悟空TRIP! (足洗)
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プロローグ 目覚めは潮騒と無限の蒼穹の下

 

 

 

 

 潮騒が響く。騒々と、止まることなくいつまでも。

 寄せては返し、白い砂浜を波が覆う。

 見渡す限り紺碧(あお)い海原がただただ広がって、見渡す限り陸地らしきものは影も見えない。視界に収まりきらない蒼穹と蒼海には水平線の境さえ曖昧だ。

 太陽の下、煌く白い浜辺と濡れるような深緑の木々だけが蒼以外の色彩を齎してくれる。

 “彼”は、雪白の浜砂に出来た青い青い椰子の木陰に横たわっていた。目を閉じ、静かな寝息を立てて。

 

「…………お」

 

 そして程なく、彼は目を覚ます。

 むくりと身を起こし、両手で存分に伸びをする。昼寝をしていた大型犬が身体の凝りを解すように。

 下半身の発条(バネ)だけで勢い良く立ち上がり、屈伸、伸脚、前屈等、体操にも余念がない。

 も一つ大口開けて大欠伸をすれば眠気も少しばかり晴れていた。

 

「はぁー……よっっく寝たなぁ」

 

 えらく実感の篭った呟きを零し、男はその身に纏った胴着と同じ色の空を見上げた。

 男の黒目には途端に驚きの色が点る。

 

「下界じゃねぇか。いつの間に降りて来たんだ、オラ」

 

 ぼさぼさの黒髪を片手でさらに掻き乱し、思案顔で男は首を傾げる。

 

「なあ、神龍(シェンロン)。何年ぶりだったかなぁ」

 

 突然男は何も無い虚空に向かって話しかけた。すぐそこにいる友人に世間話のネタを振る。そんな気安さ。

 

「どっひゃあ! 下界じゃそんなに経ってんのか。じゃあパンも悟空ももうあの世だなぁ。久々に顔見たかったけんど……ま、しょうがねぇか」

 

 男は一人、驚いたり残念そうに眉を寄せたり大いに笑ったり、それは豊かに表情を変えた。傍から見ればそれはそれは大層不気味な様子だったろう。その口にする内容もまた同様に。

 ひとしきり百面相を繰り返すと、男は暫時無言で周囲を眺めやる。足元の砂を靴で弄り、傍らの椰子の木に触れて感触を確かめる。目を凝らせば豊かな珊瑚礁やその合間を遊泳する熱帯魚まで見える澄んだ海。

 

「カメハウス思い出すなぁ」

 

 気付けば、男の頭の中は思い出でいっぱいだ。誰かとの出会い、誰かとの闘い。そして、別れ。

 親友と最後に組み手をしたのも、こんな白い砂浜の上だった。

 

「みんな元気にしてっかな、ははっ」

 

 声色に抑えきれない懐かしさが滲む。男にとって、それは掛け替えのない思い出だった。

 あの世で元気に、というのもなかなか可笑しな話だが。

 

「うん?」

 

 その時、男がぴくりと反応する。

 男の鋭敏な“感”が空間を奔るソレを捉えたのだ。「気」と呼ばれる、もっとも生命の原初に近しい力。

 

「…………」

 

 その気は決して大きくはない。いや、彼と比べればこの世に存在するあらゆる気が小さなものになってしまうのだが。

 男の尺度を当て嵌めればその矮小さはなんと取るに足らない。

 けれど、どうしてか無視することができない。

 

「へへ」

 

 男は砂を蹴る。その一蹴りが重力すらも蹴り払ったか。

 ふわりと、男の身体は宙を舞う。無限に広がる蒼穹へと瞬く間に昇っていく。龍の如く、悠然と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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一話 GTinインフィニット・ストラトス

 

 

 

 友人からの誘いは、当時の自身にとってまさに渡りに船だったのだ。

 だからあんなにもすんなりと乗船を決断できた。おそらくは片道切符。乗り込めば元居た場所には二度と戻れない大航海。苦難と懊悩、時には哀しみで身を焦がす道程。だがきっとその先に、求めるものがあるのだと信じて進む。決して振り返らない。立ち止まらない。そう覚悟して選んだ道。

 今にして思えば若気の至りなどという次元ですらない。

 それほどまでに心は追い詰められていた。精神は終わりない不安と恐怖に耐えられなかった。

 強くなりたい。家族を守る為に。たった一人の家族を。たった一人の家族の味方もまた自分一人だけなのだから。

 強くならねば、強く在らねばならない。不退転の覚悟を胸に、けれどその奥に潜む心は重圧で押し潰れそうだった。

 ――――馬鹿な。

 過去の自身を振り返る度、思う。もっと早くに気付くべきことだった。どうして気付くことができなかったのか。

 本当の強さとはなんなのか。当時の私は知る由もなかった。

 

 その男に、出会うまでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 過たず、戦乙女(ヴァルキリー)は1,200発余のミサイルを斬り払った。

 その手に握った巨大剣が一閃される時、斬撃は刃渡りを超え真空を生む。無数に飛来するミサイル群はそのようにして僅か数分の内に屠られ、蹂躙された。

 西洋甲冑を模していながら、その身に纏われた鎧はこの世にありえざる超能を被装甲者に齎す。

 二枚一対の純白の翼――高出力推進器(スラスタ)で空を自由自在に飛び、(かぶと)に覆われた五感は極限まで高められ比喩表現を挟まず千里先の羽虫を捉える。筋力、速力、瞬発力、動体視力――身体機能と運動能力に大幅な増強(アシスト)を加え、人の身で超人と呼ばわる領域に足を踏み入れた。

 

「残ったミサイルはあと何発だ」

『残存数1,101。武装の変更を推奨』

 

 巧緻に人間味を帯びた機械音声が響く。同時に純白の騎士は大剣を光の粒子に変え、代わりに長大な砲を顕現させた。超小型荷電粒子砲。

 空想科学の産物。大規模施設と一都市を稼動させ得る程の大電力を要するその兵器は今、極小のありえない砲身スケールで現実のものとなった。

 

「……」

 

 引鉄を引く上で騎士に躊躇は微塵とて無かった。

 全世界12ヶ国の軍事施設より射出された2,000発を超えるミサイルが目指すのは極東の島国。日本だ。

 もしこれら全てが着弾したなら日本列島は火の海に沈むだろう。それを阻止する。それが騎士の使命、目的。

 事実、既にその半数を破壊した。残りの半数以下を破壊し尽くすに、先程以上の時間は掛かるまい。

 指向性を持って紫電が奔る。砲口から吐き出される電荷の渦は空を覆わんばかりに飛来するミサイルを呑み下した。

 

『残存ミサイル0。掃討完了』

「……見れば分かる」

 

 感慨も薄く騎士は言った。これは決まりきった結果であると、そう言外に表していた。

 現代に存在する有りと有らゆる兵器は断じて“これ”に及ばない。“これ”は全てを凌駕し圧倒する新時代の力だ。

 世界よ見ろ。そして跪け。認めざるを得ない現実(フェアリー・テイル)がここにある。

 それは一人の少女が生み出した幻想だった。夢物語と一笑に付され、忘れ去られた机上の空論。けれど少女にとっては机に設計図があればもはやそれだけで十分。

 理論から現実へ。飛躍とさえいえない超越を果たし、マルチフォーム・スーツ『インフィニット・ストラトス』は完成した。

 そして今日という初披露目の舞台を迎えた。

 

「ふんっ、これで立派な共犯か……」

 

 後悔など、ある筈がない。

 己は望んでここにいるのだ。この道を選んだのだから。

 

『敵性艦隊勢力接近』

「ああ、分かってる」

 

 最後の仕事。今日この日この時の大詰。

 PIC――慣性制御装置(パッシブ・イナーシャル・キャンセラー)を手繰り、最短距離の海上に位置する大型艦船を見やる。センサが指し示すその艦影の注釈には米国産(・・・)の文字。他のどんな国よりも迅速なその対応は流石世界の警察機構を名乗るだけのことはある。

 相対距離がさらに近接する。この翼ならば瞬く間に埋められる距離。

 事実、彼女はそうしようとしたのだ。

 

「オッス」

「――――――――――――――」

 

 散歩の出先で顔を合わせた友人と挨拶を交わす。それはそんな気安さで。

 背後、直近、五メートルと離れていない。

 各種センサーはどうした何故接近に気付かなかった故障?馬鹿などうしていやそもそも気配など微塵とて感じなかったというのに敵か?味方か?敵対の意志があるならわざわざこちらに存在を気付かせるものか違うもっと別の、目を逸らしている現実があるだろう――――

 海上より約10,000m。海原を見下ろす雲海に手が届く。ここは対流圏と呼ばれる大気圏内の最下層だ。

 

「おめぇあそこの……軍隊だよな? 闘うんだろ」

 

 そう言って、その“男”は眼下の海のその先に指を差す。その先に何があるのか見えていると、如実に物語りながら。

 男の黒髪が、空よりも蒼い胴着が、帯が風に吹かれて揺れる。

 悠然と、風を受けても男は変わらずそこに。空の只中、その身一つで静止している(・・・・・・・・・・・・)

 

「っ!?」

 

 その現実を認めた瞬間、背筋を悪寒が、心臓を血の濁流が奔った。

 在り得ない。いや在り得なかった。

 友人の作り出したこの超能の鎧以外にそんな超常は在り得ない、と。思い知った筈だ。それを信じた。信じて疑わなかったから飛びついた。差し出された“力”を欲し求めた。

 

 手にした力に、卑屈な安堵を抱いたではないか。

 

「…………なんだ、お前は……」

「手伝ってやるよ!」

 

 震える声音で発した言葉はどうやら風に溶けていた。無意識の問いかけはそもそも返答すら求めていなかったが。

 無邪気な笑顔で男は言う。

 言うや、飛翔する。

 予感はあった。眼前の存在は空を飛ぶのだ。

 

「まっ……」

 

 得体の知れない、未知とはただそこに在るだけで十分に恐ろしい。それが能動的に行動しようものなら尚の事。男は艦隊に向かうという。先進諸国から差し向けられた最新鋭軍艦隊を相手に戦闘行為を始めるという。

 狂人の戯言は往々にして現実を伴わない。夢幻。だから実害の及ぼしようがない。

 だが、目の前に突如として現れたソレは? その成人男性の形をしたモノはどうだ? 丹田から湧き上がる不吉な予感が騎士にさらなる制止の言葉を口走らせる。

 幸運にも男の耳にその声は届いていた。

 

「ああ、わかってるって。殺すつもりなんて無ぇんだろ? おめぇ」

「ぁ、ああ……」

「なぁに心配すんな。ガキん頃からああいうのの相手すんのは慣れてっからよ。そんでぇ……そん代わりに一コ頼みがあんだ」

「は……?」

 

 脳の処理速度が大幅に遅延を来たしている。男の言葉の半分と彼女は理解していない。

 声がただ耳に入り込み鼓膜を刺激し脳がそれを意味ある言語であると認識する作業に従事する。

 しかし次の男の言葉は、呆けた頭を叩き割る。それほどの衝撃を備えていた。

 

「オラ、おめぇと闘いてぇ」

 

 真っ直ぐな瞳が己を射抜く。

 バイザーで隠された筈の我が目を捉えて、放さない。

 

 

 

 

 

 

 

 



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二話 GTinインフィニット・ストラトス

 

 

 

 薄い闇の向こうで揺れる光がある。それはゆっくりと揺らぎながら、けれど時折鋭く彼女の目を焼いた。

 閉じられていた目蓋が開く。まず目に入ったのは黒味さえ帯びた深緑の椰子の葉。そしてその遥か高みで煌く太陽に開けた目蓋を再び閉じられる。目眩を覚える程の眩しさに、彼女は殊更ゆっくりと横たえていた身体を起こした。

 その際、掌はきめ細かな砂の感触を覚える。純白に近しい天然の砂浜だった。

 遅れて潮騒の音色に気付く。その穏やかさは折角覚醒した頭の働きを大いに阻害した。

 

「ここは……?」

 

 それでも、突き動かされるように彼女は立ち上がり海辺へ歩を進めた。見渡す限りのマリンブルー。遠浅の海の両サイドは人目を払うように岩礁で塞がっていた。南国にあるプライベートビーチとやらは正しくこのようなロケーションなのだろう。

 呆けた脳がそんな月並みな感想を持った。

 

「…………」

 

 いい加減、眠気も晴れている。これは所謂現実逃避か。

 周囲に視線を這わせ、感覚を研ぎ澄まし気配を探る。それもごく短時間で済ませると、次に彼女は自己の状態を精査した。両肘と両膝から先を露にしたダイバースーツのような黒い高効率神経伝達繊維スーツが少女のしなやかな体躯を包んでいる。所々が裂け破れ、はしたないというかみっともない姿であるが、行動に支障はない。潮風に晒した腰まである長い黒髪が少し軋んだ。しかし、差し当たり五体は満足である。

 

「ぐっ!?」

 

 ただし全身に軽度の打撲、そして今更ながらに重度の疲労感が圧しかかってきた。パワーアシストを切った重装甲『IS』を着て丸一日素振りをした時以来の疲労感、或いはそれ以上かもしれない。

 片膝が砂地に埋まる。身動ぎするにもひどく億劫だ。

 

「IS……そうだ、私は…………! 『白騎士』は!?」

 

 一息に立ち上がったことで全身の血が下がり、ただでさえ万全でない身体は容易く揺らいだ。

 それをきつく奥歯を噛み締め押さえ込む。今は何よりも早く己の愛機を探さねばならない。『計画』は完遂したがしかしそれで終わりではないのだ。急ぎ友人と連絡を取る必要がある。

 そして何より――――ようやく手にしたんだ。いつしか肌のように馴染み、とうとう己のものとなった力。

 

「っ!」

 

 鉛のように重い身体に鞭打って浜を駆け出す。一歩踏み込む度に砂に足を取られ、ただ走るだけで余計な体力を消耗した。

 それでも意地になり海岸沿いを進み続ける。自分自身が生身でここに転がっていたのだから、存外すぐ傍にそれはあるやもと淡い期待を抱いた。しかし彼女は頭のどこかで往々にしてそういった期待が裏切られるのを理解していた。

 海岸沿いを隈なく探し続けても純白の騎士甲冑はなく、ただただ白い砂地が日光で彼女の目を焼くだけ。そして彼女は、さらにもう一つ知りたくもない現実を知る。

 

「島なのか、ここは……」

 

 400m程も歩いた頃、鬱蒼と生い茂っていた木々が突然途切れ、視界が拓けた。そこは小さな入り江になっており、陸地を海が深く切り込んでいた。いよいよ以てビーチリゾート染みてきた。とはいえ相変わらず木々は浜辺に沿うように茂り、林の向こうは闇ばかりだが、拓けたここからは内陸の様子をよく見通すことができる。

 森から地続きに小さな山があった。彼女の体調が万全なら全力疾走で十分と掛かるまい。

 それだけ。

 山の向こうには何も見えず、四方は海に囲まれている。

 

「…………」

 

 言葉もなく彼女は海沿いを歩いた。海上に鋭い視線を這わせながら。

 存外すぐ傍に陸地があり、ここはただの離れ小島か陸繋島の可能性だってある。同時に、先程から全身のあらゆる感覚器官を総動員して周囲の気配を探っている。生き物は、動物は、人間はいないか。ここが仮令無人島であったとしても特に問題はない。無人の島など全世界ありとあらゆる海に浮かんでいるのだから。そして付け加えるなら未発見の無人島など存在しない。航海、航空技術は進歩を極め、人はとうとう宇宙にまでその版図を広げようとする現代である。地球衛星軌道上には所属国家、運用目的の別あれど数百様々な人工衛星が周回し地球上の如何なる場所であろうとその監視網が届かぬことはない。在り得ない。

 頭は絶えず思索を続け、身体は逸るように足を動かし続けている。駆け出してしまわないのは疲労が思った以上に肉体を蝕んでいたからだ。

 途中砂浜が途切れ、剥き出しの岩場に差し掛かる。波が激しくぶつかる岸壁を見上げれば、切り立った崖の上で旋回飛行するカモメが己を見下ろしていた。

 幸い潮の流れは穏やかで、海面から顔を出した岩が其処彼処にある。

 

「……すぅ」

 

 静かな吸気。海水の臭いが鼻を抜け肺に溜まる。

 それにより乱れた呼吸と肉体が不完全ながら整調された。

 彼女は一息に跳んだ。

 

「っ!」

 

 直近5m先の岩の頭に着地、間髪入れず跳ねる(・・・)。岩にぶつかった波濤が白く砕け、宙を舞う少女の足に縋る。それが届くよりも遥かに早く彼女は瞬発した。同じく直近の岩場に蹴り付き、その反動のままさらに跳躍――そんな作業を六回程も繰り返す頃には、彼女は既に岩場を越えていた。

 彼女の足は再び脆い砂地を踏む。

 

「っはぁ……はぁ、はぁ、はぁ……この、程度で……!」

 

 少女の想定していた以上に体力の損耗が激しい。

 鼓動を早める心臓を抱えるようにして、それでも彼女はゆっくりと歩を進めた。今は何より現状の把握と己のISの発見が急務なのだ。

 

「連絡を取らなければ……今頃大騒ぎだろうな、(あいつ)め」

 

 おそらくは今も、実行可能なあらゆる手段を用いて自分を探し回っているだろう“友人”を思う。彼女は偏屈で人嫌いで変態で天才で、時に天にも昇るバカではあるが、一途に友達想いな娘だ。今回の騒動を引き起こしたのも元を辿ればそんな想いが原因なのだ。それを知れば、人々はその下らなさを呆れ、事の深刻さに憤り、常に絶対の法と容赦無い善意で少女達を責め立てるだろう。それは間違いではない。それが正当だ。ただ、それでも――――ささやかで他愛もない理由に絆され、一も二もなく縋り付いた。きっとそれはただ一つの救いだった。

 歩く毎に重みを増す身体を引きずって、少女はそれでも前へ進む。

 後戻りなどできないのだから。

 

 

 

 

 結局、気付けばこうして最初に目覚めた浜辺の椰子の下まで戻っていた。海岸沿いを延々歩き続けて得たものといえば、ここが完全な無人島で、またさらに悪いことに人が訪れた形跡すら無い(・・・・・・・・・・・)島であるという事実。周囲一帯に陸地は無く、下手をすれば海洋船舶の航路からも遠い可能性があるという発見だ。無論島の全域を隈なく探索した訳でも、時間を掛けて島周辺の海上の様子を窺った訳でもないのだから断定などできない。

 しかし、彼女は自分の予想がそれほど的外れだとも思えなかった。覚った、と言い換えてもいい。

 太陽はじりじりと肌を焼き、纏わり付く湿気がねっとりと熱を持つ。体にぴったりと張り付いたスーツの下で行き場を失くした汗が充満し気分を一層不快にする。

 そして、海岸沿いに己の『IS』を見付けることができなかったこと。少なくとも自身のいた近辺に無いとすると、事態は非常に深刻だ。

 ――海に墜落した時、強制除装された『IS』はそのまま海底へ沈没し、自身だけが島に流れ着いてしまったのだとしたら。

 

「……っ」

 

 暗澹と心は落ち沈む。精神力という支えを失った身体は為す術無く砂地に倒れ込んだ。

 目覚めた時点の焼き直し。椰子の枝葉から覗く空をぼんやりと眺めた。一つ違うのは、太陽が既に水平線近く傾いている点か。

 

「自業自得とはいえこれは、なかなか……」

 

 自嘲的な力ない笑みが浮かぶ。

 勝負を挑まれたから受けた……これが言い訳として成り立つのかも疑わしい。前触れなく唐突に現れた存在に驚き戸惑いながら、それでもなお相手から差し出された“闘い”に身を投じたのは紛れもなく自分の意思だった。子供染みた意地と矜持と、幼稚以前のこの度し難い感情を抑えきれず。

 力を手に入れたと思ったんだ。何者にも負けない、屈しない、強い力を。何者からでも大切な存在を守り抜くことが出来る力を。

 

「すまない、束……」

 

 それを与えてくれた友人に、己は酷い失望を与えたことだろう。友人に――無二の親友に恩を仇で返したのだ。その罪深さは計り知れない。

 負けてはならなかった。己は断じて敗北してはならなかった。何者が相手であろうとも、己に敗北は許されなかった。

 誓いが、あった。

 

「すまない…………すまないっ、一夏……!」

 

 たった一人、残してきた弟を思う。たった一人だけ残った家族を想う。

 無力を呪う。己の弱さを許せない。これで、この様で一体何を守るという。一体何を守れるというのか。

 噛み締めた奥歯が軋み、加減もなく握り締めた拳からはいつからか血が滲んでいた。

 もう一方の手で顔を覆う。こみ上げてくるものを抑え込み、飲み下すために。弱音など吐かせはしない。涙など流させるものか。(おまえ)にそんな惰弱は許されない。

 誓いが、あるのだから。断じて破れぬ誓いを(おまえ)は背負っているのだから。

 

「――――」

 

 慟哭は胸の奥深く封じられ、少女はただ心を苛む痛みに苦悶する。

 波立つ心を持て余した少女は、しかし強制的に現実へと引き戻された。

 ――――がさり、がさり。浜辺に面した林の向こうで、物音が立った。

 

「っっ!?」

 

 平素とは比べるべくもない緩慢さで、けれど瞬時に少女は跳ね起き、叢の闇に対峙した。

 

(この距離まで接近に気付かなかったとは、何たる……糞っ! 野生動物の類足音の大きさからして小動物ではありえないこちらは身体が衰弱している上に完全な丸腰だどうする? どうする!?)

 

 無手のまま構える。手頃な棒切れでも拾って置けばまだマシだったろうに。

 内心で迂闊な自身を呪いながら、頭では絶えず思索を巡らせる。そうしなければ、死ぬ。呆気なく、死ぬ。誰一人として例外はなく、来るべき“その時”が来れば人は死ぬのだ。容易く。虫のように。想いも執着も意志も心も何もかも無視されて。何の証も意味も残らない。無価値な死を遂げられる(・・・・・)

 今がその時なのか。

 その実感が少女の背筋を凍らせた。

 

「くっ、う、ぁ」

 

 足音が近付く。(おまえ)の死の足音が。

 (おまえ)を無価値だと嘲笑う。

 

「ぅ、ぅうぁあああああぁああぁああぁああ!!!」

 

 気付けば喉が、全身の震えるままに叫び出していた。その恐怖に耐えられず、その絶望を受け入れたくないと。

 身が竦む。歯の根も合わない。膝は笑い今にも崩れてしまいそうだ。いっそ目を瞑ってしまえたならどんなにか幸福だったろう。

 そしてそれは来た。

 

「――――――――――」

 

 茜色に輝く太陽を浴びて黒味さえ帯びた草葉を掻き分け、丸々太った猪の鼻先が突き出てくる。頭だけで90cmはある。

 

 少女の“絶望/死”が、遂に像を結んだ。

 

「よぉ」

「――――――――――え」

 

 そう思われた。いや、もはやそうとしか考えられなかった。

 だから少女は、それが自分に掛けられた声なのだと理解するまでに大変な時間を必要とした。

 叢から這い出てくる体長3m近い大猪。けれどそいつは自立歩行していない。前足はだらりと垂れ下がり、後足は力なく地面に引き摺られている。

 

「立ってて平気か? 辛ぇだろ無茶すんな」

 

 そんなことを、いかにも軽い調子で言うと少年は笑った。

 馬鹿に大きな猪を背負って、夕陽に輝く彼の笑顔はなんとも眩しい。

 

 

 その場違いな笑顔に、緊張の糸は脆くも切れた。

 砂浜に倒れこみ、遠のく意識の刹那に慌てふためく少年の姿を見る。どうしてか、その光景に弟を重ね見た。顔も声も背格好も似ても似つかないのに。どうして。

 ほんの一滴、安寧を抱いて少女は眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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三話 GTinインフィニット・ストラトス

 

 

 遠く遠く消え失せていた意識を呼び覚ましたのは全身を炙る熱気だった。

 それもじりじりと肌を焼く日光ではなく、もっと剥き出しの強い熱、純粋の炎であるらしい。

 うっすら開いた目蓋の向こうで橙の光が揺らめいている。時折ぱちりと薪木が砕け、炎に乗って火の粉が空に昇る。やや紺色を帯びた艶やかな夜空が己を見下ろした。

 さらに光の向こうへと焦点が当たる。小さな影がこちらを見ている。

 

「よぅ、気が付いたみてぇだな」

「ぁ……?」

 

 ゆっくりと、今度は注意深く上体を起こし、覚醒し切らぬ頭を振った。声の主は焚き火を挟んだすぐ向かい側で胡坐を掻いている。

 やや浅黒い肌、蒼色の胴着、黄色の下穿き、いずれも炎に照らし出され、果たしてつい先刻(さっき)出会った黒髪の少年が変わらずそこにいた。

 ……変わらず(・・・・)に?

 

(何が……変わるって、なんだ……?)

「? どうした? やっぱしまだどっか具合悪いんか?」

「え、あぁ、いや…………大丈夫、大事は無い」

 

 心配そうな顔で問い掛ける少年に慌てて応えを返す。すると少年はほっと息を吐いて笑った。

 

「そっかぁ。いつの間にかどっか行っちまってて、見付けたと思った途端ぶっ倒れちまったんで心配したぞぉ」

「それは、すまなかった」

 

 居住まいを正して、改めて少年と向かい合う。

 その笑顔があまりにも純粋で、ちくりと心が痛んだ。心配する顔も、安堵に息吐く様子まで、あまりにも純粋で。

 どうしてか、似ているのは背丈くらいのものであるのに、その澄んだ黒い瞳は弟を思い出させた。

 

「私の名前は、織斑(おりむら)千冬(ちふゆ)。君の名前を聞いてもいいか?」

「あ、そういやぁ自己紹介まだだったなぁ。オラ、孫悟空だ! よろしくな、千冬!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幅広な葉の上には、よく焼けた肉が乗っている。大きさは千冬の顔程もあるだろう。湯気を立てて肉汁が滴り濃厚な肉の香りが臭い立つ。

 獲れたて絞めたての猪肉だ。それに海水をぶっかけ豪快に丸焼きにしたものが千冬の膝の上に鎮座している。

 そしてこれはそのごく一部に過ぎない。

 

「…………」

「ん? どおひふぁひふう」

「いや、すごいな君。それ全部食えるのか」

 

 軽く3mはあった猪の大半を目の前の少年は既に食い尽くしてしまっている。ほぼ綺麗な骨の標本と成り果てた猪は今、少年の傍らで哀しげに横たわっていた。

 猪肉の総量は明らかに少年の体積を上回っていたのだが、果たしてどのような神秘がそこに働いたのか。

 謎だった。考えてはいけないことなのかもしれない。

 

「んぐんぐ……はふー、千冬もしっかり食えよぉ。じゃねぇと(りき)戻んねぇかんな」

「あ、ああ、頂く」

 

 新鮮な肉はそれだけで最高の食材である。豪快に齧り付いた肉の大ざっぱな仕上がりに反した味わい深さに千冬は驚いた。

 

「美味い……」

「だろ? やっぱし肉は丸焼きに限るな!」

「しかし程度というものがあるだろう程度というものが」

 

 弱りきった千冬の身体は貪欲にタンパク質を吸収していった。己の想定する以上に、やはり肉体は疲労している。

 無自覚だった空腹が満たされてくると、今まで回らなかった思考が働き始める。

 目の前の少年に対して、疑問はすぐさま湧いて出た。

 

「ん……君は、この島の住人なのか?」

「いや? 寝てる間に来てたらしくてよ、気が付いたらここにいたぞ」

「え」

 

 ぽろりと、今しがた食い千切った肉の欠片が口から落ちる。

 何の気なしの問いに返って来た回答はおおよそ予想外のものだった。千冬は慌てて質問を継ぐ。

 

「じゃ、じゃあ家族は? ご両親は近くにいないのか?」

「親? オラのか? う~ん神龍(シェンロン)が言うにゃあ生みの親っちゅうのはオラが生まれた後にいろいろあって死んじまったらしいけんど、流石に覚えてねぇなぁ。じっちゃんもオラの所為でもう死んじまってるし……家族っていえる奴はみーんなあの世だな」

「は?」

 

 一瞬、少年の口にする事柄が千冬には理解できなかった。

 特に気負った素振りも見せず、あっけらかんとしてとんでもないことを少年は言った筈だ。話の内容の重さとその軽い口調との食い違いが、ひどい違和感と非現実感を齎す。

 だのに千冬はどうにも少年の話を嘘とは思えなかった。純朴を絵に描いたようなこの少年が嘘を吐く理由が分からない。

 何よりその目が、千冬を無条件に信じさせた。

 

「こ、この島に、ずっと一人で、か?」

 

 今度は殊更恐る恐る、千冬は少年を見て言った。それはとても残酷な問いに思えたから。

 無人島にたった一人きりで、この世のどこにも家族はいない。それはきっと――真正の孤独だ。

 けれど少年は、悟空は、千冬の恐れに気付いた様子もなく、その変わらない無邪気な口調で。

 

「ずっとってほどじゃねぇさ。つい昨日からだ」

「昨日……? 何か事故があったのか? 旅客船、それとも飛行機の墜落事故――――」

「おめぇと闘うちょっと前だぞ」

 

 変わりようのない無邪気な、弟にはぜんぜん似ていない筈の笑顔で。

 

「たたか、う?」

「ああ、軍の奴らを追っ払った後闘ったじゃねぇか。忘れちまったのか?」

 

 悟空は首を傾げ、千冬の目を覗き込む。まるで小動物のようなその仕草に毒気が抜かれた。

 一つ深く息を吸って内心の動揺を鎮める。もとより下らない妄想だ。

 

「君は、そうか、あの男の知り合いなんだな。私とあの男の戦闘をここから見て……」

「?? おめぇなに言って……あ、そっか! おめぇと会った時はこの姿じゃなかったもんなぁ。分かんねぇのも無理ねぇや」

 

 少年は立ち上がった。揺らめく炎の向こう側、彼はとても近く、だが決して近付くことのできない場所に立っている。

 

「見た方が早ぇか」

 

 不破、不可視の壁がある。そんな、絶望的な隔たり。

 千冬の背筋に走る悪寒。寒い訳あるか。ここは熱帯湿潤の南国の島なのだから。

 ではこの、言いようの無い感覚は何だ。全身を支配する震えは何だ。噴出するこの冷たい汗は、乱れ跳ねる心臓は。

 この感情は何だ!

 悟空は悠々と焚き火を横切り、そのまま千冬の傍を歩き去る。視界の外に消えた少年を千冬は慌てて振り返った。

 そしてそこにいたのは――――

 

「な?」

 

 一音、疑問符と共に発したただそれだけでその“男”の言わんとすることは明白、瞭然、(あらわ)わとなっていた。

 

「おまえは、なんだ」

「オラ、孫悟空だ」

 

 やや浅黒い肌、蒼色の胴着、黄色の下穿き、同じ、同じ、色彩も印象も何もかも。ただ一点、少年から大人の男性へ成長した体躯・極限に鍛え上げられた肉体、その変化のみ。相違点はそれだけだ。

 孫悟空という少年と、孫悟空と名乗るこの男は同一人物だ。

 目の前に在ってもなおその在り得ない事実を、しかし千冬は受け入れていた。信じられた。

 千冬は知っている。己を打倒した男の実在を。

 千冬は知った。少年の笑顔に抱いた違和感の正体を。

 

「おまえ、は――――」

 

 同じだ。同じ笑み。雄大で、悠然と、泰然自若としたその笑顔。力強く揺るぎない、決して揺るがない存在を顕した貌だ。

 あの空で、己が敗北した――――

 

 瞬間、視界は赤く染まる。

 燃え盛る炎とは違う、それは赤熱した血潮と感情。

 知らず知らず、拳を握っていた。砕けるほどに歯を食い縛っていた。

 脚部が瞬発し、背筋が反り返る。振り被った腕は引き絞った弓の弦、拳は番えた矢。

 

「っっっ!!!」

 

 射出された(ボルト)は過たず男の左頬を目指し、飛んだ。肉体が負う重度の疲労を無視した瞬間的フルパワーの打撃。速度、軌道、踏み込み、全てが在り得ないほどに完璧だった。

 そして間もなくそれは着弾した。

 男の掌に。

 

「おっとと」

「――――ぁ?」

 

 拳が触れた直後、その打点を基点として衝撃波が奔った。

 二人の周囲へ爆散する破壊力というエネルギーはあらゆるものを薙ぎ払う。砂浜はもとより、傍らの焚き火も薪木も猪の骨も巻き込んで。

 男は無傷だ。

 傷を負ったのは、人間という領域を逸脱した所業を為し、その代償を支払う千冬のみ。

 

「――――っ! はぁっ! はあはあっ、かはっっ!? ひっぎ、はあっはあっはっ!!」

「! だから無茶すんじゃねぇ! おめぇオラと闘った時全部の気を根こそぎ使い果たしちまったんだぞ?」

 

 膝からくず折れる。肉体の筋組織が全て鉛に変わった。対して骨は代わりに綿でも詰められたかのように頼りない。

 己の意志では身動ぎ一つ取れない。だのに呼吸困難を来たした身体は痙攣し続けた。陸に打ち揚げられた魚と同様の無様。

 酸素を求めて口から涎を垂らしながら喘ぐ。

 そのまま前のめりに倒れ掛かる千冬の身体を悟空が受け止めた。

 

「待ってろ」

 

 悟空は千冬を仰向けに寝かせ、その上から掌を翳した。

 直後、悟空の掌が光を帯びる。途切れ途切れの意識の狭間で、人間の体温以上の、日の光にも近しい熱を千冬は感じた。

 肌を焼いていたその熱は次第に千冬の体全てを覆っていく。同時に、乱れた呼吸が、常軌を逸した肉体の重圧が和らいでいく。

 

「な」

 

 驚く千冬を置き去って、男はそっとその場を離れる。

 大いに戸惑いながら千冬は己の身体を見下ろす。肉体は全快とは程遠いまでも、運動に支障のないレベルまで回復していた。

 

「これは、一体……!?」

「オラの気を少し分けた。おめぇが動く分には足りんだろ……そら、続き始めっぞ」

 

 男は浜辺を歩き、十歩ほどの距離を置いた所で千冬に振り返った。未だに座り込んだままの千冬をその黒い瞳が見下ろす。

 灯の消えた浜辺を蒼白い月光が照らした。潮騒を除いて僅かな物音さえも今は無い。

 その言葉、その目が物語るように、男は月下で千冬を待っている。

 

「続き、だと」

「ああ、おめぇオラと闘ぇてぇんだろ?」

「…………」

 

 男の言葉は千冬の思考を正しく言い当てていた。

 

「おめぇが何をそんなに焦ってんのかは分かんねぇけどよ。闘ってそれがどうにかなるんなら幾らでも付き合ってやっぞ。つってもまあ、最初に喧嘩吹っ掛けたのはオラだけどな。ははっ」

 

 言葉尻も軽く悟空は笑う。

 千冬はその飄々とした態度に苛立った。重く気負う自分に対して男の精神のなんと落ち着き払ったものか。

 すっくと千冬は立ち上がる。浜砂を踏み締め、悟空を真っ直ぐに睨みつける。

 

「……行くぞ」

「ああ」

 

 ごく短い応酬。直後、千冬は駆け出した。蹴り足で後塵を飛ばしながら、十歩の隔たりを三歩で縮める。

 そして間合いに接すると同時に悟空の顔面目掛け拳を放った。

 

「はぁっ!」

「ふっ」

 

 裂帛の気合に静かな呼気が応え、千冬の速く重みのない(・・・・・)拳を悟空の右前腕が弾く。

 千冬は己の拳が弾かれたと同時に、中段、悟空の鳩尾へと掬い上げるように突きを放っていた。

 そうして放たれた拳は待ち構えていた悟空の掌へと収まる。凄まじい打撃音が大気に響くも、悟空に何程の痛痒も見えない。

 

「ちっ」

 

 強引に手を振り解き、千冬はその場から跳び退る。悟空は追撃を掛けなかった。

 千冬は悟空を中心に、円を描きながら駆ける。悟空はそれを視線だけで追いかける。

 そしてとうとう悟空の視野の外、背後を正面に据えて千冬は踊り掛った。

 視界外からの強襲。ほんの一瞬でもいい。一寸の不意を千冬は活用する。

 跳躍から回転、側頭部へ向けての後ろ蹴り(ローリングソバット)。竜巻めいた旋回力の蹴りで砂塵が舞い上がる。しなやかな脚は空間を切り裂いた。

 

「…………」

「!?」

 

 その蹴撃を、悟空はあろうことか一瞥もくれずに腕で受け止めた。

 驚愕を飲み下し、砂を削りながら停止、反動のままに千冬の身体が跳ね上がる。左手海側にやや身を投げ、鋭角な軌道で接敵、転身して右裏拳を叩き込む。それも軽く払われ、続いて左脇腹へ向けて振り被った正拳突きは――――

 

「だりゃぁあ!!」

「がはっ」

 

 気付けば千冬の身体は宙に投げ出される。平衡感覚が消える。重力の所在を見失う。

 千冬が打ち込む寸前、低く身を沈めた悟空から左拳が打ち込まれたのだ。

 空中から遠ざかる対敵の姿を見る。ほぼ直立……棒立ちだった筈の男がいつの間にか構え、拳を放って残心している。

 

(いつ動いた!?)

 

 それは寸分の狂い無く千冬の腹を捉えた。

 吹き飛ばされた身体がようやく重力に引かれ、海面へと落下する。液体を突き破る感覚と共に、千冬は遅れに遅れて腹部の激痛に気が付いた。

 腹筋から背骨までも貫く衝撃。大型動物の突進を受けてもこうはなるまい。強大な一撃をただ叩き付けることと一点に集中して打ち込むこと、それぞれが齎す破壊のどちらがより強烈であるかなど言うまでもない。

 

「ばっ! はぁはあはぁはぁ! ぎっ、ぁが……はっ、っず……!」

 

 海中でいつまでも思索を巡らせていられる訳もなく、千冬は空気を求めて慌てて立ち上がった。その際、腹の痛みが否応無く彼女を苛む。呼吸するだけで痛みは内臓まで響き渡った。

 痛みを堪え、千冬は海岸を睨む。遠浅の中ほどから浜まで50mはあるだろう。大した飛距離である。

 悟空は、浜辺から千冬を見ていた。

 

「っ」

 

 千冬の身体が震える。

 少女を見詰める男は、その飄然とした雰囲気をそのままに、瞳だけが異様な鋭さを放っていた。

 悟空が一歩踏み出した。千冬の猛攻を受けてなおその場から一歩も動かなかった悟空が、千冬の立つ海へと向かって来る。

 水に濡れるのもお構いなしに悟空は海へ入っていった。ずんずんと、一歩一歩前へ。千冬の元へ。

 

「ぁ……」

 

 真っ直ぐに、一瞬たりとも千冬から目を逸らさない。

 今、悟空は千冬だけを見ている。千冬以外を見ていない。

 

「あ、ぁ……ぁ」

 

 千冬の身体が、震えた。

 水に濡れた寒さがそうさせるのか。震えは次第に強く、全身を瘧のように支配していく。

 そして、もはや悟空と千冬の距離は手を伸ばせば触れられるまでに近付いていた。

 少女の眼前に男が立つ。

 

「さあ、続きだ」

「ぅ、あ、ぁ……」

「最初はオラからだったけどよ」

 

 凪いだ波が静かに足を打つ。静かに。

 夜空の下で、海の中に悟空と千冬だけが佇んでいる。水平線と空の境界が失われた無限の世界で、悟空と千冬だけが今この時だけは地球上に存在するたった二つの生命だった。

 

「二度目はおめぇだ。おめぇが()りてぇって言った……っつうか殴ったな。なら、とことん闘ろうぜ。おめぇが恐がってること吹っ切れるまで、とことんな」

「…………え?」

 

 見下ろす悟空の視線が一瞬和らぐ。それは少年の姿だった時と同じ、無邪気で穏やかな眼差し。

 優しい両目が千冬を見下ろす。いつしか震えは止まっていた。

 

「………………………………」

「? 千冬?」

 

 男が少女の名前を呼んだ。

 その声さえもどこか遠く、千冬はただ力なく項垂れる。今になってようやく彼女は理解したから。

 

(勝てない、絶対に……私は、この男に……)

 

 出会ったその瞬間、既に敗北していたのだ。

 

 

 

 

 

 千冬は己の胸に抱える“恐怖”を語った。

 まるで神からその許しを乞うように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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四話 GTinインフィニット・ストラトス

 

 

 

 織斑千冬は自身の両親によって捨てられた。

 それ以上でもそれ以下でもなくそれ一つが端的で簡素な事実である。

 彼らが何故千冬を捨てたのか――――その理由を千冬は特に知りたいとも思わない。解りたいとは思わない。

 小学校に上がる少し前に織斑千冬は育児放棄による孤児の一人となった。事実はそれ一つきりで終わっている。何一つとして変わらない。

 幾らかの怒りや悲しみや、絶望のようなものを感じたろうか。それら諸々の感慨はおそらく湧き出た時点で完結していた。千冬にすればそんなものはさして重要なことではなかったから。

 二人の親は消え去っても、千冬にはまだ家族がいた。たった一人の、八歳違いの弟が。自分達が捨てられたのだと覚った次の瞬間には、千冬は粉ミルクと換えのオムツの残量と、洗濯物の溜り具合のことしか考えていなかったのだ。

 そしてもう一つ、心が決めていた。覚悟だとか決意だとか大仰なものはなく、ごく自然に心がそのように切り替わった。

 

 私が一夏を守る。

 

 乳飲み子の弟をその腕に抱きかかえて、千冬は穏やかに微笑んでいた。

 

 

 この日本という国で親のいない子供が独力で生きていくことはほぼ不可能である。それは経済的な問題はもとより法律上の不文律として、未成年者は単独ではあらゆる法的行為に制限がある。

 そして様々な理由で親の養護を受けられない子供は施設か里親の元へ送られる。それは権利だが、同時に強い義務だ。

 千冬にとってそれは断じて避けねばならないことだった。まだ乳児の一夏は児童養護施設ではなく幼児院に預けられる。最悪(最良?)の場合、何処かの親切な他人が彼を引き取ってしまうこともありえた。彼一人だけを。

 

 それだけは――――嫌だった。

 

 離れ離れになってしまうのは嫌だった。

 世界でただ一人の家族を守るのは自分だから。自分だけだから。

 

 だから、千冬は篠ノ之(しののの)の家へ頭を下げた。近所付き合いがあり、何より千冬が通っていた剣術道場の当主であり家長である篠ノ之(しののの)柳韻(りゅういん)とは浅からず交流があった。

 というより、頼れる伝手はそこしかなかった。

 当時の千冬には平身低頭、額を床に擦り付けることしかできなかった。稀代の神童などと持て囃され、道場や他流試合でも当時から無敗を誇った千冬にできたことが唯一それだった。

 己と一夏がこれから先も一緒に生活を続ける為には法的保護者を担ってくれる後見人が必要なのだ。ガキ一人が息巻いたところで、赤子を抱えて冷徹な社会を生き抜ける訳がない。結局は、大人に縋るしかない。

 

 無力だった。

 千冬は、己の無力を憎悪した。

 

 一人の人間を成人まで育て上げる為に必要な労と手間と金は膨大であり莫大だ。一定の期間、少なくとも千冬がそれらを創出する手段を獲得できるまで、多少の縁を笠に頼ることのなんと恥を知らない。

 篠ノ之の父御はその意味で、凄まじいまでの罪悪感を千冬の胸に齎した。人格者たる彼の善意は、最上の痛みを伴い胸に突き刺さった。

 

 千冬は実社会において紛れもなく弱者だった。

 弱い自分が許せなかった。

 

 その後、小学校へ通い始めて集団に属するようになると、千冬の想いは強迫的に増大していった。

 人間が一定数集まると様々な特色が見えてくる。気の強い者、弱い者、力の強い者、弱い者、虐げる者――虐げられる者。どちらが幸福で、どちらが不幸かなど比べるまでもない。一様に、涙を流すのは、痛みに苦しみ嘆くのは、不幸を背負うのは、弱者だった。

 そして何より千冬を恐怖させた現実――――苦痛を背負わされた弱者達の心は歪んだ。怒り、悲しみ、恐怖、憎悪、一度でも負の感情で染まった心は、醜く、黒く、(おぞま)しく、歪んだ。

 

 弱者が、自分以下の弱者を虐げる。

 否、“弱者”を虐げるのはいつだって同じ“弱者”なのだ。

 

 その事実に、千冬は戦慄した。

 つい昨日まで笑い合っていた、友達同士だった、これからもそうだと信じて疑わなかった。

 その友達を、彼らは笑って虐めていた。楽しそうだった。その瞳は安堵で安らぎ、愉しげに光っていた。今まで自分達が被ってきた痛みを他者へと与える快楽は彼らをすっかりと酔わせていた。

 その光景が、あの笑みが、あの瞳が、千冬の脳裏に焼き付いて離れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな時だ……(あいつ)が、私に“強さ”を与えると言ってきた」

 

 千冬は力なく海の中に座り込んでいた。水面には暗く淀んだ瞳が映る。それが自分のものだと気付くまでに、千冬は幾許か時間を要した。

 

「藁にも縋る、なんて言ったらあいつは怒るだろうな……ただ、私が追い詰められていただけだ」

 

 自嘲的な、歪んだ笑みを無理矢理刻み、千冬は過去を振り返る。

 過大も過小も無い真正の“天才”、そう呼ばれた友人が開発した宇宙開発用高機動マルチフォーム・スーツ。人の脆弱さを恐れ、強さに執着し続けた千冬に、現代の人類には開発不可能としか思えない超科学技術の結晶を彼女は与えたのだ。

 

「通称を、そう……『無限の蒼穹(インフィニット・ストラトス)』と」

「おめぇが着てたあの鎧みてぇなやつのことか?」

「……ああ、それが……お前にとってはただの(・・・)鎧でしかないそれは、私にとって……」

 

 縋ることのできるただ一つの藁だった。

 

「信じていたんだ。無条件に信じられた。あいつは天才だ。私が一番よく知っている。そして信ずるに足るだけの力がISにはあった……私が欲して止まなかった絶対の力が、そこにあったんだ!」

 

 水面が揺れる。千冬の声に、叫びに波紋を描く。それは虚しく海中を伝い、暗い暗い海底の砂と同じように山積するだけだ。

 

「これさえあれば、これが世に出れば、私は誰にも負けない。誰よりも強く在れる。どんなものより強くなれると…………一夏を守れると思った。一夏の不安も悲しみも全部消し去ってやれると、そう思った」

 

 事実、全世界に点在するあらゆる軍事、兵器開発施設より発射された2341発ものミサイルを全て斬り落し、撃ち落し、事態に気付き施設のコンピュータをハッキングした犯人の居場所をいち早く(束の仕掛けにより)発見した各国軍隊を一切の死傷者を出すことなく退けた。

 その途方も無い所業を容易く実現せしめ、人道を踏破する超能を与える“力”。政治、経済、軍事、世界を変革せしうるだろう“力”。

 

「力を得たと思ったのにっ! お前が! お前が現れた!!」

「…………」

 

 顔を上げればそこに、変わらず男はそこにいる。長い長い千冬の告白をじっとその場に佇んで今も耳を傾けている。

 自身を打ち負かした男。自身が敗北した男。世界で初めて織斑千冬に敗北を齎した男。

 

「お前を初めて見た瞬間解った。絶対に勝てないと……闘わなくても解った! いいや、そうだ、初めから闘う必要すらなかった。でも……それでも…………逃げる訳にはいかなかった」

 

 ゆっくりと千冬は立ち上がる。滴る海水が水面を弾く。

 長い黒髪はしとどに濡れて、顔に張り付き彼女の表情を隠す。

 絶対に勝てない。相対しただけでその圧倒的な強さを理解できる、そんな悟空が、千冬はどうしようもなく恐ろしかった。

 

「それでも闘わなければ、私は断じて負ける訳にはいかない! 私には守るものがある。その為に私は強くなければならない。敗北して――弱者になる訳にはいかない!!」

 

 拳を血が滲むほどに握り締め、喉が裂けるほどに叫び散らす。

 そうしなければ、千冬は己を保てない。

 

「弱い私では、一夏を守れない……弱い私は――――一夏すら見捨ててしまうかもしれないっ」

 

 

 ここに、千冬の恐怖があった。

 

 

「そんなのっ、いや……!」

 

 足から力が抜け、再び千冬は海に身を沈めた。今度こそ二度と起き上がれないかもしれない。体を包む海水がどこまでも重く彼女を押し潰すのだ。冷たい。寒い。体温も気力もなにもかも、千冬の中の暖かなもの全てが奪われていく。

 項垂れる千冬の頭上で、静かに息を吐く気配があった。

 

「おめぇが弱ぇ訳ねぇだろ」

「強い訳がないだろう……」

「オラに負けちまったらそいつは弱いってことなんか?」

 

 悟空の声音には明確な呆れが含まれていた。その遠慮の無さが、千冬の苛立ちを駆り立てる。

 

「私は誰にも、負けてはいけなかった! 誰にも、一度たりとも……!!」

「そんなのは無理だ」

 

 千冬の海をも揺るがさん怒声に動じる様子もなくぴしゃりと悟空は言い放つ。それは有無を言わせぬ否定だった。

 

「誰にも負けねぇなんて無理だ。どんなに強くたって、どんなに修行したって負けちまう時は負けちまう。自分より強ぇ奴なんてのはこの世にゃいくらでもいんだぞ?」

「それは……そんなことわかってるっ。なにより身を以て思い知った! でも、それでも私は……」

 

 それが世の常であることは、未だ年若い千冬とて理解している。上には上が、強者はさらなる強者によって弱者へと突き落とされる。力はいつ何時であっても厳正に、残酷に、結果だけを齎す。

 知っている。千冬は知っているのだ。

 

「弱さは人を変える。歪めるんだ。自分可愛さで、簡単に大切なものを捨ててしまえるんだ!! 友達も、人としての尊厳も、家族さえ……実の子供だってっ!」

「…………」

「だから……私、だけは、負けちゃダメなんだ……」

 

 言葉は消え入るように水面に溶ける。

 黒い海。潮の生臭さ。潮騒。風のざわめき。それ以外ここには何も無い。

 意味あるものが千冬の中から失せていく。

 こんな自分は無意味だ、無価値だと心のどこかが嘲笑い、そして憤怒する。

 

「そっか」

 

 代わりに空っぽの胸を埋めたものは、どろどろとしてひどく不快で、悍しいもの。

 タールのような絶望が満ちていく――――

 

「千冬」

「――――ぁ」

 

 暗く、黒い海に沈んだ千冬の体が浮上した。絡み付くような冷たい海水から千冬を引き上げたのは、悟空だった。

 千冬の体が持ち上がる。脇に手を回され、さながら抱き上げられる子供のように。事実男は少女をそのように扱う。十代の半ばにも達しない少女が子供でなくてなんだという。

 そして悟空は、そのまま千冬を抱き締めた。その分厚い胸板に千冬の顔を押し付け、すっぽりと包み込んでしまった。

 

「なん、なにをっ」

 

 当然ながら千冬は抵抗した。会ってたかだか数時間の、見ず知らずの男に抱かれて嫌がらぬ方がどうかしている。

 しかし今の千冬に、悟空に抗えるだけの体力など残ってはいなかった。数回、力なく悟空の胸を叩く。たったそれだけが精一杯。

 

「強ぇなぁ、おめぇは」

「は……?」

 

 この上さらに千冬は混乱した。滔々と語り通した己の過去を、苦悩をこの男は本当に聞いていたのだろうか。

 

「そんな訳、ない」

「あるさ。おめぇは強ぇ」

「そんな訳ない!!」

 

 千冬は絶叫する。声は男の胸にぶつかり、いやにくぐもって響いた。

 そして少女の手は、知らず男の胴着を握り締めていた。

 

「だって、私はお前に、負けて……」

「誰だって負ける時は負けちまうもんだ。今日のおめぇがそうだし、もちろんオラだってそうだ」

「私は弱くて……弱いから、何も、誰も、守れない……!」

「そんなことねぇ。おめぇは今もずぅっと“イチカ”のこと一番に考えてんじゃねぇか」

 

 嫌々とむずがる子供のように千冬は否定し続けた。震える体は止められず、鼻はつんと痛みを発し、きつく閉じた目蓋は熱を持つ。

 ふと、頭に無骨な感触があった。それが男の手だと気付くのにさして時間は掛からなかったが、頭を撫でられているのだと気付くには意外なほど時間を必要とした。ずっと忘れていたものだ。不慣れで、落ち着かない。だのに、こんなにも懐かしい。

 

「ぁ……」

「恐かったんだなぁ。負けっちまうのが。闘って負けるのなんて初めてだったんだろ?」

「……っ」

「そんで悔しかったろ。無理もねぇや。なまじっか元から強ぇと悔しさも人一倍すげぇもんさ……ベジータの奴もそうだったかんなぁ」

 

 悟空はどこか嬉しそうに言った。顔が見えればきっと笑っているに違いない。

 頭を撫でて、軽く背中を叩く手、顔を埋めた大きく分厚い胸板、波音よりも穏やかな声音。冷えた千冬の身体に男の熱が沁み込んでくる。

 どこか他人事のように千冬はそれに身を委ねていた。

 

「弱くなんかねぇ。弟の為に今までずっと頑張ってきたんだもんな」

「っ……うっ、く……ぅ…………」

「おめぇは強ぇよ。今はちょっと躓いちまってるけんど、なぁにすぐ立てるようになるさ」

「ふ、ぅ、ぁ……あぁっ……!」

 

 この喉から漏れ出る声は自分のものなのか。力ない響きがいかにも情けない。けれどどうしても堪えることはできなかった。

 目から零れ落ちる熱い滴が男の胴着を汚していく。それは止め処なく、溢れ続けた。

 

「わ、たしっ、不安、で……こわくて……っ……一人じゃ、一夏を゛……でも、ひとりでやらなきゃ、わたしだけが、かぞくだからっ!」

「うん、うん、そうか。でもよ、一人で全部引き受けちまうことなんてねぇぞ。それじゃあ辛ぇばっかだろ」

「で、も……でもっ……」

「でももなんもねぇ」

 

 一夏を守る。その誓いを胸に抱いたあの日から千冬は泣かなかった。涙を流す甘えを自分に許さなかった。

 この男の、無骨な手が、厚い胸が、優しい声が、全身を抱く暖かさがそうさせる。千冬の心を揺さぶって止まない。

 

「決めた! オラが修行つけてやるよ」

「え……?」

「オラもおめぇと同じだ。今よりもっともっと強くなって、世の中のいろんな強ぇ奴と闘いてぇ! もちろんおめぇとだってそうだぞ、千冬」

 

 突拍子もないことを男は言った。千冬は嗚咽も忘れてぽかんと悟空の顔を見上げる。

 悟空は、笑っていた。その、千冬を真っ直ぐに見下ろす瞳は夜空の下であっても爛々と輝いている。

 真っ直ぐな目は優しくて、けれどどこまでも力強い。千冬はいつまでも目を放せなかった。

 

「だからあんまり無茶すんな。オラ、またおめぇと闘いてぇ!」

「っっ!」

 

 飾り気の無い言い回しで、男は少女を必要だと言った。ただそれだけのこと。

 たったそれだけで、声も憚らず千冬は泣いた。泣いて泣いて泣きぬいた。十年余りも置き捨てた子供時代を取り戻すかのように。

 空が白み、遠く水平線に朝日が昇るまで千冬は悟空に縋り付き、ただ泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千冬が日本に帰国したのはそれから数日後のことだった。

 一晩を泣き明かした翌日、酷使を続けてとうに限界を迎えていた千冬の身体はその限界を超え、それから丸一日休眠状態に陥った。死んだように眠り続け、もう半日後にようやく目を覚まして、身体が十全に動かせるようになるまでさらに二日程。常人ではありえない速度の回復力とはいえ、千冬は短くない時間を島で過ごす破目になった。

 何処とも知れない無人島での出来事を千冬は終ぞ誰にも語ることはなかった。その時間が、千冬にとってどのような意味を持つのか、それは千冬だけの秘密だ。

 

 帰り着いた千冬をまず出迎えたのは一夏と(ほうき)二人分の涙と泣き声で、続いて養い親の柳韻からは厳しい叱責を頂戴した。いずれも胸が締め付けられ、自分が家族にどれほど心配を掛けていたのか、自分の仕出かした事の重大さを思い知らされる。

 それでも己を出迎えてくれる篠ノ之の家の優しさが、千冬にはなによりも堪えた。

 同時に、千冬は一人の友人を思う。

 

 未だ束の行方はようとして知れない。

 千冬を日本へと送り届けた時点で、篠ノ之束は姿を消した。篠ノ之の家に帰ったのは彼女ではなく千冬だった。ここは彼女の家で、千冬を出迎えたのは彼女の家族で、どうしてか千冬がその優しさを噛み締めている。彼女にこそその権利がある筈なのに。

 胸の奥でちくりと痛みを発するそれは、束に対する罪悪感だった。

 千冬と束は共犯者だ。仮令千冬にその意図がなく、あるいは全てが束の書いたシナリオであったのだとしても、そんなことは問題ではない。全世界に対する壮大なマッチポンプ。日本という国を的にして誘導ミサイルで矢払いの真似事をした。一人の少女が創り、けれど世界は見向きもしなかった空想の産物――『IS』を正しく現実として知らしめる為に。

 だから、千冬には責任がある。近い将来ISによって激変していくだろう世界と向き合い、結果を受け止める責任が。

 

 いつの日か束と再会したなら話をしたい。千冬があの島で得たもの――失ったもの。そして何より感謝を言いたい。束は千冬に、超常の力でもISという兵器でもなく、掛け替えの無い“切欠”与えてくれたから。

 

 

 そうして、あれよあれよと時間が過ぎ、千冬が帰国して早一ヶ月が経とうとしていた。

 

「…………」

 

 束は帰らず、けれど日常は何一つ変わることなく過ぎていく。

 そして未だあの男も現れない。

 

 篠ノ之神社。篠ノ之柳韻が神主を務めている。千冬が小学生の頃まで通っていた篠ノ之道場もまた神社と同じ敷地に隣接している。稽古の帰りに、そのまま篠ノ之の家で夕飯を一夏と御馳走になったのも一度や二度ではない。そして今日も、篠ノ之の家は千冬と一夏を暖かく迎えてくれた。

 日が沈んでもう随分。山の頂に建つ神社の境内からは、夜空に浮かぶ星の瞬きがよく見えた。

 

「…………」

 

 風呂上りの浴衣姿で、おもむろに境内を散策に出たのは焦燥感か、それともここ一ヶ月越しの手持ち無沙汰を埋める為か。

 千冬と束によって引き起こされ、またその手で解決された事件――後に『白騎士事件』と銘打たれたそれは、今やテレビ、新聞、ネット、書籍etc...ありとあらゆる情報媒体を席巻している。一月という時間が経過しようと、色褪せるどころかISという存在が、その理論が、超科学が明らかにされるほど世界はその一事一色に染まりきっていく。

 世界各国でIS研究機関が設立され、数多の学問分野の先駆者達がISを躍起になって研究し、調査し、一刻も早いその理論の究明を求めていた。そしてその研究材料を提供しているのは誰あろう開発者たる篠ノ之束だ。

 そう時を置かず、世界はISで染まる。千冬には確信に近い予感があった。

 世界は変わるだろう。ISという存在が前提に置かれ、世界は過去に類を見ないパラダイムシフトを起こす。

 

『楽しみだねぇちーちゃん!』

 

 どうしてか束の笑顔を思い出す。世界の激変さえ彼女の脳内では想定済み、いや、彼女の思い描く“変化”には程遠いだろう。

 だが束はやってのける。彼女は人智を凌駕した“天才”なのだから。

 

 ――――では、自分は。

 

 武道を歩んで、闘いという領域に自分なりの才覚を見出した。

 人類史を顧みてもそれなり(・・・・)の天賦が己にはあるそうだ。古流剣術の奥伝を修め、今なお研鑽を重ね続ける武人柳韻はにこりともせず千冬に言った。

 

『お前は、事武力という領域において無二の存在だ』

 

 子供騙しの冗談かと思ったが、成長と共に千冬はそれを疑うのが難しくなっていった。小学校入学間際に羆を素手で、反撃も許さず仕留めていれば、その自覚は驕りではなく正しい自己認識といえるだろう。

 束が“知”の天才ならば己は“武”の天才。そのようなものかといつしか疑うことを辞めた。

 天がどんな気紛れで寄越したのかなどどうでもいいことで、才能ならばそれを最大限に活かすよう千冬は努めた。研鑽は余念を知らず、上り詰めた武の頂は一つや二つに留まらない。

 強くなることを求めた。柳韻が口にした無二の存在になることで、一夏を守れると信じた。

 けれど、柳韻は間違っていた。きっと千冬もどこかで勘違いをしていた。千冬を見る世間の目もなかなか節穴だったらしい。

 

 千冬はある日突然突如として唐突に敗北を知った。

 訳も解らない、初めての経験だった。

 何も理解できないで、頭の中はぐちゃぐちゃに掻き回され、今まで信じてきた常識も頼みとしてきた才能も力も実は取るに足らないものなのだと思い知らされて。

 

 何故か優しくされて、泣いた。

 

 世界は刻々と変わり続けている。友人はその変化をさらに激しく、変化が混沌(カオス)へ往き着くまで掻き乱すだろう。その胸の内に秘めた想いを叶える為に。信念に従って。

 では、信念を砕かれた己はどうすればいい。家族を守るという一念によって築き上げてきた心の牙城を圧し折られた己は――――弱い己を知った私は。

 

「……お前が」

 

 私にそれを教えてくれる、筈だろ。

 だのに。

 

「お前は、」

 

 ここにいないじゃないか。

 

「悟空……」

 

 虚空にその名を呟いた。夜の空気にそれは薄く溶けていく。

 

「悟空……悟空…………」

 

 それでも、何度も何度も千冬は呟いた。夜風に騒ぐ木々よりも弱々しく、叢で歌う虫の声より自信ない。

 もしかしたら全ては夢で、自分が見たのは都合の良い幻だったのか。弱い私が耐えられなくて、心はありもしないものを創り出した。

 

「…………悟空っ」

 

 それでも千冬は、その男を呼び続ける。

 夜空を見上げた。瞬く星は儚げで、いつしか夜闇がそれを飲み込んでしまいそう。月はどこだろうか。暗い夜を照らしてくれる月の光は。

 

「悟空っ!」

 

 轟、一際強く風が林を薙ぎ払った。

 風は境内を吹き抜け、千冬を背後から包み込む。湿った髪が頬に冷たい。

 思わぬ風の強さに、千冬は背後を振り返った。

 

「え?」

 

 ――――夜の下で燃え盛るような“紅”を見た。

 獅子の鬣のように伸び逆立った黒髪、全身を鎧の如く包む隆起した筋肉。そしてその肉体の両腕から腹にかけてを紅蓮色の体毛が覆っていた。腰元からは同色の尻尾がしゅるりと伸びている。猿の尾だ。

 何よりその目。赤く隈取のように縁取られた眼窩からのぞく黄金の瞳。この世のあらゆるものを貫いてしまいそうな瞳が今は千冬を見ている。千冬だけを捉えて。

 その瞬間千冬は覚った。それはあたかも人間のような形をしているが、その実は全く別の、別次元(・・・)の存在であると。

 月を背にして空中で静止していたそれがゆっくりと降りてくる。なるほど月は男の背後に隠れていたのか。道理で見付からぬ筈だ、と千冬はひどく愚昧なことを考えた。

 境内に降り立ったそれが千冬へと近付いてくる。千冬はそれを、逃げることもせず待った。

 

「オッス、オレは――――」

「悟空」

 

 名前を呼ぶと、男は驚いた顔をして、すぐに笑った。

 

「よく分かったな」

「お前みたいな奴をそうそう見間違えるか」

「つってもこの姿だろ? 今日が満月だとは思わなくってよ」

 

 そう言って男は空に浮かんだ真円の月を見上げた。煌々と光る月はやたらに明るく、今が夜であることを忘れさせる。

 千冬はそっと歩き出す。三歩も歩けば男はもう目の前で、もうあと一歩で。

 

「遅いぞ、馬鹿」

「わりぃわりぃ」

「ふんっ……」

 

 変わらないその分厚い胸にそっと額を押し付ける。迷子が親に巡り会えた時、それはきっとこんな心地なのだろう。

 額から感じるこの暖かさを千冬はずっと探していたのだ。

 

「ばか」

 

 そっと頭を撫でられる。硬い筈の掌はどこかくすぐったい。

 月は、ここにあった。

 

 

 

 

 

 



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プロローグ2 とある戦士の龍砡顕現

 

 

 

 

 

 孫悟空の目覚めはいつも唐突だ。

 朧げな夢を見る時もあれば何一つ感じない時もある。眠っているという自覚はあるのにやたらに意識がはっきりとしていて様々な場所をまるで時間も空間も関わりなく漂っていると感じることもある。

 いずれにせよ、その時の悟空には何もできない。為す術がない。

 だから悟空はいつも気長に待つことにしている。

 肉体が覚醒するその時を。真実朧な肉体がこの世のどこかで(・・・・)像を結ぶまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 西日の眩しさは閉じた目蓋の上からであっても強く、微睡(まどろみ)を払い去るには十分だった。

 茜色に染まる空がまず目に入る。仰向けに寝転んだ背中はひどく硬い感触を覚えた。

 コンクリートの上で悟空は大の字になって横たわっていたようだ。

 

「ふぁあ~……ん、今度はちょっと、早かったなぁ……」

 

 欠伸を噛み殺すこともせずむくりと起き上がりそのようなことを呟いて伸びをする。ふと、悟空は四方が手摺りで囲まれていることに気付く。後ろには扉があり、どうやらここはどこかの建物の屋上らしい。

 暫し黙って、悟空は何かに耳を傾けている。この場には悟空という少年がただ佇んでいるだけにしか見えない。少なくとも傍目には見ることの叶わない“何か”がここに存在するのだ。

 

「ははっ十年か。やっぱなぁ。そんな感じしてたぞ」

 

 小走りに近寄った手摺りへひょいと飛び乗る。所狭しと居並ぶ大小様々なビル群、途絶えること無い自動車の排気音と夥しい人々の喧騒、夕焼けに輝く大都市を悟空は一望した。

 

「へぇー、学園都市っつうのかここ。西の都みてぇで賑やかなとこだなぁ!」

 

 人が足を踏み入れたこともない山奥や森深くの、所謂未開の地で生活することが多かった悟空にすれば、ごみごみとした都会はそれだけで物珍しい。都会で過ごした経験が無い訳でもあるまいに、悟空の田舎もん根性はいつまでも変わらなかった。上機嫌な悟空に合わせて、尻から伸びた茶色の尻尾も嬉々として揺れている。

 

「……不思議な気だ。それも街中いっぱいあんぞ。なぁ神龍、ここは――うん?」

 

 広大な土地を占める膨大な街並みを楽しげに眺めていた悟空の目が、ふとある一か所に止まった。

 そこは人工の建築物で覆われたこの場所には珍しく、森林の緑が生い茂っていた。学園都市内にいくつか設けられた緑地公園の一つである。植えられた草花にせよ樹木にせよ、人の手で選別され剪定されたものであるのだからそれもまた一つの人工物と言えるのだが。

 しかし悟空の目を引いたのはそういった街の緑ではなく。

 

「人か? なんかふらついてん――あ」

 

 頓狂な声を上げて暫く、悟空はその様子を見守った。さしたる時間ではなかったが、あまり芳しい結果ではなかったようで、悟空はえいこらもたれかかっていた手摺によじ登る。

 危なげなく手摺に立ち、周囲のビル群を一瞥した。適当な目測を決め、何程の躊躇もなく手摺を蹴った。

 その小さな身体が空中に躍り出る。悟空のいた屋上から地表まで優に50m。空中遊歩。地表の道路で自動車や人が続々と行き交っている。目標としたビルは通りを挟んだ向かい側だ。

 

「いよっと」

 

 そんな軽々しい掛け声で、悟空は向かいのビル屋上のフェンスに飛び乗った。

 要領を得たとばかり、そのままピョンピョンと飛蝗の如くビルとビルの間を跳び回り、ものの数秒で悟空は目的地に到着していた。

 くしゃりと草を踏む感触。毛足の揃った人工芝だった。悟空はそのまま芝生のコートを囲む遊歩道へ出る。

 目的の人物はすぐそにいた。

 あの屋上で見付けた時同様――地面に力なく倒れ伏している。白いひらひらとした服、白衣も同じ。間違いはない。

 小走りに近寄り、悟空はその人物の肩に手を掛けた。

 

「おーい、大丈夫か? しっかりしろ」

 

 肩を揺すっても反応はない。呼吸は乱れておらず、こうして直接触れて気を検めてみても特に大きな異常は感じられなかった。

 悟空は首を捻る。身体に変調を来しているのなら何かしら気の乱れがあってもよい筈なのだが。

 悟空は掴んだ肩をぐいと引っ張り、うつ伏せの身体を仰向けに寝かせ直した。

 髪がはらりと頬を流れる。あまり手入れをしていないらしく肩まである髪は全体的にくしゃくしゃだ。寄れた開襟シャツ、タイトスカートにも皺が目立つ。無論、悟空がそのような細々した服装の問題点を気に留めることはない。というより気付かない。

 悟空が気になった点は一つ。

 

「おー、ははは、ものすげぇ隈だなぁ」

 

 閉じられた目の周りをくっきりとした深い隈が覆っていた。

 なるほど、この女がこんな道端で倒れていたのは凄まじく眠かった所為だ。悟空は一人納得した。大事でないことに安心する心持と道端で寝こける女への呆れも少々。

 とはいえ地面に寝かせたままというのも可哀そうだ。少し行けばその辺りにベンチでもあるだろう。悟空は白衣の女をひょいと抱え上げる。

 

「軽いな」

 

 何とはなしにそんなことを呟く。

 

「さてっと……うん?」

「…………」

 

 さあ歩き出そうと一歩踏み出した次の瞬間に悟空は歩みを止めていた。

 そして、悟空に抱えられながらなお起きる様子のない女の顔を見る。ぐっすりと眠っている、悟空には最初そのように見えた。けれど今、女の顔を間近に見直して気付く。ひどく倦み疲れ、その上に痛みを堪えるかのように歪んでいく女の表情。

 女のか細いその囁き声が悟空の足を止めたのだ。

 

「…………まない…………」

「…………」

 

 いつの間にか日は沈み切り、辺りを濃紺の夜が満ち始めた。周囲には相変わらず人の気配がなく、ここだけが外界から閉ざされたかのように静かだ。

 その時になってようやく悟空は歩き出した。暗闇の向こうに街灯の照らすベンチがある。

 暗闇の中で淡く光る女の涙。どうして泣く。ひどく悲しそうに。何がそんなにも辛いという。

 悟空には解らない。心の機微に疎いだとか思慮に欠けるだとかそんな意味合いではなく、悟空にはその女を理解してやることができない。少なくとも今はまだ。

 

「心配すんな」

 

 悟空は呟いた。女は未だ浅い眠りの中、とても悲しい夢を見ているのだろう。

 今はまだ理解できない。けれど、もう心配はいらない。きっとその涙こそが――――

 

「なんとかすっさ」

 

 悟空をここに呼んだのだから。

 

 

 

 

 

 

 



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一話 GTinとある科学の超電磁砲

 

 

 

 

 その目を覚えている。

 子供達を眺めている(・・・・・)老人の目。

 

 

 苦しみもがき、顔中の穴という穴から赤い血を垂れ流す子供達を。ベルトで拘束され、それでも助けを求めて誰か(・・)へ手を伸ばそうとする子供達を。苦悶に血走った眼球から流れる血か涙かも判別できない液体で彩られていく子供達の顔を。遂には力なくぴくりとも動かなくなった子供達を。

 バイタルサインの喪失を報せるアラームが耳の奥にこびり付いて放れない。慌しく、けれどどこまでも淡々と計測データを報告する研究員達の姿が別世界の出来事のように遠い。

 

 

 そして、私の隣に立つ皺枯れた老人の、あのさも面白そうに輝く目が――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「木山君、確か教員免許持ってたでしょ?」

「は?」

 

 先進教育局小児用能力教材開発所、その研究室の一つに据えられたデスクの椅子に腰かけて、木原(きはら)幻生(げんせい)はそのようなことをのたまった。柔らかな笑みから冗談の気色は窺えない。この御老はあくまで真面目にこの突拍子のない話をしているのだ。

 

「私に教師の真似事をしろ、と……?」

 

 そんなことは無論彼女にも理解できた。今や学園都市において能力開発研究の先鋭として呼び声名高い木原幻生氏の下で大脳開発実験にまで携わる彼女――木山(きやま)春生(はるみ)の明晰な頭脳が、たった二言三言の文章論法を聞き誤る訳がない。

 しかし、話の内容が自己の性質とあまりにも乖離していた為に、彼女がそれを脳内で消化するには些かの時間を要した。

 

「今回の被験者からデータ計測を行うには教師という位置(ポジション)がもっとも効率的だからねぇ。何より実験対象をその目で直接観察することは重要だよ?」

「それは、勿論理解できますが……」

 

 研究室の窓からは研究所の前庭で遊ぶ子供達の姿が見える。男女合わせて十人ほど。初等部に上がったくらいの年頃だろうか。そもそも子供の外見年齢など春生にはよく分からなかった。

 木原の言う今回の被験者だ。

 児童向けの遊具、ボールや縄跳びなどの玩具も少々。おそらくここの研究員が与えたのだろう。思い思いに遊びまわり、子供らは無邪気な笑顔を見せている。

 

「統括理事会肝入りの実験だ。その陣頭指揮は是非、君に一任したいと考えている」

「! それは」

「期待しているよ、木山君」

 

 朗らかに笑んだ木原の言葉に、春生は居住まいを正す。

 それは春生が目指すもの。今回の実験を成功させれば己は科学史の新たな一歩に立ち会うことができる。どころか、自身でその(ページ)を開けるのだ。

 

「わかり、ました……」

 

 不承不承とした心持を押し殺して、春生はようやくその一言を発した。

 

 科学を己の生涯の伴と決めたのはいつの頃だったか。幼くして科学分野における非才を買われ、気付けば博士号を修めて研究漬けの毎日を送ってきた。何かしらの賞を授けた論文も一つや二つではない。そういった栄誉褒章に関心があったかどうかはさて置くとしても、それらは箔にはなるし春生の実力を示す一定の尺度にはなった。

 科学者として得た評価。それが今春生をこの場所に居させてくれているというなら、春生は心から感謝する。

 この『学園都市』という独立世界は科学の坩堝。科学史の未来と表現しても過言ではない。外界と比較しても三十年、一部の技術分野によっては数世紀、想像を絶する科学力の隔絶がこの地にはある。世に存在する科学者にとってここは夢のような場所だろう。未知に溢れ、それらをあらゆる分野から探求することを許される。その術もここには全て揃っている。

 おそらく、世界の真理とやらに人の身で肉薄できるのはここだけだ。

 中でも“超能力”というファクターこそがこの都市をもっとも異質なものにしていた。人間の脳が引き起こす自然法則にあらざる超常の現象。それを人為的に発現し、さらなる開発・進化を行うこと。それがこの学園都市の一般に知られる存在理由、至上命題である。

 この地に溢れる先端科学の数々もその目的の副産物に過ぎないというのだから、春生は一科学者として眩暈を覚えた程だ。

 同時に己は一科学者としてひどく幸運なのだ。

 飽くなき科学への探究欲を満たしてなお余りある知識と発見の氾濫。その中心地の、その先鋒で、開発実験にまで携わることができるようになった。

 

「……はぁ…………」

 

 幸運なのだ。だから、この溜息はきっとどうしようもない我侭だろう。

 局長室を後にし、所内を歩く道すがら、春生の溜息は止むことがなかった。この取り留めもない思考への埋没は正しく現実逃避に他ならない。

 科学への好奇心にあかせて歩んできた二十余年の道程で、木山春生という女はほとほと人間的な営みに無関心だった。それより何より目の前にある研究を優先する。春生にとって迷いなど差し挟む余地すらなかった。そうしていつしか、事感情という要素が強く介在する行為を春生は苦手としていた。

 友人関係は学生時代の同期や同僚の研究員などまだしも、恋愛? 恋? 鯉ならビタミンとミネラルも豊富に摂れるな。愛って何か栄養素あったっけ? 無いなら、要らないな。などと真顔で妄言を吐く。

 無頓着というより、必要としなかった面が大きい。自身の容姿に無自覚で己に言い寄る男をそもそも認識していなかったというのも理由の一つではある。

 その当然の帰結として、春生は子供が大の苦手だった。

 近寄ることすらおっかなびっくりで、会話をして、まして指導するなど想像だにできない。

 

「ハァ……やはり、早まったか……」

 

 本日何度目かの溜息をリノリウムの床に向けて吐き出した。

 いつの間にか通用口が目の前にある。両開きの自動ドアを潜ればそこは研究棟裏側の駐車スペースだ。春生の車もそこに停めてある。

 心持ち重みを増した肩に辟易しながら、春生は駐車場に出る。

 そうして外に一歩踏み出した途端、風が街路樹の合間を吹き抜けた。春先程の冷たさはなく、かといって夏の匂いはまだまだ感じられない。心地良い温度が春生のショートボブの髪を撫でる。

 

「ん……」

 

 乱れた髪を直そうと額に手をやった。だから視界が阻まれた。それはほんの一瞬の、ごくささやかな間であった。

 だのに、それは瞬きの内に。

 

「オッス!」

「え」

 

 視界が再び戻った時、そこに一人の少年が佇んでいた。

 妙に逆立った黒髪。上は紺、下は黄色の胴着。底が薄い無地の靴は所謂カンフーシューズだろうか。見れば見るほど奇妙な風体の子供だ。

 

(いつの間に……?)

 

 春生は無意識に周囲を見回した。

 この研究所は全域が高さ三メートルの塀で囲まれている。出入り口は正門か駐車場からすぐの裏門の二つ。しかしどちらも門扉横に詰所があり、深夜まで警備員が常駐している。

 

「君、いったいどこから入って来たんだ」

「どこって、そこの塀だぞ?」

 

 少年は背後のコンクリート塀を指差した。なるほど確かに塀の外に植えられた街路樹同士には隙間があり、子供一人通るのに差し支えないだろう。ただどちらにせよ塀をよじ登る必要がある。

 

「いや、でもどうやって」

「どうやってってそりゃあジャンプしてだ。ぴょーんってな」

「そ、そうか。結構な高さだろうに、すごいな……」

 

 少年の身長は先程見かけた子供達ともそう変わらない。三メートルの塀を跳び越えるのはなかなかに――――思考が迷走を始めている。

 

「いやいや、そうではなくて」

「今日はもう帰るんか?」

 

 少年は春生の言になど頓着しなかった。

 ぴくりと春生の米神が震える。

 

「……ああ、そうだが。君はどうしてここにいるんだ。というか、君は誰だ。研究員の身内かい」

「いや? オラの身内はここにゃいねぇなぁ」

「だったら……」

 

 きょとんと首を傾げる少年に、堪らず春生は米神を押さえた。だったら何故お前はここにいるんだ。

 ふと不法侵入という単語が春生の頭を過ぎる。研究施設に忍び込むような輩の目当てといえば研究資料かサンプルだろうが。

 少年を見る。自身を見上げる顔からは何かを企む悪意や害意のようなものは感じられない。その笑顔はいかにも晴れやかで子供らしく純粋だ。一見して特に何も考えていないように見える。悪く言えば……なんというか知性が足りない。

 

(単に迷い込んだだけ、か……)

 

 その結論が自然だった。春生はまた一つ大きめの溜息を零す。

 

「ここは関係者以外立ち入り禁止だ。君も早く出て行きなさい」

「えぇっそうだったんか。道理で門も閉まってる訳だ……すまねぇなぁ、勝手に入っちまって」

「いや、私に謝る必要はないんだが……」

 

 申し訳なさそうに少年の表情が曇る。

 妙に律儀な子供である。春生にとってはその程度の印象だった。

 

「……まあ、気を付けて帰りなさい」

 

 早々に区切りを付け、春生は少年に背を向けた。春生が受け持つ授業は明後日から。その為の準備や研究資料の整理など帰宅してからやることが山のようにあるのだ。いつまでもこの少々風変わりな少年に付き合っていられない。

 授業……考えるだに憂鬱である。

 そうして数歩、歩いたところで背中に声が掛かった。

 

「あんまし不安がることねぇさ」

「え?」

 

 思わず春生は振り返っていた。なんでもない言葉である。けれど、それはまるでこちらの心中を見透かしたかのようで。

 両手を後ろ頭に組んで、少年は笑う。

 

「おめぇが好きになってやりゃあ、あいつらもおめぇのこと好きになる」

「……君は、あの子供達と知り合いなのか」

「ああ、そうだぞ。へへへ、どいつもこいつも元気でよい(・・)子だ」

 

 何故か少年はとても嬉しそうだった。

 一瞬実験対象者の一人かとも勘繰ったが、春生が目を通した資料に目の前の少年のデータはなかった。これほど特徴的な容姿なら流石の春生でも見間違うようなことはないだろう。本当にただの知り合いなのか。

 

「ま、ガキの先生なんて初めてやるんだろ? 不安になるのも無理ねぇや」

 

 不安。確かに不安だ。子供の相手など人生でほんの数回、それも一瞬の偶然のよう出来事を経験しただけだった。

 加えて彼らは重要な実験対象である。成長データの収集や学業の面はもとより、未成年者の精神ケアなど春生には欠片も解らない。もし何か問題が起これば実験そのものが頓挫することもありえた。

 そうした諸々の不安感が、重圧として肩身に圧し掛かっている。

 

「心配すんなって!」

 

 ニカ、と少年に一際力強い笑顔が浮かぶ。子供とはこんな笑い方ができるのか。春生には到底真似できないものの一つだ。

 

「…………」

 

 束の間、春生はぼんやりと少年の顔を眺めた。特に何の思惑があるでもなし。ぐるぐると脳内を駆けずり回っていた思考も止めて。

 ただ、彼の笑顔はひどく――――そして突如、手のひらに衝撃が走る。遅れて乾いた破裂音のようなものも。

 

「きゃっ!?」

 

 咄嗟に手を引っ込めて視線を下げると、なにやら手を振り抜いた姿勢の少年。

 痛みと熱を発する手のひらを見やる。じわりと滲み出るようにそれは赤くなっていった。

 何のことはない。少年が春生の手を思い切りしばいたのだ。

 というか徐々に痛い。じんじんと痛みが響いてくる。

 

「な、なにをするんだ……!」

 

 目尻に涙まで溜めて、春生は当然の抗議を少年にぶつけた。片手では電流を浴びたかのように痺れる手を抑える。

 そして少年は当然のように頓着しやしない。出会い頭同様の自分勝手さで。

 

「頑張れよ」

 

 それだけ言ってさっさと踵を返すのだ。

 感情のふり幅が狭い春生といえど流石にそのまま無視はできなかった。

 すたすたと塀に向かって少年は歩き去る。それに追い縋るように、春生は声を上げた。

 

「ちょっ、待て! お前は結局誰なんだ!?」

「オラか? オラ悟空。孫悟空だ」

 

 自分勝手な少年は、けれど律儀に春生へ振り返って応えた。真っ直ぐに春生の目を見返すその黒い瞳に、春生は思わず面食らう。

 

「またな、春生」

「あ、あぁ」

 

 一言それだけ言い置いて、少年――悟空は塀の向こうに消えた。本当に一跳びで塀を跳び越して。少年が跳び去る時、何か細長いもの(・・・・・)が尾ていに見えたが。春生はそれが何なのか分からなかった。

 遠くビルの合間でカラスが鳴いている。そろそろ日暮れも近いらしい。

 駐車場に取り残された春生は一人途方に暮れる。

 

「…………本当に、なんなんだ。あいつは……」

 

 唐突に現れて好き放題言うだけ言ったかと思えば、これまた唐突に帰って行ってしまった。ただでさえ苦手とする子供にさんざ気苦労を揉まされ、現在春生の疲労感は相当なものだ。

 

「……」

 

 けれど、どうしてか。

 胸に蟠っていた不安が今はもうない。

 どうも先程のやり取りで吹っ切ってしまったらしい。あの会話で。あの痛みで。

 現金なものだ。現状に対する悲嘆など、それを上回る衝撃的な出来事を前にすればこんなにも簡単に消え去ってしまう。

 

(阿呆らしい……)

 

 何より右往左往していた自分が馬鹿らしくなった。さっさと帰って仕事を済ませよう。

 風が吹く。木々を薙ぎながら風は少々乱暴に春生の背中を押した。

 

「孫悟空、だったか。名前通り滅茶苦茶な奴だ」

 

 改めて口にすると、なるほど傍若無人というか豪放磊落というか、そんな春生の印象にぴったりとはまる(・・・)少年だった。

 偉人の名前を我が子に付けたいというのは解らなくもないが、しかし伝奇小説に登場する妖怪変化の名前そのままというのはどうなのだろう。まあ確かにインパクトは十二分だった。お陰で踏ん切りも着いてしまったのだし。少し癪だが、感謝しても罰は当たらない――――

 

「――――名前……?」

 

 春生は立ち止まる。アスファルトを叩くパンプスの音色もまた止まる。研究棟ではまだ研究員達が忙しなく作業に没頭していることだろう。塀の外にはこの街に住まう多くの人々が行き交っている筈だ。だのに、この空間はいやに静かだった。

 孫悟空と彼は名乗った。彼我は初対面であり、誰あろう己自身がお前は誰かと問うたのだから当然だ。

 では自分はどうだ。自分は名乗ったか。そもそもあの少年は自身の氏素性を尋ねもしなかった。

 

「私の名前を……いや、私が教師をやることまで……」

 

 それはつい先刻、木原幻生から突然に言い渡されたお役目だ。小学校への赴任手続きさえ明日中に終わらせろと命じられたのだ。幻生と春生以外に誰も知りえない事実。

 だが、最初から、当然のように、孫悟空は木山春生を知っていた。

 

「…………」

 

 振り返ってもそこに少年の姿はない。

 ただ、春生の胸にどうにも処理できない蟠りが残った。

 

 

 

 

 

 

 

 



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二話 GTinとある科学の超電磁砲

 

 学園都市第十三学区に存在する小児用能力教材開発所付属の小学校。散り際の桜を望む教室の一つに木山春生は訪れていた。おそらく自身の生涯で足を踏み入れることなど二度とないだろうと考えていた場所にこうして立っている現実を春生は未だ受け入れられないでいる。

 懐かしさ、のようなものはあった。冷たい廊下、チョークの粉が煙い黒板、ワックスが利いた板張りの床、ぎしぎしと鳴く椅子と机、手書きの大きな時間割表、少し落ち着きのないざわついた雰囲気。春生もほんの十年と少し前に見知ったものだ。

 けれど、教壇から見下ろす教室の景色はどこか違っていて。

 無数の目が春生を見上げている。AIM拡散力場制御実験の被験者である子供達が、その無邪気な瞳を春生に注いでいる。

 

「今日から君達の担任になる木山春生だ……えっと、よろしく」

 

 途端に大合唱で返事が返ってくる。春生の小さな声など一瞬で掻き消えてしまった。

 何を言えばいいのかなんて春生には分からない。そもそも教師の在り方なんてものすら知らないのだ。

 何故自分はこんな所にいるんだろう。いやそもそも何故こんなことになってしまったんだろう。現実逃避に走りかける頭を引き戻して、春生は手元の出席簿を確認した。

 成長データを取ろうにも、まず顔と名前が一致しなければ満足に記録もできやしない。春生は矯めつ眇めつ出席簿と子供達を見比べた。

 

「出席番号一番は、右列からか、えー……」

「はいはいはーい! 先生提案です!」

 

 溌剌とした声がまたも春生のもたついた声を掻き消した。見れば一人の児童が挙手しながら立ち上がっているではないか。栗色のショートヘアを黄色のカチューシャで留めた少女だ。大きな瞳の輝きは窓から差し込む日光にさえ負けていない。

 

「君は……枝先(えださき)、か」

「はい! 枝先(えださき)絆理(ばんり)って言います! それで提案はね、皆で自己紹介すればいいんだよ! です!」

「あぁ自己紹介」

 

 目から鱗が零れる心地だった。なるほどそれは良い方法だ。

 早速と、春生が指図するその前に男子児童の一人が立ち上がっていた。

 

「んじゃはいはい! 最初はオレがやる!」

「えぇ~、私が最初に提案したんだから私が一番!」

「えっ、いや」

 

 触発されて、というより競うように今度は窓際の女子児童が、さらに廊下側の男子が、皆続々と自己主張を始める。

 

「あたしもやりたい!」

「オレもオレも!」

「ちょっとー!! わぁたぁしぃが最初ぉ!」

「ちょっと待て、順番ずつ、一人ずつで」

 

 春生がわたわた(・・・・)している間に、教室の児童のほとんどが立ち上がり思い思いにくっ喋る。名前はおろかもはや何が何やら分からない。春生は大いにおたおた(・・・・)した。

 

「静かに。お、落ち着いて。頼むから静かに! …………あぁっ、誰か」

 

 天を仰げどそこには白い天井があるだけで春生を助けてくれるものはない。

 この喧騒は授業開始の本鈴が鳴るまで暫く続いた。

 

 

 

 

 授業を始めてみると、存外子供達の聞き分けは良く、いやむしろとても素直であった。解らないものははっきりと解らないと言う。そして理解できるまで質問を繰り返す。勉強それ自体への興味関心も旺盛である。学ぶということに、ひどく真摯なのだ。貪欲と言い換えてもいい。

 その意味で、こうして教鞭を執ることも存外に春生にとって有意義だったと言える。無論、赴任初日の印象で評価を下すのは早計だろう。油断はできない。朝礼の騒ぎのようなことを春生は極力勘弁願いたいのだ。

 そしてあれよあれよと授業をこなし、気付けば昼食の時間であった。学校給食などそれこそ春生は十数年ぶりだ。

 だが何より春生を驚かせたのは。

 

(昼食まで一緒に摂るのか……)

 

 給食は児童と教師の分まで用意されているらしい。せめて食事の時間は安寧であって欲しいと願っていた春生にこれは愕然と来た。

 

「先生は私達と食べよ! ねっ、ほらほら」

「あ、ああ、わかったから……」

 

 枝先他、数人の女子児童からの力強い要請でそのようなことになった。クラスの児童らそれぞれが五、六人の班を作って机を寄せる。春生もその一つに引っ張り込まれた。

 妙な気分だった。食事は一人で手早く済ませるのが春生にとっての常であったから。

 

「ほら先生。手ぇ合わせて。合掌だよ」

「あ、はい。じゃあ……」

 

 促されるまま手を合わせる。小学生に食事の作法を手解きされる様は一人の大人としてひどく情けないものがあるが、春生本人は気付いていなかった。

 こんな些細な所作にさえ、春生は懐かしさを覚える。

 

「いただきます」

『いただきまーす!!』

 

 また威勢の良い大合唱を聞きながら、春生は気を取り直して盆に乗った料理を見た。今日のメニューはコッペパンと野菜たっぷりのトマトスープ、付け合せのサラダ、ブルーベリーヨーグルト、パックの牛乳といった品々。ごく一般的な学校給食といえた。

 先割れのスプーンを手に春生はまずスープを飲もうと匙を伸ばした――――伸ばそうとしたその時だ。

 その少年が現れたのは。

 

 教室前側の扉が勢い良く開く。それは思いの外大きな音を立てたものだから、教室中の視線が扉に注がれることとなった。

 

「オッス」

 

 軽い。雰囲気も振る舞いもひどく軽い。それはいつかの夕暮れ時にされた彼独特の挨拶だった。

 青い胴着姿、ぼさぼさの黒髪、少しだけ知性の薄い野卑な笑顔。先日とまるで変わらないままの少年がいた。

 孫悟空が、そこにいた。

 

「ゴクウ!」

「ホントだ! ゴクウだー!」

「わぁーなんでなんで!!」

「よぉ、おめぇ達元気にしてたか?」

 

 教室が歓声で包まれた。十数人の子供達の甲高い声音は凄まじい音量と音波を伴って春生の鼓膜を揺さぶった。

 そうして子供達は一斉に席を立ち悟空へと群がっていく。

 

「どうしているの?」

「ゴクウもこの学校なの!?」

「よっしゃあ! 昼休みに遊ぼうぜ!」

「サッカーしよサッカー!」

「え~ドロケイがいい」

「また背中乗せて飛んでよ! 私今度は雲の上まで行きたい!」

 

 一人が喋れば隣のもう一人も、さらに後ろの二人が、三人が、それはもう好き勝手に喋る喋る。そんな凄まじく騒々しい人垣が教室の一角を占拠してしまった。

 そして人波に飲まれる当の少年は子供達の勢いに気圧されることもなく笑っている。

 

「ははは、すんげぇ元気みてぇだなぁ。わかったわかった。飯食ったら皆で遊ぼうぜ」

 

 悟空のその言葉に子供達は今一度の歓声で以て答えた。今度は教室そのものが震える勢いだ。

 子供達と少年との微笑ましい光景を春生はどこか遠い景色でも見るように眺めている。

 

「あ」

 

 不意に、そんな呆然とする春生と悟空の視線が合う。今なお子供達に揉みくちゃにされながら、よくもこちらに気付けたものだ。途端に春生の胸の内は、先程からふつふつと湧いて出る疑問によって占拠された。

 何故お前がここにいるのだとか、どうして当たり前のように子供達の輪の中に加わってしまっているのかとか、何より昨日のあの謎めいた振る舞いは一体どういう意味なのか。

 尋ねたいこと、聞き出したいことは山のようにある。あるのだが、春生がそれら多くの諸々を吐き出しぶつけるより先に、少年は口を開いた。相も変らぬ、その自分勝手さで。明るい笑みで。

 

「よぉ春生。おめぇも元気そうだな」

「あ、あぁ」

 

 春生には、それだけ呻くのが精一杯だった。

 

 

 

 

 宣言通り、孫悟空は子供達と昼休みを遊び倒し、その後またどこかへ姿を消してしまった。行き先はようとして知れない。少なくとも校内に戻った様子はなかった。益々以て謎である。

 悟空が去り、昼休みが終わっても子供達は悟空という話題で持ち切りで、あまり授業にも身が入らない様子だった。午前中の集中力は一体どこへやら。ただでさえ子供慣れしていない春生に集中力を欠いた児童を落ち着かせるのは至難の業だった。

 春生の抱いた子供達への印象は、大幅に下方修正せざるを得ない。

 

(やっかいなことを……)

 

 そして春生の孫悟空に対する人物評もまた大幅な暴落を記録したのは決して無理からぬことだろう。

 四苦八苦と授業をこなしてようやく放課後を迎えた今、春生は小学校の廊下をつかつかと歩いていた。肩に乗る疲労感が歩みを重くする。緊張で掻いた汗がジャケットの下で蒸れて不快だった。

 一階廊下の窓からは正面グラウンドが見え、そこには友人達と居残ってサッカーに興じる児童達の姿がある。昼間にも散々校庭を走り回っていたというのに、あの体力は一体どこに貯蔵されているのだろうか。子供とは本当に不可解な生物だ。

 

(初日からカリキュラムが遅れている。とにかく明日はテキストを進めて、復習と質問事項への回答は課題で補填するとして……小テストの内容も見直した方がいいか。安易に出題範囲を広げても理解できなければ意味はないし――――)

 

 授業内容の見直し、指定テキストの反芻、要約、資料作成。教師という職業はこれ程までに煩雑なものなのか。

 幼児といえども人間を相手にしているのだ。大脳の生理反応を測定するのとは訳が違う。

 

「……研究ができない……」

 

 それが何より痛ましいことだった。

 成長データを事細かに測定し収集し、実験に向けた最終調整を行う。重大ではあるが言ってしまえばその程度の作業だった筈なのに。

 今自身の頭を悩ませているのは初等教育カリキュラムの進行状況と子供のご機嫌取りの方法論だ。

 こんな筈じゃなかった、などとは言うまい。予想はできていた。土台自分には向かない仕事なのだ。

 だがそれでも。

 

「……」

 

 春生の脳裏に孫悟空の姿が過ぎる。この厄介な現状に一役買っている少年を思い出す。

 

「はあ……」

 

 溜息が漏れる。それは自分に対する呆れだった。

 満足な結果を出せなかったことを他人の、それも子供の所為にするなど。大人気ないというより、人として愚かな行為である。

 気付けば正面玄関を通り過ぎ、校舎端から伸びる渡り廊下に出ていた。廊下は校舎の外に出ており、そのまま体育館の入り口に繋がっている。室内からでは聞き取りにくかった児童達の声もここからだとダイレクトに春生の耳へ届く。

 

(何にせよ、仕事はきっちりこなさないと……)

 

 それが最低限、子供の前途を任された者の務めだろう。

 子供達の歓声を聞きながら、春生は益体もない思考に蹴りを付けた。

 

「あぁー!!」

「?」

 

 ふと、声のする方へ春生が目をやると、数人の子供がこちらに走って来るのが見えた。何事かと辺りを見回すが特にこれといったものは見付からない。とすると彼らの標的は。

 

「木山先生ぇー!」

「私か……」

 

 そしてよくよく見てみれば、彼らは自分の担当児童だ。丸一日顔を合わせておいて覚えられないとは、春生は自分の記憶力に少々自信を失くした。

 真っ先に近寄ってきたのは、あのカチューシャをした女子児童である。

 

「君達、まだ居残ってたのか」

「うん! 皆でサッカーやってたんだ」

「絆理ちゃん強いんだよー。男子にだって負けないんだから」

「つ、次は絶対負けねぇもん!」

 

 髪を二つ結びにした女子の言い分に男子が食って掛かる。えらく悔しそうだ。絆理――枝先は女子のわりに随分と活発であるらしい。そういえば授業中も彼女は大騒ぎする男子に負けじと声を張って注意してくれた。

 

「その、授業の時はすまなかったな。枝先に負担を掛けてしまった……」

「えっ? ううん! そんなことないよ。あれは全部男子が悪いんだしー」

 

 そう言って枝先は傍らにいる男子をジトっと睨んだ。睨まれた方はばつが悪そうに視線を逸らす。

 

「あ、それにね。先生の授業すっごく面白いもん!」

「え」

 

 一転、満開の花のような笑顔を枝先は浮かべた。まるで本当に輝くような眩しさである。

 

「そうだよね。前の先生の授業はつまんなかったけど、木山先生のは私好き!」

「お、オレもオレも」

「あんたはずっと騒いでたじゃない!」

「アハハハ」

 

 枝先に賛同して子供らは皆そんなことをのたまった。社交辞令なんて気の利いたことを小学生がするとも思えず、かといって嘘を吐かれているような様子もない。

 ひどく真っ直ぐな瞳らが、春生を見上げて笑んでいる。それはどこかくすぐったくて、むず痒くて、胸の内をもやもやとさせた。

 

「だからね、私明日から学校がすっごい楽しみなんだ!」

 

 枝先は笑った。子供らも笑った。心から純粋に。

 それは今まで経験のない感覚で、なんとも言い様のない感情で。

 頬の熱さを自覚しながら、春生の顔には薄く、けれど確かに笑みが浮かん――――

 

「あ! それにゴクウも!」

「――――は?」

 

 ぴしり、出来上がりかけていた表情が氷結する。

 そして固まる春生とは対照的に、子供達の表情は一層喜びで彩られた。

 

「そうそう! ゴクウが明日も来てくれるって言ってた!」

「オレは拳法教えてもらう約束した!」

 

 何故か、胸を満たしていた暖かなものが一瞬にして吹き飛んでしまったような心地だった。代わりに顕現した感情はなんともいえない微妙なもので。

 そうして脳裏に浮かぶのは、あの底抜けに明るく無邪気で傍若無人な笑顔の少年、孫悟空。

 

「呼んだか?」

「ひゃんっ!?」

 

 背後から、それも耳のすぐ後ろから吹きかかった息と声に春生は奇声を上げた。驚いた拍子に身体は脊髄反射で飛び上がり前のめりに倒れ、けれど身体を支える為に踏み出した足は渡り廊下の段差を絶妙に踏み外した。

 春生の身体が地面目掛けて倒れる。

 しかし、地面へ到達するより速く、春生は急制動を掛けられた。襟首を何者かに掴まれたのだ。

 

「ぐぁっ」

「っとと、大丈夫か?」

 

 襟で絞まった首に呻くと、程なく拘束が解かれる。振り返った先にいるだろう人物は既に分かっている。

 

「突然耳元で声を上げるんじゃないっ」

「わりぃわりぃ。そんなにびっくりするとは思わなくってよ」

 

 振り返ればそこに、後ろ頭を掻いて気まずげに笑う孫悟空その人だ。そして何故か逆様である。

 よくよく見れば天井の縁にぶら下がっているらしい。

 

「コラー!! ゴクウ危ないでしょ。木山先生がケガしたらどうすんの!」

 

 枝先が春生の傍らからずずいと前へ出て言った。まるで弟を叱る姉のようだ。年齢はそう変わらないように見えるが。

 

「いやホントわるかったって。よっと」

 

 叱られた方は拝み手に平謝りする、と同時に天井から離れた。当然重量比の関係上頭から落下するところを、悟空はなんと空中で一回転してきちんと足から着地した。名前通り本当に猿の化身ではないのかと疑いたくなる身のこなしである。

 

「ところで、おめぇ達こんなとこでなにしてんだ?」

「あ、そうだ。ゴクウも一緒にバレーボールやろうぜ!」

「あー!! 私もやりたい!」

「あたしもあたしも!」

「またゴクウのジャン拳スマッシュ見せてよ!」

(じゃんけんスマッシュって何だ……?)

 

 子供達は一瞬にして悟空を取り囲んだ。彼らの熱狂具合も然ることながら、一体何をすればこれ程までに子供達の心を掴めるのやら。

 

(私には一生理解できないな)

「行こっ。下校時間来ちゃうよ」

 

 枝先が悟空の手を握り、勢い込んで校庭へ引っ張ろうとする。他の子らも早く早くと浮き足立ちつつ悟空を待った。

 そんな子供達に悟空は微笑んだ。

 

「ははっ、慌ててっと転んじまうぞ。心配しなくてもすぐ行くからよ」

「……?」

 

 悟空は微笑んでいる。枝先や他の児童達と変わらない子供のような顔。昼間見たものと同じ。

 だのに春生はその瞬間、年老いた老人を思い浮かべた。目の前にいる幼い少年とは真逆の、苔生した老木のような静けさ。曾孫を見る時の老爺の貌はきっとあのように優しげなのだろう。

 何故、こんな――――

 

「お、そうだ。おめぇも来いよ、春生」

 

 あまりにも何気なく、悟空は春生の手を取った。

 それは子供らしい小さな、けれどひどく子供らしくないごつごつと硬い手。何度も何度も肉刺を潰し、傷付き節くれ立った巌のような手。

 

「あ、え、来いって……」

「春生も一緒にばれーぼーる(・・・・・・)やるんだ。皆でやった方が楽しいだろ?」

「あー! そうだよそうだよ! さっすがゴクウ!」

「木山先生も一緒にやってくれるの!?」

「やったー!」

「えぇっ!? いや、私は」

 

 何やら好くない流れができ始めている。そう理解していながら春生にはそれを止める手立てなどなかった。

 枝先が悟空の手を、そして悟空は春生の手を引っ張る。握った感触通りの力強さ。そして子供達の喜ぶ顔は、それ以上のどうしようもなく拒み難い力を持つ。

 

「勘弁してくれ!」

 

 春生の悲鳴が空しく校庭に響く。

 それは子供達の歓声の中、儚く融けて消えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それからも、悟空は足繁く学校に訪れ、昼休みと放課後の時間を子供達と共に過ごしている。

 時には手土産と称して、木の実や山菜、色とりどりの果物を抱えて、あるいは猪や鹿、どのように生育したのか検討もつかないような巨大魚を引き摺ってくることもあった。絞め立ての獣を学校の裏庭で捌き始めた時など、春生はこの世の終わりを幻視した。そのまま午後の授業を繰り下げて全校挙げてのバーベキューパーティーが始まった際は、春生は考えるのを辞めた。

 体育の授業にいつの間にやら紛れ込み、何故か狩猟採集のレクチャーやら格闘技(?)の訓練やら織り交ぜた講習会が開催される始末。校内に部外者を入れて云々、はひとまず脇に置くとしてもカリキュラムを丸ごと乗っ取らせてしまうのはどうなのだ校長。

 いずれの出来事も春生にとっては非常識極まりない。超能力というフィクションが非常識でなくなったこの学園都市であってもなお。

 だが。

 

「えー、絆理達は喜んでっけどなぁ?」

「いや、そういう問題では……」

 

 いつもの恍けた調子で悟空は言った。

 ああ、それでも、児童達の目はいつだって輝いていた。いつからか子供達の笑顔ばかりが記憶に残っていることに気付く。騒がしくて、忙しなくて、腹の立つことや頭の痛い思いも何度となくした筈なのに、しっかりと残った思い出は、存外にも……。

 それは、当たり前のことだろうか。どこにでも存在するありふれた光景なのだろうか。

 そんな訳があるか(・・・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

「? 春生? どうした」

 

 突然立ち止まった春生に悟空が振り返る。

 空の茜は徐々に紺と淡い紫でグラデーションされ、直に完全な夜となるだろう。歩道に並んだ街灯が点る。いつもの道だ。春生が現在寝起きしている職員用マンションまであとはここを真っ直ぐに行くだけ。

 

「これも、日課のようになってしまった」

「これ?」

「君と帰り道を歩くことだ」

 

 悟空が春生の帰路に付いて歩くようになったのは、あの赴任初日から今日に至るまで。つまりは毎日だ。

 初めこそ訝しんだ春生だったが、特に何か意図があるようでも無し、することといえばその日あった出来事を取り留めもなく語らうくらい。

 そんなことをもう五ヶ月も続けていたのか。もしかしたら、春生もどこかでこのささやかな時間を楽しんでいたのかもしれない。

 

「少し癪だが」

「??」

 

 この第十三学区立先進教育局付属小学校に春生が赴任して既に五ヶ月余りが経とうとしていた。あれから日の入りも随分と早くなったように思う。

 いろいろな話を悟空と交わした。どれも身になるようなものはなかったのだけれど。

 特に、春生の一番知りたい不可解な事柄が。

 

「いい加減、君が一体何者なのか教えてもらえないものかな」

「いっ……」

 

 ギクリといかにも解り易く悟空は肩を震わせる。この少年、嘘を吐くのが下手なのだ。顔に出易いのは言わずもがな、トランプで子供らと遊んだ際も戦績は酷いものだった。ちなみに春生も何度となく勝った。

 その嘘を吐けない少年が下手なりに誤魔化し続けている“孫悟空”という存在。

 

「なあ、君はどうして私に付き纏うんだ」

「う~ん、やっぱし迷惑か?」

「いや迷惑ということは……時々だが、その、私としてはもう少し穏やかな日々を所望するというか。君と一緒に過ごすことが決して嫌な訳ではなくてだな…………って、そういうことではなく!」

 

 自分は長々と何を言い訳しているのだ。春生は一旦咳払いした。

 

「……隠さなきゃならないことなのか? どうしても」

「あー、そうだなぁ………………うん、やっぱあんまし言っちゃなんねぇらしい」

「それも例の“シェンロン”という奴の助言か」

 

 口をついた言葉は、妙に皮肉げな色味を持って響いた。春生自身が驚いてしまうほど。

 春生は内心で後悔しながら悟空の顔を窺った。

 

「ああ」

 

 真っ直ぐな目が春生を見る。ひどく真摯で曇りない――嘘のない目。

 

「すまねぇ、春生」

「……いいさ」

 

 そんな目で見られてしまっては春生にはもう何も言えない。

 春生は再び歩き出す。それを見た悟空も、車道側にあるガードレールにひょいと跳び乗り、春生の左隣を器用に歩く。教え子がこんなことをしようものなら春生はすぐに引き降ろすが、何せ相手は悟空である。

 一歩進む毎にその小ぶりな尻で尻尾が揺れる。濃茶色の体毛に覆われた、キツネザルやリスザルのように長い尾。人間には断じてある筈のない異形。

 

「正直教えてくれなくてもいいから、とりあえず手始めにその尻尾についていろいろと調べさせて欲しいんだが」

「うへぇ、また追いかけっこするんか」

 

 そういえば以前そのようなことをした記憶がある。アクセサリーか何かだと思っていた尻尾が実は暦とした本物で、その上生体として完全に機能しているなどと、春生の驚愕は凄まじいものだった。その後、尻尾の操作と脳機能の関連についていろいろと研究させて欲しいと申し込んだのだが、悟空は頑として拒否し続けた。

 挙句の果てが、あの奇妙な鬼ごっこだ。

 

「まあ、気が向いたらいつでも頼む」

「やーだよ」

 

 その軽妙な応酬に、春生はくすりと笑みを零した。悟空はぷいっと不服そうに顔を背けている。

 暫時の沈黙。道を蹴るヒールの音色とガードレールを渡る軽い靴音だけがその場に響いた。

 

「最初は、君も置き去り(チャイルドエラー)なのかと思った」

「うん?」

 

 何気なくそんなことを春生は口にした。

 

「チャイ? なんだそれ?」

「前に説明しただろう……枝先達のような子供達のことだ」

「あぁ、あれな」

 

 辛うじて思い出せたようだ。むしろこの場合、この少年がそういった世情について覚えていたことを喜ぶべきだろう。

 春生は苦笑して溜息を吐いた。

 

「まったく。いっそ体育以外の授業にも出たらどうだ、悟空君(・・・)?」

「へへへ、わりぃわりぃ…………でも、そっか。あいつらも父ちゃん母ちゃんいねぇんだったなぁ」

「…………」

 

 彼らに親はいない。皆何らかの事情で親に捨てられた孤児だ。

 学園都市の児童、生徒、学生は入学と同時に都市内での居住を義務付けられる。本来は学生にとって最良の“学びの場”を提供するという目的で考案された制度であり、入学者には学業への集中を促す為に様々な生活支援が行われる。なるほど、人材育成という面でそれは確かに素晴らしい取り組みだろう。だが皮肉なことに、学園創立以来これ幸いと入学金だけ支払って体よく子供を置き捨てていく親が急増したそうだ。

 彼ら、彼女らのような子供は一様に『置き去り(チャイルドエラー)』と呼ばれている。

 

「ま! 関係ねぇけどな」

 

 春生は悟空を見る。両手を後ろ頭に組んで、少年は危なげなくすいすいと細いガードレールを進んだ。

 

「あいつらは強ぇぞぉ。後ろなんて見ねぇでよ、いっつも笑ってんだ」

「……」

「すげぇよな。まだあーんなガキんちょなのによ。へへへ!」

「それは」

 

 それは、違う。違うんだよ悟空。

 悲しくない訳がないのだ。不安がない筈がないんだ。親の庇護を欲しがらない子供がどこにいる。捨てられてしまったという事実が彼らにとってどれほど重いものか。

 それでも子供達は真っ直ぐに前を向いている。事実を知ってきちんと理解した上で、確固とした自分を持って今も彼らは生きている。

 どうして。笑顔でいられる。悲嘆に暮れず、その涙を拭った瞳に曇りはない。

 枝先が、あの子達の心が強いから? 違う。それだけではないのだ。

 

 きっと、それは――――

 

「おめぇのお陰だな、春生」

「…………」

 

 ――――悟空、お前がいたから。

 

 無邪気な笑顔で悟空は言った。それに春生はただ曖昧な笑みを浮かべて応えた。

 

「……ところで、今日はどうする。泊まっていくんだろう?」

「お、いいのか?」

「ああ、別に今更だ」

「春生んちのソファは柔こくてすぐ寝ちうかんなぁ」

「廃ビルで夜を明かすのに比べればそりゃあ快適だろうさ」

 

 悟空はまたけらけらと笑った。「親がいない」、「家がない」、それが春生の知る数少ない孫悟空の個人情報だった。こんな子供がホームレス生活をしているという事実は断じて笑い事ではないのだが。

 春生は今日何度目かの呆れた溜息を零した。

 

「あまり騒がしくしないでくれよ。片付けなきゃならない仕事がまだあるんだ」

「わかってるって」

 

 東の夜空に半欠けの月が見える。商業区、繁華街からも遠いこの学区の夜はいつも穏やかだ。

 

「…………騒がしくしないなら、いつ来てもいいから……」

「お?」

 

 少年から顔を背け、春生はずっと半月を見ていた。

 

 

 

 

 



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三話 GTinとある科学の超電磁砲


 大変お久しゅうございます。はじめましての方は読んでいただいて本当にありがとうございます。わざわざ近況見舞いにご連絡いただいた方々本当にありがとうございます。そして申し訳ありません。
 ぼろぼろな更新頻度ですが、よろしければお楽しみください。


 

 

 

 人はそう簡単には変われない。若輩の域を未だ出ない春生の人生でも、そこから得られた知識や経験から彼女はそのような認識を築いていた。そしてそれは、そう的外れな見解ではないとも考えている。

 科学一筋に生きる研究者が小学校の教師を勤めるなど必ずどこかに無理が出る。何より木山春生という女はどうしようもなく教育という分野に不向きな人間だった。

 何故? そんなこと言うまでもない。

 

「私は子供が嫌いだ」

 

 騒がしいし、デリカシーがないし、失礼だし、悪戯するし、論理的じゃないし、馴れ馴れしいし、その癖すぐに懐くし。

 木山春生はどうにもこうにも子供という存在が嫌いで苦手で、彼女にとって彼らはこの上ない天敵だった。

 思い出すだに気が重い。教師として赴任してからそこで過ごした時間は、平穏というものから程遠く――――。

 

 

 

 

 最初の頃は、たった一時間の授業をするのも一苦労だった。落ち着きのない子供を宥めて椅子に座らせ、授業の内容に興味を惹かせ飽きさせないよう工夫を凝らす。そして度々教室に突撃してくる悟空によってそんな工夫すら水泡に帰す。それが、どれほどに、大変か――――でも、一度琴線に触れた事柄に対する子供の集中や情熱は、どこか研究にのめり込む自分を見ているようで。

 

“ほぉれおめぇ達、ちゃんと春生の話聞かなきゃダメだぞ? やっぱ勉強っちゅうのも大事(でぇじ)だかんな”

“君の口からそんな言葉を聞くと物凄い違和感があるな……”

“んで、これささっと終わらせたら皆給食だぞ! 今日はカレーだ! よっしゃー!!”

“そんなことだろうと思ったよ!”

 

 彼らは教室の入り口に何かしらの罠を仕掛けなければ気が済まないのだろうか。水バケツの巻き添えを食った悟空がそのまま水遊びを始めるし。挙句クラスの全員を水浸しにするし。まあ、そのお陰か、男子達が罠を仕掛ける回数が減ったのは少しばかり助かったが。

 

“次も絶対引っ掛けるからな!”

“おう! やってみろ! ぜーんぶ避けてやっかんな”

“だからといって罠の精度を上げさせてどうする!”

 

 やたらと人のプライベートに興味津々なところもえらく戸惑った。恋人の存在の有無がそんなにも重要な事なのか。研究一筋で生きてきた今の今まで必要としなかったのだ。これからだってきっと必要ない。そうに違いない。だから枝先、その候補にやたらと悟空を推すのを辞めてくれ。大いに大きなお世話だ。性格とか、何よりその、年齢差とか……。というかなんでよりにもよって悟空(コイツ)なんだ!

 

“えぇー、だって先生悟空と一緒に住んでるよ?”

“知ってるー。そういうのドーセーって言うんだよ!”

“なんでそうなるんだ……”

“なあ春生、ドーセーってなんだ?”

“私に聞かないでくれ!”

 

 人の身体的特徴を(あげつら)うのは善くないことだ。自分に女性的魅力が欠けているのは自分が一番理解している。ところで「チチよか小せぇなぁ」とは、どういう意味なのだろうか。胸囲の話題には違いあるまいが、無論チチというのは乳房ではなく一個人の名前を指すのだろうな。チチって誰だ。一体誰と比べたんだ悟空。怒らないから正直に教えなさい。さあ。

 

“は、春生。なんかおめぇ恐ぇぞ……?”

“何故恐がる必要がある。私は単に君に質問しているだけだ。他意はない。参考までにそのチチさんとやらについてよくよく聞かせてくれ。私のような起伏に乏しい貧相な身体とは違うんだろう? なあ、悟空”

 

 休み時間、放課後を問わず、やたらと子供達に付き纏われる。頼むからサッカーやらバレーやら鬼ごっこやらに人を巻き込まないでくれ。ただでさえ運動能力は人並みかそれ以下なんだ。君達の無尽蔵な体力に付いて行ける訳がないだろう。特に悟空のそれは異常だった。児童らが真似をするから、その人間離れしてアクロバティックな挙動を止めなさい。

 

“せんせーいっしょに遊ぼー!!”

“ほらっ早く早く!”

“行くぞぉ春生ー!”

“ば、バカ! そんなに引っ張るんじゃない! 行くよっ、すぐに行くから……!”

 

 そう。そうやって引っ張り回されてばかりだ。

 こちらの都合なんて本当に頓着しない。どこまでも勝手で、どうにも理解し難い。

 迷惑なことばかりだ。実際迷惑に思っている。

 

“せんせい!”

“せぇんせっ”

“せんせぇー!!”

 

 なのに。

 

「春生、今日も楽しかったか?」

 

 いつかの帰り道、前を歩く悟空がこちらを振り返って聞いた。

 その言い草に私はまた口をへの字に曲げる。何を世迷言を。あんな落ち着きのない時間はこりごりなんだ。お願いだからもう少し穏やかな授業をさせてくれ。

 

「ははは! わりぃわりぃ」

 

 悪びれたというより、悪戯っぽく悟空は笑う。まったく、半分は君の所為なんだぞ? いや七割八割方はそうかもしれない。

 孫悟空という少年によって、木山春生の生活は一変した。完膚なく崩され、そこには違うものが芽生えた。私はそれが――――

 

「嫌か?」

 

 何気ないその問いかけをひどくずるいと思う。恨めしげに悟空を見やれば、屹度純粋な目でこっちを見ている。胸の奥から出た溜息を小さく零して、何度目かも忘れてしまった半月を見上げた。

 

 私は子供が嫌い――だった

 

「……へへっ。そっか」

 

 悟空が笑う。その優しげな笑い方に、私はまた慌てて月を見上げる。夜の涼風は、熱を持った頬を幾らも静めてはくれない。

 

「ずるいな、君は……」

 

 その呟きを聞いていたのかいないのか、そっぽを向いたままの私には解らない。

 悟空は突然駆け出した。そうして少し離れたところで私の前に立ちはだかる。

 

「春生、今度の約束覚えてっか?」

「え? ああ、放課後教室に行けばいいんだろう? いったい何なんだ。あの子らも、幾ら聞いても理由を教えてくれなかったし」

「まあまあ、楽しみにして待ってろって。きっとびっくりすっぞぉ?」

 

 したり顔の悟空の笑みが少し癪だった。だから私も強いて呆れ顔を作り、いかにもうんざりと肩を竦めてやる。

 

「はいはい……驚かされるのはもう慣れたよ」

「え~、それじゃつまんねぇなぁ……おっし、そんじゃおめぇが度肝抜くようなすげぇの獲って来てやる! 覚悟してろ~」

「またかっ! 君達は本当に何をするつもりなんだ」

「まだ教えてやんねぇよー。ははは」

「まったく、毎回気苦労をかけてくれる……ふふふ」

 

 今はもう、自然と笑みが零れるのに躊躇いを感じなくなっていた。そもそもこの少年が、そんな憚りも何も気に留めず踏み込んでくる。

 こんな幼稚なやり取りが楽しいだなんて思い始めたら、私もえらく重症だ。

 

「じゃ、またな。春生」

「……ああ」

 

 僅かな未練も感じさせない。部屋を訪れない夜、悟空はいつもそう言って街灯の向こうへ走り去っていった。

 その小さな背中を、未練がましく私は視線で追いかけている。悟空の姿はすぐに視界から消えてしまうけれど。

 

「また、な」

 

 その言葉が守られなかったことはない。少年はいつも、けろりとして自分と子供達の前に姿を現すのだ。

 だから、明日もまた学校で。

 今日と同じ、騒がしい日々を。

 

「……本当に重症だな、これは」

 

 苦笑を刻んで、私は再び帰路を歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、電話があった。

 

『やぁ木山君。実験の日取りが決まったよぉ――――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 執拗に耳を(つんざ)くものが何なのか、春生はすぐに理解できなかった。

 コンソールのスピーカーから発するレッドアラート、ディスプレイに表示された子供達のバイタルは一つ残らず赤く染まっている。激しく揺れ動くグラフ。健常な人体にあってはならない数値。コントロールルームから見下ろす実験場では子供達が装置の上でのた打ち、鼻や耳や目から黒い血を垂れ流す。

 輝くような笑顔を浮かべていた子供達の顔は今、苦しみ悶え歪みきっていく。分厚いアクリルガラス越しにその叫びを春生が聞くことはなかった。だが聞こえた。

 

 ――――せんせい

 

 小さな手が伸びる。激痛が掻き乱す意識の狭間でそれでも彼女は、枝先は春生を見付けてそう言った。

 春生の目を見て、春生に助けを求めた。

 それを、春生はただ何もせず呆然と見下ろす。何も、何一つできず。戦きに全身を震わせ、現実への理解さえ拒んで。

 傍らに佇む老人が笑う。意味が解らなかった。何故そんなにも楽しげに老人は笑うのか。理解できなかった。理解してはいけないと心が泣いた。

 その笑みに、ただ恐怖した――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「せんせい?」

「――――っ」

 

 自身を呼ぶ声に、春生は思わず息を呑んだ。見れば実験装置の寝台に身体を預けた枝先絆理が、不思議そうに春生の顔を覗き込んでいる。

 一瞬、その“意味”を判じかねた。

 何故――枝先絆理がここにいる(・・・・・・・・・・)

 

「先生どうしたの? どっか具合悪いの……?」

「…………いいや、そんなことはない。大丈夫だから」

 

 僅かに脳裏を過ぎったその妄想を振り払う。春生は枝先に微笑んだ。これから実験に臨もうとする被験者を実験者が不安にさせてどうする。

 そう。予てより入念な準備を整えて、AIM拡散力場制御実験は今日この先進教育局併設の実験棟で行われる。

 とはいえ、当初の予定を大幅に繰り上げた臨床だった。木原幻生直々に連絡を受けてから早三日。事前検診や実験装置へのデータ入力等、慌しく時間は過ぎて、結局その間に子供達と会う機会も時間もほとんど無かった。

 ようやくこうして顔を合わせるのが寝台に横たわった状態というのも奇妙な感覚である。

 春生の言葉を受けても、やはり枝先の表情は晴れない。

 

「……怖いか?」

「えっ? ううん! ぜんっぜんそんなことないよ!」

「そ、そうか?」

 

 思わぬ力強い否定に春生の方がたじろいでしまう。そして、枝先は迷いなく春生に言った。

 

「だって、先生のこと信じてるもん!」

「……」

 

 春生に言葉は無かった。ただ、そっと枝先の頭に触れてその栗色の髪を梳いた。

 こんなにも純粋な信頼をどうして何の躊躇いもなく自分にくれるのか。

 自分が教師として、決して優れていた訳ではないと理解している。きっと、大人としても未熟だったに違いない。

 だのに、何故。

 

“おめぇが好きになってやりゃあ――――”

 

 とある少年の言葉が頭を過ぎる。

 

「……ああ、ただ、それだけなんだ」

「せんせー?」

 

 先に歩み寄ったのは一体どちらなのやら。けれど、たったそれだけのことで、子供達は木山春生という人間を好いてくれた。なら、春生にとってもそれだけで十分なのだ。

 不思議そうに枝先は首を傾げた。彼女は、春生の中にある不安を感じ取ったのだろう。今日という日を過ぎれば春生は教師の任を解かれ、また研究漬けの日々に戻る。本来、木山春生の歩む人生はそれだけだったのだ。それだけでいいとさえ思っていた。

 けれど、子供達との出会いがそれを変えてしまった。

 

「大丈夫……大丈夫だから」

「……うん!」

 

 たとえこの教師という役目が終わっても、木山春生は子供達の――――

 

 

 コントロールルームで端末の数値を確認する頃には、春生の不安はすっかりと晴れていた。よくよく考えてみればなんとも子供染みた心配である。自分に対する苦笑を禁じ得ない。

 とても些細なことだった。けれど何よりも大切なことだから。

 

(これが終わったら、教師を辞めることを言わないと……きっとまた大騒ぎするんだろうな。特に悟空(あいつ)は)

 

 その光景がありありと目に浮かぶ。

 これから先も、そんな毎日が待っているのだ。

 

「木山君。そろそろ始められるかな?」

「局長」

 

 春生の背後から静かに一人の老人が並び立つ。先進教育局の長――木原幻生。アクリルガラスの向こう側で実験の開始を待つ子供らを彼は柔らかな笑みで見下ろした。

 

「少し緊張も見られますが子供達は皆落ち着いています。何時でも、問題ありません」

「そうかね。急なスケジュールの前倒しにも関わらず、いやいや大変結構。やはり君に子供達を任せて正解だったよぉ」

「いえ」

 

 いかにも朗らかに、老人は頷いた。

 思えば今の春生にこのような変化を齎したのも彼の采配あっての事。当初は厄介事を押し付けられたと悪態吐くこともしばしばであったが、今はその巡り会わせに感謝している。現金なものと思わなくもないが。

 

「……私としても、良い経験を積ませていただきました。ありがとうございました」

「いやぁ、それは何よりだよ」

 

 木原幻生は深い皺の刻まれた顔をさらに綻ばせた。

 

「本当に――何よりだねぇ」

 

 間もなく実験装置のセットアップが完了した。各種モニターは子供達の身体情報の詳細をリアルタイムで報告している。バイタルにも問題は無し。全ての値が正常値を示していた。

 準備は万端整った。

 コンソールのマイクから、春生は研究員へ向けて合図を。

 

「実験開――――」

 

 送ろうと。

 

 

 

 

 

 

 

 警告音(アラート)

 

 ――ドーパミン低下中

 ――抗コリン剤投与しても効果ありません

 

 鳴り響く警告音、警告音、警告音、警告音。

 耳を劈く警告音、警告音、警告音、警告音。

 

 ――広範囲熱傷による低容量性ショックが

 ――乳酸リンゲル液輸液急げ

 

 全身を襲う戦慄、恐怖、怯え、悲壮、絶望。

 顎を伝う汗の冷たさ、背筋を伝う悪寒、凍てつく心臓。

 

 ――これ以上は危険です

 

 アクリルガラス越しの現実。

 遠い、どこまでも遠い。

 

 

 これは崩壊だ。

 子供達の生命の。

 そして、私自身の。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っっ!?!?」

 

 気が付くと、春生はコンソールに手を突いていた。前のめりに傾く身体を必死に支え、もう片方の手で自身の頭を鷲掴む。

 ありえない懸念は外れてくれた。春生の頭部はしかとここにある(・・・・・)

 そのように所在の確認を必要とするほど、春生の精神は現実を乖離していた。

 

「どうかしたかね、木山君」

 

 戸惑いの空気が室内を、ガラスを隔てた実験室を満たしていく。研究員達は皆、間もなくの実験開始を心積もりしていたのだから当然であろう。

 それでもなお、春生は動けない。

 白昼夢めいた記憶(ビジョン)

 幻覚だ。自身の不安感がネガティブな光景をより現実味を持って想像させたに過ぎない。

 妄想だ。気の迷いだ。

 悪い、夢だ。

 科学者ならば、疑念など抱かない。無根拠で、非論理的で、一寸の思案にも値しない。

 だから。

 

 春生は今一度マイクのスイッチを押した。

 

「実験を――――――――中止する」

 

 その瞬間、どよめきが室内を波のように伝った。それはこの場の研究員達にとって正しく晴天の霹靂だったろう。

 

「この実験は……失敗する」

 

 多額の資金と膨大な時間と稀少たる叡智を惜しみなく費やして臨まれようとする一大実験を、一人の女が全て台無しにしようとしているのだから。

 

「木山君、一体どうしたというんだね」

「言葉の通りです、局長。この実験は失敗する。AIM拡散力場の暴走によって子供達の脳は深刻なダメージを負う。それも外科処置での恢復(かいふく)が叶わないほどに」

「なんだって……」

 

 それはきっと恐怖からくる妄想で。

 それはきっと不安によって生じたヒステリーのようなもので。

 けれど、絶対に無視できない光景だった。無視してはならない災厄だった。そして、論理を超えた厳然たる確信があった。

 

「おそらくは私の正気をお疑いでしょう。無理のないことです。論理性の欠片も、ありません。ですが!」

 

 何故なら、科学者木山春生は。

 

「私には……子供達の生命を守る義務があります」

 

 木山春生(わたし)は、あの子達の――。

 

「お願いです、局長! この実験だけは、どうか……どうか!」

 

 傍らに立つ木原幻生に春生は深く頭を下げた。そもそも頭を下げてどうこうなる問題ですらない。仮にも統括理事会肝入りの実験を取り止めるなど前代未聞だ。

 撥ね付けられて当然の懇願だった。けれど退く訳にはいかない。何をしてでも、自分に支払えるあらゆるもので春生はこの儀を通さねばならない。その覚悟は、ずっと前にできてしまっていたから。

 

「…………………………………………」

 

 沈黙は、果たしてどれほど続いたろうか。

 誰一人として口を開かない。皆呆気に取られた様子で春生を、この状況を見詰めている。唯一、この場の最高責任者を除いて。

 

「よく、解りました。木山君、頭を上げなさい」

「局長」

 

 言われるまま春生は恐る恐る顔を上げた。そこには、常の柔和な笑みを湛えた木原幻生が立っている。

 

「やはり私の思った通り、君はとても優秀だ。いやそれ以上だよ」

「え……」

 

 思いがけない賛辞の言葉に春生は一瞬呆気に取られ、次いで言葉を失くした。

 眼前の木原はいかにもにこにことしていて、その表情からも隠し切れない喜色が窺える。それはしかし、あまりにも場違いな貌だ。怒りや苛立ちや呆れや困惑を彼は浮かべるべきなのに。

 だのにその貌は――その目は。

 

「それだけに、実に残念だよ」

 

 その目は、どうしてこんなにも愉しげで。

 こんなにも――――歪んでいる。

 

「――――ひっ」

 

 知っている。知っている。

 その貌を。その目を。

 その歪んだ愉悦を。

 知っている。ありえない記憶にあるその正体を。絶大にして醜悪な恐怖として、それは木山春生に刻まれている。

 木原幻生。この、化物は――――

 

「う、ぁ…………っ!!」

 

 踵を返す。背を向ける。その老人から。その恐怖から。

 走った。白衣が翻り後塵を巻き上げる。事の成り行きを見守って呆然とする研究員達を押し退け、扉を開け外へ。突然のことに、春生を引き止めようとするものさえいなかった。彼らが常識的な思考力の持ち主で助かった。先程からの春生の奇行は彼らの優れた理性で咀嚼するにはいささか難しかろうから。けれど、かの人物にとってもそれが同様であるかどうか。そんな訳がない。

 廊下を駆け抜け、階段を駆け下りる。最後の一段を踏み外し前のめりに転ぶ。肩を床へと強かに打ち付けた。鈍い痛みが響く。足首も少し捻ったかもしれない。日頃の運動不足が祟った。

 一切合財構うものか。

 階段を降り切ってしまえば実験室の扉は目の前に。

 跳ね起きて扉に取り付く。重い鉄扉が空圧でスライドし、実験場への道を春生に開けた。

 寝台に横たわる子供達の視線が一斉に春生に注がれる。あたかも教室の授業風景を幻視する。

 

「先生?」

「待っていろ」

 

 固定ベルトを外す。各種測定機器を停止させ、子供らの頭部に装着された計器を取り外していく。一人一人。全て。早く。急がなければ。速く。はやく。

 

「ねぇ、先生どうしたの……?」

「いいからっ」

 

 子供達の当然の疑問にも答えてやる時間はなかった。春生には時間などなかった。

 急げ。急げ。急げ急げ急げ急げ急げ。

 来る。あの人が。奴が。来てしまう。だから急げ。はやく。

 寒気すら伴う焦燥感を押してなお、春生は凄まじい手際で子供達に纏わり付く数多の計器類を全て外した。最後の一つを投げ捨てて、患者衣に身を包んだ子供達の顔を瞬時に確認。それは出欠確認の要領だ。いつからか一目でそれは分かるようになっていた。全員いる。

 

「逃げ――――」

「どこへ、かなぁ?」

 

 その一声で、春生の呼吸器は強制停止した。無論それは一瞬の出来事であり、人間の生命活動を停止せしめるような能力があった訳ではないのだけれど。

 今この時、この場所で、春生の命運を握っているのは間違いなく彼である。

 当然だ。逃げられる筈がない。そんな時間も、猶予も、手段もここにはない。春生の手にもそんなものは最初からない。

 鉄扉を開き、そこに老人が立っている。両手を後ろ腰に回し、笑顔で春生を、子供らを見下ろしている。何度となく見たそれは“木原幻生氏”の貌だ。

 優しげな面差しはいかにも好々爺然としている。だのにその薄く細められた目の奥は底なしの暗闇。得体など知れず、その笑みはひたすらのおぞましさを催す。これが、昨日までの老人と同じ貌なのか。

 

「木山君、残念だ。本当に本当に残念だよ。君は優秀な研究者だった。そして実に良い生徒だった」

 

 深い情感を込めて木原は言った。その嘆きの言葉は真実本心からのものに思えた。

 彼は木山春生という一人の優秀な研究員の前途を嘱望し、目を掛け、最大限の指導(・・)を行ってきたのだ。

 指導を。

 

「一体、どの段階でこれ(・・)を知ったのかな。実験資料からはどうやっても類推が不可能だった筈だね。いやぁ? おっとそうだ実験材料(モルモット)は常に君が観ていたんだった。資料の欠損箇所を実地と分析から導き出すことも君ならできるかもしれない」

「モル、モット……?」

「そう、君が今抱えているそれだよ」

 

 腕の中にある枝先の身体が震える。あるいは春生自身の震えであったかもしれない。

 それ、という呼称がここまで怖気を催すものなのか。

 しかし、今はそれ以上に一つの事実が春生を震撼させた。からからに乾いた喉に無理矢理唾液を流し込み、満足に回らない口を叱咤して春生は言葉を継いだ。

 

「どういう、ことですか。この実験は…………」

「うん? なんだい。実験の内容までは把握していなかったのかね。いけないなぁ木山君、結果にばかり目をやっちゃぁ。研究者として推論にはきちんと検証と証明を付随させなきゃ。しかし、まあ、限られた要素だけでこの結論を導き出せただけ及第点だね。だから、君にはこの問題の回答を上げよう」

 

 人差し指を一つ立てて木原幻生はのたまった。まるで出来の悪い生徒に講義をするように、それはとても自然な所作だった。

 

「正式な名前は『暴走能力の法則解析用誘爆実験』。能力者が常に発生させているAIM拡散力場へある特殊な刺激(・・)を与えることで能力の暴走条件を検証する…………というのが、趣旨の一つだね」

「………………は?」

 

 木原の説明は端的であり実に明快だった。

 An Involuntary Movement拡散力場。その語の示す通り、これは能力者が“無自覚に”発する力場(フィールド)のようなものだ。能力者は常にその能力に応じた形、現象で以てそれを周囲に拡散させている。彼らのこの現実に対する干渉を観測し調査すれば能力の性質、レベル、心理構造――自分だけの現実(パーソナルリアリティ)を明らかにすることも可能だろう。

 だが、この能力者への“能力に対する逆干渉”は謂わば脳への干渉だ。

 能力を現実へ発現させるのは能力者の大脳の働きに他ならない。それに直接働きかけ、恣意的に操作を施す――春生が知る『AIM拡散力場制御実験』の内容がそれだった――その危険性は語るに及ばない。一歩間違えれば脳に深刻な損傷を負わせ、最悪自我(パーソナルリアリティ)の崩壊を起こすだろう。

 つまり、木原は意図的にそれをする(・・)と言った。子供達の脳を打ち壊すと言ったのだ。

 

「しっ……正気ですかっ!? あなたは!!」

「うーん?」

「これは、明らかな違法実験です! 国際認可された研究所が人体実験を主導するなんて、警備員(アンチスキル)、いや統括理事会が許す筈――――――ぁ」

「ははは、いやぁ君らしくもない。的外れなことを言ってはいかんよ木山君」

 

 今度はまるで子供をあやすような物言いで木原が破顔する。

 対する春生はただ言葉を失う。噛み合った事実を無理矢理飲み込まされている最中なのだ。

 学園都市統括理事会は都市運営上の全ての機能を掌握する最上位組織。先進教育局小児用能力教材開発所とてもその掌の上の一塵に過ぎない。そんな最高権力保有体たる組織“肝入りの実験”のその実態を――――知らぬ筈があろうか。

 

「これは初めから決まっていたことだよ」

 

 底の見えない闇に落ちる、そんな錯覚を春生は味わっていた。

 己が身を置くこの科学の都市(まち)は、断じて科学者の楽園などではなかったのだ。

 

「この学園都市(まち)は実に合理的だ。研究資金と実験材料を一時に集めてしまえるんだから。特に材料(チャイルドエラー)には、ここ数年困ったことがないよ」

 

 さも嬉しげに木原は言う。

 

「実に多くの検証を行えた。多くのデータを収集、蓄積できた。多くの叡智を培うことができた。あぁ、そして、今回の実験も同様だ。この実験が成功した暁には、真理への道をまた一歩辿ることができるんだよ。だからね、木山君」

 

 口の端が吊り上り、そこには化物の笑みが刻まれた。

 

「そのモルモット、返しなさい」

「っっ!!」

 

 その一言が合図であったのか、木原幻生の背後から慌しい足音が響く。空圧式の扉が開かれ、そこから黒い人影が大挙して実験場に現れた。

 彼らは一様に同じ格好をしていた。全身を防護プロテクタで覆い、手には自動小銃、頭部から顔面は全て黒いマスクで包まれ、暗視ゴーグルの赤い眼窩だけが唯一色彩らしきものを放つ。

 重装備に反した機敏な動作で完全武装の一団が春生と子供達を即座に取り囲んだ。

 あまりのことに声さえ出ない。そんな春生の様子を見て取って木原は苦笑した。

 

「いやいや無粋ですまないねぇ。けれどこの街ではこういった人員は重宝するんだよ?」

「あなたは」

 

 続く言葉は形にならず、空気中にただ溶けていった。もはや春生に正常な思考は叶わなかった。

 ただ。

 

「せん、せい」

「ぁ……」

 

 自然と春生は腕に力を込めていた。決して放しはしないと、傷付けさせはしないと。

 その小さな命を固く抱き締める。白衣を握り締める小さな手を握り返した。背中に縋る熱を庇った。

 それを――春生は知っている(・・・・・)

 ほんの一瞬、時間が停止するかのような錯覚の中で、春生はまた白昼夢を観た。けれどそれは先ほどのようなビジョンではなく、明確な像や音を形作ることもない。

 ただ、覚えている。

 

「…………あぁ」

 

 いつの間にか震えは止まっていた。恐れも不安もどこかへ失せていた。

 たったそれだけのことでどうして、とは春生は考えなかった。

 

「そうか……私は」

 

 黒い群体から注がれる視線はどこまでも冷ややかだ。感情らしいものなど一欠けとて感じられない。それらは一様に得体の知れない恐怖を掻き立てた。

 木原は……春生のその態度に苦笑を深めていた。

 

「一つ提案を、と思ったんだが……その様子じゃねぇ」

 

 肩を竦めて溜息を漏らす。木原は春生に呆れていた。

 その「提案」の内容を想像できない春生ではない。子供達を引き渡せば、木原は喜んで春生を許すだろう。あまつさえ今後もまた己の研究開発助手として春生を起用することだろう。

 研究者としての将来はその瞬間約束される。木山春生は木原幻生の右腕として学園都市有数の科学者のその一人となる。そんな未来。用意された前途。真理への探究。

 

「ふざ、けるな」

 

 春生は想像した。木原幻生によって齎される未来を。

 虫唾が走った。

 

「渡すものか……守るに決まってるだろうっ」

 

 春生は木原を見た。愚者を見下ろす賢者を気取る老人を睨め上げた。

 その愉悦する目を見ても、先刻のような恐怖は湧いてこない。ただ全身が戦慄いていた。堪え難い怒りが、春生を震撼させた。

 

「この子達は私の生徒だ! 貴様なんかに指一本触れさせるものか!!」

 

 その怒りが春生の堰を切った。恐怖に塞がれた喉を抉じ開け、凍りついた舌を溶かす。

 熱に浮かされるように春生は叫んでいた。万感の思いが込み上げてくる。

 

「そうだ私は……!」

 

 しかし、そこから先を口にすることは叶わなかった。

 春生の絶叫の機先を封じたのは十数門に及ぶ小銃の銃口だった。一糸乱れぬ動きで黒い人型達が銃を構えている。

 片手を挙げて春生に微笑む木原の姿。己の合図一つでこの場の全員を殺害できるという事実確認だろうか。それとも、春生の言葉が彼の感性において聞くに堪えないものだったのか。

 

「もういいよ。処理(・・)しよう。子供(モルモット)はそうだねぇ、一つ二つなら使えなくなっても構わないよ」

「っ!」

 

 それは死刑宣告に等しい。いや、あるいは自分自身の死以上の絶望。

 誰かが死ぬ。子供達の内の誰かが。

 

「やめろ!」

 

 叫び、生徒を己の背後に押しやる。足りない。両手では足りない。この体全てを費やしても子供達の盾には足りなかった。

 子供達はきっと死ぬということすら満足に理解できていないだろう。そして今こうして未知なる恐怖に怯えている。何日か前まで輝くような笑顔を浮かべていた顔が痛ましく歪んでいく。

 

「やめてっ……!」

 

 傍らの子らをただ掻き抱いた。声さえ上げられない彼らの震えを感じた。

 何もできなかった。子供達を守ることも、その恐怖を僅かに拭ってやることさえも。

 何も、できない。

 

(やっと、やっと気付くことができたのに――――)

 

 木原の手が挙がる。それが銃火の引鉄なのは明らかだった。

 そして間もなくそれは引かれる。

 その手が振り下ろされる刹那の時間、春生の脳は目まぐるしい思考の渦を描いた。子供達との出会いや思い出、研究者としての自分と教師としての自分、誰かの笑顔、誰かの泣き顔、日直の号令、朝の教室の匂い、給食の人参の味、そして騒々しい笑い声……。俗に走馬灯と呼ばれる記憶のフラッシュバック現象だった。意味などない。それは終わりの際に見せられる脳の混乱でしかない。

 だからきっと、これも、意味なんてない。

 

(――――――――――――悟空)

 

 最後の最後に思い出したのは、あいつだった。

 とある少年の力強い笑みだった。

 そうして届く筈のない呟きは掻き消されることとなる。

 

 ――――最初に、風を切るような音を聞いた。

 

「え?」

 

 軽やかで鋭い。そのようにしか表現のしようのない音。それはすぐ近く、頭上からした。

 いや、降ってきた(・・・・・)

 

「伏せろ春生ぃーー!」

「!! 皆集まれ!」

 

 脳よりも早く春生は脊髄反射で動いていた。

 学校での経験が皮肉にも活きたらしい。大半の生徒は春生の声に反射的に従っていた。そして反応の遅れた子供らは春生自ら無理矢理引き寄せ、体ごと覆い被さる。

 春生と子供らが一連の動作を終えるのと全く同時だった。

 衝撃、激震、遅れて轟音。

 そんな三つで研究所が満たされた。

 音よりも速い(・・・・・・)衝撃波に浚われまいと必死に耐える。春生の力だけでは途端に吹き飛ばされていただろう。子供達もまた春生を放すまいと耐えていてくれたのだ。

 爆発めいた暴風が弱まると、周囲は白い粉塵に包まれた。瓦礫や建物の鉄材が近くで散乱していくのが分かる。では室内に充満するこの煙幕の正体は粉砕された建材であるらしい。

 リノリウムに覆われたコンクリートと鉄骨の床を粉々にするほどの破壊力。すわ隕石がこの研究所を直撃したのかと春生は本気で考えた。

 

「ぐっ……」

 

 蔓延する膨大な塵が徐々に晴れていく。顔を上げて周囲を見回す。先ほどまで自分達を取り囲んでいた黒い集団も整列した銃口もそこにはない。目を凝らすと、彼らは一様に実験場の壁に叩き付けられていた。余程強く打ち付けられたらしく、誰も彼もぴくりとも動く様子はなかった。

 そして春生のすぐ目の前には、深々とクレーターが穿たれていた。床材はもとより、建物自体の基礎さえ貫いて今そこからは茶褐色の地層が覗いている。

 その光景を唖然として眺める。言葉も出なかった。

 

「よっと」

 

 春生の思考が現実に追いつく前に、また視界を何かが過ぎる。陥没した床の底からそいつが跳び出てきたのだ。

 刹那、春生はその姿を見違える。

 あの少年の背中はこんなにも大きかったろうかと。その広さ、分厚さ、屈強さはまるで大人の、男性のようで――――。

 

「大丈夫か、春生?」

 

 煙る砂塵の向こう側。そこには小さな背中がある。

 振り向いた少年の心配そうなその顔を見て、春生は初めて安堵した。心の底から震えるように。

 

「すまねぇ。ギリギリんところだったんで、ちょっと派手にやり過ぎちまった」

「…………まったくだ。バカ者。本気で死ぬかと思ったよ。もう少し加減というものができないのか君は」

「へへへ、わりぃ」

 

 頭を掻いて悪びれる様に、するりと口から悪態が零れた。

 

「ケガしてねぇか? おめぇ達もだ。全員いるかぁ!」

 

 蹲ってじっと耐えていた子供らもその声に気付くと続々顔を上げた。

 

 ――ごくう?

 ――ごくうだ

 ――うぇーんごくうぅ

 

 きょとんと首を傾げ、驚いて口を空け、顔を見て泣き出す者もいた。

 

 ――悟空!

 

 けれど子供達の顔は皆、今はもう喜びに輝いていた。

 

「オッス! おめぇ達、助けに来たかんな。もう大丈夫だ!」

 

 あっさりとそう言い放って、悟空はにっかりと笑って見せた。

 これから何が起こるとも知れないというのに。どんな危険が、どれだけの敵が、待ち受けているかも判らないのに。

 

「あぁ……もう、大丈夫だ」

 

 大丈夫。もう何も心配いらない。

 論理性の欠片もない確信で春生の心は満たされていたから。

 きっとなんとかなる。ここを抜け出し、子供達とまた学校へ通う。騒々しく、慌しく、平凡で飾り気のない、大切な日々に戻るんだ。

 木原の妄執など怖くはない。そんなものは簡単に跳ね除けてしまえる。もう迷うことはない。木山春生は子供達を守る。自分の生徒を命に代えても守り通す。そう決めた。その決意を思い出した(・・・・・)

 

「君がいたから」

 

 孫悟空。不思議な少年。

 春生の心を揺さぶる者。春生に暖かな日々をくれた、生徒達とは違うただ一人。決意を思い出させてくれた。

 

「君が、いてくれれば」

 

 そっと、少年はその小さな手を差し出した。それが大きさに見合わない力強い手なのだと春生は知っている。

 春生も手を伸ばす。いつものように。彼は強引に自分勝手にまた手を引いて連れて行ってくれるだろう。

 

「悟空――――」

 

 そして伸ばした手は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何も触れはしなかった。

 

「え?」

 

 手を伸ばす。けれどそれは届かなかった。

 遠のいていく。悟空の手が。姿が。その笑顔さえ。

 伸ばしても伸ばしても、春生の手は何も掴めない。春生の意思とは無関係に少年は遠ざかり、世界さえも消え失せて。

 春生の体はゆっくりと傾いていった。そうして地面に倒れこむ。前のめりに、何の抵抗もできなかった。

 額と鼻と頬を強かに打つ。次いで肩が地面を滑った。剥き出しの地肌(・・・・・・・)を。

 口の中にざりざりとした感触が広がる。それを不快だと思う余裕も今はない。

 

「なん、で……?」

 

 疑問の声は無意識に口から零れた。けれど春生は自分が一体何に対して疑問を抱いているのかさえ解らなかった。

 痛む額と肩に顔を歪めながらゆるゆると手を突く。そこにはリノリウムの滑らかな感触はなく、砂利と小石の刺々しさだけがあった。

 気付くと痛みは肩どころか全身で響き渡っていた。びりびりと針で刺すような、打撲というより痺れに近い鋭痛。何故……また疑問が湧く。解らない。

 見上げれば巨大なコンクリートの橋梁が空を縦断している。ここは第十学区を走る幹線道路の高架下だ。何故、そんなことが判るのだろう……そんなただの事実がどうしてか春生を不安にさせる。解らない

 

「……っ」

 

 立ち上がると、さらに肉体のコンディションの劣悪さを思い知る。全身の痛みと共に耐え難い倦怠感と疲労感が春生を襲った。重力そのものが倍増したかのような錯覚を起こす。

 何より、この頭痛が。酷過ぎる。

 割れ鐘が頭蓋の内で鳴り響いている。あるいはそれが外へと飛び出そうとしているのか。脳髄が、“許容限界以上の何か”を流し込まれたかのような。

 

 ――何だこれは。どうしてしまったのだろう。解らない。解らない……本当に?

 

 その時、春生の背後で音が立った。

 

「なに、今のっ……!?」

「…………」

 

 声がする。まだ幼い、少女の声。

 振り返る。けれど振り返るまでもなく春生はそこに誰がいるのか知っていた。

 淡いブラウンのショートヘア、白い小さな花飾り。ぼろぼろになったキャメル色のセーターとブレザースカート、それは常盤台中学の標準制服だ。知っている。

 そしてこの少女のことも知っている。

 学園都市においてたった七人の超能力者(レベル5)がその一人。電撃使い(エレクトロマスター)超電磁砲(レールガン)御坂(ミサカ)美琴(ミコト)

 そんな彼女が何故ここに。こんな場所で何故自身と相対しているのか。解らない。解らない。わからない――――

 

「はずが、ない」

「え?」

「解っている。知っている何もかも。ここが何処で、君が誰で、何故ここにいるのか何故ここで私と戦ったのか私が! 何をしたのかっっ!!!」

 

 膝から力が抜けていく。崩れ落ちて、春生は両手で顔を覆った。閉じた目蓋の裏の暗闇の向こうで春生は見た。己の今を、今に至るまでの過去を。全て思い出した。

 否、違う。初めから忘れたふりをしていただけなのだ。

 春生は何一つ忘れてなどいなかったのだから。

 

「ただ目を背けていただけだ。現実から、自分の、罪から」

「……それって、もしかして、さっきの記憶と関係あるの?」

 

 先程までの勝気な彼女とは打って変わった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、まるで壊れ物に触れるような静かな声音。

 

「さっきの電撃で繋がった回線から、アンタの記憶を見た……あの、“二つ”の記憶はなんなの?」

 

 この頭の壊れた女に、少女は戸惑っているのだろう。

 春生の口の端が吊り上る。

 

「ふ、ふふ、くふふふっ」

 

 皮肉げな嘲笑。自身を嗤う。腹の底で面罵が渦を巻く。どのような言葉でも足りなかった今の自分には。

 

「くっはは、アハハハハハハハハハハハハハ!!!」

「っ!?」

 

 戸惑い驚く少女に春生は笑いかけた。なんて醜い笑顔なのだろう。

 

「妄想だよ! 幻想だよ! 夢、幻、内在願望の脳内発露! 現実逃避と自己弁護の為の記憶改竄! 防衛機制というやつさ! 私は罪悪感で潰れてしまいそうな私の心を必死になって守ろうとしていたんだ! あんな、あんなものを――――居もしない人物まで作り出して!!」

「じ、じゃあ、あの子は……」

「そうさ」

 

 空を、見た。青い。白々しいほどに青い。綺麗な、どこまでも美しい空が春生を見下ろしていた。

 

「孫悟空なんて少年は、この世のどこにも居やしないんだっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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四話 GTinとある科学の超電磁砲

 

 

 

 あの日あの時、木山春生の人生は決まったのだ。

 警告音(アラート)は止んでも、喘鳴は耳の奥に今もこびり付いて離れない。あの出来事が春生の全てを奪い去ってしまった。

 科学者としての矜持も尊厳も、ただの人として得られた幸福や優しさも、巨悪の前では儚くて脆弱で何の意味も為さないということを春生は嫌と言うほど思い知らされた。

 だからもう何も要らない。そう心を凍らせた。

 ただ一事、子供達の恢復をのみ目的と定めて。

 

 あの悪夢のような実験の後、病院へ搬送された子供達は誰一人目覚めることはなかった。唯一“死”という事実だけを免れて、彼らは永遠に近しい眠りの中に逝ってしまった。

 重度の負荷を掛けられた脳はその大部分の機能に不具合を起こし、子供達は脳が維持できない身体機能を外部から取り付けられた生命維持装置で取り留めている。意識不明となって数年、彼らはこれから先も目覚めることはないだろう。外科処置のしようもないのだ。そもそも脳のどこに、どのように手を施せば恢復が見込めるのかさえ見当が着かない。実験の最中に記録されたであろう子供達のデータは、全てかの老人がどこかへ持ち去ってしまった。

 春生は既に研究チームから除籍を言い渡されている。木原幻生の行方も、データの所在も、全ては闇の向こう側。探し出すことは不可能だった。

 だから春生は別の手段を模索した。

 手元にデータがないのなら、同様の実験を行いそのデータを代替すればいい。何も現実に実行する必要はない。かの実験を細部まで精密にシミュレートできさえすれば必要なデータは手に入る。そしてそんな大規模演算が可能なスーパーコンピュータがここには、正確にはその使用権限が学園都市には存在する。「樹形図の設計者(ツリーダイアグラム)」。超高性能並列演算処理器。

 データが揃えば、子供達の恢復手段を見付けられる。暗澹の中にいる春生にも僅かに、けれど確かな希望が見えていた。

 

 ――――23回目の使用申請。23回目の申請却下。

 

 春生は希望(ソレ)を捨てた。

 そして春生は、いつからか眠らなくなった。一日をデスクにしがみ付き、コンピュータを睨みキーを叩きあらゆる資料を読み漁った。入浴も食事もしない。食事量がゼロに近付くと排泄も必要なくなった。

 そんな生活を二週間。肉体が壊れない筈もなかった。

 病室のベッドで目覚めてすぐに点滴を引き抜いて出て行こうとする春生を、彼女の知己の医師は強く諌めた。

 その言葉が春生に届いたのか、はたまた春生の理性が入院という時間的ロスを嫌ったからか。春生は生活を改めた。それも比較的、という注釈の付く程度のものだったが。

 春生はやはり眠らなかった。睡眠時間さえ惜しんだことも理由の一つではあるがそれが全てではない。

 眠ると必ず夢を見る。春生の全てが失われたあの日の夢を。子供達の呻き、警告音、赤い画面、真っ赤な血、愉しげな、目、目、眼。

 眠るのが無性に怖かった。罪の記憶が何度も何度もリフレインされる。忘れるな。思い知れ。そう糾弾されているようだった。いつしか睡眠は春生にとって苦痛以外の何物でもなくなった。

 身体と精神を酷使し続け、一ヶ月が過ぎた。三ヶ月が経った。半年を跨ぎ、一年が過去になって、数年を使い潰した。

 そうして遂に、春生は一つの方法を見出す。使用許可の下りない演算装置の代わりが要る。AIM拡散力場、延いては人間の脳内活動を完全に再現してしまえるだけの超高度演算能力を有したものが。そんなものが果たして「樹形図の設計者」以外に存在し得るのだろうか。

 あるではないか。それも無数に。この学園都市(まち)はそれで溢れ返っている。

 

 ――能力者の脳。これ以上にない天然の演算装置。

 

 だが一つでは駄目だ。一般的な人間一人の脳が可能とする程度の演算量では、AIM拡散力場制御実験――暴走能力の法則解析用誘爆実験を完全に再現するなど到底できない。足りないのだ。処理速度も記憶容量も何もかもが。

 そう、一つでは足りない。

 だから増やす(・・・)。数を揃える必要がある。この街ならばそれはいとも容易いことだ。ここは能力者の為の街なのだから。

 能力者の脳――“演算装置”を集める手段もまた春生の手にはあった。脳を一つの演算機器として、それも複数個を並列運用する為に作り出した“機構”が、偶さか副次的な効用を生んだ。複数人の脳にある同一の脳波形パターンを組み入れ固定し、それらを並列させ一つのネットワークとする。このネットワークと一体化することで能力者の演算処理能力は大幅に向上する。さらに、同系統の能力者同士ならばその思考パターンが統一され、能力行使はより効率化されることになる。

 “演算機器”の完成度次第では低能力者(レベル1)強能力者(レベル3)、または大能力者(レベル4)相当の力を得られるだろう。

 あくまでも、一時的なものだ。能力の向上はネットワークに繋がっている間しか維持されない。能力者自身の強度が変わる訳ではないからだ。そして、ネットワークに接続し続ければ、いずれ――――。

 本来、ごく短期で脳に大量の電気的情報を入力する為には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感全てに刺激を与える必要がある。春生はこれを、頒布、複製の容易さから聴覚に限定。人間の共感覚を応用することで自分自身の脳波を他の脳に同調させた。

 

 『幻想御手(レベルアッパー)

 

 欲しがる者はいくらでもいた。

 能力開発を主眼とするこの街には、能力強度偏重主義とでも呼ぶべき風潮が蔓延している。低レベルの者が高レベルの能力者に見下され、軽んじられ、時には不当に虐げられる。『幻想御手』は、彼らのその培われた劣等感に直撃した。

 春生は順調に“演算装置”を集めていった。常識に照らせばこんなのものは眉唾以外の何物でもない。そうと解っていても試さずにはいられないのだろう。そして事実、使用者の能力は向上する。

 最初期は脳の数量の関係上、強度変化は微々たるものだったが、効果は確実に現れる。噂が噂を呼び、音楽配信サイトで密かに作成した秘匿ページに掲載していた『幻想御手』も二週間で5,000ダウンロードを超えた。

 数が揃えば効果も飛躍的に上昇する。遠からずシミュレーションに耐え得るだけの演算機器が完成する。

 

 ようやくだ。

 ようやく、春生の願いは叶う。

 子供達の目覚め。彼らを現世に呼び戻せる。

 春生は歓喜した。子供達を眠りの暗黒から救い出せる。起き上がり、見て聞いて感じて、また人生を歩いていける。その当たり前がどんなにか尊く、幸いであるのかを春生はこの数年間で噛み締めた。他ならぬ子供達の生命によって。

 だから、きっとまた子供達の笑顔をこの目で見ることを夢見た。それだけを糧にして今日まで生きてきた。

 それが叶う。

 もうすぐ、もう後僅かで――――

 

 ――ほんとうに?

 

 喜びに耽溺しようとする春生の心を何かが引っ掻いた。最初、それは爪で擦る程度の弱い違和感でしかなく。

 

 ――本当に? 本気で、そう思っているのか。

 

 けれど徐々に強く、深く、鋭く、その違和感は胸の奥を刺していった。

 春生は、知っていた。この違和感の正体。心に突き刺さり、決して抜けない楔の意味。気付かないふりをしてきただけだ。だってそれは残酷なほど明快な事実だったから。

 子供達を救う。そのただ一つの目的の為だけに春生はあらゆる手段を模索し、そして実行した。

 

 ――他者にその、犠牲を強いていながら。

 

 迷いはなかった。躊躇もしなかった。

 けれどそれは思考の停止と何も変わらないのではないか。心をあえて鈍磨させて、事実を咀嚼することを拒んでいたのではないか。

 『幻想御手』

 これを使用すれば確かに一時的に能力は向上するだろう。しかし、本来の正常な脳波を他者の脳波によって上書きされ、その後もまた同調を強いられ続ければその人間の脳が一体どうなってしまうのか。木山春生がそれを承知していない筈がなかった。脳はその正常な活動を阻害され、知覚麻痺や幻痛を引き起こし、最後には完全な昏睡状態となる。

 

 枝先達と同じように。

 

 脳裏に走るビジョン。もはや見慣れた崩壊の光景。

 眼。老人の、愉悦に歪む目が子供達を見ている。もがき苦しむあの子らを。

 

“科学の発展にお荷物(チャイルドエラー)が貢献した”

 

 そう言って笑う。さも嬉しげに歯を剥いた。置き去りの子供達を学園都市(まち)の荷物と嘲笑う。代えの利く消耗品と同列だと。そのおぞましさを春生は忘れない。その嫌悪に今もなお吐き気を催す。

 けれど、けれど。

 自分は? 今の自分は、どうなのだ。

 低レベルの能力者達にとって幻想御手の存在は垂れ下がった()だ。周囲からの嘲りや失望や、時には同情にさえ、彼らは怒り、悲しみ、嫉妬し羨望し、絶望したことだろう。その泥の沼に藁を差し出された。個人の願望を叶える為に。その後さらに深く深く泥の底まで沈められるとも知らずに。

 ただ、春生の目的を達する道具として。

 利用され。

 裏切られ。

 ようやく手にした希望さえ砕かれようとしている。

 

“怖くなんてないよ。だってせんせいのこと――――”

 

 信じた希望を。

 握り潰した。

 あの老人。木原幻生と同じように。

 

 ――あぁあああぁぁあぁぁああああ゛あああああああああ

 

 

 

 

 

 春生は目を覚ました。日も沈みかけた逢魔ヶ刻。研究室の窓から群青の闇が差し込み始めている。椅子に腰掛けたままデスクで意識が飛んでいたらしい。

 喉が焼けるような痛みを発していた。掠れた息遣いで荒い呼吸を繰り返す。それでも、心臓は早鐘を打ち続けた。止まる兆しすらない。

 両手で頭を掻き毟った。頭髪がぶちぶちと抜ける音が頭蓋に伝う。けれど止められない。そうしなければ頭に過ぎったイメージを拭えない。そんな脅迫が春生の脳髄を満たしていた。

 消えない。消えない。

 

「私の、……罪が……」

 

 同じなのだ。自分の私的願望を叶える為に他者の、子供達の心を利用する。その前途を暗澹に堕とす。最低最悪の悪行だ。

 己は大罪人だった。どこかで、その認識から目を背けていた。子供達を取り戻したいという執念、渇望で理性を覆っていただけだ。

 

「こんな手で……!」

 

 掌を見る。栄養失調と睡眠不足で荒れた皮膚、傷だらけの醜い手を。

 穢れている。目に見えない事実でそれは穢れきって見えた。

 

「こんな手であの子達に、触れられないっ……」

 

 椅子から転げるように立ち上がり、研究室を出る。

 目的地などあろう筈もない。ただここ以外のどこかへ。

 春生は逃げ出した。

 当て所なく街を彷徨う。街灯が点る。自動車がライトを点す。ネオンが次々に点されていく。夜に近付くほど街は光で溢れていく。それは春生を照らし出す。どこへ逃げようと、どこに隠れようと、決して許さず追ってくる。

 人波を掻き分けるようにただ進む。走る体力などなく、覚束ない足を叱咤して歩く。幾度も人と肩をぶつけ、その都度怪訝な顔を向けられた。そんな視線さえ今の春生には己を責める針の筵だった。

 

「……」

 

 気付くと、人の姿が途絶えていた。

 暗い蒼色の闇で空が染まっている。周囲は浅く木々で囲われ、足の裏には芝生のくしゃりとした感触があった。

 緑地公園の真ん中で春生は一人佇んでいた。どこをどう歩いてここへ辿り着いたのか皆目分からない。記憶の欠落があった。肩が無意識に上下する。耳に血流の音がじくじくと響いた。呼吸も荒いまま、精神的な混乱より今は肉体的疲労によって。

 弱っていた身体を無理矢理動かしたツケだろう。ふらふらと二歩三歩足を前へやると肉体に残っていた力はそれで尽きてしまった。持ち主に愛想も尽きたと、身体はそのまま遊歩道に倒れ込む。受身さえ取らなかった。ひどく、無様だった。

 

「…………」

 

 身体は動かなくなっても、まだ頭には不必要に力が余っていた。思考は渦を巻き、過去の記憶を呼び覚ます。眠らなくとも悪夢を見ることはできるのだ。

 喪失の記憶。子供達の未来が奪われた日。

 しかし、蘇った過去の映像の中で子供達を見下ろしているのは木原幻生ではなかった。痛みに悶え、苦しみに血の涙を流す無残な姿を冷ややかに睥睨する一人の女。

 そこにいたのは木山春生(わたし)だった。

 

「っ、く……ぁ、……あぁ……」

 

 痛み以外の耐え難さで春生は呻く。自己嫌悪が全身を満たしてどうしようもない不快感を齎した。

 

「……すまない……」

 

 うわ言のように零れた言葉は誰に対するものなのか。

 幻想御手の被害者?

 未だ意識の戻らぬ教え子達?

 あるいはこんな、己の罪に圧し潰される自分が許せないから。

 

「すまないっ……!」

 

 誰にともなく、あるいは過去から現在まで犠牲となってしまった全てに。

 それは自らの分を超えている。謝って、贖罪に何年何十年費やそうとも春生一人の負いきれるものではない。不相応な罪の意識こそあらゆるものへの侮辱の筈だ。

 それでも春生の疲れきった喉は、舌は、壊れた蓄音機のように言葉を発し続けた。

 

「すま、ない」

 

 聞き届ける者さえ居ない。

 贖罪の言葉には赦しも罰も与えられはしない。

 それはきっと、無間の地獄と等しかった。救いなど、なかった。

 

「――――」

 

 いつしか喉も涸れ果てて、かすれた音を漏らすだけ。薄れる意識の狭間でもなお春生は相手すら定かならない謝罪を繰り返す。遂には心さえ暗闇に没しようとした。

 その寸前だった。ほんの一粒だけ。

 

“    ”

 

 春生は“何か”を願った。これもまた不確かで、言葉にもならない、消え入る前の感情の切れ端のようなものだった。

 それこそ、誰が聞き届けられる。言葉を交わして、瞳を合わせて、肌を重ねてもなお伝わり難い人の心の有様を。

 神ならぬ身の人間では決して。

 神ならぬ、人間には。

 

 ――――心配すんな。なんとかすっさ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気付くと、ソファに横たわっていた。

 小鳥が窓の外で鳴いている。白んだ陽の光が目を焼いた。冷えた空気と澄んだ匂いが朝の訪れを春生に伝えている。

 

「どうして」

 

 そう呟いて記憶を反芻するが、思い出すことはできなかった。緑地公園で倒れ、意識を失った後自分は一体どうしたのか。不意に溜息が零れる。

 断続的な“自分”というものの欠落に、恐怖より先に呆れが立った。無用心甚だしいことは勿論、あれほど取り乱してしまったことが情けなかった。

 

「今更、事実に怯えてしまうなんて……覚悟していた筈だろう」

 

 またソファに倒れこみ、額に手の甲をぶつける。ここ数年頭に蟠って離れない重み(・・)がその程度で取れる訳もないのだが。

 己への叱咤などこれで十分だ。

 時間をそのような些事に浪費したくなかった。自分を憐れむ愚かさを春生は深く恥じた。

 

「もう迷うものか。もう、絶対に」

 

 自分自身に言い聞かせ、ふとした瞬間にでも心を侵そうとする冥い泥を振り払う。それが事実からの逃避であっても今は、今だけは立ち止まらぬ為に。

 

 鉛めいて重い頭脳、襤褸切れのように頼りない身体を引き摺って春生は最終調整の準備に取り掛かった。脳の並列、AIM拡散力場の集合、それらを真に演算機器として用いる為のオペレーション。

 時折、主の意向を無視して身体が停止してしまうこともしばしば。気絶することで春生は睡眠を摂取できた。能動的に眠ろうとしないのは、未だに心のどこかで眠りを忌避している自分がいたからだ。

 その日もやはり夢を見た。それは過去の情景に思えた。

 

 ――?

 

 崩壊と喪失のリフレインと、そう半ば諦めた心地でいた春生が見たのは、全く別のものだった。

 それはもっと前、春生がただの科学者“木山春生”であった頃。子供達がただの実験対象者だった頃。

 それは、平凡な思い出だった。掛け替えのない日常だった。

 

 ――っ

 

 懐かしさと喜びが湧き出すのと同様に、壮絶な後悔と深い悲しみが押し寄せてくる。あるいは今までで最も残酷な拷問だった。もう帰らない日々を見せ付けられる。失ったものの大切さを再確認させられる苦痛。

 けれど、どうしようとてなく春生の心は揺さぶられた。

 その日を境に、春生は眠るのを恐ろしいとは感じなくなった。目覚めてしまうことを悲しいと感じてしまう自分に、ただ呆れた。

 

 幾日か過ぎ、質の変わった夢も見慣れた頃。

 春生はその違和感に気付いた。

 

『オッス! 元気か? 春生』

 

 夢は記憶だ。過去見聞きした情景を覚えている限り脳が再構成して映し出す。だから決して見たことのないもの、経験したことのない出来事が再生されることはない。春生の夢は過去の出来事をその通りになぞるだけの、言ってしまえば反芻行為でしかなかった。

 だのに、その少年はそこ(・・)に居る。

 春生の記憶。子供達との思い出の中に、知らない筈の存在が当然のように加わって。そしてどうしてか夢の中の自分もまたそれを当然のことのように感じている。

 彼は滅茶苦茶だった。その行動も、言動も。いつ何時であっても少年は春生を困らせ、子供達を巻き込んで大なり小なり騒動を起こした。日常から穏やかさが消え、賑やかで騒がしく落ち着かないテンヤワンヤ。

 子供嫌いを公言する春生に彼の存在は疎ましくさえあった。きっと今の(・・)春生以上の心労を患っていたに違いない。

 

『そら! 行こうぜ春生! みんな待ってんぞ!』

『分かった。分かったから! もう少しゆっくり走ってっ、あぁもう――悟空!』

 

 どうしてか、自分は笑っている。困ったような、怒ったような、でも心から嬉しそうに。

 少年は毎度騒動の種だったが、同時に春生と子供達との架け橋だった。強引で、自分勝手で、いつだって無理矢理春生を子供達の輪の中へ放り込む。迷惑な話だ。

 迷惑なのに、いつしかそれを楽しいと感じている自分がいる。

 重症だ。

 

「本当に、な」

 

 孫悟空、彼の存在がきっと春生にとっての――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 斯くて、ネットワークの構築はなった。

 警備員(アンチスキル)からの捜査を警戒して幻想御手の流布は大々的には行わなかった。その為、必要な脳髄を収集するのにいささかの時間を要してしまったが。

 一万人。それだけあればシミュレーション実行に十分耐え得る。

 その矢先だった。風紀委員(ジャッジメント)の少女が春生を訪ねてきたのは。

 色とりどりの花を頭に飾っているのが特徴的だった。息を切らせてその少女は春生に縋る。

 

『佐天さんを――私の友達を助けてください!!』

 

 彼女の友人もまた幻想御手の被害者となったのだ。

 事の顛末を語る最中も、彼女の目は涙で溢れていた。滔々と止め処なく流れ続け、体中の水分が全てなくなってしまうんじゃないかと春生が要らない懸念をするほど。

 何よりも大切な人を彼女は失った。いや、今まさに奪われようとしている。

 その悲しみを春生は知っている。体を引き裂かれるほどの痛みを味わい尽くした筈だ。

 焦燥に執り憑かれた少女に白々しい慰めの言葉を投げかけて、心はそんな自分に冷め切っていく。

 彼女の姿を直視し続けるのが辛かった。

 

 その心の甘え(・・)が、油断を呼んだのか。いともあっさりと春生の計画は露見する。花飾りの少女が、春生が以前より収集していた共感覚性に関する資料を見つけ出してしまった。春生の予想していた以上に彼女らは優秀だったのだ。そも幻想御手の原理が共感覚性に基づいたものであることを彼女らは独力で解明し、その調査を木山春生に依頼してきた。核心に近いのは警備員よりもむしろ彼女らの方だ。

 止むを得ず彼女を拘束して車で逃避行を演じてはみたが、警備員も無能ではなかった。予想より遥かに早く彼らは木山春生の行く手を阻んだ。あるいはこれもまた風紀委員の少女達の手によるものか。

 退路は断たれ、有り余る状況証拠と物的証拠がここにある。木山春生はここで終わりだ。そう諦めることもできた。

 

 だが、赦される筈がなかった。

 そのような甘えを春生は自身に許さない。断じて。決して。

 だから今は、悪逆に、傲慢に、罪を重ねよう。

 

 一万人分の脳髄が作り出した巨大なネットワーク。それは高高性能演算器としての機能以外にある特殊な効果を春生に齎した。多種多様な能力者のAIM拡散力場が春生自身に束ねられ、脳開発を施されていないにも拘わらず春生は擬似的な能力者となった。一つの脳によって複数の能力を行使するのが多重能力者(デュアルスキル)であるなら、一つの能力を有した多数の脳によってその数だけ能力を行使するこれは謂わば多才能力(マルチスキル)

 どちらの稀少価値がより高いかは論ずるに値しないが、汎用性と破壊力という点においてこれらは同等の価値を持つ。

 脳への過負荷によって血で赤く染まった視界の中、無造作に奮った一つ二つの能力で、道を塞いでいた中隊規模の警備員を一瞬で一掃することができた。

 精神強制、流体制御、重力操作、熱量転換、瞬間移動etc.etc...能力者とはこんなにも便利なものなのか。

 晴天の下で無惨に倒されていく警備員と瓦解する高架道路を見下ろしながら、春生はありもしない万能感に顔を顰めた。対象を科学者一人と想定しておそらくは装備も不十分な警備員相手に自分は僅かでも優越感なんてものを抱いてはいないだろうか。自分がどうしようもない愚か者に思えてならなかった。

 彼らはただ自分達の任務に忠実であったに過ぎない。だと言うのに、待っていたのは木山春生という理不尽だった。

 間違っても軽いとは言い難い傷を負いながらそれでも立ち上がろうとする者もいる。ガードレールに突き刺さった装甲車から予備の自動小銃を取り出そうと四苦八苦する姿も見られた。まだ歳若い女性隊員もいる。

 もう一当て、それで片が着くだろう。懸命な努力も巨悪の理不尽の前には無力なのだ。どうしようもなく、無力なのだ。

 

 ――あるいは、彼のような……

 

 救い主が現れたなら。

 それこそありもしない妄言だ。妄想だ。ありえない。そんなものはいない。存在しない。

 

 ――でも、もし現れてくれたら。もしそれが、存在するなら。

 

 彼は木山春生(じぶん)を、裁いてくれるだろうか。

 

 無意味な希望。仄かな期待。

 そんな妄想が呼んだのでもあるまいに、救い手(ヒーロー)は確かにここに現れた。しかしそれは、どちらかと言えばヒロインとしての配役が相応しかろう少女だったが。

 超能力者(レベル5)超電磁砲(レールガン)御坂美琴。

 友人の危機に、彼女は颯爽と現れた。何の躊躇も迷いもなく、大犯罪者木山春生に挑みかかってきた。

 なんと勇敢なことだろう。そしてそれが蛮勇にならぬだけの力が彼女にはあった。

 けれど、いかに絶大な能力を有していようと所詮は十代半ばの少女。分不相応に絶大な能力を手にした今の春生には及ばない。驕りでもなく、冷徹に春生はそう分析する。応用によって電撃を無効化できる能力はいくらでも存在した。

 少なからぬ失望が胸に去来する。彼女の戦闘能力の不足を差して、といった意味合いは割合弱い。もっと手前勝手な話だ。

 春生が今この場で相対したかったのは、もっと別の誰かだった。ただ、それだけ。それだけの理由で、春生は落胆している。

 思い上がりも甚だしい。慢心ここに極まった。

 

 その報いはすぐさま春生に降りかかった。

 不意打ちに行使した量子変速(グラビトン)の爆発をあろうことか御坂美琴は耐え切ったのだ。磁力操作による金属の防壁によって。

 身体ごと少女に捕まり、電磁誘導による障壁も接触状態では意味を為さない。零距離の電気ショック。意識を手放すには十二分の激痛と感電。ただの科学者である春生が耐えられる筈もなかった。

 そして。

 

 そして?

 

 これで、終わりだ。

 春生の歩んできた道はここで終わりだ。

 こうして過去を眺め見る逃避も現在(いま)という現実は許さない。

 木山春生の費やしてきた数年間、削り続けた身体も心も全ては現在に追い付かれ飲み下されて、無意味になった。

 現実を見ようか。目を背け、逃げ続けてきた現在を。木山春生のこの様を。

 

 相も変らぬ晴天だった。雲ひとつない澄み渡った空。白日の下で春生はよろよろと立ち上がる。周囲は惨状だった。高架道路は一部が崩落し、その下で瓦礫と鉄材が針の山のように積もっている。

 第十学区に住宅や民間向け施設は存在しない。唯一墓地が敷設された学区であり、その他に少年院と原子力関連の研究所があるのみだ。高架道路沿いに広がる茫漠とした更地もその原子力実験炉の敷地範囲である。

 襤褸布のような白衣を纏った春生の対面で同じくぼろぼろの少女が立っている。御坂美琴はひどく戸惑った目で春生を見た。何を言おうか、何を思おうか(・・・・)迷っている、そんな表情。

 春生はそんな少女の様子を見て取って、また薄く笑った。酷い笑みだという自覚はあった。

 

「いつから、だったろうな。夢と現実の境を見失った」

「え?」

 

 不意に漏らした呟きに少女は虚を突かれたようだった。それほどに脈絡がないからだ。

 痛み。最初は針のようだった。

 

「悪夢に(うな)されなくなり、けれど今度はありえない幸福を見せ付けられた。いや、ありえたかもしれない未来を。それはどうしようもない苦痛だった。真綿で優しく首を絞められるような。でも、それでも、暖かかった……」

 

 聞き手を認めて喋っている訳ではなかった。ただ勝手に口が動くのだ。悪戯を咎められた子供が、必死に言い訳を並べ立てるように。言い訳。

 これは、死に物狂いの言い訳だった。

 痛みは徐々に増大する。鋭く、剣のように強く。

 

「騒々しかったし、頭を悩ませたこともたくさんある。腹を立てて、結局うんざりして。でも子供達は楽しそうで。それがなんだか嬉しくて、嬉しいと感じる自分が不思議で。それが少し癪なのに、悪くなかった。そんな私を彼は……悟空は……」

 

 風が吹き抜けた。それは瓦礫に山積した砂と埃を払い、春生達を余計に薄汚く彩った。自分には似合いだなどと、愚昧な感想を頭の隅に思う。そのような思考をする余裕があるというより思考停止した頭の余剰が不必要に稼動したのだ。

 痛みは増大する。止め処なく、雷のように激しく。春生の頭蓋の内で、柔らな脳を掻き回す。

 

「幸せ、だったんだろう。自分で理解する以上に。夢としてあれを客観的に見た時気付いたよ。私はこんなにも幸せだったんだ――簡単にそれは壊れてしまったが」

「っ……全部、子供達の為にあんたは」

「そうだね」

 

 悲痛な顔だった。己の願望実現の為に他者を、彼女自身の友人さえもその犠牲にされていながら、御坂美琴は木山春生を哀れんでいた。怒り憎むべき相手に対して、何故彼女はこんなにも……。

 春生にはそれが少し可笑しい。そして、その在り方は眩しかった。

 その眩さは決して手の届かないものなのだと、この“痛み”が知っている(・・・・・)

 痛みが暴れている。狭苦しい脳は耐え難い。頭蓋の圧迫感も不愉快だ、と。

 

「しかしそれも、全て無駄になった」

 

 痛い、痛い、痛い。充満する。痛みが頭蓋を抉じ開けようと、満ち満ちていく。

 つ、と頬を熱いものが流れ落ちた。今更流す涙などないと思っていたのに。無責任に、他人の憐憫を誘っているようで不快だった。自己の善良さを身体が必死に訴えているかのようで滑稽だった。

 しかし、目の前の少女の顔は蒼白に染まっていく。不可解な反応。

 不意に指先で頬に触れる。比較的白い春生の手は血の赤色がよく映えた。

 春生の左目は、滔々と血の涙を流し続けた。

 

「そうか」

 

 大脳から遊離し、硬膜を浸透し、頭蓋骨を貫通し。

 滲み出る。

 

「ギッ――――」

 

 それはあたかも水のように、火口から流れ出る溶岩のように。

 粘性と流性の入り混じった液体に近しい固体。形ある流動体。春生の頭から、明らかにその容積に見合わない物量で“それ”は滲み出ていく。

 絶えず流動し、常に脈動し鼓動を刻む。分裂を繰り返しながら形成されていく勾玉のような姿。背を丸め、小さな拳を握り縮こまる。血の通わぬ半透明の皮膚の下に臓器はなく、唯一赤茶けた肉塊が中心で浮いていた。断じて尋常な生物ではない。生命活動を行う為に必要とするあらゆるものがそれには欠けている。本来生きていてはならない形と構造。

 けれど、その姿形は見た者に生命(いのち)を思い出させた。どれほど拒もうと、否定しようとも、その事実から逃れることはできない。

 

 

 御坂美琴はその姿を知っている。きっと教科書やネットなんてものじゃなくて、産まれるその時、既に美琴はその生命の形を知っていた。

 

「――胎児?」

 

 少女の声にそれは応えた。

 全長二メートルはあろう巨体に見合う巨大な頭部で二つの眼球が剥き上がる。通常白の結膜は全面が赤く、瞳孔は光沢を失った黄色。

 得体の知れない怖気に美琴の体は戦慄する。

 その目が最初に捉えたのは御坂美琴だった。その産声を最初に聞いたのもまた御坂美琴だった。

 

『ギィィイギャァアアアアァアアアアアアアァァアアアアアア』

 

 

 

 

 己の内から出でたものの正体を春生は理解していた。理屈ではなく、それらは常に“痛み”としてその存在を春生に訴え続けてきたのだから。

 辛い。

 悲しい。

 苦しい。

 羨ましい。

 妬ましい。

 ――――憎い。

 憎い。憎い。憎い。

 ずっとそれは春生の頭の底で叫んでいた。

 春生によって束ねられた一万人分のAIM拡散力場が放つ総意。他者への劣等感、反骨心、羨望、嫉妬、自己嫌悪と自己愛、そして憎悪。

 彼らは憎悪する。あらゆるものを。己を見下す者、己に無関心な者、それらを内包する社会さえ。明確な矛先を失い、憎悪はただ肥大だけを繰り返す。それがとうとう形さえ持って外界へと顕現したのだ。

 

『ァア、ァアアアァアアアアアアアッッ』

 

 胎児の産声は怨嗟の叫びに変わる。ぎょろりと一度その巨眼で周囲を睨め付けると、それは背部から伸びた無数の触腕で瓦礫を薙ぎ払った。

 コンクリートの山が四散する。

 雨霰と降り注ぐ塵芥を春生はただぼんやりと眺めていた。一粒が春生の頭部と同じほどの大きさの瓦礫が直近で撥ねても、春生は身動ぎ一つしない。できなかった。

 感情の抑制を失い、脳がAIM拡散力場の制御を剥奪された負荷は想像を絶する激痛として春生を襲った。痛みによる衝撃だけでも人は死ねる。春生は確かに致死量の痛みを体感した。

 しかし春生は今なお生きている。この身体が動かないのは何も傷の深浅が理由ではない。

 ただ、心が折れてしまっただけだ。

 

「……終わった、な」

 

 終わった。そう確信する。AIM拡散力場はもはや春生の手を離れた。演算はおろか制御さえ不可能となった。

 内から湧き出る無際限の怨嗟のままに周囲を破壊する化物。春生が積み上げてきた全てが作り出し、結果出来上がったものがそれだ。

 全て、終わったのだ。

 

「終わった……」

 

 何もかも。

 子供達の目覚め、子供達の未来、犠牲者達の希望。

 木山春生の願い。

 

 ゆっくりと、倒れ伏す春生の頭上で胎児が触腕を動かす。像のようにゆったりとそれは歩き出そうとしている。果たしてそれに体重という概念があるのかどうか検証のしようもない。しかし、それは確かに実体を以て周囲を破壊しているのだから、その長大な腕に下敷きにされた結果どうなるのか、考えるまでもなく明白だった。

 圧死とは、なんと惨めな死に様で。なんと己に相応しいのだろう。

 不思議な安堵で春生は包まれた。それはどこまでも後ろ向きで冥い泥のような感情だったけれど。

 けれど、

 

「……すまない……」

 

 また謝罪を繰り返す。聞く者も定かならない戯言だ。

 これは罪を赦されたい訳じゃない。子供達に対する言葉でさえ、ない。

 

 きっと、あの喪失の日から木山春生は――――死を許されたかったのだ。

 

 死に逃避することを許して欲しかったのだ。

 冥い泥は温く、生暖かで、浸ったが最後二度と這い出ることはできない。これが死という名の呪いであるのだと春生は今ようやく理解した。

 ああ、そして、自分が殊の外この世に絶望していたということも、今。

 

「すまなか、った……」

 

 脳裏に過ぎり、また満ちるのはいつだって子供達の顔、子供達の声。木山春生の全て、木山春生にとって今なお価値ある唯一のもの。

 思い出という楔。

 その楔が春生の罪を作り上げた。春生に罪を決意させた。

 未練は無数にある。後悔も数え上げれば切りがない。ただ、生きたいという執着だけは一欠片さえ残らなかった。

 

「先生…………疲れちゃったよ」

 

 溜息を吐くようにそんな弱音を零し、春生は目を閉じる。世界から、自分の罪から、生きるということから。

 巨大な肉塊の腕が今、ゆっくりと春生の頭を踏み潰す。

 緩慢な最期。柔らかな絶望。

 その顔に微笑さえ湛えて――――

 

 

 

 

 

 

『ギェッ――』

 

 頭上を覆っていた影が突然消える。

 吹き荒ぶ強烈な風が春生の終わりを払い去ってしまう。

 赤子は呻き声さえ残せず、その巨体を吹き飛ばされていった。大地を削りながらバウンドするゴム鞠のようにその姿は軽々しい。

 

「なん、だ……」

 

 変わらぬ空が春生を見下ろしている。雲ひとつない青空。突き貫けるような無窮の広がり。何事もなかったかのようにそれは。

 いや、違う。

 何一つ存在しないかに見えた空の蒼に、一つだけそれはあった。そこに居た。

 

「……ぁ」

 

 日の光を背にして空中から影を落とす人型。その姿を、春生は知っている。

 

「あ、ぁ」

 

 乱雑に伸びた髪は野卑というか野蛮で、どうやればそんな髪型になるのか春生には理解できなかった。

 いつ何時会っても同じ青い胴着と黄色の下穿き、そして黒いカンフーシューズを身に付けているものだから、見かねた春生がよく自宅で洗ってやったものだ。

 しゅるりと茶色の尻尾が視界の隅で揺れる。未だに正体が分からない。教えてくれない秘密の一つ。

 子供にしてはやけに体つきがしっかりしていて、その逞しさに春生の方がドギマギとさせられた。子供の癖にと、本人に伝わらない悪態を吐いた。

 けれどそこにはもう子供の彼の姿はなくて。

 ――知っている。自身を見下ろすその“男”を。少年の姿かたちは既になくても、きっと今以上に外見がどれほど変わろうとも、春生は絶対に彼を見違えることはない。

 

「……な、ぜ」

 

 ゆっくりと空から降りてくるその男を春生は食い入るように見詰めた。自身のこの目を信じられなかった。次にその実在を信じられなかった。そこに居る。彼がここに存在している。

 在り得ない。在り得ないはずだったのに。

 

「きみは……だって」

「春生」

 

 自分の名前を呼ぶその声は、少し精悍さの増した、けれど変わらぬ彼の声で。記憶のままの声で。望んで願って止まなかった声。求めて焦がれて、諦めてしまったはずの――。

 その場に屈んで男は春生の身体を抱き起こす。

 既に影は晴れて、春生は男の顔を間近に見ていた。

 

「君は、君なのか……?」

「ああ、オラはオラだぞ。春生」

 

 千々と破けた心で春生はまったく不明瞭な問いを口走る。それでも彼はしっかりと応えた。春生の欲した答えをくれた。

 

「だって、君は、いないはずだ。存在しない……私の作り出した、都合のいい妄想で……!」

「? なに言ってんだおめぇ?」

 

 それでも、春生には信じられない。この世でもっとも疑わしい自分自身が見て聞いて感じる今が。

 

「そうだ。これも、きっと夢だ。夢の続きに違いない……私はまた現実から目を背けて、甘い夢に逃げ込んでいるんだっ。だって私は、私はっ――」

「うりゃ」

「わひゃひっ!?」

 

 次の瞬間、春生は口からこれ以上ない不明瞭な声を上げた。

 左頬を抓らている。いや捻り上げられている。痛い。尋常でなく痛い。ただでさえ硬い男の指で遠慮もなしに、彼としてはかなり加減しているつもりなのかもしれないが、力一杯抓られる痛みはなかなかのものだ。先ほど味わった頭痛とは別種の激痛に春生は為す術もなかった。

 

「いひゃい! いひゃいおごふう!!」

「お、目ぇ覚めてきたか?」

「さめた!! さめはから!」

 

 春生が決死でそう叫ぶと彼はようやく指を放した。ペチンッ、と伸ばしたゴムが元に戻るような感触が頬に響く。やや赤く腫れた頬を擦って、春生は涙の浮かんだ目で男を睨んだ。

 

「痛いじゃないかっ、悟空!」

「な? 夢なんかじゃねぇだろ」

 

 こちらの抗議などお構いなし。人を食ったように孫悟空は笑った。いつもと何も変わらない瓢然としたあの笑顔。

 見間違いようもない。疑うこともできやしない。こんな笑い方をする人間がこの世に二人といるものか。

 

「…………」

「うん? なんだ、まぁだ疑ってんのか? へへへ、もっかい抓らねぇと目ぇ覚めねぇみてぇだな」

「本当に、悟空なのか」

 

 また同じ問いを繰り返す。愚かしいことだった。眼前に明白な現実があるというのに。けれど春生は聞かねばならない。聞かずには居れなかった。

 縋るように、泣きじゃくる前の子供のように、春生は悟空を見た。

 悟空も春生を見た。笑みが消え、真っ直ぐな視線が春生を射抜く。力強い瞳が春生の不安を見抜く。

 春生の震える手が悟空の頬に触れた。暖かい。確かな熱と感触。これ以上ない実在の証明。

 

「助けに来たぞ、春生。もう大丈夫だ」

「ぁ、あぁっ……!」

 

 心の底から震えるように安堵が春生を包み込む。

 その言葉を、声を、この眼差しを、この暖かさを。孫悟空という存在を木山春生は待っていた。待ち望み続けていたのだ。夢とも現とも分からない不確かなものを、愚かにも、心から。

 視界が歪み、目蓋の裏を熱いものが満たす。それは血を洗い流すように滔々と流れ出てくる。それはどこまでも止め処ない。

 

「悟空……悟空、悟空」

「ああ」

「ごくうっ」

 

 枯れた喉は名前を呼び続けた。そうしなければまた、彼が消えてしまうような気がして。

 無意識に手は胴着の裾を握り締めてる。これでは丸きり子供同然だった。

 

「はは、そんな訳ねぇだろぉ。やっぱ春生は心配性だな」

「う、うるさい! だいたい君はいつだって――――」

 

 春生がそう文句を付けようとした。悟空の背後、春生の視線の先で、巨大な影が頭をもたげる。

 血の通わぬ胎児。おそらくは悟空の拳によって肉体の中心を深々と陥没させられながら、

 

『ギィィィイ』

 

 怨念宿した眼光が二人を睨み付けている。

 

「は~、思ったよりずっとタフだなぁおめぇ」

「っ! バカ逃げろ!」

 

 悟空は背後の化物に振り返った。その動作があまりにも自然で、春生には殊更ゆっくりと感じられた。今まさに迫る暴威に対してなんたる悠長であろうか。

 正対し両足を肩幅に広げ、悟空は眼前の巨体を見上げた。

 

「よぉし、そんじゃいっちょ――――」

「そこ二人! 退いてなさい!!」

 

 悟空が、あるいは胎児が動き出すよりも前に、空間を紫電が走った。

 それは過たず茶褐色の巨体に突き刺さり、貫き、纏い付く。落雷にも匹敵する凄まじい電力の抵抗加熱は肉の塊である胎児を容赦なく焼き上げた。

 電撃が止み、襤褸布のような赤子の身体が地面に転がる。

 

「おお! すげぇな」

「すげぇな、じゃないわよ!」

 

 悟空の感嘆に苛立った声で応えたのは泣く子も黙る電撃使い(エレクトロマスター)御坂美琴その人であった。

 ずんずんとした足取りで悟空に近寄ると、美琴は眉間に皺を寄せてその鼻面を指差した。

 

「いきなり出てきたかと思えば暢気にイチャついてんじゃないわよ! あれがどれだけ危険かなんて見りゃわかんでしょ!?」

「いやぁサンキューな。助かったぞ」

「サン……あんたバカなの?」

「? 出会い頭に失礼なやつだな」

「当然だ。君の今の対応は自殺行為にしか見えなかったよ……」

「??」

 

 春生と美琴、二者二様に呆れた溜息を吐かれて悟空は首を傾げる。

 

「……もういいわよ。それより、いろいろ聞きたいことも言いたいこともたくさんあるしね。木山……先生」

「……」

 

 じっと美琴は春生を見据えた。いっそ皮肉であったなら心は納得できたろう。けれど美琴が今更春生を先生と呼ぶのは、きっと春生の真実を垣間見たからだ。知ったからこそ彼女はそれと向き合おうとしている。

 その心の強さが春生は羨ましかった。

 

「ああ、分かった。私には犯した罪の分だけ責任がある」

「……うん」

 

 その言葉がどれほど不遜なものなのか理解できない春生ではない。それでも御坂美琴という少女は春生の言葉に頷き、静かに受け入れてくれた。

 

「それじゃあさっさと戻りましょ。初春さんを起こして、あと警備員に事情説明して。あぁでもそれだと木山先生も連れて行かれるわよね……こっちの話が終わるまで待っててくれないか――――」

「なに言ってんだ。まだ終わっちゃいねぇぞ?」

 

 影が差す。この場の三人をすっぽりと覆い隠して余りあるほどにそれは巨大な影。

 春生は違和感を覚えた。春生だけでなく悟空も美琴もすぐにその違和感に気付いた。

 

「……ねぇ。なんか、こいつ」

「再生、いや、明らかに増殖している……!」

 

 胎児の巨体は明らかに肥大していた。二メートルを超えなかった二頭身の体躯。それが現在、二倍ほどに膨れ上がっている。

 黒く焼かれた肉皮が泡立ち腫瘍のように盛り上がると、そこには火傷の痕跡さえ微塵と残りはしなかった。そして傷付いていた部分は隆起したまま(・・・・・・)元に戻る様子がない。

 

「さっき電気浴びせたのが不味かったんか?」

「ちょっ、私の所為だっての!?」

「おそらく外的負荷(ダメージ)の深度に応じて再生、超回復するんだろう。身体の中心の穴がどうやら今のところ一番の深手らしいが……あれは確か」

「あんたがこさえたもんでしょうが!」

「あ、そっか。いやぁわりぃわりぃ!」

 

 ドリルで貫かれたかのような大穴から次々と肉腫(・・)が溢れ出てくる。それらは穴を塞ぐだけに留まらず、胎児の身体を外部から包み肥大させ、内部から膨張し拡張させた。

 そうして見る間に、高架道路を凌ぐほどの超巨体へと成長していった。

 

「おぉ」

「ちょっと、これは」

「一体どんな力で殴ればああなるんだ!」

 

 美琴はやや後退り、春生のもっともな叫びが空に木霊する。

 その声に気付いたという訳でもあるまい。赤子の原型さえ留めぬ怪物がぎょろりと三人を、いや孫悟空を睨み付ける。その憎悪の矛先を突き付ける。

 夥しい触手が一斉に伸び、三人へと雪崩れかかった。

 

「二人ともオラに掴まれ!」

「え」

「ちょ――」

 

 二人の返事などそもそも聞きはしなかったろう。悟空は美琴を小脇に、春生を抱き上げ一気に――飛んだ。跳躍した勢いをそのままに、それ以上の速度で。空高く舞い上がった。

 その瞬間、三人が立っていた空間は地面ごと消し飛んだ。

 

「っ!!」

「瞬間移動か、物質転換か。どちらにせよあれの効果範囲に入れば細切れだ……」

「どういうことよ!? あいつ、能力を!」

「AIM拡散力場の制御は今あの怪物に全て奪われている。必然、一万人分の多才能力(マルチスキル)もまた……」

 

 遥か地上へ遠ざかる怪物を春生は見やる。無分別、無差別に破壊を撒き散らす暴威の権化。あのようなものを自分は造り出してしまったのか。その現実を、見せ付けられる。

 

「そんな化物いったいどうしろって……あっ、初春(ういはる)さん!」

 

 美琴が声を上げる。悟空の小脇でわさわさと身動ぎしながら彼女は高架道路上で停車するランボルギーニ・ガヤルドを見た。青い車体からセーラー服の少女が出てくる。

 気絶していた初春飾利(かざり)が目を覚ましたようだ。あれだけ大騒ぎされれば眠り続けることの方が難しいだろうが。

 化物の触手は周囲に存在するあらゆるものを薙ぎ払っている。それは傍らを走る高架道路も同じこと。今の彼奴の巨体からすれば高架など積木を崩すより脆いものだろう。

 

「っ!! 逃げてう――」

 

 ――ぴしゅん

 三度春生は風切りの音色を聞く。そしてその瞬間、周囲の景色は一変していた。

 眼前に青い車体とそれに寄り掛かるセーラー服姿の少女。

 悟空は小脇に抱えていた美琴を今度は肩に担ぐと、空いた腕にその少女を抱え込んだ。少女に抵抗する暇などなく、というより彼女はそもそもこちらをきちんと認識しているかどうかも怪しかったろう。

 ――ぴしゅん

 

「ふぇ?」

「――い春さん!! え?」

 

 次に現れた場所は同じく高架道路の上であったが、春生のガヤルドからはやや離れている。そして今、青い車体は道路ごと粉砕された。凄まじい衝撃が地面を伝い、倒壊の余波が暴風となって降り注ぐ。

 その時、多くの視線に囲まれていることに春生は気が付いた。

 黒いアサルトスーツと防弾服に身を包んだ一団である。誰あろう春生の手によって、今は傷つき大半が立ち上がることもままならない警備員達だ。その只中に春生らは降ろされた。

 

「ちょっ、え。移動した?」

「わ、私どうして? って御坂さん!? それに木山先生も!?」

 

 ぐらぐらと道路が揺れている。手近にあった建造物を破壊したことで満足したのか、化物は踵を返して盛大に地面を震わせながら荒野を這いずって行く。そしてその巨体は期せずして最悪の方向へ進行しつつあった。

 

「不味い、原子力研究所か……!」

「ゲンシ、なんだ?」

「非常に強い毒性のある物質を研究して――つまり、あそこを壊されたらこの街は人が住めなくなる。多くの人が死んでしまうんだ!」

 

 悟空の為に噛み砕いた事実は春生に否が応にもその自覚を齎した。

 

「……私のっ」

 

 自分の所為で、この街全てが危険に晒されている。一万もの希望を踏み躙って、今は230万人の無辜の命を奪わんとしている。

 ぐい、と頭を強く抑え付けられた。

 

「うわ」

「なら、なんとかしねぇとな。オラがちょっくら行ってくっぞ」

 

 ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱して、そんな軽い調子で言うと悟空は歩き出す。肩をぐるぐると回す様はまるで運動前にストレッチでもしているようで、男が見据える先に待ち受ける存在の危険さを微塵も感じられない。

 ただ、春生の不安ばかりが焦げ付いて。

 

「悟空!? ダメだ! お前のパワーでもあれは増殖し続ける!」

「要は再生できねぇように跡形もなく吹っ飛ばしちまえばいいんだろ? そういうのの相手は慣れてっからよ」

「あの大質量の総体を残らず消滅させられるエネルギーが必要なんだぞ!? そんなものは個人の手に余る! せめて増殖能力を取り除いて――」

「時間がねぇ。その前にあの建物ぶっ壊されちまうぞ」

 

 春生の焦燥を置いて、悟空は歩みを止めない。

 それはもはや懇願に近かった。散々他者に己の勝手を強いておきながら、春生はただただ失うことを恐れた。

 

「お前がっ、お前まで失ってしまったら私は……!」

「心配すんな」

 

 震える春生の声にようやく男は振り返る。あっけらかんと不敵な笑み。それはいつだって春生を困らせる孫悟空の笑顔。

 そうしてあっさりと背を向ける。いつものように。いつかの月夜のように。

 親指を立て、春生にサムズアップして見せると悟空はアスファルトを蹴った。

 

「よぉし、今度こそいっちょ――」

「待ちなさいよ!!」

「うぉっ!?」

 

 宙に浮いた悟空の脚目掛けて人影が跳び付いた。あまりの素早さに春生は声を掛けるタイミングすらなかった。

 常盤台中学の制服姿、御坂美琴が悟空にしがみ付いている。

 

「おわっとと、おめぇ無茶すんなぁ~。オラ今からあいつと闘ぇに行くんだぞ? ここで待っとけって」

「待っとけはこっちのセリフよ! いきなり出てきといてあんた一人で全部解決しようったってそうは行かないわ! これはもう私の問題でもあるんだから!!」

「うーん、しょうがねぇなぁ……しっかり掴まっとけよー!」

 

 悟空はそう一声上げると、その場を一気に飛び去って行った。まるで航空機の噴流のような激しい風が巻き起こり後塵が舞う。

 見る間に小さく遠ざかる青い背中。春生はしばしじっとそれを目で追い続けた。

 

「……」

「木山先生……?」

「木山春生!」

 

 自分を呼ぶ声に振り返る。不安げに揺れる花飾りと、その向こうから脚を引き摺ってこちらに近付いてくる女性警備員二人の姿を認める。

 

「ど、どういうことですか。どうして御坂さんが?」

「あの怪物はなんだ!? あれもお前の仕業なのか! 糞っ、よりによって原子力実験炉に……!!」

「……今応援が向かってるけど、でも到着まで時間がないの! 早くここから避難して。貴女もよ!」

 

 眼鏡を掛けた方の警備員は春生を見てそう言った。

 時間がない。そんなことは痛みを伴うほどに理解している。しかし。

 

「君、さっき渡したワクチンソフトはまだ持っているか!?」

「え、あ、は、はい! あります」

「お願いだ! 協力してくれ!」

 

 春生はその場に跪きそのまま頭を下げた。勢い余って額が地面にぶつかったがその痛みさえ感じる余裕はなかった。

 ひどく戸惑う気配を頭上から感じる。

 どの口が、と蔑まれて当然の行為を自分は行っている。

 

「それを再生して幻想御手使用者に聴かせてくれ。そうすれば彼らの脳はネットワークから解放される。あの怪物も、消滅には至らなくとも大幅に弱体化させられる筈だ……だから!」

「木山先生……」

「えぇい、信用以前の話じゃん!! そもそも今そんな時間もないって言って――――」

 

 長髪の警備員が怒鳴り散らそうとした、その刹那だった。

 世界が震えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 御坂美琴は考えていた。この、今自分が引っ掴んでいる男のことを。

 初対面という気はあまりしない。何故なら美琴は先ほどまで木山春生の記憶を疑似体験していた。その記憶の中で、この男――いや、この男によく似た孫悟空という少年はあまりにも明確で、一際強く印象付けられた。他ならぬ木山春生自身が彼を特別なものとして扱っている。

 木山は彼を妄想の産物だと言った。自身が現実から逃げる為に作り出した都合のいい幻だと。

 けれど厳然として、この男はここにいる。木山の前に姿を現し、あまつさえ美琴はその手で触れてその存在を確かめてさえいる。

 記憶の中の彼は、その小さな身体に見合わない大きな存在で、木山春生を絶望から救い出して見せた。

 では今ここに現れた彼がやろうとしていることも同じなのだろう。木山の中に美琴が見たありえない二つの記憶。この男が存在しなかった木山の過去、その絶望、苦悩、執念、その末に行き着いた現在の彼女を、同じように。

 しかしあの時とは状況が違う。前回が人間を相手取るアクションラブロマンス(?)映画だったのに対して今度のこれは怪獣映画。人間一人が息巻いてどうこうなる話でもない。巨大化して銀発色な巨人にでも変身できるか、あるいはもっと特別な力でもない限り。

 超能力者(レベル5)なんて持て囃されてる自分でさえ、ちょっと、少し、まあまあ、思ってたよりは……梃子摺る相手なのだから。

 

「なによ、それ」

 

 ゴム鞠が飛んでいく。地面を撥ねて、削って、砂を撒き散らしながら。撥ねる度に地面が揺れる。上に下に、空気を衝撃が伝う。当然だった。今やあの怪物は十階建てのビル並に大きく膨れ上がっている。そんな大きさの肉の塊が跳ね回れば小規模な地震くらい起きるだろう。

 そんなデカ物を転がす力が美琴には理解できなかった。

 美琴には、この男が理解できなかった。

 

「ずぇりゃぁぁああああ!!」

「きゃあっ!!」

 

 凄まじい気迫で男が吼える。同時に飛行速度をそのまま拳に乗せて目の前の怪物の身体に叩き込んだ。

 辺りに衝撃が飛ぶ。円形に広がった衝撃波が怪物の身体を抉り、余った分を周囲に拡散させる。音が遅れてくる(・・・・・)ってどういうこと。つまりこいつは音速かそれ以上の速度で飛んでることに。

 

「ちょ、たんま、本気で待って……」

「なんだなんだ。もうへばったんか。付いて来るって言ったのはおめぇじゃねぇか」

「戦闘機ばりの速さで飛べるとは思ってなかったのよ! てか普通思うか!!」

 

 男の背中から首に腕を掛けている状態ではあるが、美琴はもはや自身の筋力だけでは男に掴まり続けることができなくなっている。自分自身と男の背中双方を異なる磁極に磁化、吸着させてようやく吹き飛ばされるのを免れていた。

 控えめな胸とかいろいろ密着しているが、美琴にそれを気にする余裕はなかった。男の方はそもそもそんなもの気に留めてすらいなかったが。

 遥か遠くで地面を掘削しながら停止した異形の化物はその頭をよろよろともたげてこちらを睨んだ。肉を殺がれ、潰されようともその敵意が一片と失われることはない。

 

『ギィィィィイァアアアア……!!』

「へへ、あいつの方はまだまだやる気満々みてぇだぞ」

「笑ってる場合じゃないでしょ。今の攻撃でまたでかくなってるじゃない……」

 

 肉が膨れ、盛り上がり、溢れ出し、生えていく。増えて、育って、液体のようだったそれが固まり、肉体として怪物の体表に癒着していく。

 体積も質量もただただ増大していく。まるで限界など有りはしないと言わんばかりに。いずれこの学区すら飲み込んでしまうのではないか。

 そんな馬鹿なこと、と美琴は内心で否定するが、同時にそれがまったくありえないことではないとも考えてしまう。悪寒が背筋を伝い、身体が小さく震えた。

 こう密着していては男に気付かれない筈もない。男は首を回らせて美琴を見た。

 

「な、なによ。別に恐がってる訳じゃないんだからねっ」

「ああ、そうだな。オラもあんなタフな奴相手にすんのは久しぶりだ。へへっ、武者震いしてくっぞ」

「……」

 

 軽快にそう言うと、男は前に向き直った。

 一瞬、ぽかんとその後ろ頭を見る。するとどうしてか、自然と美琴は笑みを浮かべていた。

 

「……ったく。馴れ馴れしいのよ、あんた」

「えぇ~、おめぇに言われたかねぇぞー」

「なんですって?」

「お、来たぞ!」

『ギァァァアアアアア!!』

 

 雄叫びを上げて巨体が起き上がる。増殖した体積に比例して、体から伸びる触手もまたその数を増していた。数え切れない肉の腕が揺らめいたかと思うと、それらは瞬く間に束ねられ、二本の腕のように変化していた。

 肉体変化と物理的な質量を利した太く長大な豪腕。それらが大砲の砲身の如く美琴らに向けられる。

 距離にして100メートルはあるだろう。いかに長い腕といえどここまでは届かない。

 そのように美琴は判断した。

 次の瞬間、腕が伸びた。

 

「なぁっ!?」

 

 矛先は言わずもがな、無防備に宙を漂うこの二人だ。高速で走行する電車を真正面から待つ心地とはこんなものだろうかと美琴は愚昧なことを思った。

 しかしどうしたことか。先ほどまでジェット機も斯くやの速度で自由自在と空を飛び回っていた男が今度は静止したまま動かない。まるで迫る触腕を待ち受けるかのように、その筋肉質の両腕を構えている。

 

「ちょ、なんで動かない――――」

 

 ああ、受け止めるつもりなんだ。美琴はそう覚った。理解などできなかったが。

 

「ふっ!」

「ギャァアアアーー!?!?」

 

 予想通り、男は巨大な触腕をしかと受け止めた。間近で見ればその巨大さは筆舌に難い。

 大騒ぎする美琴、そして奔る凄まじい衝撃に反して男の身体は微動だにしない。

 男は掴み取った肉の腕を一気に引き寄せた。綱に引き摺られる子供のように怪物は盛大に砂煙を上げて地面を滑る。

 

「でぇりゃ!!」

「キャア!! いやァーー!!」

 

 威勢よく声を発したと同時に、眼前にまで引き寄せられた巨体を男は蹴り上げたのだ。すると、怪物は重力を無視されたかのように空高く打ち上げられた。

 自分の目と感覚を疑いたくなる光景だった。美琴はただただ絶叫した。

 ぴしゅん、と聞き覚えのある風切り音を聞く。今まで見ていた景色は一変し、視界はほぼ全てが青色に染まる。空の高みにいるのだと美琴が気付いたのは、眼下に迫る巨大な肉塊を目にしたからだ。

 

(! やっぱり、こいつも複数の能力を――)

「っっ!!」

 

 男が力を溜めたのだということを美琴は肌から感じ取った。それが、想像を絶する強さであることも。

 

「だらぁあああ!!」

 

 拳と手を握り合わせ、まるでハンマーを振り下ろすかのように男は怪物の頭部を打ち付けた。一瞬、怪物の頭部から尻までがぺしゃんこに潰れたように見えた。上昇し続ける運動エネルギーと上から叩き付けた男の打撃が衝突したのだろう。

 非現実的な光景に、発したかけた言葉を美琴は忘れた。

 見る見る小さくなる肉の塊。一体どれほどの高度に自分達は浮いているのか。地表へ墜落した巨体が凄まじい衝撃波を発散させている様がここからはよく見える。地球上にまた新たなクレーターが生まれる瞬間をこの目で見ることができた自分は幸運なのだろうか、と美琴は悩んだ。

 

「……というか、あんた、下に初春さんと木山先生達がいるってこと忘れてないわよね?」

「あ――――大丈夫だ! ちゃんと当たんねぇように気ぃつかったぞ、うん」

「『あ』って言った!! 今『あ』って言ったこいつ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「キャアーーー!?!?!?」

「伏せろー!! 全員、そ、装甲車の影へ! 這ってでもいいから来い!!」

 

 大地が揺れ、それと共に高架道路もまた盛大に揺れた。

 荒地の砂塵が容赦なく嵐のように降り注ぐ。視界はほぼゼロに近い茶褐色に染まる。

 隕石の墜落だ。春生にはこの理不尽な暴威に覚えがあった。

 

「なんですかこれぇーー!!?」

「悟空……!」

 

 初春という少女が春生の胸の下で叫ぶ。衝撃が大気を走った瞬間、春生は反射的に彼女を庇っていた。記憶の中の経験が悲しいかな大いに活きたらしい。

 そして期せずして春生は少女の疑問に応えていた。

 程なく砂嵐は過ぎ去って、不可視だった周囲も僅かに晴れる。

 

「くそっ、なんなんだあいつは!?」

 

 長い黒髪を振り乱して警備員の一人が叫んだ。身体に降り積もっていた砂がざらざらと落ちる。当然の抗議だった。

 彼女はすぐさま春生に詰め寄った。未だに重い身体を起こして下敷きにしていた少女を立たせる。少女は警備員のその剣幕にそっと後ずさった。

 

「木山春生! あいつはお前の仲間なのか! というか一体どうなってるこの状況は!? あの怪物も、あの化物(・・)のことも洗いざらい説明してもらうじゃん!」

「せ、先輩落ち着いて。傷に障りますよぉ……」

「これが落ち着いていられるか!!」

「ひぅ!? しゅみません!」

 

 何故か怒声の矛先にされ、眼鏡の警備員の女性は萎縮した。混迷した現状を前にしてかなり余裕がないのだろう。

 無理もない。ただの科学者の女一人を確保しに出動してみれば、女は有り得ない複数の能力を行使し警備員の一団を一掃。そうして態勢を立て直そうとした矢先に今度は正体不明の怪獣が出現し、直近の原子力実験炉へ迫らんとしている。

 

(……いや、そういうことではないのだろうな)

 

 確かに列挙してみれば今までの出来事だけで満腹もいいところだ。けれど、現状をもっとも掻き乱しているのは。

 衝撃波が走る。大気を、大地を。遅れて虚空を打った音が腹の奥底にまで響く。重く、厚く。

 それらは蔓延した砂煙を吹き飛ばした。遮るものが取り払われ、良好な視界の向こうに広がる光景を誰もが目にする。

 

 ――――ギィィィイイイイイァァァァアアアアアアア!!

 ――――はぁぁぁああああああああ!!!

 

 人の身の丈など小枝のように潰してしまうだろう。巨大な触腕を怪物は振り回す。遠く離れたここにまでその凄まじい風圧を感じられた。目の当たりにすれば分かる。正常(まとも)な人間があれの前に生身を晒してはならない。怖気を以てその事実が分かる。

 あるいは、超能力者ならば。レベル5の強力無比な能力を以てすればあの怪物と渡り合うことができるだろう。御坂美琴の存在は微かな可能性だった。

 だが、彼は。

 孫悟空は。

 拳だ。脚だ。あの男は今その五体で、あの巨大なモノと闘っている。

 

「……能力者、なのか」

「あ、当たり前ですよ! 現にあの人、空飛んでるじゃないですか! きっと何かの能力を応用して……」

 

 触腕が振り下ろされる。それを悟空は正面から受け止めた。避ける素振りさえ見せなかった。

 お返しとばかりに触腕を払い、悟空は怪物の懐へ潜り込む。

 先ほどまでと同じように衝撃波が虚空を打った。怪物の巨体がまた宙を舞った。

 

「っ、あんなふざけたパワーの能力者なら“書庫(バンク)”にデータがある筈じゃん」

「検索を掛けても無駄だよ」

 

 端末を取り出そうとした警備員を春生は制止した。それは“過去”の自分が既に行ったことである。学園都市内で一度でも能力開発を受けた者は書庫と呼ばれるデータベースにその能力や個人情報が必ず保管される。

 

「だが、学園都市のあらゆるデータベース上に孫悟空という人間の記録はなかった。彼は……少なくとも外部(・・)の人間だ」

「それって、“原石”ってことですか……?」

「天然の異能者、という表現は当たっているのかもしれないな」

 

 春生は自身の言葉に苦笑した。悟空の力は超常のものだ。それこそ超能力と呼ぶに相応しい。けれど、それは学園都市で呼び習わされる“能力”とは似て非なるものだ。

 

「えぇいっ、つまり何が言いたいんだ?」

 

 業を煮やした様子で警備員の女が声を上げる。別に意図してもったいぶった言い回しをしている訳ではない。春生自身、確信など持っていないのだ。

 ただ、何となく。今目の前に広がる非常識な光景を見て、納得せざるを得ない結論がこれ(・・)しかなかった。

 

「どうやらあいつは、ただ単に強いだけらしい」

「――――」

「へ?」

「えぇぇえええ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぎゃあぎゃあと騒いでいる間に美琴達は地表に降り立っていた。途中から数えることを止めた幾つ目かのクレーター。外縁から覗き込んだ地の底は砂塵が濛々と舞い上がってとても見通すことがない。どうやら相当に深く穿孔しているようだ。

 悟空の背中から美琴は降りた。地に足を付けて立っていられる安堵を噛み締めながら、傍らの男を見やった。

 瞬間移動、高速かつ精密な飛行、馬鹿げた怪力、一見して判断できるだけでも桁違いの強度(レベル)の能力を行使している。加えて、どうもこの男、怪物の動きをまるで先読みしているかのような節がある。

 その癖、ここまで派手に能力を使用していながら当人には消耗した様子など微塵もない。汗一つ、呼吸一寸乱さずにこの男はあの怪物を相手に闘い続けて見せた。

 

「……あんたホントにいったいなんなのよ。今度こそ本物の多重能力者(デュアルスキル)だなんて言わないでよね」

「? よくわかんねぇけど、オラそのジュワなんとかなんて名前じゃねぇぞ。オラ孫悟空だ」

「いや、名前じゃなくて…………もういいわ。あんたと話してると何故かこっちの常識が馬鹿らしくなってくるし」

「?」

「ハァ…………それで? 悟空だっけ……すごい名前ね……結局あの怪物はあんた一人で倒しちゃったし、そろそろ話を聞かせもらうわよ。木山先生のことも、あとあんたの正体とか目的も――――」

「いや、まだだ」

 

 美琴は悟空を見上げた。肩幅に脚を広げて真っ直ぐな姿勢で悟空は立っている。男の纏う空気はひどく静寂だった。

 美琴は気付く。先ほどから悟空の目は眼下のクレーターの中心だけを見据えていた。

 

「そんな……あれだけの攻撃を受けて!?」

「だから言ったろ、こいつはタフだってよ」

 

 大量の風がクレーター内部から吹き上がる。ただ身動ぎしただけで周囲の地形をも変えてしまうほどの質量。砂塵の向こうで起き上がる巨大な影は先刻までの比ではない。一体どれほどの超再生と増殖を繰り返したのか。

 空を覆い隠す茶褐色の肉腫。夥しい触手がうねり、数え切れない眼球が体表面に開いていく。

 

「さぁて、そろそろ本気出してくか。おめぇもよ」

『キシィィェェェエアアアアアアア!!』

 

 まるで男の言葉に呼応するように怪物は気勢を荒げて吼えた。美琴が最初に感じていた苦悶や懊悩に満ちた奇声とは明らかに違う。確かな意志を備えた咆哮。

 

「!?」

 

 いつしか周囲の景色が歪んでいる。日差しを曲げ、溶かす、自然現象にあるまじき熱量。陽炎の中心、その発生源は悟空だった。

 微かな震えを美琴は感じた。錯覚かと思われたそれは、しかし時を追う毎に大きく、激しい震動に変わっていく。大地が揺れ動いている。このタイミングでこの揺れがただの地震だなどと思い込めるほど美琴は楽観的な感性を持ち合わせてはいなかった。

 塵が、小石が、瓦礫が空に、重力に逆らい上っていく。立ち昇る熱気がそうさせるのか、それともそれ以外の“力”がこんな現象を引き起こしているのか。

 

(これが、こいつの本気だっていうの……!?)

 

 高まっていく。何かが。

 美琴の中でそんな予感めいた感覚が走った。そしてそれは、きっと途方もないものだ。

 

「離れてろ」

「……」

 

 男の言葉にはこれまでとは違う有無を言わさぬ響きがあった。だから美琴も逆らわず、小走りにその場を離れた。

 言いたいことは山のようにある。けれど、それは事が終わった後でも遅くはない。

 

(あれ、私、なんで)

 

 美琴は内心で首を傾げる。

 男が敗北するなどと微塵も考えていない自分に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 背後で遠ざかっていく足音を聞いて、悟空は眼前のそれと向き直った。

 正対する姿勢はそれまでと変わらない。意志をただ一点に集中する。今日この日、自分と闘ってくれる対戦相手へ。

 

『ァァァアアアアアアア……』

 

 ぎょろり、ぎょろり、大量の眼球が動き、虹彩が開閉を繰り返す。それら夥しい視線の針もまたただ一点に殺到した。倒すべき敵、孫悟空へ。

 ――敵

 何故、そのような認識が築かれたのか。

 一万もの異なる脳の集合体。統合された意識達。しかし決して融合する筈のない心。

 それらは性別も年齢も性向も、夢も、願望も違う。到底交わることのできない色とりどりの感情が無理矢理に縛り上げられたことで為ったものだ。幻想という見えざる手で造られた粗悪で巨大な脳髄の模倣品でしかなかった筈だ。

 だのに今、かの怪物の思いはたった一つ。一万の願いは今、ただの一つに集約された。

 

 ――嫌だ、嫌だ嫌だ

 ――羨ましい妬ましい……悔しい

 ――見返してやる。オレを、ワタシを、ボクを見下した奴らを

 ――倒す、目の前のあいつを

 ――強い奴、自分達にはない“チカラ”を持ってる

 ――許せない。許さない

 

 茶褐色の肉の体は今なお増大を続けている。肉体に及んだ負荷を帳消しに、刻まれた傷の数だけ、それ以上の力を欲した。想いは、際限なく高まっていった。

 そして彼ら、彼女らの望みはただ一つ。

 

 ――負けたくない

「ああ、オラもだ。だからよぉ……」

 

 大地が鳴動する。その規模は周囲を、学区を超え、街そのものを覆うほどに拡大していく。

 

「はぁぁぁあああ……!」

 

 立ち昇る熱波に色が宿る。悟空の身体を炎のように燃え上がる熱。“気”と呼ばれる力、この世界においては誰も知らない生命原初のエネルギー。

 髪が逆立ち、黒の色素が失われ、代わりにそれは黄金に染まる。

 咆哮が空を満たした。黄金色の爆轟(ばくごう)が、世界を満たした。

 

『!?』

「――――だぁぁぁああああああああああああ!!!」

 

 

 

 

 黄金に染まる世界。震える大気の先に、眩い光が生まれた。

 

「なに!?」

「な、なんの光!?」

「ひゃぁあーー!? 今度は何ですかぁ!?」

 

 それは燃え盛る炎のような、あるいは不滅の太陽か。

 春生はその光を知っている。春生は確かにその熱を過去の少年に、悟空の中に見出していたのだ。

 

「悟空、それが、お前の……!」

 

 

 

 

 それは商業施設(ひしめ)くとある学区、とあるレストランにも届いた。

 

「……やっとこさ収まったか」

「地震大きかったですね。超揺れました」

「あん? ねぇ、フレンダの奴どこ行った?」

「地震が起きた瞬間に超逃げました。一人で。非常口から」

 

 震えが収まると共にレストランも喧騒を取り戻す。

 客足もそこそこに絶えない賑やかな店内のテーブルの一画、三人の少女が腰を落ち着けている。

 その内の一人、ずっとテーブルに突っ伏していた少女が不意に起き上がった。

 

「おー、おはよ滝壺(たきつぼ)……どうしたの? また変な電波受信でもしたか」

「…………ううん、これ“力場”じゃない。違うのに……」

「え?」

「でも、すごく強い……強い、力」

 

 

 

 

 そこは学園都市のほぼ中心地、多くの学び舎、多くの学生で溢れたとある学区、とある窓のないビルの内部。

 特殊装甲の外壁を越え、蜂の巣状の内壁のさらに内側、光も差さぬ気密された暗闇の底。

 茫漠とした空間を夥しい量のチューブが這い回り、ただ一点へと繋がっている。すなわちこの空間の中心、弱アルカリ性培養液の満たされた巨大なアクリル培養槽に。

 それら全てが液中を逆さに浮かぶたった一人を生かす為のものだなどと誰が思う。

 

『――――』

 

 銀色の長い髪を漂わせ、グリーンの患者衣に身を包んだ男とも女とも付かぬ人型。

 その人物の周囲には大量の矩形の光る板が浮かんでいる。それら出力されたホログラムウインドウには一様に同じ映像が流されていた。

 しかし、映像とは名ばかりに、画面はその全てが光に染まって何一つ満足に像を結びはしない。

 黄金の光。

 輝きに塗り潰されたかに見えた映像の中、その向こうに佇む男の影をこの人物は確かに捉えていた。

 

『――――ソン、ゴクウ……!』

 

 

 

 

 

 翡翠の瞳で対手を射抜く。

 一瞬、怪物の巨体が後退した。地面を抉り地形を変えながら、その巨大なるものは明らかに恐怖したのだ。その男の、孫悟空の変わり様に。

 右脚を退げ、前方に肩を向けて半身に立つ。

 

「負けたくねぇって思うんなら、諦めてる暇なんてねぇぞ」

 

 前へ突き出した両腕を今度は腰溜めに構える。

 

「落ちこぼれだって必死に努力すりゃ――――」

 

 黄金の炎が火勢を強めた。限界など知らぬと、際限などありはしないと大空を焦がす。

 

「エリートを超えることがあるかもな!」

『ギッ』

 

 その言葉が“彼ら”、“彼女ら”に届いたのかは分からない。果たして外界を認識しているのかさえ確かめようもないのだ。

 だが、その瞬間、怪物の眼球は開かれた。視線という視線が一斉に悟空を刺す。諦めでもない。嫉妬でもない。憎悪でもない光を宿した目で、悟空だけを。

 数百の触手が収束する。怪物は巨大な拳を編み上げる。重厚にして強力。難解な理屈を排した純粋無比のパワーを以て孫悟空を倒すために。

 

『アアアァアアアァアアアアア!!!!』

「かぁ、めぇ」

 

 雪崩れ迫る強大な存在を前に、悟空はその場を動かない。次の刹那にも悟空の身体は大地に圧し潰されるだろう。

 ただ合わせた両の掌の中にチカラを込める。己の全身全霊を、己が培ってきたあらゆるものを。

 

「はぁ……めぇ……!!」

 

 目の前の奴らに見せてやる為に。

 青い、蒼い閃光。球形に高まり続ける圧倒的熱量。暴れ狂う純粋なチカラを限界まで凝縮。その極点が今――――

 

「波ぁぁぁああああああああああああああ!!!!」

 

 光が放たれた。

 全長100メートルを凌ぐ巨体を呑み込んでなお余りある広大(・・)な光の波。

 音が失われた。色はただ一色に塗り潰された。

 熱く、その光は容赦なく怪物を焼いた。しかし肉体は燃えるより先に崩壊を始める。常軌を逸したパワーで放たれたエネルギー波には再生も増殖もまったく意味を為さない。

 原子レベルにまで分解され、跡形残らず消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつしか夕暮れだった。冴え冴えとしていた空の青が徐々に茜で染まっていく。地平に近付く太陽は、その橙に変わり始めた光で荒地を照らす。

 すっかりと穴だらけの地面の上を長く伸びた影が這う。それらはまるで伸びた分だけ身体を重くするかのようだ。今日一日の出来事は、それだけの疲労を関わった者全員に齎したということだろう。

 そんな大小様々の人影の中から一人、駆け出す者がある。

 

「あ、ちょっと勝手に!」

「構わん。好きにさせとくじゃん……今だけはな」

 

 重い身体、棒のように頼りない脚を叱咤して荒野を走る。普段に輪を掛けて酷い速度だ。もしかしたら歩いた方が早いのかもしれない。けれど、春生は足を止めることができなかった。

 

 ――あんたさぁ、あんな大技あるのになんで初めから使わないのよ

 ――思いっきり殴りあった方がスッキリすんだろ? げんにあいつらもほとんど素手だったしよ

 ――そういえば……でもだからって正面から受け止めなくてい……あ

 

 横合いから差し込む眩い西日。その向こうから彼は歩いてくる。男の傍らを歩いていた少女はこちらに気付くとその場で足を止めた。

 構わず春生は走る。考えるだけの余裕も今はない。

 きっと10メートルにも満たないこの距離が、こんなにも長く感じる。

 

「よっ、春生」

 

 ようやく辿り着いた春生を悟空は出迎えた。金色だった髪も元の黒に戻り、いつも通りに暢気で、とても軽い調子で。

 変わらない。背丈はこんなにも変わったのに、悟空は春生の記憶の中のままここにいる。

 

「……」

「ははっ、相変わらずすげぇクマだなぁ。またちょっと痩せたんじゃねぇか?」

「っ……」

 

 そう言って悟空は春生の目元に触れる。擦ったからといって隈が取れる訳がない。けれど払い除けようとは思わなかった。

 その無骨な手の感触を覚えている。だのにその暖かさを忘れていた。

 

「頑張ったな」

「そう、かな。結局、今も私は誰一人救えていない。それどころか今までもずっと、誰かを傷付けてばかりだ……」

 

 自分が重ねた罪を思う。踏み躙った少年少女達の希望を思う。眠り続ける子供達を想う。

 失って、失わせるばかりで。

 

「なら、もうひとふん張りすっか」

「え?」

「今度はオラも手伝うぞ。おめぇが無茶しねぇようにな。それにこっちのガキ共とはまだ遊んでやってねぇかんな。はえぇとこ起こしてやろうぜ」

「ぁ……ふ、ふん、簡単に言ってくれる……」

 

 喉がひくついて声が上擦った。それを誤魔化す為の皮肉を投げる。この男に皮肉など通じないと知っている癖に。

 案の定、悟空は気にも留めなかった。春生の髪を乱暴に撫でて、変わらぬ調子でのたまうのだ。

 

「なんとかすっさ」

「……」

 

 春生は何も言えなかった。

 ただ、込み上げてくるものを必死に堪える。

 己に流して良い涙などないと言いながら、幾度となく破ってしまったその決意。今だけは守りたかった。守らなければならなかった。

 

「泣いてんのか、春生」

「泣かないよ……子供達が目覚める日まで、私は絶対……泣かない」

 

 自分が、こんなにも嬉しくて、こんなにも救われていい筈がないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっとえっと、その、二人はこ、恋人同士さんってことで、いいんでしょうか」

「えぇ? いや、恋人ではなかったはずだけど……てかあいつ何歳よ。いくらなんでも外見変わりすぎでしょ……」

「御坂さん! もしかして木山先生とあの男の人の関係ご存知なんですか!?」

「うぇ!? い、いやー、私も断片的に見た程度のことしか……」

「わ、私も気になる! なんか夕暮れをバックにすごいイイ雰囲気だし、あれはただ事じゃないわ。そう例えば、女科学者と研究対象者だった男との間にいつからか芽生えた道ならぬ恋……とか!」

「キャー! すごいすごい! まるで映画みたいですね!」

「そう、これから二人はその愛を貫く為に逃避行に出るの。たくさんの障害を乗り越えて、いつか学園の外で自由と幸せを掴むのよ!」

「わわわ、ドラマチックです! スペクタクルですよぉ御坂さん!」

「アハハハ……」

 

 眼鏡の女性警備員と花飾りの少女が大いに盛り上がっている。

 その背後に長髪の女性警備員がゆらりと近付いた。

 

鉄装(てっそう)ぅぅぅぅいつまでくっちゃべってる気じゃんー? 暇そうで羨ましいなぁ? こちとら怪我人だってのに怪我人の手当てだの搬送だの大忙しじゃんよぉ。あ?」

「うひぃぃい!? よ、黄泉川(よみかわ)先生これはですね事前の聴取と言いますか現場証言の確保と言いますか」

「さっさと護送車用意してこい!!!」

「はいぃぃ今すぐぅぅぅ!!」

 

 一喝された鉄装は飛び上がる。そのまま彼女は護送車まで途中に幾度か躓きつつ走っていった。

 応援の警備員部隊が到着したのは事態が終息してすぐの頃だった。今は多くの人員が周辺の現場保存と原子力研究施設の復旧にてんてこ舞いである。

 木山春生を拘束する為に用意されたのはごく少人数。黄泉川と呼ばれた女性警備員と他三名の部下だけだった。

 

「無論、護送車には常に監視用の車両が付いて回る。そっちの男に至っては学園への無許可侵入と無茶苦茶な戦闘行為による公有地の破壊等々、余裕で現行犯逮捕可能じゃん……久しぶりじゃんよ、お前みたいな問題児……」

「いやぁ、勝手に入っちゃなんねぇとは思わなくてよ。変な都だなここ」

「ったく、このお上りめ……ま、今更逃げる気もないじゃん?」

「ああ、そうだな……」

 

 黄泉川の言葉を受けて、春生は傍らに佇む男を見上げた。

 

「なんだ? 腹減ったんか春生?」

「いや減ってないよ」

 

 きょとんとしてこちらを見返す悟空がなんだか可笑しい。暢気を振り撒く男の存在はこの場にひどくそぐわなかった。

 程なく、新しい護送車が到着した。

 

「お」

「? どうしたんだ」

 

 警備員の誘導に従って後部扉から護送車へ乗り込もうとした矢先。

 悟空はその場に立ち止まった。早く乗り込むように促す隊員の声も聞いているのかいないのか。

 空を眺める悟空の顔に笑みが浮かぶ。

 

「おーいおめぇら!」

「え?」

「はい?」

「眠ってた奴ら、目ぇ覚ましたぞ! よかったな!」

 

 御坂美琴と花飾りの少女にそんなことを言った。一瞬、意味を判じかねる二人だったが、すぐに思い至ったようだ。

 幻想御手の被害者達。意識不明となっていた人々が目を覚まし始めたのだと。

 何故、この場に居ながら悟空にそんなことが分かるのか、それはこの際置いておく。

 ワクチンソフトが正常に作用したのだ。ネットワークに囚われていた一万のAIM拡散力場は解放され、彼ら彼女らは自分だけの現実(パーソナルリアリティ)を取り戻す。その事実だけを、春生は噛み締めた。

 まあ結局、ソフトを使用したのは悟空が仮称AIMバーストを吹き飛ばした後なのだが。

 言うだけ言うと、悟空はさっさと護送車に入っていった。

 

「あっ、ちょっと待ちなさい! あんた達にはまだいろいろ聞きたいことが!」

「じゃあなビリビリ~」

「あー、なんだ、その、すまない」

「すまないじゃなくて……ていうか、私をビリビリって呼ぶなぁー!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「つまり、君はパラレルワールドを渡ってきた、と」

「おう、向こう(・・・)の春生はそう言ってたぞ」

 

 護送車の明り取りから夕日が差し込む。座席に並んで腰掛けた春生と悟空をそれは照らし出した。

 放課後の教室を思い出す。一日の終わり、子供達の声、疲労感と充実感の同居した不思議な心地。帰り道の隣にはいつも、悟空がいた。

 

「……君が介入したことで過去は改変され、まったく別の世界線へと分岐したんだな。私が実験を行わず、君が子供達を助ける未来へ……どちらが本来の未来であったのかは確かめようもないが」

「オラの仲間にも過去を変える為に未来から来た奴がいるけんど、そいつん時も結局未来は変わらなかったかんなぁ。思ってた通り、今回もそうなっちまった」

「さらりととんでもないな、君は」

 

 後部スペースには悟空と春生だけだった。警備員の隊員は皆扉を挟んで前方に待機している。本来ならありえない配慮だ。あの黄泉川という警備員にはつくづく頭が上がらない。

 

「君はどうやって“こちら”に来たんだ? 多世界解釈においても本来は他の世界の観測すら不可能な筈だ」

「気合だ」

「…………は?」

「だから気合だ。気合で穴開けて来たぞ」

「君に聞いた私が馬鹿だった」

「えー、オラ嘘なんか吐いてねぇぞ?」

「それが分かるから余計悪いんだ」

「?」

 

 溜息が零れる。一科学者として己は今とんでもなく無体な会話をしている。そして春生のそんな苦悩など悟空には理解できないだろう。

 

「なら、実質私達は初対面ということか……いや待て、では何故私には君の記憶があるんだ。そもそもこの記憶は君の介入した“過去の私”のものだろう」

「一回会ってんだろ。ほれ、おめぇが公園の真ん中でぶっ倒れてた時」

「あの時は……意識が無かったんだから会ったとは言えないだろうに。部屋に運んでくれたのは君だったのか」

「ははは、まあな。最初家の場所分かんなくてよ、おめぇの記憶を見たのはそん時だな」

「な」

 

 また、さらりとぶっ飛んだことをこの男はのたまった。

 

神龍(シェンロン)が言うには、オラを中継して過去と未来のおめぇ達に繋がりができた、らしいぞ。オラの心を読んだり伝えたりする力も関係あるみてぇだけんど、よく分かんねぇや!」

「……」

「? どうした、春生?」

「なんでもない。いや、ある。けど……」

 

 橙色に染まった悟空を見る。言いたいことは山と積もっているし、今までの会話だけで頭痛が再発しそうだ。怒りを通り越して呆れも過ぎて、溜息さえ出ない。

 

「私は疲れた……少し寝る」

「おう、そっか」

 

 むすっとした顔を作ったところでこの男が何かを察する訳もなし。悔しいので、男の肩を枕代わりに使うことにする。

 また癪なことに、頭を預ける感触は悪くなかった。

 

「また一から、理論を……組み立て直し……子供達が、待ってる……」

「ん?」

 

 車の微かな揺れ、身体に充満する疲労、傍らにある――君の暖かさ。眠気がすぐに春生を包んだ。目蓋ももう随分と重い。

 ちくりと罪悪感が胸を刺す。こんなにも穏やかでいていいのだろうか。

 こんなにも、幸福でいいのだろうか。

 後ろめたさと、それを覆い隠してしまう安寧に春生はそっと身を任せた。今は、どうか許して欲しい。

 

「絆理達ならすぐ起こせっぞ?」

「…………………………………………え?」

 

 跳ねるように身を起こし、隣に座る悟空を見る。突拍子もない発言なんて今日一日だけで両手に余る。だから一瞬聞き流してしまおうとした。だがそれは断じて決して無視できないことで。

 目の前の彼は、それはそれはいつも通りの暢気な顔。時には自分を混乱させ、時にはやきもきさせられて、気付けばずっと待ち望んでいたその笑顔。

 

「その為に、おめぇがオラを呼んだんだぞ」

 

 そう、いつだって君はその笑顔で私の心を掻き乱す――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“彼ら彼女らのエピローグ”

 

 

 

 それは光の中で。

 消滅していく。苦痛など感じる暇もなかった。

 ただ、目も開けていらないくらい眩しい光の向こう側で、その人は笑っていた。子供みたいに無邪気で、父親みたいに優しい顔。

 

 ――またな!

 

 最後にそんな声を聞いて、『私達』の意識は眠るように消えてなくなった。

 

 あぁ……なんだかすごく、安心した。

 

 

 

 

 

 

 

 





お久しぶりですすみません。まあ間が空きましたすみません。
リアルに忙しい日々に辟易しつつ趣味は満喫したいのにできないディレンマ。
仕事しながらでもきちんと毎日更新されてる方、マジで尊敬します。

こんな鈍亀更新ですが、それでも読んでくださって本当にありがとうございます。

次はどこの世界へ放り込もう!?
妄想だけは捗る今日この頃です。


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幕間小話(1) ディバイィインかめはめ波ー!!

 

 

 一面の火の海。

 赤と茶色と焦げてくすんだ黒。それだけの世界。たった三色でできた空間。

 スバル・ナカジマにとってその三色は恐怖の象徴だった。一時直視することもできないほどそれらの色は彼女の心を苛んだ。

 火の色、炎の照り返し、焼け爛れる肉皮。色の正体。

 その三色が示すものはたったの一つ。死だ。

 スバル・ナカジマにとってその三色は死そのものだった。

 

 どのような用事があって出向いたのか、それはもう覚えていない。ただ姉と二人で空港近くのショッピングモールを歩いていたことは覚えている。楽しかった。嬉しかった。吹き抜けのエントランスで一面の大きなガラス窓から差し込む陽の光。そうして白く輝く天使の彫像があんまり綺麗で、姉の手を握ることも忘れていた。

 はぐれて迷子になったと気が付いたのは日も沈みかけた夕方。茜に染まるモールを姉を探して歩き回っているときそれは起こった。

 大きな音がして、建物全体が揺れた。立っていることもできず、周り中パニックになった。叫び声や悲鳴や自分と同じくらいの子供の泣き声。それら全部が恐かった。

 何度も大きな音が響いて、世界全部が掻き回されているみたいな揺れが続いて、恐くて恐くて目を閉じた。耳を塞いだ。

 きっとその時、世界は変わってしまったんだ。

 目を開けたその先で、火が世界を包んでいた。

 綺麗な服も欲しかったおもちゃも素敵なお人形も美味しそうなケーキも、人も――大人も子供も老人も、全部、全部、火が飲み込んだ。

 

 ――助けて

 ――たすけて

 ――タスケテ

 

 聞こえる。声が、火の中から、黒い焦げ付いた手を伸ばして。

 

 痛い

 熱い

 恐い

 

 肺も喉も、きっと焼き潰れてしまっても、声は決して止まない。

 声は響く。耳の奥へ奥へ、最後は頭の芯に刻み込まれて、もう消えることはない。

 

「お姉ちゃん……」

 

 いずれ来る死が蔓延している。触れる端から身体を腐らせる毒。心を蝕む呪い。

 耐えられるはずがなかった。未成熟で弱くて脆い子供にこの世界は。

 

「お父さん……」

 

 いつの間にかエントランスに戻っていた。どこをどう歩いたかなんて覚えていない。

 暗く爛れた大気を巨大な天使像が見下ろしている。愚かな人間の末路をただただ静かに。

 

「おかあ、さん……」

 

 彫像の台座は脆くも砕け散った。度重なる熱波にさらされて耐久力の限界を迎えたようだ。

 倒れ掛かる像の真下には少女。

 呆気ない死。分かり易い末路。

 呆然と、思考さえ叶わない一瞬、スバル・ナカジマは母親を想った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よっこいせ」

「え」

 

 スバルはそっと目を開く。その声が今まで聞き続けてきた苦悶とはあまりにかけ離れた声音だったから。一言で表すとそれは、軽すぎる。

 暗い。まるで巨大な影の中にいるかのような暗さに、スバルは一瞬目が慣れず戸惑った。

 けれどそれもほんの僅かな間だけで、自分の今の状態をスバルはすぐさま理解した。

 巨大な彫像の真下に自分はいる。正確には倒れ掛かる像と床との間に出来た隙間に。頭上を覆う天使の影でスバルの周りだけが異常に暗かったのだ。

 隙間にいるのはスバル一人だけではなかった。

 

「よぅ、大丈夫かおめぇ。危ねぇとこだったなぁ。あらよっと」

 

 その少年はひょいと天使像を投げ捨てながらそう言った。全長十メートル前後のセラミックと鉄骨の塊である像を投げて(・・・)捨て(・・)ながら。

 その重量を物語るように凄まじい地響きがエントランス全体を揺るがせる。

 

「え、えぇぇええええ!!?」

「うん? どうした? もしかしてどっか怪我してんのか? 痛ぇとこ言ってみろ」

「う、ううん、そんなに痛いところない、けど、でも今、え、えぇーー!?」

「? そうか? ならよかったぞ!」

 

 一度不思議そうに首を傾げると少年はいかにも屈託なく笑った。こんな状況で、周りは火と数え切れない死で溢れたこんな場所で。

 非常識な光景に一瞬忘れた現実をスバルは思い出す。自分が見殺した命、今もどこにいるか分からない姉の安否。そんな不安で少女の胸は圧し潰されそうになる。

 

「心配すんな!」

「あぅ!?」

 

 ぐりぐりと頭を撫で回される。それはもう無遠慮に、女の子にしては短めのスバルの髪もぐしゃぐしゃになってしまう乱雑さ。

 

「今アイツらも上で頑張ってる。火だってじきに消えるぞ」

「……でも、みんな死んじゃった……たくさん、たくさんっ。わたし、みんな見捨ててきた、なんにもできなくて……!」

「なに言ってんだ。生きてるだけでおめぇは十分すげぇさ。はは、よく頑張ったなぁ」

 

 飾り気のない労いの言葉だった。こんな場所で、どうしてこんなに落ち着いて、穏やかで、優しくしてくれるのか。スバルには少年が分からなかった。

 背丈も自分とそう変わらない。変わった髪形、変わった服装、意味の分からない怪力。力強い手。暖かな言葉。屈託ない笑顔。

 スバルは混乱した。そして同時に深く深く安堵した。

 堪えていた涙が目の奥から溢れ出す。耐えかねたようにスバルは少年に縋り付いた。

 

「ふ、ぅ、ぁ……ぁああ、あぁああ!」

「わわわ、ははっ、そうだよなぁ。恐かったよなぁ。でももう大丈夫だかんな!」

 

 よろめくこともなく少年は軽々とスバルを抱き止めた。今度はひどく優しく背中をとんとんと叩いてくれる。

 その小さなリズムはむしろスバルに涙を流させた。今までの恐怖と不安を帳消しにするかのように。

 

「おーい!」

「お」

「ふぇ?」

 

 突然響いた声に驚いて涙も引っ込む。スバルは少年の背後を見た。

 スーツ姿の男性が二人に走り寄ってくる。男性はスーツの端々が焦げて煤だらけだった。その後ろからもう一人若い男性が同じく小走りに近付いてくる。ジーンズの膝から下が破れて露になっていた。さらに後ろからは服飾店の店員が、空港のCAやパイロット、若いカップル、スバルと同じくらいの子供を連れた母親、赤ん坊を抱いた夫婦、杖を突いた老人やそれを介助する人、ぞろぞろと大勢がこちらに向かってくる。

 スバルは何が何やら分からず呆然とした。だって彼らは、彼女らはさっき――

 

「よぉ、すまねぇな。急に先行っちまって。危ねぇとこだったんでよ」

「いやそんなこと構わないよ。また一人助けられたんだね」

「大丈夫か? お嬢ちゃん、怪我は?」

「あなた一人だけ? よく頑張ったわねぇ!」

 

 スバルを見た人々は口々にスバルを褒めた。見も知らない自分の無事を確認して涙を流す者までいる。

 

「うっし、全員いるな。来る途中怪我したり疲れたりした奴はいねぇか? ちゃんと仙豆食えよぉ! 我慢すんなぁ!」

「大丈夫だ。もう怪我一つないよ!」

「私も」

「うちの子もすっかり元気です!」

「あぁっ、おじいさん無理しないでください」

「なぁに、あの豆いただいてからワシぁもう(すこぶ)る快調よ!」

 

 老いも若きも男も女も皆口々に声を上げた。この現状に似つかわしくない溌剌とした声だった。絶望など知らないと、ただ生きるという意志に溢れている。

 どうして。

 声にならない疑問がスバルの胸の中で木霊する。その答えは目の前にあった。

 

「そろそろ出るか。さ、皆オラに掴まれぇ!」

 

 彼は希望なのだ。この災禍の中心にあっても揺るがない強さが。不安も恐怖も全部吹き飛ばしてしまえそうな笑顔が。人々から絶望を取り去る。

 

「待って!!」

「お?」

 

 だから(・・・)スバルは少年を呼び止めた。

 彼ならば、彼だけが頼みの綱だった。

 

「お姉ちゃん、私のお姉ちゃんがまだっ」

「おめぇの姉ちゃんまだここにいんのか?」

「お願い……! お願いだから、おねえちゃん、を、ひっく、お、ねえちゃ、たす、ぇあぁっ!」

 

 少年の青い胴着の裾に縋ってスバルは懇願した。嗚咽塗れで発した言葉がきちんと伝わっているかどうかも分からなかった。

 ただただ少女は恐怖する。今どこに居るかも定かならない。無事を祈ることさえ憚られた。あまりにも生々しい死の光景を彼女は目の当たりにし過ぎていたのだ。

 それが、最愛の姉の死を容易に想像させる。惨たらしく、鮮烈なまでに。

 

「うあっ」

 

 ぐいと強く頭を押される。乱暴な手付き。少年がスバルを撫でたのだ。

 

「そーんな顔すんな」

「ぅっ、だって、だって……!」

「姉ちゃんならオラがすぐ連れて来てやっぞ。だから泣くな」

 

 ぐいぐいと何度か頭を撫で繰り回すと少年はふいと背を向けた。それがなんだか名残惜しくて少女は自分に首を傾げる。

 小さな背中。自分とそう歳の違わない子供の体躯。けれど何故か、不思議なほどその後姿は頼もしかった。

 

「そうすっとちょっと急いだ方がいいなぁ。おーい! 今から出口作っから、おめぇ達ちょっと離れてろ!」

「へ?」

 

 言うや、この場にいる大勢の誰の返事も待たず、少年は両手を腰元で構える。まるで目に見えぬ何かを合わせた掌の中に作り出すかのような。

 誰もが疑問符を頭上に浮かべる。

 しかしその答えは、ほんの瞬きする間に寄越された。

 

「波ぁあーー!!」

 

 咆哮一喝。

 その瞬間、眩い“蒼”で視界は埋め尽くされた。光、光、光、この建物を呑み込んでいた炎の暴力的な熱とは違う。暖かな光に照らされる。

 一方で、今日、火災が起こる前に感じたものと同等かそれ以上の震動がスバル達を襲う。

 閃光と鳴動に包まれることほんの一瞬。恐怖を感じている暇もない。

 それらが止んだ時、世界は一変していた。

 視界を埋め尽くしていた炎の地獄。心も身体も蝕むような死に満ちた空間はそこにはなくて。

 というかそもそも建物自体が無くなっていた。

 

「よし、綺麗に穴ぁ空いたな。おぅい」

「…………ふぇ?」

 

 穴。少年の言うとおり、それは穴だった。建物一棟の半分を丸ごと削り取ったかのような空白を穴と呼べるかどうかには議論の余地があるが。

 外であった。つい先刻まで諦めて、それでも望んで止まなかった外界。いつしか日も没し、透き通るような紺色の夜空が広がっている。こんなにもあっさりと、呆気なく。

 少年は振り返って穴の向こう側を指差していた。どうやら外もまた火災の被害の中であったらしい。建物の残骸にはちらちらと火の燻りが見て取れる。そしてそれだけだった。

 異様な光景がそこにはあった。本来、建物が隣接している筈の広大な敷地の中に道ができているのだ。まるでデッシャーでアイスの上を掻いた(・・・)かのような道とも呼べぬ道が延々と築かれ、遂には海まで届いている。

 

「見えんだろ? こっから海まで出たところに助けが来てるみてぇだ」

「お、おぉ」

「俺達、助かるのか……」

「そう、みたい」

 

 誰も彼も目の前の光景に半信半疑で、零れ出る言葉には実感が篭らなかった。

 スバルもまたそんな風に驚くばかりの一人だった。ただただ凄まじい非現実感に襲われる。それは今まで感じていた悲愴とか絶望とかが阿呆らしくなってくるなんともいえない、なんか台無しな気分。

 

「待ってろ。すぐに姉ちゃん連れて来てやっからな」

「あ」

 

 何の気負いも感じさせない声音で少年は言った。

 それだけ言って、少年は消えた。文字通り、スバルの目の前から。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの子の言ったとおり、道の先は海になっていて、そこでは救助隊の人が私達を待っていた。突然光が建物を吹き飛ばしてここまで道を作ったから、急いで来てくれたんだって。

 救助の船からまだ燃えている空港を眺めて、ようやく私は自分が助かったことを実感した。

 

「スバル!」

「お姉ちゃん!?」

 

 そして私はすぐにお姉ちゃんと再会できた。

 それが本当に、あんまりにもすぐだったから最初は何がなんだか分からなかったけど。

 お姉ちゃんの他にもたくさんの人たちが救助船に現れて(・・・)船は傾いた。助かったことを喜ぶ人より、何が起こったのか分からなくて呆然とする人の方が多かったような気がする。

 やっぱりお姉ちゃんもあの男の子に会っていた。突然目の前に現れたその子に手を引かれて、気が付いたら救助船の上にいたって。

 

「……誰だったのかな……」

「あの方ぁ、神の化身様だねぇ」

 

 一緒に救助されたおじいさんは言った。

 皆それを冗談だと言って笑うけど、私はそれを冗談とは思えなかった。

 

「……すごいな」

 

 地獄だった。間違いなく、あの中は地獄そのものだった。

 辛くて、熱くて、痛くて、恐くて、何かも諦めてしまっていた。

 でも今はそんな気持ちはこれっぽっちもない。

 あの男の子に出会ったときから私の不安は全部消えてしまっていた。

 

「…………私も」

 

 その憧れを覚えてる。

 生まれて初めて、こんなに強く心に願った。

 あの力強い笑顔を忘れられない。不安に駆られた大勢の人を巻き込んでしまうあの眩しいくらいの笑顔。

 私も、あんな笑顔を誰かにあげたい。

 

「名前、聞けなかったなぁ……」

「そうだね……スバルも私もお礼言わなくちゃ」

 

 姉のギンガと煙る夜空を見上げる。その先に、もしかしたらあの子がいるんじゃないかと思ったから。

 それが私の夢の始まり。

 すごく遠くて、でも諦められない。一人の男の子との出会い。

 

 

 

 

 

 

 火災はその後すぐに収まった。なんでも偶然居合わせた時空管理局本局の魔導師三人の活躍で。

 信じられないことだけど、死傷者は出なかったそうだ。あんな大規模な災害で誰一人亡くならず、重傷を負うこともないだなんて普通じゃない。

 でも不思議だとは思わなかった。きっとあの時助かった多くの人もそう思ってるはず。

 あの男の子ならできちゃうんだろうなぁ、きっと。

 

 

 出会いと言えば、もう一人。救助された人達が軽い診察を受ける避難所で私はもう一人意外な人と出会った。

 

 

「知らないですか? 本当に? 本当の本当の本当に誓って知らないですか? 嘘吐くと為になりませんよ? そこんとこ分かってますよね? ねぇねぇねぇ」

「し、知らないですっ! 本当に誓ってそれ以上は知らないんですぅ! もう、ホント、勘弁してくださいっ……!」

 

 何だか騒がしい。具体的に言うとまるで取調室で尋問する人とされる人のような会話が断続的に繰り返し聞こえてくる。しかもそれらは徐々に私達のところに近付いてくる。

 

 ――純白の女性(ヒト)

 

 人波が割れて道ができる。そこに現れたのは女の人だった。でも齢はきっと自分ともそんなに離れてない。栗色のツインテールと純白のバリアジャケット、杖型のデバイスを持つ手は細っこい。華奢な女の子に見えた。

 でも、纏っている雰囲気が全然違う。真っ直ぐな目はなんでも見通してしまいそう。凛とした立ち姿はどんな災害にだって負けない頼もしさに溢れていた。

 もし最初に会ったのがこの人だったら、私は絶対この人に憧れて――――

 

「君、男の子見なかった? 身長は君よりちょっと低いくらい、髪は黒くてぼっさぼさ、服装は青い胴着と黄色いズボンね。見たよね絶対。どこに行ったか知らない? ううん、なにか言ってなかった。どんなことでもいいよ。どんな些細なことでもいいから気付いたことはないかな?」

 

 私の両肩をがっちり掴んで、その人は大きくて真っ直ぐな目で私を見る。いやよく見ると目が濁ってるような気がする。灯りを背にしてる所為か瞳には光がない。まるで夜空の下の海みたいに底が見えない深い色合いの目、あ、恐い。すごい恐い。隣のギン姉は何も言えずに固まってる。

 

「ねぇ、答えて欲しいな」

「ひゃい、み、み見まひた。わた、わたしを助けてくれて、海までの道をつく」

「!? かめはめ波で吹き飛んだエントランスホール!? 君そこにいたんだね!? じゃあその後男の子はどうしたか知らない?! どの方向に飛んでったとかどこかに行くって言ってたりとかねぇ! ねぇ!? ねぇえ!!?」

「わぅわうあぅあぅぁぁぁぁ」

 

 ぐわんぐわんと世界が揺れる。ああ揺れてるの私だ。

 お姉ちゃんが涙目だ。すごい焦ってる。私もすごい焦ってる。てか恐い。この人なんかコワイ。

 

「なのはーー!? こんなところにいたー!!」

「なのはちゃんちょっと落ち着きぃ! 死ぬぅ! その子ホンマに死んでまうからー!!」

「ちょ、はな、放してフェイトちゃんはやてちゃん。この子重要な目撃者だから」

 

 人垣を掻き分けて現れたバリアジャケット姿の魔導師二人に白い人は羽交い絞めにされた。でも肩を掴む両手はそのままだった。二人がかりなのにまったくびくともしてないこの人。

 

「五年だよ!? なんやかんやで五年も待たされてるんだよ私!? 気の長いなのはさんでもちょっとイラつき始めてるよ!? 『近ぇうちまた会いに来っぞ』ってちゃんと約束して録音まで取ったのにこの仕打ち?!!」

「だからって一般人に尋問して回る本局魔導師がおるかいな!! 見てみぃこの子泡吹いとるやないか!? というか録音ってこわっ」

「なのはごめん、実は一昨年の秋口私プレシア母さんのとこで会ってる。母さんの様子見に来てたらしくて……」

「なんで今このタイミングでそれ言うんやフェイトちゃん」

「スタァァアライトォ」

「やめぇえい!! おどれは必殺魔法ハリセンみたいなノリでぶっぱすなぁ!!」

 

 強くてカッコいい憧れの魔導師さんなんていなかった。いなかったよ。

 台無しだよ。いろいろもう台無しだよ。

 

「もぉぉお!! 悟空くんのバカーーー!!!」

 

 これが私の二番目の出会い。

 不屈のエースオブエース、高町なのは戦技教導官との残念な初対面だった。

 

 

 彼女達とあの人――孫悟空さんとの馴れ初めを知るのは、これよりもっと後の話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 






クロスされ尽くしたと言っても過言ではないリリカルなのは。
無印~A'sまで悟空が八面六臂の大冒険をしたところまで妄想した。


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一話 GTinリリカルなのは「なのは」

 

 

 うんと幼い頃の記憶の大半は、いつも独り。

 別に、家族がいないなんて辛い生い立ちを持ってる訳じゃないし、虐待やイジメを受けたことだって一度もない。家族はいつも優しかった。お母さんもお父さんも、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、皆大好きだった。

 きっと誰も悪くない。皆が家族のことを想って、皆が家族の為に一生懸命なだけで。

 私はそんな家族が大好きで、大好きで――――だから、独りに耐えようと思った。

 その決意が正しかったのかどうかは今でも分からない。少なくともあの時の私は確かにそれが家族の助けになると信じていた。あるいは、ただ信じたかっただけなのかもしれないけれど。

 自分の孤独は意味のあるものなんだ、って。

 もしあの人が知ったら、馬鹿だって笑うかな。それとも怒るかな。優しく頭を撫でながら慰めてくれるかな。

 ……どれも違う気がする。そんな気の利いたことができるとはこれっぽっちも思えないから逆にすごい。デリカシーとか紳士的とかそういう言葉の縁遠い人だから。

 ただ、私の手を引いてどこかに連れ出してくれるんだろう。自分勝手に。こっちの都合なんてお構いなしで。

 困った人。本当に、悟空くんは――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (ひぐらし)が鳴いている。

 それが近くの木立からなのか遠くの林からなのかは分からない。身体の内側を揺すられるような不思議な音が公園の中に響き渡る。それ以外の何も聞こえやしなかった。

 子供の甲高い歓声も騒がしい足音ももう聞こえない。ジャングルジムは歪な陰を地面に伸ばし、滑り台は橙色の日差しをぼんやりと反射している。フェンスの向こう側で夕刊の新聞配達のバイクが横切った。低い羽音のようなエンジン音が過ぎ去ると、蜩の鳴き声さえ遠ざかったように公園にはしんと静寂が降りる。

 その時、とうとう何一つ音は失われたかに思われた。しかし、たった一つだけまだ物音のする場所がある。5メートル四方に区切られた小さな砂場。その真ん中でぽつんと小さな影が動いている。

 

「……」

 

 茜色に染まった砂の上に伸びた影は、そこに蹲っている矮躯に見合わず長く濃い。

 少女と呼ぶには彼女は幾分幼過ぎた。精々五つか六つ、小学校に上がる前の幼児である。

 ざくざくと、砂を掻く音だけが響いた。

 

「今日の晩ご飯どうしよっか?」

「わたしカレーがいい!」

 

 通りの向こうで声が聞こえる。

 女の子とその母親の他愛のない会話。どこにでもありふれた光景。

 

「っ……」

 

 フェンスを挟んだすぐ向こう側の出来事だった。それがひどく遠い。手も届かないくらいに遠く、彼女には感じられた。

 砂を掻く。一心不乱に。何も考えたくはないから。

 けれど、どうしても頭は考える。心は、感じずにはいられない。

 どうして。

 

「っ……っ」

 

 日は刻一刻と傾き、茜色だった世界は暗い紺色に染まっていく。じりじりと、まるで少しずつ世界の明るい部分を呑み込んでいくように薄闇が迫ってくる。

 時刻は午後六時をとうに過ぎ、子供は皆自分の家に帰る頃合だ。先頃まで公園で居残っていた子らも親兄弟に連れられて今はもういない。

 けれど、彼女はここにいる。

 独り、ただ砂を掻き続ける。

 どうして。

 

「ぅ、ぁ……」

 

 誰も迎えには来ないことを彼女は知っている。

 どんなに待っても、どれだけ夜が深まっても、独りきりなのだと分かっている。

 どうして。

 

「っ、ぅあ……」

 

 山を作る。ただひたすら砂を集めて、積んで重ねて、小さな山を作り続ける。何の意味もない。何一つ楽しくはなかった。それでも彼女はその小さな手を片時も休めず、ただ砂を掻き続けた。

 乾いた砂に黒い染みが点々とできる。染みができる度、それを砂で隠した。それでも染みは消えなかった。後から後から染みは砂を汚した。

 

「ひくっ……」

 

 目蓋の裏が熱い。景色が歪む。袖で目を何度も何度も拭った。何度拭っても景色は一向に晴れなかった。

 砂を積み上げ山ができたらそれを崩す。砂を掻き分け、掘り返し、何もなくなった更地にまた砂を積み上げる。終わりのない作業。終わらせないように。もしこれを終わらせたら、帰らなければならない。彼女の家。暖かだった場所。安らぎだった空間に。

 

「だい、じょうぶ……ぅ……」

 

 電灯が点る。遂には影の中に沈むようだった彼女を青白い光が照らし出した。しかし、それはむしろ周囲の暗がりを一層浮き彫りにして、今や彼女の影は底の見えない沼のようだった。

 柔らかな砂は彼女の足を捕らえる汚泥。彼女の小さな足がゆっくりと泥に飲み込まれていく。そんな錯覚さえ起こす。

 

「なのは、は……っ……いいこ、だから……」

 

 それでも彼女はじっとその場を動かず、ただ砂を掻き続けた。延々と。永遠と――――

 引きつった喉から震える声で言い訳する。言い訳して、目を逸らして、彼女は終わりのない遊びをひたすら続ける。誰もいないこの公園で。誰も来ないこの暗い沼のような場所で。

 不意に、濡れた瞳の端に影が映る。

 反射的に視線が影を追う。少年と目が合った。逆さまの少年の顔が目の前にあった。

 次の瞬間、砂場が爆発した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜空と夕空の丁度境目で彼は目覚めた。

 目覚める場所はいつだって一定しない。空の上の上だったこともあれば、地底の底のそのまた底だったこともある。むしろ地に足を着けた状態の方が稀なのではないだろうか。実際はどうあれ、そのように感じられる程に彼の目覚めは唐突で場所を選ばない。

 

「んがっ」

 

 ただ、当の本人はそれを気にも留めていない。

 空の上で目覚めたなら少しばかり遊覧飛行を楽しめばいい。地の底で目を覚ましたなら土竜を気取って穴掘りに精を出してもいい。

 どちらでもないなら、また、見知らぬ誰かに会いに行こう。見たことも聞いたこともない広い世界に歩き出す。

 生きていようと死んでいようと、悟空はいつだってそうしてきた。これからもそれは変わらない。

 

「んー?」

 

 変わりはしない。が、今回の覚醒場所は少々特殊だった。

 高度は精々100メートル前後。肉体年齢が現在十一歳の悟空の体重ならば地表到達まで自由落下でおよそ五秒といったところ。

 そして今、彼は起き抜けで大変寝惚けている。

 人体は頭部に対して比重が大きく、落下する際は大抵頭が下を向く。悟空とてその例に漏れない。

 にわかに夜気を帯び始めた風を全身で感じながら彼の身体は真っ逆さまにひた落ちる。刻々速度を増しながら真っ直ぐ落ちる。昇る(・・)夕日は住宅街の向こうに消え、ずらりと並んだ屋根もさっさと通り過ぎる。

 ものの五秒で地表は彼の旋毛のすぐ真下。寝惚け眼が捉えたのはぽかんと口を空ける幼女の顔。

 それを最後に彼の視界は暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 濛々と煙が立ち込める。尻餅を着いたまましばらくの間彼女は呆然としていた。“爆発”の衝撃で彼女の小さな身体は砂場の外に投げ出されたのだ。

 程なく煙が晴れ始め、大きく抉れた砂場の無惨な姿が露になる。砂の大半が周囲に飛び散って、そこはまるで蟻地獄の巣穴のような有様だった。

 

「――――え!?」

 

 その中心に棒が二本立っている。よく見るまでもなくそれは足であった。黄色のズボンを穿き黒い靴を履いた人間の下半身である。それが窪んだ砂地から空に向かって生えているのである。

 異様な光景に二度三度と瞬きを繰り返す。両手で目を擦ってみるが相変わらず下半身はそこにある。現実だった。

 

「……」

 

 恐る恐る少女はその下半身に近付いた。砂地はボール状に1メートルほど刳り抜かれていた為、彼女は滑り台の要領でそれを下った。

 近寄って見るとやはりそれは間違いなく人の脚である。そして上半身の方はどうやら砂の中に埋まっているようだ。

 なるほど、先ほどの“爆発”はこの脚の持ち主(?)が上から降ってきて砂場に頭から激突した為に起こったのだ。

 少女は一人納得する。

 しかし、同時に彼女は考える。体の半分が埋まってしまうほどの勢いで地面に墜落した人間が果たして無事でいられるのかと。

 

「…………」

 

 さっと顔から血の気が失せていく。幼いながら彼女はこの事態が自身のキャパシティを超えているのだと理解した。

 大人を呼ぼう、そう思い踵を返しかけたその時。

 脚が動いた。

 

「ひぃ!?」

 

 最初は僅かに身動ぎする程度だった。それが次第に激しくなっていく。

 じたばたと前へ後ろへ暴れる脚には何やら余裕がない。凍りついたように見守ること数秒、彼女はようやくそれが苦しんでいるのだと気が付いた。

 

「わ、わ、えと、どどどうしよう」

 

 右往左往する間にも脚は苦しみもがく。

 僅かに逡巡した後とうとう彼女は意を決した。暴れる足首を両手で捕まえ、力の限り引っ張った。

 

「ふんっ、にゅー!」

 

 うんとこどっこいと引っ張るが中々に手強い。見た目通りすっぽりと埋まってしまっている。

 最初の物怖じはどこへやら、気分は幼稚園で読み聞かされた「大きなかぶ(・・)」そのままである。

 

「ぜんりょくぅ、ぜんかいぃ!」

 

 ちんまい全体重を掛けて今度こそはと思い切り引っ張り上げる。

 すると、あれほど頑固に嵌っていた脚が持ち上がった。頭の中で「すぽんっ」という快音が鳴り響く。

 しかしあまりにも全力で引っ張っていたものだから、勢い余って少女はその脚諸共すっ転んだ。

 身体が砂に投げ出される。柔らかな砂の上ということもあって痛みはなかった。

 

「ぶへっ、ぺっぺっ、うぇ、はぁはぁはぁ、はー死ぬかと思ったぞ…………あり、オラ死んでんだっけか?」

 

 顔を上げる。声の主は少女の目の前にいた。少女に背を向けて立っていた。

 黒髪は砂を被ってやや白っぽい。地面に埋まっていた所為なのか髪はぐちゃぐちゃだ。上半身は青い胴着姿だった。街灯の青白い光に負けない鮮やかな青、目の覚めるような蒼だった。そして黄色のズボンからは――茶色の尻尾が伸びている。

 水に濡れた犬みたいにぶるぶると身体を揺すって体中の砂を落とす。砂が少女の方にまで飛び散った。

 

「ひゃっ」

「? おお、すまねぇ」

 

 少年は少女に振り返った。

 初めて少年の顔を見る。少女が通う幼稚園の男の子達と同じ腕白さに野生味を足したような。

 少年は少女の手を引いて軽々とその小さな身体を立ち上がらせた。

 

「出してくれてサンキューな。いきなりオラが降ってきてびっくりしたろ?」

「う、うん」

「怪我とかしてねぇか? はは、おめぇ砂まみれだなぁ」

「え、あぅ」

 

 少年は少女の頭やら服やらに付いた砂をぱっぱと払っていく。少女はそれがなんだか気恥ずかしかった。

 

「でも、おにいちゃんは? おケガしてない……?」

「オラか? オラぁこの通りぴんぴんしてっぞ!」

 

 少女のそんな心配を余所に、少年はその場で宙返りして見せた。

 にゃんぱらりと彼が着地した拍子に尻尾もまた揺れる。揺れる。

 少女はその茶色の物体に釘付けになった。

 

「うん? ああ、おめぇ尻尾が珍しいんか」

「う、うん。ヘンなアクセサリーだね」

「アクセサリーなんかじゃねぇぞ、ほれ」

「え?」

 

 言うや少年は後ろを向くと躊躇なく己のズボンを下ろした。必然、少女の眼下に彼の臀部が露になる。きゅっと引き締まった小ぶりな尻が電灯の光で光沢を放っていた。

 

「みゃあー!?!?」

「な、ちゃんと本物だろ?」

「みゃー!? みぃいやー!? あ、ホントだ」

 

 手で顔を隠しつつ、少女は指の隙間からしっかりと少年の臀部を見る。彼の言うとおり尾ていから直に尻尾は生えていた。

 

「び、びっくりしたぁ」

「オラ、悟空。孫悟空。おめぇの名前なんてんだ?」

 

 ズボンを上げて器用に帯を結びながら、まるで何事もなかったかのように少年は言った。

 

「う、うん、えと、なのは。なのはだよ…………ソンゴクウ? おサルさんの?」

「そうだなぁ。昔はまあよく言われてたけどよ」

「あの、あの、ニョイボウとかキントウンとか持ってるの?」

「あるぞ? 見せてやっか?」

 

 少年、悟空は空を見上げた。なんだかんだと日は暮れて、空は厚く塗り込めたかのような群青色。夜に近付くほどに星もちらちらと瞬き始めていた。

 そして悟空は大きく息を吸い込んだ。少年の小さな胸が見るからに膨らんでいくのが分かる。

 

「筋斗雲やーーーい!!」

 

 夕方の住宅街を声は高らかに響き渡る。夜空に届かんばかりの声量は近くに居たなのはの可愛らしい耳を貫いた。

 

「うーんちょっと遠いかんなぁ、時間かかっちまうかも……お、来た来た!」

「ふぇ?」

 

 その夜空の向こうから。

 黄金の軌跡を描きながらそれは来た。

 箒星のように、けれど地平線に消えることなく、凄まじいスピードで近付いてくる。

 あっという間にそれは悟空の元まで辿り着いた。びゅんと一陣強く砂を薙ぎ払って少年の目の前に急停止。なのはや悟空の体躯より二回りほど大きく、見るからに柔らかそうなふわりとした質感。紛れもなくそれは黄金色の雲だった。

 

「え? え? えぇええ!?」

「よっと」

 

 ぴょんと、躊躇なく少年は雲に跳び乗った。

 そしてなのはに向かって手を差し出す。

 

「ほれ、掴まれよ」

「う、うん……うあっ」

 

 いかにも恐る恐る触れた途端、ぐいと掴まれた手を引っ張り上げられる。

 

「行くぞぉ!」

「え?」

 

 その声のニュアンスは果たして『どこへ?』なのか『どうやって?』なのか、なのは自身よく分からない。理解する暇なんてなかったから。

 

「っ!」

 

 一瞬、叩きつけるように吹いた暴風に思わず目を瞑った。一挙に押し寄せる恐怖感。反射的に少年の小さな背中にしがみ付く。

 風は止むことなくなのはの全身を叩いた。その強烈さときたら、父親の運転する車の窓から吹き込むような微風とは比べ物にならない。けれど、徐々にその感触にも慣れてくる。なのははぎゅっと閉じていた目蓋をゆっくりと開いた。

 

「へ」

「おぉ、見ろなのは!」

 

 轟々と耳を揺さぶる音が、下腹を押し上げられる奇妙な感覚が。

 その瞬間だけは、どこかに消えてしまった。

 もうすっかり夜だと思っていた。暗い公園と白んだ街灯の光はなのはにいつも夜の訪れを知らせるものだったから。

 だのに、なのはの瞳は茜色を映していた。

 ビロードのような群青の空と海の境目、その中心で一筋、けれど力強く燃える陽の光。水平線に沈む寸前の太陽がほんの一滴残した宝石のような煌き。それが海を臨む街に幾条も伸びて、海を、空を、雲を、そして最後になのは達を照らし出していた。

 

「キレイ……」

 

 吐息のように言葉は零れ出た。こんな綺麗な景色を見たのは生まれて初めてだった。

 しばらくゆっくりと沈んでいく太陽を見送ると、なのはは自分の居る場所に気が付く。

 

「と、飛んでるの」

 

 おもちゃのように小さな街がなのはの眼下一面に広がっていた。なのはの生まれ育った街、海鳴の街が。

 なのはが知る自分の世界は家と幼稚園と公園のある町、それより先は広すぎて想像もできなかった。

 

「ああ、なのはは空飛ぶの初めてか?」

「う、うん。初めて……初めてだよ! こんなの見たことない! すごい、すごいすごーい!!」

 

 その想像もつかなかった世界の広さを今なのははその目で、全身で体感している。

 きっと行ったことのある場所、見たことのある建物もたくさんある。それら全てがここからはまるで別世界から来た未知の造形物のようだった。

 

「ははははは、そっかそっか。じゃ、もっといろんなとこ飛んでみっか。しっかり掴まってろ!」

 

 少年の言葉と共に雲が加速する。夜空のキャンパスに目にも鮮やかな黄金の軌跡を描いて。

 家々に灯りが点り、道路を走る車が光の川を流す。遠くに見える光の塔は商業区のビル群。きっとそれはこの世で一番豪華なイルミネーション。

 

「そぉれー!」

「わぁあーー!!」

 

 夜空のどこかで無邪気な歓声が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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