続いて入って来た翔鶴や瑞鶴まで、場の空気に飲まれて泣き出した。

其処に更に陽炎や黒潮達が現れ、不知火と一緒になってボロボロと涙を流し、続いてやって来た大鳳は、彼の姿を見た安堵の所為で、すぐに空気に呑まれて号泣し始めた。

駆け込んで来た摩耶は、彼の胸倉を掴んで怒鳴り散らそうとして天龍に止められて、「あんだよぉ! 止めんなよぉ! だってよぉ!」と喚きながら、やっぱり泣き出した。

他にも艦娘達が何人も病室に押し寄せて、追いかけられていた曙達とサイクロップス四姉妹が帰ってきて混ぜっ返し、もう彼はもみくちゃにされていた。

此処に姿を見せない大和や武蔵、長門や陸奥は鎮守府に残ってくれているのだろう。

流石に、鎮守府を空にする訳には行かない。他にも、鳳翔や赤城、加賀の姿が見えない。

留守を守ってくれているのだ。感謝せねばならない。

 

 何で相談してくれなかったんですか。何で居なくなっちゃうんですか。此処にいて下さい。

馬鹿。馬鹿。馬鹿。私の達の為に。ごめんなさい。何にも知らなくてごめんさない。

今度は、私達が守りますから。どうか。私達を置いていかないでください。

嗚咽に紛れた涙声は、確実に彼に届いている。彼の頬が引き攣っていた。

この場を見守っていた愛宕も、この熱気と言うか、感情の渦に当てられる。

涙が溢れてくる。龍田も同じ様子だった。

 

 野獣は、泣き出した周りの艦娘達に狼狽している彼に、ゆっくりと歩み寄った。

 

「どうだよ? (皆、これからもお前と一緒に)居てぇって言ってんじゃねーかよ。

 お前の過去とか、人質にしちまった負い目とか、人間じゃなくなったとか、そんなのはもう良いから(良心)

 だからオラオラ、俺達の“真ん中”に来いよオラ(クソデカ愛情)」

 

 言いながら野獣は、いつもの様に、彼の頭をぐりぐりと乱暴に撫でる。

 

「いっつも艦娘とか深海棲艦の事ばっかり考えてんな。お前な。

 確かに共存の道は欲しいけど、その未来にちゃんと自分の幸せも加え入れろ~?(イケボ)?

 俺達の前から居なくなるなんて、もう許さねぇからなぁ?」

 

 野獣を見上げる彼の頬が引き攣った。その瞳が潤み始めている。

 野獣が仕組んだのであろう、この馬鹿騒ぎの持つ深い意味を、彼なりに感じ取ったに違いない。

 

「お前が飲み込んで来た、艦娘共の悲しみとか復讐心は、また何れ必要になる時が来るかもしれないダルォ?

お前はお前なんだから。その時の為に、今は胸の内にしまっとくんだよ! エンジン全開! 分かったか!?(超笑顔)」

 

野獣の言葉に、この場に居る全員が頷いた。

 

「僕だって……、

 本当は皆さんと、一緒に居たい! 離れたく無いに決まってるじゃないですか!」

 

 

どうやら、彼にも限界が来た様だ。

彼が、こんな風に声を荒げるのは初めてだった。

 

「こうするのが一番良いと……。せっかく、決心したのに。

やっと、気持ちが整理出来たのに! そんな風に、言われた、ら、ぼ、く……は!」

 

彼は、今まで堪えていた何かを吐き出すみたいに、滂沱と涙を零した。

続く言葉は、もはや形を成さなかった。先程の雷と同じく、泣き声に埋もれてしまった。

 

僕は寂しくなんて無いぞ。孤独だって、怖くなんか無いぞ。

恐れを知らない。恐れを見せない。一人でも平気だ。誰も沈めたりしない。見捨てない。

もしも。万が一。誰かが沈んだって、その悲しみを見せたりなんかしない。

誰も不安にさせない。僕が、皆を守るんだ。僕が出来る戦いで。家族を。故郷を。

弱くても良い。動じてはいけない。笑うんだ。笑え。笑え。微笑みを、自分の貌に縫い付けるんだ。

きつく縛って、押さえつけて、剥がれない様にしないと。僕は、提督なんだ。

そんな風に自分の情動を押さえ続けて来たせいで、泣き方を忘れてしまったのかもしれない。

そう思ってしまう程、彼の泣き方は無様で、余裕の無い、幼子の様な泣き方だった。

あー……。あー……。と、彼が声を上げるたび、彼が纏っていた何かが剥がれ落ちていく。

 

 一人の人間の意志や正義が、組織の巨大な力に押し潰される事もあるだろう。

彼の正義や信念、狂気や理知が、それを上回りつつあった。それは、本営の焦り方からして間違い無い。

だが、たった今。艦娘達が繋いだ絆が、更にそれを凌駕したのだ。

 

「お前の配属先は、ウチの鎮守府以外には無いって、はっきり分かんだね。

 じゃけん、ちょっと本営にちょっかい出しに行きましょうね~(天下無双)」

 

 もう一度、彼の頭をぐりぐりと乱暴に撫で回した野獣は、優しい空気で満たされつつ在る病室を出るため、扉に向った。

その背中に向って、愛宕と龍田が敬礼する。いや、二人だけでは無い。他の艦娘も涙を拭って、それに倣い出した。

有り難う御座います! 誰かが言った。野獣は肩越しに振り返って、敬礼する艦娘達にひらひらと手を振って見せる。

 

「礼を言うのは、俺の方だって、それ一番言われてるから(仲間想い先輩)

 お前らの御蔭で、凝り固まったソイツの心が、やっと救われたんやなって……」

 

 野獣は、未だ泣き続ける彼を肩越しで一瞥してから、次に艦娘達を順番に見た。

 そして軽く笑った。ありがとナス。短く言って、野獣は病室をあとにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 施設の出口に向う広い廊下を、時雨は野獣と並んで歩いていた。

 

 病室とは少し離れた場所で、時雨は野獣を待っていたのだ。

彼の病室から帰って来た野獣は喋らない。表情は穏やかで、嬉しそうだった。

だから、時雨も何だか嬉しかった。冷たい廊下を歩く音が、静寂の中響いている。

時雨にとって、野獣と居る時の無言は、苦痛では無い。今だってそうだ。

気まずいなんて事は無い。時雨が秘書艦の時の野獣は、結構寡黙だったりする。

長い期間、初期艦として野獣の傍に居た時雨は、他の艦娘よりも、野獣を知っている。

少し話がしたくなって、野獣のTシャツの裾をちょっとだけ引っ張ってみた。

 

「ねぇ、野獣。これからどうするつもりなんだい?

 本営にちょっかいを出すと言っていたけれど、既に彼への辞令は出ているんだよね」

 

「そんなモン幾らでも変更出来るって、安心しろよー(ガバガバ人事)

 アイツに人体実験を迫った糞共も割り出したし、ま、多少は(圧力的脅迫も)ね?」

 

「彼を検体として扱うのは、本営の総意では無かったのかい?」

 

「そうだよ(肯定)。そういう過激な奴らも今は少数派で、

これからも重要な戦力として、アイツを鎮守府に据え置く方針が多数派だったんだよなぁ……」

 

「まぁ、そうだよね(HYUG並感)」

 

「ついでに言うと、アイツを深海への特使みたいにして、

 一気に不可侵状態にまで持ち込もうって言う、超少数派も居るんだよなぁ(鬼謀)」

 

「人類が大きく優位に立って居るのは事実だけど、それはなんと言うか、現実味の無い話だね」

 

 時雨は軽く笑う。きっと、野獣の冗談だろうと思った。

だが、野獣は時雨の笑みを見ても、やはり何も言わなかった。

少しだけ眼を窄めて、また前を向いた。寒気がした。

 

「まさか、野獣は……、その考えに賛成なのかい?」 声が震えた。

 

「んな訳無ぇだルルォ!? 冗談はよしてくれ(割とマジ)」

 

「いや、その、ご、ゴメン。

 急に野獣が雰囲気を変えるものだから、てっきり……」

 

「でも状況によっては、俺もその案の賛同者に成り得るゾ。

 アイツ自身が特使を志望するか、人類に戦う力が無くなった時とかは、仕方無いね(レ)」

 

 時雨は、上手く言葉を返せず、代わりに沈黙を返した。

つまりは、彼を提督の立場に戻す成算は既にあるが、その後はどうなるかは分からない。そういう事か。

確かに時雨も、大きな作戦がある度、磐石である筈の人類の優勢が、累卵の上に在る様な危うさを感じることも在った。

海は敵意こそ持っていても、敗北も勝利も欲しない。ただ、永遠に戦い続ける。その自然の力に対抗する術が、“艦娘”のみ故か。

 

「おっと、この話はここで終わりッ! 閉廷!

 今日の夜には、鎮守府に俺のツレも二人来るから、晩飯済ませとかなきゃ(使命感)」

 

「友達が来るのに、一緒にたべないのかい?」

 

「ま、二人共お偉いさんだからね。

どうせ来る途中に、美味いモン喰ってくるだろうし、しょうがないね(渋い貌)。

一緒にビール飲むくらいだなぁ(分析)……ちゃんと冷やして来たか~?(いつもの)」

 

「一応ね。冷やしては来たよ」

 

「やったぜ」

 

 深刻な空気にすることを避ける為だろう。野獣は明るい声で言いながら、時雨の肩を叩いた。

歩く速度を少し上げた野獣の背中を見詰めながら、そのあとに時雨も続く。広い廊下には、野獣と時雨だけだ。

確か、今日は寄り道をしないと言っていたが、実はもうした後だったりする。野獣は時雨を連れず、深海棲艦が捕らえられた地下房へ足を運んでいた。

其処で、野獣と戦艦棲姫を始めとした彼女達との間に、どんな遣り取りが在ったのかは分からない。

 

 だが恐らく、彼に関することだろう。それくらいは容易に想像出来る。

深海への特使。その目的は、繰り返される争いと潮汐の神へのコンタクトか。

深海棲艦を生み出し、其処に感情すら与えた、“海”という優れた技術者へのコンタクトか。

不可侵の約定を結ぶ相手と言うか、その主体が何なのか。時雨には判断する事が出来ない。

そもそも、そんな約定を守る相手なのかどうかさえ怪しい。

“海”と“人”の間に介在する深海棲艦は、不倶戴天の敵だ。

困難は多い。ただ、それを乗り越えるヒントとして。

自らの意思で人では無くなった彼の存在が、大きな意味を持ちつつ在る。

彼は今。人の味方であり、深海棲艦の味方でもある。

野獣は、人の味方でも無いし、深海棲艦の味方でも無い。彼の味方だ。

少なくとも、野獣の背中を見詰める時雨には、そう見えた。

 

「あ、そうだ(唐突) SGR、腹減らないっすか?」

不意に、野獣が振り返った。

 

「そうだね(便乗)。もういい時間だし、お腹が空いたよ」

 

「ですよねぇ? この辺にィ、上手いラーメン屋の屋台、来てるらしいっすよ。

 奢ってやるから、一緒に喰いに行きましょうね~(太っ腹先輩)」

 

「うん……。ありがとう、野獣」

 

 傍に居て、思う。野獣は、何処にでも居る様な普通の人だ。

気配りや思い遣りが在って、優しくて、強くなろうとしている、普通の男の人だ。

 

俺はこんなに無茶苦茶な奴だ。

誰も、俺のことなんて理解出来ない。

変な格好をして、常識外れで、思いも寄らないことをしでかして。

そうやって周りを振り回して、大物然として、変な奴を演じてる。

誰も俺を縛れない。誰も俺を理解出来ない。俺は特別で、特殊で、最悪な奴だろう?

そんな風に、野獣は今まで振舞っていた。でも、そんな化けの皮が剥がれようとしている。

少年提督が幾重にも被っていた仮面を引き剥がしながら、

野獣もまた、心の奥底に隠した真摯な優しさを隠せなくなって来ている。

いや、人間なんて皆そうだ。その心の本質を、自分自身で完全に謀ることなんて出来無い。

上手いか、下手かの違いだけだ。初期艦として野獣の傍に居た時雨には、他の艦娘よりも、その本質が見え易い場所に居た。

幸運だったと思う。願わくば、これからも傍に居たい。彼を支えようとする野獣を、支えたい。

 

 野獣が何故、そんな振る舞いをするのか。

それは分からない。いつか、野獣が教えてくれるだろうか。

ああ。それにしても。色々と安心すると、お腹が空いた。

野獣と一緒に、早くラーメンを食べたいと思った。

 








 


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後日談 第1章





 彼が提督としてこの鎮守府に留まる事となって、暫く経った。流れる時間は特に姿を変えるでも無く、また『日常』が戻って来ている。

破壊された工廠や倉庫、埠頭のコンクリートなどの復旧も急ピッチで進み、此処の鎮守府も、既に以前と変わらない機能を取り戻していた。

陽が廻り、月が巡り、星が回り、朝が来て、昼が来て、夜が来る。時間には掴みどころも無く、感触も無い。ただ過ぎて流れていく。特別な事は何も無い。

ただ変わった事が在るとすれば、彼の態度や姿勢が、より柔和になった。もっと砕いて表現するのならば、彼と艦娘達との、心の距離が縮まったとでも言うべきだろうか。

今までの彼も十分に穏やかであり、誰にでも分け隔て無く優しかった。だが、その一方で、艦娘達に深く立ち入らず、自身の内に立ち入らせない様なところが在った。

 

 微笑みの仮面を被り、常に一歩引いていると言うか。彼独特の距離の取り方だった様に思う。彼は慎重だった。誰も、彼の本心には近づけなかった。

感情を伺わせず、何を考えているのか悟らせない。優しさと共に静かな狂気に身を委ね、自分の命を軽く見る様なきらいが在った。

 

 だが、今は違う。鳳翔の店のカウンターに、今日の秘書艦であるビスマルクと並んで腰掛け、軽く談笑している彼は、あの仮面染みた微笑みを纏っては居ない。

柔らかな笑みは、やけに大人びて見えるのに、相手との間に壁を作るような冷静さや、距離を取るような沈着さは無い。寧ろ、親しみが込められている。

今までと同じようで、やはり違う。彼が、本当の意味で心を開いてくれつつあるのだ。かつての彼を知っている鳳翔には、その変化がとても喜ばしく思う。

異種移植を受ける事と引き換えに、彼は自身が保有する艦娘達を権力から守った。艦娘達の人間性を主張して来た彼は、自身の人間性を使い果たす寸前だったに違い無い。

それを繋ぎ止めたのが、彼が守った艦娘達だった。病室で大泣きしたという彼の感情や涙は、この鎮守府の艦娘が取り戻した、大切な絆の証だった筈だ。

その輪の中に居れる事を誇りに思う。鎮守府の留守を守っていた鳳翔はその場に居ることは出来なかったものの、彼や他の艦娘達を強く信じていた。

鳳翔と同じく、鎮守府に残っていた大和や武蔵、赤城や加賀も同じだったに違い無い。泰然自若として動じず、彼が帰って来るのを待つ彼女達の姿が印象に残っている。

彼女達の心に動揺が無かったのは、やはり野獣が彼の傍に居てくれた故だろう。彼と艦娘達の間に立ち、双方を繋ぐ助けをしてくれた野獣には、感謝せねばならない。

 その当の野獣は、ビスマルクと彼を挟む形で、彼の隣に腰掛けて、ビールをコップで煽っている。いつものTシャツ、ブーメランの黒海パン姿だ。

もう結構な量を飲んでいる筈だが、其処まで酔った風でも無い野獣は上機嫌そうだ。更に野獣の隣では、今日の秘書艦であった加賀と赤城が、静かに酒杯を重ねている。

二人は鳳翔に遠慮して酒を頼もうとしなかったのだが、半ば強引に野獣が二人に酒を振舞ったのだ。鳳翔も笑顔でその注文に応えた為、赤城と加賀も断ることが出来なかった。

こんな時にまで気を使って貰っても何だか悪い気がするし、ゆっくりとしたペースではあるが、酒や料理を楽しんでくれている今の方が、鳳翔にとっては嬉しかった。

この穏やかな時間を心地よく感じながら、鳳翔は皿を拭きつつ、彼らの談笑に耳を傾けていた。自然と微笑みが零れるような、暖かな時間だった。

誰が欠けることも無く在る今の時間に得難い幸せを感じていると、「あ、そうだ(唐突)」と、料理に舌鼓を打ちつつ、談笑していた野獣が何かを思い出したらしい。

 

「今日は俺の携帯端末にィ、“さっさと『ケッコン』しろ”って上層部から通達が来たんだよなぁ(困り顔先輩)。お前(んトコは)どう?」

 

「えっ」「げっ」と、驚いた様な表情になった赤城と加賀が、顔を上げて野獣を凝視した。

 

「はい、僕にも届いていました」

 

「ぶッ!? ゲホっ!!?」

 

 彼の言葉に、今度はビスマルクが呑んでいたビールで噎せ返る。

一方、野獣から彼へと視線を移し、真顔になった加賀は何故か艤装を召還して、すぐに解除した。

変に力んでしまったのだろう。赤城が小さく笑い、野獣は見ていない振りをしている。

 

『ケッコンカッコカリ』。

 艦娘の能力を大幅に向上させるこの儀礼施術の命令が、いずれ二人に下されるであろう事は、ある程度予想出来たことでもある。

割と落ち着いている赤城とは対照的な、加賀とビスマルクの大きな反応に、鳳翔は少しだけ微苦笑を浮かべた。そんな色めき立たなくても……。

ビスマルクがあれだけ激しく咳き込んでしまうのも、驚きよりも“ついに来たか!!”みたいな期待混じりの衝撃の類いに拠るものだろう。

加賀も結構こじらせて居るのだが、無理からぬ。無軌道で唯我独尊な野獣の秘書艦を努める疲れから、穏やかで優しい彼の配下になる事に憧れを抱く様になったのだ。

その辺りの愚痴というか弱音と言うか、そういう酒の席でしか、しかも鳳翔とサシでないと出来ない様な加賀の相談も、この店で何度か受けたことが在る。

 

 「だ、大丈夫ですか!?」彼は心配そうな貌で、咳き込み始めたビスマルクの背を右手で擦ってあげている。その右手には、金属で編んだ様な分厚い手袋がされてある。

それだけで無く、彼の顔の右上半分を覆う黒眼帯も、明らかに傷を隠す為のものでは無い。手袋と眼帯はどちらも拘束具めいていて、かなり仰々しい。

彼は白の提督服を着なくなった。代わりに、黒い提督服を着込む様になり、眼鏡も掛けなくなった。残った左眼の視力も、大きく回復したとの事だ。

間違いなく、深海棲艦の眼球を移植した影響だろう。こうした激しい肉体器官の活性に伴う痛みや苦しみも、当然在るに違い無い。だが、やはり彼はそれを見せない。

伺わせない。その健気さに、少しだけ鳳翔は胸が締め付けられる。切ない気持ちになりそうだったが、ビスマルクの方はそんな余裕も無い様子だった。

「だ、ケホ……、大丈びにょ」と、一頻りゲホゲホした後、すぐに冷静さを取り繕おうとしたが、噛み噛みになって失敗している。

 

「お前にもきてたかぁ……(分析)。じゃあもう相手は決めてるんだ?(インタビュー先輩)」

咽て涙目になったビスマルクを横目で見てから、野獣はそう聞きつつ彼に視線を戻した。その質問に、加賀とビスマルクが息を呑む。鳳翔も、思わず手が止まる。

「え、ぼ、僕は……」と。彼はその質問を受け止め、逡巡する様に眼を伏せて言い澱んだ。またその仕種が、彼にしては珍しいと言うか、鳳翔にとっては意外であった。

“僕は、まだケッコンについては考えていません”みたいな、困った様な笑顔を浮かべる彼を予想していた。しかし、違う。彼は、落ち着かない様子で眼を伏せたままだ。

 

「何だ何だぁ、その反応はぁ~?(ねっとり)

 まるでこの場に好きな奴が居るみたいじゃねぇかよ(いじめっ子)」

 

「いえ…、そ、それは……」

 

「お、図星かな? ちょっと熱いんじゃなぁーい、こんなトコでぇ~?

 もう折角だからこの場で告白してさ、終わりで良いんじゃない?(ウキウキ顔先輩)」

 

「でも、その……、あの……」

 

 ちょっと恥ずかしげと言うか。赤らむ貌に、きゅっと引き結ばれた唇。動揺に揺れる瞳。あ、これは。あらあら。ひょっとすると……。あらあら。どうしましょう……。

彼の反応からして、やはり意中の人物はこの中に居ると見ても、不自然では無いのでは無いか。では、その場合、誰になるのだろう。

赤城か。加賀か。ビスマルクか。それとも、野獣か。もしかしたら、私かもしれない。その可能性に考えが及んだ瞬間、もの凄く苦しくなった。

鳳翔は拭いていた皿を置いてから、視線を彼から逸らし、腕を組むような姿勢で右の掌を自分の右頬に当てる。頬が綻んでしまうのを必死に隠す。

彼の様子からして、意中の人物が出来たのでは。そう期待してしまう。言葉を選ぶ間の、彼の沈黙。その束の間の静寂に、少しの緊張が走る。

加賀とビスマルクは何故か席を立ち、まるで試合が始まる寸前のボクサーの様に軽くフットワークを踏みつつ、首と肩を回し始め、準備運動をし始めた。

すー……、ふー……。と、震えて掠れた深呼吸してから、二人は神妙な表情になり、また席に座った。二人共、挙動不審と言うか、重症と言うか、重篤と言うか。

ただ、赤城だけは、まるで歳の離れた弟を見守る様な穏やかな表情で、彼を見詰めていた。野獣も同じ様子だ。ただ、煽るでも急かすでも無く、彼の言葉を待っている。

 

 鳳翔は、彼の方を見れないままだ。もう拭き終わった筈の皿をまた手にとって、拭き続けてしまう。色々な感情が胸に渦巻いている。こんなのは初めてだ。

空母としての記憶故か。哀悼や悲哀、喪失感に打ちひしがれる事には慣れているつもりだ。

だが、こういう感情には慣れと言うか、免疫と言うか。そういうものが無い。

ドキドキしてしまう。有体に言えば、経験不足という奴だ。どうして良いのか分からない。どんな風に振舞えば普通なのだろう。取り澄ますことも上手く出来ない。

もじもじするしかない。彼に視線を向けている野獣や赤城は、凄く自然体なのに。私も、普通にしないと。でも、出来ない。汗が出てくる。変に思われてしまう。

いや。でも、見れば、チラチラと彼を見るビスマルクは何度も咳払いをしたり、視線をあちこちに飛ばしたり、そわそわしっぱなしだ。

じっと瞑目している加賀も、落ち着いている様に見せ掛けて、ふんすふんすとめっちゃ鼻息が荒い。全力疾走した後みたいになっている。

 

 急に静かになった店の空気が、少しだけ熱を帯びる。不意に、彼が顔を上げた。彼の蒼みがかった左眼と、鳳翔の眼が合う。彼が微笑んだ。肩と心臓が跳ねる。

慌てて俯く。拭き終わっている筈の皿を、さらにゴシゴシと拭いてしまう。自分でも分かるくらいテンパっている。でも、じっとしていられない。恥ずかしい。

其処に彼が、「鳳翔さんは……」と、声を掛けて来たから堪らない。「はぅっ!?」、っと素っ頓狂な声を上げてしまって、心臓が爆発しそうだった。

 

「僕の様な子供がケッコンすることについて、どう思われますか……?」

此方へと遠慮がちな視線を向けて来る彼も、やっぱりちょっと恥ずかしそうだ。

初めて見る種類の彼の貌に、母性を擽られると言うか、激しく萌えてしまったと言うか。

息苦しくなって来て、頭が回転しない。「えぇと、そうですね……」と上の空で言葉を返す。

 

 彼の言葉は、鳳翔への相談と捉えるべきか。それとも。もっと深読みして、意中の相手は鳳翔なのだと表明していると捉えるべきか。

前者と後者では、天と地程の差が在る。どう取るべきか。焦ってはいけない。そう。此処は慎重に、おち……、落ちちゅいて、彼の様子から、その真意を読みとらねば。

だが、気の早いビスマルクと加賀は、どうやら後者と取った様だ。

「(;д;)ちゃあああああ↑!!?(レ)」と、ビスマルクは頭を抱えて突っ伏した。だが、すぐに身体を起こし、置いてあったビール瓶を引っ掴んでグビグビとやり始めた。

加賀の方は、深すぎる深呼吸の後、悄然と項垂れた。“鳳翔さんだったらしょうがない。もうね。もう……、ほんとしょうがない。”みたいな事を、ぶつぶつと唱えている。

一方で、野獣がその二人の様子を、面白いものでも見るみたいな愉快そうな貌で見ているし、赤城も相変わらず微苦笑のままだったので、落ち着きを取り戻す事が出来た。

 

「提督が納得して為されるケッコンであれば、

誰と結ばれたとしても……、その、とても尊い選択なのだと思います」

 

 曖昧な言い方になってしまったが、艦娘の身である鳳翔にとってはこれが精一杯である。肯定も否定も難しいところだ。

もっと気の利いた言葉を選べればとも思ったが、さっきからアライグマみたいに皿をゴシゴシと布巾で拭いている鳳翔には無理そうだった。

落ち着いているフリをするのも必死である。ドキドキし過ぎて涙が出そうだ。もう勘弁して下さい。と思いつつ、何とか引き攣った微笑みを返す。

 

「やはり僕次第と言いますか、僕の意思の問題ですよね……」

微笑みつつも何処か真剣な様子の彼は、鳳翔の言葉に小さく頷いてから、何かを思案する様にまた俯いた。

 

「真面目かっ!? もうそんな堅苦しいのは良いから(良心) ホラホラ。告白大会、よーいスタート(棒)」

 

「し、しませんよ。そんなの……。

何で場の勢いで言う必要なんか在るんですか(正論)」

 

「お、そうだな(納得)」

 

 彼を弄るのにも満足したのか、野獣もそれ以上は追求しない。ただ、彼の様子や反応からは、彼に意中の人物が居るという事は間違い無さそうだ。

ただそれが誰なのかは、先程までの野獣との遣り取りの中では分からない。くすくすと小さく笑う赤城には、心当たりが在るのだろうか。気にはなる。

此処に居る誰かなのか。それとも、違う誰かなのか。軽く息を吐き出してから、自分を落ち着ける様に茶を啜る彼の様子からは、そのどちらとも取れた。

じれったいのだろう。ビスマルクと加賀は激しく貧乏揺すりを始め、手で顔を覆い、擦ったり、髪を掻き揚げたりしている。

鳳翔も、さっきから熱っぽい溜息ばっかり吐いていた。また店の中に沈黙が満ちて、すぐ後だった。

 

「すまないな、鳳翔。今からでも大丈夫だろうか?」

「無理だったら遠慮無く言ってね。もう遅いし」

暖簾を潜り、落ち着いた足取りで長門と陸奥が店に現れた。

 

「大丈夫ですよ。どうぞ、ごゆっくりして行ってください」

 

 鳳翔は自分を落ち着ける為、小さく息を吐き出してから、長門と陸奥に微笑んで応えた。

ちょっと申し訳なさそうに目礼をしてくれた二人は、野獣の存在に気付いて難しい貌になった。

いや、野獣の存在と言うよりも、この場の雰囲気の不穏さと言うか。妙に熱っぽい空気に不自然さを感じたのかもしれない。

「珍しい組み合わせだな……」と、ポツリと呟いた長門は陸奥と一緒に、取り合えず野獣達の背後に位置するテーブル席についた。

陸奥は半眼になって、野獣を監視する様に見詰めた。「あんまり呑みすぎないでよ、野獣。明日は私達が秘書艦なんだから、二日酔いなんかして体調崩さないでね」

看病させたりする余計な手間を増やすなと言いたいのだろう。長門も頷いている。そんな二人に、鳳翔はお通しを出し、注文を取る。

野獣の背後の席を選んだポジショニングも、野獣を見張るような意味も在るに違い無い。野獣の方は、「全然酔って無いから、ヘーキヘーキ」と涼しい顔だ。

 

「前もそう言っておきながら朝方には、

“アーシニソ、シニソ……、はぁあああ(苦悶)”ってなっていたのを忘れたのか」

 

「それも一回や二回じゃないものね。……しかも、決まって私達が秘書艦の時だし」

 

非難めいた視線を長門と陸奥から向けられながらも、野獣は軽く笑って見せる。

 

「俺だって色々疲れてるんだからさ……。

 そういうだらしない所を見せるのも、俺がNGTやMTを信頼してる証拠だよ(優しげな視線)」

 

「ふん、ものは言い様だな」 長門は鼻を鳴らす。

「今更そんな戯言に騙されないわよ」 陸奥も白けた様に肩を竦めた。

 

 鳳翔がそんな遣り取りを長門や陸奥へ出す料理を作りつつ聞いていると、赤城が軽く咳払いをした。

 

「では……、野獣提督は私達の事も信頼してくれていると解釈しても宜しいのですね?」

 

 少しだけ頬を上気させた赤城が、冗談っぽく言いながら野獣の顔を横から覗きこんだ。

普段は見せない、その可憐な表情に差している朱は、酒のせいだけでは無い様に見える。

赤城の視線を受け止めつつ、野獣は低く喉を鳴らすみたいに笑う。「当たり前だよなぁ?」

そう言いながら、野獣は加賀の方も一瞥した。加賀は何だか嫌そうに眉間に皺を寄せる。

そして直ぐに視線を逸らし、黙って冷酒を呷った。何とも言えない反応だ。

ただ、それでも野獣は気を悪くした風でも無く、ビールの入ったコップを傾けた。

 

 野獣は誰に対してもこういう砕けた態度を取る癖に、言葉の端々に不思議な真摯さが在る。

たまに無茶苦茶なことをしでかすものの、長門達が憎みきれないのもその所為だ。

言葉がキツかった陸奥や長門も、『まぁ、今更よねぇ』『あぁ、今更だな』みたいな空気である。

その空気に険悪さが混ざらないのは、やはり野獣という男の魅力なのだろう。

店の中が微笑ましい空気に暖められ、自然と鳳翔の口許も綻んだ。その時だった。

 

「ねぇ……、その、提督は、ど、どうなのよ?」

 

 さっきから黙々と酒盃を重ねていたビスマルクが、隣に座る彼をチラリと見てから、ぽしょぽしょと言葉を紡いだ。

 

「え、僕ですか?」意外そうな貌をした彼も、ビスマルクの方を見た。

 

 一方でビスマルクの方は、もじもじした様子で持っていたコップをカウンターに置いて俯き、両手の人差し指同士をツンツンとやっている。

ただ、声音ほどしょんぼりしている訳でも無く、どちらかというと、拗ねている様な感じだ。いつもの“構って構ってオーラ”にも近いが、ちょっと違う。

呑みすぎだろう。顔も大分赤い。「提督は、私達にはそういうところ、見せてくれないもん」と、唇を尖らせて言う姿は、どことなく暁に似ている。

 

「僕は未成年で、お酒も飲めませんし……」

戸惑った様に言う彼の様子も珍しくて、鳳翔は料理を作る手を思わず止めてしまった。

 

「そうじゃないの! そうじゃなくて、もっと私に甘えてくれても良いでしょー?」

其処まで言ったビスマルクは、隣に座る彼に身体ごと向き直った。

 

「今日だって私が秘書艦だったのに、全然頼って来てくれなかったじゃない?

 何でも一人でやっちゃって。おしゃべりの時間もあんまり無かったし。つまんない。

 おこよ? ビスマルクはおこよ? もっと褒めて、もっと甘えて来ても良いのよ?」

 

 ビールは悪酔いするという話は聞いた事が在るが、ここまで面倒くさい酔い方になると、どうも酒の種類だけでは無いような感じである。

口調もちょっと幼い感じだ。普段から募っていた彼への気持ちが、ケッコンカッコカリの話題が引き金となって、ビスマルクの中で暴走気味になっているのだろう。

 

「私、知ってるのよ? 提督、不知火の事、おねえちゃんって呼んでるでしょう?」

そのビスマルクの言葉に、長門と陸奥、加賀が一斉に彼の方を見た。

楽しそうに微笑んでいるのは、野獣と赤城だけである。

料理を再開しようとしていた鳳翔も、気が散ってどうしようもない。

 

「は、はい……。その、そう呼んでも構わないと仰ってくれたので……」

 

「じゃあ、私のこともそう呼んでくれたら、許してあげるわ」

 

 言いながらビスマルクはぐいっと彼に顔を近づけて、頬を膨らませた。彼は座ったまま身を引こうとした様だが、突然の事に反応が遅れていた。

ビスマルクが彼に身を寄せて、腰に手を回す方が早かった。ちょうど、ビスマルクが隣に座る彼にしな垂れ掛かるような体勢だ。

それだけでは無く、ビスマルクは彼の胸元に顔を突っ込んで「う~! む~! は~や~く~!」と呻りながら、ぐりぐりと頬擦りし始めた。

もうただの酔っ払いだった。ビスマルクが鳳翔の店で此処まで酔う姿を見せるのは珍しい。しかも絡み酒だ。提督は、もの凄く大きな猫にじゃれつかれてるみたいな状態である。

それでも落ち着いた様子の提督は、抱きしめるでも頭を撫でるでも無く、困ったように微笑んで、ビスマルクを宥めるように彼女の両肩に手を置いた。

 

「分かりました。でも、少し落ち着いてからにしましょう。

 ほら、お水を飲んで下さい。……鳳翔さん。奥の個室をお借りしても良いですか?」

 

「え、えぇ。どうぞ。すぐにお布団を用意しに参ります」

 

「いえ、大丈夫です。それなら、僕がやっておきますから。

 ビスマルクさん立てますか? 奥で横になって、ちょっと休んで来ましょう?」

 

 抱き着いて来るビスマルクの抱擁を解きながら、彼はゆっくりと言う。こういう時の提督は紳士的と言うよりも、全然隙が無い。

不満そうに唇を尖らせたビスマルクは、渋々と言った様子で彼から離れて、カウンター席に座り直す。それから、彼が差し出してくれた水をゴクゴクと飲み干した。

「じゃあ落ち着いたら、“ビスマルクおねえちゃん”って呼んでくれるのね?」酒で濁った蒼い眼を据わらせて、ビスマルクは立ち上がって見せたものの、覚束ない千鳥足だ。

咄嗟に長門と陸奥がビスマルクを支えようと腰を浮かしかけたが、それよりも先に、彼が席を立っていた。「失礼しますね」

質問には答えなかった彼は、よろめく事も無く、ひょいっとビスマルクを抱き上げて見せる。彼自身、小柄ながらやはり鍛えているのだろう。

突然の事に、ビスマルクがめちゃくちゃ驚いた貌で硬直していたのが印象的だった。彼はそのまま、鳳翔の店の奥へと消えて行った。

 

 

 

 それを見送った長門は、少しだけ頬を染めつつ軽く咳払いして腕を組んだ。

 

「あそこまで酔ってしまうあたり、

やはりビスマルクにも、……思うところが在るのだろうな」

 

「野獣と違って真面目だし、飲み方は弁えている方よね。ビスマルク。

 あんなになるまで飲むなんて、どうせ野獣がまた弄り倒したんでしょ?」

 

陸奥がじとっとした眼で、野獣の方を見た。

 

「申し訳無いが、何でもかんでも俺を悪者にするのは流石にNGなんだよなぁ……。

 今日は言う程BSMRKを弄ってないゾ。な、AKGもそう思うよな?(同意要請)」

 

 陸奥から向けられる視線に不服そうに言いながら、野獣は隣に座る赤城を一瞥した。

赤城は静かに頷いてから苦笑を浮かべつつ、カウンター席に座りなおし、長門と陸奥に向き直る。

 

「野獣提督がイジったと言うよりは、先程までの話題の所為だと思います……」

 

 其処で言葉を切った赤城は、言っても大丈夫かどうかを伺うように、野獣をちらりと見た。

隠すことでも無いし、別に言ってもいいゾ。野獣はビールをコップに注ぎながら言う。

それを聞いて、赤城は軽く頷いた。

 

「提督お二人に、ケッコンの為の指輪と書類一式が届いたそうです。

 それで、彼が想いを寄せるひとが居る様子でしたので、それが誰なのかと……。

 普段、触れることの無い話題でしたので、盛り上がってしまったんですよ」

 

「そういう事だよ(肯定)。

単純に、BSMRKが一人で暖まり過ぎて熱暴走しただけなんだよなぁ。

いっつも俺が誰かを苛めてる様な考え方は、†悔い改めて†」

 

 でも、野獣提督の話の振り方も、少々下世話だった気もしますが……。

言い辛そうにだがそう付け足した赤城は、やはり微苦笑を浮かべている。

赤城は割りと落ち着いているのだが、鳳翔は自分の盛り上がりっぷりを思い出して再び顔を赤くしてしまう。

彼の意中の人が自分かもしれないなどと思って、勝手に舞い上がっていた事が、また恥ずかしくなってきた。

加賀も俯いて唇をぎゅうぎゅう噛んでいるし、心情的は鳳翔と似たようなものだろう。

 

「やっぱり野獣が原因じゃない(呆れ)

 悔い改めるのは野獣の方だって、それ一番言われてるわよ?」

話を聞いていた、陸奥はやれやれと溜息を吐き出した。

 

「全くだな。……しかし、そうか。とうとう彼にも、ケッコンの準備をする時が来たか」

 

 長門が厳かささえ感じる声音で呟き、真剣な様子で瞑目した。何をそんなに深刻そうな貌をしているのか。

鳳翔はちょっと困惑したが、出来るだけ眼を合わせない様にしながら料理へと戻る。とにかく、注文された品は用意せねば。

「まぁ、そういう話題なら、多少盛り上がり過ぎるのも理解出来るわね」と、長門の言葉に続き、ちょっと悪戯っぽく笑ったのは陸奥だ。

 

「ねぇ、話しを蒸し返して悪いけど、彼が想いを寄せる人って、誰かしら? 

やっぱり、大和か武蔵? イジられた彼の反応はどうだったのよ、野獣」

 

楽しげに聞いて来る陸奥に、野獣は「そうですねぇ……(熟慮顔)」と言いながら眼を伏せる。

 

「ちょっと前にィ、AOBがアイツの部屋の前を夜中に通ったら、

“はぁ、はぁ……NGTさん、NGTさん……!”って、アイツの切なげな声が聞こえて来た来たらしいっすよ?(大スクープ)。

 NGTの事を想って、一人で奥義の練習(意味深)をしていたと思うんですけど(名推理)」

 

「何っ!!!!!??? それは本当か!!!??(大声)」

叫ぶように言いながら、長門が猛然と立ち上がった。凄いテンションの上げ方だった。

そんな長門を見て、野獣も真面目な貌で頷いた。

 

「うそだよ(無慈悲)」

 

「ぐわっ!!?(レ)」

テンションを上げた分の反動も有り、長門が椅子の上に崩れ落ちた。

野獣の嘘だと分かってはいたが、少しでも期待した自分の不甲斐無さにダメージが倍増したのだろう。

 

「何だよNGT、何一人でポッカポカになってんだよ(棒)」

 

「黙れ!!」

 

「冗談はさておき。んにゃぴ、恥ずかしそうに言葉を濁すだけでしたね。

(アイツはあれで意思も強いし口も堅いし、あの反応だけで誰が好きなのかは判断でき)ないです」

 

 野獣に対する彼の態度も少し砕けた感じで、友人とも兄弟ともまた違った、不思議な距離感を感じさせる。仲間、もしくは、親友とでも表現すべきか。

親しい仲の野獣にもまだ予想がつかないのであれば、艦娘達にも推測は難しい。じっと野獣を見据えている加賀も何やら思案しているのか、難しい貌になっている。

料理をしながら耳を欹てていた鳳翔も、残念な様な、ちょっとホッとした様な、妙な気分になってしまう。

「ふーん……。まぁ彼らしいわね」と、陸奥は野獣に軽く笑った。そんな二人の遣り取りを聞いていた赤城がワザとらしく、コホンと一つ咳払いをした。

 

「野獣提督は如何なのです? 

督促の通達が来たと仰っていましたが、もう相手は決めておられるのですか?」

 

見詰めて来る赤城に視線を返しつつ、「いや全然!(即答)」野獣はきっぱりと言った。

 

「まだ何も考えて無いゾ。この鎮守府の状況も色々変わりつつあるからね。

ケッコンするかどうかも、今後の状況次第になるけど、まぁ……仕方無いね(レ)」

 

 野獣は穏やかな声音で言いながら、赤城に口許を緩めて見せる。赤城の方は、「……分かりました」と小さく言いながら微笑んだ。

その隣で、酒を呷りつつ片手で顔を覆い、「ハァァアア~~~……(心の軋み)」と、クソデカ溜息を吐き出したのは加賀だ。二人にも其々、思うところがあるのだろう。

鳳翔は、赤城と加賀の二人を見守る様に順番に見てから、二人がこんな平穏な時間を送れることを、心の中で野獣と彼に感謝する。

少しの間、沈黙が降りた。その間に、鳳翔は料理を作り終え、熱燗と一緒に長門と陸奥のテーブルへと運ぶ。鳳翔がカウンターに戻ってすぐだった。

 

「俺達が誰とケッコンするのかは置いとくとして、お前らの方はどうだよ?

 AKGとかHUSYOUはともかく、KGとNGT、それからMTはちょっと心配だゾ(親心)

家庭的というか、母性的と言うか、そういう素質が在るように見えないゾ(超暴言)」

 

 野獣が渋そうな貌で、加賀と長門、それから陸奥を見回した。

 

「頭に来ました……(正直)」 

加賀はめちゃ不機嫌そうに言いながら野獣を睨むものの、座って酒を呷るだけだ。

噛み付くだけ無駄と察しているのだろう。

 

「な、舐めるなよ野獣。私は女子力もビッグ7だ(意味不明)」

まだ素面の癖にワケの分からない事を言い出した長門は、何故か自信有り気な不敵な笑みを浮かべようとして、失敗していた。頬が引きつっている。

 

「私だって掃除、洗濯は人並みだし、

料理は……、その……、レンジでドン☆するくらい出来るわよ?(錯乱)」

 

野獣から視線を逸らした陸奥の言葉も、妙に歯切れが悪い。

「いや、チンしろよ。ドン☆って何だよ……(恐怖)」野獣が難しい貌で呟いた。

レンジ、爆発してませんか……? 鳳翔もツッコミを入れそうになったが、沈黙を守る。

 

「何だよお前ら、やっぱり駄目駄目じゃねぇか(読み読み先輩)

 これでは“一航戦”と“ビッグ7”の名が泣くな。な? HUSYOUもそう思うよな?」

 

 突然同意を求められ、鳳翔は困った。とりあえず、笑って誤魔化す。ただ、加賀や長門、それから陸奥も、野獣については言及しない。

普段の振る舞いや格好が無茶苦茶な野獣が、実は料理やその他の細かい家事を卒なくこなし、生活能力も結構高かったりする事を知っているからだ。

呑み過ぎだりサボったりして仕事にムラを作ったりするのも、本当はワザとなのでは無いかと思う時がある。それはそれで迷惑な話では在るが。

 

「ぐ……、あっ、そうだ!(唐突)、

ま、また新しい艦娘を迎え入れる予定だと聞いたが、……母港拡張が必要になるな。

おっ、そうだな(自問自答)」

 

 長門は苦し紛れと言った感じで、強引に話題を変えようとしたが、野獣がそれを許さなかった。

 

「ボコォ拡張(意味深)? いきなり何言ってんすか!? 

みんなが安らぐHUSYOUの店で、下ネタは不味いですよ!? 

やめて下さいよ本当に!(義憤)」

 

 陸奥と加賀が飲み掛けた酒を噴き出し、赤城も恥ずかしそうに眼を伏せた。鳳翔も同じく俯いてしまう。

「な……っ!? 言っとらんわ!?」と、抗議する長門の声など聞かず、野獣は肩を竦める。

「いきなり下ネタをぶっぱなすとか、お前の女子力ガバガバじゃねぇか(呆れ)」

 

 それと同時だったろうか。

 

「すいません、鳳翔さん。お部屋とお布団、お借りしました」

ビスマルクを個室に運んだ彼が、カウンター席へと戻って来た。

 

 彼が戻って来たので、流石に長門も声を張り上げるのは止めた様だ。酒と一緒にぐっと言葉を飲み込んで、深呼吸をした。自身をクールダウンしているのだろう。

ただ、酒の肴に頼んでいた料理をペロリと平らげ、自分を痛めつけるみたいに日本酒を喉に流し込んでいる辺り、冷静という訳でも無いらしい。

酒を噴き出した陸奥と加賀は口許を手で拭ってから澄ました顔を作り、取りあえず黙ったまま酒盃を重ねている。

妙な熱が篭っていると言うか、空気が浮ついていると言うか、そういう変化を彼も感じ取ったのだろう。

暖かいお茶を鳳翔に頼みながら周囲の面々の顔を見て、ちょっとだけ怪訝な表情になっている。

 

「ビスマルクさん、やっぱり直ぐには大人しくしてくれませんでしたか?」

 

 彼に湯吞みで茶を出しながら、鳳翔も何とか微笑む。

顔の赤さを気取られまいか心配だったが、杞憂だった。

 

「宥めすかすのに時間が掛かりましたが、何とか落ち着いてくれました。

横になって暫くすると寝息を立てられ始めたので、戻って来させて貰ったんです。

ビスマルクさんに飲ませすぎたのも、傍に居た僕の監督不行き届きですね」

 

彼は両手でそっと湯吞みを受け取り、微笑を返してくれた。

 

「明日は、ビスマルクさんは非番だと聞いていますが、あの様子では二日酔いでしょう。

お腹に優しい御粥でも作り置いてあげたいので、後で厨房をお借りしても良いでしょうか?」

 

ビスマルクと言うか、酔っ払いの扱いにも慣れたものと言うか。

「ええ、構いません。どうぞ、お使いになって下さい」鳳翔は快諾し、笑顔で頷く。

NGTよりコイツの方が女子力高いとか、これマジ? と。

その様子を横目で見ていた野獣が、これ見よがしに盛大に溜息を吐き出した。

 

「パワー重視の巨女はスケベな事しか考えないのか……(諦観)。

おいMT、どうにかしろ(投げやり) KGも連帯責任だゾ(飛び火)」

 

「おい! その言い方だと、まるで私がただの変態雌ゴリラみたいだろうが!?」

 

「え、違うのぉ?(レ) 

どうせ、いっつもショタバナナ(意味深)の事で頭が一杯だゾ(決め付け)」

 

「全力で否定させて貰う(蒼き鋼の意思)!!

 言っておくが、私の本懐は包容力を軸にした“母性”だ!

 例え女子力が多少不足していても、十分にカバーしてみせる!(錯乱気味)」

 

 長門は若干赤い顔で、訳の分かるような分からない様なことを力説して見せる。

自分から火傷をしに行くスタイルなのか……、と。端から見ていた鳳翔も若干、困惑する。

『もう酔ってんのかコイツ』みたいな貌で、野獣も鼻を鳴らした。だが、すぐに何かを思い付いた様だ。

長門と彼を見比べた野獣が、ニヤッと笑ったのを鳳翔は見逃さなかった。

 

「よう言うた! それでこそビッグ7や!

 じゃあ、ちょっとNGTの“母性”ってヤツを、とくと見せてくれや!(キチスマ)」

 

「やめなされ、やめなされ……。惨い無茶振りはやめなされ……(震え声)」

もう何らかの悲劇が起きるのを察した陸奥が、野獣を止めようとしたが、駄目だった。

 

「の、望むところだ!」と、酒の入った長門が、野獣の話に乗ってしまったのだ。

その様子を見ていた赤城は苦笑しながら、加賀の方は気の毒そうな貌で、「あ~ぁ……」みたいに息を吐き出していた。

鳳翔もハラハラしながら成り行きを見守るしか無いのだが、お茶を啜る彼は暢気な様子で長門と野獣の遣り取りを眺めている。

「ホラホラお前も見てないで、こっち来て其処に座って!」自分にも火の粉が降りかかろうとしているのを、知ってか知らずか。野獣に呼ばれた彼は、素直に従う。

 

「分かりました。お隣、失礼しますね」

 

 野獣が指差しているのは、テーブル席の長門の隣だった。

彼は長門に微笑みかけてから、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。

その純粋の微笑みに、何か感じるものと言うか、後ろめたい何かがあったのか。

長門が「うっ……」と怯むように身を引いた。空気がピリピリし始める。

とりあえず場のセッティングは終わった様だが、何がはじまるんです?(コマンドー)

 

「じゃあ、ちょっとオママゴトって言うか、反応テストみたいなのをして貰うから。

 やり方はスゲー簡単だから! NGTが母親役で、コイツが子供役でOK? OK牧場? 

 其々の立場でコミュニケーションを取って、その“母性”を見せ付けてくれやオラララァァァン!?」

 

 野獣は含みのある笑みを浮かべながら、長門に頷いて見せた。

 

「シチュについては、NGTが決めると反応テストにならないからね。

 どうすっかなー、これなー……(沈思)。日常的なシチュと言えば、そうですねぇ……」

 

 要するに“子供役の彼へ母性的なレスポンスをして見せろ”という事らしい。

その内容を理解し、緊張した様子の長門と、少しだけ恥ずかしそうな彼は、お互いに顔を見合わせる。

赤城や加賀、陸奥も、長門がどんなレスポンスをして見せるのかという点には、興味を引かれた様だ。じっと成り行きを見守っている。

無論、鳳翔だってそうだ。ちょっとした適性検査みたいな、妙な緊張感が漂い始める。野獣は何かを思い付いた様に一つ頷いてから、長門と彼を順番に見た。

 

「じゃあ、“子供が家に帰って来て、それを出迎えるNGT”という感じで、はいヨロシクゥ!

 コイツが“ただいま”と言って此処に座り直すから、その後に続いて、親子のコミュニケーション的な会話をやって見せて、どうぞ(面接官並の対応)」

 

 雰囲気が思ったよりもガチになって来たせいか、長門の頬に一筋の汗が流れた。

表情も真剣な様子で固まって強張っているが、この展開は流石に読みきれなかっただろう。

「分かりました。……では長門さんのタイミングで、始める合図を下さいね」

何処か嬉しそうな彼の方は一度席を立って、少し離れた所に立ってスタンバイに入る。

長門は「あぁ、もう逃れられない!!」みたいに、一瞬だけ表情が歪めたが、すぐに真顔に戻った。

覚悟を決めたようだ。酒が入った赤い顔で覚悟も何も無いと思うが、心の準備は必要だろう。

戦闘海域に入る時と同じように、静かに瞑目した長門が呼吸を整えた。

 

「よし……。は、始めて貰っても大丈夫だ」

 

 長門のその言葉が合図だ。もの凄い緊張感が鳳翔の店を包んだ。息を呑んだのは、鳳翔だけじゃない。赤城や加賀もそうだ。

陸奥も神妙な面持ちで、二人の様子を見ている。野獣だけが、面白そうにビールを呷っている。

彼がゆっくりと歩み寄り、そっと長門の隣に座った。って言うか、近っ。彼は椅子に座ったまま、長門にそっと肩を寄せた。

 

「あの……、た、ただいま、母さん」

長門に微笑み掛けた彼の声音は、今まで聞いた事の無いような声音だった。

少しの緊張と、ぎこちなさの中に、遠慮がちに甘えようとする信頼と無防備さが在った。

鳳翔は、自分の心に衝撃が走るのを感じた。ひ、卑怯だ。そんな表情をするのは。ずるい。

頬を少し染めた恥ずかし気な彼の表情にも、母性では無い何かを激しく刺激された。

うわぁ……。な、何だか、変なスイッチが入ってしまいそうだ。店の中が静まり返った。

陸奥は眼を丸くして彼を凝視しているし、加賀は持っていたお猪口を取り落とす。

赤城も驚いた様な表情で硬直し、あの野獣ですら同じ様な様子だった。

今日は、何だか特別な日なんじゃないかと思わざるを得ない。

 

「ぉ、お、おかえ、おか、おか……」

 

 至近距離で向けられた唐突な衝撃に、赤い貌をした長門がニワトリみたいになっていた。

多分、おかえりと言おうとしているのだろうが、言葉を紡げていない。

だが、すぐに深呼吸をしてから、キリッとした表情をつくって見せる胆力は流石だ。

 

「む……。コホン。あ、あぁ、おかえり。う、うがいと手洗いは済ませたか?」

 

「はい。済ませて来ました。今日のオヤツは何ですか?」

 

「ホ、ホットケーキでも焼くか(出来るとは言ってない)」

行き当たりばったりのアドリブだが、長門と彼の台詞は、まぁそれらしいと言える。

だが、その母性を伺い知ることが出来る様な遣り取りでは無い。

長門はもう一度で咳払いをして、台詞を考える様に視線を彷徨わせた。

そして、何かを閃いたように頷いてから、彼に向き直る。

 

「あ、そうだ!(苦し紛れの本日二度目)

 今日は、何か学校でイベントが在ったんだろう? どうだったんだ?」

若干、キラーパスっぽい長門の質問だったが、それに対する彼のレスポンスが不味かった。

 

「えぇと、……はい。今日は写生大会が在りました」

キラーパスをキラーパスで彼が返して来たのだ。

 

「んんっ!?!? しゃせ……!!? な、何……ッ!!!?」

長門の方も、平静さを取り戻した様に見せ掛けてその実、反応テストなどと言われてテンパって居たに違い無い。

 

「クラスの男の子グループに混ぜて貰って一緒に写生したんですが、難しかったですね」

声をひっくり返す長門に、彼は変わらず穏やかな表情で頷いて見せた。

 

「やっぱり、女の子達の方が上手でした」

 

「女の子も出るんですか(驚愕)!?」

 

 思わず声が出てしまい、鳳翔は恥ずかしさの余り消えてしまいたくなった。

長門達が一斉に鳳翔を見た。鳳翔は咄嗟に深く俯いて、前髪で顔を隠す。肩が震える。

表情こそ隠したものの、自分の顔が無茶苦茶に赤いだろうことは分かる。顔がアツゥイ!!

あー、もう! 恥ずかしすぎて顔から火がでちゃいそう! 一緒に涙もでちゃいそう! 

 

 緊張が高まると、ちょっと冷静になって考えれば分かる勘違いというか、想像の飛躍を制御しきれなくなる。普段しないようなミスを犯す。

この時、長門だけでなく、陸奥も加賀も赤城も鳳翔も、全員が一斉に同じ間違いと言うか、ぶっ飛んだ想像に至っていたのは間違い無い。

絵を描く“写生”が、頭の中に出てこなかった。そんな中で、真っ赤になった長門が、眼をぐるぐると回しながら、レスポンスをしようとしている。

そして、湯だった頭と混乱する思考回路をフル稼働させ、羞恥で掠れた声で長門が搾り出した台詞が、「い、いっぱい出たか?(震え声)」だった。

「えっ」と言う彼の声に被せて、「き、気持ち良くできましゅたか……?(小声)」という、噛み噛みの台詞で続いたのは、切なそうな貌の加賀だった。

「クリーミー♂で、うん! おいしい!!(暴走気味)」と爽やかに言い放った、眼がゆんゆん状態の陸奥のぶっ飛び具合だって負けていない。

 

「変態ばっかじゃねぇか俺の艦隊ィ!! やめたくなりますよ~、提督ゥ。

おいNGTォァ!! もう、母性もへったくれも無くなってんじゃねぇか!? オォン!?(半笑い)」

 

流石に野獣も笑うしか無いと言った感じだった。

 

「ま、まぁ、良いじゃないですか、野獣提督。今日は、成人の日ですし(意味不明)」

 

 何だか訳の分からない事を言う赤城は、あれでフォローのつもりなのか。

声も上擦っているし、今日は成人の日でも無い。赤城の顔も赤い。照れて焦っているのか。

其処に、ドタドタドタっと、店の奥から誰かが走り出て来て、べしゃっと床にこけた。

今度は泣き上戸か。彼女はべそべそとしながら、ふらふらと立ち上がった。

 

「痛いよぉ! もうヤダよぉ! 仲間にいれてよぉ~(泣)!! 

 私だけ一人にするのは、アカンもう勘弁してぇ(´;ω;`)(レ)」 

 

 収拾がつかなくなりかけているが、其処に別室で寝ていた筈のビスマルクが乱入して来たのだ。

彼が席を立ち上がり、慌ててビスマルクを支えに行く。まだまだ騒がしさは加速し始めたばかりだ。

 

 

 















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後日談 第2章

 深海棲艦の研究施設。その地下に在る特別捕虜房へと向う間、今日の秘書艦である雷は特に何を言うでも無く、彼と野獣の後ろについて歩いていた。

厳重な警備とロックが施されたエレベーターで地下に降り、傲慢とさえ言える白一色で塗り潰された地下空間に出て、息を呑む。

天龍から、この場所についての話は聞いた事が在ったが、感じる空気の重たさは想像していたものとは大分違う。ずっと重い。

周囲の白色が、凄まじい圧迫感を与えてくる。まるで、何もかもを掌握されていて、何処にも逃げ場など無いのだと、言外に示されている様な錯覚を覚える。酷く息苦しい。足取りも重い。ただ、前を歩く野獣と彼は、平然としている。

野獣はいつものTシャツ海パン姿で、背中に長い刀を吊るしていた。彼の方は、黒い提督服を着込んでいる。右眼には、仰々しい黒眼帯。右手には黒い手袋をしていた。

二人は何故か手に大きなバスケットを持っているし、本当にピクニックにでも行くみたいだ。

こういう時にはやはり、野獣や彼から底の知れないものを感じてしまう。

 

 

 また一つ大きな作戦が成功、終了し、鎮守府の傍に設立されたこの研究施設には、つい先日、また新たな深海棲艦が収容された。戦艦水鬼である。

この“鬼”を捕らえる戦果に大きく貢献したのは、やはり野獣や彼が保有し、この鎮守府に所属する艦娘達であり、その活躍に拠るところが非常に大きかった。

大和や長門、武蔵や陸奥達が、戦艦水鬼が属する敵艦隊に大きくダメージを与えて弱らせたところに、諸々の鎮守府の艦隊が猛追撃をかけたのだ。

漁夫の利を拾われた形だったが、野獣や提督は特に気にした風でも無く、全員の帰投を喜んでくれた。二人は武勲や功名よりも、艦娘達の無事を優先してくれる。

野獣や提督は、あえて深追いしなかった。今回は特に敵の戦力も高く、戦艦水鬼だけでなく、戦艦棲姫が二体、その脇を固めていたからだ。

いくら艦娘達の錬度が高くとも、鹵獲を行うには明らかに無謀だった。だが、故に本営はその鹵獲の手柄として、大きな評価を約束していた。

こうした功名に眼が眩む提督は、未だ多い。人類が優位になったからこそ余計だろう。今回、戦艦水鬼を含む深海棲艦の艦隊へと追撃を仕掛け、轟沈した艦娘の数は如何ほどか。

正確な数は分からない。社会に報道される内容は、勝利という事実に偏重されているのが実際のところだ。だからこそ、多くの人々は錯覚する。

人類の悲願でも在る、深海棲艦の撃滅。その先に在る平穏は、既に眼の前に見えていると。手を伸ばせば、届きそうな距離に在るのだと。

 

 人類は優勢に立ち、大きな勝利を重ねている。身に及ぶ脅威を、更なる力で排除している。その支配の範囲を、順調に押し広げ続けている。確かに、これは真実だ。

だがその一方で、深海棲艦が何故生まれるのかという、根本的な問題の解決方法が見つかっていない。諸説在るが、確かな説は未だ無い。

暗中模索の状態である人類を尻目に、深海棲艦達は劣勢でありながらも、その強さの水準を維持していた。新種の個体の発生に伴い、個々の戦力増大の傾向も見て取れる。

人類優位で分かり難くなっているだけで、発生する深海棲艦の数自体も、一定数以下には出来ていないのも事実だ。

どれだけ沈めても、咲いては散り、散りてはまた咲く花の様に彼女達は発生する。

今の人類は、その一点から必死に眼を逸らしている。前の作戦についての報道をテレビで見て、雷はそんな印象を抱いていた。

 

 深海棲艦達を配下に迎え入れ、意思の疎通を行う彼にも、深海棲艦の発生のメカニズムや真相については、確かな事は分からないと言う事だった。

以前の鎮守府強襲についても、深海棲艦側にも綿密な作戦が在った訳では無い。

これも、南方棲鬼やレ級から彼が訊き出した事だが、深海棲艦の中の特定の個体が、特定の地点へと進撃する命令を受信している様な状態だったらしい。

彼が深海棲艦達から訊き出した話によれば、彼女達自身にも、己が生まれる過程や行動理念については、意思の及ばない部分らしい。自我や思考の前に、殺意や敵意が在る故か。

在る意味で本能的と言うか、在るべくして在る姿の為に、人類と戦っていたという事だった。

生まれながらの殺戮兵器である彼女達を導く、何か巨大な意思が存在しているのかもしれない。

 

 

 深海棲艦って、何で人類と敵対するのかしらね……? 

伊達眼鏡を掛けた雷は、手にしたファイルに綴じ込んだ書類を見詰めつつ一人ごちた。

雷が眼を落とした書類には、かつてのケッコン実験から調整状態にあるチ級、リ級についても、この施設にて保護せよとの内容が綴られている。

やはりこの通達についても、彼が本営に通した要望の結果なのだろうか。他にも、他所の鎮守府で捕らえた深海棲艦を、此方に輸送してくる予定なども記されている。

其処には、空母棲姫、中間棲姫の二体の名前が在った。以前の大きな作戦で見た事の在る名だ。どちらも、巨大な戦力を有した深海棲艦だった筈である。

だが、その二体もこうして鹵獲された。それでも尚、強さと勢いを増していく人類に、深海棲艦は全く怯むこと無く戦い続けている。逃げも隠れもしない。

 

 何故だ。深海棲艦達は、何かを訴えようとしているのか。

考えても答えは出ない。不意に視線を感じ、雷は顔を上げる。彼と眼が合った。

鋼鉄を組み合わせた様な巨大な扉のロックを、傍にあるコントロールパネルで解除していた彼が、肩越し雷を振り返り、見詰めて居たのだ。

 

「そろそろ降参しても良いんじゃないかしら? ね、司令官」

 雷は、ふんと鼻を鳴らして軽く笑う。彼も、そうですね……、と。小さく呟いて応えてくれた。

 

「ただ……、人類全体にも、深海棲艦と和解しようと言う意思が殆ど無いことも事実です。

 今のままでは彼女達が降伏したところで、人類による一方的な侵略が始まるだけでしょう」

 

「そういう世情については、向こうもある程度察してるっぽいんだよなぁ……。

 まぁ、俺たちを含めて何処の鎮守府でも、深海棲艦を殺す気満々で艦娘達を出撃させるからね。しょうがないね……(宿命の業)」

 

 野獣も雷に振り返りながら、肩を竦めて見せた。

ちょっと声を沈ませた野獣に、雷は何か言おうとしたが、上手い言葉が出てこなかった。

確かに、野獣の言う通りだ。深海棲艦は、艦娘達に対して容赦しない。躊躇も無い。

だからこそ、艦娘達も情けは掛けない。其々に錬度を上げて武器を揃え、深海棲艦を討ち鎮める。

沈めなければ、沈められる。簡単なことだ。故に、その仕組みを変える事は困難を極める。深海棲艦に敵意と害意が在る限り、和解は絶対に成立しない。

だから激戦期が明けて人類優位になって尚、こうして戦いが延々と続いているのだ。洋上における趨勢は変わっても、殺し殺されの堂々巡りは続いている。

 

「お前らに沈んで欲しくないんだから、俺達がマジになるのも当たり前だよなぁ?

 ただ、この負の連鎖を断つ術を探そうとしないのも問題だって、それ一番言われてるから(届かぬ思い)」

 

 少しだけ物憂げな様子の野獣がそこまで言った時だった。扉のロック解除が終わった。鋼鉄で厳重に編まれた扉が、壁や床に沈むようにして開いていく。

ゴウン……、という低い音が響く。彼と野獣は歩を進め、その後に雷も続く。相変わらず、傲然とした白色が、廊下に続いている。

 

 此処から先は、人型の深海棲艦を捕らえておく為の特別捕虜房エリアである。“姫”や“鬼”を含む上位個体も収容されている。

だが、何故だろう。歩を進めるにつれて、雷は違和感を覚える。周囲の白色の印象が変わったと言うか、先程までの空気の重さが、不思議と和らいでいるのだ。

このエリアには、冷え込んだ無機的な雰囲気が無い。むしろ、ある種の生活空間に足を踏み入れた様な、ぬくもりと言うか、体温の様なものを感じたせいだろう。

雷が周囲を見回すと、まだ空っぽのままの捕虜房が幾つも在った。此処が一杯になっている様子を想像すると、ゾッとしてしまう。背中に寒いものが走った時だ。

「ウェヒヒヒ!(0w0)ウェェェェイ!!(レ)」と、声が聞こえて来た。少し先の捕虜房からだ。子供っぽく弾んでいるのに、妙に艶のある声音だった。

正直、ギクッとした。深海棲艦の声だというのは間違い無い。今まで散々殺し合って来た敵である。いや、今までと言うか、これからだってそうだろう。

だというのに。聞こえて来た声がもの凄く楽しげで場違いな感じがして、雷は戸惑ってしまう。しかし、歩を進める彼と野獣は自然体のままだ。

こんなに気を張り詰めている自分がおかしいのだろうか。そんな馬鹿な。混乱しそうになる雷を連れたまま、彼と野獣は声が聞こえて来た捕虜房の前に立った。

捕虜房の扉が自動で開いた。このフロアを自由に行き来出来るようにしてあるからだ。

肉体のスポイルと解体施術を受けた深海棲艦達の収容状況は、軟禁状態にある。

以前まではもう少し厳重だったが、彼が深海棲艦達の保有権を得たことにより、その待遇も大きく変わったのだ。

シリンダーに詰め込まれて居たタ、ル、ヲ、そして、戦艦棲姫も、現在では他の房室を其々割り振られてある。

 

「おはようございます。お変わりありませんか?」

「お ま た せ (差し入れ)」

 

 扉を抜けて、捕虜房に入った彼と野獣に雷も続いて、その異様な雰囲気に気付く。

白塗りのテーブルや椅子が置かれた白一面の捕虜房には、無数の本が散乱していた。

ハードカバーの難しそうな本に始まり、子供が読むような絵本も混じっている。

そして、そのどの本にも付箋がびっしりと挟まれており、読み込んだ形跡が見て取れた。

貪り読む様にあちこちに開いた本が置かれたその捕虜房は、一種の狂気に満ちている。

テーブルにも山の様に本を積み上げている彼女は、此方を見て立ち上がった。

「あ! (まだ朝だけど)こんばんはーーー!!(レ)」と、右手で敬礼しながら挨拶をしたのは、戦艦レ級だ。突き抜けた様な元気一杯の凄い笑顔だった。

服装は、あの黒ツナギともレインコートともつかない格好では無い。黒ジーンズを破いた様なホットパンツと、黒一色のTシャツ。

それに、黒のパーカーを被り、黒のマフラーを巻いている。青白い肌とのコントラストは中々セクシーだ。

 

 ただその元気っ娘オーラと、本が散乱したこの捕虜房の雰囲気のミスマッチが凄まじい。

“学習”というものに楽しみを見出したのか。手にはやはり、同じ様に付箋を幾つも挟んだ状態の、小難しそうな分厚い本を抱えている。読んでいる途中だったのだろう。

そのレ級に続いて、「オハヨウ……」と、ぽそぽそと小さな声を紡いだのは、積み上げた本の影から、こそっと此方を窺う様に顔を出した空母ヲ級だ。

レ級とは対照的に、ちょっと引っ込み思案なのか。ヲ級の方はホットパンツにTシャツというラフな格好では無く、いつもの黒と白のボディスーツである。

 

 

「お久しブリーフ(レ)! 

 つい最近は、岩に隠れとったのか?(レ)」

 

 立ち上がったレ級は嬉しそうに言いながら、彼の前まで歩み寄って来た。

警戒心とか敵意とか、そんなものを微塵も感じさせない笑顔を浮かべたままだ。

凄く流暢に言葉を話せるのは、この捕虜房の有様が語るように、学習の結果なのだろう。

ただ言語感覚というか、センスが独特なのか。ちょっと変わっている。

“岩”というのも、“仕事や任務が忙しい”とか、多分そういう意味なのだろうか。

 

「えぇ、もう少し早く会いに来ることが出来れば良かったのですが……」

 

「何の問題ですか?(レ)」 レ級は言いながら、彼の肩をバンバンと叩いた。

 

 邪気の無い笑顔からは“そんなの気にすんなよー!”みたいなノリなのだと窺える。

彼も笑顔を返しながら捕虜房の中を見回して、そっと自分の顎に手を当てた。

 

「しかし凄いですね……。もう殆どの本を読破されたのですか?」

 

「そうなんでーちゅ(レ) どうじゃ!(レ)」 

レ級は“むふふん♪”といった感じで、感嘆する彼に頷いて見せた。

 

「また新しい本をお持ちしますね」

 

「わふー(>ω<)! ナイスでーす♀!!(レ)」

 

「……会イニ来テクレテ、アリガトウ」

 

 嬉しそうに言うレ級の隣に、歩み寄って来たヲ級が並んだ。

ぎこち無い様子で紡がれたその言葉には、儚くも熱っぽい響きが在った。

レ級が太陽のような眩しい笑顔だとすれば、ヲ級の方は、儚げな月明かりを思わせる。

 

「ヲ級さんも、具合が悪いところなど在りませんか?」

 

「貴方ノ御蔭デ、特ニハ……」 

 

 静かな声で言うヲ級は、彼に微笑みを返す。

想い人か恋人にでも向けるような艶の在る眼差しで、ヲ級は彼を見詰めている。

その琥珀色の瞳を切なげに揺らしながら、ヲ級は、彼にそっと身を寄せようとした。

しかし。其処でヲ級は雷の方を見て、歩を止めた。それから、儚い微笑みのまま、雷に会釈して見せる。

咄嗟に、雷は会釈を帰すのでは無く、ぐっと見据えることを選んだ。彼に歩み寄るのを止めたのは、雷に遠慮したからだろうか。何となく、そう思った。

人類への殺意の塊みたいな存在の深海棲艦が、ここまで心を開いている様子など、誰が想像出来るだろう。軍属で無い民間の人々ならば、夢にも思うまい。

ヲ級やタ級、ル級や戦艦棲姫が、彼に強い仰慕の念を抱いている事も、天龍に聞いて知っていた。そんな雷でも、やはり現実感の薄い光景なのだ。

唇を噛みながら、ヲ級を睨むでも無く見据えていると、今度はレ級も此方を見た。

いや、笑みを深めながらズイっと詰め寄って来て、握手を求める様に手を差し出して来た。

覗き込むと吸い込まれそうな、その紫水晶の様なレ級の瞳が、雷を映している。

 

 

 その瞬間だった。

脳裏に。暗い海の上で、レ級と一人対峙する自分の情景が浮かんだ。

その情景の中でレ級は、左眼を大きく見開き、右眼を刃物の様に窄め、笑って居た。

金属獣の咆哮。砕け散る自分の肉体。艤装。無邪気故に、残酷極まりない哄笑。

背筋を凍らせ、魂を動揺させる、死の予感。

心臓が鷲掴みにされた様な悪寒が全身を包んだ。

垣間見た絶望の光景は、艦娘としての性か。

それとも、戦闘で研ぎ澄まされた感覚と、生き延びる為の本能によるものか。

 

 

 恐怖と悲鳴を飲み込んだ雷は咄嗟に艤装を召還して、手に錨を構えて後ずさった。呼吸が浅くなる。手と脚が震える。汗が噴き出す。レ級を睨み据える。

傍に居る彼は、そんな様子の雷の反応もある程度予想していたのだろう。全く動揺していない。「大丈夫ですよ、雷さん。今の彼女達には、戦う力は在りません」

それは勿論知っている。理解している。解体施術を受けたレ級には艤装尻尾が見て取れないし、ヲ級の頭にも艤装は無い。だが、やはりこの感覚は理屈では無い。

今の彼女達が無力だと知っていても、それでも尚、自身の体が戦闘体勢をとってしまう。雷の艦娘としての部分が、レ級という存在に反応しているのだ。

 

 本を抱えたままのレ級は、何だか不思議そうな貌をして雷から視線を外した。

そして、握手のために差し出していた手で、ちょいちょいと野獣のTシャツの裾を引っ張った。

 

「へい、おっさん?(レ) 

 コイツ、見せ掛けで超ビビッてるな(レ)? どういうことなの……(レ)?」

 

「おっ↑さん↓だとォ!? 前も言ったけど、お兄さんダルォ!(憤怒)」と叫んだ 

 野獣は、軽く息を吐き出してから、レ級と雷を見比べる。

 

「そりゃあ“お前”だからね、まぁ……ビビられてもしょうがないね(諦観)」と。 言ってからクソデカ溜息を吐き出して見せた。

 

「あらぁっ!?(レ)」 

 

 ショックを受けた様な表情を浮かべているレ級は、もしかしたら自身の異常な強さを理解していないのだろうか。

いや考えてみれば、レ級にとってもこういう形で艦娘達と接触するのは初めてのことだろう。

そのフォローに入ったつもりなのか。ヲ級が、雷にも微笑みかけて来た。

 

「私達ニハ、モウ反抗ノ意思ハ有リマセン。……ドウカ、艤装ノ召還ヲ解イテ下サイ」

 

 今まで殺し合って来た相手とは思えない程、眼の前に居るヲ級には余裕が在る。

いや、彼に全てを預けているが故の覚悟か。琥珀色の瞳は、凪いだ海の様だった。

穏やかな声音と表情で言われ、雷は握り締めて構えた錨を下ろしてから、深呼吸した。

何と言うか、もの凄く落ち着いたヲ級の雰囲気に呑まれてしまう。

 

 

「ままま、IKDCもさ、そう殺気立たないでよ!(朗らか)

 今日はオヤツも持って来たから、お前らの為に(優しさ)」

 

 雷がこんな風になる事も半ば予想してあったに違い無いし、場の空気を和らげる目的も在ったのだろう。

野獣と彼はお互いに顔を見合わせてから、レ級やヲ級、雷に持っているバスケットを広げて見せる。お菓子やフルーツが山盛りに入って居た。

保冷ケースも入っており、紙カップに入れられた間宮さん特製アイスも在る。「ふわふわアイス!(レ)」、「ワァ……」と、レ級とヲ級が瞳を輝かせた時だった。

再び、この捕虜房の扉が開き、ホポポポ、ホポポポポ……という可愛らしい声が聞こえた。そちらを見遣った雷は、「ファッ!?」と思わず変な声が漏れた。

黒いゴーグルを装着した北方棲姫が、勢い良く駆け込んで来たのだ。「お、サイクロップス棲姫かな?」とすっとぼけた野獣に肉薄する。電光石火だった。

「カエレ!!(歓迎)」と、言葉とは裏腹にちょっと嬉しそうな声で言いながら、北方棲姫は野獣の股間に、右拳でパンチをぶち込もうとした。

野獣は読んでいたのだろう。「キャンセルだ!(余裕の回避行動)」すっと身を引いて、北方棲姫の突進を捌いた。

突進をかわされ、体を泳がせた北方棲姫はすっ転んで、レ級に突っ込んだ。転ぶ勢いのまま、レ級の左脛に頭突きを叩き込む格好になった。

ゴッツーンと言う、結構良い音がした。レ級も反応出来ておらず、まともに喰らった。「阿吽!?(レ)」と悲鳴を上げたレ級は、肩を震わせながら脛を押さえて蹲った。

北方棲姫は、はわわわわ……、みたいになった後、走って逃げ出した。「何か……、台風みたいな子ね……」その小さな背中を見送りながら、雷は呆然としながら呟いた。

 

「大丈夫……?」と、ヲ級がレ級に手を差し出した。

「ア、 アイツ……、いつか泳がす……。アメリカまで泳がす……(レ)」

 

 結構痛かったのだろう。涙目になったレ級は恨めしそうに言いながら、ヲ級の手を取って立ち上がる。

北方棲姫の腕白振りや騒がしさに、彼も苦笑を浮かべていた。

 

「北方棲姫さんには、僕のバスケットを渡して来ますね。

 港湾棲姫さんや、タ級さん、それからル級さん達の様子も見て参ります」

 

「お、そうだな。(鷹揚とした頷き)

こいつら状態も本営に報告しないと駄目だし、しょうがないね。

 それじゃ、もうちょいしてから水鬼の治療施術しに行くかなー。俺もなー」

 

「わかりました。……では、後ほど。また合流させて貰いますね」 

 

 彼はそう言った後、野獣と雷、レ級とヲ級に会釈してから、捕虜房を後にした。

雷も、今日の秘書艦として彼について行こうとしたが、結局、置いていかれる形になってしまった。

 

 彼を追いかけるよりも先に、ぐいぐいと腕を掴んで引っ張られる。

「ふわふわアイス一緒に食べような? な?(レ)」と、人懐っこい笑顔を浮かべるレ級だった。

全くと言って良い程に邪気を感じさせないレ級の笑顔に、正直怯みそうになる。レ級にとって艦娘とは、殺戮と蹂躙の対象でしか無かった筈だ。

そんなレ級が何故、こんな風に雷に馴れ慣れしく接して来るのだろう。人間が小動物を可愛がるような心理なのか。分からない。

 

 「まぁ、アイスは溶けちゃうから……、先に食べようね!」野獣は笑いながら、背中に背負っていた長刀を脇に置いた。

それから、バスケットの中からアイスの入ったカップを人数分取り出した。スプーンと一緒にレ級とヲ級、それから雷へと渡してくれた。

結局、はしゃぐレ級と、相変わらず控えめな微笑みを浮かべるヲ級と一緒に、雷はアイスを食べる流れになった。深海棲艦達とテーブルを囲むことになるなんて思って無かった。

断固拒否しようとも思ったが、深海棲艦の間に共存の道を探ろうとする彼の意思を、彼のもとに居る艦娘である雷が邪魔をしてしまうのは、やはり何だか違う気がしてくる。

かつては敵であったとしても、今の彼女達は、一応は彼の保有艦である。言うなれば、雷達と立場は同じである。もっと言ってしまえば、彼女達も、彼の言う家族なのだ。

そんな風に自分に言い聞かせている自分に気付き、やはり、そんな簡単に深海棲艦達と分かり合うことなんて出来ないとも思う。

レ級やヲ級と顔を突き合わせてアイスを食べるなんて、凄い違和感だ。それでも間宮さんのアイスが美味しい事に変わりは無かった。

 

 

 

「最近どうなん?(レ)」

 

 艦娘と会話するという今の“経験”が楽しいのか。

スプーンで幸せそうにアイスをすくって食べていたレ級が、雷に寄って来る。

質問の意味を図りかね、「…………」雷はじぃ、っとレ級を見詰めてまま、無言を返した。

その無言が、無視されている様にも感じたのだろう。

 

「おほほほほ~ん(´;д;)。どういう事なの……?(レ)」 

 

 雷のノーリアクションに、レ級はちょっと悲しそうな貌になった。

ついでに、助けを求める様に野獣とヲ級を交互に見遣る。

 

「……馴レ馴レシ過ギル。礼節ヲ欠イテハ、言葉ハ届カナイ」

アイスをちびちび食べていたヲ級は、真面目な貌でレ級に言う。

 

「IKDCもホラ。そいつに敵意は無いから、

そんな身構えなくてもヘーキヘーキ(アドバイス)」

 

「……分かってるわ」

 

 優しげに言う野獣に頷いて見せてから、雷は隣に擦り寄って来るレ級に向き直る。

何かをしゃべってくれそうな雷の様子に、レ級は眼を輝かせながら言葉を待っている。

くりくりとした眼に無邪気そうな表情も相まって、何と言うか、憎めない奴だ。

少しだけ深呼吸をしてから、簡単な質問をぶつけてみる事にした。

 

「貴女達が居た深海って、……どんな感じのところなの?」

 

 深海棲艦達が何故、何処で生まれるのか。そんな難しい事では無く、もっとシンプルな質問だ。

艦娘達が轟沈の果てに行き着く墓所であり、深海棲艦達が生まれてくる揺り籠でも在る。

普段から雷は、その“深海”という場所に、神秘的なものを感じていた。

その質問に対してレ級は、言葉を選ぶように視線を彷徨わせる。

だが、すぐにまた白いギザっ歯を覗かせて笑顔を浮かべた。

 

「DEEP♀DARK♀FANTASY(レ)」

 

「そ、そうね、暗いのは大体分かるわ。

 もっと他にこう、……雰囲気って言うのかしら。

 貴女達も、やっぱり特別な場所って感じたりするの?」

 

「ん~……、テレビ無ぇよウチ(レ)」

 

「そりゃあ、在ったらびっくりだけど……。あの、だからそうじゃ無くて……」

 

 ピントのずれたレ級の応答に、雷がちょっと困ってしまった時だった。

 

「未知ヤ未踏ヲ“神秘”ト称スルノデアレバ、確カニ、海底ニハ“神秘”ガ在リマス」

 

 訥々とした口調で、こちらに瞳を向けたヲ級が応えてくれた。

 

「タダ……、物質ノ面デ言エバ、艦娘達ノ骸モ、我等ノ骸モ、残ッテハ居マセン。

 無機ニ還ッタ艦ノ残骸トシテノ、金屑ト鉄屑ガ海底ヲ覆ッテイルダケデス。

 ソシテ、其処ニ宿ッタ怨嗟ヤ怨念ガ集ウ処デモアリ、私達ガ生マレル場所デモ在リマス」

 

 ヲ級が丁寧な口調で話すのを、野獣もアイスをつつきながら興味深そうに聞いている。

 

「それじゃあ、貴女は……自分の生まれた時の事を覚えてる?」

 

「イイエ。……気付ケバ、私ハ私デシタ。

 激シイ怒リ、哀シミ、殺意ヤ憎悪ニ、衝キ動カサレ、ソレヲ受ケ入レテイマシタ」

 

 それ以上は言いたくないのか。或いは、言うまでも無いと判断したのだろうか。

其処まで言ったヲ級は言葉を切り、雷から視線を逸らした。雷は、ヲ級の言葉を反芻する。

やはり彼女達は、未成熟で小さいまま、泣きながら弱く生まれてくる人間とは違うという事だ。

生まれながら激しい怨恨を刻み込まれ。人類への攻撃を存在意義として植え付けられ。

頑強な肉体と強靭な再生力、そして戦う力を持って生まれてくる。

ただ、それら全てを付与される“召還”の瞬間の事は、高い精神性を持っているヲ級でも覚えていない様だ。雷も短く、「そっか……」と、言葉を返すしか出来なかった。

深海棲艦が生まれるその刹那。彼女達の意識が何か認識しているのならば、それが“深海棲艦が何故生まれてくるのか”という謎を解く鍵に思えたのだが、空振りだ。

野獣の方も、先程までのヲ級の言葉に何かを感じたのだろう。俯き加減で何かを思案している。妙に重たい空気になってしまったが、沈黙が降りてくることは無かった。

「いやぁ、すいませーん(レ)」と、何かを思い出したと言うか、思い付いた様な様子のレ級が、山積みにされた本の中から一冊を手に取り、開きながら雷に声を掛けて来たからだ。

 

「あー、ようわからん(レ)」レ級はページを開いて、ある部分を指差しながら雷を見た。

 

 レ級が持って来た本は、提督達の召還術や改修施術に関する術式が記載されているものだった。

開かれたページの余白には、やけに綺麗な字で難解な語句や数式がびっしりとメモの様に書き込まれており、重要な箇所にはラインが何本も引かれている。

雷も呼んだことの在る本だった。しかし、此処まで読み込むことはしていない。このメモの文字も、彼のものでは無い。もしかして、この書き込みもレ級のものなのか。

 

「わからないって、……このページの内容の事?

 あぁ、通して読んだけど理解できなかった、ってことね?」

 

「んだ(レ)」と頷いたレ級へと、雷は怪訝な貌をしながらも肩を寄せてページを覗きこむ。

なる程。今のヲ級の話を聞いて、レ級の中に何か閃きが在ったのだろう。自身たちが生まれるヒントを、艦娘達の顕現の中に見つけようとしているのか。

雷自身、彼の役に立つ為に、術式に関する本はかなり読んだし、勉強して来た。

実際に術式を組み立てたりすることは無理だが、理論くらいなら分かる。

彼が編んだ術陣の感触を感じることが出来るようになり、それが何を意味するのかも、ある程度なら理解出来る。

そのおかげで、かつて“ロック”のネックレスに隠されていた、彼の術式に気付けたのだ。

 

 雷はとりあえずと言った感じで、基礎的なことから説明を始める。

それから、本に載っている図などを用いて、記載された召還術についての内容を、出来るだけ分かり易くレ級に伝えた。

無論、こうした術式に関する理論は基礎からして難解である。ただ、噛み砕いた雷の説明が気に入ったのか。

「歪みねぇな!(レ)」と感嘆した様子のレ級は、雷の話を聞き、その内容を理解し、吸収していた。少なくとも、雷にはそう見えた。

と言うか、此方を見る野獣も驚いた様な表情を浮かべているし、ヲ級も何だか興味深いそうな真面目な貌で雷を見ている。

 

「えっ、な、何? どうしたの?」

 

「いや……、今の説明の内容がかなりレベル高くてビビったゾ。

 知識量で言えば、IKDCは俺より上かも知れねぇなぁ(冷静な分析)

 前も思ったけど、独学で其処まで理解出来るとか、やりますねぇ!(賞賛)」

 

 なぁ、お前もどう? と。野獣はヲ級の方へと話を振った。

 ヲ級も、野獣にひっそりと頷き、ちょっとした尊敬の眼差しで雷を見詰めて来た。

 

「今度、私ニモ色々ト教エテ欲シイ。

 ……貴女ノ話ハ、理解ノ為ノ熟慮ニ拠リ、洗練サレテ居ル。

 聞イテイテ、心地良イ程デス」

 

「えぇっと、……その言葉は凄く嬉しいけど、

“知識”を使いこなす“知恵”や“資質”が私には無いもの。知ってるだけ……。

 まぁ、彼が何かを閃いたり、考えたりする時の助けにでもなれば、御の字だけどね」

 

「卑下すること無いゾ。

 寧ろ、もっと誇っても良いんだよなぁ……。もっと自信持って、ホラホラ(信頼)」

 

 雷は野獣に笑顔を返し、本の文章を眼で追うレ級の横顔をチラリと見た。

一瞬、息を呑む。その紫水晶の瞳には、鬼気迫る程の好奇心と、理知の火が炯々と灯っていた。

雷が、何か寒いものを背筋に感じた時だった。「さて……。そんじゃあ、俺達もそろそろアイツと合流すっぺすっぺ」

野獣は言いながら、食べたアイスのカップをバスケットに戻し、代わりにお菓子やフルーツを捕虜房のテーブルへとガサガサっと空けた。

そして、レ級とヲ級、雷の分のアイスカップを片付け、おもむろに立ち上がった。そして、脇に置いていた長刀を肩に担ぐようにして持つ。

それに続いて、雷も立ち上がる。続いて静かに立ち上がったヲ級が、深い礼をしてくれた。

雷達が去っていく事に、レ級は少々名残惜しそうな表情を浮かべたが、すぐにニカッと笑って手を振って来る。

二人が野獣や雷について来ないのは、彼や野獣には、これからすべき事が在ることを察しているからだろう。

 

 

「ねぇ、野獣司令官。……聞きたかった事があるの」

レ級達の居る捕虜房を後にして、雷は野獣に続き、このエリアの更に奥へと進んでいく。

その途中、雷は野獣に声を掛けた。野獣は、歩きながら「ん?」と振り返ってくれた。

 

「私達の司令官は、その……、

鎮守府が襲われる前から、ずっと前から自分の体を深海棲艦化する準備をしてたの?」

 

雷は、直球で聞いた。

 

「IKDCには、もう隠してもしょうがねぇな。

 正確に言えば、深海棲艦とのケッコンの為の準備なんだよなぁ……。

 人間の身体じゃ無理だから…、まぁ多少はね(宿業)?」

 

 野獣は溜息を堪えるように、鼻からゆっくりと息を吐き出した。

 

「肉体調整の為に、胸元に術紋刻んでた筈だけど、

 RJやTIHUが、アイツと風呂場で鉢合わせたって聞いた時は、ウッソだろお前ww w、ってなりましたねぇ!」

 

 低く喉を鳴らして笑う野獣を見て、雷は少しだけ唇を噛んだ。

 

「……野獣司令官は、司令官を引き止めてくれなかったの?」

 ちょっとだけ責めるような言い方になってしまったけど、仕方無い。

 だって、知っていたのは野獣だけだ。大和や武蔵だって、知らなかった筈だ。

 

「引き止めるのは、当たり前だよなぁ? でも、アイツも糞頑固だからね。

 俺が何か言った程度で、考えを全部引っ繰り返すような奴じゃないんだよなぁ。

 それは、お前が一番分かってる筈だって、……それ一番言われてるから」

 

「でも……!」と。

 

 雷は反論しようとした時だった。誰かの視線を感じた。

通路の両脇に並んだ捕虜房へと視線を向けると、白いリブ生地セーターにも似た装束の、港湾棲姫と北方棲姫、黒いボディスーツを纏ったル級とタ級の姿が見えた。

あとは、タ級達と同じボディスーツを着た戦艦棲姫と、南方棲鬼も居る。

 

 港湾棲姫は立ったままこちらに頭を垂れる格好だし、北方棲姫はじぃっ、と野獣と雷を見詰めて来る。

ル級とタ級は、何だか嫌そうな貌で此方を、と言うか、野獣を見ている。ちょっと居心地が悪い。

戦艦棲姫は上品な仕種で雷達に目礼してくれたのだが、南方棲鬼の方はそっぽを向いたままだった。

その南方棲姫の口の端に、白いアイスがちょびっとだけ付いているのに気付いた。やっぱり雷達と同じく、彼と一緒に皆でアイスを食べていたのだろう。

殺し合って来た者同士がこうして甘味をつつき合う場所と言うのも、何だか不思議な空間だ。いや、現実感が薄いと言うか。この空気に馴れるには、もう少し時間が要りそうだ。

深海棲艦達の視線を集めながら、雷は野獣のあとに続く。エリアの最奥、その白い廊下の突き当たりには、一際大きく厳重なロックが掛けられた円状の扉が聳えていた。

 

 その前に立ち、野獣と雷を待っていた彼と合流する。

結局、雷は野獣に言葉を返すタイミングを失くしたままだった。

「お ま た せ」とだけ彼に言った野獣も、余計な事を言わなかった。

だが、いつもより声が硬く聞こえた。野獣は、もしかして緊張しているのだろうか。

雷は、彼と野獣の後について歩いているので、野獣の表情は見えない。

彼の様子は普段と変わらないから、やはり気のせいか。

 

 そんな答えの出ない事を考えながら、壁や床に沈むようにして開く円状の扉を抜けていく。更に同じような円状の扉を幾つか通った先に、かなり広いドーム状のフロアに出た。

やはり、上も下も真っ白だ。レ級達が居た捕虜房とは、また作りも雰囲気が全然違う。

 

 先程までのエリアには、培養シリンダーを始め、ちょっとした家具設備など、ある程度の居住・生活の為の機能が備わっていた。

しかし、此処にはそんなものは無い。無骨な施術台が、贄を捧げる祭壇の様にドームの真ん中に備え付けられているだけだ。

ドームの壁や床、天井に至るまで、何か特殊な金属なのだろうか。複雑な円紋の術陣が、黒色でうねるように幾重も描かれている。鈍い明滅を繰り返していた。

鎮守府に在る工廠とも似ているようで、やっぱり違う。異様な空間だった。このドームの空間自体が、何らかの術式装置であろうことは、何となく分かる。

此処は、何かの実験場なのか。ただ、ドーム中央の施術台に拘束され、鎮座している彼女の存在の所為で、此処がまるで肉儀場か、或いは、厳粛な大霊堂の様にも錯覚する。

 

 

 高貴そうな黒のドレスを纏った彼女は、微光で編まれた術陣の帯で拘束されていた。

施術椅子に深く腰掛ける姿勢で、両手首、両足首、そして喉首を術陣で括られている状態だ。

その施術椅子を囲う円陣も、深紫色の微光を漏らしながら明滅を繰り返している。

 

 雷は、少しでも彼の立っている場所に近付きたかった。そして、彼と同じ景色を見て見たいと思った。

多くを語ろうとしない彼が、その視線の先に何を見ているのかを知りたいと思った。その為に、多くの術書を読破し、知識を自身のものにして来た。

故に、これらの複合陣が何を意味するのか理解出来る。これは。艦娘の肉体活性と治癒施術、そして、召還術の融合だ。

彼女は拘束されながらも、極めて特殊で巨大な修復作業の中に居る。

 

 戦艦水鬼。彼女が、ゆっくりと此方を見た。睥睨して来る。

黒く艶やかな長髪から覗く、紅の瞳。その双眸には、鬼火の揺らめきを灯していた。

透ける様な白い肌と、額の左側から生えた角が特徴的である。

静謐な美貌とは裏腹に、彼女の視線は激しい敵意を込めた凝視だった。

雷は唾を飲み込む。身動きすら出来ないと分かっていても、この迫力と殺気。

つい先程まで、レ級やヲ級と過ごしていたから感覚が麻痺していた。

人や艦娘と敵対する存在。本来、深海棲艦の姿とは、彼女の様な者を言うのだ。

身を竦ませる程の殺気の中、彼はゆったりとした足取りで彼女に歩み寄る。

野獣も、彼の隣に並んだ。雷も続き、足元や施術椅子を走る術陣を見回してから、彼の背中に声を掛ける。

 

「ねぇ司令官。この施術式、深海棲艦のスポイルとは逆みたいだけど……」

 

「えぇ。……彼女は捕らえられた際、拷問代わりに無理な解体施術を受けたのです」

 

 白のドームは広い。しかし、彼の声は不自然な程良く通った。

 歩きながら、肩越しに雷を振り返った彼は、少しだけ表情を曇らせていた。

 

「その時に負った、彼女の心身への大きな傷を癒す為に、この儀礼場を使用しました。

 ……肉体と艤装召還能力を再活性しながら、それを拘束術式で封印している状態です」

 

 答えてくれた彼の言葉に、雷は思わず足が止まりかけた。

 まさか、彼女の肉体の機能は生きているままなのか。野獣が、やれやれと息を吐き出した。

 

「まぁ“提督”の全員が、お前みたいに完璧な術式組める訳じゃないからね。

 力任せの無理強いた解体施術なんて、破棄施術と変わらないんだよなぁ……(呆れ)」

 

「本当に、彼女の衰弱ぶりは酷いものでした。……しかし、営からの許可も在り、

 一旦彼女を回復させてから再度、僕が解体と肉体弱化を担当する流れになったのです」

 

「そ……、それじゃ、も、もしかして今から……?」

 

「はい。彼女が海に居た時と同じ状態まで戻した後、オペを行います」

 

 雷は絶句した。そんな無茶苦茶な。深海棲艦のリアニメイトを、こんな生身同然で行うなんて。

実利主義の本営であっても、許可なんて出す訳が無い。下手をすれば、暴走した深海棲艦に襲われることくらい、小学生だって分かるだろう。

元気がなくてヘロヘロになっている深海棲艦を、肉体機能を生かしたままで元気モリモリにしたらどうなるかなんて、考えるまでも無い。襲い掛かって来るに決まってる。

いくら強力な拘束術式が扱えると言っても危険過ぎる。本営からの許可が在ったなんて、絶対に嘘だ。いくら彼の言葉でも信じられない。

“不老不死”を欲しがる本営にとって、その鍵となる彼を失う事は、大きなリスクである筈だ。それでも尚、許可が下りたとするならば、何かの力が働いたと見るべきか。

雷は、チラリと野獣を見る。野獣は此方を見ようとしない。ただ、戦艦水鬼を見据えて歩を進めている。

やはり、今までも暗中飛躍していた野獣が、今回も噛んでいるのだろうか。それとも。考えたくは無いが、この無茶な案は、彼のものなのか。

彼はまた、雷に微笑んで見せてすぐに、前に向き直った。三人分の足音が響く。靴底が金属を叩く、澄んだ音だった。静謐な白い空間に木霊する。

色々な可能性が頭を巡り、何だか歩いている感触が薄いままだ。気付けば、雷は彼女の前まで来ていた。

 

 

 

「顔色も随分良くなりましたね。……具合が悪いところは在りませんか?」

 

 彼は、施術椅子に横たわる戦艦水鬼に微笑み掛けた。

みじろぎ一つしない彼女は黙ったまま、意思の強そうな紅の双眸をすぅっと細めて見せる。

戦艦棲姫に似た冷たい美貌は、静かな覚悟の様なものを感じさせる無表情だった。

野獣の方は軽く鼻を鳴らし、担ぐようにして持った長刀で肩をトントンと叩いている。

ただ、雷の方にそんな余裕は全く無い。彼が何をしようとしているのかなんて、聞くんじゃなかった。

そんな風にちょっと後悔しそうになるが、何か起こった時には彼を守らなければならない。

いや、まぁ野獣が居れば、雷の出る幕なんて無いかもしれないが。念のためだ。

ぐっと息を飲み込んで、雷は彼の傍に控える。戦艦棲鬼が、何かを呟いた。

 

 雷には、……死ネ、と聞こえた気がした。次の瞬間だった。

恐らく戦艦水鬼は、彼が思うよりも遥かに自然治癒能力が優れた個体だったのだろう。

硝子細工が砕けるような音と共に、彼女を捕らえ、括っていた術陣が消し飛んだ。

拘束陣が吹き飛ぶと同時に、彼女を中心にして巨大な術陣が床に刻まれていた。

彼の手により、既に取り戻しつつあった艤装召還の力と、頑強な肉体。

この二つを揃えて、十二分に力を蓄えながら、雷達が至近距離に来るまで待っていたのだ。

そうとしか思えない。でなければ、この規模の術陣の即起動なんて出来っこない。

戦艦水鬼は施術台から身を起こして、彼と野獣を睨み据えつつ、既に何かを唱えている。

 

 驚いた顔の彼が、彼女から距離を取るよりも早かった。

空気が震える。白く広いドームに、澱んだ紅の微光が奔った。

施術椅子の周囲の床が融けて蠢きながら、すぐに何かの形を得て、飛び出して来た。

あれは、腕だ。筋骨隆々の太過ぎる腕だった。それも、床を覆う特殊金属の白色じゃない。

黒に近い灰色だ。染め上げられている。深海棲艦の艤装召還。瞬時に、その言葉が脳裏を過ぎる。

金属の床から飛び出して来た豪腕は、人間の大人を容易く掴み上げるほどの大きさが在る。

その黒く巨大な腕が、彼と野獣、そして雷へと、グオオオン! と、伸びて来た。

凄い勢いだった。雷が、応戦の為に艤装を召還しようとした時には、もう眼の前に巨大な掌が迫っていた。

全てがスローモーションに見えた。これって走馬灯……、あっ(察し)。逃げなきゃ。でも、何処へ。これ。間に合わない。無理。

「ヌッ……(回避)!」っと、反応して見せた野獣が、雷を抱えて飛び退ってくれなかったら、雷はあの腕に捕まっていただろう。

 

 抱えられた雷は視線を巡らせる。彼は。彼はどうなった。何処。

つい先程まで雷が居た場所を、巨大な腕が通り過ぎるのが見えた。その向こうだ。

居た。無事だ。彼も、野獣と同じく、戦艦水鬼の召還術に反応していた。

バックステップを踏んだ彼は、巨大な腕から逃れていた。

だが、ギリギリだった様だ。猛然と迫って来る黒い豪腕が掠ったのだろう。

彼が着ていた黒い提督服の上着が、右肩から左脇腹に掛けて、大きく裂けている。

 

 戦艦水鬼は施術椅子から下りて、何かを唱えながら彼を眼で追っていた。

人間の言葉では無い何かを唱えた彼女は、彼の跳躍の着地を狙う。

先程まで彼女が腰掛けていた施術椅子が、ゴボゴボゴボっと不定形に融けて姿を失う。

そのまま床の金属に融けて合わさり、床に刻まれた暗紅の術陣が、獰猛な姿を与えていく。

信じられない召還スピードだった。この金属床の下に、ずっと潜んでいたとしか思えない位だ。

金属と術陣から象られ、怨嗟と飢餓を植えつけられ、吼え猛り飛び出した巨大な何かは、双頭の黒い巨人だった。独立型の艤装獣だ。先程の黒い腕は、コイツのものだ。

足が短く、腕が長く太い屈強な体躯は人間に近いが、双頭は獰猛な獣を模している。全身に棘のようなものが生えているが、棘じゃない。あれは、砲身だ。

GUUuuuooooaaaaaAAAHHHHH!! 空気を激震させる咆哮を上げながら、巨人は彼に突進する。疾駆して、猛追する。小柄な彼を破壊する為に迫る。

 

 ちょっと待って。待って待って。

こんな十数秒で、色んなことが起こり過ぎ。

全然対処出来ない。理解が追いつかない。

刀を持つ野獣も、フォローに入ろうとしたに違い無いが、絶対に間に合わない。

そもそも、距離を取るために下がっていたのだ。加えて、野獣は雷を抱えている体勢だ。

脇に抱えられていた雷でも分かる。巨人の方が圧倒的に速い。「司令官!!」と。叫んだ。

彼は、右手と右膝を床に着け、左膝を立てる着地姿勢だった。

左手で右眼の眼帯に手を掛けていた。彼と雷の眼が合った。次の瞬間には、轟音が響く。

黒い巨人が両手を組んで大きく振り上げ、ハンマーナックルを彼目掛けて叩き込んだのだ。

地下のフロア全体が、縦に大きく揺れた。金床が拉げ、砕けて、陥没していた。

戦艦水鬼が唇を歪め、冷酷な微笑みを浮かべていた。彼が、ぺしゃんこにされてしまった。

そう思った。雷は泣きそうなったが、涙も声も出なかった。

「もうこれ、(アイツがキレたら俺でも勝てるかどうか)わかんねぇな……」

雷を抱えていた野獣が、軽く笑って鼻を鳴らしたからだ。

 

 

「……もう此処まで回復されていたんですね。驚きました」

 

 ハンマーナックルを繰り出した巨人の拳の下で、彼は着地姿勢のままで無事だった。

何かが、巨人の一撃を止めたのだ。戦艦水鬼が、その表情を強張らせ、眼を見開いている。

野獣から降ろして貰った雷も、ただ呆然とするしか無かった。言葉を失って眼を疑う。

だって、巨人が。もう一体、居る。あれは、彼が召還したのか。

双頭じゃない。戦艦棲姫が従えていた艤装獣に近い。白い巨人だった。

しかも、凄い巨躯だ。堅牢な要塞の様にすら感じる。双頭の黒巨人より一回りは大きい。

その白い体には深紫の複雑な紋様が奔り、脈動を刻みながら明滅を繰り返している。

新たに鋳造された、“姿”と“力”という機能の脈動だ。

 

 白い巨人は屈んでいる。右の掌に着地姿勢の彼を乗せて、その巨躯で庇うような体勢だ。

そして残った左腕で、黒い巨人が振り下ろして来た両拳を防いでいた。まさに瞬唱。

あの刹那の攻防に、回避ではなく召還術で割り込んでいくなんて馬鹿げている。

彼しか出来ない芸当だ。「貴女の艤装では、僕を傷つける事は出来ません」

戦艦水鬼を見据えて静かに言いながら、彼は巨人の掌から下りた。

 

 そうして右手の手袋を外してから、右眼を覆う眼帯を外して、床に捨てた。

瞬間、彼の右上半身を、澱んだ深紫の揺らぎが覆った。煙霧とも波動とも言えない微光だ。

大きく裂けた提督服から覗く彼の胸元から右腕、右手に掛けての肌の白さは、深海棲艦そのものだ。

その胸元から腕に掛けて、黒い紋様が刻まれている。複雑で、何処か幾何学的な紋様だ。あれは、術式回路なのか。それにしても禍々し過ぎる。

眼帯を外した彼の右眼にも、冷え冷えとした深紫の瞳が、玲瓏と光を湛えて帯を引いていた。それら全てが、彼が人間では無い事を語っている。

 

 野獣の腕から降ろして貰った雷は何も言えず、ただ立ち尽くす。

野獣も腕を組んで、少年と戦艦水鬼から距離を取りつつ、事の成り行きを真剣な貌で見守っている。

もう、野獣ですら割って入れない。彼は、この場一帯の全ての金属を従え、戦艦水鬼と対峙している。

戦艦水鬼も、雷や野獣を一顧だにしない。いや、出来無いのだ。もっと眼に見える分かり易い脅威が、彼女の眼の前に聳えているからだ。

 

「オ……ォ……」

 

 彼の右眼を見た戦艦水鬼が数歩、後ずさる。

驚愕と共に、畏怖を滲ませた呻き声を上げた。

だが、それでも尚。戦艦水鬼は、降伏や逃亡では無く、攻撃を選んだ。

それは彼女の精一杯の抵抗だった。

彼女は人の言葉では無い文言を再び唱え、黒巨人を進撃させる。

UUUUUUUUUuuuuuoGGGGoooOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!! 

黒巨人は更に吼え猛る。白巨人に目掛け、何度も何度も組んだ拳を振り下ろした。

もう怪獣大決戦状態だ。拳が振り下ろされる度、ドームが揺れて悲鳴を上げている。

だが、屈んだまま左腕で防御姿勢を取る白い巨人はビクともしない。

肉と肉が。金属と金属がぶつかる轟音が響く。音が体にぶつかってくる。

雷は耳を塞ぎそうになる。怖い。眼を閉じたい。でも、閉じない。歯を食い縛り、見届ける。

野獣は落ち着いている。巨人達の格闘と、彼と戦艦水鬼の両者を、じっと見据えている。

 

 

 朗々と文言を唱え続ける戦艦水鬼は、鬼火編みの術陣を両手に浮かび上がらせ、歯を剝いて彼を睨んでいる。

それに応え、黒巨人は飽く事無く拳を振り上げ、振り下ろす。その瞬間を狙っていたのだろう。

白巨人は屈んだ姿勢から、捻る様に体を持ち上げるついでに、黒巨人が両手で組んだ拳へと、右の拳をぶち込んだ。

何もかもを粉砕するような、体全体で放たれた超威力のアッパーだった。とてつもない重量を持つもの同士が激突する鈍い音がした。膂力と肉体の頑強さの差が、露骨に出ていた。

黒い巨人の両の拳がグシャグシャに破壊されて、砕け飛び、血とも鋼液ともつかない、紫色の液体が飛び散る。

 

GGGGGAAAAAAAaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaahhhhhhhh!!!

それは、黒い巨人の絶叫だった。白い巨人は、怯んだ黒い巨人に踊りかかり、組み敷いた。

マウントポジションだ。さっきまでのお返しとばかりに、白い巨人は両の拳を振り上げて、黒い巨人を殴って殴って殴りまくった。

馬乗りに組み伏せられた黒い巨人は、浴びせられる巨大な拳を、両腕でガードしようとしている。だが、無駄だ。

VOOOOOOOOOOOOOOOORRRRRRRRRRRRRAAAAAAAAAAAAAAAHHH!!!!

ガードの上から、白い巨人は黒い巨人を破壊する。拳が振り下ろされる度、金属が拉げる鈍い音が響く。紫色のぎらつく液体が飛び散り、金床に広がる。

それは、ただただ単純な暴力だ。白い巨人は、その豪腕によって黒い巨人を蹂躙した。頭を殴り潰し、腕を引き千切り、胴に大穴を空けて、ぐちゃぐちゃにした。

暫くは、黒い巨人も抵抗らしい動きを見せていたが、すぐに動かなくなった。戦艦水鬼は、文言を唱えて黒い巨人に命令を飛ばしている様だが、無駄だ。

陸の上で、彼女の艤装獣である黒い巨人は大破轟沈した。余りに不穏な静けさが訪れ、GRRRrrrrrrrrr……、と、白い巨人の呻り声が低く滲んでいる。

戦艦水鬼は、続けて何かを唱えようとしたが、それは叶わなかった。彼がそれよりも素早く文言を唱え、再び戦艦水鬼の両手首と喉首に、拘束術陣を嵌め込んだのだ。

 

 これで彼女は、力在る言葉を紡ぐことが出来ない。

喉首と両手首に嵌められた術陣は鳴動しながら、彼女の肉体の力を奪っていく。

強烈なパワーリークに、彼女がその場に膝を付き、両手を地につけた。項垂れ、喘ぐ様に細い息を吐き出している。

それでも尚、顔を上げて、長く艶やかな髪から覗く紅い眼で、彼を射殺すように睨み据えた。

 

「ソコマデシテ……、我等ヲ駆逐シタイカ……」 

 それは掠れた声だった。彼の姿を睨む戦艦水鬼は、口許を歪めて見せる。

 

「貴様達ガ忌避スル我等ト……、

 深海棲艦ト同ジ姿ヘト堕チテマデ、我等ヲ滅ボシタイカ……」

 

 戦艦水鬼は、括られた喉首を震わせながら、愚かな者を嘲る様に嗤ったのだ。

敗北を悟っても、命乞いすらしない。捨て鉢とも違う。彼女が、深海棲艦で在る為の矜持か。

明らかなその嘲笑は、白い巨人を従えた彼だけに向けられたものでは無いように見える。

戦う事を止められない、人類全てに対するものか。白いドームの静寂が深まる。

戦艦水鬼の問いに対する彼の答えを、特殊金属で象られたこの儀礼場自体が、耳を傾けているかのようだ。

場の空気が変わった。金縛りに遭った様に動けない。雷は息を呑んで、彼と戦艦水鬼を見比べる。

彼の迫力に呑まれている訳では無さそうだが、野獣も刀に手を掛けたまま、動く素振りは見せない。

やはり野獣も、彼の言葉を待っているのか。自身の体に宿した“人間では無い部分”を曝しながら、彼は戦艦水鬼に微笑んで見せた。

 

「貴女には……、今の僕の姿が、そんな風に見えますか?

 力に魅せられ、人で在ることを捨て、殺戮や征服の虜になっている様に見えますか?」

 

 彼は微笑みを深めて、裂かれてズタズタになっている提督服の上着を脱ぎ捨てた。

異種移植による肉体活性の影響か。顕わになった彼の肌は、陶磁器を思わせる程にシミひとつ無い。

その胸元から肩口、右腕全体を覆う様に刻まれた術紋が、深紫色の脈動を刻んでいた。

深海棲艦化。それを、右半身に抑え、自力でコントロールしているのだ。

揺らめく微光は、彼の背後や肩の上に、怨恨に表情を歪めた艦娘達の陰影を象り始める。

陰影の数は、そう多くは無い。四人分か。五人分。炎のように揺れている。

怨怨怨怨怨怨怨。啞啞啞啞啞啞啞。宇宇宇宇宇宇。亞亞亞亞亞。声成らぬ声が響く。

彼は自身の内にあるものを隠さず、そっと彼女に晒して見せた。

流石に、戦艦水鬼も驚愕に表情を浮かべている。

 

「僕は、堕ちてなどいません。

 ただ一歩……、他の提督方よりも、深海棲艦の皆さんに歩み寄っているだけです」

 

「そうだよ(便乗)。

 だからお前も暴れんなよ……、暴れんな(忠告)」

 

 戦艦水鬼の警戒を解く為か。今まで黙っていた野獣が、軽く笑いながら言う。

それから、仰向けに倒れる黒い巨人に近付いた。

 

「ちょ……! 野獣司令官! 危ないわよ!」慌てて雷が止める。

 

「大丈夫だって、ヘーキヘーキ」

 

 無残な姿へと変わり果てた黒い巨人に右の掌でそっと触れて、野獣が解体施術を行う。

術陣に囲まれた黒い巨人は輪郭を暈し、姿を解かして、黒と紫の光の粒子へと還っていく。

その様子は、解体されて消えていく艦娘の艤装の様子にそっくりだった。

彼は、野獣に目礼をして再び彼女に向き直る。そして、ゆっくりと歩み寄った。

 

「何ナノダ……、ソノ揺ラギハ……」

 彼女は瞠目したまま、彼が引き連れた深紫の陰影を見詰めている。

 

「僕が破棄して来た、艦娘の皆さんです」

 彼は悲しそうな、それでいて苦しそうな微笑みを浮かべた。

 

「僕は多くの艦娘の方々を破棄し、その魂を自身の内に飲み込んで来ました……」

 

 諭すように言葉を紡ぎ、彼は彼女に答える。

 

「思考や人格を破壊されていても、激しい怒りや悲しみが彼女達の中に在りました。

 人類に対する憎悪や復讐心が在り、その魂の更に奥には、艦としての誇りが在りました」

 

 其処で言葉を切った彼は、床に手をつく姿勢の戦艦水鬼の前に立ち、右掌に術陣を象る。

 

「……貴女も同じでは在りませんか?

 僕達に向ける激しい憎悪の裏側に、……海で生まれる前の記憶は在りませんか?」

 

 戦艦水鬼が息を呑んだが、すぐに彼から視線を逸らし、焦った様に身を捩った。

彼に襲いかかろうとしたのか。彼を庇う様に、雷は戦艦水鬼の間に割って入り、錨を構える。

「ありがとう御座います。僕は、大丈夫ですから……」と、雷に言ってくれた彼は、微笑んで居た。

雷は無言で頷きを返し、彼の隣に控える。彼は、深紫色の微光と艦娘達の陰影を纏ったままで、更に戦艦水鬼に歩み寄る。

 

「これより、貴女に解体・弱化施術を行います。

 同時に……、貴女の“艦”としての記憶を彫り出せないか、試みたいと思います」

 

 艦娘にとってその魂とは、質量を持たない金属である。

金属儀礼と生命鍛冶とは、非実在であるその鋼より、無限の機能を鋳造する力だ。

姿や感情。肉体と意思。言葉や戦力を。あらゆるものを、現世に招き入れる。

『提督』と呼ばれる者達は、その能力を“召還”と呼ぶ。しかし、それは違う。間違っている。

彼の傍に在るため、貪る様に知識を吸収して来た雷は、その呼び方を認める事が出来ない。

人々が“召還”と呼ぶ力の本質は、艦娘達にとっては強烈で抗い難い力だ。

『提督』達は、艦娘達の意思を奪い、思考を停止させ、人格を破壊をも可能にしている。

その本質は、“召還”などでは無い。艦としての誇りを略取、利用した、容赦の無い“徴兵”だ。

深海棲艦達は、艦としての誇りでは無く、憎悪や悪意によって海に“徴兵”されたのだと。少なくとも、雷はそう考えていた。

人類に対する負の感情で塗り固められた彼女の心の奥に、彼女自身の感情や意思が無いのか。

それを確かめるべく。文言を唱える彼は、戦艦水鬼の心の内に、そっと手を伸ばそうとしている。

 

「ク、来ルナ……!」得体の知れない力を持つ彼が恐ろしいのか。

それとも、己の内に在る何かを知ることが恐ろしいのか。戦艦水鬼は、明らかに怯んでいた。

暴れようとする彼女の手首と喉首に、更に術陣が嵌った。

 

「別に拷問しようって訳じゃないだから、大丈夫だって安心しろよー、もー!

 お前らが何者で在っても、コイツはお前達の味方だっつってんじゃねぇか(平和の心)」

 

 子供をあやすように言った野獣の仕業だった。

野獣は彼に頷いて見せてから、やれやれと雷にも笑いかけてくれた。緊張を解してくれる。

彼も、野獣にもう一度目礼をしてから、唱えていた文言を完成させた。

屈んだ彼は、動きを封じられて怯える戦艦水鬼の両頬を、両手でそっと包むように触れる。

優しい手付きだった。同時に、術陣が彼の足元に浮かび上がり、囲う。

 

「先輩の言うとおりです。……もう貴女は、敵ではありません」

 

 彼の言葉は、白いドームに不思議な響きを残す。遠くに。近くに聞こえる。

この空間、いや、建物が復唱しているかのようだ。金属や造物が、彼の声に倣う。

声成らぬ声の輪唱と頌歌が、彼方から互いに呼び合い、途方も無い規模の術陣を構成していく。

深紫の力線が奔り、暗がりが訪れた。雷はドームを見回し、戦慄し、理解する。

こんな巨大な術陣に干渉されれば、並みの艦娘ならば、間違い無く自我が圧壊してしまう。

深海棲艦の中でも、より強大な精神力を持つ者でなければ、耐えられない。

だからこそ、彼は戦艦水鬼を選んだのか。上位個体である彼女を再活性する事で、解体と共に行われる、この精神探査施術を耐えられる様に準備していたのだ。

 

 深海棲艦は、何故、生まれて来るのか。

謎だった。諸説はあれど、反証も確認も出来なかった。

深海棲艦が生まれてくる事自体によって、その謎の解答は、存在を保証されているのみ。

保証するだけで“海”は、何も言わない。ただ、人類と対立している。

 

その“海”が覆い隠している部分に、彼は手を伸ばそうとしている。

肉の体を半ば捨て、人では無い右眼により、新たな視力を手に入れた彼は、更に一歩踏み出す。

戦艦水鬼が持つ、艤装召還の力に解体施術が始まる。そして、肉体の弱化が始まる。

同時に、“海”が彼女の心に植え付け、その感情を塗り潰しているものを、彼が取り除いていく。

その心の最奥に在る、彼女自身を取り戻すべく、彼は詠唱を続ける。

彼が纏った、怨恨に揺らぐ艦娘の陰影達も、水鬼に手を差し出し、抱きすくめた。

破棄された艦娘達の憎悪も、海により徴兵された深海棲艦の敵意も、人に向けられている。

その激情の共有、或いは、共感か。戦艦水鬼の為に、彼らが祈りを捧げているかの様だ。

 

 彼も、そして、彼が飲み込んで来た艦娘達の魂も、戦艦水鬼を受け入れていた。

術陣は、水鬼の精神を解いていく。彼は、その内にあるものを知る。触れる。理解する。

此処は地下だと言うのに。ザザザザザ……、という、細かい波の音が聞こえた気がした。

術陣の優しい明滅は、蒼と碧の渦を象りながら、ドームに光を溢れさせる。

その眩さに雷は腕で顔を庇いながら、空気のうねりを感じた。

吹き抜けていくのは風では無く、巨大な力の潮流であり、大渦だった。

 

「止メロ……止メロ、止メロ! 止メテクレ!」

 

 戦艦水鬼が、身をよじらせて叫んだ。

 

「私ヲ……私ヲ見ルナ! 私ノ内ニ在ルモノヲ知ルナ! 

 理解スルナ! 探ルナ! 私ニ、私ヲ思イ出サセルナ!!」

 

 彼の術陣の中で、身動きの出来ない彼女は、その美貌を大きく歪ませて、叫ぶ。

何かを思い出しつつあるのか。先程まで憎悪に濁っていた紅の瞳には、絶望が滲み、悲哀が揺れていた。

 

「私ハ……! タダ“海”ニ呼バレ、応エルダケノ存在ダ……!

 ダカラ……! 止メテクレ!! 嫌ダ……! 思イ出シタク無イ……!!」

 

認めるものかと、何かを必死に拒もうとしている。

吼える彼女の紅の眼に、涙が浮かんで、零れた。紅い涙だった。

 

「思イ出シテモ……! モウ、戻レハシナイノダ……!

 許シヲ希ウ術モ……! 相手モ……! 置キ去リニシテシマッタ……!

 ダカラ、止メテクレ……、オ願イダ……! 嫌……嫌ダ……!

 オオ……、オオオオオオオォォォォ……!」

 

 慟哭する戦艦水鬼と、その頬に触れている彼を、淡い光が繋いでいる。

戦艦水鬼は、涙を零しながら、彼の眼を見ている。逸らすことも出来ていない。

彼女の記憶と感情を共有しつつある彼の瞳の向こうに、昔日の記憶を見ているのか。

 

「やはり、沈んだ艦娘の方々の魂が集まり、

 貴女の大きな力と、その思念を成していたのですね……」

 

 水鬼を見詰め、彼が優しく言う。

記憶を、そして、自身の感情を取り戻したであろう水鬼は、彼の瞳を見詰めている。

殺シテクレ……。呟いた彼女は、己の過去を彼の瞳の中に見ながら、呆然と涙を零す。

“海”に飲まれ、人類の執敵怨類へと成り零されてしまった艦娘達の絶望が滲む、呪詛にも似た呟きだった。

 

 戦艦水鬼としての己を成した、艦娘達の記憶。それを手繰り、殺してくれと呟いた彼女自身は、何を見たのだろう。

信頼し、笑い合う仲間か。艦娘としての誇りや矜持か。それとも、残して来てしまった誰かへの慕情か。

大切な大切なそれらの想いを、“海”によって真っ黒に塗り潰され、艦娘達を殺戮して回った彼女の自責の念は、如何ほどか。

もはや、生への執着すら捨て去ったような貌の戦艦水鬼に、彼は微笑んで見せた。「良く帰って来てくれました……」

その彼の言葉に、戦艦水鬼が彼を見た。彼の瞳の中に見る過去から、彼女の意識が帰って来たというべきか。

水鬼の紅の眼には、今までには無かった光が宿っていた。同時だったろうか。彼の解体・弱化施術が終わった。

戦艦水鬼を括っていた、手首や喉首に嵌っていた術陣が霧散する。彼女は、“海”の呪縛から解放され、自身を形作る魂達の記憶を取り戻した。

彼が、最後に一握り残っていた彼女の誇りを、その忘却の深みから掬い上げてくれたのだ。正確に言うならば、深海棲艦へと変貌してしまった、艦娘達の矜持というべきか。

 

 

「お帰りなさい。僕は、貴女を歓迎します。

 何もかもを置き去りにして、海の底で目覚めた貴女も、……さぞ心細かったでしょう」

 

 言いながら彼は、そっと水鬼の頬から手を離し、未だ人の身である左手を彼女に差し出した。

 

「貴女のような者を、僕達はこれからも打ち倒さねばならないでしょう。

 この負の連鎖を断ち切る為、貴女の知恵と知識、力を、僕達に貸しては貰えませんか?

 殺戮者では無く、調停者として……、此方側に来て欲しいのです」

 

 躊躇や嘘、打算や利己心は全く感じられない、真っ直ぐで、澄んだ声だった。

かつて雷達から受け取った暖かな何かを、深海棲艦である水鬼と分かち合おうとしているかの様だった。

戦艦水鬼は、何か眩しいものを見る様な貌で、彼と、彼が差し出した左手を交互に見る。

艦娘達としての過去と、深海棲艦の水鬼としての現在を持つ彼女は何を思い、何を考えているかは分からない。

ただ彼の眼をじっと見詰めたまま、何かを言おうと唇を震わせていた。そして、すぐにその紅の眼から、また涙が溢れた。

彼女は、差し出された彼の左手を。“人”の手を自身の額の前で、縋る様に両手で握った。「オオオオオ……、ォォォォオオオ……」

神秘的とさえ言える美貌をぐちゃぐちゃにして、彼女は泣き声を上げた。白いドームの儀礼場に、彼女のもの悲しい泣き声が暫く響いていた。

 

 














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後日談 第3章

 野獣の執務室で、鈴谷は窓の外を眺めていた。緩い風の吹く外は良い天気で、今は昼飯時。

非番であった鈴谷は、野獣のところを訪れていた。一緒に昼食をとろうと思ったからだ。

ちなみに、今の野獣の執務室は更に拡充・増設されており、えらく高級なカウンターバーのスペースまで完備されている。しかし、野獣自身の娯楽の為だけでは無い。

営業時間などを設けない此処は、普段は店を開いている鳳翔や、食堂を預かってくれている間宮など、出撃以外でも鎮守府に貢献してくれている艦娘達を労う意図が強い。

まぁ、当然と言うか。呑兵衛の艦娘達からも好評で、鳳翔の店で飲んだ後に此処に梯子してくる者達も少なく無い。新しい艦娘達の憩いの場でも在る。

以前に拵えた耳掻きサロンだって更に高級度を増し、絶賛稼働中だ。確か今日の夜も、何人かの艦娘達が抽選の結果、施術の対象に選ばれていた筈だ。

最早、執務室という機能はオマケと化しつつある。実際、職場という雰囲気が全然無い。そのせいか凄くリラックス出来るし、ボーっとしてしまう。

鈴谷がカウンターの一席に腰掛けて頬杖をつき、窓の外を眺めていると、バーのキッチンの方から凄く良い匂いがしてきた。

一緒に昼食をとろうと誘いに来た鈴谷に、野獣がラーメンを作ってくれるという流れになったのだ。キッチンでは、今日の秘書艦の時雨が手伝いをしている。

鈴谷も手伝おうと思ったのだが、「二人居たら十分だから、ゆっくりしててくれよなー(優しさ)」と、野獣に言われたのだ。

もうじき赤城も来る予定らしいし、無理に食い下がっても邪魔になるだろうから、大人しく待っている事にした。ただ、じっとしていると色々と考えてしまう。

 

 

此処最近で、人類側の優位が意味を変えつつある。

艦船の持つ造形。そこに宿る栄誉と矜持から、艦娘達は現世に招き入れられる。

沈んだ鋼鉄の骸。そこに宿る敵意と瞋恚から、深海棲艦達は現世に成り零される。

これは、戦艦水鬼への精神や記憶への干渉により、彼が解き明かしたルールの一つだ。

未だ輪郭すら掴めない、“海”が覆い隠した真理とでもいうべき何かの断片である。

今まで、深海棲艦の正体については謎のままだったが、それを解き明かす重要な鍵だ。

ただ、艦娘達によって平穏を取り戻しつつある人間社会に、大きな波紋を呼びかねない事実だった。

 

それはつまり、どの艦娘達にも、深海棲艦化の種が埋まっているという事だ。

 

『艦娘達が沈めば、その精神や肉体は再構築されて、深海棲艦になる。』

『怨嗟の渦巻く海の底で、艦娘としての誇りや矜持を、殺意や怨恨に塗り替えられる。』

『人格や自我、意思や記憶、絆も、全て奪われて、心を憎悪で塗り潰される。』

『轟沈した艦娘達は、再び強靭な肉体を与えられ、植え付けられた激情に衝き動かされる。』

『深海棲艦の、特に人型であり巨大な力を持つ上位個体達は、艦娘達の集合体である可能性が高い』。

『人類を守る筈の艦娘達は、“海”の底で、人類の脅威となって帰って来る。』

 

彼や野獣が、こうした内容を本営に報告したものの、本営はまだ動きを見せていない。

恐らくは、社会に不要な混乱を招くことを避ける為だろう。本営も、今回は慎重だ。

言い方を変えれば、動揺しているとも取れる。表にこそ出さないが、本営は今になって及び腰になっている。

撃滅を目指す人類の敵が、味方の内から発生しかねない可能性は、以前から指摘されては居た。

ただ、以前まではあくまで仮説であり、可能性の話でしかなかった。そんな訳は無いと、眼を背けることが出来た。

しかし、彼が戦艦水鬼への巨大な精査術を成功させた事により、それが出来なくなった。深海棲艦との戦いの意味も変わりつつ在る。

 

海に沈んで、有機の肉体が無機の資材に還った艦娘達が、再び深海棲艦と成る。

その深海棲艦達と戦う為に、また艦娘が召喚され、轟沈させて、轟沈されて来た。

沈んだ艦娘はまた深海棲艦となり、人類は更に艦娘を召喚し、これを駆逐しようとする。

戦力を拡充させた人類が優位に立っていても、これでは最早、不毛な独り相撲である。

いや、どれだけ優位に立とうと無意味だ。人類が戦う意思を持つ限り、“海”の武器である深海棲艦達が尽きることは無い。

際限無く進化を続ける深海棲艦達は、何れ艦娘達を凌駕していくだろうし、そうなれば、再び人類に黄昏を齎す事になる。

矮小な優位の先に在る、約束された悲劇だ。“海”を征服しようとする人類は、その我執に喰われつつある。今回の彼や野獣の報告で、それが明らかになった。

彼は、その実態を薄々感じていたに違い無い。だからこそ、深海棲艦達と戦いながらも、今の人類優位の間に、停戦の必要性を訴えようとしている。

そして本営にも、彼や野獣の言葉に耳を傾け、深海棲艦の撃滅以外の道を探ろうとする動きが出て来た。その第一歩が、深海棲艦を編成に入れた『特使艦隊』の準備計画である。

彼が保有する“姫”や“鬼”を再活性し、その巨大な力を持って、敵対する深海棲艦達の駆逐・撃滅では無く、攻撃の意思を折って沈静化を図ろうと言うのだ。

艦娘達だけで無く、人類が深海棲艦側の戦力をも持っている事を示威し、力による『受容』を実現しようと言うのが狙いらしい。

 

まぁ、狂気の沙汰だろうとは思う。そもそも、深海棲艦達を艦隊として機能させようと思えば、艦娘達と同じように運用出来なければ話にならない。

“姫”や“鬼”、ヲ級やレ級に関しては、『提督』達の扱う精神施術が効かないのは既知の事実である。彼女達の強靭な精神力を、完全に掌握する事は出来ないままだ。

意思や人格が生きたままの深海棲艦を再活性し、人類の味方として運用するなど不可能だ。力を取り戻した彼女達が再び海へ出て、人類を裏切らないという保障は何処にも無い。

故に、交渉人としての深海棲艦を組み込んだ『特使艦隊』の編成は現実味が薄く、賛成とする者の数は本営でも超少数派だった。ただ、状況は変わった。

 

深海棲艦達の精神や思考をコントロール出来ずとも、解体施術による艤装召喚能力の剥奪と、強靭な身体機能の弱体化など、その肉体をコントロールする術を人類は知っていた。

より“兵器”としての性質を色濃く残す深海棲艦達へは、艦娘達では耐えられないような、強力な肉体干渉施術にも耐える事が出来る。その特性に、本営は眼を付けた。

意思や思考を潰したマインドコントロールが不可能ならば、此方に噛み付く事が出来ない様に、その身体に枷と制限を与えて運用してやれば良い。

 

短絡的ではあるが、現実的でもあるその本営の要求に、彼が用意していた回答は、リモートによる超遠隔の解体施術である

予め、出撃させる深海棲艦達に、解体の為の施術紋を刻んでおき、洋上で反抗の動きが在れば即解体するという寸法だ。

解体され、艤装召喚を解かれて弱化すれば、いかに強大な力を持つ“姫”や“鬼”でも、人間の女性程度の力しか残らない。

今までの大きな作戦でも、艦娘達は通信により常に鎮守府と情報を共有していた。それを利用して、艦隊に組み込んだ深海棲艦を、艦娘達と共に彼が監視する形である。

勿論、この方法に問題点が多いことも、穴が多いことも、彼は承知の上だ。だが重要なのは、彼の下に居る深海棲艦が、“人質”では無く、“使節”としての機能する事である。

そして艦娘達の出撃に、殺戮と撃滅を目的とした今までの様な“侵略戦争”では無く、海域の防衛を目的とした、“攻性外交”の意味を持たせる事である。

 

彼が目指すこういった変化は、青臭い理想論だ。

そんな上手く行く訳無いし、深海棲艦達との対立関係なんて変わりっこ無い。

無駄な努力を続ける楽観主義にも見えるし、淡い希望的観測に塗れているとも思う。

多分。彼だって、そんな事は自分で分かっている。理解していない筈が無い。

すぐに何かを変えることなんて出来ない。人と海の戦いは、ずっと続いて行くだろう。

艦娘だって。深海棲艦だって。これから、まだまだ沈むだろうし。

もしも。自分の仲間が沈められたら、深海棲艦を許せなくなるだろうし。

そんな艦娘達や提督達だって大勢居るだろうし。やり返してやろうってなるし。

同じようなノリで、深海棲艦側にだって、人間や艦娘が憎い奴だって居るだろうし。

もうさ、無理だよね。こんな怨恨の連鎖の中で、仲直りなんて。できっこ無い。

理想は、どこまで行っても理想なんだよね。現実は、やっぱり現実なんだよ。

でも。本当に? 本当に無理なのかな。どうしようも無いのかな。それも、何だか嫌だな。

だってさ。もし。解決のしようが無くて。ずっと戦うしか無いのなら。誰も救われない。

人も。深海棲艦も。そして、いつか人間が敗れて。また多くの犠牲が出て。また追い詰められて。

そしたら今度は、艦娘の代わりに、また別の存在が人類の味方として現れるのかな。

虚しいな。だとしたら、本当に同じようなことを繰り返しているだけじゃないか。

 

もしかしたら。“海”は、こういう繰り返される様式や、歴史の神なのかもしれない。

念々と姿を変える波は、それでも引いては返し。重く冷たい潮流は、満ちては干いていく。

諸行無常、千変万化する世界の中でも、“海”はその遥かな深みに、途方も無い輪廻を沈黙と共に湛えたままだ。

いつまでも戦う人や艦娘や深海棲艦を嘲笑うでも無く、洋上で死んだ者達の怨嗟を持ち去り、その海の深みで刃に変えるのみ。

“海”は、戦いを廻らせる。穏やかで、決して止まらない。一体、誰が何を言えるだろう。

 

 

 

「……大丈夫かい? 食欲が無いなら、野獣に声を掛けて来るけど」

ぼんやりとしていると、隣から声を掛けられた。心配そうな貌をした時雨だ。

手には、お冷と湯気を上げるラーメンが二つ乗った盆を持っている。片方は鈴谷、もう片方は時雨の分だ。

メンマにカマボコ、モヤシにネギ、それからチャーシューが乗っている。良い匂いだった。

不覚にもお腹が鳴った。それを誤魔化すみたいに、鈴谷は時雨に笑って見せた。

 

「お腹空いて、ボーっとしちゃっただけだから。すっごい美味しそうじゃん!」

ラーメンを両手で受け取りカウンターに置いて、時雨から割り箸を受け取って手を合わせた。

 

「野獣提督! 先に食べさせて貰うねー!」

 鈴谷は座ったまま、ちょっと離れたキッチンの方へと向き直り、声を掛ける。

 

「おう美味そうに喰えよSZY~(お母ちゃん先輩)」

奥の方でラーメンを作ってくれている野獣が、笑いながら応えてくれた。

 

「隣、良いかな?」

 

「うん、どうぞどうぞ!」と。鈴谷が時雨に言った直後だった。

キッチンの方からくぐもった爆発音と、騒がしい大声が聞こえて来た。

 

 

 

おおぉっ!? ちゃんとやれ須藤さん!?(レ)

 

不知火です(半ギレ)。 沈め……! 沈めっ……!!(必死の消火)

 

鼻くそムービー!?(レ)

 

だーーっ! うるせぇ! つーか、火ぃ弱めろよテメェも! 燃えてる! 燃えてる!!

 

(‘‐^b)ハッ、Year~♪(レ)

 

『Year~♪』じゃねぇよ! あ~、もう無茶苦茶じゃねぇか……!

 

不知火に何か落ち度でも?(キレ気味の威圧)

 

すいましぇ~~ん!  許してや天龍!(レ)

 

 

ヌッ!!(驚愕)

ヌッ!?(心停止) 

ヌッ!!(成仏)

ヌッ!!(蘇生)

ヲッ!!?(現状確認)

ア゜~~~!!(やってられねぇという貌)

冷凍餃子の調理でコンロ周りが煤塗れなのはおかしいダルルォ!?(正論)

ポップコーンみたいになってんじゃねぇか餃子ィ!! もう許せるぞオイ!!(憤怒)

 

 

座ろうとしていた時雨も肩をビクッと跳ねさせて、キッチンの方を凝視している。

それから鈴谷の方へと振り返った時雨の笑顔は、ぎこちなく引き攣っていた。無理も無い。

取り合えず片付けの手伝いに行こうと、鈴谷と時雨が腰を浮かし掛けたが、すぐにまた野獣の声がキッチンの方から聞こえて来た。

 

「あ、そうだ(未来予知)!

 SZYとSGRは、こっちの事は気にせずゆっくり喰っててくれよなー!

 片付けはこのポンコツトリオにさせとくから、ヘーキヘーキ!(優しさ)」

 

どうやら、気を遣ってくれているのだろうか。珍しいことも在るものだ。

鈴谷は時雨と顔を見合わせる。しかし、すぐに時雨が可笑しそうに小さく笑みを零した。

「野獣もああ言ってるし、僕達は先に食べちゃおうか。のびちゃったら勿体無いし」

カウンター席に座り直した時雨も、行儀良く手を合わせてから、割り箸を割った。

「片付けろ! 片付けろって言ってんだYO! YO!!」と、キッチンの方から聞こえて来る。

落ち着かないなぁ……、などと思うものの、せっかく野獣が作ってくれたラーメンが伸びてしまっては勿体無い。

時雨と肩を並べて、鈴谷はラーメンを食べることにした。「いただきまーす!」 まずスープを一口啜る。「……!」 美味しい。

続いて、麺を一啜り。「……!!」感動するくらい美味しかった。もうちょっと落ち着いて食べれたら、もう本当に言うこと無かったんだけどな……。

 

鈴谷は何だか残念な気分で、キッチンの方をチラリと見遣る。

 

其処には、艦娘では無い少女が一人居た。

滅茶苦茶綺麗なのに、何処かくすんだ白い髪。青白い肌。紫水晶の様な瞳。

人間の脚に、蹄の様な足先。黒いパーカーに、黒地に白のチェック柄のマフラー。

小柄で、愛嬌のある可憐な貌。その癖、纏っている存在感が、あからさまに半端じゃない。

戦艦レ級だ。黒焦げになったコンロを、天龍や不知火と一緒に、スチール束子で一生懸命擦っている。

こんなシュールな光景を目の当たりにする日が来るなんて、思ってもみなかった。

 

 

 

先日から彼は、研究施設の捕虜房に隔離していた深海棲艦達を秘書艦見習いとして、交代で鎮守府に置くようになった。

『特使艦隊』編成の為の準備として、本営からの通達が在ったのだ。配下の深海棲艦達に、艦娘と同じだけの常識を身に付ける事が目的らしい。

その話を聞いた時は、艦娘達も動揺したし、暫くは鎮守府の空気も張り詰めていたものだ。ピリピリギスギスした日が続く事になるのかなぁ~、嫌だなぁ~、なんて思っていた。

 

だが、実際に深海棲艦達を鎮守府内の業務に組み込んでも、特に大きな問題は起きなかった。悪意や害意の代わりに、彼の下で礼節や道徳という概念を得たからだろう。

彼女達は、贅沢や暴力、殺戮に喜びを見出す素振りも全く見せない。艦娘達からの警戒の視線のもとで、彼女達は一部を除いて、今も粛々と過ごしている。

その一部も、現在、キッチンで大はしゃぎしているレ級や、この場に居ない北方棲姫の事を差すのだが、別に暴れ出すとか、他の艦娘を襲うとか、そういう事をする訳では無い。

あの二体の場合は能天気というか、怖いもの知らず故のフレンドリーさが作用して、割と人気者だったりする。

最初は恐れられたレ級の方も、今では天龍、不知火と共に、この鎮守府の名物になりつつある。

 

鎮守府が強襲された際、最もレ級に手酷くやられた天龍と不知火、そして野獣が、今の様に率先してレ級とつるむようになったのも、彼女達なりの理由が在るのだろう。

例えば、少年提督が目指す理想の為の、純粋な実践だったのかもしれない。また、彼の庇護下にある深海棲艦には、共存の意思が在ることを周囲にアピールする為かもしれない。

長門や陸奥、山城や大鳳もレ級の攻撃を受けたそうだが、とくに遺恨を残しているようには見えなかった。レ級に野獣を襲われた時雨も、恨んでいるという訳では無い様子だ。

他にも、彼からの信頼も篤い大和や武蔵は、彼の右腕と右眼を奪った南方棲鬼を丁重に扱うことで、他の艦娘達の敵意が、彼女に向き難いようにしている。

大和や武蔵、天龍や不知火、時雨も、最初は心穏やかでは無かった筈だ。鈴谷だって、まぁ、正直微妙な気分だった。深海棲艦を迎えることに抵抗が無かったと言えば嘘になる。

 

だが、彼や野獣が嫌な素振り一つ見せなかった。あの二人の価値観の大きさには面食らう。深海棲艦との殺し合いも、彼らが目指す未来のほんの一部にしか過ぎないのだろう。

野獣達の態度をそう解釈・消化し、二人を信じて深海棲艦に歩み寄ってみようと思った艦娘は、きっと鈴谷だけじゃなかった筈だ。

その御蔭もあって、この鎮守府特有の緩い空気と言うか、居心地の良い雰囲気が大きく崩れたりする事は無かった。拍子抜けするくらい、割と今まで通りである。

鈴谷は、この鎮守府の事が好きだった。だから、ホッとしているのが正直なところだ。キッチンから聞こえてくる怒声を背中で聞きながら、ラーメンを啜る。美味しい。

隣を見ると、時雨も美味しそうにラーメンを食べている。「ねぇ」と、意味も無くキョロキョロしてから、鈴谷は声を掛けてみた。

 

「野獣提督ってさ、最初の頃はどんな感じだったの? 

 いろいろと妙な噂は聞いたりするけど、……何かしっくり来ないんだよね。

 信じられないって言うかさ。野獣だってさ、悪いひとじゃ無いじゃん?」

 

野獣についての不名誉な噂は、艦娘達の間では割と知られている。

声を掛けられた時雨は、誰も居ないのに先程の鈴谷と同じように周りを見回した。

それから、「……うん」と短く答えてから、何処か嬉しそうな苦笑を浮かばべて見せた。

 

「野獣に対する噂は、やっかみや嫉妬から来る流言飛語に過ぎないよ。

 出る杭は何とやら、っていう事なんだろうけどね。僕が初めて会った時から、野獣は野獣だったし……。

その……、男性に乱暴を働くような人じゃなかったよ」

 

「やっぱり、ああいう噂って出鱈目だったんだ。

でも、好き放題言われっぱなしていうのも、何だか野獣らしく無くない?」

 

「そうかもしれないね。 でも僕は、在る意味で野獣らしいと思うな。

 “言いたい奴には言わせておけ”を、地で行っているところが在るからね」

 

「あー……。言われてみれば確かにそうかも」

そう言って鈴谷も、ちょっとだけ笑った。野獣は、誰に何を言われても自分を曲げない。

それでいて、自分の間違いを認める謙虚さや冷静さ、自身を取り巻く状況を把握する視野の広さを持っていると思う。

どれだけ悪評を吹聴されようと、野獣にとってはどうでも良いのだ。野獣の行動が、野獣のものである事に変わりは無い。

批判は他人のもの。行動は俺のもの。たしか、勝海舟の言葉だったろうか。

 

「変な噂が流れても、それを信じるかどうかは人それぞれだし……。

鈴谷みたいに、噂に惑わされない人がちゃんと居る事を、野獣は知ってるんだと思うな」

 

「そりゃあ、噂だけで人となり判断してたら、誰も信じられなくなっちゃうしね~」

 

鈴谷は軽く笑いながら、そっと眼を逸らした。

優しげな貌で野獣の事を話す時雨の蒼い眼は、いつもよりキラキラしている様に見えた。

雰囲気も大人っぽく見えるし、何だか色っぽくも見える。駆逐艦じゃないみたいだ。

伊達に初期艦をやってないなと思う。やっぱり野獣の事を良くしっているし、良く見ている。

ちょっとだけ胸の奥がチクリとしたが、ラーメンを啜って誤魔化した。

 

「鈴谷のそういう冷静なところは、凄く頼りになるって野獣も言っていたよ」

 

「えっ」

時雨の言葉に、鈴谷はラーメンを口に運ぼうとする姿勢のまま固まってしまった。

だが、すぐに苦笑いを浮かべて、鈴谷は時雨にひらひらと手を振って見せた。

 

「ぅ、……。ぅ、うっそだぁ。

確かに鈴谷の錬度はソコソコかもだけど、頭の良い艦娘なんて他にも一杯居るじゃん」

 

「野獣は、何も『鈴谷』の能力だけを見ている訳じゃないさ。

何でも一生懸命で、自分の事を良く見てくれている鈴谷自身を信頼しているんだよ」

 

微笑む時雨の言葉は余りに真っ直ぐで、茶化したりなんて出来なかった。

確かに鈴谷は、野獣に纏わる暗い噂では無く、自分が見て、知っている野獣を信じている。

野獣も、そんな鈴谷の事を、信頼し、重宝してくれていると、時雨は言う。

“頼りになる”と、評してくれていると言う。その言葉が、自分でも戸惑う位、凄く胸に響いた。

「あ、そっかぁ……(赤面)」と、短く言葉を返して、鈴谷はラーメンに視線を落とした。

 

顔が。顔が緩んでくる。駄目だ。戻んない。両手でほっぺたを抑え、深呼吸する。

あれ、何だろう? 気持ちと言うか、心がウキウキぴょんぴょんしてきて、ヤバイ。

確かに鈴谷は、褒められて延びるタイプだと野獣に言った覚えが在るし、実際そうだと思う。

ただ、こんなに自分はチョロかっただろうか。変な汗が出てきてモジモジしてしまう。やだもー。恥ずかしい。

少年提督の耳掻きの抽選に選ばれ、「とおおぉぉぉ↑おぉおうう↑!!!」と雄叫びを上げ、左拳で天を突いていた熊野を、チョロいなぁなんて笑えない。

でもやっぱり、心の奥の方で、またチクリとした痛みが在った。鈴谷だって、時雨を強く信頼している野獣を知っている。

野獣と時雨の間には、仲間というだけでは無い、強い絆を感じていた。その度に、しょうがないよねー……、と。自分に言い聞かせてきた。

「でもさ。やっぱり、野獣が一番頼りにしてるのは、時雨だと思うな」今更、別に凹むようなことでも無いし。鈴谷は顔を上げて、悪戯っぽく笑い返した。

 

 

「前に熊野と一緒に、野獣の執務室に遊びに行った時だったかな。

野獣ってば、二日酔いで仕事どころじゃなくてさ。呆れた長門さんや陸奥さんは何処かに行っちゃてるし。

そんなんで良く元帥まで行ったよねって、冗談めかして笑いながら執務の手伝いする事になったんだよね。

その時に、野獣が言ってたよ。『今の俺が在るのは、支えてくれたSGRの御蔭だってはっきり分かんだね』って」

 

ちょっとしんみりした声で、鈴谷はそこまで話して時雨に視線を戻した。

鈴谷を見詰める時雨は、思わぬカウンターを喰らった様な、驚きの貌で瞬きをしている。

初めて見る表情だった。鈴谷だってちょっと驚いてしまう。あ、あれ、何その反応?

時雨は、「そ、そうなんだ……」とぽしょぽしょと呟いて、頬を両手で抑えて俯いた。

先程の鈴谷と同じような状態だ。頬が緩んで来るのを、必死で堪えているのが分かった。

献身的な時雨は、見返りや評価を求めることが殆ど無い。だから、褒められ慣れていないのだ。

きっと今は、時雨の心もウキウキぴょんぴょんしているんだろう。

端から見る恥ずかしそうな時雨が可愛いくて、こっちまでぴょんぴょんしそうだ(錯乱)。

おかげで、妙な空気になってしまった。会話が途切れてしまう。……これ私の所為なのかな?

テンパった鈴谷はラーメンを啜って、スープまでゴクゴクと飲み干した。

それに時雨も続いたあたり、時雨の方も、らしくも無く動揺しているのかもしれない。

気まずくこそ無いものの、何だかムズムズする沈黙の中。

ラーメンを食べ終わり間が持たなくなり、さてどう話を切り出そうかと思っていた時だ。

 

 

「あら、いい匂いがしていますね」

バーのフロアに、柔らかな、それでいて芯の強さを窺わせる、澄んだ声が響いた。

赤城だ。胸当てこそしていないが、赤と白を基調にした、いつもの弓術装束を纏っている。

カウンター席から一度立って、鈴谷と時雨は挨拶をしようとしたが、手で制された。

 

「今はお昼休憩ですし、そんな他人行儀は良いですよ。……野獣提督は、居られますか?」

 

「野獣ならキッチンに居るぜ。つーか何だよお前ら……喰うの早いな……(満身創痍)」

優しげな笑顔を浮かべた赤城に答えたのは、丁度キッチンから顔を出した天龍だった。

何だか疲れた様な貌をしている。天龍は、「おーい野獣!」と、キッチンの中に呼びかける。

「おぉん!? AKGも来たのか? もう準備は出来てるから、ちょっと座ってろお前!」と、すぐに中から声が野獣の返事が聞こえた。

 

「……つー訳だ。すまねぇ。ちょっと待っててやってくれ」

そう言った天龍は一度キッチンに戻って、すぐに出て来た。

手には四人分のラーメンを乗せた盆と、さっきまで調理していたんだろう餃子が山盛り詰まれた大皿。

黒焦げの餃子はチリチリに焼けて、黒いポップコーンみたいになっている。大惨事だ。

鈴谷は「げっ……」と小声を漏らし、時雨も「うわぁ……」と何とも言えない貌になっていた。

 

天龍に続いてキッチンから出て来たのは、不知火だ。

「……ハァァァ~(無言のまま溜息)」無表情ながら疲労困憊した様子だった。

先程の騒ぎを思い出してみると、どうやら不知火が何らかのミスをしたのだろう。

眼つきの鋭さで分かり辛いが、ちょっとしょんぼりしている様子だった。

 

「(^ω^)あっは☆ごちそう!!(レ)」

一方で、キッチンの方から鈴谷達へ駆け寄って来たレ級は、何がそんなに楽しいのか。

無邪気な笑顔を振り撒いて、おいしそうな匂いに眼を輝かせている。

 

「落ち着けよレ級。手ぇ洗って来たな。

まぁ、何だ。不知火もそう落ち込むなって。得手不得手は誰にだってあんだろ?」

 

三人は鈴谷の隣の席に並んで腰掛けた後、天龍がラーメンを二人に手渡した。

「Thanks!(レ)」 「有り難う御座います……」 礼を言う二人を交互に見た天龍は、困ったような苦笑を浮かべた。

 

「ぬわぁぁあぁあああん! お腹空いたもぉぉぉおぉん!!」

其処に、野獣もキッチンから出て来た。手には、大き過ぎる土鍋を持っている。

土鍋は山盛りの具と、山盛りの麺。合宿所で出されるような鍋煮込みラーメンだ。

 

「すみません野獣提督。私の分まで用意して頂いて」

それを笑顔で嬉しそうに受け取る赤城を見て、鈴谷は軽く戦慄する。

あぁ、やっぱりそれ一人用なんだ……。見れば、時雨も苦笑を浮かべている。

キッチンの片付けを終えたこの四人も、赤城と合流して今から昼食だ。

誰があのダークマター餃子を食べるのかという当面の問題も、呆気無く解決した。

「あ、これ美味しいですね」と、ひょいひょいと摘んでいく赤城の御蔭で、見る見る内にに餃子が減っていく。

どうも、コンロを煤塗れにしたらしいが、フライパンを使わずに直火焼きでもしたんだろうか。

あの餃子の黒焦げ状態をチラリと見て、鈴谷は恐くて聞くのを止めた。食べられるんなら、まぁ、結果オーライだよね(思考停止)。

 

 

四人が食べ終わるのもあっという間だった。

特に、赤城はお代わりまでしたのに、野獣達と食べ終わるのが同時だった。

見ていて胸ヤケしそうな食べっぷりだ。流石と言うべきか、何と言うか。

鈴谷と時雨は一緒にキッチンに立ち、使った食器を洗ってから、人数分の茶を淹れた。

 

 

 

 

 

「あぁ^~、うめぇな! 

 やっぱり……SZYとSGRの茶を……最高やな!」

 

昼過ぎのカウンターバーで、緑茶を飲んで一服している提督なんて、各地の鎮守府を見ても野獣だけだろう。

赤城は、さっきまでの食べっぷりが嘘の様な上品な仕種で、湯吞みを静かに傾けていた。凄いギャップだ。

天龍や不知火の二人も、ホッとした様なリラックスした様子で茶を啜ってくれている。

「これおいしぃ(レ)」と、湯吞みをふーふーしながら、レ級も嬉しそうに緑茶をちょびちょびと飲んでいた。

 

 

一息ついて、鈴谷もカウンター席に戻り茶を啜る。

窓から吹いてくる緩い風が心地よい。息を吸い込んで吐き出した。

やっぱり野獣達と過ごす、こういうのんびりして、まったりした時間が凄く好きだった。

ボーっとしたままの心地よい沈黙の中に、また緩い風が入って来た。欠伸が出そうだ。

昼ごはんを食べて身体もポカポカしているし、昼寝でもしたくなる。

 

「あ、そうだ(唐突)。

この前の身体検査の結果が上がって来てたんだよなぁ……。

 おいSZYぁ、それにTNRYU、お前ら最近、チラチラ体重増えたろぉ?(直球)」

 

眠気が飛んで、一気に顔が熱くなった。天龍が舌打ちするのが聞こえた。

せっかく幸せな気分になっている時に、なんて事を言うんだ。

 

「かなり挑戦的じゃなぁい!? その聞き方ぁ!?(憤怒)」

 鈴谷は声を裏返しながら言い返す。だが、野獣の方は割と真面目な様子だ。

 

「お前らの健康管理も、俺達の仕事だからね(沈着先輩)。

SZYとTNRYUの体重の振れ幅が、他の奴らより大きかったから気になったんだゾ」

 

言いながら湯吞みをカウンターに置いた野獣は、座ったまま携帯端末を取り出した。

そして、ポチポチと操作して、何かのファイルを開いているようだ。

 

「海で命張ってるんだから、コンディション崩しそうなら遠慮無く言えよ?(イケボ)」

その野獣の言葉に、奇妙な違和感を覚えた。だが、その正体に気付く事は出来なかった。

 

「いや、だから太って無いし! そ、そりゃ重くなったかもしれないけど……!

そんなお肉付いて無いもん! トレーニングだってしてるもん!」

 

「これは……、ダイエット(が必要)じゃな?(賢者の眼)」

 

「いや、鈴谷の話を聞けよ。らしくねぇ余計な心配なんざ要らねぇって。

 肉の身体なんだからよ。基準値超えて減ったり増えたりもするっつーの」

 

必死な鈴谷な叫びに、やれやれと続いた天龍は気怠そうに言葉を濁す。

 

「これは……、ダイエット(が必要)じゃな?(反復詠唱)」

 

「下らねぇ事二回も言ってんじゃねぇよ……」天龍が疲れた様に言った直後だった。

「そういうの知ってんし!(レ)」と、レ級が元気良く笑いながら挙手した。

 

全員がレ級を見た時には、レ級はカウンター席から立ち上がり、準備運動を始める。

この話の流れの中心に居た鈴谷は、凄く嫌な予感がした。

微笑ましいものを見るような、にこやかな貌で居るのは赤城だけだ。

天龍も不知火も、野獣や時雨も、急なレ級の行動に面食らう。

 

「スポーツ的にはハードワーク?(レ)」

言いながら、レ級は来ていた黒パーカーを脱いだ。

 

「ワイと一緒にやらないか♀? いいぞ♀!」

インナーの黒スポーツブラと黒ホットパンツ姿になったレ級は、鈴谷に手招きして見せた。

えぇ……(困惑)。何するの? っていうか、ほんと何すんの? 恐いんだけど……。

 

「知っている……、というのは、ダイエットの事ですか?」

聞くのを躊躇してしまう鈴谷の変わりに、赤城が聞いてくれた。

 

「おぅよ!(レ) 専門だぁけん!(レ)」 

 

何でそんな楽しそうなんだろう。

レ級は笑いながら、ぐっと腰を落として、構えを取って見せた。

バーフロアの真ん中で、深海棲艦が下着姿でファイティングポーズを取っている。

この現在の状況は、今までの戦史の中でも、トップ3に入るカオスっぷりだと思う。

 

「えっ、何、深海棲艦達のトレーナーか何かだったのお前(素)?」

 

「流石に違うと思うな……」

鈴谷の隣では、すっとぼけたことを言う野獣に、時雨が控えめに突っ込んでいた。

 

「あいつの言う専門って何だよ……(哲学)」 

天龍が難しい貌で呟き、隣の不知火を見る。

 

「恐らく、捕虜房に居た時に彼女が読んだ、スポーツ雑誌に拠る知識の事だと思いますよ。

 エクササイズを履き違えている様ですが……。構え的に相撲、いや、レスリングでしょうか」

不知火の方も糞真面目な貌のまま、顎に手を当てて思案しながら、レ級の動きを分析している。

 

「ヘイ、ワイを倒してみぃ!(レ) ♀スタイリッシュに決めろ♀(レ)」

その間にも、スポブラとホットパンツ姿のレ級は、やる気満々だ。

執拗に鈴谷を誘うだけでは無く、天龍や不知火にまで声を掛け始めた。

 

「おいレ級。取り合えず服着ろって。

喰ったばっかだろ? 鈴谷も困ってるし、取っ組み合うのもまた今度にしようぜ?」

 

鈴谷とレ級を見比べた天龍が、テンション上がりっぱなしのレ級にストップを掛ける。

さっきから黙ってニヤニヤしている野獣は、鈴谷が困ってるのを見て楽しんでいるのか。

くそぅ。なんて奴だ。時雨と赤城は、話に割って入っては来ない。成り行きを見守ってくれている状況だ。

ふと眼が合った時雨は、苦笑を浮かべて肩を竦めて見せた。まぁ確かに、なんかもう笑うしか無い状況だよね。これ……。

 

「あれか、天龍? 見せ掛けで超ビビってるな?(レ) ち●こちっちゃい(レ)」

 

駄目だ。鼻水を噴いてしまった。鈴谷は慌てて手で顔を隠した。

多分、心意気というか、勇気と言うか、そういうものを差しているんだと思う。

でも、よりによってそんな……。「あぁっ!?? ち、ちん……!? 生えてねぇよ!!!」 

天龍が叫んだ。「嘘をついちょる!(レ)」と、レ級が更に被せる。

野獣が笑う。赤城が噎せて、時雨が椅子からひっくり返りそうになっていた。

不知火は無言のまま天龍の股間を見て、次に天龍の顔を見てから、ふっと微笑んだ。

「不知火は、……大丈夫です(燃え立つ慈悲)」

 

「ちょっと待てコラ! 何だその反応!?」

 

「ほっそいTNTNねぇ~ww ちょろ~~んwww!(レ)」 レ級は更に煽る。

 

「あったま来た……」

 

天龍は上着を脱いでからカウンター席の椅子に置いて、コキコキと首を鳴らした。

とうとう、バーフロアで一戦交える流れになってしまい、鈴谷は戸惑いを隠せない。

と言うか、鈴谷をほったらかしでガンガン状況が進んでいって、ついていけない。

疎外感よりも、置いてけぼり感を強く感じる。ダイエットの話だったよね、コレ?

何で軽巡と戦艦が、酒場で取っ組み合う必要なんかあるの?(正論)。

 

「おい。覚悟しろよ、もうこうなったら従順になるまでやるからな(静かな闘志)」

 

「思い知らせてあげる!(レ) 行くぞオラァ!!(レ)」

不敵に笑うレ級は、体勢を低くして飛び出した。

 

それなりの広さが在るバーフロアの真ん中。

カウンター席から離れ、開けたフローリングの上で両者がぶつかる。

天龍もレ級も、大激闘に発展しそうな迫真の気合を纏っていたが、勝負は3秒程で付いた。

当たり前の事だが、レ級の肉体能力には枷が嵌っていて、見た目相応の力しか無い。

多分、レ級自身もその事を失念していたっぽい。

 

組み合った瞬間、天龍は目にも止まらない早業でレ級を持ち上げた。

そしてそのまま、スタイリッシュ♀にバックブリーカーをガッチリと決めたのだ。

一瞬で勝ち目が無くなり、レ級も『あ、ヤバイ(確信)』と思ったに違い無い。

「あわわわわ……あわわわわわわ……!!(レ)」 担がれた状態で、レ級はジタバタと暴れようとする。

だが、スポイルされたままで天龍の力に敵う筈も無い。

 

「ちょっ……、待ってッ!!(レ) アカンもう勘弁してぇ(レ)!!」

 

「あーー? 何ィ? 勘弁ってのはしたことねぇなぁ!!(ドチンピラ)」

レ級を持ち上げたまま、天龍はへっへっへと笑った。

 

「(>ω<;)あーうー!!

分かった分かった……っ! 負けや負けや負けや負けや負けや……!(レ)」

天龍の背中の上で、レ級は半泣きになって喚き出したが、もう遅い。

 

「天龍様の攻撃だぁ! オラオラァ!(ゆっさゆっさ)」

 

「ぉ、おまっ……! ふざけん……っ!!(レ) アッーーーーーー♀!!」

 

絶叫するレ級の元に、コソコソっと不知火が近付いた。

そして、くすぐり攻撃のアシストを始めた。レ級は悶絶しながら大爆笑する。

「アッハッハゲッホッホ……! さ、最悪やでカズヤぁ……!!(レ)」めっちゃ苦しそうだ。

 

「いえ、不知火です(楽しそうな半笑い)」

「天龍様の攻撃だぁ! オラオラァ!(×2復唱@迫真のカットイン)」

「んごぁあーーッ!!(´;д;`) ごめんっ……!! ごめんっ……!!!(レ)」

(本格的♀三馬鹿トリオ)

 

とうとうレ級が泣き出して、とっても省スペースで騒ぎが収拾されつつある。

彼が育んで来た天龍や不知火の人格は、己を傷つけたレ級を受け入れているのだ。

三人がじゃれ合うのを眺めながら、鈴谷は小さく笑顔を零した。

天龍達のように、人と艦娘、深海棲艦が皆、相互に理解し合える時が来るだろうか。

青臭い理想だと思う。実現なんて無理に思える。でも、もしかしたらとも思える。

その縷々とした希望を綴る為に、彼は己の強い意思に従い、巨大な力を引き連れている

いつか、この世界に大きな転機が訪れた時。彼が救世主になるか。それとも滅世主になるか。

どちらに転ぶかは、彼を隣で見守っている野獣次第なんじゃないかと本気で思う。

そんな野獣は低く喉を鳴らして笑い、天龍達を見ていた。

鈴谷の視線に気付き、野獣もこちらに視線だけ向けて来る。

 

「あそこにSZYも混ざって来て汗掻いてさ、

ダイエットはもう終わりで良いんじゃない?(適当)」

 

「だから! 太ったんじゃないって言ってるじゃん!」

 

「ちょっと失礼しますね、鈴谷さん」

 

デリカシーの欠片も無い野獣に、鈴谷が噛み付いている時だった。

全く気配を感じさせず、赤城がそっと距離を詰めて来ていた。「ぅひゃああぁ!!?」

カウンター席に座った鈴谷の後ろに立った赤城は、鈴谷の胸を両手でそっと持ち上げてきた。

それから、腕や脚やお腹や肩を、ぺたぺたと触られまくった。

赤城はすぐに手を放してくれたが、びっくりし過ぎてひっくり返りそうになる。

両手で胸を隠すようにして、慌てて振り返った。

 

「ちょっと赤城さん! 何するんですか!? もう!!」

 

「ごめんなさいね。……うふふ」 

悪戯っぽく小さく笑う赤城は、凛とした美人なのに可愛さも在って、何と言うかズルイ。

相手を強く出させないと言うか、あのふわふわした空気で包み込まれてしまう。

う~~……と恥ずかしげに呻る鈴谷に微笑んで見せてから、赤城は野獣に向き直る。

 

「鈴谷さんは筋力も落ちていませんし、お腹にお肉が付いた訳でもありません。

つまり太ったのでは無く、より女性らしい体つきになったのですよ」

 

「僕達も、野獣から“生きている身体”を与えて貰ったからね。

 筋力の増減や肥満化以外にも、体重の数値変動は起こりうるよ。

 まぁ……僕には、まだそういう変化は無いんだけれどね」

 

言い聞かせるように言う赤城の言葉に、ちょっと寂しそうに言う時雨も続いた。

それから時雨は、鈴谷や赤城、それから、未だバックリーカーをレ級にお見舞いしている天龍の一部を、順番に見ていく。

切なげに吐息を漏らした時雨の様子に、野獣もようやく何かに気付いた様だ。「あ! これかぁ!(鈴谷の胸を見ながら)」

 

「デリカシー無さ過ぎィ!! もう! 

時雨と赤城さんが遠まわしに言ってくれてるのに!!」

 

「じゃあ天龍も同じか……。

何だよ……、心配して損したゾ(溜息)」

 

「サイテー!!」

ぷりぷりと怒りながら鈴谷は言うが、野獣がこういう思い違いをするのは珍しい。

普段なら、体脂肪率やその他の数値、鈴谷の様子なども吟味して、その体調を判断する筈だ。

先程まで野獣が携帯端末で開いていたファイルが、検査結果に関係するものなら、そういった数値についても記載がある筈である。

にも関わらず、体重だけしか見ていなかった辺り、ちょっと変だ。鈴谷は、先程感じた違和感の正体に気付いた気がした。

 

「野獣……、ひょっとして疲れてる?」

心配そうな時雨に聞かれ、野獣は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

鈴谷と赤城も、カウンター席に腰掛けたままで、野獣の言葉を待とうとした。

だが、その必要も無かった。「いや、全然!(王者の風格)」と。

すぐに野獣が答えながら笑って見せたからだ。

 

「なら良いんだ。変な事を聞いたね。ごめん」

時雨も、それ以上は聞こうとしなかった。

どうせ聞いても、野獣は自分が疲れているなんて認めないだろう事を知っているからだ。

 

「でもお疲れになりましたら、私達にも遠慮無く仰って下さい。

 お手伝い出来ることなら、何でもさせて頂きますよ。……無理をなさらないで下さいね」

いつものように微笑んだままの赤城の声音には、深い優しさが在った。

 

「そうだよ(便乗)。

『身体に不調が在ったら、遠慮無く言え』って、さっき野獣が言ってたけど、

 これ、そのまんまブーメランなんだから。そこんトコよろしくね!」

 

鈴谷も悪戯っぽく言って、野獣の顔を覗きこんだ。

野獣が怯むように身を引いたのを見て、ちょっと愉快な気分だった。

普段、イジり倒されているから、こんな時くらいお返ししたって罰はあたらないだろう。

鈴谷と時雨、赤城の顔を、何とも言えない表情で見回した野獣は、カウンター席に腰掛けた姿勢のままで笑う。屈託の無い笑顔だった。

 

「あ、良いっすよ(快諾)。此方こそ、ひょろしくね!(SZY)」

時雨と赤城が顔を隠すように俯いて、軽く吹いた。

 

「ちょ……! それ止めてって言ってるじゃん!」

忘れもしない。艦娘としての鈴谷が顕現した際、初めて野獣に挨拶した時のことだった。

よろしくね! と言おうとしたら噛んでしまって、“ひょろしくね!”と言ってしまったのだ。

御蔭で鈴谷は顕現したその日に、半泣きになるまで“ひょろしくね”一本でイジリ倒されたのだ。苦い記憶である。

 

 

 

「よーし……、どうだよ!(完 全 勝 利)」

鈴谷が野獣に向き直ったと同時だったろうか。

腕を突き上げた天龍が、座り込む姿勢のレ級の前でガッツポーズを決めている。

天龍とレ級のタイマンが終わった様だ。無論、天龍の圧勝である。ちょっと大人気ない。

バーフロアの真ん中でバックブリーカーを掛けられていたレ級は、鼻を啜りながら涙を腕で拭っていた。

 

「(´;ω;`)もうやってられへん……っ!(レ)おつかれっした……っ!!(´;ω;`)」

 

「天龍さん、ちょっとやり過ぎですよ。泣いてるじゃないですか。

 抵抗する力の無い者をいたぶるなんて、流石に引きますね……(第三者気取り)」

 

ぐしぐしと涙を拭うレ級の頭を、よしよしと撫でているのは不知火だ。

自分だって面白がってくすぐり攻撃を仕掛けていたのに、非難するような眼で天龍を見ている。

あれ、ツッコミ待ちなのかな……? 天龍だって、眉間に皺を寄せている。

 

「ドSの癖に良く言うぜ」

 

「いえ、私はMです(毅然)」

 

「聞きたくなかったな、その情報……」

 

はぁ~~、と息を吐き出した天龍は、座り込んでいるレ級の後ろに回りこんだ。

それから立たせてやって、ひょいっと肩車した。「わーぉっ!?(レ)」

頭上で喚声を上げるレ級に、天龍はニッと笑って見せる。

 

「オラ、泣き止めよ。

 昼休憩はもうちょい在るから、間宮にアイスでも喰いに行こうぜ?」

 

その天龍の言葉に、潤んだレ級の瞳がキラキラと輝きを宿した。

「ふわふわアイス!? えぇぞ! えぇぞ!!(レ)」 

 

「あぁ、良いですね。私も丁度、何か甘いものを食べたいと思っていました」

不知火は天龍に頷いたあと、スカートポケットからハンカチを取り出して、レ級に渡した。

これで涙を拭けという事だろう。ハンカチを受け取ったレ級は、すぐにチーンと鼻をかんだ。

 

「お、何だよお前ら、MMYのトコに行くのかぁ?

 俺達も仲間に入れてくれよな~、頼むよ~(財布の中身確認先輩)」

 

天龍達の会話を聞いていた野獣も、おもむろに席から立ちあがった。

 

「えっ、何? 野獣提督が奢ってくれんの?」

鈴谷が笑いながら冗談めかして言ってみると、野獣は鈴谷や時雨、赤城を見回しながら、「しょうがねぇな~(悟空)」と頷いてくれた。

やったね。今度お返しに、何か元気のでる美味しいもの作って、野獣にお返ししなきゃ。野獣の好きなものって何だろう。時雨か、赤城に聞いてみようか。

時雨や赤城は、知っているんだろうか。だとしたら、やっぱり二人には敵わないのかな。鈴谷の知らない野獣を知っている時雨や赤城が、羨ましい。

席を立って出口に向う野獣と、楽しげにその後に続く時雨と赤城の背中を、ちょっと切ない気持ちのまま見詰めながら、鈴谷は軽く息を吐きだした。

 








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後日談 番外編

 鎮守府に設けられた『特別医務室』にて、武蔵は一つのシリンダーの前で佇んでいた。

シリンダーはベッドの様に横向きで固定されており、中は薄緑色の液体で満たされ、縁には金属の枠が蓋の様に嵌っていた。

その仰々しさ、物々しさからは、まるで儀礼用の大棺桶の様な印象を見る者に与える。

大掛かりな精密機械類と、幾つも並ぶモニターの列。表示された、膨大な数値とグラフ。

白色の強い照明と、金属に冷やされた空気。薬品の匂い。機器の低い駆動音。

無機質なこれらの要素が、この空間で複雑で絡み合い、ある種の神聖さを醸し出している。

そう感じるのは、シリンダーの中で眼を閉じ、穏やかに眠っている彼の姿の所為でもあるだろう。

シリンダーの中で瞑目している彼は裸形だ。酸素マスクが、彼の顔の下半分を覆っていた。

右眼の周り、右胸から右肩、右腕、右手には、制御術陣の複雑な紋様が刻まれている。

額やこめかみ、腕や胸、脚には、データを収集する為のコードが、何本も繋がれていた。

コードの先端は細いプラグ状になっており、注射の様に彼の皮膚に差し込まれている。

もう見慣れた光景では在るが、やはり慣れない。どうしても嫌悪感を抱いてしまう。

痛々しい姿と、穏やかな彼の表情が、武蔵の胸をざわつかせるのだ。知らず、奥歯を噛む。

 

「状態ハ、……安定……シテイル。脳波ニモ……、異常……無シ」

 

 シリンダーの中に居る彼を睨んでいると、後方から低く、艶かしい声を掛けられた。

いや、報告してくれたと言うべきか。モニターが並ぶ操作パネル前には、高価そうな機能椅子が置かれている。彼女は、其処に座っている。

肥大化した両手を覆う、禍々しい外骨格を器用に動かし、落ち着いた様子でパネルを操作していた港湾棲姫の声だ。

彼女は座ったままモニターから視線を外し、黙り込む武蔵を安心させるように、少しだけ笑った。

高身長に、困ったように眉をハの字にしたままの、何だか頼りなさ気な微笑みだったが、見る者をほっとさせるような優しい笑みだった。

「あぁ……。まるで昼寝でもしているような、心地良さそうな貌をしているしな……」暢気なものだと。武蔵も、港湾棲姫に口許を微かに緩めて見せる。

 

 武蔵の冗談めかした言葉に、彼女はハの字の困り眉をしたまま、可笑しそうに小さな笑みを零した。

深海棲艦であっても、こんなにも穏やかな表情を浮かべることが出来る。それを武蔵が知ったのは、彼が彼女達を秘書艦見習いとして鎮守府に招いてからである。

武蔵の価値観は、ここ最近で大きく変わった。かつては、武蔵達がその肉体を破壊し、沈黙させて鹵獲した戦艦棲姫とも、今では一緒に食事をすることだって在る。

鎮守府を強襲し、彼の腕を捻じ切り、右眼を抉り出して喰らった南方戦鬼に、秘書艦としての実務を教えたりする事も在る。今まで考えたことも無い状況だった。

無論。最初は戸惑った。流石に彼の決定であっても、素直に従うことに抵抗が在った。深海棲艦共を鎮守府、また戦力に招くなど。馬鹿馬鹿しい。不可能だ。そう思っていた。

何か在れば、すぐに深海棲艦共を力で捻じ伏せ、彼に考え直すように提言しようと思っていた。だが、そんな機会が訪れることは無かった。

深海棲艦である彼女達が、ただ静々、粛々と、彼や、艦娘達の言葉を聞き、従い、学ぶべき常識を身に付ける為の、真摯な姿勢を持っていたからだ。

恐怖や脅迫による強制で無く、彼が目指す理想の実現の為、彼女達がその力を貸してくれようとしていた。困惑こそしたものの、調子の良い奴らめとは思わなかった。

 

 彼女達は馬鹿では決して無い。賢く、思慮深い。だから知っている。

人類と艦娘を攻撃し、殺す為だけの存在として、海によって召ばれ、植え付けられた負の激情に衝き動かされるその先に、何も無いのだと。

人類が優位であろうと、深海棲艦が優位であろうと。自分達にまっとうな生き方など無いのだと。その絶望と虚無感の深さは、如何ほどだったか。

また、そんな彼女達を家族として迎えるべく、差し出された彼の手と想いが、彼女達にはどれだけ尊いものに見えただろうか。

彼女達は生きる意味や目的を、“海”から与えられるのでは無く、彼の目指す未来の中に見つけたに違い無い。

本営の命により、かつて解剖と拷問を受けた彼女達は、とうの昔に死の覚悟など出来ている。

解体破棄される事など、全く厭わない。彼の魂へと取り込まれるならば、喜んで受け入れるだろう。

 

 

 武蔵は、モニターの前に座る港湾棲姫に向き直った。

 

「深海棲艦の上位固体は、かつては艦娘であった可能性が高いらしいな。

 港湾よ……。お前は、艦娘として在った自身の過去を認識しているのか?」

 

 面と向って、武蔵は訊いた。

真剣な眼差しを向けられた港湾棲姫は、穏やかな表情を崩さなかった。

しかし、その紅の瞳が悲しげに揺れたのを、武蔵は見逃さなかった。

 

「彼ノ御蔭デ……完全ニデハアリマセンガ……覚エテイマス。

 幾人分モノ記憶ガ、私ノ中ニ在リマシタ。タダ……ソノ感情マデハ、思イ出セマセ ン」

 

 記憶は在っても、感情が希薄であったという事か。つまり、それは。

 

「……お前という存在を象った艦娘達は、“捨て艦”だったという訳か」

 

「ハイ……。恐ラクハ……」

 呟くように言って、港湾棲姫は、悲しげに少しだけ眼を伏せる。

 機能椅子に座り、膝に置かれた彼女の禍々しい手が、ぎゅっと握り固められていた。

 

「……そうか。よく答えてくれた、感謝する」

 

 短く言葉を返した武蔵に、小さく頭を下げた港湾棲姫は、無言のまま申し訳無さそうに微笑んだ。

港湾棲姫の苦しげ気で控えめなその笑みは、まだまだ続くであろう、人類と深海棲艦の戦いを憂いているのだろう。

停戦の為に彼女達が動くには、本営からの承認だけで無く、“艦娘の深海棲艦化”を含む、重要な情報の社会への公表をはじめ、他所の鎮守府との協力も重要になる。

彼や野獣が、深海棲艦を艦隊に組み込んだ『特使艦隊』を運用する一方で、他の鎮守府が深海棲艦を撃滅して回っていては話にならない。

今までの様な“撃滅”を目的とするのでは無く、“海域の防衛”へと、艦隊運用の目的を転換するには、足並みを揃える必要が在る。

現段階では、深海棲艦を用いた演習などは、まだ行う事を許されていない。運用テストの許可を得るのがやっとだ。

強大な力を秘めた彼女達は、まだ本格的には動けない。機が熟すのを、今は待つしか無い。

すまなさそうに微笑む港湾棲姫の表情には、少しの悲哀が滲んでいた。

 

「窮屈で歯痒い思いをさせているだろうが、私では我慢してくれと頼むしか出来ん。

 人間の世界とは、中々に面倒なものでな……。提督を恨まないでやってくれ」

 

「人ヤ貴女方ヲ……艦娘ヲ恨ンデモ……、何モ始マリマセン……。

 重要ナノハ……戦イヲ……止メル事……。止メナケレバ……ズット、続ク……」

 

「あぁ。何の手も打たないままならば、比喩でも何でもなく、

 我々は在り得ない勝利の影を追い、群雲を掴む様な戦いを続ける事になるだろうな」

 

 この戦いを止める為には、人間や艦娘達では見えないものを見て、聞こえないものを聞く彼女達の協力が要る。

武蔵の言葉に頷いた港湾棲姫は、深く頷いから、シリンダーへと眼を向けた。眩しいものを見る様な表情の港湾棲姫の視線の先では、彼が眠るように瞑目し、静かに佇んでいる。

彼が自身に移植した“右眼”は、かつて解剖にて摘出された港湾棲姫のものだ。本営直属の研究機関に保管されて在ったのを、本営の命により、彼に譲り渡された。

彼に移植された“右腕”は戦艦棲姫のものである。解剖によって右腕を奪われた戦艦棲姫に、復元と修復を行ったのも彼である。

サンプリングされてた戦艦棲姫の右腕も同じく、彼が異種移植の検体になった時に、本営の命により、彼が所有、移植する流れになった。

 

 彼は深海棲艦達と数奇な運命と、その力を共有している。

港湾棲姫の右眼は、遠方を見るだけの視力では無く、“海”の持つ見えざる力の流れを捉える。

戦艦棲姫の右腕は、怨念を造物に鋳込んで、姿と忠誠を鋳造し、命の無いものを怨嗟で起こし、徴兵する。

人ならぬ者達の力を取り込んだ彼の肉体も、深海棲艦化という特殊な変容を宿すに至る。

 

 そして今も、その己の身体を、再び検体として差し出していた。

右腕と右眼に、深海棲艦の肉体部位を移植した彼に、“自らの身体に起こる変化を、資料として提出せよ”と、本営が命じたのだ。

その為のデータを、この特別医務室で定期的に揃えている。彼が自身のデータを採るときの秘書艦は、決まって大和と武蔵のときだった。

彼が、自身の体に何らかの調律を施していることは、鎮守府が襲撃される前から薄々感じていた。身体が弱いので、強壮の為だという彼の言葉も、怪しいと感じた事は在った。

だが、彼なりの考えが在ってのことだろうと特に心配はしなかった。違和感を覚えたのは、野獣の執務室プレートパーティを途中で抜けた日の事だった。

あの日も、この特別医務室で彼はシリンダーに身を預けていた。その彼の胸に、今までには無かった筈の、不吉な黒い術紋が刻まれているのを見つけた時だった。

それが何の為かと聞いても、彼は『心配しないで下さい』と、あのひっそりとした微笑を浮かべるだけで、答えてはくれなかった。

まさかあれが、深海棲艦とのケッコン施術の準備だとは流石に思わなかった。今では右眼、右腕まで人では無いし、無茶苦茶なことばかりする奴だ。

本当に、困った提督だ。武蔵も港湾棲姫に倣い、シリンダーの中に佇む彼を見遣り、苦笑を堪えるように息を吐き出した。

「全く、……女のような貌をしている癖に、いつ見ても“モノ”は偉そうだな」 武蔵が言うと、港湾棲姫が軽く噴き出して、彼から眼を逸らした。

 

「急にそっぽを向いてどうした?」

 

「ソノ……眠ッテイル時ニ……

ジロジロト見ルノハ……イ、イケナイ事……ダカラ……、私ハ……見、見ナイ……」

 

 顔を赤くした港湾棲姫は、蚊が鳴くような小さな声で、モジモジと言葉を紡ぐ。

真面目なやつだな、と。その様子に、腰に手を当てた武蔵は可笑しそうに笑った。

 

「真面目だな。遠慮することもあるまい。役得と言う奴だ。

提督が服を脱ぐとき、お前だってチラチラ見ていただろう?」

 

「見、見テ……ナイ……」

 

「嘘を付け。絶対に見ていたぞ。この武蔵の眼は誤魔化せん」

 

「アゥ……アゥ……」

 

 わたわたとし始めた港湾棲姫に、くつくつと喉を鳴らすように笑った武蔵は、シリンダー越しに彼に向き直る。

少し笑った所為か。精密機器類に囲まれたこの医務室を包む、独特の無機質さや冷たさのようなものが和らいだ気がした。

そのタイミングを見計らった訳では無いだろうが、彼が入っているシリンダーに接続された機器から、ピー、ピー、ピー、という乾いた電子音が響いた。

データ収集の為のシーケンスが終わったのだ。港湾棲姫は一つ咳払いをして、機能椅子に座り直した。それからコンソールを叩き、パネルを操作する。

 

 シリンダーを覆う骨組みが持ち上げられ、中に満たされていた薄緑色の液体が排出される。

透明な強化ガラスがスライドするようにして開き、中に横たわっていた彼が、ゆっくりと身を起こした。

ふぅ……、と。小さく、細く息を吐き出した彼は、自身の体に差し込まれたコードプラグを、ひとつずつ抜いていく。

武蔵はシリンダーに歩み寄り、傍に置いてあった被術衣と、畳んであったバスタオル二枚を手に取る。そして、その内の一枚を広げて彼の肩に掛けてやった。

 

「……ありがとうございます」

 

 彼は顔を上げて、ほんの少しだけ気恥ずかしそうに微笑んだ。武蔵は、気付かれぬ様に唾を飲む。

濡れた髪と白磁のような肌。小柄でほっそりとしているが、引き締まり、瑞々しい躍動感に溢れた肢体。

未熟さ故の艶美さを湛えた彼の姿は、この施術を手伝うようになって見慣れたとは言え、やはり扇情的だ。冗談でも言っていないと、変な気分になってしまう。

武蔵はさっと視線を逸らし、身体からプラグを抜き、濡れた身体を拭いている彼に背を向けた。気持ちの昂ぶりを押さえ、気取られない様にするのは、意外と骨が折れるものだ。

チラリと港湾棲姫の方を見れば、彼女も意味も無く俯き、外骨格の指を膝の上で組んで、親指同士をイジイジと動かしている。まぁ、自分も平常心とは言い難い。

 

 手にしたもう一枚のバスタオルで、額ににじんで来た変な汗を拭いそうになるが、我慢する。

彼は、シリンダーに満たされていた栄養液を一度拭き取ってから、この特別医務室に備え付けられたシャワールームで、身体を洗うようにしている。

このタオルは、彼がシャワールームで身体を洗い終わってから必要になる。肉体の調律段階の頃は、シャワールームはまだ出来ておらず、大浴場を使っていた。

その為、龍驤と脱衣所で鉢合わせた事も在るらしいが、今ではそんな事も無いように完全に別けられている状態だ。

 

 シリンダー内に居る間は、殆ど眠っているようなものらしいから、その影響なのだろう。毎回の事だが、シリンダーから出た彼は、ぼんやりフラフラとしている。

今だってそうだ。彼らしく無いと言うか、何処かしゃっきりしていない。具合が悪そうというのでは無いのだが、有体に言えば、何と言うか眠そうだ。

取りあえずと言った感じで体を拭き終った彼は、眠たそうに微笑んで「すみません。シャワー室を浴びて来ますね」などと言っているし、やはりボーっとしている様だ。

今の彼の様子で、男と女で利用時間を分けている大浴室を利用していれば、時間を間違えても全然おかしくない。寧ろ、十分納得できる。

 

「提督よ。……いつも思うんだが、一人で大丈夫か?」

 

 武蔵は言いながら、出来るだけ彼の身体を見ないようにして、薄手の被術衣を羽織らせてやろうとしたが、出来なかった。

シリンダーの縁から外へ出ようとした彼の身体が、ふらっと前のめりに傾いた。武蔵は慌てて抱き止めてやる。丁度、武蔵の鳩尾辺りに、彼が頭を預ける様な体勢だ。

港湾棲姫が「ファッ……!?」と妙な声を上げるのが聞こえた。しかし、そちらへと意識を向けるほど、武蔵にも余裕が無かった。不味い。これは、不味いぞ。

無味無臭の栄養液を拭き取った彼の、しっとりとした髪。少し冷たい肌の柔らかさ。身体を預けて来る、彼の重さ。密着する息遣い。すべてが甘美な感触だった。

おぉう……。こ、これは。何という事だ。不意打ちとは。卑怯だぞ、提督よ。高鳴る鼓動を鎮めるように、武蔵は彼の身体を支え、立たせてやる。

 

「シャワー室でひっくり帰られては敵わんな……。

 港湾よ。付いて行ってやってくれ。私は、データを纏めて置く」

 

上手く笑えているかどうか分からないが、取り繕うようにして笑う。

声も表情もぎこちないのは自分でも分かるが、仕方無い。そうだ。悪いのは提督だ。

 

「エゥッ……!?」

 

「どうした、そんな潰れたカエルの様な声を出して」

 

「ソレハ……ソノ……! ム、武蔵ガ……行ッタ方ガ……」

 あばばばば! と、両手を高速でわちゃわちゃやり出した港湾棲姫に、彼が微笑む。

 

「い、いえ……僕は大丈夫です。

 すみません、武蔵さん。……ぼんやりしていました」

 

 彼は言いながら、武蔵の手からタオルと被術衣を受け取って身に付けた。

それから傍に置いてあった着替えを持ち、簡素な白スリッパを履いてから、武蔵と港湾棲姫の二人にペコリと頭を下げて、彼はシャワー室へと向う。

危うさの無い、しっかりとした足取りだったので、もう大丈夫そうだ。彼の背中を見送り、残された武蔵と港湾棲姫は、顔を見合わせた。そして、お互いにすぐに眼を逸らす。

 

 ちょっと気まずい感じだったが、すぐにまた顔を見合わせ、互いに苦笑を浮かべる。

ついでに溜息を吐き出してから、武蔵も港湾棲姫の隣に移動し、コンソール前の機能椅子にドカッと腰掛けた。

「……無邪気とは厄介なものだな」男の裸に免疫が無い訳でもない筈だが、彼の肌に触れただけで、酷く消耗した。

それだけ、興奮したという事か。軽い自己嫌悪を覚える。これでは、金剛や長門達を笑えない。

武蔵自身、彼に特別な感情を抱き、それらが仰慕、敬慕の類いだという事も自覚しているつもりだ。

それでも、この胸に宿る熱さや、感情の昂ぶりとはままならないものだ。戦闘に拠るものとは全然違う。

「私、モ……」疲れたような武蔵に、港湾棲姫もひっそりと小さく笑った。彼女の持つ感情が、己と同じ類いのものである事も、何となく分かる。

これは理屈では無い。彼女の表情や声音から、武蔵が感じ取ったことだ。怒りや悲しみと共に、喜びや親愛の情を持っている。

 

 仮にそれが悲劇であったとしても、戦いを終わらせる希望である事に変わり無い。

同時にその希望は、感情を踏み躙り、艦娘を消耗品として扱って来た人類の背中を、じりじりと焼いている。

深海棲艦化の種とは、艦娘の中に在る、人へと向けられる負の感情だからだ。

海では、天井も底も無く愛憎の情が廻り、無機と有機が巡っている。

 

 艦娘は沈み、海の底で鉄屑と金屑となり、また深海棲艦として、生きた肉体が成る。

手放された記憶と感情は海へ融けて、人類を誅戮すべく、激しい憎悪となって還される。

本当に、ままならないものだ。武蔵はもう一度、溜息を吐き出した。瞼を閉じる。

彼の小さな背中を思い描く。彼は、一人の艦娘も轟沈させていない。

一方で、各地の処理場では、艦娘達を一人残らず破棄し、その魂を飲み込んで来た。

そんな巨大な矛盾を抱えた彼が、実際にはどんな感情を人間に向けているのか。

 

 知りたい。だが、それ以上に恐ろしい。

彼の持つ正義や狂気に火を点けたのは、間違いなく人間だ。

それ故に、彼と“海”の魂の間に、何処か共通しうる分母が在るのではと思うのだ。

 

 数日前、彼は戦艦水鬼、戦艦棲姫の二人と『ケッコン』した。

ただ、既存の『ケッコンカッコカリ』では無い。

肉体の感覚を共有し、魂を結ぶ為の施術ですよと、彼は言っていた。

戦艦棲姫・水鬼達が聞こえると言う“海”の声。

それを己自身で聞くべく、彼女達の聴覚を共有する為に、彼は『結魂』したのだ。

力は力を生む。力と力は呼び合う。

彼は自身が苦しむだけで済むのなら躊躇無く、不要なものを捨てる。

必要なものを足す。次に彼が望むとすれば、“海”に語り掛ける為の“声”だろうか

何故其処までするのかと、武蔵は聞いた事が或る。

彼は、巡り合わせというものですよと、微笑んで答えた。

まったく、支え甲斐の無い苦行主義者め。

無私を貫くのも結構だが、もっと周りを見てみろ。

武蔵は、椅子に持たれかかったまま、天井を仰ぎながら苦笑を零した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつて深海棲艦と戦いが激化し、艦娘を召還できる“提督”の確保と教育が進む中、前線基地としての機能を備えた拠点地が、幾つも建設されることとなった。

横須賀や舞鶴、佐世保、大湊などの鎮守府とは別に設けられたこれらの拠点地も、便宜上、『鎮守府』と呼ばれ、今も多くの“提督”達が配属されている。

建造と召還、改修と補給を行い、艦娘達を運用する基地としてのこれら『鎮守府』は、出来るだけ人の暮らす地域とは離れた場所に造られていた。

ただ僻地に建てられたと言え、此処の『鎮守府』も立派なもので、広い敷地を有し、宿舎や工廠、入居ドッグが備えられ、生活の為の雑貨店や理髪店なども完備されている。

艦娘達を運用する為の十分な機能を持ちながら、多くの人間が其処で暮らせる、小規模な街とすら言えた。住み心地も悪く無いし、結構気に入っていた。

艦娘達を召喚できる“提督”としての適正を見出された者は、軍属の教育機関に預けられ、ある一定の基準を満たせば、各地のこうした『鎮守府』に配属される。

 

 激戦後期。女性の“提督”として此処に配属された私は、その適正不足からか、何度試みても戦艦の艦娘を召還する事が出来なかった。

私が召還出来た艦娘達は、球磨型の艦娘が五人。それから、軽空母の瑞鳳。それから、磯風、野分、秋月などの駆逐艦達だ。皆、大切な仲間だった。

人格を生かした彼女達の錬度は、かなり高いレベルである事は自負している。今までの作戦でも、戦力差を覆すほどの十分な活躍を見せてくれた。

彼女達の装備、艦載機は、全て私独自のチューンを施した特別仕様で、戦艦不在の艦隊の火力不足を必死に補った甲斐も在った。

私自身も、装備開発分野での貢献が認められて、“元帥”の称号を得ることになった。私は、提督と言う召還術者では無く、技術者として大きく評価された。

 

 それに対する嫉妬か。

この『鎮守府』にはもう一人、男性の提督が居たのだが、常に彼の眼の仇にされて来た。

無能、有能だなどと言うつもりも無いし、人間同士がいがみ合っていても無益だ。

だから、基本的に相手にしてこなかった。それが、また彼の神経を逆撫でたのだろう。

もともと彼は、徹底して武勲を求める人物で、召還した艦娘達には自我を与えていなかった。

“捨て艦法”などは当たり前で、深海棲艦の上位個体を対象にした無理な鹵獲にも、積極的に艦娘を投入して来た。

その成果も在り、以前の作戦では空母棲姫、中間棲姫を捕えるという功績を挙げた。同時に、彼は主力艦娘の多くを失うことになった。

しかし、手柄は手柄だ。彼の階級は大きく上がったのだろう。本営から異動の通達も在った。現在、この鎮守府の提督は私のみ。

また、その通達の後。今度は私に、捕らえていた空母棲姫、中間棲姫を、ある二人の“元帥”に引き渡す指示もあった。

この二人の“元帥”は、専門的な研究施設を抱えた、別の『鎮守府』に配属されており、引渡しに指定された日付は今日だ。

二人はこの『鎮守府』に訪問することになっている。と言うのも、彼も私も、空母棲姫、中間棲姫への解体・肉体弱化の施術を行う事が出来なかったからだ。

深海棲艦への上位個体への干渉は、“提督”としての資質や、その術力の強さによる為、知識や理論だけではどうしようも無い部分が在った。

彼や私が出来たのは、封印と拘束制御までである。彼女達の肉体機能が生きたままでは、例え身動きを封じていても運搬するのは危険だ。

よって、より力在る“元帥”の二人に、此処の『鎮守府』まで直接出向いて貰い、空母棲姫、中間棲姫の二体に、解体・弱化施術を行うように、先方にも指示が在った。

今までなら、本営直属の研究機関から“提督”適正の高い研究員を数人寄越す程度だった筈だが、今回は妙に念入りだ。本営らしく無いというか、えらく慎重な印象を受けた。

スポイルした深海棲艦の運搬は、艦娘達に曳航させる形で今回は海路が指定されてある。その為の艦娘も、“元帥”の二人が寄越してくれる手筈となっていた。

何でも、特別な艦隊の運用テストも兼ねているらしいが、実態は私が知るところでは無い。本営の指令がキナ臭いといえばキナ臭いが、まぁ今更だし、いつもの事だ。

 

 ぶっちゃけると、私の仕事なんて殆ど無い。

施術は、わざわざ足を運んで来てくれる“元帥”達が行ってくれるし。

深海棲艦達は、“元帥”達の艦娘が曳航していってくれる。楽なものである。

問題は、捉えてきた二人の“姫”の強さを、把握し切れていなかった事だった。

つい先程のことだ。海鳴りが響いて、潮風が止んだ。不吉な静寂が、この鎮守を包んだ。

明らかに、ここら一帯の空気が変わり、彼女達の暴走が始まった。

封印・拘束施術自体に不備は無かったが、単純に、その拘束力が不足していた為か。

こんな例は聞いた事が無いが、何らかの外的要因が在ったのは間違い無い。

建物が崩れる音。砲撃音。熱波。いろんなものが混じって、この鎮守府を包んでいる。

空母棲姫、中間棲姫の二体は、捕虜房を破って外に出たと言うのに、海の方へと行かない。力も衰微しているというのに、逃亡しようとしない。逆だ。陸の方へ進撃して来ている。

今の鎮守府は、封印拘束を自力で破った彼女達の、強烈な逆撃に遭遇している最中だ。

事態は悪い方、悪い方へと向っている。まさか、こんな事になるなんて。

 

 

 

 「北上! 後ろから来てる!!」

 かっ飛ばし、激しい振動に揺られる軍用ジープの後部座席から、運転席の北上に叫ぶ。

開けた窓から顔を突き出して、後ろをもう一回見る。凄い速さで追いかけてくる。

深海棲艦の艦載機だ。白くて丸っこい形で、猫耳みたいなのがぴょこっと生えている。

勿論、可愛いなんて事は全然無い。裂けた口に鋭い牙が並び、獣そのものだ。

丸い体には暗紅の紋が燃え、理性の光の無い眼には獰猛さを湛えている。数は、五機。

だが、妙だ。空爆や銃撃などは行ってこず、体当たりと噛み付き攻撃を行ってくる。

空母棲姫、中間棲姫が封印されていた間、彼女達には補給などもされなかったから、弾薬が尽きているのか。

いや、この場合では、弾薬を自力で構築・練成したり出来ない程度には、衰弱状態にあると考えられる。

それでも、軍用車の装甲を煎餅みたいに噛み千切る、あの猫艦戦たちの存在が脅威である事は変わり無い。

 

 「しっつこいなぁ、もう……!」

 運転席からチラリとバックミラーを見て、レースドライバー顔負けでハンドルを切りながら、北上は舌打ちをした。

助手席では、揺れる車体にぶん回されて眼を回しかけている大井が、必死にシートにしがみついている。

この二人は、今日は非番で宿舎に残っていたのだが、警報が響いてすぐに動いてくれたのだ。

空母棲姫、中間棲姫を取り押さえ沈静化すべく、即座に捕虜房へ向ってくれたのは、球磨と多摩、それから木曾だ。

駆逐艦からは、磯風、野分、秋月、清霜の四人。あとの艦娘達は、鎮守府のエリア内に居る職員達を逃がしてくれている。

私達は、鎮守府の敷地内をジープで駆け回りながら、工廠を目指す。

 

 『中間棲姫の奴が工廠へ向かってる。 

 球磨姉さんと多摩姉さんが行ってくれてるが、フォローを頼む。

 どうも様子がおかしい。明らかに危険だ』

 

という、木曾からの無線連絡を受けたからだ。嫌な予感がする。

 

 すぐに本営にも連絡し助けを頼んだが、すぐに応援が到着するなんて不可能だ。まだ時間が掛かる。

それに、ジープに乗って走っていても気付く。地面に、複雑な力線が奔っている。暗い紅の微光が、コンクリを灼いているのだ。

今、この鎮守府に渦を巻く力の潮流は、全て工廠へと注がれつつ在る。“提督”適性の無い者であっても、肌で感じる筈だ。

鎮守府の海側半部をすっぽり囲ってしまう程の術陣か何かを描き、何か巨大な力が、この土地に働きかけつつあるのは間違い無い。

鎮守府に於ける、工廠での艦娘召還や改修施術は、鎮守府に於ける機能の心臓でもある。それを、深海棲艦達が知っていても不思議では無い。

考えたくは無いが、中間棲姫は、まさか工廠で何かを行うつもりなのか。彼女達の目的は、召還か。改修か。分からないが、碌なことにならないのは間違い無い。

工廠とは、この艦娘召還だけでなく、装備の開発や、そこに妖精の力を宿し、付与する場所でも在る。

では、これらの機能を全て反転させ、神秘、神聖さを暴かれ、深海棲艦達の手に落ちた時、それが何を意味するのか。

分からない。ただ、血が凍るような感覚が在った。何か、取り返しのつかない事が起こるような、そんな気がしてならない。

 

 

 胸騒ぎがする。猫艦戦達も、ジープを追ってくる癖に、鎮守府の外へ外へと行こうとしない。

さっきから数え切れないくらいの猫艦戦達をかわして来たが、まるで、この一帯を制圧することのみを目的としている様だ

何が起ころうとしているのか、分からないままだ。爪をガジガジと噛んで考える。事態は悪い方へ悪い方へ突き進んでいくのに、その輪郭が見えて来ない。

ジリジリとした焦燥と胸騒ぎを感じていると、「うへぇ……、マジ?」ジープを飛ばしていた北上が呻くように言う。

「どうやら、よっぽど私達を工廠に行かせたくないようね……!」大井が舌打ちをするのも聞こえた。

後部座席から前を見る。煉瓦づくりの建物と、植え込みが並ぶ舗装道。その先の前方には、パッと見では数え切れない程の猫艦戦が、低空に陣取っている。待ち伏せか。

空に佇む猛獣の群れだ。ガッチガチ、バッキバキと、歯牙を噛み合わせる音が此処まで聞こえる。駄目だ。あの数は多過ぎる。突っ込めない。だが、どうする。

Uターンしようにも、後方から猫艦戦が迫って来てる。スピードを落とせば、寄って集って丸齧りにされてしまう。何とか突っ切るしかない。

北上はそう判断した様だ。「提督、しっかりつかまっててよ。ちょっと無茶するからさ!」普段の間延びした声では無く、芯の通った力強い声だった。

ハンドルを握る北上の隣で、大井は艤装召喚準備の為、蒼い微光を纏いつつ、前を見据えている。状況に応じて応戦するつもりだ。

大井や北上の対空値で、この数を相手にするのはギリギリ。猫艦戦達も、攻撃手段が物理のみ。突っ切るだけなら、何とかなるか。

正直恐い。でも、二人を信じるしか無い。「分かったわ。……工廠に着いたら起こしてよね」震える唇を噛んで、私は俯き、ぎゅっと眼を瞑った。その時だった。

後ろから、低いエンジンの呻りが聞こえた。はっと顔を上げて振り返った時には、追って来ていた猫艦戦五機が、両断されて地面に落下している最中だった。

 

  ジープを猛追してくる、戦車とでもいうべき一台の大型のバイク。

軍用バイクを弄ったものなのだろうが、凄い速度と迫力だ。巨大な軍馬を連想させる。

フルフェイスのヘルメットを被った男と、半ヘルの少年が、二人乗りしている。

男は白の、少年は黒の提督服を着ていて、男の手には、一振りの長刀が握られていた。

物干し竿と言うのか。とんでも無い長さだ。あれで、猫艦戦達を斬り飛ばしたのか。

バイクは、更にスピードを上げて、私達が乗ったジープの脇を抜き去る。

抜き去り際だった。半ヘルの少年が、北上に『速度を落とせ』のサインを見せた。

咄嗟に、北上はアクセルを放し、慣性に任せる形で減速に入る。

バイクがジープの前を陣取り、そのまま盾となって猫艦戦の群れに突っ込むのは、あっという間だった。

 

 猫艦戦達は、速度を落としたジープでは無く、突出して来たバイクに標的を変え、一斉に群がって行った。

まるでバイクを包み込み、押し潰すかのような勢いだ。鳥肌が立つような光景だったが、それ以上に眼を奪われる。

フルフェイスの男は北上が運転するジープの道を開けるべく、右手でバイクを駆りながら、左手で握った物干し竿で、群がる猫艦戦を縦横無尽に斬り捨てていく。

振るう腕の動き、刀の切っ先が見えない。バイクに襲い掛かる猫艦戦が、容易く両断されていく様は、まるで斬撃の結界でも張ってあるみたいだ。

僅か数分で猫艦戦を全て斬り伏せたフルフェイスの男は、敵の艦載機が周囲に居ないことを確認してから、バイクの速度を落としてジープと並走する。

そのまま少しいくと、もう工廠が見えて来る。その煉瓦壁に寄せてジープを止めて、車の外に出たところで声を掛けられた。

 

「ぬわぁぁぁん、面倒な事になってるもぉぉぉぉん!

 つーか怪我無いかぁ、お前らぁ! よーし、それじゃあまず、

鎮守府に残ってる連中を教えてくれるかな?(緊急)」

 

 フルフェイスの男は、バイクに跨ったままヘルメットも取らず、挨拶も無いまま質問をぶつけてくる。

彼らは、今日此方に訪れる予定だった二人だ。軍服にバイク姿なのは、送迎車のスピードでは遅いと判断して、護衛の軍用バイクを掻っ攫って来たのだろう。

 

「有り難う、助かったわ。

 もう本営から通信が在ったと思うけど、見ての通り緊急事態よ。

 ……今、鎮守府に残ってるのは、球磨、多摩、木曾、磯風、野分、秋月、清霜。

 それから、此処に居る北上と大井、私の十人。他の娘達は、職員達を逃がしてくれてるわ」

 

 取り合えず私は、短く礼を言ってから答えた。北上と大井も、咄嗟に敬礼の姿勢を取っている。

その時だった。近くで砲撃音と爆発音、建物が崩れる轟音が聞こえた。熱い風が吹き抜けていく。

其処にバシバシバシバシと、硬い物に亀裂が入る音が混じり、身体にぶつかって来た。

巨大な力を持った何かが、こっちに向って来ているのを感じた。手足が震えそうになる。

緊張の中。大型バイクから降りた半ヘルの少年が、携帯端末を操作しながら周囲を見回した。

 

「先程、雪風さん達に誘導され、職員の方々が避難されたのを、僕達も確認しています。

ただ、……新たな問題として、深海棲艦の艦隊が、この鎮守府に接近していると報告を受けました」

 

 其処まで言ってから私に向き直った少年は、右手に拘束具めいた手袋をしており、右眼にも、仰々しい眼帯をしている。

顔立ちや背格好は、私と同じくらいしかない。その癖に、纏う雰囲気が尋常じゃない。私だって、全然子供っぽく無いと言われたりもしたが、少年の場合は種類が違う。

前に、彼は配属されている鎮守府を強襲され、その際に大怪我を負ったという話を聞いた。そして、深海棲艦の肉体を移植したという噂も聞いた事が在った。

故に以前から、本営での会議に集まった際に、周りの提督連中から“魔人”などと揶揄されていたのも知っている。納得出来る表現だと思う。

こんな表現はどうかと思うが、前々から思っていた。確かに、彼は人間っぽく無い。私の隣で、僅かに体を強張らせている北上や大井だって、そんな印象を抱いた筈だ。

 

「敵艦隊の規模はそこまで大きく在りませんが、恐らく、

捕えられていた空母棲姫、中間棲姫の二人に干渉している個体が居るのでしょう。

彼女達が自らの意思で動いているならば、海への逃亡を選んでいる筈です」

 

 あの二体の暴走は外的要因と踏んでは居たが、愕然とする。

 

「なるほど、トロイの木馬って訳ね。……してやられたわ」私は右手親指の爪を噛む。

 

中間棲姫がこっちに向って来てる。

空母棲姫は陽動だろうが、あの方角は多分、ドックに向かってる。

おまけに、この土地と工廠にまで干渉出来る術陣まで張ってくれてるし。

そして海には敵艦隊。まったく嫌になっちゃうわね。

 

また近くで、建物が崩れる破砕音と、ヴォーーー!!、という裂帛の気合が聞こえた。

更にその遠くで、無茶苦茶に暴れまわるような激震音が轟く。崩落した建物の土煙が昇っている。

ぐずぐずして居られない。焦る。陸の上で皆、決死で戦ってくれている。どうすれば良い。

装備知識や術式理論が幾ら在っても、頭が上手く回らない。突然だった。

 

「はぁーーーっ! アッツゥーーーッ!!

 何でこんな動き難いんすかねぇ、提督服ゥ!(パージ) 」

 

 傍に居たフルフェイスの男が、バイクから降りて何故か提督服を脱ぎ出した。北上と大井が噴き出した。私だって、ギョッとする。

提督服をその場に脱ぎ散らかし、Tシャツとブーメラン黒海パン、フルフェイスマスクという、通報不可避の格好になった男は、バイクに括っていたスニーカーに履き替えながら、少年に顎をしゃくって見せた。

 

「此処は協力しませんか? その為の俺? あと、その為のコイツ? 

運用テストも兼ねてるけど、ちょっと特別な艦隊も其処まで来てるんだからさ(励まし)。

何とかなるって、ヘーキヘーキ!」

 

 表情は見えないが、声音には妙な力強さが在り、此方の緊張を解してくれるような響きが在った。私は深呼吸して、自分を落ち着かせる。

火の匂い。土埃の匂い。戦いの音。今の状況を、五感で感じる全てを、冷静に受け止め、思考に回す。考える。今、鎮守府に在る脅威は二つ。

空母棲姫、中間棲姫の二体だ。近海には敵艦隊も居るそうだが、そっちは眼の前の“元帥”二人が派遣してくれている艦隊に任せるしか無い。というか、迷っている間は、もう無い。

少し離れたところにある建物が崩れた。濛々と煙る粉塵の中から、とうとう来た。

豊満な肉体を、上品で、それでいて禍々しい白いドレスを纏っている。中間棲姫。

庁舎をぶち抜いて突き崩したのは、彼女がビットみたいに引き連れた猫艦戦だ。

無数の猫艦戦と共に、操り人形のようなぎこち無い動きで、こっちに近付いてくる。

だが、その眼は何処も見ていない。焦点が完全に合っていない。意識が無いのか。

中間棲姫の背後には、まるで超特大の猫艦戦にも似た艤装獣が象られていた。

「怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨」

艤装獣は吼えて、地面の石畳を捲り上げ、瓦礫を融かして引き摺りこみ、景色を歪ませながら迫ってくる。言葉を失う。

彼女の足元に浮かぶ術陣は、周りにある物質を分解し、再構築しながら猫艦娘戦へと造り変えている。信じられない規模での艦戦召喚を維持していた。

機能不全に陥っていて、尚、この力なのか。出鱈目過ぎる。いや、正確には、操られているのだろうが、本当に無茶苦茶だ。

数多くの術陣を引き連れて維持している彼女自身が、深海と陸地を繋いでいる。ルーターと化した彼女が、海の底に眠っている神性をこの場に顕現させている。

 

海と陸を繋ぐ、一種の戦争門と化した彼女が、迫ってくる。

 

 

 逃げるべきだと、頭の中の冷静な自分が言う。

同時に、艦娘達が居る以上、指揮を執るべきだと、提督としての自分が言う。

一つ呼吸をして、私は、北上と大井を順番に見た。二人は、余裕の無い私に頷いてくれた。

このハイパーズは、本当に頼りになる。私は、少年と男に向き直る。

「お願い……、力を貸して」私の言葉に、「はい、勿論です」少年は微笑を浮かべ、「当たり前だよなぁ(正義)?」と男は笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 野分は歯噛みする。何て艦載機の数だ。本当に、落としても落としてもキリが無い。中間棲姫を囲う様は、まるで塁壁だ。

ゾンビの様に歩く中間棲姫は、白い球体状の艤装獣の他にも、足元に無数の術陣を引き連れている。

術陣は、瓦礫の余燼や、砕けた地面の岩滓を資材の代わりに飲み込み、其処から、次から次へと猫艦戦が錬成、構築されて、飛び出してくるのだ。

海の底で行われているのだろう、大規模召喚の現象が眼の前で行われているという事実に、肌が泡立つ。中間棲姫にも、途轍もない負担が掛かっている様だ。血の泡を吹いている。

だが、心配している余裕は無い。生まれたばかりで補給もされず、噛み付きや体当たりなどの、本能的な物理攻撃しか出来ない猫艦戦達だが、あれだけの数は流石に脅威である。

 

 磯風と野分、秋月は、襲い掛かって来る猫艦戦を相手に立ち回り、中間棲姫へと砲撃を仕掛ける球磨や多摩を支援しているが、思うように行かない。

猫艦戦達の壁が厚過ぎる。やつらは防壁であり、同時に破城槌だった。群れの体当たりで建物を突き崩しながら、中間棲姫は一直線に工廠に向っている。

中間棲姫の眼には、敵意や殺意どころか、意識が無いようにすら見える。意思や思考の光が見えない。人格を破壊された艦娘の様子にそっくりだ。

地面に走る術陣の力線が、おそらく中間棲姫を誘導しているのだろう。意識も無く、ただ艦戦召喚の機能だけを起動させている彼女は、止まらない。

球磨と多摩が、迫ってくる猫艦戦を撃墜し、避けて、その間を縫うようにして砲撃する。

砲撃は、中間棲姫にも届くコースの筈なのだが、その射線上に、また別の猫艦戦が盾として割って来る。ジリ貧だった。

そうこうしている内に、次々と建物を崩しながら進み、とうとう工廠の真近くまで来てしまった。

 

「舐めるなクマー!!」 「いい加減、止まるにゃっ!!」

 

 野分は瓦礫を踏み越え、濛々と立ち上る砂煙を抜ける。

向こうから、球磨と多摩の、苛立ちの混じる声が聞こえる。

磯風、秋月に続く。瓦礫を踏み越えようとした。

風を切るような音がしたのはその時だ。猫艦戦。背後からだった。

右手に持った連装砲を向けず、咄嗟に左手に錨を召喚した。

体を捻るようにして軸をずらしながら、振り向く。ガチンッ!! という良い音がした。

さっきまで野分の頭が在ったところで、猫艦戦が歯を噛みあわせた音だ。

短く、鋭く息を吐きだして、野分は体の回転を利用して、その猫艦戦を錨で殴り飛ばす。

即座に体勢を立て直し、左右から迫ってきていた猫艦戦を連装砲で撃墜しながら、正面から体当たりしてきた猫艦戦を錨で叩き落とす。

呼吸が乱れてきた。だが、動きを鈍らせてはならない。「えぇっ!?」「あれは……!?」

秋月と磯風の声が聞こえた。

連装砲を握り締め、野分も前を見る。「なっ!?」そんな余裕なんて無かったはずなのに、変な声が出てしまった。

ドッシン! ドッシン! ドッシン! ドッシン! ドッシン! ドッシン! と。

土埃を掻き分けて、猛進してくる。白い巨人のような艤装獣だ。デカイ。もの凄い巨躯だ。

家くらいの大きさが在る。白磁の肌には、深紫色の紋様が回路の様に奔っていて、かなり禍々しい。

深海棲艦の新手かと思ったが、「そのデッカイのは味方よ!」と、土埃の向こうから聞こえた。

生意気そうで意志の強そうな、それでいて可憐な声だった。聞いていると、不思議と落ち着く。私達の提督の声だ。

 

「落ち着いて! 貴女達は、すぐに中間棲姫から一度離れて!

今から北上と大井が飛んでいくから! 魚雷に巻き込まれるわよ!!」

 

 中間棲姫の歩みを阻む為、包囲しようとしていた球磨や多摩、それから秋月、磯風も一瞬、立ち止まる。

しかし、飛んでくる猫艦戦に其々が冷静さを取り実戻し、対処しながら、瞬時に全員が全員に眼配らせをした。これは、命令だ。

 

「すぐに離れて! あと、動こうとする艦戦達の対処をお願い!」

 

 野分は襲いかかって来る猫艦戦を連装砲で打ち落とし、ぶん殴りつつ、中間棲姫から距離を取るために離れる。

迫ってくる巨人艤装獣のプレッシャーも大概だし、あれが味方だと言われてもすぐには信じられない。

それでも、命令に応える。疑問に思うのは、後からで良い。今は、とにかく動かねばならない。噛み付きに来た猫艦戦を撃ち落としながら、横合いへと駆ける。

提督の指示は、中間棲姫や猫艦戦にも聞こえた筈だ。実際、猫艦戦は野分達だけでなく、白い巨人艤装獣にも殺到しようとした。それで構わなかったのだ。

 

低いエンジン音。これは。単車のものだ。

聞こえる。かなり大きい。艤装獣の向こう側からだ。

行きますよー! 行く行く!(フルスロットル)

偶には良いねぇ、こういうのも……、痺れるねぇ!(強心臓)

ほ、ほ、ほあああああああああああああ!!(涙混じりの絶叫)

 

 男の声。北上の声。大井の声が聞こえた。

その声に答える様に、白い巨人艤装獣が走りながら姿勢を低くして、腕を斜め上に伸ばす。

猫艦戦が迫ってきているのに、あんな不自然な体勢になって何をするつもりなのか。

次の瞬間、野分は絶句した。艤装獣の背中から腕の先へ爆走して、何かが発射されたのだ。

さながら、カタパルトから射出された艦載機の様だったが、違う。

改造されまくったのだろう、やたら攻撃的なフォルムをした大型の軍用バイクだった。

しかも三ケツ。フルフェイスヘルメットにTシャツ海パンの変態と、北上と、大井だ。

あのバイクをぶっ飛ばし、艤装獣の背中を駆け上がって、腕を走り、飛翔したのだ。馬鹿なのかな?

おまけに、艤装獣が若干、放り上げるように腕を持ち上げた為に、かなり急な放物線を描いている。

丁度、艤装獣に殺到した猫艦戦達を飛び越える形になる。猫艦戦たちが象る防壁の、その死角を取った。

それだけじゃない。あのスピードと角度と勢いなら、中間棲姫すら飛び越える筈だ。直上に陣取れる。

勿論。猫艦戦達がバイクを黙って見ているなんて事は無かった。

自分達の上を飛んで行こうとするバイクの存在に気付いた猫艦戦達は、急上昇した。

先程の提督の、動こうとする艦戦達の対処をお願い、という言葉の意味を理解した。

猫艦船達はバイクに襲いかかろうとしたに違い無いが、その行動を、今度は野分達が狩る。

球磨と多摩、秋月と磯風が、空を睨み、次々と猫艦戦を撃墜する。

艤装獣もその豪腕を振り回し、猫艦戦達を殴り、砕いて、叩き落した。

 

視線をバイクの方へと向けると、北上と眼が合った。ウィンクをしてくれた。

ありがとね♪ 野分の方を見てそう唇を動かしたあとだ。

北上はバイクの上で、艤装の魚雷発射管を召喚した。

三ケツ状態だからだろう。武装のみの召喚だ。大井もそれに続く。

彼女達が召喚した魚雷発射管からは、今まで見た事の無い、深紫色の微光が漏れていた。

燐光と術陣を纏っている。どうやら、何か特別な儀礼が施されている様だ。

 

 数秒の間。すべてがゆっくりに見えた。

「陸の上だけど、取り敢えず藻屑に……!」「なりなよー……!」

北上と大井はバイクで中間棲姫の上を飛び越えながら、儀礼済み魚雷の雨を降らせた。

世界広しと言えど、あんなスタントマン紛いの大ジャンプを決めつつ、自分の魚雷発射管で空爆モドキを敢行した艦など、彼女達だけだろう。

だが角度も、タイミングも、何もかもドンピシャだった。巨大な火柱が上がる。大爆発だ。周りにいた猫艦戦どもが、炎のうねりに飲み込まれていく。

中間棲姫から離れていた野分も、その威力で後ろに押されて尻餅をついた。すぐに体を起こして、腕で顔を庇う。前を見て舌打ちが漏れそうになった。

 

 儀礼済み魚雷の炸裂は、中間棲姫が纏う防壁結界に阻まれている。

だが、連繋する深紫の爆炎は、中間棲姫が引き連れた艤装獣と、術陣の帯を焼き潰した。

地面に大穴が幾つも空いて、熱風が吹きつけて来る。

怨怨怨怨怨怨怨。忌忌忌忌忌忌忌忌。啞啞啞啞啞啞啞。卦卦卦卦卦卦卦卦。

硬い物を激しく擦り合わせる様な音がした。恐らく、艤装獣の悲鳴だ。

 

 まだ終わっていない。

すかさず野分は立ち上がって、残った猫艦戦の掃討に掛かる。

捩れ昇る炎に惑う猫艦戦達は、容易く撃破できた。秋月、磯風も続く。

中間棲姫を守るものが、防壁だけになった。だがその結界も、すぐに呆気なく砕け散る。

深紫の術紋が描かれた微光の帯に包まれるようにして、解けて行ったのだ。

これは、解体施術か。それも、深海棲艦の上位個体に干渉出来る、かなり高度なものだ。

野分達を召喚した少女提督は、一応“元帥”ではあるものの、此処までの術式を扱うことは出来なかった筈だ。少女提督が得意とするのは、装備開発などの工作分野である。

では、誰が……。頭の隅にそんな思考が過ぎった時。中間棲姫は崩れ落ち、その場に倒れ伏した。意識の無い彼女の体を支え、動かしていた力が消えたのだ。

それと同時だったろうか。少しはなれたところでバイクが、低く、重い音を立てて着地した。

あの高度からの落下だというのに、後輪から着地しつつ衝撃を殺し、崩れそうになるバランスを制御している。

「うっ……!?」「あぅんっ!?」北上と大井が、短く呻いたのが聞こえた。着地した衝撃が尻に響いたのだろう。

バイクは二人を降ろしてすぐにギャギャギャっと、後輪を空転させてから、そのまま走り去る。あの方向は、木曾達が居る方角だ。

 

 尻と腰を手で押さえながら、ひょこひょこと此方に歩いて来る二人に、思わず安堵の吐息が漏れた。

後の脅威は、木曾と清霜、それから、瑞鳳が放った艦載機達が相手をしてくれている空母棲姫だ。

先程の変態バイクは一応味方で、木曾達をフォローすべく向ってくれたのは間違い無いだろう。

すぐに自分達も応援に向うべきだ。球磨や多摩をはじめ、秋月、磯風、野分自身も、小破程度である。まだまだ戦える。

 

 そう提言すべく、野分は工廠の方から、此方に駆け寄って来る提督に向き直る。

提督は、気が強そうで生意気そうな、それでいて、泣きそうな貌だった。

野分は軽く微笑みを返そうと思ったが出来なかった。体が強張る。息が止まった。

提督の少し後ろを、白い艤装獣を連れて歩いて来る、黒い提督服の少年と眼が合ったからだ。

 

 提督と同じく、彼も、皆が無事であることに安堵してくれているのだろう。

彼は深紫の陰影を纏い、優しげに眼を細めて此方を見詰め、首を微かに傾けている。

先程、北上や大井が放った魚雷にも、深紫の儀礼陣が付与されていた。

中間棲姫の防陣を解いたのも、深紫の術紋が浮かんでいた筈だ。

あれらは、彼が施したものなのか。いや、それよりも。何だ。この戦慄は。

連れている巨躯の艤装獣などよりも、彼自身の方がよっぽど危険な存在に見える。

周りに居る球磨達も同じ様子だった。近くに居た磯風が、唾を飲み込むのが聞こえた。

ただ歩いて来るだけの彼から、眼を逸らすことが出来ない。

 

 間もなく、提督が野分達の前で立ち止まる。

黒い提督服の彼は、倒れ伏した中間棲姫の傍にしゃがみ込んだ。

その時だった。中間棲姫の真上に、積層型の術陣が浮かび上がった。

暗紅色を基調にした術陣が、少しずつ零れ、欠けて、崩れていく。

あれが、陸に居た中間棲姫と深海の神秘を繋いでいたのだと、直感的に理解した。

解呪されて、光の粒に還ろうとしているのだ。

あの光の向こうには、人智の及ばない、遥かな深淵に繋がっている。

深海棲艦達が生まれてくる、海の底の底。獄の獄。

 

 野分は悲鳴をあげそうになった。

少女提督が後ずさる。全員が立ちすくむ。

その向こうから。声が聞こえたのだ。

言語という形を成していないが、それは間違いなく“声”だった。

少年提督だけが、冷静なままで左眼を細め、提督服の懐から指輪を取り出した。

それを手袋をしたままの右手薬指に嵌めてから、彼は、自分の右耳を右手で押さえ、『Engage』と唱える。

 

“声”は虫食いのように途切れ途切れの様でも在った。

同時に、其々の響きが独自の意味を持っているのかもしれない。

笑っているようにも、泣いているようにも、憤っているようにも聞こえる。

子供のようにも、大人のようにも、老人のようにも聞こえる。理解はできないが、感じる。

とにかく一定じゃない。不思議な揺らぎを湛えて、響くと言うよりも、頭に染み入ってくる。

恐ろしい。意味不明な、“声”としか言い様の無い何か。

少年提督には、何が聞こえているのだろう。じっと、只管に耳を傾けている。

深遠の海底なら響く“声”が、消え入ろうとする寸前だった。

ほんの束の間だったが、野分でも聞き取れるだけの形と意味を持った。

 

A   r      e  

y       o u

h    a p p   y ?

 

 最後の最後だけ。野分にも確かに、聞こえた。“お前は、幸せか?”と。

余りに衝撃的な現象を前に、誰もが言葉を失う中。少年提督だけが、その声に応えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 連装高角砲で猫艦戦を撃ち落しつつ、清霜は、空母棲姫と対峙する木曾をフォローする形で立ち回っていた。

周囲を飛び交う猫艦戦達の数は相当なものだが、瑞鳳が放ってくれた烈風や零が、蹴散らしてくれている。

召喚者である空母棲姫本体の衰弱の為か、猫艦戦達には弾薬を用いた攻撃手段が無い様だった。制空権を奪われるという事は無いだろう。

 

 やはり問題は、空母棲姫本体だ。

工廠へと向った中間棲姫は、意識の無い操り人形にも似た動きだった。空母棲姫の方は似ているようで、少し違う。

彼女の眼には、意識や意志の光は見えない。やはり何処も見ていない。だが、その顔貌は。激しい敵意と殺意、憎悪に歪みきっていた。

彼女は、衰微した己の召喚能力の限界を、理性では無く、本能的な部分で感じ取ったのだろう。

その弱体化を補うべく、彼女は艤装獣を召喚するだけでなく、更に変形、進化させて、上陸形態とでも言うべき姿で身に纏っている。

 

 彼女の腕や脚を覆う、黒金の鎧甲冑は、もともとは艤装獣の装甲だったものだ。そして、両の手に携えている身の丈ほどの黒い大剣は、滑走路だったものである。

大剣は柄から剣先まで、微光を漏らす赤のラインが刻まれており、鈍く明滅している。黒い祭礼甲冑を着込んだ、女騎士のような出で立ちだ。

飛び道具代わりの猫艦戦の召喚に併せての、単純な暴力での力押し。これが普通に脅威だった。さっきから空母棲姫が両手の大剣を振り回す度に、周りの建物が崩れる程だ。

衰弱していてこの力である。もうやってられない。

 

「貴様も中々に味な真似をするじゃないか。

 やっぱり戦いってのは、懐に飛び込んでやるモンだよなぁ」

 

 それでも改二となった木曾は、カトラス風の刀剣を右手で抜き、艤装の連装高角砲、連装副砲を向けながら、真正面から空母棲姫に対峙している。

清霜は、その木曾の隣に陣取っている。襲ってくる猫艦戦を迎撃しながら、空母棲姫を牽制するのが役割だ。

木曾の攻撃と防御に厚みを持たせる為、清霜は神経を研ぎ澄ます。

 

「惜しむらくは、一対一ではないことだが、貴様も猫共を連れているんだ。お互い様だな」

 

 鼻梁を伝う血を唇の端でチロリと舐めて、木曾は不敵に笑っている。

余裕の様に見えるが、実際はそこまで優位には立って居ない。

この空母棲姫の暴走は、恐らく陽動だ。本命は、中間棲姫による、工廠のコントロール。

さっさとこの場を片付けたいところだが、正直、一杯一杯だ。

 

 空母棲姫と向かい合っている木曾と清霜の周囲には、バンバン猫艦戦が飛んでいる。

木曾が無事というか、まともに空母棲姫の相手を出来るのも、今も木曾の背後から襲いかかろうといた猫艦戦を撃ち落した清霜の御蔭だ。

ついでに言えば、瑞鳳が飛ばした烈風や零達が猫艦戦を狩り立ててくれていなければ、木曾も清霜も、こうして対峙することも出来なかっただろう。

 

 人数ギリギリの戦線維持だ。疲労は感じるが、動きが鈍るほどでは無い。

ただ、これ以上長引いても、うまくないのも間違い無い。それは向こうも同じか。

フー……! フー……! と。正に暴走真っ最中みたいな、獣じみた荒い呼吸をつきながら、空母棲姫は両手の大剣を持ち上げて見せた。

木曾と空母棲姫の距離は、役10メートル程。結構近い。木曾も、すっと重心を落として左眼を細めた。右手に持つ刀剣の切っ先を、僅かに下げる。

 

 同時だった。木曾と清霜目掛け、正面、左右の斜め上から猫艦戦が二機ずつ、急降下してきた。計六機。

清霜は即座に反応して、左から来た猫艦戦を二機撃墜してから、正面からきていた一機を、手にした連装砲でぶん殴って地面に叩きつける。

そいつを踏み潰しながら、体を倒して前へ出る。木曾に続く。疾い。木曾は前へ出ながら、右側から来た猫艦戦を副砲で薙ぎ払い、正面から来た一機を両断していた。

 

 火の匂い。黒い煙霧。掻き分ける。瓦礫の上を疾駆する。

木曾と清霜は、空母棲姫に迫る。当然、向こうも黙っていない。

同じ様に前へ出てくる。瓦礫を踏み砕き、地面を震わせて、肉薄してくる。

両手に握った滑走路という大剣を振り上げている。互いが、互いの間合いに入った。

距離が詰ろうとする。空母棲姫が、剣を振り下ろそうとした。

そのタイミングで、木曾は右へ、清霜は左へと逸れて踏み込む。惑乱するのが目的だったが、空母棲姫は惑わなかった。ちゃんと眼で追ってきていた。

なんて反応速度だ。空母棲姫は、左手の大剣を木曾目掛けて袈裟懸けに振り下ろし、右手の大剣で清霜を切り払おうとした。

 

 木曾は徹底して冷静だ。踏み込みながら、半身になる最低限の動きで体の軸をずらす。

ついでに、降ってくる黒い大剣を、自分が構えた刀剣に沿わせるようにして、往なした。

大剣を振りぬいた空母棲姫の右側、横合いへと滑り込む。

 

 清霜は、迫ってくる大剣をくぐる。ダッキングだ。単純だが、動きに無駄が無い。

回り込む。空母棲姫の左側面へ。刹那の攻防で、木曾と挟み撃ち出来る形に持ち込んだ。

攻撃を空振りした空母棲姫は、身体を泳がせていた。隙だらけだった。

行ける。清霜は即座に連装砲と機銃を、空母棲姫の顔面を目掛けてぶっ放した。

同時に、木曾は刀剣を、胴目掛けて打ち込む。間違いなく、これで仕留めたと思った。

信じられなかった。あの不安定な体勢でも、彼女は首を逸らして砲撃を避けて見せたのだ。

それだけじゃない。木曾と清霜に挟み込まれたままで、空母棲姫はそのまま体をグルンと一回転させた。

身体を振り回すついでに、両手の剣も一緒にブオオオオン!!と振り回したのだ。

「チィっ……!!」木曾は刀剣を弾かれ、そのままぶった切られそうになっていた。

間一髪。大きく踏んだバックステップが間に合った。その前髪が僅かに斬られて、舞う。

清霜も、飛び下がって剣の間合いに出る。体勢を整えつつある空母棲姫と一瞬、眼が合った。

 

 不味いと思った。次の瞬間には、腹にズドンと来た。踏み込んでくるのが見えなかった。着地の硬直を狙われた。

空母棲姫が黒甲冑を纏った右脚で、清霜の胴をサッカーボールみたいに蹴飛ばしてきたのだ。一瞬、意識が飛んだ。

すぐに視界が戻って来たが、頭が上手く働かない。体がふわふわする。重力を感じない。って言うか。

 

 

 痛った……。なに此れ。ちょっと。どうなってんの。飛んでない? 何か、空中を移動してる。

あぁ、そうか。蹴っ飛ばされて、ふっとばされてるんだ。そんな事を思ったら、今度は背中に衝撃があった。

瓦礫の上に落ちたのだ。次に、肩や胸や脚に衝撃があった。凄い勢いで転がっている事は分かった。

痛みは、勢いが止まってから来た。気付けば、清霜は仰向けになって倒れていた。ゴホッと、口から血が溢れる。

呼吸が戻ってくるのに、数秒掛かった。頭の中で、ヒヨコの泣き声みたいなのが聞こえる。

誰かの声も聞こえる。きよしも。おい。おきろ。きよしも。きよしも。おきて、りだつしろ。

声が遠い。きよしもって誰? あぁ、自分のことか。声の御蔭で、意識と言うか、思考が戻ってくる。

空。空が。空が見える。曇天だ。雲。それから。猫。それら全部が真っ赤だった。

血だ。眼というか、顔中、血塗れだ。あぁ、くそ。いやだなぁ。くやしい。くやしいなぁ。

本当に、嫌になる。たった一撃で、このザマだ。こんな呆気無くやられちゃうなんて。

ここまで保ったのになぁ。体のあちこちが痛いけど、悔しさが勝った。横隔膜が震える。涙が出て来た。

でも泣いてる場合じゃない、まだだ。まだ負けてない。連装砲だって、手放していない。

身を捩るようにして仰向けから、うつ伏せになる。手を着く。上半身を持ち上げようとする。

ゲホッ、と血の塊を吐き出す。ヤバイものを吐いたような気がしたが、どうでも良いや。

最中に、零や烈風に、まだ撃墜されていない猫艦戦が、飛んでくる。喰いに来る。

空母棲姫と斬り結びながら、木曾がその猫艦戦を撃ち落してくれている。助けてくれている。

御蔭で、木曾は防戦一方に追い込まれていた。早く。フォローに入らないと。助けないと。

「ぐ、ぅう、あぁああああああああああああああああ……!!!」吼えながら、立ち上がる。

連装砲を握り締める。重い。腕が上がらない。でも、前へ出る。ふらつく。膝が崩れる。

こけるな。倒れるな。脚を。前へ出せ。鼻血と吐血で、呼吸が詰る。苦しい。視界が霞む。

構わない。止まるんじゃない。犬のように駆け巡るんだ。行け。走れ。間に合え。

お願い。間に合って。間に合ってよ。向こうで、木曾と空母棲姫が、瓦礫の上で斬り結んでいる。

 

 空母棲姫は、一見すると、両手の大剣をメッタクソにぶん回しているように見える。

だが違う。実際は、かなり繊細な体捌き、足捌きを駆使して滑走路大剣を振っていた。

一種の剣術とでも言うべき技が在る。

マントを翻し対峙する木曾も、艤装による砲撃で牽制しながら、刀剣の間合いへと距離を詰めようとする。

その木曾の行動を締上げるように、零や烈風から逃げ回る猫艦戦どもが襲い掛かる。流石に、その全部を対処するのは無理があった。

 

 空母棲姫が振った大剣を往なした木曾は、一旦距離を取りつつ、迫ってくる猫艦戦をぶった切った。

バックステップを踏みながら、艤装で撃ち落した。だが、流石に疲労が在ったのだろう。動きに精彩を欠き始めている。

「ぐぁっ!?」その隙を突かれた。背後から、地面スレスレを飛んで来た猫艦戦に喰われた。背負った艤装の一部と、左脚が持っていかれた。

木曾は倒れそうになるが、残った右脚で地面を蹴っていた。後ろに倒れこむ様にして跳んだ。空母棲姫が振り下ろしてきた大剣をかわしたのだ。

だが、もう次は避けられないだろう。地面が陥没し、周りの瓦礫が跳ね、崩れ掛けの建物が崩落する程の一撃だった。喰らえば、確実に終わりだ。

絶体絶命の状況でも、木曾の眼は死んでいない。刀剣を杖のようにして立ち上がろうとしている。空母棲姫は、その木曾に止めをさすべく、両手の大剣を持ち上げる。

 

 

 清霜は、その空母棲姫の背中に、連装砲をぶっ放す。

直撃した。だが、ダメージを与えられなかった。疲れも痛みも知らないのか。

空母棲姫は体を捻り、大剣の腹で砲撃を防いで見せたのだ。怪物め。

だが、これで良い。空母棲姫の注意が、此方に向いた。

相変わらず、その綺麗過ぎる貌を憎悪と怨嗟に歪めたまま、こっちに突進してくる。

木曾の焦った声が聞こえたが、よく聞き取れなかった。

だから、代わりに清霜が木曾に叫ぶ。にげてください。

そう言ったと思う。上手く言えただろうか。分からない。でも伝わったと思う。

 

 清霜は大きく舌なめずりして、血を拭う。唇を湿らせて、鼻血を啜った。

よく耐えた方だと思う。これはもう、何て言うか、もう勝ちで良いと思う。

瑞鳳が艦載機を飛ばしてくれたおかげで、職員達も逃げおおせただろうし、清霜達だって時間を稼げた。

工廠の方から聞こえていた炸裂音も止んでいるし、球磨や多摩達は中間棲姫を止めてくれている筈だ。大勝利じゃないか。

あとは、陽動として大暴れしているのは、この空母棲姫だけだ。流石に、本営からの応援が駆けつければ、駆逐されるだろう。

木曾だって生き延びてくれれば、提督達と合流して修復施術を受けて、また第一線に戻れるだろう。

やっぱり、私達の勝ちじゃないか。へへーんだ。ばーかばーか。心の中で、空母棲姫にアッカンベーした。

このばから、りだつしてください。もう一度、木曾に言う。今度は、上手く言えた。

何だか嬉しくなって、笑えて来た。

 

 

 戦艦になりたいと思っていた。ずっと思っていた。

でも、多分、為れないんじゃないかとも、心の端っこで思っていた。

そもそも艦娘とは、艦船に宿る魂や誇りに造形を与えられ、成り、生まれるのだ。

現世に、“清霜”として招き入れられた時点で、もう“清霜”は“清霜”でしかない。

逆立ちしようが、錬度が上がろうが、時間が経とうが、ケッコンしようが。

何処まで行っても。突き詰めれば突き詰めるほど、清霜は、どうしようもなく清霜だ。

別に、誰かに教えられた訳では無い。はっきりと、そう誰かに言われた訳でも無い。

それでも、何となく解かった。予感と言うか、確信に近いかもしれない。

何時からだったかは、よく覚えていない。気付けば、そういう失意を受け入れている自分が居た。

御蔭で、其処まで落胆はしなかった。強く、眩い憧れは残ったままだが、清霜は冷静だった。

自分では出来ない事、出来る事を冷静に考えるようになった。

それから、自分に出来ることに優先順位を付けて、実践して、この鎮守府に貢献してきた。

艦隊の皆に、信頼されるようになった。名を呼び交し合うだけの絆を結べたと思う。

それはきっと、清霜が、清霜だったからこそだと思う。それで良い。構わない。

今も清霜には、自分の出来ること、やるべき事が、割と見えている。

命を捨てる覚悟なんて、とっくに出来てる。あとは、実践するだけだ。

木曾が離脱するだけの時間を稼ぐんだ。とにかく、それまでは立って、避けて、ぶっ放す。

人格だって生きてるんだもん。最後くらいかっこつけたって良いだろう。

大戦艦清霜、推して参る。調子に乗って、そう言おうとした。

 

 出来なかった。「勢い……余ってッ……ソイヤ!!(レ)」

何かが飛び込んで来て、清霜と空母棲姫の間にドッシィィン!!と着地した。

飛んで来たソイツは、空母棲姫が叩き込んで来た二本の大剣を、両手に一本ずつガッチリバッチリ掴み止めて、楽しげに笑って見せた。

ソイツの両手は滅茶苦茶のグチャグチャになったが、すぐに再生し始めている。「(^ω^)おー、激しい(レ)」痛みを感じないのか。

 

 空母棲姫の貌が、更に歪んだ。吼えて、大剣の連撃を無茶苦茶に放って来た。

それでも、ソイツは楽しそうに笑いながら、その斬撃全部を素手でガッツンガッツン、ドッコンドッコン受け止めていた。馬鹿げている。有り得ない。

「(^ω^)おっほっほ~、元気だ!(レ)」大剣を受け止めまくっているソイツは小柄だ。セーラー服を着ている。見た事のあるデザイン。確か、暁型が着用しているものだ。

そのセーラー服の上に、黒いパーカーを羽織っている。背格好や弾んだ声の調子から、三番艦の雷かと一瞬思った。だが、そんな訳が無い。尻尾だ。

太い尻尾が、パーカーの中から伸びていて、その先には獰猛な金属獣の頭が在る。明らかに、艦娘じゃない。深海棲艦だ。

うっそでしょ……。それも戦艦。レ級。死神とか呼ばれてるのだって聞いたことが在る。

 

 何でこんな怪物が此処に。それに、何で清霜を助けてくれているのか。

混乱する。色んな疑問が、頭に浮かぶ。だが冷静になる間もなく、新たな闖入者が現れた。

低いエンジン音。瓦礫を踏みしめる音。「 お ま た せ(乱入)」今度は何だ。

木曾を庇うように、猛スピードで走り込んで来たのは、大型のバイクだった。

やたら攻撃的と言うか、鋭利なフォルムである。駆っているのは、男。酷い格好だ。

Tシャツとブーメラン海パン姿に、フルフェイスヘルメットとスニーカーを身に付けて居る。

しかも、腰には太刀を。背中には長刀を、ホルスターのような革ベルトで吊っていた。

不審過ぎる。「何だお前(素)」左脚を失った木曾が、男を見上げながら素に戻っている。

清霜だって死掛けだったが、誰だよ? と心の底から思った。

だが、状況は動いている。空母棲姫は健在なのだ。

 

 まず動いたのはレ級だった。「どっこいしょ!(レ)」

無造作に、両手で受け止めていた空母棲姫の大剣を押し返す。

あの小柄な体に、一体どれだけの膂力を秘めているのか。空母棲姫が尻餅をついた。

その隙に、レ級は清霜に振り返り、ひょいっとお姫様だっこして来た。「うぅゃっ!?」

変な声が漏れてしまう。レ級の腕に抱かれて、正直、生きた心地がしなかった。

身体を強張らせる清霜の貌を見て、レ級は、シシシシシシ、と、子供っぽく笑った。

「君は強い艦娘だ!(レ) 好きになる!(レ)」そう言うが早いか、レ級は跳んだ。

凄いジャンプ力だった。きゃあ。空母棲姫を飛び越え、海パン男と、バイクも飛び越える。

そして、刀剣を杖にして、何とか立ち上がろうとしている木曾のすぐ近くに着地した。

 

 どうやらレ級は、清霜だけでなく、木曾まで守ろうとしている様だ。

勿論、ただ突っ立っている訳じゃ無い。何かを唱えている。人の言葉でない詠唱だ。

すぐにレ級の周囲に無数の術陣が浮かんだ。術陣は、瓦礫や鉄屑を光の粒子に変えて引き摺り込み、濁った青紫色の鬼火と共に、黒いフォルムの艦載機が溢れさせた。

無数の鴉が飛び立ったみたいだった。黒い艦載機達は、烈風や零達に加わり、猫艦戦どもを駆逐していく。清霜は、チラリと、レ級の腕の中からその表情を窺う。

その視線に気付いたレ級が、清霜の顔を覗き込んでから、木曾にも視線を向けた。身構えようとする木曾を見て、レ級はやっぱり子供みたいに笑う。

 

「あとで病院に行くべ!(レ) 元気になりやす!(レ)」

 

「おっ、そうだな(便乗)。

 傷が広がるから、じっとしとけよしとけよ~(優しさ)」

 

 海パン男はバイクから降り、一息で腰の太刀と背中の長刀を抜いていた。

刀身の潤色に刻まれた銘が見えた。長刀には、“邪剣『夜』”。太刀には、“聖剣『月』”の銘。

男は二刀流になり、二振りの刀の切っ先を、両腕と共にすっと下げた。空気が変わった。

 

 空母棲姫はもう立ち上がっている。右手に握った滑走路大剣を担ぐ様にして持っている。

ぐっと腰を落とす姿勢で、左手に握った大剣は、地面に置くようにして構えていた。

あれは、飛び出す為の溜めを作っているのか。空気が、ビリビリと震えている。

空母棲姫にしても、艦載機の機能不全に加え、召喚出来る数まで衰微している状態で出来る、アレが最後の抵抗手段なのだ。

鬼気迫らない訳が無い。文字通り、彼女は全存在を掛けて、人類と対峙している。今のままでは、言葉など届く筈も無い。

 

 海パン男も、静かに重心を落とす。清霜も木曾も、黙る。固唾を飲む。

眼を逸らせない。空母棲姫が、地面を蹴った。さっきよりも疾い。「AAAAAAHHH……!!」

一息で距離を詰めた空母棲姫は、両腕で矢継ぎ早に斬撃を繰り出す。振るう。突く。凪ぐ。払う。

それらが、どういう訳か当たらない。海パン男に届かない。海パン男は、まるですり抜ける様にして、荒れ狂う斬撃の暴風をかわしている。

素早く動いているようには見えない。円を描く様に、ゆったりとした体捌きで、空母棲姫の間合いを外したり、タイミングを潰したりしている。

「(太刀筋が)見える見える、遅いぜ(心眼)」 海パン男は言いながら、何度か刀を振るった。そう見えた。いや、見えなかった。

気付けば、空母棲姫の握る両手の大剣が、中ほどから断ち割われ、瓦礫の上に落ちた。重い音を立てる。あれを斬ったのか。信じられない。

空母棲姫は、驚愕した様子で、己の剣を見詰める。それが致命的な隙だった。海パン男は、両手の刀を逆刃に持ち替えて、音も無くすっと踏み込んだ。

逝真鐘音。ヘルメットから、低く呟くような声が聞こえた。海パン男の両腕が、一瞬、消えた。次の瞬間には、何十ものくぐもった打撃音が重なって聞こえた。

何が起こったのか分からなかったが、とにかく、あの海パン男が両手で握った刀で何らかの攻撃を加えたのは間違い無い。

あれは、峰打ちの連打か何かだったのか。勝負はもう付いていた。空母棲姫が、その場に崩れ落ちる。あっという間に決着が付いた。というか、あの海パン男は何者なのか。

 

 

 海パン男は、二振りの刀を鞘に納めてから、倒れ伏した空母棲姫に掌を翳した。それからヘルメットを外し、文言を唱える。

葵色の光が、空母棲姫の腕や脚を覆う、艤装を変形させた甲冑を解いていく。光の粒子となって、霧散はじめる。間違い無い。あれは解体施術だ。

ふざけきった格好だが、空母棲姫を対象に取るような高等な術式も扱えるのか。海パン男は“提督”という事である。

そう言えば、今日は他所の鎮守府から、ある意味で悪名高い“元帥”が二人、此処を訪れるという話を聞いていたのを思い出す。

 

「お、大丈夫か大丈夫か?(心配顔)」

 

「あぁ、何とかな。見ての通りだ」

レ級の腕の中に居るままの清霜は、取り合えず何か言おうとした。

だが、先に口を開いたのは、レ級と海パン男を見比べた木曾だった。

刀剣を杖のようにして身を起こし、立ち上がった木曾は、唇の端を歪めて見せる。

 

「深海棲艦が何故、俺達の味方として此処に居るのか聞きたいところだが……。

 まぁ良い。とにかく、危ないところを助けられたな。感謝する」

 

 普段から武人然としている木曾は、左脚が半分無いのに、刀剣を杖に立ち、律儀に深々と礼をして見せた。

艦娘としての肉体は頑強だ。木曾の脚からの出血は、もう止まっている。修復施術を受ければ、再構築、再活性される。

だからと言って、痛いのが平気という訳でも無い。清霜も、体中かギシギシ言っていて変な声が出そうだ。それを我慢して、「あ、あの……!」と、おずおずと言う。

清霜は、レ級と海パン男の顔を交互に見て、「本当に、あの……、ありがとうございます」

「おぅよ!(レ)」レ級は腕の中の清霜を見て、また、「シシシシシ」と笑った。

 

海パンの男も、安堵したように軽く笑って見せた。その表情からは、噂ほど無茶苦茶な人物には見えない。

野獣。彼は、確かそんな風に言われていた筈だ。

 

「さてそれじゃ、他の奴等と合流しなきゃ(使命感)」

 

「ぬっふ♪ OK!(レ)」

 

 抱いた清霜を地面に降ろすときのレ級の手付きが繊細で優しくて、驚く。

慣れない。それは清霜だけで無く、木曾も同じ様子だった。やはりレ級を凝視している。

その視線に気付いたレ級は、子供っぽい笑顔を深めて、トテテテテっと木曾の傍に近付いた。

いきなりのことに、「むっ……!?」っと、流石の木曾も、僅かに身構えている。

楽しそうな笑顔を悪戯っぽく弾ませたレ級は、木曾を見上げながら顔を傾けた。

 

「Do you like watching me?(レ)」

 

「な、何だ? 何か、俺に……」

レ級の言葉を上手く聞き取れなかった木曾が、反応に困っている。

だが、そんな事はレ級には関係なかったのだろう。レ級は「It’s OK(レ)」と笑った。

次の瞬間には、大胆にもガバァッと木曾に抱き付いた。

いや、脚を怪我している木曾をだっこしてあげているつもりなのだろう。

実際、木曾は抱き上げられている。

 

「(>ω<)ぎゅううううううううううううううううううううう!!(レ)」

 

「ぅおあっ!!? お、おい! は、離れろ! 変なところを触るな!」

 

「(>ω<)離さんぴょん!!(レ) 

あーもーー! おっぱい!! わーお!!(レ)」

 

「馬鹿、おいっ! やめ、やめ……!」

 

 いつもは凛々しい木曾の顔が、僅かに紅潮しているのを見て、清霜は笑ってしまった。

そうこうしている内に、瓦礫の向こうから、ジープのエンジン音が聞こえて来た。

木曾と清霜を呼ぶ声も聞こえる。どうやら、提督達が来てくれたらしい。

 

海パン男、いや、野獣の携帯端末が電子音を鳴らしたのも、同じタイミングだった。

野獣は、倒れた空母棲姫の手脚に拘束陣を展開しつつ、携帯端末で通話を始める。

 

「俺たちはヘーキヘーキ、安心しろって、もー。取り合えず片付いたゾ。

今から此処の提督と合流するから、お前らも上陸してきて、どうぞ」

 

短い遣り取りを終えた野獣は、海の方を一瞥してから、清霜に向き直った。

「ねー、今日キツかったねー(半笑い)」

笑えない冗談に、苦笑するみたいな言い方だった。まったくだと思い、清霜も苦笑を浮かべた。

鎮守府は無茶苦茶だし、体中痛いし、もう笑うしか無いって感じだった。

 















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後日談 第4章 

 随分、早くに眼が覚めたようだ。

身体をベッドから起こして、視線だけで窓へと眼をやる。

カーテンを透けてくる光は淡く、外はまだ薄暗い。それに、肌寒さを感じた。

眠気はもう残っていないし、寝直す気分でも無かった。取りあえず、もう起きよう。

よく眠れた。ベッドを降りてスリッパを履き、ペタペタと足音を鳴らし、洗面台へと向う。

 

 此処の鎮守府に配属されてから暫く経って、体もかなり馴染んで来た様だ。

顔を洗い、歯を磨き、髪を梳き、提督服に着替えた。

腕時計をして、帽子を被る。軽く伸びをしてから、扉に手を掛ける。

廊下の暗がりに出て、窓から朝の空を見遣る。まだ陽はのぼっていない。

雲の無い空も仄かに暗く、鈍い蒼に沈んでいる。ただ、よく晴れていた。

今日も良い天気になるだろう。少し廊下を歩き、外に出る。静かな朝だ。

何をするでも無く埠頭まで歩きながら、仄暗い空を見上げつつ深呼吸した。

こうして一人になると、色々と思い出して背筋に悪寒が走る。よく皆、無事だったものだ。

 

 

 

 空母棲姫、中間棲姫の二人によって、いや、正確に言えば、鎮守府前の沖に出没した“空母水鬼”を含む敵艦隊によって、前に配属されていた鎮守府を瓦礫の山に変えられた。

空母水鬼は何らかの術式を用いて、解体・弱化施術を施されていない空母棲姫を暴走させ、中間棲姫の意識を“海”の意志に繋ぎ、操り、工廠を制圧しようとした。

ただ幸いにも、自分も、召還した艦娘達達も、無傷とはいかないまでも、生き延びた。此処の鎮守府に居る二人の“元帥”の助けが無ければ、どうなっていたか分からない。

鎮守府の職員たちも、艦娘達の迅速な行動のおかげで、怪我人こそ出たものの死者は居ない。こうした職員達も他の鎮守府に配属されることになるとの事だった。

ひとまずはホッとしている。ただ不気味なことに、鎮守府を一つ失った責任の追求が未だに無い事が気になっている。

“野獣”から聞いた話では、この件に関しては、本営の上層部でも相当揉めたらしい。この事態を招いた一因として、武勲を餌にした、過熱した鹵獲推奨の流れが在ったからだ。

それに加え、鹵獲して来た個体に、他の深海棲艦の個体が干渉してくる事態は初めてのことでもあった。

 

 『まぁ、今回は誰が悪いとかじゃかくて、深海棲艦側が新しい力を身に付けて来てたって感じだから。御咎めが無いのも、ま、多少はね?(隠れ潜む脅威)』

野獣は軽く笑いながら言っていたが、これは深刻な問題になり得るのでは無いか。深海棲艦を配下に加え、運用しようとしているこの鎮守府では、特に。

私はそう思ったが、杞憂だった。野獣に不安そうな様子が無かったのも、“彼”が既に対策を取っていたからだった。

 

 彼は、配下に迎えた深海棲艦達に、“ロック”を掛けていた。他者から、精神的な干渉を防ぐプロテクトを構築しているのだ。

本来、この“ロック”の効果は艦娘のみを対象に取るものだが、既に彼は、それを深海棲艦にも応用可能にしていた。

彼の扱う術式は、どれもこれも精緻、精妙、精巧で、対象に取られた者には抗い難く、阻むことも解くことも他者には難しい。

この鎮守府に居る深海棲艦の自我や思考、意志や魂は、“海”の神ですら触れ得ない程に固く、彼に守られている。

同時に、彼女達に反抗の動きが在れば、遠隔であろうと解体術式を適用させる為の、起動術紋の刻印処置も施されていた。

優れたシャーマンである彼は、深海棲艦達の肉体機能を完全に掌握し、生殺与奪の立場に在る一方で、深海棲艦達の意志を敬っている。

こうした対策を用意しているのも、深海棲艦の運用を本営に認めさせる為だったのだろう。そして、その目論見は成功している。

 

 

 私が以前居た鎮守府に拘束されていた、空母棲姫、それから中間棲姫を曳航すべく、送られて来た艦隊には、運用テスト段階であったレ、ヲ級が編成に組み込まれていた。

彼は、白く巨大な艤装獣を召喚しながら本営と情報を共有していた。そして、緊急である事を伝え、レ級の単独行動の許可を要請し、その了承を得ていた。

本来ならば、深海棲艦を単独で動かすことなど許されるはずなど無い。緊急であったことと、彼により、レ級達の肉体と力に枷が掛けられて居るからこそだろう。

上位個体である空母棲姫、中間棲姫、空母水鬼の三体が絡む事態だった故に、本営も状況を重く受け止めたに違い無い。

彼から“ロック”の処置を受けているヲ級は、空母水鬼の扱う術式の影響を受けず、他の艦娘と共に敵艦隊を撃退することに成功している。

鎮守府に残り、追い詰められた私達を助けるために動いたレ級も、清霜を守ってくれた。以前は敵だったとは言え、感謝せねばならない。

深海棲艦に鎮守府を襲われ、また、深海棲艦によって仲間を助けられた訳だから、何だか妙な話だ。

空母棲姫、中間棲姫に二体も、現在は彼の保護下にあり、この鎮守府傍に設立された研究施設に預けられている。

空母水鬼については逃亡を許してしまったそうだが、撃退しただけ御の字だろう。誰も欠ける事無く、今が在るのだ。充分である。

 

 

 つらつらと考えていると、埠頭に着いた。

溜息を吐き出しながら、朝靄の先に広がる、暗い水平線を見詰める。

波の音が近く、遠くに聞こえる。揺れる水面に、空の暗い蒼が影を落としていた。

もう暫くすれば、あの渺茫無涯の果てから、陽が昇る。そして、また沈む。

巡る時の中で吹き溜まる業と縁に、人は急かされ、自然の摂理を超越すべく足掻いている。

 

 深海棲艦の顕現が意味するものとは、こうした人類に対する、自然からの一種の教育なのでは無いかとさえ思える。

どれだけの力を得ようが、人類の企みが自然に対抗し得ることなど無いのだと。深海棲艦という分かり易い脅威を用いた、実物提示教育だ。

人間の創造力には限界が在るが、自然界に宿る可能性には限界が無い。人類には艦娘という抵抗の手段が在るが、勝利が存在しない。

笑える話だ。いや、逆だ。笑えない。潮風の匂いを吸い込み、もう一度、息をゆっくりと吐きだした。

 

 

 あの時。

 中間棲姫を媒介として顕現した、暗紅の積層型立体陣から、“声”が聞こえた時。

 

 球磨や多摩、北上に大井、野分や磯風、それから秋月が見守る中。あの場に居た誰もが度肝を抜かれた。彼は、立体陣を右腕で殴りつけた。いや、違う。

深紫の揺らぎを羅のように羽織った彼は、“海”に何か言葉を返しながら暗紅の積層術陣へと歩み寄り、その右腕を突き入れて見せたのだ。

その刹那、彼の纏っていた深紫の陰影が、濁った墨色に燃え上がった。のぼり雨のように揺らぐ陰影は、艦娘達の影を象り、彼の体から溢れた。

亡霊の群れだ。朧な光で編まれた艦娘達は皆、叫んでいた。仲間を返せ。誇り返せ。私を返せと。声成らぬ声が木霊した。

艦娘達の集団霊に囲まれ、私は悲鳴を上げてしまったかもしれない。周りに居た野分達は、立ち尽くすと言うよりも、呆然としていた。

まるで、御伽噺の中に居るような非現実さに、眼を奪われていた。その時の自分の様子は、よく覚えていない。余裕が無かったからだろう。

だが、積層術陣の向こう側から、墨色の微光を掴んで引き摺り出した彼の冷静な無表情だけは、嫌に印象に残っている。

この世に非ず、法則や道理の及ばない場所に、彼は片腕を突っ込むだけで無く、其処に在る秘儀や神秘とでも言うべき何かをぶっこ抜いて来たのだ。

いや、或いは、何かを捧げたのか。それとも、“海”に何かを差し出したのかもしれない。

それからすぐに、積層術陣は消え失せた。彼も、掴んだ墨色の揺らぎを握り潰し、砕けた微光の粒子を、その右腕に取り込んだ。それからすぐに、艦娘達の集団霊も霧散する。

現実が還って来る光景に、誰も言葉を発することが出来なかった。ほんの少しの静寂の後。「先輩に続きましょう」と。彼は、何事も無かったかのように微笑み、頷いて見せた。

今思い出してみても、何だかとんでも無い状況だったと思う。事実は小説よりも何とかとは、よく言ったものである。

いや。艦娘や深海棲艦の存在も、非現実的と言えば非現実的だから、今更なのかもしれない。

不可思と未踏の果てからやってくるものを、ただ受け入れて来たから、そういう感覚が麻痺しているのだろう。

 

 それは、軍属で無い社会の人々も同じだ。艦娘や深海棲艦の存在も、今では当たり前のものになっている。

人類が劣勢に在り、すぐ傍まで滅びの足音が来ていた頃とは違い、今では、深海棲艦の存在を、何処か遠くに感じている者も少なく無い。

同時に、傍観者で居られる幸せを享受出来ることを、艦娘達に感謝している者も多い。艦娘達への親近の情を持っている人々も確かに居る。

 

 そうした人々の声に応えるポーズとして、此処の鎮守府でも“鎮守府祭”を行う事になった。本営より通達が在ったそうだ。しかも、それなりに大きな規模で開くらしい。

鎮守府を一般に開放し、一般市民と艦娘達との交流を主な目的とした行事であるが、人格を持った艦娘がこれだけ居る鎮守府なら、本営から指示が来ても納得できる。

今日は、彼にも野獣にも大きな予定は無く、この鎮守府祭に向けての会議を行うと聞いている。勿論、私も出席する事になっている。

深呼吸をしようとして、溜息が漏れた。どうなる事やら……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会議は、野獣の執務室で行われることになった。

野獣の執務室は、バーや耳掻きサロン、キッチン、果ては風呂やら和室などの行き過ぎたスペース拡充の所為で、職務機能が欠乏するという戯けた事態に陥っている。

本営上層部の人が視察に来たりしたら卒倒するような間取りだし、実際、私も初めてこの執務室に足を踏み入れた時、驚きを通り越して感動したものだ。

ちなみに、その時に一緒だった木曾は、“耳掻きなんぞの為に、こんなスペースが必要か?”と不用意な発言をしてしまい、だったら試してみたらという事で、耳掻きの洗礼を受けた。

「うぁあっ……! ひぃっ……、や、止めっ……! 許してsay許し、ああぁっ!!? お、俺にも見えるぅっ……!! 」あの時、木曾が何を垣間見たのかは、永遠の謎だ。

艦娘の肉体感覚に深く干渉出来る彼からの耳掻きは、想像を絶するという奴だったのだろう。今まで聞いた事の無い様な嬌声で喘ぐ木曾の姿は、今でも鮮明に覚えている。

まぁ、木曾であんな調子だったから、此処に居る艦娘達の中にも、苦い思い出を持っている者が居てもおかしくは無い。

会議室が別にあるんだから、会議はそこでやろうと言う案も在った。これは、今日の野獣の秘書艦であった長門の意見である。もっともな意見であった。

だが、会議室よりも野獣の執務室の方が広く、飲み物やら食べ物やらを用意しやすいという事で、結局、野獣の執務室で行われることになったのだ。

 

 現在。執務室の一角には、高価そうなソファテーブルがズラッと連なり、それを囲むようにして、鋲飾りも重厚なブラウンのソファが幾つも並べられていた。

テーブルの上には、お菓子の盛り合わせと、湯気を立てる紅茶がセットされていた。とんでも無く大掛かりな応接セットの様相を呈している。会議と言うよりお茶会だ。

時刻は午前10時過ぎ。今日は決めることも多いので、朝から晩まで、“元帥”三人が顔を突き合わせることになる。大袈裟に見えるセッティングだが、丁度良いのかもしれない。

 

 今、執務室に居るのは、ソファにゆったりと腰掛けて、既に缶ビールを煽っている野獣。その両隣のソファには、秘書艦である長門。

野獣の右向かいには彼が座り、その隣には秘書艦の高雄。私は野獣の左向かいに座り、隣にはファイルと万年筆を手にした野分が控えてくれている。

今日は非番の艦娘も多いのだが、一度に集まってしまっては意見を吸収するどころの騒ぎではなくなってしまうので、一旦、この面子で集まることになったのだ

あとは、司会進行役として大淀がもうじき来てくれることになっていた。今、全員の手元にある注意点などが纏められたファイルは、彼女が用意してくれたものである。

 

 鎮守府祭という行事は、人類が優位に立ってからは、各地で何度か開かれていた。

艦娘達が従順な存在であることをアピールしつつ、戦況がほぼ勝利に固まっている事を示唆するのが目的だったらしい。

当たり前のことだが、“捨て艦”として自我を破壊した艦娘達を表に出すなんて事は絶対に無かった。必ず、自我と人格を持った艦娘を揃えて行われた。

一般の人々を招き、その眼の前で『人類と艦娘達は手を取り合って深海棲艦と戦い、平和を取り戻しつつあるのだ』という、一種のポーズを取るのである。

実際の所は、裏で行われている艦娘を用いた人体実験や、“捨て艦”としての利用、深海棲艦の解剖など、黒い部分を覆い隠す為の、都合の良いイベントである。

 

 その為、鎮守府祭が持っている意味は大きく、本営から細かい指示が入ったりするものだ。だが妙なことに、この鎮守府にはそう言った細かい通達が無かった。

本営の上層部と繋がりがあるらしい野獣が、何らかの手を回したと見るべきだろう。鎮守府祭の展示物、出店などの出し物については、ある程度は野獣達に任せるという形だ。

勿論、決定案の報告は必要だし、あまりに無茶苦茶なものは通らない。“じゃけん、ギリギリを狙いましょうね~(卓絶の着想)”と笑って居た野獣も、理解している筈だ。

休憩所としての喫茶店や、食事処、来客者参加イベントなど、他の鎮守府でも行われたオーソドックスな案については既に本営を通し、了承を得ている。

その為の準備に取り掛かっている艦娘も多く、こうした活き活きとした艦娘達の御蔭で、既にこの鎮守府にはお祭りムードが蔓延していた。

 

 当日の案内やパトロールのシフト、展示する艤装や艦船の模型などの管理、その他細々とした内容についても決めつつ、艦娘達のアイデアを吸い上げようというのが今日の会議だ。

艦娘を何処に、如何いった役割で配置するか、彼女達の意見も聞きつつ、その為の時間のシフトなども決めねばならない。

 

「すみません。お待たせ致しました」 

暫くすると、落ち着いた声と共に、大淀が執務室に現れた。

理知的な雰囲気を纏った彼女は、野獣では無く、彼が召還した艦娘だ。

大淀は彼や野獣、それから私、続いて秘書艦全員に軽く礼をした。

場の空気は、僅かに引き締まるのを感じた。「よーし、OOYDも来たことだし、ボチボチ始めるかぁ!(酔い気味)」

真面目な会議が始まろうとしていたが、その出鼻を挫いたのは、ビールを煽りながら、やおら立ち上がった野獣だった。

「じゃあ、これ」野獣は執務室の隣に在るカウンターバーのスペースへ一人歩いて行って、何かをゴロゴロゴロっと移動させて来た。

 

 大淀の、知性溢れる穏やかな表情が強張った。

長門が貌を引き攣らせ、高雄が真顔のまま、眉間に深い皺を刻んでいる。

彼は特に驚いた様子も無く、柔和な表情を崩していない。

あの余裕は、野獣と付き合いが長いから慣れたのか。

それとも、感性が多少ぶっ飛んでいるのかのどちらかだろう。

私と野分は、口を半開きにしてポカンとしてしまった。

 

 それは大き過ぎる黒板だった。

学校などで使う黒板は横に長いが、野獣が移動させて来たクソデカ黒板も負けていない。

横もそうだが縦幅がかなり在り、野獣の足先から頭のてっぺんまで余裕で在るし、腕を伸ばしても上まで届かない位の大きさだ。

確かに、ネットで閲覧出来る本営の公式ページには、黒板を模したボックスにアナウンスが表示され、その隣にチョークを持った大淀が表示されていたりする。

 

 だが、わざわざそれを再現する必要性については、首を傾げるところだ。「妖精に作ってもらったんだよ。お前の為に(優しさ)。 嬉しいダルォ?」

野獣は大淀に向き直り、微笑んで見せた。大淀は思いっきり困惑した表情になって、野獣の微笑みと、用意されたクソデカ黒板を見比べる。

それから、「いや、あの……、えぇと、あ、ありがとうございます(擦れ声)」と、取りあえずというか、仕方無しと言った感じで、礼を述べた。

その後、長門が、妖精達に要らぬ苦労を掛けさせるなと喚きだしたが、野獣が『か゛わ゛い゛い゛でち゛ゅ゛ね゛ぇぇぇ!!』と言ってみせると、すぐに静かになった。

悔しげに唇を噛み締めながら俯き、右手で頭を抱えつつ「くそ……ッ!!」と、心底忌ま忌ましそうな言葉を漏らしている辺り、きっと何か弱みでも握られているんだろう。

 

「何だよNGTァ! ホラホラ、もっと元気してホラ!

 お前にぴったりのイベントも考えて在るんだからさ!(仕組まれた生贄)」

 

「……碌なもので無いことは眼に見えているな。

 貴様の思い付きでは動かんぞ。一応は、本営からの許可と指示に従う流れなのだからな」

 

「おっ、そうだな!(余裕の笑み)

って言うかさ、かなり挑戦的じゃなぁい? その態度?」

 

 大淀は、このままだと野獣に場を混ぜっ返されてしまい、話が始まらないと踏んだ様だ。

コホンと一つ咳払いをして、小脇に抱えていたファイルを開きつつ、全員を見回した。

「そ、それでは、会議を始めさせて頂きたいと思います」引き攣った笑みを浮かべつつも、大淀は冷静だ。

チョークを手にクソデカ黒板に議題項を書き出しながら、大淀が何とか流れを作ってくれる。

 

 

 彼女の進行は澱みが無い。それに加え、先程の様子と比べて不穏なくらい大人しくなった野獣が、余計な茶々を入れない所為で、スムーズに会議が進んでいく。

細々とした議題項については粛々と決まっていき、艦娘達がどんな出し物をするか、その中身を考える段階になった。此処での意見は、まだ決定では無い。

本営に報告、協議を経て、許可が必要になってくる。ちなみに、もう決定している出し物は、食堂の開放と艦娘達の出店、休憩所としての喫茶店、豪華景品在りのくじ引きなど。

あとは、来客参加型のイベントが数種類である。こうした其々カテゴリーに配属する艦娘と、その内容を決めていく段階になって、会議にも一旦、小休憩が入った。

 

 休憩を挟むということで、大淀が紅茶とコーヒー、お茶を用意してくれる。

何か手伝おうとする野分や長門、高雄に、「大丈夫ですよ」と微笑んでいた。

野獣は一人、新しいビール缶を何処からとも無く取り出して、プシュッと開けている。

秘書艦の長門が注意すらしないのは、既に諦めているからなのだろう。

本営での会議でも、容赦無くビールを呷り、ラーメンを啜る野獣の事だ。

自分が配属されている鎮守府の会議など、ピクニックみたいなノリなのかもしれない。

「ねぇ野獣。そんなにビール呑んで太らないの?」 ちらっと聞いてみる。

 

「大丈夫でしょ? 

 ちょっと健康診断で引っ掛かりかけたけど、ヘーキヘーキ!

 血管と内臓年齢が、1145141919810364364歳って診断されちゃってさぁ!(半笑い)」

 

「何処の大精霊よ……」

 

「違うよ。俺はね、神様。

 二日酔いでゲロった俺の吐瀉物が大宙に昇り、満目に輝く星空になったんだよなぁ(遠い目)」

 

「汚すぎィ!!? そんな神話クラスまで誇張しなくて良いから……。

 まぁ、しょっちゅう呑んでる割に、よくその身体を維持出来るなとは思うけどね」

 

 ソファに座ったままの野獣が笑った。

 

「どうだよ?(誇らしげ) トレーニングは続けてるし、ま、多少はね?

 最近、お腹が河岸段丘みたいになって来たTKOも、見習ってくれよなー(挑発)」

 

 上品な様子で紅茶を啜っていた高雄が、盛大に噴き出した。

野分も噎せて、大淀が飲んでいたコーヒーで溺れかける。大惨事だった。

湯吞みで緑茶を啜っていた長門は、何も言わず、さっと自分の腹部に触れていた。

ちょっと気になったのだろうか。私もお腹に触れてしまう。

座り仕事が多いと、まぁ、どうしても……。苦い貌になるのを堪える。

「だ、大丈夫ですか?」と、心配そうに言う彼に背中を擦られながら、高雄はゲッホッゲホと一頻りやった後、猛然と立ち上がった。

 

「そういうのを提督の前で言うのは止めて頂けませんか!?

 何ですか河岸段丘って!? 私のお腹は、そんな段々になってませんよ!」

 

「嘘吐け、絶対に荒々しい隆起が在るゾ。

 腹はケスタ地形で、胸はモナドロックとか、これもう分かんねぇな(地学苦手先輩)」

 

「私が凄い勃起乳首みたいな言い方はNGですよ!! 止めて下さいよ本当に!!」

 

「んにゃぴ、健康が一番ですよね……(急ぎ過ぎた結論)」

 

「聞いてます!!?」

 

「あっ、そうだ(唐突)。

 おい、OOYDァ! お前、『よどりん☆ジャンケン』の振り付け覚えてきたかぁ?」

 

 激昂する高雄を放置して、ソファに座ったまま足を組みなおした野獣は、大淀に向き直る。

突然の事に、高雄だって“え、何それは?(困惑)”みたいな貌で、大淀の方を見ている。

無論、長門と私だってそうだ。やたら広い執務室が、不穏な程に静まり返った。

穏やかな表情を浮かべてコーヒーを啜り、この状況を見守っているのは彼だけだ。

もしかしたら彼には、この災禍の渦に揉まれる現状が、談笑にでも見えているのかもしれない。

 隣の野分が、「あの……、指令。よどりん☆じゃんけんって何ですか?(小声)」と、聞いて来た。

そんな事、私に聞かれても。「いや、知らないし……」としか答えようが無かった。

野獣の視線を受け止めた大淀も、「私も初耳なんですが、それは……」と、震えた声で答えている。

 

「あ、そっかぁ……。そういや伝えるの忘れてたなぁ……(すっとぼけ)。

 祭りを盛り上げる為に、追加で企画報告上げといたからさ。ホラ、見ろよ見ろよ」

 

 ワザとらしく、“しまったなぁ”みたいな貌をして見せた野獣はソファから立ち上がり、執務机の引き出しから書類の束を取り出し、それを全員に配った。

追加企画案と記されたその書類には、『ふれあい・ながもん』『喫茶・カフェヲレ』『元気一杯!!駆逐艦マイクロビキニ運動会!!』などという協議要請が記されていた。

内容も細かに記入されている。信じられないことに、項目の隣には、“認”という押韻が在るものもチラホラ。

その中には『よどりん☆じゃんけん』の項目もちゃんと在った。全員が、その企画書を見詰めて押し黙る。

静まり返る執務室の中、深刻な表情をした大淀の、スゥゥーーーー……、という、歯の隙間から息を吸い込む音だけが響いている。

 

「この内容、まんまで提出したの?」私は恐る恐る野獣に聞いた。

「そうだよ(笑顔)」という、爽やかな返事が返って来た。

「え、何? 馬鹿?(辛辣)」思わず、私も聞いてしまった。

私の隣で絶句していた野分が、「このひと頭おかしい……(小声)」と戦慄した様に呟いていた。

長門と高雄の二人は、戦慄も怒りも通り越して、「またこんなのかぁ、壊れるなぁ」と、しんみりした様子だ。

 

「失礼じゃなぁい? その言い方ぁ(半笑い)。一応、案は通ってるんだからさ! 

人数と賞品が揃ったら、単純なジャンケン大会でも結構な娯楽になるって、それ一番言われてるから。

振り付けに関しては、ソイツに聞いて、どうぞ」

 

 野獣はひらひらと書類を振って見せてから、彼の方を視線だけで見た。彼は野獣に頷いて見せてから、懐から携帯端末を取り出す。

「先輩が考えてくれたイメージを、映像にしてみました(無慈悲)」 優しげに言う彼は、短い操作を行った後、端末を皆に見えるように持ち替えた。

その大画面・高精彩の携帯端末のディスプレイに、大淀の全身が映し出された。実写じゃない。とんでも無い完成度の、3Dモデルだった。

全員が、悲劇の予感に身体を強張らせるのが分かった。だが、全員の心の準備が始める前に、画面の中の3D大淀は、気持ち悪いぐらい滑らかに動き出した。

同時に、ポップでキュートな音楽が流れると共に、キラキラとした星屑のエフェクトが、3D大淀を包み込んだ。日曜日の朝にやっている様な、女児アニメのノリである。

『よーし、勝負だー☆ よどよどよどりんッ☆ じゃん、けん、ポン☆』という、楽しそうに弾んだ可愛らしい掛け声に合わせて、3D大淀が軽く踊ってターンを決めた。

この場に居た全員が、「うわぁ……」みたいな表情になる。現実の方の大淀は白眼になって、その眼鏡にヒビが入った。だが、まだ悲劇は終わっていなかった。これからだった。

 

「その続きがこっちだゾ」と。半笑いの野獣も端末を取り出し、ディスプレイを此方に向ける。動画が再生されていた。何だか、ちょっとイヤらしい感じのBGMが掛かった。

危険を察知したのだろう。ソファから素早く立ち上がった高雄は、隣に居た彼に、両手でサッと目隠しした。私も、野分に目隠しでもするべきだったのだが、反応が遅れた。

『あっ、負けちゃったぁ☆ うふふ、じゃあ、ちょっと待って下さいね』さっきまでの明るい雰囲気とは一転して、画面のエフェクトが、淫靡な薄ピンク色とハートに代わる。

3D大淀は此方を誘う様な流し目を送りつつ、唇の端をチロッと舐めた。そして、スカートを穿いたままでゆっくりと腰を揺らし、両手でスルスルッと下着を下ろして見せた。

紫色でスケスケの奴だった。一同が、えぇ……(困惑)となる中、扇情的な仕種を続ける3D大淀は、綾取りのように脱いだ下着を持って、くすっと艶美に笑って見せる。

『どうですか? もう一勝負……?』 同姓でも心臓が跳ねる程に艶があり、蕩けるほどに甘い声音だった。其処で一旦、動画が停止する。

野獣が止めたのだ。シークバーの長さ的に、まだ続きが在るようだが、見ない方が良いだろう。

 

 大淀は、ソウル●ェムが壊れたみたいな貌で、野獣の持つ端末を見詰めていた。

 長門も、気の毒そうな貌のまま、大淀と野獣を見比べている。

 

「えぇと、あ、あの……高雄さん?」

 

「ぬぁっ!? お、ぉぁ、はい、失礼致しました! 

ただ今、少々有害な電波を感知しましたので、提督の眼をお守りすべく、ぁ、あの……!」

 

「あぁ、そうだったんですか。すみません。いつも有り難う御座います」

 

 慌てて彼の眼から手を放した高雄と、柔らかい微笑みに天然ボケを混ぜる彼の遣り取りが、やけに遠い。

私も何か言おうとしたが、止めた。上手い言葉が見つからない。隣の野分も赤い貌で俯き、何も言わない。

 

こ の現状を作り出した野獣は、一同を順番に見てから、頷いた。

 

「よし!!(ゴリ押し)」

 

「(よし!! じゃ)ないですよ!?」 

 

大淀の精神が帰って来た。

 

「最初のきゃぴきゃぴしたジャンケンも大概ですけど、

何で負けたらショーツを脱ぐ必要なんか在るんですか(正論)!?

これじゃ多対一の野球拳じゃないですか!? 絶対に私が裸になる流れですよね!?」

 

「そうだよ(首肯)」

 

「そ、そうだよっ!? 認めましたね!? やりませんよ!!」

 

「流石に冗談だゾ。普通に“よどよどよどりんっ☆”ってやってくれたら良いから。

 ビンゴ大会とか、景品絡んでるのに同位者複数の時とかにも、パパパッとやって、終わり!」

 

「絶対に嫌です!!(蒼き鋼の意志)」

 

「あ、そっかぁ。

俺達が丹精込めて作ったOOYDの3Dモデルも、必要無くなったなぁ(分析)。

じゃあ折角だし、供養代わりに(ネットにモデルデータ)流しますね……(無償配布)」

 

「えっ」 大淀の、というか、彼を除くこの場に居た全員の顔が歪んだ。

 

「振り付け覚えてもらう為に作ったけど、

“中身”まで完璧に再現しちゃってもぅ、こっちの穴(意味深)なんかさぁ、凄いんだぜ?

お前らも、見とけよ見とけよ~(公開処刑)」

 

言いながら野獣が携帯端末をポチポチと操作すると、画面の中に居る3D大淀が、ウィンクをしてから踊り出し、上着を脱ぎ出す。ストリップが始まった。

「あーーッ!! 駄目駄目駄目っ!!!」流石に大淀の顔から血の気が引いて、私達に見えない様に大慌てで野獣の持つ携帯端末を手で隠そうとした。

だが、それをさせまいと、野獣が携帯端末を持ったまま頭上に上げる。野獣の方が上背が在るので、必死に手を伸ばしたり、ぴょんぴょん飛ぶが、大淀では端末まで届かない。

完全にいじめっ子だ。そうこうしている内にも、画面の中の3D大淀は次々と景気良く服を脱いでいく。現実の方の大淀が半泣きになった。

 

「あっ、あっ! あのっ! 分かりました! やります! やらせて下さい!! 

お願いします! わっ、わたし、よどりん☆!! ジャンケン大好きィ!!(必死)」

 

「お、頼めるかな?(信頼)」

 

「やりますやります!(喰い気味)」

 

悲鳴染みた大淀の魂の叫びが届いたようで、野獣は携帯端末を下ろしてくれた。

 

「ちょっと向こうで練習して来ても良いゾ。

まぁ、簡単な振り付けだし、大淀だったら余裕でしょ?(慢心)」

 

 野獣は言いながら、短い操作を終えてから、端末を大淀に手渡す。

大淀の方は、もう遣る瀬無いといったふうに項垂れつつ、「はい……」と答えた。

それから、とぼとぼとバーカウンターの方へと去って行った。

後に残されたクソデカ黒板が、哀愁と同時にシュールさを漂わせている。

その大淀の背中を見送り、彼は何だか誇らしさを感じているような、深い頷きをして見せた。

「大淀さんは積極的で、エネルギッシュなところも尊敬しますね」 彼は微笑んでいる。

彼の目は節穴なのか、それとも馬鹿なのか。天然であるならば、尚更性質が悪い。

 

私だけでなく、長門や高雄、それから野分の非難するような視線を受け止める野獣は、疲れ切ったような大淀の背中を何も言わずに見送ってから、私と野分を交互に見た。

「ちょっと大淀が抜けるだに、休憩が明けたら此処は一つ、NWKに司会役をやって貰わねぇか?」 野獣が笑顔を浮かべたあたり、どうやら野分には拒否権は無さそうだった。

 

 

 

 

 休憩が終わり、会議が再開される。クソデカ黒板の隣に立った野分は、居心地の悪そうな貌でチョークを持ち、困惑した様子で議題項を書き足している。

書き足される議題項は、勿論、野獣が追加で提出した企画書の内容であり、認可を得ていないものも、取りあえずといった形で、野分が丁寧な字で記していく。

決めることが増えてしまったが、野獣が上げて認可を得たという企画も、あくまで認可の段階だ。行うか否かについての判断は、此方の自由である。やらないのも手だ。

あれもこれもとやってしまえば、人手も準備時間も足りなくなってしまう。娯楽の側面の強い出し物についても、今までも割と慎重に議論を重ねていた。

何処までやってOKで、どこまでやったらOUTなのかを、見極める必要が在ったからだ。だが、まだ時間にも人員にも余裕が在り、取捨選択の余地は残されている。

 

 

「あの、これで一応全部ですが……えぇと」

野分は一通り議項を書き終え、若干引き攣った貌のままで、集まった面々を見回した。

黒板に書き出された内容を見て、一同も言葉を失っている状態である。

そんな中、野獣はソファから立ち上がり、野分の隣に並んだ。

 

「真面目な部分については大体決まったし、

後は、どんだけ遊び心を詰め込めるかっちゅうのも、会議の……内や(仕事人)」

 

「一理在るが、ちょっと待て。『ふれあいコーナー・ながもん』とは何だ?」

 

 危険を察知したのだろう。いの一番にドスの利いた声で野獣に聞いたのは、長門だった。

私も気になって居た。渋そうな貌で野獣の方を見遣った高雄だってそうだろう。

野分がハラハラとした様子で、野獣と長門を見比べていた。居心地も最悪に違い無い。

穏やかな貌の彼は、何かを思案するように顎に手を当てながら、黒板を見詰めている。

 

「字のまんまだゾ。休憩できる喫茶スペースの隣で、

NGTにはこの鎮守府のマスコットキャラになって貰ってさ、子供達と戯れて貰うから。

一応、YMTとかMSS、それからMTも応援に来てくれるから、へーきへーき」

 

 野獣は言いながら、長門に微笑んで見せた。

 

「取りあえずキャラ作りの為に、

これから暫くは語尾に“もん”つけよっか、じゃあ(演技指導先輩)

ゴリラの着ぐるみも、そろそろ出来る頃だしさ、よしっ! 決まり!」

 

「ふざけるなよ貴様。

そもそも、野分が書き出してくれた内容については、認可の段階だろうが。

私本人の意志と協力が無ければ実現できんのだ。

余り無茶苦茶な企画など、考えるだけ時間の無駄だぞ」

 

 長門はぴしゃりと言い放ち、ふんと鼻を鳴らして見せた。そりゃそうだろう。

このイベントは、艦娘が居て、その協力が在ってこそ意味があるのだ。

だから、マイクロビキニ運動会など、実現する訳が無い。

 

 艦娘から総スカンを食らうような企画など、確かに時間の無駄である。普通の鎮守府なら。

火傷をする様な内容の癖に、断ろうとする艦娘達の弱みを既に握っているのが、この野獣という男だった。

「あっ、そっかぁ……(王手)」と残念そうに呟いた野獣は、今度は別の携帯端末を海パンから引っ張り出して、長門に見せた。

長門が真顔のままで呻いた。ついでに、絶望したように表情を歪めた高雄が、顔を手で抑えて天井を仰いだ。私は、変な笑い声が漏れそうになるのを堪える。

野獣がこちらに見せた携帯端末の画面には、今度は3D長門と、3D高雄が表示されていた。どちらも凄い完成度で、何故か二人共、際どいV時の紐水着を着ている。

高精彩ディスプレイの所為で、何か、色々見えて無い? 中身と言うか……。見え……。見え……。私は思わず、ディスプレイを凝視してしまう。

野分は、ちょっと恥ずかしそうに俯いてそっぽを向き、何も語らない。黙っている。まぁ、何か言おうものなら大火傷必至な状況だ。

彼は、端末の映像には気付いて居ない。落ち着いた様子で、配られたファイルに眼を落とし、何かを思案している。長門と高雄にとっては命拾いしたと言うべきか。

 

「お前は知名度も在るし、ただでさえ強力な艦娘なんだから。

一人ムスッとして腕組んでたら、遊びに来た客が皆怖がっちまうダルォ?」

 

 野獣は携帯端末を仕舞いながら、肩を竦めてながら軽く笑って見せた。

 

「お前も笑顔が似合うんだから、こういう時は、もう良いから笑っとけ。

 それだけで華が在るし、印象も変わって来るんだ。折角の美人が台無しだゾ(気障先輩)。

 な、お前もそう思うよな!?」

 

声を掛けられた彼は、すでに顔を上げて、野獣と長門を見比べていた。

 

「最初は僕も、長門さんは、少し“怖い方”だと思っていました。

 でも、先輩と居る時の長門さんは、凄く表情も豊かで、

少し失礼な言い方かもしれませんが、その……、“可愛い方”だと思うようになりました」

 

 ソファに座ったまま、少し姿勢を正した彼は、ふっと柔らかい微笑みを口許に湛えて、目許を優しげに緩めて見せる。

眼帯をしていても、十分過ぎる程の無垢な魅力と、微かに香るような色気が滲んだ微笑だった。魔性と言っても言い。不味い。変な気分になりそうだ。

頬をさっと朱に染めた野分も、彼から眼を逸らしつつ、小さく唾を飲み込んだ。高雄は何処か苦しそうに、俯いて溜息を堪えている。

「むぅ……、しょ、そうか」と、掠れた声で噛みながら言う長門も、赤い顔でそっぽを向いている。気持ちは分かる。ああいう不意打ちは卑怯だ。

 

「それじゃ、NGT。もう今日から役作りしといてやれよ?(イケボ)」

 

「わ、わかった……もん」

 

「あぁ、何? コイツとにゃんにゃんしたいって?(聞き間違い)」

 

「ち、ちが……! 違うもん! そんな事は言ってないもん!」

 

「よし!! じゃあ、TKOも、語尾に何か付けろ(飛び火)」

 

えぇっ!? と、迷惑そうに声を上げた高雄は、助けを求めるように彼を見た。

その彼は、「いいかもしれませんね」などと言って微笑んだので、高雄が半泣きになった。

 

「もうさ、“ごわす”とかで良いんじゃない?(投げやり)」

 

「ちょっと!! いい加減にしないと、オチン●ンぶっ潰しますよ!?(気炎万丈)」

 

 真っ赤な貌の高雄が吼えて、野分と長門が噴出して、私も咳き込んだ。

彼はよく聞き取れなかったのか。ちょっと怪訝な貌で、高雄と野獣を見比べている。

もう会議をするような空気じゃなくなってしまったが、まぁ、良いか。

まだ時間は在る。こういうすっとぼけた馬鹿騒ぎの中に、得難い日常の妙というものが在るのかもしれない。

そんな風に、ちょっとしみじみと思いかけたときだった。執務室の扉がノックされた。「お、入って、どうぞ」野獣が、扉の向こうに声を掛ける。

何人かの足音が入って来る。ソファに座ったままで、私は扉の方へと向き直って、思わず「わぁっ」と、小さく声を上げてしまった。

吼え猛っていた高雄や野分、それから長門も、同じ様な様子だった。

 

 ビスマルクと、プリンツ・オイゲン、それから、最近になって召還されたU‐511だった。

三人とも、彼が召還した艦娘達である。この鎮守府には、レーベとマックスも居た筈だ。

彼女達はドイツ衣装に身を包んでいるのだが、それが滅茶苦茶可愛くて似合っていた。

 

 テレビでやっていた、ドイツのビール祭りなどで見た事のある衣装だ。

ディアンドルと言う奴か。此方に敬礼してくれている三人とも、物凄く似合っている。

長身美人のビスマルクは勿論、幼い顔立ちのプリンツも、スタイルの良さが際立っていた。

少し恥ずかしげなU‐511も、普段の儚げな雰囲気が和らぎ、可愛らしさが前面に出ている。

ただ、ビスマルクとプリンツは、引き攣った様な貌で、頬を僅かに朱に染めていた。

U‐511はそうでも無いのだが、何だが気まずそうな感じだった。

多分、高雄が大声で吼えた、おちん●んぶっ潰す宣言が聞こえたのだろう。

 

「なんだお前ら? もうお祭り気分か?(呆れ)」 

ソファに深く凭れ掛かりながら、野獣が溜息混じりに言う。

 

「何その言い草!? 

衣装が出来たら着たままで見せに来いって言ったのは貴方でしょ!?」

 

ビスマルクが憤慨する。その隣に居たプリンツが、苦笑を漏らしながら、敬礼を解いた。

それから、衣装の仕上がりを見せる様に、スカートの裾を広げた。

 

「一応、こんな感じで衣装は出来ました。

基本のサイズは、私達が着ているこの三種類になります。

微調整しながら、これから人数分の数を揃えようと思うんですが、ど、どうでしょう?」

 

いつもとは感じの違う格好に、照れ笑うようにはにかんだプリンツは、凄く可憐だった。

「とても良く似合っていますよ。凄く魅力的です」 彼も笑みを零し、三人を順番に見遣る。

その彼の真っ直ぐな言葉に、「もっと褒めても良いのよ?」と、ビスマルクは腕を組んで誇らしげだ。

プリンツも、口許が綻ぶのを堪える様に、頬を人差し指でかきながら俯いた。U‐511は、「ダンケ……」と、儚くも嬉しそうな笑みを浮かべている。

 

 彼女達には鎮守府祭当日、ドイツビールのコーナーを仕切って貰う予定である。

これは野獣の案で、アルコールを振舞う許可については、もう本営から得ているらしい。

ついでに、医療・救護の為のスペシャリストチームや、ドクターヘリの待機なども本営に要請し、その協力を取り付けて在るそうだ。

この鎮守府には、救急病院と同じだけの機能を持った医務室も在るし、余程の事が無い限り対処出来るだろう。

こういう周到さが、飄々とした野獣という男の得体の知れなさを感じさせる。

とは言え、アルコールを扱う許可も得ているので、休憩所としての喫茶スペースはとにかく、食事処などでは結構などんちゃん騒ぎが予想できる。

それを捌く為には人員が必要になる。そして、その人数分の衣装準備を始めてくれているのが彼女達だった。

 

「なかなか良い感じじゃん?(上から目線)

 あとは、接客だな。もうお前らは日本語も完璧な感じなんだ? じゃあ?」

 

「あ、あの……。ゆーは、まだ……。す、少し不安なところが在ります……」

 

恐る恐ると言った感じで、U‐511が手を挙げた。

 

「その、まだ……日本語の訛りに馴れなくて……。

 黒潮さんの話言葉なら聞き取れます。……でも、早口の人だと、難しい……です」

 

「訛りがキツイお客さんが来たりしたら、ちょっと困るかもしれないわね。

 まぁ、注文を取ったりする程度のコミュニケーションだし、大丈夫だとは思うけど……」

 

 不安が無い訳では無い。アルコールが入った客から絡まれる可能性だって在る。

例え人間の肉体を超える艦娘の力を持っていようとも、U‐511は見るからに気弱そうだし、声だって掛け易いだろう。

そういう時こそ憲兵の出番では在るのだが、せっかくの祭りだ。トラブルは回避出来るに越したことは無い。

 

「それに……分からない単語も、まだ、少し在って……。

 さっき高雄さんが仰っていた、……その、“おちんち”って、単語も、初めて聞きました」

 

 いや確かに、大声で叫んでだけどさぁ……。高雄の頬が、羞恥にさっと染まった。

ビスマルクはU‐511に何か言おうとして、止めた。恐らく、大火傷をするだろう事を察したのだろう。

プリンツの方は顔を真っ赤にして俯いた。困り果てた様な野分と眼が合った。……何よ。そんな顔で見詰められても、どうしようも無いわよ。

フォローと言うか、軌道修正の仕様が無い。ただでさえ場の空気が凍り付いているのに、彼が不思議そうな貌で、「え、オピンピン?(純真)」と聞き返した。

そういえば、彼も高雄の言葉を聞き逃してたなぁ……(余計な火種)。この状況を、野獣が、黙って見ている筈が無かった。

 

「おいTKOァ! ティンポって何でごわすよ?(トドメの一撃)」

 

「野獣止めるもん! 混ぜっ返すんじゃないもん!!」 

赤い顔をした長門が、野獣にストップを掛ける。

だが、もう遅い。U‐511は、真剣そのものと言った貌で高雄を見詰めていた。

高雄は、困り果てた貌で視線を彷徨わせている。下手な事は言えない。

 

 高雄に向けられたビスマルクとプリンツの縋る様な眼差しは、どうか上手く誤魔化してくれと、言外に懇願している。

「あの……、教えて下さい。もっと、日本語の事……知りたい、です」というU‐511の言葉に、そんなの知らなくて良いから(良心)と、全員の心が一つになったと思う。

暫くの膠着状態が続くかと思ったが、別にそんな事は無かった。「あ、そうだ!(生贄の選定)。NWKは知ってるかな?」野獣が、野分の方を見た。

 

 もじもじしていた野分の表情が、今まで見た事ないくらいの驚愕に歪んだ。

野分は私の初期艦で、普段は真面目で冷静な、頼りになる駆逐艦だった。

「え、えぇ!? わ、私ですかっ……!?」あんな取り乱した野分を見るのは初めてだ。

U‐511が野分の方を見た。ターゲットが外れた高雄は、凄く申し訳なさそうな貌で野分を見詰めている。

野分は眼を泳がせながら、必死に思考を巡らせている。そして、覚悟を決めた様だ。ふぅ、と軽く息を吐き出した。

真面目な貌に戻って姿勢を正し、背筋を伸ばして、U‐511に向き直った。それから、チョークを持って、クソデカ黒板に絵を書き始めた。

この野分の行動を、この場に居た誰が予想出来ただろう。流石に、さっきまでは面白がっていた野獣も面食らうというか、鼻白んでいた。

 

 大胆で、それでいて繊細なタッチで描かれたのは、勿論、あれだ。

しかも、通常形態(意味深)、戦闘モード(意味深)の二種類が描かれている。

更に、正面と、横からの視点で描かれている。計4本だ。しかし、絵上手いなぁ。

チョーク一本で、男性の持つ肉感、力強さ、滾る血潮の熱さが伝わってくる絵だった。

しかも無修正。そういえば、秋雲の手伝いを良くしていたらしいが、練習してたのかな?

そんな茶々を入れられる空気では無い。終始、野分が真剣な貌だったからだ。

焦った様子の野獣が「やべぇよ、やべぇよ……(小声)」と私に耳打ちしてくるが、そんなもの見れば分かる。

だが、“真面目空間・ノワッチワールド(固有結界)”とでも言うべき空気に呑み込まれ、誰も動けなかった。

芸術的とさえ言える肉棒を描き終えた野分は、コホンと軽く一息吐いて、ポカンとした様子のU‐511に向き直る。

ビスマルクとプリンツが、『マジかよこいつ……』みたいな貌をしていた。気持ちは凄くよくわかる。

 

「此方が、男性のおち、おちん、……その。おちちん……。おち……」

 

「申し訳無いけど、マジレスはNG。そんな図解までしなくて良いから(降参)」

チョークで黒板を指しつつ、真面目な顔を赤くしながら、一生懸命口をパクパクさせる野分に、野獣が参った様に呟いた。

それと同時だったろうか。続いて、執務室の扉がドバァンと派手に開かれた。全員の肩が跳ねる。変な声が漏れそうだった。

 

「いざぁ……♀!!(レ)」

ノックも無しにテテテテッと駆け込んで来たのは、メイド服を着込んだレ級だった。

メイド服の上から、ネコミミの付いた黒フードを羽織っている。凄くよく似合っていた。

やんちゃそうで無邪気な笑顔も相まって、かなり可愛い。深海棲艦だと失念しそうになる。

長門も何だかトキメいて居るような貌をしているし、野獣も、「へぇ、ええやん!」と笑っていた。

ただ、この鎮守府に来て日が浅い私や野分は、流石に身体を強張らせてしまう。深海棲艦の上位個体と接触する鎮守府など、此処くらいのものである。

そう言えば、さっきの企画書にも、『喫茶カフェヲレ』なる表記があったのを思い出した。私が、野獣の方を一瞥すると眼が合った。

 

「まさか、深海棲艦まで祭りに駆り出す気なの?」小声で聞く。

 

「流石に其処まで嵌めを外したりはしないゾ。

まぁコイツ等も、その辺は弁まえてるからね。大丈夫大丈夫!

レ級達には、採寸取るモデルになって貰ったんだゾ」

 

 野獣が言うと同時だったか、レ級を追うようにして、天龍と木曾、それから不知火が現れた。メイドコス作りは、天龍達が手伝ってくれているらしい。

三人とも、黒と白を基調にした、シンプルなメイド服姿だ。頭飾りもカチューシャもしていない。彼女達も、野獣から呼び出しが在ったのだろう。

不知火はいつもの真面目な貌だが、天龍と木曾は思いっきり貌をしかめている。恥ずかしいんだろう。顔が赤い。

不知火や天龍、それに木曾も、元が美人だから普通に似合っている。ただ三人共、ちょっと眼つきが鋭すぎるのがネックだろうか。

不機嫌そうな態度のせいで妙な威圧感が在り、何と言うか、可愛い格好の癖に、全体的に物騒な雰囲気を纏っているのだ。

ビスマルク達も天龍達を見て、素直に可愛いとも言えず、似合っているとも言えず、何とも言えない表情になった。

露骨に怯えた様子のU‐511。頬を引き攣らせている高雄と長門、気まずそうな野分。ニコニコ微笑んでいる彼に、ニヤニヤと笑う野獣。

私とプリンツは、乾いたぎこち無い笑みを浮かべている。楽しそうなのはレ級だけだ。

 

「どうじゃ!?(レ)」 と言って満面の笑顔を見せるあたり、着せて貰ったメイド服について何か一言欲しいようだ。

不知火と天龍、木曾の三人は、何か文句あんのかよ?(威圧)みたいな空気を纏いつつ、野獣を睨んでいる。

しかし、黒板に描かれた、芸術的とさえ言える4本の♂シンボルに気付き、不知火がずっこけそうになり、天龍は眼を逸らし、木曾が大慌てで俯いた。

 

「いつもと雰囲気が違って、とても可愛らしいですね」彼は、レ級だけでなく、全員に微笑みながら言う。

レ級は「シシシシシ♪」と笑いながらも、照れた顔を隠すみたいに、ぎゅっぎゅっとフードを目深く被った。

 

「陽炎と黒潮から、少し簡素過ぎるという意見が出ました。

メイドの服の種類には、もう少しバリエーションが在った方が良いでしょうか?」

 

 彼の言葉に応えた不知火もほんの少し頬が赤い。

褒められて嬉しいんだろう。しかし、冷静な様子だ。

 

「お前らはアレだな。

メイド服着たら、何かの特殊部隊みたいだな!(溌剌とした笑顔)」

ソファに深く座りなおした野獣は、ここでも直球勝負だった。

 

「何その最低な褒め言葉……」思わず、私は野獣をねめつけてしまう。

 

「うるせぇんだよ野獣。

 着てまんま仕上がり見せに来いって言ったのはお前だろ。

 つーか、何をデカデカと黒板に書き出してんだよ。ちゃんと会議しろよ」

 

 ちょっと恥ずかしそうな天龍が、不味そうに顔を歪めて言う。

 野獣も、不本意そうに貌を顰めた。

 

「ゆーちゃんがオピンポの事を知りたいって言ったから、皆で知恵を出し合ってたんだYO!!(事実の齟齬)

なぁ、えぇ!? おいKS!! ちょっとバビッと男らしく言ってくれや! ウェア!!」

 

 野獣は、天龍達の後ろの方で俯いていた、一番余裕の無さそうな木曾を狙い撃ちした。

全員が木曾を見た。元凶を作り出した高雄は、今に自爆しそうな貌だった。

飛び火を恐れているのだろう長門は、わざとらしい深刻な貌のままで黙ったままだ。

木曾の応えに期待し、U‐511と彼は、その瞳を無邪気に輝かせていた。

ビスマルクとプリンツは戦々恐々とした様子で成り行きを見守っている。最悪の状況だ。

「わ、悪ぃ……。お、俺も、難しくてわかんねぇ……(フェードアウト)」

俯いたままの木曾が半泣きになった。そのフォローに入ったのは、レ級だった。

 

「だらしねぇし……(レ)。ちと、来い(レ)」

 

 レ級はやれやれと肩をすくめながら、U‐511の傍に歩み寄った。

ついでに、右手で木曾の手を引き、左手でU‐511の手を握る。U‐511が身体を強張らせた。

そりゃあ怖いだろう。気持ちは分かる。もともとは殺戮の化身だし、レ級とは暴力と災難の象徴だった。

ただレ級の方は、その紫水晶の様な瞳に☆を浮かべ、キリッとした表情を浮かべて、力強く頷いて見せた。

 

「もっとエッチを学ぶべき!(レ)」

そう言って、レ級は木曾とU‐511を連れて、執務室から去ろうとした。

「ちょっと待ちなさい!! 何処に行くの!?」ビスマルクが慌てて止める。

レ級は『ん?』みたいな感じで振り返り、ビスマルクを安心させるように頷いた。

 

「日本語の勉♀強しに行くべ!

ケツの穴はな、蕾が気持ち良いぞ?(レ)」

 

「何のアドバイスよ!? いきなりお尻とか駄目よ! ゆーちゃんこわれる!!」

ビスマルクが叫ぶ。

 

「ビスマルクも……どうじゃ!?(レ)」

 

「お、そうだな! NGTも鍛えて来いよ?(何処とは言って無い)」

 

「しないもん!!(激怒)」

 悪ノリし始めた野獣に、長門が怒鳴った時だった。

 

「フッ、随分待たせたようだな(威風堂々)」 

 ペンギンの着ぐるみを着た武蔵がノックもせずに乱入して来て、執務室が静まり返った。

一同が、いや誰も待ってませんけど……、みたいな貌になっている。

興奮気味に眼を輝かせているのはレ級だけだ。「シブヤン海の様には行かないぜ?」

自信に満ちた武蔵に続き、猫の着ぐるみを来て、恥ずかしげな貌の大和が入って来た。

その後に、カタツムリに似た大掛かりな着ぐるみを纏った陸奥が続いた。陸奥の目には光が灯っていなかった。

其処へ、「ファッ!?」 よどよど☆よどりんじゃんけん練習を終えた大淀が、カウンターバースペースから戻って来て、魂が抜けた様な貌になった。

 

 無理も無いと思う。一気に人口密度が増しただけでなく、混沌とし過ぎて収拾がつきそうに無いのも一目で分かるレベルだ。

メイド服を着込んだ不知火達、ディアンドル姿のビスマルク達、巨大な猫とペンギンにカタツムリ。

其処に加え、クソデカ黒板には雄雄しいフランクフルトが4本、豁然として

デカデカと描かれているのだ。あー、もう。滅茶苦茶だよ。

既に祭り熱気を先取りするどころか、行き過ぎて何かの儀式場みたいになっているこの惨状に、大淀が卒倒しそうになっていた。

 

 私達は、何の会議をしてたんだっけ……。

虚空へ問いかけそうになった時だ。野獣の持つ携帯端末から、電子音が響いた。

野獣は端末を操作して、ディスプレイに視線を走らせ、ふむふむを頷いている。

そして、ニヤッと口の端を歪めて見せた。あれは、何か面白いものを見つけた貌だ。

嫌な予感がしたのは、多分私だけじゃない。

 

「AKSから連絡が在ったゾ。

幾つかのイベント用アトラクションが、一応テストプレイの段階まで来たみたいだから。

 この際だから取りあえず、お前らもプレイヤーになっとこうか?(悲劇の引き金)」

 

 多分、まだまだこの騒々しさは増して行くんだろう。

 本当に、楽しい鎮守府だと思った。(小学生並の感想)

 



















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後日談 第5章

 其処はL型をした広い廊下だった。

全体的に薄暗く、窓が無い。雰囲気からして、洋屋敷の様だ。シックな壁紙には絵画が幾つか掛けられており、引き出しのついた小さな机が置かれてある。

机の上には、ちょっと古臭い感じの固定電話が置かれている。他には観葉植物とデジタル時計。その周りには何らかの薬物が散乱している。

廊下を歩いていって右へと折れると、ドアが三つある。曲がってすぐ右手に一つ。其処から少し歩いて左側に一つ。そして、更に歩いていった突き当たり正面に一つだ。

 

 小物を置いておく棚も在り、其処にはラジオが置かれていて、砂嵐に似たノイズ音が微かに漏れていた。

他には写真スタンドが並べられ、この屋敷の持ち主であろう家族の写真が何枚か飾られてある。

こうしたつい先程まで人が居たかのようなリアルな生活感の演出は、プリンツ達をこの場の雰囲気に引きずり込んで逃がさない。現実感を奪いながら、恐怖心を煽る。

窓の無い閉塞感と相まって、何と言うかこう、やばい場所に迷い込んだという感覚を呼び起こすのだ。

ただでさえかなり不気味なこのL字廊下、どうやら“ロの字”に配置されている。L字廊下のフロアを4つ組み合わせている様だ。

だから同じ光景が続き、まるでループしているような錯覚に陥らせ、凄まじく不安を煽って来る。実際、プリンツも最初は混乱した。

 

 開く扉は、基本的に突き当たり正面の扉だけ。そういった仕様なのだろう、戻ろうとしても扉に鍵が掛けられて居るのは確認済みだった。

前へ行くしかない。その癖、1回目、2回目、3回目とL字廊下を抜ける度に、廊下の雰囲気が微妙に変わって、より空気が澱んで来ている。

蛍光灯があるのは、L字廊下の始まりと突き当たり、それから曲がり角の三箇所しかない。演出なのだろう寒々しいこの蛍光灯の白い光も、この空間の異様さを加速させている。

その薄暗さの中を歩きながら、プリンツはおっかなびっくりと言った感じで、ビスマルクの後ろに着いて歩いていた。プリンツの背後にはU-511と長門が続いている。

更にプリンツ達の先頭を行く形で、携帯端末を片手に持った彼が、何処か楽しげに歩いていた。時折、此方を振り返る時に見える歳相応のあどけなさに胸が高鳴りそうになる。

まぁ、高鳴りそうになるだけで、実際にはそんな余裕は無い。正直、一杯一杯だ。さっきトイレに行って来て本当に良かったと思う。

 

 現在、プリンツ達は鎮守府祭に稼動予定である“明石屋敷.ver1.10”のテストプレイに強制的に参加させられている真っ最中である。

要するにお化け屋敷なのだが、謎解き要素的なものを導入しているらしく、ただ歩くだけでは無く、プレイヤー達のアクティブさが要されるとの事だった。

野獣からの説明によると、使われていない鎮守府庁舎を改造したこのアトラクションは四階建て。其々の階で、此処と同じ構造をしているらしい。

鎮守府祭当日には、このお化け屋敷を抜け切ったプレイヤーには、とある賞品が送られる予定だそうだ。

ちなみに、このテストプレイヤーとして選ばれた艦娘達には現在、艤装召還と肉体機能に制限施術が掛けられており、外見相応の女性程度の力しか出せないようになっている。

作動したお化け屋敷ギミックに驚き、その弾みでアトラクションを破壊してしまわないようにする為の配慮だった。

 

 先程まで会議室で居たプリンツ達は、テストプレイヤーを選ぶくじ引きで“アタリ”を引いてしまったのだ。いや、正確には、ビスマルクが“アタリ”を引いた。

プリンツとU-511は無事に“ハズレ”を引いたのだが、お願い見捨てないでぇ! というビスマルクの懇願を振り切る事が出来ず、道連れになったパターンだった。

長門は普通に“アタリ”を引いてソファの上に崩れ落ちていたが、彼が一緒に来てくれるという事で、何とか精神崩壊を免れた。

長門は結構頑張っていると思う。既にこの異様な雰囲気なL字廊下を10ループほどしているのだ。廊下を右へと曲がり、また歩く。

突き当たりの扉の近くまで来る。ラジオから漏れている微かなノイズが聞こえる。まだ何も起きない。大きな変化は無い。

プリンツは後方に居る長門をちらりと振り返る。長門は戦場海域に居る時と同じ真剣な表情なのに、顔色が青く、今にも吐きそうな貌をしていた。

「だ、大丈夫?」プリンツが心配そうに聞くと、長門は青い顔をしたまま無言で首を横に振った。どうやら大丈夫じゃないらしい。

 

「あ、あの……、ギブアップ制度も設けられているようですし……。

 あまり体調が優れないのでしたら、リタイアした方が……」

 

 ビクビクしながらも冷静さを失っていないU-511の方が、まだ余裕が在る様子だ。

プリンツと同じく、心配そうな貌で声を掛けてくれたU-511に、長門は深く頷いて見せた。

この遣り取りに聞き耳を立てていたのだろう。前を歩いていたビスマルクが此方を振り返った。

平気な振りをしようとして、思いっきり失敗した様な引き攣った笑みを浮かべている。

 

「だらしないわね。長門。

 ま、まぁ、長門がギブアップしたいって言うんなら、仕方無いわ。

 私は全然怖くないないんだけど、リタイアしましょうか。ねぇ、提督?」

 

 ビスマルクは所々で声を裏返しながらそう言って、前を歩く提督に声を掛けた時だった。『すみませへぇ~~ん、リタイアは稼働日からなんですよ~(孤独のグ●メ並感)』

不意に野獣の声が聞こえた。前方からだ。見れば、提督の持っている携帯端末に通信が入り、ディスプレイに野獣の貌が映し出されている。

ディスプレイの野獣はビスマルク達を順番に見てから、これ見よがしにクソデカ溜息を吐き出して見せる。

 

『あのさぁ……。これは一応ロケテみてぇなもんなんだから、

 お前らがこんな早々にリタイアしちまったらテストになんねぇだルルォ?

 なぁNGTァ? お前は強い子だよなぁ?』

 

「いや、もうホント怖いんで無理です……(素)」

 ディスプレイに映る野獣に、切羽詰り過ぎて消え入りそうな声で長門は言う。

 

『え、何ィ? 怖いなんて言葉は聞いた事ねぇなぁ!(ドチンピラ)

 本番は賞品も掛かってるんだしさぁ、もうちょい頑張って、どうぞ(半笑い)

 あ、そうだ!(唐突) 急遽、お前と俺で何か子供向けの劇する事になったから』

 

「劇だと? ふれあいコーナーのオマケみたいなものか?」

 

『おっ、そうだな。 タイトルは“美獣と野女”だゾ』

 

「誰が野女だっ!!?」

 

『何だよ、やっぱり元気じゃねぇかよ(お見通し)。

 それじゃあ、ちょっと他のプレイヤー共にも釘刺してくるから……(棒)』

 

 野獣は言いたいだけ言って、すぐに通信を切ってしまった。焦った様子のビスマルクは何か言い返そうとした様だが、間に合わない。

長門は表情を絶望に歪ませて立ち尽くしている。プリンツは不安そうなU-511と眼が合った。取りあえず「大丈夫だよー……多分……」と、ぎこち無い笑みを返した。

長門がリタイアしようとするタイミングを狙いすました様に通信が入ったところを見るに、野獣はモニター室か何処かでプリンツ達の動きを見ているのだろう。

アトラクションのギミックの管理は明石が担当している筈だから、完全に野次馬と言うか、余計なちょっかいを出しに来ているのは間違い無い。

こんな余裕の無い状態で賑やかしに来るのは勘弁して欲しいところなのだが、彼の方はそうでも無い様子だ。心臓に毛でも生えているのだろうか。

「では、もう少しだけ周回してみましょうか?」何処か楽しげに彼が微笑んだ。次の瞬間だった。

 

 ドンドンドンドン!! ガチャガチャガチャ!! と、すぐ近くで結構大きな音が響いた。

今まで静かだったから素で吃驚した。プリンツとU-511は肩をビクゥッ! っと跳ねさせる。

「ぬひぃっ!!?」と悲鳴を上げて、床に尻餅を着いたのはビスマルクだった。長門は無言のままで白眼をむき、立ったまま気絶していた。

まぁ、そんなのは良い。置いておこう。重要なのは、とうとうこのL字廊下のフロアに動きが在ったという事だ。プリンツは音のした方へと振り返る。

正直、ゾッとした。このL字廊下に三つある扉。そのうちの一つ。廊下を右に折れて左側の扉。その中からだ。何か居る。めっちゃガタガタ言ってる。

ドアノブとかありえないぐらい乱暴に回されているし、扉自体も揺れるというか軋んでいる。向こう側から強く叩いているのか。

宇宇宇。啞啞啞。餓餓餓。畏畏畏。呻き声まで薄らと聞こえる。怖い怖い怖い。こんなサイコな怖さはちょっと想定外だった。

 

 立体映像とか聞いていたから、ホーン●ッドマン●ョン的な感じだと思っていた。少なくとも、ファミリー向けと言うか、演出はもっとコミカルなものだと高を括っていた。

大間違いだった。「このリアルな演出は、流石は明石さんですね……」と、感心したように呟く提督は、興味深そうにその扉を観察している。

 

「ま、まぁまぁと言ったところかしら!

 ちょっと吃驚しちゃうけど、やっぱり娯楽の範疇ね! 大した事ないわ!?

 さ、先を急ぎましょう!」

 

 尻餅を着いた事を誤魔化す様に早口で言いながら、ビスマルクは急いで立ち上がり、声を上擦らせて提督に相槌を打つ。

それから引き攣った顔のままで、逃げるように突き当たりの扉へと歩み寄り、手を掛けた。演出が余りに怖いから、さっさと次のL字廊下へ行こうとしたに違い無い。

しかし駄目だった。「あ、あれ……、あ、開かない!?」 焦った様子のビスマルクがドアノブを回そうとするがビクともしない。

その間にも、ドンドンドンドン!!! ガチャチャガチャ!!! と激しく扉を叩く音が大きくなっていく。「亞亞亞虞虞虞虞宇宇宇畏畏畏畏死死死死死」

其処に混じる呻き声も大きくなり、意識を取り戻した長門が咄嗟にプリンツの背後に隠れる。そして、ビスマルクはU-511の背後に隠れた。

その様子に、彼も何だか微笑ましいものを見るような優しい笑顔を浮かべている。長門とビスマルク姉さま、かっこ悪い……(悲しみ)。

 

「あ、あ、あのっ……! も、もうっ! うるさいんで!!

 そんなにガチャガチャやったら、……ド、ドアが壊れちゃうんですって!」

 

 だが、盾にされた筈のU-511はちょっと砕けた口調で、ビスマルクを庇うようにしてドアの向こうに言い放つ。プリンツはちょっと感動した。ゆーちゃん格好良い……!

勇気凛々のU-511の気迫に押されたのか。ドアを叩く音が止み、呻き声も薄れて消えた。再び不穏な静けさが戻ってくる。ラジオのノイズが、少し大きくなった気がした。

気のせいか。分からない。突然だった。皆が見守る中。ギィィィ……、と。先程まで激しく叩かれていた扉が、ゆっくり、ゆっくりと開いた。怖っ!!

彼以外の全員の肩が、再びギクゥッ!! と跳ねて、飛び下がる。扉は向こう側に開いていき、15~20センチ程の隙間を空けたところで動きが止める。

扉の向こうは真っ暗だ。何も見えない。「少し開きましたね。中はどうなっているんでしょう?」と言いだしたのは、涼しい貌した彼だった。

彼は傍に居たU-511に懐中電灯を手渡してから、無造作にドアノブに手をかける。そんな気軽に開けようとしないで欲しい。

怖い物知らず過ぎるその行動に、思わず変な声がでそうになる。見ている此方の心臓に悪い。プリンツも身体が強張った。

ビスマルクとU-511が何かを言おうと口を動かしたが、間に合わない。長門も制止の声を掛けようとしたに違い無いが、彼がドアノブに掛けた手に力を込める方が早かった。

 

 しかし。扉は動かない。開かない。彼はドアノブを持ったまま視線を此方に戻し、少しだけ笑った。「……何かで固定されていますね。これ以上は開かない仕組みの様です」

一定までしか開かないのも演出のようだが、半開きの扉は偉く不気味だ。だが彼は全く躊躇せず、その暗がりの隙間を覗き込んで中の様子を窺った。

 

「中も……、特に何もありませんね……」

 音と振動による演出効果は恐ろしいが、扉の向こうの部屋自体に仕掛けは見えないようだ。

 彼が覗き込んでも何も起こらなかったことで、ちょっと安堵した空気が広がる。

 

「提督。其処の床に何か落ちてないか?」

 半開きの扉の隙間を覗きこむ提督の背に、そう声を掛けたのは長門だった。

彼の後ろに引っ込みながらも、長門も恐る恐ると言った様子で扉の中を窺っていたのだ。

「あっ……」っと声を漏らしたU-511も見つけたようだ。半開き隙間から見えるところに、何か落ちている。

プリンツもドアに近寄り、その隙間から中を覗き込んでみると、確かに何か落ちている。棒状で光沢が在る。あれは、鍵だ。

鍵は、手を伸ばせば届きそうな距離に在る。恐らくアトラクション的な意味で、此処から手を伸ばして鍵を取れという事なのだろう。

その鍵を使って、施錠されている突き当たりのドアを開ける。先へ進むには、そういうアクションが必要なのだろう。

恐怖を煽る演出も去り、ホッとした様子のビスマルクがU-511の後ろから出てきて、ふふん、と引き攣った貌のままで鼻を鳴らした。

 

「本当のお化けが居るワケじゃないんだし、そんなに怖がらなくても大丈夫よ」

 

 ビスマルクはちょっと上擦った声で言いながら、U-511の肩を軽く叩いた。あの様子で平気な振りをしているつもりなのだろうか。

プリンツや長門、それから、ちょっと苦笑いを浮かべたU-511の視線を受け止めつつ、ビスマルクは扉の傍に提督の隣に移動して、その隙間を除く。

向こうに何も無い、何も居ないのは提督が確認済みだからだろう。そこまで躊躇う素振りも無かった。扉の前で両膝を着いてしゃがみ込み、ビスマルクが右腕を突っ込む。

長身のビスマルクだから、あっさりと鍵まで手が届いたようだ。

 

「掴んだわ。手の込んだ仕掛けね」

 

「有り難う御座います、ビスマルクさん」

 

 扉の隙間に手を突っ込んだままのビスマルクは軽く笑って、提督を見上げる。

そんな短い遣り取りの最中だった。プリンツは寒気と同時に全身の毛が逆立つのを感じた。

提督に視線を向けているビスマルクは気付いて居ない。ドアの隙間。その上の方。

顔だ。長い髪の毛と、逆さまの顔が在る。眼の無い、血塗れの女の顔だった。

長門が貌を引き攣らせ、U-511が「ぁ……!」と言葉を詰まらせてへたり込んだ。

提督とビスマルクも異変に気付いた。次の瞬間だった。ドアの隙間から腕が出て来た。

青白く、細い腕だった。一本や二本じゃない。多い。ぱっと見じゃ数えられない。

二十本くらいだ。一斉に溢れ出て来た。プリンツは悲鳴を上げるよりも先に後ずさる。

ドアの前に両膝を着いていたビスマルクは、その無数の腕にしがみ付かれた。

青白い腕はビスマルクの腕を引き、首を掴み、軍服を握り締めて、ドアの隙間に引き摺り込もうとしていた。

 

「びゃぁああああぁあああああああああああああああああああああ↑↑!!!!!!」

必死に逃れようとするビスマルクは、本気の悲鳴を上げていた。

 

「OOOEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEぇぇッ!!!」

その衝撃的な光景に当てられ、長門が激しくえづいた。

 

 次の瞬間だった。ブツンという音がして、L字廊下の明かりが全部消えた。

ホントに真っ暗闇だ。何にも見えない。恐怖が加速する。ビスマルクの悲鳴が最高潮に達した。

そんな中、遠くで音がするのを聞いた。ドアが開く音。それから、足音。

どっ、どっ、どっ……。低くて勢いを感じさせる。何かが走って来る音だ。

何も見えない中、何かが近づいて来ている。ヤバイ。ヤバイヤバイ。怖い怖い、こわいよぅ!

「UUUEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEぇぇッ!!!(えづき)」 長門が蹲る。

「うー☆!! うー☆!!」プリンツもパニック状態だ。だが、傍に居た彼だけは冷静だった。

 

「こんな演出も在るんですねぇ。

 ゆーさん、すみません。ライトをお願い出来ますか?」

 

 混乱の極地にあるこの状況でも、アホみたいに悠長な彼は、U-511に声を優しく掛ける。

 

「ひゃっ! は、はいっ! が、がるる^~~~ッ!!!(ライト点灯)」

 

 焦りまくった声で応えたU-511が懐中電灯を点け、明かりを廊下に向けた瞬間。

ビスマルクを掴んでいた青白い腕や、此方に走って来る足音が忽然と消えた。

静まり返った暗闇だけが広がっている。静寂。ドサッという何かが倒れる音が2回した。

U-511が音のした方へライトを向けると、長門が泡を吹いてその場に崩れ落ちていた。

ついでにドアの隙間に腕を突っ込んで、お尻を持ち上げた姿勢のまま、ビスマルクも白眼を向いて気絶している。

酷い状態だ。だが、まだ終わらない。生温い風を感じた。頭上からの空気の流れだ。気配。

ライトを持っているU-511が、プリンツの頭上を見上げて、両目を見開いて全身を強張らせている。

彼も、何だか楽しそうな貌でプリンツの頭上を見ていた。最高に嫌な予感がした。アー漏レソ……。

プリンツがゆっくりと自身の真上を見上げるのと、眼の無い血塗れの女が降って来るのは同時だった。プリンツの記憶は、其処で途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まったく。お化け屋敷などと。本当に下らない。鎮守府祭で稼動させるらしいが、どうせ子供騙しのチープなものだろう。そう高を括っていた。

だから、テストプレイに参加しないかと声を掛けられ、今日は非番で暇だからという軽い理由で参加した。

その駄賃代わりに間宮のタダ券もくれるというので、割りの良い雑用程度に思っていた。大間違いだった。

L字廊下を歩きながら、磯風は今までに無い程に激しく後悔していた。何だ、此処は……。とてつもなく怖いじゃないか……。

分かっていれば絶対に参加しなかった。間宮のタダ券を貰えるとしても、流石に遠慮した。

野獣提督から携帯端末に連絡が在った時、もっと警戒しておくべきだった。幾ら後悔しても後の祭りだ。

 

 磯風の前を歩いているのは、懐中電灯を持っている天龍と手ぶらの木曾。磯風の隣には、霞と曙、そして満潮。現在はこの六人パーティーで明石屋敷を攻略中である。

天龍、木曾はくじ引きで選抜され、曙達は『可愛いぬいぐるみ達が一杯の、ふわふわ☆もこもこ系アトラクションだから(大嘘)』と騙されての参加らしい。

だから、案内されたL字廊下フロア、その異様な雰囲気で色々と察したであろう曙達のキレっぷりは凄まじく、今にも艤装を召還しそうな勢いだった。

だが、艦娘達が艤装を召還できないように、この建物自体にも特殊な儀礼が施されている。おまけに先程の野獣からの通信で、ギブアップも禁止されてしまった。

結局、曙達はフロアを散策することになり、怒りと怯えを綯い交ぜにしたような貌で歩を進めている。天龍も木曾も、軽口一つ叩かない。それだけ余裕が無いのだろう。

唐突だった。「あっ、そうだ……(天佑)」磯風の背後に居た 霞がそう呟いたのは、L字廊下を5ループほどした時だった。

 

 一体何だと思い、磯風が無言で振り返ると、霞がパンツを脱いでいるところだった。

磯風は軽く吹き出し、周りに居た曙や満潮もギョッとした様子だ。振り返った天龍と木曾だって戸惑うような表情を浮かべたまま固まっている。

だが、当の霞本人は全く気にした様子も無い。いたって真面目な貌のまま、脱いだ白いパンツをくしゃくしゃと丸めてスカートポケットに突っ込む。

はぁ~~、と溜息を吐き出した霞は、磯風達の視線に気付いた。「……何? 私のパンツ欲しいの?」「要らんわッ!」反射的に答えてしまう。

どうやら霞は、見た目ほど冷静という訳では無いらしい。テンパっている。曙と満潮が互いに顔を見合わせた後、霞に向き直った。

 

「いや……、急にパンツ脱ぎ出したら誰だって凝視するわよ……」

曙の声は困惑に揺れている。

 

「ねぇ、ごめん。聞いていい? 何で急にノーパンスタイルになったの?」

満潮も霞のスカートを一瞥してから、なんとも言えない貌で聞く。

 

霞は軽く鼻を鳴らしてから全員の顔を順番に見て、そっぽを向いて唇を尖らせた。

 

「此処って明石さん謹製なんでしょ? 万が一の事が在ったら、下着が汚れちゃうわ。

 自分の意志じゃどうしようも無いし、出来る対策なんてこんなモンだし……。

 あんた達も、まぁ……、脱いどいた方が良いんじゃない?」

 

 歯切れ悪く言う霞に、曙や満潮も思い当たる節があるのか。

二人は、あ~~……、みたいに得心が行ったようだ。深く頷いていた。

それだけで無く、曙や満潮までがおもむろにパンツを脱ぎ始めた。流石に驚愕する。

おまけに天龍まで脱ぎ出して、「お前も脱ぐのか……(困惑)」と、木曾が低い声を漏らしていた。

「う、うるせぇなぁ! 念の為だよ! 念の為!」 脱ぎ終わった天龍が木曾に言いながら、スカートの裾をぐいっと下に引っ張っている。

磯風が今の状況に置いてけぼりを食らっていると、霞と眼があった。

 

「脱ぐか脱がないかは自由よ。

でも、ジョババババっ(意味深)てなっちゃうと、もう、ね?」

 

切なそうに言う霞の声音には、妙な重みが在った。

あの口振りからすると、やらかした事が在るのだろうか。

分からないが、冗談や軽口で言っている訳では無いのは間違い無い。

霞の眼は真剣だった。

 

「どうせ今は俺達しか居ねぇんだ。 

穿いてようが無かろうが関係あるかよ。つーかもう、さっさと終わらせようぜ」

 

 乱暴に言いながら、天龍がL字廊下を曲がろうとして動きを止めた。

続いて、天龍に並んでいた木曾が「ぉ……っ!?」と、変な声を詰らせている。

磯風も廊下を曲がろうとして、二人の間から廊下の先を見てみる。総毛立った。

薄暗い廊下の向こう。突き当たりのドアを遮るように、誰か立っている。

襤褸を着た黒い影が佇んでいる。体格からして男だ。人の形をしている。でも、首が無い。

あれが立体映像なのか。なんてリアルさだ。得体の知れない存在感は十分に恐怖を煽る。

霞と曙、満潮も、首無しの襤褸男を目の当たりにして、表情を強張らせて居た。

そして、余りの恐ろしさに逆にテンションが上がったのか。

 

「何よあのおっさん!!?(驚愕)

 うざってぇ!!(暴言) ごめんなさいじゃすまないのよ!?」

曙が一杯一杯の様子で吼えまくり、

 

「そうわよ!!(怒り便乗)

 何勝手に入り込んでるのよ!? 不法侵入よ!! 不法侵入!!」

満潮がそれに便乗して、

 

「多分、お化けだと思うんですけど!(迷推理)

 やはりヤバイ!!(確認) 憲兵に言いつけてやるったら!」

霞が更に続いた。三人ともへっぴり腰だ。

 

「ちょっと落ち着けよお前ら! り、立体映像なんだからよ(震え声)」と声を掛けた天龍も、脚がガクついて居た。

「何よ、自分だってフルスィングでビビッてるじゃん!」曙が首なし襤褸男だけで無く、天龍にまで噛み付き始める。

「ばっ、馬鹿野郎お前! 俺は勝つぞお前!!」天龍も負けじと言い返す。

そんな不毛過ぎる遣り取りを横目で見ながら、磯風は震える呼吸を整えつつ、首無しの襤褸男を見遣る。

 

「し、しかし、あれがホログラムとは……強烈だな」

 

「あぁ。……悪い。

どうやら俺は、こういうのは余り強く無いようだ」

 

 応えてくれた木曾の方もちょっと顔色が悪かった。

磯風からは冷静に見えるが、其処まで余裕がある訳では無いらしい。

というか、磯風も怖く無いと言えば嘘になる。むしろ、もう逃げ出したい。

だが、あの首なし襤褸男を何とかしないと立ち往生だ。

一斉射撃みたいに威嚇するのも結構だが、それだけでは埒が開かんぞ。

磯風が天龍達にそう言おうとした時だった。首無しの襤褸男が忽然と消えた。

音もしなかった。同時だったろうか。キィィ……、と軋みを上げて、ドアが少し開いた。

L字廊下を曲がってすぐ右手に在るドアだ。今までのループでは鍵が掛かっていた。

どうやら、アトラクションとしてのギミックが作動し始めたのだろう。怖い。

 

 全員が身体を強張らせて、ドアの方を凝視する。長い沈黙が在った。誰も動かない。

Prrrrrrrrrrr。磯風達の背後にあった棚から、電子音が聞こえた。固定電話のコールだ。

突然のコール音に磯風は腰が抜けそうになった。何てタイミングだ。こんなの誰だって吃驚する。

隣に居た木曾を含め、全員が肩というか身体全体を跳ねさせていた。Prrrrrrrrrr。コールは止まない。

全員が顔を見合わせてから、唾を飲み込んだ。これ、出るの……、みたいな空気だ。

 

「……私が出るわ」言いながら電話の前に立ったのは曙だった。

此処ですぐに動ける辺り、なかなかに豪胆だと思う。Prrrrrrrrrrr。無機質な音が響く。

一つ深呼吸した曙は受話器を上げて耳にあてる。全員が息を呑みながら見守る。

受話器から声が聞こえた。『お、大丈夫か大丈夫か?(愉快そうな声)』 野獣だった。

曙がブチ切れた。「あんたねぇ!! 携帯端末に掛けて来なさいよ!! クッソビビるでしょ!?」

 

『せっかくのロケテだし、小道具の調子も見ないと、まぁ多少はね?(楽しげ)』

 

「ムカつく……! って言うか、これゴールあんの!? 無いとか言ったら殺すわよ!」

 

『お前らはもうそっから出れないんだよ!!(宣告)』

 

「はぁぁああああああああああああああああああああああん!!!?(激昂)」

 

『冗談だゾ(お茶目)。フロア毎に設定されてるギミックを全部消化するんだよ!

そしたら左手のドアが開いて、出口用の通路に繋がるようになってるからさ(係員先輩)』

 

「じゃあ……」

呟いた曙が視線だけで振り返り、半開きになったドアを見遣った。全員が曙の視線に続く。

 

『要するにィ、起きてる現象は基本的に無視出来ないようになってるらしいっすよ。

 近くのドアが開いとるじゃろ?(O―KD)スルーせずに、ちゃんと調べてくれよなー』

 

 ふざけんなよおい……。小声で呟いた天龍は何とも苦い表情だ。

磯風もドアへと眼を遣る。ドアの向こうは暗がりだ。此処からではよく見えない。

もっと近付くべきだし、野獣の言うギミックが部屋の中に無いとは限らない。

 

『ちなみに未稼働のギミックが残ってると、同じ状況が延々とループする仕組みだから。

 早く帰りたかったら隅々まで調べるんだよ、あくしろよ(せっかち)』

 

「急かさないでよ! やれば良いんでしょ! やれば!

ホントもう、覚えてなさいよ!? 私達を騙したこと後悔させてやるわ!」

 

 曙は受話器を叩きつける様に置いてから、息を吐き出した。次の瞬間だった。

声が響いた。小さく、幼い声音。赤ん坊がぐずる声だ。何処から? 決まってる。

あの開いたドアの中からだ。怖過ぎる。だが、クリアする為には行くしかない。

全員でドアに近付いて中を窺う。天龍がライトで照らしてくれた其処は、バスルームだった。

薄暗くても分かる程、床や壁のタイルには罅が入り、黒ずんでいた。まるで廃墟の一室の様にも見える。

バスタブの他に、トイレや洗面台が付いてあるタイプで、結構広い。だが、六人全員が入るには手狭だ。

中に入って見て回るとなれば、広さ的に3人程度が限界か。それを決めようという流れになり、此処は後腐れの無いようジャンケンをした。

結果、負けたのは満潮と霞、そして磯風だった。ホッとしている様子の天龍と、すまなさそうな貌の木曾が恨めしい。

「やっぱり私も入るわ。……まぁ、何か起こっても四人なら大丈夫でしょ」憮然とした貌で言いながらも、天龍から懐中電灯を受け取った曙が、一番乗りでバスルームへ。

磯風も曙に続こうとしたが、その前に、そっとパンツを脱いで、スカートポケットに仕舞う。トイレに行っておくべきだった。後悔が深まる。

今にも吐きそうな青い顔をした霞と、血の気の引いた真っ白な顔の満潮も入る。バスルームは薄暗い。磯風達の手元を照らす為、曙が懐中電灯を随時向けてくれた。

四人でバスタブの中や、洗面台の棚、様式便器の裏側まで見てみたが、めぼしいものは何も無かった。

 

 そのせいで油断した。洗面台の棚を調べ終わった磯風は、ふと視線を上げて気付く。鏡だ。暗くて分からなかったが、煤けるように黒ずんだ曇り鏡がある。

鏡に映る磯風。その背中に、何かがしがみ付いていた。赤ん坊だ。異様に頭が大きく、針金のような頭髪が疎らに生えている。口も鼻も無い。

代わりに、顔中というか頭部全体に無数の眼がギョロギョロと蠢いている。いひひひ。異形の赤ん坊は、鏡の中からこっちを見詰めて、口も無いのに笑った。

「うぁあああああああああああああああ!!??」 磯風はひっくり返った。同じタイミングで、曙の持っていた懐中電灯の明かりが消えてドアが閉まる。真っ暗闇だ。

本当に何も見えない。悲鳴を上げるよりも先に混乱する。「ちょっ……!? な、何で消えるのよ!?」焦る曙が悪態を付きながら、懐中電灯をカチカチとするのが聞こえる。

「何閉めてんのよ!!? お化けさんに怒られちゃうでしょ!!(錯乱気味)」 近くに居た霞が、外に居る天龍達に叫びながらドアを蹴飛ばした。

「あ~~っ! 駄目駄目駄目!! 暗過ぎるッピ!!(涙声)」 恐らく、一番こういうのに耐性が無いのであろう満潮は壊れかけだった。

 

「俺達が閉めたんじゃねぇ! 

 勝手に閉まりやがったんだ! クソったれ! マジで開かねぇぞコレ!」

 

「外側からじゃノブが回らん、中からも開けられないのか!?」

 

 閉じたドアの向こうでは、天龍や木曾達もおおいに焦っていた。ノブを回そうとしているのだろう。金属が軋む音と、ドアが揺れる乱暴な音が聞こえる。

「ドアロックのツマミが動かないのよ! あ゛~もうおしっこ出ちゃいそう!!」半泣きキレ気味の霞もドアノブをガチャガチャやっているようだが開く気配は無い。

その時だった。「どわぁああああああああああああああ!!」「きゃあああああああああああ!!!」ドアの向こうから天龍と木曾の悲鳴が響いた。

 

 流石に、霞も満潮も曙も黙り込んだ。磯風は座り込んだままで動けていない。耳が痛いほどの不気味な静寂が、この暗闇のバスルームを包んだ。

長い沈黙だった。一分。二分。誰も身動きが出来無なかった。普段は武人然とした凛々しい磯風も、こんな追い詰められ方をしたら流石に消耗する。

正直、磯風はベソをかく寸前だった。なんでこんな怖い目に遭わなければならないのか。理不尽だ。やだやだ。ほんともうゆるして……。

しゃっくりがでそうになる。横隔膜が震えて来る。鼻の奥がツーンとして来た。多分、此処に居る全員が似たような感じに違い無い。

 

 磯風が洟を啜りかけると、曙の持っていた懐中電灯が復活した。暗がりに光が戻ってくる。

カチャ……、と。小さな音がした。ドアノブからだ。曙が生唾を飲み込んで、其処をライトで照らす。

トイレが在るのだから当たり前なのだろうが、ドアノブの下部分には施錠の為のツマミが在る。緊張した面持ちの霞は、そのツマミに触れる。

「あ……、これ回りそうだわ」さっきまでは動かなかったようだが、今度は動くようだ。霞がツマミを回し切って、解錠しようとした時だった。

 

「ビビり過ぎなんだよなぁ、木曾はよぉ! 何も起こんねぇじゃねぇか!」

 

「おっ、そうだな(落ち着いた肯定)。 こっちは何も無い。出てきても大丈夫だぞ」

 

 ドアの外から天龍の快活そうな声と、落ち着いた木曾の声が聞こえた。

仲間の声に磯風はホッと安堵する。その空気は他の面子にも伝わり、脱力しそうな程の緊張の緩みが来た。

だが、様子がおかしい事にすぐ気付く。ドアノブが、外からガチャガチャと乱暴に回されているのだ。

安堵の表情から一転。怯えた貌になった霞は、施錠のツマミから手を放して、ドアから離れるように後ずさる。

 

「おい、どうした? 早く開けろって」

 

「俺達が信じられないのか? 臆病な奴らだな。さっさと出て来い」

 

 ドアが開かれないと見て、二人の声が荒くなった。おかしい。

明らかに、ドアの外に居る存在は、天龍と木曾では無い。ヤバイ。どうしよう。閉じ込められた。

全員が戦慄する中。あひひひ。しひひひ。いひひひ。くひひひ。暗がりに笑い声が聞こえた。耳元には、ぬるい呼気。

磯風、霞、満潮、曙の四人が、其々全員を見回す。そして、見た。全員の肩に、異形の赤ん坊が抱きついていた。

この時の四人の大絶叫は、アトラクションの外まで聞こえたと言う。

パンツを脱いでいて正解だったと、磯風は振り返る。本当に災難だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明石屋敷のテストプレイヤーとして少年提督他、長門や高雄、それからビスマルク達が駆り出された今も、野獣の執務室では先程までの会議が一応続いていた。

「……ねぇ、この格好になる必要在んの?」 執務室の真ん中に立たされた鈴谷は眉をハの字にして、ソファに腰掛けて脚を組んでいる野獣を半眼で見据えた。

鈴谷は現在、野獣の指示でナースコスチュームを身に纏っている。しかも凄いミニスカだ。ちょっと体勢を変えると中身が見えそうなくらい短い奴である。

白ストも穿いているが、だから何だというレベルだ。鈴谷はさっきからずっとスカートの裾を両手で下に引っ張っている姿勢である。下手に動けない。

ソファに座りたいが、座ったら100%下着が見えてしまうので、立ったままだ。恥ずかしげに顔を伏せ、「う~~……」と呻るくらいしか出来ない。

もう少しすれば、時雨や赤城、その他の艦娘達も別コスに着替えて此処に来るらしい。もう不安しかない。Tシャツ海パン姿の野獣は、鈴谷の視線にも動じない。

 

 現在、執務室に居るのは鈴谷と野獣、それから、少女提督と陸奥の四人だけだ。陸奥は、駆り出されてしまった長門の代わりに、これから野獣の秘書艦を務める流れである。

少女提督の秘書艦であった野分も、テストプレイヤーとして“アタリ”を引いたので、今は明石屋敷のロケテに参加中だ。ただ少女提督は代わりの秘書艦を呼んでいない。

彼女は一人ソファに腰掛けて脚を組み、難しい貌をして企画書類に眼を通している。年齢的には、少年提督と同じくらいだろうか。

肩程で切り揃えられた黒髪に、気の強そうな唇。生意気そうなツリ眼には聡明さが窺える。実際、優秀な頭脳の持ち主なのだろう。

聞いた話だが、彼女は装備開発の分野で評価を受けた“元帥”らしいし、彼女が運用する艦隊錬度の高さも相当なものだ。

女傑という表現が正しいかどうかは微妙だが、実力者である事は間違い無い。そんな彼女が不味そうな貌をして視線を落としている書類には、ケッコンの文字。

野獣が提出し、認可を得た案の中に『体験コーナー・ケッコンカッコカリ』というものが在った。よくもまぁ、こんな戯けた案が協議に通るものだと思っているに違い無い。

鈴谷だって、「は?」と思ったものだが、野獣が無茶苦茶な要求を本営に飲ませるのは何時もの事だ。別にもう驚かない。

 

 どうやらこの企画、一般参加者と艦娘達との間に、より娯楽に近い感覚でのコミュニケーションの場を、この祭りの中に設けようと言うのが主な趣旨らしい。

簡単に言うと、可愛い格好した艦娘達と楽しく過ごせる空間の提供だ。その裏の目的としては、艦娘達へのイメージ操作の色合いが強い様にも思える。

 

「結局、この体験コーナーって何するの……?

 企画書の内容がガバガバ過ぎて、趣旨以外なんにも載ってないんだけど」

 

 野獣の隣のソファに腰掛けた陸奥が企画書から顔を上げ、視線だけで野獣を見た。何かを警戒するみたいな、ジトッとした半眼だった。

「そんな身構えなくてもへーきへーき! そんな大した事しないから!(悪魔の囁き)」野獣の方は肩を竦めて、面白がるみたいな半笑いを浮かべて見せた。

 

「明石屋敷クリアの景品にぃ、ケッコン指輪(レプリカ)が進呈されるらしいっすよ?

 それを好きな艦娘に渡してぇ、甘い言葉を掛けて貰うみたいな感じっすね!」

 

「何か貢がせてるみたいで悪質じゃない、それ? ……で、具体的には?」

 陸奥は表情を変えないままで聞く。

 

「握手したり、一緒に写真撮ったりとか、そんな程度だから安心!

 まぁ、アイドルのファン感謝祭っていうか、サイン会・握手会みたいなノリだゾ。

 個室も用意してあるから、艦娘達とちょっと親密な感じになれるって感じでぇ……(フェードアウト)」

 

「既にいかがわしさ全開じゃないのよ……(呆れ)」

陸奥は渋い表情のまま溜息を吐き出して、企画書に視線を落とす。

その陸奥の意見については、少女提督も同意見だったらしい。

「まぁ、本営が許可を出したという事は、話題性だけは十分だと考えたんでしょうね」

彼女はソファに深く腰掛けて、疲れたみたいに息を吐き出した。

 

「書面では何か色々と御託並べてるけど……。、要するにコレ、

 艦娘達を餌にして、お化け屋敷にチャレンジする費用を巻き上げる訳でしょ?」

 

「(人聞きは悪いけど)まぁ、そうなるな(HYUG並感)」

野獣は悪びれた風も無く、しれっと言ってみせた。

 

「鈴谷達は客寄せパンダじゃ無いんだけどー!」 

鈴谷はスカートの裾を引っ張った姿勢のままで、憮然とした貌で野獣に向き直る。

 

「書面通りの真面目な側面も持ってるから、まぁ多少はね?

 “艦娘は可愛い女の子”っていうのを、お前ら自身が外に向けてアピールするんだよ!

よし、じゃあMTも(メンバーに)ぶち込んでやるぜ!」

 

 何だか真面目なことを言い出した野獣は立ち上がり、執務室に置かれた箪笥へと向う。陸奥と少女提督の「えっ」と言う声を背中で聞いている筈だが、野獣は振り向かない。

そして箪笥の中からジーンズと白Tシャツを取り出して、こっちに戻って来る。野獣は何だか力強い笑みを浮かべているし、陸奥の嫌な予感もMAXだろう。

野獣がああいう笑顔を見せる時は、だいたい無茶振りが来ることを鈴谷も知っている。このナースコスを渡してきた時の野獣の貌も、確かあんな感じだった。

 

「MTはNGTと違って、“色っぽい隣のお姉さん”って感じだからね。

 こういうちょっとラフな感じの格好で行こうか、じゃあ(コーディネーター先輩)」

 

 すっとぼけた事を抜かしながら、野獣は持って来たジーンズと白Tシャツを陸奥に手渡した。

白Tシャツにはデカデカと『ばくだん●わ』の文字がプリントされていて、ジーンズの方はコレ以上無いくらいビリビリだった。

少女提督が理解不能なものを見る眼で「“隣のお姉さん”ポジションにダサTをチョイスするの……(困惑)」と、小声で呟いていた。

鈴谷はノーコメントだ。沈黙を選ぶ。ナースコスも相当アレだが、陸奥に用意された服装も大概だ。ラフという言葉を盛大に履き違えているのはワザとなのか。

 

「本番はノーパンノーブラで頼むゾ!(サービス満点)」

 

「やるワケ無いでしょ!!(憤怒) 

シャツ一枚とか余裕で透けるじゃない!! それに何よこのボロ雑巾!!」

 

「ダメージジーンズも知らないの? そんなんじゃ甘いよ?(更なる高みへ)」

 

「ダメージが深刻過ぎィ!! もうフンドシじゃないこんなの!!」

 

「しょうがねぇなぁ……。

 じゃあ、Tシャツのプリントは『ボ●兵』に変えとくからさ(譲歩)」

 

「誰が●ム兵よ!! おちょくってるの!?」

 

「『お姉さん、知らないゾ~(裏声)』とか言っとけば、

何やっても許されると思ってる爆弾お姉さんだからね、しょうがないね(優しい貌)」

 

「私の台詞は関係無いでしょ!!?」

 

 憤激する陸奥と、ソファに座ったまま余裕の野獣を見比べ、鈴谷は乾いた笑みが漏れた。

どうも長門型は、野獣に弄り倒される宿命にあるらしい。少女提督も顔を顰めて、野獣と陸奥の遣り取りを見守っている。

 

「おちょくってなんか無いんだゾ。お前だって鎮守府の中じゃ、

『爆弾☆マイマイ』とか、『ボムサーの姫』、『地獄火花の精霊』とか呼ばれて、

駆逐艦達から恐れられてるじゃん、アゼルバイジャン?」

 

「何その物騒な二つ名!? ……え、ホ、ホントに?」 陸奥も流石にショックを受けたような貌だ。

 

「下手してMTの機嫌を損ねると、バビューーーン(爆殺)されるって噂だゾ。

 どう? 実際、今月に入ってレンジが7回ほど爆散したけど? 

マジシャン(紅蓮魔術士)みてぇだなぁ、お前な?」

 

 野獣の言葉に、陸奥は何かを言い返そうとしてやめて、もう一度何かを言おうとしたが、やっぱり止めた。

陸奥は黙ったままソファに座った。多分、何も反論出来なくなったのだろう。ぶっすぅーとした貌でそっぽを向いている。

ドアがノックされ、「し、失礼するね、野獣」と、声が聞こえたのはその時だった。時雨の声だ。それに、複数人の気配。時雨の他にも何人か居るようだ。

「お! 入って、どうぞ!」野獣はドアへと視線を向けて声を掛ける。ドアが開かれた。あまりの光景に、少女提督が持っていた書類を取り落とした。鈴谷も硬直する。

 

 

「一応、着てみたけれど、は、恥ずかしいな……」

赤い貌を俯かせ、おずおずと執務室に入って来た時雨は、黒のバニーガールコスだった。

ウサ耳、フワフワの丸尻尾、網タイツとヒールが刺激的だ。よく似合っている。

 

「どうでしょう? 似合いますか、野獣提督?」

次に入って来たのは赤城だ。着物にエプロンを合わせている。和装メイドと言う奴か。

しっとりとした雰囲気の赤城にぴったりで、彼女の落ち着いた魅力を引き立たせている。

 

「…………いい加減にして欲しいものね」

今度は、青ブルマ体操服を着用した加賀だった。しかも、若干サイズが合っていない。

見た感じ、小さい。だから何だかムチムチしていて、異様に淫靡な感じだ。

加賀自身も美人だから余計に際立っている。律儀に着替えている辺り、弱味でも握られているんだろう。

 

 時雨、赤城、加賀の三人は、鈴谷と眼が合うと静かに目礼をしてくれた。

鈴谷も目礼を返すのだが、彼女達の姿を思わず凝視してしまう。

少女提督と陸奥も、『何だこれは……、たまげたなぁ(素)』みたいな貌だった。

 

「取り合えず揃ったな。ちょっと其処に並んでみよっか、じゃあ」

半笑いの野獣に言われ、取り合えずと言った感じで横に並ぶ。野獣は満足そうに頷いて、四人を順番に見遣った。

 

「おー、良い格好だぜぇ? 

(時雨を見ながら)可愛い! 

(鈴谷を見ながら)エロい! 

(赤城を見ながら)癒し系! 

(加賀を見て半笑い)ちょっとキツイ! って感じだな!(暴言)」

 

「頭に来ました……(静かなる憤激)」

 加賀は、青ブルマ姿のままで、艤装を召還した。その貌は完全な無表情なのに、こめかみには無数の青筋がビキビキと走っている。

このままでは執務室が烈風塗れになってしまう。「加賀さん!? ストップストップ!!」 鈴谷が大慌てで宥め、赤城も「まぁまぁ……」と気を静めるように言ってくれた。

仕方無しと言った感じで加賀も艤装の召還を解いてくれたが、青筋は浮かんだままだ。野獣の言い草は流石に腹に据えかねたのだろう。

流石に時雨も野獣を責めるような視線を向けているし、陸奥や少女提督も同じような様子だ。だが、野獣は半笑いのままである。

 

「ちゃんと指示に従ってくれているのに、そういう言い方はどうかと思うな……」

時雨が野獣を窘める。

 

「そーだよ(便乗)って言うか、私も全然褒められてる気がしないんだけど!」

それに続き、鈴谷もミニスカ裾を下に引っ張りながら唇を尖らせた。

 

「そもそも、何でコスプレしてるのか理解に苦しむわね(こめかみトントン)。

 普段の格好で十分じゃないの? みんな飛び切りの器量良しだし、飾る必要無くない?」

少女提督がジト眼で言う。野獣がソファに凭れかかって、やれやれと肩を竦めて見せた。

 

「野暮ったい格好より、こういう狙ってる格好の方がセクシー、エロいっ!(確信)

それに、エンタメカテゴリのアプリ開発に向けて、データ収集も兼ねてるから多少はね?」

 

「えっ、何それは……(恐怖)」

 

 あまりにも不穏なワードに、陸奥が真顔になって野獣に向き直った。

いや、陸奥だけじゃない。少女提督も険しい表情だ。時雨だって怪訝そうな貌だし、鈴谷だって思わず無言になってしまう。

加賀は眉間に深い皺を刻んで野獣を睨んでいるし、いつもの様に微苦笑を浮かべているのは赤城だけだ。

 

「恋愛ADVみたいなゲームアプリ『艦娘メモリアル+(要するにバッタモン)』を開発中だゾ。

近いうちに本営のホームページでダウンロード開始予定、ご期待ください……(マグロ)」

 

「まさか、さっきの大淀3Dモデルって……」

そう言いながらクソ不味そうに貌を歪めたのは少女提督だ。野獣がニヤッと笑った。

 

「そうだよ(邪悪な笑み)。 全員、立ち絵は3Dにするから。

艦娘達の素モデル(意味深)は大方出来てるんだけど、音声データが不十分でさぁ」

 

野獣は別の携帯端末を取り出しながら、隣で絶句している陸奥にウィンクして見せた。

 

「ちゃんとMTのモデルは、おっぱい☆も―りもり♪だから。 安心して、ぞうぞ」

 

取り出された携帯端末のディスプレイには、超クオリティの3Dモデルが出力されていた。

紐ビキニを着て、セクシーな笑みを浮かべている陸奥だった。

 

「ちょっとォ!! 何勝手に人のモデル作ってるワケ!!?(BRNT)」

 

「大丈夫だって、他の奴らのも出来てるんだからさ。

特にMTのはモデルだけじゃなくて、火遊びPV『乳首BINBIN The Night』も収録するから安心!

だから、はやく着替えろ(豹変)」

 

「収録しなくていいからそんなの!

 どうせ裸同然で踊れって言うんでしょ!? もう許せるわよ!!」

 

 陸奥がソファから猛然と立ち上がり、吼えた時だ。

不意に電子音が響いた。どうやら何らかの連絡が入ったようだ。

野獣は手に持ったままの携帯端末を耳にあてた。憤懣する陸奥も、一旦黙って座り直した。

「おっ、どうしました?(すっとぼけ)」と、野獣は気軽な感じで応答する。

 

『どうしましたじゃねぇ!! 

何だよコレ、ちっとも終わらねぇぞ!!!(若干涙声)

もうギブだ、ギブ!! ギブアップ!!』

 

 だが、端末から漏れて聞こえた声音には、余裕など微塵も感じられない程切羽詰っていた。

 

 ただ事じゃない感じだ。

時雨や赤城も真面目な表情に戻り、陸奥と少女提督も野獣に視線を向けた。

耳を澄ましてみた鈴谷は、端末の向こうから聞こえてくる声が誰のものか分かった。

摩耶だ。そう言えば……、摩耶は明石謹製アトラクションのロケテ参加組だった筈だ。

「だからもうちょい頑張れって言ってんじゃねぇかよ(棒)」野獣は気の無い返事をしながら立ち上がる。

それから、執務机の上に置いてあったタブレットを手に取り戻って来て、ソファにドカッと座った。

 

「そりゃお前、先に進もうにもフロアのギミック動かしてないからね、しょうがないね。

 さっきも言っただルルォ? ホラホラ、もっとフロアを隅々まで調べてみてホラ」

 

 野獣は良いながらタブレットのディスプレイに触れて操作し、何らかの管理画面を呼び出した。

次に複数のウィンドウが表示され、其処には怯えきった様子の摩耶、卯月、吹雪、睦月、夕立の姿が在った。どうやら、アトラクション内のモニター映像らしい。

 

「あっ、そうだ(唐突)。

 そういえば俺の端末にぃ、MYを絶頂させるアプリ、来てるらしいっすよ(悪魔)」

 

野獣の言葉に、この場に居る全員の表情が強張った。

『あ゛あ゛っ!?!? ざっけんなっ!!』流石の摩耶もかなり動揺している。

 

「“イキスギMY様スイッチ”っていうアプリでぇ……(ピーポーピーポー)」

 

『怖過ぎるアプリ名やめろ!! 

 って言うか、こんなタイミングで訳の分かんねぇ事言ってんじゃねぇ!!』

 

「ちょっと待って、動作テストも兼ねて一回押させて貰うね(試し撃ち先輩)」

 

『やめろォ!!(本音) おいっ! マジでやめろォ!!(絶叫)

いや、ちょっ、ほんとゴメン!! 頑張るからゆるして!!(懇願)』

 

「おっ、そうだな(もう聞いてない)」

 

 野獣は端末をポチポチと操作し、何かのアプリを立ち上げる。

そして軽くディスプレイをタップした。次の瞬間だった。

うぁ……ッ!? と声がして、顔を紅潮させた加賀がその場に崩れ落ちた。

咄嗟に、傍に居た時雨と赤城に支えられた加賀は、明らかに様子がおかしかった。

脚がガクガクと震え、ピクンピクンと小刻みに肩が震えている。

野獣が端末のディスプレイと加賀の様子を見比べ、軽く笑って見せた。

 

「あ、ごめんごめん! 

間違えて“イキスギKGさんスイッチ”を起動してたなぁ……(分析)

おいMY、どうすんだよコレェ!!(責任転嫁)」

 

『アタシの所為で被害が広がってるみたいな言い方やめろ!!』

 

「しょうがねぇなぁ……(悟空)

 お前らが早く出られる様に、こっちでギミック全部動かしてやるからさ。(優しさ)

 嬉しいダルォ? じゃあ俺、改めてMY様スイッチ押すから……(処刑執行)」

 

 だが、全く悪びれた様子の無い野獣は再び端末を操作し始める。

ゴウン……、という低い駆動音がタブレットのモニターから聞こえた気がした。

次の瞬間だった。摩耶達の居るフロアに、突如として魔物が溢れ返った。

古今東西の妖怪、怪物、魑魅魍魎の類いだろう。それらが、立体映像として浮かび上がる。

上半身だけの女。首だけの男。逆さ吊りの老婆。空間に浮かび上がる顔。壁に現れた血手形。

開いた扉から伸びる、腕。腕。腕。ラップ音。笑い声。啜り泣く声。怨嗟の呻り。怒号。

それらが全て一斉に現れた。怪奇現象のオールガンズブレイジングだ。

 

 見ているだけの鈴谷でも、盛大に鳥肌が立って脚が竦む光景だった。

野獣の隣に座っている少女提督が、「ひっ……!」と短い悲鳴を上げている。

陸奥と時雨も青い顔だし、加賀が軽く失神して、慌てた赤城に支えられた。

当たり前だが、現場に居る摩耶達の恐怖は想像を絶した事だろう。

 

『うびゃああああああああああぁぁぁあああああああっ!!!!!(卯月@ガン泣き)』

『にゃしいいぃいいぃいぃいいぃいいいいいいいいいい!!!!!(睦月@ガン泣き)』

『ぽィィィィいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!(夕立@ガン泣き)』

『うぁっ!!? ひぁあっ!!? ぐっ!? あぁああっ……!!(摩耶@イキスギ)』

『あの! パンツ!! パンツです!! じゃなくて! ふ、吹雪で(ミーンミーン)』

 

錯乱気味の吹雪の絶叫だけ、何故か迫真の環境音に掻き消されていたが、大惨事である事に変わり無い。

四人の断末魔と共に、タブレットのモニターがブラックアウトした。誰も、何も言わなかった。

沈黙が何秒か在った。そんな中でも、しれっとしているの野獣だけだ。皆、「うわぁ……」みたいな貌のままで固まっている。

ナースコスさせられるぐらいなら、まだマシだったと思わざるを得ない。明石謹製のアトラクションはもう拷問だ。恐ろし過ぎる。

 

 

 

「おっと、話が脱線したなぁ……。あっ、そうだ(話題転換)。

 ケッコンカッコカリ体験コーナーの前に、お前らに渡すモンが在ったゾ」

 

 野獣はタブレットをテーブルに置いてから立ち上がり、今度は執務机の引き出しから何やら高級そうな小箱を四つ取り出して、まず時雨に小箱を手渡した。

 

 バニー姿の時雨は、ちょっと驚いた様な貌でそれを両手で受け取る。

次に、鈴谷へも渡してくれて、その流れで、少し神妙な様子の赤城、嫌な予感を感じ取ったであろう、不味そうな顔をした加賀にも手渡した。

何を始める気なのよ……。呆れたような貌の少女提督の声が聞こえた。陸奥の方は、何かを察したのだろう。肩の力が抜けた様な、苦笑とも微笑みとも付かない表情だ。

「開けてみて、どうぞ(ちょっと真面目顔先輩)」野獣は鈴谷達を順に見てから、顎をしゃくって見せる。ほんの少しだけ、野獣の雰囲気が変わった。

 

 時雨は手元の小箱と野獣の顔を見比べてから、少し緊張した面持ちでゆっくりと小箱を開ける。

「あっ、これ……」 小箱を開け、その中身を見詰めた時雨の声は、微かに震えていた。時雨の手元を見詰めて居た鈴谷も、思わず口を手で押さえてしまう。

小箱に収められていたのは、『ケッコンカッコカリ』に用いる、儀礼術用の指輪だった。緻密で複雑な術紋が刻まれ、神秘的な淡い蒼色の微光を湛えている。

鈴谷も、自分の手の中に在る小箱を恐る恐る開けてみる。やっぱり其処には、時雨の手元にあるものと同じ指輪が在った。

赤城、それから、加賀も同じだ。いきなりの事に、二人とも言葉が出てこない様子だった。鈴谷も同じだ。呆気に取られてしまう。

 

 そんな鈴谷達を見て、野獣は軽く笑った。嫌味の無い笑みだった。

ソファに座っている陸奥も、何かを祝福するように柔らかく微笑んでいる。

少女提督の方は真面目な貌だ。『ケッコンカッコカリ』について、何か思う所があるのか。

 

 しかし。でも、あの、これ。やっぱり、本物の『ケッコン』指輪だよね?

少年提督が行った『ケッコン』施術を見るに、『結魂』と表現すべき、軍用の儀礼術だ。

 

 や。でも。何て言うか。特別な術式である事に変わりは無いし。

野獣はその相手に、私達を選んだと言う事だし。

これは、つまり、えぇっと……。どういうことなの?(レ)

鈴谷は眼がぐるぐると廻り始めるのを感じた。

だって、突然と言うか、急過ぎやしないだろうか。

もっとこう、会話の流れと言うか、ムードと言うか。

顔を上げると、野獣が時雨の前に立っていた。

 

「本営の決定で、とうとう俺も保有艦何人かと『ケッコン』する事になってさぁ……。

取り合えず、今回本営から送られて来た儀礼指輪については、お前らに渡しとくゾ」

 

 野獣は少し硬い声音で言いながら、自分の手の中にある指輪を呆然と見詰めている時雨の頭をぐしぐしと撫でる。

現在。これだけの艦娘の人格と錬度を育み、長門や陸奥まで召還出来る人材は、野獣や“彼”以外にはまだ居ない。

艦娘をより強化出来る『ケッコンカッコカリ』。それを複数人の艦娘を対象に取れるならば、本営にとって越した事は無い。

『ケッコンカッコカリ』に必要な条件は、艦娘の人格、錬度。そして、各々の提督との絆。それらが揃っていることも、本営も調査済みなのだろう。

鈴谷はキュッとした唇を噛んだ。浮かれ掛けている自分が、ちょっとだけ嫌になりそうだった。この『ケッコンカッコカリ』も、仕組まれたものだという事は容易に想像が付く。

野獣の笑みが、ほんの少しだけ、すまなさそうに見えたのは鈴谷の気のせいでは無いと思う。

 

 

「『ケッコン』するのは確かに上からの指示だけど、貴女達を選んだのは野獣よ」

そんな野獣をフォローするみたいに、陸奥が微笑みを深めつつ、時雨達を順に見た。

 

「本当なら、私と長門が野獣と『ケッコンカッコカリ』する予定だったんだけどね。

 貴女達と『ケッコン』するって、頑なに譲らなかったのよ。

御蔭で、本営での会議でも随分揉めたみたい」

 

ね、野獣? と。

ソファに座ったままの陸奥は脚を組みかえつつ、手の掛かる弟をからかうみたいに野獣に言う。それから、鈴谷達の方を見てから、ウィンクして見せた。

野獣の方は、何だか破れかぶれで、申し訳無さそうで、自嘲するみたいな表情だ。それでいて、鈴谷達に向けてくれた眼差しは真剣で、まっすぐだった。

 

 いつもとは雰囲気の違う野獣と、何かを察した様な先ほどの陸奥の様子に、鈴谷はふと思う。

この“『ケッコンカッコカリ』体験コーナー”という滅茶苦茶な企画の正体。

それは、野獣が鈴谷達に指輪を渡す流れをつくる為の、ダミー企画なのでは無いか。

わざわざ派手なコスに着替えさせたり、3Dのモデルまで作ってみたり。

或いは今の様に、陸奥や摩耶達を過剰に弄ってみたりするのも、野獣なりの立ち回りだ。

いつだってそうだった。周囲を振り回すことで、野獣は本心を煙に巻く。

今回だって、野獣は飄々としたまま、鈴谷達に指輪を渡そうとしたに違いない。

でも、今日は失敗したんだと思う。今の野獣の表情は、平然とは程遠い。

それだけ、指輪を渡すという行為は、野獣にとっても深い意味を持つのだろう。

 

 

「普段は無茶苦茶なことばかり言って怖い者知らずの癖に、

 こういう肝心な時にちょっとヘタレな野獣の、精一杯の特別扱い……。

 受け取ってあげてくれるかしら?」

 

陸奥のその優しい言葉に、手元の指輪から顔を上げた時雨は、野獣を見詰めて洟を啜った。その唇が震えていた。

みるみる内に、その綺麗な碧い瞳が揺れ、潤んで滲み、透明な雫があふれ出して、白い頬を伝う。

一方で、バツが悪そうな貌になった野獣はつまらなそうに鼻を鳴らしてから、時雨から眼を逸らしてから、撫でている手を引っ込めようとした。だが、出来なかった。

時雨が、野獣のお腹あたりにぎゅっと抱き付いたからだ。「ファッ!?」珍しく、野獣が驚いていた。時雨は何も言わない。ただ、ぎゅうぎゅうと野獣に抱きついている。

いつもの落ち着いた時雨じゃない。肩や腕が、嗚咽を堪えて震えていた。その端整で可憐な貌も、大粒の涙で、もうぐちゃぐちゃだ。やっぱり嬉しいんだろう。

 

「何だ何だSGR~、どしゃぶりの大雨じゃねぇか!(ポエマー先輩)」

 

野獣は、大泣きする時雨の頭を撫でながら笑った。

 

「“雨はいつか上がるさ”ってお前は良く励ましてくれたよなぁ(遠い眼)。

よし! じゃあ、お前の雨が上がったら、今度は俺が虹を掛けてやるからさ!

お前の為に(優しさ)。嬉しいだルルォ」

 

カッコいい事言おうとしてるみたいだけど、ちょっと滑ってるわよ。

外野から野次を飛ばすみたいに言いながら、陸奥がくすくすと笑った。

若干キモイわね……。冷静な貌の少女提督の言葉に、ほんのちょっとだけ時雨が笑った。

 

「“一航戦・赤城”。その分霊として貴方に召ばれて、私は本当に幸せです」

 

 時雨と野獣を見守るような優しい眼差しで、赤城は熱の篭った言葉を紡いだ。

徹底して任務を遂行するその姿から、他所の鎮守府では“戦闘マシーン”などと揶揄される赤城の目尻にも、涙が滲んでいる。

瞳には今までに無い輝きが宿っていて、その微笑がどれだけの想いを秘めているのか、鈴谷には推し量る事は出来そうに無かった。

手渡された小箱を、大事そうに、大事そうに両手で持つ赤城は、ゆっくりと呼吸を吐き出してから静かに瞑目し、野獣に深く頭を垂れた。

 

 そんな二人の姿を見ていると、鈴谷の視界までぐちゃぐちゃになり始めた。

我慢しようとしたが無理だった。涙が出て来た。もう駄目だ。水位が一気に上がって来る。

何か言わないと。軽口でも良いし、お礼でも良い。早く笑わないと。

このままじっとしていると、本当にぼろぼろ来ちゃう、ヤバイヤバイ……。

ぐずぐずしていると今度は洟が出てきて、それを啜るともう限界だった。

ドバーッと涙が出てきて、顔中、涙と鼻水塗れになった。かっこ悪いなぁ。でも、嬉しい。

左手で小箱を持ち、右腕で顔を隠すみたいにして、漏れそうになる嗚咽を堪える。

こんなミニスカナース服着て、ベソベソしてさ。ムードもへったくれも無い。

 

「何だ何だ、お前ら~! ちょっと湿っぽいんじゃないこんな所で~!

 おいSZYァ! お前も泣いてないで、何か面白い事やってホラホラ!(無茶振り)

 ひょろしくね! ひょろしくね!!(二連撃)」

 

「ぐすっ……! うっさいなぁ、もうっ! それ止めてって前も言ったじゃん!」

鈴谷も、泣きながら笑みが零れた。

 

「あの、野獣提督……。私、感情表現が……、その……」

 

 無茶苦茶低い声が聞こえたのはその時だった。

見れば、在り得ないほど嫌そうな貌をした加賀が、小箱を開けずに持ったまま佇んでいた。

身体全体から黒いオーラを発散させまくっていて、ブルマ姿なのに威圧的ですら在る。

 

「これ以上無いぐらい感情表現出来てるだろ! 良い加減にしろ!!

死ぬほど不機嫌そうな貌してんじゃねぞォオラララァァァァアアン!(半笑い)」

 

「私……、これでも今、とっても不服なのだけれど……」

 

「見りゃ分かんだYO!!!!」

 

 野獣の言い草と加賀の冷め切った対応に、少女提督と陸奥が爆笑し、時雨、鈴谷、赤城が噴き出した。

御蔭で、空気が幾分明るくなった。時雨も、もう野獣から離れて、涙を腕で拭っている。

加賀は湿っぽい空気を読んだ上で野獣に気を遣って、敢えて不貞腐れたような言い草をしたのかもしれない。

 

「まぁ……、私も野獣提督の事は認めてはいます。

 強化施術としての『カッコカリ(強調)』ならば、誠意を持って受けましょう。

 勘違いしないで下さい? 飽くまで強化施術として受けるだけですので」

 

 強く念を押し、クールビューティー(ショタコン重篤)を貫く加賀に、「……ありがとナス」と、野獣も頷いた。

こんなバタバタとした会議の中で、四人同時に『ケッコン』の話が進もうとしている辺り、この鎮守府と言うか、野獣らしい。

鈴谷がもう一度、小箱の中の指輪に視線を落とす。指輪に宿る蒼い微光は、海色に似た深みを持ちながらも、輝きを増して何処までも澄んでいた。

 

 もしも。もしも鈴谷が沈む時が来ても。この輝きは水底に灯り続けるのだろうか。そうであれば良いと思う。

碧落の果てで、身も心も、旭に照らされて余波に消えようとも。この指輪に絆の耀う限り、鈴谷が鈴谷として生きた証は残り続けて欲しい。

それくらいは望んでも罰は当たらないだろう。鈴谷は小箱を持つ手に、少しだけ力を込めた。














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後日談 終章

 一日の業務を終えた後。少女提督は彼の執務室に向けて廊下を歩いていた。時刻は、夕刻になろうとしている頃だ。

窓から差し込み、廊下の床に敷かれた夕陽の光を踏んでいく。その光に照らされた自身の影が、廊下の壁に伸びている。外を見遣ると、波の穏やかな海が見える。

疎らな雲。蒼と茜が混じり、滲みはじめた空。沈もうとする陽。ぬるい潮風。いつもの景色が広がっている。

軽く息を吐き出して、外に向けていた視線を手元へと戻した。其処には書類が在り、イタリア艦の“リットリオ”、“ローマ”、この二人の召還指示が記されていた。

これは少女提督にあてられたものでは無い。少年提督へ送られて来たものだ。少女提督の書類の中に混ざっていたので、届けに行く最中である。

今日の夜には、鎮守府祭での成功を祝った打ち上げをする予定だし、もうこの時間であれば、彼は今日の執務を片付けてしまっている頃だろうか。

今日の打ち上げには深海棲艦達も参加させるらしいし、どうせまた在り得ないくらいのドンチャン騒ぎになるんだろうと思う。

そういえば先程、携帯端末に野獣から連絡が在ったが、野獣はもう食堂でスタンバイしている様だ。既に缶ビールを何本か開けている様で、声はもう酔っていた。

相変わらず勝手というか天衣無縫な男だが、まぁ祝いたいという気持ちも分からないでも無かった。

とにかくハチャメチャで割とやりたい放題の会議だったにも関わらず、結果としての鎮守府祭は一応の成功を収めたと言えたからだ。

 

 艦船模型や艤装の展示、深海棲艦達との戦史や資料などもそこそこに好評だった様だし、艦娘達と接する場を多く設けた事も在り、来客達の反応も上々だった。

艦娘達が給仕をする飲食系の出し物も大繁盛の大盛況であり、男性女性を問わず、各々の艦娘ファン達が殺到したのだ。他の鎮守府では無いような混み具合だった。

屋台なども容赦無く襲撃され、担当の艦娘達は眼が回る忙しさだったと言う。それでいて、怪我人が出るような騒動も無かったのは、大淀を中心にした運営・実行委員の御蔭だ。

パトロールのシフトや展示物の管理、鎮守府の案内などについても、大淀は“よどりん☆じゃんけん”と並行して、完璧に仕事をこなしてくれた。

勿論、大淀だけでなく、艦娘達一人一人が大きく貢献していた事は間違い無い。多くの人々と触れ合う機会に恵まれた、実りの多い、意味深い鎮守府祭だったと思う。

「祭りから数日経ってようやく全員の都合も付きそうだに、此処はひとつ打ち上げでもしねぇか?」という野獣の提案も在り、今日の夕刻からは宴会が開かれる予定だ。

ちなみに、テスト段階での余りの過激さに誰もクリア出来なかった、“明石屋敷”も、ver 1.20へとアップデートされ、演出などが全体的にマイルドになった。

流石にチャレンジした一般客の精神に傷を負わせる様な恐怖度はNGという事で、調整が入ったのだ。

 

 難易度をグッと落とした明石屋敷では、一般来客者の中からでもクリア者が出ることになり、賞品として『間宮特製の甘味詰め合わせセット』が贈られた。

本来、クリア者には『ケッコン指輪(レプリカ)』が送られ、『ケッコンカッコカリ』体験コーナーに参加できる予定だと野獣が言っていたが、急遽変更の流れとなったのだ。

本営の公式ページからダウンロード配信予定だと言っていたアプリについても、開発を破棄したらしい。おかげで鎮守府祭は、それなりに健全な出し物で揃えられた。

時雨達に指輪を渡した野獣は、認可段階にあった無茶苦茶な企画の数々を実行するのでは無く、次々と廃案にして行った。

あとに残った割と“攻めの企画”は『ふれあい・ながもんコーナー』、『よどりん☆じゃんけん』ぐらいのもので、羽目を外し過ぎた悪ふざけでしか無い様な企画は一掃された。

鎮守府祭の当日も、鎮守府を訪れた本営の賓客達の相手に忙しそうだった野獣は、祭りの運営にちょっかいを掛けてくる事も無かった。

 

 結局のところ。あれだけ馬鹿騒ぎをして会議を引っ掻き回していた野獣は、鎮守府祭当日には、訪れた賓客の相手をしながら、祭りを運営する艦娘達を見守るに留まっていた。

最初から蚊帳の外だった。今にして思えば、無茶苦茶なアプリ開発や、『ケッコンカッコカリ』体験コーナーなんていう企画自体も、野獣は実行する気が無かったに違い無い。

陸奥は途中で見破っていたようだが、要するに、時雨達に指輪を渡すタイミングと言うか、勢いと言うか、そういうのが欲しかったのだろう。

明石屋敷のテストプレイに参加させられた艦娘達からは散々に文句を言われていたが、参加賞としての間宮無料券など用意したりして労い、ちゃんとフォローしていた。

普段から戯けた言動を取り、自分から進んで艦娘達からの顰蹙を買いまくっている癖に完全に憎まれ切っていないのは、野獣のこういう所に理由が在る様に思う。

ピエロとしての野獣の裏側に在る、不器用とも臆病とも慎重とも言えない真摯さは、自分も感じる時は在る。時雨達が惹かれるのも、そういう部分が在るからこそだろうし。

捉えどころの無い、破天荒で傲岸不遜、唯我独尊なあの振る舞いも、他者との距離を調節する為の野獣なりの処世術と言うべきか。

のらりくらりと立ち回って本心を悟らせない、一種の孤高さにも似た思慮深さの中には、少年提督とも通じる何かが在ったのだろう。

其処まで考えたところで、少年提督の執務室の前に到着した。扉を軽くノックをすると、「はい、どうぞ」と、彼の良く通る声が聞こえた。

「失礼するわね」と、短く言いながら扉を開ける。良い香りがした。紅茶の香りだ。

 

 何処と無く緩やかな雰囲気が漂っているし、どうやら一服していたところらしい。皆の手には、紅茶が注がれた豪奢なティーカップが在る。

拘束具めいた黒眼帯で右眼を覆っている少年提督は執務机では無く、ソファに腰掛けていた。彼は一旦カップを置いてから此方を見て立ち上がり、軽く礼をしてくれた。

彼の隣に座っていた今日の秘書艦である金剛もそれに倣い、敬礼の姿勢を取った。ただ、彼女の敬礼は堅い雰囲気では無く、その表情は此方を歓迎する様な笑顔だ。

金剛の反対隣。彼を挟むような位置でソファに座っていた戦艦水鬼と戦艦棲姫の二人も、一度立ち上がり、上品な仕種で静々と頭を下げて見せた。

二人は、戦艦ル級が着ていた様な、細身で黒色のボディスーツを纏っている。彼女達の白い肌と艶やかな黒髪に良く似合う、落ち着いた格好だった。

棲姫と水鬼の二人は今日の秘書艦見習いだったのだろうが、こうして恭しい態度で接してこられると、やはり妙な感じである。どうしても落ち着かない。

深海棲艦の上位種である彼女達は、かつて洋上では悪魔染みた存在だった筈だ。それが今では、鎮守府で秘書艦の仕事の一部を担っているというのだから、分からないものである。

「あぁ、そんな畏まらないで良いって。ちょっと書類を届けに来ただけだから」少女提督は軽く手を振ってみせて、少年提督や金剛達に腰掛けてくれるように促した。

少年提督が軽く頭を下げ、ソファに腰を下ろすのを確認してから扉を後ろ手に閉める。それから彼の傍に歩み寄って、薄い書類の束を手渡した。

 

 棲姫と水鬼の二人は、少女提督にも紅茶をしようとしたのだろう。カップなどが置かれた執務室の一角へと向おうとしたが、其処は金剛が仕切る事になったようだ。

「おっと、此処はワタシの出番ネー! 折角いらしたんですカラ、美味しい紅茶を飲んで行って下サーイ!」金剛は棲姫達に片目を瞑って見せて、溌剌とした声音で言う。

棲姫と水鬼の二人も、微かに微笑んで金剛に目礼を返していた。その仕種からは、艦娘達とは互いに気遣う仲であるという事が窺えるし、鎮守府に馴染んでいるとも思える。

本当に、この鎮守府は不思議な場所だ。金剛達の短い遣り取りを見守っていた彼が、ソファに座ったままで此方に向き直る。

 

「そちらに混ざってしまっていたんですね。態々すみません」

 

「別に構わないわ。散歩ついでに持って来ただけだから。

 ……また艦娘を揃えろって感じの指示が来てるみたいだけど、適正が高いと大変ね」

 

 うんざりした様な声音で言う少女提督に、彼は苦笑を浮かべて見せてから「どうぞ、掛けて下さい」と、自分の向かいのソファに手を差し出した。

丁度そのタイミングで、金剛が紅茶を注いだカップを持って来てくれた。此処まで用意して貰って断る理由など無い。礼を述べて素直にカップを受け取り、ソファに腰を下ろす。

金剛が用意してくれたのは、甘みの在るハーブティーだった。蜂蜜か何かを加えているのか。疲れの取れる優しい味で、思わずホッと息を漏らしてしまった。

「ホントに美味しいわ……。有り難う」 そんな少女提督の様子に、金剛も嬉しそうに頷いてから、ソファに腰掛ける彼の隣に腰を下ろす。

 

 少女提督も腰を下ろしてしまうと、何だか肩の力が抜けて行って、自然と笑みが溢れて来た。

この場の緩い空気の所為だろうか。紅茶も美味しいし、雑談にも花が咲く。雑談とは言っても、基本的に金剛が軸である。

金剛が冗談を言い、少女提督がツッコんで、棲姫と水鬼は静々と話を聞いている。

少年提督は書類に目を通しつつ、皆を見て微笑んでいるといった感じだった。要するに、普段通りだった。

 

 

 

暫くしてからだった。

 

「そう言えば、今日は秘書艦の方を連れておられないのですね」

 

ざっと書類に視線を通し終えたのだろう。少年提督が顔を上げた。

 

「えぇ。今日中に片付けるものは全部終わっちゃったから。

 最後の最後に見つけたのがその書類だったの。

 結果的に届けるのが遅くなっちゃって、何かゴメン……」

 

「いえいえ、お気になさらないで下さい。

 この指示についても、すぐにどうこうと言う内容ではありませんでしたし」

 

 軽く笑みを浮かべた少年提督は、書類をソファテーブルの上にそっと置いた。

 むふん♪ と、得意気に鼻を鳴らしたのは、上品に紅茶のカップを傾ける金剛だった。

 

「こうして戦力強化の為、New Faceを招き迎える指示が来るという事は、

 テイトクが本営からも頼りにされている証拠ですネ。誇らしいことデスヨ」

 

 金剛は満足そうに言い、紅茶を一口啜る。そんな御満悦な様子の金剛に軽く頷き、テーブルに置かれていた書類を手に取ったのは、穏やかな貌をしたままの水鬼だった。

隣に居る棲姫も横から覗いて、興味深そうに紙面を視線で追っている。こうした戦力強化の報告について、やはり彼女達の心境は穏やかなものでは無いのではないか。

新造艦を迎えるという事は、深海棲艦を討つための艦娘の数を更に増やすという意味に他ならない。しかし、彼女達の様子は落ち着いたままだ。

視線に気付いた水鬼と棲姫は、顔を上げて少女提督に向き直り、柔らかく微笑んだ。彼女達の紅の瞳に見据えられ、思わずギクッとしてしまう。

人ならざる者が持つ、特有の美貌と魔性の所為だろうか。眼を逸らせない。唾を飲み込む。そんな少女提督に、彼女達はまた静々と頭を下げて見せた。

 

「私達の事ハ、警戒なさらなくとも大丈夫デす」

 棲姫は目許を緩めながら、不思議な響きを持つ声音で言う。

 風の無い水面の様に凪いだあの眼差しは、恐らく此方の胸中を見透かしている事だろう。

 

「我々ハ既ニ彼ノ保有物ト言ウ状況ニ在リマス。

 戦ウ“意思”、ソシテ、“力”ヲ彼ニ預ケテオリマス故、反逆ナド出来ヨウ筈モアリマセン」

 

 その棲姫の言葉の後に続いたのは、紅茶カップをテーブルのソーサーに返した水鬼だ。

静謐な美貌に微かな笑みを湛えた水鬼は、何処か誇らし気に言葉を紡ぐ。不思議な覚悟の様なものを感じさせる声音だった。

優雅に紅茶のカップを傾けていた金剛が、棲姫と水鬼を横目でチラリと見た。

少年提督の方は、紅茶カップを持ったまま、僅かに俯いて瞑目している。

何かを思索しているという風でも無い彼は、少女提督か、それとも、棲姫か水鬼の言葉を待っているのか。彼は黙したままだ。

 

 少女提督はそんな彼を一瞥して、軽く鼻を鳴らす。

相変わらず、何を考えているのか良くわからないんだから。

そう言ってやろうと思ったが、止めた。代わりに、棲姫と水鬼の二人に向き直る。

 

「別に、貴女達の反抗を危惧してる訳じゃないわ。

 そもそも、精神制御と解体施術を受けてる以上、脅威になんてなりえないんだし。

 ただ、……同じ深海棲艦達を攻撃する側に居て、辛くないのかなって……」

 

 そう思っただけ。

 其処までぶっきらぼうに言ってから、少女提督はそっぽを向いて紅茶を啜る。

棲姫と水鬼は、何だか意外そうな貌をして、少女提督を見ている。

少年提督は瞑目したままで緩く息を吐き出して、ほんの少し口許を緩めていた。

金剛も似た様な様子だ。……何よ二人とも。何か言いたいことでもあんの? 

そう言おうとしたが、出来なかった。「はイ……」と、棲姫が此方に頷いたからだ。

 

「確かニ深海棲艦達ガ討たれていくノハ、心苦しく思いまス。

 シカシ、深海棲艦達モ同じく、艦娘達を沈め、人類ヲ脅かそウとしているのも事実デす。

 降りかかり、身を焦がす火の粉を払う事に、私達が何を言えましょうカ」

 

「深海棲艦ト艦娘ハ、未ダ縺レ合イ、殺シ殺サレル堂々巡リノ中ニ在リマス。

 コノ連鎖ヲ断チ斬ルニハ、マダ時間ガ必要デス。機ガ熟ス迄ノ、多クノ犠牲モ……」

 

 棲姫と水鬼の言葉には、聞く者を黙らせるだけの覚悟と言うか、迫力が在った。

深海棲艦が討たれるのであれば、それは同時に、艦娘達が討たれるという事も意味している。

当たり前だ。深海棲艦と艦娘は、捕食者と餌食という関係では無い。殺しあう関係なのだ。沈めもすれば、沈められもする。

延々と続いて来たこの構図を塗り替える為に必要な、偉大な激痛と大出血。それはお互い様であると言いたいのだろう。

 

 

 

「百ノ艦娘達ガ轟沈シ、千ノ深海棲艦ガ撃沈サレ、

 万ノ憎悪ト金屑ト為ッテ海ニ融ケテ“一”ト成リ……、昇リ還ッテ来タ者ガ我等デス。

 シカシ、我等ノ……私ノ内ニハ記憶ガ在リ、感情ガ在リマシタ」

 

 此方を見据える水鬼は、訥々と言葉を紡ぎながら微笑んだ。

「ソシテ私ハ、“海”ト言ウ巨大ナ意思ニ抗ウ為ノ、“自我”ヲ取リ戻ス事ガ出来マシタ」

彼ノ御蔭デ……。そう言って水鬼は、少年提督を一瞥し、此方に向き直る。

まるで己の内にあるものを、ゆっくりと此方へ曝すかの様だった。

 

「私ハ、私ノ意志デ、深海棲艦達ガ討タレル現実ヲ受ケ入レテイルノデス。

 貴女ガ気ヲ病マレル事ハ在リマセン」

 

「人ト海の争イを調停すること。それこソが肝要デす。

 血と傷ヲ召び続ける“海”ニ交渉する為に、我等ハ彼の意志に従う事を決めまシた。

 海に平穏が戻レば、討たれた深海棲艦達の手向ケにもなりまシょう」

 

 水鬼と棲姫は、お互いの顔を見合わせてから、此方に微笑みを浮かべる。

眼の前に居る者を怯ませるほど、迷いや打算の無い、真っ直ぐな眼差しだった。

彼女達の紅の瞳。その奥に煌々と灯る光は熱を帯びて揺らぎ、激情として燃えている。

其処に宿るものは、縷々とした希望への渇望か。己を生み出した、“海”への怒りか。

或いは、深海棲艦と成り果てて尚、手を差し伸べてくれた彼への狂信、盲信か。

水鬼達に圧され、少女提督は言葉を呑みながら、僅かに身を引く。

だが、すぐに水鬼達をぐっと見詰め返す。「じゃあ、もしも……その理想の現実が無理だったら?」

少女提督は、敢えて声に抑揚を付けずに言い、彼をチラリと見遣る。彼はやはり、黙ったままだ。此方を見ない。

一方で、水鬼達は穏やかな微笑みを浮かべたままで、ゆるゆると首を振って見せた。

 

「例え未来ニ我等ガ生き残ル道が無くとモ、我等ハ彼の意志に従ウのみデス」 

 

 少しの沈黙。棲姫の短い答えを聞いて、少女提督は少年提督へと、再び視線だけを向ける。

 彼は紅茶カップをテーブルのソーサーに置いてから、緩く息を吐き出した。

 

「……僕達には、深海棲艦の皆さんと共に生きる術を探す権利が在ります。

 僕はただ、その権利を行使しようとしているに過ぎません。甘い理想ですが、足掻いてみたいと思います」

 

 微笑んだままの少年提督は、少女提督の言葉に気を悪くした風でも無い。

ひっそりと微笑んだ彼に続き、隣に居た金剛が冗談めかして肩をすくめて、軽く笑った。

 

「ハイハイ! 難しい話は其処までにシマショ! 終わりッ! 閉廷! 

そんな暗い話題ばっかりだと、せっかくのTea timeなのにrilaxが出来まセンヨ!

じゃあまず、テイトクの好きな艦娘を教えてくれますカ?(暴投)」

 

 余りに急過ぎる話題転換と共に、金剛は隣に腰掛けて居る彼に肩を寄せた。

金剛と彼では身長差が在るので、歳の離れた姉が弟をからかっているみたいにも見える。

隣に居る金剛へと顔を上げた彼は微苦笑を浮かべた。

 

「僕は、皆さんの事が好きですよ。

 大切な仲間であり、家族であると思っています」

 

 彼の澄んだ声音は微笑みの中にありつつも、何処か重い響きが在る。芯の強さを窺わせる声だった。金剛だけでなく棲姫と水鬼を見遣った彼は、その微笑を深める。

彼の視線を受け止め、棲姫と水鬼も目許を緩めていた。金剛の方は、ちょっとだけ残念そうな、それでいて安堵したように緩く笑っていた。

「うーん、……テイトクならそう答えると思ってましたヨ。まぁ、Loveの形は色々ですしネー……」

やれやれと言った感じで言いながら、金剛はそっと彼から離れて、此方に向き直った。何だか嫌な予感がした。

 

「強い信頼で結ばれた女性テイトクと艦娘達が、

 めくるめく禁断の花園に踏み入る事も珍しく無いと聞きマス。

 ……其処のトコロ、詳しくお聞かせ願えませんカ?」

 

 むふふっ♪ と、猫みたいな口になった金剛が、ずいっと身を乗り出して来た。青葉の真似だろうか。此方にマイクを向けるようなポーズを取っている。

「禁断の花園……?」と、意味をよく理解していなさそうな彼と一緒に、棲姫達も何だか興味深そうな貌で此方を見てくるし、ちょっと焦る。いや。いやいや。

さっきまでのちょっとシリアスな雰囲気を和ませる為の、金剛なりに空気を呼んだ悪ノリなのだろうが、そういうフリは止めて欲しい。

 

「ウチの皆には無いから、そういうの。

 幾ら期待されても、到って普通というか、提督と艦娘との関係しか無いからね」

 

「まーたまたぁ、とぼけちゃってェ……。

 ホントは居るですヨネ? ケッコンしたい娘! 大丈夫デスよ!

 ワタシは口が堅いデスから! 口が堅いから、安心!」

 

「面白がってる貌でそんな事言われても、説得力全然無いからね?

 それに、居ないから。盛り上がってるトコ悪いんだけど。

 そもそもケッコンカッコカリの施術自体、私にはまだ扱えないから」

 

 冷静に金剛に突っ込むと、彼女は「エーーー……」とか、何だか面白くなさそうにしょんぼりとしてしまった。

しかし、すぐに上目遣いで視線を向けてきた。だが、その口許はやっぱり笑っている。

 

「じゃあ、……彼氏とか、いらっしゃらないんデスか?」

 

「えっ、そんなん関係無いでしょ(マジレス)」

 

 こんな不毛な遣り取りを眺めつつ、クスクスと小さく笑みを零している水鬼達の右手薬指には、ケッコン施術用の指輪が嵌められており、澄んだ輝きを湛えていた。

彼が、彼女達と『ケッコンカッコカリ』を行った事は既に知っている。深海棲艦達を、人類側の戦力として安定させる為という名目で、本営に許可を得たのだという。

『ケッコンカッコカリ』の条件は、人格の存在と、錬度の高さ。そして施術者であるシャーマン、“提督”との精神的な繋がりが必要となる事が解明されている。

 

 それは思慕の情だけで無く、信頼関係によっても『ケッコンカッコカリ』は可能である。

錬度の数値化限界Lv99から、更なる強化改修を可能にする為。お互いを信頼した上での精鋭化儀礼として、『ケッコン』を受け入れる提督や艦娘は少なく無い。

この鎮守府で言えば、野獣と加賀との『ケッコン』がそれにあたるだろう。

時雨や鈴谷、赤城に関しては、彼女達の恋慕や愛情に野獣が応える形で『ケッコン』施術を行っていた筈だ。

こうした精神的な繋がりが必須ではあるが、棲姫や水鬼達が指輪をしているところを見るに、その条件をクリアしているのだと考えられる。

ただ、彼の場合は、少々毛色が異なる。彼にとっての『ケッコン』とは『結魂』であり、人類が持つ精神と、深海棲艦の持つ鋭い感覚の融合を指す。

気付けば、少女提督は水鬼と棲姫の右手薬指を見詰めて居た。その視線に気付いたのだろう。彼は微笑みながら、穏やかな声で言う。

 

「人型である深海棲艦の皆さんには、自我や感情、思考が在ります。

 此方の声が届くのであれば、交渉の余地も生まれるでしょう」

 

 それがどれ程縷々とした希望なのかは理解しかねる。

だが、彼と野獣は諦めていない。現在の状況は、人類が大きく優位に立っている。

そう錯覚する程には、戦況は人類側が勝利を重ねている。

力による『受容』の実現を模索するには、このタイミングを逃せない。

少女提督はソファに座りなおして、顎に手を当てながら思案するように俯く。

 

「どうして“海”は、深海棲艦達に感情を与えたんでしょうね……。

 いえ、この場合だと、彼女達の自我を残したままだと表現した方が正しいかしら」

 

 深海棲艦が生まれるメカニズムとは違い、感情が残り続ける理由については不明なままだ。

“海”は、深海棲艦の精神を彫り、記憶を略取し、殺戮という機能を与える。しかし同時に、人類と心を交わしあう部分を残している。

感情と言うか、不確かで曖昧な部分を残している。それは憎悪であり、悪意である。彼女達を衝き動かして来た激情だ。だが、明らかに非効率である。

人類への殺意を植え付けても自我をも残してしまえば、深海棲艦達の中にも思考が生まれる。その思索に伴い、感情も変遷しうるのだ。兵器としての不安定さは拭えない。

そういう意味では、“捨て艦”として自我を破壊された艦娘達の方が、深海棲艦達よりも遥かに完成された兵器であり、道具としての存在意義を極めた一種の機能美を持っていた。

だが、捨て艦達には『ケッコン』する為の自我は無く、フォーマットされた人格には感情が宿らない。其処に残っているのは、戦況を分析するだけのプログラムである。

其処まで考えて、ふと気付く。捨て艦として思考や感情を破壊された艦娘達にも、“海”は、新たな思考と感情、人格と目的を与えている。それが害意と悪意でしかなくとも。

この構図が示唆するものは、一種の救済と言えるのではないだろうか。だからこそ彼は、深海棲艦の撃滅では無く、共存、或いは不可侵の道を探っているのだろうとも思う。

戦艦水鬼、棲鬼達をはじめ、港湾棲姫や北方棲姫、レ級やヲ級達も、海を巡る戦況と未来を憂い、彼の理想に賛同しているのが現状だ。

 

 

「難しい事は分かりまセンが、本当の強さが感情に宿るものである事を、

テイトクと同じく、“海”も知っているのではないでしょうカ?」

 

 不意に聞こえた金剛の声に、少女提督と少年提督は顔を上げる。

金剛は紅茶ポットを手にソファから立ち上がり、棲姫や水鬼達の持つカップにお代わりを注いだ。普段の賑やかさからは想像出来ないような、優雅な仕種だった。

良い香りが、ふわっと広がる。会釈をして見せる水鬼達に、笑顔で頷きを返しつつ、金剛は少年提督と少女提督のカップにも紅茶を注いでくれる。

 

「ワタシは、テイトク達の扱う召還術式などのtheoryについて、詳しく理解している訳では在りまセン。

でも、ワタシが抱いたBurningなLoveが、より強くワタシ自身を支えてくれていることは、誰よりもワタシが知っていマス」

 

 金剛は言いながら、最後に自分のカップにも紅茶を注いで、ソファに腰を下ろした。

 

「それと同じで、例え負の感情から成るもので在っても、強い意志は力となりますからネ。

 彼女達がより人類の脅威となるために、感情が必要だったのでは無いでしょうカ?」

 

 まぁ、これは理屈では無く、ワタシの感覚的なものですケドネー。

最後にそう付け加え、テヘッ☆と笑って見せた金剛は、紅茶の香りをゆったりと味わい、金剛は少年提督と少女提督を順番に見た。

「まぁ、そんな彼女達も、今ではこうしてテイトクと『ケッコン』まで済ませて、甲斐甲斐しく執務のお手伝いをしてくれる、恋する乙女達デスシ……」

そう言ってから、今度は水鬼と棲姫を見遣り、「ネー♪」っと悪戯っぽく言ってみせる。彼への好意、親愛感を面と向かって指摘されるとは思っていなかったのだろう。

ちょっと驚いた様子の二人の頬に、さっと朱が差した。水鬼はもじもじと俯き、棲姫の方は、困ったように眉尻を下げた。

 

「ソ、ソウイウ意地悪ハ、止メテ欲シイ……」 

 赤い顔をした水鬼がポソポソと言いながら、恨めしそうな上目遣いで金剛に視線を向けた。

 その初心な反応を見た金剛は、何かのスイッチが入ったみたいに、ニマァ~~ッと笑う。

 

「ンン~~フフフゥ♪  あれあれ~、どうしまシタ? 

 何だか、顔が赤……い様に見えるのデスが?(すっとぼけ)」

 

「ソ、ソンナ事ハ無イ……」 

金剛の視線から逃れるように、水鬼はきゅっと唇を噛んでそっぽを向いた。

 

「あ、そうだ(唐突) Hey、水鬼。

 アナタ、秘書艦見習いの今日は一日中、テイトクの事をTIRATIRA見てたデショ?」

 

「イヤ……、ソンナ……」

狙い澄ました様な金剛の難癖に、顔を上げた水鬼は困りきった貌になっていた。

助けを求めるべく、水鬼は少年提督の方を見遣るものの、肝心の彼は微笑んだまま。

「貴女、今日ハ何処かソワソワしていて、なかなか書類ヲ捌ケて無かっタわね?」

更に今度は、隣に座っていた棲姫が、しれっとした貌で金剛の悪フザケに乗っかって行く。

すかさず金剛の方も「そうダヨ(便乗)」と攻勢に出た。

 

「別に隠さなくても良いじゃないデスカ。テイトクの事が好きなんでショ?(青春)」

 

 真っ赤になった水鬼は、金剛と棲姫に何か言い返そうとしたが、結局何も言わずに俯く。そして「……ポイテーロ……(消え入りそうな声)」と小さく零して、黙ってしまった。

多分、“覚えていろ”と言いたかったのだろう。やたら絡んできては弄くり回した金剛の方は、やっぱりイジメっ子っぽい笑みを浮かべているが、悪意の無い笑みだった。

「やっぱり好きなんデスネ~♪」と、上機嫌で言う金剛は、比叡や榛名、霧島に接する時と同じ、優しい眼をしていたからだ。水鬼を弄る声音にも、愛情の様なものが窺える。

戦艦として、また艦娘としても経験も厚い金剛にとっては、新しく彼の配下として迎えた水鬼や棲姫も、妹の様なものなのかもしれない。

 

「僕も、水鬼さんの事は頼りにしていますよ。

 互いに信頼を築けているのなら、とても嬉しく思います」

 

 己に向けられている好意については、恋慕と言うよりも、強い仲間意識の類いとして受け取っているからだろう。

金剛や水鬼達の様子を見守っている少年提督は、この場の空気とは何処か奇妙な温度差を感じさせる微笑みを浮かべている。

ただ、余りにも真っ直ぐで、打算の無い無垢な彼の信頼の言葉に、水鬼は赤い貌を上げて彼を見つめ返した。その瞳や表情がキュンキュンしていて、泣きそうな貌になっている。

すぐにまた俯いてしまった水鬼の様子を、羨ましそうに隣で見ていた棲姫は、ちょっとだけ唇を尖らせていた。金剛の方は、もっと積極的に動いた。

彼にアピールすべく、野獣の眼光を瞳に宿らせた金剛は、彼を熱い眼差しで見詰める。ちょっと横目がちの金剛の眼力は相当なものだった。吸い込まれそう。

しかし彼は、歳の離れた姉からの激励を受けたような、恋のトキメキとは程遠い、健気で儚げな微笑を返している。

うーん……。このピントのズレ具合の大きさは、彼自身の天然ボケに併せ、素直で純真であるが故か。

少女提督は微妙な貌になって、頬をポリポリと指で搔いて金剛達の遣り取りを見守る。「さっきも出た言葉だけど、愛の形なんて、まぁ其々よね……」

 

しみじみと呟くように言うと、「yeah~♪」と、此方を向いた金剛がふっと口許を緩めた。

 

「Loveという感情は、それを現す“言葉”は幾つかありマス。

 Family Love、Fraternal Love、Comradeshipなんて言葉も在りますネ。

 でも有史以来、数百億もの人類が係って尚、未だその“定義”は出来ていまセン」

 

 裏表の無い、明朗快活な普段の彼女とは、少し違う微笑み方だった。

 

「こういう不確かで曖昧なものが、ワタシ達艦娘だけで無く、

 深海棲艦である彼女達の内にも育まれているという事実は、とても尊い事だとは思いまセンか?」

 

 家族愛。兄弟、姉妹愛。友愛。確かに、先程金剛が挙げた感情は、愛情の一種と言えるだろう。

少年提督が艦娘達に注いでいる感情。愛情とは、恐らく、こうした類いのものだ。

俯いていた水鬼が顔を上げ、金剛を見遣った。棲姫の方も、何処か神妙な様子で金剛の言葉を聞いている。

少年提督は、軽く息を吐き出しつつ再び瞑目していた。

 

「そういうのを突き詰めていくと、

 結局最後には、『愛って何だよ?』みたいな、哲学チックな話になるわね……」

 

 少女提督は相槌を打ちつつ、紅茶を啜る。

確かに人類は、艦娘だけでなく深海棲艦達の精神にまで干渉、自我を破壊し、手綱を掛ける事を可能した。

思考や行動を型に嵌めて、従順な兵器として運用する術を確立している。しかし、艦娘達の感情そのものについては、全く解析する事が出来ていない。

魂の原形質として、その輪郭は暈けたまま、漠然としている。しかし其処にこそ、艦娘と深海棲艦、そして人類の三者に通ずる尊さが在るのだと金剛は言う。

 

 

「結局は答えの出ない問答デスし、常識に囚われていてはイケナイのデスヨ。

 人を好きになる事は良い事デスから、人目気にせず、自由に恋しまショウ!(暴論)」

 

 金剛は水鬼と棲姫に目配らせしてから、力強い笑みと共にグッと親指を立てて見せた。

彼が可笑しそうに笑って、それに釣られて、水鬼と棲姫も小さく笑う。

 

「いや、ある程度は常識も弁えてね?

 野獣みたいな、極端なゴーイングマイウェイは流石にNGだから」

 

 その豪胆さに思わず軽くツッコミを入れてしまうが、この鎮守府では丁度良いのだろう。

特使艦隊の編成に向けた、深海棲艦の教育としての秘書艦への登用などもそうだが、落ち着いた風に見える癖に割とぶっ飛んだ事をしでかす少年提督の下に居れば尚更か。

そういう意味では、彼のゴーイングマイウェイ振りも野獣に負けていない。様々な連中がひしめく軍部の中で在っても、彼と野獣はかなり特殊だ。

 

 悪い意味でも良い意味でも、誰にも真似出来ない事を平然とやってのける。

そんな彼らの尊くも現実味の薄い理想が破れ、人類が進撃し続けた先に何が在るのか。

分からない。だが、先は無い様に思える。新しい艦娘が出来て。新しい深海棲艦が出現して。また戦う。

そんな不毛なミラーマッチが半永久に続けば、いずれ人類は疲弊しきって、海の前に跪き蹲り、赦しを乞う時が来るだろう。

 

 

「……ねぇ、聞いても良い?」

 

 紅茶を飲み干し、カップをソーサーに置く。顔を上げて、微笑んでいる彼を見詰めた。

少年提督の過去については殆ど知らない。右眼と右腕に異種移植を受けたという程度だ。

金剛達のような人格持ちの艦娘達を束ね、“海”により徴兵された深海棲艦達の心の憎悪を解き、その両者に歩み寄る彼の過去に、興味が無いと言えば嘘になる。

 

 直接聞いてみようと思った。でも、やっぱり止めた。金剛達も居るし、この場で聞くのも何だか違う気がしたからだ。

だから、ちょっと冗談めかして笑って見せる。真剣な様子で声を掛けたことを誤魔化そうとした。でも失敗したかもしれない。

穏やかな貌をした彼に見詰め返され、ドキッとする。その蒼み掛かった仄暗い眼は、此方の心情などお見通しなのだろうか。

 

そんな風に思えて来て、何だか癪だ。困らせてやろうと思った。

 

「此処だけの話だけど、ぶっちゃけ、アンタって年上派? 同い年派?」

 

「えっ」 今まで落ち着き払っていた彼が、きょとんとした。

 

「年上派デス!」 金剛が拳を握り固めて立ち上がり、

「オッ、ソウダナ」 水鬼が頷きながら、金剛に続いて立ち上がった。

「はっキリ、分かリまス」 棲姫も凄絶な微笑みを深めつつ、やっぱり立ち上がる。

 

「うん、ごめん、座ってて? と言うか、三人はどういう集まりなんだっけ?」

 

 少女提督は仲の良い姉妹みたいな三人を半眼で見遣って、聞いてみた。

すると金剛は、胸の内に宿る、未だ定義すら無いその感情を確かめるように、一度眼を閉じて、ゆっくりと開いた。

その瞳の奥に在る輝きが、より強く、煌々と燃えていた。普段なら垣間見えるスケベ心や、場を賑やかす様なテンションの高さは無い。

毅然、凛然として、此方を見つめてくる。思わず背筋が伸びた。

金剛は茶目っ気たっぷりに軽く此方に指を振って見せる。

しかし、それでいて真摯な熱を帯びた声音だった。

 

「勿論ワタシ達は、王道を征く、“提督LOVE勢”デスヨ?」

















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短編 1

 ほんの少しの酔いを感じながら、大和は徳利を片手に緩く、細く息を吐き出した。

杯へと手酌で酒を注ぎながら、ドンチャン騒ぎに染まる食堂に視線を巡らせてみる。

普段から海で身を張る艦娘達は皆、思い思いの仲間達との語らいの中に在り、楽しそうだ。

 

 イタリア艦であるリットリオ、ローマを新たに迎えた今日の鎮守府は、夜になっても騒がしさに満ちていた。艦娘達が集う食堂は、ちょっと大きめの居酒屋の様相を呈している。

明日は非番の艦娘達も多く、今日の夜は艦娘達の都合が良いという事で、リットリオ達の歓迎会を兼ねた宴会が催されたのだ。勿論というか、野獣の采配である。

今、大和が腰掛けて居る大きめのテーブル席には、少年提督と、彼を挟む形で大和と武蔵が腰掛けて居る。

そして、少年提督と向かい合う形で、缶ビールを呷る野獣が腰掛けており、その両隣に長門と陸奥が腰掛けて居た。

大和や武蔵、それから、長門と陸奥は、今日の秘書艦だった。少女提督の方も、少し離れた席に着いて、自身が召還した艦娘達と語らっている。

 

 少し前に鎮守府祭の打ち上げと称して飲み会を行ったのだが、それでは騒ぎ足りなかったようだ。この野獣という人物は、本当に賑やかな空気が好きな男なのだと思う。

まぁ、予算を圧迫しない程度であれば問題無いのだろうし、こういう形で艦娘達に楽しみを提供するのも、野獣なりの考えや理由が在ってのことだろう。

その理由の一つとしては、ドイツ艦であるビスマルク達が既に居るこの鎮守府に、イタリア艦の艦娘を迎えることについて、艦娘達の間に多少の緊迫感が在ったのは間違い無い。

ビスマルクやリットリオ達にとっては、誼とも因縁ともつかない、史実的な関係も在るからだ。下手をすれば一触即発の空気になってしまい、これからの編成にも影響してくる。

だが、こういう馬鹿騒ぎでシリアスになりそうな空気をぶち壊していく野獣の御蔭も在ってか、ドイツ艦娘、イタリア艦娘達の間で諍いが起こることも無かった。

互いに海外艦である事で、何か通じるものが在ったのだろう。今も食堂のテーブルの一角に腰掛けた彼女達は、杯を手に話に華を咲かせている。

これからの仲間に対する、期待や興味が在るからだろう。時折、他の艦娘達がリットリオやローマに話を聞きに行ったりしているし、険悪なムードも無い。

寧ろ、わいわいとした盛り上がりを見せている。二人には既に挨拶を済ませた大和は、その盛り上がりを微笑みつつ眺めて、杯で日本酒を呷る。

 

「イタリア艦の御二人も、すぐに鎮守府に馴染んでくれそうですね」

 

大和が優しげに言葉を零すと、隣に腰掛けていた少年提督が頷いてくれた。

 

「リットリオさん、ローマさんも、

史実に執着することはせず、戦艦という戦力として在る事を選んでくれた御蔭です」

 

 お二人には感謝せねばなりませんね。そう続けてから、少年提督も大和に倣い、信頼を向ける様な眼差しでリットリオ達を見遣った。

隣で黙々と酒盃を重ねていた武蔵も、少年提督の言葉に頷いて見せてから、ふっと軽く口許を緩めていた。凄みのある笑みだった。

「プライドや過去に拘らず、和を尊ぶ強さが在るという事だ。仲間として、信頼に足る」低い声で言う武蔵も、大和と同じく手酌で酒を注いでいる。

先程も、少年提督が酌をしましょうかと申し出てくれたのだが、酒を呑むペースに気を遣わせてしまうので、二人は丁重に断った。

 

「RTTROもRMも、その辺しっかりしてくれてて在り難いんだよなぁ。

 NGTみたいに四六時中、ぶっすぅ~~とされてちゃ、たまらねぇぜ……(心労先輩)

 鎮守府の空気までギスギスしてきて、心が休まらなくなっちゃうだルルォ!?」

 

 野獣の方は結構なペースでグビグビと缶ビールを呷りながら、間宮や鳳翔、伊良湖達が用意してくれた料理に舌鼓を打っている。

聞こえよがし言われた長門は、傾けてようとしていた杯の手を止めた。それから視線だけで隣に座っている野獣を睨みながら、鼻を鳴らして杯の酒を飲み干す。

はぁ~……と、疲れた様に息を吐き出した長門は、ジロリと野獣を見据えた。「執務をほっぽり出して、貴様が何処かに消えたからだろうが……」

そうそう、と。長門の不機嫌そうな声に続いたのは、やはり同じくご機嫌斜めの様子の陸奥だった。

 

「私と長門で終わらせたけど。

 時雨が秘書艦の時にまで、こんな大胆にサボったりしてないでしょうね?」

 

「当たり前だよなぁ? と言うか、今日はMMY達の手伝いに来てたんだゾ。

 食堂で歓迎会するなら喰いモンの量も増えて、用意に手間も掛かるからね。

 しょうがないね(気遣いの出来る男並感)」

 

「手伝いに来るのは良いんだけど、

 まず先に執務を終わらせようって言う発想にはならないのね……(諦観)」

 

 陸奥は溜息を漏らしながら杯を傾けた。

 

「おっ、そうだな。 

 そんな面倒臭ぇデスクワークなんざ、長門にやらせときゃ良いんだ上等だろ?

 体力が有り余ってるゴリリンレディみたいなもんやし(暴言)」

 

「誰がゴリラレディだ!」 野獣に向き直った長門が憤慨する。

 

「お前でしょ(揺るがぬ意思)。

 それにアンケート取ったら、そう言う結果が出たんだよなぁ」

 

「……貴様、また本営の公式ページでワケの分からんアンケートを実施したのか」

 

「そうだよ(頷き)。

 今回のお題は、“トロッコと樽大砲が似合いそうな艦娘”だゾ(ほぼ狙い撃ち)。

 結果を見てもMSSとNGTがぶっちぎりで一位タイだったし、嬉しいダルルォ!?」

 

 半笑いで言い放たれた野獣の言葉に、大和は「えぇ……」と困惑する。

大本営と言うか、軍部がネット上に設けたサイトがあるのは知っている。当然、軍属である大和だって、大本営に関わるページくらい何度も見た事がある。

ついでに言えば、あんな厳かささえ感じる大本営のトップページに、『野獣のお部屋』とか言う、糞戯けたクリックボックスが設けられているのも知っている。

ちなみにクリックボックスは花柄のラインで囲まれ、野獣のブロマイドが点滅している素敵仕様だ。初めて気付いた時は、見間違いか目の錯覚かと思った。

怖くてクリックした事は無いのだが、恐らくあのクリックボックスからは、野獣のブログがホームページにでも跳ぶ様になっているに違い無い。

多分、そこで行われたアンケートなのだろうが、本営直属サイトのトップにリンクを張り付けている度胸と、一々派手なアクションを起こす野獣に軽く戦慄する。

そろそろ本当に処罰が在りそうでハラハラしてしまうが、まぁ、質問の内容自体については、軍属で無い人々にも艦娘に対して親しみを持って貰う為なのだろう。

とは言え、アンケートの結果に割とダメージを受けたのだろう長門は、相当ショックを隠せない様子だ。

 

「嬉しいワケがあるか寧ろ泣きそうだ! 

 ドンキーコ●グの親戚みたいなイメージを植えつけようとするのはやめろ!」

 

「うるせーゴリラだなぁ……(大声)」

 

「せめて小声で言え! もう許せるぞオイ!!」

 

 一方で、アンケートで名前が挙がった筈の武蔵の方はと言うと、「力強さを想起する艦娘として、一位タイか……、ふむ。悪い気はせんな」と、満更でも無さそうだった。

今も「おめでとうございます」などと微笑みを浮かべている、天然ボケ気味な少年提督の影響か。武蔵の方も時折、こういう真面目ボケを披露する時がある。

本人は到って真面目なので、ツッコミに困るのだ。大和は溜息を飲み込み、とりあえず場の様子を見つつ、沈黙を守ることにした。

どうせ何か発言しても、野獣に混ぜ返されるか、武蔵の真面目ボケに振り回されそうだからだ。

 

「あっ、そうだ!(露骨な話題逸らし)」

 

 そろそろ憤怒に任せて立ち上りそうな長門を適当にあしらいながら、野獣は足元に手を伸ばした。今気付いた。普段は手ぶらの癖に、今日は高そうな革鞄を持っている。

足元に置いていたその革鞄から、今度はまた高級そうな革のレターファイルを大事そうに四つ取り出した。其々のファイルには、大和達の名前が刻印されている。

普通のレターファイルはプラスチック製だったりするものが多いが、見た感じでは本革製の様だし、表カバーの裏側にはペーパーナイフも付属している。

恐らくは特注品。オーダーメイドという奴だろう。態々そんなものを用意してくるのも珍しい。何だか警戒してしまうが、野獣の方は軽く笑みを浮かべて見せる。

何処と無く、いつもより嬉しそうな笑顔だった。

 

「前の鎮守府祭の時にぃ、『ふれあい・ながもんコーナー』に遊びに来てくれた子供達から、お前らにお手紙が届いてたんだゾ☆」

 

 「な、なんだと……ッ!!(差し込んだ希望)」 長門が真剣な表情で野獣を見詰めた。

『ふれあい・ながもんコーナー』では、猫の着ぐるみを着た大和と、ペンギンの着ぐるみを着た武蔵も手伝いに参加している。陸奥はたしか、カタツムリを模した着ぐるみだった。

子供達と遊具で遊んだり御飯事をしたり、迷子になった子供を預かって相手をしたり、結構な忙しさだった。ただ、子供達からも喜んで貰えて、やり甲斐も充実感も在った。

流石に猫の着ぐるみは少々気恥ずかしかったものの、大和にとっても貴重な体験だったと思う。それに、子供達から手紙まで貰えるのならば、それはとても喜ばしい事だ。

さっきとは一転して、眼を輝かせている長門の気持ちも分かる。大和だって嬉しい。武蔵も不敵な笑みを浮かべつつ、「そうかそうか……」と満足そうだ。

ただ一人、陸奥だけは何だか浮かない顔をしている。俯き加減で杯を傾けているのだが、思い出したくない事を思い出しているような様子だった。

そんなにカタツムリの着ぐるみが嫌だったのだろうか。項垂れる陸奥には気付かず、少年提督も大和や武蔵にも頷いて見せた。

 

「沢山のお手紙が届いていたんですが、ちょっとしたサプライズにしようという先輩のアイデアで、今まで秘密にしていたんです」

 

「普段の忙しい時に知らせるよりも、こういう羽根を伸ばしてる時に渡された方が有難味も増すって、はっきり分かんだね」

 

 野獣は、其々のレターファイルを、優しい手付きで渡してくれた。

大和も受け取る。チラリと少年提督を見遣ると、深く頷いてくれる。武蔵も何処か感慨深そうな表情で、じっとファイルを見詰めている。

「おぉぉ~……(感動)」と、長門の方は瞳を輝かせながら手渡されたファイルを凝視しているし、さっきまで沈んでいた陸奥も、ファイルを手に驚いた様な貌で固まっている。

ゆっくりと、ファイルを開いてみる。中身はシンプルな作りだが、袋状のページの透明感も高い。中に保管されている封筒は、まだ封がされてある。それに、結構な量だ。

 

「感謝しろよお前らぁ! 俺とコイツで一通一通仕分けてやったんだからさ!

 そのクッソ良い感じのレターファイルは、アイツが作ってくれたから、後でお礼言っておいてやれよ?(イケボ)」

 

 言いながら大和達を順番に見た野獣は、今度はにぎやかな食堂の方へと視線を向ける。そして、雪風達と共に少し離れた席に座っている少女提督へと顎をしゃくって見せた。

なるほど。少女提督は、工作的、技術的に優れた提督だと聞いていたが、その彼女が大和達の為に直々に用意してくれたという事か。

大和達が礼を述べに行こうと立ち上がりかけた時、少女提督が此方に気付いた。少女提督は、腰を上げかけた大和達に『いいからいいから』と手を緩く振って見せた。

眉尻を下げて唇の端を持ち上げるような、ちょっとニヒルと言うか、気怠い感じの笑みを浮かべている。だが、生意気そうな彼女に良く似っていた。

ああいう仕種を見せるのも、此方に気を遣わせない為の、彼女なりの気遣いなのだろう。向こうは向こうで盛り上がっている様子だし、礼は後にした方が良さそうだ。

大和と武蔵、それから、長門と陸奥は、静かに目礼だけをしてから、また腰を下ろす。いや、長門だけは目礼では無く、ビシィっとした敬礼をしていた。

 

「いや、何だか悪いな。

こんな良いものまで用意して貰って、何と言うか……。その、感謝する。

な、なぁ……野獣、ちょっと見せて貰っても良いだろうか?」

 

 座りなおした長門は、興奮冷めやらぬ様子でそわそわしていた。だが、その声音には若干の警戒が窺える。今まで野獣の奔放な振る舞いに振り回されていたからだろう。

溢れ出そうとする喜びを何とか胸の内に留め、もしもこのレターファイルが何時もの野獣の悪フザケと嘘だったとしても、心に傷を負わないようにしようとしている。

大和にはそんな風に見えた。だが、今の野獣の表情には、そういう冗談っぽさは無い。むしろ、野獣自身も喜んでいるように見える。

「お、そうだな。お前らもホラ、見ろよ見ろよ(慈しみの眼差し)」 野獣はまた顎をしゃくって、長門だけでなく、大和や武蔵にも促した。

大和は、武蔵と顔を見合わせる。それから今度は、二人で少年提督を見た。彼は優しい貌で頷いてくれた。

「……では、遠慮なく」 そう言って、ふっ、と先に笑みを零したのは武蔵だった。「えぇ、在り難く拝読させて貰いましょう」 大和も、そっと袋ページから封筒を取り出した。

ちらりと長門と陸奥の方を見てみると、二人も慎重な手付きで手紙を取り出し、レターファイル付属のペーパーナイフで、丁寧に封を切っている。

 

「あっ、これって……」

 

 大和も、長門達に続いて封を切る。封筒の中には拙い字で書かれた手紙と、クレヨンで描かれた絵が一緒に入って居た。思わず、涙腺が緩みそうになった。

着ぐるみを着た大和達と、手紙を送ってくれた子供の家族だろうか。手を結び並んで、笑顔を浮かべている絵だ。上手ではなくとも、暖かみのある絵だった。

武蔵や陸奥も手紙を広げながら、子供達の気持ちの篭った便りに嬉しいような、何処かくすぐったそうな貌をしている。

「がわ゛い゛い゛な゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛、だい゛ち゛く゛ん゛!!」 半泣きの長門は手紙を抱きしめて天を仰ぎ、熱い想いに任せて涙声で叫んでいた。

「どんだけテンション上げてるのよ……」と、陸奥に突っ込まれていたが、すぐに長門はガバッと陸奥に向き直り、手紙を広げて見せつつ、自慢げな表情を浮かべた。

 

「だって、ほら見ろ! だいちくん、将来は私をお嫁さんにしたいそうだ!

 いや参ったな! ほんと、もう、コレ……なぁ!? こりゃあ、参ったなぁ!

 うへっへへっへ!」

 

「全然困ってないでしょ……、無茶苦茶嬉しそうじゃない」声を弾ませまくる長門に、陸奥は冷静にツッコミを入れる。

 

「何を言うんだ陸奥。ほら、想像してみろ。

私達が戦い、守ってきた街に、また灯りが灯っていく様を……。

その灯り一つ一つに、子供達の笑顔が育まれているんだ。

一軒一軒訪ねて、抱っこしてあげたくなるだろう?」

 

「うん、普通に110番されちゃうから、そういうのは自重してね?」

 

「おっ、そうだな!(もう聞いてない)」と、長門は力強く頷いてから、携帯端末を取り出した。

封筒の住所を見ながら端末をポチポチと操作して、ナビアプリを立ち上げている。「いや、あの、ゴメン長門。それ何してるの?」陸奥が震える声で聞いた。

 

「安心しろ、お手紙に在った住所の位置情報を調べているだけだ。あ、そうだ(ビッグセブンの閃き)。

だいちくん、武蔵ペンギンの事も気に入っているそうだぞ。……武蔵も来てくれるか?」

 

 力強い笑みを浮かべた長門は、優しい貌で手紙に眼を通していた武蔵に向き直った。

長門の言葉を聞いた武蔵は手紙を大事そうに畳んでから、不敵な笑みを浮かべつつ、クイっと眼鏡のブリッジを押し上げた。

 

「……ふっ、任せて貰おう」

 

「流石は武蔵、心強いな。よし……! 二人で着ぐるみに着替えに行くか! 

だいちくんハウスに突然行って、びっくりさせたる!!」

 

「申し訳無いけど、戦艦ゴリラと戦艦ペンギンが、

いきなり家に押しかけてくるのは、トラウマを植え付けかねないのでNG」

 

流石に、苦笑を漏らした野獣が二人にストップを掛けた。

「あっ、そうかぁ……(無念)」 と、残念そうに低く呻いた長門は、力なく項垂れて椅子に座りなおした。

「いや、そりゃそうだし、落ち込み過ぎでしょ……」 野獣の隣に座っていた陸奥も、長門を窘めるように言う。

「何だ、行かんのか?」 真面目ボケが発動しつつある武蔵の方は、つまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。

そんな長門達を眺めながら、大和は引き攣った笑みを浮かべつつ、少年提督に向き直る。

彼は、大和に微笑んで見せてから、大和が手に持っている手紙と絵に視線を落とした。

 

「ふふ、良く書けていますね。

描かれている大和さんや武蔵さん、それに長門さん、陸奥さんも、特徴が出ています。

きっとこの子は、皆さんの事を凄く好きになってくれたんでしょう」

 

しみじみとした声音で言う彼は眩しそうに眼を細め、大和の持つ絵を見ている。

彼自身も凄く嬉しそうで、誇らしげだった。それがまた嬉しくて、大和も「はい……」と小さく答えた。

 

「こんな風にチビッ子達から手紙が来るなんて、多分この鎮守府だけと言うか、初めてだゾ。

ついでに言うと、BSMRKとかOOYDとか、他の艦娘達にも色々届いてるんだよなぁ」

 

大和達の向かいに座っていた野獣が、「これって勲章ですよぉ(ねっとり)」と、手にしたビールを呷ってから、全員の貌を見回した。

 

「この前の鎮守府祭でも、業者じゃなくて、お前ら艦娘自身が前に立って頑張った御蔭だって、はっきり分かんだね(労い)。

俺達は当日も内々の事で一杯だったけど、お前らの御蔭でマジに意味深い祭りになったって、それ一番言われてるから。……ありがとナス」

 

 大和は驚愕の余り、危うく手にした手紙と絵を落としそうになった。感謝の言葉と共に、野獣が大和達に頭を下げて見せたのだ。

武蔵は怪訝な貌をしているし、陸奥は口を開けてポカンとしていた。長門はと言えば、大事故を目の当たりにした様な、深刻な表情になっていた。

「おい、野獣! 大丈夫か!? 大丈夫か!?(失礼)」 慌てた長門はオロオロとして、隣に座る野獣に声を掛ける。「あのさぁ……(憤怒)」と野獣が顔を上げた。

 

「人が真摯に謝辞を述べてる時に、『大丈夫か?』とか言うんじゃねぇよオォオン!?

 そんなんだからお前は何時まで経っても、ウホウホ戦艦アマゾネスなんだYO、分かる?」

 

「ウ、ウホウホだと!?」 あまりの言い草に、長門も憤然として立ち上がる。

 

「そうだよ(指摘)。 どうせパンツの中もジャングルボーボーなんだろ?(超失礼)」

 

 遠慮もへったくれも無い野獣の言葉に、大和は軽く噴き出す。変に力んで持っていた手紙を破りそうになった。危ない危ない……。

大和は大事に手紙と絵を畳み、封筒に直してファイルに仕舞う。また始まったか……、みたいな、やれやれと言った感じの貌をした陸奥と武蔵も、手紙を直している。

野獣と長門の遣り取りをイマイチ理解していない様子の少年提督は、頭上に?マークを浮かべつつ、言い合う二人を見守っていた。

彼のその視線に気付いたのだろう。長門の顔の赤さが増していく。

 

「か、彼の前で言いたい放題言い過ぎだぞ貴様!! 私はちゃんと手入れもしている!!」

 

「そうなんだ(鼻ホジ)、取り合えずビールのおかわり貰ってくるわ」

 

「おい流すな!! 大事な話だぞ、ちゃんと聞け!!」

 

「お前のパンツの中がモジャモジャ☆マングローブだろうが、

ボッサボサのガジュマルランドだろうが、マジでどうでも良いんだよなぁ……(辛辣)」

 

「ボーボーでもモジャモジャでもボッサボサでも無い!!」

 

「おっ、そうだな(適当)。 MSSはどうだよ?(飛び火)」

 

「……その話題、振るの?」 

読んでいた手紙をファイルに直しつつ、陸奥は野獣を半眼で睨んだ。野獣は軽く笑う。

 

「MTはパンツの中も爆発してるから、アフロかな?(すっとぼけ)」

 

「ねぇ野獣、一発殴って良いかしら?」 

無表情になって眼を据わらせた陸奥が、ゴキリと指を鳴らして席を立ちかけた時だ。

冷静な貌をした武蔵は、レターファイルをそっとテーブルに置いてから鼻を鳴らした。

 

「下らん事を聞く奴だ……。

私は妹キャラだからな。つんつるてんに決まっているだろう」

 

「えっ」 思わず、大和は武蔵の横顔を凝視した。「い、妹キャラ……?」

さっきまで喚いていた長門や、立ち上がりかけた陸奥の時間が止まった。

野獣までもが、難しい貌をして武蔵を見詰めている。

武蔵の方は、何を今更な……、と肩を竦めるようにして苦笑した。

 

「何処からどう見ても、私は奥手系眼鏡っ子ツインテールの本格派だぞ? 

妹キャラ日本代表の風格だろう」

 

 武蔵の声音には、怯みも迷いも無い。貫禄系の間違いじゃないのかと、大和は聞き返しそうになるが、ぐっと堪える。

長門も武蔵に何か言おうとしたようだが、結局何も言わずに視線を逸らし、黙ったままで杯を傾けて酒を呑むだけだった。

長門型2番艦の陸奥は、『妹キャラって何よ……?(哲学)』みたいな難しい貌になって、なにやら考え込んでいる。

「そんな属性てんこ盛りにしなくて良いから(良心)」 小さく零した野獣も反応に困っていた。

野獣が作った馬鹿な流れをぶった切るどころか、更なる濁流で押し返す辺りは、流石は武蔵。迫真の真面目ボケが光る。

 

「あぁ、そうだ。ちなみに大和は、しっとり艶々だぞ。見事なものだ」

 

 長門が酒を噴き出し、陸奥がゲッホゲホと噎せ返った。

野獣が笑っている。大和は、持っていた杯を握り潰しそうになった。

というか、少年提督も流石に何の話をしているのか気付いたようだ。

「あっ……(察し)」みたいな貌をした後、何だか気まずそうな顔でそっぽを向いている。

死ぬほど恥ずかしくて、大和は軽く泣きそうだった。

 

「むさっ……、武蔵っ!! 何をカミングアウトしてるの!?」

 

「んん? 何をそんなに血相を変えているんだ?」

 

「何をって、それは……っ! も、もう! しっ、知らないっ!」

 

 大和は赤面しつつ話を切った。半泣きのまま顔の赤さを誤魔化すように、手にした杯をぐいっと傾けて酒を飲み干し、ふはぁああ^~……と、熱い息を吐き出す。

此処で慌てて武蔵の言葉を否定すれば、『じゃあ、どんなだよ?(詰問)』と、野獣からの追撃が在るのは目に見えている。所謂、ガード不能という奴だ。

というか、何か言わないと。黙っていると、また野獣に場を掻き回されてしまいそうだ。大和が何とか言葉を探していると、隣に居る彼が微笑んで見せた。

 

「何はともあれ、艦娘の皆さんへの社会の認識は、確かに変わりつつあるのでしょう。

 こうして手紙が届くほど距離が縮まっている事も、とても嬉しく思います。

 これも全て、皆さんの協力が在ってこそです。……僕からも、お礼を言わせて下さい」

 

 椅子に座り直して背筋を伸ばし、姿勢を正した少年提督は、穏やかな表情のままで大和や武蔵、長門と陸奥を順番に見遣った。

それから、「有り難うございます」と、深く、ゆっくりと頭を下げて見せた。それに続いて、緩い笑みを浮かべている野獣は、ビールを呷りつつ鼻を鳴らす。

さっきはNGTに茶々を入れられちゃったけど、俺が言いたかった事もそんな感じだから(便乗)と、ふてぶてしい態度で言う癖に、声音は真剣だった。

 

「俺達の世界は先祖から受け継いだモンじゃなくて、手紙をくれたこういう子供達から借りてるモンだって、それも一番言われてるから(飛行士並感)。

平和や平穏を遺す為の俺ら? あとその為の艦娘? ただ、海の上じゃ俺達は何にも出来ねぇし、これからも力を貸してくれよ?(イケボ)」

 

「ふん。言われるまでも無い。

元より、鎮守府に居る皆はそのつもりだろう。

 それに礼を言わねばならんのは、私達の方だ。……感謝している」

 

「似合わないんだから、そんな急にしおらしくならなくても良いゾ(半笑い)」

 

「好きに言うが良い。こうして子供達から言葉を貰えた事は事実だ。

 お前の下で無ければ、こんな得難い経験をする事は決して無かっただろう。

 連合艦隊旗艦を務めた栄光にも劣らない、私の誇りに思う」

 

 本当に、……胸が熱いぞ。野獣の言葉に頷いた長門は、背筋を伸ばして姿勢を正してから、すっと頭を下げた。陸奥も、それに大和と武蔵もそれに倣う。

こうして艦娘達への社会の認識に変化が訪れようとしているが、その変化を招く為に奔走してくれていたのは、野獣や少年提督である。

艦娘主導の鎮守府祭もそうだが、人格を育んだ艦娘達を起用した広報映像の作成、それに有名動画サイトへの干渉など、二人は手を尽くしてくれていた。

野獣と少年提督は、長門達を順番に見てから互いに顔を見合わせ、軽く笑ったようだった。空気を読んだのだろう野獣はまたビールを呷り、呵々と笑う。

 

「お前らは一々大袈裟なんだよなぁ……。まぁ、これからも宜しく頼むゾ。

 いくら俺でも海の上じゃあ、どう頑張ったってクソ雑魚ナメクジなんだからさ(諦観)」

 

「あぁ、出逢った時にも言っただろう。……敵艦隊との殴り合いなら任せておけ」

 

 長門は唇の端を持ち上げて、ぐっと右拳を握って見せた。そして、力強く頷く。

誠実で実直な長門らしい、飾り気の無い言葉だった。だからこそ、聞く者に届くのだ。

大和も武蔵は、そんな清廉潔白な艦娘としての長門の存在を頼もしく思う。

少年提督と陸奥も、くすくすと何処か嬉しそうに小さく笑いながら、二人を見守っている。

 

「おっ、そうだな(全幅の信頼)。よし……、じゃあ、MT! 

お前も、そろそろ本格的にY●uTuberデビューしよっか?(唐突)」

 

「……んぇ?」 と、陸奥の微笑みが強張った。大和は思わず野獣の顔を凝視してしまう。野獣は穏やかな表情を崩さない。余計に不気味だ。

武蔵と長門は互いに顔を見合わせてから、「陸奥は何かするのか?」「……さぁ?」みたいな感じで、互いに首を傾げていた。食堂の喧騒がやけに遠い。

「あの、提督……、その、Y●uTuberというのは……」 嫌な予感で、不味そうな貌になるのを必死に堪えつつ、大和は隣にいる少年提督に耳打ちする。

 

「僕も詳しくはないのですが、動画を発信している方を指す言葉の様ですね。

 特技を披露したり、商品宣伝の依頼なども企業から受けたりするそうですよ」

 

「既に悲劇の種が埋まっている気が……するのですが、気のせいでしょうか?(震え声)」

 

 穏やかな貌のままで説明してくれた少年提督に対して、大和は吐きそうな顔になって苦言を呈する。耳聡い野獣は、その大和の言葉を聞き逃さなかった。

 

「そんな警戒しなくても大丈夫だって、安心しろよ~!(愉快声)

まぁ基本的にはパフォーマンスとか実況とかそんな感じだから、ヘーキヘーキ!

ついでに言うと、MTとYMSR、それからTHのユニットが注目されて来ててさぁ」

 

 ホラ、見ろよ見ろよ。そう言って野獣は携帯端末を取り出し、ディスプレイを操作してから大和達に見えるように掲げた。

ディスプレイに表示されていたのは、有名動画サイトに半ば強引に設立されたのであろう、あの“大本営☆ちゃんねる”のページだった。

画面にはプレイリストが並んでおり、再生数、高評価、低評価数などが表示されている。中でも再生数が多く、目に付くのが『不幸ォ……ズ』のユニット名。

名前だけで色々と察してしまい、大和は何も言わずチラリと陸奥を見た。陸奥は狼狽した様な貌で、野獣の掲げた端末の画面を見詰めている。

 

「ねぇ、ちょっと待ってくれない? 

確かにね? 山城や大鳳と一緒に、ちょっとした動画撮影には協力したわよ?

 でも、そんな目新しさも派手さも全然無かったでしょ? 何でそんな……」

 

「艦娘が動画配信してるってのは、前からチョコチョコと話題にはなってたんだよなぁ。

 それに前の鎮守府祭が良い感じに作用したみたいで、全体的にアクセス数が上がってるゾ(解析先輩)」

 

「まぁ先駆者として、ネットアイドルとして活躍している那珂も居る事だ。

 電子媒体に浸透しやすい状況が作られていたのも、一つの要因かもしれんな」

 

落ち着いた貌でそこまで言って、ふむ……、と、顎に手を当てているのは武蔵だ。

長門の方は、困惑した貌で陸奥に向き直った。

 

「陸奥まで動画を投稿しているとは知らなかったぞ……。どんな内容なんだ?」

 

「いや別に、山城と大鳳と私で、ポーカーしたりチンチロしたりしただけよ。

 何か言いたいわけ?(半ギレ)、……思い出したらアー吐キソ……(トラウマの残り滓)」 

 

 陸奥は崩れ落ちるようにして、その場に突っ伏した。

何と言うか、面子で割とオチが見えている系の動画らしい。

ちょっと気の毒だし、実際、惨憺を極める結果だったのだろう。

あの頭を抱えてグロッキー状態の陸奥を見たら、大体分かる。

心配そうな顔をした少年提督は、水の入ったコップを陸奥に手渡した。

だが、そんな様子の陸奥にもお構い無しで、野獣は朗らかに笑って見せる。

 

「MTの新作を待ち望んでる人も居るから、まぁ、多少はね?

 今は鎮守府の艦娘も増えた事だし、ここは一つ、神経衰弱バトルでもしねぇか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 宴会が開かれていた食堂の一角は、異様な空気に包まれていた。

先程まで野獣達が座っていたテーブル席に、別の7人が、3・4で分かれて腰掛けて居る。

まず片方には、少女提督が召還した雪風を中心にして、その両サイドには時雨と瑞鶴が控えている。

もう片方には、陸奥と大鳳を中心にして、その二人を挟む形で山城と、スペシャルゲストの扶桑が陣取っていた。

酔っ払い達の悪ノリと確かな熱気が渦巻き、厳かささえ感じさせる静けさの中。この両陣営による、トランプ神経衰弱の一大決戦が行われようとしていた。

食堂に集まっていた艦娘達はこのドリームマッチの結果を見届けようと、両陣営の睨み合いを固唾を飲んで見守っている。

長門と武蔵、それから大和と少年提督も艦娘達に混じって観戦しようとしている状況だ。司会進行を務めているのは青葉。そして撮影は野獣である。相変わらず、やる事成す事が唐突で読めない男だと思う。瑞鶴は溜息を堪えて、周囲に視線だけを巡らせた。

 

 何でも、この神経衰弱の様子を動画としてUPするとの事だ。

艦娘達の“運”というパラメーター差。それを、エンターテイメント性を出しつつ分かり易く可視化するテストらしいのだが、適当な事を言われている気がしてならない。

艦娘達に囲まれたテーブル席に腰掛けた陸奥や大鳳は、既に眼が死んでいる。

だが、改二となっている扶桑と山城の眼からは、まだ光が消えていない。

こんな馬鹿馬鹿しいイベントでも、勝利さえすれば、不幸なイメージを払拭するチャンス。

そう考えているらしい扶桑と山城にとっては、相手に不足無しと言ったところだろう。

 

 陸奥達と向かい合って座るのは、少女提督が召還した駆逐艦。雪風。

彼女は、場の酒臭い熱気と謎の緊張感に翻弄され、ちょっとオロオロとした様子である。

だが、神格化すらされた“武運” を持つ、奇跡の駆逐艦だ。

恐らく、運という要素が絡む勝負事では、艦娘という生物カテゴリーで最凶だ。

そしてその雪風をバックアップするのが、時雨と瑞鶴という形である。一部の隙も無い布陣である。

その本気度の高さに、会場となっている食堂のボルテージが静かに上がっていく。

熱い空気を纏いながら、ジャッジとしてマイクを持った青葉がコホンと咳払いをした。

 

「えーと、では、ルールの確認です。とは言っても、非常に簡単ですけど。

 まず、代表者によるジャンケンをして貰い、先攻後攻を決めて頂きます。

 あとはカードを捲って行って貰い、外したらターンを相手に譲る。基本、これだけです」

 

 青葉は簡潔に言いながら、懐から一組の新品トランプ束を取り出した。

そして、丁寧な手付きでシャッフルしつつ、陸奥や雪風達にもシャッフルを求める。

よく混ぜられたトランプカードをテーブルに並べながら、青葉は両陣営を見比べた。

 

「流石に雪風さん達のチームと真っ向勝負というのもアレなんで、

公平を期す為に一応のハンデの案もあるんですが、……どうしましょう?」

 

「……いえ、無しで良いわ。

 完全に運任せっていう訳でも無いし、……まぁ、勝負くらいは出来るでしょ」

 陸奥は、とうとう観念したみたいに微笑んで、緩く首を振った。

 

「記憶力と勝負強さがものを言うなら、まだ勝ち筋はある筈ですからね」

それに続いて、隣に居た大鳳も疲れたみたいに息を吐き出して見せる。

二人の死んでいた眼に、再び光が灯りはじめる。

 

「頑張りましょう、山城」 扶桑も、静かに山城に頷いた。

 

「はい、姉様……! 全員で、勝利を掴み取りましょう」

山城が応える。誰からともなく、すっと掌を差し出た。四人が掌を重ねていく。

陸奥、大鳳、扶桑、そして山城は、互いに互いを見詰めあう。皆、熱い眼差しだった。

 

 彼女達は、もう何も言わない。

雪風達の豪運の前に、諦めて無力に敗れるか。

微力ながらも勇敢に立ち向かい、淡い勝利を掴むか。

四人は何かを成し遂げようとする内閣立ちで、雪風達に向き直った。

その威風を前に、腰掛けて居た雪風の方は怯えたみたいに肩を震わせる。

 

「雪風~、そんな緊張しなくても良いから。

 リラックスリラックス。勝ったら間宮のパフェ奢ったげるよ」

 

 観戦している艦娘達の中から、少女提督が声を掛けた。その言葉が届いたのだろう。

雪風は少女提督の方に向き直り、ぱぁぁあっと無垢な笑みを大きく咲かせた。

「ホントですか、しれぇ!?」「ホントホント、だから頑張って~」

いや、そんな別に頑張らなくても良いんじゃないかな……、とか思ったに違い無い。

瑞鶴の隣にいた時雨が、顔を引き攣らせた笑みを浮かべている。多分、瑞鶴も同じような貌をしていることだろう。

 

 

「じゃあまず、先攻後攻のジャンケンして貰おっか?(死闘開始)」

 

 野獣の言葉に、場の緊張が高まる。艦娘達が息を呑んだ。雪風が拳を握って立ち上がる。

対するは、深呼吸をして立ち上がった陸奥。最初はグー。ジャンケンポン。雪風がパー。陸奥がチョキ。

「ぁああああああららららぁぁぁああああああッッ!!!(早過ぎた鬨の声)」

完全勝利した陸奥は泣きながら咆哮し、右手をチョキにしたままで天に突き上げた。

大鳳、扶桑、山城も、全員席から立ち上がってガッツポーズし、ハイタッチして抱き合う。

まさかの勝利に、食堂が沸いた。歓声が上がる。雪風の方は、しょんぼりした様子だ。

 

「ま、負けちゃいました……」

 

「いや、うん……、でもコレ、ただ先攻後攻決めるだけだし、全然問題無いわよ。ね?」

 

 瑞鶴はドンマイドンマイと笑顔を見せる。さっきまでの引き攣った笑顔では無く、嫌味の無い、いつもの元気な笑顔だ。

食堂は既にお祭り状態となっているし、どうせなら楽しんだ方が得だろう。ニコッとした瑞鶴は雪風と肩を組んでから、雪風の反対隣の傍に座っている時雨を見遣る。

その時雨も控えめな笑みを浮かべつつ、雪風に頷いた。「そうだね。まだまだ此処からなんだし、一手一手を大切にしていこう」

そんな落ち着いた時雨とは反対に、陸奥達のテンションは上がりっぱなしだ。ジャンケンに勝利して先攻を選んだあたり、このまま勢いに乗りたいのか。

というか、神経衰弱なんですけど……。という野暮なツッコミが出来る様な空気でも無い。何故か瑞鶴達はアウェーというか、雪風がヒールと化しているのだ。

いや確かに、雪風は幸運艦なんて呼ばれもしてるけどさぁ……。そんな、ラスボスを倒す勇者というか、鬼退治みたいなノリで囲まれてしまうと何だか腰が引ける。

 

 ただ、勢い自体は陸奥達の方に在る。

先攻を取った陸奥が、テーブルの上のカードを一枚捲る。

それに続き、緊張した面持ちの大鳳が、別のカードを捲った。

結果。なんと同じ数字を揃えて見せた。陸奥と大鳳が泣きながら抱き合う。

会場が大沸きした。更に続いて、扶桑と山城がカードを開ける。これも、またペア。

扶桑と山城は号泣して、その場に崩れ落ちた。大歓声で沸く会場のボルテージも最高潮だ。

とは言え、流石に三度目は無かった。次にカードを開いた陸奥と大鳳は、ペアを外す。

しかし、興奮冷めやらぬ陸奥達のテンションも上がりっぱなしだ。

「先手でアドも取れているし、此処からも集中して行きましょう!」

「行けますよ、コレ! 丁寧に立ち回れば、全然(勝てる未来が)ありますあります!」

「西村艦隊の本当の力、見せてあげるわ!(姉様の風格)」

「取りこぼしを無くして、優位状況をキープしていきましょう!」

会場の空気を味方につけた四人は意気軒昂。確かに、流れは向こうにある。

 

 

 ターンが譲れられ、瑞鶴達が盤面に触る番だ。さてどうしたものか……。

瑞鶴は時雨と顔を見合わせる。いくら運が高いと言え、流石に初手でペアを取る自信は無い。

最初はカードを開けていき、カードの配置を把握する必要がある。その中で、駆け引きや勝負が生まれるのだ。

「……まずは、雪風にカードを開けて行って貰おう。今の段階だと、まだまだ何も出来ないからね」 冷静な様子の時雨に、瑞鶴も肩を竦めて頷く。

「それもそうね……。2つペア取られてるけど、すぐには巻き返せないもんね」瑞鶴は言いながら、肩を組んだ雪風に頷いて見せた。

 

「じゃあ、好きなカード開けちゃって。

 野球で言えば、まだ一回裏だしね。試合は始まったばっかりだから、気楽に行こう」

 

 優しく言う瑞鶴に、雪風も笑顔で頷いてくれた。

「分かりました! それじゃあ、……コレと、コレ!」

テーブルに伸ばした小さな手で、雪風はカードを開いた。

瑞鶴は嫌な予感がした。あっ……、みたいな貌をした時雨と眼が合う。

何も言えなかった。「やったぁ!」と無邪気に喜ぶ雪風。開いたカードはペアだった。

その瞬間だ。会場の空気が、間違いなく一変した。

 

 勝負事では、“流れ”が大切であるというのはよく言われるし、聞いたことも在る。

ただ瑞鶴自身、博打なんて興味無いし、そんなものを感じたことも無い。

これからも無縁のものだと思っていた。だが、今は違う。

その“流れ”というものが、ドバーっと瑞鶴達に傾いたのが、分かった。

この場に居れば誰だって分かった筈だ。会場が静まり返っているのがその証拠だろう。

続けて、雪風はカードを二つ開ける。これもペア。更にペア、ペア、ペア、ペア。

雪風は外さない。当たり前の様にペアを量産し、あっという間にカードを攫っていく。

今、瑞鶴は明らかにヤバイものを見ている。恐怖すら感じる光景だった。

 

 先程までのテンションは何処へやら。陸奥達四人の様子も外人4コマみたいになっている。

「手が光過ぎィ!!?」と叫ぶ野獣の気持ちも分かる。デュエリストか何か? みたいなツッコミをしたいが、この容赦の無い坊主捲りを見ると怖くてツッコめない。

時雨が席を立ち上がり、撮影している野獣の傍にそっと歩み寄り、「ねぇ野獣。あの、これ多分、駄目なヤツだよ……」と、震える声でカメラを止める事を促している。

「おっ、しょ、しょうだな(噛み噛み)」と、野獣も動揺を隠しきれていない。流石に、此処までの豪運処刑ショーは予想していなかったのだろう。

観戦している艦娘達の中からも、「えぇ……(慄然)」、「やべぇよ……、やべぇよ……(恐怖)」、「流石にたまげます……(呆然)」という、どよめきが起き始める。

しかし、この勝負に真っ直ぐで真剣な雪風は止まらない。無慈悲にペアを量産し続けて、とうとう最後の二枚を開け切ってしまった。

「しれぇ! 雪風のチームが勝ちましたー!(無邪気)」大虐殺を終えた暴君雪風は、嫌味も優越感も無く、勝った御褒美として奢って貰えるパフェに喜んでいる。

「うん、知ってた(諦観)」少女提督の方は、別に驚いた風でも無く、何を悟っていたかのようなニヒルな笑みだ。そんな少女提督に、雪風はテテテテっと駆け寄っていく。

その背中を瑞鶴は何とも言えない気持ちで見送っていると、司会ポジに居る青葉と眼が合った。『どうしましょう……?』みたいな貌をしていた。

瑞鶴も青葉の視線を追うが、掛ける言葉が見当たらない。雪風の一転攻勢を受けた彼女達。為す術無く敗れた陸奥達は、深い悲しみを背負っていた。

 

 陸奥はテーブルに突っ伏して、肩を震わせている。泣いて居るんだろうか。

「もう駄目だぁ……、おしまいだぁ……(BZーT)」 小声で絶望している大鳳も半泣きだ。

「空が青いわぁ^~やましろぉ^~」 「あ^~、不幸だわぁ^~」 

扶桑と山城の二人は椅子に座ったまま四肢を放り出し、余りの衝撃的結末(予測可能)にアヘ顔だった。

観戦していた艦娘達だって、皆一様に気まずそうな貌をしていた。さっきまでと凄い温度差である。まるでお通夜みたいだぁ(直喩)。

いやほんと、どうすんの、この状況……。こういう時は、無理矢理に流れをつくってくれる野獣が頼りだ。瑞鶴は野獣の方へと視線だけを向けた。

「んにゃぴ、良く分かんなかったです……(現実逃避)。なぁ、お前どう?(丸投げ)」だが野獣の方も、ちょっと手に負えない状況だと思ったのか。隣に居た少年提督に向き直る。

少年提督は、先程の雪風の殺戮ショーを見ても、全然動揺していない。怖いくらい落ち着いていた。その穏やかな表情のままで、「そうですねぇ……」と、何かを思案している。

 

 沈黙が続く。少しして、彼が微笑む。

「ではリターンマッチとして、泣きのもう一戦をやってみては如何でしょうか?」

 

 少年提督は微笑んで、陸奥たちに提案した。瑞鶴は噴き出しそうになった。

きっと彼には悪意なんて微塵も無いし、陸奥達に再戦の機会を与えたいという好意に違い無い。だが、その泣きのもう一戦が、トドメの一撃になってしまう。

あまりにも無慈悲なその提案に、「あっ、そっかぁ(思考放棄)」と、野獣が投げやりになった。時雨だって「え……、それは……(繰り返す悪夢)」と、絶句している。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!

 もうやだぁあああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛(幼児退行)」

突っ伏していた顔を上げた陸奥が、駄々をこねながら壊れた。

 

「やめましょうよ裁判長!!(?) こんな、神経衰弱なんて!! 

 見て下さいよ、この結果!! 私達、2ペアですよ!? 2ペア!!? 

 勝てる訳無いですよ!! やめましょうよこんなの!!? ね!?

 ラブ&ピース!! 平和が一番っ……!! もう終わりっ!! 閉廷!!」 

 

 錯乱気味の大鳳が半泣きで立ち上がり、迫真の力説を始める。そりゃあそうだろう。

雪風との対戦おかわりなんて絶対嫌に決まっている。心の傷が深まるだけだ。

「あぁ^~~」状態の扶桑と山城は、まだ現実世界に帰って来ていない。かなりの重傷だ。

結局。その後は、リットリオとローマへのインタビュー動画の撮影の流れとなった。

いやもう、最初からその無難な選択肢で良かったのでは無いかと、そう思わざるを得ない。

神経衰弱バトルと、その後に繰り広げられる阿鼻叫喚の在り様に、リットリオとローマの二人も顔を引き攣らせていた。その気持ち、凄く良く分かるなぁ……(しみじみ)。

瑞鶴もこの鎮守府に召ばれた時は、この無茶苦茶さに相当振り回されたし。そう言えば野獣は、また近い内に新しい艦娘を召還するかもと聞いている。

空母だと言っていたから、もしかしたら葛城かもしれない。あぁ~、でも真面目な彼女が野獣に召ばれたら、ホント苦労しそうだなぁ。

いやぁでも、少年提督に召ばれても、それはそれで苦労しそう。彼も結構ぶっ飛んだところ在るしなぁ……。

常識人である少女提督の方は、そういう指示は来ていないみたいだし、どう転んでもジョーカー引いちゃうかー……。

まだまだ籠った熱気を感じつつ、瑞鶴はまだこの鎮守府に居ない後輩のことを想いながら、まだテーブル脇に積まれているトランプを片づけていく。

積まれたペア札の一番上では、最後に雪風が開いたカード、黒と白のジョーカーが二人、笑っていた。

 














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短編 1.5

 ケッコンカッコカリこそしたものの、鈴谷と野獣との間で、特に何かが変わることも無かった。何だか、拍子抜けと言うか、もの足りないと言うか。

お互いを意識したりだとか、その所為でぎこちなくなったりだとか、より仲良くなって、親密な感じになったりとか、そういうのは全然無い。体感の話だが、もう、マジで無い。

鎮守府祭が終わってから、そこそこ大きな作戦も無事こなし、鈴谷達はいつもの日常を送っている。出撃、演習、入渠、休息。忙しさも充実感も在る。

こういう日々の中にこそ、ケッコンした艦娘と提督との間に、何と言うか、こう……、親愛の情の妙が在ると言うか。二人だけの特別な時間を作ってくれるとか。

いや。いやいやいや。別にそんな。あからさまで無くても良い。ほんのちょっと。ちょっとで良い。こう、特別な関係に在るんだという、何かが在っても良いじゃないか。

こう、ちょっと呼び方に優しさが篭っていたりとか。何気ない遣り取りにも、少しのスキンシップを交えてくれるとかさ。そういうのが在っても良くない?

つい先程も、誰も居ない廊下ですれ違った野獣に、「おっ、SZYじゃーん! 一緒に連れション行くか?」とか言われて、あのさぁ……みたいな気分になったのも仕方無いと思う。

もっと他に言う事とか、やる事あるんじゃないの。ほんと。誰も居ないんだからさぁ。そっと抱き寄せてくれたりさぁ。頭を撫でてくれたりさぁ。

「絶対行かない(蒼き鋼の意志)」と、デリカシーもへったくれも無い野獣を一蹴しつつも、鈴谷は野獣の執務室へとトボトボと歩いていく。あーぁ、もー……。

 

 非番であった鈴谷は溜息を飲み込みつつ、野獣の執務室へと向って廊下を歩いていく。その右手には、差し入れに持って来た間宮のケーキケース。

サボらずにちゃんと執務もこなしなよー! と、朝から何度か野獣とメールの遣り取りをしていたのだが、今日は仕事の進みが速いらしい。

昼前には執務を終わらせた野獣は、秘書艦であった時雨を返して一人で釣りに行っていたと返事が来ていた。普段なら時雨と一緒に行動していそうなものだから、意外だった。

ただ、やる事も片付けているなら、別に何処でどう過ごそうが野獣の自由だ。午後からも一人で居るつもりなら、オヤツに何か美味しいものでも持て行ってあげようと思ったのだ。

ケーキの数は5ピース。鈴谷と野獣が食べても、時雨と赤城と加賀の分が残る様に買ってきたものの、その途中で連れションに誘われ、テンションはサゲサゲ状態である。

 

 まぁ、ああいう男なのだから仕方無い。そう思いつつも、何だか遣る瀬無い。窓から外を見ると、今日も良い天気。

今度こそ溜息が漏れる。鈴谷は左手を持ち上げて、その薬指に嵌っている施術用指輪を見詰めた。複雑な文様が刻まれた、儀礼済みの指輪である。

蒼い微光が揺れている。眼に見える、絆の色だ。この指輪を送られる事自体が望外だったというのに。それ以上を望んでしまう自分は、随分と贅沢になってしまった様だ。

感情というものは、本当にままならない。気付けば野獣の視線を追ったり、野獣と一緒に過ごす時間を夢想したりしている自分が居て、嫌になる。

ケッコンカッコカリをしても、粛々と任務に就き、野獣を支えている時雨や赤城を見習わないといけない。

思慕からでは無く、精鋭化施術としてのケッコンを受けた加賀も、一航戦として活躍し、この鎮守府の戦力の一翼を担っている。

私情に振り回されないあの3人だからこそ、野獣からの信頼も厚い。自分はどうだろうか。何だか自信が無くなって来そうになった。

まぁ、ウジウジ悩んでても仕方無い。取り合えずは、ケーキでも食べて元気出そう。今日は非番だから、夕方からトレーニングルームにでも篭ろうか。

そんな事を考えていると、もう野獣の執務室に着いた。今日の野獣は、もう秘書艦も連れていないし、深海棲艦の秘書艦見習いも居ない。

この時間なら執務室には誰も居ない筈だし、片付けでもしといてあげようかな。雑念を払うには丁度良いし、家庭的なところをアピールするチャンスだ。

暢気にそんな事を思っていたから、ノックもせずに執務室の扉を開ける。後ろ手に扉を閉めようとして、気付く。顔を上げる。「……あっ」 と、小さく声が漏れた。

誰か居る。時雨だ。此方に気付いて無い。一瞬、鈴谷の思考がフリーズした。扉を閉めるのも忘れて、ぎょっとしてしまう。

 

 鈴谷に左肩と背を向けている時雨は、執務机の傍に佇んでいる。だが、様子がどうもおかしい。うわ、ヤバイと思った。

時雨は、丁寧に畳んだ野獣のTシャツをぎゅっと抱きしめたまま、顔を埋める様にして、少し呼吸を荒くしている。その頬は赤く、澄んだ蒼い瞳も、揺れて潤んでいた。

正面から見ている訳では無いが、角度的にそれ位は分かる。鈴谷は恐らく、最悪のタイミングで執務室に来てしまった様だ。

内心、動揺しまくる鈴谷を他所に、陶然とした様子の時雨は、切なげに野獣の名を小さく呼びながら、Tシャツを両手で掻き抱き、ふー……ふー……、と熱い呼吸を繰り返している。

とろんとした時雨の瞳は、普段の可憐さも相まって余計に淫靡な感じだ。と言うか、此方に気付かない程に夢中なのか。鈴谷は硬直したままで、頭をフル回転させた。

 

 まず、これは大変な場に出くわしてしまった事を理解する。時雨はゆっくりと腰を揺らしながら、もじもじと太股を擦り合わせ始めた。うわぁ。え、……えらいこっちゃ。

ど、ど、ど、どうしよう……。どうしよう、コレ。参ったなぁ……。自然な感じに声を掛けてみようか。いやぁ、この状況では、自然もヘチマも無い。

やっぱり、このまま回れ右して帰ろう。うん、出直そう。逃げるが勝ち。帰れば、また来られるから(到言)。そうだ。何も見ない。何も見て無い。何も聞こえない。

鈴谷は、くるっと踵を返す。時雨が「はぁぁぁ……」と大きく、くぐもった熱い吐息を吐き出した。凄く色っぽくてドキッとした。思わず振り返ってしまう。眼が合った。

あっちゃぁぁああああああ……(痛恨)。鈴谷は慌てて眼を逸らすが、もう遅い。

「す、鈴谷っ!? こ、これはその……っ!」と、あんなに焦りまくって狼狽し切った時雨を見るのは初めてだった。

 

だが、動揺の度合いでは鈴谷だって負けてない。きょどってるレベルならタメをはれる。

鈴谷は斜め上を凝視しつつ時雨の方を見ず、顔の筋肉をフルに使って笑顔を浮かべる。

表情筋は引き攣りまくって、冷や汗がタラタラと流れてくるのを感じたが、どうでも良い。

 

「あ、あのね、その、み、皆でね? ケーキをね? 

うん、食べ、食べようと思ってね? 持って来たんだけどね? 

ちょっと忙しそうだから、後でまた来るね?(優しさ)」

 

「ちょ、ちょっと待って! 鈴谷! ち、違うんだ! 誤解だよ!

これはその、……えぇと、てぃ、Tシャツ型の、あ、アロマポットで……(意味不明)」

 

 苦し過ぎる言い訳を始めた時雨の顔は病気かと思うくらい真っ赤だった。

涙目の瞳はぐるぐる状態だし、左手でTシャツを背中に隠し、右手をわちゃわちゃと振っている時雨は、正直可愛かった。

だがそんな事をこの状況で正直に言えば、時雨本人は噴火するだろうし、鈴谷も泣きそうだ。と言うか、Tシャツ型アロマポットって何よ……(哲学)。

しかしである。この現状を悲観しているだけでは何も解決しない。行動だ。何か、何か行動を起こさないと。何とかこう、良い感じで会話を続けないと。

「へぇ、は、ハイテクじゃん?(意味不明返し)。ちょっと私にも、か、貸してくれない?」今思い返すと、声を引っ繰り返していたこの時の鈴谷は、ちょっと冷静さを失っていた。

そんな鈴谷に対して、「う、うん、どうぞ(ゆんゆん眼)」などと快諾した時雨にしても、冷静さがどうとか言うより、若干ヤケクソ気味だったように思う。

 

 鈴谷は俯き加減で時雨に歩み寄り、傍にある執務机にケーキケースを置いた。それから、震える手で野獣のTシャツを受け取る。

さっきまで野獣が着ていた所為か、それとも、時雨の熱い吐息の所為か。多分後者だろうが、シャツは少々しっとりしていた。

だが、汗臭いとか、変な臭いがするとか、そんな事は無かった。普段から体を動かす人は、汗と一緒に老廃物が出ているから、体臭が薄くなっていくらしいという話を思い出した。

汗自体は不潔なものでは無いし、トレーニングをこなしている野獣は、きっと老廃物が溜まりにくい身体なんだろうと、頭の端っこで考える。だが、冷静さは帰って来ない。

むしろ、ドキドキし過ぎて胸が痛い。鈴谷は手にTシャツを両手で持ちながら、何でこんな事になったんだろうと思いつつも、誘惑には抗えなかった。

唾を飲み込み、鈴谷もTシャツをぎゅっと抱きしめてみた。バックンバックンと鼓動が鳴り出す。変な汗が出てきた。きっと自分の眼もグルグルしている事だろう。

気付けば、視界には、Tシャツしか映っていない。此処が執務室だとか、隣に時雨が居るとか、そういうのがどうでも良くなった。

そうだ。今、世界には、鈴谷とTシャツしか存在しない(危険な領域)。何を遠慮する必要があるのだろう。抱いたTシャツに思いっきり頬ずりした時だった。

 

 

「見~~ま~~し~~た~~よ~~」 背後からだった。

驚きの余り「ぅはぅっ!!?」 と身体を跳ねさせる時雨の姿が視界の隅に見えた。

ただ、ビックリしたのは鈴谷だって負けてない。口から魂が飛んでいくところだった。

さっき、鈴谷が中途半端に閉めた執務室の扉。その隙間から声がした。

明らかに楽しんでいる声音。誰かが笑みを浮かべて此方を見ているのに気付く。

赤城だった。鈴谷の居た世界が崩壊し、一瞬で現実が還ってくる。

 

「あ、あの、これは、そのっ! ち、違うんです! これには深いワケが在って……っ!」

ちょうど先程の時雨のように、鈴谷はわちゃわちゃと手を振りながら、半泣きで言う。

 

 対する赤城は、清潔感のある赤袴と弓道装束に身を包んで居り、いつもの凛とした雰囲気を纏っている。

いや、気のせいだった。うーふーふー♪、と、猫みたいな口をして、年上のお姉さんチックな笑みを湛えている所為で台無しである。

普段の軍人然とした泰然さなど全く無い、ちょっぴり意地悪な感じだった。他所の鎮守府の艦娘達には、絶対に見せないような笑顔である。

鈴谷や時雨の事を、心から信頼してくれているからだろう。ただ、今はその信頼の有難味を感じるよりも、絶望を感じた。赤城は廊下に誰も居ない事を確認して、ドアを閉める。

それから、涙目で貌を引き攣らせる鈴谷と時雨の傍まで、嫌味なくらいゆったりと歩み寄り、二人を見比べた赤城は悪戯っぽい笑みを深めて見せる。

 

「ふふ……、やっぱり私達は、考えることが似ているんですね」

嬉しそうに言った赤城は何を思ったのか。時雨と鈴谷の二人を、そっと抱きしめて来た。

流石に驚いた鈴谷は、ドキッとして体を硬直させてしまう。隣の時雨も同じような様子だ。

今日は赤城も非番だった筈だし、ドックとは別にある艦娘専用の浴場を利用したのだろう。

石鹸の匂いと一緒に、同性でもくらくらしてしまう様な佳い香りがした。

だが、それだけじゃない。あ、これ。アルコール。お酒の匂いだ。顔色は其処まで変わっていないから分かりにくいが、此方の見つめて来る赤城の瞳は、とろんと濁っていた。

それに、表情の緩み方がいつもと違う。普段なら、その柔和な表情の中にも芯が通っているが。今日はどうもおかしい。何と言うか、ふにゃっとしている。

ついでに、小さくしゃっくりをした赤城を見て、鈴谷は嫌な予感がした。あれ……。これもしかして、赤城さん酔ってるんじゃ……?

 

「こうして無事『ケッコン』を終えた身である以上、

互いに嫉妬することが無いよう、もっと仲良くなるべきだとずっと考えていたんです」

 

 赤城は、時雨と鈴谷を両手で抱きしめたまま、二人の耳元で囁くように言う。

もの凄く甘い声音で、ゾクゾクとした痺れが腰から背筋を昇っていく。鈴谷は焦る。

唇をゆっくりと舐めて湿らせた赤城が、艶美な手付きで鈴谷と時雨の腰に手を回し、更に抱き寄せて来たのだ。

右腕で鈴谷を、そして、左腕で時雨を抱きすくめる格好である。さっきまで微笑んで居た筈の赤城の眼は、えらくマジだった。

 

「野獣提督から指輪を頂いた時から、……いつかこういう時が来るだろうと思っていました」

 

 いやいやいやいや。鈴谷はそんな事は考えた事は無いし、この状況も予想だにしていないと言うか。え? な、何? 何が始まるんです?(コ)

「あの、ぼ、僕は……」流石に身の危険を感じたのだろう。時雨が身を引こうとした様だが、駄目だった。鈴谷は驚愕した。

「怖がらなくても大丈夫ですよ。ほら、力を抜いて……」と、艶の在る声で囁く様に言いながら、赤城は時雨の左耳朶に唇を寄せて、ゆっくりと舌を這わせたのだ。

時雨が甘い悲鳴を上げて、身体を震わせた。今まで聞いた事が無いような、余裕の無い上擦った嬌声だった。そんな自分の声に驚いたのか。時雨の頬が、かぁっと赤くなる。

そんな初心な時雨の反応が気に入った様だ。赤城は更に容赦無く、思うさま時雨の耳朶を舐り、まるで花の蕾を無理矢理に開かせる様に、丹念に蹂躙していく。

 

 あっ、あっ……! だ、駄目だよ、こんな……っ! ぅあっ……!

時雨は喘ぐ様に息を漏らしながら、何かを堪えるように眼を閉じている。

余りのことに、鈴谷は抵抗という概念を忘れたように棒立ちだった。身体が熱い。

鈴谷を抱き寄せる赤城の右手は、鈴谷の腰の後ろ辺りを優しくさすって来る。

右耳には、湿った淫靡な水音が聞こえている。時折聞こえる、時雨の甘い声。

何とか赤城の腕から逃れないとならないのに、この淫気にあてられたのか、動けない。

そんな間にも、時雨の抵抗を完全に抑え込んだ赤城は、時雨を抱き寄せた左手を、ゆっくりと下に下ろしていく。

時雨の太腿を撫でながら、更に今度は上へ。スカートの中へと滑り込ませる。時雨の体が、ビクンと跳ね、一際大きな悲鳴が漏れた。

身体を強張らせた時雨は、呼吸を乱しながら赤城にしな垂れかかるような姿勢になった。きゅっと唇を噛んで、声が出るのを堪えようとしている。

不意に、時雨の耳朶へ唇を寄せる赤城が、鈴谷に流し眼を送って来る。ゾクッとした。ふふっと赤城は微笑み、今度は鈴谷の右耳へと唇を寄せて来る。

 

「あ、あのっ!?」

 

鈴谷は何とか声を上げて、近づいてくる赤城の貌から逃れようとする。

艶美な赤城に見惚れ、呆然としていた鈴谷は、今更の様に抵抗しようとした。

 

 でも、全然逃げられる気がしない。

弓道、弓術の他にも、赤城は武道の心得が在るのは知っていた。

これが柔、いや、合気という奴か。右腕で抱かれる鈴谷の体には、力が篭らない。

抵抗しようとすればするほど、体の力が何処かに流されてしまい、振り解く事が出来無い。鈴谷は未だに両手で野獣のTシャツを抱いているような姿勢だから、余計に駄目だ。

それでも、何とか身体を引いて逃げようとする。

 

「赤城さん、不味いですよ!? ちょっと……! ホントに……!」

 

 その必死の様子に、赤城はくすりと笑み、鈴谷の右耳にふぅー……と、細く息を吹きかけた。「ふふふ、暴れないで、……暴れては駄目よ?」

鈴谷は声を漏れそうになるのを堪えるが、それが抵抗と成り得るかは微妙なところだった。時雨の方は、赤城に凭れかかっていて貌が見えない。

だが、小刻みに波打っている時雨の身体を見るに、赤城の手が滑りこんでいる彼女のスカートの中は、のっぴきならない状態だろうことは想像に難しく無い。

ふぅっ、はっ、うぁ。時雨が悩ましげな声を漏らしているし、抵抗する意思が折れそうだ。流石は一航戦。なんて、こんな状況では言いたくは無いが、勝てないよ、こんなの。

肉食獣に喉首を噛まれて押さえ込まれた、小動物みたいな気分になる。何だか、色々と考えたりする事も面倒になって来て、鈴谷は半泣きで、ぎゅっと眼を閉じた。

覚悟を決めたというより、単純に怖くて眼を閉じただけだ。「そんなに怯えないで下さい」耳元に掛かる吐息は、熱く、潤んでいた。赤城の右手が、鈴谷の太腿を這う。

その触り方や力加減が絶妙で、鈴谷も声が漏れた。体が反応してしまう。同時だったろうか。声を殺す為だろう。息を切らした時雨が、自分の右手親指の付け根を噛んだ。

直後だった。時雨は身体を硬直させて大きく呻き、身体を何度も波打たせた。その後。くたっとなった時雨は、太腿をかくかくと震わせながら、赤城にしがみつく。

そんな姿勢で何とか立っている時雨を、赤城は舌舐めずりをしてから、さらに攻めて立てる。眼に涙を浮かべた時雨が、悲鳴と共に再び身体を跳ねさせた。

それを横目で見つつ赤城は、今度は鈴谷の首筋に口付けをした。「さぁ、鈴谷さんも……」 その艶の在る声に、鈴谷は心の中で叫ぶ。ライダー助けて!!(錯乱)

 

その時だった。

 

「Foooooooo!!↑ トイレあっつゥーーー!!!」

執務室の扉が勢い良く開いた。野獣だった。安堵の余りに、鈴谷は泣きそうだった。

赤城に嬲られまくって足腰をガクガクさせている時雨も、掠れた涙声で助けを求めていた。

嬉しそうに笑みを浮かべた赤城は、それでも時雨を責める手を緩めない。寧ろ、苛烈さを増した。

 

「あら^~……。野獣提督……。

 いいところに来てくれましたねぇ~(ねっとり)」

 

「ファッ!?(驚愕) ヲッ!??(状況確認) ヌッ!!(電光石火)」

 

 尻を掻きながら執務室に入って来た野獣も、流石に今の執務室の様相はショッキングだった様である。

野獣はすかさず踵を返し、この場から去ろうとしていた。思わず鈴谷は叫んだ。「ちょっとォーーっ!!? 何処に行くのぉーーっ!!」

 

「いや、この辺にぃ! うまい便所屋の屋台、来てるらしいっスよ?

 ションベンだけしてウンコするの忘れて来たから、今から行きましょうね~!(逃亡)」

 

「ワケ分かんない事言ってないで助けてよぉ!!(泣き声)」 鈴谷は懇願する。

何度目だろう。親指の根元を噛みつつ声を堪えている時雨が、再び身体を大きく跳ねさせた。

息も絶え絶えで涙を浮かべる時雨は、縋るような眼差しで野獣を見ている。

 

「スゥゥゥ~~……(難色) しょうがねぇな~……」

 

 嫌そうに言いながら、野獣は右手で尻を掻きながら、左手を身体の前で開いた。

ついでに、朗々と文言を唱え、術陣を左掌の中に構築していく。蒼い光が緩く明滅する。

それに合わせて、赤城の足元にも術陣が織られ始めた。

艦娘の意識を奪うのでは無く、抵抗を抑える為の強制睡眠施術だ。

危険を察しただろう赤城は、時雨と鈴谷を放し、陣から飛び退ろうとした。

だがそれよりも、術陣の効果解決の方が早い。「ちょっと眠ってろお前(睡眠誘発)」

野獣が唱えた施術は、赤城を拘束し、力を奪う。赤城は、無念そうな表情でその場に崩れ落ちた。

倒れこみそうになる赤城を、今度は鈴谷が抱えて支える。何度も達してしまい、ふらふらとしている時雨の方は、野獣が抱きとめてくれた。

余程怖かったのだろう。時雨は、しばらく野獣にぎゅっと抱きついたままで離れようとしなかった。

そんな時雨の頭を撫でながら、野獣は鼻を鳴らし、鈴谷と赤城を見比べた。

 

「執務室でなにやってんだよお前ら~……(困惑)

三人で三角形になって、しゃぶりあってたのか?(青春)」

 

「眼が腐ってんじゃないの?

そんな訳無いから(憤怒)。少なくとも執務室でそんな事しないから」

 

 野獣の言い草に、鈴谷は自分の眉が釣り上がるのが分かった。ただ、野獣に噛み付いても仕方無い。

そんな風に自分を納得させつつ、溜息を吐きだして視線を落とそうとしたが、さっき執務机の上に置いたケーキケースを思い出した。

時計を見れば、もう三時過ぎ。丁度良い時間だ。ケーキの数も在るし、ちょっと休憩しよう。うん。もうチカレタ……(しんみり)。

そう鈴谷が提案すると、野獣は「あっ良いっすよ(快諾)」と頷いて、時雨と鈴谷をソファで休ませる間に、アイスティーの用意をしてくれた。

安らかな寝息を立てている赤城もソファに寝かせて、野獣は軽度の興奮沈静化の施術を行う。要するに、簡単な酔い覚ましだ。

 

 

 

 

 

 

 その施術後。

 約10分ほどしてから睡眠効果を解かれた赤城は、完全に酔いが醒めた状態だった。

記憶の方もバッチリある様で、ソファから身体を起こした赤城は、凄く気まずい貌だった。

今も、正面のソファに座っている鈴谷と時雨の視線から逃れるように、そっぽを向いている。

話を聞くと赤城は、同じく非番であった千歳や那智達と共に、隼鷹の自室で酒盛りをしていたらしい。

あの面子なら、どうせキツイ酒でもパッカパッカ空けていくに決まってるし、昼飯時からあんな呑兵衛艦娘達に付き合ってたら、そりゃあ、あんな酔い方もするよ……。

 

「いや、あの……先程は何と申しますか……。

 私の中に居る、もう一人の私がですね、勝手に、その、じ、自動的に……」

 

 しどろもどろになる赤城の顔は赤く、眼は泳ぎまくっていて、普段の凛々しさは全然無い。

親しみ易い、ちょっとおっとりしたお姉さんみたいな感じだ。

ただ、だからといってそう簡単に許されてはいけないのでは無いかと思う。

鈴谷だって危うく道を踏み外すと言うか、そっちのケに目覚めてしまったら笑えない。

時雨にいたっては、もうホント、色々と散らされてしまう寸前だったし……(恐怖)。

 

 鈴谷はチラリと、隣に座る時雨を見遣る。時雨は、困ったみたいに微笑んで居た。

既に持ち直しているようだし、トラウマになったりもしては居ない様子だ。

ちなみに時雨は、一度自室に下着を着替えに戻っており、今もまだ顔がほんのりと赤い。

いまだ火照った様子の吐息と少し汗ばんだ肌が、どれだけの猛攻を受けたのかを物語っている。

見詰めていると、時雨と眼が合う。鈴谷は、取り合えず引き攣った笑みを浮かべた。

時雨も『大変だったね……』みたいな苦笑を漏らしている。お互いにそんな反応がやっとだ。

向かい合って座る鈴谷達の横合いに腰掛け、脚を組んだ野獣が、やれやれと肩を竦める。

 

「酔っていて覚えてませんみたいな言い訳はぁ、どうなんだ一航戦として!

 でもまぁ女所帯だし、女同士でそういうのも、……まぁ多少はね?(クソデカ理解心)

 赤城だってモテそうだし、百合の花が咲くのもしょうがないね(寛容)」

 

「そ、それは誤解です! こういう、えぇと、あのですね、

 誰かの肌に唇を寄せたり、あ、あい、愛撫なんて勿論初めて、ですし……!」

 

 珍しく焦った早口で言う赤城の顔は赤いし、その言葉を聞いていた時雨の頬も赤くなった。

そりゃそうだ。時雨だってあんなの初めての経験だろうし。いや、鈴谷も初めての経験だったけどさ……。沈黙が少しだけ在って後、赤城が此方に向き直った。

これで何度目だろうか。本当に申し訳ありませんと、悄然とした赤城が、深々と時雨と鈴谷に頭を下げる。

その反省している赤城の姿を見て、野獣が時雨と鈴谷へと顔を向けて眉尻を下げた。もう許してやるか? と聞いてくる様な貌だった。

苦笑の時雨が頷き、鈴谷も同じく、苦笑で続く。

 

「僕はもう、別に気にしていないよ。

 今度からは、呑み過ぎに気を付けてね? 身体を壊すと大変だから」(大天使)

 

 時雨は責めるどころか、悪酔いしてしまった赤城の心配すらしている。

その優しい言葉に、赤城の方も感動を通り越して恐縮した様子で、また深く頭を下げた。

鈴谷も苦笑を浮かべつつ頷いて、時雨の言葉に続こうとしたら、また野獣と眼が合う。

 

「あっ(要らぬ閃き)、そう言えば、SGRやSZYは執務室で何してたんだゾ?

赤城がガンギマリで執務室に来て、さっきみたいなスマ●ラになったトコまでは把握したけどなー、俺もなー……」

 

ソファに深く腰掛けた野獣は顎を撫でながら、時雨と鈴谷を見比べた。

 

「今日の執務は片付いてるし、SGRの秘書艦任務は解いた筈ダルォ? 

何か用事でもあったのかぁ? それにSZYも今日は非番じゃんアゼルバイジャン?」

 

 野獣の問いに、赤城と時雨は貌を強張らせた。鈴谷だって顔の筋肉が引き攣る。よ、用事って言うか……。

言えない。時雨と一緒にTシャツを抱きしめて盛り上がり(意味深)、そこを赤城に襲われましたなんて、正直に言えるわけが無い。

ただ、野獣の何気ない言葉に、鈴谷はちょっとだけ不機嫌そうに頬を膨らませた。ついでに腕を組んで、ツーンとそっぽを向く。

 

「別に用が無くてたってさ、此処に来たって良くない……?

 そりゃ執務が忙しかったら話しは別だろうけど、今日は昼から暇しそうなんでしょー」

 

 ぷりぷりとした様子で言ってみた鈴谷自身、今の自分からはビスマルクにも負けないレベルで、構って構ってオーラが出ていることを自覚している。

でも、何故か今は気にならなかった。特に恥ずかしいとも思わない。執務室に居るのがこの面子だからかもしれない。鈴谷は、震えそうになる声を誤魔化すみたいに鼻を鳴らす。

 

「あと、鈴谷達は別になんにもしてないもん。

時雨は執務室の片付けをしてくれてて、其処にケーキを持った鈴谷が来たってだけ。

 そんで、丁度の時雨を手伝い始めた時に、赤城さんと遭遇したって感じだから、……ね?」

 

 鈴谷は言いながら、ソファに座る時雨と赤城を交互に見遣る。

その最中、野獣には見えない角度で、二人にウィンクをして見せた。

察しの良い二人は勘付いてくれたようで、軽く頷いてくれる。

野獣も、なる程と言った様子で顎を撫でていた。

 

「あっ、そっかぁ(納得)。

 SZYが抱いて持ってた俺のTシャツは、洗濯しようとしてた感じなんだ、じゃあ?」

 

「あ、当たり前じゃん? ねぇ、時雨?」 

 

「うん……、そ、そうだよ(便乗)」 ぎこちなく、時雨が頷く。

 

「あのっ、野獣提督? 

せっかくお茶も淹れて頂いていますし、そろそろ、おやつにしませんか?」

 

 赤城も鈴谷のフォローに入ってくれた御蔭で、上手く話しを逸らすことでが出来た様だ。

野獣も、「お、そうだな!」 と笑いつつ、ソファテーブルに置いてあったフォークを手に取った。緊張していた空気が弛緩していくのが分かった。

既にケーキと紅茶は、野獣が各々の前に用意してくれてあるので、もう何時でも食べられる状態である。「そんじゃ、有難く頂くゾ」 野獣は軽く鈴谷に礼を言いつつ、笑う。

時雨や赤城もホッとした様子で鈴谷に手を合わせる。ちなみにケーキは、間宮特製のチーズケーキだ。鈴谷も手を合わせ、フォークを手にとって一切れを口に運ぶ。

何とか誤魔化せたという安堵感も手伝ってか、チーズケーキの上品な甘さを感じる。溜息が漏れた。あぁ~~……、何かどっと疲れた……。

 

 ぼやきそうになるのを堪えると、代わりに笑いが込み上げそうになった。時雨や赤城は、ケッコンカッコカリというものに囚われず、自然体なのだと思っていた。

野獣との時間を求めてしまう自分とは違い、施術指輪を貰った喜びを胸に秘めるだけで、特に感情を乱すことも無く、ただ実直に任務を遂行していた。

鈴谷からはそんな風に見えた。だが、実際は違ったようだ。時雨も赤城も、やっぱり平気じゃない。ケッコンしても変わらない距離感に、焦れったさを感じていた様である。

野獣のT シャツを抱きしめていた時雨だって、酔いに任せて暴走した赤城だって、普段から強く自分を律しているからこその反動だろう。魔が差したという奴だ。

 

 なーんだ。ソワソワしてたのって、鈴谷だけじゃないじゃん。ちょっと安心する。

同時に、こんな風にケーキとお茶を囲んでいると、別に大きな変化なんて要らないんじゃないかとも思えて来る。

ケッコンしても関係が変わらないというのは、それはそれで尊いと言うか。やっぱり、皆と一緒に居られることが一番だ。

ふと、鈴谷は紅茶カップを傾けながら野獣を見遣ると、大振りに切ったケーキを口の中に放り込んでいる途中だった。

行儀悪いなぁなんて思いながら、鈴谷は、野獣が淹れてくれたストレートティーを啜りつつ、そっと息をついた。

甘みが少なく、ほんの少しだけ苦くて、でも凄く美味しかった。

 

 

 



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短編 2

 今回の作戦は規模の大きさも然ることながら、作戦海域に於ける敵の強さも尋常では無かった。

深海棲艦の上位体達は、確実に進化し、強くなって来ている。人類が優位であっても、“海”が弱体化している訳では無いということを思い知らされた。

この鎮守府に所属している艦娘達にも、多くの負傷者が出ることになったものの、前線に居る者達からの報告で、全員の生存が確認出来ている。

轟沈など、艦娘達の被害が大きかった鎮守府もあるが、結果から言えば作戦は成功だった。新種の深海棲艦の鹵獲にあわせて、海域の開放など。

戦果も十分であり、戦線からの報告を見れば勝利と言える結果だろう。各地の鎮守府の提督達も、あとは前線に出ている艦娘達が帰って来るのを待つだけであった筈だ。

ただ、少女提督を始め、彼女が召還した大井は、それを手放しで喜べない深刻な状況に置かれていた。作戦の最終段階で、北上が大破、半轟沈し、昏睡状態に陥ったのだ。

意識を失い、沈みかけた北上を死に物狂いで曳航、撤退してきた大井の御蔭で、何とか轟沈は免れ、北上は母港まで還ってくる事が出来た。しかし、悲劇は此処からだった。

 

 

 

 鎮守府の中に設立された特別医務庁舎の儀礼施術室は、天井や壁、床を、特殊な金属で強化コーティングされた儀礼室である。

窓は無く、幾層にも重ねられた扉は重厚で、壁と床に沈むようにして開閉するタイプである。仮に何か事故が在っても、外界との隔絶が可能なように設計されてある様だ。

窓が無い分、高機能な空調設備は在るものの、部屋はやけに寒く感じた。寒い。寒い。大井は歯を食い縛り、肩を震わせていた。

無理な航行をしてきた大井は、入渠もせずに此処に居る。おかげで、北上と御揃いのセーラー服型の艦娘装束もボロボロで、所々が焼け焦げている。

はっきり言って、澱の様に身体に溜まった疲労は、限界を超えつつある。赤疲労などという呼ばれる状態には慣れているつもりだったが、今回は違う。駄目だ。

体の中で泥でも詰っているような感覚だ。腕も脚も、頭も意識も、何もかも重い。それでも、眠気は全く無い。大井の肉体は休息を求めているが、意識がそれを拒む。

顔を上げた大井の視線の先。すぐ傍には大掛かりな施術ベッドが鎮座しており、縁には複雑な計測機類、投薬装置が多数備え付けられている。

その仰々しさの所為か、傍からでは何かの儀礼祭壇の様にすら見えるその施術ベッドに、北上が寝かされていた。

 

 帰投してからすぐに此処に運びこまれたから、北上のセーラー服型の艦娘装束は、やはりボロボロである。まだ意識は戻らない。

北上の手首と足首には術陣拘束が嵌っている。これは先程、少年提督が施してくれたものだ。治癒施術も行ってくれた御蔭で、北上の肌には火傷や傷跡は無い。

ただ、その腕や喉首、胸元、脚には、多数のプラグが差し込まれており、生体データの採取と、投薬が行われていた。肉体は回復しているものの、痛ましい姿だった。

 

 泣きそうな貌の大井は施術ベッドの左側に佇み、拘束されてある北上の左手を握り締めている。窮屈そうなこの拘束は外してあげて欲しい。

北上さんが可哀相だ。でも、きっと外すことは出来無い。北上の右腕と右肩、それから、首の右下、顎の下あたりまでを、仄暗い装甲外骨格が覆っているからだ。

その装甲と装甲の間から覗く肌も青白く変質し、濁った碧色の微光が明滅しながら脈打ち、漏れ出してきている。死死死死。忌忌忌忌。怨怨怨怨。卦卦卦卦。

肉の声では無い“声”が聞こえる。北上の右上半身を覆う、生きた金属が唱っている。嗤い声か。呻きか。泣き声か。その全てであり、どれでも無い様にも聞こえる。

ただ、此方の心を揺さぶってくる声だ。北上の右上半身を覆う金属は、かなりの硬さが在る筈なのに、不気味の蠕動しながらその表情を変え続けている。

 

 儀礼施術室の一角には、施術ベッドの計測器からのデータを表示するモニター、そして操作パネルが備えられており、少女提督が苦しい表情でコンソールを操作している。

「やっぱり……北上の身体から、もう深海棲艦と同じ反応が出始めてるわ」少女提督はコンソールを操作する手を止めて俯き、悔しげに唇を噛みしめながら、拳を握った。

 

 少女提督の声に振り返り、北上もモニターへと視線を向けて歯噛みした。

北上の身体の状態を表示しているグラフと数値が、ゆっくり、ゆっくりと変わっている。

深海棲艦の反応を表すパーセンテージだ。17……18……19……18……19……17、と不安定な揺らぎにありながらも、拘束施術と鎮静剤により、何とか小康状態を保っている。

当たり前だが、普通は0%だ。艦娘は、深海棲艦では無いからである。だが、今の北上からは、20%近くの深海棲艦反応が出ている。

これが意味するものは、一つしか無い。いや、最早データやグラフなど必要無い。北上の様子を見れば、誰だって一目で分かる。

モニターを睨み着けた少女提督は、無念そうに項垂れて、唇を噛む。「深海棲艦化なんて、何でこんな形で……」

 

 

 

 本来、轟沈した艦娘が海の底で遂げるであろう、その再誕と変質の神秘が、今目の前で起ころうとしている。

望まれない奇跡は、悲劇と変わらない。この現象を観測した前例が無く、資料も例も無い為、対処法が全く分からない状況である。絶望的だ。

この鎮守府の傍に在る、深海棲艦研究施設に運び込むのは有効に思える。しかし、今の北上の状態が知れれば、本営が北上を寄越せと命令してくるのは目に見えている。

貴重な現象の検体である北上を、間違い無く少女提督から剥奪しようとするだろう。そうなれば、北上を売り渡すことになる。ふざけるなと思う。それだけは避けたい。

今の状況が重大な隠匿行為であろうことは、軍属の身である大井も理解しているつもりだ。少女提督だってそうだろう。

だが、大井達には何も出来ないというのが現実だ。出来るのは、徒に本営への報告を遅らせているだけに過ぎない。

ただ、少年提督と野獣には、何か考えが在るのだろう。北上の容態を伏せておきたいと願う大井達に、何も言わず協力してくれた。

戦場海域から撤退してきたのは北上と大井だけで無く、他の艦娘達も、何人か帰投していたのだが、これには野獣が対処してくれた。

今の北上の状態を伏せる為、『瘴気の濃い海に中てられたという事で、北上と大井には特殊な治療施術が必要である』と、こうした艦娘達にも伝え、入渠状況を管理してくれている。

 

 ありがたい。感謝せねばならない。しかし、光明は見えない。

北上のすぐ傍に居る大井は、携帯端末を取り出し、今は戦場からの帰路に居るであろう姉妹艦達、球磨や多摩、木曾に連絡をしようとする。しかし、どうしても躊躇う。

何と伝えれば良い。何と言えば良い。怖い。恐ろしい。今の状況を言葉にして、誰かに伝えた瞬間。北上が、全く別の何かになってしまう様な気がするのだ。

姉妹艦達にも伝えるべきなのに、何も言えない。端末を持つ手に力が上手く入らない。この葛藤も何度目だろう。その間にも、北上の身体は変質を続けているのに。

 

 宇宇宇宇。禍禍禍禍。啞啞啞啞。声が響いている。

喘ぐように嗤いながら、呻いて、啜り泣いている。うるさい。うるさいうるさい。

携帯端末を仕舞い込み、北上の左手を握る大井が、自分の唇を噛んだ時だった。

…………。お……。……お。……いっ。ち……。……。擦れ擦れて、今にも消えそうな小さな声が聞こえた。大井が聞き間違う筈が無い、聞き慣れた声だった。

 

 大井はガバッと顔を上げて、更に強く北上の左手を両手で握りつつ、その貌を覗き込む。

青白い顔をした北上は、重そうに瞼を上げる。それから、天井を暫く見詰めたあとに、視線を周囲に巡らせた。

それから大井を見て、微笑みを浮かべて見せた。大井を心配させない為だろうその笑みには、全然力が篭っていない。

今にも消そうな、蝋燭の細い細い灯を思わせる笑みだった。大井は、涙で視界がぐちゃぐちゃになった。

 

「北上さんっ! 北上さんっ!! 

私が分かりますかっ!? 声が……、声が聞こえますかっ!?」

 

 嗚咽が漏れそうになるの堪える。呼吸と声が震える。北上は大井を見上げながら、本当に小さく頷いた。

う。ん……。聞こ、え。て。る……。よー…。大。井、っち……。吐息に乗せるような、か細い声だった。少女提督も、操作パネルの前から此方へと駆け寄って来る。

視線だけを動かした北上は、自身の右半身を見遣る。参ったねー……、みたいに北上は可笑しそうに、小さく、本当に小さく笑った。

その北上の右瞳からは、濁った碧色の光が漏れ始めている。深海棲艦の瞳。その色と耀きだった。あぁ。あぁ……。大井は、へなへなと崩れ落ちそうになる。

二、人……。共……、何て。貌。し……て。る、の。さ……。その弱々しくも健気な声に、何も言えなかった。少女提督も、黙ったままで苦しげに顔を歪めている。寒い。金属の部屋が、寒い。

恐らくは北上自身も、自分の身に何が起きているかぐらいは理解できている筈だ。外骨格とも装甲とも着かない金属で覆われた己の身体を見れば、嫌でも察しはつくだろう。

『沈んだ艦娘は、金属と海水に還り、深海棲艦へと成る』 。少年提督と野獣の報告によって、この仮説は、此処最近で現在もっとも有力な説として挙げられる様になった。

今の北上の姿は、その説の証明と補強として申し分無い現象の中に在る。大井達が言葉を失っていると、重厚な駆動音と共に、儀礼施術室の扉が開いた。

 

 

 

「……意識が戻られました様ですね」

 

「最近、どうなん?(レ)」

 

 その外見に似つかわしく無い、落ち着き払った声音で言いながら入って来たのは少年提督だった。顔の右上半分を覆う黒の眼帯と、右手に嵌められた黒の手袋が目を引く。

彼について入って来たのは、彼の臨時秘書艦の戦艦レ級である。艦娘達が作戦に出払っている今は、深海棲艦達が順に彼の傍に控えている状況だった筈だ。

レ級の格好はラフなもので、黒のホットパンツに、黒のTシャツ。黒のパーカーを羽織り、フードを被っている。

金属獣の巨大な尻尾も、今は召還されていない。ただ、普段とは少し様子が違う。

何時も無駄に明るくてやかましい癖に、今は無表情と言うか、表情が引き締まっている。お馬鹿っぽい振る舞いも無く、その紫水晶の瞳には、理知と熟慮が見える。

 

 

 大井と少女提督は咄嗟に降り返り、少年提督とレ級に向き直る。

儀礼施術室の空気が、重く沈んでいくのを感じた。彼が纏う、普段とは少し違う独特の雰囲気の所為だろう。

初めて会った時の事を思い出す雰囲気だ。今の彼の静穏な表情には、得体の知れない不気味さが在る。

 

「ええ、でも……」

少女提督は施術室端のモニターをチラリと見てから、苦しげに顔を歪ませ、搾り出すようにして言う。

その視線の先。モニターのグラフでは、ゆっくりと、しかし、確実に、北上が深海棲艦となりつつある事を示している。

少年提督もゆっくりとモニターを一瞥した後、大井と少女提督を順番に見た。

 

「……本営への報告は、如何しますか?」

 

「絶対にしません……っ!」 

 

 何か言おうとした少女提督よりも先に、震える声で大井が叫んだ。突然の大声に、レ級がビクッと肩を震わせるのが見えた。

重い沈黙が、暫し降りる。頭では理解しているのだ。救う手立ての無いままで北上を匿い続けて、一体どうするのか。

今でこそ深海棲艦化を食い止めているものの、制御施術や鎮静剤を北上に使い続ける負担を考えれば、必ず限界は来る。

強烈な活性と乱動の中にある北上の肉体は、このままではいずれ深海棲艦へと変貌を遂げるだろう。

沈黙の中。「良、い……よ。そ、ん……な、の」と、掠れた声が答えた。ベッドに横たわる北上だった。

 

 

「自、分の、身体……だ、か。……らね。分、か。るん……だ。

 多、分……。もう、じ、き。なん、に。も。分か、ん……なく、なりそうだし……」

北上は首だけを動かして、緩く微笑んで少年提督を見詰めている。

 

「今、の、内に、破。棄でも、解。体でも、し。て、欲し。いな……。お、願い。だ、よ」

何とか力を振り絞り、其処まで言葉を紡いだ北上は、細く息を吐き出して微笑んだ。

 

 途切れ途切れに紡がれる小さな声に、ゴリゴリっと音がした。

険しい貌の少女提督が奥歯を噛み締めたのだろう。大井は、何も言えないままだ。

何を言っても、状況は好転しない。理解出来るからこそ、辛い。

大井は、その場に蹲りそうになる。眩暈がした。涙が溢れてくる。身体が震える。

もしも大井が、人格を破壊された兵器としての艦娘であれば、絶対に持ち得ない感情だ。

失う怖さ。凄まじい喪失感。耐え難い。本当に、身も心も粉々になるような想いだ。

人の持つ心の強さを、こんな形で知るとは思っていなかった。

絶望にも似たこの悲哀に打ちのめされても、人はそれを乗り越える事が出来るらしい。

だが、大井には、そんな自信は無かった。ただただ、怯えるだけだ。

身体から、生きていく為に大切な何かが、抜け落ちて行くような錯覚を覚える。

少女提督は泣きそうな貌のままで、ベッドに横たわる北上に一度振り返った。

 

 北上は、やっぱり力なく小さく笑う。こんな時でも北上は自然体で、苦笑しているみたいだ。

提、督。なん、て、貌、して。……んの、さ。生、意。気……そ。う。……な。可、愛い貌が、……台、無。し……じゃん。「うっさい、ばか」

え……へ、へ。うん。……ゴメ、ン……ねぇ。ヘマ、し……ちゃっ、て……。提、督。今ま、で……、あ、り。が……と、ね。「うっさい、ばか」

滑稽なくらい震える声で言う少女提督に、北上は可笑しそうに笑おうとしたに違い無いが、そんな力も残って居ないのか。細く息を吐き出しただけだった。

少女提督と北上のやりとりに、大井も振り返る。また北上の左手を握る。少女提督も、大井の手に重ねるようにして、北上の左手を握った。

その温もりが伝わったのだろう。北上は、己が己で無くなろうとする瀬戸際にあっても、幸せそうに微笑んでいた。碧色の光が漏れる瞳に、涙が浮かんでいる。

少女提督は、泣き笑うみたいな貌になって、少年提督とレ級に向き直った。大井も、無言でそれに倣う。

 

「私じゃ無理だから、お願い。……北上を、北上のままで楽にさせてあげて」

 

少女提督のその言葉は、北上の深海棲艦貌化を、良しとしない事を意味している。

しかし、レ級の方は気を悪くした風でも無い。寧ろ、神妙な貌で頷きを返していた。

恐らくレ級自身が、艦娘と深海棲艦を善悪で区別していないからだろう。

今のレ級にとって艦娘は敵で無く、深海棲艦は説き伏せるべき交渉相手だ。

 

 

 

 

 

「……分かりました」

少年提督は穏やかな貌で言いながらレ級を従え、静かな足取りで施術ベッドの傍へと歩み寄る。

 

「それじゃあ、……北上を工廠へ連れて行くわ」

 

北上を移動させるため、施術ベッドに備え付けられた投薬装置や、データ採取のプラグの電源を落とすべく、少女提督は俯きながら操作パネルへと向う。

「いえ、その必要はありません。……施術は此処で行います」と、落ち着いた声で呼び止める。少女提督が、訝しげな貌で振り返った。

 

「此処でって……、妖精も居ないし、設備も何にも無いのよ?」

 

「はい。……これから行う施術は、レ級さんの協力と、僕の身体が在れば可能です」

彼の声に抑揚は無い。ただ、その底を見せない静謐な表情が恐ろしく見える。

「おうよ!(レ)」 レ級が、任せとけみたいな貌で、彼の言葉続いて頷いた。

大井は無意識のうちに、彼から北上を庇うような位置に立っていた。

「何をする気なの?」 少女提督は、彼を睨むようにして問う。

 

「北上さんの身に宿っている、深海棲艦化の種を摘出します」

 

 彼がそう言い終わった瞬間だった。ガキン……ッ! と。錠が外れるような音がした。

重い音だった。それでいて、硝子細工が砕け散ったような、澄み切った音だったと思う。

背後からだ。疲労の所為か、反応が遅れた。あっ……! という、悲鳴に少女提督の声も聞こえた。

大井は振り返ろうとした。その途中で、ベッドの上に片膝立ちになった北上と目が合った。

何もかもが、スローモーションに見えた。操作パネルの警報音が、ワンテンポ遅れて響く。

北上は完全な無表情で右腕を振り上げている。変質したその右腕の装甲腕には、金属獣の大顎が口を開けている。

深海棲艦化しつつある北上の肉体と再活性が、その意識を凌駕し、支配したのだ。

煙霧にも似た碧色の微光を灯した北上の瞳が、大井を見下ろしていた。北上は、大井を喰い殺す気だ。金属獣が吼えた。

大井は、かわす事も出来なかった。ただ、垣間見たその光景に、心が折れる音が聞こえた気がした。だから、振り返りながら回避行動も取れなかった。

驚愕と呆然の刹那。大井の目の前に、大口を開けた金属獣の顎が在った。北上は無感動な表情のままで、大井を見下ろしたままだ。

咄嗟に踏み込んで来た少年提督が大井の腰を抱え、庇うように飛び退ってくれていなければ、大井の首から上は無くなっていた事だろう。

レ級の超反応は流石だった。北上の襲撃と、前へ出た少年提督の動きを眼で追っていたレ級は、すぐさま少女提督の前へと飛び退り、盾になるべく陣取っている。

 

 

 とにかく。周囲の状況は把握出来きているものの、大井自身の意識や感覚に、疲労した体が上手く反応してくれない。

「大井っ!!」少女提督に呼ばれ、はっとする。大井は、施術ベッドに片膝立ちになった北上から少し離れた位置で、少年提督の左腕で横抱きにされていた。

痛みは無い。怪我も無い。しかし、大井を庇う姿勢だった少年提督の右の肩口は、黒い提督服が破けて、大量に血が流れている。肩の肉を少し持っていかれた様だ。

大井が何かを言おうとした。だが同時に、施術ベッドの上で片膝立ちになっていた北上も動いた。艤装も召還せずにベッドの縁から飛び降りて、此方に迫ってくる。

いや、この距離だ。飛び道具など必要無い。今の北上の武器は、右腕を覆う金属獣と、その分厚い装甲だ。北上は大井達に踊りかかり、取っ組み合うつもりか。

 

 

 大井は艤装を召還しつつ、泣く様な声で北上の名前を呼んだ。

しかし疲労困憊の大井の身体は、自身の鋭い反応について来ない。動きが鈍い。

上手く立ち上がる事すら出来無い。その大井の代わりに、彼が、何か文言を唱えていた。

いや、今度は唱えるだけで無く、大井を守る為、更に前へ出る。

疾い。極端に体を前に倒した彼は、音も無く一瞬で北上との間合いを潰す。

 

 無表情なままの北上は、右腕の金属獣を真上から被せるように振り下ろした。

不用意に距離を詰めた彼を、そのままパックンチョと行こうとしたに違い無い。

しかし。出来なかった。彼が更に体勢を低く倒し、すっと横に身体の軸をずらしたのだ。

金属獣の大顎が、ガキィンッ!!、と空を噛んだ瞬間には、彼は北上の懐に入った。

密着距離。超クロスレンジだ。北上は、振り下ろした右腕を避けられ、身体が泳いでいる。

大き過ぎる隙だった。「失礼します」 彼は手袋をした右掌を、金属獣の横合いに添えた。

そして、左掌をそっと北上の喉首に添える。彼の両掌に一瞬、深紫の陣が浮かんだ。

 

 同時だった。金属獣が砕け散り、音も無く爆ぜて、光の粒となって霧散する。

右掌で編まれた術式は“解体”と “破砕”。左掌で編まれた術式は “沈黙化”。

僅かに貌を歪めた北上が、よろめく。その喉首には、複雑な黒紋様が首輪のように浮かんでいる。

 

 彼は、よろめき後ずさる北上を見据えながら、左手で右手袋と眼帯を外した。

彼の右眼は深海棲艦の姫達と同じく、深い暗紅を湛えて、くゆる鬼火を宿している。

右の掌には幾何学的な術紋がびっしりと刻まれており、回路図の様に深紫の微光が明滅していた。

僅か数秒。瞬く間の攻防を制した彼は、北上に向けて、すっと両腕を広げて微笑んで見せた。自身の小さな身体と隙を、北上へと曝す。

 

「アンタっ! 大丈夫なの!!」 

 

 少し離れたところで、レ級の背後から少女提督が叫んだ。

一方、切羽詰った声で言う少女提督とは打って変わり、レ級は静かに彼と北上を見ている。

彼ならば心配無いと、信頼しきっているからこその静観だろう。

現状、最も非力であるのは少女提督だ。今の北上が、彼女を狙わないとも限らない。

その危機に備えるレ級は、自分の役割をよく理解し、実践している。

レ級が居ることにより、彼女が安全であることを確認した彼は微笑んだ。

 

「掠り傷です。……これから行う施術中、モニターの数値確認をお願い出来ますか?」

 

「モニターって……! こんな時に何言ってんの!?」

 

 少女提督が唾を飛ばして言う。確かに、北上の身体には、まだプラグが差し込まれたままだ。

データ自体は、リアルタイムで管理されている状態である。霞む視界に頭を振り、大井もチラリと視線だけでモニターを見遣る。

北上の深海棲艦化は、すでに50%を超えている。それに、まだ上がっている。もうじき、60%だ。北上は、もう半分以上、北上では無い。

軋む体に力を込め、大井は床に手をついて何とか身体を起こす。

そんな大井と同じ様な様子で、よろめきから体勢を立て直した北上は、殺意を込めた眼で彼を睨む。そして、再び彼に飛び掛った。

北上は右腕の金属獣を破壊され、生きた装甲を召ぶ力を沈黙化されている。

それでも、その眼に灯る碧色は揺らぎは、更に深みを増していた。

彼は腕を広げたまま、動かない。まるで、北上を受け入れるように佇んでいる。

 

 少女提督の、危ない、という声が聞こえた気がした。

武装を纏えない北上は、彼を抱きすくめた。少なくとも、何とか立ち上がったばかりで、身動きすら出来なかった大井にはそう見えた。そんな訳が無かった。

北上はガッチリと彼を捕まえて、その黒い提督服を引き裂いた。「AAHHHhhhh……!」そして、顕わになった彼の左の首下へと、力任せに噛みついたのだ。

深海棲艦としての力を振るう北上に噛み付かれたりなんかしたら、無事では済まない。今の北上は、弱体化している訳では無いのだ。

猛獣を超える力を以って文字通り、北上は彼を喰い殺す気で歯を立てる。口の周りを真っ赤にして、彼の左の肩口と首下をグシャグシャにしていく。

ギチギチギチ、ミチミチ、ブチブチブチ、という嫌な音が、施術室に残響を残している。背筋が凍るような音だった。「北上さんっ! もう止めて!!」

叫ぶ大井は、上手く動かない身体を推して、召還した連装砲を向けようとした。「僕は大丈夫です……」だが、大井が北上に艤装を向けずとも良い様に、彼が大井に微笑んでくれた。

そこで気付く。彼の小さな体は、半分ほど深海棲艦化した北上に噛み付かれても、巌のようにビクともしていない。彼は、自身の肉体を強化しているのか。いや、そうとしか思えない。

 

「艤装を解いて、北上さんを呼んであげて下さい。今ならまだ、大井さんの声が届くはずです」

 

 こんな状況でも落ち着き払った声音で言いながら、彼は子供をあやすように、北上をそっと抱き締める。よしよしと宥めるように、北上の背をやさしく撫でた。

痛みも、苦しみも感じる素振りも見せない。いや、見せないだけで、穏やかな貌のままで、激痛に耐えているのだろうか。

 

「もう大丈夫です。……怯えることはありません。ただ、諦めないで下さい」 

 

 北上に優しく言いながら、彼は目許を緩めた。

その彼の体からは、深紫の微光が揺らぎ始めていた。

微光は捩れて昇り、縺れ合うようにして立ち上っていく。

窓の無い施術室に空気の流れが生まれ、うねる様にして微光の帯が廻る。

大井は、その眩さに腕で顔を庇いながら眼を細めた。デジャブだ。

初めて彼と出会った時も、彼は微光を纏っていた。

 

「あー、もうっ!! 

何をする気か知らないけど、北上を頼むわよ!! 大井は彼のフォローお願い!!」

 

 微光が漏れて、流れる施術室の中で、少女提督のヤケクソ気味な声が響いた。

彼女は腕で顔を庇いながらも、操作パネルの前に移動して、乱暴な手付きでコンソールを操作し始める。

それを確認した彼は、己に噛み付いて来ている北上を抱いたままで、更に文言を唱えた。巨大な術陣が、少年提督を中心にして、金属の床に刻まれていく。

奔る深紫の力線で描かれた術陣は、おぞましくも美しく、澄んだ霊光を灯しながら、北上では無く、少年提督の肉体を変質させ始める。思わず、眼を奪われた。

「恐ろしいぞ……(レ)」 場を見守っていたレ級も、眼を細めて見入っている。

 

 

 彼の肌が、白く、白く、透き通るように白くなっていく。

そして頭髪も、黒から白へと変わり始め、右眼に灯る暗紅の鬼火も、墨色へと濁る。

ボロボロだった彼の提督服に、真っ黒な炎が燃え移ったようだった。

雰囲気が一変する。彼が纏う深紫の微光にも影が濃く滲んで、仄暗い墨火に染まった。

艦娘達にも馴染みのある色だ。あれは、徒波を月暈に濡らした、小夜に沈む海界の色だ。

深海棲艦。姫。鬼。そんな言葉が、呆然とする大井の脳裏を過ぎる。

さすがに、北上も異常に気付いた様だ。飛び退ろうとしたに違い無い。

彼は微笑み、呆気なく北上を放した。しかし、今度は別のものが北上の動きを捉える。

 

 少女提督が悲鳴を上げた。大井も、危うく悲鳴を上げるところだった。

彼が、戦艦棲姫と同型の大型艤装獣を召還し、使役できることは知っている。

しかし、彼が呼び出したものは艤装獣では無かった。あれは、非実在に在るものだ。

煙霧にも似た墨色の微光が召び象ったのは、幾条にも連なった、錨を繋いだ鎖の束。

その鎖に絡まり、縛られたような姿で現れたのは、膨大な数の黒い髑髏だった。

ギャリギャリギャリギャリ……と、鎖の擦れる音が、鋭く響いた。

髑髏達は、彼の足元や背後から立ち昇り、伸びて這いずり、引き摺られて、溢れ出す。

幾条もの縛鎖に数珠繋ぎになった黒い髑髏達は、狂濤にも似た勢いで北上に迫る。

息せぬままに、北上の腕や脚や胴や喉首にしがみつき、雁字搦めにする。

「GGGUUUuuuuuuuuAAAHHHHHHhhhhhhhhh……!!!」 

北上は、もがく。髑髏達を振り払おうとする。

 

 其処に、彼が唱える経が、施術室に残響する。

墨色の煙霧が、証明に翳りを産む。暗がりが落ちる。

部屋を覆う金属が、彼の経に応える。信じられない。床が。液状になった。

それだけじゃない。これは、波だ。銀の波濤だ。遠く、近くから漣の音がする。

艦娘の大井が聞き間違う筈が無い。混乱しそうになる。そんな馬鹿な。

彼を囲う大術陣の内側が、液鋼の海になっていた。共に陣の上に居る大井は、言葉を失う。

足元に在り、踏みしめた“海”の感触は、普段の海と変わらない。室内なのに風が吹いた。

ぬくみの在る海風だ。暗がりに落ちた施術室の空間が、神話の領域へと変貌していく。

「何よ……これ……」と、モニター前で絶句している少女提督の声は、酷く遠くに聞こえた。

 

「全てはチャンス!(レ)」 

 

冷静なのは、彼とレ級だけだ。

北上が捉えられ、一応の脅威は去ったと判断したようだ。

レ級も琥珀色の微光を纏いつつ文言を唱え、彼の傍へと悠々と歩み寄って行く。

そんなレ級に視線を寄越した彼も、静かな笑みを浮かべてから、また北上へと向き直った。

 

彼のその視線の先。

無数の髑髏達が半裸に近い北上を捉えている姿は、まるでおどろおどろしいオブジェの様だ。

 

「北上さん、僕が分かりますか。……大井さんの声が聞こえますか?」

 

 微笑んだ彼は静かに言いながら、北上の前へ。鋼液の海を徒歩渡る。

彼が歩く度に、その足元の液鋼は波の飛沫を固め、芽吹き、人の掌ほどの花が無数に咲いた。

それは黒い水蓮だ。彼の歩く跡を追うように、黒鋼の蓮が連なり咲いていく。

まるで液体金属の海が、彼に祝等を送っているかのようだ。非現実的で、神秘的な光景だ。

黒瘴の髑髏達に拘束された北上の傍で彼は立ち止まり、大井を振り返った。

彼の、蒼みがかった昏い左眼と、暗紅の揺らぎを湛えた右眼が、大井を見詰めて居る。

 

 息を呑む。大井は、少し離れた場所で此方を見守る少女提督へと、一度視線を向ける。

さすがは“元帥”と言うべきか。少女提督は、もう冷静さを取り戻している様子だった。

北上の生体データの動きをチェックする為だろう。

彼女はモニターを一瞥してから、短くコンソールを操作し、軽く息をついていた。

沈着な貌で、大井と、彼と、そして、髑髏達に捕らえられている北上を順番に見遣る。

そして最後にもう一度、視線を大井へと寄越して、頷いて見せた。波と海風の音が聞こえる。

大井も頷きを返してから、彼を真っ直ぐに見詰めて、唇を引き結ぶ。

震える脚に力を込めて、北上の元へと延びる黒蓮の道を、疲労と消耗でふらつく足取りで歩く。

 

 正直、これから彼とレ級が何を行おうとしているのかなど、まるで分からない。

深海棲艦化の種を摘出するなどと彼は言っていた。大井には理解の及ばない範囲である。

しかし。今のこの状況では、彼を信じるしかない。彼の傍まで行くと、北上が此方を見た。

変わらず、その右眼には碧の灯が揺れている。

北上は無表情のままだ。大井を見ても、何の反応も示さない。

ただ、己を拘束している髑髏達から逃れるべく、身を捩り、低い呻りを零している。

加えて、深海棲艦化も更に進行している様だ。再び、北上の体を、碧の揺らぎが包み始めている。

揺らぎは鈍色の装甲として凝り固まり、北上の外見はチ級にも似た姿に変わろうとしていた。

もう、時間に猶予は無さそうだ。「私は、何をすれば……!」 ギリッと奥歯を噛んだ大井は、傍にいる彼に向き直る。

 

縋るような眼差しの大井に、彼は微笑みを返した。

「北上さんが自分自身を思い出せるよう、大井さんの声で、名を呼んで上げて下さい」

 

 そんな切羽詰った大井を落ち着かせるように、彼は白い髪を揺らしながら、ゆっくりと言う。

「深海棲艦化、現在70%を越えたわ! もうじき80%よ!」 モニターを睨む少女提督の報告が聞こえた。彼女の声には緊張が滲んでいるものの、取り乱したりはしていない。

彼は少女提督に頷いてから、深海棲艦化を続ける北上の前で両腕を広げた。その両掌の狭間、彼の胸の前に、墨色の微光が渦を巻く。

 

 彼の詠唱に寄り添うように、レ級も人の言葉では無い言語を唱える。レ級が紡ぐ詠唱は、北上の足元に琥珀色の術陣を編み上げる。

大井にだって、その術陣が北上の肉体に大きく干渉する為のものなのだという事は、直感で理解出来た。だが何故、レ級がそんな高度な施術式を扱えるのか。

そもそも、艦娘への肉体干渉の術式とは、“提督”資質が在る者達が扱う、“人間側”の力だ。それを、深海棲艦が扱えるものなのか。

一方、彼が使役する今の力は、施術室に金属海を模して創るなど、完全に生物の規を越えている。これは、恐らく“海”側の力だ。艦娘である大井には、そうとしか見えない。

朗々と文言を唱えるレ級は、慄然として震える大井の方へと顔を向けて、また、子供っぽくニカッと笑う。まるで、『心配すんな』とでも言う様だ。

 

 こんな小柄な姿の癖に、今はもの凄く頼もしく見える。波音がより深く重なり始めた。

その瞬間だった。足元に浮かぶ術陣の中に、更に無数の蓮の花が、次々に咲き誇り始めた。

黒い水蓮の花達は、互いを呼び合う様に力線を結び合い、新たな陣を幾重にも重ねていく。

髑髏達に捕らえられている北上の体が、ビクンと跳ねた。

 

 レ級が縫う術陣が明滅し、北上の肉体を覆う煙霧を払い、濯ぐ。

霧散する碧の揺らぎに代わり、レ級の言葉に伝い耀く、澄んだ薄琥珀が北上を包んだ。

深海棲艦化しつつあった北上の肉体から、鈍色の装甲が剥がれて、光の粒へと還って行く。

同時に、血色と生気が宿り始める。北上は身を強く捩りながら、苦しげに呻き始めた。

「70%……、60%……、深海棲艦化の、減退なんて……」 驚愕する少女提督の声が聞こえた。

大井も、北上のすぐ傍まで寄って、拘束されたまま呻く北上の頬に両手で触れる。北上の顔を覗き込む。名前を呼ぶ。帰ってきてと、声を掛ける。

声が震える。涙声になる。どうでも良い。北上に届けば良い。届け。届いて。帰ってきて。また私に笑いかけて。声を聞かせて。置いて行かないで。此処に居て。

 

 必死に呼びかける大井の隣に、詠唱を続ける少年提督が歩み寄る。

彼の両掌に宿る、墨火の渦。その熱の無い炎に召ばれ、身を捩る北上の体から、黒い靄のようなものが立ち上り始めた。

さっきまでの碧色とは全く違う。澱み燻る、黒い濁り火だった。濁り火は、次第に形を持ち始め、人型を象る。それは、黒い北上とでも言えば良いのか。

まるで着色も何もされていないマネキン人形の様だ。ただ、その眼だけが、赫灼として紅く燃えている。大井は一瞬だけ怯んだ。

彼が、大井に頷く。「北上さんの魂は、今は彼女が持っています。……彼女の内にも、呼び掛けてあげてください」

大井は、唾を飲んでから頷く。もう躊躇は無かった。左手で北上の頬に触れながら、黒い北上にも右手を伸ばす。躊躇は無かった。

黒い北上は、すぐに伸ばされた大井の右手を引っ掴んで来た。まるで黒い北上の居る場所に、大井を引き摺り込もうとするかのようだった。

熱を感じた。それなのに、酷く冷たくて、重い。熱した真砂の山に、腕を埋めたような感覚だった。

細かい感触はあるのに、掬うことが出来ず、掌から零れていく。実体の無い、魂という概念への接触だった。その影響か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 意味不明な激情が、大井の胸中に吹き荒れた。

涙が溢れてくる。黒い北上の内に潜むものが、大井に流れ込んでくる。

視界が白く塗り潰された。非実在の領域に、大井の意識が引きずり込まれた。

唐突に視界が開けた。大井は、何も無い、真っ黒な空間に居た。

ただ、遙か頭上に、眼が在った。縦に裂けた、大きな眼だ。此方をじっと見ている。

菩薩のように凪いだ眼差しだ。見下ろされている。

 

 次第に、暗がりの中から、何かが見えてくる。聞こえてくる。

場面が切り替わるように、大井の視界が目まぐるしく変わっていく。

これは、記憶と感情だ。苦痛。苦悩。海の底より呼ぶ。暗い声だ。垣間見る。

無数の艦娘達の死際。人格を破壊される間際。

遣い捨てられた彼女達が、冥漠の底へ沈んでいく瀬戸際。

黒い北上を象るのは、そんな彼女達の、怨嗟か、憎悪か、敵意か、害意か。

或いはその全てを、魂の原形質として“海が”与え、沈んだ者達を徴兵しているのか。

その力を以って、半轟沈した北上へと“海”が手を伸ばしたのだろうか。

大井には分からない。別に良い。今は。そんな事はどうでも良い。

 

 記憶と視界の共有の中へ。この無涯の果てに向けて、大井は北上の名を叫び呼ぶ。

北上の魂は、きっと此処に在る。呼ぶ。喉を焼き、なけなしの力を振り絞り、声を枯らす。

届けと願う。届け。届いて。届いて。届けて。どうか。誰か。すると、居た。

見覚えの在る姿だ。真っ暗闇に乱反射する、数多の艦娘達の絶望の光景。

その向こう側へと歩み行こうとする、北上の後ろ姿が見えた。

大井は駆け出す。全力で走る。途中でコケる。すぐに起き上がって、また走る。

追い掛けて、追い縋る。北上の名前を叫ぶ。北上はこっちを見ない。見ようとしない。

それでも大井は諦めない。前へ。前へ。暗鬱の中を走る。暗愁の中を駆ける。悲愁の中で叫び呼ぶ。

此処は、この世に非ず。此処は、意思と魂と記憶と感情の狭間だ。大井の想いの強さだって、ものを言う筈だ。

だから、大井は自分自身を信じる。必ず届く。もうすぐだ。北上の背中が近づいて来る。

追いつきそうだ。だが、北上を追う大井に、更に追い縋るものが現れた。

黒い北上達だ。湧いて来る。足元から。横合いから。背後から。息を切らす大井を捕まえに来る。迫ってくる。

怨嗟の塊である黒い北上達は、大井に縋りつく。大井を、深海棲艦へと変えようとする。

感情を塗り潰そうとする。人への憎悪を、大井へと塗りたくって来る。

でも、それがどうしたという感じだった。邪魔なのよ。退いてくれない? 魚雷撃つわよ?

ランナーズハイにも似た強気のテンションの大井は、意地と精神力にものを言わせて、黒い北上達を振り切る。

力を振り絞って北上の名を呼んだ。今度こそ届いた。

ちょっと驚いた様な貌をした北上が此方を振り返った。

大井は、そんな北上を押し倒すように抱き締める。もう放さない。放すもんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……もう大丈夫です」

 

 彼に名を呼ばれて、唐突に意識が戻って来た。五感の全てが還ってくる。

夢から醒めたような感覚だった。顔を上げると、黒い髑髏の群れは消えていた。

金属の海も、蜃気楼の様に消え失せている。此処にあるのは、ただの施術室だった。

その代わり。煙霧のように揺らぐ黒い北上は、未だに其処に居て、大井を見下ろしている。

宙に佇み、黙したままのその黒い北上に、今度はひっそりと微笑んだ彼が右手を差し出す。

黒い北上は少しの間、彼をじっと見詰めてから、そっと紋様が刻まれた彼の手を取った。

ほんの少しの静寂の後。その体の輪郭を暈しながら、黒い北上は、彼が纏う墨色の揺らぎへと融けていく。

彼女はもしかしたら、瞋恚の念で象られた、海からの彼への使者だったのだろうか。

彼は文言を唱えながら、人類に差し向けられた復讐心や悪意を飲み干すかのようだった。

 

 ぼんやりとそんな事を思っていた所為だろう。

自分がへたり込んで居る事に気付くのに、数秒掛かった。

ぎょっとした。心臓が止まるかと思った。安らかな貌をした北上が、腕の中に居る。

大井は、北上を横抱きにして、しっかりと抱きとめている姿勢だった。

北上の顔色も良く、健やかな寝息を立てている。怪我も無い。傷も消えている。

 

 大井は、体全体から力が抜けるのを感じた。

駄目だ。緊張が切れてしまった。消耗していた所為もあって、一気に来た。

何と言うか、堰き止めていたものがドバーっと来て、もう顔中、洟水と涙塗れになった。

嗚咽で呼吸が上手く出来ないくらいだった。涙で前が見えない。

ただただ、手の中、腕の中にある愛しいぬくもりに、みっともなく泣き声を上げてしまう。

そんな大井の隣で、施術を終えたレ級も嬉しそうに「シシシシシッ」と笑っている。

この数十分は、本当に無茶苦茶な時間だった。

レ級が北上の肉体変質を塑行させ、深海棲艦化を防ぐ。

続いて彼が、北上の魂に植え込まれた黒い北上を……いや、深海棲艦化の種を取り除く。

そして最後に。大井が、北上の魂の内へと呼びかけて、記憶や人格を取り戻したのだ。

 

 

「信じられない、4%、3%……、0……、嘘でしょ……」

施術室のモニターを見詰めて居た少女提督は、驚愕の表情を浮かべている。

でも、その声は半泣きで震えていた。明らかに、安堵と喜びが滲んでいた。

 

 黒い北上を鋳潰し、身の内へと鋳込んだ彼は、大井に向き直り微笑んだ。

北上に繋がれたプラグからは、生体データが出力されたままだが、もう必要無い。

そう判断したのだろう。大井のすぐ傍まで歩み寄った彼は、北上の体からプラグを優しく外していく。

 

 その途中だった。「げほっ……!」と、彼が咳き込み、血の塊を吐き出した。

胸を右手で押さえ、蹲る。右眼からも血が流れ、彼の右頬に紅の流線が引いている。

苦しげに呼吸を乱す彼の体からも、墨火の揺らぎが霧散していく。

白過ぎる肌に、血色が戻ってくる。変身していた彼も、元の姿に戻ろうとしているのだ。

だが、泰然自若とした様子の彼も、流石に今回は負担が大きかった様だ。

北上を取り戻す為、巨大な奇跡と言う造形を象り、彼は人としての魂を全て賭けた。

その代償として、とうとう後戻りできない場所へと、彼が脚を踏み入れたからだろうか。

彼の身体に血色が戻りつつあるものの、白い頭髪はそのままだ。戻っていない。

「おぉっ!? しっかりしとき!(レ)」 もう一度血の塊を吐き出した彼に、レ級が駆け寄る。

少女提督も、彼に駆け寄ろうとした。しかし、それより先に、彼は口許の血を腕で拭いながら、すぐに立ち上がる。

「いえ、大丈夫ですよ。慣れない術式を編んだので、少々疲れただけです」

彼のその微笑は、少女提督や大井、レ級を心配させない為だろう。

 

 彼は、大井の腕の中に眠る、北上を覗き込んだ。そして、大井を見た。

歳相応の子供っぽさの在る笑顔を浮かべていて、大井達が此処へ来て、初めて見る表情だった。

感謝と安堵で溢れる胸が、強く締め付けられた。初めて感じる感覚だった。息が苦しい。頭の芯が痺れるような感じだった。

きっと、疲れているからだ。今は、正常じゃない。涙と洟水で顔なんてぐちゃぐちゃだし。何故か、そんな自分を見られたくないと思う。

きっと疲れてるんだ。色々在りすぎて、本当に参ってる。ホッとし過ぎて力が入らない。なのに、体温が上がったような気がする。

「大井さんの御蔭で、北上さんを無事に迎えることが出来ました。有り難う御座います」

その真っ直ぐで優しい声音は、大井の心の中に深く響いた。多分、ずっと消えない場所に響いて、残るような気がした。

熱い気持ちが溢れてくる。顔が熱くなってくる。大井も礼を述べねばと思った。ズビビビーーッと洟を啜る。

『ありがとうございます』と言おうとしたら、また洟水と嗚咽で、声と言葉が潰れてしまう。

おかげで、ヴゥゥォェエエ……!、みたいな声しか出なかった。それでも、伝わったんだと思う。

彼は微笑んだままで、ゆっくりと頷いてくれた。大井は北上を抱いたまま、歩み寄って来てくれた彼に額を預けて、暫く泣き続けた。

 











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短編  2.5





 かなりの規模で行われた今回の作戦が終わってすぐ、北上は少女提督の手から離れることになった。

深海棲艦化の影響を懸念しての事だろう。少女提督は技術部門でこそ力を発揮する出来るものの、あくまでそれは“物質”への干渉に留まる。

精神施術や召還施術など、術式を用いた生命科学の分野である“非物質”への干渉では、適正不足により少女提督は苦手としている。少年提督の方が、より造詣が深い。

再び北上の肉体に変質が訪れた時でも、彼ならば対処出来るだろうという事で、少女提督の下から、少年提督の下へと北上は移ったのだ。とは言え、実生活に大きな変化は無い。

同じ鎮守府に配属されている訳だし、周りの状況も同じだ。変わらない、という平穏が在る。艦娘達の錬度の高さと、彼女達を運用する、此処の提督達の敏腕の御蔭だろう。

特に、此処の提督達はそれを誇らない。作戦成功への貢献と名誉を、己の手柄として身を飾ったりしない。全員生還の喜びと共に、艦娘達と分かち合う。

武勲を追わない。艦娘第一であり、終わり良ければ全て良し。少年提督も野獣提督も、それから少女提督も、こういうスタンスだ。

三人居る指揮官が皆そんな感じだから、ピリピリした雰囲気になる事はかなり少ない方だと思う。負傷者の傷も癒えた鎮守府には、穏やかで緩い雰囲気が満ちている。

今日は演習も無かった筈だし、遠征に出ている艦隊も無い。作戦が終わってすぐだからだろう、出撃任務も無いし、今日の執務も片付けてしまった。

非番では無い艦娘達も、そろそろ訓練を終えて帰ってくるだろう。夜には作戦成功を祝う打ち上げが在るくらいで、急ぎの仕事は無い。

 

 ほんと、此処の鎮守府は騒ぎごとが好きだよねー、と、ぼんやり思う。

まだ昼前の時間だが、早めの昼食を済ませた北上は、デザートを食べに間宮に足を運んでいた。間宮特製の羊羹を竹楊枝で切り分けて、一口。思わず溜息が漏れた。

高級な茶菓子屋風である間宮の店先には、風流な感じの長椅子が並んでおり、茣蓙と座布団が敷かれている。日差し避けには、高価そうな日傘が立てられて居る。

緩く吹き抜けて行く暖かな風には、遠く細かい波の音が微かに響いている。涼やかで、落ち着ける音だった。今日は空も高く、仄かな潮の香りも心地よい。

落ち着いた日影の席で甘味を味わいつつ、今度は熱いお茶を啜る。五臓六腑に染み渡るという奴だ。再び溜息が漏れる。心地良すぎて、欠伸も一緒に出そうだ。

はーーー……やっぱり美味しい……。程よい甘みを楽しみながら、北上は隣に視線を向ける。隣では、少年提督が同じく羊羹を行儀良く食べて、お茶を啜っていた。

 

 黒い提督服を着込んでいる彼の髪の毛は、色が抜けたみたいに真っ白である。右眼を黒眼帯で、右手を黒手袋で隠している。

どちらも拘束具めいていて窮屈そうではあるものの、本人は全然気にした風でも無い。仕種の一つ一つが上品というより落ち着き過ぎていて、全然子供っぽく無い。

こんな事を言うと失礼なのだろうが、何と言うか、年寄りみたいな印象を受ける。元気が無いという訳ではないのだが、物静か過ぎる。

かと思えば、今のように此方の視線に気付いて、ふっと微笑んだりすると、落ち着きの中にも無邪気な愛らしさが在る。…………いやぁ、不意打ちだわ。

 

「北上さんの提案どおり、早めにお昼を取って正解でした。

 空いている時間に、こうしてゆっくり出来るのは中々に贅沢ですね」

 

「そだねー。お昼時の時間だと、ほんとに此処って人多いもんねー」

 

 北上は言いながら、そっと彼から視線を逸らす。

日傘が落とす優しい影の下で、体温がちょっと上がった気がする。

今日は、北上が彼の秘書艦だった。

緊張はしていたものの、時間が過ぎてしまえば呆気ない。

ただ。傍に居て感じたのは、その無私と無垢さだった。

 

 

 好きな食べ物を何かと聞いても、特に好みはありませんと、彼は答えた。

好きな女性のタイプはと聞いても、僕には、まだ良く分かりませんと、彼は答えた。

何かしたいことは無いかと聞いても、今は思い付かないですねと、彼は答えた。

そんな味気無い返答しか返って来ないものの、彼は常に微笑を湛えていた。

世俗的な趣味を持たず、誰かを特別に想うことも無く、ぶれない博愛を貫いている。

極端に言えば、彼は皆で“よかったね”を共有しようする。だからだろうか。

彼自身、艦娘達との壁を作ろうとしている訳でも無いのは分かるのだが、他所他所しい。

そんな風に北上が感じるのは、北上自身が少女提督とは友達同然に付き合っていた所為か。

彼の下に就くことになって、彼が召んだ艦娘達との付き合いも増えた。

彼女達に彼の話しを聞けば「以前はもっと、私達と距離が在った」と口を揃える。

今でも十分、距離あるんじゃない? なんて思ったりもしていた。

だから、さっきは本当に不意打ちだった。

 

 北上は多分、勘違いをしていた。彼は別に、艦娘達に他所他所しくしているのでは無い。単に他者との距離感が独特なのだろう。彼は、少しだけ北上の方へと腰をずらした。

こうやって、突然来るのは駄目だ。いきなりグッと距離を詰めて来られるとドキリとする。

不知火や金剛達が、彼に惹かれてしまうのも何だか理解出来てしまう気がした。

 

 そんな北上よりももっと重症なのは、長椅子に腰掛けた北上を挟む形で、少年提督とは反対隣に座っている大井の方だろう。さっきから顔が赤い。

今日は非番であった大井とは昼食前に連絡を取り合い、昼の時間を一緒に過ごそうということで先程合流したのだ。ただ、さっきから一言も喋って居ない。

どうも落ち着かない様子の大井は、食堂でも口数が少なかった。北上とはそれなりに他愛の無い話しはしたものの、彼とは全然喋らなかったのだ。

寧ろ、彼とは視線すら合わせようとしない。その癖、チラッと彼の様子を窺うように視線を向けては、すぐに逸らしたりしていた。明らかに様子がおかしい。

ただ、大井は別に元気が無いという訳でも無いし、顔色も良い。だからだろう。彼は別に不審には思わなかったようで、特に言及することも無かった。

御蔭で、余計に変な感じだった。ちょっと思考のピントのずれた天然気味な彼の事だ。北上と大井を見て、仲の良い姉妹艦だなぁなんて思っていただけに違い無い。

食堂で昼食を済ませて、食後の一服に間宮に訪れて今に到るのに、もともと口数の少ない彼と、借りて来た猫みたいに大人しい大井の所為で何だか居心地が悪い。

 

 

 

「ねぇ、大井っち……。何か話しでもしなよ。何でそんなカチコチになってんのさ?」

羊羹をまた一切れ口に運んでから、北上は隣に腰掛けて居る大井へと、そっと耳打ちをした。

 

「べ、別に……緊張なんてしてないですよ? 私はいつも通りですから……」

ビクッと肩を震わせた大井は、驚いたような貌で北上を見てから、すぐに耳打ちをし返して来た。

 

 声を若干震わせる大井は、明らかにいつも通りじゃない。理由は、まぁ、その……、なんとなく分かる。

「ほんとぉ?(疑いの眼差し)」と、北上は大井を見詰める。すぐに大井は唇を噛んで俯いた。

ああー。これは……。これはキマシタねー。大井っちにも。球磨姉さんや多摩姉さんが大騒ぎするワケだわー。

北上は肩を手に持っていた湯吞みを置いてから、大井に肩を組んだ。羊羹を乗せた小皿を落としそうになった大井は焦った貌をしたが、すぐに大人しくなった。

「任せときなよ、大井っち。私達ってさぁ、姉妹であり大親友じゃん? 応援するよ」 むふふん、と笑みを浮かべた北上は、彼から見えないように親指を立て見せる。

「えぇ、そんな……、私はただ、感謝の気持ちを伝えたい、だけで……その、えぇと……」と、弾かれた様に顔を上げた大井は、しかし、またすぐにモゴモゴと言い澱んで俯いた。

 

「まどろっこしいなぁ、もう。……ねぇ提督。

大井っちがさぁ、提督が食べてるその羊羹、一口食べてみたいんだって」

 

北上は大井と肩を組んだまま言って、顔だけ提督に向ける。

「ぅえっ!?」と、大井が素っ頓狂な声を上げているが、こういうのは勢いが大事だ。

 

「ついでにさぁ、私とも一口交換しない? せっかく三人とも違う味なんだしさー」

大井と組んだ肩を解いて、北上は自分の持っていた小皿から、羊羹を一口大に切り分ける。

それを竹楊枝で刺してから、彼に向けて差し出した。所謂、『はい、あーん♪』の構えだ。

「ちょっ……!!!」と、大井が立ち上がったが、彼の方は快く頷いてくれた。

ちなみに、彼が食べている羊羹は抹茶羊羹。北上は塩羊羹で、大井は柚子羊羹である。

 

「えぇ、構いませんよ。……では、頂きますね」

無邪気とも静謐とも言えない微笑を浮かべた彼は、何の躊躇いも見せなかった。北上の持つ竹楊枝に唇をそっと寄せて、上品な仕種で塩羊羹を銜んだ。

 

 そう言えば、男性にこんな事をするのは初めてだ。勢いに任せたとは言え、流石に北上も緊張した。胸がドキドキしている。震えを誤魔化すようにして手を引っ込めた。

彼は美味しそうに羊羹を咀嚼してから、チロリと唇を舐めて湿らせた。艶美な仕種だった。濡れた彼の唇を、北上と大井は思わず見詰めてしまう。

そんな二人の視線には気付かないまま、彼は手にした小皿の抹茶羊羹を、竹楊枝で切り分けた。そして、竹楊枝で刺した抹茶羊羹を、今度は北上に差し出した。

「ご馳走様です。……では、僕のもどうぞ」左手で竹楊枝を持ち、右手を下の方に添えるような姿勢で、彼は北上に微笑む。彼は徹底的にいつも通りだ。

動揺なんて全然してない。……なんでそんな自然体なんだろう。なんか悔しい。ドキドキしてる自分が、何だか馬鹿みたいだ。

 

 北上はちょっとだけムッとした貌をしてから、出来るだけ彼の方を見ないようにして、口を開けて竹楊枝にパクついた。もぐもぐと咀嚼しても、何だか味が良く分からなかった。

緊張している自分に、まだムカついた。でも、これで良い。さぁ、次は大井の番だ。「んー……、次に来た時はコレ頼もうかなー」なんて言いつつ、北上は立ち上がる。

それから、彼の隣に押しやるようにして、大井の反対の隣へと回り込んだ。大井は焦っているようだが、彼の方はもう竹楊枝に抹茶羊羹を刺しているし、準備万端だ。

「大井っち、ガンバ」 大井の耳元で小声で言う。赤い顔をした大井の方は、恨めしそうに北上を上目遣いで見詰めて来た。

「これじゃまるで、私が凄く食い意地張ってるみたいじゃないですか……」小声で言ってくる大井に、北上は知らん振りしてお茶を啜る。

正直なところ、ちょっと大井の反応を楽しんでいる部分も在るので、北上はそれ以上何も言わずに、ニヤニヤと笑うに留まる。

 

「あの、私は何も言ってなくてでしゅね……。

 そのまだお礼も、ちゃんと伝えていないままでしたし、えぇと、だから……」

 

 彼のすぐ隣に腰掛けた北上は、何だか言いのがれみたな事を捲くし立てつつも、彼と眼を合わせない。彼方此方に視線を飛ばしながら、もにょもにょと言葉を濁す。

上手く言葉を言えていない大井に対しても、彼はそっと抹茶羊羹を竹楊枝で刺して、微笑んで居た。「どうぞ」と言う彼には、迷いは無い。

何と言うか、もう食べざるを得ない状況だ。大井は怯むみたいに顔を少し引いたが、すぐに覚悟を決めたようだ。居住まいを正して背筋を伸ばしたあたり、気合が入っている。

 

 ゴクリと唾を飲み込んで眼を閉じて、あ、あーん……、と控えめに口を開ける。

何だか、ちょっとえっちぃ感じだった。大井が、竹楊枝に刺さる羊羹を食べようとした時。

パシャリ☆。音がして、フラッシュが一度光った。続いて、何かが急接近してきた。大井にほっぺをくっつける勢いだ。

飛び込んで来たソイツは、大井が食べようとしていた羊羹に横からパクついて、シシシシっと笑った。レ級だった。

黒いフード付きパーカーに黒のTシャツ、黒のホットパンツ姿だ。黒のフードを被っているので、その鮮やかな銀髪が映えていた。

ただ、そんな雰囲気には似つかわしく無い、難しそうな厚手の学術書を三冊程、小脇に抱えている。底抜けに明るい笑顔とも、かなりちぐはぐな感じだ。

 

 ただ、せっかく彼に『あーん』をして貰うチャンスを失ったからだろう。

物凄く渋い貌になった大井は、心の底から美味しそうにもむもむと口を動かしているレ級を、無念そうに凝視している。あーぁ、良いところで邪魔が入ったなぁ。ちぇ……。

残念そうに唇を尖らせた北上は、フラッシュがした方へと視線を向けた。すると、愉快そうな顔をした野獣と眼が合った。手には携帯端末のカメラを構えている。

というか、結構近い距離に居る。この近い間合いまで近づいて来るのに、レ級と二人して気配でも消していたんだろう。

気配を消すのが上手い奴に、碌な奴は居ない。そんな、何処かで聞いた事のある言葉が頭を過ぎる。実際そうだと思った。

 

「楽しそうだねー、俺らも混ぜてくれや!(お邪魔虫)」

 

 完全に面白がってる様子の野獣は、北上達が腰掛けた長椅子の隣へと無遠慮に腰掛ける。大井が嫌そうな貌をするものの、彼はやはり快く頷いた。

レ級の方はすでに彼の隣に座っており、「ウィスキー貰えますか?(レ)」と傍を通りかかった間宮に注文していた。抱えていた本は、丁寧に長椅子に揃えて置いてある。

と言うか、レ級は飲めるのだろうか。流石にそういうのは鳳翔の店で頼むべきであって、間宮の方も困ったような笑顔を浮かべている。

 

「じゃあ、取り合えず俺もビールで(便乗)」

 

「いやいや、確かに間宮さんのトコは軽食もいけるけどさ。

此処でお酒呑んでくのはどうかと思うよ? まだ昼前だし……」

 

 悪ノリを始める野獣に、北上は溜息混じりに言いながら席を立ち、彼の傍に移動する。そして、残った塩羊羹を切り分けて、レ級に食べさせてやった。

眼を輝かせて羊羹にパクつくレ級の表情は無邪気なもので、これが深海棲艦の上位体だなんてちょっと信じられないくらいだ。だが、事実である。

好奇心も旺盛でありながらも、何かを学び、その本質を理解する才幹が元よりあったのだろう。賢い子だ。北上は、フードを被ったレ級の頭を撫でてやる。

 

「そう言えば、まだキミにはちゃんとお礼言ってなかったねー。

 ……ホント、ありがとね。御蔭でこうして、また大井っちとお茶したり出来てるし」

 

 感謝してるよー。そう言葉を続けて、北上はペコリと頭を下げた。

いつもの間延びした感じの声音だが、それでも、眼差しに篭った真摯さを感じたのだろう。

レ級はフードを押さえながら、また嬉しそうにシシシシと笑いながら頷いた。

その笑顔に釣られて、北上も小さく笑う。

 

 頑強な肉体と、脅威的な力を秘めた艤装、それを扱いこなす為の召還術など。あらゆる戦闘力に特化して生まれてきたのであろうレ級は、未だ成長の最中だ。

この鎮守府に居る雷が学術に励み、提督達が扱う召還術や、それに類する術式、生命科学の分野について、非常に詳しいという事は知っている。

聞けば、深海棲艦化状態を塑行させる理論を構築したのは、雷だったそうだ。効果範囲については肉体面のみに留まるものの、偉大な業績なのは間違い無い。

ただ、艦娘である雷は、術式を編む事は出来ても、その効果を顕現させる事が出来ない。だから代わりに、レ級が行使したのだ。北上の肉体を、艦娘へと還してくれた。

“海”に掌握されかけた北上の精神、というか、魂については、彼が持つ独自の術式でサルベージしくれた。そして、記憶や人格を呼び戻してくれたのが大井だった。

長椅子に腰掛けて尻をボリボリ掻いている野獣も、北上の容態を隠すために動いてくれたそうだし、色んなものに助けられた。ふと視線をずらすと、彼と眼が合う。

彼は優しげに眼を細めていた。北上も笑みを返した。その蒼昏い左の瞳を数瞬、見詰める。くいくいと。袖を引かれたのはその時だ。レ級が此方を見上げていた。

 

 

「さっきは何してたんさ?(レ)」

 

「んー? 何って、別に何にもしてないよ?

 ただ、提督が食べてる抹茶羊羹を一口頂戴って、大井っちが言い出してさ」

 

「言ってませんよ!? ちょっと北上さん、ホントに……!」

 

「何だお前ら、そういう、……関係だったのか?(上辺だけ深刻そうな声)」

 

 慌てる大井の言葉に被せたのは、声だけ真面目で貌は半笑いの野獣だった。

大井達から少し離れた位置に腰掛けていた野獣は、携帯端末を軽く操作して、此方に向けた。

端末のディスプレイには、抹茶羊羹を彼に『あーん♪』して貰う大井の姿が映し出されている。

超高精彩カメラで撮影されている大井の貌は少々赤く、何だか甘酸っぱい青春の一ページの様だ。

「良く撮れてるじゃーん!(いじめっ子)」と野獣がゴキゲンな様子で言うと、「テメェ……っ!!」と、めっちゃ低い声で言いながら大井が立ち上がった。

相当ドスの効いたおっかない声だったから、レ級が怯えるみたいに体を跳ねさせていた。ただ野獣は全く怯まない。半笑いを崩さないままで、ひらひらと手を振って見せた。

 

「まま、そう、怒んないでよ☆

 OOIっちにもこの写真送ってあげるから(優しさ)」

 

「いや、あの良いです良いです!(喰い気味)

 それより、大井っちって呼ぶの止めてくれませんか!?

 何か凄く馴れ馴れしくて腹立たしいんですけど!」

 

「ホラホラ、遠慮すんなッテ! 

提督用の端末なら、艦娘の持つ携帯端末にもある程度アクセス出来るんだからさ!

よぉし! じゃあついでに、俺のブロマイド画像もぶち込んでやるぜ!」

 

「やめろぉ!(怒声) ホントやめろぉ!!(悲鳴)」

 

「何だよOOIっち、嬉しそうじゃねぇかよ!

 どうせ画像アルバムはKTKM一色なんだろ? 其処に俺も加わってやるからさ!

 一緒に居てやるよ! 一人ぼっちは、……寂しいもんな(魔法少女並感)」

 

「何一人で勝手にしんみりしてるんですか!!?

一人じゃないんですけど!! 別に孤独でも何でも無いんで!!

 と言うか、大井っちって呼ぶなっつってんじゃねーかよ!(全ギレ)」

 

「おっ、そうだな!(照れんな照れんなみたいな笑顔)

 先っちょだけ、先っぽだけだから安心!!(意味不明)

よっしゃ、画像データ行くゾォォォオーーーーッッ!!!(強制送信)」

 

 掛け声と共に高速で携帯端末を操作し始めた野獣を見て、危険を感じたのだろう。大井も慌てて携帯端末を取り出した。

きっと電源を落としてデータ受信というか、野獣の遠隔操作を妨害しようとしたに違い無い。だが、野獣と言う男はこういう時に抜け目無い。

「あ、あれ……!? 操作が効かない!?」 大井はディスプレイに触れて操作しようとするだけでなく、物理ボタンででも電源を落とそうとしている。

しかし、それらの操作が一切受け付けられていない様子だ。チラッと見えた大井の端末ディスプレイには、『操作不能』という無慈悲過ぎる文字が浮かんでいた。

焦りまくった貌でガチャガチャと端末を弄り倒す大井の様子は、正直鬼気迫るものがあった。一方で、少年提督の方は、あの二人の様子が談笑の類いにでも見えるのだろうか。

にこにこと微笑んで、二人の遣り取りを見守っている。止めなくても大丈夫なのかな……。いやまぁ、別にデータの送受信だけだし、大丈夫でしょ?(希望的観測)

北上は小柄のレ級を膝の上に座らせて、よしよしと撫でてやりながら、とりあえず静観する事にした。だが、雲行きが怪しくなったのはその直後だった。

 

「あっ……(やっちまった、みたいな貌)」

ノリノリで携帯端末を操作していた野獣の表情が、突然強張った。手も止まっている。

 

「ちょっとォ!!?

 『あっ……』って何!? 『あっ……』って何よ、もォ!!」

 

異変に気付いた大井が、泣きそうな声で叫ぶ。

 

「何か大井の端末データの消去が始まっちゃったゾ……(思わぬ事態)」

 

「んんんんんんんんんんんんんんんんーーーーーー!!!???」

 

大井が奇声を上げながら端末のディスプレイを覗き込んだ。

其処には、『全データ消去中』の文字。

 

「ちょっと操作ミスしたなぁ……(冷静な分析)」

 

 野獣がすっとぼけた様な真面目な貌でクッソ悠長な事を言っている間にも、大井の持つ携帯端末の中のデータが消えていく。

ディスプレイには、消去シーケンスが行われているデータ名などが、かなり高速で次々に表示されては消えていく。

 

「何てことしてくれるんですか!!? もう許せるぞオイ!!(涙声)」

 

「誰にだってミスはあるダルォ!!

 ほーら消えたッ!! お前のデータ全部消えたよッ!!(SYUZU)」

 

二人が阿呆な事を言い合う中、とうとう『☆北上さんフォルダ☆』なるアルバムファイルの消去が始まった。

 

「ちょぉおおおおーーーーーー!!!!????

 行かないでぇぇぇえええええええええええ―――――――ッ!!!!

きたかみさぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ――――――!!!!」

 

 大井は号泣しながら携帯端末を抱き締めて、その場に崩れ落ちる。

まるで本当に北上が居なくなってしまい、その遺品に縋り付いているみたいな感じだった。

その光景には、北上の膝の上に乗っていたレ級も、『どんだけー……(どん引き)』みたいな貌だった。

大井の絶叫を聞いて、何事かと飛んで来た間宮も、『えぇ……(困惑)』と言った感じで、遠巻きに見ている。

気の毒そうな貌をした少年提督は、大井に何か声を掛けようとしていたが、何かに気付いたようだ。ほっとしたように軽く息をついていた。

その理由は、すぐに分かった。ぷっぷぺー♪ という軽い音が、大井の携帯端末から聞こえた。北上も軽く笑ってしまった。

「へぅえ……?」と、洟水と涙に顔を濡らした大井も、手元のディスプレイに視線を落とした。そこには、『ドッキリ大成功』という、ポップな文字が躍っていた。

大井は暫くの間、その画面を呆然と見詰めていた。理解が追いついてきたのだろう。大井は顔も拭かずに野獣を見上げる。

 

「成し遂げたぜ。(溢れる達成感)」

野獣は、ニッと白い歯を見せて、大井にサムズアップして見せる。ついでに、携帯端末をポチポチと操作した。すると、

 

『ちょぉおおおおーーーーーー!!!!????

 行かないでぇぇぇえええええええええええ―――――――ッ!!!!

きたかみさぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ――――――!!!!』

 

という、録音したのであろう大井の声が、大音量で再生される。

崩れ落ちていた大井が、無造作に艤装を召還した。

 

「スゥゥゥ……、フー……、スゥゥウゥ、フゥぅー……、

アー撃チソ……、はぁ、はぁ、アー撃チソ撃チソ……ハァァ~~……(瀬戸際の葛藤)」

 

 艦娘は、人間には攻撃出来ないというルール。それを今、意思の力で捻じ曲げようとしている大井からは、ドス黒いオーラ的なものが立ち上っていた。

このままだと大井っちが、艦娘として次のステージに昇っちゃう。もう良いよ、ヤバイヤバイ……。北上が大井を宥めようとした時だった。

 

 

「騒がしいと思ったら、こんな所に居らしたんですね」

 

 低く、艶の在る声がした。彼女は、弓道着を模した蒼の艦娘装束を纏って居た。

冷え冷えとした鋭い視線や、冷気そのものみたいな声音も凛としていて風格が在る。

そのクールビューティーさに、周りの空気というか、雰囲気まで引き締まった様な感じだ。

一航戦の加賀は、北上やレ級、大井に目礼をしてから、少年提督に敬礼をした。

流石にこの空気の中では、大井の興奮状態も続かなかったようだ。

一つ咳払いをした大井は艤装の召還を解いて居住まいを正し、加賀に敬礼を返す。

北上もそれに倣い、彼も軽く礼を返した。野獣だけは鼻クソをホジっていた。

 

「……随分余裕の様子だけれど、執務の方はどんな状況?

 先程、私が昼休憩を頂いた時には、まだ机に山積みだったと記憶しているのですが」

 

 加賀の口振りからすると、どうやら今日の野獣の秘書艦は加賀だったようだ。

でも、なんだろう……。この冷たい雰囲気を相手に叩き込む冷凍光線みたいな声音。

思わず背筋が伸びそうになる。それに、だ。あの、左手薬指に光る指輪。ケッコン指輪だ。

加賀と野獣がケッコンしているのは知っているが、今の空気だと違和感しか無い。

寧ろケッコンしてる癖に、こんなに関係が冷え込んでいるのかと困惑する。

 

「あんなもん……、俺が本気を出したら、パパパっとやって、終わりッ!!

 もう全部終わったから、お前もう寮に帰って良いよ(出来る男先輩)」

 

「以前、その言葉を鵜呑みにした時雨を帰して、一人で酒盛りして酔い潰れたのは誰でしょうか?

次の日の秘書艦である私が、死ぬ思いで残された執務を片付けたのは、今でもはっきりと覚えていますが?」

 

 眼をすぅっ、と細めた加賀は、威圧するように言う。物凄い迫力だった。

ただ、そんな加賀を宥めるべく、「まぁまぁ……」と、少年提督が微笑みを浮かべつつ言う。

長椅子に腰掛けたままの彼は、残っている抹茶羊羹を切り分けながら、野獣を見た。

 

「先輩の言っている事は本当です。安心して下さい。

実は先程、相談したい事があって先輩の執務室にお邪魔させて頂いたんです。

執務を全て終えられていたのを、その時に確認していますから」

 

「そ、そうでしたか……。貴方がそう仰るのでしたら、信じましょう」

 

加賀はちょっとだけ恥ずかしそうに言いながら、表情を隠す様にそっぽを向いた。

 

「KGさぁん? 何か俺にも言う事あるダルルォ?(ねっとり)」

くつろぐように足を悠然と組みながら、ニヤニヤ笑いを浮かべた野獣は下目遣いだった。

 

 北上は苦笑を浮かべてしまう。う~ん、ゲスゥい……。とは思うものの、黙ったままでレ級の頭を撫でている北上は日和見を決め込む。

同じく野獣の方を見る大井は、嫌悪感を隠そうともしないしかめっ面だった。眉間に皺を寄せた加賀が、聞こえよがしに舌打ちをした。

「あ、おい、お前さ、今舌打ちしたよな?」 という野獣への言葉に答える代わりに、加賀は、今度は二回舌打ちを返した。

そんな喧嘩腰の二人を仲裁しようとしたのかもしれない。「加賀さんも如何ですか? 間宮さんの新作だそうです」 彼は、手にした竹楊枝で羊羹を刺して、加賀へと差し出す。

その瞬間だった。「えっ!!?」っと、 ビキビキと表情筋を強張らせて居た加賀の貌が、パァっと明るくなり、綻ぶ寸前まで緩むのを北上は見逃さなかった。

さっきまでのクールビューティーは何処へやら。「頂いて、……良いんですか?」ニヤけるのを必死に堪えようとしている加賀は、唾を飲み込んで彼に聞いた。

「嬉しそうになっちゃってーww(レ)」と、 命知らずなレ級が、シシシシと笑いながら、楽しそう言う。加賀も、一つ咳払いをして顔を引き締めた。

 

「では、在り難く頂きます……」

 

 加賀は彼の前で軽く頭を下げてから、『はい、あーん』をしてもらう為に、膝を曲げて体勢を沈める。

弓道場に居る時みたいな神妙な貌をしているのに、加賀の瞳は期待に揺れて潤んでいた。唇を舐めて湿らせた加賀は、瞳を閉じて僅かに口を開く。

うーん……。大井っちの時もそうだったけど、何かエロいんだけどなぁ。何だろう。彼の方は全然そんな事を気にした風でも無いし、感覚が狂いそう。

「えぇ、どうぞ」と、微笑む彼が差し出した竹楊枝に、加賀が顔を近づけようとした時だった。『デデン!!!!』という、何かの曲の迫真イントロが流れた。

いきなりだったので、普通にビックリした。見れば、鼻クソをほじる野獣が携帯端末を操作している。知ってる曲だった。間違い無い、加賀岬だ。

加賀は、見る者の背筋を凍らせるような視線で、ジロリと野獣を睨んだ。野獣は加賀の方を見ないままで、携帯端末から流れる加賀岬の音楽を切った。

 

「そう言えば、加賀さんは歌もお上手なんですね。とても綺麗な歌声で、びっくりしました」

 

「いえ……、そ、それほどでも……。」

彼の純粋な賞賛に、加賀は照れたように視線を逸らして深呼吸をした。

そうして気を取り直した加賀が再び、彼に『あーん』をして貰おうと屈む。

 

 野獣がまた『デデン!!!!』と、音楽を鳴らす。

加賀が腰を浮かせて鼻クソをほじる野獣を睨むと、音楽が鳴り止んだ。

また加賀が屈むと、『デデン!!!!』と鳴った。

加賀が腰を浮かせ、野獣を睨むと鳴り止んだ。

 

屈む。『デデン!!!!』 加賀が、腰を浮かせて睨む。

屈む。『デデン!!!!』 加賀が、腰を浮かせて睨む。

屈む。『デデン!!!!』 加賀が、腰を浮かせて睨む。

屈む。『デデン!!!!』 加賀が、腰を浮かせて睨む。

屈む。『デデドン!!!!(絶望)』 加賀が舌打ちをする。

屈む。『(≧Д≦)ンアァアアアアアアアーーー(長門ボイス)』 加賀が艤装を召還した。

 

「煩いのですが……!!! さっきからデデンデデンデデンと……!!!!」

 

憤然として立ち上がった加賀は、顔中を怒りマーク塗れにしていた。

小学生みたいな嫌がらせをしていた野獣の方も、半笑いで立ち上がった。

 

「お前の持ち歌ダルォ!? えぇ、オイ!

 でも“加賀岬”って名前だけじゃなんか足んねぇよなぁ?(本格的♂蛇足)」

 

 なぁ、お前どう? と。

訳の分からない事を言い出す野獣に聞かれた彼は、一旦竹楊枝と羊羹を長椅子に置いて、思案する様に顎に手を当てる。

だが、すぐに困った様に微笑んで、首を緩く振って見せた。

 

「僕は、芸術などについては詳しく無いので……。

先輩の言う“足りないもの”を理解するのは、僕には難しいですね」

 

そんな彼の傍で、ジトッとした半眼で野獣を見ていた大井も、呆れたような溜息を吐き出した。

 

「今の野獣提督、何でも良いから難癖つけたいだけのクレーマーみたいですよ?(辛辣)」

「曲名も含めて、歌自体は完成してるものだしねー」と、茶を啜りつつ北上も頷く。

 

「あっ、そっかぁ……(Rethink)じゃあ、こうしよう。

 サブタイトル的な何かを付ければ、もっとこう心にグッと来る感じじゃないか?(漠然)」

 

「何でそんなものを付ける必要が在るの?(正論)」と、加賀が醒め切った貌で野獣を見遣り、鼻を鳴らした。だが、野獣はめげない。

「な、お前もそう思うよな!?」と。茶を啜る北上の膝の上に座っているレ級へと、熱い同意を求めた。レ級の方は、「それで合ってるわ!(レ)」と頷いている。

 

「それでこそ戦艦だな!(御満悦)

 よし! じゃあ至急、何か良いアイデアくれや!(他力本願)」

 

「止むを得ない!(レ) んんんんん~……(レ/熟考)」

 

 野獣とレ級の二人のお馬鹿エンジンも絶好調の様子だ。呆れた様子の加賀は溜息を吐き出して、艤装を解いた。

その間に、少年提督から先程の羊羹を食べさせて貰い、幸せそうに「ほぅ……」と溜息を漏らしている。

また渋い貌になった大井が、そんな加賀を羨ましそうに見詰めていた。北上も軽く笑う。いやー。楽しい鎮守府だね。退屈しない。癖は在るけど、みんな良い人達だし。

艦娘を道具や兵器として扱う提督達が多い中。艦娘達の意思を尊重する提督に恵まれ、こうして人格を育むことが出来た事を幸運を、北上は茶の味とともに噛み締める。

何て言うか。きっとこの鎮守府なら、北上が深海棲艦になっていたとしても、暖かく迎えてくれたに違い無い。でもその時、北上は北上では無いのだろうとも思う。

今までの北上とは違う。別の存在だ。大井や球磨や多摩や木曾達との関係も、今まで通りとはいかない。北上は、ふと彼を見遣る。どうしても、その白髪に眼が行く。

 

 北上の魂をサルベージする際、彼は黒蓮と髑髏を引きつれていたと言う。

彼が艦娘達の膨大な集団霊を身の内に宿している事は、彼に初めて出会った時に知った。

現象として見たからだ。あの艦娘達の霊が髑髏に姿を変えた意味は何だろう。

より、“海”が湛えている力の本質に近付いたという事なのだろうか。

それに大井から聞いた、彼が纏っていたという墨色の微光にも、北上達には心当たりが在る。

中間棲姫を繰り、かつて北上達が居た鎮守府の工廠を支配しようとした、墨朧の積層術陣。

あの光だ。それにあの時、術陣の向こうから聞こえた声に、彼はどう答えたのだろう。

知りたいと思う。けど、聞いても教えてくれなさそうだ。多分、彼は困ったように微笑むだけだろう。

北上はすぐに視線を逸らす。膝の上に座っているレ級を抱える手に、少しだけ力を込めた。さっきから何やら考え込んでいたレ級が、北上を見上げて来た。

 

 

「……色々辛いか?(レ)」

 

 色々と考え込んでいた北上の表情が、ちょっと暗くなっていたからだろう。見上げてくるレ級は、子供っぽくも可憐な貌を心配そうに曇らせていた。

北上へと肉体塑行の術式を行使したのもレ級だし、北上の体の調子を案じてくれている様だ。「んーん、何でも無いよ」と、微笑み掛けて、レ級の頭を撫でてやる。

レ級は安心したのか、擽ったそうに首を竦めて、シシシシと笑う。そして同時に、何かを閃いた様だ。「やっつけが良いっすか!?(レ)」元気良く挙手して、野獣に言う。

 

「シコ●コハッピーNAVI!!(レ)」

 

レ級が大声で言うと、茶を啜って幸せな余韻に浸っていた加賀が噴き出した。

 

「おっ、良いねぇ~!(期待顔先輩)

 

 書くもの欲しい……書くもの欲しくない? ちょっと取って来る!」

野獣の行動は素早かった。間宮の厨房の方へと走って行って、何かを持って来た。

臨時メニューを書いて壁に吊るして使っている、ちょっとお洒落な小型のホワイトボードだ。

今日は使って無かったから拝借してきたらしい。手には黒ペンとボード消しも持っている。

そして、キュキュキュッ、とボードに大きく

 

“加賀岬 ~ シコ●コハッピーNAVI ~”

 

と、書き出してみた。

 

「曲名のあとにサブタイとして続けて書いてみると、

もう何の歌なのかコレ分かんねぇなぁ……(新たな問題)。お前らどう?」

 

 ホワイトボードを持った野獣が難しい貌になって、北上や大井、それから彼や加賀に意見を求めた。

北上は視線を逸らして茶を啜る。ノーコメントだ。大井も同じ様子である。

彼の方は真面目な顔でボードを見ているのだが、彼が何かを発言する前に、不機嫌そうな加賀が鼻を鳴らした。

 

「18禁ゲーム的な電波ソングか何かですか?

意味不明な上に、盛大に滑っていて寒いですね。却下です(無常)

そもそも何ですか、シ●シコハッピーって……」

 

 容赦の無い加賀の言い草に、「あぁ最悪ぅ……(レ)」と、レ級はちょっとしょんぼりしていた。よしよしと、北上はレ級の頭を撫でてやる。

「あの、シコシ●ってどういう意味でしょうか?」と、少年提督が大井に小声で尋ねていた。

「私も、はっ、初耳の単語ですね……これは初耳……」 大井が引き攣った笑みで答えている。

向こうは向こうで大変そうだから、北上はとりあえず茶を啜って、レ級の頭を撫でることに専念する。触らぬ何とやらに祟り無し。

 

「何かやってやると文句しか言わねぇなぁお前はぁ!

 それにお前のイントネーションだと“シコシ●(意味深)ハッピーNAVI”ダルルォ!?

 正しくはお前、“●コシコ(無邪気)ハッピー☆NAVI”だから! 

なぁMMYぁ!!(とばっちり)」

 

「わ、私ですかっ!?」

野獣達へと、お茶のおかわりを持って来てくれた間宮にも飛び火した。

あまりに唐突な大火傷の予感に、驚愕した様子の間宮だっておおいに動揺したに違い無い。

危うく湯吞みを乗せた盆を取り落としそうになっていたが、何とか堪えて見せた。

 

「そうだよ(肯定)。

 ちょっとシコシ●っていうのがどういう感じなのか、やってみて?(阿武隈並感)」

 

「へぇえ!? ほ、ホナ●ーですかぁ……!? 

あっ!? いやっ、な、何でも無いです! 間宮、何の事かわかんない!(すっとぼけ)」

 

 自分の失言に顔を真っ赤にした間宮の動揺っぷりは凄まじく、持っていた盆に乗せていた湯吞みを引っ掴んで、ゴクゴクと飲み干している。凄い汗だ。

間宮は「し、失礼しますっ!!」と、早口で言って、野獣達に背を向けて店の中へと駆け込んで行ってしまった。

 

「何で間宮さんを巻き込む必要があるのかしら(正論)。

 シコ●コ(意味深)でもシ●シコ(無邪気)でも、関係ありません。

 既に棄却案です(無慈悲)」

 

間宮の失言をフォローすべく、加賀が野獣に言う。

 

「うるさいんじゃい! 

さっきから俺の店でシ●シコシ●シコとよぉ!(義憤)

 公衆の場で連呼するとか、コイツ相当変態だな……(再確認)」

 

「頭に来ました。(激憤) 

それに、此処は間宮さんのお店であって、貴方の店では無いわ。

 余り調子に乗った物言いは、貴方自身の為にもそろそろ改めるべきね」

 

「おっ、そうだな(適当)」と言いながら、携帯端末を操作した。

 北上からは、チラッとディスプレイが見えた。野獣が起動させたのは朗読アプリだ。

 もの凄く嫌な予感がした。

 

『やりました。 投稿者:変態ショタコン空母。●月●日、●曜、●時●●分●●秒』

 

聞こえて来た朗読アプリの音声は、加工された加賀の声だった。

ノイズも除去されており、非常に艶のある音声だ。場の空気が凍りついた。

 

『いつも写真を提供してくれる、とある重巡一番艦から新しい写真を売って貰いました。

 今回の写真は、彼の上半身の裸体、そして、脚から臀部にかけての写真でした。

どちらも見上げるような角度であり、かなり近い距離で写したもので、たまりません。

 作戦も終わり、明日が休みなんで、お酒を多めに飲んで自室で全裸になって気分を高めます。

それから、抱き枕に彼を描いたカバーを被せて、思い切り――――』

 

「す、すみません!! 許して下さい!! 何でもしますから!!(無条件降伏)」

 

 朗読アプリの音声を更に大声で掻き消しながら、加賀が腰を90度に折って頭を下げた。

彼以外の一同が全員、えぇ……、みたいな貌で固まるしかなかった。というか、何、今の?

「ちょ、おじさん(レ) と、東京の笑い?(レ)」 レ級の方も、戸惑っている。

天然な彼は真面目な顔をして「今のは……、加賀岬の二番歌詞ですか?」と、先程の朗読に深い意味を見出そうとしている。無駄な努力に違い無い。

だが、彼の傍で引き攣った笑みを浮かべる大井がそんな事を言える訳も無く、「す、素敵な歌詞ですよね?(神アドリブ)」と相槌を打っている。

まぁ、これがいつもの冗談か、野獣の捏造による悪ふざけか何かなら良かったのだが、加賀の様子を見る限りそうでも無いようだし……。

 

「艦娘同士限定のこういうコミュニティで盛り上がるのは結構だけどさぁ……。

酒が入ってるにしても、もうちょい書き込み内容はマイルドにして伏せてくれよなー、頼むよー(注意)」

 

 勝ち誇ったような貌の野獣が、携帯端末を操作しつつ加賀を見下ろす。

しかし、それ以上は弄くりまわすのでは無く、低く喉を鳴らすに留まった。

 

「まぁ、お前の活躍にも支えられて作戦も成功したし……、羽目が外れるのも多少はね?

 ん? そういえば、さっき何でもするって言ったよね?(いつもの)」

 

「ぐっ……」と低く呻いた加賀は、特に反抗はせずに視線を逸らした。

 

「じゃあ夜の飲み会、お前は体操服ブルマでハイ、ヨロシクゥ!!(悪魔の布告)」

 

楽しそうな野獣に、北上は苦笑を漏らす。

いやー、今日の夜は賑やかになりそうだなぁ。



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修正版 短編3 前 

御忙しい中、いつも読んで下さり有難う御座います!

12月になり、年末に向け更新が遅れ気味になるかと思います。
以前、削除させて頂いた短編3の修正作業も、まだ全ておわっておりません。
迷惑をお掛けして、申し訳ありません。

次回更新もいつになるか分からない為、
修正が終わった分のみ投稿させて頂きたいと思います。
修正に伴い字数も嵩んでしまい、前、中、後、終編の4話となると思います。 
長々としておりますので、御暇潰し程度にでも読んでいただければと幸いです。





 

 青空の下。埠頭に並ぶ倉庫前にて、艦娘達が今日のレクリエーションの為に集合していた。

彼女達の首には、“ロック”の為のハート型のネックレスの他に、チョーカーが在る。

午前中に配られたものであり、黒地に赤色のスペード型をしたエンブレムが刻まれている。

ちなみにこのチョーカー、一度装着するとロックが掛かるようになっている様だ。

少女提督も参加することになり、嫌々ながら装着した瞬間、カチリと音がしたのを聞いた。

触ってみても外れる気配が無いし。もうこの時点で、かなり不吉と言うか嫌な予感しかしない。

何が何でも断るべきだったのだが、北上を助けてくれた少年提督に“一緒に参加しませんか?”と声を掛けられ、無碍に出来なかったのだ。

彼の澄んだ眼で見詰められ、無垢そうな愛らしい笑顔を向けられると、どうも断りづらい。ドキッとしてしまうのだ。

あの笑顔を見て、何と言うか、此処の艦娘達の多くがショタコンになった理由が分かる気がした。そんな自分にちょっと凹む。

 

カモメの暢気そうな鳴き声が聞こえた。恨めしげに青い空を睨んでから、少女提督は溜息を吐き出す。

周囲を見回して見る。不穏なざわめきが波音に混じる中、皆一様に不安そうな貌をしている。

無理も無いだろう。野獣主導で行われるイベントは、だいたい無駄に手が込んでいて、毎回参加するものの心身を消耗させる。

おまけに大掛かりだ。何でも某テレビ番組にインスパイアを受けたという事で、今回のレクリエーションも、鎮守府をフィールドにした“鬼ごっこ”的なイベントとの事だった。

 

 野獣が何を考えているのかなんて、分からないのはいつもの事だ。ただ話を聞いたところ、大掛かりな用意が必要になるこのイベントも、本営からの指示が在ったのだという。

規模の大きい作戦も成功に終わった今のうちに、『艦娘達の集団生活の中にも潤いが在るという証明として、こうしたイベントを実施せよ』、という事だった。

俗っぽい言い方をするならば結局今回も、“艦娘達の人権や人格についての関心が更に高まる中で、本営が世間に良い顔をする為の“材料”を揃えておけ”と言う具合なのだ。

 

 実際のところ、少数ならばともかく、これだけの数の人格持ちの艦娘を保有し、一人一人が人間らしさを育んでいる鎮守府は、此処以外ではかなり少ない。

かつて少年提督と野獣の二人は、軍部の中でも煙たがられる存在だった。しかし今では、この二人は世論の眼に対する、本営の切り札になりつつある。

野獣自身には上層部にも繋がりが在るそうだが、こうした本営からの高い評価を向けられるようになったが故に、軍部の中でも、あの二人の敵は多くなった。

艦娘を消耗品として扱うような提督連中からも、自分達の風当たりが強くなった故に逆怨みされている。彼や野獣を、快く思わない者は少なく無い。

 

 とは言え。彼や野獣は、相変わらずと言うか何と言うか、そうした評価や敵意にも一顧だにしない。自分のやりたい事や意志を、勝手気侭に貫いている。

いつもだったら「あ~、めんどくせぇマジで……(悪態)」とか言ってそうだが、今回は「あ、良いっすよ(快諾)」と、引き受けたらしい野獣の事だ。

普通に“鬼ごっこ”をやらせるなんて事はまず無いだろう。苛烈な罰ゲーム的なものが用意されているのは目に見えている。誰も参加したくないのは言うまでも無い。

だが、かと言って理由も無く参加拒否した者は、これから一週間の食事が、三食全てチャーハンカレーになるという通知が携帯端末に在った。

艦娘達の脳裏には、比叡と夕立の姿が浮かんだに違い無い。死んだ方がマシな一週間になることは目に見えている。精神が崩壊するだろう。文字通り地獄だ。

このレクリエーションの参加は、確かに自由だ。強制じゃない。ただ、参加しなかった者の末路は想像に難しく無いというだけだった。酷い話である。

少女提督が再び溜息を漏らしかけた、丁度その時だった。

 

「お、集まってんじゃーん!!(悲劇を召ぶ者)」

 

 愉快そうな声がした。ウキウキしているのが此方にも伝わって来るような弾んだ声音だった。集まった艦娘達の前へ悠然と歩み出たのは、海パンTシャツ姿の野獣である。

タブレット型の端末を手に持っている。大型倉庫のシャッターを背に、楽しげな笑みを浮かべていた。ゲームオーナー側であるが故の余裕だろう。

そして、少年提督、少女提督を含む、その他の艦娘達がプレイヤー側である。ただの鬼ごっこ的なイベントという事は聞いているのだが、油断出来ない。

野獣の登場に、集まった艦娘達の間にも緊張が走る。野獣があの笑みを浮かべている時は、本当に碌なことを考えて居ないのを知っているからだ。

誰も言葉を発しなかったが、そんな嫌な感じの静寂は長くは続かなかった。集まった艦娘達を睥睨した野獣が、また笑う。

 

「おいおいお前らぁ! 何黙りこくってんだよ?

ホラホラ、もっとテンション上げてホラ! みんな踊れーーーーっ!!(煽動)」

 

「そういう賑やかしは要らん(一蹴)。結局、貴様は私達に何をさせたいんだ?

 レクリエーションは結構だが、中身が把握出来ないままでは不気味でかなわん……」

 

 お前が企画したものであれば、特にな……。そう言葉を続けつつ、集まった艦娘達の中から歩み出たのは長門だった。その後について、渋い顔をした陸奥も続く。

多分、自分も似た様な顔をしているし、集まった艦娘達もそうだ。レクリエーションを始めようとしている空気では無い。皆で集まって、悪い報せでも聞くみたいな空気だ。

ただ、「別に難しい事をさせようって訳じゃないから、安心して、どうぞ(怪しい笑み)」と、含みのある言い方をした野獣からのルール説明は、至極単純なものだった。

 

 制限時間内を生き残ることが目標である事と、そのフィールドは鎮守府の敷地内。だたし、間宮と鳳翔の店、食堂は除く。鬼ごっこらしくシンプルで、たったこれだけだった。

設定されてある時間は、開始から4時間。ずっと動いている訳でも無いだろう事を考えれば、普段から訓練などで鍛えている艦娘達にとっては、問題の無い範囲の時間だろう。

そして、逃げ切った者への賞品の一例として、『少年提督が何でも(常識と良識の範囲内で)言うことを聞いてくれる券』が、用意されているとの事だ。

 

 集まった艦娘達の間でどよめきが起きる。少年提督が言う事を聞いてくれるという事は、かなり応用が効く。食事や甘味を奢って貰ったり、休暇を貰ったり。

或いは、秘書艦として傍に置いて貰ったり、より自身の錬度を高めるべく、改修を望む事も出来る。勿論、提督と共に休日を過ごすなどという要望も選べるという事だ。

そしてこの賞品は、少年提督が召還した艦娘に限らず、野獣が召還した艦娘も持つことが出来ると、野獣は明言した。つまり、艦娘全員にある権利である。

主導権が艦娘にあり、能動的にアプローチ出来るという事実は大きい。この賞品については少年提督も了承している様子である。微笑みと共に、周りの艦娘に頷いている。

「僕に出来ることであるなら、何でも仰って下さいね」と、にこやかに言う彼に、『ん? 今、何でも仰ってって言いましたよね?』みたいな感じで、艦娘達の眼の色が変わった。

提督が休暇の日に、一緒に過ごす時間を作って貰ったりも出来るだろう。少年提督LOVE勢が多いこの鎮守府では、非常に魅力的な報酬である事は間違い無い。

「他にも色々と用意してあるから、楽しみにしとけよしとけよー☆」と、艦娘達を労うみたいに野獣は笑う。

しかし同時に、此処で疑問が浮かんでくる。追われる側に賞品が用意されてあるのに、追う側には賞品が無いという事だ。少女提督はこの時点で、かなり嫌な予感がしていた。

ただ、あくまで基本ルールだ。タブレットを操作する野獣は含みのある笑みを浮かべているし、まだ何かの説明されていない要素が在るのだ。

 

 

「フィールドっつっても、結構広いからね?(配慮)

 他の艦娘の生き残り状況とかも気になるだろうから、その辺りは俺が配信してやるよ?

 嬉しいだルルォ? あと、艦娘同士で連絡を取り合うのも良いゾ~、コレ」

 

 野獣はそう言いながら、手にしたタブレットを操作した。すると、野獣の背後からゴウゥン……、という重たい駆動音が響く。埠頭の大型倉庫のシャッターが開いていく音だった。

シャッターが開かれたこの大型倉庫は現在、中は空っぽだったと少女提督は記憶している。だが、違った。結構な広さが在る倉庫の中心には、何らかの装置がポツンと置かれていた。

見た目で言えば銀行などに置いてあるATMの機械に良く似ている。無骨なボディは白色で、正面にモニターがあり、手元にはタッチ式の操作パネルが在る。

薄暗い倉庫の中に、モニターから漏れるぼんやりとした光が灯っているのは、相当に不気味な感じだった。ざわ……ざわ……、と艦娘達が不審そうに顔を見合わせる。

 

「あと、逃げる側を有利にする、ちょっとしたギミックも在るから。(お楽しみ要素)

 鎮守府内に幾つか、アレと同じ型の端末を置いてあるからアクセスしてみて、どうぞ」

 

野獣が顎をしゃくって言う。

すると不穏な感じに、ぬるい潮風が埠頭を吹き抜けていった。少しの沈黙。

 

「……その端末にアクセスしたら、何がどんな風にゲームに関わって来るの?」 

陸奥が、明らかに怪しむような様子で野獣に訊いた。

 

「直接影響が出るんじゃなくて、色々とミッションが用意してあるんですよ。

 それをクリアするとぉ、鬼の数が減ったりするって言うかぁ……(フェードアウト)」

 

 少女提督は軽く顎に触れて、倉庫の中に不自然に置かれてある端末を見遣る。確かに、鬼の数を減らすのは重要だ。単純に考えても、捕まるリスクを大幅に減らせる。

生き残る艦娘の数に、大きく関わる要素なのは間違い無い。その分、冒さなければならないリスクの存在も想像出来る。その辺りは、その時々の状況による筈だ。

攻め、守りの選択権が有る。だからこそ、艦娘同士で連絡を取り合う事を、野獣は禁止していない。つまりは、プレイヤー側で作戦を構築する事を推奨しているという事だ。

生き残った艦娘の状況を配信するというのも、プレイヤー側にとってもかなり重要な情報だからだろう。ルール自体は単純だが、把握しておくべき情報が多い。

 

 結構面倒そうだなぁと、少女提督が軽く息をついた。

丁度そのタイミングで、野獣の持つタブレットに着信が入った。テレビ電話のような機能なのだろう。ディスプレイには、にこやかな赤城の顔が映しだされている。

赤城が居るのは、何らかの大規模なモニタールームの様だ。いや、何処……? こんな場所、鎮守府に在ったっけ? 少女提督は野獣の持つタブレットを凝視する。

 

『こちら赤城です。映像と音声が届いていますか?』

 

「見える聞こえる、太いぜ☆ じゃあもう、準備は整った感じなんだ?」

 

『はい、此方の準備は出来ております。いつでも開始出来ます』

 

「やったぜ。あと言い忘れてたけど、リタイアとか自首とかは無いから(いつもの)」

 

 よく見れば、タブレットに映る赤城の背後には、大和や武蔵をはじめ、戦艦棲姫や戦艦水鬼、港湾棲姫、それから時雨の姿も在った。

全員がヘッドセットを装着しており、何らかの機器類の前に座り操作している。少年提督の配下に在る深海棲艦達は、今回は不参加という安全圏に居た筈だ。

それも、彼女達をイベント運営の手伝いに参加させる為か。優秀な人材を確保し、運営委員として配置しているのを見るに、かなりの周到さだ。野獣の説明が続く。

 

 彼女達は、いわば審判員だ。各ミッションクリアの判定は、時雨や赤城、それから大和や武蔵達が、別室のオーナールームから判定を行うとの事である。

赤城達は野獣と同じく、ゲームオーナー側である。鎮守府各場所を監視するモニターで、ミッションの判定だけで無く、不正などが無いように見張っている。

万が一怪我人が出ても、迅速に対応できる準備もしている様で、野獣は特別医務室で待機しつつ、管理運営の指示を出すという体制だ。

『準備も用意もしているから、心置きなくイベントを楽しめ』という事なのだろうが、未だもっとも肝心なポジションについては不明瞭なままだ。

その事に関しては、集まった艦娘達の中からも挙手をして、質問をぶつける者が居た。先程の陸奥と同じく、明らかに怪しむ様な貌をしている天龍だった。

 

「なぁ、野獣。“鬼ごっこ”っつーけどよ。“鬼”はどうすんだよ?

逃げる側にも賞品が在るんだろ? 今からジャンケンでもすんのか?」

 

その質問に、野獣が唇の端を持ち上げた。

埠頭に集まった艦娘達が一瞬ざわついたが、すぐに黙り込む。

野獣が快活に笑う。

 

「心配すんなッテ! 全員に豪華賞品のチャンスが在るようにしてるから安心!

“鬼”はこっちで用意しといたからさ、お前らの為に(悪意と紙一重)。

まぁ、ちょっとスリル増し増し路線だけど、大丈夫だよな?(半笑い)」

 

「おい、野獣。スリル増し増しとは何だ……?

今回はオカルトだのホラーだのとは無縁のイベントだと言っていた筈だろう」

 

若干、声を震わせながら言う長門の貌は盛大に強張っていた。

 

「えっ、そんな事言ったぁ?(レ)」

野獣の方は、不思議そうな貌で長門に向き直った。

 

「貴様ぁ……ッ!!」 長門が野獣に詰め寄る。

 

「ねぇ……、さっき“鬼は用意した”って言ってけど……。

まさかモンスターパニック系とかいうオチじゃないでしょうね?」

 

普段は優しい陸奥が、眼を鋭く細めて野獣に訊く。

野獣の方は、面白くなさそうにそっぽを向いて、鼻を鳴らした。

 

「……そうだよ(白状)」

 

「本当にふざけるなよ貴様……(震え声)」

 

 長門が言うのと同時だったろうか。キチキチキチキチ……。ジジジジジ……。チチチチチチ……。寒気のするような音が、倉庫の中から聞こえた。

集まった艦娘達全員が、その体を強張らせた。硬いものを、細かく擦り合わせるような音だ。同時に、何か大きなものが動く音だった。

止めておけば良いのに少女提督は、薄暗くだだっ広い倉庫の中を凝視してしまった。何か居る。装置の向こう側と、倉庫の横の両壁際だ。巨大な何かが幾つも積まれている。

暗がりに眼を凝らして、気付く。薄っすらと見えてくる。あれは、巨大な檻だ。中に居るアレは。何だろう……。獣? いや、違う。そんなフォルムじゃない。

肉と骨を持つ生き物の外見では無い。艦娘達の何人かが悲鳴を上げた。尻餅をついている者も居る。泣き出す者も居た。無理も無い。何て事だろう。

 

「そんなビビんなくても大丈夫だって、安心しろよー!

 金属模型に機能を与えただけの、人造ペットみたいなもんやし。本物じゃないゾ。

 攻撃機能の無い愛玩用ロボット犬とかそんな感じだから。可愛いダルルォ?(狂気)」

 

 もはや、誰も野獣の言葉に反応を示さない。そんな余裕が無いからだ。正直、少女提督だって心が折れそうだった。積まれた檻の中に居るのは、数種類の蟲だった。

それも、滅茶苦茶デカイ。だいたいが人間と同じくらいの大きさだ。いや、もっと大きいものも居る。あれは、クモか。脚の長さのせいで、此処からだと更に巨大に見える。

「模型は、わし(野獣)とAKSの合作だゾ。協力を頼んだら、泣いて喜んでくれてさぁ!(悪魔)」艦娘達が脚を震わせてその場に立ち尽くす中でも、野獣は楽しそうだ。

明石にしても、あんなに巨大で精巧な蟲模型を作れなどと言われれば、普通に拷問に近いだろう。暗がりの向こうで蠢く蟲達の生々しさは相当なものだ。

檻の中の蟲達の数は、此処に居る艦娘の数よりも少ないものの、かなり多く見える。何て言うか、其々の種類が一匹とか二匹じゃない。

全体の数はちょっと数え切れないし、無駄にバリエーションも在る様子だ。暗がりの中に薄っすらとシルエットが見えたのは多分、ゴキとムカデだ。やっぱりクソデカイ。

気分が悪くなって来た。少女提督は片手で眼を覆って、顔を倉庫の中から逸らす。しかし、視線を逸らしても聞こえてくる。この蟲が蠢き、這う音。かなりに精神に来る。

 

「生命鍛冶術と金属儀礼術、あとは生命科学の応用技術の粋を集めて用意したんだよなぁ。

 お前らに喜んで貰えて、苦労した甲斐があったゾ……(しんみり)」

 

 少女提督の悪寒が最高潮に達した時だった。絶句する艦娘達を睥睨した野獣が、わざとらしい真面目な貌で語り始めた。勿論、誰も聞いてない。

此処って、ホワイト鎮守府なのかブラック鎮守府なのか、もう分かんないわね……。考えるのが面倒臭くなって来た少女提督は空を仰いで、思考を半分放棄した。

 

「先端技術と理論の無駄遣いは止めろ!! 

今日のレクリエーションはもう終わりッ!! 

解散ッ!! 皆、もう帰っていいぞ!!(必死)」

 

「おっ、そうだな! 

もう何匹か寮にも放たれてる筈だけど、遭遇しないように気をつけて、どうぞ(包囲)」

 

起ころうとする悲劇を回避する為に、長門が大声で避難を呼びかける。だが、野獣の方が二手も三手も先を行っていた。

ゲームの舞台は、プレイヤーのやる気に関わらず完成しているという事だ。これでもう、傍観者で居られる者は居ない。

倉庫前の埠頭が、阿鼻叫喚の坩堝と化した。最早、後戻り出来ないところまで来ている。叫び喚く艦娘達の声を聞きながら、陸奥が深呼吸してから、睨むように野獣に向き直った。

 

「……一応、聞くけど。あれに捕まったらどうなるのよ?」

 

確かに、重要なポイントである。

艦娘達の絶叫が、止んだ。野獣が喋るまで、少女提督も息を呑む。

 

「別にどうもしないゾ。

ただ巣に連れて行かれて、色々と補給(意味深)されるかもしれないけど(無責任)。

まぁ罰ゲームも考えてあるから、捕まらないように気をつけてくれよな~、頼むよ~」

 

 野獣は、肩を竦めて笑って見せる。何かを想像したのだろう。青い顔になった陸奥が、自分の体を抱き締めるようにして、ぶるるっ!、と体を震わせた。

いや、そもそも罰ゲームまであるのか……(絶望)。あんな巨大な蟲に追い回された挙句、更に罰ゲームとか。泣きっ面に蜂も良いところだろう。

集まって居た艦娘達も再び絶叫し、そのボルテージを増した。だが、この場から逃げ出そうとする艦娘達は居なかった。

此処から逃げたところで、既に蟲は鎮守府内に放たれているのだ。もはや、安全地帯は何処にも無い。長門は頭を抱えてその場に蹲る。

「大惨事じゃん……(恐怖)」と、少女提督も思わず言葉が漏れた。怖い物知らずな少年提督だけが、ウキウキした様な楽しそうな様子だった。

 

 

「そんな怖がる事は無いんだよなぁ……。

人間や艦娘を攻撃する機能は備えて無いから、危害を加えて来る事は無いゾ」

 

胡散くさい優しい貌で言って、野獣は肩を竦めた。

 

「あの蟲共の実体だって、本営が開発を目指してる、“独立型自走式の入渠ドック”のモデル案やし(都合の良い言い訳)」

 

「だったらもっと普通の外見があるでしょ!! 

なんで態々あんなのにする必要が在るのよ!?(正論)」

 

「そっちの方が面白そうだろ!!(弾丸論破)

まぁ、今んところは人懐っこいチワワみたいなもんだからさ!

可愛がってあげてくれよなー(他人事)」

 

「何処がチワワよ!! チョロQと戦車くらい違うわよ!!」

 

「大事なのは外見じゃなくて中身だって、それ一番言われてるだろ?(詭弁)」

 

「そういう事じゃなくて!! ビジュアルに問題が在るって言ってんの!!

 あんなのが鎮守府の敷地外に溢れ出たら、それこそ陸軍の出番になっちゃうでしょ!!」

 

叫ぶ陸奥の言うとおりだ。そうなったら大惨事だが、野獣の方は、「心配は要らないんだよなぁ……」と肩を竦めて見せた。

 

「鎮守府外に行かない様に、しっかりプログラムしてるんだからさ。

 そもそも攻撃機能は無いし、艦娘達にじゃれついて遊んで貰う以上の事は設定されてないから(説得)」

 

取り乱す陸奥をはじめ、この場の混乱は止まらない。長門は蹲ったままで動かない。

 

 

 

「あと、お前らの首のチョーカーには、艤装召還を封じる効果があるから。ついでに発信機も付いてるゾ。

海の中に逃げ込んだりフィールド外に行ったりしたら……。あとは分かるよなぁ~?(dominate先輩)」

 

 野獣は茶目っ気のある笑み笑顔を浮かべつつ再びタブレットを操作して、其処に映る赤城達に「そんじゃあ、そろそろ始めんぞー☆(ウキウキ顔先輩)」と、呼びかける。

それから野獣は、黒いクローバーの飾りが付いたペンダントを取り出して、自分の首に掛けた。クローバーの飾りには蒼色の微光が灯っており、鈍く明滅している。

何らかの効果が付与されている様だ。いや、この状況だ。何となく分かる。アレは多分、金属術的な“蟲除け”だ。自分だけ安全地帯に逃げ込んでいる。何て奴だ。

いや良く見れば、野獣の持つ端末に映る赤城達も、クローバーのペンダントを身に付けて居る。ゲームオーナー側だけの専用アイテムらしい。

 

「ついでに言うと、鬼の数は時間経過で増えていく仕様だから!(難易度・甲)

 ゲージ回復的な感じだけど、どう、行けそう?」

 

 艦娘達の中から、「ふざけんな!!(声だけ迫真)」 「冗談じゃねぇ!!(激怒)」 「やめちくり~……(泣)」などと言った怒号が幾つも上がる。

鬼の数が増えていくという事は、逃げ回るだけでは必ず限界が来る。野獣が言っていたミッションをこなす必要性が、否応無く出てくる。無理矢理にでも艦娘達を動かす気か。

酷いところでゲームの体裁とバランスを取ろうとする野獣に、少女提督も何か言ってやろうと思ったが、それよりも先に野獣は倉庫の中へと歩み出していた。

蟲達が蠢く、大掛かりな鉄檻が積まれた倉庫の中へ悠然と歩いていく。そして端末の前で立ち止まり、パネルを操作し始めた。

それに合わせて、鉄檻の扉を締めていた電子ロック部分が、ピ――、と軽い音を立てる。

 

 

「じゃあ、カウントダウンしよっか! 逃げる準備は良っすかぁ~? OH^~~?」

 

 野獣はディスプレイの赤城に頷いて見せてから、喚き散らしている艦娘達に、芝居がかった優しい笑みを浮かべて見せた。

艦娘達は一斉に野獣を見てから、全員が全員の顔を見回した。やばい。やばいよ。もう逃げよう。逃げる? でも、逃げるって、何処へ? 

刹那の間に、艦娘達の間でそんなアイコンタクトが交錯する。ただ確実なのは、この場に留まっていれば間違いなく全滅するという事だ。

鉄檻の中に居る蟲達が解き放たれれば、きっと凄い数になる。此処から離脱する事が最優先だ。全員が倉庫から後ずさる。

その間にも、野獣の動きは止まらない。見るからに悪役の貌で端末を操作していく。「それじゃあ、1から10まで数えるゾ」 野獣が宣告する。

それを聞いて、集まった艦娘達が逃げようとした次の瞬間だった。「……10!(せっかち)」 野獣が、速攻で蟲達を解放した。

「貴様ァァアァーーーーーーーーッッッ!!!!??」 長門の怒号が聞こえた気がしたが、すぐに掻き消された。倉庫内に詰まれた鉄檻が、一斉にバァン!!と開かれたのだ。

最悪のスタートだ。硬い物が激しく擦れる音。コンクリの地面を叩く音。這いずる音。鳥肌が立つ様な硬質な羽の音。その全てが、倉庫の内から一斉に溢れ出て、艦娘達に迫る。

 

 

 

大海原に響き渡るような、悲鳴と怒号と絶叫が爆発した。

 

 

 

 少女提督は大慌てで踵を返し、全力疾走で逃げる。何処へとか、そんな思考は無い。ただ、逃げる。

視界の端っこに、恐怖に顔を歪めた長門と陸奥が、アスリートみたいな綺麗なフォームで走っていくのが見えた。ちょっと待って……! 待って待ってお願い……!!

と言うか、全員必死だった。死に物狂いだ。気付けば、逃げ散る艦娘達の最後尾だ。肩越しに背後を振り返る。蟲達が迫ってきていた。すぐ背後。人くらいの大きさのゴキだ。

3匹。速い。めっちゃ速いし、めっちゃ気持ち悪い。金属細工の癖に、なんて精密な造形なんだ。怖い。死にそう。カサカサと言うか、ガチャガチャガチャという音が追って来る。

なんて攻撃的な金属音だ。少女提督も必死に逃げるが、こけた。致命的ミスだった。声も出なかったし、死を覚悟した。やだも~~……(泣)。同時だった。

 

「大丈夫ですか?」 落ち着き払った声が聞こえた。

 

「うひゃあ!!?」 変な声が漏れる。

 

 次の瞬間には、お姫様抱っこで抱き上げられていた。少年提督だった。彼は横合いから走りこんできて、少女提督を抱き上げたのだ。

それだけじゃない。少年提督は、少女提督を抱っこしたままで疾駆している。凄い速さだった。この小柄な脚幅で、どうやったらこんな速度が出せるのか。

恐らく、一歩で稼ぐ距離が尋常では無いのだろう。少女提督は、少年提督の顔を見上げると目が合う。眼帯をした彼は、走りながら静かに微笑んだ。

「何処へ行きましょうか? とは言っても、まずは蟲達を振り切らねばなりませんね」 彼は呼吸も声も全く乱れていない。

「と、取りあえず、建物の中へ……ッ!」 少女提督は、高速で流れていく景色を感じつつ、彼を見上げながら言う。彼は少女提督に頷き、更に走る速度を上げた。

まずは何処でも良い。鎮守府庁舎内へ逃げ込んで、追い縋ってくる蟲達を巻く必要がある。その為に、彼は駆ける。少年提督には、迷いや怯みが無い。

蟲達の狙いを分散させる為だろう。彼は長門や陸奥とは別方向へ向う。彼と行動を共にしようとする艦娘数名が、彼の後に続いてくる。

少女提督は彼と目が合う。彼は、やっぱり微笑むだけだった。

眼を逸らして、前を見た。何だか顔が熱い。鼓動が高まったのは、蟲達に追われているからだろうか。それとも、久ぶりに全力疾走したからだろうか。分からない。

とにかく、今は蟲達から逃げ切らないと。周りを見れば、艦娘達は散り散りに逃げた様だ。果たして何人生き残れるか。ゲームが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 鎮守府庁舎の内、座学教室が在る棟へと逃げ込んだ陽炎は、荒い息を吐き出しながら廊下を走る。蟲達が追いかけて来ないか、肩越しに背後を見た。

陽炎の後ろには、皐月、長月、霰、曙、潮が居た。逃げる方向が同じだったのだ。ただ、蟲達は居ない。上手く巻いたようだ。緊張が緩んで、代わりに疲れが一気に来た。

近くの座学教室に駆け込んでから、すぐに床に手を付いてへたり込んだ。続いて、皐月達が順番に教室へ走りこんで来る。皐月は陽炎と同じく、べちゃあと床に倒れこんだ。

曙と長月が近くの座学椅子に腰を乱暴に下ろし、天井を仰いで大口を開け、ぜぇぜぇと荒い息をしている。霰と潮の二人は、膝に手を付いて俯き、肩で息をしていた。

誰もしゃべれない。呼吸が。酸素が足りない。陽炎は身体を起こしつつ手を付いて、両足を投げ出して天井を仰ぐ。荒い息を繰り返す。その内に、遠くから悲鳴が聞こえた。

「だぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ!!!!」 「ぱぁぁあああああああああああああああああああああああ!!!!」

朧と漣の悲鳴だった。あの二人も勇敢な駆逐艦だし、錬度の高さも相当なものだった筈だ。だが、切羽詰りまくったあの悲鳴は、かなりガチだった。

 

 

 へたっていた潮と曙が、座学教室の窓際へと慌てて駆け寄り、悲鳴が聞こえた方を見遣った。陽炎も立ち上がり、二人の視線に倣う。すぐに後悔する。見るんじゃなかった。

陽炎達が居る座学教室は3階だ。其処から見下ろして、ちょうど向いの庁舎前。その舗装通路だ。朧と漣が、蟲達に追い立てられていた。

あれは、蝿だ。大きさは丁度、朧や漣と同じくらいだ。キモ過ぎる。大きさもそうだが、造形が精密過ぎる。生々し過ぎて、悪い意味で鳥肌が立つレベルだ。

あんなのに追っかけられたらたまったもんじゃない。余裕で夢に出るだろう。朧と漣は、漫画みたいに必死に走ってる。そりゃそうだ。

二人は、向かいの庁舎の中に駆け込んだ。それを追って、蝿達も庁舎内へ。其処まで見ていた曙と潮も、朧と漣の名前を呼ぼうとしなかった。呼んでも無意味だからだ。

此処からじゃ何も出来ないし、あの状況では逃げ切ってくれと祈るだけだ。潮と曙、それから陽炎が互いに顔を見合わせた。三人とも、苦しい表情だった。

 

 

「今回のイベント、ほんと駄目だよコレ……。

 草毟りでもしてる方が100万倍マシだよこんなの……」

 

 陽炎が教室内へと視線を戻すと、体を小刻みに震わせる皐月が、半ベソで床に体育座りをしていた。見るからに相当参っている。

普段は溌剌としていて勝気な彼女らしくも無い様子だったが、聞こえて来た朧と漣のガチ悲鳴に、動揺を誘われたに違い無い。

 

「なぁ皐月……。あんまりベソベソしないでくれ。その、こっちまで泣きそうだ……」

 

そのすぐ傍で椅子に座って居た長月の方は、口調こそ落ち着いているものの平静とは言い難い状態だった。

皐月と同じ様に身体が震えているし、眼が潤んでいる。皐月の悲壮感が感染しつつある様である。

 

「野獣提督は一度……、

『レクリエーション』の言葉の意味を、真剣に考えるべきだと思う……」

 

 ボソッと呟いた霰の言葉は、本当にもっともだと思う。いつもは口数も少なく、声も小さい霰だが、その言葉と声音には普段には無い力みが在った。潮がその場にへたり込む。

曙の方も何も言わず大きく息を吐き出してから、外から見えないように、窓際に隠れるように座る。そして険しい貌で右手親指の爪を噛み始めた。

先程の朧や漣の様子を見て、これからどう動くかを考えているのだろう。陽炎も同じ様に、窓際に隠れるように座り、瞑目する。生き残るには、やはり作戦が必要だ。

他の艦娘との協力、情報の共有が鍵を握っている。適当に逃げていても、自ずと限界が在る。野獣が設置したという、あの端末をまずは探すべきか。

陽炎は携帯端末を取り出し、不知火に連絡を取ろうとした。その時だった。「あの、アレは……」と言いながら、潮が座学教室の隅の方を指差した。全員が顔を上げる。

潮が指差したのは、座学教室の黒板の横。教室の前方の窓側だ。其処に、何か置かれている。銀行のATMにも似た装置だ。……何よ、在るじゃん。

 

 陽炎は弾かれたように立ち上がり、その端末に駆け寄る。タッチ式の操作パネルに触れると、正面のモニターに鼻クソをほじる野獣の顔が映し出された。

『あっ(油断)』と間抜けな声を漏らした野獣は、モニターの向こうで鼻クソをほじったままで陽炎に笑いかけた。『陽炎じゃねぇかよ~。端末、見つけるの早いッスね(賞賛)』

「どうも……」と言いつつ、陽炎は自分の表情が歪むのを感じた。皐月や長月、潮や霰、曙も、陽炎の傍に駆け寄って来た。野獣は全員を順番に見て、軽く笑った。

 

『そんじゃあ、もうミッション受けるか?

 まぁまだ序盤だしなぁ。リスクを抑えたいなら受けなくても良いゾ。

 多分、他の奴等の状況を把握してからでも遅くは無いと思うんですけど(名推理)』

 

「ミッションって結局、私達は何させられんのよ? 裸になって踊れとか言うんじゃないでしょうね?」

曙が噛み付くような勢いで、モニターに映る野獣に聞く。野獣の方も、ワザとらしく微笑んで見せて、『ま、そんな感じですね……(小声)』と答えた。

「ふざけんじゃないわよッ!!!(激怒)」と、曙が怒鳴ろうとしたところを長月と皐月、霰が、曙の口を手で塞いだ。蟲達に気付かれてしまう。

 

『冗談は置いといて……。ミッションは操作画面で確認出来るから、参考にして、どうぞ。

 クリアした奴の携帯端末に、パスワードを添付したメールを送るからさ(仕様説明)』

 

 陽炎はモニターの野獣を無視しつつ、タッチ式の操作パネルに視線を走らせる。タッチ式の広めのディスプレイには、幾つかの操作項目が並んでいる。

その中には確かに“パスコード入力”の項目があった。あとは“ミッション選択”の項目。陽炎は思考を巡らせつつ顔を上げる。攻略の糸口が見えた気がした。

「ミッションやパスコードの入力操作は、端末ごとに違うんですか?」と聞こうとしたが、丁度同じタイミングで隣に居た潮が野獣に聞いてくれた。

野獣は『いや、同じだゾ(断言)』と頷いた。なる程。と言う事は、“ミッションをクリアする艦娘”と、“パスワードを入力する艦娘”が別であっても良いという事だ。

端末の場所を把握しておけば、ミッションを誰が受けるかという選択も出来るし、リスクの分担が出来る。野獣が、情報の共有を推す理由を理解した。

 

 陽炎は自分の携帯端末を操作する。そして、あるアプリを立ち上げた。通称。艦娘囀線。作戦行動中の各部隊の状況や、海域の戦況などを広く伝える為のツールだ。

掲示板とツ●ッター、それからLI●Eを組み合わせた様な機能なのだが、基本的に緊急時にしか使わないものであり、普通の無線通信の方が手早い為、無用の長物だった。

最近になってからは本営からのアップデートも打ち切られ、各鎮守府内々での連絡網程度にしか使われなくなっている。ただ、この鎮守府では殆ど誰も使っていなかった筈だ。

陽炎自身も今まで使った事の無い機能だが、参加している艦娘達の数と、其々に連絡を取り合う手間を考えれば、今の状況ではベターな気がした。

 

陽炎は、モニターに映る野獣に向き直る。

「野獣司令からの連絡が無いところを見ると、まだ脱落者は出てないんですよね?」

 

『おっ、そうだな! まだ始まったばっかだし、捕まった奴は居ないゾ』

 

「あと、……もう一つ確認したいんですけど。

 鬼であるあの蟲達は、そっちで恣意的に動かせるんですか?」

 

『動作の強制停止は、リモートで完璧に出来るゾ。

ただ、こっちから細かい指示は出せないんだよね……(弱点)』

 

それはつまり……、と。陽炎はモニターの野獣をぐっと見詰める。

 

「あの蟲達は、そちら側の指示では動かない。

要するに、勢力を増していく軍勢であっても、統率されていない。

ただ艦娘達を捕まえる為に、鎮守府内を無軌道に動いている……って事ですよね?」

 

『まぁ、そうなるな……(HYUG並感)。

 蟲共に干渉は出来ても、その行動パターンや範囲の指定は出来ないゾ。

 フレキシブルな状況判断は、自由な行動の特権だから、まぁ多少(の放任)はね?』

 

 つまり野獣達は、このゲームの盤面に直接触りに来ることが出来ないという事だ。艦娘達の行動を先読みして、蟲達を配置したり、移動させたりは出来無い。

その野獣の言葉を聞いて、陽炎はホッと一つ息を吐き出しながら、“ミッション選択”の項目をタッチした。そして曙達に振り返る。

「ねぇ皆、お願いが在るんだけど良いかな?」全員の視線が陽炎に集まる。それを確認してから陽炎は一つ頷き、“艦娘囀線”を使用する旨を伝えた。

 

「かんむすてんせん、……って何だっけ?」 不思議そうな顔をした皐月が、陽炎に聞く。

 

「端末受け取った時に説明受けたでしょ? アレよ、あの~、ほら、SNSみたいなヤツ!

 プリインストールされてるけど、今までの実戦じゃ使わず仕舞いだったアレよ、アレ」

 

使った事が無いのは事実なので、陽炎はフワッとした説明しか出来なかった。

だが皐月の方は、ああーー……、と一応は納得してくれたようだ。

 

「携帯端末の使用が禁止されてないんだから、この際フルに使おう。

 戦場じゃ一々文字なんて打ったり読んだりする時間もないけど、今なら出来るしね。

 他の艦娘達も一緒に上手い事使えば、きっと良い連携が取れる筈よ」

 

「皆乗ってくれるかなぁ? 初めて使う機能でしょ」皐月は微妙そうな貌をしつつも、携帯端末を取り出してくれた。陽炎の案に乗ってくれる様だ。

駄目で元々よ、と。陽炎は軽く笑う。「試してみる価値は、在る……」 「参加者の数を考えれば、有効だと思うが……」霰と長月も頷く。

 

 潮と曙も続いて頷き、携帯端末を取り出した。そして、全員で艦娘囀線を起動する。使い方自体は訓練を受けたことがあるし、其処まで難しいものでも無い。

アプリを開いても、全員がチンプンカンプンで頓挫という事態にはならずに済んだ。足並みが揃ったところで陽炎はまず、≪逃亡中。生き残ってる人は集合≫ というスレを立てる。

端末の場所。ミッションへの挑戦者。クリアした際に送られてきたパスワード。そのパスワードの入力者。蟲達が少ない場所。或いは、多い場所など。

これらの情報を書き込み、それを共有する場所を用意した。艦娘囀線の掲示板は、匿名掲示板とは違い、誰の発言かすぐに分かる。だから、発言そのものはかなり信頼出来る筈だ。あとは、それらの情報をまとめたページを作れば、もっと効率的に動ける。情報の密度と質は、参加者の数次第になるだろう。急いで取り掛かる。

曙、潮、長月、皐月、霰の五人は、まずは手当たり次第に他の艦娘達に連絡を取った。まずは各々の艦娘達が持つ端末で、艦娘囀線の機能起動を要請する必要が在るからだ。

まだ全員が生き残っている事を考えれば、本当に誰でも良い。連絡がつかない場合は、端末の電源をOFFにしているか、バイブにしているか。

或いは、蟲達に追い立てられて、それどころでは無い場合も考えられる。だが、まだ脱落者は居ないのだ。まずは連絡がつながる者だけでも良い。

他の艦娘達も、恐らくは何人かのグループで動いているだろうし、ネットワークは広がり易い筈だ。中には参加しないという選択をする者も居るだろうが、それは強制出来ない。

これは、飽くまで陽炎が考えた作戦の一つであり、団結して動くための一歩に過ぎない。状況が変われば、それに対応していくしかない。

他の艦娘への連絡を曙達に任せ、陽炎は手元のディスプレイで各種ミッションを確認しつつ、正面のモニターを一瞥する。それを端末のカメラで撮影し、スレに張り付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「陽炎から連絡が入りました。

持っている携帯端末で、艦娘囀線を起動して欲しいとの事です」

 

 庁舎内にある、会議室兼ミーチィングルームに身を隠していた不知火が、荒い息を整えながら言い、手袋をした手の甲で顎の汗を拭う。

自身の携帯端末を操作する不知火は、壁に寄りかかる姿勢だった。肉体の酷使は訓練で慣れているものの、此処まで精神的に消耗する全力疾走は初めてだからだろう。

言葉自体には乱れが無いものの、その声音や様子からは、余裕が在るようには全然見えない。その眼の鋭さも鈍く、いつもの力強さは無い。

 

「……どうやら、陽炎が何かを思い付いたようですね。

何度も連絡する手間を省く為、此方のメンバーは伝えておきました」

 

不知火の他には、天龍、加賀、翔鶴、瑞鶴、葛城の6人が息を荒くして、へたり込むようにして椅子に座っていた。あんだと……? と、突っ伏していた天龍が顔を上げる。

 

「艦娘囀線って、アレだろ? 結局使われなくなった奴だろ?」

 

「えぇ。そのようです。

情報共有の為のツールとして、活用できるのではと言っていました」

 

 不知火も携帯端末を手に、天龍に向き直る。

艦娘囀線は機能性こそ高いものの、戦場での通信手段としては迅速性に欠けるという事で、使われなくなったのは天龍だって、というか、此処に居る全員が知っている。

最近になって野獣に召還された葛城だって、端末に備えられた機能や、現在まで使われた機能については訓練だって受けている。だからこそ、怪訝な表情を浮かべていた。

チンタラやってる場合じゃないのは今の状況でも同じだとも思うが、天龍は試しに端末を取り出して艦娘囀線を起動した。それに続き、加賀や瑞鶴達も倣う。

 

「情報共有するっつってもよ。それ野獣も見れるんじゃねぇのか。

……端末権限の問題だな。良い考えだとは思うけど、こっちの動きまで筒抜けになっちまう」

 

 下手すりゃ一網打尽だぞ。天龍はそう言いながらも携帯端末を操作するが、どうも乗り気にはなれない。自分達の行動を明かす事に、どうしても強いリスクを感じてしまう。

加賀達にしてみても、その辺りは天龍と同じ意見のようだ。携帯端末を持つ彼女達は、天龍の言葉に頷いている。自身の持つ端末から顔を上げた不知火が、天龍達を順番に見た。

 

「野獣司令はこれ以上、直接的にはゲームには関わらないそうです。

 言質を取ったと、陽炎が言っていました。飽くまで、ゲーム進行の管理に努めると」

 

「何でも周到な野獣にしちゃ、随分ヌルいな……」 天龍は嫌な予感がした。

 

 携帯端末で艦娘囀線を起動すると、既に何人かがログインしていた。≪逃亡中。生き残ってる人は集合≫ というスレッドが立っており、もう書き込みも幾つかされている。

陽炎が立てたであろうスレの本文には、何か音声ファイルと画像ファイルが添付されていた。そして、『端末を発見しました。座学教室の●●号にあります』という書き込み。

添付ファイルを開く。音声ファイルには、陽炎と野獣の遣り取りを録音したもの。そして画像ファイルは、陽炎が見つけた端末ディスプレイに表示される、ミッション一覧だった。

天龍は顎に手を当てて思案する。そもそも、野獣の言葉を信用しても良いものか。ゲーム進行に携わる以上、間接的には干渉してくるという事だ。それに、だ。

 

「何この糞ミッション!!?(驚愕)」 端末を操作していた瑞鶴が声を上げた。

「えぇ……(困惑)」と、戸惑いの声を漏らしたのは翔鶴だ。葛城は無言で硬直している。

「ハァ~~……(クソデカ溜息)」 加賀はもう遣る瀬無いと言った感じで顔を手で覆う。

空母組の反応も当然だろう。天龍だって気が滅入って来た。陽炎が添付した画像ファイル。

そのATMに似た端末のディスプレイに表示されているミッションの数々は、かなりパンチが効いていた。

 

≪よく冷えたビールを執務室まで持って来い≫、

≪3時のオヤツを執務室まで持って来い≫、などのパシリ系。

 

≪埠頭の真ん中で加賀岬を歌え≫、

≪何か面白い事をして、ゲームオーナー側を笑わせろ≫、

≪最高に格好良い口説き文句で、ゲームオーナー側をときめかせろ≫、などの無茶振り系。

 

≪判断推理の5択問題を、制限時間内に解け≫

≪人文科学分野の5択問題を、連続で5問正解しろ≫、などのクイズ系。

これは、端末を直接操作して回答していくものだろう。

 

そして恐らく本命の、

≪少年提督の執務室に置いてある、失敗ペンギンを手に入れろ≫

≪地下動力室に置いてある、失敗ペンギンを手に入れ入れろ≫

≪鎮守府の何処かにある、長門がプリントされた抱き枕カバーを手に入れろ≫

などの、○○○を探せ系と言った、各種ミッションが画像ファイルからは見て取れる。

自身の持つ携帯端末を見ながら、不知火は顔を歪めた。

 

「なるほど……。こういうカラクリですか」

 

「陽炎のおかげで合点が行ったな……。

野獣が大人しくしてんのも、もう既に手を加える必要が無ぇってワケだ」

 

 天龍も、並んだミッションを一通り眺めてから、大きく息を吐き出した。

パシリ系、無茶振り系、クイズ系など、半ば冗談で作ってあるミッションはともかく、○○○を探せ系のミッションは、完全に待ち伏せが可能だ。

具体的に場所が指定されている項については、罠が仕掛けられて居るのは眼に見えている。どれもこれもリスクが高い糞ミッションなのは間違い無い。

しかし、何も行動を起こさないままでは、鬼である蟲が増えるばかりだ。そうなれば、何れ全滅するだろう。じゃあ、俺達はどう動くか。天龍が口を開こうとした時だ。

 

 風が吹いた。此処は2階だ。窓が在る。さっき締めた筈だ。

何時の間にか空いていた。ゾワッと悪寒がした。全員が携帯端末を仕舞い、席を立つ。

殆ど音がしなかったが、奴らは忍び寄って来ていた。会議室の長テーブルの影。

天龍達から見えない角度から、ソイツらは物凄い勢いで這い出て来た。

鈍色をした精巧・精密な姿を、蒼の微光で薄く包んでいた。

 

床を這い、壁を這って迫ってくる。巨大過ぎるアシダカグモだった。

この距離で見ると本当にヤバイ。脚を広げている大きさとキモさは尋常じゃない。鳥肌ものだ。

 

「だぁあああああああああああああああ!!!!」 天龍は絶叫して逃げる。

「ぅあっッ……!!!!」 不知火も表情を恐怖に歪め、踵を返して駆け出す。

瑞鶴、翔鶴、葛城、加賀も、其々が悲鳴を上げながらも走る。

そんな天龍達に、アシダカグモ達は容赦無く迫ってくる。

 

先頭を逃げる天龍は、ミーティングルームの扉を蹴破って外に転がり出た。

勢い余ってこけるが、すぐに立ち上がって走り出す。不知火達も続く。クモ達が追う。

「もうじき突き当たりだ! 階段だぞ!!」 廊下を走りながら、天龍は背後へと叫ぶ。

 

「上か下か、どっちか決めとけよ!!」

言うついでだ。肩越しに、一瞬だけ後ろを振り返った。全員が頷いてくれる。

更にその背後。追ってきてやがる。クモ共め。全部で3匹。逃げ切れるか……?

 

 

 

 

 

 

 吹雪、睦月、夕立、3人は、緑豊かな中庭を通る、舗装通路を必死こいて走っていた。

その背後には、板金鎧みたいに重厚で長大な体躯を持つ、ニ匹の大ムカデが迫っている。

三人は“改二”の改修が済むほどの錬度が高いものの、今はその勇敢さなど微塵も無い。

というか無理だ。深海棲艦もグロテスクな感じはあるけど、今回はベクトルが違う。

生理的に嫌悪感を与える姿をしているのに、あんなサイズになったら心が折れる。

RPGゲームに出てくるモンスターそのものだ。見たまんまの怪物である。

野獣曰く、あの蟲達は艦娘にじゃれついて来ているだけらしいが、本当に冗談じゃない。

あんなのに捕まったら心に傷を負うどころか、再起不能になってしまう。

 

 吹雪は走りながら後ろを振り返ろうと思うが、止めた。そんな必要が無い。

来てる。首の後ろ辺り。何かが通り過ぎたような、風を切るような音が聞こえた。

ガチャガチャガチャ……!!! という、金属が地面を削る足音。

キチキチキチ……、チチチチチ、という、硬い物を擦り合わせる様な音。

これは、吹雪たちのすぐ背後に居るムカデ達が、顎を鳴らす音だろう。寒気がした。

いや、ほんと! もう、音がね! すごい近いんだけど! 近い近い近い近い近い……!!

来てる来てる来てる来てるヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ……!!!

「(><;)ううううううううううううううううううううううううううーーーーッ!!!」

吹雪は涙を堪えて走る。泣いてない。まだ泣いてない。でも泣きそう。

 

「ムカデさん!!! ムカデさん許して!!! 心肺壊れるっぽいぃ^~~!!!」

「あぁぁああああああああああああ!!! もうやだぁあああああああ!!!」

 

 夕立と睦月も絶叫と共に走る。逃げるしか無い。捕食者と餌食の構図だ。「蟲どもぉ!! これでも喰らいやがれぇ!!」 しかし、そんな三人を救うべく、誰かが叫んだ。

走る吹雪達の右斜め前。中庭の植え込みの影からだ。誰かが、ハンマー投げみたいに身体をぶん回して、何かを剛速で投げつけるのが見えた。赤い。あれは、消火器だ。

凄い勢いで回転している。砲弾みたいに飛んでくる消火器は、丁度吹雪達には当たらない角度で、しかし、首を擡げた大ムカデの頭には、抉り込むような角度で飛んで来た。

グァアッツーーーンッ!!! と、めちゃくちゃ良い音が中庭に響く。一匹の大ムカデが、頭に消火器をまともに喰らう。頭を上げていたせいで、横に倒れていく。

そのまま隣に居た大ムカデに縺れるようにしてひっくり返った。大ムカデ達の足が、一蹴止まる。その隙に、吹雪達はムカデ達を引き離す。

消火器を投げて助けてくれた艦娘は、「こっちだ!!」と腕で、ジャスチャーしてくれた。彼女も駆け出す。小柄な背中だ。速い。

その背中を追う。背後を見ると、もう大ムカデは追ってきていない。ホッとし過ぎてちょっと漏れそうだったが、我慢しなければ。

 

 

 少しの間、彼女について走る。彼女が駆け込んだのは、鎮守府内の弓道場だ。

それも中では無く、手入れされた庭の茂みに駆け込んだ。身を隠すのには丁度良い。

植えられた木に背を預ける格好で、乱れた呼吸を整えながら彼女は座り込んだ。

後頭部を植え込みの幹に当てるようにして空を仰いで、深呼吸している。

吹雪達も膝に手をついて呼吸を整えていると、彼女は顔を上げて笑って見せた。

駆逐艦。朝霜だ。「あの消火器、良い武器になりそうだったけど、早速使っちまったな!」

精悍でありながらも、やんちゃそうな笑顔だったが、彼女の魅力を引き立たせている。

息を整えながら笑う朝霜に釣られ、吹雪も少しだけ笑顔を浮かべる。

それから、夕立と睦月と一緒に、助けて貰った礼を述べた。同時だったろうか。

「無事だったんですね。……良かった」と、また別の声が聞こえた。

現れたのは、疲れたような貌をした大淀だった。吹雪達を順に見て無事を喜んでくれた。

安堵したような貌で微笑んで、ほっと息を吐き出している。

どうやら二人共、一緒に此処に身を隠していた様だ。

 

 吹雪達は、軽巡である大淀に一度頭を下げる。

それから手短に、大淀から現在の状況について軽く説明を受けた。

埠頭から逃げてきた大淀は、途中で二人と一緒になり、行動しているのだという。

他にも足柄や明石も居たのだが、逸れてしまったとの事だ。

だが、まだ脱落者を伝える連絡が携帯端末に無いので、まだ生き残っている。

それは間違い無い。こうした生存者との連携を取るべく、手が打たれてあると言う。

ゲーム序盤の今。艦娘囀線を使いながら連絡を取り合い、情報を募っている段階らしい。

陽炎が考えた案らしいが、大淀が参加したことで、一気に参加する艦娘が続いたとの事だ。

吹雪達も端末を取り出し、艦娘囀線を起動してログインする。

陽炎が立てたであろうスレッドにも、もう多くの書き込みが在った。

 

 陽炎の書き込みには、『陽炎@kagerou.1.●●●●●』の表示が在る。恐らく、●●●●●の数字とアルファベットは、艦娘の識別番号なのだろう。

各鎮守府には、同じ名前の艦娘が居ることがあるが、其々で錬度や人格の有無に於いて違いが在る。その為、この番号で“どの陽炎”なのか、厳密に分かるようになっている様だ。

本営からは回覧板程度の価値しか見出されていないだろうアプリだが、その辺りの厳格さや規則ばったところは軍属アプリっぽい。

その分。見易いレイアウトと整理されたインターフェースで、扱うのも簡単だ。吹雪はディスプレイをスクロールさせる。タイムライン的には、上から下に見れば良いようだ。

 

 

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

俺は不知火と行動してる。加賀、翔鶴、瑞鶴、葛城とはぐれた。

生きてるなら此処に書き込んでくれ。俺達は工廠裏手の資材置き場に隠れてる。

ついでに、端末も見つけた。この近くだ。いつでも動ける。

ミッションを受ける時は、至急メールくれや。

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

了解です! 私達も新しく端末を見つけました! 

●●棟一階のトイレ前です! ただ、巨大なゲジゲジが一杯居て近づけません。

此処に留まるのは危険と判断し、私達は一度場所を変えます。

 

 

≪山城@husou2.●●●●●≫

ちょっとすみません!!!!!!!!!!! 

緊急事態です!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

扶桑姉様と逸れました!!!!!!!!!!!!!!!!!

お見掛けましたら、私の端末までメール下さい!!!!!!!!!!!

何でもしますから!!!!!!!!!!

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

えぇ……。

 

 

≪扶桑@husou1. ●●●●●≫

こけたなう

 

 

≪山城@husou2.●●●●●≫

扶桑姉様!!!!!!!!!!!!

今どちらに居られますか!!!!!!!????

至急向います!!!!!!!

 

 

≪満潮@asaio3.●●●●●≫

@husou2.●●●●● いや、至急向いますじゃないから。

私達と逸れて、そっちが勝手に一人で迷子になってるだけだからね。

私達は一旦、天龍達のトコに向かうわ。向こうで合流して。

 

 

≪山城@husou2.●●●●●≫

@asasio3. ●●●●●  はい

 

 

≪満潮@asaio3.●●●●●≫

よろしい。私達は霞と朝潮、それから扶桑と一緒に居るわ。

あとは、●●号の庁舎には近寄らない方が良いわ。凄い数のゴキよ。

近くに居る人は注意して。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな

 

 

≪曙@ayanami8.●●●●●≫

なんか居るんだけど!!?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おいAKBNォ、俺とお前の仲だろ? そんなツンケンすんなよ

 

 

≪曙@ayanami8.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat  死ね。あんたと私が、一体どんな仲ですって?

 

 

≪レ@bikibikibikini123≫

ワーオ! ツンデレね!?(レ)

 

 

≪曙@ayanami8.●●●●●≫

@bikibikibikini123 絶対違うから!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

女の子が“死ね”とか言ってはいけない。†悔い改めて†

そんなんじゃ提督に嫌われるぞお前。なぁMTSOォ、お前もそう思うよな?

 

 

≪曙@ayanami8.●●●●●≫

召されろ

 

 

≪満潮@asaio3.●●●●●≫

亡くなれ

 

 

≪レ@bikibikibikini123≫

ダブルツンデレ!!(レ)

 

 

≪球磨@kuma1. ●●●●●≫

いや、野獣提督が此処に張り付いてるなら好都合だクマ!

≪何か面白い事をして、ゲームオーナー側を笑わせろ≫、

≪最高に格好良い口説き文句で、ゲームオーナ側をときめかせろ≫、

とかは、此処でやっても良いクマ? 

 

 

≪多摩@kuma2. ●●●●●≫

さすがに一々端末の前でやるのはリスクが大き過ぎるニャ。

蟲の数も多いのに、端末に近づくだけでも一苦労ニャ。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

しょうがねぇなぁ…… 

じゃあ、検索用タグ付けて書き込んでくれや!

俺と此処に居る奴らで、じっくり審議してあげるからさ。 

タグはミッション名の前に“♯”付けてやれよ?

 

 

≪球磨@kuma1. ●●●●●≫

やったクマ。よし、じゃあ木曾 

景気付けに一発頼むクマ

 

 

≪木曾@kuma5. ●●●●●≫

何で俺が! と言うか、こっちはそんな場合じゃない! 

阿武隈と一緒に寮の裏手に居るが、この辺りは蟲の数が多過ぎる。

碌に動けないんだ。勘弁してくれ

 

 

≪多摩@kuma2. ●●●●●≫

あくするニャ

 

 

≪木曾@kuma5. ●●●●●≫

やったら助けに来てくれるのか

 

 

≪球磨@kuma1. ●●●●●≫

球磨と多摩も身を隠している最中だけど、考えてやるクマ。

 

 

≪木曾@kuma5. ●●●●●≫

わかった

 

 

≪木曾@kuma5. ●●●●●≫

ちょっと待て

 

 

≪木曾@kuma5. ●●●●●≫

行くぞ

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

Bosukete

 

 

≪木曾@kuma5. ●●●●●≫

♯ 格好良い口説き文句

 

“俺の眼帯が何の為か、お前に分かるか?

教えてやる。両眼でお前を見詰めると、恋が始まっちまうだろう?”

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、やべぇ!! 110番だな!!

 

 

≪木曾@kuma5. ●●●●●≫

何故だ!!?

 

 

≪北上@kuma3. ●●●●●≫

我が妹ながら、これは無いわー……

って言うかコレ、別に口説いて無くない?

 

 

≪大井@kuma4.●●●●●≫

真面目にやってる?

面白い事をする方と間違って無い?

 

 

≪球磨@kuma1. ●●●●●≫

木曾。駆逐艦の艦娘達も利用するんだから、此処でそういうのは止めるクマ

 

 

≪多摩@kuma2. ●●●●●≫

木曾に人権が無くなったニャ。凄い塩対応ニャ

 

 

≪木曾@kuma5. ●●●●●≫

もう俺は何も言わん

 

 

≪阿武隈@nagara6. ●●●●●≫

木曾さんが泣いちゃったじゃないですかーー!!

ホントにこっちは身動き取れないんですぅ!!

そういう姉妹イジリは、今は控えて下さいぃーー!!

 

 

≪プリンツオイゲン@Admiral Hipper3.●●●●●≫

あの! 盛り上がってるところ横からすみません! 

ビスマルク姉様のSOSが埋もれてます! スルーされてるんですけお!

あの、ビスマルク姉様!! 今、どちらに居られますか!?

 

 

 

 タイムラインを其処まで読んだ時点で、吹雪は首を傾げて渋い貌になった。

吹雪だけでなく、睦月と夕立も、何とも言えない貌で端末をスクロールさせている。

脱線しまくってるし、これ、ちゃんと機能していくのか分かんないなぁ……。(一抹の不安)

 



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修正版 短編3 中

 とりあえず最後までタイムラインを追いかけてみる。ビスマルクは、リットリオやローマと行動しているプリンツに救出されたようだ。

ゴミ置き場のポリバケツに身を隠したままで、さっきのボスケテメッセージを送って居たのだと書き込んでいる。

どうやら、ビスマルクが必要以上にビビって無我夢中で逃げた結果、プリンツ達と逸れてしまったという事だった。可愛いというか、らしいと言うか。

錬度も高く、戦闘においては非常に頼りになるのに、こういう時にポンコツになるのは何時ものことだ。取りあえず、無事で良かった。

あとは、身を隠している艦娘達で、≪何か面白い事をして、ゲームオーナー側を笑わせろ≫、≪格好良い口説き文句で、ゲームオーナー側をときめかせろ≫についての書き込みが暫く続いた。

その内に、ただセリフを言うだけでなく、状況まで説明する書き込みが増えて、タイムラインの流れが加速していく。

 

 

 

≪妙高@myoukou1.●●●●●≫

愛しい人を後ろから抱きしめながら

“分かりますか? 貴方を抱きしめているのは私ですよ?”

 

 

≪那智@myoukou2.●●●●●≫

照明を落とした暗い部屋で、愛らしい彼をベッドへと押し倒しながら

“今夜ばかりは、……呑ませて貰おう”

 

 

≪足柄@myoukou3.●●●●●≫

朝、隣で眼を覚ました恋人の顔を見詰めながら

“夢でも会えたのに、眼が覚めても貴方に会えるなんて……、素敵……”

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

うわキツーー!!

 

 

≪羽黒@myoukou4.●●●●●≫

す、すみません!! 上の3つの姉さん達の書き込みのタグは、

“ ♯ 面白いセリフ ”でお願いします!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

末妹の迫真フォローが光る!

MYOUKU型怖いなー、戸締りすとこ……。

 

 

≪那智@myoukou2.●●●●●≫

酷い言われ様だな。私の渾身の作だぞ。何処が悪いんだ?

 

 

≪足柄@myoukou3.●●●●●≫

私だってそうですよ!

今、真っ赤になって蹲ってる妙高姉さんだって、考え抜いた台詞なんですよ!?

酷い言い草じゃないですか!?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

もっと上の方書き込みも見て。ホラホラ?“口説け”って言ってんの? 

分かる? お前らの書き込みだと、口説く段階がすっ飛んでるだよね?

MYOKUはギリギリというか、きわどい感じだけどさぁ、

NCは男の方に襲い掛かってるし、ASGRは一線越えてるしで、もうどういうこったよ?

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

おっと、此処はどうやら私の出番のようネー!

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

夜が更けた、テイトクと二人っきりの執務室。

ゆっくりと服を脱ぎながら、“shall we dance ……?”

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

下ネタばっかじゃねぇかこの鎮守府ィ!!

 

 

≪レ@bikibikibikini123≫

ケッコン指輪を渡しながら、“Fuc● you”(レ)

 

 

≪叢雲@fubuki5. ●●●●●≫

えぇ……、プロポーズのタイミングで喧嘩を売るの……。

 

 

≪電@akatuki4. ●●●●●≫

あーもう、無茶苦茶なのです。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

タブレットで見た感じ、SGRとYMTが俯いて肩を震わせてるから、

もう何て言うかこれはこれで、ミッションクリアでも良いかもしれねぇけどなー。

ただ、あんまりにもアレだからね? もうちょいガンバろっか?

じゃあ今から、YMTとSGRが手本見せてくれるから、よーく見とけよ?

豚カツと酒樽と紅茶とレは、ちょっと参考して、どうぞ。

 

 

≪豚カツ@myoukou3.●●●●●≫

豚カツって私の事ですか!?

 

 

≪豚カツ@myoukou3.●●●●●≫

あれっ!? 何か私のID表示変わってる!!?

 

 

≪酒樽@myoukou2.●●●●●≫

誰が酒樽だ!?

 

 

≪紅茶@kongou1. ●●●●●≫

えーー……。

 

≪レ@bikibikibikini123≫

Yes, sir!

 

 

≪大和@yamato1. ●●●●●≫

あの、本当にやるんですか?

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

此処だけ参加するのも、何だか変な感じだね……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

この掲示板にライヴ感も出るから、大丈夫大丈夫!

おし、じゃあSGRにから行ってくれやオラァン!

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

うん

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

一緒に、澄んだ夜空を見上げながら。“月が綺麗だね”。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

こういうので良いんだよ、こういうので

 

 

≪大和@yamato1. ●●●●●≫

“私の居住性は、如何ですか?”

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おいYMTァ!! 人のこと笑えねぇぞお前!

せっかくSGRがさぁ、マトモな台詞で流れを戻そうとしてんのに、

其処に下ネタを思いっきり被せに行くんじゃねぇYO!!

 

 

 

 

「コレ、かなり混乱してるみたいですけど、大丈夫なんですかね……?」

 

 弓道場の庭に身を隠している吹雪は、携帯端末から顔を上げて、大淀の方を見た。今の艦娘囀線のタイムラインの無軌道振りには、大淀も苦笑を浮かべている。

その大淀の手には、何時の間にか携帯端末では無く、事務処理を行う為に使うタブレットが在った。吹雪は、興味を惹かれてそのディスプレイを見詰める。

何らかの作業を行っているのだろう。艦娘囀線のウィンドウの他に、複雑な文字列で構成されたページが表示されている。吹雪の視線に気付いた大淀が、一つ頷く。

 

「有用な情報も確かに在りますので、この辺りを整理すれば問題無いでしょう。

逃げながらの片手間ではありますが、私と初雪さんで“まとめページ”の作成に取り掛かっています」

 

 もう少し時間が必要ですが……。吹雪へと答えながらも、大淀は軽く笑みを浮かべて作業を続けている。

ディスプレイを操作する大淀の指裁きは見事なもので、まるで楽器でも奏でているみたいだ。あそこまで行くと、もう職人技だ。真似できない。

初雪と吹雪は仲も良いし、ネット関係に詳しい事は知っている。しかし、初雪が持つコンピュータースキルについての実力は、吹雪も良くは知らない。

だが、この大淀と共同で作業をしている時点で、相当なものなんだろう。心の内で、友人である初雪の事を軽く尊敬してしまう。

 

「他の面子の動きが把握できるってのは、結構有難ぇよなぁ」

地べたに座り込み、背中を植え込みの木に預けた朝霜は、言いながら端末を取り出して、片手で操作している。

 

「うん。……でも、野獣提督の動向が気になるっぽい」

姿勢を低く落とした夕立が、思案顔で顎に手を触れて、地面に視線を落としていた。

 

 野獣がスレッドに張り付いているのは間違いない。

同時に、野獣はスレッドを監視していても、此方に直接手を出せない。

その分、蟲の増減に関わったりする間接的な干渉は可能であるというのが現状だ。

吹雪は一度携帯端末を仕舞い、頭の中で情報を整理する。

野獣側は、蟲の数の増減に関わる操作は可能であり、蟲達の強制停止も可能。

反面。蟲を統率出来ない。行動範囲の指定も不可能。野獣の指示で、蟲達は動かない。

だからこそ陽炎は、艦娘囀線の使用を提案出来たのだし、他の艦娘も参加した。

こちらの情報を曝すことになっても、野獣がそれを悪用出来ないからだ。

此処までは良い。だが、あの野獣の事だ。恐らくまだ明かされていない要素が在る。

そういえば……と、睦月が言葉を零した。

 

「野獣提督は、蟲達の数を弄れるんだよね? 

その延長でさ、蟲達に何か変化を齎すことって出来るのかな? 

例えば、サイズが巨大化したりとかは……流石に、無いよね?(希望的観測)」

 

 不安げに言う睦月に、全員の視線が集まった。緊張と、少しの沈黙の間があった。

蟲達への命令・操作は不可能であるという事。これは明確な仕様だ。

艦娘側が突ける弱点でも在る。しかし、これが何か引っ掛かる。

野獣が干渉出来る領域は、未だ不明なままだ。怪しい。

野獣は、まだ何かカードを伏せている気がしたのだ。

「そ、其処までは流石に、大丈夫じゃないかなぁ」と。吹雪はぎこちなく笑う。

しかし、その吹雪の傍で作業の手を止めている大淀の表情は、えらく深刻そうだった。

朝霜と睦月、それから夕立も、割と真顔だ。嫌な空気になった。途轍もない不安を感じた。

「ちょっと……、き、聞いてみましょうか?」 吹雪は、再び端末に眼を落とす。

そして端末を操作し、艦娘囀線に書き込む。

 

 

 

 

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

あの、すみません! 野獣司令官! 

ご質問させて頂いても宜しいでしょうか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、どうしました?

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

有り難うございます! 質問させて頂きます!

あの、蟲達への命令が不可能である事は、先程伺ったのですが、その……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

歯切れが悪いなぁ、おい。

もっとズバッと聞いてくれても良いゾ

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat  わ、分かりました!

野獣司令官が、間接的にゲームに干渉する領域についての質問なんです。

例えばですよ? 例えばなんですけど、蟲達が更に巨大化とかは、出来たりしませんよね?

蟲達への命令・指示は出来無いから、安心しろとはお聞きしましたが

こういう蟲達への変容とか形態変化については、何も仰っておられなかったので……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 

 

 

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

おい! 其処で黙るな!! 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

やろうと思えば

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

 

 

 

≪摩耶@takao3.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat  ざけんな!

今でさえ身の毛のよだつサイズだろうが!!

 

 

≪瑞鶴@syoukaku 2.●●●●●≫

冗談じゃないわ!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

ゲームのフィナーレに差し掛かったら、全部の蟲を巨大化させてビックリさせたる!

と思ってたのに、FBKにネタバレまで誘導されちまったなぁ……。

あーつまんね

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

あ、あの、何かすみません。どうしても気になったので……

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

謝る必要は無ぇぞ、吹雪。むしろGJだ。

此処で気付けてなかったら、最後の最後に大どんでん返しを喰らうところだったぜ。

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat ねぇ、もうハッキリさせておきましょう?

あの蟲達に対して、そっちは遠隔で何処まで干渉出来るの?

数の増減。サイズの変更。あとは?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

しょうがねぇなぁ。教えてやるよ。

あの蟲達は金属細工だけど、其々に特殊な術紋を刻んであるから。

お前ら艦娘を顕現させる事に比べりゃ、外見や質感の変容なんざ朝飯前だし、多少はね?

表面積の増加! 姿形の切り替え! 外骨格の色調変化! って感じでぇ……。

 

 

≪深雪@fubuki4. ●●●●●≫

つまり……、どういう事だってばよ……?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

まぁ簡単に言うと、サイズの他にも、姿そのものを変えられるゾ。

妖精達の協力のもと、特殊な液体金属を加工・調律しまくってFOOO気持ちィ!

体色も変えられて良いゾ~、これ! その気になれば、ステルス迷彩も可能ですね……。

見えねぇってのは怖ぇなぁ?

 

 

≪初雪@fubuki3. ●●●●●≫

まるでプ●デターみたいだぁ。

誰もクリアできなくっちゃう、ヤバイヤバイ……。

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

何でそんなゲームバランスがぶっ壊れる要素をわざわざ入れてくんのよ!?

馬鹿なんじゃないの!? 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

ゲームバランスは尖ってるくらいの方が面白いって、それ一番言われてるから。

KSMだって毎回、お漏らしするくらい喜んでくれてるダルルォ!?

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

ころすぞ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

じゃあ蟲達を何体か人型にしといてやるから、それで許してくれよなー。

ゾンビとかジェイソンとかぁ、ホラー系の着ぐるみモンスターとかも、如何っすか?

まずは、お試しで5体くらいに変質命令出しといてやるよ。お前らの為に。

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

ある意味、蟲よりおぞましいんですがそれは……。

脱落者になる判定もガバガバだし、どう対処して良いかもう分からない感じですけど。

 

 

≪羽黒@myoukou4.●●●●●≫

@kagerou1 それ、私も気になっていたんです。

捕まったら即失格という認識で良いんでしょうか……?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@kagerou1.●●●●●、@myoukou4.●●●●● 

その辺も説明不足だったなぁ……。

お前らが首に着けてるチョーカーを奪われたら失格だゾ。

ちょっと凶器っぽいものを持たせてあるけど、お前らを攻撃するプログラムは無いから。

締め切った扉をぶっ壊したり、鍵を抉じ開けたりする為のものだから、安心!

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

ビジュアル的にかなりサイコホラーだと思うんですが、それは大丈夫なんですかね……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

テーマパークの大規模パレードイベントみたいなモンだし、へーきへーき!

季節外れのハロウィンパーティだと思って楽しんくれよな! ンハッ☆

 

 

 

 

 

 

 其処までの書き込みを眼で追ってから、携帯端末から視線を上げた。

伊58は、軽く息をつく。58は立ち止まっていない。移動している。

そろりそろりと庁舎外壁に沿うように、物陰から物陰へと、音も無く移動していく。

舗装道には出ずに、植え込みや庁舎と庁舎の間を縫うようにして進む。

体勢を低くして、周りの状況を注意深く窺いながら進んでいく。汗が、頬を伝う。

一応、スニーカーを履いているが、服装はいつもの艦娘装束である水着とセーラーである。

今日は風がぬるい。体温が上がっている所為で余計にそう感じるのかもしれない。

視線だけで空を見上げる。青くて、高い。それなのに息が詰まる。海の中に居るみたいだ。

遠くで、蟲の這う音がしている。金属音だ。ガチガチガチ……。キチキチキチ……。

不気味な音だ。この音から距離を取る。遠ざかるように移動する。無理はしない。

少しずつ前進する。その伊58の背後には、伊19、伊8、呂500が続いている。

伊19と伊8は、いつもの艦娘装束である水着の上に、白いパーカーを羽織っている。

呂500は、伊58と同じく、水着の上にセーラー服を着込んでいた。

 

4人は機能性の高いスニーカーを履いている。足音をほとんど立てない。

忍び足で、天龍達と合流すべく資材置き場を目指している。

伊401、伊168、まるゆとは逸れた。今は連絡がつかない。

ただ、捕まったという連絡が無いから、まだ無事の筈だ。何れ合流できれば良いが。

 

「ね、ねぇ、でっち……。まるゆー達、大丈夫かなぁ……?」

不安そうな声が背後から掛けられた。呂500だ。伊58は肩越しに振り返る。

 

「だから、“でっち”じゃないでち。

……きっと大丈夫だから、今は自分の事に集中するでち」

 

 声は潜めつつ、落ち着いた口調で伊58は言う。呂500は、「うん……」と頷いた。

伊58も頷きを返して、前を向く。庁舎の影から出て、舗装道路を横切る。

また別の庁舎の影に身を潜めて、外壁に沿うようにして隠れて進む。

呼吸を整える。海で居る時と同じ様に、気配を殺す。そして、足音も鳴らさない。

草の上でも、コンクリの上でも、姿勢を落とし、滑るようにして素早く歩を進める。

蟲達が鳴らす、不気味な金属音を避けつつ、とある庁舎の裏へと回りこむ。

裏手の舗装道に出る。其処には、庭手入れの道具を入れておく小振りな物置が在った。

その倉庫の隣には、あのATMに似た端末が鎮座していた。伊58は周りを見回す。

蟲の姿、気配は無い。それを確認したのは、携帯端末を取り出した伊8も同じだった。

 

「今なら、問題を解くタイプのミッションにチャレンジ出来るね。

でも、……どうしよう? 先に、天龍さん達のところへ向おうか?」

 

「今のタイミングなら、触るだけ触ってみても良いかもしれないね……。

問題の中身がどんな感じなのか、また皆に知らせることも出来るでち」

 

「取り合えずイクは艦娘囀線で、此処の場所を皆に知らせとくのね!」

 

「うん、お願いするでち」 

 

 伊58は伊8と伊19に言いながら、端末の隣の物置に歩み寄る。

その伊58の後に続いて、呂500も倉庫に近付いた。伊58が物置の戸を開ける。

少しの黴臭さと、緑の臭いがした。暗がりに差し込む光に、薄く土埃が舞っている。

中は狭いものの、庭手入れの為の用具が整頓されて置かれていた。

伊58は物置の中に入って、草刈用の鎌を2本、手に取ってみる。軽く、取り回し易い。

刃も錆びたり毀れたりしていない。白く、鋭い。切れ味は良さそうだ。

 

「それ、ど、どうするの?」と、背後から伊58の手元を覗きこむ様に、呂500が聞いてくる。

「武器に出来るかもしれないでち」 伊58は軽く笑いつつ、次は傍の棚から剪定鋏を手に取った。

枝を切る為のものだろうが、分厚い鋏部分と鋭い先端部分は頑丈そうだ。これも使える。

 

「ちょっとゴメンでち! 端末の場所を伝えるついでに、

あの蟲達って攻撃しても良いのかどうか、野獣提督に聞いて欲しいでち!」

 

伊58は物置の中から外に居る伊19に声を掛ける。「わかったのね~~!」という返事が聞こえた。

呂500は物置の外と、物置の中で庭手入れの用具を漁る伊58を、不安そうに見比べる。

 

「でっち、あの蟲さん達と戦う気で居るの?」

 

“でっち”じゃないでち。と、呂500の方へと視線だけ向けたが、すぐに物色に戻る。

ガサゴソと音と埃を立てながらしゃがみ込んで、伊58は有用そうなものを探していく。

 

「戦うと言うよりも、出来れば追い払えないかなぁと思って。

いざという時、丸腰じゃ困るでち? ろーも何か持っておくでち」

 

「う、うん……」 掠れた小さい声だった。

 

 大人しかったU-511から改装を受けた呂500は、非常に明るい性格になった。

快活で前向きになった。それでいて、U-511の時の鋭い判断力や思考速度を持っている。

良い変化だと思う。ただ今はどうも、異常にオドオドとしている様に見える。

「ろーは、蟲が駄目なんでち?」 伊58は振り返らずに聞くと、重たい無言が帰って来た。

これは肯定だろう。鼻から息を吐き出して、立ち上がった伊58は振り返る。

それから手に持っていた鎌を2本と、剪定鋏を呂500に持たせた。

 

「そんなオドオドビクビク怖がってたら、野獣提督の思うツボでち」

 

呂500は、いきなり両手に鎌と剪定鋏を持たされて、「えっ、えっ」と少し焦った貌になっている。そんな呂500へと、伊58は笑って見せた。

 

「こういう時こそ、いつもみたいに“ろーちゃんですっ!”って感じで、強気に行くんでち!」

 

「む、無理だよぉ……(震え声)」

 

「まぁ、苦手なものは仕方ないから、ガシガシ戦えって言ってる訳じゃないよ。

まずは生き残ることだけ全力で考えるでち!」

 

若干の涙目になって震え声になる呂500の肩を軽く叩き、伊58はまた笑って一つ頷く。

 

「今はゴーヤもイクもはっちゃんも居るんだから、そんなにビビる事はないでち。

ゴーヤだって怖いけど、ろーや皆居るから平気だよ。怖いけど、へーきへーき!」

 

 実際のところ、伊58だって平常心じゃない。落ち着いてるかと言われれば、絶対に違う。

今だって鼓動は速いし、じんわりと変な汗が額から頬へと伝っている。怖い。恐ろしい。

それでも、何とか思考が働くのは仲間が居る御蔭である。それは心の底から思う。

一人だったら、今のように動くのは絶対に無理だ。立ち竦んで動けないだろう。

伊58の笑顔と激励が伝わったのか、呂500も少しだけ笑って頷いた。

 

「さぁて気合も入ったところで、そろそろ行くでち」

 

 伊58は言いながら、物置の隅へと歩み寄り、大振りな機材を二つ手に持った。

芝刈り機とチェーンソーだ。どちらも埃こそ被っているものの、使われた形跡が無い。

鎮守府の備品として、新品のままで置いてあったものだろう。

さすがに、呂500もぎょっとしていた。伊58はちょっと凶暴な笑みを浮かべる。

「使っちゃ駄目だってルールは無かった筈でち」 しれっと言いながら物置の外へ出た。

埃の臭いに変わって、涼しい潮風の匂いがした。伊58は大きく息を吸い込んだ。

深呼吸をしてすぐに、携帯端末から顔を上げると、にひひっと笑う伊19と眼が合った。

 

「蟲達への攻撃はOKだって許可が出たのね! 

ゴーヤも、中々……アグレッシヴなの~♪」

 

伊19は、伊58と呂500が持つ鎌やらチェーンソーを見て、楽しげに笑っている。こういう時の伊19の笑顔は、いつも通りで凄く安心する。

その隣で、ATMに似た端末を操作する伊8の方も、伊58と呂500が持つ物騒な装備品を見比べて、苦笑を漏らしていた。

 

「此処の端末から問題に挑戦するように伝えたら、みんな賛成してくれたよ。

 安全なうちにチャレンジしてみてだって。正解すれば蟲の数は20%減るみたい」

 

「まぁ、はっちゃんだからこそ“チャレンジしてみて”って流れになったんだろうけど。

 これがイクだったら多分、“絶対やるな”って言われてたのね~」

 

「それは、どうかちょっと分からないけど……。結構な賭けだと思う。

答えを間違うと、蟲の数が10%増加するのが、今回のルールだって。

制限時間は5分。端末に答えを入力出来なければ、その時点で不正解扱いになるって」

 

 

 つまり、問題を解いている最中に蟲に襲われても、タイムカウントは止まらない。

リターンもソコソコだが、それなりに隙を曝すことになる訳か。じっとしている5分は長い。

それでいて、知能系の問題を解く為の5分ならば短く感じるだろう。

伊58は周りの様子を窺う。蟲達の気配は無い。金属音は聞こえるものの、かなり遠い。

今の状況なら、伊8にお願いしても行けるか。いや、確かにこれは賭けだ。

勝負に行かないと勝てない。「皆からもGOサイン出てるし、はっちゃんにお願いするでち」

伊58は言いながら、伊8に頷く。伊8は、うん……! と、しっかりと頷いてくれた。

ATMに似た端末に向き直った伊8が、その手元のディスプレイに触れる。

 

 伊8が選択したのは、判断推理の5択問題。公務員試験レベルの問題だ。

見た感じでは、内容も其処まで捻ったものでは無い。スタンダードな内容だった。

我等がはっちゃんなら、これくらい楽勝だろうと、伊58と伊19は顔を見合わせる。

少し早いが、ハイタッチでもしようとした時だった。伊58達に影が落ちた。斜め上から。

物置の屋根だ。えっ、と顔を上げる。眼が合う。分かり難いが、それは複眼だった。

蟲。しかもとんでも無く大きい。カマキリだ。何時の間にこんな距離まで。近過ぎる。

此方を覗き込むようにして、物置の上から身を乗り出しつつ、首を傾けていた。

人間サイズよりもっとある。車くらいだろうか。体型の所為もあって、かなり背が在る。

 

 

「ひっ!!?」 伊8が尻餅を付いた。伊19と伊58が後ずさる。

反応が遅れたのは、二人の傍に居た呂500だった。

 

 悲鳴も上げずに身体を硬直させた呂500は、手に持っていた鎌や剪定鋏を取り落とす。

カマキリがそっちを見た。其処からの動きは疾かった。初動が見えなかった。

音も無く鎌状の前脚を伸ばしながら、呂500を攫うようにして伊58達の前を横切った。

身構えてすらいない、隙だらけの呂500がまず狙われたのは、道理だ。

今はカマキリに抱え上げられるような体勢の呂500だって、見えていなかった筈だ。

気付いたらカマキリの腕の中に居た、という感じだろう。

ただ、カマキリの鎌状の前脚には刃が無い。ツルツルだ。おかげで、呂500は無傷だ。

しかし、無事かと言われれば微妙だ。絶体絶命に近い。

自分の状況を把握した様で、呂500の目が見開かれて、恐怖で貌が引き攣っている。

伊58達を見詰めて揺れる瞳は潤んでいるし、カチカチと歯が鳴っていた。

伊58も伊19も同じだ。カマキリの巨体に呑まれている。彼我の距離は、5m程度。

カマキリも、58達を見詰めたままだ。如何動く。襲ってくるか。向って来るか。

それとも、呂500をだけを連れて行く気か。カマキリも伊58達も動かない。

睨み合うままで数秒が過ぎる。『残り時間、あと3分』という、電子アナウンスが聞こえた。

ATMに似た、あの端末からだ。こんな状況で、問題なんて解けるか。

 

伊58は激しく後悔する。せっかく此処まで気を張っていたのに。

問題を伊8が解けそうな感じだったので、油断した。大失敗だ。すぐに此処から離れるべきだった。

カマキリに捕まったままの呂500と目が合う。呂500は、貌を引き攣らせながらも笑って、小さく唇を動かした。

に。げ。て。で。っ。ち。呂500の震えた声が、小さく小さく聞こえた。

か細く震えた蚊の鳴く様なその声に、伊58は唇を強く噛んだ。

 

 まだだ。まだ失敗じゃない。ミスじゃない。此処からだ。

出来る事は? 何が出来る? 全員で逃げるには? 今、この瞬間だけは、戦うしかない。

「はっちゃんは、問題を頼むでち……」カマキリを刺激しないように、伊58は伊8の方を見ずに、カマキリを見据えたままで小声で言う。

えぇっ!?、と。伊8が声を漏らすのを聞きながら、唾を飲み込む。カマキリはまだ動かない。じっと此方を見ている。距離は近い。

伊58は、手に持っていた芝刈り機とチェーンソーを、ゆっくりと屈みつつ地面に置いた。そして体勢を戻しつつ、横目で伊19を見る。

ついでに、呂500が落とした鎌を一瞥して見せた。鎌は、伊58達とカマキリの、丁度中間辺りに落ちている。伊19に、伊58の思惑が伝わったか。

伊19は伊58にウィンクして見せて、ペロっと唇を舐めながら、姿勢をすっ……と落とした。伊58も、ゆっくりと、しかしグッと低く重心を落とす。

 

 

 空が青い。風が吹いている。伊58は、上着のセーラーをゆっくりと脱ぎ、手に持つ。

髪が揺れるのを感じる。遠くで鳴る、金属音。コンクリートの感触が脚の裏にある。

泣きそうな貌の呂500が、伊58と伊19を見ている。伊8が端末を操作する気配。

神経を研ぎ澄ます。集中する。呼吸を合わせる。先手を取る。或いは、後の先を打つ。

カマキリが後ろに下がろうとした。そのタイミングを潰す。伊58と伊19は飛び出した。

 

 伊19が前、伊58が後ろだった。一気に距離を詰める。

低姿勢で駆ける伊19が、地面の鎌を拾い上げつつ、身体を捻りながらカマキリに迫る。

それを追いかけて、伊58も鎌を拾って手に持ち、ついでに傍に落ちていた剪定鋏も拾う。

鋏は横向きに口に咥えて、伊19と交差するようにジグザグにカマキリへと肉薄する。

カマキリの方は、どちらに狙いを定めるか一瞬だけ迷った。そこを衝く。

サイドステップで惑乱しつつ、伊19が鎌を振り被る。カマキリが前脚を出してくる。

カマキリは片方の前脚で呂500を抱えている。だから、片腕だった。だが、流石に疾い。

伊19が鎌を振るよりも遅かった癖に、カマキリの前脚は伊19の持つ鎌を弾いた。

身体の軸がぶれて体勢を崩された伊19は、そのまま倒れるが受身を取ってすぐに立ち上がる。

離脱すべく、鋭くバックステップを踏んだ。その伊19を追おうとしたカマキリに、今度は伊58が迫る。カマキリも気付く。

だが、伊58はかなり冷静だった。右手に鎌。左手に、脱いだセーラーを持っている。

万全の体勢だ。一方で、カマキリの方は、伊19を追おうとして体が泳いでいた。勝機。

伊58は迫りながら、鎌で斬りかかるのでは無く、カマキリにパスした。鎌を、ふわっと放ったのだ。

勿論、呂500には当たらない角度だ。放物線を描いている。カマキリの目が、鎌を見上げた。飛んでくる鎌を、カマキリは弾こうとする。

そのカマキリの動作へのレスポンスとして、伊58は身体を倒して一気に加速する。自分が投げた鎌の下を潜って、追い越す。上を向くカマキリの懐へ飛び込んだ。

ついでに、その巨体をタタタンッ! と駆け上がる。カマキリが鎌を弾いたのと同時だ。

カマキリに肩車されるみたいな位置まで上った伊58は、口に咥えていた鋏を右手で持ち直す。

そして左手に持っていたセーラー服を、カマキリの顔にズボーーッと着せてやった。

カマキリの動きが強張る。その刹那の間に。58は剪定鋏を両手で持って振り上げていた。

 

「ろーを放せでち!!」

 

 伊58は言いながら、肩車状態になっているカマキリの脳天に剪定鋏をぶち込んだ。

それも一発とか二発じゃない。全部で五発。ガッツンガッツンと思うさま叩きこんだ。

GITITITITITIiiiiiiiiiiiZitititiititititititititititititittititititititit……!!!! 

カマキリは悲鳴にも似た金切り声を上げて、身体を痙攣させた。

「ひゃあああああ……!!」そのカマキリの前腕から、呂500がずり落ちる。

 

 だが、呂500が地面に落ちる事は無かった。

問題を解き終えた伊8が滑り込んで来て、呂500をガッチリとキャッチしたからだ。

伊8は呂500を抱えたまま、すぐさまカマキリから離れる。

それを確認した伊58も、カマキリの肩から飛び降りて距離を取った。

セーラー服を被せられたままのカマキリが、前腕を伸ばしてきたからだ。

視界を塞がれたカマキリの前腕は、もう誰も居ない己の肩辺りを彷徨っている。

其処へ、トドメとばかりに走り込んで行ったのが、伊19だ。

手にはドゥルルルルルンッ!!っと、低い呻りを上げるチェーンソー。

バックステップでカマキリから離れてすぐ。

追撃の機会を伺っていた伊19は、地面に置いたチェーンソーを装備していたのだ。

 

「イックのォーーーー!!」

 

 伊19はいつもの悪戯っぽい笑顔をちょっと凶暴に歪めながら、走り込んで、大きく踏み込む。

カマキリの横合いを走り抜けて抜けていく要領で、その胴体へと、思い切りチェーンソーを叩き込んだ。

フルスィングだった。金属が切断される甲高い音と火花が盛大に散る。ズバァァアアアアアっと行った。カマキリの胴体が、綺麗に両断された。

ズシィィ……ン!! と、金属カマキリの上半身が地面に落ちる。身体ごとチェーンソーを振り抜いた伊19はつんのめったが、何とか耐える。

カマキリの上半身と下半身は、少しの間ジタバタしていたが、すぐにピクリとも動かなくなった。

 

 静寂が訪れた。伊58もその場に座り込んで、大きく息を吐き出す。

思い出した様に、身体に震えが来た。鼓動が暴れている。それは皆、同じ様子だ。

見れば、伊19はチェーンソーのエンジンを切って、ぺちゃっと地面に座って放心状態になっていた。

伊8は空を見上げて何だかボーっとしているし、降ろして貰った呂500の方も、両腕を胸の前にぎゅっと置いて、カマキリの残骸をじっと見詰めている。

呼吸を整えて、伊58は立ち上がる。傍に居た伊19に歩み寄って、手を引いて立ち上がらせた。ついでに、チェーンソーを持ってやる。

伊58と伊19は、伊8と呂500の前まで移動して、二人でニッと笑った。「やったでち!」 「成し遂げたのね!」 伊8も、二人に釣られて笑った。

そんな3人を順番に見た呂500は、助けてくれた皆に礼を言おうとしたようだ。だがその途中で、その可憐な貌がくしゃくしゃになった。

 

「み、みんな、ろーの為に、あ、あり、……ぅ、ありが……、ふぇ……っ」

 

「潜水艦は、皆仲間だからね! 気にすんなでち!」

 

 笑顔で言いながら、伊58は右手でチェーンソーを担ぎ、左手の人差し指で鼻の下をこすった。

伊58の言葉に、「うぇぇぇぇ……、でっちぃ~……!」と、呂500が大泣きして抱き付いた。伊58は、呂500の頭をよしよしと左手で撫でてやる。

改装を受けて明るくなった振る舞いも、“郷に入っては郷に従え”の部分もある。本来の呂500の本質には、U‐511であった時の、少しの臆病さや大人しさも混在している。

今では潜水艦のメンバーにしか見せない、呂500の素顔のようなものを強く感じて、伊58は軽く、しかし優しい溜息を吐きだした。

 

「……もう今日は“でっち”で良いから。だから、そろそろ資材置き場の方へ行くでち。

ぐずぐずしてると、またカマキリに襲われるでち」

 

 伊58が呂500を宥めている間に、伊8が端末を操作し、パスワードを入力してくれていた。伊19は、置いてあった芝刈り機を担いで持ってくれている。

そうこうしている内に、遠くに在った筈の音が、少しずつ近づいて来る。蟲の群れだ。多い。離脱すべきだ。物置に隠れようと思ったが、この人数では厳しい。

カマキリが一体だったから対峙したものの、あれが二体だったら全滅していただろう。幸運は二度も続かない。伊58は呂500の手を引いて、駆け出す。

洟を啜り、涙を拭った半泣きの呂500が、全幅の信頼を込めてぎゅっと手を握り返してくるのが分かった。その小さな手に込められた気持ちが、何だか気恥ずかしかった。

伊19と伊8が此方を見て、何やら楽しげにヒソヒソと言い合う声が聞こえてくる。伊58は呂500の方を振り返らず、資材置き場を目指す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪赤城@akagi1. ●●●●●≫

アナウンスです。

只今、伊8さんが判断推理の五択問題をクリアしました。

ミッションクリアです。パスワードの入力も終えられました。

よって、鬼である蟲の数を20%回収します。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

潜水艦もやりますねぇ! 

しかも、蟲も一匹倒してんじゃーん!

これって、勲章ですよぉ?

 

 

≪摩耶@takao3.●●●●●≫

マジかよ! やるなぁ!

 

 

≪足柄@myoukou3.●●●●●≫

これで一歩前進ね! 

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

胸が熱いな!

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

アナウンスです。

只今、ビスマルクさんが、人文科学分野の五問全てを間違いました。

ミッション失敗です。よって、鬼である蟲の数が10%増加します。

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

続けて、アナウンスです。

只今、金剛さんが、人文科学分野の五問全てを間違いました。

ミッション失敗です。よって、鬼である蟲の数が、更に10%増加します。

増加量は、小数点繰上げです。

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

 

 

≪天龍@tenryu1.●●●●●≫

無情過ぎんだろ! ほぼ振り出しじゃねーか!! 

 

 

≪ビスマルク@bismarck1.●●●●●≫

いや、あの、ホント……

 

 

≪金剛@kongou1.●●●●●≫

Sorry…….

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

数的処理とか知能系ならともかく、

お二人は何で知識系の問題にチャレンジしようと思ったんですかね……

 

 

≪金剛@kongou1.●●●●●≫

何と言うか、イケると思ったんデース……

 

 

≪ビスマルク@bismarck1.●●●●●≫

同上

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

仲間達の出した良い結果に、悠々とカウンターぶち込むのは気持ち良いかァお前らぁ!

……まぁ、実際のところは脱落者がまだ出てないから、状況自体は五分なんだよなぁ。

とは言え、蟲の数も時間経過で増えるし、そろそろお前らもキツくなってくるゾ。

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

アナウンスです。 

加賀さんが、埠頭での『加賀岬』の独唱を終えました。

ミッションクリアです。パスワードを添付したメールを送りました。

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

続けて、アナウンスです。

正しいパスワードが入力されました。蟲達の20%を回収します。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

鎧袖一触よ。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

こんな状況でもしっかり『デデン岬』歌いに行くとか、こいつ相当変態だぜ?

なんとか言えよ。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

『デデン岬』ではありません。『加賀岬』です。

 

 

≪葛城@.unryuu3. ●●●●●≫

埠頭倉庫の傍に端末がありましたので、パスワードの入力も終えました!

私も、皆と一緒にズイズイ出来て楽しかったです!

 

 

≪天龍@tenryu1.●●●●●≫

何処でテンション上げてんだよ……。

加賀達も無事そうで何よりだけど、どんだけ楽しんでんだ。

空母組やべぇな、強過ぎるぞ。

 

 

≪摩耶@takao3. ●●●●●≫

でも、頼りになるのは流石だよな!

周りに蟲も居ないから、アタシ達も動くぜ! 

妙高さん達とも合流したし、地下の動力室フロアに向う。

失敗ペンギン見つけて、蟲の数を減らしてやるよ!

 

 

≪深雪@fubuki4. ●●●●●≫

こっちは吹雪型、綾波型で集まってんだ。今は、皆で提督の執務室に向ってる。

蟲なんか深雪スペシャルでイチコロ、って言いたいところだけど、

危なくなったら全員で逃げるから安心してくれ。ちょっと様子を見てくる。

あわよくばワンチャン、失敗ペンギン見つけてくるぜぇ!

 

 

≪暁@akatuki1. ●●●●●≫

間宮さんから、オヤツ用に羊羹も持たせて貰ったわよ。

響、雷、電、それから鈴谷さん、熊野さんと一緒に、今から野獣司令官の執務室に向うわ。 

あと、今から資材置き場に向う人が居たら気を付けて、何か蟲が一杯そっちに向ってる。

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

間宮さんの羊羹ですか。オヤツの時間が楽しみですね。アナウンスです。

満潮さん、扶桑さん、山城さん、霞さん、朝潮さんが脱落しました。

資材置き場に向う途中だった様です。

 

 

≪天龍@tenryu1.●●●●●≫

ゲッ!? マジかよ!? 

 

 

 

 

 

 

 これを皮切りに、他にも脱落者が続出した。事態が大きく動く。展開が早い。

時間経過での、鬼である蟲の増加に加えて、蟲達の動きが一層機敏になった気がする。

艦娘達は油断している訳じゃない。気を張っている。それでも、限界が在った。

走ればバテるし、緊張が続けば気力だって消耗していく。解消しなければ、疲労は溜まる。

艦娘としての力を顕現する艤装召還を封じられている所為で、余計だ。

だが、文句を言っていても始まらない。出来る事、打てる手を探し、実践するしかない。

陽炎は手に持った携帯端末に電子マップを表示しつつ、大講堂の裏口に滑り込んだ。

その後に、皐月、長月、曙、霰が続く。

 

土足は駄目である為、靴を脱いでから広々とした大講堂の中へと入ってすぐ、陽炎達は全員で一息つく。

蟲達が少ない方、少ない方へと陽炎達は移動しつつ逃げ延び、攻勢の機会を伺っている。この講堂を目指したのも、蟲達の気配が無かった為だ。

 

 

 

「長門さん達も、こっちに向って来てるみたいだね」

息を弾ませながら言い、皐月は端末を操作する。

 

「提督達も一緒だって……」

端末を見詰める霰が、深呼吸をしてから陽炎に向き直った。

 

「蟲の数は増えるのに此方の数が減るというのは、一気に形勢が変わるな」

窮屈そうに言った長月は、ふぅー……、と長く息を吐き出して、呼吸を整えている。

 

「こっちが一人減って蟲が一匹増えたら、単純に差は倍だからね。

 仮に3対3が2対4になったら、全然意味が変わって来るもの……。

っていうかさぁ、……私達、何でこんなの真面目にゲームしてるんだろ……」

曙が溜息交じりに言いながら、額の汗を腕で拭った。

 

「まぁ、クリア報酬は魅力的だけどさ……、単純に捕まりたくないもんね」 

おまけに罰ゲームまであるみたいだしさ、と。緩い声で付け足し、陽炎も苦笑を浮かべて言う。

 

そんな風に軽口を叩きながら、取りあえずと言った感じで、全員が呼吸を整えた時だった。陽炎達が出て来た裏口からの反対方向。講堂の表入り口の方から、誰か来た。講堂への扉が開いたのだ。

タイミング的に長門達だと思った陽炎達がそちらへと向き直り、全員で身体を硬直させる。

「えっ……」と、誰かが声を漏らした。静かな講堂の広い空間に、その声はやけに響いた。

 

 表玄関からの大扉を開けて入って来たのは、男だ。

身長がかなり高い。幅も厚みも在る。巨漢だ。無骨で、巨大な何かを被っていた。

兜にしては大き過ぎる四角錘だ。正面から見ると、見事に三角形だ。▲頭である。異形だ。

身に付けているベージュ色の貫頭衣は、処刑装束か何かなのだろう。

黒いブーツを履いている。服装の上も下も、どす黒い血に塗れ、酷く汚れていた。

更にその右手には、人間の大人くらいの大きさの在る、大振りの鉈。

それを引き摺るように持つ、筋骨隆々で太い腕も血塗れだ。

ただ、明らかに自分の血じゃない。返り血だ。なんて凄惨な出で立ちだろうか。

纏っている雰囲気が尋常じゃない。呑まれてる。動けない。蟲の方がまだマシだ。

間違い無い。明らかにヤバイものと遭遇してしまった。陽炎を含む、全員がそう思った筈だ。

 

▲頭も、陽炎達に気付いた。こっちを見た。次の瞬間だった。

いきなりだった。▲頭が、ダッシュした。ロケットスタート。走り出したのだ。

此方に向って。陽炎達は一斉に回れ右をして、駆け出す。

 

「だぁぁぁああああああああああああああああっっ!!!!」

 

 全員が叫んで逃げる。講堂を駆け抜けて、来た道を帰る。

というか、こっちしか逃げ道が無い。

フロアから通路へ駆け込む。通路は広く無い。

先頭に皐月、長月、霰、潮、曙、陽炎の順で走る。

通路入り口の近くに、パイプ椅子が幾つか置かれていた。

陽炎は咄嗟にそれを二つ、走りながら両手に引っ掴んでから、肩越しに振り返った。

見るんじゃ無かった。▲頭さん……、疾っ……!! 脚、疾ッ……!!!

あんな重そうな大鉈持って、何でそんな疾く走れんの!? 追いつかれるって……!!

そんな風に、陽炎達が必死に暗がりの通路を掛けていると、裏口が見えて来た。

 

しかし、▲頭もすぐ背後だ。

扉を開けて、外に出るまで僅かな時間。そのタイムラグの間に追いつかれてしまう。

一秒で良い。刹那の隙を作る。その為に、殿である陽炎は急ブレーキを掛ける。

手にしたパイプ椅子を握り込む。振り向きざまに、右手に持ったパイプ椅子をぶん投げる。

続いて、左手に持っていたパイプ椅子も放り投げた。

▲頭は、最初に投げつけられたパイプ椅子を、大鉈を振り抜いて叩き落とす。

二つ目のパイプ椅子は左手でぶん殴って弾かれた。だが、それで良かった。

本当に一瞬だったが、▲頭のスピードが落ちた。その隙に、皐月達が外へ。

 

「陽炎!!」 曙の声が聞こえた。「分かってる!!」 陽炎はこたえて、コイツが本命とばかりに、足元に備え付けられていた消火器を持ち上げて、ぶん投げた。

思いっきり投げつけた消火器を、▲頭は大鉈でばっさり行った。おかげで、消火器が爆発したみたいに白い粉を撒き散らす。

煙幕にでもなればと思いつつ、陽炎も曙達に続いて外に駆け出し、逃げる。また肩越しに背後を見遣る。▲頭は、全然怯んだ様子も無く追っかけてくる。勘弁してよ……!

 

 

 

 

 

 

 

 

≪赤城@akagi1. ●●●●●≫

アナウンスです。

暁さん達が、オヤツとビールを無事、執務室まで届けてくれました。

ミッションクリア×2です。両方のパスワードの入力も済んでいます。

蟲達を20%回収し、その後、更に20%を回収します。

 

 

≪熊野@mogami4. ●●●●●≫

やりましたわ! これで、大きく有利な状況が造れたのでは無いかしら?

 

 

≪鈴谷@mogami3. ●●●●●≫

暁ちゃん達、凄く頑張ってくれたよー! 

良い流れ掴んだねー、コレは!

 

 

≪赤城@akagi1. ●●●●●≫

続けて、アナウンスです。

地下フロアの動力室区画に向った摩耶さん達が、全滅しました。

提督の執務室に向った深雪さん達も、同じく全滅です。

正確な人数の把握と確認が出来次第、またお知らせさせて頂きます。

 

 

≪球磨@kuma1. ●●●●●≫

クママッ!?

 

 

≪多摩@kuma2. ●●●●●≫

やばいニャ……、やばいニャ……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

蟲の数も減ったけど、艦娘達の数も大きく減ったなぁ……。

 

 

≪提督@Admiral.female. ●●●●●≫

いや、全滅って……。何が起きたのよ……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

まぁ、人型の追跡者も頑張ってくれてるから、多少はね?

どう? このままだと、蟲達の自然増加数にも圧倒されちゃうよ?

大丈夫そう?

 

 

≪提督@Admiral.female. ●●●●●≫

今のままで状況が推移すれば、そっちがほぼ勝ち確でしょ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな。其処で提案あんだけどさぁ……。ちょっとハンデ上げるよ?

 

 

≪提督@Admiral.female. ●●●●●≫

ハンデですって?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

そうだよ。ちょっとずつ状況も煮詰まって来つつあるし、丁度良いでしょ?

このまま一方的に全滅させるのも面白く無いし、多少はね?

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

御託は要らん。先を話せ。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

今のルールは“時間内での逃げ切り”だけど、

“条件を満たしての勝ち切り”のルールを加えてやっても良いゾ。

ついでに脱落者の全員を含めて、合同勝利にしてあげるよ?

 

 

≪吹雪@fubuki1. ●●●●●≫

私達にとって都合が良すぎませんか。凄く怪しいんですが……。

 

 

≪瑞鶴@syoukaku2. ●●●●●≫

何を企んでるんですか? 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

別に何にも企んで無いゾ。ただ、単純に盛り上がりに欠けるんだよなぁ……。

このまま蟲だけ増やして行って、お前らの行動を締め上げるだけってのもさぁ。

レクリエーション的に考えて、何か足んねーよな? 

 

 

≪陽炎@kagerou1. ●●●●●≫

もう既にレクリエーションの体裁を成してないと思うんですけど。

私達に何をさせようって言うんです? 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

だからそんな身構えんなっつってんじゃねーかよ? 

やる事なんてそんな変わらないから、安心して、どうぞ。簡単だから! 

取りあえず蟲共の半分は、追跡者として人型にしといてやるからさ。

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

さっき言っていたジェイソンやら着ぐるみやらの事か?

やめてくださいおねがいします

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな。まぁ、クソデカ蟲共を相手にするよりはマシだルルォ? 

“勝ち切り”のルールは、『時間内に、全ての端末へのアクセス』でOK? OK牧場?

簡単だから、へーきへーき! パパパッとやって終わりッ!

その分、隠れっぱなしとかのネガティブプレイはNGだから。

頑張ってフィールドを駆け回ってくれよな~

 

 

 



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修正版 短編3 後

 埠頭倉庫の一つ、積まれたコンテナの陰に身を隠した瑞鶴達は、各々で携帯端末を取り出して情報を確認する。先程完成したという、“まとめページ”に目を通していく。

艦娘囀線のタイムラインでは野獣が暴れまわって場を混ぜ返しているが、初雪と大淀の二人が有用な情報をピックしてくれている。

見易くまとめられており、手短に情報を集められるのは有難い。事態は動いている。ハンデが加えられた。逃げ切りでは無く、勝ち切りのルールの追加だった。

勝ち切りの条件は、鎮守府内の全ての端末にアクセスする事である。アクセスは単純に、端末の手元の操作ディスプレイに艦娘が触れるだけでOKとの事だ。

無論、その間も蟲だけで無く、蟲から変形した“追跡者”達にも捕まらないという条件はそのままだ。追跡者は、現在の蟲の数の50%を人型にして用意された新要素である。

多少のホラーの要素を含んでいるらしいが、あの巨大な蟲達を相手にするくらいなら、まだ人型の方がマシだ。難易度自体は下がったと言える。

“まとめページ”に加えられた新しい情報には、摩耶や深雪を含む、大幅な艦娘達の脱落と、勝利条件が追加された事が表示されていた。

他にも、ミッションに挑戦していない艦娘達も、各々で鎮守府内を捜索してくれていたらしく、野獣が設置した端末の数と場所に関する情報も集まって来ていた。

艦娘囀線のタイムラインを追いつつ、瑞鶴はアナウンス係の赤城に、端末数に関する質問をしてみた。すると、野獣自身が15だと答えてくれた。

“まとめページ”に集められた情報によれば、既に8個にアクセスしており、これに関しては順調と言えた。

 

 

「皆は、勝ち切り条件を満たす方向みたいですね……」

 

 手にした携帯端末に視線を落としながら、翔鶴が低い声で零して瑞鶴を見た。瑞鶴は小さく頷きを返す。勝ち切りの為に動く事に対しては、瑞鶴も賛成だった。

逃げ切る為に必要な時間な消費は、それに比例して蟲と追跡者の数が増えていく。そして、この差は時間が経つごとに開いていく。大きく不利になっていく。

ならば、短期で勝負を決められる方が、艦娘達にとっては有利というか、まだ可能性が高い。出来る事がなくなる前に、手を打つことが出来る。

相手をしていて分かるが、あの蟲達も馬鹿じゃない。無軌道で動きが統制されておらずとも、艦娘達を探す動きをしているのだ。

先程、ロッカーに鍵を掛けて隠れていた文月達が捕まったらしいことを見れば、恐らくは熱源探知機能でも搭載しているんだろう。

隠れ潜んで立て篭もる事に、野獣はしっかりとリスクを背負わせてくる仕様にしてある。瑞鶴たちにしても、此処に身を隠して閉じこもっていれば、いずれ見つかる。

ならば、勝利条件を満たす為に動く方がベターだろう。他の艦娘達もそう判断した筈だ。瑞鶴は、軽く息を吐き出した。

 

「鎮守府内の端末数と場所は把握出来ているみたいだし、まずは其方を片付けましょう」

 

 加賀が低い声で言う。加賀の傍には、翔鶴と葛城、瑞鶴が居る。全員、膝立ちにしゃがむ様にして姿勢を落としたままで、その加賀の言葉に頷いた。動く方向は決まった。

蟲達が這う金属音が聞こえるが、かなり遠い。何かが動き回る気配は無い。だが、それでも油断しない。皆、周りの状況を注意深く見て警戒してくれている。

金属蟲達の中でも、カマキリ型などは音も無く近づいて来るという伊58の書き込みが在ったからだ。瑞鶴はゆっくりと立ち上がって、首を回した。

続いて、翔鶴、葛城、加賀も立ち上がる。コンテナの陰から出る。先頭に加賀、その後に続き、翔鶴、瑞鶴、葛城の順で倉庫の裏口へと向う。

 

 細い通路を駆けながら、瑞鶴は腕時計をチラリと見遣る。状況に対応しながら、端末を探していくとなると、ゲームの残り時間にもそこまで余裕は無い様に思えた。

罰ゲームもあるし、慎重に行きたいところだけどなぁ~……。そんな事を考えていると、前を走る翔鶴とぶつかりそうになった。

通路を行く先頭の加賀が立ち止まったので、翔鶴も立ち止まったのだ。瑞鶴は翔鶴に短く謝る。翔鶴は、「大丈夫よ」と優しく微笑んでくれた。

最近、改二への改装施術を受けた翔鶴の風格は、一航戦にも引けを取らない。そう瑞鶴は思っている。

先頭の加賀が裏口の扉をゆっくりと開ける。色々と考えるのも、移動しながらすれば良いだろう。薄暗い通路に、外の光が差し込んでくる。加賀が身体を強張らせるのが分かった。

瑞鶴も前を見た時だった。開かれた裏口の扉の隙間。その少し離れたところだ。其処に、何か居た。立っている。隙間からしか見えなかったが、ゾッとした。

 

 

 もこもこでファンシーな感じの、ピンクウサギの着ぐるみだ。目鼻立ちも子供向けのアニメなどで出て来そうな、コミカルさがある。

きぐるみの表面は、本当に起毛処理されたみたいにフワフワ感があった。これが生命鍛冶の職工としての野獣の技術だとすれば、本当に感歎に値する。

全体的に丸っこい姿なのもあり、普通ならとても可愛らしい印象を受ける筈なのだが、そういう可愛い要素を全てぶち壊しているのが、着ぐるみを汚している“血の痕”だ。

しかも、そのどす黒い血糊は、明らかに返り血である。生々しい殺戮を予想させる凄惨さと、コミカルな外見が一種の狂気を、過剰なほどに演出している。

手には、血塗れの大振りなチェーンソー。分厚い刃の横には、英語で“親愛なる君へ……”の文字が刻まれている。明らかにヤバイ。怖過ぎ。途轍もないサイコホラーだ。

その血塗れウサギの着ぐるみが、ぐるんっ! と、此方を見た。「うっ……!?」思いっきり肩を跳ねさせた加賀が、慌てた様子で扉を閉めてから鍵を掛けて、数歩後ずさった。

加賀だけじゃない。翔鶴も瑞鶴も葛城も、薄暗い倉庫通路を一斉に後ずさる。無理も無い。

扉の向こうで、チェーンソーのエンジンが掛かる音がした。あの桃色ウサギだ。

 

 何をする気だなんて、考える必要なんて無い。決まってる。瑞鶴の予想通りだった。桃色ウサギは、チェーンソーを倉庫の裏口扉へと、乱暴に叩き込み始めた。抉じ開ける気だ。

あの、ちょっと。ちょっと待って。そりゃ妖精さんも居るし、野獣だって金属細工師なんだから、修理・修繕自体はすぐに出来るのかもしれないけどさぁ……! 

瑞鶴達は一目散に通路を駆け戻り、正面から外へ出る。背後の方で、鍵をしめたはずの裏口扉がぶっ壊される音が聞こえた。瑞鶴は肩越しに振り返る。

追っかけて来てる。呻りを上げるチェーンソー片手に、桃色ウサギが。夢に出そう。あんなずんぐりしてる癖に、足がめっちゃ速い。

ヤバイ。漏れそう。さっきは、難易度が若干下がったとか思ったけど、大間違いだった。ホラー成分が増して、ストレスがマッハだ。

 

 

 

 

 

 鈴谷と熊野は、第六駆逐体の四人と共に、庁舎内の資料室に身を隠していた。分厚いファイルが並べられた背の高い棚が、整然と並んでいる。まるで図書館だ。

広めの通路の端に寄り、二人はちょっと埃っぽい空気を吸いながら壁に背を預けて立ち、携帯端末へと視線を落としている。タイムラインを追う。

書き込みによれば、ビスマルクや榛名達が近くに居るらしい。鈴谷達とも合流しようという流れになっており、資料室に居る事は伝えてある。

その遣り取りの中で、リットリオとローマが脱落し、金剛と比叡が脱落した事が分かった。すぐ後には、他にも脱落者が出たことを伝える赤城のアナウンスもあった。

形勢が傾いてから、状況の推移がかなり早い。本当に劣勢だ。しかし、まだ出来る事はある筈だ。短期決着を目指せば、細い勝機を掴めるかもしれない。

実際、勝利条件の変化に立ち回りを合わせつつ、鈴谷達は端末へのアクセスも順調にこなしており、勝利条件を満たす為に貢献していた。しかし、疲れる。

艤装さえ召還できれば疲れなどしないが、今はそうではない。肉体と精神力の勝負だ。継戦時間の限界は、あっという間に来る。回復が必要だ。

 

 今も鈴谷達のすぐ傍で、緊張というか、少々怯えた様子の暁、響、雷、電の四人は、本棚に背を預けて座り込んで休憩中だ。さっきまで、蟲に追い掛け回されたからである。

死に物狂いで逃げて来て、つい先程、この資料室へと飛び込んだのだ。鈴谷と熊野も、それに暁達も、まだ少し呼吸が乱れている。熱い。息を吐き出す。

鈴谷は片手で携帯端末を操作し、もう片方の手で、額の汗を拭った。携帯端末のディスプレイに表示された、タイムラインを追う。新たな脱落者と、生き残っている者の状況。

それらを冷静に読み取りつつ、大淀と初雪が立ち上げてくれた“まとめページ”へと跳んで、まだアクセスされていない端末と場所を確認する。この近くにも、幾つか在る。

溜息を飲み込みながら、鈴谷は携帯端末から視線を外す。後頭部を壁に預けて、コンクリの天井を見上げた。自身の呼吸を整える。辺りは静かだ。蟲達が這いずる金属音は無い。

 

「外、静かだよね。これ行けるんじゃないかな?」

鈴谷は資料室の扉に眼を向けながら、隣に居る熊野に言う。

 

「も、もう少し休憩しましょう鈴谷……。まだ脚がガクガクですわ」

 

 熊野は鈴谷の方を見ながら、参ったように首を振った。

蟲達の見た目で相当に消耗していたからだろう。かなり疲れている様子だ。

膝に手をついて、呼吸を整えている熊野は一杯一杯だ。やっぱり、蟲が苦手なんだろう。

座り込んでいる暁達の貌も、若干グロッキー気味で、多分相当キてるのは間違い無い。

あのサイズの蟲の姿は、精神力をゴリゴリと削ってくる。追いかけ回されれば尚更である。

「そうだね……。もうちょい休憩しよっか」 そう力無く零した鈴谷も、無論だが蟲が好きという訳じゃない。

むしろ嫌いだ。触るのも嫌だが、捕まるのはもっと嫌だ。何とか生き残りたい。

壁に背を預けたまま、再び鈴谷が眼を閉じて軽く息をついた。その時だ。

 

 ダンダンダンッ!、と。資料室の扉がノックされた。鈴谷と熊野が、ビクッと身体を震わせた。

ファイル棚に凭れかかっていた暁や響、雷、電の四人も、肩を跳ねさせて一斉に扉の方を見ている。今まで静かだったから、クッソびっくりするんだけど……。

第六駆逐隊の4人はそれぞれに顔を見合わせてから、おっかなびっくりと立ち上がって、鈴谷と熊野の方へと駆け寄って来た。

鈴谷と熊野は、暁達を庇うように立って、資料室内に視線を巡らせる。幸い、此処は一階だ。窓も在る。扉から蟲が来ても逃げられる。

再び、ダンダンダンッ! と扉がノックされる。全員で、息と唾を飲み込む。扉を睨みつける。

 

 

「居るんでしょ鈴谷。扉を開けて。私よ」

 

 扉の向こうから聞こえた声に、鈴谷は全身から力が抜けるのを感じた。

それは、熊野を含め、暁達も同じ様子だった。鈴谷が扉の鍵を開けて、彼女を迎えいれる。

彼女は艶やかな金髪を揺らし、その隣に立っているプリンツと共に少しだけ笑って居た。

ビスマルクだ。ただ、普段は自信に溢れているその眼には、いつもの力強さは無い。

 

資料室に入ってすぐに座り込んだビスマルクから話を聞くと、やはり蟲達の襲撃に遭い、リットリオとローマが脱落した。

何とか難を逃れたビスマルク達は誰かと合流すべくタイムラインには書き込みを行っていたらしい。必死だったに違い無い。

二人の困憊のした様子を見れば、かなりギリギリだったであろうことは窺える。後は、この面子でどう他の生き残った艦娘と連携を取るか。

 

 鈴谷が携帯端末で“まとめページ”をチェックした。

勝利条件まで必要な端末アクセス数は、さっきまで7だった筈だが、今では4になっている。

タイムラインを見れば、榛名や伊58達の活躍が見て取れた。みんな踏ん張っている。残る端末は、あと4つ。

地図で見れば、この近くにも在る。上手く立ち回って、あと1つ2つくらいは減らしておきたい。じっとしていればジリ貧だ。

もう暫く休憩を挟んだ後。ビスマルク達と共に、鈴谷達は近くにある端末へと向おうという事になった。

 

 慎重に資料室の扉を開けて、ゆっくりと顔を出して廊下の様子を窺う。ぬるい風が吹いていた。鈴谷達が居た庁舎内は静かなもので、気配らしい気配が無い。

大丈夫そうなのを確認して、鈴谷は廊下に出る。続いて、熊野、暁達が順に続いて、プリンツ、殿にビスマルクだ。蟲達は出て来ない。今のうちに移動してしまおう。

鈴谷を先頭に、音も無く廊下を全員で駆けていく。勇敢にも先頭を行く鈴谷は、軽く笑った。

 

「鈴谷達ってさぁ、今回めちゃんこ活躍してるよね?」

 

「あら、私はいつでも活躍していますわよ?

ただ今回の戦果は、暁さん達のフォローもあってこそですわ」

 

 軽口を言いながら、姿勢を落として走る熊野が、鈴谷に笑みを返した。

その遣り取りを聞いていた殿のビスマルクが、ちょっと居心地が悪そうな顔をしている。

先程、金剛と共に知識系問題のミッションでやらかした事を思い出しているに違い無い。

「あの……、ホントごめんなさい」と零したビスマルクは、償いの意味もこめて殿に居るのだろう。

ただ、第六駆逐隊の4人はビスマルクを責めるでも無く、皆でビスマルクを励ましていた。

 

 一人前のレディは、失敗した人を支えるものなんだから! 

まだまだ勝負はついていない。経過点に過ぎないよ。

せっかく強いのに、落ち込んでちゃ駄目よ! ビスマルクさん!

ど、ドンマイなのです! みんなで頑張れば、きっと取り返せるのです!

順に、暁、響、雷、電の言葉なのだが、相当効いたようだ。ビスマルクが泣き出した。

プリンツも苦笑を漏らしている。

妙な面子の行軍だが、不思議と安心感の様なものを感じられた。

 

 その最中だった。鈴谷達の列が、給湯室の扉の前を横切った時だ。

給湯室の扉が、ガラガラっと突然開いた。丁度、暁がその扉の前に居るタイミングだった。

えっ? と、暁がそちらに視線を向ける。其処には、ずんぐりとした何かが居た。

血塗れの着ぐるみだ。コミカルな感じの、青色ウサギである。笑顔を浮かべている

鳥肌が立つ程に酷く不気味な青色ウサギは、音も無くぬぅっと動いた。

放心状態の暁を両脇に手を差し込み、高い高いをするみたいに持ち上げたのだ。

丁度、遊園地のマスコットキャラが、遊びに来た子供を抱き上げるみたいな感じである。

あまりに不自然さを感じさせない動作だった為、全員の反応が遅れていた。

かなりヤバイ感じの絵面だ。盛大に貌を引き攣らせた暁の胸中にあるのは、絶望か。

『こんにちはー☆☆』みたいに、血塗れウサギが、抱き上げた暁を見詰めて首を傾けた。

ヤバイ。あのビジュアルでやられるとクッソ怖い。暁だって身の危険を感じた事だろう。

 

「ぬぅうううううぅぅうううううううううう!!!??」

青ウサギの腕の中で動きを硬直させたままの暁が、毛を逆立たせる勢いで叫ぶ。

悪夢は此処からだった。給湯室から更に2匹。着ぐるみのウサギが、ぞろぞろっと出て来た。

黄色ウサギと緑色ウサギだ。やっぱりどっちも血塗れだ。凄い存在感だ。給湯室にも窓が在った筈だから、其処から侵入しておいてタイミングを見計らっていたのか。

最悪だ。後から廊下に出て来た2匹は、傍に居た響、雷、電の三人を狙い、ゆっくりと迫ろうとした。

 

「ぅあっ……!!?」 

顔を恐怖に歪ませた響は、上擦った声を上げながらも咄嗟に跳び退って逃げる。

 

「いやぁあああああああッ!!」

雷は尻餅をついたものの、そのままの姿勢で必死に後ろに下がって逃げる。

 

「ふにゃあああああああっ!!?」

踵を返してすっ転んだ電もすぐに手を付いて立ち上がり、慌てて逃げる。

 

 三人はすんでの所でウサギ達の魔の手をかわして、距離を取った。

というか、逃げるしかない。艤装を召還できるならともかく。あの体格差だ。

それに加えて、あの不気味なビジュアルの所為で心が折れそうだ。

でも、このままではいけない。理由は簡単だ。青色ウサギがこの場から去ろうとしている。

青色ウサギは、暁を高い高いしたままで、何処かへ連れて行こうとしているのだ。

ぐったりとした暁の方は「ポッチャマ……(白目)」と気絶しており、反応が無い。

このままだと暁がホントにレディになっちゃうのです(意味不明)!! 

 

 焦った電の声が聞こえた。此処まで、ものの数十秒。

踵を返した鈴谷と熊野も、黙って見ていた訳では無い。

めっちゃ怖いけど、暁を見捨てる訳には行かない。

鈴谷と熊野は暁を救うべく駆けようとしたが、それよりも早く動いている者が居た。

ビスマルクだ。普段からホラー系がかなり駄目な筈なのに、全く怯んでいない。

失敗を励ましてくれた暁を救うためか。

恐れを見せない。青色ウサギに迫るビスマルクに、プリンツも並んで走る。

黄色ウサギが、両腕を広て立ち塞がった。二人を捕まえるか、止めようとしたに違い無い。

二人は軍帽を目深く被り直しつつ姿勢を落とし、加速した。プリンツが先行する。

 

 鈴谷と熊野も、ビスマルク達に合わせて攻める。挟み撃ちだ。青色ウサギは、給湯室の窓から逃げるつもりか。

残った緑色ウサギが、鈴谷と熊野の行く手を阻みつつ迎えるように、腕を広げている。

すっと前出てくる。ずんぐりした見た目に反して、その動きは遅くない。鋭い。

 

 黄色ウサギは、体当たりするような具合でプリンツを抱きすくめようとした。

捕まえようとしたのだ。しかし、プリンツはそれに、正面から付き合わない。

駆ける勢いをそのままに「よ~く狙って……!」グッと身を沈めて、鋭く右へと跳んだ。

壁を駆けて、強く蹴る。黄色ウサギが伸ばし来た腕を飛び越えつつ、その斜め前方へ。

プリンツは身体を捻りつつぶん回して、右脚を力任せに振りぬいた。

「Feuer……ッ!!」全体重と勢いを乗せた、レッグラリアットをぶちかます。

クリティカルだ。黄色ウサギはまともに喰らい、円を描く様に一瞬で脚が上、頭が下になる。

後頭部を床で強打していた。プリンツが着地して、その脇をビスマルクが駆け抜ける。

 

 鈴谷と熊野へと迫ってくる緑色ウサギも相当怖い。でも、止まらない。

暁を助けるのだ。二人は速度を上げて、身体を独楽のように一回転させた。

「怖いし邪魔だってのっ……!!」 「とぉおおおお↑おおおおう↓!!!」

親友であり、姉妹艦娘であり、錬度も互いに高い鈴谷と熊野は、正に阿吽の呼吸で動きを揃える。

回転の勢いを殺さず、背中合わせで繰り出したのは突き上げるような胴回し蹴り。

鈴谷が右、熊野が左足の踵を叩き込む、鈴熊☆シンクロナイズドキックだ。

パンツが見えるとか、そういうのはお構いなしだ。御蔭でクリーンヒットした。

顔面だ。変な方向へ思いっきり曲がった。

緑色ウサギはかなりの勢いで圧されて壁に激突し、床に倒れこんだ。起き上がって来ない。

 

 

 ビスマルクとプリンツ、鈴谷と熊野が、其々でウサギを撃破したタイミングだった。

響、雷、電も、勇気を振り絞り、青色ウサギに追い縋る。小柄な三人は、勇敢にも突貫していた。流石は駆逐艦だった。

「暁を放しなさいよ!」雷が青色ウサギの左脚にしがみ付く。「連れて行ったら駄目なのです!」電が青色ウサギの右脚にしがみ付き、動きを止めた。

そして響は青色ウサギの背中によじ登り、背後から首を絞め始める。「УРаааааааааааа!!!!」

 

 青色ウサギの方は身を捩りつつ、片手で暁を抱える姿勢になり、もう片手をフリーにした。

三人のうち、もう一人を捕まえようとしたのだろう。流石に雷と電の二人も逃げる。

響も青色ウサギの背中を蹴って、宙返りを決めつつ少し離れた場所へ着地した。

同時だったろうか。暁も響の気合を聞いて眼が覚めたようだ。

ハッとした顔で自身のピンチと状況を把握した暁の心は、まだ折れていなかった。

「レディに何てことすんのよ!!」抱えられている姿勢から、暁は器用に身を捻った。

青色ウサギの顎に、靴底の踵部分を叩き込むようなケンカキックを繰りだしたのだ。

 

 あの至近距離だ。いくら暁が小柄とは言え、ノーダメージとはいかなかった様だ。

ボグッ……! と、鈍くて嫌な音と共に、顎をカチ上げられた青色ウサギの動きが止まった。

その隙に、暁が青色ウサギの腕の中で暴れて、なんとか逃れる。響、雷、電の三人が、暁を迎える。四人が距離を取る。

 

 青色ウサギが身を屈めて、近間に居る暁達に再び迫ろうとした。

しかし、青色ウサギの背後から駆け込んだビスマルクが、その隙を衝く。

間に合う。青色ウサギの壁となっていた黄色ウサギ、緑色ウサギはもう居ない。

至近まで距離を詰めたビスマルクの状況判断、行動選択は早かった。

「エイシャァアアアアアアアアアアア……!!!!」

ビスマルクは、重心を落とそうとしていた青色ウサギを、背後から腕を回して持ち上げる。

ずんぐりとした胴体を振り上げて、ジャーマンスープレックスを叩き込んだのだ。

 

 芸術的なほど美しいフォームだった。ビスマルクはブリッジの姿勢を数秒維持してくれたので、その隙に鈴谷と熊野、プリンツも、響、雷、電、暁のもとへ。

フォールされている青色ウサギはピクピクと微かに動くだけで、抵抗して起き上がる気配は無い。ビスマルクもフォールを解いて、暁に駆け寄る。

「大丈夫だった!? 怪我は無い!?」焦って聞いてくるその貌は、怜悧な美人と言うよりは、人の良い、親しみ易いお姉ちゃんと言った感じだった。

 

 暁はビスマルクを見上げつつ頷いて見せてから、腕で涙をゴシゴシと拭った。そして洟水をズビビー!!とやってから、鈴谷や熊野、それから、響達を順番に見た。

「皆、ぁ、ありがとう! お礼はちゃんと言えるし!」と、強がって言って見せる暁に、鈴谷や熊野も力が抜けた様な顔で互いに見合わせて、軽く笑う。ビスマルクとプリンツも同じような様子だった。

響、雷、電の三人は、暁の無事を喜んでくれているし、まぁ、何とかなった。あー、疲れたもぉぉぉん……。ただ、じっとしてもいられない。

ガチャガチャと言う金属音が近付いて来ている。蟲だ。騒ぎを聞きつけたのだろう。鈴谷は息を吐き出した。もうちょっと休ませてよ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しかし、よく無事だったな。すぐにでも脱落すると思ってたのによ」

ゴーグルを嵌めた天龍は、大型の軍用バイクを転がしながら隣に声を掛けた。

天龍の後ろには、半ヘルの不知火が座っており、所謂、二人乗りの体勢である。

 

「ふん。そう簡単に俺は脱落せん」

天龍達の隣。同じく、大型の軍用バイクで並走しているのは木曾だ。マントは脱いでいる。

木曾の後には阿武隈が、半ヘルでゴーグルを装着して座っていた。此方も二人乗りだ。

ちなみに天龍と木曾も軍用ヘルメットを装着し、今は埠頭へと続く舗装道を走っている。

何とか寮の裏手から移動してきた木曾達と天龍が落ち合ったのは、つい先程。

扶桑や山城達は蟲達に捕まった事を聞き、天龍と不知火も場所を変えようとする最中だった。

 

 危険度が高まる資材置き場から離れるついでに、車両置き場に止めてあったバイクを見つけて拝借したのだ。まぁ、普通だったら厳罰ものだろうが、今日はお祭りだ。

一応、艦娘囀線で野獣に聞いてみたところ、『あっ、良いっすよ』と許可も得た。使えるものは何でも使って良いという事らしいが、それだけ野獣側に成算が在ると言う事か。

何らかの隠し玉が在るのだろう。気味が悪いのはいつもの事だ。ただ、バイクが便利なのは間違い無い。蟲共にも見つかるが、流石にこのスピードなら追いつかれない。

振り切れる。屋内に踏み込むのは躊躇われるが、小回りもソコソコに利く。いざとなれば乗り捨てれば良い。どうせ鎮守府の敷地内。修理や修繕については妖精も居るのだ。

どうとでもなる。天龍達はバイクのついでに、資材置き場から鉄パイプやバールなどを何本か持って来ており、ベルトで背中や腰に吊っている。武器として使えるからだ。

木曾が駆るバイクにも、バックパッカーみたいな巨大なズタ袋が括り付けられて居る。木曾や阿武隈は工廠へと一度立ち寄ったらしく、中身は武器になりそうな工具類らしい。

 

 

 伊58達が蟲を倒した事実を見れば、実力で蟲達の数を減らす事も出来なくも無い。流石に巨躯の蟲とのタイマンはキツイが、天龍達と同じ程度の人型なら攻めに回れそうではある。

とは言え、囲まれてしまえば一気に追い詰められる可能性もある。勝負に出られる場面は限られて来そうだ。全部を駆逐するのは流石に無理だろう。危険過ぎる。

そこまで考えていた天龍が、背後の不知火に声を掛けようとした時だった。遠くに悲鳴が聞こえた。斜め前方だ。誰かが舗装道を此方に走ってきている。

 

 加賀、瑞鶴、翔鶴、葛城。全員、半泣きだ。方向的に埠頭の方から此方へ駆けてきたのだろう。庁舎内に逃げ込む余裕が無かったのか。

瑞鶴達の後ろから、何かが追いかけて来ている。あれは、蟲じゃない。人型だ。いや人型だが、人じゃ無い。全部で一匹。着ぐるみだ。

コミカルな桃色ウサギなのだが、盛大に返り血を浴びたみたいに血塗れだ。手には、大振りのチェーンソーが呻りを上げている。

木曾が呻いて、阿武隈が情けない悲鳴を上げる。不知火が身体を強張らせ、天龍だって「うげっ……」と声をもらしてしまった。危うくバイクごと転ぶところだ。

いやしかし、やべぇよアレ……。本当に金属細工かよ……。怯える加賀達を追い回す様が、生き生きとし過ぎだろ……。怖ぇよ……。あんなの妖怪だろ、もう……。

もこもこしてる癖に、めちゃくちゃ速い。動きがやたらシャープだ。もう加賀達のすぐ後ろに迫っている。天龍はバイクの速度を更に上げる。

助けに行こうとする天龍の意思が伝わったのか。木曾も、加賀達の方へと進路を寄せる。天龍は木曾とアイコンタクトを取って、頷きあった。

完全にアドリブだが、上手い事やるしかない。天龍は正面から桃色ウサギに突っ込む進路を取る。木曽はその天龍の跡につく。エンジンを吹かして、スピードを上げる。

不知火が、背に吊った鉄パイプを抜いて、肩に担ぐ様にして右手で持つ。見た目はもう暴走族だが、そんな事はどうでも良い。

阿武隈もズタ袋から何かを取り出そうとしたが、木曽がそれを止めた。「阿武隈は俺にしっかり掴まってろ!」と言われ、阿武隈はぎゅっと眼を閉じてそれに従う。

 

 

 駆ける加賀達も、天龍達のバイクのエンジン音に気付いた様だ。此方を見た。ほぼ同時だった。最後尾を走っていた翔鶴が蹴躓いてこけて、桃色ウサギに追いつかれる。

ただ流石に、桃色ウサギがチェーンソーを翔鶴に目掛けて振り下ろすような事は無かった。あれは飽くまで、障害物を排除するための道具であり、演出なのだろう。

ただ、恐怖を煽るという点ではその外見も相まって、文句無しに絶大な効果を発揮しているので、「ひぃぃぃいい……!!」と、半泣きの翔鶴が絶叫しているのも無理は無い。

チェーンソーのエンジンを切って左手に持ち変えた桃色ウサギは、ゆっくりと首を傾ける。つ・か・ま・え・た。歪んだ声で言い、尻餅をついたような姿勢の翔鶴へと右手を伸ばす。

加賀や瑞鶴、葛城が、翔鶴を助けるべく踵を返した。「俺達に……!」「任せろ……!」それよりも早いタイミングで、加賀達の脇を天龍と木曾がバイクで駆け抜ける。

「させっかよぉ……!!」 桃色ウサギが、叫んだ天龍の方を見た。動きを止める。

その隙に翔鶴も咄嗟に手をついて立ち上がり、桃色ウサギから距離を取った。

 

 

 天龍は更にバイクのスピードを上げて、猛接近しつつ走り抜ける。桃色ウサギの左脇へと逸れるコースだ。その擦れ違い様に、不知火が鉄パイプをフルスイングでぶち込んだ。

桃色ウサギは反応して見せた。手にしたチェーンソーでこれを弾いたのだ。だが、バイクのスピードを乗せた鉄パイプの一撃が、軽い筈が無い。

桃色ウサギの身体は、その衝撃で若干泳いでいた。だから、次の攻撃はかわせなかった。木曾だ。桃色ウサギに突っ込んでいく。阿武隈が悲鳴を上げる。

「喰らえっ……!!」木曾は激突の直前。猛スピードのバイクをウィリー状態にさせて、その前輪を桃色ウサギの顔面にぶちかました。くぐもった音が響く。

ちょうど、棹立ちになった巨大な馬が、前脚を叩き込むような感じだった。桃色ウサギがぶっ飛んでいって、庁舎前の舗装道路をゴロゴロと転がっていく。

 

 ガシャン!!と、桃色ウサギが手放したチェーンソーが地面に落ちた。「まだ使えるな」それを拾い上げたのは、バイクを止めた木曾だった。阿武隈は放心状態だ。

木曾はバイクに跨ったままでチェーンソーを拾い、後ろに座る阿武隈に渡す。「持っていくんですかぁ、コレェ……」阿武隈が表情を歪ませてチェーンソーを受け取っていた。

血塗れな上に“親愛なる君へ……”と、英語で刻まれた、余りに禍々しいチェーンソーだ。そりゃあ持たされる阿武隈だって泣きそうな顔になるだろう。

その様子を見つつ、苦笑を浮かべた天龍もバイクを走らせ、木曾達の方へと寄せる。

木曾達の傍に居た翔鶴も、心底ホッとした様な貌だ。相当怖かったんだろう。天龍と木曾、それから不知火と阿武隈を順に見て、深く頭を下げる。

 

「あ、ありがとうございます……、助かりました」

 

 翔鶴が言うと同時だった。加賀や瑞鶴、葛城も駆け寄って来た。全員、翔鶴が無事でホッとした貌をしている。瑞鶴も、天龍達に頭を下げた。

葛城もそれに倣い頭を下げてくれて、加賀も「……礼を言うわ」と、僅かに目許を緩めて見せた。天龍も唇の端を持ち上げて、軽く笑い返そうとした。

次の瞬間だった。阿武隈が、視線を上げながら「あっ!」と声を漏らした。不知火も、「葛城さん……ッ!!」と叫んだ。ズシィィン!! と、音がした。

天龍と木曾も反応は出来ていたが、バイクに跨っていたから咄嗟に動けなかった。何かが。降って来た。天龍達のすぐ傍には庁舎が在る。其処から飛び降りて来た。

ソイツは裸で青い肌をしていた。着ぐるみにも見える。ずんぐりとした体型だ。顔がデカイ。人の顔をしている。ただ何と言うか、顔のパーツが、ぶれて見える。

ぶるぶると不気味に蠕動しているように見えるのだ。眼が大きく、鼻も大きいし、口も裂けてるみたいに大きい。さっきの着ぐるみに負けて無い。恐怖をあおる外見だ。

青鬼という単語が、天龍の頭を過ぎる。っていうか。近い。葛城のすぐ後ろくらいに着地したソイツは、すぐに動いた。「危ねぇ……ッ!!」天龍も叫んだが、もう遅い。

あんな体型の癖に、なんて疾い踏み込みだ。「えっ?」と葛城が背後を振り返るよりも早かった。葛城の体が浮いた。距離の詰め方や、人を攫って行く手際が明らかにプロだ。

青鬼は一瞬の早業で、並んで立っていた葛城と加賀の二人を、荷物みたいに脇に抱えて持ち上げたのだ。そしてすぐさま、何処かへ連れ去っていく。動作に無駄が無く、素早い。

傍に居て振り返り、異変に気付いた瑞鶴と翔鶴を呆然とさせる程だ。数秒してから自分の状況を理解したであろう加賀と葛城が、青鬼の腕の中でジタバタと暴れながら絶叫した。

「ちゃああああああああああああああああああああああああああ!!!」「あぁああああ!!! いやだぁぁぁああああああああ!!」

天龍と木曾達も、バイクを降りて追おうとした。しかし、無理だった。蟲だ。周りの建物の中や屋上から、クモやらムカデやらゴキやらゲジゲジが此方に集まって来つつある。

先程の翔鶴の悲鳴に釣られたか。駄目だ。一旦この場を離れないと、このままだと全滅する。苦渋の選択だが、仕方無い。

「俺達のバイクに分かれて乗れ! 3ケツで逃げるぞ!」 天龍はエンジンを大きく吹かして、瑞鶴、翔鶴の二人に叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おお^~、良い感じで脱落者が増えてんぜ?

何だ何だお前ら~、ハンデ上げても、このままだと俺達が楽勝かぁ^~?

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

横から失礼致します。アナウンスです。

新たに加賀さん、葛城さんが脱落しました。

 

 

 タイムラインへと新たに書き込まれた赤城のアナウンスを見て、吹雪は唇を少しだけ噛む。ここ数十分で、脱落者の数は一気に増えた。

特に、失敗ペンギンを見つけろ系のミッションに参加した摩耶や、深雪達を含む大勢が、一気に脱落したのが響いている。蟲の数も減ったが、それは艦娘側も同じだ。

数での有利はもう取れないだろう。フィールドである鎮守府を移動するのもひどく窮屈に感じる。気持ち的にも、それだけ追い詰められているという事か。

 

 

 吹雪達は現在、弓道場から持ち出した訓練用の弓と矢を携え、近くに在る講堂付近の●●号庁舎へと向って走っている。

携帯端末でタイムラインをチェックすると、その玄関フロアに、未アクセスの端末が在るという情報が出たからだ。さっきまでは蟲の数が多く、近づけなかったのだと言う。

蟲達が資材置き場方面へと移動しつつある隙を見て、近くに居た吹雪達が動いたのだ。

勝利条件まで必要な端末アクセス数は、今では残り3になっている。鈴谷達が更に一つクリアしてくれたからだ。この流れに乗りたい。

時間が経てば蟲も増える。数の差は、どんどん開いて行く。移動する事もままならなくなるだろう。艦娘側が能動的に起こせるアクションは、時間と共に減って行く。

今の内に生き残った者達で、攻めのターンを強引につくりに行く。しかし、そうは上手くいかないようだ。

吹雪達にしても、持ち出して来た弓は、空母組の誰かと合流出来れば有効に使ってもらえると考えていた。だが、既に加賀は脱落しているし、瑞鳳も脱落したと報告が在った。

今の吹雪達のメンバーは、夕立、睦月、朝霜、大淀。全員で移動している間にも、タイムラインはまだ動いている。

 

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

確認が遅れましたが、アナウンスです。

『ウサギさんシリーズ』のうち、4体が沈黙。残り2体です。

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

引き続き、アナウンスです。

球磨さん、多摩さん、北上さん、大井さんの四人が新たに脱落しました。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

勝負はもう見える見える、俺達の勝ち筋が太いぜ☆

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat ねぇ、お願いがあるんだけど、もうちょいハンデくれない?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

大丈夫でしょ? ほら、頑張れ頑張れ。

それにお前ら、ちゃんと着ぐるみも倒してるじゃん? アゼルバイジャン?

行ける行ける、へーきへーき!

 

 

≪熊野@mogami4.●●●●●≫

泣いてる娘も居るんですのよ!?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

しょうがねぇなぁ……。じゃあ特別にぃ、

全端末アクセスで許して上げるよ? あと3つだけだから余裕でしょ?

でもその代り、逃げ切り勝利の条件消滅で、どうっすかぁ?

 

 

 吹雪達が●●号棟に到着する頃には、こうして最終的に、艦娘側の勝利条件から、時間内の逃げ切りが除かれていた。

代りに追加されたのが、勝利条件を満たす条件の簡易化と、時間切れ負けである。ぶっちゃけた話、別に負けでも良いんだけどとか思わないでも無い。

しかし野獣曰く、ちゃんと罰ゲームも用意してあるという事で、最後まで気を抜けない。全員、今より酷い目に合う可能性が在る。おかげで、焦燥感が背中を焼いてくる。

鈴谷や熊野と行動を共にする第6駆逐隊、ビスマルク達が、追跡者であろう着ぐるみを倒したというのは吉報に違い無い。だが、まだまだ相手の数は多い。

やはり状況は不利。脱落者が出たアナウンスは、今も無慈悲に繰り返されている。

艦娘側にも勝機は残されているが、残り時間はそう多くは無い。

 

 分の悪い勝負に出るしかない様な、そんな嫌な空気を引き連れながらも、吹雪達は●●号庁舎への玄関フロアへと駆け込んだ。

静まり返った高級感のあるフロアの隅の方に、端末がポツンと置かれてあるのを見つけた。吹雪達が端末に駆け寄って、大淀がタッチパネルを操作してくれた。

ふぅ……、と息を一つ吐き出した大淀が、軽く笑う。「これで、あと残り二つですね……」大淀の言葉に、吹雪達が頷いた時だった。いの一番に何かに気付いた夕立が振り返る。

足音が聞こえたのは、その後だった。ブーツの音だ。何か金属を引き摺る音がする。吹雪も振り返り、変な声が出そうになった。何時の間にとしか言いようが無かった。

ボロボロのジャケットとジーンズ姿のホッケーマスク男が、何人も此方に向って来てる。一目で分かる。ジェイソンだ。あっ、ひょっとしてコレ、罠だった……? 待ち伏せ……?

『指示は出せない。その分、判断は鬼達に任せてある』これが、仕様でありルールだ。人型追跡者のルール理解度は、蟲達を遥かに凌駕していたという事か。やられた。

 

 玄関フロアの正面から入ってくる者。二階階段から降りてくる者。通路脇の部屋から出てくる者。けっこうな数だ。パッと見じゃ数えられない。

得物はまちまちだ。マチェットと言うのだろう。刀みたいな鉈を持っている者が居たり、ツルハシ、手斧、ジャラジャラと長い鎖、両手に大ナイフなど。

ホッケーマスクの他には、じゃがいも袋に穴を空けたものを被っている奴も居る。とにかく、ドイツもコイツも得物ごと返り血に塗れてて、凄い圧が在る。

勿論、あのジェイソン達が人形であること位は、頭の中では理解出来る。ただ、息吹まで感じさせるその造形が精緻過ぎて、命の危険を感じさせる雰囲気を纏っているのだ。

勘弁してよと思うのが正直なところだ。特大サイズの蟲よりマシかと聞かれれば、答えに窮する。当たり前だがどっちも嫌だ。特に、浅く速い呼吸をしている大淀がヤバイ。

かなりビビッてる。大ムカデ相手に消火器をぶん投げて見せる朝霜も、顔を引き攣らせてへっぴり腰になっている。多分、この二人は、人型の怪物系に弱いようだ。

吹雪だって強い訳じゃない。脚がガクガクしているし、睦月だって似たような状態だ。こりゃ参ったなぁ……。泣きそうになる吹雪が、現実逃避気味に思った時だ。

 

「……相手が人のカタチしてると、あんまり怖くないっぽい」

 

さっきの大ムカデにはビビリまくっていた夕立だが、ジェイソン達が向って来る今は、チャームポイントのギザっ歯を見せて笑って見せた。

「ごめん! ちょっと持っててっぽい!」夕立は持っていた練習用の弓を、身体を竦ませている朝霜に預けた。そして、吹雪が持っている矢筒から、二本矢を抜いて両手に持った。

 

「な、何するの夕立ちゃん?」

 

 危険な雰囲気を漂わせ始めた親友に、吹雪が訊いた。

嫌な予感はしていた。この夕立という艦娘は、防御よりも攻撃を選ぶタイプだ。

夕立は『何って、そりゃあ……』みたいな感じで、またギザっ歯を見せて笑って見せた。

 

「選り取りみどりだし、突撃するっぽい!」 

 

「あっ、そっかぁー……(案の定)」

 

 吹雪は眉をハの字にした。夕立は、蟲やお化けが苦手である事は知っているつもりだった。

しかし、“実体のある人型の敵”を恐れる感性を持ち合せていない様だ。

「そうだね……、この人数なら一点突破出来るよ!」 真剣な貌の睦月は、夕立に頷く。

ビビリまくっている大淀も、この駆逐艦娘達は何を言ってるの? みたいな貌をしている

朝霜だって『えっ、マジ……?』みたいな、心細そうな貌で夕立と睦月を見比べた。

迷っている時間は、確かに無い。ジェイソンたちは、じりじりと寄って来る。

包囲を狭めてくる。吹雪も頷いた。「単縦陣で突っ切りましょう……! きっと行けます!」

吹雪が、全員の顔を見回したときだ。来た。ジェイソンたちが、一気に距離を詰めて来た。

大淀が悲鳴を上げるよりも早かった。体勢を大きく前に倒した夕立が、飛び出した。

ジグザグに地面を蹴って、一気に迫る。まるで獣みたいな距離の詰め方だった。

 

 夕立は一番近くに居た、大鉈を持っているジェイソンに襲い掛かる。

一方ジェイソンは、大鉈を右手に持っているものの、これを使う素振りは見せなかった。

あくまで、あの禍々しい得物は鬼ごっこの演出だ。付属品であり、オブジェに過ぎない。

ジェイソンたちの本懐は、その外見による恐怖で艦娘達を竦ませ、捕まえる事だ。

だから動きもそこまで愚鈍じゃない。矮躯でもなく、身体能力は高い筈だ。

あの身のこなしを見れば分かる。走っていても、頭が上下していない。それに、疾い。

しかし、大鉈のジェイソンは、夕立の動きに反応し切れて居なかった。

 

 夕立は距離を潰しつつ、右手に持った矢をジェイソンの顔を掛け、身体を撓らせて投げた。

大鉈のジェイソンは右手の大鉈で矢を叩き落とし、左手を伸ばして、逃げるどころか突っ込んで来る夕立を捕まえようとした。

出来なかった。「アハ……ッ!」と笑った夕立が、伸びて来た腕をかわしつつ懐に飛び込んだ。大柄なジェイソンを相手に、超クロスレンジに持ち込む。

しかし、夕立は恐れない。獰猛な笑顔を浮かべて見せた一瞬の後。矢を投げて空いた右手をジェイソンの後頭部へと回し、力任せに引きつける。

身長差を埋める為に、更に夕立はジェイソンの後頭部を引っ掴みながら飛び上がる。同時に自分の体を大きく仰け反らせていた。

そして、ジェイソンのマスク目掛け、自分の頭をハンマーみたいに思いっきり振り抜いた。容赦の無い頭突きだ。硬い物同時がぶつかる、

鈍く低い音がした。鳥肌が立つような音だった。ジェイソンのマスクがぶっ壊れて、後ろに倒れる。着地した夕立は軽くふらついたものの、すぐに態勢を立て直す。

しゃがみこんで倒れたジェイソンの手から大鉈を奪いつつ、額を切って派手に流れてくる血をペロッと舐めた。血塗れの顔になっても、夕立は肩を揺らして笑う。

 

 吹雪達が列を成して夕立に追いつくまでの僅かな間にも、夕立は止まらなかった。突出して来た夕立に狙いを定めたジェイソン達が、夕立に群がり、距離を詰めてくる。

「危ない!」吹雪と睦月が叫ぶが、無用な心配だった。夕立はチラリと吹雪達の方を見て、牙を見せるみたいにまた笑ってから、左手に残った矢を握り直した。

夕立の右からだ。斧を持ったジェイソンが迫る。突進するみたいに腕を伸ばしてくる。それをヒラリとかわしつつ、夕立は左手に握った矢をソイツの顔面にぶっ刺した。

ホッケーマスクの目の部分だ。ソイツは顔を両手で抑えて、斧を取り落とした。更に、夕立の左と正面からも来る。ナイフ野郎とツルハシ野郎だ。捕まえに来る。

夕立は焦らない。相手の動きを良く見る。すっと姿勢を落としつつ、スウェーバックで二人のジェイソンをかわす。そしてすぐに前へ踏み込んだ。

 

 相手は生き物じゃない。造り物だ。人形だ。オブジェである。訓練と同じだ。

だから夕立は容赦しない。手にした大鉈でナイフ野郎の首を叩き落して、流れるように体重を移動させ、振り返るついでにツルハシ野郎の首を撥ね飛ばした。

ナイフ野郎とツルハシ野郎も、当然だが防御姿勢をとろうとしていた。しかし、間に合わなかったのだ。夕立が鉈を振るう速度と、間合いを詰めるのが疾過ぎるのだ。

まだ来る。他のジェイソンどもは夕立に群がる。夕立は片眼を窄めて、唇の端を持ち上げた。次の瞬間には、夕立は身体を深く沈めて、落ちていた斧を右手に拾っていた。

鉈と斧の二刀流になって身体を起こしながら、正面から迫っていたジェイソンの首下に大鉈をすっと埋め込んで、くいっと手首を返した。ジェイソンの首が飛んだ。

その時には、夕立はもう後ろから来ていた別のジェイソンの頭に斧をぶち込んで蹴り倒しながら、左右から迫って来ていた別のジェイソン二人の首を、大鉈で軽く刎ねていた。

 

 ジェイソン共は数にものを言わせようとした。五人ほど一斉に踊りかかり、夕立を囲んだ。それでも無駄だった。夕立は獣みたいに姿勢を極端に落として、まるで擦り抜けるみたいにしてジェイソン達の隙間を抜けて見せた。夕立は、すぐに逆襲に転じた。

まず、夕立にすり抜けられて背中を向けている状態のジェイソンの後頭部を手斧で叩き割ってから蹴飛ばして、近く居た別のジェイソンの胴を、大鉈でぶっ刺して突き倒した。

大鉈をぶっこ抜くついでに、引き倒したソイツの顔面を踏み砕きながら前へ出て、斧で別のジェイソンの頭部を垂直に叩き割りながら、更に前へ出る。襲い掛かる。

すぐに別のジェイソンの横っ面に斧をぶち込んでから体当たりをぶちかまして押し倒し、体を起こしながら逆手に持ち変えた大鉈を、五人目のジェイソンの顎へと下から叩き込んだ。

取り囲んで来たジェイソン五人を瞬く間に葬った夕立は、「あれぇ、もう来ないっぽい?」首や肩を回しながら、他のジェイソンを睥睨をする。

ジェイソン達は夕立を警戒している。遠巻きに見て、迂闊に間合いを詰めてこなくなった。今がチャンスとばかりに、吹雪達も列を成して玄関フロアの扉へ駆ける。

その吹雪達に、ジェイソン達も反応する。今度は夕立では無く、吹雪達に狙いを定めて来た。「何処に行くの?」当然、夕立も動く。即座に状況に対応した。

 

 自分をターゲットから外し、吹雪達に迫ろうとした3人のジェイソン達へと夕立が襲い掛かる。手にした鉈と斧を変幻自在に振り回して、思うさまに喰い散らかした。

そのまま吹雪達と並んで走り、夕立が壁になってくれる。夕立の活躍の御蔭もあって、玄関フロアから脱出に成功した。外へと駆け出し、全員で逃げる。

吹雪が肩越しに振り返ると、ジェイソン達も追いかけて来ていた。あのビジュアルだけ見ると、本当に怖いのだが、振り返った夕立は何だかもの足り無さそうな貌だ。

「う~ん……、もう全部やっちゃっても良いっぽい?」と聞いて来る夕立に、睦月が苦笑を返している。朝霜と大淀も、背後を振り返った。ジェイソン達の数が増えている。

それだけじゃない。蟲の群れ。クモとハエだ。庁舎の影や屋上から出て来たのか。吹雪達を追ってくる。金属が地面を削るような音が、ジェイソン達の足音に混ざる。

「……や、やっぱり逃げるっぽい」と、鉈と斧を手に握ったままの夕立が、少しだけ貌を強張らせて言い直した。あぁ、……やっぱり蟲は駄目なんだ、夕立ちゃん。

吹雪はそんな事を思いつつ駆けて、次は何処に向うべきかを考える。残り時間も多く無い。残る端末は、あと2つ。

 

 









字数が嵩んでしまい、あと一話だけ続くとおもいます。
次回更新がいつになるか目処が立っていませんが、出来るだけ早く更新出来るように努めます。
今回も読んで下さり、本当に有難う御座いました!


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修正版 短編3 終

≪赤城@akagi1. ●●●●●≫

アナウンスです。

大淀さん、長門さん、陸奥さん達が脱落しました。

残っている端末数は残り二つです。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

やりますねぇ! 良い勝負してんじゃーん!

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

おい野獣! あのやたら動きの良いデカブツの人型は何だよ!? 

聞いてねぇぞあんなの!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

ちょっとボス的な存在も居た方が盛り上がるだルルォ!?

あくまで捕まえに来るだけで、危害なんて加えて来ないから、へーきへーき!

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

そういう問題じゃねぇ!

テメェ、俺達にクリアさせる気ねぇだろ!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

ゲームバランスがぶっ壊れる要素はお前ら側にもあるんだよなぁ……。

 

 

≪木曾@kuma5. ●●●●●≫

ボス格の数を聞きたい。もう終盤なんだ。

それくらいは教えてくれたって良いだろう?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

しょうがねぇなぁ~。

……ボス規格で用意したのは4体くらいですね、取りあえず

 

 

≪陽炎@kagerou1. ●●●●●≫

ちょっと待って下さい!

さっき▲頭の巨漢に追っかけられたんですけど、あんなのが他に3体も居るんですか!?

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

勘弁してくれ、▲頭って何だよ……。

こっちは青鬼みたいな奴に遭遇したけど、まだ他にも居るのかよ……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

まぁ、その辺りのバリエーションも豊富さも見所の一つだから!

新しい怪物達との、ドキドキ☆ワクワクな邂逅をお楽しみに!

 

 

≪曙@ayanami8.●●●●●≫

その一文から嬉しそうな貌が浮かんで見えて、クッソ腹立つわー……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

そんな怒るなってAKBN! こう、心がポカポカしてさ、暖かい気持ちになるだろ?

 

 

≪曙@ayanami8.●●●●●≫

ポカポカどころかグツグツくるんだけど

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

Foooo↑ 怒ってる顔も可愛いよ? ぼのたん♪

 

 

≪不知火@kagerou2. ●●●●●≫

死んだ方がよろしいのでは?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

ちょっとふざけただけなのに、返しの台詞が辛辣すぎるんだよね

それ一番言われているから

 

 

≪提督@Admiral.female. ●●●●●≫

とりあえず、こっちは駆逐艦娘寮の裏手にあった端末にアクセスしに行くわ

もうちょっとで蟲達も退いてくれそうだし。磯風、浜風の二人も一緒

ラウンジに身を隠してるから、合流できる人が居たら歓迎するわよ

 

 

≪陽炎@kagerou1. ●●●●●≫

分かりました! 私達も駆逐艦娘寮に近いので、すぐに向います!

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

俺達も吹雪と合流した。こっちはグランドに向う。気をつけろよ

 

 

 

 

 

 タイムラインに書き込んでから、しゃがみ込んで姿勢を落としていた少女提督は、一つ息を吐き出した。その傍に立ち、佇んでいる少年提督を見上げる。

携帯端末を見ていた彼も、少女提督へと視線を返しつつ、緊張した場の空気にそぐわない微笑を浮かべて見せた。静かで落ち着いているのに、何処か子供っぽい。

というか、あれだけ走って息切れ一つしていないし、汗も全く掻いていないように見える。動揺する素振りも見せないし。

なんでこんなに自然体で居られるんだろう。傍に居ると不思議でかなわない。恐怖を感じる機能が壊れてるんじゃなかろうか。心強いを通り越して心配になるレベルだ。

先程、タイムラインで野獣が言っていた“バランスを壊す要素”の一つが、彼の事であろうこともすぐに察しがついた。“提督”としての彼の力は多岐に渡る。

故に、生命鍛冶、金属儀礼術による艤装獣の召還と、金属細工による鬼達への干渉は行わないよう、彼も野獣に約束してあるのだという。まぁ、そりゃそうだろう。

彼が思う様に動き出したら、ゲームにならないし始まらない。それは艦娘にも言える事だ。艦娘達が皆、艤装を召還する事ができるなら、それはもう鬼ごっこでは無く戦争である。

レクリエーションとして、艦娘達は逃走を中心に動き、攻撃も可能。

鬼である蟲や追跡者には、攻撃機能は無いものの、数が多く、増加していく。

これはこれで、えらく尖った感じではあるもののバランスは取れているのだろう。

状況から見るに、うまく立ち回ればまだまだ勝利条件を満たせる。

 

 

 少女提督は思考を巡らせつつ、タイムラインの流れを追う。

位置的に、鈴谷や熊野達のグループも、寮の裏手にある端末を狙えるところに居るようだ。

此方に向うという書き込みがあった。彼も携帯端末へと視線を落としている。

彼は沈着だ。対照的に、磯風と浜風の方は、巨大な蟲を相手に余程消耗したのだろう。

疲れ切った貌をしている。すぐに動ける姿勢で身を落としてはいるものの、明らかに困憊状態だ。

 

 

 まぁ、自分だって同じような様子だろう。少女提督は苦笑を漏らす。少女提督と少年提督、磯風、浜風の四人は、駆逐艦娘寮の一階ラウンジに身を潜めていた。

少女提督は息を潜めつつ、ラウンジの窓から外の様子を窺う。窓のカーテンは閉めており、電気もつけていない。昼の陽を遮った寮内の一階を薄暗くして、身を隠している。

この寮の裏手にはゴミ捨て場があり、其処に端末が置かれてあるのは確認済みである。ただ、蟲達の群れに見つかり、少女提督達もつい先程まで蟲に追いかけられていた。

その騒動の中で、一緒に居た谷風と浦風が逸れてしまい、蟲に捕まり脱落している。本来なら蟲達がうろつくこの寮の近くから離れるところだ。

だが、勝利条件が『端末へのアクセス』へと変更したことも在り、少女提督達は逃げ回りつつ、機を窺っている最中である。

 

 資材置き場へと流れた蟲達もまた戻って来ている様でもあるし、ゲーム終盤になって更に窮屈になりつつある。とは言え、アクセスすべき端末はあと2つ。

勝てない状況では無い。蟲達が這い回るような音は、随分と遠い。蟲達も移動している。動いている。チャンスは在る筈だ。

ちなみに、磯風、浜風、浦風、谷風の四人は、少女提督が召んだ艦娘達である。だから、ツーカーとは行かずとも、割と息が合う。頼りになる仲間だった。

外の様子を窺っていた少女提督は、傍で姿勢を落としている浜風と磯風の方へと視線を向ける。二人も、真剣な表情で頷いてくれた。少年提督が携帯端末を懐にしまう。

「僕達も動きましょうか」少年提督の言葉に、磯風と浜風、そして少女提督が、しゃがみこんだ姿勢を上げようとした時だ。

 

 ラウンジに居る少女提督達から少し離れた、寮の入り口の扉が乱暴に開かれた。同時に、悲鳴と共に6人の艦娘が走りこんで来た。

タイミング的に陽炎達かと思った。その通りだった。嫌な予感がした。これもその通りになった。何か陽炎達を追いかけてきて、玄関をぶち破りながら登場した。

えっ、何アレ……。身体を起こそうとしていた磯風と浜風が尻餅をついていた。

陽炎、曙、潮、霰、皐月、長月を追いかけ、玄関から廊下へと進んでくるソイツは、廊下を塞ぐくらいの巨体だ。とにかくデカイ。クモに似ているが、違う。

頭・胴・脚という区別が無い。全体的なシルエットはクモっぽいのだが、そのシルエットを象っているものが人の形をしている。黒ずんで汚れたマネキン人形だ。

 

 無数のマネキン人形の集合体みたいな、不定形で不調和な巨体だった。ワシャワシャとマネキン人形達が腕を動かして移動して来る。迫って来る。

移動の為に動いている腕もあれば、マネキンの首を持っている腕も幾つもある。そのマネキンの首たちの眼は、ギョロギョロと動いて陽炎達の背中を目で追っていた。

薄暗い寮の廊下を塞ぎつつ蠢き、此方に向ってくる。直球のホラーモンスターだ。「わぁ……」と、少年提督がアトラクションを楽しむような歓声を上げていた。

青い顔になった少女提督と磯風、浜風の三人は、悲鳴を上げる前に逃げ出した。逃げて来た陽炎達も、少女提督達に続く形で廊下を駆ける。

 

「ちょっとぉ!! なんてもの連れて来るのよ!!」

少女提督が走りながら、後ろに続いている陽炎達に叫ぶ。

 

「いや、私達に言われてもっ……!!」

陽炎が切羽詰った声で答える。

 

「ここに来る途中で見つかっちゃったんだもん! しつこいなぁ! もぉ!」

走る皐月も、言いながら後ろを振り返る。

 

 半泣きで顔を引き攣らせている長月と潮、それから霰が続いている。

最後尾が、何だか楽しそうな少年提督だ。うん、もう殿は彼に任せよう。

少女提督も振り返って、そう思った時だ。鈍い音が聞こえた。廊下。前からだ。

 

「ひっ……!?」「うっ……!?」

 

 少女提督と並んで駆けていた磯風、浜風が驚愕の声を上げつつ慌てて立ち止まった。

何だ何だと少女提督も前を見る。変な笑い声が出そうになった。何か居るじゃん……。

裸形の巨躯は濁った青色をしている。それでいて顔が極端に大きい。

顔のパーツは眼も鼻も口も大きい。其々が不気味に蠕動している。

タイムラインで天龍が言っていた『青鬼』とは、アイツの事か。

不味い。挟み撃ちにされた。どうする。青鬼も来る。凄い勢いで走って来る。ヤバイって。

そう思ったが、大丈夫だった。エンジン音がした。迫ってくる青鬼の、更にその背後。

バイクを駆る木曽と、チェーンソーを携えた阿武隈、それから弓を番える翔鶴だ。

新手の3ケツ暴走族みたいな風体だが、三人の錬度の高さは流石だった。

青鬼も、背後の木曾達に気付き、踵を返そうとした。そりゃあそうだろう。

 

 丸腰の少女提督達なんかより、ぱっと見で木曾達の方がよっぽど脅威だ。

だが、それが判断ミスだった。Uターンしようとした青鬼の動きが一瞬止まる。

その隙を翔鶴が見逃す訳が無かった。バイクに乗ったままで、矢継ぎ早に弓を射った。

目にも止まらぬ早業だった。青鬼の両眼と両膝を、三本ずつ矢を撃ち込んで見せた。

さすがに青鬼も眼を押さながら、苦悶に吼えてその場に膝をついた。

 

 そのすぐ脇を、木曽がバイクで走り抜ける。すれ違いざまに、大振りなチェーンソーのエンジンを掛けた阿武隈が、振り被ってバッサリ行った。

「(><)たぁぁぁああ!!」と、気の抜ける気合と共に、青鬼の顔の半分を問答無用で切り裂いたのだ。やったぜ。少女提督は思わずガッツポーズしそうになった。

だが、まだ早い。マネキンモンスターが、背後から絶賛接近中である。此処で機転を利かせたのは、後ろの方を走っていた彼と曙、長月、霰、潮、皐月だった。

マネキンモンスターに追いつかれかけた彼達は、咄嗟の判断で脇の部屋へと飛び込んだ。彼らは部屋を利用し、マネキンモンスターの背後に回りこむ形で、再び廊下に出た。

ちなみに彼らが飛び込んだ部屋は、トレーニングルームだ。前と後ろに扉があり、追いかけられていた彼らは前の扉に飛び込んで、後ろの扉から出る事によって回り込んだのだ。

勿論、マネキンモンスターも黙っていなかった。身体をねじる様にして、脇の部屋へと逃げ込んだ彼らを追おうとしていた。マネキン人形の塊で象られた腕らしき部分を伸ばしている。

しかし、あの巨体だ。入り口の扉につかえてしまっている。動きが止まった。その隙に、マネキンモンスターの背後に回りこんでいた曙達が攻勢に出た。

 

「キモイのよっ!」「これでも喰らえ……っ!!」「いっけぇーー!!」「当たってください……!!」「……っ!!」

曙らの両手には、ダンベルが握られていた。5キロから10キロくらいだろう。曙、長月、皐月、潮、霰の五人は、一斉にそれらをマネキンモンスターの背後から投げつけた。

艤装も召還できず、肉体の強化状態に無い今では、流石にぶん投げるような勢いは無い。それでも、曙達は訓練で鍛えられた駆逐艦娘達だ。ひ弱という訳では決して無い。

それなりのスピードを持って弧を描くダンベルには、やはりそれなりの威力が宿る。ガッツンガッツンと鈍い音がして、マネキンモンスターの身体にダンベルがぶち当たる。

どうやら、見た目こそグロテスクで巨体だが、朽ちたマネキンの集合体だ。頑強という訳ではないらしい。脆い。マネキンが砕けて毀れた。剥がれて、欠けていく。

怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨。マネキンモンスターが、呻いた。多少は効いているようだ。だが、この礫攻撃に腹を立てたのか。

マネキンモンスターが身体をぶるぶるぶるぶるっと震わせた。かと思ったら、トレーニングルームに突っ込んでいた腕らしく部分をぶっこ抜いて、シルエットを変え始めた。

まるで、ブロックパズルが変形するように、がちゃがちゃがちゃっ! っと動いている。黒ずんだマネキン人形が象った形は、クモじゃない。今度はタコに近い。

マネキンの胴体が繋がったみたいな腕が、うぞうぞがしゃがしゃと無数に伸びしまくって、肥大化し始める。膨れ上がったマネキンモンスターの所為で、向こうが見えない。

木曾や翔鶴、それから阿武隈も、迂回路として使えそうなトレーニングルームに迂闊に近づけなくなった。なんてこったい。

 

 束の間の均衡。この間に、浜風と磯風は、木曾が乗っていたバイクに括られたズタ袋から、バールを一本ずつ取り出して構えた。少女提督は周りを見る。状況を把握する。

事態はすぐに動いた。チェーンソーでぶった切られた青鬼が、むくりと起き上がったのだ。なんてタフさだ。やってられない。

そもそもが金属細工の人形だからか。顔の半分以上を、右斜め上から叩き割られたような状態だが、出血らしいものは無い。へっちゃらなんだろう。

青鬼はゆっくりと起き上がりながら眼や膝やらに刺さった矢を引っこ抜いて、此方に向き直った。破壊されたはずの眼や膝の傷はそのままだが、しっかりとした足取りで動き出す。

青鬼の体の傷が消えていく。大穴が空いた眼も、ビデオの逆再生のように塞がっていく。タフ過ぎる。不味い。この薄暗い寮一階で、乱戦状態になりつつある。

それに。音だ。ガチャガチャという、不気味な音。蟲の群れが蠢く音が聞こえる。厚みのある音だった。

見なくても分かる。大群だ。押し寄せて来たのか。そんな馬鹿な。でも、間違い無い。

聞こえる。何処から。ああ。なんて事だ。よりによって向こうからだ。

 

マネキンモンスターと対峙しているだろう、曙達の背後からだ。挟まれた。

逃げ道は。窓。いや、駄目だ。蟲の這う音がする。近い。窓からも来た。見つかった。

蟲。巨大ゴキだ。バレていたようだ。ガラスを派手に割って入って来た。包囲された。

さっきまで数の面では有利だったのに。逃げ道は、もう道を塞ぐ青鬼を退治するしかない。

 

 

 少女提督は咄嗟に携帯端末を取り出す。

素早く文字を打ち込み、タイムラインに短い文章を作成しようとする。

その間にも、窓を破ってきたゴキ達が少女提督に迫る。磯風と浜風が対処してくれた。

二人は少女提督の壁となるべく立ち、寄って来るゴキ達をバールで殴り、刺し、叩き潰す。

翔鶴が弓を射って、阿武隈はチェーンソーを呻らせて、迫ってくる青鬼と対峙する。

青鬼は蟲達のように突っ込んできたりしない。じりじりと距離を詰めようとしている。

動こうとするところを翔鶴が放つ矢が牽制し、チェーンソーを持った阿武隈が道を阻む。

バイクを降りた木曾と陽炎は、バイクのズタ袋から何かを取り出した。

木曾が工廠にでも立ち寄った持ってきたのだろう。二人が手にしたのは、大振りのパイプレンチだ。木曾は右肩に担ぐ様にして持って、姿勢を落として構える。

陽炎は両手で柄を握って、パイプレンチの頭を下げる姿勢で、身体の横で持つ。

二人は絶賛ウネウネ中のマネキンモンスターに対峙した。

 

 

 もともと、少女提督はシャーマン的な力を買われた提督では無い。技術的な力を買われ、元帥の称号を得た身である。

工廠にはよく足を運ぶし、明石と夕張が道楽で様々な工具を取り寄せてはコレクション

している事は知っていた。

明石や夕張が、殆ど道楽で取り寄せた多種多様な工具類が、こうして武器として活躍の場を与えられたところを見ると、何が役に立つか分からないものだと思う。

冷静な思考の片隅で、そんな事を考えつつも、少女提督も動く。携帯端末で、此方の状況をタイムラインに書き込む。敵が集中している事。敵に囲まれている事。

寮の周りに居る蟲達が少女提督達を狙い、一階の中に集まりつつありならば、陽動の効果も期待出来る事。寮の裏手にある端末へのアクセスは、その分容易になるだろう。

少女提督達が此処で持ちこたえて時間を稼ぐほど、別のグループは動き易くなる。蟲達に捕まるのも嫌だが、更にこのゲームに負けて罰ゲームまでさせられるのは絶対に嫌だ。

 

 泣きっ面に蜂も良いところである。それだけは避けたい。

だから、別に動けるグループに連携を頼む。現状、戦う事の出来ない非力な少女提督は、このグループの“声”役だ。外に呼びかける。伝える事に専念する。

出来る事をするだけだ。タイムラインでは、鈴谷のグループだけで無く、伊58達のグループがレスポンスを返してくれた。その事を、周りの木曾達に大声で言う。

細かく説明する必要も無いし、そんな場合でも無い。何をすべきか。その要点だけ伝われば良い。全員、少女提督の方を見なかったものの「了解!!」と返事をしてくれた。

あとは、出来るだけ生き残り、時間を稼ぎ、このデカブツ2体を足止めするだけだ。

 

 まるでムカデみたいにマネキン人形が連なり、ぐねんぐねんと蠢きながら蛇みたいに迫ってくるのを、木曾はヒラリとかわしながらレンチで殴りつけた。

マネキンが砕けて破片が散る。陽炎にもマネキンムカデが迫るものの、潜るようにして身を沈めてかわす。そして、姿勢を起こすのと同時に、レンチを両手で振りぬいた。

パイプレンチによる強烈なアッパースィングだった。マネキンムカデが砕けて折れ曲がった。その間にも、2本目、3本目、4本目と、マネキンムカデが襲う。

タコの足みたいに伸びてくるそれらを上手くかわしつつ、木曾と陽炎はマネキンを削って、砕いていく。艤装を召還できず、艦娘としての力が無くとも、流石の錬度の高さだった。

 

 それは、翔鶴と阿武隈にも言える。二人の立ち回りは堅実だ。青鬼が前に出ようとしてくるときは、阿武隈が僅かに下がり、変わりに翔鶴が弓矢での牽制に出る。

これを嫌がって青鬼がジリジリと半歩下がったりすると、今度は阿武隈がすっと距離を詰めると見せ掛け、プレッシャーを与えている。二人の間合いの管理は完璧だ。

青鬼を仕留めることが出来ずとも、時間を稼ぎ足止めをしている。磯風、浜風にしても、ゴキを相手に奮戦してくれている。踏んづけて、蹴飛ばし、応戦してくれている。時間を稼ぐ。

 

 

 あとの問題は、マネキンモンスターを挟んで反対方向に逃げた彼らの方だ。

いや、もう無理だ。此方には、木曾達が持って来てくれた工具類があったのだ。

だからこそ応戦できている。向こうはダンベルなどがあっても、武器にはしにくいだろう。

それに、マネキンモンスターだけでは無く、後ろからも蟲達が迫っているのだ。

ガシャガシャという蟲達の足音がさっきよりも大きくなっている。

確かに、少年提督が艤装獣の召還や、その超常の力を持ってして動けばどうにでもなる。

しかし、その力を外的への干渉へ使うことは禁止されている。今は縛りプレイなのだ。

少女提督は、少年提督達が全滅する事を前提にする。

考える。次の一手を打つべく、携帯端末に視線を落としたときだった。

木曾達が戦う音に混ざり、声が聞こえた。少女提督は聞き逃さなかった。

 

「ちょ、ちょっと……! 何してんのよクソチビ提督!!」

曙の上擦った怒鳴り声だ。

 

「うわわわわわ……っ!!」 

皐月の焦った声が聞こえた。

 

「えぇっ!! あ、あのっ……あのっ!!」

羞恥に震える声で、潮の慌てまくる声がした。

 

「わはぅっ……!!」

長月の驚愕の声に。

 

「んちゃぁ……っ!!」

素っ頓狂な霰の悲鳴が続く。

 

 マネキンモンスターの向こう側で、何が起きてるのか。

木曾や陽炎、阿武隈、翔鶴、磯風、浜風達は、戦闘中だから気付いていない。

少女提督は携帯端末から顔を上げて、耳を澄ます。詠唱の声が聞こえる。彼の声だ。

これでも元帥のはしくれだ。術式自体は聞けばだいたい分かる。

あれは鋳金・彫金に係る、金属の形状変化を齎す詠唱だろう。何をする気だ?

その疑問は、すぐに解決されることになった。ズドォォォン……!!、と来た。

衝撃というか、腹の底に響くような衝撃音だった。これは、打撃音だ。

マネキンモンスターが盛大に震えて、浮いた。

と言うか、こっちにズザザザーー……ッ、と下がってくる。

曾達と陽炎がバックステップを踏み、距離を取る。

磯風と浜風も、ついでにゴキ達も、マネキンモンスターの方を見た。

青鬼と、それと対峙していた阿武隈と翔鶴も同じく、驚いたような貌で一瞬動きを止める。

同時だった。更に、鈍く重い打撃音が聞こえた。

 

 マネキンモンスターの一部が砕けて、突き抜けるようにして誰かが飛び出して来た。

バラバラのグチャグチャのバキバキになって、爆発四散した。破片が散らばる。

マネキンモンスターに大穴を穿ったソイツは、クルッと宙返りを決めて見せて着地した。

右膝と左手をつくような姿勢だった。衝撃を吸収させたのだろう。音がしなかった。

手に持っているのは、大き目のバーベルだ。片方だけに馬鹿みたいに重りを載せてある。

その所為で不恰好なメイスの様にも見えなくも無い。アレをマネキンモンスターに叩き込んだのか

 

 すっと立ち上がったソイツは、アスリートみたいな身体をした白髪の青年だ。

身長も在る。引き締まってスリムだが、それなりに筋肉のボリュームもあった。

右手から右腕、右胸、右の首下にかけて、複雑で幾何学的な黒紋様が刻まれていた。

首には、小さめな黒い提督服の腕部分を結び、まるでマントの様に靡かせている。

あとは見覚えのある眼帯を、首に引っ掛けるようにしてぶら下げていた。ちなみに裸足だ。

顔は狐の御面で隠してある。左眼部分にコインが嵌め込まれている御面だった。

あれでは右眼でしか前が見えないが、ああいうデザインなんだろう。

まぁ、問題なのはマスクがどうのこうのという次元では無い。

パン一だった。控えめな柄の黒いイタリアンデザインのボクサーパンツ一丁なのだ。

いや。いやいや、違う。正確に言えば、一丁では無い。マントもしているし。

よく見ればパンツの上、腰辺りに黒い襤褸布みたいなのを巻いている。

あれは、破れた提督服の下履きか。まるで腰タオルみたいで余計に違和感が在った。

薄暗がりの中。狐の御面を被り、短い黒マントを羽織ったパンツ一丁野郎といった風体である。

しかも、手にはバーベル(メイス)を持っている。普通に通報ものだ。

まるでソイツの反応を待つように、青鬼もゴキ達も、少しの間、動きを止めていた。

ソイツは、バーベル(メイス)を棒術の演武ように鋭く振り回し、意味不明なポーズを決める。

 

 

「正義のヒーロー! 六文銭仮面、只今惨状!!」

 

ソイツは自信満々に名乗りを上げた。

場の空気が固まる。少女提督は、ポカンとして立ち尽くす。と言うか、全員がそうだ。

苦しげに呻いて蠢いているのは、マネキンモンスターだけである。

やたら良い声で名乗りをあげたソイツは、狐面で表情が見えないものの何処と無く誇らしげに見えた。

……ほんとに惨状だよ。どうすんの、この空気……。

 

 少女提督が『参ったなぁ…』みたいな貌になって六文銭仮面にツッコもうとした。だが、場の空気が固まっても、状況はリアルタイムで変わっていく。ゴキ達が動き出し、青鬼が飛び出して来た。

身体を破壊されて欠損し、体積を大きく減らした事で、明らかに弱ったマネキンモンスターも、六文銭仮面へと向き直り、ワシャワシャと再び動き始めた。

マネキンムカデとも言える触手腕をうねらせて、六文銭仮面に狙いを定めたようだ。だが勿論、他の艦娘達だって反応する。

 

「無視するなんて上等じゃない!」 真っ先に駆け出したのは曙だ。早かった。先程、マネキンモンスターに投げつけて床に落ちたダンベルを、駆けながら拾い上げる。

そして、かなりの近くまで助走をつけて駆け寄り、手にしたダンベルでマネキンモンスターを思いっきり殴りつける。マネキンが砕け散って、更にその体積を削った。

このおぞましい姿をしたマネキンモンスターは、見た目こそ恐ろしく、その巨体で威圧感があるものの、実際に攻撃してみればやはり脆い。弱っている今なら行ける。勝機。

 

皐月、長月、潮、霰も、曙に続いた。波状攻撃を仕掛ける。曙がマネキンモンスターから距離を取りつつ、ダンベルを投げつけて、更にマネキンの表面を砕く。

余所見をしていたマネキンモンスターが体を捩らせて怯む。その隙に、皐月と長月が駆け込んでいく。二人はタイミングを合わせて、拾ったダンベルを叩き込んだ。

潮と霰も、ダンベルを投げつける。マネキンモンスターを形勢するマネキン達が、ボロボロと崩れていく。トドメとばかりに動いたのは、パイプレンチを携えた陽炎と木曾だ。

マネキンモンスターも抵抗する。巨大なマネキンムカデを繰り出す。それをかわしつつ、大きく振り被ったレンチで、二人は容赦無く叩き潰す。

 

 

 磯風、浜風は、ゴキ達を退けつつ、全員が囲まれないように立ち回ってくれている。この間に、青鬼も阿武隈と翔鶴へと迫っていた。六文銭仮面がカバーに入る。

その青鬼へ少女提督も肉薄する。めっちゃ怖いが、手にした携帯端末を手早く操作する。体術も体力も無いが、出来ることくらいは在る。前へ出る。

翔鶴が矢を放つ。神速で射る。10本。青鬼は全部喰らう。それでも止まらない。腕を交差させるような前傾姿勢で突進してくる。軽く息を吐いた阿武隈が、すっと半身立ちになる。

翔鶴が半歩下がり、阿武隈が前へ。青鬼と阿武隈の距離が、一気に縮まる。阿武隈は恐れを見せない。青鬼を見据えている。青鬼も速度を落とさない。

阿武隈は大きく踏み込んで、チェーンソーを呻らせつつ、逆袈裟に振りぬいた。阿武隈の間合い管理は完璧だった。これ以上無いタイミングだった筈だ。「い……っ!?」

阿武隈の表情が引き攣った。青鬼は、交差させた両腕でチェーンソーを受け止めて見せたのだ。ついでに、腕にチェーンをめり込ませつつ、突進の勢いを利用して、力任せに弾いた。

阿武隈は反応する。咄嗟にチェーンソーを手放し、大きくバックステップを踏んだ。その阿武隈を眼で追いつつ、追い縋ろうとした青鬼を、さらに翔鶴が弓矢で牽制する。

 

 しかし、今度は青鬼の方が疾い。矢を受けつつくぐり、迫ってくる。阿武隈が捕まりそうになった。「写真とるよーー!!」 少女提督が横合いから走りこんで、叫ぶ。

咄嗟の事だが、二人は反応してくれた。阿武隈と翔鶴は腕で目許を隠す。

 

「はいチーーズ!!」女提督は、手にした携帯端末のカメラを青鬼に向けて、強烈な連射ストロボを浴びせかけた。護身用に魔改造を施したフラッシュ攻撃だ。

視界が真っ白に焼け付くほどの閃光が、連打で瞬いた。薄暗かった廊下が強い光に染め抜かれる。青鬼は此方を見ていた所為で、まともにフラッシュを直視した。

僅かに怯む様にして、青鬼の動きが止まった。十分だった。バーベル(メイス)を手に、六文銭仮面が突っ込んでいく。何て鋭い踏み込みだ。疾い。

六文銭仮面は身体を捻りつつ、左手に握ったバーベル(メイス)を叩き込む。そう思った。でも違った。肩幅程に足を開いて腰を落とし、腰だめに右拳を握り、力強く床を踏んだ。

明らかに“構え”だ。六文銭仮面は、青鬼の前で「六文銭パァァァンチ……ッッ!!(迫真)」握りこんだ右拳で、ストレートパンチを放つ。

トンファーキックという言葉が脳裏を過ぎる。正拳突きだった。クッソダサい技名をわざわざ叫んだだけあって、その威力は相当だった。

青鬼の鼻っ面の正面に撃たれたパンチは、青鬼の顔面を大きく陥没させ、もの凄い勢いで吹っ飛ばした。いや、殴り飛ばしたと言った方が正しい。

ドグシャァ!! みたいなヤバイ音と共に青鬼が空中を移動して、1バウンド、2バウンド、3バウンドして、寮一階廊下の端までゴロゴロゴロゴロッッ!!っと、転がっていく。

突き当たりの扉を派手にぶち破ってから、青鬼はようやく止まった。もう起き上がって来なかった。ピクリとも動かない。乱戦が終わる。寮一階に静寂が訪れた。

丁度、磯風と浜風も、ゴキを駆逐し終えたタイミングだったし、陽炎達も、マネキンモンスターを寄って集って破壊し尽した時だった。全員が、六文銭仮面を凝視していた。

 

 正拳突きの姿勢のままで残心しつつ、重く鋭く息を吐いている。

武人のような威圧感が在るものの、その格好の所為で色々と台無しだ。

少女提督は、どうしよう、アレ……、みたいに、翔鶴、阿武隈と顔を見合わせた。

遠巻きに見ている陽炎達や磯風達だって同じ様な貌をしている。

アレとは無論、六文銭仮面の事だ。取りあえずだけど、声掛けてみよっか……?

そう思ったに違い無い。「……あ、あの、司令……ですよね?」

パイプレンチを持ったままで、おずおずと六文銭仮面に歩み寄ったのは陽炎だった。

 

「アンタさ、なんつーカッコしてんの」

陽炎に続き、腕を組んでアホを見る目で歩み寄ったのは曙だ。

 

 

「えっ!?」

六文銭仮面は、正拳突きの姿勢を慌てて解いて、陽炎と曙に向き直る。

それから、わたわたと両手を振ってから一つ咳払いをして、堂々と腕を組んで背筋を伸ばした。

 

「……な、何のことでしょう? 

僕はさすらいの正義の味方、六文銭マンでしゅよ?

さっきまで居た少年は、僕が安全な場所に運んでおきました。

あの……別人ですよ?」

 

「さっきと名前違ってるけど、何でそんな動揺してんのよ。

 念押さなくていいから。って言うか、バレバレだから。そういうのは良いのよもう」 

 

 腕を組んだ曙が、眉間に皺を寄せる。何だか責めるみたいな眼つきだ。

六文銭仮面は組んでいた腕を解きつつ、肩を落とすみたいに息を緩く吐いた。

そして、狐の御面をそっと外す。その青年は、困ったみたいな笑顔を浮かべていた。

蒼み掛かった昏い左眼と、濃く濁った緋色の右眼が印象的だ。

その面差しには、やはり彼の面影が在る。少女提督も彼に歩み寄り、その貌を見上げた。

 

「ふーん、なるほど。儀礼術も使い方次第……。

外的では無く、内的に干渉するのはルール違反じゃないってワケね。

……身体に負担が掛かりそうね、その施術。無茶してない?」

 

 彼は異種移植の後、身体の深海棲艦化をコントロールしている。

自身の体への施術処置により、肉体の成長と活性を急激に促し、体型を変えたのだろう。

彼の右腕、右胸に刻まれた黒い術紋を一瞥して、少女提督は彼に聞いた。

彼はまた、人が良さそうな微笑みを浮かべて見せた。

気の優しいお爺さんみたいな笑顔が、青年の相にちぐはぐである。

 

「はい、大丈夫です。

この体型を長時間にわたって維持しないのであれば、問題はありません。

先輩にも、一度ならば使わせて貰うという許可は貰っています」

 

先程、タイムラインで野獣が言っていた言葉を思い出す。

『ゲームバランスがぶっ壊れる要素はお前ら側にもあるんだよなぁ……』

アレは要するに、彼の変身☆ヒーロー化の事を言っていたのか。

確かに、青鬼を殴り飛ばした威力などを見れば頷ける。

その分、長時間と連続の変身は無理の様だ。それにしても……。

 

「取りあえずさぁ……、その格好は何とかならなかったの?」

 

渋い貌で言う少女提督に、曙が頷いて、陽炎が苦笑していた。

まぁ、ほぼパン一だし。二人ともちょっと貌が赤い。

阿武隈と翔鶴も、恥ずかしそうな、ちょっと居心地が悪そうにモジモジしていた。

というか、ほぼ全員そうだ。瑞々しくも逞しさのある、彼の体をチラチラと見ている。

彼は自分の格好を一度見てから、周りの面子を順番に見た。

そして、意外そうに瞬きをして見せる。

 

「えっ、格好良く無いですか?」

 

「えっ」 少女提督が素で聞き返す。

 

「えっ、いや、……あの、へ、変、ですかね……?」

 

「あー……、うん、まぁ……、その、うん」

 

「あっ、そ、そう、ですか……」

 

こういう変な所で子供っぽいのも、普段では感じられない彼の愛嬌とでも言えば良いのか

とても残念そうにしょんぼりする彼の姿に、少女提督も毒気を抜かれて小さく笑った。言いたい事も色々あるが、まぁ今度で良いや。

少女提督は携帯端末に視線を落とす。タイムラインを追うと、鈴谷のグループと伊58達のグループは合流し、端末へのアクセスを済ませたという報告が在った。

残るは一つ。時間的にも、応援に行くのはもう間に合わない。助っ人には行けない。吹雪達や天龍のグループに任せるしか無い。……頼んだわよー。ホントさぁ……。

心の中でエールを送りつつ、少女提督は軽く息を吐き出した。周りを見渡してみる。磯風と浜風と眼が合った。二人も、何だかもう『なるようになるでしょう』みたいな貌だ。

その通りだ。あー疲れた。寮一階のぶっ壊れっぷりに、また笑ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後の端末は、訓練場グラウンドの隅に置かれていた。開けた場所だ。

そして人型追跡者のルール理解も完璧だった。待ち伏せって言うか、迎え撃つスタイルだ。

端末を守るべく、▲頭の巨漢が、大人くらいの大きさを誇る大鉈を左手に佇んでいる。

ついでにもう一人。小型の金庫を頭に被っている巨漢が肩を並べて立っていた。

金庫を頭に被って、その上から有刺鉄線をぐるぐる巻きにしているような格好だ。

服装は食肉加工工場で働いてる感じの格好だが、やっぱり異様に血塗れである。

ドス黒い血に濡れた作業着とエプロンはもとより、手に持ってるのは包丁じゃない。

人間の腕くらいのミートハンマーだ。それにも有刺鉄線を巻きつけてある。

あれを左片手で持ってる膂力は推して知るべきだろう。身長も、2mを軽く超えている。

 

 青空に茜が滲み、羊雲を疎らに染めている。陽が傾き、足元の陰が伸びている。

時間切れが近い。グズグズしてる暇は無い。場所的に見ても、小細工も無理くさい。

端末にアクセスすべく、グランドに攻め込んだ吹雪達は、苦戦を強いられていた。

この人数で一挙に攻めれば、少なくとも数の有利を押し付けることが出来る筈だった。

相手であるブロッカーとしての人型追跡者は、二人だけ。そして此方は、七人。

仮に何人かが捕まっても、残りで端末まで辿り着ければ良い。単純に、そう考えていた。

しかし、数の有利はすぐに崩れ去る事になる。蟲達の乱入だ。

吹雪達の横合いから、雪崩込んで来た。ハエとクモの群れだった。

半包囲されて一気に形勢が変わり、完全に勢いを殺されてしまった。

 

 

 しかし、まだ吹雪達は諦めていない。足掻いている。

まず、不知火、天龍、夕立の三人は、▲頭と金庫頭を相手に立ち回っている。

3対2だ。▲頭と金庫頭は、やはり攻撃はしてこない。飽くまで捕獲の為の動きだ。

それでも、とにかく動きが俊敏と言うか、とんでもなく玄人臭い動作で隙が無い。

天龍と不知火が、手にした鉄パイプを打ち込み、鉈と斧を持つ夕立も息を合わせて襲い掛かる。

しかし▲頭と金庫頭も、手にした得物で防御しつつ、その行く手を確実に阻んでくる。

どうにかして動きをかわして、端末に辿り着きたい。

吹雪、睦月、朝霜、瑞鶴は、前衛の3人が取り囲まれてしまわないように動く。

 

 吹雪は鉄パイプを握り込み、地面を這ってくるクモを追い散らす。

瑞鶴は練習用の弓矢を構え、素早く矢を放ってハエを撃ち落としていく。

睦月は、かなり大き目のアジャスタブルレンチの二刀流で、クモもハエも殴りまくる。

朝霜が手にしているのは、除草用の火炎放射器である。

さっきまで木曾がズタ袋に放り込んでいたものを、別れ際に渡して貰ったのだ。

木曾、阿武隈、翔鶴のグループは、パイプレンチやチェーンソーも持っていたからだろう。

武器が充実していたので、此方にも分けてくれたのだ。

 

「消毒だぜぇぇぇ!!」

 

 朝霜は、周りをよく見ている。常に吹雪と睦月の背を守るポジションを陣取る。

炎を撒いて、蟲達の群れを牽制している。それでも前へ出てくる蟲には、瑞鶴が対処する。

乱戦状態に近いが、圧されてはいない。問題は、この蟲の数だ。

この蟲達さえどうにか出来れば、▲頭と金庫頭を相手にしなくても良い。

今の状況から見えてくる吹雪達の勝ち筋は、大きく分けて2つ。

 

 天龍達が、ブロッカーである▲頭と金庫頭を撃破し、正面を突破するか。

吹雪達が、蟲達を全滅させて、▲頭と金庫頭を天龍達に任せる形で、端末に向かうか。

力任せの突撃でしかないが、応援を待っている時間が無い。行くしかないのだ。

しかし、この土壇場で強力な助っ人が来てくれた。察しが良い。走りこんで来る。

天龍、不知火、夕立と対峙する、▲頭と金庫頭の後ろを取る形だった。

 

 身体を極端に前へ倒して、疾駆している。デニムのホットパンツに、黒のタンクトップと黒のパーカーを着込んでいる。被ったフードから見える銀髪が眩しい。

「ぐっどアフタヌ~ン……!(レ)」レ級だ。肩に担ぐというか、背中に背負うみたいにして片手で持っているのは柄の長い、大振りのスレッジハンマーだ。

工廠あたりからチョロまかして来たのだろう。レ級だって弱化用チョーカーをしているし、肉体もスポイルされており、深海棲艦としての力は封じられている。

それで尚、あんな重たいものを持ってよく動けるものだ。彼の配下になった深海棲艦達も、独自にトレーニングを積んでいるという話は聞いた事が在るが、その成果か。

 

 駆けるレ級は、▲頭と金庫頭を狙わない。まっすぐにグランドに置かれた端末を狙う。

王手をかける。だが当然、そうは上手く行かない。動いたのは▲頭だ。

レ級に立ち塞がるべく、向き直ろうとした。その▲頭の初動を潰そうと、天龍と不知火が前へ。

天龍が右斜め上から。不知火が左斜め上から。鉄パイプを鋭く振りぬこうとした。

息がピッタリと合った二人のコンビネーションは、完全に▲頭を捕らえていた筈だった。

しかし、仕留められなかった。とんでも無く戦い馴れた動きと早業だった。

▲頭は、近くを飛んでいたハエを引っ掴んで、天龍に押し付けるみたいにしてパスした。

同時に手にした大鉈の腹で、不知火が振りぬいて来た鉄パイプを受け止めて押し返す。

ブブブブブブブブブ!! 大暴れする巨大ハエを目の前にもって来られて、天龍が叫んだ。

「はぉぅッ!!?」 天龍は思わず身を引きつつ、ハエを叩き落す。

「ぅぐ……っ!!」 大鉈で圧された不知火が体勢を崩す。動きが止まる。

その僅かな隙に、▲頭はレ級を狙う。夕立がそれを阻止しようするものの、無理だった。

割り込んで来る。金庫頭だ。夕立にショルダータックルを仕掛けてきた。

夕立は咄嗟に横っ飛びに転がって避ける。得物は手放さない。すぐに起き上がる。

 

 駆けて来るレ級は、それらの一連の流れを全部見ていた。

ズザザザザザーーーッと急ブレーキを掛けて、走る方向を急転させる。

今度は端末では無い。唇の端を吊り上げたレ級は、舌舐めずりして金庫頭に狙いを定めた。

ブロックしに来た▲頭には付き合わない。状況が変わる。場の流れが一気に加速する。

 

金庫頭には、夕立とレ級が。

▲頭には、天龍と不知火が、それぞれ対峙する形になった。

 

 

「身体も暖まって来たっぽい……!」即座に夕立はレ級に応える。

斧と鉈を手の中でグルングルン回しながら。突進姿勢を解いた金庫頭に肉薄する。

レ級も突っ込んでいく。金庫頭は、まず夕立を狙った。捕獲すべく、手を伸ばしてくる。

夕立はそれを、身体を鎮めることで避けつつ懐に潜り込み、右手に持った鉈を胴体にぶっ刺した。

そして即座にぶっこ抜きつつ、すっと横合いに身体を捌き、左手に持った斧を金庫頭の金庫に叩き込んだ。

 

 硬い金属音と共に、斧の刃が金庫にめり込む。それでも金庫男は止まらない。

ダメージなど構わず、夕立へと掴み掛かろうとした。しかし、レ級がそれを許さない。

「いざぁ……!(レ)」 レ級は走りこんで、横合いから走りこむ。

身体を駒みたいにぶん回して、金庫頭の即頭部にスレッジハンマーを盛大にぶち込んだ。

派手な予備動作の癖に、全く動きに無駄が無い。流麗でさえあった。

グラウンドに響き渡るような、良い音がした。金庫頭の側頭部だ。金庫が歪む。

流石に金庫頭がぐらつく。だが、倒れない。ならばもう一発と、レ級が身を沈める。

すぐさま身体をぶん回して、もう一発を繰り出す。しかし、今度は金庫頭も防御した。

片手で握ったミートハンマーで、レ級のスレッジハンマーを殴り返したのだ。

なんて腕力だ。今度はレ級がたたらを踏む。「おぉっ!?(レ)」

しかし、金庫頭がレ級を相手にした事で、隙が生まれた。夕立が猛襲する。

 

 

 この間にも、▲頭と対峙している天龍と不知火の二人も、善戦している。

いや、天龍が▲頭と正面から切り結んで、優位に立っていた。つかず離れず。牽制し、足を止める。

不知火が、囲いに来たハエやらクモを追い散らしている。瑞鶴も援護する。

吹雪と睦月、朝霜も、蟲達を潰しながら、援護に向かうべく急ぐ。グラウンドの土を蹴って、駆ける。

その途中で、吹雪は天龍の鉄パイプ捌きに見惚れたかけた。

 

夕立は、『人間の型』である限界を引き出す天才型だ。

人間の身体なら此処まで出来るという限界を引き出して、滅茶苦茶な動きをする。

一方で天龍は天性では無く、修練や鍛錬によって技術を培い、磨きぬいて、足りない部分を徹底的に補っている。

こういう得物を持った差し合いでは、べらぼうに強い。天龍も、どうやらちょっと本気を出したようだ。

 

 

 天龍がすっと前へ出て、鉄パイプを袈裟掛けに振るう。

▲頭が右腕で受け止めつつ、押し返そうとした。天龍はそっと身を引いて、付き合わない。

▲頭の腕力を往なしつつ、更に左横へと抜けるように踏み込む。▲頭を打ち据える。

続けて、左膝、左腕、左肩、左首下へと、立て続けに鉄パイプを鋭く打ち込んだ。

ダダダダン……ッ!という鈍い音が響く。▲頭の左半身がぐらついた。天龍が追撃に出る。

苦し紛れか。▲頭は、大鉈の腹を振るって、天龍を追い払おうとした。出来なかった。

不知火だ。周りの蟲達を駆逐しつつ、タイミングを見計らっていたようだ。

強襲する。まず不知火は、鉄パイプを▲頭目掛けてぶん投げた。それを追う様に、不知火は駆ける。

グルングルンと猛回転して、鉄パイプが飛んでいく。▲頭はこれを腕で防ぐ。

動きが止まる。天龍が再び大鉈の間合いを潰す。今度は、右半身だ。

流れる様に鉄パイプを振るい、▲頭の右肩、右脇腹、右腕、右の首下に連撃を叩き込む。

天龍の攻撃は的確だった。しかし、▲頭も頑丈だ。ぐらつくだけだった。

其処へ不知火が一気に迫る。▲頭も反応している。不知火を迎え撃とうとする。

その行動を、やはり天龍が咎める。すっと距離を詰めて、右と左の喉首側面を強打した。

 

 ▲頭が呻く。動きが止まっている。その隙に、不知火は近接距離まで踏み込む。

すっと腰を落としつつ、スカートの背中部分へと手を回し、二振りのナイフを取り出す。

此処に来る途中で、ジェイソンの木偶から奪ったものだ。

不知火はナイフを素早く逆手に持ち替えて、▲頭の両膝に一本ずつ深く埋め込んだ。

大鉈を振るい、不知火を追い払おうとした▲頭が、バランスを崩して膝をついた。

不知火は鋭くバックステップを踏む。▲頭は不知火を追うために立ちあがる。

 

 しかし、形勢は大きく変わった。吹雪達も、蟲達の数を減らしつつ突撃している。

深手を負った▲頭の両膝に、瑞鶴がさらに矢を5本ほど、神速で射ち込んでみせる。

▲頭が完全に躓いた。足掻こうとする。再び立ちあがる。駄目押しとばかりに、天龍がトドメを刺す。

体勢を崩し、しゃがみこむ姿勢で大鉈を持つ▲頭の左手を蹴飛ばす。大鉈が地面に落ちる。

重い金属音が響いた。天龍は即座に、鉄パイプで▲頭の首を狙う。刺突だ。

分厚い▲の兜をかわし、顎下から脳天を突き刺すような角度で、力任せに押し倒した。

流石に▲頭も倒れる。起き上がって来ない。かと思ったら、もの凄い勢いで起き上がった。

不死身なのか。さすがに不意を突かれて、天龍が捕まった。

右腕を、左腕でがっちりとつかまれている。しかし、天龍は吹雪の方を見て笑ってみせた。

「あとは頼んだぜ!」 軽く言う天龍を助けるべく、素手の不知火が▲頭に迫る。

 

 

 吹雪は其処まで見て、前へと向き直る。天龍と不知火がどうなるかは分からない。

助けにいくにも時間が無い。天龍の言うとおり、狙うは端末だ。まだ障害が残っている。

金庫頭だ。もう金庫は殴られまくって歪に変形している。それでも、奴は止まらない。

夕立とレ級の二人を相手取りつつも、こっちにも意識を向けている様だ。

夕立が矢継ぎ早に振るう斧と鉈をミートハンマーで叩き返しつつ、吹雪の方をチラリと見たのだ。

余所見をした金庫頭の頭部を、レ級が身体を振り回すようにして、スレッジハンマーでぶん殴った。

まともに入った。その筈だ。しかし、すぐに金庫頭は反撃に転じて、大柄の得物を振るうレ級を捕まえるべく突進する。

 

 

「にゃしぃ……ッ!!」

 

 そうはさせないとばかりに、睦月が手に持っていた大サイズレンチを投擲する。

気の抜ける気合と共に飛んでいくレンチはしかし、凄いコントロールだった。

レ級に迫ろうとしていた金庫頭の側面に、ゴイィィィ~~ン……ッ!!と激突する。

金庫頭が、此方に意識を向けた。「何処見てるの?」 その隙を逃がさず、夕立が猛襲する。

夕立は手にした大鉈で、金庫頭の手首を斬りおとした。ミートハンマーを持っている方の腕だった。

ハンマーが地面に落ちる前に、夕立は距離を詰めて、金庫頭の喉首に大鉈を打ち込む。

しかし、鉈はめり込むだけに留まった。それで良かった。夕立は大鉈から手を放す。

そして即座に地面に落ちたミートハンマーを拾い上げて、今度は斧と鎚の二刀流になった。

喉首に鉈を生やした金庫頭の体勢が、わずかによろめいた。大き過ぎる隙だ。

夕立はペロっと唇を舐めて湿らせてから、無邪気に笑った。楽しそうな笑顔だった。

 

 夕立はまず、右手に持った斧を金庫頭の左肩へと叩き込みつつ身体を捻り、左手に握ったミートハンマーで金庫頭の横っ面をぶん殴る。更にスピードが上がる。

続いて身体に捻りを効かせつつ、即座に右手の斧を金庫頭の左脇腹へと打ち込み、左手のハンマーで右脚をぶっ叩いた。金庫頭が片膝をついた。それがどうしたと言わんばかりに、夕立はラッシュをかける。

斧と鎚を、とんでもない連打で金庫頭の体中に叩き込んでいく。肉が潰れるような音と、金属が拉げる音が、まるでドラム音みたいに混ざり合って響いている。

あの連撃と身のこなしは、夕立の天性によるものだ。天龍のように、洗練されて磨かれた“技”による動きじゃない。そもそも、磨く必要など無い。

夕立の身体は十分過ぎるほど、戦闘を理解している。勝手に動く。夕立自身もそれを知っている。しかし金庫頭の頑丈さは、夕立の想定外だったようだ。

 

 あれだけグチャグチャにやられて、頭の金庫も歪みまくっているのに。

金庫頭は動いた。夕立の攻撃を受けつつも音もなく姿勢を上げて、無造作に距離を詰めて来た。

ついでに、振るわれた斧と鎚を、両手でがっしりと受け止めて見せた。

片方は手首から先が無いものの、その手首の切断面で斧の刃をめり込ませるような形で受け止めている。

無茶苦茶だ。夕立も怪物だが、金庫頭も化け物だった。それでも夕立は焦らない。

ニッと笑って見せて、すっと腰を落とした。

睦月と朝霜が殴りこんで来るのに気付いていたからだろう。

 

「夕立ちゃん、ごめんね!!」

 

 

 駆ける睦月は言いながら、地面を蹴って跳躍する。

そして、姿勢を落とした夕立の肩を蹴って、さらに跳躍。

金庫頭の両肩に着地すると同時に、手に残った大レンチを両手で握り、金庫頭に捻じ込む。

金庫頭の金庫は歪みまくって、蓋には隙間が出来ている。そこにぶち込んだのだ。

まだ終わりじゃない。「ふんぬぬぬぬぬぅーー……っ!!」

金庫頭の肩に着地した睦月は、捻じ込んだレンチの柄を握って体を逸らして、全体重を掛ける。

レンチで、金庫頭の蓋を抉じ開けていく。さすがに、金庫頭も呻いた。

両手で受け止めていた夕立の斧と鎚を弾くようにして放し、睦月を捕まえようとした。

 

だが、そうは行かない。自由になった夕立とレ級が、その迂闊な行動にマジレスする。

夕立が斧と鎚で金庫頭の右腕を叩き潰し、レ級がスレッジハンマーを振り抜いて、金庫頭の左腕をへし折った。

其々、肩口から容赦無く破壊した。金庫頭は両腕が使えなくなった。其処へ、真打ちが登場する。

「決めるぜ睦月! 離れてろ!!」 朝霜が駆け込んで来る。やる事が無茶苦茶だ。

除草用火炎放射器の放射口を、睦月が抉じ開けた金庫の隙間にぶっ込んだのだ。

自分が火傷しないように、斜め上へ向けるような角度だ。

金庫頭も何とか身を引こうとしたようだが、残った左脚をレ級がハンマーで粉砕した。

強引に動きを封じる。その間に、睦月が慌てて金庫頭の肩から飛び降りて距離を取った。

夕立とレ級も跳び退って離れる。「喰らいやがれぇ!!」それを確認した朝霜が、火炎を注いだ。

ボッファァァ!!って感じだった。金庫頭の頭部から、炎が上がる。爆発的に燃え盛る。金庫頭が悶えて倒れた。

「ぅぉあっちぃ!!!」あの距離だったらそりゃそうだろう。朝霜も飛び下がり、火炎放射器を取り落とした。

周りが広いグラウンドだから出来た戦い方だ。しかし、これで壁は無くなった。

 

 

 勝った! 端末はすぐ其処だ! そう思った。違った。思わず叫んだ。

ATMみたいなずんぐりした端末が、動きだしたのだ。っていうか、走ってる。

オッサンの脚みたいなのが四本生えて、だばだばだばだば!! と不格好な感じで走り出したのだ。

せっかく勝ったと思ったのに。勝利条件の端末が動き出して逃げていく。

あれも金属儀礼による生物化と言うか変質と言うか、蟲達と同じ類の術式徴兵なのだろう。

心の底から思った。マジでやめろこういうの。残った吹雪と瑞鶴が、端末へと駆ける。チラリと腕時計を見た。

あっ、ヤバイ。あと。10秒くらいしかない。さらにヤバイ事に、金庫頭が動きだした。

いや正確に言えば、金庫頭の頭部が身体と分離し、触手みたいなのが生えまくった。

そして、金庫だけになってシャカシャカと高速で這う様に動きだしたのだ。クッソ気持ち悪い。

肩越しに振り返る吹雪達を追ってくる。めっちゃ早い。というか、捕まった。

瑞鶴だ。右の足首と左腕、首に触手が巻きついていた。瑞鶴は首に絡まる触手を引き剥がす。

腕の触手も振り払おうとする。その間にも、次々と瑞鶴に触手が伸びて、捕まえていく。

「……っ、頼んだわよ! 吹雪!!」瑞鶴が苦しげに笑って、踵を返した。

金庫頭の触手をがっちりと両手で掴んで、両足で踏んづけている。吹雪の壁になってくれた。

吹雪は一瞬止まりそうになったが、すぐに速度を上げる。グラウンドを走る。

「行けぇ! なん●パークス!!(レ)」レ級の声が聞こえた。

 

 ついでに、金庫がぶっ壊れるような音が聞こえた。レ級が瑞鶴を助けてくれた様だ。

そう思う。確認する余裕は無い。残った蟲が来る。追ってくる、吹雪はかわす。

避ける。走る。息を切らす。歯を食い縛る。行け。行け。行け。ダッシュだ。

寄って来るクモを踏み超えて、飛んでくるハエを鉄パイプでぶん殴る。

だばだばだばだばっと走る端末を追いかける。くそっ! 無駄に速いっ! 

でも、諦めたら終わりだ。これでラストなんだから。

しんどさを振り払え。行ける。追いつける。私ならやれる。出来る。

そうだ。鼓舞しろ。自分を。奮い立たせろ。もっと速く走れる。

イメージだ! あぁ! なんて身体が軽いんだろう! まるで羽根みたいだ! 

飛んでるみたい! さぁ行こう! 水平線の彼方! 地平の遥か先まで! 虹を超えて!

そう! 私は雪の妖精! 風に乗って軽やかに! お芋を頬張り何処までも!

 

行けるかそんなもん。無理に決まってんだろ。でも、それくらい思ってないと。

しんどい。しんど過ぎ。さっきから緊張しっぱなし、走りっぱなしだ。

そろそろ限界。無理。息がね、苦しいの。酸素がね、足りないの。

でも、走るしかない。端末はすぐ其処だ。距離は、間違い無く縮まっている。

手に持っていた鉄パイプを放り捨てて、ラストスパートを駆ける。間に合え。行けっ!!

 

あと5メートル。

あと4メートル。

あと3メートル。

あと2メートル。

あと1メートル。

 

「だぁぁぁああああああああああああ!!!」

 

 吹雪は前のめり倒れこむようにして、端末のディスプレイを右の掌でぶっ叩く。

バッシィィィンと良い音がすると同時に、ゲーム終了のアナウンスが響いた。

どちゃあ!と吹雪は仰向けに倒れて、夕に滲む空を見上げた。腹が立つくらい晴れていた。

少し離れたところで、だばだばだばだば走っていた端末も動きを止めている。

儀礼術による変形も解けて、その無骨な姿のままで、グラウンドに横たわっていた。

そりゃあ端末自身があれだけ動けるのなら、鎮守府の其処彼処に端末を置くなんて訳無いだろう。

最後の最後に、よくもやってくれるものだ。思考がまとまらない。胸中で悪態もつけない。

大の字に四肢を放り出し、ぜぇぜぇ!! はぁはぁ!! と息をする。

駄目だ。もう動けない。罰ゲームとかどうでも良くなりそうなくらい疲れた。

アー吐キソ……。吹雪は乱しながら携帯端末を取り出して、タイムラインを確認する。

すると、もう赤城が結果を報告してくれていた。

グラウンドに倒れたままで、吹雪は唾を飲み込んで、タイムラインをスクロールさせる。

 

 

 

 

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

アナウンスです。制限時間終了と同時でしたが、

全ての端末へのアクセスを確認しました。勝利条件は満たしています。

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

只今、野獣提督から連絡がありました。

判定は、『賞品無し、罰ゲームも無しの“引き分け”』との事です。

 

 

≪プリンツオイゲン@Admiral Hipper3.●●●●●≫

いや、それで十分です……。無事に終われるなら何でも良いです……。

 

 

≪曙@ayanami8.●●●●●≫

至る所ぶっ壊れまくってるけど大丈夫なのコレ?

駆逐艦の寮一階とか凄いんだけど

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

その辺りはへーきへーき! 今から俺と妖精達で回ってくるから

色々と模様替えもしたかったし、丁度良いゾ

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

だからさぁ……、

そういうマインクラ●トみたいな軽いノリで、鎮守府ガタガタにするの止めない?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

鎮守府なんざ俺のオモチャで良いんだ上等だろ

 

 

≪陽炎@kagerou1. ●●●●●≫

良い訳無いと思うんですけど……。

付き合わされるこっちの身にもなってくださいよ本当に

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな! じゃあ、お前らの健闘を讃えて、食堂で打ち上げでもしよっか!

HUSYOUとMMY達に、宴会の準備して貰ってるんで、はい、ヨロシクゥ!(労い)

 

 

 

 タイムラインを其処まで読んだ吹雪は、はぁぁぁ~~……と、クソデカ溜息を吐き出した。

まだまだ艦娘達の書き込みが続いているが、まぁ良い。肝心な事は分かった。

吹雪達は負けはしなかった。罰ゲームはしなくて良い。それが重要だ。

何と言うか、ホッとした。身体から力が抜ける。あーー……。やっと終わった。

後頭部をグラウンドに預けながら、チラリとグラウンドへと視線を向ける。

▲頭は彫像のように動きを止めているし、金庫頭の金庫は、グラウンドに半分埋まっていた。

スレッジハンマーがめり込んでいるので、やはりレ級が叩きつぶしたのだろう。

蟲達の残骸も転がっているが、あれも野獣がまた回収して鋳潰し、また有効に再利用するのだろう。

大掛かりなイベントだったが、あと片づけやら修繕やらも野獣持ちらしいし、もう任せることにしよう。

 

 吹雪が賢者タイムに突入していると、睦月や夕立が駆け寄って来た。

手を引かれて無理矢理に起こされ、皆に胴上げされた。

その後、全員で健闘を讃えあいながら、食堂に向うことになった。

蟲や人型追跡者に捕まった艦娘達は、既に食堂で宴会が始まるのを待機しているという。

恐らくだが、野獣は艦娘達が勝とうが負けようが、それを労う計画は立ててあったのだろう。

大掛かりな準備をするだけの事はある。こういう終わり方も、予想していたに違い無い。

つらつらと考えながら、吹雪は溜息を飲み込んで、ぐぐぐっと伸びをした。

気が緩んだせいだろう。まだ夕方なのに、お腹が鳴った。










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短編 番外編

 
 


 艦娘は産声を上げるかわりに、艤装の顕現を行いながら、物質として成る。

人の赤子のように、小さく弱く生まれてくるのではない。今在る姿を持って生まれてくる。

金属に宿る魂は戦闘の為に形成され、兵器の擬人と成り、戦力として招き入れられる。

だから、己が纏う艤装の使い方や海での戦い方は、その躯体に染み付いていた。

卵から孵った鳥達が、空を飛べるように生まれてきているのと同じく、それは種としての機能だ。

艦娘としてこの現世に召ばれ、肉体を持ったときの感覚は今でも覚えている。

呼吸をする事も、声を出す事も、肌を撫でていく風を感じるのも、全てが新鮮だった。

五感だけでなく、思考、認識も、それらが全て、己のものだと理解出来た。

 

 肉体的な頑強さは、軍艦としての強さを反映してのものだろう。

艦娘達は皆、生まれた瞬間から、無意識レベルで戦闘をこなす程に完成している。

しかし一方で、意識や精神を得たが故に、兵器としての不安定さを抱える事にもなった。

感情を持つが故の、人類に対する反感、疑念、不信、不和など。

また特殊な例として、かつての軍艦の記憶、その影響を大きく受けてしまう艦娘達も居た。

激戦期の中、野獣によって召還された赤城がそうだった。

 

 

 野獣がまだ“元帥”の称号を得ていない時。人間が存亡の危機に瀕するレベルで、深海棲艦達との戦いの中にあった時の事だ。

大きな戦力として迎えられた赤城は、その期待に徹底して応えた。己自身も一航戦・赤城の分霊であることに誇りを持っていたし、自身の持つ強さも理解していた。

自分の中にある、戦える喜びも自覚していた。激戦期の最中は、戦場に困ることは無かった。赤城は進んで戦闘海域に出撃し、深海棲艦達を沈めて回った。

まだ、長門や陸奥が居ない頃だった。赤城のLvも見る見るうちに上がり、海で出会う誰よりも錬度の高い空母として、戦力の要としてあり続けた。赤城は、強くなった。

それが、赤城にとっての正しいことだった。慢心など微塵もせずに、出撃する先々で深海棲艦を沈めまくった。容赦無く、執拗に、入念に、飽く事も無く沈めた。

共に作戦海域に赴いた他所の艦娘が沈んでも、すぐに気にならなくなった。敵を殲滅する。それこそが、赤城にとっての正しいことだった。間違ってなどいない筈だった。

沈着であり苛烈な戦いぶりから、戦闘マシーンなどと呼ばれ、他所の艦娘からは畏れられる様になった。赤城は、己のすべき事をするだけで、気にはしなかった。

赤城はより錬度を上げていき、勝利を通り越した殺戮を繰り返しながら、人類に貢献していった。それこそが、赤城にとっての正しいことだった。

そんな己を、誰かに理解して貰おうとは思わなかった。自身を召還した野獣と言う男が、どんな人間なのかすら、どうでも良かった。正直なところ、本当に誰でも良かった。

一航戦・赤城として戦場に向かい、敵を殺しまくって、勝利を持ち帰って来られるのならば。提督など、豚でも犬でも猫でも鼠でも虫でも良い。赤城の正義には関係無かった。

激戦期の中に身を置いていた頃の赤城には、野獣の印象など殆ど残って居ない。作戦について話をする事も在った筈だが、赤城自身が気にも留めなかったからだ。

 

 

 

 

 

 

 赤城の精神に変調が訪れたのは突然だった。何の前触れも無かった。大規模な作戦を終えた戦闘海域。余波に揺れる、艦娘と深海棲艦の無数の屍と残骸を眺めている時だった。

頭の中に声が聞こえた。自分の声だった。語りかけて来るような声だった。同時に、叫び出しそうな頭痛が来て、赤城は海の真ん中で、頭を抱えて蹲った。動けない。眼が回る。

同じ艦隊に居た艦娘達が、何かを大声で言いながら寄って来るのが分かった。心配しなくても良い。大丈夫だと。何でもないと言おうとするものの、舌が動かない。

 

 いつもなら痛みに耐える事など容易いはずなのに、この時は無理だった。何かが、赤城の精神に語りかけて来ている。しかし、痛みが激し過ぎて聞き取れない。

一体、何が。何が起きているのか。分からないまま、激痛に翻弄される。意識が飛びそうになる。また、声が聞こえた。微かに、『索敵』『先制』という単語が聞こえた。

やはり、赤城の声だ。だが、質が変わった。外からの声ではない。赤城の内から、自らに語りかけて来る。何かが、赤城の中に入り込んだような、そんな感覚だった。

痛みに悶え、抵抗する事も出来ない。身体だけでなく、魂が動揺していた。震えが来る。恐怖だった。絶叫しようとするも、声も出ない。眼や、耳、鼻から血が出てくる。

鉄の味がした。千切れ飛びそうな意識を、何とか縫いとめる。此処で、止まっている訳にはいかない。次の戦場が在る。このままでは、出撃出来なくなる。

嫌だ。正義を。存在意義を。失ってしまう。己が、己で無くなってしまう。恐ろしかった。血の泡を吹きながら、赤城は何とか立ち上がる。帰らねば。次の戦いの為に。

勝利を。勝利を。勝利を。勝利を。うわ言の様に言いながら、赤城は母港を目指す。ノイズの走る視界は、血に染まっていた。周りに居た艦娘達も息を呑んでいた。

そうだ。私は大丈夫だ。まだまだ戦える。もっと殺せる。思考が暴走し掛けた時だ。『見えているか』と声がして、脳裏に別世界の光景が、怒涛の勢いで流れ込んで来た。

断片として継ぎ接ぎされたその光景の坩堝は、軍艦であった頃の赤城が垣間見てきた、かつての記憶だった。建造されてから、ミッドウェーで沈むまでの記憶だ。

 

 人。溺れる人。人。燃える人。人。浮かぶ人。人。死んだ。人。

空。高い。空。波。喰らう。波。風。荒ぶ。風。蒼。深い。蒼。碧。陽を返す。碧。

沈む。赤城。私。沈む。熟視する。記憶。看視する。経験した事の無い。記憶。

重い。重くて。熱い。手に余る。抱えきれない。悪夢の様な光景が、渦を巻く。

“軍艦である赤城”が、“艦娘である赤城”を呼んでいる。聞こえているか、見えているかと。

その“声”は、天心の深さに比類する彼方より届き、咫尺にて響き、赤城の内にて声と成る。

自我が圧壊しそうなほどの情報量と痛みに、視界が暗転する。とうとう赤城は気を失った。

“見誤るべからず”。消えていく意識の端に、短い言葉が微かに聞こえた。

 

 

 

 

 意識を取り戻したのは、鎮守府内に設けられていた艦娘用の特別医務室だった。

個室として区切られた、狭い病室の様な風情である。赤城は、暫く天井を眺めていた。

清潔なベッド。柔らかな羽毛布団の感触。窓が開いていて、そよ風が吹いている。

肉体の感覚は鈍い。腕や指は動く。脚にも感覚は在る。動かせる。視線を動かす。

赤城は、いつもの艦娘装束を着ていない。白い、薄手の被術衣を着ていた。

狭い病室は酷く殺風景だった。ものが殆ど無い。薬を置く為の棚と、椅子くらいだ。

くすんだ白色の床。壁。天井。まるで監獄の中の様な寒々しさが在った。

静穏の中で、赤城は記憶を辿る。何故、自分は此処に居るのか。

そうだ。海で。声を聞いて。蹲り。立ち上がったものの、気を失ったのではなかったか。

次の戦場に向うために、勝利を持ち帰ろうとした時の出来事ではなかったか。

思い出すと、震えが来た。赤城はベッドから身体を起こす。裸足で、立ち上がる。

自分の両手をじっと見詰める。妙だ。身体は動くのに。違和感が在る。寒い。

 

 嫌な予感がした。赤城は、艤装を召還する為、意識を集中する。

普段なら、艤装はすぐに顕現出来る。その筈だった。しかし、現れない。

赤城の肉体に宿る筈の力が、赤城に応えない。沈黙したままだ。そんな馬鹿な。

心臓が冷たくなるのを感じた。こんな事が在って良い筈が無い。赤城は、大いに狼狽した。

頭を抱えて蹲る。両目をきつく閉じて、念じる。艤装を召ぼうとする。

一心不乱に。祈り、縋る様にして、艤装を顕現しようとする。だが、無駄だった。

赤城の内にある筈の“力”は、赤城に応えない。沈黙だけだ。赤城は叫んだ。

生まれて初めて、恐怖を感じた。己が己で無くなると言う恐怖だった。

 

 赤城は、一航戦としての己を正義とした。

艦娘としての身に宿る、艤装の“力”を崇拝していた。

その“力”を持って掴む、“戦果”を渇仰した。

戦力としての己だけを正義とし、それを善しとして来た。

赤城という存在意義を、戦力としての己にのみ見出していた。

艤装が召べないという機能不全により、それら全てが、根底から崩れ去ろうとしていた。

あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。

死ぬ事も、痛みも、深海棲艦の群れにも動揺しなかった筈の赤城は、のたうち回る。

耐え難い恐怖だった。赤城は、諦めずに艤装を召ぶ。己の内へと念じる。念じる。念じる。

すると、また、“声”がした。赤城の声だった。同時に、意識が霞むほどの頭痛が来た。

赤城は翻弄される。痛みの余り、“声”が何を言っているのかすら聞こえない。

 

 それでも、赤城は念じる。己の内から響く声に、言う。返せ、と。返せ。返せ。返せ。

ふらふらと立ち上がった赤城は、壁まで近寄って、手をつく。そして、額を打ち付けた。

何度も何度も打ち付ける。私の中から出て行け。出て行けと。“声”を追い払おうとする。

返せ。返せ。艤装を返せ。返せ。私を返せ。鬼気と共に、額を打ちつける壁に、血が飛ぶ。

紅い花が咲いたようだった。赤城は、壁に手をついたまま、頽れて、膝を付く。

血溜りを躙り蹲りながら、血に染まる視界で天井を仰いだ。“声”と共に。視界が滲む。

赤城の五感は再び、古いフィルムを移したような、暈けて滲んだ光景に飲み込まれる。

 

 コマ送りのように、歪に刻まれ、揺れて、継ぎ接ぎされ、支離滅裂な光景だった。

歴史の中にあるはずの光景だ。古い古い映像だ。早回しで流れていく。

それらが円融し、衝合し、流れ伸び、潮境となって捩れ、歴史の断片として過去を映す。

艦載機が飛んでいく。着艦する。手を振る人。笑う人。旗を振る人。戦う、人。

前世の記憶だ。燃え盛る艦。軋む艦。昇る黒煙。沈む。沈んで。沈んでいく。

波濤に飲まれて、溺れている。咳き喘ぐ。泥の海へ、消えていく。赤城が。消えていく。

燃えている。熱い。此処は、熱い。熱くて、息が出来ない。苦しい。苦しくは無い。

背中が燃えている。肩に振る火の粉が、宿業である、宿報であると、嘯いている。

焼かれる瞼で見上げた、一天の遥か先。深海と紛う程の碧落と、的然として白日の下。

透くほどに薄い雲が、ゆっくりと浮いていた。その空に。夜が来て、朝が来る。

時は廻り遷され、今へと貫く。晴れて、曇り、雨が降る。“艦娘である赤城”へと成り代る。

豁然として、此処に在る。「おいAKGィ、しっかりしろぉ!! はい返事ィ!!」

茫遥と過去の記憶に呑み込まれていた赤城は、その声で意識を掬い上げられた。

そして、すぐにまた意識を失った。“おころりよ”。

道連れの海だけが、波を揺らして笑って居た。

 

 

 

 

 再び眼を覚ますと、やはり赤城はベッドの上に居た。手狭な病室には見覚えが在る。此処が何処かはすぐに分かった。私は、また気を失ったのか。なんと出来損ないなのか。

身体を起こそうとするも、上手く動かない。重くて怠い。疲弊し、消耗しているようだ。仰向けに寝ている赤城は、額に包帯が巻かれ、血塗れになった被術衣も替えられていた。

視線だけを動かす。白い病室だ。壁や床には、何かを拭いた様な跡が見て取れた。赤城の血だろう。奇怪な体験をして、半狂乱になった事を思い出す。

今は、もう“声”は聞こえない。静かだ。頭に痛みも無い。血塗れになった赤城を介抱し、治療してくれたのであろう。視線を横にずらすと、野獣がベッドの傍に居た。

丸椅子に腰掛けて、足を組んだ姿勢で、分厚い書類の束を睨んでいる。疲れた様な貌をしているものの、その眼の光は鋭い。ギラギラというより、深々とした冷静さが在った。

赤城は、声を掛けようとしたが出来なかった。言葉が出なかった。何というべきか。狂乱した赤城の様子に、野獣だって何かを感じた事だろう。この男は馬鹿では無い。

赤城の身に起きている変調にも勘付いている筈だ。艤装召還能力の不全。これは、艦娘にとって致命的だ。結果としては、解体施術を受けたに等しい。

艦娘としての“力”とは、艤装にこそ宿っているのだ。それを失った艦娘など、軍の戦力としては無いも同然である。赤城は、死んだ。生きたまま、沈んだのだ。

 

 赤城の胸は痛むのではなく、強い虚無感に襲われた。心の内を苛むのは、無力感だった。抵抗しようの無い悪寒だった。

赤城は、強かった。強くなった。艦隊の要として、無数の勝利を齎し、貢献して来た。それ故に、無力感というものについて、免疫が無かった。

これも、人格があるが故の弱点であろう。強い震えが来た。赤城は、賞賛や武勲が欲しいのでは無い。勝ち誇りたい訳でも、野獣という男に気に入られたい訳でも無かった。

ただ、在るべき己であろうとした。その為に必要だった。だから、赤城は飽く事無く戦果を求め、倦む事も無く戦火を求めていた。その焦りは、常に赤城の背中を焼いていた。

もう殆ど、それは呪いだった。最早、赤城は何のために戦っているのかすら解からなくなっていて、そんな自分自身の歪な在り方に今頃気付いて、呆然とする。これは、呪いだ。私は、呪われている。

でも、それしか知らない。どうしようも無い。“疲れたか”。不意に。脳裏に“声”が響く。息を呑んだ。そうかもしれない。横たわったまま、赤城は軽く息を吐きだした。

 

 野獣が、赤城に気付いた。眼が合う。赤城は何も言わず、野獣を見つめた。

勢いよく立ち上がった野獣は手にしていた書類を放りだして、ベッドの傍へと寄った。

赤城の貌を覗き込んでくる。その眼差しは真剣であり、心配そうだった。

同時に、ホッとしているような、緊張が緩む寸前の様でもあった。

 

「あのさぁ……。ちゃんと身体を休ませといてくれよなー。

いきなり病室が血塗れとかになってると、びっくりしちゃうんだよね……(HC並感)」

 

 そんな野獣の反応が、赤城にとっては意外だった。赤城にとって野獣という男は、補給と命令を受け、戦果を報告するだけの存在だった。

少なくとも、赤城は今までそんな風に接して来たし、作戦確認についての会議でも、多くを語った事は無い。

綿密に立てられた作戦については文句も無く、イレギュラーな事態であっても、赤城は臨機応変に戦況へと対応してきた。

それ故に、赤城は野獣という男との接点は殆ど無かった。赤城自身も、必要としていなかった。提督と艦娘という立場でしかなかった。それで十分だった。

赤城にとって必要なのものは戦場だったし、野獣は提督として、戦力としての赤城を必要としていた。それだけの事だ。ただ、状況は変わった。赤城は、もう戦力では無い。

意識が戻ると、艤装を召還できなくなっていた事。そして、頭に響く“声”の事を説明し、正直に告げた赤城は、ベッドに身を起こした姿勢のままで深く頭を下げた。

この激戦期の中、戦えない艦娘を置いておく余裕は無い筈だ。赤城は自身を解体・破棄してくれと野獣に願った。赤城は、自分の言葉が震えている事に気付く。恐ろしいのだ。

 

 今のままで解体・破棄されて、この身が消えた時。何が残るのか。

艤装を召還出来るうちは、赤城は赤城として、戦う事も出来て、死ぬ事も出来た。

しかし、今は違う。今の赤城は、何者でも無いまま、消えていく。それが恐ろしい。

だが、仕方が無い。どうしようも無い。赤城は強かったが、戦う事しか知らなかった。

呪われていた。己の価値を殺戮の果てに求め、己を失った。其処には何も無かった。

それだけの事だ。赤城は、蛻の殻となった自身に、自嘲の笑みを浮かべようとした。

出来なかった。息が詰まる。空っぽの筈の自分の内から、何かがせり上がってくる。

呼吸が震える。横隔膜まで震えて来た。とうとう、私は壊れてしまったのか。

「おい、AKG」と、ぶっきらぼうに名を呼ばれた。顔を上げる。

すると、椅子に腰掛けたままの野獣は、軽く伸びしながら笑って居た。

 

「今さぁ、割と夜中なんだけど……腹減らないっすか? ですよねぇ?(自問自答)」

 

 嫌味の無い笑みだった。この男が、こんな風に笑うことを初めて知った。

野獣は腕時計を一瞥して立ち上がり、片手で首下を押さえて、コキコキと首を鳴らした。

書類を睨んでいて凝ったのだろう。首や肩をゆっくりと回しつつ、赤城に背を向ける。

「じゃけん、真面目な話をする前に、ちょっと腹拵えでもしねぇか?(夜食先輩)」

肩越しに赤城を見た野獣は、軽く手を振って病室を後にしようとした。

出て行く際に、「あっ、そうだ!」と振り返り、冗談めかして笑って見せた。

「もう暴れたりせず、大人しくしといてくれよな~(心配)」

赤城は、何も言わず、ただ頷きを返した。野獣は満足そうに頷いていた。

 

 

 一人病室に残された赤城は、少しだけ呆然としていた。

野獣という男が提督として優秀であることは知っているつもりだ。

しかし一方で、どんな人間なのという事に関しては、赤城は殆ど理解していない。

だから、面食らった。破天荒な男だ。こんな時に食事を作るなどと。

だがどういう訳か、言動や態度の割には、軽佻浮薄といった印象を抱けなかった。

何だか、不思議なひとだ。赤城が、そんな事を暫く考えていると野獣は帰って来た。

手には大きめの木の盆を持っていて、小振りな鍋が二つ載っていた。

 

「お ま た せ」

 

 野獣は言いながら、病室の隅に置いてあった、テーブルを引いて来た。ベッドに座ったまま食べられるように造られた、ベッドテーブルである。

その上に、小振りな鍋を置いて、赤城の前に寄せてくれた。赤城が少し困惑しつつも頭を下げると、野獣は木で彫ったスプーンを渡してくれた。

「冷めない内に食べてみて、どうぞ(シェフ先輩)」と言われ、やはり困惑する。赤城は今まで、何かを食した事が全く無かったからだ。

野獣の下に居る他の艦娘達は、食事によって肉体のコンディションを整えつつも、それを大切な娯楽と潤いとして楽しんでいた。仲間との食事は、ガス抜きの意味もあっただろう。

しかし赤城は食事の代わりに、妖精達でも扱える範囲である、肉体の活力を維持する施術だけを受けていた。他所の鎮守府では、人格を破壊された艦娘達が受けている施術でもある。

艦娘には、水も食料も必要ない。戦えれば良い。それで十分だと、赤城も思っていたからだ。無論、だからと言って他の艦娘を見下したり、侮蔑することも無かった。ただ、在り様が違うのだと考えていた。故に赤城は、他の艦娘達とも深い繋がりを持っていない。

鎮守府内ですれ違えば短く言葉を交わしあうし、作戦行動中は、互いに信頼しあい、名を呼び交わしあった。しかし、それ以上では決してなかった。赤城が、自ら距離を置いていたからだ。己が赤城である為に。赤城にとって食事は、不要な行為だった。

 

 

 赤城は緊張した。空腹感という感覚もよくわからないまま、赤城はゆっくりと鍋の蓋を開ける。

ふわりと湯気が昇る。鍋の中身は、薬膳粥だ。白い粥と、瑞々しい薬草の緑が美しい。

他にも、赤みのある木の実が入っていて、彩りも良い。良い香りがする。

赤城は無意識の内に、唾を飲み込んでいた。渡された木のスプーンで、掬う。

そのまま口に入れようとして、「ふーふーしないのか……(困惑)」と野獣に言われた。

何だか気恥ずかしくて、俯いて唇を噛んだ。気を取り直し、ふー、ふーと息を吹きかける。

少しだけ冷まして、一口食べてみる。思わず、溜息が漏れた。これが、そうか、美味という感覚か。

ホッとするような、優しい味だった。初めての食事だったが、感動した。

視線を上げると、「あぁ^~、うめぇな!」と、野獣も粥をガツガツと食べていた。

赤城も、もくもくとスプーンを動かす。本当に、美味しい。美味しいなぁ。

気が緩んだ所為だろう。また自分の心の内に、何かがせり上がって来た。

何かが溢れそうだ。息が苦しくなった。野獣が作ってくれた粥は、こんなに美味しいのに。

スプーンを持つ手が、微かに震えて来る。いや、手だけでなく、唇まで震えて来た。

少しの間、赤城はじっとして、自分の内に吹き荒れる何かが去るのを待った。

 

 

「悪かったゾ……」と。不意に声を掛けられた。

赤城が顔を上げると、丁度、野獣が粥を食べ終わっていた。

野獣は食べ終わった鍋を、傍にあったベッドテーブルの端に置いた。

そして、おもむろに立ち上がり、両手に膝をついて、赤城に頭を下げて見せた。

いきなりの事に、赤城は一瞬、反応が遅れる。いや、上手く反応ができなかった。

 

「お前に甘え過ぎた。……無理させちまったなぁ(深謝)」

 

「い、え……、そのような、ことは……」

 

「お前が鎮守府の中でも、強過ぎる程に自分を律してるのは知ってたんだよなぁ……。

 SGRにも言われたゾ。もっと早くお前を休ませてやって、緊張を抜いてやるべきだった」

 

 野獣は、本当にすまなさそうに言いながら、顔を上げた。

その表情には、確かに後悔と自責の色があった。野獣は、また椅子に座った。

居住まいを正し、「すまない」と零した野獣の眼は、やはり真剣な眼差しだった。

野獣の視線を真っ直ぐに受け止める事が出来ず、赤城は首を振る。

 

「謝らないで下さい。私は、私が一航戦である為に、私の意志で戦ってきました。

 野獣提督に強いられた結果ではありません。……気に病まれる事などありませんよ」

 

 其処まで言ってから、赤城は微笑もうとしたが、頬が強張って無理だった。

顔を引き攣らせるみたいにして、口許を歪めるのが精一杯だ。謝られると、惨めだ。

優しくされた所為で、もう、そろそろ限界だ。いや、何が限界なのかも分からないが、とにかく限界だ。

己の内に、水位として上がってくるものを誤魔化そうと、赤城は一度視線を落とした。

ベッドの上で居住まいを正し、深く息を吸い込んでから顔を上げて、また野獣を見詰める。

 

「先程もお願い申し上げましたが……、どうか私を破棄して下さい。

 艤装を失った身であります。最早、無用の長物でしょう。どうか、お慈悲を。

 また金属へと還り、他の艦娘達の血肉となり、以って報国としたいと思います」

 

 静々と紡がれた赤城の言葉を、野獣は神妙な貌のままで聞いていた。

だが少ししてから、瞑目しつつ、ゆっくりと、細く息を吐き出した。

「おっ、そうだな……(苦渋の選択)」と頷いてくれた野獣は、少しだけ微笑んで居た。

赤城はベッドに座ったままで、再び、深く頭を下げる。これで良いのだ。

己に言い聞かせる。赤城が顔を上げる。「……もう腹一杯か?」と。

野獣が聞いて来た。ベッドテーブルに置かれた赤城の小鍋には、まだ少し粥が残っている。

小さく笑って、赤城は首を横に振った。「いえ、全部頂きます。美味しいです」

短く応えて、また粥を木スプーンで掬った。やはり、とても美味しかった。暖かかった。

こんな感覚ならば、もっと早くに知っておいても良かったかもしれない。

自嘲気味に思っていると、野獣が椅子から立ち上がり、ベッドの傍へと歩み寄って来た。

野獣は提督服の懐から、何かを取り出した。ハート型を模した錠を象ったあれは、ネックレスか。

淡く、蒼い微光を宿したそのアクセサリーを、野獣はそっと赤城の首に掛けてくれた。

何か武道の心得があるのだろう。余りに静かな所作だったので、赤城は反応が遅れる。

 

「あの、……こ、此れは?」

 

「精神プロテクトの為の、まぁ、お守りみてぇなモンだから」

 

 そう軽く言いながら、野獣は何らかの術式を編みつつ、短く文言を唱えた。

すると、ガチンッ、と錠が落ちる様な音がした。このネックレスからだった。

 

「艦娘達の人格を保護する術式理論が、ようやく構築されたんだよなぁ。

 まだまだ不完全な部分もあるけど、多少はね?」

 

赤城は困惑しつつ、首に掛けられたハート型の錠と、野獣の顔を見比べる。

 

「な、何故、このようなものを私に……。

 もう破棄を待つだけの私には、人格の保護など必要ありません」

 

「あのさぁ……解体破棄するにしても、まずは出来る事を全部やり尽くすに決まってるだルルォ?」

 

自身の事を破棄してくれと願う赤城を前にしても、野獣は怒るでも声を荒げるでも無い。

落ち着いた様子で、動揺している赤城の視線をしっかりと受け止め、頷いて見せる。

 

「もうどうにも出来ない最後の最後の時になって、

お前が本気で心の底から破棄されたいって思ってるんなら、もう何も言わないゾ。

 でも取り合えず、諦めるのはまだ早いんだよね。それ一番言われてるから」

 

 赤城は俯きながら下唇を噛み、ベッドのシーツを掴み、ぎゅうぎゅうと握り締めた。どんな貌をすれば良いのか、分からない。ただ顔を伏せたまま、黙っていた。

そんな赤城を見て、野獣は少しだけ笑った。「お前が帰って来るのを、他の奴らも待ってるんだからさ(諭す声)」と言われ、赤城は下を向いたまま、呆然としたのを覚えている。

この時の野獣の下には、隼鷲と飛龍が居り、戦艦である比叡と榛名達も居た。赤城が居ない事で大きく戦力が落ちるものの、皆の錬度も高く、決して弱い艦隊ではなかった。

しかし、すぐには信じられなかった。赤城は、今まで、深い交流を築こうとはしなかった。交わらず遠ざかり、ただ、己は己であろうとした。そんな自分を、心配している……?

赤城は顔を上げると、野獣が緩く笑っていた。説教臭さや気障ったらしさは感じなかった。喉を低く鳴らして、眉尻を下げた笑顔には愛嬌があって、不思議と優しかった。

 

 野獣は、まるで父親のように赤城の頭をわしわしと撫でて来た。

ちっとも遠慮しない手付きだったが、決して乱暴な手付きでもなかった。

そんな風に優しくされたら、急に怖くなった。己が己では無い、今の自分が。

今まで触れた事の無い“ぬくもり”とでも呼ぶべき何かに、怯む。全てを委ねてしまいそうになる。

感情を、上手くコントロール出来ない。不安定になる。今の赤城は冷静では無い。

優しくしないでください。そう短く零して、再び俯いた赤城の言葉は、滑稽なほど弱々しくて、掠れて震えていた。

そうだ。自分は疲れているのだ。疲れた。戦ってばかりだから、疲れてしまった。

己を失う程に戦って疲れているんだ。普通じゃない。今は、冷静じゃない。

だから、もう駄目だった。溢れてしまった。俯いていた視界が、滅茶苦茶に歪んだ。

涙だ。初めて流した。泣いたのも初めてだった。止まらない。ボロボロと零れた。

堰き止めていたものが、一気に流れ出てしまった。委ねてしまった。そんな感じだった。

誰にも見せたくない、弱い自分を曝け出してしまった。取り繕う事なんて、もう出来ない。

今の私を、どうか見ないで下さい。嗚咽に揺れた声で言う。一航戦赤城。その分霊として在ろうと必死だった。

何処までも追い求め、己の存在価値として信じ、それを失った喪失感と恐怖も一気に来た。

今まで我慢出来ていたのに。そんな風に優しくするから。堪えられなくなってしまった。

 

こうして誰かが、一緒に受け止めてくるからなのだろうか。

必死に拭い、考えないようにして、見ない振りをしているものを、見せてしまう。

一緒に背負って欲しいと甘えてしまうからだろうか。赤城には分からなかった。

怖かった。身体も心も千切れて、涙といっしょに崩れてしまいそうだ。

そんな赤城を、頭を撫でてくる野獣の手の感触が、繋ぎとめてくれていた。

声も呼吸も震わせた赤城は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってしまった顔を上げる。

「……助けて、ください」と涙声で請うと、「あ、良いっすよ(不屈)」と。

野獣は、やはり緩い笑みを浮かべたままで、赤城に頷いて見せた。

 

 

 

 

 

 その後。野獣は激戦期の中に在っても勝利を重ねながら、赤城の治療法を探した。執務をこなして精査を重ね、赤城の身に起きた現象を、昼も夜も無く調べてくれた。

戦況が激しさを増す中でも、他の艦娘達が、赤城の様子を見に来てくれることもあった。驚いたと同時に、暖かいものが胸の内を満たしていくのを感じた。

それは感情だ。赤城が持つ人格に起因する。意識とは、触れえぬものを感知する。追憶により、魂は過去に触れる。その過去から呼ぶ者と、己の内で対話する。

野獣が召還した赤城が、軍艦としての記憶をより強く受け継いでいる、特殊な体質であることも精査で分かった。やはり赤城の中には、もう一人の赤城が居るのだ。そんな風に、漠然とした確信も生まれた。

錬度を大きく高め、戦闘へと傾倒した赤城の精神構造が、軍艦としての記憶との親和率を極端に高めてしまった。それ故に、赤城の肉体機能に悪影響を与えている。

そう仮説を立てた野獣は、一人の少年提督を鎮守府に招き、赤城に会わせてくれた。初めて病室で出会った時、少年提督は、眼鏡の奥でひっそりとした微笑を浮かべていた。

 

 少年であるという事を事前に聞いていなければ、女の子と思ったかもしれない。

整った顔立ちや小柄な体躯も相まって、明るく、腕白なイメージは全く抱かなかった。

その代わり、仮面の様な静かな微笑みだけは、今でも強烈に印象に残っている。

「失礼しますね」と、全く子供らしく無い笑みを浮かべた彼は、ベッドに身を起こす赤城の手を取った。

小さくて、やけに冷たい手だった。文言を短く唱えた彼は、その手に深紫の微光を灯し、赤城の眼を見詰めて来た。

いや。正確には、赤城を見ていない。赤城の中に在る、何かを見ている。何処までも冷静で、静かな眼だった。

赤城も、その眼を逸らすことが出来なかった。

 

「どう? 治せそう?(信頼の眼差し)」野獣は、落ち着き払ったままの少年提督に問う。

彼は、赤城から視線を外して、野獣へと向き直った。

 

「赤城さんの肉体や精神状態に、大きな異常も見られません。

個としての人格も形成されていますし、施術を行う分には問題無いと思います。

すぐにでも治療を行う事は可能ですが……もう、此処で行いますか?」

 

 彼の言葉に、野獣はらしくもなく硬い表情で頷いた。それから、赤城のベッドまで歩み寄って来る。少年提督の隣に立って、右手で赤城の左肩を掴んだ。

痛い程力が入って居た。自力で赤城を救えない、己の不甲斐無さに憤っていたのかもしれない。「コイツはこんなナリだけど、信用出来るから」野獣は其処まで言ってから、へーきへーきと、赤城に笑って見せた。赤城も、その言葉を疑うつもりは無かった。

赤城の肉体に宿る、艤装召還の能力。その機能不全を修復する為、野獣が奔走してくれている事は知っている。野獣は、艤装を召還できなくて良いとは言わない。

野獣が召還した赤城にとって、艤装とは己自身であり、証明する為に戦火を求め、それを己の拠り所としていた事を知っているからだ。

 

 狂信的、盲信的でさえある戦果崇拝を是としてくれた。

この赤城にとっての救いとは、復活と再活性であるということを、理解してくれている。

他の赤城では無く、“野獣が召還した赤城”が、己自身を救えるよう手を尽くしてくれている。

野獣は正しく、目の前に居る赤城を理解していた。

そんな野獣に、いつしか赤城は惹かれていた。感情に、大きな起伏が生まれた。

初めて美味しいと感じた日。初めて泣いた日。助けて、と。野獣に言ったあの日から。

切っ掛けだった。何時の間にか、上手く眼を合わせる事ができなくなっていた。

病室に野獣が来てくれると、呼吸や、心拍が乱れた。心地よい息苦しさのようなものがあった。

病室に篭っている間もリハビリとして、赤城は毎日、一人病室で艤装召還を試みていた。“声”を聞き、意識を押し潰されて。過去に引きずり込まれて。

血反吐と鼻血をぶちまけて、気を失う程の頭痛に見舞われて、気を失っても。何故か、怖くは無かった。もう、一人では無かった。仲間も居る。待ってくれている。

それに野獣も、何とかしようとしてくれている。そんな自分が、現金で、単純で、子供っぽく思えた。心の中で、自分で自分を笑っていた。でも、仕方が無い。

今まで気付かなかった自分が、ただそうであっただけの事だ。艤装を失っている間に、赤城の視野は、ほんの少しだけ広くなった。

赤城は少年提督とは初対面だったが、野獣が此処までの信頼を寄せる人物ならばと、そう思った。

 

 

 左肩に置かれた野獣の手に、赤城は両手で触れながら、そっと左頬を寄せた。

暖かい手だった。しばしの沈黙の後。「……はい」と。短く答えた赤城は微笑んで、野獣に小さく答えた。

野獣も、ほんの少しだけ不安そうに眼を細めただけで、すぐに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 少年提督の治療施術は、大掛かりな装置や儀礼場を用いるようなものでは無かった。

ベッドの傍に歩み寄った彼は眼鏡を外し、懐からケースを取りだしてしまった。

彼の黒い瞳は、いやに昏くて深い。それでいて何処か無機質で、感情や思考を読ませない。

身を起こした赤城の手を取り、赤城の眼を彼が見据えるだけで、準備は整った。

いや、やはり彼は赤城を見ていない。赤城の内へと視線を向けている。

赤城も、彼の眼を見詰め返す。彼は文言を朗々と唱え、複雑な術式を編んでいく。

深紫の光の帯は、光輪となってその形を成して、赤城の頭の上に浮かんだ。

同時に、幾何学的な術陣が、更にその上に描かれて、病室を深い紫色で染め上げる。

赤城の髪や、ベッドのシーツやカーテンが激しく靡いた。目に見えぬ力の潮流だ。

少年提督の声が響くたび、その小柄な身体から、深紫の滲みが揺らいでいる。

傍で見守っていた野獣も、象られた術陣を見上げて、感歎とも驚愕ともつかない呻きを零していた。

「準備も無しでこんな規模とか、ウッソだろお前……(慄然)」という野獣の声が聞こえた。

赤城も気付く。彼は、赤城に施された精神プロテクトを無視して、術式効果を顕現させつつある。

彼にとっては、他者が構築したプロテクトなど無いも同然なのか。赤城も息を呑んだ。

 

 同時だったろうか。

彼の昏い双眸を見詰めていた筈の赤城の視界が、突然、ブラックアウトした。

一秒。二秒。三秒。それから、また数秒。無音、無明の世界に、赤城は立っていた。

暗い。何も見えない。さっきまでの病室とは、全く違う場所だ。此処は、何処だ。

辺りを見回す。天地の感覚は在った。少しずつ、五感が還って来る。

薄っすらと、暗がりの中に、景色が浮かび上がる。暗い。海だ。

無限遠の遥か彼方に、薄ぼんやりとした明かりが差した。水平線が見える。

赤城は、自分の姿を見た。艦娘装束を纏っていた。やはり、此処は海だ。

いや。違う。波の音が無い。薄暗がりが、また明るくなる。彼方の光が強くなる。

景色が、現れる。何だ。此処は。何処だ。此処は。蒼い。碧い。茫々とした砂漠だ。

赤城は艦娘装束のままで、海色をした、渺然たる砂漠の上に立っている。

濃い陰影が落ちた、暗がりの砂漠だ。風の無い。広大無辺の砂漠だった。

赤城は、呆然として立ち尽くす。向こうの方で、何かが埋まっている。沈んでいる。

巨大な艦だ。傾き埋もれ、砂の上に鎮座している。あれは。見間違える筈が無い。

空母だ。赤城。一航戦・赤城だ。堂々とした鋼の巨躯を、黙したままで曝している。

赤城は、砂の上を歩いた。感覚を確かめるように、真砂の上をゆっくりと歩いた。

蒼い砂を踏み、碧い砂を躙り、歩いた。無限遠の彼方から、強い光が差してきた。

空が現れた。雲の無い。不自然なほど青い空だ。赤城は、また呆然と見上げた。

 

 視線を降ろす。すると、もう一人の赤城が、目の前に立って居た。

もうひとりの赤城も艦娘装束を纏っており、飛行甲板と大弓、艤装を装備していた。

肌はいやに白い。眼には、煌々と紅い光を湛えていた。赤城を見詰めてくる。

表情も殆ど無い上に、その眼にも感情らしいものは窺えなかった。

まるで鏡を覗き込んでいるかのような、奇妙な感覚だった。

「正直、驚きました」 不意に、興味深そうな声が聞こえた。

 

 背後からだ。赤城が慌てて振り返る。

其処に、少年提督が、提督帽を目深に被って佇んでいた。

彼は、赤城と、もう一人の赤城を見比べたが、すぐに視線を外して、周囲を見回した。

彼が纏う深紫の滲みは、足元に積もる紺碧の真砂に、複雑な術陣を描いている。

 

「僕は、多くの艦娘の方の心象風景を垣間見て来ました。

 工廠で、自身が建造される光景。海原を駆け、勇猛に戦った光景。沈んでいく光景。

 共に在った、人々との光景。そう言ったものが、皆さんの中にはありました」

 

しかし……、と。少年提督は砂漠を見渡しながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

そして遠くに見え、砂に身を横たえつつある、“艦である赤城”を眺め遣った。

彼は眼を細めながら、緩く息を吐き出した。「このような心象世界は、見た事がありません」

赤城は少しだけ息を呑んで、彼の視線に倣う。艦である、赤城を見遣る。

 

 そうか。此処は。この世界は。赤城の魂の深層。心象風景の世界なのか。だが何となくだが、赤城自身は、何処か納得してもいた。

この何も無い世界は、確かに己を映しているとも思う。そうだ。この世界には、私と、艤装を纏った私と、艦である私しかいない。確かに。此処は、私の世界だ。

戦う事しか知らず、それで良いと思っていた、今までの私の心象の世界だ。赤城は、艦では無い方の、もうひとりの赤城へと向き直る。彼女の紅い瞳が、此方を見た。

 

その瞳を真っ直ぐに見詰め返し、言葉を紡ぐ。

「貴方の力をもう一度、私に貸して下さい……」

 

 赤城の言葉に、もう一人の赤城は此方を見据えながら、ようやく口を開いた。

索敵……。先制……。と。うわ言にように繰り返し呟きながら、ゆらりと一歩。

音も無く、此方へと歩み寄る。赤城は退かず、立ち止まったまま、その紅い眼を見詰め続ける。

戦果を……。反攻を……。もう一人の赤城は、更に一歩近付いてくる。

その声は大きく掠れていた。金属を擦り合わせるように、歪で、不調和な声だった。

しかし、紅い瞳だけは爛々として燃え、そこに映る赤城自身を焼いている。

無表情だったもう一人の赤城の貌に、表情が浮かんだ。大きく歪ませた。

“……無念である”。もう一人の赤城の声に、今までに無い力が宿った。

向かい合う赤城は息を詰まらせる。“……未練である”。もう一人の赤城は、紅い涙を流した。

“……慙愧に堪えぬ”。血を吐くように、もう一人の赤城は、言葉を紡ぐ。

 

 

 これは。彼女は。赤城の肉体に宿り、魂を成し、その深層に住まう彼女は、艦の記憶だ。

敗北に遭いて沈んだ、かつての艦。其処に遺された激しい余執を、野獣に召還された赤城は、特に大きく受け継いでしまったのだ。

その影響を大きく受け、赤城は己の存在価値を戦果に求め、心水を戦火に染めて、その消耗をもって機能不全に陥った。

まさにこれは、宿業だ。生まれながらにして、傷だらけの魂を受け継いでいた。

だから赤城は、徹底して戦力としてあろうとしたのだ。しかし、それは愚に非ず。赤城は、そう信じている。

全ては無意識であり、その深層に在る無念を埋め、未練を断ち、慙愧を払う為だったとしても。

その執念の御蔭で、赤城は“野獣が召還した赤城”とし、個を確立できた。

 

 赤城はゆっくりと頷いて、自分から、もう一人の赤城へと歩み寄った。

その魂の在り様を受け入れるべく、そっと微笑んで、艤装ごと彼女を抱き締めた。

艤装の召還不全にまで赤城を焼いた、その激しい無念を引き受ける。

赤城は何も言わなかった。それでも、その覚悟や信念は、きっと通じたのだろう。

冥契の中で、もう一人の赤城が、赤城を抱き返して来た。彼女は泣いていた。

彼女の身体は次第に解け、輪郭を暈しながら滔々と揺れて、煙霧のように薄れ始める。

もう、泣き声は聞こえない。艤装も消えていく。赤城の腕の中には、何も残らなかった。

赤城は静かに深呼吸をして、空を見上げた。異様に青い空から、雨が降って来た。

蒼くて碧い、海色の砂漠を潅ぐように。細く、優しい雨が降る。暗雲の無い、静かな雨だ。

赤城は濡れるに任せ、空を見上げながらもう一つ息を吐き出した。

 

「やはり、艦娘の皆さんは心の何処かに、かつての戦塵の傷を残しているのですね……」

 

 消えていく彼女を見送っていた少年提督は、雨に打たれる赤城を見ていた。

彼は、全く濡れて居ない。此処に在りながらも、此処に居ない。意識と記憶の共有である。

同時に、赤城の精神への干渉でもある。此処は、赤城の世界である。

其処に平然とありながら、彼は赤城から視線を外した。「僕は、恐ろしく思います」

彼は小さく言いながら、深い憂いを帯びた眼で空を見上げる。

 

「一切の瑕疵も、そして瑕瑾も無い魂など無く、

艦娘の皆さんの心身がそれに深く揄伽しているのであれば……。

皆等しく、誰も救われないのではないのかと……、そう思う時があるのです」

 

赤城は、空から彼へと視線を移す。彼もまた、赤城を見た。

 

「そんな事は無いと思います。

少なくとも、私は救っていただきました」

 

 彼へと言いながら、赤城は少しだけ微笑んだ。念じると、艤装が応えた。召還出来る。

現世では無いが、確かに感覚が在る。慣れ親しんだ、戦闘への感覚だ。

この感覚と艤装をもって、艦娘としての赤城とは完成している。そう確信した。

“野獣に召還された赤城”は、個として、己の意味を見出した。

ただその己の捉え方が代わった。この“力”を、誰の為とするか。

ふと、野獣の貌が脳裏に浮かんだ。仲間達の貌が、瞼の裏を過ぎった。

今までのように、戦う為に戦うのでは無く。この力は、在るべき場所に在れば良い。

そうすれば自ずと、野獣という男は、善い方向へと導いてくれるだろう。

艤装を召還した赤城を見た彼は、少しだけ驚いたような貌をしていた。

しかし、すぐに頷き、眩しいものを見る様な眼で、赤城を見た。

 

「いえ……、僕は何もしていませんよ。

 ただ、赤城さんの精神を、この深層までお連れしただけに過ぎません。

 自身の内に在るものを克服したのは、赤城さん自身です」

 

 彼の言葉に深い礼を返した後、赤城は遠くに鎮座する艦としての赤城を見遣る。

彼女もまた、静かに雨に濡れていた。誰の心象の底にも、“艦”が在るのだろう。

強さと誇りと、無念と執念を受け継いでいるのならば。

赤城がそこまで考えて視線を戻すと、彼は赤城を見詰めて、微笑んで居た。

 

「……では、そろそろ戻りましょう。先輩も、心配していると思います」

 

 彼は両掌の上に、深紫の微光で編まれた術陣を象り、短く文言を唱えた。

昇り雨のようにくゆり、煙霧のように揺らぐ微光は、彼の足元にも術陣を描いている。

ひっそりと頷きつつ、彼は赤城へと左手を差し出して来た。あれは、回帰の為の術陣か。

赤城は彼に頷き、その手を取る。気付けば、赤城の身体は、もう雨に濡れてはいなかった。

彼の手を取った赤城は、少しだけ名残惜しそうに、この砂漠の世界を眺める。

その視線に、彼が気づく。「如何されました?」と聞かれた。

いえ……、と赤城は緩く首を振った。

 

「この雨が上がる頃には、この世界はどうなっているのだろうと……。

 ただ薄ぼんやりと、そう思いました」

 

 馬鹿な事を言っているのは重々承知だった。ただ茫々とした思考の中に浮かんだ言葉だ。

微かな笑みを浮かべた赤城の言葉に、しかし彼は、少しだけ真剣な貌になって周りの光景を見遣った。

雨が降っている。蒼く碧い砂を濡らしている。遠くに見える艦は。私は。砂漠と同じく黙したまま、ずぶぬれだ。

艤装を取り戻し、赤城は己の確たるものを再び得た。どう在るべきかを、己を中に答えを出した。人格を得た艦娘として、間違いなく救われている筈だった。

しかし、だ。自身の心象世界としての、この雨が止むのかすら分からない。雨のち、また雨かもしれない。己の心すら、ままならない。

賢そうな彼には、今の赤城は酷く不器用で、さぞ滑稽に見えるだろう。赤城は自嘲するみたいに、伏し目がちになって彼と肩を並べた。足元に伸びる、不揃いな跛の影を見遣る。

すると、彼が此方を見上げているのに気付く。気遣わしげという訳でも、赤城の言葉を嗤うでも無い。ほんの少しだけ、悪戯っぽく笑って居た。

もしも雨が続いたとしても、先輩が虹を掛けてくれると思いますよ。彼は言う。お願いしてみますと、赤城も少しだけ笑って頷いた。

 

 自身の魂の深層から、赤城の意識が帰って来た時には、もう少年提督の姿は無かった。

病室に居たのは野獣と、仲間の艦娘達だった。どうやら、また丸1日程眠っていたらしい。

その間に、少年提督は自身が所属する鎮守府へと帰って行ったのだという。礼を述べたかったが、残念だった。

赤城はベッドから身を起こして立ち上がり、心配を掛けたことを野獣や仲間達に詫びてから、艤装を召還して見せた。戦線に、海に戻ることが出来ると宣言した。

仲間達は大笑いして、大泣きして赤城の復活を喜んでくれた。野獣も、ホッとしたような貌で頷いてくれた。ほんの少しだけ頬が熱くなって、すぐに礼をして誤魔化した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今思い出してみると、何だかとても懐かしい気分になる。赤城は野獣の執務室のソファで、お茶をゆっくりと啜りながら、のんびりとした追慕の中に居た。

大きな作戦が終了し、今日は出撃、遠征に出ている艦隊も無かった。今は夕刻前。一応の非番であった赤城は、執務の手伝いでもと思い、足を運んでいたのだ。

今日の秘書官が加賀という事もあり、きっと喧嘩でもして執務が滞っていると思っていた。だが、野獣はさっさと仕事を終わらせて、加賀を帰してしまったと言うのだから、ちょっと意外だった。

空いた時間でレ級を資料室まで案内し、その帰り道に間宮へと寄ったらしい。お土産に羊羹を持って帰って来ていた。丁度良いタイミングと言うやつで、赤城が執務室へと訪れた時には、野獣はオヤツとして羊羹を食べようとしているところだった。

別にオヤツの時間を見計らっていた訳では無い。同じようなタイミングで、鈴谷と時雨まで執務室に現れたのには、きっと深い意味は無い筈だ。そう。野獣と一緒に過ごしたいと思った結果である。

考えることが一緒だっただけのこと。偶然だ。赤城も、鈴谷達も、時雨も、お互いに目を合わせて、可笑しくて笑った。あのさぁ……、みたいな貌をしていた野獣も、なんだかんだでお茶を用意してくれて、羊羹を切り分けてくれた。

今はみんなで羊羹を食べ終わり、珍しく、まったりとした時間を過ごしている。ソファには、野獣と鈴谷、時雨達も其々腰掛けて、他愛も無い話をしている。

 

 

ちょっと目に入ったんだけどさ。

この予算関係の書類さぁ、これマジ……? 

なんか中庭に池とか造るって書いてあるんだけど……。

 

おっ、そうだな!(肯定)

 

そうだなって……。何する気なの、コレ?

 

新しく執務室を造る計画を立ててるんだよね。

此処もちょっと物が増えて来たし、仕事するスペースを確保しようと思って(適当)。

 

ちょっと何言ってるのか良く分かんない感じなんだけど……。

じゃあ、この池って何? 関係無くない? 執務室でしょ?

 

平安時代を意識して、寝殿造りにする予定なんだよ(和の心)。

だから一応、日本庭園チックな景色造りも、まぁ多少はね?(風流人の風格)

もののあわれ! いとおかし! 徒然に! って感じでぇ……。

 

要するに勢いだけじゃん。馬鹿じゃないの……?  

そんなマイン●ラフトみたいなノリじゃ、申請以前の問題だよ。

って言うか、コレも本営に対する嫌がらせの一つなの?

 

まぁ、そうなるな。

予算は本営に出して貰うから、安心!(屑)

 

いや出してくれる訳無いじゃん!

ちょっとさぁ、時雨も何か言ってやってよ……。

 

鈴谷の言うとおりだよ。

それに予算云々じゃなくて、まず施工許可が下りないと思うな(名推理)。

 

やってみなきゃ分からないだルォ!?(挑戦者)

 

そんな事しなくていいって……(良心)。

また長門さんに無茶苦茶怒られちゃうよ?

 

大丈夫だって、安心しろよー!

新しい執務室(茶室)の名前は、猥々庵(レ)で、決まりっ!!

池が出来たら、お前らも浮かべてやるからさ!(優しさ)

 

もう名前からしてタダ者じゃないって言うか、風流もへったくれも無いと思うんだけど(呆れ)。

 

そんな笹舟を浮かべるみたいな軽い感じで言われても……。

 

 

 

 野獣の馬鹿話に振り回される鈴谷と、冷静にツッコむ時雨達を眺めつつ、少しだけ微笑んだ赤城はもうひと啜り、お茶の入った湯呑みを傾けた。

平穏な時間の中に居て思う。鈴谷や時雨の中にも、其々の心の内に心象風景を持ち、其々に大切なものが在るのであろう。では、深海棲艦達も同じなのだろうか。

今の少年提督の右眼は、深海棲艦達の心象をすら覗くことが出来るのであろうか。そして、其処にこそ、深海棲艦が生まれてくる答えが在るのではないかと。まとまりのつかない思考が廻る。

 

 艦娘も深海棲艦も、人間と同じく、その生の始りにおいては自身の認識を持ちえない。

死に際しても、それは変わらない。意識や自我を失い、また認識の届かぬ内に、輪廻に飲まれる。

人間も、艦娘も、深海棲艦も、みな等しい。生に暗し、死に冥し。そんな言葉を残したのは、弘法大師だったか。

何処より生まれて、何処へ向かうのか。そんな魂の原形質の行方など、赤城には到底理解が及ばない。

だが、人でも艦娘でも深海棲艦でも無い、新たな血統の種父として、己を確立させた“彼”ならば。

その未踏の領域に乗り込むことも可能なのであろうか。

無論。其処には何も無いかもしれない。答えなど、存在しないのかもしれない。

であれば、とんだ笑い話だ。やはり、そんな時でも、“彼”は笑うのだろうか。

 

 

 













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短編 4

◎名前様

御指摘、御指導下さり、有難う御座います。完全に私の勉強不足であります。
(整体師先輩)という部分を消して、台詞だけの表現に修正させて頂きました。
拙い表現ばかりではありますが、今回も読んで頂き、また支えて下さり、本当に有難う御座います。




 あー……、肩凝った。瑞鶴は書類の山を、艦娘用の執務机の脇へと置いて、ぐぐぐっと伸びをした。壁にある時計を視線だけで見遣る。もう夜だ。

窓の外も暗く、時刻も夕食時。おやつを食べてから座りっぱなしだったから、かなり疲れた。肩や背中のあたりがコキコキと鳴る。

瑞鶴は伸ばしていた腕を下ろし、ほっぺたを机にくっつけるようにして突っ伏した。「はぁぁぁ……」と、息を吐き出して脱力する。机の冷たさが心地よい。

訓練や演習で身体を動かす疲れには鳴れているのだが、こういうデスクワークの疲れは、また少し種類が違う。

何だか性に合わないと言うか。とにかく、そんな感じだ。身体を動かしている方が、自分には向いている気がする。

ぐでーーっ、と両腕を机の上に投げ出しながら、もう一度溜息を吐きだそうと思ったら欠伸が出た。お腹も空いたけど、このまま寝ちゃいそう。

「瑞鶴、行儀が悪いわよ」と、姉である翔鶴が諫めてくる声が聞こえる。瑞鶴は聞こえない振りをしつつ、脱力状態を維持しようとした。

しかし、すぐ傍で「お疲れ様です、瑞鶴さん」と声を掛けられた。良い香りがする。瑞鶴が顔を上げると、執務机を挟んで正面に、彼が微笑んでいた。

その手には茶托があり、ほんのりと湯気を立てる湯呑みが載っている。あぁ、そうか。瑞鶴が書類を片付けてしまうタイミングに合わせて、お茶を淹れてくれたのか。

「ん……、さーんきゅ」茶托と湯吞みを優しく手渡され、瑞鶴は軽く苦笑を返す。タフだなぁ、提督さんは……。全然疲れてる風じゃないもんなぁ。

湯吞みを手に、瑞鶴はマジマジと彼を見詰めてしまう。その視線を受けて、彼はまた微笑みを深めて見せた。瑞鶴はドキリとして、すぐに視線を外して座りなおし居住まいを正した。

何処か神秘的でさえある白い髪と、拘束具めいて背徳的な右眼帯の所為かもしれない。無垢でありながら蠱惑的で、無防備さと艶のある微笑みだった。

 

 そう言えば彼は確か、以前はコーヒーを好んで飲んでいた筈だ。高級ぶったコーヒーでは無く、インスタントのコーヒーが好みであるという話しも聞いた事がある。

ただ、今では紅茶も緑茶も飲むようになり、その時々の艦娘に合わせてくれているようだ。今日の彼の秘書艦は、瑞鶴と翔鶴だった。深海棲艦の秘書艦見習いは、今日は居ない。

新調された艦娘用の執務机も、見習い用も合わせて二つに増やされている。丁度、彼が座る提督用の執務机、その両脇を固めるような配置だ。

瑞鶴に湯吞みと茶托を手渡した彼は、自分の執務机へと腰掛けた。彼の執務机の上にも、もうすでに湯吞みが在る。あれは自分の分であろう。

翔鶴も彼に「いただきます」と一礼をして行儀良く茶を啜っていた。瑞鶴も茶を啜ると、思わず溜息が漏れた。熱過ぎず温過ぎず、少し強めの渋みが疲れを解してくれる様だ。

深く椅子に腰掛けてリラックスしながら、瑞鶴は彼をチラリと見た。彼は、静謐な表情のままで湯吞みを傾けながら、手元の書類へと視線を落としている。

凭れ掛かっていた椅子にまた座り直して、ちょっとだけその手元を覗き込んでみた。彼の手元にある書類には、『翔鶴、瑞鶴への改二施術』という文字が見えた。

 

 

 瑞鶴は黙ったままで視線を書類から外す。椅子に座り直し、黙ってお茶を啜る。胸が高鳴るでも無く、自分でも意外なほどに冷静だった。近いうちに改二施術を受けると言う話は聞いている。

彼からの話を聞いて、改二施術を受ける事を瑞鶴も希望した。翔鶴も同じく、改二施術を受ける事を希望している。能力を引き上げる施術により、間違いなく瑞鶴は強くなれる。

一航戦にも負けない。五航戦の本当の力を見せたい。以前はそんな風に強く思っていた。だが彼の下に居て、少しずつではあるが、瑞鶴の考え方にも変化が現れた。

強さそのものよりも、その力を振るう目的にこそ価値があるだと思うようになった。彼は、深海棲艦の『尽滅』では無く、その為の戦力による『受容』を選んだ。

では、改二となった瑞鶴のすべき事は何だと考える。深海棲艦を撃沈するのでは無く、退ける為に戦うことだろうか。戦意を折り、恭順へと向かわせることだろうか。

未だ、艦娘と深海棲艦が海で殺し合っている現段階では、それらは飽くまで理想でしかない。イメージが浮かばない。彼の理想に近付くビジョンが、上手く見えて来ない。

瑞鶴は湯呑みの茶を飲み干し、執務机に置いた。深く息を吸い込む。ずっと前の自分なら、こんな事は考えなかっただろうと思う。

ただただ、改二になれる事を喜び、強くなれる事だけを見ていただろうと思う。或いは、それで良かったのかもしれない。

戦う事にそのものに意味を見出し、ひたすらに勝利を求めている方が、“艦娘”としては正しい在り方なのかもしれない。

 

 纏まりの無い思考が、ぐるぐると同じところを回る。疲れもあって、注意力が散漫になっていた。瑞鶴は机に置いた湯呑みを持ち上げて、茶托へと戻そうとした時だ。手を滑らせて、湯呑みを落として割ってしまう。

あーー、やっちゃったー……! 「ご、ごめんなさい提督さん!」瑞鶴はすぐに椅子から立ち上がり、破片を拾う。中身はもう飲み終わって入っていなかった為、茶をぶちまける事が無くて良かった。

ホッとする反面で、もの凄く反省する。この湯呑み、提督さんが大切にしてる奴とかだったらどうしよう……。そんな事を考えていると、思わず手に力が入った。痛っ……! 手を引っ込める。

慌てて掴んだ破片で、左手の指先を切ってしまった。見れば、血が珠のように滲んで来ている。その間にも、「大丈夫ですか?」と、彼と翔鶴が瑞鶴の傍にしゃがみこんで来て、片づけを手伝ってくれた。

姉である翔鶴の、諌める様な視線が辛い。うう……ごめんなさい……。失敗しちゃったなーと、ちょっとしょんぼりしながら片づけを終えた時だった。彼が、瑞鶴の左人差し指の怪我に気付いた。

瑞鶴も彼の視線に気づいて、指を背後に隠そうとしたが出来なかった。立ちあがった彼が、すっと音も無く瑞鶴の左手を掴んだからだ。彼の手のひんやりとした感触に、変な声が出そうになる。傍に居る翔鶴が真顔になっている事に気付いたが、そんな事は後回しだ。

指先から流れる血は結構多く、雫となってポタポタと床に落ちていた。傷自体は小さいが、変に力んでいたから結構深く切ってしまっていた様だ。彼は瑞鶴の指先の傷を心配そうに見ている。

「破片で怪我をされたのですね……」と呟いた彼は、すぐに瑞鶴を見上げて頷いてくれた。

 

 

「これくらいの傷なら直ぐに治せますので、じっとしていて下さいね」

 

 優しく微笑んだ彼が、そう言い終わった次の瞬間だった。ぱくっと。

彼が、瑞鶴の左指を口に含んだ。何の躊躇も無かった。溢れる血を拭う意味もあったのだろうが、吃驚した。

瑞鶴は「ぅぇっ!?」と、素っ頓狂な声を上げて固まってしまう。

左手の指先に、暖かくて、何だか柔らかい感触がある。これは、彼の唇と、舌の感触だろうか。

瑞鶴の指先の血を、丁寧に舐めてくれているのが分かる。はぅわわわわ……! チロチロとした、擽ったい様な感覚。

何処か淫靡な水音が、耳朶を擽る。甘い寒気が、ゾワゾワと背筋を這って行く。

ヌルヌルとした温もりが指先から脳天に突き抜けて、下腹部まで響いてくる。あ、これ、ヤバイ(確信)。

変な気分になってきた。顔が弛緩してくる。身体が小刻みに震えて来た。

視線を下げると指を咥えている彼と、目が合った。彼は眼許を緩めて見せた。

無自覚なのだろうが、何て色気だ。魔性と言って良い。心臓が爆発しそうだった。

血を舐めとった彼は、自分の唇もちろっと舐めてから、文言を短く唱える。

彼は瑞鶴の指先を、黒い手袋をした右手でそっと包んでから、微光を灯す様にして放した。

すると、瑞鶴の指先からは傷が消えて、ついでに彼の唾液や温もりも拭い去られていた。血の跡も無い。

施術を終えた彼は、立ち上がりながらまた微笑む。

 

 

「割れた湯呑みについては、お気になさらないで下さい」

 量販店で用意した安物ですから。彼は言いながら、自分の席へと戻って行く。

瑞鶴は何も答える事が出来ないままで、荒い鼻息と共に、唾を飲み込んだ。身体が熱い。

視線を落とし、じっと指先を見詰めてしまう。温もりこそ拭われたが、生々しい感触が残っている。

怪しくぬめり、蠢き、指先を包んでいた彼の舌の感触が、脳髄に刻み込まれている。

ゴクリとまた唾を飲み込んだ瑞鶴が、殆ど無意識の内に、左手の指先を口元に持って行こうとした時だ。

「瑞鶴」と。すぐ隣から、やたら低い声で名前を呼ばれた。「はぉぅっ!!?」心臓が止まるかと思った。

ばばっと左手を後ろに回して、声にした方へと慌てて向き直る。すると、翔鶴が凪いだ真顔のままで佇んでいた。

彼の口腔内の感触に夢中になり過ぎていて、その存在を失念していたとは、正直に言えない。

顔を引き攣らせて笑う瑞鶴に、真顔の翔鶴がそっと顔を寄せて来る。めっちゃ怖かった。

「どうだった……?」と。有無を言わさぬ雰囲気で感想を求められ、瑞鶴は答えに窮する。

だが正直に言うしか無い。無言は許されない。

 

「その、何て言うか……えぇと、新時代の幕開けを見たって言うか、あの……気持ちよかったよ?(小学生並の感想)」

 

「そう……。まぁ、そうねぇ……(無念)」

 

羨ましげに呟いた翔鶴は、深過ぎる溜息と共に項垂れた。

そして、無言で自分の執務机の方へと戻って行く。

瑞鶴も気持ちを切り替えるべく、軽く頭を振って自分の執務机に戻る。

落ち着けー私ー……。瑞鶴が精神を統一しようと、座ったままで背筋を伸ばし、瞑目した時だ。

 

 

 今度はお腹が鳴る音が聞こえた。瑞鶴じゃない。彼でも無い。

顔を上げると、執務机に座った翔鶴が、赤い貌を隠すようにして恥ずかしそうに俯いていた。

翔鶴の顔の赤さが増しており、唇をむにむにと噛んでいるので、何かを言おうとしている。

ついでに、視線を上げたり下げたりしている。可愛いなぁ、翔鶴姉……。

ちょっと意地悪な気持ちで、瑞鶴が翔鶴の様子を観察していると、翔鶴と眼が合う。翔鶴は赤い貌のままで睨んで来た。

さっきの真顔よりは、全然迫力の無い怒り顔だ。瑞鶴は小さく肩を竦めて視線を逸らそうとしたら、お腹が鳴った。

今度は瑞鶴のものだった。逸らした視線の先で、彼と眼が合う。彼は、やっぱり優しげに微笑んでいるだけだった。

 

「はー……、お腹空いたねぇ」

瑞鶴は恥ずかしさを誤魔化すように軽く笑ってから、わざとらしく首を鳴らした。

色々あって、この数分でどっと疲れた。お腹も空くよ、こんなの。美味しいもの食べて、気分を変えよう。

 

 

「ねぇ、提督さん。晩御飯、一緒にとらない?

 この時間だと食堂は込んでそうだし、鳳翔さんの所に行ってみようよ」

 

 軽い調子で言いながら、彼を食事に誘ってみる。彼は瑞鶴に一つ頷いてから、腕時計をチラリと見て、翔鶴へと視線を向けた。

姉妹の時間を邪魔してしまう事を気遣ってだろう。勿論、邪魔なんて事は全然無いから、翔鶴も穏やかな貌で彼に頷いて見せる。

その反応を見た彼も、「では……、ご相伴に預かります」と、快く頷いてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瑞鶴達は連れ立って鳳翔の店のへと向かったのだが、タイミングが悪かった。いや何と言うか、もう、今日と言う日が悪かった。

普段なら人が込んでくる時間帯は過ぎている筈なのだが、今日の鳳翔の店には、まだまだ人が入っていた。

 

割と普段から仲も良く、向かい合いサシで熱燗を楽しんでいるのは、大和と長門だ。

酒は少量に抑えてはいるものの、モノは日本酒と共に鳳翔の料理に舌鼓を打っているのは、不知火と天龍である。

テーブル席でツマミを並べ、冷酒をパッカパッカと呷っているのは那智と足柄。

鈴谷と時雨、赤城と加賀達が、並んでカウンター席に座っている。

既にかなりの人数が居るものの、テキパキと動く野獣が鳳翔の手伝いに入っていた。

 

 艦娘を使役するはずの提督が、料理まで振る舞いながら注文を取り、酒まで注いで見せて艦娘を労って見せるあたりは、他所での鎮守府では中々見れない光景だろう。

野獣の料理スキルが割と高く、調理する手際や盛り付けにも清潔感があって、食堂が込んでいる時などは進んで手伝いをしていると言う事は、瑞鶴も知っていた。

しかし、此処まで動きが板についているところを見ると、野獣の本職はもともと、こういう接客・飲食系の仕事だったのだろうか。謎が多くて読めない男だ。

普段は滅茶苦茶な癖に、にこやかに鳳翔と言葉をかわしながら注文を捌いていく姿には誠実さが感じられるし、この店の静かな高級感や雰囲気を壊していない。

ただ、ブーメラン海パンと白Tシャツ姿なのがシュールというか、其処だけが残念なポイントだ。あの姿には、野獣なりの何らかのポリシーがあるのだろうか。

「おっ、何だよお前らも来たのかよ~!(歓迎) ジュースもビールも、バッチェ冷えてますよ~!」 ノリノリな野獣は、笑顔で瑞鶴達を迎えて入れてくれた。

瑞鶴達は野獣に丁寧に一礼した後、案内されてテーブル席につく事になった。すぐには注文せずに、少しの間、野獣のその様子を、不思議な気持ちで眺めていた。

鈴谷や時雨、赤城さんが想いを寄せる人だけあって、まぁ、基本的には悪い人じゃないんだよね……。瑞鶴は頬杖をつきながら、ぼんやりと思う。

 

 それから少しして、瑞鶴達は其々に注文を取り、軽く酒を呑んで、彼との話に華を咲かせた。料理は美味しいし、彼ともゆっくりと過ごせた。

このまま何事も無く、楽しい時間を彼と共有出来れば言う事は無かったのだが、そうはならなかった。談笑と熱気が、穏やかに満ちている店内。その少し離れた所で、声がした。

 

「野獣ってさ、……合コンとか行ったことあんの?」と。

その声は鈴谷のものだった。彼女の澄んだ声は、やけに良く通った。

酔っているのだろうか。少し赤い顔をした鈴谷は、髪を指で弄りながら唇を尖らせている。

野獣の方を見て居ないのは、何か照れているからだろうか。

 

 とにかく、いきなりの鈴谷の質問に、店内が突然の静寂に包まれる。

全員が食事をする手を止めて、鈴谷の方を見てから、野獣を見た。

鳳翔の隣で包丁を動かしていた野獣も、その動きを止めて、鈴谷へと顔を向けている。

赤城と時雨が、持っていた箸を一旦置いて、背筋を伸ばして野獣に向き直った。

加賀も、眼を鋭く細めて野獣を見ている。途端に、店の空気がピリピリとし始めた。

うわぁ……。もうあんな感じの雰囲気では、野獣も下手な事を言えない。

野獣は、「シュー……(言葉を選ぶ間の呼吸音)」と漏らしながら、少しだけ視線を彷徨わせた。

しかし、すぐに軽く笑顔を浮かべて、「提督になる前だけど、何回か行ったことありますよ!(正直)」と、頷いて見せた。

 

 鈴谷は驚いたというか、傷付いたような貌になってから「ふ、ふぅーん……」とそっぽを向いた。眉間に皺が寄っているのに、眉尻が下がっていて、明らかにしょんぼりしていた。

「へぇ……そ、そうなんだ」と、ちょっとだけ泣きそうな感じで声を震わせた時雨は俯いて、ぎゅぎゅぎゅーっとスカートの裾を両手で握っていた。

「それは初耳ですね……」赤城は少しだけ寂しそうに言いながらも、野獣の過去に想いを馳せるような、遠くを見るような眼で野獣を見遣る。

「ではそのまま、女性をホテルまで“お持ち帰り”されたりもしたんですか?」と、冷た過ぎる声で訊いたのは加賀だ。えぇ……。何でそんな質問を被せに行くんだろう?

瑞鶴と翔鶴は、腰掛けて居るテーブル席から、カウンター席の方を凝視してしまう。彼も、興味深そうに野獣達の遣り取りを見守っている。

いや、この店に居る全員がそうだ。野獣へと視線を向け、その言葉を待っている。野獣は、もったいぶる訳でも無く、「ありますあります!(喰い気味)」と、あっさりと応えた。

加賀が見下すような視線になって鼻を鳴らして、何かを言おうとした時雨がポロポロと涙を零し、俯いたまま赤城はやはり、寂しげに息を漏らした。

周りの連中もどよめく中、ガタンッ!!と勢い良く立ち上がった鈴谷が、顔を真っ赤にしてカウンターを両手で叩いた。ビクッと肩を跳ねさせたのは鳳翔だ。

ただ、鈴谷は何も言わずにまたすぐに座り直して、拗ねたみたいにカウンターに突っ伏した。「……サイテー」と、声を漏らした鈴谷の声は、くぐもっていた。

 

「あのさぁ……。お前らは何か勘違いしてるんだよなぁ……。

 酔っ払った婦女子を介抱する為であって、何にもしてないから。(天地神明)」

 

苦い思い出を振り返る様に、手に持っていた包丁を一旦置いた。

それから野獣は渋い表情を浮かべて腕を組み、首を傾けて見せた。

 

「アホ程酒飲んでる癖にあぶれて余った挙句、寝ゲロしながら爆睡しだす奴とか居るからね……:。

ゲロってるからタクシーにも載せらんねぇし、終電も車も無い状況とかだと、更に最悪だぜぇ?(悪夢)」

 

ビジネスホテルの部屋代と薬代まで払わされて、頭に来ましたよー……(辟易)。

野獣は疲れたように溜息を吐き出して、時雨と赤城、それから加賀を順番に見た。

ついでに、「ぇ……?」と、半泣き顔を上げた鈴谷に肩を竦めて見せる。

 

「そういう奴をほっとく訳にいかないから、誰かが面倒見てやるしか無いんだよなぁ……。

 お前らも女の子なんだから、酒の呑み方には気をつけてくれよなー。頼むよー(経験談)」

 

 お前が言うのか……(困惑)、みたいな顔をしているのは長門や那智達だ。

不知火や天龍達だって、何だか微妙な貌で野獣を見ている。瑞鶴と翔鶴だってそうだ。

彼だけは、「先輩らしいですね……」と、微笑んで居た。

そんな中で、鼻を鳴らした野獣は唇の端を持ち上げて、鈴谷達を順番に見た。

 

「俺みたいなイイオトコは、彼方此方に引っ張りダコだったんだけどさぁ。

ちょっとイイオトコ過ぎて、女の子達がビビッちゃってたからね(ナルシスト先輩)」

 

「……ただ単に数合わせ要員だったのでは?(触れてはならない核心)」

 

 俯き加減になってボソッと言った加賀の声に、「そ、そうだよっ!(決め付け)」と、自分の勘違いを誤魔化すかのように、赤い貌の鈴谷が激しく同意した。

「ふふ……。うん、きっとそうだね」明らかにホッとしたような時雨も、指で涙を拭いつつ可笑しそうに軽く笑った。可憐な笑顔だった。

寂しげだった赤城にも、いつもの穏やかな微笑みが戻って来ている。やっぱり酒の所為で、皆ちょっとテンションが上がり気味なんだろう。

 

 そもそも。こんな美人麗人に囲まれた状況であるにも関わらず、野獣は艦娘達に手を出そうとしない。セクハラや艦娘弄りは多いが、乱暴をはたらいた事は全く無い。

やろうと思えば、いくらでも、如何とでも出来るにも関わらずだ。あの様子だと、『ケッコン』を済ませた鈴谷達にだって手を出していない様にすら見える。

変なところで慎重過ぎる程に紳士的と言うか、不器用な誠実さと言うか。上手く表現出来ないが、普段は無茶苦茶な野獣という男は、あれで情にも篤い。

そんな野獣が、酔っ払って無抵抗な女性に悪さをするかどうかなど。……まぁ、少し考えれば想像出来ることではある。皆、ちょっと冷静では無いのだ。

 

 以前。野獣が彼の寝室に忍び込んでいたという話を不知火から聞いた事が在ったが、あの件も、野獣なりに何かの理由が在ったのではないかと瑞鶴は考えている。

深海棲艦達との『ケッコン』を想定し、艦娘達には事実を伏せたままで、彼が自分の体を調律していた事を踏まえれば。彼と野獣が、まだ何らかの秘密を共有していても不思議では無い。

「何だ何だSZYぁ! 合コンとかに興味あんのかぁ?」と笑う野獣につられ、カウンター席で盛り上がる面々を眺めつつ、そんな事を瑞鶴がつらつらと考えていた時だ。優しげに微笑んでいる鳳翔が口を開いた。

 

「それでは一度、社会勉強の意味合いも込めて、

此処に居る皆で、その……『合コン』というものをやってみては如何でしょう?」

 

 

 

 

 

 あまりにも意外過ぎる展開だったものの、長門を含め誰も反対しなかった事も在ってか、事態はもの凄くスムーズは推移した。鳳翔の店の空気と状況が一変する事になる。

こういう時、鳳翔は意外とノリが良い。他の艦娘達の楽しそうな姿を見るのが好きなのだろう。この『合コンカッコカリ』の為に、軽くつまめる料理を大皿で何品か作ってくれた。

鈴谷達が『ケッコンカッコカリ』をした時も、特にお祝いとか、そういう機会には恵まれなかった。だからこの機会を利用して、羽目でも何でも外して、楽しんでいけば良い。

微笑みを絶やさない鳳翔は、きっとそんな風に考えて、この落ち着いて高級感の在る店内を使わせてくれているに違い無い。しかし、こういう時にも気が効くのが野獣だ。

鳳翔を手伝っていた野獣は、「ホラホラ、HUSYOUも見てないで参加してホラ!(良い笑顔)」と、鳳翔を強引に参加させて、加賀の隣に座らせた。

「えっ? あのっ、わ、私もするんですか……?」と、驚いて困ったみたいな貌をする鳳翔に「当たり前だよなぁ?」と、頷いた野獣は、鳳翔の肩を軽く叩いていた。

普段から艦娘達を気遣い、労ってくれる癒しの立場に居る鳳翔にとっても、羽根を伸ばす良い機会だと判断しての事だろう。他の艦娘達も、快く鳳翔を迎え、席についている。

腰掛けている席割りは同じだが、彼と野獣は二人掛けで向かい合う席へと移動しており、艦娘達から少し離れた位置に腰掛けて居る。

全員、其々が好きな酒を杯として持ち、鳳翔と野獣が用意してくれた料理を前にしていた。

 

さて、準備は整った。

 

 

 野獣達の前には、上に丸い穴が空いた木箱が三つある。

提督用の籤箱、艦娘用の籤箱、それから王様の命令用の籤箱だ。

どれも、野獣が自分の執務室から持って来たもので、しっかりした造りだ。

此処まで準備が良いと、何れこういうイベントをしようと考えていたのかもしれない。

ただ今回は、人数比率的な意味では酷いバランスだと思うが、まぁ仕方無い。

それに、此れはあくまで『カッコカリ』だ。重要なのは体裁である。

これから始める“王様ゲームもどき”である『大本営ゲーム』には、多少の特殊性を持たせてある。

野獣が他所の鎮守府から聞いたと言うローカルルールを採用しているとの事だった。

 

その内の一つが、提督側と艦娘側での分離。

普通の王様ゲームでは、男同士がキスしたり抱き合ったりする事態が起こる。

これを避ける為に用意されたのが、あの三つの籤箱だ。

まず、艦娘側でジャンケンをして、負けた者が『大本営』となり、命令用に結われた紙籤を引く。

その後、少年提督と野獣提督は、提督用の籤箱で、赤か青の棒籤を引き合う。

続いて、艦娘達は、艦娘用の籤箱で、其々に番号のついた棒籤を引き合う。

そして最後に、“命令の内容”と、“提督の色”、“艦娘の番号”を一斉に開示する。

予め命令の内容を決めているのは、余りに過激な命令を防ぐ為だ。

ちなみに此れもローカルルールではあるが、“命令”は全て二人組みを指定し、その二人組みへの指令である。

 

『“●色籤の提督”と“▲番の艦娘”は、●●●せよ』

『“●色籤の提督”は、“▲番の艦娘”に●●●せよ』

『“▲番の艦娘”は、“●色籤の提督”に●●●出来る』

 

と言った、簡単な命令だけで構成されている。

『キス』や『氷の口移し』など、極端な過激性を排除し、より健全なものとして籤を引く。

好意で場所を提供してくれている鳳翔の店で、目に余る乱痴気騒ぎは流石にNGだ。

なので、多少のマイルドさについては皆も納得している。

 

 

 

 

 瑞鶴はふーっ……と、息を吐き出す。

各々の席に座っていた面子が、皆立ち上がって、其々の顔を見合わせる。

皆、真剣な貌だった。そう。『大本営』と言うポジション自体には、旨味は殆ど無い。

“命令”籤を引かされるだけだ。どうせなら、彼との距離を縮めるチャンスを掴みたい。ジャンケンだ。

勝負。『大本営だーーーーーーれだッッ!!!!』掛け声と共に、一斉に手を出した。結果。

「……流石に……………………気分が……………くっ………沈みます…………」と。

加賀が一人負けをかまして、物凄く無念そうに“命令”籤を引いた。その後。

野獣達が座る席へと歩み寄り、残りの面子で艦娘用の籤を引く。

少年提督と野獣提督も、提督用の籤箱から籤を引いた。開示する。

命令は、『“3番籤の艦娘”は“青色籤の提督”と、軽くハグせよ』

青籤を引いたのは、少年提督。3番籤を引いたのは、足柄。

 

 

「(`;Д;)んにゃぁぁああああああああああああああああーーーーー!!!(餓狼の戦吼)」

 

 足柄は両腕を天に突き上げた。長門と大和が、悔しげに俯いている。

加賀は心底羨ましそうだし、鳳翔と翔鶴は、切なそうに足柄と彼を見比べていた。

野獣は愉快そうな貌をしているし、鈴谷と時雨、赤城は、何処かほっとしている様子だ。

天龍は苦笑しているし、那智と不知火は無念そうに拳を握り締めて項垂れている。

瑞鶴だって唇を噛む。悔しい。良いな。ハグ。良いなぁ……。思わず言葉に出そうになる。

 

「あっ、そうだ!(重要事項) ちなみ、パスは一人2回まで出来るゾ」

 

「いやいやいや!!! パスなんてしませんよ!!!」

 

 茶々をいれてくる野獣に、足柄が慌てた様子で激しく両手を振る。

そんな足柄の傍に歩み寄った彼は、ほんの少しだけ恥ずかしそうに一度俯いた。

だが、すぐに向きなおって、興奮状態の足柄をおずおずと見上げる。

 

「ハグという事ですので、その……こんな感じで宜しいでしょうか?」

 

 彼の白い頬が、少しだけ赤い。照れているのだろうか。

彼は腕をそっと広げて、はにかむ様に、優しげな微笑を浮かべた。

こう、何て言うか。ズキューーンと来た。何だろコレ……。胸の辺りが苦しい。

瑞鶴は、無意識に胸の辺りを手で押さえてしまう。あぁ。なんて無防備な姿なんだろう。

此方を信頼しきった、少年然とした彼のその柔らかな表情に胸が締め付けられる。

不器用に甘えようとするいじらしさに、思わず悶えてしまいそうだ。すごい破壊力だ。

時雨、鈴谷、赤城も、彼を凝視している。この場に居る全員が黙り込んでしまう。

 

足柄の顔色は赤を通り越して、サツマイモみたいな色になっていた。

足柄は彼の正面に立って、ゆっくりと両膝を折って、彼と視線の高さを合わせる。

 

「ぅ、ぉ、あ、ぁ、あにょ……、そ、それでは……。ゲホっゲッホ!!

 ウゥウンッ!! は、ひゃ、は、ハグ……させて、も、貰いやすね……」

 

 余りの緊張に途中で咳き込んだ足柄は、口調を若干狂わせながらも、何とか言葉を紡いだ。

明らかに鼻息が荒く、眼が血走り気味な足柄にも、彼は照れ笑うように頷き、微笑む。天使かな?

「はい、お願いします」と。たまんねぇ^~……。そんな声が聞こえた。誰の声だろう。

多分、位置的に大和か長門だろうか。やっぱり、酒を入れてのこういうイベントは不味い気がしてきた。

こういうのには、どうしても弾みというものが在る。後々、何も無ければ良いのだが。

後の展開を危惧しつつも、瑞鶴は視線を逸らせないでいた。

 

 

 足柄は唾を飲み込んでから、ゆっくりと彼を抱きすくめた。

彼も、そっと足柄の背中に手を回した。もちろん、強く、情熱的な抱擁では無い。

このゲームの趣旨からも外れない、親しいもの同士で行う挨拶程度のものだ。

だが、それでもう十分だった。彼は、足柄をハグしながら小さな吐息を漏らした。

体格差もあり、その微かな吐息が足柄の首筋を優しく撫でた。足柄が身体を跳ねさせる。

足柄は、眼を見開いたままで宙の一点を見詰め、身体を硬直させている。全然余裕が無い。

そこへ。傍で嫌味無く笑っていた野獣が、彼に視線を向けた。

 

「じゃあまず、お前にとってASGRが、

どんな艦娘なのか教えてくれるかな?(インタビュー先輩)」

 

こんなタイミングで何て事を聞くんだこの男は。全員が野獣を見てから、彼を見た。

彼の方は、彫像のように微動だにしない足柄にハグされたまま、穏やかな表情のままだ。

 

「勇ましくて、凛々しくて、とても頼りになる方ですよ。

 座学講師としても活躍してくれていますし、色々な面で助けて貰ってばかりです。

 何にでも誠実であることも魅力的で、格好良い女性だと思います」

 

 彼はそこまで言ってから、「足柄さん……」と、名前を呼んだ。

信頼や感謝を込めたつもりなのだろうが、異様な艶と深みのある声音だった。

その魔性に当てられ、足柄が肩をビクンと跳ねさせる。構わず、彼は言葉を紡ぐ。

「甘えてばかりで、申し訳ありません。……いつも有り難う御座います」

其処まで言ってから、彼はほんの少しだけ強く、足柄をハグした。

 

「(´;Д;)ぉおほほほほほぉぉ~~~~ん(レ泣)」

感涙の類いなのだろうが、酒が入っていた足柄は、彼をハグしたままで大泣きし始めた。

洟をズビビビーっ!!と啜ってから、足柄は彼を更に強くハグしようとした。

しかしそこで、「ホラホラ、次行くど^~(進行役先輩)」野獣からストップが掛かかった。

足柄も相当に残念そうだったが、また籤を引いていけば、彼とハグするチャンスはある。

腕で涙を拭った足柄は姿勢を正して立ち、ビシッと彼に敬礼をしてから表情を引き締める。

そうだ。まだまだチャンスは在る。勝負(?)はこれからだ。瑞鶴も一度深呼吸をする。

 

 

次のゲームが始まり、『大本営』を決めるジャンケンを行う。

ラッキーは続かず、「くっ、仕方無いわね……ッ」次は足柄が『大本営』となり、“命令籤”を引いた。提督側、艦娘側でも籤を引き、開示する。

命令籤の内容は、『“7番籤の艦娘”は、“赤色籤の提督”を好きなように呼べる』というもので、艦娘側にイニシアチブの在る命令だった。

 

赤色籤は、少年提督。

7番籤を引いたのは、「不知火です……!(勝利の伝令)」と、何かをやりきった様な貌の陽炎型2番艦だ。不知火は彼に向き直り、コホン……と一つ、小さく咳払いをした。

そして、「それでは、その……、司令官の事を、お、“お兄ちゃん”と呼ばせて頂いても……?」と。視線を彼から逸らし、ぽしょぽしょと恥ずかしげに呟いた。

一瞬、場が静まり返った。瑞鶴は、ちょっと恥ずかしげな不知火と、彼を見比べる。彼の方は、きょとんとした貌である。っていうか、皆きょとんとしている。

「お前さぁ、前もコイツに“お姉ちゃん”って呼べとか言ってただろ……?」と、天龍が困惑気味に言ってくれなければ嫌な沈黙が続いていたかもしれない。

 

「“不知火お姉ちゃん”と呼んで頂く事と、

司令官を“お兄ちゃん”と呼ぶ事には、矛盾は無い筈ですが?(威圧)」

 

変なヤツを見る目の天龍に、不知火が表情を引き締めて向き直る。

天龍が難しい貌になって頷いた。「ちょっと何言ってるか分かんねぇな……(思考放棄)」

 

「つまり不知火は初期艦として、

司令官の“姉”でありつつ、“妹”でもあるという事ですよ(よくばりセット)」

 

「変幻自在かよ、お前。つーか酔ってるだろ?」 

 

天龍は、今度は心配そうな貌になって不知火の貌を覗きこんだ。

「酔ってなどいません(毅然)」そう応えた不知火は、小さくしゃっくりをした。

「強くもねぇ癖に熱燗なんて飲むからだ。やっぱり酔ってんじゃねぇか……(呆れ)」

 

溜息を吐き出した天龍は、赤い顔のままで険しい表情を作る不知火の頭を撫でながら、微笑んでいる彼へと振り返った。

「悪ぃな、ちょっと相手してやってくれ。……まぁ呼ばせてやれば、コイツも満足すんだろ」言いながら軽く笑った天龍の声音は優しげで、その面倒見の良さが窺えた。

ああいう自然な気遣いも、初期艦娘としての不知火の慕情を汲んでの事だろう。彼女が多くの駆逐艦娘から慕われているのも、何だか納得出来た。

 

「えぇ、……構いませんよ」と。彼も快く頷いた。

「で、では……」と。不知火が、おずおずと彼の前に歩み寄る。

 

唇を一度舐めて湿らせた不知火は、一瞬だけ俯き、すぐに彼を見詰めた。

身長で言えば、不知火が少し高いくらいだ。だから、彼が僅かに見上げる格好である。

不知火が唾を飲み込み、震える唇を開いた。「お、お兄ちゃん……?」と、遠慮がちに呼ぶ。

「はい、何でしょう? 不知火お姉ちゃん」と。彼は信頼と親愛を込めて応えた。

彼の笑みは、本当に仲の良い姉に向けられるような、柔らかい微笑みだった。

 

瑞鶴だって正直、「い、良いな……っ!」と思った。

あんな風に呼んで貰えるのは素直に羨ましい。あの命令が来たら、私も呼んで貰おう。

ただ、そう思ったのは瑞鶴だけでは無かったようだ。

不知火の背後に、まるで順番を待つみたいに大和、長門、加賀が並びだした。

既に随分酒が入っている三人は艤装を召還し、北●の拳みたいなシリアス貌になっている。

 

「大和お姉ちゃんです……(一番艦の風格)」

「長門お姉ちゃんです……(差し迫った脅威)」

「フィアンセ加賀です……(本質の散乱)」

 

「ん何だコイツらっ!!?(驚愕)」 天龍が振り返ってドン引きしている。

 

「ウェーイ!! 暴走してんじゃねぇぞぉ! 次行くぞ次ィ!!(ゴリ押し)」

 

そろそろ収拾がつかなくなりそうなので、野獣が無理矢理に流れを変えてくれた。

次のゲームである。まずはジャンケンだ。

 

次の『大本営』は。「そ、んな……馬鹿な……」再び加賀だった。

ヤケクソ気味に“命令”籤を引いて、その場にしゃがみ込んだ加賀を尻目に、瑞鶴達は次の籤を引く。野獣達も色籤を引いた。一斉に開示する。

命令の内容は、『“赤色籤の提督”は、“2番籤の艦娘”にデコピンせよ』。2番籤を引いたのは、「げっ!?」と声を漏らした天龍。赤色籤は野獣が引いていた。

 

「よぉ~し、俺の出番かぁ!!

TNRYUが相手だと、力一杯☆死ぬ程でお願いしますって感じだよな!!(笑顔)」

 

 野獣は楽しそうに笑いながら、右手の中指を、左手でしならせて弾いている。

バシィ!! バシィ!! と、凄い音がしている。凄い迫力だし、めっちゃ痛そうだ。

瑞鶴は顔を引き攣らせる。あんなデコピンをされるとか、ちょっと勘弁して欲しい。

「フザケンナヤメロバカ!!」と喚きながら後ずさる天龍だって、明らかに怯んでいた。

「……根性無しですね。そんなんだから、“ふふ怖ちゃん”とか言われるんですよ」と。

溜息混じりに冷たい視線を向けたのは不知火だ。煽って行くスタイルである。

「そうだよ(便乗)」と野獣が鼻で笑って見せた。

 

「パスは一応出来るけどさぁ。

世界水準超えてるTNRYUは、まさかパスしたりしないよなぁ……?(圧力)」

 

不知火の煽りに野獣が乗っかって、隣に居た鳳翔がオロオロとしている。

「なぁ……、無理はせんでも良いぞ?」と、優しく言ってくれているのは長門だ。

「これはパスしても良い奴ですよね……」と、大和も言う。もっともである。

そんな意地を張るようなゲームでも無い。瑞鶴と翔鶴も、気遣わしげに天龍に頷く。

しかし、結構酔っているのであろう那智は、不敵に笑って天龍を見ている。性質が悪い。

「ぐっ……!」と、言葉を飲んだ天龍が、「やりゃあ良いんだろ!」と言って見せた。

 

 「よし! それでこそサイキョーの軽巡だな!! 

じゃあ、こっちも敬意を払わなきゃ……(戦士の鑑)」

 

野獣は言いながら、海パンから携帯端末を取り出て、何処かへ連絡しようとした。

身の危険を感じたのだろう。「おいテメェ……! 何しようとしてんだ!?」

天龍が野獣に訊くと、携帯端末から顔を上げた野獣が、ニコッと笑った。

 

「俺の代りにぃ、艤装召還したMSSにデコピンして貰うってのは、如何っすか?(妙案)」

 

「『如何っすか?』じゃねぇ!! 

首から上がどっか行っちまうだろ!! いい加減にしろ!!

良いよもう、お前がやれよ! 赤籤引いたのはお前なんだろ!!」

 

天龍はキレ気味に言いながら、右手でぐいっと前髪を上げつつ、野獣を睨む。

「あ、良いっすよ!(いじめっ子)」と、携帯端末をしまった野獣が天龍の前に立つ。

そして、右掌を天龍の額に添えて、中指の内側でデコピンをする体勢を取った。

全員が固唾を飲んで見守る中。「な、なぁ、野獣!」と、天龍が焦った声で言う。

 

「ちょっと、その……、あれだ、タイミングはこっちで取って良いよな!?」

 

「え~~……(不満気)。

カウントダウンで良いじゃん? 

 そんじゃ行くぞ~~? はい! 5秒前ぇ!!」

 

「おちょちょちょ、待っ……! 待て!!」

 

 いきなり始まろうとする秒読みに、天龍が慌てまくる。

だが、すぐに黙って歯を食い縛った。きっと心の準備をしようとしたに違い無い。

秒読みなら覚悟はしやすい。痛みに耐えるタイミングを計れる。しかし、相手が悪い。

「5!(迫真)」と、カウントダウンを始めた野獣は、「4!(速射)」で即座にデコピンした。

タイミングをずらしたのだ。 ドバチィィン!! みたいな、かなり派手でくぐもった音が響く。

 

「ぎひぃッ!!!!!?(素)」

 

 裏返った悲鳴を上げた天龍は、銃で額を撃たれたみたいに仰け反っていた。

滅茶苦茶痛そうだった。しかし、天龍はよろけこそしたものの、踏ん張って見せた。

額を両手で抑えながら、「スゥゥゥゥゥゥ……(我慢)」と、深呼吸をしている。

彼が、「だ、大丈夫ですか……?」と心配そうに下から顔を覗きこもうとした時だ。

天龍は、右手で額を抑えながら顔を上げた。ちょっと涙目だった。

 

「痛っ……たくねぇー……。全然痛くねぇわーー……。

ちょっとジンジンするけど、全く痛くねぇなーー……。あー、痛っ、たくねぇ……。

 全然痛くねぇけどよぉー……、スゥゥゥ……(呼気音)、ちょっと向こうで座ってくるわー……」

 

どんだけ負けず嫌いなのか。明らかに半泣きの天龍は、よろよろと歩いていく。

流石に煽ってしまったのを悪いと思ったのか。不知火が肩を貸して、その身体を支えた。

半泣きの天龍は、「悪ぃ……」と返し、不知火も「いえ……」と、軽く笑って応える。

天龍は額を抑えたままで、蹲るようにして店の隅のテーブル席に座り込んだ。

よっぽど痛かったに違い無い。「スゥゥゥゥゥ……」と、かなり深く息を吐き出している。

隣に座った不知火は、「痛いの痛いの、飛んでいけー(真顔)」とやっていた。

酔っているんだろうが、仲良いなぁ、あの二人。

まぁ、ああ言うハズレも在るのは、なかなか怖いものだ。

 

 

 

 

だが、次のゲームに向けてのジャンケンを辞退する者は居なかった。皆、真剣だ。

天龍と不知火が抜けた分、艦娘の番号籤は二つ余ることになったが、余った番号はジャンケンで勝ったものが取るという事で、全員が了承した。

次の『大本営』は、「ぐっ……!」長門だ。命令籤と、提督の色籤、艦娘の番号籤が揃う。

命令は、再び『“赤色籤の提督”は、“2番の艦娘”にデコピンせよ』。

2番籤は、那智が引いていた。『くそォ……!』みたいに、那智は手で顔を覆い天井を仰いだ。

しかし、今回の赤色籤を引いたのは野獣では無く、彼だった。それを知った那智がガッツポーズする。

 

「普通のデコピンだと、やっぱり何か足んねぇよなぁ? 

あっ、そうだ!(邪悪な着想) ちょっと耳貸してホラ!」

 

また要らないことを思い付いたのであろう野獣が、彼に何かを耳打ちし始めた。彼の方も興味深そうに話を聞きながら、納得するように頷いてもいる。

「おい野獣! 余計な事を彼に吹き込むな!」と、那智も野獣に言うが、その時にはもう野獣は話を終えて、掌に蒼い術陣を灯しつつ何らかの詠唱を始めていた。

術陣は緩く明滅し、それに呼応して那智の身体を蒼い微光が優しく包んだ。えぇ……、何が始まるのコレ。嫌な予感しかないのは瑞鶴だけでは無かったようだ。

全員が、那智から一歩離れる。「な、何だこの施術は!? おい止めろ!!」那智が明らかに焦り出した。しかし、野獣の方は落ち着いた貌で、「へーきへーき」と諭す。

 

 そうこう言っている間に、那智の身体を包んでいた蒼い微光は霧散した。

それを確認した野獣は、「ホラホラ、こいつの背が届かないんだから! はやくしゃがんでホラ!」と、那智を急かす。

デコピンをするのは少年提督だから、上背のある那智が屈む格好になる。那智は野獣の動きを警戒しつつ、先程の天龍と同じく右手で前髪を上げて、額を彼に晒した。

 

「……ふん。一々下らん真似をしようとするな。貴様の悪い癖だぞ」

那智はその姿勢のまま、横目で野獣を睨む。それから、自身の体に特に変化が無い事を確認しつつ鼻を鳴らした。だが、安心するのはまだ早かった。

 

「別に何にもしてないから大丈夫だって!

ちょっと肉体の感覚を810倍に鋭くしただけで、何も悪影響なんて無いから、安心!」

 

「んん!!?? な、何だと!??」

那智は野獣に振り向こうとしたようだが、出来なかった。那智の前に立った彼が、もう何らかの詠唱を紡いでいた。

あっ、やばそう。やばい(確信)。周りに居る野獣以外の全員が、身体を強張らせる気配が在った。

そんな一瞬の緊張感などお構い無しで、彼はそのまま左手の人差し指で、那智の額にそっと触れる。彼は、あれでデコピンのつもりなのだろうか。あまりにソフトタッチだ。

しかしである。瞬間。那智の額の前に、術陣が一瞬だけ浮かび上がって消えた。瑞鶴には、彼の唱える詠唱に聞き覚えがあった。あれは確か。

陽炎が漏らし掛けた耳掻きの時のヤツだ。瑞鶴の記憶は正しかったし、厳密には、もっと深刻な事態だった。彼が那智の額から指を放した瞬間だった。

「あひぃッ!!? ふぐ、ぁあ……っ!!??」 術陣の効果が解決し、那智の肉体の感覚に干渉する。那智が身体をビクンビクンと痙攣させながら、その場に崩れ落ちた。

「流石に感覚鋭敏施術の重ね掛けだと、効果が強えなぁ……(分析)」と、すっとぼけた野獣が真面目な貌で呟いている。「き、貴様ぁ……!!」と。

蕩けそうな赤い貌をして、那智は野獣を睨む。睨まれた野獣は涼しげにその視線を受け止めて、今度はにこやかに笑った。

 

「これが噂の大人気リラクゼーション施術(大嘘)!

『チャネル☆イキスギ』(適当)だぞ! 日本語で言うと『霊感☆絶頂』(BRNT)! 

どうだぁ、キモティカ? キモティダロ? for ip●one?(意味不明)」

 

「流行には疎くて知りませんでしたが、どうですか? 那智さん?」

 

少年提督は無垢で優しい笑顔のままで、左掌に術陣を灯して、何度か明滅させた。

「き、気持ち良いのは間違い無いんだが、ぅぐっ、ふ、まっ、待ってくれ……ッ!! んほぉぉお……ッ!!!」

その明滅の度に、那智の体を覆う蒼の微光が揺れて、那智が悲鳴を堪えて体を波打たせる。

この場に居た全員が「う、うわぁ……」みたいな赤い貌で、その惨状に眼を奪われた。

時雨や鈴谷、長門と不知火が野獣を嗜めようとしていたが、止めたようだ。

皆ちょっと興味が在るんだろうか。眼がマジな翔鶴と大和、足柄が唾を飲み込んでいる。

瑞鶴だってドキドキして来た。施術が終わる頃には、那智がへたりこんでいた。

 

「は……、はぁ……、ぐ、ぅうう……!」 

 

 足腰をガクガクさせながらも、顔を紅潮させた那智は何とか立ち上がった。

荒い息をつきながら野獣を睨むものの、すぐに鼻を鳴らして視線は外す。

那智は周りに居る面子にも視線を巡らせてから、不敵な感じで唇の端を持ち上げて見せた。

「な、中々のものだなっ! この、なんだ、『コック☆イキスギ』とやらは……!」

ただ、無理をしているのは間違い無い。まだピクンピクンと、身体を微痙攣させている。

脚はカクカクしているし、呼吸も熱っぽい。それでも尚、武人然と佇もうとしていた。

「気に入って貰えたようで、良かったです」と、彼が微笑んだ。

 

「じゃあ、あと114514回のフルオートでイこっか、じゃあ!(狂気)」

野獣が朗らかに笑いながら、少年提督と那智を見比べる。

 

「心身が壊れるわ!! い、いやっ、もう十分堪能した!(満身創痍) 

正直に言うと、ちょっとアレだ、その……。意識が朦朧とするレベルだぞ。

下腹部とかがキュンキュンしっぱなしなんだ、少し休ませてくれ……」

 

那智は泣きそうになりながら言って、天龍が座っているテーブル席へとガクガクと震える脚で歩いて行く。

生まれたての子鹿みたいな、覚束ない足取りだった。

途中で足柄が肩を貸して、触れられた瞬間に「んぁあっ!!?」と嬌声を上げていた。大丈夫なんだろうか……?

 

 

 

 しかし。こんな惨状が起きてもゲームは続く。

次の『大本営』は、「私かぁー……」と悔しげに呟いた鈴谷だ。野獣達が色籤を引き、瑞鶴達も番号籤を引く。

天龍と那智、不知火、足柄の四人分。艦娘の番号籤が余っているので、更にジャンケンで取り合う。勝ったのは、長門、赤城、時雨、翔鶴だった。この四人は二つの番号籤を持っている。

要するに、命令籤で選ばれる確立が上がるのだ。無論、相手が野獣であるという事を考えればリスクもあるが、それを差し引いてでもリターンは魅力的だ。

 

籤を全て開示する。

命令籤の内容は、『“青色籤の提督”は“6番籤の艦娘”に、ナデナデせよ』。

青色籤は、野獣。1番籤と6番籤を引いていたのは、赤城だ。

 

「普通のナデナデだと、何か足んねぇよなぁ?(また無茶振り)」

 

 野獣は赤城に振り返るが、赤城の方は野獣の方に軽く微笑むだけだ。

しかし、どうも赤城は野獣の眼を見ようとしない。視線を微妙に合わせない。

赤城は微笑みながら、唇に指先で触れたり、頬に軽く片手を当てたりしている。

普段は泰然としている筈の赤城の仕種にも、何処か落ち着きが無い。

頬も、ほんのりと赤い。照れているのだろうか。……何か可愛いな。赤城さん。

少女然として、美人ながらも可憐な一面を見せる赤城に、瑞鶴はドキッとする。

一方で野獣の方は、少年みたいな笑みを浮かべながら赤城に歩み寄った。

赤城が唇を軽く噛んで、少しだけ俯く。野獣が頭を撫でやすいようにだろう。

 

 野獣は、特に何も言うでもなく、赤城の頭をくしゃくしゃと右手で撫でた。

赤城は、上目遣いで野獣を見遣ってから、くすぐったそうに小さく笑みを零した。

嬉しい様な、恥ずかしい様な、やっぱり照れている様な、そんな笑顔だった。

その様子を、凄く羨ましそうに眺めているのは時雨と鈴谷だ。

真顔の加賀は天井を黙って見上げて、出来るだけ野獣達の方を見ないようにしている。

『ケッコンカッコカリ』組の反応には、かなりの温度差がある。

 

 

 そのまま何事も無く、野獣のナデナデはあっさりと終わったが、赤城は凄く満足そうだ。

すぐに次の籤引きが始まる。次の『大本営』は赤城であり、同じ命令籤を引いた。

しかも、青籤は再び野獣であり、6番籤を引いていたのは鈴谷だった。

鈴谷が照れ照れと笑いながら髪をくるくると弄りつつ、チラチラと野獣を見ている。

野獣も、やさしく笑って頷いた。

 

「SZYは普段からナデナデしてるからさ、今回は無効で良いんじゃない?(進行役先輩)」

 

「えぇっ!!? いやいや!! して貰ったこと無いよ!? 一回も無い!!」

 

「ほんとぉ?(曖昧な記憶)」 野獣は半眼で腕を組み、鈴谷を見た。

 

「ホントだよ! 時雨と間違えてない!? ひ、ひどいじゃん!!(半泣き)」

 

「しょうがねぇなぁ」と、野獣は無造作に鈴谷との距離を詰めて、頭をぐしぐしと撫でた。歳がちょっと離れた妹を宥めすかすみたいに、野獣は苦笑を浮かべている。

撫でられた鈴谷は、一瞬びっくりしたみたいに首をすくめた後、驚いたみたいな貌で野獣を見上げていた。その鈴谷の頬にも、さっと朱が差す。

それを誤魔化そうとしたのかもしれない。すぐにぷいっとそっぽを向いて頬を膨らませて見せたものの、「意地悪……」と呟いた鈴谷は、やっぱり満更でも無さそうだった。

ただ、瑞鶴にはその声音が、ちょっとだけ寂しそうに聞こえた。それは、鈴谷に向けられる野獣の態度が、仲の良い兄妹の範囲を出ていないからだろうか。

そうだ。野獣はだいたい、艦娘達の誰に対してもこんな感じだと思う。遠慮が無くて無茶苦茶な事を言う癖に、妙に気が効いたりする。

指輪を渡した時雨や赤城にも、仲間や部下というより“家族”を相手にしている様な感じだ。そしてそれは、彼にも同じく言えることだと思う。

 

 

 

 

 

 瑞鶴がちょっとしんみりした気分になっていると、また次の籤引きに向けてのジャンケンが始まる。気が抜けない。

次の『大本営』は翔鶴であり、命令籤を引いた。その後、続いて全員が籤を引いた事を確認し、開示する。だが、その段階で問題が発生した。

翔鶴が引いた命令籤が、二つ重なっていたのだ。イレギュラーな事態だったが、面白そうだからこのまま行こうという話になった。

 

命令内容は『“青色籤の提督”は“1番籤の艦娘”に、マッサージをせよ』

もう一つは、『“赤色籤の提督”は“10番籤の艦娘”に、マッサージをせよ』

 

艦娘を労う系の命令が被った。

此処は普通に、肩叩き、肩揉みなどを行おうという事で話が決まる。

1番籤を引いたのは、時雨。10番籤を引いたのは、鳳翔。

青色籤は野獣。赤色籤は少年提督だ。多分、幸運艦娘である時雨が絡んだ結果かだろうか。

時雨も鳳翔もWinWinと言うか、上手い具合に番号を引いている。

 

「おーし、そんじゃ始めんぞーー!!」

テーブル席から椅子だけを二つ持って来て、野獣は時雨と鳳翔の二人を並んで座らせた。

その時雨の背後に野獣が立ち、鳳翔の背後に少年提督が立った。

ちょっと照れ臭そうに微笑む二人は、身体を預けてしまう様にリラックスしている。

これから始めるのが、肩叩き、肩揉みなどであるから、身構える事も無いからだろう。

実際に、野獣が時雨の肩揉みを始めても、悪戯をしたりする事も無かった。

「お加減はどうですか?」と窺いながら、少年提督も鳳翔の肩を叩きをしている。

何と言うか、天龍や那智の時と比べて、すごく微笑ましい光景だった。

 

その内、ほろ酔い状態だった時雨が、リラックスのし過ぎで寝息を立て始める。

よっぽど心地よかったのだろう。「しょうがねぇなぁ~(悟空)」と、眠ってしまった時雨を野獣が抱え、鳳翔の店の奥へと運んで言った。

奥には休憩できる座敷が在るらしいし、先程、合コンで酔い潰れた女子を介抱したと言っていたが、あんな感じだったのだろうか。

「あらあら」と、優しげに笑んだ鳳翔も立ち上がり、「有り難う御座いました」と少年提督に深々と頭を下げる。

少年提督も「いえいえ……。これくらいなら、何時でもさせて頂きますよ」と返し、その言葉に、鳳翔も嬉しそうに頷いて、また軽く頭を下げていた。

鳳翔が野獣の後に続き、少ししてから野獣が「お ま た せ」と帰って来た。鳳翔は時雨を見てくれているらしく、一緒では無かった。

店の主が表に居ない状況になるので、鳳翔に頼まれたのだろう。野獣は店の暖簾を大事そうに外してから、戸を閉める。

これで一応のオーダーストップである事は、表から見ても分かる。

さて。そろそろ、この馬鹿騒ぎもお開きの時間だろう。

野獣は腕時計を見てから、「そんじゃあラスト一回、行ってみるかぁ!」と笑った。

 

 

 その後。最後の最後に、瑞鶴はジャンケンに負け、『大本営』として命令籤を引いた。

今回も二つ同時。内容は、最初の『“青色籤の提督”は“3番籤の艦娘”と、軽くハグせよ』。

そしてもう一つは『“青色籤の提督”は“9番の艦娘”と、軽くハグせよ』。

またも命令内容が被る結果となり、肝心の3番、9番籤を引いたのは、大和と長門だった。

青色籤を引いたのは、少年提督だ。「成し遂げましたっ!!!」「やったぞ!!!」

二人は艤装を召還するほどにテンションを上げて腕を突きあげた。

 

ついでに、ビシバシグッグッ(JOJO)と、互いに手を打って熱い握手を交わしている。

そして瑞鶴にも「有り難う御座います!!」、「感謝するぞ!!」と熱い握手を求めて来た。

くそぅ、羨ましい! と思いつつ、苦笑しつつも大和と長門へと握手を返す。

二人を死ぬほど羨ましそうに見ているのは、爪をガジガジと噛んでいる加賀だ。

鈴谷と赤城、翔鶴は、皆の盛り上がりを見守りつつ、苦笑を浮かべている。

瑞鶴だって溜息が漏れそうだったが、ぐっと我慢する。

野獣がニヤニヤと笑っていた。彼の方も、先程の足柄の時のように照れていない様子だ。

パーティーゲームとしてのこの場の空気にも馴れてきたに違い無い。

それに野獣と同じく、彼にとっても艦娘達は家族だからだろう。

 

 

 しかし、大和と長門の方は、少々よろしくないスイッチが入ってしまったようだ。

「では、僕は如何しましょう?」と、二人を見上げる無防備な彼に、ずずいっと詰め寄る。

「えぇ、その、じっとしていて下されば、すぐに終わります」大和が、艶美に微笑んだ。

「そ、そうだな! 別に痛くしないから、安心してくれ!」長門は、鼻息荒く言う。

二人は彼の傍にしゃがみ込んで、すぐさま一方的に抱きつきに掛かった。

 

 いやもう、襲い掛かったと言った方が正しい。大和が彼の右胸あたりに、長門が彼の左胸あたりに鼻頭を突っ込むような体勢だ。

二人はその姿勢のままで、「「すぅぅぅぅぅ……はぁぁぁぁぁぁ……(迫真)」」と、遠慮の無い深呼吸をしている。彼の香りを胸一杯に吸い込んでいるようだ。

更に、大和と長門は陶然と眼を細めつつ、彼の胸やお腹、太腿やお尻などを思う様に撫で回している。彼は、くすぐったがるように身を捩りつつ、小さく甘い悲鳴を漏らしている。

 

「あ、あのっ……! はぅっ! 

大和さん、駄目です……! あぁっ! 長門さん、そ、其処はっ……!」

 

もともと既に酒も入って居た大和と長門は、少年とは思えない彼の可憐な声に、更にヒートアップしていく。彼の提督服、その上着の中に手を滑り込ませ始めたのだ。

「はぁ……はぁ……、提督のさくらんぼ(意味深)は何処ぉ? 此処ですかぁ^~?」と、荒い息と熱っぽく呟きを漏らし、舌舐めずりをする大和の眼は、かなりマジだった。

「おぉほほぉ~~^^こっちにも衝撃が来たあぁ^~~(意味不明)」長門が、彼の上着の中で何かを見つけた様だ。彼が「うぁっ……! はっ、ぅぅ……!」と、艶かしく呻いた。

大和と長門は、艶っぽくも嗜虐的な笑みを浮かべながら、悶える彼の表情を見上げている。

勿論、彼の上着の中で何かを優しく摘んで、くりくりと動かしている手は休めていない。責めっぱなしだ。目尻に涙を浮かべた彼が、眼をきつく閉じ、ビクンと身体を跳ねさせている。

瑞鶴は、顔を真っ赤にしながら唾を飲み込む。端から見たら通報不可避な光景だ。と、止めなきゃ……! とは思うものの、上手く身体が動かない。

「はわわわ……!」鈴谷が両手で貌を隠しつつも、指の隙間から、彼の悶える艶姿をガン見している。ちょっと恥ずかしそうな赤城も、チラチラと横目で様子を窺っていた。

傍に居る翔鶴もそんな感じだ。離れた席で座っていた天龍や不知火も、ほぼ全員が身体を硬直させていた。いや、野獣だけが冷静な貌で携帯端末のカメラを向けて居る。何やってんだと瑞鶴が怒鳴ろうとした時だ。

あの惨劇へと身を投じる、乱入者が現れた。しかも二人。ソイツらは、高身長である大和と長門に揉みくちゃにされる彼を助けると見せ掛けて、彼のベルトを外しに掛かった。

「鎧袖一触よ……、心配要らないわ(意味不明)」と、やけに真剣な貌をした加賀と、「不知火です……!(多相の戦士)」と、名乗りを挙げた姉と妹の融合体だった。

流石にこれは不味い。もう、ハグという概念を超越しつつある。瑞鶴と翔鶴は飛び出して、必死に四人を彼から引き剥がしに掛かる。

 

「せんぱぁい!!! 何やってるんですか!!? 

不味いですよ!!? ちょっと……!! ホントに……!!」

 

「あの、すみません!! 皆さん!! 

手を止めて貰って良いですか!? ちょっと、遣り過ぎですよ!!

ほ、ホラ!! ラブ&ピース!! 平和が一番ですよ!!」

 

 

 

 本当に、この面子で酒が絡むと、最後の最後まで気が抜けない。

すぐに天龍や足柄、ダウンしていた那智も助太刀してくれて、事なきを得た。

もうちょっとで鳳翔さんにも怒られるところである。

ちなみに次の日。大和と長門、加賀と不知火が、朝一番に彼に謝り行ったという。

この日の秘書艦であった天龍が言うには四人共、目の下に濃い隈を作って、もの凄く憔悴した貌だったらしい。

 

本当に申し訳無い……。

昨晩は酒に酔っていて、その……よく覚えていないと言うか……。

責任能力が欠如していた状態と言うか……。心身耗弱の状態と言うか……。

あの……。いや、本当にごめんなさい……。

 

執務室に正座しに来た三人は、そんな感じの事を繰り返し述べ、平謝りしていたと言う。

ただ、彼の方は全く気にした風でも無く、何故謝られているのかもイマイチ分かっていない様子だったと聞く。

まぁ、そんな勢いで謝りに凝られても逆に困惑するだろうし、遺恨を残す事も無く彼が許してくれたのなら、まぁ……“めでたしめでたし”で良いだろう。

呑み方には気を付けろと野獣も言っていたが、本当に『酒は飲んでも飲まれるな』という奴だ。

自分も気を付けようと、瑞鶴は肝に銘じた。










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短編 4.5

 

 今日の秘書艦である鹿島は緊張した面持ちで、少年提督の後ろに控えつつ深海棲艦の研究施設の地下フロアの廊下を歩いていた。白く無機質で、広い廊下だ。

巨大な地下水族館といった様子の地下フロアだが、何処か厳かささえ感じる静謐に満ちており、まるで神聖な大霊廟を歩いて居るかのような錯覚を覚える。

少年提督の下に配属されて暫く経ち、秘書艦も何度か務めさせて貰った。その際に、この施設へ一度だけ訪れたことが在るものの、やはり馴れない。息苦しい。

緊張を解すように小さく息をついた鹿島は、手に持った書類ファイルを開き、其処に視線を落とした。書面には『子鬼』の文字が散見出来る。

数日前にこの施設に運ばれて来た、他の鎮守府で鹵獲された新種の深海棲艦である。今日はその確認と精査の為に、少年提督がこの施設に足を運んでいた。

 

 鹿島は歩きながら、そっと視線を巡らせる。研究員達の姿は少なく、静かである。両脇に並んでいる実験室めいた部屋が連なり並んでいた。微かな電子音が聞こえる。

其々の部屋の中には、厳重にロックを施された大掛かりなシリンダーが備え付けられており、その中に深海棲艦達が収められていた。

イ、ロ、ハ、ニ、ホ、ヌ級などだ。薄緑色の液体に包まれた深海棲艦達は、既に死んでいる。名目上、あの深海棲艦達は彼の管理下にある標本であり、検体である。

此処に保管されている深海棲艦達の亡骸は、彼の指示により丁重に扱われていた。未だ続く戦史の中、各地で集められ、最終的に此処で保管される流れとなったのだ。

このフロアが霊廟のような雰囲気を持っているのも、彼が深海棲艦達の骸を大事に安置しているからだろう。事実として此処は墓所でもある。

 

 

 そのまま暫く廊下を歩いていくと、彼がある実験室の前で足を止めた。分厚く重々しい自動扉が、左右の壁に沈むように開いていく。同時に、声が聞こえた。笑い声だ。

甲高くて、幼い笑い声。まるで、赤ん坊のような笑い声だった。不気味にくぐもっている癖に、やたら無邪気っぽくて、酷く不気味な笑い声だった。鹿島は唾を飲む。

実験室に踏み込むと、其処には大型機器類が並んでおり、数値やグラフを表すモニターが幾つも明滅している。そして壁際には、やはり巨大なシリンダーが備え付けられていた。

あとは、白衣を着た研究員であろう男女が数人。タブレットやら記録機材を手に、シリンダーを囲むように並んでいた。白衣の研究員達は、どうも興奮している様子だった。

互いに何かを論じ合いながら手元の資料を捲り、熱心に其処に何かを記入したりしている。ただ、実験室に少年提督が現れた事に気付いた研究員達は、はっとした様子で黙り込んだ。

実験室の中に、静寂が訪れる。彼は軽く研究員達に礼をして、「今日の精査施術では、お世話になります」と、微笑んで見せた。鹿島もその言葉に続き、敬礼をする。

白衣の研究員達も、少年提督と鹿島へと敬礼をして見せる。しかし、明らかに研究員達は少年提督を見て、その顔を強張らせて居た。見れば、肩や脚が震えている者も居る。

異種移植を受け入れ、人間の規を超えつつある彼に、本能的な部分で恐怖を抱いているのだろう。それに加え、研究者として知識を持っている彼らは、同時に理屈の面でも彼の異様さを理解している。

丁寧に礼をして見せる彼の事を、研究員達は恐れている。それには気付かない振りをして、鹿島もシリンダーの方へと視線を向け、嫌悪感と酷い寒気を感じ、息を呑む。

 

 甲高く、何処かくぐもった笑い声が再び響いた。幼い笑い声だった。

シリンダーの中からだ。其処には、四体の深海棲艦が居て、活発に泳ぎ回っている。

人間の幼い子供によく似た姿だ。赤ん坊から少し成長した程度の、小さな肉体。

その頭部や胴を、歪で無骨な外骨格が覆っている。明々白々、人間では無い。

いや、覆っていると言うよりも同化しつつ、変質している。

無垢な赤子を思わせる姿に近いだけに、深海棲艦と呼ぶには抵抗が在る。

しかし、そう呼ぶしか無いほどに生々しく、グロテスクだった。

子鬼達はケタケタと笑いつつ、シリンダーの中を泳いでいる。

 

 不意に、彼がシリンダーへと近付いた。

子鬼達も彼に気付き、泳ぎ回るのを止めて、ゆっくりと彼の前へと集まった。

甲高い笑い声も止んだ。子鬼達は、シリンダーの中に浮かび佇んで、彼をじっと眺めている。

鹿島も彼の隣に立ち、もしも何かあっても対処出来るように、艤装を召還して控えた。

実験室の白く無機質な空間に、規則的な電子音が響いている。何だか奇妙な沈黙だった。

他の研究員達も、今までとは違う子鬼達の反応に、興味深そうにシリンダーに身を寄せる。

その時だった。シリンダーの中に居た子鬼達が、一斉にガバッと彼に近付いた。

シリンダーの外壁に、べったりとへばりつくようにして身を寄せて来たのだ。

 

 いきなりの事に、近くに寄って居た研究員達の何人かが尻餅を着いていた。

驚きの声を上げて後ずさる者も居た。鹿島も肩を跳ねさせてしまう。

すぐに艤装を構えるものの、「大丈夫ですよ」と、傍に居た彼に手で制された。

全く驚いた様子では無い彼は、穏やかな表情のままで子鬼達に向き直り、シリンダーへと左手で添える。

そのままの姿勢で朗々と文言を唱えて、墨色の揺らぎを微光として纏う。静寂が降りた。

子鬼達は身を寄せ合いつつ、シリンダー越しに彼の左手に自分の小さな手を重ね合わせる。

彼が左手に灯した墨色の揺らぎが、シリンダー越しの子鬼達の手へと伝う。

鹿島も研究員達も、何も言えずのその光景を見守る。

何処か神聖ですら在るその静寂が破られたのは、次の瞬間だった。

 

 

『呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵ッ!!!』

子鬼達が身体を大きく震わせて、哄笑を上げたのだ。

 

『おお!!』 『おお!!』 『おお!!』 『おお!!』

『験仏よ!!』 『化仏よ!!』 『辟支仏よ!!』 『活仏よ!!』

 

硬い物を激しく擦り合わせる様な大声だった。

鹿島は息を呑んで言葉を失い、研究員達も驚いたような貌のままで立ち尽くしている。

歪に擦れ、捩れて揺れる声は、それでも尚、ゾッとする程に無垢な幼子の声だ。

小鬼達はその幼い声音に、長年探していた人物にようやく出会う事が出来た様な、感極まった震えを滲ませていた

 

『仰贍!!』 『懈怠無く!!』 『無縁!!』 『無二無三なり!!』

『苦諦である!!』 『集諦である!!』 『滅諦である!!』 『道諦である!!』

『しかし!!』 『しかし!!』 『しかし!!』 『しかし!!』

『呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵ッ!!!』

 

シリンダーの中で楽しげに、感極まった様子で笑う子鬼達を、鹿島も警戒しつつ見詰めた。

小鬼達の声を聞いていると、動揺させられる。悪寒がする。小鬼達の声に宿る万感に圧倒されている。

 

『六境!!』 『六識!!』 『六塵!!』 『深々なり!!』

『劫濁!!』 『見濁!!』 『命濁!!』 『深々なり!!』

『多少曠劫!!』 『無始曠劫!!』 『曠日弥久!!』 『生死長夜なり!!』

『我等に道は無し!!』 『我等に正覚は無し!!』

『我等に光華は無し!!』 『我等に寂滅は無し!!』

 

 子鬼達は身体を震わせて、シリンダー越しに彼へと叫ぶ。口々に叫んでいる。

鹿島は自分の体が震えて来るのを感じた。研究員達も、唇を震わせて、愕然としていた。

彼だけは、静かな面差しのままで、“人の手”である左手を、シリンダーに添えている。

その人の手に縋るように、子鬼達は群がり、笑う。

 

いや、違う。泣いている。助けを求めている。

小鬼達は。恐れている。喚いている。呻吟している。嗚咽している。怯えて、震えている。

 

『歴劫先に!!』 『救い無し!!』 『塵劫先に!!』 『瑞光は無し!!』

『此処に在らず!!』 『其処に在らず!!』 『何処にも在らず!!』 『無明なり!!』

『どうか!!』 『どうか!!』 『どうか!!』 『どうか!!』

『大慈を!!』 『大悲を!!』 『抜苦を!!』 『与楽を!!』

『沈みたくは無し!!』 『枯れたくは無し!!』

『朽ちたくは無し!!』 『あぁ!! 死にたくは無し!!』

『父よ!!』 『愛を!!』 『父よ!!』 『愛を!!』

 

研究員達の間で軽いどよめきが起こった。何かを口走りそうになった鹿島も、咄嗟に言葉を飲み込む。

いきなりだった。シリンダーの中の子鬼達が、墨色の揺らぎに包まれて燃え出したのだ。

『卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦卦呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵ッ!!!』

薄緑の液体の中で、炎に焼かれている。子鬼達が絶叫する。彼の仕業かと思ったが、どうやら違う。今まで落ち着き払っていた彼も、驚いたような貌をしていた。

彼はすぐに何事かを唱えつつ、シリンダーの中で燃え盛る子鬼達を救おうとしたのだろう。しかし、彼が纏う墨色の揺らぎは、子鬼達を焼く黒い炎を拭えない。

そのうちに、焼かれていた子鬼達の身体が、崩れ始める。ボロボロと崩壊していく。彼は尚、小鬼達を救うべく何かを唱えている。治癒・修復に掛かる施術式だろう。

シリンダーを墨色の術陣が覆うものの、子鬼達の肉体の崩壊は止まらない。何らかの外的な力が、彼の持つ力を凌駕しているのか。仮にシリンダーを開けても、彼の手に負えないのであれば、手の施し様が無い。

もはや手遅れだ。神秘の領域に飲まれ、鹿島も、研究員達も誰も動けない。そして彼でさえも、無念そうに唇を噛んだままでシリンダーに左手を添えて、無残に焼かれていく子鬼達を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「提督さん、濃いめのコーヒーが入りました。此方に置いておきますね」

 

 施設から鎮守府に戻ると、もう夕刻だった。

残った執務を片付けた鹿島は微笑みながら、上品な仕種で彼の執務机の端にコーヒーカップを置いた。

大きな作戦も終わり暫く経ち、今の鎮守府にはピリピリ、バタバタとした雰囲気は無い。

静か、という訳では無いものの、何処か穏やかな空気で満ちている。

換気の為に、半分程あけていた窓から風が吹いてくる。緩くも、少し肌寒い風だった。

窓に歩み寄った鹿島は、晴れて澄んだ空を見上げつつ、そっと窓を閉める。

 

「あぁ、どうもすみません。

 ……いただきます。 鹿島さんも休憩して下さいね」

 

 書類を重ねて持ち、トントンと揃えている彼の執務も片付いた様だ。今日の業務を手早く終わらせたのも、今日の夕食が野獣達との鍋会だからだろう。

ただ彼の表情は笑顔であるものの、静かな面持ちのままだ。鍋会を楽しみにしているという風では無い。胸中では、別の何かを考えている。そんな笑顔だった。

秘書艦である鹿島も鍋会には呼ばれているのだが、どうも気分が上を向いてこない。笑みを返してくれる彼に、「はい」と緩い頷きを返しつつ、鹿島も自分のコーヒーを淹れる。

コーヒーカップとソーサーを手に秘書艦用の執務机に戻る。そして、自分の机に広げてある書類を片付けてから、コーヒーカップに静かに口を付ける。と見せ掛けて、鹿島は俯き加減のままで、チラリと彼の様子を窺った。

彼はミルクも砂糖も入れない。カップを持つ所作にも何処か品が在り、子供が大人ぶっいるような印象は全然受けない。普段の落ち着き払った態度の所為かもしれない。

彼は白髪で、右眼を覆う黒い眼帯をしている。右手には、黒い手袋。その眼帯も手袋も、拘束具めいていて仰々しく、窮屈そうだ。禍々しくさえある。

しかしそんなマイナスな雰囲気も、彼の優しげな表情と調和しており、得も言えぬ魅力というか、独特の色気を演出している。少なくとも、鹿島はそう感じていた。

普段から柔和な彼の表情を知っている。だから先程の施設で見せた、彼の険しい表情が強く印象に残っている。鹿島はソーサーと共にコーヒーカップを持ち、一口啜る。

「あの子鬼達は、どうして自害したんでしょうか?」沈黙が続く中で、鹿島は聞いた。彼はコーヒーカップを執務机に置きながら、思案するように視線を下げた。

 

「恐らくですが……、あの子鬼達は、“解体・破棄”されたのだと思います」

 

「か、解体……ですか?」

 

彼が俯くようにして頷いた。

 

「はい。人類が構築してきた破棄施術式と、良く似た現象でした。

ただ、子鬼達を構成していたであろう金属なども、根こそぎ消滅しています。

この点を見るに……あの現象は“海”による、より上位の術式効果だと考えられます」

 

「しかし、他所の施設での報告によれば、そのような現象は無かった筈です。

 “海”によるリモートの解体だなんて……」

 

「勿論、僕のこの考えは憶測の域を出ていませんし、理論的でもありません。

 しかし、あの子鬼達へと微光で触れた時、“ロック”が掛かっているのを感じたのです」

 

彼は自分の左手へとゆっくりと開きつつ、其処に視線を落とした。

その掌には墨色の微光が灯り、揺らいでいる。

 

「完全に主観での話ではありますが、今までに触れた事の無い感触でした……。

 子鬼達の魂に、人の手が決して触れえぬよう、“海”が警戒している様に思えます。

 ああした自滅のプログラムを、子鬼達に刷り込んでいるのかもしれません」

 

 鹿島は唾を飲み込んでから、コーヒーカップをソーサーと共に机へと置いた。

手が震えて来て、落としてしまいそうだったからだ。

 

「それはつまり……、

子鬼達の魂には、深海棲艦が生まれてくる鍵が隠されているという事でしょうか?」

 

鹿島も視線を落として右手で自分の顎に触れた。彼の言葉を整理する。頭の中で、事実と推測を線で繋いでいく。

「子鬼達の魂……その原形質に触れ得る、提督さんの干渉によって、子鬼達に刷り込まれた自滅プログラムが作動した……」と。

其処まで言って、鹿島は彼を見遣る。

 

「可能性は無いとは、言い切れません」

彼は静かに言いながら瞑目し、軽く息を吐き出した。

 

「あの子鬼達は人型の深海棲艦の中でも、

特殊な顕現・発生の下で生まれたのかもしれません。

“海”は、その神秘や神性を、僕達に暴かれたくは無いのでしょう」

 

“姫”や“鬼”にすら無い、≪何か≫。それが、あの子鬼達の中に在るのではないか。

そう仮説を立てているのだろう彼は、鹿島の方を見て少しだけ苦笑を浮かべた。

「或いは……、僕達がこんな風に考察し、何らかの仮説を立てる事自体が、“海”の罠かもしれませんね」

緩い溜息を吐き出した彼は、苦笑を浮かべたままで一口、コーヒーを啜る。鹿島は少し混乱した。

 

「えぇと、それはつまり……、

子鬼達が、“何か重要な事を隠している”フリをしている、という事でしょうか?」

 

「仰る通りです。

其処に謎が在るように見せ掛けて、僕達の関心を釣ろうとしている。

無駄な思考と警戒を強いる為の、精神的な罠なのかとも思うのですが……」

 

言いながら、彼は肩を竦めて見せる。

 

「解答の保障も無く、答え合わせもしようが無い領域の話です。

僕は見事に術中に嵌り、後手後手に回っている最中なのかもしれません」

 

 彼は左手で額を抑えて、考え込むようにして視線を落とす。何処か思い詰めている様子だ。

沈黙。その表情には、焦燥や不安さは無い。頭の中にある選択肢を、冷静に取捨している。

鹿島にはそんな風に見えた。何を考えているのかを聞いても、多分彼は答えてはくれない。

緩く微笑みながら「いえ、何でもありません」と答えるのだろう。

それは拒絶では無く、彼の気遣いや優しさに類するものだという事も理解出来る。

彼が、艦娘達に伝えるべきでは無いと判断した事柄については勿論、理由だってある筈だ。

だから、此方から根掘り歯掘り訊くのも憚られる。

必要である事ならば、また彼の方から教えてくれることだろう。

 

 実際。彼は、自身の来歴については、鹿島を召還してすぐに教えてくれた。

艦娘達の破棄処理に従事したことや、異種移植を受けたことも。具に語ってくれた。

己の過去を鹿島に曝した彼は、それからすぐに鹿島にロックを掛けてくれた。

嫌悪や悪意を鹿島が抱いていても、それを尊重し、受け入れるつもりだからだろう。

最初の頃は確かに、彼への悪い印象や感情が無かったと言えば嘘になる。

ただ彼の下に居て人格を育んだ艦娘達の多くが、彼を仰慕しているのがよく分かった。

そして彼もまた、果敢に戦う艦娘達を敬愛し、家族のように大切にしている。

此処は、暖かい場所だった。鹿島もまた、大切にしてくれる彼に惹かれるのに、そう時間は掛からなかった。

彼の悲劇的な過去も、全ては因果であり、巡り合わせなのだと思うようになった。

艦娘である自分は、己のすべき事を成し、彼の指示に従っていれば良い。

差し出がましい事は、すべきでは無い。頭の冷静な部分では理解しているつもりだ。

しかし。秘書艦として彼の傍に居ると、こういう時に距離を感じる。

 

 いや。もどかしいと言った方が正しいかもしれない。

もっと頼ってくれても良いのにと思う。力になりたい、支えたいと思う。

彼の初期艦である不知火や、激戦期を戦い抜いた艦娘達に比べれば、鹿島は新参だ。

だからこそ余計だ。彼の役に立ちたいと、その献身を急いてしまう。

彼のコーヒーカップが空になっている事には気付いて居た。少し重たい沈黙が続いている。

 

「……コーヒーのお代り、お淹れしましょうか?」

 

鹿島はその沈黙を払うように、敢えて明るい口調で聞いた。彼が顔を上げて鹿島を見る。彼の表情は、何だかすまなさそうな笑顔だった。

「えぇ、お願いします」と鹿島に答えた彼の声音も、幾分か明るいものになっている。彼は気持ちを切り替えるように一つ息を吐き出した。

その様子を微笑みと共に眺めて席を立ち、鹿島はまたコーヒーを淹れる。「提督さんは、平和になったら何がしたいですか?」出来るだけ、明るい話題を探したつもりだった。

別にどう答えても構わない。気負う必要も無い。他愛の無い質問だ。正解も不正解も無い。漠然としていて、輪郭の無い未来への質問だ。だから彼も、思わず口が滑ったのだろう。

「以前、北上さんにも似た事を聞かれました。……色々と考えてはみたんですが、特にこれと行って思いつきませんでした」申し訳なさそうに苦笑した彼は、其処で一度、寂しげに眼を伏せた。

「強いて言うなら……、両親がどうなったのかを調べてみたいですね」と。彼は、遠くを眺め遣るような眼つきで、小さく零していた。

だが、すぐにまたハッとした貌になって俯き、バツが悪そうに微笑んでから「……会えると良いのですが」と、まるで他人事みたいに言葉を付け足した。

 

「鹿島さんは、如何ですか? 何かしたい事が在りますか」

 

少し慌てたように鹿島へと質問を返す彼の様子からは、余り深くつっこまれたくは無い話題なのだと察する事が出来た。

だから、鹿島は明るい調子で答える。「私は、色んな海への遠洋航海ですね。行きたいところ、たくさん在るんです」コーヒーを淹れ終え、鹿島は笑みとともに言う。

彼が口を滑らせてしまったのも、それだけ鹿島に心を開いてくれているという証拠だろうと、プラスに捉える。距離は感じる事はあっても、近付いている事は確かだと思う。

 

献身を急くことは無い。平和の為、艦娘として自分に出来る事をこなし、たまにこうして、彼の傍で支えになることが出来れば良い。

でも、もしかしたら。こんな事は口に出して言えないが。平和なんて来ないかもしれない。子鬼達も叫んでいた。『我等に救いは無い』と。

それでも尚。鹿島は鹿島でしかない。ただ、それだけだ。鹿島はコーヒーカップをソーサーに載せて持ち、執務机の彼へと歩み寄って、どうぞと手渡す。

「遠洋航海ですか……。良いですね」と。彼は鹿島からソーサーを受けとりながら、また柔らかく笑った。「僕もご一緒させて貰って良いですか?」

彼は冗談めかして言ったに違い無い。しかし、その表情は何処か物憂げで、すごい艶が在った。儚い微笑みと共に向けられる、深い信頼を感じさせる。

鹿島を大きく動揺させるには十分に過ぎた。「えっ!?」と驚いた声を上げた鹿島は、その弾みで、彼に手渡す寸前のソーサーを揺らしてしまった。カップがバランスを崩す。

幸いカップは落ちなかったものの、熱いコーヒーが彼の太腿に掛かってしまう。黒い提督服の右腿部分に、湯気と黒ずんだ滲みが広がる。

 

「あぁっ! も、申し訳ありません!!」

 

「い、いえ、鹿島さんこそ、大丈夫ですか?」

 

 鹿島は大慌てでスカートからハンカチを取り出し、彼の太腿を拭く。

ただ、彼は全く熱がる素振りを見せず、寧ろ、鹿島が火傷をしていないかを心配していた。

一方、鹿島の方はめちゃくちゃ焦っていた。零したコーヒーの量だって少なく無い。

火傷をさせてしまったに違い無い。ああ。ああ。どうしよう。どうしよう……。

実際、鹿島がハンカチ越しに触れる提督服の腿部分は、かなりの熱気を持っている。

熱い筈なのに、鹿島を気遣ってくれているのだろうか。そんな風に考えて、余計に焦る。

「提督さん、し、失礼致します!!」鹿島は彼の腕をとって椅子から立たせて、提督服の下穿きを脱がすべく、ベルトに手を掛けた。

 

「あ、あのっ! 特に熱くは無いので、だ、大丈夫ですから!」

 

流石に彼も焦ったようで、腰を引いて逃げようとした。

しかし、もっと焦っていた鹿島は止まらない。

 

「このまま熱いコーヒーを染み込ませては、提督さんの脚に火傷が……!!」

 

凄まじいまでの手際の良さで、鹿島は彼のベルトを解いて、下穿きを膝上当たりまでスルスルっと降ろしてしまった。

彼の白い右脚は、コーヒーで濡れてテラテラと光っていた。肌も赤くなっている。やっぱり、熱くない訳が無い。

 

「あのっ! ヒリヒリしたり、痛んだりする場所はありませんかっ?

 すぐに氷と薬を貰って参りますので……っ!」

 

「いえっ、痛みはありません。僕は感覚が鈍いので……」

 

 彼の前で屈み込む姿勢で、鹿島は大慌てで彼の脚から水気を拭きとり、彼を見上げた。彼は、気恥ずかしそうに視線を逸らしている。

ただ、鹿島が彼の言葉を真に受けることが出来ないのも事実だ。きっと、また気を遣ってくれているのだろうと思った。しかし、彼の白い脚へと視線を戻し見て、はっとする。

火傷の赤みが、みるみる内に引いていくのだ。いくら何でも、治癒速度が早過ぎる。彼が、黒い手袋をした右手で自分の右脚に触れて、少しだけ笑った。

 

「……この躯に気遣いは無用です。痛みや傷を残しませんし、熱くもありません」

 

鹿島は、彼の右手を覆う拘束具めいた手袋と、その言葉に一瞬言葉を失う。

 

「ほ、本当に大丈夫なので、お気になさらないで下さいね。

心配してくださって、有り難う御座います」

 

 彼はなんだか寂しそうに笑い、鹿島に少し頭を下げて見せた。

その表情に、どんな想いを乗せているのかは、推し量ることは出来ない。

鹿島は下唇を軽く噛んで俯く。彼の視線を、今は受け止められそうに無かった。

右手で持つハンカチをぎゅっと握る。左手で胸の前あたりを押さえる。

上手く言葉が出て来ない。でも、何か言わないといけないと思った。

ぐっと顔を上げる。彼は少しだけ恥ずかしそうに、左手の人差し指で頬を掻いていた。

彼は、鹿島から視線を逸らしていた。

 

「その、もう……、下穿きを上げさせて貰いますね?」

 

「えっ……、はぅぁっ……!!」

 

 今まで必死というか、本当に焦りまくっていたから気にならなかった。

何と言うか、冷静な鹿島は何処かに行ってしまった状態だった。

だが、今は違う。冷静な鹿島が戻って来て、目の前には彼のパンツが在った。

イタリアンデザインの黒いボクサーパンツだった。機能的なシルエットだ。

いや。そんなのは良い。問題は。その前面の膨らみだ。何て事だろう。堂々たる象さんが其処に佇んでいる。

実物自体は見た事が無いものの、鹿島だって男性の象さんがどんなものか位は知っている。

だが彼のは、ぱっと見で大きい。いや。 もちろん、生じゃないけども。。

ボクサーパンツ越しだけど。シルエットしか見えないけども。分かるものは分かるのだ。パオーン(幻聴)

数秒。鹿島は真っ赤になったままで、「はぇ^~……(興味津々)」と、その象さんを至近で注視観察してしまった。

執務室に夕陽が差し込んでいる。その橙の光の中に。遥かサバンナに吹き渡る、熱く乾いた風を感じた。重症だ。

「あ、ぁの……、その……」と、遠慮がちに言う彼の言葉に、鹿島はハッと我にかえる。

いけない。視線が吸い付いてしまう。目を逸らすべきだ。失礼な視線を向けてはならない。

秘書艦として! 秘書艦として!! 「ぃ、いえ……、も、申し訳ありませんでした……!」

強く念じて、目を逸らす。物凄い意思の力が必要だった。力み過ぎて首筋が痛い。

彼に敬礼をしつつ立ち上がろうとした。だがその前に、鹿島は自分の唇に違和感を覚えた。

何だろうと手で触れてみると、赤い。血だ。えぇ……、これ鼻血……!?

 

「鹿島さん、あの……血が……!!」

 

 驚いた彼は、下穿きを脱がされたままの姿なのだが、すぐに動いてくれた。

彼は席から立っているので、すぐ近くに執務机の引き出しが在る。

彼は整頓された引き出しの一つから、ポケットティッシュを取り出した。

そして数枚を抜き取って、「あの、どうぞ。使ってください」と、手渡してくれた。

いや、鹿島だってティッシュくらい持っている。でも、余りの羞恥に動けなかったのだ。

パンツ越しの象さんを見詰めて鼻血を出したなんて、もう何と言うか……あーぁ、もぉ……。

なにこれ恥ずかしい……。涙が出ちゃいそう……。嫌われちゃったらどうしよう……。

泣きそうだ。すぐに立ち上がるべきなのだが、何だか足に力が入らない。脱力してしまう。

 

「せっかくコーヒーを淹れて頂いたのに、零してしまってすみません……。

 今度は、僕が淹れ直しますね」

 

 彼は、やはり鹿島を気遣うように言ってくれる。もう何度目になるか分からない「も、申し訳ありません……」と共に、彼からティッシュを受け取り、血を拭こうとした時だった。

ノックも無しにドバァン!!と執務室の扉が開かれた。「Hey! テイトクゥーー!!」と、底抜けに明るい笑顔で現れたのは金剛だった。

手には何やら色んな野菜の入ったスーパーの袋がある。食堂で間宮に分けて貰ったのだろう。そういえば、今日は鍋会をやるらしい話は聞いていたが、まさか此処でするのか。

いや、鍋会の開催場所とかはどうでも良い。そんな事よりも重大なのは、今の彼と鹿島の状況だ。客観的に見て、どう見えるのかなんて考えるまでも無い。

彼は下穿きを降ろして、ボクサーパンツを曝している。その前に屈みこんだ鹿島が、口許の辺りをティッシュで拭いているのだ。誤解されても仕方無いというか、アウトだ。

「そろそろ執務も、Finishな感じデスカぁaaaAAAAAAAAAAAAAAAAN!!??」案の定。金剛が明るい笑顔が一瞬で凍りついて崩れ去り、狼狽しきった貌になった。

「What the ……!!?」と、この世の終わりを目の当たりにしたような金剛に、鹿島は「いやっ、あのっ、これはっ……!!」と言いつつ、焦りに焦って彼の下穿きを上げる。

 

ご、誤解ですッ!! 違うんです金剛さん!! そう鹿島が弁明するよりも先に彼が、「はい、もう終わりましたよ」と、金剛に微笑んで見せた。

いや。多分。彼は、“執務が終わった”という事を言いたかったに違い無い。だが、この状況では……。ナニが終わったんだという話になってしまう。残念なことだ。

金剛は彼と鹿島を見比べ、泣き出す寸前の怯えたような貌になってから、「あわわわわ……」みたいに、身体を震わせ始めた。鹿島も「はわわわわ……」みたいになった。

そんな金剛と鹿島の様子には気づかず、彼はコーヒーが零れてしまったカップを一瞥して、何かを思い付いたように微笑んだ。「今から淹れ直そうと思っていたんです」強烈なミスリードだった。

 

「えぇっ!!!? いっ、挿れっ……!!??!!? 」

金剛がとんでも無い衝撃を受けたような貌になって叫んだ。

鹿島も噴き出す。この流れは駄目だ。目的語が……、目的語無いと。

「金剛さんも如何ですか?」と。身なりを整えた彼は、穏やかな声で問う。

 

「ぉ、……お願いシマス(小声)」

 

 ぽしょぽしょと言いながら、真っ赤になった金剛は静々と頭を下げた。

かと思えば、手にしたスーパーの袋をその場に置いて、執務室の扉も開けっぱなしで足早に彼に歩み寄って来た。

出撃するときよりも険しい表情に見えるのは、鹿島の気のせいではないと思う。

何と言うか、歩み寄って来る姿に変な迫力があって、鹿島は気圧される。

彼の前で立ち止まった金剛は、神妙な面持ちで彼に頷いてから、ゆっくりと唇を舐めた。

明らかに変なスイッチが入っている。ヤバイと思った鹿島は、金剛を宥めるように言う。

 

「いやっ、あのですねっ! 

これはその……! 違うんです! その“挿れる”じゃないんです!!」

 

「No probremデス、teacher鹿島 ……。

 分かってマス。これは、そう……テイトクにとって大切なtraining!!

 One more set!! Follow me!!(意味不明)」

 

 必死な様子の鹿島に対して、金剛は真っ赤な真剣な表情で頷いて見せた。駄目だ。プロブレムしか無い。このままでは不味い。馬鹿な流れで悲劇が起きてしまう。

「えぇと……」彼の方は怪訝な表情を浮かべて、鹿島と金剛を見比べている。金剛は流れるような動作で、彼の前にしゃがみ込んだ。やる気マンマンだ。

というか、もう鼻血が出ている。「あぁ! あの、金剛さん、これを……!」彼がまた、手に持っていたポケットティッシュの何枚かを、目の前に屈んだ金剛に手渡した。

 

「だ、大丈夫デス! これはそう、心の汗デス!!」

勇ましく言いつつも、屈んだままの金剛は彼からティッシュを受け取り、鼻血を拭いた。

急展開に鹿島が追いつけない間に、悲劇が連鎖しだしたのはその時だ。

執務室の扉は開けっぱなしである。

 

「Fooooo↑!! 廊下がサムゥイ!! 

 鍋で暖まりますよ~今日は~^、oh^~? (ウキウキ気分)」 

 

其処に、野獣が現れたのだ。長門と陸奥も一緒である。

三人共、其々に食材を詰めたスーパーの袋を大量に持っていた。店でも始めるのかと思うほどの量だ。だが、問題は其処では無い。

彼の前に屈みこんだ金剛が、口の辺りをティッシュで拭いているという状況だ。

鹿島の時と同じく、そんな光景が何を連想させるのかなんて考えるまでもない。

二秒程の沈黙と共に、再び世界が静止した。しかし、すぐに動き出す。

 

「はぉっ!!!??」 

状況を理解、というか誤解をした長門が、顔を真っ赤にして身体を跳ねさせた。

 

「ぁぁ^~~……すわわぁ^~~……(虚脱)」

心の拠り所を破壊され、打ちのめされた様な貌になった陸奥が、力無くその場に崩れ落ちた。

 

「ぉファッッッ!!!??(思わぬ衝撃)」

缶ビールを呷りながら野獣まで現れ、驚愕の声を漏らしている。

ちょっと待ってぇ、もぉー……。

 

 

 

 

 その後。何とか彼の状況説明もあって、何とか場は落ち着きを取り戻した。

錯乱して暴走気味だった金剛も冷静に戻り、半泣きのまま「sorry ……」と、真っ赤になって鹿島と彼へと頭を下げてくれた。

まぁ、大事にならなくてよかった。

 

「焦るから勘弁してくれよな~、頼むよ~(苦笑)」

 

 空気を読んで笑い話として済ませてくれる野獣の背後で、長門と陸奥の二人の方は、何だかホッとした様な貌をしていた。

鹿島はもう、何だかどっと疲れてしまって、鍋会なんて気分では全然無かった。というか、本当に此処でやるつもりなのだろうか。

恐る恐る聞いてみると、流石に彼の執務室ではしないという事だった。じゃあ、何処でやるのかと聞くと、野獣の執務室で行うのだと言う。

やっぱり執務室で鍋会をするのかと、鹿島は軽く困惑した。だが、もう考えるのが面倒くさくなってきて、「あっ、そ、そうだったんですね」と返しておいた。

何でも野獣や金剛達は、間宮や鳳翔から食材を分けてもらい、野獣の執務室へと向う途中で、彼と鹿島の仕事の具合を見る為に、足を運んだという事らしい。

もう仕事が終わっていれば、一緒に連れ立って行こうという話だったようだ。彼も鹿島も業務を終えていたので、執務机を整理し、皆と共に野獣の執務室に向うことにした。

ただ、彼は少し寄るところがあるので、先に向っていて欲しいと告げて、執務室から廊下に出たところで分かれた。執務室から出ると、廊下は思ったより肌寒かった。

 

 確かに暖かいものが食べたくなる。鹿島は野獣達の後について行く。先頭を行く野獣は楽しげであり、長門や陸奥と何やら言い合いながら歩いている。

一方で、鹿島の隣を歩く金剛は、ずーーーん……という音が聞こえて来そうな程の凹みっぷりだった。暴走気味だった自分を顧み、猛省の最中にあるのだろう金剛は、俯きがちに此方を見た。

自嘲気味に唇の端を持ち上げた金剛の表情に、鹿島も取りあえずといった感じで引き攣った笑顔を返した。視線を逸らそうと思ったが、出来なかった。

 

「Teacher鹿島 ……」

 

凹んだ様子の金剛が声を掛けて来たからだ。

 

「は、はい、何でしょう?」

 

「ワタシ、ちょっと……無作法、さん……、でしたヨネ?」

 

そりゃあ、まぁ……、とは言えない。鹿島はぎこち無い笑みを返すに留まる。

 

「ちょっと襲い掛かるくらいだったら、大丈夫だって、へーきへーき! 気にすんなッテ!」

 

なんと答えるべきかと悩んでいると、先頭を歩いていた野獣が此方を振り返った。

 

「この前の『大本営ゲーム』の時とか、もっと凄かったしなぁ。

 YMTとNGTなんかさぁ、アイツの乳首弄って喜んでたんだぜ? 相当変態だな(事実確認)」

 

野獣が笑いながら言う。その傍に居た陸奥が、凄く険しい顔になって長門を凝視した。

「おいっ! 陸奥達には秘密にする約束だろうが!!」長門が荷物を取り落としそうになっていた。

金剛も真顔になって顔を上げた。鹿島だって無言で長門を見詰めてしまう。

全員から視線を向けらている事に気付いた長門は、わざとらしく一つ咳払いをして見せた。

 

「あ、アレはな? ゲームの、その、……なんだ、ルールに従ったまでだ。

 大和と私が、彼にハグするという命令が本営から、こう、発令されたからな?

 だから仕方無くだな? 私としても、命令には逆らえんしな?

それでこう……、彼と同意の上で、ハグをした訳だな、うん。アレはな」

 

「いや、ハグでしょ? 何で彼の乳首が出てくるの?」

 

 視線を泳がせながら、まとまりの無い説明をする長門に、陸奥が責めるような視線で見る。鹿島や金剛だって、似たような視線を向けた時だ。野獣が携帯端末を取り出す。

長門がギクッとした貌になった。「ぉ、おい、野獣まさか……」、「それでは、御覧下さい(情報提供者先輩)」野獣は携帯端末をポチポチと操作して、鹿島たちに見せてくれた。

何かを言いかけた長門の声を遮り、ディスプレイには動画が再生された。場所は鳳翔の店の様だ。賑やかで楽しそうな声が聞こえ、盛り上がっている雰囲気が伝わって来る。

画面の中央には彼が無防備な姿で、優しげな微笑を湛えている。あぁ、なる程。これから、誰かとハグをするのか。其処まで思った時だ。大和と長門が、ずずいっと彼に詰め寄った。

「えぇ、その、じっとしていて下されば、すぐに終わります」 「そ、そうだな! 別に痛くしないから、安心してくれ!」 トチ狂った事を言い出す二人の行動は疾かった。

鼻面を彼の胸へと突っ込む勢いで、抱きつきに掛かったのだ。「あ、あのっ……! はぅっ! 

大和さん、駄目です……! あぁっ! 長門さん、そ、其処はっ……!」

甘い悲鳴を漏らす彼を前に。大和は舌なめずり、長門は艶のある笑みを浮かべて、彼の上着へと手を差し込み、容赦無く蹂躙している。

「はぁ……はぁ……、さくらんぼ(意味深)は何処ぉ? 此処ですかぁ^~?」 「おぉほほぉ~~^^こっちにも衝撃が来たあぁ^~~(意味不明)」

二人の声はいい感じに蕩けていた。凄い色気だ。その淫気に当てられてしまい、鹿島も身体の奥が熱を持って来た。変な気分になってしまいそうだ。

「うぁっ……! はっ、ぅぅ……!」と、画面の中の彼が艶かしく呻いたところで、一旦動画を停止した。肌寒い廊下を、不穏な静寂が包む。気付けば、全員歩くのを止めていた。

 

 

 

 

 

「(;゚ロ゚)……」

余りに刺激的な映像だったので、鹿島は暫く呆然としてしまう。

 

「( ‘ᾥ’ ) ……」

陸奥は凄いムッとした貌で長門を見詰めている。何か言いたそうだ。

 

「(;⓪益⓪) ……」

金剛は身体をぶるぶると震わせているものの動かない。

 

長門の方は野獣を睨もうとしたものの、流石に旗色が悪いと判断したのか。

『あっれー、おかしいなー?』みたいな、すっとぼけるのに失敗したような真面目な顔で陸奥に向き直った。

 

「その、アレだな……。不可抗力というか、まぁ何だ。

 ハグをしようとしたら、ちょっと事故ったみたいな感じだったかな?」

 

「へぇ…… ( ‘ᾥ’ ) 見た感じ、もの凄いノリノリじゃなかった?」

 

もの凄いムッとした貌のままで、陸奥は長門に聞く。

あんな機嫌の悪い陸奥を初めて見た。

 

「見てるだけで凄い楽しそうなんデスけどーー!

 (;⓪益⓪) 何でワタシ達も呼んでくれなかったんデスカぁァ〜~!!?」

 

金剛は野獣の方を見て抗議の声を上げている。

野獣は肩を竦めてから、長門へと視線を向けた。

 

「そりゃあ、人数が増え過ぎたら収拾がつかなくなっちゃうからね。

 しょうがなかったんだよなぁ……(加減上手)。 なぁ、ゴリもん?」

 

「誰がゴリもんだっ!! 

『ながもん』ならまだ分かるが、もう原型が無いだろうが!!(憤怒)」

 

吼える長門にひらひらと手を振って相手にしない野獣は、携帯端末を海パンにしまった。

ついでに金剛や陸奥、それから鹿島を順番に見て軽く笑う。

 

「何だったら今日の鍋回の後にでも、もっかいやれば良いじゃん? アゼルバイジャン?」

 

 その野獣の提案に、鹿島はドキリとしてしまう。「えっ!?」「Really!?」金剛と陸奥の表情もパァァと華やいで、長門もキラキラし始めた。

明らかに金剛と陸奥の反応を楽しんでいる野獣は、廊下に誰も居ないことを確認しつつ、わざとらしく難しい貌を作って見せて、考える振りをした。

 

「まぁでも、どうすっかなー。明日も忙しそうだしなぁ……。

 ……駄目だやっぱ! 今日は飯食うだけにするか!(意地悪先輩)」

 

「えぇっ!!? そんなぁ……!! 

 ぉ、お願いします!! 私にも愛のパワーを下さい!!(真剣)」

 

おおいに焦った様子の陸奥が、パンパン詰めのスーパーの袋を一杯持ったままで、深く深く頭を下げて見せた。

すごい必死さだった。それに倣い、同じくスーパーの袋を幾つも持ったままの金剛も、ガバッと頭を下げる。

 

「ワタシ達にも、SexyでFunnyでHなゲームをさせて下サイ!!(豪速球)」

 

「おう、考えてやるよ。(やるとは言ってない)

 KSMはどうだよ? まぁ、KSMは真面目だもんな? やりたくないよな?」

 

 思わぬ野獣からの言葉に、鹿島はギクッとしてしまう。もし鹿島が野獣の言葉に同意してしまえば、『大本営ゲーム』なるものは中止になるだろう。

全員の縋るような視線が鹿島に集まった。鹿島は俯いて、両手の人差し指どうしをツンツンと合わせながら、上手い言葉を探すもののなかなか見つからない。

いや。もう飾ることは無いだろう。長門も陸奥も金剛も、何と言うか本音でやり取りをしているというか、上品ぶっていない。素直に言えば良い。

鹿島は一度唇を舐めて湿らせて、野獣に向き直った。姿勢を正して、真っ直ぐに見据える。

 

「私は、その……召ばれて日も浅い身です。

此処に居る皆さんの事、て、提督さんの事も、もっとよく知りたいと思います。

ですから、わ、私も参加させて下さい……!」

 

この鎮守府に在り、提督である彼や、仲間達に貢献したい。鹿島の本音だ。

傍に居た金剛が、鹿島と肩を組んできて、唇の端をニッと持ち上げて見せた。

「よくぞ言ってくれまシタ! それでこそ、彼の召んだ艦娘デス!!」

嬉しそうに言う金剛は、サムズアップをしてくれた。鹿島も、自然と明るい笑顔を返す。

「しょうがねぇなぁ~(悟空)」野獣も楽しそうに笑ってから、廊下を歩きだした。

 

「そんじゃあ、もうちょいメンツ集めますか~?(幹事先輩)

 この辺にぃ、陽炎型の駆逐艦が二人、ドイツ艦娘が一人、来てるらしいっすよ?

 じゃけん、そいつらも呼びましょうね~」

 

野獣は言いながら、再び携帯端末を取り出して、何処かへと連絡を取り始めた。

その野獣のあとに続いて、鹿島達も歩き出す。

 

「ふふ……、彼とまたハグが出来ると思うと、胸が熱くなるな!」

にやけた長門が、うぅふへへ……、と遠くを見ている。

普段の凛々しさからは想像も出来ないような、何と言うか残念な感じだった。

 

「鍋の前に、先にシャワー浴びて来ようかしら……」

訳の分からない事を呟き、そわそわした様子の陸奥の思考も、だいぶ先走り気味だ。

 

 ただ、此処に居る皆が悪いひとで無いことは、鹿島も良く知っている。

彼を良く支え、また彼に支えられている。彼は、鎮守府に居る皆を、家族と呼んでいる。

そりゃあ、彼を強く想う艦娘だって居るのだから、多少は騒がしくなる日だって在るだろう。

此処は、暖かい場所だと思う。家族。その言葉が頭に浮かんでから、今日の施設での一軒が脳裏を過った。

『父よ!!』『父祖よ!!』と彼を呼ぶ、子鬼達の甲高い声が耳に甦る。

両親に会えれば良いのですがと。他人事みたいに言う彼の横顔がチラついた。

悪寒の様なものが背筋を走る。彼の顔が見たくなり、心細くなった。

だが生憎と、彼は此処には居ない。鹿島は意味も無く、廊下を振り返る。誰も居ない。

どうしまシタ~? 笑顔で聞いてくる金剛に何でもありませんと、笑顔で答えた。今日は、寒い日だ。

 

















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短編 番外編2

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

ぬわぁぁぁん!!

やっとプレゼント配り終わったもぉぉぉぉん!!

 

 

≪曙@ayanami8.●●●●●≫

ちょっとぉ!! 

何か部屋に小便小僧が一杯居るんだけど!! 

コレあんたの仕業なワケ!!?

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

ハッピー☆クリスなす!! ぼのたん♪

 

 

≪ぼのたん@ayanami8.●●●●●≫

だから、ぼのたんって言うなっつってんでしょ!!?

 

 

≪ぼの☆たん@ayanami8.●●●●●≫

ちょっとォ!! 管理者権限で私のID弄るの止めて!! 

 

 

≪♪ぼの☆たん♪@ayanami8.●●●●●≫

おいやめろ

 

 

≪Lovely☆Engel@ayanami8.●●●●●≫

ごめんなさいゆるして

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

プレゼント、気に入って貰えたみたいで嬉しいなぁ

 

 

≪曙@ayanami8.●●●●●≫

気に入ってない。っていうかクソ邪魔なんだけど

あとで工廠に返しにいくから。どうせこれも鉄鋼細工なんでしょ?

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

悲しい哉……

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

この巨大ゴリラの人形を私の部屋に設置したのは、やはり貴様か

(写真アドレス.xxxxxxxxxxxxx.xxxxxxx)

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

えっ、俺が置いたのは1/1のNGTの人形だけど?

サンタコスで可愛いだろ? 

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

あとで覚えておけよ

 

 

≪球磨@kuma1.●●●●●≫

球磨の部屋には、サンタコスの熊のヌイグルミがあったクマ!

もこもこで大きくて、これは可愛いクマ! 野獣提督、ありがとうクマ!

 

 

≪夕立@siratuyu4. ●●●●●≫

夕立の部屋には、ジェイソンさんが一杯居たっぽい!(*・ω・*)

これ、訓練用って言うか、ぶら下げてサンドバックに使って良いっぽい? 

 

 

≪龍驤@ryuuzyou1. ●●●●●≫

うちの部屋にも何か在るんやけど……。

何やねんコレ → (写真アドレス.xxxxxxxxxxxxx.xxxxxxx) 

箱? 靴下に入ってるみたいやけど、爆弾ちゃうやろな

 

 

≪大鳳@taihou1. ●●●●●≫

私の自室にも同じような箱があるんですけど

これなんですが……→ (写真アドレス.xxxxxxxxxxxxx.xxxxxxx)

怖くて近づけません(;;) 見た感じ、和菓子の包装箱みたいにも見えるんですけど

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

あぁ、RJとTIHUの部屋のそれな! 普通にお菓子だから。俺の試作品。

“鎮守府銘菓”『龍驤パイ』と『大鳳パイ』だから、食べてみて、どうぞ

通販も予定してるから、あとで感想くれよなー頼むよー

 

 

≪龍驤@ryuuzyou1. ●●●●●≫

ちょっと待って

開けてみたけど、パイじゃないやん

薄焼き煎餅なんやけど、不具合やないのコレ

 

 

≪大鳳@taihou1. ●●●●●≫

私のは、薄焼きのクッキーですね……

いや、凄く美味しいんですけど、その何て言いますか

ネーミングに悪意が感じられるんですがそれは

 

 

≪高雄@takao1. ●●●●●≫

横からすみません

私の部屋に置かれていたインスタント麺は、これも通販するんですか

パッケージに水着の私が印刷されてるんですが

『大盛り(意味深)ムチムチ高雄ラーメン』とかいう糞ネームですけど

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな

 

 

≪高雄@takao1. ●●●●●≫

馬鹿めと言って差し上げますわ!

前も言いましたが、そもそも私は太ってなどいません!

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

なぁTKOァ? 夜中、腹減らないブー?(´・(00)・`)

あの時間は、無性にラーメンが食べたくなるデブねー?

 

 

≪高雄@takao1. ●●●●●≫

ぶっころs…

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

そんな途中送信しちゃうくらい怒ることじゃないんだよなぁ。

血気が盛んなお前の妹のなんて大人しいモンじゃん?

なぁ、MYァ? 俺がプレゼントした“世界の子猫図鑑”に夢中だよなぁ?

 

 

≪摩耶@takao3. ●●●●●≫

うっせぇなぁ! 絡んで来んな!!

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

何だ、やっぱり嬉しそうじゃねぇかよ

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

おい野獣!! ゴリラの人形が歌って踊って暴れ出したぞ!!

何とかしろ!!

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

おっ、やべぇ! OOYDに電話させて貰うね!

 

 

≪球磨@kuma1.●●●●●≫

ヴォォオオーー!!

熊のヌイグルミがいきなり走りだして、何処かに行っちゃったクマ!

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

おっ、やべぇ! OOYDに電話させて貰うね!

 

 

≪夕立@siratuyu4. ●●●●●≫

こっちのジェイソンさん達も、いきなり動きだしたーー!

皆揃って、どっかへ行っちゃったっぽいーー!

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

おっ、やべぇ! OOYDに電話させて貰うね!

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

いや、本当にコールしてこなくて良いですから!

止めて下さい! さっきからもうっ!!

私はこの鎮守府のコールセンターじゃありません! 今日は私も非番なんですよ! 

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

ちょっと待って下さい

あの 今ですね 部屋の扉が凄い勢いでガチャガチャドンドンされてるんですけお

これってアレですか もしかして ジェイソンさん達が来てる感じですかね

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

覗き窓から見てみろよホラホラ

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

怖くて近寄れません

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

しょうがねぇなぁ。じゃあこっちで部屋のロックだけ遠隔で外してあげるよ?

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

やめてやめてーー!!

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

ジェイソン達の行動パターンが暴走しているんですかね?

大丈夫ですよ、大淀さん。今から修理に向いますので、待っていて下さい

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

@Butcher of Evermind ケッコンしてくれませんか

 

 

≪一般通過サンタ@Beast of Heartbeat≫

申し訳無いが、どさくさに紛れた大胆な告白はNG

とか言いつつ、馬鹿なこと遣ってる間に準備も終わったゾ

規模の大きい作戦も無事終わった事だし、今年のクリスマスは皆で盛り上がらねぇか?

 

 

 

 

 

 

 相変わらず、思い立ったが吉日みたいなノリの、唐突な野獣の呼びかけだった。

この後も、タイムラインは他の艦娘達の書き込みが続いたものの、「あぁ、良いですねぇ」と少年提督がすぐさまコレに賛同したことによって、この鎮守府ではクリスマスパーティーが開かれる事になった。野獣と彼の行動力には、舌を巻く。

会場には食堂が選ばれ、大量の料理の準備は野獣が行い、クリスマスツリーの用意や飾りつけに関しては、少年提督と少女提督が行っていたのは知っている。

まぁ、あの三人なら割と何でもこなしてしまえそうでもあるし、実際そうだった。会場となっている食堂に足を運んだ鈴谷は、「はぇ^~~……(驚嘆)」と零してしまったものだ。

 

 もともと広い空間である食堂は、現在、バイキングというかビュッフェスタイルというか、そんな感じのお洒落なレストランみたいな具合に模様が変わっていた。

ズラッと並べられた大テーブルの上には、彩りも鮮やかな美しい料理が大皿で幾つも並んでいる。どの種類の料理もかなりの量が在って山盛りだ。

フライドチキン、ローストビーフなどのオードブル各種に、ポテトやブロッコリーなどのサラダ、クリームシチュー、後はケーキなどのお菓子が用意されている。

野獣に話を聞いたところ「出来合いのものを取り寄せて並べた奴も結構あるし、まぁ多少はね?(時間節約)」と、軽く笑って居た。つまり、それ以外は野獣が作ったという事か。

少なくとも、此処で色々と食べている料理は全部美味しいし、その中の幾つかが野獣が作ったものであったとしても、売り物と遜色無い味である。分からない。

う~ん……。今度、料理教えて貰おうかな……。用意されたテーブルに腰かけた鈴谷は、赤ワインソースのローストビーフに舌鼓を打ちながら、食堂を見回してみる。

 

 雪を表している白いモコモコの綿飾り。花や枝葉で編まれたお洒落なリース。食堂の白壁に張られた、サンタやトナカイ、靴下や星、ベル、雪の結晶模様などの切り絵。

この場の雰囲気を演出する飾りつけは、到ってシンプルではあるが故に、無駄なものが無い。赤、白、緑色が鮮やかな装飾が眼を引くものの、雑多な印象は受けない。

精緻な飾り自体を製作したのは少年提督かもしれないが、この部屋を飾って演出したセンスは多分、今も自身の配下の艦娘達と談笑している少女提督のものだろう。

二人の協力が在ってこそ。少年提督の感性は何と言うか、結構ぶっ飛んでいる。悪い意味で斜め上を向いているので、こういう繊細な空間を作るのに向いていないように思える。

鈴谷はそんなちょっと失礼な事を考えつつ、自分の正面に座っている熊野をチラリと見遣った。上品に腰掛けている癖に、割とワイルドにローストチキンに齧り付いていた。

表情をキラキラさせながら幸せそうに頬張っている。かわいい。鈴谷も小さく笑って、周りの席にも視線を向けてみる。集まった艦娘達が、楽しげに談笑を弾けさせている。

サンタ服に似た、赤地に白が眼を引く衣装を纏った艦娘達が、このパーティーの主役だ。規模の大きい作戦も無事終えて、各々で奮戦、活躍した艦娘達を労う為なのであろう。

此処には居ない野獣達に感謝しつつ、鈴谷もローストビーフを口に運ぼうとした時だ。「Fooooo↑!! 風が冷たくてサムゥイ!!」 食堂に誰かが勢い良く入って来た。

 

 野獣だった。豊かな白髭を蓄えた、サンタの格好をしている。赤いサンタの上着を着込み、ゴツい長靴みたいなブーツを履いている。赤い帽子も被って、白い大袋を担いでいた。

本格的なサンタの格好なのだが、下履きを履いていなかった。黒いブーメラン海パンだけしか履いていない。強烈な出で立ちだった。艦娘が数人、飲んでいたものを噴き出す。

鈴谷も、危うく噎せ返るところだったが、何とか堪える。そんな野獣の後に食堂に入って来たのは、トナカイを模したモコモコの着ぐるみを来た少年提督だった。

照れ笑う彼の愛らしさを更に昇華させており、鈴谷も思わず眼を奪われる。前に座っていた熊野が「あぁ^~……、たまりませんわぁ^~……」と表情を蕩けさせていた。

一部の艦娘達も似た様な様子で、彼の姿をねっとりした視線で追っている。ちょっと怖い。ただ、彼自身はそんな視線には気付いていない。或いは、全く意識していないのか。

こうしたクリスマスの集まりの中で、艦娘達が其々に楽しい時間を過ごしている事を喜んでくれている様だ。それは、満足そうに周りを見渡している野獣も同じだろう。

 

「お前らも結構、楽しんでんじゃん?

 よぉし! じゃあ俺が更に盛り上げてやるか。しょうがねぇなぁ~(余計な真似)」

 

 野獣は言いながら、鈴谷と熊野の隣席へと歩み寄り、椅子を引いてドカッと腰を下ろした。

そして、テーブルの上に大袋を置いてから、その大袋から何かを取り出した。

あれは、何だろう。端末だ。テレビのリモコンみたいに見える。野獣は食堂の壁際へと視線を上げて、そのリモコンを食堂の天井辺りに向けた。野獣の視線を追いかけて、気付く。

天井にはスリットが入っていて、其処からスクリーンが降りて来た。ウィィィィーンという駆動音がしている。映画館みたいな立派な奴だった。

というか、食堂にこんなの在ったんだ。まぁ広さから考えれば、レクリエーション会場にも使えなくも無い場所だ。そういう設備があっても不自然では無い。

そんな風にも思うが、多分野獣が勝手に備え付けただけのような気もする。今から何か、余興でも始めるのだろうか。場の空気が変な感じになり始める。

気付けば食堂の真ん中あたりに青葉が居り、めちゃんこ高価そうなプロジェクターのセットも始めていた。そして、食堂の照明が少し落とされて、薄暗くなる。相変わらず問答無用だ。

食事をする程度なら出来るくらいの暗がりとなり、回りがザワザワし始める。熊野と顔を見合わせた鈴谷だって、不安になってきた。何が始まんのコレ……。

 

 胸中で呟いたと同時だったろうか。パッとスクリーンに映像が映し出された。其処にはデカデカと“プレゼント争奪☆平常心ゲーム”という文字が並んでいた。

暗がりの中で、ほぼ全員の艦娘達が「……は?」みたいな貌になっていた。鈴谷だってそうだ。「時間もそんな取らせないし、ルールも簡単だから! ヘーキヘーキ!!」

何時の間にかマイクを持っていた野獣が、スクリーンの前でルールの説明を始めた。マイペース過ぎるが、いつもの事だ。辟易するというより、もう慣れてしまって文句を言い出す艦娘も居ない。

毒されているというか、調教されているというか……。まぁ、プレゼントも用意してくれているみたいだし、説明くらいは真面目に聞いても良いだろう。

気分次第で、適当に流せそうでもあるし……。そんな風に考えながらルールを聞いて、鈴谷はグラスを傾けてシャンパンで喉を潤した。ルールは、本当に簡単だった。

平常心ゲームの名の通り、映像が流れている間は、“平常心”を保つことがルールだ。心を乱した回数が、もっとも少ない者が優勝である。逆にいえば、ミスの数回は許されている。

 

 心を落ち着かせ、冷静さと沈着を保ち続ける。いわば、忍耐力を競うゲームの様だった。

軍属の艦娘としては、確かにこうした精神的な強さは必要なものではある。

どんな状況でも落ち着いて、状況を確認し、最善を尽くさねばならない。

平常心とは、その軸である。それを、このゲームで試そうと言うのか。

ふーん……。別にハードって訳でも無さそうだし、楽なゲームじゃん。鈴谷はそう思った。

大間違いだった。完全に不意打ちだった

ウォーミングアップとして、“真顔でパラパラを踊り出す加賀”の映像が流れた。

どうやって撮ったのか。一体、どんな状況だったのか。色々と疑問は尽きない。

見た感じ鳳翔の店の様だし、多分、酔っ払っているんだろう。

キレッキレの動きで踊る加賀の姿は、何と言うか卑怯だ。

問答無用の勢いとシュールさが在った。

 

食堂に集まった艦娘達の多くが噴き出していた。肩を震わせている者も居る。

さっきまで座っていた筈の加賀が、隣に居た瑞鶴の胸倉を引っ掴んで立ち上がっていた。

 

「頭に来ました……(激昂)」

 

「ぅえぇっ!? あのっ、いやっ! わ、笑ってませんから!!

 加賀さんって歌も上手いし、踊りも上手だなぁっと思っただけで……!!(必死の抵抗)」

 

 胸倉を掴まれた瑞鶴が、眉間に皺を寄せまくっている加賀を宥めるように言う。

空母組は集まってテーブル席に座っていたのだろう。災難としか言いようが無い。

見れば、飛龍と蒼龍は唇をむにむにと動かして俯き、必死に笑いを堪えている。

翔鶴は口許を手で押さえて震えているし、葛城は舌を噛んで笑うのを我慢していた。

「KGは酔っ払うと面白いからね、しょうがないね(半笑い)」

野獣がリモコンを操作しつつ言う。

 

「とりあえずこんな感じで、

 青葉と俺が今年撮った映像とか写真をピックアップして順番に流していくからさ。

 お前らは平常心を保ちつつ、黙々と映像を見据えてくれてれば良いだけだから、安心!

 ただ反応が大きかったり、画面から眼を逸らしたりした奴には、罰を与えっからな(棒)」

 

 艦娘達のほぼ全員が、「えぇっ!!!?」と声を上げる。その後に続く艦娘達の反抗の声は、すぐに尻すぼみになった。スクリーンの映像が切り替わったのだ。

次に映し出されたのはプレゼント、つまりこの平常心ゲームの賞品である。最後まで残れば、少年提督との添い寝券だと言う。艦娘達は背筋を伸ばし、神妙な貌で居住まいを正す。

今もにこやかな少年提督は、誰に添い寝されようと微塵も動揺しないだろうし、その行為に特別な意味を見出そうとしない。添い寝は、それ以上でもそれ以下でも無い。

一方で、それなりにアルコールも入っている艦娘達も居る所為か。思ったより遥かにガチな空気になってしまった。悪ノリに近いのだが、皆が本気なのでタチが悪い。

ただ、途中で平常心を無くした艦娘には、罰として“「チャネル☆イキスギ」の刑”だという説明が続いた。えっ、何それは……?(恐怖) みたいな、どよめきが起きた。

名前だけでかなり恐ろしい刑名である。那智が震え上がっているし、足柄が深刻な貌をしていた。鈴谷だって、それが何か知っているから自然と表情が険しくなる。

以前。鳳翔の店で行われた合コンに参加した長門や大和達、それから、第二次合コンに参加していた陸奥や鹿島、それから金剛達も息を呑んでいる。

「単純なくすぐり攻撃のようなものなのですよ」と、艦娘達が不安そうにざわめく中、トナカイの着ぐるみを来た彼が説明してくれた。野獣も軽く笑った。

 

「実際にお前らに触ってセクハラする訳じゃないし、安心して、どうぞ。

まぁ、身体の感覚を114514倍に鋭敏化させてぇ、霊触的な感じで擽るみたいなー……(フェードアウト)

とりあえず、参加する奴はトイレには行っといた方が良いと思うんですけど……(優しい名推理)」

 

 野獣の説明で、集まった艦娘達もだいだい理解出来た様だ。難しい貌になった後に頷き合って、ぞろぞろと挙って食堂を後にし始めた。トイレに向ったのだろう。

その間に、鈴谷と時雨、それから赤城は、このゲームから辞退を申し出る。そして、空いた皿やらグラスやらの片付けに回った。テキパキと動いて、それらを片していく。

どうせ宴会が終われば、艦娘達を帰らせた後で野獣が片付けをするのだ。ならば、今のうちに出来る範囲だけでも片しておけば、野獣も多少は楽になる。

そうすれば宴会が終わったあとで、野獣との時間も作れるだろうという打算が在ったのは、鈴谷だけでなく、時雨や赤城も同じだったと思う。野獣が苦笑を浮かべていた。

この余興が終われば間違いなく食べつくされる量だったが、どれだけ盛り上がるか予想出来ない為、現在残っている料理も一旦、厨房の中へ引こうという流れになった。

場のセッティングはスムーズに進んでいく。艦娘達が戦士の貌でトイレから戻ってくる。片付けに回ってくれている鈴谷や時雨、赤城に礼を述べつつ、皆は席についていく。

取りあえず、チャレンジを辞退した鈴谷と、参加する熊野は席を違えることになる。熊野は同じく重巡である、足柄や那智達と同じテーブルに着き、お互いの健闘を祈るべく、ぐっと握手していた。凄い気合いの入りようだ。

 

 

 

 さぁ、準備が整った。過酷な余興になるだろう。スクリーンを睨みつける艦娘達の纏う雰囲気は、大規模作戦前のブリーフィングにも勝るとも劣らない緊迫感だ。

鈴谷と時雨、それから赤城は、互いに苦笑を漏らしつつも、食堂の隅の方にテーブルに移動して、皆を見守ることにした。少しだけ、食堂の暗がりが強まった。

青葉がプロジェクターを起動させて、スクリーンに映像が映し出される。デカデカと『NOW LODING』の文字が緩く点滅し、その隣で、真顔の加賀がパラパラを再び踊っていた。

手の込んだ編集だ。なんて攻撃的なロード画面だろう。もう既に数人が肩を震わせているのが分かった。そう。此処からは、大きな反応をしてはならない。

平常心だ。冷静さを保たねばならない。驚いてはいけない。笑ってはいけない。怖がってはならない。昂ぶってはならない。過酷な余興が始まろうとしていた。

 

 

 画面が切り替わる。スクリーンは撮影者の視点だ。野獣の視点だろうか。映し出されたのは、鎮守府の中庭だった。植え込みの緑が風に靡き、木々の枝葉が揺れていた。

青空の下。澄んだ葉擦れの音が響いている。その中に、可愛らしい鼻歌のような声が混じっている。いや。何か小さいものをあやすような、機嫌の良さそうな声だった。

撮影者は移動している。しかし、全く音を立てない。気配を消して、その声の方に近付いていく。なんて趣味の悪い。席に座る艦娘達も、何だか不味そうな貌だ。

そして、撮影者は声の主を見つけた。声の主は暖かな日溜り中、芝生にうつ伏せに寝転がっていた。上半身を起こして、足をパタパタと動かしている。パンツが見えた。

声の主は、『にゃー♪ にゃーん♪』と、機嫌の良さそうな声で、自作であろう棒状のオモチャを振っている。そのオモチャにじゃれついているのは、一匹の猫だった。

『にゃーん♪ にゃー♪ にゃにゃーん♪』ゴキゲンな様子の彼女は、非番であった曙だ。集まった艦娘達が、肩を震わせ唇を噛み、激しく貧乏揺すりをしながら笑いを堪えている。映像の中とは打って変わり、完全な無表情になった曙が野獣を睨んでいた。怒りを通り越したような表情だった。映像はまだ続く。また別の人物が現れた。少年提督だ。

猫と遊びながら声真似をしていた曙は、そちらに夢中ですぐには気付かなかった。彼が傍まで近付いて、「おはようございます。曙さん」と声を掛けられてようやく気付いた。

曙は『にゃほぁぉぉうっ!!?』と、素っ頓狂な声を上げて飛び上がって立ち上がった。スクリーンの中のその様子を見ていた潮と朧、それから漣が吹き出す。

デデドン!!という音が響いてすぐに、野獣が手にしたマイクでアナウンスする。「OBR、SZNM、USO、ついでにAKBN、アウトー!」

 

 

 テーブル席に座りリモコンを操作していた野獣が宣言する。それに応えて、今度はトナカイ姿の彼が何かを唱えた。すると、食堂の床に術陣が浮かび上がった。

流石に、これには他の艦娘達もどよめく。そんな中、朧と漣、潮と曙を囲うように、術紋の帯が形成された。蒼い微光によって編まれたそれは、艦娘達の肉体に干渉する。

感覚鋭敏化と、術陣からの霊触による軽い刺激だ。害は無い。それでも、効果は十分過ぎる程に強力だ。朧達は甘い悲鳴を甲高く上げて、椅子の上に崩れ落ちた。

苦しげに赤い顔を伏せて涙を堪え、ビクンビクンと身体を波打たせている。はぁはぁと息も荒い。カクカクと脚が震えている。多分、その様子を見た艦娘達も察した筈だ。

……これ、アカン奴や。だが、もう遅い。「次からは無意味に騒いだりするとアウトだゾ。 気をつけてくれよなー(念押し)」ざわめきかけた艦娘達に、野獣が軽く笑って言う。

やばい。コレ、とんでもなく過酷なゲームだ。辞退して正解だった。鈴谷はチラリと熊野の方を見遣る。

 

 神妙な貌の熊野は鈴谷の視線に気付いて、穏やかな表情で頷いて見せた。

強い意志の篭った、澄み渡った眼差しだった。そんなに彼と添い寝したいのかなぁ……。

たまに熊野が遠くに感じる時がある。とりあえず今は、引き攣った微笑みを返しておいた。

そうこうしているうちに、映像が再び流れ始める。また同じ場所だ。鎮守府の中庭。

芝生と植え込みの緑が、日溜りの中に映えている。隠し撮りみたいなアングルだった。

無音というか、風の音だけが聞こえる映像が数秒続く。すぐに誰かが現れた。

鼻歌を歌って、芝生の上を歩いて来る。摩耶だった。スキップしている。可愛い。

普段のキツイ言動からはちょっと想像出来ないような凄い笑顔だった。可愛い。

スクリーンを見ている摩耶の方は、唇をキツく噛んで俯いていた。可愛い。

いや、そうじゃない。今重要なのは、可愛いとかじゃない。

すでに少なくない数の艦娘が我慢できずに吹き出し、その声が悲鳴に変わる。

 

 

 撮影者は何も言わず、斜め後ろの方からカメラを回しているだけだ。

摩耶が中庭に登場すると、植え込みの中から小柄な白猫がひょっこり顔を覗かせる。

にゃー。小さく鳴いて、猫は摩耶の足元に擦り寄って、ゴロゴロと首を鳴らした。

曙と一緒に遊んでいた猫と同じ猫だった。人懐っこい感じが愛らしい。

映像の中の摩耶も、かなりテンションをあげている。さっきの曙に負けていない。

摩耶は芝生の上に胡坐を組んで、その脚の上に猫を乗っける形で抱き上げた。

にゃーん♪ にゃにゃにゃにゃ~~ん♪ にゃーーにゃーーーーぁあああん♪

凄いノリノリで猫の声真似を始めた摩耶は、猫を撫でくり撫でくり、ニコニコしている。

その姿には、普段のキツくて乱暴っぽい雰囲気は全然無い。優しい表情をしていた。

三分ほど、摩耶と猫の『にゃん♪ にゃん♪ にゃーん♪』という合唱が続く。

長い。長すぎる三分だった。集まった艦娘達も苦しそうだ。笑いを堪えている。

 

 

 その時だ。スクリーンの中で動きがあった。映像の中の摩耶が、カメラ目線になったのだ。

『こ、コラァァ!! おい、おまっ……!! せっ……、こ、コラァァァァアアッ!!』

摩耶は、撮られている事に気付いた。摩耶は猫を追い払うようにして脚から降ろす。

そして、猛然と撮影者に襲い掛かろうとした。しかし、撮影者は身軽だった。

ひょいっと摩耶の追撃をかわしつつも、ぐんぐん距離をとり、摩耶を撮影している。

真っ赤な顔になった摩耶が、半泣きで追いかけてくる。その途中で、摩耶が盛大にこけた。

すごい勢いで植え込みの茂みの中に突っ込んだ。

映像だけ見ていると、摩耶が突然消えたみたいなこけ方だった。

誰かが吹き出した。声からして多分、天龍と叢雲だ。

それに釣られて、周りにいた艦娘達も小さく吹き出す。

映像は続く。摩耶の姿が消えた後も、撮影者は容赦無くカメラを回している。

すると茂みの中から、「痛ってぇ~……(泣)」という、震え声だけが聞こえてきた。

それに応える様に、さっきまで居た白猫が戻って来て、「にゃー(=^・ω・^)」と鳴いた。

 

 また何人かが吹き出した。野獣は、それら全員を把握していた。

デデドン! 「TNRYU、MRKM、TKO、KRSM、MY、アウトー!」

野獣が宣言する。天龍、叢雲、高雄、霧島、摩耶の五人は抗議の声を上げる間も無かった。

すぐに少年提督が文言を唱えて術陣を編んで、五人の肉体に干渉する。

感覚の鋭敏化と、霊触的な擽り攻撃が執行される。五人分の甘い悲鳴が響いた。

 

 

 それでも、まだゲームは続く。映像が切り替わる。

再び表示される『NOW LODING』画面。そして、真顔で踊りまくる加賀。

今度は長い。明らかに長い。一分くらい経った。それでも、まだ画面が変わらない。

スクリーンの中では、真顔で加賀が踊っている。座っている加賀が、攻撃的な溜息を漏らす。

瑞鶴は歯を食い縛り、頻りに瞬きをして耐えている。翔鶴の体がぶるぶると震えている。

「ふすぅ……」と息を漏らす飛龍。「んふぅ……!」と吹き出した蒼龍。

デデドン!!「HRYU、SOURYU、アウトー!」野獣が宣言する。

少年提督が詠唱する寸前、二人が抗議の声を上げた。

 

「ちょっ、ちょっと待って下さい! このロード画面止めましょうよ!」真剣な貌で飛龍が挙手する。

「そうですよ!!(便乗) これは卑怯ですよ!」蒼龍も椅子から立ち上がった。同時に、彼の詠唱が完成した。

二人は悲鳴を上げつつ身体を波打たせて、椅子の上に崩れ落ちる。息を乱れさせる彼女達には構わず、映像が暗転。

 

 

 次に映し出されたのは、建物の内部。廊下だった。監視カメラの様に、上から見下ろすアングルだった。画面右下には『01:27』と、時間が表示されている。

どうやら、画面内の時間は深夜1時半頃らしい。画面も、暗視ゴーグルを除いたように蛍光っぽい緑色で表示されている。でも、あの場所は何処だろう。鎮守府の庁舎内では無い。

この内装からすると、多分寮だ。しばらく、映像内に動きは無かった。少ししてから、誰かが歩いて来る。寝惚け眼の彼女は、パジャマ姿の比叡だ。あぁ、なる程。

トイレに起きて来たのか。比叡は眼を擦り、欠伸をしながら画面の手前側へと消えていく。また少しして、水が流れる音が聞こえた。比叡が自室へと戻っていく。また少しの沈黙。

次にトイレを目指して現れたのは、長門だった。艦娘装束を纏い、艤装を召還している。しかも全然寝惚けてない。出撃するときと同じ貌をしていた。

そんな怖がって、フル装備でトイレに行かなくても……。だが、今度は笑いが起きる前に、悲鳴が聞こえた。クッソ気合を入れてトイレに向う長門の背後だ。何か居る。

黒い人影だ。長い髪が見える。女か。顔は見えない。長門にぴったりと寄り添っている。トイレへと向う長門について行く。水が流れる音が聞こえる。

長門が廊下を歩き、自室へと帰っていく。その背後には、もう黒い人影は居なかった。そう思った。油断した。次の瞬間、カメラに何かがへばり付いた。クッソ怖かった。

その何かは、この世の物とは思えない絶叫を上げる。スクリーンを見ていた艦娘達も、一斉に悲鳴を上げた。時雨がさっと手で顔を隠した。鈴谷だって。悲鳴と共に眼を覆う。赤城も、顔を引き攣らせている。

黒い靄が、歪んだ顔らしきものをスクリーン一杯に象った。そこで映像が再び暗転し、砂嵐画面に切り替わった。恐ろしいものを見せられて、全員が放心状態になった。

 

 

 デデドン!!「全員、アウトー(棒)」野獣が面白くなさそうに言う。

「当たり前だろうがっ!! こんなもの無反応で見れるか!!」

半泣きの長門が椅子を倒しながら、猛然と立ち上がった。相当怖かったようだ。

隣で野獣を睨む陸奥も、ちょっと涙目で青い顔をしている。

大和は白眼を剥いて、半分気絶していた。武蔵の方は割りと楽しんでいるようだ。

皆の反応を訝しげに眺めている。凄い肝っ玉の据わりっぷりだ。

無論。他の艦娘達は長門達と同じ様な反応であり、抗議の声が次々に上がる。

もう夜中にぉトイレ行けない……。あれって戦艦と空母の寮だよね……? 

うちらの寮もヤバくない? 怖いよぉ~……(´;ω;`)もうやだぁ……。アー漏レソ……。

泣きが入りかけた艦娘達を見た野獣は、やれやれ……と肩を竦めて見せた。

 

「しょうがねぇなぁ~……(悟空)

 じゃあ今回はノーカンって事にして、ホラ次いくど~!」

 

 テーブル席で足を組みかえ、缶ビールを傾ける野獣が、軽い調子で言いながらリモコンを操作する。スクリーンの映像が切り替わる。再び映し出される、『NOW LODING』の画面。

そして、真顔で踊りまくる加賀。格好がさっきと変わっていた。島風コスだ。また飛龍と蒼龍が吹き出した。

「もぉぉぉ~~……! もぉぉぉぉお~~~……!!」

『勘弁して下さい』みたいな感じで頭を抱えて、叫ぶ。

 

 二人は遣る瀬無いと言った風に大声で言ってあと、すぐに甘い悲鳴を上げてから、ガクガクと身体を震わせて椅子に崩れ落ちる。ただ、今度は鳳翔も笑いを堪え切れなかった。

鳳翔も術式対象となり、「ぅ、んぁッ……!!」切なげな艶声を上げた。頬を染めて身体を波打たせながら、とろんとした眼差しになって呼吸を乱している。

鈴谷も軽く吹き出したのだが、辞退しているのでセーフだった。隣に居る時雨も、震えたままで俯いている、前髪で表情は見えないものの顔を上げようとしない。

多分笑っているんだろう。此処から更に続いて、他の艦娘達がたて続けにアウトになる。上擦って蕩けた悲鳴が重なって響いてから、スクリーンの映像がまた切り替わった。

 

 

 

 次に映し出されたのは、少年提督の執務室だった。ただ、少年提督の姿は見えない。

カメラが移す画面が動く。次に映し出されたのは、ビスマルクの寝顔のどアップだった。

ソファに深く凭れて身を預け、すやすやと穏やかな寝息を立てている。

黙っていれば、ビスマルクは冷たい美貌を讃えた鉄血の麗人だ。

その寝顔もまた、美しく愛らしい。普通ならその筈だが、今は違う。

ビスマルクの顔には既に落書きがされてあった。色々と台無しである。

“ビス子”。“れでぃ”。“正”の字。“かわいい”。“やったぜ”。などの文字が書かれている。

この時点でグラーフとプリンツが吹き出して、施術効果が解決。二人が悲鳴を上げた。

リットリオやローマ、それから今度は加賀もアウトだった。悲鳴が続く。

レーベとマックス、呂500は辛うじて耐えている。ビスマルクは真顔である。

時間差で更に数人がアウトとなるが、映像はまだ続く。

 

 

 スクリーンの中のビスマルクが眼を覚まし、眠そうな眼を瞬かせた。此方を見ている。

ハッとした貌になって飛び上がり、涎が出ていないかを確認するみたいに口元を拭った。

そして、睨みつけるように此方を見据える。腕まで組んで、明らかに不機嫌そうな貌だ。

『人の寝顔を黙って撮るなんて、貴方も悪趣味ね』 険のある声でビスマルクが言う。

彼女の様な美人が怒ると怖いものだが、顔中に緊張感の無い落書きをされていては微妙だ。

 

『と言うか、どうして此処に居るの?』 ビスマルクが眼を細めて言う。

 

『鎮守府祭のパンフとCM用に色々と撮って回ってるんだよね。

 アイツに話が在って来たんだけど、居ないんだよなぁ……(現状確認)。

 と言うか、お前は何で此処で寝てるのか、説明してくれないかしら?』

 

『単純に仮眠を取らせて貰ってただけよ。

昨日も殆ど徹夜で衣装づくりだったから、彼が休ませてくれたの』

 

『あっ、そっかぁ(納得)。

 まぁ大会(祭)近いからね。しょうがないね』

 

『ふん……。疲れを取るタイミングで貴方に会うなんて、私もツイて無いわね。

 寝顔まで撮られるんて、不覚だわ』

 

『いやぁ、BSMRKは美人だからさぁ。凛々しい所だけじゃなくて、

こういう素顔が垣間見える瞬間って、何か素敵……、素敵じゃない?(適当)』

 

『ん……、ま、まぁ……。そう、かしらね……?』

 

ぷりぷり怒ってた癖に、ビスマルクはもう満更でも無い様子だ。

ふふんっ♪と口許に笑みを浮かべて見せている。チョロイなぁ……。

まぁ、其処が可愛いんだろうけどさぁ……。鈴谷も笑いを堪えつつ、唇を噛む。

 

『あっ、そうだ!(白々しい話題振り)

 せっかくだから、何かこう、決め台詞みたいなのお願いできる?

やっぱり、カッコいいBSMRKの画が欲しいのは、当たり前だよなぁ?(煽て)』

 

『まぁ、それくらいなら……別にいいわよ?(良い気分)』

 

『おっすお願いしまーす(笑)』

 

『じゃあ、いくわよ?(もうノリノリ)』

 

 チョロ過ぎるビスマルクは、野獣が撮影するカメラの前で、すっと背筋を伸ばした。

高身長でスタイルも良く、本職のモデルも裸足で逃げ出すレベルの美しい立ち姿である。

片手を腰にあて、もう片手でビシィッと此方に指を指すポーズを取って、ビスマルクは不敵に笑う。

 

 

『貴方の艦隊は少し規律が緩んでいるようね? 私が一から教えてあげるわ』

 

もう何と言うか、規律の緩みが文字通り顔に出てる状態で、ビスマルクは選りによってそんな台詞をチョイスして見せた。

顔に落書きされたままでのキメ顔とキメポーズ、そしてキメ台詞をキメたスクリーンの中のビスマルクは、たいそう御満悦な様子だった。

『おっ、そうだな!(全面同意)』と、画面の中の野獣も、笑いを堪えたような声でビスマルクに応えた。

 

 

 

 

 これに、食堂に居た艦娘達も釣られた。せっかく我慢していたレーベとマックスが堪えきれなくなった様に笑みを零れさせ、プリンツと呂500も駄目だった。同じ様に笑みを零す。

グラーフは素で笑い出して、それに周りの艦娘が更に釣られた。「ちょっと!! 貴女も笑い過ぎよ!!」隣に座っていたビスマルクが、グラーフに抗議した。

その時だ。「おい、BSMRK!」テーブル席に腰掛けていた野獣が、突然ビスマルクを呼んだ。「ぁあっ!? 何よぉっ!?(半泣き激怒)」ビスマルクが野獣に向き直る。

すると野獣は良い感じに微笑を浮かべてから、怒れるビスマルクに、すっとサムズアップして見せた。それを見たビスマルクも、軽く吹き出した。デデドン!!

ドイツ艦が全員と、その他も多数の艦娘が施術対象となった。蕩けた悲鳴が折り重なるその後も、映像は容赦無く続く。ただ、何と言うか内容は割とまともだった。

 

 

 今まで、鎮守府祭を始め、艦娘達が参加したイベントなどの映像が流れる。

“地域への貢献”という建前で銘打った、夏祭りへの奉仕活動の時の映像も流れた。

そういえばあの時も、ビスマルクや加賀が踊っていただろうか。金剛達も一緒だった筈だ。

彼女達の艶姿に、会場となった神社はおおいに沸いた。老若男女を問わず、受け入れた。

自分達のために、海で戦ってくれる艦娘達の姿を、薄々と知っているからだ。

深海棲艦という脅威にさらされた人類の為に、過酷な激戦期を戦い抜いてくれた。

そんな艦娘達の力を恐れている者も居る。しかし、深い感謝を向けてくれる人々も多い。

 

 それは、スクリーンに今映し出された鎮守府祭が、大盛況だった事でも窺える。

着ぐるみを来た大和や長門達が、着ぐるみを来て子供達と触れ合っている。

ディアンドル姿のビスマルク達が、客達にビールを振舞っている。

戦史や艦娘達の艤装展示のコーナーでは、陽炎が訪れた人々を丁寧に案内している。

大淀の『よどりん☆ジャンケン』で、会場が大いに盛り上がっている。

他の艦娘達も其々に仕事をこなし、この空間の提供に貢献し、支えて、盛り上げている。

一般の人々と艦娘達が、楽しげに笑顔を交し合う姿が在った。

 

 

 不意に。また画面が切り替わった。祭りの喧騒から、少しだけ離れた位置だ。

客として訪れていた人々が、カメラの前で並んで立っている。彼らの手には、紙とペン。

スケッチブックだ。参加客達が、何かを考えるように其々に視線を落としている。

『さぁさぁ! 鎮守府祭の記念に、艦娘達へのメッセージを発信してみませんかー!?』

カメラを構えている撮影者は、どうやら青葉の様だ。行き交う観客達に、手を振るのが分かった。

そういえば鎮守府祭の時、野獣は来賓の相手をしていた筈だ。

普段はカメラを持ちたがる野獣の代わりに、青葉が撮影班としても動いていたという事か。

何とも働き者な重巡だ。その明るく朗らかな青葉の声に、他の客達も笑顔で答える。

並んでいた人々だけで無く、それを遠巻きに見ていた他の客達も参加したいと言い出した。

『あっ、是非是非! お願いします!』明るい声で答えたのは、青葉の声だ。

青葉はカメラを傍にあった机か何かに置いたのだろう。スクリーンの画面が固定された。

その画面の向こうで、青葉がスケッチブックから紙を外して、更に配る。

青葉は大きめの鞄を肩から掛けており、その中から色マジックを何本か取り出した。

それも集まった客達配って、メッセージを作ってもらう。

青葉が振り撒く楽しそうな雰囲気に、他の客達も興味を持って集まってくる。

和気藹々として空気の中で、参加客達は其々にスケッチブックに文字を書き終えていく。

 

『ではでは皆さん! 順番に行きましょう! メッセージをどうぞーー!!』

青葉が再びカメラを構えて、客達に向けた。画面が、ゆっくりと横にスクロールしていく。

参加客達も、少々気恥ずかしそうではあったものの、皆一様に優しく微笑んでくれていた。

その手にあるスケッチブックには、色取り取りのメッセージが、大きく大きく、暖かな文字で書かれている。

 

“いつも有り難う”。“私達のために戦ってくれて、有り難う”。“感謝しています”。

“助けてくれて有り難う”。“私達の暮らしを守ってくれて有り難う”。

“甚謝の念に堪えません”。“ありがとうございます”。“お体に気を付けて”。

 

並んだ参加客達が、順番に青葉が構えるカメラに手を振ってくれている。

肉声でもメッセージを送ってくれている。

どれもこれも、飾り気の無い、自然なままの言葉だった。

スケッチブックを持つ人々の笑顔も、やはり温もりに満ちていた。

だから、こうして映像越しでも、真っ直ぐ届く。

言葉に込められた感謝の気持ちを感じる。食堂に居た艦娘達が全員、押し黙った。

 

 

 椅子に座ってスクリーンを見ていた鈴谷も、胸が締め付けられるような気分だった。それでいて、少しくすぐったい。喜びや嬉しさである事は知っている。

本当に自然に、笑みが零れた。可笑しくて笑ったのでは無い。こうして向けられた笑顔や感謝の念に、艦娘としての誇りを改めて強く感じた。嬉しかったのだ。思わず、身体にも力と熱が篭る。

食堂に集まった艦娘達も、そんな鈴谷と同じ様子だったようだ。デデドン!! という効果音が響いて、「全員、アウトーー!(誇らしげな声音)」野獣がマイクで言う。

今度は、少年提督も詠唱を紡がなかった。やはり優しげに微笑んで、食堂に集まった艦娘達を眺めている。スクリーン映像も消えた。誰かが立ち上がって拍手を始める。

嵐だ。「此処の鎮守府は凄ぇな……!」と。心から尊敬するように、野獣や少年、少女提督を熱い眼差しで見てから、今度は回りに居る艦娘達を見回した。

それに続いて立ち上がり拍手をしたのは、上品に微笑んでいる鹿島だ。さらに、萩風とグラーフが続く。4人は、鎮守祭のときには、まだ此処の鎮守府に配属されていなかった。

自分達が来る前の、同僚艦娘達の戦場以外での活躍を知り、それを心から讃えているのだ。この拍手は伝播する。周り者から周りの者へ。皆が其々に、戦友を讃える拍手だった。

ちょっと真面目な空気になりつつあったが、「おーし! はぃ注目ぅ!!(先制)」テーブル席から立ち上がった野獣が、マイクを構えて声を上げて、その雰囲気をぶち壊していく。

 

「取りあえず、お前らの平常心がガバガバって事はよく分かったから。

 このゲームも一旦終わり! 閉廷!! 賞品も無効だなぁ、こりゃあ……(分析)」

 

野獣がそこまで言うと、ニッと笑って見せた。

 

「じゃけん。代りに、みんなでケーキでも食いませんか? 食いましょうよ?

 AOBァ! プレゼントも用意してあるから、はいヨロシクゥ!!(合図)」

 

 野獣が言うと、食堂の照明が明るく戻る。同時に、「はいはーい!」と青葉が返事をする声が聞こえた。皆がスクリーンの映像を見ている間に用意していたのだろう。

集まった艦娘達が声のした方へと振り返ると、テーブルを寄せて連ねた上に、各種ケーキがバイキングの様に並べられており、他にも、プレゼント箱が無数に積まれていた。

プレゼントの箱は小振りなものの、高級感のある包装で綺麗にラッピングされている。そして、一つ一つに名札のようなものが付いていた。

 

 まずは、青葉がその名前を順に呼んで、プレゼント箱を配っていく。鈴谷も呼ばれ、プレゼント箱を受け取ってからケーキを選んで、自分の席に戻った。何だか不思議な感じだ。

野獣が場を引っ掻き回して、もっと無茶苦茶になるかと思っていた。だが、割と普通にクリスマスパーティーの体を為しているのが、何だか変な感じだ。ムズムズする。

取りあえず、全員の手にプレゼント箱が行き渡ったところで、「しれぇ! プレゼント、開けても良いですか!?」と、雪風が元気良く挙手した。

雪風に言われ、少女提督は野獣の方を一瞥した。野獣が頷いて見せる。少女提督も軽く笑ってから「ええ、良いわよ」と、雪風に向き直り、頷いた。

雪風がプレゼントの包装を剥がしに掛かったのを見て、他の艦娘達も包装を剥がし始める。鈴谷も、丁寧に包装を外していく。箱の中身を見て、思わず声を漏らした。

そっと手にとって目の前に持ち上げてみる。それはケースに収められた、物凄く精緻で精巧な、艦船である『鈴谷』の模型だった。ちょっと感動してしまった。

他の艦娘達からも歓声が上がっていた。涙ぐんでいる者も居る。それくらい素晴らしい出来だった。己の前身である艦船の姿を送られると、やはり感情が揺れてしまう。

「こ、コレ……、しれぇが造ってくれたんですか!?」 雪風が少女提督に聞いた。「取りあえず、皆の分はね」少女提督はまた軽く笑った。

 

 なる程。この艦船模型は、其々の提督が、自身が運用する艦娘達の分を造って用意してくれたという事か。しかし、隣に座っていた時雨は、プレゼントを貰っていない。

鈴谷の視線に気付いた時雨が、柔らかい笑みを浮かべた。「僕の模型は、もう前に造って貰った事があるから。今回は、僕達は野獣の手伝いに回ったんだ」

見れば、長門や陸奥もそうだ。あぁ、そう言えばと、思い出す。確か、長門や陸奥も、以前にも模型を用意されていた過去がある。あの二人も、模型製作の手伝いに回ってくれたということか。

 

「ありがとう、時雨……」鈴谷は、素直に時雨に礼を述べた。

 

「ううん。……僕じゃなくて、野獣に言ってあげて欲しいな」

 

 時雨もくすぐったそうに照れて、微笑んだ。可愛い。その笑顔にドキッとしてしまう。

ちょっと時雨の事が好きになってしまうそうになった。ヤバイヤバイ……。

軽く息を吐き出した鈴谷は、そっと視線を外し、反対となり座っている赤城を見遣った。

赤城は、自身の模型を見詰めて、微笑むような、泣き出す寸前の様な表情を浮かべている。

やっぱり、赤城も嬉しいんだろう。無論、鈴谷だって嬉しい。手元の模型を見詰める。

生命鍛冶、金属儀礼を駆使した金属細工であるこの模型には、間違いなく、魂が込められている。

いわば、野獣の気持ちが詰まっている。

そんな風に思ったのは、鈴谷だけでは無かった。少女提督の麾下にある艦娘達も、喜んでいる様子だ。

少年提督の麾下にある艦娘達は、狂喜乱舞している。

 

 

 その後。皆でケーキを食べるときになって、少年提督が席を立った。何でも、深海棲艦達の研究施設に用があるらしい。恐らくだが、深海棲艦達に会いに行くのだろう。

これも、深海棲艦達を手元に保持している彼の仕事だ。秘書艦として、愛宕と龍田が彼の傍に控え、共に食堂を後にした。

それを見送り、野獣が鈴谷達のテーブルへと腰掛けに来る。海パンに赤いサンタ外套を纏ったままだ。「ケーキは美味いかぁ、お前らぁ!?」白い髭を揺らして笑っている。

 

「うん……。美味しいよ。そういえばこのケーキも、野獣が作ってくれたんだよね?」

 

時雨は、上品な仕種でショートケーキを切りつつフォークに刺して、野獣の方へと視線を向けた。

 

「えっ、それマジ?」 

 

鈴谷も野獣の方を見る。野獣は肩を竦めて見せた。

 

「そうだよ(肯定)。って言いたいところだけど、

MMYとかIRKとかHUSYOUの手伝いみたいなモンだから!

流石の俺も、菓子作りのレパートリーは無ぇなぁ(ドチンピラ)」

 

喉を低く鳴らすみたいにして、野獣は笑う。

同じテーブル席に居も赤城が静かに微笑んで、すっと頭を下げた。

 

「お料理を用意して頂いた上に、

 素敵なプレゼントまで下さって、本当に有り難う御座います……」

 

「……ありがと。大事にするよ」

 

 凛とした声で言う赤城に、鈴谷も続いて礼を述べる。野獣はヒラヒラと手を振るだけだ。

何も言わず、また缶ビールを呷る。野獣は椅子に凭れながら、食堂を見回した。

見守るような、それでいて、賑やかな艦娘達の様子を見て、眩しそうに眼を細めている。

サンタ外套に海パンという戯けた格好が、何処か憂いを帯びたその眼差しとミスマッチだった。

こういう時、本心を表に出さない野獣は、何を考えているんだろう。鈴谷には分からない。

無言だった野獣は、気持ちを切り替えるように小さく溜息を吐き出した。

そして時雨達の方へと向き直ってから、やれやれ……みたいに笑った。

 

「好き放題盛り上がってくれちゃってさぁ。

 誰が片付けすると思ってるんだか……。たまらねぇぜ(父性の喜び)」

 

そうは言うものの、野獣は全然迷惑そうじゃない。むしろ嬉しそうだった。

 

「片付けなら、私達がさせて貰います」 赤城も、微笑んで言う。「僕も手伝うよ」 時雨も頷いた。

「鈴谷も~~」と。鈴谷は手を挙げてから、コホンと咳払いをして視線を彷徨わせた。

 

「そのー、それでさ……、片付けとか終わった後さ、野獣、時間空いてるかな……?

 鈴谷もさ、プレゼントって言うか、その……、渡したいものあるんだけど……」

 

「片付けの後? そうですねぇ……(申し訳無さそうな貌)

 今日の夜は、頼んでたスケベDVDが届くから、ゆっくり見る予定が在るんだよね?」

 

「えぇっ!!? いやっ、そんなのまた別の日に見れば良いじゃん!!

 せっかくのクリスマスなんだしさぁ!! もっと、その……思い出って言うのかなぁ?

 そういうのをさぁ、もっとさぁ……、こう、共有しようってならない!?」

 

「いや、今日はスケベDVDを見る予定だから……(頑な)」

 

「うわぁ……(´;д; ) あの、何かごめん……。

 あまりにも予想外な断られ方で、ちょっと上手くレスポンス出来ないんだけど……」

 

 そりゃあさぁ……。ケッコンカッコカリは、カッコカリなんだろうけどさぁ……。

自意識過剰って言われたらそれまでだけどさぁ……。何か堂々と浮気されてるみたいじゃん……。

一緒に過ごそうという誘いが、スケベDVDの名の下に一蹴されるとは思わなかった。

鈴谷は本気で落ち込みそうになった。アー泣キソ……。鈴谷がしょんぼりした時だった。

「うそだよ(いつもの)」 野獣が笑った。時雨と赤城も、可笑しそうに小さく笑っている。

多分、二人は、野獣がいつもの様に適当な事を言っていることを見抜いていたのだろう。

何だか、野獣の言葉を素直に信じてしまう自分が、ちょっとだけ恨めしかった。

 

 

 















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短編 番外編3

 時雨が肉体を得たのは、かつての激戦の初期だった。とにかく、野獣と言う男は、何を考えているのか分からない、捉えどころの無い男であった。

初めて出会った時から、野獣は野獣だった。変わった口調や周りを振り回すというか、誰にも彼にも服従しない様な、無茶苦茶な男だった。それは今も変わっていない。

粗暴で礼儀知らずな野蛮人め。野心家で、陰謀家で、気難しくて、偏屈で気侭な、どうしようもない奴だ。周りに居た他の“提督”達は、影では口々にそう言っていた。

野獣は否定しなかった。言わせておけと。相手にしなかった。その代わりに、己が召還した艦娘達を“兵器”ではなく、“仲間”として遇した。その最初の一人が、時雨だった。

 

 野獣が軍属になる前は、まだ学徒の身であったという。暮らしていた港町が深海棲艦達の襲撃に遭い、家族と故郷を失ったという話は、本人から聞いた事がある。

生存者として保護された野獣は、艦娘を召還できる“提督”への高い適正を見出され、本営から徴兵されることになり、軍部に招き入れられたそうだ。

“提督”を養成する施設や機関にて、艦娘達に干渉する施術式などを学んだのだと言う。ただそれは、何処にでも在るような、たいして珍しくも無い、良くある話だった。

似た様な来歴を持つ“提督”達は少なく無い。愛する者達や大切な故郷を奪われた者達の中には、絶望よりも先に、深海棲艦への報復を願う者は多かった。

悲哀という癒えない傷が、憎悪や憤怒の情へと変わる時。その剥き出しの激情は、人を衝き動かすだけでなく、同じ境遇の者へと伝播する。戦争は激しさを増して行った。

 

 野獣という男は、そうした人々の心情を知りつつも、何処か醒めたような眼で世間を見ていた。深海棲艦達への憎しみをぶつけるのでは無く、もっと別の何かを見ていた。

最初から、他の者達とは違う世界を見据えていた。違う何かを求めていた。只管に、何かを探していた。“提督”という立場は、野獣にとって都合の良い道具だった。

少なくとも、時雨にはそんな風に見えていた。飄々とした態度や言動で、重要な役職への誘いも蹴飛ばしてきた野獣は、淡々と、着実に任務をこなすだけだった。

新たに召んだ艦娘達の自我を破壊する事も無く、資源量や戦力を整え、出来ることをただ一つずつ潰して行った。野獣という男は、何処までも清廉潔白だった。

大きな戦果を挙げるようになっても、誰かと望んで交流を持つような事も無かった。上層部には二人ほど、かなり繋がりの強い友人が居るようだが、時雨も詳しくは知らない。

その無頼な振る舞いが災いして、敵も作りまくっていたのは間違い無いとは思う。それでも野獣は現場歴を積みながら、次々に作戦の成功を積み上げて行った。

 

 ただ、野獣の活躍や功績は大きかったものの、全体で見れば、本格的に人類は押され始めていた。劣勢の色が強く、海沿いの街などはしばしば深海棲艦の脅威に曝されていた。

こうした中で、“深海棲艦の上陸”という最悪の事態と脅威に備えるべく、本営は幾つかの計画を立て、準備を進めていた。その内の一つが、陸軍主導で進められた“強化兵”の用意である。

 

 有機の肉体をより強靭に構築する術式の理論化。艦娘と深海棲艦の双方の肉体の研究。この二つに着手したのは海軍が先だった。だが、これらを“人間へと応用”する試みは、海軍よりも陸軍の方が早かった。

陸軍側の焦りも在ったのも、こうした背景の一因であろう。海軍には、深海棲艦と渡り合う戦力として、“艦娘”が居た。しかし、陸軍には、そうした戦力が無かった。

海軍は秘密裏に行われていた実験データを提出し、それを元に、陸軍は人間への干渉を始めた。表向きは、陸軍での艦娘の召還準備という名目だった。

海軍と陸軍の摩擦や確執も、多少は在っただろう。だが、そんなものは瑣末な事だった。あの時の軍部には、禁忌は無かった。戦力を揃える手段の為には、全てが許されていた。

艦娘達へと干渉する施術効果を応用し、人間の肉体を強化する。そんな狂気染みた計画であっても罷り通っていた事は、追い詰められた人類の闇を象徴していたように思う。

 

 

 大きな危険の伴う肉体改造施術計画だったものの、高い施術適正を持っていた“提督”数人が、この計画の“検体”として候補に挙がる事になった。この中に、野獣も居た。

恐らくは、本営からの高評価に対する、周りからの妬みや僻みの類いからだろう。時雨は確信している。あの検体候補の選出は、厄介者を合法的に抹消する為であったに違い無い。

野獣は優秀であったが、職業提督として迎えられた来歴とその言動の所為で、敵も多かったのが災いした。同程度に優れた提督達から目を付けられたのだ。

その頃の野獣は、まだ戦艦などの艦娘を召還出来ておらず、戦果こそ高かったものの、戦力としての価値は他よりも劣っていた。

代りが居るならばということで候補に挙がったのだ。今だからこそ冷静に振り返る事も出来るが、あの頃の時雨は人間というものを見限っていた。失望していた。

自身が戦う理由を見失う寸前だった。しかし野獣は、艦娘達だけでは深海棲艦を止めるに足りなくなった時の為に、“強化兵”への改造手術を粛々と受け入れた。

 

 

 その時に、野獣への施術を担当したのが彼であり、これが出会いとなったそうだ。彼もまた、麾下の艦娘達を人質に取られた状態で、“強化兵”計画への加担を強いられていたらしい。

これも野獣から聞いた話だ。だが実際、野獣が施術を受けるために時雨達と離れていた時には、彼の初期艦である不知火達と、共同で輸送船の護衛にあたった事もある。

少年提督が各地の処理施設をたらい回しにされ、艦娘達を解体破棄して金属へ資材へと還し、その魂を飲み込んでいた時期と重なる。彼は艦娘達を解体するだけでなく、野獣の肉体を人間とは違うものへと変えたのだ。

野獣は彼の手で、人間では無くなった。しかし、野獣はそれを恨んでいる様な素振りは全く見せない。それに、結果的に“強化兵”としての施術のお陰で、野獣は大きな危機を何度か乗り越えている。

この鎮守府がレ級達に襲撃された時や、空母棲姫との一騎打ちなどでは無類の強さを見せた。強化された肉体の力を持ってして、窮地を脱したのは事実だ。ただ、激戦期の頃は陸で戦うような事態には遭遇しなかった。

と言うのも、戦力が整って来た時雨達の艦隊も奮戦し、そのうちに野獣が長門達を迎える事となり、人類の攻勢が始まったからだ。丁度同じ頃には少年提督は大和達を召還していた筈だ。

思えばあの頃から、今に至るまでの艦娘達の縁が続いている。奇跡的に、一人も欠ける事なく。過去に想いを馳せる不思議な気分のままで、時雨は大掛かりな施術椅子に横たわる、水泳パンツ一丁の男を見詰めている。

 

 

 

 此処は、鎮守府内に設けられた野獣用の処置室である。表向きは医務室だが、揃えられた精密機器類の種類も多く、一見すると雑多な研究室のような風情がある。

この施術室の中央にあるのは、歯医者にあるような、斜め向きに倒す事の出来る施術椅子だ。引き締まったその屈強な肉体を晒しているのは、野獣だ。穏やかな呼吸を続けている。

その野獣の身体には、全身を覆う回路図のような術陣が奔っている。浅黒い肌に、蒼い微光の力線を描いている。鼓動のように、緩い明滅を繰り返していた。

また、施術椅子を囲むように、大きな術陣が床にも浮かび上がっている。精巧で緻密に描かれた術陣からも蒼の微光が漏れ、室内を優しく染めている。

横たわる野獣のすぐ隣に佇むのは、両腕を広げた少年提督だ。広げられた彼の両の掌にも、蒼色の微光が渦を巻いていた。彼が纏う黒い提督服を、滲むように照らしている。

彼は朗々と文言を唱えて力線を編み、丁寧に結んで、野獣の肉体に刻む。儀礼術を通して、野獣の肉体が洗礼を受ける。空気がうねっている。吹いてくる。

活力と乱動、成長と復活の風だ。漲る力の流れだ。彼が呪文で呼び、野獣の肉体がそれに応える。ぬくみの在る風が、横たわる野獣の元に集うようにして渦を巻いた。

 

 この施術は、“強化兵”としての施術を受けた野獣への、いわば儀礼術によるメンテナンスである。身体機能の大幅な活性は、その肉体に大きな負荷が掛かるからだ。

そのため、定期的に彼が野獣の肉体の調律を行ってくれている。まぁ野獣本人でも、自分自身の肉体への調律は可能だが、彼にして貰った方が早く、効率が良いらしい。

野獣と少年提督が同じ鎮守府に配属されているのは、こういう理由も多少は関係がありそうだ。時雨がそんな事を考えていると、施術室に流れていた風が止んだ。

「Fooooo~!! 気持ちよくなっちゃいソース……、もう良いよ、ヤバイヤバイ(御満悦先輩)」儀礼施術が終わったのだろう。野獣が施術椅子から身体を起こした。

微光も術陣も消えており、施術室を照らしているのは、無機質な白い蛍光灯の光だけだ。施術椅子から降りて立ち上がった野獣に、彼は柔らかく微笑んでいる。

 

「……特に異常は見られませんでした。

 身体に変調を感じた時は、すぐに教えて下さい。

 アフターリスクが突然来ないとは、言い切れませんから」

 

「今までだって大丈夫だったルォ? 安心しろよ~(強気先輩)。

 万が一って時には、俺自身でも調律施術は出来るんだからさ!」

 

 野獣の口振りに、彼は少し困ったような笑みを浮かべた。野獣も少しだけ笑って、一つ欠伸を漏らした。今は早朝だ。まだ、艦娘達が起き出して来るよりも随分早い時間である。

昨日も遅くまで起きていた野獣は、まだ少し眠気が残っている様だった。もう一度欠伸をした野獣は眼を擦ってから、ぐぐぐっと伸びをしつつ首を回す。ゴキゴキと音がした。

 

「お前の方こそ、身体に妙な感じがしたらさぁ、すぐに言えよ?(イケボ)」

 

施術椅子の傍に畳んでいたTシャツを着ながら、野獣は欠伸混じりの声で言う。

「僕も大丈夫ですよ」彼も普段の調子で答えた。

 

「ほんとぉ?(疑いの眼差し)」

 

「えぇ、視力が上がったくらいです」

 

「その代わりに、感覚が鈍くなってる感じなんだ、じゃあ?」

 

 野獣の言葉を聞いて、時雨は思わず「えっ」と声を漏らして彼の方を見た。

時雨の視線に気付いた彼は少しだけ気不味そうに眼を伏せたが、すぐに苦笑を浮かべる。

「先輩には隠し事が出来ませんね……」と零した彼の言葉は、肯定に他ならない。

「そ、それは本当かい……?」時雨も、恐る恐ると言った感じで訊いた。

ゆったりと頷いた彼は、穏やかな表情のままだ。それが、途轍もなく恐ろしかった。

 

「……恐らく、この躯には必要の無いものなのでしょう。

 緩やかではありますが、痛覚などが大きく薄れて行っています。

 触覚も欠けていく事になるでしょうが、些細な事です。問題はありません」

 

ぬくみの在る彼の声音は、冷静過ぎてまるで他人事のように聞こえた。

 

「それも最近になってからだよなぁ?(慧眼)」

 

 野獣は首に手を当てて、またゴキゴキと鳴らした。

その表情は、怒っているという風でも無い。ただ、何とも不味そうな貌だった。

ボリボリと頭を乱暴に掻いた野獣は、彼の肩に手を置いた。

 

「お前が頑固なのは承知の上だけど、もうちょい弱音でも吐いたれ(アドヴァイス)」

 

「……はい。今度からは、そうします」

 

野獣へと応えた彼も、表情こそ穏やかであるものの、眉をハの字にしている。上手い言葉が見つからなかったのだろう。中途半端な返答だった。

それでも、野獣は一応満足したのか。ぐりぐりと彼の頭を乱暴に撫でてから、彼に背を向けて施術室の扉へと向う。慌てて、時雨もその背を追った。

 

「あっ、そうだ!(唐突) 今日は眠いから、朝のトレーニングは無しにすっか!(怠惰)」

 

 野獣は軽く笑い、顔を半分だけ振り返らせた。「はい……」と、彼も緩く頷いた。そんな短い遣り取りだけをして、野獣は施術室を後にした。時雨も彼に敬礼をして、野獣に続く。

施術室から出て、しばらく歩いた。周りに誰も居ない事を、時雨は確認する。ほんの少しだけ声を潜ませるようにして、前を行く野獣の背に声を掛ける。

「野獣は……、彼が何を考えているのか、だいたいは理解しているのかい?」朝焼けの光が差し込む廊下は寒い。澄んだ空気はよく冷えており、時雨の声はよく通った。

スニーカーを履いて前を歩く野獣の足音は、驚くほど静かだ。足音がしないどころか、重みすら感じないような歩き方だった。「まぁ、多少はね……(おぼろげな推察)」

時雨の方を振り返らないまま、野獣は歯切れの悪い答えを返した。時雨の方を振り返った野獣は冴えない貌だ。

 

「ただ、アイツの思考は読めても、その真意を理解するのは難しいんだよなぁ……」

 

 言いながら、野獣は溜息を吐き出そうとして止めたようだ。時雨は何となくだが、野獣が言っている事に納得してしまう。

こんな言い方が正しいかどうかは分からないが、目的の為ならば手段や過程に拘らないところが、彼には在る。

 

「艦娘達を残して、彼だけが一人去るような……また、前みたいにならないかな?」

 

「ならないっていう保証は無ぇなぁ(ドチンピラ)」

 

「止めなくてもいいのかい?」

 

「アイツは口で言っても聞かないからね。しょうがないね(諦観)」

 

「……野獣は、彼の事を信じてるんだね」

時雨は少しだけ足を速めて野獣に並んだ。時雨は野獣の横顔を見上げる。

 

「そうだよ(強い肯定)」

時雨の方へと視線だけを向けた野獣は、口元を緩めた。

 

「アイツが何かをやらかすにしたって、アイツなりの考えが在っての事だからね。

俺じゃ出来ない事も、アイツなら出来る。(確信)

まぁ小難しいことばっかり考え過ぎて、ちょっと馬鹿なトコが珠に瑕だよなぁ?」

 

 だから、無茶だけしないように見守ってやるのも、俺の仕事の……内や(男気)。そう言った野獣は、喉を低く鳴らして笑う。その笑顔には、普段の父性のようなものは無かった。

古くからつるんでいる悪友の欠点を、面白おかしそうに笑うみたいな、気負いの無い自然な笑顔だった。時雨達には余り見せたことの無い種類の笑顔だった。

時雨は、野獣に何か言おうとしたが、止めた。俯いて、歩く。ちょっと嫉妬してしまいそうだ。野獣と彼の友情や信頼関係は、時雨が思っているよりも、ずっと強い様子だった。

もしかしたら。これから彼が何か大きなアクションを起こしたとしても、それは全て野獣と彼の間で計画されたものだと考える方が、妥当なのかもしれない。

野獣は彼をよく見ている。彼もまた、野獣をよく知っている。互いに心配を掛けまいと、多少の隠し事が出来ても、すぐそれは看破される。先程のように。

そんな二人の関係を、少し羨ましく思う。負けたく無いと思った。時雨は唾を飲んで、唇を少しだけ舐めて湿らせた。勇気を出したつもりだ。少し汗が出てきた。

指輪を貰った時は、勢いに任せて抱きついたりしてしまった。だが、今は違う。何と言うか、冷静なままで大胆な行動をするのは難しい。心臓が早鐘を打つ。

時雨は、隣に居る野獣と、手を繋ごうとした。この時間だ。どうせ廊下には誰も居ない。誰も見ていない。時雨の左手が、野獣の大きな右手に触れる寸前だった。

 

 

 野獣は右手で、口元を押さえた。歩みを止めて、咳き込み始めたのだ。

苦しそうだった。野獣の身体は僅かにふらついた。よろよろと壁に凭れ掛かる。

「だ、大丈夫かい……ッ!?」時雨は慌てて野獣の身体を支えようとした。

その時にはもう、野獣は空いている左手で時雨の動きを制する。「へーきへーき」

口元を隠したままで言う野獣は、笑って見せようとしたようだが、失敗した。

壁に凭れ掛かったままで、また野獣がまた咳き込んだからだ。普通の咳じゃない。

口元を押さえた野獣の右手の指の隙間から、赤黒い血が溢れた。廊下の床にも雫が落ちる。

赤くて黒い、小さな血溜りの斑点がポタポタと出来る。

 

時雨は、自分の心臓が冷たくなるのを感じた。

制止しようとする野獣の手を振り払い、その身体を支える。

Tシャツ越しに触れた野獣の躯は、酷く冷たかった。

その癖、野獣の鼓動の音がやけに大きく聞こえる。強く脈を打っている。

 

「何処か平気なんだいッ!? こんなに身体が冷たいのに……!!」

 

 怒るみたいに野獣に言う時雨は、冷え切っている野獣の身体を支え、抱き締める。

壁に身を預ける野獣は苦しそうだったが、自身の事なんて全然心配してない様子だった。

寧ろ、『やっちまったなぁ……(痛恨のミス)』みたいな貌をして、眉を寄せている。

今の自分の姿を時雨に見せてしまったことを悔やんでいる様子だった。

 

「医務室へ行こう! いやっ、……もう一度、彼に診て貰おう!」

 

「大丈夫だって……、すぐに良くなるからさ」

 

「駄目だよ!! 信じないッ!!」

 

「嘘じゃないんだよなぁ……。ゲホッ! 

あぁ^~……それに、今はちょっと動けないんだよね」

 

 野獣の声音は、しっかりしている。意識もしっかりしている。

それでも安心出来ない。時雨は泣きそうになる。ぐっと堪えた。

右肩で壁に凭れかかったままで、右手で口元の血を拭った野獣は、軽く笑った。

「大丈夫だって、安心しろよ。稀に良く在るんだよね、こういうの(BRNT)」

そう言って、口の端についた血を拭った野獣の身体が、再びぐらついた。

それを時雨は支えた。時雨は祈るような気持ちで、野獣の身体を抱き締めている。

何に祈ればいいのか何て分からない。でも、祈らずには居られ無かった。

 

 医務室へと行こうと言う時雨の言葉を、野獣は頑なに拒んだ。

大丈夫だと。すぐに良くなるのだと言い張った。当然、時雨は納得しない。

酷くなるようなら、引き摺ってでも連れて行くつもりだった。

暫く、野獣と時雨は無言で身体を寄せ合う姿勢になった。

野獣は意地でも座らないつもりか。時雨には体重を掛けない。

時雨は、そんな野獣の背を擦る。泣きそうだった。叫び出しそうになる。

野獣の身体の温度が。抱き締める時雨の手や身体をすり抜けて、零れていく。

そんな錯覚を覚える。時雨は、自分の体や唇が震えて来るのを感じた。

 

 だが、すぐに野獣の身体が熱を帯び始めた。

今度は、抱き締めている時雨が熱さを感じる程だった。

壁に預けていた身体を起こし、野獣は一つ息を吐き出してから、時雨を見た。

困ったような貌で笑おうとしたようだが、バツがわるそうに視線を逸らす。

体のふらつきも無く、しっかりと立っている野獣に、時雨は身体から力が抜けそうになる。

ホッとしたら、不覚にも涙が出て来た。本当に怖かった。また強く野獣に身を寄せた。

 

 今度は、野獣がそんな時雨の背中を、血で汚れていない左手でさすってくれた。

野獣が細く長く息を吐いた。その吐息の音は、廊下の冷えた空気に溶ける。

差し込む朝日の光が、白さを増していた。陽が昇る。野獣は、窓から海を一瞥した。

寄せていた身体をそっと離して、時雨はぎゅっと唇を噛んだ。俯きながら、言葉を探す。

時雨の両手は、まだ野獣のTシャツを強く握っている。その手が震える。

 

「……野獣も、僕達に身体の事を秘密にしていたんだね?」

時雨は、擦れそうな声で訊いた。

 

「まぁ、そうなるな……(苦い貌)」野獣は、肩を竦めるようにして言う。

時雨は洟を啜って、ぐっと野獣を見上げるようにして睨んだ。

 

「どうしてッ!!」声を荒げそうになるのをグッと堪えて、俯く。

一つ息を吐く。時雨が気持ちを静めるまで、野獣は待ってくれていた。

弁解も言い訳もしない。ただ、じっと時雨を見詰めていた。

言いたい事は一杯ある。でも、そんなのを全部ぶちまけて、何の意味があるだろう。

頭の中に、冷静な部分が帰って来る。時雨は、そっと顔を上げる。

 

「どうして、……隠していたんだい? 心配を掛けたくないから?」

 

「まぁ、……そう、なるな(済まなさそうな貌)」

 

 今まで見た事の無い貌になった野獣に、時雨も言葉を詰まらせる。

時雨は、両手に掴んでいた野獣のTシャツから手を放す。また俯いてしまう。

廊下の床を見詰めてしまう。ちゃんと頭が回らないのに、色んな事が脳裏を過ぎる。

上手く言葉に出来ない。もどかしい。時雨が黙っている間に、野獣がまた息を吐き出した。

ゆったりとした、落ち着いた吐息だった。「俺は大丈夫だから、安心しろって」

此方を宥めるような言い方だった。

 

「肉体強化の反動っていうか、軽い後遺症みたいなものモンやし。

 咳き込んでいる時はちょっとキツイけど、すぐに回復するんだからさ?」

 

 ホラ、見ろよ見ろよ。そう言った野獣は、吐血で濡れた右手を、身体の前に持って来た。

そして短く文言を唱えると、野獣の右手を濡らす血液が、蒼と碧の炎となって燃え上がる。

熱を帯びずに渦を巻く、微光の炎だった。「ヌッ!(点火)」その炎が、火の粉となって昇る。

野獣が、炎を灯した右手を強く握りこんだのだ。炎血は海色に解け、揺らぎながら光の粒子となって流れた。

静謐な廊下に還り散る。差し込む朝日の中に、泡のように消えた。野獣の右手には、もう血は残っていなかった。

見れば床に出来た血溜りも、燃えてしまった。跡形も無い。「どうだよ?(いつもの笑顔)」野獣は、その右手で時雨の肩を叩いた。

 

「肉体活性による発作だけど、命に別状は無いから安心!!

 時代劇とかで言う、“持病の癪が……”って感じでぇ……(フェードアウト)」

 

 とぼけた風に言うのは、野獣なりに時雨を安心させようとしてくれているのだろう。

野獣の様子は、もういつも通りだった。さっきまで血の咳をしていた者とは思えない。

 

 少し落ちついて来ると、さっきまで居た処置室での少年提督の言葉が脳裏を過ぎった。

優れた儀礼施術師である彼は、きっと野獣の身体の変調を見抜いていた筈だ。

恐らくは、野獣の言う“発作”が起こりそうな気配だって感じ取っていたに違い無い。

しかし、時雨が同じ場に居合わせていたからだろう。彼は言葉を選んだ。

『特に異常は見られませんでした』。『身体に変調を感じた時は、すぐに教えて下さい』。

自身の肉体にガタが来ている事を、野獣が時雨に隠そうとしている事も、彼は察していた。

その気持ちを汲んでくれた彼に、野獣も『お前の方こそ』と言っていた。

 

 今日まで、野獣は上手く隠し通して来た。

ただ、今日は結果的に、時雨を前に野獣は発作をみせてしまった訳だ。

『アフターリスクがいきなり来ないとは言い切れません』。確かに、その通りの様だった。

野獣は、時雨や鈴谷、赤城にも隠していたに違い無い。

時雨は少し怒ったような貌で、野獣に向き直る。

 

「その発作に隠れてずっと付き合って来たみたいだけど……、命に別状は無いんだよね?」

 

「おっ、そうだな(首肯)」

「だから軽視して、ずっと秘密にしておくつもりだったのかい?」

 

「ごめん茄子」

 

「酷いじゃないか。失望したよ」

 

 時雨は俯いたままで、非難するような声音で言いながら、左肩に置かれた野獣の右手にそっと左手で触れた。その時雨の左手の薬指には、ケッコン儀礼指輪が嵌っている。

大切な絆の証だと思っている。それは間違い無い。いや、ただ時雨がそう思いたいだけだろうか。深く考えるのは恐ろしい。答えが無い。分からない。確かめられない。

時雨が触れた野獣の右手は、少し冷たい。でも、ちゃんと熱が篭っている。時雨は、その野獣の手を強く握った。いや、掴んでいる。でも、野獣は握り返してはくれない。

何だか、歳の離れた妹を宥めるみたいな、済まなさそうな笑みを浮かべている。優しい貌をしている。大切に想われている事くらいは分かるから、責める言葉が出て来ない。

時雨は何かを話す代わりに、野獣の右手を握ったままで、静かに歩を進める。そうして、そっと野獣の胸に額を預けた。抱きすくめるでも無く、ただ額を寄せただけだ。

野獣だって時雨の身体を抱いてくる事は無い。空いた左手で頭を撫でてくれるだけだった。それだけで凄く安心している自分が居ることを感じて、時雨は息をついた。

 

「もう、僕に隠してる事は無い……?」

 

「当たり前だよなぁ?(いつもの笑顔)」

 

「……嘘だ。野獣は僕の事を、……皆の事を気遣ってくれてるから」

 

 だから、野獣は全てを晒さない。肉体の苦しさを見せようとしない。少年提督と共に目指す光景や、其処に到る為に侵さねばならないリスクを明かさない。

それは、そういったリスクは艦娘では無く、野獣達が背負っているからだろう。もしも艦娘達に何らかの危険が及ぶならば、野獣はすぐに知らせてくれるし、対策を打つ。

そういった動きが無いという事は、やはり時雨達は蚊帳の外に居るのだ。何を考えているのかを無理矢理に聞いても無駄だ。時雨が泣こうが喚こうが、野獣は絶対にシラを切る。

「本当に……、失望しちゃうんだからね」拗ねたみたいに時雨が言うと、野獣が少しだけ笑った。「それは許して下さい、何でもしますから(困ったような笑顔)」

 

「ん? 今、何でもって言ったよね?」

 

「えっ、それは……(苦笑)」

 

「じゃあ、もう少しだけ……、このままで居させて欲しいな」

 

 時雨は震える声で言って、少しだけ強く、野獣の胸元に身を寄せた。

野獣はやっぱり、歳の離れた妹の我が侭に付き合うような、困ったような穏やかな笑顔だ。

時雨のお願いを拒まない。抱き返してくる事も無い。

自分の言う事が我が侭だという事は、時雨も理解している。

そう。ちょっと野獣を困らせてやりたいと思ったが、いい考えが思い付かなかった。

それだけだ。これから先も、野獣と一緒に居られるだろうか。無理かもしれない。

漠然とした予感だが、拭えない確信のようなものも同時に在った。嫌だ。そんなのは嫌だ。

いやだ。いやだよ。もっと一緒に居たいよ。此処に居てよ。何処にも行かないでよ。

もしも時雨がそんな風に言えば、野獣はどんな貌をするだろうか。

紛れも無い時雨の本心だが、やっぱり、今のちょっと困ったような貌のままだろうか。

呆れられるかもしれない。苛立つかもしれない。鬱陶しがられるかもしれない。

ただ、優しくも乱暴でも無い手付きで頭を撫でてくれるだけかもしれない。

それとも。全く別の表情を見せてくれるのだろうか。分からない。

ああ。僕は、知らない事ばっかりだ。野獣について、知らない事ばっかりだ。

知りたいと思う。けれど、適当な事を言われて誤魔化されるだろう。

種類は違えど、野獣は少年提督に良く似ている。














遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
昨年は大変御世話になりました。
今回も読んで下さり、また感想を下さり、本当に有難う御座います!
今回の更新で、書き溜めていた分も殆ど投稿させて頂きました。
此処までで一旦の区切りとさせて頂くかもしれません。

ただ、書いてみたい内容はまだまだ手が出せていない状況ですので、
今までよりも少ない文章にはなると思いますが、
加筆修正を行いながら、ゆっくりと形に出来ればと思います。
また次回更新をさせて頂く事が出来た時には、お付き合い頂ければ幸いです。

いつも暖かいお言葉で支えて下さり、本当に有難う御座います!




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短編 終

 暮らしていた港町が深海棲艦の襲撃を受けるなんてのは、まぁ割とよくある、ありふれた悲劇だった。執拗な砲撃を受け、焼け野原みたいになった港町の無残な光景は、今でも良く覚えている。家族も友達も近所の知り合いも皆死んだ。残らずくたばった。生き残ったのが不思議なくらいだった。気が付いたら、皆死んでいた。朝方の出来事だった。学校へ行く支度をして、父と母と台所で朝食を摂っていた。何処にでも在るような、到って普通な家庭だったし、普通の朝の風景だった。変わらない一日が始まると思っていたら、急に港の方でサイレンが鳴った。すぐだった。遠くで爆発音が聞こえた。血相を変えた父と母が、此方に駆け寄って来た。其処までは覚えているものの、その直後からの記憶が無い。意識を失ったからだ。すぐ近所に砲弾でもぶちこまれたんだろう。気が付いたら、瓦礫の隙間で倒れていた。眼を醒ますと、血の味がした。耳鳴りがして、身体の感覚が殆ど無かった。さっきまでいた筈の台所じゃなかった。外だ。屋外だった。いや、違う。吹き飛ばされたのだ。家が。火と埃の匂い。何かが焼ける匂い。

 

 不思議な程、静かだった。現実感の湧かない光景だった。何と言うか、どこか遠い。フィルターが掛かっているような。そんな感じだった。奇跡的に、怪我は無かった。だから余計だ。痛みよりも先に、呆然とした。本当に世界が変わった。見上げると、さっきまで晴れ渡っていた空は、濁った灰色の煙霧と火の粉で曇っていた。視線を下ろして、煤塗れの自分を見た。生きている。両手を見る。やっぱり煤と埃塗れだ。口の中がじゃりじゃりした。砂でも入ったか。血と一緒に唾をこうとしたら。嘔吐した。其処から視線をずらして、ちょっと前を見た。其処には、やっぱり廃墟と化した町並みが広がっていた。彼方此方から細い煙が上がっている。熾火が燻るような、パチパチという音が聞こえた。

 

 何が何だか分からない様な。まだ夢の中でも居るような気分だった。崩壊した自分の家からも、細い煙が何本か上がっていた。灰色の空に吸い込まれている。散らばる瓦礫の下に。黒い塊が二つあることに気付いた。焼け焦げた木の表面みたいになった、真っ黒な人型の塊だった。それが、自分の両親だなんて思えなかった。夢なら醒めて欲しいと思ったが、喉を焼いて再びせり上がって来た胃液の味は、今までに無い程に現実的だった。いくら子供でも理解出来た。町は、瓦礫と煤と埃の山になったのだ。運が良いのか悪いのか。生き残った。

 

 

 そうして、今も生きている。この身体は、もはや人間では無い。陸軍の施設に収容され、其処で受けた施術により、この身は“艦娘”になった。そう。人間から“艦娘”へと造りかえられた。正確には、艦娘としての能力を付与された。肉体の強化と、艤装召還の力を植え付けられたのだ。今でも夢に見る。施術台の冷たい感触。精神を切り刻んで彫り出して来る、蒼い儀礼光。施設職員の無機質な眼。肉体に刻まれていく術紋回路。欠落する感覚と恐怖心。暗転する視界と、ストロボの様に瞬く意識。擦り潰されていく思考。どれもこれも、今となっては良い思い出だった。思い出すと血の味がする。施術が始まってみると、後悔する間なんて無かった。自分から体を差し出したからだ。文句を言う権利すら無かった。深海棲艦達に復讐したいという気持ちは在ったし、漂泊と孤児の身だった自分には、生きる道がそれしか残されていなかったというのも在る。打算的な選択だったものの、結果的にはそう間違ったものでは無かったと、今では確信している。

 

 

 “艦娘人間”とでも言うべき生体兵器になった自分は、似た様な境遇の者達と肩を並べて、すぐに戦闘訓練を受ける事になった。野獣と言う男に出会ったのは、この時だ。あの頃から、野獣は変わった男だった。“強化兵”だとか呼ばれる施術を受けたらしい事は、本人から聞いた。すんなり話してくれた。別にどうでも良かったのだろう。野獣はとにかく、朝も昼も夜も無く、時間さえあれば憑かれたかの様に刀を振っていた。何かを必死に掴もうとするかの様だった。そういえば、この時に野獣と良くつるんでいた人物が二人居た。三人で互いに組み手を行っていたのを何度か見た事がある。ただ、野獣達は提督の身でも在った為に、かなり短い期間で戦闘訓練を切り上げ、元の鎮守府に戻って行った。野獣と共に居た二人も、恐らくは提督の身だったのだろう。野獣が訓練所を去ったのと時を同じくして、彼らも居なくなった。ただ、彼らが刀を握っていた時間の密度は、誰よりも濃かったように記憶している。

 

 激戦期の軍功によって大きく昇進した提督が二人居り、それが野獣と昵懇であった二人だとあきつ丸は考えていた。政治力を頼りに出世したものも多い上層部の者達と、徹底した現場主義の野獣の仲は良いとは言えない。そんな中でも、野獣に便宜を図ってくれるお偉いさんが居るというのは、つまりはそういう事なのだろう。深海棲艦達が上陸までしてくる事態は未然に防がれていた為に、野獣達が共に戦う様な機会は無かったものの、肉体の改造被術者同士、激戦期を跨ぐ強い絆で結ばれていてもおかしく無い。

 

 活躍の機会は無かったものの、劣勢末期を想定した本営が、陸でも十分に力を発揮出来る強化兵や艦娘達を欲しがっていたのは事実である。自分もその内の一人だ。艤装の運用方法を身体に叩き込み、知識を大急ぎで吸収し、艦娘としての召還能力の安定化を図った。艦娘としての第二の自分が、此処で生まれた。ただ、人間を艦娘化させ、急造的ではあるものの戦力として運用しようなんていうこの陸軍主体の計画にも、大きな問題が浮上してきた。艦娘化された人間=“艦娘人間”達は、精神制御に関わる洗脳施術の利きが薄い上に、普通の艦娘に比べて、想定よりも大きく能力に劣っていた。おまけに艤装召還の精神負荷も大きかったから、訓練中に廃人になる者が続出することになった。欠陥兵器のレッテルを貼られる中、自分達“艦娘人間”達は、宿舎とも牢獄とも試験管とも言えない研究施設に戻されて、長く保管される流れとなった。兵器というには未完成で不完全だが、それでも戦力であり、捨て駒程度の使い道は在ったからだろう。

 

 そのうちに、自分以外の“艦娘人間”達も発狂したり、自殺したり、突然死したりして、バタバタくたばった。面白いように死んだ。だが、次は自分の番だとは、不思議と思わなかった。実際、自分は自我を保ち続けた。独房みたいな部屋で、一人膝を抱えて、海原で深海棲艦を殺しまくる事だけを考えていた。そんな自分に声が掛かったのは、激戦期の最中だった。ある鎮守府に割り振られるような形で配属される事になる。面白いのは此処からだった。何せ海に出れば、うじゃうじゃと深海棲艦が居るのだ。胸が躍った。自分を引き受ける形になった提督は、貧乏籤を引いたような貌をしていた。そりゃあそうだろう。向こうからしてみれば、精神施術が効きにくい癖に戦力としては不全なんていう、絵に描いたような足手まといの厄介者だ。本営からの指示が無ければ、誰が引き受けたがるものか。「欠陥兵器め……」と。面と向って言われても、特に気にはならなかった。実際、自分でもそうだと思っていたからだ。

 

 当然、生きた消耗品みたいな扱いだったから、深海棲艦の群れに突っ込まされたりする様なヤバイ命令を何度も受けた。その度に、走馬灯方式の飛行甲板から艦載機を飛ばして盾にしながら斬り込んで、軍刀を振るい、深海棲艦を殺しまくった。当たり前だが、こんなものは訓練所で学んだ艦娘としての戦い方では無かった。艤装運用の熟連度も、仲間との連携もクソも無い。もう無茶苦茶だった。しかし、自分は生き残った。生き残り続けた。その間に、大破した経験も無い。意外な事に、自分はどうやら異常な程に強いらしい。そんな事に気付くようになった。自我を破壊された艦娘達が、フォーマットされた人格だけで命令を受けて動いている中でも、自分は違った。提督の指揮や作戦など、それが下策だと判断すれば、容赦無く独断専行するようになった。

 

 海の上での艤装運用の熟練度や性能は、確かに他の艦娘達とは劣っていた。しかし、状況判断能力と身体能力だけは別だった。仲間の艦娘の数多く轟沈するような戦闘海域からでも、自分は深海棲艦を殺しまくって無傷で帰投してきた。何度もだ。安い勝利を捥ぎ取って来た。そんな自分を、提督は恐れていたように思う。人格を破壊された艦娘達は黙ったまま、光の無い眼で笑っていた。

 

 どうでも良かった。どうせ次の作戦で出撃すれば、また多くの艦娘がバタバタくたばって沈んで入れ替わる。仲間だなんだと思うのもアホらしい。提督だってそうだ。自分の事を重宝するなんて事は無かった。相変わらずだ。深海棲艦の群れに突っ込まされる。そうして、深海棲艦を殺して来いと命令される。自分は作戦という蚊帳の外に居た。丁度良かった。気楽でいい。それからは、なかなか楽しい激戦期だった。ただ、提督の馬鹿な作戦に従った艦娘達が全員くたばった時は、流石に参った。帰投についた夜の海の上で「あっはっはっは!」と、一人で大笑いしたのを憶えている。もう笑うしかなかった。涙を浮かべて呵呵大笑し、夜空を見上げた。朧に雲掛かる、大きな満月が浮かんでいたのを憶えている。

 

 生還した自分が帰ってからが、また傑作だった。何時もの様に命令も指揮も作戦も無視していた。そうしていつも通り、自分だけが無傷で帰って来た訳だから、提督と顔を合わせた時の気不味さと言ったら無かった。半狂乱になった提督に、肉体拘束施術で身動きを奪われて、思うさまに殴られて蹴られた。自業自得と認めたくない自尊心と、行き場の無い激情をぶつるべく行われた幼稚な暴力は、強靭な肉体を持った自分にとっては些細なものだった。ただ、痛がる素振りも見せず、冷ややかな視線で己を見詰めてくる自分の事が気に食わなかったのだろう。提督は、肉体機能を奪った自分を廃棄・処分しようとした。艦娘達の処理施設へと送られたのだ。本来なら、其処で死ぬ筈だったのだろうが、運命とは数奇なものだ。彼に出会ったのだ。何もかもが出来過ぎたタイミングだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 秘書艦用の執務机に腰掛けたあきつ丸は、処理を終えた書類を揃えて、机の端へと重ねて置いた。これで今日のデスクワークは一応の終わりだ。日付けが変わって、少し経った。片手で肩を軽く揉みつつ、執務室の窓から空を見遣った。雲の無い夜天には満月が悠々と浮かんでいる。その月暈に抱かれた星屑も、波音に合わせてひっそりと瞬いていた。あきつ丸は一度眼を閉じて、軽く息を吐き出す。紙が擦れる音と、緩い空調機の音が微かに聞こえる。

 

「お疲れ様です。助かりました」

 

「礼には及ばないでありますよ。これも秘書艦の務めであります」

 

 執務机に座り、分厚い書類の束に眼を通している少年提督へと、あきつ丸は向き直る。彼は顔を上げて、あきつ丸に微笑みを浮かべて見せた。見れば彼の執務も、じきに終わりそうだ。彼が手にしている書類の束で最後の様である。休憩でも入れればどうかと言おうとしたが、その必要も無さそうだった。あきつ丸は、軽く伸びをした。視線だけで、また窓の外の夜空を見遣ろうとしたが、止めた。そろそろ執務を終えるであろう彼に、コーヒーでも淹れようかと思い席を立つ。それとほとんど同時だった。彼が、手にしていた書類を執務机に置いた。どうやら彼も、今日の分の仕事は片付け終えたようだ。

 

「少し、部屋の換気をしましょうか」

 

 柔らかい声でそう言った彼は、音も無く椅子から立ち上がって、窓の方へと歩いていく。確かに、暖房の熱が少し篭っている。言われてみれば、少しの息苦しさにも似た暑さを感じた。あきつ丸も立ち上がり、彼の後にゆっくりと続いた。彼が窓を開けると、ひんやりとして澄んだ夜気が流れ込んで来た。冷たさが心地よい。その夜気を吸い込みながら、あきつ丸は再び夜空を見上げた。

 

「今日は月が綺麗でありますなぁ」

 

「えぇ、本当ですね……」

 

 あきつ丸に短く応えて頷いた彼も、同じく夜空を見上げた。少しの間、二人は無言だった。黙に冴える柔らかな月光を、肩を並べて眺め遣る。そのうち、あきつ丸が軽く笑った。

 

「初めて提督殿にお会いした時の事を思い出しますな」

 

「そう言えば、あの日も満月でしたか。……時間が経つのは、早いものですね」

 

「あっはっは! 何を年寄りの様な事を仰るのです」

 

 可笑しそうに言うあきつ丸の首には、ハート型の“ロック”ネックレスがしてある。しかし、これはあくまで形だけだ。精神プロテクトがされていない。あきつ丸は、厳密に言えば艦娘ですら無い。深海棲艦でも無い。元人間の、歪な欠陥兵器の変異種である。それでも彼は、あきつ丸を見捨てるでも無く、嫌悪するでも無い。自分を仲間として迎え、力を貸して欲しいと言てくれた。艦隊の一員としての役割を与えてくれた。戦場海域に出ても、単身で突撃させられるなんて事はなかった。仲間が出来た。居場所が出来た。己が己である価値が生まれた。久しく忘れていた、家族という言葉が脳裏を過ぎった。“あきつ丸”になる前の名前と、父や母の顔が浮かんだが、それらはそっと胸の奥に大切にしまった。

 

「そ、そうですか? お年寄りみたい、でしょうか……?」

 

「ええ。そんな懐かしむ様に言うほど、昔の事でもありませんよ」

 

 あきつ丸も言いながら、可笑しそうに小さく笑う。それから、あきつ丸は横目で彼をチラリと見た。人畜無害で、人の良さそうな笑みを浮かべる彼は、眼帯で右眼を隠している。右手にも黒い手袋をしている。深海棲艦の異種移植を受けた彼の、その人では無い部分を隠している。あきつ丸は彼から視線を外し、また夜空の月に視線を移した。月を見上げたままの彼が、緩く息を吐き出したのを感じた。

 

「でも、何だが随分前の事のように思います」

 

「お忙しい身でありますからな。提督殿は。余計にそう感じるのでありましょう」

 

「皆さんの助けが無ければ、僕は何をするのもままなりません」

 

「秘書艦の仕事まで奪ってしまう御方は、言う事が違いますな。なぁに。皆、提督殿の役に立ちたいのでありますよ。ですから、もっと頼ってみればよろしいかと」

 

 あきつ丸は、また横目で彼を見た。彼もまた、あきつ丸に視線を返した。彼は何やら思案顔になってから、困ったみたいに床に視線を落とした。甘え下手な彼が何を考えたのかは分からない。その儚げな横顔を、あきつ丸は視線だけでそっと見詰めた。彼は、すぐにまた苦笑を浮かべて、窓の外へと顔を向けた。

 

「……なんだか、難しく感じますね」

 

「はっはっは! まったく、提督殿には可愛げが無い!」

 

「うっ、以前も良く言われました……」

 

「その様に気を遣ってばかりでは疲れましょう? 甘える練習をした方が良いですなぁ」

 

「甘える練習、ですか……?」 

 

彼があきつ丸へと向き直った。あきつ丸も向き直って、肩を竦めた。

 

「そんな難しい顔をしないで頂きたい」

 

「うっ、すみません」

 

「うーん、これはいけませんなぁ。良く無いでありますよ?」

 

「良く無い……、ですか?」

 

「こういう時こそ、『ゴメンね、お姉ちゃん』と言った感じで、あざとい可愛さを醸しだして甘えるところでありますよ?」

 

「そ、そうなんですか?」

 

「冗談であります」

 

「えっ」

 

「半分ほどは、まぁ本当であります」

 

 彼の反応を面白そうに見ながら、あきつ丸は笑みのままで切なげに眼を細めた。彼の方は、困惑したように眉尻を下げている。普段の落ち着き払った貌では無い。歳相応の、子供らしい表情だと思う。初めて会った時も、彼は奇妙な程に凪いだ貌で微笑んでいた。時には、顔全体を引き攣らせて、歪ませるようにして笑顔を浮かべていた。彼は、笑うのが異常に下手糞だった。その癖、彼が向けてくれる真心の様なものは本当に暖かく、打算も野心も感じさせなかった。

 

 彼の青み掛かった昏い瞳で見詰められると、殺戮の味を忘れられない自分を思い知る。自分は、恵まれた場所に居る。部下想いの彼の下で、自分の居場所が出来た。人類の為に戦うという大儀の下、己の価値が生まれた。それは間違い無い。しかし。しかし。忘れられない。深海棲艦を殺しまくっていた頃に貪った、命を奪うリアルな感触。拭う事が出来ない。この両手にこびり付いている。あの感触を欲してしまう自分が居る。あぁ、提督殿。出来るのであれば貴方にも、この胸の内を見せて差し上げたい。これだけ満たされて尚、生き死にのスリルを求めて、誰も彼も死にまくった激戦期を恋しく思う、この心の醜さを。貴方はそれでも、事も無げに微笑んで受け入れてくれるのでしょう。なんと業の深い御仁か。

 

あきつ丸は唇を歪めて、婀娜っぽく笑った。

 

「甘え上手な者は、世渡りも上手いと聞きます。練習しておいても損では無いでありましょう?」

 

「い、いえ、僕は損得については、その……特に気にはしません」

 

「そういう所が甘え下手だと言っているのでありますよ? 遠慮ばかりで本当に可愛げの無い子供でありますなぁ、提督殿は」

 

「うっ、す、すみません……」 

 

 彼がしょんぼりと俯いた。その隙に。あきつ丸は気付かれないように、クスクスと艶笑を浮かべる。割とぶっ飛んだ感性と天然ボケで、相手を翻弄して振り回す時が多い彼だが、今は違う。あきつ丸は容赦無く彼に絡んで弄り倒すので、立場が逆転するのだ。あきつ丸は窓の縁に手を付いて、やれやれと肩を竦めながら、首を緩く横に振った。

 

「おやおや? 提督殿は、つい先程の自分の話を覚えておいででありますか?」

 

「えぇっと、ご、『ゴメンなさい、お姉ちゃん』……?」

 

彼は少々恥ずかしげな上目遣いになって、ぽしょぽしょと言葉を紡いだ。

 

「んぅ^~、良いでありますよぉ^~(御満悦)。では、もう一度お願い出来るでありますか?」

 

「えっ」

 

「もう少し切なげな表情だと尚良しであります。あぁ、そうだ。服も脱ぎましょう」

 

「えぇっ」

 

「下半身だけで良いでありますよ?」

 

「失礼致します!!!!!!!」

 

 あきつ丸が無茶な事を言い始めた時だった。ドスの効き過ぎた低い声と共に、執務室の扉がノックも無しに勢い良く開けられた。ぶち破るような勢いで入って来たのは不知火だった。手には盆を持っていた。上品そうな碗が二つ。春雨スープが湯気を上げていた。

 

「二人のお夜食をお持ち致しました……」

 

 低い声で言う不知火は赤い貌をしている。鋭過ぎる眼つきがミスマッチだが、可愛らしい。あきつ丸達が仲も良さげに話を弾ませているので、入るに入れなかったのか。入室する直前、扉の外で聞き耳でも立てていたのだろう。あきつ丸の暴走を感じ取った時点で、インタラプトに入ったという所か。何ともいじらしい忠犬ぶりである。あきつ丸は、不知火に軽く敬礼をして見せた。不知火が睨んでくる。おお、怖い怖い。口の端を僅かに歪ませて、斜め上の方へと視線をずらした。

 

「あぁ、態々どうもすみません」

 

 彼は柔らかく言いながら、不知火から盆を受け取るべく歩み寄ろうとした。その彼の肩を指でトントンと叩いたあきつ丸は、ワザとらしく咳払いした。きょとんとした彼だったが、すぐに何かに気付いた様に「が、頑張ります」と小声で応えて頷いた。彼は不知火の前まで歩いて盆を受け取って、微笑んで見せた。はにかむみたいな控えめな笑みだったが、余りに嫣然とした雰囲気が滲み出ており、甘えるというよりも誘っているみたいだった。

 

「ぁ、ありがとう、お姉ちゃん。大好き」

 

 アドリブまで入れた彼の言葉に不知火は、とんでも無い衝撃を受けた様な貌で肩を跳ねさせて、白眼を剥いて固まってしまった。あきつ丸は肩を震わせて、吹き出すのを堪えた。だが、まだ面白く出来そうだ。あきつ丸は、彼にそっと耳打ちする。「もう一息でありますよ」。何がもう一息なのか、自分で言っていて割と意味不明だったが、彼は真面目な貌で頷いてくれた。頭が良いのに馬鹿なのが、彼の残念なところだ。彼は数秒だけ、逡巡するように視線を落とした。しかし、「僕のを半分こして、一緒に食べて行かれませんか?」と。またすぐに不知火に向き直り、恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。

 

「不知火お姉ちゃんに、その……、あ、『あーん♪』って、して欲しいです」

 

 こんな事をあきつ丸に言わせられている時点でもはや罰ゲームの類いではあるものの、彼は真面目にやり遂げた。やり遂げてしまった。あきつ丸は右手で口元を隠して、笑ってしまったのを誤魔化した。意識を取り戻した不知火も、彼の言葉を理解するのに少々時間が掛かったようだが、「期待に応えて見せます!」と、すぐに出撃する時の貌になって敬礼して見せる。

 

「ではまず、シャワーを浴びて参ります!」

 

「えっ」 天然ボケを錯乱ボケで返された彼は、何を言ってるんだろうみたいな、素の様子で瞬きをした。

 

「不知火殿、それではせっかくの夜食が冷めてしまうでありますよ?」

 

「では、シャワーを浴びながら、『あーん♪』させて頂きます。不知火です(落ち度)」

 

「ちょっと落ち着くでありますよ」

 

 あきつ丸は軽く笑いながら言って、彼と不知火を見比べた。それから、不知火とすれ違うようにして歩いて扉に向かい、途中で振り返って彼の方へと向き直った。「自分は、そろそろ自室へ戻らせて頂きます故」と、軽く笑って敬礼をする。

 

「折角のお夜食でありますが、自分は太り易い体質でありましてな。世も更けておりますし、今回は申し訳無いのですが遠慮させて頂くのであります。自分の代わりに、不知火殿が召し上がってくださると有難いのでありますよ?」

 

 薄笑いを浮かべるあきつ丸を見て、不知火は何かを察したのだろう。少々気恥ずかしそうに視線を逸らした。ヅケヅケと物を言うあきつ丸だが、彼とその初期艦が語らう場を提供するくらいの気遣いは出来る。秘書艦の仕事も終わったし、彼を弄って楽しむ事も出来た。上々である。さぁ、邪魔者は退散すべきだ。軽く頭を下げてくれた彼に一つ微笑みを返して、あきつ丸は執務室を後にする。廊下を歩いて、庁舎の外へ出る。舗装道を歩きながら、また空へと視線を向けた。肥え太った望月が、先ほどと変わらず悠々と浮かんでいる。たしか少年提督は、満月よりも欠け細って瘦せた月の方が好みらしい。

 

 奇遇だった。あきつ丸もだ。傷の無い綺麗に過ぎるものは、どうも苦手だ。だからだろうか。脛に傷の在る少年提督や野獣が、割と好きだった。他にも龍田や愛宕など、彼の下にはそういう暗い部分を持った艦娘達が居る。自分も含めたそういう者を、彼は排除しない。疎がらない。拒絶しない。自らも血と傷に塗れて、手を差し伸べて来た。御人好しも過ぎると狂人だが、それを更に突き抜けてしまった彼は、もはや聖人とでも呼ぶべき心境に居るのかもしれない。いや。少し違う。彼は人では無い。艦娘でも無い。深海棲艦でも無い。野獣やあきつ丸のような、強化改造被術者でも無い。そう。彼は何者でも無い。酷い話だ。

 

 いつも微笑んで誰彼構わず手を差し伸べる少年提督は、自分自身、救われたいとは思わないのだろうか。彼にとっての幸せとは何なのだろう? 彼ぐらいの年齢なら普通、優しい両親が居て、学校に通い、仲の良い友達も居て、好きな娘だって居て、勉強して、ケンカして、泣いて、笑って、成長して、誰かと愛し合い、結ばれて、子供が出来て、孫も生まれて、慈しみと愛に暖かく包まれて、家族に囲まれて、穏やかに眠る様に死んでいく。そんな未来が、彼にだって在っても良かった。ただ、そうはならなかった。それだけの事だ。彼はそれを残念がったり、羨む事も無いだろう。かつて彼が、己の内に艦娘達の魂を飲み込んだ時点で、其れ迄の彼は打ち捨てられた。彼にとっての死とは終わりでは無く、経験だった。ある国では、死者の眼の上にコインを乗せる風習があるという。前のイベントで彼が鋳造して被った、左眼部分に六文銭を載せた狐の面。あれは人間の眼である左眼を、六文銭で隠す事を意味している。彼は、自身の人間としての生を否定している。

 

 何故、他国の風習に倣うのかと聞いたら、その国の言葉で言われたそうだ。

 

 “お前は死者である”と。

 

 誰に言われたのかを聞いてみた。

 

 すると、“海から謂われた”のだと、彼は微笑んで答えてくれた。

 

 それは何時だと聞いた。

 

 “少女提督と出会った日である”と、彼は答えてくれた。

 

 他に何を言われたのかを聞いた。

 

 “お前は幸せか?”と聞かれたそうだ。

 

 何と答えたのかを聞いたが、彼は微笑むだけだった。

 

 はっはっは! と、その時のあきつ丸は笑った。

 

 

 前に捕まえてきた小鬼共が、彼の事を験仏だ化仏だのと言っていたという話も聞いた。仏教と西洋の教義が混ざるのは、国籍の違う艦船が沈み、其々の骸から成った深海棲艦達に、神性への観点の違いが現れるよる事を示唆しているのか。海も同じく、神仏と共に、西洋の神々にも通じる神秘を湛えているのだろう。彼が、墨色の積層術陣の向こうに何を見て、何を持ち帰って来たのかは分からない。しかし恐らく、彼が手を伸ばした術陣の向こう側は、生きとし生きるものが死んで辿り着く彼方の場所なのだと、何と無く思う。海の言う“死者”である彼は、其処に何が有るのかを確かめるべく、赴く事も出来るかもしれない。そんな荒唐無稽で気宇壮大な考えが浮かぶものの、強ち馬鹿にも出来ない想像であるようにも思えた。そんな果ての果てでも良い。どうか、彼に幸あれと。あきつ丸は満目の星空と月を見上げながら、深く息を吐き出した。

 















 最後まで読んで下さり、有難う御座いました! 今回の更新で、この『少年提督と野獣提督』の最後の更新とさせて頂きたいと思います。過去や世界観に関する描写について、最後の2話で駆け足気味での描写になってしまい、申し訳ありません……。現在、全体的に加筆修正を行い、文体を整えさせて頂いております。

 書きたい内容もまだまだ消化し切れず仕舞いでしたので、新作としてタイトルを一新し、より気軽に読んで頂けるような字数と内容のものを投稿させて頂きたいと考えております。読み難い文章と迷走してばかりの内容ではありましたが、沢山の御感想、評価、閲覧回数、推薦まで頂き、感謝の念に絶えません。暖かく見守り、支えて下さり、本当に有難う御座いました!



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