トリスタニア診療院繁盛記 (FTR)
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その1

 トリスタニアの朝は、日の出とともに動き出す。

 往来を行きかう行商や運搬の音を聞きながら、私は目を覚ました。

 およそ7時くらいであろうか。

 職人に比べれば遅い朝だが、主観的にはかなり早い。

 

 のそのそと芋虫のように起きだして、玄関の外にある牛乳受けから牛乳を取り出す。

 左手は腰、正面に向かって斜め45度で立ち、ビンを持つ手の小指は天を指す。

 これが様式美というものだ。

 

 身長140弱。

 私に胸周りのサイズを最後に訊いた奴は、街外れの墓場に眠っている。

 今年で20歳なのに、どこから見ても10かそこらの小娘のこの体。

 対抗する手段としては今飲んでいる魔法の薬しか思いつかないのが目下の最大の悩みだ。

 

 

 

「先生!」

 

 人の流れを見ながら私が口の周りに白い髭を作っていると、通りの向こうからでかい声ととも大男が数名駆けてきた。

 

「何事だね?」

 

 男は顔見知りの鍛冶屋の頭領だったが、後ろに徒弟と思われる体格のいい大男数人が戸板のような板を持ち、その上に一人の青年が苦悶の表情を浮かべて横たわっていた。

 

「ジャンの奴が昨夜から腹押さえて苦しんでてよ、今朝になったらあまりにも様子がおかしいんで連れて来たんだ。頼む、何とかしてくれ!」

 

 確かに苦しみ方が尋常ではなかった。

 

「そのまま処置室に運んどくれ。靴はお脱ぎよ」

 

 私は院内に戻り、急いで壁にかかった白衣を手に取る。

 

「テファ!」

 

「は~い」

 

 打てば響くタイミングでキッチンから朝食の準備中だったテファが出てくる。今朝も相変わらず美少女全開だが、今はそれを愛でている場合ではない。

 

「大鍋にお湯を沸かしといとくれ」

 

 様子を見て、すぐに目つきが私の助手としてのものに変化した。

 

「急患ですね。すぐに」

 

 テファがお湯を用意する間に診察室に患者を運び込み、マスクと手袋をはめる。

 

「そこに寝かせたら、親方以外は外で待ってておくれ」

 

 聴診器付けて患者の具合を診察し、その間に親方から食べたものや嘔吐などがあったか等を確認する。

 聞けば、典型的な症状だった。

 

「……食中毒だね」

 

「しょ、食中りかい?」

 

「熱がある。食中りより、もうちょっと性質が悪いね」

 

 O157とかこの世界にあるのか知らんが。

 

「し、死んじまうのかい!?」

 

「まあ、このままなら下手すりゃ葬式コースだけどね。心配はいらないよ。この道でおまんまをいただいているんだ、これくらいなら何とかしてあげるよ」

 

 私は棚からいかにもポーションな形をした薬瓶を取り出す。

 

「ほら、苦しいかもしれないが、頑張ってお飲み」

 

 親方に手伝ってもらいながら無理やりに患者に飲ませた。毒消しの魔法がかかった秘薬だ。

 何度かせき込みながらも青年はきちんと飲みこみ、数分で呼吸が落ち着き始めた。

 

「このまま半時もおいておくといい。力が戻ったら帰っても構わないけど、今日明日は一日静養して、ミルク粥みたいな柔らかいもの以外は食べないこと。酒は禁止だよ」

 

「もう大丈夫なのかい?」

 

 大丈夫といえば大丈夫だが、私にはちょっとした予感があった。

 

「この患者はね。大丈夫じゃないのはこれからだろうね。ほれ、おいでなすった」

 

 待合室の方から聞こえた悲鳴のような声に私は呟いた。

 

「先生、うちの人が!」

 

 あの声は角の酒場のおかみさんだ。運ばれてきた旦那を見ると、苦しみ方が先の男と良く似ている。

 

「集団食中毒かい。今日は忙しそうだ」

 

 私はため息をついた。

 

「お湯沸きました……まあ、また急患ですか?」

 

 鍋を持って入ってくるなりテファが目を丸くした。

 ミトンの手で口元を押さえる。

 

「何事だい、朝から?」

 

 入口のところから、起き抜けのマチルダが首を出している。 

 

「すまないね。ちょいと今日は大変かもしれないよ。廊下にも患者を並べなきゃならないかも知れないから、ちょっと騒がすよ」

 

「おやまあ、大丈夫かい? 手伝おうか?」

 

「主なところは内科の範囲だから、私とテファで何とかやってみる。困ったらディーに声をかけるよ」

 

「はいよ」

 

 

 その日、運ばれてきた患者は25人。

 問診をした結果、全員が市で行商人が売っていた魚の酢漬けを食べていた。

 すぐに親方の丁稚を番所に使いに出し、まだ市で商売をしていた商人を抑えてもらう。

 細かいところはお役人に任せてこっちはこっちでお仕事だ。

 

「お疲れさま」

 

 夜になってようやく椅子に座れた私に、テファがお茶と菓子を持ってきてくれた

 

「ありがとう」

 

 お手製のクッキーは実に美味い。

 

「ご飯、もうじきできるからね」

 

 さすがに腹がすいた。朝牛乳を飲んだきりだったのだ。

 

「すまないね。さすがにもういないだろう」

 

 その時、扉が開いてディーが入ってくる。工房組も、今日はもう帰って来ている。

 長身細身の美丈夫だ。右頬の絆創膏がチャームポイント。

 

「看板はもう裏返しておいてもよろしいでしょうか?」

 

「ああ、すまないね。頼めるかい」

 

 ディーは一礼して出ていく。気の回る男だ。

 

 肩の力を抜いて、両手でカップを持ってしみじみと紅茶を啜る。

 それを見たテファがおかしそうに笑う。見た目が美の権化のような娘なだけに、こういう無垢な笑顔はもはや凶器に近い。

 

「何か変かい?」

 

「姉さん、しゃべり方も立ち居振るまいもお婆さんみたいなのに、そういう仕草だけは年相応の女の子に見えるね」

 

「う、うるさいね」

 

 何だか結構失礼なことを言われているような気がする。確かに身長は彼女の胸のあたりくらいまでしかない。

 見た目はどう贔屓目に見ても幼女以上の少女未満だ。

 この手の商売では何かと不自由ではある。

 

「……何とか、大きくならないもんかねえ」

 

 テファと自分の胸元を見比べて、私は深くため息をついた。

 

 

 

 

 

 日が暮れたチクトンネ街。

 表通りに面した玄関脇にある、小さな看板。

 文字と合わせて、薬瓶の絵柄と、杖に絡まった一匹の蛇が表わされている看板だ。

 長身の男は丁寧に看板を裏返し、手をはたきながら玄関のドアを閉めた。

 

 看板の文字にはこう書いてあった。

 

 

 

 『トリスタニア診療院』

 

 



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その2

 自分が転生したことは早々に自覚した。

 

 これでもネットのSSなどを読んでいたので免疫はできていたが、それでも我がこととなると結構驚いたものだった。

 

 生まれたところはアルビオン。

 名前はヴィクトリア。

 親父殿はかの有名なプリンス・オブ・モード。私はその嫡女に当たる。

 つまり正妻の子だ。

 ヴィクトリア・テューダー・オブ・モードというのがフルネーム。

 

 正妻と言っても政略結婚だった父母は仲が悪く、父とはほとんど会話らしい会話もしたことがない。

 それでも何度か私の顔を見に来たことはあるが、虫を見るような目で私を見ていたのが印象深い。

 その分母は母で燕狩りに血道をあげ、充実した日々を送っていたのだからお互い様だろう。

 良く言えば余計な面倒がない分だけは気楽な、正直に言えばあまりに空虚な幼年期を過ごし、思ったより早く4歳で魔法を使えるようになった。

 多くのSSで述べられているように、現代の物理を知っていると魔法への応用が有効であるらしい。

 風の国ではあるが、私の属性は水だった。

 初めて使う魔法はなかなか面白く、10歳になるくらいの時にはラインに手が届いた。

 

 しかしながら、私が発育不良に悩んでいる15歳の時に事件は起こった。

 おとんが愛人のエルフを匿ったアルビオンを揺るがした政治的スキャンダルという奴だ。

 私自身何とかしようと思ったが子供の身で何ができるという話であり、時局に翻弄されるままに家の取りつぶしが濃厚になった。

 後日、おとんはあえなく処刑。涙はかけらも出なかった。

 正直、悲しいとも何とも思わなかった。

 私はといえば、雲行きが怪しくなった時点で一方的に離婚を突きつけたおかんと一緒におかんの生家であるアルビオンの北の辺境にある侯爵家に身を寄せた。

 

 その侯爵がまた問題だった。

 

 モット伯というスケベ野郎のことは皆さんも御存じと思うが、この家の侯爵、そのモット以上の変態で、真性のペドフィリアだったのだ。

 

 私は外見がもろに彼の好みに合ったらしく、ある夜寝室に召しだされた。

 いきなり大の男に組み敷かれては幼女の筋力では如何ともしがたい。

 そんな私を救ったのが彼が飾りと思っていた私の小さな杖だった。

 既にブレイドの魔法が使えた私は組み敷かれながらもルーンを唱え、感情のままに容赦なく侯爵に斬りかかった。

 その時の悲鳴の甘美だったこと。

 男性自身を斬り飛ばされてのたうち回る侯爵を置き去りに、私はおかんのところに走った。

 そのままおかんを連れて出奔するつもりだったのだが、寝室に逃げ込んできた私に向かっておかんは 傲然と非難の言葉をぶつけた。

 

 その時、私は初めておかんがおかんの兄にあたる侯爵に私を売ったのだと理解した。

 

 そうなるともはやこの屋敷は四面楚歌。

 慌てて杖を構えるおかんに、私は感情のままにウォーターハンマーをぶつけた。

 殺す気だったと思う。

 私の成長が止まってしまったのは、その時の精神的なショックのせいかもしれない。

 同時に、この時を持って私はトライアングルになった。

 

 壁に叩きつけられてぐったりしているおかんの生死も確認せずに枕元にあったおかんの秘蔵の宝石箱を鷲掴みにし、次いで自室に戻って鞄に詰められるものをすべて詰めて窓から夜の闇に飛び込んだ。

 自由への遁走は紆余曲折はあったが、こちらを子供と舐めた大人の裏をかくことはさして難しくなかった。

 宿屋には手配が回ったようだが、誰もやんごとなき身分の小娘が襤褸を着て浮浪児になっているとは思わなかったらしい。

 そんな逃亡生活の中、酒場で細かい用事をすることで日銭を稼いでいたら、酔漢からサウスゴータにテファとその母がかくまわれており、それを狩り立てる部隊が派遣される話を聞いた。

 

 その言葉を聞き、心の中に小波が立った。

 この重要なイベントを忘れていたのは、まさに痛恨の極みだ。

 父の愛妾シャジャルと娘のティファニアを襲った悲劇は、あの作品の中でも数少ない悲しい出来事の最たるものだったと思う。そして、テファの悲劇は連鎖的にマチルダ・オブ・サウスゴータをも巻き込んでいくはずだ。

 今からでもいい、助けられるものなら助けたいと言うのが私の偽らざる気持ちだった。

 ティファニアのような少女には幸せになって欲しいと原作を読みながら思っていたくらいだ。

 しかし、兵隊相手にトライアングルとはいえ小娘の私が正面から殴りこんで何ができるか。

 私は思い立った。

 

 

 ここは使い魔だ。

 

 

 何が出てくるかは判らないが、運が良ければティファニア親子を助けられる力を手にできるかもしれない。

 願わくばドラゴンないしは幻獣、犬猫の類だった場合はティファニアたちの命運はここまでということだ。

 意を決して私は召喚を行った。

 

 結果から言えば私は望外の使い魔を呼びだせた。

 

 その力を借りて一気にサウスゴータ領主の屋敷に乗り込んだが、一歩遅かったことを悟る。

 その部屋で行われていたことは今思い出しても吐き気が込み上げてくる。

 屍姦の真っ最中だった男たちは入ってきた私に驚き、次に笑みを浮かべた。

 

「これはこれは、大公の御息女ではありませんか。このようなところに何の御用ですか?」

 

「貴様ら、これが栄光あるアルビオン騎士の所業か。恥を知れ」

 

「何を言うのかと思ったら。いっそ殿下も混ざりませんか。背教者の娘にして親殺しの咎人とくれば処刑は免れんでしょう。とは申せ、生娘のままというのも不憫、私たちでおもてなし致しましょう」

 

「あ~、そうか、わかった。要するにあれだ」

 

 怒りが質量を増し、増しすぎて自重で自らを押しつぶして黒い塊となって心の中に転がった。

 なるほど、これが憎悪か。

 自分の瞳から光が消えて行くのが判った。

 

「殺していいんだな、お前ら」

 

 

 下郎どもを皆殺しにし、隠れていたテファを救い出したところに血相を変えたマチルダが駆け込んできた。

 一瞬杖を向け合うが、すぐにお互いの正体を理解して杖を収めた。

 仔細を話し、アルビオンを脱出するために手を取り合った。

 テファの母は私が水魔法で清め、マチルダが着衣を整えて化粧を施してベッドに寝かせ、屋敷に火を放って荼毘に付した。

 

 

 マチルダが手綱を取る馬車で、私たちはダータルネスを目指した。

 道中にかかった追手は私の使い魔が退けた。

 人を、何人も殺した。

 殺されて当然の畜生も多かったが、中には忠義溢れる若者もいた。

 どれも私の罪だ。

 いいだろう、その血まみれの手で生きて行ってやる。

 私たちは貨客船に荷物にまぎれて乗り込み、アルビオンを脱出した。

 それなりの金を払うと船長はにやけてうなずいてくれた。

 金の力は偉大だと思った。

 

 たどり着いたトリステインで、私は小さな診療所を始めた。

 道中考えていたことだ。

 水魔法の治癒はそれだけで充分効果があるし、前世の知識には医学のそれがあったので治療師として それなりの治療を施すことは可能だろうと判断したためだった。

 どこかの貴族を頼ることはできない。市井に紛れざるを得ないとなるとそこで生きて行く基盤が必要だ。

 マチルダは土の系統、テファは魔法が使えない。

 そこでテファには診療所の助手をお願いし、マチルダには得意の土魔法で工房を開いてもらうことにした。

 スタッフとしては私の使い魔を付けた。

 ブルドンネ街に店舗を借りて、私の知識にあるものを商品化してもらう。

 ささやかなチート。

 それが鉛筆だった。

 製法は昔のテレビで見て知っていた。ありがとう、モグタン。

 製品として耐えるものができるまで1ヶ月かかった。

 これを商工会の販売ルートに乗せてもらう。

 直販をするほどの企業体力がないのでここは既存の販売網に乗ったほうが得策だったからだ。

 屋号は昔のゲームから取って『マチルダのアトリエ』とした。当人は赤面して嫌がったが、私とテファが賛成したので多数決が成立した。

 実際、マチルダも内心はまんざらでもないようだったが。

 

 

 私のほうも何とか体裁を整え、平民の病気や怪我を見る診療所として役人に届け出を出した。

 町内会や商工会には概ね歓迎された。

 メイジが診療所を開くこと自体が異例なことだからだ。

 この時代、民間医療は無きに等しく、治すとなると法外な値段で水メイジに依頼しなければならない。

 一般市民の平民には手が出ない治療も少なくなくたいていは効くか怪しい薬を薬師から買うくらい。

 このニッチにもぐり込む。

 私たち4人くらい食べて行く程度ならさして金はかからない。

 手持ちの資産は非常時のために取っておくとして、大店の商人からはたんまりいただくが、今日の糧にも困る貧民には無償で治療を施す体制で商売をした。

 私の場合は前世の知識があるので少なくない部分で魔法一辺倒ではない治療が可能だ。

 水の秘薬を高額で売りつける訳ではないお手ごろ価格の治療法が安心を呼んだのか、程なく違和感なく街の一部に溶け込むことができた。

 

 

 

 私としてはここが『ゼロの使い魔』の世界であるという認識はあるものの、幸い貴族としての立場は既にない。

 原作キャラに交じってスリルと冒険の日々を送る可能性はないと思っていいだろう。

 英雄のような武勇伝は必要ない。賢者の英知も私には無用だ。

 

 

 こんな言葉がある。

 

『 光と闇、秩序と混沌、そして剣と魔法の入り交じる世界があった。伝説的な英雄と世紀末的な怪物が激しくぶつかり合う世界今まさに、世界の攻防は彼ら、選ばれた者たちの手に委ねられようとしていた。

 だが、そんな英雄物語は彼らに任せておけばよいのだ。

 世界の大半の人間には、英雄も怪物も関係ない。自分たちにできることをやり、今日を平和に生きることができれば、皆それで満足なのだから』

 

 

 

 名言だと思う。

 市井の一市民としては、ただ日々の糧を得ながら生きていければそれで十分なのだから。

 まあ、よほどのことがなければ原作組の珍道中に巻き込まれることもないとは思うが。

 

 

 

 私がトリスタニアに来たばかりの頃は、そんなことを考えていた。



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その3

「いや、いや、いやよ~~~!」

 

 朝一番の空気を震わせ、野太い声が診察室に響く。

 

「パパ!我がまま言ってるんじゃないわよ!診てもらわなかったら家の敷居またがせないんだからね!!」

 

 娘のジェシカに叱られて、ごついオカマの店長さんはハンカチを噛みながら渋々と腰を下ろした。

 

「あ~、気持ちは判るけどね、スカロンさんや」

 

 私は問診票を見直してスカロン氏に視線を戻す。

 

「これは悪くなりこそすれ、自然治癒はしない病気だよ。切るなりなんなり処置する他ないんだよ」

 

「だ、だからって・・・そんなの私耐えられないわよ!」

 

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」

 

 こういう時は女の方が強い。

 

「とにかく先生、スパッとやっちゃってください」

 

 スパっという単語に過剰に反応するスカロン氏。

 

「い、いや、スッパリやるかどうかは患部を見てからだよ」

 

 やたら気風がいいジェシカには私も思わずたじろいだ。スカロン氏に向き直ると、彼もまた露骨に怯えた仕草をする。

 

「さて、じゃあ諦めて診察台にお乗り」

 

「う、うう……」

 

 スカロン氏は売られていく子牛のように診察台に向かう。

 

「女の情けだ、娘さんは待合室にいな。後は任せておくれな」

 

 

 

 

*******************************************************

 

 

 

 待合室に出たジェシカに、ティファニアが他の患者の検温のついでに心配そうに寄ってくる。

 

「どうでした?」

 

「もう、覚悟決めてきたはずなのに土壇場で怖気づいちゃって」

 

「はあ……まあ、お気持ちはわかりますが……」

 

 そんな会話をしていると、診察室からまたも大声が聞こえる。

 

 

『やっぱりダメよ、無理よ、お願い、許して!』

 

『うるさい人だね、いいからそこで胡坐をかきな』

 

『胡坐?』

 

『はい、じゃそのまま後ろにごろんと転がりな』

 

『い、いや~~~!女房にも見せたことなかったのに~~!』

 

 

「まったく、半年も黙ってるんだから。今朝トイレを見てぞっとしたわ」

 

「ほっといても治りませんからねえ」

 

「困ったものよ。どうも椅子に座るときに変だと思ったのよ」

 

「仕方がないですよ、痔じゃ」

 

 

 

*******************************************************

 

 

 

 午前中の診察が終わり、ようやく一息となった。

 初っ端に濃い患者だっただけに気苦労が多いスタートだった。

 正直、アレを見ようがナニを見ようが、医者と言う視点で見ると毛ほども変な気持にならないのは結構不思議だ。我ながら、プロの仕事をしていると思う。

 自分の前世のことはあまりよく思い出せないが、医者をしていたことは体が教えてくれる。

 実際、この商売を始めて思ったことは、水の魔法は非常に便利だと言うことだ。

 ウォータージェットや凍結療法、最近では血流の流れを感じることで患部の様子を把握することもできるようになった。

 人間が水でできていると言うのが非常によく解るという点で、水メイジが治療士になるというのが納得できる。

 

 

 昼食を食べた後、私はしばらく仮眠をとることにした。

 幸いにも今日は往診はない。夕方まで眠り、夕食のタイミングで起きる。

 マチルダとディーがやってくると同時に夕食になった。

 テファの料理の腕が、最近ますますあがっているような気がする。

 

 夕食が終わり、今日の後片付けは私とディーの担当だった。

 

 洗い物をしていると、ディーが静かにささやいた。

 

「主、今日は会合でしたね」

 

 ディーの言葉に私は頷いた。

 

「いつもどおりさ。明日は休診日だし、ゆっくり話をしてくるさ。お前さんもいつもどおりの巡回を頼むよ」

 

「御意にございます」

 

 

 

 

 

 夜、歩く。

 寝静まったトリスタニアの街並みは、どこか墓所を思わせる。

 夜の私の正装は白衣ではなく、黒いフードつきのマント。官憲が見たら職質されそうな風体なのは確かだ。

 向かった先は街の商工会議所だが、正面玄関ではなく、裏口の小さな木戸から中に入る。

 地下に続く長い階段を下りると、昔酒蔵だったのではないかと思われる部屋を改造した会議室があった。

 

「私が最後かい。遅くなってすまないね」

 

 テーブルについていた3人の男に私は挨拶をした。

 

「構わんよ、我らが早かったのだよ、『診療院』の」

 

 痩せぎすの老人が口を開いた。

 

「そう言ってもらえると助かるよ、『薬屋』の」

 

 私は席に座った。

 黒服の男が影のように現れて、私の前に他の3名と同様に茶を置いた。

 正面に老人、右には固太りの中年の親父、左には見知った筋肉が座っていた。

 

「では、はじめようか。まずは君からだ、『武器屋』の」

 

 老人が口を開き、私の右側の中年のおじさんが口を開く。

 

「取り立てて大きな動きはねえな。アルビオンがきな臭いってことで武器は値上がり傾向だが、傭兵の移動は平年並みだ。今すぐがらっぱちなのが押し寄せてきてどうこうということはないな」

 

「問題なし、ということかな」

 

「まあ、落ち着いていると言えるだろうな」

 

「それは結構。次は君だ、『診療院』の」

 

 ご指名を受けて私は説明をする。

 

「今週は取り立てて事件はないね。先週はこそ泥が2匹も釣れたが、今週は静かなもんだ。どこぞに屯して悪巧み、ってのも私の耳には聞こえちゃこないね」

 

「平穏で結構」

 

「その代わり、本職のほうじゃ気になる患者がいたよ。恐らく阿片だね、ありゃ。あんたの管轄だよ、『薬屋』の」

 

「それについてはうちでも今調査中だよ、『診療院』の」

 

 こんな感じで進む夜の会議。早い話がここに集まった4人は街の顔役で、大抵の情報はこの4人の誰かの耳に入るようになっている。

 

人呼んで『夜の町内会』。

 

 交換された情報は、自然な形でそれぞれが所属するコミュニティに還元されていく。

 会の起源はトリステインの建国直後まで遡ることができるそうで、稀に国政にも影響を与えかねない情報が交換されるため、こうして密会の形をとっているらしい。

 

 私がここに招かれたのは開業して半年後のことだった。

 肺の具合がどうとか言って診療院を訪れたのが正面に座る老人。通称『薬屋』。

 その彼からスカウトを受けた。

 この会の世話人で、名をピエモンと言うが、この会合では通称で呼び合う慣わしだ。

 

 武器の価格や傭兵の動きから世情を見る『武器屋』、麻薬や魔法薬など、街の根っこを腐らせそうな危険物についてその流通を取り仕切る『薬屋』、怪我人や病人の動向を中心に街の状態を把握し、かつ強力な手駒で犯罪者や犯罪組織に睨みを利かせる『診療院』、そして、総合的に街の情報をかき集めるのが・・・。

 

「では、最後に君だ、『魅惑屋』の」

 

 指名された男は体をくねくねさせながら説明に入る。偽名使う意味もないな、こいつには。

だが、穏やかな報告になると思った彼の口から飛び出したのは、少々剣呑なものだった。

 

「ちょっと気になる噂が飛んでたわ」

 

 その言葉に、全員の顔つきが変わる。

 酒場を中心とした情報収集を専門とする彼のネットワークは、主に街の外の情報に明るい。

 

「流れ者の商人の話だけど、夜毎女性を拐かして行く奇妙な誘拐事件が続いているみたいね」

 

 誘拐事件。

 一口に誘拐といっても営利誘拐から人身売買までいろいろな種類があるからなんとも言えない。

 

「ああ、そいつは俺の耳に入ったな」

 

 思い出したように『武器屋』が口を開いた。

 

「何でも、本当に居なくなっちまったり、翌朝になってパサパサの干物になって見つかるか、っていうあれだろ?」

 

「そうよ」

 

 パサパサの干物。

 その一言だけで、私たちの緊張はさらに深刻なレベルに突入する。

 夜盗の類なら珍しい話ではないが、どう考えても真っ当な者の仕業ではないだろう。

 トチ狂った魔法使いか、はたまた人外、それも夜族・魔族の類の仕業か。

 

「やっかいな話だな」

 

 その『薬屋』の言葉は、私たち皆の意見でもあった。

 本来ならば王城の警邏担当の仕事になるようなきな臭い仕事だ。

 だが、それですませないのが私たち町内会の基本方針でもある。

 王都の平和は、己の手で維持する。

 そんな自治の空気が生み出したものが、この町内会だ。

 私は一つ息を吐いて皆に告げた。

 

「とりあえず、私の担当かね」

 

「大丈夫かね。最悪の場合、相手はかなりの難物と思うが?」

 

 『薬屋』の不安に、私は不敵な笑みを持って答えた。

 

「だからこそだよ」

 



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その4

 釣りと言う遊びがある。ネットスラングのそれではなく、海や川や湖でやるあれだ。

 釣りには仕掛けだなんだでバリエーションはいろいろあるが、実際にはやっていることは結構シンプルで、しなやかで強い素材でできた竿の先端に細い糸を付け、その糸の端っこに鉤状の針を付けてそこに何がしか魚が好みそうな餌を付け、水中に垂らして魚が寄ってくるのを待ち、餌に魚が食いついたのを見計らって釣上げるということでは基本的にどれも同じだ。一種の手動式のトラップという見方もできるだろう。

 前世の記憶では非常にポピュラーな娯楽であり、釣り番組なんてものもあるくらい愛好家が多かったように思う。中には、そのために生態系も考えずに生きのいい獰猛な外来魚を湖沼にばんばん放流する不届き者もいたようだ。

 反面、その釣りについては、魚諸君にしてみれば迷惑極まる娯楽であることは間違いあるまい。

 お腹を空かせているところに目の前の餌に噛みついたら、いきなりブスリと来るのだ。これをペテンと言わずして何と言おう。そう言えば、釣り番組ではしばしば『魚と釣り人の真剣勝負』とか言っていたと思うが、魚にしてみれば釣られた時はそれこそ命にかかわることなのだから、釣り人の方も釣れなかったら腹を切るくらいのことをしないと真剣勝負ではないと私は思う。

 トリスタニアには川が多く、そのため釣りは結構愛好家が多い。マチルダの工房にもたまに竿を作ってくれと頼みに来る人もいるようだが、木材を使う竿の加工は少々難しいと言っていたっけ。

 ともあれ、鷹狩りという娯楽にはまって破産しかけた貴族の話を聞いたこともあるし、アルビオンではキツネ狩りなんていうものが貴族の嗜みとされていた。古今東西どころか世界が違ってもなお、この手の捕獲系の娯楽というのは、面白いと思う人には何物も代えがたい魅力あるものなのだろう。

 私が今やっていることも、言ってしまえばその釣りに近いのかもしれない。

 

 

 

 その夜のこと。双月がトリスタニアの夜を照らす時間。私はサン・レミ大聖堂の鐘楼の上で夜の街を見下ろしていた。

 前世の記憶にある光に溢れた夜景と違い、月明かりのやわらかい光に照らし出された夜の街は自己主張が慎ましやかであり、その分どこか優しい空気が満ちていた。

 主要な通りには魔法のランプが灯されているが、その光すらも、どこか月の光に遠慮しているような温かみを感じる。

 

「う~、さすがにちょっと冷えるねえ」

 

 大鐘を背後に、開口部の縁に座って私はただ静かに時を待つ。

 私には釣りをやる趣味はない。釣り人は短気なほうが上達すると言うが、本質的にじっとしていることが苦手な部類の私には、どうにも性に合わない気がするし。

 でも、この夜釣りだけはやらねばならない私の仕事だ。

 

 結構冷えてきたので、脇においてあるカバンから金属製のボトルを取り出した。

 蓋を回して開けて、中ぶたも外すと、夕方に淹れたハーブティーがまだ温かく、中から湯気と芳醇なハーブの香りが漂って来る。

 これこそは、マチルダの工房の新製品である魔法瓶の試作品だ。

 元の世界のそれに比べると簡単な作りだが、それでも原理に関する私の簡単な説明を形にしてしまうあたりはマチルダもすごい。

 ひょっとしたらコルベール先生と張り合えるような技術者になれるかも知れない。

 それにしても、どうやって真空を引いたのかなあ、これ。魔法でもそんなこと難しいと思うんだが。

 

 そんなことを考えながら、カップも兼ねた外蓋に茶を注ぎ、私の隣で不動の姿勢で立つ男に差し出した。黒いズボンにベスト、若草色のタイを締めた長身の美丈夫だ。クセのある髪を撫で付け、その涼し気な目元は女性の視線を引きつけて離さないけしからん奴でもある。

 

「一杯どうだね?」

 

 カップを見るや、慌てた様子で応じる。

 

「滅相もない。まずは主から先にどうぞ」

 

 こういういらない遠慮をするところがこいつの悪い癖だ。

 

「では告げる。我が従僕よ、主命である。我が茶を受けるのだ」

 

「……いたしかたありません」

 

 やたら恐縮してカップを受け取る。

 家の家族連中はディーと呼んでるこの男との対話には、どうしても堅苦しいやりとりがついてまわる。こんな些細なことでもいつも遠慮と強制のやり取りが入るあたり、私と主従の関係になって数年経つのにこの男は変わらない。

 中蓋に自分の分を注ぎ、一口飲む。

 う~む、美味い。

 

 その途端、背後の鐘から鈍い音が響いた。

 咄嗟にカップを置いて両耳を塞ぐ。

 塞いだ瞬間に、深夜零時の鐘が鳴った。

 ぐわ~、うるさい!

 内臓に響くよ、内臓に。

 至近距離でこんなでかい鐘の音の直撃を受けているのだからうるさいのは仕方がない。こんなところにいる方が悪いのだ。

 だが、そんな状況でも、ディーの表情はいささかも緩まない。たまに茶を口に運びながらも、視線は闇の中を探るように街の夜景に注がれたままだ。

 

 

 事態が動いたのは、鐘が鳴り止んで3分もした時だった。

 

「我が主よ」

 

 ディーの精悍な顔に、ただならぬ気配が篭った。その様子に、私も手にしていたカップを置いた。

 フィッシュオンのようだ。

 人外の視力と聴力を持つこの男を聖堂の鐘楼に据えれば、およそこの街のことで把握できないことはない。

 

「来たかい?」

 

「はい。屋敷町の方向です」

 

 彼が指さす先を見つめ、私は杖を手に取った。

 

「征こうか」

 

「御意」

 

 それだけのやりとりをして、私は躊躇なく街の夜景に向かって跳んだ。それに続くように、ディーも地を蹴る。

 自由落下は万物の宿命だ。耳の脇を轟音を立てて過ぎてゆく風を感じながら、私はルーンを紡ぐ。

 地に触れる手前で、その宿命に抗うように私の落下方向は真下から真横にそのベクトルを変ずる。

 フライ。

 風魔法の一種であるそれは、メイジとそれ以外を隔てる判りやすいもののひとつだ。

 屋根を掠めるように一気にディーが指し示した屋敷町を目指して飛ぶ。

 月夜の空の散歩は、まるでアニメのピーターパンのようではあるが、私の行き先は残念ながらネバーランドではなく、血の雨が降るであろう変わったお天気の世界だ。

 煙突をかわしながら飛ぶ私の先を、ディーが漫画の忍者のようなすごい速さの疾走で先行していく。

 

 そんな彼に導かれるようにして到着したのは、王都の中でも平民が暮らすエリアだ。

 羽振りがいい商人が大きな家を構える一角で、一般的な平民と貴族の間にいるような裕福な連中が住んでいる。

 その邸宅は、そんな町の中でもひときわ大きくそびえていた。

 

「こっちは私が見るから、反対側よろしく」

 

「お気を付けて」

 

 邸宅を挟むように布陣して、賊を逃がさないように網を張る。

 待ち時間は1分もなかった。

 2階の窓から、黒い人影が、白いものを肩に担いで軽々と地に降り立った。そのまま人間離れした速さで私の方に走ってくるのが見える。

 攻めるは不意打ち、守るは待ち伏せ。武人ではない私の辞書に正々堂々の文字はない。

 防火用に水を張った樽があったので陰に身を潜め、私はルーンを唱えた。

 ウォーターウィップ。通称水の鞭と言われる魔法だ。非殺傷系とは言われているけど、皮の鞭より痛いと思うし、下手したらもちろん死ぬだろう。

 だが、黒い人影は私に気づいた風もなく走り抜けようとした。 

 多くの人がそうであるように、私もまた無視されるのが嫌いだ。

 風切り音を立てながら、黒い人影に鞭が飛ぶ。

 その段になってようやく私の存在に気づいたようだが、その時には鞭は黒い人影の足を刈り取っていた。

 見事に転ぶ黒装束。白いお荷物と一緒に往来を転がった。転がる白いお荷物を見ると、それは妙齢の女の子だった。これで一連の誘拐騒動の下手人は確定したと言っていいだろう。

 続くルーンを唱える私に向かって、素早い動きで立ち上がった黒装束が憤怒に満ちた目を向けてきた。

 見た目は20歳くらいの恐ろしく端正な顔立ちに、燃えるような赤い瞳。

 身に付けているものは瀟洒な作りの礼装。

 そして、白い肌と見事なまでなコントラストをなす赤い唇の端に微かに見える犬歯。

 絵に描いたようなミディエンズ。

 紛れもなく吸血鬼の青年だった。

 

「邪魔をするな」

 

 赤い瞳を爛爛と輝かせて圧力をかけてくるが、こっちも遊びでやっている訳じゃない。

 相手が吸血鬼ということは読み筋だっただけに、こっちもそれなりに用意をしてある。

 紡ぐルーンはジャベリン。

 だが、敵もさすがはミディエンズ。

 私がぶつけた氷の槍が、吸血鬼のお兄ちゃんにぶつかる寸前に見えない壁に跳ね返されるように私に向かって飛んできた。

 反射の先住魔法か。

 咄嗟に魔力の循環を切って槍を四散させる。

 その隙を付いて、吸血鬼が一気に私に向かって間合いを詰めてきた。とんでもない速さだ。

 どんな魔法なのか、その手の爪がまるで5本の剣のように伸びて月の光を反射していた。切れ味はさぞすごいだろう。

 だが、その爪が私に届く数メートル手前で、お兄ちゃんは横あいから跳んできた闖入者の飛び蹴りを食らって漫画のように吹っ飛んだ。痛いぞ~、あれ。

 

「ご無事ですか?」

 

 私を庇うように立ち塞がる美丈夫。やっぱり頼りになるなあ、こいつ。

 空手の彼の両の手に魔力を帯びたエーテルが渦巻き、二振りのポールウェポンを形作る。

 赤い長槍、そして黄色い短槍。

 まるでそこにあることが自然なような雰囲気で、それらの得物はディーの両手に収まっていた。

 その涼しくも鋭い視線の先で、吸血鬼のお兄ちゃんが怒りに燃える視線を私たちに向けていた。

 

「おのれ、貴様ら何者だ」

 

「それはこっちの台詞だ、外道」

 

 これまでどれほどの犠牲者を出たかを思うと、偉そうな口調が尚更癇に障る。

 だが、癇に障っているのは向こうも同様のようだ。

 呪いのように迫力のこもった言葉を吐き捨てた。

 

「邪魔だてするなら……殺す」

 

「できるものなら、やってみるがいい」

 

 交わした言葉は、それだけだった。

 もはや言葉は要らぬとばかりに黒い疾風が飛んでくるが、それをディーが正面から受け止める。

 その速さたるや流石は人外と言ったところだが、規格はずれという意味ではこの男はさらに上を行く。

 相手の爪をその槍で受け、つばぜり合いに入る両名。吸血鬼というのはとんでもなく力持ちなのだそうだが、その圧力を受けてもディーの表情は涼し気なままだ。

 相手の両手の爪を二本の槍で受け止めたまま、空いている足で強烈なミドルキックを放つ。

 爆発のような音を立てて、吸血鬼が真横にすっ飛んだ。下手な砲弾より破壊力がありそうだ。

 

「お、おのれ」

 

 壁に叩きつけられてもなお、吸血鬼のお兄ちゃんはやる気に溢れていた。脇腹の辺りから白い煙が上がっているのは、恐らく急速な治癒が進んでいるからだろう。回復系の魔法だろうが、私の知らない魔法体系のものと思われる。

 

「殺してやる。殺してやるぞ、お前ら」

 

 何だかやたら小物っぽい言葉が哀れだが、ここで容赦はできない。

 灰は灰に、塵は塵に。

 トマトジュースで我慢しているならとやかく言うことはないが、人に害をなしてしまったからには、私たちが取れる選択肢はひとつしかないのだ。

 

「問答は無用。その者に誅を下せ」

 

 私の命を受け、ディーの両手の槍が怪鳥のような広がる。彼独特の、我流にして不敗の構え。

 鋭い視線で吸血鬼を見据えたまま、彼は言った。

 

「トリスタニア診療院 院長、ドクトレス・ヴィクトリアが臣、ディルムッド・オディナ。お相手仕る」

 

 

 

 

 ディルムッド・オディナ。

 私が初めて彼に触れたのは、戯れに読んだ小説だった。Fate/Zeroという、魔術師たちの闇の戦いを描いた傑作だ。そんな劇中で、英霊の座から招かれし気高き槍兵が彼だった。無能な主に召喚された悲運の英霊。しかし、そのようなよしなし事は、目の前で彼が発していた高貴なオーラの前では些細なことだ。本物の迫力は、やはり活字からは想像できないものなのだ。

 正直、一か八かで使い魔召喚をやった時にこいつが出てきた時は、我ながら慌てたものだった。

 英霊と言うのは聖杯の力を借りて初めて呼び出せる高位存在だったはずだ。それが何でまたこの世界の召喚術式に応じて出て来てくれたのやら。そもそも、使い魔召喚と言うのはこの世界の生き物を呼ぶのが普通だったはずだ。どこで何が混線したのか、我ながら冷静になるのには苦労が要った。

 

「この身を呼び出したのは、貴殿でよろしいか?」

 

 実に良い声で槍兵が口を開いた。まるで緑川光のような艶のある声だ。

 そんな彼と相対した時、さすがに私も緊張していた。自害後のディルムッドは怨霊と化していたので、下手したら魔法を使う奴を片端から殺して回るんじゃないかと思ったからだ。

 それだけに、とっさに随分慇懃な態度に出ざるを得なかった。

 

「斯様な矮小な身の召喚に対し、貴方のような高位存在に応じていただき、感謝の念に堪えません。貴方が己の分には過ぎた使い魔ということは重々承知。されど、願わくば、少しの間だけ私に力を貸していただけないでしょうか」

 

「困っている、ということか?」

 

「さる親子に危機が迫っております。彼女らを救いたいと思っております」

 

「……それは貴殿に縁ある者か?」

 

「本来であれば私が助ける筋合いはないかも知れません。しかし、座して静観はできません」

 

「ならば、何故貴殿は起たれるのか?」

 

 理由は簡単だ。無辜な親子が、エルフの血と言う下らぬ理由で悲劇に見舞われることに正当な理由が見い出せないからだ。

 私は言った。

 

「義のために」

 

 記憶の中のディルムッド・オディナという人物は気高い英霊だった。ならば、嘘偽りなく召喚の動機を口にすることが一番だと思われた。

 その言葉に、彼が何を感じたのかは判らない。だが、その言葉を受け、英霊は私の前に片膝をついて槍を掲げた。

 

「思いの丈、承りました。今日この時より、我が槍は御身のためにあり。ここに我が忠義を捧げ、その道を切り開く刃となることを誓いましょう」

 

「……良いのですか」

 

 さすがに私は念を押した。記憶によれば、彼にとって主従は絶対。私のようなしょうもない小娘であっても礼を尽くしてくれるであろう事は予想はついた。だが、それを差し引いても彼の忠義は私には身に余るほどのものだ。それはあたかも一介の雑兵が、突如国と城をもらったくらいの衝撃だった。しかし、この時から我が臣となった男は視線をあげて凛とした声で言ってくれた。

 

「この身でお役に立てるのなら」

 

 コントラクト・サーヴァントについては、思い出すとさすがに私でも顔が熱くなる。

 実は、サーヴァントの中で私はこのディルムッドが一番好きだった。愚直なまでの忠義に呪いのように取りつかれてはいるものの、恐らく二心なきことについては第5次のバーサーカー並みではないだろうか。

 ただ、主のための槍であることを誇りに、その忠義の道を全うすることのみを望む精兵。まさに漢だ。

 

 そんな彼に御姫様抱っこの恰好で運ばれ、一気にサウスゴータの屋敷に乗り込んで、私は惨状を目にした。

 目の前に広がるのは、間違いなく女の地獄だった。

 殺意に身を委ねようとした時、ディルムッドが私を制して前に出た。

 

「ここは、私が」

 

 硬い表情を浮かべる彼。騎士道を重んじる彼にとって、目の前の状況は許しがいものなのだろう。ここに、私と彼の意思は完全に合致していた。

 必要なのは、誅伐の二文字。

 杖を手に下卑た笑いを浮かべる騎士たち10人とディルムッドが対峙した。ただの平民と思った騎士たちを哀れと思った。魔法を使う者にとって天敵となる武具がこの世にはある。

 有名なところでは魔剣デルフリンガーであるが、今この瞬間この場に立つディルムッドこそは、恐らく真の意味で魔法使いの天敵であろう。

 いたぶる様に飛来したファイアボールやエアハンマーが、その紅い槍に一掃されて消滅する。

 

 破魔の紅薔薇。

 

 これを手に、人外の運動能力を持つディルムッドの前に10人程度の騎士など路傍の石と変わりはない。

 信じがたい光景を見た騎士たちの表情が恐怖に歪んだ。

 静かな声で、私は告げた。

 

「容赦は無用。楽には殺すな。これは天誅である」

 

「御意」

 

 勝負は10秒もかからなかった。

 両手を飛ばされ、腹を裂かれた騎士たちが、己が作った血の海の中で悲鳴を上げている。

 

「た、助けてくれ」

 

 外道たちが上げるその哀れな声は、今の私にとっては耳に心地よい調べでしかない。

 抵抗の意思を全く示さぬ女を嬉々として害した報いを、こいつらは骨の髄まで味わうべきなのだ。助命を乞う声が、やがてひと思いに楽にして欲しいという懇願に変わるのを聞きながら私は告げた。

 

「無抵抗な女を蹂躙した報い、その身が地獄に落ちるその時まで心ゆくまで味わうがいい。因果応報の言葉の意味を、噛みしめながら死んでいけ」

 

 サウスゴータを脱出してからも、王軍の手はしつこく私たちを追ってきた。

 それらを尽く撃退できたのは彼のおかげだ。

 戦意を無くした者までは殺しはしなかったが、そのために私の名前は中央に伝わった。

 モード大公家のヴィクトリア謀反。

 アルビオンの国軍に喧嘩を売ったことは私としても大事件ではあったが、どうせもう帰るつもりのない国だ、今更痛くも痒くもない。

 

 そんな出来事以来、私の使い魔として尽くしてくれている無二の忠臣である。

 日ごろはマチルダの工房で力仕事と販売を担当しており、いわくつきの黒子は絆創膏で隠している。無論黒子を隠してもなお魔貌のご利益はすさまじく、営業活動において大いに役立っているのが正直なところだ。

 名前は発音しづらいので最初のうちはダーマッドとかディルとか呼んでいたが、最近はさらに短縮してディーと呼ぶことが多い。

 

 

 

 

 

 初手は、ディルムッドが取った。

 弾けるような踏み込みで間合いを詰め、赤い槍の一撃を見舞う。

 それに対し、吸血鬼は反射の魔法を展開したのだろう。だが、一瞬の燐光を輝かせて、赤い槍は吸血鬼が広げたはずの魔法の盾を紙よりも容易く貫いてその胸板を捕らえた。

 顔が驚愕に歪んでいるが、こればかりは相手が悪い。

 魔力循環を遮断する破魔の紅薔薇の前では、先住魔法も系統魔法も関係はない。どんな防壁を展開したとて丸裸も同然というやつだ。

 傷を受けた部位から回復の白煙を上げながら跳んで下がる敵を、さらに早い動きでディルムッドが追う。振われる爪と槍が夜の闇に幾度か鮮やかな火花を描き出すが、基本的なポテンシャルが違う。数合の打ち合いの後、勝負は槍兵に軍配が挙がった。

 圧倒的な速度差で詰め将棋のように追い詰められ、最後には吸血鬼が乾坤一擲の一撃を振るおうと大きく腕を振り上げたところでディルムッドの左の短槍が紫電の速さで吸血鬼の心臓を貫いていた。

 吸血鬼の最も恐るべき点は、その生命力にある。ちょっとやそっとでは死んでくれない可愛げがない連中だが、彼の槍の前ではそんな心配は要らない。

 一度穿てばその傷が絶対に癒えぬ呪いの槍。必滅の黄薔薇の一撃はたとえ相手が妖魔であっても効果は変わらない。

 目を大きく見開き、しばし痙攣したのちに吸血鬼は絶命した。

 

 

 

 

「終わりました」

 

「ご苦労様」

 

 汗もかかない忠臣に労いの言葉をかけながら道に投げ出された女の子を診ると、認められた傷跡は擦り傷だけ。喉を見ても噛まれた痕跡はない。催眠状態にして塒に持ち帰って、そこでゆっくり味わうつもりだったのだろう。ついてたね、お嬢さん。

 

 件の邸宅に娘さんを届けると、家人が軒並み魔法で眠らされていたことが判った。これじゃ気がつかないのも無理はない。

 一人ずつ覚醒の措置を講じ、事態の説明をして落ち着いてもらう。明るくなったら番屋に届けるよう指示して、とりあえずは御役御免。

 

 翌日、寝不足に見舞われて猫のような大欠伸をしながら仕事をこなすのは結構大変だった。

 

 

 

 



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その5

 一人の老人が夕暮れのトリスタニアの中央広場を歩いていた。

 良い身なりをした老人であった。

 本来であれば供の者を連れていそうな身なりであり、王都トリスタニアとはいえ、やや浮いた格好とも言えた。

 仕立てが良いマントに、オーダーメイドと思しき帽子を被り、手には上品な拵えの杖を持っていた。

 

 老人は貴族であった。

 

 この辺りは不慣れらしく、手元のメモを確認しつつ視線をさまよわせながら噴水の脇を通って歩みを進め、やがて目当ての建物を見つけた。

 そこは、タニアリージュ・ロワイヤル座なる劇場であった。

 老人は建物をしばし眺め、やがて溜息を一つついて切符売り場に向かった。

 

 劇場の中は薄暗かったが、座席や人の姿は判別できなくもない程度の照明が灯されていた。

 夜の部の上演はやや寂しい客入りであるものの、舞台の上では話題の舞台が絶賛上演中であった。

 ステージ上を出し物に視線を向けることなく指定された座席を見ると、前寄りに偏った観客をよそに客席の中ほどに小さな背恰好の少女が見えた。

 老人はその隣の座席に腰を下ろした。

 

「遅かったじゃないか」

 

 前を向いたまま、少女が小声で語りかけて来た。

 手には菓子の袋を抱え、時たまポリポリと口に運んでいる。

 

「……いささか場所が好ましくありませんな。芝居小屋での会合など、およそ真っ当な話し合いには見えませんぞ」

 

 老人は露骨に不機嫌な口調で言うが、少女は笑って取り合わない。

 

「ひそひそ話をするには打ってつけな場所なんだよ。そうでもなければこんな下手な芝居は観に来ないさね」

 

『トリスタニアの休日』という演目であるが、俳優たちの演技はとても売り物になる水準になかった。

 

「身も蓋もないことを言われますな、殿下」

 

「もう殿下は廃業したよ、爺」

 

 思い出した昔を懐かしむように、少女は笑った。

 老人の名はパリーと言う。

 アルビオン王室の重鎮であるが、ちょうどトリステインに王の名代として折衝に来ていたはずの人物であった。

 そして、件の少女ヴィクトリアの知己でもあった。

 

 

「まったく嘆かわしい。世が世なら王宮にその人ありと言われたであろう姫君がこのような街の芝居小屋で芝居を見ながら駄菓子を食べているとは……」

 

 何だか放っておくとその場でおいおい泣き出しそうだったのでヴィクトリアは話題を変えることにした。

 

「それで、改まって話と言うのはなんだね? わざわざトリスタニアに隠れ住んでる私をあぶり出してまでの用事となると、ちょっと洒落にならない感じかい?」

 

 ヴィクトリアの言葉に、パリーの視線が別人のように鋭く変わった。

 それは宮殿の広間にて、王の言葉を代弁するかのような凛とした気配であった。

 

「この度は、陛下からのお言葉をお伝えに参りました」

 

 意外な名前を聞き、菓子を食べかけていたヴィクトリアの手が止まった。

 

「伯父上の?」

 

「はい。殿下の現状について、陛下は大層胸を痛めておいでです」

 

 幼少期、家族の愛情に欠けた生活を送っていたヴィクトリアにとって、係累の大人で唯一愛情を注いでくれたのが伯父に当たるジェームズ1世、すなわち、アルビオン国王その人であった。

 甘やかすとかそうではなく、まっすぐにヴィクトリアの目を見て話をしてくれる人と言うだけであったが、己を政治の道具ではなく一人の人間として接してくれたただ一人の肉親であった伯父がヴィクトリアは好きだった。

 会えるのは年に数度であったが、その度に伯父上伯父上となついて回ったものであった。

 

 遠い目で過去を見つめていたヴィクトリアに、パリーは一通の手紙に渡した。

 封印には、アルビオン王家の紋章が押されている。

 

「……伯父上」

 

 丁寧に封を解き、紙面に綴られた見覚えのある文字を追う。

 そこに綴られた文字に、懐かしい声を重ねる。

 一度読み、二度読んだ。

 三度目にはそこに込められた相手の気持ちを拾うように、時間をかけて丁寧に読んだ。

 手紙に書かれている内容を噛みしめ、感情の高ぶりを抑えながらヴィクトリアは俯いた。

 

 そこには、父を討ったことに対する伯父としての謝罪と、国王としての説明があった。

 

 侯爵家にてヴィクトリアがされた仕打ちと、その反撃についても理解の言葉があった。

 

 貴族から平民に落ちての苦労や生活、そして健康に対する心配があった。

 

 そして、ヴィクトリアが望むのならば、国王の権限をもってヴィクトリアが犯したすべての罪に対して特赦の用意があるので王宮に戻るように、との申し出で手紙は締めくくられていた。

 

 モード公の粛清について、アルビオン国内においては泣いて実弟を誅したことを評価されてはいるジェームズ1世ではあったが、その老王は、今なお所在不明扱いの姪のことについては話題に出すことを避け、半ば禁忌として取り扱っていた。

 実際、かなり早期にヴィクトリアの所在について老王は把握しており、把握すると同時に一つ号令を出していた。

 

『今もって国内において行方が判らぬと言うのであれば、おおかた衆庶に身を落としたのであろう。また、仮に国外に逃亡したのであれば身を寄せた先方の貴族から話が来るであろうが、それも未だない。そうであれば、事後の沙汰ではあるが追放の罪科としては充分。国外にまで手勢を出しての追討は不要である』

 

 国外に逃亡するにあたり、少なからぬ追っ手を退けた姪に対し、正式に国外追放を告げた。

 国外追放は厳しいものではあるが、そうすることでこの老王は、ヴィクトリアに処断の手が伸びぬよう手配していた。

 加えて、親の因果が子に報いるこの時代ではあるが、一方的とはいえモード公の妻は離縁しており、また、その母を殺めたことについては当事者である侯爵からは事故死との報告が上がっていることもあり、そのことを踏まえ、構いなしとした。

 まずは死罪を告げられかねないヴィクトリアの罪状をいったん確定し、その後に特赦の形で何とかしてヴィクトリアを不遇の現状から救いあげようと考えていた。無論、討たれた騎士たちの身内等、それを不満に思う勢力もあるが、老王はそれを捩じ伏せてでも姪を救うために動くつもりであった。

 

 他国の、しかも暗黒街の性格が濃いチクトンネ街とは言え、やがては追手がかかるものと思っていたヴィクトリアではあるが、実際にはアルビオンではそのような微妙な扱いとなっていたことまでは知らなかった。

 

 

「殿下……」

 

 心ここにあらずなヴィクトリアに対し、パリーは静かに声をかけた。

 

「いかがでございましょうか。陛下のためにも、ここは帰郷いただけないでしょうか」

 

 ヴィクトリアはやや間をおいて答えた。

 そこには町医者のヴィクトリアではなく、大公家の公女としてのヴィクトリアがいた。

 

「すまない。このような咎人に過分なお取りはからい、名ばかりとは言え、大公息女として感謝の念にたえぬ」

 

「陛下もお歳です。これが御自身ができる最後の務めとまで言い切っておられました。何卒ご理解いただきたい」

 

「申し出はありがたい。だが、この御厚情はお受けすることはできない」

 

「何ゆえでございましょう」

 

 その問いに対し、ヴィクトリアは神に対する誓いのような思いで答えを口にした。

 

「私にも、失いたくないものができてしまってな」

 

 ヴィクトリアの言いたいことを、パリーはすぐに察した。

 

「……太守の息女と……モード公の御落胤でございますか?」

 

 さすがにハーフエルフという言葉を口にしづらかったのか、パリーは言葉を選んだ。

 

「本来なら気にかける義理も何もないが、もう既にあの者たちとはそれだけのものが通い合ってしまっている。アルビオンがあの者の存在を受け入れてくれるくらい軟化したわけではあるまい? 二人に対して国外追放で仕置きの折り合いが付いているのであれば私も考えようがあるものではあるが」

 

 その言葉には流石にバリーも黙り込んだ。ブリミル教が隆盛の今日、ハルケギニアにハーフエルフの安住の地はない。

 エルフとその縁の存在は、どこまでいっても日陰者であり、宗教上の敵であった。

 仮にここでヴィクトリアが二人と離れた場合、可能性の話としてアルビオン政府が二人に牙を剝くとも限らない。

 ヴィクトリアと共にあるからこそ、マチルダとティファニアは安全でいられるとも言えた。

 

「心が揺れる前に答えをお返ししよう。私はあの者たちと共にあるを何よりの喜びとするのだ。追手を差し向けない御厚情だけでも涙が出るほどありがたいことである。私たちにとって、このまま静かに人々の中に埋もれて消えて行くことが何よりの望みだ。王家の血筋と言うことで王家に迷惑をかけるつもりは毛頭ない。どうか、私のことはお気になさらぬよう陛下にはお伝えしてくれ。不出来な姪ですみませぬ、幾久しく御健勝であらせられること、遠い地より祈念しておりますと、な」

 

 視線を交わし、パリーはヴィクトリアの力強い瞳に決意の強さを読み取った。

 彼もまた、ヴィクトリアを大切に思う者の一人ではあったが、ヴィクトリア自身の心を捨て置いて事を強いるつもりはなかった。

 

「……判りました。私と致しましても、今一度殿下のお守ができぬのは寂しいことではございますが」

 

 柔らかいパリーの物言いに、ヴィクトリアは笑った。

 

「昔のことはお忘れな」

 

「さて、どういたしましょうか。こればかりは年寄りの特権ですからな」

 

 そこまで言って、バリーの視線が今一度鋭くなった。

 

「陛下の方は私の方から話をお通しいたします。これとは別に、御注意いただきたい動きがありますのでお耳に入れておきましょう」

 

 ただならぬ気配にヴィクトリアは眉を顰めた。

 

「良くない話か」

 

 パリーは頷いた。

 

「殿下にとって、もう一人の伯父君です」

 

 できれば聞きたくない人物の話題に、ヴィクトリアの表情が硬くなった。

 

「ハイランド侯が?」

 

「はい、今では誰もが『無根侯』と呼ぶハイランド侯リチャード閣下の動きがきな臭い。身に覚えはおありでしょう」

 

「うんざりするほどね」

 

 お互いに、最後は殺す殺さないの関係まで行き着く因縁がある相手であった。

 

「物騒な輩を雇っているとも聞き及んでおります。くれぐれも御油断なきよう」

 

「貴重な情報、心より礼を言う。では、私からもひとつ知らせておこう」

 

「何でございましょう?」

 

「オリヴァー・クロムウェルという人物から目を離すな。裏で交差した二本の杖が蠢いているらしい」

 

 さすがにパリーも絶句した。

 

「……真でございますか?」

 

 パリーに向けるヴィクトリアの視線も、また鋭い。

 

「用心だけはしておくように。こればかりは私では力になれない」

 

「早速調べてみます」

 

 パリーは立ち上がった。

 

「では、私はこれにて」

 

 挨拶するパリーに、ヴィクトリアは心からの言葉を告げた。

 

「いろいろ世話になったね、爺。くれぐれも息災で」

 

 そんなヴィクトリアの心を知ったうえで、老人は笑って見せた。

 

「永の別れではありますまい。では、またいずれお会いいたしましょう」

 

 

 パリーの背中を見送り、ヴィクトリアが視線を舞台に戻すと、主人公が静かにヒロインの元を去るところであった。

 現実の壁に抗うことなく別れを選んだ二人を見つめながら、ヴィクトリアは静かに菓子を口に運んだ。

 

 

 

 甘いはずの菓子は、何故か少し、塩味がした。



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その6

「あちち」

 

 夏の午後の往診はきつい。

 天空で元気に核融合しているお天道様は今日も絶好調で、遠慮とか容赦がまったくないエネルギーをこれでもかと叩きつけてくる。

 体が小さい私は簡単に芯まで火が通ってしまう。

 やはり早めに金を貯めて入院病棟を作ろうと決意を新たにする。

 トレードマークの白衣を着こんでいるのも悪いのであろうが、これはちょっとこだわりたい部分なので脱ぐ訳にはいかない。

 その代り、頭の上には大きな麦藁帽子を装備。

 我ながら何ともアンバランスな気がしないでもない。

 

 そんな午後、診療院に戻ると入口のところに小さい女の子が立っているのが見えた。

 身長は私よりちょっと高いくらい。

 髪の色は青。

 魔法学院の制服にマント。

 手にした大きな杖が目を引いた。

 

女の子は私に気付いて眼鏡の奥から視線を私に向けてきた。

 

「急患かね?」

 

私が問うと、少女は首を振り、値踏みするように私を見て蚊の鳴くような細い声で言った。

 

「あなたが『慈愛』のヴィクトリア?」

 

 

 

 

 

………………………。

 

 

 

 何だか人生初めてだよ、自分が石になったのが判ったの。

 ナンデスカ、ソレ?

 全身に鳥肌が立ってジンマシンが出そうだった。

  そんな恥ずかしい二つ名名乗った覚えないぞ。

 誰だ、そんなこと言いだした奴ぁ。

 こみ上げる苦いものを何とか飲み込んで応じる。

 

「……そんな大仰な二つ名は知らんが、ここの院長のヴィクトリアなら私だよ」

 

 私の自己紹介を理解するまで時間がかかったのか、少女はややあってから口を開いた。

 

「相談があって来た」

 

 思いつめたような口調。この少女が言いたいことはそれだけで判る。

 

 ある意味、転生者の視点は神のそれだ。

 その力は使い方によって悪魔のそれにもなるものだとこの時思った。

 私の中に苦悩が芽生えた。

 それを押し殺して声をかけた。

 

「……時間外だが、せっかく学院から来てくれたんだ。話くらいは聞いてあげよう」

 

「感謝する」

 

 

 

 診察室に通し、魔法で室内の温度を下げる。

 アイスティーを出して腰を下ろした。

 

「とりあえず、扱いは医療相談ということにしとくよ」

 

 診察室でまっさらなカルテを取り出して言う。

 

「まずは名前を聞こうか」

 

「タバサ」

 

 簡潔な答えに私は筆を止めた。

 

「本名かい?」

 

 判ってはいるけど一応確認する。

 どの程度の信頼を私に寄せてくれるかがこれで判る。

 私の問いに、タバサはしばし悩んで今一度口を開いた。

 

「……シャルロット・オルレアン」

 

 正直、びっくりした。まさか正直に名乗るとは思わなかった。タバサが相応の物を開いて見せたとなればこっちもこっちも本気で対応しなきゃいけない。正直、ちょっとやばい感じすらする話だ。

 

「シャルロットだね」

 

 カルテにはタバサと書き込みながら私は続ける。

 

「それで、質問は何だね?」

 

「毒について訊きたい」

 

「毒物?」

 

「あなたは治療師とは違った手法の治療を行うと聞いた。判る範囲で良いから教えて欲しい」

 

 話を聞いて合点がいった。なるほど、毛色が変わった医者の噂を訪ねて来たということらしい。

 

「どういう毒を飲んだね?」

 

「私じゃない」

 

「ほう?」

 

「私の母が飲まされた」

 

 そのまっすぐな視線。

 どこまでも一途だ。

 この娘、無表情で無感情なように見えるが、ある意味一番情熱を持った子じゃないかと思う。

 

「……詳しく聞かせとくれ」

 

 タバサはぽつりぽつりと症状を話し始める。

 自分を覚えていないこと。

 人形を自分だと思って抱きしめていること。

 近寄るとパニックを起こして自分を拒否すること。

 

 ナウシカ原作版のクシャナ殿下も同じ気持ちだったことだろう。

 あっちは治しようがなかったけど、でもこの子の母ならば……。

 

「なるほどね」

 

 私はペンを置いた。

 話を聞きながら、私もまた、自分の母のことを思った。

 私には二人の母がいる。

 前世で私を産んでくれた母。

 そして、この世界で私を生んだ女。

 前世の記憶がなければ正直母の愛情なんてものは鼻で笑っているところだったが、瞼の母の記憶はそれは、私がそんな風に人の道を外すことを許さなかった。

 もちろん、例えそれがなくても、この子の前でだけはそんなことはしてはいけない。

 藁にもすがる思いで尋ねてきた子にその仕打ちでは、あまりにも悲しい話だ。

 

「知っていたら教えて欲しい。どんな手がかりでもいい」

 

 私は悩んだ。

 与えられる情報は幾らでもある。

 

 それがエルフの毒であること。

 解毒薬が存在すること。

 それを作れるエルフがいること。

 それらはすべてガリア王ジョゼフの掌の上にある事。

 そして、ヴェルサルテイルの礼拝堂のこと。

 

 だが。

 言ってしまえばこの子は絶対躊躇わないだろう。

 そのために容易く自分の命すら投げ出すに違いない。

 彼女のイーヴァルディの勇者はまだいない。

 勇者がいない御姫様が戦いを始めても、悪の竜は歯牙にもかけるまい。

 時期尚早というものだ。

 しかし、それはこの子をまだまだ続く地獄に見捨てることに他ならない。

 恐怖を味わい、苦労を強いられ、艱難辛苦の道を当分歩むことになる。

 

 せめぎ合いが心を苛む。

 

 

 

 しばらく考え、私は言葉を選んだ。

 

「そこまで長期間精神を冒す毒となると、普通の毒じゃないね」

 

「え?」

 

「……一般的に手に入る毒じゃない。かなり特殊な手段で調合された薬だろうね」

 

「対策を教えて欲しい。お金ならいくらでも払う」

 

「金の問題じゃない。推測でしか言えない事なんだ。いたずらにお前さんの心を乱すだけさね」

 

「それでもいい。何も判らないよりは、いい」

 

 能面と言う芸術品がある。

 見方によって喜怒哀楽すべての表情をその面貌から見てとれると言うが、今のタバサの無表情はまさに能面だった。

 泣き出しそうな子供の顔に見えるのは私の気のせいではあるまい。

 

「少し猶予をおくれ。どれくらいかかるか判らないが、私なりに調べる時間をもらいたいんだよ」

 

 私の言葉に、秒針が1周するほどの時間が流れた後、少女は言った。

 

「……判った」

 

 私はため息をついた。

 

 ある意味、日本人的なずるさだ。

 先送りを許容する、卑怯な文化。

 ほんの僅かに希望を与え、そして時が過ぎるのを待つ。

 これ以外、彼女の心に対して私ができることはない。

 

「また来る」

 

 タバサは立ち上がり、静かに帰って行った。

 

 

 

 

 

 夜、窓辺に座ってワインを開けた。

 グラスに注いだだけで、夜空を見上げて私は過ごした。

 

「姉さん?」

 

 風呂上がりの髪を乾かしながら、テファが訊いてくる。

 

「ん~?」

 

「何だか元気ないね」

 

「…………うん」

 

 空に光る二つの月を見ながら、私はさっきからろくに手をつけていないワイングラスに手を伸ばした。

 今日のワインはやけに舌に苦かった。

 

 

 

 その夜、私は微かにしか覚えていない、前世の母の夢を見た。



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その7

光あるところ影がある。

 

王都トリスタニアもまた華やかな王都であるからには人々集まり、その輝きの下に影を作り出す。

私が呼び出しを受けて向かった先は、街の外れのあるエリアだった。

 

時刻は間もなく日付が変わろうかと言うあたりであるが、そのエリアに近づくにつれ、徐々に人通りが増え、明りも勢いを増していく。

白衣の小娘がうろついているとやたらと目立つかと思えば、ここではどんな格好をしていても馴染んでしまうから不思議だ。

チクトンネ街のさらに奥。官憲も迂闊に手が出せない、不文律と言う法で縛られたエリア。

 

通称『夜の城通り』。

 

新宿の歌舞伎町やリュティスの暗黒街に比べればささやかなものだが、それでもトリスタニア最大の暗部。

その道では有名な花街は、今日もきらびやかな光を放っていた。

 

 

 

「ごめんよ」

 

ひときわ大きい娼館『香魔館』の玄関口で声を上げると、出迎えの男が寄って来て私を胡乱な眼で見る。

髪はオールバックで目つきは鋭い。絵に描いたようなヤクザ者だ。

程なく正体を思い出して態度が急変する。

 

「これはこれは先生、ようこそのお運びで」

 

「話は通っているのかい?」

 

「もちろんでございます。どうぞこちらへ」

 

やたら丁寧に案内され、私は館の中に入った。

 

媚薬の匂いたなびく館内。多くの男女がよろしくやっている空間と言うのは、何となく空気からして違う。

幼児体験のせいか、そういうものにはおよそ興味がないと言うか、むしろ嫌悪感が先に立つ私としては何回来ても居心地が悪い建物だ。

この手の仕事は人類最古の商売だと言うが、2番が王様、3番が泥棒とくると、医者と言うのも結構古いんじゃないかと思いながら私は歩みを進める。

 

黄金の女体像だの噴水だの植え込みだのと、やたら金がかかった広い庭を通り、離れに辿りつくと、予想外に落ち着いた室内に一人の老人が床に伏せっていた。

 

短髪白髪の、目つきが鋭い男だった。

まるでその男の生きざまのような太い声で私に言った。

 

「やあ、先生。よく来てくれたな」

 

「まだくたばっていなかったようだね、ハインツの」

 

だいぶ生気は抜けているものの、まだまだ頑丈そうな老人だった。

名をゲルハルト・ハインツ。

トリスタニアに巣くう、ゲルマニア系マフィア『ハインツファミリー』の大親分。

町内会の伝手で知り合った大立者だ。

 

「何、俺も歳だ。だいぶガタが来たところにこのありさまだ。流石に俺もここまでかと思ったぜ」

 

布団をめくると、炭化寸前の酷い火傷が体の半分を覆っていた。

ガーゼには体液が滲んで布団まで汚している。

重度の熱傷。恐らくファイアボールの直撃を受けたのだろう。

 

「運がいいこった。一個しかない命だが、大事に使えば一生持つよ。気をつけるんだね」

 

私は治療用の道具を出しながら今度は鋭い視線をハインツに向ける。

 

「ハインツの。最後の確認だ。その怪我、組織同士の喧嘩出入りのものじゃないね?」

 

「ああ、俺の手下だったはねっ返りの仕業さ。裏で糸引いてる奴はいるかも知れねえが、俺が生きてるとなっちゃ、自分がそいつらにやらせましたと言う馬鹿はいねえよ」

 

「トリステイン系の連中の恨みでも買ったかい?」

 

「トリステインとゲルマニアが嫌い合ってるのは、王族も俺たち筋者も変わらねえよ」

 

私は頷いて治療を始めた。

 

裏の世界と接点を持った時、私は『完全中立』を標榜した。

その負傷が組織間の抗争の結果であった場合、不干渉を貫くために一切の面倒は見ないと言うことは関係者には一貫して伝えてある。

そうじゃなければ幾つ命があっても足りやしない。人の恨みはどこで買うか判らないのが世の中だ。

 

ヤッちゃんの世界では、若手が元気がよすぎると途方もない馬鹿なことをやらかしたりするものだが、今回もそのケースらしい。

ファミリーの新進気鋭の若手の火の魔法使いが、何を考えたのか親父に向かって杖を向け、幹部数人もろともハインツを焼いた。

この辺の話は、町内会で『武器屋』から聞いて裏を取ってある。

私が呼ばれたのも、その時に子飼いの水の魔法使いが死んだためだとのこと。

やってることは国もマフィアも変わりはない。最後にものを言うのは金か暴力だと言うことだ。

 

ちなみに、マフィアと町内会の間には、ある種の不可侵条約が成立している。

みかじめ料だのショバ割りだのと不当に商人を苛めて回るのがマフィアのようではあるが、ここはトリスタニア、下手なマフィアよりおっかない商人が少なくない。

それでも何回か小競り合いを起こしているが、ある意味最大派閥のマフィアとも言える町内会を敵に回して無事に済むはずもなく、構成員が軒並み毒を食らって全滅する組織もかつてはあったらしい。

ちなみにピエモンはそのころからの武闘派だと聞いた。

そんなピエモンが私を町内会に加えた理由だが、独自の情報網を持つ彼のことだ、恐らく私の出自を知っているからだろう。それが彼のどういう得になるかは私には判らんが。

 

 

麻酔をかけて炭化した部位をそぎ落とし、組織に水の秘薬を用いて再生を促す。

治癒の魔法を並行することで真皮から筋組織までこんがりやられた傷を修復していく。

 

2時間ほどで治療は終わり、ハインツはようやく落ち着いてため息を吐いた。

 

「終わったよ。3日くらいは大人しくしてるんだね。薬は後で取りに来させとくれ」

 

「助かったぜ。金はすぐに届けさせる」

 

「出張手当はちょっと弾んでもらうよ。見送りは要らないからあんたは寝てな」

 

「すまねえな」

 

 

 

私が帰ろうとしたその時だった。

離れの入り口で案内役をしてくれた男が突然燃え上がった。

 

何事かと見れば、黄金の女体像の陰から目つきが悪い男が杖を手に姿を見せた。

蛇のような粘っこい目をした男だった。

 

親分のボディガードが飛び出してくるが、それらが背後から矢を食らって倒れる。

離れの周囲にも数人の敵がいるらしい。

 

もったい付けたような口ぶりで男が言った。

 

「余計なことをしてくれたな、先生」

 

私は驚いた顔も見せずに背後にいる親分に言った。

 

「ハインツの、追いかけてたはずのはねっ返りにあっさりこんなとこまで迫られるたあ、あんたも焼きが回ったかね。文字通り」

 

「違えねえ」

 

ハインツは無理やり起き上がり、杖を手に取った。

 

そんな私たちをつまらなそうに眺めながら男は言った。

 

「先生よ、あのままそのジジイががおッ死んでくれれば、俺が頭を張れたんだ。その報い、受けてもらうぜ」

 

「あいにく、こっちも治してナンボの商売さ。お前さんみたいな仁義外れを治す方法は一つしか知らないけどね」

 

「水の魔法使いが火の俺に勝てるかよ。御托はあの世で並べなよ、先生」

 

男が放ったファイアボールを、私は水の壁を繰り出して防ぐ。

すさまじい音と水蒸気が立ち込めた。

 

「月並みだな。そんなちんけなシールドじゃ俺の火の前じゃもたねえよ」

 

馬鹿はたいてい饒舌だから助かる。

 

私は己の中のイメージを練り上げる。

 

 

 

 Empty your mind, be formless,

 shapeless - like water.

 Now you put water into a cup, it becomes the cup,

 you put water into a bottle, it becomes the bottle,

 you put it in a teapot, it becomes the teapot.

 Now water can flow or it can crash.

 Be water, my friend.

 

 

 

 

男が続いてファイアボールを練ろうとした時、私の詠唱が一瞬早く完成した。

 

私の杖の先から一直線に走る細いレーザーのような銀光が男を杖ごと横に薙いだ。

男の目がくるりと裏返り、横一文字に両断された男のパーツがぼとぼとと庭に崩れ落ちた。

背後の女体像がゆっくり傾いで、その上に音を立てて倒れ伏した。

 

水の鞭の魔法を元に、医療用にウォータージェットメスを研究していて身に着いた魔法だ。

太さ0.1ミリの水流を数万気圧の高圧で打ち出すとこういうことができる。

現実世界でも金属の加工に使われている理屈だ。

土に続く質量系の魔法である水魔法を舐めちゃいけない。

医療用に考えていた魔法を攻撃用に転用しようとしたのは、ある偉大な悪の帝王のアイディアが元だ。

その方の御尊名はディオ様と言う。

 

 

 

 

 

「主、御無事で?」

 

「終わったのかい?」

 

「既に」

 

音もなく現れるは我が忠臣。

私が一人片付ける間に野郎の手下数名を片づけてくれていた。

マフィアの本拠地じゃ先に手を出す訳にはいかなかったから、相手に先に手を出させての事後処理だ。

ディルムッドは嫌がったが、これも通すべき筋と言うものだ。

 

騒ぎを聞きつけて人が集まって来た。後始末は任せてもいいだろう。

警備担当の奴の責任はどうなるのかね。

小指の問題ならまだいいけど、ここはハルケギニアだからなあ。

コンクリの靴とかあるのかしら。

 

「ハインツの、とりあえず、今回のは貸しにしとくよ?」

 

「高えもんにつきそうだな、おい」

 

「だったらこれに懲りて、身の周りはしっかり守るか、年波に従って引退するんだね」

 

「考えとくよ」

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、徹夜明けの午後の太陽って黄色いわあ」

 

「夜遊びばっかりしてるからです」

 

結局一睡もできず、珍しく怒っているテファに鞄を持ってもらいながら、午後の往診に向かう。

 

 

そんな一日。



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その8

私には二人の姉がいます。

 

一人は背が高くて、理知的な顔立ちで、一見冷たそうな感じがするけど実はとっても優しいマチルダ姉さん。

もう一人は、歳と見た目が釣り合っていないけど、私たちの中で誰より頼りになるヴィクトリア姉さん。

 

 

 

 

『♪~~~♪』

 

 

一日の終わり、お風呂からヴィクトリア姉さんの歌声が響いてきます。

普通はお風呂と言うのは蒸気を使った蒸し風呂なんだけど、この家はヴィクトリア姉さんの『譲れない一線』ということで大きな浴槽のある湯殿が設けてあります。

何だか貴族みたいだな、と思います。

毎日夕食後に魔法でお湯を沸かして入るんだけど、ヴィクトリア姉さんはどんなに疲れていても必ずお湯を張るだけの精神力を絞り出します。

それだけでどれほどお風呂が好きか判ってしまいます。

聞けば、お風呂に入って大声で歌を歌えば、一日の疲れも吹っ飛んじゃうんだとか。

 

お風呂と言えば、最初はヴィクトリア姉さんも私やマチルダ姉さんと一緒にお風呂に入ったんだけど、その時に何だかすごく怖い目をして私たちを見て以来、あんまり一緒に入ってくれなくなりました。

『女の魅力がインフレした奴らめ』とか言っていました。

私なんかより体の小さいヴィクトリア姉さんの方がかわいいと思うんだけど、姉さんは『持てる者の理論』とか言って取り合ってくれません。

 

 

そんなちょっと良く解らないところもあるヴィクトリア姉さんだけど、実はスクウェアクラスの立派な魔法使い。

先日夜中にいきなり私のところにやって来て、

 

「テファ、やったよ、スクウェアだよ!」

 

と大声で騒ぎました。

その日に姉さんがトライアングルからスクウェアにクラスが上がったみたいです。

毎日魔法を使ってお仕事しているし、たまにすごく難しい治療なんかもうんうん唸りながらやってるから、腕が上がるのも当然だと思います。

そのおかげでもっとたくさんの人に疲れることなく治療ができるのが嬉しいみたい。

でも、姉さんの目的はそれだけではありませんでした。

私は今も着けたままのイヤリングを撫でながら思い出します。

 

ある夜、姉さんは居間で本を読みかけのまま眠ってしまっていました。

起こそうと思った時、開いたページが目に留まりました。

 

『フェイス・チェンジのルーンについて』

 

フェイス・チェンジは風と水の複合魔法だそうで、非常に高度な魔法なのだそうです。

水のスクウェアの姉さんでも、風の魔法はまだまだレベルが低いらしく、フェイス・チェンジは使えないのだそうです。

何故姉さんがこの魔法を使おうとしているかといえば、それは恐らく私のためなのでしょう。

 

アルビオンから逃げてきたけど、私の耳は普通の人にとっては悪魔の印だと言うことで、私は大きな帽子を目深に被って耳を隠し、人目を避けるようにしてきました。

そんな時、ヴィクトリア姉さんが買ってきてくれたのがこのイヤリングでした。

フェイスチェンジの効果のあるマジックアイテム。

姉さんは教えてくれなかったけど、姉さんの手持ちのお金が半分以上なくなっちゃうくらい高価なものだったみたい。

毎日怪しげな古物屋に出向いて何をしているのかな、と思ったけど、これを渡されたときは姉さんが私のことを一生懸命考えてくれていたのを知って何だか嬉しいやら申し訳ないやら。

でも、その時からこのイヤリングが私の寄る辺でした。

街に買い物に出るときも、これがあれば人の目を気にして歩く必要はありませんでした。

親切にしてくれる人たちを騙しているような罪悪感は、少しあります。

でも、姉さんはいつか必ず私が本当の姿を隠さずに街を歩ける日が来ると言ってくれます。

姉さんはああいう人ですけど、身内に嘘をつく人ではないので私は素直にその言葉を信じることにしています。

 

 

 

知らない人が見ればつっけんどんな感じがするヴィクトリア姉さんだけど、本当は誰よりも優しい人だと思います。

 

姉さんはあまりお金に興味がないみたいで、いつもほとんど利益を乗せないくらいのお金しかもらわないし、生活が苦しい人の場合はもらわないことだってあります。

食べ物も買えないような人には、栄養指導とか言って食べ物をあげちゃったりもしちゃう。

その分、お金持ちの人からの特別な相談の時はびっくりするくらいのお金を請求しています。

あと、私はよく知らないけど、たまに夜出かけて行って、帰ってくるとすごい大金を持っていたりもします。

いくらディーさんが強くても、危ないことしてなきゃいいなと心配になります。

 

昼間のヴィクトリア姉さんはすごく多忙です。

診療所はいつも患者さんでいっぱいで、中には姉さんと茶飲み話をするためだけに来ているお年寄りもいます。

ただお話をしているだけだけど、それもまた治療の内なんだって姉さんは言っていました。

『心療内科』って言ってたっけ。

午後の往診は動けないお年寄りが多いです。

その人たちの話を聞き、やがて来る日には息を引き取るのを看取るのです。

お医者様と言うのは生死を見つめるお仕事なんだと姉さんの後姿から学びました。

 

 

いつもはお婆さんみたいにのんびりな感じのヴィクトリア姉さんだけど、たまにすごく勇敢な時があります。

 

ある日、

 

「子供が巻き込まれたぞ!」

 

って往診の帰りに、大通りで大きな声が聞こえた時でした。

 

「何でしょう?」

 

と私が呟いた時にはヴィクトリア姉さんは走り出していました。

大通りの真ん中に、血まみれで男の子が倒れていました。

周りの人の話だと、貴族の馬車に巻き込まれたらしいのです。

姉さんは男の子に取りつくと、状態を確認してすぐに男の子をレビテーションで持ち上げました。

 

「時間がない、誰か、軒先を貸しとくれ!」

 

姉さんが大声で叫ぶと群衆の中から見知った顔が飛び出しました。確かジェシカさん。

 

「うちを使ってちょうだい、夜までは大丈夫よ!」

 

やっぱりジェシカさんは気風がいいです。タニアっ子というのはみんなこうなのでしょうか。

男の子を魅惑の妖精亭に運び込むや、すごい速さで鞄からグローブとマスクを取り出して着けると姉さんは男の子のシャツをはいでいきます。

私も負けじと準備を急ぎます。

 

「腹腔内出血・・・内臓もやられてるね。秘薬じゃ間に合わない。時間と競争だわ」

 

内臓が潰れているのに加え、お腹の中の太い血管が何本か破れてしまって、このままだと出血多量で死んでしまうのだそうです。

治癒魔法で治すには傷が重すぎ、秘薬で治すには時間がかかり過ぎると言っていました。

 

「点滴の準備を。空の瓶を吊るしな」

 

私は言われたとおりに点滴の用意をしました。

その間に姉さんは男の子にペンくらいの大きさの杖を取り出してルーンを唱えました。

魔法で男の子に麻酔をかけて、次いでブレイドでお腹を切開。

血が噴き出してきて姉さんの顔から服を血に染めていきます。

姉さんは動じることなくルーンを唱えて、吹き出す血を空中でボールのように丸めると、そのまま空の点滴瓶に流し込みました。

自己血輸血というのだと後で教わりました。入りきらなかった血は消毒した容器に貯留しておきます。

これに荷物の中から生理食塩水を取り出して濃度を調節して加え、大腿静脈から輸血しました。ラインは4本。

 

「脈を取っておくれ!」

 

脈が弱い。頑張れ。

姉さんは腹部に取り掛かりきりで、程なく破断した太い動脈が数本ある問題の部位に辿りつきました。

すごいスピードだと思う。

姉さんが言うには、多少しくじっても魔法で元に戻せるから気が楽だっていうけど、それにしてもここまで早いのは初めて見ました。

治癒のルーンを唱えると、押しつぶされたように破れた血管がみるみるうちに修復して行きます。

続いて破裂した内臓や馬の蹄で挫傷した部位に治療を施し、開始から1時間ほどでお腹を閉じて、最後の治癒魔法で切開した部位を塞ぎました。

 

姉さんは大きく息を吐いて脱力したように座り込みました。ものすごい短距離走をしたみたいな感じでした。

 

「テファ、脈は?」

 

脈を取ると、先ほどより強い脈を感じます。大丈夫、生きてる。

 

「何とか間に合ったかねえ」

 

しゃがみこんだままマスクを取って、手袋を外しました。そして、控えていたジェシカさんを見つけて声をかけました。

 

「すまないが、水場を貸してくれないかい。顔を洗いたいんだよ」

 

「もちろんよ。奥にあるから好きに使って」

 

「ありがとうよ。テファ、ちょっとだけ頼むよ」

 

姉さんが奥に行くと、ジェシカさんが話しかけてきました。

 

「もう大丈夫なの?」

 

ちょっとだけ不安げなジェシカさん。

 

「先生の様子からすると、もう大丈夫だと思いますよ」

 

「本当に?」

 

「この後先生から説明があると思います。親御さんの方は?」

 

「表で待っているわ」

 

「じゃあ、一緒に説明をいただきましょう」

 

ジェシカさんはほっとしたようにため息をつき、輝いた眼差しで話し始めました。

 

「それにしても、見ててびっくりしたわ。誰も動けない中で、倒れてる男の子に駆け寄って。どこの英雄さん、って感じだったわ」

 

「困った人を見ると、先生はいつもあんな感じです」

 

そう、私もまた、姉さんに助けられた一人です。

 

「あれは、アレよね、勇気?あとは、優しさ?」

 

客商売をやっているだけあって、ジェシカさんは人を見る目があるようです。

自分のことじゃないけど、私も少し誇らしい気分です。

私は頷いて答えました。

 

「はい。先生は勇気と慈愛の人ですから」

 

何となく言った一言に、ジェシカさんが反応しました。

 

「慈愛?」

 

「ええ」

 

「ああ、それいいわね。『慈愛』のヴィクトリア。なんかいい響きじゃない?」

 

「先生は嫌がりそうですけど」

 

そう言って私たちは笑いました。

 

 

そんなジェシカさんが「『慈愛』のヴィクトリア」の名前を方々で宣伝しているのを知ったのは、だいぶ後になってからでした。

教会が怖いので手術のことは内緒ということで関係者にはお願いしましたが、こちらの方は勝手に広まっていってしまったようでした。

 

 

 

 

『♪~~~~~♪』

 

気付けばヴィクトリア姉さんはいつものメドレーに入っていました。

ヤシロアキって言ってたっけ?

今日はいつになくご機嫌のようです。

 

「ん?お風呂は今はヴィクトリアかい?」

 

洗い物を終えたマチルダ姉さんがエプロンを外しながら居間に入って来ました。

 

「うん。すっかりご機嫌みたい。あ、お茶を入れようか?」

 

「いや、いいや」

 

その時のマチルダ姉さんの顔は悪い人の顔でした。

いわゆる、その、黒い笑顔?

 

「ふふふ、どれ、久々に家族のスキンシップといこうかねえ」

 

そのまま、タオルを手に浴室に入って行きました。

基本的に意地悪だよね、マチルダ姉さんも。

 

 

 

 

 

『わあ、何しに来たんだい、このおっぱいオバケ!』

 

『ふっふっふ、久々に、あんたの成長具合を確かめてやろうと思ってねえ』

 

『や、おやめ、や、やめろ~!にゃ~~~っ!!』

 

 

 

 

じゃれあう姉さんたちの声を聞きながら、私は目を閉じて祈りました。

 

 

 

 

 

お母さん、私は今、とても幸せです。

幸せすぎて申し訳ないくらい。

だから、私は祈ります。

今日みたいな日が、明日も明後日も、ずっと続きますように。

 

 

 

 

 

「楽しそうですね」

 

見ればエプロンを外したディーさんが笑っていました。

いつもヴィクトリア姉さんだけでなく、私たちも守ってくれている頼もしいナイトさん。

 

「ええ。仲がいいです。羨ましい」

 

「ならば、テファさんも飛び入ってしまってはどうですか?」

 

あまりのアイディアに、私は吹き出しそうになりました。

 

「そうね、その手があったわね」

 

「行ってらっしゃい」

 

笑うディーさんを残して、私もタオルを手に浴室に向かいました。

 

 

 

 

 

 



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その9

降臨祭が近い今の季節は、日が落ちるのが早い。

サン=レミ聖堂が午後5時の鐘を鳴らす中央広場を、家路を急ぐ人々に埋もれるように一人の少女が夕暮れ時の長い影を引きずって歩いている。

名工が作った人形のような、美しい面貌の少女であった。

小柄な、まだ10歳ほどの子供に見えるが、実年齢はその倍ほどもあると聞けば誰もが驚きを隠せないであろう。

腿ほどまで伸びた髪は、ボリュームがあり、伸ばしていると言うよりは無造作に伸ばし放題のようではあるが、生来の髪質なのかその輝きは健康的なものであった。

色は濃い目の茶色であり、どことなくこの国の王女アンリエッタのそれを思わせるが、この少女が実際にその王女と従姉妹であると言うことはこの街にいる者はほとんど誰も知らない。

身を包む外套は大人しいデザインでありながらも流行りのもので、トリスタニアの街を歩けば数分に一人は見かけるようなありきたりなものであったが、この少女が着ると何故かその服の格が一段上がる様な不思議な気品を少女は纏っていた。

 

気品はともかく肉づきはいささか寂しい痩せっぽちな体にどこか老婆のような気だるさを引きずりながら、中央広場からブルドンネ街に足を向けた。

宮殿が見えるあたりで小さな路地を曲がり、すぐのところにある小料理屋の扉を少女はくぐった。

 

「いらっしゃいませ・・・あら、先生!」

 

接客に勤しむこの店の娘が元気よく声を上げた。

向日葵のような笑顔で、夕顔のような少女を迎える。

娘はこの少女を知っていた。もっとも、この少女がトリスタニアに流れてきてから数年、この街の平民で少女のことを知らない者の方が今では珍しいのかも知れない。

 

「遅くなっちまったかね」

 

「はい、お連れ様はもうお待ちですよ」

 

娘は案内に立って店の奥に少女を導き入れる。

 

「最近は親父さんの腰の調子はどうだね?」

 

「はい、おかげさまですっかり。小麦粉の袋も前みたいに軽々です」

 

「また無理しないようによく言っといとくれよ。予防に勝る治療はないんだ」

 

「あら、でもそれじゃ先生のお仕事なくなっちゃうじゃないですか」

 

「医者なんて商売は出番がなければそれに越したこたぁ無いんだよ。食うに困ったら皿洗いでもやるからここで雇っちゃくれないかね」

 

「先生なら着飾って看板娘にしちゃいますよ」

 

しばし考え込み、少女は困った顔で言った。

 

「お願いだから服は普通の服にしとくれよ」

 

 

 

 

料理屋の奥にある、個室の小部屋の前に立って娘が伺いを立てる。

 

「御連れ様がお見えです」

 

「お通ししてください」

 

中から聞こえたのは落ち着いた男の声であった。

声を受けてドアを開き、少女が小部屋に入ると、そこに眼鏡をかけた冴えない中年の男が席についていた。

 

名をジャン・コルベールと言った。

トリステイン魔法学院で教職を務めており、火の魔法の名人でもあった。

 

「やあ、待たせてすまないね、先生」

 

「はは、ここでは私が先生かね」

 

「白衣を着ていない私は、ただの市井の小娘さね」

 

「これはまた、ずいぶん博識な小娘がいたものだね」

 

 

 

この店の看板料理はフォンデューである。

煮立たせたブイヨンのスープに肉や野菜などの食材をくぐらせて食べるいわゆるスープフォンデューであるが、感覚的にはしゃぶ鍋のそれに近く、いろいろな旬の食材を食べられることもあって、酒の進む庶民の料理としてトリスタニアでは愛されている。

 

「お、そうそう」

 

羊の肉を頬張っていた少女は思い出したようにフォークを置き、鞄から小瓶と数十枚の羊皮紙を取り出してテーブルに置いた。

 

「酔っ払っちまう前に渡しておくよ。いつもの薬と翻訳だ。忘れちまったらまた先生に一日潰してもらわなくちゃいけないからね」

 

「いや、これはすまない。では、私も今の内に渡してしまおう」

 

そう言うと、コルベールもまた鞄から数冊の本を取り出す。

 

「これは写本だから進呈するよ」

 

「それはありがたいね」

 

両者の付き合いは、コルベールがトリスタニアにある少女が経営している診療院を訪ねたことから始まる。

まだ40歳ほどでありながら、コルベールの頭髪は後頭部まで綺麗に禿げあがってしまっている。

日頃はあまり気にした風ではないが、内心ではそれなりに気にしているというのが男心というもの。

何より、コルベールは未だに独身であった。髪はあった方が何かと有利である。

本来であれば貴族であるコルベールが平民相手の診療院を訪れることはあり得ないことではあるが、彼もまた世間体を気にする普通の人間であるため貴族が使う治療師は憚られたうえでの苦肉の策であり、また来るものは拒まぬ診療院の門戸は例え貴族であっても邪険に閉じることはなかったために成立した邂逅であった。

問診を終え、恥ずかしげに視線をさまよわせるコルベールに、院長であるところの少女は論理的な説明を講じた。

 

脱毛の原因としては、

 

・髭等の発毛や筋肉の発達を促す睾丸から出る男性を男性たらしめる微量要素が毛の根に影響すること。

・脱毛については微量要因はその量が問題なのではなく、毛の根の感受性次第であること。

・毛穴から出る皮脂が劣化し、目詰まりとなって毛の根が窒息すること。

・男性の場合、成長期の終わりと共に頭皮の成長が止まるが、頭蓋骨は40歳くらいまで成長を続けるため

 頭皮が緊張し、皮膚が無毛皮に変質してしまうこと。

・ストレスによる頭皮の緊張も同様。

・可能性としてはこれらの複合要因であること。

 

等。

 

これらを解説し、次いで対処法を示した。

すなわち、

 

・よく売っている毛生え効果を謳った秘薬は全く効果が望めないこと。

・頭皮は清潔に保つこと。入浴はできるだけ頻繁に。

・早寝早起きに努め、暴飲暴食を慎むこと。徹夜はしないこと。

・入浴の数時間前に精製された植物性オイルを頭皮に刷り込み、マッサージすること。

 

等。

 

その上で微量要素の働きを調整する秘薬を調合し、定期的に服用することを持って治療とすると告げた。

ここまで言われてコルベールは呆けたように少女の顔を眺めた。

元より好奇心の塊のようなコルベールは事の仔細を少女と話しこみ、午前の診察時間ぎりぎりまで説明を掘り下げた。

少女の方も嫌な顔一つせずに応じ、話し足りないところはまた次回ということでひとまずお開きとなった。

 

その後もコルベールが診療院に通う度に会話が弾み、やがては自然科学全般の話となり、次いで双方の求めるものの交換が始まるようになった。

コルベールの方は手持ちの読めない書物を少女が読めることを知ってその翻訳を、少女は平民では王立図書館で読める書物が限られるので国内有数の蔵書を誇るトリステイン魔法学院の図書館からの魔法関係の図書の借り出しを望んだ。

 

その交換は月に2回の頻度で行われており、双方ともにいける口であることもあって大抵の場合はトリスタニアのどこかの料理屋で会合を持つのが常となっていた。

 

 

「それにしても」

 

コルベールは渡された翻訳を読みながら呟いた。そこにあるのは航空力学の基本理論の解説であるが、それを結構あっさり理解するあたりがコルベールが非凡なところであった。

 

「どうして君は東方の文字を知っているのかね?」

 

「いい女には秘密がつきものなんだよ」

 

見た目がアレなこの少女が言うには違和感がある言葉ではあったが、少女の瞳の光がもつ不思議な魅力を知っているコルベールには、その言葉の裏側にこの少女の持つそれなりの含蓄を読み取る事ができた。

少女にしてみても、前世の記憶のおかげで『召喚されし書物』 である工学系の参考書が読めるのだとは言いづらかった。

 

「それより、その後の具合はどうだね?」

 

少女の視線が自分の頭に向かっているのを感じて、コルベールはぴたぴたと頭皮を叩いた。

 

「おかげでだいぶいいようだ。産毛の勢いが強まって来ているように思うね」

 

「ターミナルヘアに戻すには数年のスパンで考えとくれよ。すぐに生えるということは体の負担も凄いということだから、下手したら変なでき物ができて死んじまうからね」

 

「怖いね」

 

「あんたはまだ間に合うが、完全に根っこが死んでる場合だと足の裏に毛を生やせと言うようなもんなんだよ。そこらの薬売りに騙されてぼったくられるのは勝手だが、体壊して運び込まれるところは私の診療院だから困るんだよ」

 

「なるほど」

 

「後はストレスが心配だけど、どうだい、最近夜は眠れているのかい?」

 

「ああ、あまり寝つきは良くないね。貴族の御子息たちを相手の仕事だ、気苦労はそれなりだよ」

 

「睡眠不足は・・・判っているね?」

 

「はは、気をつけるよ」

 

そんな時、窓の外にちらりと動く白い影があった。

 

「これはびっくりだね、雪だよ」

 

「どうりで今日は冷えるはずだ」

 

 

 

少女は窓の外に視線を向け、しばし黙って舞い始めた雪の乱舞を眺めていた。

その視線が、妙に遠くを見ているような気がして、コルベールは声をかけた。

 

「雪を見て、何か思い出すのかね?」

 

少し間を置き、少女は口を開いた。

 

「昔の話さね」

 

「君の昔話か。そう言えば、君はどこの出だったかね」

 

「北の方さ」

 

「アルビオンあたりかな?」

 

「さて、忘れちまったよ」

 

「・・・すまない、無粋だったようだ」

 

「いいんだよ。そう言えば、ちょうどこんな冷えた夜だったねえ」

 

「何がかな?」

 

「初めて人を殺してしまった日さね」

 

ポツリと、石を口から零すような言葉に、コルベールは固まった。

そんなコルベールの強張った表情を気にもとめずに少女はグラスの中のワインを見ながら続ける。

 

「人を殺しちまった時の記憶ってのは厄介なもんだね。拭っても拭っても油汚れみたいにこびりついて、夜毎夢に出てきて人の眠りを妨げやがる。そうなると酒の量も増えるし、体にもよくないね」

 

コルベールは無表情になった少女の様子に思考を巡らせた。

この少女も、外見こそ幼くとも、日々人の死に触れる仕事を生業としている。

中には、己の力が及ばぬばかりに命を落とした者がいるのかも知れぬ。

しかし、それだけで日々悪夢に魘されるであろうか。

 

「後悔、というわけかね?」

 

探るように問いかけるコルベールを余所に、少女は背もたれにもたれて大きく宙を仰いだ。

 

「そりゃ、できれば殺したくなんかなかったさ。例え相手が殺されて当然の畜生だと思っていてもね。その時のことは納得できていても、見た光景が本当に何時まで経っても消えてくれやしない。

まあ、消そうと思うこと自体が傲慢なのかもしれないけどね」

 

「・・・」

 

コルベールは、目の前の少女が望まぬ凶状の過去を内に抱えていることを確信するに至った。

医療に関するものとは異なる、自分のそれに近い黒い過去を。

それが、身内に慰み者にされそうになった上での親殺しであったことまでは神ならぬコルベールは知らない。

 

少女は思い出したように問うた。

 

「先生。・・・罪ってのは消えるものだと思うかい?」

 

重い問いであった。

その言葉にコルベールはしばし考え、神に対する宣誓のような口調で告げる。

 

「・・・どうやっても罪は消えるまい。例え死んでもね。自裁は償いのようで、ただの逃げだ。ならばこそ、少しでも償えるよう、心に刻んで日々を生きるべきなのではないか。少なくとも、私には他に方法は思いつかないね」

 

「そうだね。罪は・・・あったことは消せないさ。ならば、罪人は赦されてはいけないものかね?」

 

意外な言葉に、コルベールは微かに息を飲んだ。

 

「赦すと言うのは難しいことだ。最後に自分を赦すのは、自分しかないのだろう。神か、始祖か、あるいは死んでしまった相手が赦してくれても、恐らく自分で自分を赦せまい」

 

「では、罪人はどうすればいい?」

 

「難しい問題だね。私が知っている言葉ではうまくは言えないが・・・そう、消えぬ罪を友とし・・・贖罪の時を積み重ね、やがてその罪を己の血肉とした時に、何とか自分を赦してやれるのではないかと私は思う」

 

そこまで口にした時、少女が真正面から自分を見ていることにコルベールは気が付いた。

 

何より雄弁な少女の黒い瞳が、コルベールに自身の言葉をそのまま語りかけているようにコルベールは感じた。

心の奥を、見透かすような闇を湛えた瞳である。

 

「き、君は・・・」

 

何を知っているんだ、と問おうとして口を閉じた。

 

少女の過去の話は嘘などではないのだろう。

コルベールは、少女が医師として磨いた観察眼が、コルベールの所作のどこかに自分と同じ咎人の匂いを嗅ぎつけたのだろうと推測した。

無論、少女がアングル地方であった悲劇のことを前世の知識で知っている等とは夢想だにしなかった。

あの年の、ダングルテールでの記憶は、今なお、彼の心を苛む。

自分が少女に告げた言葉が、そのまま自分に返ってきていることを悟り、コルベールは己が邪気のない罠にはまったことを知った。

コルベールの苦しみを、ほんの少しは自分も判るのだと言う彼女なりの意思表示であるに違いないと思った。

 

 

『苦しみ抜いた罪人には、どうか赦しを』

 

 

言外に少女が言っているような気がして、コルベールは今一度自分の頭を撫で、自嘲するように笑った。

自分で言いながらも、判っていることであった。

これは、言葉で片付く問題ではないのだ。

もし、この身が本当に解放される日が来るのだとしたら、あの時助けたただ一人の少女が自分に対し、裁きの刃を振り下ろす時に他ならない。

 

 

それきり、小部屋から会話がしばし消えた。

ゆったりと沈黙の時間が流れ、フォンデューの微かな泡の音が聞こえた。

やや時を置き、

 

「あ~、ダメだね」

 

と少女は今一度宙を仰いで頭をかいた。

 

「どうにも悪い酔い方をしているようだ。ちと趣を変えようか」

 

そう言って少女は先ほどの娘を呼び、ホットワインを頼む。

やや考えて、コルベールもそれをオーダーした。

 

 

 

「それじゃ、改めて」

 

スパイスの効いた熱いワインのカップを少女が掲げる。

 

「何に?」

 

受けるコルベールが少女に問い、少女は小首を傾げて言った。

 

「そうさね・・・いつか来る雪解けのために、ってとこでどうだい?」

 

 

 

カップが合わさる、小さな音が響いた。



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その10

昼下がり、馴染みの工房のドアを開けると、『アトリエ・マチルダ』の看板の脇にかかった真鍮のカウベルがカランと音を立てた。

 

「いらっしゃい・・・って、あんたかい」

 

工房の奥で作業机に向かっていたマチルダが、入って来た女性客を見て笑みを浮かべる。

 

「そろそろできているんじゃないかと思ってな」

 

女性客の方はマチルダと違って髪が短く、顔立ちがややきつい。

マチルダを猫とすると、猫どころか猫科の猛獣を思わせる雰囲気である。

名をアニエスと言った。

 

「いいタイミングだね。昨日出来上がったとこだよ」

 

マチルダは立ち上がると、作業部屋の奥にある棚から木箱を取り出し、アニエスが立つ受付机まで持ってきた。

木箱を空けると、布に包まれた大ぶりな塊が入っている。

マチルダはそれを手に取り、布を外す。

中から出てきたのは、一丁の拳銃であった。

銃把を向けられると、アニエスは慣れた手つきでそれを受け取った。

 

「・・・ほう」

 

思わず感嘆のため息が漏れた。調整が施された銃把は、まるで己の一部になったかのように掌に吸いつくように馴染んだ。

そのまま壁に向かって銃をポイントする。

重量のバランスや部品の角度は想像以上であった。

次いで各部を確認するが、パーツのガタつきは全くなく、程よく油が引かれた可動部分の動きも申し分ない。

どこを取っても非のうちどころのない出来栄えであった。

 

「見事だ・・・期待はしていたが、これほどとはな」

 

「言っちゃ悪いが、随分悪い鉄が使われてたよ」

 

マチルダが取りだしたのは、折れた撃鉄である。

アニエスがマチルダの工房に銃の修理と全体的な調整を依頼した発端は、訓練中に撃鉄が折れてしまったがためであった。

 

「硬度についちゃ充分なレベルと言えるけど、粘りがダメだね。これじゃ衝撃ですぐに折れちまうよ」

 

「強度については折り紙つきという触れ込みだったんだがな」

 

「ただ強いだけじゃダメさ。そこらへんのバランスが私ら職人の腕の見せ所でもあるけどね」

 

『錬金』の魔法には、いささかプライドを持つマチルダである。

 

「・・・まあ、これを見せられては納得だな」

 

生まれ変わったかのような仕上がりの拳銃を眺めながら、アニエスは笑った。

 

本来は武器専門の工房ではないマチルダの店ではあるが、刀剣や鎧などについても器用に何でもこなしてくれるのでアニエスはしょっちゅうこの店に出入りしていた。

マチルダとはかれこれ半年以上の付き合いになるが、魔法使いが嫌いなアニエスも、マチルダにだけはそれなりの敬意を払っている。

ともすれば取っつきづらいくらいプライドが高いマチルダだが、仕事はそれに見合って余りあるものがあるし、何より年齢が同じと言うこともあって二人は妙に馬が合った。

仕事を離れて酒を酌み交わしたことも一度や二度ではない。

どちらもS寄りの性格というのがシンパシーを呼んだのではないかと、両者を知るどこかの水の魔法使いが思っていることは誰も知らない。

 

「とにかく、気に入ったよ。『工匠』の名は伊達じゃないと言うことか」

 

「その二つ名は恥ずかしいからやめな」

 

「ふふ、まんざらでもないくせに。ほら、代金だ」

 

革袋を机に置き、マチルダが中を勘定する。

 

「ん? ちょっと多いよ?」

 

「心付けだ。いい仕事をしてもらった礼だと思ってくれ」

 

「ふん、じゃあ遠慮なくもらっておくよ」

 

「っと、すまんが今日はのんびりもしていられん。夜には夜間訓練があるんだ。これで失礼する」

 

「毎度。兵隊さんも大変だね」

 

「大変じゃない仕事などあるまい」

 

 

 

 

 

 

腰に感じる頼もしい重さに、街をゆくアニエスの顔がやや緩む。

復讐の誓いを立てて己を磨きあげ、今では『メイジ殺し』として知られるほどの剣と銃の使い手であるだけに、良い武器には普通の女性が豪華なドレスに感じるときめきのようなものを覚えるアニエスであった。

ここしばらくは訓練に明け暮れすぎたせいで体調が芳しくなく、気力で己を支えてはいるものの滅入りがちな毎日であったが、こういう楽しみがあればまだまだ頑張れるような気がした。

 

アニエスが異常に気付いたのは工房と練兵所の中間くらいであった。

人々が騒いでおり、見れば青空にどす黒い煙が立ち上っているのが見える。

 

「火事か!?」

 

アニエスは走り出した。

 

大通りから一本入った通りのやや大きめの宿屋が紅蓮の炎に包まれている。石造りの建物が主体のトリスタニアであったが、屋内には可燃物が少なくないだけにこうした火災はしばしば発生する。

野次馬をかき分けて火事場に近づくと、家人と思われる女が大声で喚いていた。

 

「どうした!?」

 

駆け寄って大声で怒鳴ると、アニエスの軍装を見た女が

 

「娘が中にいるんです!」

 

と涙を流しながら縋りついてくる。

 

「子供が!?」

 

燃える建物に目を向けると、炎は間もなく2階に回ろうと言う勢いであった。

アニエスの中の、古くとも今なお生々しいまでに鮮やかな禍々しい記憶が甦って来る。

故に、その行動は半ば反射的なものであった。

 

「水は!?」

 

周囲に目を向けるが、防火班の到着はまだであり、バケツなども見当たらなかった。

待っていられる時間はあるだろうかと瞬時に思いを巡らし、アニエスは意を決した。

 

「これを持っていろ!」

 

泣いている女に剣を預け、アニエスはそのまま建物に駆け込んだ。

 

アニエスはシャツの袖で口元を覆って走り回るものの、燃えた建物は予想以上に広く、取り残されたであろう少女を探すにはいささか時間を要した。

吹きあがる炎が髪を焦がし、熱気はじわじわとアニエスの肌を焼いた。

1階に姿がないことを確認し、燃える階段を駆け上って2階に向かう。

部屋は8部屋。

アニエスは遠慮なくドアを蹴り開け、3部屋目で少女を見つけた。

駆け寄って抱き上げると、煙を吸ったのか意識がなく、多少火傷はあるものの幸いなことにまだ息はあった。

抱き上げて一気に階下に降りようとした時、アニエスの目の前で階段が炎に屈して崩れ落ちた。

ならばと駆け戻って窓から屋根伝いに降りるかと思った時、ついに天井の梁が崩れはじめ、その内の一本がアニエスの頭を痛打した。

気が遠くなるほどの衝撃にアニエスは膝をついた。

 

火勢はいよいよ強く、煙も濃密である。

血を流したアニエスは震える膝を叱咤しながら窓を目指すが、もはや窓は煙を吐き出す煙突と化している。

体内の酸素が不足したアニエスは、朦朧とし始めた意識の中で昔日の記憶を反芻していた。

自分に毛布をかぶせて魔法使いの炎に倒れた女性。

そして己を背負って助け出した男の首筋の傷跡。

復讐のために捧げてきた半生であった。

姿も知らぬ炎の使い手を憎み、それを倒す術を磨いてきたアニエスであったが、よりにもよってその炎に屈するかもしれぬと心のどこかで思った刹那、アニエスの目に憤怒の輝きが宿った。

 

『死んでたまるか。こんなところで死んでたまるものか』

 

未だ天命を果たしていないアニエスにとっては、諦めると言う選択肢はありえないものである。

しかし、気力を幾ら振り絞ろうとも、酸素が充分に行き渡らぬ筋肉は思うように言うことをきかない。

煙にやられた目からは涙が零れ落ちる。

 

『まずはこの子だけでも外に出せれば・・・』

 

と這いずりながらも窓を目指した時であった。

 

アニエスは背中に階下から吹いた清涼な風を感じた。

顔を上げると、圧倒的な猛威をふるっていた炎が、広がり始めた濃密な霧の中で勢いを失っていく。

火に直接水を放たなくても、熱を奪うことで鎮火が可能なのだとはアニエスは初めて知った。

振り返ると煙の隙間から、天の使いのように階下からふわりと跳んできた白衣を着た茶色い髪の少女が見えた。

2階に立つと同時に少女は今一度ペンほどの長さの青い水晶の杖を振るい、素早くルーンを唱えた。

放たれたミストが、なおも残る2階の炎に襲いかかり、その勢いを殺していく。

火が消えたところで続く風の魔法が煙を屋内から追い出しにかかった。

ミストがアニエスを濡らし、彼女の涙を洗い流した。

 

「何とか間に合ったかね」

 

少女の鈴のような声を聞いた時、緊張の糸が切れたアニエスの意識は闇に落ちた。

 

 

 

 

 

 

気付いた時、窓から差し込む光は既に夕方のものであった。

回りを見ると、見覚えのない器具が並ぶ奇妙な一室であった。

 

「おや、気が付いたかい」

 

声の出所に目を向けると、机に向かって書きものをしている白衣の少女が見えた。

歳のころは10かそこら。

大ぶりな椅子が不似合いな少女であった。

 

「ここはどこだ?」

 

アニエスは単刀直入な性格であったが、返って来た答えもまたシンプルであった。

 

「診療院だよ」

 

「診療院?」

 

「チクトンネ街のトリスタニア診療院さね」

 

しばし考え、最近巷で平民相手に貴族並みの治療を施す治療師がいるという噂を思い出した。

確か、『慈愛』のヴィクトリアという水メイジ。

 

「名誉の負傷とはいえ、だいぶ酷い怪我と火傷をしていたからね。とりあえず治療をさせてもらったよ。火傷はきれいなもんだが、頭の打撲が気になるからね。今夜一晩はここで安静にしとき」

 

「治療・・・」

 

そこまで言われてアニエスは思い出した。

 

「あの娘はどうした?」

 

「お前さんのおかげで大した火傷もしてなかったよ。もう意識が戻って家に帰ったさ。後で改めて挨拶に行きたいと親御さんが言ってたよ。預けてあった剣はそこにあるだろう」

 

見ると、枕元に愛用の剣が立てかけてあった。

 

「とりあえず、あの子の分と合わせて礼を言う。おかげで助かった」

 

「お前さんの分の礼は受け取るが、あの子の分は受け取らないでおこうかね。あれはどう考えてもお前さんの手柄だよ」

 

「いや、君がいなければ私もあの子も炎の中で焼かれていただろう。恩に着る」

 

「あの火の中に飛び込む馬鹿にしちゃ義理堅いね。そういうのは嫌いじゃないよ」

 

少女は笑いながら書きものから顔をあげて振り向いた。

 

「あんな火事だ、普通はしり込みするだろうさ。それをお前さんは躊躇うことなく火に飛び込んだっていう話じゃないか。怖かっただろうし、階段が落ちて梁が倒れてきた時は絶望の一歩手前だったことだろうよ。でも、お前さんはそこで諦めずに頑張ったんだろ? 

だから、私が間に合ったんだ。遠慮なく自分の手柄にしておきな」

 

「・・・理屈が好きなようだな」

 

「理詰めでいかないと、お前さんみたいな奴は判らないようだからね。とりあえず、今夜は経過観察だ。隊の方には使いを出して災害救助中の負傷と伝えてある。町内会からも事情説明の書面が出るから安心してお休みな」

 

「手回しがいいな」

 

「何、時間ができた分、お前さんにお説教をしようと思ってね」

 

「説教?」

 

少女はアニエスの傍らに寄って来て椅子に座った。

 

「お前さん、毎日どういう訓練をしているね?」

 

「訓練?」

 

「診察させてもらったが、ぼろぼろじゃないかい、お前さんの体」

 

少女の言葉に、アニエスは当然のことと思って反論する。

 

「私は軍人だ。体を鍛えるのは当然のことだ」

 

「その口ぶりからすると、相当本来の訓練以外のこともやっているね?」

 

「人と同じことをやっていては人の上には立てん」

 

「おやおや、これまた馬鹿な子だと思ったけど、予想以上だったかね」

 

頭を振る少女にアニエスは立腹した。

 

「物を知らぬ小娘に言われる筋合いはない」

 

声を荒げるアニエスに、少女は眉ひとつ動かさなかった。

 

「物を知ってるから言っているのさ。これでも医者だよ。いいかいお前さん、よくお聞き」

 

少女はアニエスの腕を指しながら言う。

 

「ここの筋肉一つとっても判るけど、明らかなオーバーワークになっているんだよ」

 

「オーバーワーク?」

 

「要するに訓練のしすぎだよ。筋肉だけじゃない。脂肪っけもなさすぎるね。お前さん、生理も不順じゃないかい?」

 

確かに、月経の周期が安定しないことはアニエスの悩みの一つでもあった。

 

「ではここからがお説教だよ。体が鍛えられていく過程を知っているかい?」

 

「鍛練を積めばその分血となり肉となるものだろう」

 

「間違っちゃいないが、合格点はやれないね」

 

少女は黒板を引っ張り出して来て筋肉の超回復について説明を始めた。

一度破壊した筋肉は、戻る際にさらに強くなって回復する。

回復した時点で今一度破壊すると次の回復ではさらに強くなる。

それを繰り返すことで筋肉は強くなっていくが、回復の最中に再び筋破壊が起こると逆に筋肉は減ってしまう。

これがオーバーワークである。

故に、鍛錬をするときは負荷と同じくらいインターバルが重要となってくる。

これまでは休むことを怠惰と捉え気力を支えに鍛錬に励んできたが、気力で体を支えることは確かに重要なことではあるものの、限界を超えた訓練はむしろ逆効果をもたらすことを説明され、アニエスは驚きを隠せなかった。

 

「判り易く言うとね」

 

少女は天井を指さした。

 

「あそこにリンゴがぶら下がっているとしよう。手を伸ばしても届かない高さだ。それを取ろうと思ったらどうするね?」

 

「跳ぶ」

 

「そう、跳ぶしかない。じゃあ、跳ぶ時に人はどうする?」

 

「大きくしゃがんで・・・」

 

そこまで口にして、アニエスは少女の言おうとしていることを理解した。

 

「気が付いたようだね」

 

少女は満足そうに笑った。

 

「そのしゃがむ動作がインターバルさ。一見後退しているように見えても、さらなる飛躍のためには助走も必要だって事さね。休息も立派な訓練なんだよ」

 

それだけ言うと、少女は先ほど書いていた紙をアニエスの枕元に置いた。

 

「お前さんの体格と筋肉量に鑑みた基礎体力向上のための鍛錬メニューだよ。参考にしておくれ。あとは・・・」

 

少女はアニエスの眉間に人差し指を突きつける。

 

「この辺の皺が減るような生き方をするともっといいね。達人ほど変な力は入れないもんなんだろう?」

 

そう言って笑う少女ではあったが、目が笑っていないことにアニエスは気が付いた。

吸い込まれそうな黒い瞳に、己が内に抱える黒い想念を、読み取られたような錯覚を覚えた。

まるで、圧倒的に上位の存在から問い正されているような奇妙な感覚であった。

それでもアニエスは腹に力を入れて反論した。

 

「鍛練については理解はするが、こちらは君の知ったことではないだろう」

 

「メンタルケアも医者の仕事さね。人に歴史ありってことでお前さんにもいろいろあるたあ思うけど、そんな毎日ストレスを定額貯金しているような面構えじゃ、うまくいくものもいかなくなるだろうよ。何事も、ちょっと物足りないくらいがちょうどいいってもんだよ」

 

「・・・お節介な医者がいたものだな」

 

アニエスは諦めて寝返りを打った。

 

 

 

その夜、マチルダが帰ってくるなりアニエスを見て大騒ぎとなり、その果てにアニエスの病室で5人で夕食を摂ることとなった。

口が悪いながらも暖かい交流に巻き込まれ、アニエスは微かに覚えている家族の食卓の片鱗をそこに感じた。

 

 

 

それ以来、アニエスは定期健診を欠かさぬようになり、その度に見ため少女の院長から小言を言われて渋面を作るようになるのはまた別の話である。

 



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その11

ある日の午後だった。

午前の診療を終わり、テファと一緒にのんびりお茶を啜っていた時である。

入口のカウベルが音を立てた。

 

「誰かいる!?」

 

甲高い、何だかやたらに偉そうな声である。

応対に出ようとするテファを制して私は腰を上げた。

大切なくつろぎの時間を邪魔されて少々不機嫌になったが、そこは客商売の辛いところだ。

 

「診療時間は終わっているが、急患かね?」

 

スリッパを鳴らして受付に出てみると、そこに小柄な少女が不遜な態度で立っていた。

トリステイン魔法学院の制服に、仕立ての良いマント。

そして、眉目秀麗な外見に、ピンクブロンドの小柄な娘。

全体的に尊大なオーラを放つ発育不良な外見。

残念な、非常に残念なことであるが、私はこいつのことを知っていた。

 

 

 

 

何しに来た、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。

 

 

 

 

「あんたが『慈愛』のヴィクトリア?」

 

私の記憶にある以上に偉そうな物言いだった。

有力な貴族の娘でありながら、世間の失笑を浴びて生きているとこういうキャラクターが出来上がるのかも知れない。

いろいろと程よくひん曲がっている感じだ。

プライドが高いいじめられっ子というのはこういうものなのだろうか。

 

「そんな大仰な二つ名は知らんが、ここの院長のヴィクトリアなら私だよ」

 

「ふ~ん・・・」

 

ルイズは値踏みするように私と院内を見まわした。

ここまで遠慮というものがないと、むしろ腹も立たないから不思議だ。

 

「埃臭いところね」

 

・・・こいつは喧嘩の押し売りにでもきたのであろうか?

私も喧嘩の値段には文句をつけないほうだが、あまり安物は買いたくない気分だ。

 

「それはどうも。御用の向きは何だね、貴族のお嬢ちゃん。どこぞのどら息子に惚れ薬を盛るつもりなら一本通りを挟んだピエモンのところにお行き」

 

「誰がお嬢ちゃんよ、あんたの方がガキじゃないのよ」

 

ルイズは私の身長と、胸の辺りを注視して言った。

どいつもこいつも人を見かけで判断しやがる。

本当にピエモンに頼んで石見銀山でももらって来ようか。

こめかみの青筋を笑顔で隠して噴出しそうなものをぐっと飲み込む。

 

「病人でもないのならさっさとお帰りな。私ゃ茶を飲むのに忙しいんだ」

 

「そういうのを暇っていうんじゃないの?」

 

「お前さんと話し合っているより有意義だよ。さあ、帰った帰った」

 

「待ちなさい、本題に入らせなさい!」

 

「受付時間外だよ。第一、ここは病院だ。見るからに健康そうなお前さんが来るところじゃないよ」

 

「あんた、ヴァリエール公爵家の者にそんな態度とってただで済むと思ってるの?」

 

「ヴァリエールだかエリエールだか知らんが、急患でもないならさっさとお帰りな」

 

なおも食って掛かってきそうだったのでサイレントの魔法をかけ、血相を変えるルイズをドアの外に押し出す。

ドアに手をかけて抵抗しようとしたが、杖の先っちょで脇の下をくすぐったらあっさり力が抜けた。

無音の中で悶える娘というのはなかなか見ていて面白い。

そのまま一気に外に追い出して、扉にロックをかけた。

 

 

『この無礼者! 覚えてなさい! こんなちっぽけな診療所、潰してやるんだから!』

 

サイレントの効果が切れたら、何とも小物っぽい怒鳴り声が聞こえて来た。

まあ、ドアをドカドカ蹴らないだけましではあるが。

ちなみにマチルダに固定化をかけてもらってあるから蹴ったら足が痛いだけだけど。

それはともあれ、こんな場末の診療所に何しに来たんだ、こいつ。

原作だとこの辺りに来たのって、使い魔召還の後じゃなかったっけ?

まさかお姉さんの診察の話じゃあるまいな。タバサと違って水メイジを腐るほど抱えているだろうに。

 

そんなことを考えていたら、外の様子が何だか剣呑な感じになってきた。

ひょいとドアの脇の小窓の隙間から様子を伺う。

 

 

「おう、貴族のお嬢ちゃんよ」

 

見ると、どう見ても堅気には見えない柄の悪い男が何人も集まって来ていた。

もともと風紀が良くない辺りだが、どうみてもやーさんにしか見えない連中が数名。それだけじゃなく堅気の面々も集まっており、穏やかじゃない目つきをしていた。

 

「下郎が気安く話かけるんじゃないわよ」

 

鋭いガンたれを浴びせられても、ルイズは気丈に応じている。

まあ、普通に考えれば平民の、しかも最下層の連中が公爵家三女に直接話かけるなど本来あり得ない話ではあるが。

 

「それはそれは失礼しちまったな。だがな、お嬢ちゃんよ、あんた、この界隈でさっき言ったみてえなことは言わねえ方が身のためだぜ?」

 

「はあ?」

 

「この街の連中で、ここの先生に手ぇ出す奴を黙って見ている奴ぁいねえよ。潰すだの何のと物騒な脅し文句垂れてると、おめえここから生きて帰れねえよ?」

 

「いい度胸じゃない。公爵家三女に手を出そうと言うの?」

 

ルイズは杖を構えて威嚇する。

世間知らずは怖いなあ。

 

「下がりなさい。それとも貴族に逆らうとどうなるか思い知らせてほしい?」

 

その言葉に怯むどころか、男たちの殺気が一段と高まった。

 

「やってもらおうじゃねえか」

 

と鼻息も荒く先頭の男がずいと一歩前に出た。

 

 

潮時だと思った。

怪我人を出されては大ごとだ。私の仕事が増えてしまう。

私は扉を開けて怒鳴った。

 

「こら~! 私ん家の前で揉め事はおやめ!!」

 

私の出現で、連中の上がった血圧が一気に降下した。

何故か怖い生き物を見るような怯えた視線を私に向けてくる。

 

「だ、だってよ、先生・・・」

 

「だってじゃないよ! つまんないことでいきり立ってないで、さっさと仕事終えて家帰って嫁さん可愛がっておやり! ほら、散った散った!!」

 

 

 

 

 

成り行きで、私はルイズを診察室に入れることになった。

不本意極まる話だが、帰り道でまたひと悶着起こされてはかなわない。

仕方がないので問診表を片手にルイズと対峙した。

 

「それで、今日は何の病気だって? デリケートなところでも痒いのかい?」

 

「違うわよ!」

 

「大丈夫だ、私ゃ医者だよ。秘密は守るさ。一人で悩むこたあない」

 

「話を混ぜかえさないでよ!」

 

なるほど、学院の生徒がこいつをからかっていたのがわかる気がする。

すぐにむきになるあたりは苛められっ子属性の典型だ。

まあ、それだと話が進まないので私のほうから切り出してみることにした。

 

「で、お身内かい?」

 

「え?」

 

いきなりな言葉にルイズは固まった。

 

「見たところ、お前さんは健康体みたいだし、羽振りも悪いようにも見えない。

水メイジに診せる金に困っているようにゃ見えないとなると、お身内で水メイジでも判らない病気を抱えた人がいて、

ちょっと変わった医者である私のところに来たってとこじゃないか?」

 

この辺は原作知識が役に立つ。

会話のイニシアチブを取るには相手の意表をつくのが常套なんだが、

 

「・・・どうしてわかるのかは訊かないでおくわ」

 

お、流したよ。

学業は優秀と言うのは嘘じゃないな、こいつ。

 

「どれ、詳しい話を聞こうじゃないか」

 

ルイズが話し出すと、やはり案の定カトレアの事だった。

話しながらやや悔しそうな表情が見えるのは、本当は自分が魔法を使えるようになって彼女を治したいという妹なりの優しさゆえなのだろう。

その分、ルイズが語るカトレアの病状は詳細だった。

正直、原作では体が弱い薄幸の美女であるカトレアだが、詳しい病状はイマイチ判っていない。

水メイジの腕っこきが揃って挑んで歯が立たない病気。

厄介極まる話だ。

 

病気には細菌やウイルスによるものや生活習慣によるもの、毒物やストレスによるものといろいろある。

しかしながら、これらはいずれも水の秘薬で治すことはできる。

この世界で自分で手掛けてみても、水の秘薬の効果はすごいものがある。

まさにチート。

何しろ、治癒魔法と合わせれば即死級のダメージでもなければ治癒が可能なくらいだ。

この世界の貴族に子供が少ないのも、この辺が影響しているのかもしれない。

貴族に限って話だが、子供の死亡率が極端に低いのだ。

水の魔法で子供を守ることを6000年も繰り返して、そのために貴族の生殖能力が落ちているというのもありえない話ではなかろう。

あるいは魔法が使える代償として生殖能力が低いのか。

普通なら、貴族といえばグラモン家くらいの数の男子は余裕でいるだろうに、トリステイン、アルビオン、ガリアの御三家の王族は不自然なくらいに子供が少ない。

子供がいてもそれは女子だったりもする。

始祖の血ともなれば、子供が一人しかいないなど地球では考えられない話だ。

考えてみれば、屈指の名門貴族であるヴァリエール公爵にしても跡継ぎが生まれるまで頑張った気配がない。

裏を考えると背筋が冷える話だ。

 

それはともかく、カトレアの病気は水のメイジにも判らず、魔法でも秘薬でもダメとなると原因はもっと根源的なものと思われる。

可能性として考えられるのが遺伝性の先天性疾患だ。

先天性疾患は水の秘薬では治癒しづらい。

水の秘薬は体を正常な状態に戻すものであり、欠損した遺伝子による先天性疾患は疾患の状態こそがある意味正常だからだ。

とはいえ、一口に先天性疾患と言っても可能性が多すぎてこればかりは診てみないと何とも言えない。

現状では、

 

 

どこかを治せばどこかが悪くなる。

体の芯からダメになっている。

魔法を使うと負担がある。

調子が悪いと咳が出る。

治療はできないものの、魔法や秘薬で緩和はできる。

 

 

そんな情報しかない。

そう言えば、当直の部屋に全巻揃った『ゼロの使い魔』を読んだ奴が引き継ぎノートにカトレアの病気の所見を書くのが流行ったっけな。

ガンだの白血病といった定番から、糖尿病や心臓病、果ては性病とか書いた奴もいた・・・・・・当直って何だっけ?

 

 

話を聞き終わり、私はカルテを閉じた。

 

「それで、どうなの? 何か判ったの?」

 

彼女の問いに対する回答は至ってシンプルだ。

 

「いくつか心当たりはあるけど、実際に診てみないと何とも言いようがないね」

 

「じゃあすぐにでも診に行きなさい」

 

即座の切り返しだった。

この辺の思い切りの良さはこいつの美徳ではあるが・・・。

思い込んだら一直線というのは嫌いではないけど、ちょっと直情的過ぎるね、この子。

 

「それはできないよ、お嬢ちゃん」

 

「何でよ」

 

「いきなり平民の医者が乗り込んで『医者です、お嬢さんを診察に来ました』って言って万事スムーズに済むと思うのかい?」

 

「私が一緒に行くわよ」

 

「あんたが行っても一緒だよ」

 

私は椅子にもたれかかって言った。

 

「言っちゃ何だが、今も姉君には多くの水メイジが治療に当たっているのだろう?」

 

「当然よ」

 

「考えてもみるがいいさ。公爵家ともなればいずれも高名な治療師なのだろう。

それを脇から平民の水メイジがでしゃばってきて『治してあげます』なんてことになったらその者たちの面子はどうなるね?」

 

ルイズは黙り込んだ。

貴族と平民というカーストが絶対のこの国で、そんなことをした日にゃそれこそ私のほうが身の破滅だ。

ルイズだって公爵や母君からお説教を食らうことだろう。

 

「それに、それだけの水メイジが取り組んで難しい治療を、場末の診療院の水メイジの手に負えるかというの正直なところさね」

 

「でも、診てみなければ判らないって言ったじゃない」

 

「それはそうだけどね」

 

「じゃあ私と一緒にヴァリエール領まで来なさいよ。私の部屋でこっそり診れば誰にも判らないから」

 

「悪いがお断りだね。幾らなんでもそんなに何日もここを空けられないよ」

 

「何でよ」

 

「お前さんの姉君には他の水メイジがいるが、この街の住人には私の代わりはいないからだよ」

 

「平民のことなんか放っておきなさいよ」

 

ああ、この娘はやはり貴族なんだな、と思った。

これが才人と触れ合うことで本当に人の痛みがわかる娘に成長していくのだろうか。

少し不安だ。

 

「お嬢ちゃん、この診療院の扉を叩く者には貴族も平民もないんだよ」

 

私は諭すように言った。

医は仁術。アスクレピオスの杖の下では人に貴賤はない。

しかし、ルイズはどうにもそれがお気に召さなかったらしい。

眉を吊り上げて私を威嚇する。

 

「どうあっても治療はできないというの?」

 

「現時点では私に打てる手はないよ。姉君がここに来てくれれば話は別だがね」

 

 

 

 

 

何気なく言った一言ではあるが、この発言を、私は後々後悔することになる。

 

 

 

 

 

 



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その12

「むお?」

 

朝目覚めると、たいてい私は変な声を上げる羽目になる。

寝相が悪いところに延ばし放題の髪が絡みついて、ベッドの上で一人緊縛ごっこになっているからだ。

しかも髪の量が多いのでちょっとした変死体のようになっている。

いっそバッサリ切ってしまいたいのだが、何故かテファがそれを嫌がり、結果として毎朝ひどい目に遭うことになっている。

乱れないように毎晩寝る前に丁寧に編み込んでいるのに、朝になると金田一さんの見つける死体みたいになっているのは何故なのかは自分でもわからない。

バサバサと手ぐしを入れ髪のラインを整えるが、後ろから見ると何だか茶色い髪と相まってゴキブリのようなシルエットになるからちょいと鬱になる。

 

寝巻のまま玄関ドアを開け、牛乳受けから牛乳を取り出し、道行く人を眺めながら朝の一杯をいただく。

この至福、知らない人には判るまい。

 

「ちょっと、ヴィクトリア!」

 

ぐい~っと煽ったその時、その憩いのひと時を邪魔する声が飛んでくる。

見ればビジネススーツに身を包んだマチルダがメガネの奥から鋭い視線を向けてきている。

 

「おはようマチルダ。今日は早い時間から商談かい?」

 

「ああ、おはよう・・・じゃない! あんた、何回言ったらそれやめるんだい!?」

 

「それ?」

 

「若い娘がキャミソール一丁で玄関先で仁王立ちで牛乳一気飲みなんて、御町内のいい笑い物だよ!」

 

随分心外なことを言う女だな、こいつ。

 

「一日のスイッチを入れる儀式なんだ。ほっといとくれ」

 

「い~や、家人として断固直してもらうよ!」

 

「うるさい子だね。小姑みたいな」

 

「誰が小姑だい。さあ、さっさと着替えてきな。まったくもう。今度やったら許さないよ」

 

「わかったわかった」

 

 

キッチンに入ると、エプロンをつけたディーがテファの手伝いをしながら朝食の配膳をしていた。

 

「おはようございます、主」

 

「ああ、おはようさん」

 

こちらもマチルダ同様にスーツに身を固め、その上からエプロンをつけている。

ちなみにイメージは『Fate/hollow ataraxia』のクー・フーリンが紅茶専門店で働いていた時に着ていた制服をモチーフにしている。

デザインはもちろん私だ。

ついでに言えば、マチルダのスーツも私のデザインで、こちらのモデルはバゼットだったりする。

トリスタニアでは浮くと思ったが、何故か妙に溶け込んでいるから結構不思議ではある。

 

基本的に我が家では朝食と夕食は皆で摂る。

昼食だけはマチルダの工房があるのがブルドンネ街なので、なかなか一緒に摂ることは難しい。

そのためにテファが二人のために弁当を作っており、それを工房で二人で摘む。

 

「最近はどうだい、仕事のほうは?」

 

パンをちぎりながらマチルダに訊くと、瓦版を見ながらマチルダは言った。

 

「ん~、おかげさんで順調すぎて困るよ。お昼食べる時間もないくらいだわ」

 

その腕前もさることながら、影で行われているトリスタニアの美女コンテストで第3位に食い込むいろいろとダイナマイトなマチルダである。

誘蛾灯に吸い寄せられる蛾のように世の中のおぢさんたちがせっせと工房に仕事を回しているに違いない。

ちなみに美男コンテストは2位に大差をつけて我が使い魔が連勝記録を更新中だ。

そんな二人が経営する工房が暇なわけがないものの、見ればちょっとお疲れ気味のマチルダ。

張り合いがあるのはいいけど、目は輝いていてもお肌は正直だ。

化粧ののりが良くないのは見ていてもわかる。

考えてみれば、私もマチルダもテファもディーも、トリスタニアに流れてきてから休暇なんか取ったことなかったな。

 

「冬が来る前に、一度どっかに羽を伸ばしに行かんかね?」

 

「羽?」

 

瓦版から顔を上げてマチルダが奇妙な顔をする。

 

「どこかの田舎でのんびりと命の洗濯をするんだよ。旅籠にでも泊まって美味いワイン飲んで、美味しいもの食べて」

 

マチルダはやや視線を漂わせ、その光景が想像できたらしくニカッと笑った。

 

「いいねえ、どこにしようか」

 

「何、何の話?」

 

脇からティファニアが割り込んでくる。考えてみれば、この子は生まれたときから籠の鳥で、レジャーなんてものは経験したことなかったはずだ。

テファの初めてのレクリエーション。

うん、我ながらいいアイディアじゃないか。

 

「みんなでお休みを取って、ちょっとどこかに旅行しようという話さね」

 

「旅行!?」

 

「のんびりしたところで美味しいもの食べて、ゆっくり体と心を休めるのさ」

 

テファはしばし考え込み、そしてスイッチを入れたように笑った。

 

「素敵だわ。すごく楽しみ!」

 

「どこか行きたいところがあったら考えといておくれ。ディー」

 

私が呼ぶと、食卓の端に座ったディルムッドが即座に応じる。

 

「は、留守はお任せください」

 

「馬鹿言ってんじゃないよ。お前さんも行くんだよ」

 

「い、いや、しかし」

 

「女だけの道中なんて物騒じゃないか。忠勇な騎士が一緒に来ないでどうするんだい」

 

考えてみれば、マチルダがいれば盗賊だの追剥だのがいても怖くもなんともない。

むしろマチルダの性格からすれば狩る者が狩られる者になるだけだが、ディルムッドも私たちの家族だ。おいてきぼりという選択肢はありえない。

とはいえ、忠義に篤いこのフィアナの騎士は、事あるごとに私を上に置こうとする。

今現在食卓で一緒に食事をしているが、それだって紆余曲折が凄かった。

頑として食卓を共にしようとしないので、

「食卓を共にできぬというのであれば雇いを解く。どこへなりとも消えるが良い」

と前田慶次ばりの最後の切り札を使う羽目になった。

彼の信条的に受け入れがたいところを突くあたりは、私もケイネス・アーチボルトを悪し様には言えない外道だと思う。

 

ちなみに、ディルムッドの召喚については純粋にサモン・サーヴァントの術式によるものであって、聖杯システムのそれとは違うらしい。

実際、私の体には令呪は刻まれていない。

何故に聖杯の力も使わないで英霊を呼び出すことができたのかは判らない。

触媒だってあの時はなかったし、何より、使い魔召喚でまさかこんな霊格が高い存在を呼び出せるとは思ってもいなかった。

おかんの宝石箱の中に場違いな工芸品のように何か彼に縁がある品でも入っていたのかも知れんが、素人の私にはよく判らない。

もしかしたらの話だが、不完全ながらも前世の知識を持った私がここにいることから推測するに、聖杯システムとサモン・サーヴァントのシステムの他に、どこかの誰かが作った転生システムのようなものがあってそれらが混線したのかも知れない。

万が一それがマキリ・ゾリンゲンとやらのデザインしたシステムだとしたら、ブリミルと妖怪ジジイの同一人物説をまじめに考えたくなる話だ。

 

閑話休題。

 

正直ありえないこと、判らないことだらけだが、ここにこの高潔な騎士がいてくれて、私にはもったいないほどの忠義を捧げてくれていることは事実だ。

彼が望む誉と勲ある戦いを提供してあげられないは私の不徳の致すところではあるが、できればそんな戦いはないに越したことはないとも思う。

これでも君子の端くれのつもりなのだ。

 

そんな穏やかな会話が紡がれた朝だけに、穏やかな一日が穏やかに流れるものと私は思っていた。

その時までは。

 

 

 

 

季節の変わり目は結構体調を崩す人が多い。

贔屓目に見てもハルキゲニアは平民の医療が発達しておらず、多くの場合は民間医療を中心とした自己免疫で治すのが主流のようだ。

お金をかけて病魔と対峙するという感覚が希薄であり、いよいよひどくなって初めて水メイジに高いお金を払って頼み込んで治すというのが定番である。

地獄の沙汰も金次第というが、お世辞にも裕福とは言えない平民の生活において、医療に回すお金は潤沢ではないらしい。

私の仕事が成り立つのもそういう土壌あっての話ではあるが、やはり根付いた感覚はなかなか払拭することができず、今なお来院する人は二進も三進も行かなくなった重篤な患者であることが相対的に多い。

それだけに、来院した患者には懇切丁寧に原因と病気との因果関係を説明し、予防に努めるよう指示している。

その甲斐あってか、最近は定期的に健康診断に来る人や、些細な違和感でも来院してくれる人も徐々に増えてきた。

あとは暇を持て余したお年寄りが診察時間後にだべるためのサロン化する傾向が顕著だ。この辺は世界が変わってもあまり変わり映えしないらしい。

また、『昼』の町内会では毎度公衆衛生について一席ぶち、その甲斐あってか徐々に街がきれいになってきているので感染症のようなものは今後段階的に減ってくるものと思われる。

何だかんだでトリスタニアの衛生事情は徐々に向上しているようである。

 

ここしばらくは夏の疲れから風邪をこじらせて肺炎まで起こしている患者が多かったが、幸いにも今日は至って平和であり、診察が終わったお年寄りが、水筒や菓子を抱えてのんびりと待合室で歓談しているような午前中であった。

私もただ問診をして触診し、対処法を伝えるだけで終わってしまう診察を幾人か繰り返すだけで時が進む穏やかなひと時だった。

 

異変が起きたのは、診察時間が終わろうとしている昼前のことだった。

聴診器で呼吸器の音を聞いていると、何だか待合室の方が妙に静まりかえっている。

先ほどまでは町内お達者クラブな方々がさえずっていた筈なのだが、今はしわぶきひとつ聞こえない。

まるで森の小動物が猛獣に怯えて逃げ出した後のような気配すら漂っているのに気がついた。

はて、今日はこの患者さんで最後なのか?

そんな様子を気にしながらも目の前のお婆さんの診察を終え、カルテに所見を書き込んで受付に声をかける。

 

「次の人~」

 

「は、はい」

 

何故かテファがどもった。

明るく朗らかなテファにしては珍しい。

 

この時になって、ようやく私の心の中に嫌な予感というのが芽生えた。

野生のジャングルでは私は生き残れないに違いない。

 

ドアが開いて、次の患者が入ってきたとき、私はすべてに合点がいった。

 

 

第一印象は桃色だった。

仕立てのいい、腰がくびれたドレスを着こなし、羽飾りがついた大きな帽子を被っている。

その大きな帽子の下から、思わず引き込まれそうな愛嬌ある美貌がのぞいていた。

 

 

 

ありえん。

 

 

 

真っ白になった思考の中で、私は太ゴシック体でそう思った。

今日の朝から続く穏やかさが嵐の前の静けさだったとしても、この嵐はあんまりである。

むしろ、頭を下げて耐えていれば去ってくれる嵐のほうがまだ可愛げがある。

 

 

 

「はじめまして、カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌと申します」

 

 

 

花のような微笑を浮かべた災厄の化身が、にこやかに自己紹介した。

 



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その13

神様と言うのがいるそうだ。

この世界だと始祖ブリミルというのも幅を利かせている。

困ったことに、そいつらは迷える子羊に艱難辛苦を与えて悦に入る趣味があるらしい。

 

 

 

診察室の椅子に座った美女はにこにこと笑っているが、こっちはポーカーフェイスを作るのが精一杯だった。

 

 

カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌ。

 

 

あのルイズの姉。

ラ・フォンティーヌの当主にして、確か子爵位を持つ立派な貴族。

そして、あの『烈風』の次女。

 

素直に認めよう。

私はこの娘を侮っていたと。

まさか単身で突撃して来るとは思わなかったよ。

しかも、従者の一人もいないというのは大人物なんだか何も考えてないんだかよく判らん。

まあ、もし彼女のおとんやおかんが一緒に来ていたらテファを抱えて逃げ出すところではあるが。

 

何しろうちは平民向けの医療施設であり、しかもかなりいかがわしいエリアにある病院だ。

普通なら、そこに爵位持ちの貴族が来るということ自体がまずありえない。

新宿の歌舞伎町の中にある、小さな寂れた診療所を想像してもらいたい。

それこそ、おヤクザ様が抗争の果てに銃創の治療に来るような雰囲気の診療所だ。

今回の彼女の訪問は、そんなところを千代田区千代田一番にお住まいの方々が訪れたようなものなのだ。

そういう方々なら、普通なら同番2号にある病院に行くだろう。

来たとしても、顔を隠したり深夜に訪ねて来たりして、訳ありな医療行為を頼みに来るくらいか。

コルベール先生はこの口と言えばこの口だったが。

彼女と私には、それくらいの社会的立ち位置の違いがある。

にもかかわらず、彼女は来た。

ルイズのような世間知らずの書生ならまだ判るが、家を構える立派な貴族が来るというのはどういうことか。

しかも、呼ばれてから診察室に入って来たところを見ると、この人はこんな服を着ながら待合室の椅子の端っこにちょこんと座って順番待ちをしていたのだろう。

そりゃ、じいさんばあさんも逃げ出すわな。

 

ゼロの使い魔において、カトレアといえば病弱で薄幸の物静かで優しい女性のイメージがあるが、そこに私の思考の落とし穴があった。

冷静に作品を思い出してみれば、この女性、実はかなりアクティブな人ではないか。

初登場のときは旅籠のドアをバターンと開けて大またで乗り込んでくるし、ルイズたちが逃げるときは鎖を錬金で溶かしたりもしている。

才人に対する一連の対応を見ても、なかなかに行動力がある。

男に生まれていれば、それこそ実力で領地を切り取っていそうな女性だ。

しかし、そうであっても生まれたときからヴァリエール領を一歩も出たことがないはずのこの病める深層の令嬢が、いきなりトリスタニアまで押しかけてくるというのは解せん。

二日がかりの旅というのは彼女にとっては大冒険だろうに。

あのピンクがこのお姉ちゃんに何を吹き込んだのやら。

あるいは、私が恐れるアレが発動しているのだろうか。

 

「あ~、ミス・フォンティーヌ?」

 

「カトレアでいいわよ」

 

にこにこを2割ほどパワーアップしてカトレアが応じる。

 

「では、ミス・カトレア。もしかして、来るところをお間違えじゃありませんかい?」

 

そのにこにこがやたら怖いので一応敬語を使っておくことにする。

 

「ここはトリスタニア診療院でしょ?」

 

『間違ってないわよ?』と言うような顔でカトレアが答える。

 

「その通りですが、うちは平民のための診療院ですよ? やんごとなき貴族様にご満足いただけるような診療はやっとりませんが?」

 

「あら、妹からもらった手紙だと、こちらは患者の受け入れには貴賤の区別をしないところだとあったけど?」

 

やはりルイズルートか。

余計なことを。

あいつはいつか殺そう、精神的に。

 

「確かに貴賤の区別はしませんし来る者を拒むこともしませんが、公爵家ともなれば、こんな下世話なところに来なくてもいくらでも腕利きの水メイジの手配がつきましょう?」

 

実際、公爵家のお抱え水メイジともなればかなりの腕前に違いない。

王室の御典医と比べても遜色のないスタッフがいることだろう。

私も何とかスクウェアの端っこに手が届いているが、実際にはクラスというのは実践の場では意味をなさないこともままある。

特に医療ともなれば経験ほど物を言うファクターはない。

海千山千の治療師で、私より確実な治療をする者だってゴロゴロいるだろう。

所詮、私の技術は前世の記憶とこちらの水魔法のいいとこ取りをした付け焼刃だ。

どうしても深みに欠ける部分がある。

それだけに、本腰を入れて時間をかけて研鑽を積んだ水メイジの実力には素直に敬意を払っている。

私の存在意義は、水メイジからの医療サービスの供給と平民医療の需要のギャップを埋めていることにあるのであって、そういう御大層な方々とは住んでいる世界が根本的に違う。

使っている秘薬だって自作の物がメインだし、効能だって本家に比べれば顧客層の懐具合に合わせているので数段落ちるものばかりだ。

たまにピエモンのところで友情価格で在庫処分のおこぼれにあずかったりもするが、金を湯水のように使える大貴族のお眼鏡にかなう水準の医療は望めない。

それなのに、何を好き好んで平民用の診療所の門を叩くのであろうか。

正直、理解に苦しむ。

そんな私に、カトレアが言う。

 

「妹の手紙に、ここの診療所はとても独創的なところだって書いてあったのよ」

 

「独創的、ですか?」

 

「ええ。見たこともない道具がいっぱいあって、とても普通の治療師に見えなかったってあったわ」

 

確かに診療所の道具類に関してはこの世界にない道具がたくさんある。

覚えている前世の知識をもとに、マチルダに頼んで作ってもらったものばかりだ。

この世界の医療に流派があるかは知らないが、ある意味ヴィクトリア流医術という感じの世界がこの診療所の中にはある。

そう言えば、あのピンクは酒場で働きながらもきちんと情報収集やるくらい観察力があったっけ。

 

「私、昔から体が弱くてね。父が国中のお医者様をお呼びしてくれて診てもらったんだけど、なかなか良くならなくて。もしかしたら、まったく違う治療法をやっているところなら何か違うことが判るんじゃないかな、って思ったのよ」

 

「買いかぶられては困りますな」

 

私は本当に困った。

話に尾ひれ背びれがついてヴァリエール領まで泳いでいってしまったらしい。

確かにセカンドオピニオンというのは重要なことではあるが、そこには常に相手の面子というものが付いて回る。

現代日本でもなかなか障害があるのに、中世レベルの精神性しかないこの世界では下位カーストの私がしゃしゃり出た日にゃどんな未来が待っているか予想もつかない、というか予想がつきすぎて怖い。

裏を知らなきゃ幾らでも診察をするが、正直、あえて虎口に飛び込むまでの義理はない。

敵が正面から来てくれるならそれもいいが、搦め手を使われては個人対組織の戦いでは個人には勝ち目はない。

いくらディルムッドが無敵の使い魔であっても、私たちすべてを完全に守りきれるわけではない。

朝の一杯の牛乳に毒が入っているだけでも人は死ぬのだ。

困った顔をする私に、カトレアが微笑む。

 

「あとは、そんなお医者様がいるのなら、顔を見てみたかった、っていうのもあってね」

 

言葉の意味を理解するのにきっかり3秒かかった。

 

「私の顔ですか?」

 

「ええ。背と胸は自分より小さいけど、とてもはっきりした判りやすい人だと妹が楽しそうに書いていたから興味がわいちゃって」

 

それはもう楽しそうに言うカトレア嬢。

やはりあいつはいつか殺そう、社会的に。いや、前段についてはむしろ物理的に。

私はこめかみの井桁模様を営業スマイルで隠して応じる。

 

「こんなそこらに良くある顔のために遠路はるばるご苦労様です。しかし、医者は顔で人を治すのではありませんのでね」

 

私の言葉にカトレアはコロコロと笑い、そして妙に深い目で私を見つめた。

 

「本当に面白い人ね、あなた。すごく興味深いわ」

 

私は脂汗を流した。

嫌な目だ。

私の心の底まで見透かすような深い目。

これは多分ばれているな。

そんな私にカトレアが言った。

 

「ねえ、あなたってどういう人なのかしら? 見た目は普通なんだけど、心が何だか普通の人と違う感じがする」

 

私がこの人を恐れた最大の理由がこれだ。

『どちらの貴族かしら?』と訊かれるだけならあしらう術は幾通りもある。

実際、トライアングル以上のメイジで庶民に混ざって暮らしているなんてのは大抵訳ありなのだから、その辺のごまかし方は心得ている。

最悪、出自に触れられても何とか対応することもできると思う。

 

しかし、たった数分の会話で『中の人』のことまで見通すとは恐れ入る。

 

人の歴史には、たまにこういう異物が紛れ込む。

五感とは違う何かで物事の本質をつかみ取り、初見で核心に至る事が出来る異能者。

いわゆる直感力のようなものだろうか。

ここまで来ると、宇宙世紀の人ではないかと思うくらいだ。

今回の来訪にしても、恐らくルイズの手紙から『何か』を読みとったからここまで足を運んだのだろう。

確かに、私のところでは普通の治療師とは異なる手法で治療を行っているが、そこに何を感じ取ったのかまでは凡人の私では計りかねるのが正直なところだ。

私のパーソナリティにだって、ピンクがそこまで紙面を割いていたわけではあるまいに。

そう考えると、この女性が得体が知れない何かに思えてくる。

 

「あら、困らせてしまったみたいね。ごめんなさい」

 

邪気のない笑顔でカトレアが微笑む。

私は慎重に言葉を選んだ。

 

「さあ、自分のことは実は自分が一番知らないというのが私の持論でしてね。己が何者か、どこから来てどこに行くのか、なんてのは青春期の思考遊び程度に止めておくものでしょうや。難しいことは私には判りません。私は、ここを訪ねて来た者に治療を施す、ただの町医者でさあね」

 

そう言うと、カトレアはにっこりと笑った。

『言質は取りました』と言わんばかりの笑顔だった。

 

「そう、それを聞いて安心したわ。そのためにここまで来たんですもの」

 

言うなり、カトレアは真っ青になって震えだした。

 

「じゃあ、普通の患者として、治療をお願い、する・・・わね」

 

そして、そのまま椅子から崩れ落ちた。

 



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その14

走り去る馬車を見送りながら、私は大きく息を吐いた。

隣にいるテファが泣きそうな顔で私を覗き込んできた。

 

「・・・姉さん、大丈夫? 顔色ひどいよ?」

 

「ああ、大丈夫だよ」

 

テファが先生ではなく姉さんと呼ぶ時は、仕事モードから離れた時だ。

身内としての心配が先に立つからには、さぞひどいありさまなのだろう。

 

私は一端診察室に戻り、部屋の片隅にある洗面台で顔を洗った。

鏡を見ると、水に濡れた自分の顔が見えた。

目が落ち窪み、疲労がこびり付いていた。

精神力をぎりぎりまで消費したのだから仕方がない。

 

ひどく疲れる一日だった。

 

 

 

*********************************

 

 

経験というのは恐ろしい。

脳みそはパニックになっているにも関わらず、体は事態に対応するために機械仕掛けのように動いた。

崩れるカトレアを支え、すぐにレビテーションを唱え、意識が飛んだカトレアを処置室のベッドに運び込んだ。

 

「テファ!」

 

大声で呼ぶとテファが慌てて処置室に入ってきた。

 

「ひとっ走り大通りに出て、この人の馬車を探して来とくれ」

 

恐らくワゴンタイプの馬鹿でかい動物園馬車を使っているのだろう。

 

「急変ですか?」

 

「何がどうなっているのか判らんが、こっちは何とかやってみる。まずは御者からこの子の家に連絡を入れてもらうようにしとくれ。ついでに王城にも連絡しとくれな」

 

ヴァリエールの名前を出せば、宮廷の水メイジの応援を確保できるかもしれない。

 

「判りました」

 

問題のカトレア女史はと言えば、息が乱れ、非常に苦しそうな気配。

取り急ぎ着衣を剥ぎ、聴診器を当てる。

呼吸音にひどいラ音が混ざる。

次に目をこじ開けて瞳孔と目の動きと粘膜を確認し、次に喉を覗き込む。

この急変はアレルギー性のものではないと思うが、念のための確認だ。

アレルギー性の喉頭浮腫でも出ようものなら挿管か気管切開せにゃならんところだが、とりあえず扁桃炎が見えるだけで喉のあたりも大丈夫。

続いて検温しながら触診で各部を診察し、私は思わず声なき悲鳴を上げた。

 

なんぢゃこりゃ!

 

体の至るところが炎症を起こしている。

熱は39度8分もあった。

これでは立ってるだけでも辛かろう。

よく平気で歩いてきたな、こいつ。

急いでスピッツで血液を採取して魔法でもって検査する。

病理検査がルーン一つでおっけーと言うのがこの世界のいいところだ。

何と言うチート。

検査して驚いた。

複数の細菌に感染しているではないか。

細菌感染なら打つ手はある。

取り急ぎ秘薬を取り出し、念のためのパッチテストをしてから点滴の形で体内に送り込んだ。

私のオリジナルの薬で、細菌の分裂を抑える効能がある。

抗生物質のそれに近い代物で、大した副作用なく細菌皆殺しと言う優れものだ。ちょっと便秘するが。

抗生物質と言えばペニシリンが有名で、漫画なんかでペニシリンを中世レベルの技術で作る話や青カビをそのまま食べさせたりするヨタ話があったと思うが、そこまでしなくても似たような薬が作れたから私はこっちを利用している。

魔法耐性菌なんてのがそのうち出てくるかも知れんが、その時はその時だ。

とりあえず、まずは炎症を止め熱を下げねばならない。

治癒の魔法を重ねがけして、あとは秘薬頼み。

解熱すら魔法で足りるからこの世界は素晴らしい。

ネギを買ってこなくて済むことは始祖に感謝だぞ、カトレア嬢。

 

次に調べるのは原因だ。

本当はあまり深入りせずにこの場を凌いで王城か公爵家の水メイジにバトンタッチしたいが、更なる急変を起こされてはかなわない。

魔法というのは恐ろしいもので、うちみたいな零細病院でもある程度の三次救急クラスの患者に対応可能だが、今回のような原因不明な患者の場合はある程度原因を調べておかないと、突然時間切れになる可能性がある。

いつ何時何が起こるか判らないだけに、カトレアの体に潜んだ爆弾の正体と、その導火線の具合くらいは掴んでおいた方がリスクが低い。

そんな打算を考えながら体を詳細に探っていく。

高位の風のメイジは心音で敵の位置を悟るというが、水の高位メイジは触診で人の体の状態をミクロのレベルで把握しうる。

これでも水のスクウェアの端くれ、それくらいの芸当はできる。

両手を彼女の素肌に密着させ、ソナーのように血液やリンパ液の流れを探っていく。

正直、ここまでひどい患者も珍しい。

至るところで炎症を起こしており、そのためか内臓の働きが弱い。

呼吸器は間質性肺炎に気管支炎が少々。

循環器は概ね健康だが、心臓はやや発達不良。運動不足のせいだろう。

腎臓、脾臓、膵臓はよし。

カトレアの病気については以前の私の予想は1型糖尿病だったが、ランゲルハンス島は元気にインシュリンを生み出している。

消化器では腸炎を確認。

肝臓の炎症を調べている時には小さな腫瘍が確認できた。

 

 

診察の途中でテファが戻ってきた。

息を切らしていた。

いろんな意味で走るのが苦手なテファだが、全速力で駆けまわってくれたのだろう。

 

「どうだったね?」

 

「広場にヴァリエール公爵家の家紋の入った馬車はありましたが、御者はゴーレムだったので、急いで速達郵便で公爵家に詳しいことを書いた手紙を出しておきました。王城の方は、ディーさんに応援を頼んで連絡に行ってもらっています」

 

テファという娘は穏やかなように見えて、こういったアドリブは結構利く子だ。

フクロウが運ぶ郵便なら、夕方にはヴァリエール公爵家に書面は届くだろう。

それより先に王宮から水メイジが来てくれればそちらに引き継げる。

 

「上出来だ。すまないが、患者の容態をしばらく診ていておくれ」

 

テファにカトレアを任せて、私はさらに深いレベルの検査に取りかかった。

採取した血液をより詳細に調べて行く。

床に結跏趺坐の姿勢を取って瞑目し、意識の集中を図る。

 

 

Empty your mind, be formless,

shapeless - like water.

Now you put water into a cup, it becomes the cup,

you put water into a bottle, it becomes the bottle,

you put it in a teapot, it becomes the teapot.

Now water can flow or it can crash.

Be water, my friend.

 

 

意識を極限まで研ぎ澄まし、血液の深みにイメージを落としていく。

赤血球、白血球、血小板を『視』ながら、その機能を掘り下げる。

意識の触角が、ザラりとした感触を覚えた。

神経をより先鋭化し、その感触の奥へ精神を差し込んでいく。

精神の視野は、血球細胞の観察を意識下で映像化していく。

神経が焼き切れそうな作業だが、病魔の尻尾を掴みかけた感触に持てる力を振り絞る。

程なく、異常の正体に行き当たった。

 

免疫機能の要とも言えるリンパ球である、T細胞の数が少なすぎるのだ。

 

私は全身に冷や水を浴びせられたような感覚を味わった。

易感染と、白血球の異常。

信じたくない思いを抱えながら、次いで胸腺に検査の手を進める。

一つ一つ、石を積むように丁寧に原因を紐解いて、核心に向かう。

 

引き延ばされた粘つく時間流の中で、私は黙々と検査を進めた。

 

 

 

*********************************

 

 

 

 

王城から水メイジが駆けつけてくれたのは夕方だった。

お役所仕事と言うつもりはない。

情報の伝達から人選まではそれなりに時間がかかるのはやむを得ない気がするからだ。

幸いにも秘薬が効いたようで、更なる急変もなく処置室のカトレアは穏やかな寝息を立てている。

馬車で駆けつけた王宮の水メイジを処置室に招き入れて状況を説明し、施した措置と投薬の内容を説明する。

点滴は既に終わっており、すぐにでも移動が可能だったので水メイジが乗って来た馬車にレビテーションで保持しながらカトレアを王城の医務室に移送することとなった。

そこで私は何とかお役御免となった。

とりあえず、最悪の事態は脱することができた。

後の面倒は王城が見てくれることだろう。

 

 

 

肩に載った大きな荷物を下ろせたものの、正直、私は疲れ果てていた。

泥のように重い体を引きずりながら、白衣を脱いで診察室の椅子に投げた。

テファがドアから首を出して声をかけてくる。

 

「夕食、できてるから」

 

「ああ、すまないね」

 

キッチンでは、既に帰宅していたマチルダとディーが待っていた。

 

「ちょっと、大丈夫かい?」

 

「ああ。今日は二人ともありがとう」

 

私の顔色が余りにひどいのか、マチルダもディーも心底心配そうな顔をする。

今年で二十歳ではあるが、精神力の成長に比べ、私の体は発育が不十分だ。

それだけに体力は見た目に比例しており、たまに来るカトレアのような重篤な患者の場合はギリギリまで体力を削られることになる。

精神力とて、最後にそれを支えるのは体力だ。

 

 

食事を口に運びながら、私は今日の事を反芻する。

結論から言えば、カトレアの病気について、私はその根源に辿り着くことができた。

 

 

免疫不全症候群。

 

 

それが私の所見だ。

恐らくは生まれつき造血幹細胞に異常を持つために、免疫担当細胞であるT細胞の数が少ないことに起因する症状と思われる。

これでは幾ら水の秘薬で治療をしても治らないのは当然だろう。

体の芯から良くないとはよく言ったものだ。

多少の水の流れを変えても治らないのも頷ける。

罹患と治療のいたちごっこになるのも仕方がない。

 

残念だが、ハルケギニアの医療では彼女を救う術はない。

以前にも述べたかもしれないが、治癒魔法や水の秘薬は免疫や自己修復機能をベースに原状回復をもたらすものだ。

その効果は地球の医療以上のものがあり、その気になれば癌でもAIDSでも狂犬病でも治すことが可能。

しかし、大元の遺伝情報に異常があっては幾ら手を施しても意味がない。

恐らく、公爵家ほどの治療体制がなければ間違いなく乳幼児期に死亡したであろう重病だ。

むしろ、彼女が今も息をしていること自体が完成された奇跡とも言えよう。

かかった費用や手間暇は、想像を絶するものであったに違いない。

彼女の両親の愛の深さを見る思いだった。

 

そんなことを考えていたためか、せっかくの食事だったが正直あまり味が判らなかった。

自分で思ったより疲労が深刻なのも原因かもしれない。

それでも食べなければ体力が回復しないので無理やりに胃袋に押し込んだ。

幸い、テファが気を回してくれたのか、夕飯は消化のいいメニューだったので胃もたれは避けられそうだった。

 

食事が終わるころ、風呂が沸いたとディーがキッチンに入って来た。

いつもは私が魔法で沸かすが、きちんと釜もあるので燃料でも沸かすことができる。

今日はディーが沸かしてくれたらしい。

マチルダの勧めもあり、私はありがたく一番風呂をいただいた。

 

湯につかると、自覚のなかった体中の緊張がほぐれていく。

湯のぬくもりを感じながら、私は思う。

前世の知識があっても、やはり人一人でできることには限界がある。

今日とて、とてもではないが一人では荒波を乗り越えることはできなかっただろう。

家族がいることが、無性にありがたく思えるのはこういう時だ。

 

三人の家族に深い感謝の念を抱き、心地よい湯温に身を委ねながら、私はあっけなく眠りに落ちた。

 

 

 

そして、長湯を心配して様子を見に来たマチルダにちょっとだけ怒られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな私のところに、ラ・ヴァリエール公爵家から召喚状が届いたのは4日後のことだった。



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その15

 取って食われはせんだろう。

 

 そう開き直るまでに1日かかった。

 冷静に考えてみれば、私は何ら悪いことをしていない。

 幸いにもカトレアは生きたままこの診療所を出て行った。

 出て行った先でどうなったかは、平民の私には判らないことだ。

 血相変えた彼女のおとんやおかんが杖を持って押しかけてこないところを見ると、死んではいないと思う。

 もし死んでいたら、今頃この辺り一帯は『被災地』と化していることだろうし。

 また、本当に因縁をつけるつもりなら、召喚状などという面倒なことをせずに直接兵隊をけしかけてくるだろう。

 かといってトリステインの貴族様が平民相手にへりくだった手紙をしたためるとも思えない。

 そう考えると召喚という手段はちょうどいい落としどころとも思えなくもない。

 

 それでも、私たちはそれなりに緊張を強いられた。

 前日になると、マチルダはヴィンドボナの地図を熱心に見分し、テファは大きな鞄を引っ張り出し、ディルムッドは街道筋や国境の警備状況を確認していた。

 かく言う私も、手持ちの現金のある程度を宝石に代えておいた。

 打ち合わせもしていないのに皆で同じような考えに行き着いているところは不思議だ。

 何だか『家族』というより『一味』という字面が似合いそうな気がする私たちだった。

 

 

 あっという間に時は流れて召喚当日になった。

 ヴァリエール領までは馬車で2日だが、今回呼び出された先はトリスタニアにある公爵家の別邸だ。

 気が進まない中、とぼとぼと王城を取り囲む貴族屋敷街に向かって川を渡る。

 アップタウンより更に王城に近いエリアなぞほとんど来たことがない。

 そのため、さすがに今日ばかりは私もきちんと礼服を着ている。

 白いブラウスにタイを締め、いつものだぶついたショートパンツではなくきちんと黒いスカートを履き、足元もサンダルではなく革靴だ。

 上着も、さすがに今日ばかりは白衣ではなくマントを身に着けている。

 いつもならお供はテファだが、今日ばかりはディルムッドに一緒に来てもらった。

 工房も今日はお休み。

 その扉が二度と開かれない可能性があるのは、工房も私の診療院も同じだ。

 もしかしたらの話ではあるが、最悪の場合は今日限りでこの地ともおさらばの可能性がある。

 トリスタニアにも愛着はあるが、やはり最後は我が身が可愛い。

 何かあったらわき目も振らずにとんずらし、本当にマチルダ・ティファニア組と合流してゲルマニアに逃げ込もう。

 そうならないことを祈りながら私は歩みを進めた。

 

 

 別邸に着くと、私は思わず感嘆の声を上げた。

 さすがは大貴族だけあって、別邸の大きさもそれはそれはすごいものだった。

 正門の前に行くと、衛兵がポールウェポンを持って誰何の声をかけてくる。

 ありがた迷惑にもいただいた召喚状を見せると、衛兵はまじまじとそれを見つめ、少し待てと言って奥に消えていった。

 

 しばらくしてやってきたのは、初老の執事さんみたいな雰囲気の人だった。

 

「ミス・ヴィクトリアですか?」

 

 予想に反して慇懃な態度だった。

 私は召喚状を見せて用向きを告げた。

 

「お召しにより参上しました」

 

「・・・こちらへ」

 

 妙に態度が柔らかい。

 平民相手とは思えない態度だ。

 その態度に何だか引っかかるものを感じたが、とりあえず大人しくついていくことにする。

 杖を取り上げられるわけでもないし、ディルムッドと引き離されることもない。

 何だか妙だ。

 

 案内された部屋は、豪勢な調度が並ぶゲストルームだった。

 これ、貴族用の部屋じゃないの?

 と言うより、呼び出した平民風情を屋敷の中に入れること自体が異例だと思うのだが。

 座って待てと言われたが、何だか身の置き場がないので私は窓から庭園の様子を眺めていた。

 数年前まで住んでいた城の庭にも結構庭木が植わっていたが、この庭もなかなかに贅が尽くされている。

 植木の枝ぶりなどは見事なものだ。

 かと言って成金な気配が欠片もないところにヴァリエール公爵家の品のよさが伺える。

 

 庭を見ながら時間をつぶしていたが、なかなか呼び出しがかからない。

 首をひねっていたら先ほどの執事さんが入ってきた。

 

「主人の所用が長引いております。もうしばらくお待ちください」

 

「いえ、お気になさらず。あの、もしよろしければお庭を拝見したいのですが」

 

「・・・あまり遠くにはお行きになりませぬように」

 

 ディルムッドに部屋に待機してもらってテラスに出てみると、庭はやはり美しく、園丁の匠の技が良く解った。見事なものだ。

 飛び石を踏みながら私は植栽の間を縫うように歩いた。

 水の属性の私は、植物との相性がいい。

 診療所でも景観にも益するのでプランターで花を育ててはいるが、やはりできれば庭が欲しいところだ。

 土地持ちと言うのは実に羨ましい。

 庭の一角にはかなりの規模の薔薇園が設けられており、まるで映画で見た『秘密の花園』のような雰囲気を醸成していた。

 そんな感じで植栽を楽しんでいると、木々の間に見える東屋に桃色の髪が見えた。

 カトレアが、椅子に座って無表情で空を見ていた。

 先日見た天真爛漫な雰囲気はそこにはない。どこか糸が切れた人形のような空虚な空気があった。

 あまり遠くに行くなとも言われたし、近寄ろうかどうか悩んでいると、突然カトレアの表情が一変した。

 まるで泣き出しそうな子供のような顔になり、膝掛に包まれた自分の膝を何度も叩く。

 その様子に何とも危なげなものを感じ、私はカトレアに向かって歩みを進めた。

 

 近くに寄ると、私の気配を察したのかカトレアは顔を上げるといつも通りのにこやかな表情に戻り、私に向かって話しかけてきた。

 

「あら、先生。いらしてたのね」

 

「ありがたくも召し出されましてね。その後の具合は?」

 

「おかげさまで、今は楽になったわ。あの時はありがとう」

 

「それは良かった」

 

 私の言葉を最後に、会話が途切れた。

 木々が濃い屋敷の随所で、鳥の鳴く声が聞こえる。

 私たちは、しばらく並んで庭園を見つめていた。

 貴族の庭園らしい、静かで穏やかな空気と時間が、静かに心に染み渡っていく。

 

「時々、たまらなくなるわ」

 

 思い出したように、カトレアが口を開いた。

 抑揚のない、事実だけを告げているような物言いだった。

 

「どうして私はいつまでたっても良くならないのかしら。侍医の人たちは一生懸命やってくれているけど、現状維持だけで精一杯みたい」

 

 私はあえて何も言わなかった。

 かけられる言葉は幾つもあるが、明るい方に話題を振れば、恐らくそれは嘘になる。

 この娘には嘘は通用しない。

 余計なことは言わずに、カトレアの言葉を黙って聞いているしかなかった。

 

「両親は良くしてくれるし、姉も妹も優しいわ。屋敷のみんなも私のことをすごく大事にしてくれる。でも、すごく羨ましくなることがあるのよ。同い年の他の子たちは、皆、お嫁に行ったり、お仕事をしたり、楽しい学校生活を送って、多くの友達に囲まれて……」

 

 そこまで言って、カトレアは俯いた。

 私にはその呟きが、カトレアが抱える呪詛に聞こえた。

 おそらくは、これまでずっと内に貯めていた負の感情なのだろう。

 親にも言わず、姉妹にも告げず、侍医たちにも黙っていた、彼女の内なる気持ちが漏れてきたのだと思う。

 病める者で、健康を願わない者はいないのだ。

 カトレアは治らない。

 そして、彼女を知るすべての者が恐れている日が来るのも、今のままではそう遠い日ではないと思う。

 それがこの世界の、ハルケギニアの理だ。

 

 私は黙って自分の手の中にある杖を見つめた。

 誰にもらったかは知らないが、生まれた時に贈られてきたという青水晶の杖だ。

 アルビオンから逃げ出してからこっち、トリスタニアでの私を支えてくれた杖だ。

 病気を癒し、傷を癒し、時には人を殺めたりもした私の分身。

 医者の看板を掲げていても、必ずしもすべての人を助けられたわけではない。

 老いて死にゆく者、手の施しようがなかった者。

 そんな者たちの慟哭を礎に、多くの者の笑顔があった。

 この杖にはそんなしがらみがこびりつき、既に私には重いくらいの物となっている。

 言うなれば、死者を見送る司教の首にかかる聖具のようなものだ。

 抱え歩くには、神のような信じる寄る辺がなければ人が持つには重すぎる。

 だが、私が神を信じたとしても、神は常に沈黙を守る。

 人を助けることは、常に人にしかできないこともこの世の理だ。

 この、しがらみに塗りつぶされた杖を、振り続けられるのもまた私しかいない。

 死んでいった者たちの事を思えばこそ、私にはこの杖を振るう義務がある。

 故に、カトレアが零した、血の一滴のような言葉が私の指針を決めた。

 

 

「先生……」

 

 

 しばし、沈黙がおりる。

 鳥が囀る穏やかな庭園の中、私たちの周囲だけが時間が止まったようであった。

 ややあって、私は空を仰いだ。

 

 私は天才でも英雄でもなければチートな力を持った異能者でもない。

 選ばれた者などでは断じてない、前世の記憶を持っているだけの普通の小娘だ。

 だが、私は医者なのだ。

 死と言う、神が定めた摂理に対する反逆者なのだ。

 浅学で、矮小で、無力ではあっても、アスクレピオスの杖の下に生きる種族なのだ。

 それこそが、トリスタニアで生きていくと決めた時に自分に課した誓いに他ならない。

 カトレアの呟きの、その先の言葉は聞かなくても判る。

 それだけで、私はこの世の理に立ち向かうことができるのだ。

 悲しいことに。

 

 私は何も言わずにその場を後にした。

 背後でカトレアが一礼をしていたのには気がつかなかった。

 

 

 

 

「お待たせいたしました」

 

 先ほどの執事さんみたいな人が迎えに来て、準備ができたからと屋敷の奥に案内された。

 長い廊下をしばらく歩く。廊下に置かれた置物なども趣味がいい。

 さて、いよいよ査問かと腹をくくるが、案内された部屋に入って私は凍りついた。

 見上げた天井いっぱいに、無数の薔薇の花が描かれていたからだ。

 

 『ス・ロセ』の間。

 

 貴族の屋敷にはたまにこういう部屋がある。

 私が昔住んでいたアルビオンの屋敷にも設けられていた。

 何をたくらんでいるんだ、公爵家?

 私がこれからやろうとしている事を考えると、ある意味お誂え向きとも思えるが、相手の腹の内がいまいち判らない。

 私が予想しうる展開のバリエーションを考えていると、部屋の奥の扉が鈴の音とともに開かれた。

 先ほどの執事さんが入ってきて、大きな声で言った。

 

「ラ・ヴァリエール公爵のお成りでございます」

 

 おいおい、いきなり御大のお出ましか。

 正直ちょっとビビりながらも、私たちは頭を下げて公爵閣下の入室を待った。

 限られた視界のなか、部屋に入ってきたのは初老の男性で、髪にやや白いものが混じり始めているおじさんだった。

 

「そう畏まらなくてもよい」

 

 公爵の言葉に私たちは頭を上げた。そんな私たちを見ながら渋いバリトンで公爵が言った。

 

「お前が我が娘を助けてくれた町医者か?」

 

「はい。トリスタニアで診療所を営みますヴィクトリアでございます」

 

「『慈愛』のヴィクトリアか。話は聞いている」

 

 ……何でおっさんまでそのこっ恥ずかしい二つ名を知っているんだ?

 とりあえず、椅子を勧められたので素直に着席した。

 ディルムッドは私の背後に控える格好だ。

 

「さて、早速だが、今日来てもらったのは他でもない。お前が施した娘に対する治療についてだ」

 

「何ぶん、場末の診療所ですので、至らぬところが多くて申し訳ありません」

 

「謙遜は良い」

 

 ずいぶん投げ遣りな感じで公爵は言い捨てると、今回の事の経緯を語り出した。

 その話を聞くに、カトレアのあまりの無軌道ぶりに私も絶句した。

 

 朝、近場を回ってくると言って馬車で出かけてから、昼になっても帰ってこない。

 夕方になってさすがにおかしいと思った屋敷の者が探索を開始。

 カトレアの部屋からは『数日家を空けます』との書き置きが発見された。

 御者がゴーレムなのを良いことに、そのまま夜を徹して走り、私の診療院に来たというのが今回の経緯だ。

 馬もさぞ迷惑だったことだろう。

 健康に難のあるカトレアは日々の薬の服用が必須なのだが、それを怠ったがために私の診療所に来た時は、既にいろいろ秒読み態勢だったらしい。

 結果として予定調和の通りに昏倒し、私が処置する羽目になったというわけだ。

 まるで暢気な自殺のようだ。

 幸か不幸か私はカトレアの応急処置に成功したが、下手をしたら私の診療所で貴族のご令嬢が急死するという鳥肌が立つ事態を迎えていたかもしれない。

 私もずいぶん薄い氷の上を歩いていたものだ。

 

「そこで、お前に話を聞きたいという者がおってな。今日来てもらったということだ」

 

 公爵が手元の鈴を鳴らした。

 それに応じて扉が開き、50歳くらいの熊のようなでっかいおじさんが入ってきた。

 山のフドウみたいな人だ。

 マントを着ているところを見るとメイジのようだが、私の感覚に引っかかる雰囲気があった。

 この人、水のメイジだ。

 それもかなりの高位の。

 スクウェアなのは間違いないが、魔法使いをABCDランク法で分類すればA+。

 下手したらSくらいは行くのではないだろうか。

 ちなみに私はA-、『烈風』さんはSSSという感じだ。

 

「この者はカトレアの侍医長を務めておってな。長年娘の面倒を見てくれているが、その経験から見ても、今回のお前の治療は驚くほどであったとのことだ」

 

「過分なお言葉です」

 

 できるだけ謙虚に出ている私に、公爵の許可を求めて侍医長さんが発言した。

 

「ミス・ヴィクトリア、いや、ドクトレス・ヴィクトリア、君は自分の成果を理解しているかね?」

 

「と、申しますと?」

 

「我々は、カトレア様が発病するたびに、容体の安定までに数日を要している。それを君はほんの数時間で容体を安定させて見せた。一体どういう魔法を使ったのか、我々には見当もつかないのだよ」

 

 ようやく査問らしくなってきたな、と思いつつ、私はカトレアに施した診療内容を説明した。

 もともとは彼こそがカトレアの主治医だ。詳細を知る必要はある。

 治療内容についてつぶさに話したところ、その中の一つに、侍医長さんが反応した。

 

「点滴?」

 

「はい。感染を確認したので、当院で作製している秘薬を静注しました」

 

 魔法全盛のハルケギニアにおいて、点滴という手法は一般的ではないものの全くない訳ではない。

 

「では、君のその秘薬が功を奏してカトレア嬢の容体は安定したということでよいかな?」

 

「私の見立て違いでなければその通りです」

 

「では、その秘薬というのはどういう組成か教えてもらえないか?」

 

「取り立てて大層なものではありませんが……」

 

 私は、体内の病原菌の増殖を抑える効能について説明したが、話すうちに室内の気温が目の前の二人の熱気のせいで上がり始めるのが分かった。

 公爵と侍医長さんの視線のぎらつきが怖い。

 話し終わるや、侍医長さんはいきなり立ち上がった。

 

「素晴らしい」

 

 まるで神の声を聞いたかのような表情だった。

 

「そのような切り口の秘薬は初めて聞きますぞ」

 

 それはそうだろう。

 実は、始祖以来6000年の魔法文化において、体系づけられた厳格な細菌学は存在しないのだ。

 この世界にはパスツールもコッホもいないからか、何事も魔法で片付けてしまうためか、私の中では常識以前の大前提となっている細菌について、水のメイジたちには掘り下げた知識がない。

 違った切り口からは事の本質を掴んではいるが、具体的な微生物の世界をつぶさに研究している人はいないようだ。

 それがなくても魔法薬で代用が効くだけに、抗生物質と言う発想自体がないのだ。

 どっちが優れているかはともかく、今回はそれが良い方に出ただけの話だ。

 

「それで、君の秘薬というのはどのように作るのかね。是非そのレシピのレクチャーをお願いしたい」

 

「あ、あの、レクチャーはいいのですが……」

 

 私は慌てて話を止めた。

 

「私は市井の単なる平民です。あの秘薬だって秘薬というのもおこがましいものでして」

 

「ドクトレス、我々はそのおこがましいものですら作り出すことができなかったのだ」

 

 困惑する私に、侍医長さんは笑って言った。

 

「何も我々は君を糾弾しようというわけではない。確かに我々とて治療師としての意地やプライドのようなものは多少は持っているが、我々の仕事はカトレア様の治療であり、未だそれを成しえていない以上、そんなつまらんことに拘ってはいられないのだ。我々が望むものは名誉ではなく成果なのだよ」

 

 口角泡を飛ばして語る侍医長さんに、公爵は同意するかのように頷いた。

 

「娘が治るのであればいかなることでもしよう。例え平民の秘薬であろうと、言い値で買い取ってやる」

 

「は、はあ……」

 

 毒気を抜かれて私は曖昧にうなずいた。

 今までどういう目に遭わされるかと怯えていただけに、肩透かしを食らったような気がした。

 結構決死の覚悟で乗り込んできたつもりだっただけに、何だかこの段階で自分の気力が燃え尽きてしまったような気すらする。

 とりあえず、ゲルマニア行きの話は回避できそうだ。

 

「秘薬もそうだが、お前の施した治療の詳細についてもこの者たちに語って聞かせてやってもらいたい。手間賃は出す。また、先日の治療の代金も払っていないそうだからな。その分も払ってやる」

 

「それはありがたいお話ですが、私の秘薬では、症状を抑えることはできてもお嬢様の病を治すことはできません」

 

「そうなのか?」

 

「はい、お嬢様の病巣は、もっと深いところにあるようですので」

 

 私の言葉に、二人は凍りついた。

 侍医長は震える声で言った。

 

「も、もしや、君はカトレア様の病根の見当がついていると?」

 

「おそれながら」

 

 その言葉を聞くや、公爵は荒々しく立ち上がった。

 

「せ、説明しろ、今すぐにだ!」

 

 顔を紅潮させ、今にも卒倒しそうな公爵が唾を飛ばして怒声を上げた。

 医者として、血圧が心配な形相だった。

 私は頭をかき、ちょっと口ごもった。

 

「遺憾ながら、これからお話しすることには現在のブリミル教の教義にそぐわない部分がある可能性があります。もし聞いていただけるのでしたら、そのことはこの部屋だけの秘密ということでお願いします。一人が口を滑らせれば、ここにいる者全員が火炙りになる可能性もある話です。故に、すべては薔薇の下での話ということでよろしいでしょうか?」

 

 私は天井を指さした。

 ここは『ス・ロセ』の間。

 口外無用の話をするための部屋である。

 

「構わぬ。さっさと申せ!」

 

「では」

 

 ここからが正念場だ。

 私は立ち上がってマントを脱いだ。

 黒板を用意してもらい、私は説明を始めた。

 

 カトレアの病気を語る際、私の前世における生物学の基本を外すことはできない。こちらの世界とは学問の体系が違うためだ。人が細胞によって組織されていることや、血液の役割、そして免疫というものの機能について順を追って説明を重ねる。

 次に、人が免疫によってどのようなものから守られているかを知ってもらわなければならない。

 細菌やウイルス、異常な細胞の増殖もまた免疫があって初めて抑制できることだ。

 侍医長は途中で部下の侍医数名を呼び、脇で私の説明の検証も行わせた。

 途中で幾度も質疑応答を交わし、実際に触診で事の真偽を確認してもらいながら話を進めた。

 ひたすらしゃべり続け、黒板にチョークを走らせ、何杯か紅茶を飲みほし、数時間後にようやくカトレアの病気の正体について語り終えた。

 

 話終わったとき、居合わせた全員が言葉を失っていた。

 恐らく彼らも初めて聞くエントリーの病理報告だからだ。

 咀嚼し、消化するまでは時間がかかるだろう。

 そんな中で、再起動をいち早く果たしたのは侍医長だった。

 

「ドクトレス・ヴィクトリア、話はよく解った。君の言うことは嘘ではないと私は信じる」

 

 私の説明をなぞるように幾度となく部下たちと互いの体内の水の流れを確認しながら私の説明の裏付けを取っていた面々だ、疑いの目は誰にもない。

 

「そこで訊きたい。君はカトレア様の治療法が判るのかね?」

 

 私は頷いた。

 このハルケギニアにはカトレアの病気を治す術はない。

 ないものであれば、他所から持ってくればいい。

 そして私にはその知識があった。

 もしかしたら、私が転生をしたというのは偏にこのためであったのかも知れない。

 私は話し出した。

 カトレアの病を治す、その術を。

 

 造血幹細胞の再構築。

 

 根治にはその技術が必要だ。

 私の世界では、その治療法としては自己または型が合う他者の骨髄を移植するやり方が主流だった。

 しかし、いかんせん前世の私はどうやら切った張ったの臨床が主戦場だったようで、血液内科や再生医療などの分野の専門的な技術は持ち合わせていない。

 概略は知っているが、実際にやってみろと言われれば、とてもではないが一人では無理だ。

 公爵を共犯者に引き込んだのは、偏に彼の政治力に期待したためだった。

 幸いにも、今回は侍医団とも会うことができた。

 一人で無理ならば、人手を集める。

 大事を成し遂げるにはどうしたって多くの人の協力が必要だ。

 公爵に対しては資金面でのサポートをお願いする。

 侍医団は私が知らない多くの魔法を知っている。恐らくはアカデミーにコネもあるだろう。

 そんな彼らの力で、造血幹細胞移植か、あるいはそれに比類しうる治療法を研究してもらう。

 また、カトレアも確か優秀なメイジであり、属性も公爵の私刑を受けたサイトに治癒をかけているところから水と思われる。

 自らの体をコントロールしてもらうことはある程度期待できよう。

 

 その体制を立ち上げ、同時に今後のカトレアの発病について細菌やウイルスに対するより効果が高い秘薬を作って治療法開発の時間を稼ぐ。

 カトレアにはすまないが、動物との接触もできるだけ避けてもらわなければならない。

 

 そんなこんなで基本方針を列記する。

 

 ・侍医団による幹細胞再生の手法研究

 ・患者の罹患に関する対抗策の底上げ

 ・患者本人による自身の体調コントロール

 ・生活習慣の改善

 

 造血幹細胞の再生については最もリアリティがある手法は親族からの骨髄移植だが、ドナーの確保となると、これはなかなかにハードルが高い。

 HLAが合致する可能性の高い存在として姉妹のエレオノールとルイズがいるが、ルイズはともかく、エレオノールは難物だ。

 はいそうですかと聞き入れてくれるくらいなら、今頃は彼女も姓が変わっていることだろう。

 故に、やるとなると自己骨髄の移植にならざるを得ない。

 とは言え骨髄移植は不可逆な手法なので、やるとなるとべらぼうにリスクが高い。

 何より、私も研修時を含めてその手技を見たことがない。

 まさに最後の手段だし、手法の研究から技術者の育成だけでも数年を要すると思う。

 

 私が推奨したいのは、『治癒』の要領でカトレア自身の生体内で健康な造血幹細胞を増やしていくやり方だ。これは細胞を『視』ることができる高位の水メイジの技術でもかなりの難度となると思うが、理屈ではできないことではないと思う。完全に機能がないのならばともかく、カトレアの場合は幾ばくかのT細胞が確認できることから、健康な幹細胞も存在することは間違いない。

 この幹細胞をモチーフに、異常な細胞を殺して正常な細胞に置き換えてゆく手法が取れないかと考えている。

 これは現代医学では不可能なやり方だが、ハルケギニアならばあるいは、というやり方だ。

 実現可能かどうかは最終的には侍医団の判断によることになるだろう。

 魔法はイメージだ。

 私が知る限りの細胞生物学の情報を高位の水メイジに伝え、彼らの方で研鑽と研究を重ねてもらうのが一番確実だと思われた。

 他力本願なやり方だが、正直、カトレアの病気は凡人の私一人で治せるような代物ではない。

 これは病魔との戦争だ。

 杖を持ち、秘薬を使い、あらゆる手段を用いて戦争をするのだ。

 知力、体力、財力、政治力、動員しうるありとあらゆる力を使う。

 まさに戦争そのものなのだ。

 兵員もまた然り。

 戦争は一人では勝てない。勝つためにはどうしても組織が必要なのだ。

 勝算については見当がつかないが、カトレアの侍医団の腕前はかなりなものであることは私にも判る。

 現状でトリステインではこれ以上の布陣は望めないと思う。

 あとは運だ。

 

 以上を説明し、私は一つ息を吐いた。

 可能性ゼロを1%にするくらいの事ではあるが、これが私の精一杯だ。

 

 話疲れて椅子に座った私を余所に、公爵と侍医長が熱心に話し合っている。

 

「本当にそんなことが可能なのか?」

 

 公爵の問いに、侍医長が答える。

 

「詳しいところは詰めてみねば判りませんが、理屈では不可能ではありません」

 

「しかし、もし不首尾に終わったら、わしはお前たちを許せんぞ」

 

 信じるか信じないかは、最後は患者の気持ち一つだ。

 医者は無理強いはしない。

 何かあった時は、改めてゲルマニアに逃げ出すとしよう。

 

 公爵はしばらく考え、そしてため息をついて手元の鈴を鳴らした。

 

 部屋のドアが開き、入って来たのは桃色の髪の女性。

 聞いていたか、カトレア嬢。

 

「カトレア、わしはお前の気持ちを尊重したい」

 

 公爵の言葉に、カトレアは躊躇うことなく答えた。

 

「もちろんお受けしますわ、その治療」

 

 迷いなく言い切ったカトレアの視線は、私を向いていた。

 ルイズの手紙が発端だったのであろうが、そこから私の知識までを嗅ぎあてる才能は何だか妖怪じみていて不気味だ。

 前世で友達だったら、毎週阪神競馬場で最終まで楽しい思いができただろう。

 もしも私が一国を任された時は、三顧の礼を持って宰相に招きたいところだ。

 

 カトレアはスカートの裾を持って、優雅に一礼した。

 

「皆さん、いろいろ苦労をかけますが、どうか、今しばらく私に力を貸してください。お願いします」

 

公爵家次女に相応しい、堂々たる所作だった。

 

 

 

 窓の外を見ると、もうすっかり陽が落ちていた。

 ずいぶん長く話し込んだものだ。

 

「では、本日はこれで失礼いたします」

 

 立ち上がった私を公爵が呼びとめた。

 

「しばし待て、夕餉を食べて行くがいい」

 

「いえ、憚りながら、身の程を弁えておりますのでご容赦を」

 

 今さら貴族貴族した食事は勘弁してもらいたかったし、私としては何より一刻も早くこの場を出て、今も気を揉んでいるであろうマチルダとテファを安心させてあげたかった。

 そんな私の心中を読み取ったのか、公爵はカトレアと侍医たちを下がらせた。

 次いで私の背後にいるディルムッドに視線を向ける。

 

「お前も外に出ておれ」

 

 その言葉にディルムッドが私に視線を向ける。

 

「恐れながら、この者の前で私は秘密を持ちません。また、知った秘密をこの者が漏らすことはありません」

 

 こればかりははっきり言わないといけないので、私はきっぱりと言った。

 

「……いいだろう」

 

 公爵はひとつ深く息を吐いて言葉を探すように口を開いた。

 飛び出した発言はとんでもないものだった。

 

「どうだ、娘の侍医団に加わる気はないか?」

 

 完全に予想の斜め上の話だったので、私は一瞬呆気に取られた。

 

「お戯れを」

 

「戯れではない。先も言った通り、お前の腕は侍医長が目を見張っておるほどだ。カトレア自身もお前のことを気に入っている。少し調べさせてもらったが、街の評判も素晴らしいし、何より、お前ほど医療に造詣が深い者を野に置いておくのは惜しい」

 

「買いかぶられては困ります閣下。私はしがない町医者です。無論、協力は惜しみませんが、公爵家の禄を食めるような身の上ではございません」

 

「謙虚なことだ。しかし、町医者ではいろいろ困る事もあろう。お前ほどの腕ならば仕官の先には困らぬだろうに」

 

「好きでやっております野良犬です。今の生活が気に入っておりますのでお気持ちだけ頂戴いたします」

 

「……そうか。残念だ」

 

「申し訳ありません」

 

「よい。では、今後もよろしく頼むぞ」

 

「微力を尽くします」

 

 部屋を出ようとする私に、最後に公爵が声をかけてきた。

 

 

「帰り道はお気を付け下さい、殿下」

 

 

 私は一瞬、足をとめた。

 この部屋に案内された時から予想はついていたが、やはり知っていたか、公爵。

 

 

「御心配、心より感謝を」

 

 

 それだけ告げて、私は扉を閉めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数年後、カトレアが家族と歓喜の抱擁を交わすのはまた別のお話。



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その16

― 私はとても不幸な人間だ。 ―

 

 

 

 

 

雨が降っていた。

珍しくきれいに仕事が掃けた週の半ばの午後。

私は、工房のデスクで窓の向こうに見える雨に濡れる街並みを眺めていた。

机の上には地図。

今の私の最大の悩みは、先日ヴィクトリアが口走った骨休めの行先についてだ。

年長者ということで行先を調べる役目を請け負ったが、これがなかなか難しい。

トリステインや近隣の観光名所を調べているが、これぞと思うところが見つからない。

本当にゆっくりできるだけの時間を取れば、それこそ火竜山脈の湯治場なんかが選択肢に入ってくるが、ヴィクトリアはあまり診療所を長期間空けることは避けたいようなので選択の幅が限られてくる。

工房もそうそう長い休みを取るわけにもいかないからその意見には同意するが。

そんなわけで熱を帯びた頭を休めていた私のところに、不意に優雅な手つきで愛用のカップが差し出された。

 

「茶を淹れました。どうぞ」

 

差し出したのは工房の従業員にして私の右腕であるヴィクトリアの使い魔だった。

この工房において営業と接客はこいつの仕事なのだが、実はこの男、なかなかに接客対応の鬼だったりする。

営業に出ていない限りは受付に詰めているのだが、入ってきた客はまずこの男の面構えにやられる。

当人は意識してのものではないようだが、その微笑みはどこまでも甘く、涼しげだ。

殊に貴族相手の折衝においてはまさに無敵のありさまで、貴金属加工の仕事の時などはその男ぶりを生かして相手の御令嬢や奥方たちからかなり利のある仕事を引き出して来る。

およそ、この世の女の天敵とも言える男だ。

実にけしからん。

 

「だいぶお悩みのようですね、店長」

 

そんな私の思考をよそに、自分のカップを片手に対面に座ったディーは地図を覗き込みながら訊いてきた。

 

「ん~、なかなかいいところが思いつかなくてね」

 

私も地図に視線を落としながら唸る。

今のところ、ラ・ロシェールの先にあるタルブあたりが有力だ。

酒は美味いし地元料理も気の利いたものがあるようなのだが、宿と名勝についてはちょっと弱い。

私は、ふと思ってディーに訊いてみた。

 

「参考までに訊くけど、あんたはどういう場所が好き?」

 

「私ですか?」

 

キョトンとした顔でディーは訊き返してきた。

 

「私は特に希望は・・・主のいるところにお供するだけですので」

 

「それじゃつまらないじゃないか。あんたもアイディアを出しなさい」

 

「いや、本当に私は・・・」

 

「何かあるだろう? 見てみたい景色とかさ。自分の中の原風景みたいなものでもいいよ?」

 

「・・・困りましたね」

 

ディーは腕を組んで考え込んでしまった。

もうかれこれ4年の付き合いだが、この男がこうして悩む姿は珍しい。

 

4年。

 

そう、もうあれから4年だ。

ブルドンネ街の、職人街の一角に工房を開いてそれだけの時間が経過した。

思い返してみれば、慣れない作業ながら手探りで進んできた年月だった。

最初のうちこそ苦労はしたものの、今は固定客も付き、こうして暇しているのが珍しいほどの繁盛をしているのは我ながら意外だ。

 

『早いもんだねえ』

 

そんなことを考えながら、この店を開いたころを思い出す。

アルビオンにいたのが、もう遠い昔のことのようだ。

 

 

サウスゴータでの最後の夜。

今思い出しても苦い思い出だ。

外出していた私が戻ると、屋敷の敷地内には使用人や兵たちの死体がごろごろしていた。

原因はすぐに判った。

テファ親子だ。

大公からお預かりした、大切な客人。

エルフとか、そんなことはどうでもいい。

気の優しい、聖女のようなテファには、無条件で庇護したくなる何かがあった。

それがエルフの魔力だと言うのなら、私は喜んで地獄に落ちようとすら思った。

そのはずだったのに、先に地獄に落ちたのは私以外の家の者たちだった。

恐れていた日が、予想よりも早く到来したというわけだ。

 

私は杖を抜き、慌ててテファ親子の居室に向かった。

蹴り開ける勢いでドアを開けると、そこに泣いているテファを抱き締めている少女がいた。

お互いにとっさに杖を突きつけ合った。

恐ろしく冷たい目をした娘だった。

一瞬気押されたが、その伸ばしっぱなしのような無頓着な茶色い髪には見覚えがあった。

それがヴィクトリア・テューダーだった。

大公の娘にして、テファの腹違いの姉。

 

「あ、あんた…大公の」

 

「そういうお前さんはマチルダ・オブ・サウスゴータだね?」

 

幼い外見にそぐわぬ、妙にババくさい喋り方をする子だった。

この子私と歳は2・3歳しか変わらなかったんじゃなかったっけ?

とても15歳の子には見えないほど子供子供した子だったが、その落ち着き具合はさすがに王族の威風を備えているように思えた。

彼女の視線が私を素通りし、私の背後に向けられる。

 

「ディルムッド、この者は敵ではない」

 

ヴィクトリアの言葉で、初めて私は背後に男が立っていることに気が付いた、

左右の手には二本の槍。

あのまま魔法を使おうとしていたら、恐らく私は知らぬ間に貫かれていただろう。

その槍兵が、今は私の右腕として働いているというのは妙な話だ。

 

 

互いの立ち位置が確認できたところで、私たちは脱出の段取りを話し合った。

どこに逃げるにしろ、この国にティファニアの居場所はない。

そして、その討伐部隊を縊殺したヴィクトリアにも未来はないだろう。

情報が流れるより早くどこかの港にたどり着くか、どこか人目が付かないところに身を隠す必要がある。

 

私たちは脱出を選んだ。

 

時間が無かったと言うのに、ヴィクトリアはテファの母を弔うことを主張した。

貴人には貴人に相応しい礼を、と言って魔法を振るって彼女の体にこびりついた男どもの穢れを洗い流した。

服はドレッサーから私が選び、着付けた後で丁寧に化粧を施した。

最後にテファにお別れを促し、発火の魔法で家に火を付けた。

あの時の葬送があったから、テファは自分の心に折り合いをつけられたのではないかとも思う。

 

その後、紆余曲折を経て今に至る訳だが、太守の娘のこの私が今では異国で工房の主をしている。

思い返してみれば、これもヴィクトリアに言われて始めたものだった。

何故かヴィクトリアは大公の娘などというお姫様のくせに、妙に世渡りを心得たところがあった。

アルビオンを脱出する時の手際や、比較的人口密度が高いトリスタニアを塒とすること、ギルドや商工会への顔つなぎ等、年上の私を差し置いて、まるで世間にもまれた経験があるかのような振る舞いで生活基盤を確立していった。

一体誰に教わったのやら。

訊いたら『診療所を開業したことのある知り合いから教えてもらった』とか言っていたけど、どこまで本当なのかは判らない。

 

そんな流れの中で、私にあてがわれたのがこの工房だった。

確かに私は土のメイジだし、診療院にいても手伝えることはたかが知れている。

人材の有効活用と言う意味では確かに有効かもしれないが、商売の基礎も知らない世間知らずの私にいきなり店の切り盛りを押し付けるあいつもあいつだと思う。

まして相手は平民たち。

今までろくに接したこともない、ある意味貴族とは別の価値観を持つ生き物だ。

そんな私にヴィクトリアが提示したのが『鉛筆』だった。

何でも、経営において重要なのはいかに市場が求めている潜在需要を見つけ出してそれを満たす商品を売り出せるかだそうで、最初に送り出したそれが軌道に乗ればあとは何とでもなるとか何とか。

鉛筆は、黒鉛と粘土を使って芯を作り、その回りに木を張り合わせて作る。

やや細めのチョークみたいものから、細いペンみたいなものまでいろいろと作った。

芯を作るのは私の『錬金』でも少し苦労したが、構成さえ理解すれば最終的には魔法を使わなくても芯が作れるようになった。

最初はこんなものが売れるのかと悩んだが、商人に卸してみたところ、ものすごい勢いで売れた。

聞けば、こすると落ちるチョークと違い、書いたら消えないと言うことで大工や石工などの職人方面から大好評だったらしい。

目新しさもあってか作った分だけ売れるという状況がしばらく続き、私は嬉しい悲鳴を上げ続けた。

社会的な消耗品として落ち着いた時点で大手の工房に製法を売り、そのパテント料が工房の基礎的な運転資金になった。

基盤ができたら、あとは個別対応だった。

鉛筆の伝手で、あんなのはできないか、こんなのはどうだ、という感じで仕事が舞い込み、それをこなしているうちに徐々に信用が得られるようになってきた。

装飾品や日用品、武器やちょっとした小物に至るまでできる範囲で注文を受け付けているが、出来栄えに対する評判はまずまずのものと自負している。

 

正直、今は毎日が楽しい。

頑張った分や手を抜いた分が、そのまま自分に返ってくる今の仕事は私の性分に合っていた。

それに、貴族をやってた時は笑い合いながらも相手の腹の底を探るような毎日だったが、職人連中と飲んで騒ぐ時にはそんな変な気苦労はまったくないのもいい。

何か新しいことに取り組む時に下請けを頼む職人連中と頭をつけ合わせて悩むのも、この上なくやりがいを感じる。

天職、っていうのはこういうのを言うのかもしれない。

最近では結構評価してもらえるようになったし、『工匠』なんていう二つ名を言われることもある。

大げさな二つ名だが、腕を褒められるのは悪い気はしない。

 

 

そんな毎日の中、今みたいにちょっと時間が空くと、思うことがある。

もし、あの時ヴィクトリアに出会っていなかったら私やティファニアはどういう今を生きていただろうか。

世間知らずで、手に職もなかった私だ。

食べていくには泥棒にでもなるか、男の袖を引くくらいしかなかっただろう。

ティファニアだってどこかに隠れ住むことになったに違いない。

世の中、何がどうなるのか判らないものだと思う。

 

いろいろあったけど、今は誰に問われても胸を張って『頑張って生きている』と答えられるような充実した毎日だ。

テファやヴィクトリアやディーと馬鹿な話をしたり、アニエスとご飯したり、仕事仲間の職人連中と真面目な話したり、商売敵みたいな関係なのに妙に気の合う武器屋の親父と技術交換したり、お得意さんのジェシカと仕事そっちのけで女同士の内緒話しててディーに怒られたり、そしてたまに皆で集まって『魅惑の妖精』亭で酒飲んだり。

もちろん、ままならないことだって幾つもある。

ヴィクトリアは何回言っても玄関で仁王立ちして牛乳を飲むのをやめないし、テファはテファで風呂に入ると長湯してのぼせるし、ディーは営業先のおかみさんたちの茶の誘いを断るのがいつまでたってもうまくできないし・・・。

 

うん、悪くない。

こういう生活は、悪くない。

地に足をつけて生きている、という気がする。

恐らく、今の私が本当の私なのだろう。

飾りも、背伸びもしない、ありのままの自分。

それを受け止めてくれる相手が、家族がいることの、何と喜ばしいことか。

 

 

そう、私はとても不幸な人間だ。

こんなに幸せなのに、私はまだまだ足りないと思ってしまう。

いつまでも心が潤うことなく、見えないゴールを目指して今日も足掻き続ける飢えた獣だ。

欲張りはいつかしっぺ返しを食らうと判っていても、こればかりは止められない。

我ながら、因果な性分だと思う。

 

 

 

「ここなどいかがでしょうか?」

 

そんな思考の海に沈んでいた時、ディーの言葉で私は我に返った。

 

「ん、どこ?」

 

指差された先にあるのは、ガリアとの国境に位置する大きな湖だった。

 

「あら、ラグドリアン湖?」

 

「聞くところによれば、ここは王族の園遊会が催されるような景勝地とのこと。それなりの宿もあることでしょう」

 

「・・・いいねえ」

 

私は頷いた。

ここならば距離もそんなに遠くないし、ディーの言うとおり宿もそれなりのところがある。

湖畔でのんびりというのはいいアイディアだと思う。

 

「うん、いいね。ここにしよう」

 

「そ、そんなにあっさり決めてよいのですか?」

 

「いいのよ。あんたと私がいいと言っているんだから。あの子たちだって特に拘りがあるわけじゃないみたいだし」

 

ヴィクトリアの目的は酒飲んでのんびりすることだし、テファに至っては旅行そのものが目的だ。

秋のラグドリアン湖ならば異論はないだろう。

 

 

 

工房の入り口が開いたのはその時だった。

 

「うひゃー・・・ちょっとごめんよ」

 

聞きなれた、鈴のような声が聞こえた。

見れば、傘を畳みながらヴィクトリアとテファが工房に入ってきた。

 

「どうしたのさ、あんたたち?」

 

「往診の帰りなんだが、雨脚が強くなってきたんでね。ちょっと宿らせておくれな」

 

「そこのカフェでクックベリーパイ買ってきたよ」

 

テファが嬉しそうに手にした包みを掲げてみせた。

私はひとつため息を付く。

 

「おやおや、これはちょっと豪勢なティータイムだね。ちょうどいい、骨休めの行先、私たちの提案を聞いてもらおうかしら」

 

「え、どこ? どこ?」

 

目を輝かせるテファに私は笑った。

 

「まあ、話すからまずはお座りよ」

 

 

私は新たに2つのカップを棚から出し、家族たちのためのお茶を立て始めた。



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その17

幸福には翼がある。

つないでおくことは難しい。

 

 

 

何がきっかけになるかは私にも判らない。

それは不定期にやってくる。

しばしば、思い出したくもない夢を、私は見る。

ある男に組み敷かれる夢だ。

のしかかる体温は、夢とは思えぬほど生々しい。

泣こうが喚こうが、私の躰をまさぐり、着衣を剥いでいく手の動きは止まることなく、私の悲鳴が高まれば高まるほどその速度を増していくようですらあった。

この感触の生理的嫌悪感は、筆舌に尽くしがたい。

樽いっぱいにナメクジが入っているナメクジ風呂があったとしよう。

それがナメクジではなく、ゴキブリでも蜘蛛でも蛭でもいい。

この体験と、その樽に首までつかってのんびりするのとどちらかを取れと言われれば、私は一瞬も躊躇わずに服を脱いで手ぬぐい片手に樽に手をかけるだろう。

こればかりは男の人には絶対にわからないであろう感覚だ。

女性であっても、同じような境遇に遭ってみなければ真に理解をすることは難しいだろう。

その時に見た相手の顔は、私にとってはまさに悪魔の顔以外の何物でもない。

人を性欲処理の道具としてしか見ていない、歪んだ顔。

憎悪や憤怒や侮蔑や無念、あらゆる負の感情が私の世界を塗りつぶして、破裂した。

 

この夢を見るたびに、私は真夜中であっても悲鳴を上げて飛び起きる。

寝汗がひどく気持ち悪い。

今この瞬間もあの男の体温がそこにあるような気がする。

全身を掻き毟りたくなる嫌悪感だ。

荒い息を整え、私は水差しを取って貪るように水を飲んだ。

いつもこの瞬間だけはティファニアに頼んで記憶を消してもらいたいと考える。

精神の深部まで根を下ろしてしまったトラウマは、このままでは一生私を苛むと思うからだ。

将来、どこかで何かを間違って好いた殿方に肌を許す日が来ても、恐らくその瞬間に思い出してしまうことは間違いないと思う。

そう考えるだけで死んでしまいたい衝動に駆られるが、手籠めにされかけたことは事実ではあるものの、貞操を守れたことも事実だ。

あの時の耳朶を打つ豚のような悲鳴の記憶だけが、私の心を少しだけ軽くする。

それでも、花瓶の切り花が少しずつ萎れていくように、私の心が静かに壊れていくような感覚はついて回る。

 

しかし、これはテファやマチルダには言えない。

言ってはいけない。

 

テファは優しい子だ。

話の脈絡から、必ず自らを責めるだろう。

マチルダの心情も複雑だろう。

彼女の中では、私が彼女らと行動を共にした動機については、私もまた同じように親を王家に殺された者であるという同族意識が根っこにあると思う。

私とマチルダを結びつけているものはテファの幸せを願う気持ちで同一であるが、アルビオンの王家に対する感情では私のそれとは真逆の感情を彼女は持っている。

マチルダにとって、テューダー家は仇だ。

しかし、私にしてみれば、彼女に対して大公家の不始末で取り返しがつかない迷惑をかけてしまった負い目はあるものの、私自身は王家に対しては悪い感情は持っていない。

すべてはおとんの短慮が発端であり、すべての責任は彼に帰結するのだ。

マチルダには言ったことはないが、おとんの死については私は本当に何も思うところはない。

どこかの知らない誰かが馬鹿なことをやって殺されたくらいの感覚だ。

その気持ちも含めて、テファのところに行くまでの私の過去をすべて話した時、マチルダがそれを大公家縁の者としての勝手な事情と断じる可能性もないわけでもない。

私が、転生者としての神の視点から二人の救済を希求したことも、もちろん言えない。

彼女らを救済したがために、この先の歴史がどう流れるかは判らない。

しかし、アルビオン王家が倒れた時には、喜ぶマチルダの傍らで、私は伯父王を思って悲嘆にくれることになるに違いない。

 

思考の海に溺れかけ、私はベッドから抜け出して部屋の片隅の戸棚からワインを取り出して開けた。

体の中から消毒するのであれば、アルコールに勝るものはない。

私は手酌で一人、月を見ながら酒を飲んだ。

どうせこの夢を見た後は、いつも朝まで眠気などやってこないからだ。

 

 

 

 

 

その日は休診日ということもあり、私とテファは一緒に街に買い物に出かけた。

ラグドリアン湖への旅支度だ。

先日のカトレアの診察の代償について、さすがは公爵家という金額を支払ってもらったため、今の私たちはちょっとしたブルジョワだ。

もちろんある程度は診療院の拡張資金として取っておくが、それでも平民としてはかなり贅沢な旅行が可能なくらいは用意できる。

さすがに泳ぐのは季節的に厳しいので、湖畔で何をするかと言えばのんびりと時間を捨てるようなひと時を過ごすことくらいしかアイディアはない。

私としては、良いワインと美味しい料理、そして穏やかな時間があればそれだけで充分だと思っている。

意外なことだが、ディーはアウトドア料理が得意であり、現地での食事は彼に一任することにしている。

何はともあれ、いろんな意味で楽しみなことだ。

 

そんな買い物の途中で、私は武器屋に寄った。

顔見知りのよしみで、ちょっとした往診だ。

武器は重量物であるため、職業病的に武器屋の主人も慢性的な腰痛に悩んでいる。

定期的に私のところに来てはいるが、今日はそろそろ膏薬が切れたころだと思うのでついでに届けてやろうと思っていた。

 

武器屋のドアをくぐると、鉄と錆と油の匂いがした。

初めて入ったテファは興味津々といった感じで並んでいる武器類を眺めている。

ランプの付いた薄暗い店内を見回すが、親父の姿は見えない。

 

「デルフ~」

 

私は乱雑に積み重ねられた剣の山に向かって声をかけた。

 

「あ~? 俺に話しかけるのは誰でえ?」

 

何とも面倒くさそうな声が剣の山から聞こえてきた。

ずいぶん怠惰な伝説の剣もあったものだ。

 

「私だよ」

 

「お、診療所の娘っ子じゃねえか。久しぶりだな」

 

御存じデルフリンガーは、今この時はまだ一山幾らの剣の中だ。

インテリジェンスソードと言うだけあって口が達者なだけに、人斬り包丁の機能の他にも店番までこなす優れもの。

これが100エキューというのは考えてみれば安い。

 

「ボヤッキーはどうしたね?」

 

「ぼやっきーって誰でえ?」

 

親父の外見のせいで、つい地球のネタを振ってしまったことに言った後で気が付いて私は頭をかいた。

 

「お前さんの売り主のことだよ」

 

「ああ、今日は腹の具合が悪いらしい。さっき中に入っていったぜ。出すもの出しゃ出てくるだろうよ」

 

「そうかい、ありがとうよ」

 

 

私が店の奥に大声で声をかけると、武器屋の親父は手を拭きながらすぐに出てきた。

 

「よう、おめえか。どうしたんだ、今日は?」

 

「そろそろ膏薬がなくなるころだろ? 近くまで来たから補充を持ってきたんだよ」

 

「おお、それはすまねえな」

 

渡すものを渡して代金をもらう。

 

「それにしても・・・」

 

先ほどから全く人が来ない店内を見回して私は言った。

 

「何だか景気が良くなさそうだね」

 

「まあな、と言いたいところだがちょっとこの先は判らねえぞ?」

 

「・・・どういう意味だい?」

 

「戦争だよ」

 

いつになく鋭い眼光で武器屋の主人は言った。

その眼は『夜』の輝きを放っていた。

かつてはその道では知られた、伝説の傭兵の眼力に私は一瞬呑まれかけた。

 

「アルビオンの一部の貴族が独自に議会を立ち上げたぜ」

 

その言葉に私は背筋に冷たいものを感じた。

本腰入れて動き出したか、『レコン・キスタ』。

クロムウェルが水の精霊から指輪を奪って1年半、散発的な反乱が続いていたようだが、いよいよ一気に王室打倒に向かって動き出したらしい。パリーに与えた警告がどのように機能したかは判らないが、王党派が後手を踏まないことを祈るばかりだ。

ガリアの無能王の差す手を上回るだけの根回しを、テューダー朝のスタッフがやっていればいいのだが。

 

「近々、有力貴族が連名で、共和制を上奏する名目の意見書をぶち上げるって話だ。早い話が王権を有名無実化する反乱の狼煙だな。こりゃ荒れるぜ」

 

王権によって国を統べるのはアルビオンだけではない。

レコン・キスタには国境などないだけに、その火がどこまで延焼するかは現時点では判らない。

 

「・・・どれくらいの勢力が貴族派に転んでいるんだい?」

 

この世界では情報は売り物だが、ダメもとで訊くだけ訊いてみた。

意外なことに武器屋はすんなり教えてくれた。

 

「力比べならまだ王党派が有利だが、今はまだ様子見の連中が少なくない。北部連合が転べば形成は一気に貴族派に傾くだろうよ。そうなったら内戦だな。アルビオンは地獄になるぜ」

 

「北部連合・・・」

 

私は、口の中に感じる苦いものを吐き出したくなった。

北部連合はアルビオン北方の有力貴族で結束している地域であり、王家との関係はすごく乱暴な喩をすれば、地球のイギリスの感覚で言うイングランドとスコットランドのそれに結構近い。もっとも、王権としては始祖直系のテューダー朝が正当であるため王は頂いていないが。

そして、その北部連合の有力な貴族が、私の母親の生家であるハイランド侯爵家なのだ。

 

「ともあれ、穏やかじゃないのは間違いねえ。詳しいことはまた会合で報告するからよ。お互い、下手は打たねえよう気を付けようぜ」

 

刃物のような眼光で私を見る『武器屋』に対し、私もまた『夜』の顔で答える。

 

「貴重な情報をありがとうよ」

 

振り返ると、テファが固い顔で私を見つめていた。

 

「どうしたね?」

 

私が問うと、テファは困ったような顔で言った。

 

「今の姉さん、何か恐いわ」

 

店の棚に嵌ったガラスに映った自分を見て、テファの言っていることが判った。

嫌な目だった。

感情を映さない、無機質な目。

まるで爬虫類のような目つきをしている自分に、さすがに強い自己嫌悪を感じた。

 

「ごめんよ」

 

テファに謝り、私は無理に笑顔を作って武器屋を後にした。

 

 

 

 

 

夜、工房組が帰ってきて夕飯を食べた後で旅のプランを話し合った。

まずは移動手段。これはせっかくなので馬車を借り出そうということになった。

懐具合がいいので、ブルームタイプの豪勢な馬車でも何とかなりそうなので、今回はそれで湖まで向かう。

平民なら誰もが憧れる贅沢な旅だ。

宿も、平民向けとしてはまずまずの宿が町内会の伝手で手配がつきそうだった。

ここ1年ちょっとくらい前から湖が増水しているのが気になるが、まだ幹線道路は問題なく通れるらしい。

そっちの問題はそのうち然るべき人たちが何とかするだろうと私が思っているのは他の3人には内緒だ。

 

食後のお茶を飲みながら皆できゃいきゃいと騒いでいた時、チャイム代わりの鈴が鳴った。

はて、夜も9時を回ったあたりに誰だろうか。

急患か?

 

「私が」

 

と立ち上がりかけたディルムッドを私が制した。

 

「いや、急患かも知れない。私が出るよ」

 

立ち上がってスリッパを鳴らして玄関に急ぐ。

ライトの魔法で明かりをつけ、ドア向こうに声をかける。

 

「急患かね?」

 

「お頼み申します」

 

慇懃な男の声だった。

それだけで平民の客ではないことは察しがついた。

それは同時に、ちょっと訳ありの患者という図式に繋がる。

ドアを開けると、身なりがいい初老の男が立っていた。

どこかの使用人のように見える。

 

「このような夜更けにどうされました?」

 

「夜分誠に申し訳ない。当家のお嬢様が急病に倒れまして、直ちに当家までご足労いただきたいのですが」

 

やや言いにくそうな物言いに、私は首を傾げた。

 

「やんごとなきお家の御令嬢ですか? 私のような市井の藪医者より貴族のメイジの方が確実かと思いますが?」

 

「あまり公にはできぬ事情があるとお察しください」

 

「そちらの家の水メイジは?」

 

「遺憾ながら、今日は手配がつきません」

 

「恐れながら、どちらの御家中でしょう?」

 

「・・・アストン家の者にございます」

 

男は消え入りそうな小さな声で答えた。

アストン家と言えばタルブの辺りを治める歴とした伯爵家だ。

うちみたいな平民に声をかけてくるだろうか。

私は首を傾げた。

 

「私も使いの身なれば、申し上げられることと致しましては、さる高貴な身分のご婦人の、女性としての体面に関わる事情でして・・・」

 

何となく察しがついて来た。

高い身分であろうと平民であろうと、男と女がいる限り、未来永劫なくならないであろうトラブルの類だろう。

 

「ご懐妊か?」

 

「それ以上はご容赦ください」

 

やはり、言葉の端々から読み取れる情報としてはそっち方面のトラブルをどうにか内々で済ませたいらしいと思われた。

 

「・・・承知しました。支度をしますのでしばしお待ちを」

 

私は院内にとって返し、相応の準備をして鞄に荷物を詰め込んだ。

詳しいことが判らないので最低限の用意をそろえ、足りなければまた後で補充を取りに戻るということで良しとする。

『高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処する』という奴だ。

充分な情報がなければ診療はできないと門前払いすることは簡単だが、今現在苦しむ患者がいるからには無碍にも断れない。

 

「急患なの?」

 

私がごそごそやっていると、診察室にやってきたティファニアが私の様子を見て訊いてきた。

 

「あまり穏やかな話じゃなさそうだよ。ちょっと行くだけ行ってみるさね」

 

「一人で大丈夫?」

 

いかんせんブラインドデートだ。

最低限の安全策は取るつもりだった。

 

「頼りになる用心棒に来てもらうさ。ディルムッド!」

 

私が声を上げると、打てば響くのタイミングでディーが現れる。

 

「これに」

 

「ちょっと往診に行くから、念のため供を頼むよ」

 

「御意」

 

 

 

馬車に揺られてしばらく進む。

行く先はアップタウンのようだった。

よほど体面を気にしているのか、馬車には家紋は入っていない。

何があったのか知らないが、そもそもアストン伯爵の家系などは私あたりが知る訳がない。

依頼内容は恐らく堕胎だろうとはあたりはつけているが、子宮外妊娠や切迫流産など、可能性は考えだしたら切りがない。

 

馬車が止まったのは、屋敷街のはずれにある、古風な屋敷だった。

記憶違いでなければつい先日まで空き家だったはずだが、買い手がついたとは知らなかった。

 

「こちらにどうぞ」

 

あまり人の気配がない屋敷だった。

明かりも少なく、建物にも生活感がない。

貴族であればどこかに家紋のレリーフの一つもありそうなものだが、そのようなものも見当たらない。

何だかホラー映画のような雰囲気に、ディルムッドが滑るように寄ってきて囁く。

 

「主・・・大丈夫でしょうか?」

 

「気を付けるよ。何かあったら守っておくれな」

 

「は。一命に代えましても」

 

そんな会話をしながら、私たちは建物の中に歩みを進めた。

家の中はそれなりに掃除が行き届いており、買ったばかりの屋敷をこれから自分色に染めていこうという気配は感じられた。

 

ホールから2階に上がり、ある部屋のドアの前に着いたときに執事が慇懃に頭を下げた、

 

「この先は女性だけということでお願い致します。侍従の方は控えの間に」

 

この先は女性の寝室ということだろうか。

私はディルムッドに待つように指示し、部屋に入った。

 

明かりが灯された部屋の中には豪勢なベッドがあり、その真ん中に患者が寝ていた。

 

「医師のヴィクトリアと申します。お召しによりまかり越しました」

 

声をかけてもベッドの人物に変化はない。

怪訝に思ってベッドに寄ってみて、私は自分の迂闊を呪うことになった。

 

 

 

寝ていたのは、うまく作られた藁人形だった。

 

 

 

事の仔細は判らない。

ただ確実なことは、ここの家の住人は間違いなく私に害意を持っているということだ。

気配を感じてとっさに懐の杖に手をかけて後ろを振り返ると、そこに黒いマントを着た白い仮面の男が立っていた。

髪が長く、マントの裾からレイピアのような長い杖が見える。

足元には拍車。

 

私は驚愕した。

 

訳が判らなかった。

 

何故だ?

 

何故お前が私に絡んでくるのだ?

 

ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド!

 

 

混乱する理性をよそに、本能は全力で声帯を振るわせ、同時に念の波を飛ばした。

 

「『ディルムッド!』」

 

叫びながら私が杖を抜くより早く、白仮面が杖剣を引き抜く。

 

「イル・ウォータル・スレイプ・クラウディ」

 

 

そのルーンが眠りの雲の魔法だと理解した瞬間、私の意識は闇に落ちた。



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その18

『ディルムッド!』

 

案内に従って入った控えの間でヴィクトリアの声を聞いたディルムッドは、一瞬で扉に寄ると強烈な蹴りを見舞った。

聖杯システムとは異なる魔術体系で具現化したがために受肉した存在である彼ではあるが、受肉したと言っても英霊である。

その力を凌駕できる存在はこのハルケギニアにはほとんど存在しない。

硬化や固定化がかけられた扉であったが、分厚いそれはディルムッドの前蹴り一つで吹き飛んだ。

いかに魔法といえども、想定を超える衝撃の前ではその効力を失う。

下手な砲弾より破壊力があるディルムッドの蹴りの前にはドア程度は紙と変わらない。

 

廊下に出ると、そこには5人のメイジが戦闘態勢を整え、杖をディルムッドに向けて構えていた。

ディルムッドの感覚にもひっかからずに布陣を済ませているあたり、明らかな害意を感じた。

先頭に立つのは、ここまで案内した執事であった。

 

「おとなしくしておれ」

 

既に詠唱を終えていたメイジたちが、ディルムッドに向かって一斉に魔法を解放する。

その魔法すべてが貫いたのは、果たして、ディルムッドの残像であった。

あまりの速さに動体視力が追いつかないと理解した時には、メイジたちの胸板に真紅の花が咲き乱れた。

トリスタニアの『夜』の町内会の一角の手勢にして、トリスタニアの夜の平穏を預かる一騎当千の精兵にとって、5名程度のメイジなど塵芥に等しい。

その手には紅と黄の双槍。

その二つの牙があるところ、ディルムッド・オディナの前に敵はない。

 

血煙を上げて倒れ伏すメイジたちを一瞥もせずに廊下を駆け抜けたディルムッドがヴィクトリアが入った部屋にドアを蹴破って飛び込むと、既にそこは無人であった。

開け放たれた窓から夜空を見上げると、上空にグリフォンに跨った白仮面が見えた。

快速を飛ばして高度を上げていくその腕の中に見えるのは、意識を失っている己の主の姿。

見事なまでの逃走であった。

歯ぎしりをしながら紅の槍を構え、投擲の姿勢に入ろうかという時に背後から声がかかった。

 

「良いのか? お前の主は気を絶している。それを投げたら、あの子は飛ぶこともできずに地に墜ちるぞ?」

 

後ろを振り返りもせずにディルムッドは応じる。

 

「笑止。俺が受け止めれば済むことだ」

 

「落下中の姫君を魔法で狙う連中がいてもか?」

 

前庭に目を向けるや、どこに潜んでいたのか屋敷の周囲をメイジの傭兵たちが取り囲み、一斉に窓際のディルムッドに向かって杖を構えた。

先ほどと異なり、数十名の多勢である。

先のメイジたちと同様に魔法を使った隠形を使っていたようであった。

ディルムッドはそれら有象無象に鋭い視線を向けたまま、手にした槍を背後の白仮面に一閃した。

閃光と言われるメイジですら反応もできない速さの刺突を顔の真ん中に受け、今まさにエアカッターを放とうとしていた白仮面は遍在の術式を断たれて瞬時に煙のように消えた。

 

「ならば、貴様らを全員あの世に送ってからお助けするまで!」

 

滅多に見せない憤怒の表情を浮かべたまま窓から飛び、前庭に軽やかに降り立つと取り囲むメイジたちと対峙する。

その右手には紅の槍。破魔の紅薔薇。

左手には黄の槍。必滅の黄薔薇。

壮絶なまでに美しい男は、羽を広げた怪鳥のような構えで鋭い視線を目の前の生ける障害物たちに向けた。

 

「トリスタニア診療院 院長 『慈愛』のヴィクトリアが臣、ディルムッド・オディナ ― 推して参る!」

 

 

 

 

「お医者ってのも大変だね」

 

時計を見ながらマチルダはしみじみと呟いた。

ディルムッドと連れ立って出かけるヴィクトリアの背中には迷惑そうな気配は欠片もないが、我が身に置き換えて考えたマチルダはヴィクトリアの持つ商道徳に心底感心した。

夜討ち朝駆けの商売を自分がやれと言われたら、恐らくそう間をおかずに音を上げるだろう。

 

「姉さん、先に寝ちゃっていいよ。明日もお仕事あるんだし、私が起きてるから」

 

「ヴィクトリアもディーもお前も寝てないのに、私だけ寝られる訳ないだろ」

 

ソファの上でクッションを抱きしめてゴロゴロしながらマチルダは唸る。

ぞんざいな物言いの中にもマチルダの優しさを感じてティファニアは笑った。

 

「何か暖かいものでも淹れようか?」

 

そんな会話をしている時である。

マチルダが寝そべっているソファの上で表情を変えた。

半身を起こして、鋭い目つきで壁を見詰める。

その仕草は、どこか猫が微かな音や匂いに気づいた時の物によく似ていた。

 

「どうしたの?」

 

首を傾げるティファニアに口元に人差し指を立てて示しながら、周囲に神経を向ける。

マチルダは土のトライアングルである。

土のメイジとしての純度が極端に高い彼女は、土がらみの状況を把握することに長けている。

地下の水脈等の地中で起こっていることや、大地の振動から周囲の状況を感じ取る事は容易であった。

その警戒網に引っかかった振動があった。

診療院の周囲に展開している不審者の数はおよそ10。

気配を殺す足運びは堅気の雰囲気ではない。

マチルダはゆっくりと立ち上がり、静かにルーンを呟く。

光の粉が宙に舞い、探知の魔法が発動する。

どこにも耳も目もないことを確認し、マチルダは次いでサイレントのルーンを唱えた。

空気中に冬の湖のような凛と澄んだ雰囲気が漂い、あらゆる音が遮蔽されたのを確認してマチルダは居間の真ん中に敷かれた絨毯をめくった。

 

そこに、四角い開口部があった。

 

ティファニアやヴィクトリアの身の上を考えると、いつ何時こういうことが起こっても不思議ではないとマチルダは考えていたため、そのための準備も怠っていなかった。

開口部の先には、診療院設立以来マチルダが時間をかけて掘り進んだ脱出のためのトンネルがあった。

静かに開口部を空けてティファニアにハンドサインを送る。

幾度も避難訓練をしているだけにティファニアも心得たものであり、真剣な表情で居間の壁にかかったバッグを手に取った。

中には緊急時用の食料や秘薬、金銭などの脱出用具が入っている実用一点張りのキャンバス製のバッグである。

それと杖を手に、音を立てずにぽっかり開いた避難口に滑り込んだ。

マチルダが続いて穴の中に入り、蓋を締め、備え付けの紐を引っ張ると絨毯が元通りに開口部を覆った。

今そこに人がいるような空気を漂わせた、無人の居間が後に残った。

 

 

 

杖や剣を手にした黒ずくめの男たちが、玄関ドアをアンロックで開いて突入して来たのはその数分後であった。

まだ照明がついた室内に二人の姿がないことを確認し、黒服たちが罵声を吐いて周囲の探索を始めようと診療院の外に飛び出した時である。

 

「そこまでだぜ。得物を捨てな」

 

重い男の声が響き、次いで黒服たちを取り囲むように30名ほどの男たちがマスケットを手に展開した。

武器屋の親父を中心に、見るからに腕に覚えがありそうな男たちがその左右にずらりと並ぶ。

その銃口は一直線に踏み込んだ黒服たちを狙っている。

完全に機先を制された形であり、いかにメイジがいようとも戦力的に黒服たちが不利であった。

 

「妙な連中がうろついてると聞いて来てみたが、この街できな臭えマネするたぁ、物を知らねえ連中のようだな。

どこのどいつか知らねえが、どういう用事で俺たちのマドンナのヤサに踏み込んだのか、こってり教えてもらうぜ、おい」

 

居並ぶ男たちの目つきは、自分たちのアイドルに粗相を働いた者に対する親衛隊のものである。

駆け付けた傭兵たちは全員、先に行われた影の美女コンテストにおいてマチルダに一票を投じた者たちであった。

先頭に立つ武器屋の親父は黒服たちに鋭い視線を向けたまま、手にした銃を真っ直ぐに突きつけた。

 

「やんのかやんねえのか、三つ数えるうちに答えを出しな」

 

 

 

 

ディルムッドは焦燥していた。

本来であれば、防げたはずの事態である。

これまでも己と共に幾度か危ない橋を渡ってきた主ではあるが、今度は危機的状況の意味合いが違う。明らかに、彼女自身を狙っての挙であった。

連れ去るという行為に照らせばすぐさま生命の危機ということはそうそうないとは思うが、それでも虜として主を拘束されることは使い魔として屈辱であった。

女性の診察とは言え、あの場で主を一人にしたことに対する慙愧が心を蝕むが、悔やむのは主を助けだしてからと気持ちを切り替える。

 

ディムッドは、ヴィクトリアという主を気に入っている。

思い出すのは4年前。

不遇なる運命を悔い、その払拭だけを願って現界を悲願したディルムッドであったが、呼び出されてみればそこは異世界ハルケギニア。

召喚した者もまた、みすぼらしい襤褸を着た娘であった。

しかし、その主となるべき少女は己に対する数々の下知において、その外見にそぐわぬ器量を示して見せた。

本来であれば手を貸す義理もない弱者のために、己を召喚したという動機づけも心地よい。

何より、あたかもディルムッドの事を良く知っているかのようにディルムッドの忠義と名誉に対し、充分なる配慮を忘れないところも特筆に値する。

性根のすべてが全きの善とは言わないが、悪に対しては果断な対処をためらわず、必要とあらば自身の手すら汚すことを厭わぬ人物であった。

ディルムッドが刃を振るう際、その傍らには常にヴィクトリアの姿があった。

トリステインに盗賊団が流れ着いた際には、その退治の現場には必ず足を運んで自首を勧告するのはヴィクトリアである。

その結果は素直に降伏する盗賊はいないために力ずくの解決になるのが常であるが、己をただの走狗とてけしかけたりはせず、通すべき筋を通す主の姿勢にディルムッドは好感を持っている。

往々にして主の上下関係を気にせぬふるまいに戸惑うこともあるが、そのことからも主の自分を見る目は傀儡に対するそれではなく、揺るがぬ信頼をおく家族同然の存在に対するそれであることが判る。

その主が、今は何者か知れぬ輩の手に落ちている。

一瞬でも早くその身柄を奪還し、不届き者を成敗することだけを考えてディルムッドは地を蹴った。

 

 

 

 

グリフォンの騎上でワルドは恐怖していた。

もとより、気が進む仕事ではなかったことは確かであったが、それを差し引いてもひどく割を食ったものだと思う。

あれは一体何者なのか。

いや、あれは一体『何』なのか。

正直、得体が知れない。

韻竜と、さしで戦う方が気が楽やも知れぬ。

腕の中で眠っている娘の使い魔の事は、かなり細かいところまで調べたつもりではいた。

トリスタニアで悪事の企みあれば、どこからともなく現れては凶事の芽を事前に摘み取っていく街の守護者にして、そこらの傭兵程度では相手にもならない手練れのメイジ殺し、というのがワルドの知る情報である。

しかし、実際に相対してみれば、それは手持ちの情報とは比較にならない化け物であった。

屋敷に用意した戦慣れした傭兵メイジ40人の手勢は、2分も持たずに皆殺しにされた。

いずれも腕自慢の傭兵である。それを歯牙にもかけずに一方的に葬り去った。

その間に運よく奴の投擲の射程から外れることができたが、奴はそのまま地を駆けて追ってくる。

しかも空を行くグリフォンにも迫ろうかと言う速さである。

念のためと街道に伏せていた手勢が杖を向けるが、遭遇するたびに鎧袖一触に屠られている。

遍在は繰り出せば繰り出すだけ倒されており、自慢の魔法であるライトニング・クラウドですらその槍の前に雲散霧消のあり様である。

いずれも、穂先が閃いたと思った時には決着はついている。

己も閃光と呼ばれる速さ自慢のメイジであるが、あれは次元が違う。

本当の意味での閃光の一撃を見せられた思いであった。

ワルドはまだ健闘している方であり、他のメイジが撃ちだす射撃系の魔法はその影を捉える事すら出来ない。

土魔法のゴーレムが立ち塞がれば、それは一撃で魔術的な結合を絶たれて土塊に戻されたり、穿たれた大穴が修復せずに崩れ落ちたりと、およそ自分が知っている戦闘とは異なる魔性を見せつけられている。

恐らく、直接相対しても自分でも五合と持つまい。

あれは使い魔ではなく、人の形をした『天災』のようなものだとワルドは思った。

踏んではいけない何かの尾を、自分は踏んでしまったのだ。

『メイジの実力を見たければ使い魔を見よ』と言うが、逆もまた然り。

落ちたりとは言え、大公家息女にして、この歳でトリスタニアの重鎮になり、あまつさえヴァリエール公爵家の覚えもめでたいと言う事実に応分するだけの使い魔だと認識を新たにする。

そして、そんな代物が己の命を狙って血相を変えて追って来ていると言う事実に、自然と心臓が鼓動を早める。

捕まれば最後、どんな命乞いもきくまい。

まさに命がけの遁走に、ワルドはさらにグリフォンに鞭を入れた。

 

 

 

追跡劇はトリスタニアでも行われていた。

ティファニアを抱えたマチルダは、背後から迫る追っ手に必死の逃走を図っていた。

二人がくぐったトンネルの出口はブルドンネ街の工房の裏手に繋げてあったが、石畳を持ち上げて路地に出た時、待っていたのは白い仮面の男であった。

手にした杖剣を抜く白仮面に己との格の違いを感じとり、マチルダはとっさにティファニアを抱き上げてフライの魔法を唱えて空に舞い上がった。

魔法や脚力で男に敵うとは思えなかったがための苦肉の策であったが、空を飛んでみれば白仮面の方が飛行速度が速かった。

恐らくは風のメイジ。

トライアングルとは言え土属性の自分より敵の方が速いという現実に、マチルダは奥歯をかみしめた。

正直、打つ手が見つからない。

得意のクリエイトゴーレムをはじめ、土の魔法はどれも素早い相手とは相性が悪い。

背後からプレッシャーをかけてくる白仮面はいたぶるようにマチルダを追いこんでくる。

状況を見るに、遊ばれている気がした。

敵の出方は判らないが、余裕をかましているのだとしたら付け入る隙を見出すこともできるかも知れない。

空中戦から地上戦へシフトするタイミングをマチルダは探り始めた。

アップタウンを超えて貴族の別邸が並ぶエリアまで追い込まれ、今までが遊びであったかのように白仮面が急に速度を上げてきた。

 

『誘導された!?』

 

一瞬そんなことが脳裏をよぎった隙を突かれ、白仮面に完全に追いつかれたマチルダは高度を落として回避を図るが、その背中に強い蹴りを受けてバランスを失った。

ティファニアをかばうように落下し、勢いを殺しきれずに豪勢な屋敷の庭の立ち木に突っ込む。

枝を跳ね飛ばして木立を抜け、そのまま花壇に背中から落下し、その衝撃にマチルダは脳震盪を起こして気を失った。

ティファニアが慌ててマチルダの様子を見るが、今は介抱などできようはずもない。

追いかけるように降りてくる白仮面に、ティファニアは杖を向けた。

 

「近寄らないで!」

 

マチルダを庇って威嚇するティファニアを気にも留めず、白仮面はゆっくり地に降りた。

 

「手並みは悪くないが、詰めが甘いな」

 

「あなたは何者!?」

 

「誰とは言えないが、お前たちを連れてくるように指示されている。おとなしく従ってもらいたい」

 

「嫌よ!」

 

「まあ、そうだろうな。だが、お前たちの大事な同居人は、今ごろラ・ロシェールに向かってフネの中だ。おとなしく従った方がいい」

 

その言葉にティファニアは息を飲んだ。

 

「ヴィクトリア姉さんをどうしたの!?」

 

「あの者の血筋の因果が動きだしているのだ。その因果の咢から逃れるのは、物騒な使い魔を連れていても難しかろう」

 

ティファニアは思う。

ヴィクトリアの血筋に対して興味を示すとしたら、現時点ではアルビオンしかありえない。

昼間に武器屋で聞いたアルビオンの政変。

予想外に早く、王家の血筋の悪しき影響が己の姉に手を伸ばしてきている。

その尖兵とも思える目の前の男が、自分たちを連行してまともなことに役立てるとは思えない。

ティファニアは自分が知る唯一のルーンを唱える決意をし、杖を持つ手に力を込めた。

 

足音が聞こえたのはその時である。複数の慌てた気配が迫って来た。

程なく現れた衛兵たちが3人の姿を認めて大声で叫ぶ。

 

「何者だ!」

 

迫る衛兵の姿を確認して、白仮面は暢気な調子で呟いた。

 

「ふん、邪魔が入ったようだな。運が良かったな、娘」

 

まるですべてが織り込み済みであったかのように呟き、そして、そのまま霧のように消えた。

 

 

 

残るティファニアとマチルダのところに衛兵が駆け寄り、取り囲んでポールウェポンを突きつけた。

遅い時間にいきなり庭に飛び込み、しかも杖を向け合う者たちを放置するからには不審者として警告なく攻撃されても文句は言えない。

 

「待ってください、私たちは怪しい者ではありません!」

 

杖を捨ててティファニアは両手を上げる。

 

「お前たち以上に怪しい者がおるか!」

 

「経緯はこれからご説明します!」

 

必死に抗弁するが、説明する暇もなくティファニアは地面に抑え込まれ、その身に縄が打たれた。

気絶しているマチルダにはさすがに手荒な真似はしなかったものの、油断なく得物の矛先が向けられている。

 

「貴様ら、平民だな? 夜中に貴族屋敷に飛び込み、木々や花壇を荒らしてただで済むと思うなよ」

 

「悪漢に追われていたんです!」

 

そんなやり取りをしていた時である。

 

 

「何事ですか。夜更けに騒々しい」

 

 

凛とした、威厳ある声が聞こえた。

全員が視線を向ける先に、姿勢の良い、貴族の奥方を絵にかいたような女性が立っていた。

上品なデザインの服を纏い髪を結いあげた、眼光鋭い女性である。

貴婦人というより、どこか軍人のような厳格な風格を漂わせた女性であった。

手にした杖の持ち方ひとつとっても洗練された戦人の気配が漂う。

居並ぶ衛兵が一斉に姿勢を正し、二人を取り囲む者以外は全員武器を立てて礼を取った。

衛兵の中の年嵩な一人が貴婦人に応じる。

 

「お騒がせして申し訳ありません、奥方様。先ほど、敷地に侵入した者たちを捕縛しております」

 

その言葉に貴婦人はティファニアとマチルダを一瞥し、衛兵に問う。

 

「風体だけでは賊には見えませんが、賊はそこの二人だけですか?」

 

「それが、もう一人おりましたが、煙のように消えまして・・・」

 

衛兵の言葉に貴婦人の眉が微かに動いた。

 

「風の遍在・・・ただの賊とは思えませんね」

 

「詳しいことはこの者たちを尋問の後、明朝ご報告に上がります」

 

そんなやり取りが続いていた時であった。

 

「泥棒ですか、お母様?」

 

どこか陽気な声が聞こえたのはその時である。

その声に、ティファニアは聞き覚えがあった。

衛兵の人垣が割れて見えたのは、先日診療院で倒れた若き貴婦人の姿であった。

 

「あら、あなた、先生のところの受付の子じゃない」

 

 

カトレアが月明かりの下で首を傾げた。

 

 



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その19

不覚を取った。

ワルド登場にビビってあっさり術中に嵌るとは、我ながら情けない。

 

そんな無様な私が気が付いたのは、恐らくは船室と思しき居室だった。

作りはなかなか豪華で、私がアルビオンから逃げる際に紛れ込んだ貨客船とは格が違う。

きちんとしたベッドや豪華な調度などから、相応の規模のフネであろうと思われた。

さて、問題はここがどこかだが。

窓の外を見ても下界は闇が広がるばかりで、ここがどこなのかは判らない。

天測の技能でもあればいいのだが、そんな高度なことはもちろん私には無理だ。

 

体を起こして自己点検してみる。

着衣に乱れはない。

変なことをされた感触もない。

そっち方面は問題なさそうだが、困ったことに、どこを探しても杖がなかった。

ベッドから床におり、室内をあちこち探しても無駄だった。

虜の身なのだから理解できるが、やはり杖がないのは心細い。

杖がなければ私なんぞ体力的にはただのガキんちょにすぎない。自力脱出は無理だろう。

私は意識を集中して念を送った。

 

『ディルムッド、どこにいる?』

 

『主、御無事で!?』

 

問いかけると、すぐにディルムッドの焦りと安堵の入り混じった反応があった。

 

『すまないね、不覚を取ったよ。今のところは無事だが、ここはどこだろうね? どうやらフネの上のようだが・・・』

 

『先の屋敷からグリフォンと思しき獣で連れ去られました。方向を見ますに、ラ・ロシェールに向かうフネかと。間もなく追いつきますゆえ、それまで何卒ご辛抱を』

 

『殺す気ならこんなところまで連れてこないだろうけど・・・お前のガードを抜けて私を拉致るとは敵ながら大した連中だね』

 

『面目次第もございません。お叱りは後ほど』

 

『気にするんじゃないよ。それより、今はお前だけが頼りだ。いい子で待ってるよ』

 

そんな念話を交わしていたら、ノックもなくドアが開いた。

 

 

 

「やあ、ヴィクトリア。起きたのかい?」

 

 

 

妙にさわやかな声だった。

その声を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立った。

聞きたくもない声が聞こえ、見たくも思い出したくもない顔がそこにあった。

実際の年齢は40歳前後のはずだが、見た目は30歳くらいの若々しい、大輪の花のようなしなやかな美男子。

 

 

ハイランド侯リチャード。

 

 

4年ぶりに見た私の不倶戴天の仇敵は、朗らかな笑みを浮かべていた。

精神のスイッチが入って吐き気が込み上げ、全身に鳥肌が立つ。

こいつと私は血が繋がっている。

それを考えただけで自分の首を掻っ切って一晩逆さにぶら下がって、一滴残らず血を流し出してしまいたくなる。

 

「何を怖い顔しているんだい?」

 

「近寄るな。反吐が出る」

 

自然と早まる心拍数を感じながら、私は吐き出すように言った。

奴が一歩近づくごとに一歩下がる。

正直、怖い。

寄ってくるこいつが怖い。

これでも相応の覚悟を持って生きているつもりだが、その覚悟を持ってしても抗いがたい恐怖を抑えきれない。

歯の根が合わない。

腕力では勝ち目はない。頼みの杖も、今は奪われてしまっている。

これから己を襲うであろう数々の苦痛を思うと、今この場で自決したいくらいの心持ちだった。

杖が欲しい。

狂おしいほどに。

杖がないことを、これほど心細く思ったことは初めてだった。

 

「ああ、あの時のことをまだ怒っているんだね」

 

侯爵は泣きそうな顔で歌うような調子で声を上げる。

 

「あの時は私がどうかしていたんだよ。君があまりにも可愛らしくて理性を失っていたんだ。許しておくれ」

 

これほど白々しい謝罪も珍しい。

言葉通りに受け取る奴が何処の世界にいるだろうか。少なくとも三千世界にはいないだろうと私は確信している。

胸に手を当てて深々と頭を垂れる侯爵から、私は目が離せなかった。

体中の筋肉が緊張し、本能が防御態勢を取るよう勧告してくる。

だから、次の侯爵の言葉はすごく予想通りだった。

 

「・・・なんて言うと思ったかい?」

 

侯爵は頭を上げるなりにっこり笑い、次いで大魔神のように表情を一変させた。

四白眼の、どこか狂を発したような表情だった。読み取れるのは嗜虐心と憎悪。

侯爵は内からあふれる感情を制御できぬとばかりに、出し抜けに私のどてっ腹に爪先を蹴り込んだ。

いくら腹筋を締めていても関係なかった。

元よりインテリジェンスとマジックポイントの数値に比べ、ヒットポイントやストレングスやアーマークラスが著しく少ない典型的なメイジキャラの私だ。

殊にアーマークラスは深刻だ。

何を言っているのか判らないかもしれないが、要するに、大の男の手加減のない蹴りを受け止められるキャパシティーは私の体にはないのだ。

骨格も、筋肉も、着ているものも、およそこんな打撃に耐えられるスペックを持ち合わせていない。

嘔吐しながら、私はすぐ真後ろの壁に叩きつけられた。

 

痛い。

 

苦しい。

 

重い。

 

肉体があげられる悲鳴の種類をすべて混ぜ込んだような苦痛が鳩尾のあたりから全身に広がって行く。

これはいけない。

まずいなんてもんじゃない。

内臓は大丈夫だろうか?

痛みがひどくて判らない。

格闘技でボディをやられた苦痛は地獄の苦しみというが、冗談抜きで介錯が欲しいほどの苦痛が私を支配していた。

自己診断しながら、私は痛みに耐えかねて唸り声をあげた。喉から漏れるそれを堪えるには、この激痛は大きすぎた。

しかし、これもまだ序の口なのだろう。あれだけの事をした私に対し、この男がどのような仕打ちをするか。

ひと思いに殺してくれるなら、まだいい。こいつの手下数人に寄ってたかって慰み者にされても、まだ私の心は耐えられるかも知れない。

しかし、こいつは本物の変態だ。

恐らく、殺さぬ程度に私を静かに壊しに来るだろう。

中国に西太后といういろんな意味でごっついおばさんがいたが、あのおばさんがやったような仕打ちくらい、この男は平気でやると思う。

さんざんいたぶった挙句、最後には私を剥製にして飾るか、私の頭蓋骨の杯で晩酌を愉しみそうな男だ。

そんなことを考えていたら、蹲る私の横っ腹を侯爵が遠慮なく蹴りあげてきた。軽いとはいえ、私の体がボールのように吹っ飛ぶような蹴りを出せる侯爵もよく鍛えているものだと思う。

今度はアバラだ。下から4本くらいまとめて逝った。肺に刺さらないといいな。

そんな感じに他人事のように考えてないと痛くて気が狂いそうだった。

私を見る侯爵の表情は愉悦に満ち溢れている。長年の恨みを晴らしているのだからその気持ちも判らないでもないが、あいさつ代わりでこれだ。

本腰を入れたらどんなことになるのやら。

ディルムッドが来てくれるまで、私は生きていられるだろうか。

だが、念話で身も世もなく助けを求めることは最後の矜持として絶対にすまい。

彼は今、彼に可能な最大速力で私を助けに来ている。泣き言を伝えても彼の心を追い詰めるだけだ。

もし死ぬのなら、最期まであの気高い使い魔の主として相応しい者でありたい。

 

 

「契約履行前の狼藉はご遠慮いただきたいですわね、侯爵」

 

 

もう1・2発も蹴られたら死んでしまいそうだった私を助けてくれたのは若い女の声だった。

涙が滲む視界の中にその姿が見える。ローブをまとった姿はあからさまに怪しい。そして、ローブを着ていてもそれと判る豊満な胸部に私の本能が確信した。

こいつは私の敵だ。

だが、次の一撃に怯えていた私としては、今この時だけは心からこいつに感謝したい。

 

「動かないで下さい。すぐに楽になります」

 

女は私の前に跪き、そっと私の背中に触れた。

指輪が輝きだし、雪が解けるように蹴られた部位の痛みが引いていく。何かのマジックアイテムだろうか。

同時に、ローブの中の額が光を放っているのが見えた。

痛みとは他の理由で、脂汗がどっと出てきた。

正直、勘弁して欲しかった。

ワルドの次はこいつか。

私の運命のダムに、知らぬ間に不幸が貯まり続け、今日と言う日に決壊したのかも知れない。

 

初めて見るシェフィールドは、妖艶に笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

連れて行かれたのは、フネの中の割に豪勢な会議室だった。

椅子一つでもうちの年商くらいの値段がしそうだ。

そんな場の端っこに座らされた私の目の前で、シェフィールドと侯爵が剣呑な雰囲気を演出している。

 

「4年だぞ、4年。僕がどれほどこの日を待ったか知らぬ訳でもあるまい?」

 

奥歯が鈍い音を立てるほど噛みしめ、侯爵は呼気を瘴気に変えんばかりの怨嗟を言葉に乗せて紡いだ。

 

「毎日毎日、小便をするたびにこいつを思い出したよ。

どうやって壊してやろうか、どうやって僕が受けた屈辱をこいつの体に刻んでやろうか、それだけを考えて過ごしてきたんだよ。

こいつの親殺しだって、こいつを法によって裁かず、この手で縊り殺すためにわざわざ事故扱いにしたんだ。

それをこの期に及んで邪魔されるのは不本意極まるよ、ミス」

 

私は、あの時に斬る場所を間違ったことを心底後悔した。

斬るのなら、こいつの粗品ではなく喉笛を掻っ切るべきだったのだ。

我ながら甘かった。

 

「邪魔をするつもりはありませんし、そのようなことに興味もありませんわ。私が興味があるのは、貴方様の名前だけが欠けている血判状を何時いただけるかでしてね。我々は契約をきちんと履行したものと存じますが?」

 

要するに、私は何かの取引の材料らしい。

 

「ふん、さもしいことだな」

 

侯爵が合図すると、侍従の者が寄って来て羊皮紙を手渡した。

既に幾人もの署名がなされている書状だった。その紙自体から、何やら禍々しい魔力を感じる。

それを受け取った侯爵が並んだ名前の末尾にすらすらと自分の名前を書き加え、最後に指を切って血判を押すと紙が鈍く光った。恐らく、約束を違えることを許さぬギアスがかかった束縛術式の紙なのだろう。

それをシェフィールドに向かって犬に餌をやるような手つきで投げつけた。

 

「ほら、これが欲しかったんだろ?」

 

受け取ったシェフィールドは内容を確認し、頷いた。

 

「確かに。これで北部連合は・・・」

 

「連合加盟の貴族が全員一致で君の飼い主に迎合してやると言うことだよ。判ったらさっさと消えるがいい。僕はこれから忙しいんだ」

 

待ちきれないと言わんばかりにシェフィールドに手を振る。

そんな侯爵にシェフィールドが言った。

 

「察しが悪くて失礼しました・・・下衆の考えることは想像がつかないものですから」

 

その一言に、侯爵の目つきが怪しくなる。

四白眼を爛々と光らせてシェフィールドを睨みつけた。

 

「君は誰に口を聞いているんだろうね、え?」

 

侯爵が手を上げると、壁際に控えていたお仕着せの侍従が杖を抜いてシェフィールドに突きつけた。

 

「今日は僕は機嫌がいいんだ。できればその首を塩漬けにしてあの坊主に送る様な事はしたくないんだけどね」

 

「これだから下衆は困りますわ」

 

シェフィールドが困ったように首を振って手を上げるなり、室内に疾風が吹いた。

エアカッターが走り、侯爵の手下が持つ杖が両断されて床に落ちた。

 

「き、貴様」

 

いつの間にか壁際にいた白仮面を見つけ、侯爵は鬼のような形相を浮かべる。

 

「では、ここからは私たちの時間ですわ、侯爵閣下。こちらの可愛らしい殿下は、我々がいただいて参ります」

 

私は呆気に取られた。

てっきり侯爵への貢物にされたのかと思ったが、どういう話の流れなのやら。

少なくとも侯爵のところに連れて行かれてアレな目に遭わされるよりは運が向いてきたような気がするが。

 

「約束が違うぞ!」

 

「我々は『貴殿の前に貴殿の姪を連れてくること』をお約束し、その約束を果たしました。その成果に基づいていただくべき血判状も、この通り頂戴しておりますわ」

 

ひらひらと血判状を見せつけるシェフィールドの表情は実に嬉しそうだ。

 

「貴様、最初からそのつもりで・・・」

 

白仮面が構える杖剣の気配に動くに動けず、侯爵は人が殺せそうな視線をシェフィールドに向けた。

 

「お立場が御理解いただけましたら御退席を」

 

顔色を信号機のように変えながら侯爵は体を震わせた。

そのまま憤死することを心の底から祈ったが、持ち直した侯爵は苦いものを吐き捨てるようにテーブルの上に唾を吐き捨て、足音も荒々しくドアを開けて侍従を連れて出て行った。

ドアが荒々しく閉まると同時に、濁っていた空気が少しだけマシなったような気がして私は安堵のため息をついた。

室内にはシェフィールドと白仮面、そして私だけが残った。

侯爵の背中を見送ってシェフィールドは私に向き直り、優しそうな微笑みで話しかけてきた。

目が笑ってないのは侯爵もこいつも一緒だ。

 

「では、改めまして。私の名はシェフィールドと申します。我々『レコン・キスタ』は貴女様を歓迎致します」

 

嘘をつけ。レコン・キスタなんぞただの手駒だろうに。

 

「ご丁寧なあいさつは結構だが、できれば私の杖を返してもらえないかね?」

 

「誠に恐縮ですが、この場では冷静な話し合いをしたいと思いますので」

 

「私ゃ至って冷静だよ」

 

「お察しください」

 

力関係が対等でもない話し合いは脅迫と変わらんだろうに。

要するに、こっちには拒否権がない話をするということらしい。

 

「まずは、このような荒っぽい御招待になったことにつきまして謝罪申し上げます。いかんせん、ハイランドの不調法者の要望でしたので」

 

「まったくだね。それで、私みたいな平民をかどわかして何の用だね。私ゃ親殺しだよ。あんたたちがアルビオンで何をしでかすつもりか知らないが、今さらそんな私を担ぎあげてもあんたたちのイメージダウンだろうよ」

 

「公式には、殿下の御母上は事故死となっております」

 

「人の口に戸板が立つ訳ないだろう」

 

「その程度の汚名など、後から権威で洗い流せます」

 

「どうだかね」

 

会話を交わしながら、私は考える。

王家を倒しても王権は確保したい反乱軍の思惑というのはどういうパターンがあるだろうか。

敵さんは私に何をやらせたいか。ちょっと情報が少なすぎる。

私は単刀直入に訊いてみた。

 

「それで、私に何をやらせたいって?」

 

「現在のテューダー王家を倒した後、アルビオン王の座に就いていただきます」

 

「・・・は?」

 

話を聞いて、私は首を傾げた。

私の記憶が確かなら、レコン・キスタが掲げていたのは共和制だったはずだ。

共和制とは君主を頂かない統治制度だ。王権に拘ることは彼らの主張との間に矛盾を生むことになるように思う。

制限君主制として統治制度を整備するのなら私の戴冠も判るが、レコン・キスタは貴族の連合による議会をベースとした団体ではなかったか。

議長だの首長だのと言ったそこのトップに据えようにも、そこには自称虚無の継承者たるカリスマ、オリバー・クロムウェルがいたはず。

・・・そういえばクロムウェルって皇帝を名乗ってたっけ?

アルビオン新政府って帝政? 共和政?

いまいち記憶が曖昧だ。

 

「私を王にしてどうするね?」

 

「まだ詳細なところは決まっておりませんが、現在の構想ではハヴィランド宮殿の一画に殿下のお住まいを設けるか、ロンディニウムの近傍に1リーグ四方の限定的な王領を定め、そちらの統治者になっていただくかで調整しております」

 

「籠の鳥になるか、吹けば飛ぶような小さな国の王様になって、あんたたちに属国として臣従しろということかい?」

 

「理解が早くて助かります」

 

話は理解した。

王権そのものを支配下に軟禁するか、もしくはアルビオン内部にもう一つの国の設立を認めてそこに力なき王として封じるつもりらしい。

王権が共和制に屈した構図を政治的に演出したいというところだろうか。

後者の場合は、もし実現したらヴァチカンみたいな位置づけになるのかも知れない。

アルビオン王と言っても、まさに名ばかり。

軍も、官僚も、諸侯への任命権も持たない王権はただの張子の虎だ。

効果としてはブリミル原理主義者や王権主義者に対する取り繕いか。

また、そうすることで始祖以来の王権を潰した背教者のレッテルを回避できなくもないのかも知れない。

とは言え、その反面、王家が倒れた後は私の存在が内ゲバの引き金になる可能性も低くないだろう。

クロムウェルの虚無のせいで割を食った連中が、私を担いで王政復古を謳って挙兵したらどう対処するつもりなのやら。

もちろんそこに私の自由意思などないだろう。

どこの馬鹿だろう、こんな迷惑なことを考える奴は。

ガリアの髭か?

 

「悪いがお断りだね。私はそんな面倒な立場に立つ気はないよ」

 

「得られたかも知れない、王族としての栄耀栄華には興味がないと?」

 

「欠片もないね。私は今の生活が気に入ってるんだ。戦争がしたけりゃあんたらの方で好きなようにおやんなさいな」

 

「残念ながら、我々は相談しているのではないのです、殿下」

 

ようやくシェフィールド本来の雰囲気が出てきたようだ。

似合わない袈裟は脱いで、さっさと鎧を見せればいいだろうに。

 

「参考までに聞くけど、断ったらどういう目に遭わされるんだね? あの変態のところに送り返されるのかい?」

 

「あのような者を喜ばせる趣味はありません。その場合は、残念ですが、御身の自由を随意から切り離させていただきます」

 

「薬かい?」

 

「そういうマジックアイテムがございます」

 

「じゃあ、仕方がないね」

 

私は椅子を引いて立ち上がり、にっこり笑って言ってやった。

 

「もう一度言うが、やっぱりお断りだよ。私はもう政治には関わらないと決めているんでね」

 

伯父上やパリ―と矛を交えるくらいなら、今すぐそこの窓から飛び降りた方が気分はマシだろう。

 

「まあ、御身一人では心細いところもおありでしょう」

 

どこかそれを期待していたかのようなサディスティックな微笑みを浮かべてシェフィールドは言った。

嫌な予感が、じわりと静かに心に浮かんだ。

 

「今、貴女様の同居人の方々もアルビオンにお招きすべく手配しております。結論はその後で承りましょう」

 

コトンと音を立てて、私の中でいろんなものが加速し始めた。

私は今、きっとまたテファが嫌がる目つきをしているだろう。

感情は朝の湖面のように穏やかだが、奥に黒い炎が荒れ狂っていた。

ああ、シェフィールド、あんたは何て可哀そうな奴なんだろうね。

お前は、触れてはいけないものに触れ、ここで出してはいけない単語を出してしまったよ。

このハルケギニアで、私が何よりも大切にしている二人に手を出されて、この私が黙っていられる道理がないじゃないか。

理屈も何も関係ない。

それだけでお前と私の関係は、殺す殺さないのそれになるしかないんだよ。

私は静かな視線をシェフィールドに向け、自分でも驚くほどの低く冷たい声で告げた。

 

「あの二人に何かあった時は、お前だけは楽には殺さぬと心得るがいい」

 

シェフィールドの視線を受け止め、逆にこちらの眼力をシェフィールドに叩きつけた。

視線を向けあって、私は理解した。

恐らくこいつも理解しただろう。

私たちは近い人種だと言うことを。

自分の大切な何かのためには、どんな手段を取る事も躊躇わない女だと言うことを。

 

「杖を持たぬ貴女様に何ができましょう。ここは高度1000メイルの空の上。御自慢の使い魔でも、さすがに空は飛べますまい?」

 

こちらが無力と思っているのか、シェフィールドは楽しそうに笑う。

もうダメだ、こいつを生かしておく理由が見つからない。

そのまま白仮面に指示を出し、私の退室を促した。

 

「では、また後程」

 

妖艶に笑うシェフィールドに、私もまた笑って返した。

残念ながら、お前に後はないんだよ。

 

白仮面に促されて室外に退去し、ドアが閉まると同時に私は壁に身を寄せ、耳を抑えて床に伏せた。

 

 

さようなら、シェフィールド。

 

 

ドア一枚を隔てた、会議室の床が爆発するように吹き飛んだのは次の瞬間だった。

 

 

轟音と共に赤い流星のような一条の光が真下から真上に走り抜け、衝撃波が破壊の限りを尽くす。

真下からの一撃を受けたシェフィールドの死体は原型を留めないだろう。

伏せた私のすぐ脇でドアが吹き飛び、破壊された室内の構造材などが吹き荒れる。

フネ全体が身震いし、立っていたものは吹っ飛ばされて壁や床に叩きつけられている。

まるで砲弾が命中したような衝撃だった。

指示したのは私、犯人はもちろん我が忠臣だ。

私が会議室に入ったあたりで、既にディルムッドはこのフネを捕捉していた。

宝具の全力投擲ともなると、その速度は音速の数倍だ。

いかに効果が地味系のゲイ・ジャルグでも、英霊が扱う宝具というものを舐めてはいけない。

我が使い魔に、空戦能力はなくても対空能力までないと考えたのは早計だったね、シェフィールド。

 

振動が収まると同時に、私は即座に立ち上がった。

この攻撃によって演出したパニックを利用して脱出を図る。

フネというのは商船構造と軍艦構造などの違いはあっても基本的に構造はどれも同じようなものなので勝手は判る。

タラップを探して逡巡した時、後ろから声がかかった。

 

「こっちだ」

 

振り向くと、廊下の中ほどに白仮面をつけた男が手招きをしている。

思わずぎょっとなった。

何の真似だ、ワルド子爵。

一瞬躊躇ったが、彼の手に見慣れた青水晶の杖を見て、私は意を決して彼がいる方に走った。

私を待って白仮面は杖を差し出してきた。

 

「ここをまっすぐ行けば上甲板に繋がるタラップがある。急ぐがいい」

 

罠とは思えないが、あまりに過剰なサービスに少しだけ猜疑心が頭をもたげた。

 

「何の真似か、簡潔に教えてくれないかね?」

 

「君に同情した、などと言う甘い理由は期待しないでくれ。北部連合を取りこんだレコン・キスタなら、武力だけで王家を倒すことが可能だ。それをわざわざ内側に王位継承者と言う火種を抱える愚挙に賛同しかねるのさ。王家を倒した後、内輪もめする可能性は排除すべきと言うのが僕の考えでね」

 

「理由にならないね。だったらさっさと私を殺せばいいじゃないか」

 

「最初はそのつもりだったが、君を殺してあの化け物が黙っているとは思えないのだよ。今夜だけで手練の傭兵100人が血祭りにあげられている。下手をすれば、君の使い魔のためにレコン・キスタは壊滅の憂き目を見るだろう。君とて、変態の玩具や心を壊された人形になるのは本意ではないだろうし、王位継承権を振りかざして貴族に返り咲くつもりはないのだろう? 相互不干渉は可能なはずだ。故に、ここはこの騒ぎのせいで僕は不覚にも君を取り逃がしてしまった、という選択肢が最上だと判断したまでだ」

 

私が知らない間に、ディルムッドはずいぶん活躍したようだ。あとでしっかり褒めよう。

他にも裏があるのかは知らないが、杖を返してくれたことから見ても、この男に害意はないのだろう。

おかげでディルムッド頼みのロープなしバンジージャンプをしなくて済む。

 

「私の家族は?」

 

「既にヴァリエール公爵家の庇護下にあるから心配はいらない。さあ、早く行け。僕はもう君に関わりたくないんだ」

 

「・・・ひとつ借りにしておくよ」

 

それだけ言って、私は振り返ることもなく廊下を走ってタラップに取りついた。

一気に駆け上って最上甲板に出る。

夜風が荒れている中、私は舷側に向かって走った。

 

『ディルムッド、降下中の援護頼むよ』

 

『承知』

 

それだけのやり取りで、私は心から安心した。

ようやく頼もしい使い魔の庇護下に還ることができる。

 

すべてはうまくいく。

 

そう思ったところに落とし穴があった。

舷側に駆け寄って手摺に手をかけ、フライのルーンを口ずさんだ時だった。

 

『主!』

 

ディルムッドの悲鳴にも似た声が脳内に響いた。

その声と同時に彼の投擲の気配を感じるが、着弾までのタイムラグが私の命取りだった。

次の瞬間、私は体に走った衝撃と鈍い熱さを感じることとなった。

 

熱い。

 

熱い。

 

熱い。

 

尋常ではない感覚だった。

背中から、何かが体に何本も突き刺さってきた。見下ろすと、私の小さな体を貫通して何本かの氷の矢の切っ先が体から生えているのが見えた。

ウィンディ・アイシクル。

食らうとこういう風になるとは知らなかったよ。

消化器を傷つけたらしく、せりあがって来た血の塊が口からあふれ出た。

鼻の奥が鉄臭い。

凄まじい耳鳴りが頭蓋骨の中に鳴り響いた。

 

杖を取り落とし、ずるずると手摺の上に崩れる私の視界に、至る所から血を流した侯爵がキャビンの出口のところで杖を手に立っている姿が映った。

さっきの騒ぎでもかすり傷とは命冥加な奴だ。

だが、奴の幸運もそこまで。

風切り音が響き、既に放たれていた我が使い魔の2投目が真下から侯爵を襲った。

黄金色の閃光と共に、甲板の木材もろとも侯爵が吹っ飛ぶさまが見えたが、その衝撃で私もまた虚空に投げ出された。

 

 

緩やかな飛翔感に包まれながら、私は朦朧としてきた意識で今までの事を思い返す。

これが走馬灯というものかもしれない。

伸びきった時間流の中で、どこかでみた風景が流れて行った。

良いことばかりではなかったけど、悪いことばかりでもなかった。

 

私が知るハルケギニアの歴史に対し、私は自分の価値観を優先して介入してきた。

死にゆく運命だったカトレアに、本来ありえない道を示した。

テファやマチルダに手を差し伸べることによって、彼女らが面倒を見るであろう孤児たちについては黙殺した。

テファの救済は、場合によっては未来における平賀才人の死を確定する行為でもある。

本来は死んでいたであろう、多くの人の運命をこの手で変えてきた。

それがどのような未来につながるかに目を瞑って。

運命を知る術は私にはないが、その些細な変化をもたらすことを繰り返した私は、やはりこの世界のイレギュラーだったのだろう。

神の目こぼしを受けながら日々矛盾を生み出している存在であるからには、唐突に揺り戻しとも言うべき終末がやってくることもあり得る話だ。

歴史に修正力というものがあるのなら、矮小なこの身では抗うことはできないだろう。

もとより生まれ変わりという、おまけのような20年。

まあ、いいか。

最後は退屈しない人生だったし。

 

気がかりなのはマチルダとティファニアの今後だが、世間知らずの貴族様と違い、今の二人には相応の生活力がある。

私が知る物語のように日陰者に落ちる心配はないだろう。

私がいなくなった後でディルムッドが現界できるかは判らないが、もし残ってくれるのなら、きっと二人の力になってくれるだろう。

 

視界の端で、上空の船がすごい竜巻に巻き込まれてばらばらになっていく様子が見える。

ディルムッドの仕業だろうか。

 

 

ああ、何だか眠い。

 

 

背中に柔らかい感触。

流石は我が忠臣、優しく受け止めてくれる。

霞む目の前でディルムッドが叫んでいる。

何を言っているかよく聞こえないや。

 

 

本当に眠い。

 

 

意識が飛び飛びになって来た。

カトレアみたいな色の髪をした、厳しそうなおばさまが鋭い目で私に何か言っている。

ああ、もしかしてこの人、『烈風』さんかな。

助けに来てくれたのかな。

あの二人がヴァリエールの庇護下に逃げ込めたのは本当だったのか。

 

ディルムッドに抱えられたまま、『烈風』さんのマンティコアの背中に乗ったようだ。

何だか目の前が暗い。

 

今夜は妙に冷えるなあ。

 

今もディルムッドの声が聞こえる。

 

 

すまないね、すごく眠いんだよ。

 

 

 

 

いいや、もう、寝てしまおう。

 

 

 

 

今夜だけは、あのひどい夢は見たくないなあ。

 

 

 

 

・・・。

 

 

 

・・。

 

 

 

・。

 

 

 

 

 

 



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その20

 『転生もの』というジャンルがある。

 ネットSSの世界の話だ。

 原作の知識や、現世のいろんな技術を使って異世界で大活躍、というのがスタンダードなパターンだ。

 しかし、実際にその境遇に落ちてみて私は思い知った。

 現実というものは、生まれ変わろうが世界が変わろうが、残酷で厳しいものなのだ。

 物心がつき、魔法の存在を知り、ハルケギニアという言葉を聞いた時点で、私はこの世界が『ゼロの使い魔』のそれであることに気が付いた。

 

 

 

 ― いいのいいの、道具はね、使うためにあるのよ ―

 

 

 ― あんたもたまには、故郷に帰るんだね。親に顔を見せてやりな。私みたいに、帰る場所がなくなっちまう前にね ―

 

 

 

 

 ゼロの使い魔と言えば、私はティファニアが大好きだった。

 気立てがよく、反則なスタイルを持ち、芯が強くて、おまけに美少女。

 作品が作品であれば、メインヒロインを張れるキャラだ。女の私の目から見ても、ヒロインであるルイズよりよほど応援したい娘だった。

 そのティファニアの陰にいるのがマチルダ・オブ・サウスゴータ。

 ワルドとペアで物語の裏街道を進む、不遇の美女。そして、ティファニアの保護者にして、姉。およそ、幸せになれるパターンが想像できないキャラだった。

 ハーフエルフに生まれ、過酷な宿命を背負いながらも優しさを失わないティファニア。

 闇に身を落とし、それでも妹だけは守ろうと業火に身をさらし続けた『土くれのフーケ』ことマチルダ。

 作品を読むたびに、いつも私は思った。

 

 何で、この二人が不幸せにならなければならないのか。

 

 世の中は、確かに不条理で満ちている。

 しかし、この二人にそこまでの業があるとは思えない。

 ならば、何が悪かったのか。

 決まっている。

 モード大公。

 彼の浅慮が、彼女らの不幸を決定づけたのだ。

 この場合、愛は免罪符にならない。

 相手の幸せを願うなら、涙を飲んでシャジャルを手放すべきだったと思う。

 そうすれば、誰一人泣かなくて済んだはずなのに。

 

 話が進み、ティファニアはやがて友を得、恋を知り、差別を受ける立場を脱して幸せを掴んでいく。

 しかし、私が覚えている範囲では、その陰でマチルダは尚も闇の中を歩き続けていた。

 

 もし、私自身に力があれば、早い段階からいくらでも運命の歯車をいじれただろう。

 しかし、ちっぽけな子供であった私は、自分のことで精一杯だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 落成した診療院での最初の夜だった。

 

 四人そろっての半月ほどの宿屋暮らしの間に、買い取った空き家を大工に頼んで直してもらっていたのがようやく出来上がり、皆で過ごす初めての夜だ。

 さて、これから新生活という肝心要のスタートであるが、初っ端から抱えた問題があった。

 当然ではあるが、マチルダもティファニアも料理というものが全くできなかったのだ。

 太守の娘ともなればお抱えの料理人はいただろうし、ティファニアはまだ子供だ。

 そういう機会がなくても、まあ仕方がないだろう。

 そんな訳で、その夜の夕食は私が作ることとなった。この辺りは前世でとった杵柄だ。

 助手はディルムッド。さすがは英霊、芸域が広い。

 料理といってもコース料理のようなとんでもないものは作らない。

 作れと言われれば真似事くらいはできるが、あんなものをいつも食べていたら生活習慣病になってしまう。

 何より、今の私たちにそんなお金はない。

 室内の調度を整えるのは皆に任せて、市場に買い出しに出かける。選んだ食材は、私なりにバランスを考えたものだ。

 ニンジン、ジャガイモ、タマネギ。手の加え方ひとつで何にでも化けられる三種の神器だ。

 それに動物性タンパク質として肉を少々。

 調味料として、タルブ特産の『ショウユ』が手に入った。

 マチルダもティファニアも手伝いを申し出てくれたが、それほど広いキッチンではないし、明日以降キッチンを任せる予定のティファニアには別途教授するということで、二人には配膳を担当してもらうことにした。ディルムッドにはサイドのサラダの用意をしてもらう。

 まず、ずらりと食材と調理器具を並べてメインの段取りを反芻する。

 

 

 ・ジャガイモとニンジンとタマネギを食べやすい大きさに適当に切る。

 ・鍋にそれらを入れて、ひたるくらいの水を入れる。

 ・強火にかけて煮立てる。

 ・煮立ったら中火にして、砂糖を入れて数分煮込む。

 ・充分煮えたら、ショウユを大さじ1杯を加えてさらに煮込む。

 ・肉を投入する。

 ・肉の色が変わったらショウユをさらに大さじ1杯半加えて灰汁取りをする。

 ・落し蓋をして10分ほど煮込む。

 ・ジャガイモが充分煮えたら落し蓋を外す。

 ・強火にして適度に水分を飛ばす。

 

 

 確かこんな感じだったはず。

 我ながらちょっと自信がなかったが、食えない物になることはないだろう。

 もとより、アルビオンは料理がまずいことについては折り紙つきだ。

 そこそこ味が整っていれば文句は出ないだろう。

 とりあえずスタートしてみる。

 スルスルとニンジンの皮を剥きながら自分の手を見る。

 ずいぶん荒れていた。

 しばらくの間とは言え、浮浪児をやっていたのだからきれいなわけがない。

 治癒魔法ひとつできれいになるが、そんな気を回している余裕もなかった。

 働き者のきれいな手、という表現もあるが、正直、手のきれい汚いについては、あまりいい記憶はない。

 

 

 

 

 あの日のことが、何だか遠い昔のような気がした。

 

 

 

 

「何ということをしたのです、お前は!」

 

 母が叫んでいる。

 体を震わせ、その表情は恐れや憤怒に歪んでいた。

 もともとヒステリックな人だったが、顔に青あざを作り、服をボロボロに引き裂かれ、そして返り血を付けた私の様子に、彼女の中の狂気のスイッチが入ったようだった。

 

「兄の庇護なくして私たちが生きていける訳がないでしょう。それを何故そのような恐ろしいことを! 恩義ある兄の伽の一つもできぬと言うのですか!」

 

 母の言葉が、私の脳内でぐるぐると回り続けた。

 何故だ。

 母の言うことが、理解できない。

 それとも、理解できない私がおかしいのだろうか。

 暴行されかけた娘に対し、何故そのようなことが言えるのだろう。

 私は正直に胸の内を述べた。

 

「こんな目に遭ってまで、あの人の庇護を受けたくありません。私たちには魔法があります。真面目に働けば、生きていくことなど難しいことではないと思います」

 

「私に手を荒らせと言うのですか! 貴族の娘である私に!」

 

 生まれた時から、苦労というものをしたこともないような白い指を、私に突きつけて母は怒鳴る。

 本当に白い、爪もきれいに整った指だ。

 その手の美しさに、得体が知れない生き物のぬめりのような気持ち悪さを感じた。

 恥のないところには、同時に誇りも存在しない。

 ひたすら誰かに寄りかかって生きていることを良しとするのが、果たして貴族というものであろうか。

 今とは違う生き方を模索すると言う概念すら、この人にはないのだ。

 理解と言う圧力が高まり、その圧を受けて私の心の中の器に、罅が入った。

 

「それだけの……それだけのための、私は生贄なのですか?」

 

「子が親の言うことを聞くのは当然でしょうに!」

 

 母は震える手で杖を取った。

 

「仕方がありません。私がお前を仕置きして、兄への謝罪といたします」

 

 その言葉で、私の中の器が一気に割れ砕け、水が怒涛のように溢れ出た。

 物心ついた時から、もしかしたらと思ってはいた。

 この時、やはり、と思ってしまった。

 僅かに、可能性として信じていた母の愛が、この瞬間に朝露のように消えた。

 感情はない。

 ただ、作業のように、心の中で濁流を渦巻いている水をイメージして、私は母より先にルーンを唱えた。

 

 

 さようなら、私の母だった人。

 

 

 私は、欠片ほどの躊躇いもなく、杖を振り下ろした。

 

 恐らくはこの時に、私の心のとても大切な部分が壊れてしまったのだろう。

 割れ砕けた器のように。

 そのことが何に繋がったのかは判らない。

 過度な精神的なストレスが遺伝子に働きかけたのか、はたまた魔力の循環異常を引き起こしたのか。あるいは、幼少期からストレスに抗い続けて来た私の中の傷だらけのクウォーツが、ついに砕けたのかも知れない。

 原因は判らなくても、結果は静かにこの身を訪れた。

 

 この時、私の時間は凍りついた。

 

 

 

 

 北部連合と中央を結ぶための政略結婚。

 それが父母を結びつけた縁だった。

 その結晶として生まれた身ではあるが、望まぬ結婚を強いられた父にとって、生まれた私は疎ましい存在以外の何物でもなかったらしい。公の機会でもない限り、私が彼を見る機会はほとんどなかった。

 いろんな意味で自由人だった母にしても同様で、私が住む家で彼女を見かけることは一年の半分くらいだった。

 私の育成には乳母と従者が数名ついたきりで、しかもそいつらも最低限のことしかしてくれないビジネスライクな連中だった。

 公女の身の上では安易に外出もできず、放任主義の両親からは、然るべき身分の友人も手当てしてもらえなかった。

 話し相手は、しかめ面で面白みのない家庭教師だけという日々が私の幼少期だった。

 一度逃げ出そうとしたが、あっという間に見つかり、警備担当の兵の数名が責任を問われて暇を出されることになった。

 一瞬で人生が狂ってしまったあの時の彼らの目は、今でも忘れられない。

 私の軽挙が、彼らの生活に罅を入れてしまったのだ。

 私はいよいよ身動きが取れなくなった。

 そんな状況で、未来を知っているとか現代知識があるなんてことは生かそうにも手段がなく、徒に時を重ねる中で、私は私の戦いを強いられることになった。

 

 

 敵の名は、『孤独』と言う。

 

 

 気楽と言えば気楽だが、孤独というものは、鉄を蝕む錆のように静かに深く心に浸透していき、時には人の命すら奪うとんでもない代物だったりする。

 一人、食事を摂る。

 巨大なテーブルに、ふんだんに用意された料理。

 しかし、50人は座れる食卓についているのは私だけだ。

 父はもとよりこの家に寄りつこうとはしないし、建前上は同居人である母は、どこかの貴族の子弟と幾つもある別宅に入り浸りだった。

 使用人たちに相伴を持ちかけたこともあったが、頑として受け入れてもらえなかった。

 大きすぎる屋敷に、一人で住んでいるような空虚な気配が私の周囲には常に漂っている。

 砂を噛むような食事は、食事と言うより餌だ。

 飢えて死なないように、自分で自分に与える餌。

 立場的に、友達を作ることもできない籠の鳥のための餌だ。

 転生者であっても、誰とも会話のない日々と言うのは心に堪える。

 そんな日々の中、私は磨滅して行く自分の心を維持するので精一杯だった。

 

 孤独を紛らわすため、私は魔法の勉強にエネルギーを注いだ。

 おぼろげながらに覚えていた医学の知識と治癒魔法の似ている点や違いを考えるのは面白かった。

 自分が何者だったかはこの時はまだはっきりと思い出せていなかったが、その知識と魔法の技術の親和性の高さに私は魅せられた。

 時間がある時は、庭にあった大きな楡の木の根元に座って幹の中を流れる水の気配を聞いた。

 大地から吸い上げられた水が、葉から空に消えていく生命の息吹を感じていれば、この緩慢な地獄も耐えることができた。

 

 

 水は、私の根幹であり、寄る辺でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

「水のようになるんだよ」

 

 聞こえてきた声に、私は振り向いた。

 懐かしいキッチンだった。

 エプロンをつけた母が、鍋で何やら煮物をしている。

 醤油やら味醂やらが並び、ジャガイモ、牛肉、玉ねぎ・・・。

 懐かしい匂いが鼻をくすぐる。

 

「わかるかい?」

 

 母の言葉に私は答えた。

 

「わかんない」

 

 母は笑いながら、歌うように言う。

 

「固定観念を捨てて、心と体の力を抜いて、どんなことにも対応できるように自分の中から形を無くすのさ。水のようにね」

 

「むう……」

 

「水は茶碗に入れば茶碗の形になるし、茶瓶に入れば茶瓶の形になる。ゆるゆると流れることもできれば、滝のように激しく打つこともできる。それくらい柔軟に物事を考えるのが、世の中をうまく渡って行くコツだよ……おっと、そろそろかね」

 

 母は火を止めて、煮ていた物を器によそって私に差し出した。

 その手を見つめる。

 仕事で荒れた、がさついた手だった。

 余裕を削り、自分の命を削り、そろそろ削るところがなくなっていそうなほど、働きづめの母の手だった。

 

「ほら、味見をしてみな」

 

「……肉じゃがだ」

 

 私は確認するように呟いた。

 それは軍神・東郷平八郎のパワハラの果てに生まれた奇跡の逸品。

 一口食べ、深い味わいに頷く。

 

「美味」

 

「久々だったけど、うまくできたかね。おかずはこれでいいね?」

 

「うん。充分」

 

 頷いて、私はふと思って訊いてみた。

 

「ねえ、さっきの水がどうとか、っていうの、誰の言葉? お父さん?」

 

 父は亡くなって8年近く経つ。彼の事を、私はほとんど覚えていなかった。

 

「まさか」

 

 母は笑った。

 

「ブルース・リーだよ」

 

 それだけ言うと、母は上着を着て玄関に向かう。

 勤務医である彼女は、これから夜勤だ。

 私も、母のバッグを持って、後ろにくっついて行って玄関まで見送る。

 

「それじゃ、行って来るよ。戸締りはきちんとするんだよ」

 

「いってらっしゃい。今日は寝られるといいね」

 

「う~ん……日付が変わるあたりで雨だからなあ。交通事故の搬送が多いだろうね」

 

「大変だね、お医者さんも。体、大丈夫?」

 

 知り合いの看護師が言うには、母がいる病棟は『女王の病棟』と言われるくらい母中心で回っているそうだが、いくらそんな女傑でも、連日の長時間勤務は辛かろう。

 

「お前は余計な心配しないでしっかり勉強しな。来年から中学だよ。少しは漫画以外の本も読みな」

 

 私の頭をペシッと叩き、バッグを受け取って母は出かけて行った。

 その背中を見送り、キッチンに戻ると、食卓に、肉じゃがが湯気を立てていた。

 一人、食卓で肉じゃがをおかずに夕食を食べる。

 正直、出かけてしまう母に、伝えたい気持ちはあった。

 しかし、女手一つで私を育ててくれている母の前では、さすがに泣き言は言えなかった。

 気持ちを飲み込みながら口にしたジャガイモは、さっき味見したものとは別の物に感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ほこほこと湯気を立てる、豪勢とは言えないながらも温かい夕食がテーブルに並んでいる。

 

「変わった料理だね。シチュー、じゃないし……」

 

 マチルダが私が作ったメインをまじまじと眺める。

 ティファニアも興味津々だ。

 

「『肉じゃが』、という料理だよ」

 

 作るだけ作ってみたが、味醂がなかったので結構『なんちゃって肉じゃが』な出来栄えだった。

 味の方はそれなりに整ったので、食べられないことはないと思う。

 

「自信はないけど、温かいうちに味見してみておくれ」

 

 物を食べるのに理由はいらない。

 全員が食卓に座り、それぞれが信じるものに祈りを捧げる。

 私はワインに手を伸ばして、皆が肉じゃがに手を付けた時の反応を眺めていた。

 やや大ぶりなジャガイモを割って口に運び、驚いたような顔でマチルダが言った。

 

「美味しいね、これ」

 

「うん、すごく美味しい」

 

 ティファニアも目を丸くして賛同の意を示す。ディルムッドはどこかの騎士王のように、唸りながら何度も頷いている。

 お世辞ではないようで安心した。

 

「それはよかった。ちょっと調味料が足りなかったから本当に自信がなかったんだよ」

 

「本当に美味しいよ、うん」

 

 皆が、にこにこしながら料理に手を付けていく。

 それは穏やかな、家族の食卓という光景だった。

 ふと、自分の中に感じた微かな灯に戸惑いながら、私も自分の皿に手を付けた。

 味が良く染み込んだ、煮崩れる直前の、柔らかいジャガイモを口に運ぶ。

 ほのかに甘く、やや塩味がするジャガイモが、ほろりと、口の中で蕩けた。

 

 

 それは、本当に突然だった。

 ジャガイモを見ていた視界が、不意にぼやけ、ポタポタと温かい滴が、テーブルに落ちた。

 

「あれ?」

 

 私は思わず声を漏らした。

 驚いたように、3人が私を見ているのが判る。

 

「変だね、何だろうね」

 

 私の目から、止め処なく涙が溢れていた。

 

「ど、どうしたのさ?」

 

 マチルダに訊かれても自分でも判らない。

 

「どうしたんだろうね、本当に。どうしたんだろうね」

 

 顔をぐしゃぐしゃにして、鼻水まで流して、この世界に生まれて初めて、私は泣いた。

 

 簡単なことだった。

 私が欲しかったものは、こんなに当り前なものだったのだ。

 信じられる人たちと一緒に、普通に食べる、晩御飯。

 最高の素材を用い、最高の料理人が腕を振るった晩餐でも潤わなかった心が、それだけで暖かいもので満たされていく。

 

 『転生もの』というジャンルがある。

 ネットSSの世界の話だ。

 原作の知識や、現世のいろんな技術を使って異世界で大活躍、というのがスタンダードなパターンだ。

 どういう理由で、自分が転生する羽目になったのかは自分でも判らない。

 よくあるパターンを踏襲するなら、転生をすれば、そこは幸せな世界だったことだろう。

 愛してくれる家族がいて、類まれな才能を持って、世界のすべてが味方のような物語を紡げただろう。

 しかし、私が生まれ落ちた先は、私にとっては地獄だった。

 周りには誰もおらず、自分が望むことも何もできず、ただ時間だけを重ねることを強いられた牢獄だった。

 神を恨んだこともあった。

 この世界のことを知った時は始祖ブリミルも恨んだ。

 前世をどうやって終えたのかは知らないが、天寿を全うしたのなら、静かに眠らせて欲しかった。

 誰が、新たな人生を歩みたいと言ったか。

 誰が、孤独を味わい、辛酸を舐めたいと望んだか。

 誰が、こんな生き地獄に来たいなどと願ったか。

 私の魂は、幾度となく双月に向かい、声を上げずに慟哭してきた。

 

 そんな中で出会ったのが、ディルムッドであり、マチルダであり、ティファニアだった。

 

 おこがましくも、ティファニアやマチルダを、私は助けたつもりでいた。

 それは私の思い違いだった。

 

 

 助けてもらったのは、私だ。

 

 

 一緒にご飯を食べてくれたのが、たまたま彼女たちだったということは確かだ。

 巡り合わせの賜物とも言えるだろう。

 しかし、あの時、私の心が感じたものだけは他に代えられないものだったことも確かなのだ。

 誰が何と言っても関係ない。

 彼女たちは、私にとって、かけがえのない姉と妹だ。

 彼女らの笑った顔を見ると、それだけで胸がポカポカするのだ。

 長い一人旅の果てに、ようやく手にした宝だ。

 それを守るためならば、私は躊躇わずに命を懸けることだってできるのだ。

 

 ただひたすら泣いている私の周りでマチルダとディルムッドがおろおろし、ティファニアはもらい泣きして泣き出してしまった。

 

 診療院の最初の夜は、そんな感じだった。

 

 

 

 そんな皆に、言いたくても、まだ言っていない言葉がある。

 

 

 ただ、一言。

 心からの、感謝の言葉を。

 

 

 

 

 ありがとう、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 気持ちが言葉になり、言葉が声となって、聴覚を刺激した。

 それをきっかけに、視界が徐々に光を取り戻す。

 ぼやけた視界で見上げた天井は、よくある話だが知らないそれだった。

 ずいぶんと天井が高いところを見ると、かなり豪勢なお屋敷なのだろう。

 

 どこだろう、ここは?

 

 呟こうとして、喉がカラカラなことに気が付いた。

 思わず咳こんだ時、すぐ近くで何かが落ちる音がした。

 強張った筋肉を動かして振り向くと、そこに切り花を取り落として震えるマチルダが立っていた。

 

「ヴィクトリア?」

 

「……マチルダ?」

 

 数瞬の沈黙ののち、マチルダはすぐに慌てて手近にあった呼び鈴の紐を引いた。

 次に私の脇に駆け寄って、私の顔を両手ではさみこんで怒鳴った。

 

「この馬鹿! どれだけ心配したと……」

 

 吐き出そうとした感情が大きすぎたように絶句し、そして、マチルダはそのまま泣き出してしまった。

 感情に任せ、ただ、子供のように。

 

 吠えるように泣くマチルダを見ながら、私は思う。

 生きていてよかった、と。

 私は、とても幸せな奴だ、と。

 今ここに、私のために泣いてくれる人がいる。

 二度目の人生という泥沼の中で、懸命に這いずるできそこないの転生者にも、泣いてくれる人がいるのだ。

 この世界で、それ以上に嬉しいことがあるだろうか。

 

 神になぞ感謝はすまい。

 ただ、皆に会わせてくれた運命にこそ、感謝をしよう。

 

 知らぬ間に、私の目からも涙がこぼれた。

 

 

 

 屋敷の家人が駆けつけてくるまで、私たちは二人で泣いていた。



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その21

馬車に揺られながら、私は窓の外を緩やかに流れて行く深い森を見ていた。

思い切って借りたブルームタイプの贅沢な馬車は軸受のクッション性能が高く、中でワインが飲めそうなほどの乗り心地だった。

きっと、バネに良い鋼を使っているのだろう。

向かいではティファニアとヴィクトリアが、景色を見ながらきゃいきゃいと騒いでいる。

そのはしゃぎ方はまるで子供のようで、とても働いて立派に身を立てている者には見えない。

考えてみれば、アルビオンから流れてきてからこの二人は驚くほど変わっていない。

ティファニアは外見こそ大人びてきたが、中身はほとんど変わっておらず、ヴィクトリアに至っては時を止めたかのように見た目も中身も出会った時からそのままだ。

何だか、私一人だけが歳を取っているような腹立たしい気持ちが湧いてくる。

 

 

 

冬の到来の前、私たちは一つの試練を迎えた。

ヴィクトリアが背負った、血の呪い。

彼女の生まれのしがらみが、遠くトリスタニアにまで追いかけてきた。

 

ヴァリエール公爵家に保護された私たちが祈るように待ち続ける中、明け方近くに公爵夫人のマンティコアが帰還した。

焦燥の表情を浮かべたディルムッドが抱える小さな姿に、一瞬何が起こったか理解できなかった。

感情が、物事の理解を拒んだためだと思う。

糸が切れた人形のように力を失った、全身が血塗れのヴィクトリアが使い魔の腕の中にいた。

あの時のティファニアの悲鳴は、まだ耳に残っている。

取り乱し、縋りつこうとするティファニアを私が冷静に抑えることができたのは、先に彼女がパニックに陥ってくれたからだ。

そうでなければ、私がおかしくなっていただろう。

 

公爵夫人はさすがに冷静で、凛とした声で次々に指示を飛ばしていた。

控えていた多くの水メイジたちがすぐにディルムッドに駆け寄り、ヴィクトリアを受け取って応急の治癒魔法をかけながら屋敷の一室に運び込んだ。

処置室であるその部屋の入口の前で、私たちは待った。

ディルムッドが、まるで幽鬼のような表情で瞬きもせずにドアを凝視していた。

忠義に篤い彼の心中は、察するに余りある。凄まじい自責の念が彼の中に吹き荒れているのだろう。

ティファニアは手を組み合わせ、固く目を閉じて一心に何かに祈っていた。

何かに祈りたいのは、私も一緒だった。

 

やたらに長く感じる時の流れを積み重ねた気がしたが、実際にはさほど時間は経っていなかったのかも知れない。

曙光が強さを増す頃、ドアが開いて、大きな侍医長が出てきた。

暗いその表情を見て、私は神と始祖に問うた。

これは何かの間違いなのではないかと。

沈痛な面持ちで事実を告げる彼の言葉が、耳を素通りして行く。

私の体の中と外で、事実と願望、現実と懇願が錯綜し、膝が崩れそうになった。

あの小生意気で、だらしなくて、ババ臭くて、でも、情に厚くて、優しい娘が、いなくなってしまう。

そんな考えたくもない未来予想が、私を打ちのめす。

大切なものが手のひらから零れ落ちるとき、運命のタクトはいつだって突然で無遠慮だということは知っているはずだったのに。

 

そんな、心が砂糖菓子のように砕けそうな私を助けてくれたのは、神でも始祖でもなく、私のもう一人の妹だった。

一緒に話を聞いていたテファは、話の途中で侍医長の脇を猫のようにすり抜け、ドアの中に駆けこんだ。

追いかけて室内に入ると、寝台の上に、シーツに包まれたヴィクトリアが眠っていた。

周囲の治療師たちが、既に片付けに入っている姿に理由もなく腹が立った。

ヴィクトリアの隣に立つテファの表情に絶望はない。今、私を支えているのはその彼女の表情だけだった。

テファはヴィクトリアの上に手をかざすと、意識を集中し始めた。

ルーンを唱える訳でもなく、ただ意識を指輪に集中すると、程なく彼女がつけていた指輪が輝き始めた。

彼女の母の形見の指輪だ。前に一度聞いたことがある、水の力が込められた宝玉が嵌った指輪。

テファの集中に呼応するように、その青い石が輝きながら溶け始め、光る滴になってヴィクトリアに零れ落ちた。

それは、美しいティファニアの姿と重なり、崇高な神事のような光景だった。

石が溶け消えるころ、土気色をしたヴィクトリアのその頬に、微かな赤みが差した。

 

固唾をのんで見守っていた侍医長が、ヴィクトリアの脈を取り、驚愕の声を上げて部下たちに太い声で指示を飛ばす。

ティファニアがもたらした奇跡の名残は押し寄せる侍医たちの活動に押し流され、私たちは再び部屋の外で待機となった。

その時間は、絶望に塗りつぶされそうだった先ほどまでと違う、希望を信じることができる時間だ。

ヴィクトリアの帰りを待つ、少しだけ心が軽くなった時間だった。

 

 

 

奇跡は起こったものの、それから数日、ヴィクトリアは生死の境をさまよった。

急所に傷を受けており、多量の失血が彼女の生命力を奪っていたらしい。

ヴァリエール公爵家の侍医団がいなければ、恐らく助からなかっただろうと思う。

 

ヴィクトリアの病室は屋敷の離れの一角に設けられ、ありがたいことに私たちはそこへの出入りを許された。

私たちは交代で日参したが、その合間を縫って日々の生活を回すのは思ったより大変だった。

特に、診療院はヴィクトリアがいなければパフォーマンスの低下は目を覆うばかりだ。

長く助手を務めてきただけに、軽い症状の患者に対してはテファでも処方する薬が判ったが、そのストックも程なく尽きた。

もちろん、秘薬はヴィクトリアじゃないと作れない。

長期休診もやむを得ないかと思っていたそんな時に、救いの手が差し伸べられた。

 

「お邪魔するよ」

 

頭をつき合わせて今後について悩んでいる私たちが玄関に出向いて見ると、そこに大きな箱を抱えたピエモンがいた。

ポーカーフェイスの老人は私たちの様子を確認するように見ると、運んできた大きな箱をドスンを下ろした。

 

「さしでがましいとは思うが・・・」

 

彼が持ってきたのは、大量の水の秘薬だった。

用途のバリエーションこそ限られるが、よほどの患者じゃない限りは充分に対応できる品々だった。

 

「院長不在では秘薬の調達もままなるまいと思ってね。値段は君たちの売値でかまわん。使ってくれ」

 

見ていたようなタイミングの援軍に、私たちは驚いて目を丸くした。

 

「助かるけど・・・でも、本当にいいのかい? こんな高価なものを・・・」

 

ヴィクトリアが作るものと違い、素材からして一流の物を使う彼のところの秘薬は本格的なものだ。

まともに買えば平民の年収くらいは軽く飛ぶような物を素直に受け取っていいものかどうか、私は逡巡した。

しかし、ピエモンは当然のように答えてくれた。

 

「トリスタニア町内会は互助組織だ。困っている御近所を放っておく訳にはいかんよ。それに、君のところの院長だって、私が困った時は飛んできてくれるだろうからね」

 

 

 

年の差を忘れてクラッと来そうなくらい男前のピエモンの助けもあって、とりあえず、私たちのヴィクトリア抜きの日常は何とか軌道に乗せることができた。

私はお得意さんたちに事情を説明して回り、しばらくの間工房の営業を縮小して、できる範囲でヴィクトリアに付き添うことにした。

工房のお客は待ってくれるが、診療院の患者は待たせるわけにはいかないので、ティファニアは診療院の切り盛りに従事してもらう。

 

寝ぼすけなヴィクトリアが目を覚ますまで、3週間かかった。

元から薄い肉が削げ落ちてしまって痩せこけてしまった姿は見ていて痛々しいが、それでも命があったことは何物にも代えがたい。

覚醒の連絡をすると、ティファニアは取るものを放り出して駆けつけてきた。

侍医団が診療を終え、入室を許されるやヴィクトリアの首に抱きついてまるで駄々っ子のように大泣きした。

それが落ち着いたところで、ディルムッドが入って来た。

その姿に、さすがにヴィクトリアは言葉を失った。

やつれ果て、憔悴しきった使い魔は、どこか幽鬼のようだった。

その忠臣は伏し目がちに主に寄るや、手にした青い水晶の杖を差し出す。

ヴィクトリアが眠っている間に、彼が現場に出向いて探してきた彼女の杖だ。

しかし、彼の表情は重い。

その表情そのままの言葉を口が紡ぐ。

 

「この度は、使い魔にあるまじき不始末・・・もはや、お詫びする言葉も見つからず・・・」

 

等と言いだし、いきなり平身低頭した。

ついには『この責につきましては一死を持って贖いたく、自裁の許可を』とか言い始めたので、ヴィクトリアはなけなしの体力を振り絞って使い魔を叱りつける羽目になった。

私の知りうる情報でも、彼は彼なりに精一杯やったものと思う。責任の所在云々については、誰にあるものでもないだろうに。

すったもんだのやり取りの挙句、ついには『ひどいじゃないか。お前、こんな私を捨てるのか』『いいえ、そのような』と男女の修羅場のような展開になってようやく男泣きするディルムッドを宥めることができた。

 

 

 

ヴィクトリア回復の報を聞いたのか、翌日に公爵夫妻がやってきた。

私たちも居合わせた午後に、二人きりで部屋に現れたのだが、部屋に入るなり公爵が杖を振るい、サイレントの魔法をかけた。

どうやら『そういう話』になるらしいと思い、私もティファニアも姿勢を正した。

 

「災難でしたな、殿下」

 

公爵の言葉に、ヴィクトリアが低頭する。

 

「この度はとんだご迷惑をおかけいたしまして申し訳ありません。名高き『烈風』殿直々に御助勢をいただいたばかりか、家人ともども命まで助けていただきました。この御恩、生涯忘れるものではありませぬ」

 

この屋敷に逃げ込み、勢いに任せて助けを求めたのは私とティファニアだが、ヴィクトリアは我が事として首を垂れた。その所作はまさに大公家の姫君そのもので、日頃街で下世話な話にも平気で割り込む彼女からは想像がつかない気品があった。

 

「何、お気になされますな。娘のために働いていただいている大恩の幾ばくかをお返ししたまで」

 

「ご厚情、痛み入ります」

 

そんな謝辞のやり取りののち、公爵は核心に切り込んできた。

 

「それで、殿下は今後はいかがなさるおつもりでしょう?」

 

「はい」

 

ヴィクトリアは、少しずつ言葉を選びながら話し始めた。

アルビオンの政変について、王族の係累として干渉する意思がないこと。

トリステインの王家や貴族に対しても迷惑をかけるつもりはないこと。

ヴァリエール公爵家に対しても、これまでと同様の距離感で接したいこと。

そして、できればこのまま静かにトリスタニアで暮らしたいこと。

 

ヴィクトリアの言葉を、公爵夫妻はただ静かに聞いていた。

次いで私たちに向けられた視線に、私もティファニアも、ヴィクトリアと同意見である旨を述べ、首を垂れた。

私はサウスゴータ太守の娘として。

ティファニアもまた大公の娘として。

もはや貴族に未練のかけらもない私たちが望むのは、平穏だけなのだから。

 

やや間を置き、公爵は告げた。

 

公爵家としては、私たちの意思を尊重し、これまでと対応を変える意思はないとのこと。

しかし、政変が起こっているアルビオンの状況によっては看過できない事態がトリステインで起こる可能性は否定できないため、もし何かがあった場合は大人しくトリステイン王家の管理下に入ること。その場合は後見人として公爵家が立つこと。

そして、カトレア嬢のために尽力しているヴィクトリアに対する、それが精一杯の感謝の代わりと結んだ。

 

それは、私たちの生活がアルビオンとトリステインの関係がこじれない限りは安泰となり、万が一の場合も公爵家が後ろ盾になってくれるという夢のような申し出だった。

公爵に政治的な思惑があったとしても、この場においては破格の条件だ。

ヴィクトリアは私たちを代表して深い感謝の意を述べ、公爵と握手を交わした。

 

 

 

 

ヴィクトリアの治療は、思ったより長引いた。

体に刺さった魔法の矢は全部で四本。

奇跡的に持ち直したのはいいのだが、ダメージはやはり洒落にならなかったらしい。

問題なのが骨盤に食らった一本が神経を傷つけ、下半身に麻痺が出ているのだそうだ。

ヴィクトリア自身も言っていたが、神経の修復には時間がかかるのだそうで、リハビリと合わせて治療プランを組み立てていかなければならないらしい。

トップレベルの治療師たちの治療を受けられたからこそこの程度で済んでいるのだそうだが、結局麻痺が取れるようになるまで一冬を要した。

その間、面倒を見てくれた公爵家には頭が下がるばかりだが、満足に動けず床についたままだったヴィクトリアは、公爵領から王都に住まいを移しているカトレア嬢にとっては格好の遊び相手になっていた。

新方針の治療プランが始まったためか、最近は床に臥すことも減ってきた彼女はエネルギーを持て余しているらしい。

午前中に工房の仕事を片付けて午後に見舞うと、そのたびに髪を弄り回され、化粧まで施されたヴィクトリアを見ることができた。

何でも、朝食後に必ずカトレア嬢とのカードゲームに付き合わされるが、勝てたためしがないのだそうだ。

その賭けの代償として、毎度玩具にされており、カトレア嬢の命を受けた彼女の侍女たちも楽しそうにあれこれ試しているのだとか。

ヴィクトリアは素材がいいだけに着飾ると見栄えはするし、私としても、照れたように嫌がっているヴィクトリアを見るのは楽しかった。

ヴィクトリアのもとをよく訪ねてくるのはカトレア嬢だけでなく、侍医団の若手や侍医長もしばしば訪れてきており、医療技術のディスカッションを繰り返していた。

殊に、水の魔法や秘薬を使わない治療術についてはさすがのヴァリエール公爵家の侍医団の中にもヴィクトリアの右に出る者はないので、その点の講義を聞きに多くの治療師たちが訪れていた。

 

動けなかったヴィクトリアが介助を受けながらも立ち上がり、杖を突きながらも歩けるようになるころには季節はすっかり冬になっていた。

立ち上がれさえすれば、多少足が不自由でも生活に支障はないので帰宅を望むヴィクトリアだったが、カトレア嬢と侍医団が首を縦に振らなかった。

それでも、さすがに降誕祭の時だけは外泊の許可が出た。

 

屋敷街からチクトンネ街までは結構な距離があるが、ディルムッドに抱えられることなくヴィクトリアは慎重に杖を突きながら歩みを進める。

久々に感じる大地が、この上なく愛おしいような顔をしている彼女と一緒に、私たちはゆっくりと家路を辿った。

 

「おかえりなさい、先生」

 

診療院にたどり着くと、何故かジェシカが腕を組んで仁王立ちしていた。

その脇には『魅惑の妖精』亭の女の子たちが並んでいる。

 

「やあ、久しぶりだね。長く留守にしちまってすまなかったね」

 

ジェシカはそれには答えず、芝居がかった動作で指を鳴らした。

それを合図に女の子たちが声を上げて一斉にヴィクトリアに走り寄ると、あっという間に担ぎ上げてしまった。

 

「さあ、そのまま運んでちょうだい」

 

私やディルムッドが止める間もなく、ヴィクトリアの悲鳴を残して一団は走っていく。

 

「な、何事よ!?」

 

運び込まれた先は『魅惑の妖精』亭だったが、中に入るとそこに街の主だった面々が揃っていた。

ピエモンや武器屋や馴染みの商店主たち、私の仕事仲間の職人連中までが並んで私たちを待っていた。

ティファニアからヴィクトリアの一時帰宅の話を聞いたジェシカが企画したようで、要するに、降誕祭兼ヴィクトリアの快気祝いの酒盛りをやろうという趣旨だったようだ。

今回のヴィクトリアの長期離脱については周囲には事故による怪我として皆に説明していたが、これほどにその話が広まっているとは思い至らなかった。

店から溢れるような数の人々がヴィクトリアのもとを訪れ、口々にその身を案じ、無事を喜ぶ言葉を述べていく。

そんな話題を肴に宴が始まった。

侍医長から禁酒を言い渡されていたヴィクトリアはちょっとだけつまらなさそうだったが、事の次第を適当にごまかして説明するのは神経を使うので、もとから飲むつもりはなかったようだった。

夜半になって宴もたけなわな時間に、ヴィクトリアは店の裏手に呼び出された。

ディルムッドと一緒について行って見ると、何やらいかつい強面の連中がずらりと並んでヴィクトリアに対し、その快気を祝う挨拶をしている。

どいつもこいつも、絵に描いたようなあっち側の住人だった。

恐らくはマフィア。それも各組織の若頭や幹部、代貸クラスが揃っていた。

応じるヴィクトリアも迫力では負けていなかったが、筋者から慇懃な挨拶をされるあたり、一度こいつのサイドビジネスについては問い質さねばならないと思った。

 

ホールに戻れば、客の数がさらに増している。

いつの間にか、トリスタニアという街で、ヴィクトリアの存在はこんなにも大きなものになっていたようだ。

同居人として誇らしくもあり、また、同じメイジとしてはいささか向上心を刺激される話でもあった。

 

皆で遅くまで飲み続け、最後にはヴィクトリア主導で新年最初の朝日を見るまで宴は続いた。

 

 

 

 

 

 

そんなことを思い出していると、御者台で手綱を取っていたディルムッドから声がかかった。

 

「間もなく見えてくると思います」

 

その言葉に、ヴィクトリアが歓声を上げながら馬車の扉を開け、魔法を使って屋根の上に飛び上がった。

次いで、レビテーションでティファニアを浮かせて隣に招いた。

 

「マチルダ、あんたもおいでな」

 

一瞬その通りにしようと思ったが、馬車の屋根に3人はさすがに厳しかろう。

 

「私は御者台にするよ」

 

「・・・また体重増えたのかい?」

 

「ヴィクトリア、あんた今日ワイン抜きね」

 

「えー」

 

益体もないことを言いながら、ヴィクトリアに倣ってレビテーションを唱えて御者台にいるディルムッドの隣に移る。

 

 

ややあって、曲がったカーブの向こう。

 

 

「うわ~!」

 

広がる光景に、ティファニアが歓喜の声を上げた。

 

ラグドリアン湖。

それは、自然の美しさを凝縮したような、宝石すら霞む景観だった。

 

これは恐らく、生涯忘れ得ぬ景色だろう。

そんな私の周りにはティファニアがいて、ディルムッドがいて、そしてヴィクトリアがいる。

 

この湖には精霊がいて、誓いを立てれば面倒を見てくれると言うが、そんなものは必要ない。

私は、私の意思を持って、今と言う時を大切にしていこうと思う。

 

 

いつか父に会いに行く日が来たら、きっとこう報告しよう。

 

 

私は、とても素敵な人たちに巡り会えたのだと。

 

 

 

 

春の日差しに輝く、ようやく辿りついた約束の湖を見ながら、私はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【DISC1 END】



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その22

トリスタニアの朝は、日の出とともに動き出す。

往来を行き交う行商や運搬の音を聞きながら、私は目を覚ました。

 

のそのそと芋虫のように起きだして、玄関の外にある牛乳受けから牛乳を取り出す。

 

牛乳が飲めることは、幸せなことだと思う。

飲み物としてはやや重めになるためか、飲むと腹具合が悪くなる人がいるが、幸い私の胃腸はそういう設計にはなっていないようで、毎朝しっかりといただくことができる。

牛乳は完全食品と言われることがあるがそれは誤りで、栄養価は確かに高いものの、実は鉄分やビタミンCが少ないのだそうだ。そもそも、牛乳というのは牛の子供を育てる目的に特化した液体なのだから、人にとって完全であることの方が無理があると言えよう。

また、決していいことばかりではなく、牛乳が乳がんや前立腺がんの原因にもなるという学説もある。牛乳=健康と盲信するのは危険ではあるが、そうは言っても多飲すれば反動があるのはどんなものでも同じなわけで、私のように身体の発育がアレな者にとってはすがりつくべき数少ない寄る辺なことは確かなのだ。

何しろ、我が家の私以外の女二人は揃って上背があるし、胸も立派だ。

殊に妹に至っては、立派という陳腐な言葉では追いつかないくらいの凶弾を装備している。それこそ牛と張り合えそうなくらいだ。

初めて会った時は、年齢の割に立派ながらもまだ可愛げがあったが、それが今ではどうだ。

線が細い体とのギャップも際立ち、まさに神の双峰と呼びたくなるほどの神々しさを放っているではないか。

もしかしたら私のところに来るべき分を、何らかの方法で夜な夜な吸い上げているのではないかと邪推したくなるほどの逸品だ。

当人にとってはコンプレックスになっているそうだが、何だか『お金がありすぎて管理に困っちゃう』とでも言われているようで全く同情する気にはなれない。

むしろそんなに邪魔なら片っぽちぎって私に寄越せと

 

「玄・関・先・で・牛・乳・飲・む・な・と・何・回・言・っ・た・ら・判・る・ん・だ・い」

 

思考の海に沈んでいたら、知らぬ間に背後に回ったマチルダが私のこめかみにウメボシぐりぐりを見舞ってきた、って痛い、それすごく痛いってば。

 

 

 

 

「ははは、それは災難だったな」

 

「笑い事じゃないよ。う~、ちくしょー、まだズキズキするよ、まったく・・・」

 

涙目で聴診器を着けながら、私は毒づいた。

目の前で椅子に座って笑っているのはアニエスだ。朝の悲劇を話したら大笑されてしまった。恐らく、マチルダからも日頃からいろいろ聞かされているのだろう。

今日は非番なのだそうで、定期診断に来てくれた。こういう生真面目な人は、それが必要だと認めてくれさえすればルーチンで来てくれるから診る方も安心できる。

 

「院長も、少しくらい体術を覚えてもいいのではないか?」

 

「ちょっとくらい体術知ってたってパワーが違うからねえ。相手は日頃から金槌振るってる工房の女主だよ?」

 

自由を愛する私としては私の自由意思を奪うような迫害には断固として立ち向かいたいところだが、いかんせん体格が大人と子供ほども違うこともあって腕力では全く勝てないので、ここしばらくはマチルダの圧政に対しては非暴力不服従というマハトマのような日々が続いている。

 

「ご希望とあらば、指南くらいはするぞ?」

 

それは嫌だ。こいつがアルビオンで才人にどういう特訓をしていたかは今でも覚えている。

『こちとら無粋な軍人だ、技も術もすっ飛ばす』とか言って実践オンリーのスパルタ教育してたよね、確か。

しかも最後には『教えたことはどれも役に立たない』とか言っていたはず。

誰が好き好んでそんな虎の穴に入門するものか。

 

「考えておくよ。それじゃ上だけ脱いでおくれ」

 

適当に受け流して聴診器を構えると、言われた通りにアニエスが上着を脱ぐ。

軍人らしく、女の癖に躊躇のない見事な脱ぎっぷりだが、取り去られた着衣の下から現れた体に私は思わず息を飲んだ。

 

うわー・・・。

 

こっちの都合で数か月空いてしまった検診だが、見慣れたはずの彼女の裸身は、前回見た時に比べてもさらにシャープに磨きあげられていた。

必要な部位に必要なだけ、針金をより合わせたような締まった筋肉がつき、その上にうっすらと脂肪が乗っている。インナーマッスルから丁寧に練り上げる鍛錬を積み重ねたためか、瞬発力と持久力を兼ね備えた、理想的な戦うためのボディになっている。運動をするうえでは邪魔でしかない乳房も程良い程度のサイズだ。

男性のように隆々としているわけではなく、かといって女性のように華奢でもない。

完璧だ。

しなやかな、猫科の獣のような肉体。

女豹と言う言葉がこれほど似合う体も珍しいだろう。

 

「これはまた・・・見事に鍛え上げたものだね」

 

聴診器を当てながら漏らした私の呟きに、アニエスが不敵な笑みを浮かべる。

 

「おかげさまでな。言われたメニューに従って鍛錬しているが・・・ふふ、やはり専門家の意見は聞くものだな。ここ最近で、体捌きのスピードが3割は速くなった気がするよ」

 

「そんなにかい?」

 

「ああ。同僚にミシェルという腕の立つ奴がいるんだが、最近ではそいつの剣が止まって見えるくらいだ。ふふふ」

 

「そ、それは良かった・・・」

 

何が楽しいのか、猛獣のような恐い笑みを浮かべるアニエスに、さすがに私も少し引いた。

 

「そんなわけで、そろそろ今のメニューでは物足りなくなって来てな。できれば今日はその辺の見直しも併せて相談したい」

 

「う、うん、わかったよ」

 

実は、受け答えしながらも私が密かに懊悩していたのは、アニエスのSっぽい笑いのためだけではない。

彼女に対し、理想的な形にビルドアップしていく手伝いをしたつもりはあったが、それは同時にかなり危険な要素をも醸成することになるのだと、この時初めて理解したからだ。

今、目の前で彼女が発しているものは、いわゆる中性美。

知らぬ間にアニエスの肉体は、アスリート系と言うか宝塚系と言うか、男性とは違った清潔な逞しさと、女性ならではの繊細さが同居した妖しいそれになっていた。

手入れをしていない割に肌理が細かく張りのある肌と、躍動感を感じるボディラインを持ったそれは、まるで清流に遊ぶ魚のように瑞々しくも艶めかしい。しかもその魅力は、男性よりもむしろ女性に対してより効果を発揮するもののように思う。

平たく言えば、それを見た少女たちの乙女回路に深刻なダメージを与える『お姉さま系』の魅力だ。

医師の目で見ていたはずの私ですら、思わず吸い込まれそうな妖しさを感じるくらいだった。

これはいけない。

こんな妖しげなフェロモンをまき散らすような危険人物を野に放つのは、雌雄一対を原則とする自然の摂理に対する挑戦に他ならない。

思い出してみれば、やがて組織されるであろう銃士隊は女性ばかりの組織だったはず。

さらに困ったことに、やがては王女の片腕として取り立てられるであろうアニエスである。アンリエッタの傍に置いておいて本当に大丈夫であろうか。幸いにもお姫様は懸想する相手がいたはずだが、何かのきっかけでアニエスの素肌を見た時に、アンリエッタが新たな世界の扉を開かない保証はどこにもない。

確かにトリステインの紋章は百合の花ではあるが、それを具現化してしまうようなことになったらそれこそ国家の破滅ではないか。

私は、とんでもないフランケンシュタインズモンスターを作り出してしまっているのかも知れない。

 

「うわ~・・・・・・かっこいいですね、アニエスさん」

 

嫌な汗を滲ませている私の脇で、手伝いに来たティファニアがため息交じりに呟いた。

その頬が微かに赤くなっているのを見て、私は慌ててアニエスに服を着るよう指示した。

 

アニエスの更なるビルドアップを奨励すると同時に、それに対する阻止の必要を感じると言う二律背反の思いを抱きながら、ややウェイトを上げた形の鍛錬メニューを書いてアニエスに渡し、午前中の診察時間は終了した。

 

 

 

 

 

午後になり、今日は往診が入らなかったので買い物籠を持って街に出た。

平日ではあるが多くの人が繰り出しており、市も立ってなかなかに活況だった。

トリステインは年々国力が下がっているとのことだが、確かに各国をリードするような産業もないだけに、国際競争力が上向かないのは自然な流れだと思う。

伝統に胡坐をかいて、ガリアやゲルマニアから農作物や工業製品を輸入する一方では落ち目になるのは仕方がないだろう。

そんな状況なのに王位は空位のままだし、貴族諸君は既得権益の確保とさらなる拡大に躍起となると、国家としてのトリステインが亡国の一歩手前と言うのも頷ける。マザリーニさんが悪口を言われながらも必死になって国を立て直そうとしているようだが、ここまで敵が多くては、まるで一人で滝の流れを逆流させようとしているようなものだろう。せめて私の従姉妹がシャンとしてくれればいいのだが、夢見るお姫様はまだモラトリアムな季節なのだろうか。その気になったら『大切なおともだち』相手に城が消し飛ぶような魔法をぶっ放すくらいの気概があるのだから、できればそれをプラスの方向に向けて欲しいと言うのが、御膝元の王都住人としての私の切なる願いではある。

 

 

人の波の間を泳ぎながら、私が向かった先は古びた書物屋だ。

本や巻物などを扱うトリスタニア屈指の老舗で、その取り扱う商品の幅には目を見張るものがある。

店構えは絵に描いたような二階建ての店で、何となく左に傾いで見える。蔵書の重さに建屋が耐えられないのだろう。今度ディーに営業に来させて、倒壊防止の錬金施工でも提案させてみよう・・・って、何でもありだな、土魔法って。

 

「ごめんよ」

 

薄暗い店内入ると、奥で店番をしていた痩せた老人が、手にしていた巻物から顔を上げた。本当に生きているのか怪しいくらい青い顔をしているが、数年前からこの調子なので、これがこの老人のデフォルトなのだろう。

 

「ああ、君か」

 

しわがれた声だったが、高い知性を感じさせる声でもあった。既に引退しているが、この御仁、数年前まで夜の町内会の役員を務めていた剛の者だ。数字に強く、情報収集とその活用について傑出した人物で、引退したと言ってもその頭脳と記憶力は老いてなお他の追随を許さない。日本に生まれれば、エリートのトップたる財務事務次官でも余裕で務めそうな人物だ。私ごときでは、彼の叡智の深みを計る事などもちろん無理だ。元アメリカ合衆国国務長官のコンドリーザ・ライスにも引けを取らないんじゃないかと思う。

この老人に会うたびに、こういう平民を徴用しないあたりがトリステインの没落の原因だと確信する。彼を財務卿に据えれば、国内財政は一気に右肩上がりに転換するだろうに。もったいないことこの上ない。

 

「その後は何か入ったかな?」

 

「ああ、君の眼鏡にかなうかわからないが・・・」

 

老人は立ち上がり、奥から数点の巻物を持ってくる。

どれも年季が入った感じのものだった。

書物のテーマは、どれも毒物。

 

「どれも禁書すれすれの書物ばかりだからね。持ち運びには気を付けるんだよ」

 

「ありがとう。気を付ける」

 

私は金を払って店を後にした。

3分以上読書を邪魔されると、彼は怒り出すからだ。

 

 

 

宿題と言うのは幾つになっても憂鬱なものだ。

学校の宿題でさえ十二分に憂鬱なのだが、私が抱える宿題はもっと性質が悪い。

以前に診療院を訪れた、小さなお客様が残していった相談事。

その答えについて、苦しまぎれに調べる努力を口にした瞬間に約束が成立してしまった。

問題は、その相談については、答えも、それに至る経路も知っているのにそれを示せないことだ。

故に、それ以外の経路で答えを探す努力を私は続けて来たのだが、これまでの結果は不首尾に終わっている。

 

カフェの端っこの席で紅茶を舐めつつ、人目を気にしながらこそこそと手に入れたばかりの巻物を見てみる。

幾つかの単語を拾いながら斜め読みしているが、やはりどれも空振りのようだ。

毒物と言う言葉は出てくるが、どちらかと言うと相手を毒殺するための毒についての書物らしい。

何を調べているかと言えば、もちろんエルフの毒についてだ。

タバサとの約束として、私なりに調べられる範囲で調べようと思ってやっている調査。

調べ始めてみて初めて知ったことだが、宗教上の敵ということもあってか、エルフに関する情報は実に少ない。

ましてや心神喪失薬ともなると、影も形も出てこない。あるいは、エルフ以外でそれを知った者は、いずれもそれを実体験する羽目になっているのかも知れない。

心神喪失薬というのは、それを使うかどうかをエルフの評議会が決めていたような気がするし、タバサに飲ませるために調合していたビダーシャル自身も地位も実力も高かったように記憶しているので、ネフテスの中でも機密レベルが高い可能性がある。そんな代物がおいそれと書き物になって出回るほうが不自然かも知れない。

チートな知識を持っている私でも判っていることは、それが水の精霊の力を使った魔法薬だということくらいだ。

ある程度の情報さえ手に入ればラグドリアン湖の水の精霊に相談することもできなくもないと考えているのだが、調合に先住魔法が必要なのだとしたら打つ手がなくなる。

それでも私が調べているのは、ビダーシャル自身が『あれほどの持続力を持った薬は、お前たちでは調合できぬ』と言っていたためで、裏を返せば持続力を度外視すれば調合できる可能性を完全に否定していなかったように読めたからだ。

毒が作れるのなら、解毒薬も作れぬ道理はないはず。

可能性としては1%もないだろうが、約束は約束なので、できるだけのことはしようと思うのだ。

ゆくゆくは無事に解放される不運の少女とその母ではあるが、もし力になれるなら運命の歯車を早回しすることくらいはしてあげたいと思うものの、現実の壁はいつだって高くて厚いものだと痛感する。

 

 

そんな思索に耽っていたら、太陽が傾きだした。

ティファニアに晩の買い物を頼まれていたのを思い出し、冷めた紅茶を飲み干して急いで市場に向かう。

メモを片手に生鮮食品を買って回ることしばし。

ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、カブに鶏肉・・・お、今夜はポトフだね。

結構な重量になったが、鍛錬のためにあえて魔法を使わず、買い物籠をよいしょと抱えて家路についた。

 

「おや、ヴィクトリア?」

 

ブルドンネ街を抜けたあたりで声をかけられて振り返ると、マチルダとディーがいた。

 

「お、もう帰りかい? 御両人」

 

「納品先から直帰だよ。あんたも帰り?」

 

「見ての通り、買い物をしてきたところだよ」

 

食材が詰まった籠を見せる。

 

「荷物は私が持ちましょう」

 

「すまないね」

 

ありがたい申し出に、ディルムッドに買い物籠を素直に渡した。やはり男手があると助かる。

 

「何というか、ヴィクトリアが籠持ってる姿見ていると、何だかお使いに来たえらい子みたいに見えるね」

 

マチルダがまた要らんことを言う。

 

「じゃあ、差し詰めマチルダは子供を連れたお母さんってとこかね」

 

「なにおう」

 

「まあまあ、お二人とも。早く帰りましょう。テファさんが待っているでしょうし」

 

 

 

そろそろ一番星が出そうな夕方、私たちはそんなことを言いながら家路を急いだ。

 

 

 

 

そんな、平和な一日。



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その23

―売られていくよ―

 

 

一般的な乗合馬車の乗り心地と言うのは、お世辞にも良くないもの。

私の肉が薄いお尻では、30分も乗れば痛くてたまらなくなってしまうくらいだ。

マチルダのアドバイスに従ってクッションを持ってきて正解だった。日本の舗装道路のありがたみを思い出す道行だ。

朝一番の馬車を捕まえ、見上げれば清々しいほどの青空の下をゴトゴトと揺られていく。

何だか、荷馬車に揺られる昼下がりの子牛になった気分がしないでもない。

朗らかな朝が一転してお通夜のような雰囲気になり果てる呪いの歌をドナドナと口ずさみながら、私は事の発端となった先日の出来事を思い出していた。

 

 

 

 

穏やかな午後だった。

陽気が暖かくなってきたため、風邪ひきも減り、往診もない一日。

 

「うむ、だいぶ慣れてきたね」

 

「そう?」

 

手を動かしながら、ティファニアは嬉しそうに微笑む。

彼女が持っているのは鋏のような形をした器具。正式な名称は持針器という。

それを手に、チクチクと革の端切れを縫合針で縫う練習を繰り返している。

 

『私もできる範囲で治療の方法を覚えたい』

 

先日のトラブルの後で、ティファニアが言いだしたのがきっかけだった。

私がいない時、診療院の機能が麻痺したことに思うところがあったらしい。

ティファニアは魔法が使えない。

厳密には虚無の魔法である『忘却』は使えるが、当人はそれが虚無の魔法だとは気付いておらず、ただの不思議な力だと思っているようだ。幸いにも使う機会もアルビオンから逃れて以来なかったが。

そんな訳で、当然、水系統の魔法は使えないのだが、私の仕事を間近で見ていただけに魔法を使わない治療法の利点をよく理解していた。

私としては、正直、教えていいものか悩んだ。

医療というのは、これでなかなか難しい部分がある。

医術は人を救う技術ではあるが、その技術は同時に救える限界を理解することでもある。

医者は神ではない。神ではないからには、もちろん失敗だってするし、できないこともある。

内科の診断ともなれば、まさに闇の中の手探りゲームなので、絶対誤診するなという方が無理だ。

そんなことから、患者を殺した数だけ腕が上がるという人もいる。

そこを割り切って次に繋げられる精神的タフネスが求められるのが医師という仕事だと思う。

優しくも強いティファニアという子のことを考えると、深入りさせるべきかどうか悩ましい。

とりあえず、簡単な外傷の治療法くらいは大丈夫と思い、手っ取り早く縫合術を覚えてもらうことにした。

 

「できた! どう?」

 

出来栄えは60点といったところか。

丁寧ではあるが、まだまだ精進が必要なレベル。

 

「う~ん、『もう少し頑張りましょう』、ってところかね」

 

「え~」

 

眉を下げて泣きそうな顔をする。

ちょっとした意地悪をされた時のティファニアの顔は凶器だ。可愛すぎる。

む~、と唸りながら今一度端切れに向かう彼女の仕草に私は笑みを浮かべた。

 

その裏で、私は悩む。

ティファニアは虚無だ。それを私は知っている。

それをどのタイミングで伝えたらいいか、私は測りかねている。

四の四がこの世にある限り、現実は地の果てまでティファニアを追ってくるだろう。私とアルビオンの関係どころではない。何かあれば、敵はハルケギニア世界そのものだ。

聖戦が宣言されれば、ティファニアは嫌でも巻き込まれていくだろう。

最後の虚無の使い魔、リーヴスラシルこそが、ティファニアの使い魔なのだから。

ややぎこちなく動く、彼女の手元を見ながら思う。

その指に嵌った、台座だけの指輪。

本来はウエストウッドの森でなされたはずの奇跡は、私の浅慮のために時と場所を変えて具現化してしまった。もう取り返しはつかない。

場合によっては、そのために一人の罪のない少年が死ぬ。

間接的ではあるが、私が殺したと言えなくもないかも知れない。

 

一縷の望みは、私の数々の独断と偏見が、この世界の正史に罅を入れているかどうか。

パラレルワールドという考え方があるが、既にマチルダとティファニア達の未来を変えてしまったことが、どうこの世界に影響しているかを思う。

それは同時に、期待でもある。

もしかしたら、今、こうしているひと時が私が知る『ゼロの使い魔』ではない、まったく別個の時間流の中にあるのではないかと。

アルビオン王家は倒れず、タルブは平和で、アルビオン攻略戦もなく、当然才人も死なず、ガリアの青髭の火石もない並行世界があってもいいのではないかと。

そんな穏やかな未来に、今が繋がって欲しい。

私が密かに、そして切に願っている未来。

しかし、現実は厳しく、状況は不利だ。

ジョゼフはミョズニトニルンを召喚していたし、あの血判状が健在なのかアルビオンでは北部連合が貴族派として参戦しており、それ以来、王党軍は総崩れになって押し込まれている。正史のアルビオン内戦の経緯は知らないが、アンドバリの指輪の力は王党派の打った様々な手の上を行っているのだろうか。

私の思惑なぞ一顧だにせず、歴史の歯車は淡々と回り続けている。

ただ、静かに暮らしたい。

それだけのことが、とんでもない無理難題に思えてくる。

いつまでも皆で幸せに、などと贅沢は言わない。地獄に落ちるくらいには手を汚してきた私がどうにかなるのは仕方がないにしても、マチルダとティファニアには幸せであって欲しい。

咎なき彼女たちには、それくらいの未来が許されてもいいはずだろうに。

 

「姉さん?」

 

声をかけられて私は我に返った。

 

「ん、終わったかい?」

 

「うん・・・どうしたの? 泣きそうな顔してる」

 

不覚にも、考えていたことが表情に出てしまっていたようだ。

これはいけない。気を付けよう。

 

「ああ、弟子があまりにも不出来なので世を儚んでいたのさ」

 

「えー!」

 

「嘘だよ。今度の方がよくできてるね。バランスよく細かく縫えているよ」

 

端切れを受け取って私は笑った。

 

「もう、姉さん最近意地悪だよ」

 

「どれ、貸してごらんよ」

 

むくれるティファニアから持針器を受け取り、端切れに取り掛かる。

最近縫合はすっかり魔法任せだからちょっと腕が鈍ったのか、さすがに緊急外来をやっていたころのキレはない。リハビリしなくては。

それでも見ているティファニアは充分驚いている。

 

玄関の鈴が音を立てたのは、そんなことをやっていた時だった。

 

 

パタパタとテファが応対に出て、戻って来ると二人の女性を連れていた。

一人はジェシカだが、もう一人は初めて見る子だった。そして、私が知っている子でもあった。

いつかは会うと思っていたけど、今日だとは思わなかったよ。

黒髪にそばかす。草色のワンピースが似合っている。

 

 

 

「はじめまして。シエスタと言います」

 

 

 

初めて見る生シエスタは、愛嬌が溢れる愛らしい娘さんだった。

正直、パッと見ただけでは男性に関しては狙った獲物は逃がさないハンター属性の猛者には見えない。

とは言え、なかなかに元気はつらつとしていて体つきも健康美に溢れており、もう少し歳がいけばさぞかしダイナマイトなレベルに発展するだろう優良物件だ。

誰ぞからこの子を縁談の仲人をするよう相談を受けたら、トリスタニア診療院責任推薦の一文をしたためようかという子だった。

 

 

 

 

診察室で茶を出しながら、ジェシカの説明を聞いた。

途中からシエスタも補足に入った話の内容は、簡単ではあるが、私としては予想外の物だった。

 

「健康診断? 魔法学院で?」

 

「そう。いつも私たちが受けているみたいなやつをやって欲しいんだって」

 

『魅惑の妖精』亭では、半年に一度、働いているスタッフの健康診断をやっている。代金はその夜の飲み代だ。

内科的な部分から外科的な部分まで、一通り診察して問題があったら治したり、職場環境まで改善を促す感じのものだが、ジェシカがそのことをシエスタに話したところ、魔法学院のスタッフにも実施できないかと言う話になったらしい。

確かに、貴族に仕える使用人と言うのはかなりの激務だ。肉体労働だけに痛める部位もありそうなものだ。

料理人については食事の習慣にしても気になる部分がある。

どんな仕事でも習慣的なものを言い出したらきりがないが、何はともあれこの世界では希薄だった前向きな健康へのアプローチを希望するのならば、それに協力することは望むところではある。

聞けば学院側には話が通っており、総代であるマルトーからも是非にとの言葉が出ているそうだ。

一日仕事になるだろうが、スケジュールを調整すれば何とかなるだろう。

私は乗り気になった。

トリステイン魔法学院か。初めて行くよ。

コルベール先生、しばらく会ってないけど元気かな。

 

 

 

 

 

学院に着き、衛兵に用向きを伝えると、連絡を受けたシエスタが足早に迎えに来た。

 

「わざわざありがとうございます」

 

「何の。一度来てみたかったからちょうどよかったよ」

 

そんなやり取りをしながら案内に従って敷地の中に入る。

いくつかの塔が並ぶように建ち、学び舎らしい厳かな雰囲気が漂っている。

さすがは伝統のある施設だけあって立派な建造物だった。

天守みたいな本塔と、櫓のような5つの塔からなる施設と聞いていたが、まさにその通りの威容だ。

堀や土塁があれば何だか学院というより平城のような佇まいだ。

 

案内に従って手入れの行き届いた歩道を歩くが、妙な違和感を感じてシエスタを見てみた。

先日の朗らかな雰囲気が、微かに陰っているように見える。

 

「何かあったのかい?」

 

「はい?」

 

「何だか元気なさそうだが?」

 

「い、いえ、何もないですよ」

 

慌てて手を振り、シエスタは先に立って歩いた。

 

 

 

案内されたところは厨房の隣のスタッフの共用スペースだった。

メイドさんとコックさんがずらりと並んで出迎えてくれたのだが、すごい人数だね。

 

「遠いところ、よく来てくれたな。マルトーだ」

 

並んだスタッフから無遠慮な品定めの視線を浴びる中、真ん中にいたでっかいおじさんが前に出て言った。

これが噂の必殺料理人か。

確かこの人はメイジが嫌いなはずなのだが、私に向けられる視線に棘はない。

少なくとも、こんな見た目が子供の女の子を相手に嫌悪感を露骨に顔に出すような器の小さい人ではなさそうだ。

 

「トリスタニアのヴィクトリアだよ。今日はよろしく頼むね」

 

負けじと胸を張って挨拶する私を、マルトー氏はどこかちょっと困ったような顔で眺めまわした。

 

「・・・こう言っちゃ悪いが、お前さん、本当に診療所の医者様だよな?」

 

「そうだよ?」

 

「気を悪くしねえでもらいてえんだが、何だか可愛らしすぎて、俺としちゃ娘のままごとに呼ばれたみたいな気分なんだが」

 

その言葉に、周囲が失笑を漏らす。

まあ、言っていることに含むところもないようだし、見た目で損をすることには慣れている。

 

「あはは、まあ、評価は仕事を見てからにしとくれな。見た目でやる仕事じゃないってとこは、医者も料理人も同じだろう?」

 

その言葉に、マルトーは大笑いした。

 

「こりゃ一本取られたな。いいだろう、今日はひとつ、噂の名医の腕前ってのを見せてもらおうかい」

 

 

 

腕前と言っても健康診断くらいでは腕を振るうほどでもないが、彼らにとっては初めての体験だ。

 

「はい、両手を出して口を開けて」

 

数人を診るうちに、周囲の気配が変わり始めた。

差し出された相手の両手を、私は腕を交差させて右と左でそれぞれ握手するように握る。

感じる水の流れ。血液、髄液、リンパ液。疾患や不具合は大体これで把握できる。

その情報をもとに、生活習慣について判る事から問診をすると、どこか怯えたような視線を私に向けるようになりはじめた。まるで生活を覗き見されているような気分になったのだろう。血は嘘をつかないものだ。

 

やってみたところ、料理人諸君はちょっと不健康な人が多い。結構血液ドロドロだよ。総コレステロール値や中性脂肪の数字が洒落にならないのが何人かいる。若い学生連中の食事を作って味見したり残り物を食べるのだろうが、成人が食べるにはカロリーが高すぎると思われる。ハルケギニアに喫煙の習慣がないのが救いだが、まずは有酸素運動の指導が要りそうだ。

メイドさんたちは案の定腰痛持ちが多い。女性の体格で力仕事はやはりいろいろあるようだ。次いで多いのが冷え性。定番だ。

 

これと併せて、この世界に来て以来、気になっている所がある。

オーラルケアだ。

歯磨きはしていても、口腔環境に関する意識が結構低い。虫歯は本格的に痛くならないと治そうとしないし、歯周病予防に関する意識も高くない。

特に、料理人は口内のPHが酸性に偏る機会が多いだろうから来る前から気にはなっていた。

そんな訳で、通常の検診と一緒に口内も確認するが、やはりメンテナンスが不十分な人がほとんどだ。

ハルケギニアにおいて、中世のように尿でうがいをして虫歯を予防するという習慣がないのは私としては助かっているが、虫歯は、それが原因で死ぬこともあると言うことはできれば広まってもらいたい。

虫歯と同様に問題なのが、世界で最も感染者が多い病気である歯周病だ。

これは現代人にも言えることだが、20歳を過ぎたら口内環境は虫歯菌より歯周病菌に対する警戒に重きを置かねばならない。実際、成人のほとんどが程度の差こそあれ歯周病を患っている。

歯周病の主要な原因は歯垢だ。歯垢は食べカスではなく細菌の塊で、排水溝のぬめりと同じ類の物と考えてよい。

その歯垢が唾液中のカルシウム等とくっついて歯石等になって歯に沈着し、それに反応して歯茎が腫れるのが歯周病の始まり。

歯垢は水に溶けないのでうがいでは取れないし、歯石やバイオフィルムになるとブラッシングでは除去できない。除去には専門家によるスケーリングが必要だ。

放置すると、異物を排除するべく自分の歯ごと切り捨てようとする生体防御反応が働くこと、また細菌が出す酸が歯槽骨を溶かしてしまうことにより、多くの人が歯を失うことになる。

初期症状としては、

 

・歯を磨いても口の中に甘酸っぱい感じが残る。

・歯茎が下がって来たと感じたり、痩せて来たと感じる。

・歯茎が鬱血していたり濁った色をしている。

 

こんなことを感じた事がある人は、歯周病が進んでいると見て良い。特に歯茎の下がり・痩せは、歯槽骨や歯根膜の破壊が始まった可能性が高い。宣伝文句で『リンゴをかじると血が出る』と言うのがあるが、そこまで行くと塩だの生薬だのの歯磨き粉でシャカシャカやってもほとんど意味はない。モゴモゴ系の洗浄剤も気休めだ。

症状が進み、歯茎から膿が出るいわゆる歯槽膿漏となるとやがて歯の動揺が始まり、抜歯するか外科的手法で歯槽骨を再生するしか対処法がなくなる。

まずはしっかり歯垢を除去することが肝心なのだが、悲しいかな、どんなに頑張っても歯垢と言うのは個人では完全に取りきる事はできないので、日常のケアのほか、20歳を過ぎたら半年に一度はエステ感覚で定期健診を受けてもらいたい。

 

そんなことを説明しながら、虫歯だの歯石だのの口内のトラブルを抱えた連中を片端からガリガリとやっていく。スケーラーと合わせ、ドリル代わりの魔法のウォータージェットでう蝕部分や歯石を削り飛ばす。充填剤はアトリエマチルダ謹製のアマルガムの代替品を使用する。これ一つで恐らく一生持つだろうと言う優れものだ。

 

そんなこんなでいろいろあって、一通り診察が終わるまで一日かかってしまった。

 

最後の受診者はシエスタだった。

手を取り、口の中を見る。

うむ、全く問題がない。実に健康だ。若いっていいね。

しかし、その表情が曇っているのがどうにも気になる。

 

「どうしたね、本当に元気のない。どこか気になるところでもあるのかい? 女同士だ、気兼ねはいらないよ?」

 

「い、いえ」

 

シエスタは口ごもり、少し間をおいて言葉を探すように口を開いた。

 

「実は・・・」

 

「ちょっと、あんたっ!!」

 

シエスタの言葉を遮るように、派手に響く金切り声に私は振り返った。

そこに、ピンクの物体が立っていた。

そうだった、こいつもここの生徒だったんだっけ。

半ば本気で忘れていたよ、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。

何でこんなところをうろついているんだ?

 

「あんたかい・・・」

 

私は冷たい視線をルイズに向けた。

こいつがカトレアに宛てた手紙に書いたことを、私は忘れてはいない。その時に立てた誓いもまた、忘れえぬものだ。

こいつの前に私に胸周りのサイズを笑った奴は、街外れの墓場に眠っている。

相変わらず偉そうなルイズの表情に、『12回鞭で叩き、10回縛り首にして、8回地獄に落として、4回虫けらに生まれ変わったところを踏み潰してやりたい』とまでは思わないが、それ相応の制裁は私の精神衛生上必要な措置と判断する。

ちなみに、墓場で眠っている奴の死因は老衰だったが。

 

「あんたかじゃないわよ。何であんたがここにいるのよ?」

 

「お仕事だよ。平民はいろいろ大変なんでね」

 

ルイズは相変わらずジロジロと無遠慮に私を眺めまわし、次いで思いついたように顔を上げた。

 

「ちょうどよかったわ。ちょっとこっちに来なさい」

 

言うが早いが、私の白衣の袖口を掴んで引っ張る。

 

「ちょっと、何事だい!?」

 

シエスタを残して、私は半ば浚われるようにルイズに引きずられた。

 

 

 

引きずり込まれたのは学生寮だった。

そのうちの一つのドアの前に連れてこられたが、ここがどうやらルイズの自室らしい。

ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込む姿に、少しだけ感傷的な気分になった。

普通、メイジはこういう場合は杖でアンロックをするだけで済む。

そうだったね、こいつ、魔法が使えないんだっけ。

本来は気高くも優しい娘であることを知っているだけに、ちょっとだけこいつが可哀そうになった。

もちろん口にはしない。

同情ほど、この娘が辛く感じる物はないだろうからだ。

 

「入りなさい」

 

案内されて入った部屋は、無人ではなかった。

見れば、ベッドに一人の少年が横たわっていた。

黒い髪の、異国の風貌を持った、そして懐かしい雰囲気の、青年になりかけの年頃の少年。

私の心臓が、鼓動を早める。

この少年の事を、私は知っていた。

 

 

平賀才人。

 

 

好奇心から異世界という名の奈落に堕ちた、ごく普通の日本の少年。

その才人が、全身傷だらけでベッドの上で眠っていた。

 

 

ブリミル歴6242年。フェオの月。

 

 

私の祈りなど、天には届かない。

すべての物語が動き出す引き金である、トリステイン魔法学院の『春の使い魔召喚』が終わっていたのだと、私は知った。

 

 

 

 

押し寄せてきた現実が、重い。

 

 

 

吐きそうだ。

 



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その24

その些細な好奇心さえなければ、涙を流さなくても済んだ少年。

名誉や地位や友や、かけがえのない想い人を得ると同時に、親や故郷を失った時空の迷い人。

哀れとは思うまい。

彼が己の人生の最期に、それをどう思うかは私には判らないからだ。

 

 

 

突きつけられた現実が、辛い。

動乱期の到来を告げる春の使い魔召喚が終わっていた事実に、私は恐怖を覚えた。

現時点で確実になったことは、今の時間軸が『平賀才人が存在する世界』だということだ。

それは、激動の時代の始まりを告げる号砲としか私には思えなかった。

未来は常に不確実なもので、どうなるかは判らない未知数のものだ。しかし、スケベで気のいいこの男が存在しながらなお、ハルケギニアにこれからも平穏な時が流れると思うほど私は楽天家ではない。

私が知っている彼の物語は、まず召喚があって、次がギーシュ戦、その次に来るのはデルフリンガーとの邂逅。そしてフーケ騒動があって舞踏会。

この辺までは、まだほのぼのとしているからいい。

ハルケギニア全体からすれば大河の一滴にすぎない些事だ。

ルイズや才人の行動が、歴史に影響を与え始めるのはアルビオンからか。私の従兄弟が髭によって殺されるアレだ。

その先は泥沼。

タルブ侵攻、アルビオンへの逆上陸、ガリア戦役。

いずれも、ルイズと才人の二人がいたからこそ最小限の犠牲で物事が推移したイベントだったと思う。

今の時間がその流れに入っているのだとしたら、政治力も人脈もない私には、それに抗う術はない。

正直、自分のことなどは大した問題ではない。その気になればどこででも生きていける自信はあるし、運が悪ければ死ぬだけの話だ。

問題なのはティファニアだ。

その大いなる潮流の中で、やはりティファニアは、虚無の担い手として歴史の表舞台に上がらなければならないのだろうか。

聖女として、政治の道具として、そして、聖戦の切り札として。

その中で、あの子がどれほど大変な思いをするかを考えると、私としては身を切られるより辛い。

どこかに隠棲しようにも、ハルケギニアにいてはロマリアの探索の目から隠れ通すのは無理だろう。

サハラに逃げても、エルフからも悪魔と言われ、面汚しと蔑まれるであろうティファニアに安息は見込めまい。

どうすればいいのか。

打つべき手が見えないまま明日に怯えるというのが、これほど辛いとは思わなかった。

 

 

 

 

才人の状態は、見た目はひどいものの、幸い死ぬほどのものではなかった。

聞けば、案の定ギーシュのゴーレムにボコられたものらしい。前世でさんざん見てきた交通事故の患者に比べればマシだが、それでも青銅のゴーレムにどつかれまくっては、鈍器で滅多打ちにされたようなものだ。生身の人間ではたまったものではないだろう。

右腕と肋骨に左眼窩底の骨折。内臓も一部痛めていた。それでも、受けたダメージのことごとくが致命傷に至っていないあたりは主人公補正なのか、それともギーシュが手心を加えたのか。頭を打ったという描写があったような記憶があるが、脳も問題ないようだ。

取り急ぎ、骨折は魔法と秘薬を用い、打撲の部分には膏薬を貼る。

それにしても、ここまで痛めつけられても意地だけで立ちあがったあたりは、こいつもオリンピック級の意地っ張りだと思う。

笑う奴もいるかも知れないが、こういう馬鹿は私は嫌いじゃない。

治療しながらルイズに経緯を聞いたところ、決闘騒動は昨日だったそうだが、水メイジの教員が長期不在で手配がつかず、途方に暮れたルイズがとりあえず氷で冷やしていたらしい。厨房をうろついていたのも氷をもらうためだったのだろう。原作でも確か寝ずに看病していたとか言ってたっけ。人当りで損をしているものの、根は優しい子だ。

治癒魔法くらい同窓の水メイジに頼めばいいのに、とも思ったが、この時期のルイズが置かれていた学内の立場を思い出した。プライドでご飯を食べているような貴族に生まれたのに、その寄る辺たる魔法がダメとくれば、それを守るために攻撃的になるのもある程度は仕方がないだろう。

そんな彼女が起死回生の期待を胸に臨んだ春の使い魔召喚で、出てきたのが無礼でショボい平民では、ルイズでなくてもやさぐれたくなろうというものだ。

何だかんだ言っても、まだ16歳の子供だ。そこまでの度量を求めるのは酷だろう。

 

 

「これでもう大丈夫だよ」

 

包帯を巻き終わり、私は一息ついた。ちょっとしたミイラ男のでき上がりだ。

 

「御苦労さま」

 

・・・こいつも、これさえなければなあ。

ピンクよ、そこは『御苦労さま』じゃなくて『ありがとう』だろう。

私の中で、才人の看病していたことにより上がったルイズ株が暴落しかけた。

この決闘騒ぎから、才人を初めて名前で呼ぶ等の『つんつんルイズの解凍作業』が始まっていたはずだが、人は簡単には変われないようだ。まったく、親の顔が見てみたいわ、とはさすがに言えない。あのお二人には足を向けて寝られないくらいの恩があるし。

まあ、子供のやんちゃに目くじらを立てるのも大人げない。こめかみに井桁模様を浮かべながらも、ここは年上の度量を見せるとしよう、と思った時だった。

私は、とても大事なことに気が付いた。

この治療は、後に繋がる大切なイベントだったことを思い出したのだ。

そうかそうか、そうだったね。危ない危ない。

私としたことが、危うくフラグを折ってしまうところだった。

私はイベント消化に取り掛かった。

 

「ところでお嬢ちゃん、お代はいただけるんだろうね?」

 

「もちろんよ。幾ら?」

 

「ちょっと高いけど、大丈夫かい?」

 

「公爵家の娘に向かって失礼な物言いね、平民のくせに。言ってみなさいよ」

 

私が金額を提示するなり、ルイズの顔色が変わった。

いつもニコニコ現金払い。お金は、あるところからいただきます。

 

「あ、あんた、舐めてるの? ねえ、貴族舐めてるの?」

 

「知ってると思うが、水の秘薬は高いんだよ。それに、大事な使い魔の治療をしたんだ、当然の対価だと思うがね。それとも、ヴァリエールの三女の甲斐性はそんなものなのかい?」

 

「ぐ・・・」

 

いやはや、美少女が葛藤する様子を見るのは実に楽しい。

プライドと現実が両端に乗った彼女の中の天秤が、ミシミシと軋む音が聞こえてくるようだ。

程なく天秤がプライドに傾いたのか、ルイズは渋々と机から金貨の詰まった袋を取り出した。

 

「今後は腫れが引き切るまで氷は定期的に代えておくれ。膏薬は一日1回貼り替えればいいからね」

 

ずっしりとした革袋を受け取り、涙目のルイズの部屋を辞した。

 

 

そのまま厨房に戻り、シエスタに事の次第を告げると、ようやく先日見たような元気な笑顔を見せてくれた。やはり相当才人の事を気にしていたらしい。

厨房のおじさんたちも、診察した時以上の朗らかな笑顔を浮かべている。

既に『我らの剣』は、学院の平民の心を掴んでいるようだ。

夕飯を勧められたが、乗合馬車の時間もあるので丁重に辞退して私は帰路についた。

もうちょっとゆっくりしてコルベール先生にも会いたかったが仕方がない。

また今度飲みに誘おう。

 

帰りの馬車で、懐に感じる大金に思いを馳せる。

ルイズには意地悪のように思われたかもしれないが、これは才人とルイズのために必要な措置であって、決して意地悪のためにやったのではない。

理由はもちろん、デルフリンガーフラグのためだ。

見栄っ張りなルイズの事だ。この金が手元にあったまま武器屋に行ったら、躊躇わずにシュペー卿作と嘯く駄剣街道一直線だったことだろう。

そんなものを買った日には、アルビオンあたりで髭にローストされて一巻の終わりだ。

ここでルイズの有り金ををまきあげておけば、間違ってもガラクタを買うことはないはず。

誰かがやらねばならない憎まれ役をやるのが、たまたま私だったということにすぎない。

重ねて言っておくが、意地悪のためにやったのではない。

ましてや胸のサイズを笑ってくれたことに対する復讐でもない。

・・・・・・本当だってば。

 

夕暮れに染まる街道をポクポクと運ばれながら、平和そうな顔で寝ていた才人を思う。

明日には目覚めて、そしてルイズにベッドから蹴り出されるんだっけ。

すまないね、少年。

今、私ができるのはここまでだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

次の虚無の曜日、私はずしりと重い革袋を懐に感じながらブルドンネ街に繰り出した。

今日はルイズから巻きあげた潤沢な資金を元に、上物の秘薬の購入を考えていたが、まずは野暮用から片付けてしまおう。

目指すのはマチルダの工房。

縫合術の練習にだんだん熱が入って来たティファニアのために、思い立って彼女専用の持針器をオーダーしようと思うのだ。

工房も虚無の曜日くらい休めばいいのにと思うが、客商売は虚無の曜日こそが商機と言って、いつの間にかマチルダが気が向いた時に休む不定休のショップになり果てている。

 

カウベルを鳴らしてドアを開けると、受付にディーがいた。

 

「これは主、どうされました?」

 

受付にいる姿は見慣れているはずなのだが、いつ見ても見栄えするなあ、こいつ。

これが本当にサーヴァントだったら、女性がドアをくぐった瞬間に恋の奴隷一丁上がりなのだろうが、受肉したこの世界の彼には幸か不幸かそこまでの力はない。それに加えてマチルダが固定化加工した常時装備の絆創膏と言う黒子の封印もあるからこそ、ディーはこの街で普通に暮らしていられる。普通、ではないか。複数のファンクラブがあるとかジェシカが言ってたし。

一度でいいから『その結構な面構えで、よもや私の財布の紐が緩むものと期待してはいないだろうな? 店員』とかのたまう猛者に会ってみたいものだ。アニエスあたりが言えば似合いそうなのだが、マチルダと同様にディーとも普通に仲がいいから無理かな。

 

「ちょっと作って欲しいものがあってね。今日は私も客だよ。マチルダは奥かい?」

 

 

工房は大きく分けて、商品が並ぶ売り場、作業場、キッチン、物置からなっており、それぞれが壁やパーテーションで区切られている。

私はディーがいる売り場のカウンターを抜けて作業場に入った。

 

「ごめんよ」

 

「ん? ヴィクトリアかい?」

 

奥の作業場に行くと、作業台に向かってトンカンやっていたマチルダがちらりとだけ振り返った。

ポニーテールに作業用のエプロン姿のマチルダ。作業中、眼鏡の奥の視線は真剣そのもので、全身からプロフェッショナルのオーラが漂っている。

何だかもう、すっかりマイスターだね、この子。あれだけの錬金の技を盗人なんぞに使うのは惜しいと思って勧めた工房だったが、まさかここまではまるとは思わなかったよ。

 

「ちょっとお願いがあって来たんだよ」

 

「はいよ~。これがもうじき終わるから、ちょっと待っていてよ」

 

「こっちは急がないから、気にしないで続けておくれ」

 

工房を見回せば、開業したころからは想像もつかないくらい道具類が増えている。素人の私には何に使うのか判らないガラクタばかりのように見えるが、それぞれにきちんと役割があるのだろう。大釜や坩堝炉あたりまでは判るが、部屋の端っこで自律制御でしゃかしゃかと部屋を掃除している箒は見なかったことにしたい。あれ、ゴーレムじゃないよね。どうやって作ったのか知らないけど、さすがに疑似生命体はまずいよ、マチルダ。教会が来るよ、教会が。

事の是非はともかく、必要なものがあれば自分で機材をガンガン作ってしまう彼女のバイタリティはすごい。

私のような水魔法以外は下手っぴな融通が利かないメイジと違い、マチルダは土魔法の適性が滅茶苦茶高いくせに、他の系統もかなりのレベルで器用に使いこなす。その実力と几帳面な性格も相まって、評判は今なお上昇カーブを描くばかりだ。誰かに弟子入りした訳でもないのにこの腕なのだから、やはり天賦の才があるのだろう。ゆくゆくはかなり名を成す職人になるのではないかと思う。

そうなったら、僭越ながら私が彼女の生きざまを後世に伝えるべく筆を取るとしよう。

タイトルはもちろん、『マチルダのアトリエ ~トリスタニアの錬金術師~』だ。

 

工房内をあれこれ考えながら眺めていたら、どこから見ても『ファラリスの雄牛』にしか見えないオブジェの脇に、ずらりと並んだ剣があるのに気が付いた。

 

「最近は武器にも力を入れているのかい?」

 

「う~ん、武器屋の方で在庫がだぶつき気味らしいから何本か引き取って来たんだよ~。こっちとあっちで来週から共同キャンペーンを張ろうかって言う話になっているのさ~」

 

作業しながらマチルダが答える。

 

「食い合い潰し合いより共存共栄かい?」

 

「そんなところだよ~」

 

うまくやっているものだ。私は並んだ剣を見ながら感心した。

既に何本かの剣にはマチルダの研ぎや加工が入っており、武器そのものの獰猛さを誇示している。

私としては、煌びやかに飾られた物より、シンプルに必要なパーツだけで構成されたものが好みだ。至高の美とは機能美のことだとすら思っている。

殊に武器は命を預けるものなのだから、機能美に勝るものはないと思う。船にしても、貴婦人と言われる豪華客船よりも軍艦の方が美しいと感じるくらいだ。

私があまり装飾品を好まない理由の一つでもある。

そんな剣の中に、ひときわ見栄えがする一本の剣が剣架けにかかって置いてあった。

片刃の打刀。重厚な風格が、他を圧倒するような美を放っている。

それを認識した私の全身の血の気が、滝のように引いた。

 

「ちょ、ちょっと!」

 

声を出した私に、剣が気付いた。

 

「よう、診療所の娘っ子じゃねえか」

 

お前、ここで何をしている!?

綺麗に研ぎあげられ、拵えも新たに作り直されて、神々しいばかりに輝くデルフリンガーが、剣架けの上に鎮座ましましていた。

 

「マ、マチルダ・・・こ、これは?」

 

「ああ、それかい?」

 

衝撃のあまり口の中が乾いてしまった私の様子に気づかないのか、楽しそうな声でマチルダが笑う。

 

「いいだろう? ここ最近じゃ最高の自信作さ。もらってきたガラクタの中にも何本か素地がいいのがあってね。その中でもピカイチだったのがそいつだよ。研ぎ直したら結構な代物でさ。柄も作り直したからバランスも取れたし、しかもインテリジェンスソードだから結構な値が付くよ。今回のキャンペーンの目玉だね」

 

「も・・・」

 

「も?」

 

「戻しておいで~っ!!」

 

「な、何よ?」

 

これはまずい。

やばいなんてもんじゃない。

決闘騒動の次の虚無の曜日は、才人とデルフの邂逅イベントだというのに。

私の仕込みが全部パーだ。

錯乱する私を、何だか不安げな目で見るマチルダ。

人の気も知らないで、よりにもよってキーアイテムをこんな逸品に仕立てあげてしまうとは。

このままじゃガンダールヴ終了のお知らせだよ。

どうしよう、今から武器屋に届けるか。ダメだ、こんな綺麗な外見じゃ武器屋も安売りしないだろう。

日を改めて送りつけるか。それもダメだ。ルイズが受け取るはずもないし、その時には既に才人も剣をあてがわれているはず。

困った。本当に、困った。

打つ手が思いつかない。

頭を掻き毟って懊悩する私を見るマチルダの、いろんな意味で心配そうな目が妙に痛い。

 

しかし、救いの手は思わぬところから伸びてきた。

神の御業か悪魔の所業か、うろたえる私を余所に、運命が工房のドアを開けたのはそんな時だった。

 

「ここだわ」

 

「ここで剣売ってるのか?」

 

私が混乱して動物園の熊のようにウロウロと常同運動を続けていた時、売り場の方からどこかで聞いた声が聞こえた。

ややトーンの高い、甘い声質。

まさかと思い、私は慌ててカウンターを覗きに走った。

首を出してみると、そこに見知ったピンクがパーカーを着た少年を連れてカウンターのところに立っていた。

何でこんなところに?

都合がよすぎる展開に私は首を傾げた。

 

「剣の他にもいろいろね。品物がいいから、最近貴族の間じゃ有名な新進気鋭のお店な、はうっ・・・」

 

「いらっしゃいませ」

 

店に入るなり、ルイズは応対に出たディーの魔貌の直撃を食らってフリーズした。精神の再構築まで数秒はかかるだろう。

 

「け、け、け、剣を探しに来たんだけど・・・って、何であんたがここにいるのよ?」

 

私に気付くなり、いつもの調子を取り戻すピンク。

私はお前の精神安定剤か。

 

「身内の店なんだよ。気にしないでおくれ。それより、剣を買いに来たんだって? 」

 

「そうよ」

 

「ここに武器を買いに来る客とは珍しいね。武器屋には行ったのかい?」

 

「武器屋って、裏町のあの店の事?」

 

「そう」

 

「だって、あっちって汚いんだもん。この工房でも武器は扱ってるんでしょ?」

 

なるほど、そういう基準の店選びか。確かにあっちとこっちじゃ街の雰囲気に歌舞伎町と銀座くらいの差がある。やんごとなきお嬢様ならこっちを選ぶか。

トリステインに広まりつつあるマチルダの名声に、ここは素直に感謝しよう。

 

「そういうことなら大歓迎だよ。身内ついでに言っておくと、この工房の品質は保証するよ」

 

「ふ~ん・・・まあ、いいわ。それより、あなた。こいつが使う剣が欲しいのよ。見繕ってちょうだい」

 

ディルムッドと商談に入ったルイズを余所に、私は急いで作業場に戻り、マチルダを捕まえて懇願した。

 

「マチルダ、一生のお願いだよ」

 

「な、何よ、いきなり?」

 

「あれを売っておくれ」

 

デルフリンガーを指さして、私は言った。

事の次第が飲み込めないマチルダが目を白黒させている。

 

「う、売るったって、身内ってことで多少泣いてあげても結構高いよ、これ?」

 

私は黙って重い革袋を渡す。対価としては充分だろう。

さようなら、愛しの金貨たち、短い付き合いだったね。悪銭身につかずとは良く言ったものだ。

 

「・・・何を考えてるんだい、あんた?」

 

「女の情けだ、訊かないでおくれ」

 

「ふ~ん・・・」

 

何だか値踏みするような視線を私に向け、革袋を軽く弾ませて頷いてくれた。

 

「判ったよ、持って行きな」

 

「ありがとう、恩に着るよ。さて、デルフ」

 

「なんでえ?」

 

「お前さんの持ち主に会わせてあげるよ」

 

 

 

 

在庫を確認しに作業場に入ってきたディーを捕まえて事の次第を打ち合わせ、彼が準備をしている間に私はカウンターに出た。

初めて見る生才人。これが伝説のナイト様か。

物珍しそうに店内を眺めている様子が面白い。好奇心強いタイプだったっけね。

 

「もう具合はいいのかい、少年」

 

「え?」

 

話しかけると、才人は驚いたように振り向いた。

初対面の人には良くやられるのだが、こいつもまた私の見た目と口調のギャップに驚いたようだ。

呆気にとられている才人に、ルイズが補足してくれた。

 

「あんたを診てくれたお医者よ、この子」

 

「こ、この子が?」

 

ふふん、人は見かけによらないだろう。

 

「そうだったのか。ありがとう。おかげですっかり元通りだよ。まだ小っちゃいのにすごいんだな、お前」

 

本当に小っちゃい子にするように頭を撫でてくる才人。屈辱だ、これは。私だって好きで小っちゃい訳ではないのに。実年齢教えてやろうか、坊や。

そんなやり取りをしていると、ディーが瀟洒な布に包まれた一本の剣を持ってきた。

カウンターに置き、丁寧に布を取る。才人の目が丸くなった。こういうの好きだよね、男の子って。

 

「おおおおおお~っ!」

 

「な、なかなかのものね」

 

神々しいばかりに美しく輝くデルフリンガーに、才人が目を輝かせる。ルイズも納得の面持ちだ。

 

「すげえ! かっこいい~!!」

 

「片刃の大業物です。銘はデルフリンガー。デルフリンガー、ご挨拶を」

 

「あ~? こいつに俺を売るのかい?」

 

いきなりやる気のない声を上げる剣に、才人が声を上げる。

 

「剣がしゃべってる!?」

 

「インテリジェンスソードと申しまして、知性がある剣なのです。お手にとってお確かめを」

 

「あ、ああ・・・」

 

驚きながら、才人がデルフを取った。

収まるべきものが収まるべきところに、きれいに収まると気分がいい。

才人が握ると、左手の甲が輝く。あれがガンダールヴのルーンか。

そして、今度はデルフが驚く番だった。

 

「おでれーた。てめ・・・『使い手』じゃねえか・・・・・・おい、娘っ子、お前、知って・・・」

 

余計なことを言いそうなデルフに、私は人差し指を唇にあてて見せた。

 

「・・・そうかい。おい、てめ、俺を買え」

 

才人は満足そうに頷いた。

 

「ああ。ルイズ、俺、これにするよ」

 

「これでいいの?」

 

「ああ、すごく気に入った」

 

「そう、ならばいいわ。幾ら?」

 

「この度は公爵家ご令嬢の初めてのご来店と言うことでもありますし、お代は新金貨で100ということで結構でございます」

 

値段は打合せてある。確か今日のこいつの所持金はそんなもんだったはず。

 

「手持ちで間に合うからいいけど、ずいぶん安いわね。大丈夫なの、これ?」

 

「品質は当工房が保証致します。本来であればエキューにして1000から2000を申し受ける品ではございますが、当店といたしましては名高きヴァリエール公爵家とのご縁ができるのであれば、これくらいの投資は安いものと」

 

私は顔に縦線を引いてディルムッドのセールストークを聞いていた。背中が痒い。

プライドをくすぐるような嫌らしい言い方だ。縁も何も、マチルダと公爵家は面識あるだろうに。

案の定、そうとは知らない単純なルイズはころりと上機嫌になった。

 

「ふふ、いいわ、買ってあげる」

 

才人から財布を受け取ったルイズがジャラリと金貨をカウンターに並べ、ディルムッドが勘定する。

それを余所に、才人はご満悦だ。

 

「いやー、本当にすげえな、これ」

 

「よろしければ、扱いにつきましてもご指導しましょうか?」

 

「「え?」」

 

ディルムッドの発言に才人とルイズは声を上げた。

ふふ、驚け驚け。

 

「これでもいささか腕には覚えがある身なれば、僭越ではありますが多少の教導はできるものと自負しております」

 

「あら、あいにく私の使い魔は結構強いわよ?」

 

ルイズは挑発的な表情で言った。

 

そりゃ強いだろうよ。伝説のガンダールヴだ、下手な剣士じゃダース単位でも勝てないだろう。

下手な剣士ならね。

うちの使い魔を、そこらの一山幾らの雑兵と一緒にしてもらっては困る。

才人君には、まずガンダールヴの力をもってしても勝てない存在がこの世にはあることを知ってもらうとしよう。

 

 

 

 

 

店の裏手にある資材置き場は、剣の手合わせくらいは充分できるくらいの広さがあった。

刃引きした剣を手にした才人に対し、ディルムッドもまた剣を手に対峙する。

 

『ディー、世の中を舐めてもらっちゃ困るから甘やかす必要はないけど、お嬢ちゃんの面子をつぶさない程度にね』

 

『お任せを』

 

念話で打ち合わせる私たちをよそに、ギャラリーであるルイズとマチルダが話している。

 

「んっふっふ。さて、坊やがどれくらいもつかねえ」

 

紅茶の入ったマグカップを手に面白そうな顔で眺めているマチルダ。完全に見世物見物の体勢だ。

その余裕に、対するルイズもまた胸を張る。

 

「ふふん、甘く見ない方がいいわよ。うちの使い魔は、ドットのものとはいえゴーレムに勝てるくらいよ」

 

「はん、その程度じゃねえ」

 

「何ですって!」

 

「二人とも静かに。始まるよ」

 

先に動いたのは才人だった。

残像を残して消えたような素早い踏み込み。素人の私の動体視力じゃ追いつかない。

これがガンダールヴか。

なるほど、7万に突撃し、大将首の一歩手前までたどり着くだけのことはある。

しかし、今回の相手もまた伝説の存在だ。

才人が消えたその時には、ディーの姿もまた消えていた。

不可視の攻防。少年ジャンプ的な演出をライブで見る日が来るとはね。

風切音に混じって撃剣の音が2回ほど響き、その数秒後に私たちの傍らにあった樽が唐突に弾けた。

樽の山に突っ込んで顔をしかめているのは才人だった。

 

「い、痛え~」

 

「思い切りはいい。しかし、一本調子ではすぐに読まれるぞ、少年」

 

何だかディルムッドもお師匠様モードらしい。意外と乗りがいいな、こいつも。

 

「にゃろ・・・」

 

才人も生来の負けん気を出してディルムッドに挑んでいく。

今度は速いながらもあまり足を使わずに打ち合っているので何とか見える。

さすがは英霊、ダンスを教えるように剣筋を導いているらしい。

一見すると才人も頑張っているように見えるあたりは見事な演出だ。

ルイズはと言えば、目を丸くして凍りついている。

ただの工房に、よもやここまでの手練がいるとは思わなかったのだろう。

 

「な、何なのよ、この店」

 

トリスタニアの商人は、マフィアより怖いんだよ。

 

 

 

 

 

「とりあえず、夕方になったら迎えに来なさい」

 

数合の手合せの後、ルイズは才人を置いて店を出た。

今日はヴァリエールの別邸に行くのだそうだ。

才人は残って特訓。

見ている間に一回も勝てなかったことが、ルイズはお気に召さなかったらしい。

才人の方も一矢も報いず帰るのは本意ではないらしく文句は言わなかった。

行きがかりで、店の外まで見送りに出る。

 

「別邸というと、親御さんにでも会うのかい?」

 

「姉よ」

 

「ほう」

 

「前に話したでしょ。2番目の姉。最近、新しい治療法を知ってるお医者が見つかって、その治療のために王都にいるのよ。秋からいたらしいんだけど、全然教えてくれなかったからとっちめに行くの」

 

嬉しそうにルイズは笑う。本来は、こういう笑顔が似合う女の子なんだろうな、この子。

 

「具合はいいのかい?」

 

「ええ、最近すごく調子がいいみたい」

 

「それは良かった」

 

「世の中にはすごいお医者がいるものだわ。あんたも精進することね」

 

「肝に銘じておくよ」

 

嬉しそうに去っていく後姿を見ながら、私は心の中で公爵に頭を下げた。

薔薇の下での話は秘密の話。

身内であってもそれを守ってくれる彼には感謝したい。

 

 

 

 

 

「どわあ!」

 

裏に戻れば、もう幾度目か判らないくらい才人は吹っ飛ばされて伸びていた。

 

「つ、強ええ」

 

当り前だ。もともとが伝説の戦士。それが英霊にまで昇華したディルムッドだ。

いくら伝説のガンダールヴでも相手が悪いよ。

正直、こいつを倒すには、別の英霊を呼び出すくらいしか私にも思いつかない。

それでもめげずに挑んでいく辺りは、この少年もなかなかの胆力だと思う。

どういう因果か、世界をまたいで出会った英霊と伝説。

これが神の采配の綾なのだとしたら、私は喜んでつけこませてもらおう。

 

『どうだね、ディー、この子は?』

 

『は。まだ形にはなっておりませんがその分変な癖もなく、なかなか良いものを持っております。長ずれば、かなりの使い手になりましょう』

 

『週一で通うように手配するから、速成で鍛え上げてやっておくれ』

 

『御意』

 

可能な限り、それこそ少しでもいい、才人にはディルムッドの強さを吸収していって欲しい。

この子の強さが、この世界の未来に希望を与えることを私は知っている。

それは同時に、ティファニアの未来に灯を点すことでもある。

エルフに攫われた時をはじめ、才人がティファニアを助けてくれた場面は少なからずあった。

矮小な私には、時間が動乱期に向かって流れていくことを止める術はない。

ならば、今の私にできることは、やがて名を成し、大切な妹を守ってくれる英雄の力になることくらいだ。

戦術、戦法、持って帰れるものは幾らでも持って帰って欲しい。

そして、稽古で一回剣を打ち込むたびに、彼自身が死から一歩遠ざかるのだと知って欲しい。

そのための協力は惜しむまいと私は思う。

必死に剣を振るう才人を見ながら、これから彼が紡ぐ物語を思う。

それは紛れもなく、語り継がれるべき英雄憚だ。

イーヴァルディすら霞む、本当の英雄の物語。

そんなことを考えている私の前に今一度吹っ飛ばされてきた、まだ英雄見習いでしかない少年。

 

「ほら、しっかりおしよ、男の子」

 

治癒魔法を施しながら、彼の未来が明るいものであるようにと、私は胸の内で祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なるほどね~」

 

稽古の様子を見ながら、マチルダがぼそっと呟いた。

 

「ああいう子が好みだったわけね」

 

「?」

 

ずしりと重い革袋を弄びながら振り向いたマチルダは、ネズミを追い詰めた猫のような黒い笑みを浮かべていた。



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その25

「だいぶ高いね」

 

体温計を確認し、私は唸った。

この水銀とガラスの工芸品は、言うに及ばずアトリエ・マチルダの製品だが、作った当人は目の前で顔を赤くして唸っている。

 

「んあ~、気が滅入ることは言わなくていいよ~」

 

季節外れの風邪をひきこんで、床に伏して唸っているマチルダ。

日頃の上下関係では私の上位に君臨するこの姉も、今日ばかりは医者である私の支配下だ。

 

「だいたいマチルダは働き過ぎさね。余波を受けたティファニアがいい迷惑だよ。この機会に、日頃の無茶を反省おしよ」

 

マチルダの隣で寝ているのはティファニアである。マチルダを震源地とする風邪をもらった被害者だ。

こちらもかなり熱が高い。

本来ならばそれぞれの自室を持つ二人だったが、面倒を見る都合によりリビングに二人並んで寝てもらっている。

 

「ごめんね、姉さん。面倒かけちゃって」

 

ティファニアが布団の中から申し訳なさそうな声を出す。これがまた無茶苦茶可愛い・・・って、まだシスコンじゃないよね、私。

 

「いいんだよ、誰だって好きで風邪を引くわけじゃないんだし、いつも一生懸命働いているんだ、疲れが出たんだろうよ」

 

「ちょっと、私とずいぶん対応が違うじゃないか」

 

マチルダがだるそうな調子で非難の声を上げる。

 

「はっはっは。いい子のテファと暴走三昧のお前さんとじゃ扱いが違って当然だよ。まったく、歳も考えずに毎日遅くまで持ち帰りで作業してるから風邪ひいたりするのさ」

 

「く・・・あんた、覚えてなよ」

 

「お~、恐い。とにかく、二人とも今日は仕事の事も家事の事も忘れてゆっくり伸びていること。これは診療院の院長としての命令だよ」

 

ぴしゃりと言いながら氷嚢をマチルダの額に乗せると、気持ち良さげなため息をつきながらマチルダは目を閉じた。

 

「まあ、今日は午後の納品だけで急ぎの仕事はないからいいけどさ・・・ねえ、ヴィクトリア、魔法でパッと治してくれない?」

 

「ダメだよ」

 

「どうしても?」

 

「いつも言っているだろう? 安易に治すのは・・・」

 

「判ってるって。言ってみただけさ」

 

 

水魔法の利便性には逆の側面がある。

魔法治療が受けられない平民はいいのだが、貴族にその傾向が強いものとして、安易な水魔法の使用による免疫力の低下がある。貴族たる者何ちゃらかんちゃらと理屈はいろいろ付くのだろうが、病気になるたびに魔法や魔法薬で治すことが主流の人たちは、総じて自己免疫の能力が高くない。

本来、病気になれば自力で治す機能が人体にはあるのだが、それが外敵を駆逐する前に魔法で治してしまうので免疫力が付きづらいのだ。そのため、同じ病気に何度も罹る悪循環に陥るケースが散見される。統計を取ったわけではないが、理屈からすればそのことが貴族の生命力・生殖機能に影響し、結果として少子化に繋がっているかも知れないと思うのは以前にも述べたとおりだ。

貴族は血が近い結婚が少なくないし、水魔法による過保護な歴史をおよそ6000年も積み重ねれば、退化とまでは言わないものの、その種の形質がかなりの世代に渡って積み重なっているというのも否定できる話ではないように思う。正直、ハルケギニア貴族は、最後にはSF映画に出てきたどこぞの宇宙人のように風邪で滅亡するのではないかと思ったこともあった。

そんな訳なので、流感ならばともかく、普通の風邪であれば自然治癒に任せるのが私の方針だ。

自然の薬が自分の中にあるのだからお金もかからないし、熱についても、上がり過ぎたら座薬や頓服くらいは処方するが、そもそも体温が上がるということは免疫力を高めようとする体の防御反応だから下げない方がいいものだ。脱水にならないように水分をこまめに補充し、栄養を摂って体を温めて寝ているのが最高の治療法だと思う。

 

 

 

「いかがですか、お二人の具合は?」

 

キッチンに戻るとディルムッドが朝食の洗い物をしてくれている。

女の病床に来るような無粋な真似をしない辺りは、やはりこの使い魔は立派な騎士なんだと思う。

 

「ただの風邪だよ。いい機会だ。ゆっくり休んでもらうさね」

 

「それがいいですね。店長は興が乗るといささか抑えが利かない方ですし」

 

「それを止めるのも従業員の仕事じゃないかい?」

 

「言って聞いていただけるような方だったらよかったのですが・・・」

 

珍しく眉を下げて困った顔をする工房従業員。日頃の苦労が垣間見える。

 

「それもそうだね」

 

幸いにも今日は休診日なので、ティファニアの代打に立ってあれこれと家事を片付ける。

彼女のテリトリーを犯すようですまないが、食事の支度は私が、ディルムッドには午前のうちに買い物を頼む。

包丁を持つのも久しぶりだ。晩御飯どうしようかなあ。

 

 

「ちょいとお二人さん」

 

リビングに顔をだし、寝ている二人に訊いてみる。

 

「お昼は軽いものを作るけど、晩御飯は何が食べたい?」

 

「夜も軽いものでお願い~」

 

「姉さんに任せます~」

 

何ともだるそうな元気がない返事だ。当然と言えば当然か。

 

「じゃあ温まって飲み込みやすいもので適当に作るからね」

 

ショウガをベースにした鍋焼きうどんみたいなものでも作ろうかねえ。

 

「あ、姉さん」

 

ティファニアが声を上げた。

 

「何だね?」

 

「晩御飯じゃないけど、私、あれが食べたい」

 

「あ、私も~」

 

二人そろってオーダーをしてくる。あれか・・・あれね。

 

「判ったよ。お三時にでも作ってあげるよ」

 

「「やった~」」

 

何とも不景気な感じの『やった』だね。

 

 

 

お昼にオートミール的な食事を作り、納品に出かけていくディルムッドを見送り、キッチンの後片付けを済ませているころだった。

 

「ヴィクトリアちゃん!!」

 

玄関の方から血相を変えた感じの太い声が聞こえてきた。

 

「何事だね」

 

私の知り合いで、こんな不気味な声を出す人物は一人しかいない。

パタパタと出てみると、ジェシカを横抱きに抱え上げたスカロン氏がはらはらと涙を流しながら立っていた。

腕の中のジェシカは心底迷惑そうな顔をしている。

 

「お願いよ、ジェシカを助けてあげて!」

 

「は?」

 

 

 

「あらま、これまたこっぴどくやられたもんだね」

 

診察室に通して診てみれば、ジェシカもまた風邪だった。流行り出したのかな。昨日までの患者さんにはそんなに風邪ひきはいなかったんだが。

 

「ごめんなさいね、先生。ちょっと無理して働いてたからこじらせちゃったかな」

 

「そうだね。熱もだいぶあるし、これじゃつらいよね」

 

恐らくマチルダ達と同じ風邪だろう。熱が出てだるさが特徴のタイプだ。

 

「昨日から真っ赤な顔しているのよ、この子。ヴィクトリアちゃんのところならいいお薬あるでしょ!?」

 

付き添っていたスカロンがやたらと狼狽している。気持ちは判らないでもないが。

 

「風邪に効く薬は出していないんだよ」

 

「お薬ないの!!?」

 

診察室が震えるような大声で鳴き声を上げるスカロンに、ジェシカがうんざりという表情を浮かべた。

 

「パパ、お願い、静かにして」

 

「だって、そんなこと言っても」

 

「先生がないって言っているんだから仕方がないでしょ!」

 

ついに激発するジェシカ。恐らく朝からずっと枕もとで騒がれていたに違いない。

 

「おとなしくしていれば治るから、しばらくそっとしておいてよ!! ちゃんと診てもらって帰るからパパはもう先に帰って!!」

 

その言葉に、雷に打たれたようにショックを受けるスカロン氏。

やや間を置き、肩を落としてとぼとぼと診察室を出て行った。

 

「ちょっと言いすぎなような気もするが?」

 

「ありがたいんだけど、今だけは静かにしておいて欲しいのよ」

 

「それも判るけどね。とりあえず、そこのベッドでしばらく休んでおいき。風邪が治る薬はないが、元気が出る薬は処方してあげるよ」

 

診療院謹製のブドウ糖の点滴を用意しながら私は笑った。

 

 

 

待合室に出ると、そこに雨に濡れた子犬のようにしゅんとなったスカロンが俯いていた。

その姿はあまりにも哀れで、とてもじゃないが世間の情報をかき集めて統計化していく凄腕の情報のプロには見えない。

 

「こらこら、ミ・マドモワゼルともあろう者が何を不景気な顔をしているんだい」

 

「だって・・・」

 

「言い訳するんじゃないの。ほら、似合わない顔してないでお立ち。名誉挽回の機会をあげるよ」

 

「え?」

 

 

 

スカロンを連れてキッチンに向かう。

午前中のうちにディーが買ってきてくれた食材の中からオレンジをごろごろと取り出し、スカロンに押し付けた。

 

「そこの水場で爪まで綺麗に手を洗ったら、これをできるだけきれいに剥いておくれ」

 

言われたとおりに手を洗うスカロンにオレンジを任せて、発火の魔法でコンロに火を点ける。二口使ってそれぞれに鍋をかけ、お湯を沸かす。

次に取り出すのは砂糖。

ぐらぐらと煮えたあたりで砂糖を片方の鍋に適量入れる。濃度の調整がポイントだ。

溶け切ったあたりで鍋を火から下して冷ます。

これがベースのシロップだ。

その間に、スカロンがきれいに筋まで取り終わったオレンジの房を大きさを合わせてまとめ、それぞれをタイミングを合わせてもう一つの鍋に、こちらは煮立つ寸前の火加減で投入する。

これの時間管理はコツが必要だ。長くやりすぎるとオレンジがばらけてしまうからだ。ちょうど皮がふやけてへたったあたりでお湯から上げなければならない。

そんな感じで煮えたオレンジをお湯から上げる。

スカロンにも団扇を渡して二人でパタパタと熱を飛ばす。

 

「はい、じゃあ私がやるみたいにこれの皮を剥いて」

 

茹でられたオレンジの皮は、スルスルと容易く剥ける。

さすがは飲食店経営者、スカロンの手並みはなかなかのものだ。

 

「ダメな親よね、私って」

 

黙々と手を動かしながらスカロンが呟く。

何となく、話がしたいというのではなく、話を聞いてほしいだけのような気がして私は黙って聞くことにした。

 

「あの子の事になると、どうも抑えが利かないのよ。今回だって、風邪だってことは判っているのよ。ほっとけば治るだろうってこともね。でも、辛そうなあの子の様子を見ていると居たたまれなくなっちゃうの」

 

まあ、普通は親というのはそういうものだろう。

 

「あの子ももう16でしょ。いい加減、子離れしなくちゃとは思うんだけど、どうしても目が離せないのよ。ダメよね、こんなんじゃ」

 

オレンジを剥き終わり、皿に山になったオレンジの果肉を、作っておいたシロップにドバドバと入れて掻き混ぜる。仕上げはレモンの絞り汁を少々。しばらく置いて味を馴染ませる。本当は一晩は置きたいところだが、今回は急なオーダーなので勘弁してもらおう。

 

その間にジェシカの様子を見に行くと、点滴は終わっており、当のジェシカはベッドですやすやと眠っていた。

 

オレンジの方はそこそこ時間を置いたところで魔法をかけ、程よい具合に冷やす。

楊枝で一個突き刺して、俯いているスカロンに差し出した。

受け取って口に入れたスカロンの目が丸くなった。

 

「美味しい・・・」

 

「風邪には一番の薬なのがこれさね」

 

器に盛りながら、スカロンに話しかけた。

 

「あんた、ジェシカのお母さんが亡くなった時からその言葉づかい始めたんだって?」

 

「え?」

 

これは以前ジェシカに聞いた話だ。

 

「『お母さんがいなくなっても寂しくないように』って言ってくれたって、あの子、嬉しそうに話してたよ。いいお父さんじゃないか」

 

6つの器にオレンジを盛って、それぞれに充分にシロップを注ぐ。

何だかうまくまとまらないけど、言葉を探しながら、スカロンに正直なところを言ってみた。

 

「私は、鬱陶しいくらいに心配してくれる親がダメな親なら、ダメじゃない親なんかいないほうがいいと思うけどね。自分を心配してくれる親なんて、人の子に生まれて、それ以上にありがたいものなんてそうそうありはしないと思うよ」

 

スカロンの前に二つの器を置いて、私もまた二つの器を手に取る。

 

「私は欲しかったよ、あんたみたいなお父さんがさ」

 

ほとんど記憶にない父と、ほとんど話したこともない父。

私の中には、父親というものの存在がほとんどないのだと思うと、我ながらちょっと寂しい。

 

「ほら、ジェシカもそろそろ目を覚ましているころだよ。持っていっておやりな」

 

呆気にとられた顔をしているスカロンを残して、リビングに向かう。

 

後ろから、太い、啜り泣きみたいな音がした。

甘いオレンジのシロップ漬けに塩味が入らないことを祈りつつ、私は私の家族の元にご要望の『あれ』を運んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後、『魅惑の妖精』亭のデザートのメニューに、オレンジのシロップ漬けが加わったのはまた別のお話。

 

 



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その26

それは、春の空を覆うような、艶やかな白い雲のようだった。

 

「うわ~……」

 

「これは見事な……」

 

ティファニアと私は、上を見上げて目と口を丸くした。

私たちの目の前に広がるのは、鮮やかな白い花を咲かせた何本もの大樹。

そこは、桜の森だった。

 

 

 

 

 

昨日の朝のこと。

玄関先で、私がマチルダの制裁から逃れようともがいているところに一羽のフクロウがやって来て、診療院の郵便受けにやけに古風な感じの手紙を投げ込んで行った。

体裁があまりに古風だったのでどこぞの貴族様が御乱行の後始末でも依頼して来たのかと思ったが、見ると蝋封には家紋は押されていない。

封を切って書面を見てみると、差出人は王都郊外の大きな公園の管理人からだった。

何でも歳に見合わぬ力仕事をしてしまったので少々腰を痛めたらしく、往診を頼みたいとのことだった。

件の公園はどこぞの爵位持ちの貴族が善意で一般に開放している私園であり、現代の感覚で言えば浜離宮恩賜庭園や新宿御苑のでかいのが無料開放されているような感じだ。

私もその公園の存在は知っていたが行ったことはなかった。

あんなことがあった後なので念のためあれこれ調べてみたところ、ジェシカが言うには公園には管理人小屋があり、たまに管理人がやってきて公園の樹木の世話をしているのだそうだ。

そんな開放的な公園なのだが、トリスタニア中心部からは距離があるので馬を使える者ならともかく一般的な平民ではあまり行く人もいないらしい。

そうは言っても、患者がいるのなら嫌も応もない。腰を痛めているのでは何かと大変だろう。

氏素性については不確かなものではなさそうなのですぐに返書を送り、翌日に都合をつけてティファニアと一緒に出向くことにした。

 

春の日差しの中を、街道に沿っててくてくと歩く。

地図を見る範囲では歩いて3時間はかかる道のりだ。

意外に思う人もいるかもしれないが、ティファニアは実に結構な健脚で、相当な距離を息も切らさず平気で歩いてしまう体力の持ち主だ。散歩感覚とは言え休みなく歩くこと3時間、公園に入ったころにはすっかりへばってしまった私の隣でテファはぴんぴんしていた。

きっと、体の前面に荷重がかかるようなバラストを2つも持っているからこの妹は歩くのが楽なんだな、うん。

あるいはあの反則的な胸は、実はリスの尾のように移動する際にバランスを取るために発達した器官なのかも知れない。

持てる者は持てない者に施しを与えるべきだ、帰りにはおんぶでもしてもらおう、と不届きなことを考えていた時、管理人小屋が見えてきた。

 

ライオンの顔をしたドアノッカーをどんどんと叩くと、中で低い声がしてひとりでにドアの鍵が開く音がした。

アンロックの魔法。

管理人さんはメイジだったのか。

 

「失礼」

 

遠慮なくドアを開けて中に入る。

中に入ると、シンプルながらも手入れが行き届いた室内で一人の老人がベッドにうつ伏せに横たわっていた。

好々爺を絵に描いたようなおじいさんだった。この人が患者らしい。

白髪に白髭。何だか、眼鏡をかけて白いスーツを着てステッキを持って、鳥の唐揚げが入った紙箱を手に店先に立っていると似合いそうな人だった。

目の前の患者さんが、贔屓の球団が優勝した時に熱狂した群衆によって橋から川に放り込まれる妄想を慌てて打ち消しながら、起き上がろうとする老人を手で制して部屋に上がりこんだ。

 

「トリスタニアのヴィクトリアです。手紙をいただいたので取り急ぎ伺いました」

 

さすがにここまで年が離れていると、幾ら私でもある程度慇懃な態度を取る。

 

「遠いところ、わざわざ済みませんな。力仕事でちょっとやってしまいまして。お恥ずかしい限りで」

 

「いやいや、こればかりは仕方がないですよ」

 

診察したところ老人の腰は案の定ぎっくり腰で、原因は筋断裂だった。要するに肉離れ。

普通なら一週間は痛みが続くところだが、これくらいならすぐに治せるのが魔法のすごいところだ。

魔法をかけて組織を修復すると、老人はようやく安堵のため息をついた。

腰と言うのは厄介な部位で、一度痛めるとなかなか癖になりやすい。痛めたのなら動かさないことが一番なのだが、腰は体の要と書くだけあって動かさずにいることは難しいからだ。

メイジではあるものの、老人は火の属性らしく、治癒魔法が使えず難儀していたそうだ。

主家に連絡すればいいだろうと思って訊いてみたが、主家の手を煩わせたくないとのこと。何だか律義な人らしい。

ようやく起き上がれるようになった老人に心づけ代わりの茶を御馳走になりながら、腰に対するケアを指導しておく。

腰痛はコルセットの装用が有効だが、常用することは好ましくない。体がコルセットに頼る事を覚えてしまい、筋肉が萎えてしまうからだ。装用する場合は、その辺の加減をしながら装用してもらうよう説明する。

また、重い物を運ぶ際にレビテーションを多用することも体力維持の面からはいささか問題はあるが、不安に感じたら無理はしないことが肝要であり、日常ではできる範囲で腰を動かし、腹筋や背筋を使うことで周辺の筋肉を鍛えることを心がけてもらう。効果的な腰痛体操というものもある。

世間話じみた会話の中で、そんなことをつらつらと説明しておく。

話が一段落したところで、私は上品な芳香を放つハーブティーが入ったカップを手に外に目を向けた。

窓の外に、新緑が鮮やかな公園の様子が見える。

 

「それにしても、初めて来ましたが…何と言いましょうか、美しい公園ですな」

 

「ほほ、気に入っていただけましたかな」

 

「ええ、帰りがけには一回りさせていただこうと思います」

 

「それでしたら…」

 

管理人さんは公園の地図を広げ、私に示して見せる。

 

「この時期ならば、この辺りにお立ち寄り下され。なかなか見事な眺めが見られますぞ」

 

 

平民レートの診察代を受け取り、茶の礼を言って私たちは管理人小屋を辞した。

広い園内を散歩するように一回りしてみる。

静かで、自然な感じの公園だった。

 

ほどなく、管理人さんの言われたエリアに差し掛かった。

そこで私たちは、この世のものとは思えぬ艶やかな景色を見ることとなった。

 

「うわ~……」

 

「これは見事な……」

 

幾本もの、大きな樹。

空を覆うかのように大きく張り出したその樹の枝に、綿菓子のように白い花が満開になっていた。

 

「綺麗……」

 

まるで幻想郷のような白い眺めに、ティファニアがため息を漏らす。

 

「スリジエだ」

 

品種の正確な名前は知らないが、一般的にスリジエと言われるガリア原産の桜の一種だ。

ソメイヨシノによく似た、小ぶりで鮮やかな花を咲かせる品種だった。

見事な枝ぶりを見上げながら樹の一本の傍に寄り、ごつごつした幹に手を当てた。力強く水を吸い上げている気配を感じる。

枝の端々まで水が行き渡り、花に潤いを与えてる様子が伝わってくる。

樹齢は、恐らく300年くらい。

懐かしい。

私は以前に触れた、一本のスリジエの樹を思い出した。

 

 

私がまだ、アルビオンにいたころの話だ。

年齢は、ドットの魔法の練習を重ねていたころだから7歳くらいだったように思う。

 

アルビオンの王家では、年に2回、春と秋に王室主催の園遊会が行われるのが習わしだった。

このロンディニウムのハヴィランド宮殿で行われる宴の時だけは、名ばかりの私たち一家も家族の外面を整えて参加することになっていた。

園遊会はアルビオンの社交界では最大のイベントの一つだが、内実は大人の権謀術数や噂話の行き交う矢玉が飛ばない戦場でもある。

体に穴を穿つ矢玉は飛んでこない代わりに、心を抉る陰口が幾つも飛び交うどす黒い戦場だ。

私にとってもまた、そこは心地よい場所ではなかった。

『北の売笑婦の娘』というのが、社交の場で私に付けられていた通り名だった。

淫蕩な母の影響で頂戴したものだが、そう言われても仕方がないほど母の評判は王宮ではいいものではなかった。

外見こそ居並ぶ貴婦人の中でも抜きんでて美しいことは確かだったが、娘の目から見ても燕狩りに勤しむその所業は、およそ貴婦人のそれとは言い難かった。

それを言うならその手管に嵌る方々も紳士と呼べるようなものではないだろうにとも思うのだが、中央の貴族にとっては北部の連中は田舎者ということになっているらしく、そのようなエセ貴族の娘を嫁に取らねばならなかった父への同情も少なくないようだった。

そんな事情なので、私に対しても風当たりも結構強く、宴のたびに私は専ら壁の花を務めることとなった。

これでも公女という地位もあり見目も悪い訳ではないのだが、私に迎合しても旨味がないとでも思っているのか、大抵の貴族の方々の反応は温かくはない。むしろ、いつ一悶着起こるか判らない一族に御令息を近づけまいと必死な気配すらあった。料簡の狭い奴らだとは思ったが、母のせいではなく父の自爆という形ではあったものの、結果的には本当に大公家はダメになってしまったのだから、彼らの読みは正しかったのだろう。

 

そんな訳で穏やかに村八分な私は、毎年のように宴の中盤には居場所をなくして一人で庭に木々の声を聞きに出た。

王宮だけあって、公領の庭に比べても遜色のない手入れの行き届いた庭だ。

王宮の木々は見栄えにこだわったためか園丁が少し枝をいじめすぎのような気もするが、木々は今年も私を静かに出迎えてくれた。アルファ波なのかマイナスイオンなのか判らないが優しい雰囲気が満ちていて、気持ちが落ち着く穏やかな空間だった。

私はお気に入りの樹の下に行ってみた。

樹齢500年を超える、大きなスリジエの樹だ。

樹皮に触れてみると、公領の楡の樹ともまた違った音色で水が流れている感触がある。

桜は1000年くらいで寿命を迎えるそうだが、そうだとするとこの樹はちょうど壮年のあたりだろうか。

壮年なのに、まだ子供の私より長生きし、私が死んだ後もここにあるであろう樹。

そう思うと、何だか不老長寿の魔法使いのようにも見えてくるから不思議だ。

 

そんな見事な桜の木を見上げていると、背後に人の気配を感じた。

振り返り、そこにいた人に私は息を飲んだ。

 

へ、陛下!?

 

さすがに言葉には出さなかったが、心の中で絶句した。

立っていたのは畏れ多くもアルビオン王国国王、ジェームズ1世陛下だった。

この王様は、やんごとなき御方にしては気さくな人ではあるのだが、どういう訳か子供には結構厳しいところのある人だった。躾とかに厳しい頑固じじいタイプというか、子供にとっては仏頂面の国から仏頂面を広めに来た仏頂面の使者のような人で、いついかなる時でも仏頂面をしているイメージがある。生まれた時に仏頂面のまま産湯を使ったと言われても、私は信じるかも知れない。

とにかく、威圧感があって恐いのだ。

慌てて首を垂れる私を見下ろし、陛下は静かに口を開いた。

 

「顔を上げなさい」

 

不機嫌そうな声で言われたので、何か失敗してしまったかと思いながら顔を上げる。

陛下が大切にしている花でも踏んでしまったのだろうか。

次いで陛下が言う。

 

「口を開けなさい」

 

口?

何のこっちゃと思いながらも大人しく口を開けた。

そんな私の目の前で、手にした杖を軽く振って見せるジェームズ1世。

出し抜けに口の中に飛び込んできた固い感触に私は目を丸くした。

 

「ほえ?」

 

思わず間抜けな声が出るほど驚いた。

最初はドングリでも飛んできたのかと思ったら、舌に感じる感触は甘い。

砂糖のような甘さ。

氷砂糖?

 

「・・・甘いです」

 

「うむ」

 

素直に感想を言う私に、陛下は種明かしと言った感じに、マントの下から瓶を取り出して私に差し出した。

中には色とりどりの砂糖菓子。直径が1サントほどの大きさの金平糖のようなお菓子だ。

私にそれを渡すと、陛下は何事もなかったかのように踵を返し、宴が続く会場の方に歩き出した。

その後姿を呆気にとられて見ていた私だったが、大切なことを思い出して声を上げた。

 

「伯父上!」

 

本当は、ここは『陛下』と呼ばなければいけないところだ。

家庭教師あたりにバレたら怒られるかもしれないが、この時、私は王や公女としての立場がどうこうというよりも、人としての言葉をかけたくなったのだ。

私の声を受け、陛下は振り返った。相変わらず仏頂面のままだ。

 

「お菓子、ありがとうございます」

 

一礼する私を、やはり仏頂面のまま見つめ、

 

「・・・うむ」

 

とだけ言って仏頂面のまま会場に戻っていった。

 

 

 

 

気づけば、ティファニアが楽しげな顔で笑っている、

 

「何だい?」

 

「姉さん、すごく優しい顔をしてる」

 

「そ、そうかい?」

 

慌てて顔を抑えるが、別に表情が緩んでいる感覚はない。

 

「うん。何か、楽しいことでも思い出したの?」

 

「まあ、そんなところだよ。そういえば、何でこの樹の花はこんなに綺麗なのか知ってるかい?」

 

ちょっと意地悪そうな顔をして話を変えようと話題を切り出した私を見ながら、ティファニアは首を振った。

 

「逸話があってね。この樹の下には、ある物が埋まっているからなのだそうだよ。何だと思う?」

 

「埋まっている、って…肥料とか?」

 

私はゆっくりと首を振り、もったいをつけてボソッと答えた。

 

「…屍体」

 

キョトンとしたテファの表情がこわばり、次いで眉が吊り上った。

 

「もう、やめてよ、せっかくこんなに綺麗なのに」

 

怒らせてしまった。

梶井先生、貴方の感性はこの世界では受け入れてもらえないようです。

 

 

そんな話をしながら、いささか移動の疲れもあって陽だまりにあった木の切り株に腰を下ろして花を見上げる。

エネルギーあふれるテファは初めて見る桜が楽しいのか、そんな私をよそにあちこち歩きながら眺めて回っていた。

桜の樹の下で、満開の花を背景に美しいティファニアが大きく手を広げて花を見上げる様子は、あたかも一枚の絵画のようだ。

この世にアルフヘイムというものがあるのなら、きっとそこは、私が今見ているような幻想的で美しい光景に違いない。

そう思わせるだけの神秘的な美しさを醸し出しながら、ティファニアは笑顔で舞い散る花弁を見つめていた。

私の前で、楽しそうな顔をしている可愛い妹。

最近、この子の笑顔を見るたびに、私はやるせない思考の迷宮に迷い込む。

それは妄想にも似た、可能性という不確かなものに対する思いだ。

その可能性の枠組みの中では、この子とここで今一度このような穏やかな時間を持つことは、もうないのかも知れない。

今この時も、砂時計の砂は止まることなく落ち続けている。

やがて来る時代の動乱は、容赦なく私たちにも押し寄せてくるだろう。

私がそのささやかな力で築き上げた砂の城は、その奔流にさらわれて崩れて消えるのだろうか。

やがて、狂王が演出するブリミル教徒が相打つ抗争と、始祖の代弁者たる教皇が唱える不可避な聖戦が始まる。

聖地奪還を掲げ、ハルケギニアの人々を救う美名のもとにエルフに対していくことになる諸国の英傑たち。

その中にはティファニアも、あの黒髪の少年も取り込まれていくのだろう。

聖地に何があるのかは、私には判らない。

聖地とやらに風石の暴走を食い止める装置があるのかないのか。あったとしたらそれはどういうものなのか。

判らない歯がゆさが心に応える。それさえ覚えていればまだ取るべき手を考える余地はあるというのに。

ビダーシャルはシャイターンの門を開けると災厄が湧いて出るとか言っていたが、困ったことにシャイターンが何なのかも覚えていない。開くと大災厄がどうとか言っていたと思うが、開くとブリミルが言っていたヴァリヤーグとかいう物騒な連中が復活してくるのだとしたら、確かに聖地には触れない方が得策だろうし、それならばヴィットーリオだって無理やり封印を解こうとするとは思えない。

風石対策とシャイターンの門、この二つがどういう関係にあるのか今一つ明確ではない。

私が『ゼロの使い魔』という物語を忘れてしまったのか、最後まで読んでいないのか、それとも途中で私が死んじゃったのか、あるいは作者さんが完結まで辿りつかなかったのかは定かではないが、記憶が虫食いだらけの頼りない転生者には未来を見通す力はないのだ。

 

先入観抜きに考えても、私としては、人間もエルフもお互い人語を解する種族なのだから、互いの齟齬を会話で埋める努力をまずはするべきなような気がする。

虚無を見せつけて言うことを聞かせようという砲艦外交がまず最初にありきというは、どう考えてもこちらの思惑通りに事が運ぶように思えない。

エルフだって馬鹿ではない。実際、才人もテファもエルフの虜になったことがあったはずだ。

もっと、穏やかな交渉の方法はないものか。

博愛は誰も救えない。それも確かに真理かも知れない。

人の歴史は戦争の歴史だ。クラウゼヴィッツの戦争論は読んだことはないが、戦争は人が人である限りは切り離せないものだとは思う。

それでも、やはり戦争は悪だと私は断じる。

博愛は誰も救えないのかも知れないが、戦争は愛の否定そのものに他ならないだからだ。

人を助ける職業を生業にしている者として、その対極に位置する行為を肯定することはできない。

ティファニアを危険に晒したくないというひどく身勝手な動機ではあるが、泣かなくても良い者が泣かねばならない未来が待っているのだとしたら、為政者たちにはもっと良い未来を模索することを放棄して欲しくはない。

 

そんな考えも、所詮は幸せ者の戯言だ。

今の私は、恐らく人生で一番幸せな時間を享受している。

今が変わって欲しくない、保守派の人間だ。

その日の糧にも困るような者にとっては、世界が丸ごと変わってしまうような大事件をこそ欲しているのかも知れない。

やがて来る大隆起の後には、そういう人が人類の大部分を占めるようになるのだろうか。

少しだけ後ろめたい感覚を覚えつつ、咲き誇る花を見ながら私は思う。

桜の下に埋まっているのは、もしかしたら、『幸せ』なのではないかと。

根は蛸のようにそれを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根でそれを吸い上げて、錦のように花模様を仕立てている。

だから今、その花の下で私が感じている穏やかな白い空間は、こんなに幸せに満ちているのだと思うのだ。

 

 

「姉さん」

 

戻ってきたティファニアが微笑む。

 

「ん?」

 

「来年は皆で来ようよ」

 

確かに、私とティファニアだけで見るにはもったいない眺めだ。

前世で味わって以来のお花見というのも悪くない。

 

「そうだね。皆で来ようか。食べ物や飲み物持って、この下にシートを広げて」

 

「ピクニックみたいだね。楽しみだわ」

 

ティファニアの笑顔が、心に棘になって刺さる。

それは、守れないかもしれない約束だ。

『もしも』に彩られた約束。

もしも、来年も皆で一緒にいられたら。

再び花の下に走って行ったティファニアの背中を見ながら、私は言いかけた言葉を飲み込んだ。

 

 

 

桜を見すぎてしまったため、帰り道は夕日と追いかけっこになった。

春とはいえ、まだ陽はそう長くはない。

トリスタニアに着くころには陽は落ち切り、夕暮れが足早に通り過ぎた後に夜の帳が下りた。

 

家に着いた時、南の空に、一筋の流れ星が流れて消えた。

 

 

 

 

私の知らないところで、時代が動き出していた。



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その27

 家族と言うのは、最も近い他人と言った人がいる。

 もともとが寄り合い所帯の私の家族の間にも、時には波風が立つことはある。

 口論だってたまにはするし、お互いに譲れないところだってあるし、つまらないことで衝突することはある。

 例えば牛乳の話であり、年齢の話であり、バストの大きさの話などなど。

 もちろん本格的に険悪になることはなく、三人のうちの二人の雲行きがいよいよ怪しくなると、残る一人がフォローに回る。

 それでも埒が開かない時は我が家で唯一の殿方が仲裁に入ってくれる。

 そうやってうまくやってきた私たちだったが、それでも本当に大事なことは、口にできない時がある。

 

 

 

 

 往診の帰り、私とテファはカフェで待ち合わせしてそれぞれの買い物に走った。

 テファは晩御飯の買い物、私は書物屋に例によって毒物の書物漁り。私の方は、書物の他に最新の瓦版を買い込んだ。

 トリステインという国では平民の識字率は高くないのだが、王都トリスタニアは商業の街なので読み書き算盤を身につけている者が多く、粗末な紙片を使った瓦版も結構需要がある。

 世の中の情勢を知らなければ商機を掴めないということで、毎日買い求めるのは半ば商人の嗜みとも言われているのだそうだ。

 産婆や坊主と同じように宣伝をしなくても食べるに困らない生老病死に関わる商売をしている私としては、商人たちの逞しさには素直に敬意を払っている。

 しかし、そんな私が見ているのは、そういう商業関係の情報ではない。

 最近私が紙面に目を落としている時、その視線の先には必ずアルビオン情勢の記事がある。

 

 

 アルビオン情勢は、一進一退が続いている。

 紙面の情報が、実際の状況とどれくらいの時差があるかは確たることは判らない。

 ネット社会を知る者としては、この世界の情報伝達の遅さには歯がゆさを覚えるところではあるが、情報が入ってくるだけまだマシではある。アルビオンで城住まいをしていたころは情報そのものから切り離されていたことに比べれば、自分で能動的に情報を得ることができる現状は何倍も恵まれている。

 問題なのは、聞こえて来るのがいい情報ばかりではないことだ。

 ロンディニウムを失い押し込まれつつある王党派に、もはやレコン・キスタを倒すだけの力がないことくらいは私にも判るが、そんな現状でも王党派は未だ意気軒昂。せっせと敵の後方を攪乱する地道なゲリラ活動などで叛徒に失血を強いている。

 数年前、私がパリーに会って伝えた話が役に立っているのか知らないが、『ゼロの使い魔』のお話の通りの展開ならば、とっくにニューカッスルに追い込まれているこの時期でも戦線を維持している辺り、少しだけ歴史の流れは変わっているように思う。

 そうは言っても状況がジリ貧なことには変わりはなく、状況は良くない方向にその天秤を傾けつつあった。

 私の理想は、アルビオン王家が存続することで青髭の火遊びを一歩目で挫き、伯父上に生き延びてもらうことだった。

 せめてクロムウェルの暗殺に成功していれば歴史はまた違った流れになるものと思っていたのだが、結果はこのありさまだ。昨年の秋に私が踏んだドジも、遠因なのかも知れない。

 今のままでは状況は時間の問題であり、やがては王党派は私が知る歴史通りにニューカッスルあたりに追い込まれ、一方的な蹂躙を持って王党派の命運は尽きるだろう。

 そうなればその戦いで、伯父上が、死ぬ。

 何とかならないものだろうか。

 

 ニューカッスルと言えば、思い出すのはウェールズ殿下だ。

 正史ではフーケ騒動から連なる情報の流れの中でウェールズ殿下が髭に謀殺されていたが、当のフーケが工房を切り盛りしながら清々しい汗を流しているこの時間軸の中では、彼はどうなるだろう。

 思い返せば、ウェールズ殿下とは、私はほとんど話したことなかった。

 最後に話をしたのは、園遊会の時だったか。

 

 会場で、暇を持て余して広い会場をウロウロしていると、

 

「やあ」

 

 と声をかけられた。振り返ると、そこに見目麗しい白皙の美少年が立っていた。

 

「久しぶりだね、ヴィクトリア」

 

 ウェールズ・テューダー。

 幼き日のプリンス・オブ・ウェールズ。

 やがて名誉も勲もなく暗殺される貴公子。

 そして、私の従兄。

 

「お久しぶりです、殿下」

 

 慌てて無口で無愛想な家庭教師に散々叩き込まれた礼をすると、ウェールズは笑って手を振った。

 

「今日は無礼講だし、僕らは従兄妹だよ。そんな他人行儀な真似はいらないだろう」

 

「ですが…」

 

 私が反論しようとした時だった。

 

「ウェールズ様、こちらにいらしたのですね」

 

 脇から着飾った婦女子が割り込んでくる。大公家に比してもそう遜色のない家格の高い名家の御令嬢だ。

 ウェールズに二の句も継がせず言葉をまくし立て、私に一言「ごめんあそばせ」と形ばかりの挨拶を残してあっという間に会場の中央に連れて行ってしまう。

 御令嬢は最後に一度だけ振り返り、汚いものを見るような目を私に向けた。

 いつも頂戴している、冷ややかな視線だ。

 いつもこんな感じで、彼との会話には邪魔が入った。

 どのご婦人も、園遊会のホストとして私ごときにも声をかけねばならない立場の殿下に助け舟を出して、あれこれとポイントを稼ごうとしている下心が見え見えだった。

 社交界で評判が良くないということは、そこに身を置くとなかなかしんどいものなのだ。

 そんな断片的な記憶の中にしかいないウェールズ殿下。

 彼とは、そんな浅い関係しかなかった幼少期の私だ。

 泣く人が少なくて済むのであれば、彼にも生き延びてもらったほうがいいとは思うが、体を張って救いの手を差し伸べるほどの情熱は私にはない。

 殿下救済のために積極的に手を打つとしたら、とりあえずやるべきことはワルドの抹殺なのだが、あの事件の後、私はワルドについては何も手を打たなかった。正確に言えば、打てなかった。

 こっ酷い目に遭わされただけに相応の報いを与えてやりたいが、いかんせん証拠がないので告発しようにもどうにもならないからだ。

 当日のアリバイだって用心深い奴の事だ、遍在などで手は打ってあっただろうし、仮に証拠があったとしても、貴族至上主義のこの国で子爵と平民では裁きの行方がどうなるかは想像に難くない。

 事実が確認されても、上の方で『なかったことにしよう』とでも思われたら、むしろこっちの命が危ない。

 事の次第についてヴァリエール公爵に報告しようかとも考えたが、私がワルドを知っていることについて嘘をつき通す自信がないので、風のスクウェアメイジの存在だけを告げて仔細を語るのはやめておいた。何より、相手は爵位持ちで国の信望も厚い魔法銃士隊の隊長だ。国軍のエリート軍人を告発するとなると、さすがに公爵とて相応の裏付けが要るだろう。私には、それだけの物を用意できなかった。

 正攻法で追い詰めていくくらいなら、むしろ闇夜のお礼参りの方がリアリティがあるようにも思えたが、困ったことに私もディルムッドもそこそこトリスタニアでは有名人だ。面がすぐに割れるだけに迂闊なことはできない。

 焦らずともそのうち機会もあるかも知れないし、私の手で八つ裂きにするより、どこかでルイズを狙って馬脚を現した時に才人少年の糧になってもらう方が復讐の味わいが深いような気がした。これも才人の器量次第の話だが、彼が武運拙く髭に敗れたら、その時改めて挨拶するとしよう。

 

 

 正直、そんなマザコン髭のことなどどうでもよくて、今の私の悩みは私自身の身の振り方にあった。

 

 アルビオンの内戦に干渉するべきかどうか。

 私の手持ちのカードで、レコン・キスタの野望に立ち向かうことは是か非か。集めた情報を基に毎日幾度も考えを重ねてみてはいるものの、答えを出せずにいる。

 

 まず、戦力的には充分に王党派の力になれると思う。

 ディルムッド・オディナというこの世界ではイレギュラーレベルの戦力が、私にはあるからだ。

 まさに一人で千人を相手に戦える使い魔だ。

 しかし、やるとなった場合、彼の主として彼に相応の理由を示してやらなければならない。

 ただ道具のように『暴れておいで』と命じるだけなら、私もケイネス・エルメロイ・アーチボルトと同じだ。

 あの物語の中で、シリアルキラーの雨生龍之介を抑えて最も忌むべき男であったケイネスの最大の過ちは、ディルムッドという英霊の名誉を踏みにじったことにある。

 間男呼ばわりし、役立たずと蔑み、最後には自害すら強要したあの男の所業は思い出すだけでも気分が悪くなる。

 奴がこの世界にいれば、私自らゲイ・ボウでチクチクと刺してやりたいところだ。

 そんなケイネスほどひどくないにしても、私がレコン・キスタに彼をけしかけるには、寄って立つべき義がないのだ。

 国を捨てた私にとって、アルビオンの内戦は他人の喧嘩だ。

 助太刀する義理があるとしたら、それは伯父上とパリーにだけだ。

 本気でそれをやるのなら、横槍の形ではなく、堂々と伯父上のところに立場を顧みずに馳せ参じるべきなのだろう。

 その意気やよしと過去の罪科を許されるか、はたまた『それとこれとは話は別』としてお縄を頂戴するかは賭けだ。理由はどうあれ、私は王軍の兵を殺しているのだ。

 介入するとしたら、王党派の支援は必要だ。

 いかにディルムッドとは言え、さすがに統制が取れた万単位の大軍相手に正面から挑んで完勝できると思うほど、私は楽天家ではない。

 敵もプロの軍人、力押し一辺倒で押し切れるような馬鹿ばかりではないはずだ。動きが速く、魔法が通用しないとなれば、それなりに何らかの手を講じてくることだろう。

 その対策が出来上がる前にクロムウェルの素っ首を叩き落とせればいいのだが、そんな博打のような戦いに彼を出向かせることはしたくない。

 私が持つ反則じみたワイルドカードを最大限に生かすのであれば、王党派の旗の下、十分な支援を受けて槍を振るえることが必要だ。そうなれば英霊ディルムッドは、それこそ無双の働きを見せてくれることだろう。

 

 しかし、それをやると連鎖的に困ったことが発生する。

 言うまでもなく、私とマチルダ、そしてティファニアとの関係だ。

 マチルダにとっては、王家は仇だ。

 ティファニアの心の中には憎しみはないと思うが、それでも彼女にとってもまた、アルビオン王家は父の仇に違いはない。

 そんな王家に手を貸すことに、私はどうしても二の足を踏んでしまうのだ。

 もしかしたら私がアルビオンに与した時が彼女らとの別れになるかも知れないと考えただけで、どうしても気持ちが揺れる。

 伯父上は好きだ。

 死んで欲しくはない。

 しかし、マチルダとテファもかけがえのない大切な家族だ。

 どちらかを取れば、どちらかを失うかもしれない状況に、私の思考はリングワンデリングのような無限ループに陥っている。

 泣いてすがってマチルダに理解を求めることも考えたが、その一言を口にしたがために、かけがえのないものを失うことになるのかと思うと、どうしても勇気を出せない。

 葛藤と自己嫌悪を積み重ねることしかできない迷宮に入り込んでしまった私にできることは、伯父上やパリーの無事を祈ることくらいだった。

 

「姉さん?」

 

 かけられた声に顔を上げると、食べ物でいっぱいの買い物籠を手にしたテファが泣きそうな顔をしていた。

 

「おかえり。どうしたね?」

 

 いつもの調子で応じる私の言葉が聞こえないように、テファは私の対面に腰を下ろした。

 

「姉さん、正直に話してくれないかな」

 

「何を?」

 

「最近、姉さん変だよ。何かすごく悩んでいるんでしょ?」

 

「ん?」

 

 私は自分の失態に内心で舌打ちした。

 考えこんでいる様子を、テファに見られていたようだ。

 

「そんなに悩んでいるように見えるかい?」

 

「うん。最近、時間があるといつも考え込んでるよ。無表情で、遠くを見ているみたいで。私じゃ力になれないかな?」

 

 テファに助力を頼めるような問題なら、最初から悩みはしない。

 言えば、この子は絶対に苦しむだろうからだ。

 それでも、私を見るテファの目はまっすぐで、くだらない冗談で煙に巻くには抵抗があった。

 どうしたものかと思っていたら、ティファニアから斬りこんできた。

 

「……もしかして、アルビオンのこと?」

 

 忘れていた。

 ティファニアは、私が知るティファニアではなかったんだ。

 活字で触れた空想の世界の女の子と違い、私の妹は才人任せだった原作の世間知らずな女の子ではない。情報を自分で整理して、自分の意見を持つ立派な女性だということをたまに失念してしまう。

 我ながら、ダメな姉だ。

 

「……ごめんよ。もう少し、待っておくれ。話せる時が来たら、きっと話すよ」

 

 寂しそうな顔をするテファに謝り、私は席を立った。

 

 

 

 

 打つべき手が見つからず、ただ、時間だけが過ぎていく日々。

 そんな、ブリミル歴6242年のウルの月の、ある日のことだった。

 

 

 その日、トリスタニアをひとつのニュースが駆け抜けた。

 少なくない市民たちが動揺した事だろう。

 そんな市民の中で、その時最も喜んでいたのは誰かと言えば、それは間違いなく私だと自負している。

 

『トリステイン、アルビオン王国およびゲルマニア帝国と三国同盟締結』

 

 トリステインがゲルマニアと、王女アンリエッタと皇帝アルブレヒト3世との婚姻を前提とした同盟を締結の上、アルビオン王国の支援を表明した。

 裏で何が起こっているのか知らないが、私が恐れていた正史のようなアルビオン崩壊がなくなったことは快挙だ。

 状況はめまぐるしく動いており、軍事同盟締結を機にアルビオン王党派の精兵およそ10000人が、多くの戦列艦とともにアルビオンを脱出してトリステインに落ちのびたらしい。

 300名の王党派が5万を相手に玉砕する史実とは大きく異なる顛末だ。

 鳥の骨が、死に体の王国との同盟にどういうメリットを見出したのか知らないが、そんなことはどうでもいいことだ。

 伯父上が、トリステインに逃げ延びてくれる。

 居ても立ってもいられず、私は午前中の診察を終えるや、駆け足で街に飛び出した。

 戦争関係の情報が欲しい。瓦版の限られた紙面にない、生きた情報が。

 餅は餅屋。

 生き馬の目を抜くような王都トリスタニアでその種の情報を欲したならば、それに相応しい輩が巣食っている。

 

 

 

 

 

「……これか」

 

 武器屋は私が示した瓦版を見ながら訳知り顔で頷いた。

 

「今日は客としてきたんだよ。知っている事を教えておくれ」

 

「馬鹿、おめえから金なんか取れねえよ」

 

「商取引だよ、私だってあんたからは診察代はもらっているさね」

 

「そういうことは、せめてもうちょっと金取ってから言えよ」

 

 手にした瓦版を見ながら、武器屋は話し出した。

 

「俺らの耳にもつい先日まで全く入らなかった話さ。完全に秘密裏に進めていた同盟話らしい。昨日今日の話じゃねえ。ずいぶん前から水面下で話が進んでいたようだぜ」

 

「何でまたいきなり三国同盟なんだい?」

 

「恐らくは、ガリア対策だろうよ」

 

「ガリア?」

 

「信憑性は半々だが、レコン・キスタの黒幕だって噂だぜ。アルビオンの動乱だが、一見ただの反乱が頻発していたように見えて、整理してみればきちんと段階を踏んで王家を追い詰めているように見える。地方領主の五月雨式な反乱ならともかく、あそこまで組織だった騒動となりゃ、普通じゃねえとその筋の奴なら判るだろう。アルビオンは昔から諜報には定評のある国だ、裏で糸を引いている何かがいるってことは知ってたんじゃねえか? トリステインやゲルマニアにしてみても、座視できない敵がいることが判ってりゃ、アルビオンが滅べば明日は我が身だ。先手を打って同盟を考えるのも自然だろうよ」

 

 私は内心で歓喜した。

 もしかしたら、私が伝えた言葉を真面目に取り扱ってくれたのかも知れない。

 

「だったらアルビオンが今みたいになる前に、もっと早く同盟すればいいじゃないかとも思うけど」

 

「そこはそれぞれお国の事情もあるんだろうよ。金を払わなくても動くのは風車だけだぜ」

 

 亡国の危機と国益を天秤にかけるか。マザリーニあたりならやりそうなことだけど。

 しかし、武器屋の次の言葉が私の思考を止めた。

 

「王党派の引き際も大したもんだったらしいぜ。撤退戦では、反乱軍のロイヤルソヴリン…今はレキシントンか。その化け物と、王党派最後の切り札の姉妹艦アークロイヤルの砲撃戦だとさ。しかも王党派は国王自らが陣頭に立ったそうだ」

 

 一瞬、言葉が飲み込めなかった。

 アークロイヤル……そんなフネ、原作に出てきたか?

 レキシントンの化け物ぶりはタルブの戦いで描かれていたが、姉妹艦があるとは知らなかったよ。

 何より、伯父上が陣頭に立つということに驚愕した。

 指揮官先頭とか、ノーブル・オブリゲーションとか、そんな言葉が脳裏に浮かび、艦橋に立つ伯父上の姿が思い浮かんだ。確かにアルビオン王家の者は一度は軍に身を置く慣習があるが、伯父上が陣頭に立つとはどういうことだろうか。

 

「そ、それで?」

 

 私は、どもりながら問うた。

 武器屋の話は不穏な空気を含みながら続いた。

 

「何でも、皇太子は退却の総指揮を取り、殿はアークロイヤルに王自ら座乗して支えたらしいぜ。王党派の大部分が、その時間を使ってラ・ロシェールに逃げ伸びている」

 

「それで……王族は?」

 

 私は、出来るだけ平静を装いながら尋ねた。

 内心は、祈れるものすべてに祈らんばかりに伯父上の無事を願いながら。

 

「散々だな。ウェールズ皇太子は、撤退作戦中に行方不明になったらしい」

 

「行方不明?」

 

「ああ。皇太子の乗ったイーグルは出航が確認できなかったそうだ。未だに行方は判っていねえとよ」

 

 殿下が行方不明。ワルドに殺された礼拝堂の話を考えると、行方不明というのはあり得ない話ではない。

 あれは最後の殲滅戦の最中に起こった事件だったはずだ。ギーシュの使い魔がいなければルイズも才人もあの場で死んでいただろう。

 今回の撤退の展開は知らないが、歴史の修正力なんてものがあるのなら、殿下の命運がここで尽きるのもあり得ない話ではないかも知れない。

 

「それと、国王だが……」

 

 武器屋のその言葉に、私は現実に引き戻された。

 そうだ、伯父上だ。

 殿下が行方不明なら、伯父上はどうなったのだろうか。

 武器屋は『散々』だと言った。

 嫌な予感が胸に渦巻いている。

 そんな私に武器屋が言った言葉は、私を奈落の底に突き落とすには充分だった。

 

「ジェームズ1世は、アークロイヤルと運命を共にしたらしい。僚艦も順次下がらせながらレキシントンを中破に追い込み、最後は単艦で滅多打ちにされて沈んだ……って、おい、顔色が悪いぜ。どうしたよ?」

 

 

 

 

 

 トリスタニアの街を、背中を丸めながら、ただ、歩く。

 街はいつもと変わらず活況だ。

 市の物価は安定しているし、人々の顔には悲壮感はない。

 戦争が、まるでどこか遠くの出来事のように思っているのだろう。

 人が一人死んでも、世の中は何も変わらない。

 伯父上が、死んだ。

 討ち死にだ。

 王族としての矜持と心中した訳だ。男子の本懐だろう。

 男はいつもそうだ。残される女子供の都合など考えもしない。

 聞いたとき、武器屋の情報を疑いもした。

 すべては伝聞の情報だ。精度について落ちるところもあるだろうと、淡い期待を抱きかけた。

 しかし、これまでの彼の実績がそれを否定していた。

 彼はプロなのだ。

 命を商売道具にする傭兵連中に信頼される彼の情報を、私には否定することはできなかった。

 

 希望の後に来る絶望が、これほど深いとは思わなかった。

 『青髭』と名乗った異貌のサーヴァントは『恐怖とは、静的な状態ではなく変化の動態』なのだと言っていたが、絶望もまたそういうものなのだろうか。

 伯父上は、『ゼロの使い魔』の作品中では脇役でしかなかった人だった。

 作中では、その描写すらないままにニューカッスルの攻防戦で討ち死にしていた。

 そこに悲しみはなく、見事に戦い、そして散ったと言う事実だけが残り、その事実もまた、話が進むうちに霞んで消えて行った。

 今回の討死も、同じように美化され、やがては人々の記憶の彼方に消えていくのだろう。

 まるで、歴史というドラマの脇役のように。

 マザリーニがアンリエッタに戦死者の名簿を突きつけて、死と言う現実について迫ったことがあった。

 ただの名前の羅列に過ぎない名簿。個々が顧みられることはなく、ただの数として、まさに一山幾らの兵力として換算されていた人たちそれぞれに、守るべきものがあり、信じる正義があったのだと。

 女王アンリエッタ成長の象徴的なエピソードだったが、今の私には、そのマザリーニの言葉が身に染みる。

 そんな、本筋においては脇役に過ぎなかったはずの人の死が、今の私は、こんなにも、辛い。

 

 

 

 

 

「やっと帰って来たわね」

 

 重い足取りで家に戻り、リビングに入ると聞き覚えのある声が聞こえた。

 そこには見慣れてしまったピンクがいて、テファが相手をしていた。

 

「どうしたの、姉さん、真っ青だよ」

 

 驚いたようなテファの声が、耳を素通りしていく。ルイズもどこかおかしい私の様子に気づいたようだ。

 

「大丈夫なの、あんた。何だか死にそうな顔しているけど」

 

「悪いけど……今日は勘弁しておくれ。気分が悪いんだよ」

 

 私は何とか声を絞り出した。

 悪態を含む居丈高なルイズ節を受け流せる気力は、今の私にはなかった。

 そんな私のことを、ルイズなりに理解してくれたようだった。

 

「……いいわ。でも、せめてこれくらいは受け取りなさい」

 

 ルイズが、差し出してきたのは、木製の小箱だった。

 

「これは?」

 

「届け物よ。あんたに渡すように頼まれたのよ」

 

「誰に?」

 

「さあ。渡せば判ると言っていたわ」

 

 受け取ろうとした時、私は初めてルイズの指に目が留まった。

 上品の作りの、青いルビーの指輪。

 私は硬直した。

 脳裏に、原作2巻のルイズの部屋の出来事がリフレインしてきた。

 夜中に訪ねてきたアンリエッタ。

 三文芝居。

 恋文と、渡された水のルビー。

 ルビーを持っているということは、ルイズはアルビオンに行っていたということか。

 フーケ騒動がないはずなのに、何故アンリエッタはルイズに目を付けたのだろうか。

 ゲルマニアからの帰り道、学院にアンリエッタが立ち寄った話は平民の私たちまでは聞こえてきていない。

 流れからすると、ワルドの裏切り事件もあったのだろうか。

 そんな作中にあった様々なことを全部飛ばして、私の脳は渡された箱をルイズに託した人のことを連鎖的に想起した。

 

「これ……まさかアルビオンからかい?」

 

「え、心当たりあるの?」

 

「知人がいるんだよ」

 

「そう……。ま、そんなところよ」

 

 ルイズの様子と、私にこういうものを渡しそうな人物の可能性に鑑みると、心当たりは一人しかない。

 間違いない。パリーだ。

 彼は無事だろうか。

 

 私は慌てて受け取った小箱をテーブルに置き、一つ息を吸って開けようとした。

 開かない。

 ロックの魔法がかかっていたので、杖を出してアンロックする。

 開く時、指が震えた。

 

 箱の中身を見た時、息を飲み、数秒ほど呼吸を忘れた。

 視界が回り、その場に崩れそうな体を懸命に支えた。

 それは私の心の、最も深奥を揺らす物だった。

 箱の中身は、伯父上の、心そのものだった。

 呆然とする私をよそに、ルイズも覗き込み、そして怪訝な顔をした。

 

「何よ、こんな物を運んで来たの、私?」

 

 こんな……物?

 そんなルイズの言葉を、私は看過できなかった。

 

「黙りなさい」

 

 爆発しそうな激情を抑えるのに苦労しながら、自分でもどこから出てきたのか判らないほど低い声で私はルイズに告げた。

 制御の利かない私の無機質な声に、ルイズは驚いたようだった。

 ルイズは、全く悪くない。事情を知らなければ、私だって同じようなことを口にしたのかも知れない。

 しかし、善意でこれを運んできてくれた何も知らないルイズには申し訳ないが、今の私は余裕というものがなかった。

 自分の感情の、すべてのメーターが滅茶苦茶な振れ方をしているのが判る。

 私は、私を抑えきれなかった。

 

「な、何よ」

 

「運んできてくれたことには、礼を申します。ですが、これを軽んじるようなことを言うことは、例えそれが貴族の方であっても許しません」

 

 気持ちの制御は何とかできても、表情の制御ができない。

 今の私の顔は、およそ感情が欠落した、作り物みたいな表情を浮かべていただろう。

 怒りや悲しみが浮かんでいた方がマシなくらいの、死人のような無機質な顔だった。

 

「ど、どうしたって言うのよ?」

 

 私は何とか自分を宥めて言葉を紡いだ。

 どうしても、声が震えた。

 

「……あなたには、判らぬことです。これは、あなたにとってはくだらぬ物でも、私には、この上なく意味のあるものなのです」

 

「どういうことかは判らないけど、気に障ったのなら謝るわ。悪気はなかったのよ」

 

 あのルイズが、平民である私を相手に謝罪の言葉を述べた。珍しいとは思うが、ルイズなりに感じてくれるところがあったらしい。

 しかし、私の方が我慢の限界だった。呆気にとられるルイズを置いて、私は箱を抱えて自室に逃げ込んだ。

 いつ何時、感情が爆発して罪なきルイズに八つ当たりしてしまうか判らなかったからだ。

 

「姉さん、どうしたの!? 何があったの!?」

 

 部屋のドアまで、テファが追いかけてきた。

 

「ごめんなさい、ティファニア……今は、一人にして下さい…お願いです」

 

 ドアを開け、静かに、しかし会話を遮るように後ろ手に閉めた。

 

 戸棚の酒を開け、大ぶりなボトルに直接口をつけて一気に飲む。

 一息ついたところで、足の力が抜けた。

 部屋の中央で膝を落とし、箱を抱えて歯を食いしばった。

 悔しさと、情けなさが、怒涛のように渦巻いている。

 自分の中の暴風雨を必死にやり過ごしながら、私はきつく目を閉じた。

 涙が滲みそうになるのを、懸命にこらえた。

 私には、泣く資格などない。

 今、私の心を塗り潰しているものは、とてつもない後悔だ。

 危機を知りながら、未来を知りながら、伯父上の下に馳せ参じるという選択肢を選ばなかったことが、巌のように心の中に根を下ろしている。

 私は、私の家族を選んだ。その、あまりに大きな代償に眩暈がした。

 伯父上のためにできることがありながら、それをなさなかった薄情な自分が、どうにも許せなかった。

 涙を流す代わりに、これまでにないほどの酒を飲んだ。

 一人きりの部屋の中で、噛みしめた奥歯が鈍い音を立てるくらいに神と自分を呪いながら飲む酒が美味しいはずはないが、酒に頼らなければ耐えられないほど気持ちが加速していた。

 こんなひどい自棄酒は初めてだった。

 家の皆には、絶対に見せられない醜態だ。

 悲しいことがあった時、いくら飲んでも酔えないと聞くこともあるが、確かに酔いは感じなかった。

 それでも、肝機能を超える量のアルコールは忠実に私の体に作用し、2本目のボトルが空くころには私は呆気なく意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

『伯父上、この花はまだ咲かぬのですか?』

 

『うむ。これはキングサリと言ってな。開花は来月になるだろう。黄色い小さな花が咲く』

 

『そうなのですか』

 

『お前も、訊いてばかりではなく、自分で調べるくせをつけねばいかんぞ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『申し訳ございません、殿下。陛下なのですが…』

 

『……今回はお忙しいのだな?』

 

『はい。また私が名代を務めさせていただきます』

 

『えー、爺かぁ……』

 

『殿下……』

 

『あはは、嘘だよ。嬉しいよ、爺』

 

『まったく……お人が悪い。そうそう、こちらは陛下からでございます』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目覚めると、箱を抱えたまま、うずくまる猫のように眠っている自分に気付いた。

 外は月明かり。

 空になったボトルが、顔の脇にあった。

 無理な姿勢で寝たためか、背中が痛い。

 唸りながら起きると、背中の方でパサリと音がした。

 いつの間にか、誰かがブランケットをかけてくれたらしい。

 ブランケットを手に、ライナスのように引きずりながらキッチンに向かう。

 水を飲み、食卓に目を向けると、私の分の食事に布巾がかけられて置いてあった。

 皆、もう寝てしまったのだろう。要らぬ心配をかけてしまったものだ。

 そんなことを冷静に考えている自分が、我ながらおかしかった。

 眠りのメカニズムというものは、実はよく解っていないと聞いたことがある。

 人は何故眠るのか。

 太古の記憶で獲物が見つかりづらい夜はカロリー消費を抑えるために休むように体ができている等の諸説があるようだが、実際のところは未だ議論が続いているらしい。

 確かに睡眠というものは奇妙な習性だ。

 人を薬で眠らせることはできるが、それは自然な睡眠とは違うものなのだそうだ。自然な眠りは揺すれば目を覚ますが、薬での眠りでは目が覚めないというのが判りやすい例だとか。

 私としては、睡眠とは、脳のデフラグメンテーションのようなものだと思っている。

 頭がぐちゃぐちゃになった時、とりあえず眠ってみると、目覚めた時に整理がついていることがあるのがその証左だ。

 今の私も、そんな感じなのかも知れない。

 皆無とは言わないが、先ほどのような嵐のような心の乱れは、今は落ち着いている。

 バッカスとヒュプノスに感謝しながら、物音を立てないように静かに部屋に戻り、置きっぱなしの小箱を手に取った。

 

 

 

 二つの月が出ている。

 その月明かりの下、私は静かに診療所の屋根の上に上がった。

 屋根の端に座り、膝の上に乗せた箱を開ける。

 

 中に入っていたのは、ガラスの瓶だった。

 コルクで栓をされた、見覚えのある瓶の中には、色とりどりの砂糖菓子。

 城で伯父上に会うたびに、私にくれたものだ。

 私と伯父上をつなぐ、絆の象徴のようなお菓子。

 その一粒一粒に、伯父上の言葉が詰まっているようだった。

 

 箱から取り出してしばらく瓶を眺めた後、持ってきた蝋燭に火をつけて、コルクの栓を丁寧に封印する。

 蜜蝋の甘い匂いが漂う中、ぽたぽたと落ちる蝋の滴が、思い出を閉じ込めるように、少しずつ瓶とコルクの隙間を埋めていく。

 そんな様子を見ながら、伯父上との数少ない記憶を辿る。

 孤独の中で私を支えてくれた、灯火のような優しい記憶だ。

 何を気に入ってくれたのかは知らないが、伯父上は本当に私を気にかけてくれた。

 会えない時でも、園遊会後の帰りの馬車に一人乗って帰途に着く私を、伯父上は城の窓越しに見送ってくれた。

 それに気づいて馬車の屋根に飛び上がり、大きく手を振って見せたのだが、その事について後で躾担当の家庭教師にねちねちと怒られたっけ。

 

 蝋燭が燃え尽きるころ、封印が終わった。

 砂糖菓子と一緒に、思い出と、これまでもらってきた多くの想いを蝋で密封したガラスの瓶。

 小さな瓶が、まるで伯父上の骨壺のように思えた。

 最後に、固定化の魔法をかける。

 錬金はよく使うが、固定化は滅多に使わないからなかなかうまくいかない。

 本当に、水魔法以外は下手っぴな自分に嫌気がさしてきた時だった。

 

「あいかわらず下手だねえ」

 

 背後から突然かけられた声に、私はびっくりして振り返った。

 そこに、二つのカップを手にしたマチルダが浮いていた。

 

「お、驚かすんじゃないよ。高いところなのに、危ないじゃないか」

 

「夜中に屋根の上で遊んでる方が悪いのさ」

 

 マチルダはそのまま私の隣に座り、カップを差し出してきた。

 

「ほら、熱いよ」

 

 淹れたばかりの、ハーブティー。

 酒で荒れた舌に、その温かさが心地よかった。

 

「貸してごらん」

 

 マチルダが手を伸ばして、私の手の中の瓶を示す。

 私は一瞬だけ逡巡した。

 いきなり取り上げて地面に叩きつけるような人ではないと思ってはいるが、彼女にとってもまた深い意味を持つ瓶を、何も告げずに手渡すことに抵抗を感じた。

 これは、マチルダの仇が送ってきたものなのだ。

 しかし、その差し伸べられたままのマチルダの手に彼女の気持ちを感じ、私は素直に瓶を渡した。

 マチルダは瓶を手に取ると、慣れた感じで固定化をかけてくれた。

 丁寧な、惚れ惚れするような手並み。

 さすがは工房経営者、数十年は持ちそうな施術だった。

 

「……ごめんよ。みっともないところを見せてしまったね」

 

 返されたガラス瓶を抱きしめて、呟く。

 

「国王からかい? その瓶は」

 

 マチルダの問いに、私は頷いた。

 ティファニアからおおよそのところは聞いていたのだろう。

 事情はだいたい判ってくれているようだった。

 

「マチルダは……恨んでいるんだろ、伯父上を」

 

「そりゃ、恨んでいるさ。父を殺し、家名を奪った仇だよ」

 

 マチルダの言葉からは、抑揚が消えていた。

 彼女の気持ちは、痛いほど判る。

 もしマチルダやティファニアが殺されたら、私もそいつを許すことなどできないからだ。

 地の果てまで追いかけるだろうし、絶対に楽には殺さないだろう。

 

「そうだよね……」

 

 言葉を発するのが、怖かった。

 私の言葉のどこでマチルダが激発するか判らないことが、どうしようもなく怖い。

 しかし、少し沈黙した後で、一息でカップの中身を干したマチルダが発した言葉は、私の予想とは違うものだった。

 

「あんたは覚えちゃいないだろうけど、アルビオンの園遊会には私も参加していたんだよ。何回か、遠目で見たよ。庭で、あんたと国王が楽しそうに話しているのをさ」

 

 そうだったのか。

 会ったことなかったから知らなかったよ。おとんもおかんも、私を自分の娘だと言って紹介して回るようなことなどほとんどしなかったし。

 

「何だかお爺ちゃんと孫娘みたいだったね。国王の方は何だが苦虫潰したみたいな顔してたけど、あれ、目尻が下がるのを堪えていた顔だったんだろうね、きっと」

 

 意外な言葉だったが、それを知っていてくれるなら話は楽だ。

 私は抱えていた秘密を、話すことにした。

 

「ティファニアには内緒の話を、ひとつ、しようか」

 

「ん?」

 

「私は、父とは数えるくらいしか話をしたことがなくてね。母と折り合いが悪かったせいなのか、年に数回会う程度の関係だったんだよ。彼の立場や苦悩も判らないでもないから恨んだことはないけど、愛していたかと言われれば、素直に頷けないんだよ。身内のはずなのに、他人のような父だったんだ。テファには申し訳ないけど、伯父上を親の仇と思うほどの感情は、父との間にはないんだよ。

私、社交界でも、結構辛い立場でさ。

そんな私に、優しくしてくれたのは親族では伯父上だけだったんだよ」

 

 意外そうな顔をするかと思ったマチルダだったが、少し寂しそうな顔で呟いた。

 

「正直、あんたの母君についてはいい噂は聞いていなかったし、あんたについても……妙な噂ばかりを耳にしていたよ。今だから言うけど、私も、あんたのことはサウスゴータで話してみるまでは、何だか表情の乏しい、お人形みたいなお姫様だと思っていたしね」

 

 まあ、前段は仕方がない。ああいう母の娘だ、同じような性癖を持っているに違いないと言われていたのは知っている。それはともかく、むしろ後段の方が私は私宛の悪口としてはひどい部類に入ると思う。

 

「悪かったね、本性はこんなにガサツな女で」

 

「馬鹿だね。お高くとまられるよりはよっぽど親しみやすくていいよ」

 

「ふん。どうせ、お人形娘さね」

 

「ごめん。茶化すつもりはないんだよ。あんた、あんまり昔のこと話さないし」

 

 当り前だ。身内に疎んじられて、親族に手籠めにされかけて、挙句の果てに母親を殺したなんて話をぺらぺら話す奴がいてたまるものか。

 先日の騒動の時も、私に流れる王家の血が原因と言うことしか皆には言っていない。

 あんな変態の話で、皆の脳を汚染したくなかったからだ。

 この秘密だけは、墓場まで持っていくつもりだ。

 そんなことは知らないマチルダは、言いにくそうに話を続ける。

 

「昔は昔だ、言いたくないことは無理には訊かないよ。でも、いつも馬鹿やって笑ってるあんたが打ちひしがれている姿ってのは見ていられなくてね。まあ、何が言いたいかと言えばね……」

 

 マチルダが頭を掻きながら、言葉を探すように視線を彷徨わせる。

 

「国王は国王、あんたはあんただ。あんたが国王の死を悲しんだって、私があんたのことを家族だと思っていることには変わりはないし、こんな夜中に屋根の上でお葬式みたいなことをやられている方が困ると言うか……その……何だ……」

 

マチルダは、ようやく言葉が見つかったように私の方を向いた。

 その目の中に、優しい光があった。

 マチルダは、美人だ。

 『女が美人と言う人は本当に美人』という名文句があるが、本当に美人だと思う。

 テファももちろん美人なのだが、マチルダのそれは質が違う。

 テファの持ち味は幻想的でどこか浮世離れした美しさだが、マチルダのそれはもっと身近で暖かい感じの美しさだ。

 テファが妖精なら、さしずめ聖母とでも言うべきだろうか。

 口が悪く、多少乱暴でも、この人の笑顔を見ると何故か元気とやる気がわいてくる。

 それは、この人が持つ優しさが原動力なのだろう。

 大きくて深い、母性。

 街の男性諸氏に絶大な人気があるのも、私には理解できる。

 その無償の優しさが、今は私に向けられていることが判る。

 

「あんた、自分で思っているより感情を隠すの下手だからね。あんたが私たちのことを思って国王のことを口に出さないでいてくれたのは知っていたよ。でも……そのせいであんたがこんなに苦しむのは、私たちだって耐えられないんだよ」

 

 御見通しだったか。私は唇を噛んだ。

 私の心情を知りながら、普通に接してくれていたマチルダの心中を考えると、申し訳なさが溢れてきて、どうしても彼女の目を見ていることができなかった。

 そんな私に、マチルダはまるで自分に言い聞かせるような声音で言った。

 

「本当はね、判っちゃいるんだよ。国王だって、好きであんたの父君を討ったわけじゃないし、私の父だって、討たなければアルビオン自体がやばかったってことくらいはね。王族にしては珍しく、身内を大事にしていたあの国王が兄弟を手にかけるんだ、国王だって平気な訳はないってこともね。だから、ね……私も、国王を恨むのを……やめる努力をしてみようと思う」

 

 意外すぎる言葉に、私は言葉を失った。

 

「今すぐには無理だと思うし、時間はかかるかも知れないけど、努力はしてみる。努力しても結局ダメかもしれないけど、やっぱり国王を許せないかもしれないけど……それでも私は、私を気遣ってあんたが辛い方が……嫌だよ」

 

 マチルダの言葉が、耳から入って、心の中に染み込んでいく。

 致命傷だった。

 幾ら何でも、その言葉は、今の私には優しすぎた。

 必死になって支えてきたものが、呆気なく崩れてしまった。

 幾重にも硬化の魔法をかけていたはずの涙腺の堤防が崩壊するのを感じながら、私は顔を覆って下を向いた。

 これでも元は公女だ。

 為政者に連なる者として、感情を殺す術は幼いころから叩きこまれてきた。

 我慢するのは、得意なつもりだった。

 心を鎧って、平静を装うことは、それなりに心得ていたつもりだった。

 そんな鎧も、マチルダには通用しなかった。

 四年前のあの日、親鳥のようにマチルダとティファニアを腕に抱いて守っていこうと思い上がった私がいた。

 でも、今は、私がマチルダの腕の中にいることを、私は改めて思い知った。

 肩を震わせて泣く私の口から出るのは、謝罪の言葉だ。

 父の不明のせいで、不幸に巻きこんでしまったことについて。

 御尊父を殺し、家名を辱めてしまったことについて。

 彼女の人生を狂わせてしまった者たちの血族として、そのすべてに成り代わって、心から詫びた。

 そして、それを判った上で、彼女の仇である伯父上の死を悲しむ私の身勝手に対する許しを乞うた。

 

 言葉にすればするほど、必死に押さえつけていた気持ちが、本来の姿に膨れ上がって行く。

 伯父上が、死んでしまった。

 華々しい討ち死にの話など、聞きたくなかった。

 惨めでもいい。冠を失ってもいい。この月の下のどこかで、生きていて欲しかった。

 未来を知りながらも何もできず、不甲斐なさを恥じてただ泣く事しかできない無様な己が、情けなくてたまらなかった。

 私に優しくしてくれた伯父上に、私は何一つ恩を返せなかった。

 伯父上とマチルダ達を秤にかけて、今の生活を取り続けた薄情な私。

 恩知らずで、優柔不断な自分が、どうしようもないほど嫌いだった。

 年に2回、僅か半時ほどの伯父上との語らいに、私がどれほど救われたかは言葉では言い表せない。

 今の家族に出会うまで、生き地獄の中で喘いでいた私に、つかの間であっても優しさをくれた人だった。

 あの人がいてくれたから、私は私でいられた。

 不意に、前世で母を亡くした時の事が脳裏に浮かび、私は改めて知った。

 大切な人を失うことは、こんなにも辛いものなのだと。

 

 肩に感じるマチルダの掌が、どうしようもなく暖かい。

 

 今の私に、この温もりを感じる資格があるかは自信はない。

 しかし、その手の強さと優しさが、そんなウジウジした気持ちをかき消すほど私の心に染み込んでくる。

 身勝手なことは判っているが、今夜だけは、この温もりに甘えさせてもらいたかった。

 一人では立ち上がれない情けない私に差し伸べてくれたマチルダの手を取ることを、伯父上とマチルダに許して欲しかった。

 そして、思う。

 朝になったら、心配してくれたであろうティファニアとディルムッドに謝ろう、と。

 もちろんルイズにも、きちんと謝ろう、と。

 いつか、アルビオンの伯父上のお墓に、不肖の姪であったことを謝りに行こう、と。

 そして、こんな私に優しくしてくれるマチルダのためにも、明日はきっと笑おう、と。

 それらの想いが滴になって、両の眼から落ち続けた。

 

 

 月明かりの下で、仇を思って泣く私の肩を抱く姉の優しさを感じながら、私はただ、泣いた。

 



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その28

私の朝の日課が増えた。

目覚めた時、玄関に直行する前にやることが一つ。

目覚めと同時にぼさぼさの髪を整え、部屋のデスクの上に置いてある砂糖菓子の瓶に手を合わせる。

 

『おはようございます、伯父上。愚姪は、本日も頑張って参ります。』

 

 

 

 

ウルの月が、慌ただしく流れていく。

三国同盟が締結される傍ら、アンリエッタの輿入れの話題がトリスタニアを駆け巡る。

それはそれでアンリエッタ当人以外にとってはめでたい話ではあるが、それよりも街で話題を集めたのが、新政府の成立を宣言した神聖アルビオン共和国からの停戦と不可侵条約の申し入れだった。

曰く『長く続いた内戦で疲弊し塗炭の苦しみを味わうアルビオン国民のためにも、これ以上の戦火の拡大は望むところではなく、腐敗したアルビオン王党派に与するトリステインとゲルマニアの共和国への敵対的な政策は遺憾ではあるが、同じ始祖を信仰する者同士、今後は平和裏に物事を進めたい』とか云々。

猿芝居の裏側にある思惑はともかく、軍事的な力関係からトリステイン・ゲルマニア両国は飲まざるを得ない申し出だろう。

連中の本音を知っている私としては臍が茶を沸かしそうな戯言だったが、街の面々もその話をそのまま額面通りに鵜呑みにする者は殆どいない。やはり、商人の嗅覚は鋭敏だ。執行猶予とでもいうべき仮初の平和に、街にもどこか戦争前夜の雰囲気が漂い始めた。戦争というものは基本的に首都の落とし合いな訳で、こうなると王都トリスタニアもいつ戦禍に晒されるか判らない。こうなったからには、町内会としても独自の対応をせざるを得ない。

食料や薬品の備蓄、自警団の組織、避難体制の立案や周知など、町内会としての仕事は山とある。私としては、伯父上のことで落ち込んでいる暇がないほどやることがわんさかやってくることはむしろありがたくもあり、役員として臨時の救護所や女子供の避難場所の手配の各方面への連絡等にばたばたと対応に追われた。

 

 

 

 

 

「忙しそうね」

 

「ええ、不本意ながら」

 

カトレアの診療に関する定期打ち合わせのために公爵家別邸に顔を出し、カトレア相手に世間話に耽る。

ここしばらくの体調はかなり良いようで、発作のように定期的に患っていた体調不良もなりを潜めているようだ。顔色も良くなり、生来の美貌に年相応の奥行きある艶っぽさが混ざるようになってきた。

前世で『ゼロの使い魔』の登場人物で『お嫁さんにしたい人ランキング』をやったらこの人はトップを争う人ではないかと思っていたが、ここしばらくのカトレアであれば、2位に大差をつけての栄冠もあり得るのではないかと思う。華のかんばせと愛嬌、そして魅惑のボディに健康美が揃えば、もはやカトレアの前に敵はない。それに加えてお金持ちだし、頭も無茶苦茶いいし、家柄もすごいし、何より優しい。恐らくお嫁さんにもらえば男の自尊心を優しく受け止めながら、そうと思わせない形できちんと旦那を操縦していける良妻賢母の見本のような女性になるに違いない…何だかもう、完璧超人だよ、この人。弱点はないのか、弱点は。

歳は確かに適齢期を越えているが、そんなことは些細なことだ。私が男だったら今日にでもマチルダの工房に金の草鞋を発注に行くところだ。

ともあれ、トリステインとアルビオンとの雲行きが怪しくなったらさすがに公爵領に避難せざるを得ないカトレアだが、この分なら王都を離れても当分大丈夫だろう。公爵家の侍医団の腕には今更ながら唸るばかりだ。

 

「戦争になるのかしらね」

 

どこか不安げな声で、カトレアが呟く。

 

「どうでしょうね。できれば荒事にはなって欲しくはないのですが」

 

「私も、戦争は嫌いだわ」

 

「そうですね……真面目な話をしながら私の髪で遊ばないで下さい」

 

考え込む私を他所に、私の髪を二つ結いに束ねるカトレアに一言入れる。

 

「あら、いいじゃない。可愛いわよ」

 

ツーテールを垂らしている私を見ながらカトレアは御満悦だ。

この人の相手は本当に疲れる。話の論点が微妙にかみ合わないのだ。しかも、常に私より上を行くあたりは転生者としては悔しくもある。

 

「それで、貴方としてはこれからどうしたいのかしら?」

 

いきなり話を切り替えられ、しかもやたらと重いお題に私は言葉に詰まった。

ヴァリエールの家で、夫妻とカトレアは私の出自を知っている。そのカトレアが言うからには、そういう主旨の質問なのだろう。

 

「…さて、どうしたものでしょうか」

 

その問いの答えは、むしろ私が教えて欲しいくらいだ。

この先にどのように振る舞っていけばいいかは、私だけで決められることではないからだ。

 

この国の偉いさんのどこまでが、アルビオンの公女崩れである私が王都で勝手気ままに平民ライフを送っていることを知っているかは判らない。

推測の域を出ないが、私のことを知っている人数は多くはないが、皆無ではないといったところだろう。マザリーニ辺りは恐らく知っていると思う。

問題はその知っている少数の連中なのだが、アルビオン情勢がここまでこじれては、機を見るに敏な輩が動き出さないとも限らないことだ。

こちらは所詮は平民、天上界のその辺りの動きに関する情報が入って来ないのはいささか心許ない。

 

今回の同盟騒動で、トリステインが内に抱えた火薬樽とも言うべき王党派軍を御するにあたり、私という駒を盤上に乗せるという可能性もなくはないだろう。

私は王軍に弓を引いた凶状持ちであり、王族の系譜からは抹消されているであろう立場なのだが、伯父上が亡くなり、皇太子たるウェールズ殿下の行方が知れない今、アルビオンの始祖の血統を考えると私を担ごうとする動きがあっても不思議はない。

しかし、政治的にはお飾りであっても王家縁の者がいることに意義はあるだろうが、軍の連中のことを考えると、さて、ぽっと出の、しかもいわくつきの私を旗印に据えて士気と統制を保てるだろうか。

名を取るか実を取るかの問題だが、誰のタクトでその辺が決まるかは私には判らない。

 

公爵との約定では、何かあったら私は自由意思を放棄してトリステインの支配下に入らなければならないことになっているが、正直、私は貴族が、より正確には宮廷とか社交界と言った空間が好きじゃない。あの、ドロドロとした陰湿な集団の中で生きていると息が詰まってたまらない。

前世の学生時代にも陰湿な女同士のいじめを幾度も見てきたが、あれが児戯に見えるような黒い瘴気を感じるのだ。当然ではあるが、そんな腹芸ばかりが上手くなる世界より、腹の底から笑いながら酒が飲める平民たちの住まう空間の方が私の魂とは親和性が高いと思う。

しかし、『平民のままがいいです』と我儘を言って通るのならば幾らでも駄々をこねるのだが、現実はそんなに甘くはあるまい。

王位継承権。そんなものがこの世にある限り、いつ何時それが隕石のように私の上に降ってくるか判らないのだ。

逃げ出そうにもゲルマニアも同盟国になってしまったし、青髭治世下のガリアはもっとやばいだろう。ロマリアに至っては私みたいな神やブリミルが嫌いな奴が行ったら即日宗教裁判にかけられそうだ。

ここまで来るとサハラを超えて遥か東方へ、という話が何となく現実味が帯びて来ているような気がするが、そんな大冒険にディルムッドはともかくマチルダとテファを巻き込む訳にはいかない。彼女らには幸せになってもらいたい私としては艱難辛苦の道連れにするのは忍びないし、だからと言ってあの子たちとお別れするのは私が耐えられない。

こう考えると、この星の上に、もはや私の逃げ場所はないのかも知れない。

そんな私の苦悩を他所に、カトレアは涼しい顔でとんでもないことを口走る。

 

「私は、意外と貴方は女王とか似合ってると思うけど」

 

この人、実体はサトリとかいう妖怪の類ではないのだろうか。

この人の嫌な点は、この何でもかんでも御見通しという怖さだ。どうして何も言っていないのに私の悩みが判るのだろうか。いい加減、お釈迦様の手の上の孫悟空になったような気分になってくる。そんな気分を味わうたびに、矮小な孫悟空としては腹いせにカトレアに向かってかめはめ波でも打ってやりたい気持ちになる。

 

「…お戯れは困ります」

 

「あら、本気よ?」

 

そう言って私を見るカトレアの目は笑っていない。

幾らなんでもそれは贔屓の引き倒しというものだ。私は前世では文系の授業は睡眠に充てていたし、今生でも当たり障りのない良妻賢母の教育を受けてきた程度の人間だ。帝王学も経済学も政治学も弁論術も、専門的な知識や技能は持ち合わせていない。軍事関係だってさっぱりだ。そんな私に王器があるとは思えないし、仮にあったとしても、好き好んで窮屈な立場に身を置く趣味はない。

 

「柄じゃないですよ…それより、お願いですから変なデコレーションもやめて下さい」

 

「もう。いいじゃない、ちょっとくらい」

 

いろいろな髪飾りやリボンを準備中のカトレアがつまらなそうに言うが、手を止める気配が全くない。困ったお嬢様だ。

 

 

 

 

 

そんな慌ただしいある日のこと。マチルダからの呼び出しがかかった。

工房に来るようにとマチルダからの使いが来たのは、午前の診療が終わるころだった。

午後の往診の帰り、テファと一緒にマチルダのアトリエの扉を開けた。

 

「んっふっふ、来たね」

 

店に入ると、カウンターのところでマチルダが待ち構えていた。

大石蔵人のような怪しい声を出す姉の黒い笑顔に、私の中で大音量で警報が鳴った。

どう考えてもろくでもない用事だと予想がついたので私は黙って扉を閉めようとしたが、回れ右したところで襟首を掴まれた。

 

「まあ、待ちなって。悪い話じゃないんだから」

 

猫の子のように襟首をホールドされた私は、ジト目でマチルダを睨んだ。

 

「…何を企んでいるね?」

 

「企むなんて人聞きが悪いね」

 

「どうだか。それで、どうしたね突然?」

 

「まあ、裏に回ってみな」

 

「裏?」

 

私は言われた通りに、裏口のドアに手をかけて開けた。

 

ぎゃあ!

 

開けると同時に、硬質な音の連打と嵐のような剣気が驟雨のように私の顔を叩いた。

まるで『Fate/stay night』冒頭のランサー対アーチャーの戦闘シーンのような撃剣の音を響かせながら、工房の裏で局地的な奈須きのこワールドが発生していた。

素人のこっちにしてみれば、乱れ飛ぶ剣圧だけで自分がなます斬りにされたような錯覚を覚えるくらいだ。どういう剣捌きをすればこんな剣風が乱舞するような空間が出来上がるのやら。

髪の毛をぼさぼさにして悲鳴を上げた私に気づいたのか瞬時に嵐は収まり、我が忠臣が申し訳なさそうに駆け寄って来た。

 

「こ、これは主。とんだ失礼を」

 

その手にあるのは破魔の紅薔薇。本気モードか、ディルムッド。大爆発した髪に手櫛を入れてぼさぼさを直しながら訊く。

 

「何事だね…おや?」

 

言いかけて、私はディルムッドと相対していた人物に気付いた。

 

「あれ、ヴィクトリア?」

 

見覚えのある黒髪にパーカー。

どこかの誰かが召喚した別のサーヴァントでもカチコミに来ていたのかと思ったら然に非ず。そこには、『我らの剣』がデルフ片手に立っていた。

 

「何だ、少年じゃないか。どうしたね、虚無の曜日でもないのに」

 

魔槍と神剣の打ち合いじゃ、そりゃすごいわな。それはともかく、二人とも幾ら腕に覚えがあっても、本身での稽古はやめて欲しい。私の仕事が増えたら困る。刃止めした剣じゃ物足りないとでも言うのだろうか。と、言うより、いつの間にそんなに腕をあげたんだ才人君よ。すごい迫力だったぞ。

 

「ちょっとお願いがあって来たんだけど、店長さんに話はヴィクトリアが来てからにしろって言われてさ…」

 

「お願い?」

 

 

 

工房の中に戻り、皆が作業台を兼ねたテーブルの周りに座ると、テファがお茶を淹れて配ってくれた。

配り終わるまでの間、マチルダは終始嫌な薄ら笑いを浮かべていた。

何でそんなに嬉しそうなんだ、この人?

 

「それじゃ、改めて坊やのお願いってのを聞こうじゃないか」

 

お茶を一口飲んでマチルダが号令をかける。その言葉に、才人の動きが一瞬止まった。

己の恥を言おうか言うまいか悩んでいる様子が手に取るように判る。この子は結構根が単純なのか、隠し事とか嘘が得意じゃないようだ。

 

「実は…」

 

才人はぽつぽつと事情を話し出した。

 

 

 

 

 

 

「…お前さん、本当に馬鹿だね」

 

話を聞き終えて、私はそれを口にするのが精いっぱいだった。

一緒に聞いてたマチルダとテファも頷いている。ディルムッドに至っては頭痛を覚えたのか、こめかみを押さえている有様だ。

 

「ひ、ひでえ」

 

話を要約すれば、ルイズのベッドでシエスタに迫られて、それをルイズが勘違いした、ということらしい。

そういやそんなこともあったっけね。確かタルブ行きの発端である宝探しイベントのきっかけになった出来事だったっけ。前後の脈絡を度外視して冷静にその部分だけ聞いていると、実にアホらしいイベントではある。犬も食わないぞ、そんなもの。

そんな訳で、才人のお願いというのは、

 

『行くところがないので、工房で住み込みで働かせて欲しい』

 

とのこと。

問答無用で部屋を追い出されて途方に暮れた結果、マチルダを頼って王都に出て来たようだ。原作じゃ行くところがなくてテント暮らしをしていたように思うが、この時間軸だと修業の関係でマチルダの工房という頼れそうな心当たりがあったということか。よく一人で王都まで来られたな、こいつ。

 

「だいたい、密室で不用意に女と二人きりになっているあたりでアウトだよ。お前さんがどう言おうが状況証拠がそうなっているんだ。きちんとお嬢ちゃんに理を尽くして説明しないお前さんも悪いやね」

 

「だってあいつ、話も聞いてくれないんだぜ?」

 

まあ、あのルイズだ、さぞすごい剣幕だったことだろう。

そんな才人に、マチルダが呆れてため息をついた。

 

「まあ、真っ先にうちの工房を頼ってくれたのは光栄だけど、戻らなくて本当にいいのかい?」

 

「う、うん…だって、もう俺なんかクビだって…」

 

念を押すようなマチルダの問いに、才人の語尾が弱くなる。

 

「でも、多分ルイズさんも勢いで言っちゃったんだと思うよ、それ。真に受けちゃうとルイズさんも引っ込みがつかないと思うけどなあ」

 

テファも追い打ちをかける。

 

「でもさあ…」

 

才人の心の中に、微妙に後悔が浮かんでいるのが見て取れた。

ふふ、悩め悩め。悩んで成長するのは若者の特権だ。

そんな私の達の中で、建設的な意見を出したのがディルムッドだった。

 

「まあ、男女の感情はこじれるとままならぬものだ。だがな才人、やけを起こした者に務まるほど工房の仕事は甘いものではないぞ?」

 

うろつき3年ものまね10年というのがセオリーの職人の世界に、全くの素人がちょっと雇ってくださいと飛び込んで来ても困るのは当然ではある。

そういう下積みをすっ飛ばして名をあげているマチルダの方がおかしいのだ。

 

「う…それは…」

 

「少し距離と時間を置くのも手ではあろうが、働いて金をもらうということをそんなに簡単なことと思うな。職人は顧客あってのもの。いい加減な気持ちでは雇うわけにはいかん。腰を据えて働くかどうかはその辺の整理がついてからにしろ」

 

「は、はい」

 

「それよりも、よい機会だ、泊りがけで鍛錬に励むというのはどうだ。何もせぬより心も少しは軽くなるだろうし、あとで諍いになったら『自分を見つめ直すべく修業に打ち込んでいた』と答えることもできるだろう。無論、工房の手伝いもしてもらうがな。配達くらいはお前でもできるだろう」

 

ディルムッドの言葉に、才人が勢いよく顔を上げる。

 

「いいんですか師匠!?」

 

ディルムッドは頷き、マチルダに向き直る。

 

「どうでしょうか、店長。雇うかどうかはさておき、しばらくこの者を工房で寝起きさせてやりたいのですが」

 

ディルムッドの問いにマチルダが眉を顰めた。

 

「幾ら居候だからって、工房は可愛そうだよ。部屋は余っているから家に泊めればいいじゃないか。テファもヴィクトリアもいいよね?」

 

まあ、私にも異存はない。むしろ、こんなところで一人で寝られている方が気になる。

 

「え、本当にいいの? 雨風が凌げれば工房でも充分なんだけど」

 

私はため息をついて言った。

 

「何をいまさら。まあ、働くかどうかはともかく、お嬢ちゃんの機嫌が直るまでいればいいさね。それより、無駄飯食わせるつもりはないから、こってりコキ使うからね。後悔するんじゃないよ?」

 

「もちろん! いや~、助かる。ありがとう」

 

「まあ、つまらん見栄を張らずに正面から頼みに来た姿勢に免じてってとこだね。あと、判ってるとは思うけど、テファに変な真似したら命はないものと思いなよ」

 

「しねえよ!」

 

こいつは悪い奴ではないが、基本的にスケベだ。

先日、テファと初めて会った時のこいつのリアクションはあまりに予想通り過ぎて呆れてしまった。

テファの胸元を『男』の目で凝視する才人。まさにガン見という奴だった。

気持ちは判らないではない。こいつにしてみれば『革命』的なテファの双峰だ。しかし、葛藤するそぶりもせずにあの視線はあまりにも露骨すぎた。

キッチンに向かうテファの胸を視線でホーミングしていた馬鹿に制裁を加えるために私が杖を取り出すより先に、マチルダがブチっといった。

 

 

『何すか、この牛は!!』

 

レビテーションの魔法で工房にあった牛型のオブジェに放り込まれた才人の声が、牛の口の辺りからこもった感じで聞こえてくる。

 

「私の可愛い妹をああいう邪な目で見るような色魔には、お仕置きが必要だと思うんでねえ。ウル・カーノ」

 

『お、お仕置きって何ですか?』

 

「んっふっふ、ほ~ら、いい声でお啼き」

 

『お、あ、熱っ! 熱っ!!』

 

豪快に焚き付けに火をつけて牛を炙っているマチルダのあまりにも黒い笑顔に、びびりまくった私は声をかけられなかった。うっかり介入したら私までモーモーと啼かされる羽目になるような気がしたからだ。

詳しいことは口にするのも憚られるので、興味がある方は『ファラリスの雄牛』で調べてみていただきたい。

何でこんなものがここにあるのかは怖くて訊けない。

 

直後にテファが飛んできて才人は九死に一生を得、私たちは正座でテファに怒られた。

焦げてる才人も一緒に正座して、『えっちなのはいけないと思います』とお説教を食らっていた。

あの事件で、才人が少しは懲りてくれていればいいのだが。

 

帰りがけに、マチルダが相変わらず嫌な笑みを浮かべて私のわき腹をつついた。

 

「せっかく一つ屋根の下だ、うまくおやりよ」

 

「何が?」

 

私の問いに、マチルダは答えずに笑うばかりだった。

 

 

 

 

とりあえず、診療院の物置部屋を一つ片づけてベッドを整える。

せっかく家に泊まるんだから晩御飯に和食でも作ってやろうかと思ったが、思いの他市場のラインナップでは作れる和食が少ない。

どうしたものかと思案していると、ティファニアがいいアイディアを出してくれた。そのアイディアを基に市で山菜や根菜、マッシュルームやハーブを買い込む。肉はウサギ肉を選んだ。

適当に具材を刻んで、鍋でそれらをぐつぐつと煮込む。

味の方は手探りだが、前にテファがジェシカに教えてもらったレシピを頼りに整えたら、それなりに美味しく仕上がった。

出来上がったのは、御存じタルブの名物と言われる鍋料理『ヨシェナヴェ』のティファニア風だ。

あまり食べなれないシチューだが、味の方は好評。才人もすごく喜んでくれた。

成長期だけあって実に見事な食いっぷりで、私たち4人前と同じ量を一人で平らげそうな勢いだった。いやはや、男の子を抱えた世のお母様がたの苦労が忍ばれる。

まあ、男の子はこうでなくっちゃね。

 

 

 

翌朝。

牛乳を飲みに玄関に出ようとしたとき、裏から小気味のいい音が聞こえた。

何事かと思って出てみれば、そこにデルフを振るっている才人がいた。

手にした薪を宙に投げ、鞘走る一閃でそれを切り刻む。まるで橘右京の『秘剣ささめゆき』みたいな素早さだ。

刃が鞘に収まると同時に綺麗に斬られた薪が落ちる一連の動作に、私は思わず拍手してしまった。

 

「あ、ヴィクトリアか。おはよう」

 

「おはようさん。見事なもんだね」

 

「そうか?」

 

才人はちょっと照れたような顔をした。

 

「師匠から速さ重視で腕を磨けと言われたから、こんな練習をやってるんだ。ちょっとしたもんだろ?」

 

「実戦で役立つかは私にゃ判らないけど、普通の傭兵くらいなら楽勝だろうね」

 

「へへ、魔法使いにも勝てるぜ」

 

「へえ、立ち合いでもしたのかい?」

 

私の言葉に、才人はちょっとばつが悪そうな顔をした。口が滑った、とでも言う感じだった。

 

「ああ、ちょっとね…」

 

珍しく口ごもる様子に、何となく察しがついた。アルビオン行きの話は緘口令が敷かれていたはずだ。歯切れが悪いのは恐らくそのためだろう。

すると、どこかで髭を相手に丁々発止やらかしたということだろうか。

死線を越えた経験が彼の血肉になっているのだとしたら、腕が上がっているのも頷ける話だ。

私としてはできればウェールズ殿下の話を聞きたかったが、詐術に嵌めて白状させるのも可哀そうなのでやめておくことにした。しゃべった後で自己嫌悪する才人を見るのも忍びない。

 

「まあ、言えないこともあるだろうから詳しくは聞かないよ。実戦はともかく、今のを辻で見世物にしたらいい稼ぎになりそうな感じだね」

 

「そうだな。前に使い魔の品評会でやったんだけど、結構好評だったんだぜ」

 

「品評会?」

 

「この前、王女様が学院に来てさ。使い魔は出し物をしなくちゃいけないって言うから、王女様の前で今のをやったんだよ。優勝は無理だったけど、評判はまずまずだったよ」

 

なるほど、ルイズと才人にアンリエッタが目を付けたというのはそれか。

確かに普通の人からしてみれば信じられない剣舞だろう。私だってこの世界でディルムッドの槍捌きを見ていなければ、ガンダールヴの力に度肝を抜かれていたと思う。

 

「へえ。少年もなかなか腕の売り込み方を知っているね」

 

頷きながら誉める私に、才人は少し顔を顰めて言った。

 

「誉めてくれるのはいいんだけどさ…その『少年』っていうのやめてくれないか?」

 

「何で?」

 

「やっぱ、自分より小っちゃい子に呼ばれるのに『少年』はないよ」

 

またそれかい。

私の方がいくらかお姉さんなんだけどねえ。

 

「じゃあ何と呼べばいいんだい? サイトとでも呼べばいいかい?」

 

それを聞いて、才人は妙に哲学的な顔をした。

付き合いは短いが、何となく最近悟るところが一つある。

この男、こういう真面目な顔をした時に限ってろくでもないことを考えている。

 

「そうだな、ここはひとつ『お兄ちゃん』で」

 

私は漫画のようにずっこけそうになった。

 

「お、お兄ちゃん?」

 

「違~う!」

 

拳を握り、鬼気迫る顔で声を張り上げる才人少年。

何でこいつは朝からこんなにクライマックスなんだ?

 

「もっと甘えた声で、できれば上目づかいで言ってくれ」

 

何というか、鈍い頭痛を覚えた。

さすがの私でも、思わず引いた。

そうだった、こいつはこういう奴だったっけ。『レモンちゃん』だの『ちいさいにゃんにゃん』だのといった強烈な変態語録の持ち主だったっけね。

思春期真っ只中なのは判るが、いささか現代日本の変態文化に染まりすぎじゃなかろうか。

転生者としてハルケギニアのいろんなイベントを体験してきたが、まさかこんなアホくさいものにまでお目にかかるとは思わなかったよ。

 

「いいか、手はこうして足は内股、首の角度はこれくらいだ」

 

私が唖然としているのをいいことに、妙にてきぱきと私の手や頭に手を伸ばして角度を調整する才人。

 

「さあ、言ってごらん。声を鼻から出すような感じで『お兄ちゃん』!」

 

「頭を冷やせ、馬鹿者」

 

躊躇なく杖を振るった私の対処は、間違いじゃないと信じている。

 

 

 

 

 

とりあえず居候となった才人だが、当面は朝からマチルダの工房の手伝いをすることとなった。

診療院の方は男手は今のところ要らないし、工房なら力仕事はいくらでもあるだろうし、空いた時間に稽古も付けられるから効率がいい。

後は、現代人の体力で体が資本の工房ライフが送れるかどうかだが、そこは男気を見せてもらうとしよう。

そんな感じで2日ほど過ぎた。

午後の往診の帰り、行きがけの駄賃に書物屋によって例に寄って毒物関係の書物を仕入れてからテファと一緒に工房に顔を出した。

 

「ごめんよ」

 

ドアをくぐると、カウンターにいたのはマチルダだった。

 

「おや、往診の帰りかい?」

 

「ちょっと様子見にね。少年は?」

 

「時間が空いたから、今は裏でディーと稽古中だよ。呼ぶかい?」

 

「ん、いいや。真面目に働いていればそれで結構。それで、使ってみて様子はどうだね?」

 

「まあ、そこそこ見どころはあるね。慣れない仕事の割には、よく働いてくれているよ」

 

マチルダがからからと笑う。

 

「それは良かった」

 

「素直に気になるって言えばいいのに」

 

「何が?」

 

「とぼけちゃって」

 

そんな話をしている時だった。

 

 

 

「お邪魔するわよ」

 

何となくベチョっとした感じの色っぽい声が聞こえた。

振り返ると、燃えるような赤い髪を持つ、褐色の肌の女性がドアを開けて入って来た。

マントを着ている姿からしてメイジ。

大きく開いた胸元を見ると、ティファニア程ではないにしても、実に立派な双峰を装備していらっしゃる。

もちろん、私がよく知っている人物だった。

 

初めまして、キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。

 

「あら、ツェルプストーの。毎度どうも」

 

どうやらキュルケはこの店の馴染みだったらしい。今まですれ違いだったのか、会ったことなかったな。噂通り、歳不相応の色気が滲み出ている人だね。

そんなキュルケが私に視線を向けて、人懐こい笑顔を浮かべた。

 

「あら、可愛い子ね。店長の娘さん?」

 

私は思わず噴き出した。そして、マチルダに殴られた。

 

「私ゃまだ独身だよ」

 

さも心外そうな口調でマチルダが抗議の声を上げた。

 

「あら、独身と子供がいることは矛盾しないわよ?」

 

「結婚もせずに、そんなふしだらなことするわけないだろう」

 

原作ではアレなところもあったようだが、貴族の御令嬢を廃業してからも表稼業だけで生きてきたマチルダは、実はすごく身持ちが堅い。男と女の秘め事どころか、浮いた話ひとつ聞いたことがなく、街の男性諸氏からは難攻不落のマチルダ城とも言われているくらいガードが堅いのだ。もしかしたらファーストキスもまだなんじゃないかね、この人。

そんなマチルダが自分の潔癖な信条を話す相手が、対極の価値観の世界の住人であるキュルケというのがギャラリーとしては非常に面白い。

 

「お堅いのね。それより、ダーリンはいないかしら? ここにいるって聞いたんだけど」

 

「だーりん?」

 

「サイト・ヒラガって言う、黒髪で、剣を背負った子よ」

 

「ああ、奥にいるよ」

 

「ん、私が呼んで来よう」

 

私は立ち上がって裏口に向かった。

歩きながら思う。それが良いことなのか悪いことなのかは判らないが、今私がいる時間軸は、どこかで帳尻が合うようにできているらしい。

今回のキュルケ襲来は、恐らくは宝探しへのお誘いだろう。

私としても歓迎すべきイベントだ。どこで流れが変わるか判らないが、タルブの戦い、そしてアルビオン逆上陸でも活躍した零戦は、できれば才人の手元に置いておきたい。

 

才人を呼んでキュルケに引き渡してカウンターに戻ると、いつの間に店に入ったのか、そこに青い髪の女の子が立っていた。物静かな佇まいで、うっかり置きっぱなしにしていた私の毒物の書物に視線を向けている。

 

「やあ、久しぶりだね」

 

声をかけると、タバサは眼鏡の奥から以前見たような静かな視線を向けてきた。

 

「これ」

 

タバサが指差す毒物の資料を、私は頭を掻きながら見る。

彼女から出された宿題は、まだ終わっていないのだ。

 

「あちこち手を尽くしてはいるんだけどね。まだ、これぞと思うものが見つからないんだよ。面目ない」

 

謝る私に、タバサは微かに首を振った。

 

「約束、守ってくれているだけで充分」

 

そんなやり取りをしている時だった。

 

「ちょっと、何時まで待たせるんだい?」

 

入って来たのは金髪の優男。

はだけた胸元に薔薇の杖、出来れば視線を合わせたくないタイプの少年だった。

一目見て判ったよ、ギーシュ・ド・グラモン。

原作の描写そのままの、ナルシストの生きた見本みたいな雰囲気の少年だね。

ギーシュの向こうからは、シエスタが顔を覗かせている。

宝探しツアーの参加者御一行様勢揃いだ。

 

そんなこんなで原作濃度がかなり濃くなった店内で、学生どもがあれこれとやり取りを始めた。

キュルケが胡散臭い地図を並べて、回る順番を話し合っている。

その集いの会話の中心にいるのは、才人だ。

この時、私は初めて平賀才人という少年の持つ、数値にできない才能のことを理解した。

この子には、人を引き付ける奇妙な天性があるようだ。

それはカリスマというのともまた違う、不思議な力だ。

原作でも、学院の皆が集まった時には才人は自然とその中心になっていた。今この時もそうだが、キュルケもギーシュもタバサも、考えてみればもともと平民である彼と対等の立場で話をする方がおかしな連中なのに、それが才人と友達付き合いをしているような様子がすごく自然に見える。

憎めないと言うか、妙に人間くさい魅力が才人にはある。

原作を思い返せば、それに引き寄せられた友人の何と多いことか。

だからこそ、これからの多くの試練を彼は乗り越えて行けるのだろう。

前にも言ったかもしれないが、私もまた才人のような奴は嫌いじゃない。

恋愛対象という意味ではなく、人として彼には好感を持っている。

こういう奴と友達になれると言うのは、恐らく人生の幸福の一つなのだと思う。

 

意外なことに、そんな会話の中に、自然な感じでテファが溶け込んでいた。

王都住まいの平民ゆえの情報を訊かれている内に会話が弾み、果てはキュルケが目を剥いて胸に手を伸ばしてくるのにテファが両腕で抱えるように胸を隠して抵抗し、それを男連中が羨望の眼で見つめている。間にシエスタという平民が入ってくれているのが、程よい潤滑油になっているようだ。和気藹藹とした、青春くさいじゃれあい。

良い傾向だ。

もともと、人に好かれる天性では才人にもそう負けていないのに、私の手伝いばかりで同年代の友達があまりいないテファだ。このまま、この子たちと友情を深めてくれると私としても嬉しい。また、打算的な考えで恐縮だが、彼らもまた才人と同様にこれからのテファの力になってくれるであろう存在だ。

特にギーシュは女にだらしないように見えて、あれで信用できる男だ。テファを守るためにクルデンホルフの公女相手に己を顧みない啖呵を切って見せた辺りは特に印象深い。あの時のギーシュは物語の中で最も男らしくて素敵だった。その後で女湯を覗いてせっかく上がった株を落としさえしなければ綺麗にまとまったあたりはご愛嬌だ。

女性陣に目を向ければ、キュルケもタバサもテファを敬遠する気配はなく、むしろ平民であることを気にせずに積極的に構ってくれているし、シエスタとは先日の私の学院訪問の関係で以前から顔見知りだ。何気に面倒見がいいこの二人がいれば、テファも皆と上手くやって行けるだろう。

後は、早いところテファの出自について打ち明けられるくらいの信頼関係が築ければいいのだが、それについては先は少し長そうだ。ウェストウッドの森の話があれば最初にハーフエルフありきだったのだが、それについては状況の流れに任せるしかないだろう。

それはそうと、クルデンホルフで思い出した。

あのアホ公女、テファの顔を張り飛ばしてくれたんだっけ。

乙女の顔に、しかもテファの、私の可愛いティファニアの顔に手を上げるなんて。

思い出したら強烈に腹が立ってきた。今からあのアホ姫の頭の皮を剥ぎに行こうか。

連鎖的に思い出したが、あの事件の問題点はそれだけじゃない。あの後の才人の所業も看過できん。世間知らずだったテファの胸を無遠慮にまさぐるとは、刎刑にも値する大罪だ。

私の目の前で同じことをしたら、こいつも私の母方の伯父と同じ目に遭わせてやろう。

 

 

そんな感じで、まだこの世に存在しない罪を思って黒いオーラを発していた時だった。

 

「あら~、怖い顔してどうしちゃったのかな、ヴィクトリアちゃんは」

 

いきなりマチルダが背後から私の首に抱きついて、思わせぶりなことを言う。

 

「どうしたって?」

 

「いいのかい? あの坊や、テファに取られちゃうよ?」

 

こらこら。いろいろ気遣ってくれたのはありがたいが、元よりルイズ一択の才人少年にそんな感情を持つわけがない。

仮に懸想したとしても、私は略奪愛という奴が嫌いだ。略奪されるような意志の弱い男は、いつか自分のことも裏切りそうで信用できん。

 

「馬鹿なこと言ってるんじゃないよ。そういう意識を持ったことなんかないよ」

 

「へえ、そうなんだ?」

 

「はっはっは。年下は好みじゃないさね」

 

冗談めかして言うと、マチルダはすごくかわいそうな人を見るような目で私を見た。

 

「あんたが言うと、とんでもなく違和感があるね、その台詞」

 

「うるさいね。とにかく、テファにジェシカ以外にも同年代の友達ができそうなんだ。姉としては暖かい目で見守ってやりたいじゃないか」

 

「ふ~ん、私の見立て違いだったかねえ。じゃあ、あの頭が寂しい先生の方がいいのかい?」

 

「コルベール先生?」

 

「あそこまで歳が離れていると、さすがにいろいろ問題あると思うよ? 悪いけど、本気だったら私は止めるよ?」

 

「何でそうなるんだよ。第一、あの人は売約済みだよ」

 

その未来の買主は、目の前で才人にじゃれついているが。

 

「え、そうなの? じゃああんた、もう弾がないじゃないか」

 

「いい加減、その話題から離れなよ。まだ若いテファならともかく、マチルダの場合は自分の墓穴も同時に掘っているって判らないのかい?」

 

「な、なにおう」

 

「うわ、やめなって、お、重い~」

 

 

 

僅か2日ほどの居候だった才人少年は、その日の内に予定調和のように宝探しに旅立っていった。

頼ってすぐに出ていくようで申し訳ないと、頭を下げて勝手を詫びるあたりは才人も筋の通し方を知っていると思う。

その宝探しだが、どういう話の流れか面子にテファが加わっていた。

おねだりする子供みたいな口調で『ねえ、姉さん、誘われたんだけど、私も着いて行っていいかなあ?』と訊いて来るテファがすごく可愛かったのはともかく、彼らと親交を深めることはむしろ歓迎なので私は快く送り出すことにした。

もちろん、マチルダと私で才人にでっかい釘を刺すことも忘れない。

できればディルムッドをお供に付けたかったが、美男ゆえにキュルケに絡まれると面倒くさそうなので、今回だけは才人少年を信用することにした。

才人に加えてトライアングル二人にドットが一人。そうそう困ったことにはならないだろう。

 

送り出したはいいが、心配であまり眠れずに過ごすこと数日。

私のやきもきが絶好調に達しタルブに出向こうかと思い始めた日の夕方に、笑顔のテファが元気に帰って来た。

その日の夜、まるで遠足帰りの子供の話を聞く親のように、私たち三人でテファの話を拝聴した。

実にいい笑顔で話を紡ぐティファニア。本当に楽しかったようだ。

学院の面々には、あとで御礼状を書くとしよう。

無論、ただ聞くだけではなく、各フラグの確認も忘れちゃいけない。

それだけに、キーワードとして『竜の羽衣』の単語が出た時には少しだけ安堵のため息が漏れた。

零式艦上戦闘機は、無事に才人の手に渡ったらしい。

 

良くも悪くも、今の時間軸は未だに予定調和から抜けていないようだ。

これから記されるのは、新たな英雄の伝説。

蘇りしガンダールヴ、英雄サイト・ヒラガの伝説の幕開けを私は確信した。

 

 

 

ウルの月の末、王女の婚礼の3日前のことだった。

トリステインにとっては悪夢のような、そして私にとっては予想通りの事件が起こった。

神聖アルビオン共和国による宣戦布告と、間をおかずに始まったタルブ侵攻。

アルビオンの暴挙に、王都は騒然となった。

政治的な情報は入りづらくても、戦争となれば情報の流れは驚くほど速い。

王都全体に禁足令が出され、町内会も憲兵と協力して練ってきた対応策の実施に取りかかった。

私もまた、非常時のための救護所の設営に奔走する。

私には野戦病院の経験はないが、前世の仕事の関係上『国境なき医師団』の話を聞いたことがあったので、テント型の治療施設を作ることについてはある程度ノウハウがある。

戦は嫌いだが、町内会の役員としては、さすがに王都が戦場になった際には民間協力者として王軍を支援しなければならないだろう。

戦況はまだラ・ロシェールで睨み合いが始まったばかりのようだが、戦列艦や竜騎兵の移動速度を考えると、前線が破られて侵攻が始まればトリスタニアへの到達はすぐだろう。

それに備え、トリスタニアでも老人や女子供の避難の第1陣が始まった。先日私が出かけた大きな公園に難民キャンプが設営される手はずになっている。すべての避難が完了するまで2日はかかるだろう。マチルダとティファニアも明日避難の予定だ。

空き家になった街については武器屋が組織した自警団と、助っ人としてディルムッドが火事場泥棒に対して目を光らせている。金目の物や家財道具がまだたくさん残っているトリスタニア。侵攻の際には略奪の憂き目に遭うのだろうが、命あっての物だねと我慢してもらうしかない。婦女子にしても、まずは己の身の安全が第一だ。

ルイズの虚無という起死回生の一撃で戦闘が終わることを知っていても、最善を祈って最悪に備えるのは有事の際の鉄則というものだ。私としても、何かのはずみで歴史がずれてしまう可能性がないとも限らないからには、できることはすべてやっておきたい。

ピエモンの采配により、粛々と段取り通りに行われている避難は実にスムーズだ。

こっちも負けてはいられない。

そんな感じでバタバタと働いていた時、通りをギャロップで過ぎていく兵士たちの中に、見知った顔を見た。

短い金髪の、精悍な女戦士。

 

「アニエス!」

 

その姿を理解するなり、私は叫びざまに走り出した。

 

「アニエス!」

 

再度の呼びかけに、アニエスはようやく気付いて振り返った。

 

「院長か、役目御苦労!」

 

「タルブだね!?」

 

「ああ。今まで世話になったな!」

 

その言葉の裏に感じた彼女の決意に、私は無性に腹が立った。

原作では、この戦いでアニエスが功績をあげて騎士に叙せられることは知っている。

しかし、時間軸が異なるこの世界では、何が起こるか判ったものではない。縁起でもないことは冗談でも口にして欲しくなかった。

 

「馬鹿なことをいうんじゃないよ!」

 

私は乱れてきた息の中で怒鳴った。

 

「怪我まではいい、怪我までは私が面倒みるから、死ぬんじゃないよアニエス。死んだら許さないからね。絶対に生きて帰って来るんだよ!」

 

馬の脚が早まり、馬群は私を置いて走り去っていく。

アニエスが何か言っているが、蹄の音にかき消されて聞こえない。最後にアニエスは私に腕を上げて見せ、そのまま走り去って行く。

 

その後姿を見送りながら、私は思う。

やはり私は戦争は嫌いだ。

医師としての信条はもとより、戦争は理不尽にいろいろな物を奪って行きすぎる。

親しい者が戦場に赴く時、そこには常に帰ってこないかもしれないという可能性が付きまとう。

見送った後姿が、その人をみた最後の記憶になることほど悲しいことはそうそうない。

それが肉親であり、友であればなおのこと辛い。

心の底からアニエスの無事を祈りながら、街の外に消えていくまで、私はその後姿を見送った。

 

 

 

 

 

血みどろの戦いがあった。

多くの者が倒れて逝った。

砲が唸り、魔法が飛び交い、屍山血河が大地を彩った。

制空権を奪われ、巨艦から砲撃を浴びせられ、トリステインが窮地に置かれた時。

 

タルブの地で、始祖の奇跡が具現化した。

それはあたかも地上に生まれた太陽のようであり、その一撃で圧倒的なアルビオン艦隊を打倒した。

 

動乱の第1楽章が始まった。



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その29

『「まともでいる」という贅沢は後で楽しめ』と言った軍人がいる。

リアリストの見本のような男だった。

娑婆っ気が抜けない部下に言った言葉だったと思うが、戦場で行われていることは人として「まとも」とは言えない行為だということを端的に言い表した言葉だと思う。

だが、一度「まともではない」世界を覗いた者が、果たして「まとも」な世界に「まとも」なまま帰って来られるのだろうか。

 

 

 

 

 

タルブの戦いが終わり、街は戦勝ムードに沸きかえっていた。

戦勝記念パレードが派手に行われ、詰めかけた群衆からの歓呼の声が、一角獣に引かれたアンリエッタの馬車に降り注ぐ。

不可侵条約を一方的に破棄したアルビオンに対し、自ら陣頭に立った『聖女』アンリエッタ姫の人気は止まるところを知らず、間をおかず布告されたアンリエッタ戴冠の報もそれに拍車をかけていた。

それだけ、誰もがアルビオンとの戦いに絶望的な思いを持っていたのだろう。

屈辱的なアンリエッタのゲルマニアへの輿入れも白紙となり、まさにトリステインにとっては最良の日だった。

話に聞く範囲では、タルブの戦いの流れは概ね私が知るそれと変わらなかったようで、事の起こりが不意打ちだったためか、トリステイン預かりとなっているアルビオンの亡命艦隊や兵力と言ったイレギュラーも目立った活躍はしなかったようだ。

経緯はどうあれ、王都も戦場にならずに済み、戦勝祝いの祭りに街は活気に溢れている。

誰もが祝杯を酌み交わし、街には露店が立ち並び、緊張から解放された住人たちが思い思いに喜びを噛み締めていた。

祝い酒と、恐れていた戦乱の先にあった穏やかな平和に誰もが酔い痴れる、華やかな歴史の一幕の余韻。

しかし、アンリエッタが放つ眩いばかりの輝きが強ければ強いほど、落とす影もまた深く濃いことに、その輝きに目が眩んだ者たちは気づいていない。

そして私もまた、気づけなかった一人だった。

神の視点を持つ転生者であっても、前世で体験していなかったことまでは見通せはしない。所詮私は、平和ボケした日本人だったのだ。

光あふれる歴史の表舞台の陰で、地獄の残り香は静かにトリステインに根をおろしていた。

 

 

 

日常が戻って来たチクトンネ街の診療院を訪れる患者に変化が出始めたのは、戦勝気分が街から徐々に薄れ始めるころだった。

最初に来たのは、空軍の水兵だった。年の頃20歳くらいの、まだ若い平民の士官。

自覚症状として、不眠を訴えていた。

問診をしたところ、先の戦いで中破した後にアルビオンに降伏した戦列艦に乗り組んでおり、アルビオンからの攻撃の際に艦が数発の直撃を受け、その時に目撃した四散した戦友の遺体の光景が頭から離れず、眠ることができないのだと言う。

それがきっかけだったように、ラ・ロシェールに従軍した兵や壊滅した空軍艦隊の乗組員等が少しずつ相談にやってくるようになった。

症状は不眠、悪夢、耳鳴り、不安、情緒の不安定、そして、いつまでも続く悲惨な記憶のフラッシュバック等。

いずれも軍医に相談しても取り合ってもらえず、やむにやまれず藁にもすがる思いで私のところに流れてきたらしい。

誰もが自分ではどうにもならない症状を訴え、時には問診中に当時を思い出して泣きだす者もいた。

診察を繰り返すうちに、明らかになって来た事実の深刻さに、私はしばしばカルテを書く筆を止めることになった。

戦闘経験によるストレス障害。

より専門的には『戦争神経症』と呼ばれる障害と記憶している。

理解が浅いこの世界では『臆病風』とも言われるものだが、その実態は深刻な心の傷だ。

その知識を持つ私としては、戦争が始まった段階で予見すべきことではあった。

一方的な蹂躙を受けて全滅したトリステイン艦隊の乗組員や、ラ・ロシェールにおいて上空支援がないままに生身でアルビオン艦隊に立ち向かう羽目になったトリステイン軍の兵が負った傷は、血が流れるそれだけはなかったようだ。

 

銃撃や魔法も怖いと言えば怖いのだが、砲爆撃というものはそれらとはいささか趣を異にする類の攻撃だ。砲撃というものは敵艦の舷側に瞬く発砲炎の輝きからして恐ろしいものだが、着弾後の衝撃は筆舌に尽くしがたいものがある。閃光と爆風と爆音、飛散する破片と巻き上げられる破片や土砂。ぶちまけられるそれらの破壊のエネルギーは、まさに想像を絶するものだ。私もアルビオン時代に一度だけ王立空軍の砲撃訓練を観たことがあったが、あの腹に来る爆音を聞いた時は、間違ってもこれの的になりたくないと思ったものだった。本来は城や敵艦のような大きな標的に向かって解放されるべき破壊力の大きさは、生身の人間にしてみればもはや火山の噴火等の自然災害と同義だ。殺意がない分、自然災害の方がまだ可愛げがあるかも知れない。

そんなものの洗礼を受け、隣にいた戦友が一瞬の後に肉片になるようなシーンをライブで見れば、誰だって平静ではいられないだろう。

その時の光景、音、匂い、あるいは感触。

次は自分がああなるかも知れないという、抗いがたい恐怖。

その場にいなければ理解できないであろうことは、私にも判る。

例え映画『プライベート・ライアン』の冒頭を100回見ても判るまい。

彼らは、比喩でも何でもない、本当の地獄を見て来たのだ。

 

相談を受けた時、正直、対応に困った。

医者の看板を出していても、私にもできることとできないことがあり、今回の相談は後者の最たるところだ。

ネッターやハリソンは手に取った覚えはあっても、心理的治療の専門的な知識が私にはないのだ。

心のケアと言えば、お爺ちゃんお婆ちゃんの愚痴を聞いてストレスを和らげるくらいが関の山の私にとって、戦闘ストレス障害はさすがに荷が重すぎた。

死に対する恐怖は生物の最も深い部分にある本能であるだけに、入った罅が小さくても影響は大きい。それは同時に、下手に手を出したらそのしっぺ返しも大きいということでもある。治療にしても、同じ対処法でも患者の症状によって効いたり効かなかったりするようで、対処法の選択には専門的な知識と経験が大きく物を言う。

いかんせん、『心』というものは規格品ではなく、お一人様一点限りのオーダーメイドされたソフトウェアだ。素人の私にどうこうできるようなものではないのだ。

しかしながら、放っておけば悪化の一途を辿る患者がいる可能性もあり、鬱やパニック障害、自傷等の合併症にも繋がるので無条件降伏という訳にはいかない。

うろ覚えと言うのもおこがましいほど曖昧な記憶をサルベージし、まさに手探りで対応する日々が続いた。

 

対応と言っても、私ができる事は患者の独白に耳を傾けるくらいが精一杯だ。

お話療法は心理的治療の基本と聞いたことがあったが、デブリーフィングのように深くまでは掘り下げず、語りたいことを語りたいだけ語ってもらうだけだ。ひたすら患者の話を聞き、やばそうなラインになったらブレーキをかけ、可能な範囲で記憶の整理と精神のリラックスを促すようにして会話を繋ぎながら、『すべては過去の出来事』ということと『脅威はもうない』ということを穏やかに伝えるよう心掛けた。

ここが私の限界だ。

私には、どこまで患者に心の奥を曝け出してもらえばいいか判らないのだ。

『思い出してもらう』ということは、当時の悲惨な記憶との対峙を要求することだ。

その記憶が、患者が耐えられるような物ならばいいのだが、それが耐え難いほどのものであった場合、思い出すだけでパニックに陥ることがある。そうなると私には眠ってもらう以外に打つ手がない。

催眠療法や認知行動療法等の手法が判ればいいのだが、名前は知っていても具体的な方法を知らないのが痛い。EMDRの真似事もやってみたが、素人の付け焼刃では五円玉を揺らして行う催眠術と五十歩百歩といったところだろう。

人の心の迷宮は難解で、その闇も深い。

何故、精神科医の他に臨床心理士という職種があるのかが、今更ながら理解できた気がした。

 

薬物療法も考えたのだが、秘薬文化が隆盛なハルケギニアにおいてもこの種の障害に関してはお寒い限りで、エルフの薬を調べる過程であれこれいろいろな薬の情報を読んできたが、そういう趣旨の薬は見たことがなかったし、その道の専門家であるピエモンに相談していい返事は聞けなかった。秘薬として作れたとしても、最近は水の精霊との取引が滞っているため『水の精霊の涙』が手に入らず、その種の向精神系の秘薬は値段の相場が荒れているのだとか。何とも八方ふさがりな話だ。

セロトニンに対する学術的な理解もないのだから特殊な薬品がなくても無理はないが、ハルケギニアでは、どちらかと言うとこの種の障害については精神力で何とかすると言う前時代的な思想が一般的なようなので、そもそもそういう薬を作ろうとする人もいないのだ。水魔法は他の属性と違って心に作用する魔法体系があるのだが、操ったりすることはできても癒すことができないというのは、その属性の魔法使いとしては何とも寂しい限りだ。

種類を選ばなければ気持ちが楽になる薬はあるにはあるが、それは麻薬の類であり、服用すれば一時的に躁になりすぎた挙句に反動で余計に悪くなったり、洒落にならない副作用や常習性を伴うものばかりだった。うっかりすれば、アフガニスタンのソ連軍と同じような末路を辿ることになりかねない。

麻薬と言えば、この種の障害においては、麻薬やアルコールへの逃避も看過できない問題だ。

日々、恐怖の記憶の反芻に晒されていては心が壊れてしまうのは当然のことだし、その恐怖を紛らわせるために酒や薬に頼るようになるのも自然なことだろう。だからと言って麻薬やアルコールに逃避・依存すれば、待っているのは悲惨な中毒への道だけだ。

 

大変な病ではあるが、これらはある意味至って正常な反応でもある。

そもそも、命のやり取りをする場所で平気でいられる人は、ほぼ確実に心のどこかが壊れているのだ。原作にメンヌヴィルとかいう傍迷惑なチャッカマンがいたと思うが、あの辺がその典型だろう。

そういう世間が直視しない現実を目の当たりにするたびに、私の中で戦争への嫌悪が増していく。

戦争と言うものは外交の一手段なのだそうだが、敵兵や敵国民を殺し、傷つけるのみならず、自国民にもそのような苦痛を強いる所業は、やはりやらないに越したことはない。

一将功成りて万骨枯る。アンリエッタが浴びている栄誉の陰で、それらの代償を負うのはいつだって弱い立場の者なのだ。

しかし、悲しいことに人の世においては、その悪は必要悪となることがある。

戦争は嫌いでも、非武装非暴力では一方的な蹂躙を受けるはめになるのがこの世の理、降りかかる火の粉は掃わねばならない。自らを守らねばならない戦いもこの世には確かに存在することは私も理解しているつもりだ。今回の戦いは間違いなくそれだろう。

そして、その避けられない戦いのために傷つき、病み、壊れていく人たちがいることも、悲しいことだがやむを得ないことではある。

彼らもまた、戦死者たちと同様、勝利と平和の祭壇に捧げられた尊い犠牲者だ。

 

しかし、そう言った兵に対する世間の扱いはお世辞にも手厚いものではない。

トリステインには『廃兵院』という施設がある。

傷痍軍人の救済のための軍関係の施設で、一般的な就労が難しいほどの戦傷、例えば全盲、四肢の欠損などの障害を負い、一般就労が難しく生計を立てるのが困難な兵の救済のために公に設けられた施設だ。

国のために命をかけ、そのために傷ついた方々を国が遇する施設だが、あまり一般には知られていないらしい。

刀や矢弾の戦争から砲・爆弾による派手な火力をぶつけ合う戦争になってから、加速度的にそういった傷痍軍人が増えたと聞いている。ある意味、歩兵にとっては下手な魔法よりも砲撃の方が怖いのだ。

悲しいことだが、落命するほどの傷であっても死なせずに済ませてしまう医療の力も、そういった方々を生み出す原因ともなっていることも確かだろう。

そんな傷ついた者たちとは別に、肉体的には負傷していない者も院に送り込まれることがある。

戦場で心を病み、立ち上がれなくなったものは『臆病者』の烙印を押されて世間から隔絶されるのだが、その収容先が廃兵院なのだ。

彼らが院に隔離される理由は簡単。士気に関わるからだ。

都合の悪い者は世間から切り離し、その目から隠す。それが、廃兵院のもう一つの顔だ。

あまりにも無理解なこの世界のあり方ではあるが、腹を立てても仕方がない。

心の傷は目に見えないものなのだから。

 

診察を繰り返すたび、私は必要以上に彼らに感情移入している自分がいることに気付く。

障害を抱え、苦しむ患者が他人とは思えないのだ。

現代において心理的治療を受けるのは、男性より女性の方が多いと聞いたことがある。

その心の傷の原因の多くが、性的暴行によるものだ。

とても受け止めることなどできない程の心の傷を受けた女性たちのそれは、感覚で言うと、自分を支える柱を根こそぎ折られてしまうようなものなのだ。

苦痛とか衝撃といった陳腐な言葉では言い表せないくらいの黒い記憶。生涯消えない、心の根幹に刻まれる悪意の爪痕だ。

そこにあるのは恐怖と無力感、そして絶望。

戦争神経症と性的暴行による心的外傷後ストレス障害は、基本的に同質のものなのだ。

昨年、私が抱える障害の原因である男は我が忠臣の手によってこの世から消えたが、頻度こそ減ったものの、今でも私はあの男の悪夢に魘される。不可逆な、消すことができない心の傷だ。

そのことと、苦しむ患者の心の奥が重なって見えるのだ。

それだけに、頼ってきてくれた患者たちに満足な治療を施せず、ただ患者の独白を聞き、彼らを肯定する言葉をかける事しかできない状況には、ただただ無力感を感じるばかりだ。

話を聞いてもらえるだけでも救われると言ってくれる患者も多いが、許されるものならば、患者たちに対してテファの『忘却』が使えればとすら思う。

医者の看板が泣き出しそうなカルテを幾つも重ねていく日々を、私は送っていた。

 

 

 

 

そんなある日の、午前中の診察の後半のことだった。

 

「次の人~」

 

受付のテファに声をかけると、一人の壮年の患者が入って来た。

マントをまとった姿はメイジ。服装からすると、空軍の軍人らしい。

妙に威厳のある、怖い感じの人だった。

メイジがここに来る時は多くの場合は訳ありだ。いささか私も身構えたのだが、貴族で、しかも軍人でありながら、待合室で順番を守っていてくれるとは律義な人だとも思う。空軍は貴族と平民の区分をしないと原作にあったが、この人もその辺の偏見があまりないのかも知れない。

最近は待合室のじいさんばあさんも心得たもので、以前のように貴族が来たからと言って逃げ出したりしないようになった。人というのは慣れていく生き物だとつくづく思う。

 

「あ~…来るところをお間違えではありませんか、ミスタ? ここは平民相手の診療所ですが?」

 

「いや、ここでいいと思うの…だが…」

 

目を丸くしているあたり、考えている事は大体判る。

 

「君が治療師の『慈愛』のヴィクトリアかね?」

 

「そんな御大層な二つ名は知りませんが、ヴィクトリアなら私ですよ」

 

私の言葉に、予想通りに男性は驚いた顔をした。一見さんが驚くのにはいい加減慣れているし、諦めてもいる。

私だって、例えば雛見沢の入江診療所を訪ねて行ったら、メガネの先生ではなく古手梨花ちゃまあたりが『ボクが医者なのです、みぃ』と出てくればギョッとするだろうし。

まあ、今まで幾度も繰り返してきた通過儀礼だ。ちゃんとした診察をすれば黙ってくれることだろう。

 

それはさておき、第一印象で言えば、その患者はぼろぼろだった。

マントの下に左腕の気配がなく、左足はひざ下から木製の義足になっていた。まだ慣れていないらしく、足の運びがたどたどしい。口ひげを生やした顔にも、酷い火傷の痕がある。

いずれも、まだ新しいものと見える。

そんな患者さんに椅子を勧めて問診を始めた。

まっさらのカルテを手に名前を問うと、男性はフェヴィスと名乗った。

記憶にない名前だが、空軍の戦列艦の艦長をやっていたとのこと。

そんな高級士官が、何故軍医のところに行かずにこんな場末の診療院に来るのやら、とも思うが、経歴はどうあれ診療院の扉を叩く者に貴賤はない。因縁を付けに来たわけでもなければ、どんな人でも私の患者だ。

 

「今日はどうされましたね?」

 

「ああ。傷の具合を診て欲しくてね」

 

肘から下がない腕を差し出し、無表情に言う。

診ると、治療自体はきちんと行われているようで、内部の組織も適切な処置が施されており、傷の処理も綺麗だった。

 

「…戦傷ですか?」

 

「ああ。先日戦いでフネが沈んだ際に、足と一緒にアルビオンの連中に進呈してしまったのだが、夜になると何故か失くしたはずの指先が痛むんだよ」

 

そう言って、残る右手で左腕の先を指さす。

幻肢痛だろうか。

 

「軍医の方の所見は?」

 

「そのうち慣れると言って薬ももらったのだが、なかなか痛みが治まらなくてね」

 

痛み止めが処方されたのだろうと思うが、幻肢痛に鎮痛剤は効かない。そのうち慣れる、と言うのも軍医さんらしい意見ではある。ちなみに私は、森鴎外と脚気の話を知って以来、軍医と言う人種にちょっとだけ偏見がある。

閑話休題。

幻肢痛は、四肢の欠損により神経の伝達に問題が生じるために起こるものと言われているが、実は明確な原因は判っていない。そのため、状態について説明をしたのだが、もともと原因がよく解っていないだけに判り易く解説するのには少々骨が折れた。

とりあえず、知っている治療法を施すべく私はフェヴィス氏を処置室に案内した。

両腕を向かい合う形で机の上に置いてもらい、鏡を持って来て右手を映す位置に鏡を置き、左腕を鏡の裏に回すようにポジションを取ってもらう。

鏡に映る右手が鏡像として左手の形を取ることを利用し、鏡の裏の左腕の先に失った左手があるような配置になっていればいい。

そのまま当人には両手で同じことをしているような意識で右手の指を曲げ伸ばししてもらう。これは、脳神経のマップの修正が必要な疾病、例えば脳卒中などの場合に効果があるとされるリハビリ法だ。四肢の欠損の場合にも神経伝達の修正に効果があると言われている。

そのままにぎにぎと指を動かしてもらい、視線の置き方などに指導をしていく。

リハビリなので、自宅でもできるようになってもらわなければならない。

これでダメなら、この先は機能脳神経外科の世界だ。私ごときではどうにもできない分野に踏み込むことになる。

 

「このような感じで、できるだけ気持ちを落ち着けて、鏡の中の手を本当の自分の手だと思って行って下さいな。やがて体が慣れてくると思います。慣れないうちは1日10分、慣れてきたら徐々に時間を伸ばしていって下さい。あと、痛みが出たら『これは痛くない。気のせいなんだ』と自分に言い聞かせて下さい」

 

「自己暗示と言うことかね?」

 

「そのようなものと考えて下さい」

 

はったりの域を出ない指導だが、ファントムペインに対して打てる手はこれくらいしか知らない。

 

「判った。やってみよう」

 

フェヴィス氏は頷き、開閉を繰り返す鏡の中の左手を見ながら笑った。

 

「それにしても、戦いで満足に働けなかっただけでなく、生き恥を晒しながら、こうしてなおも世間に迷惑をかけるというのは我ながら情けないものだね」

 

「何を言いますやら。命懸けで国を守ったが故の負傷ではないですか」

 

私の言葉に、フェヴィス氏は自嘲するように言う。

 

「名誉の負傷と言いたいところだが、我らの不覚が多くの将兵の血を流す発端となっただけに、とても胸を張る気にはなれんさ。旗艦であった我が艦が今少し頑張っていれば状況も多少はマシであっただろうと悔やむばかりだ」

 

言葉に困った。

旗艦ということは『メルカトール』。ラメーとかいう提督は覚えていたが、その隣にいたのがこの人だったか。

その悲運の艦隊旗艦は、最後には火災を起こして爆沈していたと記憶している。

よく命があったものだ。

先の戦いにおいて、アンリエッタの武名は止まるところを知らないが、それに反してトリステイン艦隊に対する国民の評価は非常に厳しいものだ。

酒場に行けば、空軍艦隊については、油断をして足元をすくわれた愚かな提督に、ろくに抵抗もできずに白旗を上げた弱兵たち等と、聞いていて耳を塞ぎたくなるような話が飛び交っている。どれもこれも、後知恵に過ぎない罵声ばかりだった。何となく南雲中将を思い出した。

開戦の際、アルビオン艦隊の陰謀により、トリステイン艦隊は戦力に勝る敵艦隊から一方的な奇襲攻撃を受けたはずだ。勝てる要素が何一つない戦いを強いられ、それをなじられるというのでは体を張った人たちがあまりにも不憫だ。そもそも、あそこまで汚い手を使い、しかも性能も戦力も敵の方が上という無理ゲーだったのだ、こちらから騙し打ちを仕掛けようとでも思わない限りは、あの艦隊全滅は避けられない事態だったと私は思う。

 

「お言葉ですが、そのような物言いはおやめください。すべての局面で勝利できる戦いなど聞いたことがありません。少なくとも私は、貴方たち軍人に心から感謝しています」

 

「いいのだよ。事実なのだから」

 

そう言ってフェヴィス氏は笑うが、その笑顔はどこか悲しそうだった。

命をかけて戦いながらも、もらえたのが嘲笑だけというのは、軍人にとってはこの上なく悲しいものなのだろう。

 

 

 

 

「他は特に問題はないようです」

 

腕以外の部位も一通り診察し、状態を確認した。担当した軍医さんの腕もなかなかのものだと思う。別にここに来なくても良かったのではないかという考えが脳裏をよぎるくらいだ。

 

「今後は、軍の治療師の指示に従ってリハビリを行ってください。義肢についてはまだ慣れぬことかと思いますが、焦らずに時間をかけて馴染ませるとよいでしょう」

 

「ありがとう」

 

「では、お大事に」

 

診察の終わりを告げるが、立ち上がるかと思ったフェヴィス氏は、一息ついてから口を開いた。

 

「すまないが」

 

「はい?」

 

「実は診察の他に、君に一つ訊きたいこともあってね」

 

予想もしなかった単語に、私は呆気にとられた。

 

「何でしょう?」

 

「私の兵だった者たちが、君の診察を受けたと聞いているのだが、そのことについて教えて欲しい」

 

いきなりな質問に少々面食らった。確かに平民の水兵がここしばらくで幾人か診療所を訪れてはいるが、一応ヒポクラテスの誓いの中には守秘義務というものがあるので、私としてもうっかりした事は言えない。

そんな私に、フェヴィス氏は言う。

 

「知ってのとおり、空軍の評判は今が底だ。兵に対する国民の風当たりも厳しい。そんな事もあって、余計に先の戦いで心をやられた者たちへの上層部の対応も厳しいものでね。軍医を頼ることもままならないので、王都出身の者の勧めでこの診療所を頼ったと聞いている。とても変わった指導を受けたと言っていたよ」

 

「大したことができずに申し訳ありません」

 

「いや。皆、君に感謝していた。普通なら『何を軟弱なことを』と叱咤を受けるような事なのに、親身になって話を聞いてもらえて嬉しかったと言っていたよ。恐怖することは人として自然なことだと言われた者もいれば、戦場では『臆病なくらいがちょうどいい』と言われたと笑っていた者もいる。君のおかげで気が楽になったためなのか、あの戦いの後で暗がりを恐れて乗艦しただけで震えていたのに、今は何とか折り合いを付けられている者もいるそうだ」

 

いきなり語られた賛辞に、私は顔を赤くして嫌な汗を流した。

身に覚えのないお褒めの言葉を素直に受けるほど、厚かましくはないつもりだ。

話が歪み始めた気配を感じ、私はフェヴィス氏の話を否定した。

 

「いえ、それは違います。彼らは自力で立ち直ったのです。私はただ話を聞いただけですし、治療らしい治療もできていないのです」

 

話を聞くことしかできなかった私の対応だったが、それがどこかの誰かには多少は役立ってくれているというのは嬉しいことだ。

だが、それは恐らく一握りの者だけだろう。

急性のストレス障害ならば、1か月ほどでほぼ回復は見込める。タルブの戦いから2週間、私の診察など受けなくても自力で回復し始める者がいてもおかしくはないと思う。フェヴィス氏が言うのも、恐らくたまたま私の診察と自力の回復が重なっただけだろう。

問題なのは、回復できずに慢性化した患者であり、それらの回復にどれほどの時間が必要かは見当もつかないのだ。

慢性化した障害は、この世界ではもはや呪いと同義だ。心の麻痺によってバランスを失った精神は重度の精神障害に発展する可能性がある。付け焼刃のお話療法が通用しない、本当の意味で重篤な患者だ。

それは時には廃人にまでなり得る障害だということは、できれば軍の上層部にも認識として持ってもらいたい。

これは、個人の力では抗いようがない病なのだと。

その点について、可能な限り丁寧に説明したのが、フェヴィス氏の顔は渋かった。

うまく伝わっていればいいのだが。

 

「とにかく、一方的に責め立てて奮起を促すことは逆効果です。その状態では当然ながら兵としても役に立ちませんし、下手をすれば、辛さから逃れるために、率先して敵の杖の前に立とうとすらするでしょう。軍としても、そういう兵の処遇について見直すことは有意義だと思うのですが」

 

話を黙って聞いていたフェヴィス氏は難しい顔で長く考え込み、ややあって口を開いた。

 

「…言いにくいことだが」

 

まるで、苦いものを吐きだす様な重い口調でフェヴィス氏は言った。

 

「…実は、私も…そうなのかも知れんのだ」

 

「何ですって?」

 

予想外の言葉に、私は一瞬意味を把握しかねた。

その言葉が呼び水になったのか、フェヴィス氏は訥々と語り出した。

 

「目を閉じると思い出すのだ。あの時の、船が沈む時の兵たちが苦しみ、助けを求めている阿鼻叫喚の光景が頭から離れないのだよ。私も破片を受けて腕と足を失っていた。その挙句に、苦しむ兵たちを助けられず、自分だけ生き残ってしまったことが辛くてたまらぬのだ。何より、ただ、死にたくなかった。あの時考えていたことは、それだけだったのだ」

 

そう語るフェヴィス氏の右手が震えているのを見て彼がここに来た本当の目的に気が付き、私は己の浅慮に愕然となった。

ああ、私は馬鹿だ。

一見、落ち着いているように見えるこの人物を、私は兵を気遣う徳に溢れる上官だと認識していた。

迷宮に陥ってしまった兵を救う術を求めにこの場に足を運んだものと、勝手に思い込んでいた。

しかし、今、私の前でその身を震わせているフェヴィス氏もまた、ここに僅かな望みを託して救いを求めに来た患者であることにようやく気付いたのだ。

病を抱える者に、その症状について懇切丁寧に語ってしまうとは、我ながら度し難い。

そんな私の心中を他所に、フェヴィス氏の口から彼が抱える恐怖が連綿と紡がれる。

実戦経験を有する彼ですら、あの戦いは恐怖を覚えるに充分なものだったようだ。

それは、『死ぬかも知れない』という恐怖。

彼の心の深奥に打ち込まれた、抜けることのない楔だった。

恐怖を感じるのに老若男女の区分はない。社会的地位も立場も関係はない。長年の経験ですら吹き飛ぶような恐怖が戦場にはあることを、私は知った。

今のフェヴィス氏は、軍人でも艦長でもない、心に傷を負った一人の患者だったのだ。

自分の人を見る目の無さに腹が立ったが、首をもたげ始めたそんな思いをねじ伏せながら、頭を切り替えた。

自分の事は後で考えよう。

まず、目の前にいる患者の話を聞くことが私の仕事だ。

ここは診療院。来院した患者を癒す施設なのだ。

涙ながらに自らの内なる恐怖を語るフェヴィス氏の話を聞き、その精神の安定に脳のリソースを割り振った。

 

1時間ほど語り続けて、ようやくフェヴィス氏は落ち着きを取り戻した。

自嘲するように笑い、私に対して頭を下げた。

 

「すまない。女々しいとは思うが、どうにも一人で抱えるには重すぎてね」

 

「何の。これも診察の一環とお考え下さい。何より、そういう体験は女々しいと言う言葉が当てはまるものではありません。お立場もありますでしょうし、さぞ我慢されてきたのでしょう」

 

「上に立つ者として、感情を押さえつけねばならなかったのだが、どうしても抱えきれなくなってしまったのだ」

 

「そのような抑制は、ここでは要りませんよ」

 

私の言葉に、フェヴィス氏は笑った。

 

「なるほど、話を聞いてもらえるだけでも楽になると言うのは本当のようだね」

 

その表情は先ほどまでに比べると、幾分穏やかなものになっている。

 

「私でよければ幾らでも伺います。辛くなる前に来院して下さい」

 

「すまないが、そうさせてもらうかも知れん」

 

「とりあえず、まずは怖がる自分を許してあげて下さい。あと、死ぬかも知れない思いをされたことは事実ですが、助かったことも事実です。今、貴方はここで生きているのです。そして、既に戦闘は終わっているのです。またフラッシュバックが起こるようでしたら、そう自分に言い聞かせて下さい」

 

「それも自己暗示かね?」

 

「そのようなものです」

 

 

 

 

 

夜、夕食後に診察室でカルテの整理をしている時だった。

ドアがノックされ、どうぞと答えると茶道具を持ったディーが入って来た。

 

「茶を立てましたのでお持ち致しました」

 

「ああ、ありがとう」

 

やや疲れ気味の目の縁をもみながら礼を言う。太陽のツボと言うのを刺激すると疲れ目にいいと聞いたが、本当に効くのかなあ、等と考えながら優雅な手つきで茶を注ぐディーの手元を見つめる。美男は何をやっても絵になるものだと思う。

お茶を淹れるサーヴァントとしてはアーチャー君が定番だろうが、男ぶりならディルムッドのほうが上だ。

 

「お悩みのようですね、主」

 

彼の言葉に、益体もないことを考えていた私は我に返った。

 

「うん。ちょっと診察の事でいろいろあってね」

 

フェヴィス氏への対応の失敗に対する自己嫌悪について、自分の中の折り合いを付けるのはいささか骨が折れた。

 

「傷痍軍人の相談ごととお見受けしますが」

 

あまり私の仕事には口を挟まないディルムッドが、思いのほか大きく踏み込んできた。

 

「当たり。ろくに知識もない藪医者には、荷が重くてね。己の未熟を思い知らされているんだよ」

 

いつもなら彼の前では格好をつけたいところだが、今夜だけはちょっとだけ愚痴をこぼした。

 

「主、さしでがましい事とは思いますが、私も戦士の端くれ、その種の話については少しはお力になれるものと存じます」

 

言われて初めて気が付いた。

考えてみれば、この男も元は騎士団員。確か、フィアナ騎士団と言うのはどちらかと言えば傭兵組織に近いものだったように記憶している。イメージ的に『鷹の団』みたいに私は捉えているのだが、そういう組織に身を置いていたからには、修羅場におかれて心が追いつかなかった者を見る機会もあったのだろうか。

 

「…そうだね。いよいよとなったら相談させてもらおうかな」

 

頭を掻きながら答える私を見て、ディルムッドが笑う。

 

「是非に。槍働き以外にも、私の使い道があることはお忘れなきよう。何より、主とて全知全能ではありますまい。数多いる患者の中には、対処できぬ者もいることでしょう。一人で抱え込んでしまわれては、主自身が潰れてしまうのではないかと懸念いたします」

 

確かに、その辺りをドライに切り替えられたらと思うことはある。これは専門外だから何ともならないと言うのが本当の意味で患者のためなのかも知れない。

しかし、持って生れた性分というのは厄介なもので、何だかんだで何とかならないものかと思ってしまうのは私の悪い癖だと思う。

 

「とにかく、もっと私の事も頼ってください。これでもこの身は御身の使い魔。主が苦悩されているとあらば、少しでもお役に立ちたいものです。私で足りなければ店長もテファさんもおられます。どうか、一人で抱え込まれますな」

 

そう言ってディルムッドは笑う。

我が使い魔らしいストレートな励ましではあるのだが、剥き出しの優しさと言うのは、やはりちょっとくすぐったい。

照れ臭いので会話を断ち切るように空いたカップをディルムッドに差し出した。

そのカップにおかわりを注ぎながら、ディルムッドは思い出したように言った。

 

「そうそう、今日、工房にアニエス殿が来ましたよ」

 

「アニエスが!?」

 

歴史を知ってはいるが、それでもやはりアニエスのことは心配だった。

無事に戻ってきてくれるなら、武勲など二の次でいいとすら私は思う。

彼女もまた、今となっては大事な友人の一人だ。

 

「はい。先の戦いに従軍したものの、怪我もなく、元気な様子でした」

 

「そうか、無事だったか。よかった…よかったよ」

 

マチルダとアニエスは元より、何気に工房組の3人は仲がいい。皆、大人組と言った感じで落ち着いているし。揃って落ち着いたバーでグラスを手にしていると似合いそうな連中だ。

私だって大して歳が変わらないのに、そこに混ざると不協和音になるのはいささか面白くないが。

まあ、いいさ。三人より私の方が若いんだと言うことにしておこう。

 

「でも、どうせなら家にも顔くらい出してくれればいいのに」

 

「今日は公用でたまたまブルドンネ街に寄ったようで、明日にでも主のところに帰還の挨拶に来たいと言っておりました」

 

「それはいいね。お祝いの用意をしておこう」

 

戦争というものは、砲火の応酬が止まった時点が終わりではない。

携わった人の、すべての人の心に平穏が訪れるまでは、その地獄の残り香が消えることはない事を、私はこの世界に来て初めて知った。

それに気付いた時、前世の学校教育で何となく聞き流していたお年寄りの戦争体験が思い起こされた。

正直、当時の私にとってはそれは他人事で、遠い時代で誰かが悲惨な目に遭ったというのが私の戦争というものに対する認識だった。

だが、今は判る。

あの人たちもまた、地獄を見てきたのだと。

きっと、あの人たちもそんな場所には行きたくなかっただろうし、誰かに助けて欲しかったことだろう。

そう考えると、今まで遠いどこかの他人としか思っていなかった先達の方々が、すごく身近に思えてくる。

 

悲しいことや辛いことが多すぎる世の中で、そのネガティブなエンジンをフル回転させたイベントが戦争と言うものなのだろう。

ちっぽけな人の身の私では、抗いようがない嵐のようないイベントだ。

だからこそ、その地獄を知る中で私が得られた物を、自分の中に積み重ねていこうと私は思う。

死んでいった者を嘆くだけではなく、傷ついた者を悲しむだけでもなく、それら以上に、死があふれる場所から帰って来てくれた友の無事を喜ぼう。

やがて、さらに大きな戦いが起こるだろう。

何人も止めようがない大きな潮流は、さらなる犠牲を求めて流れ続けている。

それを知る身として、己の身の丈を振り返り、できるだけのことはやっておきたいと痛切に思う。

その地獄の中で私ができることは何なのか。

それを考えることが、当面の私の最大の課題なのだろう。

 

そんなことを考えながら、ディルムッドの淹れてくれた茶に口を付けた。

ハーブの香りが、穏やかに、胸一杯に広がった。

 



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その30

月のない夜のことだった、

トリスタニアの一角で、数名の男たちが密談を交わしていた。

いずれもローブを着こみ、顔を隠したいかがわしい気配の男たちである。

男たちの前には王都トリスタニアの地図があり、風向き等の情報とともに、数か所の点が描かれている。

そこに火を放ち、王都に焼き働きをかけることで社会不安を煽ることが男たちの目的であった。

斯様な密談を行う男たちの言葉の端々に微かに残るのは、アルビオン訛り。

男たちは 神聖アルビオン共和国の工作員であった。

 

決行の夜を迎え、これから一仕事と言うその時。

出し抜けにノックされたドアに、全員の視線が集中した。

ここは敵地。互いに顔を見合わせ、数名は既に杖を抜いている。

 

「誰だ」

 

一番年嵩の男が、ドアに向かって問う。

返事は今一度のノックの音だった。その叩かれている位置が妙に低いことに、男は首を傾げた。

ドアに寄って少しだけ開けると、そこに小柄な子供が立っていた。

 

「こんばんは、良い夜だね」

 

人形のような端正な貌の少女が、にこやかな笑みを浮かべている。どこかの良家の子女のような、品のある微笑みだった。

あまりに場違いな少女に、男は違和感を感じた。

 

「子供がこんな時間にどうした?」

 

声音をできるだけ抑えながら男は問うたが、帰ってきた言葉はその可愛らしい顔立ちとはかけ離れた剣呑なものであった。

 

「この街に火を点けようという連中がいると聞いたんでね、おしおきしに来たんだよ」

 

にっこり笑う少女に禍々しいものを感じとり、男は即座にドアを閉めて怒鳴った。

 

「敵襲だ!」

 

その声と、ドアが澄んだ音を立てたのは同時であった。

ランプの灯りの中、ドアから髪の毛ほどもない一条の銀色の光が飛び出し、男ごとドアを縦横に舐める。一泊置いて、鋭利な切り口を見せてドアと男が寸断されて床に落ちた。

ただならぬ気配に、部屋の中の男たちが一斉に杖を取る。

倒れたドアの向こうに、白衣を着た少女が青い水晶の杖を手に立っていた。

 

「おとなしく縛に着けば命の保証はしてやろう。手向かうならば是非もない。お前たちの命をどちらに張るかはお前たち次第だよ」

 

涼やかな声と裏腹な、不気味なまでの迫力を含んだ物言いに男たちは恐怖に駆られて杖を少女に向けた。

 

「残念だね」

 

少女の言葉が合図であったかのように、壁を突き破って翡翠色の影が走った。

赤と黄の閃光が走り、一閃した後、男たちの胸板に死の花が咲いた。

 

 

 

 

 

*********************************************************************

 

 

 

 

ここしばらく、トリスタニアの治安はあまりよろしくない。

戦争の匂いを嗅ぎつけて流入してきた傭兵を筆頭に、いかがわしい行商人や遊女等々、風紀を乱す輩が多く目につくようになってきている。

そんな中で、最も迷惑な連中がアルビオンの狗だ。

先の戦いでダメージ著しいアルビオンが戦力の立て直しまでの間にトリステインに対して情報戦や破壊工作などを仕掛けて来るであろうということは周知のことだが、実際に少なくない工作員がろくでもない目的を持って王都に入り込んでいるとなると私たち『町内会』も黙ってはいられない。

情報網に引っかかる連中の数たるや、夏場の蚊のような数だ。

結果として、私も治安担当の役員としてせっせと害虫退治に乗り出さなければならない。

寝不足な日が続くが、街に火をかけるような物騒な連中を野放ししておいては、それこそ下手をすれば永遠の眠りに就く羽目になりかねないだけに、ここしばらくは根競べということで諦めている。

さすがに研修医時代以来の睡眠時間3時間の激務続きなためか、最近は町内会の他の面々も心配してくれて、専ら私の担当である夜の悪党狩りを手伝ってくれている。

しかし、ありがたくはあるのだが、このまま頼んでいてもいいのかと戸惑うことが多い。

何しろ、武器屋が仕切った時は5名程度の間諜のアジトを建物ごと爆破してしまうし、薬屋が代打に立った時は街はずれにあった根拠地に出入りしていた30人ほどの工作員が一夜にして音もなく全滅していた。

普通に死んでいるのならまだいいのだが、前者は爆心地がちょっとしたクレーターになっているし、後者に至っては何故か死体がどれも不気味なまでの緑色をしていたというから洒落にならない。

何故私が町内会の治安担当なのかと言えば、要するにこういう訳で、他の連中は加減というものが下手なのだ。

自業自得ではあるものの、何も知らずにトリスタニアに乗り込んだところをああいう物騒な連中に襲われる間諜諸氏も、さぞ迷惑なことだろう。

 

 

 

そんな日常ではあるが、患者は待ってくれない。日々の仕事もこなさねばならないし、むしろ治安が悪くなっただけに喧嘩だなんだで怪我人も増加傾向だ。

そのため診察時間が長引くので、往診も徐々に遅い時間まで回らなければならなくなる。

そんなある日の帰り道だった。

 

夕暮れ時の中央広場を足早に家路を急ぐ。

サン・レミ大聖堂の鐘はすでに午後6時を告げているが、夏ともなればまだ十分に足元は明るい。

今日の晩御飯は何かなあ、と怠けたことを考えながら歩いている時、視界の端に見覚えがある姿が映った。

見ると、そこに才人と、何だか地味な恰好をしたピンクが座り込んでいた。

何をやっているのやら。

素通りするのも何なので、てくてくと歩み寄ってみる。

 

「どうしたね、お二人さん。こんなとこで黄昏て?」

 

「ヴィクトリア!?」

 

私に気づくなり、才人は大声を上げた。

才人の声にルイズが顔をあげ、私を見るなりぎょっとしたような顔をした。

何だか変な感じがした。いつもはつんつんと突っかかってくるはずのルイズらしくない雰囲気だ。

 

「何だかしょぼくれた顔してるね。お金でも落としたのかい?」

 

冗談で言ったのだが、どういう御利益があったのか二人の表情が固まった。

はて、何かあったのかな、こいつら。

 

「実は…」

 

「ダメよ、才人!」

 

思い切ったように口を開いた才人をルイズが押しとどめる。

 

「じゃあ、どうすんだよ! 他に手があるのかよ!?」

 

「う~…」

 

そんなやり取りをしている二人を見るうちに、原作のイベント思い出した。

そうだそうだ。あれだ、女王様からの調査の話だ。この時期だったんだね。

このピンクは博打に手を出して、活動資金を全部突っ込んですってんてんになったんだっけね。その挙句に『魅惑の妖精』亭で苦労をするんだっけ。

才人の思考パターンを考えると、恐らくは私たちに助勢を頼みたいけど、ルイズの方針と衝突してどうしようか悩んでいると言ったところだろう。

若いと言うかお馬鹿と言うか。

見捨てるのも何だし、ここはひとつ、年長者として水を向けてやるとしよう。

 

「何だか困ってるみたいだね。助けが要るなら出来る範囲で力になるけど?」

 

「え、いいの!?」

 

才人の顔がぱっと輝く。

 

「何を今さら。水くさい。ディルムッドの弟子なら身内みたいなもんだよ。お嬢ちゃん、あんたもよければ家においでな」

 

才人に対して、私の提案にルイズは表情を渋らせた。私の提案に乗るかどうしようか、懊悩しているのが手に取るように判る。

貴族なりの矜持もあるのだろうが、このままここにいてもどうしようもないだろうに。

スカロンが通りがかるのを待って妖精さんになるのも一興とは思うが、ルイズにはある程度平民の生活がどんなものか体で覚えてもらうのは意義のあることとは思うものの、社会勉強にしてもあそこはなかなか厳しいお店だ。知らん顔するには、このピンクと私は知り合いの度合いが深くなりすぎていた。他人事と切り捨てられればいいのだが、前世では捨て猫や捨て犬の前を素通りすることができず、それらを抱えたまま家にも帰れず途方に暮れて母に迷惑をかけることが多かった私だ。後で気にやむくらいなら、この場で手を差し伸べてあげた方が気が楽だ。

 

「悩むのも結構だけど、泊まる泊まらないはともかく、身の振り方を考える間くらいうちにおいでな。茶くらい出すよ」

 

私の言葉にルイズの視線があちこち彷徨う。

本当に今日のこいつは妙な感じだ。

ややあって、ようやく決心がついたように口を開いた。

 

「…お願いするわ」

 

プライドを刻んで差し出すような面持ちで、ルイズは言った。

世話の焼けるお嬢様だね。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほほう…」

 

居間にて、並んで座るルイズと才人と向き合いながら、私達三人は感心して聞いていた。

話を要約するとこうだ。

将来、立派な貴族になるために夏休みの間に市井の人々の生活を知るべく王都に来たものの、財布を落として困っているらしい。

実にもっともらしく聞こえる言い訳だ。即興の方便としてはよく作ったものだと思う。

 

「せっかくの素晴らしい思いつきなのに、財布を落とすとはついてないね。あんまりにもしょぼくれてるもんだから、私ゃてっきり手持ちのお金じゃ良い所に泊まれないから博打で増やそうとして、有り金全部スッちまったのかと思ったよ」

 

私の言葉にルイズが石化した。

わっはっは、どうだ、不気味だろう。『何でそれが判るんだ』と思うだろう。お前の姉に、私はいつもこういう思考の迷宮に引きずり込まれているんだよ。

笑った後、原作知識をこういう歪んだ形でしか利用できない自分がちょっとだけ嫌いになったのは気のせいということにしておく。

そんな私に才人が答える。

 

「ははは、まさか。いくらなんでもそんな馬鹿なことはしませんよ」

 

「何だか棒読みみたいな物言いだね?」

 

「気のせいだよ。なあ、ルイズ」

 

「え、ええ、そうよ」

 

「ははは」

 

才人の乾いた笑いが哀れだった。この先、恐らくこいつはこんな感じで苦労ばかりしていくのだろう。

 

「学院に帰ればいいんじゃない?」

 

マチルダの指摘にルイズは首を振った。

 

「約束しちゃったのよ。報告もするって…」

 

「誰に?」

 

「と、友達よ」

 

最愛のおともだち、という奴かね。私の認識では『パシリ』と同義語な感じなんだが。

 

「そうは言っても、先立つものがなくちゃねえ」

 

「それはそうだけど…」

 

もじもじと口ごもるルイズの隣で、才人が何やら難しい顔をしている。この男は本当に隠し事が下手だ。

 

「それで、家で住み込みで雇ってもらえないかって考えているのかい、少年?」

 

私の言葉に、才人は驚いて顔を上げた。

言おうか言うまいか、葛藤していたのだろう。こういうことについて、ちゃんと相手のことも考えて遠慮しているのがこの男の可愛いところだ。

 

「い、いや…確かに頼めると…嬉しいんだけど…」

 

「お前さん、前にもそんなことやったけど、その時の話は理解できているだろうね」

 

「もちろん」

 

「どうするね、工房組は?」

 

私の言葉にマチルダは両手をあげた。

 

「私は歓迎だね。近々ちょっと大口の注文が入るから人手が欲しかったところさ。ディーもいいだろ?」

 

「私も異存はありません」

 

深く頷くディルムッド。さすがに工房組は大人だなあ。懐が広いや。

 

「知ってのとおり、無駄飯食わせるつもりはないからね。きりきり働いてもらうよ」

 

「ダメよ!」

 

ルイズが鋭い声を上げた。

 

「何でだよ?」

 

首をかしげる才人に、ルイズが慌てて答えた。

 

「工房の仕事じゃ一緒に働けないじゃない」

 

ルイズの発言に場の空気が停止した。

皆から注がれる生暖かい視線に自分の発言の意味を理解したのか、ルイズの顔が朱に染まる。

 

「ち、違うわよ、そういう意味じゃなくてね」

 

そんなルイズを見るマチルダ様は、実によい笑顔をしておられる。

 

「どうも今日は暑いと思ったら、夏ってだけじゃなかったようだね。坊や、あんたも果報者だねえ」

 

「うんうん」

 

マチルダの言葉にティファニアまで満面の笑顔で合いの手を入れる。

今さらだが、公爵家御令嬢に向かってここまで舐めくさったことを言う私の家族はすごいと思う。敬語を使うのはディルムッドだけときたもんだ。

 

「違うってば! 一人じゃ充分なご奉公ができないっていう意味よ!」

 

「ご奉公?」

 

マチルダが聞きとがめ、ルイズは失言に気づいて一気に青ざめた。信号みたいに忙しい奴だね。

ここは裏の事情を知っている私が介入するとしよう。

 

「まあ、一時も離れたくないお嬢ちゃんの乙女心はさておき」

 

「だから違うって!」

 

真っ赤になって否定するルイズだが、才人のほうはもっと赤くなっていた。いぢり甲斐があるのも、主人公の素養なのかも知れない。

 

「まあまあ。とにかく、平民の生活が判る職場であって、かつ二人一緒に働くとなると結構仕事が限られるよ。ここは、塒が一緒ってところで妥協しなさいな」

 

「う~、でも…」

 

「しょうがないんだよ。男と女じゃ守備範囲が違うんだから。二人一緒なんて、酒場あたりがせいぜいじゃないかい?」

 

「酒場?」

 

「ご希望なら知人が経営している店を紹介しようか? 可愛い服を着てお給仕するとチップももらえるお店だよ。他の女給は皆ふくよかだけど、あんたなら青い果実が好みの特殊な客層に結構受けが」

 

「あんたも、ああいう特殊なところを紹介するんじゃない」

 

「痛たたた、じょ、冗談だってば」

 

原作フラグはあっさりとマチルダのウメボシぐりぐりによって破壊された。

まあ、確かに妖精亭を紹介したなんてことがヴァリエールご夫妻にばれたら折檻じゃすまないだろうしなあ。

とは言え、町内会の伝手だとやはり店員系くらいしか思い浮かぶ仕事がない。ただ働くだけではなく、いろいろ情報が手に入らなければならないというのも高いハードルだ。

 

「マチルダはどこかに伝手はあるかい?」

 

こめかみを揉みながらマチルダに訊いてみる。

 

「そうだねえ…商工会の方にあたってみるけど、女の子じゃいろいろ厳しいかもね。一緒に働く、ってのは無理があるよ。自分で商売を始めた方が早いくらいかも知れないね」

 

どうやらマチルダルートも似たり寄ったりのようだ。

そんなことを考えていたら、テファが手を叩いた。

 

「ねえ、ルイズさんの目的は、世の中の勉強だったよね?」

 

「そうよ」

 

ルイズは頷いた。

 

「世の中の人たちの生活がどうかを見たり、平民の人たちの話聞いたりしたいのよね?」

 

「そうよ」

 

「ひとつ、いいところがあるんだけど」

 

笑うティファニアに、皆を代表して私は問うた。

 

「どこさね?」

 

「ここ」

 

テファは下を指差した。

えーと…何を言っているんだろうね、この子は。

 

「テファ、まさか…」

 

テファは笑って頷いた。

 

「診療院のスタッフ。待合室の患者さんたちのお話聞いてるといろいろためになるわよ。才人とは働く場所は違うけど、他で働くよりも心の距離は近いと思うわ」

 

「幾ら何でもうちの待合室でそこまで世の中の話題が飛び交うかい?」

 

どちらかと言えば待合室は具合が悪い人が集まるところだ。基本的に静かなものだと思うのだが。

 

「具合が悪い人の診察時間は静かだけど、終わる間際に集まって来るおじいちゃんおばあちゃんのお話は聞いていてためになるのよ。この間の戦争の前なんか政治サロンみたいで凄かったんだから」

 

なるほど。町内お達者クラブのあれか。確かに、やたら囀るじいさんばあさんが多いとは思っていたが、内容がそんなに凄いとは知らなかった。

私は腕を組んで宙を仰いで考えこんだ。

テファの話を聞くと、確かに悪い場所ではないようにも思えてきた。

まあ、やるだけやってみてもらって、お気に召さなかったら別口を紹介すればいいし、患者さんに迷惑がかかるようならすぐにブレーキをかけられるというのもあるか。紹介した先で暴れられるよりは私たちの世間体の意味では有意義な気もすることは確かだ。

 

「う~ん…どうするね、お嬢ちゃん。あんた次第という感じなんだが」

 

私が問うとルイズもまた難しい顔をして考え込んでいた。

 

「ここにおいてもらえるのは助かるけど、何をすればいいの?」

 

警戒したような表情で言うルイズの前で、人差し指を振って見せる。

 

「まず、そこは『何をすればいい』じゃなくて、『何でもやらせていただきます』が正しい言葉だ。あんたは仕事を選べる立場にはないってことは理解しておくれよ」

 

「な、何よ、偉そうに」

 

「ルイズ!」

 

フォローに回ったのは才人だった。

 

「ここはヴィクトリアの言うとおりだ。俺たちは迷惑をかける立場なんだぞ」

 

「だからって…」

 

「嫌なら別に俺は構わないぞ。さっきみたいに道端で物乞いでもやるか?」

 

「…判ったわよ」

 

 

 

 

とりあえず、才人とルイズにそれぞれ寝室を用意し、おかしな日常がスタートした。

 

翌朝、早速ルイズは手水鉢の用意が何だと騒ぎ始めたが、そこは平民の城である我が家だ。我ら平民軍の集中砲火を浴びて、公爵家御令嬢は黙って自分で水場に向かった。

皆が揃ったところで朝食。

食事に文句をつけるようだったら容赦なく叩き出すつもりだったが、テファの料理はルイズの肥えた舌にも満足いくものだったようで、昨夜の晩御飯に続き、文句ひとつ言わずに皿を空にした。

実際、テファの料理はすごく美味しい。私直伝なためか、限られた食材に工夫を凝らして味を引き立てる技法は和食の遺伝子を内包しており、一口食べれば味にうるさいトリステイン貴族も黙って食べ続けるくらいのレベルにある。その深みは、とても味覚の荒野たるアルビオン生まれとは思えないくらいだ。最初は包丁を持つ手つきすら危ない感じだったのに、天賦の才か、研鑽の成果か、今ではちょっとしたプロの料理人並みの腕だ。たった4年でこれだ。この子もまた、マチルダと同様に一種の異能者なのかも知れない。レパートリーの数は私の方が多いと思うけど、調味料が揃わない王都では私の知るレシピの再現はなかなか難しく、そういう状況ではテファの出藍の誉れを素直に認めざるを得ない。師としては嬉しいような寂しいような複雑な心境だ。

 

「それじゃ、行ってくるよ」

 

「はいよ、行っといで」

 

朝食が終わればマチルダを先頭に、工房組の御出勤だ。

二人の後ろにくっついていく才人が、何回かルイズの方を振り返る。何気に過保護だね、あいつも。

そんな一行を見送り、私は振り返った。

 

「さて、それじゃあこっちもお仕事を始めよう」

 

既に全員着替えは終わっている。テファとおそろいのスタッフ服、メンソレータムのリトルナースのようなウェアを着たルイズだが、戴帽したその姿は素材がいいだけにさすがに可愛らしい。テファとの体格の違いもあってサイズはいささか大きすぎたようで、首から下は何だか服に着られているようなありさまだ。明日あたりに専用の服でも誂えようと思う。

そんなルイズに通り一遍の説明をざっと済ませる。

 

「とりあえずは、ティファニアのサポートがあんたの仕事だよ。詳しいことはテファにお訊き。テファ、初めての弟子だ。よろしく頼むよ」

 

実際、テファの仕事はバスケットクローズな部分が多いので、やることを私の方から全部説明することはできない。

 

「はい、先生」

 

「先生?」

 

テファが私を呼ぶ呼び名が変わったことにルイズが首を傾げた。

 

「そうそう。お仕事中は私のことは先生と呼ぶこと」

 

「何でよ?」

 

「仕事をするうえでは、それぞれ立場と言うものがあるからだよ。スタッフが私を先生と呼ぶことで、患者が安心を覚えることもあるんだよ」

 

「そういうものなの?」

 

「考えてもごらん。体調を崩して治療師に診てもらう時、その治療師が弟子にため口きかれてたらどう思うね? そこに頼りがいを感じるかい?」

 

医療に携わる者にとって、言葉もまた大事な道具の一つだ。産婦人科の看護師が、新生児を初めて父親見せる時は必ず『お父様似ですね』と言うようにしているのがその代表例だろう。

不安を抱えた患者の情緒の安定のためにも、発する言葉は選ばなければならない。

 

「…それは確かにそうね」

 

「それと同じくらい、スタッフであるお前さんの表情も大事だからね。できるだけその場その場に合わせた表情を作ってあげること。笑顔一つで患者の気が楽になることもあるんだ。その辺もテファから盗むように。あと、診察室にはいいと言うまで絶対に入っちゃダメだよ」

 

「何でよ?」

 

ルイズは怪訝な顔をした。

 

「医者以外の者が触れてはいけない情報がたくさんあるからだよ」

 

「どういうこと?」

 

「例えば、お前さんがひどい水虫になったとする」

 

「違うわよ!」

 

「例えばの話だよ。それが悪化して我慢できなくなって、誰にも知られたくないのに自分一人じゃどうしようもなくなって、勇気を出してうちを頼って来たとしよう。そういう話を、一度にたくさんの人に知られることをどう思うね?」

 

「…例えはともかく、そうね。判ったわ」

 

「では、お仕事開始だ」

 

 

 

 

そんな感じでルイズの診療院勤務の初日が始まった。

冷静に考えてみれば、『どうしてこうなった?』な話ではある。本来なら、今頃は酒場で現実に直面して泣きっ面を晒している頃だったろうに。世の中、何が起こるか判らないから油断がならない。

そんなルイズの働きぶりだが、いろいろ問題点の多い子でもさすがは学院の才女、おつむの出来は優秀だ。健保や労災もないこの時代、うちの診療所の事務は医療事務というほど御大層なものではないので実態は商家と違いはないが、それでもルイズの手際はなかなかに見事なもので、各種の書類をテファと二人でてきぱきと片付けてくれている。手を動かしながらも終始仏頂面なのが珠に傷だが。

気がかりだったのは、患者への配慮だ。

診療院のスタッフの仕事は、綺麗事ではすまない事がたまにある。

病気や怪我というものは、基本的に非日常的なものであり、それらが集まってくる診療院にも非日常的なものが多く集積されるのだ。

例えば、待合室では体調が悪い患者が嘔吐することがある。

大小を失禁することもある。

膿を垂れ流していたり、血まみれの患者も稀に運ばれてくる。

そういう患者が来れば、診療院の床や椅子が吐瀉物や糞尿、血液や体液で汚れる。

診療時間後の掃除なら私も魔法を使って手伝うのだが、診療時間中はそれらの掃除はスタッフの仕事だ。

どれを取っても患者の責任を追及はできないものであり、スタッフは嫌な顔をせずにそれらの始末をしなければならない。

私がテファを最も尊敬しているのはこの点だ。

4年前、まだ子供っぽかったテファに受付を任せた時、こういう事態に対処できるかちょっとだけ考えた。

私のように、それが当然と言う医療関係者の視線を期待するには、テファは幼すぎると思ったからだ。

しかし、テファは模範的とも言えるほどの対応を見せた。

笑顔のままそれらの問題に対処し、患者への労りも忘れない。

時には急変した患者の吐瀉物を浴びるような事もあったが、それでも彼女の天使の微笑みには罅ひとつ入ることはなかった。

私のことを『慈愛』などと呼ぶ人がいるが、本当に慈愛の二文字が似合うのはテファだと私は思っている。そんなテファを育てたシャジャルという人物は、きっととてもいい母だったのだろう。

そんな診療院スタッフの仕事にルイズがどう対処するか。私の心配はそこに集約されていた。

人を見下すことにかけては定評のあるトリステイン貴族の中でも、プライドの高さは最高峰に位置するようなルイズだ。『魅惑の妖精』亭の勤務においてもそのプライドを吹っ切るまでにだいぶ苦労をしていた記憶がある。そんな彼女が患者たち相手にどんな態度を取るか気が気ではなかった。

基本的に病人というのは気落ちしているものだ。ハルケギニアのように働けなくなるとすぐに明日の糧にも困るような世界では、その不安は前世世界の比ではない。そういう患者への気配りも医療スタッフに必要な資質になのだが、しかし、そんな私の不安は、逆の方向で裏切られた。

 

「ちょっと、あんた、大丈夫!? 順番入れ替えてあげるからちょっとだけ我慢しなさい! ティファニア、膿盆っていうのどこだっけ!?」

 

元気のいい、はきはきした声が診察室まで聞こえてくる。

半ば本気で『何で私が平民の面倒を見なきゃいけないのよ』とか言うんじゃないかと思っていたルイズだが、仕事初日からその私の予想を覆す活躍を見せている。

もめるようなら事務仕事だけをお願いしようかと思ったが、患者への対応は実に的確で、やや強めの物言いも、見方によっては心強いくらいの頼もしさがあった。

ここで気づいた私の考え違いが一つ。

ルイズという子だが、貴族としてのプライドが高く平民を下に見ているものの、決して平民を虐げることを良しとしているわけではないということだ。

原作では『魅惑の妖精』亭でずいぶん打ちのめされていたが、あれは御愛想を振りまいたり媚び諂うことを求められる等、彼女のプライドの方向性と真逆の仕事を強いられたがためのものだったのだろう。

考えてみれば、才人に辛く当たったのだって、才人にも悪い点がたくさんあったからだったように思う。パンツに細工でもされれば、ルイズでなくても怒るだろう。この世界のカーストを考えれば食事抜きどころか無礼討ちだってありえる話だ。

診療院のスタッフの場合、基本的に来訪者はこちらに『助けを求めに来る』という立ち位置だ。それに対してこちらは協力して健康を取り戻そうじゃないかという姿勢で臨むのだが、酒場のようにあからさまに客に御奉仕するという類の商売ではないだけに、ルイズ的な視点で考えると患者に対する庇護欲が刺激される仕事なのかも知れない。誰かを守るというのは貴族の本質。気高いルイズにとって、困っている人を助けるという診療院の仕事が彼女の中の貴族としての部分と噛み合ったのだろうか。

また、常日頃『ゼロ』だの何だのと冷笑を浴びてきたルイズにとって、誰かに頼りにされ、救いを求められると言う環境は傷だらけの自尊心を満たすものであったのかも知れない。

考えてみれば、昨年初めて会った時に比べても、ルイズの態度はかなり角が取れた感じがする。才人との出会いによる『つんつんルイズの解凍作業』がどの程度進んでいるのか知らないが、他人と接する際にまず威嚇から入るようなことは今の彼女にはないようだ。

理由はどうあれ、スタッフとして的確な対処をしてくれているのなら私としては文句はない。

思わぬ見つけものをしたような感じだった。

 

「どうだね、あの子は?」

 

カルテを持ってきたテファに尋ねると、テファはにっこりと満足そうに笑う。

 

「はい、とてもよく働いてくれていますよ」

 

さも当然と言う感じの表情だった。

もし、テファがルイズのそんな性質を読んだうえで提案したのだとしたら、私はまだまだティファニアという女の子を見誤っているということになる。

これが成長というものなのだろうか。はたまた活字になっていなかったティファニアの個性なのかもしれない。

世の中は、まだまだ不思議に満ちているのだと私は思った。

 

 

 

一日の仕事が終わると流石に疲れたようで、ルイズはキッチンのテーブルに突っ伏していた。

テファのお手伝いとしてサラダの準備をしている私の隣で、あ~とかう~とか唸っている。

もともとあまり運動をしない子だったのだろうか。スタミナには少々不安があるようだ。

本当は夕飯の手伝いもさせたいところだが、今日は勘弁してあげよう。

 

「ただいま~」

 

「おかえり。お疲れだったね」

 

そんなキッチンに晩御飯の美味しそうな匂いが漂い出したあたりで、工房組が帰って来た。

こちらはと言えば、才人もいささかお疲れ気味だった。どうやら仕事の後でディルムッドに扱かれてきたらしい。

間を置かずにテーブルにティファニアが作ってくれた晩御飯が並ぶ。

今日は野菜のクリーム煮だ。

テファには栄養学のさわりくらいは教えてあるので、献立の内容はいつも栄養のバランスが取れている。

それぞれが信じるものに祈りを捧げて夕食が始まる。

 

「どうだったね、久方ぶりの工房仕事は」

 

よほどお腹が空いていたのか、がつがつと食事を貪る才人が食べ物を慌てて飲み込んで答える。

 

「さすがに疲れたよ。相変わらずすごい繁盛しているのな。その後で稽古だから、もう腕がぱんぱん」

 

「まだ体が出来上がっていないのと、力の抜き方が判っていないからだ。それこそが己の未熟な部分と考えるのだ」

 

その隣でディルムッドが優雅な手つきで食器を持ちながらコメントする。クールに決めているつもりなのかも知れないが、口元が微妙に緩んでいるのが私には判る。意外と師匠馬鹿だね、この人も。

 

「うう、先は長そうっすね」

 

「今のお前は、例えるならただの鉄の塊だ。それをお前が理想とする剣の形に鍛え、研ぎ、磨き上げていくのが鍛錬というものなのだ。時間がかかるのは当然のことと思え。何、仕事も剣も、筋は悪くない。焦ることはない」

 

「へへ、そうですよね」

 

ディルムッドの微妙な誉め言葉に才人がニヤつく。う~ん、うまくやっているね、この二人。

考えてみれば、ガンダールヴに稽古を付けられる剣士なんてハルケギニア広しといえ言えどもディルムッドくらいなものだろう。ガンダ―ルヴ発動時に、本気の本気で打ち込んでも受け止め、しかも叩き伏せてくれるような剛の者だけに才人も素直に懐いてくれているのだと思う。

 

「やっぱりもう一人男手があると助かるね。できればこのまま本当に雇いたいくらいだよ」

 

マチルダの方も才人の働きには満足しているようだ。それを受けてなのか、ティファニアが言葉を付け足した。

 

「ルイズさんもすごく頑張ってくれたよ」

 

テファの発言に工房組が目を丸くする。

 

「何よ、その反応は?」

 

不機嫌に睨みつけるルイズに、才人が応じる。

 

「いや、お前、絶対ヴィクトリアを怒らせているんじゃないかって思ってたから…」

 

才人の言葉に、ルイズより先にティファニアが応じた。

 

「そんなことないよ。ルイズさん、患者さんにも元気のいい子が入ったね、って誉められてたんだから。ねえ?」

 

「当然よ」

 

テファのフォローに得意そうな顔をしているルイズだが、まあ、確かによく働いてくれたと思う。

むしろ、本来の目的は大丈夫なんだろうかと不安になるくらいだ。

 

「まあ、お世辞抜きでよくやってくれているよ。この時期は熱中症の患者が多いから、人手が多いのはありがたいね」

 

「毎年姉さんも魔法で冷やすの大変だしね」

 

茹って運ばれてきた患者を濡れタオルで冷却する人手が確保できたのは、精神力の消耗の点からも確かに助かる。

そんな食卓の空気に、ルイズと才人が発する戸惑いが僅かに漂う。

 

「ねえ、ティファニア。訊いていい?」

 

ルイズが首を傾げながら訊いた。

 

「何?」

 

「前から不思議だったんだけど、何でこの子のこと、姉さんって呼ぶの?」

 

「え? だって、姉だもの」

 

「姉?」

 

ルイズと才人が言葉が飲み込めないような味のある顔をしている。

マチルダとディルムッドが顔をそむけて笑いをこらえているのがいささか面白くない。

 

「ヴィクトリア…お前、幾つなんだ?」

 

「女に歳を訊くもんじゃないよ」

 

「いいから答えなさいよ」

 

ルイズがきゃんきゃんと喧しい。

隠すことでもないので実年齢を開陳すると、予想通りに二人が通りまで聞こえそうな大声をあげて驚いた。

判ったら、少しは年長者を敬え、原作主人公組。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな感じに、夏が過ぎていく。

1週間も過ごすと、私たちにも居候2人にもそれなりにリズムと言うものができてくる。

そんなルイズだが、仕事に慣れるに従って私が扱う医術についても結構深い部分まで興味を示すようになってきた。

確かに一風変わった医療道具が並ぶ診察室だが、何が面白いのか時間があるときは私に断りを入れてから診察室に並ぶいろいろなものをつぶさに見て回っている。

その熱の入り方は、弟子入りでも考えているのかと思うほどだ。

もともと、魔法を一生懸命に勉強していたのはカトレアの病気のためだったように思うが、魔法については虚無という属性に目覚めてしまった以上、残念ながら仮に弟子入りを志願されてもルイズには私の技術は継承できない。

この世界の私の医術を教えるには、水メイジであることは必須の要件なのだ。

もし、魔法以外の部分の一般的な医術の部分について教えるとしたら、腰を据えて10年は勉強してもらわなければならない。実地と座学、どちらもそれなりのボリュームの勉強が必要なのだが、虚無の担い手になってしまったからにはルイズにその自由はないだろう。

私としても、もし本当に自分の知識の継承を考えるのなら、こんな小さな診療院ではなくティーチングホスピタルや大学病院のような教育機関の設立を検討する必要があると思う。その設立にはそれなりに資金とコネがいるだろう。無論、そのどちらも私にはない。

カトレアあたりに相談すれば何とかしてくれるかも知れないが、代償がどれだけ高くつくかを考えるとおっかなくて言えない。

カトレアと言えば、ここしばらくは寛解の状態を維持しており、熱発も発作も起こっていないと聞いている。

侍医長の話では侍医団の中にも免疫系への理解が浸透し、本格的に幹細胞再生への研究がスタートしたらしい。どういうアプローチになるのかは私ごときでは想像もつかないうえに、伝えるべきものはほとんど伝え切ってしまった今となっては、会合を持つたびに私の方がいろいろ教わるのが常になっている。

医学には臨床と教育、そして研究の三分野があるが、話を聞くたびに、こてこての臨床の徒である私と違い、研究部隊でもある侍医団の対応レベルの深さには恐れ入るばかりだ。

私も研修医時代には臨床研究のような形で論文の世界の欠片を見たことがあるが、論文と資金に追いかけられる生活が性に合わず、どちらかと言えば小脳で生きているタイプなので研究の方向はすっぱり見切って臨床医に専念したような記憶がある。彼らのように物事を深めていくことは私にはできない。

正直、今一度この世界の医療体系を基礎から勉強してみようかと思ったこともある。トリステインではアカデミーのように研究については立派な組織が整備されており、予算についても科研費みたいに使い方が面倒で研究の足を引っ張る制度もないのだろうから学べたらさぞ楽しいだろうとは思うのだが、所詮今の私は平民の町医者。そのような正規の学問を修めることは夢のまた夢だ。

 

閑話休題。

 

診療院の基幹業務の一つに往診があるが、慣れてきた頃合いを見計らって、私は積極的にルイズを往診に連れ出すようにした。

診療院のスタッフとして働くだけでは、ルイズの求める情報に偏りが出るであろうと思ったからだ。

困ったのは鞄持ちで、テファに比べて体が小さく非力なルイズはドクターバッグを運ぶことができなかった。

金属製の道具や秘薬が入っているドクターバッグは、確かに結構重い。

ルイズの細腕では持ち上げることはできても、往診先まで握力が持たないようだ。意外なところで貴族のお嬢様らしい部分を露呈したルイズだった。

仕方がないので、私も幾ばくかの荷物を持つことにした。マチルダに荷物を入れる鞄を作ってもらったのだが、普通のドクターバッグをお願いしたはずなのに、でき上がって来たのはどういうつもりなのか猫さんをデザインしたリュックだった。

渋い顔でそれを背負った私を見る爆笑3秒前の表情のマチルダと、既に大爆笑の才人。ディルムッドは感情を殺したように無表情になっているが、雄弁な沈黙もこれに極まれり。テファは『お持ち帰り~』とか言いだしかねないくらいに目をキラキラと輝かせている。

降り注ぐ生暖かい視線に、私はこめかみに井桁模様を浮かべた。

やってくれた喃。

いたずらの罰として、マチルダをくすぐり地獄の刑に処す。

マチルダのウメボシぐりぐりに対抗するために編み出した技だが、何気に感じやすいマチルダはこの種の攻撃に殊のほか弱いのだ。加えて女同士、しかも私は水のメイジだ。泣き所は手に取るように判る。1分間ほど施術して溜飲を下げ、息も絶え絶えにぐったりするマチルダを置いて私はルイズを伴って往診に出発した。

 

往診の多くは寝たきりの方の床ずれの治療だが、稀に寺院併設の孤児院に呼ばれることもあるし、怪我などのリハビリをしている患者の様子を見に行ったりもする。

そんな往診の中には、大口の定期巡回も含まれている。

 

「今日はどこ?」

 

鞄を手に隣を歩くルイズが、笑いながら私の背中の猫バッグを見ている。お前もくすぐり倒してやろうか。

まあ、見たくなるのも判らないでもない。妙にキャラクターとして完成したコミカルな猫だ。

コミカルなくせに使い勝手は完璧で、しかもしっかり背中に馴染むあたりはさすがはアトリエマチルダの作品だが、私の外見とも見事に馴染んでしまっていることには全私が泣いた。

 

「下町の職人街だよ」

 

「職人街?」

 

「職人の御隠居たちが住んでいるエリアなんだよ。とりあえず、今日の相手はお年寄りだ。幾ら平民でも、年長者への相応の対応を頼むよ」

 

そんなルイズを連れて出向いた先は、リタイア後の身寄りがない職人たちが集まって暮らす一角だ。雰囲気は日本の感覚だと昔の長屋に近いように思う。年齢を始め、いろいろな問題でリタイアした職人たちが頼る先もないので集まって来て自然発生的に生まれた地区だ。

川に面したお世辞にも綺麗ではないエリアに建てられた建屋の佇まいは貧民窟まで一跨ぎな気配もあるが、最初の訪問以来徹底して衛生の概念を説いているので不潔な感じはしない。

家の玄関口に椅子を置いて日向ぼっこをしていたお年寄りが私に気付き、歳に似合わぬ大きな声を上げる。

 

「先生がお見えだぞ~」

 

それを皮切りに、家々からゾンビのようにぞろぞろとお年寄りが湧き出てきた。その迫力にルイズはやや顔をひきつらせているが、私たちを見る彼らの視線は孫を見るような優しいものだ。

定期的な巡回なので住人もすっかり心得ていてくれているようで、診療場所に指定してある集会場のような建屋には、既に今日の患者さんが集まっていた。

人間、製造から半世紀も過ぎれば至るところにガタが出てくるものだが、この界隈のお年寄りたちは割合としては元気な人の方が多い。威張る訳ではないが、私の成果だ。

お金のないお年寄りの病気の治療を好んでやる者がトリステインにはほとんどいないためか、老いたり病んだりした身寄りのない職人たちは終の棲家を求めてこのエリアに移り住んでくるのだが、そんな姥捨て山みたいなエリアに住まうお年寄りの体に元気を吹き込んでいく。

新顔の3人を含め、継続的な治療が必要な患者たちを診察し、加齢によっておかしくなっている部位に秘薬と魔法で治療をかける。白内障や緑内障等で視力に問題を抱えた患者や、前立腺肥大にリウマチに神経痛、今は根絶してしまったが、最初の内は胆石や結石、癌や狭心症を患っている患者もいた。老いと言うものが不可避なものである限りは、どんな人でも罹患しうる病気ばかりだった。そんな、積み重ねた人生の重みに押し潰された部位を抱えた患者に治療を施していく。

これとは別に、全員に対して定期的に診ているのが脳の状態。脳の血管を始め、大脳皮質や海馬の萎縮や脳室が拡大していないかを血流の具合で調べて行く。言うまでもなく認知症の確認だ。

さすがにアルツハイマー型認知症は予防法を伝えるくらいしか対処法がないが、脳血管性認知症ならばこの検査で危険因子を探ることができる。

お年寄りと言うのは、生きた情報集積体だ。おばあちゃんの知恵袋ではないが、彼らが持っている知識やノウハウは情報媒体が貧弱なこの世界ではこの上なく貴重なものであり、老衰以外の理由で朽ちさせてしまうのは国家の損失だと私は思っている。文字にも形にもできない貴重なノウハウは失われてしまったら取り返しは付かない。記憶によれば、アポロ計画で華々しく活躍したサターンⅤ型ロケットは、その製造のノウハウが失伝してしまったがために21世紀のNASAは同じものが作れないのだと聞いたことがある。図面や設計図は引き継ぐのは容易でも、人の持つスキルやノウハウと言うものはそう簡単には行かない。そんな人的資源にこんなところで老けこまれたり恍惚に陥ったりしてもらってはもったいないことこの上ない。

また、働くと言うことは、恍惚防止には非常に効果がある。社会はまだまだ彼らを必要としていると言うことを彼らに自認してもらい、その張り合いを裏付けにして積極的に脳を動かしてもらうのが認知症防止の最大の特効薬だと私は思っている。

さすがに老衰はどうしようもないが、目だの腰だのといった回復可能な理由で仕事をリタイアした人の体にレストアをかけて、もう一花咲かせてもらうと言うのが私の理想とする老人介護だ。

あとはシルバー人材登用の制度の確立だが、その辺は街の商工会の方にマチルダが渡りを付けてくれているので予想以上に円滑に回っており、最近ではこのエリア独自の工房も立ち上がり、高い評価を受ける産品が世に送り出させるようになっても来ている。

常々魔法と言うものはチートだと思っているが、こういう少子高齢化問題の解決にすら資する部分を見ると、やはり魔法は貴族の精神的根幹と言うよりも社会基盤のツールとして位置づけた方がこの世界の笑顔の総量は増えるのではないかと私は思う。

とは言え、実現するとしたらブリミル教を叩き潰した上で、貴族制を排する市民革命あたりを起こさないとダメだろう。

荒唐無稽の域を出ないと言うのが実に残念だ。

 

そんな午後の診察、ルイズに助手をやらせながら患者を捌き、一段落したところで動けるお年寄り全員に広場に集まってもらう。

綺麗に整列したお年寄りたちの前に立って向き合い、大きな声で叫ぶ。

 

「では、腕を前から上に上げて、大きく背伸びの運動ぉ~!」

 

居並ぶお年寄りが、一斉に私の動作を真似て運動を始める。

ラジオ体操。

これが老人医療における私の切り札のひとつだ。

釣りは鮒に始まり鮒に終わるというが、私にとって健康法はラジオ体操に始まりラジオ体操に終わる。

何しろ、ラジオ体操のルーツは保険会社の考えた健康体操だ。その動機は『保険金を払いたくないから皆に健康になってもらう』という清々しいほどに打算的なものであり、金をケチると言う人間の最も欲深いところから生み出されただけあって、その内容は実に合理的なものだ。健康のために太極拳をやる方もおられるが、あれは辿って行けば根は武術であり、目的は効率よく敵を殺傷するためのものなので、純粋に健康と言う面で考えた時はラジオ体操の方が優れていると私は信じている。真面目にやると、このラジオ体操と言うのはなかなかきつい運動だ。真剣にやると全身の筋肉を使うことが判るし、終わるころには息が切れるくらいだ。

ここのお年寄りには毎朝やるように言い含めているが、始めて以来、彼らの健康状態が確実に上向いているのは否定できない事実なのだ。

のびのびと運動している私の隣で、同じ動きをしているルイズの動作はぎこちない。まだ照れがあるようだ。

ナースウェア姿で、もぢもぢとラジオ体操をするルイズ。

客観的に見て非常に可愛らしい。それはもう、やばいくらいに。

才人が見たら、アレな発作を起こしそうな光景だと思う。

 

一汗かき終わったところで、住人から茶と茶菓子が振る舞われる。

この茶菓子、菓子職人だった方がおられるのか実に美味。このエリアの往診の密かな楽しみの一つだ。

最初は抵抗を示していたルイズも、一個口にした途端に黙ったくらいだ。

そんなささやかな茶会に招かれながら、それとなく世の中の話題について話を振ってみる。

ルイズを連れてきた理由はこれだったりする。

海千山千のお年寄りばかりなだけに、その見識には若い者にはない深い造詣がある。

どういう経歴をお持ちなのか知らないが、政治についても客観的で鋭い意見を述べる方も少なくない。

アルビオン攻略の是非や、諸外国との関係見直し、内政についてはアリンエッタの努力を評価する声が多いものの、それは年齢と経験の割にという但し書きがついているようだ。

それらを聞くルイズの表情は真剣そのもので、基本的に悪意がないお年寄りたちの話に一心に耳を傾けている。

それは報告書の形でアンリエッタに伝わることだろう。

この国の行く末に、多少なりとも役立ってくれればいいのだが。

 

 

 

 

 

往診の帰り道、私の隣を歩きながらルイズが口を開いた。

 

「噂には聞いていたけど、知れば知るほどあんたの治療法って本当に独特ね」

 

「そうかい?」

 

「そうかい、じゃないわよ。自覚あるでしょ? あんな体操、本当に効果があるの?」

 

「あるよ。それはもう素晴らしいくらいに」

 

「本当かしら。あんなの、今まで聞いたことないんだけど」

 

「う~ん、あんたが今まで見てきたのは治療医学と言うものでね。あの体操はそれと違って、予防医学という部類のものなんだよ」

 

「予防医学?」

 

首を傾げるルイズに、予防医学の重要性を説明する。

健康というのは基本的に不安定なものであり、油断をすれば人はすぐに病気を患う。

歳を取ればなおさらだ。

そうならないように、日々食事や運動などの生活習慣や定期健康診断などで病気にならない体を作っていくことが予防医学の基本的な考え方だ。

ともすれば、西洋医学と同様に対処療法に偏りがちなハルケギニアの医療では、確かに変わった考え方だとは思うが、その有効性は先のお年寄りたちで実証済みだ。

病気は、なってから治すより、かからないようにすることの方がQOLの観点からは有益だということはできれば広まって欲しいと私は思う。

そのことを噛み砕いて説明すると、ルイズはますます難しい顔をした。

 

「そんなにいいものなら、何で世の中に広めようとしないの?」

 

「所詮は平民の町医者の戯言さね。今は手近なところから始めて、徐々に広めていくしかないんだよ。あと50年もすれば、それなりに広まってくれるんじゃないかねえ」

 

「…本当に変わってるわね、あんた」

 

「褒め言葉と思って受け取っておくよ」

 

あきれたようにため息をついたルイズはそれきり黙りこんでしまった。

何を考え込んでいるのか知らないが、私の説明を噛み砕いて理解しようとはしてくれているらしい。

足音だけが聞こえる時間が数分ほど流れ、ルイズが唐突に口を開いた。

 

「ねえ、ひとつ訊きたいことがあるんだけど…」

 

「何だね?」

 

「私の、姉のことなんだけど…」

 

そんな会話をしている時だった。

 

『主、今はどちらに?』

 

ディルムッドから『通信』が入った。

話を続けようとしたルイズを手で制し、意識を集中する。

基本的にディルムッドが念話を使うことは非常時以外あり得ない。

 

『もうじきブルドンネ街だよ?』

 

『それはよかった。ブルドンネ街で事故が起こりました』

 

 

 

 

 

 

「どいておくれ!」

 

最低限の荷物をリュックに詰めてブルドンネ街に向かうと、現場は野次馬でごった返していた。

街の一角の建設現場で足場の倒壊。

絵に描いたような労働災害だ。死者は幸いにも出ていないが、怪我人多数。中でも深刻だったのが転落し、建材の下敷きになった石工だ。

見知った顔だった。お腹が大きなカミさんがいたはず。

私が到着すると、ちょうど石工仲間が彼を瓦礫の下から助け出したところだった。

駆け寄ると、石工たちがスペースを開けてくれる。

横たわる石工を診ながら、体に染みついた外傷初期診療ガイドラインに基づいて状態を確認する。

頭部外傷はなく見当識も正常なようだが、右足の挫創と腹部に刺さった鉄片が深刻だ。出血も酷い。腹をやられているので蚊の鳴くような声で石工が言う。

 

「助け…」

 

「安心おし、寝ている間に何とかしておいてやるから、ちょっとの間お眠りな」

 

魔法で患者を眠らせて応急で止血を行う。腹に刺さった鉄片はそのまま残置だ。

 

「力自慢何人か、板に載せて揺らさないようにうちに運んどくれ!」

 

診療院に着くと、伝令に走らせたルイズから話を聞いていたテファが受け入れの準備を整えていてくれていた。診療院のパフォーマンスをフルに発揮する必要がある患者だ。修羅場馴れしていないルイズには見学に徹してもらおうと思っていたのだが、

 

「手伝えることは?」

 

運び込まれた患者を見て、感心したことにルイズは眉をひそめただけだった。それだけでも大したものだと思うのだが、協力を申し出てきたあたりは驚愕に値する。腐っても鯛、さすがは大貴族たるヴァリエールの一族、さすがは『烈風』の娘だと思う。

 

「助かるよ。一番大きな鍋にお湯を沸かしておくれ」

 

処置室に運び込んで、今度は詳細に診察する。

足の挫創は切断の心配はなさそうなので、まずは腹部からだ。深く刺さった鉄の建材は厄介だった。

探っていくと腸は上手く避けているようだが、脾臓と主要な血管の損傷がひどい。

外側からの魔法だけでは追いつきそうもない。

 

「…開くしかないね」

 

「準備できてます」

 

テファが手際よく手術道具を整える。

それを受け取り、生食をはじめとした各種薬液の輸液を指示、素早く開腹手術にかかる。組織が虚血性梗塞を起こす前に血管形成をしなければならない。

前世と違い、この世界の医術の最大のアドバンテージは開腹手術と治癒魔法の両方を使えることだ。広い範囲に浅く効果を及ぼすだけでは追いつかない損傷を、開腹して直接魔法を施術すると生存率が飛躍的に高まる。これに秘薬の効果が乗るとより効果が増す。

手早く腹部を開き、血管を鉗子で止血して鉄片を引き抜く。そこにルイズがお湯を抱えて入ってきた。

手術台の上で行われてることを見て、さすがに息を飲んだようだった。

 

「慣れないうちは、見ないことを勧めるよ」

 

「ば、馬鹿にしないで。大丈夫よ」

 

「ならば、鍋は向こうのコンロに載せて、隣にある用具をガーゼに包んでよく煮ておくれ」

 

足の修復に必要な用具だ。たどたどしいながらも一生懸命な手つきで作業をしながらルイズが問うた。

 

「その人、生きているのよ…ね?」

 

気丈に振る舞ってはいるが、さすがに腹を開かれている患者を見て思うところはあるらしい。

 

「当り前だよ。生かすための措置さね」

 

そんなやり取りをしながら、血管形成に杖を振るう。この種の手技において治癒魔法は実に有効だ。ある程度の修復さえできていれば、血管吻合をちくちくやらなくても魔法一つで癒着するだけに施術の速度は前世の比ではない。あの時魔法が使えていればと前世で死なせてしまった患者たちを思い出すこともあるが、与えられた条件でベストを尽くした上での話だ、彼らも許してくれると思いたい。

血管の形成が概ね終わり、血流が回復する。何とか間にあったようで、腸はきれいな色をしている。腸管虚血を起こしていたらいろいろ厄介なことになるところだった。念のため組織を丁寧に確認するが、どこも壊死は起こしていない。現状のバイタルサインも概ね許容範囲。この患者は運がいい。

そんな感じに手を動かしていると、頬のあたりに妙にざらつくものを感じる。

ちらりと見ると、ルイズが食い入るような目で私の手技を見ていた。

探るような、確認するような、ちょっと気になる視線だ。

今の私にそれを気にしている余裕はないのでそのまま閉腹。次に足の挫創に取り掛かる。

こっちも酷い塩梅だ。秘薬を使い、神経と血管の修復を行う。元通りにはなるだろうけど、しばらくは動けないだろう。

 

そんな感じに切ったはったで、2時間ほどで手術が終わった。

結構出血していたが、ショックも起こさずに済んだのは幸運だ。

処置室を出て、待合室で待っていた面々に状況を報告する。

中にはお腹の大きな女性もいる。彼の嫁さんだ。

手術が上手くいったことを告げるなりぽろぽろと泣きだし、仕事仲間の男どもは狭い室内にもかかわらず馬鹿でかい蛮声を上げて喜んだ。

奥さん以外の面会は今夜は勘弁してもらうとして、とりあえず何日かは診療院で預かることになりそうだ。

身重のところ済まないが、嫁さんにも力を貸してもらう。

ああ、本当に入院病棟が欲しい。

その前にスタッフの増員か。完全看護など、今の診療院では夢のまた夢だ。

ルイズ一人でここまで手術が楽になるとは思わなかっただけに、施設拡張について、本気で考えたくなった。

 

 

 

 

奥さんを旦那の枕元に案内した後で診察室に戻り、汚れた手術着を脱いで椅子に座る。

疲れが津波のように押し寄せてきた。

緊急手術の場合、治癒魔法はまさに乱れ撃ちのようなありさまになる。

まだ開業して間もないころ、トライアングルだった私はしばしば精神力が切れて昏倒したものだった。死人が出なかったのは幸いだったが、スクウェアになった今でも手術を一つこなせばそれなりに疲労は深い。

目を閉じて、晩御飯まで少しだけ仮眠を取ろうと思った時だった。

ドアが開いて、ルイズが入って来た。

何やら複雑な顔をしたまま手にしていたカップを私の前に置く。

ハーブティーが湯気を立てていた。

 

「冷たいものの方がいいかとも思ったけど、疲れているならこっちのほうがいいと思うわ」

 

「ありがとう」

 

一口舐める。味がいつもと違う。平たく言えば、不味かった。

どうやら、ルイズが淹れてくれたものらしい。

味はともかく、ルイズが用意してくれたという事実に正直びっくりだった。

一体何の前触れなのやら。何か魂胆があるのかとも一瞬思ったが、ルイズの表情は真剣なものだった。

 

「ねえ」

 

「何だね?」

 

「いつもあんなことやっているの?」

 

「あんなこと?」

 

「患者の内臓をいじるやつ」

 

「滅多にはやらないね。普通なら治癒魔法と秘薬で治せる。それだと間に合わないような場合は、ああやって直接問題の部位を修復するんだよ」

 

「ふ~ん…」

 

「結構グロテスクだったろ?」

 

「…そうね」

 

「冷静だね。私が初めてああいうのを見た時はひどいもんだったよ」

 

初めての検体実習の時、その場は頑張れたものの、お昼ご飯を口にした瞬間に嘔吐したのを思い出した。部分標本を使っての実習はどうということはなかったのだが、人の体全体を相手にするとなるとやはり来るものがあった。

ルイズを支えているものが何なのかは私には判りかねるが、なるほど、公爵家の令嬢に相応しいだけの精神力はあるのだと思う。

 

「そうでもないわ。正直、しばらくお肉は見たくないわね」

 

「それくらいなら立派なものだよ。私の時は、げーげーと派手に戻したもんだ」

 

「偉そうなあんたにも、そんなことがあるのね」

 

「そりゃそうさ。私だって人の子だよ」

 

そう言うと、ルイズは珍しく柔らかい笑みを浮かべた。

寄ると触るとつんつんしていた私たちの間に、珍しいくらい穏やかな空気が漂っていた。

 

「あんたさ…」

 

「何だい?」

 

「何で、こんなところでお医者をやってるの?」

 

「何でと言われれても…他に食べる方法を知らないからさ」

 

嫁さんがもらえないサングラスの大尉さんもそう言っていた。

 

「嘘。あんた、スクウェアでしょ。その気なら、どこの家にだって仕官ができるはずよ」

 

「買い被りだよ。私程度の腕の持ち主くらい、トライアングルクラスの水魔法使いでもごろごろいるよ」

 

これは嘘でも謙遜でもない。

スクウェアなのは確かだが、メイジの本質はそんなものでは計れないことが往々にしてある。

水のメイジともなればなおさらだ。

魔法学院からアカデミーまで、きちんとこの世界の学問を修めた水メイジの実力は、私なぞ足元にも及ばないものがある。カトレアのところの侍医団のすごさを見ているだけに、自分の医術が優れているなどとは恥ずかしくて言えない。何しろ、その気になれば自分の脳をミノタウロスに移植するような奴もいるくらいだ。個体間どころか種族間の壁すら飛び越えるような魔法使いがうろついている世界なだけに、私が知っているいろいろな治療くらい余裕でこなす奴は掃いて捨てるほどいるだろう。

私は、平民を相手にしているからこそありがたがられるニッチな存在なのだ。

そんな私の思惑をよそに、ルイズは何かを迷っているような口調で言った。

 

「あんたに…前に、私の姉のこと、話したことあったわよね」

 

「体が弱い姉君だっけ?」

 

「そう。最近王都に住んでいるの。新しい治療法が見つかったからそれを受けるためにね」

 

「前にそんなこと言ってたね」

 

「私、訊いてみたの。その治療法を教えてくれたのは、どういうお医者なのかって。だって、治ったら姉の命の恩人だもの。会ってみたいじゃない」

 

「それはそうだろうね」

 

「でも、どうしてなのか、誰も教えてくれないの。姉も教えてくれなかったわ。内緒だから、その人との約束だからって言ってね。どうしてかしらね」

 

「さあ。きっと、その人は恥ずかしがり屋なんだろうさ」

 

冗談めかして答える私を余所に、ルイズの表情は怖いくらいに真摯なものだった。

 

「私なりに調べてみたわ。ヴァリエールの街屋敷を訪れる人は多いけど、お医者は侍医の人たちがいるからそんなに来ないしね」

 

余計なことを。こいつ、『しりたがりは、わかじにするぞ』という言葉を知らんのか。

 

「お医者のことは判らなかったけど、ひとつ変なことが判ったわ。使用人に聞いたんだけど、月に数回、貴族でもない女の子が姉を訪ねて来て、侍医の人たちと話をして行くんだって」

 

使用人までは緘口令は及ばないか。やはり、人の口に戸板は立てられないものだ。

 

「へえ」

 

曖昧に応じる私に、ルイズは詰めの一言を発した。

 

「その子、王都に住んでる茶色の髪をした女の子だって言ってたわ。…誰だと思う?」

 

「さあ」

 

窓の外を見ながら生返事を返すが、頬のあたりにルイズの刺すような視線を感じる。

恐らく、既にルイズの中ではそれが私であることについては確定しているのだろう。しかし、そのことを私の口から言わせていいかどうか、悩んでいる気配がした。裏にある事情について、おぼろげながらには理解してくれているようだ。

 

「その人に迷惑をかけるつもりはないのよ。私、できれば自分で姉を治してあげたかったけど、私には水魔法の素養はないしね。でも、一言くらいお礼を言いたいのよ。姉を助けてくれてありがとう、って」

 

「ん~、いらないんじゃないかな、そういうの」

 

「何でよ」

 

「まだ、姉君は治っていないんだろう? 感謝するなら治ってからの方がいいだろうね。それに、多分その人もお礼を言う時間があったら、その時間の分だけ姉君と仲良く過ごしてくれている方が嬉しいと思うよ?」

 

「そういうものなの?」

 

「そういうものさね、医者なんて」

 

これは私の考えだが、医者と患者とは、基本的に点の付き合いだ。

そういう意味では介護士は線。そして、家族は面。

医者が告げる『お大事に』の一言で、基本的に医者と患者の二人三脚は終了する。

医者もまた、所詮は人の子だ。すべての患者の人生を背負うには、その肩は小さすぎるのだ。

逆に、用事が済んだら恩着せがましく患者の近くをうろつくべきでもない。

過度な繋がりは、医者の目を曇らせる。身内になってしまうと、冷静な判断はできなくなるものだ。

常にその手をつないでいるのではなく、困った時に伸ばされた救いを求める手を取ってあげられるくらいの距離感がちょうどいいのだ。

感謝の念は、もう身に余るほどもらっている。これ以上の気持ちは、私にとっては余禄に過ぎる。

 

「そう…。なら、そうすることにするわ」

 

それだけ言うと、妙にすっきりした顔でルイズは踵を返した。

 

「ティファニアが、工房の人たちが帰って来たらご飯にするって」

 

「はいよ」

 

ルイズはドアを開けて出ていこうとした時、一言だけ呟いた。

 

「ヴィクトリア」

 

聞こえてきた呼び名に、違和感を感じた。

この子、初めて私の名前を呼んだね。

そして、ドアが閉まる時。

 

「もし、あんたが困っている時に、私にできることがあったら…力になるから」

 

少しだけ戸惑いを含んだルイズの言葉が、聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後の午後。

往診もなく、診察室で資料の整理をしている時のことだった。

チクトンネ街全体が、妙に物々しい雰囲気に包まれていた。

 

「おやまあ、何だろうね」

 

窓を開けて外を覗くと、武器を持った兵が多くうろつき、街には警戒線が張られているようだった。

またぞろアルビオンの密偵がけしからんことをやりだしたのだろうか。

町内会の警戒網にひっかかる間者は見つけるそばから退治しているが、漏れでもあったのかも知れない。

最近はルイズとティファニアはすっかり仲良くなり、今日はブルドンネ街の方に一緒に買い物に出かけている。昨日がテファのお小遣い日かつルイズの給料日だったので服を買うとかなんとか言っていたっけ。

街が急に騒がしくなったので、そんな二人を心配していた時だった。

 

「ヴィクトリア」

 

ドアが開く音と共に聞こえた声に、まとめていたカルテを棚に戻して玄関にパタパタと走る。

出迎えると、そこに仕事着姿の才人と、その背に隠れるように一人のローブ姿が立っていた。見た感じ、女性のようだ。

 

「どうしたね、お昼でも食べに来た…って訳じゃなさそうだね。連れ込み宿なら家よりいいところを知っているよ?」

 

「違えよ! ルイズは?」

 

「テファと一緒に買い物に行ってるけど?」

 

それを聞いて、才人はどこかほっとしたような顔をした。

 

「ごめん、ちょっと匿ってくれ」

 

「匿う?」

 

才人が後ろに庇っている人影に目を向ける。良く見れば、ローブの中身は年のころは才人と変わらないくらいの女の子だった。

やや目深にフードを被った女性。

 

 

夏だというのに、私の背中に冷たいものが静かに走る。

ああ、なるほど、そういうことか。

 

 

 

 

 

私の中の歯車が軋みながら回り始めた時、フードの隙間から、私と同じ色の髪が一房、こぼれた。

 



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その31

昔、友達が野良猫の話をしてくれたことがあった。

どこから来たのか知らないが、ばっちい小さなキジトラの猫だったそうだ。

気まぐれに煮干しをあげたら、それから頻繁に家を訪れるようになり、やがて屋内で餌を食べるようになり、夜になると普通に自分の布団に潜ってきて寝るようになったとか。飼うとも飼わないとも言っていないのに、当たり前のようにそこにいるような素振りだったそうだ。

猫がばら撒いた蚤に刺されて気が狂うほどの痒さを知る羽目になったとか、悪夢に魘されて目が覚めると胸の上で猫が丸くなって寝ていたとか、冬になると炬燵の中で茹ってふらふらと出てきてボテッと倒れるとか、反対に夏になると奴がいるところが一番涼しいとか、掃除機をかけていると血相を変えて逃げだすとか、抱っこすると何故かいつも息が魚臭いとか、自分が風邪をひいて寝ていたら枕元に捕まえた雀を咥えて来て『まあ、これでも食べて元気を出しなさい』みたいな顔をしていたとか、とにかく飽きない毎日だったそうだ。

だが、そんな日々が数年続き、老境に差し掛かった猫がふらりといなくなって2日後に、物陰で静かに、そして穏やかに冷たくなっていたのを見つけたと彼女は語った。

日頃、『あいつは困った奴なんだ』と猫のことを言っていた友人がぽろぽろと零した涙が、今も忘れられない。

 

 

 

 

 

 

火にかかったケトルを見ながら、私は物事の推移について思いを巡らせていた。

茶色い髪の来訪者。

ここにルイズと才人を住まわせた時点で、こんなこともあるかとは思ったことはあったが、いきなりな来訪は、やはり胆が冷える。

アンリエッタ・ド・トリステイン。

できれば接点を持つことなく済めばよかったのだが、物事はそう簡単には行き過ぎてくれないようだ。

この時期の彼女は、アルビオンの人でなしどもに外道な策を仕掛けられて深刻なメイジ不信に陥り、復讐の念が嵩じて視野狭窄を起こしてアルビオン討つべしという戦争特需の利権屋万歳な施策を推し進めていたように思う。

また、ワルドの裏切り問題やヒポグリフ隊の全滅等の魔法衛士隊の崩壊もあり、その結果銃士隊が組織され、アニエスが抜擢されて騎士に任じられたのもこの頃だったはずだ。

アニエスと言えば、最近は多忙なのかタルブからの凱旋のお祝いをして以来すっかりお見限りなのだが、状況の流れからすると、恐らく今頃は銃士隊の統括や、売国奴リッシュモンのあぶり出しに向けた内偵作業で大忙しというところか。さすがに診療院や工房に顔を出す暇などないのだろう。

しかし、そんな一連の出来事の発端となった誘拐事件は私の耳には届いていない。私だけでなく、町内会の網にもかからなかった。問題が問題なだけに、かなり高度な機密になっているのかも知れない。

原作を読んだとき、私としてはあの誘拐事件については少なからずアンリエッタに同情的な感想を持ったものだった。幾ら戦争とは言え乙女の純情につけ込むとは、同じ女として許しがたい所業だ。その罪は山よりも重く海よりも深い。まさに万死に値する重罪だ。

私心を殺すのは為政者としては当然の資質とは言っても、所詮はまだ17歳の小娘、私の前世に当てはめれば高校生だ。前世とこの世界では同じ17歳でも精神の成熟度は比較にならないが、それでもまだまだ経験が足りない年齢だろう。政治の世界において17歳の小娘など海千山千の古狸にかかれば赤ん坊のようなものだ。そんな女の子に対し、老練な王として振る舞えと言うのがそもそも無理な話なのだ。

かのイングランドのヴィクトリア女王の即位も同じような年頃だったと思うが、彼女にも何ちゃら子爵というブレインがいたと記憶している。トリステインではマザリーニがその役を負っているのだと思うが、後ろ盾になるべき彼自体が貴族連中から『鳥の骨』と呼ばれて白い目で見られている状況では、その細い双肩にトリステインという荷物を負わせるのはやはり気の毒だとも思う。

派閥や陰謀の渦巻く伏魔殿で、孤軍奮闘するお姫様。

他人事ながら、同情を禁じ得ない話だ。

しかし、そんな彼女の思惑が我が身に降りかかってくる問題となると話は変わってくる。

復讐に狂い、ルイズすら駒と考えるような精神状態の彼女に会って、私にとって良いことが起こるとは思えない。

このまま互いに何事もなくすれ違えればそれでよし。

そうでなければ、場合によっては彼女を私のささやかな領土を攻めて来た敵と見なさざるを得ない。

もし、この時間軸のアンリエッタがティファニアの事を知っており、虚無の事をも知っていたとしたら最悪だ。大事を前に、そのような重要な存在をアンリエッタが放置しておくとは思えない。

テファを徴兵してアルビオンに送り込むなど、考えただけで総毛立つ思いだ。

もし、そのような意図でテファに手を出して来るような事があったら、私は躊躇わないだろう。私の目の黒いうちは、大事な妹には指一本触れさせるつもりはない。

何もトリステイン全軍を相手に屍山血河を築かなくても、テファを守る事はできる。

伝説の虚無が具現化したことが機密であること、そして女王自らが雲隠れした今の状況は、私に利する。

必要があれば、アンリエッタにはこの場の足取りを最後に永遠に行方不明になってもらうことすら選択肢のひとつだ。ここには避難用の地下道もあるし、何より私は水のメイジだ。死体の始末など幾らでも方法は思いつく。

 

そんな感じに完全犯罪の絵図面を思い描く私だが、冷静にこういうことを考える自分に対する嫌悪の念がない訳ではない。

人を救う職にありながら、時には躊躇なく人を殺める矛盾した存在。偽善者と言う呼称が、私ほど似合う奴もいないだろう。

だが、私にも譲れないもの、そして、自分の命より大事なものがあるのだ。

最善を祈りつつ、最悪に備える。

後は、あちらの出方次第だ。

願わくば、アンリエッタが何事もなく退出してくれますように。

 

 

 

 

そんなことを考えているとお湯が沸いたので、お茶を2人分用意して才人の部屋に運ぶ。

伺いを立てようとしていたら才人が部屋から出てきた。

 

「ちょうどよかった。お茶が入ったから持ってきたよ」

 

「ああ、ありがとう」

 

茶道具が載ったお盆を渡そうとしたら、才人は受け取ろうとせず言った。

 

「悪い。あの子、アンって言うんだけど、ちょっとあの子の相手をお願いできるかな。お礼が言いたいって言っているんだ」

 

あまりに唐突な言葉に、私は絶句した。

願っていた『最善』の二文字が、背後でガラガラと崩れていく音が聞こえるようだ。

 

「…お前さんは?」

 

「ちょっと見回りに行って来る」

 

その言葉で何となく察しがついた。これは才人の思い付きではないだろう。才人の人の好さにつけ込んで、アンアンが体よく人払いをしたに相違あるまい。

事態は転げ落ちるように最悪への坂を下っていく。

 

「そ、外は何だか物々しいよ?」

 

私を一人にするなと心の中で叫ぶが、鈍チンの才人にそんなテレパシーが届く訳はない。

 

「大丈夫だよ。一回りして、すぐに戻ってくる」

 

「…気を付けなよ」

 

 

 

 

薄情にも出て行ってしまった才人を見送り、私は部屋の前で立ちつくしていた。

さて、どういう顔をすればいいのやら。

しらばっくれて才人の帰りを待とうとも思ったが、何しろ相手は次にどんな事をしてくるか判らない人物だ。経過観察は得策ではないように思う。

あれこれ考えてはみるのだが、策を弄そうにも相手の手持ちの情報や出方が判らないので、まずは普通の平民として接する以外思い浮かばない。ここは腹をくくって、出たとこ任せで行くしかないだろう。

ドアの前に立ち、気合を入れる。

しかし、丹田に力を込めようにも脳裏をよぎる暗い未来の予感に、氷の坂を滑りながら登るような脱力感が付きまとう。

負けじと瞑目し、二度三度と深呼吸して力を貯める。

何だか、『あんパン』とでも叫んで自分を奮い立たせないと足が前に出ない感じだ。

そのまま2分ほど費やして、意を決してドアを叩いた。

 

『どうぞ』の声にドアを開けて部屋に入ると、アンリエッタは椅子に座って私を迎えた。

ルイズの服を着こんで薄く化粧をしている。はち切れそうな胸元が、何だかえっちだ。

初めて会う女王様。

さすがは親戚、目鼻立ちが私によく似ている。

アンリエッタの時間を7年ほど戻し、ちょっとだけ目を切れ長にすると私になる感じだ。

逆に、もし私の時間が正常に流れていたのなら、多分目の前の女性の時計を3年ほど進めたような容姿になっていたのだろうか。

しかし、姿は似ていても、立場は天と地ほども違う私たち。

いい加減に伸ばし放題の私の髪と、綺麗に手入れされたアンリエッタの髪。

その髪が、私たちの立ち位置を浮き彫りにしているような気がする。

 

「粗茶で済まないが、お茶を入れたよ。よければどうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

私がカップを勧めると、アンリエッタは優雅な手つきでそれを受け取った。

毒も気にせずいきなり口を付けたのにはちょっと驚いた。ここは、もうちょっと警戒するべきじゃないだろうか。

一口飲んだ後で、目を丸くしたアンリエッタ。

 

「美味しい」

 

「口に合うようで良かったよ」

 

一応、ゴールデンルールというものに則って淹れた茶だ。アルビオン時代、ティーセレモニーのためと言って、茶の作法については結構うるさく叩き込まれたものだった。雀百まで踊り忘れず。特に意識して淹れているわけではないのに、教育と言うのは恐ろしいものだ。

もっとも、茶葉だけは手持ちの中では一番いい奴を奮発した。がぶ飲み用のハーブティーではなく、紅茶だ。

代金は才人の給料からさっ引く、と言いたいところだが、恐らくさっ引いたら彼奴の給料は無くなってしまうだろう。

 

「いきなり押し掛けた上に、このようなお茶まで御馳走になるとは。心より礼を申します」

 

何だか鼻につくほど馬鹿丁寧な物言いが引っかかった。平民のふりをするのなら、話し方も平民風にしなければいけないところだろうに。

 

「いいんだよ。あの馬鹿の無鉄砲は今に始まった事じゃないし、気にしないでおくれ」

 

「あなたは、彼と親しいのですか?」

 

「成り行きでね。家族がやってる工房で、臨時雇いに雇っているんだよ」

 

「そうですか」

 

ぞんざいな私の物言いに合わせようともせず、アンリエッタの態度はどこまでも王族のそれだ。

 

「あいつもすぐに戻るだろう。むさいところだけど、ゆっくりしておくれ」

 

挨拶に関しては義理はもう果たしただろう。それだけ告げて早々に部屋を立ち去ろうとした時だった。

 

「少し、お話をしませんか?」

 

嫌な汗が背筋を伝う。

どうしたものかと悩んだが、静かに私を見つめるアンリエッタの視線がトラクタービームのように私の手足に絡みついて来る。視姦という訳でもないのに、それだけでうなじの辺りに鳥肌が立った。

それは、引きちぎろうと思えば簡単に引きちぎれるのに、精神がそれを拒絶するという何とも厄介な引力だった。才人がオルニエールの城の地下で味わった防御不能の吸引力の正体はこれなのかも知れない。今なら判る。あれは才人の浮気ではなく、アンリエッタによる精神的な強要だったのだ。きっとこいつの祖先はブリミルではなく、シスの暗黒卿あたりに違いない。

そんな訳で逃げるに逃げられず、観念してアンリエッタの対面に座る。

私の着席を確認して、アンリエッタはカップを手にしたまま柔らかい視線を部屋に向けた。

 

「ここは…とても雰囲気のよい診療所ですね」

 

「そうかい?」

 

「ええ。空気が、すごく優しく感じます」

 

アンリエッタが優しい声音で言う。玄関からこの部屋に入るまで、何やらあれこれ眺めていたのは気づいていたが、そんなことを考えていたとは気付かなかった。

 

「ああ、植物が多いからだろうね」

 

私が密かに憧れているミセストロロープの御屋敷ほどではないが、我が家も鉢植えやプランターなど結構植物が多い。やはり草木が近くにあると心が和む。

アンリエッタも水のメイジ、草木が発する気配との相性が良いのかも知れない。

それらに優しい視線を向けて、アンリエッタは言った。

 

「私はこの辺りのことは疎いのですが…暮らし向きや、街の様子はいかがですか?」

 

「まあ、口に糊していくくらいは何とかね。街の方は最近、少し騒がしいかな。大規模な遠征軍の噂が聞こえているから、戦争景気を当て込んだ連中がだいぶ流れ込んでいてね。でも、賑やかになっても景気の方は増税が効いて結構厳しいね」

 

「そうですか…」

 

静かにアンリエッタはカップに口を付ける。

何だか背中のあたりがむずむずするような感じがする。

腹の底を探り合うような雰囲気なようで、それでいて穏やかな陽だまりのような、おかしな時間だ。

しかし、ここは既に戦場。

そんな時間をいきなりぶった切るような言葉の大鉈を、アンリエッタが振り下ろした。

 

 

「穏やかに暮らされているのですね、殿下」

 

 

いきなり奥座敷に乗り込むような斬り込みに、正直面食らった。それでもポーカーフェイスを保てたところは我ながら上出来だと思う。

 

「誰と間違えているのか知らないけど、私は殿下なんて呼ばれる身分じゃないよ。お前さんがアンと名乗るようにね」

 

さて、ここが最後の分かれ道だ。アンリエッタがどう出るか。出方によっては、自分の運命の秤を危険な方に傾けることになると言うことに気付いてくれればいいのだが。

しかし、そんな私のささやかな願いは、あっさりと打ち消されてしまった。

 

「これは失礼しました」

 

アンリエッタは椅子に座り直し、威厳のこもった声で告げた。

 

「私はアンリエッタ・ド・トリステイン。トリステイン王国の、国王です」

 

私は内心で舌打ちした。

お互い、会わなかったことにしようという私のメッセージはアンリエッタには伝わらなかったようだ。あるいは、それを踏まえたうえで私とコンタクトを取ろうと言うのだろうか。私の中のDefconが3から2にシフトする。

ばれているのなら仕方がない。名乗られたからにはこちらも応じない訳にはいかないだろう。

カップをソーサーに戻し、もう名乗る機会もないと思っていた名を名乗る。

 

「元、アルビオン王国モード大公が嫡女、ヴィクトリア・オブ・モードです。今は単なる町医者のヴィクトリアですが」

 

私の名乗りに満足したようにアンリエッタは笑う。

 

「はじめまして、というのも変な感じですね。従姉妹だというのに。一度お会いしたいと思っておりましたが、ようやく叶いました」

 

私の気も知らずにお気楽っぽく言うアンリエッタ。私はできれば会いたくなどなかったのだが。

 

「私の女官が、お世話になっているそうですね」

 

「ええ。こんなあばら家で恐縮ですが、いろいろ手伝っていただいております」

 

「ルイズは、あれで楽しんでいるようですよ。毎日いろいろ発見があると楽しそうに申して来ております」

 

他愛もない世間話から始まる会話だが、互いに隙を窺うような息苦しさが漂っている。

矢合わせはこれくらいでいいだろうと思い、私の方から一歩踏み込んだ。

 

「それにしても、よく私のような平民に身を落とした王族崩れのことをご存知でしたね」

 

「殿下がトリステインに逃れてきて程なく、アルビオンから母宛に書状で知らせがあったそうです。私が知ったのは昨年のことでしたが」

 

「ほう」

 

アルビオンからの書状というのは少々意外ではあったが、そのような紙が届きながら、私を捨て置いたこの国の首脳部の考えが今一つよく判らない。場合によっては国際問題にもなりかねないだろうに、まだ何か裏があるのだろうか。

それとなく思考の海に沈みかけた私に、アンリエッタがフォローを入れてくる。

 

「心配は要りません。城で、貴方の事を知っている者は、母と私と一部の者だけです。王都の平民のために走り回っている『慈愛』という治療師の噂は知っていても、それがアルビオンのヴィクトリア姫殿下と知る者はいないでしょう」

 

少々聞きたくない言葉があったのはさておき、思ったより私のトリステイン非公式滞在を知る者が少ないことは意外だった。しかし、考えてみれば多くの貴族の頭からはモード公家の没落を機に私の存在はオミットされていたことだろうからそう不思議なことではない。

アルビオン国内だったらともかく、トリステインにおいてサウスゴータの騒動の後に行方不明扱いであるはずの私の行き先を追いかけている奴は、よほど上の連中か、あるいは政治目的のろくでもない色眼鏡で私を見る悪党くらいなものだろう。

そもそも下級の貴族ならいざ知らず、公女が平民に身を落とすなどということは、よほどの事がない限りあり得ないというのがこの世界の常識だ。私を生んだ女がいい例で、家が潰えたとしたら、縁戚を頼ったり、どこぞの貴族の愛人になったり、あるいは娘を売ってでも貴族の世界に残る努力をするのが普通だ。それくらい、この世界の貴族と言う身分にはしがみ付きたくなるだけの特権と魅力がある。むしろ、それに何の価値も見出していない私の思考の方が異常なのだ。

恐らくは、知っている範囲はマリアンヌとアンリエッタ、及びその取り巻きであるマザリーニから大臣級、あとは政治的に重要なポストにいる諸侯くらいまでだろうか。

そんな私の心中を知らずか、アンリエッタが続ける。

 

「平民の生活水準と福利厚生の向上は我が国にとっては重要な政策課題ですが、その先鞭をつけているあなたの功績は小さいものではありません。叶うことであれば、福祉に関する顧問か相談役として城に招聘したいくらいです」

 

絹物の裏にちらちらと鎧が見えるような語り口だった。私がアルビオン時代に最も嫌だった類の会話だ。トリステインでは平民が公職に就くことはできないことは誰でも知っている。過分な評価は恐縮だが、私としては迷惑この上ない話だ。

 

「申し訳ありませんが、今の私は市井の一平民です。改めて貴族の末席にお加えいただくにも、出自の問題を看過していただけるとは思えませんし、何より、今の生活が性に合っております」

 

「安心して下さい。私は優秀な者であれば例え平民であっても取り立てる方針ですが、あなたを役人として城に招くことはありません。残念ですけど」

 

あまりにあっさり引き下がったので、私としては肩透かしな気分だった。しかし、怪訝な面持ちの私に対してアンリエッタの口から飛び出してきたのは、意外な言葉だった。

 

「何より、亡きアルビオン国王、ジェームズ1世陛下からも、あなたが政に関わることなく穏やかに暮らせるよう取りはからって欲しい、との親書をいただいています」

 

彼女の言葉を理解するまでに、10秒ほどかかった。

 

「…陛下が?」

 

「ええ。愛されておいでだったのですね。羨ましくなるほどです。私にとっても陛下は伯父。そこまでされては、トリステインとしても貴方に手出しはできません」

 

アンリエッタの言葉を理解した時、補修したばかりの目元の堤防が怪しくなった。

そうだったね。伯父上も悪戯がお好きな方だったっけね。

知らなかったよ、そんなこと。

本当に意地悪な方だ。そんなことしてもらったって、平民の私に判る訳ないじゃないか。

もう『ありがとう』も言えない所に行ってしまったのに、後からこんなこと知らされても、私にできることなど後悔することくらいしかないと言うのに。

 

しかしこの時、アンリエッタの表情の変化に気づけなかったのは我ながら抜けていたと思う。

お姫様から政治家への、一瞬の転換。

今の私とアンリエッタの関係は、狩る者と狩られる者のそれだ。彼女という敵を前に、まだ癒えていない伯父上への感情に囚われるあたりはまだまだ私も未熟。そんな私の心の隙を、アンリエッタは見逃してくれなかった。

大きく踏み込まれ、骨にまで届く一撃のような言葉を、アンリエッタが振り下ろしてきた。

 

「殿下…ジェームズ1世陛下の、仇を討つおつもりはありませんか?」

 

その言葉が持つ打撃力に私の顔色が変わった事に、アンリエッタは気づいただろう。

 

「仇討ち…ですか」

 

伯父上の仇討ち。実を言えば、全く考えなかったわけではない。

 

「ええ。あなたには、その資格があると思います。あなたが望むのならば、それなりの地位を用意しましょう。アルビオン亡命軍総司令官の椅子が空いています」

 

鋭いアンリエッタの眼光に、私は背中に汗をかいた。

私の先入観もあるのかも知れないが、それは共犯者を求めるような眼に思えた。

ただ一人、知恵を振り絞って老獪な貴族連中相手に王宮で奮闘する女王として、腹心になり得る者に飴玉をちらつかせて引き込もうというメフィストフェレスのような艶と毒を含んだ眼だった。

その眼光のベクトルを受け流しながら思う。

確かに、担ぐとしたら私は血筋としては問題はない。諸侯や外国に対してもアピールするには充分なものがあると思う。

しかし、私の過去を知るアルビオン将兵がそれを認めるかは別の問題だろう。ハイランドの凶状持ちのことを、皆が皆都合よく忘れてくれているとは思えない。

何より、仇討ちをするくらいなら、人の都合など考慮せずにとっくの昔にアルビオンに押し掛けている。

自分勝手の謗りを受けようと、忘恩の徒と罵詈雑言を浴びようと、私は今の生活が大切だ。他人から見ればごくありふれた、当り前な暮らしなのかも知れない。しかし、そんな当り前なものが、決して当り前なものではない事を私は知っている。

ここは、決して安くない代償を払って守ってきた、私の心の寄る辺たる空間だ。

血を吐く思いで、伯父上を見捨ててでも守ったかけがえのないその空間を、望まずして得た血筋故のしがらみ等のために手ばなすことなど受け入れられるものではない。

乾きかけた口を開き、こちらも単刀直入に告げる。

 

「せっかくのお話ですが、辞退させていただきます。私は、もう政治には携わらぬと決めております故。何より、私は咎人です。国を追われた身である私を旗頭に据えても、アルビオンの精兵を束ねる事はできないでしょう」

 

できるだけ冷静に切り返すが、イニシアチブは常にアンリエッタが握っている。

勢いそのままに、返す言葉を叩きつけてきた。

 

「ならばこそ、王家と祖国の危機に起つことで汚名を雪げるのではありませんか? ジェームズ1世陛下だけではありません。同じ内容の新書は、ウェールズ皇太子殿下からもいただいています。王族二人からの庇護を受けながら、このまま事態を看過されるおつもりでしょうか」

 

アンリエッタの切ったカードのあまりに意外な名前に、私は絶句した。

ウェールズ殿下が何故?

それほどの縁が、彼と私の間にあっただろうか。

 

「他ならぬウェールズ様の御厚情を、軽く見ることは私としては見過ごせません」

 

アンリエッタから、重々しい圧力が伝わってくる。

決断を迫る目をしていた。

正直、原作ではお花畑の住人のように描かれていたアンリエッタが、これほどまでに押しが強い人物だとは思わなかった。なるほど、王権会議でアブレヒトを閉口させるだけのポテンシャルはあると思う。

ウェールズ殿下がどういうつもりだったのかは知らないが、彼至上主義のアンリエッタにしてみれば、彼をないがしろにした時点で私は彼女にとっての敵として認定されるだろう。

しかし、身に覚えのない厚情を盾に参陣を迫られても、私の言えることは一つしかないのだ。

 

「申し訳ありませんが、やはり私は、戦場に出向くつもりはありません。恩義は重々感じておりますが、私はもう、貴族であることに疲れてしまったのです」

 

私の言葉を、アンリエッタは無表情に聞いていた。

その手には杖。

次の瞬間にも、彼女の口が誅伐のルーンを紡ぐかもしれない。

自然と、私も自分の懐の杖を意識する。

Defcon1。

アンリエッタが最初のルーンを口にすると同時に、後の先を取る。

今の私の瞳は、テファが嫌がる無機質なそれに変わっていることだろう。

一触即発と言う危うげな空気が、私たちの間に漂う。

 

 

時間して1分。実際にはもっと短かったかもしれない。

ふと、アンリエッタが目から力を抜いた。

 

「そうですね…確かに、お二人ともあなたが戦場に出向くことを快くは思わないでしょう」

 

残心を取りつつも、私は静かに息を吐いた。

できれば、穏やかな記憶だけが詰まっているこの家で、人を殺すことはしたくなかった。

アンリエッタから折れてくれた事は、望みうる最高の展開だ。

そんな私の心中を知ってか知らずか、アンリエッタは静かに告げた。

 

「一つ、大切なことをお話しましょう」

 

そう言って彼女の唇から洩れた言葉は、今日一番の衝撃をもって私を打った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ウェールズ様は、生きておいでです」

 

 

 

 

 

 

 

 

しばし、呼吸すら忘れた。

ウェールズ殿下が生きている。

それは、私が知らない物語が、私が知らないところで動き出しているということだ。

原作では礼拝堂でワルドの刃に倒れた貴公子が生きている。

ニューカッスルの蹂躙からアルビオン撤退戦に様相を変えた時間の流れが、彼の命を救ったのかも知れない。

私が起こしたささやかな蝶の羽ばたきが、僅かながらも正史に影響を与えているのだろうか。

私の中で、微かな灯火が生まれた。それは私が知る予定調和からの逸脱という恐怖と、まだ見ぬ未来への希望が混ざった不思議な色をした小さな炎だ。

しかし、ウェールズ殿下が生きているとなると、一つ合点がいかない部分が出てくる。今ここにアンリエッタがいる事が、私が知る事の流れとの矛盾をはらむように思われたのだ。

ウェールズ殿下が生きているとしたら、アンリエッタがこうして行方不明を演出していることと整合が取れない。アルビオン遠征という悲劇の全ての発端は、アンリエッタを襲ったウェールズ殿下の暗殺から繋がる忌わしい誘拐事件だったはずだ。

かまかけのようで気が引けたが、私はひとつだけ問うた。

 

「先日、王都でウェールズ殿下を見かけたという噂を聞きましたが?」

 

確かキュルケがトリスタニアに向かうウェールズ殿下のゾンビを目撃していたはずだ。噂に上る可能性は低くはないはず。

それに対し、アンリエッタは苦いものを吐き出すような顔で答えた。

 

「それは恐らく私を陥れるために送られてきた偽物のことでしょう。良くできたガーゴイルでしたが、既に討ち果たしております。ウェールズ様の所在は伝え聞いていましたからすぐに偽物だと見破れましたが…よくもあそこまでひどい事を思いつくものだと泣きました」

 

なるほど。城から誘拐されたかどうかまでは判らないが、似たような陰謀は手段を変えた形で実行されたようだ。

しかし、私の意識は本筋とは異なる一つのキーワードに吸い寄せられた。

ガーゴイル。

アンリエッタを陥れようというのだから、さぞ精巧なものだったことだろう。あるいは『スキルニル』という奴だったのかも知れない。

それを考えた時、私の中で黒い感情が鎌首をもたげ始めた。

レコン・キスタにおいて、そのような魔法人形を意のままに操る存在を、私は一人しか知らない。

すなわち、神の頭脳ミョズニトニルン。

思わず口元が緩みそうになった。

お前だとしたら嬉しいよ、シェフィールド。

叶うことなら私の姉妹に手を出した報いがどれだけ高く付くかを、骨の髄まで思い知らせた上で殺してやりたかった女だ。

どうやってディルムッドの一撃から生き延びたのかは知らないが、私がこの手で一寸刻みにしてやれる機会が、まだあるということだ。

 

復讐の甘美な妄想はさておき、私の中の冷静な部分が警鐘を鳴らし始めた。

悲しいことに、私はウェールズ殿下の生存を手放しでは喜べなかった。

アンリエッタの物言いから察するに、彼はトリステインにはいない。恐らくはアルビオンで、地下に潜っているのだろう。何しろ、王子のくせに下手な変装ながら空賊を演じていたくらい芸達者な御仁だ。何をしているか見当もつかない。

彼が生きているとなれば、アルビオン侵攻に対するアンリエッタのモチベーションは恐らくこれ以上ないくらい高まっているだろう。現に、アンリエッタの眼には、確固たる決意と使命感の輝きが灯っている。

 

「殿下は、アルビオンに?」

 

私の問いに、アンリエッタは頷いた。

 

「やはり…戦になるのですか?」

 

「なるも何も、我が国は戦の真っ最中です」

 

「外野の身で恐縮ですが、アルビオン遠征は、あまり上策とは思えません。あの浮遊大陸を攻めた貴国の先達が、どのような目に遭ったかはご存知でしょう」

 

実際、アルビオンは正に天然の要害だ。ハルケギニアの歴史を見れば、まるでロシアを攻めたヨーロッパの英傑達のように攻めた回数分だけの敗戦が歴史には刻まれている。攻者三倍の法則くらいは私でも知っているが、それに照らしても今回は兵力も充分ではない。『虚無』を頼りに攻め上るのとしたらあまりにも拙攻に過ぎると思う。

 

「ええ。それは承知の上。ですが、そのアルビオンでは、アルビオン王国の王権継承者たるウェールズ様が今も戦っておいでなのです。始祖の子として、同盟国として、我が国は一日も早く彼を助ける義務があるのです」

 

アンリエッタの言葉を聞きながら、妙に振動を感じて気づいた。

私の手が、小刻みに震えていた。

アンリエッタが言うことは道理だと思う。

しかし、トリステインのアルビオン侵攻作戦はトリステインにとっても大博打。しくじれば、間違いなく国が滅ぶ。まるでどこぞの星の世界の英雄伝説にある同盟軍による帝国領侵攻のようなものだ。

かと言って、ヴァリエール公爵の言うように、アルビオンを干殺すべく包囲を敷くやり方にも難がある。いかんせん、敵はあのレコン・キスタだ。平然とサウスゴータの食料を取り上げる手法を見るに、国民を飢えさせることも躊躇わないと思われる。飢えた市民の怒りは、恐らく封鎖をかけるトリステインにもその矛先を向けるだろう。食べ物の恨みは恐ろしい。場合によっては、将来に向かいアルビオン国民の対トリステイン感情が悪化する懸念もあるだろう。国益の観点からすれば良手とは言い切れない選択だと私は思う。

どちらも一長一短。急戦と長期戦のどちらが国益や戦費の面などで最終的に効率がいいのかは私には判らない。それを評するのは、最終的には後世の歴史家なのだろう。

それでも、私としてはアルビオン遠征は回避することが望ましかった。

そこで起こることを知っているからこそ、発生して欲しくない原作イベントだ。

大艦隊の整備。

切り札としての『虚無』の投入。

アンドバリの指輪を使った神聖アルビオンの反撃と連合軍の敗走。

そして、単騎で7万に挑む一人の英雄。

確かに、為政者としてはどちらを取っても問題山積ならば、大義名分が立つ方が選びやすいのは確かだ。ましてや、ウェールズのためという目的のためならば、アンリエッタは悩まないだろう。

だが、全面的な戦闘となれば、当然のように尋常ではない数の人が死ぬ。

戦力という数字の話ではない。

それは、人間の話なのだ。

ただの個々の人の死という事象ではない。そんなに簡単なものではない。

死とは、誰かに繋がる誰かがいなくなってしまうことなのだ。

何人も、何十人も、何百人も。

どれほどの涙が落ちることになるのか、私には見当もつかない。

そして、そのうちの一人は、私にも繋がる人物なのだ。

 

そんなことを考えている私に、アンリエッタは静かに言った。

 

「状況は難しい局面を迎えております。不本意ではありますが、神聖アルビオンの打倒が成った時、ウェールズ様の身にもしものことがあった場合には、残念ですがあなたの安寧よりも大切なものがあることを御理解いただかなければなりません。神聖アルビオンがウェールズ様を狩り立てるのが先か、我々がウェールズ様を御救いするのが先か。あなたの運命もまた、その盤上に乗っているものと思って下さい」

 

「私を王に据えることもあると?」

 

「あなたにとっては望むものではないでしょうが、そうなる可能性もあるとだけは覚悟しておいて下さい」

 

「…そうならぬことを、祈るのみです」

 

「ええ。ですが、私としても、あなたをそうそう王座に座らせるつもりはありません」

 

沈黙する私に、アンリエッタは強い意志を込めて告げた。

 

「ウェールズ様は、必ずお助けします。そうなれば、あなたを王に据えなくても万事うまくいきますから」

 

確かに、王になぞ、なりたくはない。

この王都の片隅で、ただ穏やかに過ごせていければそのほうがよほど幸せだ。

ならば、アンリエッタの今の言葉は、多少なりとも今の私の重くなった心を軽くしてくれるものなはずなのだが、泉のように湧き出す不安と嫌悪感は収まらなかった。

今、私の気持ちに鎖をかけて闇の底に沈めようとしているものは、今の生活に執着している私の願いだけではないということなのだろう。

何とも言えない、黒いモヤモヤした物が私の中に渦巻いていた。

 

そんなことを思った時、玄関のドアが開いた。

足音は才人だ。玄関から軽い足取りでそのまま部屋に戻ってくる。

きちんとノックして入って来た才人を見て、私の中の小さな歯車が音を立てて回り始めた。

 

「すごい兵隊でした…じゃなくて、すごい兵隊だったよ」

 

アンリエッタに話しかけるのに、どうしても敬語を使ってしまうあたりはこの男の正直者たる所以だ。

その言葉を受けて、アンリエッタは立ち上がった。

 

「では、そろそろ出発しましょう。いつまでもこの辺りにはいられません」

 

「どこに行くんですか?」

 

「街を出る訳ではありません。安心なさって下さい」

 

「は、はい…」

 

才人がアンリエッタと私を交互に見ながら頷く。そんな才人を気にした風もなく、アンリエッタは私に微笑んだ。

 

「では、院長先生、お邪魔しました」

 

「大したお構いもできず」

 

「いえ、大変有意義なひと時でしたわ」

 

そう言ってドアに向かうアンリエッタを、才人はまじまじと見つめた。

 

「何か?」

 

小首を傾げて問うアンリエッタに才人は赤くなった。

 

「いや…何だか、アンとヴィクトリアってちょっと似てるな、って。何だか姉妹みたいな感じがして」

 

その言葉にアンリエッタが目を丸くする。似ていると思ったのは私の主観だけではなかったようだ。

 

「おや、こんな美人さんと似ているとは光栄だね」

 

「それはこちらも同様ですわ」

 

そのままアンリエッタたちを玄関まで見送り、才人のエスコートで診療院を出ていくアンリエッタが最後に振り返った。

 

「では、いずれ、また」

 

「お気をつけて」

 

聖女の柔らかい微笑みを残し、ドアが閉まった。

 

二人を見送った後、私はどうしようもない疲労感を感じて、そのまま待合室の椅子に腰を下ろした。

帰ってきた才人の顔を見た時、すべてに得心がいった。

なるほど、私が感じた感覚の正体は、これだったのか。

 

医者と患者の関係というものは、『点』の関係だというのが私の持論だ。

『点』の関係とは、すなわち他人。

その『点』のレベルの付き合いとして多くの帰還兵の慟哭に触れてきた私だが、アルビオン遠征が現実のものとなった時、物事が『点』の話ではなくなることに気づいてしまったのだ。

 

平賀才人。

 

異世界から召喚された、伝説の使い魔。

平民である私などとは違う世界で、伝説の階段を駆け上っていくはずの少年。

しかし、そんな彼との距離感において、痛恨ともいうべき失策を犯していたことに私はこの時ようやく思い至ったのだ。

最初はティファニアの安全を守るための駒として、彼を鍛えようと思った。

中央広場でルイズと一緒のしょぼくれていたところに声をかけたのも、今思えば気まぐれのようなものだった。

そして、皆で過ごしてきたひと夏の時間。

奇妙な家主と居候の関係。

そんな時間の積み重ねの中で、知らぬ間に、彼は私たちにとって他人ではなくなっていたのだ。

マチルダにとっては気ままに訪れる困ったアルバイターであり、ディルムッドにとっては手塩にかけている弟子であり、ティファニアにとっては大切な友人だ。私にとってもまた、世話の焼ける弟のようなものだ。

同じ食卓で、同じご飯を食べ、毎日馬鹿をやって、皆で笑い合って。

そんな風に、すでに私は彼とは『点』ではなく、『面』の付き合いをしてしまっていた。

誰もが心に持つ一本の線。その外側は他人で、内側は身内。

才人はその線の内側の住人になっていたことに私は気づいてしまった。

その彼の運命に、多大なる影響を与えるのがこの戦いに他ならない。

7万に挑んだトリステインの英雄。

その退却戦の中で、彼は壮絶な討ち死にをし、ウエストウッドの奇跡を持って復活を遂げる。

その奇跡において、大切な役割を果たすパズルのピースがこの時間軸では失われてしまっている事を私は知っている。

他ならぬ、私の浅慮が原因でだ。

腹の奥から、どす黒い、気持ちが悪い何かが込み上げてくる感覚を覚える。

アンリエッタの方針は、恐らく絶対に変わるまい。いかなる障害を除けてでも、ウェールズ救出のために兵を起こすだろう。

その結果として、才人が死ぬ。

あの陽気でスケベな愛すべきお馬鹿な私の弟分が、異郷の地で、想い人を守って死ぬのだ。

それは、予想もしないほど強い衝撃をもたらすものだった。

何ということだろう。

さして知らぬ仲であれば、私は彼を見捨てる事すらしただろう。

だが、もうそれはできそうもない。

知らぬ間に、あの黒髪の猫は、私の心の家の中に住み着いてしまっていたのだ。

困ったことに。

 

 

「ただいま~」

 

しばらく椅子にもたれて瞑目していると、程なく私が愛した笑顔が帰ってきた。

同じように楽しそうな、公爵家の御令嬢も一緒だ。

もはや敬称も付けずに名前呼び合う二人は、それぞれ手に今日の釣果を抱えていた。

 

「おや、お帰り。早かったね」

 

「街中兵隊だらけなのよ。興がさめちゃったわ。何があったのかしらね」

 

不機嫌そうにルイズは口をとがらせる。

 

「まあ、こういう日は大人しくしとき。居間で待っておいで。今、お茶を淹れるよ」

 

「あ、姉さん、私がやるわ」

 

「いいんだよ。帰って来たばっかりなんだから、たまには私の腕前も披露させておくれな」

 

強引にテファを居間に押し戻し、本日2度目の茶を点て始めた。

背後からは、テファとルイズの楽しそうな声が聞こえる。

その声を聞きながら私は思う。立ち位置が変化したのは、才人だけではなかった。

ピンクの髪を持つもう一匹の猫もまた、いつの間にか線の内側に住んでいるようだ。

ふと、天井を見上げ、そこからゆっくりとまわりを見回す。

思い出が染み込んだ調度が並ぶキッチン。

皆で作った、ささやかな私たちの砦。

トリスタニア診療院。

そこにはディルムッドがいて、マチルダがいて、ティファニアがいて。そして、たまに才人やルイズもいて。

笑って、泣いて、時にはちょっとだけ喧嘩して。

嬉しかった。

楽しかった。

そして、幸せだった。

そんな他愛もない日々さえあれば、他に何もいらなかった。

同時に、判ってもいた。

そんな幸せも、決して永遠に続くものではないということを。

テファが指輪を使ったことを知って以来、どこかで歴史が変わるという淡い期待で自分をごまかしていたということを。

そうして目を閉じ、耳を塞ぎ、気づかないふりをしていた現実が、いつか私に追いついて来ると言うことを。

そして今日、訪れた、小さな綻び。

突きつけられたのは、明確な残り時間だ。

三か月後のウィンの月に、運命の大舞台が始まる。

あとどれくらい、今までのように過ごせるのだろう。

 

延々と沈みそうになる私を、ケトルの音が現実に引き戻した。

湯気を見ながら、私は両の頬を両手で強く叩いた。

今だけは、頭を切り替えよう。脳内会議は夜になってからにしよう。

今は、気の置けない人たちと共に楽しむ、穏やかなお茶の時間だ。

沸いたお湯をカップとポットに注いで温め、先ほどアンリエッタに出したとっておきの茶葉を用意する。

スプーンを手に、葉を取りながら心の中で祈る。

あの子たちのために一杯。

自分のために一杯。

そして、ポットのために一杯。

湯を注いでゆっくりと蒸らし、それぞれのカップに注ぎ分ける。

最後に落ちる一滴、幸せのゴールデンドロップが誰のカップに入るのかを考えながら、ほのかに香り始めた紅茶の香りに、私はしばし酔った。

 

 

 

 

 

 

翌日、チクトンネ街の排水溝から這い上がってきた傷だらけのアニエスをルイズと一緒に助けに行くのはまた別のお話。

 

 

 

 



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その32

<インターミッション>

 

 

 

「ふ~ん、なるほどね」

 

帳面にあれこれ書き込みをしながら、ルイズは頷いた。

そんなルイズ相手に、診察室の黒板の前に立つ私。

最近すっかり定番になってしまった、夕食前の風景だ。

 

「さすがに理解が早いね。そんな訳で、止血は何より重要なんだよ。体重の概ね13分の1が循環血液量、その3分の1から半分を失えば死に至るとされている。成人男子で大体これくらいさね」

 

説明しながら、手にしたビーカーを2つ示す。合わせて2リットルくらいだ。

 

「もちろん、傷の位置によっても条件は変わってくるよ。血管は太い物から細い物に枝分かれして行くものだから、その元になる太い血管がやられて重要な器官に血液が流れなくなると、末端の組織が壊死して命取りになることもあるのさ」

 

「重要な器官?」

 

「代表的なところだと、ここだね」

 

私は傍らの人体模型の脳を指した。

 

「さっきも言った通り、血液は酸素や栄養を全身に運ぶ命のスープだ。その酸素を人の体で一番消費する器官は脳味噌なんだよ。頸動脈の血流が止まると、よほど規格外な人じゃない限りは10秒かそこらで意識が落ちる。その状態が5分も続くと脳に障害が残るし、最悪の場合は死に至ることになるんだよ。体の外に出血するだけじゃなくて、体の中への出血も同じように死に繋がることがあるよ。例えば、先日の患者もそうだったけど、腸に流れる血流が止まると腸の組織が死んでしまう。腸は何をする器官だっけ?」

 

「栄養と水を吸収する器官」

 

「正解。その器官がごそっと死んでしまったらどうなるだろうね?」

 

「まあ、生きてはいられないわね」

 

「そう。そんな訳で事故があった場合、外部への出血の割に患者の顔色が悪かったり頻脈を確認した場合は内部出血を疑う。よくあるのが腹腔、すなわち内臓が入っているここの部分に血が溜まること。一口に腹腔内出血と言っても、肝臓や脾臓や腎臓やその他の血管、どこから血が出ているか見た目では判らない。治療ではその出血箇所の特定が急務だね。あと、もっと危ないのが心臓だ。心タンポナーデといって、心臓と心外膜の隙間に出血があると心臓の動きが阻害されて、すぐに抜かないと死んでしまうこともある」

 

模型の腹部や心臓を指す。その度にルイズが妙な顔をしている。

 

「そんな訳で、呼吸と出血は真っ先に確認と対応をしないといけないんだよ」

 

「ふ~ん…」

 

ルイズは唸りながら一生懸命書き込みを続けている。

 

治療のことに興味を示すルイズの質問の波状攻撃が日々激化し、半ばなし崩し的に夕飯前の講義が定例化して数日経つ。

最初は『生兵法大怪我の元』ということもあるので適当にあしらおうかとも思ったのだが、いかんせん頭のいい子なので鋭い質問が多くて逃げようにも逃げられず、こちらも半ば本腰を入れて講義をしなければならなくなったのだ。

トリステインの教育制度については恐らく幼少期は家庭教師、長じて魔法学院と言う感じだと聞いているが、そんな中で生物学や保健体育の講義がどの程度行われるのかは判らない。ルイズの話を聞いている範囲では、日本の中学校くらいの知識は充分にあるようだが、どちらかと言えばルイズは実学の方に興味を示しているようなので、取りあえず私がレクチャーできる範囲で初歩的な医療の概念について解説している。

 

「それじゃ、次は肝臓のことについて説明しておこうかね」

 

ポコッと模型から胆嚢付の肝臓を外すと、それを見たルイズが唸る。

 

「その『定吉くん』っていうの、本当に模型よね?」

 

「そうだよ?」

 

「…何だか、模型にしては生々しすぎない、それ?」

 

「良く出来ているだろう?」

 

『定吉くん』は、私の監修の下、リアル指向を突き詰めてマチルダを泣かせながら作ってもらった実物大の人体解剖模型だ。

100を超える内臓・器官のパーツはすべて取り外し可能と言う大阪科学も顔負けの優れものなのだが、表面の質感など、実物と見まごうばかりの完成度の高さに気を良くして診察室に置いていたところ、それを見た患者が悲鳴を上げたり子供が泣き出してしまうなどの騒動が続いたので、いつもは全身骨格模型の『ブルックくん』と一緒に処置室の奥で布を被っている。

ちなみに『マチルダを泣かせながら』というのは比喩ではなく、製作中に本当にべそをかいていた。完成間近なそれらが工房に並んでいた間は、必ず日が暮れる前に逃げるように帰宅して来たものだった。

あまりにマチルダのリアクションが可愛いので、夜中に『定吉くん』をトイレの中に置いておこうかと思ったこともあるのだが、やったらその日が私の命日になりそうな気がしたのでやめた。

私としては、自分の体内にあるものなのに何がそんなに嫌なのか理解に苦しむところではある。テファもこの手の物は平気だし。

そんな訳で、引き続きミドルクラスの模型として頭部模型『誠くん』や脳髄模型『純夏ちゃん』等も順次発注の予定なのだが、今のところ納品の見通しは立っていない。

 

「見ててあまり気持ちがいい物じゃないんだけど」

 

嫌がる割には視線がちらちらと一部に向いていることは判っているよ、ルイズ。

ちなみに『定吉君』は男性モデルだ。

 

「そうかい? 標本に比べればだいぶマイルドだよ?」

 

「標本…って、内臓の?」

 

「そう、標本。実物が薬品に漬かった奴。知らないかい?」

 

「知らないわよ。そんなものあるの、ここ?」

 

「見たいかい?」

 

「み、見たくないわよ!」

 

割と必死なルイズが可愛い。さすがに標本はないけど。

そんな会話をしている時だった。

 

「た、ただいま~」

 

玄関から息も絶え絶えでと言った感じの才人の声が聞こえてくる。

診察室からドアを開けて首を出すと、襤褸雑巾になった才人が玄関に倒れていた。

 

「お帰り。思ったより遅かったね」

 

「きょ、今日から、5キロ、延びたん、だよ」

 

延びたというのはディルムッド主導の走り込みのことだ。ここしばらく、この師弟は仕事帰りに大きく遠回りして帰ってくるのを日課にしている。5キロメイルプラスと言うことは、およそ15キロか。

 

「おやおや、それは御苦労さん。鼻から吸って口から出す深呼吸を大きくゆっくり3回おし。呼吸が落ち着くから。肺の空気を全部出すくらい深くするんだよ」

 

「情けないわね。しゃんとしなさいよ」

 

深呼吸している才人に私の隣でルイズが厳しく言うが、15キロは結構効くと思うよ?

 

「で、お前さんのお師匠さんは?」

 

「外でストレッチやってる。とりあえず、水…」

 

「キッチンにお行き。夕飯食べられるのかい?」

 

「…今すぐはきついかも」

 

「せっかくのテファのご飯を残したら承知しないよ」

 

「無茶言うなって。師匠なんかは適度な食前の運動だって言ってるんだけど、さすがにこれは…」

 

「あはは。ならば、お前さんも早くあの域に上り詰めるんだね」

 

そんな会話をしていると、キッチンからテファのパタパタと出てくる。

 

「あ、お帰りなさいサイト。皆も、そろそろご飯出来るよ」

 

嬉しそうに微笑むティファニア。髪をバンドで留めた、エプロン姿のテファの姿は冗談抜きで可愛い。いつ見ても防御不能の破壊力。本気でそのまま標本にして飾っておきたいくらいだ。

キッチンに戻るテファの愛らしい姿をポヤ~っと蕩けながら見送る私と、その隣で『どこ見てるのよ、あんたは!』とルイズに殴り倒されてスカートも顧みぬストンピングを浴びている才人。まあ、エプロンというものはふくよかな人がつけると胸が目立つから気持ちは判らないでもない。本来なら私が折檻したいところだが、ルイズのそれの方が苛烈なので追い討ちは勘弁しておいてあげよう。

 

 

 

 

 

来客があったのは、夕食が終わったころだった。

 

「夜分にごめんなさい」

 

呼び鈴が鳴り、玄関口から艶っぽい声が聞こえた。どこかで聞いたような声だ。応対に出ようとしたテファを制して私が席を立った。

 

「急患かね?」

 

パタパタと出てみると、キュルケがタバサやギーシュを従えて立っていた。後ろに見え隠れする金のドリルロールはモンモンか。はじめましてだね。ルイズたちにも劣らぬ綺麗な子だこと。妙に興味深げにあちこちを見ているあたりは水のメイジらしい。

 

「おや、ツェルプストーの。どうしたね、こんな時間に」

 

彼女を知る者なら、場末の診療所を訪れれば避妊に失敗でもしたのかとも思うだろうが、私の勘ではキュルケはまだ未経験だ。火遊びを楽しんでいるようで、最後の最後の根っこの部分で意外と純な子だと私は思っている。

 

「ティファニアはいるかしら?」

 

「テファ? いるけど?」

 

「ちょっとささやかながら宴を張ろうと思って王都まで来たから、よければあの子も一緒にどうかと思って」

 

なるほど。宝探し組の誼かね。テファに夜遊びの誘いと言うのも珍しいね。

 

 

出発までには、ちょっとごたついた。

ルイズが出てきて『何しに来たのよ!』の言葉にキュルケの『あんたを誘いに来たんじゃないわよ』の返しから始まり、まあ女二人でも充分に姦しい悶着を玄関先で繰り広げた。

余計なお世話とも思ったが、ルイズとキュルケは喧嘩するほど仲がいいを地で行く二人だ。きっかけを与えてあげた方が話が早い。

いい加減喧しいので割って入り、テファの保護者と言う名目でルイズを丸め込んで才人を付けて追い出す。若い連中同士で楽しんでくるがいいさ。

仄かに笑うキュルケは私の腹の内を判ってくれているようだ。なかなかに懐が広い。将来はきっといい御領主になることだろう。

 

 

「じゃあ、ちょっと行ってきます」

 

外出着に着替えて楽しそうなテファの顔に、こっちの顔も綻んでくる。

ご飯食べたばかりだけど、付き合い酒だしね。

そんなテファの手にお小遣いをねじ込み、『え~、悪いよ~』と遠慮するテファを『たまにはお姉ちゃんらしいことをさせとくれ』と宥めながら一釘刺す。

 

「変なおじさんに着いていったりしちゃダメだよ。あと、近いからいいけど、できれば午前様になる前に帰ってくること。いいね」

 

「は~い。行ってきます」

 

玄関のドアが閉まる。

同時に、私は背後に向かって声をかけた。

 

「ディルムッド」

 

「これに」

 

打てば響くのタイミングで、影のように背後に控える我が忠臣。

 

「頼まれてくれるかい?」

 

「喜んで」

 

「楽しい宴だ、くれぐれも気取られないように。青い髪の娘は勘がいいから気を付けること。何かあった時の対処は任せる。行け」

 

「御意」

 

かき消すようにディルムッドは消えた。

テファももう立派な女性なだけに夜遊びの一つで大げさなことはしたくないが、心配なものは心配なのだ。第一、テファのような可愛い子を世の男どもが放っておくことを期待する方が無理な話だ。

悪い虫には殺虫剤。ディルムッドさえいればテファのガードは鉄壁だろう。

安心してテファの帰宅を待てると言うものだ。

 

 

居間に戻ると、マチルダがソファに座って気持ちよさげに宙を仰いでいた。

テーブルにはボトルと酒器。ちょっとご機嫌なマチルダ姉さんといった感じだ。

目で勧められたが、ちょっとだけ首を振って答える。臣下を扱き使いながら酒を食らうのはさすがに憚られた。代わりに茶を淹れる。

 

「出かけたのかい?」

 

「うん。楽しんでくるといいさね」

 

カップを手にマチルダの対面に腰を下ろす。そんな私にマチルダは面白そうに言った。

 

「しっかし、あんた本当にアレだね」

 

「アレ?」

 

「シスコン」

 

いきなり随分なことを言ってくれる。

 

「何でだい?」

 

首を傾げる私に、マチルダがにやにやと笑いかけてくる。

 

「夜遊びくらいであれだものねえ。ティファニアちゃん大好きオーラがだだ漏れだよ」

 

「そ、そうかい?」

 

「そこで顔を赤らめるんじゃないよ。そんなに妹が可愛いかい?」

 

こういうのを愚問と言う。

 

「そりゃもう、可愛うて可愛うて」

 

身悶えする私を見るマチルダの冷めた視線が痛い。次いで、私にジト目を向けたまま、とんでもない事をのたまう。

 

「…たまに心配になるけど…あんた、ノンケだよね?」

 

さすがに茶を吹きだしかけた。

 

「ちょっと、言うに事欠いてそれはないだろう」

 

「そうは言うけどさ、あんた、本当に男に興味なさそうじゃないか」

 

「お前さんの頭の中だと、男に興味がなければ同性愛指向なのかい…もし本当にそうだとして、お前さんに迫ったらどうする気だね?」

 

「どう、って……………………ぽ」

 

わざとらしくマチルダが自分の頬を抑える。

 

「おやめよ、気持ち悪い」

 

露骨に嫌がる私に、マチルダは膝を叩いて大笑いした。何だかもう、ずいぶんと酒が回っているのかね。陽気なお酒で結構なことだ。

 

「あー、おかしい。で、実際どうなのさ。坊やにずいぶん入れ込んでたみたいなのに、踏み込んでみたらそんな気なさそうだし」

 

「ああ、あれは端から売約済みだからダメだよ」

 

「そうなのかい?」

 

「見れば判るさね。あれはルイズオンリー、ルイズフォーエバーだよ。たま~に余所見するみたいだけど、基本的に一途っぽいからね」

 

「おやおや、よく見ている事」

 

盃を口に運びながらマチルダは笑う。

今日はだいぶ押し込まれている。こっちもそろそろ反撃せねば。

 

「そういうお前さんはどうなんだい。一歩外に出りゃ籠一杯なくらい、男には不自由してないだろうに」

 

「ん~、確かにそれなりにモテるけど、ちょっとピンと来るのがいなくてね」

 

人差し指を頬に当てて視線を彷徨わせるマチルダ。こういうことを素で言うあたり、結構こいつも嫌な奴だ。

 

「ハードル高そうだねえ。理想のタイプってのはいないのかい?」

 

「ああ、そういうのはジェシカにも訊かれるけど、特にないね。惚れたタイプが好みのタイプだよ」

 

「今のところ該当者なしってところかい?」

 

「街の男どもも悪い奴はいないんだけど、そういう目じゃ見られないね」

 

今の言葉をスピーカーで街に流したら、トリスタニアの酒蔵は男どものやけ酒のせいで空になることだろう。

そんなマチルダが、腕を組みながら唸る。

 

「そもそも、すぐ近場にいる奴がいけないよ」

 

「近場にいる奴?」

 

「あんたの使い魔だよ」

 

言われるまで気付けなかったのは、我ながら意外だった。

彼の因果を知っているだけにそういう目で見るまいとは思っていたけど、確かに心技体どれをとっても完璧。どこに出しても胸を張れる男だ。あれを基準に考えては、下手したらこの世界に眼鏡にかなう男はいなくなってしまうだろう。

 

「あはは、そりゃしょうがないよ。いい男だからねえ、あいつ」

 

「ああいうのが近くにいちゃ、目が肥えちまってしょうがないよ」

 

笑いながら杯を干すマチルダに、ちょっとただならぬ気配を感じる。

 

「何、何、もしかして?」

 

身を乗り出す私にマチルダがにやりと笑う。

 

「…だと言ったら?」

 

恐らくマチルダが本気で言っている訳ではない事は判る。でも、今後のためにも、ここは私の意向は伝えておくべきだろう。

 

「私は歓迎だよ。心から祝福する。主としては、お前さんなら文句はないよ」

 

美男美女の、嫌味なくらい似合いの組み合わせだ。性格的にも相性が悪いとは思えないし、状況的にも彼の中のタブーにも抵触するまい。少なくとも主である私は全面的に応援するカップリングだ。

 

「それはまた光栄だね。でも、私としてはまだあいつは従業員かつ同居人かな。男ってのとはまた違うかな。でも、何だかあいつ、使い魔って言う気もしないんだよね。英霊って言ったっけ。幽霊とは違うんだよね?」

 

マチルダの問いには、私も満足には答えられない。いかんせん、あの世界の知識はFateどまりの私だ。空の境界や月姫は熟読したことなかったし。

 

「う~ん、高位の精霊ってとこかな。霊は霊でも人間霊とは違うんだよ。人々の祈りによって編まれる存在。人の持つ破滅回避の祈りである抑止力『アラヤ』、だったかな。神様と霊魂の中間みたいなのが肉体を持っている、って感じに考えてればそんなにはずれじゃないと思う。詳しいことは私にもよく判んない」

 

「そんな大層なものをよく召喚できたもんだね」

 

それは私の感想でもあるんだよ、マチルダ君。

 

「私も、まさかあんなのが出て来てくれるとは思わなかったよ。あの時は、できればドラゴンとか幻獣みたいな強い生き物が出て来てくれればとしか思っていなかったんだ」

 

あの時、私はとにかく『力』を欲した。

だが、その力は義によって振るわれるものでなければならない。

正義の味方を気取るつもりはないが、お天道様に顔向けできない理由で人を殺めることはしたくなかったからだ。狂犬みたいな使い魔では困るのだ。

故に、正義や仁義や忠義、そういったもののために力を振るってくれる存在を私は欲した。

だからといって、サモン・サーヴァントの術式が『座』に繋がるとは思わなかったし、ディルムッドみたいなとんでもない霊格のものが出てくるとは思ってもいなかった。

今思えば、本当に召喚に応じてくれたのが彼で良かったと思う。

ドラゴンや幻獣あたりが出てきたら、あの時だけは良くてもその後の維持がまずできなかっただろう。一食ごとに豚を丸飲みするような燃費の悪い使い魔では、とてもではないが懐がもたない。

サーヴァントを想像してみても、ディルムッド以外はどいつもこいつもまず私では御せないような連中ばかりだ。かろうじて何とかやっていけるとしたらエミヤアーチャーと小次郎アサシンくらいか。消去法というのもあるが、やはり私の中の順位付けというのもあったのかも知れない。

私が望みうる最高レベルの戦力にして、私の考えを理解してくれる存在。それを考えた時、他の英霊たちでは令呪もなしにあの切羽詰まった状況で協力を得られたか自信がない。

確かに、すべてのサーヴァントの中で、ディルムッドの気高さは私のツボに嵌った。特に黄薔薇を折って見せるシーンは鳥肌が立つほどかっこ良かった。

たまに、思うこともある。

もし、私があのまま大公家で公女をやっていて、サモン・サーヴァントを行ったらどうなったか。

恐らく、ディルムッドは大公家の兵団長として腕を振るってくれたことだろう。彼の誉に見合うような規模の兵団とは思えないが、少なくとも工房の受付をしながら接客するよりは相応しい立場のような気がする。

そういう意味では、彼にはすごく申し訳ないことをしている自覚はある。

信頼だけは惜しみなく注いではいるが、肝心の名誉は用意できていない。

夜毎街を巡回して盗賊団のような連中がいたら一緒に叩き潰しているが、そんなチンピラ相手に振るうには彼の槍はもったいない。

本当に、不出来な主だ。

 

「考えてみれば、初めて会った時、あいつ私のこと後ろから刺そうとしてたんだよね。それが今じゃ助手だよ、助手」

 

何だか変な感じだよね~、とマチルダは笑う。

 

「あの時は驚かしちまってすまなかったね」

 

そこまで言ったとき、マチルダがふと思い出したように言った。

 

「そういえば、一度訊こうと思ってたんだけど」

 

「何だい?」

 

「あんた、あの時、どうしてテファの事を助けようと思ったんだい?」

 

いきなりな言葉に、私は一瞬手を止めた。

冗談めかして言っているようだが、マチルダの目は笑っていない。こういう機会を前から伺っていたのだろうか。下手な答えでは納得してくれそうもない、堅い雰囲気を感じる。

 

「…そりゃ、妹だからだよ」

 

「ん~、それじゃちょっと理由が弱いかな」

 

「弱い?」

 

「あんた、自分の体を張ってまでテファを助けたじゃないか。普通はあれくらいの事をするなら、それなりの関係がないとできないと思うんだよ。そこが判らない」

 

痛いところを突いてくる。

言われてみればの話ではある。テファも、腹違いの姉である私の事は知っていたようだが、実際には会ったこともなかった私たちだ。妹だからという理由だけで命がけで助けに行くと言うのも変に思われるだろう。

正確なところを言えば、原作の彼女やマチルダが不幸になるのが嫌だったから干渉したという転生者なりの独善的な理由だったのだが、それを違和感がないようにアレンジして伝えるのは難しい。沈黙するしかなかった。

 

「確かにテファはあんたの妹だし、今のあんたならば、それこそ世界を相手に喧嘩をふっかけてでもテファを守ると言うのも想像できるさ。けど、あの時はそこまでの繋がりがあった訳じゃないだろう? むしろ、あんたの立場だとテファのことを恨む方が自然だと思うんだよね」

 

「恨む?」

 

何でテファのことを恨まなくちゃいかんのだ?

 

「あんたの生活を壊したのって、考えてみればテファの母親にも一因があるじゃないか。普通なら恨むとこだよ。それなのに、あんたはテファにもその母親にも、この上なく優しいし、丁重だ」

 

「テファや御母堂とは面識はなかったよ。でも、恨みなんかないよ。恨むどころか感謝したいくらいさ」

 

「感謝?」

 

「あのころの私の待遇は、そりゃ酷いもんでね。あれは家じゃなくて、牢獄だったよ。何がお姫様なんだか。毎日が辛くてたまらなかったよ。だから、どういう形でも大公家から出られたことは私としては感謝はしても、恨みなんてこれっぽっちもないんだよ」

 

私の言葉を噛み締めるように聞きながら、マチルダは深く考え込んだ。

そして、少し間をおいて口を開く。

 

「じゃあ、何があんたを動かしたんだろうね?」

 

今夜のマチルダの追及は厳しい。二人きりになることは滅多にないだけに、千載一遇のチャンスとでも思っているのだろうか。

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、ソファの上に胡坐をかいて改まって訊いてきた。

 

「馬鹿な事を言っていると思ってくれてもいい。これから言うことに他意はないよ。私はあんたが好きだ。信じてもいる。生まれとかそんなものはさておいて、あんたもティファニアも私にとっちゃ可愛い妹だよ。そこを踏まえての問いかけだ。いいかい」

 

あまりにストレートな物言いに、私は頷くしかなかった。

 

「最初はね、あまりにも都合がよすぎるもんで、あんたのことをヴィクトリア公女を騙るどっかの国の工作員なのかとも思ったことがあるんだよ。テファは、下手したらアルビオンにとっては致命傷になりかねないファクターだからね。それに、ヴィクトリア公女が母方の実家に引き取られていったという話は私も聞いていたんだ。その公女が、遠くサウスゴータにいること自体が信じられなかったんだよ」

 

変も何も、あの時はとにかくハイランドからできるだけ遠くに逃げなきゃこっちが危なかったのだ。

年に3人は女中が不始末を咎められて『御手打ち』になることで有名だった侯爵家。屋敷の地下にある現役臭漂うピカピカの拷問具の数々を知っていただけに、私だって必死だったのだ。あれだけの事をしでかして、のほほんと侯爵の膝元なんかにいたらどんな目に遭わされていたか。

 

「そんなヴィクトリア殿下が、恐れ多くも顔も知らない妹のために王軍の兵と対峙するっていうのは、いくら義憤でもテファに入れ込みすぎな気がするんだよ」

 

「まあ、そう見られるかも知れないね」

 

「それでも私は、あんたの事は信用できるって思ったよ。腹に一物あるような奴なら、テファを助けるだけならともかく、危険を冒してまでテファの母君を丁重に送るような真似はしないだろうからね。それだけに判らないんだよ。ねえ、ヴィクトリア」

 

マチルダは息を吸い込み、そして言った。

 

「あんた、何者なんだい?」

 

偉く抽象的な質問に、私は答えに詰まった。

 

「何者、って?」

 

「あんた、ちょっと普通のお姫様じゃないよね。アルビオンから逃げ出す算段やこの街での生活基盤の手回しは、とてもじゃないけど公女様に出来る事じゃないよ。治療師としての技術もそうさ。考えれば考えるほど、あんたがやらかすことは普通のお姫様とはかけ離れたことばかりだと思うんだよ。あんたがよほどの妙な教育を受けたのか、さもなきゃ神の声が聞こえでもしない事には、私としては飲み込めない事が多いんだよ」

 

「そうかな?」

 

「責めているわけじゃないってことは判って欲しい。理由はともかく、あんたには、私もテファも本当に感謝しているんだよ。あの時、あんたの助けと采配がなかったら、今頃どうなっていたやら。テファは恐らく命はなかっただろうし、私だって行き場を無くしてひどい生活をしていたに違いないからね」

 

「おやめよ、水くさい」

 

感謝してくれている事は面映ゆいが、彼女らと一緒になって得られたものは、圧倒的に私の方が多いと思う。未だ、その事に対する感謝の言葉を口にできない自分が情けなくはある。

そんなマチルダの言葉を聞きながら、あの頃に味わった生活の記憶を反芻する。

 

侯爵の追っ手から逃れるべく荷馬車に潜りこんでひたすら南を目指して半月あまり、空腹と寒さに震えながらエジンバラやマンチェスターを経て、アルビオンを縦断する形でロンディニウムの下町に辿りついたのは今思えば我ながら大冒険だった。

顔を汚し、虫が湧きそうな粗末な服に着替え、考えうる手段を全て講じて平民に溶け込み、アルビオンにいる限り侯爵の追手がいつかかるか判らないだけに、王家に連なる公女がいるとは誰も夢にも思わないであろう思考の死角に身を置くことに腐心した。

下町に溶け込んだのはいいが、最初の生活基盤の構築で躓いた。ガキんちょな私には、働き口がなかった。つまり、食べる手段がなかったのだ。頼れる人はいないし、他国ならともかく、どこに侯爵の手下がいるか判らないアルビオンでは下手に魔法を使うと足がつくし、宝石だってアングラな手段で処分するのでもなければ自分の居場所を叫んで回るようなものだ。魔法を使って盗みを働くのは簡単だが、それは私の中の規範に触れる。夜、鳴りやまぬ腹を抱え、寒さに震えて物陰で蹲りながら、明日の糧を求めるための知恵を絞ったっけ。

そんな浮浪児生活はまさに弱肉強食の世界で、顔見知りの浮浪児にしても皆自分の事で精一杯であり、互いを助けるような殊勝な奴はいなかった。逆に、隙あらば誰かの財布や食べ物を掠め取るほど荒んだ連中ばかりだった。野犬の群れの方がまだ紳士的だったとすら思う。同病相哀れむような真似をしていたら、今頃私はどこかの女衒の手にかかっていただろう。誰かのその日のパンのためにだ。

あの頃の体験を思うと、原作のマチルダがどのような辛酸を舐めたのかが想像でき過ぎて胸が詰まる。オスマンにスカウトされるまでは酒場の女給をしていたマチルダが、太守の娘の立場からその職に辿りつくまでにどれほど苦労をしただろうか。目の前に優しい姉がそのような目に遭わなくて済んだだけでも、私は己の行動が間違っていなかったと思いたい。

 

 

「そんなに変かな、私」

 

「ああ、変わってるね」

 

マチルダはきっぱりと断言した。

 

「確信したのは先日の坊やの剣騒動さ。あんた、何であの剣に固執したんだい?」

 

確かに、あの時の私の挙動は不審の一言だったことだろう。

 

「あの時、坊やがあの剣の『使い手』というものだってことを、あんたは知っていた。一応はその道の専門家である私も気づかなかった坊やとあの剣をつなぐ線を、何で坊やとさして親しい訳でもなかったあんたが知っていたんだろうね」

 

名探偵マチルダの前に、私は発すべき言葉を見つけることができなかった。

油断は至る所にあったとは思うけど、それでも、これだけの推論を並べられてしまうとどうにも整合性の取れた説明を返すことは難しい。

だが、俯く私を責める訳でもなく、マチルダの声音はどこまでも優しい。

 

「もし、あんたが私たちに内緒で何かを抱えて何かを悩んでいるのなら、私はそれを看過できないよ。テファに内緒と言うのなら、今がいい機会さ」

 

そう言うと、マチルダは深い視線を私に向けてきた。いつか屋根の上で見せてくれた、慈母のような優しい視線だ。

 

「教えなよ、ヴィクトリア。私は、あんたのお姉ちゃんだよ。妹の持ってる荷物の一つも抱えてやるのが姉ってものじゃないか」

 

ああ、かなわない。

マチルダの言葉に、しみじみ、そう思う。

人として、家族として、そして姉としての器において、本当にこの人にはかなわない。

その優しさに甘え、ふと、全てを話してしまおうかという誘惑に駆られる。

全ての事象を俯瞰的な視点で見降ろす転生者であることを告げた時、マチルダはどう思うだろうか。

泥棒として、罪人として歩いていた可能性の世界のマチルダの話をしたら、笑い飛ばしてくれるだろうか。

そんな事を思いながら、尚も私は躊躇する。

全てを話してしまった時、絶対にマチルダもまた、テファの保身を第一に考えるだろう。

そこに彼女自身の保身が計算に入らない事は、原作を知っている私には判る。

私が知るマチルダはそういう人だ。

だが、テファとマチルダ、どちらが欠けても私の理想は成就しない。

一人ではなく、二人に、幸せを。

だから、私は答えた。

 

「もう…少し」

 

「ん?」

 

「もう、少しだけ、待ってくれないかな」

 

私は顔をあげた。

 

「必ず、全部話す。知っている事は本当に全部ね」

 

「今じゃダメなのかい?」

 

「できれば今は、訊かないで欲しい。もう一度訊かれたら、私は答えなくちゃいけない」

 

私の視線を受け止め、数秒、マチルダは考え込んだようだった。

やがて、ソファにもたれて宙を仰いだ。

 

「あ~あ、逃げられたか」

 

冗談めかして、それでも少しも悔しくなさそうで。

その様子に、私の中に申し訳ない気持ちが溢れる。

 

「…ごめんよ、頑固な妹で」

 

「はは、いいよ。あんたなりに考えがあるんだろう?」

 

「本当にごめん。でも、これだけは信じておくれ。私は、我が家の皆が好きだよ。皆が幸せであってくれることだけが私の望みなんだ」

 

「いいって。その代わり、その時が来たらきちんと話してくれるんだろう?」

 

「それは必ず。約束する」

 

「それじゃ、今夜は酌の一つで勘弁してあげるよ」

 

「…私の酌は高いよ?」

 

マチルダが笑って酒器を差し出して来て、私は黙ってボトルを手に取った。

 

 

 

 

 

 

「何だか外が騒がしいね」

 

酒に口を付けた時、マチルダが通りから聞こえる物音に眉を顰めた。

何だか通りが騒がしい。

 

「本当だね。はて、何かお祭りでもあったかね」

 

マチルダと並んで玄関から外を見ると、軍の兵隊たちがぞろぞろと隊伍を組んで行進していた。

 

「演習なんかあったっけ?」

 

「いや、記憶にないね」

 

まあ、戦争でも始まるならともかく、大ごとじゃなければ関係はない。

そんなことを考えていた時期が私にもありました。

 

居間に戻ると、タイミングを合わせたかのように乱暴な足取りで才人が飛び込んできた。

 

「何事だね?」

 

息を切らせて自室に向かおうとする才人を捕まえて問う。

 

「ちょ、ちょっとトラブってさ」

 

トラブル。

その言葉を聞くと同時に、マチルダと私は玄関に走った。

私たちの考えることは、テファのことだけだった。

 

 

『魅惑の妖精』亭に向かって飛ぶと、そこで行われていたのは1対数百のハンディキャップマッチ。

ディルムッドが押し寄せる兵隊たちを相手に大立ち回りを演じていた。

ハンディキャップマッチだが、ハンディをもらっているのはもちろん兵隊たちの方だ。

ディルムッドは『野良犬相手に表道具は用いぬ』と言わんばかりに槍を持っていない。しかし、無手とは言っても1個中隊程度では話にもならないだろう。

私的な基準では、こいつに素手ゴロを仕掛けるくらいなら、指輪を手にした冥王サウロンのお住いにカチコミをかける方がまだ気が楽なくらいだ。

知らぬとは言え、兵隊さんたちも命知らずなことだ。

 

『こら、何をやっているね?』

 

『これは主』

 

『何事だい? 弱い者いじめじゃないだろうね』

 

『は。テファさんに酌を強いようとした馬鹿者をキュルケ殿が懲らしめたのですが、その者が仕返しに1個中隊を引き連れて来たので誅を下しております』

 

『何~っ、テファに酌をさせようとしただぁ!?』

 

気安くテファに酌をさせようとするなどとは、そのような暴挙、神が許しても私が許さない。

ディルムッドと念話をしていた私にマチルダが訊いてくる。

 

「何だって?」

 

「あいつら、テファに酌をさせようとしたんだとさ」

 

「ほう…」

 

説明するや、マチルダお姉様がずいぶんと味な顔をしなさる。

全身から、神取忍が相手でも3秒でタップを奪いそうな濃霧のような黒い殺気を漂わせていた。

そんな人型の危険物を引っ張って妖精亭に向かうと、入口のところでテファがルイズやギーシュたちと一緒に心配そうにディルムッドの乱闘を見ていた。

 

「テファ、無事かい?」

 

私の声にテファが振り向き、泣きそうな顔をする。

 

「姉さん、どうしよう」

 

「大丈夫だったかい、もう危ないことはないからね」

 

「私は大丈夫。でも、兵隊さんたち、大怪我しちゃう」

 

論点はそこかい。

さすがに付き合いが長いだけに、同居人の実力は良く判っているらしい。

そのテファの隣では、ディルムッドの実力を知っているルイズとジェシカが惚れ惚れと言った感じで観戦してるが、奴を初めて見るギーシュやモンモンは顔に縦線を引いて絶句していた。

それらの視線の先で、手加減はしても容赦はしない感じで精兵たちを叩きのめしていく我が忠臣。見たまえ、人がまるでゴミのようだ、って、あんまり派手にやると後が大変なんだがなあ。相手は軍人だし。

 

そんなことをしていると、

 

「遅くなりました!」

 

と元気よくデルフ片手の才人が追いついて来た。

 

「よし、いい機会だ。日頃の成果を見てやる。50人ほど受け取れ」

 

「了解っす」

 

ディルムッドの言葉を受けて、威勢よくヤクザキックをかましながら乱闘に飛び込む未来の英雄。

「負けるんじゃないわよ!」というルイズの声援を受けながら、ディルムッドに負けず劣らずの勢いで峰打ちの刃を振るっていく。

気付けば周囲は野次馬が十重二十重。

いけ好かない軍人連中をやっつける平民二人に、やんやの大声援が巻き起こっている。

 

「何だか出る幕なさそうだねえ」

 

ちょっとだけつまらなそうなマチルダお姉さま。

 

「まあ、今日はあの二人が主人公と言うことしておこうよ。姫君を守るナイトは、やはり殿方の方が似合うさね」

 

「それもそうだね」

 

 

 

そんな、暑い夏の日のお話。



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その33

風に、秋の気配を感じる日だった。

 

トリスタニアの中央広場の噴水の傍で、僕は荷物を下ろして一息ついた。

ズタ袋の中身は、配属される任地に持っていく上官や先任への挨拶用の贈答品。主に酒類だ。

持てないほどの重さではないはずなのに、下ろした途端に安堵を感じた。体の端々に、厳しかった短期訓練の名残がこびりついているのだろう。どこか、体が借り物のような違和感もある。

噴水の縁に座って出店で買いこんだフルーツの果汁を口に含むと、火照った体が心地よく冷えるのを感じた。

訓練で流した汗がすごかっただけに、未だに体が乾いているのかも知れない。

昨日まで城の外郭にあるシャン・ド・マルスの練兵所で短期集中の修練をしていただけに、まだ体は回復しきっていないようだ。今も全身が風邪を引いたように熱っぽく、体調は正直思わしくない。

訓練はかなり厳しかった。過程の半ばで数人が脱落したくらいだったし、体格に恵まれた方ではない僕にしては、よく乗り越えられたと思う。

いくら僕らの年代が若くても、あれはやりすぎだと訓練中は思ったりもした。でも、今の情勢はいつ大規模な作戦があっても不思議じゃない不安定なものだ。

だから、あの厳しい訓練は、できることはすべてやっておけという教官の親心だったのだろうと思う。鬼のような教官だったけど、僕らが死んだら泣いてくれるような根は優しい人だった。

そんな訓練を経て僕が得たのは、空海軍の少年兵としての正式な立場と、新鋭艦への乗り組みという栄誉だ。

艦名は『レドウタブール』。今はラ・ロシェールで最終艤装中だと聞いている。

来週にはラ・ロシェールの艦隊本部に出頭し、そのまま配属になって訓練に入る。今日はその前の最後の休暇だ。

そんな僅かな余暇で、僕は買い物をしつつ王都の親戚の家を訪ねるつもりだった。

 

 

聖堂の鐘が、午前11時の鐘を鳴らした。

一休みを終えて腰を上げ、お店のあるチクトンネ街を目指した。

チクトンネ街は表通りと違って賭博場や酒場が多い、どちらかというと夜に忙しい街だ。

来るのは数年ぶりだけど、雰囲気はあまり大きく変わっていなかった。柄の悪さも相変わらずだ。

目指すお店は通りに面していて、酒場と宿屋を兼ねているため大きな構えをしている。

準備中を知らせる札のぶら下がったドアを開けると、開店前の静かな店内が目に入った。

ドアに付いた鈴の音で僕に気づいたのか、奥から久しぶりに聞く従姉の声が飛んでくる。

 

「ごめんなさい、まだ開店前…あら! あらあらあら!!」

 

他のスタッフたちと一緒に仕込中だったようで、厨房から顔を出した黒髪の従姉は僕に気付くと、笑顔で奥から出てきて僕の手を取ってぶんぶんと振る。

 

「久しぶり~! 元気にしてた!?」

 

「おかげさまで。ジェシカも元気そうだね」

 

「元気元気。いや~、背が伸びたね、あんた」

 

僕の頭に手を伸ばして表情豊かにジェシカは驚く。身長は僕の方がちょっと高いくらい。

 

「そう?」

 

「ちょっと前まではこんなにちんちくりんだったのに。まあ、大きくなっちゃって」

 

僕と1つしか違わないのに、ジェシカは相変わらず姉貴風を吹かせるのが好きだ。彼女が弟を欲しがっていた話は聞いたことがあったけど、確かに昔から何かにつけて僕を構ってくれた従姉のお姉さんだ。僕が軍に入ったことも知っている。

 

「それで、どうしたのよ、今日は突然」

 

「うん。配置の関係で、しばらく王都にいたんだ。今日は休暇」

 

「トリスタニアに?」

 

「訓練でね」

 

そういうと、ジェシカの顔が少しだけ曇った。

 

「う~ん、詳しく聞きたいけど…ダメなんでしょ?」

 

ジェシカは呟きながら渋い顔をした。軍関係の情報には守秘義務があるから、僕が答えられないことに気をまわしてくれているようだ。

 

「ごめんね」

 

「いいのよ。時間はあるの?」

 

「うん、夕方の門限までに戻れば大丈夫」

 

外出許可は午後6時まで取っている。

 

「じゃあ、お昼でも食べて行きなさいよ。作ってあげる」

 

「お願い。叔父さんは?」

 

「ちょうど寄り合いでいないのよ」

 

「そうか。残念」

 

「このお店の中だと、叔父さんっていうと怒るわよ」

 

「あはは、ミ・マドモワゼルだっけ?」

 

「そういうこと。ごめ~ん、ちょっと調理台貸して」

 

ジェシカは笑うと、厨房に戻っていった。

 

 

昼食を食べながら、お互いの近況について話した。

姉さんは学院で元気にやっているそうだ。貴族の子供たちが集まった学院なだけにそれなりに気苦労はあるみたいだけど、生活の安定と言うことでは無難にこなしていればそうそう困ったことにはならないだろうと思う。

ジェシカの方はと言えば、お店の方は最近の王都は人の流れが活発なためか、かなり景気がいいらしい。ちょっと前までは徴税官に嫌な奴がいたそうなんだけど、ある日通り魔に襲われて半殺しの目に遭って以来大人しくなったんだとか。ジェシカの話では、何でも体より心を病んでしまって今も寝込んでいるそうで、よほど怖い目に遭ったのか、うわ言で『赤い槍』がどうとか言っているとか。

 

生活の方は、最近は物価が上昇傾向らしい。加えて軍需物資を中心に物資の不足も徐々に出始め、王都全体が戦時体制に移りつつある気がするとのこと。

恐らくは遠からずアルビオンへの遠征が発布されるのではないかと誰もが思っているらしい。

それを裏付けるように、いろいろなものの税率が引き上げられ、新税も課されているそうだ。

そんな状況を聞きながら、軍の状況を思い出す。

空海軍に身を置く者として感じることだけど、先のタルブの戦いのダメージは、トリステインとしては決して軽くない。

基幹艦隊が全滅し、その再建のため大規模な艦隊の建造が今も急ピッチで進んでいる。かなりの戦力を失いながらも、今なおアルビオンの艦隊は精強だ。対抗するには相応の数の戦列艦が必要になると思うから国民に負担を強いるのも仕方がないことだと思う。

問題は、フネを造ってもそれを動かす人が足りないことだ。王軍や諸侯軍のように戦時だけ組織される陸軍と違い、空海軍は平時からの訓練が物を言う常備軍だ。

僕のような、まだ訓練も不十分な少年兵にも急な育成過程が組まれるなど、兵の練度には誰もが不安を抱えている。心得のある者は、少しでも早く現場訓練に就かせたいのだろう。

恐らくは遠征までには貴族の方々にもかなりの規模の動員がかかると思うし、そうなると空海軍にもかなりの数の臨時将兵が配属されると思うから、全体の練度の底上げのためには仕方がないことなのかも知れない。

戦列艦は安い買い物ではないけど、乗組員の養成もお金と時間がかかる。

僕ら少年兵ならば見張りや弾薬の運搬や伝令のような仕事しかないけど、航法関係の兵を錬成するのは大変なことだ。

戦列艦に乗り組むことは危険が多い。海の上の船なら揺れても波による翻弄くらいだけど、空軍のフネの場合は突風に煽られたり、空気の狭間のせいで急に高度が下がったりしたりと揺れが物凄い。それだけに、あまり慣れていない人が船務に就くと簡単に事故を起こす。帆桁の上の作業などは、慣れた人でも命懸けだ。実際事故も多いし、演習ですら死者が出たりもする。

そういう空海軍の増強を短期間のうちに行うということは、アルビオン征討と言う目標があってもかなりな冒険だと僕は思う。

それでも、自分の国は自分で守らなくちゃいけない。

現状では、遠征についてはアルビオンの亡命艦隊が頼みの綱という状況なのは確かだけど、誇り高いトリステイン空軍がそれに頼りきりと言うのは情けなさすぎる。戦後処理においても戦争における貢献度と言うものは軽視できないだろうし、何より、タルブの戦いで後れをとった不名誉を挽回なくちゃいけない。

あの戦いの時の艦隊全滅の報には、全空海軍が凍りついた。

幸いにも、タルブでは奇跡の光というのでアルビオン軍を打倒したそうだけど、あの戦いに僕が参加していたら、今頃こうしてジェシカとご飯を食べられなかったかもしれない。

知り合いの兵も、たくさん死んだ。

あの戦いの仇討ちは、空海軍の上層部だけでなく、僕ら末端の兵に至るまで悲願と言ってもいいくらいの大目標になっている。

 

 

 

「御馳走様。美味しかった」

 

「お粗末様。私の料理もなかなかでしょ?」

 

確かに美味しいご飯だった。

軍人に食通なしと言われるくらい、軍人で味にこだわる人は少ない。食べられるだけでも御馳走、という人の方がむしろ多い。

食事が自慢の空海軍と言うけれど、保存食主体の食事はやはりお世辞にも美味しい物ばかりじゃない。糧食主体の食生活に慣れた身としては、ごく普通のご飯と言うのはそれだけで御馳走だ。

何より、誰かが自分のために作ってくれたというだけで、そのご飯は糧食とは全く違う意味を持つと僕は思う。

真心がこもったご飯と言うのは、それだけで暖かくて美味しい。

食後のお茶を飲んでいると、ふと気づいたようにジェシカが僕の顔を覗き込んできた。

 

「あんた、ちょっと顔赤くない?」

 

「そうかな?」

 

「ご飯食べたからって感じじゃないわね」

 

そういうと、ジェシカが僕の額に手を伸ばしてきた。ひんやりした手が額に触れるや、ジェシカの顔色が変わった。

 

「ちょっと、あんた、熱あるじゃない!」

 

「大丈夫だよ、これくらい」

 

「ダメよ、軍人は体が資本でしょ」

 

出来るだけ穏やかに返した僕に、ジェシカは思いの他強い口調で僕に迫った。いつもは余裕ある態度のジェシカにしては珍しく、何だかひどく慌てていた。

 

「本当に大丈夫だって。本当にダメなら軍医に相談するから」

 

「こじらせたらどうするのよ。…まだ時間あるわよね?」

 

「夕方まで大丈夫だけど?」

 

「ならいいわ。ちょっと来なさい」

 

ジェシカは強引に僕の腕を取った。

昔は強いと感じたジェシカの腕力だったが、精一杯引っ張っているのだろうけど、思ったより強いと感じなかったのが印象に残った。

僕は男で、ジェシカは女の子なんだな、と場違いなことを考えていた。

 

 

 

引きずられていった先は、同じチクトンネ街の片隅にある建物の前だった。

薬瓶の紋章と並んで、杖に絡まった一匹の蛇が表わされている看板。奇妙な図柄の看板を見て、そこに書かれた文字を読んでみる。

軍にいるだけに、僕も一応読み書きは身に付けている。

 

「診療所?」

 

市井の診療所と言うとイメージとしてはどちらかと言うと怪我の治療が専門なイメージがあるけど、薬瓶と言うからには薬師も兼ねているのだろうか。熱さましくらいなら、近くの秘薬屋でもらった方が安いと思うけど。

 

「見た目はちょっとアレな先生だけど、頼りになる人よ。往診に行ってなきゃいいんだけど」

 

ジェシカは玄関の脇についている紐を引っ張った。呼び鈴らしい。

奥の方で軽やかな鈴が鳴る音が聞こえる。

 

「は~い」

 

次いでパタパタと走る音がして、玄関が開いた。

出てきた女の人を見て、僕はびっくりした。

長い金髪の、まるで妖精のように美人のお姉さんだった。

ただ美人なだけじゃない。胸のボリュームが尋常じゃなかった。

ジェシカも姉さんも歳の割に立派な方だけど、これは次元が違うと思う。

この人がジェシカが言う先生なのだろうか。

 

「あら、ジェシカ。どうしたの?」

 

「先生いる?」

 

違ったらしい。先生にしては若すぎるとは思ったけど。

 

「姉さん? いるわよ?」

 

「ちょっとこの子を診て欲しいのよ。私の従弟で、ジュリアンっていうの」

 

「まあ」

 

お姉さんは目を丸くして僕を見た。結構ジェシカと親しい人らしい。挨拶をしていると、お姉さんの後ろからパタパタと音が聞こえた。

 

「どうしたね?」

 

聞こえてきた声に振り向いて、僕は息をのんだ。

ブラウンの長い髪の下で輝く、黒い瞳の眼差しが強い。

10歳くらいの、こちらも綺麗な女の子だった。可愛いというのではなく、美しいという感じだ。

金髪のお姉さんが妖精なら、この子は夜の闇を結晶にした宝石のような美しさだ。何となく、『魔の者』と言われても納得できる気がする、引き込まれそうな深い美しさだった。

そんな思考が、ジェシカの言葉を聞いた途端凍りついた。

 

「先生、いてくれて助かったわ」

 

この子が先生!?

僕のことを説明するジェシカの声を遠くに聞きながら、僕は女の子に見入ってしまっていた。

この歳で治療師…どういう子なんだろう、この子は。

いろいろなことが思い浮かぶけど、思考は一向にまとまらない。

 

「ほら、よかったわね、診てくれるってさ」

 

「え?」

 

ジェシカに背中を叩かれて、ボケっと女の子に見惚れていた僕はようやく現実に帰還した。

そんな僕を見て、女の子は笑う。

 

「兵隊さんなら門前払いはできないやね。とりあえずお入りな」

 

「ほら、こう言ってくれてるんだから。きちんとご挨拶なさいよ」

 

何だか母さんみたいなことを言うジェシカに押されて診療所の中に押し込まれてしまった。

 

 

ジェシカを待合室に待たせて診察室に入ると、そこは見たことがある軍の軍医の医務室とはまた違った雰囲気の部屋だった。

見たことがない道具が並ぶ中、何だか女王様のような貫録を漂わせながら女の子は椅子に座って自分の前に椅子を指し示した。

僕が座ると、カルテを手に簡単な問診をされた。

名前、年齢、身長、体重、罹っている病気、罹ったことがある病気、蕁麻疹が出た経験等々。

問診が終わると女の子は僕の顔に手を伸ばして、下瞼を下げて目を覗き込む。

黒水晶のような瞳が、まっすぐに僕の目を見ていた。

 

「口を開けて」

 

言われたとおりに開けると、金属のヘラで舌を抑えて喉を覗き込んだ。

ランプをかざして喉の奥を見終わるとヘラを傍らの洗面器に放り込んで、また僕の前に座った。

 

「それじゃ、上だけ脱いでおくれ」

 

言われたとおりに脱ぐと、女の子は慣れた手つきで僕の胸をトントンと打診して、次に聴診器を当てた。金属の表面が冷たい。

 

「深く息を吸って」

 

何だかおままごとみたいな雰囲気だけど、音を聞いている女の子の表情は真剣そのものだった。

顔つきでわかる。この子は間違いなくこの道の専門家だ。

左胸のあたりに聴診器が移動した時、彼女の手が止まった。

 

「ん、これはどこかでぶつけたのかい?」

 

僕の左胸にある微かに赤くなっている打ち身に目が止まったようだ。

 

「この前、訓練で…」

 

「いつ頃?」

 

「一昨日かな」

 

「う~む」

 

女の子は唸りながら患部に手を触れた。ちょっと冷たい手だった。

少し触診して、納得したように女の子は顔を上げた。

 

「ちょっと体ごと左をお向き」

 

椅子を回して左を向く。女の子は立ち上がり、僕の背中と胸のそれぞれの真ん中に手を触れた。女の子の体が小さいので、何だか抱きしめられかけているような格好だ。

 

「7番かね…よいしょ」

 

掛け声を出して、僕の胸と背中を挟み込むように軽くぎゅっと押す。その途端、僕の左脇腹に刺すような痛みが走った。

 

「い、痛たたた!」

 

あまりの痛みに声が漏れた。焼けた鉄片を押し付けられたような痛みを肋骨の辺りに感じる。

 

「原因はそれだね」

 

女の子は眉を落とし、困った顔で言った。

 

「そ、それって?」

 

「ここの骨が折れてるのさ。熱はそのせいだよ」

 

僕の脇腹の痛みが走った部分を指さす。

 

「こ、骨折?」

 

「打撲による亀裂骨折。要するに罅だね。肋骨は弓状だから、正面にダメージを受けて体側部や肋軟骨が折れることもあるんだよ。ずれない程度の軽い罅だったから腫れも痛みも出なかったんだろうけど、ほっといたら何かの拍子に今みたいに突然痛みが来たかも知れないね」

 

「ど、どうしよう」

 

僕は狼狽した。明後日からは新しい艦に配属になり、恐らくすぐに訓練が始まる。

やることは山ほどあるし、力仕事だってたくさんある。何より、この国難にのんびり休んでいるわけにはいかないのに。

 

「安心おし」

 

女の子はそう言って笑うと、傍らに置いてあった水晶の棒を手に取った。

杖!?

僕は驚いた。

この子、メイジなのか?

平民でも魔法を使える人はいるけれど、平民相手に診療所をやっているメイジがいるとは思わなかった。

そんな僕の思惑も知らず、女の子は呪文を唱え、杖の先を僕の脇腹に当てた。

春の日差しに雪が溶かされていくように、僕の中にあった違和感が消えていく。

ため息をつく僕に女の子は微笑んだ。

 

「これで大丈夫。あとはできるだけ乳製品や魚を多く食べておくれ。だいぶ疲労がたまっているみたいだけど、体はもう回復期に入っているようだからできるだけ睡眠をとるなどして体を休めること。物はついでだ。他のところも診ておいてあげよう。手をお出し」

 

差し出した僕の手を握って女の子は目を閉じた。

 

 

 

 

30分ほどで待合室に戻ると、ジェシカが心配そうな顔をして待っていた。

 

「どうだった?」

 

「肋骨が折れてたって。治してもらったよ」

 

僕の言葉を聞いて、ジェシカはほっとしたような顔で笑った。

 

「よかった。来て正解だったわね」

 

「メイジだなんてびっくりしたよ」

 

「見た目はあんなに可愛いけど、腕はいいのよ」

 

そんな話をしていると、受付のお姉さんが僕の名前を呼んだ。

忘れてた。会計をしなくちゃいけない。

受付に行き、告げられた金額は、ちょっとどうなのかと思うくらい安かった。

それでいいのか、と訊いたら、お金はあるところからいただくんです、とお姉さんは笑った。

何だか釈然としない感じがするけど、安いのならば助かる。

お金を払おうとした時、僕は財布をズタ袋の中に入れっぱなしだったことに気がついた。

 

「ごめん、ジェシカ。財布忘れた」

 

「あら、じゃあ立て替えてあげる」

 

ジェシカがポケットに手を入れた時だった。

 

「立て替えなくていいよ」

 

診察室の中から女の子が出て来てジェシカに言った。

 

「お金は、診察を受けた人からもらうことにしているからね」

 

そうは言われても、今の僕は一文無しだ。

 

「でも、財布を忘れてしまって…」

 

「じゃあ、後で払いに来ておくれな。今日じゃなくてもいいよ。テファ」

 

女の子が指示すると、受付のお姉さんはメモに僕の名前と金額を書き、後ろにあるボードに画鋲でメモを留めた。

困ったことになった。

戦列艦に配属になったら次にいつ王都に来られるか判らない。下手したら、もう二度と来られないかも知れないのに。

 

「僕は今日しか都合がつかないんです。今から取ってきますから」

 

僕が説明しても、女の子は取り合ってくれなかった。

 

「悪いけど、もう今日はこの後往診に出ちまうんだ。支払は明日以降にしとくれな」

 

「だから、払いに来られないんですって」

 

「いつだって構わないんだよ…戦争が終わってからでもね」

 

女の子が、まるで子供に言い聞かせるようにすごく優しい目で言葉を続ける。

 

「だから、必ず自分で払いにおいでな。いいね?」

 

そこまで言われて、僕はようやくこの子が言っている事の意味に気がついた。

アルビオン遠征の話は、恐らく女の子も知っているのだろう。それを踏まえて、この子はちょっと会っただけの僕の無事を願ってくれているのだと。

何だか、人の情けが身に染みて、胸にじわっと来た。

 

「…判りました。借りておきます」

 

「踏み倒したら許さないからね」

 

厳しいようで、優しい物言いだった。

そんな言葉に、ふと、先日故郷の母に手紙を書いた時の返事が、いつになく短かったことを思い出した。

飾りもなく、ただ、体に気を付けるようにとだけ書かれた手紙。

ちょっと素っ気ないな、とも思ったけど、あの手紙を読み終えた時、僕の親不孝を咎めるでもなく、そっと泣いている母の姿が思い浮かんだのを思い出した。

 

 

 

「ねえ、先生」

 

そんなことを考えていると、ジェシカが話に割り込んできて嬉しそうに言う。

 

「支払を待ってもらうお礼の代わりと言っちゃ何だけど、この子が帰ってきたら、芝居見物にでも誘わせてもいいかしら?」

 

それだけで真面目な雰囲気が木端微塵になってしまった。何を出だすんだ、この人は?

受付のお姉さんも目を丸くして驚いている。

 

「ジェシカ、それは幾らなんでも失礼だよ!」

 

「馬鹿ね、支払いを待ってもらうんだから利息を払うのは当然でしょ」

 

うろたえる僕に、物凄く意地悪そうな笑顔でジェシカが言う。そんなやり取りを聞きながらキョトンとした顔をしていた女の子が、突然にぱっと笑った。

 

「へえ、それは気の利いた利息だね。私なら構わないよ」

 

「え?」

 

「嬉しいね、こういうお誘いは初めてだよ。服を新調して待ってるからね」

 

それはもう、にこにこと嬉しそうな笑顔だった。でも、そこにジェシカより意地悪なものを感じるのは気のせいだろうか。

 

 

 

 

 

お店に戻って、お菓子を御馳走になりながら、昔話を軸にした身内同士の話に花が咲いた。

うちの両親の昔の話や、僕が子供のころの恥ずかしい話とか。

ジェシカと話してるうちに、まだ人生の半分も生きていない僕にも、こんなにも振り返れる過去があるのかと驚いた。こんな時でもジェシカの姉貴風は健在で、ずいぶん面倒を見させられたと愚痴のような小言をたくさんもらった。

そんな、懐かしくて暖かい話が続く。いつまでも続いて欲しい、柔らかい時間だ。

それでも、聖堂の鐘が時刻を告げると、僕の時間が終わってしまったことを否応もなく気付かされる。

 

夕方の茜色の光の中、荷物を背に立ち上がる僕を、店の出口まで見送ってくれるジェシカ。

いつも通りの笑顔で、肩のあたりでひらひらと手を振った。

 

「元気でね。風邪引くんじゃないわよ」

 

「うん。ジェシカもね」

 

「あんた、いつも肝心なところで抜けてるんだから、気を付けなくちゃダメよ」

 

ジェシカが、無理に明るく振る舞おうとしてくれているのが、何となく判った。

でも…。

 

「ア、アルビオンに、行ったら…ちゃん、と…」

 

そこまで言葉を紡いだ時、ジェシカの笑顔に罅が入った。

まるで無理に施した漆喰がはがれるように、明るい、お陽様のような笑顔がぼろぼろと崩れていく。

目にいっぱいの涙をためて、下唇を噛んで。それでも何かを言おうとしてくれて、でも、言えなくて。

そして、ついにジェシカは泣き出してしまった。

僕の首に手をまわして、顔を伏せて、声を殺して泣いているジェシカ。

そんな彼女の背中を優しく叩くことしか、僕にはできなかった。

 

 

 

ようやく落ち着いた頃、ジェシカは僕にもたれたまま小さな声で言った。

 

「ジュリアン」

 

「ん?」

 

「女を泣かせたことは高く付くわよ。女を泣かす男は半人前、その後で笑わせて初めて一人前なんだからね」

 

「うん」

 

「生きて帰って来てね。絶対に」

 

一瞬、返事に詰まった。

それは、約束はできなかった。絶対に生きて帰れる保証のある戦争なんか、ない。

僕が行くのは、恐らく死地だ。

人の命が簡単に消えていく場所に、僕は行かなければならない。

だから、ちょっとだけ悩んで、僕は答えた。

 

「うん。頑張る」

 

告げたのは、約束ではなく、努力目標。

それは、僕と言う個人ではなく、軍人としての返事だ。

ジェシカにとっては頼りない従弟かも知れないけど、僕にだって男としての意地はある。

多くの戦友たちがそうであるように、国のため、女王陛下のため、そして守るべき人々のために、僕らは征かなければならない。

戦場が死に方を選ぶことすら贅沢な場所であっても死ぬなら納得して死にたいとは思うけど、場合によっては、僕の命すら戦場の損得勘定の中で消し込まれてしまうかも知れない。でも、それで守りたいものが守れるのなら、それは仕方がないことだと思う。

 

でも、もちろん僕だって死にたくはない。

ここに、僕を待っていてくれる人がいるのだから。

覚悟は持ちつつも、最後まであがいて、意識がなくなるその瞬間まで生き残るための努力をしようと思う。

叔父さんのためにも、タルブで待つ家族のためにも、学院で働く姉さんのためにも、成り行きで借りを作ってしまった診療所の女の子のためにも、そして、ジェシカのためにも。

戦って、生き残って、そしてきっと帰って来よう。

もう一度、この場所に。

 

ジェシカの笑顔が、見えるところに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<同日の夜>

「うふふふふふふふ…」

 

「で、いったいどうしたのさ、この子?」

 

夕食の席で、ひたすらニヨニヨと悶えているテファを指してマチルダが言う。

 

「さあ?」

 

私は首を傾げてとぼけることにした。

奇妙な声を上げているテファに、マチルダがさすがにこめかみに井桁模様を浮かべる。

 

「テファ、いい加減にしなよ。気持ち悪いよ」

 

「だって~」

 

私の頬をつつきながらテファが笑う。

 

「春よ、春。姉さんに春ですもの。いいなあ、年下の男の子」

 

その言葉に、一瞬食卓が凍りついた。

私の浮いた話がそんなに意外か、こら。

 

「な、何ですと!?」

 

何故マチルダよりも先に声を荒げるね、ディルムッド。

 

「テファさん、お相手はどこのどなたですか?」

 

「何をいきり立ってるね、お前は?」

 

いつになく血相を変えている我が忠臣。

 

「憚りながら、我が主の伴侶ともなれば、私にとっても重要な立ち位置となるお方。臣として、仔細を伺いたく存じます」

 

「何を一足飛びにそこまで飛躍しとるかっ!」

 

 

 

 

そんな1日。



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その34

 夢は、嫌いだ。

 良い夢は起きたら覚えていないし、見たくもない夢に限って目覚めた後も私を追いかけてくるからだ。

 

 殺伐とした人生を送っているだけに、私は夢見については悪夢の割合が非常に多い。

 伯父の悪夢がその最たるところだ。

 ところがだ。

 その日見た夢によって、夢見の最悪ランキングは大きく入れ替わることとなった。

 ぶっちぎりで1位をひた走っていたあの夜の記憶を軽々と抜き去り、圧倒的な1位に躍り出るような夢を私は見る羽目になった。

 

 

 それは、海の夢だった。

  小舟の上に、テファが乗っていた。

しかし、ただ乗っているのではなかった。

 ただならぬ気配の中、周囲を数名の兵に囲まれていた。いずれも、テファのように耳が長い。

 エルフ。テファが『まじり者』呼ばわりされて迫害されると言っていた種族だ。

 その中心にいるのは垂れ目の女。

 あろうことかその女は、手にした拳銃をテファに向け平然と、いや、むしろ嬉々として引き金を引いた。

 テファの細い体が弾け、血が、舞った。

 

オ……オ マ エ 、 ナ ニ ヲ シ テ イ ル ?

 

 夢なのは判っている。

 しかし私は、人の可聴範囲を超えるような声で悲鳴を上げた。

 パニックに陥りながら、杖を求め、使い魔を呼び、魂を振るわせて怨嗟の声を上げ続けた。

 そうしている間にも、垂れ目はテファに向かって銃を放ち続ける。わざと急所をはずし、テファの苦痛を心ゆくまで味わうように。

 見ていることしかできない私は半狂乱だった。殺意をまき散らし、血の涙を流してそれを阻止する術を求めた。

 しかし、何故か私は自分の手足は認識できず、声も出ず、魔法を紡ぐこともできない。

私の目の前で、テファが、壊されていく。

 テファが、死んでいく。

 我が身を切られるより辛いという言葉すら、私の感情には追いつかない。

 私の存在そのものが砕けそうな衝撃に、私は翻弄されていた。

 ぐらりぐらりと、世界が揺れる。

 

 

「主!」

 

 ふと、力強い手を感じ、私は覚醒した。

 灯りを落とした部屋の中で、我が忠臣が私の肩をゆすりながら悲壮な顔をしていた。

 

「……あ?」

 

 我ながら間抜けな声だったが、忠臣は落ち着いた声で答えてくれた。

 

「御寝所に踏み入る御無礼は承知なれど、ただならぬ気配を察しまかり越しました。酷く魘されておられたご様子。大丈夫でしょうか?」

 

 重厚な現実感を持った声に、私は現実への回帰を確信した。

 寝る前にかけるサイレントの魔法も、パスで繋がる私たちには関係ないことを思い出した。

 その頼もしい使い魔の言葉に安堵したが、その刹那、体が精神の変調に忠実に反応した。

 強い嘔吐感を感じて、私はディルムッドの腕の中から飛び出してトイレに飛び込んだ。

 あらかた消化された夕飯を戻し、それでも吐き足らずに胃液を吐く。黄色い胃液と共に内臓そのものを吐き出すような勢いで吐き続けた。

 何なのだ、あの夢は。

 私は嘔吐感に苛まれながら、そのことを考えていた。

 夢と言うのは記憶の再整理だとか願望の表れだとか諸説あるが、あれはあまりにリアリティがありすぎた。風景はおよそ記憶にないし、あの垂れ目のエルフだって知らない。まして、テファを傷つけるようなことを私が望むことはありえない。それこそ、魂の核まで掘り下げてもそのような願望は欠片もないはずだ。

 あらかた吐き終わり、必死に荒い呼吸を整えつつ、涙を滲ませながら自分が戻したものを見ていると、背中をさする優しい手を感じた。

 

「大丈夫?」

 

 聞こえた声は、優しいテファのものだった。

 

「あ、ああ……うぅ……」

 

 我ながらよく判らない悲鳴をあげながら、私はテファに縋りついた。

 柔らかい感触とともに、確かな温度がそこにあった。

 夢で銃弾を撃ち込まれていた肩も、腹も、足も、傷一つない。

 私が知るテファだ。

 私の妹の、ティファニアだ。

 私が、守ると決めた女の子だ。

 それだけで、罅が入った心が急速に修復して行く。

 

「ほら、口を濯ぎな」

 

 聞こえた声はマチルダ。起こしてしまったのだろうか。

 心配そうな面持ちで、手にした水の入ったコップを差し出してくれる。

 礼を言って受け取り、冷たい感触を手のひらに感じながら、水を口に含む。

 うがいをする私の後ろに、3人の家人を感じる。

 そこに感じるのは、一人ではないという安心感だ。

 皆がいてくれると思うだけで、心が暖かいもので満たされる。

 思わずうれし涙が滲みそうになるのを感じながら、口の中の饐えた胃液の名残を洗い流した。

 

 

 

 

 翌日、気もそぞろに診察をこなす。

 あの明晰夢の後遺症は、私の心身に微妙な影響を及ぼしていた。

 エルフに襲われているテファ。

 あれは何のお告げなのだろうか。未来の予感か、あるいは私の歪んだ記憶の生み出した虚像なのか。原作にだってあんなシーンはなかったはずだ。あったとしても、私は覚えていない。記憶の狭間の深いところに落ちているのだろうかと思ったりもするが、さっぱり見当がつかないだけに性質が悪い。

 ヒュプノスの悪戯なのか知らないが、余計な夢を私に見せないで欲しい。

ただでさえ、私の脳のリソースはかなりの割合が才人救済の模索のために食われていると言うのに。

 秋の深まりに従って、徐々に世相は戦争一色に移行しつつある。

 そんな中、私は間もなく始まるアルビオン戦役において、単身で殿を支える羽目になる才人を救済するためにはどうすればいいか考えていた。

 夏が過ぎ去り、才人とルイズの体験アルバイトは終了して、彼らは彼らの日常に帰っていった。

 彼ら英雄たちと私たち一般人の奇妙な交差は、互いの居場所へと分岐していった……というようなことはなく、毎週虚無の曜日になると二人して押しかけてきては朝食をたかっていくのが常になっていた。実に困った奴らだ。

 いいとこのお嬢様ともあろう者が平民の家に飯を食べに寄ると言うのも奇妙なものだと思うが、確かにテファの料理は美味しいし、日本食の『お惣菜』の遺伝子を持つそれは、一度食べ慣れてしまうとしばしば無性に食べたくなる謎の中毒性を有している。才人あたりは『何となく故郷の味がする』と言って実に美味そうに食べる。意外と違いが判る男のようだ。

 朝食が終わったらルイズはヴァリエールの街屋敷へ、才人は工房の手伝い兼稽古へと別れてそれぞれの休日を過ごしていた。

 しかし、それも長く続かないことを私は知っていた。

 案の定、ギューフの月が始まる頃、予定調和の通りに二人が渋い顔でやってきて、しばらく顔を出せない旨を私たちに告げた。

 はっきりとは言わないが、恐らく里帰りなのだろうと察しがついた。

 折しもアルビオン侵攻が発布されて一か月、挙国一致の雰囲気が否応もなく盛り上がり始めたころだ。

 今回の帰郷は、実家における戦争参加の押し問答イベントだろう。才人が晒し首になりかけるあれだ。それを機に、半ば出奔に近い形で二人は連合軍の陣に合流していくのだろう。

 娘に手を出されて怒り狂うヴァリエール公爵との初対決。

 ルイズ獲得のための、まずは最初の試練だ。うまく生き残れよ、少年。

 

 そんな才人救済について、私にはいくつかの選択肢があった。

 

 一つは、アンリエッタのところに、いつぞやのスカウトの話を蒸し返しに行くこと。

 アルビオン亡命軍の旗印となって歴史に介入することになるが、これは早々に没にした。

 旗印は結構なのだが、実際はまさに名ばかりの司令官だ。それに、艦隊などと言う図体の大きい物を引き連れては、歴史の流れに抗うことは難しいだろう。作戦という大局的な流れに流され続け、最後には私も敗軍の将の仲間入りするのがオチだろう。

 

 次が、傭兵として軍に志願して戦争に参加すること。

 これもまた制約が多い。

 いかんせん軍隊は一つの生き物だ。所属したが最後、全ての自由は無きに等しい。

 そうなると自分の都合で動くことはできないし、下手に動こうとしたら敵前逃亡で死刑になってしまうだろう。

 何より、私のような小娘が傭兵募集に出向いたら、頭を撫でられながら『お嬢ちゃん、出口はあっちだよ』と言われるだろう。戦争は男の物と言う思想はこの世界にも根強いようで、学院の女生徒ですら招集はかかっていなかったはずだ。

 

 その次が、自前で医療法人を立ち上げて慈善団体として戦場に乗り込むこと。

 これは自由度は高いが実現性が乏しい。組織を作ろうにも、水メイジが私しかいないのに団体は組織できないだろう。平民の女たちを集めて女子挺身隊を組織するのも手だろうが、時局に鑑みると、後送された傷病兵の看病に回され、アルビオンに渡ることすらできないだろう。

 

 あれこれ考えてはいるが、生半可な方法では私の望むようなプランに組み上がらない。戦争と言うものがいかに物事が複雑に絡み合っているかを思い知らされる思いだ。戦時下においては、民間人の私ではアルビオンに渡ることすらままならないのだ。

 才人の戦争への参加を阻止するということならば、いっそ零戦をぶっ壊してしまってはどうかとも思うが、状況からしてアンリエッタは手段を選ばずルイズら主従をアルビオンに放り込むだろう。生存率を考えると、零戦はあった方がいいと思われる。

 ともあれ、私がいくら跳ね回ろうが、市井の女一匹の奮闘など物事の流れからすれば大河の一滴に過ぎず、大局をどうこうできるようなものではないだろう。

 

 そんなことを考えていたところに、あの最悪の夢見だ。

 嫌な予感が胸に根付いて離れてくれない。それがただの夢なのか、あるいは未来のビジョンなのかは判らないが、何であれ、あの垂れ目が敵だとしたら厄介なのは確かだ。

 この世界のエルフは人より遥かに発達した文化と魔法を持っている。ハルケギニアの系統魔法しか知らない私では勝ち目がない物騒な連中だ。

 ディルムッドがいてくれればあの程度の輩なぞ秒の単位で一寸刻みにしてやれると思うが、何故彼があの場にいなかったのかは判らない。

 もし、あれが今の時間軸の未来の光景であり、あの垂れ目が夢の通りにテファを害するのだとしたら、私は何をおいてもそれを阻止しなければならない。

 テファを害する奴は、私が知覚し得る範囲において存在することを許さない。それは私の不動の誓いだ。

 系統魔法がエルフに効かないと言うのなら、私の持てるすべてを動員してでも他の手段を模索しなければならない。それこそ、この世界の因果や脈絡を超越してスターライトブレイカーあたりを身に付けてでも、あの垂れ目のあばずれを全力全壊で抹殺しなければならない。

 テファを楽しみながら撃ち殺そうとする等、断じて許容できん。それが大いなる意志とやらの思し召しなら、その大いなる意志とやらも含めて私の敵だ。

 

「先生、何だか今日は妙に黒い靄を出しとるのう?」

 

 患者さんの声で我に返った。

 検診に来た馴染みのじい様が、私の様子にいささか引いていた。

 酒豪で知られているが、それだけに脂肪肝が進んでいる患者さんだ。

 

「ああ、すまないね。何度言っても酒をやめてくれない困った患者がいるんでね」

 

「あちゃ、ばれてしもうたか」

 

 水メイジにそんな嘘が通るわけがないだろう、と言うより少しは悪びれんかい。レクター教授よろしくフォワグラ切り出して酒のつまみにしちゃうぞ、こら。

 こんな感じに、私を困らせて愉しむ輩が多いからこの街のじい様連中は困る。

 

「まったく、何回言ったら判るんだい。このままじゃ肝臓壊して死んじまうよ。奥さん呼んで、アルコールを摂取すると下痢が止まらなくなる薬を処方しなくちゃいけないかね」

 

「そりゃ困る」

 

 ちなみにその禁酒薬は実際にうちにある薬だ。食べた後に誰かにぴーぴーと言われると腹を下すキャンディーを開発しようとして失敗した際の副産物で、主成分はアルコールに反応して獰猛に変質する食物繊維。飲兵衛の宿六にとっては断酒を強制される悪夢のカーズアイテムだ。それでもめげずに酒を飲むような奴は、アルコール依存症として隔離しなければなるまい。

 

「だったら、言われたとおりに生活習慣を改めておくれな。そこに書いてあることをもう一度良くお読み」

 

 壁に貼ってある、東方の賢者のありがたいお言葉として紹介している貼り紙を私が指差すと、じい様は他人事みたいな顔で音読した。

 

「『週に二日は休肝日。酒と女は『2ごう』まで』」

 

「2合ってのはこれくらいのコップ2杯程度。ジョッキじゃないからね。今度約束破ったら本当にお薬だよ」

 

「ちぇ。つまんないのう」

 

 

 

 

 

 

 そんな、ごく当たり前の、平和な一日。

 そういう一日に、なるはずだった。

 最後の患者が入ってくるまでは。

 

 

「次の人~」

 

 テファに案内されて入って来た人物を見て、私は息を飲んだ。

 

 それは、輝くような美少年だった。

 美しい金髪に、長い睫毛。

 だが、私の心臓が急激に鼓動を増したのは、断じてときめきからではない。

 

「初めまして、美しい治療師さん。お目にかかれて光栄の至り」

 

 目の前の美少年に、私は自分の中の何かがコトリと音を立てて回り出した。

 今まで、幾度も感じたことのあるそれに似て、しかし、その回転は私の意思とはかけ離れたところで速さを増していく。

 なるほど、こう来たか。

 運命と言うものは、こういう風に来るか。

 神よ、始祖ブリミルよ、私は今、御身に対する新たな呪いをまた一つ積み上げたよ。

 こいつが何をしに来たのかは知らないが、とりあえず訊くべきことは訊いてみよう。

 ここは診療院。患者を治す所だ。

 

「それはどうも。まずは名前から聞こうか」

 

 カルテを手に問う。

 

「ジュリオ・チェザーレと申します。美しい治療師さん」

 

 人違いであってくれと願ったが、私の見立ては残念ながらはずれなかった。

 

 ジュリオ・チェザーレ。

 教皇の、狗。

 

 少年の顔をまじまじと見る。

 その瞳は左は鳶色で、右は碧眼。なるほど、話に違わぬ美少年だ。

 この時代の、何も知らない初心な娘ならころりとひっかかるのも頷ける。

 こいつの登場は予想外だが、その用向きが私にとってろくでもないものだという確信だけはあった。

 

「それで、今日はどこが悪いんだい?」

 

「貴女のような美しい女性に出会えたためか、心臓が早鐘のように鳴って困っております」

 

 私の言葉に、ジュリオは大げさな仕草で胸を抑えてみせる。

 私は心底ため息をつきたくなった。日々メディアが垂れ流す多くのエンターテイメントに触れてきた女に、そんな三文芝居が効果があるとでも思っているのだろうか。地球舐めるな、ファンタジー。

 

「この胸の高鳴りを抑えるには、どうすればよろしいでしょうか」

 

 あまりにくさいセリフに鳥肌が立ってきた。嫌悪感が背筋を這いあがって行く。高鳴りとやらを鼓動ごと止めてやろうかと思うくらいだ。ひょっとしてこいつは嫌悪感を使って私を殺そうとしているのだろうか。

 

「なるほど、それは大変だね。ロマリアじゃそういう時はどうしていたんだい?」

 

 私の言葉に、ジュリオはやや眼光を鋭くした。これでも感情を表に出さないあたりは大したものだ。一流の結婚詐欺師になれるだろう。今でも似たようなものか。

 

「何故お判りに?」

 

「そんな阿呆な台詞を真顔で言えるような破廉恥な生き物は、ロマリアにしかいないとばあちゃんが言ってたのさ」

 

「これは手厳しい。おっしゃる通り、僕はロマリアより新たなる美を求めて参ったのです」

 

「なるほど」

 

 私は声の震えを抑えるのにかなりの労力を費やさなければならなかった。

 こいつが何を知っているのか。何を求めてここに来たのかが知りたい。

 知らねばならない。

 

「くだらない腹芸はおやめ。用向きだけ簡潔に言っておくれな」

 

 さすがにジュリオの表情が真面目なものに一変する。

 

「さすがはヴィクトリア殿下。噂通りの慧眼ですね。お見通しと言うことなら話を端折らせていただきます。モード大公の忘れ形見であるお二人に、神の思し召しについてお伝えに参りました」

 

 私の中の何かの回転数が、一気に跳ね上がった。呼吸が知らず早くなってくる。

 何だか妙な感じだ。変な汁が脳から出ているようだ。

 

「それはどうも。だけど、神の思し召しが必要なら街の寺院に行くよ。あんたみたいな青二才にわざわざ御足労いただくまでもないさ」

 

「高貴なる身分のあなたが、このようなところに埋もれている事については教皇猊下も心を痛めておいでです。また、魔法が使えぬ妹君につきましても、我々としてはお力になれるものと思います」

 

 音なき音が、聞こえた。

 それはガラスが砕けるような、派手な音だ。

 この男は今、地雷を踏んだ。

 私の中で回っていた何かの回転軸が折れて、私の中で何かが暴れ出す。

 動悸が、危険ほど激しく私の胸を打っている。

 呼吸が荒い。舌先に感じる、アドレナリンの味。

 私は極度の興奮状態にあるようだ。

 

「ふふ、馬鹿な男だね」

 

 私の笑顔を見て、ジュリオは一瞬だけキョトンとし、そして恭しく言った。

 

「すべてはお任せ下さい。悪いようには致しません。お望みとあらば、御身がアルビオンの王座に就かれるお手伝いもさせていただきます」

 

 何を勘違いしているんだろうね、こいつは。

 私の手を取ろうとした美少年の手を避けて、私は杖を手に取った。

 

「知ってるかい? 馬鹿ってのは死ななきゃ治らないそうだよ」

 

「え?」

 

 意味が判らず呆気に取られた顔をするお坊さん。

 忘れているようだ。

 ここは診療院。患者を治す所だと言うことを。

 私は告げた。

 

「どれ、私が治療してやろう」

 

 

 

 

 

 その日、チクトンネ街はおおむね平和だったと思う。

 いつも通りの、賑々しくも穏やかな街並み。

 その平和を破ったのが私の診療院だったことについては、後で方々に謝ることとしよう。

 玄関ドアを内側からぶち破って、直径1メートルほどもある水の球が唸りを上げて飛び出してきたのだから通行人は目を丸くしたことだろう。

 ドアを破った時点で水の球は派手に飛び散り、局地的なにわか雨になって通りに降り注いだ。

 

「ちょ、ちょっとお待ち下さい!」

 

 命冥加なことに、ぎりぎりのところで私の一撃を避けたジュリオは転がるように往来に逃げ延びていた。今ので楽になっておけば良かったものを。

 コンデンセイションで作った水球を、力任せに相手に叩きつけるウォーターハンマー。

 風魔法エアハンマーの水魔法版みたいなものだ。エアハンマーのように不可視の槌ではないだけに避けることが可能だが、水の密度は空気の800倍以上、まともに食らえば高度数十メートルから水面に叩きつけられるように結構簡単に死に至る。

 私が、母親を殺した魔法だ。

 あの時感じた、杖を通して伝わって来た命が壊れる感触を思い出すことを無意識に忌避していたのかトリスタニアに流れて来てからは使わなかった魔法だが、今の私にはそんな感傷は微塵もない。むしろ積極的にジュリオの命を刈り取るために杖を振るっていた。

 私の本能の深い部分が、こいつを生かして帰してはいけないと叫んでいる。

 理由は簡単。こいつは、私の城を攻めて来た明白な敵だからだ。

 私が大切にしている今の生活を、破壊しに来た怨敵だ。

 私たちの素性を知っており、それを利用するために接触してきたロマリアの尖兵。

 そして、タバサを騙し、ジョゼットを籠絡してまで事を進めようとする許し難い女の敵でもある。

 それだけなら、まだいい。

 それだけなら、大義のために苦悩する、迷える子羊として見ることができた。

 だが、こいつは口にしてはいけない言葉を口にした。

 

『魔法が使えぬ妹君』

 

 こいつはテファの事を知っている。その特殊性を理解している。そのうえで、私の診療院に乗り込んできたのだ。

 にやけ面下げて、まるで、落ちぶれ貴族の小娘など軽いものだと言わぬばかりに。

 噛みしめた奥歯が鈍い音を立て、上がった血圧で目の前がくらくらしてきた。

 まるで体が借り物のようだ。そんな借り物の体は一歩一歩と通りに転がり出たジュリオを追う。

 迫る私に対し、側溝から数匹のドブ鼠が飛び出して飛びかかって来た。さすがはヴィンダールヴというところだが、私を止めるには少々投資が足りないよ、坊や。

 そのドブ鼠たちに対して私の杖から銀光が跳び、水流カッターを受けた哀れなネズミたちが寸断されて地に落ちた。

 その切れ味を見て、ジュリオの目に初めて恐怖が伺えた。

 それでいい。存分に恐怖しろ。だが、絶望するにはまだ早い。心の聖域に土足で踏み込まれた私の怒りは、こんな程度では吊り合わない。

 どう刻んでやろうかと考えながら、右手に持つ杖を静かに構える。

 だが、振り下ろそうとした手を、誰かが掴んで邪魔をした。

 放せ、こいつが逃げたらどうするんだ。

 しかし、そいつは邪魔をするだけじゃなくて、腕ごと私を抱きかかえてきた。

 

「ダメ! 姉さん、それ以上はダメ!」

 

 ギュッと抱きすくめられ、顔の辺りに感じる二つの充実感。

 はて。

 

「あなた、姉さんに何したの!」

 

 私を抱きしめたまま凄まじい怒気を発している人の匂いは、テファによく似ていた。

 似ているというより、テファの匂いそのものだった。

 押し付けられた充実感から顔を上げると、柳眉を逆立てたテファの顔が見えた。

 テファが本気で怒っている。これは中々レアな眺めだ。美人が起こるとこんなに怖いんだなあ。

 そんなことを考える私の中で荒れ狂っていた何かがすとんと落ち着き、自分の体が自分の支配下に返ってきた。

 同時に感じたのは、強烈な疲労だ。体が鉛のように重く、息が苦しい。アドレナリンの余韻が痺れたように体に残っている。

 テファに押さえつけられながら、周囲を見回す。

 私の憤怒の余波を受け、ひどい有様だった。ドアが外れ、往来は水浸しだ。

 その周囲で、街の人たちが怪訝な表情で私たちを見ている。

 

「ぼ、僕は何もしていない」

 

「嘘おっしゃい! 何もされてないのに姉さんがこんなに怒るわけないわ!」

 

 私のことを守るように抱きしめたまま、テファは親虎のように唸り声をあげてジュリオを威嚇している。

 その様子を見ていた周囲から、妙な気配が漂い始めた。

 衆人環視。街の連中がテファとジュリオのやり取りを見ているが、知らぬ間に危険な空気は静かに広まっていたようだ。

 口火を切ったのは、配達途中らしい八百屋のおばちゃんだった。

 いきなり飛来したジャガイモが、ジュリオの横っ面にヒットした。

 

「あたしらの先生に何したんだい、この変態!」

 

 おばちゃんのその怒声を合図に、街の皆が一斉にジュリオに罵声を浴びせ始めた。

 罵声の次は物だ。石をはじめとしたいろいろなものがジュリオに向かって投げつけられ始めた。

 

「ち、違う……」

 

「うるせえ! このスケベ坊主!」

 

 ジュリオの反論は圧倒的な数の圧力の前に飲み込まれ、通りがかった職人や荷役夫の連中が数名でジュリオに飛びかかって袋叩きにし始めた。

 もともとが血気盛んな連中なうえ、原哲夫の漫画に出てきても違和感がなさそうな体つきの男たちだ。いくら腕自慢のガキ大将でも、多勢に無勢では如何ともしがたいだろう。

 坊さんをフクロにしちゃって後で大丈夫なのかと今更ながら不安になったが、そんな私の前でジュリオの小憎たらしいほど整った面がボクサー的な意味で男前に整形されていく。さすがはチクトンネ街の連中だ。手加減ってもんを知らない。

 鼻血まみれになり、お岩さんのように目を腫らしたジュリオがたまらず叫んだ。

 

「ア、アズーロ!」

 

 上空に待機していたのかジュリオの叫びを受けた風竜が即座に舞い降りてきて、翼の風圧で職人たちを吹き飛ばした。

 そして、そのままジュリオをホールドして、あっという間に飛び去って行った。

 

 

 

 

 あっさりと逃げられてしまった後の呆気にとられた空気の中、私の周りに街のご婦人方が心配そうに寄って来た。多くの女性に案じてもらえるのはありがたいのだが、総じて『おお、よしよし、可哀そうに。怖かったよね。もう大丈夫だよ』と言った暖かいニュアンスの言葉をいただいている。旧新宿区役所跡で開業している白い院長先生のような怖い医者様を理想と標榜する私の沽券に関わるような扱われ方が少々気になったが、あのエロ坊主についても何だか妙な誤解が独り歩きしているようだ。

 とりあえず、これでジュリオはこの界隈に近寄れないだろうから改めて誤解を解くような真似はしないでおこう。ロリコンだのペドフィリアだのといった噂が根付いてくれれば、この街の女性陣が奴の毒牙にかからなくて済む。

そんな皆に短く礼を言って、ちょいと杖を振って外れたドアを元に戻し、私はテファに促されて院に戻った。

 ひどく、疲れた。

 少し横になろうと自室に行こうかと思ったら、それはテファに止められた。

 

「今、飲み物淹れるから、居間にいて。見えるところにいて」

 

 と泣きそうな顔で言われては逆らう気力もわかない。

 リビングのソファにもたれて、私は襲ってくる疲労感を噛み締めた。

 極度に興奮した場合、その後にはひどい疲労感がやってくる。

 無様だ。これでも、平常心にはいささか自信はある方だったのだが。

 何しろ、目の前に凶刃があろうが杖を向けられていようが、そういう喧嘩出入りでは私は恐怖を感じないのだ。無論、すべてに対して恐怖を感じないわけではない。先日、変態の悪意に晒された時などはもちろん怖かった。だが、初めて人を手にかけて以来、事が闘争であると認識をした時、すべてがどこか他人事なように私の心はフラットになる。そういう点で私の心は、母を殺して以来どこか歪んでいるのだ。

 だが、今日の憤怒については、私も人が持つべきごく当たり前な感覚を味わうこととなった。

 言葉を発するのも億劫なくらい疲れた私は、回転が鈍った頭で考え込んだ。

 

 ロマリアが、テファの事を掴んでいた。

 予想はしていたことではあったが、その現実が、押しつぶすほどの勢いで私にのしかかって来た。

 いつかどこかで歴史が変わるのではないか、と淡い期待を持って過ごしてきた私の手持ちの時間がゼロになる瞬間の到来は、怯えていた割には結構あっさりとしたものだった。

 恐らく、爪を切り過ぎた時のようなものだろう。後から静かに深く痛んでくるのだと思う。

 そんな益体もない思考を遊ばせていたためか、自分の意識が勝手に落ちたことに私は気づかなかった。

 

 

 

 

 

 

 大事なことなので、もう一度言おう。

 夢は、嫌いだ。

 良い夢は起きたら覚えていないし、見たくもない夢に限って目覚めた後も私を追いかけてくるからだ。

 

 父の、夢を見た。

 今生の父だ。

 私の中の父の記憶は、本当に数えるくらいしかない。

 国政に携わっていただけに、相応に忙しかった父だった。財務監督官なんて大変な仕事をしていれば、仕事漬けで自領に帰ることがあまりなくても仕方がない。

 もっとも、彼にしてみれば政略結婚であてがわれた私の母よりも、自ら選んだシャジャルの方が共にいて心休まるのだろう。本宅より別宅に足が向くのもむべなるかな。

 そんな事情もあって、本当に滅多に見ない父だった。

 私の中の彼の記憶は、書斎の机で調べ物や書き物をしている姿ばかりだ。ランプの点いた部屋の中で、ペンを手に書類をサインで埋めている後姿。僅かに開いたドアの隙間から、その姿を覗いた時の記憶が私の中では一番鮮明な父の肖像だった。

稀に本宅に寄った時でも、帰宅を使用人たちとともに出迎える私に視線を向けることもなく、食事も一人でさっさと済ませて部屋に籠ってしまう父。

 人として、王族として、好いた相手と一緒になれない彼の境遇には私なりに同情していた。でも、私をまるでいないもののように扱い、愛情の欠片すら見せてくれない彼の姿勢は、やはり悲しかった。

 砂漠のような日々の中、ほんの少しでもいい、優しさは欲しかった。

 

 黙って父を見ている私の脇を、金色の影が通り過ぎる。

 何故かそれは、幼いティファニアだった。

 見たこともない、私とは違う場所に住んでいたはずの小さなテファ。

 なるほど、夢と言うのは何でもありだ。

 そのテファが仕事中の父の元に駆け寄り、子供らしい、天真爛漫な言葉を紡いでいく。

 振り返り、それを見る彼の視線の、なんと穏やかなことか。

 小さなテファを膝に抱え、父親らしい威厳と愛情を持った言葉をテファにかけていく。

 あの父が、ここまで無防備で穏やかな表情ができるとは思わなかった。

 

 それを理解した時、何故か私の目許に、涙が滲んだ。

 優しく笑う父。しかし、私が打ちのめされたのは、彼のそんな態度のためではなかった。

 一心不乱に自分の存在を拙い言葉で笑顔とともに伝えるテファ。子供故にできる、力任せで微笑ましい自己の主張だ。

 その姿が、正視に堪えぬほど眩しく見える。

 その眩しさが、私の心の闇を煌々と照らしていた。

 

 転生と言うものは、武器であると同時に、枷だ。

 前世の私は、父というものを知らなかった。

 その温もりも、力強さも、優しさも。成長するに従って、物心がつくかつかないかの頃にわずかに触れ合った記憶すら風化し、私の中には彼の記憶は全くと言っていいほど残っていなかった。

 父と言うものは、想像の世界の存在でしかなかった。

 故に、父と言う存在と触れ合う方法を、私は知らなかったのだ。

 思い返せば今生の父に対しても遠慮がちに、それこそ焼けたストーブに手を伸ばすような態度でしか触れてこなかったように思う。

 目の前のテファの姿に、その自分の振る舞いが、いかに歪だったかを浮き彫りにされていく。

 私は馬鹿だ。

 どこの世界に、意味もなく躊躇いがちに親と接する子供がいるというのだろう。

 自分と言う存在を主張することなく、父を他人のように見つめ、子供ゆえの無邪気な愛情の要求もしなかった私が、彼の目にはどのように映っていたのだろう。

 何と不気味な子供だったのだろうか。

 何と自分勝手な私だろうか。

 彼の情の薄さを責めるばかりで、私自身が彼を愛そうとしていなかったのだ。

 幸せそうに笑い合う、テファと父の姿。

 もし、私が子供らしく彼に真正面から向き合っていれば、私もまたあの膝の上で、彼を「父様」と呼ぶことができたのだろうか。私に、優しく笑いかけてくれたのだろうか。

 テファの邪気のない笑い声が心に刺さり、私は耳を塞いで蹲った。

 そこにあるのは、ひとつの完成された幸せの形だ。

 二人を見れば見るほど、テファとシャジャルを手放さなければならなかった父の心が理解できてしまう。

 生木を裂かれるように、大切な誰かを理不尽な理由で奪われるのだ。

 辛かったことだろう。

 悲しかったことだろう。

 己の命と引き換えにしてでも、守りたかったことだろう。

 

 私の口から、乾いた笑いが漏れた。

 堪え切れず、それは哄笑となって虚空に響き渡った。

 父と私の感情が同期し、私は初めて理解した。何と愚かな私だろう。私は、何を見てきたのだろうか。何故、今まで父の気持ちを考えようともしなかったのだろう。

 モード大公、いや、許されるものであれば、父上と呼ばせていただきたい。

 私は、貴方の娘は、この上なく愚かな親不孝者は、今、ようやく理解しました。

 守りたい。

 大切にしたい。

 いつまでも、一緒にいたい。

 私がテファに対して抱いている感情は、まさにあなたがシャジャル親子に抱いたものと同質のものなのでしょう。

 だから、今の私は、あの時貴方が抱いたであろう苦悩を我が事として理解できるのです。

 

 なるほど、これは辛い。

 なるほど、これは耐え難い。

 生き別れは、死に別れより苛烈な責め苦だ。

 大切な人の手を離すと言うのは、これほどまでに辛いものだったのだ。

 

 父を恨みもした己の浅慮が、許し難い罪として重く心にのしかかる。

 彼を物事の損得勘定もできない人と思ったこともあった、どうしようもない自分を許せぬほどに。

 

 体内の酸素を消費しきるほどに、体内の毒素を吐き出しきるほどに、ひたすら笑い続けて、ようやく私は落ち着いた。

 吐き出すものをあらかた吐き出し、私の思考はようやくクリアになった。

 突きつけられたものは、今となっては償いようがない罪だ。

 私がこの先、永劫に渡って背負わねばならない十字架。

 ならば、罪には罰を。

 罰がないのならば、贖罪を。

 父が大切にしたものを守ることをもって、父への贖罪としよう。

 そしてそれは、私の望むものでもある。

 この胸の耐え難い痛みこそが、その罪科なのだと心得よう。

 だからこそ、私は戦わねばならないことを理解する。

 敵と、この世界と、そして自分自身と。

 悟りにも似た、玲瓏なものが心に満ちる。

 大丈夫。

 今の私なら、始められる。

 

 甘美で幸せだった、夢の幕引きを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 柔らかい感触に目が覚めると、私は仰向けに寝ていた。

 外は夕焼け。茜色の光が差し込むリビング。

 私の目の前に、泣きそうなテファの顔があった。

 テファの膝枕と言う贅沢な状況を理解するのに、数秒かかった。

 

「姉さん、大丈夫?」

 

 私の額に手を当てて、自分のことのように辛そうな顔でテファが言う。

 

「ん?」

 

 違和感に顔をに手を当てると、涙が滲んだ跡があった。寝ながら泣いていたらしい。

 目元をこすって、乾いた笑いを浮かべて体を起こす。

 そんな私を、見つめるテファ。

 夢に出てきた女の子の面影を残しながら、大人になり始めている私の妹。

 泣き虫で、ちょっとドジで、でも誰よりも優しい女の子。

 できれば、いつまでも一緒に暮らしていたかった。

 テファが誰かに嫁いでも、家族ぐるみで付き合えればと夢見たこともあった。

 だが、それを望むことは破滅への一本道をひた走ることに他ならない。

 その先にあるものが何なのかは、父が教えてくれた。

 だから、私は逆の道を選ぶ。

 父とは違う道を、選ばなければならない。

 手を握ると、力は戻っている。体調は回復していた。

 ディフェンスに回ると感情に呑まれる。ここは、攻めなければならない。

 両の頬を両手で叩き、私は意を決した。

 悩む時間を作らぬよう、私は切り出した。

 

「テファ」

 

「何?」

 

「夕飯は、軽く摘まめる程度のものにしておくれ」

 

 それすらも、喉を通らなくなるかもしれないが、酒だけでは間がもつまい。

 私が言っている事を理解できないような顔で首を傾げるテファに、私は静かに告げた。

 

「前々から言っていた、『いつか話す』という、その『いつか』が来たようなんだよ」

 

「え?」

 

「今夜、話すよ。皆に、私が何を知っているのかを、ね」

 

 私は、かりそめの幸せの終焉を告げるベルを鳴らした。

 

 

 

 

 

 リビングのソファに陣取り、幾度も思考を巡らせる。

 さて、どう話したものか。

 どこまで話したものか。

 何を言っても、信用はしてもらえると思う。それだけの付き合いをして来た私たちだ。

 だが、どこをどう説明しても、どこかが嘘っぽくなってしまう。

 物語を眺めていた前世の私。皆が、その物語の登場人物だと言って、理解してもらえるだろうか。

 カレーを知らない人に、カレーパンの話をするような気分だった。

 

 工房組が帰宅し、ただならぬ私の気配に身構えながら私の周りに座った。

 テーブルにはサンドイッチと飲み物。全員が、無言で私の言葉を待っていた。

 始めよう。

 一世一代の知恵と勇気を絞り出してでも、皆に話さなければならない。

 姉として、妹して、主として、そして、家族として。

 

「私は、ね」

 

下腹に力を入れて、私は話し始めた。

 

「生まれつき、ちょっと変わったところがあるんだよ」

 

 ここから先の話は大博打だ。信じてくれなかったら、そこまでの話。

 私は意を決して踏み出した。

 

「予知夢って、知ってるかい?」

 

「……夢で未来のことを見るって奴だろう?」

 

 マチルダが穏やかな声で応じた。頷いて、私は続ける。

 

「私はたまにそれがあってね。変な知識や技術なんかは、子供のころからその関係で身についたんだよ」

 

 転生という言葉はさすがに厳しいと思い、苦肉の策でひねり出した設定だ。

 所詮この世は胡蝶の夢。そう間違った説明ではないだろう。

 

「……信じてもらえるかい?」

 

 戸惑いを隠せないテファに対し、マチルダは得心がいったように頷いている。ディルムッドは無言で聞いているだけだ。

 リアクションはマチルダからだった。

 

「信じるよ」

 

「いいのかい? 言ってる私だって突飛な話だと思うことだよ?」

 

「嘘を言ったわけじゃないんだろう?」

 

「そりゃそうだけどさ」

 

「こんな状況で、あんたが嘘をつく奴だとは思わないよ。…なるほどね。そういうことだったのか」

 

 先日の、テファの窮地に駆け付けたことに対する問答のことを思い出しているのだろう。

 その辺はあとでテファにも説明しよう。今は、それよりも重要なことがある。

 

「信じてもらえるなら話は楽だ。今日来た奴の話もしやすい」

 

「誰が来たって?」

 

「ロマリアの、神官だよ」

 

「ロマリア?」

 

 マチルダが怪訝な顔をする。今まで私たちの日常の中には、出てきたこともない単語だからだろう。

 

「宗教庁の狗さ。さすがはハルケギニアで一番腹黒い国だ。私のこともテファのことも知っていたよ」

 

「じゃあ、姉さんが怒ってたのって……」

 

 テファが驚いた顔をしている。

 

「すまないね、テファ。別にあいつに無体をされたわけじゃないんだよ。私が『識』っていたあいつは、とんでもない悪党なんだ。女を平気で泣かせる外道と言う意味じゃ、無体を働くよりたちが悪い奴さ。その調子で乙女の純情を踏みにじろうとしたから、お返しに奴の人生を踏みにじってやろうとしていたんだよ」

 

 とりあえず、誤解を解いておく。誤解と言うより、テファの認識よりもっと悪どい奴だと思ってもらうのが適当だと思う。あれはこの世のすべての女の敵だ。

 そんなやり取りを他所に、マチルダが訊いてきた。

 

「アルビオンの話に、何か関係があるのかい?」

 

「私を担ぎ出そうとするだけだったら、まだ良かったんだけどね」

 

 私の答えに、マチルダは意外な顔をした。昨年の騒動以来、荒事が起こるとしたら私の血筋というのが彼女の中の認識なのだろう。それを否定するため、私は告げた。

 

「奴が用事があったのは、私じゃなくてテファなんだよ」

 

「私?」

 

 不意を突かれたテファが目を丸くする。

 私は、一つ息を吸い込んで言った。

 

「テファ……お前はね、『虚無』の担い手なんだよ」

 

「虚無?」

 

 呆気にとられている女二人と、険しい顔をする男一人。

 私はできるだけ噛み砕いて虚無のことを話した。

 始祖直系の3国とロマリアに、一人ずつ虚無の担い手が顕れること。

 担い手は王家かその係累に顕れ、魔法が使えないという共通項があること。

 始祖の秘宝と呼ばれる4つのルビーと4つの秘法によって封印が解けること。

 虚無に目覚めると、系統魔法では及びもつかない強力な魔法が使えること。

 テファの忘却の魔法は、そのうちのひとつであること。

 虚無の担い手は、テファがたまに歌う歌にある四種類の使い魔を呼び出せること。

 ロマリアがその力を使って聖地奪還を考えていること。

 そして、近い将来、未曽有の大隆起が起こるということ。

 ただし、ロマリアが本当に大隆起の阻止のためだけに四の四を揃えているのかは疑問符が付くということ。

 

 すべてを話し終え、私はため息をついた。

 

「私が把握している話は、こんなところだよ」

 

 話があまりに大きいだけに、二人とも黙り込んでしまった。

 無理もない、ただの女の子が、いきなり世界の命運云々を背負わされると言っているのだ。

 

「ヴィクトリア……」

 

 マチルダが言う。

 

「こんな大事なこと、何で今まで内緒にしてたんだい?」

 

「私の予知夢も、百発百中とはいかないからさ。去年皆に迷惑かけちまったことなんか、夢に見たことなんかなかったしね。たらればの話で、皆を振り回したくなかったんだよ」

 

 私が知る歴史と、少しだけ違う今の時間軸。何がどうなるか判らないうちから、皆を巻き込んで大騒ぎをしたくなかったのは本当の事だ。

 

「それで」

 

 口を開いたのはディルムッドだった。転生がらみの話に行きかけた流れに、このフォローはありがたい。

 

「主はどのようにするべきとお考えなのでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜、自室に戻り、私は窓辺に座って月を見上げた。

 

 ただ、ひたすらに考える。未来を、どうやって切り開くか。

 現状維持と言う未来がない以上、善後策をどうして行くかで私たちの状況は大きく異なるだろう。

 その中で、大きなウエイトを占めてきたのが、才人がらみで考えていた場所。

 私たちの故郷、アルビオンだ。

 

 才人を救うには、アルビオンに渡るしかない。

 困難極まるその方策について、ひとつ心当たりがあった。

 普通の手段では、組織に縛られず自由闊達に活動しながら戦争の帰趨にメスを入れることは確かに至難の業だ。

 しかし、私にはここで切れる前世の知識というカードが手元にある。

 その手札の中には、私の計画を実現できる接ぎ穂になりうる手段があった。

 

 慰問隊。

 

 降誕祭に合わせ、遠征軍への補給とともに王都の主だった店がアルビオンに出向いて兵を慰撫するイベントがあることを私は知っている。これにオブザーバーとして同道する。民間人が異郷に行くにあたっての付き添いの町医者と言うことにでもすれば通るだろう。それくらいの実績と信用は積み上げてきたつもりだ。公然とアルビオンに渡るのに、これ以上の機会はないだろう。私が元王族であることが全く表に出ず、年齢性別関係なく、一般人の平民に溶け込んでの移動だ。全てにおいて理想的だと思う。

 問題は、アルビオンで何をするか。

 前線に出張って行って、『やあやあ、我こそは』とディルムッドをけしかけるつもりはない。

 これは所詮、神聖アルビオンとトリステイン・ゲルマニア連合の喧嘩であって、私の喧嘩ではない。そこに義がない以上、彼に命を懸けてもらう訳にはいかない。

私が記憶している歴史では、まともな展開であれば中飛車急戦が決まって連合軍が勝利していただろう。兵力や士気、いずれも神聖アルビオンに勝ち目はなかったはずだ。

 神聖アルビオンが首都ロンディニウムを放棄し、焦土戦術を取れば戦費の問題から連合軍は攻勢限界を迎えただろうが、その手を使えば策源地を失った神聖アルビオンの方が兵力を維持できなかったと思う。制空権を失い、上陸を許した時点で神聖アルビオンは半ば詰んでいたはずだ。

 その逆境を覆した要素こそ、アンドバリの指輪と、我が最愛の怨敵であるシェフィールドだ。

 ガリアの髭が注いだアンドバリの指輪と言う猛毒。サウスゴータの水源に放たれた先住の魔法により連合軍は敗走することになる。

 しかし、この世界にはその猛毒を無効化できるイレギュラーが存在する。

 シェフィールドと同様に、国家間の戦争とは全く違うところで双方の運命を左右できる力を行使しうる存在。

 それが私だ。

 向こうがアンドバリの指輪という鬼札を使えるならば、こちらにも強烈な鬼札が存在する。

 英霊ディルムッド・オディナ。その力は完全武装の戦闘機にも相当し、この世界での兵力換算でメイジ千人分はくだらない戦力だ。相手が虚無の使い魔であっても負ける気はしない。

 策は至ってシンプルだ。アルビオンに渡り、サウスゴータ郊外の水源で網を張る。そこに来たシェフィールドを討てばいい。

 Xデーは降誕祭初日。舞台はシティオブサウスゴータから30リーグほど離れた山の中。水源を辿れば会敵できると思われる。指輪の行使さえ阻止すれば、正攻法で決着がついて連合軍は勝利できるだろう。不確定要素は、ガリアの両用艦隊の動向だけだ。

 護衛に髭がいたと思うが、邪魔をするなら奴も一緒に始祖の御下に送ってやるまでだ。

 風のスクウェアと虚無の使い魔に対し、こちらは水のスクウェアと規格外の使い魔。正面衝突ならばこちらに分がある。

 それまでは、ただひたすら時期の到来を待つ。

 焦る気持ちはあるが、才人救済と言うことでは現状ではそれが最善手だと思う。

 

 これに、もう一つの目標を追加する。

 その事を考えながら、私は先ほどまでの話を反芻した。

 

 

 

 

 

 

 ディルムッドに問われ、私は指を二本立てた。

 

「取れる手段は二つ。一つは逃げること。サハラを越えて、東方くらいまで逃げればロマリアも諦めるだろうよ。残念だけど、ハルケギニアにいる限り連中の目から逃れる術はないだろうからね」

 

「サハラを……」

 

 テファが複雑な顔をする。エルフにとって、自分がどのような存在なのかをテファは知っている。

 そんなテファの頭を撫でて、マチルダが言う。

 

「まあ、逃げようったって、宗教庁がおいそれと逃がしてくれるとは思えないよ。それは最悪の場合の最後の手段として考えようじゃないか」

 

マチルダの意見に私は頷いた。

 

「逃げるとなったら、それこそあの時のアルビオン脱出どころじゃないだろうね。国境線は厳重に封鎖されると思う。追っ手もわんさか出てくるだろうさ。下手したら、ヴァリエールの公爵夫人あたりまで出て来かねない。ディーがいれば突破はできるだろうけど、犠牲者の数はとんでもない数字になるだろうよ。そうなれば、私たちは未来永劫お尋ね者さ」

 

 東方に逃げるのだからお尋ね者も何もあったものではないが、やはり後味は良くないだろう。

 

「それで、もう一つというのは?」

 

 一縷の望みと言う感じでテファが訊いてくる。

 

「ハルケギニアにいる限り、ロマリアの手からは逃げられない。ならば、懐に飛び込んで死中に活を求める。トリステインの庇護下に入るのがこの場合は適当だろうね」

 

 そう、まともにやってもロマリアには勝てない。それに矢を向けることは、中世ヨーロッパでカトリックを敵に回すよりも厳しいことになるだろう。

 この世の中、武力だけが力ではない。いつかの例えではないが、朝の一杯の牛乳に毒が入っているだけでも人は死ぬのだ。お国柄に鑑みても、カンタレッラくらい普通に持っていそうな連中だし。

 組織と対峙する時は蛇の頭を潰すのがセオリーではあるが、討って出た場合、私の勢力がロマリアに入った時点で捕捉されるだろう。教皇暗殺にディルムッドを差し向けた時点で、無防備な私たちを抑えれば敵の勝ちだ。用事があるのはテファで、私はスペアとくれば、マチルダを刻んで威嚇するくらいはしてくるだろう。とんでもない話だ。

 

「アルビオン王家の血筋、加えてハルケギニアの最重要人物の一人なんだ。悪いようにはされないだろうよ。貴族に名を連ね、トリステインの庇護下に入る。偉いさん達の目の前でお前の魔法を見せれば、あとは勝手に向こうが守ってくれるだろうさ」

 

「貴族……って、私だけ?」

 

 テファの表情の中の不安分が急速に増加する。

 

「そうなるね。住むところも王宮が用意してくれるだろう。言った通り、立場が立場だ。ここで暮らすのは、さすがにちょっと無理かな」

 

「そ、そんな事って……」

 

 さすがにテファは真っ青になった。その表情に、流石に胸が痛む。

 この子にこんな顔をさせてしまう自分が、正直情けなかった。

同時に、この子もまた、私たちと一緒にいたいと思ってくれているのだと判って嬉しくもある。

 共に暮らして4年。血よりも濃い絆と言うのがあるのかどうかは知らないが、間違いなく私たちの間に通い合ったものがあるのだとその表情が語ってくれている。

私だって、離れ離れにはなりたくはない。でも、これは仕方がないことなのだ。

 

「すまないが、今度ばかりは私たちだけじゃお前を守ってやれない。ハルケギニアに残るなら、必要なのは武力より相応の政治力だよ。それがないことには、後ろ盾のないお前がどんな目に遭うか判ったものじゃないんだ」

 

 少しだけ涙を滲ませながら、テファは頷いた。

 

「それで、具体的な方策は?」

 

 マチルダの問いに、私は答える。

 

「戦争が落ち着きかけたころにヴァリエール公爵に持ちかけて、渡りを付けてもらうのがいいだろうね」

 

「今すぐじゃダメなのかい?」

 

 マチルダの言葉に、私は首を振った。

 

「トリステインは、既に虚無の事を認識しているからね。でも、困ったことにアンリエッタ女王は虚無を兵器として使う考えを持っているんだよ。そのために、ルイズと才人は今頃出征の準備中だろうさ」

 

「ルイズ……って、まさか、さっき言ってたトリステインの虚無の担い手ってのは……」

 

「ルイズのことさ」

 

 これにはさすがに全員絶句した。

 

「あの子の虚無が発動したのがこの間のタルブの戦いだ。あの子の魔法一つで、神聖アルビオンの艦隊は全滅したそうだよ」

 

「まさか……」

 

 核兵器を知っている私ならば地上に太陽が生まれても想像はできるが、知らなければその光景を想像することも難しいだろう。

 『烈風』カリンが恐れられた理由に、スクウェアクラスの魔法『カッタートルネード』があったと思うが、あの規模でもこの世界では恐怖される攻撃だ。ピヨった状況ではあったものの、あれをライブで見たことがある身としては確かにその凄まじさにビビったものだが、それでも核兵器じみたルイズのエクスプロージョンに比べれば見劣りすると思う。あれは光らせてはいけない光なのだ。

 

「それだけ強大なるが故に、エルフは悪魔の力として虚無を恐れている。まさに国家として切り札になり得る潜在能力が、虚無にはあるのさ」

 

「今トリステインに保護を求めると、テファが戦争に放り込まれかねないということかい?」

 

「恐らくね。アルビオンでは、ウェールズ殿下が生きているという情報があるんだよ。彼に恋い焦がれるアンリエッタが使える駒を放置しておくわけがないだろうさ」

 

 

 その説明を最後に、皆黙り込んだ。

 仕方がないことだ。あまりに突飛な話なのだから。完全に飲み込むには時間がかかるだろう。

 

「ティファニア」

 

 私の言葉に、テファはびくりと反応した。

 

「今すぐ選べとは言わないよ。ロマリアも今日のことを受けて、ロマリア本国の判断が届くまではおいそれとは動かないと思う。今日来た坊主だって、本来は義勇軍として従軍するために来たんだしね。でも、お前が逃げることを選ぶなら、私も腹をくくるよ。追っ手は私とディーで引き受ける。何があってもお前は逃がして見せる。逆に、トリステインに取り入るなら、さっき言ったタイミングで動こう。それに、この二つ以外にもまだ手はあるかも知れないし、この国の状況だってどうなるか判らない。お前の人生の岐路、どっちを取っても大変なことには変わりはない。どうすればいいか、皆で考えよう」

 

 その会話を最後にテファが泣き出してしまい、悲しい家族会議は終了となった。

 

 

 

 

 

 

 

 問われて提示はしたものの、逃げるも残るも、私としては本心ではどちらのプランも及第点は付けられなかった。

 正直、私はアンリエッタをそこまで信用していないのだ。

 教皇の甘言に騙され、いいように踊らされていた原作のあり様は一国の元首としては少々器量に疑問が残るからだ。成長過程にあると言っても、今の私が用事があるのは充分な能力を持った王様なのだ。大人の世界は結果がすべて。過程の努力を褒めてもらえるのは少年期だけの特権だ。

 何より困ったことに、テファが虚無の看板を掲げてアンリエッタに擦り寄っても、既にトリステインにはルイズがいる。ハーフエルフであり、後ろ盾すらないテファとルイズを秤にかけたら当然のごとくルイズが重くなるだろう。何かあった時にテファを人身御供にされてはかなわない。

 後ろ盾が欲しい。アンリエッタだけでは不足する、強い政治的な影響力。

 それこそ、ヴィットーリオが、そう気安く手出しができなくなるくらいのレベルで。

 相応の地位がある人物で、私が接触可能な人物を模索する。

 ヴァリエール公爵は、いくら親しくしてもらっていても王室やロマリアを敵に回してくれとまでは頼めない。いろいろお世話にもなっている彼を苦しめるのは本意ではない。

 幾人も候補者を想像し、同じ数だけのダメ出しを自分に出す。

そんな中で、テファの安全を担保してくれそうな人物に、一人だけ心当たりがあった。

 交渉の余地があり、相応に視野が広いであろう為政者側の人物。

 結論として行き着いたのは、私とも縁がある人だった。

 

 ウェールズ・テューダー。

 

 己が人の上に立つことの意味を知っている人だ。

 アンリエッタの亡命の勧めすら拒絶して城を枕に討ち死にする覚悟を決めたあたりは、間違いなくアンリエッタよりも成熟した為政者だと思う。

 彼に、トリステイン預かりとなった場合のテファの後見人、もしくはアルビオンでテファを受け入れた上で庇護者の任を託せないだろうか。トリステインとアルビオン両国のトップを引き込めれば、政治的な盾としては及第点が取れる気がするのだ。

 少なくとも、トリステインの庇護下に入るというプランを保険として保持しながらも、アルビオンとのパイプを作る努力は無駄にはならないだろう。ドジを踏みかねないアンリエッタに対する牽制にも有効だと思う。

 欲を言えば、アルビオンの王権の復興が成った時、そこで掌中の珠としてもらった方がテファの安全を担保できるように思うのだ。

 それには、最低条件としてまず戦争の勝利が必要だ。勝利さえすれば、戦後に同盟両国に然るべき国益を与える等の問題を抱えることになるだろうが、始祖の3本の杖として、その主権は保証されることだろう。

 確かにテファがハーフエルフであること、また失脚した父の子であることはハンデだ。これまでの経緯も、取り沙汰される可能性はあるだろう。

 だが、ルイズがあげた実績を考えれれば、虚無と言う要素はそれらを払拭してお釣りがくるほどの魅力を持つだろう。

 何より、虚無はロマリアも認める始祖の属性だ。下手をすれば、始祖直系を名乗っても通るほどの威光を持つ。そんな属性のテファならば、過去はどうあれ、聖女と持ち上げられることはあっても邪険に扱われることはないと思う。

 

 無論、リスクはある。

 私の都合のいい妄想にも似た想像と、実際の物事がかけ離れたところで推移することがありうる。

 アルビオンが復興まで、国力や軍事力で他国に対し引け目を感じるというのもある。

 テファが呼び出すとされる使い魔の存在も看過できない。

 神の心臓・リーヴスラシル。

 「記すことさえはばかられる」と言われる第4の使い魔の存在が何なのか知らないが、ロマリアにとっても鍵になる存在だろう。その身柄のやり取りにおいて、強権発動すら辞さないロマリア相手に、対等の立場での交渉が可能だろうか。

 あげればきりがないくらい不安要素はあるが、それでもウェールズ殿下の王器を考えるとアンリエッタを頼るよりは良手であるように私には思えるのだ。

 どうやってコンタクトを取るかは考えなければならないが、連合軍の陣営にいれば、どこかで機会がないこともないだろう。

 所在さえ判れば、ディルムッドに投げ文を頼めば何とかなると思う。

 

 そんな状況の中、何よりも怖いのがアルビオン遠征の戦いの中でウェールズ殿下が倒れると言う可能性があることだ。

 残存する王党派の数はさほど多くはあるまい。大所帯では、今まで神聖アルビオンの目から逃れることなどできなかっただろう。その程度の兵力では上陸作戦に呼応して決起したとしても、どこかで何かをとちれば各個撃破されてしまいそうな小勢だろう。

 もし、ウェールズ殿下が死んでしまった時はどうするか。

 私が考えうる、最悪の事態がそれだ。

 そうなった時、私が取れる選択肢は一つしかない。

 私には為政者の器はない。しかし、先日のアンリエッタの様子では、そんな事情はお構いなしにすぐさま私は引っ立てられて、被りたくもない茨の冠を被せられることだろう。それは私の意思では取ることができない呪われたアイテムだ。想像しただけで身の毛がよだつ。

 しかし、もし本当にウェールズ殿下が死んでしまったとしたら、私は自分の心を殺してでも王として戴冠しなければならないだろう。テファを守るため、己の無きに等しい王器やカリスマを度外視してでも権力を求めねばならない。

 王になぞなりたくはない。

 だが、それをしなければテファの周囲に暗雲が立ち込めるというのであれば、私は迷わない。

 私の自由を対価にテファの未来が買えるのならば、充分にバーゲンセールだ。

 マチルダが私に言ってくれたように、私もまた、ティファニアのお姉ちゃんなのだ。

 それ程度の覚悟くらい決められなくて、何が姉であろうか。

 

 ともあれ、まずはアルビオン戦だ。

 どういう選択をするにしても、連合軍に勝ってもらわなければ私たちの未来は見えない。

 

 私は一つ頷き、窓辺から降り立って口を開いた。

 

「ディルムッド」

 

「これに」

 

 闇が人影を生み出すように、音もなく室内に私の使い魔が現れた。

 振り返り、私の前に立つ美貌の使い魔を見る。

 およそこの世で勝てる者はいそうにない、傑出した使い魔。

 何度考えても、私には過ぎた従僕だ。

 

「ディルムッド、お前は、後悔していませんか?」

 

 この時、私が口から発したのは、私人ではなく、王家に連なる者としての公式なものだ。

 それだけの礼を尽くさねばならない言葉を、彼にかけるつもりだった。

 

「後悔……お言葉の意図を計りかねますが」

 

「私は生まれはともかく、今は名も地位もない、ごく平凡な一般人です。誰かに忠義を捧げてもらうような立場にはありません。それこそ何も背負っていない、ただの女です。それに引き換え、お前は誉れ高き希代の英雄。さすがに、これでいいのか、と思うことがあります」

 

「何を仰るのかと思えば」

 

 私の言葉に、ディルムッドは笑って答えた。

 

「主は、既に多くのものを背負っておいでと存じます」

 

「何を。私くらい勝手気ままな者も珍しいくらいでしょう」

 

「本当に勝手気ままな方であれば、今の主のように苦悩することはありますまい」

 

「己の欲に忠実であるだけです」

 

「そう思えることこそが、崇高であると臣は考えます」

 

 彼なりの気遣いが、胸に暖かい。

 

「買いかぶりを」

 

 尚も反論する私に、ディルムッドは微笑みを持って答えてくれる。

 

「胸をお張り下さい。主は、私がお仕えするに相応しい方と信じております」

 

 この上なく、ありがたい言葉。本当に、私などにはもったいない言葉だ。

 だが、何となく、彼がそう言ってくれると思っていた。

 だからこそ、私は告げることができるのだ。恐らくは、彼が欲しているであろう言葉を。

 

「その言葉、心より感謝を。ならば、その言葉を縁として、お前に言わねばなりません」

 

 私は杖を構え、大きく息を吸ってから彼に告げた。

 

「我が無二の忠臣、騎士ディルムッド・オディナよ。伝説に謳われし英傑よ。アルビオン王国モード大公が嫡女、ヴィクトリアの名において命じます。お前の名誉にかけてその槍を、我が悲願と勝利のために振るいなさい。私の心と血肉は、お前の槍の誉れと共にあります。今度ばかりは、負けるわけには行かぬのです。我が妹ティファニアを守るため、お前の力を、私に貸してください」

 

 私の言葉を静かに聞いていたディルムッドは、やがて俯き、肩を小刻みに震わせ始めた。

 安っぽい言葉ではあるが、私なりに精いっぱいのそれを、彼なりに意味あるものと受け止めてくれたらしい。

 私の前に片膝をつき、希代の騎士が私の手を取って深々と頭を垂れる。

 

「そのお言葉を……お待ちしておりました」

 

 無敵の使い魔は、厳かにそう答えてくれた。

 それだけで百万の援軍を得た思いだ。

 心の底から、彼を頼もしく思う。

 

 

 これでいい。

 心の準備はもう、これでいい。

 

 

 

 征こう、アルビオンへ。

 あの、風の国へ。



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その35

 フネと言うものは、基本的に寒い乗り物だ。

 空を行く乗り物なのだから外気温の影響でキャビンの温度は低いし、隙間風も結構すごい。木造なので、火災の予防のため暖房器具もなかなか厳しい制限があってとにかく寒いのだ。

 そんな船室で、ディルムッドと身を寄せ合って地図を見ながらあれこれ話をしている時だった。

 ドアが開き、元気よくジェシカが飛び込んできた。

 

「先生、そろそろ見えるみたいよ、アルビオン」

 

 旅装束のジェシカはまたいつもと違った魅力があって可愛らしい。結構薄着なのに、全然寒そうじゃないのは若さの証しなのだろうか。とにかく、青春の輝きに溢れる妖精さんたちが屯する船内は華やかでいい。これでこいつのパパンさえいなければ完璧なのだが。いかんせん、タイトなレザースーツのスカロン氏は、子供が直視したらひきつけを起こしそうな破壊力を有するからいろいろ台無しだ。

 

「雲量はどうだね?」

 

「ちょっと風が強いみたいだし、あまり濃くはないよ」

 

 ディルムッドと一緒にタラップを登り、甲板に出ると冷たい風が肌に刺さった。私の隣で顔色一つ変えずに凛と背筋を伸ばしている我が忠臣。心頭滅却すれば何とやらと言うが、こういう精神力を見ると本当にこいつが生粋の戦士なのだと思う。

 そんな私たちの乗せて、雲の島を縫うようにフネは進む。

 空と雲。青と白の世界だ。耳を打つ風の音が懐かしい記憶を呼び覚ます。

 

「いや~、久しぶりだね、こういう眺めも」

 

 振り返ると、マチルダが甲板に上がってきたところだった。続いてテファが出てきて私の隣に並ぶ。

 4年前、皆でフネに乗った時はこれほど気持ちは楽ではなかった。密輸すら行う悪たれの世話になったということもあり、いつ何時連中が手のひらを返すかずっと警戒しっぱなしだった。

 とはいえ、今回も気楽という訳ではない。これから行くところは、連合軍と神聖アルビオンの戦いとは別に、私の、そして私たちの戦いの場でもある。

 

 そんな私たちの前で、ゆるゆると雲が流れた。

 その白いベールの向こうから、見えてきた巨大な彷徨える大地。

 

 アルビオンは、4年前と変わらず、虚空にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 師走。

 師すら走り回るという忙しない季節を指す言葉。前世の知識にある言葉ではあるが、今年の12月、すなわちウィンの月は歴史に残る忙しなさだった。

 その第1週の中日。マンの曜日。

 トリステインとゲルマニア、そして亡命アルビオンの連合軍の艦隊が出撃した。作戦参加艦艇数500以上。未曽有の大艦隊だ。それにしても、500隻とはすごい数だと思う。帆船時代の大規模な海戦であるトラファルガーの海戦でも両軍合わせて100隻もいなかったはずだ。上陸用舟艇を入れての数だろうが、それでもかなりの規模だろう。ドズル・ザビ中将閣下も納得の物量。一体どれだけの金がかかっているのやら。インフレとか大丈夫なのだろうか。原作では費用についてはガリアからの借入金頼り、しかもその返済はアルビオンの占領地から工面するとか言っていたが、長きにわたる内戦でダメージ著しいアルビオンから更なる搾取などした日には、一揆が常態化して復興政策どころではなくなるような気がしなくはない。 この世界ではアルビオン亡命軍のおかげで幾分新造艦の建造費が浮くかと思ったのだが、かなりの数の艦が留守預かりとして本土防衛の任に当たることになったためか出費が楽になったわけではなかったようだ。艦隊を一定数本国に残留させたのは、恐らくガリア対策の封じ手だろう。

 そんな大盤振る舞いの大戦争、借金の利率がどれくらいかは知らないが、ガリアの財務卿にとっては濡れ手に粟の大儲けだと思う。そう考えると、トリステインが敗れたらかなりの規模の貸し倒れが出てしまうだろうから、青髭の気まぐれを度外視すれば、ガリアは潜在的な同盟国と思えなくもない。あるいは神聖アルビオンにも同じようなことをしていて、どっちが勝っても損をしないようにしているのかも知らん。

 

 そんな中、ついに始まった大作戦。急ごしらえの艦隊ではあるが、歴戦の兵が揃ったアルビオン艦隊が先鋒を務めるのなら、錬度が低い艦隊でも神聖アルビオンと有利に渡り合えるのではないかと私は思う。ルイズたちの奮闘による誘因作戦が上手くいけばそれでよし、しくじっても力押しで制空権は取れると思う。

 ともあれ、ずらりと揃えた大艦隊の出撃はさぞ見ごたえがある光景だったことだろう。その威風堂々の行軍の中、二度と生きて故郷の家の扉をくぐれぬ人はどれくらいになるだろうか。その扉の中には、その者を待つ者がいるというのに。

 降りかかる火の粉は払わねばならない。敵に害意がある以上、それは避けえぬ戦いだ。だが、そのために死んでいく兵のことを思うとやはり胸が詰まる。この世界では、人の生き死にはあまりにも日常的すぎるのだ。

 

『人の死に慣れるな。それを当たり前のことだと思うな。思った瞬間、何かが壊れる』

 

 読み捨てるくらいがせいぜいのライトノベルであるはずの『ゼロの使い魔』の中で、私が最も噛み締めた台詞のひとつだ。医者をやっていれば、どうしたって助けられない患者はいる。しかし、それを引きずっては次の患者への対応が疎かになる。己の中でいかに折り合いをつけるかを救急医療の現場では求められたものだった。しかし、折り合いをつけることができても慣れてはいけない。慣れた瞬間、妥協が生まれるからだ。私にとっては数多いる患者の一人でも、患者にとっては私はその瞬間に命を預けるただ一人の医者だ。その後ろにあるのは、無事を祈る家族の切なる祈り。気の抜けた対応などできようはずもない

 

 そんなウィンの月、私が知る歴史とは微妙にイベント事がずれている部分が今の時間軸の未来に影を落とさぬことを祈りながら、私は来たるべき日のために準備を進めた。

 まずは慰問隊の随伴治療師としての根回しに動く。慰問隊については、恐らく、月の第2週から第3週くらいにその話が持ち上がることだろう。

 

「ずいぶん買い込むものだな」

 

 いつになく秘薬を買い求める私に、ピエモンは少しだけポーカーフェイスを歪めた。名ばかりとは言え、随伴治療師として付いていくからには仕事はしっかりまっとうしなければならないので当然の準備だ。

 何しろこの世界の平民は、キャラバンならばともかく基本的に旅慣れていない。水あたりや食あたりの秘薬を重点的に手配する。アルビオンに風土病がないのは幸いだ。

 

「ちょっと留守にするんだけど、そこで要り用になるかも知れないんだよ」

 

「荒事かね?」

 

「そうならないよう祈るばかりだけどね」

 

 買い込んだ秘薬を猫バッグに押し込んで、ピエモンの店を辞す。

 作戦が始まって以来、街の様子は慌ただしい。物価の上昇も顕著だ。商機を得たとばかりに張り切る奴もいれば、乳飲み子を抱えて明日のパンを悩む奴もいる。動乱のご時世にはいつでも見かける光景だ。

 

 そんな中、私の中で幾つかの出来事が棘のようにチクついていた。

 

 一つ目は『白炎』のメンヌヴィル。

 間もなくあのチャッカマンによる学院襲撃があったと思う。コルベール先生とアニエスの確執が表面化するあれだ。

 雨降って地固まるとも言えるイベントだが、正直、対応に悩んだ。

 このイベントが、いろいろな意味で重要なものということを私は知っているだけに、うっかり流れは変えたくない。和解とまではいかないもののアニエスとコルベール先生の休戦や、キュルケとコルベール先生の関係の変化、モンモランシーの意識改革など、いろいろな面でプラスはある。そんな中で、一番重要なファクターが一つある。

 蒸気帆船オストラント号。この事件を契機にツェルプストー家の支援を受けてコルベール先生が作った快速船だが、何故かこのフネが、とても重要な存在になるような気がしてならないのだ。その理由が何なのかは判らないが、間違いなくそれが必要になるという予感がある。事件を放置した場合、メンヌヴィルの襲撃により幾ばくかの死傷者が出ていたように思う。それを知りながらも、私にこの事件への介入に対し二の足を踏ませる何かが私の中にあるのだ。

 オストラント号が活躍する場面は物語中数回あるが、それは知識であって予感ではない。 

 私が覚えている物語の展開を反芻する。ガリアの髭とシェフィールドが心中したのは知っているし、アンアンが才人を寝取ろうとしたことも覚えている、というよりあれは同じ女としてあり得んと思うが。ルイズの出奔も、ジョゼットのことも、そして、テファが才人と一緒にエルフに攫われることも。

 

 それからどうなった?

 

 その先の記憶が、私の頭の中にない。あったとしても、それは記憶の狭間の奥底に埋もれてしまっている。その見通せない未来の中に、先日悪夢に見たテファが垂れ目に襲われた光景もあるのかも知れない。

 すべては記憶の白い霧の彼方だ。覚えていないのか、あるいは知らないのかすら判らない未来。

 でも、その白い闇の中で、オストラント号がとても重要な鍵を握るであろうイメージがあるのだ。 

 そのような曖昧な理由ではあるが、今度ばかりはその予感に従うのが適当と思われた。

 犠牲になる者がいるのなら、文句はあの世で承ろう。

 

 

 二つ目の問題は、私がアルビオンに渡ることを家の二人にどう話したものかということだ。

 私は咎人だ。王軍に弓を引いた反逆者がのこのこ母国に戻ろうというのだから、当然のことながらリスクはある。地下に潜っているとはいえ、アルビオン王国は未だに存在するのだ。アンリエッタの言うとおり、名誉と手柄を手土産にトリステインの後ろ盾を受けながら乗り込むというのならば縄を打たれることはないと思うが、その策を取らないからには連合軍勝利のあかつきには捕縛の二文字はついて回るだろう。しかも、戦争のどさくさの中で王家とコンタクトまで取ろうというのだから我ながら大冒険だと思う。二人と暮らすことを選んで伯父上の優しい救いの手を振り払ったのは私自身だ。そのツケは安いものではない。

 それでも行かねばならない。行かないと、才人が死ぬ。ウェールズ殿下もまた、みすみす失うことになるだろう。これは、危なくても渡らなければ未来にたどり着かない橋なのだ。

 その手段としての慰問隊への参加なのだが、その手続きは公式なものだ。公式なものであるからには、それついては当然周囲に内緒になどできない。ジェシカはあれで肝心なことに関しては口が堅いところもあるが、今回の渡航目的の建前は、とても秘密にしてくれと言える類のものではない。慰問隊に私が参加するとなれば嬉々として吹聴するだろう。家人2人の耳に入らないわけがない。

 そうなると、当然その理由を二人に話さねばならないが、才人救済のために戦争に介入するということは、二人にそれなりに衝撃を与えることだろう。

 さて、どうした話したものか。

 

 

 

「姉さん?」

 

 夕食時に、テファに話しかけられた。

 

「ん?」

 

「もしかして、美味しくない?」

 

「え?」

 

 気が付くと、食卓の全員が私の方を見ていた。

 

「食事、進んでないみたいだけど」

 

 食器を手に、しばらく不動の姿勢になっていた自分にこの時ようやく気がついた。自分の中のメモリ容量を、すべて考えごとに振ってしまっていたらしい。

 

「いや、美味しいよ。すまないね、ちょっと考え事をしていたんだよ」

 

「考え事?」

 

 うっかり口を滑らせた部分に、テファが突っ込みを入れて来る。

 

「うん。ちょっとこの先のことをね」

 

「……考えごとしながらだと、ご飯不味くなっちゃうよ」

 

「ごめんよ。ちゃんと味わって食べるから」

 

 慌てて食事に手を付けようとした時だった。

 

「そう言えばヴィクトリア」

 

 マチルダが酒杯をちびりと舐めながら言う。

 そして、その言葉は、私にとっては爆弾だった。

 

「あんた、アルビオンにはいつ行くんだい?」

 

 漫画で、食事や飲み物を派手に吹き出すシーンがあるが、この時、まさにその状況をリアルで体験しそうになった。

 食事を吹き出しかけ、気管に吸い込んでしまった私は盛大に咽た。

 テファが慌てて水を持って来てくれるが、今の私はそれどころではない。

 

「な、何だって?」

 

「ジェシカから聞いたよ。アルビオン行きの話に一枚噛ませて欲しいってあんたから言われたって」

 

 あのあかんたれ、もう数日は静かだろうと思ったのに、そこまで口が軽かったのか。

 マチルダの言葉に、テファが驚いた顔で訊いてくる。

 

「姉さん、本当なの?」

 

「まあね。何しろ、旅慣れてない連中だから、体壊したら困るじゃないか」

 

「そういう表向きの理由を訊いてるんじゃないよ」

 

 マチルダが聞き分けのない子を叱るような口調で私の説明にダメを出した。

 

「そんなことくらいで、あんたがそこまで必死に悩む訳ないだろう。あんたがすごく面倒なことを考えてることくらい判るよ」

 

 ごもっともな意見に、私は返す言葉がなかった。以前マチルダに隠し事が下手だと言われたことがあったが、彼女の観察力の前では私は秘密を持てないようだ。

 

「ほら、さっさとご飯食べちゃいな。食べ終わったら、ゆっくり聞かせてもらうよ。今度は何を『観』たのかをね」

 

 どうやら、逃げ場はないようだ。

 まあ、いずれ話そうと思っていたことだし、早いか遅いかの違いだ。 

 

 

 

 

「シティオブサウスゴータ?」

 

 一通りの事情を話し、広げた地図を見ながらマチルダの眉間にしわが寄る。彼女の、生まれ故郷の地図だった。

 私が語った事は、私が知る戦争の行方だ。

 シティオブサウスゴータを落とし、ロンディニウム攻略の足掛かりとする連合軍。それに対する神聖アルビオンの食料の徴発による遅延戦術。連合軍の焦り。そして、起死回生のための先住魔法の行使。

 マチルダもティファニアもディルムッドも、静かに話を聞いていた。

 

「そんな訳で、ここの水源が戦争の鍵になるんだよ」

 

「それで、その神聖アルビオンが使う先住魔法っていうのはどういうのなんだい?」

 

「判りやすいところじゃ、テファが持っていた指輪みたいなものでね。水の精霊の力が結晶になったものらしいんだよ。それを水源に注ぐと、数日後に水を飲んだ奴のここがおかしくなるのさ。その結果、連合軍は同士討ちをして瓦解する羽目になる」

 

 私はこめかみを指さしながら説明した。

 

「そこに神聖アルビオンの本隊が斬り込む、といったところでしょうか?」

 

「正解」

 

 ディルムッドの言葉に私は頷いた。

 

「逆に、それさえなければ、正攻法で連合軍は勝つだろうさ」

 

「それは判るけど、でも、何でそのためにあんたが出向くんだい? 確かに私らと神聖アルビオンとの間に確執はあるけど、軍に任せておくのも手だと思うけど」

 

「こんな与太話を真剣に聞いてくれる人がいてくれればそうするんだけどね。通常、毒を混ぜるとしたら井戸に投げ込みこそしても、水源なんかには撒かないだろうから笑われて終わりだろう。毒じゃなくて先住魔法なんだって言ったら、それを知っている理由を問われるだろうさ。何より、私としちゃ確実に事を運びたいんだよ」

 

「何か拘りがあるのかい?」

 

 私は大きく息を吐き、意を決して告げた。

 

「ディルムッド。軍において、退却中に追撃があった場合、どういう手を取るね?」

 

「は、迎撃のための隊を組織して要所に陣を築き、遅延戦術を取ります。決死の部隊となりますが、名誉ある任務です」

 

「そうだよね。だが、同士討ちの挙句に士気が落ち込み、装備も放り出して逃げだした連中にそれだけの用意ができると思うかい?」

 

「程度の差はあるでしょうが、その場の状況と指揮官の才覚によるかと」

 

「そこで問題だ。その状況において、一撃で艦隊を壊滅させるような火力が手駒にあったとしたら?」

 

「躊躇わずに使用することでしょう。使わぬ方が不自然かと」

 

「ちょっと待った」

 

 理解が至ったマチルダが顔色を変えて話に割って入った。

 

「まさか、お嬢ちゃんが一人でそれをやるってのかい?」

 

「半分正解」

 

 マチルダもテファも絶句した。ディルムッドも苦い顔をしている。

 

「実際には、ババを引くのはルイズじゃなくて才人なんだ」

 

「才人?」

 

 三人の声が重なった。

 才人の行動を説明するに従い、徐々に皆の顔色が変わり始める。

 ルイズの身代わりとなって7万と対峙するただ一人の剣士。普通ならばありえない。

 だが、彼と言う人物を知っている者ほど、そういうことをしかねないと思うのだろう。

 お調子者だが、義理に厚い男だ。

 原作の下敷きがあるとは言え、この世界の彼を知っている私としても、ルイズをほったらかして逃げる才人というものは想像できない。

 

「あの馬鹿者が……」

 

 恐らく、一番憤っているのはディルムッドだろう。私たちの中では一番濃い付き合いをしている男だ。

 

「なるほどね。確かに話しづらいことだね、これは」

 

 マチルダがイラついたように頭をかく。

 

「さすがに重い話だからね。どう話したものか悩んでいたんだよ」

 

「余計な気遣い、と言いたいところだけど、あんたのそういうところ、嫌いじゃないよ」

 

「すまないね」

 

「いいよ。それで、あんたはどうしようって言うんだい?」

 

 大まかにプランを説明する。

 シティオブサウスゴータを連合軍が掌握していることもあり、水源に向かう神聖アルビオンは寡勢であること。

 時期としては、降臨祭の隙を突くであろうこと。

 それらを考えた時、私たち主従でこれを討つことが最も効率的である事。

 

「積極的介入、ってことに変わりはないね」

 

「仕方がないさ。あの馬鹿を見殺しにはできないよ」

 

「でも、姉さんだって危ないよ」

 

 悲壮感を漂わせたテファが心底心配そうな声を出す。

 

「それは大丈夫だよ」

 

 私は隣の忠臣を無遠慮に指差して言う。

 

「この天地の狭間に、こいつをどうこう出来るような奴がいると思うかい? 何万の大軍相手に全滅戦をやるっていうならともかく、やろうとしていることは暗殺みたいなものなんだ。私がドジを踏まなければ問題はないよ」

 

 不意を突かれて、微かに赤面するディルムッドが微妙に可愛い。

 

「……そ、それはそうかも知れないけど」

 

 考え込むテファを他所に、マチルダが言った。

 

「そうだね……そのプランしかないかな。私も他には思いつかないよ。それじゃ、私たちはロサイスで待機、ってことでいいんだね?」

 

 マチルダから飛び出した意外な台詞に、私はまたも面食らった。

 

「ま、まさかあんた」

 

「付いて行くよ、アルビオンに」

 

 さも当然と言う感じのマチルダに、私は手にしたカップを置いて確認するように訊いた。

 

「言っておくけど、遊びに行くんじゃないんだよ?」

 

「危ないって言うのかい?」

 

「当然じゃないか。戦争してるんだよ?」

 

「その危ないところに飛び込んで行こうとしている奴が何を言ってんだろうね。それに、あんただって、私たちが付いて行くことにもメリットがあると思っているんだろう?」

 

 まじまじとマチルダの顔を見る。相変わらず、私の上を行く人だと思う。

 私たち主従がアルビオンにカチこむことはいいのだが、残る二人をどうするかは悩みの種だった。

 トリスタニアに置いて行く場合、二人は無防備と言ってもいい状態になる。マチルダは優秀なメイジだが、先日の髭の襲撃のような事があった場合、テファを抱えて問題に対処しきれるか不安がある。私とて、やはりロマリアは怖い。何をやっても自分を正当化できる都合のいいロジックを持てる宗教団体なだけに、何をしでかすか想像できないのだ。そうそう強硬策に出るとは思えないが、もし一気呵成に事を進められた場合、所詮は女二人、抵抗することもできないだろう。

 では、いっそのこと二人を連れて行ったらどうだろう。少なくとも私の目が届く範囲にいてくれれば対処のしようもある。無論危険はてんこ盛りだ。敗戦のどさくさに巻き込まれる懸念もあるし、万が一にも脱出のフネに乗れなかったらと思うと身の毛がよだつ思いだ。それでも、アルビオンとトリステインほど離れなければまだ何とかやりようはあるようにも思う。確かに、シティオブサウスゴータまで同道してもらうことはさすがに考えものだ。いかんせんマチルダは面が割れているし、シティオブサウスゴータは混乱が起こる起点でもあるだけに何が起こるか判らない。ならば、いざという時にも逃げ出しやすいロサイスあたりにいてくれた方が安心できる。慰問隊への二人の参加とロサイス滞在の理由はいくらでもつけられるだろう。

 漠然とそんなことを考えていたのだが、それをあっさりと読まれていたことに私は大いに驚いた。

 

「あんたにはかなわないね、本当に。一緒に行くのなら、ロサイスからは出ないでおくれよ。先住魔法の影響範囲が読めないから、サウスゴータ界隈には近寄らないで欲しい。何かあった時は私を見捨てて構わないからすぐに逃げるようにしておくれよ」

 

「あんたを見捨てる、っていうのは約束できないね」

 

「しておくれ。私のことは心配は要らない。言っておくけど、あんたら二人より、生き汚さについちゃ上をいく自信はあるよ」

 

「判ったよ。とにかく、ロサイスで事の成り行きに気を付けているよ。それはともかく」

 

 マチルダはため息を一つ吐いた。

 

「こういうことなら早く言いなよ。いい加減、蚊帳の外ってのは腹に据えかねるよ。テファも何か言っておやり」

 

 マチルダに促されて、テファが不機嫌そうな声を出す。

 

「そうだよ。姉さん、ちょっと薄情だよ」

 

 これはマチルダのウメボシぐりぐりより効いた。

 

「だってさあ……」

 

「だってじゃないよ。その何でも全部背負い込む悪い癖、いつかとことん躾けて治さなきゃいけないようだね。ほらテファ、もう一回」

 

「姉さん、ちょっと薄情だよ」

 

「く……」

 

 テファに冷たく言われる度に、大切な何かが減って行く気がする。HPとか精神力とかSANとか預金残高とか。

 

 

 

 

至る、現在。

 

 

 

 

 

 ロサイス。

 アルビオン最大級の軍港だ。歴史を紐解くと、空にあるアルビオンと陸にあるトリステインやガリアの間で戦争があった場合、しばしばその要石としての役割を負って来た宿業の地でもある。軍港だけあって街は防壁や櫓など、要塞とも言えるほど多くの堅固な阻止施設に取り囲まれており、素人の私としても何だか全体が罠のような港町といったイメージがある。

原作では連合軍が上陸と同時に野戦築城をしたような記憶があるが、現在は歴史通りシティオブサウスゴータまで戦線は進んでいる。そんな血みどろの戦いだというのに、降臨祭だからと言って休戦してしまうあたりはさすがは一神教の土地柄だと思う。中世ヨーロッパなんかクリスマスはどうだったのかね。

現在、ロサイスは物資の集積基地として運用されているようだ。赤レンガの建物を眺めていると何となく海軍省や赤レンガ倉庫を連想するが、船舶とレンガは何かと因果関係があるようだ。そんな街並みを輜重隊の荷馬車が頻繁に行き来している。馬車一台あたりエキューにして幾らくらいの物資を積んでいるのかと思うと、戦争と言うのが如何に壮大な消費活動なのか理解できるような気がする。勝ち戦に限っての話ならば、産業界は笑いが止まらない事だろう。この世から戦争がなくならないのも頷ける気がする。

 

 そのロサイスだが、到着して最初の感想は一言で済む。

 寒い。

 とにかく寒いのだ。

 アルビオンは高度にして3000メイル。何で森があるんだと思うくらいの標高だ。日本の感覚だと、富士山で言えばだいたい7合5勺。北アルプスの山の頂上くらいなのだからたまらない。ましてこの世界にはダウンジャケットのような防寒着などない。私のように体が小さいとなおさら寒さが堪えるのだ。

船を下りて、吹く風がもたらす肌を刺す寒さに、浮浪児をしていたころの辛い記憶が蘇ってくる。

 冬のアルビオンでの浮浪児生活は本当に辛かった。始めたばかりのころ、社会の底辺の流儀を会得できていなかった私は切実に飢えたものだった。寒さゆえにカロリーを余計に消耗したのも祟った。暖を取るにも焚き付けを買うお金はないし、焚き付けどころか食べ物を買うお金もなかったのだ。手持ちの小銭はロンディニウムまでの路銀で使い果たしたし、追われる身としては宝石も魔法も足が付くことを思うとおおっぴらに使うことはできなかった。あの侯爵は変態ではあるが、何かを狩り立てる事に関しては腹立たしいほど優秀なことを知っていたからだ。

 そんな生活の中で、私は空腹と飢えは違うものだということを知った。空腹は耐えることができるが、飢えというものは人が生物である限り耐えられない呪いだ。真に飢えた者は、もはや人ではない。真の飢えとは生死の境に立たされることであり、理性や道徳などどうでもよくなってしまうものなのだ。糧にありつけず凍えて死んでいく他の浮浪児の姿を見て、可哀そうと思うより先に『野火』や『アンデスの聖餐』といった物語が脳裏をよぎるくらい、飢えと言うものは本当に凄まじいものだった。残飯を漁ろうにも、まともな生活をしている平民だって大したものを食べている訳ではないだけに、じゃがいもの皮や根菜類の葉っぱにありつければ運がいいくらいだった。

 私は女の子だ。生まれつき売れるものは持っているが、それをせずに済んだのは前世の知識のおかげだった。

 昔読んだ漫画で『花を売ればパンにありつける』と言う話があったが、冬と言うこともあって郊外の野原に見栄えがする花はほとんど咲いていなかった。

 次の手として丁重な姿勢で酒場を尋ね、ごみの片づけ等の細々した用事をやる代わりに残り物をもらえないかと交渉した。何軒も断られ、娼館では危うく首輪を嵌められそうになりながらも、何とか気のいい酒場のおじさんに巡り会え、ひどい有様だったゴミ捨て場の清掃を条件にパンをもらえることになった。人目がないのを確認したうえで杖を振るったのは内緒だ。見違えるように綺麗になった店の勝手口を見たおじさんが、目を丸くして驚いていたっけ。パンだけでなくスープを心付け代わりに付けてもらえたのだから、私の仕事はそれなりに評価してもらえたのだろう。

 ここでそのままさようならでは次につながらないので、旅物バイク漫画にあった食い扶持確保の手法を参考にして、おじさんに私の仕事に対するお墨付きを一筆もらい、次の訪問先で提示する紹介状兼信用証書として仕事をつないで何とか糊口をしのいだ。

 我ながら、よく死ななかったと今でも思う。

 

 

 到着と同時に、ロサイスの商人向けの旅籠に宿を取り、予定通り慰問隊の連絡要員として二人を逗留させる旨を軍の担当官に連絡しておく。今のロサイスは軍政下にあるし、周囲は軍の天幕が多いこともあり、よほどの事がない限りは妙なことにはならないだろう。

 

「ヴィクトリア、判ってるとは思うけど……」

 

 サウスゴータへの出発の時間になってマチルダは表情を曇らせながら言った。テファも不安を隠そうともしない。

 念のため、私たちは念入りに変装をしている。フェイス・チェンジが使えればいいのだが、幾ら勉強しても風魔法が下手な私はフェイス・チェンジが使えない。仕方がないので今回ばかりは髪をポニーに結い、伊達眼鏡をかけての移動だ。マチルダについては変装したら何だかすっかりミス・ロングビルなのには驚いた。この時間軸ではお目にかかれないと思ったミス・ロングビルだが、こんな形でお会いできるとは。

 ともあれ、落ちあう場所についてはこの旅籠とし、ここで二人とはしばしの別れだ。

 

「大丈夫だよ。心配は要らない。世界で一番頼りになる男が一緒なんだから。そっちこそ気を付けておくれよ。それと……」

 

 私は声のトーンを落として告げる。

 

「才人を頼むよ。もしもの時は、できれば見つけ次第、馬鹿をやらないようにふん縛っておいて欲しいんだよ」

 

 ただでさえ、初めて目にする戦争と言う事件の中で、才人が苦しんでいたことを私は知っている。それなのに、更なる苦難、それも命懸けの試練を背負わせるのは、正直忍び難い。

 私の気持ちを知ってか知らずか、マチルダは笑って請け負ってくれた。

 

「ああ、判ったよ。私だってあの馬鹿にゃ死んで欲しくないからね」

 

「すまないね」

 

「やめなよ、他人行儀な。ディー、あんたもこいつのこと頼んだよ」

 

「一命に代えましても」

 

 恭しく一礼する我が忠臣の仕草を見たことで、少しでも二人の心が軽くなることを祈りながら、私たちは出発した。

 出発の準備を整えた慰問隊の連中と一緒に、荷馬車でシティオブサウスゴータに向かう。

 ロサイスを抜けると、すぐに見え始めた雪が至る所に見える荒野をごとごとと進む。

 馬車の乗り心地はお世辞にもよくないが、勝ち戦なことを知っている皆の顔は笑顔に満ちている。特にシエスタの笑顔ははち切れんばかりだ。才人も果報者だね。

 

 

 

 

 ロサイスからロンディニウムまでは馬で2日。その中間点にシティオブサウスゴータはある。

 馬車に揺られる事1日ちょっと。

 

 

 シティオブサウスゴータは古い街だ。

 人口4万。聞けば始祖が初めてアルビオンに降り立った地だとか何だと言われているが、真相は明らかではないらしい。おとんが治めていた領地の中でも最大の街で、交通の要衝だけあって主な産業は商業だ。小高い丘の上にあって、首都ロンディニウムとロサイスを結ぶ宿場としても知られている。

 馬車から街の様子を見ると、攻防戦の爪痕はそれなりに残っているようだが、戦闘の内容は本格的な攻城戦といった感じではなかったようだ。恐らく、原作通りに亜人相手にドンパチやったくらいの規模の戦闘で陥落したのだろう。

 五芒星の形に区切られた通りの真ん中、中央広場に慰問隊は天幕を張ることを許されている。

 天幕そのものは官給のもので、設営にも兵が力を貸してくれることになった。己の楽しみのためならばと、兵も作業に熱が入っているのだろう。

 私の方はと言えば、作業の邪魔にならない端っこの辺りに『救護所』の立て看板を立てて体調不良の者がいないかに目を光らせるのがせいぜいだが、何だか皆、変な興奮に包まれているのか体調が悪い者は全くいないので絶賛開店休業中だ。確かに医者と薬屋は暇な方が世の中のためなのだが、ここまで本当に仕事がないといささか目まぐるしく働いている皆に申し訳ない気持ちにはなる。

 

 そんな中、才人を見つけたのは案の定シエスタだった。

ベンチでしょぼくれていた才人に、いきなり怖いくらいに目をぎらつかせたシエスタが猛烈なチャージを敢行する。ここまであけすけに感情を表現できるというのは一種の才能かも知れない。代わりにその種の神の祭壇に捧げられた供物は、恐らく道徳と羞恥心と世間体だ。『恋する少女は牛より強い』とは何の言葉だったかね。こう言うのを見て照れを感じるあたり、私もちょっと歳を取ったのかも知れない。

そんな『魅惑の妖精』亭の面々を見て驚く才人。こんな場所にありながらも、自然体な感じがするあたりに安心した。

 

 そんなこんなでカフェで近況報告。

 聞けば、歴史は概ね順調に動いているようだ。降臨祭後に始まるであろうロンディニウム攻略戦。軍の中にもあと一歩で国に帰れると言う楽観的な空気が蔓延しているようだ。

 スカロンの『アルビオンは料理はまずい、酒は麦酒ばかり、女はキツイ』発言はさすがにムッと来たが、ここで怒ればそれを裏付けることになるのでじっと我慢した。

 その代わり、心の中の黒いノートのスカロンの欄に星を一つ付け加えておく。覚えておれよ。

 

 その後、ルイズとも再会した。

 再会したのはいいのだが、『才人の機嫌を直す大作戦』中でキャット装束のルイズには正直引いた。

 言うまでもなくデルフリンガーの仕業だが、6000年の間に何を見てきたのか知らないけど、どこであんな痴女装束のことを覚えたのやら。それを鵜呑みにするルイズの世間知らずぶりにも呆れるばかりだ。

 正直、何だか物事を真面目に考えている自分がアホらしくなるようなお気楽な雰囲気を満喫する。そんな緊張感のかけらもない空気の中、才人はどこかいつもの元気がないようだ。

 そう言えば、この二人、喧嘩してるんだっけ、この時。戦場まで来て何をしているのやら、とも思うが、才人が情緒の安定を欠いていることについては、ある程度やむを得ないと思う。

 ごく一般的な日本人である彼が、生で現在進行中の戦争に放り込まれているのだ。原作でも、幾度となく故郷日本とこの国の精神性の相違について打ちのめされていたように思う。この時代の貴族連中のように、生まれた時から戦争が付録でついてきているような人生を送っていたわけじゃないだけに、精神的なストレスはかなりの物だろう。確か、竜騎士と仲良くなって、それがMIAになってかなり落ち込んでいたエピソードがあったはずだ。   

 名誉のために死ぬ。私たちの祖父か曾祖父の世代であればまだ理解できる考え方ではあるのだろうが、何かあれば自分以外の誰かがやってくれるというスタンスが一般的な現代日本の少年には厳しすぎる現実だろう。命のやり取りなど、メディアが伝える紙面やディスプレイの彼方の出来事だったはずの少年だ。

 敵が化け物ならば刃は振るえるかもしれない。しかし、挑みかかってくるのがごく普通のただの人間であったならどうだろうか。まして、まさにルイズのお供と呼ぶにふさわしい才人にとっては、この戦争に対する動機づけは恐ろしく希薄だ。志願したギーシュやマリコルヌが死ぬほどの目に遭ってもやむなしと言う気がするのに対し、武功に逸るルイズに使い魔の烙印故に引きずられてしまうのは彼にとっては不幸なことだろう。彼自身が頑として拒否しないことも問題ではあるが、やはりルイズ一人を行かせるという選択肢は、ルーンの呪縛と惚れた弱みを併せ持つ彼にはないのだろう。

 そんな彼のような純朴な子が、こんな世界で好きな子のために命を懸けようというのだ。その心中は察するに余りある。

 

 

 

 そんな感じに日は流れ、明日からの降臨祭を控えたウィンの月の最終日。この世界の大晦日の早朝に、私はディルムッドを伴って宿にしている天幕を出た。

 あまりに仕事がないので、周囲には薬品の調達に行って来ると言ってあるが、用事は言わずもがな。

 この足で水源に向かうつもりだった。

 距離は30リーグ。ちょっと距離がある。徒歩では片道でも2日がかりになってしまうので、ディルムッドに頼んで運んでもらう予定だった。

 水場で革袋に水を補充していた時、背後から声をかけられる。

 

「あ、ヴィクトリア、おはよう」

 

 振り返ると、起き抜けの才人が目をこすっていた。

 

「ああ、おはようさん。早いね」

 

「何だか習慣でね。そっちこそどうしたんだ、こんな早くに?」

 

「ちょっと用事があってね。近場まで出かけるんだよ」

 

 ふーんと気のない返事をしながら、水場でばしゃばしゃと顔を洗う才人。

 その横顔を見ていると、何だかもうじきこいつが命懸けの吶喊をするとはとても思えない。

 馬鹿で、お調子者で、要領が悪くて、そのくせ一途で、でもちょっと浮気者。

 何で、こいつみたいないい奴が命を懸けなくちゃいけないのやら。

 それとも、いい奴だから命を懸けてしまうのだろうか。

 手を伸ばす彼の手にタオルを渡し、私は一つ訊いてみた。

 

「少年」

 

「ん?」

 

「お前さん、ルイズのことは好きかい?」

 

 いきなりな質問だったためか、才人は一瞬で真っ赤になった。

 

「何言いだすんだよ!」

 

「深い意味はないんだけどさ」

 

 言葉を慎重に選んで彼に告げる。

 

「好きならさ、守っておやりよ。あの子、あれで寂しがり屋だからさ」

 

「寂しがり屋、って感じじゃないけど」

 

 喧嘩が長引いているのか、素直じゃない物言いだった。このまま死に別れたら、一生涯悔やむぞ、少年。

 

「うわべだけで見ちゃダメだよ。とにかく、ルイズのこと、よろしく頼むよ。お前さんのここに住んでるのはあの子なんだろう?」

 

 私がちょっとだけ厚みを増した胸板をつつくと、才人は複雑な顔をした。

 

「気が強くたって、ルイズだって女の子なんだよ。使い魔とかそういうの抜きにして、守ってあげなきゃ。ある人の受け売りだけど、命を捨てても構わない、と思える女が現れるのは、精々一生一度だそうだからね」

 

「……判ってるよ」

 

 素直になれないお年頃、憮然とした顔で才人は明後日の方を向いた。

 

「だからと言って、お前さんの命を安易に投げ出せって言っているんじゃないからね。守られるために男に死なれるほど、女にとって辛いことはないんだよ。女の死に場所は、惚れた男の腕の中と相場は決まっているんだ。だから、死ぬんじゃないよ。絶対に二人で生き残るんだ。いいね?」

 

 私の言葉に引っかかるものを感じたのか、怪訝な顔で訊き返してきた。

 

「何だか今日のお前、変だぞ? 何かあったのか?」

 

 さてね、と答えて私は水場を後にした。

 何かあったわけじゃない。あるとしたらこれからだ。

 お姉ちゃんとして、できの悪い弟のために一仕事しなきゃならないんだよ、とは言えない。

 何だかよく判らないと言った感じの顔をした才人を置いて、私たちはシティオブサウスゴータを後にした。

 ここから先は、私の喧嘩だ。

 

 

 

 

 

 

 郊外の山の中。

 風のように私たちは駆ける。より具体的には、ディルムッドに抱えられての移動だ。有料で商売すれば王都の女性陣の大半が貯金をはたいてでも申し込むであろう、ディルムッドのお姫様抱っこ。しかし、そんな特等席でも私の心中は穏やかではない。

 一方的に襲いかかれる盗賊狩りと違い、ここから先は敵に主導権を取られることも考えなければならない戦場だ。どちらかというと殺し屋属性の私には不向きな状況に挑むことになる。

 水源の位置はある程度マチルダに聞いているし、水の気配を辿ればどこに行けばいいかは判る。全てが私が知るような流れで動いていてくれればすんなりシェフィールドと楽しいデートになるのだが、不確定要素の事を常に考えなければならないだけにのんびりとはしていられない。

 原作のとおり、天気は曇りのち雪。原作と違うのは、ところによって血の雨が降ることだろう。

 目指す水源地からやや離れたところで下ろしてもらい、徒歩で水源地に向かう。周囲の警戒はディルムッドの感覚が頼りだ。時間的にはシェフィールドたちに先んじた形で到着できると思うが、警戒はするに越したことはない。

 

 そんな道中、ふと、背後で忠臣の足音が止まった。

 振り返ると、露骨なまでに警戒の表情を浮かべたディルムッドがいる。

 

「妙です」

 

「どうしたね? 何か気になる音でもするのかい?」

 

「いえ、逆に何も聞こえぬのです」

 

「ん?」

 

「動物や鳥の声がしません。いかに冬眠期であっても、不自然です」

 

 ディルムッド・オディナはケルトの英雄だ。アイルランドあたりの出だと思うが、前世のイギリスとアルビオンは自然環境が近いのかも知れない。それだけに、自然と触れ合う機会が多かったフィアナ騎士団出身のこの男の感覚は信じるに足る。

 ましてサーヴァントの聴覚だ。それを欺くにはサイレントの魔法を使うしかない。

 嫌な予感が首をもたげた。

 その嫌な予感が、次の彼の言葉で確定した。

 鋭い視線を周囲に走らせながら、ディルムッドが静かに言った。

 

「います。取り囲むように……」

 

 私の背中にも、緊張の電気が走る。

 音を発するということは、メイジならざる脅威が存在するということか。

 敵が放った警戒のための予防線に引っかかったのか。それとも私の動向を知った上での待ち伏せか。待ち伏せだとしたら何で私の動向がばれたのだろう。

 どちらにしてもろくな用事ではないだろう。

 

「数は?」

 

「少なくとも数十……気配からして生物とは思えませんが……」

 

 瞬間的に、ディルムッドの目つきが獣のように鋭くなった。

 

「主!」

 

 ディルムッドの叫びに、とっさに宙を見上げる。

 

 そこに、導火線に火が付いた火薬樽が、幾つも私たちに向かって飛んでくるのが見えた。

 

 

 

 

 冬の山中に、凄まじい爆発が起こった。



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その36

 ぴよぴよぴよぴよ。

 

 頭の周りを、数羽のアヒル隊長が輪になって舞っていた。

 

 「大丈夫ですか、主?」

 

 心配そうなディルムッドの声が、耳鳴りの向こう側から聞こえる。

 古い漫画で、SWATの筋肉お姉ちゃんが相棒のサイボーグに抱えられて砲撃から跳んで逃げたらGでブラックアウトするシーンがあったが、今の私はまさにあれだ。爆発直前に私を抱えて大跳躍してくれたのはいいのだが、瞬間的に私にかかったGは2ケタに達したことだろう。とは言え、状況が状況、運ばれ方が悪くてムチウチになったり脱臼しても文句は言えないところだ。この程度で済んだのなら上出来だろう。

 

 取り急ぎ、頭の位置を下げて脳に血を送り込む。頑張れ、ヘモグロビン。

 意識がある程度戻ったところで杖を使って治癒をかけた。

 

「あ~、びっくりした」

 

「申し訳ありません。不覚を取りました」

 

「あんたがどうしようもなかったんだ。敵を褒めるしかないさね」

 

 頭を一つ振って立ち上がり、私は首を鳴らした。

 周囲は開けた岩場。雪の隙間から滾々と湧き出す清水が見える。お誂え向きに、跳んだ先は水源の泉だったようだ。

 

「さて、洒落た挨拶の礼をしてやろう。いるんだろう、シェフィールド」

 

 私の声に答えるかのように、目の前の空間がゆらりとぼやけた。光学迷彩、というよりは見えないマントか、あれは。

 久々に見るシェフィールドは妖艶に微笑んだ。

 

「御無沙汰しております、ヴィクトリア殿下」

 

「丁重なお出迎え、痛み入るよシェフィールド。出迎えがあんた一人と言うのはちょっと寂しいね」

 

「申し訳ありません。連れがいたのですが、御身の来訪を知るや、顔色を変えて逃げ出してしまいましてね」

 

 髭め、逃げたか。一緒に片づけてやろうとも思ったが、思ったより利口なようだ。どこかに隠れているとも限らないだけに油断がならないが。

 

「よく私が来ると判ったね」

 

 私の言葉に不敵な笑みを浮かべるシェフィールド。

 

「当然です。何しろ、手順も踏まずにいきなり下から女を襲うような使い魔をお連れですので、御身からは常に目を離さぬよう心がけておりました」

 

 遠見の鏡か、アルヴィーか。手段は知らないが熱心なことだ。

 それにしても、私の使い魔を痴漢呼ばわりとはいい度胸だ。

 

「何を覗いていたか知らないけど、そういうことなら私の用事に見当はついているんだろう?」

 

「何となく、の範囲ではありますが。正直、御身が積極的に戦争に関与するというのは意外とは思います」

 

「だったら話は早いね。判っているなら、その首置いて明るいうちにお帰りな」

 

「まあ、怖い。ですが、せっかく御足労いただいた殿下をおもてなしもせずにのこのこ帰っては、私が主に叱られますわ」

 

「ほう、それなりに趣向を凝らしてくれたとでも?」

 

「ええ。私なりに努力致しましたわ。是非ご賞味下さいまし」

 

 シェフィールドが笑うと、その額が輝きを放つ。一度見たことがある、ミョズニトニルンのルーン。それに応じるように、シェフィールドの背後にある木々の影から、黒い巨体がわらわらと現れる。

 戦士の姿をしたガーゴイル。恐らくはスキルニルと言う奴だろう。

 

「これはスキルニルと申しまして、血を吸った人物に化けることができる古代のマジックアイテムです。古代の王たちは、これを使って戦争ごっこをしていたそうですわ。居並ぶこの者たちは、過去の優れたメイジ殺しの血を吸った使い手揃い。きっと気に入っていただけるものと自負しております」 

 

 自信満々なシェフィールドの声を聞きながら、私は何とも言えない居心地の悪さを感じた。

 シェフィールドには悪いが、スキルニルは所詮は『戦争ごっこ』の道具に過ぎない玩具だ。その程度のものを得意げに出されてもリアクションに困る。

 

 そんなことを思う私の隣で、ディルムッドがゆっくりと両手を構える。魔力が編み込まれ、虚空から現出する二振りの槍。

 それは、彼の無敵を担保する伝説の双槍だ。

 そのまま、私を庇うように前に出る。

 

「主、少々荒くいきますが、よろしいでしょうか?」

 

 律儀に問う忠臣だが、私の指示は既に伝えてある。

 

「言ったはずですよ、我が騎士。この身は、その手にある槍の誉れと共にあると。お前が威をもって制すと言うのなら、すなわち、それが私の意思と知りなさい」

 

 私の言葉を聞いたディルムッドの背中の筋肉がみしりと音を立て、濃密な闘気が満ちた。

 その背に私が向けるのは、ありったけの信頼だ。

 ケルトの伝承に謳われし比類なき騎士。世界は違えど、その双槍の輝きは褪せることない。

 それは、座にまで至りし無双の英雄。

 そして、二つの月を頂くこの異界の大地に降り立った、無敵にして気高き、至高の使い魔。

 だから、私は多くを語る必要はないのだ。

 託すべきは、ただ一片の言の葉。

 

 

 

「私に勝利を」

 

「御意」

 

 

 

 ディルムッドの左右の槍が、鳥のはばたきのように優美に広がる。我流ながら、磨き抜かれた独特な二槍流の構え。

 鋭い双眸は敵を見据えたまま、厳かに名乗りを上げた。

 

「アルビオン王国モード大公家公女、ヴィクトリア殿下が臣、ディルムッド・オディナ。お相手仕る」

 

 その言葉を受けたシェフィールドの指示を合図に、スキルニルの一体が前に出た。

 さしの勝負とは興じすぎだよ、シェフィールド。

 その手には剣。重厚なブロードソード。

 その迫力、足の運び、素人の私でもそのスキルニルが並はずれた技量を有していることが判る。

 5メートルほど間を置き、両者が対峙する。

 ディルムッドは恐ろしいほどに自然体。それに対し、スキルニルの剣は牽制のように揺れている。

 スキルニルの歩みに合わせ、不動のディルムッドとの距離が徐々に詰まる。両者の間にある空気が、その闘気で熱を帯びているようですらあった。

 闘気のぶつかり合いが極限に達し、卵がつぶれそうなほどの圧力が満ちた瞬間、敵から動いた。

 稲妻のような素早い踏込みだった。

 速い。猫科の獣のような速度。人間相手ならば充分に先の先が取れる打ちこみだと思う。

 人間が相手ならば、だ。

 応じたのは我が忠臣。絹のような滑らかな動きで、紫電もかくやと言うような一撃を繰り出した……らしい。結果から推測したに過ぎない。何しろ、速すぎて私には見えないのだ。

 銃で人体のような柔らかい物を撃った場合、撃たれた者の体には、その弾頭の速度ゆえに銃弾の直径以上の穴が開く空洞現象が発生する。幸か不幸か私は前世も含めて銃創患者を受け持った事はないのだが、レクチャーで見たゼラチンに開く空洞現象はなかなかぞっとしないものだった。特に着弾時に開く瞬間空洞はまるで風船を膨らませるような感じで、口径の大きい弾丸だったら体が千切れると言うのも理解できたものだった。

 襲ってきたスキルニルを彼の槍が穿った時、固いはずのスキルニルの胴体に、恐らく記憶にあった瞬間空洞のごとき大穴が広がったのだろうと思う。

 火薬の爆発のような轟音と共に、スキルニルが爆破されたように四散した。

 

 サーヴァント。

 それは単騎にして当軍。私の使い魔は『戦争ごっこ』ではなく、戦争そのものをするための存在なのだ。聖杯戦争という超常の世界を戦場とする、魔術師たちの狂気の闘争の戦闘代行者だ。

 ディルムッドの槍捌きはこれまで何度も見たことがあるが、その刺突の速さはまさに目にも止まらぬ早業だと思っていた。だがこの時、英霊の座から召喚されし最高位の使い魔のその実力を、私はまだ過小評価していたことを知った。

 これは、人間相手に開放していいような力ではない。街の盗賊退治に駆り出すなど、池のボートを沈めるために戦艦大和をけしかけるようなものだったのだ。心の底から、こいつを敵に回す奴に同情しよう。

 

 何事もなかったかのように最初の構えに戻っているディルムッドに対し、苦々しげな顔をしたシェフィールドの額が輝く。

 さすがに出し惜しみをやめたのか、控えていたスキルニルが隊伍を組んで一斉に襲いかかって来た。

 応じるは、二つの槍の煌めき。

 今、対峙している敵の一群とて、相応の戦闘力を有するスキルニルだと言う事は私にも判る。それを動かすものが、練達の戦士の技量であることも。

 だが、それほどの猛者が相手であってもなお、控えめに見ても桁が3つほど違う。互いを構成する概念が根本的に違うのだ。

 壁のようになって襲い来る敵に対し、猛威としか言いようがない魔技を振るう我が忠臣。

 その槍の冴えは高速と言う枠をやすやすと踏み越え、神速、あるいは魔速の領域に到達する。私の眼には全く映らない速度で双槍が振るわれ、塵芥のように敵を屠るとともに、余波を受けた周囲にその神業の爪痕を残す。

 踏込みを受けた地が爆ぜ、穂先に切り裂かれた大気は擦過熱で焦げ臭い匂いを発し、樹齢100年はありそうな大木は小枝のように折れ飛ぶ。

 あの世界でアイリスフィールが驚愕と共に体験した神話の世界の再演を、世界を変えて私もまた目の当たりにしていた。

 

 ディルムッド・オディナ。ケルト神話に謳われた忠勇なる騎士。

 その人生は、彼の槍の勲に比してあまりにも悲しいものだ。主君フィンの妻になるべき女に聖誓を課され、主君を裏切ることから彼の悲劇は始まる。彼の武威を語るものが、その逃避行の最中に織りなされたものと言うのは皮肉としか言いようがない。しかし、その後、帰参を許されながらも、待っていたものはその主君による見殺しという仕打ち。しかもあろうことか、彼を巻き込んだ当のグラニアなるあばずれは、その後にフィンと結婚している。ディルムッドは一体何だったと言うのだろうか。

 しかし、彼はその事を嘆きもせず、ひたむきに生きた者たちの物語として恨みごと一つ言わなかったという。

 不器用な奴だと思う。だが、清々しいほど天晴な漢とも思う。外見の美醜はどうでもいい。彼は、その生きざまこそが美しいのだ。

 そんな彼が抱いた、ただ一つの悲願。

 一人の英傑が、心の底から願った忠義の道。

 その悲願を抱いて英霊の座にあり、ランサーの座として召喚に応じた冬木の地における第4次聖杯戦争。そこで彼を襲った悲劇もまた、あまりにも救いがなかった。私ですら、あまり思い出したくない怨嗟に満ちた結末だった。

 

 その彼が、何故私の呼びかけに応じてくれたのかは、未だにその理由は判らない。

 しかし、過程はどうあれ、その漢が今、私の目の前で槍を振るっているのは紛れもない現実だ。

 その働きは、まさに無双。

 その無双の英傑が、私のような半端者にも嫌な顔一つせずに使い魔として仕えてくれている。

 それは、果報者などという安っぽい言葉では追いつかない、まさに身に余る幸せだ。

 故に、私はあらん限りの信頼を彼に注ぐのだ。

 決して都合のいい傀儡ではなく、一人の騎士として、臣下として彼を遇する。

 彼が切に願ったただ一つの、忠義と言う祈り。

 それに応えることが彼に対する恩返しになるのなら、私はそれを惜しまない。

 身の程知らずにも彼の主として胡坐をかいている私にとって、それが彼にしてあげられる精一杯だ。

 

 

「さすがに……強いですね」

 

 顔に縦線を引いて青くなっているシェフィールドが、苛立たしげに吐き捨てる。

 それを受け、これまでに倍する黒い影が森の中からわき出して来る。

 しかし、その対応はこれまでのものといささか趣を異にしていた。

 今度のスキルニルたちは猪突してくる戦士ではなく、組織だった鉄砲隊だった。手には大型のマスケット。それを一斉に構えて銃口を向けた。主に私に。

 

『主』

 

『心配いらないよ』

 

 それを認識すると同時にルーンを詠唱し、泉の水を味方に付ける。ここは水場で、私は水のメイジだ。地の利は私にある。

 周囲に泉から吸い上げた水を撒き散らし、そこから剣山のように氷柱を生やして射撃に応じる。いかんせん、さすがに私のウォーターカッターより鉄砲の方が射程は長いだけに、ここは防戦の一択だ。

 轟音と共に放たれた弾丸が、その氷柱にあたって微妙に射線をずらして明後日の方向に消えていく。機関銃相手だとさすがにもたないが、単発のマスケット程度ならこれで充分だ。私をウィークポイントと考えるのはセオリー通りとは思うが、鉄砲程度ならば質量系の魔法である水属性ならば防ぐことはできる。 元素の兄弟のことは覚えているので体の当たる場所に硬化をかけるという技も知ってはいるが、さすがに試すだけの度胸はない。ちなみに、この剣山ガードのアイディアの元は、業腹ながらディルムッドの主だったケイネス・アーチボルトの月霊髄液だ。敵に衛宮切嗣がいたら、やっぱりショートするのかな、私。

 実際、他の属性に対し、確かに水のメイジは闘争には向かない。攻撃面では火に劣るし、打撃力でも土より下だろう。機動力だって風には及ばない。だが、勝てずとも負けない戦いということであれば、水と言う属性はこれでなかなか使い勝手がいい属性なのだ。

 宮本武蔵の五輪の書に着想を得たという、ブルース・リーの言葉にはこうある。

 

 

 Empty your mind, be formless,

 shapeless - like water.

 Now you put water into a cup, it becomes the cup,

 you put water into a bottle, it becomes the bottle,

 you put it in a teapot, it becomes the teapot.

 Now water can flow or it can crash.

 Be water, my friend.

 

 

 水は、茶瓶に入れば茶瓶の形に、茶壷に入れば茶壷の形にその姿を変じる。ゆるやかに流れることも、激しく打つこともできる。

 機に臨んで変に応ず。すなわち、変幻自在。敵の攻撃に対する対抗のカードということであれば、これでなかなか優れた属性なのだ。

 そうやって凌いでいる間に、ディルムッドが敵を駆逐してくれればいい。所詮、本格的な闘争の場においては私はお荷物なのだ。

 それを判ってくれているディルムッドが振るう槍の音が、氷柱の森の向こうから聞こえてくる。一撃一殺。爆発のような轟音の数だけ敵が消えていく。

 

 程なくディルムッドの掃除が終わったらしく、鉄砲の猛射が終息する。残心を取りながら剣山を解いた時、私は目を丸くして驚いた。

 何じゃこりゃ。

 目の前にいたのは、身の丈20メートルはありそうな巨大なガーゴイルだった。

 

「何だい、このでかぶつは!?」

 

 目を丸くする私にシェフィールドは愉快そうに応えた。

 

「さすがに、スキルニルだけではご納得いただけないこともあろうかと思い、特別にご用意させていただきました」

 

 シェフィールドの指示を受け、そのガーゴイルが私目がけて突進してくる。

 すごい迫力だ。象の群れが走って来るよりおっかない。

 そんな様子を突っ立ったまま眺めていると、若草色の疾風がその足元を払った。

 地響きを立てて倒れるガーゴイルと私の間に立ち塞がる我が槍兵。

 

「雑魚は片づけ終わったかい?」

 

「は。一体残らず」

 

 あれだけ暴れて汗一つかいていない。『賞賛を受け取れ』とでも言いたいところだ。

 そんな彼の前で、派手に倒されながら恐ろしく身軽な動きで立ち上がるガーゴイルに、私は思い当たる物があった。

 

「……ただのガーゴイルじゃないね?」

 

「さすがは殿下。御明察です」

 

 余裕に満ちたシェフィールドの声が響く。

 

「まだ試験段階ですが、新機軸の技術の応用を研究中の、新しいタイプのガーゴイルです。動きの素早さは、今ご覧になったとおり」

 

 そのシェフィールドの後ろから、同じようなガーゴイルが3体現れる。初っ端で火薬樽を馳走してくれたのはこいつらか。

 確かに滑らかな動きをするガーゴイルだ。出力も充分にあると思う。一瞬、ヨルムンガントかと思ったが、驚愕するほど素早い動きと言う訳ではない。恐らくは先住魔法を取り込む前段階、ヨルムンガントのテストベッドになるものなのだろう。

 

 4体のガーゴイルは私たち主従を取り囲むようににじり寄って来る。

 それを見ているシェフィールドの顔には、嗜虐の笑みが浮かんでいるようだ。

 だが、その巨体を見ても顔色を変えない私たちを見て、急に怪訝な表情になる。

 シェフィールドも、さすがにそろそろ気づいたようだ。

 己の誤算に。

  

 ディルムッドの姿が掻き消すように消え、次の瞬間に一体目のガーゴイルの胴に風穴が空いた。

 続く2体目は首から上が消し飛ぶ。過程は見えず、結果だけが目の前に残るような早業だ。

 今ここで、私たちの目の前で、何が、いかなる奇跡の業が起こっているのか。常人の域を出ないシェフィールドにも判るまい。

 三体目のガーゴイルの拳を槍一本で迎え撃ち、その巨体を拳ごと突き砕くヒトガタの存在が、一体何なのか。恐らく、彼女に限らずこの世界の者は誰一人として理解できないだろう。ただ、鎧を纏った騎士が鋼の切っ先を振るうだけで、ここまで大きなガーゴイルが次々に屠られていくなどと言うことは、受け入れがたい常識への叛逆だろう。

 確かに、大きいことはいいことだ。しかし、大きければいいというものでもない。

 サーヴァントという超常の存在は、体の大きさではなく、その抱える神秘の大きさによってこそその真価を計るべき存在なのだ。一撃で城を吹っ飛ばすとか12回殺さないと死なない、くらいならばまだ理解はできるかも知れない。だが、世界を一つ作ってしまったり、並行世界に干渉したり、数多の英傑を己が軍勢として召喚したり、場合によっては世界すらぶった切って見せるような輩までが存在するのが英霊の座なのだ。

 そんな世界の住人を、この程度の木偶人形でどうこうできると思う方が間違っているのだ。

 シェフィールドの誤算はまだある。

 神の頭脳ミョズニトニルンの能力は魔装具の使役。そして、その特性こそは、我が使い魔とは最も相性が悪いものなのだ。如何に精強なガーゴイルでも、その魔力循環を絶たれれば沈黙するのは道理。破壊するまでもなく、破魔の紅薔薇の一撃を受けた時点でいかなる魔装具であってもガラクタになり下がる。加えて、例えそれが無限回復を誇るゾンビやゴーレムであっても、ディルムッドの槍の前には意味がないのだ。必滅の黄薔薇。無限回復であろうがなんだろうが、その一撃を受けた者は回復することを許されない。

 いかに工夫を凝らそうとも、それが神の頭脳の扱う道具である限り、ディルムッド・オディナの無敵は揺るがない。

 地響きを立ててすべてのガーゴイルが倒れ伏すまで20秒。

 そのまま再稼働の気配もないガーゴイルを見ながら、シェフィールドは感嘆の声を上げた。

 

「……これは、驚きました」

 

 驚愕したまま、素直な響きの拍手をしている。

 

「もう打ち止めかい?」

 

「さすがにこれ以上は用意しておりませんわ。よもやこれほどとは思いませんでした」

 

「だったらさっさとお祈りを済ませなよ。その首と指輪をもらったら、残りの部分はクロムウェルのところに送っておいてやるよ」

 

「指輪?」

 

 私の言葉を拾い、シェフィールドが首を傾げた。私としたことが、ちょっと口が滑ったようだ。

 

「アンドバリの指輪とかいう、御大層な指輪を持っていると聞いたよ」

 

「ああ、これですか」

 

 シェフィールドは指輪を手に取ると、小馬鹿にしたような手つきで私に向かって放った。

 

「こんな物でよろしければ、進呈いたしますわ」

 

 放物線を描き、きらりと光る小さなものが私の手の中に落ちてきた。

 たしかに、それは指輪だった。

 それを見た時の衝撃は、生まれてからベスト5に入ると思う。

 

「こんなもので、殿下の使い魔の実力を拝見できたとは、実に安い見物料ですわ」

 

 そんな私を見ながら、哄笑をあげるシェフィールド。

 

「御身の使い魔の実力はよく判りました。次はさらに趣向を凝らすとしましょう」

 

 癇に障る捨て台詞に私が感情のままに杖を振るうと、水流カッターで真っ二つに切り裂かれたシェフィールドが小さな人形に戻って、周囲に散らばるアルヴィーの列に加わった。

 

 「……やられた」

 

 私の手の中に残ったのは、台座だけになった指輪だった。

 

 

 

 何とも言えない敗北感の味が、口の中に広がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつシェフィールドが指輪を行使したのかは判らない。しかし、奴が注いだ先住の毒は、速やかにシティオブサウスゴータの連合軍に効果を発揮し始めていた。

 私がシティオブサウスゴータを出た当日の午後、一部の兵の乱心が始まったようだ。降臨祭10日目に起こるはずだった連合軍が相打つ展開は、日付を変え、大みそかに私が知る歴史のとおりに発生した。歴史に残る降誕祭は、初日の出のものではない赤色で彩られることとなった。私の思惑が、見事に失敗に終わった証左だ。悪びれるつもりはないが、何かが微妙に食い違ってしまった歯車に対する悔しさが胸の内に吹き荒れている。

 

 私たちはシティオブサウスゴータには戻らず、そのままロサイスに向かった。『魅惑の妖精』亭の面々は才人が知らせて逃がしてくれているだろうし、何より、今は家人二人が気がかりだった。私の手のひらの大きさには限度がある。すべての人は救えないのだ。

 

 街道に出るまで山道を抜けねばならなかったこともあり、いささか時間を浪費した。途中から街道に出て、敗走する兵を追い越し、日暮れにロサイスに到着した。もはや秩序を失いつつある兵の波をディルムッドにラッセルしてもらいながら約束の旅籠を目指す。

 乱暴にドアを開けると、人でごった返す酒場の片隅に、祈るような姿勢で座っているテファが見えた。

 

「テファ!」

 

 あらん限りの声で呼びかけると、弾かれたようにテファが顔を上げる。

 怖かったことだろう。不安だったことだろう。そう思うと、胸つぶれそうな気持ちになる。

 私たちを見て安堵の表情を浮かべるテファに抱きついた時、緊張が解けて膝が崩れ落ちそうになった。

 テファは確保した。マチルダはどこか、と首をめぐらせるが姿は見えない。

 

「マチルダは?」

 

「サイト達を探して来るから、私はここから動くなって……」

 

 才人。

 そうだった。奴の暴走を止めなくちゃいけない。私の頼みを律儀に聞いてくれたマチルダには、頭が下がる思いだ。

 天幕の方はマチルダが抑えているだろうから、ディルムッドにテファを任せ、私は街にある寺院に向かって走った。

 

 

 

 

 

 寺院の扉を開けると、そこは無人だった。私は無遠慮に踏み入り、御堂の中を祭壇に向かって走る。

 祭壇に並ぶ物を見て、私は息を飲んだ。

 物言わぬ始祖の像の下、そこに転がっていた祭器と思しきグラスが二つ。

 

 脳裏に、ここでままごとのような結婚式をあげる二人の挿絵が浮かんだ。

 あまりに悲しい、お別れのための結婚式だ。

 

 

 

 ―あんたはあんた。帰るべき世界がある、ただの男の子。私の道具なんかじゃない―

 

 ―嘘じゃない。俺はお前に会えてよかった。そう思う―

 

 

  

「あの……馬鹿……」

 

 奥歯が音を立てる。

 ちょっとだけ不器用な男の子と、ちょっとだけ素直になれない女の子。

 そんな微笑ましい二人が、何でこんな悲しい思いをしなくちゃいけない。

 それほどの業が、あの子たちにある訳がないのに。

 目の前の、始祖の像を見上げ、私は腹いせにグラスを取って投げつけた。

 静謐な御堂の中に、ガラスが砕ける音が思ったより大きく響いた。

 

 

 死なせない。

 

 

 そうやすやすと死なせてなんかやらん。

 とりあえず、あいつを助けて一発殴らないと気が済まない。

 私は踵を返して寺院を出る。経過が判ればここには用はない。

 

 腹を立てながら大股に寺院を出た時だった。

 

「やあ、君か」

 

 そこに一人の神官が立っていた。

 小憎たらしいほどの美少年。

 できれば二度と会いたくなかったジュリオは、相変わらずにやけていた。

 

「珍しいところで会うもんだね」

 

 場違いなほどふやけた声が、無性に癇に障った。

 私は一つ深呼吸して、努めて平静な声を出した。

 

「お前に訊きたいことが二つある。ひとつ、ルイズはどうした? もうひとつ、才人はどうした?」

 

「ルイズ……ミス・ヴァリエールのことかい? 眠っていたから、そのままフネに乗せてきたよ。あとは彼女の学友が面倒を見てくれると思うよ」

 

 とりあえずルイズは問題なく無事らしい。彼女自身が勇んで殿を務めに突っ走ってしまうほど歴史が狂っていなかったことは助かる。

 

「それと、使い魔の彼なら、もうだいぶ前に出発したよ」

 

「どこに?」

 

「さあ。逃げるって言ってたけどね」

 

 楽しそうに笑うジュリオ。人の不幸がそんなに楽しいのか、こいつは。

 

「あいつが、何を思い、何のために、何をしに行ったのか、お前は知っているね?」

 

 ルイズと才人の結婚式を、こいつは見ていたはずだ。

 

「まあ、察しはつくよ。不器用だね、彼も」

 

「それなのに……黙って行かせたのかい、お前……」

 

「彼が自分で決めたことだからね」

 

 どこまでも他人事のスタンスを崩さないこいつの言葉に、私の中の棘がどんどん増えていく。

 一緒に行けとまでは言わない。だが、一世一代の勇気を出した男に対し、見送った者として取るべき態度というものがあると思う。

 

「お前、言っていて恥ずかしくないのか?」

 

「それが彼の選んだ道さ。すべては神と始祖の思し召しだよ」

 

 この野郎……。

 今すぐこいつをその神だか始祖だかのもとに送ってやりたい衝動を、私は何とかねじ伏せた。

 クールになれ、私。

 

「そう言えば、あんたの竜、アズーロって言ったっけ?」

 

「そうだけど?」

 

「あれがそれかい?」

 

 私が陽が落ちようとしている空を見上げて指差すと、ジュリオはその指の先を追った。

 これは古典的な手だが、人の本能に訴えるやり方なだけに実に有効なミスディレクションだ。

 

 直後、声もなくジュリオは内股になって崩れ落ちた。

 蹴る時は真下からではなく、やや前からスナップを効かせて叩くように蹴るのがコツだ。

 

「才人が死んだら、お前も殺してやる。死にたくなくば、そこの寺院でブリミルとやらに我が舎弟の無事を祈っていろ」

 

 エロ坊主め、私の弟を見殺しにしようとした罪を知れ。青い顔で鉛色の汗を流しているジュリオを置いて私は走り出した。

 まずは馬……には乗れないから馬車だ。次に秘薬。手持ちの秘薬だけでは瀕死の重傷ではケアしきれない。あるいは、ディルムッドを先発させて才人を捕まえるか。だが、才人が暴れた舞台は街道上ではなく草原だったはず。どこかで街道を外れられては追い切れない。

 そんなことを考えていた時だった。

 

「ヴィクトリア!」

 

 がらがらと音を立てて一台の馬車が私の前に立ちふさがる。四頭立ての、速度が出るタイプだ。手綱はディルムッドが握っている。幌の着いた荷台にはマチルダとテファが乗っていた。

 

「マチルダ!?」

 

「すまない、坊やを捕まえられなかった。あんたの見立て通り、あの馬鹿とち狂ったみたいだ。兵に聞いたら、黒髪の剣士が単身で街道を北東に向かったって!」

 

 うちの家族にも心配かけよって。本当に後で折檻してくれる。

 

「今私も聞いた。助けに行くから、二人はフネに乗っておくれ」

 

「馬鹿言ってんじゃないよ」

 

 マチルダが異を唱えながらディルムッドを指差す。

 

「こいつ一人が突っ込んで、そのあとどうするのさ」

 

「そこは何とかするよ」

 

「無理だね。あんただけじゃ」

 

 それは確かにそう思う。敵は軍隊。面で押して来る。ディルムッドだけではかき回すことはできても戦線は作れない。才人を救出するには回収担当も戦場に飛び込まなくちゃいけないだけに、私一人では彼の回収は無理なのだ。

 ディルムッド一人に『取ってこい』をやらせる、というのも頷けない。マスターとサーヴァントは対で動くのが定石と言う理屈を持ち出すつもりはないし、確かに、包囲の中から傷ついた才人を担いで脱出することはディルムッドならやってやれないことはないかも知れない。しかし、その間、才人を庇いながら彼は万の軍勢からの攻撃を凌がねばならない。傷ついた才人を抱えていては、ディルムッド本来の機動力は発揮できない。実際に抱えて飛ばれた身としては、あんな常識はずれな動きをされたら、そのせいで才人が死んでしまう可能性の方が高いと思う。機動力を失った状態では、いかにディルムッドとて防御力が飽和する可能性がない訳ではないし、彼とて、その抗魔力を上回る魔法を食らえば傷つくのだ。

 

 そんなことを考え唇を噛む私に、マチルダは不敵な笑みを浮かべた。

 

「まあ、ここは私に任せなよ」

 

 それはまるで、百戦錬磨の軍師の言葉のような分厚い信頼感を感じる物言いだった。まるで時の彼方で活躍した周瑜か孔明の言葉を聞いたような錯覚を覚え、私は思わず聞き返した。

 

「策があるのかい?」

 

「んっふっふ、道々話すよ」

 

 猛獣のような笑み浮かべるマチルダ。その表情が、今の私にとっては一縷の望みだった。

 代案がある訳でもないので急いで馬車に乗り込む。

 馬車の中には、いくつか木箱が並んでいた。

 

「これは?」

 

「役に立つかと思って、軍の物資置き場から失敬してきといたよ。どうせ連中にとっちゃ捨てちまうものだし、文句も言われないだろうからね」

 

 箱を開けると、中には各種の水の秘薬が相当数収められている。

 ……完璧だよ、マチルダ。

 そんなマチルダのプランを聞きながら、私は薬品の確認を進める。 

 私が思い描いていた必要な薬品は、ほぼ完全に揃っていた。

 

 これで私が打てる手はすべて打ち終わった。

 あとは、私たちが間に合うかどうかだが、そこは、才人の運次第だ。 

 神にもブリミルにも祈らない私は、ただひたすら運命にその歯車の回転を止めるよう祈った。

 

 間に合え。

 

 間に合え。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その襲撃者は、朝靄の中から突然現れた。

 常識はずれの足の速さだった。

 その速度を見誤ったと気づいた時、一気に懐に飛び込まれていた。

 凄まじい衝力を持つ突撃を受け、騎兵が次々と落馬していく。 

 あまりの速さに、対応は完全に後手に回り、被害が凄まじい勢いで拡大していった。

 

 風のようであったと言われている。

 火のようでもあったとも言われている。

 土のようであり、水のようであったとも。

 

 襖と突き出された槍をかわし、驟雨と降り注ぐ矢を弾き、怒涛の魔法を剣で払った。

 その進撃の後には打倒された兵が体を横たえ、亜人は斬られて骸を晒していた。

 無論、襲撃者とて全くの無傷ではなかった。

 その体に受けた刃や魔法は、徐々に襲撃者にダメージを蓄積していった。

 

「左?」

  

「ああ、ダメだ……動かねえ」

 

 一騎当千、獅子奮迅の奮闘を見せながらも衆寡敵せず、才人はその勢いを受け止められ始めていた。

 奇襲の効果が薄れた今、広く間合いを取ったメイジの包囲から、滝のように魔法が降ってくる。

 火の玉が飛来し、氷の矢が唸りを上げ、風の刃が斬りかかり、土の礫がその身を打った。

 如何に手練れの剣士とは言え、その刃の範囲から外に逃げられれば、あとは射程に勝る敵の魔法の的になるだけだ。間合いを詰めようとすると、捨て駒のように亜人が立ちふさがってその突撃の衝力を削いでいく。

 まるで巨獣狩りのように周囲を包囲され、草原の真ん中に取り残されるように才人は滅多打ちにされていた。

 ついにその足をウィディアイシクルの矢が貫き、才人は膝を折った。そこを突いて、その体に次々にマジックミサイルが命中する。

 その衝撃で血を吐き、ついに英雄は地に伏した。

 

「立てるか、相棒?」

 

「……体が……言うことを聞かねえ」

 

 血がにじむほど歯を食いしばっても、体に力が入らなかった。その才人の周囲でメイジが唱えるルーンが響き、魔法の光が広がっていく。十二分に高まった魔力の奔流が一斉に才人に向かって解き放たれ、空を塗りつぶすような勢いで黒髪の少年に襲い掛かった。

 迫る魔法を感じながら静かに目を閉じた才人は、瞼の裏に、心の奥底に住まう一人の女の子の幻影を見た。

 ぽつりと、小石のような声がその口から零れた。

 

「ルイズ……」

 

 

 

 轟音が、響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間にして数秒。

 死を覚悟していた才人であったが、いつまでも来ない衝撃にその目を開いた。

 周囲に漂うのは、硝煙のように煙るエーテルの残滓。

 煙るその向こうに、才人はよく知る若草色の鎧を纏った後姿を見る。

 その手に輝くのは、見覚えのある一振りの真紅の槍。

 

「あ、ああ……」

 

 それは、知っている背中だった。

 手を伸ばそうと思い、しかしいくら頑張っても届かない背中。

 

 強いから、憧れた。

 厳しくとも暖かかったから、必死になって追いかけた。

 いつかは、その高みに近づければと希った背中だ。

 

 その背中が、今、己と敵の間に、壁となって立ち塞がってくれている。

 襲い来る死の咢から、己を守ってくれている。

 それを理解した時、才人の目から涙が零れた。

 

「師匠……」

 

 振り返り、微笑む師の横顔が、安堵を覚えて気絶する才人が最後に見た光景であった。

 しかし意識が闇に落ちる直前、その耳は、確かに師の言葉を聞いた。

 

 

 

 

 

「よく頑張ったな、才人」 



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その37

「ヴィクトリア……あんた、大丈夫かい?」

 

「ん?」

 

 月明かりの下、マチルダの声に振り返ると、起き出した彼女が本当に心配そうな顔をしていた。

 隣ではテファが毛布を羽織って眠っている。

 

「ひどい顔色だよ。少し休めないのかい?」

 

「峠だからね。もうちょっと頑張らないと」

 

 手綱や食事の用意をマチルダとテファとディルムッドらに任せ、私は治療に専念すること丸1日。

 その前日から、2日眠っていないことになる。さすがに自分でも疲労が積み重なってきていることが判る。

 マチルダとテファを残してディルムッドと二人だけで乗り込んでいたら、間違いなく手詰まりになっていただろう。

 

 目の前に横たわっている才人の呼吸は、今は落ち着いている。落ち着いてはいるが、まだ油断がならない状態だ。

 前世なら間違いなくICU行き。レスピレーターを付け、心電図モニターの電子音が響く中で昏睡しているところだろう。そのモニター類がないだけに、急変に備えて常に才人の中の水の流れを感じていなければならないのが辛いところだ。

 軍用の秘薬をじゃぶじゃぶ使えたのは助かったが、それでも追い付かないほど才人の体は満身創痍だった。刺創に切創に擦過傷に打撲に火傷。外傷のフルコースだ。やばい血管が何本もやられていたが、神経が概ね無事と言うあたりは運がいい奴だ。出血がひどかったこともありできれば輸血がしたかったのだが、私たちの中に合致する血液型がいなかったので当面は造血効果がある秘薬頼み。軍の薬品箱をまるごとかっぱらってきたのはマチルダのファインプレーだ。麻酔から毒消し、回復薬から自白剤までその内容は多岐に渡っている。あらゆる状況を想定している軍の補給物資なだけはある。

 現状はまだいつ急変が起こるか判らない状況だが、一時は心停止まで陥ったのだから良く持ち直した方だろう。私みたいに体格が小さいと心臓マッサージも一苦労だった。

 秘薬の追加を処方し、治癒の魔法をかける。幾ら私がスクウェアでも、ここまでひどいと精神力はぎりぎりだ。熟睡して精神力の回復を図りたいところだが、もう少し安定するまでは気を抜けない。

 呼吸や脈拍などのバイタルは何とか正常。水を一口飲ませて一段落だ。フォーリーのドレンバッグに溜まった尿を確認すると、一時ほどひどい血尿にはなっていない。腎臓も落ち着いてきたか。

 御者台から、抑えた声でディルムッドが話しかけてきた。今、手綱を持っているのは彼だ。

 

「主、いかがですか、才人は」

 

「今のところは何とか安定しているよ。今はどの辺?」

 

「ウエストウッドの森を抜けるあたりです」

 

 頭の中で、地図の記憶を反芻して大体の位置関係を思い出す。

 

「夜明けにはシティオブサウスゴータに入れるかな」

 

「今の調子で行ければいいのですが、そろそろ馬を休ませる必要があると思います」

 

「この先に川があるから、そこで一服しよう」

 

 少しだけ明かりをつけて地図を見ていたマチルダの言葉に、私は頷いた。

 

「いいね。ちょっと休んで、あとは止まらずに行こう。シティオブサウスゴータに入れれば何とかなる」

 

 それだけ言って、私は疲労を吐き出すように大きく息を吐いた。

 考えてみれば、今までの人生で一番ハードな一日だったように思う。

 

 

 

 

 

 

 

**************************************************************************

 

 

 

 

 

夜通し突っ走って、私たちは滑り込みで才人の窮地に間に合った。

 

 

『ディルムッド、才人は!?』

 

『間に合いました。深手を負っておりますが、生きております』

 

『良かった、間に合ったかい。そのまま牽制頼むよ』

 

『お任せを』

 

 念話をしながらも、ディルムッドの怒気がびりびりと伝わって来る。ただでさえ情に厚い男だ、今の心情はさぞ凄まじい物だろう。

 

 

「俺の弟子が、ずいぶん世話になったようだな」

 

 静かな怒りをそのまま言葉に乗せ、神聖アルビオンの軍勢と対峙する槍兵。

 風切音を立てて槍を一旋し、その切先を突き付けて鋭い眼光そのままの言葉を高らかに宣う。

 

「今この時より、トリステイン王国の勇者サイト・ヒラガに成り代わり、この槍が貴公らの相手を致す」

 

 取り囲む軍勢も一斉に杖を構えるが、周囲の兵たちはその地響きを起こしそうな鬼気に完全に飲まれている。

 

「覚悟しろ。一人たりとも、歩いては帰さん」

 

 その声を引き金に、包囲戦再びの勢いで魔法が放たれる。兵たちの恐怖も上乗せとなって、それは滝のような攻撃だった。

 しかし、当たらない。

 槍で防ぐまでもない。『風を踏んで走る』事すら可能な彼の踏込みは、ガンダールヴすら及ばぬ速さを持つ。一瞬で包囲網までの突入を許したあとは、一方的な蹂躙劇となった。槍が奔り、一瞬で兵たちの隊列が壊乱していく。人間については殺さぬよう命じてあるが、怒れる彼の一撃を受けた兵たちは半死半生の有様だろう。唸りを上げる剛槍の一振りで、兵隊たちが塵のように吹き飛び、本能のままに突撃したオーク鬼がその突きを食らって肉片となって降り注ぐ様を見て、敵の前衛は完全にパニックに陥った。

 

 

 程よい混乱具合の中、包囲に空いた穴を突いてテファが手綱を握る馬車で一気に才人のところまで肉薄する。大軍の真ん中に飛び込むのだ、なかなかに度胸が要る。才人が台風に飛び込むようなものだと言っていたのがよく判る。

 私は荷台から身を乗り出しながら、倒れ伏す才人に狙いを定めてレビテーションをかけた。

 馬車を止めることなく、ふわりと浮いた才人を馬荷台に引き込むと、タイミングを計ってテファが馬首を返す。

 

「すまねえ娘っ子!」

 

「挨拶は生きて帰ってからにおし!」

 

 デルフの声を受け流しながら、周囲に目を向ける。

 さすがは軍隊。早くも私たちに対処すべく兵が展開を始めている。士気や統制はガタガタだろうに、さすがは名将ホーキンス。

 離脱しようとする私たちだが、馬車よりも単騎の方がどうしても速い。数秒後には馬車ごと魔法で滅多打ちだろう。そんな様子を見ながら、隣で意識を集中しているマチルダに声をかける。

 

「マチルダ、頃合いだよ!」

 

「はいよ」

 

 長い詠唱の最終章が終わり、マチルダの双眸が鋭く輝いた。

 

「行けっ!」

 

 叫ぶと同時に、杖を大地に向かって振り下ろした。

 この時、私はマチルダという土メイジの実力を、本当の意味で目の当たりにすることになる。

 

 

 

 

 神聖アルビオンの兵にとって、恐らく今日は人生でも屈指の厄日だったことだろう。

 勝ち戦と思って暢気に行軍をしていたところに、黒髪の剣士が襲って来て大暴れをした。それをようやく退けたと思ったら、今度は同じく黒髪の槍兵が襲って来て、剣士の襲撃すら霞む勢いで軍勢をなぎ倒し始めた。仕上げに現れたのがちょっとあり得ないくらい巨大なゴーレムとくれば、もはや戦う気力も起こらないことだろう。

 

 土魔法『クリエイト・ゴーレム』

 

 マチルダのゴーレムは大きかった。その大きさは、およそ30メートル。原作通りの大きさだが、実際にはもっと大きく感じる。通常なら20メートルがせいぜいのゴーレムなのに、このでかさは何なんだろう。

 

「さあ、うちのアルバイトを可愛がってくれた礼をしてやろうかねえ」

 

 瘴気を纏った黒い声。この時、私は初めてマチルダが滅茶苦茶怒っていることに気づいた。夏の間、同じテーブルで食事を共にした間柄以上に、雇用主とアルバイトの間ゆえの絆も両者の間にはあるのだろう。

 馬車に向かって追いすがってくる騎馬隊に、マチルダのゴーレムが地響きを立てて突進する。

 そのゴーレムからの石礫を食らって悲鳴を上げて落馬していく騎馬隊の諸君。すまんね、うちの姉は手加減が下手で。

 マチルダのゴーレムの出現を見て、対抗のためにゴーレムが幾つも湧いて出る。ゴーレムの最大の武器はその質量だが、一般的な戦闘用ゴーレムたちとマチルダのゴーレムとの身長差は1.5倍。質量は単純計算で3倍以上だ。あまりに大きさが違うのでゴーレム同士の戦いでは喧嘩にならない。まるでヘビー級とフライ級のボクシングだ。パンチ一発で破壊されていく神聖アルビオンのゴーレムたち。強い、というより強すぎる。学院襲撃の時に見せたという、殴る瞬間に拳を鋼鉄と化す鉄拳パンチは私も初めて見る。

 マチルダ・オブ・サウスゴータ。私が知る歴史では『土くれのフーケ』として恐れられた天才的な土メイジ。その実力のすさまじさに、私もテファも唖然としていた。ガチでやったら私でも勝てる気がしない。

 この作戦を提言したのは彼女だ。私とディルムッドだけでは、敵を崩しても才人を奪って逃げることは難しい。やるとなった場合、ディルムッドに不本意な流血を命じなければならなかっただろう。屍山血河を築き、才人が積み上げた不殺の名誉を踏みにじりながらだ。それでもなお、馬を扱えない私が無事に逃げおおせられる可能性は低い。かといって、馬車を走らせても追いつかれてしまう。そこで生きてくるのがマチルダの存在だ。殿にゴーレムを置くことで全員の生還を可能にする一手。それが思惑通りに嵌りつつあった。思惑通りと言うか、怒り狂った工房組二人の暴れっぷりを見ていると、そのまま神聖アルビオン軍が壊滅しそうな勢いだ。神聖アルビオンの将兵諸氏も、さぞ迷惑なことだろう。

 

『ディルムッド、張り切りすぎるんじゃないよ。適当なところで切り上げておいで』

 

『心得ました。いささか不本意ではありますが』

 

 そんな会話をしていると、彼方で兵隊が派手に縦回転しながら飛んでいく様が見えた。ちゃんと手加減してるんだろうね、あいつも。

 

 才人が死んでいたら私もディルムッドを止めなかっただろうが、今は才人の命を救う方が先決だ。弟子が可愛いのは判るが、ここは冷静になってもらわないと困る。 

 以前、才人の持つ奇妙な魅力について考えたことがあったが、この二人もまた、彼のその力に引きつけられているのかも知れない。

 

 そんな感じに、混乱に陥る敵軍と徐々に距離を取っていく。

 状況は落ち着きつつある。ホーキンスは私が知る限りでは優秀な将軍だ、私たちみたいな小勢を、そうそう大部隊で追いかけるようなことはするまい。

 

 

 

 さて、ここからは私の仕事だ。

 揺れる馬車の中、才人の衣類を剥いで傷を確認する。

 全身血まみれの傷だらけ。ひどいありさまだ。まさにめった刺し。内臓に到達している傷も少なくない。

 本格的な手術は馬車を止めてからになるが、困ったことにどうにも傷が深い。心臓は無事だが傷箇所は広範囲に及ぶ。内臓のダメージもざっとスキャンしただけでも肝臓、消化器、腎臓等々。

 ショック死しなかっただけでも僥倖と言う感じだ。

 ふんだんに使える秘薬を惜しげもなく使い、応急で止血を優先する。

 

「頼むぜ、助けてやってくれ」

 

「だったら、こいつに呼びかけてやっておくれ。耳元で怒鳴ってくれることも効果があるんだよ」

 

「判った。おい相棒、起きろ、起きやがれ!」

 

 必死に叫ぶデルフを他所に、私はひたすら手を動かし続ける。

 点滴のラインをさらに増やし、手足からの出血について猫バッグから圧迫帯を取り出してきりきりと締め上げておく。

 まずは一番危険な胸部の刺創から。

 ブレイドのルーンを唱え、切開を始める。

 少年よ、もうちょっとだけ頑張れ。私も頑張る。

 必死に心の中で語りかけながら、揺れる車内で処置を続けた。

 

 

 

 戦線から離脱した後、私たちが飛び込んだ先はウエストウッドの森の中だった。派手に追撃されたら大ごとだったが、いかんせん敵も大混乱に陥っていたので予想したより追っ手は少なかった。ドラゴンライダーが数匹追ってきたが、いずれもディルムッドが撃墜している。陸路の方はマチルダのゴーレムが効いたのか、追っ手の蹄の音は聞こえてこなかった。

 

 そこからどうするかについては、当面はシティオブサウスゴータを目指すことで考えていた。敵の行軍と逆の方向に進む形なので敵の懐深くに入るようにも見えるが、恐らくこの戦いの終盤のロサイスで、ガリアの突然の砲撃によってクロムウェルが鬼籍に入ることだろうから、その時点で神聖アルビオンは勢力として死ぬはず。新手と遭遇する機会はないと踏んだ。その前提では、下手に逃げるよりシティオブサウスゴータの4万の市民に紛れ込むのが良策だと私は考え、森の中を大きく迂回する形で裏街道を進んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

**************************************************************************

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マチルダが言う通り、程なく川に差し掛かった。このままこの川を辿って行けば、シティオブサウスゴータに辿りつくだろう。

 馬を休ませながら、私たちも簡単に食事を摂る。眠っていないので、正直食欲はない。

 それでも食べないと本当に体が持たなくなるので無理矢理にでも胃に入れておく。携行食を水で流し込むような味気ない食事だ。

 ディルムッドが視線をあげたのはその時だった。

 

「誰か来ます」

 

「敵かい?」

 

「警戒している足音ではありません。恐らくは軍から落伍した者かと」

 

「敗残兵かな」

 

 ディルムッドは立ち上がり、足音の方向に槍を向ける。

 

「そこで止まれ」

 

 ディルムッドの声に、足音が止まった。

 

「何者だ。神聖アルビオンか、連合軍か」

 

「いずれでもない」

 

 聞こえてきたのは、歳をとった男の声だった。はて、どこかで聞いたことがある声のような……。

 

「敵意はない。怪我をしている。できれば川の水を飲ませて欲しいのだが」

 

 再び足音が聞こえ、月明かりの中にその姿が現れる。

 それは、酷い傷を負った一人の老兵だった。

 くたびれ果ててはいたが、白い髭を蓄えた老紳士。

 その姿を見た時、私は一瞬絶句した。

 

「パリー?」

 

 それは、見覚えのある爺の姿だった。

 好々爺そのままの爺の顔が、月明かりの下で立ちあがった私を見て驚き一色に染まる。

 

「ま、まさか……殿下?」

 

 その声を聞き、私は爺に駆け寄った。ぼろぼろになったマントの下に鎖帷子を着込み、手には軍杖。

 

「これは……夢でしょうか。死にかけたこの身が、今際の際に見ている夢のようです」

 

 震える声を出す爺の手を取って私は喜んだ。

 

「私は本物だよ。パリー、よくぞ無事で」

 

 伯父上と共に死んでいることすら予想した爺の無事に、正直泣きたいほど嬉しかった。

 ディルムッドに指示してパリーに肩を貸してもらい、腰を下ろしたところで秘薬を持ち出して彼に治療を施す。

 その間に、マチルダとテファに頼んで食べ物と水を用意してもらう。

 アルビオン王国の臣下に対し、マチルダなりに思うところはあるかも知れないが、ここは我慢して欲しい。

 そんな事を思いながらマチルダに視線を向けると、

 

「それはそれ、これはこれ。今のこの人は、あんたの患者だろ」

 

 と切り返してきた。ちょっとだけ泣きそうになった。

 

 思ったより重傷なパリーだが、治療をすれば傷そのものは命に係わるほどのものではない。年齢が年齢なので心配ではあるが、安静にしていれば大丈夫だろう。

 一段落して、パリーに話を聞く。

 

「ところで、どうしたんだね、こんなところで」

 

 夜の森をうろついている辺り、私たちも人のことは言えないが。

 

「この戦いで、我々アルビオン王党派は現地の連絡や諜報に従事しておったのですが、大勢も決し、新年と共に殿下の御発声で、シティオブサウスゴータで正式にアルビオン王国復興を宣言することになっておったのです。ですが……」

 

 ウェールズ殿下健在の情報に、私は拳を握りかけた。

 

「その矢先にあの騒ぎかい」

 

「殿下は即座に兵をまとめ、森に退きました。その途中で敵の追撃を受け、私の隊は別働隊として殿下とは別れました。しかし……追っ手の数が多く、部下たちは……」

 

「泣くな。爺が生きていてくれただけでも、私は嬉しい。それで、殿下はいかがされた?」

 

 私が敵か味方かも判らないだろうに、無条件で信用してくれているのかパリーは素直に話してくれた。

 

「連合軍が瓦解した以上、もはや王党派の命運もこれまでです。恐らくはシティオブサウスゴータで敵の後続相手に死に花を咲かせる御所存かと」

 

「早まったことを。アルビオンの王権をどうするおつもりなのか」

 

 私は声を荒げてしまった。伯父上が命を懸けて守ったものをそんなふうに簡単に手放してしまうなど、私に怒りを覚える資格はないとしても受け入れがたいものだった。

 しかし、パリーは首を振って大切そうに抱えていたものを取り出した。

 

「例え王党派が倒れても、アルビオン王家の栄誉は残ります。そして私の使命は、これをトリステインにおわす殿下にお届けすることでした」

 

 箱を開け、中から出て来たものを見てテファが息を飲んだ。

 ……こらこら、そんな御大層なものをこんなところで開帳しちゃまずいよ、パリー。 

 古ぼけた、オルゴール。

 ボロボロで、傷だらけ。しかし、事の次第を知っている者であれば、その曰くという名の装飾故に冷や汗をかくことだろう。ひとたび奪い合いになれば、数百の単位で人が死にかねない代物だ。

 さすがに私も口の中が乾いてしまった。そんなもん、持って来られても困る。

 

「どうかお納めを」

 

 何だか導火線に火が付いたダイナマイトを差し出された気分だ。差し出すその手を、私は制して言った。

 

「それはまだ受け取れないよ」

 

「殿下?」

 

「ウェールズ殿下は、まだ御存命なのだろう。ならば、彼が本懐を遂げられたことをこの目で見ない限り、私はそれを受け取るつもりはない」

 

 これはただのオルゴールではない。アルビオンという国の王権そのものが形になった宝物だ。

 それには、国自体が業のように抱えるあらゆる問題が蔓のように絡み付いている。子供の玩具のように渡されても、はいそうですかと受け取る訳にはいかない。受け取るからには、こちらにも覚悟という名の心の準備が要る。

 無論、心の底から私はそれを受け取りたくない。人にはそれぞれ器と言うものがあることくらい、私だって知っている。私みたいな口より先に手が出る右ストレートな性格の女が女王になるなど、アルビオン国民にとっては迷惑以外の何物でもあるまい。

 

「それで、ウェールズ殿下は今はシティオブサウスゴータ周辺におられるのか?」

 

「はい。敵本隊が通過後に通るであろう、輜重段列を狙うよう方針を固められました」

 

「補給部隊を?」

 

 逃げる連合軍を猛追する神聖アルビオン。逃げる敵ほど討ち取りやすいものはない。それだけに、神聖アルビオンは手持ちの糧秣・弾薬だけで全速で敵を追っているはずだ。原作の描写にも予想以上に進軍が早いとあったのは、恐らくこのためだと思う。状況と距離を考えると、自然、輜重は後追いになるだろう。

 そこに、才人の活躍で稼げた1日と言うブランクが生じている。これについて、ホーキンスがどう考えるか。

 才人の妨害がなかったら躊躇わずに進軍しただろうが、状況を見ると、追い詰められた連合軍がロサイスを城として籠城戦を選択する可能性も考えられなくもない。

 数に勝るとはいえ、連合軍は3万に対して神聖アルビオン7万。1日と言う時間で連合軍が再編と陣地を固めた場合、そう簡単には駆逐できない可能性を考えるように思う。一度構築しているだけに陣の再建は早いだろうし、喪失した重装備については最強の浮き砲台である戦列艦というカードで補うこともできるだろう。攻者三倍の要件を満たしていないこと、そして戦列艦の火力の前では、逆に数的優位に基づく神聖アルビオンの優勢が覆される可能性もあるように思う。しかも、敵の背後は空であり、制空権を握られているからには理屈の上では補給はしたい放題だ。

 連合軍の状態に関する詳細な情報が入っていれば籠城の気配がないことが判るだろうが、状況は急戦だ。充分な情報を集める時間的余裕はなかっただろう。1日と言う時間を連合軍に与えてしまったからには、偵察にそれなりに手間と時間をかけるだろう。

 連合軍が籠城を選択した場合、展開は補給勝負になる。ホーキンスも保険のために当然ロンディニウムに補給の要請を行うだろう。

 尻に帆をかけて逃げ出す連合軍の状況を知っている私ならともかく、状況を知らないウェールズ殿下がその輜重段列を叩くというのも自然な成り行きかも知れない。

 しかし、一国の王子が捨石のような戦いで命を落とすというのも、何とも虚しい最期のような気がしないでもない。

 何より、私としては彼の名誉はともかく、彼にはそう簡単に死んでもらう訳にはいかないのだ。場合によっては力ずくで殿下の短気を諌めることも辞さないつもりだ。

 いずれにしろ、状況は確認できた。話し終わると同時に、私たちはシティオブサウスゴータ目指して出発した。

 

 

 

 夜明けとともに私たちは森を抜け、シティオブサウスゴータが見えるところに出た。

 街に近づくにつれ、仄かに焼けた匂いが漂ってくる。

 きな臭い空気の向こう。戦塵と言うわけではないが、微かに煙るシティオブサウスゴータが見える。

 思ったより早く輜重段列と接触したのだろうか。ディルムッドを偵察に出し、様子を見る。

 

 曙光が差し始めたあたりで、ディルムッドから念話が入る。

 

『戦闘は既に終わっております』

 

『脅威はないと言うことでいいかい?』

 

『恐らくは。しかし、おびただしい数の死傷者がおります』

 

 

 

 シティオブサウスゴータに入ると、至る所に死体が転がっていた。神聖アルビオンの兵もいれば、民兵のような者もいる。恐らく王党派だろう。

 その地獄絵図に、私は息を飲んだ。

 これが、戦場。

 そこは、あらゆるモラルが破壊された、人の世界ならざる地獄だった。

 苦悶の唸り声をあげる兵たち。

 物言わぬ、かつて人だった蛋白質の塊。中には、原型を留めていない物も少なからずある。

 一度見れば、幾度となく夢に見そうな光景だ。

 口の中に感じる苦いものを我慢して、パリーに話しかける。

 

「パリー、どう見る?」

 

「はい、かなりの規模の戦闘があったものと思われます」

 

 道の端々で、火をかけられて炎上した物資がまだ煙を上げていた。

 

「殿下が御無事であればよいのですが……」

 

 そのまま馬車を進め、中央広場に付いた時だった。

 

「止まれ!」

 

 出し抜けに数名の男が杖を構えて馬車の前に立ち塞がった。風体は民兵風。恐らく殿下の手の者だろう。

 

「こんな早朝に何者だ」

 

 それはこっちの台詞だ。言い返そうとしたところで、パリーが私を制して御者台に出て来た。

 

「私だ。この方たちに助けていただいたのだ」

 

 

 

 中央広場は、王党派の兵たちによって制圧されていた。

 ゲリラであればこのような制圧行動には出ないはずなのだが、何か意図があるのかも知れない。

 パリーが主だった面々と話し合いをしている間、私たちはその輪から外れて街の状況を見ていた。ここでもまた、神聖アルビオンと王党派双方の死傷者があたり一面に転がっていた。周辺では家も数軒焼けており、民間人にも犠牲者が出ているようだ。

 ここでは、ひたすら人は平等だ。誰であっても、死神の鎌は等しく振られるということが理解できる。

 やや時間が経ったように見える死体は、恐らく反乱騒動の時の連合軍のものだろう。攻略戦から今に至るまで、その短期間にどれほどの血がこの街の地面に注がれたのやら。

 

「殿下」

 

 そんな様子を眺めていたら、パリーに呼ばれたので振り返る。

 

「こちらへ」

 

 案内されて出向いた先は、敵から接収したらしい天幕だ。周囲に兵が立っているところを見ると、ここが大本営か。

 促されて中に入ると、心底驚いた感じの若い青年の声が聞こえた。

 

「ヴィクトリア?」

 

 天幕の中で、血まみれで椅子に座っている青年が目を丸くして驚いていた。

 昔日の面影が、その顔にある。

 

「御無沙汰しております、ウェールズ殿下」

 

「驚いたな。まさかここで君に会えるとは。あるいは、夢を見ているのかな。都合のいい夢を」

 

 パリーと同じようなことを言いながら、殿下も私の登場に驚いていた。私とて幽霊ではないので足はある。

 そんな殿下だが、顔色と衣類に付いた血を見るに、かなり酷い怪我を負っているようだ。

 

「お怪我を?」

 

「敵の補給部隊を襲ったのだが、思ったより警護の連中が手ごわくてね。付いてきてくれた部下もたくさん死なせてしまった」

 

「無茶なことを」

 

 かく言う殿下自身もかなりの重傷だろうに。血も、未だに止まっていないだろう。

 

「治療師は?」

 

 殿下は首を振った。

 

「かなりの者が倒れてね。水のメイジも全滅した」

 

 なるほど、外の負傷者が手つかずだったのも頷ける。三次救急の、まさにすぐにでも治療を施さないと死んでしまう者ばかりなのに、この人たちでは手の施しようがないのだ。

 ここは戦場。魂が一山幾らで取引される悪魔たちの御狩場だ。

 ウェールズ殿下は、荒い息遣いで私に言った。

 

「ヴィクトリア、せっかく来てもらえたのは嬉しいが、一刻も早くどこかに身を隠して欲しい。次に敵が来た時、私たちは全力で最期の攻撃を行うつもりなのだ」

 

「勝ち目のない戦いをされるというのですか? その傷では突撃もできないでしょう」

 

 私の言葉に、殿下は笑って傍らにある大きな樽を指した。恐らく中身は火の秘薬だろう。

 

「勝てるかどうかは、あまり問題ではないのだ。そこに、アルビオン王家の誇りがあるかどうかが重要なのだ」

 

 ニューカッスルの攻防戦でも、そう言ってアンリエッタの手紙を心の中に仕舞い込んだ殿下だ。ここで何を言っても意味はないだろう。

 

「だから、パリーに預けたオルゴールを受け取って、できるだけ早く逃げて欲しい。戦後がどうなるか判らないが、しばらくすればトリステインに渡ることもできるだろう。君がアルビオンにいることはレコン・キスタも知らないはずだから、狩り立てられることもないだろう」

 

 そんな殿下の言葉を聞きながら、私は考え込んだ。

 さて、どうしたものか。

 私はクロムウェルが爆殺されることを知っている。時間のずれなどがあったらアウトだが、現状を見る範囲では、この地が蹂躙される可能性はまずないはずだ。

 そんなことも知らず、やがて来る破滅の時を恋い焦がれる殿下と、それに引きずられる将兵の思惑が空振りに終わる傍ら、少なくない人が無為に命を落としていくと言うのはいささか受け入れがたい物がある。

 

「厄介事を押し付けるようですまないが、アルビオンを君に頼みたい。最期に……君に会えてよかった」

 

 そんなことを無責任に呟くと、ウェールズ殿下は疲れたように静かに目を閉じた。

 慌てて殿下に取りついてバイタルを確認する。失血に伴う意識混濁と頻脈。ちょっとどころではなく、やばい。気の毒だが、このままでは戦死するより先にお迎えが来てしまうだろう。

 アルビオン王国王位継承者。そして、私の従兄。だが、今は傷つき、疲れ切った一人の男性に過ぎない彼。

 そんな彼を診ているうちに、悩んでいる自分がおかしくなってちょっとだけ笑った。

 

 悩むことはないのだ。

 

 私は天才でも英雄でもなければチートな力を持った異能者でもない。

 選ばれた者などでは断じてない、前世の記憶を持っているだけの普通の小娘だ。

 だが、私は医者なのだ。

 死と言う、神が定めた摂理に対する反逆者なのだ。

 浅学で、矮小で、無力ではあっても、私にも信じるものがあるのだ。

 忘れてはならない。

 己の手にある、一本の青い水晶の杖が何なのか。

 これは五つの力を司るペンタゴンに彩られた杖と言うだけではない。

 これは同時に、無限の新生を意味する一匹の蛇に支えられし医術の杖のはずなのだ。 

 私は両手で一つ、頬を叩いた。

 目の前で苦しそうな息を吐いている彼は、アルビオン王国王位継承者でも、私の従兄でもない。

 ただの傷ついた患者だ。

 そこに患者がいるのなら、この天と地の狭間のどこに行っても私がやることは変わりはない。

 変わってはならない。

 

 私は天幕を飛出し、そこに控えていたパリーに声をかける。ここから先は少々のはったりも必要だ。

 

「パリー。ウェールズ殿下は重傷だ。指揮を取れる状態にない。勝手ではあるけど、今だけ私が殿下に成り代わってあのオルゴールの所持者になる。いいね?」

 

「……何ですと?」

 

「その立場として頼むよ。動ける兵を全部集めておくれ。どれほどのことができるかは判らないが、これ以上死者を出したくない」

 

 正直、私自身も魔法は幾らも使えないだろう。しかし、私だからこそ打てる手がある。会話をしながら、私は半ば自動的にこれからに関するプランを練り始めていた。

 

「しかし、いつ敵が来るか……」

 

 不安に顔を歪ませるパリーだが、神聖アルビオンの命脈が既に尽きていることを、私は知っている。

 

「安心おし、敵襲はないよ。それに、死に花も結構だが、死んでは花実が咲かぬのも道理さ。とにかく、この場限りではあるがアルビオン王国の王権は私がお預かりする。故に、これは王としての命令と思って欲しい。時が惜しい。急いでおくれ」

 

 それだけ言い捨てて私は走り出し、広場で待っている身内三人に声をかける。

 

「手伝っておくれ。ちょっと大仕事なんだ」

 

 

 

 

 飛び込んだのは、街外れの寺院だ。

 両手で扉を開くと、中では避難してきた街の住人たちを相手に、老いた坊さんが役にも立たないありがたい説教をしていた。

 

「なんですか、お嬢さん」

 

「ここを使わせていただきたい」

 

「なんですと?」

 

「始祖の子らの治療のために、この御堂を使わせてもらいたいと言っておるのです」

 

「な、何を馬鹿な」

 

「お説教は後でいくらでも頂戴します。さあ、動ける人は参列席を外に運び出しておくれ。人助けだ、ここに怪我人を集めるんだよ」

 

 手を打ち鳴らして、呆気にとられている住民たちを追い立てる。

 

 

 そこから先は大騒ぎだった。

 兵隊と手すきの男連中を集めて、片っぱしから怪我人を寺院に集めるように指示を飛ばす。兵も民間人も関係なく、神聖アルビオンも連合軍も区別しない。治療が必要な者は全員だ。我が杖の下、人に貴賤はない。身分も、所属も、例えそれがエルフであっても、そんなものは後で考えればいいことだ。

 街のご婦人連中は、テファの指示のもとで看護の手伝いだ。ついでに、昏睡中の才人の面倒もお願いしておく。今の状態なら、恐らくしばらくは大丈夫なはずだ。

 マチルダには、不足している器具の調達をお願いする。特に縫合糸の確保に関しては彼女だけが頼りだ。

 最初はおっかなびっくりだった民間人たちだが、強く言えば従うのが人の本能。混乱時においては、より強い物言いで上下関係を最初に確定させることが重要だ。

 

 私の方は、まずは集まる怪我人の仕分けだ。

 王党派も神聖アルビオン軍も連合軍も民間人も関係なく一同に並んだ患者に対し、外傷初期診療ガイドラインに基づく診断を下し、生涯やらずに済めばと思っていたことに着手する。

 識別救急。すなわち、トリアージだ。

 患者の様子を見て、手の甲に消し炭で印をつける。

 識別は4段階。状態の悪い順に〇、△、□。そして、助からない者には×を付ける。

 さすがに、×をつける時は心が震える。それでも、付けなければ助けられる人も助けられない。

 

「テファ」

 

 私が呼ぶと、婦人たちに指示を出していたテファが振り向いた。

 

「△を付けた患者の、傷の処置を頼むよ」

 

「え?」

 

 一瞬、キョトンとした顔をするテファ。

 

「練習してきた縫合術、ここでやってごらん」

 

「で、でも」

 

 いきなりなことに、さすがにテファも狼狽した。

 

「誰にだって最初はある。さすがにそこまでは私は対応できないんだ。やらなきゃこの人たちが死んでいく。テファ、お前が助けるんだ。いいね」

 

 厳しいようだが、このレベルまで私一人では診られない。どうしても協力は必要なのだ。

 そして、それに応えてくれるのが、私が知る、私が信じているティファニアと言う女の子なのだ。

 決意の光あふれる目を私に向けて頷く。

 

「うん。やってみる」

 

「頼んだよ」

 

 それだけ告げて、私は私の戦場に赴く。

 御堂の中に並んだ重傷患者の数、およそ30人。誰も酷い有様だ。ブラック・ジャック先生ならともかく、一介の救急医だった私にどこまでできるやら。だが、格好を付けた以上は、そのツケは払わねばならない。悩む時間も惜しい。対処は一刻を争うのだ。

 最初の患者は奇遇にもウェールズ殿下だ。風のトライアングルのくせに、一体何本矢を食らっているんだこの人は。それだけ激しい戦闘だったのだろう。一番厳しいのは肝臓だ。出血が黒い。かなり傷が深いので、切開して傷を塞いでいく。

 処置が終わったら次の患者。今度は切創から腸が腹圧ではみ出ている患者だ。腸自体の傷を処置した後、ある程度適当に押し込んでおけば、後は腸は勝手に定位置に戻る。

 幾ら私がスクウェアでも、これだけの数の患者に治癒魔法をかけてはいられない。ましてろくに休まずに才人やパリーの治療をしてきているので精神力だって空っぽだ。

 しかし、魔法や秘薬に頼らずとも、医療行為は実践できる。それこそが、私が持つ最大のアドバンテージ。

 すなわち、前世の医療の知識だ。

 魔法の使用は最小限にとどめ、可能な限り一般的な治療で救命措置を重ねていく。振るうのは、この世界では誰も知らない、魔法なき前世の世界で磨き上げられた救命医療の技術だ。

 幸いにもまだ秘薬も充分にある。それだけでも前世の紛争地域の病院よりは恵まれている方だろう。

 致命的な個所を切り開き、最低限の処置をして秘薬を注いで縫合することをひたすら続ける。今すぐ死ななければ、未来にバトンを繋ぐことができる。ロサイスでの神聖アルビオンの滅亡が成っていれば、神聖アルビオンの全軍は、恐らく仰ぐべき旗を失ってロンディニウムに引き上げてくるだろう。その連中に助けを求めるというのが唯一の命綱だ。協力が得られなかったら、脅してでも言うことを聞かせるまで。その時はこの世界で一番おっかない槍兵の出番だ。才人救出の際に暴れ足りなかった鬱憤も溜まっていることだろうし、口で言って判ってくれなかったら肉体言語で理解してもらうことにしようと思う。

 今はひたすら急ぐ。縫合にも魔法は使えないので昔ながらの糸による縫合を施さなければならない。

 テファに対してさんざんダメ出しをして来た私だ、縫合術で後れを取る訳にはいかない。縫合糸については、診療院にいる時からいつもマチルダの錬金頼みだ。絹糸などで縫合すると拒絶反応が出るので、一般的な縫製用の糸を変質させてキチン質のそれに近い性質を持つ糸を作ってもらっている。この辺の細かい錬金においては、マチルダの右に出る者はいない。今回はそれの大量発注だ。

 一人が終わればその次。その次が終わればまたその次と、患者のわんこそばのようだ。その間にも怪我人が運ばれて来て、その度に状態を判断して仕分けていく。 

 しかし、いくら技術を尽くして治療しても、指の間から水が漏れるように命が零れ落ちていく。

 処置中に、既に5人が死亡した。最善を尽くしても救えない。それが彼らの天命だったと諦めてもらうしかない。悼みはするが、今は生きている人の方が大事だ。めげずに治療を続けなければならない。

 両手を全開で動かしていると、集中力が高くなりすぎて神経が焼き切れそうだった。エンジンで言えば回転計がレッドゾーンに入るくらい己を振り回さなければ患者の物量に追いつかない。

 

 

 

 そんな限界ギリギリの治療をしながら6時間ほどが過ぎる。捌く患者と運び込まれる患者の数が拮抗してちっとも患者が減らない。時間の経過によって△が〇に上場されるケースが目立つ。テファも頑張っているのだろうが、予期せぬ急変は現場では付き物だから仕方がない。一体何人診たか判らなくなってくるありさまだった。

 こうなってくると、私が抱えるハンデが顔を出す。

 未成熟な私の体が、悲鳴を上げていた。そもそも子供の体力では、2日半の不眠不休の徹夜作業は無理があるのだ。この時ばかりは、時が止まった己の体が恨めしかった。

 前世の研修医時代、最長で4日の連続勤務をこなしたことだってある。その時だってきつかったが、今はそれに倍する疲労感が全身にのしかかってきている。

 考えてみれば、パイロットだって4日連続でフライトするなんて無茶なことはしない。それなのに、同じように命を預かるはずの医者や看護師がそんな過酷な状況で何一つミスをするなと言うのは結構厳しいと思う。それでも、些細なミスでもすぐに訴訟に発展したのが私がいた世界だった。ずいぶんな話だとは思う。そうは言っても、頼れる者が私しかいなくて、私がやらねばその人が死ぬということであれば、そんな愚痴は言っていられない。それだけに、平気でコンビニ受診をするような連中には大いに憤っていた記憶がある。真夜中に、キャンプしていて外で寝ていたら蚊に刺されまくって『ぼこぼこに腫れて痒いので診てください』とか言ってきた阿呆もいたっけ。あの時ばかりは先っぽにキンカン塗ってやろうかと思ったさ。

 そんなことを思いつつも、押し寄せて来る猛烈な吐き気がそろそろ限界まで来ていた。

 気合を入れて何とかしようにも、気力とて、最後にそれを支えるのは体力だ。

 このままでは下手したら、私の方が患者の仲間入りだ。だが、休憩を取ろうにも私が休んでいる間に人が死んでいくかと思うと、おちおち休むわけにもいかない。

 力が欲しい。もう少しだけ、頑張れる力が。

 無酸素運動の真っ最中に、たった一呼吸だけ息継ぎがしたいと思う心境で私は治療を続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夕方、シティオブサウスゴータに一人の男が馬に乗ってやって来た。

 周囲を兵に囲まれ、堂々としながらも、その身には杖もマントもない。

 男の名はホーキンス。

 神聖アルビオン軍の指揮官だった男である。ロサイスで連合軍を取り逃がしたことを問題視され、クロムウェルによって更迭されてロンディニウムに護送されているところであった。

 

「何だあれは?」

 

 ふと向けた先に、一本の旗竿に奇妙な旗がなびいていた。

 シーツを思われる白い布地に、血のように赤い十字が描かれている。

 

「何の旗だ?」

 

「さあ、判りかねます」

 

 隣に控える護送隊の隊長が肩をすくめた。

 地位を奪われたとはいえ、それなりの態度は示される立場にホーキンズはいた。

 見ると、旗の向こうの広場に幾つも天幕が張らている。中には負傷者が横たわっており、その周囲を多くの女性が動き回っていた。

 

「野戦病院のようですが」

 

「ちょっと様子を見て来てくれんか」

 

 ホーキンスが隊長に告げた時である。

 

「健康な兵士がここに何用か」

 

「何奴?」

 

 見ると、旗のところに一人の長身の男が槍を片手に立っていた。

 

「ここは我が主の支配する病院。患者と、それを癒す者だけが立ち入れる場所だ。軍靴で踏み入ることは御遠慮いただきたい」

 

「無礼な」

 

 いきりたつ隊長をホーキンズが宥める。

 

「ここはどこの勢力の野戦病院か?」

 

「いずれの勢力にも属しておらぬ。それ故に、勢力を問わず、すべての患者を受け入れている」

 

「どういうことだ?」

 

「か、閣下……あれを」

 

 隊長が指差す先にあるものを見て、ホーキンズは目を疑った。神聖アルビオンの軍装を着た者の隣に、王党派と思しき者が身を横たえている。

 

「何をしているのだ、あの者たちは? 何故アルビオン兵が王党派と一緒に治療を受けているのだ」

 

「この赤い十字の旗の下には、神聖アルビオンも王党派もトリステインもゲルマニアもない。患者と、それを癒す者がいるだけだ」

 

「患者……」

 

「『切って痛いと言う者が癒しを求めているのであれば、誰であれ自分の患者』と言うのが我が主の言葉。お判りいただけたらお引き取り願おう」

 

「貴様、平民の分際で……」

 

 杖を抜こうとした隊長の喉元に、赤い槍が突きつけられる。

 

「荒事を所望とあらばお相手致す。命を取るとは言わぬが、後ろの彼らと枕を並べることになることは覚悟してもらおう」

 

「まあ、待て。事を荒立てるつもりはない」

 

 それだけ言うと、ホーキンスは馬から降りた。

 さすがに隊長が顔を顰めた。

 

「閣下……困ります」

 

「少しだけだ。私の兵が世話になっている。一言礼を言っておきたい。私に邪心があると思ったときは、遠慮なく背中からでも杖を振るうがいい」

 

 それだけ言うと、ホーキンスはディルムッドのところに歩み寄った。

 

「私は、神聖アルビオン共和国のホーキンスと言う。かつて、そこに並んでいる者たちの将だった者だ。ここの代表者に会わせてもらいたい」

 

「主は御多忙の身。出来れば遠慮いただきたく思う」

 

「邪魔をするつもりはないが、そこを何とか頼みたい。アルビオンの軍人として、礼を失することはしたくないのだ。貴殿も一廉の武人と見受ける。理解してもらえると思うが」

 

「……伺いを立ててみよう。こちらに」

 

 ホーキンスと隊長、そして数名の兵が、その後に続いた。

 

 

 案内された寺院に行くと、一人の少女が懸命に治療に当たっている様子が見えた。

 

「主、少しよろしいでしょうか」

 

「ん? おや、どうしたね、その方々は?」

 

 手を動かしたまま、疲れ果てたような声で少女が応える。マスクをした少女の横顔に、ホーキンスは奇妙な既視感を覚えた。どこかで見たような記憶がある女の子だった。

 

「ご多忙のところ申し訳ありません。神聖アルビオンの将であった方をお連れ致しました。主に一言挨拶を、とのことです」

 

「それはご丁寧に」

 

 振り返った少女の顔色に、ホーキンスは絶句した。

 黒々とした目の下とやつれ果てた頬。分厚い疲労がこびりついた蝋のように白い顔だ。とても子供がするような顔ではない。

 

「ちょっと手が離せないのでこのまま失礼しますが、どなた様で?」

 

「神聖アルビオン共和国のホーキンスと申す。私の兵を助けてくれたのは貴公か?」

 

「助けた、というほどのことではありません。何より、まだまだ危ない患者も多いのです」

 

「不躾だが、貴公は王党派の治療師か?」

 

「所属はありません。故に、すべての患者を分け隔てなく診ています」

 

「しかし、この地で王党派の兵の治療をするなどとは、貴公もただではすまぬぞ」

 

「その時はその時。それでどんな目に遭ったとしても、医の杖の前には、思想や立場で物事を判断する基準はあってはならぬというのが私の方針でしてね」

 

「……危険な考えとしか言いようがないが」

 

「まあ、そう考えるのが自然でしょう。ですが、もし、あなたが相応のお立場の方なら、仮に神聖アルビオンの兵が王党派の治療師の治療を受けた嫌疑で糾弾されたとしても、できれば大目に見てもらえるよう取り計らってあげてください。彼らは充分戦いました。しばらくは休ませてあげて欲しいと思います」

 

「今は立場の無きこの身が言うのも憚られるが、我が軍に傷ついた兵を冷たく扱う法はない。心配はいらぬ」

 

「それは良かった。あはは」

 

 そう言って笑い出した少女の笑いが、徐々におかしな具合にボルテージを上げていく。それはやがて狂的な哄笑になり、何事かと見守る面々の前で、少女は嘔吐しながら白目を剥いた。

 器具をまき散らしながら崩れ落ちる少女をホーキンスが受け止め、槍兵が青くなってその身を受け取った。その小さな体を槍兵が抱え上げた時、その服のポケットから薬の小瓶が零れ落ちる。

 狼狽した声で人を呼ぶ槍兵に、幾人もが駆け寄って来た。中にはうら若い女性もおり、必死に少女に呼びかける。その『ヴィクトリア』という名を。

 

「ヴィクトリア……モード大公の、ご息女か」

 

 記憶の底にあった名前を探り当て、ホーキンスは呟いた。

 それは王家の系譜から抹消され、国外追放になっていたはずの王族であったはず。

 何故この場で、このような泥臭いことをしているのか理解ができなかった。

 慌ただしく運ばれていく少女を見送りながら落ちた小瓶を拾い上げ、ラベルを見てホーキンスは絶句した。そしてしばし考え込み、脇を固める随伴していた隊長に声をかけた。

 

「私に、縄を打て」

 

「何を?」

 

 ホーキンスくらいの人物になると、幾ら護送中としても縄目の恥辱を与えるようなことはありえない。

 

「君たちの使命は私をロンディニウムまで護送すること。だが、それに時間の制限は設けられておるまい。ならば、少しくらいの寄り道は許容範囲だろう。その代り、水の魔法が使える者に少しだけ、ここの手伝いをしてもらいたい。私は逃げも隠れもせぬ。縄は、その証のためのものだ」

 

 ホーキンスはそれだけ言うと、隊長に小瓶を渡した。その小瓶を見て、隊長もまた目を見開いた。

 興奮剤。劇薬に分類されるものであった。

 隊長もまたしばし考え、そして口を開いた。

 

「残念ですが、任務は任務。そのような申し出はお受けできません」

 

 それだけ言うと、隊長は付いて来た兵に命令を出した。

 

「これより、ここで大休止とする。全員、中央広場に集合。水のメイジは一隊を組織してこの場を引き継ぎ、治療に当たれ」

 

 真面目な表情を崩そうともしない隊長に対し、ホーキンスは言った。

 

「すまんな」

 

「あのような少女がここまでするのです。ここで知らぬ顔をしてはアルビオン貴族の名折れ。これは閣下には何の関わりもない、我らが勝手にやることです」

 

 

 

 

 

オリヴァー・クロムウェルの急死と神聖アルビオン共和国降伏の報がこの地に届いたのは、この1時間後のことであった。



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その38

 歴史は夜作られる、という言葉がある。

 陰謀家というのは概ね夜行性だからだと思うが、それとは別に、寝ている間にいろいろな事が動くのも良くあることだ。

 

 

 目覚めると、天蓋。

 

「……おや?」

 

 どれほど寝ていたのかは知らないが、気付くと、そこは妙にふかふかしたベッドの上だった。

 無意味に贅沢な天蓋の向こうに、瀟洒な天井が見える。

 お約束なら『知らない天井』、ありがちなネタなら『知らない天丼』、ちょっと捻るなら『知らない天津丼』な気分だ。ちなみにカニ玉は私の得意料理の一つではある。

 閑話休題。

 どう見ても貴族のお屋敷。それも、ただのお屋敷ではない。公女だった私でも唸るほどの見事な意匠の建物だった。

 どこだろう、ここは。

 またぞろ悪い夢でも見ているのかと思ったが、五感が感じる気配は現実世界のそれだ。何が起こっているのやら。

 

 

『ディルムッド?』

 

 念話を飛ばすと、嬉しいことにすぐに反応があった。

 

『主、お目覚めですか?』

 

『あまり快適な目覚めじゃないけど、状況が判らん。どこだね、ここは?』

 

『御説明にあがりますので、身支度をお願いいたします』

 

『構わないよ。気にせず入っておいで』

 

 私みたいな凹凸皆無のガキっぽい女の夜着姿見たって、奴も面白くないだろう……と思ったらちょっとだけ泣けた。

 でも、もし面白いとか言い始めたら即刻契約を解かねばなるまい。年下好みは多少は許容するにしても、私に女的な意味で刺激を受けるようでは人としてダメだと思う。もっとも、年齢だけなら私もそれなりにいい歳というのが難しいところではあるが。『とうの立った幼な妻』と言う哲学的な矛盾は成立しうるかと益体もないことを考えながら、自分の体調を確認する。

 とにかくだるい。体が鉛になったような倦怠感だ。恐らく、10歩も歩かず息切れすると思う。さすがに無茶をしたせいか、内臓にかなりダメージがあるようだ。殊に、肝臓の機能の低下が著しい。だるいのはそのせいだろう。肌にも若干黄疸が出ている。

 軍用の興奮剤だから効き目がすごいだろうとは思って加減したつもりだったのだが、もうあと数時間程度体が動くくらいで調整したつもりでも、ただでさえ発育不良なところにあのコンディションではちょっとばかり多すぎたようだ。それくらいの計算もできなかったとは、我ながら焼きが回っていたものだと思う。

 イケナイ薬を使った事は、ほぼ確実に家の者にもばれているだろう。

 泣かれるかな。前にもひどく心配かけたことあったが、性懲りもなくまた同じようなことしてしまった感じだ。それとも怒られるだろうか。もし怒っているとしたら、マチルダだけではなくテファも間違いなく怒っているだろう。でも、あの時ああしなければ、援軍到来までに力尽きる患者が少なからず出ていたと思う。できれば緊急避難措置として許して欲しいのだが、何となくそういう理屈は別勘定にされてしまいそうな気がする。そう考えるだけで、気分がどんどんダウンしていく。いっそ、このまま逃げてしまおうかしら。

 

 逃走経路をどうしようかと思い窓を見ると、いささか手入れを怠った感じの、荒れた庭が広がっていた。

 木々が自由にその生命を伸ばしているような、躍動感だけはある庭だ。庭と言うのは手が入っている間は調和が取れているが、一度制御から離れると種族間の獰猛な生存競争の場と化す。樹と言うものが、他者よりより高く伸張し、枝葉を広げることによって競争相手に降り注ぐ光を奪うことで己の種を生き残らせるという方向に進化してきた生命体である事を考えると、この庭が静かなる野生の王国に思える。食うか食われるかの戦いは、サバンナにおけるシマウマとライオンだけの物語ではない。動物も植物も、基本的にやる事は変わりはない。弱者を食らい、己を脅かすものは打倒し、己とその種を保存するために生きているのだ。

 そんなことを思った直後、そんな感傷を消し飛ばすような勢いで入口の重厚なドアが荒々しく開いた。

 

「ヴィ~ク~ト~リ~ア~~~~っ!!」

 

 人間の限界に挑戦しているような大音声と共に、しおらしさの欠片もない凄まじい怒気が飛んで来た。そこに二匹の夜叉の気配を察し、私はとっさに慌てて布団の中に潜り込んだ。

 これはまずい。この世界の意思は『怒っている』シナリオを選択したらしい。このルートだと、どの選択肢を選んでもタイガー道場行きにしかならない気がする。テファのブルマ姿なら見てみたい気もするが、そんなことを言っている余裕は今の私にはない。今の私には、捕食者に襲われる力なき者の気持ちがよく判る。

 

「こら、出て来な、この考えなし!!」

 

「姉さん! 今回だけは許さないからね!」

 

 びりびりと怒鳴り散らしながらマチルダとテファがぐいぐいと布団を引っ張るが、私も必死だ。

 二人の後ろにちらっと見えた長身の騎士の姿を思い、急いでSOSを打電する。

 

『我が騎士ディルムッドよ、主命である。この二人を何とかせよ』

 

『主、申し訳ありませんが、今度ばかりは私もお二人に付かせていただきます』

 

 最後の砦の予期せぬ反乱に、私は目を剥いて驚いた。

 

『な、何ですとー!?』

 

『此度の主の献身は誠に尊き事とは存じますが、長きに渡り苦楽を共にしてきた我々と致しましては、とてもではありませんが看過できぬ暴挙。御身に何かあった時、我等の悲嘆のやり場はどうなりましょう』

 

 ディルムッドの念は平板ではあるが、それだけにその裏にある彼の黒い感情が感じられる。やばい、こいつまで怒ってるよ。

 

『然るに、お二人の憤りを受け止める事は、主の避けて通れぬ責務と愚考致します。ここは観念なさいませ』

 

『う、裏切り者~』

 

『否。私は従僕である以前に家族であるとおっしゃって下さったのは、他ならぬ御身。お二人の怒りを我が怒りと思い、甘受いただきたく存じます』

 

『ぬ、ぬう』

 

 

 

 

 

 徹底抗戦に出たはずのヴィクトリア城は攻者3倍の法則をクリアした寄せ手の前にあっけなく落城し、体罰こそ勘弁してもらえたものの、3人に包囲されてこってり1時間もガミガミとお説教をいただく羽目になった。その間はひたすらぺこぺこする私。何だか一生分頭を下げたような気分だ。

 ひとしきり私を怒鳴りつけて溜飲を下げてくれたのか、今後二度とああいうことはしないと杖にかけて誓わされたあたりで、ドアが叩かれて話を聞きたいと思っていた人物が入って来た。

 

 

「気が付かれて何よりです、殿下」

 

 現れたのはパリー。高齢な上に彼自身も至るところに包帯を巻いているにもかかわらず、気にかけてもらって恐縮するばかりだ。

 

「すまない。面倒をかけたようだね」

 

「何を仰います」

 

 さも心外と言わんばかりにパリーは渋面を作った。

 

「この度の戦いにおいて、殿下は一番手柄とも言うべき大仕事をやってのけたお方です。このような離れに押し込めている方が恐縮と言うもの。しばらくはゆっくり体を休められませ」

 

「情けない話だが、本当に力が入らなくてね。厚意に甘えさせてもらうしかないようだ。ヴィクトリアが恐縮していたと殿下にもお伝えして欲しい。それよりも、殿下のお加減はいかがか?」

 

「もう、執務に戻られておられます。治療師が言うには、最初の対処が適切であったために体力が温存できたと。回復次第、時を作ってこちらに伺いたいとも仰せでございました。その時にはウェールズ殿下自ら謝辞を述べられると存じます」

 

「これからは、そのような時間すら惜しい毎日になるだろうから、お気になさらずとお伝えして欲しい。それより、今の状況について聞かせて欲しい」

 

 私のお願いに、パリーは話し出した。

 

 聞けば、私が寝込んでいたのは1週間ほどのことらしい。私がトンだ直後にロサイスにおける神聖アルビオン滅亡の知らせが入ったとのこと。ガリアの両用艦隊の介入は史実通りに起こったようだ。その結果、指揮命令系統を失った神聖アルビオン軍は全面降伏。アルビオン戦役は終結した。

 頭を失った神聖アルビオンの軍勢は総崩れとなり、街道は重い足を引きずって歩く兵たちの敗走の道と化した。戦争に負けるということは、人々を支えていた秩序が崩壊することと同義だ。平和の対義語は戦争ではなく混乱だという人もいたと思うが、確かに、戦争と言うのは確固たる指揮命令系統の下で行われる秩序だった行動ではある。その系統が失われれば、後に残るのは混沌の坩堝だ。ロンディニウムに行こうと思う者、途中の町や村に略奪に向かう者。故郷を目指す者。連合軍の兵士で魔法が解けて正気に戻った者。その柱を失ったアルビオンは一時的に大混乱に陥っていた。

 

 そんな混乱の中、采を振るったのがこのパリーだ。彼はいち早く、アルビオン王国の復興をシティオブサウスゴータで宣言。本来年明けと同時に公布する予定だった宣言文書の原案を焼き直し、それを一斉に諸侯に向かってフクロウで飛ばしたようだ。諸侯に対してはかなり事前から根回しが進んでいたようで、事は思ったよりスムーズだったらしい。神聖アルビオンも、ずいぶん前から見切りをつけられていたようだ。

 その号令を受けて諸侯は次々とウェールズ殿下支持を表明し、生まれたばかりで安定を欠く政権をサポートする名目で我先にロンディニウムに集まったとのこと。大方、王政復古後の椅子と権益に御執心な連中だろう。露骨なまでにさもしい連中だが、それくらいでなければ政治家は務まるまい。そんな彼らのバイタリティを上手く操縦して行くことこそが為政者に必要な資質だと思う。清濁併せ呑む、私にはできない芸当だ。撤退騒動で一度引き揚げた在トリステインの王党派亡命軍も順次アルビオンに帰還中だそうで、政権の安定度は日増しに高まっているらしい。ともあれ、これで私が茨の冠を被る羽目になる心配はなくなっただろう。その点については重畳だ。

 

 足場が固まったところでウェールズ殿下はロンディニウムに竜籠で移動。気になっていた私の患者たちも次々にシティオブサウスゴータに落ちのびて来た水メイジの協力が得られて充分な治療が受けられるようになったらしい。昨日まで敵味方だった王党派と神聖アルビオンの連中も、今は同じ旗を仰ぐ形に収まっているそうだ。タイミングとしても、私が薬をキメて捻りだした数時間は無駄ではなかったようで、私が戦線離脱した直後から軍の水メイジたちが治療を代行してくれ死者は出なかったとのこと。手段の是非はともかく、彼らの命と言うバトンを何とか次の走者に渡す事が出来たことは良かったと思う。もう少しうまくやればもっと多くの命を救えたのではないかという思いも脳裏をよぎるが、彼らにあの世で会ったら、あれが私の限界だったと許しを乞おう。

 

 才人は王室の客分として扱われ、ロンディニウムに運ばれて治療を受けられたらしい。神聖アルビオン7万を単身で食い止めたと言う功績もあり、その人気は兵たちの間でもかなりものなのだとか。叙爵は無理でも勲章くらいはもらえそうな感じだ。ついに歴史の表舞台に躍り出る黒髪の英雄。この辺が歴史のとおりで安堵するばかりだ。手柄については全部才人に押し付けて、ディルムッドの活躍について敢えて秘密にしたのは折衝に当たったマチルダだ。さすがは我が姉、言わずとも判ってくれている。ディルムッドの存在が世間に知られた日には、どんな生臭い連中が寄ってくるか判ったものではないだけにこの対処はありがたい。

 

 私はと言えば、治療師からは過労と急性薬物中毒による昏睡だが命に別状はないと言われていたそうだ。1週間眠りっぱなしだったのも治療のための秘薬の副作用とのことで安心していた家人3人は、私が目覚めたらとっちめてやろうと爪を研いでいたそうな。枕元でどんな物騒な話をされていたのだろうか。恐ろしいことだ。

 治療については、ありがたいことにぶっ倒れた直後は軍の水メイジが、ここに着いてからは腕の立つ治療師が面倒を見てくれたらしい。解毒は早々に対処でき脳や神経も幸い無事だったものの、やはり用量超過の影響が深刻で、肝臓を中心に内臓にかなりのダメージが及んでいたようだ。組織が念入りに潰されているだけに、回復には少し時間がかかると思う。薬はやはり濫用してはいけないということを今さらながら思い知った。

 治療師の診断ではあと2週間ほど安静にしなければならないとのこと。私の自己診断も同じ見立てだ。手配してくれた秘薬が高品質なものだからこの程度で済んでいるのだろうが、私がいつも使っている秘薬だったら1ケ月は寝込むコース、魔法がない前世ならば半年はベッドの上だったことだろう。

 

 部屋の調度を見た時から何となく察しはついていたが、やはりここは、ロンディニウムのハヴィランド宮殿だった。厳密には、今私がいるのはその離宮になる。距離としては宮殿そのものからは歩いて10分くらいかかるところにある瀟洒な建物で、もっぱら国王の愛人を住まわせるために使われたらしい屋敷だ。伯父上には愛人はいなかったと聞くが、歴代の王様には側室は結構いたそうな。もちろんウェールズ殿下がそんな目的で私をここに押し込んだ訳ではないだろうし、恐らくはパリーあたりが気を効かせてくれたのだろうと思うが、何しろ、私は王軍に弓を引いた逆賊な上に尊属殺人者、しかも、内戦の際に最大級の叛徒であった北部連合の大物の血族だ。大っぴらに宮殿に出入りできない微妙な立場の私を隔離するには、なかなかいい場所ではないかと思う。

 

 アルビオン国内の状況は概ね把握できたが、確かこの後がなかなか大変だったはずだ。

 間もなく、戦後処理のための諸国会議と言うのが始まるはずだ。アルビオンは最大の当事者にしてホスト国。しかも、各国が遠慮なくその国益をむしり取りに来るであろうディフェンス側だ。その代表であるウェールズ殿下には、私などに関わっている時間などあろうはずがない。何より、ただでさえ私の存在は彼の迷惑になっているはずだ。

 

「パリー。言葉を飾らぬに訊くが……私の取り扱い、殿下にとっては頭痛の種なのだろう?」

 

 私の言葉に、パリーの表情が曇った。

 図星か。国内の意思統一において私と言う凶状持ちの存在は、決して歓迎できるものではないはずだ。無理はないと思う。

 それを見た家人三人も表情を硬くする。

 

「……ご明察にございます。今、殿下の処遇につきましては、上層部で議論が交わされております」

 

「追放の身の私が、抜け抜けと祖国に舞い戻って好き勝手やってしまったんだ、仕方がないよ」

 

「ですが、そのお方が次期国王の命を救済したとなりますと……」

 

 黙殺したいけれど、そうはいかないということか。無茶をしないであの場を適当にやり過ごせていればこんなことにはならなかっただろうが、まあ、あの場は仕方がなかった。同じ状況になれば、恐らく私はまた同じことをするだろう。

 その時の成果がどうあれ、私の場合は罪状が罪状だ。殿下の臣下にも、私に恨みを持つ者がいないとも限らない。その心情を考えた時、ウェールズ殿下もおいそれと私に恩赦を出すような軽はずみなことはしないだろう。良くて殿下救済の実績と勝手な帰国の事実を相殺、国外退去再びというあたりが落としどころだろう。

 

「今、こうして保護してもらっているだけでもありがたいよ。いきなりばっさりやられないだけ感謝しなくては」

 

「そのようなことになったら、あの世に行って亡き陛下に申し開きができません。その儀ばかりは、この私が許しません」

 

「心強いよ、爺」

 

「今少し、私にも力があればよいのですが、できる努力は惜しみませぬ。殿下に不安なお気持ちを強いるのは心苦しいのですが、今しばらくこちらにてご辛抱を」

 

「すまないね」

 

「それに……」

 

 そう言って、パリーは妙に言いづらそうな表情を作り、やがて口を開いた。

 

「殿下はもとより、ティファニア様の処遇につきましても、何とか良い方向に向かうよう努力致しますので」

 

「テファ?」

 

 いきなり出て来た意外な言葉に、私は面食らった。何でまたいきなり。そんなことを思いながら首を傾げる私にパリーが投げかけた言葉は、爆弾だった。

 

「さすがに……先住の魔法を使ったとなりますと、いささか問題が大きいので」

 

 思考が停止した。

先住魔法? 何のことだ?

 慌てて視線を向けると、マチルダとテファが、さも困ったような顔をしている。

 

「あ~、ごめん。言うタイミングを計っていたんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 異変が起こったのは、私が寝込んだ3日後の事だった。

 その一群は、馬に乗って現れた。神聖アルビオンの制服を纏い、とても崩壊した軍の軍人とは思えぬ覇気を漂わせてシティオブサウスゴータの私の野戦病院に押しかけて来たとか。その数、およそ20騎。

 後で聞いた話だが、私が腕ずくで乗っ取った寺院の司祭は、当初こそ戸惑っていたものの、私が行っている活動についてそれなりに理解してくれたようで、治療師の援軍を確保するためにあれこれ動いてくれたようだ。問題は、その際に私の名前が独り歩きしていた事で、別に名乗った訳でもないのに噂が噂を呼んでモード大公の遺児がシティオブサウスゴータで治療活動をしている事は知らぬ間に結構広くに知れ渡っていたらしい。

 その名前が、彼らの網にかかってしまったのだろう。

 

「何事ですか、方々」

 

 治療に協力してくれていた街の者が応じようとするが、半ば力尽くで脇にどかされてしまう。

 そんな剣呑な気配があれば、当然立ちはだかるのは我が忠臣だった。

 槍を手に誰何の声を上げる彼に、騎士たちが威嚇の声をあげた。

 

「退け、平民」

 

「お断りする。まずは御用の向きをお伺いしよう。それとも、いきなり腕ずくと言うのが貴公らの流儀か?」

 

「おのれ、平民の分際で」

 

「まあ、待て」

 

 そんな一触即発の雰囲気を、騎士たちの後ろから聞こえた初老の男が打ち消した。

 騎士たちの壁から一歩前に出て、ディルムッドと対峙する。

 

「こちらに、モード大公の御息女、ヴィクトリア公女殿下がおわすと耳にして参ったが、その真偽や如何に?」

 

「それをお答えする前に、まずは貴公の芳名を承ろう」

 

「これは失礼仕った」

 

 そう言って初老の騎士が名乗る。次いで、その後ろに並んで殺気立っている騎士たちが次々に名乗りを上げる。

 一通り聞いたのち、ディルムッドは名乗り返して問うた。

 

「まずお伺いするが、貴公らのことを我が主は存じているのであろうか。貴公らのその気配、どう見ても穏やかなものではなさそうだが」

 

「我等の名を、殿下は知らぬであろうな。だが我等はこの4年、殿下のお名前を一日たりとも忘れた事はない」

 

 黒い言葉。恨みが単語の端々まで籠ったような物言いだった。

 

「我等は、いずれも王軍の騎士として亡き陛下の命によって働き、その最中に殿下によって討たれた者の身内である」

 

 サウスゴータからの逃亡の際、手にかけた多くの兵の親族や友人だろう。アルビオンに足を踏み入れて以来、遠からずそういう人たちが出てくるだろうとは思っていた。

 

「然るに、我々には杖を取るだけの充分な理由と、殿下に対する復讐の権利があるものと確信している。判ったらそこを退いてもらいたい。あの時、愚息は18歳。手塩にかけて育てて参った一粒種ぞ。家督を継がせ、嫁取りも決まり、これからというところで未来を断たれた倅の無念をこの手で晴らしてやりたく、それだけを心の支えに地獄のような内戦を生き延びて参ったのだ。そして本日ようやくその機会を得、本懐を遂げるべくこうして推参仕った次第。邪魔をする者は、誰であっても許さぬ」

 

 殺人は、呪いだ。その恨みの連鎖は止まらないと言うが、そこまで純粋な悪意があることを、私は改めて見せつけられた。

 そして当然ではあるが、ディルムッドがその種の脅しに屈する訳がない。

 

「貴公らの事情は承った。そういう事なら是非もない。この身はそのヴィクトリア公女殿下の従僕。よって、我が主を害する意思を持って主の元を訪れるというのなら、其は我が打倒すべき敵に他ならぬ。故に、この場は断固として通す訳には行かぬ。押し通ると言うのなら、俺の屍を踏んでから行くがいい」

 

 槍を一閃させるディルムッドと、騎士たちの対峙が一触即発になった時だった。

 病床から起き出した十数人の兵が杖を手にディルムッドの左右に並んだ。いずれも酷い怪我をした、傷だらけの兵たちだったそうだ。

 

「何だ、貴公らは」

 

 初老の騎士に、兵の代表格が答える。

 

「我等は、貴公らが仇と狙うヴィクトリア殿下に命を救っていただいた者だ。今の話を聞いてしまった以上、殿下を害すると言うのなら、我等もまたここで貴公らが踏んで行くべき屍の一つとならねばならぬ」

 

「くたばり損ないは退いておれ。我等は4年も待ったのだ。邪魔立ては許さぬ」

 

「いや、退かぬ。貴公らの無念も理解はするが、我等にもまた、通さねばならぬ義がある。大恩ある殿下に杖を向けると言うのであればやむを得ぬ。恩義には身命をもって報いるが我等アルビオン騎士の騎士道なれば、今一度王軍相討つ愚を犯してでも我等はここを退くわけにはいかぬ」

 

「おのれ、売笑婦の娘ごときに籠絡されおって」

 

 半ばヒステリックになった初老の騎士が杖に手をかけると、居並ぶ全員が一斉に杖を抜いて突きつけ合った。

 そして、戦闘は不可避と判断したディルムッドが踏み出そうとした時だった。

 

 一人の少女が、剣呑な空気をものともせずに両者の間に割って入った。

 それがティファニアだった。

 ディルムッドがこれまで見たこともないくらい、その面もちには黒い怒りに満ちていたと言う。

 

「何だ、娘?」

 

 テファはその言葉には答えず、そのまま初老の騎士の前に立ち、短い杖を手にルーンを唱えた。

 そのルーンの正体を知るディルムッドは、テファの意図を察した。

 

「テファさん、それはいけない!」

 

 ディルムッドが止める間もなく、聞き慣れない緩やかで抒情的なルーンに皆が怪訝な表情を浮かべた時、テファの魔法は完成した。

 振り下ろされた杖の前で、狐につままれたような顔をする騎士たちの表情に、既に殺気はなかった。

 呆けたような面々が、首を傾げてテファに問うた。

 

「我々はここで何を?」

 

「あなた方は、本隊からはぐれてこの地に迷って来たの。このまま、街道を進めばロンディニウムに着くわ」

 

 テファの言葉に騎士たちは顔を見合わせ、そして馬を返した。

 

「かたじけない」

 

 そうして、騎士たちは去って行った。

 

 

 

 

 

 仔細を聞き、事の次第は理解できたが、さすがに私は宙を仰いだ。

 何てこった。いきなりハードルが高い事態収拾ミッションだ。周囲は見慣れぬ力にそれが先住の魔法ではないかと騒ぎだし、青くなったパリーによって即座に私達のロンディニウム移送が行われて今に至っている。言うなれば隔離だ。

 私のことが知られているということは、当然ティファニアの情報もこの国の上層部には届いているだろう。エルフの血を引くモード大公の御落胤。そうなると先住魔法を使うと思われても仕方がないだろう。

 

「ごめんなさい」

 

 申し訳なさそうなテファだが、終わってしまった事をあれこれ言っても仕方がない。ここは頭を切り替えるべきだろう。遅かれ早かれ、殿下に虚無の事でコンタクトを取ろうとは思っていたのだ。むしろ、テファの虚無のデモンストレーションをどうするかがこれで解決できてしまったのはプラスに考えるべきだ。状況はいささか不利ではあるが、そこまで掴みが済んでしまっているのなら、一足飛びに本ネタを持ちかけるしかないだろう。

 

「それで、ウェールズ殿下の方は何と仰っておられる?」

 

「さすがに大きな声では言えない話ですので、こちらにつきましても国の上層部で議論を重ねております」

 

 テファの存在は、アルビオンにとっても下手をすれば国として致命傷になる重大な問題だ。うっかりした事を言うと事態がどう転ぶか判らないだけに、私の覚醒を待ったマチルダ達の判断は間違っていないが、こうなっては呑気に寝てはいられない。物事を知らない連中が私たちに対して捕縛、あるいは処断といったような性急な結論を出す前にテファの魔法の正体を知らしめなければならない。もたもたしていたら、またまた死体を積み上げなければならなくなって要らん恨みを大量に買い付ける羽目になりそうだ。

 

「パリー、ひとつ頼みがある。ウェールズ殿下に、お伝えしなければならないことがあるのだが、間を取り持ってはくれないだろうか?」

 

「それはもう」

 

「まずは書面で仔細をお伝えしたいので、紙とペンを。それと、一つだけ先にお伝えしておいて欲しい」

 

 私は確認するようにゆっくりと述べた。

 

「この子が使ったのは、先住の魔法ではなく、失われた第5の系統魔法だとね」

 

 

 

 

 その夜、私はベッドに半身を起こしてレポートを書き始めた。

 出来る限り早く、ウェールズ殿下に正確な情報を知ってもらわねばならない。

 決意はしたものの、さて、どうやってそれを切り出したものか。思考がまとまらず、ペンを持つ手は動こうとしない。

 殿下に隠密裏に接触し、情報を小出しにしつつ、ある程度こちらのカードの価値を釣り上げてテファのトリステイン滞在を認めさせようという当初の目論見が崩れた以上、今は事態のリセットこそを最優先にしなければならない。

 エルフの血は、ハルケギニアにおいてはタブーだ。それを払拭するには、まずは虚無の担い手というブランドを確立する必要があるだけに話の組み立てには細心の注意が要る。シティオブサウスゴータの事実を書いて『あれが虚無だったんですよ』と言って信じてくれればいいのだが、誰も虚無の魔法と言うのがどういうものなのか知らないだけに、その証明には工夫が必要だ。

 

 無論、不利な材料ばかりではない。虚無は始祖の属性だ。錦の御旗とも言える担い手が手元にあるという事実は、ウェールズ殿下にとっては最高の切り札になり得る。ルイズの事は彼の耳にも届いているだろう。全く興味がない話ではないはずだ。

 殿下の支配が盤石なものであればともかく、今のアルビオンは混乱期を脱したばかりだ。諸侯とて、腹に一物も二物もあるような奴らばかりだろう。神聖アルビオンに与した連中をすべて改易できればいいかも知れないが、現実問題としてそうはいくまい。僅かな腹心だけで治められるほどアルビオンは狭くない以上、改心し忠誠を誓うと言ってきた諸侯を突っぱねられるだけの余裕は殿下にはまだないだろう。そんな生まれたばかりの現政権にとっては、虚無の担い手はいざという時に自らの正統性を裏付ける事が出来るカードだ。それに弓を引く事はブリミル教がはびこるハルケギニア世界そのものを敵に回すことでもある。もちろん、ルイズと同様にすぐさま公の存在として宣伝することはないと思うが、冷遇される可能性はまずあるまい。

 また、アルビオン戦役において、ロマリアは僅かの兵力しか出していないので諸国会議では事実上のオブザーバーに過ぎなかったと記憶している。外交交渉において、ロマリアのアルビオンに対する発言力は強いものではないだろう。

 状況は私にとっては歓迎すべき方向に傾いているようにも思うが、そこをどのようにつつけばストレスなく事が運べるか。

 乏しい文才をあれこれ捻りながら文面を考えている時、ドアが叩かれた。

 

「開いてるよ」

 

 声をかけると、入ってきたのはマチルダだった。

 

 マチルダは難しそうな顔をしたまま、黙って私のベッドサイドの椅子に腰を下ろした。

 

「ウェールズ殿下宛の書状かい?」

 

 私は頷き、素直に自分の思惑を話すことにした。白いままの羊皮紙を置いて、話しながら状況を整理していく。

 つらつらと述べるのは、私にとってもマチルダにとっても決して本意ではない事実たちだ。しかし、現状ではアルビオン政府に庇護を打診するのが最もテファの身の安全の担保になる事も確かだろう。

 私の話を聞くマチルダの表情は、さすがに重い。テファが先住魔法を使ったと誤認された現状では、下手したら生きてアルビオンを出られない事はマチルダも判っているだろう。

 

「虚無の担い手が誰なのかを伏せたままで交渉できればまだ駆け引きのしようもあったかも知れないけど、現状だと素直に全部話さなくちゃ通るものも通らないと思う。テファの魔法が虚無だと証明できなければ、いつ討手が来るか判らないからね」

 

「だろうね」

 

「でも、逆に考えれば悪い事ばかりでもないと思うんだ。ウェールズ殿下を味方につけられれば、トリステインを縁とするより頼りになると思う。今のアンリエッタの実力じゃ、ロマリアに遊ばれて終わりだろうからね」

 

 アンリエッタと言う人物が、まだ発展途上の女王様であり、権謀術数の攻防になった場合に不安がある事についてはマチルダも同意するところだ。アンアンをあてにできない以上は、消去法でウェールズ殿下に取り入るのが上策だと言う事についても理解してくれている。

 何しろ、敵はロマリアのトップたる教皇ヴィットーリオだ。テファが阿らなかったら、何をするか判らない狂信者。つまらないちょっかいの阻止には、やはり信頼できる人物の後ろ盾が欲しい。ウェールズ殿下はいささか直情的な部分もあるが、物事を俯瞰的に見ることができる人物だ。

 もちろん、虚無が欲しいヴィットーリオが宗教上の立場を振りかざして強権を発動するかも知れないが、当面のロマリアの障害は狂王ジョゼフの統べる大国ガリアになるはずだが、その両国の交渉は早期に決裂したと記憶している。いかにヴィットーリオとて、ガリアに加えてアルビオンまで敵に回すような振る舞いはそうそうできはしないだろう。いかに教皇でも、その座が世襲ではない以上は、言ってしまえば代えが効く存在だ。ヴィットーリオが虚無の担い手だと言っても、その基盤はハルケギニアで一番欲深い鵺たちが巣食うロマリアという国だ。何でも思うがままと言う訳にはいかないだろう。この世界のコンクラーヴェや教皇罷免のための公会議のあり方などがどういうシステムになっているのかは知らないが、ガリアとアルビオンを敵に回すような聖戦をぶち上げたら、ただでさえその強引な改革のせいで敵が多いであろうヴィットーリオだ、さすがに首が危ないだろうと思うのだ。

 そんな情勢に鑑みるに、テファが一個人テファではなく、アルビオンのテファとなった場合、下手な真似をしていることが明らかになれば間違いなく国際問題だ。そこまでの博打はいくらヴィットーリオであっても打てないというのが私の読みだ。

 テファをロマリアの野望から守れるというのなら、この際トリステインもアルビオンもない。どちらであっても、ヴィットーリオを牽制してくれるならば、それでいい。

 私の言葉を聞き終わり、同意したような、そうじゃないような、微妙な顔でマチルダは考え込んだ。

 

「あんたが言いたいことは、判るよ。だけどさ……虚無の担い手というは、恐らく国にとっての王様並みに最重要人物だよね。そうなると、テファは間違いなくトリステインにはいられない。アルビオンとしても、後生大事に手元に置いておくだろうね」

 

 当然だろう。恐らくはアルビオンの聖女として大切にされるであろう虚無の担い手だ。私なら宮殿付きにするか、大きな寺院か修道院の長のポストを用意して厚遇するだろう。国をあげて、その身柄の安全を確保するように手配すると思う。

 

「そうなってくれれば、この上なく安全だろうね」

 

 やせ我慢しながら言葉を絞り出す私に対し、マチルダの言葉は容赦がない。

 

「それは安全だろうさ。でも、それだと多分、私たちは二度とテファに会えなくなるだろうね。違うかい?」

 

 そう言ってマチルダは、ストレートに私が悩んでいるところを突いてきた。

 目を閉じ、耳を塞ぎ、気づかないふりをしていた部分を抉り出す言葉だ。さすがに心が軋む。

 王族の庇護下、しかもアルビオンにいるテファに対し、トリステインの王都で平民という立場で生きる私たち。

 せめてトリステインにいてくれれば、何らかの手段をもって接点を持つこともできるかもしれないが、ここはアルビオン。果てしない虚空がその間に横たわる空の上の国だ。手紙のやり取りくらいはできても、追放の身の私は二度と会うこともできなくなるだろう。

 現実を突きつけられると、さすがに奥歯が鈍い音を立てる。

 でも、それはあの日に覚悟を決めたことだ。何を置いても、テファの身の安全こそを優先すると。

 これは、泣いてでも演じ切らねばならない、終演の舞台なのだ。

 

「マチルダ……虚無の担い手はね、死ぬと始祖の血筋に連なる他の人に受け継がれるんだよ」

 

 代えが効くと言うのは教皇だけではないのだ。虚無の担い手が命を落とした場合、その血に連なる親族に虚無は再び発現する。テファ亡き後、アルビオン王家の血筋に連なる誰に虚無が出るかは判らないが、当面は私とウェールズ殿下のいずれになると思われる。既に使い魔を持つ私に虚無が発現するかは知らないが、スペアがある以上、現時点でテファの命は奴らにとっては必ずしもかけがえのないものではない。

 

「だから、ロマリアの連中がテファを厄介者と考えたら、あの子を殺すくらいのことは平気でやりかねない。それこそ、国が後ろにいるような立場にいないと……あの子を守ってあげられない」

 

 才人を平気で背中から撃とうとするような連中だ。こっちも必死にならなければならない。でも、自分に言い聞かせるように言ってみても、さすがにトーンが落ちてしまう。

 静かに話を聞いていたマチルダが、ポツリとつぶやいた。

 

「テファ、独りぼっちになっちゃうよ……」

 

 マチルダの悲しそうな顔が、胸に刺さる。そのことについては、アルビオンに来る前に私も考えた。孤独の辛さは、誰よりも知っている私だ。トリステイン預かりということが難しい以上、アルビオンにおいてテファに孤独を強いることは私が許さない。

 

「それについては、私なりに案があるよ」

 

「案?」

 

 話すのは、私なりの苦肉の策だ。正直、私だってやりたくはない一手。だが、それはテファの心の安寧と身の安全のためには私が打てる唯一にして最大の対抗策だ。

 だが、それもまた、大切なものを手放すに等しい方策だった。

 案の定、話を聞き終わると、マチルダは俯いてしまった。

 

「良い手だとは思うけど……寂しくなるね、それは」

 

 私のプランは、彼女にしても失うものは小さくないのだ。

 

「ごめんよ。本当にごめん。私の脳みそじゃ、これ以上の手は思いつけないんだよ」

 

 疲れ切ったように、マチルダがため息まじりに宙を仰いで微笑む。彼女にも、代案がある訳ではないようだ。

 

「しょうがない、ね」

 

 マチルダの言葉を聞くほどに、自分のいい加減な記憶がこの上なく情けなかった。

 短絡的な手段は何度も考えた。テファを害しかねない連中を殺して回ろうかと真剣に考えたこともある。

 作中でヴィットーリオが、アンリエッタに己の理想について説いたことがあった。その成就のためなら手段を選ばないとも言っていた。御立派なことだ。理想があること自体は結構なことだと思う。アンリエッタをたばかって、ルイズを手駒のように扱うこととて、ヴィットーリオの理想の前では些事に過ぎないのだろう。だが、その理想がテファの涙の上に成り立つものなら、その理想とやらをぶち壊すために私もまた手段を選ばない。

 連中にとっては駒にすぎないテファではあるが、テファとハルケギニアを秤にかければテファが重い私だ。テファに何かあったら、当然ではあるが私たち主従は即座に行動に移るだろう。後先の事など知った事ではない。何があっても宗教庁の奴らは皆殺しだ。史上最悪の魔女の汚名を、私は喜んで頂くことになるだろう。

 だが、現実は複雑だ。気に入らない奴がいるから殺してしまえ、で解決するようなことばかりではない。殺しても代わりが出てきては意味がないのだ。

 

 確かに、やがて来る大隆起と言う災害の対処について、ヴィットーリオが最も現実的な行動に出ている事は知っている。他国ではできないリーダシップを、奴が取っていることも事実ではある。

 その対策について、全てを包み隠さず全てを話してくれるなら、虚無の担い手だって体を張る意義があるし、私だって協力するにやぶさかではない。だが、今のロマリアの隠蔽体質は筋金入りだ。大義の名のもとに、平然と才人の背中を狙った連中の手法を考えると、とてもではないが無条件で力を貸す気にはなれない。

 突き詰めれば、全てを語りもせずにテファが玩具にされることが、私は許せないのだ。

 私の中にゼロの使い魔の物語の終焉の記憶が僅かでも残っていればいいのだが、今の私にはテファの守りを固めるしかできる事がない。

 記憶なら、幾度も反芻した。ヤマグチノボルの著した『ゼロの使い魔』の一巻から最後まで、何度も記憶をたどってテファと虚無に関わるすべてを思い出そうと試みた。だが、その度に私の記憶は途中でスタックしてしまう。ジョゼットの登場、すなわちルイズの家出くらいまでは割としっかり覚えている。厳密な巻数は判らないが、タバサがローブを着たエルフに向かって魔法を放つ挿絵までは曖昧ならがらも記憶がある。

 しかし、そこから先の記憶の中にデータがない。厳密には、私の随意で思い出すことができない。漠然としたイメージだけは、確かにある。テファが才人と一緒に攫われるのは知っている。話の流れからすればそこで才人が大活躍してテファを助けてくれるのだと思う。だが、ヴィットーリオの思惑の流れだけはどうにも読み切れない。美形の陰謀家と言う嫌味なキャラ付けが生理的好かないので斜め読みしていたのか、それとも妙なプロテクトが私の脳に働いているのか、はたまた思い入れの出来る悪役たるジョゼフの死を持って、私の中でこの作品が終わってしまっていたのか。

 物語の行先が思い出せない今、私が何よりも必要といている肝心要の情報が欠落してしまっている。

 聖地に一体何があるのか。

 神の心臓・リーヴスラシル。記すことすら憚られると言われるその使い魔が一体何なのか。

 せめてそれさえ判れば、対処法も考えられるのに。

 

 結局、明け方近くまでかかって要点をまとめたレポートを書き上げ、朝一番でパリーを呼んでそれを手渡した。

 これを読んだ殿下がどう出て来るかは、出たとこ任せだ。

 

 

 

 

 

 

 

 殿下に送りつけたレポートが私たちにもたらす未来への不安と、体のだるさと戦いながら7日ほどが過ぎた頃、驚いたことに才人が見舞いにやって来た。あれだけの大怪我なのに、10日程度でここまで回復するとはすごいと思う。原作だとテファの指輪でも2週間くらいだったと記憶しているが、あの時よりダメージが少なかったのか、はたまた城で診てくれた治療師の腕がいいのか、いずれにせよ回復が早くて何よりだ。一体どういう治療を受けたんだろう。

 若干傷や包帯が残るが、いつも通りに快活な笑顔を浮かべている才人を見て心底安堵する。何だかんだで、私もこいつの引力に捕まっている一人なのかも知れない。

 そんな才人だが、困ったことが一つ。左手を確認したら案の定ルーンがなかった。やはり心停止は重大な契約解除要因になるようだ。そうなると、今頃ルイズはひどい状態なことだろう。可哀そうに。

 そんなこんなで私の部屋に皆で集まり、わいわいと馬鹿な話をした後で才人は折り目正しく頭を下げた。

 

「とにかく、助けてくれてありがとう」

 

 ストレートに言う才人に、ちょっとだけ罪悪感を覚える。本来なら、感謝される道理もないものだ。私が引っかき回しさえしなければ、予定通りにウエストウッドの奇跡によって命を取り留めただろうに、それを感謝されると言うのは恩着せがましくて居心地が悪い。

 それはさておき、私としては、才人に通してもらわねばならない筋道があった。

 

「ところで少年、シティオブサウスゴータで私が言ったことは覚えているかい?」

 

「え?」

 

「二人で生き残れ、と言ったよね?」

 

「……ああ」

 

 どうやら、私の意図を察したらしい。

 

「覚えているなら話は早いね。足を踏ん張って、歯を食いしばりな」

 

 才人にそれだけ言い、マチルダに目で合図する。あいにく私はまだ力が出ないし、テファは優しすぎる。ディルムッドでは鉄拳が飛んで歯が折れてしまいそうだ。ここはマチルダが適任なのだ。

 才人も覚悟はしていたらしく、何も言わずに大人しく肩幅に足を開いて運命と対峙していた。

 あの時、確かにああしなければルイズは死んでいただろう。やむにやまれず、彼が剣を取ったのも知っている。でも、その事を言い訳にしないから、こいつはこんなにも人に好かれるのだろう。私たちがどういう思いで危ない橋を渡ったのかを、才人も判ってくれているようだ。

 とは言え、ここでそのままにしておいては、私たちの間に妙な貸し借りが生まれてしまう気がするのだ。できれば、こいつとはこの先も仲良くやって行きたい。そのためにも、これは必要な落とし前だ。

 ゆらりと、マチルダが才人の正面に立つ。

 

「何か言いたい事はあるかい?」

 

「ありません! 心配かけて、すみませんでした!」

 

 不動の姿勢でそれだけ言うと、才人は歯を食いしばって目を閉じた。

 

「いい覚悟だ」

 

 言うなり、マチルダの全力の平手が才人の頬で音を立てた。すごい音だった。ああ、こっちの心も痛いねえ。テファも目をきつく閉じて泣きそうな顔をしている。僅かに揺らいだものの、才人は私たちの気持ちを乗せたそれを受け止めた。

 

「もうあんな無茶するんじゃないよ。それと、今回の事については私たちはこれで許してあげるけど、私たち以外にもあんたを待ってる人がいるってことを忘れるんじゃないよ」

 

 手をぷらぷらさせながらマチルダが笑うが、その声と視線は穏やかで、優しい。それなりに私たちの気持ちを受け入れてくれたのか、才人は鼻声で何度も謝罪の言葉を紡ぐ。

 

「ルイズ、きっとすごく泣いてると思うから、早くあの子のところに帰ってあげてね」

 

 最後に、テファが優しい声を才人にかけた。

 恐らくは、今頃悲しみのどん底に落ち込んでいるであろうルイズだ。身投げすら考えた彼女が、才人の無事を知ったらさぞ凄いことになるだろう。原作ではシェフィールドの襲撃のどさくさに合流してたが、才人にとっては今回は正々堂々、正面から立ち向かわなければいけないと言うハードルの高さだ。気の強いルイズのことだ、どんなことになるか想像もつかないが、才人にしても男を見せなきゃ立つ瀬があるまい。

 しかし、それに対する才人の反応は意外なものだった。

 

「でも、俺、もうルイズに会う資格がないから……」

 

 何のことかと唖然とする私以外の3人。そうだった。この馬鹿はこの時期勝手に煮詰まって自己完結してたんだっけ。

 

「どうして?」

 

 テファの問いに、才人は左手を示して寂しそうに言った。

 

「ルーンがないんだよ、もう」

 

消えてしまったガンダールヴのルーン。それをルイズとの絆と信じていた才人の気持ちは判らないでもないが、それだけがルイズとの縁でもあるまいに。

 

「あん? それがないとお嬢ちゃんのところに帰れないのかい?」

 

 マチルダが不思議なものを見るような目で才人を見つめている。

 

「はい。俺、もうルイズのこと守れないし……」

 

 訥々と、ルイズと一緒にいる資格を失った心情を語る才人。誰かを守ると言うことについて原作ではアニエスにお説教されてたけど、黙って聞いていたら才人のあまりの考えの足りなさに私は少し頭痛を覚えた。こいつ、どこまでルイズの気持ちを判っていないんだろうか。それはともかく、今は悲壮感に酔ってないで周りを見るべきだと思う。才人の話を聞くうちに、皆のこめかみに浮かぶ井桁模様。自分がどういう連中の前でその種の泣き言を言っているのか判っていないようだ。

 才人の言葉を一通り聞き終わり、マチルダは深くため息をついた。

 

「あんた、ちょっとは気の効いた馬鹿かと持ってたけど、正真正銘のただの馬鹿だったんだねえ」

 

「え?」

 

 そして、呆気に取られる才人の胸ぐらを掴んで手を振り上げた。

 

「この甲斐性なしがっ!」

 

 平手再びか、と思ったあたり、私もまだ甘い。

 響いたのは、機関銃のような音だった。

 目にもとまらぬ往復ビンタを雨あられと見舞うマチルダ。見ているだけでパンチドランカーになりそうな容赦のない平手の乱舞だ。マチルダお姉様、一応そいつ怪我人なんですが。

 都合20発はひっ叩き、アンパンマンみたいに顔を腫らして気絶した才人を軽々とディルムッドに向かって投げ渡す。

 

「ディー、あんたの管轄だ。しっかり気合いを入れておやり」

 

 これ以上気合いを入れたら死んでしまうと思うが、白目を剥いた才人を受け取ったディルムッドが首肯した。

 

「面目次第もございません。しかと言って聞かせておきますので」

 

 何と言うか、容赦がない連中だなあ。工房だと毎日こういうやり取りがあったのかしら。

 仕方がないので事の次第を書いた手紙を一筆したためて侍女を呼び、一番早い便でトリステイン魔法学院のルイズ宛に送るよう頼み込んだ。フクロウを使えば早々に届くだろう。そこでルイズがサモン・サーヴァントを行えば才人をフネに蹴り込む手間も省ける。

 ついでに才人のトリステイン送還の承諾をもらえるよう手配をお願いする。アルビオンにしてみれば大切な賓客かも知れないが、才人の立場はルイズの使い魔だ。引きとめることはメイジの道義に反すると言えば納得してくれるだろう。

 

 数日後、目の前に現れた鏡に才人は驚いていた。

 

「はい、荷物」

 

 ぷんぷんという擬音が似合いそうな顔で怒っているテファが、タイミングよくデルフを持って来る。それでもなお渋っていたところをマチルダに怒鳴られて逃げるように鏡に飛び込み、英雄は慌ただしくトリステインに帰還して行った。一応、手紙でルイズには頑張った才人を褒めるようお願いしてあるが、歓喜と涙の抱擁が待っているか、はたまた血の雨が降るかはルイズのみぞ知ることだ。

 

 

 

 

 

 

 才人の尻をひっぱたいて送り返した日、深夜に喉が渇いて水を取りに立った時だった。

 体はまだ重いけど、立って歩けないほどではない。

 薄明りだけが灯った廊下を自室に戻る時、通りがかった窓の外、中庭のベンチに月明かりに映える金髪を見た。

 

「テファ」

 

 話しかけられ、テファはびっくりしたような顔で振り返った。

 

「もしかして起こしちゃった?」

 

「いや、喉が渇いてね」

 

 手にした水差しを見せながら、私はテファの隣に座る。

 

「いい月だねえ」

 

 見上げる双月は、トリステインで見るそれよりもくっきりとしていて大きかった。高度が高いのと、空気が澄んでいるからだろう。

 

「ねえ、姉さん」

 

 テファが呟くように言った。

 

「何?」

 

「ごめんね。勝手なことしちゃって」

 

「ん?」

 

「あの人たちに魔法を使った事」

 

 シティオブサウスゴータでのことらしい。

 

「あの場では、最適な選択肢の一つだっただろうさ。それより、どうしていきなりあんな思い切った事をしたんだい?」

 

 後にも先にも、私が知る限りではテファが『忘却』を使った事は一度しかない。アルビオンから脱出した際に、私たちを運んでくれたフネの船員たちに対してかけただけなはずだ。未来が見通せなかったあの当時、テファに虚無のことを言うのは憚られたため原作通りに『不思議な力』としか教えなかったが、今のテファはあれが虚無の魔法だということを知っている。そして、それを人の目があるところで使うことが何を意味するかも、恐らく判っているはずだ。

 そんなテファが、私の言葉に口ごもりながら答えた。

 

「許せなかったの」

 

 テファが、己の中の黒い何かを吐き出すように言った。

 

「あの人たち、姉さんのこと一方的にひどい人だって言ってた。お母さんにあんなことした人たちなのに、姉さんが喜んで殺したみたいに言ってたの。私、それがどうしても許せなくて。姉さんのこと何も知らずに酷い事を言わないで欲しくて……」

 

 確かに、話を聞いた時はそいつらのあまりに一方的な物言いに、私もいささかトサカに来た。

 あの時、あの連中を手にかけたことを悪と言うのなら、私は大悪党で一向に構わないと思っている。あの時、私たちと対峙したのは騎士の誇りなど欠片もない連中だったからだ。シャジャルを蹂躙した連中だけでなく、逃げる私たちを追撃してきた連中も、妙齢のマチルダに好色な目を向けながら、彼女だけは生け捕りにして役得にあずかろうと笑っていたような奴らばかりだった。そいつらにとっては良い身内だったのかも知れないが、女をああいう目で見るような輩はそれだけで私の敵なのだ。

 

「ありがとうね、テファ。私のために怒ってくれて」

 

 手を伸ばしてテファの黄金細工のような髪をなでなでする。これぞ神の造形と言わんばかりの、絹のような手触りだ。私のような小っちゃい奴が妙齢のテファの頭を撫でている構図と言うのは、人が見たらかなり珍妙に見えることだろう。

 

「ねえ、姉さん」

 

 テファが視線を落としながら、言葉を探すように言った。

 

「あの時から、姉さん、ずっと私の為に頑張ってくれてきたよね。サウスゴータで助けてくれた時も、お母さんのために本気で怒ってくれたし、逃げる時も追いかけてきた人たちから私たちを守ってくれた。トリスタニアに着いてからも、何時だって私の事を気にかけてくれて。本当に、感謝してる」

 

 ふいに投げかけられたあらまった言葉に、一瞬言葉を失った。それがテファの心からの言葉だというのが判った。

 

「あ~、どういたしまして、ってのも変だね。まあ、その、かっこつけて言えば、妹を守るのはお姉ちゃんとして当然だからね」

 

 やや冗談めかしていう私に対し、テファは柔らかく微笑んだ。

 

「姉さんは優しいけど、姉さんだってたくさん我慢しているの、私知っているよ」

 

「ん?」

 

「あの時、お母さんに酷いことしてる人たちが言ってた。姉さんは親殺しだって。でも、姉さんがそんなことするくらいなんだからよっぽどの事があったんだと思う。それに、姉さんお姫様なのにあんなひどい恰好してて、手も顔も傷だらけだった。自分のことだって大変だったんだな、って思ったよ。でも、そんな大変なはずな姉さんが、私の為に一生懸命になって私を助けてくれたよね」

 

 テファが冷静にそこまで見ていたことを知って、私は正直驚いた。あの日のことが、昨日の事のように脳裏に蘇ってくる。

 

 

 

 

 

『ティファニア! 無事ですか、ティファニア!』

 

 必死に叫んでクローゼットを叩く私に、少しだけクローゼットの扉を開けて、テファは弱々しい声で答えたっけ。

 

『あなたは、誰?』

 

 露骨なまでに不安そうな声に、私は考え込んだ。目の前で騎士たちを惨殺した私だ。怯えられるのは仕方がない。まずこの子の不安を解いてあげなければならない。警戒されるような言葉遣いはやめるべきと思い、お姫様言葉をやめて、できるだけ気の置けない感じに口調に切り替えた。そして僅かに開いたクローゼットの奥で震えているテファに、精一杯の笑顔を作って手を伸ばした。

 

『はじめまして、だね。私はヴィクトリア。ヴィクトリア・オブ・モードと言えば判るだろう。お前のお姉ちゃんさ。お前を助けに来たんだよ』

 

 

 

 

 

 

 そんな回想をしている私の隣で、テファがポツリを呟いた。

 

「私……もう、トリステインにはいられないんでしょ?」

 

 その言葉に、私は即座に反応できなかった。

 

「まだ、判らないよ」

 

 虚勢を張る私に、テファは笑った。

 

「マチルダ姉さんの言うとおり、姉さん、嘘が下手だね」

 

「何が?」

 

「知ってた? 姉さん、嘘つく時、左下に目線が行くんだよ」

 

「……」

 

 知らないよ、そんなこと。

 

「でも、ありがとう。嘘でも、気持ちが嬉しい」

 

 そう言って微笑むテファの表情が、あまりにも痛々しくて、私は俯いた。

 そして、一つだけ、淡い可能性として残っている微かな活路を口にした。

 

「ねえ、テファ……逃げちゃおうか」

 

「え?」

 

「東方。サハラを越えて皆でさ。エルフくらいなら何とかなるよ、きっと」

 

 半分だけ、本気の提案だった。ハルケギニアに拘りさえしなければ、私たちは離ればなれになる必要などないのだ。しかし、そんな私の言葉にテファは首を振った。

 

「ありがとう、姉さん。でも、ダメだよ。サハラを越えて東方を目指したら、多分、皆すごく大変な目に遭うと思う。もしかしたら、誰かが死んじゃうかも知れない。そんなの、絶対にダメだよ。それにね……」

 

「それに?」

 

「私、ずっと考えてたんだ。私にできることは、何なのかって」

 

 語られたのは、初めて聞くテファの本音だった。

 

「私は、マチルダ姉さんみたいに何かを作ったりもできないし、姉さんみたいに誰かを治してもあげられない。ディーさんみたいに戦うのだって無理だよね。頑張って診療院の手伝いを一生懸命やってきたけど、今のままでいいのかな、って思ってた。いつまでも、姉さんたちに頼ってばかりでいいのかなって。でも、あの時、患者さんの治療を任されて思ったの。ああ、私ができる事はこれじゃないな、って。どんなに頑張っても、患者さんがどんどん具合が悪くなって、結局手に負えなくなって姉さんに患者さん回さなくちゃいけなくて。姉さんだって目一杯頑張っていたのに、そのせいで姉さん倒れちゃった」

 

 別に私がひっくり返ったのはテファのせいではないのだが、彼女の中では少々歪な解釈がなされているようだ。

 

「それは違うよテファ。ああいう場では、全てを助けられる事はありはしないんだよ。戦争というのはそういうものなんだよ」

 

「でも、最後に後ろに姉さんたちの支えてくれる手があるっていう状況で頑張っても、それじゃダメだと思うの。それだと、いつまでたっても姉さんたちに甘えてしまう。もう、私のせいで姉さんたちが大変な思いをするのは嫌なの。一番年下だし、力もないけど、いつまでも姉さんたちに頼りきりじゃ、やっぱりダメだよ。私も、独り立ちしなくちゃいけないと思う」

 

 意外な言葉に、私は息を飲んだ。

 そう言って微笑むテファが、あまりにも儚げで私は何も言えなかった。

 

「虚無の担い手っていうのが、どういう意味を持つのかまだ判らないし、何ができるのかも判らないけど、他の人にはない力を持つということは、恐らくそこに私にしかできない何かがあるんじゃないかって思うの。姉さんたちと離れ離れになっちゃうのはもちろん嫌だけど、でも、できれば私も、私に出来ることを見つけてみたい。そうなって初めて、姉さんたちの妹だって胸が張れると思う。私がアルビオンに残らなければならないとしたら、それはきっと、私が頑張らなくちゃいけない時が来たっていうことだって思うの」

 

「テファ……」

 

「だから、もし私がアルビオンに残らなくちゃいけなくなっても心配しないで。私、きっと頑張れると思う。姉さんたちの、妹だもの。大丈夫だよ」

 

 テファが言ってくれた、決意の言葉。

 それが、テファの精一杯の強がりだということが判ってしまうことが、無性に悲しかった。

 泣きたいのを我慢して、一生懸命笑顔を作って、少しでも私の心の負担が軽くなるようにと自分を偽ってくれているテファ。

 

 だから、私も精一杯の笑顔を作ってテファの頭を撫でた。

 被りたくもない、笑顔の仮面を被ったままで。

 

 今夜だけ、テファの優しい嘘に騙されるために。

 

 

 

 

 

 

 

 宮殿からの呼び出しが来たのは逗留して3週目、ヤラの月の末、諸国会議開催の5日ほど前のことだった。

 



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その39

 その日、私は城の方で手配してくれた正装に袖を通した。

 侍女が寄ってたかって着替えさせようとするのを遠慮し、部屋に引きこもって自分で着替える。今さら誰かに着替えさせてもらうのは、生理的に受け付けなくてダメだ。

 服はどれも新品。仕立ての良い白いドレスシャツと黒の上下、スカートは膝丈のものだ。足元は綺麗に磨かれた靴。チョ―カーを締め、最後にマントを羽織る。さすがに今日ばかりは髪を丁寧に梳いて、それに合わせて少しだけ化粧をした。光物は着けない。私の分際を考えると、着飾るべき立場にはないからだ。珍しく櫛を入れた髪のキューティクルが予想以上に光っているからそれで充分だろう。服のデザインは何となく魔法学院の学生服っぽいが、それよりは優雅な感じがする。

 姿見を見ると、相応の着こなしはできていると思う。何となく髪が茶色い古手梨花ちゃまみたいな雰囲気。しかし、これが二十歳過ぎた女の外見かと思うと毎度のことながら凹む。

 最後に髪の跳ねを確認し、自室から出て皆が待つ居間に行くと、全員が目を丸くした。

 逆に私も驚いた。予想以上だよ、皆。

 

「いや~、化けるねえ、あんたも」

 

 しみじみとマチルダが私を眺めまわして呟く。

 

「変かい?」

 

 私の言葉に、全員が首を振る。

 

「姉さん、綺麗」

 

「お似合いです、主」

 

「ありがとう。でも、正直あんたらと並びたくないよ、私ゃ」

 

 常日頃、当たり障りのない服しか着ていないくせに、それだけでも十二分に美男美女のオーラを発している面々が凛とした正装を身につけると、その輝きは眩しすぎて正視できないくらいだ。

 ミス・ロングビルを2倍知的にして、土くれのフーケを3倍凛々しくした感じのマント姿のマチルダ。

 妖精のような浮世離れした美しさにさらに磨きがかかり、もはや女神にしか見えないテファ。

 そして圧巻なのが、侍従としての正装を身に付けたディルムッドだ。『輝く貌』とまで言われる神すらひれ伏す美丈夫は、例える言葉が見つからないような男ぶりでありながらも飾らない態度でそこに立っていた。賭けてもいい。こいつに目を奪われない女はどこかに欠陥を抱えているはずだ。お姫様だろうが貴族の奥方だろうが、半ば暴力的にその視線を吸い寄せかねない実に危険な男だ。こいつをそういう目的で他国に送り込んだら、それだけでその国を乗っ取ることくらいできるんじゃないかと思う。クルデンホルフのベアトリスあたりにけしかければ、結構簡単に国盗りが……やめよう、何だかリアリティがあり過ぎる。

 そんな、ビジュアルのパラメータがカンストを起こしている連中だ。並んで立ったら、見た人の認識から一瞬で私は消えてしまうだろう。

 

 

 案内の侍従は、既に離宮の正面で待っていた。距離が近いので移動は徒歩だ。天気が良く、歩いていて気持ちはいいが、心の中は相変わらず曇り空。

 これから行われるイベントを思うと、どうしても気持ちは晴れない。

 話がどうなって行くのか判らない。だが、これは間違いなく杖によらない戦いだ。

 

 案内に従って、宮殿の中に入る。裏口から入る辺り、私たちのここでの立場が伺える。

 昔、何度も来たことがある宮殿ではあるが、いかんせん広いので行ったことがない場所がほとんどだ。劇場や図書館、遊技場や音楽室等の施設がある上、来客用の寝室だけでも50を超える宮殿なだけに、下手したら中で遭難できるかもしれないと思うくらいだ。

 その後の殿下の体の方はどうなのかは知らないが、責任感が強い方なだけにもうバリバリと執務をこなしているに違いない。

 そんな殿下の仕事場だが、玉座の間や議場である円卓のある白ホールとは別に、代々の王が政務を行う執務室がある。恐らく、今日の行き先はそこらへんだろう。

 

 宮殿内では既に多くのスタッフが政権の安定と国内の復興、そして諸国会議の準備のために働いているようで、途中で多くの官僚と思しき貴族や侍従とすれ違う。

 私たちに気づかない者もいれば、気づいて目で追う者もいる。

 パンダじゃないんだから、あまりじろじろ見ないで欲しいのが本音ではある。

 そんな中、ふと見たマチルダの表情が気になった。貴族たちを見る時の、彼女の遠くを見ているような、何かを懐かしむような眼差し。

 その視線が、ちょっとだけ引っかかった。

 

 

 

「こちらにどうぞ」

 

 案内された先は、ドローイングルームの一室だった。しかし、そこで私は思わぬ珍客と顔を合わせることになる。

 衛兵が両脇を固めるドアを開けて中に入るや、

 

「あ~~~っ!!」

 

 という大声が私を出迎えた。聞き覚えのある声だ。そこに、私の知己たる3人の女性と野郎一匹がいた。

 

「意外なところでお会いしますね、殿下」

 

 中央で目を見開いているアンリエッタが、驚きを隠そうともしない顔で言った。

 驚いたのはこっちも一緒だ。アンリエッタは判る。私がウェールズ殿下に同席を望んだ人物だ。アニエスも、まあいても不思議はない。だが、その隣で顔面崩壊起こして口をぱくぱくさせているルイズについては私も想定外だった。

 

 

 

 

 

 

 案内されたその部屋で、私は何とも居心地が悪い思いを味わう羽目になった。

 やや表情が冴えないアンリエッタに、その隣に控えるルイズ。そして自然体の私たち。壁際に控えるのはディルムッドとアニエス、そして才人のガーディアントリオ。才人もアルビオンとトリステインを行ったり来たりで御苦労な事だ。

 

「ちょっとあんた、えらいのと顔見知りなんだね」

 

 やや顔を引き攣らせたマチルダがぼそぼそと話しかけてくる。

 

「まあ、これでもあれの従姉だよ、私ゃ」

 

「馬鹿、『あれ』とか言うんじゃないよ」

 

 間抜けなやり取りをしている私の脇では、テファが柔らかい視線をアンリエッタに向けている。考えてみれば、この子にとってもアンアンは従姉妹だったね。初めて会う私以外の肉親に思うところもあるのだろう。

 そんな私の思惑も知らず、アンリエッタが口を開いた。

 

「お久しぶりですね、殿下」

 

 私に声をかけるアンリエッタは、前にあった時より少しだけ痩せたように見えた。

 

「陛下にもお変わりなく」

 

 『お変わりなく』というのは社交辞令。女王陛下は前にあった時より確実に表情が暗い。恐らく、マザリーニに戦死者リストを突きつけられるあのイベントがあったのだろう。悩み、苦しみ、そしてそれを乗り越えようとしている真っ最中。アンリエッタ女王陛下の成長物語第1章と言った感じだ。

 

「ええ、変わりありません。本当に、変わっていません。我が国の兵たちの多くがこの戦いで命を落としましたのに、何も知らぬまま、のほほんとしておりますわ」

 

「そうして胸を痛めていただければ、倒れた兵も報われましょう」

 

「私が犯した過ちは、そんなことだけで報えるものではないでしょう。聞けば、ウェールズ様もお怪我をされたというお話。本当に、ひどい戦だったのですね」

 

「ひどくない戦と言うのは、聞いたことがありませんよ」

 

 私が答えた時、ドアが開いた。パリーが慇懃に挨拶する。

 

「お待たせしました。ウェールズ殿下の到着でございます」

 

「待たせてすまない」

 

 続けて現れたのは、すっかり血色がよくなったウェールズ殿下だ。まだ少しだけ包帯が残っているが、足取りを見る範囲ではもう調子はほぼ戻っているようだった。

 

「よく来てくれたね、アンリエッタ」

 

 そんなウェールズを見て立ち上がったアンリエッタが、ウェールズ殿下に駆け寄ろうとしてその動きを止めた。俯いたまま、静かに震える女王陛下。感情が勝ちすぎて、何も言えないのだろう。

 

「ウェールズ様……ウェールズ様……」

 

 うわ言のように想い人の名を連呼し、その胸に飛び込むでもなくはらはらと泣き始めた。静かに彼の胸に縋りつくアンリエッタを横目に、私たちは示し合わせた訳でもないのに一斉に立ち上がってドアに向かった。どうすればいいのかと言った感じで戸惑っている才人も袖を引いて外に引きずり出した。

 固有結界『二人の世界』には、何人たりとも干渉してはいけないからだ。

 

 

 

 部屋を出た私たちは、すぐ隣のラウンジで時間を潰した。まだ日は高い。本格的にいちゃつくなら夜にするだろうから、そう程なくお呼びがかかるだろう。

 

「それにしても……まさか院長たちが宮殿にいるとは思わなかったぞ」

 

 油断なくドローイングルームのドアに視線を向けているアニエスが、言葉を探すように口を開く。まあ、当然出る質問だろう。才人からは何も聞いていないのだろうか。

 

「あはは、いい女には秘密がつきものだよ」

 

「あははじゃないわよ!」

 

 私の言葉にルイズが反応した。

 

「殿下って何よ。何であんたが姫さまと顔見知りなのよ」

 

 お気楽に返した私に、ルイズはささくれ立った言葉を投げかけて来る。マチルダやテファに対しても、少しだけ探るような視線を向けている。まあ、今更隠し立てもできないだろう。

 

「別にお前さんたちを騙しちゃいないよ。正しくは、元殿下さ。今の私は正真正銘、ただの平民だよ。加えていうと、マチルダもテファも貴族の位なんか持っていないさね」

 

 ルイズを正面から見据え、私は告げた。

 

「アルビオン王国王弟モード大公の娘ヴィクトリア・オブ・モード。それがこういう場所での私の名前だったんだ。でも、もうその名はアルビオン王室の系譜には残っていないんだよ」

 

「モード大公の……」

 

 ルイズがさすがに驚いて呟いた。アニエスも目を丸くして絶句している。才人だけが状況がつかめなくて首を傾げていた。

 

「つまり……ヴィクトリアって、アルビオンのお姫様なのか?」

 

「元だよ、元。父のことは、ルイズも知っているだろう?」

 

「その……処断されたと……」

 

 ルイズが言いづらそうに答える。

 

「その通り。もはや絶えて久しいモードの一族の端くれが私さ。だから、今さら殿下とか貴族とかっていうのは、私にはあまり関係がないんだよ。今の私はトリスタニアのヴィクトリア。ただのやくざな町医者さね」

 

 複雑な顔をするルイズだが、私としてはルイズにもアニエスにもその辺は割り切ってもらいたい。今さら敬語を使われでもしたら、ジンマシンが原因で死んでしまいそうな気すらする。せっかく築きあげてきた私たちの関係を、こんなつまらないことで御破算にしたくない。でも、才人だけは変わらないだろうと思えるのが、何故か嬉しかった。

 そんな私の思惑を他所に、アニエスが口を開く。

 

「一つ訊きたいのだが、アルビオンの王族に連なる院長が何故トリステインに?」

 

「それは内緒だ。訊かないでおくれな」

 

 それきり、アニエスは黙ってしまった。これ以上は自分は踏み込んではいけないと察してくれたらしい。ルイズもまた踏み込んでこない。やはり利発な子だ。訊かれたら答えるけど、彼女らが聞いても退屈でつまらない話だろう。

 

 そんな会話をしているところに、ドローイングルームのドアが開いた。

 

「待たせてしまってすまなかったね」

 

 照れたようにはにかむウェールズ殿下。

 その口に、アンアンが付けているのと同じ色の口紅が付いている事については黙っていよう。その方が後で面白そうだ。

 

 

 

 

 

 部屋に通され、対面は仕切り直しとなった。

 これが玉座の間ならば我々は膝を屈して相対することとなるが、今は非公式な場だ。応接用のソファに、顔を突き合わせて座ることとなった。

 

「殿下におかれましては、ご元気そうで何よりです」

 

「君のおかげだよ」

 

 私の挨拶に、ウェールズ殿下が微笑む。その隣には、やや顔を赤くしたアンリエッタが微妙な距離で座っていた。パーソナルスペースにおける恋人の距離と言うのは45センチだったっけね。

 

「もう体調の方は問題なく?」

 

「問題ないよ。それに、何しろ国の状態が状態だからね。そうそう寝てはいられない」

 

「お察し申し上げます」

 

 そんなやり取りを、ルイズが引き攣った顔で聞いている。才人から大体のところは聞いているのだろうが、やはり状況のインフレを素直に受け入れることはできていないようだ。一国の王子と、裏町の町医者がさしで話をしているのだ、無理はないと思う。

 社交辞令もそこそこに、殿下は初手から核心に入って来た。

 

「ヴィクトリア、君のレポートは読ませてもらった。まさか君からあんな難問を持ってこられるとは思わなかったから、どうしたものか悩んだよ」

 

「事が事ですので、お悩みいただくのも仕方がないかと」

 

 殿下の視線が鋭さを増した。

 

「では、早速だけど聞かせて欲しい。手紙にあった、ミス・ティファニアの虚無について」

 

 殿下はテファに視線を向け、静かに問うて来た。案の定、それを聞いたルイズの形相が一変する。

 その辺はスルーして、私は話し出した。

 

 アルビオン、ガリア、トリステイン、そしてロマリアに顕在化する始祖の属性『虚無』。

 その内の一人がテファであることを、私はレポートに書いた。

 そして、それについて証明する必要があるので、できれば虚無を知るトリステインのアンリエッタ女王の同席のもとで話をさせてもらえないかと。それは同時にテファの身の安全のため、アルビオンとトリステイン両国を巻き込むための私なりの方策だった。

 諸国会議への出席のためにアンリエッタがロンディニウムを訪れることは知っていたので、その会議が始まる数日前に話をする場を設けられれば一番効率がいいと思われた。アルビオンとトリステイン両国の後ろ盾を狙うならここでアンリエッタを巻き込んでおいた方が話が早いし、どうせさほど時間をおかずに結婚するだろう二人だ。その際にアルビオンとトリステインがどういう政治形態を取るのか知らないが、深いレベルでの交流が行われる事は間違いないだろう。多少の機密漏れなどさほど問題視されないと思う。

 そう言えば、王様同士の結婚と言えばコロンブスのパトロンだったイサベル1世を思い出すが、国土回復運動レコンキスタを成し遂げたあの女王を思うと、何だか『レコンキスタ』という言葉はその種の縁組に因縁があるのかも知れない。

 

 アンリエッタの同席を望んだ理由はもう一つある。

 問題の虚無の魔法だが、シティオブサウスゴータで披露したとは言え、実際にそれを使って見せろと言われるとテファの魔法は誰かを人体実験の検体にしなければならない。『忘却』は目に見えない魔法だからだ。

 そこで必要なのが四の四の秘法だ。始祖のオルゴールを使って実験をして見せればいい。だが、問題なのは、アルビオンの風のルビーがトリステインに渡っているであろう事だった。これについては水のルビーがルイズの手にあることから、まず間違いなくアンリエッタの手元にあると思われた。アンリエッタ女王の陪席を頼んだのだのはそのためでもある。

 証明のためにはアンリエッタの持つルビーを拝借し、テファがオルゴールの音を聞くことができることを証明して見せればいい。実際、始祖の祈祷書がルイズにしか読めないことをアンリエッタは知っていたと思うので、それと同じことだと思ってもらえれば証明は可能なはずだ。また、この場にルイズまでいてくれたことは、テファの虚無の証明のためにはプラスに働く。

 

 ルイズがトリステインの虚無だと言う事を知っている事を話した時、さすがにアンリエッタとルイズの目が鋭くなった。現時点では軍の上層部を除いては外部に漏れているはずのない話だが、そこはタルブの戦いの結果と過去に触れた書物、そしてルイズの指に輝く青いルビーから推測したと説明した。これでも元は王族であり、しかも財務監督官の娘だ。ある程度の稀少本に触れる機会はあると思ってくれるだろう。

 

 大隆起の事については悩んだものの、現時点では話すには時期尚早と踏んだ。その代わり、私のところにのこのこやって来たジュリオを材料にして、ヴィットーリオが虚無を集めてエルフ相手に戦争を始めようとしている事について、邪推の域を出ないと前置きをした上で話す。その無軌道な聖戦から、虚無の担い手たちを守ってもらう事こそが王族二人に期待することなのだと。

 これについては、ウェールズの説得にはアンリエッタを味方に付けることができるだろう。ルイズと言う虚無を戦争に投入したことに引け目を感じている彼女のことだ、争いごとに虚無を用いたくないと思ってくれるはずだ。

 

 そして、話の信憑性に厚みを持たせるために、これからの展開についても補足する。

 まずは四の四の秘法に関する情報。そして、虚無の担い手の数と、その特徴について。

 虚無の担い手は、全部で4人。皆、メイジでありながら系統魔法が使えないという共通項を持つ。それを聞いた殿下とアンリエッタの顔色が変わった。その脳裏をよぎったのは、恐らく同じ人物の事だろう。

 ガリア王ジョゼフ。無能王と言われた彼が虚無の担い手だと言う事に思い至ったようだ。

 時期的には、今は野望に向かってひた走るヴィットーリオが水面下で密かにジョゼフに接触を始めているころであり、その交渉が決裂した結果ヴィットーリオは対ガリアの聖戦の発動するというのが今後の流れだったと思うが、これについては諸国会議の行方を見てみない事には私の記憶通りに物事が動いているかは何とも言えない。

 

 

 私が言えるのはここまでだろう。これ以上の話は、何も知らない二人に話すには荒唐無稽に過ぎると思う。

 一気呵成に情報を叩きつけられ、事の整理に時間がかかっているウェールズ殿下に、私が求める要望は、テファの保護だ。

 私にとっては、何をおいても大切な妹だ。間違っても道具扱いをして欲しくない。その私の願いを聞いたアンリエッタの瞳が揺らぐ。恐らくはルイズを道具扱いした己の非を反芻しているのだろう。

 

 静かに私の話を聞いていたウェールズ殿下は、少し考え込んでから口を開いた。

 

「そういうことならば是非はない。我が国はミス・ティファニアを守護することを約束しよう」

 

「信じていただけるのでしょうか。自分でもかなり荒唐無稽な話と思いますが」

 

「君ともあろう者が、わざわざこんな手間をかけて嘘を吐くとは思えないよ。アンの表情を見ていても、君の言葉が嘘ではない事が判る」

 

「誓っていただけますか?」

 

「もちろんだ。杖にかけてミス・ティファニアの身の安全に全力を挙げることを誓おう」

 

 杖を掲げる殿下に、私の思惑の第1段階は終わった。

 

「では、改めて紹介しましょう。私の妹のティファニアです。お二人にとっても従妹にあたります」

 

「は、はじめまして。ティファニアと申します」

 

 いきなり話を振られて慌てたように挨拶するテファの様子を見ていると、とてもではないか世界を背負う運命の担い手とは思えない。

 後は、私の言葉を証明するだけだ。始祖のオルゴールを用意してもらい、アンリエッタが嵌めていた風のルビーを拝借する。テファに目隠しをして後ろを向いてもらい、ウェールズ殿下自らにオルゴールの開け閉めをやってもらう。そして、音が聞こえたところで手をあげてもらう聴力検査のような実験をした段階で、ウェールズは唸りながら私が言ったことに確信を持ってくれたようだ。

 

 アンリエッタに問われて、ルーンと共にオルゴールが奏でる調べの内容をテファが語る。

 それは、4つの使い魔の歌。

 

 

  神の左手ガンダールヴ。

   勇猛果敢な神の盾。左に握った大剣と、右につかんだ長槍で、導きし我を守りきる。

  神の右手がヴィンダールヴ。

   心優しき神の笛。あらゆる獣を操りて、導きし我を運ぶは地海空。

  神の頭脳はミョズニトニルン。

   知恵のかたまり神の本。あらゆる知識を詰め込みて、導きし我に助言を呈す。

  そして最後にもう一人。記すことさえはばかられる。

  四人の僕を従えて、我はこの地にやってきた。

 

 

 ここからが、最後の関門だ。

 虚無の担い手である事を納得してもらえた時点で、私はテファにフェイスチェンジのイヤリングを外すように告げた。震える手でそれを外すテファ。そして、久しぶりに人の目に触れるテファの耳。

 それは、モード大公の遺児であることの証でもある。

 アンリエッタとルイズ、そして才人が息を飲んでテファの耳を見つめていた。何を言おうにも、もう遅い。ここに、居合わせた全員が認める虚無の担い手はここに存在する。エルフ問題は国策に重大な影響を与えるが、虚無の担い手と言う事実はそれよりさらに重要なファクターだ。

 ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。すなわち、トリステインの虚無の担い手が挙げた奇跡のような功績の数々が、その天秤の傾斜を大きく左右している。その事実を踏まえて考えると、虚無と言う属性は為政者にとっては前世の感覚で言えば核保有にも似た甘美な魅力を持つ。エルフだからという一言で切り捨てることなどできるはずがない。

 

「ご納得いただけたところで、今後の措置について進言させていただきます。願わくば、テファをアルビオンの虚無の担い手として公認いただくとともに、トリステイン王国におかれましてもミス・ヴァリエールと同様の処遇をお願いしたく思います」

 

「トリステインも?」

 

 これに驚いたのはアンリエッタだった。

 

「現在の私たちはトリステイン王国の臣民ですので。また、トリステインは同じアルビオンの同盟国であるゲルマニアと異なり既に虚無の担い手がいることから、虚無の扱いについても信頼に足るだけの経験を有しておられ、そしてその重要性について一番ご存知の国。ご厚情を賜れましたら幸いです」

 

 少しだけ考えてから、アンリエッタは頷いた。

 

「虚無と言う以前に、ティファニア殿は私の従妹です。どうして無碍に扱えましょう」

 

「ご厚情、心より感謝を」

 

 すました謝辞を返しながら、私は心の中で拳を握っていた。アンリエッタならばこう答えるだろうと思っていた。取り敢えず、トリステインの庇護はこれで確保できた。

 

 だが、問題はここからだ。

 そんな私の表情を窺うような面持ちで、ウェールズ殿下は少し間をおいて言った。

 

「ヴィクトリア、一つ尋ねたい。君は今、ミス・ティファニアをアルビオンの虚無と言ってくれた。そのことが何を意味するかは判っているね? 君は彼女を大切にしていると聞いているが」

 

 深度数千メートルに沈んだような重い圧力が、全身を押しつぶすように圧し掛かってくる。

 言いたくもない事ではあるが、私はそれを言わねばならない。

 

「希望を言えば、今まで通りトリステインで一緒に暮らしたいとは思いますが……そのような我儘は、言える状況ではないことは理解しております」

 

 最後の未練が、言葉になって私の口から零れ落ちた。だが、私の言葉を聞いていたウェールズ殿下は、予想通りに表情を渋らせた。アルビオン、ガリア、トリステイン、そしてロマリアに虚無は顕在化する。その虚無を、海外にみすみす渡すことは国益の観点からもありえない。為政者として、取るはずのない選択肢だ。

 

 そして、その口から出て来た答えは、私が予想し、恐れ、そして一番聞きたくないものだった。

 

「アルビオンの虚無の担い手ということとなると、やはりアルビオン国内に滞在してもらわなければならないだろう。そうでないと、円卓に座る大臣たちの支持を得ることは難しいと思う」

 

 殿下の言葉が、静かに耳朶に染み込んでくる。

 やはり超えることができなかったハードルに、内心で落胆した。

 仕方がないことだ。絶対王政の国体であっても、輔弼する大臣たちを蔑にしては国政が立ち行かないことは私にも判る。

 だが、落ち込んではいられない。最善がダメならば、次善だ。それに対抗するためのカードを、私は一枚だけ携えてこの場に乗り込んで来ている。

 私にとってはまさに切り札。一枚しかない、テファを一人にはさせないための至高のエースだ。

 

「それは仕方がない事と思います。それにつきまして、一つ、私の要望を聞いていただきたく思います」

 

「要望?」

 

 怪訝な表情をする殿下を見据えたまま、私は告げた。

 

「ディルムッド」

 

 私が壁際の忠臣に声をかけると、ディルムッドは静かに一歩前に出た。

 

「この者は、我が杖と名誉にかけて、古今無双と請け負う兵です。名乗れ」

 

 私の言葉を受けて、ディルムッドが名乗る。

 

「御意を得まして光栄に存じます。ヴィクトリア殿下の臣、ディルムッド・オディナと申します。どうぞお見知りおきを」

 

 改めて見る美丈夫の姿に、少しだけアンリエッタの頬が赤く染まっている。

 だが、この男の真価に比べれば、面構えなぞグリコのおまけのようなものだ。

 

「この者の実力については、ミス・ヴァリエールとその使い魔たるミスタ・ヒラガに問えばいくらでも語ってくれることでしょう。一度槍を持たせれば、相手が精兵1個軍団であっても後れを取りません。ティファニアをアルビオンにてお預かりいただくのであれば、何卒この者を虚無の担い手専属の衛士として侍らせることをお認めいただきたく思います」

 

 事の展開に、さすがにティファニアのみならず、私とマチルダ以外の全員が目を丸くして驚いていた。

 メイジと使い魔は一心同体。私の魂の欠片とも言うべきもの差し出しているのだから驚くのも無理はない。

 テファが私たちの元を去らねばならなくなった場合の、私が己が身を切って提示できる最後のカードがこれだ。

 ルイズに才人がいるように、テファにもまたガードは絶対に必要になる。あの垂れ目が、嬉々としてテファを的にしている夢を見て以来、常に考えてきたことだ。

 しかし、アルビオンにあっては私には心から信頼できる武辺者がいない。雑兵では話にならない。何かあった場合にテファの身を守りたり得る精兵、最低でもワルドくらいの実力者が欲しかった。

 そういう想定において、何を置いても私が信頼する者がこの男だ。その槍の冴えは無双にして無敵。敵がよほど嫌らしい搦め手で来ない限り、騎士ディルムッド・オディナはテファにとって、まさに『絶対不落の真なる守り手』たり得るのだ。

 何より、彼と私はパスで繋がっている。彼を介すれば、テファとの会話も可能だ。彼がテファの近くにいてくれれば、テファを孤独の中に置き去りにするようなことをしなくて済む。

 

 彼の説得には私とマチルダの二人で当たった。

 最初、話を聞いたディルムッドは少しだけ悩んだようだった。本来は私の身を守るべき存在の彼が、身内とは言え違う人物を優先しなければならないのだ。彼の流儀に照らせば判断に苦しむところだろう。そこを私とマチルダは低頭して頼みこんだ。我が身よりテファの方が大事な私だ。譲る訳にはいかない一線だった。

 そして、私とマチルダの伏しての頼みを、無碍に断るほどの浅い付き合いを私たちはして来ていない。

 長く考えた末、彼は首を縦に振ってくれた。

 騎士であり、臣下である以前に、彼にとってもまた、テファは家族なのだ。

 

「この要望が通らなかった場合、私はテファの身柄を攫ってこの国を脱出することすら選択肢とするでしょう。どうか、お許し賜わりますようお願い致します」

 

 半ばねじ込むような私の要望に対し、ウェールズ殿下は少しだけ考えて、首を縦に振った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜。月明かりの下、記憶にある道を辿る。宮殿だけあって警備は相応に厳しいが、離宮から宮殿の庭に至る道には特に警備は配置されていない。

 宮殿の方では、非公式ながらも他国に先駆けて訪れたアンリエッタの為に、ささやかながら宴が催されているようだ。夜会としては私が知る規模とはかけ離れた小じんまりしたものだが、国の重鎮が集まり、ホールにおいては華やかなダンスも行われている気配がする。

 そんな楽の音を遠くに聴きながら、夜の庭の片隅。一本の大樹の下に出る。

 大きなスリジエの樹。いつも伯父上と一緒に見上げていた桜だ。

 

 久しぶりだね、親友。

 

 ごつごつした幹に両手で触れると、樹があの頃と全く変わらぬ感触で私を迎えてくれる。何気なく手を置いた表面の凹みは、あの頃と同じ高さでそこにあった。本当に、私の体は成長が止まっているのだと実感する。

 掌を通して、あの頃聞いていた水の音を今一度感じた。

 こぽり、こぽり、と水が汲み上げられていく音がするが、夜だけに水の勢いが弱いためか、少しその音は静かだ。

 庭を見れば、月の光の蹂躙を免れた闇が静かに美しい。微かな風に、積もった枯れ葉が音を立てる。

 その音に混ざるように、静かに自分の中の深いところに沈めていた気持ちが心に圧し掛かってくる。

 テファとの別れは、否応もなく一つの事実を私に突きつけて来た。

 自覚がなかったわけではないが、間違いなく、私はテファやマチルダ、そしてディルムッドを心の支えに生きて来た。

 言い換えれば、それは依存だ。

 いくら粋がって見せても、所詮、一皮むけば私は一人で生きる術を知らない脆弱な女に過ぎない。

 そんな私を支えてくれていた柱であったテファとディルムッドが、私の前からいなくなる。その事実が、どうしようもなく私を蝕む。

 いっそ、ウェールズ殿下を見殺しにして、私が王の座に就けば良かったのではないかとすら思う。

 『蛇の毒は、あとからゆっくりと効く』と言った悪役がいたっけ。

 今の私はそんな感じだ。

 あの日にジュリオによって注がれた『状況』と言う名の毒が、私の全身に回っていた。

 

 幹に額を付け、私はきつく目を閉じた。

 より鮮明に聞こえてくる、水の音。

 こぽり、こぽりと。

 いつだってそうだ。

 辛い時は、こうやって命を育む水の音を聞いて自分を宥めてきた。

 

 でも、さすがにこれは、今回は、ちょっときつい、かな。

 やはり、この世界は、辛いことが多すぎる。

 

 

 

「……辛いです、伯父上」

 

 

 

 

 呟きは静かに、闇に吸い込まれて消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 足音に気付いたのは、スリジエに縋って5分も経った頃だった。

 

「こんばんは、ヴィクトリア」

 

 振り向くと、そこに正礼装を身に付けたウェールズ殿下が立っていた。何で私がここにいると判ったのだろう。ホストが抜け出してきて何してるんだか。

 慌てて礼を取る私に、ウェールズ殿下が呆れたように言う。

 

「君は何度頼んでも、そういう他人行儀な真似をやめてくれないね」

 

「そうは言われましても」

 

「今宵は無礼講だよ。そうだ、もし良ければ会場に来てくれないか。ダンスの相手をしてくれると、嬉しい」

 

「その儀ばかりはご容赦を」

 

 あの頃ならいざ知らず、今うっかりそんなものを受けたら、アンリエッタが私に向かってオクタゴンスペルをぶっ放して来るだろう。私とて、まだ死にたくはない

 別に私は踊れない訳ではなく、ダンスについては一応一通りの事は覚えている。あくびが出そうな淑女教育の一環で子供のころから叩き込まれてきたし、トリスタニアに渡ってからはテファに教えるために幾度となく反芻していた。テファの相手をしてたので、むしろ男のステップの方がうまくなったのは変な感じだが。そして、まだ私が知らなかったステップについてはマチルダに教わった。あの姉は何気にのりが体育会系なので、私とテファが失敗を繰り返すうちにボルテージを上げてしまい、その内鞭まで取り出しかねない勢いだった。そんなマチルダは、威張るだけあって見事なダンスマスターで、当然のようにダンスもこなす芸達者なディルムッドと組んで踊って見せた時には私もテファも思わず拍手してしまった。これについては、ディルムッドから聞いた話だが、私たちに教えるため、密かに工房で彼を相手に復習を繰り返していたらしい。何とも可愛い我が姉だ。

 そんな私に微笑みながら、ウェールズ殿下が口を開く。

 

「ははは、またフラれたね。初恋は叶わぬと言うが、なるほど、先人は上手い事を言う」

 

 ……何を言い出すんだ、この殿下は。

 

「お戯れを」

 

 確かに、幾度か殿下にお誘いを受けた記憶はあるが、彼とは一度も踊ったことはない。モテる殿下はいつもいろんな女性にまとわり付かれていたのだ。私なんぞ気にかける必要もなかっただろうに。

 そんな思惑を余所に、殿下が言った。

 

「ところで……まだ君に礼も言っていなかったね」

 

 そう言って、ウェールズ殿下は、折り目正しく礼の姿勢を取った。

 

「あの時はありがとう、ヴィクトリア。君は命の恩人だ」

 

 真正面からの謝辞がくすぐったくて、私は頭をかいた。

 

「これでも治療師の端くれです。当然の事をしたまで、と申しあげておきます」

 

「それでも、私は君に感謝をしている」

 

 言葉を続ける殿下だが、その表情に重苦しいものが浮かぶ。

 

「それなのに、私は恩知らずにも君から大切なものを奪おうとしている。正直、どう君に報いればいいか判らない」

 

「……殿下は、為政者として、当然の責務を果たしておられるだけと存じます」

 

「そう言ってもらえると、救われるよ」

 

 そう言って殿下は少しだけ笑った。

 

「今回のことについて、褒賞については相応に用意させてもらうけど……褒賞とは別に、何か、私が君にしてあげられることはないだろうか」

 

 問われて一瞬、言葉に詰まった。

 願いがないわけでは、もちろんない。

 

『テファを、取らないで下さい』

 

 そう言えたら、どれほどいいだろう。だがそれは、もはや叶うことのない儚い希望だ。

 だから、私は精一杯の虚勢を張って嘘を吐いた。

 

「私の事はいいのです。その分、テファを大切にしてあげて下さい。芯の強い子ですが、人間関係では弱いところもある子です。できればあの子の笑顔が曇る事がないよう、取りはからって欲しいと思います。どこかに閉じ込めっぱなしと言うのだけはやめて下さい。それと、できれば歳の近い、打算なく付き合ってくれる友人も紹介してあげて欲しく思います」

 

「それはもちろん手当てしよう。だが……」

 

 そう言って、殿下は深い目を私に向けて来た。

 

「君の笑顔が曇ったままでは、ミス・ティファニアの笑顔も曇ってしまうのではないだろうか」

 

「……仰る意味が解りません」

 

「ミス・ティファニアは、君にとって大切な身内だったのだろう? 彼女にとっても君は大事な人だったようだ」

 

 彼が自分の言葉の意味を把握しているのか知らないが、彼が告げる言葉は、私にとってはあまりに酷なものばかりだった。

 

「……私では、あの子を守ってあげられませんから」

 

 崩れていく無表情と言う名の仮面を、必死に補修しながら私は応じる。それでも、殿下の追撃はやまない。

 

「君が彼女と離れて暮らしても平気だと言うのなら、私もこれ以上何も言わない。だが、できれば、本音を明かしてもらえないだろうか。彼女を引き受ける者として、私には君の気持ちを受け止める義務があると思う」

 

 もう、やめて欲しかった。これ以上やせ我慢を続けるにも、私にだって限界がある。

 だが、殿下は容赦なくとどめを刺しに来た。

 

「ヴィクトリア、私には今の君は、泣いているように見えるのだ」

 

 言葉は、刃だ。その刃が、私を支えていた細い糸の、最後の一本を断ち切った。

 押し寄せる感情の荒波の前に、理性の防波堤が、静かに崩れた。

 

 

 

 

 

「……平気な訳、ないじゃないですか」

 

 

 

 

 

 一度堰を切ってしまえば、もう止まれない。私の喉から漏れたそれは、怨嗟の声だ。

 

「辛くない訳、ないじゃないですか」

 

 地の底から響くような私の言葉に、殿下は少しだけ驚いたようだ。

 

「この国で、私がどんな思いをして来たか、どんな辛酸を舐めて来たか、殿下は御存じでしょう。人々からは生まれを蔑まれ、身内からもひどい仕打ちを受け、城と言う名の牢獄に閉じ込められて。いいことなど何もない、ただ息をするだけの、死んだような毎日でした。そうして送った十余年の生き地獄の果てに、ようやく出会えたひとかけらの温もりが、あの子でした。あの子の笑顔に、私がどれほど救われてきたか。どれほど励まされてきたか。殿下には、いえ、誰であっても理解してはいただけないでしょう」

 

 それは、静かな絶叫であり、穏やかな慟哭だった。

 自分でも抑えが効かない言葉の波が、夜に静かに染み込んでいく。

 

「私にとっては、王族の生活など空っぽでした。私が欲しいものなど、何一つありはしない空虚な世界でした。この身を飾る宝石やドレスも、食べ切れないほどの御馳走も、楽師が奏でる優雅な調べも、傅いてくれる多くの人々も、下の者を顎で使える権力も、何一つ欲しくなどありませんでした。私はただ、笑顔で日々を送りたかっただけなのです。朝日と共に目覚め、人々の為に働き、その対価として身の丈に合った糧を得て、大好きな人たちと一緒に御飯を食べ、他愛もない会話をしながら、明日と言う日が今日と同じように穏やかな日であると信じて眠ることができるような、そんな生活がしたかっただけなのです。あの子たちと出会い、トリステインに逃れ、私はやっと笑う事が出来たのです」

 

 負の電荷を持った心の欠片が両の目に結露して、静かに落ちていく。

 ぽたり、ぽたりと。

 

「あの子たちとただ静かに暮らしたいと思う事が、そんなに大それた望みなのでしょうか。この身には過ぎた幸せなのでしょうか。王家に関わる全てのものに、私は欠片ほどの未練もありません。王位の継承権はおろか、貴族と言う地位すら、私には必要のないものです。ただ、皆の笑顔を見ながら送れる穏やかな日々があれば、他に何も要らないと言うのに。それでも、私はあの子を失わねばならないのでしょうか」

 

 ウェールズ殿下に叩きつける筋合いのものではない非難を、私はただ静かに叫び続けた。それは、愚痴であり、やつ当たりだった。こんなことをしてしまった事を、恐らく、私は後できっと後悔するだろう。しかし、判っていても零れ続ける言葉は止まらなかった。

 

「何故、アルビオンには、この国には……悲しいことしかないのでしょうか」

 

 身勝手な女の、愚にもつかない一方的な泣きごと。それらをただ、殿下は静かに聞いてくれていた。

 まるで罪を己の身に刻むように。私の吐きつける毒を、一言一句噛み締めるように。

 

 遠くに聞こえる楽の音は、ラストダンスの曲に移ろうとしていた。吐き出したいものをあらかた吐き出し、少しだけ冷静になれた私は、呼吸を整えて首を垂れた。

 

「すみません。私は、テファの保護をお願いする立場なのに……」

 

 そんな私に、殿下は静かに首を振った。

 そして、

 

「すまない」

 

 それだけ告げて、殿下は深々と頭を垂れた。

 いつか、マチルダに対して私は王家を代表して詫びた事があった。今の殿下は、まさにあの時の私と同じなのだろう。アルビオン王国を代表して、彼が私と言う個人に頭を下げていることが、私には判った。

 ここまでしてでもテファと言う存在を求めねばならぬほど、彼もまた厳しい立場にあるのだと理解した。

 泣いてすがれば何とかなるのなら、私は幾らでも無様になれるだろう。

 靴を舐めろと言うのなら、素材がふやけるまで舐めても見せよう。

 だが、殿下が告げた一言からは、全てがもはや感情が入り込む余地のない次元で決着しているのだということが感じられた。

 どうにもならない、見えない敵。それが『現実』と言うものだった。

 

 

 

 新たな登場人物の声を聞いたのは、その時だった。

 

「ルイズ~、殿下は見つかったか~?」

 

 やや離れたところから聞こえてきたのは、才人の声だった。

 声の方を振り向いた時、庭木の影に慌てて隠れる白いものが見えた。

 小柄なそれは、恐らくルイズ。アンリエッタに言われて殿下を探しに来ていたのだろうか。

 気付かなかった。私としたことが。今の話を聞かれただろうか。

 

 潮時を悟り、私はウェールズ殿下に向き直って一礼した。

 

「御無礼の段、平に御容赦を。ですが、どこにあっても、この身がティファニアを案じていることだけは心の片隅に留め置いていただけましたら幸いにございます」

 

 それだけ告げて、私は殿下の返事も待たずに踵を返した。

 足早にその場を立ち去り、離宮に戻る。

 噛み締める現実を受けて、早足が、やがて駆け足に変わっていく。

 

 今夜の涙は、いつまで経っても止まってくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 転がり出した運命は、石のように坂道を落ちていく。

 

 翌日、私たちは今一度殿下から呼び出しを受けた。

 今度の場所は謁見の間だ。今回はアルビオン王国としての正式な呼び出しと言うことだろう。

 

 機能性を重視したシックなデザインのその部屋で、会見は定刻通りに始まった。

 居並ぶ私たちに、殿下は椅子に座ったまま事の次第を口にする。

 

「足労をかけてすまない。今日は、今後の君たちのことについて話さなければならない」

 

 居住まいを正してウェールズは口を開いた。

 

「今回のシティオブサウスゴータでの君たちの働きは、私としても大いに評価をしたいと思っている」

 

 そう言ってウェールズ殿下が鈴を鳴らすと、侍従の男が何やら書状をもって入って来た。恐らく、褒賞の目録だろう。

 

「まず、ヴィクトリア。これが私なりの感謝の形だ。受け取って欲しい」

 

 渡された書面には、目が飛び出そうな金額が書いてあった。

 びっくりして口の中が乾いちゃったよ。

 私を国持ちにでもしたいのですか、殿下。

 

「こんな大金、いただけません。それに、今のアルビオンの復興には、お金はいくらあっても足りないでしょう」

 

 私の言葉に殿下は頷いて肯定の意を表す。

 

「恥を忍んで言えば、厳しい事は否定できない。だが、君の功績はそれだけの価値があるものと判断した。どうか納めて欲しい」

 

 私は少しだけ躊躇い、そして口を開いた。

 

「では、これはこのまま無期限の債権として国庫にて運用いただきたく思います。基金化していただいても構いません。アルビオンの役に立つよう、仔細は財務卿の判断で取り決めて下さい」

 

「そうさせてもらえるとありがたい。望むままにしよう」

 

 そして、次に出てきた言葉は、ある意味予想の範囲内のものだった。

 

「これに合わせて、君の無断帰国の咎は特赦により免ずる。その上で、1週間以内に国外に退去してもらいたい」

 

 私の家人全員が身を強張らせた。だが、これは為政者として当然の判断だと思う。

 それでいい。公私はあくまで切り分け、涙を揮って馬謖をも斬る度量。例え功績がある女でも、特例を作らない。それこそが、ウェールズ殿下に期待した、そしてアンリエッタには期待できなかった為政者としての采配だ。

 

「御意のままに」

 

 私の言葉に、少しだけ殿下の表情が曇った。その辺は、まだ甘さが残るかな。これくらいのことは、眉一つ動かさずに言い渡して欲しい。

 殿下の言葉が続く。 

 

「次に、ミス・ティファニアについてだが……」

 

 テファの体が震えた。

 

「この宮殿の寺院にて立場を預からせてもらいたい。身分は王室付きの神官職を新設する。監督保護についてはアルビオン王家の名において政府が責任をもって行う。それと、軍に新たに私直属のミス・ティファニア専属の近侍を置く。位は騎士だが、権限は将軍と同等のものを与える。ミスタ・オディナ。貴公にはそれを頼みたい」

 

「光栄に存じます」

 

 私の後ろで、ディルムッドが首を垂れた。

 私としても、これで一安心だ。

 これで彼はようやく名実ともに騎士として胸が張れるはずだ。やっと日の当たるところに、彼を送り出せた思いだ。不出来な主として、英傑に不似合いな仕事ばかりをお願いしてきた分を、そこで取り戻して欲しいと思う。

 失うものはあるかも知れないけど、私自身が引け目を感じていた物を新たに手にできるというのなら、今回の収支はそう悪くないと思う。この時まではそう思っていた。

 だが、その収支は、次の殿下の言葉で一気に巨大な債務超過に陥った。

 

「最後に、ミス・マチルダ。君にはこれを受け取って欲しい」

 

 マチルダに渡された書状は、私のそれとはいささか体裁が違うものだった。

 何が書かかれていたのかは知らないが、読むうちに、マチルダの表情がみるみる内に険しくなって来る。

 

「……お戯れは困ります」

 

 かつて聞いたことがないほど、マチルダの声は堅かった。そこにあるのは、怨嗟だ。

 何が起こっているのだろう。隣で見ていて鬼気を感じるほどだ。

 

「厚顔であることは承知している。しかし、それしか私には君に対して報いる術を思いつかないのだ」

 

「マチルダ……」

 

 震える彼女に呼びかけると、マチルダは紙面を私に差し出してきた。

 テファと一緒に、その書面に目を落とす。

 そこには、マチルダに対する子爵位の叙爵とサウスゴータ地方太守への任命、そしてマチルダの父君に対する名誉回復の文言が書かれてあった。

 

 

 その意味を理解した時、私もまた手が、膝が、そして全身が震えた。

 

 

 こう来るか。

 

 昨日の話を理解したうえで、こういうことをして来るのか、ウェールズ・テューダー。

 

 

 

 噛み締めた奥歯が音を立てる。瞬間的に爆発しそうな感情を、必死になって私は押さえつけた。

 これに書かれていることは、つまり、マチルダをアルビオンに貼り付けるということだ。爵位と領地を持つならば、当然そこに対して責任を持たねばならない。マチルダがそれを受けた場合、彼女の性格からして、それをほったらかしにするような無責任な真似をするはずがない。

 これをマチルダが受けた時、私はテファとディルムッドだけでなく、マチルダをも失わねばならないのだ。

 世界から、急速に色が抜け落ちていくような気がする。あの日、皆を家族と思えた瞬間から鮮やかな色彩に彩られていた世界が、まるで幼少期の時に見ていたような無味乾燥としたものに還元されていくようだ。

 妙に現実が遠く感じる。

 去来するものは、音のない牢獄に閉じ込めらたような、名状しがたい喪失感だった。

 

 しかし、そんな奈落に沈みかけた私を踏みとどまらせたものは、私の隣にいるマチルダがあげた微かなうめき声だった。

 彼女の顔に、見たこともない表情が浮かんでいた。

 その作り物のように感情が抜け落ちた顔の向こうに見えるのは、彼女の中の葛藤だ。

 マチルダが、苦しんでいる。

 間違いなく、今一番苦しんでいるのはマチルダなのだということを私は理解した。

 うぬぼれのようだが、恐らくは、これを受けてしまった場合にトリステインに一人残される私のことを思ってくれているのだろう。彼女は、そういう人だ。いつだって、知らないところで私を支えて来てくれた、優しい女性だ。

 あの夜、砕け散った私に、歯を食いしばって伯父上への許しを口にしてくれたマチルダ。

 あの時の彼女の手の温もりの記憶が、私の感情にブレーキをかけた。

 

 

『それでも私は、私を気遣ってあんたが辛い方が……嫌だよ』

 

 

 彼女だけじゃない。

 あれほどまでに私を思いやってくれた彼女が私を思って苦しむことは、私だって受け容れ難いのだ。

 考えるまでもない。やるべき事は一つしかありはしない。

 今度は私が彼女の背中を押してあげる番なのだ。

 今は、考える余裕を作るべきではない。思うより、まずは行動。

 感情を簀巻きにして心の中の『保留』の箱に放り込んで、私は顔を上げた。

 

「すみませんが、お断……って、何だい」

 

 一息に答えを言おうとしたマチルダの袖を引っ張りながら、私は声をあげた。

 

「ちょっとおいで。殿下、ちょっとだけ失礼します」

 

 私はマチルダの腕を取り、部屋の外に彼女を引きずり出した。

 何事かと言うような顔で私を見るマチルダを真正面から見据え、ゆっくりと息を吸ってから告げた。

 

「マチルダ……この話、受けな」

 

 単刀直入に言う私に、マチルダは少しだけ呆気にとられ、次いで火のような目を向けて来た。

 

「嫌だね」

 

 マチルダらしい、きっぱりとした物言いだったが、ここは私だって譲れない。

 

「そこを曲げて頼みたい」

 

 食い下がる私に、マチルダが歯を剥いた。

 

「あんた、私の気持ちを知ったうえで言っているのかい?」

 

「もちろんだよ」

 

 そう言う私の襟首を、マチルダは掴みあげた。

 

「親の仇が差し出してきた施しを、喜んで受け取れって言うのかい」

 

「ウェールズ殿下は伯父上じゃないよ。一族郎党を許せないというのなら、私だってあんたの仇だよ」

 

「……」

 

 マチルダの視線を受けて、顔に穴が開きそうだ。

 

「後生の頼みと思ってくれていい。そのために私を恨んでくれても構わない。貴族に戻るんだよ、マチルダ」

 

 貴族に対するマチルダの本音については、微かに記憶にある。

 あれはマチルダとチャッカマンとの話の時だっただろうか。

 貴族であった頃の自分を夢想し、マチルダが自嘲するようなシーンがあったように記憶している。

 昨日、この宮殿に入った時もそうだ。あの目は、悔恨の目だったように思う。

 彼女の中のどこかに、貴族だったころの幸せな記憶が燻っていることを私は知っているのだ。

 だからこそ、私はここで引くことはできない。

 私は、モード大公の娘なのだ。

 

「あんた……」

 

 答えた私に向かって、マチルダが手を振り上げた。当然、受け入れなければいけない彼女の怒りだ。目をそらさず、その手を受けるつもりでマチルダを見つめ続けた。

 

「姉さん、ダメ」

 

 聞こえたのは、テファの声だ。追いついてきた彼女がマチルダの腕にすがりついて、振り上げた手を止めてくれていた。

 しばらく震えていたマチルダだが、やがてその手は力を失い、マチルダは疲れ切ったように私の襟を離した。

 

「どうしてさ……どうしてそんなこと言うのさ」

 

「あの目録に書いてあったことは、どれも父があんたから奪ってしまったものだからだよ」

 

 モード大公の臣下であるマチルダの父君。父の頼みを受け、テファ親子を受け入れたがために地獄の業火に焼かれてしまった忠義の人だ。その彼は父と同様、今に至るまで逆賊とみなされ、まともな扱いは受けていない。だが、元をたどれば一連の出来事の原因は父にある。マチルダの御尊父はその頼みを聞いただけであり、その行動の本質は忠義であったにすぎない。汚名は、もう充分に浴びた。アルビオン王国復興の恩赦として、名誉回復をしてもらってもばちは当たらないはずだ。

 

「家名も、名誉も、私の一族があんたから奪ってしまったものだよ。だから、返してあげたいんだよ、モード大公の、父の娘として。あんたからすべてを取りあげてしまう原因を作ってしまった者の娘として、あんたに返してあげられるものを全てね。御尊父自身をお返しできない事は許してもらいたいけど、せめて、彼のお墓くらいは建ててあげて欲しいんだよ」

 

「だからって……あんた、平気なのかい。こんなことされたら、私だってアルビオンから出られないじゃないか。あんた、独りぼっちになってしまうよ」

 

 この期に及んでも、なお私のことを気遣ってくれるマチルダに泣きそうになった。

 そんなマチルダだから、ここで私は一世一代の強がりを口にできるのだ。

 

「離れたと言っても、同じ空の下じゃないか。それとも、あんたは距離が離れると私との縁は切れちまうのかい?」

 

「馬鹿……本当に……本当に馬鹿だよ」

 

 そのまま、マチルダは膝をついて顔を覆った。

 

 

 マチルダが、再びマチルダ・オブ・サウスゴータになった経緯は、そのようなものだった。

 

 

 

 

 

 

 残された1週間と言うのは、お世辞にも長いものではなかった。

 ロサイスまでは馬で2日。正味5日の間に、あれこれと出発の準備を進めなければならない。

 移動についてどうしようかとあれこれ考えていたら、ロサイスまではパリーが馬車を用立ててくれた。

 公費は使えないだろうから、これは彼の私費なのだろう。

 フネくらいは自前で何とかしようと思ったのだが、これについてはトリステイン王室から厚意をいただけた。ルイズたちが帰国するのに合わせて回されるフネへの搭乗を許してくれた。至れり尽くせりで、何とも申し訳ない限りだ。

 

 残る時間、誰が言うともなく、皆で一緒に過ごした。

 恐らくは、4人で過ごせる最後の時間だ。

 いろいろなことを話した。

 アルビオンの3人のこれからの事や、トリステインでの私の事。

 私が知る限りのレシピを書いてテファに渡し、宮殿の料理人を泣かせてしまえとけしかけたり、新たに下賜されたマチルダの領地の地図を見ながらあれこれ内政のことを夢想したりもした。

 楽しい時間は、駆け足で過ぎ去る。

 最後の夜、私たち女三人で同じ部屋で眠った。ディルムッドも一緒にどうかと提案したが、残念ながら固辞された。

 今さら照れる間柄でもないだろうが、彼の中のルールを無理に捻じ曲げてもらう訳にはいかなかったので我慢した。

 夜更けまで、本当に取り留めもないことを話した。

 その一言一言を噛み締めるように耳を傾け、そのすべてを胸にしまって私は眠りに就いた。

 

 

 

 

 

 

 

 ロサイスの軍港に停泊しているフネは大きかった。

 ヴュセンタール号にでも乗れるのかと思ったら、さすがにそこまですごいフネではなかった。

 とはいえ、私が乗るには充分すぎるほど立派な客船で、風格も上品な、トリステインらしいデザインのフネだった。

 

 

 桟橋の下で、私は見送りに来てくれた皆と向き合った。

 マチルダとディルムッド、そしてテファ。監督員として、パリーが同行してくれていた。

 そのパリーの表情が、苦悶に歪んでいた。

 

「殿下……本当によろしいのですか、これで」

 

「殿下はおやめよ、爺」

 

「しかし……」

 

「すまないね。でも、私もこれが一番いいやり方だと思う。しょうがないんだよ」

 

 私の言葉に、パリーは嗚咽をこぼし出した。

 

「悔しゅうございます。悔しゅうございますぞ」

 

「その言葉、墓場まで持っていくよ。今までありがとう、爺。爺に出会えて、本当に良かったと思う。いつまでも元気でね」

 

 爺を抱きしめると、ついに大声で泣き出してしまった。

 その隣で、マチルダは肩をすくめていた。

 

「心配だよ。あんた、一人だと生活破綻しそうだからねえ」

 

「まあ、何とかやってみるよ。皆の家なんだ。ちゃんと掃除もしとくからさ」

 

「できれば、工房の掃除も頼むよ」

 

「ああ、ちゃんとやっておく」

 

 そういって握り拳を差し出すと、笑ってグータッチを返してくる我が姉。

 領地経営は工房経営より大変だろうから、体を壊さないように気を付けて欲しい。

 

 その隣で、直立不動のディルムッド。

 これからは、私の耳と口になって動いてもらうべき忠臣だ。

 そんな彼だから、伝えるべきことは一言で済む。

 

「今さら、お前に対する信頼を口にしてもくどいだけだろうね。テファを、頼むよ」 

 

「一命に代えましても」

 

 恭しく礼を返す彼にも、またグータッチで応じる。

 

 

 最後が、テファだった。

 そんな彼女の表情は、完全に混乱しているようだった。言いたいことと感情が、うまくリンクしていない感じだ。

 

「私、私ね……」

 

 ただ、言葉を探すようなテファ。

 こう言う時には、言葉は要らない。

 私は、できるだけとびきりの笑顔で、両手をテファに広げた。

 

「はい」

 

 それが、テファの最後の壁を崩してしまったのだろう。

 表情が一気に崩れ、泣きながら抱きついてくるティファニア。

 そう言えば、初めてあった時もこうやって抱きしめたっけ。

 あの頃は身長はあまり変わらなかったのに、今は何だか大人と子供みたいだ。

 体が丸みを帯び、顔立ちも幼さより優しさが表に出た感じの立派な女性になったティファニア。

 できれば、ずっと一緒にいたかった。

 テファやディルムッドやマチルダ、たまにジェシカや才人やルイズもいる場所で、いつまでも暮らしていたかった。

 その場所で、笑って、泣いて、時にはちょっとだけ喧嘩して。

 嬉しかった。

 楽しかった。

 そして、幸せだった。

 そんな他愛もない日々さえあれば、他に何もいらなかった。

 同時に、判ってもいた。

 そんな幸せも、決して永遠に続くものではないということを。

 かりそめの幸せは、もう期限切れ。残念だけど、私はここで脱落だ。

 でも、テファは一人じゃない。マチルダもディルムッドもいる。あの二人がいてくれれば頑張ってくれると思う。

 根は強い子だ。へこたれる子じゃない。運命にだって、きっと立ち向かって行けるだろう。

 

 その時、出航を知らせるホイッスルが鳴った。

 

 

 お別れだ。

 

 

 離れがたい思いを断ち切ろうとした時、軍港の入り口の方から馬蹄の音が響いた。

 見ると、騎馬の群れが私たちの方に走ってくるのが見えた。

 命知らずが土壇場になって仇討ちにでも来たのかと思ったら、先頭に見知った顔が見えた。

 

「ホーキンス将軍!?」

 

 目を丸くする私たちの前で、ホーキンスは手綱を引いて馬を止めた。見れば、ホーキンスをはじめ騎士の面々は皆、仰々しい正装を身にまとっている。何の騒ぎだろうか。

 

「これはこれは、ヴィクトリア殿下。奇遇ですな。馬上から失礼しますぞ」

 

「閣下、どうしてここに?」

 

「何、今日は部下を連れて馬術の訓練でしてね」

 

「……礼装で訓練?」

 

「いつもの服は洗濯中なのですよ」

 

 そんなやり取りをしていると、馬列が見事な挙動で整列をしていく。

 それは、貴人を見送る際の隊列だった。

 

「本日の訓練は、歓送の礼の実習になっておりましてな。いささかお騒がせ致しますが、殿下はお気になさらず御乗船下さい」

 

 そんなことをぶち上げながら笑うと、ホーキンスは不意に真面目な顔になって声を落とした。

 

「この者たちは、いずれも殿下にサウスゴータで一命を助けていただいた者たち。この先、どのようなことがあっても殿下のためならば杖をもって馳せ参じましょう。どうか我等の見送り、お受けいただきたく思います」

 

「……無茶苦茶ですね」

 

「この上なき褒め言葉と存じます」

 

 嬉しそうに笑うホーキンスの笑顔に、私は少しだけ笑い返した。

 

「では、閣下」

 

 そんな彼の前に、私はテファの肩をぐいと押し出した。

 

「この子を頼みます。私の、妹なんです。本当に大事な、妹なんです。何かあった時は、どうか力になってやって下さい。お願いします」

 

 私が首を垂れると、ホーキンスは深く頷き、杖を構えて礼を取った。

 

「杖にかけてお約束致します」

 

 その時、二度目のホイッスルが鳴った。

 時間だ。

 

 皆を振り返り、全身全霊を込めて、とびきりの笑顔で手を振る。

 

 ばいばい、みんな。今までありがとう。本当に、ありがとう。私は果報者だよ。

 

 本当に言わなければいけないそれらの言葉をどうしても言えず、口から出たのは当たり障りのない言葉だけだった。

  

「じゃあ、皆……元気でね」

 

 そのまま踵を返し、馬の列の前をフネに向かう。

 兵たちが一斉に杖を構える。素晴らしく訓練された兵たちだった。

 まだ包帯が取れていない者がいる。ちょっと傷が残っちゃった人もいる。

 皆、私の患者だ。

 私は杖を抜くと、静かに捧げて答礼の姿勢を取った。

 

 桟橋のタラップのところで、二人が待ってくれていた。

 泣きそうな顔のルイズと、珍しいほど真面目な顔をした才人。

 

「待たせたね。行こうか」

 

 二人に笑いかけ、タラップに足をかけてゆっくりと登る。

 一歩ごとに、足に鉛の錘が重なってくるような気がする。

 一歩ごとに、皆で過ごしてきた時間が脳裏をよぎる。

 背中に感じるのは、皆の視線だ。

 でも、振り返れない。止まれない。

 今足を止めれば、私は絶対に泣いてしまうだろう。

 皆には、笑顔の私を覚えておいて欲しかった。

 

 無限に続く天空への梯子のように感じられたタラップを登り切り、船内に足を踏み入れる。

 そこが、限界だった。仮面の笑顔が、顔から落ちた。

 ひどい疲労感を感じてキャビンの椅子に腰を落とし、体の内側から溢れようとするものを歯を食いしばって押さえつける。

 

「ヴィクトリア……」

 

 恐らくは死人のような顔をしているだろう私の隣に座り、ルイズが肩を抱いてくれた。

 その手に、マチルダとはまた違った、ルイズらしい温かみがあった。

 

「大丈夫だよ。大丈夫だから……」

 

 自らを諭すように呟きながら、自分の手綱を全力で引き絞る。全力で、感情を押さえつける。

 今は、一刻も早く出航して欲しかった。

 この感情に耐えきれなくなった時、私はこのフネを飛び降りてしまうだろうから。 

 程なく、ゆっくりとフネが振動し、出航したのが判った。上甲板からは乗員たちが帽子を振って騒ぐ声が聞こえている。

 

 そんな中、俯く私の前に才人が立った。

 

「ヴィクトリア、甲板に行くぞ」

 

 真面目な、力強い声で彼が言う。その眼差しは、いつもの彼からはかけ離れた真剣なものだった。

 

「それはできない。できないよ……」

 

「ダメだ。行かないとお前、絶対後悔するぞ」

 

「あんた、無茶言うんじゃないわよ!」

 

 ルイズが私の側に立って才人を制するが、そんなルイズを無視して、ついに才人が実力行使に出た。

 

「ごちゃごちゃ言うのは後にしろ、行くぞ!」

 

 言うなり、才人は私を軽々と抱えあげた。青年になりかけの才人だ、子供子供した私の体格など軽いものなのだろう。抵抗する余裕すら与えてもらえず、人攫いのように私を抱えたまま才人は足早に上甲板へのタラップを駆け上った。

 

 甲板に出ると、外は風が強かった。

 上甲板に出たところで、才人は私を下ろして舷側を指さした。

 

「ほら、行けよ。行って顔見せて手を振って来い」

 

「無理だよ、私、泣いてしまうよ……」

 

 追い詰められて、私は本当に泣きそうだった。しかし。

 

「それがどうした!」

 

 声を荒げて、才人は私の両の頬を挟むように叩いた。

 そして、私が知る彼からは想像もつかないくらい厳しい口調で、才人は私を叱りつけてきた。

 

「家族なんだろ! 大事な人たちなんだろ! 泣きっ面くらい見せてやれよ! このまま、あんなすました顔でお別れされた方が、あの人たちだって辛いに決まってるだろう!」

 

 才人の言葉に、精一杯引っ張っていた私の中の手綱が千切れた。

 強がっている自分が、ひどく哀れなものに思えた。

 どうしようもなく、皆の顔が見たかった。 

 

 舷側に向かい、鈴なりの人たちをかき分けて前に出る。

 ようやく手すりに辿りついた時、桟橋に立つ3人が一瞬だけ見えた。

 私が愛した、私の家族たちだ。

 視線が交差し、感情もまた交差した。

 私たちは、互いのことをこそ大切にしてきたのだと。

 私が皆を思うように、皆もまた私のことを思ってくれていたのだと、その時、思った。

 

 手を振ろうとした次の瞬間、皆の姿が、厚い雲の彼方に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロサイスからラ・ロシェールまでの船旅は半日。午後の船出だったこのフネの船旅の後半は、夕暮れに彩られていた。

 何をするでもなく、彼方に消えたアルビオンの方向を見ながら、私は上甲板にしゃがみ込んでいた。

 立ち上がる気力が、どうしても湧かなかった。

 でも、まだ、これからだろう。

 失ったものの大きさを、本当の意味で実感するのは、まだこれからだろう。

 

 呆けた頭でそんなことを思っていると、目の前に毛布が差し出された。

 

「風邪引くわよ。お医者さん」

 

 ルイズだった。受け取る手をあげるのもしんどい私が動かずにいると、業を煮やしたルイズが無理やり私の体に毛布を巻きつけた。

 次いで、自分も毛布を被ると、私の隣にしゃがみ込んだ。

 

「……こんな時に何だけど、ありがとうね。お礼を言うわ」

 

「ん?」

 

「サイトを助けてくれたんでしょ」

 

「ああ」

 

 そんなこともあったっけ。何だか随分遠い昔の事のような気がする。

 

「私だけじゃ、無理だったよ。皆の助けがあったからこそさね」

 

 それだけ言って黙り込む私に、ルイズは尚も話しかけて来る。

 精一杯、話題を探して元気づけようとしてくれている彼女の心遣いが、胸に染みた。

 

「ねえ、ヴィクトリア。あんたたちって、トリステインに来たばかりのころってどうだったの?」

 

「え?」

 

「何かこう、エピソードとかあるでしょ? どんな風に診療所始めたのか、とか」

 

「そうだ、ね……」

 

 私は記憶を辿って、私たちの思い出話を始めた。

 

 

 あれは、トリスタニアで診療院を始めたばかりの頃だったかな。

 私たちは皆アルビオンの育ちだっから、いろいろ慣れなくてね。飲み物はワインばっかりだし、食べ物も結構違うんだよ。テファは今でこそ料理が上手だけど、最初はナイフの持ち方も知らなかったんだよ。最初にやらせたのは桂剥きって言ってね、大根の皮をどんどん剥いてく練習をさせたんだよ。誰だってそうだけど、最初は上手く剥けないし、加減を間違うと手を切ったりもするんだ。あの子もその辺の通過儀礼は一通りこなしたかな。

 そんな修行をして、初めて晩御飯を作ったんだけど、味付けに失敗しててね。スープが、すごくしょっぱかったんだよ。

 あの子も一緒に食べたけど、口に入れた瞬間、失敗に気づいて泣き出しそうになっちゃってさ。でも、マチルダもディーも、もくもくと全部平らげてね。私だって全部食べたよ。しょっぱかったけど、あの子の初めての作品さ。気持ちだけで充分に美味しいじゃないか。皆で食べ終わって、一斉に『美味しかった』って言ったら、あの子本当に泣き出しちゃったんだよ。

 泣き虫だったねえ、テファは。一人寝も初めはやっぱり慣れなかったみたいでね。ある夜、水を飲みにキッチンに行く時にあの子の部屋の前を通ったら、中から泣いてる声が聞こえたんだよ。そりゃ、まだ子供だったんだ、お母さんが恋しくて泣きもするさ。

 その声があんまりにも可哀そうでさ。部屋に帰って枕取って、テファの部屋のドアを叩いたんだよ。

『テファ~、何だか一人で寝てると落ち着かないんだ。一緒に寝てくれないか?』

 って言ってさ。

 そりゃテファも驚いてたよ。そのままあの子のベッドにもぐりこんで、いろいろ話を聞いたよ。テファのお母さんの事、私が知らない父の事、ちっちゃい頃はどういう遊びをして、どういう男の子が好きなのか、なんてね。

 そんな事をしてたらノックの音が聞こえてさ、枕持った、むくれたマチルダが入って来たんだよ。

『ちょっと~、私だけ仲間はずれはひどくない?』

 って言ってさ。あんまり大きなベッドじゃないのに、無理やり端っこに入り込んで来たんだよ。テファと二人で狭い~とかマチルダは胸が大きすぎるんだよ~とかって笑ってたら、またドアが鳴るのさ。

 出てみたら、お盆を持ったディルムッドがいてさ。

『おやすみ前のところ、失礼します。ミルクを温めてみましたのでどうぞ。砂糖は入れておりません』

 なんて言ってさ。でもカップは3つしかなくて、あんたの分は?って訊いたんだよ。そうしたら

『淑女の夜の内緒話の場に男が身を置くのは無粋。今宵はご容赦を』

 なんて言うんだよ。そんなこと言いながらウインクするあいつにテファもマチルダもきゃー、かっこいーなんて騒いでさ。そのころには、もうテファもすっかり笑顔でね、明け方までしょうもない話をして過ごしたんだよ。

 

 楽しかったなあ。

 

 皆、優しくて、暖かくてさ。

 

 本当に、私なんかには……もったいないくらい、素敵な……人たちで……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 茜色に染まった、北の空。

 大きな雲が、連なっている。

 いくつも、いくつも。

 

 

 

 

 その雲の向こう。

 

 

 

 

 アルビオンはもう、見えない。

 



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その40

「先生」

 

 客の姿がまばらになった店内、ジェシカは一番奥のテーブルに突っ伏していた小さな客の肩を揺すって起こした。

 

「ん?」

 

 アルコールで濁った眼をした少女が覚醒し、ジェシカに顔を向ける。

 

「看板かい?」

 

「もうじき日が変わるわ」

 

「おや、それは長居しちまったね。じい様連中は?」

 

 周囲を見回し、先刻まで一緒に飲んでいた人々を探す。

 

「もう帰ったわ」

 

「うわ、置き去りとは薄情な連中だなあ」

 

 寝ぼけ眼のまま財布をまさぐり、硬貨を取り出してジェシカに渡そうとする。

 

「もう、もらっているわ」

 

「誰に?」

 

「先生が言うところのじい様たちに」

 

「何だ、また勝手に払っちゃったのか。けしからんなあ、もう。ジェシカ、お前さんも私にただ酒を飲ませる片棒を担いじゃダメじゃないか」

 

「はいはい、次は気を付けるわよ。今度先生が奢ってあげればいいでしょ?」

 

「それもそうだね。それじゃ、帰って寝るよ」

 

 判っているのかどうか怪しい感じで受け答えしながら、少女が黒いコートを着こむ。

 

「毎度どうも。気を付けて帰ってね」

 

「ありがとう。御馳走様」

 

 どこか怪しい足取りで店を出行く少女の後姿を見送り、ジェシカは傍らの父親に話しかけた。

 

「見ちゃいられないわ。ここのところ連日だけど、お店が開いてから日が変わるまでよ。大丈夫なのかしらね」

 

「健康については、あの子の方が専門家よ」

 

「でも、お酒の量もどんどん増えてるし、あの顔色……」

 

「眠れないのよ、きっと。ここに入り浸る理由も、判るわ」

 

 どこか、悟った口調でスカロンは言う。

 

「……そうだったわね」

 

 誰もいない家。それがどれほど辛いかはジェシカにも想像がついた。これまでの少女の日常を知るだけに、少女の心境は察するに余りある。

 

「何とか、ならないかしら」

 

 かつて、母を亡くして悲嘆にくれた記憶があるジェシカにしてみれば、その立ち直り方にも思うところもある。だが、自分には父であるスカロンがいたが、今の少女には支えてあげられる者がいないことも知っていた。

 

「今は、耐えなきゃいけない時よ。潮目が読めない時は、待つのが鉄則」

 

「そんな簡単に変わるものなの、潮目って?」

 

「……変えてくれる人がいればね」

 

 そう言ってスカロンは妙に深い目を愛娘に向ける。

 その手には、届いたばかりの封筒が一通。

 

 

 

 

 

**************************************************************************

 

 

 

 

 

「石頭、間に合わせ、接待、いかがわしいイカ、花葬、うちわゲンカ、かず子ちゃんの笛……『え』は何だっけなあ……」

 

 アルコールの名残が残る呆けた頭で自分でも訳のわからないことを呟きながら、上着のポケットに手を突っ込んだままに夜の街をそぞろ歩く。酔いはあらかた醒めているが、まだ少々足元が覚束ない。

 夜気が妙に寒い。酒が抜けかけているせいもあるのだろう。

 医者とて人の子。くさくさする時だってある。そんなくさくさを酒精で洗い流そうと酒場に出向くのだが、その度に街のじい様たちが寄って来て酒を注いでくれるから困る。いつも分量超過で酔い潰れてしまうのだ。

 そんな困った連中だけど、私が診療院で一人暮らしを始めた事は皆知っている。広いようで意外と狭い王都の住人達のネットワーク。私以外の3人が、当分の間マチルダの故郷に行っているという私の説明はあっという間に広まっていた。日頃楽しくやっていた私たちを知っている人達なだけに、今の私の心情を察してくれるのだろう。酒瓶を持って軽口を叩きながらも、私を元気づけようとしてくれているのが判って鼻の奥がつんとなったのも一度や二度ではない。

 トリスタニアは、いい街だと思う。

 この街の人達のためならば、生涯を捧げても私は後悔しないだろう。

 皆のために働き、穏やかに歳を取り、町内最強の謎の婆さんと呼ばれながら、やがて街外れの墓場に眠る。

 それは、予感にも似た将来の夢だ。

 そうやって、私はこれからの私の時間を過ごしていくのだろう。

 

 夜の闇が絶好調の時間、私はチクトンネ街をふらふらと自宅に向かった。

 ちょっと前までは、こんな時間に家に帰れば、般若面のような形相をしたマチルダが玄関先に仁王立ちしていたものだ。

 

『何の連絡もなしに午前様とは、いい御身分だねえ、え?』

 

 今でもそんな幻聴が聞こえそうなくらい、こっぴどく怒られたものだった。あの頃はお前は私の父ちゃんか~、と思ったりもしたが、今となってはその暖かさが懐かしい。『寂しさは 叱ってくれる 人がいない』という川柳は何で読んだっけね。

 つらつらとそんなことを考えながらコートのポケットから手を抜いて、その手にある杖をゆっくり壁際の物陰に向ける。

 

「待て待て、撃つんじゃねえ馬鹿、俺だ!」

 

 割と焦った声が闇の中から響き、最初に拳銃を持った手が出てきて、次いで男の全身が現れる。

 

「何だ、あんたかい」

 

「何だ、じゃねえよ。いいから杖降ろせって」

 

 言われるままに杖を下げると、現れた武器屋は甚だ不本意そうな顔をした。

 

「つくづく可愛げがねえ女だな。何だか護衛に回ってるのが馬鹿らしくなってきたぜ」

 

「だから大丈夫だって言ってるじゃないか。薬屋もあんたも心配性なんだよ」

 

 なりは小さくとも、これでも水のスクウェアメイジだ。我が身くらいは守れる。

 

「馬鹿、俺が心配してるのは検死のお役人連中だよ」

 

「何でさ?」

 

「おめえ、自分がこの間やったこと忘れたのか? 検死の役人、皆揃ってゲロぶちまけてたぞ」

 

 あれは正当防衛だったのだから勘弁してもらいたい。

 これまではディルムッドと言う腕の立つ従僕がいたがために私に一目を置いていた連中が、彼がいなくなった途端に私を見る目を変えるのは仕方がないことだろう。私を怨んでる奴らや功名心から私の首を欲しがっている連中など、襲ってくる連中の種類はいろいろいるのだが、だからと言って牙を剥いて来るその種の輩に対し、素直に首を差し出してやるつもりはない。スクウェアメイジというものがどういうものか判っていない奴が多いのも確かだ。最初の内は3日に一度は挨拶があったのだが、その都度律義に対応をしていたので最近はさすがに静かになって来ている。

 先週、そんな連中が久々に刺客を送って来たので、連中の一人を捕まえて、ちょっと『お話』して教えてもらった組織の根城に出向いて親分を含めて10人ばかりちょんちょんとスライスしたのだが、遺体の損傷があまりに酷いために司法当局ではそれなりに問題になっていると聞いている。

 

「しょうがないじゃないか。一気にあれだけの連中を片づける魔法、これしか知らないんだから」

 

 真面目に攻撃系の魔法を覚えればいいのだろうが、今のところ使い慣れたウォーターカッターで足りているのでその種のモチベーションが上がらないのだ。

 

「前々から俺らにやり方がスマートじゃねえとか言ってたけど、相方がいないとおめえが一番えげつねえんだよ。とにかく、街の平和のためにもおめえは今日は帰って寝ちまえ。俺はこれから夜回りだ」

 

「御苦労さん」

 

「じゃあな」

 

 そう言って歩き去る武器屋が鋭く口笛を吹くと、屋根や物陰で人が動く気配がする。一体何人潜んでいるのやら。味方でよかったが、敵にしたら厄介極まる奴だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 家に帰って、コートをハンガーにひっかけ、戸棚から酒瓶を取り出してちびちびと飲みながら居間のソファに体を投げ出した。

 実際、私を狙う輩が出て来るケースはいろいろ考えた。私個人に対する恨みであれば全てはシンプルなのだが、政治的な視点となるといろいろ面倒なことになってくる。ウェールズ殿下の支配が日増しに強まっている今となっては対アルビオン的な意味での私の利用価値はすっかり底値になっているだろうが、虚無が絡みの視点ではロマリアあたりは未だに私に価値を見ているだろう。

 あるいは、気まぐれな無能王が思い付きで私に興味を示したら、花壇騎士団のどす黒いのを送り込んで来るかもしれない。そうなるとさすがに音に聞こえたトリスタニア町内会も旗色が悪いが、その種の動向は動きがあった時点で耳に入るだろう。その時には三十六計だ。気になるところはシェフィールドか。純粋なメイジ相手と言うことならルイズすら追い詰める虚無の使い魔だ。さしの喧嘩で勝てるかどうか。いつもディルムッド頼みだったからなあ。今度来るときはどんなのを連れて来るのかと思うと少々気が滅入る。

 そんな事を考えながら、明かりを落としたリビングを見る。

 静かだ。

 瓶の中で微かに揺れる酒が立てている、あるかなしかの波紋の音が聞こえてくるようだ。

 

「一人……なんだねえ」

 

 一人暮らしは独り言が増えるものだが、確かに私も独り言が増えた。

 夜になれば、音のしない家で一人でご飯を食べる。

 朝になっても、音がしないことには変わりはない。

 朝一番でディルムッドから念話が届くが、便利だろうと思ったそれは、却って己の孤独を浮き彫りにするツールにしかならなかった。

 

『おはようございます。そちらはいかがでしょうか?』

 

 そんなメッセージから朝は始まるが、それに対して後ろ向きな事は言えない。

 

『問題ないよ。うまくやってる。そっちはどうだい?』

 

『こちらも問題なくやっております。テファさんが、主がきちんと食事をしているかを気にされておられます』

 

『ちゃんと食べているから安心するように伝えておくれ』

 

 そんな感じに返すが、実のところ、あまり食欲がない最近の私の食生活は至って適当だ。それこそ『ベルムス巻き』に勝るとも劣らぬ手抜きをしているのだが、それをテファにそのまま伝える訳にはいかないので返す言葉は綺麗事ばかり。見えないのをいい事に、日々強がりを重ねている。

 話ができれば辛くはなかろうと思っていたが、やはり皆が自分の前にいてくれなければ彼の話越しに見えてくる情景もどこか現実感が乏しい。それは、渇きに苦しむ者が、一滴だけ水を与えられたような感覚に近い気がする。いっそない方がマシと言う奴だ。

 確かに、会話ができることはありがたいことだ。それがなければ今頃私はどうなっていたやら。

 だが、その事が副作用として寂しさを増幅すると言うことにまでは気が回らなかった。

 お姫様をやっていた頃も寂しくはあったが、ここまでは心が痛まなかった。だが、なまじ皆と触れ合う温もりを知ってしまっただけに、そのダメージをいなすためにとてつもないエネルギーを費やさねばならない。

 でも、方法を知らない訳じゃない。一時的にでも、思考の中からそれを追い出すことはできる。

 脳のデフラグ作業。すなわち、睡眠だ。

 とは言え、最近は素のままでは眠気と言うものが全然訪れてくれないから困っている。故に、ここは酒の神様バッカスさんの出番だ。

 酒瓶からダイレクトにぐいぐいと飲み、肝臓の許容量を超えれば勝手に意識は落ちてくれる。

 そんな訳で、飲むだけ飲んで、あとは身体の反応に任せるだけ。 

 血管を駆け巡るアルコールを感じていると、酒瓶にえらくしょぼくれた顔をした女の子が映っているのに気付いた。

 

 誰だね、あんたは?

 

 ……私だった。

 

 あまりにひどい顔だったので、無理にでも笑顔を作ってみようとしたが、ダメだった。

 笑顔ってどうやるんだっけ。笑えばいいと思うよ、と言われて綾波は器用に笑ってたよなあ。どうやったんだろう、あれ。そんな事を考えながらも、私の顔の表情筋はどうしても笑顔を作ってくれない。

 何でだろうね。

 どうしてなんだろうね。

 テファ、マチルダ、困ったよ。

 私、笑えなくなっちゃったよ。

 笑おうと頑張るほど泣きそうになってしまうのは何でなんだろう。

 マチルダ、何でこんなに私は弱っちいんだろうね。

 ダメだね、ダメだよねテファ。本当に、ダメなお姉ちゃんだね。

 

 

 

 …………眠い。

 

 ソファにそのまま寝そべって、私は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 泣こうが喚こうが拗ねようが腐ろうが、朝が来れば日は昇るし、日が昇れば街は動き出す。街が動けば、当然ではあるが病人や怪我人は待ってはくれない。

 これでもプロの端くれ。日常のお仕事だけはきっちりこなさねばならない。

 そうして患者を捌いていると、日頃いかにテファに助けられていたかがよく判る。

 バイトを雇おうと考えてはいるが、どうしてもテファを基準に考えてしまうので、面接の段階で不採用にしてしまいそうだからうっかり募集もかけられない。

 

 皆がいなくなって以来、正直、診療院の経営は思ったより順調ではない。

 秘薬の確保は問題ないが、医療器具の手配と事務の関係は壊滅的なダメージを受けていた。

 これまでは診察だけに集中し、カルテに薬の処方を書けば後はテファが薬の受け渡しと会計を済ませてくれていただけに、その事務的な負担はかなりの物だ。面倒なので薬は診察室で手渡しにしてしまい、会計については受付に『御志』と書いた箱を置いて適当にお金を入れていってもらうようにしてしまった。蓄えはそれなりにあるし、お金はあるところからしっかりいただくからどうでもよかったのだが、箱会計にしたら何故か以前より収益が上がってしまったのは悩みの種ではある。

 

 医療器具の確保は、それ以上に切実だった。

 マチルダのアトリエの技術力は、間違いなく王都トリスタニアでも最高レベルだった。それだけに私が扱う医療器具の水準も胸を張れるレベルだったのだが、それを失った今は痒いところに手が届くような理想的なレベルは確保できていない。商工会に相談して腕の立つ職人を紹介してもらってはいるが、マチルダのせいで目が肥えてしまった私には一つ下のランクの物で我慢しなければならない物足りなさを感じている。この事が、以前から考えていた義肢の開発に大きく影響を与えている。

 いかんせん大きな戦争の後であり、四肢を失う障害を負った兵士が少なくないことから私なりに工夫を凝らした義肢を開発できればと知恵を絞っていたのだが、思い描いていた能動式義手や多軸型の義足などの高性能な義肢の実用化にあたっては難題が山積み。これまで如何にマチルダに世話になっていたかを思い知らされている。

 

「いかがですか。それなりに調整を施したつもりなのですが」

 

「だいぶ良くなっていると思う」

 

 目の前に座るフェヴィス氏は、義手をきゅきゅっと動かしながら真面目な顔で頷いた。それは前世の記憶を頼りに作った可動式の義手で、ハーネスを体に装着してその操作で手の部分の開閉を行うものだ。通常の義手と違い、物を掴む等の動作が可能になる。外見と機能性の両立はさすがに難しく、どうしても義手に見えてしまうのは仕方がない。現在はその試作品を試している最中で、診療院に出入りしている誼でフェヴィス氏にモニターをお願いしている。

 

「慣れもあると思うが、日常生活をする上ではかなり助かるのは間違いないね。チェスを指すくらいは問題なくできるよ」

 

「それは良かった。義足の方は?」

 

「悪くない感触だが、まだ少々違和感がある。ぐにゃついた感じがするので歩いていても不安を感じる時があるね」

 

 この辺りで、マチルダの錬金のレベルの高さを痛感する。職人たちも良く頑張ってくれているのだが、どうしてもあと一枚足りないレベルでの妥協を強いられている。

 

「う~ん……もうちょっと固い素材の方がいいのかも知れませんね。ソケット部分の違和感は?」

 

「少しはあるが、型から起こしてもらっているだけあって良く馴染む感じだ。痛みはないからあとは慣れだろう。もう少し様子を見させてもらいたい」

 

 ソケット部分は生体と密着する部分であるため、一番神経を使う。出来る事なら粘土などの柔軟な材質で型を作り、それをそのまま錬金してもらえばいいのだが、ここまで大きな素材を意のままに錬金するには、やはり土のトライアングルメイジくらいの力は必要になる。もちろん、薬品の錬金くらいがせいぜいの私では無理だ。後は街の職人連中に頑張ってもらうしかない。

 言われたことをメモしていき、次の職人連中との打ち合わせの際に持ちかけて改善策を講じよう。ゆくゆくは義肢装具士のような専門職が育ってくれればいいのだが。まだまだ前途多難だ。

 

 そんな日々を過ごしながら一週間が過ぎていく。

 何もかもが変わってしまった日々。それでも虚無の曜日が来れば診療院は休診なのは変わらないのだが、それに伴って変わらないことがまだあった。

 

「お~っす」

 

 勢いよく入って来た才人。こいつだけは以前と変わらず虚無の曜日になると訪ねてくる。以前はテファのご飯目当てにルイズと一緒に押し掛けてきたものだが、今は私がご飯を作って振る舞っている。ウィークデーは適当に流している食生活だが、さすがに私の料理を楽しみにしてくれているこいつに適当なものを食べさせるのは自称姉の沽券に係わる。テファに対する対抗意識も少しはあるだけに、それなりの朝食を用意せざるを得ない。

 相応に品数を揃えた朝食の食卓に向き合って座り、お祈りもそこそこに食べ始める。何を食べても栄養価でしか判断できない最近の食生活で、この時だけはご飯を美味しく感じられる。

 食卓に誰かがいてくれる。それは私の幸せの原風景だ。

 考えなしに朝食を食べに来ているようだが、恐らくは彼なりに私を気にかけてくれているのだろう。主従揃って私のことを知っているだけに、恐らく二人で相談のうえでこうして訪ねて来てくれているのだろう。そう思うと何だか申し訳なくてありがたくて、そして嬉しい気持ちが溢れて来て胸がいっぱいになる。

 

「またルイズは直行かい? って、誰も取りゃしないからもうちょっとゆっくりお食べよ。よく噛まないと栄養にならないよ」

 

 朝食を荒っぽくがっつく才人に苦言を述べる。

 

「ああ、結構いろいろ忙しいみたいなんだよ……これ美味いなあ。何だかひじきの煮つけみたいだ」

 

 女王陛下の女官であるルイズは、虚無の曜日の度に城に参内している。その際に才人も王都まで来ているだが、ルイズの方はどういう訳かアルビオンから帰って来て以来ご飯を食べに来ることが滅多にない。理由は多忙ゆえであって私の料理が気に入らないと言う訳ではないと言われてはいるが、いささか気になるのも確かだ。この時期に原作で何かあったかな、と記憶を反芻しても確たるところは思い出せない。変な鏡を使った変装舞踏会があったような気がするが、あとは何があったかな。ガリア騒動はまだ先だったはずだし、イベントとしてはこの時期は女王様とあれこれやる時期だったと思うから、彼女なりに充実している毎日なのだろう。

 

 

 

 そんな感じの食事を済ませてから、私と才人はマチルダの工房に向かう。

 鍵を開けて中に入り、ほったらかしの工房内の掃除を行う。本当ならばマチルダ謹製の『生きてるホウキ』が部屋を掃除しているはずなのだが、その箒も、今は部屋の隅で力尽きてしまっている。

 人の生活の気配がしない、死んだ空間。マチルダの放つエネルギーを受けて生き生きとしていた工房なのに、今は道具も、調度も、作りかけの品々も、どれもが死体みたいに生気を感じない。あの頃、この工房がこんなことになるとは思っていなかった。

 

「とりあえず窓開けるぞ」

 

 才人が慣れた感じでてきぱきと掃除の準備を始める。アルバイターとして、かなりみっちりこき使われた過去が伺える。

 そんな彼をよそに、私は作業台の椅子にマチルダの幻影を見ていた。

 私の無茶振りに文句を言いながらも、結局は形にしてくれた『工匠』の土メイジ。

 その工房を、再び彼女が訪れる事は恐らくもうないだろう。そのことを理解しつつも、やはりここを引き払うことはどうにも抵抗があった。テナント料については毎月発生するが、それを払いながらでもこの場所をマチルダが最後に置いたままの状態にしておきたいのは、紛れもなく私の未練、そして彼女との約束故だ。

 

『工房の掃除も頼むよ』

 

 マチルダの言葉は、今も耳に残っている。彼女のが口にしたそれは、約束ではなかったかも知れない。でも、言葉の裏側には、それと同種の暖かさがあった。いつかトリスタニアに戻ると言う、あり得ない意思表示。それが嘘と判っていても、その言葉が私の寄る辺になる事を、あの人は判っていたのだろうと思う。彼女の記憶を払う事なんかできる訳がないことは、もうとっくに判っている。後はこの幻影とうまく付き合っていくしかない。

 そんな工房の中に鎮座する、でっかい牛のオブジェ。その四本足の一本をぽんと蹴飛ばすと、妙に大きく、乾いた音が響いた。

 

 

 

 午前中で大まかに掃除を済ませ、余った時間で自主練をしている才人を眺める。

 

「どうだ、かなりやるようになっただろう?」

 

 才人が素振りをしている傍ら、デルフリンガーが話しかけて来る。

 

「そうだね。見違えるようだよ」

 

「あのお師匠さんのおかげだよ」

 

 確かに、出会った頃に比べて体がだいぶ出来上がって来た感じがする。身長や骨格などは大男と言う訳ではないので絶対的な膂力では寂しさはあるものの、それを補ってあまりある速さとしなやかさが備わりつつあった。野球で言えば、俊足巧打の内野手といったイメージだ。

 ずっとディルムッドの指導監督のもとで技術と体力の双方を磨いてきたのだから、出来栄えが見事なのは当然だろう。それに加え、戦闘に関する考え方等の戦略眼も惜しみなく教えてもらっているはずだ。見た目も内面も、原作の彼とは大幅に違っているだろう。

 振り返ってみれば、テファの身の安全の保険の為に彼に接触したのが彼との付き合いの始まりだった。先の展開が読めず、無限に分岐する可能性を信じ、運が良ければ私が知る歴史とは全く違う未来が開けていればと期待していたあの頃。

 

 結果から言えば、未来は変わった。

 変えられた。

 『ゼロの使い魔』という物語には存在しないはずのヴィクトリア・オブ・モードという異分子の行動により、テファは隠棲せずに成長し、マチルダは盗賊に身を落とさず、ウェールズ・テューダーは今も生きている。

 だが、歴史の根っこは変わってはいない。大河の流れを消すことができないように、万象は滔々と流れ続けている。

 それは、どこか諦めにも似た感情を私にもたらす。

 転生者と言えど、生まれてしまえば所詮は人の子。その世界では人と人との間で生きていかなければならない。

 優しくしてもらえれば嬉しいし、嫌な事をされれば悲しくなるし、賑やかならば楽しいし、周りに誰もいなければ寂しさだって感じる。

 そんな感情を捨てられたほうが、幸せだったかも知れない。傍若無人に、自分勝手に生きられたら、こんな思いをしなくても済んだかもしれない。

 その感情を捨て切れなかったが故に、私は母を殺し、王都に来てからも大義名分を振りかざして多くの人を殺めてきた。

 それ故に、いつかはそれらの報いを受けるだろうとも思ってはいた。いつかは皆と共に歩けなくなるであろうとも。

 『いつまでも あると思うな親と金 ないと思うな 運と天罰』と教えてくれたのは前世の母だったと思う。

 穢れなき、虚無の担い手たるティファニア。

 この世界では、ごく真っ当に正道を生きるマチルダ。

 二人を陽のあたる世界に居続けてもらいたかったからこそ、私は全てを背負ってこの手を汚し続けてきた。その代償として、己が地獄に落ちることも厭うまいとすら思って。

 そしてその願いは、運命を弄ぶ誰かに届いた。

 テファはアルビオンの聖女となり、マチルダも貴族に戻れた。

 そして私は、望み通りに孤独と言う名の地獄に落ちた。

 まるで、荒野に取り残された猫になったようだ。

 幾ら物陰に身を伏せていても、吹きつける喪失感と言う風が体温を奪い、虚無感と言う砂が目と耳を塞ぐ。

 抗いようもない、少しずつ自分が死んでいく寒さ。

 前世で母を失い、今生では伯父上を失った経験を反芻しても、今のように自分が徐々に希薄になっていくような感覚はなかった。

 それはきっと、死に別れと生き別れの違いなのだろう。すべてが無くなってしまったのならば、諦めることもできるだろう。だが、私の家族たちはアルビオンにいるのだ。それは、寒い冬の夜に、他人の家の暖かそうな暖炉を窓越しに眺めているような悲しい寒さだ。私はそこに入ることができない、それをどれほど欲しても、気が狂わんほどに求めても、でも、手にする事は許されない温もり。

 すべてが、私には遠すぎる。

 私が辿りついた結末は、そんな底冷えがする世界だった。

 

「なあ、娘っ子」

 

 デルフの言葉に我に返った。

 

「ん?」

 

「おめえ、ちょっと痩せたんじゃねえか?」

 

「そうかい?」

 

 もともとあんまり肉付きいい方ではなかったが、他人が一目見て判るくらいには私の外見は不健康になっているようだ。

 

「何だかどこか体が悪いみてえだ」

 

「あんまり食欲がなくてね」

 

「……どん底だな」

 

「どん底、だねえ」

 

 それだけ答えると、デルフからどこか考え込むような雰囲気が感じられた。

 

「まあ、あれだ、こう言う時は考え込む方が毒だぜ。まずは出来ることから片付けていけば、そのうち調子も戻るだろうよ。どん底ってのは、逆に考えれば、あとは上がるだけなんだからよ。元気出しな」

 

 デルフらしい、そっけない感じの物言いだったが、それでも好意に根差した励ましの言葉は素直に嬉しかった。  

 

「ありがとう」

 

 這い上がるだけ。実はそれが何より難しい。

 だが、出来ることから片付けるという意見には賛成だ。私には一つ、やるべきことがあったのを思い出した。

 そんな事を考えていると、一段落したらしい才人が素振り用の木剣を手に戻ってくる。まだ寒い時期なのに、額には玉の汗だ。こいつは根は単純で判りやすい男だけど、その分素直で一途だ。言われたメニューは手を抜くことなくきちんとこなしているのだろう。それが自分の身を守ることに繋がることについて理解しており、また、その鍛錬が命の値段が恐ろしく安いこの世界では重要なことだと判っているのだと思う。

 タオルを渡すと、才人は礼を言って受け取った。一生懸命な汗と言うのは、見ている方も気持ちがいい。

 

「少年」

 

「ん?」

 

「来週、ちょっと私に付き合っちゃくれないかい?」

 

 

 

 

 

 

 ラグドリアン湖。

 才人の後ろに乗せてもらい、馬で一気にここまで連れて来てもらった。前回来た時は優雅に馬車だったが、今回は甚だお尻が痛い馬の旅だ。

 前回来た時に比べれば季節が良くないだけにいまいち寒々とした景色だが、今の私にとってはそれはどうでもいいことだ。

 湖畔に降りてみれば、ここにも、皆の幻影はうろついている。

 皆で焚き火を起こして、楽しく過ごしたあの日の記憶。

 幸せの後ろ姿は、いつだって去ってからしか見えない。

 

 そんな記憶を振り払いながら、とことこと湖の際まで歩く。

 

「何か用事なのか、ここに?」

 

「ちょっとね」

 

 問いかける才人に応じながら、私はポケットから一個の指輪を出した。

 アンドバリの指輪。

 アルビオンでシェフィールドが捨てていったものだ。すでに石は無くなってしまって台座だけになってしまったが、この状態であってもきちんと水の精霊に返して頭を下げるのが筋道と言うものだろう。何より、約束した才人が死んだらまたまた水かさが増加してしまうだろうし。引き渡し条件が原状有姿ということについては誠心誠意謝ろう。

 本当ならばモンモンも一緒に来て欲しかったが、さすがに顔を見た程度の彼女に同道を頼むのは説明が難しいので、とりあえずは約束した人物である才人がいればいいやと思って引っ張って来た。

 そんな才人に指輪を差し出し、目線で湖の沖を示す。

 

「それじゃ、これを思い切り遠くまで投げておくれ」

 

「指輪?」

 

 何の事か判らない才人が首を傾げながら指輪を受け取った。

 

「これはアンドバリの指輪と言ってね。アルビオンの馬鹿がここの水の精霊から盗み出したらしいんだよ。ある人から、トリステインに戻ったらこの湖に投げ込んでくれって頼まれてね」

 

 そんな説明を目を丸くして聞いている才人。嘘も方便、全てを丸く収めるための虚言だから許してもらいたい。

 

「これ、俺も探していたんだよ」

 

「え、そうなのかい?」

 

「ああ、ここの精霊と約束したんだ。これ取り返して来るって。でも、どうしたらいいか判らなくて困ってたんだよ」

 

 適当に説明しておけば偶然とでも思ってくれると思った私の思惑は当たったようだ。悪く言えば鈍感、良く言えば純朴な男だ。素直に信じてくれるのは嬉しいが、その性格が災いして変な詐欺に引っ掛からなければいいんだけど。

 頼んだ通りに思い切りオーバースローで指輪を投げ込む才人。

 放物線を描く指輪は冬の弱い日差しをきらきらと時折反射しながら、はるか沖の方で微か余韻を残して着水した。

 これでいい。相手は全ての水に通じる精霊だ。わざわざ呼び出しをかけなくても指輪の存在は認識してくれるだろう。

 そのまま待つ事数分。指輪の惨状に怒れる精霊が血相変えて飛び出して来るかと思ったが、静かな湖面にリアクションがないことに私は安堵した。

 

「さて、帰ろうか」

 

「ちょ、待て、ヴィクトリア」

 

 さっさと帰ろうと踵を返したその時、才人が泡を食って私の袖を引いた。

 振り返ると、そこに怪しげに水が盛り上がる様が見えた。

 水でできたヌードモンモンかと思ったら、何だか良く判らない人っぽい姿が浮かび上がる。

 やばい、怒っているのだろうか、と思ったら水の精霊が静かな口調で話しだした。

 

「お前の中を流れる液体の流れを、我は知っている。また来たのだな、単なる者よ」

 

「ああ。遅くなってごめん。指輪を取り返してきた」

 

「秘法を投げ込んだのはお前か」

 

「そうだ。石の部分は何だかすり減っちまってたけど、あれが探してた指輪なんだろ?」

 

「然り。我が求めていた秘法に相違ない。形は失えど、時が満ちれば再び水の力により石は戻る。故に、我は約束は果たされたものと思う」

 

「実際には取り返したのはこいつだけど」

 

 私を指さす才人。余計な事を言う。自分の手柄にしておけばいいものを。

 その時初めて私に気づいたように水の精霊が私の方を振り向き、唐突に体をぐにゃぐにゃと動かし始めた。

 正直、不気味だ。

 

「小さな単なる者よ。お前は何者か?」

 

「は?」

 

 こんな寄生獣みたいな動きをしている存在に何者かと言われても困る。難癖付けられたって、私だって答えられる事は多くはないのだ。

 しかし、慌てている私の思惑など一顧だにせず、唐突に水の触手が鞭のように伸びて来て私の手に絡みついた。

 するりと何かが私の中に溶け込む感じがして、その途端に私の視界がパチンと弾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 床に散らばった破片。それは、素焼きのコーヒーカップだった。

 青くなってそれを見降ろす、子供だった私。

 それは、父が使っていたと母から聞いたカップだ。

 夜勤明けの母は寝ている。

 壊れたカップをそのままに、母の目覚めを待つ。

 眠そうな顔で起きだしてきた母の前で、私は土下座して頭を下げた。

 

「ごめんなさい、お父さんのカップを割っちゃいました」

 

 ワシントンの桜の故事は知っていたが、別に素直に言って許してもらおうと思った訳ではない。母が悲しむことが嫌だったのだ。

 

「あ~、しょうがないね」

 

 割れたカップの破片をつまんで、母は頭をかいた。

 

「いつかは壊れるものだよ。気にしないでいい。お前が素直に謝ってくれた事が私は嬉しいよ。怪我はしてないね?」

 

「怪我はないけど……」

 

「それで充分さ」

 

 そう言うと、母はレジ袋を持ってきてカップの破片を流し込んだ。

 その時の母の顔に、少しだけ、本当に僅かな逡巡が見えて私は息を飲んだ。子供だった私にだって判る。僅かに残った父の欠片が無くなってしまうことが、平気な訳がないのだ。

 

「どうするの、それ?」

 

「しょうがないよ。捨てちまうしかないさ」

 

「だ、ダメだよ。私、直すから」

 

「直すったって……粉々だよ?」

 

「嫌だよ。絶対に直すよ。私、頑張るから」

 

 僅かに残った父が感じられるものがなくなってしまう事が私には耐えられなかったし、何より、母が我慢している事が判って尚更それを処分することが受け入れられなかった。

 なかば母から強奪するようにレジ袋を受け取り、母が仕事に出かけるのを見送ってから、私は財布を抱えて近所の文房具屋に走り、瞬間接着剤を買い求めた。私の小づかいでは痛い出費だが、そんなことより母の思い出を壊してしまったことの方が私にとってはよほど重要だった。そのまま走って家に戻り、すぐに修復作業に入った。

 プラモデルを作る趣味はなかったが、プラモデルをセロテープを使って仮組をしている級友の男子のことを思い出してちょっとずつ組み立てる。今どき色が塗っていないプラモデルを喜んで作っているそいつも変わった奴だったが、今はその情報がありがたかった。

 大きなパーツは概ね組上がったけど、細かい破片はどうしても時間がかかる。ピンセットを持ち出して少しずつ組み上げていく。まるで立体パズルだ。

 このカップの由来について、詳しい事は聞いたことはない。

 だが、母がいつも使っているカップと対になっており、母が毎日欠かさず仏前にコーヒーを入れて供えてもいるのだから、母にとってとても大事なものだと言う事は私にも判っていた。

 好きな人が、大切な人がいなくなってしまうと言うことがどういうことなのか、その時の私は想像でしか知らなかった。でも、恐らくそれはとても悲しい事なのだろうことは判った。その悲しみには、縋るべき寄る辺がなければ立ち向かう事は難しいだろう。そんな事を微塵も見せず、ぼやきも泣きごとも言わずに働き、私を育ててくれている母。その母を支えているのは、恐らく父との幸せな思い出なのだろうと子供心に思った。

 この種の作業は集中すると時間はあっという間に経過してしまうものだが、時計を見ると既に日付が変わっていて驚いた。

 恐ろしく早く秒針が進む部屋の中で少しずつ破片を組み合わせていくが、粉になってしまった部分はどうしても埋まらない。どうしようかと悩みながら作業を続けたのだが、最後はどこまで作業が進んだのか良く覚えていないくらいに疲れ果て、補修の半ばで力尽きて私はテーブルに突っ伏して眠ってしまった。

 

 顔に朝日を感じて目が覚めると、肩にかかった毛布が落ちた。

 目の前に、綺麗に復元された父のカップがあった。修復しきれなかった細かい隙間に、パテのようなものが詰まっている。カップの隣には、骨ペーストらしきシリンジが転がっていた。

 リビングに目を向けると、母がソファに寝そべって穏やかな顔で眠っていた。

 その寝顔が、何だかとても幸せそうに見え、涙が滲んでしまった。

 この人の娘で良かった。

 この人が母で、本当に良かった。

 私は、心の底からそう思った。

 上着を被って寝ている母の上着を取りあげて代わりに毛布をかけ、上着をハンガーにかけてからコーヒーを淹れ、ある程度冷ましてから綺麗に復元されたカップに注いだ。罅は綺麗にくっついており、コーヒーが漏れるようなこともなかった。

 元に戻った、割れたカップ。

 それを仏壇に持っていき、一回だけ、静かにお鈴を叩いた。

 お鈴の澄んだ響きがカップに伝播し、褐色の表面に、少しだけ小波が立って消えた。

 穏やかな褐色の液体を湛えたカップ。

 ところどころつぎはぎが入った、ちょっとだけかっこ悪いそれに、母の優しさが満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヴィクトリア!」

 

 スイッチが入ったように視界が切り代わり、戻った視界の正面で才人が私に向かって呼びかけてきた。

 

「少年?」

 

「大丈夫か? 具合とか悪くないか?」

 

「具合?」

 

 呆気に取られて辺りを見回すと、水の精霊の姿はどこにもなかった。

 

「平気だけど、今何があったんだね?」

 

「水の精霊がお前に触れたら、お前が動き止めちまったんだよ。何かされたのか?」

 

「特におかしいところはないけど……」

 

 あれこれと自分の体を確認しても、おかしなところはない。頭の中も、これと言って変わった感じはない。

 

「何だったんだろうね?」

 

「俺にも判らないよ。何か怒らせる事でもしたのかな」

 

「う~ん、どうなんだろう」

 

 結局、この時私が何をされたのかは判らずじまいだった。昔の記憶を思い出させて何をしようというのだろうか。

 そんなことを考え、首をひねりながら私たちは家路に着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 慌ただしく時が流れていく。

 ラグドリアン湖から戻って1週間ほど。私なりに折り合いをつけながら日々を送っている時、診療院の前に一台の馬車が止まった。

 

「院長はいるか?」

 

 玄関先で大声を上げてるのが聞こえたのでボソボソと食べていた昼食を中断して出てみれば、どういう訳か、訪ねてきたのはアニエスだった。

 

「どうしたね、騒々しい。急患って感じじゃなさそうだね。私を捕まえてチェルノボーグ監獄にでも送ろうってのかい?」

 

「よく判ったな」

 

「……」

 

 回れ右する私の裾を、アニエスが隙のない動きで捕まえた。

 

「冗談だ。これだ」

 

 ジト目を向ける私に、アニエスは一枚の書状を差し出した。

 

「トリスタニアのヴィクトリアに女王陛下からの直々のお召しだ。すぐに支度してくれ」

 

「陛下が?」

 

 

 

 着たくもない礼装に袖を通し、マントを羽織って馬車に揺られて王宮に向かう。

 普通ならば平民は中に入ることなどできないはずなのだが、銃士隊隊長のアニエスに連れられての道行きは受付も何もすべて顔パスだ。そんな王宮の奥の奥。通されたのは、アンリエッタの執務室だった。

 ポールウェポン風の軍杖を手にした阿吽像のような衛兵が両脇に立つドアに着くと、アニエスは慣れた感じで伺いを立てた。

 

 通されたその一室は、原作で描写されていたように何もない部屋だった。

 古道具屋で買ったと言う机と、本棚に燭台、簡単な応接セット。

 まさに清貧女王と言った感じだ。

 部屋の中にはアンリエッタと、久しぶりに見るルイズが待っていた。

 

「陛下、ヴィクトリア殿下をお連れ致しました」

 

 恭しく挨拶するアニエスの後ろ、部屋の入口のところで私は同種の低頭をした。アルビオンならともかく、トリステインにおいては私はただの平民だ。屋内に入っただけでもありえないことなだけに、王の居室に足を踏み入れることには抵抗があった。

 

「よく来てくれましたね、殿下。どうぞお入りになって下さい」

 

「そうは言われましても……」

 

「そのような所にいては話もできません。お掛けになって下さい」

 

 ここまで言われては仕方がないので、私は一礼して室内に入り、アンリエッタの着席を待って勧められた椅子に座った。正面にアンリエッタ、その隣にルイズが陣取る。

 私の方を観察するように眺め、アンリエッタが静かに口を開いた。

 

「少し、痩せられましたね」

 

 滅多に会わないだけにアンリエッタにはすぐに判ったのだろう。確かに、今の私はちょっと人前には出たくないコンディションだ。頬がこけてしまっているし、顔色も冴えない。髪の艶も見る影もないありさまだ。

 

「お恥ずかしい限りです」

 

 アンリエッタは少しだけ悲しそうな顔をして、当たり障りのない世間話を始める。この種のやり取りはせっかちな私にとっては退屈極まりないものだが、さすがに女王の言葉に待ったをかける訳にはいかないので、しばし相槌だけの会話に終始する。ルイズは珍しいことに一言も言葉を挟もうとしない。女官の立場でこの場にいるつもりなのかも知れない。

 そんなアンリエッタが、話の流れの中で不意に表情を切り替えて切り出してきた。

 

「ところで、アルビオンで行われた諸国会議のことはご存じですね?」

 

「先般、ロンディニウムで行われた戦後処理の事でしたら……」

 

 私にはおよそ関係のない、天上界のお話だ。

 

「そこで、ある人物のことが話題になりました」

 

 首を傾げる私に、アンリエッタが言う。

 

「『血十字の聖女』と呼ばれる治療師。貴方のことです」

 

「……」

 

 全身の毛穴が収縮して絵に描いたような鳥肌が立ち、そこから羽毛が生えて来そうな気分だ。何だ、その恥ずかしいネーミングは。

 

「地獄となったシティオブサウスゴータで、自らの血で描いた十字の旗を掲げて敵味方問わず負傷者の治療を行ったそうですね。己の身も顧みず、身分の貴賤はおろか敵味方の隔てすらなく人々を救済したと」

 

 所属の誤認による誤射誤爆を避けるため、どっちの軍勢の物でもない旗印をということで掲げた急ごしらえの赤十字の旗が、何だか不穏な物事の引き金になったようだ。第一、あの赤十字はシーツにありふれた顔料で描いたものだ。自分の血で旗を作るような出血大サービスをする奴がどこにいるというのだろうか。

 

「な、何だかやたら話に尾鰭がついているようですが、脚色が過ぎます」

 

 引き攣った笑いを浮かべる私を見るアンリエッタの目は、どこまでも優しげだ。 

 

「結果がそうなっていれば、話はひとりでに歩きだします。悲しい戦争であればこそ、人は英雄や美談を欲しがるものですから。しかも、その正体はアルビオンのさる高貴な出の姫君。国を追われながらも、祖国の危機に起った慈愛の水メイジとなれば、吟遊詩人が飛びつかない方が不思議です」

 

 歴史と言うのは、こうやって歪められていくのだろう。『講釈師 見てきたような 嘘をつき』とはよく言ったものだ。

 ともあれ、赤十字の精神は戦争や災害の際に人種や思想や所属等一切の区別なく人々に人道的な支援を行うことだが、人権と言うものがいささか怪しいこの世界でも困っている人に手を差し伸べるのは人として当然のことであることには変わりはない。それを過剰な美談と捉えられるのは私としては不本意だ。

 

「大袈裟な……」

 

「ですが、根拠のない話ではないでしょう。これをご覧下さい」

 

 渋い顔をしている私に、アンリエッタは追い討ちのように数枚の書面を示した。丁寧に言葉が綴られた、幾枚もの書類だ。読み進める私の顔色は漫画のように青くなっている事だろう。

 

「貴方がシティオブサウスゴータで治療した我が国の兵から、私のところに送られてきた嘆願書です。どれも内容は、貴方に恩赦を出すようアルビオンに働きかけることを求めたもの。同じような動きはゲルマニアでもあるようです。加えて、アルビオンの内部でもそういう動きがあると聞いています」

 

 ありがたい話ではあるが、これは好ましくない状況だ。恐らく、話はウェールズ殿下の耳にも入っている事だろう。ただでさえ国内の統制と復興と言う大問題を抱えて忙しい時期だろうに、この事でそういう貴重な時間を削られる羽目になっていなければよいのだが。

 そんな事を考えている間も、アンリエッタの言葉は続く。

 

「それに、貴方が治療に当たった場所は寺院だったそうですね。始祖の子らを救うために寺院を使いたいと強引に頼みこんだと」

 

 あの時に、寺院が一番乗っ取りやすい大型施設だと思ったのが裏目に出たようだ。

 

「あれは、あの場に合わせた方便です」

 

「例え方便であっても、通ってしまえば結果が全てです。それを受けて、ロマリアから貴方の行動を称える声明が出ています。神の愛の本質を理解した人物だと」

 

 ロマリアがらみとなると、どうしても耳に入る段階でバイアスがかかる。必要以上に私を褒め称えるあたりは、あの国らしい一手だと思う。持ち上げるだけ持ち上げておいて、裏で搦め手を使って取り込む嫌らしい手をあいつらが使う事は知っている。虎街道の戦いの時期に、ルイズがあっさりとその手に落ちていた記憶がある。

 

「おそれながら、話を美化しすぎです。こんな王族のはみ出し者の私でも誰かの役に立てたと言うのなら嬉しい事です。ですが、陽のあたる部分だけを抜き出されては、事の本質が見えなくなります。あの時、私は聖女などとは聞いて呆れるほど、多くの命を取りこぼしました。それもまた、私が負わねばならない業なのです。この書状にある方々のお気持ちは嬉しく思います。ですが、『聖女』などと言う肩書きはこの身には過ぎたもの。どうかそこをお間違えなきようお願いします」

 

 前世の報道番組でも良くあったのだが、名医だの神の手だのと賞賛される医師の報道において、その栄光の影で、どれだけの患者を救えなかったかまでは報道されていなかった記憶がある。メディアに取り上げられるだけに確かに素晴らしい技術を持った方々だとは思うが、まるで全ての患者を救えるとでもいうような番組の在り方には、見ていて違和感を覚えたものだ。美談先行では、当人と異なる人間像が世間にはびこってしまうことになる。それは虚像だ。『あの医者のところに行けば大丈夫』と藁にもすがる思いで訪れた患者が助からなかった時、そこに生まれる感情はどうしても負のそれにならざるを得ないだろう。せっかく違う世界に生まれたのに、それと同じ轍は踏みたくないというのが私の本音だ。そんな私の言葉を静かに聞き届け、アンリエッタはルイズと顔を合わせた。困った感じのアンリエッタと、私の言葉を予見していたような顔のルイズ。

 

「ルイズ、貴方が言うとおりですね」

 

 事前にどういう会話がなされたかは判らないが、ある程度私のことを知っているルイズだ。表舞台に立つ事を忌避する私の性格は判ってくれていると思う。しかし、ルイズが発した言葉に、私は物事にまだ先がある事を知らされた。

 

「姫さま、全部話してしまった方がいいと思います」

 

「そうですね」

 

 ルイズの言葉に同意し、アンリエッタが続ける。

 

「諸国会議の話ですが、貴方の事を褒め称えるだけで終わった訳ではありません。貴方自身の事より、貴方の活動内容が議論となったのです。貴方が実践して見せた『負傷者に対しては、国も身分も分け隔てなく向き合う』と言う思想を、会議に参加した5国において広く共有しようと言う動きがあります。それについて、その具体的な方法を模索するため、国をまたいだ連絡会議を置くことが取り決められました」

 

 聞いて驚きだ。前世の赤十字社は、デュナンの戦争時の活動をきっかけに国際委員会が発足した事に始まるが、この世界においてもその思想が思わぬ形で芽吹き始めているようだ。既得権益のことを考えるとそのすり合わせは簡単には行かないとは思うが、実現すれば画期的な事だろう。言いだしっぺは誰だろうか。

 

「単刀直入に申しましょう。貴方にとって歓迎していただける話ではないかも知れませんが、これだけの事をなした人物を野に置いておくということは、我が国にとって好ましくないのです」

 

 ようやくアンリエッタのドレスの下に、鎧がちらつき始めた。きっかけがこんな大法螺というのは私としても何ともやり切れない思いだが、これはある程度予想していた事でもある。確かに、何かあったら国の監督下に入ると言うのはヴァリエール公爵との約束でもあった。出自も状況も、微妙な立場の私だ。むしろ今まで非公式滞在を黙認してもらっていた方が幸運だったのだ。一度何かのバランスが崩れれば、すぐにこういうことになるだろう事は私も判っているつもりだった。

 

「やむを得ないことと思います。ご存分にお差配下さい。これまで私の勝手に目を瞑っていただいていただけでも感謝すべきところ。こうとなっては仕方がありません。ですが、こんな私でも頼ってくれる人々が王都にはおります。できましたら、彼らの今後の事についてもご高配賜れましたらと思います」

 

 既に守る物はない私だ。違う国に逃げ出す必要も、それだけの気力もない。どこかの家の預かりになるか、はたまた僻地に封じられるかするのだろうか。政治的な縁組によって嫁に出される事だけは断固拒否したいが、いずれにしろ、トリスタニアを離れざるを得なくなった場合、やはり街の人たちの行く末が気になる。その点について何とかしてもらわねばならない。

 

「御心配には及びません。貴方を王都から動かすつもりはありません」

 

 意外な言葉に私は呆気にとられた。そして、続くアンリエッタの言葉は私は全く予想もしていなかった。

 

「実は、その連絡会議における我が国における方策の策定のため、貴方を参与としてお迎えしたいと思っているのです」

 

「参与?」

 

 一瞬、呆気に取られた。参与は私が知る限りではオブザーバーとか相談役に近い役職、いわゆるブレーンの事だ。

 

「この連絡会議は、貴方が実践して見せた理想の展開から始まったもの。言うなれば、それが目指すべきものの正解は、貴方の胸の内にしかないものです。ならば、詳しいところは貴方に訊くのが適当だと思いますから」

 

「お待ちください。私は貴族位を持たない平民です。平民は官職に就けないのが国法ではありませんか。何より、私は咎人です。ただでさえややこしい立場ですし、そんな私を取り立てては、下手をすればトリステインの国益を損ねることにも繋がりかねないでしょう」

 

 アニエスの肩身の狭さを思うと、平民の私をそんな立場に置く事が軋轢を生まないほうが不思議だ。ここはトリステイン。主要各国の中では貴族と平民の身分の差が一番厳しい国だ。それに、対アルビオンについては言わずもがなだろう。

 しかし、そんな私の問いに、それもまた織り込み済みと言う顔でアンリエッタは言う。

 

「身分についてはできれば然るべき肩書きを差し上げたいのですが、お立場を考えますと確かに難しいでしょう。ですが、御存じと思いますが、私は平民であっても積極的に登用する方針なのです。それに、確かにただの平民を参与とするなれば抵抗を覚える者はいるかも知れませんが、貴方が持つ『血十字の聖女』の名はロマリアすら認めたもの。迂闊な事を口走る者はまずいないでしょう」

 

 銃士隊の例を見てもアンリエッタは実に柔軟な思考の持ち主だ。私を取り込みたい考えた場合、ロマリアのお墨付きは使い勝手がいい御免状なのだろう。確かに、ロマリアの威光があればほとんどの貴族は口を閉じることと思う。

 

「ですが、それではアルビオンが黙ってはいないでしょう」

 

「そうですね。追放の身である貴方を重用するにはアルビオンに対してそれなりの姿勢での対応が求められるでしょう。ですが、諸国会議で交わされた構想の中心にいるのは、他ならぬ貴方なのです。アルビオンとて、そう簡単に異を唱えられないでしょう。もちろん、我が国としてもアルビオンの面子を立てるための手は打ちます。その手始めと言っては何ですが、殿下の監督にヴァリエール公爵が名乗りをあげて下さっておいでです」

 

 然るべき人物を付けることで、決して好き勝手をさせている訳ではない事を相手方に伝える意図によるものだろう。公爵が動いてくれたのは、以前交わした約束の通りだ。律儀に守ってくれる彼には本当に頭が下がる。それに、確か公爵はアルビオンに渡った経歴があったはずだ。あちらに相応のパイプもあるだろう。

 

「それともう一人、是非殿下の後見をと望まれている方がおられます。殿下は、マルシヤック公爵をご存知ですか?」

 

「……お会いした事はありませんが、お名前はかねがね」

 

 記憶が確かなら、アルビオン再興後に代王として立つ人物だったはず。野心がなく、内政の手腕に定評がある人物だった、かな。ウェールズ殿下が存命となると、確かにアルビオンにいる必要はないが、そんな大人物が何でまた国を追われた小娘のために名乗りを上げるのやら。

 

「王宮の相談役でもある方ですが、会議における我が国の代表についてお願いしています」

 

 アンリエッタが侍女に目くばせすると、隣室にいる人を呼んだようだ。

 ややあって入って来た人物を見て、私は心底驚いた。

 

「お久しぶりですな、先生」

 

 現れた人物は、私が知っている人だった。

 白い髪と髭。絵に描いたような好々爺。何と言うカーネルサンダース。

 それはいつぞやテファと一緒に遠征した、トリスタニア郊外の公園の管理人だった。あの時は作業用のありふれた服を着ていた彼だが、今の彼の身を包むものは仕立ての良いマントだ。

 そしてその胸には、鮮やかな公爵家の家紋の刺繍。

 世の中と言うのはどこに落とし穴があるか判らないことを私は改めて思い知った。

 目を剥いて驚く私に、公爵はしてやったりと言った顔で笑いかけて来た。

 

「その節はお世話になりましたな」

 

「お戯れが過ぎます、閣下」

 

「ははは、いや、申し訳ない。あの公園の手入れは、この年寄りの数少ない楽しみでしてな」

 

 お気楽に笑うが、大貴族もいいところの御大が、自らボロい作業着を着て庭いじりと言うのはいかがなものだろうか。自領の城の庭ならともかく、あそこは一般に公開されている庭だぞ。確かに雰囲気に人品卑しからぬところが見えた人物だったが、まさか公爵とは思わなかった。とんでもない人物に失礼を働いていた事実に、私は心底狼狽した。

 

「顔見知りと言うことでしたら話は早そうですね。この通り、王家だけでなく、トリステインの大貴族2家が貴方の監督にあたります。アルビオンにも、その旨の申入れを行いました。了承は得られなくとも、恐らく黙認はするでしょう」

 

 言ってみれば、これはトリステイン王国が私の身元引受人になるという意思表示だ。異を唱えればトリステインの面子を潰すことになるだろう。現在の力関係を考えた時、確かにアルビオンがここで問題を拗れさせるとは考えづらい。

 

 そんなこんなで、公爵も交えて、しばし詳しい話を聞く。

 連絡会議におけるトリステインの代表には公爵が立ち、私はトリステイン国内の分科会の筆頭委員として考えられているらしい。また、この部門のアンリエッタの政策決定について助言する事が私に宛がわれる仕事になるのだそうだ。勤務は非常勤で、通常は診療院の方で今まで通りの業務を行い、月に数回の定例会にのみ出席を求められるというものだった。聞こえてくる話はどれも都合がよすぎて怖いくらいだ。

 公爵が『よろしくお頼みしますぞ』と朗らかに言い残して去ったところで、私は声を落としてアンリエッタに問うた。

 

「何故、私なぞのためにここまでしていただけるのでしょう?」

 

 私の問いに、アンリエッタは笑う。

 

「貴方と私とは、利害が一致していると思うからです」

 

「利害の一致?」

 

「この会議の成果により貴方の発言力が上がり、貴方が日々実践している平民相手の医療活動が広まることが私の望みです。もし、平民でも大金を求められずに魔法治療が受けられ、それにより我が国の脇の甘さでもある平民に対する厚生が前進するのであれば、間違いなくそれは我が国の国力の増強に繋がる事でしょう。それこそが私が欲する国益です。そして、そのモデルを見た各国が足並みを揃えてくれれば、ハルケギニア全土で病魔や怪我が人々の暮らしに影を落とすことも減ってくる事でしょう。貴方の日々の営みを、より大規模に、このトリステインからハルケギニアに広めていただければ、それが可能になると私は思うのです」

 

 確かに、この赤十字もどきは私の流儀に合致するものだ。それに、平民の生活水準向上が政権の安定に繋がることも確かだろう。医療の発展に伴う人口増加等の問題も無視はできないが、そうであってもやはり医療は国の根幹をなす礎の一つだ。充実するに越したことはない。そんな事を思いながらも、頭の中でその会議に対する様々な提言や日常のスケジュールを無意識に考えていた自分に驚いた。私は、この会議を好ましいものを思っているらしい。そんな私に、アンリエッタはとどめを刺しに来た。

 

「そして、殿下が参与になっていただいた時、それに伴うものこそが殿下の利と考えて下さい」

 

「それはどういう意味でしょう?」

 

 その問いに、アンリエッタは最後のカードを開いた。

 

「この先、会議のやり取りで各国に渡る機会も増える事でしょう。当然、アルビオンにも出向くことになると思います」

 

 そこまで言われてようやく私は理解した。

 アルビオンという単語と、私の社会的な立場。

 その事が、一つの答えを導き出した。

 

「陛下……」

 

「我が国の使節としての入国であれば、その人物についてアルビオンは異を唱えることはできません。大手を振ってアルビオンに入国できましょう」

 

 この時代、外交官特権などは正式に取り決められてはいないが、逆に生々しいほど名誉偏重のハルケギニアにおいて、他国の王の随伴者の身元について意見することもまた難しい。それが例え追放中の罪人であっても、他国の王の名において入国した者には文句を言えないだろう。言うとなったら国際問題を覚悟しなければならない以上、そのスタンスは黙認が基本となると思われる。

 その事実が、私の中でざわつき始める。

 アルビオンに、行ける。

 皆に、会う事ができる。

 全く自由に会える訳ではないだろうが、それでもその姿を目にすることはできるだろう。

 私が元気でやっている姿を皆に見せることもできる。

 その事実に、知らぬ間に手が震えていた。

 

「これは、貴方に対する返しきれないほどの借りの返済の一部とお考え下さい。私だけではありません。ウェールズ様もです。貴方の意図がどうであったかは判りませんが、貴方は結果的にアルビオン王国を救い、ウェールズ様を助けてくれました。その借りは、決して安いものではありません」

 

「その場に居合わせられた事が幸運だっただけです。それに、その分の褒美は既にウェールズ殿下からいただいております」

 

「そうですね。ですが、私たちはそれで貴方が報われたとは思っていないのです。家族同然に過ごしてきた方々と離れ離れになっている現状、それを私たちは看過できないのです」

 

 私は発すべき言葉が見つからなかった。一国の王が、何も持たないただの女の事を考えてくれているのだ。どんな感謝の言葉でも追いつきはしない。

 

「大切な人たちと引き離される辛さは、私なりに理解しているつもりでいます。そして、これはウェールズ様のたっての願いでもあります。貴方を日の当たるところに引き上げ、今一度貴方の家族と手を取り合えるようにしたいと。今すぐ叶えて差し上げられない事は申し訳なく思います。ですが、その状況を変えていくためには、貴方の社会的な立場の向上が必要なのです。それこそ、アルビオンにおいて誰も文句を言えないだけのものが。むしろ、貴方を国外に置いておくことを愚策だと周囲がウェールズ様を突き上げるくらいの空気が必要です。もちろん一朝一夕ではいかないでしょう。しかし、既に殿下には相応の名声があり、状況も追い風。これを元手にしない手はないと思います」

 

「私は……何と申し上げればよいか……」

 

 アンリエッタの言葉に、胸が詰まって声が出なかった。

 思わず、目元に涙が滲んだ。

 

 だが、アンリエッタの次の言葉は私の予想の斜め上をいった。

 

「良いのです。それに、これは貴方に対する恩返しであると同時に、貴方に対する貸しの取り立てでもあるのですから」

 

「貸し?」

 

 脈絡が読めない言葉に、私は混乱して首を傾げた。

 その途端、アンリエッタの穏やかな表情がいきなり無表情になった。感情を押し殺したような、どこか能面のような凄味を感じる。平たく言えば怖い顔だ。美人が怒ると怖いものだが、今のアンリエッタが発している禍々しいオーラは映画『アダムスファミリー』のウェンズデーにも通じるそれだ。

 

「貴方は、想い人から違う女性の話をされることをどう思いますか?」

 

「は?」

 

 アンリエッタの気配に、王宮全体が地響きを起こしているような感覚を覚えた。

 

「昔からそうでした。素敵な従妹がいるから、是非私と会わせたい、と。お会いすれば、いつも貴方の話ばかり。私と共通の話題のつもりだったのでしょうが、幾らなんでも毎回あれというのはいかがなものでしょう。ウェールズ様にとって私は一体何なのかと幾度も文句を言いましたわ。先日の会議の席でもそうでしたわ。再会を喜んでくれるのはいいのですが、話は知らぬ間に貴方の行く末についての相談ばかり。どう思われますか、こういうのを?」

 

 黒い。瘴気が黒いです、陛下。

 隣に座っているルイズも顔を引き攣らせてアンリエッタから遠ざかっている。

 やい、アルビオンのアホ殿下、アンアンが本当に黒化したらどうしてくれる。

 

「そういう訳で、私にとって、今の貴方は非常に危険な存在なのです。不遇の姫君ともなれば、殿方にとってはさぞ庇護欲をそそられることでしょう。貴方を追放の身に据え置いたままでは、いつ何時、彼が変心するか判りません。ですので、ここは貴方の立場を引き上げ、きちんと私との決闘の場に立っていただきたいのです」

 

「け、決闘、って……ウェールズ殿下のお気持ちは明らかではありませんか」

 

 私がフォローの言葉を発すると、スイッチを切り替えたようにアンリエッタの表情が一変し、その顔には勝者の余裕が浮かぶ。

 

「そうですね。ウェールズ様は私を愛して下さっておいでです」

 

 臆面もなく言うか、そういうことを。あまりの馬鹿らしさに、私は全てを投げ捨てて、このまま即座に家に帰りたくなった。そのまま荷物をまとめて火竜山脈の麓に庵を結んで、そこで生涯を過ごすのだ。

 

「ですが、貴方を野に追いやったまま、その隙にウェールズ様と添い遂げるというのも私のルールに反するのです。正々堂々、貴方が私と同じレベルの立ち位置で勝負し、その上でウェールズ様に私を選んでいただかないと気が済まないのです。ですから、貴方にはどういう形であっても大手を振ってアルビオンに出入りできる身分になっていただきたいと思います。今回のお話は、その始めの一歩です。今の貴方は我が国の臣民。王として、貴方には首を縦に振る以外の選択肢は与えません。これは勅命と理解していただいて結構です」

 

 半ば冗談で、半ば本気みたいなアンリエッタ。甚だ迷惑な思惑はどうあれ、王にあるまじき気遣いは素直に嬉しかった。

 

「冗談はともあれ、アルビオンにて、ウェールズ様を助けて下さったことは私にとっては一生の恩義。それなのに、できる恩返しがこの程度と言うのは申し訳なく思います」

 

 ちょっとだけ寂しそうに言うアンリエッタに、私は首を振って応える。

 

「私のような者に対し、望外のお心遣い、もはやどのように謝意を述べればよいか、私には判りません」

 

「その言葉はルイズに言って下さい。これらはすべて、この子の発案です」

 

「姫さま!」

 

 隣のルイズが慌てて手を振った。

 

「あ、そうそう。あなたは知らないことになっているのでしたね」

 

「ルイズ……」

 

 私が視線を向けると、ルイズは血相を変えて否定に走る。

 

「知らないわよ」

 

「でも……」

 

「知らないったら知らないのよ。あんただって、ちい姉さまの治療のお礼、言わせてくれないじゃない」

 

 ここでそれを持ってくるか。

 それとこれとは明らかに別だろう。プロとして仕事をした私と、善意に基づいて動いてくれたルイズ。

 両者の差は明らかなのだが、それでもルイズは頑として私の話を聞いてくれなかった。

 残りの時間は、そんなルイズとの押し問答で終始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 城から戻る頃、街は既に茜色に染まっていた。

 夕飯の食材を求めに市場に寄り道し、売れ残りの食材をぼちぼちと買いこむ。

 晩御飯の献立を何となく考えながら、私は陛下の部屋を出た後でルイズがしてくれた話を反芻していた。

 

「言っておくけど、姫さまに持ちかけた案は私だけが考えたものじゃないからね」

 

「じゃあ、誰が?」

 

「主なところは、ちい姉さまよ」

 

「カトレア嬢が?」

 

「悪いとは思うけど、あんたのこと全部話したの。悔しいけど、私だけじゃどうにもできなかったから。あんたが泣いてたって話したら、ちい姉さま、物凄く怒ってたわ。滅多に怒る人じゃないけど、あんなに怒ったちい姉さま見るの初めてだった。そうしたら、そのまま父様のところに乗り込んでいろいろ相談して、父様と一緒にいろんなところに根回しを始めたの。手紙を何通も書いて、ヴァリエールの名前で各国の貴族に片っ端から話を持ちかけてたわ」

 

 公爵も一枚噛んでいたのか。

 大公爵ともあろうものが、国を追われた小娘のために尽力してくれるなど、まさに身に余る光栄と言うものだ。どう言って礼を述べればいいのか見当もつかない。

 

「どうしてそこまで……」

 

「あんたはどう思ってるか知らないけど、ちい姉さまにとってはあんたは一番の友達だからよ」

 

「友達?」

 

「ちい姉さま、体が悪かったでしょ? 歳の近い友人、あまりいないのよ。だから、あんたのことすごく大事に思ってるの」

 

 私は思わず唸った。ただひたすら遊ばれているだけのように思っていたが、あのお嬢様がそういうことを考えていたとは。

 

「それに、言ったでしょ、あんたが困っていたら力になるって。ちい姉さまのことやサイトのこと、あんたが私たちにしてくれたことをそんなに軽く思わないで欲しいわ。ヴァリエールは、受けた恩は忘れない。これくらいの事はさせてもらいたいわ」

 

 屈託なく笑って、事もなげに言うルイズの言葉が、胸に染みた。

 彼女の発するエネルギーの前に、自分の不甲斐なさが浮き彫りにされたようで恥ずかしかった。

 ルイズだけではない。カトレアや公爵、アンリエッタやウェールズ殿下の深い情けもまた、私の心の奥底に染み透っていた。

 

 見上げると、茜色に染まった街並みの上には、いつか見たアルビオンの空のような赤い雲が幾つも泳ぐ。

 不意に己の器の小ささを覚え、たまらず私は自分の両の頬を叩いた。

 

 出かける時より少しだけ前を向いた私は、やや多めの食材を買い込んで家路に着いた。

 元気を取り戻すためには、まずは体重を戻さなくてはならないからだ。

 

 

 

 

 

 信念がツキを呼ぶ。ギャンブラーの鉄則だが、ギャンブラーに限らず何かを前向きに考えると、物事もまた前向きに転がっていくものなのかも知れない。

 診療院に戻った時、ドアのロックを外そうとして違和感に気が付いた。出る前に施したロックが解除されている。

 買い込んだ食材を置いて、杖を抜いた。サイレントの魔法をかけて、静かにドアを開けた。

 気配を探りながら中に入ると、たたきに一足の靴があった。女物の、品のいい靴だ。土足禁止の診療院で、いつもこの場所にあった、見覚えのある靴だった。

 

「……嘘」

 

 慌てて中に飛び込む。誰かがその靴を釣り餌に私を害そうとしていたら、私はあっさりと殺されていただろう。だが、リビングに入った私が見たものは、刺客ではなかった。

 ソファを占有して、疲れた大型犬のようにぐてっと寝ている長身の女性。

 私は大声をあげてしまった。

 

「マチルダ!?」

 

「んあ?」

 

 私の声にマチルダは目を覚まし、ソファから起き上がった。私を見ながら緊張の欠片もない様子で頭を掻く。

 

「ああ、帰って来たか。いやはや、長旅で疲れちまってね」

 

「どうして?」

 

「ほい」

 

 声を震わせる私の前に、一枚の紙が差し出された。

 最初に目についたのは、冒頭に書かれた書類のタイトルだった。

 

「任命状?」

 

 文字を追うごとに、私の手が震える。

 曰く、『マチルダ・オブ・サウスゴータ。右の者を、トリステイン駐在官に任ずる。ウェールズ・テューダー』

 

「駐在官……って」

 

「ああ、要するにアルビオンとトリステインの連絡員みたいなもんさ。トリステインを良く知る人材としちゃ、まあ、確かに私は適任だからね」

 

「領地はどうしたのさ?」

 

「そっちも何とか整理がついたんだよ。昔の伝手頼って声をかけたら、サウスゴータの旧臣で頼りになる能吏が集まってくれたのさ。もともとサウスゴータは議会の力が強いから、太守と言っても名ばかりだしね。それに、太守代行にすごい人が名乗りを上げてくれたから、安心して任せて来られたんだよ」

 

「代行?」

 

 言うなれば代官みたいなものだが、太守の代理人となると責任は重大。よほどの人物でないと務まらないだろう。しかし、マチルダの口から飛び出した人物はそんな懸念を吹き飛ばして山のようなお釣りが来そうな人物だった。

 

「パリー老さ」

 

「パリーが?」

 

 仰天する私を余所に、頭を掻きながら起きだして、まるでこれまでの日常と何一つ変わらぬ所作でキッチンに向かうマチルダ。水場で水を汲んで、美味しそうに飲む。よほど疲労しているのだろう。

 

「城勤めは正式に引退して、私の所領の面倒を見てくれるって。領地の方は自分が何とかするから、私はあんたのところに行け、って追ん出されたんだよ。すごい剣幕だったんで押し切られてトリステイン行きの事を殿下に相談に行ったら、その書状がもう用意されていてさ。殿下と示し合わせていたんだね、きっと」

 

「……」

 

「真面目な話、アルビオンの復興には基礎になる工業の復興が急務だからね。こっちの商工会への援助要請とかもいろいろあるから、当分こっちにいなくちゃいけないんだよ」

 

「……」

 

「それにしても、やっぱりあんた一人じゃ置いておけないね。部屋は埃だらけだし、食べる物も結構手抜いてたみたいだし。医者の不養生一直線じゃないか。いい大人としてどうかと思うよ……聞いてるのかい?」

 

 やはり、こいつは意地悪だ。絶対知っててやってるよ、これ。

 長く一緒に暮して来たんだ、お互いの弱点は知り尽くしている私たち。

 マチルダの攻撃に対し、私に対抗する術などありはしない。

 馬鹿みたいに突っ立ったまま、ぼろぼろと泣いている私にようやく気付いたのか、マチルダは頭を掻きながら寄って来た。

 

「も、もう、会えないど……思っ……」

 

 感情の内圧が高すぎて、言葉が喉に詰まって出て来ない。そんな私の頭にマチルダが手を置く。お嬢様とは言い難い、厚みのある、働いている人の手だ。そのまま私を胸元に抱きよせて、優しい声でマチルダは言う。

 

「馬鹿だね。あんたみたいな泣き虫を一人で置いとけるわけないだろう」

 

 私は理解した。

 恐らく、こいつには一生勝てないのだろう。

 何もできなかった無力な私が、今、自力でこの家に帰って来たマチルダの腕の中にいる。

 

 それが恥ずかしくて、照れ臭くて、そして嬉しかった。

 

 

 

 

 街の面々への挨拶は明日に回し、まずは晩御飯を作った。

 マチルダの好物ばかりを作り、久しぶりに、私は心から笑いながらご飯を食べた。

 

 夜、マチルダと一緒にリビングに布団を引っ張り出して来て並んで床に就いた。

 親子ほども体格が違う女二人のパジャマパーティーだ。

 寝転がりながら、アルビオンの事をあれこれと聞く。

 

 私が帰って早々、最初にやらかしたのはディルムッドだったそうだ。

 虚無の担い手の事は公にはされてはいないが、テファを知る一握りのアルビオン上層部において、虚無の担い手の衛士としていきなり平民を登用することの是非について多少の衝突があったらしい。

 そんな折、発布されたのがウェールズ殿下公認の仇討ちだった。

 サウスゴータで襲ってきた連中以外にも未だ少なくない私が手にかけた兵たちの身内たちに対し、兵たちを殺めた実行者であるディルムッドと立ち合う機会を設けたのだそうだ。発案が殿下なのかディルムッドなのかは判らないが、ウェールズ殿下の性格からして、こういうイベントをそう易々と承認する事はしないだろう。恐らくはディルムッドが彼を口説き落としたに違いない。

 討っ手の人数には上限を設けずの通達に基づき、会場である闘技場には数十人が集まったらしい。

 対する槍兵は一人。

 周囲は当然の帰結を予感して、静かにその公開処刑を環視していたそうな。

 その際に取り交わされた約束事は簡単。槍兵が倒れた場合、即座にトリステインに対し私の身柄引き渡しを求めた上、処断すると言う事。逆に、討っ手が敗れた場合は全ての恨みを水に流す事が謳われていたそうだ。

 知らぬところで私の命が賭け物になっているとは驚きだが、1と1を足せば2になるような当然の結果を思うと私にとっては他人事に等しい話だった。

 結果は話を聞く前から判っていたが、まあ私が予想した通りの結果になったらしい。死人こそ出なかったそうだが、突如仕事が山と湧いた水メイジたちは気の毒なことだ。

 そんな彼の立ち回りを見て、声をあげたのは撤退戦の時に神聖アルビオンに与していた者たちだ。真紅の槍を振るう悪夢の権化。散々に神聖アルビオンの軍勢を蹴散らした槍兵の実力は、鰭を纏いながらあっという間にロンディニウムに広まった。その勢いの前に、アルビオン上層部にも虚無の担い手の衛士は彼しかあり得ないと言う意識が確固たるものとして根付いたのだそうだ。その余禄として、私が買った恨みについても妙な形で清算が済んでしまったのだからうまいことをやったものだと思うが、恐らくは、ディルムッドの本当の狙いはこっちだったのだろうと私は思う。

 

「それで、あの子はどうしているね?」

 

 私の言葉に、マチルダは少し顔をしかめた。

 言うまでもなくテファの事だ。

 

「あんたと御同様だよ。顔色は冴えないし、何だか元気がなくてね。二人で話せばあんたの話題ばかりだよ。ご飯はきちんと食べているだろうかとか、寂しがってないかとか。まあ、よくあそこまで話題が出てくるもんだよ」

 

 私は赤面するしかなかった。

 どこかから覗いていたんじゃないだろうな。遠見の鏡とかで。

 

「まあ、帰って来てよかったよ。こんなに痩せちゃって。馬鹿だね、本当に」

 

 マチルダの優しさが、胸に染み込んでくる。その暖かさを噛み締めながら、私は彼女からもらった宿題を思い出していた。

 

「ねえ、マチルダ」

 

「ん~?」

 

「前に、訊かれたことがあったよね?」

 

「何?」

 

「……どうしてテファの事を助けようと思ったのか、って」

 

「ああ」

 

 以前、はぐらかしてしまった答えだ。何だかずいぶん昔の話のように思う。

 

「私が、変な夢を見る話は覚えているよね?」

 

「ああ」

 

「その夢の中でね、テファは、アルビオンで森の中で暮らしていたんだよ。ウエストウッドの森の中で、孤児たちと一緒にね」

 

 それは、あり得たかも知れない未来。私が壊してしまった、否定してしまった一つの可能性だ。

 

「あ~ん?……生活費とかどうしてたんだい?」

 

「マチルダが稼いで、仕送りしてた」

 

「仕送り?」

 

「うん。サウスゴータの家、ダメになっちゃってたから。酒場で働いたり、魔法学院で秘書やったり」

 

「ふーん」

 

「秘書やりながら、学院長にスカート覗かれたり、お尻触られてた」

 

「何だって~?」

 

「あはは。その度に学院長半殺しにしてたよ。それと……」

 

 ちょっとだけ言うのに抵抗があったけど、ここで言っておこうと思った。

 

「密かに、泥棒もしてた」

 

「泥棒?」

 

「金持ちの貴族相手に、怪盗やってたんだよ」

 

「それは嫌だなあ」

 

「でもね……」

 

 露骨に嫌な顔をするマチルダに、私は言った。

 

「確かな絆があったんだよ、あんたたち」

 

 今なら、判る。

 テファというキャラが、好きだった。

 マチルダというキャラも好きだった。

 でも、それだけじゃない。

 私は、二人の信頼関係が羨ましかったんだと思う。

 私には、姉妹というものがいなかった。親だって、前世の母しか知らない。そんな私にとって、テファとマチルダの二人の優しい絆が、心の琴線に触れたのだ。確か11巻だったかな。泣いているテファを、抱きしめるマチルダ。

 

『どんな道だろうが、私と行くよりは、マシだからさ』

 

 本当は、テファと一緒にいたかっただろうと思う。

 でも、それでも闇の中を歩き続けたマチルダ。

 それが、あまりにも悲しかったのだ。

 

「私も、そんな私が知るあんたたち二人みたいになれたら素敵だろうな、って思ったんだよ」

 

 私の言葉を、マチルダは黙って聞いてくれた。

 

「貴族やってた頃の私は、父親とはろくに話をしたこともなかったし、母親だって、私のことは欠片ほども愛してなどくれなかったよ。ずっと一人で、私の事を見ようともしない人たちに囲まれて、意味もなく豪勢な城で、空っぽなものばかりに囲まれて暮らしていたんだよ。だからね、お互いを大事にできるあんたたちが、私には眩しかったんだ。もちろん、テファは妹さ。助けてあげなきゃと思ったよ。でも、あの子はあんたと一緒じゃないと幸せになれない事も私は知っていたんだよ。誰に迷惑をかけた訳じゃない。たまたまエルフの血が流れてるってだけのテファと、そのお姉ちゃんだっただけのあんたが、みすみす不幸になる事がたまらなかったんだ。あんたたち二人には、陽のあたるところにいて欲しかった。テファが森の中に隠れ棲んだり、あんたが泥棒になるなんて、許せなかったんだ。それが、私が出しゃばった理由なんだよ」

 

 言葉にして、初めて判る気持ちもある。

 私の中にあったのは、二人に対する羨望だったのだ。

 

「なりゆきだったけど、厚かましくあんたたち二人の間に割り込んじゃったけど……私は、すごく嬉しかった。毎日が楽しくて、何気ない会話だけでも暖かくて……この場所は、本当に幸せで一杯だったんだ。だから、失いたくなかったんだ……皆と一緒にいられる、この場所を……」

 

 言葉を続ける私の頭に、マチルダの手が伸びてきた。

 私の髪を優しく撫で、柔らかい笑みを浮かべた。

 

「背負い込みすぎだよ、馬鹿」

 

 その声がすごく優しくて、私は照れ臭くなって布団を被った。

 

「さて、今日は寝ちまうよ。おやすみ」

 

 マチルダは笑うと、すぐに寝息を立て始めた。

 本当に疲れていたのだろう。

 布団から顔を出して寝顔を見つめながら、マチルダの帰還と言う肝心な事を言わない困った使い魔をどうとっちめようかと思いながら念話を送る。

 

『やい、ディルムッド』

 

『は』

 

 全然悪びれた感じがしない返答が癪に障る。全てを判った上でやっているような悪戯っぽい気配がした。困った奴だ。

 

『この裏切りは相当高く付くぞ?』

 

『喜んで』

 

『……お前、しばらく会わない間に変な風に毒されちゃいないかい?』

 

『滅相もない。皆、主の薫陶の賜物かと』

 

『私はそんなに意地悪じゃないよ』

 

『「喜びと復讐は静かな方が味わいが深い」とは主のお言葉であったかと』

 

 ぐうの音も出なかった。

 こんな事を言いながらも、この使い魔が何よりも私を大切にしてくれている事は知っている。さっきマチルダが教えてくれた、アルビオンでの彼の活動には目頭が熱くなった。

 

『……覚えといで。今度会ったらひどいからね』

 

 こいつの好物を、テーブルに山と並べて全部食えと命じてやろう。そんな事を考えている私に対する忠臣の返答は明るい。

 

『楽しみにしております』

 

 これ以上はやめておいたほうがいいだろうか。照れ隠しの八つ当たりにしかならない気がするし。

 

『ディルムッド』

 

『は』

 

『ありがとう』

 

 それだけ告げて、念話を閉じた。

 

 

 

 布団を直しながら、私は自分の考えの浅さを噛みしめていた。

 アルビオンを去る時、私は全てを諦めていた。

 何もかもを失い、それを二度と取り戻す術はないのだと思い込んでいた。

 そんな私に差し伸べてくれた、皆の手。

 私が打ちひしがれ、己の内に籠っている間に、皆は私なんかのためにそれぞれができる精一杯の事をしてくれていた。

 私がめそめそしている間に、そんな私のために、時間を使ってくれていたのだ。

 そんなことが判った今日、一つ思い知った事がある。

 『ゼロの使い魔』という物語において、何故ルイズや才人のような登場人物たちが英雄になりえたのか。

 彼らは、彼女らは、諦めると言う事をしないのだ。

 原作の物語の中において、厳しい状況に置かれることもあった。

 身を切られるように辛い出来事もあったはずだ。

 それでも彼らは進む事をやめようとせず、逆境にあってなお、それをバネに成長して行った。

 今なら判る。

 それこそが、英雄と言う存在に求められる資質なのだろう。

 それに対し、私はどうだっただろうか。

 ただ事実を嘆き、心を閉ざして傷が塞がるのを待っていたように思う。いつの日か、今日という日を振り返っても心が痛まない時が来てくれる事を信じて。

 それでは、ダメだったのだ。

 それを教えてくれたのが、『ゼロの使い魔』という物語を織りなす皆だった。

 運命に抗う事を知っている人たちだ。

 そんな彼らが、力を合わせて状況を変えようとしてくれている。

 私が諦め、絶望した壁を打ち壊そうとしてくれている。

 おかしな話だ。

 彼らの事を神の視点で理解し、その行動が手に取るように判るはずの転生者のくせに、実際にこの世界に暮らしてみれば現実はままならない事ばかりで、ただ喘ぐことしかできない。

 物語の英雄たちは、そんな私すら救いあげようとしてくれているのだ。

 

 そう思った途端、私の中の、私を私たらしめている何かが動き出す。

 ここまでお膳立てしてもらっていながら立ち上がろうとしないとしたら、もはやそれは私じゃない。

 できるとかできないじゃない。

 やらねばならない。

 失った物を嘆くのではなく、それをどう取り戻すかを考えるのだ。

 皆の目を、正面から見られるようになるために。

 皆と、胸を張って肩を並べられるようになるために。

 一足飛びは無理でも、まずは半歩。

 私にできる事を探すところからだ。

 始めよう。

 私なりの、運命に対する逆襲を。

 私なりのやり方で、テファに会いに行こう。

 色褪せてしまった、私の世界の色彩を取り戻すために。

 できないはずはない。

 私には、こんなにも優しい人たちがいてくれるのだから。

 

 

 

 そんな決意を固め、もう一度マチルダの方を見る。

 静かに寝息を立てている寝顔。

 何となく、面と向かっては恥ずかしくて言えない言葉を、私は小さく呟いた。

 

「ありがとう……………………お姉ちゃん」

 

 まだ伝えた事がない、でも、いつかは言おうと思っていた言葉。

 ありったけの、感謝を込めた言葉。

 だが。

 

「どういたしまして」

 

 ……寝ているはずのマチルダが、目を閉じたまま返事をして来よった。

 ぎょっとなって、私は慌てて自分の布団にもぐりこんだ。

 うわ~、うわ~、恥ずかしー。顔が熱い。

 愛の囁きより恥ずかしいぞ、これは。

 前世で、級友の男の子に懸想していた友達が学校の屋上で私を実験台に告白の練習してたら、給水塔を挟んで反対側にその相手がいたのに気付かなかったのと同じくらい恥ずかしい。そいつらは結局くっついて、私は『爆発しろ~!』と言って祝福したっけ。

 

 その時だった。

 

「ん?」

 

 私は奇妙な違和感を感じて動きを止めた。異変は外部ではなく、私の内側で起こっていた。

 下腹部に感じた違和感。初めてのものであり、昔経験した記憶のあるものであり。

 うぬぬ。

 違和感の波は徐々に大きくなり、私は跳び起きてトイレに駆け込んだ。

 私に何が起こっているのかは判らない。いや、何が起こったのかは判る。これでも医者であり、女の端くれでもある。

 問題なのが、何故今この時期にこんな事が起こるのか。

 ホルモンバランス? 精神的な要因?

 幾つもの心当たりが脳内を駆け巡るが、理由は判らない。判らなくても前世以来久々に体験する痛みと気持ち悪さは現実となって我が身を訪れている。

 

「う~む……」

 

 唸りながらトイレを出ると、マチルダが心配そうな顔で立っていた。

 

「どうしたのさ、具合でも悪いのかい?」

 

「具合が悪いと言うか、悪かったものが正常になったと言うか」

 

「はあ?」

 

 私は、自分の中の混乱した物事に整理を付けるように口にした。

 

「初潮が来た」

 

「……え?」

 

 成長が止まったこの体は、今に至るまで無月経だった。恐らく、生涯来る事はないだろうと思っていたそれの到来について、私はどうにも理解できなかった。

 

 とりあえず患者用の用品で手当てしようと思い、診察室に入る。

 その時、目に入った一つの機器。

 身長測定器。

 それを見た途端、脳内の神経が結びついた。

 錆びた時計の秒針が、震えながら動き出したイメージがよぎる。

 まさかと思い、慌てて測定器に乗った。

 バーをスライドさせ、頭頂部に合わせる。誤差がないよう、無意識に背伸びをしていないかを確認して、恐る恐る目盛りを見る。

 

「伸びてる……」

 

 目盛りは、私がいつも見つめていた数値から、明らかに半サント程増加していた。

 朝と夜に計測すると、夜の方が微妙に身長が低くなるのが人の体だが、今は夜。にもかかわらず、私の身長は伸びていた。

 何が原因なのかは判らない。

 だが、確実に変化が起こっている事は明らかだ。

 私の中の時計が、再び時を刻み始めていることを、私は知った。

 

 

 その日、私を取り囲む様々なものにおいて、新しい何かが動き始めた。



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最終話

 何度着ても、正装と言うのはやはり苦手だ。

 ブラウスに紺の上下、足元は靴。マントを身につけ、髪と化粧は不本意ながら担当のメイドさんの手が入っている。

 控えの間で、そんな堅苦しい衣装の襟元に指を入れながら、私は静かに出番を待っていた。

 原稿は、もう穴があくほど読み返した。内容は諳んじられるほど頭に入っている。

 それでも、プレッシャーが生み出す不安は尽きることはない。

 

「そう緊張されますな」

 

 ぶつぶつと原稿を思い出しながら呟いている私に、ニコニコと笑いながらマルシヤック公が話しかけて来る。緊張を和らげようと思ってくれているのだろう。

 

「無理ですよ。気分としては査問を受けるみたいなものなのですから」

 

「何も恰好を付けることはありますまい。先生が思う事を、正直に述べていただければそれでよいのですよ。何かありましたら、及ばずながらわしも助勢させていただきます。大丈夫大丈夫」

 

「むう」

 

 そんなやり取りをしていると、ドアが開いて侍従が慇懃に首を垂れた。

 

「お時間でございます。議場まで御足労下さい」

 

 いよいよか。

 

「それでは、参りましょうか」

 

 頷いて立ち上がる公爵の言葉に、私は一つ自分の頬を叩いて立ち上がった。

 

「では……ひとつ頑張りますか」

 

「よろしくお願いしますぞ、先生」

 

 

 長い廊下をぎくしゃくと歩く。ともすれば、なんば歩きになりそうなくらい緊張している自分の足元が妙に遠くに感じる。 

 ロンディニウムにあるハヴィランド宮殿の片隅、大きな議場に関係各国の代表が集まっていた。

 この会議に関する事の起こりが私にあるのなら、私をその場に呼び出すというのは理解できる。

 そこで一席ぶつのも、まあ判らなくはない。

 ただ、私が作ったいろいろな規程案や方針書に対する質疑応答の時間まであるとなると、気分はまさに針のむしろだ。始祖の子らとは言え、国が違えば哲学もそれぞれ微妙に異なるだけにどんな質問が飛びだすか見当もつかない。

 とは言え、これもこの世に新たな枠組みを生み出す大切な第一歩だ。

 そんな正念場に臨み、私は呼ばれるままに議場に入った。

 呼び声に、姓はない。

 ただ、ミス・ヴィクトリアとだけ呼ばれた。

 それでいい。ここにいるのは、ただの一人の町医者だ。医の杖の下に生きる一人の医師として、私はここにいる。

 

 ドアをくぐると、全員の視線が集まっているのが判る。

 私の外見に驚くような気配の他、私の一挙手一投足に値踏むような視線が絡みついてくる。

 正直、そういうぎらついた視線は苦手ではある。

 トリステイン代表団の席の片隅に着席し、静かに視線を上げる。

 私のそれと交差する各国の方々の視線は、それでも悪意あるものではない。

 純粋な興味と期待。

 何とも取り扱いに困る類の視線だ。

 

 最後に議長席にアルビオンの代表が座り、静かに開会が宣言された。

 

 自分の席で瞑目し、私はその宣言を聞く。

 私に総会での登壇の話が来たのは、かれこれ1ケ月前の話だ。

 

 

 振り返ってみれば、短距離走のように突っ走った1ケ月だった。

 

 

 

 

 

 

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 諸国会議で立ち上げられた国家間の傷病者相互扶助のための連絡会議。その滑り出しは概ね順調だった。各国を結ぶ横断的な組織の設立に向かい、各国の有識者が書簡で連絡を取り合い始め、事業は徐々に具体化が進んでいた。

 誰が呼んだか、その組織の仮称は『血十字協会』。

 どっかの暴走族のようなネーミングセンスに顔に縦線を引く私だが、周囲には好評なようだった。

 そんな会議のために拝命したトリステイン王国の分科会の委員、そして国の参与の役職ではあるが、協会の設立準備としていきなり私に宛がわれた仕事は協会がやるべきことの企画書の作成だった。

 何しろ、この世界にはないものを形にするのだから、すべて概念の説明から入らなければならない。私の中では当り前な物であっても、彼らにとっては当り前どころか見たこともないものなのだから責任は重大だ。カレーを知らない人にカレーパンの説明をするようなものなだけに、中学生に教えるように丁寧に言葉を選ばねばならない。

 そういうことを踏まえて私が起こした資料は複製されて、各国の分科会に配布された。日を置いてそれに対する質問状が届き、その回答書を用意してまた配布する。そんなことを幾度も繰り返して双方の認識のギャップを埋める、地道ながら責任が重い書類仕事だった。

 

 この時期、世界の動きは一見穏やかだ。

 記憶の中では、今頃は戦後体制の構築の中で徐々にガリアとロマリアの関係が険悪化して行く時期ではあり、ゆくゆくはガリア王に対して聖戦がぶち上げられる流れだったはずなのだが、今のところそのような動きはない。

 国際間におけるガリアの立ち位置は、ちょっと微妙な感じだ。アルビオンの内戦の裏にガリアがいたことは三国同盟のアルビオン、ゲルマニアそしてトリステインの知るところではあるが、いかんせん三国揃ってガリアに借金していることもあり、露骨に村八分にされるようなことにはなっていない。その反面、恐らくはロマリアと接触を持ち、交渉を決裂させていることだろう。この辺の思惑のやり取りは支配者層にとっては面白くてたまらないゲームなのかもしれないが、市井から見上げた様子は何ともギクシャクした感じがしてならない。

 ともあれ、表向きは諸国会議の議決の通り、つかの間の平和がハルケギニアに訪れているようにも見える。とは言え、平和と言うのは次の戦争のための準備期間と言うのはこの世界でも変わりはなく、恐らく今も水面下ではガリアとロマリアの生臭い応酬が繰り広げられているのだろう。穏やかな大洋に見えても、海の中で敵対する潜水艦たちが互いを捕捉すべくソナーを打ち合っているような状況に違いない。

 

 ロマリアと言えば、その置かれている状況は私が知る歴史よりは悪い。ガリアとの関係は前述のとおりであるが、それに加えてウェールズ殿下の治世となったアルビオンは非常にロマリアを嫌っているし、アルビオンと同盟を結んでいるゲルマニアとトリステインも、基本的なスタンスはアルビオン寄りのようだ。特にアルビオンでの嫌ロマリア感情は深刻で、聞くところによれば、先の戦いにおいてロマリアが申し訳程度の義勇軍しか派遣しなかったことに対し、ロマリアはアルビオンの杖を見捨てたという意識が日々深くなっているらしい。

 中世ヨーロッパのような宗教戦争がこの世界で起こるかどうかは判らないが、今のままの流れでは、下手をしたらハルケギニア初の新教国家が生まれることもあるのかも知れない。もしもアルビオン国教会なんてのができたら、それはそれで興味深い流れではある。

 

 そのロマリアは、協会の設立については大袈裟なくらい大々的なバックアップをぶち上げている。表向きは神の愛がどうたらこうたらと言っているが、裏には明確な打算的な意図があるようだ。

 やがて聖戦を始めるつもりのヴィットーリオにとって、各国を束ねる横串はいくらあってもいい。教義だけで追いつかない分は利権をはじめとした飴玉を並べて丸めこむ政治戦を各国に対して仕掛けているであろうこの頃に、そんな耳触りのいい国際機関の立ち上げの話となれば全面的に後押しもするだろう。口先と僅かな出費でハルケギニアを一枚岩にする材料が手に入るのならば、あの狂信者にとっては安い買い物だろう。その一環として聖女だ何だと美辞麗句を連発して私の株価を無理やり吊り上げているようだが、そういう切り口で考えればそういった措置の動機も理解できる。褒めるだけなら懐も痛まないということだ。先日などは教区において然るべき立場を用意したいとか使いの者を診療院に寄こしたが、あれこれ理由をつけてお帰りいただいた。カルト宗教の勧誘を受けたような気分だった。

 協会のことについて、あのような外道に踊らされていることについては正直面白くはない。

 だが、この地に前世で私が知る赤十字の思想が根付いてくれるのであれば、それはそれで割り切ってもいいように私は思っている。

 弱肉強食という強者の支配が前提の世界における弱者救済の是非については後世の歴史家に任せるとして、そこに泣く人や苦しむ人がおり、それに差し伸べる手を己が持っているのなら、相手が誰であってもその手を伸ばす事は当然のことなのだという意識を広める事は意義ある事と私は信じる。

 そんな、見方によっては狂人の発想のような私の思惑ではあるが、それの成就のためなら多少泥臭い手段であってもそれに乗る事を私は厭わない。

 何より、博愛の精神というものは、理屈の上では知的生命体であれば共有できるものでもある。もしかしたら、この活動は将来エルフと和睦するための力になるかも知れない。現実問題としては、地球で欧米人が有色人種を己と同列と考えるようになるまで長い時間がかかっているように、ハルケギニアでもエルフを人と同列に見るようになるには長い時間がかかると思う。甘い考えかもしれないが、それでも、将来人間とエルフの両種属のもつれた糸を解きほぐす材料になりうる活動は、未来の子たちの財産になってくれると信じたい。

 

 

 

 

「お、終わった……」

 

 診療院の診察室で最後の書類に終止符を打ち、私はようやくペンを手放した。

 んが~っと唸り声を上げ、内心で『すごいぞ、私』と自分を褒める。人間、やればできるものだと我ながら感心した。連日深夜までかかっての大作業、慢性的に肩が凝ったし、目も疲れた。その甲斐あって依頼された書類については何とかすべて形にできた。

 

 事の起こりは3週間ほど前。打合せのために登城した途端に、私はマルシヤック公爵に呼び出された。

 公爵の執務室に出向くや、いつものような人懐こい顔で公爵が言った。パーティーバーレル10個入りを持って立っていると似合いそうな笑顔だ。

 

「ロンディニウムでの総会の日取りが決まりましてな」

 

 総会は、連絡会議のキックオフミーティングともいうべきセレモニーだ。議長国であるアルビオンに関係各国の代表が集まるイベントとして開催日の調整が続いていたと聞いている。

 

「いよいよですね」

 

 私としては、唐突と思うと同時に、やっと来たかと言う思いだった。ひょっとしたら、歴史に記されるかもしれないイベント。関係者としては感無量だ。

 そして、続く言葉に私は面食らった。

 

「先生、貴方も同道して下さい。開催は1ケ月後です」

 

「私もですか?」

 

「第1回総会ともなれば、やはり先生に出席いただかねば恰好がつきませんからな。それに、先生の作った書類について、先生御自身の説明が欲しいと各国の分科会から要請がありましてな」

 

 いつかはアルビオンに渡るチャンスもあるだろうとは思っていたが、こんなに早くその機が来るとは思わなかった。

 しかし、直後の公爵の言葉に、代償もなくそんないいことが起こるほど現実は甘くはないと言う事を私は知った。

 

「つきましては……」

 

 戸惑う私に、公爵は数枚の紙を差し出して寄こした。

 何やらびっしりと書かれた文字の列。

 

「総会の補足資料として、こちらのリストにある資料の叩き台の作成をお願いします」

 

 出されたリストの書類の量に、私は絶句した。

 

「ず、随分ありますね」

 

 このおっさん、ニコニコと人畜無害な雰囲気を漂わせながら、何気に腹の底黒くないか、もしかして。

 

「すみませんなあ。組織運営と言うのは何しろ面倒なものでしてな。一つ、よろしくお願い致しますぞ」

 

 そんなことがあったのが3週間前のことだ。

 無体な話だが、頷く以外の選択肢は私にはなかった。他の人にお願いしようにも、手伝ってもらう前の説明の方が面倒なくらいだからだ。

 実のところ、理系の人間だった私はこの種の書類作りは大の苦手だ。おまけに、でき上がる書類は公文書の扱いになるとなると、根が大雑把な私としてはペンを取る手が震えるくらい緊張する。思ったように文案が思い浮かばない書類仕事の波状攻撃に、研修医時代の教授回診の際のプレゼンの嫌な記憶が蘇ってきたりもした。

 だが、辛くはあるが苦ではない。今の私は半ば無敵モードだ。やるべき事が見えており、それをやれば然るべき果実が期待できると言うのであれば、多少の無理や無茶はやって見せようと言うものだ。気合一つを武器にして、文才の壁にぶち当たるたびにぽきぽきと折れそうな自分を騙して作業を続けてきた。

 

 ふと窓の外を見ると、既に天空の主役を双月が太陽からその役割を引き継いでいる。やはり何かに没頭すると時間はあっという間に過ぎゆくものだ。積み上げられた書類を『済』のボックスに入れて、私は立ち上がって腰を伸ばした。この箱に入れておけば明日の朝には回収のフクロウがやって来て回収し、城の書記官が清書して公式な書類にしてくれる。

 あとはこれを各国の委員が読んで、どういう反応を示すかだ。

 既得権益や現在の医療の仕組みに少なからず影響を与えるものだけに、うまく摺合せていくには時間と手間をかけて進めていかねばならないだろう。

 

 

 

 

 

 そんな事をしていると、玄関のドアが開く音がした。

 

「ただいま~」

 

 パタパタと迎えに出る私の耳に届いたのは、何だか力尽きたようなマチルダの声だ。

 

「お疲れお疲れ」

 

 玄関に出てみれば、マチルダが靴も脱がずにマント姿のまま上がり框にグテッと仰向けに倒れていた。

 

「本当に疲れたよ~」

 

「早く靴脱いで楽な恰好に着替えなよ。晩御飯、すぐ温めるから」

 

「すまないねえ」

 

 

 

 

「いや~、肩が凝るよ。よくもまあ、あそこまで決める事があるもんだね」

 

 キッチンの椅子にもたれ、首を回しながらマチルダが大きく息を吐く。

 

「お疲れさん。宮仕えは辛いやね。はい、お待ちどうさま」

 

 出来上がった料理の鍋をテーブルに据えて、ミトンを外す。手抜きなようで申し訳ないが、今日はボルシチ風のシチューだ。具だくさんなそれはマチルダの好物なのだが、それを見る彼女の表情はちょっと複雑そうだ。

 

「うう、美味しそうだよぅ……こういうの嬉しいんだけどさ……また太っちゃうよ、私」

 

 肉体労働だった工房時代と違い、事務仕事ばかりの最近は消費カロリーが少ないためか、マチルダはしばしばボディラインを気にするようになってきた。一見すると充分に魅力的なゴージャス系のボディなのだが、いろいろな部位で彼女の中の制限ラインを踏み越えているのだそうだ。

 

「疲れているんだから、ちょっとくらい多めにカロリー取らなきゃ体がもたないよ。しっかりお食べな」

 

 そんなしょうもないことを言いながら適量を皿に盛り、ワインを用意する。席についてカップを持ち、軽く合わせて口に含む。労働で疲れた体にアルコールが心地よく染み込んで行く。

 

 

「それで、あんたの方はどうなんだい?」

 

 マチルダの問いに、私は腰に手を当てて胸を張った。

 

「ふっふっふ、さっきやっと終わったよ」

 

「あんだけあったの、全部やったんだ!?」

 

「何とかね」

 

「お疲れさん。これで胸を張ってアルビオンに行けるじゃないか」

 

「おかげさんで。そういうそっちはどんな按配だね?」

 

「ぼちぼちだよ。予定通り、来週にはいっぺんロンディニウムに報告に行かないといけないけどね」

 

 夜な夜な一杯やる時、酒の肴はたいていアルビオンの二人の話題か、互いの仕事の話だ。

 城下の領事館でマチルダがやっている仕事は、トリステインとアルビオンの様々な条約や協定の関係業務だ。元から両国が双子のように親密なことはアルビオンからトリステインに婿養子に来た前王を見ても明らかなのだが、今回の戦役でもトリステインが最も貢献度が高かったこともあって、その関係はさらに深まりつつあるようだ。しかも、市井では実しやかにウェールズ殿下とアンリエッタの結婚が噂されており、暗い話題ばかりだった街にロイヤルウェディングと言う明るい話題が響いている。

 そんな両国の戦後の利害調整のために奔走しているのが、目の前にいる駐在官たるマチルダだ。大使はまた別にいるのだが、大使が出て来る頃には大方の決着がついているのが国交の常。マチルダがやっている事は、そんな泥臭い事前調整だ。

 とは言え、基本的に仲良しな両国間にはさほど深刻な問題がある訳ではないようで、やっている事は伯父上の統治時代に取り決められた条約類の再締結と時代に即した修正、そして、やがて訪れるであろうアルビオン=トリステイン連合王国の成立に向かっての下準備だろう。

 

 マチルダを見ていて初めて知ったのだが、駐在官というのは私の予想以上に激務だ。トリステインの官僚とあれこれと調整をする傍ら、定期的にアルビオンに報告に戻らなければならない。見ていると、何だか馬車馬の方が労働条件がいいように思えたりもする。赤十字をこの世界に根付かせるより、労働基準法を広めた方がいいんじゃないかとすら思うくらいだ。そんなマチルダの帰朝報告は来週。私のアルビオン行きとタイミングが合うから嬉しい。

 

 そんな国策に絡む仕事をしているだけにマチルダには守秘義務なんてものもあるだけに、食卓の話題として出て来るそれは私の作業の進捗の方が多いかも知れない。むしろ、協会の設立に係るいろいろな段取りについて、マチルダに相談に乗ってもらっているというのが正直なところではある。

 

 協会の将来について、私が考えている方策は大きく分けて2つある。

 一つは、戦争や災害等の有事の際の医療について、中立の立場で真っ先に現地に飛んで医療活動に従事する実行部隊を創設すること。これは常設ではなく登録制として、事が起こった際に召集をかける水メイジの一団として組織する。イメージとしては『国境なき医師団』をはじめとしたボランティアの医療NGOみたいなものだ。紛争が起こった場合、その当事国以外から派遣される形にすることが望ましい。登録に当たっての任命者は国王とし、そこに登録を許されること自体を典医並みの名誉あることとしてもらうことで質を確保する。それに合わせ、有事を想定したそれらの治療師団体の受け入れ態勢のあり方をマニュアル化して各国に浸透させることにより、より迅速な展開を可能にする制度を構築する事。

 今のハルケギニアにおいて、これはかなり重要なものと私は考えている。

 やがて起る大隆起は、恐らく誰も知らない未曾有の災害だ。発生すれば被災者の数も尋常な数字ではないだろう。そんな大惨事であっても、所詮は何も知らない者にとっては絵空事にすぎない今の段階ではそれらに対応するだけの規模の組織を作る事は現段階では望むべくもないが、少なくとも幹の部分は固めておきたい。幹が固まれば後は枝葉だ。規模の拡大はそう難しいものではないだろうと思う。

 

 もう一つ、作りたい流れが協会直轄の病院の設立だ。いわゆる赤十字医療センターのようなものを作って、それを各国の首都に置く。そこを協会の拠点とする構想だ。

 だが、こちらは実現までのハードルは医師団より高い。

 病院を設立するには、そのハードとソフトの双方の充実が求められる。

 ハードについては私の中にある程度のノウハウがある。規模や動線、各施設の配置などは現代の病院のそれがある程度参考になる。

 問題はソフトだ。

 病院の基幹業務には、入院対応がある。治療師がそれぞれの家を訪れて治療を施す体制が主流のハルケギニアにおいては、患者を預かる発想は珍しいものだ。魔法や秘薬と言うアドバンテージがあるので長期の入院加療が必要な患者と言うのは前世ほど多い訳ではないことがこの種の概念が芽吹かなかった原因であるが、それでもカトレアの例を見るように、中には相応の医療体制で臨まねばならない疾患を抱えた患者と言うのは存在する。

 そんな患者を受け入れる施設となると、体制も相応のものが必要になる。患者と医師は点の関係だと前に述べた事があったと思うが、点だけでは物事は成り立たない。それをサポートする看護師らスタッフの力が絶対に必要となる。むしろ、病院という施設において最も重要なのが看護師を主役とする看護体制であると言える。『病院の要は婦長である』と言うのはかのナイチンゲールの言葉だが、実に的確に事の本質を捉えた言葉だと思う。患者と看護師は線の関係。看護師には患者の容体を常に把握し、何かあった時に対処するだけのノウハウが必要となるのだ。

 この世界における病院設立において最大のネックがこの看護師だ。現代の技術を別の世界に持ち込む話は幾らでも知っているが、スタッフの育成を伴う物はそうはいかない。特に医療従事者を育成するとなると、それは実現するまでには相応の時間がかかる作業だ。

 この世界では、専門職としての看護師は存在しない。場合によっては修道女などがその役を担うのだが、修道女を常勤の看護師として駆り出す訳にはいかない。何より、看護に関する専門教育自体は存在しないのが問題だ。前世の世界において、ナイチンゲールがその無双の馬力で力づくで確立した近代看護だが、6000年の歴史を持つこの世界であっても彼女のような傑女は存在しなかったようだ。

 そんな訳で、病院の設立にはまずは看護師の育成が最初の関門。その進捗によっては看護学校の設立等も必要になるかも知れない。それに伴う体制の整備と、何より教官の育成こそが最大の問題だ。こうなると話はいよいよ国家レベルの事業になる。これをクリアしない事には病院の設立は画餅も同然だろう。

 

「ふ~ん……要するに、テファみたいな子がいっぱいいればいいって感じかい?」

 

 杯を重ねつつ、マチルダにあれこれ悩みを聞いてもらう。

 

「あれくらい気が利いて、優しくて、患者の身になってあげられる子が理想なんだけどねえ」

 

 看護師の育成の問題は悩ましくはあるが、方法論がない訳ではない。

 理想は私の診療院に少数の病床を新設し、そこで徐々に人材を育成していくやり方。何しろ、看護学校を作ろうにも、まず教えられる人を育成しなければ話にならない。私とて看護のことは専門ではないが、全く知らない訳ではないから多少の教導はできる。そのことはテファの教育で体験済みだ。

 まずは私の目が届く範囲で4~5人くらいから。習熟度に応じて徐々に人を増やし、充分にスキルが上がったら学校を設立し、それらのスタッフに教官になってもらうのが最もリアリティがある方法だと思う。無論、これについては国の補助が必須だ。何しろ、学校に通うと言う事自体が贅沢とされるこの世界、識字率の低さを見ても子供を学校に通わせられる家は多くないだろう。奨学金や補助金など、然るべき援助は必要不可欠だ。個人の善意だけで人々を助けて回ることには、どうしても限界がある。

 それでも、私は看護師と言うのをこの世界の新たな職業として確立したいと考えている。男女同権とかウーマンリブという思想については私は興味はないのだが、女性だからという理由だけで優秀な人材が埋もれているのなら、その原石を掘り返すことは有意義なことだと思う。

 

「あんたが声をかければ、幾らでも人や金は集まるんじゃないの?」

 

「……意地悪言わないどくれよ」

 

 正直、余計に思える『聖女』の呼び声ではあるが、利用しようと思えばこれほど使い勝手がいい称号もそうはない。

 アンリエッタが私の活動を吟遊詩人が謡っていると言っていたが、時が進むにつれ、徐々にその話が大きくなっていることまでは予想できなかった。それを思い知ったのが、先日中央広場を通った時のことだった。

 何気なくタリアリージュ・ロワイヤル座の演目告知のポスターを見て、私は凍りつく羽目になった。

 劇場と言うものは、大衆演芸の殿堂だ。

 それはいい。

 市民の娯楽、大いに結構。

 問題は、そこで催されている芝居の内容だ。

 でかでかと貼られたポスターを見れば、凄惨な戦場をバックに描かれた、負傷者を庇護する一人の金髪の乙女の姿。

 演目のタイトルは、こうある。

 

『サウスゴータの聖女』

 

 目にするたびに、どこか遠くに行きたい欲求に駆られるポスターだ。ジェシカが言うには、先の戦争で、サウスゴータで献身的な医療活動を行ったある貴族の女性をテーマにしたお涙ちょうだいものの演劇で、アルビオンで人気を博したその芝居の台本が輸入されたものなのだとか。恐らくはウェールズ殿下かアンアンあたりの陰謀だろうと思う。

 モデルが誰かについては言うまでもないだろう。主役をやっているのが金髪の妙齢のお姉ちゃんで、しかも名前が変わっているあたりが救いだが、私としては非常に居心地が悪い代物だ。原作で才人が体験したむず痒さは、きっとこういうものなのだろう。そう、あれは私ではない。違う何かだ。

 遠くトリステインですらこれだ。一体アルビオンでは私はどんな存在として独自発酵しているやら。考えるだけでも恐ろしい。

 

 しかし、私にとっては迷惑極まる代物ではあるが、こういう手段は協会の思想を民草にまで広めるには実にうまいやり方だと思う。主役は貴族の娘と言う設定のようだが、演劇の中ではその救済の手は貴族も平民も敵味方も隔てがない。こういうことを尊いことという思想を根付かせるメディア戦略としては、大衆演芸を利用する事は最善手だろう。

 あの芝居を見て垣根のない医療活動の大切さに目覚め、私もやってみたいと思ってくれる見どころがある人が増えてくれれば理想的ではある。あとは理想と現実のギャップを埋めながらうまく導ける指導者がいてくれれば言うことはない。

 

 

 そんな事を考えていると、マチルダがしみじみと呟く。

 

「テファがいればねえ。せっかく当人もその気満々だったのに」

 

「テファが?」

 

 やる気満々と言う言葉に、私は首を傾げた。

 頭上に疑問符を浮かべる私に、マチルダは意外そうな顔をする。

 

「あれ? ずいぶん前から、あの子、後輩育成の事考えてたよ。 知らないのかい?」

 

「知らない」

 

「おやおや、薄情な院長さんだね。あの子なりに、診療院の行く末を考えていたみたいだよ。あんたの夢をどうしたら実現できるかって」

 

 初耳だった。知らなかったよ、そんなこと。

 確かに、診療院の拡張について私は事あるごとに駄々っ子のように口にしていた。その度に『できるといいね』と笑っていたテファしか思い出せない。

 

「あの子、トリスタニアの人たちが好きだったからね。あんたと一緒に、王都の皆のために働けるのを本当に喜んでいたじゃないか。診療院が拡張されて、もっと多くの人たちの力になれるとしたら、その中で自分は何ができるかっていつも考えていたみたいだよ」

 

「そうなのかい?」

 

「そうだよ。治療師としての仕事だけじゃなくて、患者との付き合い方とか、あんたの助手をやりながらあんたに見せてもらったものや教えてもらったものを、あの子はとても大事にしていたんだよ。だから、診療院を拡張してスタッフの増員が必要になったら、自分が新人の教育係になってでも対応したいってね。ルイズが診療院で働き始めた時なんか、ちょうどいい予行演習みたいに考えてたみたいだよ」

 

 私は手にしていたカップを降ろした。

 何だか、とても神聖なことを聞いているような気がしたからだ。今、マチルダが述べている言葉は、恐らくテファと言う女の子の心の在り方そのものなのだろう。見ているようで、全然見えていなかったテファの本当の想いを知り、私は妙に悔しくて歯噛みした。情けないことだが、あの子が何も知らない子供ではなく一人の自立した女性だという事をいつも私は見失う。マチルダはこんなにも私たちのことを見てくれているのに、私はたった一人の妹の事も満足に見えていなかったのだ。

 

「今頃、何しているかねえ」

 

 ふと宙を見上げ、マチルダが呟く。釣られて、私も天井を見上げた。

 空の彼方、アルビオンの大地。

 テファは今頃何をしているのやら。

 常日頃は常にディルムッドが傍に控えているが、その姿までは見えはしない。ディルムッドという使い魔に不満は何一つないが、もし叶うのであれば、彼の視界と私のそれがリンクすればと思うこともある。

 困ってはいないか、泣いてはいないか、あの子に対する心配の種は尽きない。

 

 そんな風に天井に向けていた視線を落とした時、私はマチルダが微かにため息をついたのに気がついた。

 一見すると、いつも通りの酒のようではあった。

 しかし、そんな場に、いつもとはちょっとだけ違う空気が入り込んでいることに私は気がついた。

 マチルダの表情が、微妙にぎこちないのだ。竹を割ったような彼女らしくない、どこから間合いを測るような会話の運びも気になった。本来は他人の私たちではあるが、本音ばかりをぶつけ合って過ごしてきた4年という時間は短くはあっても薄いものではない。

 話が一区切りついたところで、私は切り出した。

 

「それで、あんたは何を悩んでいるんだね?」

 

 ワインを注いだカップを手にマチルダに問う。それを受けたマチルダの動きが止まった。

 驚いたような、でも、それでも予想していたような苦笑いを浮かべるマチルダ。

 

「う~ん、やっぱり判っちゃう?」

 

「そりゃ判るよ」

 

「かなわないねえ」

 

 マチルダは困ったように宙を仰いで頭をかいた。

 

「私でも役に立てる話なら聞かせてごらんよ」

 

 急かす私に、マチルダは躊躇った。顔色が優れないところをみると、やはりかなり言いづらいことなのだろう。

 

「う~ん、でも、どう話したらいいものか、まだ判らないんだよ」

 

「難しい話なのかい?」

 

「難しいというか、あんたを悩ませるのも忍びないというか……」

 

「ちょいと、マチルダお姉様?」

 

 私はカップを下ろして声をあげた。

 

「それはちょっと水臭いんじゃありませんこと?」

 

「判った、判ったからその手はおやめって」

 

 変に気を回す姉を拷問にかけるべく両手をわきわきと動かしながら立ち上がる私を、慌てて両手で制するマチルダ。

 席に戻ると、マチルダが観念したように私のカップにワインを注いだ。

 

「それじゃ、ここから先は内緒話だよ」

 

 マチルダが声を落とした。それだけで真面目モードに移行したことは判った。どうやら穏やかな話ではないようだ。守秘義務の範囲にあることを、私を信用して話してくれるということだ。

 

「これから話すことは、アルビオン王国のウェールズ殿下が私に直々に命じられた御意向だよ」

 

 飛び出した不穏な単語の数々に、私は思わず背筋を伸ばした。

 

「今、アルビオンとトリステインでいろいろ新規の条約や協定がいくつも調整されているのは知っているね?」

 

 私は黙って頷いた。

 

「その中に、アルビオンからの留学生受け入れに関するものがあるんだよ」

 

「留学生?」

 

「アルビオンの復興は、まずインフラの復旧が優先されていてね。家庭教師などで代用が効く学校みたいな施設は割と後回しなんだよ。その関係で、ロンディニウムの魔法学院の再開は未だに目途が付いていないのさ」

 

 紡がれるマチルダの説明によると、ロンディニウムの魔法学院は内戦の影響で施設がかなりのダメージを受けていて、未だに再開の目処が立っていないらしい。また、教官である貴族も多く亡くなっていることもあり、その点も解決には時間がかかるのだそうだ。

 そこまで言われて、ようやく私はマチルダが言いたいことの核心に気が付いた。

 

「その留学生って……」

 

 私の言葉に、マチルダは頷いた。

 

「その通り。テファもその内の一人だよ。ようやく、その協定が締結になったんだよ」

 

 私は顔がほころぶのを堪えきれなかった。

 白の国から来た編入生。テファは原作で、トリステイン魔法学院に入学したはずだ。編入生と留学生の違いこそあれ、これが歴史の修正力なのか何なのか判らないが、物事は私たちにとって良い方向に急速にシフトしていることだけは確かだ。

 テファが、トリステインに来ることができる。

 離れて暮らすと言っても、王都から学院までなら馬で数時間。空の上とは比較にならない。

 その事実は、私の中で強烈な歓喜に還元されて暴れ始めた。

 

「テファの立場を考えれば、確かに相応の教育は必要だからね。しっかりした教養と人脈を身につける必要があるということで話が進んでいるのさ。こっちに来るのはまだちょっとだけ先になると思うけど、アンリエッタ陛下を通じて、もう学院長のオールドオスマンに打診はされているよ」

 

「よく大臣たちがうんと言ったねえ」

 

「そこが殿下のずるいところさ。こうなるように、それとなく復興プランに調整を入れていたみたいでさ。そのうえで、予算には限りがあるから、他の国から受けられる恩恵は目一杯利用させてもらうことを方々に説いて回ったんだよ」

 

 確かに、トリステインにその身を置くと言っても立場としてはアルビオン属のままだ。この程度ならば、アルビオンの虚無としての位置づけが揺らぐことはないだろう。

 殿下が気を回してくれたのだとしたら、私はまた一つ、彼に借りができた事になる。

 しかし、喜ぶ私に比して、マチルダの表情は曇ったものだった。

 

「でもね、これにはひとつ、大事な問題があるんだよ」

 

 重い声で、マチルダが切り出した。ここからが、マチルダの話の本題なのだろう。

 

「問題?」

 

 首を傾げる私に、マチルダはため息まじりに言った。

 

「あの子の本当の姿を、街の人たちにどう伝えるか、だよ」

 

 言われて、私はようやくマチルダの苦悩を理解した。

 私が目を閉じ、耳を塞ぎ、意識の外に追いやっていたことが、ここに一つあった。

 テファのことについて、私はひたすら街の人たちを欺き続けてきた。

 この世界におけるエルフと言う存在を思えば、やむを得ないことと私自身に言い訳してきた。それでも、こんな私たちを暖かく迎えてくれた街の人たちからあの子の本当の姿を隠し、知らん顔でその一員に成りすましていた罪は軽くはない。

 もしマチルダの言う留学制度によって、テファがトリステインに来られるようになったらどうなるだろうか。

 あの子がこの国に来られることを喜んでばかりはいられない。

 学院の方は、恐らく問題ないだろう。アルビオンからの公式な留学生であることがトリステイン貴族の子供たちにどう取られられるかは判らないが、テファのキャラクターならうまくやっていくだろうし、学院ならばルイズも才人、キュルケといったテファの友人たちがいてくれる。オールドオスマンもスケベではあるが話の判らない人物ではない。

 気になるところはベアトリスだが、こちらについてもギーシュたちがいてくれるし、何より私の忠臣がテファの傍には控えている。ベアトリスが異端審問と口にした瞬間に空中装甲騎士団は壊滅の憂き目を見るだろう。

 そんな派手な学生生活が容易に思い浮かぶくらいなのだから、恐らく噂は派手に流れることだろう。そんな噂の一つとして、アルビオンからの留学生がハーフエルフだということが広まることは避けられまい。それがテファのことだと知れた時、街の人たちはテファをどういう目で見るだろうか。

 留学はいい。あの子が私の手が届くところにいてくれることはこの上なく喜ばしいことだ。だが、トリステインに渡った時、恐らくはどこかからかはあの子のことが王都の人々の耳にも届いてしまうだろう。

 今まで、穏やかに仲良く暮らしてきたトリスタニアの人たちが、一転して冷たい視線や心ない言葉をあの子に投げかけたとしたら、あの子は間違いなく傷つくだろう。

 皆を騙していた私やマチルダも同じような仕打ちを受ける可能性はある。そのことについては私は覚悟の上だし、マチルダも恐らく同じ気持ちだと思う。石を投げられるように王都を去る羽目になるのは残念だけど、それはそれで仕方がない。

 だが私としては、そんな思いをあの子に味わわせることになる方が耐えられないことだ。

 

「……そうだね。どうしたものか」

 

 自問するように呟いた私に、少しの沈黙の後にマチルダは声を落として言う。

 その答えは、口にするだけでも勇気がいるものだったことだろう。

 

「どうだろう、ヴィクトリア……私は、あの子の事、街の皆に知ってもらうべきだと思うんだよ」

 

「本気かい?」

 

「いつまでも隠し通せるものじゃないとはかねがね思っていたけど、今のあの子はアルビオンで、生まれて初めて何を隠しも偽りもしないままに生きているんだよ。それを街の皆に知られたくないという理由で、もう一度偽りを重ねるというのは可哀そうだよ。それに、もしトリステインに留学して来るとしたら、あの子のことを皆が知るのは恐らく時間の問題だと思うしね」

 

 確かに、シエスタとジェシカというルートをはじめ、魔法学院ならば王都との間に幾つもの情報ルートが存在する。露見するのはあっという間だろう。

 

「でも……」

 

 なおも口ごもる私の頭に、マチルダが手を置いた。

 振り向けば、相変わらず優しいマチルダの笑顔があった。

 

「私は、信じてみたいんだよ。あの子が大切にしていた街の人たちをさ。ダメだった時は、またその時のことだって考えたい」

 

「怖いね……ダメだったときに失うものが、大きすぎてさ」

 

「私だって怖いよ。でも、ここで街の皆を信じることも勇気ってもんじゃないかな」

 

 

 

 

 答えを探しあぐねて、私が唸っている時だった。

 呼び鈴が軽やかに音を立てた。

 

「あらら、急患かな?」

 

 慌てて立ち上がり、玄関にパタパタと走る。いささか酒が入ってしまっているだけに、診療となったら酔い覚ましの薬を飲まねばならないだろう。ただし、その薬はとてつもなく不味いのだ。その苦さたるや、センブリやハシバミ草が可愛く思えるくらい。例えるなら、正露丸をドリンク剤にしたような感じだ。そのうち何とか固形化して糖衣錠にしようと思っている。

 そんなことを思いながら玄関を開けると、そこに見知った顔があった。

 

「夜分に御免なさいね、先生」

 

 恐らく仕事中なのだろう、商売用の衣装を着て若い健康な色気をまき散らしているジェシカだった。

 

「おや、こんな時間にどうしたね。急患かい?」

 

 私の問いに、ジェシカは首を振った。

 

「急で悪いんだけど、お誘いに来たの。ちょっとお店の方に顔を出してくれない?」

 

「店に?」

 

「町内の主だったところが集まって盛り上がってるのよ」

 

 

 

 

 魔法を光源にした街灯の淡い明かりは、どこか瓦斯灯のような風情を漂わせている。

 そんな遅い時間のチクトンネ街を私たちは肩を並べて歩き、夜になっていよいよ絶好調といった感じの『魅惑の妖精』亭のドアをくぐる。

 

 中に入ると、店の中は結構な人の入りだった。私とマチルダがドアをくぐるなり、それらの視線が一斉に降り注いで来た。

 

「お、やっと真打登場か。待ってたぜ」

 

 程良くでき上がっている赤ら顔の武器屋が、マチルダを見て鼻の下を伸ばしている。

 そんな連中に、上座に用意されていた空席2つに案内される。一体何の騒ぎなのやら。

 

「忙しいところすまないね」

 

 席に座ると、正面にいるのはピエモンだった。どうやら面々の代表と言うことらしい。

 

「別に、あとは寝るだけだったから構やしないさね。それより、何の席なんだね、これは?」

 

「最初は三々五々と集まって来たんだがね。ひとつの話題で店中が盛り上がって、今に至るという感じだ」

 

「話題?」

 

「君たちの妹御のことだよ」

 

「テファの?」

 

 思わず、私はマチルダと顔を見合わせた。

 

「彼女から、手紙が来ていてね」

 

 ピエモンが出したのは、一通の封書だった。

 差出人の名前を見て、私は目を見開いた。

 確かにテファの字で、差出人もテファの名前が書いてある。

 

「ちょっと前に私のところに届いたものだ。私の事をすごく気遣ってくれているようで、何とも申し訳ない限りでね」

 

 珍しく嬉しそうな顔で語るピエモンの表情は、まるで孫のことを語るおじいちゃんのそれだ。

 

「マチルダ、あんた知ってた?」

 

「いや、初耳だね」

 

「読んでみるといい」

 

 許しを得て、私は手紙を読んだ。

 内容は、あの子らしい言葉でピエモンの体への気遣いが綴られていた。特に疾患を抱えている訳ではないピエモンだが、年齢のこともあるので定期健診を欠かさぬようにとか、季節の変わり目は風邪をひきやすいから注意をするようにと言葉が並んでいる。

 最後に、唐突に街を去ったことに対する詫びの言葉と、出来る範囲で診療院を一人で切り盛りする私の事を気にかけてあげて欲しいとの願いが書かれて手紙は結ばれている。

 丁寧な、本当に丁寧な筆致で綴られたそれから、あの子の声が聞こえてくるようだった。

 

「私だけではないよ。皆、彼女から同じような手紙をもらっている」

 

 その言葉に視線を向けると、皆がピエモンと同じ封筒を手にしていた。

 これだけの人達のことを全て記憶しており、それぞれの事情に合わせて丁寧に手紙を書いたことに私は素直に驚いた。きっとすごく時間がかかる作業だっただろうに。その細やかな作業の裏側に、テファの街の人たちへの想いが伺えた。

 感動を覚えて固まる私に、ピエモンが居住まいを正して言う。

 

「さて、話の枕はこれくらいにしておこう」

 

 急な話の方向転換に、私は少しだけ身構えた。

 

「……何事だね?」

 

 深く呼吸をして、意を決したようにピエモンが言った。

 

「妹御の、出自のことだ」

 

 ピエモンの表情に、彼が言いたいことはすぐに理解できた。

 その言葉に、私はさすがにポケットの中の杖に手を伸ばした。

 

「薬屋の……あんた……」

 

 そんな私を、ピエモンが手で制する。

 

「これでも耳はいい方だよ。君らの生まれくらいは知っていたさ」

 

 あまりのことに言葉が出なかった。私の隣では、マチルダも懐に手を入れたまま固まっている。

 私たちが先刻思い悩んでいた事象が、知らぬところで動いていた事実に対応に悩んだ。

 だが、そんな私たちを見る街の面々の視線に尖ったものはなかった。

 普通ならば吊るし上げすらありうる話だろうが、しかし、私たちに注がれている視線はどこまでも優しい。

 

「水臭いわよ、ヴィクトリアちゃん」

 

 振り返ると、そこにスカロンが優しい笑みを浮かべて立っていた。その大きな手にも、ピエモンのと同じ封筒があった。

 

「モード大公の娘さんたちがどこにいるかくらいは知っていたわよ。ティファニアちゃんの耳のこともね」

 

 さらっととんでもない事を言いだす。

 

「貴方達がいろいろ大変だったことも、知っているわ。今回の渡航で、どうしてティファニアちゃんがアルビオンに残って神官職に就いたのかまでは判らないけど、 でも、ティファニアちゃんがアルビオンで公の職に就いたってことは、もう彼女の素性を隠さなくてもいいってことでしょ?」

 

 私は、素直に観念した。

 

 私たちを見つめる皆を前に、私とマチルダは席を立った。

 謝らなくてはいけない。

 姉として。

 テファに偽りの仮面を与えた者として。

 皆を欺いていた事実について、許しを乞う必要があると私は思った。

 それが人として、通すべき筋道だ。その結果がどうあれ、それは私たちが受け入れねばならないものだ。

 だが、そんな私たちの口を、ジェシカが人差し指で制した。そして、店の中に向かって大声をあげた。

 

「ねえ、皆!」

 

 良く通るその声に、店内の客も従業員も一斉にジェシカを振り向いた。

 

「先生のところのティファニアがハーフエルフだってこと知ってる人、手を上げて」

 

 ジェシカの声に応えるように、全員の手が挙がった。

 一人残らず、全員だ。

 

「じゃあ、そのことで先生たちに文句がある人は?」

 

 全員の手がぱたりと下がる。

 

「あんたたち……」

 

 私の隣で、マチルダが声を震わせていた。私はと言えば、驚きのあまり声も出せないくらいだ。

 

「文句といわれても……のう」

 

 居合わせたじい様の一人が、隣のじい様に声をかける。

 

「ハーフエルフって言っても、わしらが別に何かされた訳じゃないしのう」

 

「そりゃ、あんな別嬪さんがハーフエルフだったというはちょっと驚きはしたがのう」

 

「ああいう子ばかりなら、きっとハーフエルフと言うのは優しい種族なんじゃろう?」

 

 あまりの緊張感のなさに、私は力が抜けそうだった。

 唖然とする私たちに、ジェシカが凛とした声で言った。

 

「そんなわけで、お二人さんがアルビオンに行く機会があったらあの子に伝えてくれないかな。街の皆が、帰りを待ってるって」

 

 ジェシカの言葉に賛同するように、皆が頷く。

 正直、信じられなかった。

 エルフのことはこの世界ではかなりの禁忌だ。確かに、貴族の価値観に比して平民の価値観ではエルフに対する忌避感は薄い傾向がある。ヒステリックな反応を見せたクルデンホルフのアホ公女に比べても、原作でアニエスが初めてテファと接する際にも何事もなく接していたように記憶している。それを差し引いても、この対応はどうであろうか。場合によっては、私たちだって村八分だっただろうに。

 

「ジェシカ、あんた、いつからあの子のことを?」

 

「先日パパのところに手紙が来た時にね」

 

「……いいのかい」

 

「いいも何も、訳ありなんてのは女の魅力のひとつみたいなものだし……ねえ?」

 

 ジェシカが同意を求めて振り返ると、今度は居並ぶ妖精さんたちが頷いた。

 

「確かにエルフは怖いっていうけど、あの子のこと知ってると、何だか今さらって気もするしね」

 

 何故だろう。

 状況は理解できても、理由が判らない。

 何故、こうも街の皆はごく自然にテファの事を受け入れられるのだろう。

 

「皆、あの子のことが好きなのよ」

 

 悩む私に、スカロンがあっさりとその答えを言ってくれた。

 

「誰にでも優しくて、本当に親身になってくれて。ハーフエルフってことなんか、あの子の前では小さいことよ」

 

 そんなスカロンの表情に、私はようやく事の真相に思い至った。

 このような奇跡をもたらした魔法使いが誰なのか、街の人たちが穏やかにテファを受け入れてくれたことをプロデュースしてくれた人物が誰なのかということに、私はようやく気付いた。

 ごつい体格に髭を生やした、杖を持たない優しい魔法使い。

 マントの代わりに全身ぴちぴちのレザースーツを着込んだ奇跡の担い手に、私は問うた。

 

「……あんたがやってくれたのかい?」

 

 町内会の役員にして、情報のプロである彼のことだ。テファのことを穏やかに街中に広めることくらいはやってのけるだろう。

 私が向ける問うような視線に、スカロンは笑って肩をすくめた。

 

「私なりにちょっとだけ動いたけど、誰がやっても同じことになったでしょうね」

 

「……あの子は……この街のティファニアでいてもいいんだね?」

 

 マチルダの言葉に、スカロンは大きく頷いた。

 

「当り前じゃない。あの子は、私たちの聖女様なんだから」

 

 いつもは不気味に感じるスカロンのウインクが、心に暖かかった。

 

 私はマチルダと顔を見合わせた。

 心の底からの安堵に、私たちの顔には笑みが浮かぶ。

 トリスタニアに来て以来、何かを積み重ねてきたのは、私とマチルダだけではないことを、私は皆に教えられた。

 日々、テファが丁寧に播いていた幸せの種は、こんなにも素敵な実りを私たちにもたらしてくれたのだ。

 ハーフエルフ。

 シャジャルの娘。

 そして、私たちの妹。

 そんな肩書などが関係のないところで、テファは一人の女の子として人々との絆を育んでいたのだ。

 私の自慢の妹は、こんなにも人々を愛し、人々に愛される存在なのだ。

 それが誇らしくもあり、羨ましくもあり。

 これを知った時、テファはどういう顔をするだろうか。

 あの子のことだ、きっと照れくさそうに笑って、俯くことだろう。

 今夜、私は自分の目標に新たな一項目を書き加えた。

 一日も早く、あの子にこの事を伝えに行こう。

 この事を告げた時のあの子の顔を皆に見せられないのは残念ではあるが、今、私が見たもの、聞いたもの、そして感じたものを、余すところなく全てテファに伝えよう。

 それは間違いなく、誰のものでもない、テファの築き上げた財産なのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな人々の歓送を受け、私は翌週にアルビオンに向かって発った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 総会の冒頭。

 

 私は、一番最初に演壇に登った。

 静寂に満ちた議場を見渡し、私は設立される協会が何をなすべきかを端的に述べた。

 それらは、私にとってはごく当たり前の思想だ。

 すなわち、設立される協会は、戦争・紛争・被災・伝染病発生地域における人々の救済活動をその主たる任務とし、平時には各国において医療保健水準の向上に努める機関であることをその存在意義とすること。

 その活動は、国籍、年齢、性別、信条等の別なく、全ての人々を等しく救済するためにあるべきということ。

 赤い十字の旗に対してはいかなる理由があっても攻撃を加えない事を各国の王の杖にかけて誓ってもらいたいということ。また、その旗の下に集うものは、全てにおいて中立であること。

 そして、これらの事業において、携わる者は決して自分の名誉のためではなく、そこで行われる活動にこそ名誉をもたらし、それを前進させるために事に臨んで欲しいと言う主旨のことを述べていく。

 要所要所に前世で耳にしていた医療関係の偉人たちの言葉を、噂に聞いた東方の賢者の言葉として織り込む。それらを口にしながら、私の前世の世界が、どれほど多くの人たちの努力によって確たる医療に関する思想が成立して行ったかと言う認識を新たにする。

 デュナンやナイチンゲールに限らず、ヒポクラテスからマザー・テレサに至るまで、人々のために奮闘し、多くの人々を救って来た先達の言葉と言う形なき遺産がこの身には宿っている。

 それをこの世界の人々に伝え形にしていくことこそが、この世界に対して転生者である私が出すべき処方箋なのだと信じたい。

 私の転生がいかなる理由で発生したのかは判らない。だが、この世界にこれらの思想の種を撒くのが私の天命だったのだとしたら、私は粛々とそれを受け入れ、推し進めていこうと思う。

 戦争は、ヒトという種が抱える宿痾だ。恐らく、人類が死滅するまでなくなることはないだろう。

 だが、人を害してでも我を通すことが人類の業なのだとしたら、その対極に位置する精神もまた不滅であるはずなのだ。

 そのような言葉を一つ一つ積み重ねながら、私の裡にあるアスクレピオスの杖の理想が、この世界におけるブリミルの杖の理想の一つとして根付いてくれることを、私は祈った。

 

 

 

 

 

 会議は午前中で一段落し、私は当面の責任を果たした。

 概略にすると大した事を言った訳ではないが、質疑応答を含めて長く話し続ける事となった。

 事前に配布していた資料をよく見てくれていたおかげで、各国において非常時に派遣される治療師団の登録制は速やかに整備されることになりそうだ。それに対する称号は後々決めるとして、選ばれる治療師に対する名誉についても併せて検討していくことになった。

 第一歩としては上首尾というところだろう。

 

 空いた時間、私は許可をもらって宮殿の片隅にある礼拝堂に赴いた。

 御堂の傍らに、まだ仮の形ではあるがアルビオン王国の歴代の王のお墓があった。既存の墓所はレコン・キスタによって破壊されていたため、再建まではこの場所に碑が置かれていると聞いていた。

 

 その碑の前に立ち、ただ無言で伯父上と会話を交わす。

 報告や謝罪や感謝。

 伯父上に伝えたかったことは幾らでも湧きだして来る。

 私が大嫌いだったアルビオンに於いて、私が理想とする医療の在り方が動き出しているというおかしな構図について、伯父上はどう思うだろうか。

 きっと、いつも通りに難しい顔をして、静かに『うむ。やってみなさい』と頷いてくれるように思う。

 不肖の姪なりに、この墓前に胸を張れる成果を出せれば良いのだが。

 

 

 

「御苦労だったね、ヴィクトリア」

 

 唐突にかけられた声に振り返ると、そこにいた人に私は慌てて姿勢を正した。

 ウェールズ殿下が笑いながらそこに立っていた。

 

「気がつきませんで申し訳ありません」

 

「ははは、いつも言っているけど、堅苦しいことは抜きにしよう」

 

 いつも通りに、フランクに話しかけて来るプリンス・オブ・ウェールズ。プリンスと言いながらも、その身には前回会った時よりも大きな覇気が感じられる。それは恐らく、王としての風格だ。

 この短期間に、彼なりに揉まれながら為政者として成長を続けていたのだろう。頼もしい限りだ。

 

「会議は傍聴席から覗かせてもらったよ。大したものだね。場馴れしている感じがして、安心して見ていられた」

 

「とんでもない」

 

 正直、記憶にある教授たち相手のプレゼンより緊張した。

 声が震えなかったのは上出来だったが、書類を持つ手は細かく震えていた私だ。

 

「謙遜する事はない。各国の評価も高いようだよ」

 

 買いかぶりもいいところだ。所詮、私が述べた事は前世で知った多くの先達の言の葉を集めたものに過ぎない。それを私が信奉していることは確かだが、私の成果として取り扱われてはちょっと困る。

 

「さて、仕事も一段落だろう。ちょっとお茶に付き合ってくれないかな?」

 

 殿下の申し出に、私は曖昧に頷いて先に歩き出した殿下の後に続いた。

 

 

 庭に出ると、遅い春の日差しが柔らかく降り注いでいた。

 まだそこまでの余裕がないのか荒れ放題だった庭の様子は以前と変わらないが、それでも春の息吹が庭の至る所に感じられる。

 静かに歩みを進める殿下に、私は忘れないよう感謝の言葉を述べた。

 

「殿下にはいろいろとお心遣いをいただいているようで恐縮です。どう感謝を述べればいいか」

 

「気にする事はないよ。すべては、必要な措置だよ」

 

 殿下はごく当たり前のような口調で言う。

 

「今の君は、ロマリアすら認める時の人だ。本来は我が国が擁すべき『血十字の聖女』を国外に置いておくのは、我が国にとっても好ましからざる事態だからね、私なりに、相応の努力はするよ」

 

「もったいなきお言葉です」

 

「それに加えて、私とこの国は、君に対して返しきれないほどの借りがあるからね」

 

「その分の褒賞は、もう充分にいただいております」

 

「金だけで片づけたつもりは、私にはないよ。多少の打算ももちろんあるが、この国を預かる者として、救国の恩人にいつまでも罪人の烙印を押したままという訳にはいかない。まずは君のことを国内の頭の固い連中に判ってもらうところから始めているけど、それが成った暁には、私の戴冠か、あるいはアンリエッタとの結婚の機会に、君には恩赦を出すつもりだよ」

 

「恩赦を?」

 

 驚く私から視線を外し、殿下は遠くを見つめた。

 

「『アルビオンには、悲しいことしかない』というあの時の君の言葉は、これで結構堪えてね。だから、私はその言葉を否定できるような国にしてくつもりだ。君が、この国に生まれて良かったと、いつかそう言ってもらえるような国にしていこうとね。そして恐らくそれは、この国にとってもまた正しい政道の形だと私は信じている」

 

「殿下……」

 

「勘違いしないで欲しいけど、それは君に是が非でもこの国の貴族社会に戻ってもらうという意味ではないよ。君は、君らしく生きてくれればいい。君なりにやり甲斐がある仕事も見つけたはずだ。アンリエッタのもとで力を振るってくれれば、私はそれで充分だよ」

 

「過分なお心遣い、重ねて感謝申し上げます」

 

「気にしないでくれ。女性はどうか知らないけど、男はフラれた女性であっても、幸せであって欲しいと思うものだよ」

 

「またそのようなお戯れを」

 

「はは、本当にいつも流されてしまうね」

 

 そう言って笑う殿下の顔に、嫌味なものは何一つない。

 

「アルビオンの再建には、恐らく5年はかかるだろう。復興が終わったら、その時に今一度君に訊こうと思う。この国に、悲しい事以外に何があるかをね。その時に、君の口から私が聞きたい言葉が出て来るように、今は頑張るだけだよ」

 

 それだけ言うと殿下は不意に立ち止まり、視線で先を示した。

 そこにマチルダと、凛とした居住まいの一人の男性が立っていた。

 

「さて、私の案内はここまでだよ。ここから先は彼の案内に従ってくれ。それと、留学の件についてはミス・サウスゴータに感謝しておいて欲しい。トリステインに渡って以来、寝る間も惜しんで交流制度の確立に奔走してくれていたんだよ」

 

 

 

 殿下に背中を押されるように、歩みを進める。

 懐かしいというほどには時は経っていないが、それでも会いたかった美丈夫が、アルビオンの近衛の制服を着て控えていた。

 

「お待ちしておりました、主」

 

 佇むディルムッドの胸板に、私は静かに額を押し付けた。

 

「待たせたね。やっとここまで辿りつけたよ」

 

「いつ来られるかと心待ちにしておりました」

 

「自力じゃ無理だったさ。お前を含めた、助けてくれた皆のおかげだよ」

 

 振り返ると、既に殿下はいなかった。

 私なぞのために骨を折ってくれる殿下に、私は心から感謝の念を抱いた。

 

 

 

 

 ディルムッドの案内に従って足を進めると、庭の一角、ひときわ大きなスリジエの樹の下に、一組のテーブルと椅子が並んでいた。テーブルの上には茶器。そのテーブルの傍らに、優雅な手つきで茶を立てている修道女のような衣装を着た、妖精のような女の子が立っていた。

 夢にまで見た、一人の女の子だ。

 隣を見ると、マチルダとディルムッドが微笑みながら、目で私を促す。

 

 静かに歩みを進め、久しぶりに見る妹の姿を目の前で見る。

 私に気付き、テファが顔を上げた。

 桜の下で、私たちは言葉もなく向き合った。

 お互い、かける言葉は星の数ほどあった。

 でも、どの言葉を使えばいいか判らない。

 泣きそうな顔で、笑みを浮かべる私の妹。

 こういう時、言葉が見つからないのなら私ができる事は多くない。

 思い切り微笑んで、両腕を広げる。

 

「はい」

 

 ほんのちょっと前、ロサイスの桟橋でもテファに広げた私の両の腕だ。

 あの時に用意できたのは、必死に感情を殺した偽りの笑顔だった。

 だが、今は違う。

 それは嘘偽りのない、私の中でもとっておきの笑顔だ。

 ルイズや才人、マチルダにディルムッド、カトレアや公爵やアンリエッタやウェールズ殿下やパリー、そして街の皆が私にくれた、胸を張って妹に見せられる笑顔。

 体ごとぶつかって来たテファを抱き留め、私はようやく失ったものを取り戻せたことを確信した。

 

 見上げれば、満開の桜。

 1年前、皆で見上げようと約束した桜ではあるが、王都での約束は、私の予想の通りに果たすことはできなかった。

 だが、多くの人たちの優しさに支えられて、その約束は場所を変え、遅い春を迎えたアルビオンで果たすことができた。

 かつて伯父上と見上げた大きな桜の下、私の腕の中には、壊れたパズルの大切な最後のピースがあった。

 

 振り返ればこの1年、いろいろなことがあった。

 本当にいろいろなことが。

 運命の嵐の前に多くを失い、二度とこの手には戻らないと思いもした。

 だが、嵐が過ぎ去ってみれば、打ちひしがれていた私の掌に、皆が一つずつ私が失った物を載せて行ってくれた。

 私は幸せだ。

 今、私は笑う事が出来る。

 見えるところに家族の微笑みがあり、抱きしめられるところに大事な人たちがいてくれる。

 どれもこれも、皆、私が知る人たちが私にくれたものだ。

 

 ヴィクトリア・テューダー・オブ・モード。

 

 それは神の視点を持ちながら、何一つ気の利いたことができない出来そこないの転生者の名だ。

 そんな私の周りには、時代を駆け抜けようとしているまだ若い英雄の卵たちがいる。

 そんな彼らと違い、英雄ならざる私の足はお世辞にも早くはない。

 体力もなければ、歩幅だって違う。時代を駆け抜けることなど、とてもではないが私にはできないことだ。

 だが、それを不満に思うつもりはない。

 彼らの傍らにあり、時代を静かに見つめていくことが私の生き方なのだと胸を張ろう。

 そして、走り続ける誰かが息を切らしていたら、その背中を支えてあげられるような存在であることが私の望みだ。

 あの日、彼らが私にそうしてくれたように。

 私の小さな手にあるのは、蒼い水晶でできたアスクレピオスの杖。

 すなわちそれは、誰かを助けるための杖なのだから。

 

 その事をささやかな誇りに、生きていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この、優しい人たちがいる世界で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~エピローグ~

 

 

 

 トリスタニアの朝は、日の出とともに動き出す。

 往来を行き交う行商や運搬の音を聞きながら、私は目を覚ました。

 

 のそのそと芋虫のように起きだして、玄関の外にある牛乳受けから牛乳を取り出す。

 

 いつものように、往来を見ながら牛乳を飲むのだが、穏やかな朝もこれからしばらくはおあずけになる。明日から大工さんがやって来て、診療院の増築が始まるからだ。

 念願の入院病棟。全部で4床の病棟だが、小さいながらもそれでも未来に向かう大きな一歩だ。

 これを実験台に、その機能に応じてゆくゆくはより大きな施設が作られる計画になっている。言ってしまえばテストベッドだ。

 看護師については、町内会の伝手でスタッフが数名確保できた。

 いずれも平民で、地方の出ではあるが面接をしたところ、例の血十字の思想に共感してくれているので、献身的な看護が期待できそうだ。入院病棟の隣には彼女らの寮も併設するのでみっちり鍛え上げることができる。お嬢さんたち、地獄へようこそと言った気分だ。

 恐ろしいことだが、これらの設立資金は王室から出ている。より厳密には、アンリエッタの号令によって集められた諸侯からの出資金が基になっていると聞いていたのだが、後でその出資者がラ・フォンティーヌ家の御当主と聞いて私は逃げ出したくなった。どうにも私が頭が上がらない人物であるカトレアではあるが、これをもっていよいよ上下関係が確定してしまった。要するに私は院長で彼女は理事長。侍医団の方々が研修の名目で応援に来てくれるという嬉しい余禄もあるにはあるが、それを差し引いてもどんな目に遭わされるか今から憂鬱だ。

 とは言え、名目上はこれで私の診療院は押しも押されぬ王立の医療施設となったわけだ。やたらと看板が重くなっただけに、この先どのように切り盛りしていくかと思うとなかなか気が重いことも事実ではある。

 そんなことを思っていた時だった。

 

「こら~っ! またあんたは!!」

 

 

 背後から強烈なマチルダの怒声が飛んできた。

 

 

 

 

「いい加減ああいうのはおよしよ。あんただってちょっとずつ成長してるんだし、普通は女が柔肌見せるなんてのは無料じゃやらないもんだよ」

 

「あ~もう、判った判った」

 

 サラダ用の野菜をスライスしていると、後ろからぐちぐちとマチルダのお説教が飛んでくる。相変わらずお堅いマチルダだが、その根っこにある思いやりは、やはり暖かくて心地よい。

 確かに今、私の体は遅い成長期を迎えている。自己診断でも骨端線はしっかり残っているし、日々ちょっとずつ骨が伸びているのが実感できることもある。

 肝心の胸周りは何故かあまり変化がないが、血族を見ている範囲ではある程度は期待はできるだろう。いつかルイズに向かってニヤニヤしながら『汗疹ができちゃって困っているんだよ』というのが当面の目標だ。

 

 

 

 

「そろそろかねえ?」

 

「ん、そうだね」

 

 準備が終わり、皆の到着を待つ食卓。

 私の言葉に、サラリーマンのお父さんよろしく瓦版を読んでいたマチルダが顔をあげた。

 私はエプロンを外して玄関に出ると、隣にはマチルダが並んで立つ。

 見上げると、春の空はどこまでも青い。

 すると、見ていたようなタイミングで黒い影が街の建物の屋根の陰から飛んできて、漫画のようなアクションで私たちの目の前に降り立った。

 

「ただいま~」

 

 ディルムッドにお姫様抱っこされたテファ。

 その服装は魔法学院のそれだ。留学生としてトリステインに渡ってまだ数週間だが、毎週虚無の曜日になるとディルムッドに抱えられて王都まで帰ってくるのが常になっている。学院においてはディルムッドは才人と同様にテファの名誉使い魔と位置付けられている。日々の護衛のみならず、学院からの移動にあたっては大いに役立ってくれていることは今見たとおりだ。

 

「お帰り。ルイズと才人は?」

 

「先に出たはずだけど、私たちの方が先に着いたんじゃないかな?」

 

「ディー、飛ばしたのかい?」

 

 呆れたように言うマチルダに、ディルムッドがばつが悪そうに笑う。

 

「テファさんが急げと仰せでしたので」

 

「だって、家に帰るなら早い方がいいもの」

 

 もじもじしながらテファが言う。いかん、可愛すぎる。この世界にカメラがないのが心底惜しいと思う。

 そんなことを思っていると、

 

「あ~! やっぱりあっちのほうが早かったじゃないの!」

 

「しょうがねえだろ、師匠は規格外なんだから」

 

 通りの向こうから、ルイズと才人の大きな声が聞こえる。恐らくは馬で来て、街の入口のところで預けて走って来たのだろう。

 

「おやおや、二人ともお疲れ様」

 

 

 キッチンでテファと並んで朝食の仕上げ。パンを焼くテファの隣で、フライパンでオムレツを返しながら仕上げていく。大食いがいるので、こっちも作り甲斐がある。

 人数分の用意が出来上がり、お祈りをして食事。

 皆で囲む食卓は、やはりそれだけで胸がポカポカしてくる。

 それにしても、成長期の連中が多いから良く食べることだ。才人はともかく、ルイズも小さくて細い割には良く食べる。私もここに来て徐々に体が成長してきているので、以前よりは食事の量は増えた。

 テファは見た目とは裏腹に小食。それであの『武装』だから人の体というものは神秘に満ちている。

 

 あっという間に料理が片付き、食後のお茶を淹れている時だった。

 

「先生!」

 

 玄関から素っ頓狂な声がしたので慌てて出てみると、一人の少年が息を切らしていた。確か靴屋の丁稚だ。

 

「おや、朝からどうしたね?」

 

「そこの辻で馬車が事故を起こしたんだ!」

 

 その言葉に、一瞬で緊張が全身に走る。

 

「怪我人は?」

 

「見えただけで3人くらい。いきなり馬車の車輪が外れて八百屋の建物に突っ込んで目茶目茶になってるんだ」

 

「判った、すぐに行くよ」

 

 慌ててリビングにとって返すと、話を聞いていた面々は既に動き始めていた。

 

「先に現場に行っております。才人、お前も来い」

 

「了解っす」

 

 ディルムッドと才人が、私とすれ違いざまに玄関から飛び出していった。撤去作業等の力仕事なら彼らは頼りになる。

 

「事故かい?」

 

「だいぶ酷いみたいだね」

 

 マチルダに応えながら、リビングの壁にかけてあった猫バッグを取る。非常持ち出し用として必要な道具は一通り入っているそれは、もはや私の体の一部のようなものだ。引っ掴んで素早く背負い込んでいる私にルイズが昔取った杵柄なことを言う。

 

「診察室、手術の準備はしておくわ」

 

「すまないね、お願いするよ。それじゃ、ちょっと行ってくる」

 

「はいよ。頑張っておいで。大変そうなら呼んどくれよ」 

 

 マチルダの見送りを受けて玄関から慌てて飛び出そうとすると、そこにドクターバッグを抱えたテファが待っていた。

 

「手伝わせてもらってもいい?」

 

「いいのかい?」

 

「もちろん。これでも姉さんの一番弟子だもの」

 

 その言葉に、思わず笑みが浮かぶ。

 久々の、テファとのチームだ。

 

「それじゃ、行こうか。走るよ」

 

「はい、先生」

 

 私たちは走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トリスタニア診療院繁盛記 完

 

 

 

 

【DISC2 END】

 



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リサイクル「その32.5」

【おまけDISC】

 

 

 

診療院と工房を経営し、それぞれが多忙な日々を送っていても、たまにはみんなで羽を伸ばす日もある。

そんな一日。

 

 

 

 

「うう……」

 

 『魅惑の妖精』亭の一角で、変な声を上げるのはマチルダだ。

 テーブルに伏し、恨みがましく見つめる視線の先には古ぼけた木箱がある。ごくありふれた、何の変哲もない箱だ。

 

「唸っていても仕方ないだろうに」

 

 私の言葉に返してくるマチルダの声音は、彼女らしくないほど凹んでいる。

 

「そうは言うけどさ~、10エキューだよ、10エキュー。大損だよ~」

 

「仕方がないよ、運が悪かったと思うしかないよ」

 

 そんなマチルダに、対面に座るティファニアがやや困ったような顔でフォローに回った。

 

 事の次第は、そう珍しくもない話だった。

 先日、ちょっといかがわしい商人にレアな材料の調達を頼んだのだが、半額前金を払って数日後にその商人が工房を訪れ、材料が手に入らないと言って来たのだそうだ。

 話が違う、金を返せと凄んだところ、渡した前金は既に別の借金取りの懐に消えていたとか。善意だけで構成された世界でもないからには、こういう感じに騙されることもあるわけで、そういうトラブルについては前世も今生も変わらない。どこの世も、浜の真砂は尽きるとも盗人の種は尽きまじということだろう。

 結果、商人を番屋に突き出したところで払った10エキューは回収できず、打ちひしがれるマチルダを慰めるべく『魅惑の妖精』亭に繰り出したのがこの場の主旨となっている。

 

「私にも責任の一端が……やはりあの時お止めするべきでした」

 

 最後にディルムッドが私たち一同に頭を下げる。

 

「いや、お前には責任はないよ。取引をするかどうかは店主であるマチルダの責任だからね」

 

 いささか凹み気味のディルムッドにフォローを入れる。可哀そうだが、これは完全にマチルダの落ち度だ。肩書きに『長』という字が付く以上、権限と同時に義務も負わねばならない。私だって何があってもテファの責任にしたりはしないし。

 

「返す言葉もないよ。うう……」

 

 その辺はさすがにマチルダも判っているので、その分余計に凹んでいるようだ。

 

「で、でも、最低限の形が取れて良かったじゃない」

 

 泣きべそをかき始めたマチルダに、ティファニアが前向きな言葉を投げかける。

 

「形って言ってもねえ……」

 

 マチルダは、何か汚いものを見るような視線を箱に向けた。

 

「それで店長、この中身は何なのですか?」

 

 ディルムッドの質問に、マチルダはずいと木箱をディルムッドに寄越した。

 何でも、マチルダが単身先方に乗り込んで奪ってきたという、40サント四方の箱だ。ディルムッドも中身までは知らないらしい。

 

「中身を見ても?」

 

「いいよ~」

 

「では、失礼しまして……」

 

 ディルムッドが蓋を開けるのを、ティファニアと私も首を伸ばして覗き込んだ。

 

「む……」

 

「な、何これ?」

 

「シックなデザインだね」

 

 箱に収まっていたのは、黒っぽい、見慣れないデザインの陶器の皿だった。恐らくは飾り皿。日本の古い焼き物のような雰囲気のお皿ではあるが、ちょっとボロっちい気がしないでもない。

 怪訝な顔をする私たちに、マチルダが不貞腐れたまま言う。

 

「何とかって言う芸術家が作った飾り皿だってさ。何でもこれを持っているとその家に幸運が舞い降りるそうで、換金すれば1000エキューはくだらないってさ」

 

「そ、それはさすがに難しいんじゃないかなあ」

 

 家が買える金額に、さすがにティファニアが苦笑いを浮かべた。

 

「まったく、適当なこと言いくさって。ただのガラクタじゃないか。とんだただ働きだよ」

 

 吐き捨てるマチルダの言葉で話題が終わりかけたその場に、ディルムッドが一石を投じた。

 

「店長……ガラクタというのはちょっと早計かもしれませんよ」

 

 その声に忠臣を見ると、いつになく険しい視線を皿の表面に注いでいる。どこか、敵を警戒する野生動物のような雰囲気が漂っていた。

 

「……ちょっと、何変な雰囲気作ってんのさ」

 

 そんなマチルダの言葉にディルムッドは唸ったきり反応を返さない。ただ、何かを確かめるような視線を皿に注いでいる。

 

「あ、あの、ディーさん、こういうのの価値って判るの?」

 

 ティファニアが首を傾げて訊いた。

 

「詳しいとまでは申しませんが、これでも英霊の端くれ、霊的なものは多少判ります」

 

 霊的と来たか……何だか話が穏やかじゃない方向に傾き始めたようだ。

 

「それで、何を感じるって?」

 

「主、これをよくご覧ください」

 

 ディルムッドがテーブルの中央に皿の箱を押し戻して来るので、皆でそれを覗き込む。

 

「ただのボロい皿じゃないのさ」

 

「いえ、店長、その皿の中央のあたりをしばらくご覧ください」

 

「……」

 

 言われたとおりに、私たち三人はまじまじと皿を見つめた。

 

 

 

 

 異変が起こったのは10秒ほど後だった。

 

「い、嫌っ!」

 

 鋭い悲鳴を上げて、ティファニアが雷に打たれたように立ち上がった。

 

「何これ~!」

 

「な、何よ、どうしたのさ?」

 

 マチルダが青くなって泣きだしそうなティファニアに怪訝な視線を向けた。

 

「何があるって言うんだい?」

 

 あからさまに怯えているテファの表情に、今一度視線を戻す。

 一見すると、何の変哲もない皿だ。

 黒っぽい、くすんだ色。皿の中央には、白い斑点が二つあり、それが模様のアクセントになっている。

 白い斑点は真ん中に向かって弧を描く形になっており、人間の白目のようにも見える。それに気づいて黒目に当たる部分ははどうなっているかと言うと……。

 

「んぎゃ~~~っ!!?」

 

 私と同時に、マチルダも悲鳴を上げた。

 

「な、何? どうしたの?」

 

 慌てて接客中のジェシカが飛んできた。

 

「な、何でもないよ。ちょっと私の手が滑ってマチルダの乳を触って殴られただけだよ」

 

 動悸を抑え、泡を食ってフォローに回る私に、ジェシカが白い目を向けてくる。

 

「先生~。触りたかったらチップを出して店の子をどうぞ。お身内だけでまとまってちゃお金が世の中に回らないでしょ?」

 

 あれ、このお店ってお触り可だっけ?

 

「すまないね、今度からそうするよ」

 

 

 

「……主、今のフォローはあまり適当ではないかと」

 

「アドリブには弱いんだよ」

 

 あんな状況で冷静に対処できる奴がいたら会ってみたいもんだ。

 

「姉さん、女の子が好きだって噂が立つと大変だよ?」

 

「そんなことはどうでも良いんだよっ!!」

 

 話が見当違いな方向にシフトしつつある私たちに対して、小声で怒鳴るという器用な真似をしながらマチルダが件の木箱を指した。

 

「これはいったい何なんだい!? 人を『覗き込んでくる』皿なんて聞いたことないよ。ディー、あんたが知ってることを言いな!」

 

「いえ、推測に過ぎぬのですが……」

 

「何でもいいよ、知ってることをお言い」

 

 マチルダだけじゃなく、私も知りたいことだ。正直、この皿は洒落にならない。どう考えてもまともな代物ではない事は間違いないだろう。

 

「は。恐らくこれは、贈答用に作られた呪いの絵皿であろうかと」

 

「呪いの絵皿?」

 

 私たちの言葉に、ディルムッドが頷いた。

 

「どのような術式かは判りませんが、かなり強力な、厄を呼ぶ効果があるものと思われます」

 

「そ、そんなすごいものなの?」

 

 目を丸くしてあっさり素直に驚くティファニアにマチルダが食って掛かる。

 

「すごいじゃないよ! 幸運を呼ぶはずの絵皿が何で厄を呼ぶんだい!!」

 

「恐れながら店長」

 

 ディルムッドが慌てて間に入る。

 

「思いますに、先ほどの店長の取立てが余りに苛烈であったため、あの者が機嫌を損ねたものと思われます」

 

「何でさ?」

 

 心当たりがないような顔をするマチルダだが、正直、その光景が目に浮かぶような気もしないでもない。マチルダのことだ、恐らく襟首つかんで家財道具を売ってでも工面しろとでも言ったのだろう。

 

「そんなに苛烈だったのかい?」

 

「は。何しろ、金がなければ小指か娘を持って来いと」

 

 ……私は自分の見積が甘かった事を知った。何て頼もしいお姉ちゃんだろうね。

 

「姉さん! そんなひどいこと言ったの!!?」

 

「こ、言葉のあやだよ、言葉の」

 

 テファの剣幕にマチルダは頭を掻きながら苦笑いを浮かべる。美人な上に上背もあるマチルダだ、そんな事を言いながら凄めば竹内力が演じる萬田銀次郎にも負けない迫力があったに違いない。

 

 

 

「それより、どうすんのさ、これ」

 

 困った顔でマチルダが皿を指差す。

 

「どうすると言われてもねえ……あんたがもらったもんだし、工房に飾っておいちゃどうだい?」

 

「あんた今までの話理解してんのかい!? それとも理解したうえで言ってんのかい!?」

 

 私の冗談にマチルダががーっと吼えた。

 そうは言われても、うっかり捨てる訳にもいかないだろうに。

 

「私としては寺院に相談に行くのが最善と思います」

 

 ディルムッドの意見は、いつだって建設的で助かる。

 

「そうよね、売るわけにはいかないし。寺院なら詳しい人もいるかも知れないよね」

 

 テファもその意見に乗るが、マチルダはそうはいかない。

 

「でもさあ……それじゃ金にならないじゃないか」

 

「いや、この際金は諦めたほうがいいと思うよ。さすがにこいつはやば過ぎるシロモノだよ」

 

 私の言葉に、テファもディルムッドも頷いた。

 

 

 

 

 店の入り口のあたりが騒がしくなってきたのはそんな時だった。

 見ると、でっぷり太ったマントを着た中年男が供の者を連れて店内に現れたところだった。

 それを見たマチルダが毛虫を見たような渋い顔をする。

 

「げ、あいつ、チュレンヌじゃないか」

 

 チュレンヌ……誰だっけ?

 

「知ってんのかい?」

 

「徴税官だとさ。この間工房に来て税金を追加で払えとか何とか難癖付けてきたんだよ」

 

 ああ、思い出した。ルイズにあり金巻き上げられる木端役人じゃないか。そんなのいたっけね。忘れていたよ。

 

「その時はどうしたんだい?」

 

「お話したら判ってもらえたよ」

 

「お話?」

 

 気味が悪いくらい黒い笑みを浮かべるマチルダ。ふと視線をディルムッドに向けると、ディルムッドは慌てて視線を逸らした。

 私が知らないところで何をやっているのやら。

 

「……まあ、その辺は後で聞くとして。それより何だね、あの歩く成人病一直線は? 医者である私に対する挑戦のつもりかい?」

 

「性質が悪い野郎でさ。逆らうと重税で店をつぶしにかかるんだよ」

 

「ほほう」

 

 まだうちの診療院には来たことはないが、そういう用向きで来たなら念入りに『治療』してやるところだ。

 

「ひどい!」

 

 ティファニアは声を荒げて怒り出した。

 

「徴税官ならきちんと決まりに従ってお仕事するべきでしょう?」

 

 純真なテファの言葉を聞きながら、私は事の成り行きに視線を向けた。 

 

「これはこれは、チュレンヌ様。ようこそ『魅惑の妖精』亭へ」

 

 いつも以上にくねくねしながらスカロンが接客に立つ。

 

「おっほん。店は流行っているようだな、店長?」

 

「いえいえ、とんでもない、今日はたまたまと申すもので。いつもは閑古鳥が……」

 

 まるで嵐が過ぎるのを待つように頭を低くしているミ・マドモワぜル。ちょっとかわいそうな気もする。

 

「店長さん、何だかすごくかわいそう」

 

「あそこで強く出ても仕方がないのですよ、テファさん」

 

 ディルムッドの言葉を聞きながら、私はふと思ってテーブルの上に視線を向けた。

 そこにあるのは、件の皿。

 それは天啓であったのかも知れない。この皿の正当な使い道は、これであるに違いないと私は感じた。禍福は糾える縄の如しだ。

 そんな事を思いながら隣を見ると、マチルダもこっちを見ていた。その視線の中に、彼女の言葉が雄弁なまでに詰まっていた。さすがは我が姉、行き着いた結論は私と同じだったらしい。おぬしも悪よのう。

 

 握った右拳をお互いに向け合い、

 

「じゃ~んけ~んほい」

 

 と私はパーを出し、マチルダはチョキ。

 

「ちぇ」

 

 パーをひらひらさせながらむくれる私の頭をマチルダはぽんと叩いて立ち上がった。

 

「ネタは?」

 

 マチルダの言葉に、私はポケットのピルケースを取り出す。何かの時のために持っている、各種錠剤が入っている常備薬だ。

 出されたマチルダの掌に、一錠乗せる。

 

「効き始めまで5分ってところだね」

 

「んっふっふ。了解」

 

マチルダは肉食獣のような笑みを浮かべてテーブルの上の木箱を取った。そのまま壁際に歩いて行き、チュレンヌに嫌悪の表情を向けているジェシカにぼそぼそと話しかける。いつもは明るいジェシカだが、珍しくその表情には嫌悪感が溢れており、漏れ聞こえてくるチュレンヌの無銭飲食や女性の扱いについての言葉はお世辞にもきれいなものではない。商売人としてプライドが高い彼女にしてみれば、夜のルールを踏みにじる輩は余計に許せないのだろう。

 

 

「え? 何? 何が始まるの?」

 

「後で説明するよ」

 

 慌てるティファニアをよそに、私は沈んだ顔のスカロンを呼んだ。

 

「あら、先生。ごめんなさいね。ちょっと雰囲気悪くなっちゃったわね」

 

「いいんだよ。それより、ものは相談なんだけどね」

 

「相談?」

 

「あのおっさん、いつも酒代踏み倒すんだって?」

 

 ごついスカロンと顔を突き合わせて小声で話し出した。

 

「そうなのよ。いつも飲み放題食べ放題触り放題で帰るのよ。たまんないわよ」

 

「被害総額は毎回幾らくらい?」

 

「いつも大体30エキューくらいはやられるわ」

 

 おいおい、随分な豪遊だね。これはますます良心の呵責がなくなって来たよ。

 

「ならば、10エキューであいつら追い出してあげるって言ったらどうするね?」

 

 いつも世話になっている誼だ、ここは原価で済ませようと思う。

 

「荒事は困るわよ。目を付けられたら大変なんだから」

 

「そこは抜かりは無いさね。もちろん後腐れもなし。成功報酬でかまわないよ」

 

 しばし考え、スカロンは頷いた。

 

「……お願いするわ」

 

「毎度」

 

 スカロンとの密談の終了を待って、ティファニアが話しかけてきた。

 

「ねえ、姉さん。さっきのお薬、何?」

 

「さっきのって?」

 

「マチルダ姉さんに渡したやつ。まさか毒じゃないよね?」

 

「ああ、ただの頭痛薬だよ。お、そろそろ始める気らしいね」

 

 さて、女という種族の恐ろしさを、あのデブチンには骨の髄まで味わってもらおう。

 

 

 

 

「女王陛下の徴税官に酌をする娘はおらんのか! この店はそれが売りなんじゃないのかね!?」

 

 何が女王陛下だ。アンアンの前で同じことが言える訳でもあるまいに。虎の威を借る狐を絵に描いたような下衆野郎だね。

 いつもがいつもなので、店の子は誰一人チュレンヌに近寄ろうとしない。当然だろう。誰もただ働きはしたくないに決まっている。

 そんな感じに、店の空気がいよいよ険悪なものになろうとした時だった。

 

「お待たせしましたわ、徴税官閣下」

 

 やたらに鼻にかかった甘ったるい声にチュレンヌとその取り巻きが振り返ると、そこに妖艶な美女がしなを作っていた。

 『魅惑の妖精』亭独特のきわどい衣装を絶妙に着こなし、蛇のような絡みつくような流し目でチェレンヌを見つめるマチルダ。

 

「お、おおおおおお……」

 

 チュレンヌ一味だけでなく、店内にいる連中から老若男女問わずに深いため息が漏れる。中には何人か前屈みになっているのもいる。エッチな奴らめ。顔は覚えておこう。後で然るべき報いをくれてやらねばならん。

 

「と、トレビアン……」

 

 スカロンすらもあっけに取られる始末。まあ、気持ちは判るが。

 

「お、お前、見慣れぬ顔だな」

 

 再起動を果たしたチュレンヌが、精一杯の虚勢を張っている。つくづく時代劇で印籠の前に土下座すると似合いそうな奴だ。

 髪をいじり、化粧も厚めの今のマチルダだ。チュレンヌも以前会った工房の女主とは気付かないだろう。

 

「今宵、素敵な閣下のためにデビューですわ。お見知りおき下さいまし」

 

 手にしたグラスをチュレンヌに手渡し、自分もグラスを構える。粘っこく腰に伸びてくるチュレンヌの手を払う。

 

「あら、まずはお近づきの一杯から参りましょう、閣下」

 

 艶っぽい声を鼻から出してグラスを合わせる。

 

 

 

 

「姉さん、すごい……」

 

「あれで落ちぬ男がいたら見てみたいものです」

 

 家人二人の意見には私も同意する。間違ってもマチルダにこういう商売をやらせてはダメだと思う。下手したら国が滅びそうだ。

 それにしても巧い。甘えるそぶりを見せながら、チュレンヌのボディタッチを手品師のようにかいくぐっている。太守の娘なんていう良家の子女のくせに、どこで覚えたんだ、あんな手管。まあ、とても大公の娘には見えない私が言えた義理ではないが。

 

 そんなタイトロープのようなやり取りが続くこと数分、私のイメージ通りの時間にチェレンヌの動きが急に鈍くなった。

 

「あら、どうされたのですか、閣下?」

 

 さも心配そうにマチルダがチュレンヌの顔を覗き込む。

 

「う、うむ……」

 

 チェレンヌはこめかみを押さえ、言葉を濁す。

 

「ちと頭が痛くなってきてな」

 

「まあ、それは大変」

 

 

 

 

「姉さん、さっきの薬、本当に頭痛薬だったの?」

 

「本当だよ。ただの『頭痛』薬さね」

 

 慌てるテファだが、心配はない。ピエモンからもらった3時間くらいで効果が切れる偏頭痛の薬だ。都合が悪い話し合いの時に相手に盛るのが本来の用途だとか。飲んでも死にはしない。結構痛いらしいけど。

 医者たる者、患者に毒を与えることはもってのほかだが、別にあいつは患者ではないからヒポクラテスの誓いにも抵触しない。むしろ、いっそのこと終身効果の不能薬でも盛ってやりたい気分だった。

 

「痛たた、頭が割れるようだ」

 

 チュレンヌは堪えられんとばかりに席を立った。

 

「今日は帰るぞ」

 

「あら、寂しいですわ。では……」

 

 いよいよ仕上げだ。マチルダはジェシカを呼ぶと、ジェシカはラッピングされた40サント四方の箱を持ってきた。

 

 

「ちょ、姉さん、あれって!」

 

「静かに」

 

 血相を変えるテファの唇に人差し指を押し当てて黙らせる。

 

 

 

「これ、私からの心ばかりのお近づきの印ですわ」

 

「む、なかなか殊勝な心がけだな」

 

「また今度いらしたときに可愛がってくださいませ」

 

「ふふ、愛い奴め」

 

 最後にマチルダの頬を撫でてから箱を受け取り、チュレンヌは鈍い足取りで店を出て行った。

 

 

 箱を受け取って店を出ていく徴税官を見送るテファが、蒼い顔で声を震わせている。

 

「……ね、姉さんたち、たまに怖いよね」

 

 そんな私たちのところに衣装そのままでマチルダが戻ってくる。周囲の妖精さんたちからは拍手喝さいだ。

 今日この場を凌げたことが嬉しいのだろうが、うまく行けば未来永劫、奴がこの店のドアをくぐることはないだろう。

 

「お疲れ」

 

 一仕事終えたというか、苦行から解放された感じでマチルダは息を吐いた。

 

「たまんないね、ああいうのは。息は臭いし、手は脂ぎってるし。偉ぶるんなら、もうちょっとその辺の身だしなみをしっかりやってもらいたいもんだわ」

 

 う~む、やはり私が行った方が良かったのではなかっただろうか。

 私なら『徴税官閣下にプレゼントなのです。にぱー☆』とでもやっていれば触られたりしなかっただろうし。

 貧相な体も、時には便利なこともあるということだ。

 

「ありがとう、助かったわ」

 

 そう言って寄って来たジェシカからおしぼりを受け取り、顔や肩を拭いているマチルダ。

 さすがにすべてを回避することは無理だったようだ。

 

「何カ所触られた?」

 

「3カ所。まだまだ甘いね、私も」

 

「あの野郎……」

 

 マチルダにとっては許容範囲なのかも知れないが、あんな脂ぎった手で我が姉の面貌や肢体に触れるとは。

 

「ディルムッド」

 

「は」

 

 既に立ち上がっている我が忠臣。表情を見ると、彼もまたいささか立腹しているようだ。

 結構。その怒りが正当なものであることは私が保証しよう。

 

「3カ所分だよ。加減は好きにおし」

 

「お任せを」

 

 かき消すように、ディルムッドは夜の闇に消えた。

 

 

 

 

 翌日、徴税官が帰り道に何者かに襲われて半殺しになったというニュースがトリスタニアに飛び交ったのはまた別のお話。

 

 また、同日の夜、件の徴税官の邸宅が謎の火災を起こして全焼したというのも別のお話。

 

 そして、マチルダが『魅惑の妖精』亭で働きだしたというデマを聞きつけた街の男どもが夜な夜な大挙して店に押しかけてくるようになったのは、さらに別のお話。



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外伝「その0.9」

 夕刻の診療院。

 リビングのテーブルの前に陣取った私の前にあるのは、安物のチェス盤。盤上に並んだ駒を見ながら、私はただ駒の展開を考えていた。

 ああ行く、こう来る。こっちならどうで、あっちならどうか。

 手数にして30手先まで読んで展開を見失い、私は宙を仰いだ。

 こう見えて、私は将棋が指せる。前世で私がいた医局では将棋は人気があり、しばしば晩御飯を賭けての対戦相手に駆り出されたものだった。医局長をはじめとした同僚に何人か強いのがいたのだが、駒の動かし方を教えてもらった程度の段階からそいつらの相手をさせられた記憶がある。私も生来負けることがあまり好きではないだけに、飛車角桂香落としたそいつらにあっさり負けたすぐ後に将棋の指南書をネットでポチった。ついでに「月下の棋士」だの「ハチワンダイバー」だのも全巻大人買いした。以来、矢倉だ穴熊だと必死に定石を覚えたものだ。ちなみに同じような流れで碁や麻雀も覚えざるを得なくなり、入門書と一緒に「ヒカルの碁」と「哭きの竜」も全巻ポチった記憶もある。

 この手の物は、努力すればある程度のところまではその努力に見合った実力が付いて来る。将棋で言えば、アマチュア四段くらいまでは努力で何とかなるんじゃないかと思われる。そこから先はセンスがものを言うプロの世界だと私は思う。奨励会で天才比べをやって生き残った連中となると、私の基準ではもはや人外だ。A級ともなれば、その棋力は完全に妖怪と言っていいだろう。

 閑話休題。

 そんな私だが、修業した結果はまずまずなものと自負している。ネットでどこの誰とも知らない愛好家と対戦将棋をやっても勝率はまずまずのものだったし、医局の中でも後追いでありながら局内ランキングではトップを争うくらいにはなった。おかげでしばしば美味しい晩御飯にありついたものだった。

 だが、それがチェスとなると勝手が違う。

 チェスと将棋、この二つは似ているようで別のものだ。

 駒が違う。

 マスの数が違う。

 この辺はまだいいのだが、何より困るのが張り駒ができないことだ。

 相手を調略して味方に引き込むのが将棋、容赦なく首を刎ねるのがチェスだという説もあるが、最悪の場合、引き分けもあるのがチェスだ。予備戦力の投入ができる将棋に慣れた身としては、正直、すごくやりづらい。前世では日本最強の将棋指しと日本最強のチェスプレイヤーは同一人物だったが、よくそこまで思考を切り替えられるものだと感心したくらいだ。

 

 

 

 

「ただいま戻りました」

 

 天井を見ながらを我ながら不気味な唸り声をあげていると、玄関から聞きなれた声が聞こえた。

 スリッパ履きのくせに足音が全くしないのはあいつの特徴だ。達人と言うのはそういうものなのだろうか。それでもさすがにドアは開く音はするので、開いたドアに合わせて振り返ると、私の使い魔がそこにいた。

 仕事着姿のディルムッド。白いシャツに黒ベスト。若草色のタイが実によく映えている。アームバンドがワンアクセント。たとえ魚屋の格好をしてもこいつはそれなりに着こなしてしまうと思うが、ピシッとした格好をすると一際男が上がって実によろしい。私が言うのもなんだが、こいつは本当にカッコいい。ハリウッドあたりに放り込めば、巨万の富を築けることだろう。

 

「おかえり、早かったね」

 

「はい。今日は納品先から直帰するよう言われまして」

 

「それはお疲れ様。マチルダは?」

 

「店長は工房から直接香辛料屋に弔問されるとのことです。そのまま送る会に流れると」

 

「おや、御隠居の事、もう耳に入っているのかい?」

 

 さすがは商人だね、耳が早い。

 

「ええ。大往生であったと。香辛料屋の隠居殿には工房もだいぶ贔屓にしていただいていたのですが……」

 

「穏やかに眠ったよ。いい顔をしていた」

 

 私の言葉に、使い魔が卓上のチェス盤に目を向けた。

 

「隠居殿との、最後の対局ですか?」

 

 頷いて、私は盤に視線を戻した。

 

「ここで中断したままだったんだよ。せっかく私が優勢だったのに。結局勝ち逃げされちゃったよ」

 

 

 

 今日、私は一人、友人を失った。

 午前中のことだ。

 

 医者と言う商売をやっていると、どうしても人の死に目に立ち合わねばならないことがある。

 もちろん、医者であるからには死にそうな患者は治療をするが、中にはどうしようもない患者も確実に存在する。

 数日前から、私は下町の一軒の家に日参していた。香辛料を取り扱う商人の家だ。その家の御隠居の往診をするのがここ最近のルーチンワークになっていた。

 

「お邪魔するよ」

 

 挨拶してテファと一緒に屋内に入ると、当代の若旦那とその奥さんが出迎えた。表情は暗い。

 

「具合はどうだね?」

 

 私の問いに、若旦那は暗い表情で首を振った。

 

「そうかい……」

 

 私は一つため息をついた。

 話もそこそこに、寝室のドアをノックする。

 

 

 

「よう、先生じゃねえか」

 

 部屋に入ると、床の中から御隠居のしゃがれた声が聞こえた。

 私がこの街に流れて来て最初に仲良くなったじい様で、酒とチェスをこよなく愛する気のいい御仁だ。

 

「あんまりにも胸が平たいから、近所のガキが飛び込んできたのかと思ったぜ。毎日すまねえな」

 

 ……このじい様、事あるごとに私の胸板をからかってくるから困る。もっとも、多くの人は私の胸を見た後で視線を逸らしてため息を吐くだけに、ここまで正面から言われると逆に腹も立たないから不思議だ。

 だが、口調こそ下町の住人らしくいささか乱暴だが、今、その声に往年の張りはない。骸骨のように頬肉が落ち、顔色も悪い。

 その顔に張り付いた、黒い影。

 死相と言うのは、いつ見ても嫌なものだ。

 

「うるさいね。大樹の苗木を低いと笑う愚を犯すんじゃないと何度も言ってるだろ。ちょいとごめんよ」

 

 内心を見せずに枕元に行き、布団をはいで診察を始める。

 お年寄りが床に臥すと、筋肉の衰えは驚くほど速い。廃用症候群は誰にでもあるものだが、高齢者は特にその傾向が顕著だ。若かりし頃には20キロもある香辛料の袋を4つも担いでのしのし歩いていたと聞く御隠居の体もその例に漏れず、寝間着をめくれば見えてくるのは骨と皮ばかりだ。

 打診の後、聴診器を当てる。その傍ら、テファが検温を済ませてくれた。

 

「どうでえ?」

 

「……可もなく不可もなく。現状維持だね。ちゃんと飯は食べてるかい?」

 

「腹いっぱい食ってるよ」

 

「それは結構」

 

 御隠居が言っていることは嘘だ。食事をほとんど食べていないことは、家の人にも聞いてある。衰弱した体は、もう水くらいしか受け付けないだろう。多くの臓器が弱っているだけに、当然、消化器も機能の低下が著しい。

 残念だが、これは病気でも何でもない。

 今、御隠居の体は、静かにその限界を迎えようとしている。

 つまり、老衰だ。

 

「それで、俺の寿命の見立てはどうでえ? そろそろじゃねえのか?」

 

 しゃがれた声で、答えづらいことを御隠居が訊いてくる。

 私と御隠居とは、医者と患者ではあるが、それとは別に飲み友達だった。つまり『点』ではなく『線』の関係。週末になると、夜の酒場でしばしば私とチェスを指し合った仲だ。

 とにかく口が悪いじい様ではあるが、そのくせ妙に緻密な棋風で、実際飲み代をかけての対局は私の方が負けてばかりだった。

 

「何とも言えないね」

 

「嘘はよせよ。顔に書いてあるぜ。時間の問題だってよ」

 

「らしくないこと言うんじゃないよ」

 

「いいんだよ。昨夜、あいつの夢を見てよ、迎えに来たんじゃねえかと思ってんだよ。お節介だから、あいつも」

 

 御隠居は笑うが、正直、私は笑えなかった。

 あいつというは、御隠居のおかみさんのことだと察しはつく。気風のいい人だったが、昨年鬼籍に入っている。

 私は基本的に現実主義者だが、こういうことは珍しいことではない。不思議なことに、患者が亡くなる前に連れ合いの夢を見たりすることは割と多いのだ。患者の脳の中でどのような動きがあるのかは知らないが、それで己の死期を悟る患者が結構いることは確かだ。

 市場で店を切り盛りしていた御隠居とそのおかみさん。毎日夫婦漫才のようなやり取りをしながら商売をしていたこの二人は、トリスタニアでもちょっと有名なおしどり夫婦だった。

 チェスが好きな御隠居は、しばしばおかみさんの目を盗んで街の連中と昼間からチェスを指していたのだが、そのことでよくおかみさんに怒られていたっけ。往診途中に通りがかったカフェで、さぼりの現場を押さえられておかみさんの前で低頭していた御隠居を見たこともあった。そのくせ、この御隠居はあまり遅くまでは飲んだりはせず、酒場でもう一局付き合えと迫る私に『そろそろ帰らねえと、あいつに嫌われちまうからよ』と言って笑って帰っていったものだった。『怒られる』ではなく『嫌われる』と言うあたりが惚気にしか聞こえず、残った飲み友達連中は口笛吹いて囃し立てたものだった。

 そんなおかみさんが昨年亡くなってから、御隠居は一気に老け込んでしまった。まるで光を失った植物のように日々体から覇気が無くなっていき、床についたのは先月の事だった。

 連れ合いを亡くすというのは、やはり人生でも最大級の悲しい出来事なのだろう。

 

「そうはいかないよ。このままじゃ、あんたの勝ち逃げじゃないか。次はアルビオンの30年物を一杯賭ける約束だったよね」

 

「女房に先立たれた男なんざ哀れなもんだからよ、早いとこ女房追っかけていくのが似合いってもんさ。それはそうと、先生よ。一つ頼みがあるんだが」

 

「何だね?」

 

 私が応えると、御隠居は視線を部屋にある戸棚に向けた。

 

「あの棚、開けてくれ」

 

 言われた棚をテファに開けてもらうと、そこには一本のワインがしまってあった。銘柄はアルビオン。よりによって30年物だ。値段も相当張るだろう。

 

「そいつを一口飲ませてくれや。残りは先生が片付けてくれりゃいい」

 

 私は一瞬返答に困った。

 

「元気になった時の快気祝い用に取っておきなよ。それに、御馳走になるならあんたに勝った時じゃないと筋が通らないじゃないか。頑張っておくれよ」

 

 そんな私の言葉に、御隠居は静かに返す。

 

「ありがとうよ。こんなジジイでも惜しいと思ってくれてよ。ありがたくて泣けてくるぜ」

 

「馬鹿言ってんじゃないよ。友達に死んで欲しいと思う奴がいるわけないだろう」

 

「ダチか?」

 

「違うのかい?」

 

「……うんにゃ、違えねえ」

 

 そう言って御隠居は笑い、そして深く息を吐いた。

 その音に、テファが一瞬身を強張らせた。テファが感じたものと同じ波動を、私も感じ取っていた。

 吐息の気配に、穏やかな崩壊が見えたのだ。

 それは、波が砂の城をさらうような、静かな幕引きの訪れだった。

 

「……すまねえ。もう、眠いや」

 

 御隠居の言葉を受けて脈を取り、私は時が来た事を悟った。

 冷徹な現実に揺れる気持ちを、プロ意識で抑え込む。

 

「テファ、家の人たちを」

 

「判りました」

 

 程なく、息子さん夫婦の他、兄弟3人とその連れ合い、加えて孫が10人。それらが静かに御隠居の部屋に集まった。

 一人ひとりと会話を交わし、御隠居からの言葉を受け取る。

 最後のお孫さんと話が終わると、御隠居は私を枕元に呼んだ。

 

「もういいのかい?」

 

「ああ、もう、充分だ」

 

「それじゃ、お待ちかねのやつだよ」

 

 私は用意しておいたワイングラスを手に取った。

 満たされているのは、時が醸した極上の名酒だ。

 テファに手伝ってもらい、ご隠居の体を起こしてグラスを口に運ぶ。

 一口。

 それが御隠居の限界だった。

 酒豪で知られ、幾度も私を潰してくれた御隠居のその姿に、胸が詰まった。

 それでも、御隠居の顔には歓喜が浮かぶ。

 

「美味えなあ」

 

 もう一口勧めようとする私に微かに首を振り、そのまま再び体を横たえた。額に手を当てると、やけに冷たい。人が命数を使い果たす時は、いつもこんな感じだ。

 

「おかみさんに、よろしく伝えておくれ」

 

 私の言葉に、家の人たちの鼻声が泣き声に変わった。

 今にも落ちそうな意識の中で、御隠居がうわ言のように言う。

 

「ああ……おめえたち……」

 

 御隠居は家人たちに視線を向けて微笑んだ。

 

「ありがとうよ。楽しかったぜ」

 

 最後に大きく息を吐き、御隠居は静かに眠った。

 御隠居の心臓が、穏やかその役目を終えたのは、それから30分後のことだった。

 

 

 

 その後、テファがご遺体を清めている間に書類をまとめて家人に渡し、役所に届けるよう伝えた。葬儀については、寺院に行けば手続きをしてくれることも加えて言っておいた。

 ワインは栓をして蝋封を施し、彼の棺に入れるよう息子さんたちに頼んだ。故人の言葉だからと差し出されはしたが、これについてはあの世で御隠居に勝った時の楽しみにすると言って遠慮させてもらった。

 明日には、街外れの墓地の真新しい墓標の下で眠るであろう御隠居。

 過程の違いこそあれ、それが人が人である限りは誰にも平等に訪れる、人生という旅路の終着点だ。

 

 

 人生は不可逆だ。誰であっても、人という存在は死と言う結末に向かう片道切符の旅路を歩み続ける運命にある。

 その終着点から先は、神や宗教の領域だ。あるいは、行きつく先は天国も地獄もない全くの無なのかも知れない。ホーキングあたりは死後の世界はないと言っていたが、しかし、実際には死後と言うものが存在することを私は知っている。

 

 それが、転生。

 

 その不思議な現象について、私は思う。

 転生とは何だろうか。

 単純に生まれ変わるということを転生と言うが、今ここにいる私が何者なのか、たまに判らなくなることがある。

 私は私ではあるが、その人格が前世のそれと同一なのかどうかは確たる自信はない。今生での誕生の際、産声を上げた瞬間から自我があったわけではない。一番古い記憶をたどれば、それは3歳くらいのものだ。普通の人と同じように、私もまた自分が誰かは判らなかった時期を経て、徐々に人格というものが出来上がって来ている。前世と今生というものを意識するようになったのは、物心ついてからだ。

 そんな前世の記憶も、随意に思い出せるわけではない。すぐに思い出せるものもあれば、ある日突然フラッシュバックのように思い浮かぶこともある。その記憶は、虫食いだらけだ。それだけに、前世から持ち越した人格が私という人格になったのか、はたまた前世の誰かの記憶を受け継いでいるだけなのかはっきりとは判らない。あるいは、別世界の誰かの記憶と私の意識が混線しているという可能性もないわけではないだろう。

 考えれば考えるほど、今の私の存在はよく解らなくなる。

 そして、よく解らないだけに、不安も募る。

 それは、私は『死ねる』のだろうかという不安だ。

 意図せぬ転生。一度あったそれが、二度ないという保証はない。そして、今なお、ここに私がいることの原因を私は理解できていないのだ。

 成長しない体でも、いつの日か老いはこの身を訪れると思うが、その果てに生涯を閉じる時が来た時、私は静かに眠れるのだろうか。

 もしかしたら、死んだ後、またどこかで別の人生を歩むことになるのではないだろうか。

 それが、三度くらいまでならば何とかなる気がする。四度や五度でも、もしかしたら乗り切れるかも知れない。

 だが、これが数十の単位で繰り返されたとしたらどうなるだろうか。

 百の単位ならどうだ。

 その時、私は私でいられるだろうか。

 正直、怖い。

 死は誰にとっても恐怖ではあるが、死ねないという事もまた恐ろしいことだと私は思うのだ。

 

 ふと思い、私は傍らの使い魔に問うた。

 

「ディルムッド」

 

「は」

 

「変なこと訊くけど、死ぬことと永遠に生きること、どっちが辛いことだろうね?」

 

 人が限られた生という枠組みを踏み越える手段は、転生だけではない。その生の涯てに、世界と契約することもまた、人としての生の領域を超える手段だということを私は知っている。

 今ここにいるこの男もまた、私と同様に一度は死んだ人間なのだ。

 ケルト神話で、主君の復讐を受けてその命脈を絶たれた英雄は、死後に英霊の座に上り詰めた。存在の格が上位にシフトするという点で転生とは異なる現象だが、無に還るという結末とは違う結末に至ったことには変わらない。そんな彼の意見を聞いてみたかった。

 

「そうですね」

 

 宙を仰ぎ、英霊は目を閉じて考え込んだ。

 

「どちらも辛く、どちらも幸いなことだと思います」

 

「幸い?」

 

「はい」

 

「死ぬことも?」

 

 ディルムッドは頷いた。

 

「この世の中は、すべてが流転していきます。いつまでも変わらぬものはありません。人や国はもちろん、山河でさえも。その変化の中に、いつまでも取り残されていくというのは辛いことだと思います。ならばこそ、穏やかに家族に囲まれて、次の世代に未来を引き次いでその生涯を終えられることは、人として幸せなことではないでしょうか」

 

「いつまでも生きることの幸いと言うのは?」

 

 その問いに、ディルムッドは笑みを浮かべる。

 

「誰かに出会えるかも知れぬ、と言うことに勝る幸いはありますまい」

 

 目から、鱗が落ちた。

 彼のその言葉に、私は素直に感心した。

 声音に、仕えるべき主を求めて世界を渡った騎士としての含蓄があった。

 なるほど。うまいことを言う。

 日常の中、たまに忘れかけることがある。

 ディルムッドの言うとおり、今、私の周りにいてくれる人たちとは、この世界に生まれたからこそ出会えたのだ。

 生まれてこの方、いいことばかりではなかった。だが、そうであっても今の私は不幸せではない。誰かに出会える。そのことが何を置いても喜ばしいことだと思うことができる。

 そのことを理解し、私は宙を仰いだ。

 あの日、皆と出会った。

 必然と偶然の積み重ねの中で、トリスタニアに居を構えて今日に至っている。

 そのどれも、この世に生まれなければ得られなかったことばかりだ。

 転生というものを考えた際、その収支は、その人生において死ぬ時に初めて明らかになることだろう。

 でも、今生に限っての話ならば、もし今すぐに私が死んだとしても、寂しくあってもきっと後悔はしないだろう。

 それだけのものを、私は皆からもらった。

 それは、かけがえのない日常と言う記憶。

 そしてもし、次の人生があったとしても、皆にもらった幸せな記憶があるのなら、私は笑っていられるように思う。

 例え、生まれ変わった先が今生に倍する地獄であったとしても、この街で暮らした日々の記憶があれば、それはきっと私の中の灯になってくれると今ならば思えるのだ。

 

「なるほど。それは素敵な考え方だね」

 

 私は素直に感想を述べた。

 

「私見に過ぎませんが」

 

「いや。いい答えだと思うよ。すまないね、変なことを訊いて」

 

 その時、キッチンからテファがリビングに入って来た。

 

「姉さん、そろそろ行った方がいいんじゃないかな」

 

「そうだね。ぼちぼち出掛けようか」

 

 呟いて、私は立ち上がった。

 

「今夜は大騒ぎになりそうですね」

 

「あの御隠居だ、派手に送ってやらなくちゃね」

 

 忠臣の言葉に、私は頷いた。

 今夜だけは自分の来世の心配より、長旅を終えた友人を送ることを考えよう。

 弔問の後、有志は『魅惑の妖精』亭に集まることになっている。御隠居も人望のある人だっただけに、恐らく街の主だった面々が集い、その宴は弔いの常識とはかけ離れた盛り上がりを見せることだろう。御隠居なら、絶対そのほうが喜ぶであろうことは誰でも知っているからだ。

 

 

 駒を並べたチェス盤を一瞥し、私はリビングを後にした。

 

 

 

 

 

 そんな一日。



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ハーメルン版あとがき

あとがきであります。

 

数年前に書いた拙作に付き、一部の方からご要望をいただきまして厚かましく移植いました。

正直読み返すと大変恥ずかしい初期作品、私の中でいろんな意味でプロトタイプの作品です。

それでも本作のおかげでコツのようなものがつかめたというものあります。芸風が確立できたというのもあるかも知れません。

当時はFate/Zeroはまだマイナーな作品で、チラシの裏で遊ぶにはちょうどいい材料だったんですよね。時代の流れと言うのは恐ろしい。

そんな拙作、ご笑読いただけましたら幸いです。

 

 

 

各キャラの感想。

 

・ティファニア

乳神様。実はあまり好きなキャラではない原作テファ。もうちょっと主体性持とうよと思っていたので、本作では育ちが違うこともあって少々性格改変しました。何気に書いていて一番表現が難しい人物でもありました。

 

・マチルダ

実は作者にとって非常に好きなキャラである原作マチルダ。ワルドなんぞにくっつけるなどもったいないキャラかと。本作についてもそういう嗜好が出ていると思いますが、極論すればこの作品の裏のヒロインと言った感じになりました。

 

 

・ルイズ&才人

主人公組。何だかんだでこの二人は好きなキャラです。多少は見どころのあるルイズが書けていれば幸いです。才人は油断するとすぐにレギュラー化しそうで困ったこともありました。

 

 

・カトレア

主人公の天敵。いきなり治ると言う形にはしたくなかったのですが、病気と対処法とリアリティの3点で彼女の病名設定は頭から煙が出るほど悩みました。最終的にはもっと百合系に持ってけば良かったかな、と思うことも。未だにカトレア編を書いた際の苦悩はトラウマレベルです。本当は一体何の病気なのやら。

 

 

・無根侯

変態としてもっと書きたかった不遇のオリキャラ。本当はもっと活躍する予定でしたが、うまくいきませんでした。劇中で主人公がこの人に蹴りあげられるシーンがありましたが、実は、本来はあそこは着衣を引き裂かれたあげくに「さっすが~、侯爵様は話がわかるッ!」な展開にすることも考えていました。しかし、着衣を剥かれる場面を書いてみれば侯爵の手下がこういうことを言うのです。

 

 「ヒューッ…見ろよやつの筋肉を。まるでハガネみてえだ。こいつはやるかもしれねえ」

 「まさかよ。しかし侯爵様には勝てねえぜ」(以下略)

 

ゼロの使い魔の世界でサイコガンを出す訳にはいかないので軌道修正となりました。

 

 

・ディルムッド

本作をネタたらしめている存在。ZEROにおいてあまりに不憫だった彼に救済を、という良くある安易な発想から書き始め、『混ぜるな危険』を身をもって体験させてくれたキャラ。本来であれば方針変更にあたって排除すべきだったかもしれませんが、そもそもの執筆動機が「ゼロランサー救済SS」でもあったので、無理を承知で残したイレギュラーでもありました。それだけに「その36」を書けた時は感無量でした。

ZEROの原作でも日常の描写がほとんどないので、掘り下げる事がものすごく難しかったとです。二度とクロス物はやらないと心に誓いました。

主人公の自信と戦略の根幹をなす存在ですが、見せ場を作ろうにも方針変更に伴い複合クロスというキワ物要素を除外してしまったのでハルケギニアのどんなものを持ち出しても彼を倒す術が思い浮かばず、最後までしっくりなじまなかったキャラでした。当初考えていたタルブに落着したBETAのハイヴ(飛行ユニット?)にカチコミをかけて蹴散らすシーンなどはどっかで書いてみたいと未だに未練。

元がそんなお遊びだったので、劇中ではついに書けなかった彼の召喚の触媒は謎のままと言うことで。

「忠義の道を全うする事と、主に勝利を捧げること」というのが彼の行動理念ですので、それを知る主人公との関係がうまく書けていれば幸いです。

ちなみに、彼については一つだけ嘘がありました。ゲイ・ジャルグの能力は魔力循環の遮断であり、完成された魔術や呪いには効果がないものと思います。そうなると、ゼロ魔世界の魔法もまた消すのは難しいような気がしますが、そこはこの世界のディルムッド・オディナの力と言うことでご了承いただきたいと思います。

それにしても、もうちょっとこいつの人間くさいところ書いといて下さいよ虚淵さん。二次が書きづらいっすよ。

 

 

・ヴィクトリア

アルビオンの貴族あたりで簡単なものを書きたいな~という思い付きから生まれた完全なぽっと出のキャラ。

決してノイ先生やクレイン先生がモデルだった訳ではありません。本当です。

そもそもこのロリババア、本来ならキュルケの使い魔になって彼女の援助で病院を建て、多重クロスを起こす作品舞台の中で社会的な基盤を固め、最後はニューカッスルの攻防戦にジェームズ1世を助けに介入して祖国に帰る構想で生み出されたキャラでした。クロスが起こるたびに『何故お前がここにいる!?』という突っ込みを入れるためにこの世に生を受けた存在。

しかしながら、いろいろ叱咤ご指導いただきまして方針転換し、何となく考えた初期設定はこんな感じ。

 

 シスコン。

 スクウェアと言っても王族の血筋ゆえの下駄履きなので、スゴ腕というほどではない。

 メイジとしては水魔法以外はからっきし。

 アルビオン王家との関係の清算が最終目的地。

 

名前は王族っぽいと言うことで超適当に決めました。

原作にもいたかもしれない立場のキャラですが、転生現象が起こらなかった原作では、恐らく侯爵の手にかかって悲惨で短い生涯を閉じたであろう人物と考えています。

外見はダークウィスパーのコヨミのイメージでいましたが、書いて行くうちに台詞のことごとくが田村ゆかりで再現される等、徐々に梨花ちゃま化が進行しました。当初の発育不良と騒動後の時間凍結については明確な病気としては設定しておらず、ストレスからくる水メイジゆえの魔力循環不良が原因とか考えておりました。素人なのに殺し合い上等な性質もこの辺りの影響があると言うイメージで。

才人たちの距離感ですが、仮にゼロの使い魔がRPGだったとすると、学院内のアドベンチャーパートが終了し、移動モードに入った際、『王都へ』をクリックすると『王宮』『武器屋』『秘薬屋』『「魅惑の妖精」亭』等のアイコンが並び、その中の一つに『診療所』がある。そこをクリックするとウィンドウの中に顔絵が出て来て

 

 

『おや、今日はどうしたね?』

⇒治療

  解毒

  話す

  アイテム

 

『*おおっと*』

 

 

みたいに受け答えするキャラをイメージしていました。2周目以降はCGが取れるとか。

一番頭痛の種だったのがキャラのチューニング。第2部以降はうまく『ゼロの使い魔』のストーリーラインの裏街道に溶け込ませるのが難しく、ちょくちょくストーリーを裏返してルイズ・才人の物語の側面で見た場合、要所要所で主人公組に茶々を入れて来る猫夫人のような怪しい人物としてうまく馴染んでいるかどうかを考えながら書いておりました。登場人物でレギュラーのオリキャラを主人公だけにしたのは、こういう視点で考えた時に二人目以降を丁寧に描写するだけの技術がないからです。

チート主人公のようでチートと言うほどでもなく、人間的には決して強くなくて、自己完結して自滅しやすい、そんな人間くさい、ハルケギニアのどこかにいそうなキャラを目指してきましたが、上手く書けていたら幸いです。

 

 

 

ではまた、いずれどこかで。

次こそはオリジナルを書くぞ。

 

 

 

 

FTR



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