倉庫 (ぞだう)
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艦隊これくしょん
口付けを致しましょう(加賀)


提督を頂きたいです。
――ええそう。提督を、貴方を、貴方の口付けを頂きたいのです。
もちろん悩ましいところではあります。
提督を望むのは揺るぎないこととして――けれど、いったい提督の何を求めるのか。
提督の身体、その内のどの部分を欲するべきなのか。
それはとても難しい問題です。
提督の身体は、存在は、すべては私にとって至高のもの。
何一つ余さず只一つの例外なく至上のもの。
そうであるがゆえに、その内のいったいどちらを願えばよいのかという選択は簡単ではありません。
一本一本が確かな感触を伝え、幾重にも重なりながら私へ絡まってくる髪。
甘く温かな吐息を伴って、艶やかに輝く肌の繊細な触感を晒す顔。
呼吸のために上下し熱っぽく体温を高め、濃密で濃厚な汗の味を纏った首元。
引き締まりながらも柔らかな、弾力ある素敵な噛み心地を持った二の腕。
腹のぷにぷにと爪のすべすべ、まったく異なる二つの舌触りを実現する指の先。
気持ちよく心地のよい鼓動を刻み、溺れそうなほどの安心を感じさせる胸。
包み込むように抱き止めて、どこまでも受け入れてくれるお腹。
広くて大きくて、男らしく締まった少し硬くて温い背中。
身体を犯し尽くし心を壊して蕩けさせてしまうような、噎せ返るほど深い官能を贈り注いでくれる秘所。
五臓六腑からを脳髄までもを強く激しく痺れさせ、厚い肉の感触を以って迎え入れてくれる臀部。
腕と同じく引き締まりながらも柔らかな、けれどそれよりも更に広く多様な心地をくれる脚。
首元のように味濃く手のような舌触りを持ち合わせ、背徳的な想いを感じさせてくれる足の先。
そのどれもが魅力的で魅惑的で、どうしようもなく私を誘い惑わせる何よりのものですから。
ですから当然迷います。盛大に存分に、迷いました。
――けれど、そう。やはりそれがよいのです。
甘噛み、吸い付き、舐め回し、
舌先で突き、舌の腹で味わい、舌全体で擦り付き、
思いきりこの身に感じ、心から愛し、すべてを掛けて想いたいのは――
頂きたいのは、やはりそれなのです。
唇を、歯茎を、歯列を、舌を、頬裏を、喉奥を、その口内を頂きたいのです。
口付けを交わしたいのです。
確かにこれは――提督との口付けは、既に幾度となく繰り返してきたこと。
啄むようなそれも、貪るようなそれも、ありとあらゆる形を以って繰り返し交わし合ってきたこと。
けれど、やはりこれがよいのです。
私がこの唇を触れさせた初めての貴方がここでした。
私がこの唇を触れさせたもっとも多くの貴方がここでした。
私がこの唇を触れさせた他のどんなものより愛おしい貴方がここでした。
私は、やはり好きなのです。
ここが、貴方の唇が、提督との口付けが、
たまらなく――止めどなく溢れてくるのを抑えられず、際限なく満ちていくのを鎮められないほど、
気に入って、惚れ込んで、純粋に好きで――大好き、なんです。
ですから――ですから、そう。
お願いします。私に、提督をください。
提督との口付けを、愛おしい睦み合いを、想いに満ちた幸せな時を、私にください。
大丈夫。ここには私と提督の二人だけ、何も邪魔は入れさせません。
ですからどうか安心して。何も気にしないで。私のことだけを見て、考えて、想って。
ほら、ね――
口付けましょう、提督。私と、求め合って想い合いましょう。
愛していますよ。
誰よりも何よりも、貴方のことを。
ああ、提督――


「……」

「…………」

「………………え、っと。加賀さん」

「なんでしょう」

「その……今、なんて?」

「あら、聞こえていなかったのかしら」

「いやなんというかこう、聞こえなかったとかではなく内容がいろいろ――」

「提督を頂きたいです。――ええそう。提督を、貴方を、貴方の口付けを頂きたいのです。もちろん悩まし――」

「いや、言わなくていいからね。一言一句そのままに繰り返さなくていいからね」

「――ふむ、ではどうすればよいのでしょう」

「どうすれば、というかその――えっとうん、とりあえずまず」

「はい」

「口付け、っていうのは……どういう?」

「? どういう、とは?」

「いや、だっていきなりそんな」

「何もいきなりではありません。常日頃から胸に秘め、心に満たし、想い続けていることです」

「でも僕、そんなの初めて聞いたんだけど」

「当然に過ぎるほどのことですから、あえて口にするまでもなかったというだけのことでしょう」

「えー」

「以心伝心。言葉はなくとも、私たちの間でなら問題はありませんでしょう」

「やー……うん、残念ながらそうでもなかったみたい、かなぁ」

「――――ああ、なるほど」

「加賀さん?」

「それはつまり、言葉なしに伝わっているようなこともすべて言葉にし贈ることで今後更に仲を深めよう、ということですね」

「え?」

「確かに――私と提督との間には決して起こり得ないことといえ、仲睦まじい二人の間にもほんの些細な『言葉が足りない』ことで亀裂が、というのはよく聞く話です。重ねて言う通り私たちの間に亀裂など生じようはずはありませんが、しかしそうすることでこの深く密な関係をいっそう深めようと――そういうことなのですね」

「や、あの」

「分かりました。それでは今からは秘めることなくすべて――時間を問わず場所を問わず、欲を好意を想いを愛を、どんなに些細なことまでも余さず言葉にすることに致しましょう」

「あー……うん、どうしてそう飛躍しちゃったかな」

「――と、それでは早速」

「うん?」

「提督、口付けを。――事を急く女はお好きでないと知ってはいますが、しかしそれでも貴方とのこと。――正直あまり長く抑えてはおけませんので、どうかお早く」

「わ、それについては確定事項になっちゃってるんだ。――というか、その、加賀さん、迫ってくるのはやめて。若干目も怖いし、えっと」

「……貴方が待てというのなら仕方ありません。貴方の秘書艦、貴方のパートナー、貴方の女としてここは聞き分けましょう。容易に抑えられるものではありませんが、提督のためであれば私は」

「ああうん、僕のためならってそういうのは嬉しくも思うのだけどでもこう……いや、まあもういいや。それより」

「はい、なんでしょう」

「その――口付け、っていうのはいったい」

「いったい、と言われましても……口付けは口付け。何も穿つことはない、そのままの意味ですが」

「いや、口付けっていう言葉の意味はあれなんだけど――こう、どうしてそれを口にしたのかなーというか」

「どうしても何も――おっしゃったではないですか。此度の大規模作戦へ貢献した褒賞として、望みのものを提督から贈ってくださると」

「望みのもの、というか食べたいもの、ね」

「似たようなものです。大した差異はありません。それに食べたいもの、でも間違いではないはずです」

「いやまあそうやって強引に解釈できないこともないかもだけど」

「ええ、何一つの疑問も生まれないところです」

「そんなまっすぐに言い切られると」

「私が提督への想いを迷い、躊躇し、悩むわけがないでしょう。貴方への私の想いにまっすぐ一途でないものなど、一つとしてありません」

「得意気な顔をされても。……まあ、不覚にも嬉しいけどさ」

「そうして照れたお顔も素敵です。――それで、提督」

「え、うん?」

「抑えるとは言いました。実際、貴方のために抑えるつもりではいます。――けれど、それでも、やはり限界はあります。他の事象に関してならいざ知らず、貴方のこと――愛する貴方の、あの甘美な味や感触を、幸せを我慢し続けるのは……。ですから提督、私はいつまでお待ちしていれば」

「…………ん?」

「どうかしましたか?」

「いやまあうん、いろいろとあるにはあるんだけど。まずその、初めから気になっていたこととして」

「はい」

「どうしてそんな、味やら感触やらを知っているようで――そして、僕と口付けを交わしたような風なのかな」

「……はい?」

「や、そんな首を傾げられても」

「すみません、あまり予期していない問いだったもので」

「これほど妥当な問いもないと思うけど」

「いえ、ですが――そうですね。これも先の『すべてを言葉に』という約束のためなのですものね。分かりました。明らかで開かれた周知のことではありますが、改めてお伝えしましょう」

「明ら――いやうん、どうぞ」

「はい。まず簡潔に説明すると、味や感触を知っているのは味わい愛でたことがあるから。後者は、実際に幾度も交わしているからです」

「…………うん?」

「例えば――そうですね。提督、先日夜戦をお断りしたときのことを覚えていますか?」

「あ、ああうん。試験的に空母も夜戦へ投入できないか、演習で一度ーとお願いしたときのことだね」

「ええ。提督からの願いを断るというのはとても心苦しいものでしたが、恥ずかしながらあの時の私は久しく触れ合いを持っていなかった影響で抑えが利かなくなってしまっていまして。――あの後、提督はお眠りになられたでしょう」

「そうだね。君にお茶を淹れてもらって、二人で書類と向き合って、しばらくしたら眠気に襲われてしまって。少し早かったし仕事も残っていたけれど、後を引き受けてくれるっていう君に甘えて布団へ――」

「あの時、提督がお眠りになってから部屋に上がらせて頂きまして。そこでいろいろと、口付けを始めとして抱擁や慰めなど種々様々思いのまま交わさせて頂いたり致しました」

「……え、っと」

「とても良い夜でした。――ふふ、褪せぬ興奮と恍惚に今でも身を焦がす思いです」

「おかしいな、一応自室には鍵を掛けていたはずなのだけど」

「掛かってはいましたが……あの程度私の想いの前には無力で無意味、鎧袖一触です」

「うん、頼もしい台詞だから普段聞く分にはとっても心強いのだけど今は少し聞きたくなかったかな」

「すみません。しかし、解きつつも壊しは致しませんでしたので」

「そこの問題じゃないんだよなー。……というかえっと、その、なんというかあれ、すごく混乱してしまっているんだけどこう――何、ということは僕って加賀さんにいろいろされてしまっているの?」

「いろいろ、とは」

「や、その」

「――ああ、なるほど。大丈夫です提督、私はそんなに無粋な者ではありません。提督の精や提督との官能は知りこそすれ、まだ本当に結ばれるようなことには至っていませんから」

「それは大丈夫と言えてしまう範疇なのかな?」

「他の行為とは違い、それはやはり提督の意思で提督の側から求めてほしいですし。――それに、今は提督もそれをお望みにはならないでしょうからね。誰よりも近く何よりも信頼を置かれるもっとも練度の高い艦であり戦闘を離れた部分まで公私に渡って提督をお支えする秘書艦、そんな私が状況の落ち着かない今の時点で艦娘としていられなくなってしまってはいけません。ですから、それについてはまだ何も。共に清いままの身体です」

「しっかり深く考えてくれているようで一瞬感謝しかけたけど、やっぱりそういうことじゃないからね。もっとそれ以前に問題としなければならない点が山のように積まれているからね」

「ああ。けれどもちろん、私にとっては提督の想いこそが何よりのもの。もしそれでも私を求めてくれるというのなら、私は今この瞬間にそこへ至ってしまっても構いませんが」

「あーもう、聞いてないし。……というか、あの、加賀さん」

「なんでしょう、提督」

「その……こういうことを自分から言うのはあれなのだけど、こう――加賀さん、僕のこと好きなの?」

「……」

「…………」

「………………はい?」

「うん?」

「ええと、その、それはいったい」

「そんなに戸惑われるとこっちまで戸惑ってしまうのだけど」

「――――ああ。ああ、なるほど。そういうことですか、分かりました」

「ん?」

「察しが悪く申し訳ありません。提督の問いがあまりに予期せぬもの――決して揺るがずわずかほどの疑念も生じ得ないはずの事柄についてその存在を疑うようなものだったので、提督の言葉の意図へ思い至るのが少し遅くなってしまいました」

「え、っと……うん?」

「すべての想いを言葉に。改めて口にするのは少々気恥ずかしくもありますが――ええ、言いましょう。私は貴方が、提督のことが好きです。好きで好きで好きで、もはやどうにもならずどうしようもないほどに大好きです。様々な色に光り輝き、そのどれもで私の心を魅了する貴方の表情が好きです。私を震わせ痺れさせる、甘くて柔らかな声が好きです。身体の芯まで脳髄まで犯し溶かしてしまうような、その刺激的で蠱惑的な匂いや味が好きです。柔らかで優しげで、けれど途方もないほどの安心感を与えてくれる貴方の胸が好きです。どこまでも温かく私を受け入れ抱き締めてくれる、思いやりに満ち愛情に溢れた心が好きです。語り尽くせなどしないほど、限りなく終わりもないほど、湧いて溢れてくるのが押し止められないほど、提督のことが好きです。大好きです。大好きなのです。貴方のお傍に居る、ただそれだけで心臓の高鳴りを止めることができなくなります。貴方を想う、そうしているだけで幾つもの夜を越えられてしまいます。貴方に触れる、ほんの指先ほどでだけのわずかな接触の度にすら毎回全身を焼け落としてしまわんばかりに身体を熱っぽく燃やしてしまいます。どうすることもできないのです。貴方とのこと――ただそうあるだけで、たとえそれがどんなに小さくどんなに細かで周囲から見ればまるで何も特筆するべきでないようなどうでもよいとすら言われてしまうであろうものであったとしても、それが貴方とのことであるならそれだけで、提督とのことであるならただそれだけで感極まり、壊れてしまいそうなほどの絶頂へと至り、提督と関係しない事象では決して感じることのできない幸せを全身で全霊で感じられてしまうほど、それほどに貴方のことが大好きなのです。貴方の艦として、貴方のパートナーとして、貴方の女として――こうして、私が今こうして在れるのは提督のおかげ。貴方のおかげで歩みを進めていられる。貴方のおかげで高みを目指していられる。貴方のおかげでより良くより素晴らしくあろうと努力をしていられる。提督がいて、立って、在っているおかげで私はこうして私として生きていられる。提督は私のすべて。比喩ではありません。そのまま言葉のまま、本当に比喩ではなく貴方は私のすべて。そう言えるほど、偽りなくそう思え間違いなくそう確信できるほど、提督は私にとって大切な存在なのです。大切で――重要で肝要で、失ってしまってはもう生きていくことも適わなくなってしまうほど、それほど大きな存在なのです。好きです。大好きです。お慕いしています。貴方を、提督を、私は――ありとあらゆる他のどんなすべてより、愛しています」

「――――」

「提督?」

「えっと、やー……その」

「ああ、すみません。どうあっても言い切れず表し切れないこと、と言葉を短くしてしまったのですが……確かにこの程度ではご不満でしょう。私としても、これでは申し訳なくもあります。分かりました、それでは続きを――」

「あ、いや、それはいいからっ」

「? そうですか?」

「うん、いいから。――うんそう、うん」

「提督?」

「あー……なんというか、こう、少し混乱が深まってしまったというか。えっと、その」

「――」

「うん、と」

「――――」

「ああ、えっと」

「――――――提督」

「えー……ん、うん? 加賀さん?」

「すみません。まだ未熟、私もまだ鍛錬が足りていないようです」

「え? って、えっと、加賀さん、近い――」

「惑う姿も素敵です。――そんな姿を見せられてしまったら、私――もう、抑えられません」

「うわ、ちょっ、目が怖いよ? 力もすっごく強いし、加賀さんっ」

「お叱りは後ほどお受けします。ですから提督、今は――私に、委ねて」

「委ね、っていうか、んんっ」

「大丈夫です。提督のお好きなところはすべて把握していますから。私が必ず気持ち良く、幸せにして差し上げます。――ええ、好きです。大好きです。お慕いしています。愛していますよ、私の提督――」



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囚われた提督と捕らえた榛名(榛名)

鎮守府の中の一室。
囚われ縛られた女提督と、捕らえて手に入れた榛名。


(私、これから先をいったいどのくらいこうして過ごすことになるんだろう)

 そんな呟きを頭の中で漏らしながら、湿っぽいため息を口の端から零しながら、もうこれで何度目になるのかも分からないような思いと問いを自分自身に投げ掛けながら、ごろんと寝返りを打つ。

 仰向けに寝た体勢。頭の上で囚われてベッドと繋がれた両手。自由の利かない身体になってしまっているから、なんだろう、寝返りを打つというよりも身体を横に捻っただけ、みたいな感じではあるのだけど。

 それでも少し体勢を変えて。ずっと同じ体勢のままいたせいですっかり硬くなってしまった身体を、気休め程度だけどほぐして緩める。筋肉の筋が伸びる感覚と、凝り固まった骨が鳴らすゴキゴキという音。なんとなくだけど身体が解放されたような気になれて、少しだけ気持ちいい。

「ん……」

 はあ、と吐いて、すう、と吸う。

 自分の中に溜まり混んでいた生温い空気を吐き出して、代わりに新しい空気を身体へ取り込む。……入ってくるのも生温くて湿っぽい空気だけだから、循環させることについての心地よさはまるでない。もう慣れてしまったこととはいえ、でも不快なだけの呼吸なのだけど。

 匂いもある。元々この部屋……提督となった者に宛がわれる居室は防犯上の理由などもあって外と繋がる場所が少ない。鎮守府の大廊下と繋がる扉を除けば、あと他には明かりを取り込むためだけの小さな天窓がわずかにしかなくて、換気をするためには入り口の扉を開けるか空調の力を借りるしかない状態だ。そして今私のいるそんな居室では入り口の扉は固く閉ざされていて、空調はかろうじて動いてくれているのだけど、けれど全然足りていない。

 この中で普通に、本来この部屋の設計者に想定されている範囲内での過ごし方をしていたなら、それなら扉を閉めきった密閉状態であっても問題はなかったのだろうけど……残念ながら、今のこの場の状態は想定の範囲外らしい。

 湿っぽい。特に私の身体の周りが。あるところではじっとり、別のところではべっとり、また違うところではぐっしょり、濡れていて、湿っぽい。

 女なのにこんな姿を晒しているのが恥ずかしくて、それなのにほんの半月くらいが経った程度からこれを晒すことにすら慣れてきてしまっている自分を自覚して、悲しくなる。

 だけど、いくら恥ずかしく思って悲しく感じたとしても、この現実は覆らないわけで。この濡れた感覚を伝えてくる存在は確かなわけで。

 要するに私は今、塗れていた。自分の汗やら排泄物やらいろいろなものに塗れていた。

 ここへこうして寝かされるようになった始めの日、身体を自由に動かせないことに気づいてから時計の短針が一周を終える少し前くらいになった頃に初めて汚れて、それから予備のものと入れ替え使い回すようにして何度も着せられている制服。どうやらかなり念を入れて丁寧に洗濯をされているようで、確かに何度もどうしようもないくらいにまで汚れてしまっていたはずなのに再びまた綺麗な状態へ……新品同然とまでは流石にいかないけれど、少なくともこれを身に纏って鎮守府を練り歩いてもなんら問題が起きない程度の状態までにはしっかりと清められたそれを、今朝改めて身に纏ったそれを私はまた汚していた。

 抜かりなくアイロンまでかけられているのだろう、ぴっしりと整えられた制服。普段愛用していたものと比べかなり布の面積が小さく感じられる、私のものではない扇情的な下着。同伴の下で時間も不規則ではあるけどほとんど毎日お風呂には入れているから極端に汚くはないと思う、けどやっぱり綺麗だとは思えない私の身体。それを、例外なく汚している。濡らして、塗らしている。

 当然といえば当然のことなのだけど、特に下半身が酷い。上半身はほとんど汗だけ。他にはストローを咥えて顔の横に置かれた水筒から中の水を飲もうとしたとき、少し吸い損ねて口の端から溢してしまったのが首元をいくらか濡らしている程度。……なのだけど。下半身は汗に加え、漏らしてしまった私自身のものまであるわけで。こう過ごし始めた最初の頃は直視どころか視界の端に掠めるだけでも堪えられなかったような、正直に言って酷い惨状だ。

 拭き取ることができないからもうずっと纏わりついたまま。生温い、なのにひんやりしているようにも感じられるような、心地悪くて気持ち悪いぐっしょりとした水の感触。それがどうしようもなく感じられ続けて、不快感が募る。

 ただ身体が濡らされているだけならまだ良かったのだけど、今の私は服を纏っていて。制服も、下着も、身体の下のシーツも、吸い切れない量の水に浸っている。少し身体を揺すっただけでぐちゃぐちゃと水が跳ねるような、にちゃにちゃと粘っこく糸の絡むような音が鳴り、服がそれを含むことで噎せ返ってしまいそうになるような濃度までひたすらに蒸れて、それが決して離れず纏わりついてくる。べったりと貼り付いてくる感触が、痒みを伴うようなじとじとした感触が、浸った私の身体へ染み込んでくるんじゃないかと思わされるような温い感触が、嫌になる。

 とはいえ、私は知っていた。この状態を自分の力でどうこうするのは無理なんだと。榛名に制限されたこの状態は、榛名の力が無ければどうにもできないんだと。その榛名はきっと、いつも通りならもうすぐ帰ってくるはずなんだと。知っていて、だから私は自力でどうにか解決を図ろうとはしなかった。

 にちゃ、と足の付け根辺りで音が鳴るのを聞きながら体勢を元の仰向けの形へ戻す。少し前、今打っていたのとは反対側へ寝返りを打ったときに、水を吸ってそれに浸っているからか変な形にずれてしまった下着の位置を戻そうとするのも諦めた。気持ち悪い感じはあるけれど、またずれた位置を直そうとしてもむしろそれが酷くなってしまいそうな予感もあるし、何よりこれがずれたままになっている気持ち悪さよりも、寝返りを打ってびちゃびちゃとした水の感触を味わうほうが嫌だ。身体の凝りやら何やらは今のである程度取れてくれたし、もういいだろう。

「榛名……」

 身体を仰向けの状態で固定したまま、動かしてもさして問題のない首をぐにぐに回し、手錠に繋がれた両手の手首を何度か捻る。

 固定されていることによって凝ったり緊張したりしている場所をそうしていくらかほぐしつつ、私は口から呟きを漏らした。意図せず零れ出ていったときのような淡く掠れた声を、ぽつりと。

 私をこうしてベッドの上へ寝たきりにさせている彼女。私という提督が得た初めての艦娘。これまでの私の半生の中でもっとも深くまで関わりあった大切な人。その人の名を呼び、その人の姿を思い浮かべ、そして思考に溺れる。

 優しい子だった。気遣いのできる子だった。女の子らしい子だった。少し心配になってしまうくらい控えめな、常に一歩引いた場所で周りを支えている子だった。とても健気でとっても可愛くて、何事についても真面目なよく頑張る子だった。海戦で遠征で秘書業務で、果てはまったくのプライベートにおいてまで、まだいろいろと至らない新人提督であった時代からずっとこれまで私のことを助けてくれていた本当にかけがえのない子だった。

 そんな子が、そんな彼女が、そんな榛名がいったいどうしてこんな行為に、自身の提督を拘束し閉じ込めて命の手綱を握るようなこの異常な行為に手を染めてしまったのか。それを頭の中に広げて、思考する。……もう既に、私の中で答えが出ている事柄ではあるのだけど。

 それでも、改めて思考する。自分と彼女とのこれまでを思い返してみて、そして考えを巡らせる。

 そうして過去を回想していると、なんとなくだけど思い当たってくる。いつも通り、前に回想を試みたときと同じように原因やきっかけが……榛名の想いや私の至らなさが、沸々と。

 まずきっと、榛名は私のことを好いてくれていた。具体的にそれがいつからなのかまでは分からないけれど、おそらくかなり早い段階から。先日の榛名の言を信じるのなら、着任して私たちが顔を会わせたその瞬間から。榛名は、私のことを好いてくれていた。もちろん私も榛名のことは好いていたけれど、それは親愛や信頼といった意味での好意であって。榛名は私のそれとは違う、恋慕や愛慕といった意味で、私のことを好いてくれていた。

 改めて今思い返してみれば、その片鱗は確かにあった。優しい彼女が、より優しく微笑むのはどんなときだったか。控えめな彼女が、珍しく声を上げ身体を乗り出したのはどんなときだったか。頑張り屋な彼女が、自分は大丈夫だからと他のどんな何よりも熱心に精を出すのは、誰のためとなるときだったか。そんなことを思い返すと、私の傍にいるときの些細な仕草や言葉を思い返すと、確かにそれは存在していた。

 私と榛名は普通の人間と艦娘。上司と部下。同性、女同士。そんな観念、そんな関係、そんな思いがあったから、私はここに至るまで気づけなかった。これまで恋愛なんてものはただの一度もしてきたことがなかったし、それでなくとも我ながら鈍感だったというのもあって、榛名から向けられた想いに私はそのとき気づくことができなかった。

だから私は返せなかった。榛名の「好き」に私の「好き」を返すことはできたけど、榛名の望むような「好き」を以って榛名に応えることができなかった。

 たぶん原因はそれなんだろう。優しくて気が利いて頑張り屋な、この鎮守府にいる他の誰よりも愛情深い彼女の想いを無下にし続けてしまった。気づいてさえいれば何かの形で解消させてあげられたのかもしれない想いを、好意も不満もいろいろなものを一つに混ぜて一緒にしたような大きく深い想いを、彼女の中へ際限なく降り積もらせてしまった。彼女がこんな今にまで至ってしまった背景はたぶんそれ。私の至らなさの積み重ね、それが原因だったんだろう。

 そしてきっかけも、分かっている。いろいろなものが積み重なって、いろいろなものが溜まりに溜まって、いろいろなものが止めどなく溢れてどうしようもなくなってしまった末、それを決壊させるきっかけになったのは、きっとこの前の作戦だ。

 AL.MI作戦。異なる海域で同時に攻略を行う、二正面作戦。あのときのことが、きっと榛名を踏み切らせたきっかけなんだろう。

 作戦当時、この艦隊における最高戦力である榛名は旗艦として、より高難易度が予想されるMI作戦に参加していた。結果、彼女は私の期待に私の期待の遥か上の戦果を以って応えてくれた。作戦に参加した艦の中からただの一隻も轟沈艦を出さず、私が想定していた作戦終了までの期間を大幅に短縮し余裕を持って完了させてくれた。彼女の尽力と貢献のおかげで、難航が予想されていたMI作戦は特に大きな被害もなく速やかに攻略を終了した。……のだけど。

(あの時は怖かったなぁ)

 その二正面作戦の展開中に敵襲があった。守り手である艦娘たちが作戦のため各海域へと離れた隙を狙った、鎮守府本陣への強襲だった。

 榛名を始め主戦力となる有力な艦娘たちはほとんどが作戦実行のため散ってしまい、念のため残しておいた一部数艦を除けば残っているのは着任してから日の浅い者たちばかりという状態。そのくせ強襲を仕掛けてきた敵艦隊にはこちらの主戦力とも渡り合うような実力を備えた艦が多々。正直、敵襲を認識した瞬間に死を覚悟した。直感で、数字で、目で見て、そのどれもで例外なく膝を折られてしまいそうになるような、そんな状況だった。

 そこで、私は前線に立った。そんな状況で、そんな状況だったからこそ、敵を沈める戦力とはなれずとも、前線で指示を飛ばし前線へ身を晒し前線に立っていた。怖かったし情けなかったし苦しかったけど、提督として艦隊の士気を上げるため、部下である艦娘たちと命を共にするため、この身で前線に立った。

 結果としては、散々というか。やっぱりどう見ても戦力の差は圧倒的で。なんとか奮戦はしたけれどじりじり確実に追い詰められて、燃料や弾薬は切迫しているというほどまでは不足していなかったけれど決定的に修復が間に合わなくなり始めて、交戦位置もだんだんと鎮守府へ掠ってしまいそうなほどにまで近づいてきて、そんな状況にまで追い込まれて、そしてもうそれ以上後に引けなくなってしまったその時、私は意識を失った。

 どうやら指示を飛ばすために一瞬注意を逸らしてしまった隙を突かれて爆撃を受け、被弾してしまったらしい。幸いにして身体のどこかを欠損したり深刻な後遺症が残ってしまうような傷は受けなかったのだけど、爆発の衝撃で吹き飛ばされたときどこかに叩きつけられたのか骨に何ヵ所かひびが入っていたのと内出血を伴う大きな痣がいくつか、それから露出していた顔などの部分に火傷を負った。欠損はなく視力も聴覚も失わず、何より命に別条がなかった辺り、運があったんだろうなぁと思う。

 命に別状が――そう、私はそれでも死ななかった。こうして今も生きている。元々あそこまで追い詰められていて、残って戦ってくれている皆もボロボロで、その上指示を飛ばさなければいけないはずの私も倒れてしまって、そんな絶望的な状況で、だけど私は生き残った。――榛名のおかげで。予定ではまだ終了は遥か先になるはずだった遠い海域での作戦を速やかに抜かりなく終わらせ、ほとんど無傷のまま弾薬も十分に戦闘を行えるだけの量を保持した艦隊を率いて帰ってきた榛名のおかげで。陥落を許してしまうその直前に帰還を間に合わせ、鎮守府へと攻め込む敵を警戒領域外へと撤退させた榛名のおかげで。私はこうして生を得た。

 正直、意識を取り戻したときは自分が生きていることが信じられなかった。意識を失う前、最後に感じたものは耳をつんざく爆音と全身を叩く衝撃で、意識を失うのは一瞬のことだったけれど、でもその一瞬で私は死を覚悟させられていたから。だから信じられなかった。今でも少し、信じられないぐらい。

 だけど、それもすぐに無くなった。信じられないという思いが実感されようとしたその前に、私は榛名に埋められたから。心も身体も、榛名でいっぱいにさせられてしまったから。

 意識を取り戻した私がまず見たのは榛名の顔。赤くなった目の下を酷く濃い隈で染めて、痩せた頬と紅を失った唇を乾かない大量の涙で濡らし、綺麗な長髪をボサボサにしながら私の顔をまっすぐに覗き込んでくる榛名の顔。力なく横たえられた私の手を両の手で握り締めて、意識なく眠りに落ちていた私に寄り添う榛名の姿が、飛び込んできた一番最初だった。

 それから次に、驚いたような呆然としたような顔。私の目が開いたのに気づいて、握り締めた私の手が反応を返したのに気づいて、少しぼんやりと靄がかかったような虚ろな様子で、でも感情を交えた表情を浮かべた榛名の顔。それが私の視界に入ってきて……そしてだんだんと、変化した。溢れる涙の量をさらに多く増やしつつ、嬉しそうな、感激したような、まるで救われたような、そんな表情へと変わっていって、そうしてそれが変わりきったとき、表情が満面のそれへと変わりきった瞬間、私の視界は暗く影に落とされた。

 どこまでも深く深く沈み込んで何もかもを包んでしまえそうな弾力のある濡れた柔らかさが、けれど痛いほど押し当たる。頭の両側を優しく、だけどそれと同時に決してそこが動いてしまわないように強い力でしっかりと抱き止められて、そんな状態で押し当たってきた。榛名の唇が、私の唇に。

 視界のすべてを榛名に覆われて、意識のすべても榛名に埋められて、私の何もかもすべてを榛名に染め上げられて……そんな状態だった。そんな時間だった。そんな口付けだった。

 いったいどのくらいの時間が流れているのか、なんてことを考えられる余裕は当然私の中にあるはずもなくて、実際あの口付けがどれほどの間続けられていたのかは分からないし分からなかったのだけど、でも私の中ではまるで永遠に続いていくかのように感じられた口付け。それは結局、私の寝ている部屋へ榛名以外の艦娘たちが部屋を埋め尽くさん勢いで雪崩れ込んでくるまで続いた。吸われて食まれて愛でられるような口付けが、滔々と。

 けれど離れて――他の艦娘たちが雪崩れ込んできたところで、それまで繋がっていた唇は離れたのだけど、けれど榛名は私の傍から離れなかった。私のもとへと寄ってくる艦娘たちのためにベッドの上まで乗り出していた身体を引きはしつつ、けれど再び私の手を握り締め直して、添うようにして私の傍へあり続けた。

 意識を失う刹那に死をすら覚悟した自分が生きているらしいこと。陥落は免れないものだと思っていた鎮守府が無事で、その内に自分が今いるらしいこと。大切な艦娘たちがそれぞれ目を腫らし、涙を流して駆け寄ってくる。そして駆け寄ってきた彼女たちが口々に私へ向けて声を贈ってきてくれること。そんないろいろが一斉に私の中へと流れ込んできて、あまりの情報の多さに混乱してしまった私が――そんな状態の私でも鮮烈に認識できたような、他のすべてを霞ませてしまうくらいに際立った今でも頭の中へ焼き付いて離れない瞳を、これ以上など見たことがないくらい熱っぽくこれ以上などありえないくらい想いに溢れた瞳を私へ向けて。私以外の誰もが見えていないかのような……実際、私ただ一人だけを映して他の何もかもは見ようともしていなかったのだろう瞳をまっすぐに向けて、そうして榛名はそこへあり続けていた。

 それからだ。榛名が今のようになり始めてしまったのは。こうして私を閉じ込めて、私を外から断って、私を管理しようとし始めてしまったのは。

 最初は、少し過保護で私の傍を離れたがらない程度だった。不自由な身とはいえ出来ることはそれなりにあったのだけど、榛名はそのことごとくをさせてくれなかった。衣食住に関わることはもちろん、どんなに些細なことでも私にさせようとはせず榛名の手でやりたがった。そして私の傍にいたがり、私のいる部屋の外へは出たがらなかった。床に伏せる私に代わり、私から頼まれた用件をこなすためにはなんとか大いに渋りながらも出てくれたのだけど、そういった必要最低限以外の事柄では決して外へ出ようとしなかった。

 だから当時の私は……馬鹿で、この期に及んで何にも気づけていなかった私は、榛名のことをそこまで深刻には考えていなかった。それは当然何も考えていなかったわけではなかったのだけど、それも「不安定な今は仕方ない。いずれは元の榛名に戻ってもらわないといけないけれど、今はまだ」みたいに具体案のない曖昧なもので。今から思うと本当に、我ながら至らなさが過ぎて頭を抱えたくなる。

 そして、そんな風でいるから、やがて榛名はそれだけでは済まなくなってしまって。私の多分な自業自得もあって、それから数日――確か目覚めて一週間は経っていなかったはずだから、曜日が一周するまでの数日間が過ぎ去ったいつかに、私はここへ身を移されることになった。榛名は、私を閉じ込めるまでに至ってしまった。

 だからやっぱり、きっかけはそれ。私がどうしようもなくこうなって、榛名が決定的にこうなってしまったきっかけはそれなんだろう。そう思う。

「みんな……」

 戦艦。空母。巡洋艦。駆逐艦。潜水艦。揚陸艦。工作艦。給糧艦。それぞれ合わせると全員で百人近くになる艦娘たちのことを頭に浮かべて、一人ひとりの姿を頭の中へ描いて思いを馳せる。

 密室に近いとはいえここは鎮守府の中へ確かに存在する一室。……先の作戦時に被った損害や損失を取り戻すために多くの子が――それこそ本来はこういったことに向いていないはずの戦艦や空母に至るまでの子たちが揃って遠征に出てくれている。同じく先の作戦時に戦力や資源を多く失ってしまったらしい提督着任以前から交流のある知り合いの鎮守府へ、臨時の即戦力として、遠征要員として、戦闘や開発の技術を提供する指導員として、そうしてこの鎮守府の外へ出て頑張ってくれている子もいる。少なくとも私がまだここへ閉じ込められる前、寝ながらではあったものの鎮守府内の動向をきちんと把握できていた頃にはそうだった。そうして多くの子がこの鎮守府の為に尽力してくれていた。だから、少ないのは理解できる。この鎮守府の中に留まっている子が、もうほとんど存在しないぐらいの水準で少ないのは理解できる。……けれどそうはいっても同じ鎮守府の中、あまり無い短かな時間ではあるかもしれないとはいえ同じこの場所の中に他の誰もがいないなんてことはないはず、なのだけど。

(もう、しばらく誰とも顔を合わせてないなぁ)

 ここへ寝かされ始めてから短くても半月から一か月は経っているわけだけど、その間みんなを――榛名以外の艦娘たちを見ていない。顔を合わせて言葉を交わすことができていない。

 どうしても私でなければ分からないような上とのやり取りを交わす際には助言を仰いでくるものの、それ以外のことに関しては基本的にすべて榛名が今は取り仕切っている状況。流石に私の姿がない状態で何の問題もなく取り仕切りきれているのかな、とは思うのだけど……聞いても榛名は「大丈夫です」としか答えてくれないし詳しいことを問おうしてもやんわりはぐらかされて何も教えてくれないから、私自身は今の鎮守府の状況が結局何も把握できていない。まあ、私が探されたりしていない現状を考える限り、実際そこまで大変な問題は起きていないんだろうはず、なんだけど――やっぱり気掛かりだ。

 せめて艦娘たちが今どうしているのか、誰がどんな任務に就いて各々がどう過ごしているのか、そのくらいは知りたいし教えてほしいのだけど……鎮守府の運営に関することであれば特に何もないものの、他の艦娘たちに関しての話をしようとすると、榛名は口を閉ざしてしまう。あるときは窘めるような口調で私の言葉を抑え、あるときは辛く苦しそうな表情を以って私の口を縛り、あるときは熱に溢れ想いに満ちた口付けで私の唇を塞いで、そうして決して話そうとはしてくれない。

 大切な子たち。私と共に歩いてくれた、私の命に尽くしてくれた、私の生を鮮やかに彩ってくれたあの大切な子たちのことを、だから私は知ることができないでいる。毎朝毎昼毎夜、毎日頭の中へ浮かべ描いているあの子たちを――知りたくても、榛名以外の子のことは、何も今。

「どう、してるのかな」

 提督が閉じ込められ身動きを取れずにいるこの現実。確かに今はほとんどすべての艦娘たちが鎮守府の内に必要最低限以上の時間留まっているようなことのない普通ではない状況で、私も数日は自分の力だけでは立つことが敵わなかったような大きい負傷をしてしまったがゆえ面会のできない隔離にも近い安静が必要であると、完全に納得させられるまでには至らなくともそのようになんとか説明ができないわけではない状態だから、まあ、榛名ほど頭の回る子の手であれば、こんな現実を実現させられているのは信じられないということでもない。元々この鎮守府の中での最古参で、秘書艦でもあり最高の練度を誇る子でもある。他のどの子からも「この鎮守府でもっとも上に立っている艦娘は榛名であり、またそこへ立つのにふさわしい艦娘も榛名である」と思われている現状、榛名が表立って指揮を執ることに違和感はそう無いだろうし、また不満もないはずだ。今のこの状況も、現状や現実も、実現してしまっていることに不思議はない。

 ――けれど。とはいえ、だけど。今はこうしてこの状態が成立しているかもしれないけれど、これはいずれ崩壊を免れないはずだ。遠征の合間に少しでも鎮守府に留まっていられるような余裕が生まれてきたら、上から私本人の対応を要請されたり本営へ出向くよう命を下されたら、そうでなくとも面会の敵わない状態なのだという説明が通らなくなる程度の時間が経ったなら、この監禁は終わる。露見して、発覚して、どうしようもなく終わるはず。最高の練度を誇る榛名といえど流石に十を超える艦娘たちを同時に相手に回してしまえば敵わないだろうし、一旦疑念や違和感が広がってしまえばそれを収めることはできないはずだ。

 いずれ終わる。そのことが分からないはずがない。いくら動転し混乱があったのだとしても、それでもあの利発な榛名がその程度のことに思い至らないはずがない。そのはずなのだけど――

 

「ていとく?」

 

 思考が止まった。

 聞き慣れた声、耳に馴染む声、この場所へ移ってきてから私に許された唯一の声、榛名の声が不意に送られ届いたことで、思考がぶつりと。

 首を傾けて視線を横へ。出入り口の扉がある方向へ向くと、お盆を持った榛名の姿。部屋の中の明るさはそのまま空気もさして変わっていない。後ろの扉は閉じられていて、既に密室になっていた。

 にこっと笑み。私が反応を返したのを見て、榛名が表情を柔く緩める。そしてその表情のままゆったりと、淀みのないまっすぐな足取りで歩を進め、私の寝るベッドの方へと近づいてくる。

「ふふ、お待たせしました提督。榛名、ただいま戻りました」

 ことん、と手に持っていたお盆をベッドから少し離れた場所へ据えられているテーブルの上へと置いて、それからお盆の上に乗せていたタオルを手に取り言葉。笑ませていた表情を改めてさらにまた微笑ませ、それを私へと一途に注ぎながら身体を寄せてくる。

 やがて、着いて。私が身体を預けているベッドのもとまで辿り着いて、そして腰かけた私のお腹が横たえられている隣ほどの場所へゆるりと淑やかな所作を以って腰を下ろし、上半身を折って顔を私の傍へ――私の顔のすぐ傍へ近づけて、添わせた。

「ごめんなさい。榛名、今日もまた遅くなってしまって……」

 息がかかる。匂いが香る。視界が埋まる。それほどの近くまで私に顔を添わせた榛名が、言葉を紡ぐ。

 そしてふきふき、と。手にしていたタオルで私の顔を拭う。零れて残っていた飲み水や滲んで浮かんでいた汗が拭き取られていく。優しく、温かく、柔らかく、途方もないほどの心を注がれているのが嫌でも分かってしまうような、そんな触れられ方で丹念に撫でられて、悪くなく、感じてしまう。

 薄く開いた目には榛名の顔。申し訳なさそうな、心を痛めているかのような表情。愛おしむような、湧き上がる想いに満たされているかのような表情。多様な、様々な、いろいろな――けれど私という存在のみにだけ向いた感情を混ぜて共にしたような表情が、榛名の顔が目に映る。

 ふきふき。なでなで。すりすり。丁寧に丹念に何度も何度も、惜しみなく時間を使い溢れんばかりの心を込めて、汚れた私の顔を榛名が愛でるように拭き清めていく。

「――でも、もう大丈夫。明日からは、こんなに遅くはなりませんからね」

 顔を拭き終えて――終わるまでに数分は費やしただろう十分すぎるくらい念入りな顔拭きを終えて、榛名が手を後ろへ。

 それから先の言葉の続きを口にした。先よりも少し柔らかな、少し喜色を混じらせたようなそんな声で、再びまた囁くように私の耳元へ紡いで落とす。

 そして一つ。言葉を紡ぎ終える際に一つ、私の目元へと口付けを降らせて――そっと優しい軽く淑やかな口付けを、高く音の鳴る重たい艶を含んだ口付けを榛名が私へ降らせ落として。それを私が抵抗なく、迎え入れるかのように受け入れたのを見てから身体を引いた。ゆっくりとした動きで、まっすぐに私の瞳を見つめ続けながら。

 やがて上半身をベッドと垂直になるところまで戻してから手にしていたタオルを横へ。私の胸の隣ほどに当たるベッドの上へ、先までよりもわずかにだけ乾きを失い水気を得たそのタオルを置いて、

「脱がしますね」

 言いながら、私の下半身を覆っている服を脱がしていく。

 いつも通り。鼻を刺激する匂いの立ち上るそれを、いくらか色の付いた透明でない水に濡れたそれを、私の不浄に汚されたそれを、榛名が手にする。嫌悪する様子も忌避する様子も、ほんのわずかにでも躊躇する様子さえ見られない。欠片ほどの負も持たず、それどころかむしろ、どこか恍惚とした満足感のようなものすら感じてしまっているような様子で、いつもの通り榛名が私のそれを手に。

 タオルでも何でも使うものはどうでもいい、すべてを拭ききることは無理でも直に素手で触れる前にその何かでまず染みてしまった汚れをある程度にでも拭いたりはしないのか。このいつも通りがいつも通りになり始めた初めの頃、聞いたことがある。私としてもあれを直接触れられてしまうのはいろいろな意味で嫌だったし、そうしてほしいという懇願の念も込めて何度か。……けれど榛名はただ「大丈夫です」と、綺麗で可愛らしい思わず見惚れてしまうような――濁り歪んで思わずすくんでしまうような笑みを浮かべて「榛名にとって、提督のものはたとえそれが何であっても愛おしいんです。余すことなくすべて、それこそそれが、提督自身は棄ててしまおうとしているこんな不浄であっても」と淀みなく答えて、そして手に触れたそれらを「だから、榛名は大丈夫です」と本当に心から愛おしそうに受け入れるだけだった。

 今も、そうしていつも通り。濡れて塗れて汚れるのを気にすることなくむしろさらに濡れようと、さらに塗れてさらに汚れようとする動きで以って私の服を脱がし……私の身体へ触れてくる。

 臀部を通す際には片手を私の身体の下へ差し込み軽く持ち上げて、足の先を通す際にも同じく片手を私の足へ添えふわりと浮かせるように持ち上げて、そうして私には一切の力を使わせないまま、榛名が私の下半身の一枚目を 脱がし終えた。脱がされたことで、水の染みたシーツへ素肌が触れる。一旦のことではあるものの纏わりつく汚れの抱擁から解放されていた脚が、先まで触れていた衣服に染みるそれとは温度も吸水性の差からくる水気の感触も違う新鮮な、まったく好意的な意味を持たないその新しい抱擁を受けて小さく震えた。ぴちゃ、と鳴った水音が耳へ入ってきたのも相俟って、少し表情が苦くなる。

「ん……ふふ、提督、今日はすぐ――今日からはすぐにいつでも、お風呂へ入れてさしあげられますからね……」

 私から脱がしたそれを、濡れきって汚れきったそれを、けれどやっぱり愛おしげな表情と様子とを浮かべながら榛名がぎゅっと胸へ抱きしめた。自分の身体や服が汚れてしまうのも構わず、むしろ先までのように深く濃く大きく自身へその汚れを染み込ませようとするようにして、あまり長い時間ではなかったけれど、その分ぎゅうっと。

 そしてそれから、抱いたそれは手にしたまま恍惚と蕩けた表情を晒しながら私へ呟くような声で言葉。ほう、と吐いた息も熱っぽく潤んでいるように感じられる。言葉を言いきってから鼻で深く空気を吸い満足そうな、けれど満足しきれていなさそうな――熱く、焦がれるような、艶かしい、発情した顔。これまで何度となく見てきた、それなのに見慣れることができない、淫靡に揺らめく榛名の顔。

 その言葉とその言葉に、私の心中が揺れた。

 お風呂に入れるというのは嬉しい。汚れを洗える。身体を流せる。この心地悪い汚れや空気を落とし吐き出して、身も心も清めることができる。それは嬉しい。望んでいたこと、願っていたことだ、嬉しくてありがたい。

 けれど同時に、なんともいえないような思いも広がってくる。榛名の顔、声の震え、熱に湧き立つ様子、それらからこれまでの過去の経験が連想されて、おそらく今回もそのように――浴場で、更衣室で、あるいはこの部屋へ戻ってきてから、きっとまたいつものように行為が始められるのだろうと、そう分かってしまって。過去の行為の数々が思い出され、未来起こるのだろう行為が想像されて、それらが頭の中へ浮かび現れて……そして、そこに嫌悪や困惑以外の感情も持ってしまっている自分を自覚して、なんとも、いえない気持ちになる。

「こちらも……」

 慣れた手付きで抱いていたものをパタパタと折り畳み、それを自身の太ももの上へ置いてから再び榛名が手を移動。外を覆っていた一枚が剥がされたことで露出した下着へ指をかけ、それをまた優しく――熱っぽい吐息をかすかに荒くしながらも優しくそっと、赤子を抱くときのような柔らかさを以って脱がし始める。

 湿り、貼り付いていた布が剥がれていく感覚。ちゅぷ、と水が揺れたような音、にちゃ、と糸が引いたような音、それらが混ざりあったはしたない水音が響く。声は出さない、けれど堪えられたのはその程度で顔は紅潮し胸も詰まる。何度となく繰り返されてきたこととはいえ、慣れることができるわけもない。言葉をかけてくることはないけれど、だけど音が鳴る度に表情を楽しげに緩め愛おしげに柔める榛名の顔を見て――私の状態に気付き、それを汚らわしい負ではなく喜ばしい正の意味で受け入れて、そして頬を鮮やかな紅へ塗っていく榛名の姿を見て、恥じらいや情けなさ、自己嫌悪のような思いの広がりが加速する。

 やがて榛名に連れられたその布は臀部から太ももを通って、膝を越えてふくらはぎをなぞりながらつま先へと至り、そして私の身体から取り払われた。湿って――軽く捻ればそれだけでポタポタと液を垂らしてしまいそうなほどにまで湿りきったそれが榛名のもとへ持ち去られる。

 普段直接空気に触れる機会のない、普段触れる機会があってはならない場所を空気に触れられ、撫でられ、好きにされる。漏れて溢れたものに濡れているのもあり、ほんのわずかな空気の揺れや流れまでもが敏感に感じられてしまって変な気持ちになる。くすぐったいような、気持ち悪いような、気持ち良いような。

 そんな感覚に振り回されている私の横で、榛名は恍惚と。滴の垂れてしまいそうな濡れた下着を手に持ちそれを顔の傍まで運んでいって、感じ入るように幸福そうな表情。曲がりなりにも私と共にある空間だからか顔へ近づける以上のことはしないようだけれど、そんな自制も相俟って堪らなくなってしまっているらしく、私から脱がした服を置いている太ももをたぶん無意識の内にもぞもぞと擦り合わせるようにして動かしている。先までも私から見て読み取れる程度には荒くしていた息をさらに一つ段階を上げ荒げて、瞳の潤みや頬の紅をさらに深くなお濃く塗り重ねて、まるで沈み溺れているかのような様子で浸っていた。

「――ああ、提督」

 いくらかの時が経ち過ぎて。この状態、この状況での沈黙に私が少し堪えがたく感じ始めたほどの頃合いになって、榛名がくるりと首を捻り視線を私の顔へ。顔元まで持ってきていた下着をゆっくりと下ろし重ねるように太ももの上へと置き、潤んで揺れる瞳でまっすぐ一途に私の瞳を見つめながら私を呼んだ。

 動かすことはできないから体勢はそのままに視線だけを返した私を確認して、それから身体を倒す。私の顔を拭くときしていたように上半身を折って私の顔へ自分の顔を近づけるような形で身体を倒し、そして手を伸ばした。私と視線を交わしている間かその前後にでも取り出しておいてあったのだろう小さな鍵を持った手を私の頭上へと伸ばし、そして私の両手をベッドの一部と結び縛り付けていた錠を解かんと動かし始める。

「……榛名?」

「大丈夫です。――ええ、もう提督にあんなものは必要ありませんから」

 名を呟いた私にそうとだけ答え、やがて榛名は錠を解いた。長い間手錠に触れていた部分が久しぶりの空気に触れて、ここは純粋に気持ちいい。

 ずっと頭上へ向けていた腕を下ろして軽く回すようにする。骨が鳴り凝りがほぐれて固まっていた肩から先がいくらか元の状態を取り戻すのを感じながら、同時に視線を横へ。するとかちゃかちゃという金属音を手元で響かせながら身を引いて、ベッドから腰を上げる榛名の姿。

 拘束の解けた私を放って、錠を解いた去り際に一瞬の口付けを落とした以外は何もせず放ったままで立ち上がり、鍵と手錠はテーブルの上へ、私から脱がした服や私の顔を拭いたタオルはお盆の上へ乗せてあった袋の中へと仕舞ってからテーブルの向こう側へ。迷いのない歩みで数歩進み箪笥の前まで移動して、そこから部屋を出る前に身体を拭く新しいタオルと私の履く下着やパンツを取り出す。

 そして綺麗に畳んだ状態を維持しながら取り出した衣服をテーブル上のお盆の横へと置いて、タオルを片手に持ちながら私のほうへ。身体を起こし、ベッド傍の床へ事前に敷かれていた大きめのタオルの上へ足を触れさせて立った私の傍まで歩み寄って、一言「お拭きしますね」と口にしてから跪くような体勢を取って私の足を手にしたタオルで拭き始めた。

 心地よく、こそばゆく、痺れが奔る。太物やふくらはぎ、爪の先や指の間、腰やその下の前後まで、ただの一ヵ所ほんのわずかな部分も残さずに拭かれていく。先に素手で触れていたときと同じように優しく丹念に柔らかく丁寧に、心の込もった触れ合いを以ってゆっくりと。

 感覚の鋭敏な濡れそぼった部分を撫でられて、意識はないのだろうけど常に熱く濡れた吐息で触れられ弄られ続けて――唇を少し引き結び、なんとか反応を漏らしてしまわないようにそんな状況を堪え過ごして数分、拭かれる前から私の身体へ纏わりついていたものをすべて拭き終わり榛名が離れる。最後に一度名残惜しそうに太ももの内側を小さく撫でてから手を引いて、跪くようにしていた体勢を元に戻し立ち上がる。

「少しお待ちくださいね」

 言ってから反転。再びテーブルの傍まで移動して手にしたタオルを袋の中へ。それから隣へ置いてあった私の衣服を手に取って、もう一度私の前まで戻ってくる。

 汚れを通さずに伝わってくる空気の感触と直前までタオル越しにでも榛名に触れられていた余韻を感じて小さく数度震えつつ、同時にかすかにだけ火照ってしまいながら立って待っていた私の前まで来ると榛名がまた跪くような体勢に。

「足を上げていただけますか?」

 言って、そしてそれに私が応えたのを確認してから下着を手にし、軽く上へ持ち上げた私の足の下へ榛名がそれを。両手を使い私が足を通しやすいように穴を広げ、それをつま先の傍まで寄せてから柔らかな語調で「どうぞ」と、榛名が私へ足を下ろすように促す。

 促す榛名の声に従って足を下ろし穴に通す。そして下ろした足が床上のタオルへ触れたのを感じてから、今度はもう片方の足を上へ。こちらの足も同じようにして榛名の声を受けながら下着へ通す。それから榛名が跪いた状態から少し中腰になるような体勢へ移行しつつ足を内へ収めた下着を上へ持ち上げるのを受け入れて、途中むにっと布地が肉に引っ掛かるのを感じたりもしながら、まずは下着の着用を終える。

 身に着けるものの着脱。着るのも脱ぐのも、榛名は私にやらせたがらない。いつものこと。もう抗議することもなくなってしまった、もうすっかり受け入れてしまった、疑問を持つこともやめてしまった、そんないつものこと。

 続くパンツも下着を履くのと同じように履いていく。本当はベルトを締めなければいけないところなのだけど、それは簡略。どうせこれは浴場へ向かうまでのもの、お風呂を終えたその後に着るものはいつも通り既に別で用意されているらしい。だから、少しだぼついて格好が悪いけれどとりあえず今はこれで良しとするつもりのようで、そこまで済んだ時点で着替えが終わる。

「……榛名?」

 ここでもう一度、錠を解かれるときと同じように私は榛名の名前を呼んだ。

 私に服を着させ終わり、すぐに後ろへ。そしてお盆の上の洗濯が必要な諸々の入った袋だけを手に取り、私のほうを振り返って「それでは参りましょう」と出入り口の扉を示す榛名へ向け、疑問と困惑を込めた声を。

(私、何もされてない)

 これから私たちは浴場へと向かう予定のはず。これまではこうして移動するときにこんなことはなかったのに。閉じられたこの部屋の外、外界に繋がる鎮守府内の通路を移動するようなときには、これまで猿轡や目隠しを身に付けなければならなかったのに。それなのに今回は――錠を解く前に噛ませたり結んだりするわけではなく、その上こうして解いた後もそれを強いたりされていない。ほとんど完全な自由だ。それはもちろん艦娘である榛名にただの人間である私がどうこうなどできるはずもないのだけど、それでも――大声を発することはできる。榛名以外の誰かを探すことができる。機械を操作して何らかの行動を起こすことができる。たとえそれ単体ではどうにもならずとも、この鎮守府の中の誰かたった一人だけにでも直接間接問わず接触さえできてしまえば、それでこの現状は打破できる。できてしまう。

 こんなもの私には僥倖でも榛名には何一つの利益をもたらさないもののはずだ。あの榛名がよりにもよって私に関する事柄で失態を侵すはずはない。……なら、なんだ。試されているのか。それとも、今この鎮守府にはちょうど誰も――艦娘も、妖精も、真実本当に誰一人として私たち以外が存在していないのか。

 いろいろな考えが頭を巡る。ここ最近何もかもから離れた寝てばかりの生活を送っていたせいか上手く回ってくれない頭の中で、ぐるぐると。

「必要ないから、ですよ」

 そうして考えを巡らせて直立したまま少しの間止まってしまっていた私に、榛名が声を返した。

 綺麗で、淫らで、可憐で、濁って、美しくもあり醜くもあるような、そんないろいろが混ざって一緒になった微笑みを浮かべて、柔らかい優しげな声を。

 そして前へ。私の立つ場所へ歩を進め近づいて、それから手を握った。両手で持っていた袋を片手に持ち直し、それによって空いたもう片方の手で私の手をぎゅっと。温かく添えるように、ふんわりと包むように、抱きしめて愛するように握り繋いで、結んだ。

 くい、と柔く私の手を引くようにしながら、榛名がゆったりとした歩調で身体を扉のある方向へと移していく。それに連れられて私も前へ。私の斜め前を歩いて手を引く榛名と同じ歩調で私も扉のほうへと進み、そうしてまもなくそのすぐ目の前まで辿り着いた。

「提督」

「うん……?」

「出る前に――失礼、しますね……」

 辿り着き、そこで横から名前を呼ばれてそれに反応すると、途端唇に柔らかな感触。視界には目を閉じた榛名の顔がいっぱいに広がり、鼻元に熱い息のかかる感覚。軽く重なる浅い口づけ。

 昨夜に交わしたような――舌を絡め歯列をなぞり、頬の裏をつついて喉奥までねぶるような深いそれじゃない。ちゅ、と小さなリップ音を響かせて一瞬交差するだけの浅い――けれどそうありながら、そうして浅く軽くありながらも深いそれに劣らず私の胸を高鳴らせ、身体を熱くし心を蕩けさせてしまうような、そんな口づけを落とされた。

 榛名以外の何もが見えない。榛名の匂いが漂ってきて浸み込んでくる。榛名の温かく弾力のある柔らかさが感じられる。ほんの一瞬のたった一秒にも満たない口づけで視覚も嗅覚も触覚も、何もかもを榛名の存在で満たされる。埋められて染められて、どうしようもなく溢れんばかりに満たされる。

「ふふ――お出かけ前の口づけ、です」

 私から離れて元の位置へと戻った榛名が笑み。これまでの行動や言動、今のこの現実をしかしすべて忘却して「かわいい」と純粋に思わされてしまうような笑みを浮かべながら小さく横へ首を傾け、少し悪戯っぽい口調で私に言葉を紡いだ。

 一瞬ぼうっと呆けてしまった私の手を榛名が改めて力を強めて握り繋げる。それに反応し私が呆けた状態から脱したのを確認して、もう一度今度はさらに深い笑み。

「それでは提督、一緒に参りましょう」

 言って、扉の引手に手をかけた。

 繋いだ私の手を軽く持ち上げて扉を、扉の外を示す。

 それを見て感じ私が榛名の顔へ視線を向けたのを榛名は正面から受け止めて、そして笑顔で、蕩けきった満面の笑顔で、言う。

「大丈夫、榛名たちはもうずっと二人きりです。榛名には提督だけ、提督には榛名だけ。他には何も、もう何もありません。ですから、大丈夫です」

「――それは、榛名」

「愛しています、提督。貴女のことは私がすべて、満たして染めて溢れさせてさしあげます。他のものは要りません、榛名がすべて――ええ、必ず幸せにしてみせます。ですからどうか榛名だけを見て、榛名だけを想ってください。愛して――ああ、大好きです。誰よりも何よりも、榛名は貴女のことを愛しています。愛おしい、榛名の提督――」



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私だけを愛してはいただけませんか?(加賀)

鎮守府の中の一室。
愛し合っていながら、けれど幸せへと至れず苛まれ続ける加賀。


 提督。

 私は貴方を。

 貴方は私を。

 私は貴方を好いている。

 貴方は私を好いている。

 私は貴方を求めている。

 貴方は私を求めている。

 私は貴方を欲している。

 貴方は私を欲している。

 私は貴方を認めている。

 貴方は私を認めている。

 私は貴方を乞うている。

 貴方は私を乞うている。

 私は貴方を期している。

 貴方は私を期している。

 私は貴方を望んでいる。

 貴方は私を望んでいる。

 私は貴方を追っている。

 貴方は私を追っている。

 私は貴方を祈っている。

 貴方は私を祈っている。

 私は貴方を抱いている。

 貴方は私を抱いている。

 私は貴方を尊んでいる。

 貴方は私を尊んでいる。

 私は貴方を希んでいる。

 貴方は私を希んでいる。

 私は貴方を願っている。

 貴方は私を願っている。

 私は貴方を想っている。

 貴方は私を想っている。

 私は貴方を愛している。

 貴方は私を愛している。

 私は貴方という人を。

 貴方は私という人を。

 男を女を。人間を艦娘を。互いの存在を。

 愛し、愛し合っている。

 身体を痛烈な痺れで震えさせ猛々しい豪炎で焼き上げるような、崩壊をも伴いかねないほどの濃密な情動を以て。

 心を芯の底の最奥の本質から蕩けさせ、満ちる想いに弾け飛ばんほど注がれる想いに握り潰されんほど、それほどの想いの奔流に溢れさせ塗り潰すような、筆舌に尽くせない狂おしいほどの強烈な感動を以て。

 私と貴方は愛している。

 想いを紡ぎ、想いを交わし、想いを尽くして、

 私は貴方を愛し、

 貴方は私を愛し、

 私と貴方は愛し合っている。

 そこにはわずかの嘘もなく、かすかの打算もなく、些かの偽りもない。

 本当の愛を以て、真実の愛を以て、至高の愛を以て、私たちは互いを愛している。

 一方的なものではない、相互のもの。

 染めあい、高めあい、重ねあう、互いが互いを向いた相互のもの。

 私と貴方は愛し合っている。

 好み、想い、愛し、結ばれている。

 確かな結び。揺るがない関係。絶対完全な繋がり。

 私と貴方は決して絶たれない。

 私と貴方は未来永劫、この淀みのない純粋な愛を以て結ばれ続ける。

 誰も邪魔はできない。何も入り込めない。他のどんな誰もどんな何にも侵すことなどできはしない。

 至高の愛によって、私たちは真実決して分かたれず結ばれ続けていく。

 今もそうして、結ばれている。

 ――提督。

 私は貴方のことを愛しています。

 心の底から、全身全霊を以て、私という存在のすべてを懸けて貴方という人を愛しています。

 私の愛は、私自身のありとあらゆる何もかもすべてを捧げたもの。

 私の過去、現在、未来。

 私の身体、心、在り様。

 そのすべてを捧げたもの。

 私の地位も、名声も、財産も、そのすべては愛する貴方へ捧ぐもの。

 私が築き上げるもの、私が持ち得るもの、私が紡ぎ出すもの、そのすべては愛する貴方へ捧ぐもの。

 私の尽力は貴方が為。私の成果は貴方が為。私のすべては貴方が為。

 貴方が為。私という存在を構成し私という存在を取り巻く何もかも、それらは余さず貴方が為。

 愛する貴方の、愛する貴方だけの為に自身のすべてを捧げて尽くす。

 他はない。私の愛、私の世界には二人だけ。

 私。貴方。二人だけ。

 身体、心、私という存在は貴方にのみ捧げられるべきものだから。

 他に触れる必要はなく、他に揺れる道理はなく、他に関わる意味はない。

 だから私には貴方だけ。

 私の世界には貴方だけ。

 私には貴方だけがいればいい。

 私は貴方にだけ捧げられ、私の世界は貴方にだけ満ちていればいい。

 誰も、何も、他は要らない。

 愛おしい貴方とだけ繋がって、重なって、結ばれていればそれでいい。それがいい。それこそが至高。

 自身のすべてをあなたへ捧げ、自身のすべてを貴方に満たす。

 貴方が至高。貴方が最上。貴方が世界。貴方こそが私の意味であり夢であり、私のすべて。

 それが愛。貴方へと贈る、私の愛。

 ――提督。

 私と貴方は愛し合っています。

 私の好意に貴方も好意を、貴方の想いに私も想いを、互いの愛に互いの愛を贈り合い、そうして私たちは愛し合っています。

 どんな介入も許さない。どんな邪魔も叶わない。どんな例外も起こり得ない。

 それほど強く繋がっています。私と貴方の間はそれほど深く固く繋がって、並ぶものなどあり得ない唯一比類なき絶対性を以て結ばれています。

 私の愛は――私から貴方へと贈る愛は今、まさにその在り様を叶えています。

 私には貴方だけ。貴方こそが私の世界。今の私はただ貴方へとだけ捧げられ、ただ貴方にだけ満ちている。

 私の愛は今こそ叶い、叶っている。

 満足。甘心。充足。

 望む通り、願う通り、祈る通り、私の愛は実現しています。

 そこに負はありません。私のすべてである貴方への愛が叶っている今、そんなものは何一つ。

 あるはずがない。あり得るはずがない。決してありなどしていません。

 私の愛、私からの愛は、今まさに完全です。

 ――。

 ――、――――。

 ――――、――、――けれど。

 けれど、しかし、それなのに今、私はまだ――この、こんな、ここに是を唱えられないでいるのです。

 否。否。否。

 私の愛は叶っていて――けれど、私の貴方は叶っていない。

 違う。まだ違う。これは違う。

 私は今そう唱える。

 許さない。許せない。認めない。認めたくない。受け入れられない。受け入れたくない。

 辛い。寂しい。悲しい。嫌だ嫌だ嫌だ。

 そんな感情や衝動を抱き、私は是を唱えず、この今に否を唱えているのです。

 私の愛は叶っているのに。

 私は貴方を愛し、貴方は私を愛している。私たちは結ばれているのに。

 どうしようもなく満たされて、どうしようもなく結ばれて、どうしようもなく愛し合っているのに。

 ――けれど、貴方の愛は違うから。

 だから私は、今もこうして是を唱えることができずにいるのです。

 

 貴方の愛は、提督の愛は、無限の愛。

 贈られる好意にそれ以上の好意を。贈られる想いにそれ以上の想いを。贈られる愛にそれ以上の愛を。

 誰も除かない。何も排しない。例外はなく、あらゆるすべてを分け隔てなく。

 その者の一生、持ち得るすべて、存在の何もかもを懸けて贈られるそれらを余さず受け入れ、そしてそれらに対しそれらを超える更なる愛を以て応える。

 熱で上回り、量で上回り、質で上回り、濃度で上回り、絶対の値で上回り、それを以て愛し尽くす。

 愛を贈ってくる者へ――そう、自身へ愛を贈る存在すべてへ対して。

 貴方の愛は無限の愛。

 その質に限界はなく、その量に際限はなく、その対象に上限はない。

 文字通りの無限の愛。

 全て。凡て。総て。あらゆる愛そのすべてを愛そう。それが、それこそが貴方の愛。

 だから、貴方は愛している。

 私を、私が貴方へ贈る愛以上の愛を以て、私のことを愛している。

 私のことを愛していて――けれど同時に、私以外の数多様々な女のことをも愛している。

 この鎮守府の中へ存在するすべての者を、百を超える艦娘たちのことを、貴方を愛する女のことを、ただ一つの例外なしに全員等しく真摯に向き合い愛している。

 貴方は美醜のわかる人。

 良いものは良く、悪いものは悪く、そう見ることができ聞くことができ読むことができ、理解することのできる人。

 私にも、他の艦娘にも、どんな誰にも美点があれば醜点もある。自分で自覚のできるもの、他人から見付けられるもの、自分からでも他人からでもなかなか認識することの難しいもの、それらの美醜がそれこそ無数に。

 そんな普通は把握し切れなど決して叶わない多くの美醜を、貴方は把握し理解することができている。

 数多いる艦娘たちの、さらにその中へ存在する個々それぞれが持った幾重にも満ちる多くの美醜、それを貴方は誰よりも濁さずに正しく、誰よりも多く余さず、誰よりも受け止め受け入れている。

 美しい点を理解し、醜い点も理解し、その末に貴方は、それらすべてを愛している。

 その者の在り様を、その者のありのままを、その者をその者たらしめているすべてを、良いものも悪いものもそのまま何もかも受け入れて愛している。

 是を唱え、肯定を以て抱きしめ、無限の愛を贈り注いでいる。

 だから。

 そんな愛、そんな在り方、そんな貴方だからなのでしょう。

 この鎮守府へ属する艦娘、貴方を慕い貴方を愛する艦娘たち、百を超えるそれらの者たちが、この今を良しとしている。

 貴方へと愛を贈り、貴方から愛を尽くされ、貴方によって自分を含めたすべてが無限の愛の中に抱かれているこの、ここの、これを是としている。

 貴方の愛に満ちる今を、そして未来を、艦娘たちは肯定を以て迎え入れている。

 艦娘は――この鎮守府に在る皆、貴方という人を愛する女は、そのそれぞれが強く深い多様な個性を持つ者たちです。個性を、特質を、愛を持つ者たちです。

 貴方に尽くしたい者もいれば、貴方に尽くされたい者もいます。貴方の後ろを歩きたい者もいれば、貴方の隣を走りたい者もいます。貴方を愛したい者もいれば、貴方だけを愛したい者もいます。

 強弱や濃淡で、角度で方向で、どこかの部分で異なった個々それぞれ唯一の愛を抱く皆が、この今を良しとしている。

 衝突せず、混濁せず、破綻せず、そんな今が叶っている。

 ……こんなの、ありえません。

 普通であればこんな、愛する人が他の女をも愛しているなどという状況を、ましてそれがすべて仲間で、親しい仲の者たちで、その総数が百を超えるだなどと、そんな状況を渦中の者たちが認め受け入れるようなことがあるはずはありません。

 もちろん生来の性質としてその状況を良しとする者がいないとは言いません。いるでしょう。それはおそらく確実に。

 けれどこれほどの数が、これほどの個性を持ったこれほど大勢の艦娘たちが、その彼女らすべてが揃って良しを口にするなど、皆がなべて是を唱えるなど、そんなことはありえません。

 数多の異性と抱き合い、繋がれ、結ばれて、そうしながら「自分はお前たち全員を愛している」だなんて、普通は決して通用しません。

 私たちはこのここへ、まさに今確かにこうして生きている命。感情がある。想いがある。自分がある。であれば、普通は破綻を辿るはず。不満が溜まり修羅場が起きて、それぞれが確固として持つ自分自身を互いに幾度も衝突させあう事態が発して、その末この在り方は終わりを迎えるはず。

 夢の中。すべての環境、状況、登場人物、それらの何もかもが例外なく都合のいい在り方を以て存在する自身の想像の中でのみ実現が叶うような、そんな夢物語とすら形容して相違ない不思議な形。

 それを叶えているのは、それを叶えてしまっているのはきっと、その中心が貴方だからなのでしょう。

 真実本当、嘘偽りなく、言葉通り言葉以上の真なる無限の愛を以て皆を愛する貴方だからこそなのでしょう。

 「無限の愛」などという、ほんのわずかにでも弱ければただの優柔不断、ほんのかすかにでも薄ければただの言い訳、ほんの塵芥程度にでも足りなければただのどうしようもない戯言となってしまうようなそれを、真実まさに正しい在り方を以て体現している貴方だから、だからこそ実現し叶っているのでしょう。

 貴方ほど愛に溢れ、愛に染まり、愛するものを満たすことのできる者はおそらくいません。

貴方も人間。優秀で尊く大きくて――けれど、それでもやはり人間ではある。提督という職に就き、私たちと同じ時や場所で生きる一人の人間。

 それゆえ当然不可能はある。どうにもならないことはある。それは当然、そのはず。

 けれど、しかしそれでもだとしても、信じられてしまう。愛というその一点のためにおいてなら、貴方に不可能はないのだと。不可能ならばその不可能を不可能なまま可能にしてしまえるのだと。そんな風に信じられてしまう。そんな風に信じられてしまえるほど、貴方のという人の愛の在り方は――私たち、貴方に愛される者たちにとって、絶対的なものなのです。

 愛する者の為なら死にすら戸惑いなく。愛する者の為なら生にすら躊躇なく。愛する者の為なら、何をも成せるし何にも至れる。

 愛する一人ひとりに最上の愛を贈り、至高の愛を注ぎ、最高至上の愛で満ち満たす。

それを成している貴方だから、現としている貴方だから、そんな愛を叶えている貴方だからこそ、この今は現実として存在しているのでしょう。

 貴方は彼女らすべての愛を受け、彼女らすべてへ愛を贈り、彼女らすべては貴方の愛を受け、貴方へ愛を贈る。ただの一つの不満もなく、諍いもなく、破綻もなく、すべてが愛に満ちながら在り続けていられているのでしょう。

 

 けれど、私はそこへ在れない。

 是を唱えられない。否としか唱えられない。

 在りたくないし、唱えたくない。それを私は受け入れたくないのです。

 私も、貴方を愛する者。そして貴方に愛される者。

 贈った愛よりさらに強い愛に満たされて、注いだ愛よりさらに濃い愛に濡らされて、尽くした愛よりさらに深い愛に溺れさせられている。他の皆のように私も、貴方に。

 そこには満足がある。喜びがある。嬉みがある。途方もない幸せが、間違いなくそこにはある。

 私が貴方を愛し、貴方が私を愛してくれる。揺らぐことのない確固たるこの愛の重なりに、どうして幸せが存在しないだなどということがありましょう。

 貴方を愛することができて、貴方に愛されることができて、私は確かに幸せを感じています。

 けれど、やはりそれでも駄目なのです。

 他の艦娘たちと同じように想われて、私以外の女と同じように幸せを注がれて……いえきっと、私が貴方へ贈る愛の大きさだけ、他の誰よりも私は貴方の愛を受け取っている。

 私は貴方に愛されている。それもきっと誰よりも。私のこの愛が他の誰かの愛よりも弱いだなんてことはありえないのですから、それゆえきっと私は他の誰よりも、貴方の愛を多く深く大きく尽くされている。

 私は、貴方から一番に愛されている。

 けれど、それでも、駄目なのです。

 愛されていても、一番に愛されていても、受け止めきれずにこの身から零し溢れさせてしまうほどの愛を以て愛されているのだとしても、それでも駄目なのです。

 嫌だ。

 貴方が欲しい。その身体も、心も、愛もすべて。

 貴方を渡したくない。誰にも、何にも、ほんの小さな欠片でさえ。

 貴方を私だけのものにしたい。私のすべては貴方、貴方のすべては私、二人の世界に存在するすべては私と貴方互いだけ。

 貴方に愛してほしい。私だけを。他のものは見ないで、聞かないで、感じないで、私だけを想ってほしい。貴方のことだけを想っている私のように、貴方のこと以外はすべて排した私のような愛を以て、ただ私という存在だけを愛してほしい。

 この子に優しくしないで、私にその優しさを。その子に身体を触れさせないで、私にその身体を。あの子に想いを贈らないで、私にその想いを。他のどの子にも向かないで、ただ、私だけを。

 そう私は思ってしまう。

 他の艦娘とは違ってそう願い、他の艦娘からは外れてそう祈り、他の艦娘のようにはなれずにそう想いを溢れさせてしまう。

 愛する貴方に、私の望む愛を以て私だけを愛してほしい。

 貴方の傍に私でない他の女がいるのが嫌。言葉を、視線を、想いを交わすのが堪えられない。貴方が他の女を感じるのも、貴方が他の女に感じられるのも許せない。空気を、場を、時を、どんな些細なものですら、貴方が私でない他の女と何かを共にすることが受け入れられない。

 すべてを捧げます。贈り、渡し、捧げます。だからどうか貴方のすべてを、この私という存在一人の手によってのみ愛させてください。

 欲しい。欲しい。欲しい。貴方が、私だけの貴方が欲しいのです。

 愛しているがゆえ、貴方のことを狂おしいほどの熱を以て愛しているがゆえ、私のこの愛によって愛しているがゆえ、それゆえに、もう、そんな想いが溢れて止めどないのです。

 たとえ無限に与えられようと、どれほどの質を、どれほどの量を、どれほど幾重にどれほど何度もどれほど際限なく尽くされようと、私はそれでは駄目なのです。

 貴方から――愛する貴方から、私というただ一人だけを愛してもらえなければ駄目なのです。

 だから、私は皆のようには至れない。

 わがままなのは知っています。これかただのわがままであることなど、知っています。

 けれど、だからそうして、私は否を唱えるのです。

 だからこうして、私は……醜く、浅ましく、抑えられない想いのまま浅ましく、貴方の上で腰を振っているのです。

 

 それはきっと叶わないものなのだと、理解はしています。

 貴方の愛は大きい。強く、深く、大きく、何物にも左右されない確固たるもの。

 私の力、私の想い、私の愛、それらは貴方のその愛を塗り潰すに至らない。塗り潰し、染め変え、私の望む愛を貴方へ抱かせるには至らない。

 貴方を、私だけのものへ、それはきっと、叶わない。

 貴方を縛れば手に入る。

 縛り付け、杭を打ち付け、磔にして捕らえれば、あるいは貴方は手に入る。

 貴方を殺せば手に入る。

 毒を染ませ、首を刈り、心の臓を射抜いて破れば、あるいは貴方は手に入る。

 貴方のその身体。顔。腕。胸。腹。背。股。足。髪の毛の一本から血の雫の一滴に至るまで、貴方の身体のすべてを手に入れることはできるでしょう。

 艦娘と人間。力の違い過ぎる私と貴方、それはひどく簡単です。

 今まさにこの瞬間。眠る貴方へ手をかけて、それを為すのはひどく容易な他愛なきことです。

 けれど心は、想いは、愛は違う。

 貴方の心は揺らがない。壊せず崩せず変えられない。

 貴方の想いは染まらない。消せず褪せず塗り替えられない。

 貴方の愛は何にも並ばない。届かず至らず比肩すること敵わない。

 貴方のその心を、想いを、愛を、それらを私だけのものにすることは、きっと叶わない。

 貴方を監禁したならば、それを。貴方を殺そうとするならば、それをも。――こうして無防備に晒された貴方の肉体を淫らに貪り、自分勝手な言葉ばかりを吐き出すこの私すらも、貴方は愛するのでしょう。愛していて、そして愛しているのでしょう。

 そんな愛を、そんな貴方を、貴方の愛を私は塗り替えること敵わない。

 貴方のその愛を私のこの愛で侵し冒して犯すことは、きっと決して叶わない。

 私が貴方の愛を独占することは決してない。

 貴方が私だけを愛し、私以外を愛さず、私というただ一人だけを愛してくれることは永劫ない。

 私は貴方からの愛を受け取ることはできても、貴方から貴方が持つその愛のすべてを私だけのものとして受け取ることはできない。

 

 提督。

 私は貴方が欲しい。

 決して手に入らないと分かっていて、けれどその貴方がどうしても。

 胸が張り裂けてしまいそう。頭が弾け飛んでしまいそう。全身が壊れて崩れ落ちてしまいそう。

 愛されたい。

 辛く、苦しく、泣き叫んでしまいたいほどに狂おしく、貴方からの私だけに向けた愛を欲して仕方がない。

 貴方の体温、鼓動、精、それらをこうして感じていても、それでは私はどうにもならない。

 貴方のその愛に溺れさせられていても、塗られていても、満たされていてもそれでは私はこの狂おしいまでに溢れ出て止めどない想いをどうにもすることが叶わない。

 提督、私は貴方が欲しいのです。

 私は貴方を、貴方という人のことだけを愛しています。

 それゆえにできません。

 貴方という人を愛しているから――だから貴方を諦め、あるいは貴方を殺し、また貴方の愛に妥協し、そうして生を選ぶことができません。

 貴方という人を愛しているから――だから貴方との時を捨て、貴方の居る世界を見限り、貴方と共に存在する為のこの命を絶って、そうして死を選ぶことができません。

 生も死も選べず、こうしてどうにもならない狭間で悶える以外ができません。

 私は強い女です。狂いはしません。無くしません。終わらせません。貴方への愛を紡ぎ続けて、それを永遠のものとして叶えることができます。

 私は弱い女です。狂って逃れることもできません。無くして楽になることもできません。終わらせて歩を進めることもできません。貴方への愛を無にできず、それを永遠のものとして叶えることしかできません。

 貴方が欲しい。決して叶わないその願い、祈り、望みの為に私はどうにもできずいるのです。

 刻々と壊れ朽ち堕ちていってしまうのを自覚しながら、しかしそれをどうにもできず何にも至れずいるのです。

 

 私は、提督、どうすればよいのでしょう。

 自分ではもはやどうしようもなくなって、本当に求めているものはそれではないと分かっていながらこうして貴方の身体を貪るのではなく。

 涙を流し、涎を垂らし、液を漏らし、貴方の肉体をこの身に飲み込んで、貴方を感じる為に浅ましく愛欲のまま腰を打ち付けて、貴方への愛に狂い泣き叫んでしまいそうになりながら貴方を求めるのではなく。

 欲する愛が得られないからと、こうして貴方の身体に溺れてしまうのではなく。

 そんな風に、こんな風になってしまうのではなく、果たして私はどうすればよいのでしょう。

 ここは辛いです。これは苦しいです。このここは、私にとってあまりにも。

 私の愛と貴方の愛。愛し合っているのに結ばれることのないこの愛の狭間、辛く苦しいこの場所から、どうすれば私は解放されるのでしょう。

 ねえ提督、私はいったいどうすればよいのでしょう。

 貴方の唯一になれません。至高になれません。ただ一人絶対の存在になれません。

 貴方の唯一になれないことが、言葉になど表せないほど痛いのです。貴方の至高になれないことが、他の何にも比べられないほど堪え難いのです。貴方の唯一至高なただ一人となれないことが、もう、どうしようもなく、苦痛なのです。

 きっと貴方は、提督は、こんな私すらも愛しているのでしょう。

 私のこの有り様を、在り様を、愛を、私という存在をも愛しているのでしょう。

 でも、だから、それならばどうか、私を愛してくれているのなら、私は貴方に救い出してほしい。

 愛というその一点においてあらゆる不可能を排した貴方に、私の愛を以てなお塗り潰すことの敵わないその愛を持った貴方に、愛する貴方に私は、私を救い出して抱きしめてほしい。

 私のすべては貴方へと捧げられるもの。この身体も、この愛も、私という存在が持ち得るすべては貴方へのもの。

 だから、私はなんでもしてみせます。望む貴方、欲する貴方、愛する貴方の為ならば、たとえそれが何であっても。

 なんでもします。何をも捧げ、何をも尽くします。

 だから――ですから、提督。

 私はどうすればよいのでしょう。どうなればよいのでしょう。どうあればよいのでしょう。

 どうすれば貴方の愛のすべてを抱きしめることができますか。どうなれば貴方に私というただ一人だけを愛してもらうことができますか。どうあれば貴方に私は、このここから救い出してもらうことができますか。

 ねえ提督、私は――

 

「愛しています」

「貴方が好きです。貴方をお慕いしています。貴方という御人ただ一人だけを愛しています」

「ですから、ああ、提督」

「私をここから救い出してはいただけませんか」

「私へ、私というただ一人へ、あなたの愛をいただけませんか。――加賀を、愛してはいただけませんか……?」



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何もできない私を、貴方は(赤城)

 私はこれまで戦ってきました。

 敵を倒し、海上を制し、勝利を手にしてきました。

 この鎮守府へ属する他の艦娘の誰よりも、多くの戦果を挙げてきました。

 それはすべて提督のため。

 他でもない提督の、誰でもない貴方のためでした。

 貴方の力になりたかった。貴方の役に立ちたかった。貴方の成功に貢献したかった。

 貴方のために私は、幾度もあの海で戦ってきました。

 私は戦うことができたから。

 貴方の矛となり貴方の盾となるための力があったから。

 だから私は戦ってきました。

 巡洋艦も戦艦も空母も艦種の別なく、相対した敵艦は余さず沈めてきた。

 数多の戦場を駆け、幾多の作戦を完遂させてきた。

 日に複数、様々な海域へ何度も重ねて出撃を繰り返してきた。

 鎮守府には休息を取るか補給を済ませるか、そんな出撃を行うのに必要な最低限の時しか留まらず……貴方とすらそう多く交わることなく、出撃し戦果を挙げるためにあらゆるものを尽くしてきた。

 より広く海上を駆けるため、燃料を。より多く敵を沈めるため、弾薬を。より強く戦場を制するため、ボーキサイトを。提督へと捧げる戦果を挙げるため多量の補給資材を頂いて、それを以て戦場へと出撃し、頂いたその資材が本来もたらす以上の戦果を挙げてきた。

 戦って戦って、戦ってきた。

 貴方のためとなりたくて、戦ってきた。

 私にはそれができたから。

 幾多の戦場を駆け抜けられるだけの力が、身体が、素質があったから。

 駆け抜けるためだけに他の何もを、娯楽も自由も、貴方の助けとなるために他の多くを顧みず捨てていく覚悟があったから。

 戦うことで貴方の力と、助けと、支えとなれるのだと信じていたから。

 私にはそれしかなかったから。

 だから私はこれまで戦ってきました。

 何も貴方へ贈れない私でも、唯一戦うことでなら貴方へ貢献することができる。尽くすことができる。そう信じていたから。

 だから私は、貴方のためにこれまでただ戦ってきました。

 

 提督、私は何もできません。

 美味しい料理を作ることができません。

 柔らかな召し物を編み上げることができません。

 賑やかに弾み楽しげに輝く会話を紡ぐことができません。

 他の艦娘たちがそれぞれ、多く、様々に持っている魅力を私は持っていません。

 私よりも明るい人がいます。優しい人がいます。柔らかな人がいます。繊細な人がいます。温かな人がいます。

 私よりも美しい人がいます。可愛い人がいます。淑やかな人がいます。可憐な人がいます。綺麗な人がいます。

 私は、そんな皆に及ばない。

 貴方を心地よく染められない。気持ち良く浸らせられない。幸せに満たせない。

 戦い、戦果を挙げること以外で、私は貴方に何かをもたらして差し上げることができない。

 私は貴方のために何もすることができません。

 して差し上げたいと思ってはみても、願ってはみても、実行してはみても、それを上手く為すことができません。

 上手く、為すことができませんでした。

 失敗して、し損じて、台無しにして、結局何も為すまでには至れなかった。

 貴方に喜びを、温かさを、幸せを贈ってそれを感じてもらいたかったのに、それとは真逆の結果にしか至れなかった。

 私は何もできませんでした。

 私は、提督、貴方という人のことを想っています。

 誰よりも私のことを温かく見守っていてくれる貴方を、何よりも私のことを兵器でない一人の命として真摯に思ってくれている貴方のことを、他のどんな誰よりも何よりも私のことを幸せで満たしてくれる貴方のことを、私は想っています。

 貴方は私にとって大切な人。大きな方。愛おしい存在。

 だから私は、貴方に幸せになってほしい。

 望む高みへと昇ってほしい。優しい至福に包まれてほしい。素敵な未来へ至ってほしい。

 私はそのための、貴方の幸せのための一助となりたい。

 お慕いする貴方のために私は在りたい。貴方を支えたい。貴方に尽くしたい。

 他の艦娘たちのようにはできなくても、なれなくても、それでも貴方の幸せを叶える力となりたい。

 そう思ったとき、私にできるのはいったい何なのかと考えたとき、私にあったのは戦うことでした。

 私は戦える。一航戦の誇りを宿し、鎮守府内最高の練度を以て、私は貴方のために戦うことができる。

 戦うことで私は貴方を支えることができる。戦うことでなら私は貴方に尽くすことができる。戦いによって私は貴方の幸せの一助を担う存在となることができる。

 だから私は戦ってきました。

 私にはそれしかない。それ以外では貴方の幸せを叶えられない。それならば、その道を貫くことで貴方のためになろうと。そう胸に抱いて私はこれまで戦ってきました。

 戦って支えよう。戦うことで尽くそう。戦いによって貴方へ幸せを。

 そうすることで失うものがあることも分かっていました。

 本来戦うこと以外の何かのために費やせたはずの時間。結び、深められたのかもしれない誰かとの繋がり。見つけることができたかもしれない、私が進む別の未来。

 それに何より、貴方。

 貴方との触れ合い。貴方と過ごす時間。貴方と共に紡ぐ様々な想い。

 それらを失ってしまうのだろうことは分かっていました。

 分かっていて……そして、分かっていた上でのことでした。

 私は、貴方のために戦った。

 貴方の幸せのためとなれるなら、それで良かった。

 たとえ貴方との関わりを無くそうと、貴方から離れた遠い場所へ行き着くのだとしても、貴方と重なり結ばれることがないのだとしても、それでも、良かった。

 貴方が幸せに至れるのなら、貴方を幸せへかすかにでも近づけることができるのなら、それで私は良いと思っていた。

 貴方の幸せ、その中に私自身が入ることはできなくても、その一助となれるのなら、私は良かった。

 だから私は戦ってきました。

 貴方のためそれだけを願って、私はこれまで戦ってきました。

 

 だから、ですから、そうしてきたからこそ、提督、分かりません。

 なぜ、なんで、どうして。

 いったい何がどうなって、私を。

 私、なのですか……?

 

 私は、提督、何もできません。

 出撃し、海上を駆け、戦うことしかできません。

 それ以外のことで、貴方のために何もすることができません。

 尽くしたいとは思います。支えたいとも、助けとなりたいとも思います。

 貴方のためなら、なんだってして差し上げたいと思います。

 けれど、私が為せるのはそれだけなのです。

 思うだけでなく、願うだけでなく、祈るだけでなく、現実に貴方のために私が為せるのは戦うというただその一点でだけなのです。

 それ以外では何も、戦うこと以外では何も、私は貴方に差し上げられない。

 戦う以外、私には何もないのです。

 

 私は、この鎮守府において最高の練度へ至った艦。

 誰よりも戦場を駆け、敵を沈め、戦果を挙げてきた艦娘。

 ですから、当然指輪を受け取りました。

 ケッコンカッコカリ。その対象として、私は選んでいただきました。

 貴方と、ケッコンするに至りました。

 けれど、それはただの形式的なもの。

 誰よりも高い練度を誇っていた私を、限界を取り払い更なる高練度へ至らせるため。誰よりも出撃を重ねて戦闘を繰り返していた私を、必要な補給資材量を低減させることで燃費向上の恩恵に与らせるため。戦い、より多くの戦果を挙げられるようにするための強化でした。

 名称はなんの意味も持たない、限界突破と燃費向上による艦娘の能力強化。

 私はそれを受けました。

 ケッコン、という名称に何かを思ったわけではありません。私がそこへ至れるなど、そこを歩けるなど、そこに在れるなどとは、毛頭思っていませんでしたから。

 私は戦う者。貴方のために戦う者。そうすることしか、できない者。貴方の伴侶となるにふさわしい者ではない。

 そう知っていて、分かっていて、思っていましたから。

 だから私はただ強化のため。これまで以上、より多くの戦果を挙げられるようになるためそれを貴方から受け取りました。

 そこには何もありませんでした。

 意見も、疑問も、躊躇も何もありませんでした。

 貴方からのケッコンの申し入れに私は何もありませんでした。

 私は、そのことに納得していました。

 けれど。

 けれど、しかし、ですけどこれは、提督、これには私は頷きかねます。

 分かっているのですか?

 程度が違います。次元が違います。意味が違います。

 それを、貴方は理解していらっしゃるのですか?

 ケッコンは、受けました。

 そこには納得があり、疑問や戸惑いはなく、だからこそ私はそれを受け入れました。

 けれど……これには、疑問や戸惑いしか、ありません。

 どうして私を。

 戦う以外では何一つ貴方へと幸せを贈ることのできない私を。

 戦いに明け暮れ貴方の傍にすらいなかった私を、料理も編み物も家庭のことなど何もこなせない私を、貴方の隣を歩む存在になど遥かふさわしくない私を。

 どうしてなのですか。

 どうして、私を選ぶだなどという結論に至ってしまったのですか。

 ケッコンではない。あんなものとはまるで訳が違うそれ、それの相手に私をだなどと。

 結婚の相手に私を選ぶだなど……私へ、結婚してほしいだなど……どうして、提督、貴方は……。

 

 ――提督。

 言う通り、私は貴方にふさわしくありません。

 私はこれまで戦ってきました。それしか知りません。それしか分かりません。それしかできません。

 戦うこと、それ以外を私はすることができません。

 貴方の妻として家事をこなすことができません。

 貴方の番として心地よく悦ばせることができません。

 貴方の伴侶として幸せな家庭を作り護ることができません。

 その自信が、他の誰よりも優ってそれらを実現させる自信が、貴方を幸せにして差し上げられる自信が、私にはありません。

 これまで、私は何もしてきませんでした。

 貴方の隣へ立っていくための、貴方の傍で歩いていくための、貴方の女として生きていくための、それらのための何もかもをしてきませんでした。

 戦うため、貴方を想って戦うというそのため、そのためだけに私はこれまで他の何をも諦めてきました。

 戦うことこそが貴方のためとなる私の唯一と信じ、それ以外の一切をしてきませんでした。

 だから、ふさわしくないのです。

 他の誰かよりも、私は妻としてふさわしくない。番として伴侶として、貴方という人に私はふさわしくありません。

私よりも良い人がいます。なるべき人がいます。ふさわしい人がいます。いる、はずです。

 貴方と家庭を築いたとき、貴方や、それや、将来生まれてくるかもしれない子を、私は支えることができません。

 私は貴方のためならなんでもします。努力を惜しみません。心血を注ぎます。全霊をも懸けましょう。しかしそれでも私はきっと、及びません。

 他の誰かに及びません。

 私などよりもずっと、もっと、貴方を幸せにすることができる人はそれでもきっと貴方の周りに何人といる。

 貴方は私を他の誰よりも何よりも幸せにしてくれる人ですが、貴方でなくては満たせず叶えられない至高の幸せへと導いてくれる人ですが、私は、違います。

 あるいは貴方へ幸せを与えられるまでに至ることはできるかもしれません。そこまでは実現させられるかもしれません。……けれどそれ以上は、他の誰よりも貴方を満たし他の何よりも貴方を染め上げられるまでに至るのは、貴方を幸せへと導くことは叶いません。

 私は貴方に釣り合いません。その自信が、私にはありません。

 これまで自身のすべて何もかもを戦うためだけに注ぎ込んできた。

 戦うために必要のないものは諦めて、捨てて、それらからは逃げてきた。

 何も知らない。何も分からない。何もできない。

 それなのに、そんな有り様なのにもかかわらず、これまで何もかもを尽くしてきて、そしてこれからも何もかもを尽くしていくつもりで、自身のすべては戦いにこそ費やすのだと心に決めていたはずなのに。

 どうしようもなく熱い、止めどなく溢れてくるこの想いに満ちた涙で顔中を濡らしてしまっている私が、

 どうにもならない震えに身体を揺らし、立っているのもやっとな状態で表情をぐしゃぐしゃにしてしまっている私が、

 貴方のその言葉、愛しているという告白、結婚を申し込むプロポーズに頷いてしまいたいと心の内で喉を張り裂かんばかりに叫んでしまっている私が、

 及ばないと知っているのに、

 釣り合わないと分かっているのに、

 ふさわしくないと理解しているのに、

 それなのにこんな駄目になってしまっている私が、

 貴方に抱きついてしまいたい。口付けてしまいたい。私も貴方のことを愛しているのだと、結婚してほしいと伝えてしまいたい。私では至らないのだと分かっていながら、けれどそうしてしまいたいと願ってしまう弱い私が、

 こんな私が、どうして貴方の伴侶にふさわしくありましょう。

 

 ああ、提督、ですから。

 取り消すのなら、考え直すのなら、私でない幸せを掴むのなら、今しかありません。

 今なら戻れます。勘違いで済みます。これまで通りでいられます。

 ですから、今です。

 今を越えてからではもう帰ってこられません。私がもう引き返せなくなってしまいます。どちらにも進めず引くことすらも出来なくなって、もうどうしようもなくなってしまいます。

 ですからどうかお願いです。

 違ったのだと、間違いだったのだと、気の迷いだったのだと断るなら今、お願いします。

 今なら私は受け入れられます。

 何を言われても何を告げられても、今なら私は大丈夫です。

 ですから、ですから提督――

 

「――すまないな。だがやはり、取り消すようなことはできないよ」

「私は君が好きだ。君を、赤城という人を愛している」

「君がいい。君だからいい。君でなければいけないんだ」

「だから変わらない」

「私の想いは、望む未来は、愛する人は変わらない。変えられないし変える気もない」

「私が愛するのは赤城、君だけだ」

「だから取り消すようなことはしない。この想いを無かったことになどしない。――赤城、私と結婚してほしい」

 

「――まったく、貴方はもう、ずるい人」

「言っているのに、これほどまで言葉にして、こうまで伝えているというのに」

「それなのにそんな、そんな、ことを」

「……」

「…………提督」

「私は駄目な女です。戦うことしかしてこなかった、それだけの女です」

「それでも、そんな私でもいいのですか?」

「他の素敵な者たちを置いて、貴方の周りにいるたくさんの艦娘たちの中から、それでも私のことを選んでくれるのですか?」

「私を、赤城を、愛してくれるのですか……?」

 

「ああ、もちろん」

「私は君を愛している」

「それは変わらない。揺らがない。何があろうと、その想いは決して無にしない」

「君が好きだ」

「艦娘としての君が好きだ。人としての君が好きだ。女性としての君が好きだ。私は赤城、君が好きだ」

「愛している」

「これまでも愛していた。今まさに愛している。そしてこれからも愛し続けさせてほしい」

「他の誰でも何でもない、君を、赤城を私は愛している」

 

「――ずるい人」

「そんなに真剣な表情で、そんなにまっすぐな瞳で、そんなに真摯な言葉で――」

「ずるい人」

「それだから、そんな貴方だから、だから私は……」

「提督、貴方を――」

 

「赤城」

「――はい」

「改めて、言わせてもらえるか」

「――はい」

「ありがとう。――では」

「……」

「赤城、私は君のことを愛している。君がいい、君でなければ駄目なんだ。だから――」

「……」

「私と結婚してほしい。生涯を添い遂げる私の妻となり、そして私という夫の隣で母となってはくれないか」

「……」

「……」

「――――はい……っ」



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アイドルマスターシンデレラガールズ
プロデューサーが決めて?(渋谷凛)


 ――あ、もしもし。私だよ、プロデューサー。
 ごめんね、やっと仕事終わって帰ってきたところに突然電話なんて。
 大丈夫? ――ふふ、ありがと。
 それで、うん……そう、ちょっと伝えたいことがあって。
 ううん、べつに悩みとかじゃ――いやまあ、悩みといえば悩みなのかな。
 今じゃなくてもいいことなんだけど。
 ……うん。でも、そろそろ伝えたいなって思って。
 ほら、一応私、シンデレラガールっていうことで――こう、なんていうのかな、一つ目指していたものには届いたわけじゃない?
 それはまあ、うん、その通り。これからも目指すものは――目指していけたらいいな、って思うようなものはあるし、その辺りプロデューサーがいろいろと躍起になってくれてるのも知ってるけどさ。
 大きなまず一つとして、私も届いたというか至れたというか……とりあえず一つ手を伸ばしてたものを掴み取ることができて、一段落――っていうと変だけど、まあしたなぁって思ったの。
 だからさ。
 到達した今、終わった今、切り出すには今っていう機会がいいのかなって。
 ずっと思ってたこと。ずっと思ってて、ずっと伝えたかったこと。
 本当はまだ早いんだけどね。
 たぶん、まだ足りない。もうちょっと時間を置いて、もっとちゃんとしてから伝えたほうがいいんだろうな、とは思うんだ。
 でも伝えたい。
 私ってさ、言われるほど強くはないんだよ。
 プロデューサーや皆は私のことを強いやつだって言ってくれるけど、そんなことない。
 弱いんだ。
 普通に弱くて、弱いし、弱いんだよ。
 だから伝えたい。
 秘めているのも、抱えているのも、伝えずにおくのもそろそろ限界だから。
 だから……。
 ――って、ふふ、もう、そんな深刻そうな声出さないでよ。
 さっきも言った通り、悩みといえば悩みなのかもしれないけど、そうじゃないっていえばそうじゃない。
 虐められてるんだーとか、変なことされたんだーとか、そういう類のことじゃないから。
 ん。まあ、真剣には聞いてもらわないと困るんだけどね。だけどそんな深刻な雰囲気にはならなくて大丈夫。
 と、それじゃあまあ、本題。
 ……いいかな?
 そう、ありがと。
 じゃあ言うね。
 んん……こほん、んっと。
 ふふ。なんかこう、改まった雰囲気で話すのは少し、恥ずかしい気もするんだけど。
 ――うん。
 あのね、プロデューサー。
 私、ずっとプロデューサーのこと――


 ――そっか。

 ん、うん、分かったよ。

 もう、そんなに謝らなくてもべつにいいって。

 きっとこうなるんじゃないかなっていうのは、まあ予想してたし。

 ふふ――当然でしょ、そんなの分かるよ。

 プロデューサーが何を思って、どう考えて、なんて答えそうなのか、なんて。

 分かるに決まってるじゃん。

 今までずっと、見続けてきたんだから。

 ずっと。

 プロデューサーが私を見つけてくれて、私がプロデューサーと出会えたあの日、あの時からずっと。

 私はプロデューサーのことを見続けてきたんだから。

 だから分かる。分かるし、分かってた。

 断られるんだろうなって。

 要らない。持ってる全部、何もかも全部要らない。捨てていい。――それでもいいから、欲しいなんて。

 他の全部を投げ捨ててでも、プロデューサーと一緒になりたいだなんて。

 そんな告白、断られるんだろうなって分かってた。

 いいんだ。

 それならそれで、べつにいい。

 それはもちろん、もしかしたらって淡い希望を持っていなかったわけじゃないし、もし叶ったのならそれが最高の形ではあったんだけど。

 でもいいんだ。

 叶わなかったならそれで、べつにそれでも構わない。

 予想してたし、覚悟もしてたから。

 だからいいんだよ。

 そう、いいの。だからほら、そんな辛そうな顔して苦しそうな声出さないで。そんなの似合わないんだから、ね。

 ――ん、それでよし。いいよ、ありがと。

 とまあ、うん。

 覚悟してた通り振られちゃったことだし……そうだね、もういいかな。

 ん? もういいって何が、って?

 イヤだな、そんなの決まってるじゃん。

 お別れだよ。

 そ、お別れ。

 振られちゃった以上、もう意味はないし。

 これまでも、今この時も、そしてこれからも、私の人生の意味は何も、さ。

 プロデューサーと一緒になれないんなら意味なんてない。

 生きてたってしょうがない。

 だからお別れ。

 叶わないのに生きていても意味はないし、叶わないと分かってるこんなに大きなものを抱えたまま生きていくなんて私にはできないし。

 だからお終いにする。

 死ぬの。

 大丈夫、心配しないで。仕損じたりしないよ。ちゃんと死ぬから。

 どこを刺せば楽なのか、簡単なのか、そういうのは確かにあんまりよく分からないけどさ。

 要するに死ぬまで刺し続ければいいだけなんだから。何度も何度も、ちゃんと死ねるまで刺したり裂いたりし続ければ。

 大丈夫、中途半端になんてしないから。

 痛くて辛くて苦しくて手が緩むことはあるかもしれないけど、でも止めたりなんてしないよ。

 だって、そんなどうでもいいものなんかに邪魔されて中断させられちゃうほど弱い意思じゃない。

 死ぬの。死にたいの。死ぬしかないの。

 プロデューサーと結ばれない人生なんて絶対に願い下げ。そんなものの上を歩くぐらいなら、私はいっそ潔く死にたいの。

 私の隣にプロデューサーがいてくれない人生なんて、いてくれないんだって分かっちゃったこんなものの中へなんて、もうどんなにほんの少しの間でもいたくない。

 だからお別れ。

 ふふ、プロデューサーに振られた私がこうなるだなんて当然の当たり前、これ以外にないこれ以上ない自然でしょ?

 プロデューサーはさ、私の全部なんだから。

 こうなるに決まってる。当たり前じゃん。

 気にしないで――なんて、そんなことは言わないよ。

 そんな嘘はさ。

 好きなんだよ。大好きなの。愛してる。

 プロデューサーのことを何よりも――だから、気にしてほしいもん。

 結ばれないならせめて、一緒にいられないんならせめて、せめて覚えていてほしい。

 ま、どうせプロデューサーのことだから、気にしないでなんて言っても気にし続けてはくれるんだろうけど。

 でもあえて、追い打ちみたいで汚いけど、言うよ。

 気にして。

 私のことを気にして。

 私のことを気にし続けて。

 プロデューサーに振られて死んだ、渋谷凛っていう女のことを気にして。

 覚えていて。忘れないでいて。これからずっと気にし続けていて。

 私を永遠に刻み込み続けていて。

 ……ふふ、汚いよね。

 こんな呪いみたいな、どうしようもないことばっかり吐き散らかして。

 自分でも思うよ、汚いなぁって。

 でもごめん。

 こうしちゃう。こうなっちゃう。こうするしかできないんだ。

 これが私。

 こうしちゃうのが私。こうなっちゃうのが私。こうするしかできないのが私だから。

 想いが叶わないことに堪えられなくて、死を選んで。

 そうして死ぬことには躊躇ないくせに、どんな形ででもプロデューサーの中に残りたいって未練がましく願って。

 自分は死んで楽になって、プロデューサーには嫌なものばっかりを残して。

 汚いよね。最悪、嫌なやつ。

 ……だけど、それでもこれが私なんだ。

 プロデューサーのことが好きで、大好きで、愛してるのに――でもそうだからこそ、好きで大好きで愛してるからこそこんなに汚くなっちゃうのが、これが私なんだよ。

 ごめんね、プロデューサー。

 許さなくてもいいよ。嫌いになってもいい。憎んでくれたっていい。

 でも、忘れないでいて。

 私のことをこれから先もずっと、ずっとずっと。

 プロデューサーが忘れないでいてさえくれたなら私は、今ここで死んだって――

 ……ふふ、もう、そんなに声を荒げて。

 無駄だよ。何を言われたって私は、プロデューサーと結ばれないのならもう。

 ――それにそれも。それも無駄だと思うよ。

 スーツも脱ぎかけだったのにそのままそんなに勢いよく飛び出して……同じマンションのご近所さんに迷惑だよ。――でも、ふふ。これは私のところに来てくれるつもり、っていうことなのかな?

 でも無駄だよ。私はここにいて、プロデューサーはそこにいる。間に合わないよ。

 私は今すぐにでも包丁を突き立てられるのに、止められるわけがないじゃん。

 無駄だよ、無駄。

 そもそも……私が今どこにいるのかも分かってないんでしょ。

 事務所じゃないよ。テレビ局でもないしレッスンスタジオでもない、家でもない。

 今まで私とプロデューサーが一緒に過ごしたどんな場所でもない。

 見つからないよ。聞こえない。辿り着けない。

 ……私からはずっと見えてたし、全部聞こえてたし、いつでも辿り着けたんだけどね。

 ふふ、話し過ぎかな。

 死ぬときは潔く、って言ってたし思ってたんだけど……駄目だね、おしゃべりになっちゃって。

 本当、こんなところでまで未練がましくて汚くて、なんなんだろ。

 ……え? いいから、もっと話そうって?

 ふふ、私の居場所に見当がつくまでなんとか引き伸ばそうとしてるの?

 それとも、どうにかして私に死ぬのを思い止まらせようとしてるのかな?

 無駄なのに。

 まあ、私の居場所を突き止めるっていうほうは不可能事っていうわけでもないんだろうけど……でも、やっぱり無駄だよ。

 もし私の居場所を探し当てたところで、プロデューサーが私に届くよりずっと早く私は手遅れになれちゃうし。

 プロデューサーのことをずっと見て、聞いてきた。ずっと見てるし、聞いてる。プロデューサーのことはなんだって分かってるんだから。

 だから届かないよ。見つかったとしても、私はプロデューサーが私を見つけたと気づくその前に気づくから。生かされる前に死んじゃえる。見てるんだもん、ずっとずっと。

 それに思い止まらせようとするのも……それこそ、こっちは本当に不可能だよ。

 思い止まる意味がない。思い止まる理由がない。思い止まるに至る何もかもがないもん。

 言ったでしょ。私の、私にとってのすべてはプロデューサーなの。

 もちろん好きなものはあるし、恋しいものもあるよ。いろいろ、いっぱい、たくさん。――でもそれは、プロデューサー以外の世界での話。好きだし恋しいけど、でもプロデューサーっていう私の世界の根幹が消えちゃったらもうただの無価値。

 私の世界を輝かせてくれるのは、意味を与えて煌めかせてくれるのはプロデューサー。プロデューサーと出会ったあの時から、私の世界はプロデューサー無しじゃ成り立たなくなっちゃったんだよ。

 だから何を言っても無駄。仲間? 家族? 立場? 世間体? お金? そんなの知らない。プロデューサーがいないなら、そんなの心底どうでもいい。

 無駄。私は思い止まりなんかしない。何を言われたって、私はただ死んでいくだけ。

 だからやめなよ。そんなに必死で……飲もうとしてたコーヒーでカーペットを汚しちゃってる。綺麗に揃ってた玄関の靴も散らかして。ドアだって閉めもせずに。……ふふ、そこまで必死になってくれるのは嬉しいけどさ、だけどもうやめなよ。

 無駄なんだから。だから、そんなになることなんてない。

 ……ん? もちろん、本気に決まってるじゃん。

 全部本気。嘘も偽りも誤魔化しもない、正真正銘全部本気だよ。

 死ぬ。

 死んで、お別れするの。

 思い止まることはない。中断はない。進むだけ。

 ふふ……もう、そんな声出しちゃって。

 そこ、それなりに人もいる大きな通りでしょ。そんなところで鼻の詰まった、どうしようもなく震えた、死んじゃいそうな泣き声を……。

 もう……まあでも、そこまで想ってもらえてるんだって思うと私は嬉しくもあるんだけどさ。

 駄目だよ。

 うん、ごめんね。

 そこまでされても――でも駄目なの。どうにもならない。もう止まらない。

 ごめんね。

 いくらプロデューサーの頼みでも、お願いでも、それでも駄目。――私自身、もうどうにもできないんだ。

 何をどうしてどうやっても、生きようと思えない。考えられないし、できないんだよ。

 駄目。

 もう私は。

 もう渋谷凛は。

 もうプロデューサーを失った私は。

 ……。

 …………。

 ………………。

 ああ、だけど。

 だけど一つだけ……たった一つだけ、死なずにどうにかなる方法があるかもしれない。

 んっ――ってもう、いきなりそんな大声出さないでよ。

 本当か、って……うん、本当だよ。嘘じゃない。

 こんなときに嘘なんて言わないよ。

 一つだけ。……うん、一つだけ道がある。

 私の生きる道。

 ふふ、もう、そんなに焦らないでよ。

 教える。教えるから。はぐらかしたりしないから。

 落ち着いて。……落ち着けなんかしない? ――そっか、そうだよね。ごめん。それとありがと。――……でも、うん、だったらそうだね。それならさ、落ち着いてとは言わないからせめて体勢だけ。私の言葉を聞く体勢だけでいいから、整えてほしいな。

 どう? 大丈夫そう? ――いい? そっか。うん、ありがと。

 ――それじゃあ本題、なんだけど。

 なんていうかさ、凄く簡単なことなんだよ。

 そう、簡単なこと。

 受けてくれればいいんだよ。

 プロデューサーが私の告白を受けてくれればそれで。

 立場なんて捨てて、周りの誰かのことなんて無視して、他のことなんてどんな何も気にせず一途にまっすぐ私の想いにだけ向き合って。

 そうして受けてくれればいいんだよ。

 恋人。夫婦。伴侶。私とプロデューサーが将来を、未来を、永遠を一緒に過ごせるように約束してくれればいいんだよ。

 私のことを好きで、大好きで、愛してるっていうその気持ちを押し殺して隠したりしないで――ただ素直になってくれれば、私のことを受け入れて、抱きしめて、私だけを想ってくれればいいんだよ。

 いてくれればいい。

 これまでみたいに、これまでよりもずっと、これまでの上へ塗り重ねるように永遠を。

 他の誰よりも近い恋人っていう距離で、他の何よりも深い夫婦っていう関係で、他のどんな誰よりも何よりも強い伴侶っていう在り方で、私と永遠を一緒にし続けてくれるんだって――そう、誓ってくれればそれでいい。

 それだけ。たったそれだけの簡単なこと。

 ね、なんでもないことでしょ?

 一回間違えちゃった答えをもう一回、今度は間違えないように出せばそれでいいんだよ。

 やり直すだけでいいの。

 私はプロデューサーがいないと生きていけない。――でも、プロデューサーさえいてくれるんなら生きていける。死のうだなんて思ったりせず、今までみたいに――プロデューサーの傍で、生きていけるんだよ。

 だから、それだけでいい。

 私を恋人にしてくれればいい。私と夫婦になってくれればいい。私をプロデューサーの伴侶として選んでくれればそれでいい。

 そうすれば、そうしてくれたら死なないよ。生きていられる。

 血塗れになって、穴だらけになって、目も当てられないような酷い有様で死んでいかずに――プロデューサーに振られて、それで、そのせいで私が死んじゃうようなことはなくなるの。

 簡単でしょ?

 私を選んでくれればいいんだよ。他のものなんて全部捨てて、私と一緒に居ることを願ってくれればいいの。

 ――……ねえ、プロデューサー。

 どう。どうかな。どうなのかな。

 教えたよ。二つしかない道の内の一つ、私が死なずに生きる道。

 どうするの、プロデューサー。

 どっちを選ぶの?

 私はいいよ、どっちが選ばれても。プロデューサーに助け出してもらう道でも、プロデューサーに見捨てられる道でも、どっちが選ばれても構わない。

 ねえ、どうするの。

 私と一緒になってくれるの? それとも私を殺すの?

 選んで。

 私を救うのか。私を殺すのか。

 私を生かすのも殺すのも、全部プロデューサーの答え次第だよ。

 ねえ、どうするの、プロデューサー。

 答えて。

 私を救って。私を殺して。私を、渋谷凛を、プロデューサーの意思で決めて。

 考えて。願って。確かめて。

 プロデューサーが本当に選びたいのはなんなのか。私なのか、私以外の何かなのか。ちゃんと考えて、それから決めて。

 プロデューサーの意思で、プロデューサーの考えで、プロデューサーの想いで決めて。選んで。手に取って。

 プロデューサー自身の決断で、私の生死を定めて。

 ……。

 …………。

 ………………ねえ、プロデューサー。

 どうするの。

 私は受け入れるよ。生きろ、って言われても。死ね、って言われても。

 プロデューサーの答えを受け入れる。

 だからほら、ね?

 言って。

 私をどうするの? 私はどうすればいいの? 生きてていいの? 死なないといけないの? 私と一緒にいてくれるの?

 言って。

 決めて。答えて。選んで。

 ねえ、どうなの、プロデューサー……?



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私と、キスしましょう(高垣楓)

「ねぇ、プロデューサー」

「なんですか?」

「朝ですね」

「そうですね」

「窓から差し込む朝日が眩しいですね」

「そうですね」

「少しだけひんやりした空気が心地いいですね」

「ええ、そうですね」

「ですから、プロデューサー」

「なんですか?」

「私と、キスしましょう」

「……」

「……」

「……朝に顔を会わせた開口一番がそれなんですか」

「だって、したくなっちゃったんですもん」

「したくなっちゃったから、って……貴女は」

「したくなっちゃったものはしたくなっちゃったんですもん。仕方ないじゃないですか。やむなしじゃないですか。キスするしかないじゃないですか」

「いや、しませんけどね?」

「えー」

「そんな、えー。って」

「プロデューサーのいけず……いいじゃないですか、もっとこう、ふかいふかーいお目覚めのキスをしてくれたって……私、お姫様ですよ?」

「確かにシンデレラではありますけど」

「シンデレラは王子様からお目覚めのキスを貰わないと、起きられないんです」

「それはお話が違います。僕も、べつに王子様ではありませんし」

「高垣楓はプロデューサーからお目覚めのキスを貰わないと、起きられないんです」

「いや、しませんよ?」

「……」

「流石は楓さん、泣きの演技も様になってます。成長しましたね」

「……落ちませんか?」

「落ちませんが」

「ぶぅ」

「そんな膨れられても……もう、ほら行きますよ。車出しますから」

「いけずー。へたれー。甲斐性なしー」

「……まったく」

 

「ねぇ、プロデューサー」

「なんですか?」

「赤信号ですね」

「そうですね」

「ここの信号って、変わるまで長いんですよね」

「そうですね」

「周りに車、一台もいませんね」

「ええ、そうですね」

「ですから、プロデューサー」

「なんですか?」

「私と、キスしましょう」

「……」

「……」

「……いや、運転中ですし」

「今は停まってますよ?」

「いつ青になるか分からないでしょう」

「青に変わるまでの間だけでいいですから」

「危ないですから」

「ちょっとくらいなら大丈夫ですよ」

「ほんの少しでも楓さんを危険に近づけてしまうような真似を、僕にさせろと?」

「……そういう言い方はずるいと思います」

「大人はずるいものなんです」

「むぅ、あんまり意地悪の酷いプロデューサーは嫌いになっちゃいますよ?」

「僕、嫌われちゃうんですね」

「……本当に嫌いになったりなんて、しませんけど」

「そうですか」

「ええ、嫌いになんてなれませんから」

「……そうですか」

「大好きですから。プロデューサーのこと、心から」

「……」

「あら。――ふふ、癖が出てますよ」

「……」

「頬が赤いです。目が泳いでます。唇が結ばれてます。――嬉しく、思ってくれてるんですね」

「……そうですね。プロデューサーとして、担当するアイドルに信頼を置いてもらえているというそのことについて、それは当然嬉しく思います」

「む、頑固ですねー……」

「何がでしょう」

「もう、そんなプロデューサーは嫌いに――はなれないので、んー……うん、そうですねぇ……」

「なんの思案なんですかそれは」

「――……あ、そうです」

「なんです」

「そんなプロデューサーは、私、もっと好きになっちゃいますよ?」

「……なかなか予想外な言葉が出てきましたね」

「私のプロデューサーへの好感度は、基本的に下降することはありませんから」

「とりあえず、ありがとうございます」

「ええ。――なのでそれならいっそ、もっと好きになってやるぞー、です」

「そうなるとどうなるんですか?」

「もっと好きになります」

「はい」

「行動も過激になります」

「はい」

「例えば今こうして身に着けているシートベルトを外して運転席に座るプロデューサーへとしなだれかかり、キスをしてくれるまで絶対に離れなくなったりします」

「ふむ」

「ちなみにキスをしてもらえると止まらなくなって、結局離れません」

「なるほど」

「もう無限です。無限ちゅーです。永遠ちゅーです。未来永劫ちゅー地獄です。むしろ天国です」

「それは困りますね」

「でしょう?」

「ええ」

「離れてくれないのは困ってしまいますよね?」

「そうですね」

「ですから」

「ですから?」

「まだそこまでなっていない今の内、今の私の内にほら、ね、キスしましょう」

「――ああ、楓さん」

「はい?」

「信号青になりました。車出すので、おとなしくしていてくださいね」

「……ぶー」

「膨れられても」

「ぷすー。――ん、ぷすぷす」

「膨れた空気を抜いてくれたのはいいですが、そうして突っついてくるのはやめてください」

「ぷいっ」

「運転中ですから。――ってもう、はぁ」

 

「ねぇ、プロデューサー」

「なんですか?」

「レッスン、頑張りました」

「そうですね」

「汗に濡れて、喉も渇きました」

「そうですね」

「これは水分補給をしないといけません」

「ええ、そうですね。――ですから、このスポーツドリン」

「ですから、プロデューサー」

「……なんですか?」

「私と、キスしましょう」

「……」

「……」

「……いや、水分補給が必要なこととキスを求めることとの関連性が掴めないのですが」

「関連性、なんて簡単じゃないですか」

「なんなんです?」

「今の私には水分が足りません」

「はい」

「なので身体の外から水分を取り込まなければなりません」

「はい」

「水分です」

「はい」

「水分といえばプロデューサーの唾液です」

「……はい?」

「プロデューサーの唾液です」

「いや、聞こえなかったわけではなく」

「そうですか。――なら、分かってもらえますね」

「何をですか」

「水分が必要。なら水分とイコールで結ばれるプロデューサーの唾液が必要。それを手に入れるためにはどうすればいいのか、そうだ、キスすればいいんだ。という」

「なるほど、やっぱりわかりませんでしたね」

「わかりませんか」

「わかりません」

「わかりました。それなら分かってもらうために、何はともあれ、まずキスしてみましょう」

「しませんからね」

「ええっ」

「驚かれても」

「そんな……プロデューサーは、私がここで惨めに干からびてしまっても構わないとそう言うのですか……?」

「おお、泣きの演技も上達しましたね、流石です」

「ありがとうございます」

「いえ」

「それじゃあご褒美にキスを」

「しませんけどね」

「むぅ、釣ったアイドルにご褒美を与えないなんて、プロデューサーの風上にも置けない人ですね」

「僕がプロデューサーでは不満ですか」

「不満です」

「そうですか」

「近いけれど、遠いので」

「……そうですか」

「越えてきてくれても構わないんですよ?」

「越えませんよ」

「私は構いません」

「楓さんはアイドルでしょう、少しは構ってください」

「やーです」

「そんな、子供じゃないんですから」

「いいんです。私はどうせ二十五歳児なんですから。子供でーすもん」

「開き直らないでください」

「プロデューサーも子供になりましょう? 素直になって、自由になって、キスしましょう?」

「……しません」

「えー」

「えー、ではなく」

「子供ですけど、今なら大人のキス解禁中ですよ?」

「しませんから」

「ねっとり、とろとろ、えっちなちゅーし放題ですよ? 推奨中ですよ? 自信を持っておすすめ中ですよ?」

「しーまーせーん」

「……ぶっすー」

「急にそんなやさぐられても」

「むー……なら、ん」

「はい?」

「あー」

「あー?」

「あー!」

「あー……ああ、なるほど。――ん、はい、ゆっくりいきますからね」

「あー」

「ほら、気を付けて。――と、おっと」

「あー……ん、んぅ、く……ん、うふふ……」

「……まったく、もうすっかり大人でしょうに、こんな」

「あー」

「……まだなんですか?」

「あー! あー!」

「ああもうはいはい、ちゃんと飲ませてあげますから。……もう、ほら、傾けますよ……」

「ん、あー……」

 

「ねぇ、プロデューサー」

「なんですか?」

「大切なお仕事ですね」

「そうですね」

「緊張します。不安も、あります」

「そうですね」

「でも、そんなものを感じている暇はありません。勇気を出さないと……」

「ええ、そうですね」

「ですから、プロデューサー」

「なんですか?」

「私と、キスしましょう」

「……」

「……」

「……楓さん」

「はい」

「ここはどこですか?」

「ここ……舞台袖、ですね」

「そう、舞台袖です」

「ええ」

「舞台袖ということはどういうことですか?」

「どういう?」

「まず人がいます」

「いますね」

「スタッフさんも、他のアイドル達も、幕を隔てた向こうにはファンの方々まで」

「そうですね」

「大勢います」

「大勢いますね」

「まずいですよね」

「まずいんですか?」

「いや、それは、常識的に」

「アイドルは常識に囚われてしまってはいけないんです。常に殻を破り、輝き続けなければ。――ですから」

「それはそれでその通りですが、アイドルであるからこそ今回はまずいというか」

「何がです?」

「見られたらまずいでしょう。アイドルが、それも自身のプロデューサーとキスをしていたなんて……」

「バレなければいいんです」

「バレなくてもまずいですし、バレないで済むとは思えません」

「ちゃあんと注意してちゅーすれば大丈夫、ですよ」

「いやいや、ライブ中で皆意識があっちへ行っているとはいえ、これだけ人と遭遇しかねない状況でそんな」

「大丈夫ですよ」

「いや、駄目でしょう」

「むちゅー」

「そうして唇を突き出されても」

「むちゅー」

「しませんからね、どれだけ求められてもこればかりは」

「むちゅー……」

「落ち込んでも駄目です」

「むちゅー!」

「かといって怒り出されても」

「むちゅー」

「駄目なものは駄目、ですからね」

「むーちゅー」

「もう。……はい、他のことでなら何かしてあげられますから」

「むちゅー」

「例えば? ……そうですね、それじゃあ、んー……ああ」

「むちゅ?」

「無事に今回のライブが成功したら、以前から行きたいと言っていた温泉へ――」

「プライベートで、ですか……!?」

「いや仕事で、ですけど。――というか楓さん急に戻るのやめてください、びっくりしました」

「ずっと突き出していて疲れちゃいました。ちょっと痛いです」

「変なことするから」

「――と、それはそれとしてプロデューサー」

「はい?」

「お仕事はえぬじーです」

「でも、前から行きたいと言っていたまさにその温泉ですよ?」

「プライベートでなければ意味がありません」

「そう言われても……」

「プライベート。プロデューサー付き。おいしいお料理おいしいお酒。二泊以上。二人きりでいちゃいちゃ。以上、最低条件です」

「……ハードル高すぎませんか」

「これで最大の譲歩です」

「最大が最大の体を為してないような気が」

「これ以上はありません。引きません。譲りません」

「困りましたね」

「でも」

「なんです?」

「一つだけ別の道が」

「あるんですか?」

「あるんです」

「それは?」

「それは」

「はい」

「私と、キスしまし」

「困りましたね」

「――遮るのは酷いと思います」

「至極当然の反応です」

「むー……むっ、ちゅー……」

「戻らないでください。――もう、本当に」

「むちゅー……」

「――……はぁ、楓さん」

「むちゅ?」

「お仕事。一泊。それで納得してください」

「むー……」

「好きなときに飲み会券も付けますから」

「……二人きりです?」

「二人きりです」

「いつでも、です?」

「いつでもです」

「何枚?」

「普通にいちま」

「……」

「――三枚でどうですか」

「そうですね……。――ええ、わかりました。それではそれで良しとしましょう」

「納得してもらえましたか」

「はい。――それは、ディープで濃厚なキスのほうが望みではありましたが。……仕方ありません。夫を受け入れてあげるのも、いい奥さんの条件ですから」

「身に覚えのない単語が飛び出してきましたね」

「すみません、まだ少し先のお話でしたね」

「先というか」

「あ、そうです」

「――なんですか?」

「キスはわかりました。仕方ありません。ここでは我慢です」

「そうですね」

「その代わり、――ん」

「ん?」

「頭、ぽんぽんしてください」

「……髪が乱れてしまいますよ?」

「軽くでいいですから」

「その体勢を変える気は」

「ありません。してくれるまで差し出してます。ずっとです。ライブにも出られません」

「それは困りますね」

「でしょう?」

「わかりました。――ぽんぽんだけで、いいんですか?」

「撫でてくれてもいいんですよ」

「欲しいんですか?」

「欲しくないとでも?」

「――それなら、ぽんぽんとなでなでですね」

「はい、たっぷりお願いしますね」

「たっぷりまではしませんが。――ん、触れますよ」

「はい」

「……」

「――……うふふ」

 

「ねぇ、プロデューサー」

「なんですか?」

「レッスンにお仕事に、今日も充実した一日でしたね」

「そうですね」

「お仕事終わりにおいしいディナーもいただけましたし、ふふ、大満足です」

「そうですね」

「お風呂も済ませてしまいましたし、あとはもう明日に備えてお休みするだけ、です」

「ええ、そうですね」

「ですから、プロデューサー」

「なんですか?」

「私と、キスしましょう」

「……」

「……」

「……いえ、しませんよ」

「どうしてです?」

「どうしても何も」

「こうして同じ屋根の下、二人きりなのに」

「これは、楓さんが帰れないというから……一人、外へ置いてしまうわけにもいきませんし」

「そうですね、一か月も前からお世話になってしまってます。――ほとんど、同棲のようなものですね」

「同棲だなんて」

「建前は違っても、中身はそれと変わりません」

「……」

「お風呂は、一緒に入ってくれませんけど」

「当然でしょう」

「まあ、時間の問題だと思いますけど」

「いや、しませんよ?」

「この同棲に関しても、半年前くらいにはずっとそのセリフを聞いてました」

「……いや、お風呂は程度が違いますから」

「ならキスはどうです?」

「それも駄目でしょう」

「してるのに?」

「してないでしょう」

「ええ、深いキスは、まだ。――でも触れ合うくらいのキスはもう、今日だって何度も、私がキスをねだる度にしてくれていたじゃないですか」

「……」

「そうして無言で、少し触れ合う程度の軽い、けれど確かなキスを何度も」

「……」

「キス自体は何度もしてます。何度も、何度も、何度も。――それでも、私の望むキスは駄目なんですか?」

「……ええ、駄目です」

「どうしても?」

「どうしても。――それは、一線ですから」

「一線――というのなら、もう既に」

「ええ、常識的に見ればそうでしょう。こうして同じ屋根の下に枕を並べ、触れ合う程度のものとはいえキスまでして、そんなのどう考えても越えてます。どうしようもなく、駄目です」

「なら」

「けれど、それでも、ここは僕にとっての一線なんです。既に駄目でも既に駄目であるなりに、駄目の中でもここは一線なんです。楓さんのプロデューサーとして、ここは、最後の一線なんです」

「最後の」

「ええ。――ここを越えてしまったら、僕はきっと」

「――私はそれでも」

「楓さんはアイドルです」

「その前に一人の女です。――アイドルも、失格な」

「それはそうかもしれません。でも」

「でも?」

「アイドルは楽しいでしょう? 素敵な仲間がいて、キラキラ輝くステージがあって、美しく幸せに包まれた世界を創り出せて」

「それは」

「それに約束したじゃないですか。トップアイドルになる、って。シンデレラガールになる、って約束を」

「――ええ」

「だからそれまでは。――少なくともそこまでは、僕は貴女のプロデューサーでいたい。それをやめるわけにはいかないんです、だから」

「だからできないと?」

「はい」

「どうしても?」

「はい」

「……」

「……」

「……わかりました。プロデューサーが、そこまで言うのなら」

「ありがとうございます」

「ですから、プロデューサー」

「なんですか?」

「私と、キスしましょう」

「――……あの、楓さん? 今の話」

「聞いてましたよ。――聞いていて、だからやっぱり、私は欲しいんです」

「えっと」

「プロデューサー。確かに私にとって、トップアイドルになることは何よりの望みでした。夢でした。――でもそれと並ぶくらい、今の私にとってはそれを越えてしまうくらい大きな、心から望む夢があるんです」

「夢」

「貴方と結ばれたい」

「……」

「今の私にはそれが何よりの願い。一番の、最高の、夢なんです」

「……」

「ですから、プロデューサー」

「……はい」

「私はやめません。キスを望むこと、貴方を誘惑すること、結ばれるために必要なあらゆること」

「……」

「キスが最後の一線だというのなら、私はむしろ、その一線を越えてもらうために努力を惜しみません」

「……」

「でも」

「……でも?」

「でも、今まで通りプロデューサーが私のそれに頑張って耐えることは何も非難しません。ちょっと不満ですけど、でもいいです。耐えてください。――ふふ、ゴールは変わりませんから」

「ゴール?」

「ええ、私がプロデューサーと結ばれるというそのこと。――トップアイドルになれば、その時にはプロデューサーも応えてくれるんでしょう? なら、いずれ結ばれることには変わりません」

「少なくともそれまでは決して、というだけ。そこへ至ったら応える、とまでは」

「そうして少なくとも、なんて言葉を口にしてしまっている時点で、応えてくれることは確定したようなものです。自分でも、わかるでしょう?」

「……」

「ふふ、とはいえ私はあまり我慢強くはないので。――そこへ至ってから結ばれるより、今すぐにでも結ばれたいと、そう願ってしまう堪え性のない女なので。誘惑は、しちゃいます」

「止める気は」

「ありません」

「……そうですか」

「ええ。――ふふ、悔いるのなら、私をこんなにしてしまった過去の自分を悔いることです」

「そうですね。――無かったことにはしませんが」

「はい、そうしてください。――私との出来事何もを無かったことにできないところも、プロデューサーの良いところですから」

「貴女もでしょう?」

「私もですけど」

「この前だって、出会った当初くらいのことを持ち出したり……」

「プロデューサーとのことなんです。全部覚えてるに決まってるじゃないですか」

「あんな些細なことまで」

「ことまで、です。――言った通り私はわがままですから。好きな人とのことは、どんな小さな事であっても何一つ取り零したりしたくないんです」

「……そうですか」

「あ、ふふ、また癖出ちゃってます」

「見逃してください」

「嫌です。取り零しはできません」

「困ったわがままさんですね」

「こんな女は嫌いになっちゃいます?」

「嫌いになれるのならこんな苦労はしてません」

「そうですか」

「そうです」

「それなら――ふふ、もっとわがままになっちゃいましょう」

「困るのでやめてください」

「えー」

「いや、えーって」

「むぅ、仕方ありません。――なら」

「なら?」

「プロデューサー」

「はい」

「私と、キスしましょう」

「なら、という接続の意味はなんだったんですか」

「キスしましょう」

「や、当然しませんよ?」

「いつものほうでいいですから。ほら、お願いします」

「……」

「……」

「……んんっ!」

「ん――……ふ、うふふ」

「……楓さん」

「なんでしょう?」

「入れようとしましたね」

「あらそんな。――私はただ口を開いて、舌を伸ばして、唇を舐めて」

「駄目ですよね」

「でも入れるつもりはありませんでしたよ?」

「信じろと?」

「ええ。――私はわがままですけど、ずるだけはしないんです。知ってるでしょう?」

「それはまあ」

「誘惑するとは言いました。だからします。――でも、貴方が耐えるのを踏み越えて無理矢理に関係を進めるような、そんな真似は絶対しません」

「そうですか」

「そうなんです。――偉いでしょう?」

「そうですね」

「えっへん」

「でも、唇を舐めるのはありなんですね」

「誘惑の範疇です」

「その範囲が日を経る毎に広がっていきそうで怖いのですが」

「……」

「……」

「……うふっ」

「前途多難そうだ……」

「いいじゃないですかー。役得ですよー。貴方の奥様アイドルですよー」

「まだ良くないです」

「むー。お堅いですねぇ」

「当然です」

「もっと誘惑頑張らないと」

「あまり頑張られると困るので控えめにしてください」

「やーです。――ふふ、私は早く高垣じゃない楓になりたいんですもん。誘惑は、やめません」

「……そうですか」

「そうなんです。――ですから、プロデューサー」

「なんですか、楓さん」

「私と、キスしましょう。――キスして、一緒になって、私と結ばれましょう?」



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まゆは浮気性なんです(佐久間まゆ)

「まゆは浮気性なんです」

「すぐに好きになる。すぐに恋をして、すぐに愛を抱いてしまう」

「すぐに心が移ろってしまう」

「それまでの好きを越えて、新しい好きを」

「それまでの恋を塗り重ねて、改めて恋を」

「それまでの愛を抱き締めながら、けれどその末、新しく改めた愛を」

「抱いてしまう」

「そんな、どうしようもない浮気性」

「浮気性なんです」

「まゆは、浮気性なんです」

 

「ええ、そうですよぉ」

「まゆが、です。貴方のまゆが、です」

「今この、ここにいる、貴方の隣のこのまゆが」

「浮気性なんです。まゆが、それこそどうしようもないくらいに」

「……うふふ」

「不思議そうなお顔ですね。きょとんと疑問に溢れた……そして少し、不安そうなお顔」

「うふふ。プロデューサーさんにそんな顔をさせてしまうのは申し訳ないのですけど……でも、少し、嬉しいです」

「それはつまり、まゆを信じてくれていたということ」

「まゆを一途だと。プロデューサーさんにまっすぐで、心移りなんてせずに一筋の想いを貫いているのだと、思ってくれていたんですよね」

「ちゃんとまゆを見て、ちゃんとまゆを感じて、ちゃあんとまゆの想いを受け止めてくれていたんですよね」

「嬉しいです」

「とても、とっても、嬉しいです」

「……でも」

「でも、ごめんなさい」

「本当のまゆはこうなんです」

「偽りのない、飾らない本当のまゆは、そんな浮気性な女なんです」

「嘘? いいえ、本当です」

「まゆが浮気性だというそのこと、それはどうしようもなく」

「……そして、これまでプロデューサーさん、貴方へ贈ってきた想いのすべてもまた、どうしようもなく」

「どうしようもなく、本当なんです」

「ええ、そうです」

「まゆはプロデューサーさんが大好き」

「だけど何度も、何回も、何重にも浮気をし続けてきた」

「それはどうしようもなく、同時に、本当なんです」

「……うふふ」

「また、きょとんとしたお顔。可愛いです」

「可愛くて、愛らしくて。……ああ、もう、また浮気をしてしまいそうになるほど愛おしい……」

「……ええ、はい。そうです、浮気です」

「これまで重ねてきた、数えきれないほどのそれらと同じように」

「一度や二度ではありません」 

「十や百なんかでは足りません」

「千や万まで至っても及びません」

「それほど重ねてきた、繰り返してきた、浮気」

「それです。それをまた、今」

「……うふふ、ますます分からない、ってお顔です」

「べつに、何も難しいお話ではないんですよ?」

「まゆは嘘なんて吐けませんから、そのままの意味を、まっすぐ一緒に捉えてもらえればいいんです」

「そのまま。そのまま、です」

「まゆは浮気性で。数えきれないほど多くの浮気を繰り返してきた浮気者で」

「まゆはプロデューサーさんが大好きで。数えきれないほどたくさんの言葉を重ねて伝えてきた通り、好きで大好きで愛していて」

「それを、その二つを、そのままに受け取ってもらえればいいんです」

「……分かりましたか?」

「……」

「うふふ」

「ええ、そう、正解です」

「そしてそうと分かったら、いろいろと納得してもらえるんじゃないですか?」

「まゆが浮気性だ、ってこと」

「これまで何度も何度も、浮気をし続けてきたんだ、ってこと」

「納得して……認めて、もらえるんじゃないですか?」

「……うふふ、ありがとうございます」

「嬉しいです。まゆが浮気性だと、分かってもらえて」

「これまでまゆが贈ってきた想いのすべてを、ちゃんと受け止め覚えてくれていて」

「そんなお顔を……安心して、柔らかな、嬉しそうにはにかんだお顔を見せてくれて」

「ありがとうございます」

「そんなプロデューサーさんだから、まゆはこれまで浮気をし続けてこられました」

「そんなプロデューサーさんだから、まゆはこれからも浮気をし続けていくことができます」

「何度も、何度も、何度でも」

「プロデューサーさんのことを好きなまゆは、大好きなまゆは、愛しているまゆは」

「浮気を積み重ねていけます」

「それまで好きでいたプロデューサーさんよりも、新たなプロデューサーさんに」

「初めて見るプロデューサーさんに、改めて確かめたプロデューサーさんに、新しく鮮やかなその時その瞬間のプロデューサーさんに」

「浮気することができます」

「プロデューサーさん」

「何度でも何度でも何度でも……まゆは、プロデューサーさんに浮気します」

「浮気性なまゆは他に代えなんて効かないただ一人の貴方を愛しながら、けれどそのただ一人に浮気をし続けます」

「会う度に好きになる。想う度に恋をする。添う度に……こうして、プロデューサーさんと同じ空間の中へ添う度に、まゆはプロデューサーさんを愛してしまう」

「うふふ」

「プロデューサーさん」

「まゆはやっぱり、そんな浮気性なんです」

「どうしようもない浮気性なんです」

 

「……ん。不安に、なりましたか?」

「ふふ。大丈夫、大丈夫ですよぉ」

「まゆがプロデューサーさん以外に浮気なんてする訳がないじゃないですか」

「確かに目移りはします。惹かれて、虜になってはしまいます」

「けれどそれはプロデューサーさんへだけ。貴方へだけ、なんです」

「プロデューサーさんには節操がなくて、軽率なくらい簡単で、どうしようもなくだらしないまゆですけど」

「それは貴方へだけ、なんですから」

「……」

「うふふ」

「ええ。ええ、そうです」

「まゆが好きなのは貴方です」

「浮気性なまゆがふらふらと惹かれてしまう大好きな人は、揺らがず一途に愛している想い人は貴方です」

「貴方です」

「こうして隣へ添うのは」

「こうやって想いを尽くすのは」

「こんなふうに二人きりの車内で睦言を交わすのは」

「貴方だけです」

「貴方だけなんです」

「好き。大好き。そう思って感じるものはもちろんたくさんありますけど」

「男性として好き。赤い糸の繋がる唯一の人として大好き。まゆにとってのそれは、プロデューサーさん貴方だけ」

「まゆの恋の相手も貴方だけ」

「初恋の相手は貴方でした。二度目も、三度目も、それから先の恋もぜんぶぜんぶ」

「プロデューサーさんはまゆにとってかけがえのない初恋の相手で。他に替えの利かない十度目の、取り換えられない百度目の、変えることのできない千度目の……万度目の、億度目の、きっとそれよりももっと回数を重ねた果ての、数えきれないほどの恋の相手、そのすべてはプロデューサーさんという貴方ただ一人で」

「きっとまゆの恋は、愛は、プロデューサーさんだけなんです」

「うふふ」

「だから安心してください」

「貴方のまゆは、浮気性な貴方のまゆは、けれどだからこそずっと貴方の傍から離れません」

「一つのものには必ず終わりがあるのかもしれませんが、それなら一つではなく何度も何度もたくさんを積み重ねていけばいい」

「永遠は無くとも、そうして永遠を形作っていけばいい」

「そうやってまゆは、ずっとずうっとプロデューサーさんのことを想い続けます」

「好きで居続け、恋をし続け、愛し続けます」

「まゆは永遠唯一つの愛を約束できるほど強くはありません」

「けれどきっと、永遠唯一人への愛は約束してみせます」

「プロデューサーさん」

「貴方へ尽くす永遠の愛を、誓ってみせます」

「だから安心してください」

「まゆがプロデューサーさんから離れることはありません」

「寄って、添って、寄り添って」

「そしていつの日かきっと、貴方の隣へ立つ」

「恋人。お嫁さん。生涯を連れ添う伴侶。そんな、まゆの夢の中の理想の姿を叶えて」

「それで、そうなって、そして貴方と一緒に立つ」

「立って、歩いて、進んでいく」

「貴方と結ばれてみせますから」

「……うふ。ええ」

「分かっています。プロデューサーさんが応えてくれないことは」

「プロデューサーさんにはプロデューサーさんの夢があって、立場があって、愛があって」

「だからまゆの愛に応えてくれない」

「まだ、応えてくれないことは分かっています」

「でも構いません」

「まゆは妥協なんてしません。きっとそこへ至ってみせると、もう決めていますから」

「貴方の隣へは、他の誰よりも貴方のことを幸せにできる人が……誰よりも、貴方が愛おしく想える人が立たなければいけない」

「貴方が心から、嘘偽りなく、他のどんな何よりも望む人が立たなければいけない」

「まゆは、それを叶えてみせます」

「貴方の隣には貴方の愛する人が立ち、そしてその人と結ばれた貴方は他の誰と結ばれるよりも幸せになる」

「そんな未来を、貴方の幸せを、きっと叶えてみせる」

「そして」

「そしてきっと、そのかけがえのない唯一人に、まゆはなってみせる」

「たとえ今はまだそう在れないのだとしても」

「いつかきっとなってみせる」

「みせますから」

「貴方の夢へ着き、プロデューサーさんの立場へ届き、プロデューサーさんの愛へ至ってみせる」

「まゆが貴方を幸せにしてみせますから」

「――うふ」

「ええ。ええ、そうでしょう」

「いいんです。さっきも言った通り、まだ応えてもらえないのは分かっていますから」

「だからいいんです」

「そうして、哀しそうなお顔の貴方に謝られても」

「いいんです」

「だってまゆは、いつか叶えてみせると決めています。きっと叶うと信じていますから」

「だからいいんです」

「うふ。ええ、叶えてみせますとも」

「確かにまゆとプロデューサーさんの間には、難しいこともたくさんです」

「初恋は叶わない、なんて言葉もあります」

「簡単ではない、っていうそのことは分かっています」

「でも大丈夫」

「ちょっとやそっとの障害で諦めるつもりはありません」

「まゆは強い子です」

「貴方の幸せを諦めたりなんてしません」

「まゆは弱い子です」

「貴方の幸せを諦めることなんてできません」

「まゆは、プロデューサーさんという人に対して誰よりも強くて、誰よりも弱い子です。本気で、そう信じている子です」

「だから大丈夫。大丈夫です」

「それに」

「それに、うふ」

「初恋が叶わないのなら、次の恋を叶えればいいんです」

「二度目も叶わないなら三度目を。それでも叶わないなら四度目を」

「十度目を、百度目を、千度目を、万度目を、億度目を」

「叶えればいいんです」

「それなら、大丈夫でしょう?」

「だってまゆの初恋は貴方で。次も、その次も、その更に次も、まゆの恋する相手は貴方で。たった一人、貴方なんですから」

「だったらきっと大丈夫」

「貴方への恋が叶うその時まで――まゆは、それがたとえ那由多の果てまででも繰り返してみせますから」

「だからきっと大丈夫、大丈夫なんです」

「ええ」

「貴方と、結ばれてみせますから」

 

「――え?」

「あ、もう着いた、ですか?」

「あら本当、もう、寮の前まで」

「――うふふ、好きな相手と一緒の時間は早く過ぎてしまう、というのは本当ですね」

「ほんの一瞬のことのように感じるのに、もうこんな」

「……そうですね。明日もまた早いですし、わがままで引き留めてしまうわけにもいきませんから。今日はこれで失礼します」

「ふふ、今日もまゆを送ってくれて、ありがとうございました」

「ええ」

「はい。また明日、です」

「……」

「…………」

「………………プロデューサーさん」

「いいえ、降ります。――でも、そうする前に」

「はい、今日も、最後に」

「――うふふ、ありがとうございます」

「それじゃあプロデューサーさん、失礼します、ね……?」

「……」

「――……ん、うふ。――んっ」

「……」

「…………」

「………………ふ。――うふ、大きな背中……」

「温かくて、大きくて広くて、まゆのことを安心させてくれる大好きな背中……」

「うふふ。今日も、確認。まゆの愛を確認する、プロデューサーさんへ尽くす、背中へ注ぐ確認のキス、です」

「ふふ」

「――ん。と、ありがとうございました」

「ええ、もう大丈夫です。もうしっかり、確認できましたから」

「まゆの気持ち」

「プロデューサーさんを想うまゆの気持ち」

「いつかきっと一緒になる」

「いつかきっと、車を降りても別れず添えるようになる」

「同じ場所へ帰って、同じ空間で過ごして、同じ時間を過ごす」

「そんな未来を叶えてみせる、って」

「まゆの気持ちを、決意を、想いを確認できました」

「うふふ」

「ええ、ええ」

「明日もまた、まゆはきっと恋をする」

「浮気性なまゆはまた、きっと貴方に恋をします」

「――うふ。そうしてきっと、きっときっと、叶えてみせる」

「プロデューサーさん」

「まゆは、いつかきっと貴方を、誰よりも幸せにしてみせますからね」

「好きです」

「大好きです」

「愛しています」

「愛しい愛おしいまゆのプロデューサーさん」

「また明日」

「ええ、また明日」

「明日もまた、きっと、まゆを虜にしてくださいね?」



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特別な貴方との、特別で普通な日常(高垣楓)

 プロデューサー。

 ねぇ、プロデューサー。

 貴方は。

 いいですか、貴方は特別なんです。

 知っていますか、貴方は特別なんです。

 分かっていましたか、貴方は特別なんです。

 貴方は、特別。

 貴方は、私にとって特別なんです。

 特別な人物。

 特別な異性。

 特別な存在。

 私にとって、貴方は特別なんです。

 他の誰よりも特別。

 誰よりも大事で、大切で、好ましい人。

 他の何よりも特別。

 何よりも望ましくて、魅力的で、恋しい男性。

 他のどんな誰よりも何よりも特別。

 貴方の他のどんな誰よりも何よりも輝く、唯一の、愛おしい存在。

 私にとって貴方は、そんな、かけがえのない特別なんです。

 特別で、特別な、特別。

 他にもいろいろ、特別に思うものはありますけど。

 好ましくて、恋しくて、愛おしいものは、貴方の他にもたくさんありますけど。

 でも違う。

 特別だけど、特別じゃない。

 貴方と比べれば、貴方という特別と比べてしまえば。

 数多ある特別も、等しくただの普通な普通。

 貴方は特別なんです。

 私の中の誰よりも、私の思う特別のその内の何よりも、貴方はずっと特別なんです。

 こんな私と出逢ってくれました。

 こんな私の手を取ってくれました。

 こんな私をアイドルという夢へ導いてくれました。

 こんな私に添ってくれました。

 こんな私を見捨てずにいてくれました。

 こんな私と歩を合わせて同じ道を進んでくれました。

 こんな私を望んでくれました。

 こんな私を受け入れてくれました。

 こんな私をシンデレラへまで至らせてくれました。

 こんな私へ好意を教えてくれました。

 こんな私へ恋心を宿させてくれました。

 こんな私へ愛を刻んで抱かせてくれました。

 貴方は特別です。

 誰よりも何よりも。

 私にとって、一番の特別なんです。

 高垣楓という人にとって。

 高垣楓というアイドルにとって。

 高垣楓という女にとって。

 高垣楓という、この、私にとって。

 貴方は特別。他のどんな何よりも、特別なんです。

 だから、特別だから。

 他のどんな特別とも違う。貴方が、それほどの特別だから。

 だから、すべてが特別になる。

 貴方がいる。貴方がそこへ、その場へ、その時間へ。

 貴方が一緒にいてくれるなら、私のすべては、そのどれもが特別に輝くんです。

 なんでもない。意識すらしない。日常の中のどうでもいいようないろいろ。

 朝、起きる。

 眠たさに瞼を擦りながらふらふらと立ち上がって、顔を洗い、身支度を整える。

 昼、動く。

 特に計画もなく買い物に出掛けて、特に纏まりもなく品物を選んで、両手の重みを少し後悔しながら家まで帰る。

 夜、眠る。

 買ってきたお酒を一人でゆったり呑みながら、別に何をするでもなく思うでもなくぼーっと過ごして、そして何かきっかけがあったわけでもなくなんとなく布団に潜る。

 そんな、どうでもいい日常。

 何もない。後から何か思いを馳せることもない。そんな、なんでもない日常が。

 それすらが、そんなものすらが特別になってしまう。

 忘れられない。大事で、大切な、かけがえのないものへ。

 そこに貴方がいるのなら。それで、それだけで、私の何もは特別になってしまうんです。

 貴方がいる。私の横へ、私の隣へ、私の傍へ。

 そうしたなら、そうしてもらえたなら、特別になる。無色の空間も、灰色の時間も、どんな色でも特別に輝くんです。

 貴方は特別。

 私が誰よりも好きで、何よりも大好きな、

 私が誰よりも恋しくて、何よりも慕っている、

 私が誰よりも、何よりも、他のどんなすべてよりも愛している貴方は、

 特別なんです。

 特別の中の特別。

 他のどんな何よりも大きくて、他のどんな何すらも特別へ変えてしまえるような、他の何でも及ばない本当の特別なんです。

 だから。

 だから、ごめんなさい。

 嬉しいんです。

 本当に嬉しいんです。貴方にそう言ってもらえて。

 貴方にそれを許してもらえて。委ねて、贈ってもらえて。

 心地のいい高鳴りに胸が震えてしまうほど。

 幸せな暖かさが身体へ染みて蕩けてしまうほど。

 本当に。本当に本当に嬉しいんです。

 でも、だけど、だからこそごめんなさい。

 私にとって貴方は特別だから。

 どんな些細な日常すらも特別へ昇らせてしまうほど、貴方は、私にとって特別な存在だから。

 だから、ごめんなさい。

 貴方のその言葉に、私は、すぐには答えられません。

 『シンデレラのお祝いに、何か、特別なお願いを』なんて。

 特別なお願いを――私のわがままを、なんでも叶えてくれるだなんて。

 そんな貴方の言葉に、私は、欲しい特別をすぐに答えて返すことができません。

 それはあります。

 欲しいもの。普段では、普通では、特別でなければ触れられないようなたくさんのもの。

 特別な場所。特別な時間。特別な品物。

 けれど、私にとって貴方は特別だから。

 貴方と二人で居られるなら、私には、どんなものも特別だから。

 だから、ごめんなさい。

 特別な何か、という貴方の言葉に、私はすぐ特別なものを返して求めることができません。

 できません。……でも、だけど。

 もし。もし、叶うなら。

 特別でもなんでもない普通で普段通りの日常、それを願っても、貴方が許してくれるなら。

 私はそれが欲しい。

 何か特別なことをするわけじゃない。普段通りに起きて、出掛けて、眠って。そんな日常。

 それを、私は貴方に叶えてほしい。

 そんななんでもない日常を、貴方と特別に彩りたい。

 貴方と、過ごしたいんです。

 私の普段通りの日常を、貴方に寄り添ってもらいながら、一日。

 ……どうでしょう。

 許してもらえますか。貴方との一日を、過ごさせてくれますか。

 ねぇ、プロデューサー。

 

「私のお願い、叶えて、もらえますか……?」

 

 

 

「……」

「……」

「…………」

「…………プロデューサー?」

「あ、えっと、はい」

「それで、どうでしょう。叶えて……もらえますか?」

「いや、まあ、そのお願いを聞くことについては何も問題ないんですけど」

「本当ですかっ」

「ええ。……ただあの、そのお願いと共に送られてきた言葉たちに少し固まってしまいまして」

「? そんな固まってしまうようなこと、言ってしまいましたか?」

「それはもう。……好きとか、恋とか、愛とか」

「普段から言っているじゃないですか」

「まあ、それは、言われてますけど」

「それじゃあ問題ないですよね」

「いや、こう、普段から言っているから問題ないみたいな話では……というか、普段から言っているっていうそれがまず問題というか」

「皆さん受け入れてくださってますよ?」

「まあ大分前からのことですしね、もはや恒例で」

「最近はいろいろアドバイスをもらったり、応援したりしてもらっていますし」

「ああ、最近留美さんとよく一緒なのはそういう」

「花嫁修行真っ最中です」

「貴方はアイドルでしょうに」

「その前に女です」

「それはまあ」

「それにお嫁さんです」

「いや独身」

「将来のお嫁さんです」

「未来設計図まで描けてるんですね」

「ええ。結ばれる旦那様まで決まってます」

「アイドルがそれはまずいのでは」

「魔法をかけられてしまいましたから。私をこんなふうにした、悪い魔法使いさんの責任です」

「いけない人も居たものですね」

「ええ、こんなすぐ傍に」

「真っ当なプロデューサーとして真っ当にプロデュースしただけのつもりなんですが」

「まっすぐ、一途に、あんなにも、です」

「……」

「責任は取ってもらわないといけません。魔法使いでプロデューサーな、王子様に」

「もっと良い人はいると思いますけど」

「そうですね。――でも、それでも、私は貴方がいいんです」

「……応えることはできませんよ」

「ええ、応えてもらえなくても構いません。――今はまだ」

「いつか応えるとも」

「振り向かせてみせますから構いません。そう思えて、誓えるほど、大好きですから」

「……」

「あら、頬が赤くなってきて。……ふふ、可愛いです」

「男に可愛いは」

「事実ですもん」

「や、でも」

「いいじゃないですか。可愛いの、私は好きですよ」

「貴女は、またそういう」

「ふふ、惚れた弱み――というか、惚れた強み、ですね」

「もう……」

「私をこんなにして、こんな私に愛されてしまった自分自身を恨むことです」

「……いや、まあ、恨みはしませんけどね。困りはしますが」

「でしょうね。貴方は、私とのことを悔やんだり無かったことにしたりはしないでいてくれる人ですから」

「そんなことをするのは失礼でしょう」

「それでもなかなかできないことです。――そしてだから、そんなところでも私は貴方に惹かれてしまうんです」

「……無かったことにしないのは。僕とのことを、どんな些細まで覚えているのは貴女もでしょうに」

「そうですね。惚れてますから」

「……」

「ふふ、似た者夫婦ですね。仲睦まじい、幸せ夫婦」

「貴女の夫になったつもりは」

「いずれなるんですから同じことです」

「決まってしまってるんですか」

「ええ、諦めませんから。――まっすぐ一途な想いは報われる。諦めなければ純粋なその願いはきっと叶うと、私にそう教えてくれたのは貴方でしょう?」

「それは、そうですけど」

「私は貴方のおかげでシンデレラになれました。だから、シンデレラとして持ち得る何もかもすべてを注いで、私は貴方へ尽くすんです」

「僕なんかに」

「貴方だからです」

「……」

「ふふ。――と、それじゃあプロデューサー」

「……なんですか」

「お願い、聞いてくれるんですよね?」

「ああ、ええ、まあそれは」

「私と、私のなんでもない普段通りの日常を、一緒に過ごしてくれるんですよね」

「構いませんよ。……むしろ、本当にそんなものでいいんですか?」

「ええ。むしろ私は、これがいいんです」

「楓さんがそう言うなら。……ええ、荷物持ちでもなんでも引き受けます。ご一緒しますよ」

「ふふ、ありがとうございます」

「それで……なんですけど、どうしましょう。日程やら何やらは」

「私とプロデューサーのお休みが合うのならいつでも。何曜日でも、前日翌日の予定が何でも、貴方と居られるなら構いません」

「……またそういう」

「本心ですから」

「はぁ……まあでも、そうですね。それなら、多分次の週末辺りに一日くらい……」

「それじゃあそこで」

「いいですか?」

「もちろんです」

「わかりました。ではそこで」

「はい。……ふふっ、ああ、今から楽しみです」

「そんなになるほど……」

「なりもしますよ。プロデューサーさんと一緒に、いろいろ、たくさん過ごせるなんて」

「普通の日常に僕が一人紛れ込むだけでしょう」

「貴方が一人いるのなら、私にとってそれはかけがえのない特別になるんです。何度も何度も言ったじゃないですか」

「まあ、聞きましたけど」

「だから……ええ、楽しみです。とても、とっても」

「まあ、楽しみに思ってもらえているらしいのは嬉しいですけど」

「ああ、本当に心が踊ります。プロデューサーと、日常を。……朝、同じ布団の中での目覚めを。心地のいい微睡みを。お昼、街へ出ての買い物を。こっそりお忍びの散策を。夜、一つの湯船の中へ二人で入るお風呂を。寄り添いながら朝と同じく一つの布団の中で眠りへ落ちる最後を。そんないろいろを、一緒に過ごせるなんて」

「……ん?」

「楽しみです。楽しみで、本当に楽しみ……」

「楓さん」

「……はい?」

「今、一緒の布団とか一緒にお風呂とか、聞こえたんですが」

「ええ、言いましたからね」

「え?」

「?」

「いやそのあのはい、えっと、どういう」

「どういうも何も、そのままですよ。言ってくれたじゃないですか、私の日常を私と一緒に過ごしてくれるって」

「や、まあ、それは言いましたけど」

「目覚めて出掛けてお風呂へ入って眠る。私の、なんでもない日常ですよ?」

「いや、そのなんというか、一緒っていうそのことの規模というか意味が思っていたのと違うというか」

「……ダメだ、ってことですか?」

「ダメでしょう」

「プロデューサー……私に、嘘を吐いたんですか……?」

「や、嘘とかじゃなく」

「でも無駄です。言質は録ってありますから」

「……そのレコーダーはいつの間に」

「留美さんが大人の女性の嗜みだからと」

「あの人は……」

「ふふ、言ったじゃないですか。いろいろと、応援してもらってるって」

「言ってましたけど」

「最近は婚姻届の書き方なんかも教えてもらっていて」

「練習するものなんですかね、それは」

「して損はしないものですよ。――って、あ、そうです」

「なんです?」

「婚姻届を書くのも最近の私の日常なので、これもぜひご一緒しましょう。二人で書いて完成させましょう。ええ、それが良いと思います」

「いや、まあ、しませんけどね」

「えー……どうしてですか。楽しいのに、婚姻届を書くの」

「楽しいものじゃないと思いますけど」

「楽しいですよ。貴方と結ばれる将来を夢見ながら書き記すのは」

「……」

「なんて、冗談です。……レコーダーは」

「婚姻届の方は本当なんですね」

「ええ、もうすっかり日常です」

「……しませんよ?」

「ふふ……ええ、まあ、それでも構いません。――二人で一緒に過ごすことについては、許してくれるんですよね?」

「……まあ、そっちについてなら」

「なら構いません。――さっきも言った通り、私は諦めませんから。この願いが叶うまで、何度でも幾度だって貴方へ尽くすだけです」

「……応えませんよ。応えられませんから」

「ええ、それで構いません。応えられないから、と応えてもらえなくても。――でも」

「……」

「ふふ。……いつか、いつか必ず、そんな何をも取り払って素直に応えてもらえるよう、この想いを受け止め抱き締めてもらえるよう、振り向かせてみせますからね。……大好きな、大好きな、愛おしい私のプロデューサー」



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ただののの(森久保乃々)

 前へ。

 ほんの少しの、些細で小さな、けれど確かな一歩を踏み出して前へ。

 それまで居た場所から前へと出た。

 自分の意思で。望み、欲して、自分で願ったそのように。

 前へ。

 これまでよりも前へ。これまでよりも先へ。これまでよりも、傍へ。

 踏み出した。出て、至った。

 そうして至ったこの場所。この、ここの、こうして辿り着いたこの今を感じ始めてから数分。

 たったの数分。机の下の聖域に居れば一瞬。レッスンに追われていればいつの間にか。眠りへ落ちる前の妄想を描いていればわずか。そんな、ほんの数分の時。

 たった、ほんの、それだけ。

 でも、それでもそれなのに、そんな数分が何十分にも何時間にも感じられた。

 長く永い、まるで永遠のように。

 感じられた。感じられて、感じられる。

 永く遠く果てのない、最期の終わりの予兆さえ訪れ迫ってこないような、途方もない時。

 あまりにも大きく深すぎて不安にすらなってしまいそうな――けれど、それでいて嫌ではない時間。

 嫌ではなくて。どころか、祈りを込めて一途に手を伸ばしてしまいたくなるような。

 永遠に感じられるまま、永遠になってしまってさえ構わない。

 この時が永遠になるなら。それならもう、他のどんな時間が来なくてもいい。

 他のどんな時間も。もしかしたら得られるのかもしれない楽しい空間も、喜びに満ちた世界も、この今とは違う他の幸せのすべても。

 自分の感じられるすべてが、ただこの一時だけになってしまったって構わない。永遠にこの時が流れて、永遠にこの時で停まってしまっても、いい。

 良くて、そして、叶うのならそれを願ってしまいたい。

 成ってほしい。実ってほしい。叶ってほしい。

 それほど。そんなふうになって、本当に心から本気でまっすぐ思えてしまうような、そんな幸せな時間。

 身体が熱く火照るような、心が温かく染められていくような。

 身体が激しく高鳴るような、心がときめく感情に尽くされるような。

 身体が甘い痺れに震えるような、心が恍惚とした想いに塗り染め尽くされるような。

 そんな時間。

 そんな、幸せな時間。

 溢れるほどに満ちて、零れて止まらないほど満ち満ちて。

 どうしようもないほど強く深く、どうにもならないほど濃密な、これ以上なんてありえないほどの量に包み抱かれて。

 心も身体も。自分という存在、そのすべてがそうしてただひたすらな幸せに塗られて。もういっそ押し潰されてしまいそうなほど、どこまでも、濡らされて。

 そんな時間。

 そんな幸せで幸せな、幸せの時間。

 その中へ。前へ進んで、そして至って手に入れたこの時間の中へ浸りながら想う。

 隣に居る人のこと。

 これほどの幸せを生み、これだけの幸せを感じさせ、これほどこれだけの幸せへ自分を溺れさせる人のこと。

 それを想う。思い描いて、想いを尽くす。

 ちらりと横目で。

 顔は少し俯かせたままそこへ向かせることはせず、視線を流して瞳だけを向け注ぎ、覗き見るようにして視界へ収める。

 その人のこと。

 毎朝、眠りから覚めたまず初めに思い描くその人のこと。

 毎晩、眠りへと落ちるその最後に夢へ願うその人のこと。

 その人のことを見て、想う。

 感じながら。

 熱くなる。心の底から広がってくる火照りに顔が赤く、熱くなる。

 高鳴る。鼓動が、気持ちが、想いが。とくんとくん、早まり昇って高鳴る。

 もう熱く高鳴っていたのに。それなのに、それまでを越えて、それまでのどんなそれよりも熱く、高く。

 そうなるのを、狂おしいほどの幸せに文字通り狂わされていくのを感じながら。

 想う。

 好ましい想いを湧かせて。

 恋しく慕う想いを紡ぎ重ねて。

 愛おしいあらん限りすべての想いを溢れさせ尽くして。

 そうして想う。

 大好きな人のこと。

 愛おしい人のこと。

 大好きで愛おしいその人の――自分の、唯一人の、プロデューサーのこと。

 

 

「――なぁ乃々」

「……なんですか」

「いや、なんかさっきからこっちを窺ってるようだったからさ。何か言いたいことでもあるのかなぁ、と」

「べつに見たりとかしてないですし……そんな、言いたいこととかも無いんですけど……」

「そう?」

「そうなんですけど……」

「そっか。こう、今日は珍しくこっちに座ってきたりもしたから何かあるのかと思ってたんだけど」

「何もありませんし……。というか、それはあれですか。もりくぼはここに相応しくない後部座席がお似合いのだめくぼだっていうことですか……もりくぼいぢめですか……?」

「ダメじゃないし虐めてもないしむしろ歓迎なんだけどさ。なんだか珍しいなーって」

「ただ、なんとなく……たまたまで、意味なんてないですし……」

「んー。まぁ、乃々がそう言うならいいんだけど。――ただ」

「……ただ、なんですか……やっぱりもりくぼはだめくぼだって、そういうことなんですか……」

「そうじゃないよ。――ただ、最近ちょっと心配……とは違うんだけど、なんていうのかな、こう、気になっててさ」

「……何がですか」

「挙げるといろいろあるんだけどさ。例えば――この前、営業から事務所に帰ってきたときとか」

「……べつに何も、いつもと違うようなことはなかったと思うんですけど……」

「違うというかなんというか。帰ってきて部屋に入ったら、乃々が机の下にいてさ」

「いつものことなんですけど……あの場所はもりくぼの聖域なんですけど……」

「や、あそこに居るのはいいんだけどね。あれ、あの時はそこに居ながらほら、寝てたでしょ?」

「……」

「寝てたでしょ?」

「……寝てましたけど」

「僕の椅子を枕にして」

「……あれはプロデューサーさんの椅子なんかじゃありませんし……。もりくぼの枕ですし……」

「あの椅子を取られちゃうと困るんだけどなー。仕事できないし、というか事務所の備品だし」

「そんなの知らないんですけど……あれはもう、他の誰でもないもりくぼのものなんですけど……」

「あれの何が乃々にそこまで気に入られたのか……。頬擦りまでしてたしね。全然放してもくれなかったし」

「自分の所有物が不当に奪われようとしたら……それは、断固拒否するのが当然だと思うんですけど……」

「その所有権自体がまず不当というか」

「……なんですか、もりくぼ否定ですか……? もりくぼなんて消えてしまえばいいって、そういうことですか……?」

「そんなこと言ってないでしょ」

「いいんです……もりくぼはただの女の子に戻るんです……ただのもりくぼ。……いえ、ただのののになるんです……」

「む、それも最近多いなぁ。アイドルやめたいーって」

「元々もりくぼにアイドルなんて向いてないですし……。ひっそり、静かに、普通の家庭の中にいられれば、それで……それが、良いんですけど……」

「この頃は皆とも打ち解けてきて、アイドルでいることも楽しめてきたのかなーなんて思ってたんだけどなぁ」

「それは、そんな……全部が駄目なわけじゃ、ありませんけど……」

「やっぱり、もう嫌?」

「……嫌とかでも、ないんですけど……。苦手で、でも……嫌なだけじゃ、ないですし……」

「そっか。でも、それならどうして? 最近、アイドルやめたいーってそういう感じのことを言うの、また増えてきたけど」

「……べつに、アイドルをやめたいなんて言ってませんけど……。もりくぼは、ただの女の子になりたいって、そう言ってるだけなんですけど……」

「……? それは同じなのでは?」

「全然違いますし。……プロデューサーさんは少し、鈍感が過ぎるんですけど……それは全部気付かれても、それはそれで困りますけど……」

「なんだろう。僕が悪いのかなこれは」

「その通りなんですけど……」 

「そっか、それじゃあごめんな。……まあでも」

「……?」

「それなら乃々はアイドルに嫌気が差したり、やめようとしてたり、そういうわけじゃないんだね」

「それは、はい……。……やめたりだとか、そんなことしたら……アイドルじゃないもりくぼじゃ……もう、ここにも居られなくなっちゃいますし……やめたりなんて、しませんけど……」

「そっかそっか。……ん、それなら僕ももっと頑張らないとなぁ。もっと嬉しくもっと面白く、もっと楽しくアイドルをやってもらえるように。乃々には責任あるしね」

「責任、ですか……?」

「そ、責任。乃々をアイドルとしてプロデュースしてるのは僕だから。乃々のプロデューサーとして、乃々に対してはちゃんと責任持たないとさ」

「……責任。……プロデューサーさんは、もりくぼのこと……ちゃんと責任取ってくれるん、ですか……?」

「それはもちろん。取らせてもらうよ、誠意を持って」

「……そう。……そう、ですか……」

「まあ、僕にそんなこと言われても乃々からしたら不安かもしれないけどさ」

「そんなことはありませんけど……でも、そう。……プロデューサーさん」

「ん?」

「もりくぼがアイドルで……アイドルになって、いろいろを知ることになって……それで……アイドルをやめられなくなってしまったのは、アイドルを……この場所を離れられなくなってしまったのは、それは……プロデューサーさんの責任、ですから……だから……」

「うん」

「だから……ちゃんと責任、取ってください……。もりくぼが、ただの女の子に戻るときまで……そして、それから……ただのもりくぼ……ただの女の子になった、ただの……のののことまで……ちゃんと……」

「大丈夫、ちゃんと責任取るよ。ちゃんと乃々をシンデレラにしてみせる。それに、引退してからも当然ね」

「……ほ、ほんとう、ですか……?」

「本当だって。乃々をシンデレラに、っていうのが今の僕の夢だし。引退してからも乃々には輝ける活躍の場を提供できるからね。どうせ僕はその先でもプロデューサーなんだろうし、後輩たちの指導とか、そういうのに呼んだりさ」

「……はぁ」

「ん、何、どうかした?」

「べつに、なんでもないんですけど……プロデューサーさんがそういう人だって……そういうのは、分かってましたし……」

「んー?」

「……いいです。……今はそれで、それでも……いいんです……。今は、まだ……」

「乃々?」

「……プロデューサーさん」

「うん?」

「いつか……いつか、プロデューサーさんには責任、取ってもらいますから……。もりくぼから森久保を奪って……それで……もりくぼを、ただの……ののに、してもらいますから……」



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贈りたい。叶えることのできる、ぜんぶ(佐久間まゆ)

 愛しています。

 プロデューサーさん。

 まゆは、プロデューサーさんのことを愛しています。

 誰よりも、ずっと。

 何よりも、もっと。

 他のどんなすべてよりも、ずっと、もっと。

 愛しています。

 貴方と居られると、まゆの身体は幸せに火照ります。

 貴方を思えば、まゆの心は幸せに染まります。

 貴方への愛を抱いて、貴方を愛するとき、まゆは幸せに満たせれるんです。

 貴方無しではいられない。

 生きます。貴方無しでも、貴方の為に。――でも、生きられないと言いたくなってしまうほど。

 死にません。貴方無しでも、貴方の為に。――でも、死んでしまうと言いたくなってしまうほど。

 それほど、愛しています。

 貴方はまゆの運命の人。

 貴方と出逢えなければ、まゆは、今のまゆにはなれなかった。

 貴方と時を重ねなければ、まゆは、これほどの夢を未来に見ることができなかった。

 貴方と寄り添い歩かなければ、まゆは、こんなにも温かで幸せな愛を抱くことなんて叶わなかった。

 きっと、貴方とでなくても幸せには至れるんです。

 心地よくて、気持ちよくて、そんな幸せに。

 でも。

 でも、それでも、まゆには貴方。

 他にどんな幸せへの道があったとしても、そこへ進めば何の壁や障害もないのだとしても、苦もなく幸せへと至れるのだとしても。

 それでも、まゆには――今の、この、ここにいるこのまゆには、私にはプロデューサーさん、貴方なんです。

 貴方。貴方こそが、まゆの運命の人なんです。

 まゆが望む――まゆが自分の、相手の、そして二人の幸せを。それをまゆが望むのは他の誰でも何でもない貴方と。二人で紡ぐ幸せ、それを共に重ねていきたいと望むのは貴方なんです。

 貴方の為なら何でもできます。

 たとえどんなに難しくても、どれほど遠くても、遥かな果てにあろうとも。

 貴方の為なら。貴方の、まゆの、貴方が願いまゆが夢見る二人の幸せの為なら、それを叶える為なら、何だって。

 ええ、何だって。

 貴方と結ばれる、それだけじゃない。

 輝くドレスで煌めく舞台を舞い踊って。アイドルの夢、貴方に贈られ貴方と目指すこの夢も、その何もかもを叶えて。

 貴方と叶えるのではない他の、大切な仲間と、友人と、関わる皆と叶える幸せを、そのすべても叶えて抱えて。

 そうして結ばれる。

 貴方と結ばれるその為に他の幸せを切り捨てるんじゃない。

 叶えて。他の幸せを叶えて抱えて、そうして貴方と結ばれる。

 きっと、それさえも。

 難しくて、遠回りで、そうして貴方は最後の果てにようやく。

 そんなそれさえ。そんな幸せさえ叶えてみせる。

 他の何をも切り捨てて、放って、無くして。そんなまゆより。

 他の何をも叶えて、抱き締めて、溢れさせて。そんなまゆを、貴方へ贈りたい。

 誰よりも大好きな、何よりも愛おしい貴方には――最高の貴方には、最高のまゆを贈りたいから。

 だから叶える。叶えてみせる。

 そう、言えるほど。そう本気で思って、そう本当に努力を重ねられるほど。

 そうしてまゆのすべてを懸けて、注いで、尽くせるほど。

 それほど、まゆは貴方を愛しているんです。

 愛して愛して愛して、愛している。

 愛しているんです。

 心の底から、嘘偽りなく、ただまっすぐ一途に貴方のことを。

 愛している。本当の意味で、愛しているんです。

 ええそう、本当の意味で。

 真実本当にまゆは貴方を愛しているんです。

 ただ好きなだけじゃない。

 もちろん貴方は好きで、大好きで、これ以上ないほど想っています。

 溢れて止まらない好意に、生まれて無くならない恋慕に、どうしようもなくどうにもならないほど大きく深い愛に自分のすべてを塗り染められてしまうほど。

 身体も心も、まゆの何もかも、世界さえ貴方の色に輝かされてしまうほど。

 それほど、貴方のことは大好きです。

 好きで好きで好きで。

 大好きで大好きで大好きで。

 恋しく、思い慕い、愛おしく想っています。

 でも。

 でもだけど。

 同時に。そうして大好きなのと同時に、まゆは、貴方のことが嫌いなんです。

 嫌い。嫌いで、大嫌いなんです。

 例えば、優しいところ。

 誰にでも何にでも優しい貴方の性格。それはまゆも大好きです。

 でも、貴方は少し優しすぎるから。相手の為、自分を省みなさすぎる。相手へ手を差し伸べる為、自分を犠牲にしすぎてしまう。

 そんなところがまゆは嫌い。大好きで、でも大嫌い。

 例えば、無頓着なところ。

 目指す夢や大切なアイドル達のこと。そのことについてなら貴方はどこまでも深く深く、熱意を持ってこれ以上なくしっかりと取り組める。

 でも、熱意の向かない他のことについて、貴方は少し無頓着すぎる。気付かず、取り組むことができないから。

 そんなところがまゆは嫌い。自分の周りを疎かにしてしまう貴方が、まゆは大嫌い。

 例えば、例えば、例えば。

 きっといくつも挙げられる。

 貴方の嫌いなところ。誰よりも大好きで何よりも愛おしい貴方の、大嫌いなところ。

 ええそう、まゆは貴方が嫌いです。

 嫌い。大嫌いなんです。

 だって。

 だって、まゆは、貴方のことを見ているから。

 正しく。曇らせず。誤魔化さず。

 ありのまま。そのままの、等身大の貴方を見ているから。

 だから嫌い。

 ちゃんと嫌いで、しっかりと大嫌い。

 貴方のことだから、と本当は嫌いなところを好きだと間違うのではなくて。

 貴方がするのだから、と本当は嫌いなところを恋しいんだと思い込むのではなくて。

 貴方が大好きで愛おしいから、と本当は嫌いなところを愛らしいのだと塗り替えるのではなくて。

 嫌い。

 嫌いは嫌い。

 貴方でも、貴方だからこそ。

 まゆは貴方のことを正しく好いて、ありのまま愛して、そうして誤魔化さずに嫌いなんです。

 愛しているから。

 眩しい好意に振り回され、熱い恋心に踊らされ、間違った愛に支配されるのではなく。

 愛しているから。

 愛ゆえに。

 まゆは貴方のことが嫌いなんです。

 そして。

 そして、だからこそ。

 そうして好きで、嫌いでいるからこそ言える。

 胸を張って、自分で自分を信じながら、貴方の目を見てまっすぐに。

 愛しています。

 まゆは、貴方のことを愛しています。

 そんなふうに想いを。

 嘘偽りのない、本当の、心からの想いを貴方へと贈れるんです。

 ええ、プロデューサーさん。

 愛しています。

 好きです。

 大好きです。

 まゆは、貴方のことを、愛しています。

 ――うふ。

 なんて、突然ごめんなさい。

 帰ってきて早々、こんなふうに捲し立てられて、びっくりしちゃいますよね。

 ごめんなさい。

 でも、知っておいてほしかった。――ううん、知っておいてもらわないといけなかったんです。

 貴方には、まゆのこの想いを。

 誰よりも大好きなこと。

 何よりも愛していること。

 そして、誤魔化すことなく嫌いでいること。

 しっかりと、貴方には。

 ……うふ、ありがとうございます。

 よく分かったよ。って、言ってもらえて嬉しいです。

 まゆを分かってもらえて、とっても。

 うふ。

 うふふ。そして、そうしたら、ねぇプロデューサーさん。

 分かってもらえたなら。まゆが貴方のことを正しく好きで、嫌いで、愛していることを分かってもらえたなら。

 これも、分かってもらえましたよねぇ?

 今の、この、これも。

 なんていったって、プロデューサーさんですから。

 まゆが貴方のことを知っているように、貴方もまゆのことを知ってくれている。

 誰よりも、もしかしたらまゆよりも。

 だから、そんなプロデューサーならきっと。

 分かってもらえましたよね?

 貴方を正しく嫌いでいられるまゆのこと。

 自分の身の回りに無頓着な貴方と、綺麗好きなまゆ。

 ――うふ。

 ええ。ええ、ありがとうございます。

 ちゃあんと分かってもらえたようで何よりです。

 まゆが今ここにいて、こうして貴方を貴方のお部屋で出迎えて、そしてこんなふうにしていること。

 重たいゴミ袋と紐で縛り付けた本。それを脇へ置いて、こうしてお話をしていること。

 その意味。それを、分かってもらえたようで。

 ありがとうございます。以心伝心、しっかりとまゆは貴方と繋がれていたようで、嬉しいです。

 そう。ええそう。

 まゆが今ここでこうしているのは、プロデューサーさんのお部屋を片付けていたから。

 整理をして、分別をして、掃除をして。

 そうしてこのお部屋を片付けていたからなんです。

 鍵は以前渡していただいたものが――ええ、プロデューサーさんの記憶にはないかもしれませんが、渡していただいたものがありましたから。

 以前プロデューサーさんのご実家へ訪ねさせていただいた折、プロデューサーさんのお母様から。

 ええ、ごめんなさい。以前撮影で近くへ行ったとき、プロデューサーさんには内緒で訪ねさせていただいたんです。そこでいろいろとお話をして、仲良くさせていただいて、そうしてプロデューサーさんのお部屋の合鍵を。

 うふ。そんなふうに言ったら駄目ですよぉ。良いお母様じゃありませんか。優しく朗らかで息子思いな、ええ、良い――お義母様、です。

 うふふっ。

 ……と。まゆが鍵を手に入れた経緯はさておき、プロデューサーさん。

 まゆが今ここにいるのはそういうこと。

 そしてまゆが今、こうしているのは……ええ、分かりますよねぇ?

 そう。ええ、そうです。

 まゆが今ここでこうしているのは……それは……。

 ……プロデューサーさん。

 なんで。……ええ、なんで、どうして。

 どうしてなんですか。

 どうして……

 

「どうして、こんなえっちな本をたくさん持ってるんですかぁ!?」

「あー……いや、そのな?」

「一冊や二冊じゃありません。こんな、紐で縛らないと持ち運べないくらいたくさん……」

「……ごめんな。アイドルのプロデューサーとして、こういう物を持っているのはあまり健全じゃないのかもしれない。男だから、なんて言い訳はできな」

「違いますっ」

「え」

「えっちな本を持っている。そのことはべつに――それは、好ましく思うわけではありませんけど……でも、構わないんです。――さっきも言った通り、まゆはまゆに叶えられるものすべてを叶えて貴方へ贈りたい。贈るつもりです。でも、叶えられないものだってある。体格や性格、在り方。だからそんなまゆには叶えられない他のものを、プロデューサーさんがこういう形で望んで、発散してくれるのは構わないんです」

「えっと、なら」

「まゆが怒っているのは」

「怒っているのは」

「……数です。種類です。溜め込んだ本の数と、プロデューサーさんが選んだ本の種類ですっ」

「数と、種類?」

「こういう本を集めるということは、プロデューサーさんは欲求不満だったってことですよねぇ?」

「えっと、あー……まあ、そう、なのかな」

「そうなんです。――そしてそのことについてまゆは何も怒るようなことはありません。それは自然で、当然のことなんですから」

「うん。……なら」

「ええ。だから、まゆが何に怒っているのかというと」

「いうと?」

「……なんで。どうして、そのえっちな想いをまゆへぶつけてくれなかったんですかぁ!?」

「……え?」

「確かにまゆが叶えてあげられないものについては仕方ありません。《モデル体型で神秘的なお酒好きのお姉さん》《派手カワ誘惑JKギャル》《天真爛漫純真無垢な元気っ子》そんないろいろは、仕方ないと思います」

「あ、えっと、あの」

「ええ、仕方ありません。むしろそういうまゆには叶えられないものは、そうして健全に求めてもらった方が嬉しいくらいです。……でも」

「でも」

「でも、なんで。……なんでっ、どうしてっ」

「……」

「どうして、こんなまゆにそっくりな子のものまで持ってるんですかぁ!?」

「……えーっと」

「言った通り、まゆが叶えてあげられないようなものを求めてこういう形で発散することはいいんです。いいんです、でも……でもっ、これは嫌。これは嫌なんですっ」

「自分に似てるのは?」

「そうですっ。……だってそれは、まゆにも叶えてあげられるものじゃないですか。貴方へ贈って、貴方へ注いで、貴方へ尽くして――まゆが、貴方へ、叶えてあげられるものじゃないですか」

「や、それは」

「まゆはまゆに叶えられることはぜんぶ叶えたい。わがままですけど、まゆは、まゆに叶えられるぜんぶを貴方にまゆへ望んでほしい。贈らせてほしい。注がせてほしい。尽くさせてほしいんです。だから嫌。だからこれは。だから……」

「……だから?」

「だから、まゆは決めました。……プロデューサーさん」

「……ん」

「……」

「…………んー」

「…………」

「んー…………んー!」

「えっと、どうしたのかな」

「ん、もうっ、決まってるじゃないですかぁ」

「いやごめん、あんな突然目を閉じた状態で唸られても」

「唸ってたんじゃありません。目を閉じて、唇を晒して、そうして待ちながら催促してたんですっ。ちゅーです。ちゅー。おかえりなさいのちゅーに決まってるじゃないですかぁ」

「やー……あんな、いきなりああされても」

「いきなりじゃありません。ちゃんと前置きをして、ちゃあんと説明までしましたよぉ」

「えっと、してくれてたっけ」

「しました。……言いましたよね。まゆはまゆに叶えられることはぜんぶ、ぜんぶぜんぶ叶えたい。プロデューサーさんへ尽くしたいんだ、って」

「それは、うん」

「だから、つまり、そういうことです。……望んでくれてるんですよね。何冊も何冊もあったみたいに。まゆと、新婚さんみたいないろいろを」

「……えっと」

「だから、まずはここから。仕事を終えた旦那様への、おかえりなさいのちゅーからです」

「ちゅーから、なんだね」

「もちろんですよぉ。まゆは、叶えられる貴方のぜんぶを叶えてあげたいんですから。だから、まずはちゅーから。――そして、それから、その先も」

「……」

「うふ、大丈夫。拒んでもらって構いませんよぉ。今はまだ応えるその時じゃない、ってプロデューサーさんがそう思っているのも分かってますから」

「分かってて、でもやめる気はないんだね。こんな、抱き締めてきて」

「はい。まゆはとってもわがままですから。いつかいつの日にかプロデューサーさんが受け入れてくれるその時まで、隠すようなことはしないでまっすぐそのまま想いのぜんぶを贈るんです。だからやめません。プロデューサーさんを求めること。プロデューサーさんと、本当に結ばれるその時までずっと」

「……まゆ」

「愛しています。いつかのその時までずっと。いつかのその先へ至ってもずうっと。愛しています。――大好きですよぉ、プロデューサーさん」



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貴方と望む幸せ(鷹富士茄子)

 私は幸運。

 皆が言う通り、私が自覚している通り、貴方がそう受け入れてくれている通り。

 私は幸運。

 幸運で幸運な、幸運に包まれた女なんです。

 昔からそうでした。

 優しく温かな幸せが、いつも周りに溢れていました。

 今もそう。

 望むものと紡ぐ幸せが、いつでも私とそれの間に満ちています。

 未来でだってきっと。

 何より願い誰より求める幸せは、いつもいつでも叶い実現して本当の本物になるはずです。

 幸運。

 私は幸運なんです。

 だから。

 幸運。だから、私は思っていました。

 私のこの幸運が、どうか他の皆にも注がれますようにと。

 他の皆。私の周りにいる人たち。私が大切に思うかけがえのない人たち皆。

 皆に、皆にも、どうか広がってほしい。

 幸せになってほしい。

 そう思っていました。

 そう思っていて、そして今でもそう思っています。

 そうなるのが理想で、そうするのが私の為すべきこと。そう思ってきましたし、そう思っています。

 私の好きな彼へ。

 私の大好きな彼女へ。

 私の愛する彼ら彼女らへ。

 どうか幸せが届きますように。

 どうか私のこの幸せが、大切な皆のもとへも広がり、満ちますように。

 愛おしいすべて、何もが幸福な祝福に照らされ輝かされてほしい。

 幸せに、幸せに幸せに。

 すべて、余される人はなく、全員が幸せになってほしい。

 私はこれまでずっとそう思ってきて、そしてこの今にもそう心に思っているんです。

 ……でも。

 でも、駄目。

 でも、駄目でした。

 駄目だったんです。駄目で、駄目なんです。

 そんなふうに思って、願って、そうして私は努めてきました。

 ずっと。ずっとずうっと。

 でも、駄目でした。

 私がそうして願う通り、私は私が大切に思う私の周りの皆を幸せにはできませんでした。

 幸せを与えられなかった。

 幸せを分けて、注いで、満たすことができなかった。

 できなかった。

 できなくて。……それどころか私は、そんな皆へ、幸せとは真逆の不幸をばかり撒き散らしてしまった。

 幸せを贈りたかった私は、不幸をしか贈ることができなかったんです。

 不幸。それは、大きいことから小さいことまで。

 突然の怪我や病気、仕事の失敗や取り巻く環境の変化。挙げきれないほど多くの数、把握しきれないほど多様ないろいろ、そんな不幸を私は皆へ注いでしまったんです。

 それは、幸運も注ぐことはできました。

 今まで通りこれまで通り、優しく温かな幸運を。

 注いで振り撒いて、そうして周りの皆へと広げることは。

 でもそれはそれだけのこと。

 幸運も注ぐことはできました。ただそれは、それを上回る不幸を併せ抱いたものでした。

 押し寄せる不幸の中、幸運はわずかに瞬くような小さく淡いもの。塗り潰されて消えてしまいそうな、そんな弱い幸せしか注げなかった。

 私はわずかでかすかな幸運を届け、同時に大きく深い不幸を皆へ贈ってしまったんです。

 私は皆へ幸運を届けたい。

 大切な皆を、心地のいい幸せに満たしたい。

 そう願ってそう望んで、そう心から思っているはずなのに。

 私はそれが叶えられない。

 叶えられずに叶えられなかったんです。

 だって。

 だって、私は幸運ですから。

 皆が言う通り、私が自覚している通り、貴方がそう受け入れてくれる通り。

 私は幸運ですから。

 だから、幸運だから、だから私は駄目でした。

 叶う。

 願うこと。望むもの。思い描いて、そして想いを尽くす物事。

 幸運な私のそれは叶う。

 私の幸運は、それを、叶えてしまう。

 そう。そうです。

 叶うんです。叶って、叶ってしまうんです。

 私が願うこと。

 他の誰よりも強く、願うこと。

 私が望むもの。

 他の何よりも深く、望むもの。

 私が思うもの、想うこと。

 他の誰よりも思いを注ぐものとの、他の何よりも思いを尽くすこと。

 それは……それが、叶ってしまう。

 どうしようもなく叶う。

 どうにもならないほど叶うんです。

 どうしようもなくどうにもならないほど、叶ってしまうんです。

 すべて。

 すべてすべてすべて。

 叶う。

 他のすべてを排して。それが叶う代償として、他のすべてへ不幸を降り注がせて。

 叶う。

 他の皆を不幸にして、そして、そうして叶ってしまう。

 貴方が。

 私が他の誰よりも好む貴方が。

 私が他の何よりも恋慕う貴方が。

 私が他の誰よりも何よりも愛する、貴方が。

 貴方が叶う。

 私の一番。私の最高。私の至上。そんな、唯一の貴方が。

 貴方が叶ってしまう。

 貴方が、貴方との幸せが。

 他の誰かに届けられるはずだった貴方の身体が。

 私の隣へ添う貴方、私を見守ってくれる貴方、私へ触れてくれる貴方が。

 他の何かに注がれるはずだった貴方の心が。

 私を心配してくれる貴方、私のことで胸を埋めてくれる貴方、私へ想いを尽くしてくれる貴方が。

 他の誰か、他の何か、私でない他のものへ贈られるはずだった貴方という人が叶う。

 奪い取るようにして。他の皆の幸運を不幸へとすげ替えて、そしてそれを自分の幸運にして。

 そうして叶う。叶えて、叶ってきてしまった。

 プロデューサーさん。

 私はそう。私の幸運は、そうなんです。

 私が至上だと定め、最高の人だと心から想う、他のどんな誰よりも何より一番に願う貴方を。

 貴方のこと、貴方とのことだけを、他のすべてに優先して叶えてしまうんです。

 必ず、絶対、たとえどんな何があろうとも。

 私が願う、貴方と二人で紡ぐ幸せを、余すことなく叶えてしまうんです。

 どうしようもないんです、私の意思でも。

 どうにもならないんです、私の意志では。

 駄目だ。いけない。止めないと。

 そんなふうに思って、願って、祈っても。

 叶うんです。

 私の思いなんて関係なく、私の想いに応えて、私が一番に望む貴方との幸せがどうあっても叶ってしまうんです。

 プロデューサーさん。

 私は、良くありたいと思っています。

 皆に幸せを。皆で幸せを。皆の幸せを。それを、叶えたいと思っています。

 でもプロデューサーさん。

 私は、弱くて悪い女なんです。

 貴方を一番に望んでしまう。貴方といる私の幸せを最高に据えてしまう。貴方と二人で紡ぐ幸せを至上のものだと定めてしまう。

 貴方のことを願ってしまうんです。

 こんなにも思っているのに。皆へ幸せを贈りたい。そう、こんなにも強く深く思っているのに。

 それ以上の強さで、それを超える深さで。その思いが塗り潰され、染め変えられ、消えて無くなってしまうくらい、そんなにも貴方のことを想ってしまう。

 どうしようもないんです。

 どうしようもないくらい、私は貴方を好きになってしまったんです。

 どうにもならないんです。

 どうにもならないくらい、私は貴方に恋をしてしまったんです。

 どうすることもできないんです。

 もうどうすることもできないくらい、私は貴方という人を愛してしまったんです。

 好きなんです。

 この身のすべて、何もかもを委ねられるほど。

 恋しいんです。

 この心のすべて、何もかもを捧げられるほど。

 愛しているんです。

 この身も、この心も。私という存在の何もかもすべて、それを懸けて尽くすことさえ叶うほど。

 私はもう、私の世界はもう、貴方という唯一人に染められてしまったんです。

 だから。

 だから、駄目。

 貴方を一番に望まないこと。貴方の色に染め上げられた私の世界を、ほんのわずかにでも貴方以外の色で塗り重ねること。

 それは駄目。それを叶えられるほど、もう、貴方は私の中で小さくなどないんです。

 大きくて、大きくて。貴方はもう私の世界そのものなんです。私という女の、すべてなんです。

 だから駄目。叶わない。

 皆へ不幸を振り撒いてしまわないために貴方を落とすこと。貴方から遠ざかり、貴方を諦めること。

 それはもう、私には叶えられない不可能事。

 プロデューサーさん。

 だから私は悩みました。

 貴方が好きで、貴方に恋をして、貴方を愛してしまった私は。

 悩みました。

 どうにかできないか。皆へ不幸を振り撒かずに済む、そんな選択はできないのか。

 その方法を探して、私は悩みました。ずっとずうっと悩んできたんです。

 貴方を愛する私が、貴方を愛するがゆえのそれを、止める方法。

 悩んで悩んで悩んで。そうして、私は探してきました。

 もちろんすぐには見付かりませんでした。

 もっとも簡単な方法。貴方を諦める、というそれを私は決して選べませんでしたから。

 それなら、そうしたなら、他の方法なんてなかなか無くて。だから私はずっと、悩みながら探し続けてきたんです。

 ずっと。

 ずっとずっとずうっと。

 でも、プロデューサーさん。

 そうして探し続けて、悩みながらも進み続けて。そして私は、やっとそれを見付けることができたんです。

 その方法を。

 誰よりも何よりも貴方のことを愛しながら、皆へ不幸を振り撒かずに済む方法。

 見付けたんです。

 やっと。やっと。

 だから。

 だから、プロデューサーさん。

 だから、私は――

 

 

 

 

「こうして貴方を閉じ込めることにしたんです」

「……ふふ。ええ、そうです」

「他の誰も知らないこの場所。他の何も入り込めないこの場所。貴方の他には私だけのこの場所へ、貴方のことを、こうして」

「だって、それが唯一の方法だったんです」

「貴方も皆も、すべてを諦めずに済む方法は」

「これだけだったんです」

「貴方をこうして閉じ込めてしまえば、私は貴方を思うままありのまま愛することができる」

「貴方をこうして閉じ込めてしまえば、私は皆へ不幸を振り撒かずにいられる」

「貴方を愛する私が、皆へ不幸ではなく幸運を降り注がせながら、誰よりも何よりも望む貴方との幸せを叶えられる」

「これは、これなら、それが実現するんです」

「ふふ」

「大丈夫です」

「そんなに心配しなくても、この今は、絶対に崩れたりなんかしませんから」

「この、こんな、貴方を閉じ込めた今は」

「ずっとずうっと続きます」

「不幸のない幸せなこの今は、どんな先の果てまでも崩れることなく続きますから」

「だって、私は幸運なんです」

「自分ではどうにもならないほど」

「自分ではどうしようもないほど」

「貴方と望む幸運は、どうにもならずどうしようもないほど絶対で絶対な絶対なんです」

「だから、大丈夫」

「見付かったりなんてしません。この場所は」

「辿り着かれなんてしません。この現実へは」

「入り込めなんてしません。貴方と私の間には、誰も、何も」

「大丈夫。大丈夫なんです」

「だから、プロデューサーさん。どうか安心してください」

「貴方と私の幸せは叶い続けます。ずっとずうっと、終わることなく、叶って叶って叶います」

「そして皆も幸運に満ちて、ずうっと。ずっとずっとずっと、きっとそれぞれに望むどんな幸せをも掴んで、幸運に包まれたままいられます」

「ええ、どんな幸せをも掴んで」

「……貴方を除いた、他の、どんな幸せをも掴んで」

「ふふ」

「だから大丈夫。他の子のことは何も心配なんてしなくていいんです。ただ安心の中、私とのこの今に貴方を委ねてくれればいいんです」

「そう、委ねてくれれば。そうすれば、そうしてくれれば、それだけですべてが叶うんですから」

「皆の幸せも」

「私の幸せも」

「貴方の幸せも」

「すべて。何もかも、ぜんぶ」

「叶うんですから」

「だから、プロデューサーさん」

「受け止めてくださいこの今を」

「受け入れてくださいこの私を」

「全身で受け止めて、心の底まで受け入れて、この私との今を抱き締めてください」

「そうすれば、未来永劫の温かな幸せが叶うんです」

「ふふ」

「そう、永遠の幸せが」

「今このここから始まる、終わりのない幸せが」

「私が望む。私がこれまで頭の中で描いてきた、願って祈ってきたいろいろが、たくさんの幸せが、余さずすべて」

「……ああ」

「素敵です。とても、とっても、素敵です」

「貴方と望むすべてが、これから叶うんだと思ったら」

「素敵で。素敵すぎて、胸の高鳴りが収まりません」

「貴方と、口付けること」

「私の吸う息はすべて貴方の吐息。貴方の吸う息はすべて私の吐息。隙間なく絶え間なく、何も入り込む余地のないような深さと濃さで互いの舌を絡めあって。唇も、頬も、滴る雫に首から下までをもどろどろに濡らして汚しあいながら。一日ずっと、ただ貴方と口付けを交わしあう」

「貴方と、結ばれること」

「これまでどんな誰にも何にも触れられることのなかった初めてを、これからどんな誰にも何にも触れられることのない貴方だけの私を、貴方のすべてで以て受け入れてもらう。これから、もう他のどんな誰にも何にも決して触れられることのない貴方を、愛しい愛おしい私だけの貴方を、私のすべてで以て迎え入れる。そうして、貴方と、結ばれる」

「貴方と、唯一になること」

「貴方が見るのは私。私が見るのは貴方。貴方が聞くのは私。私が聞くのは貴方。貴方が嗅ぐのは私。私が嗅ぐのは貴方。貴方が味わうのは私。私が味わうのは貴方。貴方が触れるのは私。私が触れるのは貴方。想い、恋をして、愛おしむのは互いのこと。身体に感じるすべて、心に感じるすべて、何もかもすべては唯一人の相手のこと。貴方のすべてが私に染まって、私のすべてが貴方に塗り尽くされる。貴方は私。私は貴方。貴方は私の、私は貴方の、唯一となること」

「それが、叶うなんて」

「こんなにも好きな貴方」

「私を震わせる表情。私を痺れさせる声。私を狂わせる唇。私を安心させる胸元。私を魅了するそのすべて。私を、こんなにも好意へ昇らせる貴方」

「こんなにも恋しい貴方」

「傍へいてくれる、ただそれだけでこの胸の高鳴りを私の意思の外へと持ち去ってしまう貴方。脳裏へ浮かべる、ただそれだけで私に幾千の夜さえ越えられるような喜びをもたらしてくれる貴方。触れてくれる、ただそれだけで心も身体も何もかもすべてが燃え上がり焼け落ちてしまいそうになるほどの情動をくれる貴方。貴方とのこと。ただそうあるだけで、他の誰かから見れば取るに足らず特筆すべきでもないような些細なことでさえ、私を、こんなにも恋へ堕としてしまう貴方」

「こんなにも愛おしい貴方」

「私のこれまで、私の今、私のこれから。そのすべてに意味を与えてくれた貴方。私の生きる意味、私の逝く意味、私という女の存在するその意味になってくれた貴方。私が今こうしているのは貴方のため。私が今こうして未来を夢見ながら歩みを進めているのは貴方のため。私がこれまで積み重ねてきたのは、今積み上げているのは、これからずっと重ね上げていくのは貴方のため。私のすべては、比喩なんかじゃなく本当に本当な本当のすべては貴方のため。私のすべて。私の、余すことない何もかもすべて。貴方は私の意味になった。貴方は私のすべてになった。それほど。それほど、それほど、私を、愛に塗り染めた貴方」

「それが、叶うなんて」

「その、そんな、それほどの貴方が」

「こうして、ここにいる、この貴方が」

「貴方との幸せが叶うなんて」

「こんなのもう堪りません」

「熱くなる。心が、身体が」

「高く弾む。心も、身体も」

「満ち届く。心が、身体も」

「貴方への想いが溢れて零れて止まらなくて。もう、どうしようもなく、堪らなくなっちゃいます」

「今すぐにでも口付けたい」

「貴方の吐いた息を吸って、貴方の湧かせた涎を飲んで、意識を失ってしまうくらい求めあいながら、貴方と口付けたい」

「今すぐにでも結ばれたい」

「そうしてベッドの上へ横たわる貴方へ覆い被さって。この、こんな、何も飾らないそのままの私で貴方へ重なって。そうして貴方と結ばれたい」

「今すぐにでも唯一になりたい」

「口付けて。結ばれて。貴方と好意を、恋慕を、愛を尽くしあって。交わりを積んで、時を重ねて、そうして唯一へ。私のすべてである貴方のすべてを私へ。貴方の意味を、貴方のすべてを、貴方の愛を私という唯一人へ。そうして、その末、貴方と唯一になりたい」

「そんな想いが溢れて止まらず抑えられない」

「――ほら」

「私の胸、高鳴りに破れてしまいそうなくらいドキドキしてるの、分かりますよね。息が荒くなるのも止まらないし、貴方への想いが――いろいろが、溢れてしまうのも止められません」

「それくらい、なんです」

「それくらい、もう、私は貴方に堪らないんです」

「ふふ」

「大丈夫。大丈夫ですよ」

「今はまだ不安かもしれません。不安で、だからそんな表情にもなってしまうのかもしれません」

「でも大丈夫。大丈夫なんですよ」

「だって私は幸運なんです」

「どうにもならず、どうしようもないくらい、貴方との幸せを叶えるためなら私は」

「だから大丈夫」

「今はまだそうして不安かもしれません。でも必ず、貴方は幸せになれるんですから」

「幸せ。幸せで幸せな、幸せに」

「だって私は幸運ですから。貴方との幸せは、絶対に、何があっても叶います」

「そしてその貴方との幸せは、私と、貴方の、二人の幸せの叶った先にあるものですから」

「私も貴方も幸せで。私と貴方が幸せで。私と貴方二人の幸せの果てに、貴方との幸せはあるんですから」

「だから大丈夫」

「貴方は幸せになります。幸せにさせられます。幸せにしてみせます」

「これ以上なんてない幸せに」

「そんな表情をしなくてもいい、ただひたすらな、幸せに」

「私との幸せに」

「昇らせてあげます。堕としてあげます。埋め尽くしてあげます」

「とろとろに蕩けさせて、どろどろに溶かして。私が、貴方を――プロデューサーさんを、幸せの中へ包み抱いてあげますから」

「だから、安心してください」

「もう何も不安に思うことはありません。心配することも、気に掛けることも」

「私以外を想うことも。――何も、誰も」

「ええ、そうです。貴方は私のことだけを想ってくれればいいんです」

「私にとっての貴方がそうであるように、貴方にとっての私も貴方のすべてになりますから」

「きっと。きっとすぐ。きっと絶対に」

「だからそうなったら、それからはもう、私のことだけをまっすぐに」

「私を、鷹富士茄子を」

「プロデューサーさんは、想ってくれればいいんです」

「ふふ」

「だから大丈夫。安心して、ほら、私にすべて委ねてください」

「幸せにします」

「他の誰が贈ることのできるそれよりも、他の何が与えることのできるそれよりも、他のどんなすべてよりも素晴らしい幸せを叶えます」

「叶えて、そうして永遠の幸せの中で私が貴方と寄り添い続けますから」

「永遠に。ずっと、ずうっと」

「貴方を愛して尽くし続けますから。――大好きですよ。私の、愛おしいプロデューサーさん」



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触れないキスを(速水奏)

『柔らかくて、温かくて……とっても気持ちのいい場所。私のここへ……触れて、みたくない……?』

『貴方と向かい合って、目を閉じて、そうして晒して突き出して……ほら、プロデューサー。私が欲しいもの……ここまでしてるんだもの、分かるでしょう?』

『ねぇ、プロデューサー。私と、キス、してみない……?』

 

 出逢ったあの時。突然のスカウトを受けたあの時から、何度も言い続けてきたこと。

 私と出逢い、私をスカウトしたあの人。私を見付けて、育てて、そうして今のこのここのこんな場所まで連れてきてくれた人。私のプロデューサーへ。

 何度も、何度も。

 それこそ数え切れないくらいに言ってきたこと。

 キスをしましょう。

 からかいを込めて。キス、というそれへの興味も込めて。それ以外の想いも混じらせながら。

 何度も言ってきたこと。

 それをまた……あの時から何度目かの、今日だけでも何度目かの、それを言う。

 

「ねぇ、プロデューサー」

「そうして仕事をしてるのは……担当の、私の為の仕事を、そこまで打ち込んでやってくれているのは嬉しいのだけど」

「根を詰めすぎ。さっきからほとんど休憩も取らないで……少しくらい、息を抜かなきゃダメよ」

「だからほら、息抜き。私と、ね……?」

「癒してあげる。――ほら、私と、キスしましょう……?」

 

 空いた時間をこの部屋の中へ入り浸るようになった私のためにプロデューサーが用意してくれた、二人で座るには少し狭い小さなソファ。その上へ身体を座らせながら、目の前のプロデューサーへ向けて。

 でもそれは躊躇いも何もなく「キスは遠慮しておこうかな。気持ちだけ受け取っておくよ、ありがとう」なんて、なんでもない普段と何も変わらない調子の声で断られる。

 デスクへ向かって、私へ背を向けたまま。一瞬、小さく振り返ってほんの一瞬だけ、困ったような微笑を私へ返して。そうして私を断って、プロデューサーはすぐに仕事へ戻ってしまう。

 初め――出逢って間もない頃、表面を触れ合うばかりでまだ今のように互いの奥までは触れられていなかった頃、あの頃は決まってあたふた慌ててくれたのに。

 からかうため。顔を赤くして、手をぶんぶん振り回して、そうして照れて慌ててくれるのが面白くて。そんな姿を見るのが楽しくて、そんな反応を返してくれるのが好ましくて。だから、まるで挨拶のように。なんでもない会話と同じように私がキスをねだる度、その度に何度も何度でも素敵な反応をする姿を返してくれていたのに。

 今はこう。私がキスをねだるようなことを言っても、まるでそれがなんでもないただの挨拶を投げ掛けられただけみたいな、素っ気ない反応ばかり。

 挨拶のように送られる私のそれを、プロデューサーは、もう本当の挨拶のようにしか受け取ってくれない。

 

(今はもう、違うのに)

 

 あの頃とは違う。

 それはもちろん、からかいたい気持ちもまるで無いわけじゃない。あの頃のそれと、まるですべて違っているわけじゃないけれど。

 でも、今はもう違う。

 今はもう、私は、本当のほうが大きいのに。

 あの頃はかすかに混じるくらいだった好意、恋心、愛おしい想い。それが、そんな気持ちのほうが、今はもう強いのに。

 キスをしたい。

 本当の意味で。からかうためじゃなく、好意を伝えたいから、恋心を叶えたいから、愛おしいこの想いを贈りたいから。だから。

 大好きなこの人と結ばれたい。

 だから。今、私がキスをねだるのは、だからなのに。

 プロデューサーは気付かない。

 あの頃のまま。私の言動の意味も、胸に宿した想いも、何もかもあの頃のままだと思ってる。

 

(……もう)

 

 あの頃とは違う。

 求めるものが、込めた想いが、そして……覚悟が違う。

 言う度に熱くなる。胸が高鳴る。不安に駆られる。期待に濡れる。答えが返ってくるまでの一瞬、ほんの数秒がまるで永遠みたいに長く遠く感じられてしまう。

 どうしようもなく本当で、どうにもならないくらい本気だから。

 本気を装って、でも挨拶みたいに送っていたあの頃とは違う。

 挨拶を装って、でも溢れて止まらない本気の想いを今は、贈ってる。

 なのに伝わらない。

 鈍感なプロデューサーと、面倒な私のせいで。

 外側はそのまま、けれど内側はまるで違う想いで満たされているのに。

 それが伝わらない。

 

「……バカ」

 

 キスをねだる時だけじゃない。

 例えば、何かを呼び掛ける時にぽんぽんと肩を叩く時。

 私がどれだけ意を決しているのか。

 例えば、私を送ってくれている車中、傍へ晒されたプロデューサーの手の甲へ、なんでもない風を装いながら私の手を触れさせる時。

 私がどれだけ緊張に震えているのか。

 例えば、ライブの成功を喜んでくれるプロデューサーの身体へ、熱い高揚感と達してしまいそうなくらいの痺れを全身に帯びながら飛び付いて、私の身体すべてを余さないよう強く深く押し付け擦り付けるように抱き着き密着する時。

 私がどれだけ、プロデューサーへの想いに焼かれているのか。

 それを分かってくれない鈍感なプロデューサーの背中へ向けて、小さく、呟く。

 

「……」

 

 そっと、音を立てないように立ち上がる。

 短く答えてからすぐ仕事に戻ってしまったプロデューサーへ視線を向けて、足も、ほんの数歩先のそこへと向かわせる。

 ゆっくりと。気取られてしまわないようにそうっと。

 外しながら。今日は見せるためのそれではないけれど。でも、それをしっかりと見てもらえるように、胸元を大きく開け放ちながら。

 高鳴る鼓動を抑えて、荒くなってしまいそうになる呼吸を鎮めて、そっとゆっくりとプロデューサーのもとへ。

 

「ねぇ、プロデューサー」

「ん?」

「ちょっとこっち、向いて?」

「何……って、奏……っ」

 

 肩を叩いて、呼び掛け。

 それに応えて振り向いたプロデューサーの視界を、開け放って晒し出した胸元で埋め尽くして。そうして一瞬固まったプロデューサーの身体を、座った椅子を回して反転させる。

 そして、正面を向いたプロデューサーの上へ、私を。

 対面する形で、椅子の上のプロデューサーの両足へ跨がって、乗る。しなだれかかるように身体を預けて、柔らかく抱き着く。

 

(……あぁ)

 

 一瞬、止まる。

 恥ずかしさや不安、それから今こうしていることで……プロデューサーと二人きり、プロデューサーの上へ乗って、プロデューサーと密着していることで感じてしまうどうしようもない幸福感に心も身体も塗り尽くされて。

 それを感じながら。そして、ここからこの先へと進むその覚悟を少しずつ積み上げながら。プロデューサーと重なって、一瞬。

 

(顔が熱い)

(ドキドキが止まらない。緊張で震えてしまうのも、愛おしい想いが溢れ出してくるのも、止められない)

(きっと伝わらないのだろうけど)

(この熱さも、震えも、想いも)

(どうせ何も)

 

 だから。

 伝わらないのなら、だったら、と。

 思い切り密着して。熱い吐息を隠さず漏らして、震えも高鳴りも何もかもがしっかり芯まで届くように押し付けて、深く強く抱き着く。

 ぎゅっと。ぎゅうっと。

 

(……ふふ)

 

 伝わりはしないけれど、伝わってはくる。

 鈍感で、こっちの想いに気付いてくれないプロデューサーの、けれど確かな反応。

 温かさ。震え。高鳴り。

 それを感じて嬉しくなる。

 好きが溢れて恋心が燃え上がって、愛おしさが溢れてしまう。

 プロデューサーに染められてしまう。

 

「……プロデューサー」

 

 それを、そんな幸せな想いを抱き締めて。心の中、幸せな微笑を漏らしながら、先へ。

 顔を寄せて、口許を近付けて、唇を……もう、触れてしまいそうなすぐ傍まで、プロデューサーの耳の横へまで移して。そして呼ぶ。

 プロデューサー、と。囁くようにそっと。舐めるように、くすぐるように、濡れた声を尽くして注ぐ。

 それにびくっ、と。プロデューサーが私のその声に反応してくれたのを密着した身体越しに感じて。それを一度、自分の中で噛み締めるようにしてから、それから次。

 

「ん、っ――」

 

 ちゅう、と。身体の奥底まで響くような甲高い、誘うような色へ濡れる、わざと高く鳴るようにしたキスの音。

 私の唇と、プロデューサーの耳との。

 ……触れ合ってはいないけれど。

 

「……ふふっ」

「どうかしら。私の、誘惑のキス」

「もっと、たくさん、ちゃんと――今度は本当のキス、したくない?」

 

 ちゅう、ともう一度。

 触れ合いはしないけれど、けれど高く鳴り響く濡れたキスの音を耳元へ。

 

「本当の――本物の触れ合うキス、してもいいのよ?」

「貴方が応えてくれるなら……貴方から、してくれるのなら」

「受け入れてあげる。何度も、何度だって……気の済むまで、プロデューサーのしたいだけ、して……あげる」

 

 ちゅ、ちゅっ。

 触れ合うほど近く、けれど決して触れ合ってはしまわないようにしながら、何度もキス。

 触れ合うキスを求める、触れ合わない誘惑のキス。

 

「だからほら」

「私はここ。私の唇は、ここ」

「逃げないわ。貴方を求めて、貴方を待ってる」

「だから、ほら……」

「きて、プロデューサー」

「私としましょう?」

「私と、キスしましょう……?」



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今はまだ子供だけど(渋谷凛)

「ん……ぅ、ん……」

 吐息を漏らしながらぎゅうっと。顔を、柔らかくて温かい目の前の壁へと押し付ける。

 ぐりぐり、あまり大きくなりすぎないよう控えめに鼻を。すりすり、目立つような動きにならないよう気を付けながら頬を。ぎゅっと、ぎゅうっと、顔を押し付けて密着する。

 すると、声。

 そこと私の顔との間で行き場を無くして閉じ込められた生暖かい空気。それに口許をじんわり濡らされつつ、普段なら不快でしかないはずのその感覚をむしろ喜びながら私が恍惚としていると、周りからいくつかの声。

 驚いたような、微笑ましいような、羨むような、いくつかのいろいろな声。

 それが響いた。

 この部屋の中。事務所の大人組にとってはすっかり行き付けらしい居酒屋の、十人くらいまでならゆったり寛げそうな個室の中。

 私と、プロデューサーと。それから何人かの大人組と。事務所の人間だけの個室の中へ、ざわめくみたいにいくつかの声が上がって響き渡る。

 視界は真っ暗。顔は強く押し付けているし、そもそも目だって閉じている。

 でも、それでも分かる。

 そんな状態の今でもはっきり分かる。その声は……その視線も、何もかも全部が、きっと私へ向けられているんだろうなってこと。

 私へ――プロデューサーのあぐらの上に頭を乗せて、そのままお腹の辺りへ深く深く顔を埋める私へ、向けられているんだろうなって。

(……ふふ)

 笑みが漏れる。

 押し付けて外には見えない唇と、心の中の私が笑みを……感じる優越感や満たされる独占欲、そして何よりこうしてプロデューサーの身体とくっついていることで溢れてくる幸せな想いに、思わず笑みを漏らして浮かべてしまう。

 他にも人が居る中で、そんな他の誰もが望むものを……プロデューサーを独り占めしている。

 きっと他の全員がそうであるように、私も好きなプロデューサー。きっと他の誰よりも、私が大好きを抱いているプロデューサー。きっと他のどんな何よりも、私が、愛おしく想っているプロデューサー。

 私のプロデューサーを独り占め。そのことに胸が、心が、とくんとくん弾んで高鳴る。

(これが許されてるのが「子供だから」っていうのは少しあれだけど。……プロデューサーも、もうすっかりあたふたとかはしてくれなくなっちゃってるし)

 大人組の飲み会へ『私も行く』と言い張って、ちょっと強引に着いてきて。案の定、お酒の飲めない私はお酒の輪の中へ完全には入れなくて。……プロデューサーとも。座る場所はなんとか隣を守っていたけれど、でも……あんまり、一緒にはなれなくて。

 周りの他のみんなと違って、私は子供だから。まだ大人じゃない、子供だから。だから、同じ場にいても他の人たちみたいにはプロデューサーと触れ合えなくて。

 だから。なんだか悔しくて、欲しいものが全然足りなくて、だから……今、私はこうしている。

 プロデューサーの上で寝ている。プロデューサーと重なって、プロデューサーと誰よりも近くに寄り添っている。

(ごめんプロデューサー。ちょっと足、借りるね。……なんて)

 そんなふうに言って、返事も聞かずに身体を倒して、そうして今のここのこんなこれへ至った。

 あの時のあの一瞬。一旦静かすぎるくらい静かになって。それからわっ、といろんな声……というか、音。言葉や、言葉にならない言葉や、テーブルの上のものが揺れたり跳ねたりするような音や……いろんな音がして、部屋の中の熱が数段上がって、空気がぐるっと書き換わった。……そんな感じだったと思う。

 当の私はそれどころじゃなくて。眠気に耐えきれず、だからプロデューサーの上へ頭を乗せて眠ってしまった。って、そういうふりをしていながら。そうしながら、でも心の中はそんな眠りに入れるような静かな心地とは真逆で。胸もそう、ドキドキ高鳴るうるさいくらいの鼓動を少しも抑えられなくて。どうしようもなく、もうどうにもならないくらいプロデューサーに火照っていて。だから、あの時の様子は完全には分からないけれど。

 でもたぶん、そんな感じだったと思う。

 この部屋の中のいろいろが跳ねて、弾んで、爆ぜた。

(あの後は……うん、ちょっと強引だったけど)

 幸いというかなんというか。今日プロデューサーの近くへ居たのは美優さんやあいさんで、引き剥がしにかかってくるような人は少し遠くへ離れていて。初めは少し揺すられたり、眠る場所を移されそうになったりもしたけど……プロデューサーの腰へ回した腕を放さず、埋めた顔を上げず、プロデューサーに押し付いて離れないでいたら、なんとかこの場所に落ち着けた。

 初めはあたふた慌てていたプロデューサーも、慌てはしながら、でも受け入れてくれて。ぽんぽん、なでなで、私の頭を撫でてくれたりなんかもして。しばらくはざわざわ鎮まらずにいたけれど、そうしてプロデューサーが私を受け入れてくれたのをきっかけにして少しずつ収まってきて。そうして今、こんな、今になっている。

「ん、ぅ……」

 こうし始めてどのくらい経っただろう。幸せすぎて、時間が永遠みたいにも感じられるし。幸せすぎて、時間が一瞬みたいにも感じられる。

 そんなどのくらいかの時間を。プロデューサーと触れ合う幸せな時間を過ごして。そして今、少しまた、私の心へ不満が差し込んでくる。

 もうすっかりあたふたもしてくれなくなったプロデューサーの態度。周りのみんなが「まだ子供なんだから、仕方ない」って、そうしてこの状況を許してくれていること。受け入れてくれているのは嬉しいけれど……そんな意識のされなさと子供扱いに少し、また、不満が湧いてくる。

 不満。何か駄目。このままは嫌。

 だから。

「……プロ、デューサー」

 ほんの少しだけ、顔をプロデューサーから離して。そうして声の響く間を作って、それから声を出す。

 傍にいる人にだけ届くくらいの。微睡みを混ぜた、少しはっきりとしきらない、そんな声の呟きを。

(……うん)

 それを聞いて。ちゃんと聞いて、その寝言を装った呟きに「凛?」とプロデューサーが反応してくれたのを確かめて、それから続き。

 不自然にならないよう……ゆっくり、ゆったり、緩い動きで寝返って。それまで横へ寝ていた身体を仰向けに。髪から滑って唇のすぐ傍、頬の辺りへ触れる場所を移したプロデューサーの手の温もりに心地よさを感じながら……上から覗き込むプロデューサーに、私の顔を余さずしっかり見えてもらえるよう仰向けになって。

 それから続き。心の中で、これからまた騒がしくなっちゃうんだろうことを一度謝ってから、続きの言葉を口に出す。

「……まだ、子供……だけ、ど……」

「でも……わ、たし……もうちょっとで、大人……だから……」

「……プロデューサーと……結婚、できる……から……」

 ちゅっ、とキス。

 真上を向かせていた顔を少し横へ傾けて。頬へ触れていたプロデューサーの手を、もう一度滑らせて。――そうしてそれを、その指を、私の唇まで導いて。

 始めのときと同じ。後にざわめきを待たせた一瞬の静けさを全身に感じながら、キスをする。

 ちゅっ、と。そして更に深く迎え入れて、はむはむと。咥えて、甘噛んで、何度も何度もキスを降らす。

「……大好きだよ。……私の、プロデューサー……」



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私を、最後に選んでくれるのなら(三船美優)

 ……やめてください、プロデューサーさん。

 伏せないで。

 泣かないで。

 謝らないで。

 そうして足を付いて頭を下げて、涙に濡れた顔をそんなふうに歪ませて、そうやって謝るのはやめてください。

 そんなことをしていただく義理はありません。

 そんなことをしてもらう必要はありません。

 そんなことを受け取る気はありません。

 貴方のそんな姿と行為を、私は欲してなんていませんから。

 望んでいません。願っていません。祈っていません。欲してなんて、いませんから。

 ……え?

 ああ、なるほど。そんな意味に取ってしまったんですね。

 大丈夫。……ふふ、大丈夫ですよ。

 大丈夫ですし心配はいりません。私にそんな意図は、ありません。

 私が貴方を捨てるなんて。

 私がプロデューサーさんを見限るなんて。

 この私が貴方を、プロデューサーさんを嫌いになるなんて……別れたいと、そんなふうに願うなんて。

 そんなことはありません。

 大丈夫です。

 大丈夫ですよ、プロデューサーさん。

 私は何も怒っていません。

 何も気にしていないし、何も憤ってなどいません。

 貴方が私以外の方と睦み合った。そのことについて、

 求め合い愛し合い想い合ったという、そのことについて、

 私は何も、貴方に対して負の想いなんて持ち合わせてはいませんから。

 だから、大丈夫です。

 そんなふうにならなくても構いません。

 私がこのことを理由にして、貴方と離縁したいなどと思うことはありませんから。

 だからプロデューサーさん、そんなふうにするのはやめてください。

 ……ん、はい。……え。え、っと…………私が?

 あら。――ふふ、もう。

 まさか、そんなことあるわけがありません。

 そんなことはありえない。

 たとえどんな何が起ころうとも降りかかろうとも、それだけはありえません。

 貴方も、知っているはずです。

 私は誓いました。

 貴方と想いを交わしたあの時に、

 貴方といつか夫婦となろうと契りを交わしたあの時に、

 貴方と共に在る幸せを感じている常日頃いついかなるどんな時にも、

 私が誓い、そして誓い続けていること。

 今この時にもまた、新たに心の中で誓いを立てていることを。

 貴方への愛を誓っている。

 そのことを、貴方も知っているはずです。

 ですから、そんなことはありません。

 ええ、貴方を愛していないなど。

 浮気をされても無関心で無感動。そもそも想ってなどいないのだから……だから、何も揺れ動くものがない。

 貴方が何をしようと関係ない。どうしようとどうなろうと、そんなものはどうでもいい。

 自分にとって何ら価値を持たないもの。それが何をしようと何を犯そうと、何ら価値を持たないそれのために感じることなど何もない。

 そんなふうに想って。思って感じて考えて、だからこそのこの対応なのだと。

 そんなことはありません。

 私は貴方を愛しています。

 貴方の一挙一動。そのすべてに心を奪われて、

 貴方の喜怒哀楽。そのすべてに意識を引き寄せられて、

 貴方の存在。それに……心も身体も私の何もかもを満たされ熱せられてしまうほどの想いを抱き締めさせられて、

 こうして貴方という人が居なければ、それだけでもうこの生を続けることすら危うくなってしまうほど……私は、貴方を愛しています。

 貴方への私の愛が尽きることなんて、ありえません。

 ……そして。そして、簡単なことなんです。

 それならどうして、愛を抱いているのならどうして、その愛ゆえの怒りを持っていないのか。

 それはただの、なんでもない簡単な理由なんです。

 私は貴方を信じているから。

 プロデューサーさんを信じているから。

 自分の愛する貴方という人のことを信じているから。

 ただ、それだけなんです。

 …………それはおかしい?

 自分はそれを、その信頼を裏切ったんだ。ですか?

 ……ああ、すみません。また語弊を……伝え方が良くありませんでした。

 ええっと、それじゃあ……改めて、なのですけど……。

 まずはその通り。貴方は将来の約束をした私以外の人と睦み合い、愛し合いました。

 それは浮気と呼ばれる行為で、不貞と称される行いで……普通、一般には裏切りとされる事柄です。

 そして貴方はそのことで、私の信頼を裏切ってしまったのだと思っている。そのようですけど……。

 違います。違うんです。

 私の言った「信じている」という言葉。それは……それとは、少し違うんです。

 もちろん、私は貴方を愛しています。

 愛しているから、愛する貴方が自分以外の誰かと……という事実には、当然思うところはあります。

 先にも言った通り、私は何も貴方に対しての怒りや憤りなどの負の想いは持っていません。が、

 愛しているんです。それなら当然、悲しさを苦しさを無念さを、それらを思うところはあります。

 でも、それ以上に信じているんです。

 私は貴方が、プロデューサーさんが、自分の将来の伴侶が……必ず、私の隣へ居てくれるんだって。

 私を離れて、私から遠ざかり、私以外の誰かと触れ合って……それはいい。それは構わないし、それは問題だと受け止めません。

 それよりも、その後。

 途中横へ逸れ、ずれて、曲がってしまったとしても、その後には必ず。

 必ず、貴方は私と居てくれる。

 私の隣へと帰り、私のことを愛し、私と死までを共にしてくれる。

 貴方が選んでくれるのは私。添い遂げようと誓ってくれるのは私。他のどんな誰よりも何よりも想ってくれるのは私。

 紆余曲折があったとしても、どんな何があったとしても最終的に……本質的に貴方が己の一番としてくれるのは、この私。

 そうであると信じているから……だから、私はこんなふうにいるんです。

 ……プロデューサーさん、貴方の周りには多くの人がいます。

 ある人は可愛く。ある人は綺麗で。ある人は美しく。

 それぞれ素敵に輝く魅力を持った人たちが何人何十人と周りにいて、そしてそんな魅力的な子たちの誰もが貴方へ好意を抱きながら……貴方と触れ合いたいと願い、その胸を高鳴らせています。

 そんな誰もが、どこか私を超えた魅力を……それは容姿かもしれないし年齢かもしれません。内面や、それらとは別の何かなのかもしれません。とにかくどこか……それらのどこかで、私よりも優れた魅力を持っている。

 そんな異性が、貴方の周りには両手足でも足りないほどの数存在していて。そんな人たちが競うように……生涯でこれ以上はきっとないだろうというような、自分の意思では溢れて流れ出すのを抑えることもできないような、そんな強く深い想いを貴方へと注ぎ贈っている。

 そんな状態では……変な話ですけど、ある意味では仕方ありません。

 浮気、というものも仕方ありません。

 だから、私はそのことについて貴方へ非難の想いを持つことはありません。

 もちろん、先にも言った通り思うところがないわけではありませんけど……でも、そう。ここでもまた、私は信じていますから。

 貴方は私が愛する人で。……私が選んで、私がこの想いを捧げた人で。

 だからこそ、私は知って……分かって理解して、信じていますから。

 私以外へ逸れたとしても、それでも本当の本質の奥底では私こそを愛してくれていて、私以外を本気にはしないと。

 声を荒げて手を出して、何かに付けて追求をして縛り付けて……そんなことをしなければ保てないほど、私たちの絆は脆くなどないのだと。

 貴方のことを、そうして私は信じていますから。

 だから私はこうなんです。こうして、怒らず嘆かず嫌悪を抱かずにいるんです。

 愛がないからではなくて。貴方への愛を持ち、貴方への愛に満たされているからこそ、こうなんです。

 だから。……ですから、ほら。

 逃げないで。……そう、私に身を委ねて。

 濡れても構いません。汚れても構いません。私のこの服もこの肌も、貴方のものにならいくら塗られようと構いません。何も気にせず、溢れ出るすべてを私で拭って。

 時なんて問いません。いつまででも一緒にいます。貴方の愛を受けている限り……その限り、私はどこでだっていつまでだって貴方の隣で貴方と一緒です。その震えを、悔いや罪の意識を、私で止めて、私で癒して、そうして優しくすべて溶かして。

 そう……そうです。どうか、私へ何もかもを寄り掛からせて。

 抱き締めます。貴方を受け入れて受け止めて、そうして包んで抱き締めます。

 大丈夫、私はここにいます。

 貴方の帰る場所。ここから居なくなりはしません。ここを離れ、ここと別れたりなど決してしません。

 大丈夫。私はここで、貴方と一緒。

 貴方の伴侶。貴方の妻、貴方の美優は……貴方を拒んだり、貴方を捨てたり、そんなことは決してしません。

 だから、そう。身を任せて、心を任せて……そう、大丈夫です。

 その震えや涙が止まるまで……落ち着くまで、こうして私が貴方のことを抱き締めます。

 だから……ほら、安心して。癒されて安らいで、温まって。……そう、私へ還って。私で安心してください。私の、愛おしい人。

 愛しています。

 好きです。大好きです。愛しています。

 至らない私ですけど、それでもこれに関してだけは心から信じられます。他の誰よりも何よりもどんなものよりも、貴方のことを一番に強く深く想っています。

 ええ……

 

「……愛していますよ。……愛おしい、私の、アナタ……」



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ピローキス(速水奏)

(美味しくはない。……やっぱり、何度味わったって)

 

 キスの味は甘い。檸檬のように酸っぱい痺れる刺激があって、そして蕩けるように甘いもの。やめられない。恋しくて愛おしくて……たまらなく、どうしようもなく心の底から望んでしまって、手放すことの叶わないもの。お話の中ではよくそんなふうに言われているけれど、でも、違うと思う。

 甘くもない。酸っぱくもない。ましてやそんな、美味しくも感じない。お話と現実は違うんだな、と思う。

 何度も何度も。もう数えきれないほど何度も思ってきたそれを、今もまた、改めて心に思う。

 美味しくなんてない。全然。これっぽっちも。

 

(でも)

 

 でも、と同時に思う。

 美味しくはない。それは確か。何度も何度も思ってきた通り。

 でも、美味しくはないけれど……それでも、お話の中のそれにも真実はあるんだな、と。甘く酸っぱくて美味しい、というそれは間違いだったけれど……少なくとも、私にはそう感じることができなかったけれど。でも……もう一つは、真実だった。

 やめられない。たまらなく、どうしようもなく……このキスという行為が、このキスを交わす相手が恋しくて愛おしくて。だからやめられない。手放せない。何度繰り返しても次のそれを求めてしまう。

 大好き。他のどんな何よりも、これは。この、キスという行為は。

 好きになってしまう。良く思えて、心の底から望んでしまう。それは、私にとっても嘘偽りのない真実だった。

 

「…………もう……ちょっと……」

「ん……?」

「夢中になりすぎよ。……ほら、私の唇、すっかり貴方にふやけちゃったじゃない……」

 

 唇を離す。それまで重なっていたそこ、プロデューサーさんの唇からそっとゆっくり。

 絡んでいた舌がほどけて、触れ合っていた唇が別れて。部屋の灯りを受けてぬらぬらと光る粘ついた液の糸、間に架かったそれがぷつんと切れて垂れて落ちて。そうして離れていく度、だんだんと名残惜しそうな色へ変わっていく……もっと、ずっと、まだまだ……そう私とのキスを惜しんで望む、そんなプロデューサーさんの瞳を見つめながら離してしまう。

 

「……もう、こんなにして……ふふ、いけない人」

 

 にちゃ、と粘って跳ねる水の音を鳴らしながら言う。爪の先まで熱を帯びた指を震わせて……抑えようとしても抑えられない、感じすぎてしまってもう震えを抑えておけない指を、わざと震わせているように装いながら口元へ触れさせて、そこをなぞり、音を出す。

 プロデューサーさんの耳にも届くよう何度も何度も。にちゃにちゃ、と。ぬちゅぬちゅ、と。震える指を踊らせて、淫らに誘うような音を繰り返し響かせる。

 

「奏……」

 

 ごくり、と喉の鳴る音。

 ほんの少し前まで私の唇が触れていたそこ。重なって、塞いでいたそこから熱く濡れた吐息が漏れてくる。

 その音を耳に聞いて、その吐息を顔のすべてで受け止めて……プロデューサーさんの想いを、私へ抱いてくれている興奮や劣情を感じて、胸の高鳴りが増していく。

 プロデューサーさんが……自分が好きだと思う人。恋しい、愛おしいと想う相手が、自分のことを想ってくれている。自分と同じようにかけがえのない相手として、誰よりも望む異性として想ってくれている。それを実感して、身体が疼く。

 甘い痺れが全身に広がって、お腹の奥をずんと強く震わされて、理性を手放してしまいそうになるくらいの幸せに包まれる。

 

「……ふふ。どうしたの、プロデューサーさん」

「い、や……」

「隠さなくてもいいじゃない。私と貴方の仲。ついさっきまで結ばれていた、そんな仲じゃない」

「それは、そうだけども」

 

 からかうような態度を繕いながら言葉を交わす。

 きっと、それはできていない。繕っているつもりで、でも繕えてなんてない。からかっているときみたいな余裕もない、今にも理性を失って決壊してしまいそうな、そんな何も繕えていない姿にしかなれていないのだろうけど。

 でもそうやって言う。そうしないと、そうしているつもりでないと、それこそ堪えていられない。自分の理性を、この手の内に捕まえていられないから。

 

「……!」

 

 ぐい、と押し付ける。

 それまで引いていた足を前へ出して、ぐったり横たえられたプロデューサーさんの足へと絡めて。そして、それから身体を前へ。絡めた足を引き付けてプロデューサーさんの身体を寄せるのと同時、自分の身体も押し出して、そうして強く押し付ける。プロデューサーさんの脚の付け根の辺りへ、私も同じようにそこを。

 

「……あら、もうすっかりこんなに……ふふ、あんなにしたのに……本当、いけない人ね……」

 

 さらさらと肌の上を滑っていくそれ。にちゃにちゃ、と音を鳴らしながら粘りつくそれ。どろり、と溢れて這い出る真白に濁ったそれ。そんないろいろ、プロデューサーさんのもの……そして私自身のもの、私たち二人から溢れて零れたそんないろいろに塗られた私のそこ。そこを押し付けられたプロデューサーさんさんの身体がどんどんと猛っていく。ついさっきまでのように、私のことを悦ばせてくれていたときのように、私を求めて昂っていく。

 それを感じながら……それを感じて、我慢が効かなくなってしまいそうになりながら……それでもそれをなんとか堪えて、焚き付けるようにプロデューサーさんを煽る。

 ちゅっ、ちゅっ。見せつけるように突き出した唇を鳴らして、何度も何度もキスの音を響かせて。

 優しくそっと、汗に濡れたプロデューサーさん頬へ、震える手を触れさせ添わせて。

 押し付けたそこを、上下に何度も這わせるように擦り付けて。

 そうして煽る。プロデューサーさんの興奮を、劣情を、愛欲を。私へと向けてくれるそれらを、私へ注ぎたくて仕方ない……けれど理性に阻まれ留められているそれらを。

 

「いいのよ、しても。貴方のしたいように。貴方が、私へしたいように」

 

 囁き声。甘く蕩けた、まるで媚びるような声で囁きを送る。

 貴方が、私へ。それを強調しながら。……もう何度も結ばれた仲。私を他のどんな誰よりも理解してくれているプロデューサーさんのこと。だからこんなのとっくの昔にバレている。それは分かっているけれど。でも囁く。バレてはいても、それでも装いながら。貴方が私へ、じゃあなくて。私が貴方へ、なのを隠しながら。

 

「折れてしまいそうなほど強く抱き締めてあげましょうか? それとも、優しく包んで頭を撫でてほしいのかしら」

 

 絡めた足へ込める力を強めて、頬へ添えた手を優しく揺する。

 

「苦しいのなら鎮めてあげる。貴方の望むやり方でしてあげる。擦って慰めてほしいのならそうするし、余さず飲み込んでほしいのならそうする。結ばれて、中へ受け入れてほしいのならそうしてあげる」

 

 近付いて押し付く。絡んだ下半身がそうなっているように、離していた上半身も。

 お互い何も纏ってなんかない。裸の、そのままに晒された肌。それを重ねる。胸を胸へ、お腹をお腹へ、お互いへお互いを重ねて添わせる。

 

「いいのよ、本当になんだって。貴方の望むことをしてあげる。貴方が私と望んでいることを叶えてあげる。なんだって……ほら、キスだって」

 

 身体と一緒に前へ出た顔。唇。それを震わせて、焼けるように熱い吐息を注ぎながら言う。

 なんでもしてあげるから、言って。と。

 言う。プロデューサーさんから私へ望んでほしいこと。私がプロデューサーさんへ望むこと。したくて、してほしくて、もうどうにもたまらなくて……今にも理性を振り切って、求めてしまいたいと望むこと。それを。

 

「…………」

「…………」

 

 一瞬沈黙。

 お互いに見つめあって、熱く濡れた吐息を交換しながら無言で数秒。

 そんな間を置いて、無音の時間をかすかに挟んでから。

 

「…………好きよ、プロデューサーさん」

 

 呟く。ぽつりと、一言。

 するとすぐ。その一言を言い切ったその瞬間、重なる。

 キス。唇と唇が重なる、愛おしい人との大好きな行為。何よりも望む睦み事。

 

(……あぁ)

 

 幸せ。嬉しくて満たされる。たまらなく幸せな心地。

 プロデューサーさんから求めてくれた。私とのキスを。私が何よりも望むキスを、プロデューサーさんも望んでくれた。他の何よりも望んで、そして叶えてくれた。

 それに想いが溢れてくる。抑えてなんかいられないくらいの想いが、とめどなく。

 

「好きだ、奏……俺も……奏のことが……」

「……ふふ、知ってるわ……プロデューサーさんが私のことを好きだなんてそんなこと……そうして、言葉になんかされなくたって……」

 

 半分本当、半分嘘。

 好きだ。と、そう言ってくれるプロデューサーさんへ、そんな半分ずつの言葉を返す。

 

「プロデューサーさんったら、すっかり私に夢中なんだから……。ふふ、恋人としては合格だけれど、プロデューサーとしてはどうなのかしらね。そんな……私以外の子を、見てあげられなくなっちゃって……」

 

 プロデューサーさんが私のことを好きでいてくれている。私に夢中になってくれている。それはきっと本当。それを知っているというのも本当。半分は本当。

 けれど残りの半分は嘘。真実でも、本当じゃない。

 言葉にされなくてもいい。そんなこと思ってない。してほしい。言ってほしい。「好き」だって「大好き」だって、何度でも言ってほしい。

 夢中になっている。それはきっと本当で、でもそれだけじゃない。夢中なのは私もそう。それもきっと、私のほうがずっともっと夢中になっている。溺れてしまって離れられないのは、プロデューサーさんよりもむしろ私。

 仕方のない人。いけない人。そんなふうに言いながら、でも真実そうなのは私のほう。仕方ないのも、いけないのも。

 

「我慢、できないのね……?」

 

 好きだと思ってもらえているのは知っていて。でも不安で、怖くて。だからもっと言ってほしくて。そうして言わせてしまう。何度も何度も、言ってほしくて言わせてしまう。

 本当に求めているのは私なのに。したくて、してほしくて。何もかも……アイドルとプロデューサーとしてのこと。恋人同士にしか許されないこと。叶えたいと願って求めてしまう何もかもを、プロデューサーさんから求めてもらっている。

 私からの何もかもをプロデューサーさんからしてもらっている。しなければ堪えられない。しないでいたら我慢もできず決壊してしまう。そんないろいろを、ずるい私はプロデューサーさんに求めてしまう。

 

「いいのよ、我慢なんてしないで……。何でも、何度でも、してあげる」

 

 プロデューサーさんに甘えて。私のことを分かってくれる……我慢のできること、我慢のできないこと、私の……そんな何もかもを理解してくれているプロデューサーさんに甘えて求める。

 大人のように振る舞う私よりも、ずっと大人なプロデューサーさん。引っ張って振り回しているように見られる私の手を、しっかり握って導いてくれるプロデューサーさん。私を気遣って、私に負い目を感じさせないために求めてくれる。拒めば私が我慢をし切れず、結局無理矢理に求めてしまうようなこと……それを察して、責任のすべてを被って求めてくれるプロデューサーさん。

 それを知っているずるい私は、いつも……今だってまた、求めてもらおうと求めてしまう。

 

「ほら、しましょう……? さっきしていたようなことも、過去にしていたようなことも、まだ経験していないようなことも……全部、全部、受け入れてあげる。あげるから……」

 

 早く。早く。もう我慢していられない。

 もっと。もっと。たくさんしてほしい。たくさんしてあげたい。

 気持ちよくなりたい。壊れるほど昂りたい。結ばれて重なりたい。昇り詰めた果て、息も絶え絶えに寄り添いあって眠りたい。

 それを、そんな想いを抱きながら言う。

 大好きな人。きっと私の唯一の人。愛おしい、私の何より大切な人へ。

 

「愛して……。愛おしく想う私のことを、貴方だけの色に染めて。私を……貴方の女に、してちょうだい……?」



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キスマーク(高垣楓)

「駄目だ、って言ったのに」

「イエスかノーか。私はちゃんとノーを……今日は駄目だと、そう示したのに」

「それなのに、こんな。……どうしようもないくらい深く、強く、何度も求めて……私を愛して」

「酷い人。……本当に酷い人ですね、プロデューサー」

 

 汗に濡れた身体。乱れる息遣い。高鳴る鼓動。止められないそれらを自覚し感じながら、ぽつりぽつりと言葉を漏らす。

 ベッドの上へ横になった私をすっぽりと包んで抱き締めるプロデューサーへ。きっとまだ申し訳なさそうな顔をしたままの彼、普段するよりも薄い力で遠慮がちに抱き締めてくるプロデューサーへ。

 ぽつりぽつり。合間に熱く焼けた息を吐きながら、首元へ吸い付くようなキスを何度も落としながら、囁くようにして言葉を注ぐ。

 

「酷かったです。私のことを押し倒して組み敷いて、いつもなら着けてくれるものも着けてくれずに何度も何度も」

「酷かった。強引で、情熱的で、普段の穏やかさが嘘のように猛々しくて……本当に酷かった。とても、とっても凄かった」

 

 無理矢理に押し広げられて貫かれる感覚。ずん、ずん、とお腹の奥を深く執拗に突き上げられる感覚。涙も涎も何もかも、溢れ出るまま身体中から流れ出していくいろいろに濡れて汚れていく感覚。数分前まで私を満たしていたそんな感覚が、けれど今も消えることなく残っているのを感じながら呟く。

 背中へ回した手を動かして撫でながら、今もまだじんじんと痺れる胸を押し付ける。私を愛してくれた証……粘つくそれがどろりと中から漏れ出してくるのを感じながら、それをプロデューサーにも感じてもらえるよう密着。絡めた足を更に深く絡み付かせて、足の付け根の濡れそぼった部分を擦り付ける。

 

「プロデューサー」

「赤ちゃん、できちゃうかもしれませんね」

 

 霞のかかったような声。震えて届く囁き声を、キスと合わせて一つ送る。

 途端、一度びくんと震え。重ねた胸を伝わって大きく跳ねる鼓動が染みる。遠慮がちになりながらも私のことを抱き締め抱えていてくれる手が強ばる。私からの言葉を受けて、そうして一瞬プロデューサーが。

 

「……ふふ、なぁんて」

「今日は大丈夫な日ですから。きっとまだ授かることはありません。……絶対じゃ、ありませんけどね?」

 

 良いのか悪いのか、今日は所謂安全日というものだった。

 本当はそうでない日……危険日。子供を授かる可能性の高い日を選ぶこともできたのだけれど。それでも私は良かったのだけれど。理性的な部分の私はそれを選ばなかった。だから。

 

「ホッとしました? ……それともがっかりしました?」

 

 言うと、プロデューサーは無言のまま。

 きっとどちらも感じてくれているのだと思う。アイドルとその担当プロデューサー、そんな今の関係を壊さずにいられること。シンデレラの夢を諦めずにいられること。それにホッと胸を撫で下ろして。けれど私との子供を授かれないこと。私を自分のものにできないこと。それにがっかりと気持ちを落として。

 私のことを好きだから。私を恋しく想って、誰よりも何よりも愛しているから。だから生まれる二つの想いを、きっと抱いてくれているんだと。

 

「……プロデューサー」

「止まってますよ。……なでなで、止めないでください」

 

 私がそう告げると、すぐに背中を撫でる手の動きが再開する。優しくて柔らかい、そっと壊れ物を扱うときのような心遣いで撫でられる。

 行為を終えて、二人の中の熱が理性を取り戻せる一線以下まで鎮まったときにお願いしたこと。ハッと我に返ったようになって、今にも土下座をしそうな雰囲気の……きっと私が止めていなければしていたのだろうプロデューサーへ、お願いしたこと。「謝らないでください。謝るのなら……代わりに撫でてください。私のことを抱き締めて、そして、優しくそっと」と望んだこと。それをまた改めて。

 

「……ふふ」

 

 それに嬉しくなる。

 暖かい。心地いい。とてもとっても幸せ。

 プロデューサーを感じられて……。染みてくる。伝ってくる。私の中へ入ってくる。そうしてプロデューサーを感じられて嬉しくなる。

 

「……」

「……」

「……楓さん」

「ん……?」

「すみません」

 

 抱き締められて撫でられて。前も後ろも、外も中も、全部でプロデューサーを感じて幸せで。そんな心地をじっくりと噛み締めるようにして浸っていた私の耳へプロデューサーの声。

 わざと囁くようにした私のそれとは違う。震えているけれど囁くのではなく、ただただ小さくか細い声。普段のプロデューサーから送られるものとは違うそれが、私の耳へ。

 

「……」

「……」

「……がぶ」

 

 甘噛み。

 それまでキスを落としていたそこ。軽くそっと触れるキス。痕を残すような吸い付くキス。いろいろなキスを注いでいたその首元へ、甘噛みを。

 がぶ、と。痕は残らない。一瞬浮かんですぐに消えるくらいの淡い強さで噛み付く。がぶがぶ、と何度か続けて。

 

「……プロデューサー。謝らないでください、って言いました。謝るのは無しだ、って約束しました。そのはずでしょう?」

「でも……それでも……」

「……もう」

 

 噛まれることにも抵抗せず身を委ねてくるプロデューサーへ言葉。謝らないで、とそう伝える。……けれどプロデューサーは聞いてくれない。私の言葉は聞いてくれているけれど、それに応えようとしてくれない。

 申し訳なさそうな、罪悪感に塗れた、暗い声。

 そんなふうに思うことはないのに。思う必要も、感じる義務も、そんなもの何もありはしないのに。

 

「プロデューサー」

 

 それまで唇を触れさせていた首元へ顔を埋める。

 燃えるような熱。脈打つ振動。押し付けた顔からそんなプロデューサーのたくさんを感じながら、その状態で言葉を送る。

 

「言ったでしょう。私は、嬉しかったんですよ」

「プロデューサーに求められて。押し倒されて組み敷かれて、私の『だめ』も無視して愛されて……私の誘惑がちゃんと効いてたんだ、って分かって」

「嬉しかったんです。好きでいてくれているのを確かめられて。愛してくれているのを実感できて。とってもとっても嬉しかったんです」

 

 今日のこと。プロデューサーに求められる前のこと、プロデューサーに求めてもらえたときのことを思い返しながら言う。

 二人きりの飲み会。注文を委ねてくれているのをいいことに精の付くようなものばかりを頼んで、いつもよりも少し強引にお酒を勧めて。酔ったふりをして、しなだれかかってみたりして。

 私のこの部屋の中。送ってもらった流れのまま連れ込んで、この日のために用意しておいたアロマを焚いた中へ導いて。軽くシャワーを浴びた後、着たのは薄いシャツ一枚とパンツだけ。私の身体にはかなり大きいそれからは当然のように肌が零れて晒される。それを自覚しながら、わざと露にして見せながら、近く傍へ身体を寄せて。

 ベッドの上。いつだったか何かの弾みで買った枕を置いて……イエスかノーか、それを示す枕をノーの側で置いて。今日は駄目、とそれを示しながら、けれど言葉や行動では真逆の誘惑を繰り返した。私の知る限りの淫らな言葉をすべて尽くして、まるで娼婦のように囁いて。酔ったふりを建前に擦り付いてのし掛かって、プロデューサーを覆う邪魔な服を捲って入ってその中の熱い素肌を撫で回して。

 駄目。とそう言いながら、けれどそれを越えて襲ってほしくて。求めてほしくて、愛してほしくて。だから言葉とは反対に心の中では「きて……。いいですよ……いいんです。だから……早く……」と何度も何度も声を上げながら誘い続けた。……そして、それは叶った。

 

「プロデューサーも分かってるでしょう。貴方は悪くない。悪いのは私なんです」

「謝ることなんてない。何も、貴方が悪いことなんてないんですよ」

 

 私の言葉だけの「だめ」を乗り越えて、プロデューサーは私のことを求めてくれた。淫らに誘う私に応えて、プロデューサーは愛してくれた。

 何度も何度も触れられた。潰れるほどに掴まれて、飲み込まれそうなほど吸い上げられた。強く深く結ばれた。壊れてしまいそうなほど突き上げられて、受け止めきれないほど吐き出された。「好き」「大好き」「愛してる」……そんな告白を数えきれないくらいに重ねながら、私のことを愛してくれた。

 

「貴方は私のことをあんなにも想ってくれていたのに。好きでいてくれて、愛してくれていたのに」

「私を想って必死に我慢していてくれたことを、淡白だと受け取って。心を尽くして優しくそっと触れてくれるのを、愛が薄らいでしまったのかな、なんて考えて。仕事に真面目でみんなに真摯な貴方の姿を見て、浮気されてしまうのかな……捨てられてしまうのかな、なんて……そんなふうに、思ってしまって」

「だから、ってこんなことをした私が悪いんです。貴方は悪くない。私なんです。全部全部」

「貴方を疑った。怖くて、嫌で、寂しくて……貴方を試すようなことをした」

「貴方のことが好きなのに……貴方が好きで、貴方のことを愛しているから……だからって、そんな愛しい貴方のことを騙した。私が全部悪いんです」

 

 何度か止まりそうになりながら、けれど止まることなく撫でてくれる背中の暖かさを感じながら続ける。

 悪いのは私。自分の勝手な思い込みで焦って怖がって、そしてこんなわがままに付き合わせてしまった私が悪いんだ、と。

 格好だけ否定して、でもその否定を乗り越えてもらいたくて誘惑を繰り返して。そうして、プロデューサーから襲わせるような形を作って……。

 プロデューサーは悪くない。悪いのは私。そう言葉を続ける。

 

「……」

「悪いのは私。貴方が謝る必要なんてない。ないんです」

「でも」

「それも。『でも』なんて言わないでください。……私を想ってそうなってくれているのは分かります。それは貴方の良いところ、私もとても好きなところ。……ですけど、今は言わないでほしいです」

「……」

「むしろ、その」

「……?」

「そんなふうになってくれるなら……もっと私を求めてください。これからも、ずっとずっともっともっと。……今日こんなことをしてしまった私が言う台詞ではない。それは分かってます。……でも、もし叶うなら求めてほしい。私がまたこんな馬鹿なことをしないように、もう不安を抱いて貴方を疑うようなことのないように……求めて、愛してほしいんです」

 

 心の中で「ずるいなぁ」と自覚しながら言う。

 相手を縛り付けるような、自分の安心と独占欲……自分の勝手な幸せのために相手を強制するようなことを。綺麗じゃない、でも紛れのない本心を言う。

 

「ねえ、プロデューサー」

「……はい」

「私、嬉しかったんです。愛してもらえて。その中で、何度も何度も『好きだ』『愛してる』って言ってもらえて。私の中へ貴方の証を刻んでもらえて。本当に、心から嬉しかったんです」

 

 顔を少し後ろへ。

 押し付けていたのを離して首から少し間を空ける。

 つい数分前までの行為ですっかり湿って熱を持った部屋の空気が顔に触れる。それを少しくすぐったく感じながら、また口を開いて続きの言葉。

 

「もっともっと、私にプロデューサーの証を刻んでほしい。もっともっと、プロデューサーへ私の証を刻みたい。私は貴方のもの、貴方は私のもの。……そんなふうになりたいんです」

 

 晒された首元へ指を這わす。

 手のひら全体を添わせながら親指を数回撫でるように動かして、そこを汚すものを拭う。

 

「分かってます。私はアイドルで貴方はプロデューサー。だから、叶えられないことはある」

「貴方へ証を刻みたい。そうは言っても本当にそれをするわけにはいかない。……これ。こんなふうに、ごっこでしか叶えられない。それは分かってるんです」

 

 這わせていた指を離して目の前へ。

 見るとそこには指の肌色を塗り変える赤色。プロデューサーの首元へいくつも残るキスマーク、その赤色がべったりと。

 

「でもそれでもいい。……今日はごっこを越えるところまでしちゃいましたけど。普段はそれでもいい。いつか本当に結ばれるそのときが来るまではそれでも構わない。構わない、だから……プロデューサー」

「……」

「私のこと、愛してほしいです」

「……はい」

 

 ぎゅう、と。それまでよりも強く、力を込めて抱き締められる。

 抱き締められて……頭の上から、何度も言葉が降ってくる。それまでみたいな謝罪の言葉じゃない。私が欲しくて望んでた、私への想いが詰まった言葉。

 

「……」

「……」

「……ふふ」

 

 幸せ。

 心でも身体でも、自分自身の何もかもで感じる。心地よくて愛おしくて、たまらない幸せに満たされる。

 

「……プロデューサー」

「はい……?」

「私のこと、好きですか?」

「……好きですよ」

「愛してますか?」

「愛してます」

「それじゃあ……私のこと、許してくれますか?」

 

 ちゅ、ちゅ。再びキスを降らしながら質問。

 触れて、重なって、吸い付いて。そうして何度もキスを贈りながら、それと共に投げかける。

 

「私はずるい女です。酷くて悪い、いけない女。……今日は本当にたくさんのことをしました。明日からもきっとたくさんのことをします。貴方を想ってする、貴方に迷惑をかけてしまうようなたくさんのこと。それでも……」

「もちろん」

「……本当ですか?」

「本当ですよ」

「全部……今日のことも、明日からのことも?」

「楓さんが僕を想ってしてくれることなら……それは、叶えられる限り」

「……ありがとうございます。……プロデューサー」

「?」

「ごめんなさい」

 

 最後に謝罪。これまで何度も『謝らないで』と繰り返しておきながら、けれどきっと明日起こってしまうのだろう光景を想像して口に出す。

 ごめんなさい。きっとまた明日言うことになるだろう言葉。

 

「ごめんなさい……?」

「ふふ。いいえ、なんでもありません。気にしないでください」

 

 視線を下げて首元へ。私のキスを受けて、私の唇へ塗られた紅で汚されたそこを見る。

 汗に濡れて、涎に塗れて、ついさっき拭われたことでどろどろの赤に汚されているそこ。滲んで広がった赤の奥、そこで一つ、滲むことも崩れることもなくはっきりと刻まれた唇の痕を見る。

 ごっこじゃない。本物の私の証。鮮明に刻まれたキスマーク。

 

「プロデューサー」

「ん……?」

「愛してます」

 

 はっきり浮かぶ。事務所の中、たくさんのアイドルやスタッフ達に囲まれて詰め寄られるプロデューサーの姿が。首元へ残る私の証を見咎められて、答えに窮するプロデューサー。あわあわと慌てながら、傍で眺める私へ視線を流し送る光景がはっきりと。

 きっと明日は大変になるんだろうな。もしかしたら関係を暴かれるまで至ってしまうのかな。そのときはどうしようかな。……そんなことをぼんやり思いながら、ぽつりと零す。

 プロデューサーへの告白。自然と溢れて漏れてしまう、どうしようもなく愛おしい私の想い。

 

「誰よりも好きで何よりも大好きです。きっとずっといつまでも……貴方のことを、愛してます……」



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必要な盲目(三船美優)

「……ええ、不安でした。怖かったですよ、貴方が他の誰かに奪われてしまうんじゃないかと思うのは」

「怖かった。思う度に苦しくて、涙が零れてしまうほど辛くて嫌で。なのに思わずにはいられなくて」

「怖かったです。ずっとずっと、怖かった」

 

 ベッドの上。自分の部屋のそれじゃない。大好きな人の匂いが染み付いた、今はそこに私自身の匂いも染み付けた、もうすっかり私にも馴染んでしまったベッドの上。

 プロデューサーさんの家。その中で、当然二人。公にはしていない、公にはできないけれど、だけど恋人として結ばれた私とプロデューサーさんとの二人きり。

 仕事を終え帰ってきたプロデューサーさんを、先に仕事を終えていた私が出迎えて。食卓を共にして、お風呂もまた共にして。それから互いに何を言うでもなく自然とここへ。身体を重ね、愛し合って。そして今。行為を終え、寄り添うようにして隣へ寝ながら、見つめ合って交わし合う。

 

「でも、今はもう大丈夫。大丈夫なんです」

「そんなふうに怖くなることもなくなりました。零した涙で枕を濡らしながら、痛む胸を掻き抱いて、貴方の名前を呟き続ける。……そんなことも、今ではもうなくなったんです」

「信じることにしましたから。貴方のことを、ただ、まっすぐに」

 

 繋がり求め合う最中、何度も何度も口にしていたから。「もっと、もっと」「抱き締めて、離さないで」「私を見て、私だけを見て」そんな言葉を何度も私が口にしていたから。だからなのだろう。優しいプロデューサーさんは口にした。「寂しい思いをさせてごめん」

 私も、私はプロデューサーさんのアイドル。忙しいのは知っている。数多くの、綺麗で可愛い、素敵な異性に囲まれているのはわかってる。そしてそれは、私がそうして理解していることはプロデューサーさんもわかってる。わかっていて、それでも口にしてくれた。「ごめん。きっと寂しい思いをさせたよね。不安な気持ちにさせたんだよね」と。

 忙しい中で自由にできる限りの時間、そのほとんどを私との時間のために尽くしてくれるこの人が。たくさんのアイドル達、私と同じように好意を抱き恋心を向ける大勢の異性に囲まれながら、けれど私に誠実であろうと努めてくれているこの人が。それでも申し訳なさそうな声音で、汗に塗れた私の身体へ優しく手を添えながら、私を見つめて言ってくれた。

 だから応える。私のものとプロデューサーさんのもの、混じり合う二人の涎にまだ濡らされた口許へ手を添えて。今も冷めない熱い吐息と一緒に言葉を返す。

 

「決めたんです。信じるんだって」

「見ることにしたんです。信じると決めた貴方のことだけを」

「失うかもしれない、と。ほんの一瞬そう思っただけであんなにも怖くなってしまうくらい、私にとって貴方は大切な人なんです。きっともう貴方なしではいられない。……それならもう、いっそ信じきってしまおうと決めたんです」

 

 口を開いて言葉を送る度吐息が掛かる。ねと、ぬと、と粘り気を帯びた音を立て糸を引きながらプロデューサーさんの口許を撫でる私の指へ。そしてプロデューサーさんの、瞳には私だけを映し淡く頬を紅に塗った愛しい顔へ。

 一旦口を閉じ身体を前へ。まだ消えない高揚感と脱力感に包まれて弛緩しきっている身体を、少しずつ這わせるようにしてプロデューサーさんへと近付ける。

 足を絡める。腰を触れさせる。お腹を合わせて胸を押し付ける。近付く私に応えてプロデューサーさんも、それまでそっと添えていた手を背中へ回してくれた。優しく、でもしっかりと抱き締めてくれた。

 重なる。深く、強く。

 

「プロデューサーさんは私の世界なんです。何より愛しい、何より大切な、他のどんな何よりも大きなもの。私の生きる意味」

「そう、貴方は私にとっての世界。なら不安を抱くなんて、疑うなんてそんなの必要のないこと。世界を疑う人なんていないんですから」

 

 顔を前へ。

 薄く開かれた、まだ互いの涎が消えずに残る唇へ。そっと顔を前へ出し、自分のそれを触れさせる。

 

「確か……健康な否認、みたいに言うんでしたね。……墜落するかもしれないから、と飛行機に乗れない。事件に巻き込まれるかもしれないから、と家から一歩も出られない。世界が突然壊れてしまうかもしれないから、と生きてさえいられない。それでは困るから、そんな可能性を認めないでいること」

「必要な盲目。生きていくために、世界を信じるということ」

「……ふふ。正確に言えば私のそれは、そういうものに分類される訳でもないのかもしれませんけど。でも、そういうことなんです」

「私にとっての世界は貴方。貴方がいないと私はもう生きられない。……いいえ。貴方を失ったら、とそう思ってしまうだけで駄目。だから私は信じたんです」

「生きるために、私の世界を」

 

 軽く、柔く、触れるだけ。けれど糸を引くキスを何度も。

 私を離さず、優しく確かに抱いていてくれている温かな腕。心地いいその感触に心を満たしながら、言葉の続きを口にする。

 

「いつか、プロデューサーさんは言ってくれましたね。『貴女のことを愛しています。貴女のためなら、きっと、なんだってできてしまうほど』と」

「嬉しかった……。私、あの言葉が本当に嬉しかったんです。大好きな人からそんなことを……あんなにも真剣な眼差しで、言ってもらえるだなんて。……本当に、嬉しかったんです」

「嬉しくて……。そしてプロデューサーさん。それは、私も同じなんですよ」

「なんでもできる。貴方のためならきっと。……貴方さえいてくれるならきっと。それは」

 

 そっと、そうっと。口許へ添えた手をゆっくり動かす。

 大切なものを扱うように、慈しみを込めるように。私にとって何よりも大切なプロデューサーさんを、この胸に溢れる限りの想いを込めて。撫でる。愛おしむ。

 

「貴方に愛される私は、きっと強い女です」

「貴方のためになんでもできる。どんなに大変なことも、どれだけ難しいことだって、きっと叶えられるほど」

「貴方さえいるのなら、私はきっと強いんです」

「でも、プロデューサーさん。私はきっと弱い女なんです」

「貴方なしでは何もできない。どんなに些細なことも、どれだけ簡単なことだって、きっと叶えられないほど」

「貴方さえいないなら、私はきっと弱いんです」

 

 少し、長いキス。

 唇は閉じたまま。押し付け触れさせるだけ。けれど離さない。別れず結ばれたまま、重なり続ける長いキス。

 それを交わして。最後、離れるのを惜しむようにわざと音を響かせながら。間に架かった糸を舌で手繰り、それをお腹の中へ迎え入れてから。それからまた。

 

「貴方さえいてくれたなら生きられる。貴方さえ失ったなら生きられない。それが私なんです。もう、どうしようもなく」

「だから信じます。貴方を。信じて、私のすべてを委ねます」

「生きるのも死ぬのも貴方次第。私の生死は貴方のもの。だから、もう不安なんてないんです」

「愛しい貴方に生かされているのなら生きればいい。愛しい貴方に殺されるのなら、その時は死ねばいい。……生きている今を許される限り、私は、ただ盲目に貴方のことを信じていればいい」

「だから、もう怖くないんです」

 

 まっすぐ一途に向けた私の視線。それを受け止める瞳は、今もまっすぐ私のことを見てくれている。

 もう不安に思うこともできなくなってしまったけれど、それでも申し訳なく思っていた。これまでにも何度か……何度も、重たい想いの片鱗を見られてはいた。けれどここまで実際にそれを言葉にしたのは初めてだったから。

 けれど、プロデューサーさんは受け止めてくれた。きっといろいろな感情はあるのだと思う。前向きじゃない後ろ向きな感情も。それでも、私のことをこうして受け入れてくれている。

 信じた世界が私を裏切らずにいてくれることが嬉しい。私は生きていていいのだと、そう確かめられて心が満ちる。

 大好きな人。恋しい貴方。愛おしいプロデューサーさん。私の唯一の人、大切な世界へと、狂おしいほどの想いが溢れてしまって止まらない。

 好き。好き。好き。私の信じる最愛へ向けて、もう何度も重ねてきた言葉を心の中で繰り返す。

 

「……プロデューサーさん」

「私はもう大丈夫です。心配なんてしなくても、もう不安に押し潰されたりなんてしません」

「貴方が私の信じる貴方でいてくれる限り、私はもう大丈夫ですから。貴方に愛されている限り、愛する貴方と私は幸せでいられるんですから」

「だから、プロデューサーさん」

「叶うならどうか……ずっと、私を貴方の隣で生きさせてくださいね」



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ひざまくら(向井拓海)

「……プロデューサー」

 

 二人きり。プロデューサーの部屋の中。何人ものアイドルやスタッフ達が出入りする事務所の建物の、だけどアタシとプロデューサー以外には誰も入ってこない個室の中。

 もうすっかり使い込んで慣れ親しんだソファの上に身体を乗せる。二人用のそれの端のほうへ腰を下ろして、今日は太ももを開かず閉じる。そこへ乗せやすいように。それを撫でやすいように。

 そうして座る。そして乗っける。プロデューサーの頭をアタシの上へ。膝枕。アタシが、プロデューサーを。

 

「……プロデューサー」

 

 それから十分ちょっと。瞬きをするくらいの一瞬だったようにも感じるし、無限に思い返して噛み締められるくらいの長く満たされた時間だったようにも感じるけど、壁に掛かった時計の針によればどうやら十分をちょっと過ぎたくらいらしい。

 膝枕。無防備に預けられた頭を太ももの上へ受け止めて、そのまま目を閉じ口も結んだプロデューサーを同じく無言で、でも逆に目は閉じずまっすぐじっと見つめながら時間を重ねるこれ。これを始めてからもう十分。

 始まりはプロデューサーから。……プロデューサーの担当するアイドルは今アタシだけ。だから仕事はアタシのため。朝からいくつも作ってる書類も、何度も繋ぐ電話も、繰り返し送り送られてくるメールも、その何もかもがアタシのため。だから断れなくて。プロデューサーの「仕事で疲れたな。拓海に癒してほしいな」なんて言葉を。断らず……本当は断る気なんて欠片もなくて、むしろアタシのほうからさせてほしいくらいで、でもアタシのほうからはそんなこと言えなくて。だからそれに気付いてるプロデューサーが、自分の発言ってことにしてくれてるこれを受けて。少し迷って拒むような形だけ嘘のふりをしてから、それからこれは始まった。今日もまた。そうして。

 終わりは特に決めてない。アタシのレッスンは済んでるし、プロデューサーの仕事も纏まってる。だからきっとギリギリまで……今日もいつも通り家へ送る前にご飯も一緒してくれるんだろうから、それをして家に着くのが門限を破らないギリギリまでは続けてくれるんだろう。アタシはべつにもっと遅くまで一緒だって構わないし、むしろそのほうが嬉しいんだけど、でもまあ体裁ってやつがあるらしい。だからそのギリギリまで。その頃になったらプロデューサーが起きて終わらせてくれる。……アタシから終わらせるのは、たぶん無理だから。

 

「……プロデューサー」

 

 名前を呼ぶ。呼んで、少し待つ。目を閉じたプロデューサーは動かない。その無抵抗を確かめて、それから手を触れさせる。

 耳の縁、輪郭をなぞるように指先を這わせて撫でる。耳たぶを指の間に挟んで甘く食む。外から隠れた付け根の辺りをゆっくりと撫で上げて、そこからそのまま離すことなく頬まで滑る。そんなふうにして、それまで置き場に困って空を泳いでた手を触れさせる。

 プロデューサーは拒まない。受け入れてくれる。無抵抗で答えてくれたその通り。

 

(……これを許してもらったのはもうずっと前なのに、でもやっぱ……ああ、慣れねえもんだな……)

 

 プロデューサーは許してくれない。どうしても駄目なこと。アイドルとして、まだ許されちゃいけないこと。それをしっかり許さない。アタシの言葉を聞いて、それを許していいか考えてくれる。駄目ならちゃんと言ってくれて、良いなら無言で受け入れてくれる。

 出逢った時からそう。仕方なさそうに苦笑しながら、楽しそうに笑いながら、真剣な目で見つめ返しながら、いろんなアタシを許してくれた。背中を押してくれた。手を広げて受け止めてくれた。……目を閉じて自由にさせてくれた。

 いつもの通り。だからアタシは今もそう。何度も繰り返し重ねてるこの触れ合いの中、また何度も許しをもらう。もう許されたこともまた。まだ分からないものを新しく。前に許されなかったものも改めて。

 

(前よりも、そりゃまあ少しは落ち着いてる。同じことやってんだからそりゃあまあ。……けど)

 

 頬を撫でる。摘まむ。つっつく。前にもやったみたいに。指で遊んで愛で弄る。

 前にも同じようにはした。だからその時よりも冷静に落ち着いてるはず。だけど、だからこそ、そうなったからこそ見えるもの、前は気付けなかった初めてのプロデューサーを見付けてしまって、だから結局またこんな。ドキドキする。照れ臭くて恥ずかしくて、それに凄く温かい。

 

「……プロデューサー」

 

 また呼んだ。今度もプロデューサーは動かない。

 許してもらえたのに甘えて抱き寄せる。頬へ添えていた手を滑らせて、胸の前辺りでソファから投げ出されてたプロデューサーの腕を持つ。力無く委ねられたそれを傍まで導き引いてきて、胸元へと抱き締める。

 離さないようにしっかり掴んで。押し付けるように胸の中へ抱き込んで。だらん、と垂れた手の甲へそっと顔を近付ける。

 少し腕の辛い体勢にしてしまってはいるけれど、まあたぶん大丈夫。拒まれないならそういうことなんだろう。それならアタシのほうから離す理由なんてない。許されるだけしてしまおう。

 

(……でっけえなあ)

 

 見つめる。唇が触れそうなくらいのすぐ近く、胸に抱いたそれを吐息で濡らしながら見つめて思う。

 自分とは違う手だ。女の自分とは違うゴツゴツとした男の手。子供の私とは違う、皺の刻まれ始めた大きくて温かい大人の手。……ああやっぱり、アタシとプロデューサーは遠いんだな、なんてことを。

 プロデューサーは大人で、そんなプロデューサーにとって自分はまだ子供。求めるのはいつだってアタシからで、プロデューサーはそれに応えてくれるだけ。今のこれもそう。格好だけはプロデューサーからするみたいに取り繕ってくれるけど、実際求めてるのはアタシばかり。応えてもらえてるだけ。許せる範囲で許してもらえてるだけ。その先は叶わない。プロデューサーのほうから、アタシを求めてはもらえない。

 

(ドキドキしてんの全部伝わってんだよな、これ……。ちゃんと。アタシの気持ち)

 

 胸へ抱いたプロデューサーの腕、速く鳴る胸の鼓動を隠さずそこへ伝えて送る。

 もう伝わってるのは分かってるけど。前にこれと同じようにした時にはもう。そのずっと前、こうして触れ合うのを許してもらう前からきっと。そんなのは分かってるけど。でもまた。改めて。

 伝わってるなら、もっと。プロデューサーの中のアタシが薄まらないように。もっと大きく、もっと深いものになるように。

 抱き締めた腕を更に強く、深く優しく包み込む。離さないように、独占して譲らないように、挟むように包み込む。

 手首から下はアタシに埋もれて包まれて。その狭間の谷から顔を出した先は握られて、それまで頭を撫でていたもう片方にも触れられる。

 プロデューサーの腕を抱く。手を重ね指を絡めて、そうしてアタシと結ばせる。

 

(……プロデューサーは、してくれてねえんだな……。……ドキドキ。アタシに。今日も。……まだ、アタシじゃ足りてねえんだ)

 

 たぶん本当はしてるはず。ドキドキ。アタシのそれが大きすぎて感じられないだけでプロデューサーも。……感じられないくらいに少しだけ。

 それに少し心が波立つ。悔しいような悲しいような、奮い立つような。

 分かってること。一回り違うんだ。世間からしても、プロデューサーからしたってアタシは子供。手を伸ばすのはいつだってアタシのほう。だけどそれを、改めてまた見せられて。それに心がざわ、と震う。

 

(まだ足りない。……けど、手放さずにいられてる)

(夢中になるくらい魅せるにはまだ足りてねえんだろうけど……。けど、アタシ以外他の誰かに目移りしねえくらいには、そんな暇もなけりゃ気も起きねえくらいには、アタシのことを見させてる)

(プロデューサーの傍で、輝けてる)

 

 悪い虫を退治するのは訳もない。そんなの慣れたもんだ。どうにだってしてやれる。

 だけどそうじゃないのに手は出せない。湧いて出てきて擦り寄ってくるどうしようもない虫じゃない、綺麗で、格好良くて、熱く眩しく輝くような。プロデューサーのほうから手を伸ばさせるような、そんな誰かには振るえない。

 アタシより輝く誰か、その輝きを消したりするのは……それに泥を塗るようなのは、アタシには絶対できない。それができるならそれはもうアタシじゃないし、そんなやつはきっとふさわしくない。プロデューサーのことがどんなに……こんなに好きでも、こんなに好きだからこそ、それは絶対やれないこと。

 

(アタシが一番だ。プロデューサーの、一番だ)

(一番近い。一番深い。一番アタシが輝いてる)

(今、プロデューサーの一番はアタシなんだ)

 

 だからアタシは輝くしかない。

 周りは綺麗な輝きだらけ。その中で、それでも一際輝けるようにならないと。一番に輝く頂上に、シンデレラって場所にまで届かないと。

 目移りなんかさせない。夢中にさせてやる。いつかアタシが大人になった時、今度はあっちから手を伸ばさせてやる。アタシはもうアタシのことをプロデューサーにあげてんだ。だからいつかプロデューサーのことだって貰ってやる。アタシ以外見させない。

 そのためなら何だってできる。何がなんでも欲しいものがあって、それを手に入れるための方法まで分かってるんだ。なら何でもやってやれる。どんなに大変な道でも、進むべきそれが見えてるんなら。

 

(アタシんだ。今はまだ。これからもきっと)

(プロデューサーのアイドルはアタシだけ。こいつの女はアタシだけ)

(絶対に譲らねえ。それだけの女に、ふさわしいシンデレラになってみせっから)

 

 手をなぞる。指の腹でゆっくりと。そっと優しく柔らかく。

 手の甲を。手のひらを。手首を。指先を。埋まってしまって触れられない腕は、代わりに強く挟み込んで。

 なぞる。舐めるみたいに。キスするみたいに。

 

「……プロデューサー」

 

 呼ぶ。一瞬ぴく、と小さく震えた。

 プロデューサーのこと。アタシのことは全部ちゃんと分かってる。だからきっと考えて。一瞬の間を置いて。そして、静かな無抵抗を選んでくれた。

 許された。まだ叶えてない新しいこと。したいとずっと願ってたこと。

 

(……プロデューサー)

 

 キス。

 軽く触れる、ほんの少し重なるだけの、思いを込めた深いキス。

 アタシを魅せるその在り方に敬愛を。どうかこの想いを叶えてほしいと懇願を。嘘なんか微塵もない本気の好意を。アタシをここまで導いてくれたことへの感謝を。プロデューサーへの思いを込めて。

 少し前までは知りもしなかった。興味も無ければ縁も無かった。なのにすっかり知ってしまった。したいと願うようにさえなった。夢に見た。想いを伝える、意味のあるキス。

 それを何度も。繰り返し、繰り返し。許してもらえた場所の限りに。委ねてくれた手のすべてへ唇を。

 

(顔が熱い。胸がうるせえ。手が震えて止まらねえ)

(壊れちまいそうなくらい身体が跳ねる。このままじゃ死んじまいそうで……けど、絶対やめたくない)

(好き、が止まらない。どうしようもないくらいに胸の奥から込み上げてきて、もう苦しいんだってのに溢れてきて止まらない)

(大好きだ、って……。アタシん中、それだけになっちまう……)

 

 心の中で繰り返す。

 アタシ以外なんて目に入らないくらい輝き続けてやる。アイドルとして女として、一番高いところまで登ってやる。そしていつかアンタのほうから手を伸ばさせて、正真正銘アンタをアタシのもんにしてやる。

 ずっと思ってきたことを改めて繰り返す。何度も何度も。唇から沁みて伝わるように。自分の中の決意を深めるように。プロデューサーへのアタシの気持ちを。

 

(……ああ)

(ああもうほんと……)

 

 アタシの吐息と唇に触れられて、プロデューサーの手が濡れていく。手の全部。指先から手首まで。手の甲も手のひらも。濡れて、アタシに全部染まってく。アタシのものになっていく。

 軽くそっと触れるキス。だけどアタシが残るように。アタシを刻んで、アタシの存在を塗り込むように。想いを尽くして繰り返す。

 好きだ。大好きだ。大切なアタシのプロデューサーへ、アタシに尽くせる想いのすべてを。

 

(プロデューサー……)

(……プロデューサー……アタシ……)

(大好きだ……。アタシ……アンタのこと……愛、してっから……」

 

 

 

 

 

 



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FGO
台無しにしてあげます(ジャンヌオルタ)


「台無しよ」

「全部全部、何もかも全部を台無しにするの」

「あなたの全部を……私は……」

 

 カルデアのマイルーム。電灯の光は消され、蝋燭の淡い光にぼんやりとだけ照らされた部屋の中。そこへ僕は彼女と二人で共にいた。

 ジャンヌオルタ。かつて訪れた特異点で敵対した竜の魔女。数々の特異点でその力を奮ってくれた大切なサーヴァント。人理修復を成した後、この今になってもその身をここへ置いてくれている彼女。彼女と二人……他に誰もいない二人きりで、僕は今ベッドの上へ身体を横に寝かせている。

 

「あなたが用意してくれた何もかも」

「このドレスも、この花束も、この水も」

「全部台無しにするのです。……しなければいけないのです」

 

 新宿で纏っていた黒のドレス。特別に再現して仕立ててもらって、そうして今日僕から贈ったそれ……所々が破け、内に秘めた陶器のように真白い肌を隠せずにいるそれを纏った彼女。

 皺を作って乱れたシーツ。鮮やかな赤色……カーネーションの花弁を幾重にも散らしながらぐちゃ、と乱れたシーツの上。そこへ僕は横になって……彼女に、身体を押し倒されていた。

 

「ほら、私を見なさい」

「そう。見て。逸らさないで口を開けて」

「口です。開けて。……いいからほら、開けなさい」

「台無しにしてあげる。これもまた、この水も台無しにしてあげますから……」

 

 頬へ添えられた冷たい手、まっすぐ一途に注がれる潤んだ瞳、投げ掛けられる声に促されて口を開く。

 抵抗は無駄。身を捩って震わせて……そうして逃れようとする僕の抵抗は彼女の前では無駄なのだと、それはもう教え込まされてしまっている。押さえ付けられて、のし掛かられて、僕はもう逃れられないのだと。

 だから僕は言われるまま。少しの躊躇の後、抵抗はせずに開いてみせて。彼女の求めるまま身を許す。

 

「丹念に時を重ねて絞られた、心地のいい温度へと冷やされた、この時のためにあなたが用意してくれたこれ」

「これも台無しに……。余計な不純物を混ぜ入れて、心地いい冷たさを無惨に奪って……そうしてあなたへ贈りましょう」

「口移しで、飲ませてあげます……」

 

 開いて晒した口の中へ生温い水が注がれる。

 透き通るようだったはず。けれど今は半分濁った粘り気のあるそれ。一度彼女の中で泡立てられたその水が、僕の中へと入ってくる。

 初めはだらだら、と。握った拳を一つ間へと置いたくらいの距離、それを開けた上から垂らされて注がれて。やがて直接、唇を重ねながら送られる。

 

「ん、……ふ、はっ……」

「……ふ、ふふ」

 

 ごくんごくん、と注がれた水を飲み込む。そうして口の中を空ける度、次を次をと注がれて。それを数分。息を荒げながら胸を上下させる僕の唇へ最後に一度舌を這わせて舐め上げてから、それからやっと離れた彼女が笑みを零す。

 僕と同じく整わない吐息を漏らしながら、満足そうにうっとりと。

 

「台無しね」

「せっかくあなたが仕立てたドレスも、綺麗で美しい花の束も、甘美に澄んだこの水も」

「あなたの唇も」

「台無し。全部全部台無しよ」

「私に破られて私に散らされて。私に汚されて私に奪われた」

「台無し」

「あなたはもう、私で全部台無しなの」

 

 真白な頬へかすかな紅色を差し入れて、今にも涙が溢れてしまいそうなほど潤んだ瞳で。そんな、普段と違う彼女に言葉を尽くされる。

 普段と違う。少し前……今この部屋のどこかに転がっているのだろう小瓶、その中身を飲み干してから変わってしまった彼女。普段にはない言動、行動を起こす今この彼女に。

 

「可哀想な人」

「何もかもを穢されて……踏みにじられて……台無しにされて……」

「可哀想。私のせいで」

「私を喚んでしまった。私を傍へ置いて、私を許してしまったせいで」

「私に、想われてしまったせいで」

「可哀想。本当に、可哀想」

 

 静かにそっと、壊れ物を扱うような繊細さで頬を何度も撫でられる。

 胸は胸。腹は腹。足は足。それぞれ互いの同じ部分を重ねて……顔も、吐息が混ざり合うくらいのすぐ傍へと重ねながら。

 撫でられる。何度も何度も。交わした視線は結んだまま。

 

「もう駄目」

「あなたにはきっと未来があった。幾つもの煌めく未来が」

「でも駄目。もう駄目。それはもう台無しになった」

「あなたの未来には私がいる」

「……それは、きっと選ばれない。あなたの周りにはたくさんの人がいる。数えきれないほどの人。あの聖女だって」

「だからきっと選ばれない。私の願いは叶わない。……けれど」

 

 途切れず言葉が降り注ぐ。

 普段とは違う彼女の、普段は口にしないような言葉。

 彼女の言葉。……硝子で造られた小瓶の底、そこへ小さく刻まれていた文字を信じるのなら……普段は秘めている想いを隠さず乗せた、本心からの素直な言葉。

 それが注ぐ。僕へと向けて彼女の口から。

 

「望んでしまった。あなたを想って願ってしまった」

「選ばれなくても関係ない。たとえあなたが誰を選ぼうと……このカルデアの誰か、私の知らない誰か、あの聖女のことを選ぼうと関係ない。私は望む。想う願う」

「だから駄目。手遅れなのよ。あなたが私を選ばなくても、あなたは私から逃れられない。あなたの未来には私の影が差し込むの」

「もうあなたは、私に台無しにされるしかないのよ」

 

 添えられる手が二つに増える。

 それまで胸元を押さえつけるようにしていた手も頬へ伸びて、両方共を撫でられる。

 

「……私は違う。他のサーヴァント達とは違う。過去の無い泡沫の存在。積み上げた歴史を持たない空虚な贋作。偽物の復讐者」

「だから届かない。どれだけ手を伸ばそうと、どれほど叫びを漏らそうと私はあなたに届かない」

「何をしようと私は贋作。何をしようと私は復讐者。憎悪に塗れた偽りの存在としてしか、私は結局いられない」

「今この時を生きる者なら届くのでしょう。過去を持つ本物なら届くのでしょう。あの聖女でさえ、きっとあなたに届くのでしょう」

「それでも私は届かない。あなたへ……あなたと並び立つその場所まで届かない」

 

 誕生日。召喚されてからちょうど一年の節目、この今日を彼女の誕生日にしようとして開かれた誕生日会。ジャンヌダルクの提案によって実現されたその会で、僕は彼女を祝っていた。

 気分が乗らないふうに振る舞いながら、口々に悪態や不満を吐きながら、それでもその会を受け入れて、主役として参加していた彼女。

 カルデア内の全員。職員からもサーヴァントからも祝われて……素直にはなれず、恥ずかしさに焼かれ照れに振り回されて……けれど確かに祝われて、それに心を震わせていた彼女のことを僕も。

 用意していたドレスを贈って、相談しながら数日をかけてやっとそれに決めた花束を手渡して、そうして僕も祝っていた。大広間で皆と一緒に。

 

「私はあなたに届かない……それはわかっているけれど、それでも私はあなたを望む。あなたが欲しい。あなたがいい」

「だから台無し。可哀想なあなたのことを、私は全部台無しにしてしまう」

「届かないなら落とすしかない。あなたに届かない私があなたのことを望むなら、私のここまであなたを落とすしかないのだから」

 

 それが今は二人きり。素直になれない姿を見かねたジャンヌダルクがどこからか……きっとダヴィンチちゃん辺りなんだろうけど、どこからか手に入れて持ってきた小瓶。「せっかくの機会なのですから」と差し出されたそれを受け取った彼女は数分の問答の後に飲み干して。そしてそれからすぐ、僕の手を引いてこのマイルームへと連れ込んだ。

 鍵は掛けられずに空いたまま、入ろうと思えば誰でも入れてしまうこの部屋の中。けれど連れ込まれてから今この時まで、ここへは他の誰も入ってきていない。きっとわざと二人きりにしてくれているんだろう。もしかしたら扉の向こうで聞き耳を立てられているのかもしれない。

 連れ込まれて、押し倒されて。それからずっとこう。熱く濡れた吐息を吐きかけられながら、何度も重ねて言葉を注がれ尽くされている。

 

「炎で焼きましょう。地獄の底まで付き合ってもらいましょう。そう言ったことがありました」

「今の私にそれはできません。あなたを焼くなんてできない。地獄の底まで付き合ってもらえなくても構わない。あなたの終わりは私でなくてもいい。私の終わりにあなたはいてくれなくてもいい。あなたの未来はあなた自身が決めればいい」

「それでも影は落とします。あなたを望んで、私のここまで引き摺り下ろそうとすることはやめません」

「たとえ叶わないのだとわかっていても、それでも私は縋ります。まるで塵芥のような可能性だとしても、あなたに選ばれる未来を夢見ます」

「私が『夢見る』だなんて……そんなの、滑稽だとも自覚はしているけれど」

 

 頬へ添う手はそのまま、親指の腹でそっと唇を撫でられる。

 垂らされたときに外れて落ちた半透明の生温い水。口の周りを汚すそれを掬い上げて絡ませながら、その指を何度も何度も這わせて重ねる。

 そしてそれから。じっくりと感じ入るように時間を尽くして間を置いてから、もう既に近かった距離を更に縮めて言葉の続き。

 

「叶うことを夢見て、たとえ叶わなくてもあなたの未来へ私を……望まれない影という形であってもいい、忌避される呪いとしてでも構わない、あなたの未来へ私を刻む」

「あなたにとっては迷惑な話でしょうね。私に想われたばかりにこれからの未来を穢されて。全部全部を台無しにされて」

「でも駄目。もう取り返しはつきません。潔く諦めてください」

「あなたはもう私から逃れられない。私はもう、どうあってもあなたのことを放せないのですから」

 

 ちゅう、と口付け。

 軽く触れ合うだけのキスが唇へと降ってくる。

 

「私には過去がない。空虚な贋作に過ぎない私は……けれどだから、その初めての何もかもをあなたへと捧げられる」

「この心も、この身体も。私という存在の初めて、そのどんな何もかもを私はあなたへ捧げます」

「重いでしょうね。迷惑でしょうね。苦痛でしょうね。……ああ、本当に哀れな人」

「私のようなものに想われてしまったせいで。可哀想。可哀想」

「でも」

 

 額に。瞼に。鼻に。頬に。唇に。

 キスが降る。胸を通して伝わってくる早く大きな鼓動と同じ荒い吐息を供にして、何度も何度もキスが降る。

 

「好きよ」

「あなたが好き。あなたに恋して、あなたのことを愛しているの」

「だから駄目。地獄の底まで連れ去りはしないけれど、私のこの想いには付き合ってもらいます」

「ずっとずっと。いつまでもいつまでも。あなたが果てるその時まで」

 

 重ねた身体を擦り付けて、纏ったドレスを着崩して。そうしてだんだんと少しずつ白い肌を表へ晒す。

 ほんのりと朱色の差し込んだその肌を晒して、むしろ見せ付けるようにしながら続けてキス。触れ合わせて、時々吸い付くようにして、そうしてキスを何度も何度も。

 

「……オルタ」

 

 かすかな合間。キスとキスの途中、熱い吐息を漏らす息継ぎの合間を縫って声を出す。

 それを受けて彼女も止まる。もう一度落とそうとしていたキスを抑えて、僕の瞳をまっすぐに見つめたまま止まってくれる。

 

「何かしら。不満かしら抗議かしら否定かしら。私を受け入れたくないと、そういうことかしら」

「オルタ」

「いいわよ、構いません。存分に拒んでください。無情に撥ね退けてください。それでも私は変わらない。あなたを想うまま、あなたのことを台無しにするのはやめません。私があなたを愛することはあなたにも止められませんから」

「オルタ!」

「……何かしら」

 

 間を開けずに言葉を続ける彼女を制して止める。

 止まってくれたのを確かめて、それから。今度は口を閉じながら止まってくれた彼女へ向けて、一度息を吐いてから言葉を送る。

 

「ありがとう」

 

 言って抱き締める。

 ぎゅう、と。強く深く。折れてしまいそうだ、と思わされるような細い身体。細いながらも柔らかな、触れていて心地のいいそれを腕に抱く。

 

「嬉しいよ。オルタにそう言ってもらえて。好きだ、って想ってもらえて」

「……」

「オルタは自分のことを悪く言うけど……そんなことない。オルタはそんなどうしようもない存在なんかじゃない。オルタからの好意を嬉しく思わないだなんてない。オルタを……オルタのことを、僕が受け入れないだなんてそんなことない」

「……あなたは」

「ん」

「あなたは愚かね。そんな……心にもないことを。優しすぎる。……いえ、残酷にすぎる。私のことを傷付けないように? 気遣ったつもりなのかしら? それは却って酷というもの。……いいのよ、嘘なんて吐かなくて。私は……」

「オルタ」

「……」

「嘘なんかじゃない。本当。心からの本当だよ」

「……嘘よ。私を受け入れるなんてありえません。私を……他に数多の相手が居る中で、こんな私を選ぶだなんて……そんなのはありえない。それこそ愚か。嘘を吐いて叶うはずもない希望を抱かせることよりも、むしろずっと愚かです」

「ならきっとそうなんだね。僕はきっと愚かなんだ。君のことを受け入れたいと望む僕は、きっと」

 

 抱き締めたまま。後に「君を愛おしいと想うことを愚かだとは思わないけど」と添えて。頬へ触れた手の小さく震える感触を確かめながら、まっすぐはっきり紡いで言う。

 目の前の彼女はしん、と。数度むぐむぐと口を動かしながらも言葉は出さずに数秒沈黙。少しして、その沈黙を経てからぽつりと。

 

「……嘘です」

 

 零すように言った。

 ゆら、と揺れる瞳を向けながら。

 

「嘘じゃない」

「嘘です」

「本当だよ」

「……」

「……」

「……嘘じゃなく、本当に私のことを受け入れたいと?」

「そう」

「私を好きだと? 私を愛していると? 私を選ぶとそう言うのですか?」

「そうだよ。……オルタが好きだ。嘘じゃない。今の僕に嘘は吐けないから」

「吐けない……?」

「オルタと同じだよ。飲ませてくれたから。君が僕に口付けてくれたから」

 

 飲み下した残り。口の中へと残されていた僅かな雫の分だけ。けれどそれは確かに効いていた。口移しで注がれた水、それへ混ざった薬が効いているのを確かに感じる。

 僅かな残りだけ。だから目の前の彼女ほど効いているわけじゃない。嘘を吐けなくなる。嘘を吐こうとは思えなくなる。少し後押しをされるような、普段よりも想いを口にしやすくなるような、そのくらいのもの。

 それを受けて言葉を紡ぐ。揺れながらもまっすぐ一途に向けられる彼女の瞳、それを同じくまっすぐ見つめ返しながら。

 

「もし飲んでいなくても、君に嘘を吐くようなことはしないけど」

「……」

「……」

「……あなたは」

「ん」

「あなたは本気なんですか? こんな私に」

「本気だよ。心から」

「私でいいと?」

「君がいいんだ」

「……」

「……」

「…………なら」

「うん」

「なら。……キス、できますか」

 

 呟き。

 不安気な色に濡れた瞳で、受け取る僕の様子を窺うようにしながら呟いて。そうして唇を指し示す。

 

「汚されるのではなくて。奪われるのではなくて。……あなたから求めて、私と」

「できるよ」

「……」

「できる。……ううん、違うかな。したい。したいよ。オルタとしたい」

「……あなたは、……あなたは本当に馬鹿なのですね。……本当にもう、どうしようもなく……馬鹿で、愚かで……」

「駄目かな」

「駄目ですね。けれど駄目なものですか。そんなあなただから、私は……」

 

 目を瞑る。

 それまで一度も切れることのなかった視線が伏せられる。静かに目を瞑り顔を伏せて、一旦そうして間を置いて。

 それからそっと近付いた。空いていた距離が詰められて、重なる寸前……もうほとんど触れ合っているくらいの傍まで顔が寄せられる。そしてその状態で、吐息を混ぜ合い想いを贈り合いながら。

 

「……なら、してください。キス。……誓いのキスを」

「誓いの?」

「ええ。この時代では誓いを立てる時に交わすキスがあるのでしょう?」

「確かにあるけど」

「ならそれを。……私を受け入れると。私に嘘は吐かないと。私を……今だけじゃなくこれからも、普段の通りに戻った私のことも、私のすべてを愛すると。……誓いのキスを」

「……いいよ。わかった。でも」

「でも?」

「オルタはいいの? 誓われて。誓いを立てられる相手がこの僕で」

「愚問ですね。答えるのも馬鹿らしくなるくらい、どうしようもない愚かな問い。……もちろんです。他の誰へも許しません。私が誓いを許すのは唯一人。……あなたにこそ誓ってほしい」

「ありがとう。僕も誓いたい。オルタにだけ」

「……」

「……」

「……マスター」

「うん」

「愛しています」

「僕も、オルタのこと愛してる」

「ええ。……未来永劫、決して放してあげませんから。……ずっと、ずっと、大好きです……」



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私に愛を刻んだ貴方へ(ランサーアルトリア)

「申し訳ありません。謝罪します。マスター」

「この身この心は人よりもむしろ神霊に近しいもの。けれど私はかつて人であり、またこの今も貴方のおかげで人としてその存在を叶えられています」

「それゆえ分かる。理解はしているのです。貴方にとって迷惑であったと」

「好意は時として害意となる。人は時と場所を選ばなければならないもの。その選択を誤れば、幸せを願う相手へ不幸を贈ることにもなりかねない。そのことはしかと」

「ですから謝罪します。申し訳ありませんでした。あの場、あの時、あのようなことをしてしまい……心から謝罪します」

「我慢していられなかった私を。時も場所も何もかもを意識の外へと放り出して、ただあのように己の欲へ囚われてしまった私を……叶うのならば、どうか許してはいただけませんか……?」

 

 明かりの落ちた部屋の中。僕へと割り当てられたカルデア内のマイルーム。そこへ設えられたベッドの上へと身体を横たえながら、僕は耳元へ囁かれる声を聞いていた。

 身体を覆う布は薄い毛布が一枚だけ。けれどそれなのに暖かく……むしろ暑いくらいに感じてしまいながら、熱く濡れた息と共に震えた声を口に出す。

 

「……あの、アルトリア」

「はい」

「許して、っていうのはこう……困りはしたけどそもそも怒ってはないし、全然問題ないんだけど……」

「許していただけるのですか?」

「まあうん」

「そうですか。……ありがとうございます」

「いいよいいよ、全然いい。……うん、いいんだけどさ。その」

「? なんでしょう?」

「ええっと……どうしてこう、僕はアルトリアに抱き締められてるのかな……?」

 

 後ろから回された腕にぎゅうっと深く抱き締められて。胸を背中に押し当てられて。足を絡められながら、耳のすぐ傍へ顔を置かれて。そうして今、僕はアルトリアと触れていた。

 吐息が耳に届く。首や頬が濡らされる。込み上げる熱で焼けてしまいそうになる身体を、温かな身体で暖められる。伝わってくる声や鼓動で溶かされてしまいそうになる。そんな、それくらいの距離。

 

「どうして。……なるほど、申し訳ありません。私はまた言葉が足りなかったようです。……マスター」

「ん、うん?」

「好きです。私は、貴方のことが」

 

 声が更に近付いた。

 吐息で濡らされた首元へ柔らかな髪の毛が滑る感触。それまで頭の後ろから注がれていた声が耳元へ寄って、言葉の度に唇が擦れてしまいそうだと感じられるくらいのほんのすぐ傍へと近付いてくる。

 

「かつて貴方に問われたとき、私は答えることができませんでした。好きなもの。嫌いなもの。それを貴方へ返せなかった」

 

 言葉を注がれて「ああ、そんなこともあったな」と内心思う。彼女をカルデアへ迎えて間もない頃。まだ今ほど打ち解けられていなかった頃のこと。

 声と同じように近付いてきたいろいろ。より強く押し付いてくる背中の感触。より深く絡んでくる腕や足。強く深く、より濃くなっていくアルトリアのいろいろを感じて精一杯で。だから内心思うだけ。言葉も何も返せず、ただ頭の中でぼんやりと思い出すだけだけれど。

 

「けれど今なら答えられます。貴方のおかげで私は答えを手に入れた」

「答え……?」

「ええ。……マスター」

 

 そっと胸を撫でられる。

 優しくそっと。激しく早鐘を打つ高鳴りを確かめるように。それを慈しみ、愛おしむように。

 

「私の好きなものは貴方です。私の嫌いなものは貴方と共に居られない時です。私は……好きも嫌いも、私はすべて貴方なのです」

 

 甘く蕩けるような、けれどその芯に普段の通りの凛とした在り様を残した声。

 囁くようにしてそれを響かせて。受け取る耳を始まりに身体すべてから心の中までをどうしようもなく震わせて、そうして固まり動けない僕へ「だから」と続ける。

 

「だからなのです。今のこのこれは。そして先ほど許していただいた数分前のあれも。すべてはだから、なのですよ」

「だから……?」

「そう。だから。私が貴方のことを好きだから」

 

 胸を撫でていた手が離れ、今度は僕の手へ触れる。

 緩く握られていた僕の手を優しく解いて開かせて、そして触れ、握り絡む。ぎゅっと深く……故意か無意識かは分からないけれど、いわゆる恋人繋ぎというやつで。

 

「好きだから。それゆえにああしてしまったのです。レイシフトを終え帰ってきた貴方を見て、周りの目も憚らず抱き着いて。そしてそのままこんな……部屋の中へと連れ込んで、想いのままに抱き締めている」

 

 ぎゅ、ぎゅ、と。握った手の感触や存在を確かめるように何度か力を込められる。

 確かめられる度に返ってくる柔らかく滑らかな肌の感触に胸の高鳴りが増していく。戸惑いや混乱が深まって……けれどそんないろいろがどうでもよく思えてしまうくらい、心地のいい幸せも心の奥から込み上げてくる。

 

「私は人。貴方のおかげで人として在ることができている。……とはいえ一般的な人とは違います。神霊としての在り方に引き摺られた存在。それゆえ間違うこともあります。感性のずれた部分があるのも自覚しています。けれど」

「……けれど?」

「これは……この想いだけは間違いのないものなのだと……貴方へと抱いたこの想いは、きっと好意なのだと。恋慕であり愛なのだとそう言える。そう信じられる。私は貴方が好きなのです」

 

 ふと緩む。

 抱き締める力が弱くなって、絡んだ身体が解けていく。耳を震わせる声以外、アルトリアが離れていく。

 

「貴方と居る時は心が休まります。貴方が居ない時は不安に溺れてしまいます」

「貴方と触れている瞬間。貴方と目を合わせている瞬間。貴方と想いを交わしている瞬間。愛おしいその瞬間ごと、私は永遠を願ってしまう」

「私の幸せには貴方がいる。私の不幸にも貴方がいる。私のすべてには貴方がいるのです」

「私は貴方が好きなのです」

 

 言って、それから離れる。

 声を送り吐息を注いできていた唇も耳元から離れていって、そして数秒。少しの間を置いてから、今度はそれまでよりもいくらか遠くなった声が届く。

 

「マスター。こちらを向いていただけませんか?」

 

 その言葉を受けて身体を回転。

 ずりずり、と。上へ掛かっていた毛布を少し巻き込むようにしながら体勢を入れ換えて、それまで背中を向けていたアルトリアへと正面からまっすぐ向き合う。

 

「……マスター」

 

 向き合うとすぐに傍へと抱き寄せられた。

 美しく整った彼女の顔が目の前へ。透き通るように澄んだ瞳をうっすらと潤ませて、頬をほんのり紅色に塗ったそれ。一途にまっすぐこちらを見つめてくる彼女の顔が、間に拳一つ分も無いようなほんのすぐ目の前に現れる。

 

「ふふ、可愛らしいお顔ですね。とても素敵で愛おしい……」

「っ!」

「もっと格好のよい人はいるのでしょう。もっと可愛らしく、もっと整った人はいるのでしょう。……けれど、私には貴方こそがどんな誰よりも愛おしい」

 

 唇を吐息で濡らされて、頬を優しく撫でられて。正面から密着した状態で見つめられながら言葉を贈られて、思わずびくんと震えてしまう。

 そんな姿を目で見ながら肌でも感じた彼女はぎゅう、と。胸は胸へ、腹は腹へ、足は足へ。抱き寄せた身体をもう一度抱き締めてむぎゅ、むぎゅう、と密着を深くする。

 

「きっとこれが恋というものなのでしょうね。……恋。……ええ、とても良い心地です。温かで、幸せで、貴方に満たされて……」

 

 うっとりとした表情。凛と美しく整ったのはそのまま、そこへ甘く蕩けたような色を差し込ませた恍惚とした表情。それを惜しげもなく晒しながら、彼女がぽつりぽつりと呟きを漏らす。

 呟く言葉を漏らすため唇が上下に開閉する度たまらなくなるのを……吐息で撫でられる度、触れてしまいそうなほんのすぐ傍を唇が何度も通る度、たまらなく気持ちが込み上げてしまいそうになるのを抑えながらそれを聞く。

 すると少しの間を置いて。そうして口も開けず固まってしまった僕のことを撫でて見つめながらゆっくりと少しの間を空けて、それからそっと。

 

「ん……」

 

 頬に柔らかい感触。

 ほんのりと濡れた唇が頬に一瞬触れて、音を立てながら離れていく。

 

「……ふふ、少しはしたなかったでしょうか」

 

 触れたのは一瞬だけ。けれど柔く吸い付いて、離れるときには名残を惜しむような音を響かせる口付け。それを不意に落とされて、もうとっくに戸惑いながら高鳴っていた身体や心が更に激しく沸いてしまう。

 熱に浮かされぼんやりと滲む視界の中にはかすかな照れを混じらせながら微笑むアルトリアの姿。綺麗な赤色に濡れた唇が見えてしまって、そこでまたドキドキと鼓動が跳ねる。

 

「申し訳ありません。駄目なのだと分かっていながら自身の欲に突き動かされて……きっと貴方はそんな私のことも許してくれるのだと知っていて、その優しい貴方の在り方に甘えて……また、こんなことをして」

 

 唇が触れた場所を指が撫でる。

 触れていたその現実を確かめるように。触れていたその事実を塗り込んで刻むように。想いを込めて愛おしむようにして、細く長い指がそっと優しく何度も頬を。

 

「けれど、貴方のせいでもあるのですよ? 今のこの私があるのは貴方のおかげで、同時に貴方のせいなのです」

「僕、の?」

「ええ、貴方の。……貴方は私に好意や恋、愛を教えてくれました。けれどそれと同じく貴方は私を好意や恋、愛に狂わせてしまったのですから」

 

 頬を撫でる指が横へ。ゆっくりと滑って動いて、それが今度は唇へと触れる。

 指の腹でふに、と押され。二本の指で挟まれながらくに、くに、と弄られて。それまで頬をそうされていたように唇を優しく愛でられる。

 

「だから貴方のせい。貴方のおかげで貴方のせい、なのです。……だから、ええと」

 

 一瞬の間。何か思考を巡らせる間を置いて。

 

「そう。今の時代で言うのなら……『責任、取っていただけますか?』……です」

 

 言って、言い終えてすぐに感触。

 目の前に映っていた彼女の顔がふと消えて、それから耳に何かの触れる感触。ちゅう、と音の鳴る耳への口付け。

 

「耳への口付けは誘惑の意。……マスター、私の誘惑は受け取っていただけるのでしょうか……?」

「え、あっと……」

「……ふふ」

 

 問われた言葉に答えられず上手く声も発せない僕を見て彼女からそっと笑む声。耳元へと唇を寄せたまま柔らかな笑みを漏らして、そしてそれからまた再び。耳へ触れる誘惑の口付け。  

 ちゅ、と。ちゅ、ちゅう、と。細かく触れる口付けが何度も何度も降ってくる。

 

「構いません。今はまだ答えてもらえなくても。これから先も私はずっと、貴方に刻んでもらったこの想いを大切に抱き続けて待ちますから。いつか貴方と結ばれることを願いながら。……マスター……私の愛おしいマスター……私はずっと、貴方のことを愛していますよ……」



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寝ぼけ眼の貴方と(ジャンヌ・ダルク)

「ん……」

「……あら……お目覚めになられたのですね、マスター」

「……んー……うん。おはよう……」

 

 頬の上を滑る柔らかな感触。左腕から伝わってくる重みと痺れ。それを感じながら目を覚ます。

 ぼんやり映る寝ぼけ眼の視界の中には朧気な輪郭をした人の顔。その真ん中辺りの……きっと唇が静かに動いて、優しい声が降ってくる。

 

「はい、おはようございます。……ああ」

「……?」

「そのままで。そこは私が拭ってさしあげますから」

 

 瞼を拭うために腕を動かそうとして、けれどそれを制された。

 重さや痺れのない右腕。細くて柔らかい、温かな何かを抱くようにして前へ伸ばしていた右腕はそのままに留められて。それからすぐ瞼へ、それまで頬を滑っていた感触が移って触れてくる。

 

「ふふ……」

 

 そっと、そうっと。優しく瞼を拭われる。

 気持ちいい。心地いい。ただ触れられているだけなのに溶かされてしまいそうになる。拭われるごとに晴れていく視界と同じ、ぼやけていた思考も晴れてくる。

 だんだんと見えてきて、そうして頭でも分かるようになってきた。目の前の人のこと。視界をいっぱいに埋め尽くす綺麗に整った彼女の顔。誰より恋しい、何より愛しい相手のことを。

 

「……おはよう。……うん。ジャンヌ」

「? ええ、おはようございます」

 

 今度はちゃんと、ジャンヌへ向けて「おはよう」を。

 二度目の挨拶に一瞬疑問符を浮かべながら、けれど律儀に二度目を返してくれる彼女。思わず見惚れてしまうような微笑みに表情を緩ませた彼女の身体を抱き締める。

 左腕を枕にして横になった、腕の中の彼女。両手をそっと頬へと添えられて、じいっとまっすぐ温かな視線を注いでくる彼女のことを。ぎゅっと。ぎゅうっと。

 

「あっ……」

「ごめん、強かったかな」

「いえ、大丈夫です。……大丈夫。……ええ、ですが」

「うん?」

「大丈夫……なのですが……その、むしろ……もう少し強くしていただけると……」

「……」

「えっと……駄目、でしょうか……?」

「ううん、そんなわけない。……ただ」

「ただ?」

「ジャンヌ、ちょっと可愛すぎ」

 

 もっとずっと深く。それまでよりも更に強く。ジャンヌの身体を抱き締める。

 ほう、と吐かれた熱く濡れた吐息が顔にかかる。満足げに蕩けた瞳に見つめられて、触れ合った身体を押し付けられて擦られて。それを感じて確かめながら、自分も求める力を強くする。

 

「あっ……は、あぁ……」

「これでいい?」

「……はい……いいです。……とっても……」

「そっか、良かった」

 

 それまでの微笑みをもう一段深く。頬をほんのり淡い紅色へと染めて、にこり、と表情を緩める彼女。

 それを見て自分の頬も思わず緩む。愛しい人の愛おしい表情を見て、喜んでもらえていることが嬉しくて、自然と幸せな想いに満たされていく。

 

「ジャンヌ」

「はい……?」

「今は?」

「今……? ……ああ、時間ですね。まだ日の出前、深夜の三時を過ぎたほどです」

「そっか……僕は何時くらいから?」

「そうですね、確か……十時を少し回った頃だったかと」

「としたら大体五時間くらいか……ジャンヌはその間ずっと?」

「ええ、ずっと。こうしてこのまま、貴方と共に」

 

 蕩けてしまってそれまでよりもいくらか柔く緩い口調になったジャンヌと言葉を交わす。

 壊れ物を扱うように優しくそっと、けれど想いを込めて確かにしっかりと。言葉を口にしながら絶えず撫でられ続ける頬に幸せなこそばゆさを感じながら、そうしてぽつぽつ。

 

「退屈じゃなかった? ずっと一人で」

「いえ、そんなことはありませんでしたよ。言葉はなくとも貴方とこうして重なって……貴方の鼓動や息遣い、温もりを感じながらいられるのは……貴方の安らかな寝顔を見つめていられるのは、私にとって退屈などではなく幸せに満ちた時間ですから」

「……そっか」

「ええ。……ふふ、とっても可愛らしい寝顔でしたよ?」

 

 五時間ずっと、その間を延々と眺められていたのか。と内心気恥ずかしく照れてしまったのを察されて微笑まれる。

 そのことにまた込み上げてくる恥ずかしさを増してしまいながら、なんとか表情には出さないよう意地を張りつつ見つめあう。

 

「……ああ、それと」

「うん?」

「マスター。その……今の私を見て、何か思うことはないでしょうか……?」

 

 するとふと。そんな姿を視界へ収めながら僕へ触れるジャンヌが……右の手は頬へ添えたまま左の手を上へ動かして、そうして髪を弄るジャンヌが呟き。

 髪や頬を撫でながら。密着した身体をすりすり、と控えめに擦らせながら。そうしながらぽつり、と。

 

「何か……?」

「ええ、何か」

「んー……そうだなぁ……」

「……」

「ええっと……」

「……」

「ううん……」

「……」

「……」

「…………やはり、聞いていたお話のようにはいかないのでしょうか」

 

 しゅん、と。浮かべた表情が薄く曇る。

 そんな顔をさせてしまったことに慌ててしまって、申し訳のない想いに溢れてしまって。そうして一瞬体勢を崩してしまいそうになったのを、けれど抑えられて保たされて。深く密着したのはそのまま、彼女に言葉を続けられる。

 

「その、聞いたんです。そうすれば叶うのだと」

「叶う?」

「はい。……眠りの中の想い人へ囁きを注げば、それは心へ根付き、叶うのだと。そのように」

「囁き……」

「ええ。……マスター」

「?」

「私は綺麗ではありませんか?」

「えっ?」

「可愛くは見えませんか? 美しくは映りませんか? 私のことを、普段より愛おしくは感じませんか……?」

 

 上目遣いで窺うように。どこか不安そうに。どこか期待を込めた瞳で。見つめながら言ってくる。

 優しくそっと。僕へ触れる力のそれは変わらず。けれどかすかに動きをぎこちなく硬くしながら。言って、返事を待って見つめてくる。

 

「……綺麗だよ」

 

 それに僕はそう答えた。

 表情。言葉。仕草。感じられるジャンヌのすべてを受けて、そうして抱いた本心からの言葉。嘘偽りのない本当の気持ち。

 

「綺麗だ。誰よりも可愛く見える。何よりも美しく感じられる。恋しくて、愛おしい」

「……」

「……」

「……それは本当の言葉なのでしょうか」

「え?」

「私に促されて……無理に言わされてしまった言葉ではないのでしょうか……?」

「そんなことない! それはその……すぐにそう答えてあげられなかった僕が悪いんだけど……これは、本当に嘘じゃない心からの言葉だよ」

 

 暗い声。目を伏せたジャンヌがぽつりと漏らす。

 僕はそれに反論。抱き締める力を強めて、伏せられた瞳へまっすぐに視線を向けて。そうして言う。心を込めて。

 

「……私のこと、好きですか?」

「うん」

「大好きだ、って思ってくれていますか……?」

「思ってる。ジャンヌのこと大好きだよ」

「本当ですか?」

「本当だって」

「それなら……」

「なら?」

「愛していますか?」

「愛?」

「はい。……他のどんな誰よりも。他のどんな何よりも」

「もちろん。愛してる。他の誰でも何でもない、ジャンヌのことを僕は」

「……」

「……」

「……ふふ」

「?」

「ふふ……えへへ……ごめんなさい」

 

 ふにゃ、と緩んだ。

 それまで目を伏せ暗くなっていた表情が柔く緩んで、そして『ごめん』と謝罪の声。

 

「えっと……?」

「ごめんなさい。私、嘘を吐いてしまいました。……貴方へ囁きを注いだ、なんて嘘を」

「……嘘?」

 

 緩んだ中へ申し訳なさそうな色を一筋差し込んで、先のとは少し違う上目遣い。

 

「はい。……聞いたのは本当です。そういったお話があるのだということは。けれど、実際に行動へ起こしたわけではないのです」

「っていうと……?」

「つまり」

「つまり?」

「聞かせてもらえると思ったのです。聞かせてほしいと思っていた言葉を、貴方から」

 

 恥じらうように。

 伏せはせず、けれどふらふらと泳ぐ瞳。揺らぎながらも触れ続け、重なり続けて、強く深く密着している体勢は解かずに言う。

 

「僕から?」

「はい」

「好きだ、って言ってほしくて?」

「……はい」

「愛してる、って言ってほしくて?」

「……はい」

「……」

「……」

「……ジャンヌは可愛いなぁ」

 

 ぎゅう。

 抱き締める。恋しくて愛おしくて、温かな想いが込み上げてきて。思わずつい、気付いたら抱き締める力を強めていた。

 

「んぅ……」

「ふふ」

「……マスター」

「?」

「許していただけるのですか?」

「許すも何も……ジャンヌのこと、悪く思ったりなんてしてないから」

「……ありがとうございます」

「いいえ。……ああ、だけど」

「……なんでしょう?」

「本当に何もしなかった?」

 

 安心したように息を吐くジャンヌ。

 抱き締めた背中をあやすようにして撫でながら、その彼女へ言葉を。

 

「囁く、っていうそれをしてないのは分かった。……分かったんだけど」

「だけど……?」

「それ以外はどうなのかなって」

「……それ以外?」

「それ以外」

「……」

「……」

「……その、マスター」

「うん?」

「もしかして……えっと、起きていたのですか?」

「いや、寝てたよ。それは絶対」

「……」

「隠したいのならいいんだけど。僕はそれでも……」

「い、いえっ!」

「?」

「いえ、言います。貴方に隠し事などしたくありませんから……」

 

 もじもじ、と。数度口を動かして、けれど言葉は紡げず。そうして数秒間を置いて。

 髪を弄っていた手を更に先へ。頭の後ろまで回して抱き抱えるような形へ変えてから、ゆっくりと小さな声で呟きを。

 

「頬を撫でました。髪を弄りました。……それで、それと、その……」

「それで、それと?」

「…………キスを……」

「ん?」

「……キスを! 貴方と! ……その、勝手に……キスを……」

 

 頬を濡らす紅色を深く塗り重ねながら、ぱたぱた、と取り乱すジャンヌ。

 落ち着きのない彼女を抱き締めながら聞く。背中を撫でて、ぽんぽんと叩いて、言葉の続きをそっと促す。

 

「キス」

「あっ、でも唇にはしていませんっ。それは駄目。それは貴方の承諾なしに触れてしまってはいけないもの、ですから」

「そっか。……それじゃあ」

「?」

「どこにしたの? キス。僕に」

「え、あえっと……」

「ん」

「……その、頬に何度か…………」

「頬に?」

「はい……」

「そっか」

「……あと」

「うん?」

「あと、それから……額にも……」

「額」

「瞼と……鼻と……耳と……」

「……ん?」

「……」

「……」

「……え、へへ……ごめんなさい……」

 

 笑み。悪戯が見付かった子供のような、出会ったばかりの頃の彼女からは想像のできなかったような、そんな笑み。

 赤い顔をそんな笑みに塗って、小さく「唇以外の場所へは、すべて……」と声。小さく細い謝る声を、彼女が僕へと送り注ぐ。

 

「…………あの」

「ん?」

「怒って、いますか? 寝ている間、勝手にそんなことをされて」

「そんなこと……いや、うん……そうだね」

「っ」

 

 腕の中の身体がびくり、と震えた。

 それと同時に一筋不安げな色を表情へ差し込ませたジャンヌのことを、改めて強く抱き直して。

 

「怒ってるかも。……だから、お仕置きかな」

「お仕置き、ですか……?」

「そう、お仕置き」

「それは……その、どんな……」

「えっとね」

 

 一旦合間。

 まっすぐ一途に見つめてくるジャンヌ。その瞳を見つめ返しながら、もう既に近かった距離を更に詰めて。今にも触れてしまいそうな、吐息の混じりあうほんのすぐ傍まで顔を寄せて。

 そして、それから。

 

「キス」

「……え?」

「キス、してほしいな。僕と」

「キス……ですか……?」

「そう。キス。……今度は、寝ている間に触れられなかったところへ」

「それって……!」

 

 不安げな色が掻き消えて、代わりに眩しい色へ塗り変わる。

 口調が明るく、表情が眩しく、ジャンヌの様子がぐるりと変わった。

 

「……あの、マスター」

「?」

「よいのですか? 本当に、そんなお仕置きをいただいてしまっても……」

「もちろん。むしろ受けてほしい」

「……ああ」

「駄目かな?」

「そんなわけありません。拒むはずがありません。当然、お受け致します……」

「そっか」

「ええ。……ああ、マスター」

「何かなジャンヌ」

「好きです。やはり私は貴方のことが……好きで好きで大好きで……ええ、誰よりも愛しています……」



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私の血。貴方の血(ジャンヌ・オルタ)

 ことん。

 カルデアの中の一室。人類最後のマスターであり私というサーヴァントを喚び招いた悪趣味な人間、彼へと割り当てられた部屋。飾り気のないその部屋の中ほど、同じように飾り気のない真白く小さなテーブルの上に二つ、底へ僅かにだけ中身を残したカップを置く。

 腰かけていた椅子から立ち上がり先へ。部屋の奥へと設えられたベッドのもとまで歩を進め、それから一度深呼吸。ベッドの上へ――そこへ身体を寝かせ無防備な姿を私へ晒したマスターへと視線を注ぎ、その彼を全身へ感じ入るようにして大きく深く吸って吐く。

 

「ん、っ……ぁ、あぁ……」

 

 身体を芯から痺れさせ焼き溶かすかのような、心地のいい温かさ。心を底から甘く蕩けさせ強く大きく震わせるかのような、心地のいい匂い。それを含みそれらを帯びるこの部屋の空気を、深く深く私のこの中へと浸透させるよう、注ぎ入れて満たすよう。ゆっくりとじっくりと、味わい抱き締め全身で感じ尽くすようにして中へ中へと迎え入れていく。

 

「ふふ……」

 

 迎え入れた心地のいい空気と引き換えに自分の孕んでいた空気を、想いに染まり熱っぽく濡れた自身を吐き出し外へと送り出して、そうしてから小さく笑み。表情を柔く緩めて――自然と緩んでしまうまま、それに任せてだらしなく崩して緩めて。そして、立たせていた身体を座らせる。

 ベッドの上、私の目の前で無警戒にも寝顔を晒すマスターの横へ座らせる。ぐっすりと眠りに落ちた無防備な彼、普段よりも大分ラフな薄い部屋着しか纏わない彼の横へ座らせて、寄せて、添わせる。

 

「マスター」

 

 座った状態で上半身を前へと倒し、自分の顔を彼の顔のすぐ傍へ。吐息が触れ合い混ざり合うほどの近さ、視界に彼以外の余計な何もが映り込まないほどの距離にまで接近して、そうしてそっと耳元へ囁くような声を漏らして贈る。

 その声に応えるかのように彼の口から吐かれて贈られた吐息――先の深呼吸で私の身体を溶かし心を震わせた心地のいい空気、それすら霞ませ彼方へと追いやってしまうほどの圧倒的な濃密さを持ったその吐息を受け取って、吸い込み飲み込み身の内へと迎え入れ染み込ませて、たまらない至福を欠片ほども逃してはしまわぬよう自らの全存在を以って感じながら手を伸ばす。

 

「ああ……」

 

 綺麗な紅に光る唇。柔らかくて潤んでいて、そっと柔く触れているそれだけで幸せを伝えてくれる彼の唇。そこへ、指を触れさせる。

 つい先まで私の耳を甘く焦がし熱く酔わせる愛しい声を紡いでいたそこ。つい先まで私の淹れた珈琲を美味しそうに受け入れてくれていたそこ。それと共に混ぜ入れられた特性の隠し味を――私のこの血を、液を、身を、抱き止め迎え入れてくれていたそこ。そこへ指を触れさせて、ねぶるように這わせて、撫で纏わせて絡め味わう。

 ふにふに、と。

 開いて閉じて。柔いその唇が、触れられていることに対する身体の反射で小さく細かに動きを返すのを楽しみつつ指を躍らせて、そうしながら少しずつ触れる位置を下へ。

 唇から頬、頬から首筋、首筋から胸元へと下げていく。肌へ触れる指先へ想いを込めながら、溢れんばかり、止めどなく湧いてくる熱を伝えるよう、贅沢に惜しみなく時間を掛けて下へ下へ。

 

「ん、マスター……」

 

 そしてそれが腹まで達したのを機にして体勢を移す。

 それまで上半身を折りながら布団の上へ座らせていた身体を横へ。眠る彼の隣へ近づけ添わせ、密着させ重ね合わせるように横へ寝かせて、その形で強く深く、彼のその身体を抱き締める。

 それから幾時か。数分、数十分、あるいは数時間。永遠にすら感じられるほど濃密に想いの詰まった時間をそのままで、抱き締め繋がった体勢で過ごしてから、一言。もう触れ合ってしまいそうなほどの近さで――彼の耳と、もはや触れ合ってしまっているほどの近さで唇を震わせて、一言囁く。

 

「頂くわよ」

 

 がぶ。

 噛みついた。囁いて、許しを得て、がぶりと。

 彼の首元、警戒なく晒け出されたそこへと噛み付き、歯を立て、触れた肌を食い貫く。

 そうして更に奥へ。彼が受け入れてくれるのを確かめながら、許してくれているのを感じながら、立てた歯を更に奥へ食い込ませ、その身体を侵していく。

 

「ん、く……」

 

 やがて味わう。貫いた先から溢れ、口の中へと流れ込んでくる彼を、その熱い血を味わう。

 舌で、内頬で、喉で、味わって堪能する。幸せを実感しながら、気分が高揚していくのを自覚しながら、心行くまで全身が満たされるまで味わって――それから飲み込む。

 

「ぁ、ふふ……」

 

 飲み込んだ血が身体の中へ巡り溶け込んでいくのを感じて、堪らない至福が胸の内へ沸々と。それと同時に溢れて漏れていく笑みを抑えることはせず、擽るように、溶かし込むように、血を溢れさせるその穴を通して彼の中へと響いていくように抑えるのではなくむしろ放って、そうしながらこの身に感じる至福を味わい尽くす。

 

「貴方には私の血を。私には貴方の血を。同じ血を流さなければ。ねえ、マスター……?」

 

 言って。そう零すように呟いて、無防備に晒された彼の耳へ向けて言葉を贈って、それから改めて力を込める。添わせた身体を更に近く傍へ寄せて、触れ合った肌越しに鼓動や体温を更に多く更に強く感じるため身体をなお深く押し付けて、その身体を抱く腕にぎゅっと強く思いきり、逃がさないように縛り付けるように、私だけのものへ染め尽くすように想いを込めて抱き締める。

 そしてちゅうう、と一吸い。

 血に濡れ汗に濡れ、私の唾液に濡れた熱っぽい首元。そこを一度舐めてから、私と彼の二人がたっぷりと深く濃く混じり合った液を舌の上で味わってから、それからまた再び口付け。とく、とく、と血を溢れさせ私に贈ってくれるそこへと口付けて、リップ音をわざと高く部屋の中へと響かせながら血を吸い、その触れ心地と温度とを全霊で感じながら飲み下す。

 

「貴方に添うのは私。貴方が私を喚んだ。貴方が私を生んだのだから」

「貴方と歩み進むのは私。貴方には地獄の底まで着いてきてもらうのだから」

「貴方を汚し、貴方を満たし、貴方へ刻まれるのは私だけ。私にとって唯一の貴方――その貴方にとっての唯一は、私でないとならないのだから」

 

 吸って、飲んで、取り込んで。彼を自らの中へ受け入れ続け、それからそう宣言。身体を痺れさせ心を溶かすような香りを帯びながら温い感覚を与えてくれるその血で喉を鳴らし、唇やその周りを余さず塗り尽くした二人の液でにちゃにちゃと音立てて、そうしながら宣言する。

 それから一旦顔を首元から離して上へ。眠る彼の顔へと移動させて……そして、口付け。

 そっと優しく柔らかな、小さく触れるだけのそれを唇へ落とす。

 

「ん……」

 

 元から潤っていた綺麗な唇が汚された。――上から私の液で濡らされ輝くのを視界に入れ胸に満足感を感じながら、静かにそっと身体を後ろへ。下半身は複雑に濃密に、決して解けてしまわないように絡み付かせて――そのまま上半身だけを後ろへ下げ小さく隙間を空け、それまで彼の身体を抱き締めていた腕を解く。

 

「私ばかりじゃ駄目……貴方も、さっきのだけじゃ……」

 

 解いて自由にした手を彼と私の間へ。綺麗に整え鋭く研いだ爪の先へと魔力を纏わせる。

 それを数秒、ゆらゆらと空に遊ばせて。

 

「マスター……今度は、貴方の番」

 

 一閃、鋭くそれを走らせる。

 あまり大きく動いて目の前の彼を害してしまわないよう、手首の動きだけで小さく。けれど裂くべきものが裂けるようしっかりと力を込めて。迷いなく淀みなく、流れるような動きでその爪の先を走らせる。

 

「あ、は」

 

 痛み。鋭利で痺れるような、鋭いながらも深く深く浸み込んでくるような痛みが手首へ走り自然と――その痛みから感じられるたまらない心地よさと快感に、自然と笑みが零れる。

 そんな笑みを、だらしなく蕩けて卑しく緩んだ笑みを浮かべながら手を上へ。先の口付けで液に濡れ、私を受け入れ待ち焦がれるかのように柔く開かれた唇へと持っていく。

 そしてそこへ血を。私を迎え入れようとしてくれている彼の中へ私を注ぐ。これまで私が注いでもらっていた分たっぷりと。私が彼を身体の内へ流しているように、彼の内でも私という存在を流してもらえるよう。私だけの彼、彼だけの私、そうして私と彼が唯一無二の番となれるよう。存分に。執拗に。徹底的に。

 

「ああ――マスター。本当に不幸な人」

「私なんかを喚んでしまったばかりに。私なんかに入れ込んで――私なんかに、望まれてしまったばっかりに」

「不幸な人。……でもそれもすべて貴方のせい。貴方が招いた結果。だから」

「容赦はしません。貴方の身体を……心も、未来も、貴方のすべてを私で汚す。私を刻んで、私に満たしてあげる」

「離しません。地獄の底、その先の遥かな果てまで付き合ってもらいますからね……」



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ポケットモンスター
Sir knight(サーナイト)


サーナイトの、トレーナーに対する独白。


 私が喜びを感じたとき、貴方は一緒に喜んでくれた。

 私が怒りを覚えたとき、貴方は真摯に受け止めてくれた。

 私が悲しみに溺れたとき、貴方は優しく救い出してくれた。

 私が期待に胸を膨らませていたとき、貴方は私にそれ以上の返事をしてくれた。

 私が失敗し折れてしまいそうになったとき、貴方は私が立ち直るまでいつまでだって支えてくれた。

 私が困らせてしまうのを自覚しながらも甘えてしまったとき、貴方は決して拒まずに私のことを受け入れ抱きしめてくれた。

 私が貴方に『好き』だと言ったとき、貴方は『好き』を囁いてくれた。

 私が貴方に『大好き』だと伝えたとき、貴方は『大好き』を贈ってくれた。

 私が貴方のことを『愛している』のだと告白したとき、貴方は私に『愛している』の言葉を紡いでくれた。

 貴方は私にすべてをくれた。

 いろいろな経験を、たくさんの出会いを、様々な感情を、『愛』をくれた。

 私がまだ、一人では何も成せなかったとき、

 私がやっと、ほんの僅かではあるけれど貴方を助けられるようになったとき、

 私がこうして、貴方を護り貴方を支える力、貴方の何よりのパートナーとなることができた今も、

 いつもいつでも、どんなときでもどんなところでも、数え切れないほど多くのものを、もはや量れないほど数多のものを貴方はくれた。

 だから私は、好きです。

 敬愛。友愛。親愛。それらとは違う意味で、私は貴方が好きなのです。

 私は、大好きです。

 ヒトもポケモンも関係ない。ただ『私』という存在として貴方が、『マスター』という存在が大好きなのです。

 私は、愛しています。

 貴方が傍にいてくれなければ生きてもゆけない。貴方が隣から離れてしまえば存在する意味すら失くしてしまう。私のすべて何もかもは貴方だけ。そんな風に――このようになってしまうほど、貴方のことを愛しているのです。

 貴方は私のすべて。私には貴方だけ。私にはもう、貴方という方しかいないのです、マスター。

 

 ……マスター。私のマスター。堪らなく好きで狂ってしまうほど大好きで、誰よりも何よりも愛おしいマスター……私の、かけがえのないマスター。

 私は貴方と共に在りたい。私は貴方と寄り添って歩んでゆきたい。旅のパートナーとしての繋がり、それを超えた更に深く濃密な関係で、私は貴方と結ばれたい。

 私のすべてが貴方であるように、貴方のすべてを私だけにしてしまいたい。

 

 ――あぁ。あぁでも、しかし、

 貴方にとって、やはり私はパートナーなのですね。

 貴方にとって、やはり私は大切なモノの一つに過ぎないのですね。

 貴方にとって、やはり私はただの……ただの一匹、所詮ただのポケモンなのですね。

 知っていました。

 知っていたし分かっていた。ちゃんと、理解していました。

 貴方はヒト、私はポケモン。

 別の種族、まったく異なる生き物。

 交われる。繋がれる。結ばれる。そんなことは、そんな願いは叶わないのだと、

 知っていました。そんなアタリマエ、私だって知っていました。

 ……でも。

 でも、それでも、私たちならば――私と貴方ならば、と。

 一般的には禁忌。常識的には間違い。この世界においては罪。たとえそうであったとしても、他の何物からも認められず許されない悪であったとしても二人なら、この私とマスターとならば乗り越えられる。

 乗り越え、屈せず、いつか望んだ未来に辿り着けるはずだと。

 そう、私は思っていたのです。そうであるに違いないと思っていたし、想っていたのです。

 ……しかし、それはやはり誤りだったのですね。

 成らず叶わず達することもない、私の勝手な夢想だったのですね。

 ――もちろん、これが異常なのだと分かってはいます。

 ポケモンの身でありながらヒトに恋心を持ってしまった私が、

 あるべき形を間違え正しい意味を取り違えた想いを、こんな禁忌を抱いてしまった私が、

 貴方という存在をここまで――生死の行方もその意味も、そんな何もかもが貴方なしではままならなくなってしまうほどに望み、願い、愛してしまった私が、

 この私こそが異常なのだと、途方もなく異端なのだと分かっています。

 私がダメなのです。

 私がおかしいのです。

 私がいけないのです。

 そう、分かっています。そんなこと、分かっています。

 ……けれど。

 けれどもう、どうにもならないのです。

 私でない他のヒトに、貴方の笑顔が向けられるのが嫌。

 私でない他のヒトに、貴方の身体が触れてしまうのが嫌。

 私でない他のヒトに、貴方の心が――『好き』が、『大好き』が、『愛』が贈られるのが嫌。

 そしてそれを、そんな光景を見ていることしか……今こうしているように、貴方と他のヒトとが仲睦まじく接しているのを後ろから、遠い遠い外から見ていることしかできないのが嫌。

 嫌で嫌で嫌で、堪らなく嫌なのです。

 醜いとは思います。汚く酷い自分勝手な、醜悪極まりないものだとは思います。

 しかしそれでも、もはや自らの内に留めてなどおけないほど、隠したまま秘めたままではいられないほど嫌なのです。

 貴方とあれの仲を引き裂きたい。

 貴方に纏わりつくあれを壊してしまいたい。

 貴方を奪おうとするあれに、貴方は私のものなのだと教えてやりたい。

 そんな悪意を、もはや私自身どうしても抑えておけないほど、もう爆ぜてしまいそうなのを止めていられないほど嫌なのです。

 それほどまでに私は、貴方を愛しているのです。

 それほどまでに私は貴方を――愛して、しまったのです。

 

 ……あぁマスター、私には分かります。ヒトの気持ちが、ヒトの想いが分かります。分かって、しまいます。

 手に取るように呼吸をするかのように、それこそ目には見えずとも、近くにいるだけで分かってしまう。鮮明に見えて克明に伝わって、どうしようもなく分かってしまうのです。

 だから、私は悔しい。

 だから、私は悲しい。

 だから、私は苦しい。

 だから今私は、もう壊れて滅びてしまいそうなほど、私が私でなくなってしまうのではないかというほど、狂おしいほどに辛いのです。

 私が欲しくて仕方のなかったものが、

 私が愛してやまなかったものが、

 私だけのものになるはずだと信じて疑わなかったものが、

 貴方という存在が、あれに向けられ、注がれ、尽くされているのが分かってしまうから。

 私が在りたかった貴方の何よりも大切な場所、今そこに在るのは私でなくあれなのだと、そんな現実が分かってしまうから。

 貴方とあれの間が、あまりに眩しすぎて目を塞ぎたくなるほど美しく輝く幸せに、互いを想う好意と愛に溢れているのが分かってしまうから。

 だから私は今、閉じこもるように俯いているのです。

 だから私は今、血が滲むほどに強く唇を噛み締めているのです。

 だから私は今、止まらない震えを抑えつけるように自らの身体を抱きしめ縛っているのです。

 見えないように、気づかれないように、伝わらないように後ろで。貴方とあれの仲に、その世界に触れてしまわないように遥か遠くで。私は今、嗚咽を堪えながら涙を流しているのです。

 

 ……あぁ、マスター。私はいったい、どうすればよいのでしょう。

 私はもう、貴方への想いを抱いていられません。

 叶わぬのを分かりながら秘めていられるほど、貴方は私の中で小さくなどないのです。

 このままでは私自身、そして貴方までも破滅させてしまう。そうと分かっていても抑えられずどうにもならないほどに強く、大きい想いなのです。

 私はもう、貴方への想いを捨てることができません。

 叶わぬと知ったから即座に捨て去ってしまえるほど、貴方は私の中で小さくなどないのです。

 このままでは私自身、そして貴方までもを終わらせてしまう。そうは分かっていても止められずどうしようもないほどに深く、一途な想いなのです。

 私は貴方を抱いていられません。私は貴方を捨て去ってしまえません。

 もう私自身の力では、どうすることもできないのです。

 こんな絶望に堕ちてしまうほど、私は――貴方というヒトを愛してしまったのです。

 

 ごめんなさい、マスター。

 こんな馬鹿な従者で、ごめんなさい。

 ごめんなさい、私の愛おしいヒト。

 こんな狂ったポケモンで、ごめんなさい。

 ごめんなさい、アナタ。

 こんな間違った存在が貴方を愛してしまって、ごめんなさい。

 過去。私は、貴方の重荷にばかりなってしまいました。

 現在。私は、貴方を不幸に導こうとしてしまっています。

 未来。私は、貴方に望まぬ未来と願わぬ想いを押しつけてしまうでしょう。

 本当に、ごめんなさい。

 私はもう、貴方に幸せを運んであげることができません。

 大好きな貴方に、愛おしい貴方に、私は幸せをあげることができません。

 今の私にあるのはただ、『愛』だけ。

 貴方に災厄を、幸せとはまるで反対の想いしか与えられない、間違った、狂った、穢らわしい『愛』だけ。

 私にいろいろなことを、私にたくさんのものを、私にすべてをくれた貴方に、私はそんなものしかあげることができません。

『愛』なんて、私のこんな『愛』なんて、きっと貴方にとっては不必要でしょう。無用のものでしょう。受け取りたくなどないでしょう。感じたくなどないでしょう。嫌悪の対象でしかないでしょう。

 でも……でも、ごめんなさい。

 私は貴方が好きなのです。

 私は貴方が大好きなのです。

 私は貴方を、愛してしまっているのです。

 だから、ごめんなさい。

 貴方に届かずとも、貴方に選ばれずとも、貴方に拒まれようとも、

 この想いだけは、どうしても失くせないのです。

 あぁ、マスター。私は、貴方を――

 

「愛しています……。マスター、貴方は――わたしのすべてです」



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R
裸で重なる一時(速水奏)


速報に投げたものの加筆修正版。


「プロデューサーさん」

「……ん?」

「お風呂、私も失礼するわね」

 

 プロデューサーさんの家の中。今日初めて足を踏み入れたその中の浴室へ、今日二度目となる入室を果たす。

 扉を開いた正面には備え付けのシャワー。その右横へと設えられた湯船の中へ身体を浸からせているプロデューサーさんへ……突然入ってきた私に驚いて、あるいは小さなタオル一枚で下を隠しているだけの私の姿に戸惑って、そうして声も出せずにいるプロデューサーさんへ視線を送りながら歩を進めて中へ。

 

「……って、奏……!?」

「しーっ。……ほーら、そんなに大声出したらご近所さんに迷惑じゃない」

 

 入って、それから後ろ手に扉を閉じる。

 すっかり昂ってしまってきっと赤い顔、緊張で上手く緩められない表情をなんとか微笑みの形へ装わせながら「将来は私のご近所さんにもなるのかもしれないんだから……ふふ、なんてね」なんて、そんな台詞を口にして。

 隠しきれてはいない。どこかに表れてしまっているはず。……でもそれでも、叶う限り誤魔化して。この胸の高鳴りも、荒くなってしまいそうになる呼吸も、なんとか隠して余裕を繕って。そうして、そうしながらプロデューサーさんと向かい合う。

 

「なんで、奏……風呂ならさっきもう入って……」

「ええ、いただいたわ。……でも私ったらうっかりしてて、湯船に浸かるのを忘れていたのよ。シャワーしか浴びていないの」

「いや、だとしたら……だとしても、今じゃ」

「今じゃ駄目なのかしら」

「駄目でしょ!」

「あら残念。……でもやめないわ。だって、貴方と一緒に入ることが私の望みなんだもの」

 

 長引いたレッスン。長引いた仕事。お互い予定が長引いて遅くなって、更にその後とりとめもない会話を重ねたおかげで深い夜へまで至って。だから一緒に帰ることになった私たち。どしゃ降りの雨の中、持ってきたはずの傘を忘れた私はプロデューサーさんの横へ寄り添うようにして歩いて。そうしてここ、このプロデューサーさんの家まで辿り着いた。

 本当はタクシーでも使えばよかったのだろうけど。……プロデューサーさんも、そうするようにしつこく言葉を重ねてきたのだけれど。……でも強情でずるい私は折れず、わざと雨の中へと躍り出て「ほら、担当アイドルに風邪を引かせるつもりなの」なんて言ったりして、そうして散々困らせた末ここまで来た。

 偶然、けれど必然。いつかこんな偶然が重なることがあったなら、そのときは絶対に自分の願いを叶えてみせる。そう思っていた私に訪れた偶然を、それまで思っていた通り私は叶えた。

 プロデューサーさんと二人きり。他のどんな誰の邪魔も入らない。二人だけの世界。

 

「それにしても」

「……?」

「言わないのね、プロデューサーさん。胸を隠せ、とかそういうこと。……ふふ、そんなこと言えない。言いたくないくらいに見惚れてくれているのかしら」

 

 タオルを持っていないほうの手で持ち上げてみせる。この浴室へ入る前、脱衣場の鏡で何度も何度も確認した身体。汚いところはない、シャワーを浴びてほどよく火照った……内から溢れ出る興奮を隠しきれず、つんと立ち上がって主張してしまっている以外は完璧に装えている身体。その胸を、プロデューサーさんへと見せつけるようにして持ち上げる。

 目の前の私の姿から注がれる衝撃にまた声を出せなくなるプロデューサーさん。……きっと声を出せない理由の内のいくらかには、見惚れてくれているというそれもあるはず。現に顔はだんだんと赤色へ染まり出して、何より湯の中のそれが主張を強めている。

 

「お邪魔するわね」

 

 言って入る。

 受けた衝撃に混乱してプロデューサーさんが言葉を紡げないでいる内に事をどんどん先へ先へと。

 

「っ!」

「……ふふ」

 

 湯船へ入る前、浴槽の縁を跨ぐときにわざとゆっくり見せつけながら。身体を半分回して左足から入る。プロデューサーさんへは背を……後ろを向けた形。当然後ろはタオルで隠されてもいない、そのままの裸なわけで。きっとプロデューサーさんにははっきり鮮明にいろいろと見えたはず。その証拠に、後ろからは息を呑むような絶句するようなそんな声。

 

(…………あぁ)

 

 きっと濡れている。さっきまで浴びていたシャワーのせい、上がってから溢れてきた汗のせい、そして何より強く熱く興奮して漏れ出てきてしまっているもののせいで濡れているそこ。プロデューサーさんに見てもらいたいとずっと思っていた、プロデューサーさんに見てもらうためにずっと整え続けてきたそこ。それを見られて、思わず心が高く跳ねる。

 わざとゆっくり……見せつけるため、そして興奮に震えて上手くいつも通りに身体を動かせないのを誤魔化すためにゆっくりと……プロデューサーさんの目の前をそうして通る。

 

「……あら、プロデューサーさん」

「……何」

「それ、開いてくれない? そこを閉じられたら私が入れないじゃない」

 

 湯へと身体を沈める直前、何にも覆われていない下腹部をプロデューサーさんの目の前へと突き出したままの体勢で止まって言う。

 

「それ、って……」

「それよ。ほら、そんな体育座りなんてしてたら私が貴方に乗れないじゃない」

 

 とんとん。湯から顔を出したプロデューサーさんの膝を叩いて示す。

 それを開いて。そうして私を受け止めて。そんなふうに想いを込めながらとんとん、と。

 

「いや、乗るってそれは……」

「……」

「今そんな体勢になられるとその、困るというか」

「……プロデューサーさん」

「……ん?」

「女にいつまでもこんな格好をさせておくつもり? 貴方も大概変態なのかしら」

 

 流石に私も恥ずかしいのだけれど。と付け加えつつ、ぐいと突き出した腰を左右に振る。

 顔から火が出てしまいそうなほど、ほんの少し気を緩めれば意識を手放してしまいそうなほど恥ずかしい。苦しいくらいに吐息が熱くて、張り裂けてしまいそうなくらい胸がドキドキ高鳴ってしまう。

 けれどそれを見せないよう。叶えられる限り隠して装って、精一杯の虚勢を張って余裕ぶりな態度を作る。

 

「あっ……」

「……ふふ。はぁい、ありがとう。お邪魔するわね」

 

 込み上げてくる恥ずかしさや照れを耐えて強行した私のその行動にプロデューサーさんも動揺したらしい。足を閉じる力がふっと弱まって、開こうとする私の手の動きを抵抗なく受け入れてくれた。

 受け入れられて、開かれたそこ。もう一度閉じてしまう前に私はそこへ腰を下ろす。気持ちを逸らせて少し水飛沫を上げてしまいながらもそこへ下りて、そうしてしっかりと嵌まり込む。

 

「……ああ、プロデューサーさん」

「……何、かな」

「えっち」

 

 月並みな台詞。けれどいつか必ず言いたいと願っていた台詞。それを、願っていた通りの相手へ紡いで送る。

 身体を座らせる私の下、そこへあるのを感じる。

 どくん、どくん、と脈打っているのが分かる。びく、びく、と震えているのが伝わってくる。ぐっ、ぐっ、と焼けたように熱く硬いそれが私を押し上げ叩いてくるのが感じられる。

 プロデューサーさんを感じる。私に興奮してくれている……どうしようもなく昂って、どうにもならないくらい欲情して……そんな、私と同じになってくれているプロデューサーさんを感じる。

 感じて、そして嬉しくなる。大好きで恋しくて何よりも愛おしく想う相手が、こうして自分を意識してくれている。そのことにたまらなく嬉しくなって……そして、幸せな心地になる。

 

「っ……!」

「なーんて。いいのよ。むしろここまでしたのに何も反応してくれないほうがずっと嫌だもの。……ふふ、私もしっかりプロデューサーさんの対象なんだって確かめられて嬉しいくらい」

 

 決してずれて離れてはしまわないよう、座った位置は固めつつ。背を胸へともたれかけ、それまで行き場を失ってゆらゆらと泳いでいた腕を捕まえてそれに抱かれる。

 上に乗った私をプロデューサーさんが後ろから抱きしめている。そんな体勢。

 

「んっ、もう……プロデューサーさん、息荒すぎよ」

 

 私の肩へ乗るようにしているプロデューサーさんの顔。そこから注がれる吐息……熱くて、荒くて、濡れていて。そんな、興奮を隠せずにいる吐息を耳元へ感じて、思わずぶるりと身震いしてしまう。

 ぞくぞくとするような感覚。痺れのような震えのような、そんな感覚が耳から広がり全身へ伝わって。鼓動が跳ねる。お腹の奥がずんと揺れる。余裕を装った言葉を吐きながら、けれど自分も吐息を荒くしてしまう。

 

「……かなで…………」

 

 引き寄せて、むりやりに私を抱きしめるような形にしていたプロデューサーさんの腕。それをまた少し動かして、水面へ……湯に浮いて、湯船と外とのちょうど境界を漂っていた私の胸へと導く。

 導いて触れさせて、そうして留める。水面を揺らしてしまいそうなほど高く強く鼓動を刻むそこへ、その鼓動も何もかもを感じられるほど強く深く。むにゅり、と形を変えてしまうほどに押し付ける。

 

(…………あは、ぁ)

 

 心臓が飛び出てしまいそう。頭が沸騰してしまいそう。自分が自分でなくなってしまいそう。

 そんな感覚。これまでにも何度か感じたことのあるそれ……ライブで、撮影で。アイドルとして何度か感じたそれを……けれどそのどんな時よりも更にもっと強く激しいそれを感じて、一瞬意識を手放しそうになる。

 なんとか抑えた。どうにか耐えた。……でもあまりにも感じてしまって、幸せすぎて、それまで装えていた表情や振る舞いが装えなくなってしまう。向かい合っていないから気付かれてはいないけれど……きっと今、見せられない顔をしている。緩んで蕩けた、そんな顔。

 

(本当、こんな)

(こんな感覚を覚えさせられて……そんなの私、もうどうしようもないじゃない)

(イケない人。本当に悪い人)

 

 おかしくなってしまいそう、とそう思ってしまうほどのこんな想いを感じさせるプロデューサーさん。今まさに後ろへ添っているその人、きっと顔を赤くしながら半ば混濁した意識で呆けて固まってしまっているのだろうその人を頭の中でも思い浮かべて、そうしてそれへ言葉をぶつける。

 

「……そういえば、ねぇ、プロデューサーさん」

 

 思えば今までのこれ。こんなどうしようもないほどの感覚。これを私へ感じさせてきたのは、全部プロデューサーさんだった。ライブの時、誰よりも瞳を輝かせて喜びながら私を抱きしめてくれた。撮影の時、どんな小さな一瞬も逃さずにまっすぐ私のすべてを見ていてくれた。私にこんな感覚を与えてくれるのは、プロデューサーさんだった。

 プロデューサーさんはたくさんをくれた。こんな感覚も。数えきれないくらいの初めても。私が叶えたいと願う未来の望みも。

 それを思って、そして改めて実感する。

 やっぱりプロデューサーさんは私の唯一の人。私の初めての人で、私の最後までの人。

 それを強く心の中で確かめて。だからふと言葉を投げ掛けてみた。

 

「プロデューサーさんって初めてなのかしら。もう女は知っているの?」

 

 自分にとっての初めての人。初めてはこの人でないと嫌だ、と願う相手。そのプロデューサーさんが、果たしてどちらなのか。

 初めてなのか、そうでないのか。……これまでずっと一緒に過ごしてきて、その答えがどちらなのかはほとんど私にとって明白ではあるのだけれど。

 それでも聞いてみた。察するのではなくて、言葉でちゃんと聞いてみたかったから。

 

「……それは……そんなの」

「ないのかしら」

「ない、というか」

「……あるの?」

「いや、まあ……こう……ない、けども……」

 

 言いにくそうに淀みつつ、でも最後まで聞かせてもらえた。

 望んでた答え。知ってはいたけれど、それでも確かな肯定か欲しかった答え。

 

「ふふ。……まあ、そうよね。プロデューサーさんったら、もういっそ面白くなるくらいに女の人に慣れていないんだもの」

 

 分かっていたこと。けれど聞けて嬉しくて。だから「普段私がからかった時も、楽しい反応してくれるしね」なんて言葉を加えつつ、胸を昂らせたまま撫で下ろして微笑む声を口に出す。

 

「…………それは」

 

 すると、不意にぎゅうっと。

 私を抱く腕の力が強くなる。それまでそっと触れ合う程度だった肩の上の顔が押し付いてくる。混乱と戸惑いの中へ意識を置かれてぼんやりとぼやけていたプロデューサーさんの声の調子が、はっきりと芯を持つ。

 私へ注がれるプロデューサーさんが、不意にとても強くなる。

 

「…………それは?」

「……」

「それは、なんなのかしら」

 

 言葉を止めてしまうプロデューサーさんへ続きを促す。

 なんなのだろう、という疑問。もしかしたら、という期待。二つを混ぜ合わせた想いを込めて、続く言葉を求めて願う。

 

「……奏だから」

「……私、だから……?」

「そう。……奏だから意識した。奏だからあんなになった。それは、他の人にも慣れているわけじゃないけど……それでもあんなになったりしない。からかわれてああなるのは、奏だから。……だから、なんだよ」

 

 耳元で囁かれる言葉。

 言葉を紡ぐ度に胸の鼓動が早鐘を打つのが分かる。プロデューサーさんも、そして私も。熱くなる。苦しいくらいに昂って、どうしようもなく濡れてしまう。

 もしかしたら、と思っていた言葉。それを少しも違わず……むしろ越えてさえきてくれたそれを受けて、心が自然と沸き立ってしまう。

 

「……そうなの」

「だから」

「……?」

「だから、やめてくれ」

 

 プロデューサーさんから、拒絶の言葉。

 深く深く押し付いて。強く強く抱きしめて。そんな身体の状態とは真逆の言葉。それが耳元へ注がれる。

 

「やめて。……どうして?」

「……このままだと、きっと奏を不幸にする」

「不幸?」

「ああ」

「……そう」

 

 震えも昂りも何もかも、重なった肌を通して伝わってくるすべては私を求めてくれている。それなのに送られる言葉はすべて逆。

 私が欲しくて仕方ないはずなのに私を遠ざけようとする。

 それを、そんなプロデューサーさんを感じて。だから私は動いて示す。

 

「!」

「ねぇ、不幸って何? プロデューサーさんが私を求めることが、私にとっての不幸なの?」

 

 胸へと押し付けたまま、そこからは何もせずに任せていた手を上から握る。鷲掴ませて、揉みしだかせる。

 それまで触れさせているだけだったそれ……硬く立ち上がって絶え間なく震えるそれへ、湯の中にありながらねっとりと熱く濡れきった私のそこを宛がって擦りつく。

 

「……大丈夫、入れないわ。そんなことするわけない。私の初めては貴方から奪ってもらうって、そう決めているもの」

 

 むにゅむにゅ、と形を変える胸。

 擦れる度にどんどん濡れて、たまらなく甘い痺れに染められていくそこ。

 身体を、心をそうして昂らせながら続きを。

 

「ねぇ、駄目なのかしら。私がそれを望んでいても。私が貴方と結ばれたいと、そう願っていても」

 

 言いながら顔を横へ。

 上半身を軽く捻って横を向く。そしてじいっと、目の前のプロデューサーさんの瞳へ視線を注ぐ。

 

「いいのよ、プロデューサーさん。貴方と結ばれることは私にとって不幸なんかじゃない。私にとって貴方は、他のどんな誰よりも望む人なんだから」

 

 私のそれに何か返そうと言葉を探して小さく動くプロデューサーさんの唇。それを塞ぐ。私の唇で、ほんの一瞬触れ合うだけのキスを落とす。

 

「ファーストキス。……ふふ、あげちゃったし貰っちゃった」

 

 言って、また。

 もう一度キス。ちゅ、とわざと高くリップ音を響かせながら重ねてまた口付ける。

 

「……ほら、これで分かったでしょう? 正真正銘の初めて。二度はない、人生でたった一度きりのキス。それもこうして貴方に捧げられる。ずっとそうしたいと願っていたこれを叶えられて、こんなにも胸が高鳴ってる。嘘なんかじゃない。大好きなのよ、貴方のことが」

 

 どくん。私の下で強く跳ねる。

 初めてのキスに何もかも……頭の回転も心の整理も身体の反応も、その何もかもが追い付かずに固まってしまっていたプロデューサーさんがようやく私に追い付いた。

 ファーストキスを奪われて、その上捧げられまでした。いつも冗談の風を装ってしか送られない私の告白、それを飾らずまっすぐに送られて。受け止めたそれの大きさと量に動けずいたプロデューサーさんが、やっとそれを受け入れて。理解して、意識して。……そうして、まず何よりも先にそこが跳ねた。

 

「っ、あっ……」

 

 もうとっくに膨れきっていたはずのそこが、けれどそれまでよりも更に大きく更に硬く膨れ上がる。

 爆ぜるように震えて立ち上がったそこになぞられて……重ねていた私のそこ、プロデューサーさんを望んでまだ他の何にも犯されていない綺麗なままのそこ。ほとんど刺激を受けてもいないのにもうすっかりと敏感になってしまっているそこをなぞられて、不意に熱く硬いプロデューサーさんのそれに擦り上げられて、たまらず口から声が漏れた。

 

「ん……もう、言葉よりも何よりもまず先にそこで返事をするなんて……プロデューサーさんの、ケダモノ」

 

 何を言葉にすればいいのか纏まらないのだろう。胸の高鳴りと吐息の荒さを増すばかりで返事のできないプロデューサーさんを確かめながら、私はゆっくりと身体を持ち上げる。

 プロデューサーさんの上へ座らせていた身体を立ち上がらせて、それからぐるりと反対へ。それまで背を向けていたプロデューサーさんの方へと身体の正面を向け直して、そうしてまた座らせる。

 対面座位。確かそんな名称だったはず。互いに向き合い重なり合う形。プロデューサーさんの上へ身体を乗せて、首へ腕を回して、互いにじっと見つめ合って……そんな、たまらなくなってしまいそうな体勢。

 

「これは……」

「プロデューサーさん」

「……? ……っ、うっ、奏……!?」

「…………ああ……これが、プロデューサーさんの……」

 

 触れた。

 プロデューサーさんの瞳……正面に向かい合った私の顔。湯船に浮いて漂う私の胸。透明な湯の中に見える私の秘所。……この体勢になったことで何にも遮られず晒された私のそんないろいろ、それらを慌てて戸惑うようにしながらも見ずにはいられないプロデューサーさんの揺れる瞳、それをまっすぐ見つめながら。

 湯の中のそれ。太く大きく勃ち上がったプロデューサーさんのそれに触れた。首へ回していないもう片方の手で、そっと、優しく包み込むように手のひらの中へ握り込む。

 

「……凄い…………」

 

 口をついて出たのはそんな言葉。触れて、握って、そんな言葉しか出せなかった。

 これ以上ないくらいに強く強く張り詰めたそれ。これまでに触れてきたどんなものよりも堅く感じるそれが、でも同時に柔らかくも感じられて。手の中で握る度、その度に柔く沈み込んで弾力のある感触を返されて。

 ビク、ビク、と何度も高く脈打つそれ。触れた手のひらを通して、浮き出た血管の一つ一つを感じる。握ったその感触や脳裏に浮かぶ想像の姿はたまらなくグロテスクなそれなのに、なのに何故だか嫌悪感は抱かない。抱けなくて、むしろ愛おしいとさえ感じられてしまう。

 ほんの数秒。触れて、握った、たったそれだけ。それだけなのに……けれどそのそれだけに感じさせられたものがあまりに多くて大きくて。だからそんな、凄い、だなんて言葉しか出せなかった。

 

「奏……そん、な……」

 

 余裕のない声。潤んだ瞳を浮かべて荒い呼吸を繰り返すプロデューサーさんが、そう私へ声を漏らす。

 ただ触れただけ。触れて、そして軽く握っただけ。べつに大したことをしたわけじゃない。プロデューサーさんも健康な男性なのだから、自慰の経験なんて数えきれないほどあるだろう。きっとそのときにするよりもずっとずっと些細な刺激。取るに足らない、なんでもないようなことのはず。それなのに目の前のプロデューサーさんはそんな、もう余裕の最後の一欠片さえ手放してしまいそうな声を私へ出した。

 

「そんな声を出して……プロデューサーさんのここ、凄い反応よ? びくんびくん、って……跳ねて、震えて……今にも爆発してしまいそう……」

「っ、あ……」

「それともプロデューサーさん。……本当にもう、達してしまいそうなのかしら……?」

 

 こんな些細な刺激でこんなにも感じてくれている。それはきっと、私を意識してくれているから。私を見て、私を聞いて、私に触れられているから。それを悟って確信して、だから思わず嬉しくなって……もっと気持ちよくなってほしい。もっと私で感じてほしい。そんなふうに思って、だから手を動かした。

 しっかりと手の中へ握りしめたまま、ゆっくりと上下にしごく。そして同時に親指は先端へ。湯船の中にあっても分かってしまうほど、どろどろとした先走りの汁を吐き出し続けている先端の部分を親指の腹で撫でて擦る。

 

(ああ……たまらない……嬉しくて可愛くて……愛おしくてたまらない……)

 

 一度上下に動く度、くにくに、と先端を弄る度、その度に確かな反応を返してくれる。それが無性に嬉しくて、快感に蕩けてしまいそうな表情が可愛くて、私に感じてくれている大好きな人が愛おしくなって……どんどん私もたまらなくなる。

 揺れる湯の波にしか触れられていないはずの秘所が、なのに自分でするときよりも痺れてしまう。荒くなるのを止められない呼吸、うるさいくらいに高鳴る胸、そのどちらもがこれまで経験したどんなときよりも苦しくなって……なのに嫌じゃない。辛くはなくてむしろ心地いい。

 たまらなくなってしまう。お腹の奥がずん、と疼いて。目の前の人の男を意識しながら、自分の女をどうしようもなく自覚する。

 

「……プロデューサーさん」

 

 ぐい、と顔を前へ。

 プロデューサーさんの正面を過ぎて少し奥、赤く濡れた耳元へ唇を寄せて添える。

 動かす手はそのまま。胸を強く押し付けて、漏れる息は隠さず吐きかけるようにしながら囁きを送る。

 

「いいわよ。イって」

「や、それは」

「ここまで感じておきながら何を言ってるの? ……いいのよ、我慢なんてしなくても」

「っ……」

「ほら……私にされて、私で感じて……? 私を孕ませるつもりで出してほしいの……おちんちん、気持ちよくなってちょうだい……?」

 

 吐息混じりの濡れた声。熱く焼けたそれを耳へ送れば、プロデューサーさんがぶるりと震える。

 その震えに私も震える。痛いくらいに立ち上がった胸の先が擦られて。それまで行き場なく漂っていた腕に抱き締められて、その強張った様子を背中でいっぱいに感じられて。そうして思わず昂って、たまらなく震えてしまう。

 

「……プロデューサーさん」

 

 どくん、と手の中のそれが一際大きく震えて跳ねた。

 きっと限界、なんだと思う。話で聞いた。本で読んだ。実際経験するのはこれが初めてだけど……傍に感じる余裕のない吐息、途切れ途切れに「かなで……かなで……」と漏れる声、きっともう出てしまう。

 初めての射精。私が導く初めての絶頂。私とプロデューサーさんとの初めて。それがきっともうすぐ叶う。

 大好きな人との初めては良いものにしたい。そう思った。だから。

 

「大好きよ。愛してるわ……」

 

 キス。

 耳元へ寄せていた唇を、無防備に晒されたプロデューサーさんの唇へ。重ねて、それから強く押し付ける。

 前にしたキスよりも濃く深く、今度は更にその先も。抵抗なく私を受け入れるその合間へ舌を差す。熱く焼けた口の中へ舌を伸ばして差し入れて、中で震えるプロデューサーさんのそれと絡ませる。

 

「んっ……ん、ぅっ……!」

 

 びゅる、びゅるるっ。

 ねちゅ、にちゃ、と粘っこい唾液の絡む音を響かせながらのキス。

 愛の告白を送られながら抱き締められて、押し付かれ、そしてこんなキスをされて。そうしてついに、プロデューサーさんが達して果てた。

 はっ、はっ、と息が荒い。一瞬息ができなくなって、一度吸って吐く度にまた詰まってできなくなって。そんな途切れ途切れの荒い息。

 出口へ押し付きながらそこを塞いでいた私の親指、それを弾き飛ばしてしまうような勢いで溢れ出た精液がまだ止まることなく出続ける。びゅく、びゅく、と脈打つ度、白濁色の粘つく液が透明な湯を汚す。

 

「あ、ぁ……はぁ……っ」

 

 見れば、射精の余韻に呆然とした愛しい人の無防備な顔。私との間に架かった唾液の糸も気にしていられないくらい余裕のない、きっとこれまで私以外のどんな誰にも見せたことのないだろう顔。

 だらしなく蕩けていて、普段の凛々しいそれとはまるで違っていて、でもそれがたまらなく愛おしい。私にそれを許してくれること、私がそれを引き出せたこと、それがとても嬉しくて。だからまた胸がキュンと跳ねてしまう。

 

「……こんなにたくさん……プロデューサーさん、ちゃんと気持ちよくなってくれたのね」

「ん、奏……」

「ふふ、まだ満足はできていないようだけど」

 

 水面に漂う白く濁った塊、それを手に乗せて持ち上げる。あんまり濃くて多いものだから分かれもせず、たぷたぷ重みを感じさせながら揺れるそれ。見せつけるようにしてそれを示す。

 湯と混じりながらも粘つく感触を失わないそれ。手の上から伝わるその感触と、どうしようもなく漂ってきて感じられる独特の饐えた匂い、それに私も興奮が収まらない。

 話に聞いていた通り良い匂いだとは思わない。積極的に感じたいとは思わないし、むしろ避けたいとすら思ってしまう。なのに何故か……無性に性を刺激される。私の中の女の部分をこれ以上ないくらい揺さぶられる。現に今、一番奥の大事な部分が疼いてしまって仕方ない。

 

「こんなに濃いのを出しておいて、まだそんなに大きいまま。……ほんと、プロデューサーさんってば変態なのね」

 

 ふふ、と微笑みながら言葉を送る。

 余裕なんて私もほとんど無いけれど。それでも余裕なふりをして、そっとまた湯の中のそれに手を添える。

 湯に洗われ続けていながら、なのにまだネトネト、と粘った感触を纏ったそれ。私のそれと同じ……精液と愛液の違いはあるけれど、溢れて止まらない液で同じように塗られたそれをもう一度手の中へ握り直して、それからそっと口を開く。

 

「我慢、できないわよね? もっともっと出さないと……今みたいなのじゃない、もっと別の、もっと気持ちいい場所で出さないと……収まらない、でしょう?」

「……奏、それは……」

「いいのよ。無理な我慢なんてしなくていいの。私も貴方にしてほしい。貴方に初めてを貰ってほしいんだもの」

 

 だから、と一旦間を置いて。

 言葉を切った間に一度キス。今度は軽く触れるだけ。ちゅう、と音を鳴らす甘いキス。

 それを交わして、それから数秒まっすぐ一途に見つめ合って……そしてそうっと、胸の奥から込み上げる想いのすべてを尽くして言葉の続きを。

 

「私は好き。貴方のことが大好きなのよ。だから来て。私を犯して。私を愛して。……愛してるわ、プロデューサーさん」



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足踏み(鷺沢文香)

 いったい何度思い描いたのだろう。

 プロデューサーさんと出逢ったあの日、今も忘れることなく鮮明に脳裏へ焼き付いているあの時から……いったい何度、プロデューサーさんとの夢を描いたのだろう。

 きっと十や百では及ばない。千や万、それほどの……もう数えきれないほど多くの数を繰り返してきたはず。

 プロデューサーさんとのこと。プロデューサーさんと結ばれてプロデューサーさんと愛し合う、甘く幸せな世界の妄想。これまでたくさんの書を読み触れてきた様々なこと、それを叶える夢想を。

 清く澄んだものだけじゃない。淫欲に塗れ、退廃的な悦楽に爛れたものも多くあった。……それどころか、実際はむしろそれらのほうが多いくらい。

 淫らな妄想を積み重ねてしまう自分を恥ずかしく感じ、それでもそれを止めることができずにいるのを『自分はなんという淫乱なのだろうか』と思いもした。感じて思って……けれど、絶つことなく繰り返して今へまで至った。

 プロデューサーさんを想って、プロデューサーさんとのことを。何度も何度も、現実に肌を重ねるようになってからも飽きることなく。頻度を落とすどころかむしろ増して。

 ……けれど。

 

(今のこのこれは、初めて……ですね……)

 

 二人きりの部屋の中。互いに纏う服は脱ぎ、ベッドの上で重なりあう。いつもの光景。これまで幾度となく繰り返してきた、何度繰り返しても求め願って欲してしまう、今の私にとって何よりも愛おしい時間。

 今日もいつもと同じ通り。ちゅ、ちゅう、と軽く啄み吸い合うような口付けを何度も重ねて交わしながら服を脱がせあって、纏うものの無くなった素肌同士で抱き締めあって。互いの肌の感触、胸の鼓動、心地のいい温もり、そんないろいろをたくさんの時間をかけて感じあって。それから、求めあって結ばれる。

 そんないつも通り。大好きで恋しくて、何より愛おしいそんないつも通りだった。そのはずだった。けれど。

 

(プロデューサーさん……あんなに、顔を快感に歪ませて……)

 

 目の前の、愛おしい人の顔を見る。するとそこにはいつものそれとは少し違う、快感と幸せに表情を緩ませ蕩けさせているそれとは違う……迫り来る快感に堪えるような、蕩けるのではなくて固く強張るような、そんな顔。

 普段するときには見せてくれない。普段するようなことでは浮かべることのない。普段と同じように快感で染められた、けれど普段と違う顔。

 

「……はっ、は……ぁ……っ」

 

 息が漏れる。

 は、はっ、と細かく小さく震えるように。自分の意思とは関係なく、自然に漏れて表れてしまう。

 胸が高鳴る。流れる汗が止まらない。ほんの数分前に絶頂へと昇り満足を得たはずの私が……満たされたはずの心が、震わされたはずの身体が、お腹の奥がずくん、と疼く。

 普段とは違うこれ。繋がり結ばれる中で、これまで一度もしてこなかったこれ。……プロデューサーさんの性器へ、足で奉仕するこれ。所謂、足コキ……というこれをして。

 

(なんて、いやらしい……)

 

 ベッドの上、両足を開いて陰部を晒すプロデューサーさん。それを左右から挟み込んで、そしてそのまま上下に何度も擦り上げる。

 足を使っての奉仕。当然体勢は限られる。ベッドの上で向き合いながら奉仕をする私は、プロデューサーさんと同じ体勢……仰け反った身体を後ろへ突き出した両手で支え、大きく股を開き、本来他人には隠すべき場所をあられもなく晒し出した体勢でいる。

 晒し合う。何一つとして隠さない。快感を得る表情を見ながら、快感を与える表情を送る。汗に濡れた身体がびく、びく、と動くのを、じんじんと広がる痺れに震える身体で確かめる。半透明な精液混じりの濃い先走りを止めどなく漏らし続けるプロデューサーさんの陰部、数分前に奥の奥……女性として最も大切な奥の部屋までを犯していたプロデューサーさんの男性部分、そこへ奉仕をしながら私も漏らす。注がれた精液と、まるで小水のような勢いで溢れ出てくる愛液。それらを漏らして身体の下のシーツをすっかり濡らす。そんな姿を晒して返す。

 

「プロデューサーさん……気持ちいいの、ですか……?」

「っ、……ふみ……」

「こう、したりなどは……」

 

 両側から挟み込み上下に擦る。その動きへ別のものも取り入れる。

 ずりずり、と擦り上げる合間、時折動きを止めて片方の足を頂点へ。温い先走りを漏らし続ける亀頭の先、尿道の辺りを指で握り込む。

 ぎゅ、ぎゅ、と。開いて閉じて。充血しきって敏感なはずのそこを刺激する。

 

「あ、ぁっ……っ……」

 

 いつか読んだ中にあった描写。それをふと思い出して実行した思い付きからの行動だったのだけれど、どうやらこれはとても効果があったらしい。我慢できずに零した喘ぎ声が耳へ届く。ぶるり、と大きく震えたのが足の先から伝わってくる。プロデューサーさんが、私の足に感じてくれている。

 ぐじゅ……くちゃ……と粘った水の音を響かせながら嬉しくなる。精液混じりの先走りに濡れたプロデューサーさんのそこを、今日まだ清めていない蒸れた足で昂らせて。そうして卑猥な音を部屋中へ響かせながら、高鳴る胸に呼吸がどんどん荒くなる。

 

(あんなに感じて、必死になって我慢して……。可愛い……可愛くて、そしてたまらなく愛おしい……)

 

 そんなふうに思われるのは、もしかしたら男性としては喜べるものでもないのかもしれない。けれど思った。可愛い、と。可愛くて愛おしくて……たまらなく好きだ、と心底思った。

 好き。好き。好き。これまでずっと好意を抱いていたこの人のことを私はやはり好きなのだ、と。そう思う。改めて思わされて、そうして好意に満たされる。

 そして。

 

「気持ちいいのですね……。……いいですよ。もっと……私の足で感じて、ください……」

 

 同時に満たされる。好意に満たされるのと同じく、退廃的な悦びに。

 男性にとって他の何よりも大切なはずのそこ。それを、こんなふうに足で弄んでいる。本来そんな大切な部分へ足が触れるなんて、きっと忌避されるはずのこと。汚いから、相応しくないからと。それを……しかもその上清めもせず、蒸れきったままのこんな状態で今、私はそれを叶えている。

 屈辱的なはず。本来はきっとそのはず。それなのに……私にそうされて、プロデューサーさんは感じてくれている。屈辱的なはずのこの行為を、私が相手だからと望んでくれている。それにたまらず込み上げる。退廃的な、嗜虐的な悦びが。

 

「ふみ、っ……文香……っ!」

 

 上擦った声で名前を呼ばれる。それにまたゾクゾク、とした快感を覚えてしまう。

 これまではまったく意識もしていなかった。自分がこんな行為を介して、こんな悦びを覚えてしまうだなんて思わなかった。だからこそこれまでそれに類する行為の表現を目にしたときも、大きな興味は持たなかったのに。今日この行為を提案されるまで、したいと願うこともなかったのに。

 

(体験してみなければ、その真価は分からないものですね……)

 

 今はこんなにも満たされてしまっている。きっと淫猥な形へ緩んで溶けた表情を隠してもいられないほど、どうしようもなく満ちている。

 好意や恋慕、嗜虐心や悦楽、いろいろな感情がない交ぜになった想いが溢れてしまって止まらない。それと同時に吐息も汗も愛液も、何もかもが溢れ出して漏れていく。

 これまでのすべて……アイドルとして歩み出して初めて知ったいろいろなこと。今では私にとって替えの利かない大切にまでなったたくさんのもの。それらと同じ。またプロデューサーさんに教えられた。気持ちのいいこと。とてもとってもイケないこと。

 

「……あぁ…………」

 

 戯れに一度足を少し離してみれば、間に粘ついた橋が架かる。にちゃ、と音を立てながら長く伸びて千切れないその糸の橋を視界に収めて、その光景に思わずごくりと喉が鳴る。

 プロデューサーさんが感じてくれている。プロデューサーさんを感じさせられている。そのことに胸がきゅんと、お腹の奥がずん、と震え疼いてしまう。

 

「……ふみか……もう、……」

「もう……? ……出てしまいそう……ですか……?」

 

 潤んだ瞳を向けて、ぽつりと零すような声を漏らすプロデューサーさん。震える声に余裕はなくて、休まず跳ねる陰部からは決壊間際の波が伝わってくる。これまで何度も感じてきたのと同じ。手で、口で、膣内で感じてきたのと同じ。絶頂へ達する直前、プロデューサーさんが出してしまうその直前の予兆。

 それを感じて、だから動きを速くする。挟み込む力を強く、擦る動きを速く、そうして最後へ向けて加速する。

 ぐじゅぐじゅ、にちゃにちゃ、と。音を上げて何度も擦る。

 

「う……っ、あ……」

「いい、っですよ……っ。出してください……私で、出して……っ」

「文香……っ」

「気持ちよくなって……私にかけて……私を、プロデューサーさんの精液で、汚して……ください……!」

 

 私がそう言うのと同時、大きく身体を震わせて後ろへ仰け反ったプロデューサーさんが達して果てた。

 びゅく、びゅるる、と溢れ出る。ほんの数分前一度出しているのに濃くて多い、とても熱い精液が。

 飛び出すように放たれたそれが私の足を汚していく。触れた足先はもちろんふくらはぎや太ももも、決壊してしまったかのように愛液を滴らせる私の蕩けた陰部まで、余すことなく塗っていく。

 

「……っ、あぁ……プロ、デューサー……さん……!」

 

 それを見て、肌に感じて、たまらず身体が跳ねてしまう。

 足でしているだけ。触れられず刺激もない。なのにそれでも跳ねてしまった。プロデューサーさんの姿を見て、声を聞いて、そして……私も達してしまった。

 軽く、でも確かに。一瞬視界が白に染まって、頭の中がチカチカと。甘い痺れに震わされた身体の奥が、どうしようもなく駄目になる。

 

「は、あっ……はっ、あ……」

 

 はっ、はっ、と整わない息。二人揃って乱れながら、しばらくじっと見つめ合う。

 言葉もなく、ただまっすぐに見つめ合うだけ。荒く繰り返される互いの息と時折響く粘ついた音、それだけが部屋を満たす。

 そうして時を重ねて尽くして……たっぷりと、絶頂の余韻を感じて浸って。それから……そんな熱い余韻を味わってから、囁くような声でそっと言葉を紡いで送る。

 

「プロデューサーさん……私の足で気持ちよくなって、くれたのですね……」

「……ああ。……文香の足で、俺……」

「嬉しいです……。プロデューサーさんに気持ちよくなってもらえて……気持ちよくできて……。私も、またイってしまいました……」

 

 合間に何度も吐息を挟みながらの会話。互いに肩を、胸を上下させて。時折びくん、とまだ収まらない絶頂の余韻に震えながら。……達しているのに、けれどまだ熱に浮かされた……昇り詰めたまま降りてこられない、次を次をと求めるような、そんなどうしようもなく淫らに濡れた瞳で見つめ合って言葉を交わす。

 疼いて止まらない身体を抑えようともせず、むしろそれに突き動かされるようにして。見つめ合いながら言葉を交わし、ゆっくりと身体を寄せる。

 ベッドの上、何もかもを裸で晒したプロデューサーさん。そこを目指して前へ進む。精液に塗れた足を拭うこともせず膝立ちになって四つ這い。体勢をそう変えて、座るプロデューサーさんのもとへと進む。

 

「でも……」

 

 くちゅ、くちゃ、と。這う度にシーツを精液と愛液で汚しながら前へ。そしてやがて辿り着く。愛しい愛しいプロデューサーさんのもと。

 そして。

 

「ごめんなさい」

 

 押し倒した。

 ほとんど力の入らない身体、押し倒すというよりもただ寄り掛かっただけなのだけど。それでも私と同じように力の入らないプロデューサーさんを下にして、跨がるように上へ乗る。

 

「まだ……足りません……。もっと……また、してほしい……です……」

 

 ぽたぽた、と滴り落ちる。

 唇の端から零れた唾液がプロデューサーさんの顔を。胸の先から落ちた汗がプロデューサーさんの胸を。溢れて止まらない愛液がプロデューサーさんの陰部を。滴るすべてがプロデューサーさんを汚していく。

 

「だから……」

 

 互いのいろいろに塗れたプロデューサーさんのそこ……出したばかりだというのにまだ硬さを失わないそこを、もうすっかり蕩けきって口を開いた私のそこへと宛がう。

 我慢できずに思わず先端を迎え入れてしまいながら、けれどそこで必死に耐えて。今すぐにでも入れてしまいたい。恥も外聞も理性も何も、何もかもを投げ捨てて腰を振ってしまいたいのを抑えて耐えて、そしてまたそっと囁く。

 息の混じり合う傍の距離。鼻と鼻が擦れ合う、相手以外の何もが見えないような距離。そこでそっと、叶う限り淫らに艶やかに、誘うように言葉を注ぐ。

 

「してください……。プロデューサーさんのそれで……私のこと、もっとたくさん滅茶苦茶に……壊れてしまうくらい、犯してください……」



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