無双†転生 (所長)
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プロローグ

 ご注意。

 作中で後漢における長さ、重さ、体積、時間などの単位を使用しております。大部分はメートル法などで補足しておりますが、わかりにくい点などがあるかもしれません。日本の尺貫法と同じ単位を使いながら中身が異なることもあります。
 また、後漢における官位に加え、一部は創作した官位を使用しており、任官の対象も史実に正確ではないことが多々あります。

 内包する要素は作品のタグになるべく記載してあるつもりですので、警告タグ以外も今一度ご確認ください。
 警告タグには含んでいませんが、三国志演義や史実のエピソードをアレンジするにあたり特定のキャラクターへの批判などを描写する可能性があります。原作キャラを悪人に仕立てようといった意図は一切ありませんので、ご理解くださいますようお願いいたします。

 あともちろんフィクションです。


 そろそろ夏も近づき、長袖の服をしまい始めた頃。

 数日続いた過ごしやすい夜から一転、今日からは折角の休日だというのに、今夜は太平洋高気圧さんが頑張り過ぎちゃいましたと言わんばかりの熱帯夜で、横になるときにつけたエアコンがタイマーで切れてからも転がり続け、カーテンの外が白み始めた頃になってようやく雀さんにお休みを言った。

 

 

 

 

 目が覚めれば午前11時53分。

 寝相と汗で凄いことになってるシーツをはぎ取りつつ、のろのろと脱衣所へ向かう。

 パジャマとシーツを洗濯機に放り込んで、ぬるめのシャワーを浴びながらヒゲを剃り、全身くまなく洗って綺麗に流し、贅肉の落ちた腕の表面を撫でながら「見て見て奥さんこのタマゴ肌!」などと言ってるウチに徐々に頭も覚醒してくる。

 

 おろしたての服を着て、洗濯機は……あー、パジャマとシーツ一緒に放り込んじゃったよ……あきらめよう。乾燥まで入れて1時間とちょっと。お昼ご飯を食べに行って、夕飯の材料を買って来たら1時間半くらいか?

 洗濯物のことを考えるのは帰ってからでいっか、と財布を持って玄関へ。休みの日用の履き慣れていない靴を履いて、うだるような暑さの外に出て、部屋の鍵を回して、駐車場に向かって歩き出し、携帯と愛車のキーを忘れたことに気が付いて振り返ると、

 

 

 一面真っ青な世界に、黒髪の超絶美女が浮かんでいた。



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0-0 序章

「脱げ」

「……は?」

 

 目の前の黒髪超絶美人がいきなり脱衣命令をして来た。クレオパトラと仮称する。

 っていうかここはドコd

 

「二度は言わぬ」

 

 そう宣言すると同時に俺は両脇を白いドレスのような服を着た金髪美女たちに捕まれて服を脱がされにかかる。

 え? この人たちどっから現れた?

 

「……はっ! いやいや待て待て待てーい!」

 

 なんとか金髪美女――アリスと仮称――を振り払って自らを抱き寄せることか弱き少女のごとし。

 

「誰が脱ぐか! っていうか何で脱がせるの! 意味わからん」

 

 アリス(仮)は困惑したようにクレオパトラ(仮)を見るが

 

「……やれ」

 

 Oh……

 

「ふぉおおおおおお! 必殺ダンゴムシ拳!」

 

 説明しよう! ダンゴムシ拳とは――

 ガシッ

 あ、やべ

 

「脱いでたまるかァ!」

 

 苦節6ヶ月! 家族にも友達にも内緒でいきなりマッチョになって動画サイトに裸体を晒そう計画も残すところあと1週間! 皆様いかがお過ごしでしょうかい避!

 

 ビリッ

 アッー!

 

「く、くそっ! どこの誰とも知れぬ輩に未完成俺のマッチョな上腕二頭筋を晒すことになるとはなんたる不覚! だが! それでも! 守りたい筋肉があるんだあああー!」

 

 ガシッ

 あ。やだアリス(仮)ったら積極てkそうじゃない!

 

「あと1週間! あと1週間、秘密筋肉を守り通せばその後は晒す! だから見逃してくれ!(あとメルアド交換してくれ!)」

 

 ビリビリー。やめて!

 

「ら、らめぇー!」

 

 アリス(仮)に無理矢理脱がされてクレオパトラ(仮)に裸体を晒す俺。

 

「しくしくしくしく……」

 

 未完成のマッチョを対価にしてもクレオパトラ(仮)たちのメルアドを知ることすら出来なかった。体脂肪率2%切ってるから目から溢れるオイルも1㎏しか流せまい。いっそのこと全部流してしまおうか。

 っていうか

 

「ここはドコだ」

「脱ぐ前に気付け」

「気付く前に脱がせるな」

 

 上も下も真っ青である。秋の空のように深い蒼。まるで空に浮いているかのようだ。足下も青しかないけど。あの世か! そしてアリス(仮)はまたどこかに消えてた。

 

 とりあえず練習していたポージングを決める。クレオパトラ(仮)には背筋の盛り上がる様子が見えているだろう。

 

「ヌシは死んだ」

「……ふぅ~、フッ! マジで」

 

 ゆっくり振り返ると、腕をまっすぐに伸ばし、前腕の筋肉を盛り上げる。クレオパトラ(仮)の視線は大胸筋から腕の先へと向かう。視線が握り拳まで向かったところで、拳で視線を掴んだまま腰の前で手首を交差させる。腕、腹、胸の筋肉がギュッと引き締まり、僧帽筋が大きく盛り上がった。

 

「う、うむ。マジだ」

 

 あー、やっぱ死んでたか。あんまり親孝行出来なかったなー。

 

「すぅ……ハァッ! ではここは死後の世界か?」

 

 身体をひねり、上腕から肩にかけての筋肉を見せつける。肩越しに窺えばクレオパトラ(仮)は少しばかり頬を染めているようだ。さすが俺の筋肉。

 

「そうだ……ハァハァ」

 

 死後の世界か。好きな色に囲まれているのは幸せなのかもしれないな。

 

「フウゥゥ……すぅ、フン! 俺の死因は何だ? 思い当たる節がない」

 

 腕を押し上げるほどに膨らんだ広背筋がクレオパトラ(仮)を誘う。

 頬を赤く染めたクレオパトラ(仮)の目が潤み――

 

「ごめんなさい」

「……言えないような死因か?」

 

 それも事情を知る他人が涙しちゃう程の。

 振り返った瞬間にその勢いで頸椎骨折してたとか。それは貧弱すぎて可哀想だ。

 

「ちっ、違うのだ! 死因は心臓麻痺なのだ! だが、その……」

「だが、何だ?」

 

 大胸筋を揺らしながら待つ。もしやこんなことしてるから心臓麻痺になるのか?

 

「あぁ……ああっ……! それは私が、その――ハァハァ――殺してしまって」

「うん? 心臓麻痺なのに殺されたとはどういうことだ」

「えっと、だから――ハァハァ――私が、心臓麻痺にして殺したのだ!」

 

 で、デスノ――ゲフン! 詳しく話を聞けば、面白い人間、つまり俺を見かけて観察していたが、一週間後に迫ったネタバレの日を前に殺せばどんな反応をするのか気になり実行したとのこと。

 あー、やっぱりこの女性(ひと)は神様か? いきなり脱がせたのは事情を知っていたからなんだな。納得した。

 

「ぉ、怒らないのか?」

「え? あー。んー。これを言うと自虐っぽく聞こえるかもしれないんだけどさ」

「ああ」

「俺って、俺の都合でアリを拾い上げたり潰したりしても、アリの気持ちなんて考えないと思うんだよね」

「神と人の関係が、それにあたる、と?」

「関係というか、考え方がね」

「……うむ。よくわかっている。人と神の距離はそんなに近くはないが、構図はまさしくその通りだ」

 

 やっぱり神か。雰囲気凄いもんな。オイルを流しきっていなかったら黄金の流動体で出来た紳士の魂を漏らしていたかもしれないね。友達や家族に自慢できないのは残念だ。

 

「それで、俺の死には(たのしんで)意味があった(もらえた)かい?」

「……それは……」

 

 聞けば、自らの死を理解しているにも関わらず薄暗い感情を持たず、目の前の観客を楽しませよう、あとどのくらい楽しませてあげられるのか、遺してきた友人家族への感謝と謝罪、滅私の感情を覗くに至って強い後悔の念にとらわれたとのこと。顔に出てた?

 あとついでに惚れたとのこと。

 

「……惚れた?」

「先っちょだけ」

「メルアド交換してくれ!」

「携帯電話を持ってない」

「そういえば俺も持ってないな」

 

 部屋に置きっぱなしである。諦めて話を聞く。

 これから俺は「どうしたいのか」を選ばなければならない。クレオパトラ(仮)が示した選択肢は三つ。

 

 一つ、生き返る。一度死んで生き返った人間として生きる。これはないな。ある日突然マッチョ(突マ)がかすむ程のインパクトになってしまう。っていうか生きづらいことこの上ない。みんなには悪いが、もう一緒に生きることは出来ないだろう。

 二つ、神になる。超新星爆発を起こす程度(また垣)の能力とか手に入るとか。オススメらしい。いやこのオススメは私情入ってるだろう。多分このクレオパトラ(仮)自身が神で、惚れたから一緒にいてくれって意味なんだろうが、これもあまり選びたくないな。

 三つ、記憶を持ったまま生まれ変わる。転生や半トリップを選べるらしいが、ある程度の年齢でもって誕生する半トリップ型であっても世界的には一から生み出されることになるらしく、過去を持たない人間となるらしい。

 

「言っちゃ悪いんだが、遺してきた友人家族に俺が返すはずだった分くらいの幸せを返しつつ俺自身は死ぬ、というような選択肢はないのか?」

「う……。幸せを返す、となるとな。ヌシが死んだ途端に今までよりも幸福になってしまうワケでな?」

「ん? あぁー。俺が疫病神だった、みたいに思われるかもしれないのか」

「うむ……」

 

 そんなこと言われても死んでるものは死んでるしなぁ。

 

「まあ、それでもいいや。なるべくいっぱい幸せにしてやって欲しい。出来るか?」

「……良いのか?」

「『二度は言わぬ』――だったか?」

 

 少しおどけてみせると、クレオパトラ(仮)も柔らかく笑う。

 

「わかった。任せよ」

「頼むよ」

 

 

 

 それから少しだけ会話し――やがて、覚悟が決まった。

 

「よし、じゃあ逝くか」

「え?」

「んー、名残惜しくはあるが、そろそろ死んでも良いかなと思ってね」

 

 これを聞いたクレオパトラ(仮)が慌て出す。

 

「待て! 待ってくれ!」

「ん?」

「ヌシは死にたいのか!?」

「いや?」

 

 何を言っているんだ?

 

「ならば何故『死ぬ』などと口にするのだ!」

「何故って……幸せを返して俺自身は死ぬ、という選択をしたつもりだったんだが」

 

 認識の齟齬があるらしいな。

 

 

 

 どうやら先に幸せを返した件はクレオパトラ(仮)の謝罪のつもりだったようだ。言われもしないのにそんなのわかるか! と指摘しただけで彼女は涙目である。弱すぎる。

 彼女は「勝手な言い分ですまないが」と前置きし

 

「ヌシには生きて欲しいのだ」

「ホントに勝手だな!?」

「うぅ」

 

 またしても涙目である。

 あ。泣いた。あーあ、泣ーかしたー。

 

「あー。ほら泣くな」

 

 涙をぬぐってみる。

 

「勝手な言い分だとは思うさ。だが、怒ってもいなければ、恨んでもいない。もう返して貰ったしな(ちょっと呆れたけど)」

「――グスッ」

「わかった。生きることにするから泣くなって。ほらっ」

 

 そう言って手を差し出して腕の筋肉を見せつける。クレオパトラ(仮)の目は釘付けだ!

 勢いで決めちゃったけど、まあいいか。とりあえず情報収集から始めよう。

 

「で、転生っていうのはどういうトコに生まれるんだ?」

 

 出来たら日本がいいなぁ。それも近未来の東京。徒歩通学が出来る小中高大学と自転車通勤が出来る会社が揃ってる裕福な家庭がいい。ついでにお金持ちで性格の良い美少女の幼なじみが2-3人いて

 

「贅沢すぎるわ!」

 

 突っ込まれた。やべ、具体的な条件が顔に出てた?

 

「やだなぁ、冗談じゃないか。さすがに東京は諦めるよ」

「そこじゃない!」

 

 違ったらしい。妥協してサイタマでも良かったんだが……。

 

「そもそも同時代、あるいは未来には生まれられぬ」

「何ィ!? ……まあいいか」

 

 とりあえず平和な時代で美少女幼なじみが居ればいいや。

 

「それどころか同じ世界には生まれられぬ」

「何ィ!? ……まあい――いや良くない! 青い肌の両生類系女子(あるいはメス)と幼なじみとかは断固拒否する! じゃあ昆虫系はどうかって? いやだよ!」

「落ち着け」

 

 落ち着いた。よく考えたらネコミミならいいじゃん。

 話を聞いてみると、どうやら行ける『世界』というのはおおよそ決まっているらしい。

 ちゃんとした人間もいるが、俺たちの住んでいた世界とは別の歴史、あるいは似たような歴史を刻む別世界ってヤツだそうだ。

 そんなものがあったんだな。ちょっと驚いた。

 

「そういうコトは先に言えよー」

「先に言わせろよ?」

「ごめんなさい」

「ではどのような世界に送るのか、あるいは私付きの神になるのかを決めようと思う」

「後半なんかダダ漏れですよ」

「いくつかの質問に答えて貰う!」

 

 好きな女性のタイプは? 賢い黒髪の人と答えたらもの凄くアピールしてきた。やめてよね。頭悪く見えるでしょ。

 好きな三国志武将は? 張遼。戦国武将だと――え? 戦国武将いらない?

 好きな三国志の国は? 魏。なんで三国志?

 好きな三国志ゲームは? 無双。三国志強調しすぎだろ。

 好きな三国志武将の出身地は?

 

「ねぇよそんなもん! 三国志の世界か! もしくは三国志に似た状態の世界か!」

「hai」

「さすがにそれは死ぬでしょう?」

 

 死亡フラグ満載過ぎて過積載である。

 だが普通の人間がいそうで良かった。2千年前の人間って骨格から違いそうだけど。

 

「私付きの神になってもらってもいいんじゃよ?(チラッ」

「あ、何か嫌いになってきたかもしれない」

「(ビクン)」

 

 じと目で見つめることしばし

 

「そ、そうだ! 転生に当たって能力の特典をつけよう! (テン)プレゼントだ!」

「うん? 何か不穏な言葉が」

「キノセイデース」

「わかりました」

 

 わかるー。大人の事情だよねー。それにしても能力か。

 

「じゃあ王の財宝――王の財宝ってなんだ?」

「えっ」

「えっ」

 

 違うんです。口が勝手に動いたんです! ほんとうです!

 

「……」「……」

 

「やり直していいですか?」

「構わぬ」

 

「じゃあ近未来東京を再現できる能力を」

「遠回しに神になりたいと言っているんだな?」

「おとこわりします」

 

 ダメか。町田を南蛮ってことにして浦安は東京に含めてもいいと思うんだが。奥多摩は五胡で千葉は高句麗だな。

 うーん。どうやって近代社会を再現するか……。上下水に摩天楼、道路……そうだ!

 

「じゃあ土木工事をスムーズに行える知識や能力と、保険として乱世の荒波を乗り越えられる丈夫な身体をいただきたい」

 

 器用な指先とか病気になりづらい身体とか柔軟な関節や筋肉とか!

 

「ふむ――(ニヤリ)――いいだろう。丈夫な身体と土木工事に向く力を与える!」

 

 あれ? 何か喜ばせる要素があった? まあいいか。

 

「あ、半トリップだっけ、大人の姿で頼むよ」

「わかっておる」

 

 おっけー、これで子供時代に死ぬコトは回避出来た! あれ? でも、もしかして世界的には生まれたばかりって事になるのか?

 見た目は大人、頭脳も大人、実年齢だけ子供! みたいな。……まあいいか。

 

「それじゃあ、お礼に――コレを」

 

 逆三角形の上半身をこれでもかと見せつけるとっておきのポーズで感謝を示す。

 

「ぉぉぉ……! ハァハァ――(ゴクリ)」

 

 フフフ、どうやらこちらの謝意を存分に受け取っているようだな。

 

 三国志時代。死亡フラグ過積載の時代である。身動きすら取れない乳児時代から死亡フラグに晒される生活は遠慮したい。幸いにも戸籍がはっきりしないだろう時代でもあるので、突然大人として出現したところで大きな問題にはなるまい。

 どこかの川の近くに送り出して貰えばいい。水は丈夫な身体で何とかなるだろうし、川から土木工事の能力でいくらか水を引いてヤナ場を作ってしまえば食べるのには困らないだろう。

 

 

「ところで三国志の登場人物名なんてあんまり覚えてないから、何て名乗ったら不自然でないのかわからないんだ。そこで、だ。転生後の俺に名前を付けてくれないか?」

 

 クレオパトラ(仮)は一瞬きょとんとした後、にっこりと笑って頷いた。

 

「名を空海。真名を天来(てんらい)と名乗るが良い」

「まな?」

 

 聞き覚えのない単語が出てきた。

 

「身内やかなり親しい間柄でのみ使用する名前だ。許しを得ずに呼ぶことは大変な失礼にあたると理解しておけ。空海も正確に言えば法名……まぁ『号』と言えば良いだろう」

「なるほど。そして一つ言わせて欲しいのだが、空海は日本人僧侶の名前だよね」

「価値観の違う現地人と同じ様に名乗って疑われない自信があるのか?」

「ないです(キッパリ)」

 

 確かに流行りの漢詩とか聞かれても答えようが――

 

「そういえば言葉が通じない!」

「それは心配せずとも良い。ちゃんと言葉の通じる場所(・・・・・・・・)だ」

「おお、助かった!」

 

 その他、いくつかの注意事項を聞く。一つ、知らない男の人にホイホイついて行かないこと。二つ、知らない女の人にホイホイ真名を許さないこと。三つ、利率3%を超える国債に手を出さないこと。あとは好きにやれ。

 何とか守れそうな項目ばかりだ。

 ちなみにこれだけ守っていればまず痛い目には遭わないとのこと。

 あれ? 三国志ってそんなヌルかったっけ?

 

 何はともあれそろそろ話も尽きたようだ。

 最後に出現場所の要望を伝え終えれば、あたりは静寂に包まれた。

 

「……ではな、空海。空の果てと、海の果てとを別ける者よ」

「そんな大げさな意味あったの!? あ、そういえば貴女の名を聞き忘れていたが」

「私の名は天照。日の本をあまねく照らす者だ」

「超大物じゃねぇか!」

 

 だが言われて見れば小雪っぽい日本人で通るような顔つきではある。

 天照はその端正な顔を笑みの形にして、告げた。

 

「では、また会おう(・・・・・)

 

 ん? また(・・)

 疑問を口にする前に、俺は『外』に立っていた。

 

 青い空、どこまでも広がる大地、見下ろす先にある大河――

 

 そして

 

 

「あー。あんにゃろ……やりやがった」

 

 力の使い方が脳裏に浮かぶ。

 その名称も。

 

 

 

 

 天地を開闢する(土木工事を行う)程度の能力

 種族:神

 

 

 

 

 どうするんだこれ。



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1-1 天水の江陵

 2話までが旧第一章からの差し替えになります。



「あー」

 

 魂が抜けるような、気だるい午後の欠伸のような、何かを納得するかのような、諦めを含んだような微妙な嘆きの音が漏れる。

 小さな口、小さな顔、小さな身体、やや高い声。まるきり子供姿になり果てた男、空海である。

 声を漏らす前に把握していたいくつかの衝撃的な事実に折り合いをつけるため、何とはなしに声を漏らしたのだが……結果的には、自分の身体の変化という更に衝撃的な事実が積み重なって言葉を失う。

 

「……ちいせぇ」

 

 まず視界が低くなっているのだ。見知らぬ土地で見知らぬ風景で見知らぬ白い着物青い羽織姿をしている上に、背丈まで変わっていた。元々身長が低かったため視界の低さには敏感なのだ。

 おまけに口にした台詞も音が高く、声変わり前と言われても違和感がない。

 

「でけぇ」

 

 目の前の川が、である。目の前と言っても川まで1㎞近くはあるだろう。そして、それほど離れて見ているにも関わらず、大河の流れは地面の何割かを彩っている。

 一見、何の因果関係も見いだせない空海と目の前の川だが、今、空海は壮大な自然と身長との対比に理不尽を感じていた。

 

「くっそ。なんで俺はちっちゃくなってるのに……お前はでかいんだパンチ!」

 

 

 川が消えた。

 

 

「……えー? うっそーマジー? 消滅が許されるのは小学生(反物質)までだよねー!」

 

 消えていた。

 

「――マジで?」

 

 

「えー。検証の結果、川を作るとセットで魚も出来ることが判明した」

 

 検証などと言っているが慌てて作り直しただけである。一方で身体能力が向上していることも判明した。その場から一歩も動かずに1㎞も先にある水中で泳いでいる小魚の姿を視界に捕らえたのだ。普通の人間なら船で魚の真上まで近づいても見えないだろう。

 背後から聞こえる木々の間を風が通り抜ける音ですらも何メートル何ミリ離れた所から発生したものなのかが感覚的に理解できるし、頑張れば左前方5㎞ほどの位置に街があること、さらに30㎞ほど先や右前方40㎞ほどの位置には城壁に囲まれた都市が存在することもわかった。

 

「なるほど……わからん」

 

 川を作り直してわかったことと言えば、思った通りに力が使えるということくらいだ。

 川が作れれば十分かもしれないが、能力はもっと出来ると囁いて――実際に空海の頭に説明が浮かんでいた。操作マニュアルのごとく。

 ()()()()()()()程度の能力。

 ()()()()()パンチが撃てる。山とか川とか海とか作れる。金とか無限に作れる。月とか宇宙とか作れる能力。お湯や水が無限に湧き出る泉とか作れる。人間では傷つけられないような堅い物質とか、綿飴のように柔らかいのに絶対にちぎれない物質とか作れる。あらゆる物質を()()()()()()()()()()にできる能力。

 概念を加えさえすれば建物を倒れないように出来るし、空中に建物を固定することも、空中を漂う建物を作ることも可能。ラピュタは本当にあった、もとい、作れるのだ。

 どう見ても数学と物理学と土木工事とその他諸々に喧嘩を売っている。

 

「だが、オリジナルの空海もその辺をつついて温泉を作っていたんだから、温泉くらいは作れても不思議はない――のか? まあいいや、温泉作ろう」

 

 今は癒やしが必要だ。空海は超新星とか明らかにヤバそうなもの全てを後回しにした。

 

 

 

「風゛呂リー……です」

 

 いいお湯である。睡眠が必要ない神も、薄ぼんやりと眠気くらいは感じられる。空海は癒やし効果を求めて作った温泉を心底活用するつもりだった。現実逃避の一環として。

 

 いざ風呂に入ろうか、と思った時になって気がついたのだが、空海は着物の着付けなど出来ないし洗濯の方法などもわからない。どうしようかと悩んだとき、脳裏に閃くものがあった。それは――着物の説明書である。

 思わず「なんでやねん」と叫んでしまった空海に罪はないだろう。

 頭に浮かんだ説明では、汚れない、(着衣のまま)丸洗い可、自浄機能、自己進化機能、自動防御機能、温湿度調整機能、消臭殺菌だの殺虫だの粛正だの諸々やってくれるとか。

 簡単に言えば使えば使うほど綺麗になっていく服だそうだ。あと身につけたいと思えば勝手に装着される便利機能付き。脱ぎたいときも同じく。情緒がない。

 ここまでの説明をゆっくりとかみ砕いて理解した空海は、もう一度「なんでやねん」と呟いて温泉に沈んだ。お湯の中で着物を脱いだり着たりして遊んだのは秘密である。

 

 

「うーん……どうしようかなぁ」

 

 空海は湯船につかったまま呟く。悩んでいるのは今後の方針だ。

 神という種族は年を取らないし桁違いに強い。であればこそ集団に受け入れられるのは難しいし、一部の人間にとってはどんな手段を用いても手に入れたい諸々がある。そしてそういった諸々に執着する人間、他者の若さや強さなどを求める人間は、他者の持つもので自身を満たしてきた者達の間にこそ多いだろうと予想できた。

 つまり、権力者に追われまくるどどめ色の未来だ。

 

「ぐぬぬ。逃げることは簡単なんだけど……ぶくぶくぶく」

 

 逃げたり隠れたりすることは難しくない。身体スペック的にはジャンプ一つで太陽系を脱出できるし、呼吸も必要ないし睡眠も不要なので火の中水の中土の中で何十年も動きを止めていれば相手もいずれ忘れるか諦めるかするだろう。

 しかし、だ。天照も言っていたではないか、と空海は自身に言い訳する。知らない男の人にホイホイついて行ったり知らない女の人にホイホイ真名を許したり利率3%を超える国債に手出ししなければ好きにやっていいと。天照の言うことも一理ある。確かに国債の利率は流動的であるため、きわどい指標で運用していたらいつの間にか3%を超えていたなんてこともあるかもしれないが、他の二つは見たらわかるのだから。

 一言でまとめると寂しいので人に関わりたい。独り言が多いのもそのせいだ。

 

「となれば、関わっても不都合が出ないようにしなくてはいけないからー」

 

 空海は2秒ほど真剣に考え、結論した。

 

「日本人らしく形容しがたい日本のようなものを作ればいいのでは?」

 

 商売っ気とテクノロジーと海的なもので、戦うより味方にした方が得という立ち位置の国を作り、そこの権力者となるのだ。しかしそれには一つの問題がある。

 

「せっかく三国志っぽい土地にきたのに、なぜ日本に戻って政治家の真似事をしなくてはならないのか? ――っていうか、結果的に神になるなら近未来東京を再現できる能力が欲しかった……ぶくぶくぶく」

 

 空海は30秒だけ凹んでから水面に浮かび上がる。

 

「……んー、三国志のマップに使えそうなところってなかったっけ?」

 

 地方。幽州とか交州とかだ。地方は比較的守りやすいが仮想敵国から見て後背に当たる場合がある。そうなれば、相手は領地の安定のため、別の敵国への対応のために積極的に平定を狙ってくることだろう。三国へと集約することがわかっているのに一国の後ろ側に隠れるような土地で勢力を築いても防衛が難しくなるだけだ。

 中央。意外と狙い目かもしれない。中原スタートの曹操プレイでは、周辺勢力との間に友好関係を築いて周辺勢力同士がつぶし合っている間に一点突破で勢力を伸ばすのが全土制圧への近道だ。しかし、反董卓連合という歴史も存在する。強大すぎる権力を一勢力が手にした場合、その手段次第では全土をまとめて敵に回すことになることもある。

 ならば、現在の中央からは外れていて、将来の三国における係争地。荊州襄陽や江陵、漢寿、江夏あたりならどういうことが出来るだろうか。

 

 ――なかなか良いんじゃないか?

 

 空海は浮かんだ考えを自画自賛してみる。

 例えば孫権になりきって考えてみよう。彼は長江下流の呉から北の魏や西の蜀を狙うが長江上流の江陵や江夏を二国に奪われれば呉の危機だ。出来れば奪いたいが、相手が強いのなら最低でも中立であって欲しい。

 曹操になりきって考える。魏にしてみれば呉や蜀を狙う足がかりに必須の襄陽や江陵は南方への出入り口の一つにあたるはずだ。だが、最大勢力の曹操にとっては必須でない、という事実も重要だ。他に取られたくはないがなくても道は存在する。

 劉備なら、蜀にとって二国への出口になる襄陽と江陵。特に呉への通過点として必須の経路だ。魏へは他の道もなくはないが、敵国に抑えられることは避けたい土地でもある。

 

 それらの都市は、敵国に奪われて欲しくない立地にあるのは間違いない。なら、そこに他の理由も加わればどうなるだろう。

 例えば攻撃を考える幹部たちがその地の出身者で、その地を深く愛しているとか。

 例えば攻撃を考える国では普段からその地と大量の商取引を行っているとか。

 例えば攻撃を考える国の民は他所から来た君主よりその地に愛着を持っているとか。

 敵国に奪われては困るからその地の防衛を手伝うように動かざるを得ないだとか。

 

 考えれば考えるほどに、空海にはこの発想が優れたものに感じられた。漫画で培った三国志知識と戦略ゲームで培った直感が合わさり最強に見える。

 

 ――フフフ、いいぞ! 冴え渡れ、小覇王出陣シナリオを呂布プレイで勝ち抜ける俺の戦略眼! 名付けて天下三.五分の計ッ!

 

「うん。襄陽か江陵か江夏だな!」

 

 空海は最後まで、三国が競い合ってその土地を狙ってくる可能性に気が付かなかった。

 

 

 

「よし! 行くか!」

 

 山の斜面に立った空海が夕闇を見渡して頷く。

 温泉でのんびりしている間に、西(だろう)にある山間に日は沈み世界は薄明に包まれていた。

 

「方角よし!」

 

 大体の東西南北を指差して目印になりそうな地形などを確認する。

 

「秘密基地よし!」

 

 背後の斜面に作られた怪しげな入り口――無限湧きの温泉、当面の活動記録を残すための机や本棚を備えた活動拠点のそれを指差して満足げに頷く。

 

「次っ! 能力確認!」

 

 ちょっと確認のために――比較的に難しいだろう――超新星を作ってみようかと考え、全天から目立たない場所を検討し、南側の星座の方が見づらかったことを思い出して南の空の外れに作れば目立たないのではないかと楽観的に結論して山を登る。

 

「ぜーはー……とは一体なんだったのか。まったく疲れない。なんだこれ絶好調」

 

 空海は標高にして100メートルか200メートルかというその山を登り切ると周りを見回し、数㎞西に一回り高い山を発見してジャンプで向かう。そしてまた頂上から南西の方角に跳んで、今度こそ南の空を見つめる。

 いよいよ超新星爆発を生で見られるんだ、と。

 

 ――しかし1000光年じゃ威力が大きすぎたときに地球がヤバいな……1万光年まで行くと怯えすぎのような気がするし。遠いと暗くなる、よな?

 

 数百光年内で巨大な超新星爆発が起こった場合、オゾン層に著しい影響が発生して生態系への重大な悪影響が引き起こされる可能性がある。という情報をテレビで聞いたことのあった空海は若干ビビっていた。

 

 ――あ、でもそしたら過去に爆発させておかなきゃならんのか。出来るけど。それなら……よし。よし、8000光年先だ!

 

 若干日和った空海は拳を固める。

 

「祝! 方針決定!」

 

 松の木の枝に腰掛けたまま少しだけ身体をひねって、南の空の明るい星の横を睨む。

 

「8000年前、あの方向8000光年先に()()()()()パンチ!」

 

 

 

 歴史書『後漢書』の天文志にはこうある。

『十月癸亥、客星出南門中、大如半筵、五色喜怒、稍小、至后年六月消』

 中平二年十月癸亥(西暦185年12月7日)、南門(ケンタウルス座)に突如として眩い星(客星)が現れた。

 大陸南方の地でかろうじて南の空の端に浮かぶそれは、8ヶ月もの間、夜空で()()()()()()となった。

 

 世の乱れが徐々に顕わとなった時代、人々はこれを凶事の前触れと捉えたという。

 

 

 

 空海は音を置き去りにして星と反対側に逃げ出し、雲を引きながら川に飛び込んだ。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「ご降臨お慶び申し上げます」

 

 イケメンの少年が棒読みで告げた。

 

「う、うん」

 

 道士風、とでも言えばいいのだろうか。ゆったりとした、そしてかなり仕立ての良い服に身を包んだイケメンの少年と、少年と同じく道士風の装束を身に纏ったイケメン眼鏡の青年、紐パン装着のボディビルダー風な筋肉に三つ編みが生えたものと、布製のビキニの様な装束を変態チックな燕尾服で隠した筋肉ヒゲが空海の前で(かしず)いている。

 

「とりあえず、なんでここがわかったの?」

 

 およそ12時間前に幅千数百メートルはあろうかという巨大な川に飛び込んだ空海は、約10時間の死んだふりと約2時間の瞑想の果てに自然の摂理として東の空に昇った光の塊を見て「そうだ、太陽も明るいんだから問題ない」と結論し、川岸に上陸していた。

 そして、付近の人里を目指して数分進んだ所で4人に捕まったのだ。

 

「大御神より遣わされましたので」

 

 見た目に知的なイケメン眼鏡青年が落ち着いた声で答える。

 

「なるほどなるほど」

 

 空海は「お天道様には隠し事が出来ないということか」と笑う。最初から全部見られていたのではないかと内心焦っていたのだ。

 

「そういえば、ここが何処だかわかる?」

「荊州南郡は江陵県の南です」

「おお、江陵? ……へぇー、江陵。……。計算通り(ニヤリ)」

 

 空海の心情を一言で表すなら「もうここでいいや」である。

 本命の地はおざなりに決まった。

 

「お前たちは……えーと、名前は?」

 

 何かを言いかけた空海が呼び方に迷い、4人に尋ねる。

 

()(きつ)と申します」

 

 最初に答えたのは眼鏡の青年だ。優しげな風貌ではあるものの表情を動かさないことに空海は気付いていた。道士風の服装といい、仙人のように何かしらを悟った存在なのかもしれない。

 

()()

 

 イケメン少年が簡潔に告げる。こちらは逆に表情豊かといった所だろうか、ふて腐れたような態度はとても道士や仙人と呼ばれる類の存在には見えない。ただ、白髪に見えるほどに薄い茶色の髪と額に刻まれた謎の紋様、于吉に似た道士風の服と相まって、神秘的な雰囲気は見られる。

 

()()()じゃ」

 

 全盛期のシュワちゃんが仮装したらこんな感じだろう。ビキニ風の布きれ、襟とネクタイだけがついた前あきの変態燕尾服、弥生人風とでも言うべき無駄な髪型オシャレ、アンテナと見まごうばかりの立派な白髭と立派なケツ顎。声まで渋いが、膝をついた姿勢でも若干内股であったり、地面についた拳の小指が立っていたりする。

 

(ちょう)(せん)よぉん」

 

 卑弥呼に続いて内股気味の筋肉。ピンクの紐パン、明るいルージュ、の筋肉。もみあげ部分だけを三つ編みにしてピンクのリボンを結び、頭部を無毛地帯にした奇抜な髪型、の筋肉。切りそろえられたあごひげの周り2㎝くらいを見ているだけなら常人に見える気がしたので、空海は貂蝉をその部位で判別することにした。

 

「ほぉ。于吉、左慈、卑弥呼、貂蝉……? って、同姓同名の有名人がこの世界にいる、なんてことは」

「ないですね」「ない」「ないのぅ」「ないわよぉん」

「半分絶望した!」

 

 空海は頭を抱えて15秒ほど唸り――目の前で頭を抱えた空海を見て4人は慌てていたのだが空海は一切無視した――唐突に顔を上げた。

 

「よし、立ち直った。話を戻すと、お前たちが何でここにいるのか聞きたかった。つまり天照に言われて何をしに来たのって」

「む? 大丈夫そう、じゃな。うむ、儂らがここに遣わされたのは――」

 

 聞けば、天照が空海を心配してつけたサポート超人だそうだ。

 左慈は道術使いで無手の近接戦闘が得意。気の扱いは一級品であるとか。

 于吉は方術使いであり医学に精通。傀儡の扱いと謀略を得意としている。

 貂蝉は踊り子。人とのふれあいが得意。気の扱いは左慈に並ぶ。

 卑弥呼は見た目に反して政治に絡んだ話が得意。貂蝉の兄弟子に当たるらしい。

 

 気が存在すると聞いてテンションの上がった空海だが、山をも震わすという左慈の全力崩拳を受けてみても気がどんなものであるかはわからなかった。一方で全力の中段突きを片手で、しかも怪我をしないよう配慮までされながら軽く掴まれた左慈は流石に凹んだ。

 左慈は、気に食わないながらも長年同僚として付き合ってきた貂蝉らに慰められ鍛錬の約束を取り付けてもらったり、新しい上司にして自身を打ちのめした空海から勤務形態に配慮する旨の謝罪を受けたりして親交を深めた。稀によくある悲劇である。

 

「うふふ、それじゃあご主人様は私たちにナニをお望みかしら♪」

「ごしゅ――あー、端的に言えばこの辺で勢力を立ち上げて権力者になりたいからそれを手伝ってくれ」

 

 貂蝉の「ご主人様」発言を努めて無視して、空海は自身の考えを述べた。

 

「目標は未来の三国全てからの要求をはねのけられるようになること。目的は俺が人間と一緒に暮らしていても余計な事を言わせないため。手段は不問。ただし、俺としては後の三国の英雄たちに会いたいのと、文明的に生きたい過ごしたいから――」

「ふぅむ。ならば文化都市かのぉ。学術都市というヤツじゃ」

「一定規模の街は城塞都市となるのがこの国での基本です」

「人が集まるにはまず食べ物がいるわよん♪」

「……兵の調練はお任せを」

 

 空海の言葉に四者がそれぞれ助言を送る。一部舌打ちが混じったが、彼らの言葉は暗に肯定の意を示していた。

 

「じゃあまずは左慈と貂蝉で周囲の賊を討伐だな。1日で往復できる範囲を適当に回って貰って、その間に俺と于吉と卑弥呼で計画を練っておこう。これだけはやって欲しいとかこれはやめて欲しいというものがあったら早めに言ってくれ」

「特には」

 

 直近の方針を打ち出した空海の言葉に左慈は淡泊に答え、貂蝉は興奮した様子で――。

 

「ヤって欲しい!? そ・れ・な・ら♪ ご主人様が大勢の人たちが笑って暮らせる世の中を作ってくれたら、私の■■■■■(粛正されました)を捧げ」

「黙れ消し飛ばすぞ」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 話し合いの結果、江陵を奪って要塞都市に改造する方向で当面の行動が決定した。

 現地住民にとっては不幸にも、そして空海たちにとっては幸いなことに、現在の江陵は賊の根城になっているらしい。どうやら、太守を引き締める役であるはずの刺史(しし)が武官を軽んじているために、治安を守るはずの軍部が賊と結ぶことすらあるのだとか。結果的に軍部のそういった行動が刺史をさらに頑なにしてしまい荊州(けいしゅう)の安定が遠のいている。

 そんなわけで周辺を含めて簡単な視察が終わると空海たちは危なげなく都市に侵入し、夜盗のたまり場に火炎瓶を投げ込んだり、山賊のたまり場に火炎瓶を投げ込んだり、河賊のたまり場に火炎瓶を投げ込んだり、腐敗軍人のたまり場に火炎瓶を投げ込んだりして、疑心暗鬼に陥った彼らがつぶし合うのを眺めて次にどこがどことぶつかるのかを予想するゲームに興じたりしつつ、都市制圧の準備を進めていった。

 

「へぇ。門の中ってこうなってるんだー」

 

 江陵を要塞化するにあたっては空海の土木工事能力がフル活用されることになり、今は現物を見ながら様々な役割についての説明を受けているところだ。空海にとっては目新しいことばかりで、楽しみながらイメージを膨らませている。

 例えば門と言えば大手門や西洋風の城門を想像してしまいがちだが、本来は門に繋がる道からまっすぐ先には壁を設置し、門は横を向いた位置につけるのが良いらしい。向きを変えなくてはならないから、攻められたときにも勢いを削る事ができるのだとか。正面の壁の上からは攻撃が出来るようになっていたり、さらに門をくぐったらまた横向きに門が出てくるような作りが一般的なのだそうだ。

 門ひとつをとってみても空海には興味深いのに、さらに堀だの塀だのに加え、橋、道、上下水、家、畑、水田、窯、トンネル、大規模地下工場、城、鉄道、(やぐら)などについても講釈を受けており、新生する江陵に活かされることになる。

 

「そろそろ江陵の民も動かせるじゃろう」

「では先に新しい街を作り始めましょう」

「中心部は川下の予定だよね。東かな?」

 

 

 まず地下に巨大空間を作り、その上に大地で蓋をした。そして于吉や卑弥呼の指示通り台地を作って斜面を改造して城壁に当たる部分は謎の金属へと変質させる。巨大な水堀を設置して川で結び、道となる場所をなぞり、円形の都市を一周したら田畑と宅地造りだ。

 そうして内側から作り始めて3層目、ついに旧江陵を飲み込むときが来た。

 旧江陵から民を追い出して街が半分ほど出来上がっただけの新江陵へ移動させる。賊の拠点や役立たずの太守などに襲撃をかけ、かつての江陵は一昼夜で消え去った。

 

 新しい江陵は円形の都市を取り囲むように城壁が続き、所々に攻撃用の櫓の役目を持つ稜堡(りょうほ)が突き出た『稜堡式城郭(じょうかく)』と呼ばれる構造をしている。

 誤解を恐れずに言えばヒトデ型の要塞だ。主にこの指に弓兵が配置され、隣り合う指を射程限界内に収めることで、例えば中指に敵が寄ってきた時には人差し指と中指と薬指が連携して攻撃を行える構造になっている。広い要塞では指の数が増えるわけだ。

 そもそも稜堡に取り付くためには巨大な水堀を渡らなければならず、一方で稜堡からは堀の向こう側が射程に収まっているのだ。さらに稜堡に取り付いてもそこにあるのは高さ8メートルもの壁。壁を越えてもまた壁が登場する。相手にとっては悪夢だろう。

 こんなものが1周200㎞もの規模で作られた。城壁の長さだけで洛陽の3倍超だ。

 

「上手に出来ましたー!」

「次は地下ですね」

「おお、地下施設潜入ミッションか。任せろ」

「儂たちは田畑や水場に祈祷を捧げておこう」

「古代の宗教行事的な? そっちは頼むわー」

「うふ。私たちに、ぜぇ~んぶ任せてねん♪」

 

 空海は執拗に身体をまさぐろうとする貂蝉を蹴り飛ばし、颯爽と地下に消える。衝撃で変わった地形は後に修正された。

 地下に潜った空海は巨大空間に植物プラントや塩の精製施設を作り、西の山岳地帯から地下水を引いて浄水施設に通してプラントや表層まで配水したり、琉球海溝まで取水用の巨大トンネルを通して製塩施設に繋げるなどして地下空間を埋めていく。

 直径数十メートルの空間が時速100㎞を超える速さで地球を貫通していく姿は端から見れば天変地異と大差がないのだが、海溝に横穴を開けてジェット水流に追われることになった空海は気付かなかった。一緒になって海水に追われた于吉は気付いたが、逃げるのに必死でやがて考えるのをやめた。

 

「え? 何? 海洋深層水いっぱい飲んだから健康になった?」

「ゲホゲホゲホッ、ゴホッ」

「え? やっぱり不健康?」

「ォエッゲホッ、ゴホッゴホッ!」

「濁流サーフィンの発想は悪くなかったと思うんだけどトンネルの方がねー最後ループになってたんですよねー。いやー忘れてたわー、はっはっは。……ホントごめんね」

 

 後漢代において、塩や鉄といったものは専売制である。鉄は当時最新鋭の武器に転用される可能性があったため流通量やその形態は限られており、塩は内陸の勢力につける首輪であり巨大な収入源でもあった。双方を合わせた税収は歳入の4割を超えた。

 

「ぜー……ぜー……」

「それにしても塩の密売とか……財布が厚くなるな!」

 

 故に江陵はその利権に割り込むことを企んだ。官吏の目を様々な方法で誤魔化して塩に絡んだ利益を奪い、ゆくゆくは専売の権限を正式に買い取るのだ。

 幸いにもこの時代の商売の多くは物々交換であり――詐欺が横行しやすい面もあるが、だからこそ――加工品に含まれる塩分を誤魔化すのは難しいことではない。

 江陵の産業を支える柱の一つとして、また、衣食住を満たす手段の一つとして、新しい江陵は食品加工業を計画的に拡大していく予定でいる。

 

「では儂らは紙の材料を探してこよう」

「江陵に来たいっていう人もいーっぱい集めて来ちゃうわん」

「ああ、うん。――いやちょっと待って。貂蝉(を見た人)が心配だからついて行くわ」

 

 新しい江陵では、食品加工の他にもいくつかの産業を主力に据えていくことが決まっている。その中の一つが出版業。そして、その出版業を支える製紙業だ。

 

「んまぁっ! ご主人様ったら私の魅力的な肉体を――」

「空海パンチ! コイツを甘やかすべきではないと俺のゴーストが囁いている」

 

 本には貂蝉監修のファッション誌や空海監修の都市情報誌が含まれる予定だ。もちろん学術都市として恥ずかしく無いよう教養に関する本なども取り扱う。

 ただ、現状では紙の生産すら行われておらず、本の出版にこぎ着けるのはしばらく先の話になりそうだった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 日暮れ前に街に辿り着こうと早足に歩く旅人たちの流れに逆らうように、一人の巨漢と一人のチビが街道を北上していた。

 

「次がもう襄陽なの? 街道沿いなのに意外と集落少ないのな」

「そぉねぇ……。やっぱり最近は危ないから、村や町を守る壁を作ってその中で暮らしてるわね。街道の近くだけじゃなくて、どこもみーんな同じよ」

 

 大柄な貂蝉が大げさに身を震わせながら「やんなっちゃうわ」と続ける。小柄な空海は貂蝉の見た目を指摘しようとして、思いとどまった。ギリギリで。

 

「んー、じゃあさっきの(へん)って街が特別ってわけじゃないのか」

「そうよん。まだ日が出ていたから普通に中を見られたけど、日が沈んだら街の人間でも門を開けても貰えないわ」

「そうなると野宿かー。虫とか両生類はあんまり食べたくないな」

 

 あと爬虫類とかカラフルなキノコも嫌だと笑う空海。最近、空海には意外と好き嫌いが多いことを知った貂蝉は意地悪そうな笑みを浮かべて脅す。

 

「あらぁん? そんなこと言ってると夜盗に食べられちゃうわよ」

「うぇー。その時は守ってくれよ」

 

 バカな話をしながらもちょっとした段差に立ち止まった空海を両脇から抱え上げ、そのまま前方に視線を向けた貂蝉が――雰囲気を鋭いものに変える。

 

「あら? ――あの集団、良くないわね」

「え? ドイツー?」

 

 空海はゆるかった。

 

 

 

「……へぇ。賊に追われているらしい女を見て、今のウチに逃げればいいと考えた、と。ろくでもないなー、ここの連中は。これが標準的な反応なの?」

 

 茶化す空海を半ば握りつぶすように、巨漢の漢女が身と心を震わせている。

 

「……ご主人様」

「そうだよね。お前のような反応が標準だよなー」

 

 空海は両脇を抱え上げられたまま前方を指差す。

 

「よし行くぞ、貂蝉っ。早くしろっ!! 間にあわなくなっても知らんぞーッ!」

 

 チビと巨漢は、土煙を残して飛び去った。

 

 

 

 街道からややそれた川岸で、一人の女性が複数の男に追い詰められている。その様子を上空から見下ろす影。()()()の空海と貂蝉だ。

 

「――アレだな! 分離だ貂蝉ッ、お前は殲滅、俺は盾! 俺を間にぶん投げろ!」

「ぶるぁああああああああ!!」

 

 貂蝉は即座に命令を実行し、一瞬の後には空海は空の人と化して集団に迫っていた。

 

「は、早――くなかったべらっぷ!」

 

 相当な速さで後頭部から岩肌に激突した空海は砂煙を巻き上げ、しかしコンマ1秒にも満たない時間で跳ね起きてポーズを決める。

 

「っしゃ! 助けに来たぜ!」

 

 空海は羽織をはためかせるような良い感じの風を呼び、その風に乗る音だけで『矛』の位置を把握する。『矛』が地に触れるその瞬間。唖然としている賊に向け、空海は獰猛に笑って指を突きつけた。

 

「よぅし貂蝉ッ、ヤッチマイナー!」

「――ぅぅるぁああああああああ!」

 

 爆音を立てながら、空海の声援を受けて筋肉お化けが跳ね回る。

 

 ――えぐり込む様に打つべし! 打つべし!

 

 目の前で繰り広げられるど迫力アクションに夢中になっていた空海は、熱に浮かされたように背中を見つめる女性の姿に気付いていなかった。むしろ忘れていた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 ――自分は無感動な人間なのだと思っていた。

 

 司馬(しば)()は生まれてこの方、感情を大きく動かしたことがない。

 別に喜怒哀楽が欠落しているわけではない。父親には優しい子だと言われていたし、母親には落ち着きのある子だと言われていた。笑うこともあるし、怒ったこともあったし、泣いたことも、人を騙してみたこともある。

 ただ、人が感情を顕わにしているのを見ては、何故ああも大げさに振る舞えるのだろうかと常々疑問に感じて居た。

 

 

 ――自分は時代に埋もれていく人間なのだと思っていた。

 

 司馬徽は人より良くものを覚えて居たし、素早く考えをまとめることが出来たし、誰かに物事を伝えることを難しいと思ったこともなかった。どちらかと言えば子供の方が教え甲斐があるから好ましい、という程度の感想を抱いたことしかない。

 ただ、その才が万人の上に立てるほどではないことにも早くから気がついていたし、彼女自身がそれを万人のために活かしきれるとは思っていなかった。

 

 だから、著名な人物鑑定家でもある友人から『水鏡』の号を送られたときにも「ああ、やはり才の限界は、自分の価値はここまでなのか」と納得する気持ちの方が強かった。

 

 

 ――それなのに、どうしてだろうか。

 

 号を受け取ったその日。字を決めたその日。どこか逃げるように旅立ちを考えて。

 旅立ちを決めたその日。行き先を考えたその日。南方に『(まどう)星』が現れたと聞いて。

 

 いつの間にか。そう、いつの間にかと言っていいだろう。

 その星(やがて消えるもの)の出現に自らの境遇を重ね合わせ、司馬徽は勢い込んで南に向かっていた。ただ自らの内にくすぶる「自分の価値がその程度」だと見限ることに納得しない気持ちが、足を動かしていた。

 

 

 焦りがあったのだと言い切れる。彼女は襄陽から出て僅か1日と言ったところで盗賊に追い詰められ、あと数歩のところで捕まるか入水自殺するかという選択を迫られていた。

 

 ――なんで、こんな……私は『私』を知らないまま死ぬというの?

 

 後になって思うが、あれは本当に人生最悪の瞬間だった。最低の末路か、最悪の結末しか選べないなんて、誰のどんな人生のどんな瞬間に訪れたとしても最悪だろう。

 

 ――助けは、来ない。

 

 先ほど遠くに見えた旅人を思い出す。賊に追われる姿を見て、きびすを返した人間を。

 恨みはない。彼らに自分が助けられるとは思えないし、逆の立場なら自分だって助けを呼ぶくらいしか出来ないだろう。

 しかし、それはつまり、助けが来る見込みがほぼなくなってしまったことを意味していた。道を外れてしまった今、仮にこの身を差し出したところで、助けが来ないのであればそれまでだ。

 

 ――こんな瞬間のために、生きてきたの?

 

 自力での打開は不可能に近かった。助けを待つのも不利な賭け。

 これまで二十に満たない年月で培った経験が、人よりも素早いその思考が、周囲を見渡せる冷静さが、司馬徽が終わる瞬間を宣告していた。

  そして、

 

 ――でも、誰か、誰か、誰か……ッ!

 

 呼吸が浅くなり、視界が歪み、心臓が痛いほどに脈動し。

  彼女の人生最悪の瞬間は、

 

「誰か、――っきゃぁああ!?」「――ぁっぷ!」

 

 轟音と共に砂煙が舞い上がり、一瞬遅れて吹いた風によって視界が開ける。

  最良の瞬間に塗り替えられた。

 

「助けに来たぜ!」

 

 威勢の良い言葉と共に目の前に青い衣が翻り。

 司馬徽の感情は爆発した。

 生まれて初めての感情が、()()を踏み越えた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 ――賊に襲われてたっぽい女性を助けて賊らしき連中を(貂蝉が)ボコボコにしたけど、肝心の女性が泣き止まない止まらない件。

 

 空海は、自身にしがみついて泣き続ける女性の頭や肩を優しく撫でながら、これで賊に襲われていた女性じゃなかったら困りそう、などと考えていた。

 女性は白い肌に整った顔立ちで、光に透かすとやや茶色に光る長い黒髪を後ろで丁寧に結って高く持ち上げている。髪を結んでいる桃色の布も、金色の髪留めも、紺色の着物もどれも派手さのない色合いや作りをしながら高級品を思わせる上品さを兼ね備えており、それは女性自身の雰囲気もあって一つの芸術品のようですらあった。

 身なりの違いや漂っていた雰囲気や女性の様子から見て8割方大丈夫だとは思うのだが心配なものは心配なのだ。早く落ち着くようにと優しさ5割増しで撫で回す。

 

「よーしよしよしよしよし!」

「ふぇぇん……ひっく、ぁん、うぅぅぅ、ひっく」

 

 ただ撫でるだけというのも芸がないから首もみや肩もみを混ぜたりしてみよう。空海は慰め一つに無駄な創意工夫を込め始めた。

 

 

「もう大丈夫だからね、お嬢さん」

「あ……は、はい……」

 

 座り込んだまま顔を赤くした女性が、空海をボーッと見上げる。

 言動から見て、どうやら親類縁者などではなかったようだ。空海は胸をなで下ろす。

 空海は未だ興奮状態にあるように見える彼女を落ち着かせるよう、努めて優しい表情と口調で話しかける。

 

「まず、非常時だから確認もせずにボコったんだけど、こいつらは賊で、お前は襲われていたんだよね?」

「はい、そうです……ん」

 

 女性が、肩に置かれた空海の手に頬をすり寄せながら答えた。空海は「犬みたいで可愛いな」などと失礼な感想を抱きつつ、そのくすぐったさに頬を緩める。

 

「そうか。うん、間に合って良かった」

「はい……しあわせです」

「えっ」

 

 二人はそのまま3秒くらい見つめ合っていたが、女性の目が潤み始めたのを見て空海は慌てて話を続ける。

 

「あー、それは良かったと言いたい所だけど、俺は指示しただけだし礼は功労者に言ってくれるかな。見た目はアレだがいい奴だよ。――おいで、貂蝉!」

「ダァレが見ただけで目が潰れる肉団子ですってェ!」

「ひっ」

 

 女性が空海に抱きつく。思わず、といった反応でくっついた後は顔を赤らめながら必要以上に密着していく。むしろ着物に手を突っ込もうと空海の身体をまさぐり始める。

 

「くらっ、貂蝉! はしゃぐな。相手を怖がらせてまでネタに走らんでもいいだろ」

「あらぁん、ごぉめんなさいねェん?」

「大丈夫だよ、お嬢さん。お前の気持ちはよくわかる。痛いほどよくわかるが、コイツはむやみに暴力を振るうことはないし、人を助けることを当たり前に出来る心根の持ち主でもある。だから足を離してくれ、くすぐったい」

「そ、そうですか……あの、貴方が言うなら信じます」

 

 こねくり回していた手が空海に掴まれたところで女性の抵抗が止み、しかし空海の腰と腹に上半身全てを使ってひっついたまま小さく頷く。

 しかし空海はそんな女性の様子に気付くこともなく。

 

「んっふふふ、ご主人様にそんな風に思われていたなんて……私、感激しちゃぁうッ!」

「寄るな。二度と近寄るな」

「そぉんな風に冷めてるところもス・テ・キ♪」

「黙れお前まじぶっ消し飛ばしょ?」

「(んもうっ、ご主人様のイぃケズゥぅぅ)」

「(イラッ)」

 

 空海が女性にしがみつかれた上に彼女を抑えるため両手両足を使えないのを良いことに貂蝉は二重の意味で挑発を繰り返し、苛ついた空海によって空間ごと停止させられた。

 

「あ……あの」

「おお、すまん。たった今コイツの功は全て俺のものということになったから、思う存分お礼してくれていいぞ」

「じゃ、じゃあ貴方の身柄を引き取って育てます!」

「いきなり子供扱いしてんじゃねぇ! 俺、大人! 多分お前より年上だっつのぅ!」

「えっ」

「えっ」

 

 またしても二人は3秒くらい見つめ合い、女性の目が潤み始めたのを見て空海は急いで話を続ける。

 

「えーと、そんなに重いお礼はいいから。もっとこう、笑顔でさ、ありがとうって言ってくれるだけで十分なんだって。俺が支払った労力への対価はそれでいい」

 

 少々恥ずかしい台詞だと自覚する空海は、頬をかきながら視線を逸らす。

 

「はわっ、あ、あの、私……私……っ!」

 

 そんな空海を見ていた女性は、徐々に表情を歪ませていき。

 

「……おい、ちょっと! 尋常じゃないくらい赤くなってるんだけど大丈夫か、お前」

「私ぃあわわ――きゅぅ」

「うおーっ!? 死ぬなー!」

 

 

 

「――お、おはようございます……」

 

 仕切りの影から恥ずかしげに顔を出した女性が、青い羽織に小さく声をかける。

 

「おはよう。()()()()()()()()()()()()よ。しばらくしたら貂蝉が帰ってくる。その時に一つこっちから聞きたいことがあるけど、他は自由だと思って欲しい」

 

 空海は特に驚いた様子も見せず挨拶を返した。ちょっとした皮肉を込めたのは、心配をかけさせた対価だ。

 

「えっと、はい。あの……助けていただいて、ありがとうございました」

「あははは。そう言えばそれはまだだったね。はい、どういたしまして」

 

 女性は恥ずかしそうに少し俯き、落ち着いた後に再び深く頭を下げた。

 

「その上こんなお世話に……えと、あっ! 私、司馬(しば)徳操(とくそう)、真名を永琳(えいりん)と申します!」

 

 司馬徽は相手の名前を知らないことに思い当たり、そもそも自分も名乗っていなかったことに気がついて慌てて名を告げる。

 

「ああ、俺は空海(くうかい)。助けたのは事実だと思うが、真名はもっと大切にしておくといい」

 

 自分が木箱に腰掛けているせいで司馬徽が必要以上に深く頭を下げているのだと気がついた空海は立ち上がり、司馬徽の手を取って体を起こさせた。

 

「くーかい、さま……。あ、真名は私が預けたいって、助けられたからだけじゃなくて、昨日お話ししてそう思って決めました! どうか受け取って下さいっ」

「あ、うん。そこまで考えて言ってたならいいよ。受け取ろう」

 

 大人しそうな見た目に反した司馬徽の押しの強さに、空海はややきょとんとしながらも笑って答える。そのまま木箱(イス)まで導かれた司馬徽が、やや不安げに空海を見る。

 

「その、ここは……どこかの宿でしょうか?」

「うん。襄陽の南の方にある街、(へん)って言えばわかるかな? そこの宿だよ」

 

 市場の南側の、と説明を続ける空海の様子に、思った以上に迷惑をかけていないことに安心した司馬徽はほっと息を吐いた。これで空海の両親と強制対面することにでもなっていたら、一生の思い出になっていたことだろう。色々な意味で。

 

「そうでしたか。編の……あっ、私、お金出さなきゃっ」

 

 司馬徽は慌てて服の中をまさぐり、空海の前だったことを思い出して赤面し、財布にも服にも全く手を付けられていないことに気付いて少しだけ目を見開き、続いて微笑んだ。

 

「あの、お礼も一緒に出しますね」

「まぁお待ちなさいなお嬢さん。さっきも言ったけど答えて欲しいことがあってね。回答次第ではこっちの旅がかなり安上がりになるんだ。お礼はいいし、宿代も出させてくれ」

「え? えっと、何を答えればいいんでしょうか……?」

 

 司馬徽は金になる情報など知らない。勿論聞かれれば何を答えることにも否はないが、空海が司馬徽の不利になることを尋ねるとは微塵も思っていなかった。

 

「んっと、簡単に言えばある植物を見た事があるか、生えている場所や地域、育ちやすい土地などを知らないか、ということだ」

「植物……? どのようなものでしょうか?」

「実物を貂蝉に持ってきてもらってるよ。紙の材料になる木なんだけど、ひょろ長い枝が地面の近くからドカンと広がって、春先にはその先端に良い香りの小さな花がボンッって感じでいっぱいつくもの、らしい。印象的だから多分わかるはずだ」

 

 それは沈丁花(ジンチョウゲ)という植物の亜種で、和紙の材料となる樹木のことだ。

 ちょうど空海の手足の大きさや長さがそれを表現するのに向いていたこともあり全身を使って説明するのだが、司馬徽はそのおどけた仕草よりも話の中身に目をむいている。

 

「紙――紙を、作られるのですか? 空海様は商いを?」

 

 紙というのは古くなった麻や竹の製品を主原料として特権階級が使うものという認識が司馬徽にはあった。その詳しい製法は一般に知られていないはずだ。実物を持って来られるのにさらに材料の産地を探しているというのだから、それを継続的に作り出そうとしていることがわかる。

 会話から得られたいくつかの情報から、司馬徽は空海が商売を行うつもりなのだろうと当たりを付け、果たしてそれは肯定された。

 

「紙を作るのは、うん。商いをするのかというのも、そう。商人かという意味なら違う」

 

 空海の言葉に、司馬徽はもう一度会話を思い返す。特定の地域を重視しておらず、自ら探索と、おそらくは交渉にまで出ていることから職人ということはないだろう。若くして従者らしき人物を付けていることからもそれがわかる。

 

「職人、のようには見受けられませんし……もしや、どこかのお役人様ですか?」

「前半俺の背を見て言っただろ。まぁ職人でも役人でもない。そのうち江陵でいろいろとやらかすつもりだけど、今はしがない自称太守代理ってトコだな」

 

 じと目で告げられた前半で司馬徽は苦笑し、得意顔の後半で司馬徽は停止した。

 

「……。え? 自称!? 太守代理ってどういうことですか!? やらかすって――!」

「落ち着け司馬徳操。それは本題ではないだろ? まぁ、気になるだろうから言っちゃうけど、そのうち太守()()()に任官されるだろうから今は自称代理、やらかすのは起業とか組織作りとか街作りとか色々だよ」

 

 空海が笑いながら軽く告げた言葉は、しかしとても野心的なものだった。

 司馬徽は桃色に染まりそうな頭で、紙を献上して官位を受け取るつもりなのだろうかと考えをまとめ、尋ねる。

 

「……。そのために、今、紙の材料になる木を探してらっしゃるんですか?」

「そんなところ。順序は理解できてないと思うけど、やることは変わらない」

「順序……。太守となってから、紙を使って何かをされる……?」

 

 その時の司馬徽の気持ちを、なんと表現するべきだろう。不可解でもあり、苛立ちでもあり、喜悦でもあり、感動でもあり、憧憬でもあった。

 空海は難しいことを言っていないのに、それを理解しようとした瞬間から道が途切れ、そして遥か遠くに空海の指す目的地へ続く道が突然現れるのだ。しかも空海は理性的で、見ればわかる明らかな力を有し、言動にも落ち着きが感じられ、行動を従者任せにしないひたむきさまで見られる。それらは全て、司馬徽が探し求める宝石だ。

 だが、気付く。

 

「理解しなくていい。部下でもない者が聞くべきことではないよ」

 

 司馬徽と空海の間に掛かった橋というのは、細くて不安定なものでしかないことに。

 そして、()()司馬徽にはそれが()()()()()我慢ならない。

 司馬徽は自らの胸の内を理解する前に。気がつけば、動いていた。

 

「――司馬(しば)()徳操(とくそう)です。どんな仕事でもします。私を貴方の部下にしてください」

 

 今度は空海が停止する番だった。

 

「……。……顔を、上げて?」

 

 空海が司馬徽を眺める。司馬徽はその瞳を、磨き上げた黒曜石のような色だと思った。

 黒曜石の鏡に司馬徽が映り込む。不安に揺れ、しかし意志を曲げるつもりはなく。

 

「――お前はまるで水だね」

 

 ドキリ、と司馬徽(水鏡)の胸が跳ねる。

 

「水は低きに流れると言う……」

 

 嫌な符合を、感じた。

 司馬徽に、自身を縛り付けさせている号。

 司馬徽と過去を一つにする『水鏡』。

 

「だけどその水は今、ずいぶん熱くなっているみたいだ」

 

 司馬徽が伏せかかった顔を上げる。その目に驚愕を滲ませて。

 それは司馬徽も自覚していたことだ。友人に、人を映す鏡のようだと言わしめた自身。

 

「温められた水はやがて湯気となり、雲となり、空の高いところに辿り着く」

 

 空海が明かり取りから漏れる光に顔を向ける。司馬徽も思わずそれを追い、その輝きに目を細めた。眩しくて見通せない窓の向こう側に、白く光る雲を幻視する。

 司馬徽が目を戻すとそこには海を思わせる青い衣が起立して、その色の一番()()()から自身を見つめており。

 

「空に漂う水は、やがて海の深いところへと行き着く」

 

 嗚呼、と。司馬徽は声にならない声を漏らす。この方は()()()を水と評しながらそこに留めず、()()()の『水鏡(わたし)』を肯定してくれるのだ。すくい上げて熱したのに飽き足らず、空と海にまで導いて下さるのだ。

 空海が賊との間に降り立ったとき、司馬徽は生まれて初めて本当の意味で『欲しい』と感じたのだと思う。あの時、そしてつい今しがた。話をする中で考えていたのは、一緒に居られるだけで十分だというもの。それだけで満たされるという期待だった。

 

 だが、違った。そんなものでは足りなかった。

 

「俺は空と海の空海。これも何かの縁かもしれない。これからよろしくね、司馬徳操」

 

 永琳(わたし)はその場所に、全てを(なにもかも)捧げたいと感じた。

 

「――永琳(えいりん)とお呼び捨て下さい、ご主人様」

 

 

「ごしゅ!? ――お嬢さん、女の子がそういうことを言っちゃいけません!」

 




「でも旦那様はアリだと思う」

 おや、すいきょうせんせいのようすが……?

>超新星だぞぅ
 板垣公一は日本のアマチュア天文家。過去12年で超新星を80個も見つけている世界有数の超新星ハンターであり、アマチュア天文学界の英雄である。
 2ちゃんねる科学ニュース系の板では超新星を見つけるたびにスレが立つため、新発見を繰り返すうちにスレ住民からは尊敬を込めて「また板垣か」とレスが付けられるようになった。しかし、板垣さんは2006年頃からは年間10個近いペースで超新星の発見を続けたため、「また板垣か」といちいち書くのも面倒になったスレ住民は、やはり畏怖と尊敬を込めてこれを「また垣」と省略するようになった。
 スレのカテゴリが[天文]ではなく[板垣]となっていることと合わせて、多分このお方だけの珍事である。
 なおこの頃から、板垣さんは超新星を創造しているのではないかという説が根強く囁かれており、時折「超新星創造お疲れ様です」といったレスがつくこともある。
 185年12月7日に観測された超新星SN185。記録の残る最古の超新星と言われ、超新星残骸RCW86として現在も残る。RCW86は距離約3000光年、半径約50光年。50光年の範囲に広がっているのは高温のガスだが、地球に届いたのはガンマ線などの光のみ。

>だっつのぅ!!
 ヨロシク仮面だっつーの! 親御さんにヨロシク! ダッツノゥ!!


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1-2 二つの江、二人の黄

「精米もせずに炊飯とな!?」

「――実は米に限ったことではないんじゃが、脱穀や精米といった作業には手間も時間も掛かるもの。民らも苦しんでおる故、脱穀機や精米機を用意したいのだ、ご主人様」

「おお、そうなの。いいよいいよ、どんどんやっちゃって」

「やり方については儂に考えがあるのだが」

 

 そんなやり取りから始まった卑弥呼の提案を受けて、江陵には大型の脱穀精米機が置かれ、技術の秘匿や徴税を含めた生産管理の一環として全ての作物が一度回収されて保管や洗浄や精白を施されてから配布されることになった。

 民は初め穀類が回収されることに反発したものの、それまで1日の大半を使って行っていた脱穀や精白の作業を代わってくれると知って積極的に協力するようになり、その場で税を納めたり現金に交換できることが知れ渡ると制度は完全に定着した。

 野菜や果物についても、未来の品質基準で管理され加工された物品はまたたく間に民に浸透し、無加工のそれらを駆逐していった。

 

 

「これで虫とネズミが減るのか。どっちも得意じゃないから良かったけど。あと衛生的な生活のために大型ペットの飼育禁止令と牛馬のレンタル制を始めます、って?」

「どんどんどんどんパーフーパーフー! こんな時代だから、牛や馬を個人が持ってると狙われちゃうこともあるのよん。だぁから私は大・賛・成♪」

 

 カンペを読みながら小首をかしげた空海に、貂蝉が野太い声ですかさず喝采する。

 納得するように頷く空海に向け、さらに于吉と卑弥呼からも補足が入る。

 

「この地域の民は屋内で牛や豚を飼うことも多いのですが、流石にそれは衛生面で問題があります。まとめて管理する利点は多く江陵発展の助けとなるでしょう」

「人の糞尿の処理も合わせて行ってしまえば良いじゃろう。当面は于吉の傀儡で堆肥化を行わせれば事足りるはずじゃ」

 

 于吉は冷静な表情を浮かべたまま卑弥呼の言葉に頷く。傀儡とは、単純な動作しかできないロボットのようなものだ。一から術で作ったものや人を操るものがあり、それぞれにメリットとデメリットが存在するのだが、人に狙われる理由がないような作業を人の目に触れないような場所で行うならデメリットは気にしなくてもいい程度だ。

 本来なら卑弥呼の『漢女道』とは真逆に近い在り方である于吉の傀儡だが、それほどに違うからこそ不得意面を任せられる。『管理者』と呼ばれる4人の人外がそれぞれに持つ能力は、元来それぞれを補うことで世界の歯車となるように設計されているのだ。

 かつて解決方法を巡って対立した管理者も、この地では一つの意志の元に集っている。

 

「……ふん」

 

 管理者の最後の一人、左慈が鼻を鳴らす。長年の確執は短期間の利害が一致しただけで感情を塗り替え納得をもたらすほどのものではない。だが、理性では関係を崩す無意味さと現状の利益を理解しており、不満を口に乗せることなく消化していく。

 

 新しい江陵の体制は、まあまあ上手く働き始めていた。

 

 

 そんな江陵に加わったばかりの一人の女性がいる。恋する乙女、司馬徽だ。これまでは実年齢より年長に見られることが多かった彼女だが、空海に出会って以来、実年齢よりもずっと若く見られることが増えていた。

 空海の部下としては江陵の官僚人事の一部と、本人の強い希望により空海の身の回りの世話を任されている。空海が近くに居ないと落ち着かない様子であるため特に夜中などは逆に空海が寝るまであやしたりもしているが、それ以外ではとても優秀な人材だ。

 

「空海様っ、新しいお漬け物を持ってきました」

「おー。どれどれ?」

 

 空海が于吉に作らせている調味料と手に入りやすい食材を使って新しい料理を開発し、猛特訓で鍛え上げた料理の腕を振るって空海好みに調整するのが現在の司馬徽にとっては最重要の任務である。

 司馬徽がニコニコと笑って差し出す皿から大根の漬け物を一つ摘んで口に含み、空海は驚きに目を見開いた。

 

「やたら甘い!」

「はい、お茶です」

「……おお、緑茶によく合う。なんか思ってた漬け物と全然違うけど美味しい」

 

 しばらく目の前の漬け物と固定観念との狭間で唸っていた空海は、やがて意を決したように顔を上げ、司馬徽を見つめた。

 

「次は白米に合う感じのでお願いします」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 その男は今、悩んでいた。

 

「どうやってかけるべきか」

 

 川幅2㎞はあろうかという長江本流を前に、南の長江と北の襄江から水を引いた江陵の水堀を背に、雄大な風景とは対照的な小さい男が思い悩む。

 

「どういう橋を架けたらいいのかな、これ」

 

 どう転んでもオーパーツとなることは確定していた。

 

 川を越えようとする人類の歴史は古く、それに伴って橋には多くの種類が存在する。想像しやすいものだと吊り橋や眼鏡橋、跳ね橋などがあるだろう。橋をかける位置によって沈下橋や流れ橋、抜水橋といった特徴を持つ。

 さらに、橋を架けられる位置と川の水上交通との兼ね合いによっては可動橋が作られたりもするが、流石に動く橋はやり過ぎだろうと空海は思考を放棄した。

 

「材料は石っぽい見た目にすればいいとして……」

 

 考えるべきことは主に3つ。1つ目は橋の位置や向き。これは江陵要塞前にどのように接続するかという意味だ。対岸に向けては利便性を重視していい。2つ目は水面から見た橋の高さ。橋には船の交通を妨げない高さが必要であり、同時に高過ぎる橋は渡ることに著しい不便が発生する。特に、多くの荷を積んだ馬車などが動けないような急勾配を作ることは、橋を架けるメリットを大きく潰すことになってしまう。3つ目が目立ちすぎては困るということ。そもそも要塞だけでも目を付けられるのに、観光名所がとなりに出来てしまってはこの斜張橋を作ったのは誰だあっされてしまう。

 

「――ハッ! 中州を作る→中州のループ線で高くする→中州のこっち側は大型船が通れにい→検問の効率アップ→賊が遠ざかって商人が増える→人気者。……中州作るます!」

 

 完璧な理論によって問題を解決した空海は派手に水しぶきを上げて幅1㎞長さ2㎞にも及ぶ中州を創造し、ちょっとした洪水を起こしたりしながら石のような物体でアーチ橋を架けて半径50メートルから500メートルまで3つのループ線への分岐に接続した。

 出来上がってからお披露目したところ異口同音に「目立ち過ぎ」だと言われたが、港を要塞に横付けする短所を解決するため中州が利用される方向で計画が見直され、広範囲で修正作業が発生して主に空海が派遣された。この時の経験により水面を1㎞以上に渡って叩き切る必殺技『派遣切り』が出来るのだがそれはまた別のお話。

 

 

 

「欄干かける、欄干とる……」

 

 立ち入り禁止の橋の上で手すりの微妙な凹凸にこだわっている男は空海。

 

「そこのちっこい男!」

「やめたまえ! 高低差を論じることは下向きの運動しか生まない!」

「は?」

 

 空海は後ろからかけられた張りのある声に勢いよく反論しつつ振り返り、自分と声の主以外には人っ子一人いないことを確認して、もう一度確認して、もう一度確認した。

 呆気にとられたような表情で空海を見ているのは、青みがかった銀の長髪を高い位置でまとめた褐色肌の()()()

 渋みのある紫の服や引き締まった身体、やや鋭さを感じさせる目つきで随分と大人びて見える少女。だが彼女が今浮かべている表情には、未だ字を持っているかも怪しいほどの幼い純朴さが窺えた。

 

「何を言っておるんじゃお主は……」

「何だよ、今のもしかして俺に話しかけてたの? 俺より小さい人類が生息してるのかと思ってつい庇ってしまったじゃあないか」

 

 空海が笑いながら欄干に寄りかかり、その出来に笑みを深くする。ここに、宇宙戦艦が突っ込んでも逆に特殊装甲の方が真っ二つになる欄干が完成した。

 

「なんじゃ、見た目通りの年ではないのか」

 

 それは()()に見えるのか中身がオッサン臭いのか、どっちに転んでも――

 

「なかなかに酷い言いぐさだ。でもお前が若作りしてなきゃ俺のが年長なのは間違いないだろうね。敬意を払ってくれて構わんよ、お嬢さん」

「たわけ。敬意を払うべき相手くらい自分で決められるわ」

「ふふ。そう? じゃあもっと親しみを持って接してくれていいよ」

「たわけ。儂のような美少女を前にしておるんじゃ。儂から許すのが筋じゃろう?」

 

 そう言って少女は自信満々に胸を張る。育ち盛りのやや大きな胸がぷよんと震えた。

 

「へー。あれれぇ~? 急にここが立ち入り禁止になってた気がしてきたなぁ~」

 

 わざとらしく声を上げながら空海は周囲を見回す。橋は立ち入り禁止になっているため当然のように人っ子一人見当たらない。

 

「ぬ、ぐっ。儂は(おう)荊州刺史様より江陵の調査の任を賜った身じゃぞ!」

 

 少女がやや焦りながら反論するが、空海は意地悪そうに笑って、たった一人で武器まで持ってやってきた少女を見つめる。昨今の()()は刺史に軽んじられているのだ。

 

「刺史から任を受けた者に命じられて、の間違いでしょ? ここはまだ開通してないから渡し船もあるし、出入り口の詰め所に居たヤツに江陵側から許可を貰えって言われてると思うけど? おおかた橋が通れそうに見えたから渡し賃を出し渋――」

「いやぁ今日は暑いのぉ! 少々薄着になりたくなってきたわ!」

「……この娘、面白いな」

 

 素早い動きで太もものスリットや横乳をアピールする少女に空海は感心する。手慣れているのかいないのか、その動きはぎこちないようでいて多彩だった。

 ちなみに春の肌寒い日のことである。少女はだいぶ汗をかいているようだったが。

 

「俺の記憶が確かならこの辺りの渡し賃は20銭より多かった気がするねぇ」

 

 そう言って空海は右手を差し出す。実際には35銭くらいだ。外食代と大差ない。

 

「ど……堂々と袖の下を要求するとは太い輩じゃ! じゃが気に入ったので20銭くらい今夜の酒代から出してやろう! ……やる。やるぞ。っく、儂のおごりじゃあ……!」

「顔の方は泣きそうになってるじゃん……。冗談だよ。2刻(30分)もおっかなびっくり歩いてきたお前から掠め取ろうなんて思ってない。さっさと握手しようず。そしてもっと親しみを持って接してくれていい。そしたらこんな些細なことで告発したりはしない」

 

 空海は上に向けていた掌を立て、少女が握りやすいよう高く持ち上げた。少女は涙目で上目遣いをしたかと思いきや徐々に目を輝かせ、花が咲いたような笑顔を見せる。

 

「ほ、本当か? 本当じゃな? ……ま、まぁ儂の握手に20銭以上の価値があることは明白じゃからな!」

「え? 何? 自分で持ち上げたってことはそこから突き落としていいってこと?」

 

 途端、少女は勢いを失い、しなびて風に吹かれる枯れ草のようにうなだれた。

 

「参りましたので、やめて下され」

好々(よしよし)

 

 

「こんな滑らかな石造りの橋は見た事がないわ」

「マジで。足とか引っかかったら危ないじゃん」

「床の隙間から落ちたという話もあるんじゃぞ?」

 

 少女の疑問に空海がトンチンカンな答えを返したり。

 

「お主は立ち入り禁止の場所で何をしておったんじゃ?」

「そりゃ橋を作ってたんだよ。この手すりとか自信作だ」

「石、じゃよな? もしや、木か? 何なのだ、これは」

「わからんけど自信作だ。この通り、上を歩いても平気」

「これ、手すりに乗るでないわ! ……子供かお主はっ」

 

 年上であるはずの空海が何故か手を引かれて歩くことになったり。

 

「一体どうやって作ったんじゃ、この渦のような橋は……」

「ほら、あの辺とか工夫して、えーと、気合で」

「大事な部分の説明を諦めたじゃろ」

 

 説明を投げ出した空海にツッコミを入れたりしつつ、しかしだんだんと空海との会話のペースを掴んできた少女は、目を背けていた最大の問題について尋ねることにした。

 

「ところでのぅ……何じゃ、あのバカでかいのは」

「え? ドイツー?」

「あの壁じゃ」

 

 そう言って少女は、橋の先で視界のほぼ端から端まで続く灰色の壁を指し示す。本当はその周りの堀らしき巨大構造物やそこに取り付けられた門や門前の広場に続く細い橋など遠近感や常識を狂わせる諸々があったのだが、一言で壁の謎にまとめてしまった。

 

「ああ。あれ江陵の城壁」

「……こんな怪奇の起こる街ではなかったと儂は記憶しておるんじゃが」

「目と記憶のどちらが確かなのかが試される時が来たな」

 

 本当は両方正しいのだが空海は誤魔化す気である。

 だがそれよりも気になることがあった少女には通用しなかった。

 

「街の者は中におるのか?」

 

 生真面目な少女の様子に空海は苦笑し、しかしもう少しだけからかいを混ぜておく。

 

「順序が違うね。中にいるから街の者なんだよ。まぁ、以前からこの辺で暮らしてる民はだいたいあの中かな。一部いなくなった連中もいるけど」

「ふむ……。太守様はどうしたのだ?」

「ああ、ふた月くらい前に賊の討伐が行われてね。討伐が終わってみたらその賊に紛れて太守なんかの首があったみたいでさ。色々あって今は土の下だよ」

 

 あれがいなくなった連中の一人だと軽い調子で空海が告げる。

 

「……そうじゃったか。太守は既におらんのか」

「ちなみに討伐は義勇兵がやったものだよー」

 

 数秒、何かを考えるように俯いていた少女は空海に鋭い視線を向けた。

 

「聞きたいことがある」

「どうぞ?」

 

 空海は薄く笑ったまま、繋いでいない方の手を少女に向けて続きを促す。

 

「お主、何者じゃ?」

「あ、そういえば自己紹介がまだだったか。俺は空海だ」

 

 何かを疑う少女は鋭い視線のまま、誤魔化す空海は笑顔のまま、静かに見つめ合う。

 

「……それだけか?」

「何が聞きたいのかはっきりしないな」

 

 肩をすくめてあくまでとぼける空海に、少女はため息をついて脱力する。

 

「お主、太守殺しに関わっておるじゃろ」

「ばれたか」

 

 じと目に捉えられた空海は、にこやかに笑ったまま、しかし即答した。

 

「太守が賊と共におったのは事実か?」

「一部の兵と一緒にその辺に関わってたり癒着してたのは事実だね」

「……そうか。ここも、か」

 

 世間話よりは緊張感がある、しかし尋問と呼ぶには軽すぎる会話で、少女はこの小柄な男の正体をある程度察していた。

 

「被害者に会いたければ案内するけど?」

「いや、良い。儂に何が出来るわけでもない。お主のことも疑ってはおらんからの」

「そうなんだ。やっぱり握手は大事だよね」

 

 相変わらず少しばかりペースがわかりづらい空海との会話が少女を脱力させる。

 

「のぅ――お主は壁の向こう側のお偉いさんじゃろ」

「うん、当たり」

「儂が来たのにも気付いておったな」

「橋を渡り始めたのは知ってたかな」

「橋には他の者はおらなんだのか?」

「目立たないところに少し居たね。剛毅な役人が来たというから隠したんだ」

 

 橋の警備員にはどういう者が橋に来たのかを合図するように命じてあった。少女が門を通り抜けたやり口は悪い方から数えた方が早い事態として対岸に知らされており、中州の近くで作業していた者達は橋を監視しやすい船着き場の建物に身を潜めさせた。荊州には軍の皮を被った賊が溢れている、というのが昨今の常識なのだ。

 

「そ、そうじゃったのかー、ははは……いやぁ、握手は大事だのぉ」

 

 割と威張り散らして橋に踏み込んだ少女は、目を泳がせながら笑って誤魔化す。

 空海も少しだけ笑って繋ぎっぱなしの少女の手を引いた。

 

「ここに居るとあいつらも困るだろうから、さっさと移動するよ」

「うぐっ、わ……わかった」

 

 

 中州と江陵を結ぶ橋、その上を小さな男と難しげな表情の少女が手を繋いで歩く。

 

「お主らは、あの街をどうする……あの街の民はこれからどうなるんじゃ」

「んー……。例えばお前とは軽妙に話せてるけど、その辺の人間を捕まえて話しかけてもこうはいかないよね」

「? それは、まぁ、そうじゃろう」

「お前には他の者にない才があるだろうことはわかる。けど、それ以前の問題でその辺の人間は――」

「学がない。故に知らんことが多すぎて何を言いたいのかを察することも出来ん」

 

 空海の言葉を少女が引き継ぐ。それは少女が立ち上がった理由であり、いつか変えたい状況だ。そう思っていたから、続く空海の言葉から受けた衝撃は計り知れなかった。

 

「だから、全ての民に学を与える。全ての民と、いつか、こんな風にしゃべれるように」

 

 それは理想に燃える少女の意志を凍らせるほどに傲慢で、慈愛に満ちた決意だった。

 少女は色を失った思考を誤魔化すように、視線をはるか上空に向ける。広がった青空のその先を見通すように。

 

「お……お主はこの地を……、天子様が治めるというこの国を、どう見ておる?」

「末期。治すなら荒療治しかないけど、そんなことしたら治した相手にも周りの連中にも恨まれるだろうね。つまり実質、治せないと同じ」

「横柄な病人、か。なるほど、言い得て妙なもんじゃの……。じゃから、作るのか」

 

 何を、とは言わなかった。

 

「別に令を発する場所にしたいわけじゃないよ。ただ、俺と民のおしゃべり空間の邪魔はさせない」

 

 空海は静かに尊大に語る。

 

「民が豊かに暮らし、争いを忘れるくらい平穏無事な街がいい」

 

 少女は黙って耳を傾ける。

 

「だけど、壁の向こうもこっちもみんなまとめて豊かならその方がいい。だからこそ高い壁を作って門を厚くして堀を深くして守りを固めた。より豊かな世を許容するために」

 

 あの壁の高さは、堀の広さはその決意の証なのだと言う。

 少女は遠くに向けていた視線を空海に戻し、いつの間にか強く握っていた手からそっと力を抜く。()()選択を空海に委ねようと考えて。

 

「のう、お主、儂の手をずっと握っておったじゃろ」

「うん。そうだね」

「儂が武器を取れんように。――周りで身を隠しておる職人たちに儂を狙わせんように」

 

 少女の言葉に空海は僅かに目を見開く。

 

「おや、驚いた。職人だって気付かれてるとは思わなかったよ」

「これでも目は良いのでな。足運びも武人のそれではないし、そもそも手にした武器(もの)が槌やノミでは兵は名乗れんじゃろう。……ふむ。儂の手を引いて歩き続けておったのも連中の包囲を完成させんようにか」

「武器は俺からは見えなかったけど。あいつらそんなもんで戦うつもりだったのか?」

 

 空海は面白そうに、少し困ったように笑う。この時代、徳の高い者を救うためなら安い命は盾にされるべきだという思想が根付いているのだ。学問や宗教に基づくその倫理は、未来における「命を粗末にすべきではない」という道徳よりも根深く強力な呪いだ。

 最初から一人も失わせないつもりだった空海は、しかしその背格好のせいで悪い役人に騙されて連れ去られる子供のように見られてしまい周囲に心配をかけまくっていた。

 空海には大人の自覚があるためそんな風に見られているとはつゆほども思わず、むしろ周囲を安心させようと仲良しアピールをするものだから悪循環に拍車が掛かる。

 

「ずいぶん慕われておるのぉ。……それも道理か」

 

 民を守るため悪党――少女にとっては不本意ではあるが、自身のことだ――に立ち向かい、たった一人で知恵を武器に戦う男。故事(おとぎ話)にある君子のごとき勇姿。民に期待を抱くなという方が無理な話だろう。

 

「俺としてはお前の嫌われように驚いてるところだ。何やらかしたんだ?」

「あー……うむ。ここに来るまでに少々、恥ずべきことをしでかした」

 

 少女は荊州下での扱いの悪さに腐り、粗暴な言動を繰り返していたことを思い出す。それを自覚した途端、自分が保身のために空海の手を取ったことが無性に、心底恥ずかしくなった。空海を守るために決死の覚悟で二人の様子を窺う者達に、そして、少女と彼らの心情を理解しているだろうその上で少女までをも守ろうとしてくれている空海に、かつてないほどに強く熱い衝動が胸にこみ上げてくる。

 

「だから……まぁ、これは仕方ないのぉ」

 

 少女は誰にともなく言い訳し、空海の手をやんわりほどくと流れるように膝をついた。

 そうしたところでふいに、目の前の小柄な男がただの『お偉いさん』ではなく、江陵を代表する『長』なのであると確信する。理屈ではない。そうされるのに慣れているという気配を少女は感じ取り、こみ上げた想いがますます高まった。

 大胆にスリットの入った紫の服から太ももがのぞき、しかし二人の纏う空気は神聖さを感じさせるようなもので。卑猥さは微塵も感じられない。

 

(こう)公覆(こうふく)、名は(がい)。江陵のこの先をお側で拝見させて頂きたい」

「――おや。敬意を払うべき相手は自分で決められるんじゃなかったの?」

 

 周りを恐れて言っているのではないか、と空海は問い、しかし黄蓋は首を振る。流れるような銀髪が、日に焼けた褐色の肩を滑って落ちた。

 悪党が君子に改心させられるというのは民も喜ぶ王道の展開だ。舞台がこれほど整ってしまったからには、君子を守り生を全うするところまで付き合ってみても良いのではないかと黄蓋は思う。それに空海と黄蓋(自分)ならば、1000年後に語られる君主とそれを支える忠臣という配役にふさわしいのではないだろうか。

 黄蓋は意外なほどに現状を楽しんでいる自分自身に小さく笑う。

 

「無論のこと、自分で決めました。我が真名は(さい)。どうか、お側に」

「そう……わかった。ただ、部下たちが気にしそうだから実力は示して貰うよ」

「お任せあれ」

 

 返事と共に立ち上がった黄蓋には、何の気負いも見られなかった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「お土産にうちで作った酒を持っていくというのはどうだろう?」

 

「これは罠です! どうしても行くなら、私もついていきます」

「罠なのは明らかですのでやめてください」

「わざわざ罠にかかりに行くのは感心せんのぅ」

「流石に儂の名が入った酒を刺史の元へ持っていくというのは、恥ずかしいんで勘弁して欲しいんじゃが……」

「強引な男の子は嫌われるわよぉん」

「賛成はしない」

 

 非難囂々である。

 

 

 これよりしばらく前、荊州刺史の(おう)(えい)が孫堅によって殺害されていた。

 跋扈した賊によって荊州への反乱が起こった荊州南部の長沙(ちょうさ)。厄介払いを兼ねて長沙の正式な太守として送り込まれたのが、軍部の実力者でありながら荊州南部で王叡に代わる人気者として支持を集めつつあった孫堅だ。

 孫堅はまたたく間に長沙の反乱を治めると、零陵(れいりょう)桂陽(けいよう)の太守たちと共謀して州の首都である漢寿(かんじゅ)を攻めて王叡を殺害。そのまま漢寿に居座り、我が物顔で()()を敷いているらしい。

 とはいえ。荊州への反乱というのは国家への反乱と同義だ。現在は交流が途絶え、やや苦しい状況にあると見られている。

 

 さて、刺史を殺害された朝廷だが、それを許しておくわけにはいかない。そこで、荊州立て直しのために軍属経験のある劉表が派遣されることが決定した。

 すぐに荊州に赴任した劉表ではあったが、そこには王叡政権下で好き放題していた賊が無数に立ちはだかっており、さらにこの時代、刺史が軍事力を持つことは許されていないため、苦しい状況の下で策を巡らせたようだった。

 そして、荊州北部を中心に『各地を治める()()()たちへの挨拶のために宴会を催す』と招待状が送りつけられたのだ。()()()()()()()

 

 未だ文字が読めない空海に代わって文を読んだ司馬徽は目からハイライトを消し、血のように赤い布で出来た人形に『劉』の文字を刻んで縛り上げて踏みつけたり、頭を熱湯にくぐらせて尖った石で丁寧に叩きほぐしたり、包丁で腹を割いてねじ切った手や足を詰め

 

   何  を  見  て  い  る

 

 

 

 なんとか手だてを講じようと部下を集めて話し合ってみたものの、なかなか良い考えに行きつくこともなく。やがて空海はしばらく前にできたばかりのお酒を持っていくことを思いつき、その考えを伝えてみたのだった。

 言いたいことをちゃんと伝えなかったせいで、その反応は思っていたものとはかけ離れていたのだが。

 いろいろ打ちのめされた空海は言いわけがましく考えを明らかにしていく。

 

「ええと、罠だとわかってるけど、何ていうか……罠なんか破ればいい、みたいな?」

「罠を破れる俺かっこいい! ですか? ……いいですけど」

「ふふふ。()()()はそうでなくては」

「ごぉ主人様ったらかぁっこぅいぃーい!」

「やーめてー!」

 

 空海の罠破り発言の中身を静かに考えていたのだろう眼鏡の青年が顔を上げる。

 

「……一理ありますね」

「よしきたー!」

 

 于吉の発言を受けて空海が喝采を上げ、他3人の管理者と黄蓋が続きを促し、司馬徽が圧力を伴うほどの視線で発言した于吉を睨み付ける。自身と空海のスペックを知る于吉は彼女の視線を軽く受け流し、考えを説明していく。

 

「こちらを陥れる場として考えるのではなく、劉表が何を成したいのかに先回りして考えることで、引き込んだ方が安全で得になると思わせることができれば……」

 

 策の目的を理解した卑弥呼と黄蓋が納得したように頷き、空海の前で言いづらい『第三者からの認識』を口にしたのは卑弥呼だった。

 

「うむ。ご主人様が『賊』の立場を捨て協力者として地位を得る好機となるわけじゃな」

「空海様が賊であったことなどありません! 訂正しなさいッ!」

「水鏡殿、落ち着かれよ」

「水鏡ちゃん、落ち着いてねん。ご主人様も驚いてるわよ?」

「はい」(※ちょっと怖いです の意味)

 

 空海を貶めるような卑弥呼の物言いにいきり立った司馬徽は声を荒げて立ち上がり、その反応を半ば予想していた黄蓋と貂蝉は彼女の肩をそっと押さえて声をかける。

 得意の状況を迎えた于吉は、その様子を気にすることもなく提案を続けている。

 

「この際ですから、有力な相手はこちらからも手を回して片付けてしまうべきでしょう」

「ふん、まどろこしいな。――だが邪魔者を片付けるというのはわかりやすい」

 

 于吉の過激な発言を左慈が肯定し、劉表への対応は概ね定まった。空海が二人に頷いて了承を示すと、于吉と左慈は水を得た魚のようにいきいきと対策に動き出していく。

 

 活きの良い魚となった二人が去ったところで、ここ最近、割とあくどいことをしてきた気がする空海は少し気になって司馬徽に尋ねてみた。

 

「ねぇ。徳操は俺が賊になったらついてきてくれないの?」

「一生ついていきます!」

 

 一瞬の迷いもなく、止めるとか更生させるとかいった選択を無視して肯定した司馬徽に空海も若干呆れ顔を見せる。

 

「じゃあ別にいいじゃん……」

「まぁ儂とて水鏡殿の言いたいことはわかるがの。これまで賊もどきであった官憲どもに賊呼ばわりされる謂われはないわ」

「洛陽では、代替わりした程度で先代の悪行を棚に上げられる程の良質な鉄面皮が安売りされているのでしょう。安い誇りではそれを買うことくらいしか出来ないのでは?」

 

 黄蓋が自身の過去を思い出しながらむすっとした様子で告げれば、司馬徽はほっぺたを膨らませて不満を漏らす。空海はその様子に笑い、胸を張って立ち上がった。

 

「まぁ俺がそんな鉄面皮装備の刺史に後れを取るはずは無いな」

「か、かっこいいぶるぁあああああ!」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「俺、進まずして迷うこと無し。目的の街、見つからざるとも屈せず。これ、予定と共に死すこと無し――」

 

 長い沈黙の後、男の口から小さく納得の言葉が漏れた。

 

「そうか……そうだったな……」

 

 男の目に、近くのあぜ道で腰を落として作業する少女の姿が映る。

 

「――お嬢さん、街への道、教えてくれないか?」

「え? あ、はい……?」

 

 空海は道に迷っていた。

 

 

 地面に書いた簡単な地図を挟むように、小柄な男と年若い少女が向かい合って話し込んでいる。少女は若干困惑したように、男は若干悲しそうに。

 

「つまりこの邑は、目的地である宜城(ぎじょう)の北の襄陽(じょうよう)の北北東の南陽(なんよう)の北にあって、俺は500里も道を外れて彷徨ってたってワケか……。あ、これは後ですごく怒られそう」

「えと、その……間違いは誰にでもありますから!」

「今はその優しさが痛いよ」

 

 500里というのはおよそ200㎞、徒歩での移動なら3日分ほどになる距離だ。なぜ空海の旅が目的地からこれほどにズレてしまったのかと言えば、江陵の北側、編の街との間にある山地で野生の竜を見つけてちょっかいを出したからに他ならない。

 山に棲む竜を見つけ、鳴き声一つ許さず屈服させ、大体北の方に向かって1時間ほどの遊覧飛行を強制し、降り立った地が南陽の街の北側だったのだ。

 竜を見てテンションが上がりすぎたせいで「その辺の馬より、ずっとはやい!!」してしまった空海の自業自得であった。

 目的地が江陵の北にあるというので、着地後に北に向かってきたのも失敗だった。

 

「ちくしょう、劉表はバカだ」

「りゅーひょ?」

「ああ、こっちの話。気にしないでくれ」

 

 小首をかしげる少女に空海は何でもないと手を振り、立ち上がって軽く周囲を見回す。

 

「南陽はあっちでいいのか?」

「あ、はい。そこの道をまっすぐ行って、右に行って、まっすぐ行くんです」

「なるほど、わかりやすい。助かったよ、可愛らしいお嬢さん」

 

 青い羽織を翻し、空海は颯爽と歩き出す。ただし、歩幅が小さいので見た目ほど速くはない。道を教えた少女の視線は、その背中をいつまでも追っていた。

 

 

 右に曲がる道だと思っていたら地元の車はウィンカーも出さずに進んでいた、といった経験はないだろうか。

 

「ナ・ル・ホ・ド・ネ」

 

 空海の目の前には分かれ道。川上へと向かう道と川下へと向かう道である。

 川も道も蛇行しており、川上にも川下にも前にも後ろにも森が広がっている。

 邑を出てから歩いてきた道は曲がりに曲がっていたので既に方向がわからない。

 

 少女の案内に従ってまっすぐ進み、右折し、まっすぐ進み、まっすぐ進んできた空海は今、丁字路にぶつかっていた。

 既に右折を使い切っていたのである。

 少女の言葉を信じるのであればここでも右折だろう。しかし、空海の目には左側の道に朽ちて読めなくなった案内板らしき物体が刺さっているように見えた。地元の人間的にはここは一本道であり、おそらく右か左がまっすぐという扱いになっているのだ。

 

 ――もしかしたら掟破りの地元走りで川を飛び越えるという可能性も……

 

「待ってっ、下さい!」

「これは俺の心の声じゃない……いるのか? そこに……!」

 

 空海が振り返れば、先ほど道を教えてくれた少女が顔を赤らめて息を切らしている。

 

「ハァッ――ハァッ――、南陽は、右っ、です」

「俺はどこへ行こうと言うのかね! あの案内板の反対方向に南陽があるのだ! 親切なお嬢さんや……これは僅かだが心ばかりのお礼だ、飲んでくれたまえ」

 

 空海は急ぎ足で引き返しつつ手を袖に隠して果実水の入った水筒を創り、未だ苦しげに大きな呼吸を繰り返す少女の手を取って握らせた。

 

「あ、あの、さっきの説明じゃ、わかりにくいかと、思って……。あ……美味しい」

「ありがとう、お嬢さん。先ほどの説明も十分にわかりやすかったよ」

 

 空海は果実水の美味しさに目を丸めている少女に笑いかけ、改めて礼を述べる。

 

「ただちょっと、現実に比して説明が簡潔に過ぎたことと俺が人の知性と道徳を信じ切れなかったことが問題だったんだ」

「……? あの、ごめんなさい、難しいお話はわからなくて」

「ああ、こっちこそごめん。大したこと言ってるわけじゃないんだ。宜城(もくてきち)へ向けた行程の、まず南陽への道で躓いたことに若干の不安を感じているだけだよ」

 

 少女は、自身より小さな男の子、それも上等な服を纏った良いところの御曹司のような彼が浮かべた大人びた表情に少しだけ驚く。もしかしたら、思っていたより年長なのかも知れない。そう考えて急に今までの態度に落ち度があったのではないかと焦り出す。

 

「あ、あの、お役人様」

「お役人? 俺、役人っぽく見えるかな?」

 

 空海が何か嬉しそうに返す。少女の発言が幸先の良いものに感じられたからだ。

 

「――お役人様じゃないんですか?」

「半分だけ当たり。これから偉い役人のとこへ行ってちょっとぶっ話し合うんだよ」

 

 そう、これから起こす話死合い(カチコミュニケーション)に向けた明るい材料である。

 

「ぶっ……話し、合う?」

「はっはっは。しかしその格好は寒そうヨ! これをあげるから羽織っとくといいネ!」

 

 少女の疑問に答えず空海は誤魔化すように笑いながら懐から大きな布を取りだした、ように見せかけてその場で創った。表地がやや落ち着いたエメラルドグリーンで裏地が渋い藍色の外套――つまりマントだ。

 

「こっ、こんな高そうなもの受け取れません!」

 

 少女は慌てて押し返す。空海が自分の着物を参考にした、とても肌触りの良いマントである。見た目くらいなら人間でも再現できるかもしれないが、その性能まで見れば皇帝であっても手にすることは出来ない逸品だ。

 

「引き取るのが嫌なら次に会ったときに返してくれるんでもいいよ?」

「こんなに綺麗だと、汚してしまうかもしれませんから……っ!」

 

 空海は気軽に扱っているが、少女に取って見れば気が気ではない。呼吸が届かないよう顔を逸らしてすらいる。これまでの人生で目にしたあらゆる高級品よりもなお素晴らしい品にしか見えない。押し返すときに図らずも触れてしまったが、あれはもう自分が触れていいものではないと結論するしかなかった。

 流石に少女が涙目になっているのを見ては空海からもちょっとだけ押しつける気が失われていく。しかしその代わりに、上目遣いと子供ボディのコンボがどこまで通じるのかを試してみたくなった。それが攻撃であると気付かずに。

 

「あのね」

 

 当時、街というのは一つの姓で完結してしまうことも多いものであった。少女にとって子供というのはどれも似たような顔立ちのレプリカのようなものであり、野原を駆け回るくらいしか遊びのなかったことも手伝い活動的でやんちゃな者が多く、浅黒く日焼けしていたり、少女が呆れるくらいに不潔な子もよく見かける存在だった。

 

「確かにあまり高そうなものを持たせるのは危ないとも思ったんだけどさ」

 

 空海は日本人が見でも、それだけで常識を塗り替えるほどのイケメンではない。

 ただ、未来人として常識的なレベル――この時代の基準でみれば狂気的なレベル――で清潔であり、未来人として常識的なレベル――この時代の基準で見れば名士レベル――でインドア派の色白であり、少々派手で抜群に質の高い着物を着ただけの、中身はともかく見た目にはあどけなさを残す、活発そうなそこそこの美少年であった。未来基準では。

 

「このくらいあげても惜しくないくらいに嬉しかったんだよ」

 

 未来から来た美少年が上目遣いをしていると言われても想像しづらいだろう。ならば、神話から登場した美少年が上目遣いをしていると言われたらどうだろうか。少なくとも、それまで邑からまともに出た事がなかった少女にとって、それは危機的な状況であった。

 子供だと思ったから異性として意識していなかった。だが、その分油断していた。

 御曹司だと思ったから雲の上の話だと思っていた。その分、憧れを抱いていた。

 どこか遠くに向けた表情ばかりだったから他人事に見ていた。視線を近づけていた。

 

「これを貰ってくれないか? お前にはよく似合うと、俺は思う」

「ひゅぇ!?」

 

 少女が息を飲むようなしゃっくりのような同意のような否定のような声を漏らす。驚き過ぎて言葉にならなかったのだ。果たして攻撃力か回復力か状態異常か。

 そんな少女を見て空海は小さく笑みを浮かべる。作戦の効果が感じられたからだ。

 だがその笑みは『とどめ』になった。少女自身がよくわからないが会心の一撃だった。

 

「ひょれ、わたくしいたたたただきます!」

 

 土下座でもせんばかりの勢いで頭を下げ了承を上手く告げ損ねた少女の言葉に、空海は凄く痛そうだ、などと失礼な感想を抱く。

 しかし彼女の態度はこの時代の一般人にしては相当に上出来なものだ。

 民に向けた浅く広い教育が始まった江陵ですら、お礼の気持ちは野菜や穀類で示すものである。両手に抱えきれないほどの『お礼』を持って歩いているのに、さらに野菜を差し出すことしかしない民には空海も困っている。

 空海は改めて「野菜じゃなかっただけ上出来だ」と考え、ゆっくりと頷いてみせた。

 

「それじゃあ、遠慮なく貰ってね」

「かしこまりもりました!」

 

 余程に興奮しているのだろう、顔を真っ赤にした少女の純朴さに、空海は思わず笑う。

 

「あはは。それで南陽までの道だけど、他にわかりづらい場所はないかな?」

「なっ、なりゃばわたくしが南陽(なにょう)まで案内(あんにゃい)いたしますです!」

「マジで。ありがたいけど、いいの?」

「おかかませください!」

 

 少女はキビキビと無駄な動きを繰り出し、受け取ったマントを胸にかき抱いたまま、それを持つ両手を交差させたまま空海の手を取って歩き出す。とても歩きづらそうにして。

 

「あれがこっちですっ」

「そっちは今来た道だが」

「あっ、わたくしの家で!」

「待てっ、何故お前の家に案内する! ……アクセルとブレーキを間違えたか?」

 

 その後どうにか南陽に辿り着いた二人ではあったが、色々とのんびりとしすぎたせいで着いた頃には日が暮れており、門も開けて貰えず野宿を強いられた。

 

 

 

「これはまた不味そうな……まぁ、賊どもにはちょうどいい目くらましだ」

 

 くきゅるるるる

 

「食べちゃダメだぞ、紫苑」

「……はい」

 

 可愛らしいお腹の虫をならしながら、それを気にする余裕もなくお膳を見つめる少女は黄忠、真名を紫苑という。彼女の隣でそれをいさめるのはいつも通りの青い羽織を纏って少々珍しく苦笑を浮かべた空海だ。

 各人の前に配られたお膳には色とりどりの炒め物や揚げ物、色鮮やかな炒め物や揚げ物など、明らかに脂っこそうで目に鮮やか過ぎる食べ物が並んでいた。

 空海にとってそれは味を確かめたくもない類の食べ物だったのだが、ここ数日、空海に付き合って色々な料理を食べ歩き、その味に感心しっぱなしの黄忠にとっては、味を確かめたことがないだけのご馳走なのである。

 

「皆の者、よく来てくれた」

 

 配膳が終わったところで劉表の取り巻きだろう女性が声を上げた。宴の席を謳っているにも関わらず、武装したままで。実際、何人かの招待客は武器を持ち込んでいるようであるため誰もそれを咎めない。

 空海にとって幸いだったのは、なし崩しに連れ込んでしまった黄忠が目の前の料理に夢中であったため、緊張をはらんだ会場の空気やぶしつけな視線を気にしていないことだ。

 

「劉刺史は善政で知られた景帝より――」

 

 空海の考えでは南陽への道を教えて貰って別れるつもりだった黄忠だが、貰いすぎを気にして南陽まで同伴することになり、閉門に間に合わなかったことや朝まで空海に守って貰ったことなどを気にして襄陽に同行することになり、襄陽で悪(そうな顔をした)人にも簡単についていこうとする空海を見て宜城に付き合うことになり、宜城で招待状を見せた空海に対して軽んじた態度を取った門番を見て中にまで一緒に入り込んでいた。

 黄忠の中では既に『空海をどうやって立派な役人にするか』というよくわからない行動指針がドーンと小さくない面積を占領している。ひとまずこれから会うという偉い役人を見極めて、大丈夫そうなら預けようと考えていた。難しいことはわからないので顔で選ぶ気である。

 

「――から天子様より高く評価され――」

 

 空海は辺りを軽く見回す。劉表隷下からは重武装した武官らしき者が2人、宴会に背を向けつつも会場を囲むように弓を持った兵士が50人と少々。弓を持つというのは正規の訓練を受けた熟練の兵士の証であるため、これに対抗するには相当な戦力が必要だ。

 対して客席には軽く武装した客が数名と、武装したまま連れ込まれた護衛らしき者達が30名と少々。少人数の護衛として連れ込んでいるのだから腕は立つのだろう。しかし、屋内とは言え武器は剣しか持たず、何人かの前には酒の載ったお膳が並べられてもいる。

 

「――を祝して、今日は大いに楽しんで欲しい。……劉荊州様」

「うむ。では、乾杯」

 

 まず劉表が杯の酒を飲み干し、杯を返して見せる。それに続くように参加客も次々に酒を飲み干していく。

 

「飲むなよ、紫苑」

「は、はい」

 

 最後に空海たちの杯だけが残り。

 

「――飲まぬのか?」

「俺は酒は飲まないんだ。……だが、気分くらいは味わいたいな。ちょっとこっちに来て飲んでくれないか、劉荊州」

「くっ、空海様!?」

 

 黄忠が慌てたように止めるが、空海は見向きもせずに劉表に笑顔を向けている。

 劉表は空海と見つめ合う間に徐々に表情を硬くして行き、最後には笑顔を消した。

 

 

「――賊どもを討て」

 

 

 劉表の小さな声が届いたのは果たして何人だったろうか。まず彼の周りにいた武官が一斉に剣を抜き、大声と共に近くの賊に斬りかかった。会場の人間は一斉に立ち上がろうとして、多くの人間が足下をふらつかせて転んだ。

 直後、会場の出口に近い席から順に、矢の雨が降り注ぐ。

 

「ッきゃあああああ!?」

「大丈夫だ、紫苑。俺を信じて動くな」

 

 思わず立ち上がりかけた黄忠を、空海が見た目に似合わない膂力で引き寄せる。その間にも矢が降り注ぎ、降り注ぎ、降り注ぎ――

 

『やめろ』『打つな!』『どけ!』『助けて!!』『\いてえ/』『待て!!』

 

 赤い海の中に、空海と黄忠だけが残った。

 

「な、何故あやつを殺さぬ! 打て!」

 

 劉表が大声で命じる。おそらく会場に入ってから最も大きな声だろう。それでも兵士は動かない。

 

「どうした!?」

 

 兵たちは打たないのではない、打てないのだ。空海たちに射掛けようというその意志に反して、腕を上げることすらできない。周囲を見回すことは出来るのに――。

 兵の一人がそれをなんとか劉表に伝えたところで、場に似合わない笑い声が上がる。

 

「ははははは」

 

 座の中央付近で声を上げているのは、怯える少女の肩を抱いた小柄な男、空海だ。

 

「荊州へようこそ、劉景升……歓迎しよう。盛大にな!」

 

 空海が強い調子で告げると同時、大きな音と共に会場の扉が吹き飛んだ。

 

『!?』

 

 道士姿の小柄な少年と無表情な青年が並んでそこから現れる。

 

「ほどほどに暴れろよ、左慈」

「わかっている」

 

 薄い茶色の髪と道士風の服の少年姿、左慈は血の海の上を滑るように移動して劉表らの集まる席へと迫る。

 無表情な青年、于吉は何事かを小さく呟いた後、血の海をゆっくり空海の元へと参じて流れるように跪いた。

 

「空海様、ご無事で」

「うん。余裕」

「すぐに制圧します。少々お待ち下さい」

 

 立ち上がった于吉が手を振る。会場を囲んでいた兵が一斉に表情を消して弓を捨て、数秒と持たずに左慈に無力化された劉表たちを取り囲んだ。

 

「きっ、貴様ら何を!」「正気に戻れ!」「ああ! 窓に! 窓に!」「……オウフ」

 

 左慈の攻撃で立ち上がることも出来ないほどのダメージを受けた身で、1人に4人もの兵がついて手足を取り押さえられては抵抗する気も無くなるらしい。

 左慈と于吉が左右に分かれ数歩引いて頭を垂れたことで、この場の支配者が誰であるのか、劉表も悟ったようだった。

 

「整いました」

「ご苦労様。――紫苑、大丈夫だ。俺を信じろ」

「ひっ……は、はい……!」

 

 空海がゆっくりと血の海を渡る。気付いたのは、否、気付く余裕があったのは、左慈と于吉だけだったが、その歩みは波紋一つ起こしていない。

 

「流石に賊だけあって、こいつら考えなしだよね。出入り口じゃなくてお前の首を狙えばまだ逃げられる可能性があったものを。毒を飲んでちゃそれも無理か」

 

 たくさんの矢が生えた賊の死体を横目に、空海はのんびりと劉表に近づいていく。

 

「さて、お前は正義の荊州刺史で、この場に招かれたものは全て賊らしいが……」

 

 膝をついた劉表の前に立った空海は、高さが並んだ視線を劉表に向け、笑みを深める。

 

「今この場の生殺与奪の権利においては、俺が上でお前が下だ。果たして今、お前は生きあがくのか。それとも――」

「賊に頭を垂れてまで生きながらえようとは思わぬ。殺せ」

「ふふっ、お前がそう言うと知っていた」

 

 空海は僅かに吹き出し、劉表に見えるよう指を三本立ててつきだした。

 

「いくつか訂正させて貰おう。一つ目。俺は賊ではない」

「何を馬鹿なことを言っている」

「ああ、今はお前たちの言う賊には当てはまるかもしれんが、なに、お前が俺を『賊』で無くせばいいだけだし、仮にお前が頭を垂れるとしてもその時点で俺は賊ではない」

 

 一瞬言葉に詰まった劉表だが言葉遊びだと思い直す。だが、先にその言葉遊びを仕掛けたのが自分だと気付き、不機嫌そうに批難の言葉を飲み込んだ。

 

「二つ目だ。俺はお前を従えるためにここに来たのではない。いま来たのは、招待された時に入った方が面倒が少ないだろうと思ったからで、罠を打ち破って逆に殺し返すために罠にかけた、ということでもない。制圧したのは声が少ない方が話しやすいからだよ」

 

 またしても劉表は言葉を飲み込む。これだけの力がありながら今を狙ったのは、ここに集まった賊を確実に殺すためなのだろう。だが、やはり。先に仕掛けたのは劉表であり、目の前の男はその思惑に乗っているに過ぎないのだ。

 空海はそんな劉表の葛藤を面白そうに眺めた後、さて、と句切って三本目の指を折る。

 

「ここに来た目的はお前を従えるためではないと言ったことに絡むが……お前が俺たちの良き理解者である限り、互いが協力して出世できるだけの案がある」

 

 三本目の指を示しながら空海が漏らした言葉は、今度こそ劉表の意表を突いた。

 

「どういう意味だ」

「言葉通りさ。俺たちが俺たちであることを助けてくれるなら、お前には刺史よりずっと上まで出世して貰った方が都合が良い。だから、その方法を用意した」

 

 劉表は空海を睨む。甘言は聞き飽きている。たかだか数十人をどうか出来るだけの力で出世をすることなど不可能だ。そしてそれ以外の力を持っているのかもわからない。その程度のことも示せない者の言葉を簡単に信用するわけにはいかなかった。

 

「手を取らぬ場合は――」

「取ってくれる者を待つかな」

()()()()、ということか」

 

 つまり断ればそれで終わりというだけの話だ。劉表はこの場をしのいで次こそこの者を仕留められるかを考え始め、それは空海の手で中断させられた。

 

「今ここで答えを出す必要はない。これを持って帰って、よく考えて決めるといい」

 

 差し出されたのは一冊の本だ。随分と質の良い紙を使っている。題字を確認する前に、それは劉表の着物の内側に差し込まれた。

 

「返事は明日の昼に聞こう。まぁ、その本を持って逃げるという手もなくはないぞ」

「そのようなことはせぬ」

 

 討ち取るにしても、何かしらの交渉をするにしても、逃げ帰って再起するよりは簡単で確実な手になるだろう。

 

「ただ、その本はお前がこの地で読むから価値があるのであって、持ち帰っても役立てることは出来ないだろうね、劉景升が儒学者である――」

 

 劉表の言葉を聞いているのかいないのか、空海は挑発するように言葉を続けて、唐突に全身で振り返る。

 

「死にかけだと油断したか」

「――ぶ、武器を捨てて膝をつけっ!」

「え?」

 

 満身創痍といった様子の兵士に、黄忠が捕まっていた。

 兵士はおそらく会場に残る賊たちの死体をかき分けながら進んできたのだろう、全身が血にまみれている。装備を見る限り会場の警備ではなく外を守っていた者の一人である。

 

「半端な仕事をしましたね、左慈」

「――チッ、カスが」

 

 黄忠の命に価値を見いだしていない于吉と左慈は、要求を全く無視して突っ立ったまま悪態をつく。空海もこの『何とでもなる状況』に少しだけ頭を働かせて。

 

「ふむ……。二人とも動くなよ」

 

 管理者二人に言葉を掛けながら、空海は黄忠に向けて温かい視線を送った。その視線は黄忠の脳裏に『俺を信じろ』という言葉を再生させ――直後、空海は顔だけで振り返り、隠しきれない喜びの表情を浮かべた劉表へと色のない視線を向ける。

 

「お前の部下にはバカしかいないのか? ()()

 

 ビクリと、視線に射貫かれた劉表が体を震わせた。空海の言葉の意味を考える。歓喜に踊り出しそうになる思考を抑え、この男の冷めた視線の意味を考え――背筋が凍った。

 

「――そ、その(むすめ)を、離せ。その娘には『価値』がない」

『え!?』

「その通りだ、劉表。仮に言われた通りにしても、お前たちは俺たちを殺してその()をも殺そうとするだろう。もしその娘を殺すなら、お前たちが死ぬことになる」

 

 言葉に従う利が全くない。その利を生み出す人質ではないと空海は言っている。

 劉表らは空海()()を順番に殺そうとしているだけなのだから。

 

「お主が素直に捕まればその娘は殺さぬ、と言えば?」

 

 そう言いながらも劉表は、これが無意味な問答だと考えていた。お互いが握る命でさえ天と地ほどの差があるのだから。

 この子供と見紛わんばかりの男は、振り返るまでの僅かな間に劉表を納得させるだけの理屈を確かめ、人質を取る兵ではなく、人質となっている娘でもなく、最短最速の解決先である劉表に向け、劉表が必要とする最小限の言葉で解決を促している。劉表の部下への批判に見せかける余裕まであったのだ。

 劉表はこの時点で既に部下の誰よりも、そしてあの瞬間に逆転を錯覚した自分よりも、空海への評価と警戒を一層高めていた。今ここで敵に回すには危険すぎる相手だと。

 

「許しを請う『賊』を目の前で何十人も討ち滅ぼしたばかりのお前を、信じると思う?」

「で、あろうな。故に価値がないし、その行動は我らの心証を悪くするだけだ。やめよ」

 

 わざわざ会話をしながら説明するのは、そんなこともわからない部下のためだ。未だに少女から手を離すべきか悩んでいる兵に対して舌打ちしたい気持ちを抑え、努めて冷静に説明を続ける。生殺与奪の権利は未だ空海の元にあるというのに。

 万一兵士が勝手に少女を傷つけたりしたら、空海との溝が決定的となってしまうかもしれない。劉表は、こんな愚図に自身の命運が握られていることにはらわたが煮えくり返るような思いだ。空海を見た今その思いは輪をかけて強まるが、それを表にするほど気位も冷静さも捨ててはいなかった。

 

「……よいか。私はこの者の手を取るかもしれぬ。この者の提案には検討する価値があるだろうと思っている。私の命令に逆らい、それを邪魔するつもりか?」

 

 そこまで言ってようやく手を離した兵士に向けて劉表は追い払うような視線で視界から外れるよう命じ、いまだ兵士が側に佇む少女の元へ無防備に歩み寄った空海を見て、その剛胆に舌を巻いた。

 空海が近づくと、慌てた兵士は黄忠を突き飛ばし自身も尻餅をついて後ずさる。空海は小さな悲鳴と共に倒れかけた黄忠を抱き留め、その体を抱き起こした。

 

「人質に取られるとは予想外だったな。でももう大丈夫だからね。痛いところはないか、紫苑?」

「くっ、空海、さま……っ」

 

 黄忠が堰を切ったように涙を流す。ようやく混乱から立ち直り、今になって恐怖が追いついて来たのかもしれない。本人にもわからない感情がない交ぜになったものがその目に涙を生み出し続け、空海の胸元にしみ込んでいく。

 

「お前は俺にとっては大事な友達だからね。……無事で良かった」

「っ、はい……! はい……っ!」

 

 その後も空海は大丈夫ダイジョーブと繰り返しながら黄忠の頭を撫で続ける。やがて、黄忠の体から力が抜けたところで空海は彼女を抱き上げ、顔だけで振り返った。

 

「明日の昼にもう一度来る。于吉、劉景升は離してやれ。あとは()()()()よろしく」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 翌日の昼前。宜城の一室には劉表と空海を含めた数人の姿があった。

 劉表に協力する数人の豪族たち。現在は実権などないものの、将来は荊州幹部の地位が約束された彼ら彼女らが、緊張の面持ちで膝をついている。

 少しばかり憔悴した様子の劉表が、しかし力強く切り出す。

 

「案は読ませて貰った」

 

 劉表が疲れた表情を見せているのは、昨日の『宴会』の後始末や、ほとんど寝ずに本を確認したことも原因だが、一番は本の内容が衝撃的だったせいだ。

 当たり前に書かれたその内容を理解するのに、覚悟が必要だとは思っていなかった。

 だが、その価値があったと劉表は思っている。元より『賢人』を厚遇することは当然と考えてもいることであるし。

 

「これが見られただけでも、荊州に来た価値があると儂は思う」

 

 この場で立っているのは劉表と空海、そして空海の数歩後ろに従う二人のみ。その左慈と于吉も空海の視線を受けて膝をついて、やがて、大人の中でも大柄な劉表と子供にしか見えない空海という珍妙な組み合わせだけが残った。

 

「故に、そちらの要求を飲まぬ理由はない」

「なんでそんな回りくどい言い方するの?」

「ふっ……これからよろしく頼むぞ、空海」

「はいはい。こちらこそよろしく、劉景升」

 

 言葉と共に差し出された手が結ばれ。

 

 

 生まれ変わった『江陵』は、表舞台へと上がる。

 




>竜が出たぞー!
 実は江夏郡の東部には「天を支える」とも言われた天柱山という山がありまして、竜が出そうな雰囲気なんです。写真で見ると。編からは400㎞くらい離れてますが。

 その他のネタなどは活動報告にて。



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2-1 自分では暴れない将軍

「そなたを江央将軍に任ずる」

 

 堂々と、しかし少しの呆れをにじませながら黙って突っ立っているチビは空海。

 その正面に堂々と立ち、疲れた表情ながら威風を感じさせる男は、先日征南(・・)将軍に任じられた劉表(りゅうひょう)である。

 

「これで、そなたが軍を持つ理由が出来たわけだ。理解してくれ」

「理解しているとも。だから黙って聞いていたじゃないか」

 

 

 今回、空海は紙の試作品を持って来たのだ。これまで作られていた紙よりも遥かに白く薄く滑らかなそれを見せて驚かせ、気分が良くなったところで劉表が言った。

 

「ではこの功を以って空海を江陵県侯ならびに江央将軍に任ずる」

「は?」

 

 

 空海は是とも非とも言っていないのにあっという間に書類の類が運び込まれ、服従のポーズ(土下座スタイル)を取れと言われ、拒否してみたものの返事は聞いていないとばかりにそのまま無理矢理に任官された。

 

「先の同意にあった通り、江陵は国から独立した政治経済軍事を持つつもりなんだが?」

「わかっている。今後は江陵周辺を特別郡として南郡より独立させ、太守(たいしゅ)(こう)といった形を取った後、官位を新設して江陵丞相(じょうしょう)のような役についてもらおうと思う」

 

 独立区画の制定、統治者として新設の官位を制定。どちらも提案済みの事項だ。空海が投げやりに提案した職名は変わっているが。

 太守や侯というのは市長のようなものである。政治と経済の実権を握る。街と郡が同じ意味となる江陵では県令の上位版だ。将軍位で軍事も言い訳が立つため、これで公的にも江陵が独自の政治経済軍事を持つだけの根拠が出来た。

 そして丞相。これは漢における最高位の一品官の中でも最上となる官位である。江陵と頭につくことから限定的な権限しかないことは想像に難くないが、ほぼ全ての相手からの要求を拒否出来るだけの根拠を持てるだろう。

 

「うーん、まあそのくらいが限度か」

「私か陛下の親族を名乗ってくれたら楽だったのだが?」

「断る」

 

 苦笑と共に意地悪な視線を向ける劉表に、空海は呆れを含んだ視線を返す。郡へと格上げして郡王とするだけなら過去にも例があり手間も掛からないのだ。だが、郡王は皇帝の親族でなければつけない。

 

「と、言うと思って面倒な手を打ったのだ。改めて言うが、理解してくれ」

「理解したよ」

 

 漢において天子と同位ということはあり得ない。国外の全ての国が漢より下であるという立場を崩さないからだ。その徹底ぶりは交易品すら献上品に対する下賜として交換しているほど。

 国内最高位と同じ名の付く官位を創設し与えるというのは、ほぼ最大限の譲歩だろう。

 劉表が現在のように幕府を持てる高官である限り、解任するまで空海の将軍位は残る。

 おそらく劉表が征南将軍にある内に江陵丞相とやらにする自信もあるのだろう。劉表は卓越した政治手腕を持っている。既に各方面に手を回しているに違いない。

 

「この紙の他にも何かの功績があるのなら、推挙も容易になるのだが?」

「お前たちの好みそうなものだと、海の幸の内いくつかを加工して、涼州(りょうしゅう)くらいまで腐らせずに運ぶ方法を考えたぞ。野菜についても同じく」

 

 漬け物の類である。魚については一夜干しなども視野に入れている。

 

「まことか!」

 

 割と食いつく劉表。荊州南部の食料は腐りやすいのだ。その問題点の克服は荊州にとって莫大な利益となる。

 

「ああ、あとは籾殻をこれまでより容易に脱穀する方法についても、道具の作り方を模索しているところだ。これは今のところ江陵内で効果を競わせている」

「なんと!」

「上手く行けば民も畑を広げられるだろう」

「ほう……!」

 

 劉表の目は徐々に政治家の色をにじませている。空海は面白そうにそれを眺める。

 

「稲を育てる方法の改善策については来期まで様子を見てから、こちらにだけ伝えよう」

 

 劉表の目は空海を見ている。だが、脳裏ではそれらの技術革新がもたらす利益が計算されているのだろう。

 数瞬黙った後に、口元を隠す様に手を添え、わざとらしく咳払いをする。

 

「ううむ……では、来期を目処に特別郡の侯となって貰うつもりで居てくれ」

「まあ、いいだろう」

 

 空海は相変わらず呆れを見せつつ答える。

 

「こちらからはもう一つ、長沙(ちょうさ)孫堅(そんけん)のことだが」

「謀略によって太守連中の不和を誘発したり、都市をかき乱すことくらいはやってもいいが、討伐は行わんし、江陵での対応を強いるようなら、取引に出したいくつかの条項について改定を求めるぞ」

「いくつかの条項とは……?」

 

 どうやら本当に江陵に任せたいらしい。ならばふっかけるかと、口を開く。

 

「長城の修復についてこれを免じること。12年の免税をさらに加えて24年の免税とすること。国において罪を犯した者が江陵に逃げ込んだ場合でも、江陵が彼らを独自に裁く権利を持つこと」

 

 ちなみに江陵の犯罪者が漢の側に逃げ込んだときには引き渡して貰う、という項目は前回の取引で了承されている。あまりにあっさりと認められたため、漢と江陵でどれほど刑罰が異なるのかを理解していないらしいと推測した。

 

「12年……12年は大きい。何とか4年ほどにならないか?」

 

 ――やはり。

 劉表が免税などに気を取られているウチに話をまとめようと決める。

 

「ダメだ。10年、いや、8年の免税と4年の半額免税までなら譲歩しよう」

「むむ……! 6年、どうだ?」

 

 空海は黙って首を振る。

 江陵から出てくる利益は現金以外の部分でなお大きいのだ。劉表はその大きさを理解し評価しているため、判断を曇らせている。

 

「うむむ……、仕方あるまい。8年の免税と4年の半額免税を認める」

「うん、では軍を1万5千ほど貸せ」

「なんだと? 江陵で対処するという話で認めたのだぞ!」

「わかっている。だから、大筋では俺たちが手を伸ばす。だが、お前のとこの将が手柄を上げた方が今後のためになるだろう」

 

 つまり、大将首を取らせるから名前を貸せと言っているのだ。

 

「……なるほど」

「無論、戦っても貰うが、財貨や物資でその補填は行おう」

「うむ。それならば文句はない」

「大筋で言えば、太守らの不和を煽り連携を阻む。それぞれの太守に個別に当たり、街から引きずり出して罠にかけ、勢いや数を殺した上でお前たちの軍がとどめを刺す」

 

 劉表は大筋を想像し、納得する。

 

「ならば部下の(こう)軍司馬(ぐんしば)を遣わす。そなたの言葉に従うよう告げておく故、見事逆賊孫堅を討ち取ってみせよ」

 

 黄軍司馬とは黄祖(こうそ)という人物のことだ。頑固だがなかなか有能らしい。

 

「同意書を作っておこうか。軍を動かすのは再来月の末日からということにしてくれ」

「む。良いだろう」

 

 元々、軍の出立には日数が掛かる。再来月末からの行動ならば、今すぐ徴兵して一通り訓練まで行うことすら可能だろう。

 同意書につらつらと条項をまとめ、筆を置く。空海はまだ文字の練習中なので劉表側に書かせて、連れてきた文官に確認させる。

 

「江陵はまず、長江と襄江の河賊どもを駆逐する」

「なに? 再来月までそうしているということか?」

「そうではない。再来月を超えて河賊の討伐に当たっているから、黄軍司馬を助ける余裕はなかった、ということにするんだ」

「なるほど……」

 

 実質は助けておきながら、対外的には黄祖が単独で打ち破ったことにする。黄祖を遣わした劉表の名声に繋がるし、やはり劉表が任命した江央将軍の役目も果たせる。

 

「良い手だ。結果が伴うなら言うことなしだな」

「問題ない。孫堅が王叡(おうえい)を殺害してすぐに種をまいておいたからな」

「なんと、それはまことか!」

「王叡には見る目がなかったが、孫堅には機がなかった。王叡を殺害した時点で詰みだ」

 

 一時的にはそれで良かった。荊州の一部で天下を取った気になれたし、喜んだ民も居ただろう。だが政治的には行き先がなくなった。

 江陵からの謀略によって都市の勢力基盤はぐらつき、身動きが取れなくなった。

 劉表が赴任した時点で従属すれば望みはあったかもしれないが、窮地にあって汝南郡の袁家と結んで劉表に対抗しようとしてしまった。これは劉表を赴任させたこの国へ反逆の意志を示したと言っても良い。

 

 袁家と孫堅、そして劉表と孫堅を結ぶ線の上には江陵がある。それぞれのやりとりを思うように動かせる位置にあって于吉を通じて既に手も打たれていた。

 太守同盟とも言うべき南方の都市に不和が起こし、それに乗じれば、状況を動かすことはさらに容易になる。

 おそらく罠を悟り長沙から出てくる頃には歴戦の兵は五千も残らない。あとは、小さな怪我やストレスを与え続けるだけで、食べ頃に熟れる。

 

「うむ、では頼むぞ」

「ああ、任せおけ」

 

 顔も知らない孫堅に対し、俺を頼れば助けてやったものをと心の中で独りごちて、頭を切り換える。

 

「話は変わるが、涼州(りょうしゅう)方面で力がある勢力と言うとどのあたりだ?」

「涼州? ……そうだな。刺史が討ち取られたばかりで不安定ではあるが、隴西(ろうせい)の董家は上手く治めていると聞く」

 

 隴西はかなり西側の郡だ。西側の異民族との国境ではなかっただろうか。

 この件ではあまり遠い場所はよろしくない。荊州のすぐ北、司隸(しれい)ならばどうだろうか?

 

「司隸を含めてもいい。それなりに近場ではどうだ?」

「それならば先日、反乱に際して仕官して軍功を上げ、直後に賊軍と結び、官軍に打ち破られ、皇甫(こうほ)中郎(ちゅうろう)に免罪されたという愉快な経歴の者がいるぞ」

「波瀾万丈すぎるだろ。誰それ?」

扶風(ふふう)郡の馬騰(ばとう)なる者だ」

 

 ――バトーさんかよ!

 かろうじてツッコミを飲み込む。見所でもあったのではないか、と呟く劉表は、空海を見て意地悪そうに笑っている。

 

「……では、馬家との取引で馬を手に入れたいと思う。年に数度の交易について、馬家と江陵の間で大規模な護衛を含めた交易団を通す許可を得ておきたい」

「大規模な護衛とは?」

「今すぐの話ではないが、騎兵を、最大5000」

 

 かなり大きな数だ。そこそこの規模の軍でも騎兵でこの数はいない。

 であるにも関わらず劉表の驚きは小さかったようだ。驚かされ慣れてきたらしい。

 

「5000か……。わかった。荊州については問題ない。だが司隸の通行には何か対価が必要となるだろう」

 

 劉表は賄賂を当然のものとして考えている。好き嫌いを差し置いて、こういった濁流に理解のある人物であるために南部方面軍の司令官という立場にまで出世できたのだ。

 

「下っ端の方には安酒でも振る舞う予定だ。上の方は権威で何とかならないか?」

「ううむ……権威か」

 

 賄賂では通行のたびに要求され、いずれはその額も上がっていくだろう。だが『権威』ならば一度手に入れてしまえば毎度の賄賂要求などは避けられるのでは、と考えた。

 

「そうだ。五銖銭(ごしゅせん)の鋳造でも行おうか」

「なっ!? 鋳造、いや、出来るのか!?」

 

 五銖銭の鋳造は長安だけで行われている。偽造の難しい貨幣であり、特に配合は秘中の秘とされていた。京兆尹(けいちょういん)によって監督されており、同時に京兆尹の特権でもある。

 

「おそらく出来る。出回っている貨幣も緩やかに増やしていかねばならないだろう?」

「馬鹿な……そんなことが、いや、京兆尹はそれを認めまい」

「だから、長安に納めに行くんだ。護衛を伴って。1年に何度か。1千万銭ずつ」

「なる、ほど……それなら……だが、どうやって京兆尹に認めさせるか」

「まずは古い貨幣を潰して鋳造し直す部分を請け負おう。京兆尹を立てつつ認めさせるなら、上司を懐柔すれば良いんじゃないか?」

 

 そう言っていくつかの名をあげる。大司農や司徒、いくつかの監察官たちだ。京兆尹が重要な役割である以上、直接の上司というのは少ない。

 さらに言えば、その上司たちはほぼ最高位の官である。これ以上の出世も見込めないため、金よりも現物を好む連中が多い。名士筆頭劉表の認める、『徳を高める名酒』などを差し出せば漏らしながら喜ぶだろう。

 袖から取り出した徳利を差し出す。日本酒の製法で作られた江陵の酒は、まだどこにも出回っていない透明な清酒だ。劉表はその透明さに、香りに、味に驚嘆した。

 

「なにこれ超美味ぇ!」

 

 キャラが崩れるほど驚いた。

 

「江陵で作る公良酒というものだ」

「超美味ぇ! ……うむ。これならばこちらでも打つ手はある。やってみよう」

 

 劉表もやけに乗り気である。

 美味しかったのか? それだけ特権に食い込めるうまみは大きいのか?

 

「ところで……。美味い酒が目の前を右から左へと流れていく奴の気持ちを考えたことありますか? マジで飲みたくなるんで勘弁してくれませんかねぇ……?」

「……わかった。わかったから。今度持たせるから、その切ない視線をやめろ」

「9杯でいい」

 

 さすが謙虚な劉表は格が違った。

 

 

 

 

「――そういうわけで県侯兼将軍となった」

「なるほど。では今後は空海江央将軍様と呼んだ方が」

「ああ、それは元のままでいいよ」

 

 空海は黄蓋の言葉を遮る。

 

「どうせすぐに郡侯だかになって、江陵丞相だか何だかになるはずだからね」

「……空海様は、とんでもないことをさらりと申されますな」

 

 黄蓋の頬は引きつっている。丞相など官位の頂点ではないか。江陵丞相が何であるかは知らないが、その名が許されるというだけで桁違い、それこそ歴史に残るほどの大事だ。

 とはいえ空海としては官位は望んでいない。温度差を自覚しつつも無視して続ける。

 

「そういえば将軍に任官されたから、今度河賊退治をするぞ」

「ほう。腕が鳴りますな……と、そういえば一つお伝えしたいことが」

「ん、なに?」

「調練の最中に見所のある兵を見つけたのです」

 

 黄蓋は毎日調練を行い、あるいは左慈の調練に参加し、帰り際に酒を試飲していく。

 調練への参加時間は左慈に次ぐ都市第2位だ。当然、兵と接する機会も多い。

 

「ほー。俺に伝えるって事は取り立てるに値すると思ってるわけだ」

「左様ですな」

 

 黄蓋の目にかなうなら期待できる、と空海は考える。河賊退治のために時機も良い。孫堅とぶつかる可能性のある部隊には黄蓋を使いづらかったために、駒が増える事は素直にありがたい。

 

「じゃあ、とりあえず会ってみようか。今度連れてきてよ」

「承知」

 

 

 

 于吉と左慈には既に指示を出し、あとは成果を待つだけだ。表向きの軍事行動に司馬徽の知恵を用いるべく、料理試作部へと足を向ける。

 

 

「徳操」

「空海様、ようこそいらっしゃいました」

「少し話がある。今いい?」

「はい」

 

 空海は直近の話題として、将軍と県侯への任官、劉表との取引、馬騰との取引を考えていることなどを伝える。

 

「河賊退治の方ではお前も知恵を出しておくれ」

「了承」

「もちろん、于吉や左慈と相談の上で、ということになるけど」

「承知しております」

 

 さらに現在動かせる兵の数、于吉に用意させている策、新規に将を採用するかもしれないことを付け加える。

 将について話してから何かを考えていた様子だった司馬徽が顔を上げた。

 

「一つ腹案があるのですが、お聞きいただいても?」

「うん? なんだ?」

「襄江の方面に黄公覆殿を派遣されてはいかがでしょうか」

 

 襄江は長江の支流の一つ、北から流れ江陵の北側を通り東に向かう。北にある襄陽から江陵をかすめて、江陵の東で長江本流と合流する形だ。

 江陵から襄陽に続く陸路が側を通っているため、叩いても叩いても埃が出てくる地域でもある。治安の改善は襄陽と江陵、双方の利益となるだろう。

 

「一方で、江陵周辺では別部隊を運用するということにし、そちらを孫堅へと割り当てれば兵を動かす表向きの理由が出来ます」

「なるほど。それで行くか。于吉達と相談して詰めておいてくれ」

「了承」

 

 司馬徽が新しい仕事に取りかかろうと立ち上がったとき、ふと空海が思い出したように告げた。

 

「そういえば徳操」

「はい、何でしょうか?」

「河賊退治が終われば、都市周辺の街道整備に入る」

「はい」

「都市から人手が出て行くから、子供を預かる大規模な施設を用意するんだ」

「素晴らしいですわ。お手伝いしても?」

 

 司馬徽の目は輝いている。子供好きなのだろうか。

 

「ダメー。お前にはやって貰うことがある」

「……承知しました」

 

 意気消沈してしまったようだ。空海は意地の悪い笑みを浮かべて続ける。

 

「ふふふ。まあ最後まで聞け。……預かった子供達には読み書き計算や教養の試験にある諸々を教えていくことになっているんだ」

「そうなのですか……」

 

 司馬徽はますます沈む。何故そこに自分がいないのかと。

 

「そして、子供達の中から特に出来の良いもの達を集め、さらに進んだ内容を学ばせる」

 

 空海は悪戯を成功させた子供のように笑いかける。

 

「……まさか」

「身体の動かし方などを貂蝉が教え、各種の職業につく者達からの話や日常生活にまつわる話を聞かせるため講師として街の者を呼び、その他の学問を……お前が教える。まとめ役はお前だ」

「えっ、あわ、はわわっ」

「水鏡学院とでも名乗ると良い。江陵が、学ぶ者と教える者を助けてやる」

「ありがとうございましゅ!」

 

 司馬徽は顔を真っ赤にしながらも深く頭を下げ、その光景を脳裏に描く。

 

「――ありがとうございます」

 

 水鏡学院は開校ほどなくして女学院に変わるのだが、それはまた別のお話。

 

 

 

 玉座が置かれた広場(・・)から奥、裏庭とでも呼ぶべきか、桜が咲き誇り岩の隙間を落ちるせせらぎも爽やかな庭園の隅に、大きなテーブルがある。

 

「なんで雲一つないんだろうなー(棒読み)」

 

 空海が江陵に来てからかれこれ数ヶ月、江陵は一度も雲に覆われたことが無い。空海の言葉に慌てた太陽神が居るとかいないとか。

 今、空海はテーブルについてお茶を飲んでいた。わざわざ卑弥呼に作らせた日本茶だ。

 

「空海様、連れて参りました」

 

 声を掛けたのは黄蓋。今日は先日話に上がった見所のある人物を連れてくると言っていた。空海の座る後ろで二人が膝をついて頭を垂れる。

 

「うん、いらっしゃい」

 

 空海は座ったまま、お茶を片手にのんびりと振り返り、思わず笑みを浮かべた。

 

「よく来たね、紫苑」

「――お久しぶりですわ。空海様」

 

 黄蓋の横で膝をつき、空海の言葉に顔を上げたのは黄忠だった。

 

「む? ご存知でしたか」

「ああ、最初に劉景升のところに行ったとき、案内をしてくれたのが紫苑なんだ」

 

 迷子になっていたのは秘密だ。

 

「ええ。その際に江陵のことを伺って、邑の人たちと共に移住してきたのですわ」

「そうじゃったのか。では推薦は必要ありませんでしたかな?」

「腕前は聞いていないよ。確か、狩りに弓を使うとは言っていたな」

「はい。江陵に来てから兵士に志願し、先日、長弓兵から一軍へと上がった際に黄将軍に声をかけていただきました」

 

 読み書きの出来る健康な者が入れるようになる第二層。その第二層を守るのが三軍であり、この三軍で一定量の訓練をこなすか目立った軍功か成果を上げると、第三層を守る二軍へと昇格する。

 二軍からは扱いの難しい長弓兵だ。二軍で一定量の訓練を受けた上で、一定の軍功などを上げるか指揮官としての適正が高い人間は第四層の一軍へと昇格する。

 黄忠が移住してきてからまだ半年も経っていない。適正があったとしても、かなり短期での昇格と言える。黄蓋からの推薦も考えれば本当に優秀なのだろう。

 

「そうか。公覆、紫苑の実力をどう見る?」

「そうですな。武器を持った近接戦闘ならば、ワシには及ばずとも並の兵士では敵いますまい。……しかし、弓では江陵一でしょうな」

「お、褒めるねー」

「こちらが撃った矢を空中でたたき落とされた時は、思わず訓練を忘れて唖然としてしまいましたわ」

「へぇ。凄いじゃないか。指揮の方は?」

「訓練では問題ありませんな。後は実戦で臨機応変に対応出来るかと言った所でしょう」

「なるほど」

 

 黄忠は目の前で評されて少し居心地が悪そうだ。頬を染めてもじもじしている姿はとても矢で矢をたたき落とす武人とは思えない。

 

「なら、ちょうど良いと言えばちょうど良いかな」

「む?」「え?」

「河賊退治の話さ」

「なるほど」「?」

 

 黄蓋には河賊退治の話をしてある。何も聞いて居ない黄忠は不思議顔だ。

 

「紫苑」

「あ、はい!」

「お前は明日から武官だ。家も用意するから、来月くらいまでには引っ越しだぞ」

 

 空海が告げると、黄蓋からも話を聞いていたのだろう、黄忠は元気よく答えた。

 

「はい!」

「どのような待遇になるかは公覆から聞いておけ。詳しい話とわからない部分は司馬徳操か于吉に聞くように」

「わかりましたわ」

 

 では、と前置きして話を続ける。

 

「公覆、お前は襄江を遡って襄陽方面の河賊退治だ」

「はっ」

「紫苑には指揮の訓練もかねて江陵付近で部隊の展開をしてもらう」

「はい!」

 

 先日司馬徽と話していた黄蓋の遠征を指示しておく。

 

「二人とも、陸と連携して街道付近の掃除もしていくから、徳操たちに行動計画を聞いておくようにね」

「承知した」「はい」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 黄蓋に率いられ、江陵から襄陽に向けて兵士と共に大量の荷車が運び出されている。

 物資を川上の襄陽に持ち込み、襄陽から江陵に向けて水軍と陸軍共同で河賊退治を行うためだ。

 襄陽に向かう間にも適当に賊を討伐。襄陽から長沙に向けて進軍する黄祖の軍の露払いとする。劉表を通じて襄陽で手配した分と持ち込んだ物資でそこそこの船団を用意し、折り返して陸軍と協調しながら江陵までローラー作戦。

 汚れの酷い地域なので雑巾がけは念入りに、というのが今回の方針だ。

 黄祖と入れ替わりで襄陽に入ることで拠点も用意出来るし、作戦が少々長引いても大丈夫である。船の手配に手間取ることなどよくあることなのだから。

 

「刺史の劉表には協力を依頼すると共に、船の手配については少々遅らせるよう要請してあります」

「黄蓋には伝えていないが、気がついてしまうかな」

「……物資にあれだけ酒を詰め込んでいるのです。さすがに気がつかれないということはないでしょう」

「だって酒好きだろ!?」

「理由になっておりません」

「気を回しすぎたかなー」

 

 于吉曰く。長沙の孫堅は、零陵(れいりょう)桂陽(けいよう)の太守と仲違いを起こし長沙の郊外で野戦。余裕で勝ったものの兵士や民の間には孫堅への疑心が蔓延しているようだ。

 零陵と桂陽の太守は逃げ帰り、今は都市に引きこもって追撃に怯えているそうだ。こちらも、兵士や民の間には強い不信が募っているらしい。

 

「孫堅には兵を率いる才こそありますが、豪族のとりまとめには知恵が足りていません」

 

 目の前で長々と説明していた于吉がようやく結論に入ったようだ。

 

「ふーん。劉表の手駒がたどり着くまでに弱らせることは出来そう?」

「既に商人らの協力も取り付けており、こちらの指示があればすぐにでも孫堅軍は瓦解するでしょう。今は弱らせすぎないように削り取っています」

「そう。手加減しすぎて足下をすくわれないようにね」

「はっ」

 

「空海様」

「お、紫苑」

 

 于吉の話が終わるのを待っていたように黄忠が現れ、跪く。

 

「これより演習に向かいます」

「うん。明日の夕方までだったかな? 川に落ちたりしないようにね」

「大丈夫です! 泳ぐ練習もしましたから!」

「えっ? あ、そうなの。うん、まぁ、頑張って」

「はい!」

 

 あれ? 黄忠って天然入ってる?

 ついつい応援してしまうのは黄忠が可愛いからだろうか。何はともあれ、50隻を超える船を指揮するべく、黄忠も出立する。

 

 

 今更だが江陵の軍艦は主にジャンク船と呼ばれる未来志向の乗り物である。未来と言っても10世紀頃のものなのだが。

 喫水線より下には謎の金属を多く用いており、サイズの合うねじとドライバーを使用して頑張れば、馬車で運べる大きさに分解できる。

 神様パワーで生み出した謎の金属製なので、座礁しようが横から船をぶつけられようが沈むことは無い。実は無敵水軍を作りたかったわけではなく、木がなかったので仕方なく使っただけの素材だ。

 とはいえ、この時代の船にしては比較的大型の船体、大きい割に浅瀬でも安全な行動が可能な作り、船体の大きさに比してかなり余裕のある積載量、布製の大きな帆。謎の金属を除いたとしても贅沢なスペックの船である。河賊など鎧袖一触であろう。

 

 ここで長江を抑える水軍の強い江央将軍、という認識を持たれるのは悪くない。

 それなりに戦闘が起きてくれるのが最善だが、劉表を通して大げさに喧伝してもらえばあまり戦う必要もないかもしれない。

 いずれにしても河賊は普通に討伐する予定であるから、それなりの数の戦闘は見込まれる。あとはリアリティを持たせつつ大げさに広まりさえすれば良い。兵士の口を通して民にも広がるよう、学級新聞レベルの広報を作らせ始めた。文字が読める者が多い江陵ならではの情報操作である。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 孫策(そんさく)孫権(そんけん)の姉妹を(のが)した。

 

 意外と言えば意外な急報を携えてきた于吉が跪く。

 

「お叱りいかようにも」

「中身を聞いてからね。何があったの?」

「はっ。実は――」

 

 江陵(こうりょう)で船に乗り換えた黄祖(こうそ)らは、長江を下り南側の支流から洞庭湖に入り、湖の南西側にある荊州都の漢寿(かんじゅ)を制圧。すぐに東へと進路を取り、孫堅(そんけん)のいる長沙を包囲した。

 この時点では孫堅はまだ抵抗する気だったようだ。家族も重鎮も手元に残し、南陽(なんよう)の袁家に向けて庇護を求める文を発している。

 不仲となった太守連盟も当てにしていたようだ。危機には立ち上がるだろう、と。甘い見込みだったのだが。

 孫堅以外の2つの郡の太守は、戦闘すら起こさずに討ち取れた。というより、民衆や太守の部下が討ち取った太守の首を黄祖が受け取っただけで終わってしまったそうだ。

 

 孫堅を討つべく長沙を取り囲んだまま、2つの首を受け取って酒盛りを始めた黄祖の部下達は、黄祖からの下達を受けて一旦は騒ぎをやめたものの、夜半に寝入って孫堅軍に強襲され、あっけなく突破を許した。

 その上、失態を隠そうと夜明けまで報告を遅らせ、結果、一時的に孫堅達を完全に取り逃がすことになった。

 直ちに追撃が行われたが、結局その場では追いつけず、于吉の部下らが孫堅の追跡及び逃亡の妨害、黄祖を含む本隊は川を下って追撃と戦闘をすると役割を分担し、長江と襄江の交わる大都市、江夏付近まで約2週間にわたって追跡。

 江夏郊外で対峙した孫堅軍約3000と決戦し、これをほぼ一方的に打ち破るが、討ち取れたのは孫堅を中心に数名と名も無き兵士たちだけ。孫家重鎮を始めとして、幹部クラスを数名、兵士数千人は完全に見失ってしまった。

 

「荊州内では情勢不安定な都市にも密偵を放っております。網に掛からないところを見ますに、おそらく揚州の……かなり奥地まで逃げた可能性があります」

「ふーん。でも、揚州でも手近なところにはもう手は打ってあるんだよね?」

「はい。長江沿い、または主要街道沿いの都市では既に網を構築しつつあります」

 

 揚州では各地で豪族の勢力が強いため、警戒網の構築は容易ではない。

 

「んー、『呉』は?」

「未だ手が回らず……誠に申し訳ございません。急ぎ手配を行っております」

 

 長江河口付近にある呉は孫家の本拠地だ。だが、この地における孫家の影響力は意外と小さく、他の四家が実質的に呉を抑えている。逆に言えば、四家全てに対してそれなりに影響を与えなければ、ここに警戒網を敷くことは出来ないということだ。

 

「そう。まあ于吉に抜けられても困るから……そうだな。劉表に約束していた黄祖出兵の穴埋めがあるんだけどね。黄祖の失態の分を取り返してきてよ」

「そのような――いえ。謹んで拝命いたします」

「ああ、ちゃんと相手には気持ちよく支払ってもらうように」

「かしこまりました」

 

 空海の命を受けて、于吉が深く頭を下げる。

 

「じゃ、于吉への罰はこれで終わり。劉表が追わなくても良いって言ったら、手を緩めて居場所を探るだけにしていいよ」

「はっ」

 

「お待ちください、空海様」

「ん、徳操(とくそう)どうした?」

 

 声を上げたのは水鏡(すいきょう)先生こと司馬徽(しばき)徳操。ずっと黙っていたが、于吉の報告前から側に控えていたのだ。

 

「この際です。表に出た謀り事の責は黄軍司馬(ぐんしば)に押しつけては?」

「ふむ。于吉はどう思う?」

「はっ。その条件、必ず飲ませます」

「えっ、あー。うん。じゃあその方向でよろしく。劉表だけじゃなく、黄祖にもちゃんと話を付けておくようにね」

「はっ」

 

 于吉が足早に去り、司馬徽と空海だけが残される。

 感想を聞きたかっただけなのにいつの間にか実行することになっている案件はこの他にもたくさんある。どれも空海のことを思って勢い余っているだけなので空海としては責めるに責められないのだ。むしろお礼を言って誤魔化してしまう。

 

「徳操、ありがとね」

「はい」

 

 この態度が彼らの行動を助長していることに、空海は気付かない。

 

「さて、お待たせ。学校の件だったね」

 

 孫堅の件の報告に司馬徽が立ち会ったのは、たまたま学校設立の件で相談に来ていたからだった。学校を建てる土地は既に準備に入っている。今は内装と設備について授業内容などに合わせて決めていこう、という段階だ。

 先日気がついたのだが、水鏡先生を江陵に取り込んでしまった事で諸葛孔明と鳳士元が世の中に出てこなくなったら色々な意味で残念だ。

 とりあえず水鏡には江陵の学校で教鞭を執ってもらい、多少なりとも誤差を埋めようと空海は考え、学校計画を大きく水鏡寄りのものとした。

 

「はい。教科書について、人数分を揃えるのは至難、と結論いたしました」

「うん」

「ですので、生徒にではなく机に教科書をつけてはどうかと考え、試算いたしました」

 

 司馬徽は空海に手渡した資料を指しながら説明する。

 

「この3ヶ月分の費用と期日がどうこうっていうヤツ?」

「はい。講師の数や授業の中身をひと月を区切りとして調整することで、内容を理解している生徒から順に段階的に引き上げようという試みです」

 

 実に未来的な手法である。現代日本での大学の単位に似ているっていうことは――

 

「卑弥呼あたりが提案したのかな?」

「いえ、貂蝉さんが提案してくださったものを卑弥呼さんと私とでまとめたのです」

「へぇ。貂蝉は半年区切りって提案したけど、実情に合わせてひと月区切りにした、とかそんなところ?」

「え、ええ。その通りです。ご存知だったのですか?」

「あはは、そうだね、そんなところ」

「さすがは空海様です」

 

 司馬徽の目から時々ハイライトが消えるのが怖い。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「作り手が足りない?」

「そうなんじゃ、ご主人様」

 

 住居の作り手、要は大工が足りないと卑弥呼に相談を受けた。

 

「道具や材料が足りてないってことじゃないよね? 釘とかもあまり使わないし、大して難しくないと思ってたんだけど」

 

 そう、日曜大工レベルのオッサンでも数人で取りかかれば1日で建てられるような作りになっていたはずなのだ。

 

「ご主人様が旧江陵に行ったときは、市街地しか見ておらんのじゃったか?」

 

 旧江陵の市街地にあったのは角材で作ったログハウスを思わせるもので、縦横を交互に積み上げたような意外にオサレな平屋の商店である。路地を少し眺めれば、角張った石を積んで作ったのだろう石造りの平屋も見受けられた。

 

「うん、けどあの建物に比べたらだいぶ簡単――もしかして」

 

 あれらの建物に比べれば柱を組み合わせて枠を作り、壁を貼り付けるだけの工法なんて手間も時間も僅かだ。もしかして、市街地の外ではもっと簡単な建物しかないのか?

 正岡子規式住居とか。

 

「今、江陵に移り住んできた民のほとんどは、竪穴式住居に住んでおったんじゃ」

「……なるほど、竪穴式住居か。そりゃ、理解出来ないか」

 

 洞穴じゃなかっただけ良かったと思うべきなんだろうか。

 

「建て方はもちろんじゃが、住み方についての教育も必須でしての」

「拘り過ぎたのも、あだになったか」

 

 上水道トイレ冷暖房庭温泉付きで南向きの平屋一戸建て住宅はまだ早かったと。住人の文化水準的な意味で。

 

「左様。そこで、集団生活で教育と慣らしの期間を取らせたいと思っとるんじゃが」

「ふむ。体育館のようなものが良い? あるいは長屋とか?」

 

 卑弥呼曰く。段階的にならしていくのがベスト。スペースや手間の圧縮のために長屋のような施設にするべきで、住人50人に対し2人以上の監督の設置は必須とのこと。

 

「アパート風にして風呂やトイレを共同にするか」

 

 いくらか生活に慣れるまでは、監視に近い形で保護するという方針でいこう。いきなり全部を変えるのは大変だろうし、段階を踏んで普及させるべきこともあるだろう。

 

「以後、移民の受け入れはそこを経由して行おう。街の出入り口近くの建物を潰して、土地を用意しないとな」

「確か軍の練兵場がありましたのぉ」

「左慈と于吉に相談して場所を用意しておいて。上手く使えば防衛の利にもなるだろう」

「了解じゃ! では早速行って参りまする。ご主人様、さらばじゃ!」

「よろしくね」

 

 土煙を残して跳び去る卑弥呼を見送る。

 種族が変わってから、躍動する筋肉の動きの一つ一つまで目で追えてしまうのが憎い。

 

「……ぉぇ」

 

 口直しに含んだ緑茶は、いつもより苦い気がした。




2話をまとめて一つに。大幅カットしました。次の2話もまとめたいけど、悩ましいところ。
追記。タイトル直しちゃいましたー。


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2-2 洛陽型小娘

「ヒック……ヒック……(さい)殿ぉ……」

 

 森の中で年若い少女が泣いている。

 薄闇に包まれた森がその声を飲み込んだ。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「へぇ。公覆(こうふく)に認められるなんて大したものだね」

「ええ、本当に」

「なに、才能はあれど、まだまだ小娘でしてのぉ」

「才能があって、伸びる時期に伸びる余地があるわけだ」

「楽しみですね」

 

 玉座の広場(・・)でテーブルについてお花見気分のチビと女性二人。

 

「まぁ泣き虫なところが玉に瑕と、今も恐がりを克服する訓練しておるところで」

「昨日帰ってきたばかりなのに、もうそんなことしてるのか。徳操(とくそう)も噛んでるの?」

「いいえ、初めて耳にしました」

「じゃあ公覆の言う訓練とかいうのに区切りがついたら、徳操の方でも見てあげてよ」

「了承」

「公覆もお願いね」

「おやすい御用じゃ」

 

 青い羽織の着物姿に黒い短髪、男性タイプの小型生命体が空海。最近お茶をがぶ飲みする程度の能力に目覚めた。

 青みがかった銀の長髪を高い位置でまとめた褐色肌の美少女は黄蓋(こうがい)公覆。ツリ目と張りのある声で年寄り臭い口調をしている。

 黒の長い髪を熨斗袋の結びの様にかんざしでまとめ、藍色の着物に桜色の羽織、羽毛扇を持つ優しげな面立ちの美女は司馬徽(しばき)徳操。天下の水鏡先生である。

 

 今日は江陵の初等学校と、高等学校である水鏡学院の運営についての話し合いと、そもそもの学校発足のきっかけとなった街道整備の準備のために集まっている。

 遅れて現れたのは二人。

 

「待たせたのぅ」

 

 筋肉にヒゲが生えたものが卑弥呼。白いビキニを着ている。政治に絡んだ話を得意とするため召喚。

 

「お待たせして申し訳ありません」

 

 イケメンの少年が左慈。工事の人員を現場で指揮する。軍の責任者でもあるため、工事中の警護も担当。

 

 

「全員集まったね。早速だけど、学校の準備状態から聞こう」

「はい」

 

 江陵には現在も初等学校と寺子屋の中間くらいの施設は多数存在している。読み書き計算を習わせるためだ。年齢性別身分の如何を問わずに入学が可能で、一週間でループする授業内容を繰り返して試験に合格するだけの、学校の二歩手前程度の中身でしかない。

 今回の初等学校はこれまでの学校に比べれば別格だ。1日1授業×1ヶ月でループする内容が60単位。1日に受けられる授業は最大で5つ。毎月の試験では優秀な成績の生徒には3単位先までの内容が出題され、合格すれば一気に4単位進める。つまり、1ヶ月で最大20単位、最も優秀な場合に3ヶ月で卒業出来る内容となっている。

 

 そして、本命。高等学校こと水鏡学院。

 こちらは非単位制で個別の生徒に徹底教育を行う。寮完備。

 運動に才ある人間なら、一騎当千を目指すべく、訓練メニューから食事、休憩時間まで徹底管理。有望ならば左慈が出張って稽古を付ける。

 商才があるのならば、基礎をたたき込んで商家に奉公。手先が器用ならやはり職人の元で修行を付けさせる。

 軍事、政治、外交官、指揮官、その他についても江陵そのものが協力体制を築くことで安定的に一流以上の人材を育て上げるシステムだ。

 

 江陵の最下層と最上層を除いた層に、合わせて60ヶ所ほどの初等学校を設置。

 日本の公立学校をイメージして作ったので、校舎が謎の金属製であることを除けばほとんどそのまんまイメージ通りの学校なのだが、江陵の学校では大人と子供が同じ授業を受けるために座席は講堂形式である。

 最初に開校するのはこのうち10ヶ所程度で、人口が増えるのに合わせて順次開校していく予定。

 

 そして最上層の一つ下、第四層に水鏡学院。

 20ヘクタールほどの土地に学舎、寮、運動設備、職業訓練の施設など、大小20以上の建物。運動場や弓道場なども10個近くが揃う豪華な学校となっている。

 こちらは最初の初等学校の卒業生受け入れ後に開校する。

 

 教科書は用意出来た。教員も現在教育中。施設も準備完了。通達も終了。希望者もおおよそ見込み通り集まっている。

 

「やっぱり見込み通りか」

「はい。やはり見込み通り、希望者は限定的です」

「給食で釣るのは無理なんだっけ」

「はい。残念ながら、食材の購入や調理を任せられる人材が揃いません」

 

 江陵は現在どこもかしこも人手不足である。消費者ばかりが過剰に多いため、人材の取り扱いには慎重にならざるを得ないのだ。

 

「ご主人様」

「なに、卑弥呼?」

「軍の糧食を回してはどうですかのぅ?」

 

 空海は司馬徽と顔を見合わせ、すぐに軍事担当の左慈を向く。

 

「左慈、出来るの?」

「はっ。食事内容を凝ったものにすることは出来ませんが、提供だけでしたら量を指定していただければ問題ありません」

「ほほぅ。どうかな徳操?」

「ええ、それで十分です! 日々の授業で惣菜を一品程度用意すれば、十分に事足りるでしょう」

 

 調理は授業の中でも継続性の高いものとして、入学から卒業までの長きにわたって教え続ける内容だ。作ったものをその日のうちに消化出来るというのも良い。腐らせる心配をせずに済む。

 

「卒業生が増えて学校に就職して貰えたら、その辺を任せられるようになるね」

「はい。そういった人材育成の機会を与えてくださったこと、感謝いたします」

 

 空海の考えてもいない部分にまで先回りしてお礼を言われることにも慣れてきた。

 

「ん。言葉よりも、そうだね……お前の育てた人材で返せ、司馬徳操」

「了承」

 

 司馬徽の目に強い光が宿る。

 

「クックック……水鏡先生を本気にさせたようだがヤツは四天王の中でも最強……」

「も、もう! 空海様、茶化さないでくださいっ!」

「はははっ、次っ! 街道の話ね!」

「空海様っ」

「はいはい。卑弥呼、よろしく」

「承知した」

 

 卑弥呼がほっこり笑って声を上げてくれた。司馬徽は顔を赤くしながらも大人しく椅子に座る。

 

「まずは人員の募集じゃが、半ば強制とはいえ思ったより集まりが良い」

「確か募集に上限は付けておりませんでしたの」

 

 卑弥呼がやや渋い顔をして告げれば、黄蓋が補足する。

 更に司馬徽と左慈が口を挟む。

 

「集まりすぎても監督が追いつきませんね」

「俺が見られるのは多くて5千。それを超えるなら于吉の助けがいるだろう」

「そこで、50日を目処に二期に分け、およそ4千ずつの派遣を考えておりまする」

「50日でこの、(へん)って所くらいまで行けるの?」

 

 左慈の言葉を受けて卑弥呼が自らの考えを明かした。50日と聞いて疑問を抱いたのは空海だ。広げた地図に書かれた編の地名には聞き覚えがなかった。

 編は現在の江陵と襄陽(じょうよう)のおよそ中間地点であり、張飛の仁王立ちで有名な長坂の北側にある。

 今回の街道整備では江陵から襄陽まで、およそ130㎞を広く平らに整える予定だ。地図を見る限りでは、編は江陵の端から北に70㎞程度の位置にある街のようだ。

 

「編までならば50日は掛からんじゃろう。だが、編の前後の数十里は少々起伏が豊かな土地じゃから、時間と人員にはいくらか余裕を持っておくべきであると考える」

「あー、あの辺かー。川を挟んでちょっと山みたいになってる所だったね」

 

 半年くらい前に龍を見かけてとっ捕まえた場所だなー、などと口に出さずに考える。

 

「北の方になれば江陵からの運搬に割く人数も増えますからの。襄陽近くではいっそ襄陽から材料などを買ってしまう方が手間も減って作業もはかどるやもしれませぬ」

「ふむふむ。じゃあ卑弥呼と左慈は残ってその辺を詰めよう。ちょっと注文もあるし」

「承知」「はっ」

 

 卑弥呼と左慈が深く頷く。

 

「最後に、街道整備後の話になっちゃうんだけど……公覆」

「はっ」

司隸(しれい)扶風(ふふう)馬騰(ばとう)というものがいる、らしい」

 

 司隸は中央の意味だ。東京都みたいなものか。扶風は司隸の西の外れ、涼州との境にある郡である。

 

「先日話しておられましたな。登用でも試みますかな?」

「ははは、それもいいんだけど、今はまず馬を手に入れたくてね」

「ということは、交易の申し込みですかの?」

「相手は無官だから、何とかこちらに連れて来たいんだよ。護衛や宿泊の費用を出すから交渉して欲しいんだ」

「なるほど。故に街道整備後、ですか」

 

 無官の相手に出向くなど下に見られるだけ、らしいのだ。

 

「個人的には会いに行ってもいいんだけど、無官を相手にそれはやり過ぎ……らしい」

「うむ。ご自重くだされば幸いじゃ」

「やっぱり官位は面倒だよね。とは言っても、卑弥呼の言いたいこともわかるから、呼びつけることにしたんだけどね」

 

 誠意を持って接しつつ下に見られないよう注意しなくてはならないというバランス感覚の重要な役割である。そのため、学校で忙しい司馬徽か、色々忙しい于吉か、酒を飲むのに忙しい黄蓋くらいしか適役が見当たらなかった。

 

「謙らず、侮らず、嘲らず。難しい任となるでしょうね」

「うん。だから(・・・)公覆が良いと思ったんだ。出来るかな?」

 

 黄蓋は一度目を瞑ると、ゆっくりと目を開き、空海の目をしっかりと見据えて言った。

 

「お任せあれ」

「うん、よろしくね。黄公覆」

 

 こういう台詞を言ってみせる黄蓋は、やっぱり格好良い。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「おかしい。当陽ってこっちじゃなかったっけ?」

 

 前後左右全て森ではあっちもこっちもあったものではないのだが。

 

 旧当陽市街地に盗賊が住み着いているらしく、街道整備にもその後にも悪影響がありそうだと管理者を交えた会議で話題に上がった。空海は今、当陽を更地にするべく江陵から北西に向かって直進している。

 そして。

 

「あえて言おう。樹木だらけであると!」

 

 空海は考える、

 当陽は山際の土地であるからして、山にぶつかったら高いところに上って周りを確認すれば良いのではないか?

 自らの発想の素晴らしさに感動を覚えた空海は、そのまま北西っぽい方向に歩き続けることにした。太陽をやや左方向に見つつ前進だ!

 

 前進を決意してから1時間。江陵からは4時間ほども歩き続けた森の中。

 

「ん?」

 

 どこからか泣き声が聞こえる。

 

「……女の、子?」

 

 夕闇。

 人気のない森の中。

 かすれたような女の子の泣き声。

 つまり、これは

 

 

当陽(ひとざと)か!」

 

 

 実は太陽を左に見るくらいしか方角を確認する術を持っていなかった空海は声のした方向へ足取りも軽く近づく。

 

「人里はここかー!」

「ひぅっ!?」

「お、やっぱり女の子か。こんばんちは!」

 

 ギリギリで「こんばんは」の合わない微妙な時間帯であることを挨拶ににじませる。

 

「あゎ、さ、祭殿ぉ」

「ん? どうした? 大丈夫か? 飲み物いるか?」

 

 果実水の入った水筒を創り、袖から取り出す。

 女の子の目の前でチャプチャプと音を立てれば、今にも泣き出しそうだったその顔は水筒へと向けられた。

 

「ほら、飲み物だ。飲むか?」

「えっ……ぁ」

 

 気になってはいるようだが、警戒して手を出せないようだ。

 

「飲んで見せようか」

「あ、えと……」

 

 空海は腰をかがめ、顔の高さを合わせて微笑んで見せる。

 窺うように顔を上げた女の子は、決意したように力強く首を振り、水筒を受け取る。

 

「い、いただきます……」

「一気には煽るな。喉が渇いてるなら、一口二口ごとに口を離して一息空けろ」

「あ……はい。……おいしい」

「落ち着くまではそうしていろ」

 

 女の子から一歩離れて様子を観察する。

 赤いチャイナドレスっぽい服、黒髪、褐色を思わせる肌、10歳には少し届かないくらいだろうか。

 足は汚れ、所々に傷が付いている。そもそも靴がくるぶしすら覆っていない。街を歩いていて突然野山に放り出されたかのような有様だ。

 

「あの、ありがとう、ございました」

「うん。何でそんな格好でここに居るのかも気になるけど、一つ聞きたいことがある」

「……なんですか」

 

 女の子に警戒が戻る。

 

「当陽ってどっち?」

 

 

 

(しゅう)洛陽(らくよう)(れい)の娘?」

「はい」

 

 洛陽令というのは、洛陽の県令のことだ。県令は……市長のようなものだろう。

 この時代、役人の大半は世襲だ。正確には世襲制ではないが、一族で一定の役職を受け持つものという言葉で、おおよそ現実を示すことが出来る。

 つまり、首都洛陽の県令という高官を輩出するくらいの名家の娘ということになる。

 

「洛陽生まれの洛陽育ちじゃ土地勘はないよなぁ」

「すみません……」

 

 森のど真ん中で少々の土地勘が役に立つかは甚だ疑問であるが、それは口にしない。

 

「謝らなくてもいいから一緒に落ち込もうず」

「……落ち込んでも何もはじまりません」

「近頃の女の子は強いなー」

「女性に向かってそのようなもの言いはしつれいです」

「ふーむ。それもそうだね。すまなかった、これをやるから許してくれ」

 

 そう言って取り出すのは果実水の入った水筒。空海がそれを女の子に差し出せば、おずおずと伸ばされた手が、しっかりと筒を掴む。

 

「し、しかたありませんね。いただきます」

「気に入った?」

「……はい」

「そう」

 

 優しげに細められた空海の目から逃れるように、女の子は水筒を傾ける。

 

 

 

「さて、日が暮れる前に目的を確認しよう。俺は当陽に向かっている。お前は?」

「私は……ここで、むかえを待つか、江陵に向かうつもりです」

「こんな目印もないところに迎えが来る当てがあるのか?」

「うっ」

 

 空海が口にしたのは驚きのためだ。江陵へ向かうというにも奇縁を感じたが、迎えを期待しているということには純粋に驚いた。

 周りは森が広がっているだけだ。人の手が入った形跡もない。例え地元の人間であってもこの場所には近づいていないと言うことだろう。

 

「というかここがどの辺りなのか、わかっているのか?」

「ううっ」

 

 江陵に行くとは言っていたが、どちらに向かえば良いのかくらいはわからなくては進むことも出来ない。

 しかし、女の子はがっくりといった様子で膝をついた。

 空海は落ち込んだらしい女の子の前に屈み、優しく声を掛ける。

 

「当陽に行った後は俺も江陵に帰るつもりだ。一緒に来るか?」

「えーと、その……」

 

 江陵へ『帰る』という空海の言葉を聞いて彼女の表情にも迷いが浮かぶ。

 

「ちなみに当陽はここからすぐ北にある! はず」

「で、ではここは江陵の北西なのですね?」

「お? よく知っているなー。俺は江陵から当陽へ、近道しようと思ってまっすぐ進んできたんだ。俺が来た道を辿れば、三時(6時間)くらいで江陵まで戻れると思うぞ」

 

 江陵が直径60㎞を超えるほどの巨大要塞となったため、当陽との距離は劇的に近づいていた。かつては子供の足で2日ほど掛かっていた両者の距離も、今では1日ほど。空海の健脚ならば半日と掛からない。

 空海の足でこの場所まで4時間。子供の足ならば1.5倍くらいは掛かるだろうという単純な計算で時間を告げた。実際はもっと掛かるかも知れないが、どうせ江陵に辿り着く前に日をまたぐことになる。

 

「む、無茶苦茶なことをしているのですね」

「そして俺の勘が正しければ、あと少しで当陽かそこに続く街道に出られる! はず」

「お話を聞けば聞くほど不安になるのですが……!」

「ははは。まぁ動かないならそれでも構わないぞ。一晩くらいなら付き合ってもいい」

 

 もうすぐ日が暮れるため、女の子がここに残ると言うなら、空海も一晩くらいは面倒を見るつもりでいた。

 

「とはいえ、お前も自分の居場所がわかっていなかったわけだし、動くとしてもこの程度の根拠しかないだろう?」

「それは……そうなのですが。何かなっとくがいかない」

 

 自信満々に動きながらその根拠が勘だと告げる者など、彼女にとっては初めて見る人種である。

 それでも、彼女は空海の言動に一定の理性と教養を感じ取ったため、それが言葉通りに全くの勘というわけではなく、経験や計算を加味したものだろうことに気が付いた。

 

「もう日暮れまで時間が無い。移動するなら、すぐに行くぞ」

「あっ、行きます! 少しだけ待ってください! 荷物を取ってまいります」

 

 空海の言葉に慌てて肯定を返す。今はこの人を信じてみよう、彼女はそう考えた。

 

「はいはい。荷物なんてあったのか」

 

 女の子は近くにあった木の裏に回って風呂敷のようなものを引っ張り出し、肩に回して胸の前でしっかりと結びを作った。

 

「お待たせいたしました!」

「む、肩に毛虫が付いてるぞ」

「えっ? きゃあああああああ!!」

 

 

 

 

「すみません……」

「大丈夫だ」

 

 お姫様抱っこで進む赤と青。縮こまっている方が赤で、包み込んでいる方が青だ。

 いざ出発という時に、女の子の腰が抜けるというハプニングに見舞われたが、最初から女の子を背負うか抱っこしていくつもりだった空海にとっては問題はあってないようなものだった。

 

「ところで、あの場所に置き去りにされたということは聞いたが」

「はい」

「なんであんな所に置き去りにしたの? しかも自炊道具まで渡して」

「……祭殿は、きょうふをこくふくしろ、とおっしゃっていました」

「あんな場所で未知の危険にさらされ続けても、恐怖は克服出来ないと思うが……」

「同感です……」

 

 しばらく、空海の歩く足音だけが響く。

 

「こう言っては何だが、その人物は信用できるのか?」

「で、出来ます! 祭殿は私をすくってくださいました!」

「ふむ。こんな所まで連れてきて殺すくらいなら、わざわざ助けたりはしないか」

「殺す……そ、そんなことするはずありません」

「すまん。結論を急いだ。許せ」

 

 女の子が落ち着くまで歩調をゆるめる。

 

「それで、救われたというのは?」

「その、祭殿は私たちののった船が河賊におそわれていた時、助けに入って下さった方なのです」

「役人なの?」

「はい。あ、しかし、その辺りにいる役立たずといっしょにされては――」

 

 彼女はきっと、誰かに話したくて仕方なかったのだろう。空海が軽い相づちを打っているだけだというのに、何分も途切れることなく喋り続け、水筒の果実水を一口含み、そしてまた話し始めた。

 

「――覚悟したその時、間にわって入って立ちふさる人影が!」

「おお、ついに」

「そうです! 祭殿はたずさえていた剣を抜き、大きな声でこうおっしゃったのです」

 

天網恢恢(てんもうかいかい)()にして()らさず。観念せい!』

 

「祭殿が賊に向かって剣をふり下ろすと、周りから一斉に矢がはなたれました!」

「おおー」

「次々といぬかれる賊たち! しかし賊もさるもの。矢を受けながらも、いく人かは祭殿にきりかかります」

「やるじゃない(ニコッ)」

「祭殿は大声を上げてせまる賊に『甘い!』とするどく叫び、次々ときりふせます!」

「すごいなー」

「そうしてたくさんの賊をきりつけ、ついには頭目の首をきり落として、見事に河賊をたいじしたのです」

「めでたしめでたし、だね」

 

 空海が茶化しながら引き継いだことで、自分が熱く語っていたことを自覚した女の子は顔を真っ赤にして伏せた。

 

「と、とにかく祭殿にはかんしゃしているのです」

「なるほどねぇ。確かにそれだけ聞くと、森の中に置き去りにするような人には聞こえないな」

「もちろんです! このようなことになったのも、元はと言えば私が祭殿に無理を言って『しゅぎょうを付けて欲しい』とお頼みしたのが始まりなのです」

「修行?」

 

 修行と聞いて空海は山ごもりを思い浮かべる。そして、山ごもりがあるのならば森ごもりもあって良いのかもしれないと考えた。

 

「はい。祭殿は孫子(そんし)六韜(りくとう)の書をかしてくださいました」

「ほー。そいつは教養もあるのか。お前も読めるの?」

「むずかしいご本でしたが、私も洛陽では七経(しちけい)をたしなんでいた身。少しずつ読みといておりました」

「凄いじゃないか。七経は儒学書だっけ?」

「最近では書にもなっているのですね。私は城南(じょうなん)太学(だいがく)門外にて一昨年に完成した石経(せきけい)を読んで学びました」

「へぇー」

 

 ――書じゃなかったのかあぶねぇ。

 

 空海は漏らしそうになった言葉を飲み込んで相づちを打つ。

 江陵で小規模に取り扱い始めた出版事業で書籍にしているかもしれないと空海は考えていたが、七経は厚手の小説よりも文字数が多く、漢の中心学問の教本でもあるため敷居が高い。そのため、江陵では未だ扱われてはいなかったりする。

 

「一昨日、私は孫子を読むのに夢中になってしまい、日が暮れてから祭どのにご本をお返しに行きました」

「うん」

「そのとき、暗い場所をおそれていることがわかったのでしょう。昨日になって祭殿はこの荷をまとめ、ご本をかりに上がった私をつれてこの森までやってきました」

 

 空海は改めて女の子の姿を上から下まで観察する。

 

「その格好は本を借りに行った時の格好か」

「はい」

「なるほど。納得は出来ないが、理解は追いついたよ」

 

 ――なんか符合する点が多いよな。やっぱりあの祭だよな。

 

「聞きたいんだが」

「なんでしょうか」

「お前が先ほどから口にしている祭殿というのは」

「ッ! あなたは真名を!」

「黄公覆の真名の祭か?」

「え?」

 

 一瞬で沸点を突破した様子の女の子は、だが、そのまま一瞬で凝固点を下回ったような顔をして固まった。

 

「……え?」

 

 

 

 

「その、もしかして」

 

 長いこと沈黙していた女の子が、おずおずと顔を上げた。しかし少し赤面している。

 

「あなたは、祭殿の旦那様ですか?」

 

 自分で言った旦那様という言葉を恥ずかしがっているようだ。

 

「旦那? 公覆の旦那さんかぁ……ちょっと見てみたい、とか言うと怒られそうだな」

「違うのですか?」

「違うねぇ」

「では一体どういったご関係なのですか?」

 

 空海は顔を少し上げ、改めて女に子に笑いかける。

 

「ふふ。どういう関係だと思う?」

 

『ふざけてんのか、てめぇ!』

 

 突然横合いから怒鳴られた女の子は心底驚いて周囲に目を向けた。

 

「えっ――ひぅっ!」

 

 そこには、むさ苦しい男ばかり十数人が空海と女の子を取り囲でおり。

 

「別にふざけてなんていないよ?」

 

 殺気立つ周囲のことなど全く無視するように空海は薄く笑う。

 

「てめぇ何者だ! 官憲か!?」

「そんなところだね」

 

 男達は太刀を振りかざして威嚇している。空海は震える女の子を改めて抱き寄せた。

 

「俺は空海。江陵の主だ」

「そうか――じゃあ、死ね!」

 

 ぽんぽんと軽く叩かれた背中に死を予感し、女の子が強く目を閉じた数瞬の間に、全ては終わった。

 

 

 ほんの数瞬だ。派手な音もなく、衝撃もなく、もちろん痛みもなく。彼女がおそるおそる目を開けてみれば、そこにはまっさらな土地が残っているだけだった。

 城塞も、家も、人影も、草木の一本すら、残っていない。

 

「はい、当陽の用事は終わったから江陵に戻るよ」

「えぅ?」

「ん?」

「――ヒック」

 

 

 

 

「すみません……」

「大丈夫だ」

 

 お姫様抱っこで進む赤と青。小さくなっている方が赤で、抱き上げている方が青だ。

 

「しっかりしている割には泣き虫なんだな」

「……すみません」

「責めているわけじゃない。危機に立ち会ったんだ。その克服にも近づいただろう」

「そう、でしょうか」

 

 大勢の賊に取り囲まれ、刃物で脅されていることを理解した上で泣かない子供がいるのか? と返す。

 

「お前はアレが生命の危機だと、ちゃんと理解出来たんだろう?」

「はい」

「なら、その危機を乗り越えられるようになれば、克服したも同然というワケだ」

「……」

「納得いかないか?」

「そのようなことで、私の……その、泣き虫、が、直るのでしょうか?」

「直る、というのは正しくないかもしれない。変わるんだ」

 

 吠え掛かってきて恐ろしかった犬を、撫でられるようになるように。

 苦くて嫌いだった野菜を、美味しく食べられるようになるように。

 その程度の事だ、と空海は告げる。

 

「……変わる」

 

 何かを決意するように呟く彼女に、空海は笑いかける。

 

「ま、泣くのが悪いわけではない」

「悪く、ないのですか?」

「泣かずに考えれば、あるいは、泣かずに動けば、助かるかもしれない。そんな可能性もある」

「はい」

「そういう時に、泣くだけで何も出来ないことは、お前にとって良くない」

「私にとって、良くない?」

「そういう時に泣いているのは、お前にとっては、悪いと言えるんじゃないか?」

「はい」

 

 女の子は頷く。空海もわかったように頷く。

 

「でも、それ以外の時はいつ泣いても良いんじゃないか?」

「ええ!?」

 

 割と極論である。

 

「というより、泣いていても状況をより良く打開できるなら、泣いても良いと思う」

「ええー!」

 

 極論である。

 二人の声は、女の子が寝付くまで、夜の街道をちょっぴり賑わせた。

 

 

 

 

「お帰りなさいませ、空海様」

「待っておりましたぞ、ご主人様」

「ただいま。ちょっと、この子を寝かせるのに寝台を用意してくれる?」

「了解じゃ」

「あ、街道ね。長坂の辺りまでは軽く整地しておいたから、あとは適当によろしく」

「承知しました」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「お、おはようございます。空海様」

「うん、おはよう。よく眠れたみたいだね」

「ううっ、はい。お世話をおかけしました」

「そんなに畏まらなくてもいいよ。ほら、飲むか?」

 

 そう言って袖から果実水を取り出す。

 

「い……いただきます」

 

 くぴくぴと水筒を傾ける女の子のお腹が小さく鳴った。

 女の子は停止し、一瞬で顔を真っ赤にし、涙目で空海の様子を見る。

 

「腹も減っているだろうが少し我慢してくれ」

「ううううううぅぅ、わかりました……」

「今から公覆の所へ連れて行く。そこで食事にしよう」

「えっ、はいっ!」

 

 

 

 二人並んで街を歩き、黄蓋と司馬徽を呼んだ玉座の広場の裏手を目指す。

 女の子が寝ている間に第四層まで移動していたため、玉座までは1時間ほどだ。馬車を乗り換えるたびに抱き上げていたのに、彼女はぐっすり眠ったままだった。やはりとても疲労していたようだ。

 

「そういえば俺が空海と名乗ったのを聞いていたんだな」

「あ、はい。……その、勝手に呼んでしまって」

「いいよいいよ」

 

 女の子の謝罪を遮り、足を止める。

 

「では改めて名乗るが、俺は空海だ。姓でも名でも字でもない、号みたいなものだが、空海と呼べ」

「わ、私は周洛陽令が娘、字はまだございません。真名を冥琳ともうします」

「うん? 真名を告げて良いのか?」

「空海様は祭殿の主で、私の命の恩人です。私が、告げよう、そう決めました」

「ん。んー。わかった。字を付けたら預けに来い。その時にまだ真名を預けて良いと考えていたら、改めて名乗れ。それまでは、仮に預かっておくことにする」

「なっ、何故ですかっ?」

 

 告げた真名を預からないなど無礼な行いだ。

 

「お前は大した子供だが、それでもまだ、子供だからだ」

「しかし真名はっ」

「わかっている。だから、もう一度名乗りに来いと言った」

「空海様っ!」

「――冥琳」

 

 空海は腰をかがめ、顔の高さを合わせて微笑んで見せる。

 

「俺の勘では、お前はちゃんともう一度、名乗りに来る気がする」

「……勘とはどういう――」

 

 冥琳の追求にも空海は笑ったままだ。勘だ何だと繰り返す空海に、やがて冥琳は怒気を霧散させ、呆れたように空海の顔を見上げる。

 

「さあ、公覆たちを待たせている。行くぞ」

「まったく。しかたがありませんな」

「ははは」

 

 

 

 

 二人の女性が席に着き、顔をつきあわせている。

 深刻そうな表情を浮かべているのは黄蓋公覆。青みがかった銀の長髪を高い位置でまとめた褐色肌の美少女だ。

 

「水鏡殿、相談がある」

「何でしょうか?」

 

 黒の長い髪を熨斗袋の結びの様にかんざしでまとめ、藍色の着物に桜色の羽織、羽毛扇を持つ優しげな面立ちの美女は、水鏡こと司馬徽徳操である。

 

 

「飲みながら出来る調練の方法を考えて欲しいんじゃ」

「まず酒から離れなさい」

 

 

 こんなこと真面目に口にする黄蓋は、かなり格好悪い。

 

 

「子供の教育にはよろしくない場面だったな」

 

 観客となっていた子供は今、龍のごとき怒気を背負っているのだが。

 

「祭殿おおおおおおおおっ!!」

 

 

 その日からしばらく、黄蓋が酒屋に現れることはなかった。



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2-3 馬だ、馬を出せ!

「すげー。でけー」「うわぁー」

 

 昼下がりの江陵郊外、そこで騒いでいるのは茶色の髪のちびっ子二人。

 

「祭ねーちゃんはやくー!」「おばさまもはやくー!」

「これ、引っ張るでないっ」「はいはい。今行くから走るな」

 

 ちびっ子二人に引っ張られるのは綺麗な女性二人。

 一人は青みがかった銀の長髪と褐色肌の美少女、黄蓋。

 一人は長い栗毛に萌黄色の服で白い肌を包んだ美女、馬騰。

 

「これどのくらいの大きさなんだ?」「どれくらいおおきいのー?」

「見えておるのは第一層、外周は480里(200㎞)ほどじゃよ」

「すごいなっ母さま!」「おっきいねーおばさま!」

「あ、ああ。……洛陽よりデカいだろ、これ」

 

 ちびっ子たちを抑えながら長い橋を渡る。馬車と人がなんとか並んだまま通れる程度の幅しかない細いものだ。しかも途中で大きく湾曲しており、現在も渋滞気味だ。

 

「ちなみにこの堀の幅は150歩(200メートル)ほどじゃ」

 

 堀には透き通った水が一杯まで注がれていた。覗き込めばうっすらと水底を見ることも出来たが、馬騰は吸い込まれそうなその深さに慌てて顔を上げる。視線を水面の果てに向ければ、数里は離れているだろう場所にも橋が架かっているのが見えた。

 振り返れば反対側にも橋が見える。どちらも街から出て行く方向に人が流れていた。

 

 列の長さの割には対して待つこともなく、いくつかの門をくぐる。両手で数えなければならないほどの数の門一つ一つに異なった趣の装飾が施され、子供達も飽きずにそれを眺めている。

 一つ目と最後の門でそれぞれ短い列に並んで審査を受け、ようやく中へと入った頃には半時(1時間)以上が過ぎていた。

 江陵まで乗ってきた馬車を乗り換え、一行は江陵内を走る馬車鉄道の駅へと向かう。

 

「最上層はここから200里(83㎞)ほどじゃな」

「そんなにあるのか!?」「あるのかーっ!?」

 

 元気に騒ぐ子供達の姿に、黄蓋から苦笑が漏れた。

 

 江陵内はまっすぐ最上層へ向かうことが出来ない作りになっている。一層からまっすぐ最上層方向へと向かっても橋は架かっていないのだ。橋を渡るためには、堀に沿って左か右に20里ほど移動しなければならない。

 同様に二層から三層へ向かうときも、その先も、あみだくじを辿るように移動して行くことになるのだ。それぞれの層を移動する時には、外から第一層に入る場合と同等以上に大きな堀と多数の門を超えて行く。

 更に、江陵内で馬に乗れるのは特別に許可された者だけだ。

 一般人向けに公共の乗合馬車が存在するため、普通はそれを利用する。馬車鉄道と馬を乗り継いで最上層へは最短で3時間、馬車鉄道と乗合馬車を上手く乗り継げば通行許可を持つだけの一般人でも6時間ほどで最上層までたどり着ける。

 

「今日は最上層の一つ手前、第四層に宿が用意してある」

「ずいぶん手厚いもてなしだな」

「こんなもので終わりではないぞ?」

 

 黄蓋は挑発するような笑みを浮かべ、馬車へ乗り込む。官位持ちの自分が乗り込めば、周りの連中もさっさと出発の準備を整えてくれるのだ。馬騰を拾ってから旅を続けること1週間、そろそろ慣れてきた気軽さもある。

 

「子供達も腹を空かせておるようじゃし、少し早いが第二層で食事にしようかの。そこから一時半(3時間)ほどで宿に着くじゃろう」

 

 黄蓋は慌てて前後の馬車に乗り込みつつある馬家一行を横目に見ながら、2週間ぶりの江陵の空気に頬を緩めた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「空海様、ただいま戻りました」

「うん。ご苦労様、公覆」

 

 白い石畳の敷き詰められた謁見の広場は今、玉座に腰掛けたチビ男が一人とそれ以外に女性が数人、女中を含めれば更に女性率が上がる空間が出来上がっていた。

 

「こちらが、扶風(ふふう)()寿成(じゅせい)殿です」

「馬寿成、召喚に応じて参りました」

「うん。旅程に不満はなかったかな?」

「はっ。娘共々、大変よくしていただき感謝の言葉もなく」

「それは良かった」

 

 空海はそれまで静かに馬騰の影に隠れていた幼女に目を合わせる。

 興味津々で見ていた幼女は、目が合ったことに気がついてにっこり笑った。

 

「江陵のご飯はどうだ?」

「すっげーおいしかった! でもちょっとからいって母さまが言ってた」

「こ、これ翠っ」

「良いんじゃよ、寿成殿。空海様はそのようなことは気にせぬよ」

 

 黄蓋の発言にクスクスと笑うのは司馬徽や黄忠と行った江陵組だ。

 身を乗り出して子供に話しかける空海を見て、馬騰も苦笑いを浮かべる。

 

「馬車はどうだった?」

「座るところがすげーふわふわで気持ちよかった!」

「そういえばもう一人、一緒に来ていた子がいたね」

「たんぽぽだ! たんぽぽはまななんだぞ」

「ほほう。今は一緒じゃないのか?」

「今はお外でまってるって言ってた!」

「ほー、偉いなぁ。偉いその子と、元気の良いお前にご褒美がある」

「ごほうび?」

「実はここに、超美味い飲み物がある」

「ちょーうまい!?」

 

 袖から水筒を取り出して揺らしてみせる。

 

「あそこにいるお姉さんと一緒に、その子の所に届けてくれないか?」

「おねーさん?」

 

 空海は黄忠を指して、手招きする。

 

「この子を、外で待っているもう一人の子の所に連れて行ってあげて。飲み終わったら一緒に来ている者達もこっちに連れてくるように」

「はい」

 

 ちびっ子に水筒を手渡し、目を見て告げる。

 

「こぼさないように注意して持って行くように」

「……わかった」

 

 幼女が神妙な顔で頷いたのを確認して、黄忠に任せる。

 

 

 

「待たせたね」

「いえ……」

「空海様はずいぶん子供の扱いに慣れておられますな」

「あの子が人なつっこかっただけだよ」

「我が子は空海殿に呼ばれて連れてこられたのだと思っておりましたが?」

 

 黄蓋に言われて連れてきたのだ。言われなければ扶風から連れ出す気もなかった。

 

「悪かったね。少し見ておきたかったんだ。外で待っている者達と一緒にこちらに連れてくるように言っておいたから、本格的な話し合いはそれからだな」

「左様、ですか」

 

 疑うような視線を向けてくる馬騰に苦笑を返す。

 

「とりあえず、名乗ろう。江陵の主、空海だ」

「改めて名乗ります。馬、騰、寿成と申します」

「馬扶風、ではおかしいか。馬寿成、と呼んでもいいか?」

「……はっ」

 

 馬騰は字を呼ばれたことに少し渋い顔をする。

 

「まぁ、この交渉が上手く行けば、そのうち気兼ねなく呼び合えるようになるだろう」

「そうですな」

 

 空海は離れて見ていた司馬徽を目で呼ぶ。

 

「じゃあ、場所を移そう」

 

 

 

 桜の花びらが舞う庭園の大きなテーブルに、ひと組の男女がついている。

 席に着いている男の方、空海は桜を背に静かにお茶を飲み、

 向かい合って席に着く女の方、馬騰は、この世のものとは思えない光景に口を半開きにして周囲を見回している。

 

「早速だが、話に入ろう」

「え? あ、はい!」

「交易の話はお前には少し難しいか? だがまずはさわりの部分だけだ。そう緊張しなくても良い」

 

 空海は、色々重なってガチガチになった馬騰に笑いかける。

 

「お前達の地元では、塩は1升(200ml)あたり10銭くらいだと聞いているよ」

「はい、左様……ですな」

 

 同意したはずの馬騰の目が泳いでいる。

 

「わからないところはわからないと言って良い。どこがわからないかをはっきりさせて、文官達に確認しろ」

「おおお、思い出していただけです! 1升10銭で間違いありません!」

「ふむ、そうか。では続けるが、1升10銭ならば1石(20リットル)1千銭だな」

「……。そう、ですな」

 

 指折り数えなかっただけマシなのだろうか。

 

「今回の取り決めでは、江陵とお前たちとの交易の内、毎年の6往復について決めたい」

「たった6往復ですか?」

 

 黄蓋に迎えに行かせた道がそのまま交易路となる予定だ。馬上の少人数ならば片道1週間ほどだが、荷車が混ざれば、仮に馬に引かせたとしても、片道2週間ほどになる。

 襄陽から江陵までの道が整備されたことで1日半ほどの短縮に繋がった。襄陽から南陽までの道も整備する予定であるため、あと1日分くらいは短縮できる。ここまでで5日。

 南陽から長安までは、やや起伏の大きな道が続くため、1週間。管理者を交えた検討会では、ここも整備すれば2日ほど短縮できるのではないかと考えられている。

 

「雪解けから半年の間、毎月1回ずつ護衛付きの交易団を往復させるんだ」

「護衛付きですか」

「そう、護衛はお前たちに任せる」

「――なんですと?」

 

 馬騰の目が剣呑な光を帯びる。馬家をただ働きさせる気か、と。

 

「まず、江陵は毎年塩1万石(1000万銭)に相当する品を出す」

「いっ、1万石!?」

「そうだ。塩気の強い食べ物を中心に1度に5万石、6往復で30万石を出す」

 

 塩1(万)石は24(万)㎏くらいだ。対して食べ物の1(万)石は27(万)㎏ほど。

 5万石は135万㎏にもなる。1350トンと言えばそれほどの量には聞こえないが。

 

「お前たちに支払う金があるなら、護衛はこちらで用意してもいい。無いなら6往復全てに騎兵2500騎をつけろ」

「騎兵を!?」

 

 騎兵は金食い虫だ。馬騰は一度出世した際に与えられた騎兵団を解体していない。今も無理をして養っているのに、それを護衛ごときに引っ張り出せとは何を言っている!

 

「護衛に必要な糧食、塩、宿はこちらが支払おう。護衛を出している間は、500万銭を品物の値段から割り引く。さらに、今後5年は品物の値段そのものもこちらで3割持ってやる」

「ええっ!? えーと、えーっと……ありがたい申し出なのですが……少し、考えさせて貰っても良いですか?」

 

 馬騰の目が回り始めたのを見て空海は笑う。

 

「内訳を書いた紙を用意してある。同じものだが、文官たちの分もいくつかある。続きは皆が来てからにしようか」

「すまん……じゃなかった、感謝します!」

 

 馬騰は言い間違いを慌てて訂正し、怯えたように空海を見やる。無官の馬騰に対し、空海はかなりの高官だ。下手なことを言えば処刑されてもおかしくない。

 空海は意地悪そうに笑いかける。

 

「そっちが素か。気にしなくていいぞ、馬寿成(・・・)

 

 馬騰は困ったような楽しんでいるような形容しがたい表情で言葉に詰まり。

 

「……感謝します」

 

 最終的には苦笑して謝意を示した。

 

 

 空海は側に控えていた司馬徽を呼ぶ。

 

「馬寿成」

「はっ」

「これは司馬徳操。水鏡と言う。江陵の文官で一番賢いヤツだ。わからないことがあればコイツに聞くといい。徳操、任せる」

「よ、よろしく頼む」「了承」

 

 

 文官の到着を待ち、司馬徽が一つ一つの項目について説明を行っていく。

 

「塩1万石相当と言ってもわかりづらいでしょうが、およそ2万人と馬5千頭が毎年使う塩の量と考えて貰えれば良いでしょう」

 

 江陵発の料理が広まればもう少し使われることになるかもしれないが。

 

「内訳の漬け物……その、司馬漬けは、今朝の食事にも出しております。こちらにあるのがその漬け物で――」

「hai」

「司隸では手に入れづらい海の魚も揚州から江陵を経由して――」

「hai」

「3割を引いた価格ですと、30万石で6500万銭の――」

「hai」

「対価として求める馬に関しては1頭で2万銭と評価しています」

 

 馬の産地である涼州では1万銭で2匹の馬が買えることもある。2万銭は相場の数倍の評価と言える。

 

「こちらが割り引く500万銭は年に6回ですから、合わせて3千万銭になります。騎馬兵の維持には1年で2万銭ほどがかかると聞いておりますから、1500騎の維持費に相当しますね」

 

 馬母娘はあまりわかっていないみたいだが、文官は頷いている。

 

「初年度、つまり今年から、2年後までは規模を限っての取引を提案いたします」

「お前達の懐具合や民心の掌握に余裕を持たせるためだな」

「hai」

 

 もう馬騰はダメかもしれない。

 

「最初にそちらから馬を持って来て頂いて以降は――」

「hai」

「支払いの際には五銖銭と金が――」

「hai」

「交易路の宿泊地点のうち、荊州内の5ヶ所は――」

「hai」

「荷の受け渡しは時間を省くために――」

 

 文官たちは総じて賛成に回っている。「受けた方が良い」とか「馬家の名が天下に轟きますぞ」とか「9回でいい」とか大体はそんな感じだ。

 

「うむ、わかった。我らはこの申し出を受けることとする。空海殿、よろしくお願いいたします」

 

 馬騰の決定を受けて空海も頷く。

 

「うん。では大筋はこれで良いとして、詳しいところは文官に詰めて貰おうか。徳操、手配しておいて」

「了承」

 

 文官達の間で、軍の通過許可がどうとか護衛が失敗したときの責任がどうとか日取りがどうとかが徐々に煮詰まっていく。

 もはや馬騰は子供達と一緒に笑っているだけだ。

 だが、送られる馬には全て本当に馬家のお墨付きが与えられることになった。相場の倍額を出して貰っているのだからと停止しかけの馬騰も乗り気だ。

 

「聞きたいことが、あります」

 

 文官達の喧噪から少しだけ離れ、子供達を膝にのせた馬騰が空海をにらむ。

 

「どうした?」

「空海殿は、この取引で、私に何を望むのですか?」

 

「ん? ああ、裏があるのだろう、という意味か?」

 

 明け透けな物言いに馬騰がひるむ。だが、誤魔化したところで自分が空海を欺けるとも思えず、結局は思ったままを口にした。

 

「……そうです。我らの得が、過ぎます」

 

 確かに、数字だけを見れば馬家には毎年1億銭に近い利がもたらされることになる。その負担がどこから出てどこに向かっているのか、ということを、直感的に捉えて問題視しているのだろう。

 江陵としては、品物を現金に換えられれば大きな利益は必要ない。しかし、どうせ取引をするなら儲けるのも悪くない、ということで儲けは確保してある。そもそもこの取引は塩の密造を誤魔化す手段の一つでもある。

 

「まずは、一気に輸送して、販売の手間を省くことに利がある」

「補足いたします。これを小規模に行った場合の見込みは――」

「hai」

 

「同じく、一気に受け取って輸送することでも利益があがる」

「江陵での馬の価格と、交易の安定後に余剰放出分でもたらされる――」

「hai」

 

「江陵での馬の使用方法も利益に繋がっている」

「江陵の民への貸し出しと軍での――」

「hai」

 

「お前達との取引で1億銭近くを割り引いても、江陵には十分に大きな利益が出ている」

 

 一部の品物、民間から集めて作っているものでさえ、原価から売値まででは1石あたり200銭、30万石ともなれば6千万銭もの利益が出る。税として集めている穀類などを使った品物に関しては何を言わんや、である。

 加えて、涼州方面では安い馬でも、江陵まで連れて来ている間にその価値は何倍も上がっている。馬家お墨付きで2万銭と評価した馬ならば、荊州で売ればどう少なく見積もったとしても倍額は超える。

 軍用に良馬を選別し、いくらかを民間へのレンタル用に確保して、残りは都市の外へと売りに出す。ある程度の数が揃ってからの話にはなるが、これも年間に3千万銭近くの利益を見込めるだろう。

 

「お前達から更に1億銭を搾り取りつつ3年で破産となる取引と、半分の利益で10年以上続く取引では、どちらの方が美味しいかな?」

「なる…ほど…?」

 

 相当わかりやすく言ったつもりだが、馬騰は頭から煙が上がり、ちびっ子二人の片割れは目を回し、もう一人は目を輝かせて笑っている。

 馬家の文官には呆れ顔に気付かれ、馬母娘共々生温かい視線まで受けてしまった。

 

「まぁ、なんだ。お前たちは毎年1億銭以上の余裕が出来て万々歳。俺たちもそれなりに稼いで万歳という形にしたんだ。気持ちよく取引を続けるためにな」

「なるほど!」「それならわかるぞ!」「そーだねー!」

 

 一番小さい4、5歳の幼女の理解力と並んでいるのだが、その他二人は気がついていない様子だ。

 空海は一応恩を売ろうと告げておく。

 

「得をして良かったな」

「そうだな!」「やったな母さま!」「よかったね!」

 

 素直な良い子たちである。

 

 一通り騒いだところで馬騰が身を正す。

 

「感謝します、空海殿。良い取引となりました」

「ああ。品物を受け取って驚け」

「え?」

「江陵との取引に心底感謝するほど素晴らしい品を出してやる」

「――はっ、ははははは! ならばこちらも相応の馬を用意しましょう!」

「期待している」

 

 

 

 

 翌年最初の交易団には、新年を祝う品が持たされることになった。

 精米済みの真っ白な米、香り豊かな黄良酒、のどごし爽やかで透明な公良酒、塩を綺麗に固めて作った手のひらサイズの純白の馬像、野菜や魚の漬け物。

 どれも涼州にほど近い大陸の奥地では見かけない、あるいは滅多に手に入らないものばかりだ。

 物珍しさに加え、その見事な見た目と味わいは馬家の心と胃袋を鷲掴みにした。手のひらサイズの塩馬を鍋に投入しようとしたところ、そんな可愛い馬を食べるとはけしからんと馬母娘が暴れたとか暴れなかったとか。

 

 さらに次の年から、年初に江陵へ向かう護衛団にはいつも馬家一同の姿があった。催促のためである。

 以降、馬家の勢力は劇的に伸び、司隸を飛び出し、涼州南部の天水、隴西までもを飲み込んだ。

 

 当代の主馬騰は賢人と称えられた。




遅れすぎてすいません。その割に進んでないですね。
旅行などを挟みつつしばらく忙しくて返信出来ません。すいません。


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閑話 屋台の親父曰く、おめぇに読ませる短短編はねぇ

また少し遅くなりました。若干の修正がありますが、加筆は本当に僅かです。


■クッキーと竜と鳳凰

 

「あ! くっきーさ、じゃなくて空海様!」

「おい雛里今お前クッキー様って言っただろ」

「あわわ……しゅしゅ朱里ちゃんの罠でしゅっ」

「はわわ!? 違いましゅ! たまたま、そう、偶然! くっ――うかい様が持って来てくださる鶏卵入り小麦菓子について話していただけでしゅ!」

「今お前も俺のことクッキーって言いそうになってただろ、朱里」

「ききき気のせいでしゅ!」「あわわわわ」

「はぁ……」

 

 水鏡女学院に初めて焼き菓子を持ち込んだのが4年ほど前だ。鶏卵入り小麦菓子と名付けたそれは、簡単に言えばせんべいとクッキーの間くらいのもので小麦粉に卵と植物油と少量の砂糖を混ぜてこね、蒸し器の類似品で焼くだけの菓子だ。

 これだけだと味気ないので桑の実を混ぜ込んだものもある。甘くはなるのだが、風味が独特で好き嫌いが結構分かれてしまった。緑茶に合うので俺は好きだよ。

 

「不本意ではあるが、ここにクッキーがある」

「きたぁーッ!!」「びゃあああああわわわ」

 

 目の前の子供達は孤児であり、初めて持ち込んだときは、まだ5歳と少々の舌っ足らずな幼児だった。今も慌てたり緊張したりすれば舌足らずな部分が見え隠れするが。

 舌足らずな幼児に鶏卵入り小麦菓子などと言っても残念なことにしかならず、クッキーという名称を提示してしまったのも不可避の流れであったと思う。ちなみに、せんべいの発音は「しぇんべぇ」だった。

 空海という名前が言いづらいためにクッキー様という呼び方が幼児の間に定着するとは夢にも思っていなかったわけだが。

 

「放課後になったら、徳操(水鏡)も呼んでお茶にしよう」

「はい!」「わかりました!」

 

 俺が最初にクッキーを持ち込んだ水鏡女学院は江陵最上層の一つ下、第四層にある。皆に請われてちょっと材料を口にしただけで、探求心旺盛な江陵の民は似たようなものを再現してしまった。しかしクッキーは鉄板で焼くものじゃないぞ。

 

 元々後漢には「(へい)」という小麦粉を水で練って焼く料理があった。CDくらいの大きさで10枚ひとくくりにして30銭くらいである。少々お高い食事くらいだ。せんべいとしてはかなり高い印象だが、具の少ないお好み焼きと考えれば安いと言える。

 これに卵と甘味を加えるだけ、あるいは加えた上で水を減らすだけであるという事に気がついた民は、改造した餅を堂々とクッキーとして売り出した。それはもう、餅という名前がクッキーに置き換えられるくらいあっちこっちで作られた。

 

 改造が進んで、せんべいで作るサンドイッチのような、お好み焼きの類似品のような食べ物も出来たようだ。栄養価が高いので太らない程度に食べることは奨励した。

 あと何故か、これを機に麺も進化した。これまでのうどんの手前のようなものを脱却して、ラーメンっぽいものが出来るようになったらしい。嬉しいけど何でだ。

 

 ちなみにクッキーという名前が広がる前は密かに空海焼きという言葉が使われていたようである。使われなくなったのには、そのなまえをつかうなんてとんでもない! とかそんな感じの理由があったらしい。俺も焼かれるのは嫌だよ。

 

 そして気がついたときには『クッキー様』の名称が江陵中に蔓延していた。それはもう蔓延していたのだ。

 江陵の最下層、外周の第一層で『クッキー様』と呼ばれて気がついた時には、もはや卵を混ぜた餅は全部クッキーであるという風潮が出来上がっていた。ついでに子供達には空海の名前よりもクッキー様の方が知られていた。

 

「くっ、空海様! 呼んで参りました!」

「おい朱里またか?」

「はわわわわ」「あわわわわ」

 

 この『はわわ』が朱里。水鏡女学院で最も政経学の成績が良い生徒だ。このまま研鑚を続ければ、徳操曰く『後世に名を残す人材となる』らしい。その割には俺の名前を間違える残念な子だ。

 そして『あわわ』が雛里。少々内気なところを除けば、朱里のカラーリングを変更してツインテールにしたような少女であり、軍略においては他の追随を許さない正真正銘の天才である。まぁやはり俺の名前を覚えてくれてはいないようだが。

 

「ようこそいらっしゃいました。いつもありがとうございます、空海様」

「うん。これ、みんなの分のクッキーね。朱里と雛里の分も入ってるけど……」

「後で除いておきますわ」

「水鏡先生(しぇんしぇい)!?」「あわわ、ど、どうしよう」

「半分くらいは残してやれ。皆と一緒の時間を過ごすのも大切だ」

「ほっ……」「くっ……空海様」

 

 二人はあからさまにホッとした様子を見せる。そして雛里、今また間違えただろ?

 

「……やっぱりいらないか?」

「「ありがとうございます空海様!」」

 

 言動が完全に一致している。頭を下げるタイミングまで一緒だった。

 そして徳操、笑ってないで指導しなさい。

 

 

 

「今日はクッキーが本題じゃなくてね。前に言ってた遊戯板、駒も作らせてみたから徳操に見てもらいたくてね」

「まぁ。もう出来上がったのですか?」

「新しい遊戯板ですか?」

「あ、また将棋みたいなものですか?」

 

 そう、俺は既に将棋を持ち込み、ルールを教え、そして朱里と雛里に敗れている。

 最初の10回くらいしか勝てなかったのだ。当時10歳に満たなかった少女相手に。

 囲碁に至っては実に中国的な人海戦術がルールに現れているようで馴染まなかった。盤上を石で埋め尽くすまで戦うとか怖すぎる。

 ちなみにどちらも雛里の方が少し強い。雛里に負け越している方の朱里でさえ、司馬徽より強いのだけどね。ちなみに俺は司馬徽にも勝てない。

 とはいえ、天下の水鏡先生と毎月何度か将棋を指しているというだけで俺は十分だ。

 

「今回は趣向を変えている。一つは戦略ゲーム(ゆうぎ)で一つは戦術ゲーム(ゆうぎ)だ」

「戦略遊戯?」「戦術遊戯?」

 

 疑問符にもそれぞれの好みが出たな。

 

「戦略ゲーム(ゆうぎ)は、簡単に言えば一つから複数の拠点を運営し、人や装備を揃えて敵対する勢力の征服を目指すものだ」

 

 いわゆるストラテジーというゲームジャンルのアナログ版だ。戦略シミュレーションと言えば聞き覚えがある人間も多いだろう。

 

「やってみたいでしゅ!」

「ははは。後で、な」

 

 朱里の頭を撫でて落ち着かせる。まだ小さいから撫でやすい位置に頭があるのだ。

 

「戦術ゲーム(ゆうぎ)は、同数あるいは数の違う駒を、六角形のマス目に沿って囲碁ではなく将棋のように複雑に動かし、勝利を目指すものだ」

 

 ターンごとに1手を動かすのではなく、ターンごとに駒に数手の行動力が付与される点で、将棋などの遊戯よりも複雑な動かし方だと言える。こちらはSRPGなどの動きを参考にルールを設定してある。

 

「わ、私もやりたいです」

「うん。お前も、後でな」

 

 雛里の頭を軽く撫でる。この子もそのうち俺より大きくなるのだろうと思うと嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになるね。

 

「これら二つの遊戯は連動することも出来るし、個別に遊ぶことも出来る。まぁ、時間があるなら連動させて遊ぶ方が良いんじゃないか?」

「駒の方も良く出来ておりますね」

 

 司馬徽が手にした駒は、金属の台座に木彫りの人形が乗った弓兵ユニットだ。

 

「職人が頑張ってくれてねぇ。台座の方が時間かかったくらいだよ」

 

 大きさを揃えて台座を作るのは、結構難しいらしいのだ。鉄で作ったり銅で作ったり金で作ったりしたみたいだが、受け取ったときには完成品の200倍くらいの試作品が床に転がっていた。

 

「あのっ! 空海様、遊び方を教えてください!」

「わ、私もお願いします!」

「ああ、わかったわかった。じゃあ今から軽くやってみるか」

「はい!」「お願いします!」「あらあら」

「今回は連動させて遊ぶから、戦略の方は主に朱里が、戦術の方を主に雛里が担当するように。徳操は遊び方の説明なんかを手伝ってくれ。前に言ってたのと変わらないから」

「はい!」「あわわ、了解ですっ」「了承」

 

 

 で。

 

 

「…………。……負けました」

 

 今日初めて戦略ゲーと戦術ゲーに触ったヤツらに……。

 呂布プレイで小覇王出陣シナリオを勝ち抜ける俺が負けた……。

 

「ええーと、空海様……?」

「――ちょっと陳留で旗揚げして漢を滅ぼしてくる」

「はわわ!?」「あわわ!?」

 

 これ以降、みんなが少し優しくなった、とだけ言っておく。

 

 

 

 

 

■于吉の日

 

 江陵で一番忙しい男、于吉の朝は早い。

 東の空が白く染まり初め、しかし日が昇る前には寝台から身体を起こす。

 

 着替えて執務室に向かい、寝ている間(・・・・・)にたまった書類に目を通す。

 一通りの確認を終え、その日行うべき執務に取りかかり始める頃には日が昇る。

 

 日の出と共に入ってくるのは警邏を終えた左慈だ。報告や警備計画とのすりあわせを行い、場合によっては傀儡を出して足りない手を補填する。

 

 左慈が退出すると、卑弥呼か貂蝉、あるいはその指示を受けた傀儡がやってきて、農民の陳情などを上げる。大半には卑弥呼らの手によって指示が出されており、事後の報告と言った形ではあるが、一部には江陵の運営方針まで関わってくるため、管理者同士の意見の交換も必要となってくる。

 

 次に各種予算の配分が行われる。正確に言えば、160万の人口に達した後の予算のひな形を作る作業とを平行している。当然、その作業は膨大だ。もちろん現在の予算が優先されるため、10日で1%ほどしか進まない。

 

 昼食時も休むことはない。区画や組合などの代表者と会合を行わなくてはならない。他の管理者は諸事情から(・・・・・)こういった仕事には向いていない。

 

 昼食後は司馬徽などと共に調味料等の開発だ。料理や調味料の仕込みといった複雑な仕事は傀儡を通して行うことが出来ない。そのため、足を運んで試作品を食べたり舐めたり飲んだり咽せたり吐いたりしている。

 

 そしてその足で新薬開発へと向かう。抗生物質やワクチンが適当な作用を起こすように調整するのが主な仕事だ。やはり複雑すぎて傀儡には向かない案件と言える。傀儡に出来るのは精々が余計な場所を探ろうとする間諜を待ち伏せて捕まえるくらいであり

 

「ふむ。この量では多すぎた(・・・・)かな」

 

 薬物の効果を確かめるためには、最終的に人間を使った臨床試験が必要になる。最近は実験対象にも困らなく(・・・・)なってきた(・・・・・)ため全体的に進みが早い。

 元々于吉が得意としていた分野の探求であり、治安の向上に繋がり、ストレスの発散にもなり、江陵の、ひいては大陸のためにもなる。

 

「やりがいのある、素晴らしい仕事だ」

 

 于吉は思わず頬を緩める。空海からどれほど仕事を押しつけられようとも文句を言わないのは、ひとえにこの施設のためだ。

 そして江陵が発展することは、この施設の稼働率向上にも繋がる。自身の手腕一つでさらに面白いことになるのだ。于吉は恵まれた職場に感謝を深めた。

 

 

 

 

 

■黄忠も二日酔いにはなる

 

 ……ん、朝……?

 

「んぅ……~~ッ!」

 

 あたま、いたい……。

 

「ここ……?」

 

 夕べはお酒を飲んで……(わたくし)の部屋では、ないわね。

 夕べはお酒を……空海様と一緒に……空海様と?

 

「あ……ぁぁ――」

 

 空海様と一緒にお酒を飲んで、前後不覚になって知らない部屋で起床!?

 どうしようどうしようどうしようどうしよう――!

 

「起きたか、漢升」

「空海さっ、~~ッ!」

「ゆっくり飲め」

 

 あ……。これ、いつもくださる、飲み物。

 私の、だいじな、思い出

 

「……いただきます」

「うん。落ち着くまでそうしているといい」

「……はい」

 

 あの時と、同じ台詞。

 やっぱり、おいしい。

 

 

 

 空海様は、人ではないのかもしれない。

 

 私はかつて、江陵に雨が降らないことを心配していた。

 江陵では昼も夜も、ずっと晴天が続く。

 その時、空海様は『天が俺を見てるから』なんて冗談のように軽く答えていたけれど、今思えばそれはきっと本当のことだったのでしょう。

 水が必要なら雨などなくとも用意出来るとも言い、その言葉が実現されてすらいる。

 

 空海様は、誰よりも人に交わる。

 

 朝、この街の誰よりも早く起きる農家のおばあちゃんたちに混じって散歩をし、時にはゴミ拾いまで行う。

 屋台や出店の準備をする商人達に声をかけ、傾いだ荷物を支え、味付けを手伝う。

 子供達と戯れ、井戸端会議に顔を出し、畑仕事に加わり、病人達に話を聞かせる。

 桜を見ながらお茶を飲み、歩哨の真似事をする時もある。

 夜にはお一人で筆を執って毎日何かを書かれている。

 

 空海様は、誰よりも人間離れしていながら、誰よりも人間らしくあろうとしている。

 

 

 

「あ、あの、空海様」

「なんだ?」

「その、私、お酒を飲み始めてからの記憶が曖昧で」

「お前、あれだけやったのに覚えてないのか?」

 

 何をしたというの昨日の私!?

 

「も、申し訳ありません」

「しばらく深酒は控えろ。お前のためにならない」

「……はい」

 

 でもだって空海様と一緒だったから……

 

「一緒に飲み始めたところまでは覚えて居るか?」

「はい」

「公覆の名前を出したとき、他の女の名前を出すなと俺を脅したのは覚えて居るか?」

「か、かろうじて」

 

 何を言ってるのよ私は! お世話になってる祭さんのことくらい話題にしたっていいでしょうに!

 

「その後か……」

 

 

「まずは羽織の中に無理矢理入り込んで首に抱きつかれたな。さながら蛇のようだった」

 

 深酒は良くないわね。例えそれが空海様と一緒だったとしても。

 

「あとは耳を噛まれたり舐められたりしたぞ」

 

 あ、水鏡さんにどんな自殺方法が苦しくないのか聞いておいた方がいいかしら?

 

「まぁ、耳元で『好き好き大好き』と言われたのは悪い気分ではなかった」

 

 なっ――なんてこと言ってるの私はぁぁぁあ!!

 く、空海様の顔が見られない! ああああ、こっちを見ないでください!!

 って、これ空海様の羽織じゃない! なんで私が持ってるのよ!

 ああっ、でも顔を上げられないいいい!

 

「み、見ないで……!」

「ふむ」

 

 えっ?

 

「これでいいか」

 

 あ――空海様、もしかして抱きしめてくださってる?

 

「こうすれば俺からは漢升の姿が見えないな」

 

 ッ! 空海様ぁ!

 

「ごっ、ごめんなさい……ごめんなさい……っ! 嫌いにならないで――!!」

「うん。『悪い気分ではなかった』と言っただろう? あのくらいで、お前を嫌いになることなどないぞ、紫苑(・・)

 

 あ、真名……空海様ぁ、だから好きなのよぉぉ

 

 

 

「ほら、羽織を返して。お前は風呂に入っておいで」

「あ……はい。申し訳ありませんでした」

「風呂から上がったら、少し遅い朝食になるが食事に出よう。今日は水鏡学院に用があるからその近くだな」

「はい」

 

 空海様と一緒に食事かぁ……

 

「ああ、もちろん、酒はなしだぞ?」

 

 !

 

「――もう! からかわないで下さい!」

「あはは。紫苑の可愛らしい姿を見て気分が良いんだ。大目に見てくれ」

「……もぅ」

 

 また今日も、特別な日になっちゃうなぁ……

 

 

 

 

 

■水鏡"女"学院

 

「あの、空海様はどうして水鏡女学院が男子禁制なのかご存知ですか?」

「ん? お前たちは知らなかったのか?」

「水鏡先生に聞いても教えて下さらなくて……」

「そうかぁ、まぁ新年に話すようなことではないんだけどなー」

 

 

 アレは学院が始まってから2ヶ月くらいだったかなぁ。

 その頃はまだ手探りの運営が続いていたから、結構頻繁に見に行ってたんだよ。

 あの日も、徳操を訪ねたんだけどね。なんか、ちょっと普通聞けないような口汚い言葉が聞こえてくるわけよ。徳操の声で。

 もしかして徳操に何かあったのかと思って慌てて見に行ったらね。

 

 男の子が泣いていたんだよ。

 それはもう子供だったね。5歳くらいに見えたなあ。泣きながら謝ってた。

 で、その男の子を見下ろしながら、こう、ね。徳操がちょっとお子様には見せられないような表情で口汚い言葉を吐いてたんだよね。端的に言えば男の子を罵ってた。

 時々挑発しながら、顔を上げるのを見てたたき落としたりね。薄く笑いながらそういうことしてるんだよ。あの優しげな声で。

 

 聞き込み調査を行った結果わかったのは、5人くらい既に再起不能(おんなのこ)になってたということだね。たった2ヶ月で。

 別に徳操を怒らせたっていうわけじゃないみたいだった。素行に問題がありがちな子の方が被害に遭ってるみたいではあったけど、どういう基準が適用されていたのかは、今となってはちょっとわからないな。

 ちなみに、女の子には被害がなかった。こっちが普段通りの徳操だと、思いたい。

 まぁ、それで男子禁制にしたんだよ。

 

 え? その男の子? すぐに、新しく作った軍学校に入れてね。しばらくして、なんとか持ち直したって聞いたな。今は兵士になるために学んでいるはずだよ。

 残念ながら再起不能(おんなのこ)になっちゃった5人は、卑弥呼と貂蝉のとこに預けたよ。なんとか幸せを掴んでくれるといいなぁ。

 

 徳操は極端に疲れがたまったりすると『ああなる』っぽいからお前達も気をつけろよ。

 俺に言えば何とかしてやるから。

 

 

「あらあらうふふ」

「……おや? 徳操(とくそう)さん、なにやら新年会(この場)にふさわしくない武器(もの)をお持ちのような」

「いえいえ天来様。武器(これ)処刑場(この場)にふさわしい彩りですわ」

「こやつめ、ハハハ!」

 

 

 

 

 

■左慈の日

 

 江陵で一番荒っぽい男、左慈の朝は遅い。

 正確に言うならば、夜通し警邏を行ってから昼まで睡眠を取るのだ。

 

 寝具から身体を起こせば、その1分後には八極拳(はっきょくけん)劈掛掌(ひかしょう)の型を全力で繰り出している。

 起床から最短で全力まで持って行けるよう、常日頃から心掛け行動する。その心構えは起床に始まり、着替え、食事、移動、全てで実践されており、起床から30分以内の左慈に話しかけると、もれなく空を飛べる(悪い意味で)と兵士らの間でも有名である。

 

 昼食(左慈にとっては朝食だが)を終えればすぐに練兵場へと向かう。

 江陵には近衛兵を除いて、一軍から四軍までの兵が置かれている。一軍や二軍といった名前が付いて居るが、平時の担当区分けに沿った名前が付いて居るというだけだ。数字の小さい軍ほど江陵の中心部に近い区域を担当し、士官の割合が加速度的に増していく。

 

 上級士官らに一軍と二軍の訓練の指示を出し、いくらかの士官と大勢の下士官を連れて三軍と四軍の訓練へと向かう。

 三軍と四軍では新兵の割合が大きい。武器の扱い方、行動における正しい動作、命令を行動につなげる訓練などを繰り返す。指示を出した後は近衛兵を相手に組み手をするのが常だが、時には近衛兵と共に100人単位の愚図共(・・・)を相手に仕置きを下すこともある。

 

 夕刻になって三軍と四軍の訓練が終われば、次は二軍と四軍の別部隊を交えた集団行動訓練である。整列、移動、隊列変更、行軍訓練、陣形展開、陣地構築、陣地撤収などを短時間に何度も反復する。

 短時間しか出来ないのだから、より密度を高めなければならない。この訓練には左慈が一層厳しく当たるため、大人の男でも泣き出す地獄となる。当の左慈の顔に浮かんでいるのは大半が不満で残りは冷笑だが。

 

 訓練が終わったら、片付けを指示して警邏へと向かう。夜目が利かないヤツは、堀にたまった水と友達になってもらい、スゴいね人体して目を良くして(・・・・)もらう。おかげで一軍には、月のない夜に600メートル先にいる人物が敵か味方かを判断出来ないような腑抜けは一人もいない。

 もっとも、堀はうっすらと光っているため、光源がないというわけでもないのだが。

 

 最近は侵入を目論む流民や間諜、逃亡奴隷が多い。都市から逃げ出すそれを捕縛するのも左慈の仕事だ。適当に捕縛しては于吉に引き渡す。

 

 与えられた任に最大限の力を注ぐ。左慈は今日も、夜明けの太陽を眺めてから于吉の待つ執務室へと向かった。

 

 

 

 

 

■黄蓋はそれでも懲りない

 

 ぬ……眩しいな。朝か?

 む? ドコじゃここは?

 それに、何やら股がすーすーする……?

 

 ふむ。服も替わっておる。

 はて。ワシは昨晩着替えたかのう?

 

 いや、待てよ?

 昨晩は空海様と一緒に飲んでおったような。

 というか空海様が飲まないからワシだけ飲んでおったような。

 

 空海様と一緒に飲む、前後不覚になる、眩しい朝、新しい着替え、股がすーすー。つまりこれは

 酔った勢いで空海様とヤってしまったか!?

 

「起きたか、公覆」

「む、空海様」

 

 い、いかん。そういう仲(・・・・・)になったかと思うと意識してしまって顔を見ることが出来ん!

 

「まず臭いが酷いからさっさと風呂に入ってこい」

「に、臭い!?」

 

 あ、アレか!? 男女の体液がどうとかそういうヤツか?

 

「身体を拭いて服を取り替えたのは冥琳だ。礼を言っておけ」

「冥琳が!? ……め、冥琳には少し早すぎやしませんかの?」

「冥琳が一番慣れているだろ?」

 

 一番!? どういうことじゃ冥琳! 覚えておれよ!

 

「い、一番とはどういう意味――」

「それより、風呂に入る前に水分を取っておけ。ほら」

 

 ぬ、これはいつもの水筒か。

 相変わらずどこから取り出しておるのかわからんのぅ。

 

「頂戴します」

「うん」

 

「重ねて言うが、冥琳はお前が気持ち良く寝ている横で、後始末をしてくれていたんだ。よく礼を言っておくようにな」

 

 気持ち良く、寝ていた…じゃと…!?

 

「しょ、承知しました」

 

 ワシは一体どこまで進んだんじゃ!?

 男女の仲になったんじゃろ? 気持ち良くなって、そして……子供とか?

 

「く、空海様」

「なんだ?」

「その、昨晩はワシとどこまで――」

「なっ、お前あれだけやったのに覚えてないのか!?」

「いいいい、いえ、覚えております、覚えておりますとも!」

「……そうかぁ?」

「さ、酒に酔っておったので記憶が少し混乱しておるだけです!」

 

 その目はおやめくだされー!

 

「……順を追って出来事を話すとだな」

「はい!」

「まず一緒に飲んでいたら割と突然絡みつかれたな」

 

 突然絡みついたのか!? え? 脱がずにか?

 

「で、しばらくしたらぶっかけられた」

 

 ぶっかける!? ……ハッ! 乳か! ということは子供が出来てしまったのか! 何で覚えてないんじゃ! なんと惜しいことを!

 

「そんで臭いに釣られてというのか、自分でもかぶってたな」

 

 体液を!? そ、そういえば変な臭いがしておるような?

 

「まぁ、しばらく飲むのはやめておけ」

「な、何故ですか!」

「昨日のようにはなりたくないだろ?」

 

 いやいやいや! 酔ってしまったのは不本意ですが、結ばれたのは本意ですぞ!

 

「……まさか、またやりたいと言うのか?」

「く、空海様さえ良ければまた、したい……です(酔っていない時に)」

「お、俺さえ良ければ!?」

 

 何を慌てておられるのですかな空海様? もしやワシが思っているより初心なのか?

 

「空海様、片付けて参りました」

「ぬ、冥琳か(邪魔をしおって)」

「冥琳! 助かった! 公覆が、公覆が!」

「どうなさいました空海様?」

「公覆が、俺さえ良ければまたしたいって言い出して!」

「なっ、空海様!?」

 

 冥琳に言うことはないじゃろう!?

 

「――は?」

 

 …………あれ?

 これ逃げた方が良いんじゃ?

 

 

「祭殿」

 

 冥琳のワシを見る目! まるきり汚物を見る目じゃ!

 

「貴女はまた、したいと」

 

 おおおお、おうとも! 冥琳がなんぼのものじゃい! 空海様はやらんぞ!

 

「酔った挙げ句、空海様に全身で絡みつき、髪の毛をひっつかんで噛みつき、衿の内側に向かって嘔吐し、自らも吐瀉物を浴びたいと。そう仰るのか」

 

 

 ……え?

 嘔吐(ゲロ)

 空海様? 何で両手で顔を覆ってらっしゃるんじゃ?

 

 あれ? ワシ、ここで死ぬんじゃ……

 

 

「実に良いご趣味ですな。祭殿」

「ご……誤解じゃ冥琳!」

「問答無用」




「問答無用」 メコッ


石で埋め尽くすまで戦う
後漢の囲碁のルールは現代とは異なる。中押し勝ちというのもなかったらしく、いわゆるヨセの後まで全部石で埋めて石の数で勝敗を決めた。コミというものも存在しなかった。
ちなみにゲームの恋姫では8世紀に発明されたはずの象棋で大会が開かれていた。
ゲーム内での象棋の描写はどことなく囲碁っぽかった。

小覇王出陣シナリオ
ゲーム三國志9のシナリオ3、呂布の兗(エン)州強奪と小覇王出陣の呂布プレイ。かなり難易度が高いため、プレイに慣れていなければ数ヶ月で滅びる。スタート地点が兗州。
兗州は恋姫において陳留州と扱われているような雰囲気なので、ここでは陳留州という意味で使っている。

「こやつめ、ハハハ!」
その後のちょっとしたホラー展開も考えたけど、キャラ崩壊著しいのでカット。

「(起きたらゲロ臭かったら混乱もするか)……順を追って出来事を話すとだな」
空海は黄蓋に配慮してあえて「ゲロ」という言葉を口にしていない。愛ゆえに。

黄忠は純心で盲目な恋。初恋をこじらせて空海の肯定者になっている。
黄蓋は豪快な割に初心。半端な知識で間違った判断も多々。男女の関係になる=子供が生まれる、みたいな。


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3-1 広げた後ほど忙しい

「足りない?」

「左様」

 

 筋肉にヒゲが生えたものが筋肉を揺らしながら答える。

 

「土地が?」

「そうなのよぉん」

 

 筋肉に三つ編みが生えたものが身体をくねらせながら答える。

 

「人が増えすぎて?」

「はい」

 

 イケメンの少年が静かに肯定する。

 

「予想をぶっちぎったってこと?」

「面目次第もございません」

 

 イケメン眼鏡が申し訳なさそうに頭を垂れる。

 

「どうしてこうなった……」

 

 

 まだ要塞都市が造られてから5年である。予想では10年くらいはかかるはずだった。

 

「西の方が広かったっけ……」

「はい」

「どうやって拡張する?」

「その前に現状の確認を行いましょう」

「ああ、そうだね」

 

 江陵という都市は豊かであり、江陵には仕事が多い。

 

「現在の江陵の人口は、最下層が30万人。外周から二層目、最低限の読み書きを覚えた層が30万人。一定教養のある第三層に35万人。政庁を含めた機密を多く取り扱う第四層が25万人」

「このうち第二層と第三層の人口が限界なんじゃ」

「hai」

 

 貧しい民の新天地であると噂された江陵の人口は、僅か5年で20倍増していた。

 

「我々の予想では、江陵は外周から人口が埋まる見込みでした。にもかかわらず、先んじて上層が埋まった原因は――」

 

 一つは予想より学習意欲が高かったこと。学力の向上に伴う収入の上昇に釣られた人間は多かった。これが全体を底上げしている。

 そしてもう一つが、家族から離れ単身赴任となってでも収入を増すことが善いことだと認識されたこと。実際には手続きが少々面倒なだけで、移動にかける時間も大したものではないため、近所の職場に住み込みしているような感覚なのだろう。

 

「選別はしておるんじゃがそれでも流入が多すぎるんじゃ。拡張案はいくつか用意したんじゃが、いずれも第二、第三層を広げる方向になっておる」

「hai」

 

 非常に贅沢な悩みだ。

 現状ですら健康なものだけが都市に残り、病気などを持っている人間は都市への入場を拒否している。一時滞在でも同じ措置である。江陵にはまだ病気に勝てる医療インフラが整っていない。

 さらに、病人達が近くにスラムを形成しないよう追い払うことすらしている。食事を持たせたり道を教えたり、場合によっては船を出すなどして下流の揚州へ誘導し、荊州防衛にも一役買っているのだ。

 そして、これだけ捨てているのに、流入人口が限界だという。

 

「これほど早く限界にぶつかった原因じゃが、現荊州()が関わっておる」

「孫堅討伐の際、江陵は荊州南部を煽るだけ煽りました。しかし、荊州牧劉表はこれに収拾を付けなかったため、南部から逃げ出した人間の多くは北部に向かいました」

「江陵を見た人の多くが江陵に残ったんじゃ。通り過ぎた人も、その多くは江陵に引き返して来おった」

「hai」

 

 対応の遅れた劉表だが、後に、江陵を通さずに南部を抑えるために江陵の東を回り込むように新しい街道を設置した。

 南陽から襄陽を通り江陵へと南北に続いていた街道のうち、襄陽のすぐ北側から東へと『ト』の字に分岐する新街道。江陵の東、江夏郡西陵へと続く道である。

 江夏からは川と湖畔を遡って南の長沙まで道を広げるつもりだったようだ。江陵方面と揚州方面への抑えとして名高い黄祖を太守に据えるなど、それなりに本気も見せた。

 江夏が銅製品の大産地であることも加え、荊州が取り得る万全の体制だった。

 

 だが、結局は江陵を通る方がアクセスが良かった。

 江陵からは旧州都漢寿を経由して長沙へ続く道が存在した。前漢時代から使われた知られた道だ。江陵からならば漢寿までは船で移動することも出来たし、何より江陵そのものが目的地となり得る都市である。

 結果を見れば劉表は江夏と襄陽と江陵を結ぶデストライアングルを完成させてしまったことになる。もちろん劉表にとってのデスである。

 

 江陵と江夏はそれぞれ、荊州の南部と北部を結ぶ大拠点となった。特に、江陵商人のもたらす金銭は荊州を大いに潤した。

 賑わう荊州には多くの人々が流れ込み――そのうちの2割以上が江陵に留まった。

 

 この5年、荊州には150万を超える人々が流れ込んだ。流出も数十万人ほどいたようであるが。そして、約30万人が江陵に向かったのである。

 

「さらに、袁家が南陽をまとめきれず住民の一部が江陵に来ておるんじゃ。一部と言いましても南陽は人口200万を超える大都市。江陵を通過して南陽へ向かった難民が改めて江陵に引き返すことも多く、釣られる形で多数の民が流れ込んでおるんじゃ」

「現在は落ち着きつつありますが、将来、乱などで世が乱れれば、民の流入は再び大いに増加する可能性が高いかと」

「hai」

 

「以上が現状です」

「hai!!」

 

 

 江陵要塞は上から見ると大きな円形をしている。細かいことを言えば最下層、第一層の外周が800角形なのだが、一つの角が0.5度すら曲がっていない多角形など、ほぼ円形と言っても良いだろう。

 

 拡張プランは全部で3つ。

 1つ目は円と円を並べて行くだけのもの。3つ目以降は間を埋めていくことで面積を稼ぐ。防衛に向いているが拡張出来る居住空間は少ない。

 2つ目は要塞を大型化して各層の比率を変えるもの。ただし、現在の江陵の位置が既に襄江と長江に挟まれて結構ギリギリなので、襄江と長江の流れを変えた(・・・・・・)上でやや北西よりに大きく広げることになる。

 3つ目がポンデリ○グ風。円と円の間隔を縮めて互いに重なり合うように配置。二つのプランの中間タイプになり、良く言えばいいとこ取り、悪く言えば中途半端なもの。

 

 大型化が最も欠点の少ないプランだ。ただ、最も大きな土木工事を伴い、空海の手間が増えるため、管理者としては避けたいようだった。

 とはいえ、空海にとっては『ほぃさっ』が『ほいさっ』になる程度の違いでしかない。

 結局は北西に大拡張して最大700万人までが一戸建ての家に住めちゃう超巨大要塞都市となった。

 

 直径60㎞以上、外周400㎞、総面積120万ヘクタール。東京都の5倍を超える面積を一つの要塞の中に閉じ込めた化け物である。

 満員ともなれば市街地面積だけでも洛陽の10倍を超える都市になる。仮にそうなったとしても近未来東京には遠く及ばないため、空海としては不満足なスケールだったが。

 人が少ない今は軍用地(あきち)が多いのだが、将来人が増えてきたら徐々に屯田兵用居住区域、一般居住区域として開放していく予定だ。

 

 

 突然広がった土地に江陵の民は驚愕した。そして事情を聞かれた空海が、毎回楽しそうに『内緒』だと答えていたため、犯人はバレバレだった。

 しばらくして、江陵の外の民や下層の住民の間で、空海が漢王朝を滅ぼすために江陵に降り立った天の御遣いであるとの噂が流れた。江陵を作ったり民を導いたり朝廷を滅ぼしたり悪人を改心させたり巨大化したり一騎当千の猛者を従えたりするのだそうだ。

 この噂は、空海自身が否定したことで、すぐに終息したように見えた。ただ、噂の半分くらいが事実だったためにしっかりと否定出来ず、火種となってくすぶり続けた。

 

 

 

 ところでいつだったか、当陽という街をぶっつぶしたことを覚えて居るだろうか。

 今回、江陵の北の端がだいぶ北上して、旧当陽市街跡地を完全に飲み込んでしまった。

 

 実は『張飛仁王立ち』の長坂という場所は、当陽の近所なのだ。

 襄陽と江陵を結ぶ街道から枝分かれする道で、街道から枝分かれした直後の入り口付近にある土地が長坂だ。道自体はそのまま西の当陽を通ってさらに西へ続いている。

 江陵が北西に広がって当陽を飲み込んだせいで、長坂を通って西に向かう利点がなくなり、結果、道がほぼなくなってしまった。

 拡張から数ヶ月が過ぎて、今この道は所々崩れていたり草が覆っていたり細くなったり本筋を見失うような枝分かれがあったりと、既に歩きづらいものへと変貌しつつある。このまま行けば、遠からず完全に街道としての機能を失うだろう。

 

 ――つまりこれ、長坂の戦いが起きないんじゃないの?

 

 桶狭間を平地にして関ヶ原に城を作ってたレベルのブレイクである。

 空海にとっては貂蝉に指摘されて初めて知った話だ。

 焦った空海は江陵に直接入らずに西の夷陵に向かう街道を自ら作り、途中にゆるく長い坂を設置、その終点付近の割と緩やかな谷っぽい地形にちょっと無理して吊り橋をかけさせた。吊り橋などは、わざわざ地元民に頼み込んで。

 空海が自分でやってしまうと何をしても傷つかない謎素材になりがちであるし、江陵の民を使うと張飛が落とせない程度に頑丈な物を作ってしまう恐れがある。そこで、あの手この手で地元民に協力を仰ぎ、作ってもらったのだ。

 なお、歓待で使われた酒や料理を気に入った地元民は、工事が終わった後に揃って江陵に引っ越した。計算外である。

 

 謎の金属に覆われた非常に歩きやすい街道の先に突如現れる木製のみすぼらしい吊り橋は旅人達の人気スポットとなった。主に悪い意味で。橋を渡らずに低地を歩く者達すら現れたくらいである。

 

 空海は勢い余り、益州と荊州の境、長江の小さな支流(日本で言う一級河川)が流れ込む巫峡(ふきょう)まで街道の整備を進めることにした。

 ちゃんと街道にしておかないと張飛たちが通らない可能性もある、と考えたのだ。

 

「うーん、実に素晴らしい自然だな」

 

 青い空、雄大な山々、見下ろせば大河、散歩をするように道作りに励む空海。

 ――青い空、雄大な山々、見下ろせば大河?

 

「どこかで……」

 

 空海の顔から血の気が引いていく。

 

「……やべぇ、あの秘密基地どうなった?」

 

 この国に降り立ったあの土地に作り、しかし使うことなく放置した拠点のことだ。

 温泉なんか延々とあふれ出している可能性がある。

 しかし、そもそも場所がわからない。

 空海は懐かしのあの場所に思いをはせる。主に悪い意味で。

 

 わかっているのは、背後が山だったこと、江陵よりも上流のおそらく長江沿いであったこと、しかし巫峡ほど上流ではないと思われること、川は視界の左から右へと蛇行しながら流れているように見えたこと、川幅が500メートルくらいだと思われること。

 天気の良い昼下がりに小舟が一艘だけしか見えなかったところから、人里からは遠いのではないか、そう考察したところで結論を出す。

 

「よし、探してもらおう」

 

 空海は、今こそ増えすぎた人口を活用するときだと、密かに確信していた。

 

 

 

 大陸南部の荊州と大陸南西部の益州の境、巫峡に突如現れた馬車が通れるほどの立派すぎる街道。それまで、人一人がようやく歩けるほどの道と、崖に打ち込んだ杭の上を渡る桟道しか通っていなかったはずの場所である。

 

 荊州側の関の兵士は、激務に追われたせいで幻覚を見たと判断して大半が自主的に寝込んだ。日々増え続ける江陵関係の通行人を捌くため、1日12時間を超える労働が続いていたのだ。

 

 益州側の城の兵士は荊州が戦争の準備をして来たんだ、と色々漏らした。最近荊州の連中は調子に乗っている、と噂していたのを聞かれていたのではないかと。

 

 

 そして何故か敵対すらしていないうちから益州が荊州に降伏した。

 

 

 その時、荊州と益州の境で緊張が高まっている、という急報を受けた劉表は対策会議に入ろうとしていた。しかし、会議の直前に降伏の使者の訪問を受け、劉表は思わず人生最大の醜態をさらした。

 普段遠地に留まる部下達が集まり益州の使者までもが揃った謁見の場で、降伏の使者に向かって全身全霊でツッコミを入れてしまったのである。

 

 これ以降、荊州の団結はより強固なものになった。

 荊州幹部達の友情は、断金の交わりと評された。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「征伐は任せろー」グビグビー

「やめて母様!」

 

 今日は馬騰の偏将軍就任祝いである。元気よく飲んでいる方が()(とう)寿成(じゅせい)。それを止めようとしているのが()(ちょう)孟起(もうき)、真名を(すい)という。

 

「一気飲みはやめておけ、寿成」

「止めるな翠、空海殿! しばらくは来られないから、飲み貯めておくんだ!」

「母様ぁ……」

 

 偏将軍就任に伴って、馬家は漢の北西部にある涼州、その更に北西の最奥地、敦煌郡に本拠を移すことになった。西涼と呼ばれる地である。

 江陵からは馬を飛ばしても片道4週間。交易として見れば片道10週間もの日数が必要とされる。気軽に江陵を訪れることは出来ない。

 今までも異民族征伐のために西涼まで遠征をすることはあったようだが、今回は本拠を移すのだ。毎年2、3回会っていたものが1回に減るのは、双方に寂しさがあった。

 

「お前、去年似たような事言って食べ貯めるのに失敗してただろ……」

「そうだよ叔母様! たんぽぽもう叔母様から逆流した物の片付けなんて嫌だからね!」

 

 本人曰く「光が逆流した」のだとか。そして逆流した光を片付けたのが()(たい)、真名は蒲公英(たんぽぽ)

 

「去年のことなんか忘れた!」

「母様ぁ……」「叔母様ぁ~……」

 

 これでも偏将軍は涼州で刺史に次ぐほどの軍の権力者である。しかも中央でも中郎将と並ぶほどの権威を持つ。

 この場でこれを上回る官位を持つのはただ一人、空海中司空(ちゅうしくう)だけだ。当人は官位など気にしていないが。

 

「本当にその辺にしておけ」

「止めてくれるな空海殿!」

「お前のためにならない。――寿成、俺の言葉は聞くに値しないのか?」

 

 寂しそうな目で告げる空海に、馬騰がひるむ。

 

「む……ぅ……けぷっ。すまん。はしゃぎすぎた。ごめん。その目はやめてくれ……」

「……うん。俺はもう良いから二人に謝ってやれ」

「ほっ……翠もたんぽぽも、悪かったよ」

「ハァ。うん。もういいよ、母様」

「んふふ。いつものことだもんねー♪」

 

 馬家の様子に空海も笑顔を取り戻す。

 

「折角良い酒を用意したんだ。味わって飲まなくては酒にも悪いぞ?」

「……そうだな。ありがとう、空海殿」

「気にするな、寿成。ほら、こっちの乾物も食べてみろ」

「ああ」

 

 急にしおらしくなってあれこれ世話を焼かれ始めた母を見て、馬超は複雑な表情だ。

 喧嘩っ早い馬騰は、言い方一つで相手に斬りかかることさえあるのだ。そんな馬騰をたしなめた上、一瞬で仲直りまでする人物を、馬超は一人しか知らない。

 

「空海様って相変わらず母様の手綱を取るのが上手いよなぁ」

「本当だよねー。もう叔母様たちそのまま結婚しちゃえばいいのにー♪」

「な、何言ってるんだよ、たんぽぽ!」

「そそそそうだぞ、たんぽぽ!」

 

 馬岱の茶々に真っ赤になる馬母娘。いちいちこういう反応をするから馬岱もからかうのをやめないのだが。

 そんな中、空海だけは優しく微笑んで口を開く。

 

「俺はたんぽぽのような姪が出来るのは嫌だぞ」

「ひっどぉい!!」

 

 宴会は、宿の主人が迎えに来るまで続いた。

 

 

 

 

「よっ! ほっ! っせい!」

「ふん! まだまだ!」

 

 馬超と黄蓋が打ち合っている。朝一番から2回目の模擬戦だ。最初は黄蓋が勝ち、今も黄蓋が押している。

 

「孟起、強くなったね。公覆が反撃狙いになってる」

「まだまだあたしの後を継ぐにはひよっこだけどな」

「でも、字を贈ったのは気まぐれではないんだろ?」

「……それは、そうだけど」

 

「それに比べて……」

 

 

「っひぃん! へなっぷ! たわば!」

 

 馬岱は黄忠に責め立てられて防御と回避に手一杯になっている。むしろ時々攻撃を受けている。

 

「たんぽぽは……。同じ環境で育って、どうしてこれほど差が?」

「あたしにもわからん!」

「わからん、って。どうにかならないのか?」

「ちょっと目を離すと手を抜くんだよ。実戦に出そうにも五胡と戦わせるにはまだ力不足だし、どうしたもんかなー……」

 

 筋は良いはずなのだ。手抜きの鍛錬だけで黄忠の攻撃をそれなりに防げるのは誇っても良い。

 空海は何か良い方法はないかと考え、口を開いた。

 

「二つ、思いついた」

「うん?」

「一つは、江陵にいる間、左慈に鍛錬の監督を任せる」

「左慈?」

「ウチの軍事教官といった所だな」

「へぇ、強いのか?」

「江陵の軍事を任せるに足りる強さだな」

「へーぇ……」

 

 馬騰が面白そうに頬をつり上げる。

 

「だが、今回は左慈の強さよりも厳しさが重要だ」

「厳しさ?」

「左慈は、そうだな……鬼教官の名にふさわしい厳しさだ」

「お、おぉ。そうなのか」

 

 馬騰は、黄蓋が鍛錬に対して厳しい姿勢であることを知っている。空海は、その黄蓋に対しても鬼という言葉は使っていなかった。

 

「ただ……ちょっと、泣いたり笑ったり出来なくなるかもしれない」

 

 割とマジな目だ。

 

「あと、二度と江陵に近寄らなくなるかもしれない」

「そ、それはちょっと……」

「ですよねー」

 

 思ったよりも厳しそうな雰囲気に、思わず馬騰の腰も引ける。

 

「もう一つは、河賊退治だ。近いうちに行ってもらおうと思っていた案件があったから、それに同行させる」

「おおっ? それはなかなか良さそうじゃないか?」

「船の上での戦いは経験がないだろうが、まぁ、孟起は心配いらないとして、たんぽぽも身を守るくらいは余裕だろう……あの様子なら」

 

 

「無理無理ッ! ――激流に身を任せどうにかすちにゃっ! 無理だってヴぁ!」

 

 

「うん。大丈夫だよな、寿成?」

「あたしが聞きたいよ、空海殿」

 

 

 

 

「朝も早いが、みんな起きているか?」

「あたしは大丈夫だけどたんぽぽが……」

「うー」

「タレてるのか」

「タレてるんだよ」

「にゃー……すぴー」

 

 馬超と馬岱とその護衛が数名、それに空海とその護衛が数名で出立の時を待っていた。

 馬超は馬岱の身体を支え、護衛達が二人の荷物を抱えている。

 

「あと軍師見習いと指揮官見習いたちがくるから」

「見習い?」

「それぞれ学校を出たばかりなんだ。訓練はこなしてるが、実戦で上に立つのは初めてという連中だな」

 

 水鏡女学院と、江陵高等学院の第一期卒業生達だ。参謀が一人とあと全員が指揮官の候補という偏りである。

 男子校の方からは文官が一人も上がって来ていない。卑弥呼に担当させたのは間違いであったかもしれなかった。

 

「大丈夫なのか?」

「河賊退治くらいで今更怖じ気づく程度の奴らではない。……たんぽぽと違って」

「あー。あたしもここまで嫌がるとは思ってなかったよ……」

 

 河賊退治に出ることを告げてから、たんぽぽは陸に上がった魚のように全身を使って拒否を示し、泣き疲れて死んだ魚のようになるまで馬超に縋り付いて泣いていたそうだ。

 馬騰曰く半分以上嘘泣きだそうで、結局送り出されることになったのだが。

 

「寝ていた方が大人しくて良いかもしれないな」

「母様が起こさずに連れて行けって言うから、そのまま連れてきたんだよ」

「その寿成はどうしたんだ?」

「あー、母様なんか調子が良くないみたいでさ(髪が整わなくて空海様の前に立てないって泣いてたことは秘密にしておこう)」

「そうか。なら、後で見舞いに行くか」

「え!? そ、そうだな。少し時間をおいてから見に行ってやってくれよ、空海様」

 

 

 やがて早朝の靄に紛れるように、静かに馬車が到着する。

 

「お待たせいたしました、空海様」

「うん、おはよう」

「おはようございます」

 

 馬車から現れたのは長い黒髪に褐色肌の美少女だ。最近になって江陵の外にも売り出され始めた眼鏡を掛け、鮮やかな紅い服には桜模様の染め抜きが目立つ。

 

「孟起、紹介する。今回の作戦の指揮を執る周公瑾、さっき言ってた軍師見習いだ」

「周公瑾と言う。よろしく頼む」

「馬孟起だ。こっちの寝てるのが馬岱。引き返せないとこまで進んだら起こすから、自己紹介はそれまで待ってやってくれ」

「……ふむ、なるほど。了解した」

 

 周瑜がニヒルに笑い、釣られて馬超も笑う。

 

「よかった。あんたとなら上手く行きそうだ。よろしくな」

「ああ」

 

 二人の様子を見た空海が声をかける。

 

「公瑾」

「はっ」

「今回は、殲滅する事よりも戦いの経験を得ることを意識しろ」

「承知しました」

 

 神妙に頷いた周瑜を見て、空海も頬を緩める。

 

「期待している」

「お任せください」

 

 その自信に満ちた笑顔は、黄蓋によく似ている。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 第二層と第三層の人口は早期に限界を迎えたが、限界を迎えていたのは何もそれだけではなかった。

 代表的なものが本の製造だ。これまでの製本は、出版と言うには手段が古く、手作業でページを模写して手作業で束ねて作っていた。

 

 江陵では民の収入が多く、学習意欲が高い。

 結果、1冊500銭もする子供向けの絵本すら次々と売り切れる。

 500銭は江陵の外では農民一戸の1ヶ月分の総収入に匹敵する。収入が多い江陵の民達であっても、半月分の収入とほぼ同額である。

 軍略本も人気だ。高等学校での必修科目になっているから、自習用に買う人間も多いのだろう。孫子は全十三編が1冊に、六韜は全六章が2冊に、三略は全三章が3冊にまとめられて、それぞれ1冊1000銭で売られている。

 

 それらが売れすぎて、生産が追いつかなくなっている。

 本の製造はこれまで、ある程度の教養がある民達の層において、数百人単位で行っていた。主にご家庭で、毎日数ページずつ作られる内職のようなものである。

 当然、生産性は高くない。必然的に価格も上がるし、乱丁なども多かった。

 

 そこで新たに登場したのが木版印刷である。版画のイメージそのままの印刷技術だ。

 空海は木版印刷で大量生産を行う出版社を立ち上げ、本を一般化することを目論んだ。

 書の上手い人に原稿を書かせ、木版の彫刻師に写刻させ、印刷する。これまでの十分の一の人員で業務の大半が行える。にも関わらず、すぐに増員することになったのだが。

 ひとまずこれまで本の製造を行っていた知識層の人員の手が空いたため、彼らを記者にして、いわゆる雑誌の刊行も行った。

 元々教養の高かった人々だ。それぞれに与えられたコンセプトの取材を空海が思ったよりも上手くこなし、江陵の都市情報誌からファッション誌、小説本まで様々な本が刊行されるようになった。

 

 空海は出版社の元締めとして都市情報誌を空海ウォーカーにしようと企んだが、意味が通じなかったので空海散歩で妥協した。もちろん空海自身が散歩した場所も載っている。

 一方、ファッション誌は貂蝉の口出しで阿蘇阿蘇(あそあそ)という名前になった。貂蝉は筋肉に三つ編みのファッションで流行を牽引していると言い張っているのだ。

 

 なお、漢字の数は膨大であるため、活版印刷を行うのは難しい。少なくとも現在の江陵の技術ではまだ無理だと判断している。

 木版印刷でも、多色刷りくらいは行っているが。

 

 

 そして、小説本である。その中でも成人向け(・・・・)の娯楽本。

 需要があることはわかりきっているため、特に誰からも反対意見は出なかったのだが。

 

 ――もちろん小説本もこれだけではない。全年齢向けや15歳以上を対象にするものもちゃんとある。だが、成人向けは難しかった。だから作家を厳選することにしたのだ。

 

 厳選したのだ。

 

 

 司馬徽がモジモジしながら告げる。

 

「わ、私が書きます」

 

 その瞬間、空海の脳裏によぎった感情は複雑だった。あらかわいいとか、あの水鏡先生にそんなことさせるのはどうなの? とか、そういえば学院運営で最近ストレス貯めているように見えたなぁとか。

 

「徳操が、書くの?」

「ダメ……ですか?」

 

 空海は背が低い分、上目遣いに弱い。だが水鏡先生に艶本を書かせるのは流石に――しかし代わりに書く人間もいないし――けど徳操には学院もあるから――ストレス発散の場は必要――もはや才能の不法投棄――

 それでも結局、代案が浮かぶことはなく。

 

「……わかった。よろしく頼む」

「はい。お任せください」

「どうせ書くなら、お前自身も楽しんでやれ」

「はい! もちろんです!」

 

 いらんことを言ったかもしれない、だがとりあえず、徳操一人に汚名()を着せるわけにはいかない。

 空海は、司馬徽のペンネーム伏水に対して、ペンネーム静水として出版社の社長に名を連ねることにした。名前だけのつもりで。

 

 伏水と静水の名は後に、伏龍と鳳雛という二大軍師からあがめられることになる。

 

 

 

 さて、ファッション誌が出来たと言ったが、ここ数年の最も大きな変化はその根っこ、つまりオシャレという概念が出来たことにある。

 色とりどりの染料、様々な糸とその縫い方、スカートや下着や靴下、リボンやタイ、見せるための重ね着など。

 

 元々この三国志に似た世界には、洋服のようなものや比較的色鮮やかな布を使った衣服などがかなり多かった。

 しかし、布や服は主に奴隷に作らせており、手工業そのものを見下す風潮があったため質も量もふるわず、その割には高かったので一部の金持ちにしか受け入れられず、文化として花開くには時間がかかるものと思われた。

 

 そこに登場したのが江陵だ。

 江陵は独自の職人制度を作り、免許状を得た人間しか扱えない染料や素材をいくつも用意し、管理者(主に貂蝉と卑弥呼)らが中心となってファッションショーを執り行い、入賞作品の販売権を買い取って江陵の公営店で取り扱った。

 生産性を上げるために専業の仕事として地位を確立し、大量生産のための未来的手法を多数導入し、素材の生産から製品の販売までを行政主導で管理し、これまでに比べて8割も安く、それでいて高品質な衣料品を大量に売り出したのだ。

 

 さらに、美男美女を雇って販売促進を行ったり、街の外で行っている仕入れの際に支払う物品に格安で混ぜ込んだりして売り込み、比較的簡単に作れる染料や飾り縫いなどは全江陵民を対象に行っている教育の一環として広め、それらを含めて劉表を通して朝廷へ献上品として伝えた。

 江陵や劉表、そして朝廷から全土へと広がったファッション文化は、江陵を中心に年間数十億銭の市場を生み出し、材料の高騰によって全土の農民が僅かばかりの財を築いた。

 そうして豊かになった民がファッションへと興味を示し、やがてあらゆる国民へと新しい文化が広がり。

 

 その結果。

 

 

「な、なんか言ってくれよ、空海殿」

 

 リボンやらよくわからないひらひらとした布きれやらがついた、うぐいす色の服。白いキュロットスカート。白い編み上げ靴。

 俯いておきながら睨み付けるように上目遣いで空海を窺う馬騰。

 

「とてもよく似合っていて可愛いと思うが……調子が悪いんじゃなかったのか?」

「か、可愛いって……」

「聞けよ未亡人」

 

 顔を真っ赤にしてクネクネしてる馬騰と、純真な馬騰が眩し過ぎて疲れてきた空海。

 

「よし……よし! 翠とたんぽぽの分も買ってやらないとな!」

「というか、孟起とたんぽぽにご褒美を買いに来たんだろ。なんでお前の分を買うことになってるんだ? というか、調子が悪かったなら休めよ」

「そそそ、それじゃあ行くぞ、空海殿! まずはあっちだ!」

「聞けよ寿成。そっちは茶畑ばっかだぞ? おーい」

 

 その日はチビの手を引いて歩く一騎当千と、一騎当千に手を引かれて歩くチビが江陵のあちこちで目撃された。



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3-2 アイツが空き家に一番乗り!

 東からの風を受けて、大きなジャンク船が長江を上っていく。

 

「それで、策は?」

 

 馬超が神妙な顔で周瑜に尋ねる。

 対する周瑜はクスリと笑って馬超をたしなめた。

 

「そう硬くならずとも大丈夫だ。まずは味方の鎧と顔を覚えて、間違えてぶちのめさないようにしておいてくれれば良い」

「うっ……やっぱ、わかるか?」

「ああ。緊張はしておいた方が良いが、怖がるほどの相手ではないぞ」

「そうか……うん。楽になった。ありがとう、周軍師」

「こそばゆいな」

 

 二人は穏やかに笑う。

 

「実際、策というほどのものは必要ないんだ」

「そうなのか?」

「ああ、馬孟起殿は――」

「孟起でいい。真名はこれが終わってからな?」

 

 馬超は先ほどまで緊張をしていたとは思えないほどの気軽さで周瑜に笑いかける。

 勝ち気な笑顔は馬超にとてもよく似合っており、生来の気質を思わせた。

 

「ははは。わかった、孟起殿」

「殿もやめてくれよ~」

「わかったわかった。孟起。これでいいか?」

「ああ。……わかっててやったろ?」

 

 半眼の馬超に意地悪く笑ったまま肩をすくめる周瑜。

 

「さてな? 話を戻すが。孟起の仕事は、船に乗り移ってくる敵を倒すか、敵の居る船に乗り移って敵を倒すだけだな」

「そんなに簡単なのか?」

「ああ。伝令が要るような動きをさせるには連携に不安があるし、偵察や討ち漏らしの処理に使うには勿体ない人材だからな」

「あんまり褒めるなよ……って、なんかあたしのこと知ってるような口ぶりだな」

「祭殿――黄公覆と鍛錬をしただろう?」

「ああ、まだ負け越してるけどな」

「なかなかやる、と評しておられた」

「えー? 褒められてんのか、それ?」

 

 周瑜は苦笑を漏らしつつ勿論だと答え、続けて馬超に優しく笑いかけた。

 

「あの方はこういった人物評で世辞は言わない。ここまで褒められる武人は、お母上を含めて2人しか知らんぞ」

「そ、そうか? なんか照れるな……」

「うむ。祭殿の言葉だ、誇って良いだろう。……あれで酒飲み癖さえなければ文句はないのだがな」

「んん? ああっ! 黄将軍の言ってた口うるさい小娘って――」

「――ほう?」

「あ、やべっ」

 

 周瑜は獰猛に笑う。その笑顔は肉食獣が餌を目の前にしているかのような凄みに満ちており、草食系女子である馬超としては一刻も早く最大限の距離を置くべきであることは疑う余地もなかった。

 

「是非、聞かせてもらいたい話が出来たな、孟起?」

「いやー、あたしはちょっとたんぽぽの様子を見に行かなきゃって言うかー」

「おお、いいとも。いくらでも見てくるといい」

「そ、それじゃあお言葉に甘えて――」

「いやぁ……帰路が楽しみだな?」

「全てお話しさせていただきます」

 

 そして、距離を取ることも出来ない船の上では、結末は全く予期した通りなのだった。

 

 

 

 一晩が過ぎて。

 船上には、操舵方法のレクチャーを受ける馬超と、船酔いから回復したのに元気のない馬岱の姿があった。

 先ほどから部隊へと指示を出していた周瑜が戻り、二人を呼ぶ。

 

「目標まで2刻余り(30分強)だ」

 

 馬超の顔が引き締まり、馬岱の顔が僅かに青ざめる。

 

「早ければ、そろそろ敵が動き出す。2刻後には敵の船を奪うために戦闘になるだろう。まず無いとは思うが、移動中に奇襲を受ける可能性もある。注意は怠らないように」

 

 馬超は頷いたが、馬岱は落ち着きなく周りを見回している。

 

「孟起達はそろそろ身体を温めておいてくれ」

「わかった!」「……うん」

 

 

「……慣れぬうちは仕方が無い、か」

 

 周瑜のつぶやきは、誰の耳にも届くことがなかった。

 

 

 

 戦闘は、完全に予定した通りに始まった。

 遡ってきた長江の流れ、その中央付近から岸辺の河賊達の船に向けて急速に接近する。

 見張りだろう数人の男達が船内に飛び込み、そして再び甲板へと上がったときには、白銀の穂先が胸に突き立っていた。

 

「おっし、一番槍もらいっ!」

「孟起! 船内はこちらの兵が見て回る! お前は甲板を抑えてくれ!」

「りょーかいっ!」

 

 賊に一、二歩道を譲った馬超は、後退をやめて軽く踏み出し、一息で三人の胴を貫く。

 初戦は一人の怪我人すらなく、あっさりと終結した。

 

 

 馬超は、細い身体のどこにそれほどの力があるのかと思わせるほどに、力強く槍を振り回して血糊を払う。

 そうして今度こそゆっくりと周りを見回し、気付く。

 

「たんぽぽ! お前何やってんだよ!」

「ひーん。だってぇー……」

 

 馬岱は、船を移ることも出来ずに槍を持って突っ立っていた。

 

 

 遺体の検分をしていた周瑜が眉をひそめる。

 

「ふむ。派手な飾りと鈴を身につける河賊か」

「なんだそれ?」

「ん? たんぽぽの説教は済んだのか?」

「あー。なんかぐちぐち言ってたけど右に行くヤツだけ任せることにして置いてきた」

「大丈夫なのか?」

「アレでも馬家の人間だよ」

「……そうか」

 

 静かに同意した周瑜を眺め、改めて馬超が尋ねる。

 

「で、何の話だったんだよ」

「派手な飾りと鈴。この河賊たちの特徴だ。確か、長江のもっと上流の方で活動していた連中に同じような特徴のものがいる、と聞いた事があったんだ」

「じゃあ、そいつらが川を下って来たってことか?」

「おそらくな。ここ数ヶ月はこの辺りを縄張りにしているようだ」

「ふーん。鈴が特徴ねぇ」

「何でも頭目は『胸に七つの鈴を持つ女』らしいぞ」

 

 二人はその姿を脳裏に描く。

 

「そいつ鈴が好き過ぎだろ」

「そうだな……」

 

 

 

 ――リン

 

「!! 下がれ周軍師!」

 

 馬超がはじかれるようにして槍を構え、一瞬遅れて周瑜が声を上げる。

 

「もう次が来たのか!? ――アレは孟起に任せてお前達は周りを抑えろ!」

「たんぽぽを頼む!」

『ハッ!』

 

 船に飛び移ってきただろうその女性は、ゆっくりと身体を起こす。

 赤みがかった服と、白いシニョンキャップ、太刀を逆手に構え、堂々と張った胸には七つの鈴が――

 

「お前らァ――私の名を言ってみろォ~!!」

 

「知るかっ!」

「孟起っ、そいつは例の河賊の頭だ! それは任せる!」

「! おう!」

 

 身構える馬超を目の前に、賊の女性は不満そうに鼻を鳴らす。

 そして周りにも聞こえるよう、大声で名乗りを上げた。

 

「甘寧、一番乗り!」

 

 

 解答は、白銀の穂先だった。

 

「賊の名前なんざ、いちいち覚えておかねーよッ!」

「チッ!」

 

 甘寧はかろうじて穂先を捌きながら、大きく飛び退り手すりや段差を巧みに足場にして逃げ回る。小回りがきかない槍をあえて船上で使う相手に、油断は出来ない。

 甘寧は逃げ回りながら思う。これは名のある将か、と。

 

 甘寧が穂先を避け、弾き、掠め、避け、弾く。反撃に移れない。狭く障害物の多い船上で、それを利用する甘寧と、不都合しかない馬超との差が、埋まらない。甘寧は舌打ちと悪態を飲み込み、縄や小道具を蹴り上げて隙を狙う。

 馬超にかわされ、弾かれ、あるいは避けることもせずに無視される。絡みつくように投げられた縄を馬超は無理矢理引きちぎる。

 狭い船上で縦横無尽に駆け回っていた甘寧は右舷と左舷で向き合った瞬間、足下の段差を足先で捉えて、思い切り踏み込んだ。

 

 ――リン

 

「行くぞっ!」

 

 

 足場が揺れる、という未知の感覚に馬超は一瞬我を失う。

 首に迫る甘寧の太刀筋にかろうじて槍を割り込ませる。

 

「くっ」

 

 はじく、などという上等なものではない。腕の力だけでなんとか防いだだけだ。

 甘寧の攻撃の勢いに押されてそのまま数歩下がってしまう。

 不安定な足場であることを一瞬頭の隅に押しやり、踏み留まって石突きを振り上げる。

 

「ッらァ!」

 

 甘寧はその石突きすら足場にして馬超と距離を空ける。

 体勢を崩した馬超は追い打ちすら出来ずにたたらを踏み、槍を構え直した。

 

 力も早さも勝っておきながら、あわや首を落とされるところだったことに、馬超は警戒を強める。

 

 奇策で奇襲してくる相手に後手はダメだ。馬超は戦略を変え、先んじて攻撃を加えるために大きく踏み込んで突き上げる。

 甘寧は太刀ではじきながら無様に身体をひねって避ける。鈴がチリリと鳴った。

 馬超はその姿に心動かすことすらなく槍を引き、甘寧の胴体を狙って切り払う。

 甘寧は壁と手すりを走るように駆け上がり、大振りの後の馬超に斬りかかる。リン。

 馬超は太刀を防ぎ、踏み込みながら押し出す。距離を空ければ槍が有利。甘寧の後を追うように数度突くが全て防がれる。チリリン。

 甘寧が身体ごと飛び込むようにして繰り出した大振りの太刀筋をほぼ真正面から突いて払う。石突きで額を狙うが避けられる。リン。

 甘寧の回し蹴りを長柄で受けてしまい、手すりを折りながらなんとか甲板に留まる。

 

 ――やりづらい!

 

 馬超は素直にそう感じる。

 黄蓋ほどの恐ろしさはないが、甘寧はとにかくいやらしい手でこちらの決定打を阻む。

 攻撃に大振りが多いのも、読みやすいが防ぎづらい。さらに鈴の音に惑わされる。

 なにより、この狭い甲板で障害物を利用する相手に、揺れる足場で慣れない戦いをするというのは――

 

「面白ぇじゃねぇか」

 

 槍をふるいきれない船上、奇策を用いる油断ならない相手、慣れない戦い、しかし。

 

「あたしが勝つ」

 

 不敵に笑って告げた馬超の言葉に、甘寧の敵意がふくれあがる。

 

 馬超と甘寧は再び向き合って距離を詰め――

 

「――えいっ」

「じゃぎッ」

 

 突如横から現れた馬岱に石突きで打ち抜かれ、甘寧がその場に倒れる。

 

「なっ!? 何するんだ! たんぽぽ!」

「お姉様まわり! 周りを見て!!」

「あ? 周り?」

 

 馬岱、穴が開いて傾いた甲板、倒れた帆柱、目を回しているだろう兵士とそれを介抱する兵士たち、取り押さえられた賊たち、肉食獣のように笑う周瑜、怯えて固まっている兵士たち、折れた手すり、倒れたまま動かない甘寧、申し訳なさそうにしている馬岱。

 

「……。助けてくれ、たんぽぽ」

「お姉様……その、ごめんね?」

「う、裏切り者ぉ~っ!!」

 

 

 

 

「で、船は沈めてきたと」

「左様です」

「で、孟起とたんぽぽが沈んでいると」

「左様です」

「で、そこで一人浮いているのが、鈴をむしり取られた甘寧か」

「左様です」

「むーむー、むむむーむむ!(観念一番乗り!)」

 

 空海は一つ頷き、周瑜に尋ねる。

 

「まず、甘寧はどうするべきかな」

「法に照らし合わせれば死罪です」

 

 周瑜はあっさりと告げる。

 

「だが、生きたまま連れて帰って来ているということは別の方法を考えているのか」

「はい。更正の機会を与えてみては、と」

「なるほど? それほどの人材だったか」

「取り込むことが出来れば、江陵の力となるでしょう」

 

 打てば響くような周瑜の反応に、空海は心の中だけで感嘆する。

 改めて甘寧に目を向け、武闘派の彼女を制圧できる人材を思い浮かべる。

 

「ふむ……左慈と貂蝉の監督の下で半年間兵役に従事、様子を見て改めて沙汰を下す。これでどうだ、公瑾?」

「よろしいかと存じます」

 

 周瑜が頷いたところで馬超と馬岱に目を向ける。

 

「孟起の方は、寿成と公覆に任せよう。武人として成長すれば調子も戻るだろう」

「左様ですな」

「あとは、たんぽぽか」

「ええ……私見ですが、戦いを怖がっているように感じました」

「ふむ?」

 

 この時代の人間というのは人の死が近いため、強い相手に卑屈になったり、死生観がとても希薄であったりする。

 空海が見る限り、馬岱は強い相手にあまり媚びることもなく――何かを要求するときや相手の要求を拒否する時は除く――人を殺すことに関しても、馬騰や馬超の働きを誇っているように見える場面が多々あった。

 自分の手に掛けることに忌避感でもあるのかと思ったが、とうの昔に済ませたはずの初陣の後にも、変わった様子があったとは聞いていない。

 

「聞かなくてはわからないことかもしれないな」

「既に私や孟起から尋ねてみたのですが、かなり言いづらいことらしく……」

「じゃあ、俺が聞いてみよう」

「よろしいのですか?」

「場合によっては、お前達に理由も話さず、かばうことになるかもしれない。まぁ、なるようになるだろう」

「……承知しました」

 

 周瑜も納得したのか、静かに頷いた。

 空海は不安そうにしている馬岱に声を掛け、二人だけで話をしてみることにした。

 

 

 

「さて、たんぽぽ」

 

 馬岱がびくりと身体をこわばらせる。悪いことをしたのだと、思っているようだった。

 

「まず最初に聞いておく。お前が戦えなかった理由と、鍛錬から手を抜く理由は同じ……あるいは似たようなものか?」

「……うん」

 

 馬岱は少しだけ考えて、首をこくりと縦に振る。

 

「その理由は『なにがあっても絶対に』寿成や孟起に話すことが出来ないものか?」

「そんなことない!……です」

 

 空海は少し考える。

 

「言わない理由は『それを言ってしまうと、何らかの理由でたんぽぽが困る』からか?」

 

 馬岱は今度は声を出さず、顔を赤くしながら首を縦に振る。

 

「何故赤く……もしかして『それを言ってしまうと恥ずかしいから』か?」

 

 さらに顔を赤くしてかろうじて頷いた馬岱を見て、空海はよくわからない脱力感に襲われた。馬家の連中は何故こうも純情派が多いのだろうか。

 空海は顔を伏せがちな馬岱の肩に手を置き、目をしっかりと見つめて話しかける。

 

「わかった。俺はお前の理由を馬鹿にしないし、お前が言わない限り他の連中には言わないし、この件に関してお前が困ることはなるべくしないし、問題の解決のために助力してやるから。理由を話してみろ」

「う……」

 

 空海に見つめられ、馬岱は気まずげに目をそらす。

 二人の間に長い沈黙が降りた。

 

「……ホントに言わない?」

「うん。真名に誓おう」

「ホントだよ!?」

「ああ」

 

 馬岱は何度も逡巡し、何度も空海の意志を確認して、やっと口を開く。

 

「下着が見えちゃうから恥ずかしいんだもん……」

「なん…だと…?」

 

 乙女チックな馬家の一員だからと覚悟していた分よりさらに女の子らしい理由であったために思わず言葉を失う。

 

 ――というか下着が見えると恥ずかしいって武人にあるまじき……ああ、江陵の影響を受けているのか。あるいは俺や漢升が言っていたのを覚えているのか?

 

 馬岱は赤くなってうつむいたままだ。

 

「あー……その、下着が見えないような服は買わなかったのか?」

「だって叔母様たちたんぽぽの意見なんか聞いてくれないもん!!」

「お、おう」

 

 爆発するように顔を上げ迫る馬岱の勢いに押される。

 

「それにこんなこと言ったら叔母様やお姉様にたんぽぽ絶対怒られちゃうよ!」

「ありそうだなー」

 

 聞けば、着せ替え人形にされた上に意見は通らず、小遣いも少なくて自分では買えず、鍛錬を逃げているからと少ない小遣いすらなくなっているらしい。

 話しているうちに涙さえ流し始めた。

 

「わかった。うん。わかったから泣くな。理由もわかったし、助けてやる」

「ひっく……ホント? ……ヒック」

「うん。とりあえず、新しい服を見に行こう。俺が買ってやる。鍛錬や実戦に使える服に限ってなら、いくらでも買って良い」

「ぐすん……それだけ?」

 

 何やら嘘泣きっぽい雰囲気が漂い出す。これも馬岱なりの照れ隠しなのかもしれない。

 

「可哀想なたんぽぽに好きな服をいくらでも買ってあげるって言ってくれたら、すっごく格好良いと思うよ?」

「そういうことを思うたんぽぽは可哀想だと思わないからなー」

「ぐす……空海様のケチ」

「鍛錬が出来るようになれば、寿成たちがご褒美に買ってくれるだろ?」

「えー。空海様が買ってよね! グスッ……可愛いたんぽぽがお願いしてるんだよ?」

「お願いはしてないだろ……」

 

 先ほどまで泣いていた馬岱は、今はもう半泣きで、そして半分は笑っている。

 

「じゃあ、こうしよう。今日は鍛錬用と実戦用だけ買い、その服ですぐにもう1件の河賊退治に出てもらう。上手く終わらせられたらご褒美にいくらか買ってやろう」

「うーん……まあそれでいっか! 約束だよ!」

 

 あっという間に涙を引っ込めた馬岱を見て、空海は苦笑いを浮かべた。

 

「うん。これも真名に誓おうか?」

「あー! 真名を安売りしちゃダメなんだよっ?」

「一人称に真名を使ってるものの発言ではないな……」

「たんぽぽのことはいいの!」

「はいはい」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 秘密基地の温泉を潰し、甘寧ら河賊によって運び込まれていたものを検分し、家財道具を潰し、最後に基地そのものを潰して作業を終える。

 丘の上で待つ二人の元に戻り、一息吐く。

 

「悪いね、付き合わせてしまって」

「お気になさらないでください、空海様。これもお役目ですわ」

「左様。それに、いくら冥琳達が掃討した直後とはいえ、賊が現れぬとも限りませぬ」

 

 空海は今、黄忠と黄蓋を連れて、先日河賊討伐を行ったばかりの土地へと来ていた。

 もちろん秘密基地を潰すためである。場所がバレてしまった秘密基地など秘密と呼ぶ価値すらないのである。

 

 空海は最後にこの場所から見る景色を目に焼き付けておこうと視線を巡らせ、すぐに顔をしかめた。

 

「……公覆は先見の明があるね」

 

 あるいはフラグ建築士か。

 

「……もしや、賊ですか?」

「うん」

「えっ?」「どこじゃ?」

「アレだよ」

 

 そういって空海が指した先は、蛇行する川の真ん中付近。大型ジャンク船を、1隻の大きなガレー船が追いかけている。

 周辺に目を向けていた黄忠と黄蓋は揃ってそちらを向き、反応したのは黄忠だった。

 

「あれは……!」

 

 弓の名手である黄忠は目も良い。黄蓋も名人と言えるが、そこは野生で鍛えた黄忠には一歩及んでいなかった。

 

「後ろの船の船員は、太刀を持っているようです」

「……よく見えん。何人かが船首に集まっているのはわかるんじゃが、既に武器を抜いているということか?」

「はい。おそらくは」

 

 黄蓋の顔が引き締まる。

 

「急がねば。乗り移られてからでは手を出しづらくなる」

「そうだね。今は横風になってるから引き離しているけど、流れに沿えば1刻(15分)もせずに手漕ぎ船の方が早足になりそうだ」

 

 見下ろす先にある大河は、船の向かう先で大きく蛇行している。追い風になれば帆船の逃げ足が鈍ることは間違いない。船が速くなるほど相対的に風が弱くなるからだ。

 

「少し早足で行けば、ちょうど先行してる船の横に付けそうだね」

 

 空海たちが乗ってきた船は、ちょうど大きく蛇行しているその場所に停めてあった。

 今いる丘からは直線距離で1㎞程度。少々道が悪いとはいえ、大半は膝下程度の草が生えているだけ。空海たちの足ならば早足で10分も掛からない。

 

 

 

 船の周りに居る乗員を拾い帆を張った頃には、逃げていた船が目の前を横切っていた。

 

「まずは先行する船の横に付けて隅に寄せさせよ。船の位置を入れ替えたらワシらで賊を迎え撃つぞ」

「俺と公覆と漢升で行こう。一度横に付けて、俺たちが乗り移ったらすぐに離れろ」

「空海様、いけません!」「おやめくだされ、空海様!」

 

「……あの船な」

 

 空海の視線の先にあったのは先行していた船だ。空海の雰囲気に押され、黄忠と黄蓋は息を飲んだ。

 

「子供が乗っていた」

「っ!」「!!」

 

 船の甲板では、武器とも呼べないだろう木ぎれなどを持った大人たちが、震えながらも気丈にこちらを睨み付けている。

 

「兵はあの船に乗せる。船を動かすのに必要な船員だけ連れていく。乗り移るのは俺と公覆と漢升。俺たちが乗り移ったら、俺たちの船はあの船の護衛に回す」

「危険です、空海様」

「どうかご自愛くだされ」

「お前達……」

 

 黄忠と黄蓋の言葉を受けて、空海は言葉を詰まらせる。どちらかと言えば呆れで。

 

「黄漢升と黄公覆が揃っているのに、あんな50人程度の賊相手に危険などあるか」

 

 呂布や関羽が賊をやっているわけではないんだから、と心の中だけで続ける。

 二人は一瞬だけ呆けてその後顔を見合わせ、黄蓋は苦笑を浮かべ、黄忠は赤面した。

 黄両将軍がいれば護衛を任せるのに何の心配も要らない、と聞こえたのだ。

 

「それもそうですな」「……お、お任せくださいっ」

「じゃあ、そういう感じで手配して、賊の船に乗り込めー」

 

 周りで聞いていた兵士は、たった二人の護衛で軽々と死地に飛び込める江陵の主に、畏怖に似た感情で顔を引きつらせていた。

 

 

 

「頭ァ! こっちに来ますぜ!」

「戦闘用意! 敵は少ねぇ、まだ打つなよ!」

『応!』

 

 江陵の紋が入った船は、舳先をぶつけてすぐに離れていく。

 

 大きく揺れ軋む船の上を一瞬で移動した『三人』が賊船の甲板上に立っていた。

 一人は青い羽織姿の小柄な男。男の両脇に控える二人は大変な美少女だ。

 

「ヘイヘーイ……女だ、悪かねえぜ」

「ブッヒィイイイイ! 極上の獲物があっちから飛び込んできやがったな!」

 

 頭目の男の言葉に、賊の間から下卑(ブヒ)た笑いが上がる。

 三人のうち、先頭に立った小柄な男が口を開いた。

 

「獲物か。天敵の間違いだと思うが」

「どこに目を付けてやがんだチビが。こっちは50人も仲間がいるんだぜ? たった3人で何が出来る!」

「ふん」「……」

 

 黄蓋は見下すように鼻を鳴らし、黄忠は既に戦意をにじませている。

 二人の放つ強者の空気に賊たちから笑いが消えた。

 対して空海は、ただ一人ニヤリと笑って賊を見回す。

 

「50対3? そっちこそ、どこに目を付けてる」

 

 空海はニヤニヤと笑ったままだ。

 

「ここに居る二人は一騎当千」

 

 護衛の二人を指す。そして軽く指を振って一方的な(・・・・)戦いの火蓋を切った。

 

「――50対2000だ。悲鳴を上げろ」

 

 

 空海の言葉通り、賊たちの絶叫が船を覆った。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「孟起が沈んでるのは、最も手強かっただろう相手をたんぽぽに取られたからか」

「左様です」

「すっごく素早くてぴょんぴょん跳ね回って大変だったんだよ!」

「で、たんぽぽが捕まえて来た、小さくて素早くて黒光りしているというのがそれか」

「左様です」

「黒光りじゃなくて、黒髪だよ?」

「孟起が捕まえた蒋欽(しょうきん)という者が賊の頭なのだろう? そっちに転がってる蓑虫状の物体」

「左様です」

「たんぽぽもあっちの方が良かったのにー」

 

 空海たちが秘密基地の探索と破壊に向かっている間、周瑜たち討伐組は長江下流側の河賊退治へと向かっていた。

 討伐は無事に終わり、馬超は賊の頭目を、馬岱は賊で一番強かったという少女をそれぞれ捕縛し、重傷者もなく全員無事に帰還したということで周瑜も表情が柔らかい。

 

「じゃあ、わざわざ生かして連れてきたその賊二人は、先の甘寧と同様に手配して」

「お待ちください」

「ん?」

 

 空海の指示を周瑜が遮り、馬岱の横に転がされている少女を指す。

 

「こちらの者は、小柄で素早くとても身軽です。他の者とは別に、江陵の目として教育することも視野に入れるべきです」

「なるほど」

 

 NINJAにするのか。

 

「では左慈と于吉にそちらの教育も行うよう言っておけ。公瑾も参加するか?」

「はい。私としてもこういった経験は貴重です。是非参加させていただきたく」

「うん。それじゃ、その方向でよろしく」

 

 空海は、空気を読んで黙っていた馬岱を褒め、気になっていたことを尋ねる。

 

「ところで、その……蒋欽だっけ? なんでそんな状態になってるの?」

「はっ……えー、なんと言いますか。蒋欽はいかにも賊らしく、非常に口が悪く」

「お姉様かわいそー。クスクス」

 

 空海は一瞬だけ想像を働かせ、すぐにその光景が思い浮かんで苦笑した。

 

「あー。孟起が何か言われて真っ赤になりながらぼっこぼこにしたのか」

「左様です」

「顔とか刺してたよー」

「よくわかった。だから包帯だらけなのか」

 

 蒋欽は包帯と縄のコントラストも鮮やかな蓑虫状態で虫の息なのだ。自業自得とはいえかなり惨い絵面と言える。

 

「……もしかして、公瑾がその娘の教育に参加するっていうのも」

「お任せください。必ずや矯正させてみせます」

「そ、そうか」

 

 周瑜を送り出し、蒋欽と少女を運び出し、馬超を慰めて馬岱を褒めて連れ出し、馬騰と一緒に買い物に繰り出し、頑張った馬岱を何度も褒めていたら馬騰と馬超から妙な雰囲気がにじみ出し、空海は早々に逃げ出した。もちろん馬岱は泣き出した。

 

 

 

 空海が馬岱を裏切った翌日。

 

「たんぽぽが鍛錬に付き合えるようになったからと言って、アレはないんじゃないか?」

 

 空海の視線の先には、槍にしがみついて生まれたてのトムソンガゼルのように膝をふるわせている馬岱がいた。

 

「激流を制するは雰囲気――」

 

 その声は病人のように定まらず、その目は人生を50年ほど先取りしているかのように遠くの何かを見つめている。

 

「むごい」

「……すまん」「ご、ごめん」

 

 馬岱がいつもの調子を取り戻すのには、丸1日かかった。

 

 

 

 

 馬家の面々が西涼に旅立ってからしばらく。

 

 左慈は甘寧という生意気な兵士の参加に実に生き生きとした日々を過ごし、貂蝉は蒋欽というイケメンの教育係として肌をツヤツヤさせる日々を過ごした。

 于吉と周瑜もまた、諜報員の育成というやりがいのある(・・・・・・・)仕事に熱心に取り組んでいるようだ。時々様子を見に来るよう頼まれその通りにすれば、会うたびに確実におしとやかになっていく少女に、空海は恐怖を覚えた。

 

 

 数ヶ月後、蒋欽と甘寧が共謀し、隙を突いて江陵から逃亡。冬の長江を1㎞近く泳いで逃げたと聞いた空海の脳裏にアルカトラズという名前がよぎった。

 

 逃げ出せなかった少女の教育には、左慈、于吉、周瑜に加えて司馬徽、黄忠までが参加し始めた。とんでもないNINJAを作る事になってしまったのかもしれない。

 最近は会うたびに涙を流して喜ぶ少女に同情し始めた空海である。

 

 

 なお、江陵を逃げ出した甘寧は、南陽の袁さんとこに就職したらしい。




「甘寧逃亡も一番乗り!」

油断をすると会話に逃げたくなるのは、きっと二次創作作者共通の悩み。

『俺の名を言ってみろォ~!』
甘寧の史実のエピソードから。名前を知らなかった人間をぼこぼこにしたらしい。
そりゃあもう、こうするしかないだろう? ということで、こうなりました。

次回は閑話を挟んで原作時期へ。


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閑話 バトーさんじゅうななさい

■プラモデラー空海

 

「ようこそいらっしゃいやした。今日は何の御用でしょう、空海様」

「うん。折り入って相談があってね。職人長と工房長に会いに来たんだ」

「承知しやした。中でお話に?」

「そうだね。そうしようか」

「ではこちらへ」

 

 空海が今日訪れているのは戦略ゲームなどの駒を作っている工房だ。

 ここでは金持ち向けの彫刻や、各種遊戯の駒を作っている。

 

「お待たせいたしやした」

「うん。今日は特殊注文じゃなくてね。半分は商売の提案なんだ」

「半分ですか? もう半分は」

「提案が上手く行くかを試すための注文」

「……なるほど。うかがいやす」

 

 水鏡女学院に入っている遊戯板などは、ほとんどがワンオフのオーダーメイド品だ。一般に広く出回って欲しいものではない場合、その製造を制限する契約で注文を行う。

 この工房の客層では半分くらいがそういった特殊な注文で、残りがある程度決まった型から作る量産型だ。

 

「まずはこれを見て欲しい」

「人形ですかい?」

「うん。職人長も」

「へい」

 

 取り出したのはいわゆるアクションフィギュアというものだ。

 と言っても精々腰や首が回るとか肩が回るとかいうだけなのだが。

 

「へぇ……」

「これが何か?」

「うん。これ、作りが良ければ各部を動かしたり位置を変えた状態で止められたりー」

「こりゃすげぇ」

「確かに……しかしそれで?」

「つまり、動きを表現出来る。例えば獅子に斬りかかる兵士と猫に餌をやる兵士を同じ人形で使い分けられる」

「はぁ……?」

「子供たちが布の人形で遊ぶ時、多くは人形に動きを持たせている。『こんにちは』ってお辞儀をさせたりな」

 

 説明していくうちに工房長にも徐々に理解の色が生まれてくる。

 

「今まで布の人形しか選択肢がなかった部分に食い込める可能性がある。それどころか、硬質の材料を使うことで表現の幅が広がる……具体的には今まで少なかった男の子向けの人形として喜ばれる……かもしれない」

「なるほど」

「いいじゃねぇか、作ってみようぜ!」

 

 工房長が理解を示し、職人長が賛成したことでとりあえず先行する注文を出すことになる。

 

「まずは1万銭で作れるだけ作ってみてくれ」

「どんなものを作りゃよろしいんでしょう?」

「そうだな。子供の男女、大人の男女、兵士姿、動物あたりかな」

 

 需要が考えられる何種類かを提案する。もちろん、その先にある本当に作って欲しい物の布石も行う。

 

「……兵士、動物っと。わかりやした。早速手配いたしやす」

「うん。再来月頃にまた様子を見に来ようと思うけど、大丈夫か?」

「そうですね……職人長?」

「へい。問題ありやせん」

「では、そのように」

「うん。任せる」

 

 ――これで赤壁のジオラマを作るんだ……。

 

 空海は密かに決意していた。

 

 

 

 

 

■二大軍師

 

「朱里」

「はい! 私は諸葛(しょかつ)(りょう)孔明(こうめい)と名乗ることにいたしました」

「ほー。……孔明かー」

 

 空海は内心の驚愕を隠して何とか頷く。神スペックで思考を加速していなければ確実に吹き出していただろう。(あざな)に罪はない、と自らに言い聞かせる。

 

「うん。良い字だと思うぞ。よろしくね、孔明」

「ありがとうございましゅ!」

「うん。シメくらいは綺麗に決めて欲しかったな」

「そうですね」

「はわわっ! す、すみましぇん!」「あわわ……」

 

 ――先日、朱里と雛里の二人は水鏡女学院を無事に卒業した。

 

 無事という言葉は果たして正しいのか、空海は悩む。まだ学院創立から10年ほどしか経っていないというのに、これから数世紀は破られないような好成績を残すことを無事と言うのなら、紛れもなく無事なのだが。

 そして一人前と認められた証として、今日ついに字を考えてきたとのことで、今は孔明の字を本人の口から聞いたところだ。

 

 次の獲物は、紫色の帽子を目深にかぶった小娘。

 

「次は雛里ですよ」

「あわわっ! 鳳、統、士元です!」

 

 慌てすぎである。空海は内心の驚愕と苦笑を、わざとらしい絶叫への燃料にした。

 

「キェェェェェェアァァァァァァ帽子がシャァベッタァァァァァァァ!!」

「あわわ!?」「はわわ!?」

「徳操ー! 帽子が! 帽子が喋ってるー!!」

「あわっ違っ! 違いますー!」

「徳操助けて! 喋る帽子が追いかけてきたァァァァァァァ!!」

「待ってくださいー!」

 

 その様子を見て司馬徽はため息を吐く。

 

「はぁ……帽子を取れば良いのですよ」

 

 すれ違いざまに雛里の帽子をひょいっと取り上げる。

 

 ――流石に徳操は意図に気がついてくれたかな?

 

「あっ! 水鏡先生(しぇんしぇい)……」

「おお、徳操ありがと! 助かったー」

 

 大げさに汗をぬぐう仕草をしながら帽子を持つ司馬徽に近寄り帽子に(・・・)話しかける。

 

「鳳士元、もう人を食べちゃダメだぞ。……大丈夫だったか雛里? 鳳士元に食べられかけていたようだが」

「違うんですー!」

「どうした? 怪我でもあったのか?」

「ちがっ、そうじゃなくて、私が鳳士元なんです!」

 

 空海はニヤリと笑う。

 江陵には賢いのに純粋な子が多い。空海はそれをとても好ましく感じている。

 

「うん、わかってた」

 

「……え?」

「顔を隠さなくても自己紹介は出来るじゃないか。俺は、俺の前で名乗ったお前の顔が見たいんだ。お前がどんな帽子をかぶっているかを知りたいわけではない」

「え? あの、その」

 

 空海に撫でられて真っ赤になりながら雛里は大いに混乱する。

 一番慣れている男性とはいえ、男の人とこんなに無防備に向き合うことは滅多にない。雛里は誰かに何かを助けてもらおうと周囲を見回し、いつの間にか隣に来ていた親友からの視線に気がつき――ようやく、自身が深い後悔にさいなまれていることを自覚した。

 

「……ほら、雛里ちゃん」

「あ……。うん! 私――ごめんなさいっ、空海様!」

「よし許す! ただし。もう一度ちゃんと名乗れ、雛里」

「はい! 私は鳳、統、士元です! よろしくお願いします、空海様!」

「うん。良い字だな。よろしく、士元(・・)

 

 鳳統と空海が向かい合って優しく微笑み合う姿に、横で見ていた司馬徽も孔明も温かい気持ちに包まれる。

 

「良く出来ましたね」

「雛里ちゃん、お疲れ様」

「あわわ、す、水鏡先生……朱里ちゃん」

「ほら、貴女の帽子ですよ。どうすればいいのかは、わかりますね?」

「はい! 先生、空海様、申し訳ありませんでした」

 

 鳳統は帽子を受け取ると、それを胸に抱き(・・・・)司馬徽に対し深く頭を下げた。

 

「この経験を次に活かしなさい」

「はい!」

 

 そして未来の二大軍師が見つめ合い、柔らかく微笑み合う。

 

「朱里ちゃん、ありがとう」

「ううん。――雛里ちゃん、よかったね」

「うん! 朱里ちゃんも、おめでとう」

 

 二人を見守っていた空海だが、一つ頷くと威厳を持って告げる。

 

「では、お前たちに言っておくことがある」

「「はい!」」

「もうクッキー様はやめろ」

「既に対策済みです!」「もう大丈夫です!」

 

 空海は鷹揚に頷き、爆弾を投下した。

 

元直(げんちょく)のことをクッキーちゃんと呼ぶのもやめろよ?」

「あわわ!?」「はわわ!?」

 

 何故バレたのかと噛みまくる二人を冷ややかに見下ろす。

 元直とは徐庶(じょしょ)元直のことだ。

 孔明と鳳統の学友だが、こちらは親が江陵に住んでおり、卒業と同時に元直の字を贈られている。空海への挨拶も早くに済ませているため、今日は自らに遅れて挨拶を行う友人二人のためにクッキーを焼いている。

 

「確かに元直の作るクッキーは美味しいけれども」

 

 ――徐庶は空海の唯一の弟子だ。お菓子作りの。

 

 徐庶は、空海が水鏡女学院に顔を出すたびに、独自に工夫を加えた、しかしあと一歩足りないクッキーを親切心から贈ってくるという、よく気の回ると同時に空海にとっては扱いに困る娘だった。

 そこで、どうせ贈ってくれるなら美味しいものが良い、という空海の思惑からクッキーの作り方についてただ一人空海から直接教えを受け、結果、クッキー作りに関して江陵で右に出る者はいないという二代目クッキー様が出来上がってしまった。

 その彼女の水鏡女学院での愛称が『クッキーちゃん』である。内気な彼女が身内にのみお菓子作りを伝えていることから『クッキーの伝道師』とも呼ばれる。

 

「お前たちの間ではクッキーちゃんと呼んでいるんだよな?」

「あわわわ、どどど、どうしよう朱里ちゃん」「はわわわわ」

 

 どう切り抜けるのかと噛みまくる二人を冷ややかに見下ろす。

 

「よしわかった。呼び名を改めるまで、お前たちを『はわわ軍師』及び『あわわ軍師』と呼ぶことにしよう」

「はわー!?」「やめてくださいー!」

 

 それでも徐庶の持って来たクッキーにはかじりつく二人である。

 

 

 

「二人の字にずいぶんと驚かれていたようですが?」

「うん。朱里が孔明を名乗るとは思ってなかった。欲を言えば、もっと『今です!』って感じに期待したいんだけど……あの子は『はわわ』だからなぁ」

「……はわわです?」

「――徳操、やめるんだ。本人を前に吹き出したら困る」

 

 これ以降、なにかと「イマデス!」を連呼する少女が江陵で目撃されるようになる。

 連呼するようになった理由は知られていない。

 

 

「あ、士元も良い字だと思ってるからね」

「もちろんです」

 

 

 

 

 

■絡繰空海

 

「だから、鎧の内側はある程度手を抜いてもいいんだよ。見習いとかに仕事を出すとかして職人の労力は目に見える所につぎ込むんだ」

「しかしそれでは鎧を脱いだ――」

 

「武器は一体型は無理かな?」

「こんなちーせー弓を木で作ったら子供でも折っちまうよ」

「思い切って鍛冶屋に発注――」

 

「あー、なら安い方は一体型にしてしまおう。鎧を着るんじゃなくてそもそも身体そのものが鎧を着た状態って感じで作るの。武器は別」

「それでは作業工程――」

 

「鍛冶屋と服屋にも染色を試してもらいたいな。あと小物の製作も」

「ならばこちらのツテで――」

 

「市場の感触を確かめるために、仕様を固めたらいくらか先行して作って、第二層以上に新しく引っ越してきた人間に記念品として配ってみようと思う。この辺を各千体作るとしたら、いくらになる?」

「千体!? しょ、少々お待ちくだせぇ」

 

「うーん。1500万銭は少し高いな。もう少し価格を落とせないか検討しておいてよ」

「承知しやした!」

「制作期間は……そうだね、受注から1年程度で。今のままだと厳しいだろうけど、その辺も考えておくようにね」

「わかりやした。出来るだけのことはしておきやす」

「よろしくね」

 

 

 

 

 

■第一回大酒飲み大会(最終回)

 

「人口300万人突破記念祭、第一回江陵大酒飲み大会どんぶり杯。いよいよ開始の時間が近づいて参りました。実況は私陳琳(ちんりん)が。解説席には江陵の主、空海様をお招きしています。空海様、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 

 大通りの端の方に作られた特設ステージ上で今、密かに緊張感が高まっていた。

 

「さて、どんぶり杯では、一次予選、二次予選を勝ち上がった8名が決勝で杯を交わすことになります。空海様、早速ですが何故このような方法となったのですか?」

「はい。まず、今回のどんぶり杯には、2000を超える参加希望が寄せられました」

「なんと! 2000ですか!」

 

 実況席の二人はちらちらとカンペを見ながら会話している。わざとらしい会話もこの手のイベントの醍醐味だ。

 

「そのうち書類の選考で落ちたものは100にも満たず、参加者をある程度絞るために一次予選を開催しました」

「一次予選では3升(600ml)の酒を半時(1時間)で飲みきれるかが試されました」

 

 陳琳が手元に置かれた1升のコップを持ち上げてみせる。

 酒を安く提供した酒家の名前が入った限定品だ。珍しい催しの記念として、ほとんど全ての参加者が持ち帰ったらしい。

 

「本番でも用いるかなりキツい酒でしたが、参加者のうち500名以上がこれを通過してしまいました。予想外でしたね」

「私も事前に試飲しましたが、これが辛いのです。1升で音を上げてしまいました」

 

 酒の宣伝を挟む。試飲も提供されていたため、会場にはほろ酔いの観客もいる。

 

「そこで、この大会は予想よりも参加者の質が高いのではないか、と判断し、当初考えていた『大勢でたくさんのお酒を消費する』という大会の方針を変えることにしたのです」

 

 元々は、適当にエントリーして適当に飲み、特に多く飲めた参加者に記念品を渡す程度のものを想定して準備していた。

 

「それが今回の8人の決勝進出者、彼らを生み出した二次予選へと繋がるのですね?」

「その通りです。二次予選では1斗(2リットル)の酒をいかに早く飲みきるかを競い、その上位8名が決勝へと駒を進めました」

 

 ちなみに内訳は江陵系女子が3人、江陵在住の男性が3人、旅人の男性が1人、偏将軍が1人である。

 

「この二次予選、なんと100名以上が1斗を飲みきったそうです」

「上位は特に早かったですね」

「1位と2位の通過時間は、驚くことに半刻(7分)を切っています!」

「8位ですら1刻(14分半)ほどですから、接戦だったと言えるのではないでしょうか」

「空海様の仰る通り、参加者の質の高さがうかがえます」

 

 20分を切るような猛者はこの8人だけだった。実力が特に抜きん出ていたため、この8人を決勝進出者としたのだ。

 

「さて、決勝では半時(1時間)でどれだけの酒が飲めるかが競われます」

「一杯2升半(500ml)のどんぶりで渡される酒を何杯飲めるか、という戦いですね」

「このどんぶりが、『どんぶり杯』の由来ともなっています。……これは大きいですね」

 

 どんぶりを手に持って掲げる陳琳。どんぶりとしてはほどほどだが、酒の器と考えればとんでもない大きさである。

 

「ははは。しかし決勝に集う選手達にとってはそれほどでもないのでしょう」

「なるほど。仰る通りですね、ではその期待の選手紹介に移りましょう」

 

 

「まずはいきなり優勝候補筆頭、江陵武官の最高位、黄将軍です!」

「公覆選手は二次予選を1位で通過していますが、二次予選の審査員によると『酒が消えたように見えた』そうですよ」

「なんと黄将軍、あまりに早く1斗を飲みきってしまったため、確認のためもう1斗飲んでいます。2度目の1斗を飲むのに掛かった時間が予選1位の通過時間となっています」

「その場で2斗(4リットル)飲んだことになりますね」

「この大会のために昨晩から禁酒をしているそうで、今も手が震えて……え? 昨晩?」

「諦めてください」

「……。では次の選手です!」

 

 

「西涼馬家は酒でも強い! この日のためにはるばる西涼からやってきました! 予選第2位の馬家当代当主! 馬将軍です!」

「寿成選手は公覆選手ほどお酒に強くありませんが、早飲みには定評があります。制限時間付きという条件であれば有利かもしれません」

「しかし馬将軍、女の私から見ましても可愛らしいと言いますかめかし込んでいると言いますか気合いの入った衣装と言いますか」

「よく似合っていますね」

「あ、真っ赤になりましたね。――え? もしかしてそういう関係?」

「違います。次の選手に行きましょう」

「あ、落ち込んでる」

 

 

 

「絶対に負けられない飲み会が、そこにはある……。第一回江陵大酒飲み大会、どんぶり杯、いよいよ開幕です!」

 

 酒が運び込まれ、どんぶりに注がれ、選手たちの前に並べられていく。

 選手にどんぶりを渡したり、受け取って片付るサポーターとして、酒家から派遣された娘たちがそれぞれの選手の隣に付く。

 開始の合図を任された酒家の娘が、緊張した面持ちで銅鑼の前に立ち、会場から音が消えた。

 

 

「よーい……」

 

 

 

 ジャーンジャーン!

 

「ゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴク」

「気持ち悪ッ!!」

「おーっといきなり黄将軍のどんぶり流し飲みだァ! 一つのどんぶりに口を付け、もう一つのどんぶりで上から酒を流し込む! 私は目の前の光景が信じられません!」

「俺も信じたくない! 何あれ気持ち悪っ!」

 

 あまりの暴挙に空海がどん引きし、観客からも変な声と歓声が上がる。

 

「一方、予選第2位の馬将軍! こちらは両手でどんぶりを支える可愛らしい飲み方だが凄い勢いだ!」

「良かった……勢いは凄いけど寿成がマトモで良かった……」

「いやぁ、私も女ですが、馬将軍の飲み方は何やら一生懸命さが見えて保護欲をかき立てられますね」

 

 飲み方を評されるという稀な体験に馬騰の顔に赤みがさす。

 

「お前にはやらんぞ。俺の癒やしだからな」

「あ、目を回した」

「ええっ? しまったっ、寿成、大丈夫!?」

 

 いつもの調子でからかってしまったが、今は酒を飲んでいる。目を回して倒れたということは緊張などが重なって急性アルコール中毒になったという可能性もある。空海は馬騰に駆け寄って抱き起こす。

 いよいよ真っ赤になった馬騰を見て、陳琳はお前がとどめを刺したんだ、という言葉を飲み込んだ。大会を通じて空海の気さくな人柄は理解していたが、その実とんでもない高官なのだ。馬騰と合わせれば、一族が歴史から、故郷が地図から消えかねない。

 陳琳は一瞬でそれらのことを考え――

 

「あちらに控え室があります! 人払いはしておきますので、どうぞごゆっくり!!」

「お前、あとで覚えておけよ」

 

 自らにとどめを刺した。

 

「ゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴクゴク……」

 

 

 

 最下位となってしまった馬騰だが、空海にはそれほど悔しそうには見えなかった。来年もまた会う約束をして別れる。

 

 そして優勝はもちろん黄蓋だった。

 

「優勝した黄将軍には審査員長周軍師様より書類仕事1年分が贈られます!」

「ゲェーップ……ほえ?」

 

 

 

 

 

■絡繰太子空海

 

「空海様! この絡繰り制作費1000万銭とはなんですか!?」

「落ち着け公瑾」

「ぐ……理由を、お聞かせ願えますな?」

 

 周瑜は書簡を綺麗にまとめ直して姿勢を正した。何度か深呼吸をするうちに息も整い、目にも理性的な光が宿った。

 

「まずは、作っているのは人形だ」

「は? 人形、ですか?」

「そう。少し凝った人形ではあるが、まぁ子供の玩具にあるあれだ」

「……子供の玩具に、い、1000万銭、ですか?」

「落ち着けと言うに」

 

 日本円に換算すれば少なく見積もっても億単位である。下手をすればビルが建つ。

 

「……失礼しました。どうして、そのようなことを?」

「うん。公瑾は、以前に俺が贈った人形をまだ持っているか?」

「ぇ、あの……はい」

 

 10年近く昔、周瑜がまだ江陵に来たばかりの頃に、当時彼女が強く憧れていた黄蓋をモデルにした人形をプレゼントしたのだ。

 周瑜が少し赤面しているが、空海は気にせずに続ける。

 

「お前を迎えた翌年に、公覆を模した人形を売り出した。その翌々年には漢升を模したものに入れ替えてみている」

「それは覚えております」

 

 当時の女の子たちにとってはそれなりに大事件だったのだ。『お人形』は彼女たちのお小遣いで買える安さではなかったが、親たちの手が届かないほどではなかった。

 

「で、その後の経過を調査しているんだが」

「経過?」

「詳しくは孔明に聞け。資料をまとめさせている」

「……承知しました」

 

 周瑜は資料の確認の必要性を頭の片隅に留め置く。

 

「件の人形の発売を機に、公覆と漢升、それぞれに対して好意を持つ女子の割合が劇的に増加している。兵士を希望する者もな」

「……は?」

 

 告げられた内容が余りに想像とかけ離れていたためか、周瑜は呆けたような表情をしている。頭の回転が速く、普段から凛々しい彼女にしては珍しい表情だ。

 

「し、失礼いたしました。しかし、どうしてそのようなことが?」

「うん。それも調査の資料にあるんだが、おおむね人形に対する思い入れが現実のそれに反映されている、と言っていい傾向を示している」

「そのような……いや、しかし……では祭殿に対して……」

 

 思考に没頭し始めた周瑜に、空海は容赦をしない。

 

「では、江陵の兵士を模した人形を男子向けに用意したらどうなる?」

 

 周瑜は顔を上げ、空海を見て、その向こう(・・・・・)を見て、再び視線を戻した。

 そこに見える表情はいつになく厳しい。

 

「さて公瑾。1000万銭は高かったか?」

「……直ちにもう1000万銭、手配いたしましょう」

「任せる。現状は孔明から説明を受けてね」

「はっ」

「あ、そうだ」

 

 空海はきびすを返して去ろうとする周瑜を止める。

 そろそろ認めないといけないかな、と思ったのだ。

 

「公瑾、お前に俺の真名を許す。まぁ、普段は号の方で呼ぶように」

「はっ……」

 

 跪いた周瑜を見下ろし、空海は静かに告げる。

 

「俺の真名は天来(てんらい)。俺に仕えろ、周公瑾」

 

 

 

 

 

■初号機

 

「これが西から来た馬?」

「兵士の間じゃ赤兎馬って呼ばれてるヤツらだよ。あたしの馬たちもこれ」

 

 馬騰がシルクロードを通って入って来た大型の馬を江陵まで連れてきた。3年ほどかけて集めた300頭らしい。流石に最西端の土地では出回っているものも違いが大きい。

 馬車鉄道に使えるかもしれない、ということで今は駅で貨車と繋いでいる。

 

「どうです、勇ましいでしょう? 余裕のいななきだ。馬力が違いますよ」

 

 西涼からついて来た飼育員のおっちゃんも誇らしげだ。

 

「……あのおっちゃん悪い人じゃねーんだけど、なんでかあたしの馬をキャディって呼ぶんだよな。麒麟だっつってんのに」

「キャディに乗るヴァモーキか……イイネ!」

 

 空海はキャディ(※キャデラックの愛称)と聞いて霊柩車を思い浮かべる。霊柩車を乗り回す馬超(ヴァモーキ)なんて三国無双にも登場しそうで実に空海好みだ。

 

「あたしは馬孟起だ! 下唇を噛むな! んで、キャディじゃなくて麒麟っ!」

「お姉様もツッコミが板に付いてきたよねー」

「……たんぽぽ、午後の鍛錬は覚悟しておけよ」

「えーっ! 横暴だよお姉様!」

 

 そう良いながらも馬岱はからかうのをやめない。周囲の耳目を集め始めたことに気付いた空海が口を出す。

 

「たんぽぽ、諦めて行ってこい。たんぽぽは元気がない時の方が可愛いと思うぞ」

「空海様ひどすぎるよ!」

「あははは。空海様はよくわかってるよなー」

「お姉様まで!?」

 

 

 

 馬騰の待つ第二層の食事処を目指して馬車で移動中、新しく出来た料理について空海が説明していると、馬超が何かに気付いた。

 

「なあ空海様、アレってなんだ?」

「ん? どれだ?」

 

 馬超が指したのは雑貨屋だ。店先に大きな馬の絡繰りが飾られている。

 

「あの黒い馬だよ」

「ああ……あれは絡繰り江陵馬三号だな」

「絡繰り江陵馬三号?」

「絡繰りは人形の一種だ。近くで見ればわかる。三号というのは大きさだな」

 

 一号で等身大、二号で縦横奥行きが各半分、四号で更に半分といった具合だ。

 馬車を止めて雑貨屋に立ち寄る。

 

「あー。木彫りなのかこれ」

「うん。足とかが多少動かせるようになってるから、例えば走ってるかのように格好をとらせることも出来る――こんな風に」

「おおっ! すげぇ!」

 

 左右の後ろ足を伸ばしきり、前足の片側をピンと伸ばした姿勢を取らせる。今にも走り出しそうな躍動感は、細部までこだわった作り手の技量によるところが大きいだろう。

 

「こっちの大きいのが三号、そっちでたんぽぽが見てるのが六号。七号以下の小さなものは全部木彫りの人形で、絡繰りがあるのは一号から六号まで。六号は絡繰りのと木彫りのがある」

「へぇ。白いのと黒いのしかないのか?」

「あ、お姉様こっちに栗毛のとか月毛のもあったよ!」

 

 一人で奥に進んでいた馬岱が声を上げる。栗毛は木の色を少し暗くしたようなもので、月毛は明るい木の色を更に明るくしたような毛色だ。

 

「江陵馬っていうのは、涼州馬からさらに選別した青毛や白毛の馬なんだ。それは普通の涼州馬だな」

 

 青毛は黒、白毛は白い毛色を指す。どちらも希少だが、江陵のように馬を大量に扱っていれば年に十数匹は手に入る。

 

「へぇ。――って涼州馬に江陵って名前付けてんのか?」

「毎年、涼州から仕入れている馬の半数くらいを民に卸しているんだが、体格や毛並みの良い青毛や白毛の馬は、特別に江陵馬と名を付けて高値で売ってるんだ」

 

 荊州刺史が洛陽に向かう際に幹部たちの馬車を引かせていたことや、その後に皇帝へと献上されたことで人気に火が付き、今や漢の北の外れである幽州からも買い手が訪れるという超人気ブランドとなっている。

 

「うーん。なんか納得いかないような……」

「馬家が仕入れている漬け物だって民に売ってるだろ? 特に良い物に馬家お墨付きって書いて売ればいいんだよ。その程度のことだし、そんなことは止めたりしない」

「あー。なるほどなー。そう考えると別に大したことじゃない気がしてきた」

 

 1頭2万銭で仕入れている涼州馬を100万銭超で売っていると聞いたら考えを改めるかもしれないが。言わなくても良いことは言わずにいる空海である。

 

「お姉様って単純だよねー」

「……たんぽぽ、自滅したか」

「あ。」

 

 馬岱が恐る恐る振り返ると、そこには蒲公英(えさ)を目の前にした草食系女子が笑顔を浮かべて立っていた。

 

「鍛錬三倍――な?」

「ひいぃっ!」

 

 

 

「しくしくしくしく……」

 

「買ってやろうか?」

「え?」

 

 突然声をかけられた馬超は驚いて振り返る。絡繰り江陵馬に夢中になっていて近づいてきた空海に気がつかなかった。

 

「その馬。欲しいんだろ?」

「うっ。い……いいのか?」

 

 確かに興味はあった。あったが、1つで小遣い4ヶ月分なのだ。馬超の手持ちのお金では足りない。

 

「いいよ。欲しいんだよな?」

「ほ、欲しい……です」

 

 馬超の返事を聞いて、空海が店員を呼ぶ。

 いくつかをまとめて購入し、大きいものは馬車に運び込んでおくように伝えたところで馬超の様子に気がついた。

 

「ん? なんだ、そっちの人形も欲しいのか?」

 

 馬超がちらちらと見ていたのは女の子らしい(・・・・・・)布の人形だ。

 そういえば馬家(・・)だったなと空海が思い返す横で馬超が真っ赤になる。

 

「わ、悪いかよ! じゃなくて、あたしは別にっ!」

 

 馬家の気質を知る空海としてはどうやって引き取らせるかが問題だ。

 

「じゃあ、取引しよう」

「こういう女の子っぽいのは――っへ? 取引?」

 

 混乱から立ち直った馬超は今度は呆けた表情に、そして徐々に渋い顔となる。

 取引なんていう言葉はいかにも苦手ですと言わんばかりだ。

 

「そう。お前を模した人形を作る許可をくれ」

「あ、あたしの人形!?」

「うん。どういう人形かは――」

 

 空海はニヤリと笑う。

 

「実際に所持してみなくてはわからないだろ?」

「……あ」

 

 空海の意図に気がついた馬超は再び呆けたような表情に戻って、やがて落ち着きなく人形を見回し始めた。

 

「挨拶代わりの分と取引の分で、そうだな……『ここにある人形全て』で、どうだ?」

「全て……えええっ!? 全部!?」

「うん。代わりにお前を模した人形を好きに作っていいという許可をくれ」

「い……いいのか?」

 

 馬超の様子は先ほど馬を購入した時の焼き増しだ。

 

「それはこちらの台詞だ。取引に応じるか?」

「……うん。よろしく、空海様」

「ああ」

 

 

 

 西涼に帰還する馬超は誰の目から見ても上機嫌だった。

 

 翌年、江陵を訪れた際に馬超(にしき)人形六号と並んで売られる絡繰り錦馬超(きんばちょう)二号を見つけて言葉を失ったことは、本人以外に誰も知らない。




徐庶はこれからも名前以外登場しませんし活躍しません(多分)

没ネタ
「あ。」振り返るとそこには世界一可愛い般若さんじゅうななさいが。「頭冷やそっか」
※この時点で翠は17歳、蒲公英は15歳。原作開始3年前くらい。という本作設定。


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4-1 江陵大要塞

「お前に民が救えるのかッ! このいやしい豚め!」

「はわわ!? 空海様やめてください!」

「あわわっ! 豚さんをいじめちゃダメですー!」

 

 ただの餌やり体験の光景である。

 

 

「ふぅ……堪能した」

「豚さんごめんなさい……空海様を止められませんでした……」

「ええっと、次は公共浴場へ立ち寄ります」

 

 

 

「ええのんか! ここがええのんか!」

「あわわ!?」「あわわわが目にー!」

「参ったな……二人とも泡だらけで区別が付かなくなってしまった……」

 

 ただの入浴の光景である。

 

 

「ふぅ……(気分が)温まった」

「空海様~、雛里ちゃんの髪の毛がまだ乾いてないので待ってくださいー」

「あわわ、しゅみません……」

「じゃあ先に陳留に行って旗揚げしてるから後からちゃんと合流しろよ?」

「はわわ!?」「あわわ!?」

 

 

 

「えっと、次はお店を見て回ります」

「今回は南の茶屋区画です」

 

 孔明と鳳統が先導して歩き出す。

 空海は一瞬考えて立ち止まり、何もない空間に向け、手の平を上に突き出してのんびりと要求(・・)する。

 

「空海散歩用覚え書き帖~」

「ここに!」

「ぉ。幼平、良い仕事だ」

「――はいっ!」

 

 突如現れてメモ帳を差し出すくノ一装束は、周泰(しゅうたい)幼平(ようへい)

 空海と同じくらいの背丈で、地面につきそうな程に長い黒髪を持つ小柄な美少女だ。

 何年か前に河賊をしていたところを捕らえられ、軽めに人格否定したり優しく人格を破壊するような教育を念入りに施された末に生真面目で素直な良い子に生まれ変わった。

 空海を信奉するあまり褒められるたびに涙を流して喜ぶ残念な娘でもある。

 

「仕事中は?」

「泣きません!」

「わ、わぁ……」「み、明命ちゃん……」

 

 一瞬で表情を消し、しかし唇を噛んで血を流しながら涙をこらえる周泰の姿は、軍師二人にとってはかなり引く(・・)光景だ。普段の彼女を知るが故になおさらである。

 

「血は拭いておけ。……戻って良い」

「はい!」

 

 周泰は現れたときと同じように一瞬で姿を消す。軍師二人は目で追うことも出来ない。

 近くに居ることはわかっているため慌てたりはしないが、江陵の将軍たちから直接の指導を受け続ける真正の軍人の身体能力に驚くのも無理はなかった。

 

「はわわ……明命ちゃん凄いです……いろんな意味で」

「う、うん。私あんなこと絶対に出来ない……いろいろな意味で」

「孔明と士元は幼平が絶対に思いつかないようなことを考えられるじゃないか。卑下することはないぞ」

「はわ、空海様」「あわわ、ありがとうございましゅ」

 

「じゃあ、幼平には絶対思いつかないような道順で案内してくれ」

「はわわ!?」

「ご、護衛の観点から薦められません!」

「そうかー。残念だなー」

 

 もちろん普通に案内された。

 

 

 

「あの、空海様。一つ伺いたいのですが」

「なんだ?」

「何故これほど積極的に商店を回られるのでしょうか?」

「水鏡先生もよく見てくるように仰っていましたが……」

 

 空海が散歩をし、情報誌に載せるのは末端の店がほとんどだ。大手の商家からは面談の申し込みも多いが、実際に会うのは重要な要件の時だけだ。

 そのような対応に比べれば、庶民が出入りする店などに積極的に足を運ぶ空海の行動は軍師たちには合理的に思えなかった。

 

「ああ、そうか。お前たちは江陵育ちだからわからないのかもしれないな」

「え?」「江陵育ちだから……?」

「そうだ」

 

 頭の回転が速く、学んだことほぼ全てを暗記している二人なら、どこかで知識と一致しているだろう。気付いていないということはおそらく知らないということだ。

 

「江陵の中と外では商家、商店の扱いが異なる」

「扱いが」「異なる……」

「江陵の外では、商店で値切るのは当然の行為なんだ」

「値切るのが?」

「当然、ですか?」

「何故だと思う?」

 

 面白がって言葉を紡ぐ空海とは対照的に、孔明と鳳統は真剣そのものだ。

 二人はすぐに解答に行き着く。

 

「明らかに高値で置いてあるから、でしょうか」

「(コクコク)」

「その通りだ」

 

 自らの解答に納得していない様子の二人に答え合わせをしていく。江陵の商人を基準に考えているから誤解があるのだと、言い聞かせるように。

 

「一つ。商人が『安い』と言ったら仕入れが安かったのだと思え。売値は高いままだ」

「……」「……」

 

 二人の生徒は真剣に聞いている。学ぶことに真面目な天才は見ていて気持ちが良い。

 

「一つ。商人が『希少』と言ったら売り物にならないものが少ないと思え。商人たちならいくらでも手に入れられる」

「一つ。商人が『今しかない』と言ったら一番高い価格が今だけという意味だ」

「一つ。商人が『買いたい』と言ったら買い叩けると思っているか何かを買わせるための布石だと思え」

 

 そろそろわかったか、と見れば、二人はつらそうな顔をしている。

 

「つまり、江陵の外の商人たちは騙すことばかり考えている、という意味でしょうか?」

「正確には、外の民は、外の商人たちがそう(・・)なのだと思っている」

「それは……」

「……あっ! だから空海様が訪ねられるんですね!」

 

 正解にたどり着いた孔明に笑顔で頷き、まだ真剣に考え込んでいる鳳統の答えを待つ。

 

「江陵の商品はこのくらいの値段なのだと内外に喧伝するため、ですね」

「正解だ。他にもあるぞ」

「……江陵の商人が、その値段を一度で提示している、と理解させるため?」

「それも当たっている。だが、まだある」

「……。空海元帥(・・)が直接訪ねることで権威と信用を持たせるため」

「さらに正解。空海散歩を読んだ人間の行動も視野に入れてみろ」

「江陵の品を探す……あるいは、空海様と同じように、自らの足で歩き比べて信用できるお店を探す、とか」

「空海散歩に書かれた江陵の商品価格を参考に、ですね。そして江陵の小売店が――」

 

 空海の答え合わせを引き継いだ孔明がああだこうだと説明し、鳳統が相づちを打ったり所々で否定したりあることないこと勝手に議論していく。そこまで考えてなかった空海も『色々な効果があったらいいな』くらいには思っていたため否定しない。

 

「あわわ、空海様すごい! 凄いです!」

「で、でも本当に全部効果があるんでしょうか?」

「まぁ最低限このくらいの効果はあって欲しいという期待は超えているから良いんだよ」

「最低限の効果……あっ! わかりました! 水鏡先生が仰っていた『一を投じた策に対して無が返ってくることはない』とはこういうことだったんですね!」

「そっか! それだよ雛里ちゃん! だから水鏡先生は私たちによく見ておくようにって注意してくださったんですね……」

「(コクコク)」

 

 水鏡はそこまで考えていたかもしれないが、空海は考えていなかった。キラキラと目を輝かせる二人の視線が眩しくて思考がそれていく。次号の情報誌に何を書こうかとか。

 前回の茶屋特集の時は美味しい茶葉の紹介が中心だったから今度は二番煎じでも美味しい茶葉を重点的に探すことにして二人に声をかける。

 

「よーし、話はまとまったな。それじゃあ水腹になるまでお茶を飲むぞー」

「はい! お任せください!」

「はわわっ!? 雛里ちゃんそれはダメー!」

 

 孔明は難敵である。

 

 

 

 

 

「やはり司隸の状況は良くない、ですか」

「商人たちの感覚では、ね。公瑾の方からは何かない?」

「最近は北方の河北四州を中心に、治安の悪化が顕著です。それと……」

 

 周瑜は少し言いづらそうに目を伏せる。

 

「西方の益州と荊州南陽で、増税と税収の落ち込みが同時に起こっています」

「ふぅん。どこに集まっているの?」

 

 益州と南陽方面ではここしばらく災害などは起きていない。つまり、どこかの誰かに富が集まっているからこそ、こういう事態が起きている。

 

「益州は劉璋に集まっています。正確に言えば劉璋隷下の官吏たちですが。そして劉璋にはこれを扱う脳がありません。手に入れた富のいくらかについて荊州牧の劉表を通し、さらに江陵を通すことでようやく破綻を免れる程度に民へと還元しております」

「そう。じゃあ西はその方針を続けて(・・・・・・・・)行こう」

 

 江陵からの謀略は周瑜たちに一任しているため、空海も詳しくは知らない。とはいえ、ほとんど関係のないはずの江陵に利が生まれていることからも、何らかの策が取られていることは明らかだろう。周瑜も否定しない。

 

「南陽は?」

「南陽は太守の袁術と、その配下の孫策に集まっている、と思われます。袁術の方は暗愚ですな。正直に言えば関わらない方が得でしょう」

 

 軽く頷いて続きを促す。

 空海としても袁術より孫策に興味があった。あの(・・)周瑜が、孫策を評する場面に立ち会えることは素直に嬉しくも思っている。

 

「孫策はどうなの?」

「……積極的な防諜を行っている様子は見られません。しかし、肝心な情報についてはなかなか尻尾を掴ませず、精査に時間の掛かるいやらしい相手ですな」

 

 ――難敵、という意味かな?

 

「諜報員の質が問題なら幼平を動かしても良いけど?」

 

 周泰幼平は今や江陵の誇る最強のNINJAだ。

 冗談でKATANAを持たせたところ、彼女の身長ほどもあるそれを軽々と振り回したり、草鞋とくノ一っぽい服を与えたら一生脱がないとか宣言したり、とにかくNINJAである。

 

「いえ、それが……大変申し上げにくいことなのですが、手を変え品を変え情報の入手を試みますも、孫策当人が関わると肝心な部分で重要な会合が流れたり、諜報員を捕らえられるなどしており……」

「へー」

「諜報員が捕らえられていることも、明命に『どうして情報が得られないか』をやや遠巻きに見る方法で探らせてようやく判明したことでして」

 

 何度も現場で犠牲が出たために最強のNINJAを動かして確かめたのだ。

 

「どうやって見つけ出してたの?」

「わかりません。潜伏は明命の目から見ても完璧だったそうです。ある時など、孫策が突然何かを気にして部屋の隅を探り出し、結局は潜んでいた者が見つかってしまったとか」

「? 居ることに気がついたっていうより、居ることに気がつかなかったけど居る場所はわかっていたって聞こえるんだけど」

「言いたくはありませんが、私もそう申し上げました」

「なにそれこわい」

 

 周瑜は頭痛を耐えるような仕草で吐露する。空海としては相性の悪さでもあるのかと、気になるところだ。

 

「……情報が漏れている動きでは、ないよね?」

「そうですな。我々としては、これを優れた動物的感覚の持ち主であるとして、直接的な情報収集を避け、極力接触を避けることで一定の安全性を確保しつつ情報収集を行う方法を継続して模索しています」

「そうだね。小勢力ならまだやりやすいか。じゃあそれも任せる」

「はい」

 

 荊州の南部、揚州、河北を経て話が涼州に移ったところで、そう言えば、と前置きして周瑜が告げた。

 

「今年は馬将軍は江陵に来られぬとか」

「ん? やっぱり征西将軍ともなると忙しいのかな」

「それもあってのことでしょうが、体調を崩されておられるらしく、今も長安で療養中だそうです」

「そうなのか。んー、じゃあ孟起たちが帰るときに見舞いの品を持たせよう」

見舞い(・・・)? もしや――」

「うん。こっそりついて行って驚かせようかと思」

「おやめくださいね?」

「はい」

 

 にっこり笑って『はい以外の返事をしたら噛みつくぞ』みたいな雰囲気を出せば何でも譲歩すると思ったら大体正解である。

 

「ああ。さっきの話だけど、商人は司隸を嫌がってるし、折角だから司隸は後回しにして長安の方から先に攻めようか」

 

 攻める、とは江陵商人による経済支配の拡大作戦のことだ。

 大筋では各地の主要都市で流通や販売の占有率を拡大し、江陵の商人を仲介しなくては都市の生産品を売ることも出来ない体制にしてしまおうというもの。

 攻めるにはリスクが大きく利が少ない、未来の日本に倣った存在になろうという江陵の防衛政策の一翼を担っている。

 

京兆尹(けいちょういん)から、ですか。一時的には出費が増えるかと思われますが、よろしいでしょうか」

「うん。寿成が長安に滞在している間にやれるだけやっといて。……別に馬家を利用するような方法を使うのに俺の許可を取る必要はないよ」

「……はっ。申し訳ありません」

「謝ることでもない」

 

 策には冷徹に見える周瑜が、江陵全体の利益よりも空海の『思い入れ』を考慮していることに、空海は笑顔を浮かべる。

 

「ただ、損とは感じさせないようにね。適当に得も与えるように」

「心得ております」

 

 最近の周瑜には悪役笑いがよく似合う。

 

 

 

 

「お? 公覆、3日ぶりだね」

「空海様。会いとうございました」

「うん、俺もだよ、祭。ここのところ忙しそうだけど、何があったの?」

 

 軽口に優しげな声で真名を呼ばれ返されたことで黄蓋は恥ずかしそうに顔を伏せる。

 

「は、はい……。それが――」

 

 

「やっぱり、司隸方面や南陽からの移住者が多いのかー」

「北方の民が司隸を経由して荊州へと入る例も多いようですな」

「うーん。公覆が忙しいのは新兵の調練をしてるからか」

「ワシが面倒を見ているのは第二層より上だけですが、それでもここ半年で1万は増えました故。今月は落ち着きましたが、また来月には忙しくなりそうです。……現場を任せられる士官が少々足りませんな」

 

 江陵の人口はこの2年で70万人以上増加した。

 その前の数年は毎年10万人程度の増加で安定しており、現在はこの間に稼いだ人的資産の余裕を食いつぶしつつある。兵士などはこの2年で12万人から16万人にまで増えているのだ。

 増員の影響の直撃を受けているのは第一層を守る第四軍だ。第四軍、最下層の兵は読み書き計算を習えていくらか給金も出る屯田兵として健康な男子の内2割ほどが就く人気の職業となっている。

 読み書き計算の試験に合格した者は大半がすぐに第二層へと移住するため、第四軍に残るのは読み書きも出来ない新兵が多い。もちろん、それをまとめるための人員も多数配置されているのだが、まとめられる側の新兵がたった2年で5割も増えていてはそれも無理が出てくる。

 

「あんまりやりたくなかったけど、警邏の方から予備兵を引き上げるべきか」

 

 ある程度の訓練を積んだ兵士を積極的に街の警邏隊へと配置転換していたのは、こういう時のためでもある。しかし、人口そのものが増加している状態にあって、警邏隊からベテランを引き抜き過ぎるのも不利益が大きい。

 バランス取りは孔明と周瑜に任せようと、空海は丸投げを決める。

 

「ワシの力不足で……申し訳ございません」

「公覆の力不足で新兵が半年に1万も増えるなら、あと2年は力不足でいいよ?」

 

 実際、大きすぎる江陵に対して、兵数は少しばかり足りていない。正確に言えば、街の防衛に回しているだけで使い切ってしまい、自由に動かせる兵がほぼいないのだ。

 賊退治などのたびに警邏隊などから特別編成の部隊を防衛に当てるなどしているが、人手不足の解消には人手を増やすのが最も効果的であることは疑いようがない。

 新兵の急激な増加は一時的には苦しいものの、長期的には江陵を助けることになる。

 

「はははっ――空海様、からかわないでくだされ」

「それなら、俺が疑わないお前の力を、お前自身が卑下するなよ」

「えっ……あぁ……うぅぅ」

 

 何も知らずにこれを見て、彼女が黄蓋だと気付ける者はいないだろう。

 真っ赤になって悶えている今の姿は、ただの美少女戦士である。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 襄陽で劉表の宗正卿(そうせいきょう)就任記念の祝賀会が開かれている。

 上座の劉表に大勢の参加者が挨拶のため群がる中、何事かを耳打ちされた劉表が席を立ち、広間の入り口へと向かう。

 

『空海元帥様、御出座』

 

 途端に、全ての人間の関心が入り口へと向く。

 元帥は京兆尹から貨幣製造、大司農卿から貨幣管理と塩鉄の専売権を奪って創設された最新の二品官だ。非常設とはいえ劉表の持つ車騎将軍と並ぶ高官であり、大陸においての地位は車騎将軍のそれを上回るとさえ目される。

 江陵周辺県内のみという最も狭い範囲で幕府を開く権限を持ち、独自の税制、刑罰、県内で三品官相当官までの任命権、朝廷から命じられる人事の拒否権、その他強大な権限は一つの朝廷とすら言われるほどだ。

 荊州牧にして車騎将軍の劉表に加え、十常侍、大将軍らが官位の創設に尽力し、権益を奪われるはずの京兆尹や大司農卿、果ては帝までもが名指しで許可を出したことから、賄賂として十億銭単位の金が動いたのは確実と見られている。

 

 両開きの扉が開き、その向こう側が見えてくる。

 現れたのは白の着物に青い羽織をしたチビ――空海と、3人の美少女(・・・)だ。

 

 少女の一人は元帥府付き中将、黄蓋。朝廷からも三品官の江北将軍の地位を与えられている高官だ。二黄(にこう)と呼ばれる江陵最大戦力の一人でもある。

 もう一人も同じく中将、黄忠。黄蓋と同じく三品官の江南将軍の地位にあり、二黄の片割れでもある。

 最後の一人は元帥府付き軍師の周瑜。官位は二黄と同じく三品官だが、江陵の政は実質この周瑜が取り仕切っていると周囲からは見られている。

 

 つまり文化の中心地から来た高級官僚で未婚の美少女3人(とお付きの上官)である。

 

 会場の男たちの背筋はいつの間にか伸び、朗らかに笑ったり目を細めて口を結んだりと各々キメ顔で上下左右のキメ角度を維持しつつ、適切な距離と角度から少女らに接近しようと最適な位置を測り始めた。

 この時代の男は肉食系が多いのである。

 

 

 そんな中、身の丈8尺余り(180㎝以上)もある大男が空海(チビ)の前に立つ。

 

「久しぶりだな」

「お、劉景升、お前また背が伸びたのか?」

「そういう空海はだいぶ縮んだようだな?」

「コイツ返しが上手くなってやがる……!」

 

 10年ほど前には「背のことは言うな」と怒ったり落ち込んだりしていた劉表だが、毎年のように言われていれば流石に耐性が付くし対策を考えつく。

 

「あ、これ、お土産の酒な」

「公良酒キタ! コレで勝つる!」

「あと、車騎将軍就任祝いの時は来なかったから、その分と合わせて俺が選んだ美味しい茶葉と、焼き菓子と、良い感じの茶器一式と、この茶器の製法を記した指南書」

 

 さりげなく出された茶器の製法指南書に、周囲にどよめきが広がる。

 茶器や食器などにしても、江陵産のものは大半が高級品の代名詞なのだ。その製法ともなれば、そのまま皇帝へ献上するだけでも閣僚クラスの地位が望めるだろう。

 

「また茶葉か。前にもらったものを飲んで以来、他の茶葉が美味しくなくて……このままでは江陵以外の茶が飲めなくなってしまうぞ」

「だったら飲めばいいだろ! 江陵のお茶を」

「うむ、まぁそうなんだがな。ああ、すぐに煎れさせよう」

「ははは。俺に合わせなくてもいい。お前は酒が飲みたいんだろ?」

「hai!!」

 

 和やかに話す二人はすぐに人の群れに飲み込まれた。美少女に群がる男の群れに。

 

 

「そういえば、染色技術の流布についてだが」

「この前持って来させたヤツか。もう献上したのか?」

「ああ、だが一色だけ献上を取りやめたので、知らせるつもりでいたのだ」

「ん? そういえばうちの連中も青は俺の色だから使わせるなとか言ってたな」

 

 黄忠や周泰らの主張である。管理者たちも良い表情はしていなかったが、別に反対もしていなかった。ちなみに軍師たちは今の朝廷を見ればむしろ積極的に広めているし、気にしなくて良いという立場を取った。

 

「そうではなく、黒が駄目なのだ」

「黒か。なぜに?」

「朝廷は、劉家は火徳の家なのだ。水を意味する黒の染料を広く流布することは禁じられる可能性がある」

 

 五行相剋に基づく水剋火において水を表す黒や北は、それぞれ火を表す赤や南の徳性を打ち消してしまうという考え方だ。

 海を表すのも水であり、空海が火で表される漢王朝を打倒する、という天の御遣い説の根拠の一つにもなっている。

 

「ああ、五行かー、なるほど。わかった。江陵でも注意させよう」

「うむ。頼んだぞ、空海」

「ということは、広めて良いのは赤と青と黄色だけ?」

「そういうことになるな。赤はめでたい席に使って欲しい。劉家の色だからな」

「あ、この部屋真っ赤なのそのせいなの。俺青いけどいいの?」

「木生火。空海の青は赤の劉家の繁栄を支えてくれるものだと確信している」

 

 木を表す緑は青とされることもある。そして、木は燃えて火を生むことから、青い羽織を纏う空海は今の劉表を生み出した原動力なのであると、劉表自身が感じていた。

 

「ん。劉家は知らないが、劉家を含めたお前たちの繁栄は江陵にとっても利になる」

 

 具体的には周辺文明の進歩による文化水準の向上が見込めるのだ。劉表は、江陵の発明品を名士たちに認めさせたり広めたりしている。上手いこと言って儒学に準拠しているとお墨付きを与えることすらある。

 

「そして江陵の繁栄は我らにとっても利になる。この関係を続けていきたいものだ」

「そうだな。そのためにはまず……」

 

 空海は視線を背後の男の群れに向ける。美少女に群がる男達が主催と主賓に尻を向けていた。

 

「……そうだな。はぁ……。――貴様ら席に戻らんかァ!!!」

 

 蔡瑁の親類として祝賀会に参加した張允曰く「ここ10年で一番怖かった」とか。荊州幹部たちが並んで正座している姿は、何かの儀式を思わせる。

 

 その後の食事会では、男たちの囲みから逃れた黄忠と黄蓋と周瑜が文字通り空海に密着してため、周囲に壮絶な歯ぎしりの音が響いた。

 江陵の女子には肉食系が多いのである。

 

「まぁ俺のことは気にせず飲んでくれ」

「酌をしてくれてもいいんじゃよ?(チラッ」

 

 

「空海様、あーん」「空海様お茶をどうぞ」「空海様こちらの焼き物など絶品ですぞ」

 

 

「しくしくしくしく」

「……すまん、泣くな、劉景升(おおおとこ)

「しくしくしくしく」

「お前が泣いてると、密着されるんだが」

「ギリギリギリギリ」

「だからって歯ぎしりはやめろよ……ますます密着される」

「ギリギリギリギリギリギリギリギリ」『ギリギリギリギリギリギリギリギリ』

「うわぁ増えた……」

 

 なお、会場の半数くらいは女性である。江陵の3人組が必要以上に空海にくっつくのは彼女たちを牽制する意味であることを、空海は知らない。

 

 

 

 

「お前たち、そろそろ許してやれって……」

 

 時と場所は変わり、翌日の荊州運営に関する大会議の場。

 江陵の三人娘はまだ空海にくっついていた。

 他の参加者を代表して劉表が声をかける。

 

「そなたら、真面目な話し合いをしようとしてる横でキャッキャウフフされる奴の気持ち考えたことありますか? マジで死にたくなるんでやめてもらえませんかねぇ……?」

「わかってる。今――ひぃ! 顔色悪過ぎるッ! すいまえんでした!」

「むぅ、残念じゃな」「あらあら、ごめんなさい」「仕方がありませんね」

「え!? 劉景升の肌が年を経た大木みたいな色になってるのは放置!?」

「よーし始めるぞー」

「お前もそれでいいの!?」

 

 

 

「江陵が、南陽の民をさらっている?」

「南陽から逃げ出した民が駆け込んできてるんだよ。襄陽にも入ってるだろうが」

 

 南陽の文官からの訴えに劉表が疑問を示し、空海が呆れたように説明する。

 劉表が頷いて襄陽の文官たちにも視線を向けた。

 

「確かに、襄陽でも流民が増えているな」

「江陵としましては、南陽側が希望するのなら送り返しても良いですし、西陵に送っても構いませんぞ」

「アイツら身一つで江陵に来てるから、こっちがやってる食料やら宿やらの補償だけでも毎月1億銭は消えてるんだぞ」

「江陵に受け入れてからは我らの負担も減りましたが。可能であればこちらが受け持った負担分の費用を請求したい所ですな」

 

 周瑜と空海は、逆に南陽の姿勢を劉表に訴える。いくら江陵に年間50億銭を越える税収があるのだとしても、社会保障費に十数億銭も出して平気というわけではない。

 最も負担の大きかったひと月を例に挙げて現状を伝えていないのは故意なのだが。

 南陽の文官が慌てて声を上げた。

 

「劉将軍! 彼らは南陽の民をさらったことを有耶無耶にするつもりですぞ!」

「少しは考えてものを言わんか。江陵には誘拐などせずとも人が集まっているぞ」

「むしろ最近は集まりすぎて困ってる。出来れば月2万人程度にまで抑えたいんだ。襄陽の方で月1万人ほど引き取ってくれないか?」

「む……無茶を言うな」

 

 襄陽には現在、100万に近い人が住む。都市の規模を考えれば、年に5万も受け入れられれば上等だ。近隣の街を全て合算しても年10万人は不可能だろう。

 月に3万、年間30万人以上を受け入れてなお破綻していない江陵が異常なのだ。

 

「じゃあ民が流出してるという南陽が引き取ってくれるか?」

「くくっ、それは良い案だな」

「こ、困ります。我らは民がさらわれた分、失った税について補填を求めているだけで」

「馬鹿者が!!」

 

 劉表が大声を上げ、南陽の文官はビクリと縮こまった。

 重税と圧政、そして浪費。南陽の実情を知る荊州幹部たちは蔑みの目で見下ろす。

 小さく「たかりが」と罵る声さえ漏れた。

 

「よいか……そもそも、南陽を出た民が『さらわれた』と言うのなら、私にもその補填を求めるべきではないのか?」

「りゅ、劉将軍……」

「そなたの論理は破綻しておる。南陽には追って沙汰を伝える。そなたは先んじて南陽に戻り、太守に『おいたが過ぎるなら仕置きを下す』と伝えよ」

 

 劉表が手を振ると、左右から現れた兵士たちが南陽文官を会場の外へと連れ出した。

 騒然とする会場を尻目に、空海が劉表に尋ねる。

 

「仕置きとはなんだ? まるで子供を叱るようだったが」

「子供だ」

「……南陽太守が?」

「そうだ。袁南陽太守は、まだ子供なのだ」

 

 劉表は空海を見ず、扉を見つめたまま告げた。

 

「じゃあ、あの文官は、子供の考えた恐喝方法を、命がけで実行したのか」

「考えたのは補佐官の方だろうが……大筋ではその理解で良いだろう」

 

 彼が去った扉を見る。事情を知る何割かの人間は、おそらく空海と同じ気持ちでそれを見ているのだろう。

 

「公瑾」

「はっ」

「南陽から逃れてきた者の中に文官がいたら」

「直ちに確認させましょう」

「……まぁ、嫌がらせくらいはしておくか」

 

 しばらくして、南陽の文官が減って江陵の文官が少し増員したのだとか。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「天和姉さん、ちぃ姉さん、この本……凄いわ!」

 




没ネタ
「こんなの茶葉じゃないわ! 緑色の宝石よ!!」「だったら飾ればいいだろ!」

江陵女子が若いのは神様パワーを受けているから。水鏡先生も若い。神様パワーを与えていると、大体全盛期の頃の肉体に近づくんです。
孔明たちは少しだけ大人の女性スタイルに。栄養バランスに優れた食事と適度な運動は健康な肉体をはぐくんでいます。


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4-2 黄巾賊

「わたし、大陸のみんなに愛されたいのー!」

「大陸、獲るわよっ!」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「大規模な賊?」

「はい。朝廷より討伐の令が下されました。劉車騎将軍からも近隣の賊について積極的な討伐と殲滅が要請されています」

 

 江陵では姿形もない賊の話題に空海が疑問を呈し、文官をまとめる周瑜が答える。

 臨時の会議が開催され、広場には江陵における幹部級の文官や武官が集まっていた。

 

「ふぅん。珍しいくらいに積極的な動きだね。朝敵にでも指定したの?」

「はい。宮中からも内応したと思しき者が出たため、官民合わせて千人あまりが処断されたと聞きます」

「公瑾はそれで難しい顔をしてるの?」

 

 空海が周瑜の顔をのぞき込むように見上げる。周瑜は慌てて頷いた。

 

「え、ええ。江陵内も警戒しなくてはなりませんし、敵の動きを探り、遠征を行える者を選抜し、特別に予算を組んで早急に動き出さねばなりません」

「……そう。じゃあ、孔明と士元が怒ってるのはなんで?」

 

 周瑜が慌てて二人を目をやり、苦虫を噛み潰したような表情となった。

 江陵のツートップの視線に晒された孔明と鳳統は、私怒ってますと言わんばかりの表情で頬を膨らませて胸を張る。

 

「……その、賊が掲げております標語というのが少々」

「標語? 賊なんじゃないの?」

 

 強盗や泥棒をするのに犯行声明を発表する賊など、この時代には存在しない。賊に身をやつすのは、その大半が学のない庶民だからだ。

 義賊なのかと尋ねる空海に、周瑜は首を振って否定する。

 

「朝敵として賊とされましたので」

「ああ、なるほど。反乱か」

 

 朝廷としては、理性ある反乱ではなく、賊の起こした蛮行だと言いたいのだろう。

 

「それで標語というのは何?」

「……大変申し上げにくいのですが『蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし』と」

「え? ……あははははっ! なるほど。確かに、空海の時代が終わって俺たちが立つ時が来た、って言ってるように聞こえるね」

 

 なるほど黄巾"賊"か、と空海は一人頷いて笑う。

 そもそもその標語の指す蒼天は空海のことではないだろうし、人間が何十万と集まって叫んでいたとしても空海にとっては他人事だ。種族的にも、せいぜい雑菌が集まっている程度にしか感じられない。

 

 しかし、江陵の民にとってはそうでもなかったらしい。

 空海のこととなるとすぐに実力行使しようとする武官たちはもちろん、今回は普段冷静な二大軍師が怒りを顕わにしている。

 

「笑い事ではありません!」

「すぐに討伐すべきです!」

「朱里! 雛里! 二人とも落ち着け! ……空海様、申し訳ございません」

 

 周瑜が難しい表情をしていた本当の理由がわかり、空海も苦笑する。

 

「孔明と士元の態度が、おおむね総意と取って良いかな?」

「それは――はい。仰る通りかと」

「わかった。参考にするよ。他に賊の特徴は?」

「はい。賊は皆、黄色い布を身につけている模様です。おそらく先の『黄天』にかけての行動でしょうが……。そのため朝廷からは黄巾または黄巾賊と呼ばれております」

 

 頷いて続きを促す。答えたのは厳しい表情の孔明だ。

 

「賊は南陽より北側に多く、その北側の潁川(えいせん)、さらに北側の陳留付近、さらに北の冀州(きしゅう)と、北に向かうほど多数見られます。おそらくは冀州のどこかに本拠があるのでしょう」

 

 さらに鳳統が続ける。

 

「漢に対する反乱ならば、漢を打倒することが目的だと思われます。具体的な目標はわかりませんが、単純に考えれば洛陽を陥落することが勝利条件でしょう。仮に冀州と河南尹(かなんいん)洛陽の間で迎え撃つとした場合、河内郡または魏郡が決戦場となります」

 

「朝廷は各地より指揮経験のある武官を集めています。馬将軍らも先日洛陽入りしたそうですが、その他にも盧植(ろしょく)董卓(とうたく)皇甫嵩(こうほすう)朱儁(しゅしゅん)らが任官されているようです」

「寿成か……病気は大丈夫なの?」

「それが、病気を理由に洛陽郊外の城に駐屯することになったとか」

「ふむ。仕方ない。さっさと賊を討伐して寿成の負担を軽くしてやるか」

 

 

 

 

「南陽の宛城が黄巾賊に奪われました」

「はやっ」

 

 2月の会議での通達から1ヶ月弱である。流石にこれには報告を携えてきた周瑜も呆れ顔を見せている。

 

「南陽では大きな戦闘もなく、城塁はほぼ無傷。南陽から逃れた首脳部、南陽軍10万、難民10万が襄陽に迫っているようです」

「劉景升も頭を抱えてるだろうね」

 

 南陽には200万に迫る人が住む。逃げ出した人が20万と少々では、大半の人間が都市に残ってしまっているということになる。

 そして劉表は、守るべき城と守るべき民を放り出して逃げ出す太守が自分の城に迫っているのだ。立場としては受け入れざるを得ないが、支持を得られるものではないだろう。

 

「その劉車騎将軍より要請がありました。難民の何割かを受け入れて欲しい、それと出来れば南陽の奪還にも手を貸して欲しいと」

「ん、孔明と士元は?」

「朱里には既に難民受け入れの指揮を任せました。襄陽に迎えを出すため、下層から2万ほどの兵を連れ出すことになるでしょう」

「うん、孔明はわかった。士元は?」

「雛里には南陽奪還作戦の立案を指示しました。兵の準備についても自由な裁量で行わせています」

「おお。俺の立場がない」

 

 空海と周瑜は笑う。これだけの独断専行を笑って許してくれる職場に、周瑜は密かに感謝を深める。

 

「両者共に計画の確認と承認はこちらで行うことになっています。特に雛里の方は、最近は憤りを積もらせておりましたので」

「例の蒼天が死んでるやつかー」

「左様ですな」

 

 

 周瑜の予言通りに勢いよく飛び込んできた鳳統がまとめて来た案のうち、全軍出撃とか最大戦力で撃滅とか南陽を火の海にするとかいったことが書かれた書類については、周瑜がその手で破棄していく。

 正座してべそをかきながら代案をまとめさせられている鳳統だが、そんな状態でも最大戦力出撃の有用性を周瑜に訴えられるのは、余裕があるのか能力の無駄遣いなのか。

 

「士元」

「はい!」

「この討伐令は俺たちにだけ出たものではないだろ」

「空海様の仰る通りだ。河南尹には既に10万に近い兵が集められている」

 

 空海と周瑜に追い詰められるが、それでも鳳統は諦めない。

 

「でしゅから、それらと連携して――」

「連携して討伐して、蒼天が死んでないと証明できるとでも言うのか? 雛里のそれは、鬱憤を晴らすための手段でしかない」

「公瑾やめろ」

 

 周瑜を止めたことで、空海が同じ気持ちなのだと知り、鳳統は涙を浮かべる。

 

「士元、お前はうちの上級参謀だろう。どうすればいいのか、わかるだろ?」

「……はい……」

「公瑾だって、大軍でなければ兵を用いることは否定していない」

 

 周瑜に目をやれば静かに頷いている。そこで空海はニヤリと笑って鳳統を向く。

 

「とはいえ、お前たちの総意も気にしてやらないとな」

「……え?」「空海様?」

「少数で派手に戦うというのはどうだ? なんなら俺が出てもいいぞ」

「なっ! 空海様!?」「――お、お任せくだしゃいっ!」

 

 周瑜から声が上がるが、空海は鳳統を盾にして逃げる。

 

「空海様! 御身を――」

「冥琳さん! 遠征軍の皇甫嵩(こうほすう)という方はどういった方ですかっ?」

「なっ……ぐ。涼州北地郡の太守で、軍功がある。叔父の中郎将皇甫規(こうほき)に似て公正で厳格な人物だと聞く。――空海様、そのまま動かないでくだ――」

「冥琳さん、盧植(ろしょく)はどういった方でしょう?」

「……盧植は揚州九江郡で蛮族平定の功がある。あの馬融の弟子だが、清廉で落ち着きがあると言われている。今回は冀州への遠征を任されるはずだ」

 

 馬融は天才学者で女好きで不真面目と言われた人物である。いくつかの古典に注釈書を作っており、それらの大半は江陵で印刷されている。

 

董卓(とうたく)という方はどうでしょう?」

「ククク」

「くっ――涼州の騎馬を用いることに定評がある。人となりは聞こえてこないが、陣営の人材は充実し始めている。今回は試金石と言った所だろう」

 

 空海の狙い通りに鳳統にペースを乱され、周瑜は悔しそうだ。

 

「では朱儁(しゅしゅん)という人物は?」

「あれは今回招集された者の中では小物だな。苛烈な言動だが、反してなかなか粘り強い用兵という印象を受けた」

「なるほど……」

 

 聞くことを聞いたのか、鳳統はサラサラと書類をまとめ始める。空海は横に回り込んでその様子をのぞき込む。周瑜は後ろに回り込んで空海を捕まえる。

 

「あ」

「油断されましたな?」

「hai!」

「――出来ました!」

「hayai!」

 

 空海は鳳統の働きによって辛くも周瑜の魔の手から逃れた。だがそれが問題の先送りにしかなっていないことには気付いていない。

 

 

「南陽宛城にこもる賊軍は推定10万単位。やはり兵糧ですね」

「既に明命を動かし、潜入と内応を試みるよう指示してある」

 

 周瑜と鳳統が二人だけで完結する会話をしている。空海は寂しくなって聞いてみた。

 

「『袁術は暗愚』『南陽の民は餓えてる』『目標はたぶん洛陽』だっけ」

「はい。南陽に残る兵糧はおそらく多くありません。さらに宛城はまだ奪われたばかりで賊の周囲には敵対勢力もなく、攻め立てられたとしても立て籠もり続けなければならない理由はありません。今なら最小の労力で南陽から追い出せるでしょう」

「俺が江陵軍を率いて追い立て役でもする?」

「はわわわ……その、あのー……」

「空海様、どうかご自愛くださいますよう」

 

 このままでは認められないと悟った空海は、味方を増やすことにした。

 

「公覆と漢升が遠征担当だ! お前らも俺と一緒に行きたいよね?」

「え!? え、ええ、それはそうですが」

「そういう言い方をされると否定しづらいですな」

 

 静かに控えていた黄蓋と黄忠を引き合いに出して数を合わせる。

 

「空海様、なりません!」

「はわわわ」

 

 さらに味方を増やそうと考えた空海の脳裏に素晴らしい発想が芽生えた。

 

「クッキー……」

「は?」「賛成します!」

「よし!」

 

 餌付けはしておくものである。

 あとは、鳳統が周瑜の追求に負けないうちに周瑜を丸め込まなくてはならない。

 

「じゃあ公瑾も従軍させる! 一緒に行こうず!」

「いけません、空海様。私が遠征に参加することは問題ありませんが、空海様の御身をむやみに危険にさらすようなことは……」

 

 周瑜は冷静だ。空海は切り札を持ち出すことにした。

 

「冥琳」

「え?」

 

 突如、真面目な表情となった空海に、周瑜は言葉を詰まらせる。

 

「一緒に行こう、冥琳。俺はお前と一緒に、江陵の外の世界を見たいんだ」

「は……はい……」

「 説 得 完 了 」

 

 切り札その1。乙女回路を刺激する台詞10選。

 根が素直な江陵の民には効果は抜群だ!

 言質は取った。この勝負、空海の勝ちである。

 

 

 勿論4人からすごく怒られた。今後、切り札の使用は控えようと空海は決意した。

 

 

 

 

(のん)、軍をまとめるわよ。袁術ちゃんから南陽を奪取しろってお達しよ」

 

 桜色の長い髪を後ろに流しながら、きつそうな口調で命令を伝えた美女は孫策。

 今は袁術の下で客将として爪を研いでいる猫科の肉食獣系女子だ。

 

「了解です~」

 

 答えたのは肩に掛かる程度で切りそろえられた若草色の髪と、優しげな目つきに眼鏡が特徴の女性。

 孫策の下で呉の軍師を勤める陸遜(りくそん)である。

 

「姉様! この上、袁術に従うのですか!?」

 

 強い口調で孫策を批難したのは、その妹の孫権だ。

 姉を一回り小さくしたような見た目をしている。

 

蓮華(れんふぁ)様、お二人に話を伺いに来たのでは?」

 

 赤みがかった服と短いスカート、くすんだ藍色のストールを首に巻き、赤いリボンと白いシニョンキャップで髪をまとめた女性――甘寧が、睨むような視線で孫権を止める。

 

「っ……そうだったわね。ごめんなさい、思春(ししゅん)

「あーあ。蓮華の言う通り、この機に南陽を奪っちゃうのも悪くない気がしてきたわ」

「いけませんよ~。今奪えば黄巾一味として朝廷から追われてしまいます~」

「チッ、しょうがないわね」「あ……」

 

 自身のために芝居を打ってくれたのだろう孫策(あね)と陸遜の様子に、孫権は顔を赤くしてうつむいてしまう。

 

「……まぁ、今戻っても奪える気は微塵もしないんだけどね」

「えっ?」

「またいつもの勘ですか~?」

「そうよ」

 

 陸遜は、軍師泣かせのこの勘に、いつもいつも論理的思考の帰結を覆されていることから、警戒と信頼と諦観を持って可能性を推察する。

 

「南陽を出てから、例の『見られてる感覚』はなくなったんですよね~?」

「そうよ。ここ数日は感じていなかったんだけど……昨日くらいから少しずつまた戻って来てるみたいね」

「なっ! どこにっ!」

 

 慌てて探し始める孫権の様子に、孫策はそれを苦笑を交えながら止める。それでも露骨な警戒をやめられない孫権は、真面目なのか不器用なのか。

 甘寧もその顔に無表情を貼り付けたまま、薄らと警戒をにじませる。

 

「昨日から合流し始めたのは、民の受け入れのために劉表さんのところから派遣された人たちと~」

「同じ理由で江陵から来た役人たちね」

「江陵の……!」

 

 甘寧からあふれ出した敵意に、孫策と陸遜は顔を見合わせる。

 

「相変わらずねー、思春は」

「蓮華様も~、捕まえるにしても泳がせるにしても、その様子はいただけませんね~」

「……申し訳ありません」「ご、ごめんなさい」

 

 普段通りの様子が戻ったところで、行動方針の話に戻る。

 

「江陵相手じゃ警戒するだけ無駄ね」

「いつものように~、必要以上に探られないよう要点を押さえるに留めましょう~」

「とりあえずは軍か。穏」

「はい~。では蓮華様にもお手伝いしていただきましょうか~」

 

 孫策の勘に従って、軍をまとめ始める。

 そこには10万の敵兵に突っ込む悲壮感は、微塵も感じられない。

 

 

 

 

 孫策たちが青空の下で意見を戦わせていたころ。江陵での会議から4日後のこと。

 

 空海率いる江陵最精鋭の部隊は、わずか500騎で南陽を強襲。

 一人の脱落もなく、南陽を占領していた賊の大将趙弘(ちょうこう)を討ち10万に近い賊軍を蹴散らした。

 さらに、南陽軍が戻るまでの1週間で残党の追撃、治安の回復、民の手を借りた防御の強化を並行して行い、南陽は賊に襲われる前以上の活気を手に入れた。

 南陽の民は江陵軍の勇姿を大いに称えたという。

 

 

 

 江陵が初めて行った都市攻防の結果は、全土に衝撃を持って伝えられた。

 

 河北や中原で自軍に数倍する黄巾賊を打ち破り、民たちの語りぐさとなっていた官軍や公孫賛の大戦果は、一斉に江陵軍の英雄譚に塗り替えられた。

 

 

 

 

 

「要請を説明しましょう」

「イラッ……七乃、何じゃあやつは」

「シッ!(あの人は江陵元帥府付き軍師の周瑜さんですよっ!)」

 

 玉座に腰掛けた袁術を、下から(・・・)見下すような態度で話し始める周瑜。

 

「依頼主は劉車騎将軍。目的は南陽周辺から潁川方面へ移動中の賊の討伐となります」

 

 南陽郡を含めた洛陽周辺の大まかな地図を、持ち込んだ机に広げて教鞭のようなもので各地を指しながら話を進める。

 

「賊は黄色の布をつけた一団で、総数は8万程度が確認されています。彼らが豫州潁川郡長社(ちょうしゃ)に駐屯している官軍と接触する前に排除して下さい」

 

 8万の賊というのは、江陵軍が南陽から追い払った一団だ。江陵軍以外に討伐させるため、わざと官の討伐軍方面へ逃がしたのだ。なお、潁川は南陽の北東にある郡である。

 

「また、依頼主は江陵軍との連携をご希望です。最終的にはそちらの判断ですが、無理はしない方が良いのでは?(嘲笑)」

「(イラッと来るのじゃ!)」

「(お、落ち着いてくださいー!)」

 

 袁術がさらに顔をしかめる。周瑜はその顔を見て鼻で笑う。

 

「フッ……説明は以上です」

 

 周瑜は嘘を言っていない。必要な情報もしっかりと伝えた。余計な事も言わない。

 

「荊州並びに江陵との繋がりを強化する好機です。そちらにとっても、悪い話ではないと思いますが(失笑)」

「七乃! もう我ムグッ――!?」

「(お嬢さまダメですってー!)」

 

 周瑜の態度に切れかけた袁術を張勲が取り押さえる。今ここで江陵に喧嘩を売ったりしたら、江陵はもちろん、荊州全土、下手をすれば南陽(ホーム)までが敵に回る。

 

「ムグムグッ(何をするんじゃ七乃!)」

「(あの人はとーっても怖い人ですから、黙ってないと食べられちゃいますよ!)」

「どうかされましたかな?」

「ムグッ!?」

 

 青い顔をして黙った袁術を抱きしめ、張勲が慌てて返事をする。

 

「いえいえー、何でもありませんよー。あとはこちらでやっておきますので、周瑜さんは帰っていただいて結構ですよー」

「……ふむ。では、そうさせてもらおう」

 

 

 

「正確に伝えてきたか?」

「ええ、もちろんです。これ以上無いほど正確に」

 

 宛城の兵舎前でのんびりとお茶を飲んでいる空海に、袁術の元を辞した周瑜が報告している。勿論、空海にも嘘は言っていない。

 

「思ったより上手く行って余力があるからね」

「そうですな。狙いはしましたが、潁川方面へ逃げてくれる者が多く、洛陽方面へ負担をかけずに済みました」

 

 豫州潁川郡には今、黄巾賊の大部隊と官軍の大部隊が揃っている。

 むやみに洛陽に向かわれては江陵軍の評判を落とすと考えた軍師たちは、黄巾賊の間に潁川の『お仲間』のことを伝え、洛陽には恐ろしい馬将軍がいると噂を流した。

 そして、食料庫を襲撃し、命令系統を要所で壊し、派手に夜襲を行って、逃亡を始める先頭集団を潁川方向に逃がしたのだ。

 

「よし、じゃあ用意が出来たら潁川郡へ向けて出発だね」

 

 あとは、潁川郡に集まる大軍の間に官軍側の白馬の騎士として現れて、戦場を支配して勝てば良いだけだ。

 それが出来るだけの官位と、それが出来る軍師は揃っている。

 

「いえいえ、空海様。我々は江陵に戻ります」

「えっ?」

「袁南陽太守はこちらの申し出を拒否いたしました」

「えっ?」

「自軍のみで追撃戦を行うので我々には江陵に戻るようにと、要求されました」

「えっ?」

 

 空海は、周瑜のやったことを知らない。

 

「え? この状況で?」

 

 南陽から逃げ出した賊や朝廷が用意した本隊から見れば、南陽の遠征軍など弱小零細の集団に過ぎない。本拠で負けたばかりでは発言力も皆無だろう。

 劉表という上官からの要請、空海という高官からの申し出、加えて南陽軍自身の汚名返上のために、江陵軍と組むのは当たり前だと空海は考えていた。

 

「あるぇ?」

 

 

 

 

 

「待たせたな、雛里」

「冥琳さん」

 

 江陵に帰り、周瑜が真っ先に向かったのは鳳統の所だった。前日に送った伝令が仕事を果たしたのだろう。鳳統も慌てることなく周瑜を迎え入れる。

 

「官軍の人事については聞いたか?」

「はい、先ほど確認を……あまりに予想外でした。まさか騎兵を城にこもらせ、城攻めと防衛に定評のある人物を籠城させるとは……」

「ああ、他にも宦官の動きがきな臭い。ヤツら、鎮圧よりも出世が大事らしい」

 

 周瑜が苦々しげに呟き、鳳統も悲しげな表情で言葉を詰まらせる。

 

「ともかく空海様にはご帰還いただいた。また出るつもりでおられるだろうから、まずは策を万全にしておこう」

「はい」

「おそらく江陵(こちら)の方が情報が集まっているだろう。まとめて貰えるか?」

 

 鳳統は一つ頷くと書類を取り出して一枚ずつ周瑜へと渡していく。

 

「豫州頴川郡では遠征軍の朱儁が賊に敗北しています。賊将の名は波才(はさい)。頴川郡の北側で朱儁とは別に行動していた皇甫嵩が8万の賊によって長社城に追い込まれています」

「何故ここに董卓を……いや、詮無きことか。頴川についてはわかった」

 

 鳳統は何枚か紙をめくり、下の方にあった書類を周瑜へと渡す。

 

「董卓や馬将軍ら涼州騎兵は、河南尹の洛陽周辺の城に押し込められています。これには()大将軍の意向も絡んでいるようです」

「……何進(かしん)か。……これ以上に悪い知らせがあるなら先に教えて欲しいのだが」

「黄巾賊に絡んでは、今のところこれだけです。ただ、別件が一つ……」

 

 言いづらそうにしている鳳統に、周瑜は嫌な予感を抱く。

 

「何だ?」

「馬将軍の容態が悪化しているそうです」

「それは……! いや、そうか。空海様へは後で伝えよう」

 

 鳳統は同意し、書類の束から比較的新しい一枚を取り出して周瑜に見せる。

 

「朝廷は盧植を冀州の中南部へと派遣しました。鉅鹿(きょろく)郡の南部に黄巾賊の大集団があると見込まれているようです」

「ふむ……この人事には問題が見当たらないな」

「そうですね。盧植ならば大いに勝つでしょう」

 

 その他、細かい数字や確認出来ている賊の活動範囲と規模を伝達する。

 

 

「よろしい。では、策だ。空海様の安全のため、明らかな負け戦と、敵戦力が不明のものには触れたくはない。よって、まず考えられるのは盧植よりの進路で機を見て介入し、官軍の勝ちを決めること」

「次点で頴川の官軍を救い出すこと、でしょうか。ただ、こちらには近場の陳留から刺史が援軍に向かう可能性があります。手早く行わなければなりません」

「あとは、河南尹へ官軍兵士の鼓舞に赴くのも良いかもしれん」

 

「いえ、それはやめておいた方が良いでしょう」

 

 会話に割り込んで来たのは孔明である。

 

「朱里ちゃん!」

「……どういうことだ、朱里?」

「その前に確認を。空海様の今後の方針で、河南尹へ向かっていただく、という手について考えられていたのですね?」

「そうだ。安全であるし、中央への印象も深められる」

「なるほど。しかし、河南尹には馬将軍がいらっしゃいます」

 

 ここで馬騰の名前が出るとは思わず、周瑜は意表を衝かれる。

 

「中央に召集されたにも関わらず半ば冷遇されている馬将軍に、南陽で大勝した空海様が会いに行かれた場合……」

「なるほど、確かに、余計な疑いを持たれ、いらん罪を着せられる可能性があるか」

「はい」

「馬将軍の体調が優れないことは既に空海様にも伝わっています。河南尹へ向かわれれば会見を望まれるでしょうね……」

「そうだな。まず、間違いはあるまい」

 

 周瑜と鳳統と孔明は、三人が揃ってため息を吐き、その様子がおかしくて少しだけ笑い合ってから情報を交換する。

 

 

 

「――そして、最も消極的な策として河南尹へ向かうことを検討していた」

「なるほど。ではこれはある意味で朗報ですね」

「ん? 何か新しい情報があるのか?」

「はい。陳留(ちんりゅう)の北側、(とう)東武陽(とうぶよう)の周辺に黄巾賊の大きな集団が侵入した模様です」

「かなり、北の方ですね。陳留の街からは往復だけで半月は掛かるでしょう」

 

 東郡は冀州魏郡の南隣にある。黄巾党の本拠地が冀州の中部とされているので、かなり近所だと言えるだろう。

 江陵から見れば、北東の南陽の、北東の潁川の、北東の陳留の、北東の東郡の、北の冀州魏郡の、北の鉅鹿が黄巾賊の本拠地と思しき場所だ。

 

「では江陵は……」

「陳留の刺史が豫州の平定に援軍を出すなら、東郡を本命に。東郡の平定に動くのならば豫州頴川を本命に据えて行動しよう」

「わかりました」「はい」

 

 この予想は、半月も経たず覆されることになる。




アディ・ネイサンの慇懃無礼な口調は実際に耳にしないと表現しづらいかも。
でも冥琳にはよく似合うと思うんです。祭に嫌みを言ってる時みたいな感じで。
「オーメル・サイエンス社との繋がりを強くする好機です。そちらにとっても、悪い話ではないと思いますが?」


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4-3 江陵→←南陽→

『中! 黄! 太! 乙! 中! 黄! 太! 乙! 中! 黄! 太! 乙!』

「ほぁぁぁー! ほっ、ほぁ、ほぁぁぁぁ!」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「緊急です」

「ぉ。何かあったか、幼平?」

 

 空海は、突如現れたNINJA周泰(しゅうたい)に慌てることなく用件を尋ねる。

 

「はい。南陽が賊の襲撃を受けて再陥落しました」

「また?」「なっ!」「はわ!?」「あわわわ!」

 

 その場にいた周瑜たち軍師を始め、護衛の黄蓋たち武官の間にも動揺が走る。

 

「どこから沸いた賊? 規模は?」

「賊は潁川郡長社で官軍を取り囲んでいた者達の一部、6万です。速報では――」

 

 潁川郡南部で波才率いる黄巾賊8万が、朱儁率いる官軍2万を撃破する。黄巾賊は洛陽に近づくために北部に向かい、長社城にこもる皇甫嵩率いる官軍を包囲した。江陵の手で南陽から追い出された黄巾賊もここに合流。

 一方、黄巾賊に破れた朱儁は、南西の南陽郡から袁家の孫策が連れてきた援軍と合流して北上。さらに東から陳留刺史の曹操が援軍として参戦し、長社城の官軍と連携して城を包囲していた賊を内外から攻撃、そして壊走させた。

 その後、官軍は北側から圧力をかけ続け、討ち漏らしの黄巾賊12万の半数、約6万を南陽方面に押しやる。直後に曹操は東郡の平定を理由に撤退。

 官軍は潁川と汝南(じょなん)、南陽の平定を行うことを決定。潁川を共同して平定の後、皇甫嵩と朱儁を別々の場所に派遣する方針であるようだ。

 

 南陽方面に逃げ出した6万近い黄巾賊は再び徒党を組み(えん)城を攻撃。南陽軍も今回は多少抵抗したが、やはり一瞬で敗走して襄陽方面に逃亡。

 戦闘の前後で南陽から脱出した兵士は5万弱、難民は既に20万を超えているとか。

 

「20万?」

「20万人を超えていると思われます」

 

 空海は生真面目に答えた周泰に頷いて、顔を引きつらせている周瑜に尋ねる。

 

「公瑾、今回は何割が江陵に来ることを希望してると思う?」

「……。……おそらく、9割以上は」

「そうだよね」

 

 春先の肌寒い空気の中、周瑜は滝のように汗を流している。

 空海は軽く目をやるだけに留めて、孔明に視線を移す。

 

「よし、孔明。徳操(とくそう)元直(げんちょく)も使って良い。難民については任せる」

「はわわっ!?」

「急げ。放っておいたら、腹を空かせた難民が人を食べ始めるぞ」

「はわ!? ……きゅぅ」

 

 真っ青になって目を回した孔明を、すぐ隣の鳳統が支える。

 空海は黄蓋を呼び、孔明を指差す。

 

「公覆。孔明を……たたき起こして徳操の所へ連れて行ってあげて。道すがら、元直にも伝令をやって呼び出しとくように」

「そちらも乱暴に取り扱ってよろしいのですかな?」

「うん。今寝てたら本人たちが後悔するだろ?」

「左様ですな」

 

 ニヤリと笑って了承した黄蓋を送り出し、空海は周瑜に向き直る。

 汗もぬぐわず、顔色を悪くして眉を寄せ、それでも打開策を必死に練っているのだろう周瑜の表情が、空海は嫌いではなかった。

 

「さて。受け入れはこれでいい。南陽はどうする?」

「え……? これでいいとは、どういう意味ですか! 20万人ですぞ!?」

だから(・・・)諸葛(しょかつ)孔明と(じょ)元直と水鏡(すいきょう)に任せたんだろ。もう大丈夫だ。お前の仕事は他にある」

 

 周瑜は情けない顔で呆けたあと、吹き出し、笑い始める。

 笑い声は徐々に大きくなっていき、ついには涙さえ流して笑う。

 

 そうしてひとしきり笑って徐々に落ち着いてくると、周瑜は空海の横に跪いた。

 

 

「――空海様、お慕い申し上げております」

「お……おう」

 

 

 すっきりした表情で、あまりにあっさりと告げられたために、空海以外――広場にいた人間の理解が遅れる。

 

「それにしても、空海様は我ら軍師という人種に対する理解が不十分です」

「ですよねー」

「軍師というのは、考えられる可能性について思考してしまう生き物なのです」

「だから、どんな風に言われても20万人の難民が起こす諸々を心配してしまう、と」

「その通りです」

 

「その割には、ずいぶん晴れやかな表情をしているけど?」

 

 空海の言葉に、クスクスと笑い声を漏らした周瑜は柔らかい表情のまま、潤んだ目で空海の顔を見上げる。

 

「空海様が疑わぬ我らの(・・・)能力を、どうして私が疑えましょう」

「これまで通りに歩くけど、足下の確認に向けていた目線を上げたってこと?」

「左様です」

「んー……ならばよし!」

 

 満面の笑みになって告げた空海の顔に、周瑜は思考を忘れて魅入っていた。

 

 当の空海が、曹操の台詞を取って喜んでいたのだと知る者はいない。

 

 

 

「さて、どうする?」

「能動的に動くのは南陽の奪還に来る官軍の陣容が判明してからですな。皇甫嵩が来るならばこれに協力し、朱儁が来るのであれば南陽は放置しましょう。軍は――雛里」

「はい。いずれにしても、難民のために軍の派遣は必須です。当面は前回の3倍、6万を動かせるよう手配しておきます」

「あとは今回の陳留刺史の動きを精査してからとしましょう。まずは情報収集です」

 

 頷き合って、それぞれの仕事に取りかかるため慌ただしく動き出す。

 空海の仕事は頷くところまでしかなかった。女中と護衛の兵士ばかりが残る、女性率の高い空間に取り残される。

 

「あれ? 俺の仕事は?」

 

 何もなかった。

 

 

 

 

「――陳留の刺史、名はなんと言ったか」

(そう)孟徳(もうとく)さんですね」

「ああ、曹操か。……この動き、警戒が必要だ」

 

 周瑜は持っていた報告書を鳳統に見せる。

 そこに書かれているのは、曹操軍の動きだ。

 陳留から3日の強行軍で朱儁らと合流、そこから長社城の包囲網に接触するのに1日、賊を破って官軍を誘導し北側に回り込ませて1日、追撃を辞して陳留に戻る行程を2日で半分まで消化した、という時点で出された報告書のようだ。

 都合9日で陳留へと戻った曹操は、続いて東郡の平定へと乗り出すつもりらしい。

 

「神速の用兵……いえ、それ以前にこの動き……私たちの狙いに気がついた、と?」

「おそらく、我々が押しつけた南陽の賊軍を我々に返したつもりなのだろう。意趣返しとしては効果的だと頷かざるを得んな」

「空海様の名が広まったこと、江陵の利が大きかったことに対しての憂さ晴らし、あとは自らの時間的制約と兵力の節約でしょうか?」

「雛里の言う通りだろうな。……民たちの被害をなんだと思っているのか」

 

 南陽は漢の下で最大の人口を誇る郡だ。曹操治める東郡の4倍もの人が住む。

 今代太守の悪政、そして二度の襲撃で数十万人の逃亡者が出てなお、東郡の3倍は下らない人が暮らしているのだ。江陵が大軍をぶつけなかった理由でもある。

 そこに規律を失った賊の敗軍をぶつけるなど、想像を絶する被害となるのは必至だ。

 

 周瑜も鳳統も民の幸福を望める人間だ。二人は唇を噛む。

 彼女たちはつい先日まで、難民10万を受け入れるための施策と指示で眠れない日々を過ごしていた。新しい法の立案と施行、新しい仕事、部署、人員の確保、一時の衣食住の提供、一時措置ではない衣食住への移行など、数百万人の江陵の民を動かすために。

 

「今度は南陽から追い出すのは至難だぞ……」

 

 後がないとわかっている賊に城を乗っ取られた時点で、宛城内は地獄絵図だろう。

 おまけに、南陽側に出張ってきたのは朱儁らしい。

 

「朱儁は賊の徹底討伐を唱えています。おそらく降伏は認めません」

「最悪なのは、朱儁の方針が朝廷のそれと完全に合致していることだ。南陽郡を奪われた袁術も、その方針に反対することはないだろう」

「それどころか、南陽の民すら……いえ、こうなってしまった以上は、南陽の民であればこそ、賊の徹底的な殲滅を望むでしょう」

 

 そして、賊たちも死にたくない(・・・・・・)から死ぬまで(・・・・)抵抗する。

 

「恩赦か、せめて減刑だけでも認められるのであればやりようはあると思います」

「我らが訴え出れば空海様は動いてくださる……だが」

「はい……空海様が、立場を悪くされてしまう」

「最悪の場合、こちらの要求が通らない上に空海様が罰せられる。……それだけは避けねばならん」

 

 南陽に来る将が皇甫嵩だったならば、自主的に(・・・・)動いてもらうことで罪を被せた上、こちらの要求を十分に満たすことが出来た可能性もあった。

 二人は南陽の不運を嘆く。だが、いつまでも立ち止まっていられない。頭を切り換えて広げられた地図に目を移す。

 

「となれば、次善の策だな」

「はい……乱の早期終結ですね」

 

 周瑜は頷き、手にした書類で地図を叩いた。

 

「各地の賊の討伐……そして、賊どもの本拠を落とす」

 

 指し示した先にあるのは、冀州(きしゅう)鉅鹿(きょろく)郡。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「そのまま死んでてくれてたら、こっちとしてはありがたいんだけどなー」

「南陽の軍は敗走の最中ではあるものの、未だ軍の体裁を保っています~。かろうじて、と前置きする必要はありますが~……袁術は健在でしょう~」

 

 孫策は舌打ちしつつ、陸遜に相づちを打つ。

 

「あーあ、朱儁はいつまでこの辺をウロウロしてんのかしら。汝南には袁術ちゃんの実家があるんでしょ? いっそ放っといてくれないかなー」

「駄目ですって雪蓮様。ここを平定しないと、寿春から揚州に入られてしまいます~」

「わかってるわよ。寿春に入られたら建業まであっという間だしね。言ってみただけ」

 

 大規模遠征軍の下っ端援軍であることと、小規模な討伐を繰り返しているという状況が揃っているせいで、出陣もない上に軍議でも相手にされない。

 かろうじて回される復興支援の仕事も、頑張れば頑張った分だけ『袁家の方が家臣を遣わしてくださった』と感謝される。

 やる気を失って仕事に身が入らなければ、簡単な仕事も出来ない援軍と言われて、ますます遠征軍の中心から遠ざけられる。

 孫策の一軍は今、悪循環に陥っていた。

 

 加えて、孫策自身は袁術の下に残した妹たちの様子も心配している。そのストレスが仕事にも現れ……。現状が良くないことだとは自覚しつつも、それを打破する最適な方法が『南陽へ向かう』ことである以上、どうしようもない。そして遠征軍が早期に南陽攻略に乗り出してくれることを期待してしまうことも、やめられなかった。

 

 

 遠征軍が南陽に向かったのは、これより4週間後のことである。

 

 

 

 

 

 朱儁が主催した軍議に周瑜が参じている。

 朱儁は汝南郡平定の功績で鎮賊中郎将に任じられている。中郎将は皇帝直属軍の指揮官だ。鎮賊ということで、賊の鎮圧のために臨時で設置された職ではあるが、有事にあって四品官相当の権限が与えられている。

 しかし、それでもなお周瑜の方が高官である。上座の席を空けて、全員が深く頭を下げたまま周瑜を迎え入れる。

 

「では、袁太守をお返しする」

 

 周瑜は特に気にした様子もなく、孫策に向けて袁術を押し出す。

 

「ガクガクブルブルガクガクブルブル」

「わたしの物じゃないんだけど……」

 

 袁術は、頼りの張勲が入場を禁じられ、軍議の場の異様な雰囲気に押され、隣の周瑜は怒らせると自分を食べてしまう(と思っている)ので、刺激もできずに震えるばかりだ。

 ほぼ唯一の味方である(と思っている)孫策にまで受け取りを拒否(と思っている)されて涙目である。

 

 遠征軍首脳部はやり取りを無視して、袁術を孫策に押しつけて議場から追い出す。

 

「南陽を除いた荊州内の敵の拠点はほぼ全て制圧済みだ。ただ、南陽の内応者までは追えなかった」

「江陵には感謝しております」

「我ら江陵があなた方の方針に口を出すつもりはない。ただ、明後日にはここに空海様が到着される。それまでに全軍の引き継ぎが終わるよう、協力をお願いしたい」

 

 南陽を巡る話し合いは、南陽軍(とうじしゃ)を無視して続く。

 

 

 

「七乃ぉ~っ! 怖かったのじゃ~!」

「はいはい、お嬢さま。もう大丈夫ですよー」

 

 袁術と張勲が抱き合い、くるくる回りながらどこかへと消えていく。

 それを横目に自陣へと戻る孫策の視界に、しばらくぶりの姿が映る。

 

「雪蓮姉様! ご無事ですかっ?」

「蓮華……思春も。よかった、あなたたちこそ無事だったのね」

 

 孫権と甘寧が孫策に駆け寄り、互いの無事を確認する。

 

「こっちはほとんど無傷よ。まともな戦闘なんて1回しかなかったもの。貴女たちの方が大変だったはずよ」

「いえ……こちらも大変だったのは宛城を脱するときくらいで、4日目には江陵軍に保護されましたから……」

 

 孫権は暗い顔をして告げる。南陽を捨てて逃げたことをふがいなく思っていた。

 

「江陵、ね。そういえば、さっき軍議に周家の娘が出てたわ」

「周家の……! 周瑜ですか!?」

 

 周家は今や揚州最大の豪族だ。揚州の奪取を最終目標に掲げる孫呉にとっては、袁術に並ぶ障害と言える。

 その周家の当代最高の実力者が周瑜だ。

 

「ええ、思ってたよりずっと若い……あなたと同じくらいじゃないかしら、蓮華」

「私と、同じ……」

「そのようなはずはありません! 数年前私が江陵に捕らえられたときには、周瑜は既に現在の蓮華様と変わらぬ年格好でした!」

 

 今はまだ手の届かない場所にいるその高官が、自らと変わらない年だと聞いて、孫権はまたしても落ち込む。

 それを否定したのは甘寧だ。怒りをにじませて拳を握りながら語っている。

 孫権はやんわりと甘寧を抑えながら気になっていたことを告白する。

 

「そういえば、江陵軍を率いる黄蓋も、とても若く見えました」

「黄蓋は私よりも年上よ。それは間違いないわ」

 

 孫策は母が生きていた頃を思い出しながら語る。かつては母の友人だった黄蓋も、今は遠い場所に立っている。

 

「妖術……でしょうか?」

「ぶっ」

 

 甘寧が真剣な顔で告げるのを見て、孫策は思わず吹き出す。

 

「単なる若作りじゃない? そういう邪な気配みたいなのは感じなかったわよ」

 

 直感を含めた自身の感覚に絶対の自信を持つ孫策は、気軽に考えて気軽に告げる。

 笑われた甘寧は少し不満そうな表情を見せるが、すぐに表情を改めた。

 

「軍は、この後は、どうなるのでしょう?」

「南陽軍はほぼ壊滅しています。江陵軍と遠征軍が揃った以上、南陽奪還のために攻勢に移るのでしょうか?」

「んー、そこまで聞く前に議場を追い出されちゃったんだけどね。江陵軍はすぐに居なくなりそうな気がするわ」

「……それは、またいつもの?」

「そ。勘よ」

 

 あっけらかんと笑う孫策に、孫権はため息を漏らす。

 そんな孫権の様子を見た甘寧はフォローに回る。

 

「しかし蓮華様。江陵軍が撤収準備を始めていることも事実のようです」

「えっ?」

 

 孫権は慌てて周りを見回す。そこには、明らかに早くから炊飯を行っていたり、天幕をたたんでいたりする江陵軍の姿があった。

 孫策の様子を知るために、いかに孫権が周りのことを見落としていたのかがわかる。

 

「ま、なるようになるわ。今官軍を敵に回すわけにはいかないし、大人しくしてましょ」

「はい」「はっ」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 南陽郡から北東方向に向かう道の途上。

 

「ヒマデス!」

「朱里の真似をしても退屈は紛れませんぞ、空海様」

 

 馬車の席で突然奇声を上げた空海にも、周瑜は冷静だ。黄蓋と黄忠も笑っている。

 

「昨日も一昨日もその前も移動しかしてないんだぞ……」

 

 空海率いる、あるいは空海を伴っている江陵精鋭軍は、江陵から出て1日で襄陽、さらに1日で南陽、さらに1日で頴川郡襄城を通過した。

 

「我が軍だからこそ3日で潁川郡に入れたのです」

「他軍であれば10日は掛かりますかの」

「馬も違いますからね」

「なん…だと…?」

 

 全方位から否定されて空海がひるむ。

 周瑜すら感覚が麻痺しかかっているため忘れがちだが、江陵の最精鋭たちは一人ひとりの装備が最低で20万銭、軍馬に100万銭を軽く超える赤兎馬、その赤兎馬に引かせる荷馬車集団という黄金が服を着て歩いているような連中である。1万銭が金220グラム程度であるから、本当に純金の半分くらいの価値はある。

 その最精鋭が700人。漢の国家予算5%に相当する集団だ。彼らの持つ最精鋭としての強烈な自負は、行軍の常識すら現在進行形で塗り替えている。

 八日で二千五百里を進んだ江陵軍に漢全土が震撼するのは、少しだけ未来の話だ。

 

「陳留刺史がなかなかやり手でしてな。彼女を見習って早めの行軍を心掛けております」

「冥琳が燃えておるので大変じゃったわ」

「クスッ……そうですわね」

「お、おお。なんかわからないけど凄そうだからよし! 良い感じでよろしく」

「お任せください」

 

 そのまましばらく会話が途切れる。

 

「……あれ? 俺が暇であることは何ら変化がないね?」

 

 空海の言葉に周瑜が苦笑し、進軍先を指差す。5列縦隊に並んだ馬群が何十と続く先。

 

「昼過ぎには、長社に差し掛かります」

「先日官軍が籠城し賊が包囲をしておったという場所じゃの」

「賊の痕跡が確認出来れば野営を行い、場合によっては早朝に討伐を行う心づもりです」

「ふーん。楽しそうだけど、外に出るなって言われない?」

 

 実際、南陽についた時など朱儁への挨拶以外に出ないよう言われていたのに、朱儁から挨拶に来てしまったためにどこにも出歩けなくなった空海である。

 

「城の周囲を固める予定ですので、城内は好きに歩いていただいて構いません」

「おお、さすが公瑾! ありがとー!」

「我らが護衛に付きます故」

「ご安心ください」

「公覆と漢升もありがとうね!」

 

 お礼の言葉を引き出すためにわざわざ声を上げた黄蓋と黄忠は、狙い通りの結果に上機嫌だ。一方、周瑜は笑顔の裏に少しの打算を持つ。

 城では、賊討伐のために報告を受ける必要がある。空海の隣でそんな話をしていては討伐に出かけると言い出しかねない、と周瑜は考えている。餌でペットの気をそらす行為と大差が無いことには目を背けつつ。

 

「明後日は船での移動となりますので、今日と明日は早めに休むことになります」

「明日には河南尹入りですな」

「おおー、船かー。黄河?」

「ええ、河水です」

 

 空海は知らないが、河とはそれそのものが黄河を指す言葉だ。大河と言えば黄河だし河水と言えば黄河である。長江も同じく大江で長江である。

 

「楽しみだ」

 

 

 

 

「お、ビワ発見」

「む?」

 

 低い背の割にしっかりと枝を広げた木の多い、なかなか立派なビワの畑だ。

 遠目に見える黄色い実りに、甘い物好きな空海の目が輝く。

 

「よし、見に行こう」

「空海様お待ちください!」

 

 空海が馬車から立ち上がって飛び降りる。

 慌てて止める周瑜に悪戯っぽい笑みを向けて、空海は味方を呼ぶ。

 

「漢升おいで!」

「はい!」

「なっ、しまった!」「あ、こら、紫苑! お主も止めぬかっ」

 

 黄忠は大体いつも空海の行動に味方する。

 急いで黄蓋に後を追わせて、周瑜自身は軍を止める。空海がビワをおやつに、茶飲みを含めた休憩を希望する可能性が高そうだと考え、長めの休憩を指示する。

 

「全軍、大休止に入る。即時、周囲の偵察を行って報告に来い!」

 

 空海の周囲には既に護衛が10人以上広がっていた。だが、それで危険がなくなるわけではない。周瑜は更に数十人の護衛を選出し、空海の元へ急ぐ。

 

 

 

「おねーちゃんたち、だめー!」

「お?」

 

 畑に近づいた空海の元に小さな女の子が駆け寄る。護衛たちが警戒の色を見せた。

 

「威嚇するな。この畑の持ち主かもしれない。話をする」

 

「おじちゃんもだめー!」

「クルルァ!(威嚇)」

 

 

 

「なるほど。やはりお前の家の持ち物だったか」

「そうだよ! おとーさんがとってくれるの。とーってもあまいんだよ!」

「うん。確かによく手入れされていて美味しそうだな」

「すっごくおいしいよ!」

「おおー、いいね。一つくれ」

「だめー!」

 

 両手を広げて空海の行動を阻もうとする姿に、黄忠の口からも笑い声が漏れる。

 

「どうしよう、漢升。この子、手強い」

「クスクス……そうですわね。では、買い取るというのはどうでしょう?」

「その手があったか! 我が財力を見よ! いくぞ小娘、ビワの貯蔵は十分か?」

 

 30秒に及んだ畑の主(子供)と江陵の主による首脳会談の結果、2個1銭で買うことで決着が付き、二人はやりきった感のある笑顔で握手を交わす。

 

「よし、では5銭分を……。……。……誰か5銭持ってない?」

 

 空海はお金を持ち歩かないし、護衛は仕事中お金を持たないし、黄忠も行軍中は小銭を持ち歩くことなどない。空海は遠巻きに見ていた周瑜に詰め寄る。

 

「小銭だ! 小銭を出せ!」

「え? わ、わかりました。今用意させます」

「あれ? あるの?」

 

 行軍と言っても陸の移動である。当然、途中には街もある。買い物を行えるよう金銭は持ち歩いている。

 

「ええ、もちろん。5銭でよろしいのですか?」

「うん。よろしくね」

 

 周瑜から5銭を預かった空海は、女の子の前に屈み、目線を合わせて手を差し出す。

 

「では5銭分のビワを頼む。良い感じのを見繕ってくれ」

 

 女の子はにっこりと笑ってお金を受け取り、そのまま空海の手を引いて歩き出した。

 

「うん。こっちだよ! いちばんあまいのがこっち!」

 

 

 

「ご馳走様でした」

「えっと、あまり食べられなかったようですが、よろしかったのですか?」

「いいよいいよ。璃々、美味しかったか?」

「うん! あまかった!」

「よろしい、ならば満腹だ」

 

 空海は女の子の頭を撫でながら笑う。黄忠は女の子の口の周りをぬぐう。

 ここだけを見ればまるで親子のような姿だった。

 

「公瑾」

「はっ」

 

 空海は、近くに控えていた周瑜を呼びつける。

 

「血の臭いがする。何があった?」

「!?」「「!」」「ち?」

 

 黄忠が驚き顔を上げる。周瑜と、いつの間にか近くに来ていた黄蓋が苦々しく顔をゆがめる。女の子はよくわかっていないように空海たちを見上げている。

 

「……近くに、賊の拠点があり、最寄りの集落に襲撃を受けた形跡があります。結論から言えばここで休止を挟んだのは正解でした。賊が拠点にしている廃城は長社周辺で最大の集結地だと思われますが、未だ気付かれた様子はありません」

「そう。それともう一つ、気になっていた」

 

 空海は厳しい表情をそのまま女の子に向ける。

 

「――璃々、父と母はどこだ?」

 

 何十人もの護衛と共に移動しているのだ。子供をこの場に放置しておいて、この事態に1時間以上も気付かないというのも不自然である。

 

「おとーさんは、おかーさんがかえってこないから、おむかえにいくって」

 

 その言葉と共に、女の子の表情に陰りが見えた。

 聞けば、昨日の朝、黄色い布を付けた賊たちに襲われて母親が居なくなり、昼過ぎには父親が出かけ、夜は一人で寝た、と。

 黄忠などは既に悲痛な表情で璃々を抱き寄せている。

 

「そうか。……どう思う、公瑾?」

「おそらく賊のところでしょう。本当に奪還を狙っているか、玉砕かは……」

 

 周瑜の言葉に空海も頷く。

 

「わかる範囲で調べておいて」

「承知しました。集落の方にも人をやろうかと思うのですが、そちら側もまずは遠巻きに探ってみることにします」

「よろしくね」

 

 

 女の子を昼食に誘い、周囲の探索を行う。

 続報が入ったのは1時(2時間)後のことだった。

 

 

「空海様、おそらく発見しました」

「おそらく?」

「対象の男性の周りに旅人らしき3人組がおり、遠目での偵察に留めたそうです」

「そう。じゃあ直接行くか」

「畏まりました」「はっ」「はい!」

 

 空海は女の子を抱き上げて護衛たちに囲まれ、周瑜の指し示す方向へと歩き出す。

 

「静かに周囲を取り囲み、もし誰かが逃げ出すようなら取り押さえろ! 相手は賊の可能性がある、怪我をさせるくらいは構わん。絶対に油断するな!」

『はっ』

「おお。俺の立場がない……」

 

 周瑜が全て指示してしまって、空海は女の子を抱き上げて歩いているだけだ。

 とはいえ、空海は指揮などしたことがないので、普段から部下に任せきりである。今更指揮をしたいとは言い出せない。

 子供にまで笑われ、しょんぼりと馬車に乗り込む。

 

 

 

「ここからは徒歩になります」

「森の中?」

「はっ。奥に1里(約400メートル)ほど入ったところです!」

 

 森の側で馬車を止め、背の低い樹木の少ないそこに足を踏み入れる。

 護衛たちは木の陰に隠れるようにしながら周囲を移動する。ここまで案内してきた兵もそれに紛れ、空海と共に歩くのは、腕に抱かれた女の子と黄蓋、黄忠、それに周瑜だけとなった。

 

「あれか」

「! おとーさん!」

『!?』

 

 急に聞こえた子供の叫び声に、男性を取り囲んでいた3人が大きく反応する。

 青緑の服を着て眼鏡をかけた少女、水色の服を着て背の低い亜麻色の髪の少女、白い服を紫の大きな帯で止め赤い槍を持った少女。

 特に大きく反応したのは白い服の少女だ。槍を構え、険しい表情で周囲に視線を巡らしている。

 

「……(祭殿、紫苑、油断しないでください)」

「(うむ。何かあればあの白いのから潰すぞ)」

「(はい)」

 

 3人組が一歩下がり、空海に支えられた璃々が駆け寄る。黄蓋たち護衛が空海と3人組との間に割り込むように立つ。

 

「おとーさん!!」

「っ、璃々……!?」

 

 3人組のうち、眼鏡の少女が代表して声を上げる。

 

「あなた方は?」

 

 空海はちらりと目をやっただけですぐに男性に視線を戻す。

 

「先にこっちだ。怪我の様子は?」

「……もはや、苦しませるだけです」

「そうか」

 

 黄蓋も黄忠も、警戒を怠ってはいない。しかしそれでも、表情の変化までは抑えられなかった。

 

「璃々、すまん……すまんっ! 母さんのっ、仇を、取れなかったっ……すまんッ」

「おとーさん! おとーさんっ!!」

 

 璃々が泣きながら父親の手を握る。

 父親は、その手を握り返すことも出来ずに涙を流す。

 

「璃々、お前を遺して、ゴホッ、逝く……せめて、お前だけは、幸せに……」

「おとーさん、やだよ! ダメ! まって!」

 

 空海は璃々の後ろにしゃがみ、やんわりと璃々の肩を抱く。

 

「死にかけのお前に言うのもなんだが、璃々のことは任せろ」

「どなたか、存じませんが……最期に娘の、顔を……ゴホッ、見られました。璃々を、娘を、頼みます……。どうか……! ゴホゴホッ」

 

 口から血の混ざった唾液を垂らしながら、それでも頭を下げようとしている男を、空海が押しとどめる。

 それまで警戒を見せていた白い服の少女が、ゆっくりと槍を引いた。

 

「大人になるまでは面倒を見てやる。お前は娘に悪い虫が付かないかだけ心配していろ」

「――はは、ハハハッ……それは、しんぱい……です、な……ゴフッ……感、謝……」

「おとーさん、やだ! おきて! おとーさん!!」

 

 空海は、璃々が泣き止むまでその背中をなで続けた。

 

 

 

 璃々が泣き止み、空海が布で遺体の顔を綺麗にしている間、誰もが口を開けない時間が過ぎた。

 やがて、血濡れた布をたたみ、空海が立ち上がる。

 

「見ていてわかったかもしれないが、俺はこの子供の保護者だ。……だから、お前たちに聞かなくてはならないことがある」

 

 空海の言葉と共に黄蓋たちから僅かに戦意が漏れる。空海に質問を浴びせた少女が少し慌てた様子で答えた。

 

「――あっ、わ、私たちは、この男性が黄色い布を付けた3人組の賊に襲われているのを見かけて助けに入り、賊たちの拠点があるだろうあちら側から見られないよう、森に運び込んだのです!」

 

 少女は空海たちが入って来た方向とは反対側を指差して説明する。

 空海は頷いて周瑜に目をやった。

 

「事実だと思うか?」

「賊の拠点については間違っておりません。璃々の父親もこの者たちには警戒しておりませんでした。おそらく事実でしょう」

「そうか」

 

 空海はそれだけ言って璃々の横にしゃがむ。

 

「璃々、決めろ」

「……え?」

「この者たちは、お前の父親を救おうとした。どうするのか、お前が決めろ」

 

 厳しい空海の言葉に口を開きかけた者を止めたのは、璃々の行動だった。

 父親の側から立ち上がり、涙をぬぐって3人をしっかりと見たのだ。

 そうして誰もがかける言葉を見つけられない中、璃々は頭を下げ。

 

「おとーさんをたすけようとしてくれて、ありがとうございました!」

 

 その言葉に、眼鏡の少女と、亜麻色の髪の少女が目を細める。涙もろい黄忠などは静かに涙を流している。

 空海は璃々を優しくひと撫でして、厳しい表情に戻る。

 

「良く言った、璃々。だが、もう一つだけ決めなくてはいけないことがある」

 

 空海は璃々の両手で肩をしっかりと抑え、目を合わせて告げた。

 

「お前の父と母をこんな目に遭わせた賊どもをどうするのか。決めるんだ」




ならばよし!は、用法を守って正しくお使いください。
正しくは『是非もなし』的な使い方をされますが空海は気付かずにミスしており「そのように改善されたならば良いよ」の意味で使ってます。気付いてないのでこのミスは直りません。

没ネタ
「見上げた孝行心だ小娘。だがな! てめぇの命を張るほど値打ちのある親か! さあ頭を冷やしてよく考えてみろ! 握手してんのは左手だ、利き腕じゃないんだぜ」

次回、子連れ元帥。ただし(拝)一刀ではない。


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4-4 黄巾賊々

 空海は頷いて立ち上がる。

 

「幼平」

「はい!」

 

 突如現れたNINJA周泰に、江陵組以外の全員が目をむく。

 

「これから賊の拠点に征く。こちらから向かって正面以外の出入り口を潰し、兵を率いて周辺を固め、一匹も逃がすな」

「わかりました!」

「空海様っ! そのような兵の使い方は賛同致しかねます!」

『空海!?』

 

 周瑜が上げた声に3倍の声が上がる。今まで話していた相手が、国家で一、二位を争う実力者にして有名人だと言われれば当然の反応かもしれない。

 

「護衛を残してここの兵も連れて行っていい。行け、幼平」

「はいっ!」「空海様!」

 

 周瑜の声を無視して周泰が消える。白い服の少女だけが一瞬だけ目で追ったが、すぐに見失って視線を戻す。

 

「公瑾、よく見てみろ。今はこれが最適だ」

 

 空海はそう言い切って、闘志をむき出しにしている武人たちに顔を向けて笑う。

 

「漢升、公覆。好きにやれ」

「お任せください」「腕が鳴りますのぉ」

 

 枷を外された二人が嗤う。

 それを見てただ一人、白い服の少女が怯えたように数歩後ずさった。

 

「星?」「星さん?」

「い、いや、なんでもない」

 

 少女は、槍を握り直して黄蓋と黄忠を正面に見据える。

 

「……あなた方が、かの二黄か」

「どの二黄かは知らんが。まぁ、自己紹介くらいはしておくかの。儂が黄公覆じゃ」

「私は黄漢升ですわ」

「そして俺が璃々の保護者だオウフ」

 

 空海は抱き上げていた璃々にひっぱたかれる。

 空海は睨み付ける璃々が怖いので、近くで吹き出した少女に目を向けた。

 

「あ。お前も参加するよね? 白い武人のお嬢さん」

「無論。今立たねば武人として生きてきた意味がございませぬ」

「ふん。足を引っ張るでないぞ」「期待しているわね」

「よろしい。なら後始末は任せろ。好きに暴れていいぞ」

「――ふっ、はははは! これはこれは。理想の上司ですな。お二方が羨ましい」

「ドヤぁオウフ」

 

 空海は必要以上に胸を張ってまたしても璃々にひっぱたかれる。

 黄蓋と黄忠は誇らしげだ。

 白い服の少女はニヤニヤと笑い、眼鏡の少女と亜麻色の髪の少女は江陵組を量るように見ている。

 ただ一人、周瑜だけが苦々しい表情のままだ。

 

「空海様、私はまだ納得しておりません」

「んー、だからさ、ここは武人に任せればいいんだよ。正面から突き破って天網恢々(てんもうかいかい)()にして()らさず、でいいの」

「く、空海様っ!」

『?』

 

 天網恢々疎にして漏らさず、とは『悪人には必ず報いがある』という意味の言葉で、周瑜が最も好きな黄蓋の台詞である。周瑜本人を除けば空海しか知らない秘密だ。

 当の黄蓋にとっては、いつも通りの心構えで放った言葉であるため、特に記憶に残っているわけではないのだが。

 最も好きな台詞をバラされた(と思っている)周瑜は真っ赤である。黄蓋をチラリと見るが不思議そうな顔をされて脱力する。

 

「お前は足下と周りを固めてやれ。今はそれで十分だし、それ以上はやりすぎだ」

「う……うぅぅぅ……わかりました……」

「よし。勝ったッ! 第三部オウフ」

 

 璃々は的確にツッコミを入れてくる。今の空海は自然に不自然なポーズを決めることも許されない。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「よろしかったのですか?」

 

 眼鏡の少女が空海に尋ねる。黄蓋と黄忠、白い服の少女を送り出したことを言っているのだろう。

 

「敗残兵の千や万程度があいつらをどうにか出来るわけないからね」

 

 とはいえ、本当に3人で送り出したわけではない。矢の補充や倒した相手の片付け、その他諸々のフォローを行うために数十人が後ろから支えている。

 

「あの白いお嬢さんについても大丈夫だよ。万一の時は幼平が拾って連れてきてくれる」

「いえ、星がどうこうなるということは、心配していないのですが……」

 

 眼鏡をいじりながら恥ずかしそうにしている様子に、空海は笑う。

 

「稟ちゃんはですねー、策もなしに敵に突撃させることを良しとした、空海さんの態度を気にしてるのだと思うのですよー」

 

 亜麻色の髪の少女が眠そうな表情で補足する。

 

「んー。お前たち策士は、うちの公瑾もそうだが、将兵を数として見ることに固執していて、あいつらが人だということを忘れがちだ」

「人であること? 忘れては……いえ、私の言っている人とは違うのですか?」

「つまりー、人なのだから、気分で実力が変わることもあると仰りたいのですかー?」

 

 空海は理解の早い二人に頷き、続ける。

 

「人だから、実力が気分で増減する、環境で上下する、状況で左右する。後ろにいる者、前を進む者、隣に立つ者、下から支える者、上で率いる者で何もかも変わる」

「なるほどー。天地人ですかー」

 

 眠そうな少女が相づちを打つが、眼鏡の少女は納得していないような表情だ。

 

「あとな、相手の実力も評価し直せ。お前たちが不得意な、敵を減らす考えだ」

「敵を減らす?」

「うん。今言った天地人もそうだし、気の充溢した今の漢升や公覆の正面に立って、お前たちが想定した実力を十全に発揮出来る者があの中に何人いるのか、とか。本当に本当に怖いんだぞ?」

 

 空海は、江陵の女子が肉食獣のように笑い出した時には、ちゃんと正座して判決を待つようにしている。逃げると能面のような表情で何時間も追いかけ回されたりするのだ。

 意味も無くシリアス顔をさらす空海に対して、眼鏡委員長は真剣な様子である。

 

「しかし、それは相手の過小評価というものに」

「現状が過大評価だと言っているんだ。今ここに居座る賊は、頴川での討伐で一番最初に逃げ出したヤツらだぞ」

「……確かに、抵抗していたものは南陽へと押し出されましたが」

「南陽へ押し出される前に逃げた人たちは、汝南にも向かったようですねー」

 

「それに、だ」

 

 空海がニヤリと笑って二人を見る。

 

「本物の策士が自らの命を策に組み込むように、今あいつらが振るおうとしている武にはあいつらの命が掛かっている。お前らだって、全霊を注いだ策に自分の死を組み込んだのに、それが過分な配慮から十全に実行されなかったなどとなったら……わかるだろ?」

「ぐっ……そうならぬようにするのが策士だ、と言いたいのに……! 理解してしまった自分が憎いっ」

「ふふふ。そんなことになったら風は化けて出てしまいますねー」

 

 悔しそうにする眼鏡の少女と飄々と笑う亜麻色の髪の少女を見て、空海も笑う。

 

「だからこれは、あいつらが自分の命を組み込んだ突撃策なんだよ。策士なら、その辺も織り込んでみろ」

「空海様にそのように言われては、私としても精進するしかなくなってしまいましたな」

「ぉ、公瑾」

 

 討伐の様子を見るために廃城に赴いていた周瑜が戻ってきた。

 

 

「――ことに致しました」

「そうか」

 

 空海は、少し離れたところで遠目に討伐の様子を見ていた璃々を連れ戻す。

 

「璃々。賊の頭の首は公覆が取ったようだ」

「……うん」

「母の遺体は、他の者達と一緒に弔ってやることになった。日の当たる場所に墓を作ってやろう」

 

 賊の拠点には多数の遺体があったが、どれも状態が酷かったようだった。

 一つ一つ璃々に見せて確認させるわけにもいかず、賊の死体と分けて被害者たちだけでまとめて弔うことにした。

 

「お前の父の墓だが――」

「おかーさんのよこがいい」

「母たち(・・)の墓の隣でいいか?」

「うん」

 

 璃々は気丈に振る舞っている。悲しそうな顔をして、空海の肩に顔を埋めることもあるが、それでも泣き声を漏らさずにしっかりと末路を見ている。

 賊たちの末路を見届けるのは、空海との約束である。仇を願ったのだから、その願いの結末は見せてあげるべきだと空海は思ったのだった。

 

 そうして、賊の討伐はその日の内に決着した。

 

 

 

 翌朝。

 

「20年前、この畑を作る時にアイツが死んだら譲ると――」

「ウチの爺さまが土地を拓くのを手伝ってたんだから、半分はウチに――」

「俺んちが隣にあんだから畑の面倒を見るのも――」

「娘は子供のいるところが預かった方がいいに決まって――」

「お前んとこは去年子供を亡くしたんだから娘を引き取っても――」

「うちにゃ男の子がいるから、これ以上は――」

 

「お前たち」

 

 話し合いを見ていた空海が声を上げる。芯に響くような声色だ。白熱していた村人たちも、今にも飛び出しそうだった武人たちも、顔をゆがめていた軍師たちも、全てが空海に注目する。

 

「この話し合いは璃々の居ない場所でやった方がいいだろう。璃々は連れて行くから、結論が出たら伝えろ」

 

 空海は言うだけ言って、うつむいて震える璃々を抱き上げ立ち去る。

 

 

 

「空海殿! 何故あんなものを許しているのです! あれは、あんまりだ!」

 

 星と呼ばれる白い服の少女が、ビワ畑まで来ていた空海に追いつき、食ってかかる。

 

「お前が暴れていたら、一瞬であいつらを張り倒せたな」

 

 空海が笑って見つめ返す。星は言葉に詰まり、わかっているなら何故こちらを止めるような言動を、と空海を睨み付ける。

 

「璃々、あの場所で暴れて欲しかったか?」

 

 星が凍ったように固まった。

 璃々は空海の肩に顔を埋めたまま、それでも首を振って拒絶する。

 星は悔しそうな、悲しそうな表情となるが、拳を握って胸に詰まった言葉を振り絞る。

 

「……すまな、かった。私の、勝手だった」

 

 璃々は首を振る。

 

「璃々、彼女も、お前のために怒っていたんだ。わかるな?」

 

 頷く。

 

「許してあげるね?」

 

 もう一度頷く。

 空海は璃々の背中を撫で、今にも泣き出しそうな星を見る。

 

「璃々のこれまで(・・・・)を預かる者たちだ。璃々の好きにさせてやれ」

 

 星はかぶりを振って大きく息を吐く。

 

「ままなりませんな」

「そうだね」

 

 さて、と前置きし、空海は璃々を地面に降ろす。そしてビワを一つ、もいで与えた。

 

「璃々。ビワというのは、丁寧に世話をしなければ、すぐ増える上にすぐ枯れる」

「うん」

「この畑は良いビワ畑だった」

「……うん」

「仮にお前の手で世話をしたとしても、この畑はすぐに荒れてしまうだろう。あの者たちでは、もっと酷いことになるかもしれない」

 

 璃々が耐えきれずに嗚咽を漏らす。空海の着物を掴み、それでも顔を上げている。

 空海は慰めることもせず、ただその横に立って続ける。

 

「璃々、この景色は見納めだ。よく見ておけ」

 

 二人を見ていた星が、畑に背を向けて歩き出す。

 今はただ、離れたかったのだ。あの喧噪と、泣き声から。

 

 

 

 

 璃々と3人組を誘って朝昼を兼ねた遅めの食事を取り、食事と陣の片付けが進んでいく中で空海が切り出した。

 

「璃々。俺たちはこれから、黄巾賊の本拠を潰しに征く」

「こうきんぞく?」『!』

 

 璃々が不思議そうな顔をして空海を見上げ、3人組の表情が変わる。

 

「お前の父と母を奪った賊の、親玉の、そのまた親玉みたいなヤツらだな」

「我らは元々、黄巾賊の討伐のために冀州へと向かっていたのだ」

「空海様への不敬から始まったが……璃々の両親のことも含め、許しておけぬ」

「その通りですわ!」

 

 蒼天が死んでることに始まり、馬騰への過剰な負担、南陽への襲撃、難民による江陵の大打撃、そして璃々の両親のこと。

 

「最近は黄巾賊に対する恨み辛みが増えていくばかりだなー?」

「おいて来た雛里がいきり立って全軍を出撃させないよう、今回の連絡内容にはずいぶん気を遣いました……」

 

 江陵の将兵がいかに優れていたか証明されたとか、ただ一人もかけることなく圧勝したとか、これで潁川郡の賊は息の根を止めたとか色々誇張し、その上であれこれとやらせて軍は動かすなとか書いておいた。忙殺させた上に動きを縛らなければ不安をぬぐうことも出来なかったのだ。

 

「いっそ全軍でたたきつぶしてやればいいんじゃ」

「その通りですっ。江陵ならば朝廷が動く前に全て終わらせられます!」

 

 これが江陵の民の総意と言って良いのだから。

 ただ、周瑜は頭痛を耐えるように額を抑える。

 

「あなた方は……決起の事情が見えぬ以上、その根を断つのは簡単ではありません。それに15万人の将兵を動かすのに一体いくら掛かると思っておられるのか」

『15万!?』

 

 聞き耳を立てていた3人組が思わず声を上げる。

 今回の黄巾賊討伐のために朝廷が動かした兵士の総数が約10万人だ。しかも、実際に遠征を行っているのは7万程度でしかない。各地で集めた義勇兵を含めてようやく8万を超える程度である。

 一応、黄巾賊の総数は現在わかっているだけで30万人を超える。超えるが……江陵の兵ならば2万もいれば簡単に勝てるだろう。町内の囲碁好き老人たちの相手にプロ棋士が徒党を組んでやってくるようなものだ。

 

「え。ひと月で1億銭くらいだから何とでもなるって雛里ちゃんが」

『1億銭!?』

「は?」

「儂も同じことを言われたぞ」「俺もー」

「ひ、雛里ぃいいいい!!!」

 

 国家予算が年間200億銭程度なのだ。ひと月1億銭もの額を、しかも臨時に出費してなんとでもなると言ってしまえるなど、一都市の予算としてはふざけた規模の話である。

 なお、江陵組は給金が毎月10万銭を超えている上に、空海の周りでは5億銭10億銭と言った数字が飛び交うので感覚が麻痺してしまっている。

 漢の一般農家の収入は年6千銭相当である。江陵でも一般人の収入は年間5万銭程度が上限であり、それ以上を稼ぐ一般人は両手で数えられる程度の数しかいない。

 

 一方で盛大にツッコミを入れた周瑜は、自身の見込みが甘かったことを悟っていた。

 鳳統はそういった根回しが苦手であるため、孔明たち出口(・・)に注意を払っておけば、独自に軍を動かすまでの勢いにはならないと思い込んでいた。

 黄忠、黄蓋、空海の周囲などは鳳統のことがなくても注意を払っている場所である。周瑜に気付かれずに全員に接触しているところを見るに、他の部署への根回しなども盛大に行われている可能性が高い。

 

 身内に対する諜報を真剣に考えなくてはならないなど頭の痛い問題である。

 普段は孔明や鳳統、周瑜の意見が根本から一致することは滅多にないため、三すくみになって有利も不利もないのだが、今回は周瑜と他二人の意見が対立した。しかも、周瑜も積極的に対立する意見ではなかったため、二人の正面には立たなかったのだ。

 二人が独自に軍を動かしたせいで南陽を火の海にされたりしてはたまらない。ここからは本気で鳳統たちの妨害を考えなくてはならないと周瑜は考え、とりあえずは――

 

「雛里が何か言い出したら止めてくださいとお願いしてあったはずですね?」

「はい。空海ごめんなさい」

 

 とりあえずは空海を正座させることにした。

 

 

 

 

「じゃあ、お前は黄巾賊の親玉を見に行きたいんだな?」

「うん。なんでわるいことするのか、ききたい」

 

 空海の言葉に璃々がしっかりと頷く。

 

「よしわかった、なら俺が首謀者に会わせてやろう」

「空海様!? 貴方はまた、何をおっしゃるのです!」

 

 軽く告げられたとんでもない内容に周瑜が声を上げた。空海は軽い調子で返す。

 

「首謀者が生きている間に辿り着いて、本陣以外を適当に潰して、本陣を囲んで楚歌でも歌ってやれば会えるだろ」

「えっ、い、いいえ。籠城する相手ではそう簡単には……」

「なら門を開いて本営に切り込めばいいだろ」

 

 周瑜はそれを「不可能だ」と言いたいのに、昨日の討伐の感触から、出来そうな方法がいくつか浮かんでしまう。しかし、そのどれもが空海の安全に不安のある方法であり、周瑜には認められるものではなかった。

 

「く、空海様。どうかご自愛ください」

「出来る出来ないの問題じゃなくて、やる、やらないなんだろ? なら、やれ」

 

 それでも迷う周瑜に、空海は笑みを消す。

 

「公瑾。俺がやると決めた。お前は実行すれば良い」

「わっ、わかりました……」

 

 周瑜は赤くした頬を見られないように頭を深く下げる。空海はお茶で唇を湿らせて、口を開いた。

 

「方法は任せる。全軍動かしてもいいからね」

「動かしません。雛里に毒されませぬように」

 

 一転してげんなりした様子で答える周瑜に、周囲から笑いが漏れる。

 

「おにーさん、ちょっとよろしいですか?」

 

 風と呼ばれる少女がのんびりと告げる。

 

「お兄さんという呼ばれ方は珍しいな。なんだ?」

「賊の討伐に、風たちもご一緒させて貰えませんかー?」

「いいぞ。荷馬車か馬があるだろうから、それに乗れ」

 

 一瞬の迷いもなく許可した空海に、江陵組から非難の視線が集まる。

 

「空海様、身元もわからぬ者を意味も無く同行させるのは……」

「じゃあ仕事を与えよう! お前たちには同行中は璃々の護衛と世話を任せる」

 

 3人組は顔を見合わせる。璃々のことなど言われずとも守るし、そもそも江陵軍の中にいれば襲われるということもないだろう。世話についても、徒歩でないのならその苦労は半減だ。空海は、有名無実の仕事を与えたので同行を許す、と言ったのだ。

 

「あと、名乗れ」

 

 その空海の言葉に最初に反応したのは、星だった。

 

「姓は(ちょう)、名は(うん)、字を子龍(しりゅう)。常山の昇り竜を自任しております」

「おお、格好良い……けど、竜? りゅう~?」

 

 空海のふざけた態度に趙雲はこめかみをぴくぴくと引きつらせる。

 

「……なにか、文句がございますかな?」

「竜っていうより、蝶々じゃないか? なぁ、璃々」

「んなっ」

「うんーかわいいー」

 

 趙雲は顔を僅かに赤くし、拗ねたようにそっぽを向いて席に着く。

 

「し、知りませぬっ」

「はっはっは……?」

 

 江陵女子が笑顔で垂れ流す雰囲気が恐ろしくなった空海である。

 続いて稟が頭を下げる。

 

「私は()……いえ、(かく)()奉孝(ほうこう)と申します。名乗りが遅れたこと、謝罪いたします」

「よし許す! なんか頭の良さそうな名前だ郭奉孝。よろしくね」

「は、はい」

 

 眼鏡をいじって照れる郭嘉に、空海は自身に再び危険が迫っていることを悟る。咳払いをして最後の一人を促す。

 

「風は(てい)(りつ)仲徳(ちゅうとく)ですー。よろしくですよー」

「うん。こっちもよろしく」

 

 空海の返事に対し、程立の頭に乗った人形が動く。

 

「おうおう兄さん、よろしくな」

「キェェェェェェアァァァァァァ本体がシャァベッタァァァァァァァ!!」

 

 空海は比較的乱暴に鎮圧された。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 江陵軍は司隸(しれい)河南尹(かなんいん)陽武(ようぶ)に向かって道を北上している。

 空海は今、郭嘉、程立、趙雲ら3人が乗る荷馬車に乗り込み、璃々を抱き上げて歓談中である。

 

「陽武からは船で移動だよ」

「おふねのるのはじめて!」

 

 璃々が元気よく笑う。村を出たばかりの今は空元気のようだが、空海に抱き上げられることは気に入っているようだった。

 

「陽武ということは、官渡で一息に渡るのでしょうか」

「陳留の北東にある、東郡の聊城(りょうじょう)だったかな? そこまで船だね」

「なるほど。清河(せいか)国側から()州に入るのですね」

 

 郭嘉は考え事のたびに眼鏡をいじっている。癖なのだろう。

 

「風たちは、東郡に大規模な黄巾賊が現れていると聞いていたのですがー」

東武陽(とうぶよう)のヤツか。何日か前に鎮圧の報を受けたぞ」

「……ぐぅ」

「寝るな!」

 

 程立が会話中に寝息を立て、郭嘉が勢いよく突っ込む。素早く的確なツッコミに、璃々も笑い声を上げる。

 

「ふむ。では音に聞く陳留刺史の姿は拝めぬのですか」

「東郡へ遠征に出ていた皇甫嵩(こうほすう)が賊の本拠制圧のため広宗(こうそう)に向かうんだけど、曹操はそれに同行する、とか言ってたはず」

「ほぅ。ならば広宗で会えるかもしれませんな」

 

 趙雲の言葉に空海がニヤリと笑う。

 

「どうかなー? ウチの公瑾はなかなか負けず嫌いらしくてね? 曹操より先に広宗に到着して、曹操の到着より先に制圧しちゃうつもりかも」

「なっ!?」「なんと……」

「東武陽から広宗に向かったとすれば250里ほどですがー、ここから広宗まで、陽武と聊城を経由すると千里を超えちゃうと思うのですよ?」

 

 郭嘉が声を上げるほど驚愕し、趙雲も驚きを顕わにする。そして、程立が真偽を確認しようと空海に水を向けた。

 

「陽武から広宗までで1100里(540㎞)だったかな。そこは3日で行けるらしいぞ」

「ふっ、不可能です!」

 

 郭嘉が大声を上げる。

 後ろで周瑜が勝ち誇ったような笑みを浮かべていることにも気がつかずに。

 

「私だって、他軍を指揮してそんな用兵が出来るとは思わんな」

「しゅ、周軍師殿」

 

 取り乱したことが恥ずかしいのか郭嘉が縮こまるが、周瑜はそれを見ても当然といった態度で続ける。

 

「我が江陵の兵は1日300里を進む。陽武から聊城までの700里は船で1日だ」

 

 300里は約125㎞、700里は約290㎞だ。どちらも『行軍を考えなくても』かなり速い移動速度だ。行軍を考えれば普通は2倍から3倍は掛かる。

 60㎞離れた土地に行くのに時速120㎞で走って30分だと言うようなものだ。理屈と現実の間に埋めがたい差がある、はずだった。

 

「そういえば江陵から頴川へ行く時も、他軍なら10日はかかるって言ってたね」

「左様ですな」

 

 周瑜が胸を張って笑う。常識外れの行軍が成功していることが誇らしく、郭嘉が驚く姿が、自身が夢想した曹操のそれと重なって見えたのだ。

 

「な、何日で頴川入りしたのか、伺っても?」

「3日だよ。あの集落まで4日」

 

 空海までが当たり前のように答えたことで、郭嘉は驚きと引きつった笑いを顔に貼り付けたまま固まった。そこで何かに気がついた趙雲が空海に尋ねる。

 

「……もしや、陽武へは本日中に?」

「そうだよ。誰も言ってなかった?」

「は、ははは……」

 

 趙雲たちは、黄河のすぐ脇の街から頴川へ、ほとんどまっすぐ向かって8日掛けて移動している。その行程をわずか半日で戻るというのだから笑うしかない。

 別の道を通る上に、徒歩の旅人である趙雲たちとは事情が異なるが、行軍というものは本来、軽装の旅人よりも足が遅いものだ。それが常識である。人の噂よりも速く移動する軍など聞いた事がない。

 

「噂以上、そして想像以上ですねー。そいえば、負けず嫌いと言っておられましたがー、曹操さんとの間に何か確執でもあったのですかー?」

「神速の用兵なんて言われてるから、彼女を見習って素早い行軍をする。みたいなことを言っていた気がするなぁ」

「そのようなところです」

 

 周瑜は否定しない。両軍の動きを理解して初めてわかるような深いところは、わかる者だけがわかれば良いと考えていた。部外者のいる前でわざわざ口にすることでもない。

 事実、周瑜の言葉の裏を読んだであろう郭嘉と程立だけが鋭い目つきとなる。

 裏を読むよりも気になったことがあった趙雲が先に口を開いた。

 

「そう言えば空海殿。私、仕えるべき主を探して諸国を巡り歩いているのですが」

「蝶々のように?」

「そ、それはやめてくだされ!」

「ひらひらー」

「こらっ! 璃々まで……!」

 

 空海の言葉を赤くなって否定する趙雲に、璃々と空海は笑顔を向ける。趙雲は、それを見て何も言えなくなり、唇を尖らせて黙り込む。

 

「だから、曹操を気にしていたんだね。何が知りたいの?」

「……諸侯の話を」

 

 反射的に漏れそうになった悪態を飲み込み、趙雲は気になっていたことを聞く。事態の中心人物の一人に聞けば、わかることもあると考えた。

 

「南陽の方に来ていた朱儁は、賊の徹底殲滅を訴えて宛城の外を浄化してるらしい。

皇甫嵩は戦功があるものの、上奏文がやたら鬱陶しいって宦官が気にしてるらしい。

盧植は宦官との間に何かあったらしくて、事実と異なった報告をされて左遷された。

董卓は騎兵を中心に持って来たのに城の防衛と城攻めを命じられて、そろそろ涙目。

曹操は本拠の隣の頴川で起きた乱を南に押しつけて自分たちは東郡の平定に行った」

 

 さりげなく高官しか知り得ない情報を混ぜている空海の言葉に、3人組はそれぞれ強い興味を示しているようだ。

 

「宦官は何を考えているのか」

「出世だろうね」

「北に向かっていると言う皇甫嵩さんは盧植さんの交代要員ですかー」

「盧植の交代要員は董卓だけど、実質、皇甫嵩への繋ぎかな」

「曹操殿の『神速の用兵』は頴川への派兵のことでしょうか?」

「頴川へ派兵して戻って東郡へ出兵するまで10日くらいでやったらしいよ」

「ほぉ」「やりますねー」「なるほど……」

 

 それぞれ、世情を考えたり、政治を考えたり、戦術を考えたりしているようだ。

 空海は抱き上げた璃々に笑顔を向ける。

 

「璃々は何か気になることはある?」

「うん! おふねに、おさかなさんいる?」

「ふーむ。陽武の船は商人に預けているものだから、魚の取り扱いもあるかもしれない」

「ほんとに!?」

「残念だけど食べるための魚だよ。泳いでる姿は見られないと思うぞ」

 

 空海と璃々が、ドジョウにヒゲがあってぬるぬるしているとかコイは30年生きるとか話をしている横で、程立と郭嘉が頷いている。

 

「商人に船を貸し出すことで死蔵を防ぎ、有事には徴発して使用するわけですね」

「そですけどー、空海さんは黄河を渡るような有事を想定していたのでしょうかー」

「上流の長安には江陵派の大物がいるではないですか」

「馬騰さんですねー。それなら騎馬を積めるようにしてあるのも――」

 

 ウナギ料理は美味しいぞー。じゃあ璃々も食べるー。支払いはまかせろー。やめて!

 空海が璃々を抱き上げ、その横で趙雲がニコニコと笑っている姿はまるで家族のようであり、後に、嫉妬に狂った江陵組によって璃々が奪い合われることは避けられない運命であった。

 

 

 

 

 

「お久しぶりでございます、空海様」

「うん。久しぶり。そしてこれ言うの2回目だと思うんだけど、顔を上げろ。俺はお前のやや寂しい後頭部を見て話すの嫌だからね」

 

 船着き場に、身なりの良い商人たちが土下座スタイルで並んでいる姿は異様だ。

 

 江陵の外で活動する江陵商人たちは、江陵で教育を受け、江陵で商売を学び、江陵から資金や商売道具などを借り受け、江陵によって整備された商人のネットワークで繋がりを保つため、江陵に頭が上がらない。

 しかも、それだけの支援がありながら江陵から課される条件は、まっとうな商売を行うこと以外には精々「お金をあまり貯め込まずによく使うようにすること」くらいである。

 

 そしてもう一つ、商人たちが頭を上げられない最大の理由が空海にある。

 江陵の外に出ている商人たちの大半が江陵内にも店を持って江陵の外の品を扱っているのだが、空海はこの店を頻繁に巡って家族の様子を気にかけているのである。

 長い者では1年以上も江陵に帰らない商人たち。江陵に残る彼らの家族から届く手紙には、空海の心遣いに感謝する言葉が書き連ねられている。その話題が商人のネットワークで共有されて広まり、感心と感謝を深めることになる。

 

 空海は苦笑しながら続ける。

 

「家族のことなら本人たちから直接礼を言われている。重ねての礼など不要だよ」

 

 それでもなお、商人たちは顔を上げられない。年に何度も会わない自分、そして家族の一人ひとりを記憶して気にかけてくれる空海への信仰は篤い。

 見かねた黄蓋が口を出す。

 

「面を上げよ。空海様の手を煩わせるな」

「そうだぞ。あまりしつこいと、江陵に帰ってからお前たちの家族に『頭を上げてくれなくて困った』って伝えるからな? ていうかもう伝えることにした」

「それは勘弁してください! 母ちゃんに怒られます!」

 

 焦って頭を上げた一人の商人に周りから笑い声が漏れる。それを機に、徐々に皆の頭が上がり始めた。

 

「今日は魚を食べたいんだ。出来たらウナギ。美味しかったら家族には内緒にしておいてやろう。あと、生きてる魚がいたらこの子に見せたいから、持って来てくれる?」

「畏まりました」「お任せください!」「すぐに準備させましょう」

「荷を上げろー!」「桶だ! 桶を出せ!」「料理長に伝えよう」

 

 一度頭を上げてしまえば、商人という生き物は止まったら死ぬ。威勢良く声を上げて、慌ただしく動き出し、将兵に声をかけ始める。

 空海もまた、夕飯を楽しみにしながら船に乗り込んだ。



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4-5 広宗包囲

「江陵軍はあれの前に布陣する。お前は速やかに指揮権を引き継ぎ、邪魔をさせるな」

「はっ」

「曹孟徳が来ることになっているはずだが、到着はいつごろだ?」

「はっ。曹陳留の到着は、明日中でしょう」

「では合流の前に西にあるという物資の集結地を叩かせろ。鹵獲は禁ずる」

「承知しました」

「この陣の前で義勇兵がひとかたまりになっているのは、敵とぶつかったときに弱点になり得る。さっさと後方に回して分散させろ」

「りょ、了解です」

「以上を直ちに実行し、命令が終わったら江陵の陣まで来い、皇甫中郎」

「はっ!」

 

 皇甫嵩が天幕から飛び出すのを待って、空海も歩き出す。皇甫一族は口うるさい人物が多いと聞いたため警戒して一緒には出なかったのだ。

 護衛を伴ったまま、広宗城の正面から4里(1.7㎞)ほどの位置で待機している本隊に戻る。官軍の陣はここから更に1里ほど城へ近づいたところに敷かれていた。

 

「おお、璃々よ。良い子にしていたとはなさけない」

「うん! いいこにして、あれ?」

「よーしよしよしよしよしよし!」

 

 良い子は褒めて伸ばす方針の空海である。璃々が疑問を忘れるくらいになで回す。

 空海が皇甫嵩の陣へ向かうまでは忙しそうにしていた周瑜も、既に落ち着いていた。

 

「補給は終わった?」

「半分ほどは。残りは陣地の作成後ですな」

「何か問題は?」

「正面の官軍陣地、東中郎将の董卓が残していった者たちのようですが、糧食を要求しています。多数の軍馬を連れていますので、その関係でしょう」

 

 周瑜が何かを探るように空海を見る。以前、買い物に付き合ったときに同じ顔をされた空海は、笑って許可を出す。

 

「好きにやっていいよ」

「はっ」

 

 一礼して去って行く周瑜を見て、空海は声を上げて笑った。

 

 

 

 

「アンタが空海元帥か」

 

 紫の髪をアップにした美女が、独特のイントネーションで空海に声をかける。白いさらしと青い羽織は、空海の姿を彷彿とさせる。

 

「いや、この娘が空海だ」

「へ?」

「えーっ? 璃々ちがうもん!」

「え?」

「なんで言っちゃうんだ璃々。これでは秘技、身代わ璃々が出来なオウフ」

 

 璃々が右フックを覚えだしてから、空海の立場は相対的に下がった。

 青い羽織の美女は、そのやり取りよりも疑問が先に立ったようだった。

 

「なんでこないな子供がおんねん」

「この娘は戦災孤児なんだ」

「っ!」「せんさいこじ?」

 

 空海が笑いながら言った内容の重さに、周囲の人間までもが息を飲む。

 

「せ、せやったんか……すまん」

「くうかいさま、こじってなぁにー?」

「ん? そりゃお前、江陵に住む子供っていう意味だ。江陵に住むと美人になれるぞー」

「ほんとー!?」

 

 緊張感のないやりとりに、彼女も笑う。

 

「……おおきに。お嬢ちゃん、ごめんなー。ちょっと『くうかいさま』を借りたいんやけどええか?」

「んー……だめ!」

「駄目なんかい!」

 

 条件反射のようにツッコミを入れてしまった彼女は、相手が子供だったことを思い出して顔を赤らめる。

 着物を掴んで離さない璃々を見て、空海が口を出す。

 

「璃々。俺はこれからこのお嬢さんと大事な話をするんだが、公瑾がいないとちょーっと困るんだ。趙子龍と一緒に璃々が探してきてくれないか?」

「めいりんおねえちゃん?」「む?」

「そうだ。あと、戻ってくる時にお茶を煎れてきてくれ」

「わかったー……おちゃをごよういします!」

「そんな感じで行け、璃々! 昇り竜!」

「いってきます!」「ふふ。行って参ります」

 

 璃々は空気が読める子だから、彼女を少しからかっただけだろう。趙雲にも声をかけて送り出し、黄蓋と黄忠を含めた護衛たちと青い羽織の美女とで向かい合う。郭嘉、程立もいるが、空気を読んで静かにしているようだ。

 

「で、お前は誰だ?」

「わかっとらんかったんかい!」

 

 つい叫んでしまうのは魂に染みついた関西芸人の気質なのだろう。

 

 

「ウチは(ちょう)(りょう)文遠(ぶんえん)や。董中郎のトコで騎馬の指揮なんかをやっとる」

「……俺は空海。江陵の主だ」

 

 気を取り直して行った自己紹介。空海は自身の受けたショックを外に漏らさないようにするため、大変な労力を要した。

 かつて無双シリーズを山田無双と呼んで500時間以上プレイした空海。自身の抱いていた山田こと張遼へのイメージが音を立てて崩れていく。

 

「兵糧のことで礼を言いに来たんや」

「どういたしまして」

「早いわ!」

 

 わざとらしくニヤニヤ笑う空海を見て、張遼は悔しそうにしている。

 

「ウチら、城攻めをすんのに馬なんか連れて来おったから言うて、宗員(そういん)からも兵糧をほとんど分けてもらえへんかったんや」

 

 宗員は董卓が引き継ぐまでの予定で広宗包囲軍を指揮していた仮の司令官だ。

 董卓が広宗に現れなかったため、皇甫嵩が引き継ぐまで漫然と包囲を行っていた。

 

「どれだけ連れてきたの?」

「……一万騎」

「夢が溢れすぎだろ」

 

 張遼と空海以外の全員が吹き出した。軍馬というのは人の2倍から3倍は食べるのだ。城攻めに使えない1万の兵と2万5千人分の食料消費係を連れているようなものだ。

 

「と、とにかく、このままやったらウチら死ぬとこやったんよ。ホンマおおきに!」

「どういたしまして」

 

 深く頭を下げる張遼にも、空海は軽く笑いかける。

 

「せやけど、一つ聞きたいことがあんねん」

「なんだ?」

「ウチらも騎兵。アンタんトコも騎兵。せやのに、何でウチらの前に布陣した? ウチらの前に布陣してどないすんねん?」

 

「ん? 『勝つため』じゃあ不足か?」

 

 にっこり笑って告げる空海に、張遼はしばし言葉を失うのだった。

 

 

 

 

 

「曹操が合流したか」

「上手く物資を焼き払ってくれたようです。ただ、義勇兵を3千余り拾ってきたとか」

 

 曹操に西回りを指示してから5日。

 この5日は江陵軍主導での襲撃作戦が繰り返されている。

 

 黄巾賊は、何故かこの広宗周辺で士気がとても高い。何をするにしてもまずはこの士気を落とすことでことの運びが楽になるというのが上層部共通の判断だ。

 ストレスを与えて士気を落とすため、夜間の襲撃や、防御方法の異なる侵攻をいくつか試みたり、目の前で大規模に炊き出しを行ったり、罪状を読み上げてみるとか、鎮圧後の賊の末路を大声で語るなどしている。

 官軍側の攻撃に対する反応の遅れや過剰な反応、少しずつ出始めた逃亡兵、自暴自棄になった突撃など、黄巾賊にもそろそろ崩壊の兆候が見られるようになってきていた。

 曹操の襲撃によって追加の兵糧などがなくなったと知れば、いよいよ食べ頃だろう。

 

「義勇軍はもういらないんだけど……まぁ扱いは任せる」

「畏まりました」

 

 

 ところで最近、江陵の将兵の間では璃々に対する教育が流行している。

 それもこれも、黄忠が教育と称して璃々に「お母さん」と呼ばせたのが始まりである。次いで空海を「お父さん」と呼んだことこそが真の始まりなのかもしれないが。

 今や江陵軍の陣営内には璃々の「お母さん」が10人以上いる状態だ。

 なお、空海を「お父さん」と呼ぶことは禁止した。女性陣が怖かったからである。

 

 璃々の日課は午前中が勉強、午後は空海と一緒に陣地を見て回ることだ。空海の護衛に黄忠と黄蓋も同行する。諸侯の陣容を知りたい周瑜や郭嘉、程立、趙雲も同行する。馬で城攻めに来て暇をしている張遼も同行する。とんでもない集団が完成する。

 

 本日の獲物は曹操だ。

 陳留刺史の曹操は、原則的には四品官の文官であり、軍事権を持たない。陳留が比較的重要な土地であるため、三品官に近い四品官と言った所だ。

 空海が文武の両方で二品官、周瑜が文武の三品官、黄忠と黄蓋が三品官の武官である。

 賊の討伐に派遣されている中郎将は五品官から四品官相当だが、軍事権は曹操より上になる。曹操の軍事権は張遼と同等以下だ。

 つまり、本社の大幹部が重役を引き連れて子会社の視察に来るようなものだ。

 

 曹操陣営が天幕を手早く立てていくのを見て、空海は笑みを深める。お昼寝中の璃々をそろそろ起こすべきか、と。

 

「クックック……行くぞ曹操、おやつの準備は万端か」

「行軍におやつは持って来ないでしょう」

「食の娯楽という意味では、(へい)なんかを用意するかもしれませんがー」

「空海殿にはメンマをお勧めしますぞ」

「ごめん、メンマは苦手なんだ」

 

 苦手を告白した空海に、趙雲が驚愕の表情を見せる。

 

「なんと! それはいけません、メンマのすばらしさについて――」

「あの食感」

「食感! コリコリとした歯ごたえ、噛んだときにあふれ出す――」

「食べられまいとするタケノコの、最期の抵抗みたいに感じて苦手なんだ」

『……』

 

 空海以外の全員が顔を引きつらせる。嫌な想像をしちゃったじゃないか、という抗議の視線が集まり、空海が咳払いをして誤魔化す。

 

「味は好きだよ。細かく切ってあれば平気だし、刻んで料理に使ってあるのはいいよね」

「おまっ、お待ちいただきたい!」

 

 趙雲が大声を上げる。

 

「何?」

「江陵には……江陵にはっ! メンマを使った料理があるというのですか!?」

「え。うん。メンマ入りの餅とか、麺とか」

「な……」

「チャーハンの具とか、煮物とか、包み焼きみたいなのもあったかな」

「な……なんと……」

「辛い味付けの炒め物は酒のつまみに良いって聞」

「趙雲子龍真名を(せい)と申します一生お仕えしますぞ空海様いえ主っ!」

 

 あまりの早業に、身体スペック的に追いつけたのは空海だけだった。

 趙雲は。深く一礼し、その場に跪き、にじり寄って空海の手を取るまでを、護衛も反応出来ない程の早さでやってのけたのだった。

 

「興奮したのはわかったけど、頭を下げるならもう少しゆっくりやれよ……。髪飾りから風切り音が聞こえたぞ」

 

 動きかけた護衛を手で止めた空海は苦笑を見せる。

 

「そんなに気負わなくても、江陵の料理で美味しいものは、いずれ全土に広がる。まず曹操とか他の諸侯を見てから決めればいいよ」

 

 しかし続いて空海は挑発するように目を細めた。

 

「それに、江陵は地位を安売りしない。公覆も漢升も公瑾も、江陵にいる幹部たちも、基本的には全員が試験を受けて訓練を経て俺の側にまで上がってきた。お前には門戸を開いておくから、いつでもおいで」

 

 趙雲の目に強い光が宿ったのを見て、空海が黄蓋に目を向ける。

 

「過去最短は公覆の3ヶ月だったか?」

「冥琳が2ヶ月と少々ですな」

「私は学院時代より実地の訓練を受けておりましたので、数に入れるべきではないかと」

「そういう意味じゃ孔明と士元の方が早くから深い部分を任せてるしね」

「朱里などは最初に与えた仕事が『流通における遅延要因の特定と解消』ですからな」

 

 周瑜が苦笑いと共に口にした話題に、江陵組の意識が馬車鉄道に飛ぶ。

 

「孔明の馬車早いよねー」

「駅の発想には驚きましたな」

「ワシは馬車のアレを見て『コイツには敵わん』と思ったわ」

 

 孔明はそれまで2頭立てまでだった馬車を6頭立てまで用意し、そのために厩舎の整備計画を用意し、連結器を考案して実用化し、駅に分岐を作り、線路と駅の間に段差を作ることで荷物の上げ下ろしを効率化する方法を編み出した。

 連結器にいたっては、興奮した鳳統がバーベルより重いそれを持ったまま空海の所まで駆け込んできたほどである。物流の革命と言って良かった。鳳統は死にかけた。

 実は江陵軍の馬車にも使われているのだが、あえて連結を隠してあるため、詳しくない郭嘉たちには気付かれていない。

 

 江陵の話題に郭嘉が静かに頷く。

 

「江陵……私も一度行ってみたいものです」

「風は一度行ったことがあるのですよー。ご飯がとても美味しかったのです」

 

 程立は東郡出身、郭嘉は頴川郡出身で、郭嘉の方が徒歩3日ほど江陵に近い。

 

「私は……地元が、江陵に学ぶものなどないと言った空気でしたので、なかなか」

「まぁ外層には本屋も少ないもんね。旅行者じゃ勉強には向かないかも」

 

 少し悔しそうにしている郭嘉に空海が同意する。周瑜が見下すように笑った。

 

「江陵の知は第3層以上に詰まっている。外層の本屋を覗いて判断する程度のものに、江陵の知を得るすべなどないな」

「ちなみに、さっき言ったメンマ料理は大半が第3層より上の店だね。外に出ない料理もあるかもしれないから、そこはあきら」

「ふた月、いやひと月でお側に上がりましょう! 必ず!」

 

 まだ見ぬメンマ料理に魂を燃やす趙雲が、空海の言葉を遮り拳を握って立ち上がる。

 周瑜と空海はどこかの酒好き将軍を思い出して乾いた笑みを浮かべる。

 投げやりに趙雲を応援してから、空海は周囲に声をかけた。

 

「よし、じゃあ曹操の所にあそ――視察に向かう!」

「聞こえましたね」「手遅れですな」「そうじゃな」「誤魔化せませんね」「ですねー」

「私は主の味方ですぞ?」

「ありがとう子龍、でもやめて」

 

 そこに昼寝から起きた璃々が元気よく飛び込んでくる。

 

「くうかいさま、あそびにいこー!」

「今日は厄日だわ!」

 

 璃々を抱き上げてクルクル回り出した空海に、周囲は爆笑の渦に飲み込まれた。

 

 

 

「陣地の作成はなかなか早いですな」

「柵の一部は廃材じゃの」

「堀にある波模様はなんでしょうか……?」

「女性が多いですわね」

「天幕も男女に分かれているようですねー」

「おっきいはたー」

「璃々よ、あれは牙門旗(がもんき)と言うのだ」

「ヴァモーキ?」

「牙門旗や! 下唇を噛む発音はドコにもないわ!」

 

 騒がしい集団が曹操陣営に近づいていく。もの凄い高官である上にもの凄く人目を惹く集団であるため、陣地に着く前から陣中は大騒ぎになっていた。

 遠巻きに人垣が出来たことで一団の歩みが遅くなる。

 

「ぐぬぬ……公瑾、陽動作戦だ」

「は? ああ、私が曹操に会いに行けと」

「うん。あ、お前たちも一緒に行っていいぞ」

 

 空海は郭嘉たち3人組に告げる。武官をもう一人くらい付けた方が良いかと考え、黄蓋と黄忠に目をやる。

 

「そうだな、公覆も一緒に行くように。公瑾を止めてやれよ」

「はっ」

「私の方が祭殿を止めることになりそうなのですが……」

「公覆がいるだけでも冷静になれるだろ」

 

 空海の言葉は半分はからかいだが、半分は事実だ。黄蓋に限らず、暴走しそうな人間がいれば自分が冷静になるだろうことが予想でき、周瑜は口を閉ざす。そして、万一周瑜がいきり立ったときに止められるだろう人物が黄蓋しかいないことも事実だった。複雑な表情の周瑜に微笑んで、空海は黄忠と璃々を連れて離れる。

 

 そうして、周瑜たちが完全に人影で見えなくなってから立ち止まった。後ろから付いてきていた張遼が追いつく。

 

「もー。置いてかんといてやー」

「幼平」

「はいっ!」

「うっひゃあ!?」

「公瑾と公覆に付け。万一戦闘になるようなら、まずは戦闘を止めることを優先し、その後は公瑾の指示に従え」

「わかりました!」「え? え? 何なんこの娘?」

 

 空海の命令を受けた周泰が消えたように移動するのを見ていた張遼が声を上げる。

 

「誰なんあの娘! めっちゃ早いやん!」

「あの娘は周幼平、俺の部下の一人で猫好きの娘だよ」

「猫は関係無いやろ!」

 

 騒ぎまくる空海と張遼が落ち着くのを待って、黄忠が心配そうに尋ねる。

 

「空海様、あちらは……戦闘に、なりますか?」

「さあ? まぁもし戦闘になっても、酷いことにはならないと思うよ」

「そう……ですか」

 

 考え込んでいる黄忠を放置し、空海はさっさと歩き出す。抱き上げている璃々が人混みを見回すのに飽きてきたようなのだ。

 

「よし、まずはあっちに行ってみよう!」

「いこー!」

「え? あっ、待ってください!」

「ちょっ、だから置いてかんといたってやー」

 

 

 

 二人の少女が木箱を椅子代わりに、荷車を机代わりにして本を広げている。

 

「はぁー……アカン。ウチもう絡繰り馬家と家族になりたい」

 

 一人はドリルを側に置き、縞模様のビキニと革のベルトとマントとゴーグルで時代を間違えている少女。

 

社練(しゃれん)の新作香水……何で、何で、荊州限定なのぉぉぉー」

 

 もう一人は明るい色の髪を三つ編みにし、紫を基調にした服とピンクのベルト、身体の所々にドクロをあしらったアクセサリを身につけた眼鏡の少女。

 

 二人が読んでいるのは江陵情報誌『空海散歩』だ。

 互いに興味のあるページを開いて顔をつきあわせて好きに読んでいるようだ。空海たちが近づいても、本に顔をくっつけるように近づけていて、全く気がつかない。

 空海は唇に人差し指に当てて璃々と張遼に笑いかけ、二人も意図に気がついてニヤニヤ笑う。黄忠だけが苦笑して、それでも生来の悪戯好きは何も言わない。

 

「なっ! 商品化目前の新製品お披露目会やて!?」

靴地(くっち)の新店舗開店記念特売が来月から!」

「旧店舗は1割引だが、新店舗の方は3割引だな」

「さ、3割も……!? 買い放題! 買い放題なの!」

「洗濯機! 手回し洗濯機や! 実用化してたんか!」

「西芝区の工房の新作だな。江陵から持ち出すのにはまだ制限がある」

「アカーン!! アカーン! アカーン アカーン……(エコー」

 

 ドリル少女の叫び声に張遼が吹き出す。

 

「えっ? 社練の抜具(ばっぐ)が豫州でも取り扱い開始予定って書いてあるの!」

「それ、黄巾賊が鎮圧されるまでは無期延期ということになったぞ」

「こうしちゃいられないのー!!」

 

 眼鏡少女が勢いよく立ち上がり、そしてようやく空海に気がつく。張遼が笑い転げ、黄忠までも璃々を置いて口を押さえている。

 

「あれ? お兄さん誰なの?」

「あー! 何すんねん沙和! 工具店が移転や書いてあったのに!」

「六徳工具なら、入り組んだ場所にあった店が表通りに出てきただけだぞ」

「おお!? せやったんか! 兄ちゃんおおきに……誰?」

 

 空海のネタ晴らしよりも早く、本を覗き込んだ璃々が声を上げる。

 

「あー! くっきーがでてる!」

 

 ここ数日で覚えたクッキーの味、といっても江陵で焼いてきたものなのでいくらか味は落ちているが、とにかくクッキーの味を気に入った璃々は、おやつのクッキーを誰よりも多く食べているのだ。

 

「おお。この店か。ここは香りの良い茶葉に蜂蜜を入れて飲むんだ。クッキーの方も花の香りのする少し柔らかいものだから、女子に人気が高いな」

「おいしそー!」「へー。ウチも行ってみたいわー」「美味しそうなのー」

 

「この店は、前は工具店だったんだが、色々あって店の場所を入れ替えたんだ。前に服屋だった方は、今工具店に改装中だよ」

「服屋さんの場所は覚えてるの」「ウチも前の工具店の場所は覚えとるわ」

 

「ここの新作髪留めは新しい工具を使って作られてる。先端に硬い宝石をはめ込んだ彫刻用の……キリみたいなものでね。細かい模様を付けるのに使ってるんだ」

「すっごく可愛いのー」「あら? この髪飾りなら私も持っていますわ」

「しおんお母さん璃々もつけるー!」「沙和もつけるのー!」

 

「せやで! あの堀はウチのドリルで掘ったんや! 大将が城の方よりも外側の方を深く掘れ言うもんやから大変やったわ」

「ずががががーって凄い勢いだったの!」「螺旋の力が高まる……溢れる……!」

 

「あ、ここはやめておけ。筋肉モリモリマッチョマンの変態たちが給仕係なんだ」

「「なんでやねん!!」」

 

 

 ドリル少女が本をパタンと閉じ、伸びをする。

 

「いやー。兄ちゃんの話が上手くてつい話し込んでまったわー」

「そうなのー。あ、沙和は()(きん)文則(ぶんそく)なの!」

「ウチは()曼成(まんせい)や! 兄ちゃんは?」

「俺か。俺の名は――」

 

 空海は悪戯を思いついた様にニヤリと笑い、

 

「その本の表紙に書いてある」

 

 少女たちの絶叫が響くまで、2秒。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「ふむ。張角(ちょうかく)張宝(ちょうほう)張梁(ちょうりょう)か。こちらの耳には入っていなかった。礼を言おう」

「はっ」

「これでこちらの策(・・・・・)にも厚みが出るというもの。曹陳留の働きには期待している」

 

 周瑜の言葉に曹操が顔をゆがめ、しかしそれを隠す様に頭を下げる。

 

「じゃがあの義勇軍は何じゃ?」

「然り。糧食を要求されたことはいい。だが皇甫中郎の目の前に陣地を、しかも構築まで要求するなど……専門家である我らの意見が軽視されるとは、どこの誰が間違った認識を植え付けたのか知りたい所だな」

 

 周瑜は、同行してきた曹操が与えた官軍の印象に基づいて行動しているのではないか、と攻め立てる。曹操は頭を下げたまま、淡々と答えた。

 

「はっ。義勇軍を率いております劉備は先の盧中郎の門生であり、私見ですが、中郎将の後継を自任しているのではないかと……また、簡雍(かんよう)田豫(でんよ)と言う者が入れ知恵を行っていると思われ」

「もうよいわ!」

 

 曹操の言葉を遮ったのは黄蓋だった。

 

「盧中郎の威名に萎縮して媚びたんじゃったら、そう言えばよい!」

「っ貴様ァ! 華琳様に」

「やめなさい春蘭!」

 

 黄蓋の挑発に飛び出しそうになった夏侯惇を、咄嗟に曹操が止める。他に数人の部下を視線で抑え、すぐに黄蓋と周瑜に向かって再び頭を下げる。

 

「部下を御せず申し訳ありません。ただ、私も部下も、盧中郎や皇甫中郎や空海元帥らがいかなる人物であるのか存じておりませんので、萎縮のしようがありません」

 

 曹操が謝罪し、弁解しつつ挑発する。周瑜は大仰に驚きを示した。

 

「これは驚いた。ずいぶんと視野の狭い刺史も居たものだ。このままでは、お前のために死ぬ部下が哀れに過ぎるな。いっそ例の義勇軍と陣地を入れ替えてはどうだ?」

「ご厚意に感謝いたします。ですが、過分のご配慮はどうぞ無用にされますよう」

「じゃが、このような弱兵で包囲を行うなどザルで水をすくうようなものじゃ。音に聞く夏侯惇とやらでも連れてきたらどうじゃな? ここに居る(・・・・・)弱卒とは出来が違うんじゃろ?」

 

 左右から交互に繰り返される挑発に、曹操が歯を食いしばる。夏候淵が夏侯惇を抑え、同時に後ろの控える少女たちを視線で封じる。

 

「心配は無用です、祭殿。例え弱兵であっても使い切るのが軍師というもの。曹陳留、命令にはもちろん従ってもらうが、それとは別に、そちらが実力以上の功を上げるために策を授けても良いのだが?」

「過分のご配慮はご無用に……」

 

 周瑜は小さく、ふむ、と漏らす。ここで斬り合いになるのは望ましくない。この辺りが引き際かと考えて一つ頷く。

 

「ならば討伐への口出しは無用。追って命があるまで大人しくしていることだ」

「……はっ」

「帰るか、冥琳」

「そうしましょうか、祭殿」

 

 遠くから聞こえてきた絶叫に向かって、二人は歩き出す。

 

 

 

「動くかのう?」

「さて。あるいは、我らを動かそうとするやもしれません。ただ……周囲の者は、戦功を焦るでしょうな」

 

 黄蓋と周瑜は、先ほどとは打って変わって飄々と会話する。

 

「焦っても焦らんでも変わらんがな」

「左様ですな。慎重に動いて我らの命令通りとなるなら良し。命令を無視して無理矢理に戦功を上げても良し。奸計を巡らせればこれを潰し、以後の抑えとしましょう」

「こちらに直接襲いかかってくるかもしれんぞ?」

 

 黄蓋は面白そうに笑う。わざわざ後ろの者に聞かせているのは、これを知られることもまた、損にはならないからだ。

 

「何のために1万の騎兵に恩を売り、その目の前に布陣したと思っているのです」

「では、例の義勇兵で曹操の後ろをふさいだのは、後退を防ぐためか?」

「あの義勇兵たちは曹操以上に功を焦っているようです。曹操が引くにも進むにも留まるにも、義勇兵が足かせとなるでしょう」

「……というワケじゃ。わかったか?」

 

 黄蓋が後ろを振り返り、意地悪そうに笑う。

 郭嘉がやや顔を青ざめさせつつも鋭い目つきで、程立が眠そうに、先ほどまで仏頂面を晒していた趙雲が今は緊張した面持ちで、二人を見つめ返す。

 

「お二人が煽っていたのは、曹孟徳自身ではなく、その周囲だったのですか?」

「そうじゃ」

 

 郭嘉の質問に黄蓋が短く答える。

 

「曹操さんに何を期待されてるのでしょうー?」

「あえて言葉にするなら、この戦いを手早く終わらせること、か。程度の違いはあれど、もはや曹操がどう動いても得になる」

「……ぐぅ」

「寝るなっ!」

 

 程立が周瑜に問い、郭嘉に突っ込まれる。あるいは、この件に関しては曹操が動かなくても、反抗されても、江陵の利益につなげることが出来る。

 

「あれだけ煽ったのです。本当に襲われるかもしれませんぞ?」

「今なら討ち取ることは容易い。あの場でやり合っておっても勝てたからの」

 

 趙雲がおどけるようにして尋ねれば、黄蓋は軽々と答える。背を伝う冷や汗を誤魔化すように、趙雲は更に踏み込む。

 

「では、今襲われたら?」

「儂が油断しておるように見えるのか」

 

 静かに笑う黄蓋に武人の境地を見た気がした趙雲は、黙って首を振り、一歩下がる。

 

 普段と変わらぬ様子を見せている周瑜と黄蓋をよそに、3人娘はそれぞれ自身の思考に沈んでいた。

 空海が指示を出した後に考え出されただろう策が、打ち合わせもなく阿吽の呼吸で実行されたこと。

 まるで兵法書の一節をなぞるように、どう動こうと策が成るなどと言われたこと。

 一流と言えるだろう武人たちを目にしておいてなお、気負いすら感じさせずに勝てると言い切ったこと。

 

 ただ、3人に共通する思考は

 ――もしかしたら空海は、全く油断のならない人物なのではないか?

 そしてその空海が今こうして別行動を取る意味はと考え、同時に視界に入った光景を、幻覚だと思い込むことにした。

 

 

 空海は、曹操軍の将と思しき2人の少女に跪いて拝まれながら、少女らの仲間と思しき凛々しい少女に頭を下げられ、3人に荷車に追い詰められて、荷車に乗っている璃々には頭を叩かれていた。

 

「靴地の厚底算駄留(さんだる)編み上げ不宇津(ぶうつ)手提げ当都(とうと)抜具(ばっぐ)5番香水曳似(びきに)の水着……」

「高級工具一式50体限定からくり馬岱一号新作塗料手動のこぎり捻子式くるみ割り人形手回し洗濯機……」

 

 2人の少女に呪詛のようなものを唱えられ、身体を反らしてどん引きした様子で距離を取ろうとオタオタする空海。離れて様子を見ている張遼と黄忠には爆笑され、少女たちを両手で押さえながら周囲に助けを求めている。

 なお、護衛は笑っていた。

 

 

 空海以外全員が周瑜と黄蓋に怒られた。




参ったな……(策の説明を混ぜたら)予定より長くなってしまった……。次回、山田。
空海は漢の有名人かつ重要人物です。どのくらい有名かと言えば、沙和と真桜が名前を知っているレベル。

プチ解説。
算駄留、不宇津、当都、抜具、曳似、高級工具、新作塗料、手動のこぎり、捻子式くるみ割り人形は全てゲーム内で出てた言葉です。そしてゲームでからくり夏侯惇を作っていたのは許昌の職人。この作品では江陵の職人が作る予定。そのうち肖像権を買うんです。


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4-6 覇王、歌姫、小娘

 曹操が合流してから2日目の午前。江陵陣内では皇甫嵩や張遼、曹操らを交えた軍議が執り行われていた。

 

「では明日からは門の破壊と、早朝の襲撃を追加する」

「お? やっとウチの出番かぁー」

「これまで通り遊撃も行ってもらうが、左右の抑えは曹陳留が行う。左右は包囲の兵数を多く見せるように」

「はっ」

 

 朝夕には兵士を横に広げて旗を多く立て、包囲の兵を実際より多く見せて士気を落とす作戦が繰り返されている。

 賊が焦って飛び出してくれば馬で蹂躙し、守っていれば追加で策や攻撃を行う。

 

「逃げ出す賊も多い。そちらで一時的に受け止め、可能な限り撃滅。以降は指示を待て」

「……はっ」

 

 実際、当初は賊15万人に対して官軍3万程度だった戦いは、既に賊が12万人にまでその数を減らしている。官軍など、逆に4万人にまで数を増やしている。

 15万人で攻められれば官軍の兵1人が賊を5人殺さなくてはならない戦いも、2千から3千人ずつの小集団の駆逐なら、近づかれる前に半減し、触れれば蒸発といった戦いになるため、兵力の損耗はほぼゼロだ。

 

「張文遠は夜明けと共に北に布陣し、賊に川を渡らせぬよう壁となってもらう」

「ん、任せとき」

「馬では夜襲は出来ぬだろうから、夜襲に参加したい者は江陵の陣まで来い」

 

 周瑜が笑いながら告げる。夜襲のために陣まで来る者など張遼しかいないからだ。

 張遼に滞在許可を出すのは空海からの要望である。曹操への抑えにもしている。

 張遼が笑いながら了解し、周瑜は諸侯の布陣を伝えていく。

 

「では皇甫中郎の本隊を除いてはこれまで通りに。本隊は正面の城門への攻撃を指揮していただく」

「お言葉ですが……賊たちは既に戦意を失っております。降伏勧告を行うべきです」

「そのための布石ですよ、皇甫中郎。連中も、数で劣って口うるさいだけの我らに降伏したいなどとは思っておりますまい」

 

 実際、周泰を使って探らせている範囲では、未だ熱心に防衛を説いている者たちも多いらしい。身内の犯行を装って排除を行っているが、万に届くかという狂信者たちが相手では焼け石に水だ。

 周瑜の説得に対して、叔父の話を持ち出したり儒学がどうとか言い出したり、人道がどうとかこうとかうるさくなってきた皇甫嵩を適当にあしらいつつ、軍議を切り上げる。

 

「では軍議はこれまで。各自の働きに期待する」

 

 

 

「あれ?」

「む? どうかされましたか、空海様」

 

 黄蓋を伴って陣中をウロウロしていた空海は、曹操陣営から違和感を感じとった。

 

「今日も夜襲があるよね?」

「そうですな。冥琳からも特に変更があったなどとは聞いておりませぬ」

 

 黄蓋に集まる視線が妙に多いのだ。最初に陣を視察したときに匹敵するほどに。

 

「曹操軍の兵士たち、妙に浮き足立ってない?」

「……陣中を覗いたときと大差ないように見えますが」

「だよね……あ、郭奉孝、程仲徳、いいところに来た」

 

 璃々を昼寝に連れて行くのは郭嘉たち3人娘に与えられた仕事である。おそらくはその仕事を終えて陣内に出てきたばかりであろう2人を空海が発見した。

 

「何か御用でしたか、空海様」

「おやおやー、まさかこんなところで風たちを」

「今日も夜襲があるんだけど、曹操陣地の様子おかしくない?」

 

 程立の発言を最後まで許すと、火のない所に煙を立てて社会的にダメージを与えてくるので、空海が積極的に妨害している。空海以外が止めてくれないのだ。

 

「儂は、陣中を覗いた時と大差ないと思うんじゃが……」

「んー。確かに浮き足立って見えなくもないですねー」

「しかし戦闘前ですし、そういうこともあるのでは?」

「左様ですぞ、空海様。戦闘前というのは気が高ぶるもの」

 

 黄蓋と郭嘉は否定派、程立も違和感を説明できない程度であって、確信にはほど遠い。むしろ、確信に最も近い位置にあったのは空海の心情だった。

 

「曹操って、そんなものなの?」

『!?』

 

 空海の一言に全員の持つ空気が変わる。先ほどまで感じていた侮りが消え、曹操軍の陣から感じる僅かな違和感に、強い疑問がわき上がる。

 

「俺の印象だと……こっちを見てる兵の体つきが、細いというか農民っぽいというか」

「……まさか、例の義勇兵か?」

「では、本物の兵士たちは……もしや」

「ひょっとしてー、曹操さんは威嚇の夜襲ではなく、独断で(・・・)本格的な夜襲を行うつもりで準備しているのではー?」

 

 義勇兵を陣内に招き入れて夜襲の準備を行うフリをさせているために、緊張感のようなものとはかけ離れた視線が黄蓋に、現在は郭嘉や程立にも集まっているのではないか。

 そう結論づけてからの黄蓋は早かった。

 

「明命」

「はっ」

「冥琳に伝えよ。『曹操陣営に動きあり』と」

「了解しました」

 

 天幕の物陰に向けて声をかけて周泰を動かす。

 

「相変わらず、とんでもない身体能力ですね」

「理屈さえわかってれば半年間鍛えるだけで半分くらいは再現出来るよ」

 

 もう半分を鍛え抜くのに抜群の才能と10年近い歳月が必要であることには触れない。

 

「ほほー。風も猫さんみたいにぴょんぴょーんと跳んで回りたいものですねー」

「まぁあの娘も猫好きだからな」

「猫は関係無いでしょう……」

 

 空海たちの元に周泰に声をかけるため離れていた黄蓋がやってくる。

 

「空海様、軍議を開くことになります。一度、戻ることをお勧めしたいんじゃが……」

「いいよ、戻ろうか。お前たちも来る?」

「是非に」「もちろんですー」

 

 軍議に部外者を誘うことに、黄蓋が渋面となる。

 

「空海様、軍議にあまりよそ者を……」

「江陵軍の最大の優位は、独自性ではなくて練度だ。公覆もそう思うだろ?」

 

 練度というものは、真似したくても真似できるものではない。精々が、目標だ。

 長く険しい鍛錬の果てに得た自負を刺激する言葉に、黄蓋は何も言えなくなる。

 

「――はい」

 

 

 

「……で、軍議に部外者を連れ込んだのですね?」

「はい」

 

 空海は素直に頷く。

 

「軍事というものは秘密があればあるほど他者から恐れられるものなのです」

「はい」

 

 空海は素直に同意する。

 

「軍議というものはその秘密を明らかにした上で多く取り扱う場です」

「はい」「はい!」

 

 璃々が真似をして返事をするが、その返事を聞いて周瑜が眉をつり上げるという、空海にとっては非常によろしくない事態になっている。

 

「今回に関しては事前に予想して手を打ってあった状況であるため、連絡を指示してこの後の行動予定を確認すれば済みますが、そうでない状況もあり得るのです」

「はい」

 

 空海は神妙に頷く。

 

「今後、誰かを軍議に招きたいという場合には、我々……出来れば私に確認を取るようにしていただきたい」

「はい」

 

 素直な空海をいつまでも一方的に怒るわけにもいかず、周瑜の視線は黄蓋を向く。

 

「祭殿。どうして空海様を止められなかったのです」

「い、いや、それは……」

「公瑾。えーと、公覆はちゃんと止めてくれたよ。俺が大丈夫だと思っただけで」

「ほう?」

 

 不機嫌そうだった周瑜の顔が笑顔に変わったことで、空海は急に逃げ出したくなった。

 

「空海様は私のことを余程好いて下さっているようだ……そんなに私の言葉を聞きたいのでしたら、いくらでもお聞かせしましょう」

「はい」

 

 軍議が始まったのは1刻(15分)ほど経ってからのことだった。

 

 

「曹操は自ら進んで消耗してくれるようですな」

「で、あるならば儂らは消耗を曹操に押しつければ良いじゃろ」

 

 周瑜と黄蓋が状況と方針をそれぞれ口にする。

 

「利だけを奪う、という意味でしょうか?」

 

 郭嘉が疑問を口にする。夜襲のような確認しづらい戦場で利を奪うのは難しいのだ。

 黄蓋が鼻で笑う。

 

「戦功などくれてやればよい。儂らの目標は賊の早期鎮圧と……」

「璃々と賊の首謀者を引き合わせること、ですな」

 

 周瑜としては優先度のやや低い目標だが、空海の言を違えさせるのも心苦しい。被害を抑えて実現出来るなら出来るだけ実現を目指そうと考えている。

 

「じゃが、義勇兵と結んだのには少々困ったのう」

「首を約束しているかもしれませんな。張角たちの周りには狂信者どもがいますが、乱戦ともなれば突き抜ける者たちも出てくるかと」

 

 曹操軍のように訓練された兵士ならば夜襲を行っても整然と戦える。どのような戦場であっても味方と連携して戦えるようにすることが、軍に入って最初に学び最後まで訓練をやめない基礎であり基本なのだ。

 しかし義勇軍ではそれが出来ないため、状況が悪くなればあっという間に敵味方が入り乱れる乱戦へと突入してしまう。少数精鋭の江陵軍にとっては、突入のタイミングを計りづらくなる上に敵を確認しづらくなる、打って欲しくない手であった。

 

「現段階で最も望ましい展開は、曹操軍と義勇兵が足を引っ張り合いながら黄巾賊を引きつけている間に、我らが首謀者を確保してしまうことじゃな」

「最も望ましくない展開は、曹操軍が黄巾賊とぶつかった後に義勇兵が割り込み、混戦にもつれ込むことでしょう」

 

 郭嘉が密かに冷や汗を流す。周瑜が言っているのは、つまり、首謀者の首がなくても構わないということだ。この集団に勝つ(・・)方法が浮かばない。共通の敵に勝ってしまえば、どのような形であっても勝たせてしまう。

 ならば江陵に最小の利だけを拾わせ、曹操(じぶん)が最大の利を拾うには、と考え、小さく「あ」と漏らした。

 

「気がついたか、郭奉孝」

 

 周瑜が笑う。郭嘉が口を開く前に、ほぼ同時に気がついていた程立が確認する。

 

「曹操さんはー、江陵の真似をするつもりなのですねー?」

「意趣返しとも言えるだろうな」

「何の話じゃ?」

 

 黄蓋が疑問を挟む。

 

「つまりです、祭殿。曹操は我らが用意したこの状況を利用して、賊を混乱または逃亡に追い込み、張角周辺で起こるであろう乱戦に『少数精鋭』で割り込んで、首を獲るつもりなのですよ」

「ほう」

 

 黄蓋が面白そうに笑う。郭嘉たちの後ろで聞いていた趙雲も同じ表情だ。

 周瑜が表情を戻して続ける。

 

「最も望ましくない展開です。曹操が黄巾賊とぶつかってヤツらを壊走させ、次いで義勇軍をぶつけ、乱戦の起こった場所――つまり、最後まで抵抗している場所に対して制圧を目論むこと、ですな」

「これなら、仮に江陵がこの策を読んでいたとしても、五分より少し悪いくらいで大きな戦功を立てられる可能性がありますねー」

「いえ、江陵がこれまで消耗を避けた戦い方を続けているため、もう少し高く見積もっている可能性もあります。私も……璃々のことを知らなければ、江陵がそのように動くとは想像も出来なかったでしょう」

 

 それまで黙っていた空海が口を出す。

 

「それって逃げ出した賊は夜の闇に紛れて、馬も夜には役に立たないから追撃も出来ない壁にもならないんじゃ?」

「はぁっ? なんやそれ。曹操は……ウチらが何のために包囲しとると思っとんねん!」

 

 周瑜たちが慌てていないのは、首謀者を討ち取り、適当に壊走させれば、組織的抵抗を失うだろうと予測しているからだ。

 空海は今にも飛び出しそうになっている張遼の首根っこを掴む。

 

「にゃ!? ちょっ、何すんねん!」

「まず、曹操が朝まで待たない理由は?」

 

 空海の言葉を聞いて大人しくなった張遼を離す。話を聞く気になったようだ。

 

「はい。まずは持久力の問題でしょう。曹操軍だけが十分な休養の後に夜襲をかけるか、我々と同じような条件から朝駆けをするか、という」

「攻撃が始まってしまえば、暗くて義勇軍の収拾が付かないー、といった理由を挙げられるかもしれませんねー」

「加えて、もし首謀者を捕らえ損ねたときに包囲が十全に働いてしまえば戦功を奪われることにもなります。万一捕らえられても、曹操軍が城から追い立てたという形には出来るでしょうが……」

「ふむ。ならば捕らえ損ねた時には、包囲網か義勇軍かに責任を押しつける、と」

「あの小娘も、弁が立ちそうじゃったからのう」

 

 軍師たちと趙雲、黄蓋がそれぞれの考えを述べる。

 

「では、こちらが策を読んでもなお戦功を立てられると考えている根拠は?」

 

 空海の疑問に最初に答えたのは郭嘉だった。

 

「乱戦は運です。曹操軍は6千人、江陵軍は700人。実際に動かせる人数ともなれば、曹操軍5千に対して江陵軍は300も出れば良い方でしょう。同じように飛び込んだのであれば、運良く(・・・)抜け出せる可能性が高いのは曹操軍だと思われます」

「じゃが、実力で左右する部分もある。現に曹操も『少数精鋭』を用意しておる」

「それも江陵が100人出せれば良い方であるのに対して――」

「我が軍の精兵は全員が一騎当百よ。10倍程度の差など――」

「お待ち下さい、祭殿! 今は曹操の意図を考えているのであって――」

 

 郭嘉と黄蓋が熱く語る。消耗を避けたい周瑜は板挟みとなり、趙雲と張遼の二人はただそれを見守る。

 

「なら江陵は全軍を投入すれば良いじゃないですかー」

「は?」「なにを」

「風! あなたは何をっ」

「空海さんは首謀者を璃々ちゃんに会わせたい、黄将軍は軍の練度に自信がある、周軍師は消耗を抑えたい、官軍は賊を逃がしたくない、曹操さんは戦功を上げたい。それなら、曹操さんが一人で賊を追い立てる前に、日が沈む前に(・・・・・・)、全軍でやっつけちゃうのがいいのですよ」

 

 程立が眠そうに、しかし深々と切り込んだ。これならば江陵の目標はほぼ確実に達成出来るし、空海の目標もかなり高確率で達成出来るだろう。

 張遼が尋ねる。

 

「せやけど馬じゃ城攻めは出来へんで」

「馬は城から追い出した賊を叩くのです。先ほど仰っていたように、賊の士気は崩壊直前なのですよ。最後まで抵抗する前に逃げ出すでしょうー」

 

 空海が尋ねる。

 

「夜襲じゃ馬は使えないんだろ?」

「夜までに片を付ければ良いのですよ」

「む、無理です! 『それ』をやるには練度が足りません!」

 

 郭嘉が声を上げた。程立は柔らかく微笑み、江陵の将に顔を向ける。

 

「江陵軍には、指揮官経験者が居るのではありませんか?」

「ぬ? 確かにおるが……。少将は何人来ておる?」

 

 程立の言葉を受けた黄蓋が周瑜に尋ねる。

 

「なるほど……そうですな。確か、10人ほどではなかったかと」

「少将とは何でしょうー?」

「1万人の軍指揮を取れる将軍だ」

「なっ! バカな! それほどの人材を10人も!? 何という無駄な――」

 

 聞き覚えのない将軍名に程立が疑問を示し、周瑜の解答に郭嘉が絶叫する。

 たかが700人の集団にそれほどの高官を10人も詰め込むなど、と口にしかけ、郭嘉はある可能性(・・・・・)に思い至る。

 

「も、もしやその、『少将』以外の指揮官も同伴しているのですか?」

「うむ。儂と紫苑は中将じゃし、他は全員佐官じゃろ」

「中将は最大10万の、佐官は最低1000人の指揮官だ」

 

 黄蓋の言葉を周瑜が補足する。

 佐官は少佐から大佐を指す言葉だ。将官も佐官も、この時代にはなかった概念なので空海たちが作った。

 つまり、700人全員が1000人単位の指揮が可能だと言っているのだ。普段からそれだけの指揮を執るわけではないが、全員が技能として習得している。

 

「風も、ちょっとここまでは想像してませんでしたねー」

「当たり前です!」

 

 いつも眠そうにしている程立までもが目を丸くして驚く。ですが、と前置きして程立は薄く笑った。

 

「これならば、どうにかなるのではありませんか?」

 

 

 

 

 

「やられたわね」

「申し訳ございません、華琳様。官軍の連携を甘く見ておりました」

「違うわ、桂花。この動きは江陵軍よ」

 

 予定より2時(4時間)早まり、申の初(15時頃)から始まった攻城戦において、官軍の連携は目を見張るものがあった。

 盾を持った歩兵を密集させ、隊列の合間を騎馬隊が縦横無尽に走り回り、賊の逃げ道を見事にふさいでいく。

 城門近くの城壁にハシゴを立てたかと思いきや、周りに群がる賊に矢が殺到する。矢の斉射の後には間を置かずに城門への攻撃が行われる。

 江陵軍の本隊が布陣した南側の門は、近づいただけで内側から開かれた。皇甫嵩の本隊がある東側も、まもなく門を破るだろう。

 

 西側に布陣していた曹操軍など、最初に城壁に取り付いておきながら、むしろ出遅れている感すらある。連携して賊を追い立てる官軍に多数を押しつけられている形だ。

 だが――

 

「関羽と春蘭が城壁を越えたようです!」

「そう。桂花、出来るだけ支援なさい」

「はっ!」

「……勝負はここからよ」

 

 

 

 

 正面から門を突き抜けて入り込んだ江陵軍の突入組。程立と郭嘉には、空海の名代として皇甫嵩の陣に残るよう指示している。

 これで突入組は黄蓋、黄忠、趙雲、張遼、周泰、周瑜、そして璃々と空海を加えた8人が中心になる。

 江陵の兵士は周囲の建物や物陰を次々と制圧していく。通りに溢れる賊は、猛り狂った武官たちの餌食だ。アイロンがけのように、通り過ぎる所から真っ平らにして征く。

 

 

 

「これが、張文遠?」

 

 開幕から張遼の背中を見つめていた空海の言葉は、明らかな失望の色を含んでいた。空海が冗談以外でこういった発言をするところを初めて見た江陵組に強い驚きが生まれる。

 

 一方で張遼本人に生まれたのは、空海に対して抱いて居た淡い期待を裏切られたような怒りと、誇りを傷つけられたという名状しがたい気持ちだった。

 その気持ちが暗い方に向かず、絶対に認めさせてやるという負けん気に現れるのも誇り高い張遼らしいところではある。

 

「なっ……よう見ときぃ!!」

 

 張遼が強く言い放ち、その背丈よりも大きな偃月刀を振るう。

 細く高い音が重なるようにして、矢が落ち、太刀が弾かれ、黄巾が落ちる。三歩を進む間に偃月刀を六度振るい、その六度で六人の命を刈り取る。

 その早くて鋭い武に、横目に様子を窺っていた趙雲も口の端を持ち上げた。

 

 しかし空海は。

 

「はぁ……マジか……」

「――なんや、文句あんのか」

「当たり前だ」

 

 空海の心境は一言で表せた。

 

 ――張遼と聞いて期待していたのに。

 

 落胆である。

 

 目の前の張遼があの(・・)張遼でないことは、空海も理解していた。

 しかし、三国時代で最も楽しみにしていた邂逅がこのような結果になってしまったことに、落胆は隠せなかった。

 

 ――これじゃ俺の(持ちキャラの)張遼(やまだ)じゃないだろうが!

 

 ほんの数秒間、落胆一色だった空海の心。だが、もとより楽観的な空海はある可能性に気がついて、一瞬で反対方向にテンションを振り切った。

 

 ――そうか! なら育てればいいじゃん!

 

 空海は急に元気になって璃々をその場に下ろし、いそいそとその辺に落ちてた槍っぽいものを拾い上げ、1本だと強度が心配なので3本まとめて引っつかみ、張遼の一歩前に出て、笑顔を抑えきれない今の顔を見られないよう前を向いたまま、告げた。

 

「よく見ておけ。これが、張文遠に期待していたものだ」

 

 まずは見本プレイである。

 

 いぶかしむようないくつもの視線や慌てて止めようと近づく江陵組を振り切って、小さな身体が賊の目の前に躍り出る。

 人体が超えられない壁、音すらも置き去りにして。

 

 

 

 それは、敵対する賊すら目を奪われる暴力の嵐だった。

 

 広宗城の中央で、

 荷車がすれ違えるほど広い通りに限界まで詰まった人の群れが、

 青の暴風に触れた瞬間から消し飛んでいく。

 

「――ふっ! せやっ! おりゃっ!」

 

 一声ごとに、一振りごとに、数十人の黄巾が宙を舞う。

 風を起こすような踏み込み。束ねた方天戟(ほうてんげき)が振るわれる。

 

「推して参る!!」

 

 掲げた武器は折れ、構えた盾は割れ、地面さえ震えた。

 至近距離で放たれる矢すら、踏み込みながら武器を振るう動きでかわしていく。

 

「真の武よっ!」

 

 矢と血が降り注ぐ中、一点の曇りもない青い衣が翻る。

 流れ出した血液さえその姿を恐れるように青と白には触れようとしない。

 

「いざ――」

 

 凄烈の気合いが炎のようなオーラとなって立ち上がる。

 見ている者の目には、打ち付けた方天戟から炎が燃え広がる姿が映り――

 

邪魔(やま)だアアアァァーッ!!」

 

 叫び声と共に振るった方天戟の軌跡から、黄金の輝きが放たれた時。

 

 張遼は、そこが戦場であることも忘れて跪いていた。

 

 

 

 埃が晴れる。一点の曇りもない青い羽織と白い着物を纏った小柄な男が、方天戟3本を束ねて持ち、息一つ乱さずに薄く笑って『賊だったもの』を見下ろしている。

 

 男はゆっくりと視線を上げ、やがて、棒立ちとなった人の壁と目を合わせた。

 

 賊たちの絶叫が上がり、生きて動けるものは全てが我先にと逃げ出す。

 黄色い波が引いたとき、そこに残ったのは突入組だけだった。

 

「ふぅん。リアル無双ってこんな感じなのかー」

 

 神スペックを振るえば、特殊能力を使わなくてもこんなものである。むしろ、ほどよく手加減するために苦心したほどである。発光するのは難しかった。ぐわっという感じで。

 空海は手に持っていた槍っぽいものを投げ捨て、すっきりした笑顔できびすを返す。

 そして空海は。

 張遼が跪いているのを見て疑問を抱き、黄忠と黄蓋が停止しているのを見ておそらく空気を読まずにやらかしたのだと推測し、趙雲が横目に自分を見ながら固まっているのを見て何かやってしまったのだと確信し、周瑜が固まって呆けているのを見て常識を外れすぎた行動を取ったのだろうと確認し、璃々だけが目を輝かせているのを見てまあ何でもいいかと何もかも投げ出した。

 

「すごーい! くうかいさまっ、すっごーいっ!」

「どうだ、璃々。俺の山田無双、格好良かっただろ?」

「かっこよかった! すごかったー!」

 

 もはや動ける敵は一人も居なくなった戦場で、空海が作り出した『通路』を璃々が駆け抜け空海に飛びつく。空海は優しく抱き上げて、教育によろしくない風景を見せないよう璃々の顔を胸に抱くように支え直す。

 

「よし。道が空いたから張角まで一気に近づけるね……どうしたの、子龍?」

「い、いえ? 何でも? ありませぬ?」

「文遠も顔を上げてよ」

「はい! ご主人様(・・・・)!」

 

 世界が止まった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「……もう潮時ね。応援がどうこう言っている場合ではないわ」

「何? その荷物」

「逃げる支度よ。3人分あるから……みんなでもう一度、やり直しましょう」

「……仕方ないわね。でも、2人がいるなら」

「そうだね、ちーちゃんとれんほーちゃんがいれば何度だってやり直せるよねっ」

 

 3人の少女が、旅支度を整えて立ち上がった。

 

「そういうこと。そうだ、これも持って……」

「太平なんとかだっけ……?」

「そうよ。これを使って、またみんなで」

「もうそんなのいいよぅ! 2人がいれば十分だから、速く逃げよぅよー!」

 

 遠くで起こった絶叫が、黄色い波を伴って、3人に迫る。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「あー、うん。時に落ち着け、張文遠」

「ウチのことは霞とお呼び下さい、ご主人様!」

 

 最初は関西弁に違和感しか感じなかったはずなのに、今は標準語に違和感を感じる空海である。張遼のキラキラと輝く目が眩しい。

 

「ほぉ、ご主人様……」「あらあら」「面白い冗談じゃな……」

「こんなはずじゃないことばっかりだよ!」

 

 張遼が自主的に言い出したことなのに空海が肩身の狭い思いをしている。

 

「とりあえず真名は預かってもいい、けどっ! みんなみたいに字で呼ぶからね!?」

「わ……わかりました、ご主人様……」

「う、うわぁ……」

 

 張遼が両手両膝を地面について沈んでいく(ように見えた)。

 助けを求めて江陵組に視線を向けた空海は、そこに攻撃的な笑顔を見つけて、上げた視線をそのまま下げた。

 

「くくっ。主は女泣かせですなぁ」

 

 茫然自失から回復した趙雲がからかい始めたため、江陵組の機嫌がますます悪くなる。

 

「文遠。ご主人様という呼び名はやめろ。本当に。空海の方で呼んでくれ。本当に」

「わ、わかりました。く……く、空海様」

 

 張遼は空海の名前を口にするだけで真っ赤になっている。このままでは何故か自分が怒られることになるので、空海は話題転換を試みた。

 

「まず、お前には董卓という主君が居ただろ」

「もぉ臣下やめます!」

「おいィ!?」

 

 状況が悪化してしまい、空海は焦る。助けて趙雲、と視線を向ければそこには嫌らしい笑みをたたえた趙雲が。

 

「くくくっ。女にここまで言わせておいて応えないのは男ではありませぬぞ」

 

 助けを求める相手を間違えた空海は窮地に追い込まれた。女性に泣かれるのは、昔から苦手なのだ。騙してくる相手ならまだしも、慕ってくる相手なら容赦もする。

 

「……わかったから、普通にやめてこい。仕事を投げ出して江陵に来るのは駄目だよ」

「わかりました! すぐやめてきます!」

 

 空海は慌てて飛び出そうとする張遼の首根っこを掴む。

 

「にゃ!? 何すんねん! です!」

「ここでやること済ませてからだってヴぁ!」

 

 言葉遣いはショックで戻った。空海はそのままにしておくよう懇願した。

 

 

 

「ん? てんほー?」

『張角、夏侯元譲が討ち取ったぁ!』

「む」「ぬ」「そんな」

 

 遠方の建物の影から繰り返されながら徐々に近づいてくる鬨の声に、空海たちが顔を見合わせ、黄巾が膝をつく。

 夏侯元譲は曹操の部下、夏侯惇のことだ。空海にはその容姿はわからないが、聞こえてきた声は女性のそれだった。

 

「公瑾、漢升、すぐに確認してこい。黄巾の連中は『てんほーちゃん』がどうだとか口にしていた。年若い女が含まれている可能性が高い。公覆はこの辺りの掃討だ」

『はっ』

 

 既に周泰の調査によって、張角、張宝、張梁らの3人が居るらしいこと、狂信者を集めて何度か集会らしきものを開催したことが確認されている。

 そして空海は、経験則から彼女たちがおそらく3人組の女性なのだと考える。

 

「幼平!」

「はいっ!」

「周囲を、特に曹操陣営を探れ。張角たちの居場所を独自に掴んでいる可能性がある。あるいは、陣内かその周辺で保護か捕縛かされている3人組の女が居たら厳重に調べろ」

「わかりました!」

 

 いくら空海たちが立ち止まっていたとしても、曹操の部下たちが門を破り、有象無象をかき分けて、狂信者の囲いを越えて張角に迫るには少し早すぎる。

 そして何より、なぜ夏侯惇が包囲を離れているのかが、空海には疑問となっていた。

 

「この辺りを片付けたら一度戻って兵をまとめろ。……もう一戦あるかもしれない」

 

 空海の言葉に武官組は顔を合わせ、神妙に頷いた。

 

 

 

「お待たせいたしました、空海様!」

 

 夏侯惇の元に首を確認に出していた周瑜と黄忠、曹操周辺を探らせていた周泰、皇甫嵩軍で捕らえた黄巾賊に『てんほーちゃん』について聞き出させていた程立と郭嘉が江陵軍の陣営に戻る。

 空海は最後に到着した周泰をねぎらった後、まずは周瑜たちから、と話を聞いた。

 

「はっ。まず、差し出された首は男のものでした。周囲の黄巾賊に確認したところ、誰がどの首かの不一致などが見られたものの、口を揃えて張角らが男だったと証言を――」

「ですが、離れた場所で捕らえた賊にカマをかけてみましたら、女の子だったとか巨漢の男性だった、老人だったなどと……無茶苦茶な内容になりましたわ」

 

 空海は周囲を見回し、全員が確認したところで程立に話を促す。

 

「風たちは皇甫嵩さんの陣地で聞き込みを行ったのですよー」

「『てんほー』に加えて『ちーほー』という名前、もう一名は不明ですが、3姉妹であるという証言を得ています。念のため、皇甫嵩には知らせていません」

 

 二人の働きをねぎらい、空海は最後に周泰を向く。

 

「3姉妹を確認できたか」

「はい! まず、義勇軍を率いる劉備らしき者たち女性3名を曹操陣内に確認。先の攻城戦にも参加していたようです!」

「まぁ、予想通りだね。戦闘になると邪魔だけど、今引き離すわけにもいかないか」

 

 空海の言葉に周瑜が頷く。空海は周泰に続きを促す。

 

「さらに、陣の奥に隔離される形で保護されている、類似の衣装を纏った女性3名を確認しました。一名は『ちー姉さん』、一名は『天和姉さん』と呼ばれていました!」

 

 周泰の報告内容の大きさに、動揺が広がった。

 

「ほぼ確定だな。あとは本人に聞くか。よくやった、幼平。良い仕事だ」

「はいっ!!」

 

 空海が周泰を褒める。周泰は褒められた喜びに震えて泣き出した。

 

「仕事中は?」

「泣きません!」

「いい子いい子。そのまま控えていろ」

「はっ」

 

 噛みしめた唇から血を流しながらそれでも直立して動かない周泰と、それを見て微塵も動揺していない江陵組に、それ以外の者が顔を引きつらせる。どん引きである。

 

「……程仲徳、郭奉孝」

「はいー」「えっと、はい」

 

 空海は数瞬考えた後に、程立と郭嘉を呼ぶ。

 

「お前たちは皇甫嵩の軍を動かして、理由を明かさずに何とか城に入れろ。万一、曹操と江陵が戦闘に陥った時には理由を明かしても良い。その場合は、曹操が城に取り付く前に門を閉じ、防衛に徹しろ」

「了解ですー」

「……我々は江陵軍ではありませんが」

 

 外部の者である自分たちにそのような大きな権限を与えて良いのか、と聞こえる。

 だが、権限のことを言うなら、先に皇甫嵩の所へ向かわせたときも名代を名乗る許可を与えていた。郭嘉は、曹操という傑物を心情的に(・・・・)敵に回したくないのだ。

 だから、空海が行う説得は再確認に過ぎない。『そうなったとき、はたして曹操に価値が残るか』という。

 

「もし戦闘になるとしたら、あちらが庇ったときか」

「曹操さんが理性的でなかった時くらいでしょうねー」

「……。そうですね。璃々のことは私も思うところがあります。お手伝いさせて下さい」

 

 郭嘉が頭を下げる。

 空海は備え付けの机に向かって紙を一枚取り、サラサラと何かを記す。

 

 心善淵、與善仁、動善時。

 老子の一節。心は奥深いことが良い、交友は情を重んじるのが良い、行動は臨機応変が良い。といった意味だ。軍師向きの言葉として、空海が水鏡先生から直接教わった。

 

 空海は『空海』と言えば『字が上手い』と考えていた。考えていたので練習することにしたのだが、それを決めたときには水鏡先生と黄蓋くらいしか書を持っていなかった。仕方ないので老子とか六韜とか孫子といった難しい本を毎日何十回と模写したのだ。夜中に一人で。眠らないので。10年以上練習したらちゃんと上手になった。

 

「す、素晴らしい教養があるのですね」

 

 空海の文字の美しさを見た郭嘉がポツリと漏らす。空海の書を見慣れている江陵組すらため息が出ることもあるのだ。その部分以外の意味がわかっていないことは、空海だけの秘密である。空海にとって漢文は雰囲気で読むものだ。

 

「頑張ったからね」

 

 嘘ではない。中身ではなく文字にこだわっただけである。

 空海は、墨も乾かないうちからそれを郭嘉に渡し、礼を言う。

 

「郭奉孝。璃々のことをよく見てくれた。ありがとう。お前は璃々の結論を重視しないだろうから、この仕事が終わったらそのまま去っても良い」

 

 郭嘉は、考えの一つを言い当てられてやや恥ずかしそうにする。確かに郭嘉が重視するのは、璃々の結論で事態がどう動くか、である。

 

「もちろん、江陵への帰路に同道したいなら来ても良いぞ。璃々も喜ぶ」

 

 空海の誘いに、郭嘉は苦笑を返した。機会があれば、と答えを返して一歩下がる。

 

「おやおやー? 風には何もないのですかー?」

「お前は璃々の結論を重視するだろ?」

 

 普段の飄々とした態度や、人を食ったような物言いに惑わされるが、程立は『人間』が大好きなのだ。事態がどう動くかよりも、璃々が何を選ぶかの方が大切だと考える。

 だから璃々が何を選ぶかを見届けるか、最低でも、何を選んだかを知るつもりなのだろうと、空海は言う。程立も薄く笑って一歩下がる。

 

「じゃあ、準備をして行くぞ」

 

 

 

 

 

「あなた達の正体を知っているのは、おそらく私たちだけだわ。そうよね、桂花」

「現状、首魁の張角の名前こそ知られていますが、他の諸侯たちの間でも、張角の正体は不明のままです」

 

 曹操たちが3姉妹を前に笑う。気の強そうな少女がいぶかしげに尋ねた。

 

「……どういうこと?」

「誰を尋問しても、張三姉妹の正体を口にしなかったからよ。……大した人気じゃない」

 

 事実、曹操が東郡から広宗に至るまでに捕まえた黄巾賊は、誰一人として口を割っていない。曹操たちが三姉妹の正体に気がついたのは、偶然にも許緒が彼女たちを目撃していたからだ。

 

「それに、この騒ぎに便乗した盗賊や山賊は、そもそも張角の正体を知らないもの。そいつらのでたらめな証言が混乱に拍車をかけてね。今の張角の想像図は、これよ」

 

 そう言って曹操は近くにあった姿絵を広げる。

 身の丈1丈3尺(約3メートル)、腕が8本、足が5本に角と尻尾が生えて、空を飛びながら長い舌で馬を補食する、黄色いリボンをつけたひげ面の大男(?)が書かれている。

 

「馬を食べてるわ、天和姉さん」

「いくら名前に角があるからって、角はないでしょ……角は」

「か……かわいい」

『ええっ!?』

 

 

 

 

 

「皇甫嵩の軍はほぼ入城を完了しました。西門には既に人員が配置されたようです」

「騎馬隊も準備完了や! あとは号令だけやで、空海様!」

「弓兵もなんとか1000は集められました。開幕だけですから、何とかなります」

 

 空海は璃々を抱きかかえて立ち上がる。

 

「じゃ、行くぞ」

 

 

 

 

「私が大陸の覇を唱えるためには、今の勢力では到底足りない。だから、あなた達の力を使って、兵を集めさせてもらうわ」

「そのために働けと……?」

 

 曹操の宣言を聞いて、眼鏡の三女が静かに尋ねた。

 

「ええ。活動に必要な資金は出してあげましょう。活動地域は……そうね。私の領内なら自由に動いて構わないわ。通行証も出しましょう」

「ちょっと! それじゃ、私たちの好きな所に行けないってことじゃない!?」

 

 

 

 

「空海元帥のお通りである。直ちに道を空けよ!」

「武器を掲げるものは反逆者と見なします! 武器を置いて頭を下げなさい!」

「元帥の前では声を出すな。雑音を立てるな。呼吸さえ慎重に行え」

 

 

 

「……わかったわ。その条件、飲みましょう。その代わり、私たち3人の全員を助けてくれることが前提」

「問題ないわ。決まりね」

 

 突然、外が騒がしくなる。

 

『どうかお待ちを! しばしお待ち下さい!』

『通せ』

『いけません! どうか――』

 

 天幕が切り裂かれる。外から聞こえた『男』の声に、荀彧が強い敵意を燃やす。

 

「何を騒いでいるの!」

 

 裂かれた天幕の隙間から差し込む光を背に、青い羽織を纏った男が立つ。

 

「曹孟徳はどこだ?」

「空、海……?」

 

 その瞬間、曹操の膝が後ろから崩され、膝立ちとなった曹操の首に後ろから刀が回される。隣に立っていた荀彧も倒され、電池が切れたように動きを止める。

 

『!? 華琳様!』「桂花っ!」

 

 曹操を押さえつけたままの周泰が、地の底からわき上がるような声で呟く。

 

「逆賊ごときが空海様を呼び捨てにするとは良い度胸です。……命令がなければすぐにも殺せたものを――!」

『――!!』

 

 動き出そうとした曹操軍の将たちに、全方位から強い殺気が叩き付けられ、彼女たちが気付いたときには各々の喉元に一撃必殺の武器が突きつけられていた。

 

 夏侯姉妹には二黄が武器を向けている。武器を持とうと伸ばしかけた手が、それを掴むことも出来ずに固まっている。動けば殺されると理解させられた。

 楽進や于禁、李典たち3人娘は張遼に偃月刀を突きつけられ、強烈な殺気を叩き付けられていた。昨日会ったばかりの張遼だが、その様子は信じられないほど違う。間違っても動くことは出来ない。

 親衛隊の少女二人は蝶のような武人と向かい合っていた。趙雲は薄く笑っており、他に比べれば殺気も弱く、少女たちには比較的余裕があるように見える。しかし、武器に手を伸ばせばいつの間にかたたき落とされる。二人は趙雲から圧倒的な実力差から生まれる余裕を感じて息を詰まらせる。

 

 天幕の内外を江陵軍が完全に固めたところで、空海が膝をつく少女を見る。

 

「お前が曹孟徳か。張角、張宝、張梁とはどれだ?」

「嘘偽りなく応えろ。解答以外の行動を取れば殺す」

「よ、幼平が超怖い……」

 

 曹操が3姉妹に目を向け、慎重に腕を持ち上げて指差し示す。僅かに動くだけでも刀が喉に食い込む。呼吸が乱れることにすら恐怖のわく距離だ。

 周泰が空海に向かって頷く。

 

「事実だと思われます。先ほどまで勧誘を行っておりました」

「なるほど。お前たちか」

「な、何なのよあんた……!」

 

 気の強そうな次女が震えながらも空海を睨む。

 

「俺は空海だ」

『空海!?』

 

 瞬間、3姉妹の足下にバカでかい針のようなものが突き立つ。3人がそれぞれの履いていた黄色のブーツは針によって地面に縫い付けられ、黄巾の末路を思わせた。

 姉妹は咄嗟に口を閉じ、涙目で空海と周泰を交互に見ている。

 

「次は心臓と目を狙う!」

「狙うなよ。勝手に殺すな、幼平」

「……申し訳ありません、空海様」

 

 刀で曹操を押さえ込んだまま、空いた手を使って一息で3本の針を正確無比に投げつける技量に、張三姉妹が抵抗を諦める。靴と地面を貫いている針は、足を全く傷つけていないのだ。姉妹の誰も痛がっていないことが何よりの証拠だ。

 

「では、黄巾の親玉であるお前たちには聞かなくてはならないことがある」

「な、何よっ」

 

 次女は涙目になりながらも姉妹を庇うように声を上げる。

 空海は璃々を地面に降ろし、しかしそのまま自らが3姉妹に尋ねた。

 

「何故、黄巾を立ち上げた?」

「はぁ!? あたしたちそんなの立ち上げてなんかないわよ!」

「あ、あの人たちは勝手に集まってきたんです。それで私たちの支持者を名乗って」

「だから3人で逃げようって」

「それで人の波に乗って何とか城から抜け出したところで」

「曹操に捕まったのよ!」

 

 3人がしどろもどろになりながらもまくし立てる。そこで空海は疑問を抱いた。

 

「曹操に捕まったとき……西側の城門だな、そこまで人の波に乗ったと言ったが」

「そ、そうよ。あっちからなら逃げられるからって支持者の連中が言うから」

「事実か曹孟徳」

 

 後ろで控えていた周瑜が、思わず口を出す。怒りで声が震えている。

 曹操には賊を受け止めることを命じてあった。賊の勢いを削いだところで騎兵で蹂躙するのだ。曹操に限らず、全ての官軍は同様の作戦を行っていた。

 

「……私たちだけで、あれだけの数の賊を受けきることは出来なかったわ」

「それって、夏侯元譲を城内に送り込んでいたからじゃないの?」

「っ!」

 

 曹操が息を飲んで黙る。口を閉じたことが、何よりも雄弁だった。

 命令にない行動を取ったせいで大量の賊を取り逃がした。実際には夏侯惇がいても何も変わらなかったかもしれないが、大いに変わった可能性もある。

 

「貴様……!」

「公瑾、後にしろ(・・・・)

 

 空海は前に出かかった周瑜を手で止め、その手で璃々をゆっくりと撫でる。周瑜はその意図に気付き、唇を噛んで下がる。

 空海は再び3姉妹を向き、尋ねる。

 

「お前たちを官軍が取り囲んだとき、あるいはその前に、何故事実を明かして保護を求めなかった?」

「そ、それは……」

「だってみんな私たちの歌を聴きに来てくれてるからー」

 

 眼鏡の三女が言葉を失う横から、間延びした声で長女が答えた。

 

「盗賊、山賊のようなことをしていることには、気がつかなかったと言いたいのか?」

 

 3姉妹と璃々の硬直が重なった。姉妹は、言い訳を探すように目を泳がせている。

 

「気付いていて放置したのか」

「で、でも」

「黙れ。不快だ」

 

 空海が短く命令すると同時に再び、強い殺気が天幕を襲う。

 

 空海はその場に跪き――あの空海が膝をついているということに、事情を知らない全ての人間が驚愕した――璃々と視線を合わせる。

 

「璃々。この者たちは、お前の両親を殺したような者たちを集めておきながら、歌を聞かせることの方が大事だったようだ」

 

 空海は、璃々の肩を掴んで張角たちに向ける。怯えたように璃々を見る姉妹を全く無視して。さらに曹操の方に璃々を向けて続けた。

 

「この者は、あの者たちが悪いことをしたと知っていたのに、自分がその力を使いたいからという理由で悪いことを隠そうとした」

 

 曹操は苦虫を噛み潰したような顔でその言葉を受け入れる。言いたいことはあるが、黄巾の被害者であろう子供を相手に言い訳など出来ない。目を伏せて、そこに倒れた荀彧を見つけ、もう一度目を上げる。

 

「お前が決めろ、璃々。この者たちを殺すか、生かすか。両親の仇を取って欲しい、でもいい。この者たちを許すというのなら、それでもいい」

 

 璃々が肩に置かれた空海の手を掴む。強く強く掴んで、嗚咽も漏らさない。涙を流しながら、それでも璃々は、3人と1人を睨み付ける。

 3人が化け物を見たかのように怯え、1人が能面のように表情を消していく。

 

「……おねえちゃんたち、なんか……っ」

 

 震える声で告げる。3姉妹が震え、曹操が完全に表情を消して、曹操陣営の武将たちもつらそうな表情で、それでもその時(・・・)には決死で動きだそうと決意し

 

 

 

「おねえちゃんたちなんか、だいっきらい!!」

 

 

 

 璃々が叫んで、空海に縋り付く。

 大声を上げて泣き出した璃々を空海が抱き上げて、静かに背中を撫でる。

 誰もが沈痛な表情で声を発することが出来ない中、空海だけが薄く笑ったまま璃々の背中を撫で続ける。

 

「璃々。それは最もつらい選択肢だ。よく、選んだ。俺はお前を尊敬する」

 

 高まっていた緊張がほどけそうになる。だが、空海はそれを許さなかった。

 

「……張角、張宝、張梁、そして曹操。璃々はお前たちを生かすことを選んだ。だから、お前たちは生きたまま罪をあがなえ」

 

 空海は昔聞いた故事を思い出して告げる。

 

「曹孟徳に命じる。この者たちに教育を与えろ。黄巾が侵した罪の大きさを必ず理解させること。自覚させること。これを持って張角らへの罰とする」

 

 空海の言葉を受けた周泰が刀を揺らして促す。曹操はか細い声で必ず、と答え、自らへの罰を待つため目を閉じる。

 空海からの視線を受けた周瑜が頷き、口を開く。

 

「曹操。貴様は私欲のため命令を無視し、逆賊の所在を偽った。これは朝廷に弓引く行為である。よって今回の戦功は全て取り消し、罰として夏侯校尉の官位を剥奪。さらに陳留以北かつ司隸以東での黄巾残党の平定を命ずる」

 

 夏侯惇の持っていた軍事権を剥奪する決定。そして、逃がした賊を追って鎮圧しろ、という命令だ。もちろん首都へ逃がしたりすれば大事になるだろう。

 

「それに伴い、これより二月の間、曹操が臨時に中郎将相当の兵数を統率することを許可する。ただし、義勇兵は集めるな」

 

 部下の軍事権を剥奪したため、曹操には軍を率いる名目がなくなった。そのため臨時で兵権を与えて遠征を行えるよう許しを出す。失態を民にぬぐわせるな、とも。

 

「張角を皇甫義真が、張宝を張文遠が、張梁を趙子龍が討ち取ったものとして扱い、戦功もそれに準ずる。そのつもりでいろ」

 

 張角たちへの罰は既に空海が決めている。だから、周瑜は罰を追加しない。その代わりに、曹操から奪った『首』を目の前で分配することで姉妹への牽制とした。

 

「……軍師殿、私は」「……」

「子龍、受け取っておけ。文遠もな。どこで何をするのにも有利になるだろう」

「主まで……」

「しゃーないわ。政治っちゅうもんや」

 

 朝敵の首を獲ったのだとすれば、どこに仕官するのにも自分を売り込む材料になるだろう。それは、江陵が相手でも同じだ。

 官軍を率いてきた皇甫嵩に最大の戦功、同じく張遼に二番手の戦功、江陵の客将として討伐に参加していた趙雲に三番手。江陵が少しばかり損をしているように見えるが、それも張遼と趙雲が江陵に合流すればひっくり返る。

 

 江陵軍そのものには戦勝の功績が付く。江陵は、既に賊の首一つに左右されないほどの立場にある。半ば強引に軍を動かしたことさえ相殺出来る戦功があれば良かった。

 最初から(・・・・)

 

 曹操たちとは、最初から争ってなど居なかったのだ。江陵は首などどうでも良かった。

 江陵に取っては、誰がどう戦ってどう名を上げても良い戦いだった。勝ちさえすれば。

 

 曹操たちもまた、逃がした黄巾が賊になるとは考えていなかった。彼らがおそらく張角たちのファンなのだろうと気付いていたから。

 西門から逃げ出す者たちを簡単に逃したのも、最後まで抵抗を続けているほどに熱心なファンが賊になるとは考えなかったからだ。

 

「戻るぞ」

 

 空海がきびすを返す。

 青い羽織と共に遠ざかる泣き声に、曹操はいつまでも立ち上がることが出来なかった。

 解放された夏侯姉妹が曹操に駆け寄る。荀彧の手当も始まる。張三姉妹が恐怖から泣き出して許緒がそれを慰める。

 それでも、曹操が涙を流すことはなかった。

 

 

 

 広宗城包囲戦は城内にて3万人の黄巾を打ち倒し、城外において5万人の黄巾を倒して捕らえた。主に西門から流出した4万人の黄巾残党の鎮圧は、西門で流出を防げなかったとして陳留刺史の曹操が担当することになった。

 後に広宗制圧と南陽鎮圧の報を受けた帝は大赦を行い、中平と改元する。




 黄巾を書くときはね、プロットに邪魔されず、自由で、なんというか、お笑いじゃなきゃダメなんだ。三人組で、おバカで、ノリノリで……
 というわけで、次回の落差はエンジェルフォール並。

『こんなはずじゃないことばっかりだ!』
 私の中のクロノくん(リリカルなのは)のイメージは
 ストップだ!→撃墜(二次)→こんなはずじゃなかった!→いつの間にか提督 です。


 ここまで書いておいてなんですが、曹操は自分の利益の為に清濁あわせのみ正しい行動を取ってると思うのです。作者的に見て。主人公勢は個人に肩入れしすぎています。
 ただし、この作品においては国家の存亡に関わるような大局で俯瞰すると空気を読めていないのも曹操なのではないかと。史実では曹操は漢王朝を生かすために参戦していたはずですが……。賊の討伐が『手段』でしかないところは、彼女の嫌いな宦官のそれと同じ。この辺は恋姫本編と似通っていますね。
 主人公勢は政権に媚びることも出来る大物ですから(キリッ
 だから、稟と風は


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4-了 世紀末黄巾伝説

冒頭部分は甲高い男性の声で読み上げる感じでどうぞ。


 西暦19X年――大陸は黄色い布に包まれた!

 田は枯れ、畑は荒れ、全ての一般人が死滅したかのように見えた……

 だが、漢民族は死滅していなかったァ!

 

 

「ヒャッハー! 米だぁ!」

「バーロロロロロー(歓喜)」

「ヘイヘーイ……見ろよ、コイツ太平要術の書なんて持ってるぜ! ウケルー」

「今じゃケツ拭く紙にもなりゃしねぇってのによォ! ゲラゲラゲラ」

「ブルスコ!(嘲笑)」

「この水も使おう。やつにはもう要らん」

 

「……」

「あん? なんだてめぇらは?」

「ダァシャアリェス!(恫喝)」

「ん? 何する気だ?」

 

「み……ミズ……」

「動くんじゃねぇ!」

「マーオ!(威嚇)」

「怖いかクソッタレ! 当然だぜ、元黄巾指揮官の俺に勝てるもんか!」

 

「み……ミズク……」

「お、おい! そこで止まれ!」

「ファー?(困惑)」

「君は私を……脅しているのか?」

 

「み……ロクンミンギア……?」

「やっ、やっちまえええ!!」

「クルルァ!(怯懦)」

「テメェらなんかこわかネェェェ!(ジョロロッ)」

 

「ほあたァ!」(※周泰さん、やぁっておしまい! の意味)

「ひでぶっ!」「ウルトラソゥッ!」「畜生ぉ!(ジョバー)」

 

 

「むぅ、制限なしの璃々と動物縛りでしりとりするのがこんなに大変だったなんて」

「くうかいさま、まだー?」

「すいません、そろそろ『み』攻めは勘弁してもらえませんか」

「んー……だめ!」

「駄目なんかい!」

 

 空海の護衛たちが頭から針を生やした3人組の賊を片付けていく。3人に襲われていたと思われる黄巾を付けた者も一緒だ。共食いである。

 

 騒がしかった者がいなくなる。空海たちは、そのまましばらく歩き続けた。

 

「うーん……駄目だ。負けました」

「かちました!」

「はっはっは。では璃々よ。報告してらっしゃい」

「はい!」

 

 璃々が大小の墓に向かう。

 

 手を合わせて静かに声をかける、という行為は、墓が出来てから知ったことだ。

 璃々が墓に向かって静かに声をかける間、空海は璃々の後ろに立って待つ。

 

「……。……じゃあ、おとーさん、おかーさん、いってきます!」

「うん。『お前たち』は璃々に悪い虫が付かないかだけ心配していろ」

「? くうかいさま?」

 

 璃々は、墓に向かって声をかける空海を見上げる。

 柔らかく微笑む顔が、そこにあった。

 

「行くぞ、璃々」

「――うん。お父さん(・・・・)

 

 璃々は全くの無意識でそう漏らす。

 

「ん? 俺はお前の父じゃないぞ?」

 

 空海は笑って璃々の頭を小突いた。璃々はごめんなさい、と謝って、それから笑う。

 二人は手を繋いでその場を離れていく。

 ここだけを見れば、まるで親子のような姿だった。

 

 

 

 

「お帰りなさいませー、ご主人様ー」

「次にご主人様と言ったら、無慈悲で激しい叱責によって断固懲罰を与える」

「おおっ、それは困りましたねー」

 

 全く困った様子を見せずに程立が笑う。ご主人様と呼ばれると、何故か呼ばれた自分が怒られるので空海も必死だ。程立の真似をしようとする璃々も小突いて黙らせる。

 

「今日中に襄城に入って、明日には南陽だから、降りるなら準備した方がいいよ」

「相変わらず、とんでもない進軍速度ですねー」

「襄城と言えば頴川の南端ではないですか。この軍は一体どうなっているのか……」

 

 空海がやんわりと告げるが、程立と趙雲は座ったまま動く気配がない。

 それならそれでいいか、と空海も席に着く。

 

「郭奉孝はどこに行くと思う?」

「曹操さんの所でしょうねー」

「まぁ確かに、あの陣営は他に比べて引き締まって見えましたな」

 

 よく似合っていると話す趙雲に、違いますよーと程立が笑う。

 

「稟ちゃんは曹操さんが大好きですからー」

「あ、やっぱり?」

「ほぉ。百合色の気配を感じ、もしやと思っていたが」

 

 理性的で合理的で、思いやりもあるのに計算を優先していたのが郭嘉だ。だが、曹操に対しては時折強いこだわりのようなものを見せていた。

 

「ということは……俺たちは、窮地に陥った曹孟徳の前に郭奉孝が劇的に登場するためのお膳立てをしてしまったわけか」

「くくくっ、なかなか豪華な舞台ですな」

「二人は出会い、そして禁断の恋に落ちる……稟ちゃんと曹操さんは女同士でありながら夜な夜な」

「クルルァ!(本家)」

 

 教育によろしくない長台詞は妨害する空海である。

 

 

 

 

「伝令によれば、南陽の平定は宛城を除いて完了したそうです」

「おぉ? 思ったより早くない?」

 

 周瑜が持ち込んだ報告を皆で聞く。

 

「そですねー。徹底討伐と聞いていましたので、ちょっと意外ですねー」

「方針転換でもあったのでしょうか?」

 

 程立が空海との会話を思い出しながら、のんびりと感想を述べる。黄忠が誰にともなく疑問を発する。答える周瑜は、複雑な表情だ。

 

「再編された南陽軍が活躍しているようですな……それと」

「あぁー。もしかして孔明と士元が何かやった?」

「ええ。おそらくは」

 

 疲れたように答える周瑜を見て、黄蓋と黄忠がこの場にいない二人を褒める。周瑜がそんな二人に苦言を呈し、ギャーギャーわーわーと騒がしくなっていく。

 

「どなたですかな?」

「諸葛孔明と鳳士元。ウチの軍師見習いというか……もう軍師かなぁ」

「なるほど。流石に江陵は層が厚いですな」

「クスクス……風の存在感が薄れてしまいますねー?」

 

 趙雲、空海、程立が笑う。

 二人は、新たなる職場に。一人は、新たな部下の加入に思いをはせて。

 

「石は水では薄まらないだろ」

「こんなか弱い乙女を石に例えるなんて、空海様は乙女心を理解していませんねー」

「えー。お前は水に溶けないどころか千年は残る大岩だよ」

「……お兄さんはなかなかとんでもない台詞を口にしますね」

 

 程立が笑みを消し、上目遣いで空海を見る。

 

「これは距離を取られたのか近づいたのか、どっちだ?」

「おやおや、結局、乙女心は理解しておられぬようですな」

 

 切り札その1、乙女回路を刺激する台詞10選を封印した今、わかりづらいアピールに対して好感度を確認する手段は空海にはないのだ。

 趙雲はニヤニヤ笑っていてからかわれそうだし、江陵組は未だに騒いでいるし、頼りになるのはもはや一人しかいない。

 

「璃々。お前が大きくなったら、乙女心について教えてくれ」

「んー……だめ!」

「これも駄目なんかい!!」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「穏、江陵軍が戻って来たそうよ」

「もうですか~? いくらなんでもちょっと早すぎるような~……」

 

 孫策が軍議から持ち帰った報は陸遜にとって興味深いものだった。

 江陵が北に向かってからまだ半月あまりだ。陳留の北にある東郡で賊が出たという話があったが、そこまで行ってきたのだとすれば早すぎる。

 頴川郡で賊の討伐を行ったという話は聞こえていたため、その後の平定に手間取り、今までかかって帰ってきたのかと陸遜は考え、それは裏切られた。

 

「冀州に居た黄巾の首魁を討伐してきたらしいわ」

「……えぇぇ~~っ!?」

 

 陸遜は宛城から冀州まで何日かかるのか一瞬で計算し、徒歩で10日、行軍なら最短で20日という解答に行き着く。片道で、だ。

 

「ど、どうやってっ? 一体どうやったんですかぁ~!?」

「知らないわよ。詳しくは話してなかったし、聞けなかったわ。ただ、曹操が軍令違反を犯したから、陳留以北の残党狩りと復興について無償奉仕することになったんですって」

 

 陸遜は孫策の言葉にがっくりと肩を落とす。それでも聞けそうな情報の方を優先して確認しておかなくてはならない。

 

「曹操さんというと、洛陽で苛烈な取り締まりをしていた方ですよね~? 1、2年前に陳留刺史に栄転されたんでしたっけ~?」

「らしいわね。今回の失態で軍事権を剥奪されることになったそうよ。なんか平定まではいくらか待つみたいだけど」

「はぁ~。いくら刺史さんでも、無償奉仕となると相当な負担となりますねぇ~」

 

 孫策はでしょうねと相づちを打ち、くくっと笑って自虐的な笑みを浮かべる。

 

「今のウチと良い勝負ってトコかしら?」

「あちらは下向き、こちらは上向き、ですよっ! まずはこの戦いで功績を上げることを考えましょう~」

「ふふっ、そうね」

 

 孫策と陸遜は笑い合い、計画を練っていく。

 

 黄巾賊の動きは読みやすく、南陽郡内で行われてきた掃討作戦では、実力を低く見積もればちょうど予想通りの動きをしてきた。

 今回の予想では『賊は江陵軍を恐れて城内深くに引きこもる』だ。ならば城壁や城門に張り付く好機となる。機を見て攻勢に移るように命令されているのだから、問題もない。

 

「でも何か嫌な予感がするのよねー」

「う~ん。ではこれまで通り大人しく包囲しておきましょうか~? 現在までの働きでも十分に名は売れていますし~」

「でもでもー、ここが好機だとも思うのよね。嫌な予感以上に」

 

 二人は悩む。危険は出来るだけ避けたいが、利益は大きそうである。孫呉の置かれた状況を考慮すれば、賭に出る方が良いとの結論に行き着く。

 

「ま、元々悪化分を取り戻しただけだしね。ここで稼いでおくのも悪くない、ってね」

「御身は孫家だけのものではないのですから、十分にご注意くださいね~?」

 

 孫家は揚州呉郡の豪族だ。そして、呉郡をまとめその地位を向上させるため、呉郡の有力豪族である陸家から陸遜を預かっている。

 成功すれば二人は出世頭となり、いずれは揚州をまとめる大豪族へ、その道筋を見いだせるかもしれない。

 だが、失敗すれば孫家、陸家の両家を凋落させることに繋がりかねない位置でもある。

 普段はのんびりと本のことばかりを考えている陸遜でも、家(に置いてある本)のことくらいは考えるのだ。親戚の顔を判別することには、少し自信がないが。

 

「わかってるわよ。要は勝てば良いのよ!」

 

 

「ハッ! また姉様が暴走してる気がする」

「いつものことです、蓮華様」

 

 

 

 

 二黄を意味する旗印、コイノボリを平面にしたものを想像するのが近いだろうか。緑がかった青と赤みがかった青の二つの布地が風になびく。

 

「こっ、こ、こうっ、江陵軍だああああああああ」

 

 この時代の賊には、文字が読める人間は稀だ。大半の構成員は読み書きも出来ない民である。彼らにとって、情報というのは噂を指す言葉だ。

 つまり、黄巾賊の思い描く江陵軍とは、往復するだけで急いでも40日はかかるはずの道を僅か半月で往復したり、700人の精兵で15万人に立ち向かって一方的に勝ったりした理不尽の権化である。あるいは『化け物』と言ってもいいかもしれない。

 

「し、死ぬ! 殺される!! 逃げろぉぉおお!」

 

 宛城の中で、5万に迫る賊の叫び声が、地響きを伴って江陵軍から遠ざかる。

 それもこれも江陵で待つ、ちびっ子軍師たちの策によるものなのだが、事情を知らない人間は目をむき、覚悟をしていた周瑜だけが頭痛を耐えるようにため息を漏らす。

 

「……とりあえず近づいて門を開けてしまおう。あとは朱儁たちに任せればいいだろ」

「ぎょ、御意」「あっ、はい。承知しました」

「はぁ……朱里と雛里め、一体何を吹き込んだんだ……」

 

 なお、『化け物』を『英雄』に入れ替えれば民の評価に早変わりする。

 とはいえ、『目を合わせると死ぬ』とか『見ただけで狂う』とか『時を止められる』という評価に関しては、何とか否定しようと江陵民も考えている。

 

 

「では朱中郎、以降は任せる。我らは江陵に戻ることとする」

「お、お待ち下さい! 現在、襄陽側には賊が多数押し寄せており、その、包囲に穴が」

「――は?」

 

 確かに江陵が近づいた直後からの黄巾賊の動きは派手だった。しかし、賊が押し寄せたくらいで穴が開くものは包囲とは呼べない。

 何より、襄陽側の包囲に穴があるということは、江陵側に賊を逃すということだ。

 

「い、一部の者が命令違反を犯したのです。今その穴をふさいでおりますので、なにとぞ今しばらくお待ちを!」

 

 周瑜からわき上がった怒気を感じて、朱儁が必死にそれをなだめる。江陵の英雄譚に土を付けたなどとなったら粛正ものだ。良くて官位剥奪の上に前線送りである。

 周瑜と朱儁はしばらくにらみ合う。やがて息を吐いたのは周瑜の方だった。

 

「良いでしょう。今しばらく様子を見ましょう。無論、宛城の制圧にも手抜かりなどありませぬように」

「か、感謝します」

 

 朱儁は深く頭を下げ、誰を穴埋めに回すべきか考え。

 

 

 

「今です」

 

 

 

 地平を覆うような江陵の大軍が現れたのは、周瑜たちの会合の終了とほぼ同時だった。

 包囲網の外を更に包囲するようにして現れた江陵軍は、宛城の包囲から逃げ出した賊に僅か2刻(30分)で接触。2万人を超える黄巾賊を尽く切り伏せた。

 勢いに乗った官軍は降伏を許さず、朱儁の主導でその日のうちに南陽の賊を殲滅する。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「大事に至らなかったから良いものの、ここでも軍令違反を見ることになるとは……頭が痛いですな」

「それだけ官の統制が失われておるということじゃ」

 

 頭痛を耐えるような仕草をしている周瑜に対して、答えた黄蓋は言葉とは裏腹に上機嫌に笑っている。江陵軍が大活躍で賊も綺麗に討伐が終わって言うことなしなのだ。

 

「とりあえず、件の違反者は南陽黄巾の指揮官をしていた韓忠なるものの首を獲りましたので、その戦功と違反分を相殺することに致しました」

「ふーん。逃げたんじゃなくて攻めてたんだ? 実力はあったんだね」

「ええ、例の孫策ですな。加えて、孫策主導による南陽郡内平定の功績も、南陽陥落の失態と相殺という形になりそうです」

 

 孫策は南陽太守の部下という形で参戦していたため、戦功の全てを南陽に持って行かれた形だ。名前は売れたが心情的には納得できまい。

 

「でもそれ、失態の方が大きいように見えるんだけど?」

「はい。そこで、袁南陽太守には寿春(じゅしゅん)への異動が命じられました。劉将軍の決定であるとのこと」

「寿春は、揚州の大都市だっけ」

「左様です」

 

 寿春は揚州の北の外れ、豫州との境近くにある都市だ。豫州側には袁家の本拠地である汝南が近い。南陽との比較では人口で3割足らず、首都洛陽からも遠い田舎になる。

 

「そう。んじゃ、新しい南陽太守は、候補がないなら盧植か皇甫嵩でも推挙しておいて」

「では、そのように」

 

 

 

 

「何故黙っておられるのです、姉様!」

「何の話よぉー?」

「戦功です! なぜ袁術の失態を私たちが埋め合わせなくてはならないのですか!」

 

 薄紅色の姉妹が人目をはばかりながら、それでいて声を潜めることなく向かい合う。

 

「大体予想通りでしょ?」

「んなっ」

「袁術ちゃんなんて自分で功績を立てることも出来ない小物なのよ」

 

 孫策がひらひらと手を振って余裕を見せる。孫権はその仕草にいくらか溜飲が下がったのか、話を聞こうと口を閉じた。

 陸遜が孫策の発言を補足するように語りかける。

 

「ですから~、私たちは名を売ることを目的にしてたんですよ~、蓮華様~」

「名を?」

「そ。汝南のあれはちょっと想定外だったけどねー」

 

 今はただ孫家の名を売るだけでいいのだ。いずれ立ち上がるときに「あの孫家なら」と思わせることが出来ればそれで良い。

 汝南の民には『袁術の家臣が来てくれた』という反応をされてしまったが。

 苦笑を見せる孫策だが、軍師の陸遜は得意げだ。

 

「それに、今回の失態で袁術さんは寿春に異動になっちゃいましたから~、私たちの方が有利になったんですよ~っ」

 

 寿春は孫呉の本拠地である建業から北西に5日ほどの場所にある。急げば3日といった所だ。建業は丹陽(たんよう)郡の一都市である。

 建業まで出れば、孫家や陸家のある南東側の呉郡まで往復10日もかからない。そしてそれほどまでに近づけば、役人の多くに一族の息が掛かる。南陽では袁家一門に占められていた官職の多くを、寿春でなら孫呉が奪える。

 もちろん、袁家の本拠地である汝南も近いことからその影響は無視できないが、これまでと比べれば天と地ほどの差である。

 

「そ、そうなの?」

「そうなの」「そうなんですよ~」

 

 信頼する姉たちに断言されては強くは言えない。孫権はごめんなさい、と口にしかけて思い出す。

 

「だからと言って先頭切って賊の群れをかき分けていく必要はないはずです!」

「あ、気付かれちゃった」

「蓮華様の言う通りですよ~! 御身に何かあったら私たちまで困ります~っ!」

「ごめーん!」

 

 黄巾が宛城から飛び出してきたときに、陸遜は孫策を止めたのだ。

 それでも孫策が前に出たのは、そのまま包囲網に留まってもいずれは抜かれるだろうということ、そして包囲を抜かれてもたぶん平気だろうということを直感していたからだ。

 まぁ、前に出て戦いたいという気持ちも7割5分(ちょっと)はあったが。

 

 そして、結論から言えば奪われることを覚悟していた戦功は予想通りに奪われ、売ろうと考えていた名は予定通りに売れた。

 江陵のようなこれ以上高まりようのない名声に隠れ気味ではあるが、江陵を除けば良い意味でも大きな名声を拾うことが出来ただろう。

 さらに、本拠地近くへの異動という棚ぼたもあった。

 

 あと一息で、あと一押しで、表に立てる。

 

 

 

 

 

 南陽包囲戦の翌朝。

 

「おはよう朱里。今朝は冷えるな、えぇ?」

 

 南陽から南西に240里(100㎞)ほどにある襄陽の郊外で。

 

「はわっ!? はわわわわ、めめ、冥琳しゃん……!」

 

 孔明(しゅり)周瑜(しゅら)に捕まっていた。

 

「伝令を複雑に多重化して司令部の位置を隠すという発想は良かった……。だが、通信網そのものを乗っ取ってしまえば、むしろ正常に動いている部分が浮き彫りになる」

 

 個別の兵士の持つ技能が優れ、小さな集団にも必ず頭脳となる者が存在する、江陵ならではの作戦だ。伝令の大半が情報の共有に使われるものであり、司令部からは比較的大まかな指示しか出されないためだ。

 

 孔明は、いや、孔明と鳳統は、鳳統の監視が厳しくなったと悟るや否や、直ちに行動を開始した。鳳統の監視を強化するために孔明側の監視に出来た僅かな隙を狙って、予定してあった行動計画を小刻みに実行し、南陽に向けて調略をかけ、江陵の内外で遠征の準備を整えて、ついに出兵にこぎ着けた。

 

 1万を超える騎兵を周瑜の監視に止まらずに出兵までさせた手腕は特筆すべきものではあるのだが、これは能力の無駄遣いなのだろうと空海は思う。

 そして周瑜にしても、いくら怒ったからといって孔明が編み出したのだろう複雑な逆探知妨害の手法を真正面から攻略しなくてもいいじゃないか、と空海は思う。

 周瑜と、それを手伝っていた程立、手伝わされていた黄蓋や黄忠は、おそらく一睡もしていないのだ。

 

「逃げるのだったら、襄陽に船でも用意しておくべきだったな。……もちろん、そうはさせないために、夜明けに間に合うよう私も急いだのだが?」

 

 

 孔明の悲鳴に飛び起きた璃々を寝かしつけて、孔明の悲鳴でも起きなかった程立を横にして、孔明の悲鳴で頭痛を起こしたらしい黄蓋と黄忠も休ませて、空海はそれからやっと周瑜を止める方法を考え始めた。

 

 思いつかなかった。

 

 

 

 

 孔明が一人で全ての片付けを命じられて涙目で仕事に励み、周瑜が休みに入った後。

 空海は起きて来た程立と趙雲をお茶会に呼んでいた。

 

「さて程仲徳。お前が俺を主人と呼んだのは冗談からか?」

「まさかですよ。風は誰にでも股」

「クルルァ!(元祖)」

 

 教育に悪すぎる台詞は短くても妨害する空海である。

 

「よし。じゃあ、仲徳と子龍にお小遣いをあげよう」

「おうおう兄さん、岩の次は子供扱いかい?」

「まぁ、お使いのお駄賃だから、そうなるな」

「ほう、お使いですか」

 

 趙雲がニヤニヤと笑う。また何か面白いことを言い出したな、という表情だ。

 空海もニヤリと笑い返して、改めて程立を見る。

 

「今回の黄巾関連の騒動について、劉景升との交渉を任せる。子龍は護衛ね」

「! 劉車騎将軍ですか。これはまた大物が出ましたな」

「……交渉を任せるというのは、どういう意味でしょうー?」

 

 いつもの眠たそうな表情を少し隠して、程立が上目遣いで空海を見る。

 

「今回、江陵はそこそこの戦功を上げてる。だけど、南陽から受け入れた難民が30万に迫っていてね。流石に楽ではない」

「それで劉表さんから金子を奪ってこいとー」

「欲しいのは金子ではなくて、猶予だな」

 

 江陵は荊州に人材を提供することを約束している。ただ、知識や利益の提供、依頼の対価などで先延ばしにしてきたのだ。そして今回もそれを先延ばしにしたいと説明する。

 

「なるほどー。失礼ですが、履行するつもりはー?」

「ないよ」

 

 空海が即答したことに趙雲は驚いた。こういった約束事を守らない人物だとは思っていなかったのだ。

 

「約束を、違えるつもりですか?」

「もうすぐ、その約束にも意味がなくなる。仲徳もそのつもりで聞いたんだろ?」

「もうすぐ乱世になりますからねー」

「なっ!?」

 

 目を細めた程立が飄々と答えた内容は、趙雲を驚かせるには十分だった。

 

「約束と言ってもお互いの幕府、元帥府と車騎府の間に結ばれたものだから、立場が変わるなら守る必要はない。まぁ、少々立場が変わる程度では反故にされないよう、お互いの署名は入っているが」

「ですが大きく立場が変わるのなら、その約束にも意味が無くなる、というわけですよ」

「お、大きく立場が変わるというのは……?」

 

 空海と程立の説明は、この世の終わりを示唆しているようであり、そんなことを軽々と話す二人に対して趙雲は冷や汗が出る思いだ。

 

「今回の騒動、黄巾の集団が洛陽を狙ったことは無視できない」

「発端は熱狂的支持者の行動だったようですが、民の不満と結びついたのでしょうねー」

 

 話が飛んで、趙雲が一瞬戸惑う。だが、すぐに乱世について話し始めたのだと気付いて耳を傾ける。

 

「それに、軍令違反とかあっただろ?」

「曹操さんと孫策さんですねー。盧中郎のは虚偽の報告だったでしょうかー」

「まあ、あの二人は出てくるよね。最初から官を信じてない上に実力があるんだから」

 

 そこまで聞いた趙雲が、気付く。

 

「もしや主が尋ねられた、稟がどの陣営に行くのか、というのは……」

「稟ちゃんの才は今後の曹操さんの陣営でこそ、最も必要とされるものでしょう」

 

 答えたのは空海ではなく程立だ。程立は前にも彼女たちの『両想い』をほのめかしていた。そしておそらく空海や劉表も、その乱世の一勢力となるのだ。目の前の二人の視点がどこにあるのかすら掴めず、趙雲は言葉を失う。

 

「仲徳も引く手あまただと思うけど」

「風は空海様のところが面白そうだと思ったのですよ。それに、無官の風たちに車騎将軍との交渉を任せるなんて、曹操さんでもやりませんよー」

「『曹操のやり方は苛烈ではあっても突飛ではない』とウチの軍師さんが言っててね。俺は苛烈でもないから突飛でいいかなって思ってるんだけど」

「……主が軍師殿に怒られる未来が頭を掠めたのですが?」

 

 復活した趙雲がからかったため、慌てて空海は周囲を見回している。その様子がおかしくて、重くなっていた空気が霧散した。

 

「とりあえず、お前たちは俺の名代だ。事情を知ってるヤツを付けるから上手く交渉してくるように。もちろん公瑾に見つからないように出かけてね」

 

 空海の言葉に趙雲がククッと笑いを漏らす。

 

「ではさっさと行って済ませてきましょう」

「明日の朝まではここに居るから、合流したかったらそれまでに戻っておいで」

「わかりましたー」「承知」

 

 趙雲と程立は立ち上がって出立の準備へと向かう。

 残された空海はその辺に向かって声をかけた。

 

「幼平」

「はいっ!」

「あの二人のこと……」

 

 そこまで言って空海は、真剣な表情で周泰の目を覗き込む。

 

「公瑾に内緒にしておいてくれたら撫でてやろう」

「内緒にします!」

「いい子いい子」

「えへへ~」

 

 

 これよりおよそ1ヶ月半後、黄巾の乱の平定が宣言される。曹操がまだ戦ってたのに。




 黄巾の乱終結ッ! 黄巾の乱終結ッ!! 黄キャオラッ! 長らくお待たせいたしました。

 ヒャッハーしたくて年代を198年頃に設定したんです。史実より14年遅れ。
 史実から遅れつつ起こる事件は他に一つ予定しています。恋姫になかったのでオリジナルになるでしょうか。ちょっとした大事です。

 前回のシリアスからこの落差はあっていいのか本当に悩みました。筆が進まなかった一因だったりします。しかし、テキストエディターを開いて最初に見えるこのヒャッハーの文字を見ていると、そんな悩みが小さなものだと思えてくるわけです。そうか……モヒカンというのもあるのか、と。

 ここで一つ告白してしまうと、実はこのヒャッハーと、これから登場する月ちゃんの台詞と、鈴々の名台詞はかなり早い時期に決まった内容なんです。山田無双より前です。扱いが気になってる人もいるとは思うんですが、キャラクター性が明らかに原作から乖離してるのは月(と詠)と鈴々と白蓮くらいだと思います。多分。
 月ちゃんは初登場からぶっ飛んでいくことはほぼ決定しています。着陸予定もありません。ごめんね、月ちゃん。並行世界で一刀くんと幸せになってね。

 揚州九江郡の郡都は寿春ではなく陰陵です。揚州の州都が寿春。後に袁術が本拠を移した場所ですね。ただ、細かいとこなんて書いても仕方がないと思ったので寿春に全部お任せすることにしました。浦安を東京にカウントするようなものです。暴挙です。

 本編次回は反董卓連合。閑話は挟みません。


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5-1 月の出

賈駆(かく)っちー! (ゆえ)っちー!」

 

 遠くから独特のイントネーションが大声を上げながら近づいてくる。

 

「あん?」

 

 眼鏡でツリ目の軍師が振り返る。何か張遼(あいつ)の機嫌が良くなることでもあったのか考え、そう言えば速報には江陵の名前があったことを思いだした。おそらく江陵騎馬の姿を見てご機嫌なのだろうと推測し、とりあえず、その興奮に付き合うだけの元気を配分するのはやめようと心に決めた。

 

「大事でもないのに官庁を走り回るんじゃないわよ!」

 

 つまり、これが彼女の素である。

 

 

「ウチ、ここ辞めることにしたから! ほな!」

「待てゐ!!」「へぅ!?」

 

 どうやら張遼の興奮には強制的に付き合わされることになるようだ。賈駆は内心の混乱を怒りに変えて、張遼に水を向けた。

 

 

 

「――そしたらな、空海様は笑って『勝つためじゃあ不足か? 俺の霞』って言うねん。ホンマに格好良かったんよ……」

「それって恋かも!」

「月黙って。聞くなら黙ってて」

「へぅ……ごめんね詠ちゃん」

 

 董卓は話し始めてからずっとこうである。この娘は普段は大人しくてとても良い娘なのに、昔から興奮すると性格が変わるのだ。賈駆としてもそれを含めて親友だとは思っているのだが、今そんなことに構う元気はない。

 

「――そんで、空海様は本を指差して『俺の名ならそこに書いてあるだろう?』って言うてん。ウチも一度でええからあんな台詞言うてみたいわー」

「わ、私はクッキーが、食べたいんだな……なんて」

「月黙って。わかったから黙って」

「へぅッ」

 

 張遼は話し始めてからずっとこうである。惚気話か、と叫びたくなる衝動を抑え、なんとか客観的に見るよう努めるだけで、賈駆は今日使おうと思っていた元気が全て消費されてしまうのではないかと感じ始めていた。

 

「――ほんでな、空海様が『お前の顔を見せてくれ、俺の霞』って言うてくれてんのに、ウチ恥ずかしぅて顔を上げられへんねん」

「生まれる前から好きでしたーっ!」

「月黙って。お願いだから黙ってて」

「っへうッ!」

 

 話に出てくる空海は無茶苦茶だ。張遼の思い出の中では初対面で真名を呼んでいるなど明らかな誇張が見られるため、話半分で聞かなくてはならないのかもしれないが。

 いずれにしても音に聞く江陵の長でありながら、気さくな人物であるということは理解出来た。だが、賊の討伐で先頭に立ったり、ましてや武器を持って突っ込んだり、刺史と会見するより拾った子供と遊ぶ方が大事だなんて、これだから男は――と、賈駆はそこまで考えて、今は張遼の方が重要だと思い直す。

 

「――せやのに、空海様が『辞めるなら普通に辞めてこい。仕事を投げ出して来ては駄目だぞ、俺の霞』って言うから、普通に辞めに来たねん」

「キャー!」

「あれのどこが普通よ! 月もキャーじゃない!」

「キャオラッ!!」

 

 どうやら大事にはならずに済みそうだ、と賈駆は胸をなで下ろす。空海の思惑は見えないものの、張遼の熱烈な申し出に対して冷静に応じてくれたことには感謝したかった。

 張遼をどう言いくるめるかと賈駆は考え、彼女の視線がこちらを向いたことに気付く。

 

「あによ?」

「っちぅわけで、あとのことは賈駆っちに任せるわ! ほな!」

「って、行かせるかァ! 賈文和眼鏡斬りッ!!」

 

 振り返った張遼の進路を阻むように賈駆の跳び蹴り(・・・・)が炸裂する。

 冷静にそれをかわした張遼だが、進路を阻まれたことに関しては立腹していた。

 

「なにすんねん!」

「出たー! 詠ちゃんの8つある必殺技の一つ、賈文和眼鏡斬りッ!」

「月黙って。黙ってないと、わかるでしょ?」

「ご、ごめんね詠ちゃん」

 

 興奮する張遼と董卓に対して、賈駆は比較的冷静に憤慨していた。

 

「今出てったら、あんたの大好きな空海様に『ウチの張遼が仕事放り出して行ってしまいましたが、行方をご存知ありませんか』って手紙を送るわ」

「汚い! 賈駆っち汚い!!」

 

 張遼が一瞬で崩れ落ちる。張遼にだってわかっていたのだ。『普通に辞める』というのは一方的に辞表を突きつけることではないのだと。それでもやるだけやってみたのは、董卓が雰囲気に流されやすい子だと思っていたからだった。

 

「はぁ……騎兵はまとめて来たんでしょ。すぐに洛陽に行くわよ。洛陽で用事を済ませて隴西(ろうせい)まで帰ったら辞めても良いから、そこまでは指揮してちょうだい」

「ええぇ!? 隴西なんて行ってたら1ヶ月はかかるやん!」

「だからその1ヶ月の間にあんたの後任を見つけるって言ってんでしょ! こっちも無理してんだからあんたも我慢しなさい!」

 

 それでも張遼は反論を探そうとして、理由が見つからずに落ち込んでいく。

 そして賈駆は、他人がそういう姿をしているのを見るのが大嫌いだった。

 

「あーもう! 早く見つかったら先に隴西に帰った華雄を呼んで代わってもらうし、洛陽で今回の戦功の対価に人材を探してもらうから! ……あんまり功はないけど」

「クスッ……詠ちゃんたら」

「ゆ、月!? 何よ、何か言いたいことでもあるのっ?」

「ううん、なんでもないよ、詠ちゃん。私も早く帰りたいな」

 

 優しく微笑む親友に、内面を見透かされているような気がして、賈駆は真っ赤になってそっぽを向く。

 

「早く帰ったらそれだけ早くお馬さんが食べられるもんね」

「月、黙ってて」

 

 しかし、許せない発言もあったらしい。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「寿成が来ているのか」

 

 空海たちが江陵軍を引き連れて凱旋し、お祭り騒ぎの3日が過ぎた翌朝。

 

「はい、昨日こちらに。ただ、こちらまでの行軍の疲れもあったようで、病の状態がよろしくありません。治療を行っておりますが、状態の改善が限度でしょう」

 

 于吉が案内がてらに馬騰の状態を伝えている。

 

「そんなので、周りはよく江陵行きを止めなかったな」

「ご本人たっての希望ということで、訪問を決められたのだとか」

 

 江陵軍の凱旋は、普段清潔を優先する病院にすら多くの飾り付けを残していた。

 病は気から、というのなら、この3日で病状が改善した人間も多数出るのだろう。

 

 しばらく後、于吉と別れた空海は、護衛付きの重厚な扉の前に立っていた。

 

「ちわー空海屋でーす」

「きゃああああああ!」

 

 病人の叫び声が一番元気だった。

 

 

 

「むむむむっ無視して入って来るなんてぇぇぇええ!」

「髪なら整えるのを手伝ってやるから泣くなって……」

「うぅぅぅぅううう!!」

 

 馬騰が真っ赤になってむくれるが、その姿は、男女の関係に疎い馬超さえ笑って見ていられるようなものだった。

 

 髪を整えた後は、馬騰に食事を取らせる。

 馬家は江陵の戦勝を祝い、噂がどこまで本当かも話題になった。

 馬騰が墓を江陵に作りたいなどと言い出して馬超たちが慌てたりもした。

 

 

 やがて話が落ち着いた頃、空海は馬超と馬岱を食事に送り出し、護衛たちまで遠ざけて人払いをする。

 

「さっき聞いたんだがな。お前の命、長くないそうだ」

「だろうな」

 

 空海はしばらくの間、馬騰と目を合わせていたが、やがて目をそらす。

 再びしばらくの時が流れ、空海は顔を上げた。

 

「笑って逝けそうか?」

「ああ」

 

 馬騰は僅かな迷いすら見せずに答える。

 その目は空海を見据え、その顔は柔らかく微笑んですらいた。

 

「そうか」

「そうだ」

 

 空海はそれ以上言葉を紡がず、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「あーづーいー……」

 

 ミーンミンシャカミミンミンミンミーン

 

「あんた1ヶ月前の熱意はドコへ行ったのよ……」

 

 かくいう賈駆も、ヘタレた張遼を元気づけるほど動きたくはない。一流の軍師を自任する身であっても暑いものは暑いのだ。

 

「……せやかて、賈駆っちが見つけてきた人材がアレなんやで?」

「うっ」

 

 視線の先にあるのは、馬にまたがったまま器用に熟睡してヤギの群れと一緒に移動する赤い少女、と、走ってそれを追いかけまわすちびっ子だ。

 

「でっ、でも、あんたより強いでしょう!?」

「確かに強いけどなー……指揮の方はてんでやし。武やって、空海様には敵わへんよ」

 

 張遼は未だに空海の名を口にすると赤くなる。賈駆としては絶対に思い出補正が入っているのだと考えているところだ。

 

「あんたの中で空海様っていうのはどれだけ強いのよ」

「真の武や」

 

 張遼は迷いなく答える。賈駆はじと目でその様子を観察し、そして、認識を変えさせることを諦めた。

 

「はぁ……。あの娘の指揮、もうちょっとマシになってくれないかしら」

「無理やと思うなぁ。周りの意識から変えたる方がなんぼかやりやすいと思うで」

「ああ、周り。周り、ね……はぁ」

 

 あの陳宮(ちんきゅう)という、視野が狭くて、狭い視野すら偏っている少女を思い出す。頭の回転は悪くないのだから、もう少しだけ視野が広ければ力になったのに、と賈駆は悔やむ。

 それでもなんとかあの少女が『恋殿』を通して周りを見るすべを得られれば。賈駆の悩みは目下それだけだ。

 

「詠ちゃーん。お馬さん獲ってきたから一緒に食べようー!」

 

 片手で馬を持ち上げて振り回す親友の姿など、賈駆には見えないのだ。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「さて、かつての連結器では士元が醜態をさらしたわけだが」

「あわわ……」

 

 鳳統が帽子を目深にかぶって顔を隠す。それでも僅かに見える耳は真っ赤になって、彼女の内心を表していた。

 

「今度は孔明に醜態をさらしてもらおうと思う」

「はわわ!?」「あわわ?」

 

 空海が用意したのはダイヤである。ダイヤと言ってもダイヤモンドではなく、ダイアグラムが元になった、列車などの運行を視覚的に表した図だ。

 江陵の馬車鉄道における個別の車両あるいは馬が、どこから出発してどこまで、途中にどのくらいの時間をかけて移動するのか、ということがわかるようになっている。

 もちろん空海が一人で思い出して書いたものではない。空海は、孔明を驚かすために頑張って考えてダイヤというものを思い出しただけであり、管理者たちと水鏡に協力してもらってそれっぽく仕上げたのだ。完成度は折り紙付きである。

 

「とりあえず、この運行図表を見るが良い!」

「あわっ!?」「はわわ!? ……。はわわわわ」

 

 図表の文字と数字、線の意味を極めて短い時間で理解したらしい二人が慌て出す。

 

「士元、よく見ておくがいい。アレが孔明の醜態だ……おや?」

「はわわわわわわわ」「あわわわわわわわ?」

 

 壊れたレコードのように、あるいは「はわわロボ」のように止まらなくなった孔明の様子を観察する。空海は鳳統にもその様子を見るように促すが、鳳統も鳳統でダイヤを見てあわわロボとなっていた。

 

「こっ、これどうやって、どうやったんでしゅか!?」

「あわわわ、これを使えば輸送計画の立案が効率的に」

「厩舎の利用率を上げて――ううん、馬車増発計画も」

「あっ、これ向きを、折り返しが、あわ、どうしよう」

「そうです、折り返しでしゅ! はわわっ、これなら」

「はわわわわウフフ……」「あわわわわクククッ……」

 

「参ったな……二人とも壊れてしまった……」

 

 孔明の罠である。空海の自爆とも言う。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「へ? また洛陽へ行くんか?」

「そうよ。何でも徐州辺りで黄巾の残党が決起したから、その討伐をするんですって」

 

 徐州は大陸の東、海に面した場所にある土地だ。黄巾賊は徐州とその北側の青州で多く発生した。董卓の他にも各地の中郎将には召集が掛かっている。

 

「ふーん……。って、なんでココやねん? 隴西なんて西も西やないの」

「知らないわよ。勅令なんだからそういうのは考えなくてもいいの。すぐに行くわよ」

 

 隴西から徐州へは、漢の領土を西から東へ横断する必要がある。軍で向かうなら、それだけで数ヶ月はかかるような距離だ。

 だが、隴西に配備されている軍の大半は国からの金で維持を行っており、遠征費の大半も国が持ってくれる。異民族の襲撃に晒されている最中ならばまだしも、今は拒否出来る理由もない。

 賈駆は、今度こそ城攻めも防衛も出来る兵科を揃えることを決め、軍をまとめ始める。

 

「ほな、長安までは一緒に行ってもええけど、そこでお別れやで」

「ぐっ」

 

 賈駆は、なんだかんだと言って張遼を3ヶ月近く引き留めてしまっている。心情的には好きにさせたいが、実情として厳しいために送り出せないのだ。

 しかし、張遼の良心によって保たれていた関係も、これで終わる。

 

「……しょうがないわね。長安で送別会を開くから、勝手に出て行くのはナシよ」

「おっ。賈駆っち太っ腹ー! 楽しみにしとんでー」

 

 宴会に参加する面子への呼びかけ、場所や飲食物の手配、細かい日程などを考え始め、賈駆は小さくため息を吐いた。

 

「全く……現金なヤツ」

 

 それはいつものため息より、少し軽い気がした。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 馬騰が空海の手を握り、自分から握ったにもかかわらず真っ赤になって空海を睨み付けている。

 

「じゃ、じゃあな! 世話になった、空海殿」

「うん。困ったら孟起たちも頼るようにね。何かあったら文でも寄越せ」

 

 馬超は既に長安に戻り、馬騰の代理として軍を率いて洛陽へと出頭している。

 徐州方面で再発生したという黄巾賊の討伐のため、帝が洛陽に兵を集めたのだ。

 

「あ、ありがとう」

「うん。何と言うか、悔いのないようにな」

「……わかってる」

 

 馬騰は、これから長安へと帰る。遠征に代理を立てたとしても、征西将軍として仕事がなくなったわけではない。

 むしろ最近の五胡による侵攻は、頻度こそ減っているが規模は大きくなり、装備や戦術において大きな飛躍が見られるため、危険度は増している。異民族討伐のために将軍位を授けられた馬騰には、休まる暇などないのだ。

 

「一応な、太子太博(たいしたいほ)に推挙しておいたから、征西将軍の印を返上することも考えておけよ。上手く通れば多少は労も減るはずだ」

「……名誉職か」

 

 太子太博は三品官の文官で実権をほとんど持たない名誉職であり、名目上は次期皇帝の教育係にあたる。現在の太子である劉弁は()子眇(ししょう)に育てられ、もう一人の子供である劉協は(とう)太后に育てられているため、それらに割り込む形になる。推挙が認められるかは五分五分だ。

 

「ああ、お前の教育が良かったって宮中で評判になってるらしくてね」

「え? 教育?」

 

 

 

 そんな会話から3ヶ月とちょっと。

 

「で、では、みっ、帝に代わり馬討虜校尉が、くくく空海元帥の忠誠に」

 

 今、馬超がガチガチになりながら書状を広げ、それを読み上げようとしていた。

 

「うーむ、まさか方位磁針占いで命が助かるなんて」「お姉様ガチガチだねー」

 

 空海と馬岱が書状の中身と馬超の様子について好き勝手コメントする。

 帝は半年と少し前に暗殺されかかり、しかし、占い係が方位磁針を使った占いで暗殺計画を予言したためにかろうじて難を逃れていた。

 そのため、直後のごたごたが片付いた今になって方位磁針の礼をするため、東方黄巾の討伐に功のあった馬超に感謝状を持たせて江陵へ送り込んできたのだ。

 

「お、お前ら……あたしがっ……人の話を聞けーっ!」

「あ、書状は破らないようにね」「陛下の書状をもったまま暴れて良いの?」

「ハッ! あぶぶぶぶぶ!?」

 

 馬超が叫ぶが、空海たちは冷静にからかう。

 そもそも馬超は高官である空海に会いに来るのに正装をしていないし、それ以前に到着を知らせる使者すら出していない。

 帝の手紙を持参したのなら、事前に使者を出して受け入れの準備をさせ、必要以上に着飾って全員を平伏させ、歓待を受けた後に大仰に差し出すべきなのだ。

 いきなり出世した上に大役を仰せつかった馬超は知るよしもなかったが。

 

「ほら、書状は俺が預かろう」

「お姉様、校尉になったんだからもうちょっと頑張ってよね!」

「うぅ……」

 

 遡ること約4ヶ月。

 馬超は皇帝に直接『軍の威容』を自慢され、しかし、思わず素で返してしまったことで逆に気に入られて討虜校尉に任じられた。

 遠征軍を指し、江陵の軍と比べてどうだ、といった意味で尋ねただろう帝に対して、馬超はおおむねこんな風に答えたのだそうだ。

 

『ここに兵士を集めても仕方がない。敵はここには居ないんだから、討伐に行こう』

 

 馬岱によれば、馬超はしどろもどろしていて何を言ってるのかわかりづらく、直感的な内容ばかりで、しかも部分部分でため口だったので周囲に凄く睨まれていたのだとか。

 だが、その言葉を聞いた帝は衝撃を受け、もっともだと頷いて馬超を褒めた。

 

『乱から離れた場所に軍を集めてそれを誇っているなど、自分は愚かだった。だが馬超はそれに気付かせてくれた。もっと早くに言葉を聞くべきだった』

 

 帝は賢すぎたのだった。

 そして、賊の鎮圧を手早く終わらせた馬超は、これらの功績を称えられ討虜校尉に任じられると共に、帝からの感謝状を江陵へ届ける大役を仰せつかった。江陵産の占い道具が暗殺を防いだことに関する礼だ。洛陽を出立したのが半月ほど前の話である。

 

 

 

 洛陽の帝は今、軍を率いていた宦官たちと距離を取り始めている。地方の賊を討伐するのに洛陽に兵を集めさせた彼らを、もはや将として信用できないのだろう。

 一方で大将軍の何進も同じく帝と距離を置かれ始めている。二度にわたる大規模な遠征軍において、初動から洛陽の守りを固めていたことは評価されたものの、最後まで洛陽の前から動かなかったことで全体としては評価を落とした。

 

 失態を取り戻すべく躍起になった宦官と大将軍による縄張り争いと足の引っ張り合いと騙し合いと暗殺合戦によって、洛陽はずいぶん荒れているようだ。

 両陣営は皇甫嵩、朱儁、盧植、董卓、袁紹、袁術、曹操といった、意志を明らかにしていない大物たちを、自らの仲間に引き入れるべく洛陽に集めている。

 

 江陵や馬家は劉表を筆頭とする勢力に表向き組み込まれているため、今のところはこれらの動きには巻き込まれていない。朝廷における劉表寄りの勢力によって政治的に守られている形だ。

 もっとも、勢力の呼ばれ方は『江陵派』であり、劉表の性格もあってそれぞれが独自の勢力のような動きもしている。そして、高い自由度が意味するのは、放っておけば泥沼に引き摺り込まれることになるということだ。

 

 

 今回、馬超が二つの陣営から大きな恨みを買ってしまった。今も、暗殺を狙われ失脚の機会を窺われている。形としては両陣営の自業自得なのだが、馬超にあることないことの罪を被せて『馬超の言葉には価値がなかった』とでも言うつもりなのだろう。

 

 馬超が形式に則らずに帝の書状を持ってきたことは、伝わっていない。だが、人の口に戸を立てることも出来ない。空海は軍師に対処させ、結果、馬超の訪問は『逆賊の討伐や暗殺未遂といった国の恥を解決しただけであり華美に飾る必要はない』という判断の下で質素に行われたことになった。少なくとも宮中では。

 

 

 1ヶ月ほどを置き、この話が帝に伝わると、馬超は更に評価を上げ護羌校尉に指名された。馬騰直下では、最高位の涼州刺史に次ぐ高官への栄進だ。ここで功績を立てれば州刺史や州牧、あるいはその先への出世すら見えてくる。馬騰征西将軍の後継として恥ずかしくないスピード昇進だ。

 からかい混じりに褒められて悶える姿は全くそれを感じさせない上、当人は何故出世したのか全くわかっていないのだが。

 

 なお、この件で一番の出世頭はさりげなく司馬に指名された馬岱だった。

 馬岱は仕事が増えることは泣いていやがったが、収入が出来たことは泣いて喜んだ。

 こちらは褒められて偉そうにしたのだが、周囲全員が自分より高官であると知らされてもう一度泣くことになった。

 その馬岱でも兵士2千人に1人すらいない高官だ。収入も一般的な農家10軒分以上なのだから、基準点がおかしいだけである。

 

 

 

 そんな風にして、馬超の『はじめてのおつかい』が上々の成果を残し、馬岱の涙が空海の羽織を濡らし、洛陽が泥沼の様相を呈していた頃。

 

 帝崩御の知らせが届く。

 

 

 

 

 

 先帝、霊帝を継いだのは劉弁だった。

 

 霊帝の葬儀に出席した空海は、何故か何進にくっつかれた。何進は何を着ても着崩してしまうエロティックな美女である。空海は江陵女子の目が怖すぎて戦々恐々としていたが劉表が宦官の親父たちにくっつかれているのを見て我慢することにした。

 喪服を着崩した色っぽい美女に密着されて、艶めかしい吐息を吹きかけられるだけの簡単なお仕事なのだから。

 ちなみに、元帥は既に政治面において大将軍位に次ぐ権威を有している。何進の態度は最低でも敵対しないよう媚びを売ると同時に、周囲へのアピールも兼ねていた。

 

 空海が後から確認したところによると、宦官たちも空海を取り囲もうとしていたらしいのだが、劉表が身体を張ってブロックしてくれたらしい。劉表にも思惑あってのことではあったが、それは空海に伝わることはなかった。

 空海は心から感謝し、お礼に酒蔵一つを丸ごと購入して中身を劉表に送りつけた。

 

 

 そして何故か元帥が一品官相当へ昇格した。表向きには大将軍を超え、三公に限りなく近い高官へと。あと劉表も散騎常侍を加官された。

 

 

 空海が劉表に渡した酒は日本酒風の公良酒が合わせて1千石(2万リットル)ほどだ。

 劉表は一人で飲みきれないため部下に振る舞い、それでも飲みきれそうにないので宦官たちに大量に送りつけたそうなのだ。

 

 江陵の酒を除いた場合、高級酒は1斗(2リットル)あたり50銭程度。だが、公良酒において高級品と言えば400銭から。出回っている程度の高級品でも上は4千銭、本当の最高級品は1万銭を超える。

 今回空海が買い取った酒蔵は、上等な高級品から上を扱う場所だった。しかも名士筆頭劉表お墨付きの『徳の高い(マジ美味ぇ)酒』だ。

 

 宦官たちの上位十数人に対して、500石(1万リットル)ほどの美酒が送りつけられ、しかもそこには江陵の名と劉表の名が入っている。

 いろいろな意味で狂喜乱舞した宦官たちは、この贈り物を宣伝材料にして、自分たちの勢力に組み込んだ(と思っている)空海たちに官位を配ったらしい。おそらくは酔っ払ったまま。

 

 これらの動きに危機を感じた何進が諸侯をまとめ――そこで唐突に失脚した。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「月、去年に続いて洛陽の何進がお呼びよ」

 

 賈駆が、疲れた様子で書状から顔を上げる。

 

「ええ? 大将軍様たちには関わらないって詠ちゃん言ってたよね……?」

 

 洛陽の混迷した政治に関わったりしたら、命がいくつあっても足りない。

 そのため、以前から拒否出来る要請は拒否し、洛陽に行かなくても済む案件は離れたまま処理してきた。出世に興味がないことをアピールするため、人に譲れる案件もできる限り譲っていた。

 

「そうよ。でもこれは正式な命令だから拒否は出来ないの。とりあえず顔だけ出してすぐ逃げるわよ」

 

 それでも、というべきか。

 なりふり構わず周囲へと助けを求め始めた何進は、距離を置こうとしていた董卓の元にまでその手を伸ばしてきた。

 

「えっと、逃げちゃっていいのかな……」

「いいの。っていうか、宦官に江陵派がついた時点で勝負にならないわ。ホントはこの命令も拒否しちゃっていいと思うんだけど、後で難癖付けられたりしたら困るもの」

 

 江陵が本当に宦官の味方になっていたのなら、勝負は決している。何進に味方する理由はなくなったとも言える。

 江陵が本当は宦官の味方になっていないのなら、状況の混迷は続いている。何進に関われば中央の権力闘争に巻き込まれる。

 江陵が宦官の仲間になっておらず、なおかつ中央に進出してきたのなら危険だ。何進も宦官も共倒れの可能性がある。

 

 いずれにしても、命令を無視したりしたら、勝ち残った勢力によっては地位を奪われる口実となってしまうかもしれない。正式に発行された命令なのだから、公的な記録を辿ればすぐにバレてしまうのだ。

 

「でも、今は麦の刈り入れ時だよ?」

「わかってるわよ。だから、ひと月だけ遅らせて行くわよ。その間に決着がついていれば良いんだけど」

 

 出立をひと月遅らせ、洛陽までの行軍で更にひと月。合わせてふた月あれば状況は変わるかも知れない。

 今も洛陽には有力な諸侯が集められているのだ。ふた月もあれば何かしら事態は動くだろうと賈駆は考える。

 

 だが、董卓陣営と洛陽で交わされる情報の距離は、賈駆の想定を超えていた。

 

 

 

 

 洛陽城壁の内側、洛陽大城の西側には屋敷付きの大きな二つの庭園がある。その一つが先々帝時代に造営された顕陽苑(けんようえん)だ。

 

 あの命令から2ヶ月余り。

 董卓たちは今、軍の進駐許可を得るためにその顕陽苑の脇に馬を進めており

 

 賈駆の目は、自分たちの運命が崩れていく景色を映す。




>生存報告
 ご心配おかけしています。生きて書いてます。現状5-4くらいまで書けています。色々余計な部分を削ってスリム化したいのですが、勿体ない精神が出てしまって消せないのであえて書き足して行こうと思います。現在の進捗は7割完成くらいだと思います。次は来週の土日に投稿しようと思います。

>宣伝
 そしてかなり今更ですが、歴史検証などに使用した資料をそれなりに見やすくまとめた拙作『資料 恋姫時代の後漢』の存在を宣伝するのを忘れていました。この作品はもともと宣伝用に作ってたはずなのですが。でもよく考えたらこの作品思い切り歴史を無視してるので気にしなくていいような気もしてきました。資料の方から見て下さってる方々、硬派なの期待されてる方々はごめんなさい。

>西暦199年→200年頃のお話?
 麦の実りは夏。「麦秋」は初夏を指す言葉です。実りの秋を理由に場を辞するため、夏に洛陽に向かった董卓たち。張遼が抜けてから約1年が経過しました。

>賈文和眼鏡斬り
 やがみさんの『彼女になった彼』からお借りした必殺技です。避けられやすいです。

>高級品は400銭から上
 キームン紅茶の最高級品は高級すぎて出回らないのです。江陵のお酒もそんな感じですよ、という。

>何進と張譲、二人はライバル。
 ちょろっと出しちゃいました。とはいえ、出したからには生き残ってもらおうということで、暗殺オチではなく失脚となりました。慌てるな張譲の罠だ。
 ちなみに史実では入水自殺した張譲ですが、ここでは洛水に飛び込んだらテンションが上がってしまい泳いで渡り切り、冷静になってから(泳いで)戻ったものの帝にクビを言い渡されました。多分次話でも書きませんのでここで。

>史実ネタ
 霊帝暗殺計画と占いによる阻止は史実です。でも本当は江陵は関係無いです。中平五年六月のこと。
 青州と徐州の黄巾も史実です。発生は以下と合わせて中平五年十月。
 洛陽に兵士を集めた霊帝が諫められるのも史実。ただし相手は討虜校尉の蓋勲。
 史実の何進は暗殺を恐れて霊帝の葬儀を欠席したため呼び出され、殺されています。
 あの二人を拾った顕陽苑の位置も史実から。中平六年八月。


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5-2 董卓と連合

 空海様にため息を吐かれるのも、当たり前のことだった。

 

 最初の踏み込みは、目で追うことも出来なかった。

 振り切った方天戟を目にして初めて、攻撃が行われたことに気がついた。

 

 一振りごとに何人もの賊が舞う。

 舞い上がった賊が、何十人も巻き込みながら吹き飛んでいく。

 武器を構えた賊に向かえば、風を残して武器が両断される。

 盾を持った賊に向かって踏み込めば、地面さえもが畏怖するように震え、盾が割れる。

 

『推して参る!!』

 

 賊をかき分けすぎて弓兵の前に躍り出たにもかかわらず、進撃は加速する。

 飛んでくる矢の隙間を縫うように進む。

 矢をかわして方天戟をふるうのではない。方天戟をふって矢をかわすのだ。

 賊たちは攻撃をされるために矢を放っているのではないかとすら思ってしまう。

 

『真の武よっ!』

 

 圧倒的な高みにありながら、そこにあるのは孤高ではなく調和。

 しかも、そうであるのに、戦場の彩り(あか)が青と白を曇らせることはない。

 当たり前だ。この高みに触れることが出来るのは、高みを目指す者だけだ。

 

 

 

 ――ああ、せやけど

 

邪魔(やま)だアアアァァーッ!!』

 

 ――あの武と踊って逝けるなんて――

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

(ちょう)(りょう)文遠(ぶんえん)、真名は(しあ)です。改めてよろしゅうお願いします、空海様」

「うん。よろしくね、文遠」

 

 謁見を行う広場で、今日から空海の側に仕えることになった張遼を半ば囲むようにして江陵の幹部たちが立っていた。

 張遼が仕官に訪ねてきた時に会って以来、およそ半年ぶりの再会になる。広宗の包囲戦から見れば約1年半が経過していた。

 空海はニコニコと笑って再会を喜び、張遼は幸せそうに悶え、江陵系女子は壮絶な笑顔を二人に向けている。

 

「時間が掛かったけど、変わりはなかった?」

「はい! あっ……ホンマに申し訳ありません! ウチ、空海様のご期待を裏切るようなことをっ!」

「そんなことないよ。左慈相手に1刻(約15分)も戦えるようになったんでしょ?」

 

 二人の会話に必要以上の注意を払っていた江陵女子の間に動揺が走る。普段は最下層で兵士の教導を行っているだけの左慈だが、その実、江陵武官の誰よりも強いのだ。

 黄忠など得意な獲物との相性も悪いため運が悪ければ数合しか打ち合えず、近接戦闘に自信のあった趙雲でさえ1刻もあれば少なくとも2回は沈められる。最もよく食い下がる黄蓋ですら1刻持ち堪えるのは難しい。

 それまで張遼に向けられていた嫉妬に似た視線が、驚愕と感心へ塗り代わる。

 

「せやけどまだ一度も勝てなくて」

「左慈はたぶん呂奉先より強いよ。勝つのは簡単じゃないと思うなぁ」

 

 左慈と比べる人物として、黄蓋ではなく聞き覚えのない名前が出てきたことに周囲から疑問の声が上がる。代表して空海に尋ねたのは武官筆頭の黄蓋だ。

 

「空海様、呂奉先とは? 儂は聞いた事がありませんが……」

「ウチの――じゃなかった、董卓んとこの将や。一騎打ちに限って言えば左慈ちんと比べられるくらい強いと思うわ」

 

 武官たちの間に本日2度目の驚愕が広がる。一つは、それほどの将がいたことに対する驚き。もう一つは、そんな将を空海が知っていたことに対して。

 

「黄巾騒動の後に并州刺史から董仲穎のところに推挙された武官だね。天下に並ぶ者なしなんて評価を受けてたから動向を気にしてたんだよ」

 

 空海は、実際に調査を行っていたのは周瑜だと説明する。周瑜は呂布が張遼に勝ったことや、飛将軍の再来との呼び声も聞こえるといった補足をした。

 空海は改めて張遼に笑いかける。

 

「勉強も頑張ったんだってね。子龍や漢升よりも良い成績だったって聞いたよ」

「そ、そんな。ウチは空海様のお側に上がりたくて必死にやっとっただけで……」

 

 突然比較に出された趙雲と黄忠は驚いたりばつが悪そうにしていたが、張遼が悶えているのを見て落ち着いたらしい。からかったり褒めたりして更に悶えさせている。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 袁隗(えんかい)とは袁紹・袁術の叔父に当たり、袁氏きっての政治家である。

 

「袁隗が帝の璽綬(じじゅ)を解き、劉協に奉りました」

 

 璽綬を解くというのは、帝の地位を剥奪する、という意味だ。大事件の知らせは周瑜を経由して空海へともたらされた。

 袁隗は(名目上は)帝を指導する役目とされる太傅の地位にある。かつて文官筆頭の地位にあったこともある生粋のエリート政治家だ。

 

「え? 解くって……もしかして死んだ?」

「いえ、劉弁は弘農王とされたようです」

 

 郡王の大半は洛陽に留まるため、名ばかりの任命と言える。

 とはいえ、弘農は洛陽の西隣、長安との間にある郡で、洛陽と長安を結ぶ街道と関に加えて、荊州の襄陽と長安を結ぶ街道と関をも有する要所だ。名目上、要衝を預けているというのが言い分だろう。

 

「劉弁にはあまりよろしくない気質が見られたとか。袁隗は劉協こそ帝の器と考えているようですな」

「だからって引きずり下ろしたりしたら袁隗の首が飛ばない?」

「袁隗は董卓に全てを押しつけるつもりのようで、袁家一門にはこれに呼応する動きが見られます。董卓は偶然居合わせただけであるとも言われておりますが」

 

 袁家一門と言えば、先に劉協が渤海王に任じられると同時に実質的な太守である国相として渤海へと赴任した袁紹、そして寿春の太守にして袁家本拠の汝南を勢力下に治める袁術らに代表される官民の大集団だ。

 三公を幾人も輩出する規模の集団ともなれば、その政治力は一州を超えるほどになる。

 

「まず、帝の譲位に先立ち袁紹らの手によって主要な宦官が一掃され、譲位に合わせて董卓が三公の武の筆頭――太尉に指名されました」

「袁家が何進の方針を継いだワケか。董卓は中郎将からいきなり三公?」

「いえ、中郎将からは前将軍に昇格しています。太尉へは無官からの任命ですな」

 

 三公は太尉を含む文官筆頭の3つの官位をまとめた呼び方であり、中郎将と前将軍は武官の位だ。

 太尉ともなれば軍事の関わる政治のトップに位置する高官であり、文官の官位としては宮廷内での序列において空海の持つ元帥を超えるほどである。

 ちなみに、武官としての地位や文武を合わせた給金では元帥の方が遥かに高い。

 

 そして、前将軍もまた武官の中では政治色の強い官位であり、漢の閣僚会議とでも言うべき宮廷での朝議への参加資格を持つ。

 

 太尉・前将軍への就任というのは、中郎将という、いわば一部隊の指揮官からの出世としては異例中の異例であり、下手をすれば数万人抜きの大抜擢なのだ。

 諸侯に『董卓が帝の地位を剥奪して地位を強要した』と判断されるだけの材料が揃ったことにもなる。

 

「文武両方で昇進か。どっちも袁隗が手を回したの?」

「正確には袁家一門が、ということになるでしょう。帝への奏上なども袁隗やその取り巻きが行っていたと劉車騎将軍より聞き及んでおります」

「劉景升か。そこまで詳しいということは、巻き込まれる位置にいないか?」

「それについては『今は霊帝陛下の喪に服するという理由で会見を拒める』と」

「悪い奴だな」

 

 口では悪く言いつつも、空海は楽しそうに笑う。

 実際には会見を拒んだとしても危険は残る。しかし、実戦派の実力者として名高い三者を有する勢力に喧嘩を売る人間はどこにも居なかった。

 

 南方司令官兼司令長官の劉表、西方司令官の馬騰、黄巾討伐の英雄空海。

 漢の主力は東にあると言われているが、東から見ても一つ一つが無視できない規模の勢力となっている。

 

 それは同時に、葬儀の時に何進がしたように、一つ一つ個別に接触される可能性があることを示している。

 

「袁家からの接触には注意するように寿成たちに知らせておいて。長安に居ては巻き込まれるかもしれない」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 周瑜がやや難しい顔をしながら空海に声をかける。

 

「董卓が相国に指名されました」

「相国? なにそれ」

「三公の上に新設された、帝を補佐して政を執り行う官だそうです。丞相のようなものであるとのこと」

「へぇ、三公の上(・・・・)ね。まさか袁隗の指示?」

 

 空海は任官させたのが袁隗だとは思っていない。袁家は『三公』を輩出した名家であることを強調しているからだ。

 

「いえ、これは帝の意向だそうです。袁隗は反対するも取り上げられず、同意する条件に寿春太守の袁術を揚州刺史に推挙、さらに渤海太守の袁紹を冀州牧へと推挙し、直後に洛陽から逃亡しております」

 

 正確には帝の前で推挙を行うことを条件にし、実際に推挙を行ったという実績を作って逃亡した。帝に認められた人事ではなく、推挙した事実だけで引き下がったのだ。

 後に地位を奪ったとき、事後承諾の理由として御前での推挙を引き合いに出すつもりなのだろう。同時に、袁家に連なる者に対して『地位を奪って上洛しろ』と伝えたかったのかもしれない。

 帝の意向に逆らったため保身に走ったようだが、一族へのメッセージを兼ねて最後まで引っかき回していくところは恐るべき政治家の力を感じさせる。

 

「袁家ってそんなのばっかりなの……捕まえられる?」

「いえ、それが……どうやら袁隗は京兆尹方面へと逃亡したらしく、これから指示を出しましても、追いつくのは袁隗が長安へ入った後になるかと」

「長安か。寿成たちがどう動くか……。とりあえず、生きてるならこちらで預かるように手配しておいて。洛陽や長安の周辺にいる人材についてもよく調べておくようにね」

「はい」

 

 取り込むにも敵対するにも距離を取るにも情報はあった方が良い。対象地域の出身者や懇意にしている商人からも聞き込みを行わせる。

 

 だが、事態は既に動き出していた。

 

 

 

 その知らせもまた、いつものように周瑜からもたらされた。やはりいつものように難しげな表情のままだ。

 

「袁隗が袁紹を通して諸侯へと檄文を送った模様です。おそらく洛陽を出る前に指示していたのでしょう。また、檄文の発信に合わせ、袁紹が冀州牧の地位を奪ったようです」

「ああ、例の推挙を受けてか。檄文って言うと?」

「漢の臣下たる我ら悪逆の董卓を討つべし、と書かれています。体裁としては袁紹の名で送られた檄文ですが、中身はどう見ても我らの知る袁紹の考えたものではありません」

 

 さんざんな言い回しだが、あの(・・)袁術と袁家次期当主を争う程の実力者と噂されていたため、慎重に調べた結果の適切な評価である。

 

「ん? 待て、諸侯に送ったと言ったが……誰に届いてる?」

「まず、全てを把握することは出来ませんでした。申し訳ございません」

「それはいい。わかってる範囲ではどうなってる?」

「幽州の公孫賛、平原の劉備、陳留の曹操、荊州の劉表、我ら江陵、寿春の袁術、益州の劉璋、そして、長安の馬家にも送られているようです。袁紹からの使者は、彼らの呼応が間違いないかのような物言いで参加を迫っておりました」

 

 このうち重要になるのは、現状では江陵として手を結んでおきたい劉表と、空海を含めた江陵幹部の思い入れがある馬騰の動きだ。

 劉表は得の大きい方に付くだろう。むしろ、劉表が付いた方が大義名分になる可能性すらあるため、ある程度の得を示せば江陵が方針を動かすことも可能だ。

 その点、馬騰は政治的な動きが読み辛い。最近になって当主の仕事を任され出した馬超がいるため、頭が――それも直感的に動く人間が――2つ並んでいることになる。

 

「今のところの、馬家の動きは?」

「申し訳ございません。袁隗捕縛の指示が間に合ったかどうかも、未だ不明です」

 

 連絡は密にしていたが、そろそろ今年の最後の交易団が来る時期なのだ。情報を直接仕入れられるために、諜報の手をやや緩めていたことがあだになった。

 いつもより数日(・・)後手に回っている

 

「……劉景升を止められるか? ああ、動けるなら仲徳に回しても良い」

「馬家の動きが判明するまで、でしょうか?」

「そうだ」

「直ちに手配いたします」

 

 交渉役として最も信頼できる程立を出してでも劉表を止めるよう言い渡され、周瑜にも緊張が走る。

 すぐに馬を走らせ、程立はその日のうちに襄陽に向けて出立した。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「翠が――馬超が、長安へと逃亡を図った袁隗を討ち取り、洛陽へ向かったようです」

「なん…だと…?」

 

 劉表を止めに走った僅か2日後に届いた急報である。事件自体は1週間近くも前に既に起こっていた。

 

「馬超は2万を超える兵を率いて洛陽へと向かいました」

「孟起は……いや、馬家は、董卓に味方するつもりか」

「間違いないでしょう。兵糧や金銭を過剰に持ち出している模様です」

「きっかけは檄文か」

「時期を見るに、おそらくは」

 

 たった数日の諜報の遅れが致命的な時間差を生み出していた。周瑜は難しい顔でため息を吐き、空海も珍しく顔をしかめている。

 

「例の檄文に呼応すると思しき諸侯は?」

「現在、精査しております。襄陽から風が戻りましたら、そちらの報告と共に皆を集めて確認しましょう」

「うん、そうだね。じゃあ、手配はよろしく」

 

 

 

 

「劉景升が連合への参加を決めた。江陵へも参加の要請が届いている」

「申し訳ありませんでしたー。連合参加への動きを止めるどころか、逆に参戦を迫られてしまいましたー」

「いや、これは諜報の手を抜いた私の責任であり、風の責任ではない。諸侯からも同調する動きが出ているのだ。むしろ、よく結論を持ち越してくれた」

 

 劉表との交渉のため襄陽に出向いていた程立を迎え、報告会を執り行っている。

 一通りの報告が済み、空海がまとめた。

 

「しかしこれで、馬家と劉景升の勢力が別れてしまったか」

 

 幾人かが沈痛な表情を浮かべ、幾人かは好戦的な笑顔で興味深げに空海を見ている。

 

「まず簡単に状況をまとめよう。……公瑾」

「はっ。まず一昨年、洛陽での政争が激化したところから――」

 

 洛陽に董卓が呼ばれ、何進が失脚し、諸侯が宦官を排そうと集まり、宦官の一部が逃亡に成功し、逃げた先に董卓がいて逃亡に失敗し、董卓が祭り上げられて帝の譲位の責任をなすりつけられ、諸侯が董卓を排したいがために連合を呼びかけ、馬超が義を為して董卓に味方し、劉表が董卓を排する事に決めた。

 

「言葉にすればたったこれだけのことではあります。しかし、江陵は連合につくか董卓につくか――いえ、劉表に付くか馬家に味方するかを判断せねばなりません」

「劉将軍が参戦を表明した今、連合軍へは袁家だけでなく多くの諸侯が付くものと思われます。全ての勢力を合わせれば兵数は20万を超すかもしれません。檄文の通りであれば司隸の東側にその軍を集結させ、数によって事を為すつもりのようです」

 

 周瑜が説明をまとめ、鳳統が軍事面を補足する。

 

「……心情としては、馬家に味方したいところじゃの。昨今の洛陽で悪政が行われているなど、聞いた事もないわ」

 

 黄蓋がため息と共に漏らした言葉は、話し合いに参加しているほぼ全員の心情を表しているようだった。しかし、軍師たちの浮かべる沈痛な表情もまた、選ぶべき道が定まっていることを示している。

 

「檄文には書いてあったけどね。洛陽が地獄絵図で全部董卓が悪いとかなんとか」

「ふざけた話じゃ」

 

 空海の茶々に黄蓋は笑おうとして、しかし笑うことが出来ずに顔をしかめる。

 一呼吸置いて、空海が軍師たちの注目を集める。

 

「公瑾。董卓は自らの窮地に気がついていないのか?」

「いえ、おそらくは既に逃げようにも逃げられないのでしょう。袁家一門によって外堀が埋まりすぎています」

 

 周瑜の語る推測に武官たちの苛つきが増して怒気が漏れ出す。

 

「仲徳。参加の見込まれる諸侯とその兵力はどのくらいだ?」

「確実なのは袁紹さん約6万と劉将軍6万。人物も地理も可能性が高いのが曹操さん5万と劉備さん1万。五分より高そうという程度で公孫賛さん2万と袁術さん3万。おそらく来られない勢力は劉璋さんの4万くらいでしょう」

 

 軍師たちの間からも小さく呆れの色を含んだため息が漏れる。呆れの対象は、もちろん名声を得るために目の前の餌に飛びついている諸侯だ。

 

「士元。諸侯が集まり洛陽に届くまでどれだけかかる?」

「軍の移動だけならば10日ほどです。主要な関を固めればいくらでも、と言いたい所ですが、あまり強固にしてしまうと迂回を考える人たちも出てきてしまうでしょう。董卓軍が上手く引き込んだとして……半年間足止めできれば良い方ではないかと」

 

 武官たちはおそらく董卓の側についた用兵を考えているのだろう。江陵から遠征軍を組んだ上で連合軍20万を相手取るのは容易ではない。静かに口を結んで空海を見ている。

 

「孔明。孟起たちだけを引きはがして董卓と関係を断ったことに出来るか?」

「……翠さんたちの意向を無視し、わだかまりを残しても良いのであれば、可能です」

 

 諜報や交易を含め、馬家の勢力に最も食い込んでいるのは孔明だ。同時に、思い入れが強いのも孔明だと言える。余りの無理難題に、いつもの快活な表情を全く消している。

 

 空海が小さく笑って視線を集めた。

 

「なるほど。どちらに付くべきか、か」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「馬護羌」

「あん?」

 

 馬超が声を上げながら振り返る。やや離れたところに立っていたのは、ツリ目に眼鏡の少女だった。

 

「その、荊州の劉表が連合に付いた、って……江陵も連合に付くだろうって聞いたわ」

「ふぅん」

 

 賈駆の言葉に素っ気なく返事をして馬超は武具の手入れに戻る。

 

「ふーん、って。それだけ?」

「あー。まぁ江陵が本気であっちに付くっていうのは嘘だな」

「は? 嘘? ……なんでそんなことわかるのよ?」

「江陵が本気だったら、洛陽なんて知らせが届いた時点でもう囲まれてるよ。下手したら母様と一緒に外から楚歌を歌うくらいしてくるかもな」

 

 あたしもそれは嫌だ、と馬超は苦笑いを浮かべる。

 馬超は江陵の手腕に対して、一種の信頼のような感情を抱いていた。敵に回れば先手を取られて、自分がまともに戦えないような状況を作り出されて、その上無理矢理その場に立たされるくらいのことはされるだろうと考える。

 

「そもそもあたしたちが来るからって函谷関もほとんど兵を置いてなかっただろ」

 

 函谷関は洛陽の西側にある関だ。東の虎牢関に並ぶ難攻不落の関として有名である。

 賈駆は訳がわからないと言った表情だ。

 

「来もしない敵のために兵は割けないんだから、当然でしょ。言っとくけど、いくら江陵でもボクに察知されずにあそこを通るのは無理よ」

「まあ察知されないか、っていうのはわかんないけどさ。こっちの対応が間に合わないような時期と方法で来るのは間違いないよ」

 

 短い期間ではあったが江陵で軍略を学んだ馬超は、頭を使う相手を侮ることはしないと誓っていた。江陵の演習では、1対1の模擬戦で確実に勝てる相手にも簡単に5対1の状況を作られてしまい、結果として十連敗したことすらある。

 

「こっちも言っておくけど、江陵が弱いことなんて期待しても無駄だぞ」

「別にそんな期待してないわよっ。ただ、ボクたちはどうしても勝たなきゃいけないの」

「わかってるって。だから(・・・)、江陵はあっちに付いてないって言ってるだろ?」

「……それが何なのよ」

 

 馬超は、何て言ったらいいかわからないけど、と前置きし。

 

「あたしたちもそろそろ汜水関に向かわないと間に合わないだろ。ってことは、そろそろ何か動きがあると思うんだよな」

「動き?」

 

 馬超が言葉を紡いだちょうどその頃、運命の狼煙は洛陽の西の空に上がっていた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「では空海はこちらへは参らぬのか」

「空海様からは『長丁場は御免蒙る』とのお言葉を預かっておりますー。しかし手抜かりなどあっては成らぬとは空海様も重々承知。そこで、元帥府より鳳長史(筆頭参謀)と程従事中郎(上級参謀)、趙将軍と張将軍を参戦させ、万全の体制としたわけです」

 

 諸侯が集まる陣地の奥、ひときわ大きな天幕の中、劉表の前で顔を伏せたまま、挨拶に訪れた程立が慇懃に、しかし淡々と報告を重ねる。

 

「ふむ、そうであったか。……では周瑜はどうした?」

「周軍師は洛陽への調略を指揮しておられます。こちらが実を結び次第、劉車騎将軍には呼応していただきたいとのことー」

 

 程立はいぶかしむような劉表の視線を顔を伏せたままかわし、『時機』を匂わせる。

 江陵に判断の時間を与えぬよう先手を打ったはずの連合で、既に手を回されていることに劉表は驚く。しかし、その驚きを悟らせぬよう静かに続きを促した。

 

「まずは折々で戦を支える端役は江陵にお任せいただき、いざ要所を攻め落とさん時には劉車騎将軍に決していただければ幸いとのことですー」

「うむ。まぁ参戦を促した身である故、そのくらいは請け負おう。時機には知らせよ」

「御意にございますー」

 

 顔を伏せたまま下がっていく小さな身体を見下ろし、劉表は小さく息を吐く。どうやら江陵を引っ張ってきたのは正解であったと。

 

 

 

「雄々しく、華麗に、前進ですわ!」

「ならば先陣こそが最も適当であるかと」

「うむ。袁紹は先陣を務めよ」

「……あら?」

 

 決め台詞一つで命運を決められてはたまったものではない。袁紹は視線を巡らす。

 

「今、私を推挙したのはどなたかしら?」

「私です。袁"渤海"」

「袁"冀州牧"ですわ! 私のことを知らないなんてどこのお猿さんですの?」

 

 郡太守ではなく州牧なのだ、と袁紹は興奮したように言葉を発する。

 声をかけられたツインテールの娘は帽子と髪で表情の大半を隠し、しかし普段の彼女を知る人間ならばもれなく逃げ出すだろう極寒の気配を漂わせながら袁紹を見つめ返す。

 そして、帽子を被り、椅子に腰掛けたまま、言葉を返した。

 

「……そうでしたね。名乗りが遅れました。私は空海様の名代にして、元帥府付き長史の鳳士元です」

「な、空海元帥のっ?」

 

 『三公』相当の権威を保つ元帥の名代であり、自身も元帥府の長史という冀州牧に並ぶ高官だと名乗った少女に、袁紹がひるむ。

 袁紹は一瞬だけ名家袁家の名乗りを上げようかと考え、少女が自分より上座にあることを認めて、口にしかけた言葉を飲み込んだ。

 

「そう。元帥の……」

 

 それにしても、と袁紹は思う。名だたる諸侯や高官が洛陽にて交流を図る中、だた一人江陵にあって滅多に上洛しない引きこもりの元帥。その部下、こんな田舎者の娘に舐められたものだと。

 

「仕方ありませんわね。前進するにも訓練が必要ですもの。亀のように引きこもって前に進んだこともない方たちに、先陣をお任せするわけには参りませんわね。でしたら、この袁・本初が! 手本をご覧に入れますわ!」

「……これは困りましたね。ここまで言われて反論しなければ、訓練に励む兵たちに申し訳が立ちません。――劉車騎将軍、下知を賜りたく存じます」

 

 鳳統は全く困っていない様子で淡々と議事の進行を促す。軍議に臨席した江陵の将軍はもとより、近くに居た劉表たちまで恐ろしさから若干引いている。

 気にしていないのはいきり立っている袁紹と、遠巻きに見ている数人の諸侯だけだ。

 

「う、うむ……よかろう。先陣左翼を江陵が、先陣右翼を袁紹が務めよ」

「御意です」

「――わかりましたわ」

 

 二者はそれぞれの思惑通りの展開に、矛を収める。

 しかし、それぞれが思い描く結末が全く異なっていることに、袁紹は気付いていない。

 

「では本陣前部に公孫賛、本陣後部に曹操、輜重隊に袁術と劉備を当てる」

 

 劉表は会議の前に程立から頼まれた通り、公孫賛を先陣の後ろに当てる。

 なお、地理的な要因から劉璋は連合には不参加だ。

 

「出立は明後日」

 

 劉表麾下の将軍が立ち上がり、命令を下すために天幕から駆けだしていく。鳳統たちもまた、話し込むこともせずにその場を辞した。

 

 

 

「白蓮ちゃん! やっと会えたー!」

「ん? おお、桃香。久しぶりだなぁ」

 

 桃色髪の少女が、赤い髪の少女と親しげに声をかわしている。

 

「久しぶりだねー♪ 元気だった?」

「おかげで、無病息災さ。桃香――に預けた馬も元気か?」

「あ、あれ? 白蓮ちゃん、私のことは? 私もいるよ?」

「あははっ! 冗談だ。桃香のことも同じくらい気になっていたよ」

 

 赤い髪の少女は笑いながら、しかしその目は『お前とお前の無駄にデカい乳の元気なんて見ればわかるからさっさと馬の安否を教えろ』と告げている。

 

「う、うん。私もあのお馬さんも元気だったよ! あ、でも前に鈴々ちゃんがお馬さんの身体に墨で『四駆』って落書きをした時は綺麗に」

「殺ス」

「待って白蓮ちゃん!!」

 

 

 

 

「どうやら上手く『要所を落とす』『時機』と思わせることが出来たようですねー」

「お疲れ様でしゅ……です、風さん。嘘を言わずに時機を待たせる。少しばかり加減の難しい任でしたが、まずは一つ片付きましたね」

 

 程立の言葉に、鳳統が能面のように表情を貼り付けたまま笑い声を漏らす。

 一方でそれを見て厳しい表情をしたのは趙雲だ。

 

「雛里よ。本当に難しいのはこれからだぞ。あの(・・)曹操たちの目まで誤魔化さねばならんのだ。策はあるのか?」

「曹操さんなら大丈夫です。明命ちゃんに動いて貰っていますから、当面は先日の失態をつついて封じておくことが出来るでしょう」

 

 鳳統は、悪辣と言って良い手をうっすらと笑みすら浮かべながら説明する。

 

「むしろ、連合の発足人である袁紹さんが問題ですね。そちらは勢力を削ぐため、そして報いを与えるため策を当てることにします」

 

 さらりと、何でもないことのように報復を仄めかしたことに、厳しい表情を作っていたはずの趙雲の顔が引きつり、背筋に冷たいものが流れる。

 軍師という生き物は味方の兵士を手足のように動かすが、一流と呼ばれる軍師は敵兵までもを思った通りに動かすのだ。その中でも『とびきりの天才』に狙われるなど、悪夢と言うほかない。

 袁紹の自業自得とはいえ、それに巻き込まれる兵たちの冥福を、趙雲は静かに祈る。

 

「ほな、ウチらの最初のお仕事はその策っちぅことかいな?」

 

 鳳統の言葉を受けて張遼が尋ねた。

 

「そうですね。連合本陣の兵の動きを封じることが、最初の仕事になるかと思います」

「『我ら連合が連携に戸惑う』間に、敵は袁紹に一当てして悠々と関へと戻る、と?」

 

 思っていたよりも単純な策に、趙雲も張遼も疑問の表情を浮かべる。

 

「そない簡単に行くんか?」

 

 鳳統はそれすら見越していた様に静かに頷いた。

 

「汜水関の前で3つの関と城塞を無傷で占拠できた後の初戦ですし、敵が関という有利を捨てていきなり騎兵で現れれば混乱も仕方ありません」

「騎兵? ということは……」

 

 鳳統はこれからの『予定』を当たり前のように話し、それを聞く者はそれを当たり前のように受け止めている。

 

 

「はい。初戦は翠さん――『錦馬超』に、袁紹を叩いて貰います」




 修正前のものを上げてしまったので直しました。変更は一部のみ。

>資治通鑑は小説で後漢書は歴史書
 資治通鑑の59巻、中平六年九月甲戌の項には『袁隗が帝の璽綬を解き以って陳留王に奉ると、弘農王を扶けて下殿させ北面して臣と称させた』とあります。
 袁隗って長安遷都にノコノコついて行って殺される役回りののんきな人だと思っていたんですが……。
 なお、後漢書の72巻、列伝の62巻にある董卓伝にはこの記述はありません。

袁隗(えんかい)
 なぜ袁隗を悪役にしたか。袁紹さんが真恋姫本編で酷いことしてたのでその肩代わりをさせたのです。袁家は真恋姫で月ちゃんに酷いことしたんだから親戚を悪役にされるくらい我慢してよね!
 私は史実なんて聞いた事もないので真恋姫本編こそが正しい流れです。なお、袁家でも有数の辣腕政治家であったことは事実のようです。

>6万+6万+5万+1万+2万+3万+江陵5万
 想定している人口は袁紹の冀州600万(兵6万)、劉表の荊州(江陵除く)550万(兵6万)、曹操の陳留州(エン州)400万(兵5万)、劉備の平原国100万(兵1万)、公孫賛の幽州200万(兵2万)、袁術の揚州400万(兵3万)……ただしまだ統一前。江陵の450万(兵5万、総兵力17万)くらいです。

>赤い髪の少女
 うまがすきだぞ!

>桃色髪の少女
 ちちがでかいぞ!

 土曜日の更新を忘れていたのは金曜日夜に見た動画で超エキサイティン!してしまったためであることを告白しておきます。5-4までは概ね出来たはずなんですけど、そこに虎牢関があれば立ち止まってしまうのが人の運命。流石、虎牢関です。


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5-3 アンチ・トータク・ユニオン 英雄集結

「これが江陵赤兎……これなら仕官と引き替えにしても……いやいや、しっかりしろ私、自分を安売りするのは良くないぞ。ああっ、でも体格からして違うんだよなぁ……!」

 

 身なりの良い少女が江陵軍の赤兎馬を前に、素早い蟹歩きでうろついている。

 

「これはもう馬じゃなくて別の何かだろう。キャディとかそういう……ッククク」

 

 清潔な服、引き締まった身体、よく手入れされた赤い髪、ややツリ目の整った顔立ち、トランペットに憧れる少年のような瞳で――しかし、喉の奥から漏れ出すような笑い声と不自然に素早く細かいステップを刻む蟹歩きと時々口から漏れる早口の独り言が、全ての魅力を打ち消す不気味さを演出していた。

 

「汗が血のような色をしてるんだよな……いや待て肝心なのは馬力だ」

 

 知る人ぞ知る幽州の雄、公孫賛である。

 

「ウホッ、白馬! しかもいい体格……ほ、ほほ欲しい欲しい欲し欲し欲ほほほほ!」

「あー、そこの赤毛さんや」

「ホホホホホホ――ホァッ!?」

「馬と兵士が怯えとるさかい、その辺にしたってや?」

 

 公孫賛が振り返ると、そこには青い羽織を纏った女性が、江陵の紋が入った鎧を身につけた兵士たちを引き連れて堂々と立っていた。大物っぽく。

 

「! あ、あ、ほぁ――あの馬の主か!」

 

 白馬を見て冷静さを失っていたところに、白馬を与えられている(と思っている)ほどの高官が現れたのだ。

 

「あの馬をくれええええええ!」

 

 公孫賛は殺してでも奪い取ることを選択して。

 

「ひっ! こっち来んなや!」

 

 ゴツンと派手な音がして。

 結果、公孫賛は地に伏した。

 

 

 

公孫(こうそん)伯珪(はくけい)です。先ほどは申し訳ございませんでした」

 

 赤毛の少女が身を縮め、地面に額を付けて謝罪している。いわゆる土下座だ。

 ここに至るまでの簡単な経緯を聞いていた他の者達も、今は緊張というよりむしろ疑念を向けていた。

 気まずい沈黙の中『お前が連れて来たんだろ』的な視線を受けた張遼が嫌々前に出る。

 

「ちょい聞きたいんやけど、ええか?」

「は、はい。なんでもお聞き下さい」

「ほなら、あそこで何しとったん?」

「えーと、その。視察というか、何というか」

「視察て。あそこ馬と見回りの兵しかおらんで」

「うっ」

 

 何か言い訳を探すように視線を巡らせる公孫賛に、疑惑の目が向けられる。

 やがてその圧力に耐えられなくなったのか、公孫賛が息を吐いた。

 

「う……馬が、好きで、その……」

 

 顔を真っ赤にして目に涙をためる少女を責められる人間はここには居なかった。強い視線を向けていた者たちも居心地を悪くしている。

 空気を変えるため、今度は趙雲が声をかけることにした。

 

「ふむ。さすがは白馬長史と言ったところですかな」

「――白馬力長史(はくばりきちょうし)

「は?」

「白馬"力"長史だ」

 

 公孫賛は真剣そのものの表情で訂正を求めている。

 

「あーと……白馬力長史殿は、江陵の馬が気に入ったと」

「あ、ああ。そうだ! あの白馬! 江陵赤兎にあんな白馬がいたなんて! そもそも江陵赤兎ってだけでウチの予算じゃ年10頭しか買えないのに、まだ別格がいるのかと!」

「お、おぉ、そうでしたか。いや待て縋り付くのは、ええい、とにかく落ち着かれよ」

 

 趙雲は助けを求めるように鳳統に目を向ける。鳳統は笑って答えた。

 

「伯珪殿。確かに江陵赤兎は、江陵外に100万銭からの値で販売しています。しかし白馬については、皇帝陛下と劉車騎将軍の他には江陵幹部にしか与えられていません」

「そ、そうだったのか!?」

「……なんと。それほどの馬だったとは」「ああっ、空海様……! ウチにそんな――」

 

 事情を知らなかった二人の武官が、驚愕と歓喜に身を震わせている。江陵を出るときに預けられたばかりで事情を知る時間も無かったのだ。名馬だとは感じていたが、皇帝への献上品に並ぶほどのものだとは考えていなかった。

 鳳統はそのまま公孫賛に話しかける。普段の彼女らしからぬ、堂々とした態度と妙に艶のある流し目で。

 

「白馬をお譲りするには陛下のお許しが必要になります。ですので、白馬にまたがりたいのであれば、功を立てて陛下に許しをいただくか、江陵の幹部となる他ありません」

「ゆ、幽州の民を捨てろと……?」

 

 震える公孫賛に、鳳統は優しい目を向けて首を振る。江陵で仕込まれた演出である。

 

「そのようなことは申しておりません。音に聞く白馬…力…長史殿ならば、幽州で戦功を重ね、陛下に申し出れば良いのではないでしょうか」

「そ、そうか……そうだよな」

 

 公孫賛の目に希望の光が戻る。しかし、この話の展開もまた、江陵赤兎を特別な方法で販売し始めた時からの江陵の戦略であることを、公孫賛は知らない。

 

「しかし、先に申しておかねばならないこともあります」

 

 鳳統は残念そうに――この演技指導に当たったのが周瑜と孔明と水鏡だと知れば一部の人間は発狂するだろう――目を伏せ、内緒話をするように公孫賛に顔を近づけた。

 

「江陵赤兎の白馬は、馬征西将軍にも与えられておりません」

 

 その瞬間、公孫賛は絶望の余り、自らを支えていた地面が崩れていく姿を幻視した。

 馬と共に生き、軍の実力者として漢で五指に数えられるほどの地位にまで上り詰めた馬騰ですら不可能。馬騰の生き方は公孫賛の人生の目標と言っても過言ではない。馬と共にある立身出世の代名詞。

 その人物が、超えられない壁。

 

「そ、そんな……」

 

 実のところ、馬騰には空海と一緒に品評会に出かけて選んだ月毛(クリーム色)の愛馬が居たため願い出ることも受け取ることもなかっただけなのだが、誤解上等である。

 

「さて伯珪殿。申し訳ありませんが、ここに居る皆さんはこれより『江陵に仕官してから初めて大仕事に臨む』ため、軍議を行わなければ――」

「ま、待って! 待ってくれ!」

 

 公孫賛からは見えることはなかったが。その瞬間に鳳統の顔を見ていた全ての人間は、彼女の浮かべていた表情についてその後に語ることはなかった。

 幸いなことに、あるいは不幸にも、視野狭窄と言って良い状態に陥っていた公孫賛は、鳳統の顔を見て表情を変えた人間が居たことにも気がつかなかった。

 

「なんでしょう、伯珪殿?」

 

 振り返った鳳統は実に優しそうな笑顔を浮かべている。

 

「た、頼む! 何でもするからあの白馬をッ――」

 

 

 この2刻(約30分)後、江陵の陣地から意気揚々と立ち去る公孫賛が目撃されたとかされなかったとか。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「何をやっていますの!」

 

 金の長髪を振り乱し、袁紹が声を荒げる。

 

「麗羽様っ、下がってください! 文ちゃんが向かっていますけど、一人では『アレ』は抑えられません!」

 

 前方に見えた砦に我先にと殺到した結果、袁紹率いる約6万の兵は縦10里(4㎞強)に伸びきって前進していた。そこに砦の陰からいきなり飛び出してきた2万を超える騎兵が斜めに突入し、伸びきった紐を断ち切るように袁紹へと迫っているのだ。

 文醜が飛び出していった先に馬旗を確認した顔良は、『一刻も早く文醜の援護に向かうため』袁紹に後退を促そうと本陣まで下がっていた。

 

「麗羽様。私たちが前をふさいでしまったせいで今、退路には江陵軍が広がっています。陣を組み直しているようですから、それが終わってからでないと全軍に後退命令を出せません。ですから、まずは麗羽様だけで劉将軍の所まで下がってください」

「斗詩さん、貴女、何を言っていますの!?」

「……私と文ちゃんは、江陵軍が陣を整えた後に下がります。急いでください、袁紹様」

 

 袁紹の声を振り切って顔良が飛び出して行く。馬超の軍勢は2里(約800メートル)にまで迫っていた。

 

 

 

 前方では袁紹の兵が馬超たちに蹂躙されている。しかし江陵は袁紹軍の退路をふさぐ形で防御陣を構築しつつあり、その陣内に即席で用意された指揮官用の陣幕では、4人の首脳部が静かに今後を話し合っていた。

 

「袁紹がこちらに会見を要求しているようでしゅ――っです」

「思ったよりも早かったですねー」

「こりゃ潮時ちゃうか?」

「兵らの準備は万端だが」

 

 報告を受けた鳳統が江陵軍首脳部に告げる。それぞれがのんきに感想を漏らし、しかしいつでも動けるよう緊張を保っていた。

 

「そうですね。袁紹の兵たちは思ったよりも脆かったですから、ちょうど良かったのかもしれません。風さん、ここからいくらかでも恩を売ることは出来るでしょうか」

「ぐー」

「風、起きろ」

「おお? んー……袁紹さんたちはあまり頭を使われないようですからねー。くふっ……ですが、やれることはやっておきましょうかー」

 

 程立がふらりと陣から立ち去る。それを見送って武官たちが口を開いた。

 

「風が戻ってくるのを待つか?」

「風さんならば、その必要はないでしょう」

「まぁ、せやろなぁ」

 

 強い信頼を置いた言葉に、張遼も趙雲も頷く。

 張遼が立ち上がって身体を伸ばし、趙雲も陣幕の外に控えた副官を呼ぶ。

 

「よっしゃ、そんじゃさっさと陣を組み替えて合図を出さんとな」

「遅れるなよ、霞」

「はっ、言っとれ」

 

 それから1刻(約15分)を待たずに江陵の陣容が整い、馬超たちはその後の1刻ほどで反転していった。

 

 被害は袁紹軍に集中しており、袁紹は6万の兵のうち実に1万を喪失。3万の負傷兵を抱えることになる。

 

 

 

 

「申し訳ありません、劉車騎将軍。もっと強く危険を訴えるべきでした」

「うむ。ああいや、先の戦いはこちらの従事中郎も見ている前で起こったこと。あれも、お前たちの行動に非はないと証言している」

「……納得いきませんわ」

 

 鳳統が頭を下げ、劉表が重々しく頷く。江陵軍の動きを見るために送り込んでいた劉表軍幹部が袁紹の独断専行と自滅を報告しており、覆しようがなかった。

 袁紹も小さく異議を唱えるが、3万もの負傷兵を後方に下げるために、袁紹軍に残った兵士2万に加えて劉表からも2万以上の兵を貸し出されており、劉表の陣内では今も袁紹配下の武将たちが治療を受けているのだ。いつもは軽く開く口が鉛のように重い。

 

「明日からは陣容を組み替える。袁紹は本陣の後ろまで下がれ」

 

 文醜や顔良が傷ついている今、無理をして軍を前に出すことは出来ない。袁紹は黙って同意を示す。

 

「そして今回の罰だが……」

「劉車騎将軍、よろしいでしょうかー」

 

 罠に気がつかなかったという責任は袁紹以外にもある。だが、嬉々として罠にはまりに行った責任が袁紹にあるため、やはり袁紹を罰するしかない。

 その罰を諸侯の前で決めるべく開いたのが今回の軍議である。

 しかし、それに待ったをかけたのが程立だ。

 

「申してみよ」

「御意ー。まず、今回の件では江陵軍より後方の兵士はほとんど無傷で、袁紹さんの軍が被害を一手に引き受けて下さったことで連合の瓦解が防がれたという面がありますー」

「だが欲をかいて連合を危険に晒したことも事実」

「はいー。そこで、負傷兵の世話を含め、以後は縁の下を支えることに務めていただく事で罰としてはいかがでしょう?」

「ふ……ぅむ」

 

 元々有志が集まった連合ではお互いの立場は対等だ。そんな中で、地位の差によってまとめ役に収まっているだけの劉表にそれほど大きな権限はない。罰が厳しすぎれば「連合を離れれば良い」と判断される可能性もある。

 程立の提案に乗れば、袁紹は部下や兵の治療に専念しながら負傷兵の世話という名目で連合に残れる。

 江陵としても、袁紹たちが連合から離れてしまうのは本意ではない。袁紹に対して恩を売るついでに、連合に袁紹という枷を取り付けたい。

 劉表としても袁紹の発言力を落としつつ、連合の正当性を主張するための責任をすりつける相手として残したい。

 思惑は一致しつつある。

 

「江陵としましては、それ以上の処分を求めることはありませんー」

 

 程立はそれだけ伝えて眠そうに目を細めた。

 

 幾人かが江陵の提案にそれぞれ違った感想を抱く。

 江陵と劉表の近さであるとか、江陵自身の発言力の大きさであるとか、優しい罰に感心するとか、甘い罰に憤慨するとかである。

 曹操は江陵の提案に小さな違和感を抱くが、確証もないままつつくには江陵に握られた弱みは今でも少々痛い。頼れる軍師に相談することにして、会議に目を向ける。

 

「よろしい。では袁紹には後方での支援と輜重の管理を申しつける」

 

 劉表が頷き次の議題へと進むと、程立は袁紹に目を向け小さく目礼をし、袁紹は程立に向けて小さく首を縦に振った。何人かがそれに気付き、しかし誰もそれを口にすることなく会議が進んでいく。

 

 

「さて、本陣の後部だが、場合によっては袁紹を支える位置になる故……」

 

 露骨に目をそらした人間も居るが、諸侯は概ね渋い表情で目を伏せている。劉表が議場を見回し、一人の少女と目が合った。

 

「私がやるよ――じゃなかった、やります」

「公孫賛か」

「白蓮さん……?」

 

 名乗りを上げた公孫賛が袁紹に向かって頷く。

 

「気にするなよ、麗羽。荷を引かせるなら馬力がいるだろ?」

「白蓮さん、貴女……」

 

 公孫賛の素晴らしい笑顔を向けられた袁紹は、頬をやや紅潮させながらも、かろうじて微笑みを返すことに成功した。いつもの袁紹を知る袁術や曹操が、半ば唖然とした様子でそれを眺める。

 劉表は江陵組をチラリと横目で見る。劉表の視線を受けた程立が小さく頷きつつ、目と本体で劉備を指したのを見て、劉表が告げた。

 

「よろしい。本陣後部には公孫賛と劉備を当てる」

 

 劉備は連合の中でも小規模な勢力であり、参加に至る経緯も消極的な賛同からであったために、後方に留まることを良しとしているようだ。馴染みの友人と一緒になったことで喜んでさえいるようだった。

 

「他は兵数を鑑み、先陣に曹操、本陣前部に袁術とする」

 

 袁術は嫌そうに、曹操は表情を消して同意を示す。

 曹操にとっては江陵の狙いがわからないままに前線と江陵軍に挟まれる位置に置かれるのは面白くない。しかも、現在諸侯の中で最も力を残す自軍がここに置かれたということは、襲われる可能性と襲われない可能性が同時に高まったということだ。

 

 この場から汜水関のどこで何を仕掛けられるのかわかったものではない。

 何事も無ければ汜水関までは6日。曹操にとって、とても長い6日が始まる。

 

 

 

 

「そう、何もなかったのね」

「はっ、今のところ新たな罠も確認されていません」

 

 先陣に立って進軍を開始してから4日、2つの砦と1つの関を越え、今は2つ目の関の偵察を終え、曹操は荀彧から報告を受けていた。

 曹操は、あと2日と考えて漏れそうになったため息を飲み込む。

 

 この4日は曹操陣営にとってひたすら神経をすり減らすだけの進軍が続いていた。

 江陵軍が地形に合わせて陣を変える、索敵や伝令の人員を飛ばす、宿泊のために天幕を設営する、それら一つひとつに斥候を放ち将を集めて動きを注視してきた。

 現状は後手に回らざるを得ないが、江陵軍は陣替えも『なかなか素早く』、すぐに対応しないと最悪の場合には無陣形で脇腹を晒すことになるのだ。

 無論、完全に味方だと信じられるならば頼もしい限りなのだが。

 

「厄介ね、江陵は」

 

 不気味過ぎる味方である江陵に気が休まるときのない行軍は、曹操たちの精神に大きな負担を強いていた。

 一つ朗報があるとすれば、黄巾の残党を取り込んでいることについて――おそらくは江陵主導で――諸侯を通じて入れられていた探りが落ち着きを見せたことだ。馬超が先帝に申し開いた例を出して劉表を丸め込んだため、江陵も手を緩めたのだろう。

 

 一方で、地道に江陵軍の調査を続けていた荀彧が厳しい表情をしながら顔を上げる。

 

「ひとつご報告があります、華琳様」

「何かしら?」

「袁紹配下の兵から聞き取りを行った所、先の馬超戦で江陵が行った斉射は、矢を当てる気がまるでなかったとしか考えられません」

 

 荀彧の言葉は『江陵が敵である』証拠を指摘しているようで――しかし、曹操は納得の表情と苦々しいとしか言いようのない表情を続けざまに浮かべた。

 

「……なるほどね。さっきまで程立が来ていたでしょう。あの娘『袁紹からの依頼で兵を救い出した』ことを強調していたのよ。……つまり、そういうこと」

 

 程立の話は――曹操ですら――袁紹の救出という連合への貢献を笠に、曹操軍へ圧力をかけているかのように聞こえていた。実際に重圧を感じて居るのだからなおさらだ。

 もちろん『裏で探っていることなど筒抜けであり、江陵は対策まで取っている』のだとわざわざ宣言しに来ているとは曹操も考えていなかった。

 

「馬超を追い返すことを優先した斉射であって、袁紹とも話が付いている、と?」

「『袁紹からの依頼』で手加減したのだとすれば、私たちが江陵を追求することは出来ないわね。……麗羽の馬鹿が積極的に江陵を庇うでしょう。麗羽を連合に残したのには、こういう理由もあったのかしら」

 

 袁紹が庇う理由も多い。彼女がどこまで考えているかはわからないが、配下を実質的な人質に取られ、しかし江陵に恩を感じて居るだろうことは容易に想像が付く。

 情勢もまた曹操には向いていない。連合への貢献度は、確かに江陵の方が上なのだ。

 

「為人は知っておりますが、袁紹が江陵に味方するとはとても思えないのですが……」

「アレは悪い意味でも馬鹿だけど、いい意味でも馬鹿なのよ」

 

 誇りのために誇りを捨てられるという潔さは、極めて稀有な、あるいは袁家にあってはならない類の人間性だ。袁紹本人に『江陵に恩を返そう』と思わせたのであれば、それに横合いから手を出すのは面倒極まりない問題となったと言える。

 事実、袁紹を知る曹操は既にこの件で口出しする気を無くしているのだ。

 

「では汜水関まではこのまま――?」

「程立が来ていた、と言ったでしょう。本題は麗羽の件ではないわ。いえ、袁紹関連ではあるのだけれど……」

 

 言葉を濁す曹操の姿が珍しく、荀彧は内心驚いた。ここまでの精神的負担が曹操の態度にも表れつつあるのだ。やや戸惑いつつも荀彧は尋ねる。

 

「袁紹の件ではない袁紹関連の話、ですか?」

「袁紹軍と連合の行軍についてだったのよ。負傷兵と輜重が思っていたより負担になっているので、進軍を遅らせるのだそうよ」

 

 そう告げる曹操は本当に不機嫌であるようで、うっすらと笑いながら指先で机を叩く。

 

「これ以上軍が縦に伸びるのは好ましくない、と劉表が言ったらしいわ。しかも、私たちだけは『江陵が責任を取るから先行しても構わない』のですって」

 

 責任を取るとはどういう意味かしらねと笑う曹操は、近寄りがたい恐ろしい雰囲気をまき散らしている。先の『圧力』はこれを促しているように聞こえていたのだ。

 荀彧は、真っ先に思いつく可能性を口にした。

 

「江陵が董卓と繋がっているとして、最悪の場合、連合を前後から挟み撃ちに――」

「桂花、最悪はもっと悪いわ。江陵が連合の足を遅らせて私たちとの距離が十分に開いたところで私たちの前に董卓軍20万と江陵軍10万の連合軍が現れ、後方で劉表が江陵についていたら……」

 

 30万に追い立てられた状態で10万が進路をふさいだりすれば、流石に手の打ちようがない。江陵の思惑を外すような方法に思い当たることなく、曹操は唇を噛む。

 そもそも程立の言葉は()を匂わせるだけで脅しですらないのだ。あえて思惑を外そうと言うのなら、その代償を血で支払わねばならない状況に陥るかもしれない。

 

「私たちに連合と離れるという選択肢は、ない」

 

 曹操は小さく呟いて笑った。今度の笑みは暗いものではない。むしろ、面白くてたまらないといった感情を無理矢理に押さえ込んだような笑いだ。

 

「いいえ。選択肢を無くされた、というのが正しいかしら。劉表と連合の方針を私たちに伝える、たったそれだけの席で私たちの行動を縛った。……程仲徳、欲しいわね」

「華琳様ぁ……」

 

 切なげに声を上げる荀彧の頬を撫で、曹操はさらに笑う。

 

「連合と離れる選択肢はない。それならまず、私たちの負担を一部でも押しつける相手がいるわ……桂花」

「でしたら袁術――いえ、その配下の孫策が適当でしょう。かの者は勇猛果敢で知られています。先陣を押しつけるのには適任です」

 

 黄巾の乱で名を上げた人物の登場に、曹操の胸中が僅かに波立つ。だが、それを態度に表すことなく続きを促す。

 

「袁術には功を稼ぐ機会であると伝え、説き伏せましょう。黄巾の際も同じ構図であったため受け入れやすいでしょう。劉表も同じ線で説得が可能かと」

「そうね。それで構わないわ、桂花」

 

 曹操は荀彧に伝令の手配を指示し、ふと、先ほど外へ連れ立って出た程立と郭嘉の姿を思い浮かべた。

 あの郭嘉が、程立から何かを引き出してくれることを期待して。

 

 

 

 気の強そうな眼鏡の少女と、眠そうな目の少女が並んで歩く。

 

「璃々も元気にしていますか……。それを聞いて安心しました」

「稟ちゃんが江陵に来たときには案内役をしたいと言っていましたよ」

「それは楽しみです」

 

 璃々に対して若干の負い目を感じていた郭嘉は、その言葉にほっと息を吐いて優しげに微笑む。そして、自らの微笑みを隠す様に意地の悪い笑顔を作った郭嘉は、怒ったような口調で程立を攻める。

 

「それにしても、江陵は後ろ汚い手を好みますね」

「クスクスッ。風には何のことだかわかりませんねー。それに風たちは、空海様がやれと言ったことをやっているだけなのですよ?」

 

 程立は、自分は悪くない、といった論調で否定した。確証を持たせぬまま煙に巻く言動で、その上自らの主に罪をなすりつけて笑う程立に、郭嘉は呆れたように告げる。

 

「それを飄々と実行出来るだけでも同類です」

「……ぐー」

「寝るな!」

 

 変わらない程立の姿に郭嘉も思わず吹き出してしまう。

 いつもの調子が戻って来たところで、郭嘉はそれまで一番聞きたかった、しかし立場上どうしても聞きづらかった質問を口にした。

 

 

「風。空海殿の元は、充実していますか?」

 

 策に絡むために口に出来ないこともあるだろう。それ以上に心情の面で聞きづらい。だが聞かなくてはならないことでもある。

 

「そですねぇ……。その答えは、洛陽にあるのだと思いますよー」

「――洛陽」

 

 程立の思いがけない解答が、遠く黄巾の潰された地に馳せていた郭嘉の意識を目の前の大地へと引き戻す。

 

「江陵の策が後ろ汚いとして。風たちがそれを実行していたとして。洛陽に至り果たして本当に後ろ暗いのは一体誰なのか……くふふっ」

「っ! 本当に、貴女たちは……」

 

 唐突に緊張感のぶり返した程立との会話は、郭嘉にはお互いの距離を再確認させられているように感じられた。同時にどこか気分が高揚しているのも自覚する。

 思わず笑みが浮かぶ。郭嘉はそれを隠すことなく程立を見据えた。

 

「思った以上に、難敵になりましたね」

「過大評価かもしれませんよ?」

「私は相手を小さく評価するのは苦手なんです」

 

 二人は小さく笑い合い、そしてお互いに背を向けた。

 

 

 

 

 そこは陣地と陣地の隙間に出来た、谷間のような場所だった。冬の日は短く夕刻に吹く風は冷たい。

 多くの護衛を引き連れ自陣に戻る程立は、先ほど別れた親友に向けて真っ白な息と共に小さく言葉をこぼす。

 

 

「洛陽で待っているのが風の覚悟を裏切る答えであって欲しいと……望んだ答えであって欲しいと、風も心から思っているのですよ、稟ちゃん」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 空海が小さく笑って視線を集めた。

 

「なるほど。どちらに付くべきか、か」

 

 腕を組み、少し難しそうな顔をし、もう一度小さく笑う。

 

 

「矛を収めるには、董卓が名実を捨てられ、諸侯が名実を得られ、孟起が納得して離れられる状況を用意する必要があるわけだ」

『えっ?』

 

 軍師たちが驚いたように声を上げ、武官たちが「またか」と笑う。

 

 

「……うん。悪役を作ろうかな」

 




◇二枚舌+1
 江陵は劉表に味方するために連合に呼応するフリをして、董卓について連合にダメージを与えるように見せ掛けて、袁紹に恩を売るフリをして、連合の足を引っ張るように見せ掛けて、本当は

>ATUシリーズ。五章にはこんなタイトルを付けたかった的な。
 アンチ・トータク・ユニオン ~英雄集結~
 アンチ・トータク・ユニオン2 ~紅に染まる大地~
 アンチ・トータク・ユニオン3 ~黄河の中流で牙をむく野生~
 アンチ・トータク・ユニオン4 ~大陸の行方~
 アンチ・トータク・ユニオン5 ~夜明けの時~

>普通脱却記念日
 この公孫賛を書くのが楽しすぎて困惑している昨今。普通が嫌だと聞こえてきたので。
 横文字が許されるならパゥワァァァアア!と叫ばせたいキャラです。作中唯一のパワー厨の予定。幽州は馬がいいので正義だったが、江陵はもっと馬がいいのでもっと正義。彼女が董卓と出会ったとき、新たな物語が始まる――! 予定はありません。

>わたしは 華雄も すきです
 出番あるの?
 春蘭たち武将も書きたいんですけど、400行の話、120行のシーンに軽く絡めるだけで50行くらい一気に追加することになるので、バランスが取れなくなる上シリアルになってしまい書くに書けず……。

 板垣さん通算80個目の超新星発見おめでとうございます。今年5個目だそうです。使いどころのない空海の必殺パンチの威力が上昇しました。
 そしてお気に入り2000件超えありがとうございます。評価も一杯感謝一杯。あと、ありがたいことに前回の更新からランキングも上位に入ってたみたいです。感謝です。
 お礼になるかはわかりませんが、明日も1話投稿します。5-4です。


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5-4 華雄、覚えていますか

「ぐぬぬ……」

「ぐぬぬじゃないですよぉ、雪蓮様ぁ~」

「ねぇ思春、こう何度も地味な嫌がらせに直面するの何故なのかしら?」

「半分は董卓の、もう半分は袁術のせいでしょう。手が止まっております、蓮華様」

 

『……はぁ』

 

 4人のため息が重なった。

 

 孫策たちは今、山間の細道いっぱいに埋め込まれた杭を抜く作業に取り組んでいた。

 杭は人が歩いて通るのには問題が無いくらいにはまばらに、しかし軍が通ると考えれば明らかに邪魔になる程度に密集していた。おまけに、大半の杭が地面のかなり奥深くまで突き刺さっており、しかも上からたっぷりと水をかけられて冬の冷気に晒されているため表面の一部は凍っていて掘れば泥になるという悪質さである。

 

 数少ない救いは、歩調を合わせている江陵軍が比較的広範囲を担当し、なおかつあまり慌てて作業していないということだろうか。

 作業を始めてしばらくはうるさかった袁術も、江陵軍をだしにして追い返した後は静かにしているようだ。

 曹操軍は杭の手前でさっさと大休止に入り、杭を超えたところには江陵軍の簡易本陣が置かれているため、間に挟まれたこの場が安全地帯であることもありがたい。

 

「何で江陵の兵はあんなに手慣れてるのよぉー」

「廃材と槌と縄であんなに手早く引っこ抜けるなんて……」

「馬に引かせてもいますねぇ~」

「馬は全て江陵赤兎のようです。……一体いくら掛かっているのか」

 

 孫策たちの知らない事だが、通常の軍において5万の兵と2万の馬を揃えるのに必要な経費は6億6千万銭ほど。対して江陵はそれらに25億銭を掛けている。維持費まで含めればその差は5倍程度にまで開く。

 江陵の物価は確かに高い。しかし、江陵では大量生産の技術が他より優れているため、軍事物資のように同一規格品を多数揃える場面で必要になる費用は、諸侯と比較しても大幅に小さい。

 つまり高い質でまとまった装備を潤沢に揃えているのが江陵なのだ。全兵士に防寒具が行き渡っている軍など連合内でも江陵しかいない。

 

 それなのに、なぜ孫策たちの作業に比べてもそれほど早くないのかと言えば。

 

「汜水関の目と鼻の先で無陣のまま兵のほとんど全てを休ませるなんて、『江陵は董卓に味方してるので疑って下さい』って言ってるようなものじゃないの?」

「確かに、これはやり過ぎです」

 

 

 

「万事が策ですのでー。敵がこれに食いつくのであれば、敵将の首級をあげ、兵の半数を討ち取ってみせましょうー」

「そ、そこまで言うのであれば見逃すが、これは全軍の士気にも関わる故、今後は形だけでも陣を組んで貰うぞ」

 

 余りに堂々と即答した程立を見て、追求を考えていた連合首脳部がひるむ。しかしそれも劉表の要望に対する解答を見てからだと気を取り直し、程立の返事に注目する。

 対して程立は、ほとんど考えるそぶりも見せずに深く礼をして同意を示し、逆に劉表に意見してみせた。

 

「御意ですー。ではでは今回は『敵の鼻先で堂々と休み、その胆力を見せつける目的』と銘打ってあえて全軍を休ませてはいかがでしょうー。風たちに策があるのならば、あとは後方にいる袁紹さんが警戒するだけで済みますからー」

「む……」

 

 追求のために呼び出したはずの劉表が今度は「江陵を信じられるのならば態度で示してみせろ」と要求されている。

 確かに、江陵を信じた上であればその提案には魅力も感じるのだ。

 

「関の前でしっかりと休めるのも最後と考えれば、それも良いかもしれんな」

 

 これより汜水関に近づけば、敵は油断を突いた攻撃を仕掛けようと関から飛び出してくることもあるだろう。現時点でもかなり危険なのだ。江陵が責を負うなら悪くない。

 

「はいー。曹操さんたちの杭抜き作業もしばらく掛かりそうな気配でしたので、そちらを除いて兵に酒などを振る舞うのはどうでしょうー?」

「ぬ、酒か……それはいささか過ぎてはおらんか」

 

 曹操や前線に出ている孫策に対する嫌がらせと、連合の足止めを兼ねての提案。同時に江陵から恩を売る機会でもあり、江陵の品の売り込みにも繋がる。

 

「一人二杯までとすれば良いのですよ。明日、前進して関の前で陣を組んだら休むことになるでしょうから、明後日の朝までに取り戻せば良いのです。ならば、むしろ明日の陣内で振る舞う理由を無くすのにも使ってしまいましょうー」

「なるほど。確かに敵前で酒盛りする愚を思えば、一歩でも二歩でも引いた場所で済ませるのは悪くないな」

 

 既に劉表の中ではこの場で進軍を停止して休むのは『前提』になっている。そのように誘導して振る舞ったのは程立ではあるのだが。

 

「よかろう。酒は江陵も出すのか?」

 

 劉表の言葉に程立は江陵軍の物資状況を思い浮かべる。酒1万石に水12万石、自前の糧食と飼料を8万石ずつ、矢を1200万本など。馬車6千台で約20日分の消耗品。

 江陵の売り込みのため酒を出すのはもう決まりだが、どの程度を拠出するべきかは程立に一任されている。ケチと思われても得はないし、大盤振る舞いが過ぎては劉表の面子を潰すことになる。1人2杯ならば全軍で30万杯くらいだろうかと程立は考える。

 

「そですねー。1千石(10万杯分)はこちらから出しましょうー。ですが、江陵の兵には今夜は飲ませられませんから、ほんの少し陣を離して下さるとありがたいですねー」

「ほぅ、さすが江陵だな。うむ、陣地は配慮しよう」

 

 どこまでも江陵のための提案だ。曹操たちは必要以上に警戒するだろう。

 しかし、劉表はむしろ必要以上に警戒を解いてくれている。劉表にとってこれは自身と連合のための提案であり、これまでに築いた江陵との信頼関係もあって疑う意味はないのだから。

 

 

 しばらくの後、日暮れも近づいた先陣近く。

 

「なんでウチには酒が来ないのよぉ! 江陵の酒よ! 江陵の! わかってんのっ!」

「飲んでいては作業が終わりそうにないからでしょう。手が止まっております、雪蓮様」

「姉様、酒よりも日暮れまでに作業が終わりそうにないことの方が問題です」

「蓮華様ぁ~、作業よりも糧食が届いていないことの方が問題ですよぉ~!」

 

 後方で本隊が陣を組み始めた頃、孫策たちはまだ作業を続けていた。不慣れで過酷な内陸の冬の作業に、身も心もぼろぼろである。

 その日の夕食は曹操に分けて貰ったのだとか。夕食時に酒を求めた孫策が一騒動起こすのだが、それはまた別のお話。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「やっとぉ……やっと着いたのだぁー、汜水関なうー」

 

 梅干し色の頭髪が特徴的な少女が、梅干しの様にしおれた表情でだれている。劉備の配下、張飛その人である。後ろから黒髪の女性が呆れた顔で近づく。

 

「鈴々、休むのは天幕を張ってからにしろ。泊まる場所がなくなるぞ」

「んにゃー……なら、さっさと作っちゃうのだー! 作業開始なうっ!」

 

 疲れた表情から一転して、張飛が元気よく駆け出していく。黒髪の女性、関羽は苦笑いでそれを見送った。

 さらに後ろから桃色髪の女性、劉備が笑いながら話しかける。

 

「あはは……鈴々ちゃん元気だねー。私もうお尻が痛くて……」

「桃香様は休んでいて下さい」

 

 見目麗しい女性が自分の尻を揉みしだきながら微妙に年寄り臭いことを言っている姿は見るに堪えず、関羽は半ば目を背けながら助け船を出した。

 

「うーん、みんなが頑張ってくれてるのに私だけ休むのは……」

「いえ、堂々とされていることが主君の仕事でもあります。お気になさらず」

 

 劉備は渋るが、人に指示を出すのが苦手な劉備が一人加わったところで仕事がはかどるということもない。繰り返し関羽に言われ、劉備も考えを変えることにした。

 

「仕事……あ、そうだ! それなら劉表さんたちに挨拶してくるね! ご飯とお酒ありがとうございましたって」

「なるほど、それは良い考えですな。護衛は――」

 

 視線を巡らせた関羽の耳に、張飛の向かった方向から上がった変な悲鳴が届く。

 おそらく張飛が設営の邪魔になっているのだろうと気付き、関羽はため息を吐いた。そして、ちょうどいいと言わんばかりに劉備に提案する。

 

「護衛には鈴々をお連れ下さい。陣の方は私にお任せを」

「あはは……、うん。それじゃお願いするね。こっちは任せてよ!」

「はい。すぐに呼んで参りましょう」

 

 にこりと笑って駆け出す姿からは、一騎当千の猛者の気配は感じられない。

 

 

 

 

「華雄が汜水関に入ったようでしゅ」

「冥琳さんが止められませんでしたかー。あまり良くない展開ですねー」

「望ましくはありませんが、最悪でもありません。目標は10日間です」

 

 空海に命じられた任を果たすため、鳳統と程立は毎日のように相談を重ねていた。

 汜水関に到着したことで作戦は佳境に入り、進軍中の戦力分析の正確さが試される時が近づいている。

 

「袁術さんを前に押し出し時間を稼ぎますかー?」

「いえ、ここはまず曹操さんを前に出しましょう。両軍共に健在な今、曹操軍の兵だけが疲弊するのは彼女も望まないはずでしゅ……はずです」

 

 曹操は劇薬だ。前面に押し出し過ぎれば過剰な戦果を上げてしまう。鳳統は、優秀だからこそ慎重にならざるを得ない場面を曹操に押しつけることで時間を稼ぐつもりなのだ。

 

「最初の数日を曹操さんにお任せして、その後に袁術さんを前に出しますか?」

「あるいは、汜水関で劉備軍の実力を測っておくのも良いかもしれません。黄巾賊騒動の際には、あの曹操さんに先鋒を認められていますから」

 

 内情をつかみ切れていない勢力で一定以上のものと言えば、残るは劉備のみだ。劉姓を前面に押し出して劉表からの支援を引き出すなど――弱者の振る舞いではあるものの――侮れないしたたかさを感じさせる。

 関羽や張飛と言った将たちは、黄巾賊の時には曹操軍の夏侯惇と共同戦線を張っていたことも確認されている。積極的に労力を割くべき大勢力ではないが、野放しには出来ない程度に力のある勢力だ。

 

 軍師たちの話し合いは白熱しているが、指揮の方針は確認しなくてはならない。静かに見守っていた趙雲が口を挟む。

 

「いずれにしても我らは高みの見物というわけだな?」

「少なくともこれから数日はそうなりますねー」

「なんや、つまらんなー」

 

 張遼が拗ねたように言えば、趙雲も同意するように息を吐いている。

 

「だからこそ――」

 

 そこで言葉を句切り、鳳統は強い視線を張遼と趙雲に向けた。

 

「お二人の力が必要です」

『……』

 

 二人の武人は顔を見合わせ、笑みを浮かべた。

 

「うむ。了解した、軍師殿(・・・)

「ウチらに任しとき」

 

 

 初日は、何事もなく過ぎた。

 

 

「また袁術ちゃんからご飯が送られてこなくなったんだけどー?」

「関攻めの命令は送られてきてますよぉ~……」

 

 二日目、移動中と合わせて2度目の補給停止が孫策たちを襲っていた。

 初回は直接の抗議に加えて曹操からも非難の声が出たため、すぐに曹操が立て替えていた分の食料が補充された。

 しかし、曹操の関攻めに加わる形となった今回、曹操と結んで袁術の影響下から逃れようとしているのではないかという声が袁術の部下たちから上がり、結果的にその意見は袁術本人によって認められた。

 今の曹操陣営は、先日、他軍にのみ飲酒が許されたことで若干の陰りが見えた士気を回復するため糧食を多めに振る舞っているため、立て替える余裕がない。曹操からは袁術への抗議と劉表への通告に留めて、孫策たちは前線から外された。

 

 曹操は軍を前進させ関から1里(400メートル強)ほどの距離に柵を建て始める。定石通りの城攻めの準備だ。関からの妨害を警戒して大軍を用いる事が出来ず、夕刻まで使い切ってようやく馬の侵入を防ぐ柵が一通り前線に並んだ。

 

 三日が過ぎて、四日目も曹操は定石通りの準備を進めている。弓を防ぐ塀を建て、関へ侵入するための雲梯をこれ見よがしに作る。一貫して防衛を整える姿勢のまま、この日を終えた。

 

 

 四日目の夕刻、とある陣にて。

 

「なんじゃあやつは! 攻めると言っておきながら何もやっとらんではないか!」

「さすがお嬢さま! 兵法も知らないのに言葉だけは威勢がいい酒場の中年親父みたいな物言い! よっ、大言壮語の申し子!」

「うん? 中年親父のたいげんそーごとはなんじゃ?」

「もうお父様とお母様を超えられたも同然、という意味ですよっ」

「なるほど! そうじゃろうそうじゃろう。もっと褒めてたも!」

「無謀と勇気をはき違えた蛮勇の化身っ!」

「うははははーっ」

 

 

 五日目、袁術の強い要望(わがまま)により、曹操陣営が後退して袁術陣営が前線へと出る。合わせて劉備陣営が前線へと押し上げられ、関攻めに参加し始めた。

 最前線には孫策、甘寧、関羽、張飛らの姿が見られる。合わせるように関に掲げられた牙門旗が左右へと別れ、正面から見ると『()』『()』になった。

 これまでの様子見のような攻撃は過ぎ、連合の前線は曹操(これまで)よりもがむしゃらに攻め立て始める。

 関からの反撃は限定的だったが、連合に数千の死傷者を出す。

 

 六日目、孫策や劉備たちが関に向かって罵声を浴びせかけ始める。申し訳程度の攻撃を除けば丸一日ほど動きがなかった。

 

 

 

 六日目の夜、連合軍内の江陵陣地、首脳部の集まる天幕にて。

 汜水関の攻略は全く進まず、連合の足は止まったままだ。江陵の思惑通りの展開であるはずなのに、ほぼ同時に届いた良い知らせと悪い知らせが首脳部を悩ませていた。

 

「まず、あまり良くない知らせです。翠さんでは華雄を抑えきれないようでしゅ」

「予想通りと言えば予想通りですねー」

「……面倒なやっちゃなぁ」

「あの罵声には、確かに耳を汚された気分ではあるが」

 

 気を取り直して、趙雲が鳳統に尋ねる。

 

「して、良い知らせの方は?」

「はい。成都までに予定を2日短縮出来たそうです。朱里ちゃんによればそのまま予定を2日早めて考えても問題は無いだろうと」

「では最短であと2日か」

 

 目標の10日間まであと4日。2日の短縮が可能ならあと2日だ。洛陽で待ち構えているだろう大事件に刻一刻と近づいていく重圧に、皆の緊張がにわかに高まる。

 だが、そこで程立が致命的とも言える問題を指摘した。

 

「ここで華雄さんを逃した場合、虎牢関に入られてしまうことになりますがー」

「げっ」「うぅむ」「あわわ……」

 

 将たちが苦々しい表情で声を漏らす。汜水関は10日で抜く『予定』だが、虎牢関はその倍をかけることになっているのだ。たった1日で我慢が効かなくなる者が関の中で兵の指揮を執るなど、考えるだけで嫌になる。

 鳳統は少しだけ考え、結論した。

 

「でしたら、ここで討つか捕らえるか……星さん、出ますか?」

「ふむ? では任せて貰おうか」

「あー! ずっこいー!」

 

 一騎打ちを仄めかした鳳統に趙雲は頷き、張遼は駄々をこねる。歴戦の戦士らしからぬその姿に、鳳統たちは目を細めて笑う。

 

「霞さんには、虎牢関で『飛将軍』の抑え役に回って貰うつもりですから」

「あん? あー、確かに恋の相手はウチしかおらんな……んまぁそういうことなら今回は譲ったるわ♪」

「フッ。ぬかせ」

 

 武人たちが結論を出したのを見計らい、いつの間にか横で寝息を立てていた程立が鳳統にたたき起こされる。

 

「風さん、起きてください!」

「おおっ? ……ではでは明日は陣を組み替えて貰い一騎打ち。明後日にも劉将軍を前に出して関を占拠していただきましょうかー」

 

 程立が起きると同時にさらりと話がまとまり、武人たちは急にだらけモードへと突入した。張遼が憮然とした表情の鳳統を見て笑う。

 

「雛里も強ぉなったなー?」

「し、霞さんっ、真面目に聞いてくだしゃい!」

「ちゃんと聞いとんでー。上手く立ち回れば2日3日稼げるっちぅこっちゃろ?」

「うむ。負けろと言われても聞けぬ時はあるが、勝てと言われれば大抵の相手には勝ってみせよう。その辺りの差配は任せて良いのだろう?」

 

 趙雲は気負いもなく言ってみせる。張遼も同じ気持ちで頷いてみせるが、程立は相変わらず眠そうにしながらも、僅かに眉を寄せる。

 

「軍師としては、必要な時には負けたフリくらいはして欲しいものですねー」

「せめて引き分けくらいは……」

「ふむ? まぁ約束は出来んが引き分けならば努力しよう」

「相手が三下やなかったらなー?」

 

 張遼が茶々を入れ、趙雲も笑いながら頷く。軍師たちの苦悩は続くようだ。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「陣地を入れ替える? あー……この嫌な感じは、それだけじゃないわね」

「そ、それがですねぇ。私たちのやり方は評価をしてくださるとのことでしてー。なんと言いますか、そのー」

 

 言いよどむ陸遜に、孫策の中で嫌な予感が更に膨らむ。そしてそれは、とても嫌な形を作り始めていた。具体的には自分たちの目標達成が遠のいたかのような。

 

「まさか……。まさか、袁術ちゃんにその手柄を取られたのかしら?」

「あ、あはは……はいー」

 

 陸遜は半泣きで肯定した。落ち込んで大きな二つの果実が地面に落ちそうな程に沈んでいる陸遜を責めることは出来ず、孫策は唇を噛む。

 

「なんてこと……。功を上げるどころか、名を売る機会すら奪われるなんて……っ!」

「姉様」「雪蓮様」

 

 今にも崩れ落ちそうなほどに弱々しい孫策の姿に、孫権と甘寧はかける言葉が見つからず、伸ばしかけた手を下ろす。

 

「ですけどぉ、江陵の取りなしで、劉将軍からは一定のはからいが」

「茶番でしょ。劉表と江陵はどう見ても繋がってるもの」

 

 陸遜の言葉を遮って孫策が言い切る。孫権と甘寧はそれを見ることしか出来ない。陸遜は無理に笑って劉表からの『はからい』を振る舞うことにした。

 

「そう、ですね……。ではでは、もう、今夜はパーッと飲みましょうか~」

「えっ? お酒飲めるの!?」

「姉様?」「雪蓮様?」

 

 一瞬で態度を切り替えた孫策の姿に、孫権と甘寧はかける言葉が見当たらず、それぞれの得物に手を伸ばす。

 

「あ、あら? 二人ともどうしちゃったの」

『反省してください』

 

 

 

 七日目、連合軍は朝から関から3里(1.2㎞)ほどの位置で陣地を入れ替える。

 昼前、関から300歩(350メートル弱)ほどの最前線に江陵が戦陣を組んだ。

 

 関からならば遠当ての矢が届く距離ではあるが、射程いっぱいまで飛ばして勢いを無くした軽い矢が貫けるような江陵軍ではない。一方で江陵の長弓も関の高さに届かせるには威力を削るしかなく、結局の所、牽制くらいしか行われていない。

 

『馬ー華、馬ー華!』

「イラッとした。ちょっと江陵軍潰してくる」

「だあああ! もうちょっと我慢しろって!!」

 

 なぜ「もうちょっと」なのか。それは朝から華雄の牙門旗に向かって何度も同じ文面の矢文が打ち込まれているからだ。

 

 ――華雄に一騎打ちを申し入れる。未の初、関より二百歩の場にて待つ。

 

 未の初、つまり13時頃に、関から二百歩、約230メートルの位置で待つ、と。

 江陵の戦陣の前には、おそらくどちらかが一騎打ちの相手だろう白馬の将が二騎並んでたたずんでいる。13時まではあと2刻(30分)といったところ。そろそろ華雄の我慢も限界だった。

 それを抑える馬超も、江陵の狙いを部分的にではあるが正確に察していた。つまり、限界を訴えた馬超のため華雄をここで仕留めてその負担を軽くするという目的を。故に自分のためにもなるべく江陵の思惑から外れたことをやって欲しくない。

 今はその江陵のせいで抑えるのに苦労しているのだが。あの先頭で白馬に乗って華雄を煽っている青い羽織のヤツは後で絶対にぶっ飛ばすと心に決め、馬超は華雄を抑える。

 

 13時まであと1刻(約15分)を切っただろう頃合い。江陵からの攻撃と罵声の一切が止んだ。

 僅かに間を置いて2頭の白馬が前に進み出る。

 

 

「我は江陵の将、趙子龍なり! 華雄に一騎打ちを申し込む!」

 

 

 

 さらに1刻後、両軍は約1里(400メートル強)の距離を置いて対峙していた。

 一方は反董卓連合軍約20万。一方は馬超と華雄直属の兵数百、背後には関を背負う。

 中央に進み出るのは『趙』と『張』の旗と将、『馬』と『華』の旗と将。

 

「口汚く嘲弄してくれた割には潔い態度ではないか。ここでもあの不快な台詞を聞かされるのかと思っていたぞ」

「あの程度の罵倒で曇る武であるなら、それまでの人であったということだろう?」

 

 栗毛の馬に跨がった華雄が前に出る。対するように趙雲がゆっくりと進み出る。

 

「ぷっくく、華雄っちはどっちかっちゅーと――」

「どちらでも構わんよ。仕事が楽になるか、仕事が楽しくなるかの違いでしかない」

「ほざけ! 我が武の曇りなき様、とくと見るがいい!」

「やっちまえ華雄!」

 

 立場を忘れた馬超の声援によって戦いの火ぶたは切って落とされた。

 最初から激しく攻め立てる華雄の槍を趙雲が受け流すようにして立ち合う。

 やや離れた場所に居た張遼が、打ち合う趙雲と華雄を避けるようにゆっくりと馬超の隣に回り込んだ。

 

「なぁなぁなぁなぁ……ウチらもやらん?」

「あん? 何言ってんだお前?」

「あっちはえっらい楽しそうやんー」

「そぉかぁ? 華雄が楽にあしらわれてるだけじゃねーか」

「そんなこと言わんとー、ウチ虎牢関まで暇やねん」

「お前は後でぶっ飛ばすつもりだけど、今そんなことしたらあたしが怒られんだろ」

「……へぇ。まるでウチをぶっ飛ばせるみたいな言い方やな?」

「当然だろ」

「なんやて?」

「なんだよ?」

 

「敵将華雄、趙子龍が捕らえた!!」

 

『おおぉーっ!』

「「はやっ」」

 

 二人を除いた周りは割と盛り上がっていたらしい。

 

 

 

 

「馬超と華雄。関を抑えるのに適当な将とは言えないわ」

 

 再び閉じられた関の門を遠目に見ながら、曹操が傍らの軍師たちに話しかける。

 

「はい。守りに徹すれば今しばらく保たせられたものを、のこのこと一騎打ちに出てくるような連中です」

「そこよ、桂花。なぜ彼女たちは江陵が前に出た途端に一騎打ちに応じたのかしら?」

「――やはり江陵との間に密約があったのではないかと」

「関を明け渡すのが予定通りならば何を狙うのか……。稟、貴女の考えは?」

「はい。考えられるのは大きく分けて3通り。一つは連合に味方し、馬超を獅子身中の虫として董卓軍で働かせること」

「連合参加については、劉表から要請が出されるまで江陵は様子見をしていたはずよ」

 

 曹操たちは黄巾賊騒動以来、江陵に関しての情報収集を怠っていなかった。

 そして劉表に付けた間諜から判明している限りでは、劉表に遅れること数日程度とはいえ江陵の動きは明らかに劉表より後手に回っている。

 そのため、先立って動いた馬超とは連携が取れていないのではないかと考えていた。

 

「その通りです。ですから状況を利用したと考えます。この場合、江陵は未来への布石のために袁紹や、あるいは我らを生け贄にしている可能性があります」

「2つ目は?」

「董卓軍に味方し、江陵が獅子身中の虫となることです。これならば、我らを関の間に誘い機を見て連合から離脱、前方の董卓軍10万を虎牢関に、後方の江陵軍10万を汜水関に入れてしまえば我々に手はありません。……ですが」

「その兆候は見られないわね」

 

 曹操が確認するように荀彧に目を向ける。

 

「我々は陳留付近を通る道には全て関を置いて厳重に通行を管理させています。更には、聞こえてくる噂、間諜、斥候にもそれらしき影は掛かっていません」

 

 汜水関に残した兵も万に僅かに届かない程度の大兵力だ。疑って掛かっている曹操たちに気付かれるより早く制圧することなど不可能に近い。

 

「ですので最後の一つ、どちらの味方でもないか……双方の味方である場合。私は後者の可能性が高いと考えます」

 

 郭嘉の言葉に、曹操は目を細める。

 

「そうね。私を出し抜いて横から全てを奪い取って勝てるというのなら、どちらかの味方でなくとも勝者たり得るでしょう」

 

 そんなことは不可能だと言わんばかりの口調だ。そしてそれは郭嘉にとっても同じ認識であったらしい。微塵も揺らぐことなく曹操の言葉を待つ。

 

「ならば、双方の味方というのはどういう意味か?」

「黄巾賊討伐の折、江陵の目的は乱を治めることでした」

 

 曹操や荀彧にとっては苦い記憶だ。引き合いに出されただけで荀彧は拳を強く握る。

 

「今回は無理よ。劉表が立った時点で董卓は『賊』になった。仮に董卓が賊でなかったとしても、いえ、洛陽にいた劉表が知らないわけがない。董卓を賊として扱い続ける利点を無くすか、賊でなくすことに利を生み出さなくては劉表は認めないわ」

 

 荀彧の指摘した解法を聞き、曹操はすぐに解答に至った。

 

「……つまり、江陵は劉表が認めるだけの利を与えて乱を治め、その結果で(・・・)利を得ようとしているわけね」

 

 連合と董卓らをぶつけるより、諸侯を多く残すことで利に繋げるのだろう。

 

「その通りです。彼らの振る舞いは君主のそれと言うより商人に近く、官位よりも実利に重きを置いていると考えれば、これまでの行動にも辻褄が合います」

 

 大陸で最も優秀とされる江陵商人達の親玉である、という考え方だ。元々商人に対してあまり良い感情を抱いていなかった荀彧も納得の表情を見せた。

 20万の大軍同士がぶつかって勝敗を付けるより、両軍を残す方が商売相手が多く残るということだ。酒を配ったことも宣伝に利用しているのか。

 

「商人……なるほど。官位すら商品というわけね」

 

 利益が一時手元から離れても、やがて大きくふくれあがって手の内に戻ってくるように方策を練っておく。やり口と視点は違うが、普通の君主や軍師と同じことをしているかのように見えてしまう。

 かみ合わないのは、江陵の目標と曹操らの求める場所が全く異なるからだ。さらに、空海の意思と江陵の行動が一致しないように見えることもあるため余計にややこしい。

 

「ふふっ。だとしたら空海は、史上最も出世した商人ということになるわね」

 

 曹操はここにきてようやく納得していた。『彼を知る』ことは本当に重要だった。出世株ということで目がくらんでいたらしい。求めている場所が違えば手段も異なるのは道理であるし、おそらくは出世も"手段"でしかなかったのだろう。

 空海を隠れ蓑にしている江陵幹部のしたたかさと、そんな幹部達をまとめ上げて江陵を育てた空海はやはり油断ならない。しかし、商人というのなら商いを許せば……否、許す許さないではなく、何らかの取引という形であれば関係を見直せるかもしれない。

 

 曹操は新しい興味を得て笑う。洛陽にあるという決着の行方を、今だけは忘れて。

 




>梅干し鈴々
 あるオンラインゲームで私入魂のアバターの赤髪が梅干しって言われたことがあるんです。思い返してみると鈴々の頭部にそっくりだったので彼女も梅干しと言うことになりました。性格改変は……今年のクリスマスが中止されたらツンデレにします。

>汜水関
 汜水と呼ばれる川の名前が付けられている。虎牢関と同じ県にあり、東が汜水関、西が虎牢関らしいです。両者の距離は10㎞くらい? どっちが西でどっちが東だったかよくわからなくなります。恥ずかしながら執筆中の3ヶ月くらい虎牢関と間違えてたり。

>虎牢関
 生け捕りにされて皇帝に献上された虎がこの地で飼育されたということで付けられたのが虎牢という名前。当時は城塞だったとか背が低かったとか言われることもありますが、この小説では難攻不落絶対無敵七転八倒虎牢関です。

>曹操と結んで袁術の影響下から逃れる
 後の時代の創作において、孫策は敵である曹操から官位を貰い、皇帝でもないのに太守の官位を配り、袁術に絶縁状を叩き付けて曹操に付き、曹操の命令を受けて袁術を攻撃する準備をしている最中に袁術が死んで後継者争いが起こると曹操から官位を貰い、曹操の本拠地を攻める準備をしている最中に殺されます。もちろん史実ではありません。
 孫呉が嫌いなわけではないのですが、史実ネタを織り交ぜようと調べていると、自分の部下が問題を起こしたので報償が延期されて「袁術を恨んだり」、「袁術を追い詰めるために」袁術と同等以上の敵対勢力を倒そうとしたり、兵士を返された「直後に兵士を返されていなかった」ことになったり、「後漢の忠実な臣なのに皇帝を無視して自ら」官位を発行したり、曹操側の記録にない「官位を曹操に発行して貰って袁術と手を切ったり」、袁術が死んだので「(用のなくなった)曹操の本拠地へ攻め入ろうと準備したり」。
 こんな孫呉書けるか!
 何故こんなことになっているのかと言えば、元は孫呉の残した記録が呉王朝に都合良く改ざんされて書かれていたせいであるのと、後の小説家が孫策らを格好良く書いて袁術を小者にするために勝手にエピソードを追加したせいらしいです。上で「」で書いた部分がオリ展開ですね。
 恋姫孫呉はこの創作されたエピソードのいくつかを元に作られています。断金とか。

>袁術
 わたしは 美羽が すきです

>商人空海屋
 イチキュッパの官位が2割引! 報償一括払いで5%オフ! 今なら田祖還元が13%ついて! さて、いくらっ?

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5-5 難攻不落絶対無敵七転八倒虎牢関

 虎牢関に到着してから十日。

 

「江陵一の将……これでは敵が多すぎるか。空海様の右腕、は、もっとマズいな」

 

 口にしただけで感じる不吉な未来を回避するため、趙雲は一瞬で言を覆す。

 

「何しとんー?」

 

 いかにも暇そうな、そして眠そうな表情の張遼が趙雲の隣に腰掛ける。風よけの天幕に材木の椅子と暖かい日差しはのんびりするのに最適だ。

 

「……実は名乗りを考えていたのだ。常山の昇り竜だけではどうにも印象が薄くて」

「いやいやいやいや」

 

 張遼は勢いよく否定する。何をとぼけたことを言っているのかと。

 

「今回ばかりは常山の昇り竜以上の名乗りはないと思うで」

「うぅむ。そう言われるとその通りなのだが」

 

 張遼は煮え切らない趙雲を笑い飛ばす。

 

「空海様が送り出してくれたんやで? そのままで十分やって」

「……そうだな。どうも暇になると色々考えてしまっていかん」

「あぁー、まぁなぁ」

 

 関に到着する直前に董卓軍から襲撃を受け、先陣に立っていた袁術軍が少なくない被害を受けて混乱、結果的に丸一日を無駄にするハプニングはあったが、全体的には連合軍は落ち着いていた。

 劉表が先頭に立ち、初日から定石通りの関攻めを始めたからだ。

 

 城攻め、関攻めとはまず、一方的な攻撃を受ける弓を防ぐため塀を設置すること、そしてその塀を壊されないようにするため人や馬が近づけないよう柵や堀を作る事、それらの作業を行うために弓を防ぐ盾を持ち関からの奇襲に備えながら前線へ人を送り込むことを後ろから順に実行しなくてはならない。

 そして、時間をかけて少しずつ塀ごと前進して行き、ある程度近づいたら雲梯を使って直接関の上に人を送り込むのだ。同時に門の破壊を試みたりもする。この時、前線と関が近づいているほど大量の人間を送り込みやすいため、前線丸ごと少しずつ前進していくのが関攻めの基本と言える。

 

 現在の関と前線の距離はおよそ200歩(約230メートル)。この辺りになると火矢が飛んでくることもあるため、防火対策に土や水を含んだ布などを用意して慎重に前進しているところだ。

 もっとも、この9日で3回ほども雪がちらつき、朝になれば持ち込んだ水の上から半分近くが凍っている事を考えれば、その歩みがどれほど遅くなっているのか想像が付くかもしれない。江陵や劉表以外の軍では、程度の違いはあれど凍死者すら出ている。

 

 時間が経つほど洛陽が遠くなっているかのようにすら感じられるのだ。このような状況下で長く暇を持てあました趙雲の思考が暗いものへと落ちるのも不思議はなかった。

 

 こんな戦いが起きてしまったこと、虎牢関をいかに攻略しきるかということ、洛陽で待つ出来事、董卓がどうなるのか、そして大陸の行く末。

 おそらくは連合に積極的に参加している諸侯ほど、それらに対する焦りが強いのだろうと考え、趙雲は少しばかり溜飲を下げる。

 ただ、それでも重圧が消えたわけではなかった。空海に寄せられた期待に応えられるか不安で震える自分が情けなく、趙雲は大きく息を吸い込んで立ち上がる。

 

「お? なんや、百面相はやめたんか?」

「……ふん、いい趣味だな。――少し身体が冷えた。鍛錬に付き合え」

「おお、ええでええでー」

 

 気恥ずかしさからぶっきらぼうに言い放つ趙雲を気にした様子もなく、張遼は嬉しそうに偃月刀を振り回す。

 

 

 そんな日がさらに2日続いたところで、江陵からの文が届いた。

 

 文を開封して最初の数行を目に納めた瞬間、鳳統が笑顔になる。

 

「前回に続いての朗報ですっ。予定をさらに4日早められましゅ! ……ます」

「おお」「ホンマに?」

「どうやら益州の街道整備が予想以上に進んでいたことで雲南までに2日ほど旅程を短縮出来たようです。帰路については更に早められる可能性が高く、4日というのは余裕を見て立てられた予想だそうです」

 

 鳳統がそこまで伝えたところで、ようやく皆から安堵の息が漏れた。だが、程立だけがその顔に僅かな不安の色を浮かべる。

 

「どうした、風?」

「いえいえー。大したことではありませんよー」

 

 そう言って趙雲に向き直った程立はいつもの眠そうな表情で――

 

「……ふむ。なに、虎牢関を抜ければわかることよ」

「おや? 風は何も言っていませんがー?」

「そうだな。何も言っていない」

 

 趙雲は悪戯好きの猫を思わせる笑顔で程立を眺める。

 

「……心配しなくても大丈夫ですよ。風のこれは杞人の憂いみたいなものですからー」

「本当か?」

「もちろんですよー」

「うむ、ならば気にせぬことにしよう」

 

 信頼を込めた笑顔を向けられた程立はうっすらと頬を染め、小さく笑った。

 食い入るように手紙の続きを読んでいた鳳統が顔を上げる。

 

「次は主に洛陽の董卓軍についてですね。……主力の将兵は虎牢関へと入っている人達でほとんどのようです。洛陽には数こそ残っているものの、質は高くないとか。冥琳さんと祭さんは、やはり半ば人質のように扱われているそうです」

「二人はどうもせんでええんか?」

「問題ありません。この手紙が届いていることこそ想定を外れていない証明になるかと」

 

 鳳統はひらりと手紙を振って示して見せ、読み終えた一枚を丁寧にたたんで次の一枚を手に取る。

 

「なら、あとはウチら次第っちゅーこっちゃな」

「はい。虎牢関には『錦馬超』と『飛将軍』の率いる計4万がこもり、虎牢関を抜ければ洛陽から20万には届かない程度の軍勢が出るそうです」

「両軍合わせて50万近くが集まるか」

「それらを劉将軍に上手く伝えればさらに1日は稼げるでしょう。むしろ、1日延びることはほぼ確実です。逆にあと2日で抜けなくてはならなくなりました」

「兵数を伝えて、兵力の温存を理由にこちらから将兵を貸し出すことを劉将軍に申し出てみましょう。これなら一騎打ちを提案しても受け入れやすいと思いますよ」

 

 程立が趙雲と張遼に視線を送る。趙雲は静かに息を吐き、張遼は笑顔を浮かべた。

 

「いよいよか。……1年前の雪辱を果たさせて貰おう」

 

 決意を口にした趙雲に、鳳統が手紙の内容を伝える。

 

「祭さんの評では、翠さん――錦馬超は『今はまだ馬上において張文遠に勝る』と」

「あん? んあ゛~っ、やっぱ白黒付けとくべきやった!」

 

 反応したのは趙雲ではなく引き合いに出された張遼だった。張遼はここしばらくの間、汜水関で戦いをふっかけ損なったことを悔やみっぱなしである。

 趙雲はそんな彼女を見ていつも通りの意地悪な笑顔を浮かべた。

 

「言っておくが獲物は譲らんぞ」

「っくぅー! わかっとるわ! ウチかて『飛将軍』は譲らんで!」

「無論だ。飛将軍では肩慣らしにはならんのだろう?」

「まぁなぁ……恋じゃあ狙って引き分けとか器用な駆け引きは望めへんし」

「おや、弱気だな。勝っても良いのだぞ」

「そりゃこっちの台詞やで。ウチにも勝ちきれんのに、勝てる相手なんか?」

 

 闘争を前に少しばかり高ぶっているらしい二人の言葉にはトゲがある。鳳統は場を和ませるため――彼女にしては本当に珍しく――意地悪そうな表情で、その言葉を口にする。

 

「お二人には空海様からのお言葉が書かれていました。手紙によれば『二人の流した血と汗を覚えている』と」

 

 一瞬遅れて、武人二人の顔が真っ赤に染まっていく。そして――。

 

「――うひへへへへ」

 

 そして張遼が壊れた。

 

「なんや空海様覚えとるって。ちょくちょく鍛錬に来とったんはウチを見に来とったんかいな。こらウチも恋を相手に負けられない戦いっちゅーやっちゃな! うひひへふふ!」

「お、おい霞、不気味すぎるっ。笑うな!」

 

 張遼に釣られて趙雲も頬を緩ませる。張遼をたしなめてこそいるが、趙雲もかろうじて笑うのを耐えているだけだ。

 軍師たちは顔を見合わせて悪戯っぽく笑う。

 

 先ほどまで感じて居たトゲのある緊張感はどこかへと消えていた。

 緩みそうになる頬を意識しながら、趙雲は芯から湧き上がる熱のようなものを感じていた。それを身体の中に押しとどめるように拳を握る。

 冬の空気にかじかんでいた手は、いつの間にか色を取り戻していた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「……来る」

「むっ、恋殿、戦の気配ですか?」

「ん。ちんきゅ、弓の準備する」

「了解ですぞー!」

 

 

 

 

「雛里っ、下がりぃ!」

「え!?」

 

 突然張遼に押された鳳統がよろける。

 直後、張遼は鳳統を突き飛ばした手をそのまま自身の隣に空いた宙にかざして――その右手に、関から250歩(約290メートル)近い距離を飛んで来た矢を掴んだ。

 

『おおっ』

 

 様子を見ていた劉表軍の幹部たちから驚きの声が上がる。

 

「あわわわ!?」

「なるほど。あれが飛将軍か」

 

 鳳統を掴んで横へ避けていた趙雲が感心したように告げた。張遼は笑みを浮かべる。

 

「せやな。遠当ての矢でもなしにこんな離れたとこまで飛ばしてのけるんは恋くらいのもんや。しかも的を外すとこまで恋らしいわ」

「これだけの距離だ。身体一つ分など誤差にもならんだろう」

「紫苑相手やったら眉間を射貫かれとるやろ?」

「弓の腕前で引き合いに出されるのが二黄の一角というのはとんでもないことだぞ」

 

 二人のやり取りを耳にして、やっと落ち着きを取り戻した鳳統が申し訳なさそうに顔を上げた。

 

「しゅみません……。もう少し後ろに居た方が良いでしょうか?」

「いやぁ、これだけ出来るんはあン中じゃあ恋だけやって。気にすることないで」

「本陣に居て貰っても構わんよ。私たちが仕事を終えるまでやることもないだろうが」

 

 張遼は手にした矢に目を落とし、そこに縛り付けられた紙を見て目を細める。

 

「こりゃ矢文やな。内容は……んっと、やっぱり一騎打ちしろって書いてあるわ。こない目立つ方法でやらんでもええやろうに」

「時は戻せません。これは後の布石としましょう。こちらの動き次第では好都合です」

「劉将軍を説得するのは風なのですけどー?」

 

 矢が飛んできたことを聞きつけた程立が少々慌てたように現れる。

 矢を片手に小さな紙切れに目を落とした張遼、それを覗き込むようにしている趙雲と、二人を見守るようにしている鳳統は、前線に近いこの場所で非常に目立っていた。

 漏れ聞こえた鳳統の言葉から素早く状況を理解した程立は、自身の持つ情報も合わせて事情を確認する。

 

「矢が届いたことは既に劉将軍の耳にも入っていますのでー、方針には賛成しますが」

「ひとまずは劉将軍の城攻めの影響が大きいということに。汜水関の折の因縁と、江陵を指名した一騎打ちという線ではどうでしょうか」

「実際、抜けるかはともかく堅実に戦っていたようですから、劉将軍だけでなくあちらも疲弊しているでしょう。そのくらいで十分ですかねー。ただし、雛里ちゃんは風と一緒に本陣へ来て貰いますよ?」

「あわわ……!」

 

 程立が有無を言わさぬ口調で鳳統を捕まえる。厄介事に巻き込もうとしているように見えて、矢が飛んでくる場所に置いておけないと考えたのも本音だろう。

 

「くくっ。そのまま本陣で吉報を待っているといい」

「ん、関の様子見とるとあんま時間もないみたいやし、ウチらはもう行くわ」

「あわっ、星さんも霞さんもお気を付けて!」

「本陣には諸侯が集まっていますので、一緒に見学していますねー」

「うむ」「おう!」

 

 趙雲と張遼は預けていた白馬に跨がり、振り返って前線を向く。

 遠く見える関の扉がゆっくりと開いた。

 

 

 

 

 関から現れた呂布と馬超、連合の前線から歩み出た趙雲と張遼。互いに数騎の供回りを連れ、両者はあと10歩(約11.5メートル)でぶつかると言う所まで近づいた。

 呂布と張遼の視線が絡み、張遼の僅かな仕草を合図にゆっくりと二人で移動して行く。

 

 続いて、若い木材のように明るいクリーム色の馬に跨がり長い槍を担いだ馬超が趙雲の前まで進み出た。

 

「よっ。今度はあたしが相手か。華雄の時見てたけど、1年前より強くなったんだろ?」

「ああ。以前は負け越したが……あの敗北は覚えているぞ!」

「地上のあたしと同じと思うなよ。馬の上なら母様にも負けねぇ!」

 

 二人はにらみ合う。だが、その声は楽しそうで。

 

「これまで流した血と汗を証明する」

「涼州騎馬の真髄を見せてやるよっ!」

 

 声と共に馬超の身体がふわりと持ち上がる。

 主人の意思を受けた馬超の愛馬が、全身を弾丸にして趙雲に迫った。

 

「む!」

 

 趙雲が――やはり馬ごと――斜め前へと逃げながら迫る槍を弾く。

 後手に回った上での対応としては十分以上、体勢の不利から考えればほぼ最上の回避を取ったにも関わらず、たった一撃で腕をしびれさせるほどの威力。

 趙雲は素早く、右手にかけていた力を左手に移して槍を掴み直し、ほぼ同時に足下から振り上げられた馬超の追撃を、今度こそ綺麗に受け流した。

 

 趙雲が二、三歩逃げ、馬の首を返したときには、馬超は既に趙雲に向けて馬を走らせている。一歩遅れて趙雲も馬超に向かって加速する。

 二人の突き出した槍が交差し、趙雲の槍が大きく弾かれる。

 今度は更に一歩早く馬の首を返し、その場に止まるようにして両者が猛烈な勢いで打ち合いだした。

 

 

 

 

「ひっさしぶりやなー、恋」

「……ん」

 

 趙雲と馬超から声の届かない程度の距離を置き、呂布と張遼がやや声を潜めるようにして話す。

 

「元気にしとったか?」

「ん。霞も元気」

 

 呂布という少女にしては珍しい気遣いに、張遼が笑みをこぼした。

 

「わかる? めっちゃ充実しとるからなぁ」

 

 張遼の言葉に呂布は何も考えていないような表情で頷く。そして、続いてやや難しげな表情で告げた。

 

「……月たち元気ない」

「そらまぁそうやろーな。ま、せやから(・・・・)ウチらが来てんねんけど」

 

 弱気を見せた呂布に対して、張遼は誇らしげに笑う。呂布は小さく首をかしげ、何かを納得するかのように頷いた。

 

「ほんなら今日は前哨戦(・・・)や。景気づけに勝たせてもらうで、恋!!」

「ん……来い!」

 

 二人は言葉と共に駆け出す。両者の矛がぶつかり、雷が落ちるような鋭い音を放つ。

 

 

 

 

 優勢に攻め続けているのは馬超だった。趙雲は押され続けながら、しかし全く譲らずに打ち続ける。そして息が上がっているのもまた、馬超だった。

 

「なるほど。人馬一体は確かに凄まじい……だが、今の私は絶好調(・・・)だぞ!」

 

 両者は1年ほど前に江陵で模擬戦をしている。馬上のことではないとはいえ、お互いの手の内には覚えがあった。

 だからこそ、馬超はたった1年で馬上の自分と打ち合うまでになった趙雲に驚愕し、同時にどこかすっきりしない感情を抱く。

 

「……強くなってんな」

「当然だ。私は空海様にふさわしい槍となる」

 

 まただ。こんな新参者が(・・・・・・・)空海の矛になっていることが苛立たしい。

 馬超は舌打ちを飲み込んで仕切り直しとばかりに槍を払う。

 

「いいぜ。空海様の側で大陸の中心に立てるってんなら……その槍さばき、まずはあたしが見定めてやる!」

「望むところ!」

 

 強く地を蹴った馬超の騎馬が趙雲に迫る。

 趙雲はかろうじて最初の攻撃を逸らし、続けざまに振るわれた素早く小さな振りを余裕を持って弾く。そして、弾いたその手で馬超の脇腹を小突くように槍を突き出す。

 

「チッ」

 

 先ほどからほとんど同じことの繰り返しだ。動きこそ様々だが、大振りから連撃を狙う馬超に対し、反撃狙いの趙雲が食いつき続けている。

 両者ともに数発がかすったのみ。受けた傷は趙雲の方がやや大きいが、攻撃の疲れは馬超に色濃く表れている。

 格下だと油断していたわけではないが、一度は完全に勝ちきっている相手に間違いなく苦戦を強いられているという事実は馬超の気を焦らせていた。

 そしてその焦りは、いつもより力んだ攻撃に現れている。

 大振りの払いを考えていたよりずっと軽くいなされて、馬超は僅かに体勢を崩した。

 

「しまっ――」

「貰った!」

「っくぅ!」

 

 趙雲の反撃をかろうじて防ぐ。防御は間に合ったが、甘い大振りの対価は左の肩にほど近い上腕からの出血。

 

 その瞬間、馬超の目に今までに無い光が宿ったことを趙雲は見逃さなかった。

 現在進行形で槍を交えている趙雲だけにしかわからないだろう劇的な変化。

 趙雲は全身をやや引くようにして馬超に声をかける。

 

「――どうやら、これまでのようだな」

「ふざけんなっ! こっからだろうが!」

 

 迂闊にも(・・・・)叫んだ馬超を見て、趙雲はその推測を確信に変えた。

 

「だからこそだよ、孟起殿()。貴女はようやく私を認めた(・・・)のだろう?」

「あっ!? ~~っ!」

 

 自らの心の変化を言い当てられ、馬超は悔しさと恥ずかしさから叫び出しそうになる。

 空海の槍として認めたという意味ではない。ただ、それを上からの目線で認めるのではなく『死力を尽くして競う相手』として認めてしまったのだ。

 未だ自らの勝利を信じる馬超をして、目の前の趙雲が自分と同じ舞台に上がりつつあることを認めざるを得ない。それは1年前に勝ち誇ってしまった代償でもあるのだろう。

 趙雲を恨むことも出来ず、ただその感情を飲み込んだ馬超は、苦虫を噛み潰したような表情で告げた。

 

「くそっ! 勝負は預けるっ、――決着は江陵(・・)で付けるからな!」

「ええ。空海様の前で(・・・・・・)

「ちっ……。お前、性格悪いって言われるだろ」

「おや。空海様には『いい性格だ』と褒めていただいているのだが」

「やっぱ性格悪い――っての!」

 

 言葉と共に馬超は派手に槍を振るう。

 

「おっと」

 

 危なげなく、しかし大げさにそれをかわした趙雲は反撃に移ることなく、馬の首を返して走り去る馬超を見送った。

 

 

 

 

 一方で数十歩離れただけの場所では、青い羽織が風を切るように翻り、赤い暴風に立ち向かっていた。

 

「――そこやッ!」

「ッ負けない……!」

 

 否。張遼が、呂布を追い詰めていた。

 

 圧倒的な腕力と勘の良さを持つ呂布に対して、攻撃を受け流し、点ではなく線の攻撃を可能な限り素早く繰り出す。わざと攻撃を止めさせて体勢を立て直し、わざと攻撃を受けて距離を離す。

 一手読み違えるだけで即死という状況にありながら、感じる確かな手応えに張遼は笑みを浮かべる。

 乗る馬がふらついたところで、自分から距離を取る呂布を張遼はわざと逃した。

 

「あとちょいかー」

「霞、強い」

 

 呂布は素直に賞賛する。張遼は少しだけ照れたように笑い、誇らしげに胸を張った。

 

「当ったり前やん。ウチは江陵で、美味い酒飲んで美味いもん食って、恋より強い連中を相手にして、一番見てて欲しい空海様の前で、ウチと同じくらい強い連中と武を競うてんねんで? これで強ぉならんかったら嘘やろ」

「ん……お腹へった」

 

 突然悲しげな表情を浮かべた呂布に、張遼は「しまった」と天を仰いだ。

 

「あっちゃー、恋の前で食べ物の話したんは失敗やったか……。まぁ、今のウチじゃ勝ち切れんみたいやし、このまま続けて負けたりしたらウチのこっわい軍師様らに怒られてまうからなぁ……。ここらで引き分けたフリしとこか」

「……勝てたかわからない」

「おおきに。恋に言われたら自信つくわ」

 

 張遼は軽く偃月刀を振り回して呂布へと斬りかかる。大振りで数合打ち合い、何度か派手に弾いて馬の首を返した。

 

「ほな、またなー。恋」

「ん」

 

 表情を消しながら本陣へと戻っていく張遼に倣い、呂布も関へと馬を向ける。その頃にはもう、呂布の頭の中は食べ物のことでいっぱいになっていた。

 

 

 

 翌朝、関の各所から煙が上がり、董卓軍が虎牢関から撤退したことが判明する。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「空海様、洛陽より『機が満ちた』と」

管理者(あいつら)は?」

「もう間もなく偃師(えんし)に到着するかと」

 

「よろしい。では諸君――派手に行こう」

 




>杞人の憂い
 杞憂のこと。空は落ちるのか。後漢から見ても600年ほど昔のお話。

>血と汗を知っている
 ある曲の歌詞からのオマージュです。意味変わっちゃってますけど。ちなみに、空海や江陵の街には執筆中のテンションを切り替えるためのテーマ曲が。

>矢を掴む
 一発芸にありますね。私もリズム天国レベルでならやれる気がします。

>諸君。派手に行こう
 もしかして→了解した……


 2012年12月25日、狙い通り私の下にAmazonサンタさんから荷物が届きました。
 そう――
    代 引 き で

「代引きのお荷物が届いておりますが、ご在宅でしょうか?」「はい(震え声)」


 次の土日で5章が終わる予定。


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5-小話 とある帝の竜の詩

 初平二年春正月、『空海散歩 初平二年春の書』に記す。

 

 

 

 かつて高祖劉邦は長安に悪竜を封じていた。この話は、およそ四百年後から始まる。

 

 

 大陸に民の怨嗟の声が満ち、黄巾によって司隸にまで多くの血が流れた。

 古に封じられた悪竜は怨嗟の声に共鳴してこれを破る。

 悪竜は全長一万尺、体重一千万石。最終形態の戦闘力は五十三万ほどもあった。

 

 悪竜は長安の地より天に昇ろうとするが、洛陽の現帝が人柱となってその身に封じる。

 しかし、現帝はその身体を乗っ取られて悪事を働き始めた。

 

 董卓と、かの者に仕えていた賈駆、呂布。

 董卓は身体を取り戻すために長安へと向かおうとした悪竜に遭遇し、言葉巧みに洛陽へ導き反撃の機会を窺う。

 悪竜は袁隗を操って先帝を殺害しようとするが、能弁な賈駆が袁隗に璽綬を解かせ、下殿させて臣と称させて逃がした。

 悪竜が洛陽を乗っ取ると、指示に従うふりをしながら悪竜の目を誤魔化して董卓が善政を敷き、賈駆は劉協に宿った悪竜を討つべく諸侯に協力を求めた。

 

 悪竜の目を欺くため反董卓連合という名で集まった諸侯。劉表、袁紹、袁術、公孫賛、曹操、空海の誇る将兵。

 馬超、華雄の守る汜水関で一騎打ちを演じ、華雄を破った趙雲。

 呂布、馬超の守る虎牢関で一騎打ちを演じ、引き分けた張遼、趙雲。

 関を抜け、連合軍は洛陽に迫る。

 

 賈駆は戦が大いに勝っているかのように装い、連日のように宴を開き、ある時ついに悪竜を酔わせることに成功する。

 そして劉表によってもたらされた神仙の水を浴びた帝は目を覚まし、その体から悪竜を追い出した。

 

 洛陽の東に暗雲と共に巨大な影がわき出る。

 にわかに生温かい風が吹き、雹が降り注ぎ、雷鳴が轟いた。

 

 悪竜は天へと昇ろうとする。しかし、空を覆うような矢の雨がその行く手を阻む。

 袁紹が呼びかけ、劉表が導いた連合軍の攻撃。

 後ろへ引いて逃げようする。しかし、悪竜の行く手を、またしても矢の雨が阻む。

 陳宮が導き、華雄に率いられた董卓軍の攻撃。

 

 悪竜は身をよじり暴れる。

 その身に斬りかかるのは飛将軍、呂布。天下無双の武で鱗を裂き血が噴き出す。

 劉の旗、袁の旗、曹の旗、公孫の旗、馬の旗、江陵の旗、董の旗、名だたる諸侯が悪竜を取り囲み、その囲いから一騎当千の将たちが竜の前へと躍り出る。

 白馬に跨がる趙雲と張遼が竜を手玉に取り、鼻先を駆け回って髭を落とす。

 馬超が槍で突き、夏侯惇が大剣で斬りつけ、夏候淵が弓で居抜き、顔良が鎚で砕き、文醜が、公孫賛が、関羽が、張飛が、孫策が、華雄が、それぞれの武器を手に悪竜を打つ。

 

 一刻が過ぎ、雷鳴が減った。

 二刻が過ぎ、雹が止んだ。

 三刻が過ぎ、ついに悪竜が地に堕ちて暴れるだけになった。

 

 趙雲がその頭に駆け上がり、槍で額を貫く。

 竜の断末魔と共に大風が吹き雷が落ちた。趙雲は雷を弾きながら引いた。

 呂布がその頭に駆け上がり、首を落とす。

 雨のように血しぶきが上がり、呂布は返り血で真紅に染まった。

 

 

 空が晴れ、呂布を照らし、趙雲を照らし、将たちを照らし、諸侯の兵士と旗を照らし、やがて洛陽一帯の雲が消え失せた。

 

 洛陽に平穏が戻った。

 

 

 董卓の活躍まさに蕭何のごとく。

 賈駆の活躍まさに張良のごとく。

 呂布の活躍まさに韓信のごとく。

 

 帝は皆の活躍を大いに称え褒美を与える。

 しかし、諸侯が領地へと戻ると、董卓とその部下たちは高祖劉邦の轍を踏まぬために、官を辞して旅に出ることを願い出た。

 

 帝は大いに悲しみ引き留めるが、董卓らの決意固く、ついにはこれを認めた。

 董卓たちはやがて大きな街へと辿り着き、そこで穏やかな日々を送ったそうな。

 

 

 これは初平二年春正月に、洛陽で本当にあったお話。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「これを来年の正月辛丑(しんちゅう)の日から全土で一斉に売れ」

 




(竜) < わたしの せんとうりょくは 53まん です

>全長一万尺、体重一千万石、戦闘力五十三万
 長さ2.3㎞、体重26万7300トン、個体値5V。

>初平二年春正月辛丑。
 史実では西暦191年。この日、献帝が大赦して(大いに罪を許して)います。
 この小説では11年後くらい。日付のルールとか違ってたらごめんなさい。

 明日、5章完結です。


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5-6 日の出

 洛陽の南、豫州潁川郡から山間を通って洛陽に続く道がある。

 司隸の南東、豫州潁川郡襄県から司隸河南尹に入り、梁県、陽人城、新城県を経由して平地に降り、洛水と呼ばれる黄河の支流に沿って洛陽に至る道だ。

 大軍が展開、進軍するのには向いておらず、連合軍もこの道を通らずに東回りで洛陽に迫った。

 

 洛水は新城県から山間を抜けるまで北に流れ、平地に出てからは緩やかに東向きに流れを変える。洛陽では人々の生活を支える水となり、洛陽を越えると偃師(えんし)の南を通ってやがて北東の黄河に流れ込む。

 

 今、偃師と呼ばれる地で反董卓連合軍22万と董卓軍22万が十数里(数㎞)の距離を置いて対峙している。

 連合本隊は後方で陣地を構築中であり、董卓軍もまた董の文字は前面に見えない。

 董卓軍の前面には馬超軍と呂布軍が並んで布陣しており、対する連合軍の前面には江陵軍と公孫賛軍が並ぶ。

 

 そして、連合の前面のそのさらに前方には今、白馬に跨がる武人が二騎。

 

 

 

 

「桃香様」「桃香お姉ちゃん」

「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん。どうしたの?」

「それが、陣の前方をご覧下さい」

「前? あれは……白蓮ちゃんの言ってた凄い白馬?」

「趙雲と張遼なのだ!」

「彼女らの様子が、おかしいのです」

「おかしい? それって――」

 

 

「その、なんと言いますか……奴ら、尋常な様子ではありません」

「星……? 江陵は一体何を……」

「ちょっと春蘭、どういう意味よ? 華琳様の前なんだからはっきりしなさいよ!」

「しっ仕方ないだろう! 私にもよくわからんのだ!」

「待て桂花。私も姉者の意見に賛成だ。あの者たちは、今から一騎駆けでもせんばかりの気迫に満ちている。尋常なことではない」

「なら一騎駆けする気なのかもしれないでしょ!? それを早く言いなさい!」

「落ち着きなさい、桂花! アレは――」

 

 

「――違うわね」

「えっ? 姉様?」

「あれは一騎駆けを狙ってなんかいない。もっと、とんでもない獲物がいる」

「確かに雪蓮様の仰る通り、馬上にあって前を見ているようには見えません」

「……前に出られるかしら?」

「江陵軍が完全に前をふさいでしまっていますよぉー」

「この状況で、江陵の狙い通りの何かが起きると言うの?」

 

 

「星さん、お願いします」

「あとはお任せしますよ、星ちゃん」

 

 

 両軍が向かい合った平地のやや南に流れる川、洛水を高速で下って来た小舟から高速で飛び出した4つの影が、身を低くして両軍の間を駆け抜ける。

 そのいかにも怪しい影は、しかし今、誰からも注目されていなかった。

 なぜなら――

 

 

「え? なにこれ?」「これは――」「空に……」

 

『雲?』

 

 

「おーおー。ホンマに来よったわ。ま、背中は任せときー」

 

 誰もが目を向けなかった4つの影を追うように、誰の目にも明らかに、不自然な速さで南西から雲が広がっていく。雷鳴を伴う暗雲だ。

 分厚い黒雲は、両軍を覆うように広がってなお成長を続け、両軍のど真ん中に向かって噛みつくように落ちてくる。

 

 その鼻先が大地につく寸前、大柄な白馬に跨がった将が割り込んだ。

 

「お前の相手は私だ」

 

 軽い言葉に反するように、地をえぐり取らんばかりの激烈の気合いと共に赤い槍が振るわれ、今にも地面に触れんとしていた黒雲が大きく払われる。

 

 そこに見えたのは

 

『竜ッ!?』

「――オオオオオオオオオオオオッ!!」

 

 

 竜がその巨大な顎を大きく開き、風を伴う程の咆哮を放つ。

 落雷を思わせる轟音が、遠く戦場を囲む数十万の兵の全身を叩く。

 その風と轟音を間近で受けた白馬の将は、しかし、全く動じていなかった。

 

「なるほど、良い馬だ」

 

 趙雲は再び大きく息を吸い込む竜に向かって白馬を走らせ槍を振るう。

 軽く振るっているように見えて、馬の勢い、体重の全て、そして体内で練り続けた気を載せた槍が、竜の巨大な顔の側面をえぐる。

 

「グオオオオオオアアアアアアアッ!」

 

 たまらず身を引いた竜に追いすがりながら、白馬がうるさそうに首を振る。

 

「おお、すまんな。すぐに片付けるっ!」

 

 軽口を叩きながら、趙雲は決して竜から目を離さない。

 竜が大きく口を開くと同時に、白馬は弾かれたように横へとそれる。直後、大地を揺るがす咆哮が元居た場所をすり抜けた。

 

(いやはや、これほど高ぶることがあろうとは思ってもみなかった)

 

 趙雲は波打つ胴から逃れ、風を切る爪を弾く。にやける頬を隠す様に腕を上げ、すれ違い様に胴体を浅く斬りつけていく。

 

(私も存外、気楽な質だったらしい)

 

「ゴォオオオァァァァァァァアアッ!」

 

 その巨体で小さなノミをすり潰そうとするかのように、竜が地面の上を這い回る。

 地面がえぐれ、人の拳ほどもある石が飛び交う。大きなものはたたき落とすが、小さく素早い石は趙雲の腕を持ってしても止められず、趙雲自身を、そして馬を打つ。

 暴れようとする馬を両足で挟み込み、竜から離れるようにと脇腹を蹴って馬に合図を送る。向きを変え走り出した馬の背を踏んで宙に飛び出す。

 

(格別に楽しいっ、強烈に面白いっ! しかし、それだけではない!)

 

 竜の腹を突き、その勢いで身を駆け上がり、背を飛び越えて尾を思い切り叩く。

 

「オオオオッ!」

「ははは! 芸がないな!」

 

 再び地面を這い回るように身をねじった竜の懐へと更に踏み込み、腹を持ち上げるように切り上げる。竜はたまらず胴体を浮かせて空中へと逃げた。竜の胴に付着した泥と草が雨のように降り注ぐ。

 

(この感情は、何なのだ?)

 

 趙雲の姿を見つけて勢いよく近づいてくる馬に跨がり竜を追う。ほんの数秒で未だ地面近くに残った胴に取り付き、二度三度と斬りつけ、突き上げる。

 

「オオオオオオアアアアアアアッ!」

 

 怒りを顕わにした巨大な竜の顎が迫る。

 地面を削りながら迫るそれを見てなお、趙雲は薄く笑ったまま数歩馬を進めて、鞭で打つように槍の腹でその鼻先を思い切りはじき飛ばした。その手から伸びた槍が、赤く細い軌跡を描く。

 

「ギュオオオオオ!?」

 

 人の腕ほどの太さで鞭のようにしなる髭が趙雲を掠める。肌に触れてもいないのに、焼けるような熱を感じ、趙雲は顔をしかめた。

 

(信頼、信用、安心……違う。これは、もっと熱い(・・))

 

 竜は大きく身をひねって頭を大きく持ち上げ、続いて勢いよく地面を叩いた。長い胴も連動するように波打ち、轟音と地震と凄まじい土煙を周囲にまき散らす。

 趙雲に向かう土煙の雪崩は突如南から(・・・)吹き付けた風によって押し戻される。

 

(興奮? 熱情? 違う、そんな移ろいやすいものではない!)

 

 遠くで連合と董卓軍の馬たちが暴れているのが趙雲の目の端に映った。混乱する兵馬は既に隊列を乱し、しかし、連合と董卓軍の前面は揺らがない。

 多くが混乱する中、趙雲の乗った白馬は彼女の意のままに竜を追って駆け回る。

 

(これは、信仰……?)

 

 趙雲はそんな馬の首を一撫でし、この大事にあって意外と余計な事を考え続ける自身の思考に向き合った。

 

(ああ、そうか――! これは、忠義(・・))

 

 途端、趙雲は吹き出した。

 

「ぷっ――ははははははははっ! あっはははははははははは!!」

 

 そんな場合ではないと理解しているにも関わらず、趙雲は笑い声を止められない。涙が浮かぶほどに笑い、浮かんだ涙を邪魔だと思う感情すらわき上がる。それなのに、笑いが止まらない。

 

「あはははは!」

 

 槍を振るう速度が上がる。趙雲自身が生涯最高だと感じていたこれまでを超えて、なおいっそう気が充溢していく。竜の牙を弾くように振り回す、目を潰す勢いで突き出す。

 

「グルォオオオオッ!」

 

 意外だ――こんなことを思う自分が意外でならない。趙雲はそう考えながらも、同時に納得の感情も抱いていた。

 自分が二君を抱くほどに移り気な人間だとは微塵も思っていなかったが、主君としての器にはまだ(・・)上がある(・・・・)かも知れないと考えていた。

 まさか最上であったとは――あの時の自分の慧眼と直感を自画自賛したい気分だ。

 

(これ以上の主君は望まない。望めない(・・・・))

 

 またがっていた白馬はいつの間にか息が荒れ、赤い汗を吹き出し、疲れ果ててふらついていた。ここまで頑張った馬の腹を蹴って逃がし、趙雲は槍一本で竜に飛びかかる。

 

(空海様は、想像の遥か上だった。私の想像の遥か上を示されてしまった)

 

 夢見ていたのだ。

 万の賊に立ち向かうとか、岩をも割る豪腕の武人との一騎打ちであるとか、無辜の民を背負って戦うとか、それほどに大それたこと(・・・・・・)を夢想していた。

 そして同時に、そんな夢物語はありえない、と諦めてもいた。

 

(曹操も、袁紹も、公孫賛も、劉表だって『これ』には敵わぬ!)

 

 誰がこれほどの舞台を用意してくれようか。

 竜の周りに落ちる雷を槍で弾き(・・・・)接近する。

 万を越える黄巾に立ち向かった。華雄や馬超との一騎打ちも果たした。50万もの兵を止めるため、無辜の人々を救うため『昇り竜』と成る(・・)機会まで得た。

 

 ――なんという愉悦か!

 

 手に持つ槍の重みが心地よく、それを振るう速度が更に増す。

 肩に掛かる重みが心地よく、踏み込む足がはっきりと地を捉える感覚を得る。

 背を押す期待が、身を空へ誘っているかのようだ。

 

(喜んで命を遂行する、という言葉を心底理解していなかった!)

 

「オオオオオオオオオオオッ!」

 

 趙雲は竜の放つ暴力的な咆哮を正面から突き破ってその鼻先に肉薄する。

 空海の言葉が、命令が、命令を実行した結果が、その結果の先にある世界が、楽しみで仕方ない。心の底から空海を支えたいと願い、共にありたいと祈った。

 ああ、これが忠義か。そう思った瞬間、趙雲の脳裏に大命を言い渡された記憶が蘇る。

 

 ――子龍に大役を申し付ける。

 

 趙雲の頭の中で、もう一度、空海の言葉が繰り返され。

 全身に満ちる歓喜は今、引き絞られた弓のように前へと放たれる瞬間を待つ。

 

 ――竜を討て。

 

「御意ッ」

 

 言葉と共に竜の顔を駆け上がった趙雲の全身全霊を込めた一撃が赤い閃光となって竜の額に深々と突き刺さる。

 額から起きた衝撃が、その全身を大きく一度だけ波打たせ、竜は地面へと墜落した。

 巨大な身体から空気が漏れるように静かな断末魔が漏れる。

 

「オオオオオォォォォ…ォ……」

 

(――未だ信じられぬ者はおりましょうが、主は言を違えませんでしたな)

 

 趙雲は、戦いの最中に突風を吹かせた南にそっと目を向ける。

 

「ハァッ ハァッ ハァッ ハァ」

 

 全力を使い切ったせいで、それ以上顔を上げる気力すら沸かない。だが、身体を動かす気にはならないくせに心の中からは熱い気持ちがあふれ出しそうで、その熱を冷まそうとわざと大きく呼吸をする。

 

(私も、言い渡された大命を果たしましたぞ、主!)

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「……うん。悪役を作ろうかな」

 

 空海は報告会に集まった一同の顔を見回し、趙雲に目を留める。

 

「んー。昇り竜、か」

「は? 何でしょう、主」

「子龍。お前、竜を見た事はあるか?」

 

 空海の質問の意図がわからず、問いかけられた趙雲以外の者も眉をひそめる。

 

「……謎かけですかな?」

「そのまま言葉通りに、竜を見た事があるかどうかが知りたいだけ」

「ありませぬが……」

 

 空海は小さく、難しいかなー、と漏らしながらも趙雲を見て目を細める。

 

「よし、子龍に大役を申し付ける」

「はっ。何なりと」

「連合に参加し、洛陽前で董卓軍と対峙」

 

 妙に半端な状況を口にする、と、列席した誰もが疑問を抱き、その疑問は次の言葉で空の彼方に飛んでいった。

 

 

「――両軍の前に竜が現れるから、派手に暴れてそれを討っちゃえ」

 

『は?』

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 夜を思わせるほどに分厚く重なっていた雲が、晴れていく。

 その隙間から一筋の光が伸び、竜の頭上で息を吐く趙雲を照らし出す。

 

「子龍、何を呆けてるんだ」

「――ッ!? あ、主っ」

 

 竜を囲む人の壁の前、いつの間にか間近に立った空海に声をかけられ、趙雲はようやく周囲の視線が自分に向かっていることに気がついた。

 

「ほら、名乗らなければ終わらないぞ」

 

 からかいを含んだ空海の声を受けて、趙雲は苦労して立ち上がり、やはり苦労して竜の額から槍を抜き放ち、それを天に掲げる。

 胸の内に渦巻いた熱い何かを解き放つように、静まりかえった戦場に声を響かせる。

 

「我が名は趙子龍! 常山の昇り竜にして――荊州江陵が主、空海元帥の槍であるッ!」

 

 趙雲の宣言と共に分厚い暗雲が割れ、世界が彩りを取り戻していく。雲間から漏れた日光がまっすぐ趙雲の上に降り注ぎ、鱗に覆われた竜の胴が黒曜石の輝きを放つ。

 その光景に何万という人間が涙を流して膝を付き、数十万の人々がただただ呆けて空を見上げ、一体のチビが太陽に向かって小さく感謝の言葉を告げた。

 

 

「結局、空海元帥の槍って付け加えおった……けど、しゃーない。今回は譲ったるわ」

「星ちゃん……それに、空海様……」

 

 

 趙雲は疲労で震える全身を支えきれずに竜の頭上で膝を付く。またしてもいつの間にか隣に立っていた空海が身体を支え、そのまま横抱きに持ち上げた。

 

 いわゆるお姫様抱っこの形で。

 

「あ、主っ!?」

「折角だから感想を述べさせて貰おう」

「えっ? は……!? いえっ、何の、感想、ですかっ!」

「やっぱりお前は竜というより蝶々だな」

「ふぇ」

 

 趙雲が呆けている間に空海は彼女を抱えたまま軽々と地面に駆け下り、江陵の兵が作り出した花道を軽快に通り抜ける。

 いつの間にか周囲に揃っていた護衛と共に、全身真っ赤になって目を回すほど狼狽した趙雲と、真っ青な羽織の空海が、遠く()の洛水に連なる船に向かって進む。

 空海たちの後を追い、5万を超える江陵軍が流れるように陣を組んで人の壁を構築していく。槍こそ立てていないが、その盾は油断無く両軍へと向いていた。

 

 ――子龍は、コンボとダメージでゲージを貯めると強くなるタイプだったんだな。

 

 空海のつぶやきは誰にも理解されなかった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 44日前。

 

 劉表に反董卓連合への参加を要請され、江陵幹部を集めて開かれた会議。

 遅れて呼び出された管理者4人が会議に現れ、空海の前で膝を付く。

 

「貂蝉か卑弥呼が『前に』悪竜と戦ったって、江陵を広げた頃に言ってただろ」

「ぬぅ。よく覚えておられましたのぉ。流石はご主人様じゃ」

「あ・た・り♪ アタシたちと、ダーリンの3人で戦ったのよぉん」

 

 卑弥呼と貂蝉を交えて再開された会話は、皆を驚かせるものだった。

 詳しい場所を尋ねる空海に、貂蝉は悲しそうな表情で答える。

 

「ごめんなさぁい。益州永昌郡のどこかから向かったのは確かなんだけどぉん……」

「南蛮か、はたまた交州のいずこかか。儂らにもわからんのじゃ」

「ふーむ。前にこの辺に棲んでたヤツは居なくなっちゃったしなぁ」

 

 完全に『竜が実在する』ことを前提に繰り広げられる会話に、他の者は口を挟むことが出来ない。それを語る者が江陵の武の筆頭たちであるのだからなおさらだ。

 

「公瑾。ここから永昌郡と、永昌郡から洛陽までの移動には、どれくらい掛かる?」

「え、は、そうですね……。永昌郡の不韋までならば徒歩で40日、馬を使えば30日は掛かりますまい。不韋から洛陽までならば長江を下る船が使えますので、江陵を通ったとして10日、北回りで漢中を経由して25日ほどかと思われます」

 

 周瑜は混乱しながらも、かなり正確な数字を返す。江陵からの移動時間の情報というのは軍事的な価値が非常に高いため、漢全土のものが頭に入っているのだ。

 

「ふむふむ。貂蝉、卑弥呼。于吉を使って探索したとして、現地で悪竜を見つけ出すのに何日かかる?」

「前は20日ほど掛かったんじゃが……于吉がおれば5日もあれば何とかなるじゃろう」

「期待通りだな」

 

 空海は頷いて一同を見回し、表情を改めて管理者に向き直る。

 

「貂蝉、卑弥呼、于吉、左慈は5日以内に出立し、今日から50日後くらいに洛陽の東に展開している董卓軍と連合軍のど真ん中に竜をおびき出せ」

『御意』

「この、偃師(えんし)の地にしよっか。悪役が沈むのにふさわしい名前だし」

 

 偃師とは「戦いを止める」という意味の名を持つ県だ。洛陽の東60里(30㎞弱)ほどの距離にあって、決戦を求めるのならばこの近辺になるだろう土地と言える。

 地図を見れば、連合の進路上にあって洛陽に向かう最後の大集落を有する地でもある。

 

「同じ時期に同じ場所に引っ張り出すだけだが、今回は両軍を操る必要がある。連合には士元が参加して今から50日後を目処に偃師付近に展開させろ。補佐に仲徳が付け」

「ぎょ、御意です」「……了解ですー」

「文句を出させなければ好きにやっていい」

 

 鳳統が慌てたように頷き、程立は空海をマジマジと見つめながら同意する。

 

「子龍はさっき言った通り、連合に便乗して洛陽に向かい、両軍40万に迫るだろう兵の前で竜を討て」

「しょ――承知」

「思い切り暴れていいぞ。そいつが全部悪かったってことにするから、お前が勝てば後は上手くやってやる」

 

 趙雲は未だに理解が追いつかないのか、なんとか言葉を返しただけといった様子だ。

 空海は彼女に不敵に笑いかけ、そのまま視線を張遼に移す。見つめられた張遼は背筋を伸ばして頬をうっすらと赤く染める。

 

「文遠は子龍に付いて……士元たちの護衛と、竜討伐までの露払いと、子龍の鍛錬に付き合ってあげてね」

「露払いって……。最悪、両軍を敵に回すっちぅことで合っとります?」

「出来るだけ、一騎打ち程度までに納めて貰えるよう、士元と調整しておくように」

「――にひひっ、なんやウチ好みの話になってきたやないの」

 

 張遼は空海の言葉を一切疑わず、ただ戦いを喜んでいるようだ。お気楽そうなその様子に、軍師たちの一部からはため息が漏れた。

 

「連合へは劉景升の兵数をやや下回る兵を出しておこうか」

 

 空海はそう言って軍師たちを見回すが、誰一人として理解が追いつかないのか、言葉を詰まらせて空海や周りを見るばかりだ。

 この場での相談は諦めて、空海は続ける。

 

「公瑾は董卓側を偃師まで引っ張り出せ。これも今から50日後を目処にしろ。馬家には孔明から当たらせてもいい」

「わかりましたが、何というか……。いえ、わかりました」

 

 周瑜はどこか頭痛を耐えるように、しかし、最後には何かを決意したように首肯する。

 

「孔明は今言った馬家関係と、50日とちょっと江陵をまとめるのと、全土へ向けて竜が全部悪いって話を流す準備だ」

「はわっ!? はいです!」

 

 ついに話しかけられてしまった、と慌てたのは孔明だ。出来れば3日くらい暇を貰って考えをまとめたかった。

 

「公覆は公瑾について護衛と交渉の手伝いをよろしく。孟起がいるから悪いようにはされないと思うが、最悪、洛陽を制圧して貰う」

「お、お任せを」

 

 やや顔を引きつらせながらも黄蓋が返事を返す。なまじ物を知っているだけに、空海のとんでもない言動をどう捉えて良いのかわからなかった。

 

「漢升はここに残って不測の事態に備えること。場合によっては、後から出撃する」

「わかりましたわ」

 

 黄忠は、一番わかりやすく実行しやすい命令を受けてしっかり頷く。他の者たちに比べれば簡単かもしれないが、空海の命令を受けた以上は最善を尽くすつもりでいた。

 

「徳操は使える者を使って孔明を手伝ってあげて。期間は最大で3ヶ月ってところだね」

「了承」

 

 司馬徽は間もなく水鏡学院を卒業する者まで含めて、使えそうな十数人を頭に浮かべて割り振れる仕事を考える。ここ数年の人材が豊作であったこともあり、期間を限定して現状を維持するくらいならば問題を感じない。

 さらに、情報戦になれば出版物の出番だ。数ヶ月以内に出版される予定の本を頭の中で書き出して、どのようにこちらの意図した情報を絡めていくか検討し始めた。

 

「それじゃ、決着までの筋書きを考えようか」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「――だから、だいたい全部悪竜の仕業ってことにした」

「……最近宮中で囁かれてる妙な話の出所はあんただったの」

 

 江陵から元帥代理として周瑜が現れて馬家を使った脅しに近い形で協力を強要され。

 連合軍と決戦かと腹を決めたら何故か突然現れた巨大な竜に戦場が引っかき回され。

 江陵の武将が竜を倒したかと思ったら勅令を携えた使者が現れ洛陽に強制送還され。

 洛陽に江陵の旗が立っていることに心底驚いていたら皇帝の御前へ引っ張り出され。

 全く身に覚えのないお褒めの言葉を授かったところで唐突に職に留まるかを問われ。

 唖然としている間に謁見の間から連れ出されて宮内の元帥の部屋に引っ張り込まれ。

 そこで受ける説明は賈駆の頭痛と混乱が一回りして落ち着くくらい意味不明だった。

 

 噂の出所は江陵だったのだ。おまけに本物の竜を50万に近い人間が目撃してしまっている。今さら竜がいなかったなどとは言えないし、ならばあの竜は何だったのかと考えた時、人々はわかりやすい噂を信じようとするだろう。

 

「宮中だけじゃないぞ。そろそろ、全土で商人たちが事件を口にし、記事の書かれた本を売り歩き始める」

 

 江陵の出版物を読むのは一定の教養がある人々が中心だ。彼らは、10年前に比すれば確実に増加している層であり、上下を付けるならば間違いなく上の層になる。

 そして、大陸で最も優秀とされる江陵商人たち。優秀な商人というのは、必要な場所に必要なものを必要な値段で運べる者を指す。そもそも江陵の商人以外はあまり信頼されていない社会だ。それだけに江陵商人への信用は際立っていた。

 情報の運び手である両者の口から漏れる眉唾物の噂話。しかしそれは、やがて竜を目撃したという事実と結びついて、人々にとっての真実となる。

 

「連合は実益が欲しい、お前たちは名実を捨てるに捨てられない。ならばどちらにも都合の良い言い訳が必要になる。だから竜の仕業にして『董卓たちの活躍で悪竜を封じ込めて連合の力で退治する』ことにした」

「ボク達はそれを捨てたかったんだけど……陛下のアレ(・・)はどうやったの?」

 

 これまで頑なに董卓を側に留めようとしていた皇帝が突然、進退を問うてきたのだ。

 皇帝の様子から、もしかしたら脅されているのではないかと危惧したのだが、最初から名実を問題と捉えて行動しておきながら、為してもいない成果を董卓らに押しつけた上で皇帝を脅すというのは考えづらい。

 

「アレはただ側近のしていた噂話が聞こえただけだろう。活躍しすぎて蕭何(しょうか)張良(ちょうりょう)韓信(かんしん)のようになるんじゃないか、と」

「は? 蕭何って……高祖の? えッ!?」

 

 かつて漢を打ち立てた『高祖』劉邦には蕭何、張良、韓信という3人の、とても有名な部下が居た。

 彼らは劉邦の立身出世を支え、共に歩み。最後には決別して、劉邦に殺されている。

 仁の蕭何(しょうか)、知の張良(ちょうりょう)、武の韓信(かんしん)

 教養高い人物なら――宮中で地位を持つ者や連合のまとめ役のような者たちならば――誰でも知っているような話である。それを董卓とその部下に例えているのだ。

 

「先人の轍を踏むわけにはいかないだろう? 高祖劉邦の教訓に従って官を辞するとでも言えばいい。江陵で引き取られて飼い殺しにされる、と付け加えてもいいかもな」

「――そんな手が」

 

 高祖劉邦の例を出されては、劉邦の子孫にして皇家である劉家はもちろん、朝廷で官を任じる側の人間は強く言い出せない。

 この昔話を引っ張り出して来たのは程立である。彼女は江陵で育った他の軍師たちに比べ、漢の臣民たちの心情をよく理解していた。

 当初、失態によって職を辞する機会を与えることを考えていた空海の計画だが、これによって追撃を逃れる言い訳を手にしている。

 

「賈文和はウチの軍師補佐として無償奉仕。董仲穎は天気の記録係で月給1万銭くらいでどうかな? もちろん江陵に来なくても良いけど……その場合は守ってやるようなこともないから誰に狙われても知らないからね」

 

 軽く突きつけられた言葉が最後通牒であることが、賈駆には理解できた。そして、この話を蹴ることで生まれる絶大な不利益も。

 話を受ける利益を考えたところで賈駆の脳裏に浮かんだのは、大好きな親友の月ではなく、出奔した張遼のことだった。長安の送別会でも楽しそうに笑って、反董卓連合として対峙した後も、その笑顔に陰りは見えなかった。

 そう考えたとき、ストンと、賈駆自身が意外に思う程あっけなく結論が出てしまった。

 勢いのまま口を開き、最後に残った疑問を口にする。

 

「竜のこととか、周瑜が洛陽に突然現れた方法とか、洛陽に立ってた旗は何だったのかとか、騒動の処分とか、色々……いろいろ聞きたいことはあるんだけどっ」

「うん」

「これだけのことが出来て、何で連合につかなかったの?」

「俺は馬家も劉表も滅ぼしたくなかったし、いま乱世に突入するのは望ましくなかったからね。漢だってこれだけ延命してやったんだから恩は十分に返せたと思うでしょ?」

 

 賈駆はこの瞬間、自らの才知を呪った。目の前で笑う小柄な男が、大陸6000万人の命運を握っていたことに気付いてしまったのだ。

 息を飲み、絶句する。

 

 目まぐるしく変わる状況に追われ続けていたせいで目先の事態への対処にかかり切りになって後回しにしていたこと。勝てば良かったために目を背けていた大陸のこれから。

 

 つまり、江陵は。空海は。治世における絶大な貢献者として来たる乱世での大義名分を得ておきながら、乱世に向けて最大級の味方である馬家と劉表をどちらも残し、将来の敵となる諸侯に鞭を与え、さらに餌と枷を与える権利まで手にしている、と。

 勝利と言っていい。勝者と言っていい。横合いから現れ、関係の無いだろう戦闘を一つ収めてみせるだけで全てを手に入れた奇術は、賈駆をして鮮やかと言う他なかった。

 竜を呼び出したことだけではない。朝廷の現状、諸侯の事情、自身の地位や大陸の民の心理まで利用して落着を作り上げたこと。さらに、これだけ状況を動かしておきながら、強制を受けたのはこの騒動で唯一戦う前から(・・・・・)負けが決まっていた董卓陣営の出兵だけだ。

 六韜に『上戦はともに戦うなし』とある。孫子にも似たような言葉が綴られていたはずだ。すなわち、戦わずして勝つ、と。本来これほどの奇術を指す言葉ではないはずだが、他に説明も出来ない。それほどのことを(・・・・・・・・)やってのけている。

 

「……あんたがとんでもない男だってことは理解したわ」

 

 ようやく呼吸を再開し、震える声で賈駆が告げる。

 勝っても負けても望まぬ結果を招いてしまう董卓陣営にとって、江陵から強制を受けることはむしろ最後に縋った希望でもあった。その感情まで利用されたような気はするが、結果として『何もかも元通り(最善)』に次ぐ第二の希望が叶う見込みが立った。

 

「うーん。何かそれ、褒められてるようにも、けなされてるようにも聞こえる」

「褒めてんのよ。自分から跪きたくなった男は初めてだわ」

 

 第二の希望。すなわち『勝ち残る者の中でも強大な諸侯の庇護下に入る』こと。自分から跪きたくなるような者が相手なら申し分ない。それが、賈駆の警戒をすり抜けて洛陽に旗を立て、宮中の噂話すら操る者ならば何を言わんや、だ。

 いささか子供っぽい部分は気になるものの、宮中での視線を思えば、そういう欲を表に出さない者に身を預けるのもまた望むべくもない好結果だと思える。

 

 一方、空海は、跪きたくなったと聞いて「ついに俺にも威厳が身に付いたか!」などと考えて一人で感動していた。

 空海に言わせれば「昔の偉い人はみんな字が上手くて貫禄があって『是非もなし』とか言ってるから格好良い」のだ。意識の上では自分もそれに仲間入りしつつある。

 

「確認するけど。あんたに従えば、味方してくれるのよね?」

「応ともー」

 

 ついお昼時のノリで返事をしてしまったが、今の軽い返事を無かったことにして「是非もなし」か「ならばよし」って返しておくべきだったと空海は反省した。

 用法はよくわからないので状況に合っているかは賭けである。

 

「なら、ボク達はあんたに従う」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「話は進んでいるか、劉景升?」

 

 諸侯を集めた会議に遅れて登場し、挨拶もなく出入り口に立ったのは空海だ。

 

「おお、空海! よく来たな!」

『空海元帥!?』

「お待ちしておりました、空海様」

 

 劉表が立ち上がって歓迎を示し、江陵幹部も深く頭を下げて出迎える。諸侯も慌てて座席から立ち、膝をついた。

 

「そろそろお腹でしゃべれるように訓練しないか、劉景升? いちいち見上げるのが面倒でたまらない」

「下駄でも履けば良かろう。そなたこそ頭の上に目でもつけたらどうだ」

「実は頭頂部からお前の顔が見えてるとか言っても信じられんだろ」

「それもそうだな」

 

 親子にも見えるほどに背格好に差がある二人だが、乱暴に小突き合う姿は長年の友情を思わせた。

 劉表が空海に背を向け席に戻る。空海は劉表の席の対角にある下座に立派な椅子を持ち込み、最も上座にある劉表よりも偉そうな態度で肘掛けに腕を置き頬杖をついた。

 空海が下座の席に着いた上、空海の側近が立ったままで居るため諸侯が席に着くべきか迷っているが、彼女らをまるで視界に納めていないかのように、空海は劉表のみに視線を向けてニヤリと笑みを浮かべる。

 

「まずはおめでとう、劉景升。今回の功でお前は大将軍へ指名される」

 

 劉表は空海の偉ぶった態度を無視して頷く。十五年来の付き合いで慣れきっており、下手に反応すればここぞとばかりに話が脱線していくこともわかりきっていたためだ。

 一方で諸侯はそれを見て驚いた。いっそ空海の方が立場が上であるかのようにすら見えたからだ。少なくともこの瞬間にはもう、劉表が空海の上に立っているという構図を信じる諸侯は居なくなっていた。

 一人を除いて。

 

「なんじゃこやつは! ちっこいくせに偉そうにしおって」

「シーッ! お嬢さまっ、今は本当にダメですって!」

「ん?」

 

 劉表から数えて三列目に座った小柄な少女が空海の態度に声を上げる。長い金の髪をクルクルとねじり、黄金色の服装に身を包んだ子供。

 空海は自分よりも小柄なその少女に心当たりがあった。

 

「んー。袁公路かな」

「そうじゃ! 袁家の当主たる妾を差し置いてなんでお主が偉そうにしておるんじゃ!」

「そりゃお前……。凄い秘密を知っているからなぁ、俺」

 

 答えの途中でニヤリと笑った空海は、声をやや潜めて袁術に話しかける。

 

「ほ? すごい秘密…じゃと…?」

「そうだぞ。あーでもお前が俺を気に入らないというなら劉景升と俺だけの秘密にしちゃおうかなー」

「え? あっ、待つんじゃ! その秘密とやら、妾にも話して良いぞ」

「うーん。どうしようかなー」

「妾が話して良いと言っておるんじゃ! 素直に話せば良い!」

「そうはいかない。これほどの秘密を知ってしまうと、最悪、侍中府の秘密機関に……」

「な、何じゃその秘密機関というのはっ」

「司隸の悪事を秘密裏に処理するため公式には存在しない五人目の侍中が……おっとこれ以上は言えない」

 

 侍中とは皇帝の側近を務める4人の超高級官僚である。宦官が私生活や謁見の場から皇帝に影響を与えるとすれば、侍中は献上する政策方面で皇帝に影響を及ぼす官位だ。

 

「そのような組織があったとは……!」

「ないない。そんな組織に繋がる秘密なんて知らない」

「知っておるではないか! さっさと言わぬか!」

「えー。でも劉景升と俺だけの秘密だしなー」

 

 袁術が何度か答えを促すも、からかいを交えて空海は答えない。口では敵わないと感じた袁術は、不本意ながら上目遣いでお願いすることにした。

 

「くぅぅ……妾も……妾にも教えてたも?」

 

 袁術の頭からは既に偉そうにしていた空海を責める気持ちは抜け落ちている。むしろ、この男が知っているらしい凄い秘密をどうやって聞き出すかの方が大事だった。

 

「うーん。まぁそこまで言うなら仕方ないなー。実は……」

「実は?」

 

 そしてその解答は、袁術にとって衝撃を伴う内容だったのだ。

 

「甘い菓子が焼き上がったらしいんだが、会議中だから厨房の者たちで食べてしまおうと相談しているのを見てしまってな」

「なんじゃと!?」

 

 蜂蜜を抱えたまま生きて死ぬと疑わない年頃であるところの袁術にとって、甘い菓子というのは黄金と等価である。

 そんな菓子が出来たてで『山ほど』『食べ放題』になっているのを、卑しい厨房の者たちが独占してしまおうと企んでいるなどと聞いては、いてもたってもいられない。

 

「今すぐ部屋に戻って言いつければ手に入るかも知れないけど、会議が長引きそうだから難しいかもしれないなぁ」

「こ、こうしてはおれん! 七乃、すぐに部屋に戻るのじゃ! ついてまいれ!」

 

 袁術はすぐ側でニコニコ笑ってやり取りを見ていた張勲に声をかける。

 

「あれ? でもお嬢さま、ここで袁紹さんにぎゃふんと言わせるってー。うーん、けど後から思い出してうろたえるお嬢さまも捨てがたいなー」

 

 張勲は袁術が自分の手で悩んだりうろたえたり喜んだりするのを見ているのが好きなのであって、人の思惑に乗ってそれを為すのはやや不本意だった。

 

「何をしておるんじゃ、早く来んか!」

「安心しろ。悪いようにはしない」

「あ、それじゃあ、お言葉に甘えちゃいますねー」

 

 だが不本意だと言っても「押して開けると思っていた扉が引いて開けるものだった時に足を引くのが面倒」という程度の不本意だったので、張勲は妥協して席を立った。

 二人の背を見送ってから、劉表が口を開く。

 

「あのような口約束をして良かったのか?」

「俺に任せきりにしておいて人ごとか? まあ、悪いようにしなければいいだけだ」

 

 肩をすくめた空海を見て何人かが小さく笑った。その中には、この場に取り残されたせいでぶっちぎり最下位の発言力となってしまった孫策の姿もあったが、結果的には直感を信じてこの場に留まった孫策の行動は正解になる。その道のりは険しかったが。

 

「大将軍だけではなく太尉なんかも空席になる。配分は任せるからさっさと決めろよ」

「やはりそれで遅れたのか。ということは、今こそが程立の言った『時期』で、あの竜もそなたの仕業ということか?」

「『時期』はその通りだ。竜は……さて、お前には詳しく聞かせてやってもいいが、他に聞かせるような話でもない」

 

 空海は劉表から視線を動かさず、その場に居る諸侯を言葉だけで指す。

 

「ではいずれ聞かせて貰うことにしよう」

「ああ。だが他に聞かせるための話は用意した。この本を読んでみろ。三日以内に全土に出回る最新刊だ」

 

 空海は本を開き、軍師に持たせて劉表の下へと運ばせる。

 

「空海散歩か? ふむ……。……高祖…だと…?」

 

 読み進めていくうちに眉間にしわを寄せていった劉表だが、読み終える頃には猜疑の声を上げる。高祖劉邦の話を知らなかったわけではない。単に董卓に対して抱いて居た印象と空海の持ち出した話の方向が一致しなかっただけだ。

 

「董卓たちには今回の件で絶大な功があった。高い位にさらに功が積み重なる。よって、高祖の臣の教訓に従い、官職を辞して野に下ることになった」

「潔く受けるのか?」

「既に認めている。江陵で飾りの官を与えて飼い殺しにし、それを公表しよう。あとから現れる誰かは全て偽物だ」

 

 董卓の影響を全て江陵の内側に閉じ込める案だ。江陵が野心を出さなければ最も安全な選択だとも言える。もっとも、これだけの名声をただ閉じ込めて腐らせるような江陵ではないということも劉表にはわかっていた。

 

「……なるほど。だが、それはいささか江陵が取りすぎではないか?」

「お前が先に相談していれば、もっとやりようはあったと思うんだがな。……『仁』の将はどうでもいいから俺が預かるとして、当人の希望もあるから『知』の将を貰おう」

 

 仁の将、つまり人徳によって立つ者を打算で利用することは難しい。その人物を中心に勢力が出来てしまうからだ。よって、劉表にとって『仁』は勢力外に放り出さねば価値がなく、手元で利用するならば『知』と『武』にそれを見いだすしかない。

 

「賈駆と言ったか」

「そうだ。あれは大人しく飼われる気質ではない。腹を食い破られても良いなら、お前のところに渡しても良いが」

 

 そう言いつつも空海は劉表がその選択をしないだろうと確信していた。本人がおおむね江陵の指針通りに動いて出世してきたこともあるが、頭脳面で失敗らしい失敗をしていないこと、つまり現在の陣営に不満がないことも大きな理由だ。

 

「いや、やめておこう。武はこちらが取って良いのだろう?」

 

 劉表が予想通りの返事を返す。空海は頷いて、思い出したかのように付け加えた。

 

「ああ、当人との交渉はそちらでやってくれ。官位を捨てるまでは認めさせたが、董卓と賈駆以外はどこへ行くのかも決めていないはずだ」

「最初からその二人()取るつもりだったのか」

「この二人()取るつもりだった。賈駆と交渉した結果そうなっただけで、ここでの話次第では譲るつもりだったし、こちらで引き受ける者を増やすことも考えていたよ」

 

 事実だろうと劉表は思う。この空海という男は交渉ごとでは滅多な嘘は吐かないし、非常に大ざっぱで大げさで大らかなためか、譲るときには譲られる方が返し方を悩むほどに大きく譲歩するのだ。

 その上、譲歩したことはしっかりと覚えているものだから、しっかり返しておかなくてはその後にとんでもないしっぺ返しを受けることすらあり得る。

 実際、征南将軍就任から車騎将軍就任の頃までに引き出した絶大な譲歩のせいで、その前後の5年近くを空海の元帥府開設へ向けた働きかけに費やすことになっている。結果的には車騎将軍就任への近道となり、運も絡んで宗正卿への就任に至ったが。

 

「それと今回、先の二つ以外にも司空、衛将軍、前将軍、中領軍、中郎将、司隸校尉あたりの官職は空くのが決まった。ついでに、九卿からも『体調不良』を訴える者が何人か出ている。後任については、賈駆へ伝えれば董卓から奏上される」

「そなたは何を取った?」

「俺からは何も伝えてはいないが、馬孟起に中郎将あたりをやってくれ。あとは、程度は任せるが、連合に参加した諸侯にはそれらしい報償をやった方が都合が良いだろうな」

 

 劉表を立てる提案に、当人にも笑顔が浮かぶ。

 

「よろしい。そうしよう」

「じゃ、俺は帰る。酒は置いていくから好きにしろ。飲み過ぎるなよ、劉大将軍」

「うむ。さらばだ、飲まない空海元帥」

 

 空海が立ち上がって去ろうとしたところに、声が掛かった。

 

「お待ち下さいな」

「ん?」

 

 空海は足を止め声をかけた少女に振り返り、そこで改めて外野に気がついたかのように周りを見回して、もう一度声をかけた少女を見た。

 

「お前は袁本初か。何の用かな?」

「江陵の皆さんにお礼を言いたいんですの」

 

 袁紹の言葉に空海がきょとんとした表情を見せ、首をかしげた。

 

「礼? ……何があったんだ、士元?」

「実は――」

 

 鳳統が空海の耳に口を寄せ、顛末を簡単に伝える。空海はしばらく耳を傾けていたが、やがて微笑んで頷く。

 

「――なるほど、わかった。礼は受け取ろう。だいぶ苦労したようだね? 寒い中、遠く冀州まで戻るお前の兵をねぎらうため、こちらが持ち込んだ物資から薪を贈ろう」

 

 空海は改めて優しげな笑顔を浮かべて袁紹を見つめる。在庫を笑顔で押しつけることで高く買わせようという魂胆に気付いたのは、江陵の面々と曹操陣営だけだった。

 

「冀州まで、お前たちを温めてくれると良いが」

 

 言葉と共に笑顔を向けられた袁紹は、その中身を理解するとポンと顔を赤くした。

 

「おや?」

「――……ハッ!? か、感謝しますわ!」

「よい。こういう大事(おおごと)はほどほどにしろよ」

 

 袁紹と空海の会話が終わるのを待っていたかのように、さらにもう一人の少女が慌てたように立ち上がった。

 

「待って下さい!」

「ん? ――今度はわからないな。誰だ?」

「えっと、平原相の劉玄徳です」

 

 気の弱そうな桃色髪が名乗った劉備という名に、空海は一瞬だけ言葉に詰まる。

 

「――ああ、関羽と張飛を連れて広宗に来ていたヤツか」

「あのっ、洛陽の人たちはどうなったんですか?」

「うん? ……んん?? 俺の勘違いでなければ、相当アレだな」

 

 現在の平原は王国、つまり王の置かれた郡なのだ。そしてその王家は洛陽にあり、王家から平原国の運営を任された人材が代官に指名するのが平原相という職である。

 そして、劉備の物言いはまるで――まるで洛陽の現状を知らないかのようであった。

 

「曹孟徳、お前の理解している範囲でいいから、こいつの言っていることを俺に説明してくれないか。それと、答えられるならこいつの質問にお前から答えを返してやれ」

 

 事前の情報では、劉備や曹操は、連合に参加を決めた強大な諸侯に挟まれているという地理的な要因が参加を決定づけたのだと思われていた。積極的に参加する理由の有無はともかく、不参加に伴う不利益が絶大であると。

 洛陽の状況を知らない諸侯など、辺境の幽州や益州にしかいないと考えていたし、何より、平原は袁紹の本拠である渤海のお隣なのだ。袁紹が事情を知っていて、劉備は知らないなどとは思ってもいなかった。

 一応、ほぼ同じ条件で参加したのだろうと見込んでいた曹操にも尋ねる。

 

「檄文にあった通り、洛陽の民が苦しんでいるのを看過できず連合に参加したのだと思います。――劉備、アレは方便よ。洛陽の民が特別に苦しんでいるということはない」

「えええっ! そうだったんですか!?」

「連合はあの竜を倒して洛陽と陛下をお救いする為に集まり、董卓と共に竜を倒すことに成功した。多大な寄与のあった董卓は、高祖の三臣の例に倣い自ら職を辞して江陵に身を寄せることになるわ。……間違いはありましょうか、元帥?」

 

 曹操は劉備へと向けていた説明を、途中から空海への挑戦的な態度へと変える。

 これから知らせるはずであった策を読まれていること、あるいは知られていることに、空海は小さく驚き、同時に軍師たちが言っていた『あること』も思い出す。

 

「面白い話だな。お前はそう考えているのか?」

「江陵がそう考えるのなら」

「なるほどねぇ。なかなか面白いことになったと思わないか、公瑾?」

 

 空海は隣に控えた周瑜に笑いかける。

 

「……ええ。確かに面白いですな」

 

 周瑜は、自身の視線が厳しくなっていることを確信していた。曹操は事前の予想通りの目的に向けて、事前の予想を超えた手段で動いている。

 話し合っておいた手段そのままでは足りないが、それをどう伝えたものかと空海を横目に見て――周瑜は思わず小さく笑みを浮かべた。

 

「是非もなし、と。それで兵を集めたわけだな」

「――ッ」

 

 空海の言葉に曹操が息を飲む。軍事権を持たないまま兵を集めていた自分たちの危うい立場を江陵を利用して覆そうとした曹操だったが、その思惑は一瞬で露見した。

 まさか竜によって手柄を横取りされて決着がつくとは夢にも思わなかったため、決着がついた現状からより良い手柄をねだるしか手がなかったのだ。

 打開のために江陵を利用しようとした判断は間違っていなかっただろう。だが、曹操は空海をどこかでまだ侮っていたと悔やむ。『天下を利する者』が『大謀』を悟らせないことなど六韜の時代から明らかな事ではないか、と。

 空海は、それを『諸侯の前で明らかにした上で黙らせる』つもりなのだ。そうなれば、この件を蒸し返されることはまず無くなる。そしてその『黙らせる相手』こそ、今や帝に次ぐ権力者となった劉表だ。

 

 曹操は一瞬、劉表の方に視線をやりそうになり、その臆病(・・)を意思の力でねじ伏せる。曹操は、江陵が立てた劉表ではなく、江陵を選んだ(・・・・・・)のだ。

 そうして決意を込め視線を返せば――いつの間にか空海は、曹操が寒気を覚えるような笑顔を浮かべていて。

 

「ふふふ。ならばよし! 劉景升、俺は曹孟徳を州牧に推す。それと、本人か部下に典軍校尉もやってくれ。現職の体調も思しくない。明日には職を辞するはずだ」

 

 それは曹操が思い描いた最高の報償を上回るものであり――同時に空海(商人)借り(商品)を高値で買ってしまったことを意味していた。

 声をかけられた劉表は、珍しく強い野心を感じさせる行動を取った空海に対して冷めた表情を浮かべ、やや苛立たしげに言い放つ。

 

「なるほど。空海、そなたは曹操が好みだと申すのだな」

「ちょ、折角格好良く決めたのに何を言い出すんだ、お前」

「そなたの好きな知的で意志の強い女だろう」

 

 男の子同士の話をバラされた空海はやや恥ずかしそうに曹操へと視線を向け、微妙な表情を浮かべている曹操を見て、やはり恥ずかしそうに視線を逸らす。

 

「……好みで言えば確かに好みだが、俺がそんな理由で提案したと言いたいのか?」

「ふん。似合わん態度で私に向けた言を簡単に覆した罰だ。そなたが曹操を助け、曹操がそなたの好みの女だったと宮中に広めてやろう。嘘はつかぬよ」

 

 劉表にとっては政治的敵対に至る手前の、嫌がらせで済ませる温情に近い罰ではある。

 それは、空海が好みの女に地位を与えていると伝わるだろう。やがて好みの女に地位を与えて手籠めにしていると尾ひれがつくかもしれない。いずれにしても、ろくな話にはならないことは誰の頭でも予想出来た。

 

 だが、空海は何かを閃いたように目を細め、次いで楽しげに劉表へ笑いかけた。こんなこともあろうかと備えてあったネタが役に立つときが訪れたために。

 

「――上等だ、劉景升。お前が娘の字を考えていた時、取り乱して色々やらかしちゃったこと……大陸中の人間に広めてやろうか!」

「なっ! 何故そなたがそれを!?」

「口止めをするなら部下だけではなく嫁さんや女中にも徹底すべきだったな! 娘たちがあのことを知ったらどう思うだろうなぁ……あーあ、 可 哀 想 に 」

 

 あまりに趣味の悪い脅し。大きく胸を反らしながら悪役笑いしている空海を見て、話を知っている江陵幹部は苦笑いするしかない。

 

「おぉ……お、おおおお、おのれ空海っ! この人でなしがぁ!」

「ククク。人の噂を操ることで俺を敵に回す愚を心底まで思い知るがいい。幽州は遼東の乳飲み子でも知っているくらいに徹底して広めてやるから覚悟しろよ」

 

 劉表は言葉に詰まる。

 アレは本気の目だと。笑っている間に許しを請わなくては本当にバラされて羅馬にまで伝わるくらいに話を広められるだろうと。威厳のある父の像は風前の灯火だと。

 もはや曹操などという小者にこだわっている場合ではない。最悪、(自ら進んで)死ぬことになるかもしれない。それどころか娘たちまでもが白い目で見られるなどということになったら、墓の中でもう一度死ねる。すまない娘たち……父は、負けを認める!

 

「……待つのだ、空海っ! 今のは、ほんの……そう、戯れだろう? 広い心で許すのが男と言うもの」

「戯れ? 戯れねぇ。あー、そう言えば馬寿成は未だに征西将軍の地位にあるなぁー」

 

 空海は棒読みで告げる。いずれ馬騰には引退を促すつもりだったが、名誉職に退かせるには良い機会と考えて、ここでねじ込むことにした。

 空海は以前にも馬騰を太子太博に推挙しているが、現在は次期皇帝(太子)がいないため太子の教育係である太子太博の職自体が消滅している。

 

「……い、今は太子太博など置けんぞ」

 

 劉表の声が裏返った。

 

「太博の席が空いている」

 

 太博は帝の教育係にあたる名誉職で、一連の騒動のきっかけとなった袁隗が就いていたものだ。その袁隗も、連合の発足前に馬超の手で亡き者にされた。今その席に着く者はいない。

 

「しかし太博ともなると、だな?」

 

 要職の人事に触れたことで劉表に政治家としての意識が戻ってくる。太博ほどの高官をタダ同然で渡すのは美味しくないのではないかと。

 

「おいおい……自分で言ったんだろう。お前も男なら広い心を見せてみろよ」

「それは広い心とは言わんのではないか、なぁ?」

 

 空海は納得したように一つ頷き、大げさに声を上げた。

 

「おおっ、そうだ! 老子の妄言を使うなど」

「私に万事任せろオオオオオオオッ!!!」

「お前がそう答えると知っていたッ!!」

 

 タダより高いものは無いという。ならば一番高く売りつけるのが政治家としても当然の判断であると劉表は自らの思考を賞賛した。全く問題ない。そもそも十分に利を得ている現状から欲を出す必要などないし空海の我が侭の一つや二つ認めてもいいはずだ。何も問題はない。

 

 二人のやり取りを黙って聞いていた何人かの諸侯は二重三重の意味で口元を引きつらせていた。中身はともかく、実質的な地位は皇帝に次ぐ二者なのだ。下手に反応して睨まれたりしたら一族丸ごと歴史から消えて無くなる。

 目を向ければ空海に好みと言われた曹操は未だに微妙な表情をしているし、それを見る袁紹の目はどこか厳しく半ば睨むようになっている。最も肝の据わっている孫策は会話をしっかり聞いてしまい、顔面に力を入れすぎたせいで変顔を晒していた。

 概ね平和である。

 

 後に口止め料としてその場に居合わせた人間には官位などが配られた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 2ヶ月後。春の日差しに包まれた江陵にて。

 

「……あっ! クーカイサマカッコイー!」

「ゆ、月!? 何でそんな甲高い声を上げてるの!?」

「え? 街で空海様を見かけるたびにこう言えばお小遣いをくれるって言うから――」

 

 董卓が賈駆から与えられる小遣いでは、新鮮な馬を購入するためには3ヶ月もの貯蓄が必要だ。馬肉で妥協すれば毎週2回くらいは食べられるが、董卓にもこだわりはある。

 

「やめて! お願いだからやめて! お小遣いが足りないならボクがあげるから!」

 

 給金が与えられているのは名目上では董卓だ。しかし、給金の良い閑職を充てられただけの董卓に対し、賈駆は実質的には軍師として名ばかりの無償奉仕を行っている。

 賈駆の仕事に対する本来の給料が自分に支払われていることを理解している董卓は、何の躊躇もなく給金の全額を賈駆に預けている。

 以前から賈駆によるお小遣い制を取っていたのもその判断を助けた。

 

「へうっ!? えっと、でも詠ちゃんに頼ってばかりじゃ駄目かなって……」

 

 だから董卓は仕事を探すことにした。そして相談を持ちかけた周泰から割の良いバイトを紹介して貰ったのが昨日のこと。歩合制の仕事だが、天気の記録係と兼業することもでき、運と実力が上手く合わされば1ヶ月に2千銭近く稼げる。

 新鮮で活きの良い馬の購入が1ヶ月も早まる計算である。これなら賈駆も喜んでくれるだろうと確信し、早速見かけた空海に向かって初仕事を成し遂げたのだ。

 

 理解が追いついた賈駆が董卓の両肩を掴んで激しく揺さぶる。今この瞬間、賈駆以上に江陵へ来たことを後悔している人間はいないだろう。

 

「月、お願いだからボクを頼って! あと仕事を探すときは絶対に一人で悩まずにボクに相談して! お願いだから!」

「へ、へぅ~」

 

 賈駆の苦労は絶えないようだった。

 





(竜) < ぜったいにゆるさんぞ にんげんども じゅわじゅわと あぶりやきに してく

『ファンタジー反董卓連合』

 主演 趙子龍
 助演 鳳統 程立 張遼 劉表 曹操
 脇役 董卓 賈駆 袁紹 郭嘉 荀彧 孫策 劉備 周瑜 空海 その他

 演出 太陽神
 監督・脚本 空海


「キャークーカイサマステキー!」
「良い感じです! 出来れば人混みの中から声を上げるようにしてください」
「わかりました、明命先生! 女性の多いところに紛れ込めば良いんですね!」

 解説、雑記は活動報告にて。
 次回は閑話。本編は書けていませんのでしばらく間が開きます。ご理解下さいませ。


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閑話 本日、晴天。

■詠の長い朝

 

「来たのは初めてだけど、おかしいわよね、ここ」

 

 賈駆と董卓が呼ばれたのは江陵の民から『究竟頂(くっきょうちょう)』と呼ばれる謁見の広場(・・)である。

 

「空海様ってやっぱり凄かったんだね……」

 

 かつて純白の石畳だった広場だが、江陵の拡張に伴って移転して改装されている。稀に街の人間を招くこともあり、中には見ただけで感極まって気絶する者も。

 大半の人間にとって、ここは噂話と自慢話の中でしか知ることのない空間だ。

 

「こ……ここ、そのまま歩いて良いのかな……」

 

 曇ることがない江陵の空を映す、黒曜石を磨き上げて作った鏡のような黒い床。上品な黒のつや消しで描かれた道が、立ち入りの許された場所を控えめに示していた。

 入り口から広間の中央を通ってまっすぐ空海の居る座に向かう道と、その道を挟むように配置された多数の儀仗兵たち。彼らが背後に背負うのは江陵からほど近い巫峡の雄大な山水を模したのだろう、黒い鏡の水底を持つ岩と流水の庭。

 

「大丈夫よ。入るときに何も言われなかったんだし、空海――様なら、怒らないわよ」

 

 賈駆はそう声をかけつつも、皇帝に謁見するときのような緊張感でもって道を歩く。

 空をそのまま天井にするということは、どんなに注意していても必ず汚れが降ってくるということだ。それなのにこの広場にはチリ一つ見当たらない。それは、これほど巨大な広場をそんな状態に保ち続けるだけの強大な権力の存在を物語っている。

 目につく場所を全て美しく磨き上げることは大変だ。だがそれ以上に、目につく場所を全て美しく磨き上げさせる(・・・)のは至難なのだ。

 帝の玉座の間ですら暗い照明によって誤魔化していた『それ』を難なくやってのけている江陵の人材の豊富さとその質の高さに、賈駆は内心吐き気を催すほどの重圧を感じながら、それでも緊張を内に留め、おっかなびっくり歩みを進める董卓を半ば引っ張るように数百歩を進み――やがて長いつや消しの道に終点が訪れる。

 

 つや消しが途切れたその向こう、数歩分の黒い鏡の床を挟んで向こうには、拳一つ分の厚みと大きな家一軒ほどの広さを持つ重厚な銀色の板が階段状に二段積まれていた。いぶし銀仕上げのようなつや消しと鏡面の加工を組み合わせ、全面に初夏の野原に花が咲き誇る様子を描いた見事な細工の芸術品だ。

 銀の舞台を越えた向こう側では、無数の花を咲かせる木々が雪のように花びらを降らせている。荒々しさを感じさせる幹と、その幹に似合わない小さく儚げな白い花たち。江陵に住む民ならば一目でわかるその花の名を、桜という。

 幹部たちの席と思しき場所には白くて上品な腰掛けが前と後ろの互い違いに置かれているが、今その席を埋めるのは空海の護衛だろう黄忠と軍事筆頭の鳳統のみだ。

 

 そして、左右に広がった幹部たちの席から少し奥。

 白い腰掛けが置かれた床からさらに拳一つ高く、一段下の床よりいっそう白さを増した白銀の床。やはり細工の施されたその床に一体化するように、卵を斜めに切断したような奇妙な形の椅子らしきものが鎮座する。

 子供の腕ほどの太さの継ぎ目も見当たらない白木で出来た輪と、その輪に無数に結びつけられた小指ほどの太さの白い紐。輪の中で紐が絡み合い織り上げられた厚い布の座面。一見しただけでは座るものとはわからないような不思議な座。

 座が置かれるべき場所にあって初めてそれが座るものだとわかる。

 

 その光景は、昨今の事件ですっかり洛陽の玉座に慣れてしまった賈駆ですら『天子』が今どこにいるのかを考え直してしまうほどに、神秘的な雰囲気を纏っていた。

 

 ――実はこれ、空海がハンモックのイメージを伝えて作って貰ったソファだ。想像とは多少違うものが出来たのだが、腰の辺りのフィット感がたまらないので劣化しない概念を与えて愛用している。賈駆の執務室に置いてある椅子より安いのは秘密だ。

 

 呆然としていた賈駆は、黄忠と鳳統に加えて、先に膝をついていた董卓の視線までもを集めていたことに遅ればせながら気付き、慌てて頭を下げる。

 そして、二人の頭が下がったとほぼ同時(・・・・)に、頭上から声が掛かった。

 

「久しぶりだね」

「ッ!?」

「七百年ぶりだねぇ」

 

 思わず顔を上げてしまったことを責める声はなかった。

 汚れ一つ無い白い着物、秋空のような青い羽織、背後に白い桜吹雪を背負い――身体を包むような白い椅子に、斜めに腰掛けた空海が笑って二人を見下ろしている。

 現実離れしたその光景に、賈駆はしばし言葉を失う。

 

「ふふ。空海様、あまりからかってはいけませんわ」

 

 空海と一緒に笑っていた黄忠が空海を注意する。

 黄忠の言葉より一瞬早く我を取り戻していた賈駆は、お前が言うなという言葉をすんでの所で飲み込んだ。賈駆にだって江陵内での立場というものがあるのだ。

 

「そうだねぇ。全然ウケなかったみたいだし。あ、二人とも江陵での生活はどう?」

 

 とんでもないことが続いて混乱していたこともあり、賈駆には咄嗟に返す言葉がない。

 

「あ、えっと、空海様には過分のご配慮をいただき、その」

 

 それでもなんとか現状に満足していることを伝えようとする賈駆を、空海が遮る。

 

「もっと簡潔に! 良い感じか悪い感じか、その辺どうなの仲穎?」

「えっと、良い感じです」

 

 話を向けられた董卓が素直に思ったことを口にする。権力にビビりまくっていた賈駆に比べれば、純粋に芸術的な美しさに感動していただけの董卓の心にはゆとりがあった。

 思い返してみれば、馬を食べる機会が減ったことや遠乗りが出来ないことなどの細かい不満も見当たるものの、それ以上に生活水準の向上が劇的だ。水が流れ続ける水場、湯がわき出る風呂、日当たりの良い庭の縁台。市場には一流の品々が溢れており、商店を回ることも文を書くことも自由。条件こそつくが、引っ越しすら出来ると言われている。

 それは、事前に覚悟した待遇のうち、最も良い想像を遥かに上回るものだった。

 

「ちょっと月!?」

「へうっ」「あれ? 文句あった?」

「え? は、いえ。そういうことではなく、あの、仲穎の態度につきましては――」

「俺はお前の態度の方が苦手。何で話をするのにわざわざ頭のてっぺんを見せるの」

 

 賈駆は慌てて両手で頭を隠す。冷静になりつつあった思考が再び空回りし始める。別に頭頂部が寂しいとかそういうことはないが、見られて良い気のする部位でもない。なんでこっちを見ながら話をしてるんだと空海を責める言葉まで浮かんでは消える。

 

「とりあえず顔を上げて話をしようず。ほら、取り次ぎも置いてないだろ?」

 

 取り次ぎとは、高貴な人間が座にあって下の者と話すとき、直接声を聞かずに臣下らに言葉を伝えさせることを指している。皇帝の周りでは十常侍などが職権を超えてこの取り次ぎの役目を負っていた。

 言われて見れば、空海と董卓たちの距離はずいぶんと近い。皇帝との会話には数十歩の距離が置かれていたことを考えれば、お互いの声が普通に届くというのはずいぶん身近に感じる。むしろ賈駆の持つ必殺技の大半が届くのではないだろうか。好奇心からちょっと試してみたくなったが、理性で押さえつける。

 

「ですが、その」

「普段通りでいいよ。文句があっても罰する前に改める機会をやるから、余程に酷くなければ大丈夫」

 

 空海が楽しそうに笑う。黄忠も優しく笑う。鳳統も柔らかく笑う。

 

「……俺を信じてみろって。お前たちの雇い主だよ?」

 

 董卓が頬を緩めて、頭を抱えたままの賈駆を見て悲しそうな表情を浮かべた。

 

「詠ちゃん……」

 

 董卓に見つめられた賈駆はただ一人疑心に囚われているという罪悪感から後退しそうになり、しかし、愛と勇気と根性でかろうじて踏みとどまる。

 

「ぅ、く……わ――わかり、ました」

「ました?」

「うぐっ。……ああああっ、もう! わかったわよっ! これで良いんでしょう!?」

 

 空海は満足げに頷き。

 

「よし、引っかかったな。じゃあ罰として」

「いきなり裏切ってんじゃないわよッ!!」

「オウフ」

「出たー! 詠ちゃんの8つある必殺技の一つ、賈文和螺旋突きッ!」

「あらあら」「あわわわ」

 

 賈駆は調子を取り戻した。

 

 

 

 

■ここでは八達も姉妹

 

「今思うと、シヴァ家って凄く強そうだよね」

 

 アホなことを言っているのは青い羽織を着たチビ。最近、高濃度茶カテキンのおかげで順調にパワーアップしている空海だ。

 

「下唇を噛んで発音するのはやめませんか?」

 

 黒の長い髪をかんざしでまとめて、藍色の着物に桜色の羽織をまとった優しげな風貌の美女は司馬徳操、天下の水鏡先生である。

 今日は、水鏡女学院に今季入学する予定の生徒について話しているのだが、その中でも非常に目立つ存在が空海の目を惹いていた。

 

「今季の学院は何なの。春のシヴァづくし?」

 

 言っても聞かない空海に小さくため息をついた水鏡は、空海のボケを無視して答える。

 

「私も流石に驚きました。偶然かと思って調べたのですが、全員が姉妹でした」

「八つ子なの!?」

 

 そう、8人もの姓が――江陵ではあまり見かけない――司馬だったのだ。

 水鏡女学院は女子校なので、当然、全員が女子だ。

 

「いえ。本妻の子は二人で他は妾腹であるとか。上から下まで4つほど離れています」

「へぇー。って、シヴァ家で子供8人って周家の紹介で来たヤツらだわ。……まさかとは思うけど、試験に不正があったなんてことはー……」

 

 江陵に来たばかりなのだから試験を受けた時期も同じだったというわけだ。もっとも、水鏡女学院は元から個別指導に特化しているので、入学者も卒業者も年齢はまちまちだ。

 

 遡ること1ヶ月。董卓たちの受け入れが概ね落ち着いた頃になって洛陽から流れてきた人材の一人が司馬防であり、その一家には幼い8人姉妹がいると空海は聞いていた。

 董卓の辞職に合わせて洛陽周辺の官職で大規模な人員整理が行われ、それに巻き込まれた司馬防は、前任者である周瑜の母を頼り、周瑜の母は一族の出世頭で学術都市の幹部でもある周瑜を紹介し、話を聞いた周瑜が江陵に導いた、と。

 周瑜が積極的に不正に絡むとは考えづらいが、理由があればやりかねないのも周瑜だ。

 

「ご安心を。どの子も素晴らしい才と教養を備えていますわ」

「不正なしで全員が学院に入るのか。それはそれで……」

 

 ちなみに空海の知らない事ではあるが、反董卓連合騒動の際、空海から礼を受け取って洛陽城壁に江陵の旗を立てさせたのが当時洛陽令だった司馬防の部下であり、この責任を取るため司馬防は辞任に追い込まれていた。

 事態を把握した司馬防は部下が処断されても騒ぎ立てず、静かに周家に接触した。公に晒すことも抱えたまま逃げることもしないから、味方として自分を買って欲しいのだと。

 そのため、周瑜は司馬家を江陵に招くことにしたのだ。

 

「色々凄いけど、注意して見てあげてね」

「心得ております。既に上の3人だけを入寮させることにしました」

「さすが徳操」

 

 学院内で姉妹がグループを作ってしまえば、将来の江陵を動かす学院生らとの繋がりが弱くなってしまう。姉妹の仲を引き裂きたいわけではないが、姉妹以外との関係を育ませるために強制する部分も必要だと空海や水鏡は考える。

 

「会ったことはないんだけど、確か上の方の子供は璃々と同じくらいだったでしょ?」

「そうですね。長女が一つ上、次女と三女が同い年で、一つ下に三人が続きます」

「ふむ。漢升たちの影響かわからんけど璃々もだいぶ大人びてるから、この機に同世代で対等に付き合えるような友達になってくれるとありがたいな」

 

 最近の璃々はどうにも子供たちのまとめ役が板に付いてしまい、我が侭は減るし、遊びより勉学だし、大人の仕事を学ぼうとしている節すらある。

 その健気な姿勢のせいでますます母親役の女性たちから人気が出てしまい、褒められて可愛がられ、その道に縛り付けられつつあるようにも見えるのだ。

 遊ばないというわけではないし、甘えることもあるし、社交性はむしろ同世代の中でも秀でているようだし、とても伸びているためにあまり問題視されていないが、本当に心を許しているだろう相手は大人の中に数人見られるだけ。

 対等に付き合える同世代の友人が欲しいというのは、璃々の親たち(・・・)の総意でもある。

 

「そうですね……。司馬家の子供たちも大人びておりますから、璃々ちゃんが童心を取り戻せるかと言われますとどうなるかはわかりませんが、対等に付き合えるという意味では申し分の無い相手でしょう」

「いいね。じゃあ今度、仲を取り持つために一緒に遊んでみよう」

 

 遊びと言っても、身体を動かすものに始まり将棋や人形遊びまで、江陵の遊戯は極めて充実している。何かしら気に入るものがあるだろうなどと楽に考える空海は、待ち受ける8人と1人が分野次第では孔明や鳳統をも上回る真性の天才たちであることを知らない。

 

 そんなやり取りからしばらくが過ぎ。孔明や鳳統に続いて戦略遊戯と戦術遊戯で子供に負け旗揚げのために幽州へ旅立とうとしたチビが学院付近に発生したとかなんとか。

 

 

 璃々に友達を見つけよう計画は司馬家次女と口論になった璃々が彼女を認め、その後にあっさり仲直りしたことで解決した。子供は仲良くなるのが早いのだ。

 口論が始まってから仲直りするまでずっと間に挟まれ続けた空海は、何故か仲直りにも巻き込まれて真名を預けられた。何歳か年上の子供だと思われていたことが判明するのは数日後のことである。

 流石にショックを隠せず、空海は餌付けによって認識を改めさせようとクッキー作戦を実行し、結果的に姉妹全員と仲良くなることには成功する。意識改革には失敗したが。

 

 こんなことがあり空海は、お父さん娘でしっかり者で人見知りで甘えん坊という司馬家次女にとても懐かれた。三代目クッキー様の物語はここから始まる。

 

 

 

 

■詠の長いお昼

 

「我々が今まで口にしてきた『馬』とは一体何であったのか……。そう疑問を抱かざるを得ない」

 

「どうやってあんなトコ登ったんだろ。やっぱり壁かなぁ」

「ああ、どうしよう……月が壊れちゃった……」

 

「よく考えてみて欲しい。我々がこれを『馬肉』と呼び続けることは、果たして正しいのだろうか? ……答えは、否ッ! それは断じて誤りである!」

 

「熱いなー。仲穎っていつもこんなに激しいの?」

「そんなワケあるか! 月ぇーっ! 今すぐ降りてきなさーいっ!」

 

「諸君、これはもはや『馬肉』ではない! ――これは『破壊』でへうッ!!」

 

 賈文和破山拳では靴が飛ぶ。

 

 

 

「いやぁ。理解を深めようとしたのに謎が深まったな」

「あんたのせいよ!」

「え? ホントに俺のせい?」

「えっ、た――たぶん」

「たぶん俺のせい?」

「うっ。そ……うでもない、かも、しれないわ」

「かもしれない? どっち? ねぇ、どっちぃ?」

「くっ――ぅぅぅぅうう!」

 

 ニヤニヤとからかう空海は完全にいじめっ子であり、涙目でそれを睨み付ける賈駆は、噛みつく寸前の小型犬のようですらあった。

 

「へぅ~。美味しかったよぅ」

「「……」」

 

 ただし、当の本人は幸せそうである。

 

 

 

「へぅ~……♪」

「試作品を食べさせられるって聞いたときには警戒したけど、その、凄く美味しかったと思うわ。……月のことがなければ(ボソッ)」

 

 賈駆がやや黒い表情を浮かべながら料理を褒める。空海としても説明したくて仕方ない話題であったため、ニコニコと笑いながら身振り手振りを交えて返す。食事中は食べ方の説明や店の話題などで時間が取れなかったのだ。

 

「あのふわふわしたの大根おろしって言うんだけどね。おろし金っていう調理器具使って作るの。調理は難しくないんだけど、おろし金そのものを作るのが大変でねぇ」

「大根おろし!」

「あんたが大変っていうと本当に大変そうだわ……」

 

 賈駆の呟きに空海も頷いて、しみじみと語り出した。

 

「形が決まって量産の試作が始まったのが5年くらい前でね。それから毎月試作を重ねて仕上がりを確認して、1年で欠陥を見つけて、2年で職人が倒れ、3年で工房を移して、4年で材料を変えてさ。やっと完成したのが今月なんだよ」

「今月!」

「ホントに大変ね。でも今月完成したばかりで、もうあの料理が出来るの?」

 

 料理と言っても、数週間をかけて臭みを抜いた馬を丁寧に処理し、おろしダレで焼肉を楽しんだだけである。一般兵の給料半月分がぶっ飛んだが。

 

「料理の方は別件で開発済み。量産に問題があっただけで試作品はあったわけだし」

「量産型!」

「なるほどね。量産ってことは広めるんでしょ? あの美味しさを自分たちで再現出来るならやってみたいわ」

 

 肉を焼く網、火力が高く臭いや煙の少ない炭、それらを乗せる七輪のような鉢。どれも未だ江陵でしか手に入らない、江陵ならではの料理だ。

 

「大根おろしとそれを使った料理は料理教室で来月から扱い始めるよ。といっても、もう旬が終わるから次は半年後かな」

「来月から!」

「ふぅん、残念ね」

 

 賈駆は軽そうに、しかし実のところ心底残念に思いながら返す。董卓と知り合ってからことあるごとにご馳走されてきた馬だが、あんなに美味しく食べられるなら「飽きた」と言い出せない現状を打破できるかもしれない。

 

「ま、他のおろし料理もあるからお楽しみに。料理は仲穎の方がよくやるんだよね」

「おろし料理!」

「そうよ。月の料理は(意外にも)美味しいんだから。星もよく食べに来てるわ。――ほら月、そろそろ戻って来なさい」

 

 言葉と共に右腕を大きく振り上げた賈駆は、直後、腰から上の上半身でひねりを加えて相当な勢いで董卓の後頭部をはたいた。

 スパンと洗濯物を伸ばすときのような気持ちの良い音が董卓の後頭部から周囲に響く。

 

「へう゛っ!! あ……あれ? 詠ちゃんどうしたの?」

「空海様が、ボクと月はどんな料理ができるのか、って。聞いてなかったでしょ?」

「あ、うん。ごめんね、詠ちゃん。えっと……私は麺料理とメンマ料理が得意です」

「へぇ。麺と、えええっ! メンマ料理!? いつの間にそんなに浸透してたの!」

 

 あまりに自然に口にしたため思わずスルーしそうになった空海だが、メンマ料理という違和感を無かったことには出来なかった。

 

「あの、江陵に来てすぐ星さんが色々教えてくださって……」

「悔しいけど美味しいのよね」

「子龍そんなことしてたのかよ……。うーん、あとでなんか届けてやるか」

 

 董卓が早く江陵に馴染めるように配慮してくれたのか、何色にも染まっていないうちにメンマ色に染めてしまおうと考えたのか真実はわからないが、結果として董卓の江陵での生活を助けているようではある。

 別にメンマ料理を普及されて困ることもないが、メンマ不足で暴走したのなら困る。

 さっさとメンマ分を補給してやらなくてはならないと空海は考え、お酒に合う料理と、料理に合うお酒を扱っている店の位置を頭に浮かべる。

 

「ふぅん……意外と甘いのね」

「どちらかと言えばマメだと言われることが多いな。豆のように小さいとか」

「それは見た目でしょうが!」

「そう言えば、うちの台所はメンマが切れると勝手に補充されます……!」

「それは俺じゃない!」

 

 

 

 

■袁紹頑張る

 

 江陵の流行り物の話題や一緒に贈った品物の解説など、読みやすい文章で書かれた挨拶混じりの手紙。その中で、袁紹から送った手紙への返答は、たった八文字だった。

 

 ――夫謂惚恍(それは朧気なものであり)、夫謂道紀(それは道の始まりと言う)。

 

 それは、麗羽の心をこれ以上無く的確に、そして美しく詩的に表す八文字でもあった。

 かつてこれほどまでに麗羽の気持ちを華麗に描き出してくれた者がいただろうか。これほどまでに正しく理解してくれた者がいただろうか。思わず反語で語りたくなるほど衝撃的な出来事だった。

 手紙がしわにならないよう優しくたたみ、柔らかく胸に抱きしめて静かに涙を流す。

 赤く鮮やかな服と、長く柔らかな金髪と白い肌、そして整った顔立ち。昼下がりの庭の四阿(あずまや)で静かに顔を伏せる姿は、絵画の一枚のようでもあった。

 

 

「うわぁ……うわぁぁああああー(ガタガタブルブル)」

「どうしたの文ちゃん?」

「ひ、姫が……姫がっ、手紙読んで涙流してる!」

「えー、うっそだぁー。……う……嘘……。嘘だッ!!」

 

 活発そうな明るい髪色の文醜と、大人しそうな暗い髪色の顔良が揃ってうろたえる。

 

「ど、どうしたらいい? 何が降ってくるんだよ! 雷か!? 槍か!? 空か!?」

「はっ!? 待って文ちゃん! もしかしたら目にゴミが入っただけかも!」

「おおっ! そうか、そうだよな! じゃあ……え? じゃあ、どうすればいいんだ?」

「えぇっとー、そうだ! 涙を拭く布を持って行こう?」

「おお、流石あたいの斗詩!」

 

 ちなみに袁紹が空海に宛てた手紙には、曖昧模糊とした気持ちがあって云々と綴られており、空海は「一言でまとめるとこうじゃないか?」と返しただけだ。まとめただけなのだから、そりゃ当人の気持ちとも一致するはずである。

 

 

「あら? 猪々子さん、斗詩さん。どうしましたの?」

「ほらっ、斗詩!」

「あ、私!? いえ、そのですね。涙を流されていたようでしたので、お顔を拭く布をと思いましてー」

「まあ。気付きませんでしたわ」

「目にゴミが入って気付かないなんて、流石の姫でも珍しいっすねー」

「ゴミ? 何のことですの?」

 

 目元をぬぐった袁紹はすぐにいつものような自信ありげな笑顔を見せる。

 文醜と顔良はお互いの顔を見合わせ、原因究明を決めた。

 

「で、えっとー、なんで泣いてたんすか?」

「それは……ほら、この手紙ですわ」

「わ。綺麗な字。飾っておきたいくらいですね」

「そうでしょう? これは、その中身まで素晴らしいんですのよ。ご覧なさいな」

 

 袁紹は微笑みながら、自分が送った手紙への返信部分を指差して見せる。

 

「夫謂道紀……えっと、どこかで見た気がするような」

「老子にある『是謂道紀』という一節を書き換えたものでしょう。老子のこの話は、曖昧模糊とした『道』を言葉にして示そうとした、かの書の中でも異色の章ですの」

「うわー。老子のちからってすげー……なんか姫まで賢そうに見える」

 

 ある意味で素直な文醜の人物評に、顔良は苦笑いを浮かべるしかない。

 

「もう、文ちゃん……。それにしても誰からのお手紙なんですか?」

「空海()からに決まっていますわ!」

「んあー……ああっ! 江陵のものすんごく偉い人だっけ?」

「えぇー、そういう理解なんだ……。ええっと、流石に『知の国』の長は手紙からも品が漂ってきますね。――前に南の田舎者って言ってましたけど」

「まさしくその通りですわ! 一見しただけでは見窄らしいこの包み紙も、銀糸で上品に縁取りされ、光にかざせば花模様の透かしが浮き上がり、新雪のように輝く白さと絹のような滑らかさと羽根のような軽さを持っている……」

 

 袁紹は宙にかざした手紙を下ろし、指で文字を追いながら講じていく。

 

「何よりその中身。ため息が出るほどに美しい文字と、大陸の知を結集した荊州江陵ならではの余話、この私が見た事もないような品々のお話。……そして、私の送った手紙への知性溢れる返答……」

「うあー……帰りてー……」

「あはは……」

 

 うっとりとした表情で賛辞を並べ続ける袁紹に、顔良も文醜も既に食傷気味だ。

 

「ですが、空海様にも一つ足りないものがあるとは思いませんこと? おわかりかしら」

 

 袁紹は急にいつもの調子に戻って二人に問いかける。

 

「え? えぇ~……? あ、強い武将とか!」

「文ちゃん、江陵にはあの(・・)竜殺しがいるんだから、強くないわけないってぇー」

「ええー? そうかなぁ」

 

 袁紹は、わけがわからないと言った表情の文醜に向けてため息をつく。

 

「猪々子さんはわかっておりませんのね。斗詩さんはどうかしら?」

「あ、はい。えーと、劉将軍に蓋をされてしまっている地の利、じゃないでしょうか」

 

 顔良の解答を聞いた袁紹は大きくかぶりを振った。何もわかっていない、と。

 

「大外れですわ! 空海様に足りないもの。それは――」

「「それは?」」

「審美眼ですわ!」

「「……えぇぇぇ……」」

「何ですの、その目は! いいかしら? 空海様はあのクルクルパーの華琳さんを好ましいなどとっ……くっ! つまり、そこ だ け は、足りておりませんの。ですからこの私が、空海様の目を覚まして差し上げなくてはなりませんわ!」

 

 言葉の途中で険しい表情になった袁紹だが、最後には強い決心を胸に顔を上げる。

 

「なあ斗詩ー。あたい帰りに肉まん食べたい」

「文ちゃん、お願いだからまだ帰らないでよぉ。私一人でこうなった麗羽様の相手をするなんて無理だってばぁー」

「なら、あたいと一緒に帰りゃいいって!」

「ダメに決まっているでしょう!」

「うわっ」「きゃん!?」

 

 袁紹は二人を物理的に止めるため首根っこを掴み、耳元ではっきりと宣言する。

 

「よろしいこと? お二人には空海様の目を覚まさせるための、袁家当主たる私からの贈り物にふさわしい品物選びを手伝わせてあげますわ!」

「うぇぇ、面倒くさー」「ああ、やっぱりー……」

「何か仰いまして?」

「いえー、何でもないっすー」「何でもありませぇん」

 

 文醜は疲れ気味に、顔良は涙目で、袁紹は元気よく。

 三人は四阿から踏み出した。

 

「さあ行きますわよ、猪々子さん、斗詩さん!」

「へーい」「はぁい……」

「何ですの、その気のない返事は!」

「あらほいさっさー!」「あらほいさっさぁーっ」

「おーっほっほっほっほっほっ!」

 

 

 

 

■詠の長い夕方

 

「ここのトコなんでこんなに鑑定依頼が多いのよ……! 昨日までに処理した数と同じくらいまた増えるとかおかしいでしょ!?」

 

 空海の元には毎日大量の貢ぎ物や贈り物が届く。それらを仕分けて、例えば北の産物を南の豪族に贈ったり、あまり日持ちのしない物品をちょうど江陵に滞在する人間に渡して処理させたり、高級品や学術的・芸術的価値が高くて扱いづらいものは江陵が所蔵するよう専門家に保存を指示したりと、取り扱い方を決めるのも江陵幹部の仕事である。

 そして、幹部にまであげる価値のある物品かどうかを専門家に判断させるのが、現在の賈駆の仕事だ。

 

 空海の元には確かに毎日のように大量の貢ぎ物や贈り物が届く。それでも、ここ数日のそれは苛烈を極めていた。普段の数十倍の物品が寄せられ、他の仕事を後回しにしてなお処理が追いつかないほどに指示すべきことが溢れているのだ。

 動植物と食べ物類を先んじて終わらせたために緊急の処理がないのは救いだが、未だに何が原因でこんなことになっているのかを調べる時間すら取れないというのは、温厚を自負する賈駆ですら苛立つ異常事態だった。

 

「書、銅鏡、巻物、銅の鎧、檜の棒、金糸の織物に何かの種に石版――石版!?」

 

 節操なく買い漁ったとしか思えない混沌とした品目の数々。少数の鑑定人では処理できないせいで、わざわざ取り扱いの心得がある人員を動かして整理させたり、専門分野の鑑定士を用意したりと手間が増える。

 昨日は下層に店を構える鑑定士に依頼するためふた時(4時間)も馬を走らせた。これが賈駆への嫌がらせなのだとしたら、確かに効果的だと相手を褒めてやりたいくらいだ。

 とりあえず、ここまで処理してわかったことと言えば。

 

「北方……それも冀州の北の物品かしら」

 

 古今東西の諸々が溢れかえった内容ではあったが、眉唾物の物品を除いて特徴的なのは幽州漁陽郡の塩や鉄製品、同じく楽浪郡の薬草類であろう。

 昨今、漁陽の塩鉄が幽州を超えて出回ることは珍しく、大消費地である冀州程度まででしか見られない。同じく、楽浪の産品などは幽州と青州を除けば冀州の北部程度までしか流通していないのだ。

 その双方が手に入る地理。それを満たす諸侯は公孫賛と劉備ともう一つしかない。さらに、これだけの物品を贈り物に出来る財力となれば、もはや答えは一つだけだ。

 私意によって判断が曇らぬよう伏せられたはずの贈り主の名前。忙しくて調べることも出来なかったそれ。その秘が、賈駆の知識と頭脳に曝かれようとしていた。

 

「へぇ、なるほど。袁紹、ね。……ふぅん。面白いわね、これ。ボクに対する挑戦?」

 

 非常によろしくない、不吉な何かを思わせる音が、賈駆の喉から漏れ出した。その日の賈駆は、非常にいい笑顔で帰宅が遅くなったことを董卓に謝罪したのだとか。

 

 

 

「やっほー。文和いる?」

「あら? あんたがここに来るのは珍しいわね」

「うん。ほら、しばらく贈り物凄かったでしょ。俺のとこにもいくつか来たけど」

 

 空海の元にまで届いたのは綺麗な岩塩やかなりヤバそうな銅鏡や名剣や書の類だ。

 

「ああ……袁紹のやつね。今回のはもう片付いたわ」

「あれ。知ってたんだ? まぁいいや。今度その贈り物にお返しするんだけどさ、物量に物量で返してたらキリがないでしょ。だから少数の一品もので返そうかと思って、現場で裁いたお前の意見を聞きたいなと」

 

 そう言って空海は手に持った包みを持ち上げてみせる。

 

「ふぅん。中身はともかく、あの山に返すとなるとかなり大変よ?」

「そこで用意しましたのはこちらの一品!」

 

 空海が包みから取り出したのは、上品な焼き目が付いた木箱だ。

 

「……なにこれ? 中は……ん、お酒? まさか公良酒の!?」

「うん。特撰ってヤツ」

 

 綿の敷き詰められた箱の中には、白い綿に映える暗い青の陶器の酒瓶と、二つ折りにされた一枚の紙が、控えめにその存在を主張していた。

 

「初めて見たわ……。えーと『江陵最上層で作られる元帥様への献上米を特別に使用し、磨き上げた米をじっくり熟成させました。深い森に湧く清水のような甘みと、真夏の氷のような辛みが味わえる極上の逸品です』……こういうの初めて見るけど、美味しそうね」

「いやぁ、お酒嫌いな俺が感想を求められて苦し紛れに言ったことが、ほぼそのまま採用されちゃってて心苦しいんだけど」

「聞かなきゃ良かったわ」

「でもその説明文は俺じゃないけど、箱の文字の方は俺が書いたわけですよ」

 

 空海はそう言って箱を見せる。飴色の木箱の表面には「特撰」と書かれた墨の文字が、光を浴びて小さな星のような輝きを放っていた。墨に混ぜ込んだ宝石の粒子の輝きだ。

 勿論一つひとつ書いているわけではなく版画ではあるのだが、筆の乱れまでもを再現したそれは、肉筆と変わらない芸術性を保っている。

 

「どうでもいいわ。まだ続きがあるわね」

「俺の扱いが酷すぎる!」

「『一切の臭みを消しながら体の奥を抜けるような華やかな香りが特徴です。是非、湧水で冷やしてお楽しみください』と。なるほど。全然わからないけど凄みを感じるわ」

「そのよくわからない感じが売りなんだよね。どう? お返しによさそう?」

「うーん」

 

 確かに珍しさも質も高いが、売られている以上は値段がついているわけで、値段相応の価値くらいしか認められないかもしれない。空海が特別に文でもつければ、と賈駆はそこまで考えて肝心の値段を聞いていなかったことに気がつく。

 

「ちなみにこれ、いくらくらいなの?」

「んー。その時々で変わるから一定の価格っていうのはないんだけど、今年の春に出来たお酒は、一番安いの一斗(2リットル)で15万銭くらいついてたかな」

「ブーッ!!」

「あ、落とさないようにね。それもっと高いはずだし」

「ふざけんじゃないわよ! あんたそれを先に言いなさい! これがその辺の家5軒より高いだなんて想像つくかッ!!」

「ご、ごめんなさい。今度それ飲ませてあげるから許して」

「はァ!? ……あ?」

「一本持ち帰っても良いから」

「……ボク、誤解してたかも。あんた良い奴だったのね。ええ、さすが空海様だわ!」

「贈り物とはこうやって心を通わすためにあるのだよ、諸君!」

 

 

 誰も知らないところで始まった袁紹対賈駆の戦いは、やがて度重なる物量重視の贈り物攻勢にぶち切れた賈駆によって効率的な物品の仕分け方法が確立されたことで終結した。

 

 最終的に全面採用に至ったのは、暫定仕分けから正否などの判断を重ね、その都度の評価で次の評価者が決まっていくという方式だ。より良い、より悪いと判断された品に集中的に実力のある鑑定者を中て、それ以外の品は回数をこなして正確さを増す。

 全ての鑑定物を全ての鑑定者が確認するよりは不確実だが、最低でも3回の鑑定を通すことで見落としや評価の誤りを限りなく抑えつつ、鑑定機会の総数を減らして結論を得るまでの指示と手順も簡略化した、江陵にとって理想的な仕分け方法だった。

 この方法は間違いを減らす合理的な手段として、後にいくつかの仕事に用いられるようになり、江陵の発展に寄与することになる。

 

 後の話ではあるが、新しい手法で直接的に年間十数万銭の経費を削減するに留まらず、幹部の仕事を効率化したことで年間数百万銭の利益を恒久的に生み出したとして、賈駆は幹部へと昇格する。

 

 

 

 

■今日で三日目

 

「お。今日は孟起の勝ち?」

「馬上で一勝一分け、地上で一敗一分けだよ」

「なるほど。最終が騎馬戦で、子龍は怪我の治療中かな?」

「ああ」

「そっか。今日は行けなくて悪かったね」

「いや、いいよ。三日経っても決着が付けられないあたしたちが悪いんだ」

 

 長い栗毛を軽く揺らし、馬超が告げる。最近ますます母親に似てきた顔が、今は悔しそうに歪んでいる。

 

「三日なー。良い勝負するようになったねぇ」

「……ホントにな。あー、くそっ。初めて会った時に侮りすぎたんだよなぁ」

「ま、でも、そのおかげで孟起も強くなってるでしょ」

「そりゃそうなんだけど、あたしとしては敵を強くしちゃったわけだしさ」

 

 馬超は乱暴に髪をかき乱し、唇を尖らせる。趙雲との模擬戦に明確な決着が付かないことで苛立っているのだと思っていた空海は、疑問符を浮かべた。

 

「ん? 味方でしょ? 競い合ってはいるけど。ナカーマ、ナカーマ」

「……そういやそうだな。……忘れてたよ」

 

 何かを誤魔化すように小さな声で言い訳する馬超。空海はそんな彼女を見てニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。馬家の人間の可愛らしい誤魔化し方は空海の好物である。

 

「えぇー、忘れてたぁー? 殺してないのにぃ?」

「う、うるさい! そういうとこ嫌いだ!」

「あははは。ごめんごめん」

 

 馬超は顔を真っ赤にしてそっぽを向くが、空海が軽い調子で謝るとすぐに機嫌を戻して笑う。このくらいのじゃれ合いが関係を壊さない程度には、長く深い付き合いなのだ。

 

「そういや、たんぽぽは?」

 

 馬超が空海と一緒に居るはずの従姉妹、馬岱の行方を尋ねる。

 

「今は寝てるよー」

「あれ、もう? 早すぎないか?」

「それがさ。聞いてくれよ、孟起」

「ん? ああ」

 

 空海が困ったような顔で告げたため、馬超は困惑を浮かべ、曖昧に返し、直後に迫った空海の顔に少しだけ心拍数を上げた。

 

「たんぽぽ起きる。目が覚めて寝台脇の水を飲む。俺の横で着替えながら喋り出す。俺の後ろをついて回って喋り続ける。俺が人と会ってる時だけ静かにして、その時以外ずっと喋り続ける。部屋に戻ってきて寝台脇の水を飲む。寝台に座って喋り続ける。喋り疲れて寝る。最初に戻る。お昼からも一通り同じことやって今に至る」

「何やってんだよ、たんぽぽぉ……」

 

 空海の淡々とした説明が、馬岱の行動をいっそう強調して伝える。

 

「何をそんなに話すことがあるんだと思うだろ? 今日だけでお前が袁隗の首を塩漬けにした話を7回聞いたし、寿成が手紙に書く字を間違えて馬を走らせた話を6回聞いたし、江陵で行きたい店の話を9回聞いたし、思いっきり買い物をするために小遣いをいっぱい持ってきたことは15回聞いた」

「うわぁ……。ホントにごめんな、空海様」

 

 馬岱から短期間に何度も同じ話をされ、暇に飽かして意識の隅で数えていたせいでしっかり回数まで把握してしまい、かといって馬岱相手にそれを指摘する気も無かったため、馬超に伝えられた空海は実にすっきりした表情だ。

 

「孟起が謝ることでもないし、嫌だったわけでもないんだけどね。ひょっとしていつもはいっぱい話が出来る相手が居ないんじゃない?」

「ああ。母様はずっと調子悪いし、最近はあたしも忙しくて……」

 

 馬超はばつが悪そうに告白したが、空海も予想していたのか、軽く頷くだけだ。

 

「だよねぇ。というわけで、明日はお前も一緒に買い物に行くぞ」

「ええっ! ちょっ、待ってくれよ。あたしはアイツと決着を――」

「ああ、じゃあ子龍も誘って行こう。二人とも根を詰めすぎってことで一つ」

「とってつけたような理由じゃんか!」

 

 それでも口で空海に勝てる馬超ではなく、ズルズルと言い訳を探しているうちに同意を取り付けられ、空海の部屋の前に到着する頃には翌日の買い物が楽しみになっていた。

 

「じゃあ、たんぽぽは引き取っていってくれ。運び役は出すから」

「ああ。ありがと、助かるよ」

「あと、たんぽぽに『いい年した娘が男の部屋に泊まってはいけない』って、お前からも注意してくれないか? 俺が言っても聞かないっていうか、今日なんか、遊びに来ていた子供を引っ張り出して『この子たちがいいなら私も残る』とか駄々をこねるんだ。寝台の取り合いをした挙げ句、お昼は8歳児の方が遠慮して帰っちゃったんだよ」

「子供と張り合うなよ……ホントに何をやってんだよ、たんぽぽ……」

 

 馬超は頭を抱えながら唸る。

 ちなみに張り合っていた8歳児とは璃々と司馬懿の二人である。表面では苦笑していただけの二人だが実はたいそうご立腹であり、二人で策を練って夜には部屋から馬岱を追い出す算段だ。昼間はそのために引き下がっただけだったりする。水鏡女学院の寮住まいの二人は現在、水鏡先生に外泊許可を申請している最中だ。

 

「百歩譲って俺の部屋に泊まるのはまだいいとしても、他の男の部屋にホイホイ泊まりに行くのはやめて欲しい。ていうか泊まりに行く前に俺に許可を取れ。相手を表から裏から調べ尽くしてやるから」

「それは大丈夫……だと思う。男嫌いってわけでもないんだろうけど、触れるくらいまで自分から近づく相手は空海様だけだよ」

「それはそれで心配なんだが。アイツ、ちゃんと結婚できるのか?」

「そ、それは言わないでやってくれよ」

 

 空海はじとっとした目を馬超に向け、やや暗く笑いかけた。

 

「実はこれお前にも言ってるんだけどー」

「あ、あたしは空かいサッ、マぁぁにぃ、しょおかいしてー、もぉーらい、マス」

 

 勢いよく飛び出した言葉が途中から失速し、最後には真っ赤になった馬超がたどたどしく告げる。

 

「いきなり片言になってヴァモーキにでもなった? ……というか、俺が紹介? お前の官位に見合う未婚の男なんて一人も知らないけど。あ、偉くて若くて結婚できそうな奴は一人いるか」

「一人? ……って陛下のことかよ! そんな――あっ、でもたしか結婚してただろ!」

 

 あまりにとんでもない相手が候補に挙げられたため、馬超には珍しく、恥ずかしがるそぶりを見せることもなくツッコミに忙しい。

 

「相手はまだ一人だし、子供も出来てない。実は刺史より上くらいになると奥さん何人か居るのが普通らしい。劉景升にも嫁さんが二人いるのにまだ縁談は多いみたいだし、俺のとこにも姉妹やら何やら数人一緒に娶りませんかって紹介が来るし」

「へぇ、姉妹か……あ、じゃあ従姉妹も――って空海様結婚するのか!?」

 

 反応は遅れたが大ニュースである。詰め寄る馬超に対して、空海は冷静だった。

 

「少なくとも会ったこともない連中と結婚する気はない。結婚そのものも今は欲が湧かないかな。まぁ、ちょっと、思うところもあってね」

「……ふ、ふーん。そーなのかー」

「そんな棒読みで返事するくらいなら反応しなくていいのに……」

 

 数秒唸っていた馬超が、何かを閃いたように勢いよく顔を上げる。

 

「あっ、じゃあ母娘(おやこ)っていうのはどうなんだ?」

「その条件を満たすヤツがお前の周りに何人いるんだよ」

「え? え~と……ああっ!? 今のなし! なしでっ!」

「んー。明日、可愛い服を着てくれたら忘れるかも?」

 

 空海は割といい笑顔で告げた。

 

 

 

 

■詠の長い夜

 

「例えばこの明かりの量はおかしいわよ?」

「そうなんですか? あ、でもこんなに増えたのはここ5年くらいですね」

「あら、そうなの。油……じゃないわよね。これは何かしら」

「南方の木の実から作るロウソクというものです。大別すれば油になるようですよ。人肌程度では溶けませんが、火の近くでは、ほら。このように液体になっています」

「へぇ。なるほど、全身が燃料か……これは、賢いわね。でもお高いんでしょう?」

「あはは……そうですね。この一尺(23㎝)のもので一時(2時間)ほど燃えて、お値段は100銭くらいです」

「あら。意外と安いのね……いえ、そうでもないかしら? 手元が見られるくらい明るくしようと思ったら4、5本はいるでしょうね」

「そういうことです。これでも安い時期のお値段ですから、秋には倍くらいしますよ」

「朱里ならともかく、さすがにボクじゃ一時で1000銭は稼げないわ。それにしても、秋に高いってことは冬から安くなるってことかしら?」

「芯に使われる紙作りは冬場の仕事です。この木の実は夏のものですが、夏場に収穫したものを乾燥させて、江陵に運んでから約9ヶ月保管し、翌年冬場の仕事にするんです」

「ふぅん。それって冬の仕事ってことに意味があるのよね?」

「そうですね。冬場に他の仕事が減るというのもあるんですが、紙もロウソクも作る時に多くの熱を必要とします。ちょうど炭作りの最盛期が冬場なので、たくさんの火を使う窯から熱を分けて、お湯を沸かしたりロウを溶かしたりするんです」

「へぇ、3つの仕事を一緒に……面白いわ。やっぱりこの街は型にこだわらないのね」

「自分の目で外と比較したことがないので、実感はわきませんが……」

「そもそも日が落ちてからもこれだけの人間が昼と同じように動き回って――あら?」

「 イディー カムニエー 」(※我が元へ来い の意味)

「ひゃわわああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!?」

 

「くくくくうかい様はくくくらいところから『いでぃーかむにえ』しゅるの禁止ですっ」

「ええっ! じゃあ何ニエーならいいの!?」

「何にえーでも駄目です!」

「あんたたち仲が良いわね……」

「あっ、え、詠しゃん! 知ってたなら教えてくだしゃいっ!」

「空海様があんたの後ろに立ったのが見えただけで、何をするかなんて知らないわよ」

「文和は偉いぞー。何をするのかもわからないのに信じられるなんて、見事な忠誠心だと感心するがどこもおかしくはないな」

「悪戯の片棒を担がされた上にそれで忠義を測られても、全っ然、嬉しくないわ」

「空海様っ! 聞いてるんですか!」

「聞いてる聞いてる。ごめんね孔明ー。ほーれ、よーしよしよしよし!」

「はわっ!? はわわ、しょんな、これくらいで。――えへへへ」

「朱里……あんたそれでいいわけ?」

 

「二人とも晩ご飯は食べた?」

「あ、これから食べて帰ろうかと思っていたところです」

「この時間でも食べられるところがあるから、ついつい遅くなっちゃうのよ」

「実は南方の豪族から変わったメンマが届いてさ」

「……星さんですか?」

「逆に聞くけど、星以外に居るの?」

「いやいや、子龍は喜んだけどそうじゃなくて。あと子龍、江陵には色々とメンマ料理があるから、そのままで食べるのは減ったらしいよ?」

「加工して食べてるだけでしょう」

「そうですね」

「否定できない……。とにかく、メンマ料理なんだけど、前に袁本初から貰ったもち米があったから、ロウツォンっていうのを作ってみたんだよ」

「ツォン? ちまきですか?」

「そうそう、肉ちまきー。お酒にも合うらしいよ。俺も手伝ったんだ」

「相変わらず無茶苦茶な君主ね……」

「子龍はもう出来上がっちゃってるから、『メンマが美味い』以外の感想をくれるヤツを探してたらお前たちを見かけて、カムニエーしたと」

「アイツはどこまでメンマなのよ……。ああ、ボクは行くわ。月にはもう、ご飯を食べてから帰るって伝えちゃったし」

「あの、でも、よろしいんですか?」

「あ、じゃあ孔明は来ないんだね」

「行きます!」

「お前は遠慮するフリしてるだけだと知っているぞ、孔明!」

「はわわわ」「わははは」

「あんたたちホントに仲が良いわね……」

 

「……で、なんでこの広場の床は光ってるのよっ。ただの石じゃなかったの!?」

「俺は注文通りに床を用意しただけだよ。これをやったのは于吉だね。貂蝉も同じことをやれるみたいだけど今回は断固拒否した」

「何でも于吉さんは方術を、左慈さんは道術をそれぞれ修められているとか。貂蝉さんや卑弥呼さんもそれぞれの道の第一人者だと聞いた事があります」

「よくわからんけど秘術か何かじゃない? 夜天光(やてんこう)とか言ってたよ。死ぬ気で方術の修行をするなら教えてくれるかもしれないけど、たぶん今のお前たちが聞いても答えないと思う」

「聞かないわよ。――アイツはなんか苦手なのよね」

 

「……で、なんでこの花は光ってるのよ。もうツッコミ疲れたわ」

「え? 桜って光る花じゃないんですか?」

「んなわけあるかァ! マトモだと思ってた朱里までここに染まってるなんてっ!」

「フフフ。この環境に10年以上も漬かっていればよくしみ込むさ!」

「ああ、そっか。朱里は江陵育ちだったんだっけ。……そっか。ごめんね、朱里……」

「なんで悲しそうな顔をするんでしゅか!?」

「まぁ流石の孔明も知ってることしか知らないよねって話じゃないか?」

「わはははは! 酒の肴には最高ですな、主! 美味い酒に美味いメンマ。見事な山水に光る桜の雪。そして女の涙、と。――ん? 何を泣いておるのだ、詠」

「何でもないわ……もう食べるもの食べて帰ろうかなって思ってただけよ」

「なんだ? 折角こんなに美味いメンマと酒があるというのに、勿体ない」

「もうボクのことは放っておいて、って、それ公良酒の最高級品じゃない!!」

「む? そうなのか?」「だいぶ飲んでるねぇ」

「知らずに飲んでたの!? 州刺史どころか九卿でも滅多に見られないくらいの高級品なのよ!? ボクだって初めて実物を見たのは江陵に来てからなんだから!」

「おぉ、実に美味い酒だと思っていたが、さすが主っ!」

「……ちなみに、その器に一杯であんたの給金2日分にはなるわ」

「8000銭くらいです」

「もうちょっとするよ?」

「…………。おおっ! さすが主ですなぁ! あっはっは!」

「今、考えるのを放棄しましたね」

「だいぶ間があったなぁ」

「驚いたからって落とすんじゃないわよ? ボクも飲むんだから」

「ま、お金のことは気にせずいくら飲んでも良いけど、明日に残るような飲み方はしちゃ駄目だよ」

「おおぉぉぉ……! 主ぃ~、愛しております~っ!」

「そう……ありがとね。さっきロウツォンに同じことを言ってなかったら、お前の愛にももう少し価値を認めたんだけど」

「ちまきと同じくらい愛してると。……そうね、ボクもちまきと同じくらい愛してるわ」

「その哀れみと嘲りを込めた目と台詞をやめてください しんでしまいます」

「わ、私はもっと好きです!」

「うぅ、生き返るよ、孔明ぇー」

「はわっ、空海さまー……えへへへ」

「茶番ね」

「鼻で笑うなし」

 





 なんかこういう江陵の描写も求められていた気がしたのです。
 それと告白します。5章最終話で周泰への指示を書かなかったのは素で忘れていたからです。将軍ではなく忍者なので、忘れていなくても書かなかったかもしれませんが。

>究竟頂
 究竟頂は「くっきょうちょう」と読みます。色究竟天(しきくきょうてん)という極楽系の超凄い世界から名をあやかった「超凄い場所」という意味。鹿苑寺金閣にあります。

>十常侍などが職権を超えてこの取り次ぎの役目を負っていた。
 蒼天航路では。

>江陵春の司馬祭り。
 周瑜の親との関係はほぼ史実ですが、八達の年齢とか妾腹とかはウソです。

>司馬家次女
 司馬懿のこと。璃々が江陵に来てから3年……同い年でキャラ立ちまでハイスペックな天才8歳児が現れた! もちろん三代目クッキー様なんて書きませんよ?

>是謂道紀
 本当に老子の一節です。『異色の章』も本当。贊玄第十四。
 執古之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。 温故知新で道の始まりを知る。

>漁陽の塩鉄、楽浪の薬草
 幽州漁陽郡は塩鉄の産地。幽州楽浪郡は現在の北朝鮮から韓国。

>上に若くて結婚できそうな奴が一人いる
 この小説の初平二年は西暦201年で、劉協(献帝)は11歳くらい。
 史実の初平二年は西暦191年で、劉協は夏4月には11歳のはず。

>長い夜
 実験的手法。評判が良かったらまたどこかでやるかも。

>ロウソク、ちまき
 ロウソクは史実で数十年後に、まだかなりの貴重品として扱われている記録が。
 ちまきの歴史は古く、紀元前から食べられていたらしいです。

>給料
 漢の一般的な将の給金は年10万~60万銭。一般的な兵12~75人分。


 その他の解説、雑記は活動報告にて。
 次章は一応この閑話の内容を受けたお話です。


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6-1 万物は流転する

「北平に賊? ふーん……啄郡(ここ)に向かってるのか」

「はっ! 冀州側からも兵が追っているそうですが、いかんせん賊の数が多く包囲は不可能であるとのこと」

「そうか。数は?」

「はっ、こちらに向かっている黒山賊は総数30万と見られています」

 

 30万、という呻き声があちこちから漏れた。

 

「そうじゃない。馬の数は、って聞いてるんだ」

「は? え、いや、おそらくは、ほぼいないのではないかと。川をいくつも渡って来ておりますし、足の速い者達は早々に逃げ出したそうでして」

「……そっか。わかった、もういい。連れてきた騎兵を率いて出よう」

 

 立ち上がって剣を取る。周りから上がる「策があるのか」という声に振り向きもせずに答える。

 

「北平と故安の間に川がある。そこを渡っている最中に叩くよ」

 

 天気を答えるような声色で、散歩に行くような足取りで、彼女は何の気負いも見せずに歩き出す。剣を片手に、血のように赤い髪をなびかせて。

 

「先触れを出して故安に陣を用意してくれ。戦うのは騎兵だけでいい」

 

 

 これより数日後、幽州啄郡故安県の南西の川で、渡河を試みた黒山賊30万が幽州騎兵2万に急襲を受ける。まず3万の賊が斬られ、川に逃げ込んだ数万の賊の血が海までもを赤く染め、7万が生け捕りとなった。

 

 公孫賛が圧倒的な強さで賊を撃退したことで、北方での賊の活動は激減した。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 季節を問わず咲き誇る桜の庭。謁見の広場の裏に広がるその場所。黒い岩の間を透明な水が流れ落ち、その岩を力強く掴むように桜の木が根を張る。

 何十という岩の間に石畳が敷かれて石橋が架けられ、1ヶ所の大きな遊戯板、数カ所の腰掛け、1ヶ所の四阿(あずまや)が置かれている。

 今、その中でも最も奥にある四阿の円卓に、数人の女性と一人の小人の姿が見えた。

 

 資料を片手に数字の説明をしているのは江陵の内務担当の筆頭、諸葛孔明だ。

 

「先の遠征は当季の予算で半額をまかない、その前季までの積み立てで半額を出していますから、民の負担増はありません。ただ、月さんたちと共に移住されてきた文官の方々を雇用したため、来季からの新規雇用を調整して帳尻を合わせたいと考えます」

「ここに書かれた当面の1割減とは、人口増加分を加味しての計画か?」

 

 江陵の文官を統括する周瑜が、資料から顔を上げて声をかける。

 

「はい。ただし、この予測は連合騒動前のものです。人口の増加が予測を上回る場合には修正を行いますが、騒動後の予測を立てるにはもう一季待たねばならないでしょう」

 

 孔明が落ち着いた様子で頷き返す。その発言を聞いて楽しそうな顔をしたのは大陸一の有名人『クッキー様』こと空海だ。

 

「多分これからもっと人が増えるよね」

「はい。土地の拡張には限界がありますから……そろそろ人や物を密にする方法を見直さなくてはなりません」

「幸い、まだ10年は時間がありますゆえ、官庁や兵舎で実施してきた方策を民に向けて仕立て直せましょう。効果のほどは間違いありません」

 

 孔明の言葉を引き継ぐように周瑜が現状を報告する。孔明が周瑜に一つ頷いて、空海に強い視線を向ける。

 

「しかし現状の方策をそのまま持ち込んだだけでは民の負担となります。そろそろ旧来の方法を見直して検証を行うべき時期へと差し掛かっているでしょう」

「なるほどー。じゃあ、子龍と文遠と仲穎と文和からそれぞれの土地の話を聞いて、水鏡女学院に持ち込んで生徒と一緒に検討してみてよ」

 

 悪戯っぽく笑う空海にきょとんとした顔を向ける孔明。最近まで別の勢力として江陵の外にいた賈駆は名前を出されて声を上げそうになり、真意が読めずに口を閉ざした。二人に代わって周瑜が空海に尋ねる。

 

「……我々からいくつかの事例を提示して見せた上で子供の発想を利用しろ、という意味でしょうか」

「その通り。知らないことだからこそ、型を外れて考えることもできる。特に江陵生まれではない子たちには期待できるよ」

「確かに、外から来たばかりの優秀な子らも在籍していると聞いております。……わかりました。来月中には実行してみましょう」

 

 将来の江陵を担う人材に討論を体験させるのも悪くない、周瑜はそう考えて同意する。

 1ヶ月後の討論では、子供の発想に目をむくことになるのだが。

 

 話が落ち着いたと見た鳳統が声を上げる。内気ながら、その飛び抜けた才能で江陵軍を統括している少女だ。

 

「次は私からです。先の遠征と最近の配給によって食料の備蓄が減少傾向にあり、今年の収穫を終え次第、増産に踏み切る必要があると思われます」

 

 すぐに孔明が反応し、対策を提案する。

 

「益州では夏物のキビやヒエが豊作で市場の価格が落ちていますから、ヒエを藁束のまま買い叩いて、軍で用いる飼料に混ぜ込んではどうでしょうか」

「それほどまで安くなっているのですかー?」

 

 穀物相場が大きく乱れれば外務にも影響が出る。担当の程立が孔明に尋ねた。

 

「はい。未だ本格的な収穫の前にも関わらず、一部は1石30銭ほどにまで値を落としています。江陵に入るものにも安値のものが増えて来ましたから、この辺りでいくらか買い支えなければ貨幣の信用もなくなってしまうでしょう」

「軍としては、益州が強化されない形に収めてくださるのであれば、歓迎します」

「風たち外務も現状では益州に強い価値を見いだしてはいませんのでー」

 

 軍事と外務を担当する鳳統と程立が、それぞれの立場を述べる。

 

「よろしい。詳細は後で詰めることにして話を戻そう。食料増産の可否だが、私は今後の人口増も考慮すれば踏み切るべきだと考える」

 

 議事の進行を図る周瑜の発言を受け、賈駆が注目を集めるように手を上げた。

 

「その前に全員で情報を共有すべきよ。今の備蓄はどのくらいなの?」

「――軍では兵士の糧食が1年分、約450万石と、軍馬の飼料が半年分約300万石、難民用の備蓄が10ヶ月分約500万石の、計1250万石を保有しています」

 

 軍事面を鳳統が語り、続けて内務担当の孔明に視線が集まる。

 

「問題は江陵民向けの備蓄を含めた複合目的のものですね。各家庭が個別に貯めているものを除けば、先の遠征後の調整が響き、3ヶ月分2100万石を割り込みました。これは備蓄の放出を絞ることで冬までに2800万石程度まで回復できる見込みです」

「こ……こんなヤツらと、争おうなどと考えるべきではなかった……」

 

 反童卓連合騒動の際、江陵を敵に回すことまで考えていた賈駆が頭を抱える。漢全土の兵士を3年以上もまかなえる量の備蓄を持つなど、想像の斜め上もいいところだ。

 賈駆の隣に座った程立が面白そうに彼女をつつくのを無視して、周瑜が孔明に尋ねる。

 

「各家庭の備蓄はどの程度だ?」

「はい。来月には実りを迎え始めますが、上層では現時点で数ヶ月分の備蓄を残している家庭が多いようです。しかし下層に向かうほど備蓄が少なくなる傾向が強く、全体の平均ではひと月分は上回ってもふた月分は大きく下回るかと」

「政府の備蓄と合わせて4ヶ月分か。……万一の時に干上がらぬよう、あと700万石は欲しいところだな」

 

 周瑜が方針を示し、息を吹き返した賈駆が孔明と程立に目を向けた。

 

「じゃあ、益州で購入するとして、どのくらい集められるの?」

「豊作とはいえヒエは日持ちしますから、出回る量も500万石には届かないでしょう」

「そですねー。そのくらい豊作なら、甘く見積もって250万石。厳しく見れば50万石くらいに手が届くでしょうかー?」

「少々値が張っても、他の地域から買い集めることも考えなくてはならないか……」

 

 周瑜が呟いたところで、再び鳳統が提案する。

 

「ですので、やはり中長期的に増産は必須かと」

「わかりました。益州穀物相場の安定を条件に、内務も賛成します。でも、土地の確保や屯田のために軍に動いて貰いたいんだけど……」

「うん、それは大丈――あっ、軍も異論はありません」

 

 孔明との会話で終わりそうになった同意を、鳳統が全員に知らせる。内気な鳳統が背伸びをしているようで居合わせた全員の視線が柔らかくなり、そんな視線に晒された鳳統は帽子で顔を隠して真っ赤になっている。

 

「んー、一つよろしいでしょうかー」

「どうした?」

「短期的には買い集めるという方針で良いと思いますがー、確保すべき量と内容を明確にしていただきたいのですが?」

「うむ。私としては麦と米と大豆をあわせて、200万石から最大で400万石程度まで確保して貰えれば文句はない」

「あっ、軍からの希望も同程度です! ヒエであれば飼料に用いることも容易ですので、そちらを……200万石程度までならば織り交ぜても構いません。浮いた穀類は放出分に優先的に回して構いません」

「内務としては、量よりも予算の目安として5億銭以内を希望します。有事の積み立てを2億銭残すとすれば、ですが」

「相場が乱れていなければ大体150万石ってとこね。益州の分が加われば300万石に届くかしら」

「益州を除けば、やはり北方の穀物庫が狙い目ですねー。袁紹さんを利用しても?」

 

 話をまとめた程立が、奥で暇そうにしていた影に声をかける。

 

「……あ、俺に聞いてる? 相手に損をしたと思わせなければ別にいいけど、今朝聞いた話だと冀州で兵が集められてるみたいだし、穀類は値上がりするんじゃない?」

「なっ」「あ?」「しょんな」「おや」「はゎ」

 

 空海が何気なく口にした新情報に軍師たちの目が一斉につり上がった。

 街の商人との距離が最も近いのは空海だ。その空海が言うのだから、耳聡い商人たちが商売の種にするための確度の高い話だろう。同時に、外から来ている商人の耳に入るほど規模の大きな話でもある。

 

「……連合であれだけ打ちのめされながら、もう動き始めるとは」

「ふんっ。どうせ金だけは有り余ってるんでしょっ」

「もっと徹底的に叩いておくべきでした……」

「ものを覚えておくということが出来ないんでしょうかー?」

「はわわわ……」「はわわわ……」

 

 周囲の豹変に孔明と空海が揃って震える。

 すぐに気を取り直した周瑜だったが、厳しい表情は崩さない。

 

「ますます備蓄の必要性が高まりましたな」

「食料以外でこちらから出す交易品を増やしてはー?」

「……商人の邪魔をしたくはないが、短期的にはやむを得ないか」

 

 程立の提案に苦々しい表情で頷きかけた周瑜を、空海の言葉が止める。

 

「ね、ね。商人を集めてさ、各地方特産の穀類で料理を振る舞うとか、振る舞わせるとかして、街のみんなに地方の穀類を広めない?」

 

 デパートの物産展のようなものをイメージした空海が軍師たちに向け提案する。最初に納得の表情を浮かべたのは孔明と周瑜だ。孔明が興奮したようにまくし立てる。

 

「その方法なら、ある程度の費用をかければ人を集めることも容易く、相対的には私たちが手配すべき物品の量も大きく減らせます!」

「……なるほど。商人に仕入れ、運搬、販売を任せられ、新たな需要も掘り起こせるかもしれませんな。下層を中心に故郷の味を喜ぶ民もいるでしょう」

「さらに穀物を差し出す側からの反発も抑えられますし、貨幣の流通を促進する意味でも大きな意味があります!」

 

 周瑜が肯定すれば、孔明が目を輝かせながら続けた。周りも頷いている。

 

「諸侯へ協力を打診しても良いでしょうー。現在の江陵で広まることは、諸侯にとっても利が多く魅力的ですからー、理性のある方たちからなら賛同を得るのは容易でしょう」

「いいわね。貢ぎ物や賄賂に力を入れられるより遥かにマシな行動を取ってくれそうじゃない? 上手く煽ればほとんどタダで開催できるかもしれないし」

「警備などの手間は増えますが、難民の流入に比べればあしらいやすいと思います。是非やりましょう!」

 

 程立ものんびりと賛同し、賈駆はニヤリと笑いながら言葉を継ぎ、鳳統が力強く賛成したことで、意見はまとまった。周瑜が机に着いた軍師たちを見回す。

 

「江陵の民の口に合う穀物を提供する地方も知れる。我々は不足分をそこから確保すれば良いわけだ。損になる可能性は抑えられ、利は大きい。全く異論は無い」

「益州、司隸、揚州、豫州には催しへの協力を求めるだけでも十分でしょう。袁紹さんのところも一緒に煽れば食いつきそうな話ですねー」

「来月からの収穫に合わせれば、多くの勢力から参加を募ることが出来ると思います!」

「いくら収穫から市場に出てくるまでに時間が掛かるとはいえ、冀州への接触を考えたらほとんど余裕は無いわよ」

「陳留に回って貰えば船を出せます。江陵から南皮までなら、急がせれば6日です」

「あちらからは10日、荷を運ぶとすれば急いで20日といったところだな」

 

 賈駆が目を丸くするような鳳統の発言を、さらに周瑜が補足する。

 

「恐ろしく足が早いわね。それなら今からでも何とかなるかしら……」

「袁紹さんへは表からは風が申し入れに行きましょうー。豫州から陳留を経由し、南皮で折り返して徐州と揚州を通って再び豫州へ。許昌から洛陽を経由して襄陽に戻れば、合わせてひと月くらいでしょうかー?」

「徐州と揚州には先んじて文を送り、その返答を済南の東平陵へ持たせよう。立ち寄りを減らせるかもしれん」

「全て回ったとしても、長く見て40日は掛かりません」

 

 鳳統が締めることでまとまりかけた話に対して、孔明が控えめに手を挙げた。

 

「でしたら先に益州へ回って貰えませんか? 現在の巴郡には宿将の厳顔さんが就いていますから、こちらから8日、戻るのに3日で益州方面を片付けられます」

「ならまず益州への調略の方針を決めて、益州へ行ってる間に文を出して、返答は江陵で受け取ればいいわ」

「うむ。それで行こう」「了解ですー」

 

 自分で提案しておきながら、軍師たちの議論を横目に何かを書いていた空海が元気よく筆を置く。

 

「出来た! 名付けて『春米節在江陵(江陵春のコメまつり) 有白色的皿(白いお皿もあるよ)』! 24点分の交換券で春っぽさ全開の白いお皿が手に入る! どうよ?」

「空海様――」

 

 空海はこの名前で催促すれば失敗はないだろうと自信ありげに笑う。そんな空海の肩に周瑜は優しげな表情で手を置いた。

 

「もう秋です」

「Oh……」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「――とまぁ、外のお祭りはそういうものなワケよ」

 

 窓の外に向けられていた笑顔が、ゆっくりと静かな室内へ向かう。

 

「――た」

「知ってる。だからこうしてお前の所に来てるんだ」

「――、――の」

「いいって。お前は俺の癒やしなの。それに、思い出作りの機会はもうないもんね」

 

 白い上掛けから覗く青白い肌に薄く赤味が差した。

 

「ず――、――。――た」

「俺もだよ? 会う前に考えてた以上に楽しかった」

「――、あ――、――」

「わかった。確かに預かった。……特別に俺も教えてあげよう。俺の真名は、天来だ」

「――。――さま……。――」

「ああ……じゃあな、萌黄(もえぎ)。お前と会ってからの13年。良い時間だった」

 

 優しく布団をかけ直し、その弱り切った命に背を向け歩き出す。

 

「――」

 

 背後から聞こえた小さな音に足を止めて顔を上げ。

 そのまま振り返ることなく足を踏み出した。

 

 

 

 彼女が息を引き取ったのは翌日の昼だった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「空海様、先ほどは申し訳ございませんでした」

「お前の家も必死なんだろ。よくわかってるから」

「……その、受け入れの数を増やすというのは……」

「うん。良いと思うよ。受け入れ基準で特別扱いせず、順序を繰り上げるとかそんな感じで実施してあげて。毎日50件までは先に持って来るとか」

「はっ。ありがとうございます、空海様」

「よい、公瑾」

 

 空海は、深々と頭を下げる周瑜に笑いかけた。

 

 

 江陵から長江を辿れば、川下には荊州の江夏(こうか)郡、揚州の盧江(ろこう)郡、予章(よしょう)郡、丹陽(たんよう)郡、()郡といった土地が広がる。

 現在、江夏郡では劉表の勢力が幅をきかせ、盧江では周家が、呉では陸・顧・張・朱の四姓がそれぞれに根を張っている。最近の呉においては陸家と孫家が勢力を伸ばしつつあるが、他の三家の影響力が削がれたというわけではない。

 周家は全方位を独立気質の勢力に囲まれた地理にあり、体制への反発が特に強い袁術へと世代交代して以来、代々連携してきた袁家とも疎遠になっていた。

 そのため周家は、劉表と仲の良い江陵に入り込んでいる周瑜を通して空海と劉表へ働きかけを行い、同時に空海に対して移民の受け入れを要求している。江陵内での勢力を伸ばそうという目論みと来たる乱世からの避難を兼ねてのものだろう。

 とはいえ、逃げと攻めのどちらに重きを置いているのかを問えば、避難の気持ちの方が強く表れていることも事実だ。

 盧江は、西を国家最大の実力者である劉表、北西を首脳部の安定しない袁家本拠、北を身の程知らずの袁術、東を実力を伴う野心家の孫策に囲まれているのだ。残る南も長江を挟んで未開の地が広がるだけで、行き場をなくしている。

 

 

 空海が周瑜から視線を外し軍師たちに目を向ける。その意図を察した賈駆がすぐに水を向けた。

 

「揚州の豪族への働きかけを強めて堤防に出来ないかしら」

 

 空海を見て薄く笑った程立が続く。

 

「調略をこれまでより強化するのですねー?」

「確かに、揚州や荊州南部に敵対的な勢力が根付いてしまうのは面倒ですね」

 

 程立の発言に同意を見せた鳳統が、どこまで本気かわからないような笑顔で告げた。

 

「ま、それを言ったら益州の位置もボクたちにとっては最悪だけどね」

「益州は順調に弱体化していますよ。荊州へと人が流れているため国力は減衰しており、先日の洛陽での騒動と、この度の穀物相場の乱高下で多額の負債が発生しています。これの解消と引き替えに多数の船舶を我々に譲渡していますから、今は保有軍艦も100隻を大きく下回っているはずです」

 

 益州への懸念を示した賈駆には、孔明が澄ました顔で答えた。幹部に上がったばかりの賈駆に江陵の手の長さを示す時――つまり最近――孔明がよくする表情だ。

 

「は? 譲渡って……」

「益州の多くの豪族勢は、これまで江陵に対して借金を持っていました。それらを船舶で支払って貰ったんです」

 

 戸惑う賈駆に孔明が悪戯っぽく返す。多数の奴隷を所有していたり、江陵の商人たちを詐欺師扱いするような豪族は、特に念入りに力を削いだのだ。益州だけの話ではない。

 

「益州は10年前に荊州に降伏した際にも、街道整備費用の代わりに多数の軍艦を荊州へ譲渡しています。州として持つ船はほとんど無くなりましたが、近頃は代わりに豪族勢が幅をきかせていました」

「今回は、豪族の持っていた軍艦を中心とした船舶と、少数ではありますが造船を行える職人を確保しましたのでー、豪族勢が独自に造船を行うことはほぼなくなったでしょう」

「加えて、今回の支払い後は江陵商人から安く商品を買い付けられるよう約束したことで警戒を解いたようです」

「彼らは江陵の品をなくして生きられなくなっていくでしょうねー」

 

 孔明と周瑜が青写真を描き、実際に働きかけたのは程立だ。一部人材の手配には鳳統も絡んでいた。孔明の真似をするように、鳳統も澄まし顔で賈駆に視線を向ける。

 

「5年以上をかけて、州に船を卸す職人を江陵の手の者に入れ替えています。造船能力は必要な時に必要なだけ制限出来るでしょう」

 

 

「話、むぐ――むぅぐぐむぐっ」

「文和、文和っ」

 

 周瑜の後ろに回り込んで手で口をふさいだ空海が、賈駆に熱い視線を送る。

 言いたいことを理解してしまった賈駆が、嫌々ながら口火を切った。

 

「ああ、それじゃあ手に入れた船を盧江に回したらどうかしら?」

 

 面倒臭そうに程立を睨みながら賈駆が言う。

 

「周家からの口利きで優先的に乗船できるよう手配すれば、約束は果たせますねー」

 

 頭上の本体の飴で鳳統を示しながら程立が薄く笑う。

 

「当面は予備役から操船技術を持つ人員を手配しましょう」

 

 孔明に掌を向けながら鳳統も微笑む。

 

「では盧江へ立ち寄る商人を募るのは私の方から」

 

 最後に孔明が悪戯っぽく笑いながら周瑜に視線を送り、空海が周瑜を解放した。

 

「ぷはっ、空海様っ! あ、それに……皆、その。……良いのだろうか?」

『勿論!』「いいともー!」

「……すまない。皆、感謝する……っ!」

 

 周瑜は再び、今度は皆に向かって、深々と頭を下げた。

 一人だけ解答がズレた空海は、元気よく掲げた手を下ろし、周瑜を優しく撫でることで恥ずかしさを誤魔化した。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「劉将軍が南部へ呂布さんと華雄さんを送り込むため、江陵にも手を貸して欲しいとー」

「現在は反乱勢力もありませんので、南部を威嚇するための出兵だと思われましゅ」

 

 盧江へと船を回すため、途中にある江夏郡を支配する劉表に了解を取りに行かせたのが先週。劉表の下に出かけた程立は帰ってくるなり幹部会議を招集し、今は他の軍師たちの前で鳳統と並んで会議に報告している。

 

「おそらく劉将軍は交州までをも勢力下に置くつもりですねー」

「現状では、荊州から派遣する役人を受け入れて税を納めるように要求しているだけのようですが、やはりこれまでの対応と相まって反発を招いているのだとか」

「そしてその解決に軍を送り込む、と。江夏と同じやり方か。……味を占めたのかな?」

 

 空海が笑って茶々を入れる。10年以上も昔に行われた江夏制圧を実際に体験したのは空海を含めて数人だけだ。劉表は反発する豪族を誘い出しては殺し、賊討伐と称して兵を向け、それまでの支配階級をたたき出すことで郡を占領した。

 

「それはわかりません。……しかし、長い間、関心を持たれることもなく放置されてきた南部の民にとっては面白くない展開です」

「豪族たちは現在のまとめ役や顔役を太守に据えるよう劉将軍側に要求したそうですー」

「しかし、劉将軍としてはそのような要求を受け入れれば弱腰と取られかねません」

「ですので、ひとまず呂布さんと華雄さんを派遣してまとめ役たちの反発を抑え込んで、その間に適当な者を太守に据えようと考えたのでしょうー」

「今のところ各地の豪族が郡をまたいで連携する様子はありませんので、5000ほどの派兵で片付けるのではないかと……。軍を率いるお二人の実力と照らし合わせれば、個々に戦って後れを取るようなことはありえませんから」

「彼らが仮に連携を考えたとしても、長沙を抑えてしまえば分断できますねー」

 

 空海が交互に説明を続ける程立と鳳統に視線を送る。

 

「つまり?」

 

 状況の説明だけならば会議は必要ない。二人は何らかの意図を持ってこの事態に動くべきだと考えているのだろうと。

 鳳統たちが口を開くより早く、空海の右手に座った周瑜から答えが返ってくる。

 

「介入の余地は多く、今回派遣される二人を見ましても、我らの思惑通りに収めることは難しくありません」

「なるほど」

「江陵としては、劉将軍に恩を売りつつ、我々の思う形で平定させるのが最上と言えるでしょう。幸い、地理的な要素は我々に味方しています。長沙と江夏との間で陸路を拡げられるようなことさえなければ、南方の交易は江陵と漢寿とで抑えられましょう」

「陸路なんて話が出る前に商人を送り込まないといけないわね」

「南方に明るい人物が必要ですねー」

 

 

 流れを軍師たちに任せて数分。会議は白熱する2人と傍観する4人に別れていた。

 

「だから遠征軍を江陵で足止めして、その間に南部の人事に介入するのよ」

「ふむ? 現地の豪族で南方の民が顔役に押す人材が我々から推挙されれば、派遣される太守も無下には出来ないか」

「そっちは本命じゃないわ。適当なところで失脚すれば太守も気を緩めるでしょ?」

「……なるほど。ならば現地の候補は太守が反感を抱きそうな人物が適当だな」

「そして、太守の懐に入り込めるよう信を置きそうな人物を送り込んで――」

「では有能だが余り強くものを言わない者が――」

 

 クッキーを食べながら周瑜と賈駆を眺めていた空海が小声で隣に話しかける。

 

「なあ。あの二人、凄くあくどい顔をしてるんだが」

「気のせいではー?」

「あわ、あんまり似てない双子みたいです」

「わ、私は何も見えませんし聞こえません!」

「孔明と仲徳は本当の所どう思ってるのか白状してみようか」

「はわわっ」「……ぐー」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「徐州へと入った劉備は(たん)城から下邳(かひ)へと本拠を移した」

琅邪(ろうや)国は未だ劉備の統治へ反発している様ですー。青州が不安定な今、兵を引き上げることなど出来ないと。これは事実上の断交を宣言しちゃってますねー」

 

――空海様、わかりました!

 

「一方で広陵(こうりょう)郡では砦の建設が行われています。これは、揚州からの侵攻を警戒していることを示したいのでしょう」

「ただこれは、こちらで調べた動員数から考えて見せかけである可能性が高い」

 

――マジで! いいぞ幼平、お手柄お手柄!

 

「わざわざそんな動きを見せるってことは、本命は琅邪国の方かしら?」

「そのようだ。彭城(ほうじょう)の関羽が下邳へと移動したという話もある」

 

――えへへー。

 

「商人たちの話では、郯城に物資を運び込んでいるそうです。私の方でも独自に確認しています」

「同じく軍でも確認しています。軍では動員数は最大で4万程度と見込んでいます」

 

――和むのは後! いっぱい撫でてやるからちょっと逃げるの手伝って!

 

「私の方でも確認済みだ。琅邪国には守兵2万ほどが残っているため――」

 

 

 

「……まだ見つかってないよな?」

 

 最上層の南、1里(約415メートル)ほどもある水堀と、その堀に掛かる橋を挟む門の上で、小柄な二つの影が身を寄せ合っている。建物の影から顔を覗かせて堀と最上層を見比べているのは空海。

 

「大丈夫ですっ! 詠様の所に届いた知らせでは対象は第三層の東にいるそうですから、あっちから行くのが早いです!」

 

 空海の声に元気よく、しかし小声で解答するという器用な真似を見せたのが周泰。

 ここから二つの通用門を素早く通過し、堀を越えれば第四層側の門だ。そこからさらに東に向かって35里(約14.5㎞)ほど進めば第三層との境の堀が出現する。

 周泰が指差したやや北東よりの橋までの地図を頭の中に描き、空海は小さく頷いた。

 

「ここからだと途中で水鏡女学院に寄れるか……? 急がないと追いつかれるな。よし、走って行くぞ! おんぶするからしっかり掴まれっ、幼平!」

「はいっ!」

 

 空海ダッシュは馬より早い。

 

 

 

「ふわー……癒やされますー」

「うむ……癒やし系呂布とは新しい」

「やはり恋の良さというのは万人に通じるものだったか」

「恋殿の可愛らしさは時空をも超えるのです!」

 

「むぐむぐむぐむぐ……もぐもぐはむはむもぐもぐはふはふぐぬぬ……」

 

「クッキーを全て渡すことになった時は多少恨みもしたが、総合的には得したな」

「そうですね!」

 

 水鏡女学院に立ち寄っておやつ用に焼かれていたクッキーを譲って貰い、みんなで食べて親睦を深めようと籠にいっぱい持ってきた空海だが、声をかけて数秒後には呂布の腹の虫に負けて1人分を、数十秒後には切ない視線に負けて残り全てを差し出していた。

 そこへ、人混みから控えめに顔を出した小柄な少女から声が掛かる。

 

「あっ、空海様! 明命先生!」

「いやっふーゎ」「こんにちは」

「何であんたがここに居るのよ! さっきまでボクと一緒に会議に出てたでしょう!?」

「何でかって? 抜け出してきたからさ! ちゃんと書き置きも残してきたぞ」

 

 和やかに挨拶する董卓を押しのけて、賈駆が空海を指差し叫ぶ。会議を適当なところで切り上げて層境の門で待つ董卓の元に急行し、押し売りなどの被害に遭っていないか確認してから、まっすぐ目的の店に向かったのだ。これより早く辿り着くためには、賈駆より早くに出発していなくてはおかしい。しかし誰かが席を立ったりすれば気がつかないはずがない。つまりあの場に居た空海は――やがて賈駆は考えるのをやめた。

 ちなみに書き置きには『呂奉先を見てきます。俺を見つけても怒らない公瑾が好き』と書いてある。今のところ効果があるかないかはだいたい五分である。

 今回のは効かないパターンなのだが。

 

「じゃあ、俺たちはそこら辺で(クッキー)を買い漁ってくるから、今のうちに俺が居たら話せないことを話しておくがいい!」

 

 大げさに羽織を翻して歩き出した空海が急に立ち止まってうつむく。

 

「しまった。お金持ってない……」

「ちゃんと持ってきました!」

「おおっ、いいぞ幼平!」

 

 騒がしく離れていく声に、誰からともなく笑い声が漏れた。

 

 

「月、酷い目に遭ったりはしていないか?」

「ううん、大丈夫だよ。華雄さん」

「ボクがそんなこと許すはずないでしょ!」

 

 まず華雄が口火を切る。記憶にある通りの二人の様子に、華雄の顔にも小さく優しげな笑みが浮かび、頬にお菓子を詰め込んだ呂布がその横顔に視線を向けた。

 

「……大丈夫。空海、いいやつ」

「恋殿!? ご飯に釣られておりませんか!?」

 

 勢いよく突っ込んだのはひときわ小柄な少女、陳宮だ。全身で飛び上がりながら呂布の隣に素早く回り込み、食べ終わった皿を片付けて次の皿を差し出している。

 

「早速餌付けされたわけね。まぁこの街に来た人間は大体こうなるわ」

「詠ちゃんもお酒貰ってたもんね」

 

 呆れたように笑う賈駆だが、董卓のツッコミには言葉を詰まらせた。

 

「ぐ……悔しいけど、あれを超える美酒には出会ったことがないもの」

 

 賈駆は拗ねたように告げる。

 

「そうだよね。二人だけだったのに一晩で全部飲んじゃったくらいだし」

 

 董卓は小さく笑って同意した。やや艶のあるその笑顔が何に向けられたものか判断が付かず、賈駆は少しだけモヤモヤとした気持ちを抱き、続く華雄の言葉に口の端を僅かに持ち上げた。

 

「ほう。それほどのものなら私も飲んでみたいものだ」

「――無理ね。一斗でマトモな家が5軒は建つ高級酒よ」

「はぁっ!?」

「――えええぇぇ!?」

「軍師殿も高給取りになられたのですなぁ」

 

 我関せずの呂布を除けば、普段最も落ち着きのない陳宮がまったりと感心したようにつぶやき、反対に普段最も物静かな董卓が口をぱくぱくと動かして慌てふためいている。

 

「え、え、詠ちゃん、そんなお酒、の、飲んで大丈夫だったの?」

「空海様に貰ったのよ。将軍たちなんて毎日のようにねだって飲んでるわ」

「いくらでも飲んでええって言われとるだけで、ねだったりしとらんわ」

「……やっぱり空海様って凄かったんだね」

「金回りという点では天子様より上ね」

 

 賈駆の口から漏れた呆れを含んだ言葉に、華雄がいきり立った。

 

「なっ、天子様を愚弄するか!」

「違うわよ。天子様を低く見てるんじゃなくて、空海様を高く見てるの。……相変わらず結論が早いわね、あんた」

 

 同じことだ、と言おうとした華雄を視線で封じ、賈駆はとつとつと語り始める。

 

「いい? 天子様が、洛陽がなくなれば大陸は荒れて多くの死者が出るでしょう。だけど今の空海様が、江陵がなくなれば、新しい服は買えなくなって、食べ物を売り買いする人が居なくなって、隣町の話が聞こえなくなって、大陸は息を止めて無数の死者が出るわ」

 

 天子様が頭なら江陵は血ね、と賈駆は力なく笑う。華雄は自らの服を見下ろし、それが確かに江陵の商人から買い付けたものだったことを思い出して口をつぐんだ。

 

「今のボクは江陵の軍師だから言えないことはいっぱいあるけど……一つ確実なのはね、ボクと同じことに気付いてなお江陵を倒そうなんて考えてるヤツは、人智を超えた天才か考えなしのバカかのどっちかよ」

 

 表情をどこかに落としたかのような恐ろしげな雰囲気で語る賈駆に、華雄や陳宮は口を挟むことが出来ない。

 

「へい(へい)追加お待ち!」

「はむっ! もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」

「癒やされますー」

「うむ」

「恋はちっとも変わらんなー」

 

 董卓までもが沈痛な表情で賈駆の横顔を見つめる。

 

「詠ちゃん……」

「人智を超えた天才にしたって、切実な理由を持ってなきゃやらないわ。誰だって、自分の身体を切り開いて中にあるハラワタを手作りのものに入れ替えようだなんて、よっぽど追い詰められなきゃ考えないでしょう?」

「へぅ!?」

 

 血なまぐさいたとえを出した辺りで賈駆に表情が戻ってくる。董卓を向いた視線は少しだけ意地悪そうなもので。

 

「おや? 文遠も来てたのか」

「あー……空海様ホンマごめんなー」

「おや? どこへ連れて行く気なのなにか嫌な予感がするんだけどちょっとなんで黙ってるんですかもしかして公瑾のところですか俺怒られますか幼平もそっちにつくんですか」

 

 悪戯っぽい表情のまま、賈駆は華雄たちに目を向ける。

 

「あんたたちも、江陵を倒そうとか考えてるヤツにはついて行っちゃ駄目よ。自分に血が流れていることに気付けない輩か、バカか、追い詰められた奴かしかいないんだから」

「軍師殿、あちらは放っておいて良いのですか?」

「いいのよ。月もいいって言ってるわ」

「詠ちゃん!?」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「江陵をなんとかしなくては駄目よ!」

 

 猫耳のようなフードを被った少女が拳を机に叩き付ける。文鎮に軽く乗せていただけの筆が躍り、硯に残った墨が小さくはねた。

 

「言わんとすることは、理解できますが」

 

 原因となった書簡を持ち込んだ眼鏡の少女が呆れたように息を漏らす。数年前から曹操の元で軍師となっている郭嘉だ。

 

「アレは華琳様の妨げになる。だいたい商人の分際で華琳様に官位を『与える』だなんておこがましいにも程があるわ!」

 

 郭嘉の呆れ声に気付かなかったかのように――事実気付かなかったのだろう――少女は息巻く。少女、荀彧が敬愛する曹操に、よりにもよって地上で最も嫌いな『男』が堂々と「好み」などと口にしてあの青い糞チビ野郎次に会った時はぶっ殺してやる!

 

「はあ……彼らは商人のような考えと立場で理解するべきではあると思いますが、実際は指折りの高官です。そちらを無視して考えるべきでもありません」

 

 言外に自身での対処が及んでいないことを滲ませる郭嘉。比較的に落ち着いて安定している江陵との関係に踏み込むよりも、曹操の治める土地の掃除や整備に注力する方が有意義だとも考えていた。

 

「わかってるわよ! どちらかだけならもうちょっと対処しやすいものを、両方備えてるせいで最強に見えるじゃないっ」

「さすが江陵は格が違いましたね」

「ぽっと出の成り上がりのくせに劉表と懇意にしてるし、太尉と相国まで歴任した董卓が名誉退職の後に頭を垂れるし、いつの間にか周家取り込みに動いてるし、この地の民まで江陵産の商品をありがたがってるし」

「改めて列挙すると凄まじい相手ですね……やはり闇雲に敵対するのは危険では?」

 

 郭嘉としても別に敵対という選択肢を捨てろとか対処するなと言いたいわけではない。

 だがその発言は今の荀彧にとっては弱腰に聞こえたようだ。

 

「だからまず私たちが力を蓄えなきゃダメだって言いたいわけ? このままじゃ、いつか手がつけられなくなるわよ!」

「ですが、官の方はいずれ何とでもなる(・・・・・・)としても、商いで対抗できるのですか?」

 

 郭嘉が自ら思っていた『時期』を明かす。曹操が王として立てば江陵の持つ高官という優位はその意味のいくらかを失う。予想通りの解答に荀彧は鼻を鳴らして告げた。

 

「例の穀物祭とかいうのに続いて、敵対しない範囲でやつらの力を削いで行くわ」

「しかしあれは、商人を利用して諸侯との結びつきを強めた江陵の勝ちなのでは?」

「私たちだって諸侯の実情を多く把握できたわ! 悔しいけど、そのくらい江陵は元から知っていたことでしょっ? 得た利益の総額ならこっちが上よ!」

 

 甲高い声を上げながら荀彧は机の上の、片付けたばかりの竹簡を指差す。

 

「……確かに、あの祭と袁術のおかげで予算には随分と余裕が生まれましたね」

「直接の恩恵が大きかったのは揚州みたいだけどね。ま、あの無能が居てくれたおかげでだいぶ儲けさせて貰ったわ。うちは冀州から安く買って揚州に高めに卸してただけだから困ることはないし、民には感謝されたし」

 

 かつて冀州は袁紹の元にいた荀彧。当時築き上げた人脈から穀類をかき集めて、江陵の商人が米やキビを買い漁っていった揚州に卸したのだ。金のためとはいえ、自分たちの食い扶持まで差し出してしまっていた農民も多く、曹操たちが感謝される形になった。

 

「江陵が直接交渉した場所では取り付く島もありませんでしたが」

 

 もちろん、江陵の商人にとって商売とは「感謝まで売る」ものであるため、遺恨を残すようなやり口は地元揚州の商人や豪族や役人たちによるものだ。江陵の手が入った地域では安値で補填が行われていたため、農民たちにはむしろ不審な目で見られたのだとか。

 

「……現場の人間が交渉慣れしていなかったせいね」

 

 卸売業による直接の利益に加え民の感謝も多く稼ぎ出したが、一部の民に不審を買ってしまったことと冀州の穀類の流通経路がかなり厳しく制限されたことは損だろう。

 ただ、いずれ支配権を奪う地の流通など、躍進を待つこの時期の資金に変えられたのであれば十分な価値があったと言い切れる。冀州の穀類の買い占めが、想定する敵国の中で最も近くて強大な冀州の弱体化に繋がっていることも大きな利益だ。

 反省点はあるものの、失点と呼べるかどうかと言う程度の認識である。

 

「では当面の目標は、我々の手足となる商人と品を用意すること。江陵の手足たる商人の勢いを止めること……は、難しいでしょうが」

 

 郭嘉は口にしてみて改めてその難しさを確認する。たかが商人とはいえ、やっていることは至極真っ当な売り買いでしかないので責めづらい。おまけに自分たちを含めた多くの民にとってなくてはならない存在になりつつある。

 

「陳留の周りだけならこちらで手を打てば何とでもなるわ。でも、江陵の手足は大陸中に伸びている……」

「兵が国境を越えられずとも人は越えられるということですね」

 

 諜報や策略に用いることはあっても、勢力の防衛や戦を牽制する手段として用いる考えではない。もしかすると、こんなことを考えたのは江陵が初めてではないのかとすら郭嘉は思う。幽州や益州では民を人質として交換することもあるというが、そういったところから発想を得たのだとして、なんと洗練されて研ぎ澄まされた策なのだろう。

 

「人材の育成にはすぐに取りかかるけど、結果が出るまでには時間が掛かるわ。商品を用意するにもまずは先立つものが必要ね」

「結局、人材の取り扱いを指示した上で、当面は田畑の開墾を進めて生産力を高めることなどしか出来ないということですか」

「くっ……まあ、そうよ。でもこれは華琳様の覇業のための一歩なの。歩むべき道を知ることもまた、私たちに求められていることだわ!」

 

 荀彧が強く宣言し、机の上に放り出されていた書簡を拾い上げる。

 陳留の周りで穀類を取り扱っていた商人からの金の無心だ。江陵商人との競争で劣勢に立てば役人に取り入ろうとして幾人もの逮捕者を出し、さらに江陵の祭に穀類を持ち込もうという際にも余計な事をして評判を落とし、商戦の敗北を決定的にした愚か者たち。

 商人というものを期待せずに見ていた荀彧たちにとってはさほど衝撃ではなかったが、だからこそ道のりの険しさを感じてもいた。

 

「では彼らの処分はこれで決まりですね。『先立つもの』については……」

「……まずは冀州の方で流行ってる輪作とかいうのを調べるわよ。この前、あのバカ姉妹から聞いたけど、たぶん農法だと思う、ですって。ふざけてんのかしら?」

「昨今の冀州から小麦や粟が多く流れてきていることは間違いありません。よい機会ですから、彼女たちに聞き取り役を任せてみては?」

「そう、ね。そろそろあの暗い顔も見飽きたし、ちょうど良いわね」

「素直では――いえ、何でもありませんよ、桂花」

 




>公孫賛と30万(後漢書 列伝六十三 公孫瓚)
 初平二年(191年)冬10月(?)、徐州と青州の黄巾の残党30万が黒山賊との合流を目論み、南東から冀州渤海に攻め入ります。平原か、お隣の楽安からのようですね。
 袁紹をぼこぼこにするため渤海に居合わせた公孫賛が、騎兵を含めた2万の軍を率いて東光県の南方、黄河の脇でこれと戦い3万を斬り、逃走した黄巾が鉅鹿郡広宗県から清河国側へ渡河しようとしているところを攻めて数万を殺し黄河を赤く染め、7万余りを生け捕りにします。大量の戦利品を獲得し、その名を轟かせました。
 河北の人間は震え上がり、誰もが進んで公孫賛に頭を垂れたと言います。
 歴史書でこれだけの劣勢を覆したと記される人物は稀です。

>春米節在江陵
 投げ遣りすぎる翻訳。キャンペーンガールは水鏡先生。

>馬騰
 字は寿成、真名は萌黄。蒲公英の黄と、翠の緑から。春草の新芽のような色。

>お手柄お手柄
 山村美紗サスペンス小京都ミステリーから。周囲にバレないように控えめな拍手で。

>空海ダッシュ
 1ハロン12秒の俊足。単位を変換すれば時速60㎞くらいです。現代の競走馬に鞭が入ると3ハロンで35秒くらい。当時はこんな血統馬は存在しなかった、ということで。
 昔やってたプロ野球の球団マスコットが競馬場でレースをするとどれが早いか、みたいなトリビアが好きでした。ダートコースの0.5ハロンで15秒台だったそうです。

>野郎ぶっ殺してやる!
 来いよベネッ


 次回の更新は来週を目指しますが、前日から伊豆半島までお花見に行くので諦めるかも知れません。その場合はさらに次の週くらいを目指して書こうと思います。


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6-2 地上の乱雲

「この蜂蜜を作ったのは誰じゃあっ!!」

 

 口の周りを蜂蜜まみれにした袁術が叫ぶ。

 

「え? えっと、確かそれは江陵の、凄ーく高いのだったと思いますけど」

 

 声をかけられた張勲は困惑の表情を浮かべながらも主の顔を拭おうと手を伸ばしかけ、その背後に深い皺が刻まれた目つきの鋭い美食家の初老を幻視して動きを止める。

 

「江陵か!! この妾を試すような生意気な蜂蜜を作ったのはっ!!」

 

 べちゃべちゃと飛ぶ蜂蜜が汚い。

 

「ええ!? お嬢さま、蜂蜜にそんなこだわりありませんでしたよね!?」

 

 張勲はツッコミを入れつつも驚異的な動体視力を発揮して、飛んでくる蜂蜜から自分に当たりそうなものを次々とはたき落としていく。

 

「問題はこの香りじゃ! 限られた花から集めた蜜でこの深く豊かな香りを出した! そうじゃなっ!!」

「え、えぇ? ……うわぁ……なんでわかったんですかお嬢さま」

 

 蜂蜜の瓶にセットでつけられた簡易説明書を取り出した張勲が、その中身を読み進めて袁術を褒め称えた。どん引きである。

 

「問題は花じゃ。九里香(キンモクセイ)ではない、生姜(ショウガ)ではない、(ヒイラギ)でもない……常葉茱萸(トキワグミ)でもない……」

 

 張勲を無視したままぶつぶつと蜂蜜の香りを講じていた袁術は、カッと目を見開く。

 

山茶花(サザンカ)じゃ、そうじゃろうっ!!」

「あ、合ってます……。けど……何このお嬢さま」

「ふっふっ……この袁術を試しおって生意気な蜂蜜じゃ」

 

 袁術の背後では相変わらず初老の美食家が不敵な笑みを浮かべている。彼の『凄み』を借りた袁術が勢いよく、蜂蜜をまき散らしながら告げた。

 

「しかし妾を唸らせるとは感心じゃ、次の蜂蜜を持ってまいれ!」

「わか――いえいえっ、ダメですよ! 今日の蜂蜜はこれだけですよー」

「なん…じゃと…?」

 

 一瞬、凄みに押されて頷きかけた張勲ではあったが、揚州の抱える割と切実な事情からその要求を却下する。

 

「今は不作で盗賊さんがいっぱい増えちゃってるので、江陵の商人さんもあまり寿春まで来てくれないんですよねー」

「そんなもの孫策に討たせれば良いじゃろう!」

「さっすがお嬢さま! 言うことを聞かない生意気な役人がいるからーって、孫策さんを丹陽に送り込んだの忘れちゃったんですね!」

 

 遠征に回せる人員のうちから半数近くを動員した大作戦だ。片道20日近く離れた土地まで、2万に迫る遠征軍を派遣している。

 

「……はて? そうじゃったかの?」

「そうなんですよー。まだ丹陽にもついていないと思いますから、多分あと3ヶ月くらい掛かっちゃいますねー」

「そ、それまで妾に蜂蜜を我慢しろと言うのか!?」

 

 いつになく頭の回転が速い袁術に、張勲は輝くような笑顔を浮かべた。2倍の速さで考えられるとすれば、2倍の反応を楽しむことが出来る、と。

 

「うーん、でしたら孫権さんにも兵を与えて盗賊を討伐させちゃいましょうか」

「おおっ! さすがは七乃じゃ。褒めてつかわすぞ」

 

 予想通りに表情を一変させた袁術を見て、張勲もまた笑顔を浮かべて。

 

「はいはーい、ありがとうございまーす。じゃあ早速、孫権さんを呼んでおきますねー」

「うむうむ!」

 

 孫権たちは、孫堅(母親)時代の部下を集めることを許された。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「確か、去年の黒山賊討伐で糧食を鹵獲されてましたよね……?」

 

 黒髪おかっぱの女性がおっかなびっくりといった様子で尋ねる。袁紹から派遣され、交渉を任された顔良だ。

 

「ああ、それならまだ結構残ってるよ。ウチは兵士も少ないからなぁ」

 

 玉座に腰掛けた公孫賛が軽く自虐を混ぜながら返す。袁紹に並ぶ州牧とはいえ、大都市圏の冀州と辺境の幽州では人口が3倍も違い、兵数にも大きな開きがある。軍馬の数では負けていない自信があったが。

 

「そのー。よければそれを売っていただきたいんですけどー」

「……。いいけどさ、麗羽に何かあったのか? いつものアイツならもうちょっと強引なことをしてきそうなものなんだが」

 

 いつもの袁紹陣営らしからぬ常識的な提案内容に、公孫賛は若干怯えるような表情を見せる。袁紹に対し常々『あれで頭が春じゃなかったらなぁ』等と失礼なことを考えていた公孫賛だが、実際その変化の片鱗に触れると逆に不気味さばかりを感じるものだった。

 

「あはは……。その、江陵の空海様に『周りから食料を買ったらどうか?』ってお手紙を貰ったみたいで、すっかりその気になっちゃいまして」

「ああー、なるほど。まあウチも現金がなくて困ってたからお互い様だな」

 

 顔良は苦笑しながらもその理由を明かす。この後に河北四州を回って徐州と司隸にまで足を伸ばすことまで指示されているのだ。やることなすこと極端な主の姿が脳裏を掠め、顔良はその苦笑を深める。

 連合騒動以降の袁紹の様子を知る公孫賛もすぐに理解を見せ、顔良に続きを促した。

 

「それで、えっと、出来たら100万石くらい用意していただけませんか?」

「結構多いな……。まあ、粟と麦で良ければあるよ。100万石だと3億銭くらいかな」

 

 公孫賛が穀物相場を思い出しながら告げる。実際に河北の相場で揃えようとすれば5億銭は下らないが、干ばつ被害に苦しむ冀州から搾り取ろうなどとは微塵も思わなかった。

 

「ありがとうございます! 袁紹様に聞いてみないとわかりませんけど、そのくらいなら多分出せると思います。今はちょっと苦しいですけどね」

 

 冀州では今、南部を中心に発生している干ばつへの対策に食料配給や治水工事を行っており、いかに大金持ちの袁家といえども億単位の出費が懐に響いている。

 困ったように笑う顔良を前に、公孫賛は一呼吸だけ置いて考えをまとめた。

 公孫賛としても、賊を討伐した際に棚ぼたで手に入った糧食にこだわりはなく、むしろ苦しむ民を助けるために私財を投じた袁紹に協力したい気持ちが湧き上がる。

 

「そっか……じゃあ2億銭でいいよ。ウチで足りないのもちょうどそのくらいなんだ」

「えっ!? いいんですか?」

 

 1億銭もの大金をぽんと割り引く気前の良さに、顔良は思わず声を上げた。対する公孫賛は爽やかに、万人を魅了するような笑顔を浮かべて頷く。

 

「ああ、もちろんだ。困ってる時こそ助け合わないとな」

 

 後に顔良はこの瞬間の胸の高鳴りをうっかり文醜の前で口にしてしまい、修羅場を作りかけた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「空海様っ!」

「おや、孔明。どうした?」

 

 何かの書類を束にしたものを片手に息急き駆け込んで来た孔明を、空海が両手で優しく受け止める。

 

「ここここの『分数』というのは何ですか!?」

「え? んーと、普通に割り算を割らずに表したものだけど……」

「割り算とは何でしゅか!?」

「あれ? そこから? ええっと、四則演算は加減乗除だから――」

 

 5分後。

 

「――こうして分数のままにすれば、次の計算に持ち越す際に有利となることもある」

「はい! 質問でしゅっ!」

「はいそこの大きな帽子の()

「分子が分母より大きくなった場合――」

 

 15分後。

 

「――このように、除算を乗算で解く方法で暗記した数を当てはめることが出来るよ」

「空海様、よろしいでしょうか」

「はいそこの黒髪眼鏡のお嬢さん」

「先ほどの分数で除算を行いたい時には――」

 

 1時間後。

 

「――として、底辺掛ける高さ割る2で、ほら。面積が求められるわけだ」

「確認したいんだけど」

「はいそこの目つきの鋭い(むすめ)っこ」

「それって逆に面積から高さとかを求めるのも――」

 

 2時間後。

 

「――図に示した通り、収穫と消費はおよそひと月の遅れで重なることがわかるね」

「よろしいでしょうかー」

「はいそこで眠そうにしてる()

「図の縦方向というのは自由に尺度を――」

 

 

 5時間後。筆を置いて周りを見回した空海は、チラリと女中に視線を向けた後、いまだ興奮気味の軍師たちの前に座る。

 

「調子に乗って話してたけど、そろそろご飯の時間だ」

「はわわ、しゅごかったです! どうやってどうやったんでしゅかっ!?」

「あわ、も、もっと教えてくだしゃい! ご飯なんて昨日も食べました!」

「これはすぐに教本にまとめなくては……水鏡先生はまだ学院だろうか?」

「ちょっと、こんなの下手に広めたら徴税の常識が覆るわ。狙われるわよ」

「伝える内容も相手も、少しずつ広げていかなくてはならないでしょうー」

「しかし消費税の考え方は流通の制限と税収増の両面から検討すべきです」

「これがあれば需要と費用と在庫から最適な取得目標がわかるかも……!」

「あるいは需要や雇用の予測が数字で判断できるようになるかもしれんな」

「これもしかして守兵の配置とか陣形を考え直した方が良いんじゃない?」

「商人たちだけではなく、おそらく斥候や諜報も効率を上げられますねー」

「はっはっは……こいつら何言ってるんだ……?」

 

 他の人間にも何度か伝えている四則演算と筆算と分数と数種類の図形の面積の求め方と数種類のグラフと統計の概要を教えただけで目を輝かせて未来を語りだした軍師たちに、何が凄いのか全くわかっていない空海も曖昧な笑顔を見せ――直後、冷や水を浴びせた。

 

「まあ、それぞれここへ来た用事と残してきた仕事は、ご飯の後にしようか」

『……あ』

 

 その日の江陵では、夜遅くまで仕事に励む幹部たちの姿が目撃されたとか。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 締め切った部屋の中、小さな油皿が照らす心許ない明かりに二人の女性の姿が浮かぶ。

 

「なんて間の悪さなの……!」

「はい。ですが夜盗討伐は後回しにはできません。無理をするしかありませんが、どこで帳尻を合わせるべきか……」

 

 バタバタと薄い屋根を叩く雨音のような響きが、四方から二人を包んでいる。

 

「ようやく干ばつの対処も終わったっていうのにっ、なんでこうなるのよ!」

「天運に見放されたと考えることも出来ますが、まだあがく時間が残されたと見ることも出来ます。諦めるのは、全て手を打ってからにすべきでしょう」

 

 二人がいる部屋だけではない。建物を包み、街を包み、州を包むように、地を覆い隠す黒い雲から音が響く。

 漢の中部に大発生した、死神(イナゴ)の群れが発する音だ。

 

「せめてあと半年遅ければ――」

「しっかりしなさい、桂花!」

 

 郭嘉の鋭い声が頭を抱え続ける荀彧の胸に突き刺さる。その『痛み』に、荀彧は伏せていた顔を上げた。

 

「いつまで『そんなこと』にしがみついているのですか。対応が遅れれば遅れるほど民の苦しみが長引くのですよ! 我々はどこかから食料を手に入れなくてはなりません」

「ッ!」

 

 郭嘉の顔に浮かぶ表情に、荀彧は思わず謝罪が口をついて出そうになり――かろうじて踏みとどまる。荀彧は小さくそして素早く呼吸をして意識を切り替えた。

 

「――軍の、糧食は?」

 

 荀彧の様子が変わったことに気付いた郭嘉は、しかし、自らの表情を変える余裕もなく事実を告げる。

 

「幸い、今は5万人分の食料が約半年分、60万石と少し残っています。しかし、これを放出すれば領内の治安維持すら行うことが出来なくなりますよ」

 

 郭嘉の言葉に一瞬だけ呆けた表情を見せた荀彧は、やがて自らの頭を乱暴に拳で叩く。

 

「ああ、ダメだわ。軍で使っても民が使っても消費なんてほとんど変わらないんだから、軍に置いておく方がまだマシじゃない。何でこんなことにも頭が回らなくなってるのよ」

 

 食料が軍から民に移ったところで、領内全体で見た消費量が減るわけではない。

 昨今の干ばつの影響で増加している賊の対処に、軍は必須だ。これからイナゴが原因の飢饉が発生するだろうことも想像に難くない。そして今後の賊の増加とそれに伴う出兵の必要性もまた、議論の余地はない。

 

「被害を把握してからでなくてはわかりませんが、最悪、これから毎月400万石以上が不足する可能性もあると見るべきです」

 

 郭嘉の言葉に領内だけで解決することが不可能と見た荀彧は、素早く外の候補を検討していく。支援を期待できそうな大勢力から順に挙げる。

 

「洛陽はまだ長安にかかり切りなのかしら?」

「そうですね。現在はそちらに関心が向いています。イナゴの被害がこの付近に限定的であれば、こちらに目を向けさせることも可能でしょうが……」

 

 長安では3ヶ月ほど前から起きている干ばつの被害で多数の死者が出ており、地理的に近い洛陽から視察と支援が行われている。被害そのものは洛陽や冀州や陳留にも広がっているが、それぞれ独力でほとんどを解決してしまっているため解決の遅れた長安に注目が集まったようだ。

 

「……袁紹は? あちこちから買い集めて、全部冀州にばらまいたの?」

「把握している限りでは、集めた穀類は大半が民に渡ったはずです。それ以前に我々との溝は深く、支援は期待できませんね」

 

 曹操陣営は冀州に対しては前年から穀類の買い付けなどをやや強引に行っており、溝が深まりつつあった。早ければ今年中に軍事行動を起こすか起こさせるかする見込みだったが、江陵の横やりによる平和的な解決と干ばつの発生によって事態は混迷している。

 

「揚州はまだ安定しないのかしら。あっちは干ばつもなかったはずだけど」

「丹陽郡の平定は順調のようですね。ただ、揚州北西部から荊州にかけて干ばつの被害があるようです。袁術からの支援はあり得ないため、盧江から逃亡する民が増えています」

「あの土地で干ばつ? それに、荊州も、ね。まあいいわ。徐州は?」

「知っての通り、冀州へ穀類を売り払い、周囲では最も安定しているようです。こちらが確認した範囲でも兵を増員しているようですから……やはり余裕があるのでしょう」

 

 荀彧はその言葉に頷き、目を閉じてたっぷり数秒をかけて深呼吸して、大きく目を開き郭嘉と視線を合わせる。

 

「虫の向かう先がわからない以上、まずは徐州か袁術ね……。こうなった以上こちらから攻め入ることも考えなきゃいけないわ」

 

 袁紹の治める冀州に攻め入るには黄河を渡らなければならない。対して徐州は陸続きであるし、袁術のいる寿春は(潁水)を下れば攻めるに難くない地理だ。

 支援を求めるか脅し取るか奪い取るかはわからないが、いずれにしても早期に接触する必要がある。

 

「領内平定の為に出兵の準備は整っています。華琳様が戻られ次第再編を行うとして……早ければ翌日には再出発できるでしょう」

「一時的に軍を分けることも視野に入れなくては……華琳様が戻り次第指示を仰ぐわよ」

 

 荀彧と郭嘉は頷き合って立ち上がり、外へと向かおうとして、すぐに腰を下ろす。

 

「本っ当に、なんてこと!」

 

 外からは未だ、薄い屋根を叩く雨音のような硬質の響きが絶えない。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「洛陽にはこの難事にも不正を働く愚か者がいるようですな」

「長安も、ですね。人骨が積み上がってる横で賄賂を要求されるとか……」

「なにそれこわい」

 

 孔明の言葉に空海が怯える。

 

「見せしめがいるわね。出来るだけ大物を捕まえた方が効果的よ」

「なにそれこわい」

 

 賈駆の言葉に空海が怯える。

 

「官吏の一員としては情けないことですが、探す手間はほとんど掛からないでしょう」

「逆に不正が多すぎて曝いていくのが大変なくらいですねー」

「なにそれこわい」

 

 鳳統と程立の言葉に空海が怯える。

 

 干ばつからのイナゴ大発生という災害に対して、各人の持つ情報の整理や江陵の方針確認のために開催された幹部会。真っ先に話題に上がったのは、朝廷で行われている不正とその酷さだった。

 

「その勤勉さの半分でも本来の仕事に回せば、今頃はもっと肥えていただろうに」

「もっと引き締まっていた、の間違いでは?」

「どっちも見たくないわね。竜騒動があと半年遅ければ半分は減らしてやったのに」

「あのような場所に江陵の諜報員を置いておくのはそれだけで損失です」

「はき気のする『悪』だぜッ! と、宝譿(ほうけい)も言っているのですよー」

 

 苛つきを隠さない幹部たちを止めるため、空海は手を叩いて注目を集める。

 

「はいはい。ここで言ってても始まらないよ。急ぎの案件を片付けてから、いっそのこと当人たちを引きずり出して断罪でもすればいいだろ。まずは報告から、ね」

「……そうですな。冷静さを欠いていたようです。お許しください」

「すみませんでした」「……悪かったわね」「申し訳ありませんでした」「……ぐー」

「概ね許すー。ただし仲徳、テメーはダメだ。後で本体を茹でる」

 

 

 黄河と長江の間、やや北寄りを中心に発生していた干ばつは、特に陳留から豫州などの標高差が小さくて水利用に難のある地域に絶大な被害をもたらしていた。中には周囲数県から川が丸ごと消え去った土地まである。

 追い打ちをかけるように発生したのがイナゴだ。おそらくは并州南部から陳留付近で発生したのだろうイナゴは、黄河流域からやや南の広い範囲をがっつり食事にしてしまい、空海に草食系とは何だったのかという疑問を抱かせた。

 時期的に良くなかったのは瓜などの収穫量が豊富な野菜類や収穫間近の穀類、種をまいたばかりの豆類や秋口に採れる木の実などで、地域によってはほぼ全滅している。黄河の北側は幸いにも小麦地帯であるため収穫を終えており、長江に近い地域では大根が直前に収穫時期を迎えていたため、事態が逼迫しているのは豫州と陳留の両地域だ。

 

「今年に入って豫州に本格的に手を伸ばしてきていた曹操にとっては、運に見放されたと言うところでしょう」

 

 周瑜が皮肉げに告げる。支配地域がそのまま被害地域になっている曹操領土は、侵攻がなければそれだけ被害が少なかったはずなのだ。

 

「災害がなければ?」

「決断を迫られた時期でもあり、好機でもあったかと」

 

 空海の疑問に横から鳳統が声を上げる。曹操にとっては西の劉表が南部に興味を示し、北の袁紹が軍拡の途上で足を止め、東の劉備が自領土の平定に手間取り、南の袁術も揚州支配の確立にしか興味を示していない最高の時期だった。災害がなければこれ以上を望めないほどの好機だったはずだ。

 

「なるほどねぇ。まさしく、運に見放された、ってわけか。あと話題に上がってないけど孟起のところと劉景升のところも被害地域だよね?」

「はい。ですが、翠さんのところは元々穫れる穀物の少ない土地でしたから、こちらとの家畜の取引を少しだけ増やせば、すぐに食い扶持が減って供給も追いつくでしょう」

「劉将軍の下では、南陽がイナゴの被害を受けているようですねー」

「南陽では歴代太守の手により治水がしっかりと行われていたため、干ばつの被害は限定的でした。むしろ、豫州方面から相当数の難民を受け入れる方針であったようですな」

「まず間違いなく劉表の方針ね。京兆尹方向からは襄陽が受け皿に、洛陽や豫州方面からは南陽が、南からは漢寿と江夏がそれぞれ難民の受け入れを増やしているわ」

「短期的には何ら問題はありませんし、これから世が乱れることを考えますと中期的にも問題はありません。しかし、無策のまま長期的に放置してしまえば不利を生むでしょう」

 

 空海はニヤリと笑って江陵の方針を打ち出す。

 

「それじゃ、短期的にはウチも荊州の一端としてその方針に乗ろうか」

 

 つまり、劉表の思惑を利用して災害への対応をしてしまおうという考えだ。江陵だけで動くするより手広く、国を動かすほどの労力も必要ない。

 だが、軍師たちはだいぶ深読みしたようだった。

 

「なるほど……荊州全体の方針であると全土に知らしめることで責任を劉表に押しつけ、その上で利の一部を貰い受けるわけですな」

「私たちも荊州の一部として強化できますし、民の救済にもなりますね。洛陽や長安への牽制としても効果は大きいかと」

「では、劉将軍の顔を立てつつ江陵の存在を宣伝するために、劉将軍を通して北方の民に薬などを配布してはいかがでしょうー?」

「へぇ、それなら荊州も止めようがないわね。だったら一緒に医者も出しておいて、今のうちから顔役になりそうなヤツらに繋ぎをつけておくのもいいんじゃないかしら?」

「物資と人員は軍から出しましょう。屯田兵の一時的な増員という形なら、半年後までに最大10万人程度の増兵も受け入れられます」

 

 次々と「空海の指示通り」決まっていく方策に、当の空海は口を挟むことが出来ない。

 

「……いえね、そこまでするつもりで言ったんじゃないんですよ……」

 

 未来を決める江陵の会議は、当事者たちを無視して続く。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「貴女たちには民の慰撫をして欲しいの」

「私たちが」「民の」「慰撫を?」

 

 曹操が告げた懇願とも取れる言葉に、三姉妹が顔を上げる。これまで一歩引いた視線で姉妹を見守り続けた教育者のような治政者のような顔はなりを潜めて、今、曹操は確かに姉妹の力を求めていた。

 

「そうよ。家族や友人を失った民に追悼の機会を与え……これから足りなくなる分は――私がどうにかするから――食料を奪い合うような行為は控えるようにと」

 

 言葉の合間にも苦悩を滲ませ、それでもやるべきことだけを伝えて、自身の弱音を口にすることはない。だが、相対する姉妹は曹操が言葉にしなかったそれを敏感に感じ取ってお互いに目を合わせる。

 

「あの……私たちがそんなことしても、いいのかな」

「そう言ったって、私たちは歌で元気づけるしか出来ないんだし……」

「……」

 

 躊躇を見せる姉二人を横にしながら、冷静な三女は結論する。

 

「わかりました。その仕事、やらせてください」

『ええっ!』

「いいのかしら?」

「はい」

「ちょ、ちょっとっ」

 

 三女は曹操の問いに即答する。普段、姉妹を引っ張っていく次女の方が止めようとして普段と真逆のちぐはぐな光景を作り出すが、それに気付く余裕のある人間はいなかった。

 

「れんほーちゃん……」

 

 自分の意志を問うような長女の声に、人和は顔を俯かせ、やがて自らの考えを確認するように一言ひとことに力を込めて語り出す。

 

「天和姉さん、ちぃ姉さん。これは、最後の機会なの」

「最後の機会?」

 

 三女の不吉な言葉にいち早く声を上げたのは次女の地和だ。姉妹の頭脳とも言える妹の言葉だからこそ、それが曖昧な問題ではなく現実の危機なのだろうと理解してしまう。

 

「そう。今、ここでやらなかったら……私たちは、きっと二度と歌えない」

「えー、そんなのやだよぅ」

 

 天和がやんわりと拒絶を示す。歌というのは自分と姉妹を繋ぎ、自分と人を繋ぎ、人と人を繋ぐものだと信じているからこそ、その可能性が閉ざされることは認めがたかった。

 

「それだけじゃないわ。そんなことになったら私たちは……あの子をあの場所で泣かせたままにしてしまう」

「あっ……えと」「……っ!」

 

 人和が口にした言葉につられ、姉妹の間に深い後悔の念が湧き上がる。思い出すのは、ただ歌を歌うだけが全てだった頃。黄巾賊と呼ばれる支持者(ファン)たちが三姉妹を取り囲み、自分たちがいかに楽しみながら歌うかということしか考えられなかった時代。

 

 黄巾の時代は、小さな女の子の慟哭で終わった。

 

 女の子がその目にいっぱいの涙をためて、姉妹を断罪する言葉を飲み込んで、青に溶け込んだ光景。温かくもあり、冷たくもある記憶。しかし、その光景を思い返す度に姉妹が思い浮かべる言葉は、ただ一つ――つらい。それだけだ。

 いつまでも忘れることが出来ず、忘れるべきではなく、そして未来でもこの光景に向き合うことが出来ていないのかもしれないこと。

 だがそれは、誰にとっても紛れもない『過去』なのだ。

 

「――そっか、そうよね。歌うしかないんだから、歌えばいいのよ! 間違った分なんて取り戻して利息つけて返せばいいわ!」

 

 次女の地和が空に向かって吠える。

 

「ええ。今度こそ、やり直しましょう。あの子供を笑顔にするために、みんなのために、本気で歌いましょう」

 

 三女の人和が未来に向かって誓う。

 

「……うん。ちーちゃんとれんほーちゃんがいいなら、そうしようっ」

 

 長女の天和が姉妹に向かって微笑む。

 

 苦しみ続けるのはいい。それは自分たちのためだけに歌っていた姉妹の罪だ。

 だが、あの子を泣かせたままにするのは認められない。それは心優しい姉妹の意地だ。

 

 静かに見守っていた曹操が小さく笑う。この娘たちは希望だ。つらく苦しい状況にあって華を失わない大陸の希望。この華を、本当の意味で活かす時が来た。曹操は表情を引き締めて姉妹に告げる。

 

「まず私たちは東郡の北に現れた賊を討伐に行くわ。貴女たちは私たちの後を追うように東郡に向かい、そのまま北から陳留まで州を一周して興行を行ってちょうだい」

『はいっ!』

 





>歌姫
 不遇かと思った? 残念、みんな良い子でした! 恋姫キャラは基本良い子ですよね。


>この蜂蜜を作ったのは誰じゃあ!
 このシーンを書くために美味しんぼを読み返しまして、気がついたら投稿を考えていた日曜日の前の朝だったんです。時計を見て日付を見て我を取り戻した際の気持ちは、たぶん中高生がテスト前にやらかしちゃった時と同じ類のものだったと思います。

>1億銭ポンと値引いてくれたぜェ(クズスマイル)
 来いよベネッ
 『後漢書』劉虞伝に曰く、幽州に2億銭を出したのは青州と冀州。『資治通鑑』に曰く初平元年(190年)夏4月のこと。幽州が胡族に荒らされ歳入が減少したためだとか。
 1億銭というのは物価的には20億~500億円、感覚的には200億円くらいか。

>算数vs軍師
 算術の勝ち。九章算術という(例えが)難しい本に色々書いてあるそうです。

>イナゴの大発生
 興平元年(西暦194年)は4月から雨が降らず穀物が一石50万銭、豆類一石20万銭にもなったのだとか。長安で人が食べ合い、白骨の山が築かれたと記録されます。


 何度かまた曹操をピンチにする作品か、的なお言葉をいただいてるのでフォローさせていただきますと、史実の曹操はもっと酷いとこから勝ち上がりました(意味不明)。ので、ご安心下さい(?)。最大勢力として勝ち残ることになると思います。
 油断すると詠を動かしてしまうので、次回は詠がまた出てきそうです。でも私……実は美羽のことが好きなんです。


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6-3 本日、晴天!

「逃がすな! 追えっ!!」

応ッ(おおおおっ)!』

 

 夏侯惇たちは今、賊の討伐を行っている真っ最中だった。

 曹操と別れて早1ヶ月。各地の賊を追って討伐を行う役の夏侯惇と、大都市圏を回って民心を落ち着ける役の曹操。適材適所というもの――らしい。それを言った郭嘉は今、夏侯惇を含めた遠征軍の頭脳となっている。郭嘉の指示通り移動して、戦って、勝つ。この繰り返しだ。最初こそ味気ないと感じたが、なるほど、これだけの勢いで賊を討てるなら曹操の元に帰る日も近いだろう。

 

(華琳様は今どこかなぁ……)

「華琳様は今どこかなぁ……」

 

 まぁいくら帰る日が近いとは言え寂しいものは寂しいのだが。

 

「今は(はい)(しょう)県の辺りのはずですよ」「姉者は可愛いなぁ」

「おおっ! 我が家の近くにおられるのか! ならばすぐに歓迎の準備を何故私の考えていることがわかったのだ!?」

「声が出ていたぞ、姉者。あと、ここからでは馬を飛ばしても4日はかかる」

 

 慌てる姉に向けて夏候淵がのほほんと答える。最も緊張を強いられた徐州との境を抜けたため、少しだけ気が抜けているようだ。

 とはいえ、気の抜けるような戦闘が続いているのだから仕方がないのかもしれない。

 今回の戦闘も、千に満たない賊軍を、万に近い数の精兵で三方から包み込むようにして追い立て、集まったところに矢を射掛け、壊走したところをまた三方から追い立てて矢でとどめを刺し、僅かに逃げ出した者を集団で追わせているだけなのだ。

 賊に容赦はしないし自軍の被害も最小に抑えるべく注意しているが、個別に追わせる段階まで進んでしまえば、もはや指揮することも注意が必要な事案もない。

 

「春蘭様ー、もう賊の人たち残ってないってー」

「お? おお、よくやったぞ、季衣!」

「ご苦労だったな、季衣」「お疲れ様です、季衣」

「あっ、秋蘭様、稟様、たっだいまー!」

 

 想像を超えるイナゴ被害のせいで曹操たちは内憂外患に陥り、遠征能力までもが大幅に制限されてしまった。領内の不安要素を取り除くことが急務となって、それ以上の遠征も困難になった。その結果として初動が速くなったのは皮肉という他ないだろう。

 そして、初動が早かったために領内で10万を超える賊が発生していながらも、彼らが集結する前に大半を討伐できている。

 

「秋蘭様、怪我人の治療は終わりました。動けないような兵はいないみたいです」

「うむ。ご苦労、流琉」

「おかえり~、流琉」

 

 郭嘉は勝つための努力を惜しまない。現状、兵は一人でも貴重だ。故に同数の敵と戦うというような愚は犯せない。ある意味では守るべき民よりも重要なのだ。

 過去ひと月で15回以上も戦いながら、敵は全て自軍の半数以下。そうでありながら、討伐した賊の総数は自軍の5倍以上。言い換えれば、およそ1万の遠征軍が僅か数百人の被害で5万以上の賊を討っている。

 一つひとつの結果は当たり前だ。訓練も受けていない農民が武器を持っただけの集団の前に、遠くから精強な騎馬集団が土煙と共に現れ、賊を指揮するものがいなかったらどうなるのか。散り散りになって逃げ出した先に、自分たちの数十倍の数の精兵が陣を組んで待ち構えていたら。おっかなびっくり構えた盾とは別の方向から矢を射掛けられたら。

 その当たり前の積み重ねという離れ業を当たり前にこなしているからこそ、討伐は完全に順調だった。

 

「大丈夫ですよ、春蘭。このまま進めば陳留までひと月も掛かりません」

 

 討伐は、より大きな集団を残す後半戦に差し掛かる。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 災害支援を決めた江陵ではあるが、最大の争点は最大の被災地にあった。

 

「風はこれを曹操さんに恩を売る最大の好機と考えますー」

「ボクはどっちかというと大反対よ。今こそ曹操の力を削ぐべきだわ」

 

 程立と賈駆、両者共に主張しているのは曹操への積極支援だ。だが、二人の求めている結果は正反対のものと言える。

 

「曹操の才と領土野心は必ず大陸全土を巻き込むわ」

「曹操さんは覇王たる人物ですので、恩を忘れて襲いかかるようなことはないでしょう。既に与えた恩を含め、枷をつけておくことに損はないかとー」

「恩と施しを分けるのは感情よ。そして施しは『覇王』の恨みを買うでしょう。あんたの言う『覇王』って他人に言われただけで感情の名を変えるような小者なわけ?」

「はて? わざわざ他人が諭す必要があるのでしょうかー?」

 

 議論を見守る者のうち、孔明は程立に、鳳統は賈駆に、それぞれ消極的な賛意を示していた。立場上、それ以外の意見を表明しづらいためだ。周瑜は意見をまとめるため、聞き役に……否、空海への説明役に徹している。

 

「つまり詠は、この機に曹操を封じ込めなければ、彼女自身の飛躍のため、全土に戦渦を広げるだろうことは間違いないだろうと言っています」

「まぁ、うん。それらしい意見だね」

「対して風はそれを否定せず、全土へと広がるだろう戦渦を、江陵に及ぶことがない形に収められるだろうと言っています」

「積極的に関わろうという意味か」

「一方で詠は、曹操の意志を江陵の望む形に収めるのは困難で、王としての判断を曲げるかも曖昧であると反論しています」

「なるほど。それももっともな話だ」

「しかし風は、そもそもこちらが曹操の方針を変えるのではなく、曹操自身に――」

 

 

「――うーん。このままでは平行線だな」

 

 空海が議論の合間に挟み込むように告げたことで、吸い込んだ息が音に変わることなく吐き出される。

 

「文和、仲徳の意見はどちらも一面から見れば正しいし、見方を変えれば不確定の要素が目立っている。公瑾や俺が決めてもいいけど、折角だから今この時、どちらの方が優れた結果を出せるのかを……ちょっと競ってみようか?」

 

 言葉とは裏腹な子供っぽい表情で提案した空海に、軍師たちのため息が重なった。

 

 

 

 玉座の裏にある大きな遊戯板の周りには今、江陵の上位6人の姿があった。意地とプライドを賭けた本気の戦略ゲームのために。

 

 

(――舐めてたつもりはないけど)

 

 対局が始まってから変わらず顔に貼り付けている難しげな表情の裏で、賈駆は初手から表情まで含めて全力で事に当たって正解だったと自画自賛する。それだけで、少なくとも表情から手の内を読まれる可能性が激減するはずだからだ。

 そして隣で賈駆と同様に表情を貼り付けた――彼女の場合は無表情だったが――鳳統に強い感嘆と畏怖を抱く。十手、二十手と先を読んで盤上を動かす鬼才と呼ぶにふさわしい希代の策士。おそらく賈駆とて正面から挑んだのでは十回戦って十敗するだろう。初めのうちに分担を申し出されていなければ、今頃は手の解説を二桁は願っていたはずだ。

 

「ではでは、ここに駒を進めたところで手番の終了を宣言しますー」

 

 賈駆は内心舌打ちしたい気持ちを押し込める。考える時は眠そうな表情で、手を見せる時にはうっすらと笑い。それ以外にも動きの度に僅かに変わる表情が、程立の作ったまやかしであると()()()()()()()()()()()()、それで感情が動くことを止められない自分に腹が立って仕方がない。そして、そんな賈駆の内面を覗き込むような視線で、程立がじっとこちらを観察していることも苛立ちを増長させていた。

 

 

 

(――焦りはあるようですが、手の内は読ませて貰えませんねー……)

 

 程立はその胸の内に、賈駆に対する静かな賞賛を滲ませる。盤面は今のところ程立たちに有利だと言えた。この瞬間を取り出して見れば程立陣営がやや苦しい局面に立たされているようにも感じられるが、最初から大局で勝つと決めて戦っている以上は、押し切られなければそれは勝利に限りなく近い引き分けだ。賈駆もそのくらいはわかっているだろうが、内心は()()()()読ませて貰えない。

 

「これで撃破ね。戦闘状態から抜けた都市は将を入れ替えて調練と補修を指示するわ」

 

 隣で表情を消している孔明や、賈駆の相方を務めている鳳統などならまだわかる。この遊戯に何年も親しんだ存在であるし、研鑽を重ねて来たことは想像に難くない。だが、聞けば賈駆はこの遊戯にほとんど初めて触れると言うではないか。江陵に集まっている才の豊かさに思わず笑みを浮かべそうになり、わざとらしいあくびでそれを打ち消す。

 賈駆の瞳が僅かに揺れたのを見て少しだけ申し訳ない気持ちになりつつも、程立は眠そうな表情を変えないまま盤面に目を落とした。

 

 

 

(両者共に孔明、鳳統には及ばず……しかし得意な面に関しては追随を許さず、か)

 

 局地戦ではあるものの、孔明や鳳統だけでは絶対に見られないような鮮やかな逆転劇が散見される。両者の手を全て見た上で記録している周瑜をして、それは敵に回したくない類の妙技だった。

 空海が遊戯で決着をつけようなどと口にしたときには後で説教することも視野に入れていたものの、今この盤面を見る限り、遊戯であるが故に全力でぶつかり合うことができ、全力でぶつかり合えるが為にお互いを知る良い機会となるだろうことがわかる。

 本人たちには自覚もなかっただろうが、お互いの言葉を聞くべき機会に、自らの言葉を口にすることを優先している節があったのだ。冷遇されてきたのか、あるいは才を発揮する場を求め続けてきたのかはわからないが、そういった人間ならではの悪癖を身につけてしまっていた。

 周瑜はこの交流を機に両者が良い方向へ向いてくれることを願いながら、また一手、記録をつけていく。

 

 

「仲徳の側が有利に見えるけど、文和の方も動きを誤魔化してるねぇ」

 

 ゲームを眺める空海が感心したように言葉を漏らし、隣で周瑜が頷いて同意する。

 孔明の戦略をベースに各地の戦場を間延びさせ続ける程立と、鳳統の戦術を武器に要所を丸ごとひっくり返す賈駆が、いわゆる戦略ゲームで競い合っている。本気で取り組ませるためにご褒美を用意したとはいえ、ゲームとは思えないほどのド本気っぷりだ。

 

「風と朱里の方が恐ろしく感じますが、詠と雛里の方は相手取りたくない打ち筋ですな」

 

 じわじわと、煉瓦を積んで壁を作るような動きをしているのが程立と孔明のチーム。

 壁の前で武器を持ち、隙を突いて内側から壁を一気に崩したり壁に守られているはずの中身ごと奪うようなスタイルで戦っているのが賈駆と鳳統のチーム。

 

「それにしても良い勝負……だけど、千日手の一歩手前かな」

 

 壁を育てる早さとそれを崩す速さの勝負になりそうなものだが、圧倒的な観察眼とどうやっているのかもわからないような程立の誘導が崩壊を防いだり、遠い戦場で起こした行動の余波を正確無比に読んだ鳳統によって寡兵が大軍を破ったり、僅か数回の手番だけで兵数を倍化させる孔明マジックによって戦線の膠着が失われたり、お互いの戦場を支えるはずの前線都市に賈駆の手が入ることで何故か両者を交換することになったりと、現実で起きて欲しくないようなことが次々と起き、ゲームはカオスに陥っていた。

 

「もう20ずつも手番を進めればある程度は動くでしょうな」

「ふーむ。待ってもいいけど、そろそろ介入しようか」

 

 空海が自分で打っても孔明や鳳統には遠く及ばない。だが、長年の研鑽と第三者という立ち位置と周瑜の解説によって、戦況は概ね正確に把握できている。

 手番が程立陣営に移ったところで、空海が立ち上がって注目を集めた。

 

「お上の命令だ。北方で異民族の大規模侵略が発生した。ふた月以内に、双方が所有する人口5万以上の都市1つにつき、2千の兵と兵糧1万石を供出せよ。支度金として先述の都市1つにつき1千万銭を与える」

「んなっ」「ぉお?」『……』

 

 賈駆が頬を引きつらせながら、程立が目を少しだけ見開きながら反応し、賈駆を助ける鳳統と程立についている孔明は表情を殺したまま、その命令の内容を吟味する。

 絶妙な数字だ。富国政策の程立と孔明に有利にも見えるが、都市の数や質から考えれば負担が大きいのもこのチームだ。だが、より少ない兵数をやりくりしていた賈駆と鳳統のチームへの打撃も大きい。いずれにしてもここで対局が動くのは間違いないだろう。

 

「次は仲徳の手番だが、しばらく後の文和の手番でいくらか減らして兵を返却しよう」

「つまり、それがいつになるか、どの程度減るのかも明らかにしないってわけね」

「その通り」

「長引けば、今後もこのようなことがあるのでしょうかー?」

「手を変え品を変え、ね。頻度はわからないよ。孔明たちの対局を含めて、こんな介入をしたのはまだ4回目なんだ」

 

 僅かな間、場を沈黙が支配する。

 若干の苛立ちを滲ませながら、賈駆が空海を睨んだ。そんなにも不甲斐ない対局をしていたように見えたのかと。

 

「なんで、介入したのかしら?」

「うん。これが名勝負であって名局ではないから、かな」

 

 今度こそ、全員が沈黙した。

 

「万人が喜ぶ対局ではない。だが、学ぶものが知るべき対局だ。だから、彼らが知るべき出来事を割り込ませた。いい考えだろ?」

 

 無表情を繕っていた鳳統や孔明が視線を泳がせて頬を染める。表情を作っていた賈駆や程立までもが僅かに頬を緩め、慌てて顔を背けた。そして直後、自らの手落ちに気付いたように慌ててお互いに目を向け合ったところで、青い羽織に視線を阻まれる。

 

「双方、目を閉じろ。10、数えたら目を開けて、仲徳の手番で再開だ」

 

 誰もが目を閉じた暗い視界の中、安堵のため息や小さく吹き出す音などが聞こえたが、それが誰のものだったのかは賈駆にもわからなかった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「一昨日、15万に迫る江陵軍が南陽を越えたそうです。確認されているのは黄蓋だけですが、念のため襄陽方面の索敵を強化しました。既に近隣の兵に集結を命じています」

「ッ、そう。よくやったわ、桂花」

 

 曹操は漏れそうになった悪態をどうにか飲み込む。数刻(1時間程)前に届いた第一報で状況は予想出来ていた。曹操たちが弱り切るだろう時期はまだ少し先だが、弱り切るのを待つ必要があるのは弱者だけだ。思っていた内でも悪い方から考えた方が早い状況。

 

「何人、集まるかしら?」

「江陵の足ならば、ここ許昌までは遅くとも4日以内、早ければ明日には到着します。明日までにはどれほど多くても2万……4日あっても3万。さらに6日稼ぐことが出来れば陳留から春蘭たちと3万を呼び寄せられますが……」

 

 許昌を放棄して陳留まで撤退すれば合流を2日は早められる。荀彧が口にしなかったのは、それが曹操の戦い方に反することだからだけではなく、そこまでしてもなお勝ち目がほとんどなかったからだ。

 

「少ない糧食で遠征を繰り返して兵は疲弊している。最悪、2万の兵で15万を抑えなくてはならない。どんなに保たせていてもこちらは合わせて6万ということね。……士気が崩壊しかねないわ」

 

 息苦しさすら覚える緊張感の中、時間だけが過ぎていく。

 間もなく夕刻を迎えるという時間帯だ。街の喧騒が僅かに届く。そこに含まれた感情の色がにわかに変化したことに、曹操だけが気付いた。

 

「失礼します! じょ、城門前に黄勁弓(けいきゅう)将軍様と程従事中郎様がいらしております!」

「は!?」

「……最後通牒かしら? あちらから来てくれるとは親切ね。丁重にお通ししなさい」

 

 曹操は驚く荀彧に命じて楽進たちを呼びつける。黄忠と向き合おうというこの時、果たして抑止力たり得るのかを自問しながら。

 

 

「……お迎えも出来ず申し訳ございません」

「私たちも先触れを出していませんし、有事にあって気遣いは無用です」

「はっ」

 

 黄忠たちの表情に曹操に向けての敵意や侮りが見当たらないことを見抜き、楽進たちの抱く緊張感が僅か弛緩した。

 

「空海様からのお言葉を伝えます」

 

 黄忠が恭しく書簡を取り出すと曹操や荀彧は流れるように、慣れない楽進たちは慌てて膝をつく。全ての人間の頭が下がったことを確認して、黄忠が書を広げる。

 

「『陳留、豫州1000万人の民に哀れみ、穀物1600万石他を与える』」

『なあっ!?』

 

 衝撃が、走った。

 

 穀物1600万石ともなれば、1000万人のひと月分の食料を上回る量だ。

 曹操陣営はこれまで、1000万石2000万石という量が足りないと考えられる中で10万20万といった単位でしか食料を用意することが出来なかった。

 上出来だと言える。

 朝廷が行った最大級の援助が150万石なのだ。足りない量で見れば全く話にならないが、用意できた量で見れば朝廷と比べられる。

 1000万人が苦しむとしても、150万石しか出せない。それが国家の限界だった。

 そこへ来て、1600万石という天の恵みとも呼ぶべき援助。

 だがそれは、朝廷からの援助の10倍以上を得ること、つまり天子の面子を潰す行為に他ならない。江陵は曹操陣営を助けるため、支援という形で国の力不足を痛烈に批判して喧嘩を売ったに等しい。それも、万人が正しいと思える手段で、だ。

 

「――空海様のお言葉を遮るほどの何かがありましたか?」

 

 黄忠が曹操たちに向け、柔らかな声色で問いかける。謝罪以外の音が聞こえたら斬首に処するつもりで。空海に向ける笑顔と同じものを浮かべて。

 アレは優しいお姉様が年齢を聞かれたときに浮かべる笑顔と同種のものだと悟った曹操陣営は一斉に押し黙り、結果、曹操だけが慌てて謝罪のために頭を下げた。

 

「し、失礼いたしましたっ!」

「――そうですか。では、続きを。『米250万石、ヒエ350万石、キビ400万石、粟400万石、大豆200万石。加えて塩100万石』」

『……ッ! ……!?』

 

 次々と告げられる単位を間違ったのかと思うほどの物資。一同は絶句と絶叫の狭間で必死に耐え続ける。

 

「『加えて牛2500頭、馬2500頭、羊8000頭。加えて見舞金1億銭』」

 

 曹操が手を取れば、天下への喧嘩を出血大サービスで売りつけることになる。そこに待つのは間違いなく流血沙汰だ。覇王の行いではなく、江陵の臣下に限りなく近い何かへと成り下がったとも取れる。しかしそれが大衆の正義に沿っているからややこしい。

 曹操が手を取らなければ、1000万人の民が敵に回る可能性が生まれる。加えて、自軍最大6万に対して江陵15万の兵をも相手取らなくてはならないだろう。どう考えても待っているのは破滅だ。

 

 曹操は背中に冷たい汗が流れることを自覚した。

 支援を受けるか、死か。1年前の自分なら、いや、3ヶ月前であっても、そんなことを聞けば一笑に付していただろう。思えばあの頃は楽しかった。豫州を手中に収めるべく、軍師たちと語り明かした。大切な部下たちと未来への展望を語ったりもしていた。江陵に売りつけられた恩などのしをつけて返してやろうという――

 

「『――並びに、米類脱穀機設計図。大豆、麦、粟の種籾各1万石。袁術でもわかる災害対策の基礎。()()染色指南書。輪作農業指南書を授ける』以上」

『……』

 

 大盤振る舞いどころではない。下手をすれば、曹操が過去数年で集めた税収の総額をも上回っている。荀彧など、いくら未曾有の危機であったとしても、それだけでこれほどの支援を行うだろうかという疑問を浮かべてすらいた。恐怖を感じる物量だ。

 曹操の内で、冷静な部分が主張する。これを受け取り、後に強大になってから無理なく返しても言い訳は出来る。反董卓連合の折、彼女たちが正しいと知りながら天下に喧嘩を売ることをしなかったのは何故だったのかを思い出してみろと。

 だが同時に、熱い何かが曹操を揺さぶるのだ。もし自分であればこれほどまでの支援を行えただろうかと。高値で受け取っておきながら安値で返すことが覇王の行いかと。

 

「つ、謹んで……」

 

 膝を折るべきか、天下に喧嘩を売るべきか、膝を折らずに天下に喧嘩を売らずを選べるのか、曹操の中でいくつもの選択肢が生まれては消え、声と瞳を揺らした。

 

「謹んで――」

「すみません。先に風からもお伝えしておくことがあるのですよ」

「ッ、失礼しました」

「いえいえ。まず、風たちは南陽の方から来たのではありません」

「……え?」

「風たちは洛陽にて天子様に謁見してからこちらに来たのです」

 

 曹操の目が驚愕に見開かれる。

 

「これは内々の御意向なのですが、間もなく洛陽より米400万石ほどの支援が行われることになるはずですー。もちろんこれまでの支援に追加してという形で」

「400万石、の、支援……?」

「洛陽では、この有事にあって死体を横目に不正を働く外道がおりまして、彼らの悪行のために物資を減らさねばならないことを天子様は深く嘆いておられました」

 

 実際には400万石のほとんどは不正に蓄財された資産から支払われる。400万石分が増えた計算になるのだが、建前というものは重要なのだ。

 

「もとより京兆尹や冀州など天子様が慈悲を分け与えねばならない土地は多いですから、江陵に近い陳留や豫州へは空海様が主になって支援を行い、天子様はさらに広く遠くまでご威光を伝えられてこそ、民の憂いを打ち消す近道になると悟られたのだとかー」

「……天子様の慈悲に、感謝、いたします」

「ふふ、内々の御意向ですよー。不正に心を痛めておられた天子様は、華美に飾る必要もなしと仰せでしたのでー。そのように対応されて良いかと存じますよ?」

 

 つまり彼女は、江陵からの支援を受け取りやすいよう、受け取ったときのデメリットを潰しておいてやったぞ、と言っている。理解が追いついた瞬間、曹操はカッと頭に血が上りかけ、直後、絶大な利を捨てる愚に阻まれて怒りを鎮火させた。

 

「そういうこと……。江陵に、部下のごとく気にかけて貰うなんて……いえ、貴女たちに大恩があることは変わらない。感謝させてちょうだい」

「礼ならば空海様にしてください」

「そうですねー。洛陽を動かすために持ち込んだ2億銭は、空海様が指示して風に預けて下さったものですのでー」

『2億!?』

 

 何らかの思惑があるとして。支援を行いやすくするために、地方の一都市が、国家予算の1厘(1%)を超える額を、皇帝を動かすことに使う。その馬鹿げた規模の豪快さは曹操陣営を驚愕させるのに十分だった。

 これが曹操に向けられたのは都合が良かったからだろう。だが、自らの祖父を思わせるその豪快さと、好みと言いながら目を背けた小柄な男の記憶と、見えない場所から絶大な支援を行ってくれたことへの歪んだ感謝が、曹操の心をかき乱した。

 曹操が黄忠の前に膝をつき、深く頭を下げ、顔を上げないまま口を開く。

 

「謹んで、お受けいたします。民を代表し、空海元帥に御礼申し上げます」

「承りました。必ずお伝えしますわ」

「引き渡しにあたり、まず、南陽郡葉県に駐留しておられる黄鎮江将軍に触れを出して、兵と物資を誘導していただきたいのですがー」

「ッ! 桂花、すぐに伝令を!」

「はっ!」

 

 眠たげな声で告げられた黄蓋の行方を聞き、曹操が鋭く指示を発する。発見の第一報とほとんど時間差なく届いた支援の申し出に、万一軍の暴走などという形で答えたりしたら最悪である。仮に敵性と判断していたとしても、個別に反撃を加えるような者達は流石にいないだろうが、自暴自棄になりかねない条件も揃っているため油断できない。

 もっとも。江陵は曹操軍が暴走を防げるだろうと判断しているし、仮に攻撃を受けたとしても実力差でねじ伏せて弱みも握れる、と腹黒いことを考えているのだが。

 

「それともう一つ。本隊がこちらに来るまで風たちを泊めていただきたいのです」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 曹操たちが江陵の支援を受け入れると決めてから三日。昼を回るころになって、街には江陵の馬車が到着し始めていた。

 

「なんて進軍の速さなの……」

 

 曹操の側近として江陵軍を見る荀彧が呟く。南陽郡葉県から潁川郡許昌までの進軍ともなれば、伝令にかかる日数を除けば曹操軍でも倍は掛かる道のりだ。

 

「一人ひとりの装備も桁違いに良いわ。洛陽の北軍にはいくらか見劣りするかもしれないけれど。この部隊が特別というわけではないのでしょう?」

「はい。陛下の近衛と比べられるほどの装備が15万人分揃っていると見るべきです」

 

 曹操たちには既に江陵軍の陣営が伝えられている。黄蓋を筆頭にして兵15万人、馬車10万両の大集団。このうち9万両以上が初回の支援物資であり、冬までに今回を含めて計3回の輸送を行う計画であると聞かされた。

 

「桂花、うちの兵とは作業を分けなさい。勝手に比べて自信を無くすようなことがあっても困るわ。それと、民に配給を行う時にはこちらの軍を前面に押し出すこと」

「了解しました。江陵側へは要望という形でよろしいでしょうか」

「街の中では命令に従って貰う。だからといってこちらの兵士があちらの兵士を下に見るような態度を取らないよう徹底しなさい。江陵の兵が命令に違反した場合は抗議に留め、こちらの兵が命令に反した場合は、斬首よ」

「畏まりました。直ちに」

 

 荀彧が立ち去りかけたその瞬間。

 両軍の兵が向かった先から喚声が上がった。

 

『おぉおおおおおぉぉぉぉぉぉ……っ』

「「何事!?」」

 

 生やさしい響きではない。興奮や悲哀に満ちた声だ。

 大事を予感した曹操と荀彧は揃って現地へ駆け出した。

 

 

 そこに広がっていたのは、大の大人が膝をついて大泣きし、大の大人が空を見上げて大泣きし、大の大人同士が抱き合って大泣きし、江陵の兵がそれを慰めている姿だった。

 与えられた職務を放棄して、というより横に置いたまま、最後の瞬間まで曹操に従って命を投げ出せる精兵が、千人を超える兵士たちがうずくまって泣いている。

 

「アカーン……これはアカンてぇー」

「沙ー和ーもぉー無ー理ーなぁーのぉー」

「……グスッ」

 

 兵を指揮していたはずの李典、于禁、楽進まで、何かを手に涙を流していた。

 

「ちょ、ちょっとアンタたち! これは何!? 何が起こってるの!」

 

 いつもならまず文句か叱咤から入る荀彧も、驚愕と困惑の声を上げ。

 李典が手に持った紙の束を広げて見せる。

 

「これやぁ……オロロロロロロロ」

 

 

 ――そこには、目を見張るような達筆が並んでいた。

 

『美味しいものを食べて元気を出せ』『一口多く食べて一寸深く耕せ』『悪木の陰に休まず』『盗泉の水を飲まず』『善の善なるを知るを善とする』『里は仁なるを美しと為す』『太陽は昇る』『心は錦』『天知る、(ネコ)知る、我知る、子知る』『仁は天地になく人にある』『これで勝つる』『天網恢恢、疏にして失わず』『一陽来復』

 

 一つひとつが名筆と言っていいだろう、見る者の心を揺さぶる。

 

 それは、正しいことを為す勇気を肯定する言葉だった。

 それは、苦しみもがく者達に救いを与える言葉だった。

 それは、困難を乗り越え歩み出す力を生む言葉だった。

 

 空海の書、元気の出る言葉五百選と誇りを得る言葉五百選だ。

 

「これ、は……」

「――空海様の書ですよ」

 

 兵の間から現れた黄忠がにこやかに、誇らしげに告げる。その発言で、兵達の泣き声がさらに大きくなる。苦しく辛かった日々が報われたような気がして。これでやっと家族や友人を助けられると安堵して。

 一方で、推測を肯定された曹操たちにも衝撃が走っていた。そうだ。確かに空海の書跡だと。その美しさには曹操や荀彧たちにも見覚えがある。郭嘉に見せられた老子の一節と目の前の文字が一致した。

 眠たげな様子で曹操の側に立った小柄な少女が、柔らかく笑いながら書を指し示す。

 

「支援を決めてから十日もの間、空海様は不眠不休で、食事も取らずに両州の民に向けてお言葉を書き続けられました」

 

 何だそれはと、曹操は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。それが君主のやることかと口を開こうとし、ただの一言すら発することが出来ずに奥歯を噛み締める。口を開けば今までの自分を否定する何かが溢れそうで、潤んだ瞳をなかったことにするように、拳を強く握り込む。

 

「両州全ての民に一つずつ書くためには時間が足りない。けれど、10万両200万箱、せめて送り出す全ての馬車に一つずつくらいは書いてみよう。そう仰ったのです」

 

 馬車10万両に1枚ずつ。10日間の不眠不休でも1分間に7枚以上を書かなければならない。墨や紙の用意を周囲に任せ、筆を20回以上取り替え、空海以外の人間は交代を重ねながら取り組んだ。

 

「知っていますか? 墨というのは石のように重いのです。掌ほどの大きさの墨を十枚も重ねて百歩も歩けば女官などは息が上がってしまいますし、紙を千枚ほども重ねてみるとまっすぐ積み上がらないこともありました。使いすぎた筆は一つひとつの毛が細くなって折れてしまいます。さらにさらに、墨を擦りすぎると硯にも穴が開いてしまうのです」

 

 吃驚仰天ですねー、と少女は目を細めて笑う。

 

「ばっ……バカじゃ、ないの……っ! 本当、に、バカだわ。こんな……!」

「そうですねぇ。風もそう思います。でも、風たちもバカでしたので、そんなことを言う空海様に協力することにしたのです」

 

 あちこちから鼻をすする音が聞こえ、こぼれた涙が拭われる。その中には天下一気丈な少女や、天下有数の男嫌いの少女の姿もあった。

 

「色々ありましたが、風は満足しているのです。そしてこれは空海様に協力した風たちの総意なのですがー」

 

 言葉をため、一呼吸を置いて、しっかりと頭を下げる。

 

「――どうか曹操さんの力で、一人でも多くの人々を助けてあげて下さい」

 

 曹操は目の前で少女に頭を下げさせたまま、自身を落ち着かせるため何度も深い呼吸をした。周囲も黙ってそれを待つ。

 彼女たちの礼に無様を返すことは出来ない。否、そうならないよう曹操が落ち着くのを待ってくれてさえいる。最高の状態で返答すべきだ。

 わかっているのに、ようやく出せた言葉にはまだ、僅かな震えが残っていた。

 

「私はね、借りたものは返す主義なの。……この借りは、必ず返すわ」

 

 曹操がさらに大きく息を吸って吐く。今度こそ震えが止まり、その身に纏う覇王の気配が何倍にも膨らむ。

 

「米一粒でも無駄にせず活かしきることを、我が真名に誓う」

 

 少女が頭を上げた時、曹操の目は燃えていた。

 太陽のように、燃えていた。

 

 

 

 やがて止まっていた軍が動き出す。と言っても江陵軍が馬車から荷を降ろして曹操軍に引き渡していくだけだ。今回引き渡すのは主に穀物が詰まった木箱約200万箱。江陵の街中から職人をかき集めて作った600万石に迫る支援物資。実際、緊急の支援としてはこれ以上は行えないくらいまで全力を出し切っている。600万石ずつ3回に分けたのも江陵から陸路で一度に運び出せる物資の限界に当たったからだ。

 馬車についた江陵側の兵士は馬車の上を行き来するのみで、もう半分の曹操側の兵士も馬車達の合間を縫うように働いているため、多数の兵士が大量の荷物を動かしている場の割には落ち着いているように見えた。

 もっとも、所々で涙を拭う仕草や鼻をすする音が止まないあたり、目に見える落ち着きと内心とは必ずしも一致していないようだが。

 

「おお、そうでした。曹操さんに風から一つお願いがあるのですよ」

 

 しばし荷の上げ下ろしを眺めていた曹操の耳に、気遣いを感じさせる声が近づく。

 

「何かしら。できる限りのことはするわよ」

「大したことではないのですよ。稟ちゃんに言葉を伝えて欲しいのです」

「あら、この私を伝言役に使うの? ふふっ、いいわ。言ってごらんなさい」

 

 では、と頭を下げた少女は簡潔に告げる。

 

「風は父と母よりいただいた(てい)(りつ)の名を返上し(てい)(いく)と名乗ることにしました、とだけ」

「――そう。必ず伝えましょう」

「よろしくお願いしますねー」

「どうして名を変えたのか聞いてもいいかしら?」

 

 名を変えるというのは一大事だ。自身が高く評価する程昱ほどの人物の理由は、曹操も知ってみたいところだった。

 構いません、と答えた程昱は少しだけモゴモゴと考えをまとめるように口を動かして、やがて眩しいものを見るように目を細めて語り出した。

 

「空海様は十日間の不眠不休で書き上げられました。風もそれにお付き合いしたのですが……クスッ、恥ずかしながら三日目の夜に意識をなくしてしまいましてー」

 

 程昱の居眠りする姿が容易に想像でき、曹操も小さく笑う。

 

「風はその日の夢で、日輪の御座す蒼天(晴れわたる大空)を懸命に支えていたのです。ですが目を覚ますとそこに蒼天はなく、ただ、目の前に青い衣が広がっていたのです」

 

 程昱は高く空を支えるように伸ばした手を説明と共にゆっくり下ろす。

 

「青い衣は風に向かってこう告げました。『天子を動かせ』と」

 

 その言葉は、程昱にとっては特別な意味を持っていた。

 正確には「文和(賈駆)の策が動き出した。お前も洛陽に向かい、天子を動かせ」だ。洛陽内の不正を天子自身に気付かせ、ついでに江陵にとって思わしくない人物を片付けるところまでを賈駆が指示し、程昱は没収した財産を支援に回させて寄付金(2億銭)で朝廷の方針を定めさせた――のだが、それはこの時点から見れば未来のこと。

 ふらふらと空海の前に立ち、寝起きだったのでバランスを崩して空海の股間に向かって頭突きを繰り出し、恥ずかしかったので乙女を傷つけた報いを与えたところ、何故こんな理不尽な仕打ちを受けなくてはならないのかと空海に問い詰められたりもしたが、些細なすれ違いを除けば人生の転機と言って良い出来事だった。

 すなわち、空海とは夢に見た日輪の御座す蒼天(天子を動かす者)だったのだ、と。

 程昱に自身()を支えることを期待してくれているのだと確信に至り。

 

「風は青い衣に日輪の輝きを見ました。故に、その日輪を支え立つことを誓ったのです」

 

 程昱はまだ誰にも言っていない話ですよと笑う。その笑みには誇りが垣間見えた。

 話を聞いた曹操は絶句する。空海の言は『()()()()()()()』ものだ。程昱の言は『()()()()()()』ものだ。

 だが、二人の言葉は生きていた。野心的で傲慢で、それでも命の輝きがあった。

 死にかけの天下で、なんて眩しい生き様かと曹操は思う。

 

「程仲徳――いえ、()()

「はいー」

()()殿()に『見事』と伝えてちょうだい」

「承りましたー」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「……見てみろ」

 

 空海はそう言って周囲の軍師に、天子の決定を通達する書を見せる。

 

「あわわ……」「はわわ、凄いです」「やるわね」「ああ、素晴らしい」

「どうやら俺の目は曇ってたみたいだね」

 

 静かに告げた空海に、周囲の空気が固まった。

 だが程昱だけは、穏やかな表情を崩すことなく。

 

「仲徳、お前を見くびってた。ごめん」

 

 そう言って空海は頭を下げる。

 通達には、陳留と豫州への400万石に始まり、冀州、涼州、京兆尹、南陽ら被災地へ計800万石近い穀物の支援と、該当地域への田祖(土地税)の免除が行われると書かれていた。高級官僚数人の処断と、戦略ゲームのご褒美として与えられた自由裁量の2億銭を動かしただけで得られた対価としては、まさしく桁外れだ。

 高級官僚の地位など2億銭もあれば買える。さらに2億銭を追加したところで、出費は多くても2倍程度だ。対して1石数千銭にもなっている穀物800万石となれば百億銭は下らないし、該当地域の田祖も30億は超えるだろう。合わせれば国家予算の半額を軽く上回る。それを、認めさせた。道理が味方していたとしてもとんでもない成果だ。

 

「クスクス……風には天が味方していますのでー」

「マジで」

 

 おそらくは江陵による経済の活性化がなければなしえなかっただろう。同時に、現在の税収に慣れてしまっていたら対応できなかっただろう。活発になった経済によって税収が激増し、しかしその使い道に慣れていない(天時)だからこそ出来た偉業だ。

 下手を打てば江陵(地方都市)より下に見られかねないという特大の矛による脅しも多分に含まれていたからだろうが。

 程昱が僅かに目を細める。

 

「それに、戦略遊戯の際、ご期待に添えなかった風にも責任があるのですよ」

 

 先日の、意地とプライドを賭けた戦略ゲームでは、要所で行った3度の介入を尽く有効活用した両陣営が逆に拮抗状態を強めてしまい、日暮れまで対局がもつれ込んだところで程立と孔明が敗北を宣言した。

 だが、賈駆と鳳統が「先に負けを宣言されたことこそ敗北」だと主張し、曹操陣営への対応を全面的に譲歩。以後は激しい譲り合いの応酬があり最終的に両者の良いとこ取りを目指すことになったのだった。

 謝罪の言葉と共に頭を下げた程昱を見て空海が立ち上がる。

 

「こんな凄い成果をお互いの謝罪で飾るとか、ちょっと何言ってるのかわかんないよね」

 

 空海は周りの軍師たちに笑いかけながら程昱に近づき、その手を引いて立たせた。

 

「ほら、立って。もちろん許すよ、仲徳」

 

 ふわりと風に舞うように立ち上がった程昱は、片手をそっと空海の胸に置き。

 

「空海様、風からは許すに代わり一つお願いがあるのですよ」

「何かな? そこそこ重いものまで認めよう」

「はい。風は『(てい)(りつ)』の名を改め、日輪を支える『(てい)(いく)』を名乗ることにしました。どうか、程昱の名と共に生涯の忠誠を捧げることをお許し下さい」

「か……かなり重いお願いだぞ、それ。……でも。うん、認める」

「ふふ、ありがとうございますー」

「じゃあ俺の真名も許すね。()()()()()()()。俺に仕えろ、()()

「――はっ」

「これからも私的な場面以外ではお前を真名で呼ばないし、俺の真名は呼ぶなよ。そこはまぁ微妙なあれこれってことで理解してくれ」

「承知しておりますー」

 

 天から地上を預けられた『天子』を継いだ、と言い張っている歴代の王朝が国を支配している大陸で、「天から来た」なんて真名がバレれば大事だ。

 のほほんとしたやり取りをしているが、最悪の場合死に至る。空海は死なないので死ぬのは相手か空海の周りだ。真名一つで甚だ迷惑である。

 

 

「そいえば空海様ー。曹操さんより言伝がー」

「言伝? 何だって?」

「風を認めたその手腕、『見事』だそうです」

「いつのことだろ……? まあいいか。あの曹孟徳に褒められたなら自慢になるよね」

 

 程昱の肩に優しく手を置き、お前のおかげだ、という想いを込めて伝える。

 

「風、ありがとう」

「はいー、天来様」

 




「――いつまで抱き合っているのですか?」
「ぅひょぅ!」(※抱いているわけではないです の意味)

 六章『陳留(兗州)大飢饉』完。

 三姉妹とかその辺みんな助けたかったんだから、仕方ないよね! 言い訳です。
 そして「助けに来たぜ!」という展開は序盤を書き直したら使いたい候補トップ。


 以下、プチ解説。活動報告の方に長々と解説してます。

>兗州大飢饉
 後漢書や三国志演義でも取り上げられている史実のエピソードです。
 興平元年(西暦194年)春頃から、長安から兗州にかけての広い範囲で深刻な干ばつが発生し、さらに夏には蝗の大発生が重なって夏から秋冬にかけて収穫する作物が致命的な被害を受け、大飢饉に陥りました。
 なお感想でもご指摘いただきましたが、蝗はイナゴと訳すのが一般的なものの、実際は(色々な種類の)飛蝗(バッタ)を指している漢字です。紛らわしいことをしました。

>本日、晴天!
 お天気係のお仕事全国版。干ばつ(日)と天子と太陽(日)と空海(青)と一陽来復(救済)と程昱(日を支え立つ)をかけてます。

>膝をついて頭を下げる。
 中国には漢代より前から現代まで伝わる拱手や抱拳という礼があります。拱手は相手が偉い時に、抱拳は相手が同世代または同格の時に使うようです。
 これらは文字ではとても描写しづらいので、今後も使う予定はありません。


 次章は恋姫らしく恋に恋する乙女が出てきそうです。閑話は挟まない予定。


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7-1 闘う者達

「――空海様に?」

 

 袁紹の小さな唇から僅かばかりの苛立ちを含んだ声が漏れる。

 

「そうなんだよ。この私がいかに馬が好きであるのか、馬のどこがどう優れているのか、幽州の馬と江陵の馬はどんな風に違うのか、白馬の素晴らしいと思える点を、毎日書いて送ったんだ。毎日、毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日――」

「そ……そうでしたの」

 

 少しやつれた公孫賛が、恍惚とした表情で壊れたレコードのように繰り返す。一瞬だけ浮かんだ嫉妬に似た感情は今はもうどん引きに塗り替えられている。馬のことがなければ河北で最大の勢力と言っても過言ではない公孫賛だが、馬が存在したらもうダメだった。

 

「私の熱意を認めて下さった空海様は褒美に『馬小屋に住ませてやる』って言ってくれたんだ! ああっ、その発想はなかった! その発想はなかったっ!!」

「それは、よ……よろしかったですわね」

 

 正しくは『いい加減にしないと馬小屋に放り込むぞ』である。公孫賛は文面を肯定的に受け取っているようだが、中身を知らない袁紹にも空海の言いたいことは伝わった。自分だったら幽州を攻め滅ぼしていたかもしれない。

 むしろ優しく返答している空海には賞賛を送りたいくらいだ。

 

「だから私は江陵の馬小屋に行くことになった。幽州の印綬(いんじゅ)は麗羽に預けたい」

 

 昨今の袁家は統治の問題もほとんどなく、むしろ私財を大量にばらまいて市場を大いに刺激し結果的に民の暮らしを助けてさえいた。干ばつや虫害に際しての市場円滑化を軸に据えた対応も、長く効果が見込めるだろうと概ね好意的に受け止められており、公孫賛の知る限りでは仁君や名君と呼ばれるにふさわしい治政を行っている。

 曹操領からの商人を止め、大量に購入した穀類を捌く専用の市場を整備して、ついでに他の市場にバラけていた商人のうち大手のものを一箇所にまとめさせただけなのだが。

 

「……そう、ですの。でしたら……ええ、お幸せに……おなりなさいな」

「ああ、任せろ!」

 

 公孫賛の笑顔は袁紹が『あ、コイツ馬小屋に入れてもらえなかったら自分から入り込むだろうな』という確信を抱くのに十分なものだった。

 袁紹は形だけの祝福で公孫賛を送り出し、印綬を手に入れた。受け取った印綬は丁寧に洗った。

 

 

 

 

「知っているとは思うが、公孫賛だ。先に知らせた通り桃香に話があってきた。早速だが桃香の所まで案内を頼みたい」

 

 徐州()()郡下邳県。劉備が定めたばかりの州都の城で、凛々しい赤毛の少女と可愛らしい赤毛の子供が向き合って互いに手を差し出している。

 

「鈴々の名前は張飛なのだ! コンゴトモヨロシクなのだ! 案内は任せろー」

「ああ、よろしく。……ところでお前、私が預けた馬に愉快な落書きをしたヤツだろ?」

「ひょ?」

 

 張飛が差し出した手をしっかりと握りつぶしながら、公孫賛は獰猛に笑う。

 

「私の前にノコノコ出てきたってことはつまり――辞世の句は『四駆』ってことでいいんだよな?」

「あ、あばば、そそそそんなことよりクワガタの話をするのだ! 昨日コクワを捕ま」

「あァ!? 馬の話のが大事に決まってるだろ!!」

「はいごめんなさい仰る通りですなのだっ! は、反省中なう」

 

 一騎当千で勇猛果敢な武将でも怖いものは怖い。見た目美人の血走った目であるとか。

 その後、張飛は正座したまま城内を案内するという奇跡を起こした。

 

 

 

「ええええええっ!? 白蓮ちゃん州牧をやめちゃうの!?」

 

 張飛に案内された城内の部屋で、公孫賛は劉備を相手に近況を伝えていた。今は幽州を任せられる相手を見つけて自由の空に羽ばたいたあたりの話だ。

 

「ああ、印綬はもう麗羽に預けて来たんだ。兵士や部下もほとんどはそのまま幽州に残ることになった。ただ……」

「あ、お馬さん……?」

「そうなんだ」

 

 深刻そうな表情で俯く公孫賛に釣られ、劉備も辛そうな表情を見せる。ただ、内心では大したことじゃないのに何でこんな雰囲気なんだろうなどと考えていたりした。

 

「騎兵と馬を預けたかったんだが、やっぱり急なことだし……不服だったか?」

「え? ううん。そうじゃないよ。そのぉ、そうだ! なんで袁紹さんじゃなくて私に、白蓮ちゃんの大事なお馬さんを預けてくれるのかなーって」

「それは私が桃香を信用しているからだ。桃香を馬の扱いの()()いヤツと呼ぶぐらいに」

 

 公孫賛が冗談を言っていると考えた劉備は一瞬だけ笑いかけ、当人の顔が真剣そのものであったために出来上がりかけた笑顔を引きつらせる。

 

「え、えーと……。そのぉ……。あ……ありがとう?」

「いいんだ。これは私の気持ちだから」

 

 劉備は、白蓮ちゃん何で深刻そうな顔していい話風に語ってるんだろうと口にしかけてギリギリでこらえた。

 

「あ、そういえば麗羽が平原に大軍を向けてたな。そろそろ青州終わるんじゃないか?」

「え?」

「ウチの騎馬も黄河を渡るのに時間掛かったからなぁ、徐州ももう時間が無いかもな」

 

 青州は劉備たちのいる徐州の北の州で、平原はその北西の外れだ。青州を横切る黄河は下流ということもあって川幅が広く、大軍が渡りきるまでならば時間も掛かる。

 しかし、一度渡ってしまえば猶予はほとんどないだろう。劉備が徐州に赴任する前後の時期から青州は兵力を大きく消耗しており、大軍を止める力は残っていない。

 

「まあ桃香も大変だろうし、そろそろお暇するよ」

「ちょっ――!? それを先に言ってよ白蓮ちゃっ、待って! 帰らないでっ!!」

 

 何を散歩に行くような顔して平然と語って去るんだと劉備は心底思った。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「やっ! ほっ――ハァッ!」

 

 かけ声と共に偃月刀が振るわれる。胴を狙う横薙ぎ、正中線を順に追う刺突、下半身をすくい上げるような切り払い。軽く聞こえる声とは裏腹に、並の武人ならば一突きごとに絶命していてもおかしくないほどの殺意に満ちた攻撃は――実に軽く払われた。

 

「くくっ、どうした? お綺麗な型に戻っているぞ」

 

 必殺の攻撃をあしらって笑い声を上げたのは、最近元気が有り余っているらしい趙雲。

 対する張遼は柳眉を逆立て、大きく息を吸い込んで再び踏み込んだ。

 

「調子、にっ、乗んなッ! これでどや! しょやー!」

 

 改めて繰り出された張遼の攻撃は、どれも必殺の威力と目新しさで上下左右から趙雲に迫り、しかし絶好調の彼女には届かない。

 

「おっとと――よっと。はははっ、そうは言っても調子が良いものは仕方あるまい?」

「うがーっ! チョロチョロしよってからにぃっ!」

 

 事実、竜殺しの一件以来――正確にはその騒動の中途から――趙雲の実力は目に見えて上がっていた。かつて馬超に劣った武力も今や押し勝ちつつあり、得意の間合いでならば江陵最強の左慈にすら並ぶ。流石に馬上では馬超はもとより張遼にも及ばないが、日ごと強さを増すその姿はまさに昇竜のごとき勢いだ。

 一方で張遼の成長はいくらか鈍化していた。一応は理由もある。彼女は現状に満足してしまっていたからだ。鍛錬でも負けるのは悔しいし、成長著しい同僚を見ていると焦りも浮かぶ。しかし、趙雲ほどはっきりとではないが自身も着実に実力を付けており、さらに望む全てが揃った環境で実力を振るう機会すらも向こうから転がってくるのを待つだけで良いともなれば、悔しさや焦燥をいつまでも維持できるものではない。その上――

 

「子龍に告ぐー。おちょくるのはやめなさーい。故郷のお母さんが泣いているぞー」

 

 横合いから趙雲を諫めるように、間延びした空海の声が割り込む。

 空海と張遼、双方にとって残念なことに、こうした空海の甘やかしが張遼の焦りを打ち消して幸福感と満足を生み出すせいで、彼女の成長が減速してしまっているのだ。

 もっとも、次元が高すぎて比較対象もないため誰も気付かないような出来事だったが。

 

「主、こうやって人をからかうのは母から学んだ我が一族の伝統ですぞ?」

「一族の!? なんて一族だよ。そんな伝統は捨ててしまえー!」

「そーやそーやー!」

 

 横やりを入れられたことを気にするでもなく趙雲が笑う。絶好調の趙雲にとって戦いと日常は連続するものであるため、わざわざ意識を切り替えるまでもなく一時停止状態から一瞬で最高速へと加速できる。そして、だからこそ小さな物事にまで満遍なく気を張って楽しめるようになっていた。当人に言わせれば「更にいい女」になったのだとか。

 

「ふっ……そうですな。()()霞が勝てたら言う通りにしても構いませぬよ」

「――カッチーン。今のはイラッと来たでェ……。ええ度胸や、ボッコボコにしたる!」

 

 偃月刀を振り上げた張遼が、ニヤニヤと笑う趙雲(いい女)に襲いかかる。こういうところを空海に「いい性格してる」と評されるのだが、当人は褒め言葉として取っているので改善の見込みはない。

 

「やはり何事も暴力で解決するのが一番だな。ヤッチマイナー!」

「ああ。空海様はいいことを言う」

 

 いつの間にか現れた左慈が、空海の言葉に力強く頷いていた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「――そう。それで豫州の通行を許可して欲しいと?」

「はい! お願いしますっ、曹操さん!」

 

 何かを試すように目を細める曹操の前で深く頭を下げるのは、豫州の東に大軍――半数近くは民だったが――を引き連れて現れた劉備だ。

 

「ダメね。私が元帥に頭を下げてまで兵を揃えたのは、貴女たちの盾になるためではなく私の民を守るためよ」

 

 約10日前、十数万という袁紹軍が青州から徐州へ流れ込んだと聞いた曹操はいち早く州東の(はい)国へと駆けつけて軍備を整え、遅れるようにして飛び込んで来た劉備軍の豫州侵入という報にも即座に大軍を派遣して対峙した。

 もっとも、いざ向かい合ってみれば敗軍の様相もなく、決戦を求めているわけでもない半端な様子にいぶかしみ、劉備が()()公孫賛を引き連れて現れたことで驚愕することになったわけだが。話を聞いてみれば民を引き連れて逃げて来たのだという。

 どこへ逃げるつもりなのかと鼻で笑いそうになるような話ではあったものの、劉備らはいたって真面目に考えており、そして時勢に合っていたのかどうなのか、荊州では劉表が難民の受け入れを表明したばかりでもあった。

 

「私たちは貴女たちが豫州を通る間だけじゃなく、豫州を抜けた後には貴女たちを警戒するために兵を置かなくちゃいけない。東西に兵力を割いた上で麗羽の軍を受け止めなきゃいけないのよ」

 

 面白くない。曹操の頭に浮かぶそれは、その才覚を認めた人間へのいくらかの失望と、損得の勘定もできない者への多分な苛立ちと、荊州へ逃げるだろう女への僅かな嫉妬だ。

 

「その上、司隸か荊州へと抜けた貴女たちがどこかで狼藉を働けば、通した私の立場まで危うくなる。貴女たちが武器を持っている以上、無条件に許すことはできないわ」

 

 曹操は司隸か荊州かと口にしたが、十中八九、荊州へ向かうのだろうと考えている。

 逃亡してまで再起を望む劉備が皇帝の膝元である司隸に向かうとは考えづらいし、北には逃れてきたばかりの袁紹、南には袁紹に並ぶ()()である袁術がいるのだから。

 さらに荊州は非常に豊かな土地で難民を受け入れているし、劉備と同じ劉姓の土地でもあるし、荊州から南の交州や西の益州では権益に割り込む余地すら残っているだろう。

 通して欲しいと言いながら、そういう企みを一言も漏らさず腹に抱えているのも面白くない。考えを読めるのは曹操の知略によるものであり、劉備の誠意ではないのだ。

 

「なら、私が保証する」

「――公孫賛」「ぱ、白蓮ちゃん?」

 

 曹操の言い分を黙って聞いていた公孫賛が、表情を鋭くして告げた。幽州牧の職を辞したばかりとはいえ、劉備に渡すはずだった騎兵戦力は公孫賛の手から離れてはいない。

 そして今は、部下が劉備の戦力として数えられていながら、公孫賛自身は劉備とは別の勢力という妙な関係に陥っている。公孫賛はこれが、部下と友を守るため、自分の勇名が活かせる最後の機会であると考えた。

 だから公孫賛は腹を割って話すことを選び、誠意を示すことを選ぶ。

 

「桃香は荊州を抜けていずれ交州へ向かうつもりなんだ。だから、荊州を出るまでは私が狼藉を働かせないことを誓う。万が一何かあれば私が責任を持って桃香の――劉備の首を獲ってここに持って来よう」

 

 曹操は表面的には若干の感心を見せながら内心では大きく驚く。あの公孫賛がここまで言うことに。あの公孫賛にここまで言わせる劉備に。

 そして、公孫賛が誠意を見せて曹操の予想を裏付けたのだから、それに応じるのも曹操という王者の在り方だった。

 

「荊州を抜けるまで、ね……。良いでしょう。その保証は認めましょう。でもそれは通行許可を与えるというだけよ? 私の兵士が貴女たちの兵士の肩代わりをする対価には全く足りていないわ」

 

 徐州に踏み込んだ袁紹軍の勢いを止めてきたら通してやってもいい、という意味だ。

 半ば以上に拒絶を意味するその言葉を予想していたのか、公孫賛が劉備に視線を送る。

 

「桃香、あれを」

「う、うん。――あのっ、この徐州牧の印綬を曹操さんに譲ります! 勿論、証文に私の署名を一緒につけますから、これで認めて貰えませんかっ!」

 

 曹操はそこで初めて劉備の言葉を『検討』した。それが持つ現在の価値、手放す理由と手放さない理由、利用する手段ともたらす利益、差し出す対価との比較。

 

「……足りないわね。貴女が大した抵抗もせずに逃げて来ている以上、()()の価値は半減しているのよ。それは力ある支配者が持ってこそ価値を認められる」

「そんな……」

 

 曹操はあえて言葉少なく指摘したが、足りないどころではない。本来、劉備が徐州の民のために稼ぐべき時間を数十日分も押しつけられるのである。

 防衛放棄という劉備の策は、曹操にとっては戦略的にも戦術的にも大きなマイナスであるし、代わりとして差し出された印綬にしても『逃げ出した徐州牧が持っていた』印など徐州に残ることを選んだ民が喜んで受け入れるわけがない。

 それに印綬程度ならば強襲して奪う方が遥かに簡単で損が少ない。万全に近い袁紹軍の正面に立つことは存亡のかかった大事であり、比較にならないほどの危地なのだ。

 曹操は考え、劉備を試すように再び目を細めた。

 

「そうね。関羽を置いて行きなさい」

「え!?」「な……!?」

 

 劉備が目を見開き、名指しされた関羽が劉備の一歩後ろで驚きの声を上げる。

 扱う頭があるなら、活かせる駒が増えれば増えるほど勢力は加速度的に強くなる。曹操陣営とはまさしくそういった勢力であり、曹操が他のいくつかの――恐るべき――諸侯を抑えて覇を唱えられると確信している理由でもあった。

 関羽は、その曹操が認める極上の駒だ。一騎当千の猛者でありながら、礼節を重んじる言動、義侠心を持ち、鍛え上げているにも関わらず繊細さを失わない肉体と美しい黒髪と整った顔立ち。急な提案に見せる唖然とした表情も良い、と曹操は笑う。

 

「あっ、愛紗ちゃんを差し出して私たちだけが逃げるなんて出来ません!」

「あら。なら貴女に代案があるのかしら?」

「それは……なんとか……なんとか、み、南側から、逃げてみます」

 

 本人にも苦し紛れだとわかっているのだろう。劉備は顔も上げられずに地面に目を落としている。隣の公孫賛も呆れるように、否、仕方がないと諦めるように笑い。

 

 ――関羽を従える者が、この程度の判断も出来ないのかしら?

 

 苛立ちと共に、曹操の顔に笑みが浮かんでいく。

 曹操が求めたのは好機を活かして飛躍する好敵手――脳裏に青い衣を纏ったチビの姿が浮かんだが無視した――であり、卑しく譲歩を引き出そうという浅ましい者ではない。自らの身を切ってでも前に進む好敵手――脳裏に浮かんだチビが元気よく手を振っていたが無視した――であり、窮地に切るべき札もわからず消える愚か者ではない。

 曹操が劉備を()()()直前、一人の忠臣が割り込むように声を上げた。

 

「お待ちを、桃香様」

 

 長く艶のある黒髪を左耳の少し上で束ねた少女。武人特有の凛とした空気を身に纏い、これまでの話し合いにも劉備の後ろで背筋を伸ばして直立していただけの彼女。

 自分の『所有権』を巡る話し合いにも臣下として口を挟まなかった関羽が、劉備に笑いかけ、彼女の決意に心からの感謝を抱いて頭を下げる。

 

「そのお気持ちだけで十分です。この身は桃香様の財――我が身一つを引き替えに数万の民を救えるのであれば、何を迷うことがありましょうか」

「愛紗、ちゃん……」

「ありがとうございます、桃香様」

 

 関羽の顔に笑みが浮かぶ。覚悟を決めた力強いその顔に、泣きたくなるほどの嬉しさと悲しさがこみ上げて、劉備は言葉を失う。

 話し合いに参加するため、関羽は一歩前に出て曹操を見つめた。

 

「曹操殿。生来の不器用ゆえ我が身二君を仰ぐことならず、この身の忠誠は桃香様にのみ捧げております。しかし、桃香様と民が逃げられるようご配慮下さると言うのであれば、桃香様のためとなる範囲において、この槍を振るうことにいささかの迷いもありません」

 

 関羽は曹操の目を見て告げる。曹操は苛立ちからではない本当の笑みを浮かべて、その視線を正面から受け止めた。

 

「なるほど。私の下へ来ても、劉備のために働くと言うわけね」

「然り」

 

 毅然と答える関羽の姿に、曹操はますます笑みを深める。これだ。これが曹操の求める敵の姿であり、だからこそいつか手に入れたいと感じる極上の駒なのだ。

 

「ふふふっ。良いわ、そういう娘は大好きよ。……そうね。ならば、劉備が交州に地位を確立するまで私に仕えなさい。貴女は私に役立つ働きをする。劉備に不利になることには貴女を使わない。このくらいの条件は許しましょう」

 

 だから曹操は認めた。認めたから最後の譲歩を見せた。ここまで譲歩したからには、もはやこれは交渉ではなく通告だ。これで交渉は終わり、という。

 果たして通告を受けた関羽は安堵の息を吐き。

 

「感謝いたします、曹操殿。我が真名は愛紗。貴女の期待に応えるよう努めましょう」

 

 劉備は今度こそ決意と覚悟を持って頭を下げた。

 

「私からもお願いします! 曹操さん、どうか、愛紗ちゃんをよろしくお願いします!」

「桃香お姉ちゃんたちのことは鈴々に任せるのだ! 敵なんかハイスラでボコるのだ!」

 

 関羽の決意を肯定するように、あるいは関羽を励ますように、張飛が小さな胸を張る。

 その健気な姿に関羽と劉備だけでなく、曹操からも小さく笑みがこぼれた。

 

「本来ならこれでも釣り合いは取れないのだけれど、関羽たちに免じて許してあげるわ。それと親切心から忠告してあげる。出し惜しみをして、安物を高く見せて、相手の譲歩を蹴ろうなんていうやり方は、荊州の連中には向けないことね。狼藉に数えるわよ?」

 

 親切心と言いながら保身を兼ねた忠告だ。もし本当に劉備がそんなことをすれば相手は激怒して曹操にまで責任を負わせようとするだろう。そうなる前に公孫賛が止めるだろうとは曹操も思っているが。

 とはいえ、関羽という手札があればそれなりの対処はできる。最大の問題は()の劉表や空海などではなく。

 

「空海元帥に命を救われた一千万の我が民が、貴女が荊州を抜けるまでの一挙手一投足に注目するわ。気を抜いたら駄目よ」

 

 ――うちの将兵の中にすら空海と江陵に心酔する者達がいるんだから。

 

 曹操は笑顔の裏に、感謝と苦渋の入り交じった複雑な思いを隠す。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 遡ること約半年。

 袁紹は干ばつ被害補填のため、幽州を初めとする北方各地から支援を取り付けることに成功し、空海の助言に従って市場へ卸すなどして順調に復興を進めていた。

 さらに直後に発生した虫害による被害も、時期と地理的な条件に加えて、干ばつの際に復興の目標に余裕を持たせていたおかげで領内の隅々にまで十分な補填が行われ、混乱も停滞もなく冀州を活性化させ、袁紹を安堵させた。

 そして、早くから対策を促してくれた空海にお礼の手紙をしたため、返信を今か今かと楽しみにしていたその時だ。

 江陵による、曹操への絶大な支援が明らかにされたのは。

 

 想像を絶する悲しみが袁紹を襲った。

 

 そも、空海に誇れる、そして天下に誇れる行いをしているのは袁紹なのだ。領分を超えた行いで天下を乱している者こそ曹操なのだ。袁紹は儒学者ではないが、曹操の徳の低い行いに天罰が下ったのだと言われても違和感は抱けない。

 にも関わらず、空海から慈愛の籠もった支援を受け、あまつさえそれを引き合いに出して天子様からも物品をせびった曹操のなんと卑しいことか。奸臣(かんしん)(そし)りを受けても仕方のないほどの蛮行である。

 そんな曹操に支援を行う空海に対して僅かに悲しみを感じた袁紹ではあったが、空海が陳留と豫州1000万の民のため十日もの不眠不休で励ましの言葉を書き綴ったと知り、膨大な私財をなげうって物資を集め天子様に全土への支援を願い出たと知り、その仁君の理想像がごとき振る舞いに滂沱と涙した。特集記事の載った空海散歩を保存用と閲覧用、布教用に3冊も揃えてしまったほどだ。一般人の給料二ヶ月分相当の出費である。

 そして、空海の妻にふさわしい君主と成らねばならぬと、空海が袁紹に対してわざわざ安易な救いを与えなかったのは、妻に対する扱いが下々に対するものと異なるのは当たり前だったからなのだと思い当たり、その思いやりにもう一度涙を流した。

 

 そこからの袁紹は早かった。北方をまとめ、空海の横に立つにふさわしい肩書きを手に入れる。曹操の甘えと勘違いを正してやり、その手にある空海の書が汚される前に回収する。それらを持って江陵に嫁入りして、適当な頃合いを見計らって遷都すれば、大陸中の民が喜ぶ明るい未来が訪れることだろうと確信して、動き始めた。

 

 やや遅れて、冀州が飢饉を自力で乗り越えたことを賞賛する文が空海から届き、袁紹は小躍りして喜んだ。

 返す手紙には「寄り道してから江陵に向かう」と綴られ、空海を悩ませることになる。

 

 

 

 

「空海様の書は、それを持つにふさわしい人間が持つべきではなくて?」

 

 金ぴかの鎧を着込み馬上から大声で寝言を伝えているのは、河北を飲み込み徐州にまでその手を伸ばす北方の巨人、袁紹。

 ここは徐州東海郡(たん)県と()()郡良成県の境近く、古くは黄河の底にあった土地だ。

 

「――空海殿は我が領民のために昼夜を徹してこれを書いたという。ならば空海殿が望む所有者とは、豫州と陳留の民に他ならない。この書は我が民にこそふさわしいわ」

 

 頭痛をこらえるように眉を寄せながら大きな声を返すのは曹操である。

 袁紹と曹操はそれぞれ拠点たり得る城を手に入れた直後にぶつかった。袁紹は古くから州都が置かれる一方で守りづらいと言われる郯の城を。曹操は劉備の時代に州都を移したばかりの、しかし沂水と泗水に挟まれた天然の要害である下邳の城を。

 

「自分の食い扶持すら確保できず空海様に食べ物をねだって生き延びておきながら、この上さらに与えられたものにしがみつくなど卑しい行いだと思いませんこと? 麦を分けてあげますから、その書をお渡しなさいな」

 

 安い挑発だと曹操は鼻で笑う。言っていることにはいくらか同意してもいいが、そこに甘んじざるを得ない自分こそが一番の怒りの源なのだから、これは曹操以外が解決できる怒りではない。

 だから、そんな誤答を突きつける袁紹を、逆に嗤った。

 

「空海殿から直接貰えばいいでしょう? それに、この書は私のものではなくて、豫州と陳留の民のものだと言ったはずよ」

 

 ――ああ、やっぱり。華琳さんは意図をわかっていながら譲歩に応じない性格悪ですし見ればわかる状況も理解できないおバカさんですし品性を欠く卑賤の民にかけるべき温情をも間違う無教養者ですわね。こんなお猿さんを気に掛けて差し上げるなんて、空海様はなんてお優しい方なんでしょう! 早く片付けて会いに行かなくてはなりませんわ。

 

 袁紹は一人で納得して、幼なじみとしての厚意からなるべく簡単でわかりやすい言葉を選んで、クルクルパー(性格の悪いバカ)にもわかるようにはっきりと伝える。

 

「相変わらずクルクルパーですわね。それがあなた方の手にあることがおかしいと言っていますの。価値をわからない方たちがありがたがっていても滑稽なだけでしょう」

 

 曹操はその経験と聡明な頭脳で――おそらくは世界でただ一人――袁紹の内心までをも正しく推測してしまい。

 ブチリ、という致命的な空気のきしみと共に、曹操の顔に凄絶な笑顔が浮かんだ。

 

「――あら? なら余計に貴女には渡せないわね。貴女にこの書の価値がわかるとは到底思えないもの」

 

 一瞬遅れて、袁紹の顔が怒りに染まった。曹操はわざわざこちらから差し伸べてやった手を払い、国家最上級の名家が誇る教養を否定する愚を犯したのだ。

 それがどのような結果をもたらすのか、名家の義務として教え込まなくてはならない。

 

「言いましたわね……。袁家当主にして河北四州の覇者であるこの袁本初に向かって!」

「上等だわ。私こそ()()()()()()()陳留州牧で、中原の覇者たる曹孟徳よ!」

 

 ()()を引き合いに出した曹操に、今度こそ袁紹は言葉を失った。空海の名という極上の羽織を纏ってその威容を借りる曹操に怒りは沸点を超え――袁紹は一転して呆れたような表情で冷たく告げる。

 

「……ああ、その二つ名も華琳さんには余計ですわね。それも寄越しなさいな」

「お断りよ。貴女こそ私の下にひざまずかせてあげるわ、麗羽」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「なるほど、『寄り道』袁紹と妖怪『関羽おいてけ』の対決か。ついで扱いされた徐州と中原に言い知れない哀れみを感じるね」

 

 荊州へと逃げ込んだ徐州の民からの聞き取り調査、その報告を受けた空海が面白そうに頷く。突如大兵力を集めて青州へ侵攻を始めた袁紹に「寄り道ってそういうこと!?」と突っ込んだのも今は昔。大まかな話を知っていた軍師たちも、詳しいところを聞いた今、空海の言葉に小さく笑い声を上げる。

 

「関羽さんは豫州境で劉備さんと別れてからすぐに()()の城へと派遣されて防備を固めたようです。物資を遮二無二買い漁っていったとの証言を複数得ています」

 

 孔明が調査結果を続けて報告する。混迷する北方での商活動支援のため、複数の商人と会合を開いて状況の把握に努めているのだ。穀類や藁や塩がどれだけ売れた、役人たちに強制徴収された、人が家財道具を持ってあの街道を移動していた、あの場所で東に向かう兵士の集団の中に荷車をこのくらい見た。集めているのはそういった証言だ。

 証言を纏めて各自で簡単な分析をかける。広義に情報を担当するのは賈駆だが、情報という分母は巨大すぎるため、特定の商人を除いた一般商人の発言は孔明に、同じく兵士の言葉は鳳統に集まる、といったようにいくらか担当が分かれていた。それぞれの業務上で聞かれる当たり前の報告を分析しているから、というのも大きいが。

 そうして裏付けが取れた事実を共有していくことで、畑違いの仕事からも有益な情報を確保できる。劉備が荊州へと逃げ込んで4日、徐州での決戦の様子は徐々に明確になってきていた。

 

「下邳にはもう一人、荀彧さんが確認されています。さらに城には『于』『李』『楽』の旗が見られるそうです。前線となった下邳と東海の郡境には曹操さんと夏候淵さんの旗が見られたと報告を受けています」

「下邳城に入ったのは多くても数千。城下の民を西に避難させて、城壁や堀を補修してるらしいわ。詳細は不明だけど、大型の弩なんかを持ち込んでいるみたいね」

 

 軍に情報収集を行わせている鳳統が発言し、それを情報担当の賈駆が補足する。

 下邳の旗はそれぞれ于禁、李典、楽進のものだろう。三人は黄巾騒動の際にも陣設営を担当して素早く堅牢な拠点を築き上げていたことが知られている。おそらくはその辺りを評価した配置だと思われた。

 弩は弓に似た兵器であり、製造はやや難しく反して扱いが容易なことから新兵の武器とされる。類似の武器である弓に比べて利点が少ないため、古代から新興の大勢力や新兵を置かざるを得ない状況で用いられるものだ。

 総合すれば、曹操が下邳に新兵を集めて防衛する気であることはほぼ確実と言える。

 

「夏侯惇さんと稟ちゃん――郭嘉はどこに?」

「軍では所在を掴んでいません。ただ――」

 

 程昱が尋ねたのは曹操軍の最精鋭を受け持つ二人の行方だ。飢饉の際に数多くの実戦を経験した部隊でもあり、行方がわからないと返す鳳統もやや不安げに、情報を持つらしい賈駆を見た。賈駆は頷いて地図を指差す。

 

「陳留の東、豫州北東部に向けて……つまり徐州北部に向けてってことね。第一陣に間に合わなかった兵数万が集結しているそうよ。総数は2万以上8万以下と見てるわ」

 

 つまり袁紹軍の後背を突くように、補給線を断つように北から回り込む位置取りだ。

 空海が両手を組んで口に寄せ、何もかも予定通りという顔で机に肘を置く。数と大体の地理しかわかっていないが、そこは雰囲気で押すつもりである。

 

「……勝ったな」

「北からの挟撃が成功すればこの局面での勝ちは揺らがないでしょう。あとはこれからのためにどれだけ早く、どれだけ勝ちきれるかに掛かってきますな」

 

 生真面目な周瑜に普通に返されて、続く台詞を用意していなかった空海は固まった。

 江陵に届く情報は十日ほど遅れている。戦場は既に大きく動いているだろう。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 徐州中央付近でぶつかった袁紹軍と曹操軍は、数の利を活かして北東から圧力を掛ける袁紹軍が優位に立ったまま、その舞台を徐々に南西へと移していた。

 

「ここまでね。魚鱗の陣を敷いて後退する!」

「御意。――総員後退準備、本陣を下げるぞ!」

 

 包囲を目論んだ袁紹に対してギリギリまで戦線を伸ばす陣形で対抗してきた曹操軍は、ここへ来て消耗を抑える防御向きの陣形で後退を始める。

 魚鱗の陣は本来包囲に弱い陣形だが、10万近い軍が作る陣形を包囲するには後退する先の土地はやや狭く、さらに『後ろに向かって前進』するとき本陣が後部に来るこの陣形なら混乱少なく動くことが出来るのだ。

 

「今日は良成県の城塞を使って防衛、明日は街の門を破壊して十里余り後退するわよ」

「予定を早めるのですか?」

 

 ここまでほぼ予定通りに戦闘を運んできたと考えていた夏候淵は、思わず曹操に尋ねていた。後方の準備が整わなければ、防衛戦にもつれ込んだところで戦力を削りきることは難しい。だが、準備にはもうしばらくの時間が必要なはず。

 

「麗羽の軍が思ったよりも精強なんだもの。()()に伝令を飛ばして表側の補修を優先させなさい」

「はっ。直ちに」

 

 

 

 夏候淵を下がらせ一人になった曹操は、戦況を思って眉間に皺を寄せた。思ったよりも精強などと言ったが、素直に評せば予想よりはるかに厄介だったためだ。曹操軍9万弱に対して20万を数える袁紹軍という戦力差も極めて大きな問題だが、兵数だけなら挟撃を指示した夏侯惇たちが合流すれば有利も不利もなくなる程度まで詰められる。

 想定を超えていたのは兵士の質だ。曹操軍の大半はまともに実戦を経験していない新兵同様の者達。もちろん訓練には手を抜いていないが、準備不足は否めない。対する袁紹の兵士は、十分な装備が行き届いた歩兵が中心になっている。騎兵や弓兵が少ないところを見ると熟練の兵士は少ないのだろうが、充実した装備はそれだけで脅威だった。

 後退は予定通りであるし、それをより自然に行えるという点では救いがあるが、想定を超えて敵が強かったので苦戦しましたでは話にならない。曹操の領地は今、無防備な背を劉表に見せているのだから。

 

「楽じゃないわね……。上手く負け続けて下手に勝たせ続けなくちゃいけないなんて」

 

 主導権を握っている間に出来るだけ素早く予定を消化しきらなくてはならない。なんとしても素早く勝ちきるのだ。この戦いも、()()()()()()()も。

 そのための手は――

 





 先週の日曜日に更新するつもりだったのに、その日が土曜でないことに気がついたのが昼過ぎだったんですね。
 まだ詰まってますが、なんとか章の終わりまで続けて更新したいです。

>普通の公孫賛を生け贄に捧げて白馬力長史を召喚する!
 かつてこれほどまでに扱いの酷い公孫賛がいただろうか。鬼畜を通り越して家畜とか。
 馬小屋生まれの偉人伝説とか時々聞くので馬小屋暮らしの偉人がいてもいいのではないかと思って書いたんですが私も本当は普通の公孫賛のことがかなり好きだったのだと気がつくきっかけになりました。

>鈴々なう。
 5章の初登場時から実はこんなんでした。次回の登場は次々章になるかも。

>なんで劉備はこんなんなんだろう
 外面の良い腹黒悪女、になりきれない程度のお人好しの腹黒。を描きたかったんです。
 原作的にそんな扱いだった気がするので。

>『関羽おいてけ』
 中原の方言で「こんにちは、いい天気ですね」の意味。求人妖怪の口癖。

>十日ほど遅れている
 戦争は江陵で起きてるんじゃない! 現場(北西約750㎞)で起きてるんだ! 遠い。

>そのための手は――
 実は次の話の最初に持ってこようか心底悩んだ部分でした。江陵に届く話は遅れてる、という設定なので曹操の話で終わるのはどうかと考えましたが、章の展開的にはここまで含めて1話にしちゃった方が良い気もするのでこんな形に。
 思わせぶりな繋げ方は個人的に好きではないのですが……、実は次章の終わりもこんな感じになりそうで、ちょっと悩んでいます。


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7-2 危険人物たち

「ある意味で()()()()()()()()()()ね」

 

 空海は笑う。報告された曹操の動きは『予想通りに』『想定を上回って』いた。いつも通りの、合理性を追求しすぎて不合理を感じるほどに過激な発想。

 

「全土からかき集めた兵を、決戦に間に合う分だけ引き連れて行くとは……」

「その拙速を必要としたのでしょう。最速最少の予想よりは遅かったものの……」

「この時期に連れ出せるだろう最大の予想よりも1万は多く捻出しましたね」

 

 事前に戦略から行動を予想をしていた周瑜、戦術から推測していた鳳統、動員兵数から予測していた孔明が、それぞれの推察との齟齬を明かす。思いつかないような手ではないのに、曹操の苛烈さはいつも無謀の一歩手前まで踏み込んでいる。

 やや悔しさを滲ませた賈駆が、半端な情報で悪いけど、と前置きして続く。

 

「どれが間に合っていないのかもわからないけど、たぶん陳留郡からの援軍を待ってから軍をまとめてるだろうから、総数は5万を超えてると思うわ」

「これが私の全力全開、といった様相ですねー。よくもまぁこれだけの兵士を隠していたものだとは思いますがー。荊州寄りに2万しか出せないというのは少々苦しいですねー」

 

 飢饉の後、曹操が各地に屯田兵を置いていることは知られていた。しかし、この時代の兵士というのは悪く言えば国家の奴隷であり、食事と武器くらいしか面倒を見て貰えず、特に屯田兵は農民にとって『これまで通り農作業をして出来た作物は全部納めて有事には戦って貰う』という悪夢だ。施政者としても、余程に追い詰められるか上手く折り合いを付けられるというのでなければ、反発が恐ろしくて使える手ではない。

 ちなみに江陵の屯田兵は単純な兵役ではなく選択可能な職業という側面が強いため前提からして異なる。

 ともかく、そんなリスクの大きなものを領内人口の百分の一近くまで、他勢力に知られることなく配備していた曹操の手腕は凄まじい。そしてそのことが明らかになったということは、蓄えを使い切るほどの死闘にもつれ込んでいることも意味していた。

 

「2万とちょっとを劉景升が黙って逃すとは思えないねぇ。でも豫州から向こうの情報はだいぶ遅れてきてるみたいだから、運が良ければあいつも決着まで様子見する、かも?」

「それなのですが……。実は劉備が劉大将軍に曹操への助力を願ったのだとか」

 

 劉表の行動を予想する空海に、周瑜が控えめに情報を付け加える。空海は劉備の純心に一瞬だけ驚いた表情を見せ、すぐに笑い出した。

 

「ぷっ、あはは! ――劉景升は政治家としてはお人好しではないんだけどなー。劉備はなんていうか、田舎娘みたいなことを言うね」

「二人の直接の面会は明日以降の見込みですが、おそらくは繰り返すものかと」

 

 空海の感想は江陵幹部の総意に近い。曹操に対する劉備の言動は、攻められたとき盾になってくれたから味方であり、その味方を勝たせるか有利にすれば自分や国の利益になると短絡的に考えているように感じられた。もちろん、自身の保身や売り込みのためにそう言っている可能性もあるが、これまでの言動や伝え聞く人柄から考えれば、短絡的な考えという推測が正しいのだろう。

 空海は竜騒動の際に洛陽で会った胸の大きな女性を思い出す。顔も覚えては居るが胸が大きかったことの方が印象が強い。洛陽の民の安寧を第一に考えていたあの物理的圧力を伴うかのような威圧感のある胸。袁紹の本拠近くにありながら情報に疎かった巨大な胸。

 空海の頭がオッパイお化けに埋め尽くされつつある中、大きな帽子を被った小さい乳の少女が真剣な顔で空海を見つめる。

 

「袁紹さん側はこれでも全力ではありません。ここでの負け方次第では、すぐにでも次の決戦を仕掛けるでしょう」

「青州にも兵を残していますし、領地の様子から考えて、最大で20万は追加できるはずでしゅっ」

「幽州の騎兵5万は劉備さんに移ったようですから、流石に20万を最大限使い切るのは難しいと思いますがー」

 

 鳳統(小さい胸)孔明(小さい胸)程昱(小さい胸)と説明が続き、さらに賈駆(小さい胸)が空海の邪念を消し飛ばすように睨み付ける。鼻で笑い掛けた空海は慌てて背筋を伸ばした。

 

「袁紹と曹操の争いが長引けば、背後から劉表が仕掛けて弱った連中から全部持って行くのは目に見えてるわ。……ここで曹操が潰れるのは面白くないわよ?」

「はい」

 

 空海や江陵幹部の読みでは、劉表自身は天下を統治できる器量を持つが、続く娘たちや外戚にはその器量がない。

 娘たちはせいぜい秀才止まりの才であり、過分な出世は望まず外戚に怯えている。

 外戚は地方豪族上がりの野心家ばかりであり、劉表との関係は良好だが彼の娘を支えていくことはしないだろう。

 おまけに劉表は諸侯のうちでも頭一つ抜けた高齢なのだ。

 劉表が気付いていないのか気付いていて手が出せないのかはわからないが、外戚は既に劉表の死後に焦点を合わせている。劉表陣営は、江陵の存在を含めて内紛の危険を抱えたまま、内側と外側から火であぶられているような状況にあった。

 故に、江陵の方針もまた決まっているのだ。空海以外の江陵幹部が劉表をのさばらせておくことに反対しているのも大きい。

 

「少々早いですが、南部の動きを匂わせるべきでしょうか」

 

 鳳統は1年半ほど前から荊州南部に向けて行っている調略で劉表の動きを封じることを提案する。南部が不安定になれば過去の例から派兵は必至であり、懐に劉備を抱え込んだ今、領内を空けることは出来ないため、北方への遠征能力も制限されるはずだと。

 劉表が奇策を許容できる人間であれば劉備を使うことも考えるだろうが、劉表が知るであろう彼女の姿は、董卓騒動の際に見せた卑しいと言って良い従軍の態度だけだ。劉備が実際にどんな人物であろうと、信頼を勝ち取るまでにはいくらかの時が必要だろう。

 

「南陽か江夏から揚州に使()()()()()難民を動かすのはどうかしら?」

 

 賈駆の意見は、飢饉によって荊州へ避難してきた難民のうち、かねてから接触を持っていたまとめ役を通して目につきそうな人材を揚州へ送り込んで、荊州を弱体化すると共に揚州を強化することで劉表の関心を逸らそうというもの。

 荊州北部に位置する国家最大級の都市にして北部からの移民を最も多く受け入れている南陽と、荊州東部の主要都市で袁術勢力が根付く揚州に隣接する江夏。そして、陸続きで長江も繋がる揚州。揚州から荊州というのはそれほど攻めやすくもないが、逆に荊州から揚州を攻めることはそれほど難しくはないのだ。視界に入れば興味を引かれるだろう。

 

「荊州北部に残る物資を各地へ移してしまえば、準備が整わず開戦も遅れるはずです」

 

 賈駆の発言に乗るようにして孔明も考えを述べる。軍を動かすためにはそれなり以上に多くの物資がいるため、常備している糧食の他にも物資を買い集める必要がある。特に、今回のように相手が想定を超える規模であるときには遠征軍の規模も応じて増加せざるを得ず、追加で必要になる物資も大幅に増加するのだ。

 さらに、賈駆の策に乗じれば「揚州には人と物が集まっている」という事実が生まれることになる。それが劉表の耳に届く頃には「揚州は人と物を集めている」になってしまうかもしれない。(揚州)だけではなく南北についても同じ手法が採れることも大きい。

 

「ひとまず劉将軍の耳に届く話を大きくして時間を稼ぎ、并州牧の人事か、いっそのこと鎮北将軍を置いて人事を劉将軍に委ね、時間差で曹操とにらみ合わせてはどうだ?」

 

 周瑜が提言するのは、曹操が勝利した際に得るだろう領分に先立って劉表を割り込ませ不和を呼び込もうという、中長期を見越した離間の策である。短期には情報を錯綜させるだけでも曹操の動きは不気味に映り、劉表も反応を遅らせると見込んでいるようだ。

 鎮北将軍は并州と幽州、冀州の刺史を統括して北方異民族からの防衛を行う役職で、非常設の役職であるため設置にはそれなりの理由が必要だが、北方の兵力がすり減っている現状であれば言い訳が立つ。劉表が()()()()()()()積極的に動き、宮中に影響力を持つ江陵がそれを助ける形にすれば信を得られて恩も売れる。

 

「徐州の民を逃がした曹操さんの判断を支持する、と表明するだけでも十分ではー」

 

 程昱の案は、敵するでもないまま袁紹を批難し、味方するでもなく曹操を守り、劉備を守るでもないのに許し、劉表を止めないままに動きを縛るものだ。江陵の意志を明らかにしながらどことも敵対せず、しかし江陵を味方だと考えている勢力には釘を刺す声明。

 これを聞いた者が江陵の立場を『勝手に』想像することまでを計算に入れた、一見して無害な――江陵らしい――やり口だが、あえて言うなら民の味方であるということ以外、誰の敵だとも味方だとも言わずに介入の余地を残している。有能な者は裏を読み、無能な者は受け止めやすい形で理解する、実に意地の悪い表現だった。

 

「北も南も東も騒がしいし、どうせだから()()()の前まで散歩にでも行こうか?」

 

 最後に、ふざけた調子で告げられた空海の言葉に、一同が顔を見合わせる。

 劉表が直接対峙する北方、既にある程度落ち着きが見られる南方、内輪もめに終始している東の豫州に対して、西の益州は江陵の手で艦船という機動力を削がれた上に上層部が日和見主義に徹しており劉表からも信を得られていない。

 現状の益州に価値を感じていなかった軍師たちだったが、必要な手間、益州がもたらす損得、劉表の反応と今後への影響、稼げる日数、手元から失う札の価値――それを一瞬で検討し、空海や直属の将軍ほどの大物が動くのなら安全で費用対効果の大きな方法になることを認めて目を合わせた。

 荊州の劉表を目標にしながら、益州はもちろんその他の諸侯への牽制にもなる。軍師を代表し、一般人が見たら色々漏らしそうな笑みを浮かべた周瑜が答えた。

 

「悪くはありませんな。三峡(接続路)方面での思わせぶりな動きだけでも十分でしょう」

 

 益州は、仮に江陵が動いて刺激したとしても「不審な動きを牽制した」と簡単に理由をつけられる相手なのだ。その上、地理的な要因から艦船を用いずに大軍を展開するのには向かないため、現状からはどれほど悪く転がり後手に回っても後出しで抑え込める。

 そして何より、江陵に取って価値のない益州が、かつて秦の張儀が楚王に述べたように荊州と揚州の喉元に突きつけられた刃物であることを思い出させ、誰も傷つけないままに諸侯を振り回せるという十重二十重にも意地の悪い牽制方法は、心優しい軍師達の好みに見事に合致していた。

 

「よし決定! ――じゃ公覆と漢升を連れて遊びに行く系の仕事があるからこれで」

「では我々は先ほど出た案を検討しておきます。お気を付けて行ってらっしゃいませ」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「左翼は東門に回り込め! 本隊はこのまま北門を抜くぞ!! 右翼、援護しろ!」

 

 長い髪を振り乱し、夏侯惇が馬を進めながら叫ぶ。北西から(たん)城に急接近した曹操軍の別働隊6万は勢いそのままに北門に突撃を仕掛け、比較的に小さな東門も封鎖するように包み込み、あっという間に城壁に取り付いていた。

 

「みんなー。郯城に乗り込めー」

(おー^^)!』

 

 巨大鉄球を振り回し、乙女の発する音としてはあってはならない類の力強すぎる轟音をまき散らしながら郯城の北門を元気よくノックする許緒。勝ち戦ということもあってか、部隊の兵士たちもどこか和やかに攻め立てている。

 この戦闘を圧勝で終わらせれば、味方部隊を鼓舞するのと同時に、郯城から逃げ出した袁紹軍の兵がこの別働隊の兵力を多い方に誤認してくれる可能性もある。そのため、手を抜くようなことはしていないが。

 さらに、()()城に近づきつつある袁紹軍の物資が最寄りの郯城に集められていることは明白であるため、補給の心配がないことも余裕を生んでいた。物資というのは廃棄しようと思ってその場ですぐ廃棄できるものではない。多量の物資、少数の兵、郯城陥落までの時間的余裕、それら全てが曹操軍に味方している。

 

 郯城の戦いは、僅か数刻で決した。

 

 

 

 郯城での戦いから数え、二回目の朝日が徐州を照らし始める。

 

「昨日に比べ、城の前に展開している兵が明らかに減っていますね」

「ええ、どうやら春蘭たちは上手く(たん)城を落としたようね」

「袁紹が陣替えまでしたのであれば、間もなく姉者たちの姿を見られるということかと」

 

 下邳の城壁から門前を見下ろしながら、関羽がその黒髪を早朝の風になびかせ、曹操が覇気を滲ませて微笑み、薄闇に包まれる袁紹陣地を見定めるように夏候淵が目を細めた。

 

「しかし、隘路での挟み撃ちを恐れて袁紹が退いてしまうことはないのでしょうか?」

「今さら退けないはずよ。そのためにここまで勝たせてあげたのだから」

「袁紹の性格もある。()()()を落としてしまえばいいと考える可能性はあるだろう」

 

 袁紹は現在、下邳城の前の比較的狭い土地に陣を展開している。南西を下邳城、北東を良成県にふさがれるような形の一本道だ。少し下がれば数万を展開することも可能だろうが、20万に迫る袁紹軍全てを使い切れるほどの土地はない。

 

「これまでより必死になる可能性もある……思惑通りに運んでいても油断は出来ない、ということか……」

「そうね。けれど、不安を抱く必要はないわ」

 

 曹操は不敵に笑う。反撃の初手で痛打を与えれば、袁紹に抵抗を許さず一気に片付けるだけの算段はある。既に勝ちはほぼ決まったが、終戦の形は定まっていないのだ。

 故に覇者たる曹操は、ここから先、運ではなく実力で栄冠を勝ち取る。

 

「――私がいて、貴女たちがいるのだから。期待しているわ、秋蘭、愛紗」

「はっ!」「お任せ下さい」

 

 いずれ劣らぬ闘志をみなぎらせながら、曹操たちは来たる反撃の時を思い描く。

 

 

 

「――戻る必要などありませんわ。下邳を落とせば良いだけでしょう?」

「そーだぜー、斗詩! あとちょっとで落とせるんだし、敵は強い方が燃えるって!」

「ふぇーん、誰もわかってくれないー」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「実に12年ぶりだ。前にみんなで来たときは巫峡(ふきょう)の方までは踏み込んでなかったから、ここまで二人と一緒に来るのは初めてだね」

 

 空海が黄忠と黄蓋を引き連れて遠征軍を編制し、それが江陵を出るまでに掛かったのは僅か1日。軍議を離れて昼に近い時間から巨大すぎる江陵を移動し、黄忠や黄蓋を捕まえ編制を指示し、翌朝の出立に合わせて十分な休養を取っているのだから、実際に遠征軍が準備に使えた時間は本当に僅かだろう。

 しかし、元帥は文武の高官。忘れがちだが江陵軍は空海元帥自前の軍隊だ。近隣の治安維持を行うため、数千人程度なら即日で送り出せる体制は整っている。

 かつて河賊の拠点となっていた空海の秘密基地跡地は江陵から出たその日に通り過ぎ、巫峡までの道の中間地点で一泊。翌朝、朝靄に霞む景色の中で黄忠と黄蓋に捕まり両脇を抱え上げられた空海は、そのまま拉致される子供のように馬車に連行された。

 

「儂らは見回りのために何度か来ておりますが、この顔が揃うのは久々ですのぉ」

「もうそんなになるんですね……。今回は河賊が居なければいいんですけど」

 

 黄忠の冗談に黄蓋が大きく吹き出す。ここからは集落もない一本道が巫峡まで続くだけだ。こんな場所で賊が待ち構えていたら警備隊の特別手当に早変わりするだろう。

 そうでなくても、江陵から北の襄陽へ続く道や南の漢寿へ続く道、西の益州に続く道は荊州でも有数の交通量を誇る幹線道路なのだ。定期的な手入れや補修はもちろん、警邏や山狩りで猛獣一匹見当たらない安全な街道が維持されていた。

 

「昨今の江陵の周りには、相当根性のある河賊でも出てこられないと思うけど。……まぁこういうこと話してると湧いて出ることもあるらしいし、お楽しみにってとこかな」

「ははは、またまたご冗談を」

 

 空海たちは今、荊州に向かう通行人を例外なくビビらせひれ伏せさせ、益州行きの民や空海のファンを何千人と引き連れながら荊州と益州の境、巫峡白帝城に迫っていた。

 やはり忘れがちだが、空海や二黄は黄巾討伐の英雄であり、江陵には黄巾賊から逃れてきた数十万の民が住み着いているのだ。黄忠と黄蓋が強引に馬車に乗せなければ、三人は今頃まだ街で無数の民に取り囲まれていただろう。

 

 白帝城が見えたのは昼を大きく回ってからだった。

 

 長屋のような、小さな街のような建物が続く風景は、しかしその全てが荊州と荊州南郡のものであり、大半が関を利用する民のために解放されている宿泊施設だ。益州白帝城の向こう側にも同じような光景が広がっている。

 

「河賊ではないが、(げん)(がん)の旗が見えるのぉ。何じゃろ、儂の発言が悪かったのか?」

「またしても邪魔が……。口に出さない方が良かったのかしら?」

「うーむ、運がいいのか悪いのか。……まぁ、いずれであっても動かしやすくなったな」

 

 黄蓋と黄忠と空海は揃って首をかしげ、恐縮した様子の関の監督役に連れられ、巫峡に作られた小さな砦へと向かった。

 

 

「おー、やっぱり白帝城はデカいなー」

 

 荊州の砦と益州の砦は別の建物だ。経済力や政治力で益州を大きく上回ってる荊州ではあるが、意外なことに州境に持つ砦は益州の白帝城(それ)を下回る。

 主な理由は三つ。

 一つは、荊州が注意するべき進入路の多さと益州への進入路の少なさ。一つは、益州の陸戦能力の小ささ。一つは、益州から荊州に入ったところにある水陸の巨人、江陵による防衛力の高さだ。

 このような事情から、益州は防衛を考えた砦を置き、荊州は関としての能力を重視した作りになっている。

 

「空海様、あまり前に出ないで下さい」

「そうですぞ。儂らの姿を見れば民が混乱するじゃろう」

 

 空海は「やっちまったー」という表情で恐る恐る二人を振り返る。

 

「……もう()()()の兵士に手を振っちゃったんだけど……」

「……慌ててますね」

「……大事にならねばいいんじゃが」

 

 黄蓋の願いむなしく、武装を解いた益州の兵士が真っ青な顔で伝令にきたのは、およそ半刻(7分)後のことだった。

 

 

「益州側の責任者が、白帝城にお招きしたいと――」

 

 空海の前で跪き、益州側の要求を伝えているのは荊州側の関の監督役だ。黄蓋が言葉を遮って大声を上げる。

 

「呼びつけられて行くかッ、馬鹿者が! そのくらい空海様に伝える前に判断せんか!」

「そうです。まずはあちらから挨拶に来るのが筋というものですよ」

「厳顔みたいな武芸者にその辺強く求めるのもおかしな話だけどね。向こうが挨拶に来た上で招待するっていうのが礼儀かな。俺に挨拶するのに相応しい場所が、ここではなくて白帝城だぞって言ってるようなものなんだよ?」

 

 空海の言葉に監督役の顔から血の気が引いていく。彼自身に益州を悪く思う気持ちなどないが、荊州にとって益州とは全く格下の相手である。地理的にも経済的にも軍事的にも文化的にも政治的にもだ。

 格上の相手に敬意を払うべきであるという考え方はこの時代に限ったものではないが、格下の相手にはいくらか尊大に振る舞うのがこの時代の正しい作法だった。無論、賢人に知恵を借りようという時には相手の地位がどんなに低かろうと格上として扱う、といった考えも存在していたが。

 だからこそ、謙って「招かせて戴きたい」と告げた益州からの使者に気をよくしていた()だったが、それが『荊州の用意した関』が『益州の白帝城』に劣ると内外に認める形になっていたことに、遅ればせながら気付いたのだ。

 

「相手に舐められておることにも気付かぬとは……これが荊州の門番じゃと?」

「落ちついて公覆。平時はこのくらい穏やかな気質の者の方が問題が少ないんだよ」

「仰る通りですわ、空海様。しかしそれをそのまま空海様の前にまで持ち込むのは、少々たるみ過ぎではないでしょうか?」

「おまけにこの関をどう思っておるのかもはっきりとしたからのぉ。白帝城が羨ましいのなら益州に身売りでもすれば良いじゃろうに」

「そうですわね。私からも、荊州の門番には相応しくないから益州に下げ渡すと推薦状を書きましょうか」

「た、多分これを機に改善できるだろうから、もうちょっと様子を見てあげようよ……」

 

 黄蓋も黄忠も、空海が絡んだ事案にブチ切れ気味だ。普段大らかな彼女たちを見ている空海は彼女たちの豹変に腰が引けてしまい抑え役にもなれない。

 些細なミスから江陵の、ひいては荊州に実力者二人に睨まれた関の監督役は、マジ泣きするまで一人いびられ続けた。

 

 

 泣いて謝る監督役に名誉挽回の機会を与えるため、空海が使者として厳顔を呼びつける役を言い渡したのが半刻ほど前。

 監督役当人としては「一つでも間違いがあれば殺す」と告げられたも同然の追い打ちであったが、泣きながらも任務を遂行して、吐き気を覚えながらも空海に報告して、部下に後を任せてなんとか無事に部屋に戻ることができた。

 監督役はその日からしばらく起きてこなかった。

 

 関の次席責任者という肩書きの男が、生まれたての子鹿のように震えながら益州の将の来訪を告げる。それを複雑な表情で眺めながら、空海が入室の許可を出す。

 

「……まあ、いいか。二人とも、先制はするな。挑発も避けろ」

『御意』

 

 部屋に招き入れられたのは二人だった。

 始めに目についたのは妖艶とも言えるような容貌の女性だ。出るところが出た、とても艶めかしい体つきと、それを活かすような露出の多い青紫色の服を纏っている。

 勝ち気そうな目と眉と唇、銀に品の良い紫色を混ぜたような色味の緩やかなウェーブのかかった髪。おそらくは武装を解いていることを強くアピールしたいのだろう、表情にもやや媚びるような色合いが見て取れた。

 

「空海元帥様とお見受けします。儂は益州の将、(げん)(がん)。こちらの者は白帝城の警邏担当の屯長で()(えん)と申します」

「……魏延でございます」

 

 入室した二人が空海の前で跪き、先に入った女性が一歩前に出て顔を伏せたまま挨拶をし、厳顔の斜め後ろで、きまりの悪そうな顔をしながら魏延が頭を下げる。

 魏延は黒髪の一部に白くメッシュの入った特徴的な髪をざっくりとショートカットにしており、それだけで性格の一部が垣間見られるような姿だ。出るところが出たという意味では厳顔に似た体型かもしれないが、その身を包む服は黒と白とオレンジの色合いが強い攻撃的な雰囲気のものだった。

 

「俺は空海、よろしくね。こっちの凛々しいのは黄蓋、こっちの可愛いのは黄忠だよ」

「黄公覆じゃ」

「黄漢升ですわ」

 

 州牧が指名する将軍の職にある厳顔、部隊長である屯長の職である魏延に対し、黄忠は州牧に並ぶ高官である勁弓(けいきゅう)将軍、黄蓋の鎮江(ちんごう)将軍に至っては席次で州牧を上回るどころか功績を挙げれば国家閣僚である九卿への就任もあり得るという大臣候補だ。

 最ものんびりしている元帥など、地位が高すぎてもはや災害と変わらない。

 顔を上げていいという空海の発言に従い、厳顔は黄蓋と黄忠に丁寧に礼を向けたあと、どこか媚びるような表情を崩さないまま改めて空海を見上げて問いかけた。

 

「失礼ですが、何故こちらにいらしたのか、益州巴郡の守護を司る者として行啓の目的を伺いたく存じます」

「それはこちらの台詞だ。お嬢さんは巴郡江州県の守備をしていたんじゃなかったか?」

 

 空海の問いかけに対して厳顔は器用にも顔を青ざめさせながら照れたように笑い。

 

「――いえ、儂は元帥殿にお嬢さんと言われるような年ではないと思いますがの」

「ははは。そんなことないって。お嬢さんはまだまだ若いさ」

「ふ、ふふふっ……そうですかの?」「(えー、そうかなぁ……)」

 

 少しばかり血の気が戻って来たらしい厳顔と、かなり否定的な疑問顔の魏延に、空海は一層笑みを深めて頷く。

 

「ちなみに俺が江陵で確かめたところによると『お嬢さん、若い』って言われて喜ぶのは三十代後半からの女性で子持ちの既婚者に多い」

「――ごっはぁッ」

 

 その、あまりの衝撃に、厳顔が白目をむいて倒れた。

 

「桔梗様ぁー!? な、なんてやつだ……油断させておいてからこんな、酷い……っ!」

 

 不気味に痙攣する厳顔を助け起こした魏延が、怯みながらも空海を睨む。空海はそれを見下ろしながら満足げに目を細めて笑い返した。

 

「兵は詭道なり……」

「したり顔で言っても失礼は変わりませんぞ、空海様」

「ちゃんと謝って下さい、空海様!」

「はい、すいません」

 

 空海は素直に頭を下げた。

 

 魏延に支えられながら厳顔がふらつく体をかろうじて起こし、震えながらも空海を強く見据える。それは『この鬼畜外道』という恐怖であり『これ以上つつかれたら泣くぞ』という脅しであり『世の女性全てに弓引く行為』という怒りを込めた視線だった。

 

「はぁっ、はぁっ……わ、儂はまだ、まだっ、三十路を数えたばかりですぞ……!」

 

 ただ、その口から漏れた言葉は泣きそうに震えていた。色々ショックだったので。

 

「へー、やっぱり若いじゃん。ウチだと確か公覆は33、4歳だったよね」

「はあっ!?」「うぇえっ!?」

 

 十代後半からよくて二十代前半にしか見えない黄蓋の容姿を見て、厳顔と魏延が驚きに声を上げる。先ほど空海が口にした世代に近いこともあってか、黄蓋は困ったように笑いながら頷いた。

 

「近頃は年を気にしなくなりましたが、確かにそのくらいですのぉ」

「儂より年上……!?」「さ、33対4……!?」

「あっ、(わたくし)は祭さんより3、4歳年下ですよ」

『ええーっ!?』

 

 補足するように黄忠が告げるが、彼女に至っては十代前半と言っても通じる程に若く、しかし二十代後半と言われてもそのような気がする、むしろ年がわからない美人だった。

 それもこれも空海のパワーを身近で受けて起きた奇跡やら管理者たちから指導を受けて鍛錬した結果だったりするのだが、余り気にする人間がいないため誰も気付かない。

 

「いやいや、1つ2つじゃろう? 紫苑は字を付けるのが遅かったとはいえ、年は儂ともそう離れておらんはずじゃ」

「そうだねぇ。俺も公覆の1つか2つ下だと思うな」

「じゃあそうです!」

 

 じゃあじゃねぇだろと魏延は思ったが、改めて見れば幼さや無邪気さを感じさせていた風貌は優しげな女性のものであるようにも見えるし、表情の豊かさに隠れているが姿勢の良さとそこから感じる落ちつきや錬磨された武は若輩のそれではない。

 厳顔も黄忠を見て、自分を見て、黄蓋を見て、もう一度自分を見つめ直して蹲った。

 益州の二人を気にすることなく、空海は思案顔で言う。

 

「うーん、そういえば年の話をしたのって初めてじゃない?」

「そう言われればそんな気もしますな。儂としては年に頓着しなくなったことには、逆に年を感じてしまうゆえ、妙な気分なんじゃが……」

「うふふ、祭さんは若いですよ? それより(わたくし)は空海様のお年が気になりますっ」

「俺かー。俺は、公覆より13、4歳年上のはず」

『ええええええっ!?』

 

 日頃から子供に間違われることが多い空海は益州組二人の反応を予想しており、しっかり耳をふさいでも居たのだが。

 

「って、公覆と漢升と幼平までそんなに驚かなくても……」

 

 予想を上回る五人の叫び声が響いたせいで若干身を竦ませていた。長江に面した窓から身を乗り出した周泰に目を向ける空海を見て、魏延は思わず立ち上がった。

 

「どっからどう見てもこの中であんたが一番年下だからだよ!」

「こっ、これ焔耶! 黙らんか、阿呆!!」

 

 バキッ。グシャッ。ボキッ。ぎゃぁー

 

「あー、すまんがお嬢さん。猟奇事件を起こすなら別の場所でやってくれないか?」

 

 失礼をぶっちぎっている魏延の態度に慌てた厳顔が激しい折檻を加える。途中、厳顔の着物がはだけたりしたのだが、色っぽさではなく力強さが強調されただけだったので誰も指摘しなかった。

 

 

「――それにしても、空海様がそんなにお年を召してらしたとは存じませんでした」

 

 気を取り直し――この時一番最初に復帰したのが折檻されたはずの魏延だった――場の空気を入れ換えるように黄忠が明るい声で尋ねる。

 

「公覆や漢升に初めて会った時で、もう三十くらいだったからねぇ」

「あれで……いや、よう考えてみるとあの頃から全く老いた様子がありませんな」

「せ、仙人? ですか?」

 

 明らかに慣れていない敬語で尋ねるのは魏延だ。もし本当に仙人かそれに準ずる存在であったとしたら、いやそうでなくとも、是非、若さを保つ秘訣を教えて貰いたい。周囲の人間の若さを保つ方法でもいい。むしろ秘術とか教えてくれなくてもいいから若いままにしてくれないかなーなどとぶしつけなことを考えていたのだが、そんなことは()()に睨まれた瞬間に忘れた。

 

「俺が仙人ってことはないと思うけど……ああ、でも左慈や于吉は仙人の仲間だった気がするし、貂蝉や卑弥呼もなんか気を色々扱えるって言ってたな」

「そ、そんな、あの方たちが……仙人を従えるなんて流石は空海様です!」

「うむうむ」

 

 そういうことじゃないだろうがと厳顔は思った。

 最初から左慈たちを超常の存在だと認識している江陵組の意識とは、隔たりがある。

 

 

 厳顔たちが落ちついてきたと見た空海は、部屋に控えていた兵たちを下げる。

 厳顔が本題から逃げるのは話しづらい事情を抱えているためだろうと考えたからだ。他にもいくつか狙いはあったが、それらは内心に留めたまま。

 

「まぁ話を戻すと、俺らは南郡の治安維持と視察のために来てるんだよ」

「空海元帥様ともあろうお方がそのような目的のために御自ら、というのは流石に……」

 

 瞬間、絶大な威圧が厳顔たちを襲った。

 

「――――口が過ぎるぞ、小役人風情がッ」

「空海様に先に告げさせておいて――それを疑うのですか?」

「ひぃ」

 

 魏延の口から情けない声が漏れる。厳顔も思わず身構えそうになり、益州という特大の鎖に縛り上げられていることを思いだし、その顔から血の気が失せた。

 

 ――対応を誤った……!

 

 厳顔は自らの失言を悔やむ。少なくとも今この瞬間まで敵対的ではなかったはずの彼らが怒りを顕わにしたのは、厳顔の迂闊な一言があったせいだ。聞き出すにしても、もっと上手いやり方があったはずだろうと。

 しかし、いきなり斬られない程度には許されうる失態だったらしい。厳顔は挽回のため必死に打開策を模索する。

 もしここで本当に敵対してしまったら少なくとも益州上層部は終わりだ。劉表や空海の手で彼らに近しい役人が送り込まれ上層部は入れ替えられることになるだろう。圧倒的な戦力差を考えれば、抵抗すればしただけ手酷く蹂躙されることも想像に難くない。

 そうして生まれ変わった新しい益州には、厳顔や魏延の名前はないに違いなく――だから厳顔は、ここで許しを請うしかない。気付いた瞬間には頭を下げていた。

 

「も、申し訳ありませんでした! 今少し詳しい話をお聞かせ願えればと考えた次第で、そのっ、言葉が過ぎましたこと、深く謝罪いたします!」

「二人とも、あんまり怒らなくていいからね? ホントに。うん」

 

 威圧にビビっていたのは厳顔と魏延だけではなかった。

 

「よ、よし。えーと、それで?」

「はっ……、は?」

 

 次の瞬間、備え付けの机の天板に黄蓋の()()()()()()()()

 

「空海様はお主らの目的が何であるかと尋ねておられるんじゃ!

 何故その程度のことを察しない? 察せないのか? 察したくないのか! 察する頭もないのか! 空海様の御下問に答えられぬのなら、そのまま荷物を纏めて交州(ど田舎)にでも行けと言われても仕方ないわ!」

「わっ、儂らは巴郡の見回りの一環でここに来ておるのですっ! 諷陵(ふうりょう)とこの地と江州を回り番の拠点に据えて詰めておりましてっ」

 

 天板から再び、今度はやけに硬質なコツンという音が響く。

 

「――目と鼻の先に江陵があるのですが、そんな話は聞き及んでいませんね」

 

 黄忠が低い声で問う。その態度と口調は、何を勝手なことをしているのか、と糾弾するようなものであり、もう厳顔と空海は今すぐ逃げ出したくなった。

 

「此度のっ、此度の駐屯がまだ二度目なのです! 治安の維持に効果があれば劉益州様に裁可を戴き継続するつもりでございました故……っ」

「お、おお。本拠を守るために本拠を離れるとは、なかなか柔軟だね。うんうん」

 

 空海は目の前で怯える厳顔たちを江陵組から助けてあげるつもりで優しく声をかけた。

 それが悪手であると気付かずに。

 

「――その、お許しいただけるのですか……?」

「また疑問を投げた! 何故頭を使わない? 何故そんなに軽々しく口を開くのか、小役人! ここが江陵なら御前の役など即解任じゃわ! お主には何のために口がついているのかと言われても、誰も同情せぬわ!」

「ひぃ!」

 

 魏延はもう江陵だけには仕官しないと心に誓った。隣で震える厳顔も似たようなものである。今日は人生で一番きつくなじられた日と言って良かった。

 厳顔が再び口にしようとした謝罪を、怒る二人に怯えていたはずの空海が遮った。

 

「――ねえ、厳顔。お前、荊州に来てその力を役立てない? そしたら無礼も許すけど」

 

 黄蓋と黄忠が空海に目を向ける。生かしておくだけでも不快な無礼者を荊州に招くとは何を考えているのかと詰め寄ろうとし、空海の手がそれを制した。

 

「き、桔梗様……」

 

 魏延は、絶対に断ってくれという懇願の視線を厳顔にぶつける。

 短い沈黙の後、顔をこわばらせた厳顔は深く頭を垂れた。

 

「益州には主のため戦い抜く将はおりましても、主を置いて他になびくような将はおりませぬ。……無礼の儀、謝罪で足りぬのであればこの首を斬って戴いて結構です」

「ほぉ」「あら」

 

 黄蓋と黄忠は感心したように息を漏らす。空海も笑みを浮かべて身を乗り出した。

 

「これはふられちゃったなー」

 

 楽しげな空海の様子に、黄蓋と黄忠も笑みを浮かべて側に近寄る。

 

「ご安心くだされ。このような者に頼らずとも儂らがこれまで以上に支えますでの」

「そうです。もっと(わたくし)たちを頼って下さい、空海様! ここで断ったことを後悔させるくらい良い街に致しましょう」

 

 どうやら二人は厳顔を許したらしい、と判断した空海は更に笑みを深めた。

 

「ふふ、そうだね。それじゃ今後に期待しようかな。……厳顔、お前のおかげで二人から一層の忠誠を得られた。礼を言わない代わりに、無礼は許そう」

「――はっ」

 

 言葉とは裏腹に目で礼を伝える空海は、やはり背伸びした子供にしか見えなかった。

 




 今回は会談風味でしたね。無駄に長かった。削ろうかとも思ったのですが、続きがまだ書けてないので代わりの文章がなかったという。今のところ7章は4話の予定でいます。

>オッパイお化け
 怪奇『喋るオッパイ』。胸ではなく、オッパイです。

>限界ギリギリ謀略、後漢で一番ひでぇ策士<ヤツ>
 鳳統すこし 賈駆かなり 孔明わりと 周瑜すごく 程昱ひどい 空海こども
 空海「オラなんだかすげぇガクブルしてきたぞ!」ジョバー

>みんなー。乗り込めー
 おー^^ 端的に言えば後方遮断の戦法です。

>33対4
 アカン

>何故そこでインコースのストレートを使わない? 使えないのか? 使いたく(以下略)
 椎野四段活用。毒舌実況なので検索には注意。
 江陵の方言で「大きな声でハキハキと返事をしましょう」の意味。

>空海もビビる
 クワガタの威嚇を思い出して下さい。あいつら人間様をどうこうできるわけがないのに何故あんなに果敢に威嚇してくるのでしょうか? 腹立たしいのですが、怖かったです。

>厳顔は将軍
 『華陽国志』では「巴郡太守の趙筰の元で将軍を務めていた」と書かれており、一方で『蜀志』張飛伝では「巴郡太守の厳顔」とされています。Wikipediaでは後者を元に記述しているようですが、『華陽国志』では正しくは前者であるとされています。
 それなりに活躍もしているのですが、歴史書でも字が伝わらない程度の記述しかありません。しかし、張飛に対して言い放った「誰が降伏するかボケ」と「斬るなら斬れ」という言葉が正史として伝わり、後世でも著名人に引用されるなどして広まった結果、創作でも比較的扱いの良い有名武将として現代に伝わっています。
 ちなみに魏延の方は蜀で大活躍してるので、字までしっかり伝わっていたり。


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7-3 徐州決戦

「弩兵隊! 敵陣中央に向けて撃ち続けよ!」

 

 夏候淵の大声が塀の上に響く。そもそも弩の射程は短く、矢は軽く、連射が効かず、火矢などは使えず、新兵が中心であるために狙いも甘い。だが、老練な兵の10倍を超える数というのは、それだけで大きな力になる。

 

「弓隊! 敵中央前部に向けて斉射! 続けて火矢を打ち込め!」

 

 数の力を前面に押し出す弩兵に対して、弓兵は練度が力になる兵科だ。弩に比して矢が長くて重く、連射は早く、射程も長く、火矢などの特殊な攻撃にも用いる事ができ、兵の練度が求められる代わりにその狙いは正確で極めて高い攻撃力を持つ。

 

 それでも。

 20万に迫る袁紹軍は、揺らがない。

 

「おーっほっほっほっほっほっ! 雄々しく! 華麗に! 前! 進! ですわ!!」

 

 袁紹軍は屍の山を築きながらも刻一刻と門に近づいていた。城壁に取り付く兵士の数は増える一方であり、破城槌が城門に辿り着く頻度も増している。

 曹操軍の、後先を考えていないかのような全力の応戦によって防がれてはいるが、門が開かれるのも時間の問題であるかのように思われた。

 

 

「アレで一番嫌な攻め方をしている自覚があるのかしらね、あの()()は」

 

 曹操は皮肉っぽい笑みを浮かべ、今も高笑いをしているだろう袁紹の姿を脳裏に描いて小さく鼻を鳴らす。

 堅牢な城を前に、挟撃策を知ってなお、停止でも後退でもなくほぼ全力での前進を選ぶ無謀。知謀ではなく、直感でもなく、ただの運にそれを賭けてしまう『強み』。

 袁紹の選択は一番嫌な対応ではなく、一番嫌な攻め方。その差は重要ではあるものの、対処が楽ではないという一点で似通っていた。

 

 ――このままでは誤魔化しが効かない。

 

「(下がれず、守れず……。ならば、押し返すしかない)――愛紗!」

「はっ!」

 

 曹操は傍らで兵に指示を出していた関羽を呼ぶ。贅沢を言うならば味方増援が到着してから投入したかった歩兵戦力だが、出し惜しみをしておける戦況ではなくなっている。

 

「兵五千を預ける。門から百歩(115メートル)押し返した後、整然と後退しなさい」

「――承知しました。我が武をご覧に入れましょう」

 

 関羽がきびすを返し、数名の副官を呼ぶ。

 

 そして、()()の城門が、内側へと開かれた。

 

「あら、ようやく門が開きましたわね。皆さんっ、押し込んでしまいなさい!」

()()おおぉぉおッ!!』

 

 数万の兵を擁する本陣が、海鳴りを思わせる巨大な足音と共に動き出す。

 

「よっしゃー! 久々の出番だー!」

「文ちゃん待って! みんなを置いて行ってるから! 待ってーっ!」

 

 兵士を置き去りにするように走り出した文醜の背に、矢を払いながら進む顔良が必死に声をかける。しかし文醜はその呼びかけに答えることなく不敵に笑いながら斬山剣(ざんざんけん)を振りかぶり、勢いよく地面に叩き付けて無意味に土煙を巻き上げた。

 

「斗詩は黙ってあたいについてこい!」

 

 土煙を背景に、文醜はキメ顔で告げ――返事を聞かずにそのまま顔良から顔を背けて、城門に向かって走り出した。

 

「文ちゃん、それこの前考えてた決め台詞じゃあ、って、ああっ! 待ってってばー!」

 

 

「袁紹軍が突っ込んできます! 先頭に敵将文醜! 後ろにいるのは敵将顔良です!」

「その意気や良し。――曹操軍客将関雲長、推して参る!! 我に続け!!」

『おおおおぉぉぉおおっ!!』

 

 

「文ちゃん、関羽さんは私たち二人で!」

 

 顔良が鋭く叫ぶ。文醜はその声に応えて素早く関羽の横に回り込み、なんとなく顔良の言葉をもう一度反芻して、その言葉が持つ重大な意味に気がつき目を見開いた。

 

 ――もしやこれが世に言う結婚では?

 

 結婚に対して特に憧れがあったわけではない文醜。しかし、そのうち顔良と結婚するのだろうなと極めて軽く考えていた彼女の脳裏に浮かんだのは、空海から袁紹に宛てられた手紙、その一文。袁紹が『空海はこんな式を挙げたいのだ』と(勝手に)解釈したもの。

 それは、夫婦となる二人が一つの物体を切り分けて婚姻の意志を周囲に示す謎の儀式。

 

「ハッ! 『二人()の初()めて()()共同()作業()です()』ってヤツか!? 流石あたいの斗詩!」

「違っ!? ――ああもうっ、それでいいから早く戦ってー!!」

 

 顔良は慌てて否定の言葉を発しかけ、既に『文醜の嫁』と周囲に評価されているせいで今さら勘違いがこじれても状況は何ら変わらないことに気付いて涙ながらに肯定した。

 

「よっしゃあぁっ! これで勝つる!」

 

 そうと決まればなんとしても関羽を切り分けねばならない。文醜は天元突破したやる気を武器に、関羽を十七分割するべく飛びかかった。

 

 

 

「押し返しています! 味方が押し込んでる!! やった!」

 

 城壁の下を覗き込ませた兵が、歓喜の声を上げる。そこから伝わった興奮が兵士たちをどよめかせ、城壁の上から落ち着きを奪っていく。

 金色の鎧を纏った集団が、高く昇った太陽の光を浴びて目が痛くなるような輝きを放ちながら下邳の城門前でうごめいていた。

 

「まだ勝ち鬨には早いぞ! 味方を助けろ!!」

 

 緊張から汗を滲ませていた夏候淵は僅かに口の端を持ち上げて、しかし気持ちを新たに慌ただしく副官たちに指示を飛ばし始める。

 

「弓隊! 門前の敵の奥に向けて火矢を打ち込め! 続けて味方歩兵を援護!」

 

 金色の集団――袁紹軍は城門前の狭い上り坂で自然と陣形を崩して密集している。盾を取り回すこともできないその密集地に火矢を打ち込めば。

 夏候淵が見本に放った矢の軌道を追うように、数百の火矢が兵の頭上に降り注ぐ。

 結果は想像以上のものだった。

 

『ぎゃあああぁぁああ!!』

 

 何百もの金の輝きが無秩序に逃げ回り――夏候淵は彼らを更なる地獄へと叩き込む。

 

「弩兵隊! 火矢を目印に斉射! その後は堀に落ちた者を狙い続けろ!」

 

 火から逃れるため道を踏み外し、次々に堀へと落ちていく袁紹軍の兵たち。追い打ちに直上から降り注ぐ弩の矢は、鎧を易々と貫通して屍の山を築いていく。

 怒号が響き、悲鳴が上がる。

 だがそんな絶望の音すら、曹操兵のさらなる歓声が上書きした。

 

「遠方に砂塵!! 味方だッ! 増援が来た!!」

 

 城壁が熱狂に包まれ、その熱狂に押されるように城門前の味方がさらに前に進む。

 

「フッ、さすが姉者だ……。皆、あと一息だ!! 味方の前進を助けるぞッ!!」

応ッ(おおおおっ)!』

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「たっだいまー。白帝城はデカかったわー。はい、これお土産」

 

 丸めた手書きの白帝城見取り図を周瑜に押しつけながら、空海が椅子に腰掛ける。

 

「お帰りなさいませ。厳顔とお会いになったそうですな」

 

 迎えた周瑜は笑顔で帰還を喜び、すぐに真剣な表情で白帝城での一件を尋ねた。

 周瑜の率直な物言いに空海は頷き、率直な物言いで返す。

 

「うん、あれはなかなかだね。単純な武力なら漢升から逃れられる実力かも。実直だけど分をわきまえてるし、必要なら媚びられるけど一線は引かない印象だった。公覆と漢升の良いところをちょっとずつ混ぜたような感じの将だったよ」

「ほぉ。それほどの人材が益州に残っているとは少々……意外、と言うべきでしょうか」

 

 高い実力者だという話は知っていた周瑜も、人づての情報ではわからなかった、強者と比較した印象を聞いて認識を改める。

 

「ただ、最後には『益州のために死ぬ』って言ってたけど、上司にはあまり期待してないように見えた。部下の方には期待してたみたいだけど、そっちも空回りしてたかな」

 

 空海は、自身が見て感じた厳顔の駐留の意図や上層部との距離感、部下への対応などを一つひとつ周瑜に説明していく。

 

「……なるほど。()()()()ですか。少々惜しい気もしますが」

 

 空海が見たもの、掴んだ情報、受けた印象を、周瑜が一言で纏める。

 益州の隙とそれを利用する策の中で、厳顔の立ち位置は火種か火に注ぐ油だ。益州内で不和を誘発するようなものから荊州やその他の諸侯の目を惹く策まで、候補は無数に存在する。益州から江陵に引っ張り込んで使うことすらできるだろう。

 故に、彼女を益州で使い捨てることに若干の未練を感じる周瑜だったが、それは空海も同じであったらしい。

 

「あはは、そう思って()()に誘ったんだけど、ふられちゃったよ」

「それはなんとも――見る目が無い」

 

 あっけらかんと笑う空海に釣られるように、周瑜はニヒルな笑いを浮かべる。

 

「ああ、あと年を気にしてたねぇ」

「年……?」

 

 一転して可愛らしく小首をかしげた周瑜の見た目は、江陵組の例に漏れず十代のような若々しさだった。

 

 

「――そういえば、劉景升が動いたって?」

 

 空海の問いに周瑜が頷く。

 

「北方の決着が早まったせいで劉将軍は焦ったようですな。翠を涼州牧に推挙し、併せて京兆尹(けいちょういん)へ自身の臣下を推挙しました」

 

 臣下と言っても、劉家からではなく外戚の蔡家から出ているところに、劉表の現状を垣間見ることができる人事だった。

 

「先の飢饉における不祥事によって人が入れ替わったばかりでしたので今回は見送られることになりましたが、代案が出ればすぐにでもまた推挙が行われるのではないかと」

「そうか……。じゃあ、そのうち孟起から要領を得ない手紙が来るね」

「間違いありませんな」

 

 周瑜がくっくと笑い声を上げる。なんだかんだとよく巻き込まれて慌てる馬超に対する親愛と、成功しても一時の足しにしかならない策にまで失敗する劉表に対するいくらかの嘲りを込めて。

 

「馬家は先代の征西将軍就任以来、長らく長安に留まっています。涼州牧への推挙は翠を長安から追い出すための目くらまし、本命の人事は京兆尹――長安の支配でしょう」

「中央を支配して、いよいよ譲位を迫るつもりかな。それとも、京兆尹を押さえて()()の権限を削ぎたいのか……」

 

 元帥の絶大な権限のうち、貨幣の発行に関する権限は京兆尹のそれを削って移管されたものだ。正確には京兆尹の上司にあたる大司農卿の権限を元帥に移し、京兆尹に委託されていた貨幣製造の業務を江陵が奪った。

 京兆尹を抑えただけでは元帥の権限に影響などないが、その復権を声高に叫ぶようなら政治的な決着が必要になるだろう。

 

「この期に及んで内輪で揉めるほど愚かではない、と信じたいところではあります」

 

 まるで期待していないといった表情で周瑜が告げる。どちらに転んでも江陵の損になるようなことにはさせないが、愚かな味方ほど面倒なものもないのだ。

 

「なら、中央を縦に分断して曹孟徳を、じゃなかった、曹操対袁紹の勝者を北東部に押し込める気なのかな」

 

 まだ勝敗のついてない戦いの決着後を口にしてしまい、空海は「失敗した」と舌を見せておどける。

 

「クスッ――『曹操』で良いでしょう。彼女が勝ち取ったばかりで安定していないだろう北部から順に奪う気なのかもしれません」

 

 空海を庇うように、しかし自身を静かに戒めるように、周瑜は徐州戦の結果とその後の予想を告げた。

 北東部を支配して後背を固めた曹操が洛陽の支配権を狙う前に、西と南の背後を馬家と空海に任せた劉表が洛陽を足がかりにして北東部を奪い合う、という予測。

 

「ただ、いずれにしても馬家を西に追いやるのは上策とは言えませんな。馬家の動きを無駄に勘ぐっているのではないかと」

 

 曹操が袁紹を下したとすれば、その後は西の洛陽と、南西の荊州劉表と、南東の揚州に攻略先を求めるしかない。価値と兵力のバランスを考えれば、洛陽こそが最も狙い目であることも想像に難くない。

 その洛陽を狙え、支援できる土地こそ――京兆尹、長安。

 長らく馬家が本拠を置く、そして馬家を強大な諸侯たらしめている土地だ。

 もちろん馬超がそんなことに気が付いているはずはない。

 

「馬家を勢力外と見なしてるとか? あれ、じゃあ呂布と華雄はどう扱われてるんだ?」

 

 10年を超える付き合いのある馬家を勢力外と考えているとすれば、最近取り込まれたばかりの猛将の扱いは碌な物ではないのではないかと、空海は若干嫌な予感を抱く。

 

「呂布は先日荊州に逃げ込んできた劉備と公孫賛の牽制に付けているようですな。華雄は揚州への抑えとして江夏に駐留する宿将、黄祖の配下に加えられたとか。おそらく劉備が来なければ呂布を加えて揚州へ侵攻するつもりだったのでしょう」

「ふーん……。これも曹孟徳の策かな? 状況の変化に柔軟に対応できないのは劉景升の欠点だね。だとしても将の扱いを間違えてる気がするんだが……」

 

 思ったよりもまともな扱いだったことに安堵する気持ちが半分、せっかく譲った猛将があまり活かされていないことに対する不満が半分。

 空海が具体的な行動を考え始めるその前に、周瑜が断固とした口調で進言する。

 

「いま人事に口出しをすれば敵と見なされる可能性があります。ご辛抱下さい」

「そう? ならしょうがないなー」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 関羽は、厳しい戦いの中に突如湧き上がった好機にも冷静に対応していた。

 

 関羽は城門に迫った文醜――何故か冷静さを欠いていた――と顔良を難なく退けた後、味方の援護に合わせてゆっくりと、力強く前進を重ね、目標の百歩(115メートル)まで残り半分を切るまで前進。時を同じくして、視界の外で戦況が動いたことを知覚する。

 城壁から上がった歓声と馬上という高さ、敵陣に漂う空気などから、半ば確信を持って援軍の到来を予感し、そしてそれは伝令によって肯定された。

 浮かれそうになる気持ちを引き締め、状況を察しつつある兵たちに向けて関羽は厳しい表情で指示を投げる。

 

「前に飛び出すと味方から矢が飛んでくるぞ! 逃げる者は追わず、歩調を合わせて前に進め! もうすぐ増援が来る! 反撃の力はそれまで残しておけ!!」

 

 増援と言っても正面の味方のことではない。自らの後方、下邳城にいる曹操から追加の兵と追撃の指示が来ることを疑わない判断。

 前線での数の不利は全く覆っていない。十を倒すために五を失っていては先に力を失うのは自分たちだと、関羽は正しく認識している。

 だからこそ、この好機に曹操が出し惜しみをしないだろうことも。

 

「敵は浮き足立っている! 押し返せ! 押し返せ!!」

 

 関羽の声を聞いた兵たちが、さらに一歩前に進む。

 文醜と顔良という二大看板をあっという間に蹴散らされ、本隊からの支援も唐突に足が鈍り、さらには曹操軍の士気が大きく高まった今、袁紹軍が前線を支え続けられるはずはなかった。

 

 

 

「見えた!! ――ご無事だッ! 味方は健在だぞ!!」

『おおおおおぉぉぉぉおお!!』

 

 夏侯惇隊は豫州北東部から徐州北部に侵入して郯を急襲、これを陥落させた後、物資を持てるだけ持って残りを焼き払い、翌日の夕方には郯城の南西120里(約50㎞)にある下邳郡良成県の城を強襲して奪取した。

 さらに翌朝から道中の敵を蹴散らしながら早足で下邳城に接近し、昼時が近付く頃には下邳城とそこに群がる袁紹軍の巨大な背中を視界に捕らえていた。

 

「本隊は前へ出る! 季衣も右翼を率いて前へ!」

「わかりました! 春蘭様も頑張ってくださいっ!」

「応ッ! 後曲は援護っ、左翼は密集陣形! 盾を構えて敵を沂水にたたき落とせ!!」

 

 夏侯惇たちは駆け足の勢いをさらに増しながら反時計回りに袁紹軍へと接近し、僅かな防御しか敷かれていないその後背に食いついた。

 

 

 

 指揮を執りながら後退を重ねていた文醜が焦ったように声を上げる。

 

「姫ー! なんかヤバいっすよー!」

()()()さんが来ましたのね」

 

 右後方から夏侯惇に、前方やや左よりから関羽に攻められている袁紹軍は、しかし未だ軍の体裁を保っていた。

 

「報告! 下邳の城門が開いています!」

 

 数刻(1時間強)前と同じ報告。だが、その言葉の持つ意味は真逆だった。

 

「袁紹様っ、これ以上は兵の士気が持ちません! なんとか――兵の少ない左翼後方からなら退却できると思いますから、ここは退きましょうっ!」

 

 顔良が必死の形相で袁紹に訴えかける。狭いせいで数の有利を活かせなかった下邳城の前の一本道。しかし、今はその地形のおかげで相手の勢いを削ぐことができていた。

 兵数の有利をそのまま肉の壁にすることで。

 

(わたくし)に逃げろと言うの!?」

「あー、姫。無理そうっていうかー、関羽とかメチャクチャ強いっすよ。斗詩とあたいの二人がかりでも逃げるのがやっとっすから、ちょぉーっとヤバそうっていうかー」

 

 文醜には珍しい弱気に、袁紹が怯む。その隙に畳みかけるようにして、顔良が珍しいほどの勢いで説得の言葉を並べていく。

 

「青州に残した10万を呼び、軍を立て直しましょう。逃げるのではなく悠然と後退して青州に戻るんです! 最後に勝てば私たちの勝利ですっ。お願いします、袁紹様!」

「くっ……やってくれましたわね、華琳さん……! 青州まで戻りますわよ!」

 

 袁紹軍本隊、未だ健在の10万を超える兵士が、ゆっくりと後退を始める。

 

 

 

 

「――いよいよ我々の出番ですよ」

『おー!』

 

「華琳様に勝利をもたらすのよ!」

「はっ!」「超過労働反対ー!」「なのー!」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「みんな聞いて、緊急よ。下邳で負けた袁紹が青州へ向けて後退したんだけど――」

 





>披露宴用関羽の十七分割
 文醜「ケーキ入刀に処す」 やだ……かっこいい……。
 空海から仕入れた知識の無駄遣い。ちなみに、空海は現代レベルの材料が揃わなければケーキを作れません。バターはギリギリ作れますが、生クリームはわからないという。

>十代のような若々しさ
 若返り・不老長寿と死者蘇生とかめはめ波の実現は人類共通の夢ですよね。そんなわけで奇跡の代名詞として強調しています。それほど深い意味はないはず。
 こう繰り返しているとなんか自分が若いキャラが好きみたいに錯覚してくるんですが、私は美羽が好きなのであって若いキャラだから良いとかそんなことはありません。むしろアニメ版の作画では熟女キャラの何進と水鏡と厳顔が特に好(ボグシャァ

>京兆尹
 ここで貨幣製造が統括されていたのは董卓銭の頃のお話です。権限があったというのは捏造設定になります。ただ、配合の秘密は京兆尹が握っていたとか居なかったとか言われることもあるようなので、そういった説を絡めた設定ですね。
 土地としては東京に対する京都のような存在で、とても重要な土地でした。


 それでは次回、覚醒曹操にご注意を。


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7-4 覇王vs

「「「みんなーっ! 曹操様を助けてーッ!!」」」

 

『『『  中!  黄!  太!  乙!  』』』

 

 

 

 

「――馬鹿なッ!?」

「あわわ!? せっ、青州で黄巾の一斉蜂起!?」

「あははははっ、すっげぇー、そう来るかよ」

「なんと……徐州と青州の境に追い込んで二重の挟撃とはー……」

 

 江陵幹部は皆、驚きの余り目を見開き、口を閉じることもできずにいる。

 周瑜たち江陵幹部が驚き固まることしかできないということ、それだけで大事件だ。

 

「それだけじゃないわ。この情報は冀州から司隸を通って荊州へ入ったんだけど――」

 

 冀州は漢北東部の幽州から一つ南、袁紹の本拠地である渤海を有する州だ。司隸はその南西の州で、東側に首都洛陽、西側に京兆尹長安を持つ。荊州は司隸のさらに南側にある南北にやや長い州で、北側から順に南陽、襄陽、江陵、漢寿といった大都市を有する。

 

「少なくとも冀州の中では、知らせが届くのに併せるようにして黄巾が立ち上がったり、曹操軍の兵士が街に雪崩れ込んで来たりしていたそうよ」

「はわわっ、一斉侵攻まで!? どっ、どうやってそこまで、……!!」

 

 

 曹操が朝廷に、河北四州三十五郡に及ぶ袁紹領内で反乱が起こっている、と訴え出た。

 この知らせはすぐに空海の元へも届いた。ただ、事実の確認ができていない曹操からの訴えでしかないため、『反乱』ではなく『反乱の告発』であることをしっかりと幹部へも伝えて翌日の招集を指示し――。

 やや早めに集まった他の幹部に続いて飛び込んで来た情報官(賈駆)が、開口一番に告げたのが青州で発生した20万もの黄巾賊の蜂起だった。

 

「みんな注目ー。元々、今日集めて知らせるつもりだったことがあるんだ。――配れ」

 

 空海の指示に従い、女中の手から軍師たちに名簿が配られる。

 

「冀州を始め河北四州の主要な役人が政務を執り行えなくなった、という名目で、曹操によって代わりの者が勝手に、大量に任命された。一応は天子に報告されているため、朝敵に指名されるとしてもしばらく討議の時間を取ってのことになりそうだが」

 

 数百人に及ぶ人材一覧に、軍師たちの目が再び驚愕に見開かれた。

 

「これは潁川の……。なんてヤツ……追い詰められた中でこんなことまでやってたの?」

 

 豫州の名家と名士から使える人材を全て集めましたと言わんばかりの名簿に素早く目を通しながら、賈駆が思わずといった様子で声を漏らす。

 決戦に至るまでの経緯とその対応策を思い返して、程昱と鳳統も冷や汗を流した。

 

「勝ちを決めるため必要に迫られて後退して決戦を遅らせたように見せ掛け、決戦すらも囮にして本命は決着だったとー……黄巾を使ったのも決別の意志の表れでしょうかー」

「戦力で上回る相手を戦術で追い詰めるだけでなく、自らの窮地すらも逆転の戦略に組み込み、あの逆境から勝利と独立の道を見つけ出したなんて……恐るべき戦略眼でしゅ」

 

 一つひとつは自分たちでも出来る。それは間違いない。だが、受け身の決戦を強いられながら、それを逆転までの一つの流れに組み込む戦略眼は、恐るべき高みを感じさせる。

 

「兵を豫州北部に集めて決戦のために必要な分だけを引き抜き、遅れて集まった兵たちも北方の制圧に回すか……。確かに無駄がないな。予想を上回ったせいで早さにばかり目が向いていたが、なるほど、兵を余らせておく道理もない」

 

 腕を組んだまま目を閉じた周瑜が、一つひとつ確認するように呟く。

 袁紹を閉じ込めた状態で混乱を引き起こし、曹操陣営の人間が実権を奪っていくだけの単純な策。

 言葉にすれば簡単なものだ。しかし、河北全土を一気に狙う規模と、袁紹という旗印を戦場に閉じ込める手法と、支配が安定する間を待たなかった袁紹の拙攻を利用したおかげで、曹操は河北全土に渡って袁紹勢力の身動きを封じることに成功している。

 さらに混乱を治めるだけの軍事力を用意していなかった、否、用意できなかった劉表も併せて動きを封じられており、曹操の勝利と独立は既に決まったも同然だった。

 

「寒気のする神算鬼謀ですな。黄巾を取り込むだろうという予想はありましたが、それをここまで……青州の情勢不安定をこのような形で利用するとは……」

「しかし、曹操さんの独力にしては手が広すぎますし早すぎますねー。どのような意図が隠されているのか不明ですが、劉表さんの足下でも妙な騒ぎになっていますしー」

 

 袁紹に対峙するため領土南部から東へ急行した曹操では、これだけの仕掛けを実行することは難しい。知恵を持つ者もそれを具体案にする者もいる曹操陣営だが、実行するのが郭嘉と荀彧と楽進たち3人だけでは手が足りなかったはずだと程昱が指摘する。

 さらに、劉表の膝元である襄陽や南陽で受け入れた難民の間で袁紹への敵対的な言動や空海がこぼした『人事案』が囁かれており、劉表の出兵にブレーキを掛けてもいる。

 これらの動きも、曹操の働きかけによるものだろうと程昱は言っているのだ。

 

「そもそも兵の大半が黄巾を巻いただけの現地民っていうのは、タチが悪すぎて袁紹じゃ防げないわね。人事は内容を見る限り男嫌いの()()が考えたみたいだけど、選定も派遣も迅速すぎる……たぶん袁紹が青州へ侵攻した時点で国境を越えていたのね」

「あわわ、兵を動かせば目につくため、民を動かせる人を移動させたのだと思いましゅ」

「ドキッ☆女の子だらけの人事案なー。それに国境をすり抜けて煽動ってやり方は――」

 

 現在、皇帝を含めた諸侯のうちで全土に手を伸ばしている勢力は、本当の意味で勢力が根を張っている漢帝国と、全土に根付きながら組織的な実態を隠した江陵陣営の2つだけだ。国家の形に合わせて勢力を拡大しつつある劉表陣営は、全土に手を回すほどに広くはないが、実力的に皇帝に次ぐ勢力である。

 では江陵の実態というのは、どういうものなのか。

 

「やっぱり()()の商人が利用されたのかね」

「残念ですが」「それしか考えられないわ」「間違いないでしょうー」「仰る通りかと」

 

 軍師たちに肯定された空海は目を細める。手塩を書けて作り上げたシステムを断りなく利用されたことへの僅かな危機感と、多少の嫌悪感と、若干の面白さを笑顔に載せて。

 

「道理で知らせが遅れるわけだ。勢力圏内に協力者を潜り込ませる策も()()の模倣か」

「潜在的な協力者候補をも削られました。河北の調略方針は転換するべきですな」

「あと人事に口出ししたら駄目って言うから黙ってたのに何で俺が言ったみたいなことになってんの? 時間稼ぎに煽っただけか、本当につぶし合って欲しいのか……嫌な奴だ」

 

 そう言いながらも空海は笑う。

 立案し実行するだけでも大変だったろう、空海に気付かれずに江陵商人を利用する策を本当に実行し、保身のために必要なことではあったのだろうが、他の策で江陵に牽制までしてみせる曹操たちへの賞賛を織り交ぜた笑み。

 

 江陵の勢力は江陵に属するものではない。江陵商人という端末を使って経済という血を動かし、江陵商人たちや江陵を通る血脈から流れを阻害しない程度に少しずつ金や情報という栄養を吸い上げていく、臓器や細胞のような存在だ。

 それを最も上手く活かして最も上手く扱えるのは江陵という脳であり心臓だ。しかし、活かしきれないとはいえ、他者にそれが利用できないわけではない。広義には客ですらも江陵の商人を使って利を得ている細胞なのだから。

 

 曹操による江陵商人の扱いが度を超したものであったとして、そこに忌避感や危機感を抱いたとして、しかし拒絶感はない。それが勢力における特徴でもあったから。

 ただ一人、顔面を蒼白にし、手が白くなるほどに強く拳を握る彼女を除いて。

 

「――誠に、申し訳、ありません……グスッ……油断じで、いまじた……っ」

 

 慚愧(ざんき)に堪えないと言った様子で孔明が深々と頭を下げる。

 江陵の商人に横の繋がりを提供していたのは孔明だ。基礎になったシステムこそ空海と水鏡が管理者の協力の下に構築したものだったが、孔明が組織のまとめ役となってからの数度にわたる大規模な組織改革で、当初の体制は僅かな名残を残すのみとなっていた。

 

 孔明にとっては、商人や客に信頼を置きすぎたせいで出し抜かれたようなものだった。

 指摘されれば当然警戒すべき場所であったと理解できたし、江陵に不利にならない形で弱点が露呈したことも、転じて利益に出来るだけの頭脳と理性は持っている。

 だが、それでも。これまで人の悪意を信じられなかった彼女にしてみれば、人の善意を信じすぎた少女にとってみれば、それは脳を直接殴られたような衝撃だった。

 初めて感じる息苦しさと胸の痛みと不快感に、耐えきれず涙がこぼれる。

 思わず腰を上げかけた鳳統に掌を向けて抑え、空海は俯く孔明の隣に立ち、小さな頭を強く撫でつけた。

 

「――大丈夫だよ、朱里」

「ッ、でっ、でも!」

「お前が頑張ってることは俺が覚えてる。お前が凄いことはここに居る皆が知ってる」

 

 空海の言葉に皆が頷く。実際に凄いのだから誰もが自然と同意していた。

 

「だから、大丈夫!」

 

 孔明に信頼を抱く空海だから、それを言葉にして、力強く断言する。

 

「……っ、はい。……はいっ!」

 

 空海の言葉は孔明の心の内を理解してのものではないだろう。今回明らかになった問題についてどうやって解消するかの道筋すらつけていないのかもしれない。

 けれど、その言葉は救いだった。空海が江陵を作ったように、江陵がこれまでそうしてきたように、孔明が大好きな江陵のようにこの世の中を作り替えればいいだけなのだと、家族同然に思っている空海に肯定されたように思えた。

 だから孔明は、生まれて初めて空海を異性として強く意識し――今日だけは別々のお風呂で、自分の手で髪の毛を洗えるはずだと、長年の習慣を我慢する決意を固めた。

 

「なに。江陵の商人なら諾々と従うだけで済ますはずはあるまい。曹操自身も、我々との敵対は望んではいない。ならばやはり、上手く利用されたのだろうさ」

 

 周瑜が励ましを混ぜながら事実の再確認を行う。

 曹操が『空海の書』の受け渡しを拒否した話は、開戦当初から大々的に広まり続けている。そこからは曹操自身が積極的に噂を広めているらしいことが読み取れた。

 それはつまり、曹操軍の士気や結束や大義を『空海』が支えているということだ。

 

「使ったものこそ江陵の力だけど、結果的には表向きにも裏向きにも曹孟徳自身が動いて解決してくれたしね。対策はいるけど直接的には利益が出てるんじゃない?」

 

 空海が軽い調子で述べていることも、幹部たちが慌てない理由の一つだ。

 金銭か権益か、あるいは他の形でかはわからないが、曹操は江陵商人が組織として動くだけの理由を作ったのだ。先に挙げた理由から江陵、ひいては空海を敵に回せない以上、利益で釣っていることはおそらく間違いない。

 

「商人の件もそうだけど、推挙された人材は潁川から多く出てるわ。周家に動きが無いというのも問題よ。周家が曹操に肩入れした、と伝わるのは面白くないでしょ?」

 

 長く名簿を眺めていた賈駆が周瑜を揶揄する。

 揚州最大の名家として、豫州の袁家を通して影響力を発揮していたのも今は昔。周瑜が苦笑いを浮かべながら現状を認めた。

 

「昨今、有能な者はこぞって江陵へ移っている。地元近くでさえ存在感をなくしていると露呈した形になったな……。情けないが、潁川での我が一族の威光は過去のものだろう」

「公瑾の影響が潁川にまで届いていた、というのも今さら広めるような話じゃない。取り繕う必要はないと思うし、それを明かす方向で損を切ろうかね」

 

 影響力のいくらかを諦める選択を曹操に強いられた状況に、空海もまた苦笑をこぼす。

 江陵商人が曹操からどんなに利益を得ていようと、それを上回るような損を発生させていては取引が失敗しているも同然だ。その損が江陵の悪手から来るものであれば文句すら言えない。

 

「ある程度の事実を明かして商人が勝手に動いたことを強調しておくべきでしょうねー。しかし利用し利用されるのは望むところですが、あまり勝手が過ぎてもかつての黄巾賊のようになってしまいますねー?」

「利が生まれているとしても、手足が我々の意志に反して動くのは放置しておけません。動きを察知できなかったことも……。これらは直ちに改めるべきです」

 

 空海に続いて、いつの間にか孔明の両隣に移動した程昱と鳳統が、孔明に代わるように商人の弱点を指摘する。

 どちらかと言えば商人たちに寄った発言の多い周瑜や程昱も今回は彼らに身を削らせることを容認し、鳳統や賈駆は普段の主張を一層強くして繰り返す。

 一部には自分の主張に孔明を巻き込もうという気概が見られたが、全員から彼女を励まそうという気遣いが感じられた。

 

 発言が止み、一人の言葉を待つように静寂が訪れる。

 

「――改めます。二度と……二度と、このような心得違いを()()()()()ように」

 

 やがて、顔を上げた孔明の瞳には。

 強く、鋭い、冷徹な光が浮かんでいた。

 

 孔明の様子を見た賈駆が、心底楽しそうに幹部たちの顔を見回す。

 

「まずは何があったのかを知るべきよね」

 

 恐るべき好敵手と、それを上回るほどに頼もしい味方。彼女たちに混じり、策士として歴史を踊らせることが出来る幸運に心から感謝しながら。

 だが、軍部として安全保障の最前線に立つ鳳統が、慎重な判断を要求する。

 

「最優先課題の一つと見て良いとは思いますが、曹操さんの他にも四方の動きに関しては流動性があります。連絡を密にして都度に進捗と優先度を確認すべきです」

「異論はない」「いいと思いますよー」「ま、そうね」

「……うーん」

 

 ただ一人、空海が大げさに首を傾げ、その様子を見た周瑜がいぶかしげな表情で空海を窺う。「……空海様?」

 

「うん。まぁ、これまで通りの延長でいいと思う」

「――と、いいますと?」

「曹操対策と外務は公瑾(周瑜)仲徳(程昱)を中心に、組織改革は孔明(はわわ)を中心に、士元(鳳統)文和(賈駆)は当面は両方に注力して、要所では全員が集まる。双方、必要な助力は遠慮なく口にして、調整は公瑾が行う。手が足りなければ徳操(水鏡)に相談してみる。これまで通りで問題はある?」

 

 今この体制に何一つ不足はないという強い自負を感じさせる言葉。曹操に出し抜かれはしたが、それは幹部会の体制の問題ではないのだと空海は説明する。

 空海の発言に納得の空気が流れた。周瑜が優しげに微笑むのに釣られ、幹部たちの顔に落ち着きと共に笑顔が浮かんでいく。

 

「……いえ、問題ありません。少々気負いすぎておりました。焦りがあったようです。そうですな。これまで通りというのは、わかりやすくて馴染み深いものですからな」

「私も、いいと思います。これまで通り――これまで以上に頑張りましゅ!」

 

 周瑜に続いて孔明が勢いよく、力強く宣言する。鳳統が、賈駆が、笑顔でそれを見つめながら、彼女に遅れまいと声を上げた。

 

「わたしゅもっ、私も頑張ります!」

「ま、ボクも江陵に骨を埋めるつもりだしね。できることがあるならやってやるわ」

 

「……ぐー」

『…………』

 

 一人を除いた全員の気持ちが、今、あらゆる違いを越えて一つにまとまった――。

 

「茹でるか」

『異議なし』

「――ほっ、ほぁぁぁーっ!?」

 

 江陵はだいたい平和だった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「これで、勝ちよ」

「流石ですっ、華琳様!」

 

 やり遂げた感のある曹操に、夏侯惇が輝くような笑顔で追従する。

 

「一時はどうなることかと思いましたが……」

「うむ。これも愛紗の助力あってのことだ。本当に感謝する」

 

 曹操たちのやや後ろで、関羽と夏候淵が彼女たちの様子を見守っている。本来ならもう少し近くに控えるべきものなのだが、曹操に褒めて貰いたい夏侯惇が威嚇するため、数歩下がって護衛を行っていた。

 ここは曹操軍の陣地の最前線。20万に迫る投降兵の武装解除を行う、そのすぐ隣だ。

 

「……いや、本来ならば桃香様が行うべき仕事の延長に過ぎん。それに、負けを防いだのは()()殿()の、勝ちを決めたのは春蘭殿と華琳様の手腕によるものだろう」

 

 関羽が言ったことには謙遜もあるが、それ以上の負い目が感じられた。夏候淵は僅かに眉をひそめ、それを覆い隠すように一転して楽しげな表情を浮かべる。

 

「それでも、だ。我らは我らを守るために当然のことをしたまでだが、愛紗の負った役割も無視できんほどに大きい。……これで返済が近付いたと思うぞ?」

「よしてくれ。それだけ褒められた後に告げられると、その、なんだ。借りているものの大きさに押しつぶされそうだ」

 

 関羽が胃の辺りを押さえ「ぽんぽん痛いの」と言い出しそうな表情で白旗を揚げる。

 夏候淵は弱り切った関羽の背を押しながら、慰め半分に容赦なく追撃を選んだ。

 

「くくく――自信を持て。お前は20万の兵を押し返した猛将なのだぞ」

「……むぅ」

 

 

「それじゃ、疲れているところ悪いけど、三人ともお願いね」

『はっ』

 

 元の曹操軍と、合流した黄巾と、袁紹軍の投降兵。それらを仕分けして袁紹から奪った土地まで含めた全七州に振り分ける仕事。これにはすぐにでも取りかかって、逃げ出した袁紹が再起する可能性を潰さなくてはならない。

 官位の高い夏侯惇に人口の多い地区を、足の速い夏候淵に辺境を、関羽に徐州と青州の平定を任せたところで、曹操はようやく一息ついた。

 

 今は張角たち三姉妹に兵士の慰撫と投降兵の人心掌握を任せ、典韋をその補佐に付けている。許緒は袁紹追跡の後、周辺地域の見回りに入る予定だ。強運袁紹の捕縛は期待していない。

 夏侯惇たち三将軍は、曹操軍を編制の後に黄巾の取り込みと再編、投降兵の取り込みと再編という非常に手間の掛かる仕事に取りかかっている。

 徐州北方まで来ていて手の空いている者は、曹操と、あと一人しかいない。

 

「――困ったことになったわね、稟」

 

 曹操が天幕の隅に向かって声をかける。

 

「確かに。しかし勝った後にこのようなことで悩む日が来ようとは……」

 

 感慨深げに答えたのは、青州で黄巾蜂起を煽る役に就いていた郭嘉だ。

 

「桂花は怒り狂っているでしょうね」

「決戦前の別れ際に彼女が何と言ったか、お聞きになりますか?」

「ふふっ、それを言わせたのは私よ? 聞かなくてもわかるわ」

 

 曹操が楽しげに声を上げるのを見て、郭嘉は呆れたように息を吐く。

 

「わざわざ桂花が荒れ狂いそうな言葉で檄を飛ばすとは、華琳様もお人が悪い」

「あの娘は少し追い込まれている時の方が可愛いのよ」

「……案外、空海殿も同じようなことを考えているのかも知れませんね」

 

 飄々と答える曹操への小さな意趣返し。郭嘉の放った矢は、悩める乙女である曹操改め華琳の心に深々と突き刺さった。

 

「ごめんなさい。私が悪かったから、想像させないでちょうだい」

 

 万一。状況から考えてありえないが、万が一。本当にこれが仕掛けた罠に空海が狙って追い込んでいるのだとしたら。きっと、怒りや不満を通り越して笑いしか出ない。

 下手をしたらその一件だけで新たな性癖でも開拓されてしまうかもしれないほどだ。

 曹操は馬鹿げた考えを振り払い、郭嘉の言葉を待つ。

 

「華琳様は空海殿の好みだそうですので、半ばほど本気で言ったのですが」

 

 そして、至極真面目な様子で告げられた内容に脱力した。

 

「はぁ……本当に対価となるなら、身体を差し出すくらいしてもいいのだけど」

「あの方は対価と認めないでしょうね。下手をすれば『安い』と言われかねません」

「ちょっと稟、流石に私だって『安い』なんて言われたら傷つくわよ」

「申し訳ありません、華琳様。ですが数千万の民に比して、と考えますと私でも……」

「貴女はもう少し歯に衣着せなさい」

「重ね重ね、申し訳ありません」

 

 空海の人気と江陵商人の人脈を大いに利用した今回の策。相手が敵であれば切り捨てるのも簡単だった。

 だが、相手は商人。限りなく味方に近い中立なのだ。

 しかも、今回はこれまでの5倍に迫る広さの土地、3倍を超える行政区域、これまでの2.5倍もの数の民を支配しなくてはならない。

 それらに深く根付く江陵商人を今、敵に回すことだけは絶対に出来ない。それは最早、自殺と変わらないのだから。

 

「まあいいわ。空海が聖人君子ではないから取引が出来る、というのも間違いないもの」

「かといって単なる俗物ではない……民の心を買われたのは痛恨の極みですね」

 

 空海は豫州や陳留といった曹操の元々の支配地域でも人気が高かったが、新たな領土、つまり旧袁紹領での人気も桁違いであった。

 袁紹が空海の人気を高めることに腐心していたことも理由の一つだが、それ以上に大きな存在が――民の生活に密着した『江陵商人』だ。

 江陵商人が空海の支援によって商売が出来ること、黄巾騒動を治めた空海と二黄の話、竜退治の董卓たちが空海の下で働いていること、そして直近の飢饉への対策など。

 噂こそが情報となるこの時代に、人気が出ない方がおかしいほどの英雄譚が商人を通して広まってしまっている。

 その上、善政を敷いていたという袁紹を倒した曹操は、北方の民にとって異分子だ。

 だからこそ、今このとき、空海だけは敵に回せない。

 

「……困ったわね。謝罪と謝礼を伝える方法が、時間と手間の掛かる三通りしか思い浮かばない……どうにかして先送りするしかないかしら」

「ひとまず健全な関係を求めていることを強調しては。……こちらの都合を考えなければもう一つ、比較的実行しやすいものがありますが」

 

 一瞬、虚を突かれたような顔を見せた曹操は、すぐに郭嘉の考えを察して鋭い目で睨み付けた。

 

「――桂花を憤死させる気? ()()は最終手段よ」

「ですがこれ以外は、荊州の巨人に阻まれ、どの方法もいまだ現実的ではありません」

 

 曹操の眼光にも怯まず、郭嘉は淡々と返す。

 最終手段を含め、曹操と江陵の間に荊州が、劉表がいては困るのだ。

 

 二人は内心を隠したまましばらく見つめ合い――

 

「――はぁ。そうなのよね……。本当に、どうしようかしら」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「厳顔と会っていたそうだな、空海」

「ああ、白帝城のあれか。居るとは思わなかったんだが、まぁついでだから利用した」

 

 襄陽の城内で、威厳に満ちた風貌の巨漢と子供にしか見えない男が、向かい合って席に着いている。

 椅子に深く腰掛けた劉表が、腕を組んで低い声で問う。

 

「利用? 目的はなんだ?」

「益州の動きに少々怪しげなところがあってね。その確認」

「なんだと、益州に? その動きとは」

 

 劉表の問いに子供のように机に身を乗り出しながら楽しげに答えていた空海は、待っていましたとばかりに劉表を手招く。

 

「周りの者はちょっと耳をふさげ。……実は劉璋が劉――益州に――――したらしい」

「! それはまことか」

 

 告げられたのは足下を揺らがしかねない大事だった。表情を厳しくする劉表に対して、空海は相変わらず楽しげに笑っている。

 

「さて? 厳顔はそんなそぶりは見せていなかったね。ただの将軍だからかもしれんが」

「ふむ……では何故、厳顔は白帝城にいたのだ?」

「一応は厳顔の言い分も理解できるものだった。益州巴郡の太守が貴重な船を揚州豪族に売り払ったせいで足がなくなったんだと。それで、有事に緊急で隅々まで足を伸ばすのが難しくなったから、警邏の範囲を益州境まで広げているんだとかなんとか」

 

 空海が口にするのは厳顔から聞き取った事情に若干の推論を交えたものだ。

 劉表は空海の話一つひとつに頷き、厳しい表情に若干の困惑を混ぜた。

 

「なるほど。しかしその揚州の豪族とは周家のことではないのか?」

「うん。揚州がきな臭くなって盧江から逃げだそうって民が増えて来たらしいんだけど、北回りは曹操の領地、南回りは長江だろ? 船も数がなくて悩んでいたところに……」

「益州から声をかけられたということか」

 

 空海の言っていることは真実ではない。だが、嘘でもない。劉表もそれをわかっているのか、僅かばかり呆れたように息を漏らしながら言葉を引き継ぐ。

 

「江陵から出してやった金品をそのまま益州に回すような形で決着したみたいだね」

「やはり江陵は周家を支援しておるのか」

「江陵に取り込む予定さ。ただ、連行しているのではなく逃亡を助けているということは理解してくれ」

「荊州としては、江夏(こうか)で受け入れても構わんが?」

「望むところだ。苦しいとは言わないが、江陵にもそれほど余裕があるわけじゃない」

 

 周家から出た優秀な人材は既にほぼ全て江陵に移住済みなのだ。劉表は、自身が後手に回っていることに気付いていない。むしろ空海が明かした苦境に関心が向くほどだ。

 

「揚州の弱体化は我らにとっても利が大きい。一度思い切って出兵し大々的に収容しても良いかもしれぬな。無論、その時は江陵にも――」

「まぁ盧江は守りづらいもんな。でも牽制の出兵なら手伝わないからね?」

 

 劉表は「確かに」と頷く。出兵を牽制に用いるのは常道に反している。最初から本気で攻めるつもりで兵を出すか、そもそも出さないで解決するのが兵法としては正しいのだ。

 牽制を良しとするのはそれを用いた策を実行するときだけだろう。そして、牽制するだけだと決まっている策で、江陵に出兵と出費を強いることは難しい。

 つまり劉表単独で牽制を行うか、江陵と共に本気で侵攻するか、どちらも行わないかの三択だ。

 

「……本気となると、呂布と華雄も必要か。しかし呂布は動かせぬ。劉備は信用ならぬ」

「その辺はそっちで判断してくれ」

 

 難しい顔で考え込んだ劉表を尻目に、空海はのんびりとお茶をすする。

 空海の湯飲みからお茶がなくなったころ、劉表が顔を上げた。

 

「劉備は曹操の策謀に荷担しておるかもしれん。……荷担といえば、河北で曹操の挙兵を助けたのはお主らと耳にしたが」

 

 劉表の厳しい視線に晒され、空海はここに来て初めて顔をゆがめる。

 

「あー、なんと言うか、江陵の商人が使われたのは事実だな。ただまぁ、それに関しては()()の幹部連中がかなり腹を立てていると言っておこう」

 

 その瞬間の劉表の気持ちを表現するのは難しい。一番近いのは「曹操やっちまったな」であろうか。

 江陵幹部というのは敵対するものに容赦ないのだ。その上飛び抜けて有能でもある。兵法にもあるように、敵が嫌がるところを攻めてくるのだ。それはもう平然と。劉表も一度被害を受けたことがある。あの時は最終的に娘から「お父様なんて大嫌――

 劉表は考えるのをやめた。

 

「そ、そうか。あー……()()()曹操に手心は加えてやらぬのか? 好いておるのだろう」

 

 もう十分に手助けしている、という言葉を苦笑いで覆い隠して、空海は首を振る。

 

「好みであって好きとは違う。異性に対する好意なら、むしろお前の娘たちに感じ」

「ふざけるな空海ッ! 娘はやらんぞ!」

 

 突如、劉表は吠えた。

 

「えー? あいつらなかなか健気で可愛」

「誰かこのものを捕らえよ!! 娘はやらんッ!!」

「切れすぎだろ! しかも私情混ぜすぎ! ――あ、お前ら下がってていいから」

 

 護衛の兵たちは「え、マジで?」といった表情で右往左往している。大柄な男が子供に向かって怒鳴っているようにも見えるが、年はそれほど離れていないし、道ばたで娘離れできない親父が絡んでいるだけにも見えるが、どちらも国家の重鎮である。

 

「よいか、空海? 娘はァ、誰にもォー……やらんぞぉぉぉおっ!!」

「溜めるな。叫ぶな。あんまりはしゃいでると、また嫁さんに怒られるぞ?」

「お、脅す気か!? 私が屈すると思うてか!!」

「あの()たちも何て言うかなぁ」

「!? と――とりゃえるのはやめよ。ちゃを……ちゃをもってくるのだ」

 

 劉表は威厳に満ちた低く渋い声を、生まれたての子羊のように震わせながら告げた。

 

「ぅゎ景升ょゎぃ」

 

 叫び声を聞いた娘たちが駆けつける1分前の出来事であった。

 




 反省点。曹操強くしすぎた。(※ただし冒頭に限る)
 1話の文末「そのための手」から今回の冒頭のお話に繋がるのです。いかがでしたか?

>青州黄巾
 端的に言えば後方遮断の戦法です。皆さんの予想を上手く裏切れたでしょうか? 想像を上回れていたら言うことはありません。
 6章冒頭の黒山賊の幽州侵入は、史実の袁紹と結んだ黄巾との戦いをなぞらえており、7章の青州黄巾賊一斉蜂起は史実の出来事を入れ替え、曹操が先んじて黄巾と結び袁紹に対抗していたら、という恋姫・魏ルートと歴史のIF展開になります。

>臓器や細胞のような存在
 いわゆるGoogle先生のことですね。

>今日だけは、別々のお風呂に――(性的な意味で)
 継続意志E-。シリアスなんてなかった。
 孤児や学院の寮生は男女問わずに空海の子なので小さい頃は入浴の監督してます。成長しても後輩の入浴を手伝ったりする卒業生。孔明たちもその一環で空海と一緒のお風呂に入ることに慣れているんですね。あとは長年の習慣です。
 結果→「あわ、あわわわが目にー」「いま流すから目をギュッってしろー」ジャバー

>二度と心得違いを起こせないように
 決まったァー! 電磁計略の孔明を本気で怒らせやがった!
 実はピンチなのは曹操ではなく、これに関わった商人と、次に江陵を食いものにしようとする連中のはず。既にやらかすヤツは決まっていますのでご安心配ください。

>劉表パパの苦悩
 空海は友であり政治的パートナーでもあるが、父親としては敵。江陵幹部は限りなく味方に近い敵。嫁さんも敵。天子も敵。娘も空海に騙されている。四面楚歌。味方はいない
 なお空海の感じている好意とは「女の子らしくて可愛いなー」という程度のもの。


 揚州には蜂蜜好きの娘がいる。そこには実はとんでもない部下がいるんだが、ま、それはさておき妙に移民が増えてきやがった。盧江の周家が本格移民を企画したとかで、俺の力を借りたいそうだ。ところが周家を狙ってるヤツがいた。揚州の幹部で浅黒いやらしい小娘よ!(※次章は『揚州騒動』です の意味)
 次回『更に闘う者達』でまた会おう!


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7-小話 偽空海にご注意を!

 

「しかし袁紹はあっという間に滅びたねー。華麗なる滅亡だったと褒めてみようかな?」

「喧嘩売ってるわよ、それ」

「クスクス、袁紹さんなら喜びそうですねー」

「それも喧嘩売ってるわよ」

「でも大河を挟んだあんなに広い領地をひと月も守れなかったんだから、あの人を普通に褒めるのは無理なんじゃないかな……」

「別に無理に褒める必要がないって言、――な、なんで月がここにいるの?」

「あーあ、初日にバレちゃうとは。修行が足りぬぞ、この未熟者めが!」

「へぅ!」

「またあんたの仕業か!」

()()がお前の仕事っぷりを見たいっていうから、ここで会議のある日は女中役をすることになったんだよ。お茶煎れるの上手いしな」

「あんた『元()()』にお茶汲みさせるなんてっ、なに考えてんの!?」

「元相国だからお茶汲みしかさせられないんだろ? 肩書きなしとか、下手に使えそうな肩書きで招き入れてみろ。洛陽から江陵に舞台が移っただけって話になるんだよ」

「ぐ。あんたを足がかりにして陛下をどうにかしようと狙ってる、と思われるわけか」

「へぅぅ~……ごめんね、詠ちゃん。私の我が侭で……」

「月をよく知らないで騒いでる連中が悪いの! そんでもって、肩書きはともかく本当にお茶汲みさせるやつがいるか!!」

「へぅっ」「へぅ~」

「月の真似すんな!!」

「ベブゥ!」

「……。詠ちゃん? 『賈文和螺旋突き』は、2度目だよ?」

「え……ゆ、月? なんっ、何で、ボクをそんな目で見るの……!?」

「空海様に同じ技は二度通じないの(本人談)。……だから、ね。次は別の必殺技を見せて欲しいなって」

「自分が見たいだけか!」

「へう゛っ!」

「へっ、その技は二度目だぜ、文和!」

「とってつけたような台詞で思い出したかのように復活してんじゃないわよ!」

「ひらり」

「避けんな!」

 

「くふふふ。詠ちゃんは今日もツッコミが冴えてますねー」

「あわわ、空海様たち、あっちに逃げても行き止まりなのに」

「はわわ……詠さんが流れるように下着を見せてましゅ」

「はっ! ゆ、誘惑ですね! 誘惑は駄目です! 誘惑はいけましぇん!」

「空海様なら誘惑に負けたりしません、よ? ……あっ、でも……うぅ」

「おうおう姉ちゃんたち、そんなに空海様のモノを突っ込んでほでゅあーっ!?」

「空海様の命により、風さまのその発言は粛正対象ですっ!」

「はわわ!? み、明命ちゃんが――っ!」

「風さんの服の中から生えて――!? 中はどうなああわわわー!?」

「それは機密事項に触れていますよ、雛里さまっ♪」

「はわわわわ!? 雛里ちゃんしっかりー!!」

 

「はぁ……何を子供のように騒いでいるのだ全く……」

 

「空海様」

「はい、そこの黒髪眼鏡の可愛らしい――なんか目が怖いです」

「……こ、これで、どうですか?」

「はい、すごくかわいいです。何で怒ってたの? あ、先に言い訳しておくと文和の下着を見たのは不可抗力であって和解済みだからごめんなさい。……で、何で怒ってたの?」

「ふふっ、まったく……。実は――」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

『空海散歩 注意書き』

 

 編集部よりのお知らせ。

 昨今、空海元帥をかたる偽物が江陵の内外に出没しています。江陵上層ではお見かけする機会も多く、お姿などをご覧になったことのある読者の方々も多いかと思われますが、空海元帥の風体について今一度多くの方々に知っていただき、詐欺師に騙されぬようご注意いただきたいと思います。

 

 

 空海元帥の身長は六尺二寸五分(144㎝)、齢十歳と少々の男児とほぼ同じ大きさです。声は幼く細身ですが、大の大人を持ち上げる膂力があります。白木のような肌と艶のある短い黒髪で、童さながらに鈴を張ったような目と黒い瞳を持ちます。また、常より初雪のように白い着物と秋空のように青い羽織を纏っておいでです。

 

 空海元帥の周囲には日頃から数十名の兵士が控えており、将兵を引き連れずに歩く姿はあまり見かけられません。また、その書は絶筆と名高いものの、街中でそれを書いて配ることは滅多にありません。皆様もねだることがなきようご注意下さい。

 空海元帥の周囲では大抵の動物が大人しくなるようです。

 

 

 外見的な特徴ではありませんが、空海元帥を語る上では以下のことをよく知っておくべきでしょう。

 出身は江陵の近く。今までに北は洛陽、東は江夏、南は漢寿、西は長安までしか行ったことがないそうです。以前から『永遠の十七歳』を名乗っていましたが、江陵に来てから十七年目にあたる今年は、何らかの変化が期待されます。

 朝廷内では貨幣や塩鉄の流通と北軍の仕立てに関わっており、劉太尉兼大将軍様に次ぐ宮中第二位の官位『元帥』です。江陵内の高官でも元帥府内の高官でもありません。

 

 

・黄大将、鎮江将軍様からみた空海元帥。

 優しくはあるが底知れぬ。酒を嗜まれず茶を好む。文字を練習するために毎夜誰よりも遅くまで机に向かい、毎朝誰よりも早くから机に向かっておられる。しかし、実は身体を動かす方が得意らしい。

 あと頼れる女性が好みだと思う。

 

・黄中将、勁弓将軍様からみた空海元帥。

 かわいいのに難しい本をそらんじたりして格好良い。昔、街の人からお米を米粒のまま貰って、手が小さいからこぼれちゃうって困っていたときは特にかわいかった。お肉よりお野菜が好きだと思う。桃や柑橘を特に好んでいる。

 素直に頼ってくる相手に優しいのは間違いない。

 

・周統括官、軍師様からみた空海元帥。

 周囲の人間によく話しかけておられる。言葉遣いはあまり気にされないが、相手の顔を見て話すことを好まれる。見知らぬ人物に話しかける時には身振り手振りを大げさにする癖があるようだ。子供や老人には手を取って話しかけられることが多い。

 意志の強い女性が好みだと発言したことがある。

 

・趙少将、辰武将軍様からみた空海元帥。

 意外に逞しいお方だ。民草よりも商いや農作にお詳しい上、それを若者に優しく教えられている。語り部に聞く賢者や神仙とはあのような方を指すのだろう。

 

・賈情報官、従事中郎様からみた空海元帥。

 ふざけてるように見えるけど考えてることも多い。意見と反論はしていいが、無視したり逆らったりするのはやめた方がいい。これを読める者ならその違いがわかるだろう。

 

・董前相国様からみた空海元帥。

 お店の人たちの名前を全員覚えてるのが凄い。料理の材料もすぐにわかるみたい。嫌いなものを食べるときは目をぎゅっと瞑るからわかりやすいしかわいい。

 

 

 司馬常任幹事様並びに張少将様の発言内容は編集部の判断により掲載いたしません。

 諸葛内務官様と鳳軍務官様、程外務官様は多忙のためお話を伺えませんでした。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「なるほど、こんな記事が……。ってか、こんなとこで17歳ネタを振られても困るし、何で俺が知らない俺の好みまで暴露されてるんだ」

 

 とある店の軒先。そこで渡された空海散歩を手に、空海は困惑の表情を浮かべている。

 

「記事のことも知らねぇし……やっぱあんた偽物じゃねぇのか!?」

「お前ここに5年も住んでて今さらそれを言うかよ。好みについては黙秘するが俺自身のことなんだからちゃんと全部当てはまってるはずだぞ」

 

 空海は読みやすいように本を広げ、店主からもよく見えるようポーズを取る。

 背格好を見せるつもりでいた空海だったが、店主が気にしていたのは江陵幹部から寄せられたコメントの方だった。

 

「……格好良くは見えねぇ。何か考えているようにも……」

「よーしハデにいい度胸だ! 表に出ろ。『はい喜んで!』しか言えなくしてやる!!」

 

 この日、一つの飲み屋が門出を迎えた。

 

 

 

「なんかカサカサこそこそしてるヤツらがいたことは知ってたけど、こういうことだったのかぁ……。俺が睨まれたのもコイツのせい、と。面白いヤツだ、気に入った」

 

 そして空海は路地裏に潜んでいた。

 

「いいか、こっちが風下だ。近づけば分かる」

「そうですね!」

「うむ。さすが()()だ……やはり忍者か」

 

 ちなみに空海は本当にわかる。神スペックなので。

 

 ――空海様、居ました!

 ――アレか? いや待て、アレは――

 

「すげぇデブじゃねーか!!」

「誰だてめぇ!」「どっから入りやがった!?」

「別に太りたくないとかないけど横幅が3倍は違うだろ!? 誰か気付けよ!!」

「空海様にそんな口聞いて生きて帰れると思ってんのかオラァ!」

「あらら初手を間違えた感。お前らいくら()()が格好良いからってごっこ遊びを火遊びにしたら駄目でしょう?」

「なんだこのチビは? 俺様の物まねかァ? お前ら、やっちまえ!」

「だーから、そこは『ヤッチマイナー!』だろうが!!」

「意味わかんねぇこと言ってんじゃねぇ! 意味がわかっていれば反省も出来ますがわけがわからない場合手の打ち様が遅れるんですわ? お?」

「ど素人が! お前ら勝手に名前騙られてる奴の気持ち考えたことありますか? 空海歴17年の俺が直々に『そのような意味で申し上げたのではない』してやろうか!」

『……え?』

「あ、言っちゃったよ。あっちゃーてへぺろー……ええい、もはやこれまで! 俺の名を騙る不届き者め! 面白おかしく後悔するがいい! 者ども出合え~い!」

 

 既に緊迫した空気は霧散していたが、扉や窓からぞろぞろと兵士があふれ出し、室内はあっという間に暑苦しい空間へと変貌した。

 

「ほほほほ本ももにょにょくくく空海げげげゲンシュイ?」

「おおお前はニシェモノ!? 殺すのは最後にして野郎(やろう)ぶっ成敗してやらぁ! あんまり殺さないように斬れ斬れぇ~い!」

 

 命令しながら先頭に飛び出した空海のせいで他の兵士が剣を抜けなくなったのは偶然である。

 

「方天戟飛び蹴り! 不殺『派遣切り』! 方天戟正拳突き! ええい、トンファーじゃないからやりづらい! 死ね! あ、いややっぱ死ぬな! 方天戟緊急蘇生光線!」

『――ゴッハァッ』

「空海様っ、飛んでたら守りづらいので降りてきて下さい!」

「ア、ハイ。浮いてた。周囲からも浮いてた。幼平ごめんね」

 

 空海は一定以上に興奮すると空を飛ぶ。ある程度落ち着くと降りてくる。

 

「ああ、しまった! こんなに暴れるなら車騎将軍位を貰っておくべきだった……!」

 

 なお、空海はこの後しっかり怒られた。

 残党は兵士がちゃんと捕縛した。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

『空海散歩 建安元年春の書』

 

 江陵で初めて味噌を扱った料理店。

 第四層南中央門前の通りに、その居酒屋はある。通りに面した壁は取り払われており、道行く人を眺めながら飲める一杯は「余裕の味だ、深みが違いますよ」と人は言う。

 最近はチビで太っちょの店員の口から威勢の良い『はい喜んで』という言葉を聞ければいいことがあるとも言われている。

 

 

 

 

■劉Bィの荊州生活

 

「『劉荊州ボクと契約して争いのない国を作ってよ下さい』っと」

 

 魂を込めて書き上げた珠玉の文を満足げに見下ろし、劉備はそっと筆を置く。

 荊州内の有力者に宛てる友好の手紙を書くことが、今の劉備に与えられた数少ない仕事の一つであった。

 たったそれだけの仕事で6万の兵士と4万の馬と5万の民を一時預かり扱いにしている劉表を太っ腹と言うべきか慎重と見るべきか臆病と蔑むべきかは意見の分かれるところだが、劉表としても難民の扱いが荊州の命運を左右する大事とみて丁寧に行っているつもりなのだ。不当な扱いをして人が集まらなくなれば今後の治政に差し障る。

 おまけに劉備は人徳に寄って立つ『仁』の将であるため、遠方にも直近にも置けずに閑職に留めている。具体的には劉備は宜城(ぎじょう)で半ば軟禁状態に置かれていた。

 

 

「『きょうはなんにもないすばらしい一日だった』と……」

 

 劉備の隣に座り真剣な表情で書き物をしていた張飛がそっと筆を置く。

 目が覚めたら食事をして日記を書いて寝るのが、今の張飛の生活のほぼ全てであった。

 徐州に残してきた民や関羽のことは心配であったが、今は劉表の許可がなければ荊州から動くことすら出来ないのだ。余計な動きをして劉表を刺激することは悪い結果を生むだけである気がしている。

 おまけに張飛は書類仕事の出来ない『脳筋』の将であるため、劉備の仕事を手伝うことも出来ない。具体的には劉備に「外に遊びに行ってきていいよ」と言われていた。

 

「鈴々ちゃんは何を書いてるの?」

「お仕事がはやく終わるようにおまじないをしてたのだ!」

「そっかー。ありがとう鈴々ちゃん」

 

 劉備は笑顔で告げる。張飛の場合、行動に害さえなければいいのである。

 

「早く愛紗ちゃんと会えるといいね」

「ちょっちゅね!」(※そうですね)

 

 

 

 

■水鏡女学院の討論会

 

「さて今日は10年ほど時を戻して、江陵の取るべき政策、問題が発生したときの解決の方向性、解決のための手段の模索、その道筋を考え、現実と照らし合わせてみよう」

 

 教室の前の方に座った空海が、室内の生徒達を見渡しながら告げる。

 空海の言葉を受けた司馬徽(水鏡)が教卓の前に立ち教本を開く。

 

「ではまず、10年前に何があったのか思い出してみましょう。そうですね……璃々」

 

 頭の高い位置、両サイドに結んだ髪をぴょこんと跳ねさせながら、璃々が元気よく立ち上がる。数えで10歳となったばかりの璃々にとっては古い話ではあるものの、水鏡女学院で過ごしてきた4年を超す時間が解答を戸惑わせない。

 

「はいっ! 前年に河賊退治を行い武の功績を、さらに北軍の武装並びに騎馬を仕立てて文の功績を重ねたことで空海様の元帥就任がありました」

「うん。懐かしいな。あの時は馬家から人を回して貰い、甘寧や周泰を捕らえた。学院を出たばかりの()()が指揮を執ったんだ。劉景升が働きかけて元帥位を創設し、就任の際に公瑾を元帥府付き軍師に据えた。当人を納得させるまでに時間がかかったな」

 

 表向きは皇帝の周辺を守る近衛兵である北軍の装備や騎馬を揃えたことで宸襟を案じたとして元帥府の開設許可が下りたことになっている。

 荊州南郡から江陵付近を独立させて元帥府直轄地に制定し、元帥は独立した地域の人事権を持ち太守の役割を兼ねることになった。周瑜が就任した軍師はこの時点で五品官相当とされていた。

 

「未だ本の普及を図っていましたね……。それに、衣服を作る仕事を奴隷から取り上げて職人達のものとしたのもこの頃でした」

 

 具体的には紡績、織布、染色などの仕事を職人制度で上書きしていったのだ。今までに発行された出版物の内、最も数の多いものが衣服の見本誌――いわゆるファッション誌であると言えば、後に与えた影響の大きさも想像が付くかもしれない。

 奴隷を単純な労働力から消費者へと格上げしたのも江陵の功績だ。于吉によって単純な労働力を簡単に確保できたことも政策を後押しした。

 

「江陵の方針は、大まかには地位の確立と安定。直近で元帥位を得ていることから官位は俺以外に回すつもりだ。これまでの動きを受けて、次はどうするべきかな軍師諸君?」

 

 空海の言葉に反応するように、生徒達の手がさっと上がる。空海の視線が一人に定まったと見た水鏡が名を呼んだ。

 

「では春華(しゅんか)、答えなさい」

 

 春華と呼ばれた少女、璃々と同い年の司馬()が静かに立ち上がる。

 

「はい。大陸各地より人を呼び込み、大陸各地に人を送り込み、衣服の材料などを集めて金銭を渡し、金銭を受け取って出来上がった衣服を渡します。流通は多額の金銭、多量の物資を扱いますので、その内から幾ばくかの利を得て府内の官位を発行します」

 

 司馬懿はほぼ教本通りの模範解答を自分の言葉に置き換えて告げた。教本を正しく理解していることの証左だろう。

 

「うん。言葉にまとめればまさしくその通りのことをしたんだが、方針を決めた時点では問題が山積していてね。実現までにはいくつかの段階を踏んで進んでいた」

「この時点で予想される問題と解答を踏まえ、先の空海様の問いに戻ります。江陵が取るべき道は他にありませんか?」

 

 再び手が上がり、今度は水鏡が迷うことなく指名する。

 

「何をおいてもまず江陵内の検地を行うべきでは?」

「それはもう終わっている。それまでにも実質は江陵県の太守相当の地位を兼ねていたんだ。元帥に就いてから検地していては遅すぎる。覚えている限りでは――」

 

 言葉を句切った空海が、額に手を当て一つひとつ確認するように指折り述べていく。

 

「元帥就任時の人口は269万人、戸数49万。要塞内の田畑が10万頃、要塞外の畑は主に樹木を植えさせながら拡張して4万頃、収穫量は玄米換算で5500万石ほど。

 およそ1割が余剰になり保存に回されていて……。あと税収は――ってこの辺は教本にも書かれてるか?」

 

 当時の説明を一つひとつ思い出していた空海だが、税収の話に差し掛かったところで隣の水鏡に目をやった。

 

「はい。ですが、元帥就任の項の後に書かれているのは方針決定後に出た数字ですね。私たちは前年の実績と、増加分を2割とした予想を元に行動を決定していました」

「税収が35億銭強と事業収入が同程度、支出で60億銭強の使い道はほぼ動かせないと思って良いと説明を受けてたから、10億銭は江陵内外の総予算だと考えていいかな」

 

 またしても素早く手が上がり、解答と問題点の指摘が繰り返される。

 

 やがて意見が出尽くし、肉付けされた解答が少しずつ司馬懿の述べた拡大政策に近付いていく。

 

「――というように、後から思えば金を借り受けて事業を拡大しておいても良かったとかそう判断できる要素もあるんだが、当時はまだ元帥位に就いたばかりで借りよりも貸しを増やしたかった時期だったこともあって見送られたんだ」

 

 提案された政策を選ばなかった理由を空海が補足する。水鏡がさらに説明を加えるため生徒達を見回す。

 

「たしかに、貨幣を発行できることを思えば、借り受けも将来の負担にはならなかったでしょう。しかし、多数からの借り受けを行えば空海様への警戒感を抱かせていただろうことや無闇に貨幣を垂れ流す愚を思えば、仕方のないことでもあったでしょう」

「そうだねぇ……。あの頃に孔明と()()が居てくれたら別の道を選んでたかもね」

 

 当時の状況を例に挙げ、空海は経済と交渉の専門家の重要性を説く。

 書類仕事に分類される大抵の仕事は優秀であれば出来る。だが、野心的な政策の立案と調整は、少々優秀なくらいの官僚では手に負えないものでもあった。

 

「策とは臨機応変であるべきです。それは軍略に限らず政略についても言えること。その時の在り方でより良い策を求める姿勢こそが最善の道であるかと」

「そうだね。そのためにこの学院を作ったわけだしね。黄巾騒動の時だって、学院がなければせいぜい荊州からあいつらを追い出すのが精一杯だったろうし」

 

 空海の言葉に生徒達がにわかに活気を帯びる。向上心の強い――少々どころで済まないような秀才たちが集まる女学院は、『成功談』に類する話への食いつきが良い。

 結果的に肉食系な女子を量産して遠回しに自分の首を絞めているわけだが、空海がそのことに気づくのは周囲を肉食系江陵女子に完全に固められてからのことであった。

 今は育ち盛りの江陵女子にせっせと栄養を与える時期である。

 

「話をしよう。あれは今から5年前、いや6年前の出来事から話した方がいいか――」

 

 

 

 

■董仲穎のお料理教室

 

「挨拶の仕方は習ったろう仲穎……おじぎをするのだ!!」

「あんた何でそんなに生き生きとしてんのよ」

 

 舞台に上がった董卓に向き合うように客席に座った空海が前列からヤジを飛ばし、董卓を庇うように賈駆が空海をはたく。

 二人の心温まらない声援を受けた董卓が舞台の上でぺこりと頭を下げた。

 

「きょ、今日はどこのご家庭にもある蜀南花竹のメンマを使ったお料理をっ」

「ご家庭に蜀南産メンマはないわよ!」

「しかも花竹。どうやって手に入れたんだそれ? 珍味すぎる」

「へ、へぅ~」

 

 思わず立ち上がった賈駆を見て董卓は目尻に涙を浮かべ、メンマの入った壺をフラフラとその場に降ろす。

 

「でっ、でも無いなら買いに行けばいいわけだし! 気にしなくていいわね!」

「男らしさ? アイツは謁見の間(究竟頂)においてきた。これからの戦いにはついてこられそうにないからな」

 

 この後、益州にメンマの大量発注が入るのだが今は関係ない。

 気を取り直して参加者に向き合った董卓が、袖をまくって包丁を握る。観客のうち二人から拍手が送られるが、台所に立つようになって間もなく3年という新米主婦(元相国)の緊張は高まるばかりだ。

 

「で、ではまず豚さんのお肉を小さく刻みます。食感を残したい場合にはお米粒より少し大きめに切ったところでそのまま使いますが、今回は食感を消すためにさらに細かく刻みましょう。切れ味に頼るというより、包丁を持ち上げて軽めに叩き付けるようなつもりでトントンと――あっ、まな板まで切れちゃった……」

 

 厚さ2センチほどの木のまな板が、半ばほどでたたき割られた。

 空海が愕然とした表情でぽつりと呟く。

 

「なにそれこわい」

「ちょっ、誰か代わりのまな板を持ってきなさい!」

 

 

 それはまな板と言うにはあまりにも大きすぎた。

 分厚く、重く、そして大雑把すぎた。

 それはまさに新種の嫌がらせだった。

 

 現物を目の前にした董卓も、空海も、頼んだ賈駆さえもどん引きである。

 

「うわぁ……」「……」

「……ええっと、お肉を細かくしたら手早くしっかりと混ぜます。軽くまとめたら脂身と赤身が馴染むようにしばらく寝かしておきましょう。その間に鍋を火にかけます」

 

 動揺を押さえ込んだ後の董卓の手際は良く、流れるように作業をこなしていく。決してツッコミを入れる勇気が足りなかったのではない。

 

「――あれ? 今どうやって火を付けた?」

「よくわからないけど、ギュッてすると火が付くらしいわ」

「ギュッてしたのか!」

 

 普通は立ち止まる着火作業すら流れるように済ませたので空海から疑問を抱かれたりもしたが、その間も董卓は止まらない。

 

「水気を切ったメンマを小指の先ほどの大きさに刻み少量の油で炒めます。メンマの香りを活かすため、油は風味の弱いものを選びましょう」

「かっこいい中華鍋回しきたー!」

「さすが月ね!」

 

 ちなみにこの鍋、形状と素材が中華鍋っぽくなったのは空海が提案したからである。むしろ何故この形状の鍋がないのかというのが空海の論だったが、自然発生するのが数世紀も後のことだとは勿論知らない。

 

「軽く火が通ったら食感が変わらないうちに火から外し、お皿に移してしばらく冷ましましょう。続いてノビルとネギを細かく刻み、片栗粉を混ぜ込みます。お砂糖とお醤油とお酒とごま油とお塩を5対4対3対2対1くらいの割合でこれに加えて軽く馴染ませます」

「なんて覚えやすさかしら。今夜からでも作れるわね」

「だがご家庭に砂糖はあるのだろうか」

 

 十数年前から荊州の南、交州で栽培させているサトウキビは、交州の遠さと情勢の不安定さもあって価格が高騰していた。空海用の白砂糖は地下工場で生成されているのだが、いずれにしても超高級調味料である。

 

「寝かせておいたお肉に調味料を加え、冷ましたメンマとよく混ぜ合わせます。そろそろお鍋にお水をたっぷり入れて火にかけて置きましょう」

「もはやメンマに肉を混ぜているのか肉にメンマを混ぜているのかわからないぞ」

「あ、あれでも美味しいんだからね? 美味しいは正義なのよ!」

 

 余りのメンマ率に、その食感が苦手な空海が渋い表情を浮かべるが、だんだんと趙雲の空気に染められてきていた賈駆が庇う。庇ってから自分の言動(メンマ)を振り返って青ざめ、逆に空海から慰められたりしたのだが、それは置いておく。

 

「次に、用意したシューマイの皮でタネを包み、タネの中や皮との間に残った空気を抜くように上から軽く押さえて形を整えます」

「きゅってした! 月がきゅってしたわ!」

「ああ、きゅってしたな!」

 

 シューマイ一つを数秒で作っていく新米主婦は、舞台の上でキラキラと輝いていた。

 

「仕上げに残ったメンマをのせて、蒸籠(せいろ)に並べていきます」

「追いメンマきたー! メンマ多すぎー」

「星の好みに合わせてたらだんだん増えていったのよっ。月のせいじゃないわ!」

 

 ちなみに空海は主賓でありながら試食係を担当しているので、メンマの総力戦に引き気味だ。シューマイと聞いて来たのに酷い仕打ちである。

 

「お鍋のお湯が十分に沸いたら蒸籠を乗せ、1刻余り蒸します」

「はい、気をつけて蒸します」

「はいじゃないわよ。あんたは蒸すな」

 

 軽やかに身を翻した董卓が、やりきった笑顔で舞台脇の台を指し示した。

 

「そして今回は――蒸し上がったものがこちらに用意してあります!」

「こちらにありますきたぁー!!」

「あんたたち楽しそうね……」

 

 一度は言ってみたかった、聞いてみたかった台詞だったので仕方ない。

 

 

「メンマがうまい。酒がうまい」

「月の作った料理はみんな美味しいわ。で、なんで星がいるのよ」

「ありがとう、星さん、詠ちゃん。今回は美味しく出来たね」

「うー、メンマのコリコリした食感が……」

 





>偽空海にご注意を!
 そういえば空海の身長とか設定を本編であまり説明して来なかったような気がしたので書いてしまいました。

>暴れん坊元帥
 なぜ車騎将軍位を貰っておかなかったんだ!

>ボクと契約して
 万国のプロレタリアートよ、契約せよ!

>『きょうはなんにもないすばらしい一日だった』
 朝ご飯を食べた後に夏休みの絵日記を書いて寝る生活の一幕。

>討論会
 203年春の出来事です。10年前は193年頃。
 193年というのは空海が元帥に就任して元帥府を開設、周泰が加入した時期でした。その2年後に孔明と鳳統が元帥府に加入。劉表が車騎将軍に就任しました。この辺りは本編であんまりやってなかったかなということで補足。

>おじぎをするのだ!
 ”トム・リドル” 彼が杖を振ると空中に書かれた文字が動き、並び替わっていく。
 出来上がった文字を見て、ハリーとハーマイオニーは鼻水を吹きだした。
 ”リトル・ドム(小型モビルスーツ・ドム)”

>き、きょきょ、今日は
 きょんにちょわ!

>ギュッてした
>きゅってした
 リッチャンハカワイイデスヨ

>メンマ
 特に理由のないメンマはいいぞォ、ケンシロウ!


 次は2章の改訂をしようと思ってたのですが、今は8章と平行して進めてるのでどっちが先になるのかよくわからなくなってきました。執筆のペースが上がらないです。
 長らくお待たせしていて申し訳ないのですが、続きはのんびり書いています。次はもうちょっと早く続きを投稿したい、と思っております。はい。



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8-1 更に闘う者達

 

 孫権たちが母・孫堅の頃に仕えてくれていた兵士を集め、荊州方面と豫州との交易路を兼ねる九江郡一帯で治安維持活動を始めたのは、およそ半年前の夏の半ばだった。

 当初、州都寿春(じゅしゅん)の周囲で終わるかと思われたこの活動は、短期に終結したとはいえ、徐州の戦乱で発生した難民や移民がもたらした影響によって予想外の苦戦を強いられた。

 

「時ハ来タレリー」

 

 それでも、「やっと」と言うべきか。年をまたいで春を迎える頃になって難民の流入が減ると、ついに孫呉陣営も手元の人員の半数近くを動かせるだけの自由を得た。

 

「そうね……。私も感慨深いわ、シャオ」

 

 時を少し遡り、丹陽(たんよう)の制圧に向かった孫策たちは、その下流域にある孫家本拠の呉郡で力を持つ四姓に袁術排除の協力を求めていた。

 丹陽を取り囲んだ兵を見せつけ「協力しないって言ったらそのままお前らに兵を向けるけど袁術ちゃん許せないよね?」と尋ねたところ、こぞって同意してくれたのだ。

 やはり孫呉の地で袁術の圧政に苦しむ人々を、一刻も早く解放しなくてはならない。

 

 丹陽を取り囲みながら行った交渉で、呉郡四姓のうち陸家を除いた三家からは合わせて二万近い兵力の支援を約束された。

 これに陸家の伝手で揚州中から集めた五千、降伏した丹陽から差し出された精兵四千、袁術から孫策が預かった二万、同じく袁術から孫権が預かった一万、孫家が長沙を捨てて揚州に逃げ込んだ頃から仕えてくれている兵士とその家族のうち戦える者が千。

 孫呉が好機を掴んで手にした六万。

 対する袁術が手元に残している兵は四万。

 孫呉陣営には忠義に篤い将兵が多いものの多数の勢力が混ざっているため不安が残り、袁術陣営は忠義に篤い者こそ少ないが単一の命令系統が確立している有利がある。

 孫呉には数の優位があるが、勝算は五分を少々上回るくらいだろう。

 

 それでも、千載一遇の好機だった。

 これを逃せば十年か二十年かは巡ってこないだろう、最上に近い条件が整っていた。

 北の袁紹と曹操が騒いだおかげで、袁術の注意もそちらを向いている。

 内側だけではない。外に目を向ければ荊州の劉表も曹操たちに注目しているし、揚州のすぐ北側の豫州からは、北方での決戦に向けて曹操が兵を引き上げている。

 

 全ての条件が、孫家にとっての絶好の機会であることを示していた。

 すなわち、弓腰姫の出番であることを示していた。

 

「人はなぜ出番を求めるのか……? シャオ知ってるよっ、それでも出番だけがシャオの全てじゃない、って!」

「……出番……? シャオ、貴女疲れてるのよ……」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「さすが景升! 俺がやらないことをやってのける! でもこれはもっと早くやれよ」

 

 手にしていた手紙をたたみながら、空海が呆れたように言葉を漏らす。隣で聞いていた周瑜が思い出したように一つ頷いた。

 

「……そういえば、ようやく洛陽と長安の主要なお役目を抑えたのでしたな」

「うん。ただし、相変わらず手が足りていないというか……。わざとか? もしかして、宮中出入りの()()の商人もわかっていて泳がされているのか?」

 

 意志さえはっきりとしていれば袁紹が北方を支配する前にも行えたはずの政治介入。

 劉表は遅らせるだけ遅らせて、現実には曹操が北方に支配権を確立したこの時期にまで引っ張ってきてしまっている。

 強引さを持たないと言えば聞こえは良いが、決定力に欠けているとも言えた。

 江陵は既に別の()手段()で宮中への影響力を高めており、今さら上役の名が変わったところで大した影響は無い状態だ。

 

「わかってはいるでしょうが現実には排除できず、味方であることを言い訳にして対応を諦めているだけでしょう」

 

 空海は、江陵の商人以外には満たせない商品の基準を宮中に定めさせ、必要な話を持ち込んだり持ち出したりしている。どれだけ業者を替えたくても江陵商人に頼るしかなく、宮中でどれだけ人事に口を出せたとしても、本拠が外にある江陵商人は宮中への影響力を残す形だ。

 基準を改悪する以外に入れ替えの可能性は低く、万が一改悪しようものなら空海元帥が飛び出してくる。そうして事が天子の耳に入り――いくつかの一族が粛正にあって以来、宮中の商人から不正による外の商家との繋がりが消え、出入りの商人や職人は半数以上が江陵関連の勢力に塗り替えられた。

 宮中には今や、空海との繋がりを求めて積極的に江陵商人に荷担する役人すらいる。

 

 先の徐州騒動に前後して、曹操の祖父で宦官の最高位にまで上り詰めた曹騰の伝手が、江陵の商人に売り払われていた。商家が入れ替えられ、職人がすげ替えられ、商品納入の基準が変更された。皇后府を取り仕切る商家が江陵のものとなったのだ。

 これは『信頼できる情報源』の多くが、江陵のものになったことを意味する。

 つまり、空海が「曹操の影武者は女装男子」と言えば、宮中の多くの役人それぞれが、それぞれの信頼する情報源からその噂を耳にすることになり、最終的には天子の耳にまで噂が届くのである。

 

「それでもウチに人材を求めてこないのは約定があるからか、信頼されてないのか……」

「どちらかと言えば後者でしょう。ですが、やはり約定を理由に御自身を納得させておられるのではないかと。根が真面目な御方ですからな」

「ある意味で素直ないいヤツなんだがな」

 

 半ば以上に嘲りを込めて告げる周瑜を目で制しながら、空海はのんびりと笑う。

 曹操の反乱から逃げ出した北部の人材は、その多くが河南尹(洛陽)方面に逃げ込み、その後、洛陽が政争の前線に近付いていることを理解すると長安や荊州へと逃げ込んだ。

 さらに一部の者達は、逃げ込んだ土地の背後により栄えている地があることを知って、江陵にまで流入してきている。

 

 周瑜が軽く頭を下げ、話題を劉表の行った人事の影響に移す。本拠荊州の北側、司隸にある首都洛陽の河南尹(かなんいん)と古都長安の京兆尹(けいちょういん)。どちらも太守に相当する役職だ。

 

「司隸を抑えたのであれば次は後背の馬家を疎んじる可能性があります。翠たちにはそろそろこちらへの移住を勧めてはいかがでしょうか」

「ん……役職を返上させて、か。受け入れ前に誰かを向こうに送った方が良いかな?」

 

 受け入れの準備はもちろん、涼州そのものが江陵の権益を損ねない組織に収まるよう、要所の人事を抑えたり民心を誘導する任だ。生半可な人材では任はこなせないだろう。

 

「そうですな。お許しいただけるのならば、我が一族から五名ほど出せればと。我が家の者は移住を果たしたばかりで未だ不安を見せております。そろそろ重要な案件に絡ませてやって下さいますれば、安心を得られるかと」

「……そう、か。周家以外にも仕事を回すこと。他は任せるよ」

 

 空海は「孟起(馬超)のことが重要な案件に入るのか」という疑問を飲み込んで頷いた。

 

「景升にも一応、祝いの品でも送りつけておくかね」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「へっ……へっ――へんしょうぐんにりょふをにんずるッ!」

「呂中郎将を改め呂偏将軍に任ずるのこと」

 

 ズルズルと鼻をすする劉表の指示を耳聡く聞き取った書記官が、人事案を書き留める。

 中郎将は漢の遠征軍指揮官であり、これまでは南方の制圧のためという名目で二年ほど劉表に指揮権が預けられていた。対する偏将軍は実権で中郎将に劣る将軍位ではあるが、州に属する軍事力と見なして扱われているため、この人事で実質的な部下という状況から名実共に部下へと所属を変えることになる。

 それもこれも、河南尹や京兆尹への人事の介入が上手く行ったために上位の役職に空が出来たことが理由として大きい。

 鼻をすすった劉表が真面目ぶった表情で書記官に尋ねる。

 

「うぅむ。呂布はこれで好きに動かせるとして――劉備はいかがしておる?」

 

 これまで劉備の軍事力を牽制する意味合いで近くに置いていた呂布。効果があったかはわからないが、結果として騒ぎが起きていないことは評価すべきだろう。

 呂布を恐れて――かはわからないが、劉備が早期に騎兵の半数を劉表に預けたことや、劉備軍が(ハン)(ジョウ)に駐留することに同意したため、その脅威は低下したと見られた。

 劉備と共に半ば派閥を形成しかけていた公孫賛が軍と共に襄陽を離れたことも、最近の劉表の心に平穏をもたらしている要因である。

 

「は。本人の希望もありまして、現在は荊州牧の代筆のお役目を負わせております」

「ああ、南部豪族どもへの文か……。うむ。まぁ、ちょうど良いだろう」

 

 劉表は、劉備の狙いが交州方面での立身にあると見抜いていた。

 現在の交州は反劉表とも呼べる勢力が荊州の南部と争っており、足を引っ張り合っている状態だ。例え信用しきれない味方であっても自勢力の下にまとまり、それが劉姓であるなら大いに面目は立つ。

 さらに、荊州南部と北部の間には大陸一の重石がある。()()を無視して襲われるようなことは万が一にもあり得ない。劉表と江陵の仲は良好と言えるのだから。

 南方に関心を向けている野心家。大いに結構だ。

 

「問題は西だ……。劉璋めが、劉備を招き入れようとするとは……」

 

 徐州での騒動の終わりに空海からもたらされた報。

 幸いにも江陵が牽制してくれたおかげで大事には至らなかったが、劉璋軍四万と劉備軍六万それぞれに対処することと、劉璋劉備の連合軍十万に対処することでは問題の程度が違いすぎる。

 劉備を軍から引き離したのも、これに関わる動きを警戒してのことだ。

 

 現在の益州は江陵が蓋をしている。ただし、それは益州の東側に関してのみだ。

 益州の北側には漢中(かんちゅう)から京兆尹へ続く道が存在する。

 万が一、益州の劉璋と荊州の劉備が結び、長安(京兆尹)から洛陽(河南尹)を狙って行動を起こしたりすれば、せっかく無傷で手に入れた二つの要所が荒らされるかもしれないのだ。

 是が非でも避けたい未来を思い描き、劉表は荒々しく息を吐く。

 

 まずは、劉表の下で反目しあう親戚筋をそれぞれ首都と古都に押し込め、曹操に不正に支配されている北方へと回す人材を捻出させる。人材に目処を立てた後に、改めて曹操を朝敵に指名する。

 無傷で入手することにこだわったのも手の内に転がり込むであろう人材のためだ。これ以上、江陵の手を借りて弱みを増やすわけにはいかない。

 

「いっそ馬家を漢中に送り蓋に……いや、まずは揚州から周家の民を集め…………」

 

 劉表の悩みは尽きない。

 

「よし。劉璋には生魚でも送っておけ。勝手に深読みして謝ってくるだろう」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「いっ、一大事です!!」

「なんじゃ騒々しいの……」

「たった今、このようなものが……!!」

 

 落ち着きなく執務室へ駆け込んできた兵が手に持ったそれを掲げる。

 

「えーと。あら? 『暴君袁術を討つべし』? 『孫策』さんって書いてありますね」

「――なん……じゃと……?」

 

 鈍い袁術すら驚愕させた報告は続く。

 

「重ねて報告致しますっ! 孫策らは各地の豪族に決起と従属を命じており、この寿春の周辺からも救援を求める使者が集まっています!」

 

 揚州の各地に発せられた『袁術討つべし』の檄文は袁術についた――というより孫呉につかなかった――豪族達の手によって袁術の元にまで届けられた。

 もとより袁術軍への豪族の合流はもちろん、自軍への合流すら待つつもりのない孫策にとってみれば、袁術軍の内部決裂や数少ない将兵の分断をもくろんでの通告である。

 

「あららら、どうしましょう、どうしましょう?」

「なっ、七乃ぉ、なんとかするのじゃぁ!」

 

 孫策たちの離反を知って今さら袁術が慌てたところで、優秀な将兵の少ない袁術軍では防衛に必要な準備などまともに行えるはずもない。

 既に大勢の決した戦にも、孫策は手を抜くつもりはない。(あんまり強くない)獅子は(かなり強い)兎を狩るのにも全力を尽くす(必要がある)のだ。

 張勲は冷静に状況を分析し、冷静に計算し、冷静に判断して、冷静に結論する。

 

「うーん……ひとまずお嬢さまのご実家に援軍をお願いするとして……、これは真面目にマズいですねー、マズいですよー……。滅亡待ったなしかもしれませんよー……。荊州に逃げ込むことも考えなきゃいけませんねー」

 

 その決断は、援軍が時間稼ぎにしかならないことを理解してのもの。

 だが。事態は既に、判断すら手遅れの状況に陥りつつあった。

 

 

 

 

 九江郡陰陵(いんりょう)は揚州の州都九江郡寿春(じゅしゅん)の東にある都市の名である。

 寿春から250里(100㎞)離れた陰陵の地に、

 十数年来の悲願に沸く孫呉の兵が、

 近年の圧政からの解放を望む民が、

 袁術に牙剥く軍勢が、集結していた。

 

 六万もの兵が、集結していた。

 

 

「袁術さんが、早く帰ってこいと騒がれて()()ようですね~」

 

 偵察兵からの報告をまとめていた陸遜がにこやかに告げる。

 のほほんとした見た目でのほほんと笑っているが、軍の威圧で呉郡四姓から兵力を引き出し、僅かふた月の間に軍事力として体裁を整えた希代の参謀だ。

 即席の戦力に完璧を望むことはできないが、それはどんな軍であっても多かれ少なかれ持つ悩みだろう。

 大事なことは敵よりも余裕を持つことであり――既に優劣は決している。

 

 

「早く帰って……徐州にでも攻め入るつもりなのかしら? あの娘には、揚州の置かれた状況が全く理解できていないんでしょうね」

 

 孫権は面白くもなさそうに情勢に思いを馳せる。

 袁術に牙を剥くことだけなら簡単だ。それを今この瞬間まで待ったのは、孫呉の勝利と独立を勝ち取るまでの道筋がついたからに他ならない。袁術に勝利することも、目的ではなく手段。孫呉独立のための入口である。

 真面目にそういうことを考えている孫権にとっては、袁術の場当たり的な行動を腹立たしく思うことはあっても擁護しようという気は起きない。

 

 

「治安維持活動の折り、寿春との間に陣地を形成済みです。ご命令をいただければ二日で寿春に迫れるでしょう」

 

 甘寧がニコリともせず生真面目な様子で述べる。

 付け加えるならば、大軍が通りやすいよう道や橋を整え、袁家本拠の豫州汝南(じょなん)郡との交通を阻害するよう北西部の道には障害物を設置するなどした。

 残る唯一の戦力とその移動手段である船も、先日の丹陽郡攻めの際に孫策が持ち出しているため、今の汝南にはまともな足はない。

 つまりこれで、寿春の四万にだけ勝てば良くなったのだ。

 

 

「じゃ、ご命令通り、さっさと寿春に攻め込んであげなきゃね」

 

 袁術の言い回しをなぞりながら、孫策が軽い調子で凄惨な未来図を思い描く。

 妹の()()が孫呉の未来を背負うなら、姉の()()は孫呉の過去を背負っている。

 民のために立ち上がった母を国に殺され、民を守りもしなかった劉表に荊州を追われ、揚州の片田舎に押し込められて嵐が過ぎるのを震えながら待った日々。味方面した袁家に功績を奪われながら飼い殺しにされた歳月。

 その無念を、背負っている。

 

 

「逃げる間もないくらいにね~♪」

 

 孫策の言葉に、虎に跨がった孫尚香が楽しげに続く。

 物心ついた頃から袁家を打倒して孫呉が立つことのみを教わってきた小蓮(シャオ)にとっては、孫呉の舞台は幕が上がったばかりだ。

 役者は揃い、小道具も整った。あとはこの舞台を精一杯、演じきり、踊りきるだけ。

 お相手(パートナー)が袁術というのはいただけないけれど、そこは舞台の次の幕に期待しましょう。

 

 

 渋い柱ような黄褐色の、足先までが栗毛の涼州赤兎馬に跨がった孫策と孫権が、兵士の前に進み出る。袁術から()()()()()()この馬だけで、十万銭に迫る財産だ。

 袁術の財力と支配力では、七万もの軍勢を維持し続けるのは至難であった。寿春に残る兵の半数近くは兵役で集められた農民だったが、さして安上がりになるわけでもない。

 揚州の力のほとんど全てを軍備に回して、それでも装備が行き渡らないほどの貧乏軍隊というのが、揚州を支配する袁術軍の実態だ。

 そんな中にあって、十万銭もの装備に跨ることが、それを許される孫権たちが、いかに優秀であるかは推して知るべしである。

 その大柄な栗毛の馬を見た兵の間に、興奮のどよめきが広がっていく。

 

「赤兎馬すごいなー持ってる人憧れちゃうなー」

「シャオには白虎がいるでしょう……」

 

 もちろん小蓮が跨がる大柄な虎を見て怖がる兵士も多い。というか大半が怖がる。

 別の意味で興奮を生み出しているが、これは小蓮にとって日常である。

 

「欲しいなら袁術ちゃんから貰えばいいわよ。すぐにいらなくなるんだし」

「なーるほどっ。あったまいい~♪」

 

 孫策と小蓮の軽口の応酬に、孫呉の将たちから小さな笑いが漏れる。

 それを横目で確認した陸遜が、孫策に向かって頷いた。

 

「――さて。それじゃ、征くわよ」

 

 住処を追われ、鞭で打たれ、牙を折られた孫呉の虎の、反撃の第一歩。

 

 

「聞けッ!! 孫呉の兵たちよ――!!」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「孫策が蜂起した……のは、全く予想通りだったが」

 

 空海が集まった面々を見渡しながら告げる。

 

「確かに。その情報を劉将軍がいち早くつかんで、その上、袁術の負けを予見して出兵を決断してしまうというのは、少々予想の上を行きましたな」

「客将の劉備さんから預かった幽州騎兵が、劉将軍を強気にさせているのでは?」

「呂布さんを自由に動かせることも大きな理由だと思いますよー」

 

 周瑜、鳳統、程昱が好き勝手にそれぞれの予想を述べる。どの顔も軽い笑みを浮かべた余裕の表情で。

 言葉通り。孫策の反乱を受けて、劉表は出兵を即断していた。

 

「それ以前からも物資や人を集めて軍事行動を起こす前兆はありました。今回はたまたま準備と好機が一致したため、素早い行動に結びついたのではないでしょうか」

「謀反を知ったのも、避難民を通じて孫策の檄文が江夏郡の黄祖に伝わったおかげね」

 

 孔明と賈駆が生真面目に答える。

 もちろん、江陵はもっと早くに事態を把握していたし、関わってさえいた。呉郡四姓に戦力の供出を決断させたのは、孫策の脅しだけではないのだ。

 軍師たちは、自信満々に笑う空海に視線を投げた。

 

「さて諸君。出兵だ」

 

 揚州を抑えて誰が生き残るかはこちらで手綱を握りたい。少なくとも孫策を残しておくことは江陵にとって利益にならないという方向で、幹部会の意見は一致している。

 変わらない笑みを浮かべたままの周瑜が、有無を言わせぬ雰囲気で口を開く。

 

「しかし空海様。出兵はやはり、劉将軍からの要請でしょうか?」

「ああ。何か問題があった?」

「はい。どちらが出兵を主導したかについては、明らかにしておく方が良いでしょう」

「……ふむ。そうなの?」

「民草が江陵に抱く希望などもありますし、兵力を前面に押し出すか、支援活動を前面に出すかといった現場での調整も行いやすくなります」

「あぁーなるほどーわかるー。うん。確かに景升が要望してきたことだよ」

 

 この瞬間、空海は、もし本当は言われてなかったとしても劉表がやったことにしてしまおうと決断した。なぜなら作り笑顔の周瑜が怖かったからである。

 笑っているのか怒っているのかも分からない表情は笑顔とは呼べないかもしれないが、普段の彼女を知らない者たちが見たところで普通の笑顔に見える点では笑顔と言って良いだろう。よく知る人間が見たら逃げ出すべき表情のことだ。

 今回は本当に劉表から頼まれたことであるので、嘘を言わずに済んで良かったと空海は思った。

 こんなのが鬼だったら一寸法師だって裸足で逃げ出したはずだと、脳内で周瑜と一寸法師を戦わせた空海は結論する。だって怖いでしょう? と空海は脳内でどこかに向かって懸命に言い訳した。

 この決断が後に大いなる災いとなって自身に降りかかることになろうとは、このときの空海には思いも寄らないことだったのです。

 

「――そんなことより人選だ!」

 

 力強く言い切った空海に視線が集まる。

 

「討伐や鎮圧の方針はともかくとして、避難民の収容は急がせなくちゃいかんよな」

 

 空海の言葉に頷いた軍師たちが視線を交わす。

 

「でしたら霞さんに先行して貰いましょう。どうかな、雛里ちゃん?」

「あっ、しょれなら、っそれなら、間諜の流入を防ぐために明命ちゃんにも行って貰った方がいいと思います!」

「受け皿になる江夏には二黄のどちらかに入っていただき、民の動揺を抑える役に回ってもらえるとありがたいですねー」

「ボクからは()()将軍を推すわ。民心の掌握みたいな微妙な采配でも安心して任せられるし、江夏太守の黄祖とも顔見知りでしょ?」

「いや、祭殿はまずいかもしれん……。江夏には()()華雄がいる。正直、相性が良いとはとても思えん」

 

 華雄の名を聞いた軍師たちの顔に、苦虫を噛み潰したような表情が浮かぶ。あの猪武者一人のために綱渡りを強いられたという共通の経験があるのだ。

 軍師たちのそんな様子を見て逆に楽しげな笑みを浮かべた空海が、意見をまとめる。

 

「ん。顔を合わせる可能性を考えれば楽観するのも問題か。じゃあそっちには漢升に出て貰おう。避難民の回収は()()が先行、()()が補佐で」

 

 後は任せる、と言い残して空海が立ち去り。

 残った軍師たちは悪巧みを始めた。

 

 

 

 

「報告致します! 現在、江夏に向けて、襄陽のみならず江陵からも多数の兵が集結中とのこと! その数、十余万!」

『!?』

「……やっぱり、周家も劉表さんも空海さんも、お邪魔ですねぇ……」

 

 





 孫呉は出した……!
 出したが……今回まだ、その役どころまで明らかにしていない。
 そのことを、どうか諸君らも思い出していただきたい。
 つまり私がその気になれば、孫呉の境遇は急転直下からのトリプルルッツからのダブルアクセルからのダブルトウループということも可能だろう…………ということ……!
 この作品の孫策&孫権の雰囲気は史実2:恋姫5:演義3くらい、のはず。

>一寸法師さんマジリスペクトっすよー
 相手がお姫様だろうが何だろうが、相対的には進撃の巨人と何ら変わらないわけで。

 前回更新から約9ヶ月!
 投稿遅れまくってすいません。次回のお話はまだほとんど書けておりませんので、投稿時期も不透明です、ごめんなさい。



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8-2 派兵×派兵×派兵

 

「うぅ、でも、やっぱりこれはちょっと綱渡りすぎますよぉ~……。『孫呉に揚州支配の正当性なし』って言われちゃってますし~」

 

 先だって送りつけた檄文への辛辣な返信を、陸遜が涙目で読み進める。

 対する孫策は、小さく首を振って苦笑を浮かべた。

 

「まぁ、確かに私が周家の立場なら同じことを言うでしょうね。けど、これで呉の四姓はこっちに付くはず……。いえ、付かざるを得ないはずよ」

()家さんと、(しゅ)家さんと、(ちょう)家さんは揚州南方四郡の太守と文官を出すことで出兵に同意してもらえるかも、とは思っていましたけど~……」

「この宣言で『今の周家には味方できない』と思わせて、あとはなし崩しに巻き込んじゃえばいいのよ」

 

 周家の手紙では孫呉の要求は強気に突っぱねられているが、()()()()()()は周家などではなく周瑜であり、周瑜の背後にいる空海が支配する江陵である。

 この手紙に江陵の思惑は絡んでおらず、間違いなく盧江(ろこう)周家の者が返答したことが確認されているし、孫呉はその事実を公表していた。

 

「……確かにそうなれば、時間は私たちの味方ですけどぉ……」

 

 これで盧江の周家が江陵から支援を取り付けてきたというなら話が変わるが、自分が実力者であると勘違いした者達がまず表に立ってしまった時点で呉郡の四姓に取っては頭を抱えたくなるような事態だ。

 なぜなら今の盧江周家を頼った場合、彼らが己の実力不足に気付いて江陵の周瑜に泣きつく頃には、矢面に立たされているであろう四姓は滅ぶかそれに近い打撃を受けているはずだから。

 この瞬間、四姓は孫呉に最低でもどっちつかずの返答をしておくしかなくなった。泣きつかれた江陵が動き出す、その時まで。

 

「穏、違うわよ。今は時間が無いことが私たちの味方なの」

 

 もちろん孫策がそんな時間稼ぎを許すはずがない。袁術討伐のために呉の四姓から借り受けた兵士を、そのまま揚州支配を確立させるため用いるつもりだ。

 たぶん自分はあくどい顔をしているのだろうなと、孫策は頭の片隅で考えた。

 

 

 

 

「では周家郎党の収容先は江夏郡西陵に。ここには漢升(黄忠)に行って貰う。盧江から北回りの移動を護衛する役は、劉景升の配下から黄祖と華雄が行うことになるだろう。江陵からは南回りを文遠(張遼)幼平(周泰)が守ってこい」

「はい」「はっ」「はいなっ」

 

 江陵最上層、究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれる玉座の()()

 そのさらに奥にある、四季を通して咲き乱れる桜と、その根元を流れる水路に囲まれた四阿(あずまや)

 周囲を囲う壁すらない四阿の屋根の下、広い机とそれを取り囲む複数の丸椅子のうち、四つの椅子が埋まっていた。

 

「呂布が揚州に派遣されたあとは、文遠にはそのまま孫呉討伐の先鋒となって貰うことになるはずだ。士元(鳳統)を派遣するつもりだから打ち合わせておくように」

 

 尊い方位とされる北を背負うは空海。ただ、他のものと同じただの石の丸椅子だと背が足りないので、座面にクッションをつけた、背の低い軍師たち向けのと同じものに座っている。座面が高くなったので足は宙ぶらりんである。

 

「了解やっ、ウチに任しといて下さい!」

 

 気負った様子で返答をしたのは張遼だ。文武に幅広い万能型の人材であり、人当たりも良い上に実戦経験も指揮経験も豊富で官位まで高いためどんな現場でも任せられる、と、最近は軍師たちに使い潰されていて忙しい。

 荊州江夏郡の東、揚州との境には、天を支えるとも言われる天柱山を含めた山地が存在し、これを避けて長江沿いを南回りで東に向かえば、周家の本拠地である揚州盧江郡へと入れる。

 水路が存在するため、江陵からは三、四日で進軍できる土地だ。

 

 いま盧江からは、周家に従う人々が、荊州に希望を見いだした人々が、江陵に移り住みたい人々が、地平の彼方まで続くような列をなして逃げ出していた。

 元から移住を奨励していた荊州上層部だったが、揚州情勢の悪化を受けて船を増便、開戦を決断した後はさらに増便して盧江以外へも派遣、孫呉の蜂起が決定的となってからは頭がおかしくなるほどの大船団を手配している。

 別に狂ったわけではないのだが、少なくとも他勢力から見れば桁を一つか二つ間違えているのではないかと疑うほどの量だ。

 

 張遼は盧江の(かん)城を越えて、中心都市である(じょ)県まで迎えに出る。

 江夏郡都の西陵から長江に沿って八百里(330㎞)強もの道のりだ。踏み込んで攻めるのは前提であるため、兵馬の選定から糧食の手配まで気を配らなくてはならない。

 

「その場合、幼平は江夏で防諜活動を継続。漢升は江陵への人員の移送を担当してね」

「はいっ! がんばります!」

「お任せを」

 

 背筋をピッと伸ばした周泰が元気よく、柔らかく微笑んだ黄忠が凛々しく返答する。

 周泰は張遼の背中を守る役割なので話は簡単であるし、黄忠が派遣される江陵と江夏を繋ぐ経路も、漢全土を見回してもおそらく最も安全な部類の経路にあたることから、責任重大ではあるものの不安のある土地ではない。

 

 黄忠が守るべき経路は三つ。

 一つは北回りに襄陽近くを経由する街道。唯一の陸路であるが劉表軍の主力の移動にも利用されているため、ここに残っている賊が居るとすれば自殺志願者だろう。

 二つ目は、ほぼ一直線に東西の、下流で荊州の中心都市の一つ江夏と、西側、上流側の超巨大都市『江陵』の北部とを結ぶ襄江。ここでも、残っている賊がいるとすればそれは自殺志願者に他ならない。

 三つ目は、江陵の南部をなぞってやや南側に遠回りするように流れる、大陸を代表する巨大河川である長江。江陵水軍の停泊地があちこちに存在する。

 

 どれを取っても国家の大動脈であるためしっかりと警備と整備がなされており、事件はもちろん事故の類も稀という、この時代の人々にとって夢のような土地だ。

 その輸送能力たるや、江陵と襄陽周辺の陸路三つが漢帝国下の陸路の交通量上位三つを誇り、江陵の周辺の水路三方向が漢帝国下の水路の交通量で上位三つを誇るほど。

 

 主題である難民の移送も、外から見たときの問題は小さく少ないと言える。どちらかと言えば内に抱える問題への対処の方が比重が大きいとなれば、人格を伴う武官がこれを担当するのが望ましいと言えるだろう。

 空海の人選――というより幹部会の推薦――は、そんな理由から為されていた。

 

 

 ここに至るまでに空海と劉表はまず、揚州盧江からの避難民を江夏で受け入れ、江陵を含めた荊州各地に分散させた後に本格的な出兵をすることで意思を統一した。

 その間に袁術が孫呉に負けることを見越しての計画だ。

 避難民の受け入れと同時に江夏に兵を集めて出兵の段取りを整え、北回りで劉表配下の呂布が八万を率いて揚州の中心都市たる寿春を中心に、南回りで空海配下の張遼が八万を率いて孫呉の本拠たる呉郡まで占領していく、というもの。

 孫呉か、可能性は低いが袁術か、まずあり得ないが孫呉と袁術の連合が待ち構えていて決戦にもつれ込んだとしても、ひと月ほどで揚州主要都市を制圧できる見込みだった。

 曹操が北方の平定に取り組んでいる間に南方の諸問題を終わらせる算段である。

 

「さて、誰が勝ち残るかな。袁術か、孫呉か、景升(劉表)か……。それとも、俺か……」

 

 フッとわざとらしく笑った空海は、数秒黙ってから首を傾げた。

 

「いや。袁術はないな」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「下蔡県から、汝南郡へ向かう道がふさがれているため、軍を派遣して欲しいと……」

 

 その状況を端的に言い表せば「一番当てにしていた逃げ道がふさがれた」だ。

 張勲は思わず天を仰ぐ。孫策たちの明確な殺意を感じ取ってしまったために。

 

 かつて統治能力を疑われた結果、劉表によって揚州に追いやられた袁術には、ひとまず逃げてから舞い戻って再起するという選択肢が存在していない。

 さらに揚州には、袁術の統治能力の欠如を示す証拠が数多く存在している。

 大義名分が揃えば――立身出世はともかく――孫策たちが上司である袁術を追いやった責を問われることはないだろうし、上手くすれば功績に数えてもらえるかもしれない。

 少なくとも張勲ならそれで妥協する。

 だから、孫策たちの目的が単に袁術による揚州支配からの解放であれば、証拠だけ確保して大義名分を劉表と空海に示せば良い。外へ逃がしてから他所に処理して貰った方が、孫呉の被害も少なく得るものが大きくなるはずだ。

 そして、孫呉の軍師陸遜はその程度に気付かないような愚物ではない。

 

 つまりは、逃げ道をふさいでまで優先するものがあるということ。

 それは何か。言うまでも無い。――危機的状況である。

 

「そ、それ、は……。…………とっ、とりあえず、西へ!」

 

 東、孫呉の拠点なので無理。北、曹操軍の主力級が未だ駐屯中なので無理。南、未開の地である上に「未開の地ですよね」という扱いをしてきたので飢えた狼の巣に肉を持って飛び込むような挑戦になっちゃうから無理。西しかない。

 このままでは本当に『悪政の象徴』として二人揃って殺されかねない。顔色の変わった張勲を不安げに見上げてくる主君(袁術)の手を握り、張勲は自棄になったように笑った。

 

「西へ向かいますよ、お嬢さまっ!」

「う、うむっ! ゆくぞ、七乃!」

 

 誰の目にも強がりと分かる程度の空元気を出した袁術が号令を飛ばす。

 そんな彼女を見て、張勲は必死になって打開策を考えていた。

 

 ――お嬢さまの可愛らしさに共感してもらえるかも、という点では空海元帥ですけど、当てに出来そうな人ではありませんでしたしねー。扱いやすそうでしたけど、威厳も全くなかったですし。

 

 などと誰に知られても絶対に不味いことになるようなことを平然と考えつつ。

 

 ――となると利用できそうな人はもう劉大将軍しかいませんから、揚州牧からの正式な依頼ということで反乱鎮圧をお願いして、反乱軍の身柄を引き渡せば……身の安全くらいだったら何とかなりますかね……?

 

 悲観的な考えを振り払い、張勲は馬首を西に向けた。

 低い山に沿って西へ向かえば、道はやがて南に向かい、その先には陽泉(ようせん)がある。

 陽泉まで出れば、劉表の治める荊州までは西に十日。途中には支配下の街もある。

 孫呉が大軍を率いていることから、自分たちがとにかく移動を優先させていれば無傷で逃げ切れる可能性もなくはない。

 選択肢は限りなく狭い。どうすれば生き残れるのか、張勲は必死に考える――。

 

 ――孫策さんたちに大将軍や元帥と全面対決する力はない……。ということは、対決にもつれ込むような戦闘は避けたいはず。

 

 だから、と、張勲は顔を上げ、希望を胸に袁術の手を握る。

 

 ――逃げ込みさえすればやりようはある!

 

 

 

 

「逃げ道も援軍もないとわかれば、袁術ちゃんたちは必ず荊州へ向かうわ」

 

 ひときわ大きな体躯の馬上から進軍する兵たちを睥睨しつつ、孫策が述べる。

 

「では姉様は、劉表が袁術に手を貸すと?」

 

 孫権が訝しげに尋ねた。

 劉表にとっては反乱を起こした孫策たちも、反乱を起こされた袁術も、どちらも処罰が可能な小役人に過ぎない。本気で揚州に介入するつもりなら、手を貸したという事実すら必要ない。

 そして『本気』でないのなら、十余万もの兵を集めることもなかっただろう。

 もはや袁術など必要はないはずなのだ。

 

「それはどちらでも良いのですよぉ、蓮華(れんふぁ)様」

「どういうこと? (のん)

「それはぁ、袁術さんを成敗するという目的と、劉表さんたちと敵対しちゃうかもという状況は、どちらにしても変わらないからですよ~」

 

 陸遜の謎かけのような受け答えに、孫権は分かったような分からないようなと首をかしげて思考に沈む。

 

 劉表が袁術を助けず処断する可能性もあるが、その場合でも孫策らに揚州牧を譲ったり袁術の政治基盤を引き継ぐことを許す可能性はまずない。

 むしろ、劉表の立場ならば、孫策たちを討伐した上で袁術を合法的に引きずり下ろして政治組織を引き継ぐ方が手間が少ない、のか。袁術が生きているか死んでいるかは大事ではなく、揚州の実権を劉表の手に移すことが目的。

 であれば、揚州を手に入れたい孫呉は最低でも劉表との敵対が決定的で、袁術が劉表に保護される見込みも十分にある。それが一時的なものであっても。

 

 孫権はそこまで考えてようやく納得したように頷く。

 二人のやりとりを見ているようで見ていなかった孫策が、獰猛に笑った。

 

「だから、劉表の下に逃げ込んでくれれば、それを名分にして江夏まで攻め込み、母様を殺した黄祖の首を獲れるわ」

「しかし、雪蓮様。江夏には十余万の大軍が駐留しているのでは?」

 

 三人のやりとりを黙って見ていた甘寧が、思わず口を挟んだ。

 荊州江夏郡には今、劉表大将軍と空海元帥の連合軍十数万が集結中なのだ。単純に考えれば、孫呉は自軍に倍する兵と戦わなくてはならない。

 

「私からお答えしますね~。まず、大軍と言っても相手の総戦力から言えば微々たるものですから、これに勝てなければとうてい独立など出来ません~。『孫呉はこの程度の兵を出せば言うことを聞く』などと思われちゃうと困ってしまいますから~」

「今でこそ戦う準備ができてるけど、この機を逃せば劉表が攻めたい時に攻めてくるのを迎え撃たなくてはいけなくなる。次は最低でも現状を上回る兵力差になるわよ」

 

 陸遜の言葉を孫策が継ぐ。孫家の兵力は短期間に増えたりしない。それどころか、この戦を終えたときには減ってさえいるだろう。相手が袁術だけであったとしてもだ。

 対する荊州連合軍に目を向ければ、その全力は現状の四倍を優に超す。遠征に回す兵を見ただけでも、である。蟻と巨人の戦いだ。勝てる可能性のある所で勝っておかなければ手も足も出なくなってしまう。

 孫策の言葉に深く頷いた陸遜が孫権に向き直る。

 

「それにぃ、相手にはこちらを討伐する名分が存在しますけど~、こちらからは仕掛けるための名分がほとんどありませんからぁ……」

 

 遙か雲の上の上司であり清廉潔白の儒教家と言われる劉表や、類い希なる善の人という評価の空海にいきなり喧嘩を売りつけた場合、周辺勢力はもちろん、部下や民衆までをも敵に回してしまう可能性が高い。

 その場合、孫呉に付く兵士は絶対に現状を下回り、相手方は下手をすれば百万を超えてしまうかもしれないし、そうなったらもう勝負にもならない。

 つまり、戦争をふっかけるためには真っ当に聞こえる理由が必要なのだ。

 

「孫呉が理由をこじつけて戦を仕掛ける集団と思われては、民もついてこない……か」

 

 陸遜の説明を聞き、納得した様子で孫権がつぶやく。

 いったい誰が、いつどんな理由で戦争を始めるのか分からない王の下で暮らそうと思うだろうか。いつ何時、暮らしていけなくなるのかも分からない場所に、寄りつく人がどれほどいるだろうか。

 平穏や安定からは縁遠い場所に、民は居着かない。

 孫呉がその形を維持するためには、少なくとも「仕方ない」と多数派の民が妥協できる程度の理由が必要だ。何事においても。

 よくできました、と笑みを浮かべて再び大きく頷いた陸遜が続ける。

 

「そういうことです~。ですから、この機会を逃した場合、より強大となった相手を迎え撃つか、民心が離れることを覚悟してこちらから奇襲するか、言われるままに恭順を選ぶしかなくなっちゃうんですね~。なのでぇ……」

 

 簡単な話だ。どれも認められないのだから、そちらの選択肢はなし、ということ。

 そうなってしまえば残る選択肢は――

 

「――この機に勝っちゃうつもりで戦うしかないと思います~」

「…………では、戦うとして。勝算は?」

 

 親しい者達にしか分からないほどにわずかな変化で感心の表情を浮かべていた甘寧が、やはりわずかに不安を滲ませながら鋭い視線を陸遜へと向けた。

 

「はい。それはぁ――――」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

太守(黄祖)殿。華雄隊が難民たちに近づくのを止めていただけませんか?」

 

 眉を寄せ、憮然とした態度で要求を告げるのは、江陵を代表する女将軍、黄忠。

 

「あー……その。何か問題が?」

 

 悪戯が見つかった子供のように身をすくませたのが、荊州の宿将、黄祖である。

 そこには名目上の立場以上の、明確な力関係が見て取れた。

 

「難民の多くは武器を持つ余裕もなく、食料も十分に行き渡らぬ弱者です。武器を持って肩を威張らせて歩く兵達に萎縮することはもちろん、民を守るでもない兵士に鬱屈とした感情を抱くなというのは無理があります」

 

 これは仕方のないこともでもある。貧しい難民に、苦しい避難生活での疲労、行き渡らない食料とくれば、問題が起きないはずがない。

 そんな中で、外的の排除を第一の目標にしている部隊が、多発する問題の仲裁や解決に奔走していては本末転倒とも言えるからだ。

 

「しかし間者が入り込んでいるやもしれぬのでは、見回りは必須でしょう」

 

 だから、黄祖の反論も最もなものである。実際に間者は入り込んでいるのだから。

 ただ、今のところその工作が実を結んでいるということもない。大陸の巨人、江陵軍が駐屯しているということは、反抗勢力に対する絶大な重しなのだ。

 

「我々が懐柔しようと行っている様々な方策が実を結べば、見回りの兵の目だけではなく難民の多くが我々の目となり、間者の暗躍を防いでくれるでしょう。それまでは、懐柔のついでに見回りが出来る程度に器用な者を巡回に当てて下さい」

 

 簡単に言っているが、江陵を除く世の中の兵士は、そのほとんどが文字を読めない程に知識がないのである。百人規模の部隊の長でようやく自分の名前を書類に書ける、という地域もあった。中には、将軍の地位にまで上り詰めながら知っている文字が十字ほどしかなかったという人物すらいたほど。

 即ち無教養なのだ。「こうする」という方法しか知らず、疑うことを許されない環境で育った兵員に柔軟に対応しろと言う方が普通は間違っている。知らないことを出来る人は少なく、それを問題のない方法に仕上げられる人はさらに少ない。

 つまり無茶ぶりである。

 黄祖は実質的に上官と変わりない地位にある黄忠に向けて「無理」とは言えず、反論の言葉を何とか飲み込み、引きつった表情を浮かべて見せた。

 

「えー……なんと言いますか。華将軍には、伝えておきましょう」

「ご理解いただけたようで何よりですわ。華将軍が納得しないようでしたら、襄陽方面の街道の警邏と難民の警護に回してしまって下さい。その後は我々が引き継ぎます」

 

 もちろん華雄は街道警邏に回された。

 

 

 

 

 巨大な川に沿った立派な街道を難民たちがゆっくりと進んでいる。

 彼らを挟み込むように配置された騎兵の一団が、流れに逆らって移動していた。

 

「ひぃ、ふぅ、みぃ……。よし! んじゃ、この辺までで次の船団を出すから、誘導する兵士を何人か挟んで宿泊地とか分けんでー!」

『応ォ!』

 

 青い衣を纏い白馬に跨った張遼から、ハキハキとよく通る声が、難民の頭の上を跨いで周囲の兵士の耳に届く。

 張遼の指揮する騎兵隊は精兵揃いの江陵でも指折りの部隊だ。遠征可能な部隊としては元帥直属の隊に次ぐ高級部隊で、左慈や貂蝉ら管理者から直接の指導を受けているほどの精鋭である。

 

 彼らをここまで運んできた江陵の長江輸送船団は大陸で最大の輸送機関であり、そこに所属する船の総数は二万隻を遙かに超える。商用船だけで、だ。

 江陵に所属しない大陸の軍艦、商用船を全てかき集めても、長江を航行できる大きさの船は一万隻に届くかどうかというところであるから、その輸送能力も大陸で最大と言って良いだろう。

 今回の輸送作戦には軍艦まで出張ってきているため、一見すると長江が詰まるのではと考えてしまうほどの船が集まっている。

 川が見える場所まで出れば、対岸がかすむ広さの大江を埋め尽くす江陵を示す青い旗を掲げた船が、その圧倒的な光景が、否応なしに安堵と畏怖を呼び起こすだろう。

 事実としては半分は渋滞しているのだが、そのあたりは孔明や鳳統や現場の張遼たちが頑張って調整しており、何とか予定通りの輸送を実現している。

 

「オラァ! そこでチンタラしとる婆ちゃんを助けんかい! そんでも江陵の男か!」

『ありがとうございます!!』

 

 恍惚とした表情でお婆ちゃんと荷物を担ぎ上げた一団を見送りながら、張遼は呆れたようにこめかみを揉み、改めて周囲に目を走らせた。

 

「……んー、やっぱりちょぉ手間取っとんなぁ……。もうちょい先の方まで足を伸ばした方がええんかなぁ」

 

 現在、張遼たちが先行して民を収容しているのが盧江(ろこう)郡の(じょ)県。

 ここには長江の北岸、龍舒(りゅうじょ)合肥(がっぴ)六安(りくあん)(せん)といった街から人々が集まってきている。

 当初は周家の揚州脱出に付き従う人々が、次に劉表の揚州制圧から逃げようという人々が、そして最近では孫呉の蜂起と袁術軍から逃げる人々がこの地を揚州の出口に見立てて逃げ込んでいるのだ。

 特に合肥や六安は、孫呉が進駐している寿春(じゅしゅん)に続く道があるため、孫呉から逃げる袁術の影響も、それを追う孫呉の影響も大きく受けてしまい、民は悪影響に追われるようにして足を急がせていた。

 張遼の目的は難民の護衛と移送であるため、そういった悪影響の大きな地域に注力して行けば、より多くの被害を防げるはずではあるが……。

 

「……よっし、決めた! 龍舒まで兵を進めんで! 護衛の連隊と警邏大隊、工作大隊と補給大隊を一個ずつ残して明日の朝に出立や!」

 

 袁術と孫呉がぶつかった、あるいは通過しているのはかなり北よりの地方である。

 最新の情報では陽泉(ようせん)に接近しているとあった。これは龍舒まで六安を挟んで馬で二日、軍を展開するなら早くて四日はかかる距離だ。

 江陵としては現段階で北進しての占領にうま味はない。しかし、長江沿いの港の周囲を掃除しておくことは今後の進軍の助けになるだろう。

 

 ――もし孫呉と遭遇しても、偶然っちゅーことやな! 星の言葉を借りるんなら『仕事が楽になるか楽しくなるかの違いでしかない』ってことや♪

 

 張遼は目を細めて楽しげな含み笑いを浮かべる。

 事前に鳳統から伝えられた状況の推移とその予想と比べるに、本当にそうなる可能性は五分より低い。

 だが、張遼の武人としての勘は、戦いの空気を間近に感じていた。

 

 

 翌朝、張遼率いる江陵軍は北に向けて長江沿いの港を離れた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「蓮華様、先行して偵察を行いたいと思います」

「いいわ。だけど明日には本隊がぶつかるのだから、兵の損耗は避けなさい、思春」

「はっ!」

 

 孫権と甘寧は今、荊州にほど近い安豊(あんほう)に陣を構えていた。寿春から西に向かい、陽泉、安風(あんふう)を越えた先の街だ。

 ここからさらに西進すると街道は揚州をかすめて荊州へと向かう。荊州へ入ってすぐに南下していけば、比較的小さな山地を抜けた先に江夏郡の中心都市、西陵(さいりょう)がある。

 北西の大都市南陽(なんよう)郡や、北にある袁家本拠汝南(じょなん)郡へ向かうには、一級河川である淮水(わいすい)を渡河しなくてはならない――という位置関係だ。

 孫権率いる五万を超す兵は、袁術軍の尻尾に食らいつこうとしていた。

 

 

 ――これより五日前。

 揚州の中心都市、寿春へと進軍した孫呉は、そこで呉郡四姓から派遣された文武官から江陵の息が掛かった者達を検挙していた。孫策の直感に従って。

 

「こいつもダメね」

「……やっぱり江陵が取り込みに動いていますよねぇ。あ、その人たちは手荷物を改めてくださいね~」

 

 陸遜が孫家直属の兵士を率いて、間諜たちを次々に取り押さえていく。

 

「――どいつもこいつもっ! 揚州を代表する名家の一員って自覚もないのかしら!」

「そこはー、揚州に所属する以前に大陸に所属してるという意識もありますから~」

「ちっ……江陵が動きだした以上は私が阻止に動くしかないじゃないの……」

 

 寿春の城へと入城してから、孫策の機嫌は降下の一途をたどっていた。

 なぜなら呉郡四姓と江陵を仲介しているのは落ち目の方ではない周家のようだから。

 その手口が巧妙で多岐にわたり、一筋縄ではいかないから。

 連動するように四姓から出された要求が、真っ当すぎて突っぱねられないから。

 敵対できない四姓との協議は、孫策と陸遜にしか出来ない仕事だから。

 

「ですねぇ。江陵の手口は巧妙ですし、雪蓮様以外では誰も止められないですよぉ」

「……ぐぬぬぬ」

 

 つまり前線に出られないということだから。

 

 

 そうして袁術討伐は孫権の手にゆだねられた。

 袁術軍は安豊の西を西進しているが、荊州まではあと三日はかかる位置だ。孫権軍なら明日には追いつき、丸一日程度の追撃で壊滅まで追い込めるだろう。

 問題があるとすれば、荊州へ向かう難民が多く所々で道をふさがれてしまっていることだろうか。軍事行動が優先されることは言うまでもないが、だからと言って民を傷付けてしまってから「民を守る」などと宣言しても耳を傾けてはもらえまい。

 血気盛んというか猪突猛進というか暴虎馮河と表するべきかという甘寧にはそういった微妙な案配の仕事は任せづらいため、(りょ)(もう)を始めとした孫権直属の部下たちが走り回って進軍を補佐している。

 もちろん歴戦の武将としての甘寧には期待しているのだが。

 

「私たちは陣を設置した後、西側の街道で進軍の障害になる民たちを移送するわ。思春は袁術軍陣地の位置とその進路の確認、障害になりそうな民の集団などの有無を調べて」

「心得ております」

「戻ったら明日の出立までには十分な休養を取っておいて。理由は……言わなくても分かるわね?」

「はっ」

 

 主従は阿吽の呼吸で襲撃の準備を進めていく。袁術軍の終焉の時は、彼らのすぐ後ろに迫っていた

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「ふぅー……。ここまでくれば、ひとまずは安心でしょう」

 

 一仕事やり遂げいい汗かいたと言わんばかりの輝かしい笑みを顔に貼り付けて、張勲は汗をぬぐうような大げさな仕草で道化を演じる。彼女も疲れてはいたが、必要なことだと割り切って表に出さない。

 本当のところ、湿気の多い季節だったので長く馬に跨っていた足には汗も滲んでいたのだが、余裕のなかった張勲はそれに気付くこともなかった。

 張勲はちらりと愛する主の様子を窺う。出来れば気付きませんように。気付いても気にしてませんように、と。

 だが、彼女の愛する主君はそんな側近のいじらしい心遣いも目に入らない様子で熱心に周囲を見回していた。

 

 ――なんでそんなに熱心に見てるんですかねー?

 

 翡翠色の瞳が張勲を見上げ、ときめきではない予感に心臓が跳ねる。

 

「のぅ七乃?」

「はいはーい。どうしました、お嬢さま?」

 

 張勲は、自分の笑顔が引きつっているんだろうなとおぼろげながらに感じた。

 なぜなら愛する主君が眉を寄せていたから――ではない。否、間接的にそれが原因ではあるのだが、もっと直接的に言うと、口をとがらせ眉を寄せている可愛らしい主には既にバレてしまっている、と理解できてしまったからである。

 

 ――あぁぁっ、いつも通り気付かないでいてくれて良かったのに……。

 

 既に半ば手遅れだったが、張勲は袁術の口から漏れる言葉が自身の想定しているそれと異なっていてくれることを祈った。

 でもやっぱり無駄だった。

 

「劉家は赤い旗を掲げると思うんじゃが、何でさっきから青い旗しか見えぬのじゃ?」

「旗を間違えたんじゃないですか?」

「そんなわけないじゃろ」

「ですよねー♪」

 

 





>桁を一つか二つ間違えたのではないかという量
「新学期から新しい先生を二〇〇人ほどお迎えしたので紹介します」
 みたいな。

>「誰が勝ち残るかな……」
「俺は大陸を支配する者達にとっては一地方の領主でしかない。しかし未来永劫にわたってそうだろうか? そうであらねばならぬ正当な理由は何処にもない……」
 江陵がやってることがまるっきりフェザーンだったので空海は黒狐だと思います。あとノリで言ってるので別に劉表と対決したいとかそういう意味じゃないです。
「勝ち上がる気はないけど勝ち残る自信はあるぜ!」
 なんという自信……やはり卿は天才……。しかしこの自信が、後に大いなる災いを招くことになろうとは、この時の天才は思いもしなかったのです。
 銀河系オリオン椀太陽系第三惑星地球の歴史がまた一ページ……。

>華雄は犠牲になったのだ……江陵の犠牲、その犠牲にな……
 私は華雄が好きなんですけど出番これだけですかね?

>長江が詰まる?
 長江は大きいから大丈夫。もちろん史実の赤壁より多い。演義の赤壁と良い勝負か。

>孫策あくどい顔からのー、張勲引きつり笑顔で締め
 今回の流れは完全にこれ。「袁術軍の終焉の時は、彼らのすぐ後ろに」。彼らです。彼女らではありません。


 遅れに遅れてすいません。去年一回しか更新してないという。
 ……恥ッ。あってはならぬこと……ッ!!
 しかしとにかく執筆が進まなくて……。続きはちまちま書いてます。



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