死に損ねた男 (マスキングテープ)
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第0話 紙一重で死ななかった男

 指輪から放たれた一条の光が、青年の胸を貫く。

 

 胸には小さな黒い穴が開き、彼は咳き込むように血を吐いた。青年を害した男の顔に血が掛かり、右目に血飛沫が入る。男は目に入った血を追い出そうと、しきりに瞼を動かした。

 周囲の男達が怒号を発しながら、二人に駆け寄る。彼らの目の前で、青年と加害者縺れるように床に転がった。胸を貫かれ、血を吐いてなお、青年は加害者に馬乗りになったまま、その押さえつける力を緩めようとはしない。

 加害者の男は周囲の喧騒に一切動じることなく、青年の首筋を狙って再び指輪からレーザー光を撃つ。しかし、血によって視界が悪くなったせいで、その狙いは僅かに外れた。青年の首筋の数ミリ横をレーザー光が走り、祝勝会場の上方へと抜けていった。

 

「軍医を!」

「キルヒアイス提督!」

 

 会場内にいた警備兵の一人が、弾かれた様に会場の外へと走っていく。

 男がもう一度青年を狙おうとする前に、二人は駆け寄ってきた高級軍人達によって引き離された。青年、キルヒアイスはその拍子に固い床に後頭部から倒れこむ。キルヒアイスが抑えていた相手の手が、不自然な方向に曲がって折れた。

 会場に残った警備兵は、突然のテロに混乱する現場と、自分より遥かに上の階級にいる士官達が冷静さを失っているのを、どうすることも出来ずに見守る事しか出来なかった。

 青い絨毯を己の髪色に僅かづつ侵食しながらも、キルヒアイスは加害者の折れた手をなおも固く握りしめ続けている。その手を、蜂蜜色の髪の男が丁寧に引き剥がした。

 

「アンスバッハ、貴様!」

 取り押さえた男の一人が、加害者たるアンスバッハを締め上げた。アンスバッハはそれを気にする風もなく、キルヒアイスの方へ視線を動かした。

 アンスバッハの視線の先、キルヒアイスの体は動いていない。

 

 キルヒアイスに決定的な止めを刺す事は叶わなかったが、あの様子では早晩助かるまい。ローエングラム候は殺せなかったが、その代わり彼の半身はもぎ取れた。それでヴァルハラにおわす公に納得して頂けるだろうか。アンスバッハはそう思い、苦笑交じりに微笑んだ。

 アンスバッハの笑みを見咎めて、男が自分の方へその顔を向けさせた。

 

「何を笑っている!」

「ブラウンシュバイク公、悲願を果たせぬ無能をお許し下さい。その代りに金髪の孺子の半身を手土産に持ってまいります……」 

 

 これがアンスバッハの最後の言葉だった。その声は穏やかながら、はっきりと会場にいる人々の耳に届いた。この直後、彼は奥歯を噛みしめた。周囲がそれと気が付いた時には、彼は既に事切れていた。これは、奥歯に仕込まれた即効性の毒によるものと後に判明する。

 アンスバッハが現世から退場するのと入れ替わるように、白い軍服の集団が会場内に入って来た。将官達は軍医に気が付くと、彼らとストレッチャーが通れるように道を開ける。

 キルヒアイスの胸には穴が開き、絨毯は少しづつ血の色の範囲を増やしている。到底助かるとは思えないと諸提督が考えていた一方、駆けつけた軍医達は僅かでも生きる可能性はないか、それを探っていた。キルヒアイスの状態を確認し終え、軍医の一人がどこかとしきりにやり取りをしながら、カプセル式ストレッチャーに彼の体を収容した。

 軍医達のまとめ役が、周囲の諸提督を見回した。彼らは動揺しているのか、まとめ役の軍医が視線を向けても何も言わず、動かない。軍医は、最後にこの場で一番最上位の人間、ローエングラム候ラインハルトを見た。

 黄金の覇者は、ハンドキャノン砲撃によって襤褸切れと化した緞帳の前で、何を指示するでも動くでもなく、ただ茫然と華麗な椅子に座していた。

 

 ラインハルトの耳元に、血色の悪い将官が何事かを囁いた。そうしてから、その将官は元帥の顔の近くに耳を寄せた。候の美しい顔がその動作で隠れてしまい、ラインハルトがどのような顔をしていたか、軍医の位置からはついぞ見ることは出来なかった。その将官は数秒後、軍医と目を合わせ、大きく頷き、こう言った。

 

「最善を尽くすように」

 

 彼にとってその言葉で充分だった。軍医は部下達に命じてストレッチャーを手術室へ運ばせると、慌ただしく踵を返した。会場外に出る直前、軍医は振り返って敬礼をしたが、遠くから見たローエングラム元帥は、最初に目を合わせた時と同じく茫然としているように彼の目に映った。



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第1話 ヴァルハラから送り返された男

 

 

 キルヒアイスは、上級大将の軍服を着て花畑に一人佇んでいた。先程までアンスバッハが彼の隣に居たのだが、美しい女性達が操る古めかしい馬車に乗せられ、どこかへ連れて行かれてしまった。

 

「あれが死者をヴァルハラへと誘うワルキューレなのだろうか」

 

 キルヒアイスが一人呟くも、返る言葉はない。ふと気が付けば、上空から先程アンスバッハを連れて行ったのと似たような馬車がやって来た。それは、独り言を発してから数秒後のことにも、数十年後経ってからのようにも、キルヒアイスには感じた。

 馬車の操り手がキルヒアイスの方へ顔を向けた。その顔は、彼がもっとも愛してやまない女性と同じだった。

 

「アンネローゼ様!」

 

 キルヒアイスの叫びに、彼女は首を傾げた。古色蒼然とした戦装束を身に纏う彼女は、無言で馬車を指差した。乗れということだろうか、彼はそう解釈して、歩みを進めた。

 すると、彼女のすぐそばに、馬にも狼にも見える不思議な生き物に乗った女性達が降り立った。彼女達もやはり似たような戦装束を纏っている。

 その顔を見て、キルヒアイスは思わず声を上げそうになった。アンネローゼ似の女性と話す、黒髪の美女二人。怜悧な美貌の方は、ヴェストパーレ男爵夫人に、もう一人の艶麗な女性はベーネミュンデ侯爵夫人と酷似している。

 過去の出来事を思い出し、キルヒアイスは身構えたものの、彼女に本物のベーネミュンデ侯爵夫人の持っていた毒々しさは欠片もなく、アンネローゼ似の女性に向ける眼差しは優しい。

 

 彼女達の傍には、ふくよかで愛らしい女性が三人の様子を見守っている。この女性もキルヒアイスの知る顔、シャフハウゼン子爵夫人に似ている。その傍で、まだ幼いが高貴さに満ちた美少女がキルヒアイスの方をじっと窺っている。少女は、かつて任務の際に出会ったマルガレーテ嬢の面差しを持ち、その小さな腕に大きな紅髪の兵隊人形を抱えている。

 マルガレーテ嬢に会ったのは五年前、彼女が十歳の時だった。帝国暦四八八年の時点で十五歳。背も伸びて、ずっと美人になっているだろう。しかし、こちらを見ている少女は出会った当時の十歳のマルガレーテの姿だ。彼女の後見人がマルガレーテを十歳で死なせるようなことをするとも思えない。

 そこまでキルヒアイスは考えて、これは死の間際にみる夢であると結論付けた。夢だから登場人物が皆知った顔なのだとも。

 

 わいわいとキルヒアイスには解らない言語で話し合っていた彼女達が不意に静かになった。少女がキルヒアイスを指差す。背後で白い光が輝くのを感じ、キルヒアイスは後ろを振り返った。侯爵夫人似の女性が、別れのあいさつの様にひらひらと手を動かした。

 あの光の方へ進めという意志を感じて、キルヒアイスは白い光に向かって歩き始めた。ふと上を見上げれば、彼女達はそれぞれの乗り物に乗って空へ帰っていくのが見えた。男爵夫人のそっくりさんが楽しそうに手を振る横で、最愛の女性に似た存在は清らかな笑みをキルヒアイスに見せ、空の中へと消えていった。

 

 

 

 帝国暦四八八年九月九日。ガイエスブルグ要塞内の手術室で、キルヒアイスに対する緊急手術が行われた。彼の体は、レーザーに貫かれた胸部、床で強打した頭部など複数部位に深刻なダメージを負っており、その手術時間は数時間にも及んだ。

 

「手術は成功しました。ただ、依然として予断を許さない状況です」

 

 長丁場の手術を終え、執刀医が手術室から出て来たのは九月九日も終わろうかという時間であった。執刀医はそれだけを述べると、近くにいた軍医や看護婦達にいくつか指示を与え、壁に思い切り寄り掛かった。

そのすぐ近くで、ラインハルトが廊下に座り込み、ぼんやりと向かいの壁面を見ていた。その隣には顔色の良くない参謀が付き従っている。

 ラインハルト旗下の一部将官達も、キルヒアイスの手術室前でラインハルトと共に待機していた。しかし、執刀医の、手術と移動の邪魔なので と、オブラードに包まない一言によって追い散らされており、現在は士官用ラウンジで待機している。

 

 手術を終えたキルヒアイスがストレッチャーに乗せられ、執刀医の前を通って集中治療室へと搬送される。

 キルヒアイスの存在を視認して、ラインハルトは立ち上がり、夢遊病者の様にストレッチャーの方へと近付いた。執刀医が、ラインハルトの進行方向に手を投げ出し、その歩みを止めさせた。自分の歩みを邪魔する存在に気が付き、ラインハルトが執刀医を睨んだ。執刀医がそれに臆した様子はない。執刀医にとって、大貴族の我儘や無茶振り、情緒不安定になった患者の八つ当たり、関係者の妬みや逆恨みと比べれば、若造の睨み程度は意に介さない。

 

「医学に造詣のない私にもわかるように説明してくれ、キルヒアイス提督はどういう状態か」

 

  ラインハルトの傍らに立つ義眼の男は、何の感情の揺らぎも見せず、淡々と質問をした。執刀医はパック入りジュースを飲みながら、近くの若い軍医に説明を促す。

 

「楽観的なことは一切申し上げられません。まず最初に、この三日が運命の分かれ目です。また、今後も複数回に渡って手術が必要になるかと。それを乗り越えても、意識が回復するのか、それがいつになるかも現時点は不明です。活動レベルを意図的に低くして身体機能の保全を最優先し、症状の悪化を防いではいますが、意識が回復した後、後遺症が出る可能性もあります」

「つまり現時点では、キルヒアイス提督はこのまま死ぬか意識が戻らない可能性が高く、意識が戻っても元の生活に戻ることは難しいかもしれない。ということか」

 

 若い軍医が丁寧に噛み砕いた説明を、義眼の男はあまりにあけすけに要約した。

 

「オーベルシュタイン!」

 

 ラインハルトは、その秀麗な美貌と声にあらん限りの負の感情を込めて怒鳴った。その声が廊下に響き渡る。しかし、執刀医もオーベルシュタインも眉ひとつ動かすことなく、年若い軍医だけが怯えていた。やがて、その勢いもあっという間に萎み、ラインハルトは頭を抱えて縮こまる。ラインハルトに敬礼をして、オーベルシュタインはその場を立ち去った。執刀医は集中治療室へと向かい、若い軍医がその後に続く。

 空っぽの手術室の前で、ラインハルトだけが動けずにいた。

 

 

 ラインハルトの所を辞したオーベルシュタインは、その足で諸提督らが集まる士官用ラウンジへ赴き、キルヒアイスの容体について簡潔に知らせた。ラインハルトを激昂させたのと全く同じ言い回しで以て。そして、それに対する反応は、主君とその部下達でほぼ同一であった。

 ただ一つ違う点があったとすれば、それに執刀医への非難が追加された事である。

 

「それでは何も出来ん、何も分からんと言っているのと同じではないか!無能な医者め!」

 

 まず口火を切ったのは、猛将と名高いビッテンフェルト提督で、そう叫ぶと同時に己の拳を机に叩き付けた。乾いた音が鳴り、他の提督達にざわめきが広がる。集まった中で最も若いミュラー中将が、それに触発されたように言葉を発する。

 

「そもそも何故、正規軍の軍医ではなく、賊軍の私兵に過ぎないフェザーン人医師がこの大事な手術を任されているのか!」

 

 それまで周囲の喧騒の中、沈黙を保っていた男が薄く眼を開いた。彼の黒と青の瞳がミュラーを一瞥し、静かに冷笑した。それらの不安と熱に浮かされたようなざわめきが治まるのを待って、オーベルシュタインがおもむろに口を開いた。

 

「医者に掛かって全ての患者が治癒し、病気や怪我の全てが医者に見通せるなら、老衰や自殺以外で死ぬ人間はもっと少なかっただろう。この場合、あの状態を生かしている医者と、持ちこたえているキルヒアイス提督を称賛すべきであろう」

 

 オーベルシュタインは、諸将を見回して言葉を続けた。彼らはその言葉の正しさを理屈の上では理解できたが、キルヒアイスを失うかもしれない事態に、感情がその正しさを理解したがらないでいた。

 

「また、ローエングラム候は、キルヒアイス提督の治療に際し、最善を尽くせとご命令になった。その意を受けた軍医達が最善を模索した結果、賊軍に雇われていた彼に執刀を任せるのが良いと判断したまで。何しろ、帝国の医療技術はフェザーンや同盟に比べればずっと低水準の上に、彼はそのフェザーンで指折りの名医だ。これ以上の適任は他におらぬ」

 

 ミュラーが顔を上げると、オーベルシュタインの無機質な義眼とかち合った。オーベルシュタインは、ミュラーから白髪頭の青年提督へと視線を移し、再び提督達全員を見回した。その刹那、ミュラーは自らの失態を悟った。

 

「それに賊軍に与した者の中で、帰順を表明した者を、ローエングラム候は受け入れておられる。そこなファーレンハイト提督の様に。その医師も同じ事」

「しかし、フェザーン人などに任せてはおけん。もし金で転んで、キルヒアイス提督を害するようなことがあれば。やはり忠誠ある帝国軍の軍医に」

 

 オーベルシュタインの言葉を遮って、岩のような剛毅な容貌の将官が言い募った。オーベルシュタインは彼を一切見ることなく、その仮定を切って捨てる。

 

「この場合、キルヒアイス提督の生命を救うのは忠誠心ではなく、医療技術だ。担当する医師には高い技術と、患者が何者であれ最善を尽くす、最低限の職業倫理が備わっていれば良い。それとも卿は助かるかもしれない者を死なせてまで、そのような瑣事に拘りたいのか」

 

 男が言葉に詰まり、怒りのために顔を赤黒く染めるのを、虹彩異色症の提督が面白そうに見やっている。その提督は皮肉気な笑みを隠そうともせず、それぞれ異なる色の両目をオーベルシュタインに向け、挑発する様に言った。

 

「ほう、ナンバー2不要論を唱えていた者の言う事とは思えぬ。卿こそがキルヒアイス提督の死を望んでいたのではないか?」

「やめろ、ロイエンタール!」

 

 その時、、蜂蜜色の髪を持つミッターマイヤー大将が、アンスバッハの起こしたテロ事件について一通りの調査を終え、士官ラウンジに入って来たところであった。彼はロイエンタールを制すと、オーベルシュタインを睨みつけた。それを受け流して、オーベルシュタインは言葉を紡いだ。

 

「卿は何か勘違いをしているようだ。確かに、組織にナンバー2は不要だ。しかし、それはキルヒアイス提督に限らぬ。卿らを含め、誰がなろうと同じこと。逆に言えば、ナンバー2の地位にないなら、キルヒアイス提督個人には何の問題もない」

 

 オーベルシュタインは、提督達を一通り観察する。皆それぞれ面白くなさそうに唸っていた。

 

「では、これからグリューネワルト伯爵夫人へご報告せねばならぬ。失礼する」

 

 オーベルシュタインが退出した後、ラウンジの方で大きな音がいくつか立った。オーベルシュタインはその音が聞こえていたが、それでも歩みを止めることはなかった。

 

 

 

 オーベルシュタインが、ラインハルトの姉、グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼに連絡を取ったのは、翌九月十日深夜から早朝の事である。また、医師の判断で、集中治療室にいるキルヒアイスへの面会許可が降りたのも、同日朝の事である。

 

 オーベルシュタインは、ラインハルトの所へ赴く途中、カスタード色の髪を持つ従卒とすれ違った。少年は何度も何度も上を見上げては、泣くのを必死に堪えている。その従卒は、オーベルシュタインの存在に気が付くと慌ただしく敬礼をした。従卒の足音が遠ざかった頃、オーベルシュタインはしばし記憶を探り、それがキルヒアイス付きの従卒であると気が付いた。

 

 ラインハルトは集中治療室近くの廊下で立ち尽くし、鸚鵡のように同じ文言を繰り返していた。

 

「宇宙を……手に入れる……」

 

 集中治療室への出入り口を見やった後、オーベルシュタインはラインハルトの顔を観察するようにじっくり眺めた。太陽神に例えられる程の彼の美貌に、今は負の感情による翳りが差している。しかし、その翳りはいささかもラインハルトの美貌を損なう事がなかった。

 

「キルヒアイス提督にお会いになられたようですな。ところで閣下。オーディンのグリューネワルト伯爵夫人より通信が入っております」

 

 オーベルシュタインの言葉を聞いた瞬間、ラインハルトはオーベルシュタインが何をしたかを悟って憤慨し、その胸倉を掴んだ。

 

「貴様!」

「閣下。ご自分をお責めになるだけで、他の者をお責めにならないのはよろしい。しかし、無為に悲しみに沈んでおられる間にも、リヒテンラーデ候らはオーディン本土で閣下を陥れようと準備を進めている事でしょう。閣下が戦いに敗れれば、オーディンにおられる姉君は、生死の境を彷徨っているキルヒアイス提督はどうなります」

 

 ラインハルトは打ちひしがれたように、廊下にへたり込んだ。オーベルシュタインは主君を見下ろし、その目を眇めた。

 

「姉君はまだよろしい方かもしれません。今のキルヒアイス提督は、歩いて逃げることはおろか、言葉を発することもままなりません。今やキルヒアイス提督は、閣下と運命はおろか、命そのものを共にされているのです。……それでもまだ無為な悲しみに浸って、現実からお逃げになりますか、ならば貴方はそれまでの人だ。宇宙はおろか、キルヒアイス提督一人の命すら背負える人ではない」

 

 オーベルシュタインの軍服から、ラインハルトは手を離した。

 

「姉君とお会い下さい。そして未来についてお考え下さい。私は貴方をまだ見放してはおりません」

 

 この時のオーベルシュタインの口調は、随分柔らかかったようにラインハルトには聞こえた。

 後日、ラインハルト自身がこの事を振り返ったが、それが自分の動揺や願望ゆえにそう聞こえたのか、本当にそのような口調だったのか、ついにその答えは得られなかった。

 

 

 

 姉のアンネローゼとの通信を終え、部屋から出て来たラインハルトは、彼本来の燃え盛るような覇気を取り戻しつつあった。オーベルシュタインを従え、ラインハルトはミッターマイヤー、ロイエンタール両大将と中将達の待機している、ガイエスブルグ要塞内の士官専用ラウンジに赴いた。

 

 ラインハルトは、諸将達を前に、オーディンでリヒテンラーデが自分達を陥れようと画策しているとの報告を受けたことなど、幾つかの傍証を上げて、最後にこう締めくくった。

 

「従って、アンスバッハはリヒテンラーデ候に唆されて、私の命を狙い、キルヒアイス上級大将を害した。これは向こうから仕掛けて来た事だ。ならば、私も受けて立つしかあるまい。メックリンガー、ケスラー。卿らはガイエスブルグ要塞に残り、残存部隊を指揮して守備を固めよ。また、我が軍にもリヒテンラーデ候の親類縁者が幾人もいる。彼らから余計な情報が洩れぬよう、理由を付けて拘禁するか、密かに監視を付けておけ」

「はっ」

メックリンガーとケスラーは美しい敬礼でもって、ラインハルトの命令を受諾した。

 

 

「ミッターマイヤー、ロイエンタール。卿らが主力となり、各艦隊から高速艦艇を選抜。急ぎオーディンに戻り、リヒテンラーデ候を逮捕、国璽を確保せよ。これは一刻を争う事態だ」

「御意」

 

  ミッターマイヤー、ロイエンタール両提督はラインハルトに向かって頭を垂れた後、主君の傍らにいるオーベルシュタインへ、憎しみと嫌悪の眼差しを一瞬向けた。

 

「他の中将はミッターマイヤー、ロイエンタール両提督に続いてオーディンに出立せよ」

 

 怒号のようにすら聞こえる返事が、士官用ラウンジを満たした。居並ぶ諸将達が一斉に敬礼する。それにラインハルトも応えて敬礼する。ラインハルトが腕を下ろした瞬間、諸将達が急ぎ足でラウンジを退出していった。

 

 

 

 帝国歴八八年九月中旬の、オーディン及びガイエスブルグ要塞は、水面下の危うさとは裏腹に、リップシュタット戦役における勝利とそれによる高揚感に満たされ、まずます穏やかな日々が続いた。リヒテンラーデ一族の士官達は自分達が監視されていることも知らず、家族や恋人と、手紙やビデオメールなどを通じて、今後の幸福な生活への希望などを語っていた……。

 一方で、危うい事もあった。ラインハルトは、キルヒアイスの事を、リヒテンラーデ候を油断させるための嘘の材料とした。これはある意味成功したが、同時にラインハルトの心胆を寒からしめることにもなった。

何故なら、九月十五日、キルヒアイスの容体が本当に急変し、頭部の再手術を行う事になったからである。幸いにも手術は成功したが、キルヒアイスの意識は戻らず、集中治療室から出て来ることもなかった。

 ラインハルトは、一日一回たった五分許された面会のために、集中治療室を毎日訪れていた。

 

 

 帝国暦四八八年九月二十四日。

 ミッターマイヤー、ロイエンタールら率いる高速艦隊は、多くの脱落者を出しながらも首都星オーディンを制圧。リヒテンラーデ候クラウスの拘束と国璽の確保に成功する。また、リヒテンラーデ候の一族を逮捕。ラインハルト旗下の艦隊に所属して戦っていたリヒテンラーデ一族の軍人も、同日には要塞内の留置所に放り込まれた。

 

 同年九月二十五日。

 帝都を制圧したロイエンタールから、戦艦ブリュンヒルトのラインハルトへ通信があり、彼らが捕えたリヒテンラーデ候及びその一族の処遇についてラインハルトの裁可を仰いでいた。

 宰相たる功績とその地位を勘案してリヒテンラーデ候には自裁を勧め、リヒテンラーデ候の一族、具体的には六親等までの女性及び子供は辺境へ流刑。十歳以上の男子はすべて死刑。今は子供でも、成長して自分を倒しに来るならそれも良し。それがラインハルトの判断だった。

 ロイエンタールは、その命令を復唱し聞き返して時間を稼ぐことで、その間にラインハルトが翻意することを願ったが、それは徒労に終わった。

 

「卿らも、私を倒す自信と覚悟があるならいつでも挑んできて構わない。実力のない覇者が打倒されるのは当然のことだからな」

「御冗談を……」

 

 ラインハルトのこ一言は、主にキルヒアイス一人守る事の出来なかった己の至らなさと、そのような自身への苛立ちから発せられていた。また、この日は、ラインハルト達がガイエスブルグ要塞を出立する日であったが、キルヒアイスの意識は未だ戻らず、また容体が安定していないため、ラインハルト達と一緒に帰ることが叶わなかった。そのことにラインハルトが子供じみた不満を抱いていたという事情もある。

 簡潔に言えば、これはある種の八つ当たりで、ロイエンタールはその巻き添えを食ったのである。

 昏い陰を帯びたラインハルトの声と笑いに、ロイエンタールは形式的な事以上の事を何も答える事が出来ないまま、通信は終わった。オーベルシュタインが、まもなく出航である事を告げるべく、艦橋にあがってきたのはちょうどその時であった。

 

「ところで、リヒテンラーデ候一族の処遇、あれでよろしいのですか」

 

 そうラインハルトに問うたオーベルシュタインの声には、常にない戸惑いが滲んでいる。少なくともラインハルト自身はそう感じた。ただ、オーベルシュタインが何に戸惑っているのか、神ならぬラインハルトに分かろうはずもなかった。

 ラインハルトにとって、リヒテンラーデ候とその一族は、彼が覇業を成し遂げる為には必ず倒さねばならない相手で、ラインハルトが殺した人間のリストに彼らの名が加わった所で、今更何の感慨も浮かばない。それが正直なところである、とラインハルトはオーベルシュタインに語った。

 オーベルシュタインは、自分が感じる引っかかりが何なのか自身でも把握しかねていたため、それ以上の進言を控えた。また、ラインハルトがその覚悟を以て、リヒテンラーデ一族処断を決断した以上、オーベルシュタインに出来る事はもうなかった。

 この処罰で生き残った者達が、どのようになるかを解っていても。

 

  やがて戦艦ブリュンヒルトが、ガイエスブルグ要塞を出港する時間を迎えたため、リヒテンラーデ一族についての話はそこで終わった。

 ラインハルトは静かに瞼を閉じた。目を閉じれば浮かぶ赤がある。それは、流して来た血の色なのか、自分の片翼の色なのか、もう彼には分らなかった。

 

 

 翌二十六日、前帝国宰相リヒテンラーデ候クラウスは自裁。リヒテンラーデ一族の、十歳以上の男子に対する銃殺刑が執行。

 また、女子供は辺境の各地の流刑星へ向かう護送船にそれぞれ乗せられ、首都星オーディンを離れた。

 それはオーディンへと帰投するラインハルト達正規軍の凱旋と対照的に、汚名と悲壮に満ちた寂寞たる船出であった。

 

 

 同年九月末。キルヒアイスは、ラインハルトの出立に遅れること五日。キルヒアイスの身体状態の安定を受け、彼は自身の旗艦バルバロッサに乗せられ、オーディンへの帰還の途に着くことになる。

 

 



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第2話 息を吹き返した男

 キルヒアイスより早くオーディンに帰還したラインハルトは、リヒテンラーデ公の死によって空白となった帝国宰相。その代理として政治権力を実質的に獲得し、国内安定と権力基盤構築のために奔走し始めた。また、キルヒアイスの執刀医兼主治医たるフェザーン人医師の経過報告や意見に基づき、彼を受け入れる病院の選定や受け入れ準備を進めさせていた。

 

 帝国軍の軍病院に、キルヒアイスが収容されなかったのには訳がある。

 キルヒアイスがその命を繋いだのは、執刀医兼主治医であるフェザーン人医師他医療関係者の尽力とフェザーンの進んだ医療のお蔭であった。 しかし、フェザーンの最先端医療を施すための医療機器や薬剤、それの扱いに熟達したスタッフが、帝都の軍病院にはなかったのである。

 ガイエスブルグ要塞にそれらが揃っていたのは、奇しくも元雇い主である門閥貴族が、医師を連れて来るにあたってそれらも用意していたからであった。

 

 主治医以下医療スタッフや一部の機器などは要塞から移動するとして、薬剤など消耗品は患者の現状維持のために常に消費されるものであり、在庫にはいくらか不安があった。トラブルによる移動時間の延長は、その消費に一層の拍車をかけた。

 また、ガイエスブルク要塞攻防戦におけるリップシュタット連合軍敗走前後の混乱で、医療機器の予備機や薬剤は破損や紛失で使えなくなっている。キルヒアイスの命を繋ぐための機器は、現在使用中の物が唯一であるという事実は、医療関係者の精神を削るに充分であった。

 

 更に、リップシュタット戦役における門閥貴族の醜態。それらも含め、帝政五百年で累積した平民や下級貴族達が抱く、門閥貴族への反感と鬱屈。彼らの負の感情の矛先は、門閥貴族だけに及ばず、その周辺にも向けられた。即ち門閥貴族達に仕える使用人、出入り商人、お抱え職人などである。

 そして、門閥貴族に高額の報酬で雇われたフェザーン人医師という存在は、彼らが抱える反感をぶつけるのに打ってつけだった。敗戦時における医療機器や薬剤の破損、紛失は、これらの結果引き起こされたのである。

 上層部の将官達は、キルヒアイスの命を救う為には、彼らフェザーン人医師達の力が必要であると理解していたし、内心思う所はあってもそれを口にしないだけの良識を備えていた。しかし、末端の兵士、下士官、士官達全てがその認識と良識を備えていた訳ではない。彼らは己の正義感と感情の赴くままに、フェザーン人医師達を攻撃の対象としたのである。

 フェザーン人医師達と共同でキルヒアイスの治療にあたっている軍医や看護婦は、何故彼らと協力しているのかと詰め寄られる事もあった。これらはまだいい方で、フェザーン人の医療スタッフらは、士官や兵士から難癖を付けられるなど大なり小なりの嫌がらせを受け、その心身を更に削がれていた。その事が元で医療スタッフの女性が心労で倒れるに至り、遂にバルバロッサの艦長、更には護衛部隊の指揮にあたっていたベルゲングリューン准将までが出張る事態に発展した。

 

 

 キルヒアイスの主治医の意見を基に、医療的見地から受け入れ先の検討やその準備を進めさせていたラインハルト。そこへ、ベルゲングリューンからこの件に関する報告が齎された。通信を切った後、ラインハルトはその秀麗な面持ちを苛立たしげに歪めた。

 

「軍病院を収容先の候補から外しておけ。このままでは医師達が無用の軋轢に晒された挙句、キルヒアイスの治療に支障が出かねん」

「御意。それと、この様な事態は帝都にある他の病院でも事情は同じかと思われます。今の医師達をキルヒアイス提督の治療から外して、全ての医療スタッフを帝国本土の帝国騎士や平民出身者に、それも門閥貴族の治療を担当した事のない人物に入れ替えでもしない限り、このような事態は繰り返されるでしょう」

 

 呆れるように大きな溜息を吐いて、ラインハルトは指先で執務机を奏でた。ラインハルトの肚は最初から決まっている。オーベルシュタインはその念押しを促しているのだと、ラインハルトには察せられた。机を叩いていた指の動きが止まる。

 

「彼らには、キルヒアイスの治療に引き続き専念してもらう。既にある病院で、彼らの存在が受け入れがたいというのなら、彼らだけの施設を見つくろえばよい」

「既にいくつか候補地を選定済みです。オーディン郊外に、歴代皇帝や門閥貴族達の別荘地や療養地だった場所があります。そこの元医療施設をうまく活用できればと」

 

 ラインハルトのアイスブルーの瞳が、驚愕のために少し見開いた。オーベルシュタインは、この事態を既にある程度予測していたらしかった。

 

「分かった。以後は卿に任せる」

「御意」

 

 その後、いくつかの事案について話し合った後、オーベルシュタインが部屋を辞した。オーベルシュタインが部屋の外へ出る寸前、ラインハルトは自嘲するようにこう呟いた。

 

「皮肉なものだ。俺達が軽蔑してきた門閥貴族。その遺産がキルヒアイスの命を助け、この戦いを早く終わらせるために煽った憎しみが、キルヒアイスを殺そうとしている……」

 

 その声を拾ったオーベルシュタインは、背後のラインハルトの様子を伺おうとして辞めた。ラインハルトはなおも言葉を続けていたようだが、オーベルシュタインはその続きを聞くことはなかった。

 

 

  参謀長室に戻ったオーベルシュタインは、副官のフェルナー大佐を呼び、ラインハルトから受けた大まかな方針について伝えて、キルヒアイスの療養先となる場所を二人で話し合った。それから、キルヒアイスの受け入れ準備についての具体的な瑣事、例えば医療施設の警備や、施設運営にかかる人員の選定、機器や薬剤の搬入などについて、委細をフェルナーに託した。

 

「では、そのように。しかし、よろしいのですか。あの医師は……」

 

 かつて、主君であったブラウンシュバイク公を見限って、堂々とラインハルトに自身を売り込んだ豪胆な男。それがフェルナーである。その彼が、奇妙に言葉を濁すのに、オーベルシュタインは珍しい物を見るような目で、フェルナーの顔を注視した。

 

「構わん。ローエングラム候は既にその事をご存じだ。その上で、彼にキルヒアイス提督の命を託されると決めた。あの男が故意にキルヒアイス提督を害するようなことがあれば、その誤りに対して同じ報いが待っている。それだけのことだ。それにあの男を排除した所で、彼に代われる程優れた軍医、いや、医者が帝国内にはいない」

「それ程までに、フェザーンの医者の質が高いのか、それとも帝国の医者が無能なのでしょうか」

 

 フェルナーは不可解だとでも言うように、上司たるオーベルシュタインに尋ねた。

 

「いや、あの医者が言うには帝国の医者もフェザーンや同盟に比べて、決して劣ってはいないと。ただ……」

 

 

 

 

 

「ただ、帝国の医師が学ぶ医療技術や知識は、フェザーンや同盟と比較して著しく偏りがあるんだ。義肢や外傷に対する応急処置に関してなら、帝国の技術だってそう捨てたものでもない。一方で先天性疾患などの研究はフェザーンや同盟と比較して何十年も遅れてる。これは分かるな」

「はい」

 戦艦バルバロッサ艦内。若い軍医に、キルヒアイスの主治医はジュースを飲みながら説明している。帝国では一般的に叛徒と称されている集団を同盟と呼ぶのは、フェザーン人の彼ならではだが、これを医療スタッフ以外の人間に聞かれたらと思うと、若い軍医の冷汗は止まらない。しかし、主治医は若者の心配などどこ吹く風といった具合に、平静な顔でそれを口にする。

 だがこの主治医、医療チームの中では、一番難癖を付けられたことがない。それは、彼がキルヒアイスの主治医として一番長く患者の側にいることの他に、一九〇センチを超える身長と陸戦隊員と勘違いしそうなほど、鍛え上げられた肉体を持っていることと無縁ではなかった。

 

「それと軍医学校でこう習っただろう。戦場では著しく物資と時間が限られている。だから、優先順位を付けろ。貴族と平民なら貴族、兵士と士官なら士官を。部隊を率いる人間が死んだらどうにもならんからな。そして」

「身分も地位も同じなら、治療してすぐに帝国の為に戦える者を優先せよ、ですよね」

 

 それは若い軍医が、軍医学校時代に何度も叩き込まれ、戦場で否応なしに苦しんだ現実であった。今でも、彼の中で完全に折り合いはついていない。

 初陣の際、兵士に治療の優先順位をつけるまでは良かった。だが、まだ息はあるのに、見込みなしとして捨て置かれた負傷兵が、苦痛の呻きを上げているのを聞きながら、時折その負傷兵の友人や同僚が、治療や苦痛の緩和を求めて軍医や看護婦達に縋って来るのを振り切らねばならないのは、中々に耐えがたいものであった。

 また、これらの優先順位は相対的な物で、ある戦闘では治療可能と判断される負傷程度が、激戦時には人手や時間、物資の不足で治療不可とせねばならないこともある。

 見込みなしと捨て置かれた負傷兵が、一人、また一人と死者の列に加わっていく。彼らを助ける知識も方法も学んできたのに、何もせずに彼らを見捨てるしかない。彼が命を救った負傷兵は、次の戦闘では宇宙の藻屑となる。まだ若い彼にとって、これらは何よりも辛い事だった。

 初陣の後、彼はしばらく悪夢に魘され、しばしば不眠に陥った。

 

「それが戦場だけに留まらず、日常の市中でも同じように判断される。それがこの帝国だ。ルドルフ大帝が、弱者とその過剰な救済は社会の活力を減じると、劣悪遺伝子排除法を定めて五百年。それがずっと染みついてるんだ。この国は。だから、この患者を、帝国の医師に任せる訳にはいかない」

 

 どこかで聞かれれば、不敬罪で逮捕されそうな文言を、主治医は平然と口にする。なので、若い医師は彼の話を聞きながらも周囲への警戒を怠らない。主治医と若い軍医の視線の向こう、特別治療室では、キルヒアイスが機器に繋がれたまま、辛うじてその命を現世に留めている。彼がいつ目覚めるのか、目覚めるとして元の生活に戻れるのかは、彼らと言えどまだ判断がつかない。

 

「帝国の医師には、優秀なやつも沢山いる。だがキルヒアイス上級大将は、帝国の医療基準に従えば、本来は早々に見捨てられる患者だ。そんな患者をどう扱えばいいか、帝国では方法も確立されていないし、その意識も薄い」

 

 握り潰されたジュースパックがダストシュートに放り込まれた。空いた右手が、小柄な軍医の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 

「だから、軍医のお勤めが終わったら、フェザーンに来い。お前はこの国で町医者するのには向いてない」

 

 主治医の精悍で整った顔に、何とも人好きのしそうな笑顔が浮かんだ。若い軍医は何とも答えることも出来ず、ただ乾いた笑いを童顔に浮かべた。

 後日、この主治医は彼に喋ったのと同じようなことをラインハルトに報告していたと知り、若い軍医はその小さな肝を更に潰した。

 

 

 

 未だ意識不明のキルヒアイスを乗せた戦艦バルバロッサは、道中小さなトラブルなどがあったものの、帝都オーディンに無事帰還した。その到着は、帝国暦四八八年十一月初めの事であった。ラインハルトの帰還より約二週間遅れての事である。

 

 

 



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第3話 死の床から目覚めた男

 帝国歴四八八年十一月一日。

 グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼは、キルヒアイスの療養先である、オーディン郊外のシュヴェリーンへと赴いた。

 シュヴェーリンは、サファイアブルーの海と象牙色の砂浜、鬱蒼とした緑の森がコントラストをなし、海と森の間には汽水湖と淡水湖を合わせ、合計十泓もの湖が点在する景勝地である。往時には、皇族や門閥貴族達の避暑地として利用され、しばしば狩猟や釣りなどが楽しまれていた。

 ただ、このシュヴェーリンは、皇帝の御用地であったフロイデン山地がそうであるように、許可無き者は侵入を許されず、周辺を飛行機が飛ぶことも許されていない。当然、滑走路もない。その為、地上車で数時間掛けての移動となった。

 

 シュヴェーリンまでは、地上車用道路が整備されているのみである。分岐も何もなく、すれ違う車もない。この長い長い一本道を走っているのは、アンネローゼを載せた地上車とその警護だけである。

  アンネローゼは、その憂いを帯びたディープブルーの瞳を車窓の外へと向けた。

 秋もそろそろ終わりを迎えている。シュヴェーリンに続く落葉樹の森は、己の黄や赤の葉で地面に厚い絨毯を織り成し、その幹と枝を寒風に晒していた。地面の鮮やかさとは正反対に、見渡す限りの木々。その枝には数えるほどの葉しかなく、背景となる空はべったりと厚い雲に覆われていて灰色をしている。酷く寂しい。アンネローゼは、風景に自分の心中を映し出されているような気にすらなった。

 

 やがて、落葉樹一色だった森に、常緑樹が混じり始めた。常緑樹は、地上車が目的地に近付くにつれてその割合を増していく。落葉樹の葉絨毯が消えて行き、地衣類の鈍緑絨毯と大地の灰茶色の床に代わっていく。木々の並びが途切れ、大きな湖がアンネローゼの目の前に現れた。シュヴェーリン最大の湖であり、唯一の汽水湖であるザルツ湖である。

 

 運転手兼警護人が、もう少しで到着であることを告げた。その言葉に、アンネローゼは後部座席の窓から目を離して正面を向いた。ふと、彼女は視界の端に動く物を見つけた。馬だ。それも人が乗っている。

 この辺りに訪れていた門閥貴族の殆どは滅んでいる。それに避暑に訪れるような時期でもない。遠目に見ても背が高く、体格が良い。馬も上手に乗りこなせている。警備に当たっている軍人だろうか、と彼女は検討を付けた。しかし、その人物の着衣が明らかに軍服でないことが分かった。この地域は厳しく立ち入りが制限されている上、同じ物が見えているはずの運転手が何の行動も起こさないため、関係者であることは確かだろうと、アンネローゼはそれについての興味を失った。

 

 

 アンネローゼの眼前にザルツ湖が広がっている。その湖の中心には小さな島があり、そこに地球時代のフレンチ・ルネサンス様式をモチーフとした小じんまりとした館が建っている。小さいとは言っても、一般的な門閥貴族の館に比べての事であって、平民の家などとは比較すれば、当然この館の方が大きい。

 この館は、元はと言えば、ブラウンシュバイク家代々の持ち物であった。更に先代ブラウンシュバイク公が、自身の病気療養のために改装したものである。その為、医療設備を入れて専門的な治療を施す事を織り込み済みで、短期間で受け入れ準備を整えるのに非常に都合が良かったのである。

 館のある小島には一つだけ橋が架かっていて、これが館に続く唯一の陸路であった。

 そこを通って、館の前に降り立つと、馬の鳴き声がアンネローゼの耳に届いた。彼女が辺りを見回せば、警備兵の幾人かが馬に乗って辺りを警戒している。犬を引き連れた兵士もいた。彼女が不思議そうにしていると、案内役を仰せつかった警備員が、この一帯は保護区であるから、地上車を乗り回したりして荒らすわけにはいかず、動物に頼るのが一番良いと説明した。

 動員されている馬や犬の多くは、門閥貴族達がリップシュタット戦役の折に見捨てて行ったペットの生き残りであるという補足に、アンネローゼは言いようのない悲しみを覚えた。この動物達もまた、戦役の見えざる犠牲者なのだと。

 

 アンネローゼはこの館の由来と背景を知識としては知っていた。

 この館を改装した先代ブラウンシュバイク公とは、先日亡くなったブラウンシュバイク公オットーの父である。ブラウンシュバイク家をあれほどまでに強大にしたのは、この先代の功績だと言えよう。領主としては名君と名高く、フリードリヒ四世の皇帝即位に少なからず貢献した。その功績もあって、息子オットーと皇女アマーリエの結婚が叶ったのである。

 

 アンネローゼの人生に間接的に影響を与えた人物。その遺産を間近で見ると、自分を寵姫として迎え、愛した老人のことを、アンネローゼは思い出さない訳にはいかなかった。

 

 

 

 童顔の軍医に案内されて、アンネローゼ達は衛生衣に着替えた後、キルヒアイスが意識不明になってから初めて彼と対面した。彼女にはよく分からない医療機器に囲まれ、医療用の液体に浸かったキルヒアイスを見て、アンネローゼは思わず声を上げそうになった。キルヒアイスの隣には、背の高い主治医がいて、彼女に話し掛けた。

 

「伯爵夫人、是非声をお掛けになって下さい。患者は今の状態でも声、外界からの刺激を認識できます。そうやって刺激を与える事で、目覚める可能性が高くなります」

 

 アンネローゼは、衛生衣越しに液体に手を入れた。ぬるま湯程度の温感が、薄い膜を通じてアンネローゼの白皙の手に伝わった。彼女はキルヒアイスの片手に自分の手を重ねた。施されている療法のせいか、キルヒアイスの手はアンネローゼの手よりも冷たい。

 

 彼女は戸惑った。言葉が浮かばない。何といって話しかければいいのか分からない。アンネローゼは、キルヒアイスへ言いたい事は沢山あった。ありすぎて、彼女の喉は詰まってしまったのかもしれない。珊瑚色の唇を震わせるアンネローゼへ、童顔の軍医がおずおずと声を発する。

 

「な、何でもいいんです。挨拶とかお天気、今日あった事、それから名前、そう名前をお呼びになって下さい」

「ありがとう」

 

 アンネローゼの金の睫毛が上下した。吸い込まれそうなほど深い青の瞳が、じっと軍医の方を見た。アンネローゼはただ穏やかに礼を言った。アンネローゼはキルヒアイスの方へ向き直った。彼女は、重ねた手が一瞬微かに動いたような感触を覚えた。

 

「おはよう、ジーク」

 

 それは彼女の気の所為ではなかった。モニターしていた医師が、キルヒアイスの僅かな反応を見つけた。アンネローゼは医師達の様子から、うっすらその事を察した。今、彼は生きているのだと、彼女はこの時初めて確信した。

 

「ジーク、お帰りなさい、ジーク……」

 

 彼女の白磁のような頬に、幾筋もの涙が伝う。どんな形であれ、キルヒアイスは生きている。目覚める見込みがある。アンネローゼはただその事が嬉しかった。

 目覚めた時、キルヒアイスが彼女に何を言うかは分からない。ただ、それは目覚めてから考えてもいいのだ、今は彼が目覚めるように出来るだけの事をしよう。そう彼女は決意した。

 

 アンネローゼは、数分しかない面会時間をぎりぎりまで使って、キルヒアイスに話し掛けた。

 

「ジーク、また明日も来るわね」

 

 アンネローゼは、キルヒアイスの手に重ねていた手を外し、部屋の外を辞した。

 

 

 治療室を出た後、アンネローゼは侍女を伴って、自分に宛がわれた部屋に入った。飲み物を持ってくるように頼み、侍女が部屋を辞したのを確かめて、彼女は小さく溜息を吐いた。アンネローゼの顔に僅かに不安の陰りがさしている。

 

 一日僅か数分の面会の度に、オーディン中心部から往復に半日以上掛けるのは、理に適っているとは言い難い。また警備上、重要人物を一か所に集めてしまった方が警備の人員配置を考えれば都合が良い。彼女がこの地に逗留するのは、そのような事情があった。それをアンネローゼは誰言われるでもなく心得ていた。

 また、リップシュタット戦役における論功行賞などラインハルトには、やるべき事決めなければいけない事が山のようにあり、彼が館に帰る暇はない。ラインハルトは帰還後、そのような理由に託けて、姉であるアンネローゼと顔を合わせないように振る舞っていた。その様な弟の心理に、気付かぬアンネローゼではなかった。

 

 キルヒアイスも弟もいないオーディンの館で待ち続けるよりは、キルヒアイスの看病をしながらこの地に逗留した方が良い。それがアンネローゼの当初の考えであったが、それが思い違いである事を、彼女は先程の面会で知った。

 アンネローゼがその人生でもっともよく知る病人は、前皇帝フリードリヒ四世であった。彼女は彼の最晩年にあって、衰弱した彼の世話をも担った。キルヒアイスが意識不明と聞いた時、彼女が脳裏に思い描いたのは、死する最期の十日間におけるフリードリヒ四世の姿であり、自分がやるべき事もそういう物だろうと想定していたのである。

 帝国では、傷病者や老人の世話は、専門的な医療行為以外は、家人が当たるのが良しとされている。一方で、フェザーンや同盟では、専門家である医療従事者達が、介護や看護を担う。

 そういった文化の違いに加え、キルヒアイスの容体は極めて深刻で、彼に施された処置も極めて高度かつ専門的な物である。アンネローゼは専門的な医療知識や技法を修めておらず、病床にある皇帝の世話は、家庭での素人看病の範囲に留まる物であった。その彼女に、今の段階で出来ることは殆どなかったのである。

 

 毎日数分間の話し掛けが、キルヒアイスの覚醒を促進させる。それに希望がある事はアンネローゼも理解している。しかし、残った長い時間をどう過ごせばいいのか、彼女は途方に暮れていた。受けた衝撃を紛らわせるだけの忙しさを、アンネローゼは欲していた。それは、アンネローゼとラインハルト姉弟の、意外な共通点であるかもしれなかった。

 

 

 アンネローゼの悩みに救いの光を齎したのは、意外なことにオーベルシュタインの一言であった。

 アンネローゼが来た翌日、オーベルシュタインは、館に別件で通信を入れていた。そこをアンネローゼに捕まったのである。アンネローゼはオーベルシュタインに、先日の件で礼を述べるとともに、この不安を口にした。オーベルシュタインはしばし押し黙った後、自分の意見を淡々と述べた。

 

「AにはAの、BにはBに向いた仕事という物があります。伯爵夫人に置かれましても、それは同じかと存じます」

 

 伯爵夫人、と称号を嫌に強調していたのがアンネローゼには分かった。そして、彼女はその意味を瞬時に悟ったのである。ただ、この言葉が、かつて彼がラインハルトに自身を売り込んだ時の変奏であるという事までは知る由もない。彼女は、無理矢理引き止めた事を謝罪して通信を切った。

 

 帝国において、子供を産み育てる事以外に妻に求められることは、家内の維持である。夫や子供が健やかに過ごせるように、客人を快く出迎えられるように、家事をこなして家を保つ。貴顕の夫人は、自ら家事をすることはないが、使用人を差配して家中を取り仕切り、家を保つ事に変わりはない。それは皇帝の妻である、皇后や寵姫も同じである。

 高貴な身分の夫人達は家中の司令官であり、家事使用人達は兵士や下士官、執事や家政婦長などは分司令や幕僚のようなものであった。

 

 アンネローゼは医療の専門家ではないから、キルヒアイスを直接看護することは出来ない。しかし、医師達がキルヒアイスの治療に専念出来るように、援護射撃することは出来る。療養所のスタッフが最高の仕事をできるよう、彼らに配慮し、そのための差配をする。キルヒアイスがいつ目覚めてもいいように、常に館内を維持する。アンネローゼは軍事に明るいわけではなかったので、送り込まれた警備兵に関しては専門家に任せる事とした。

 アンネローゼは、こうして自らをこの場所の管理者と定めて行動を開始した。後日、半ば事実を追認する形で、グリューネワルト伯爵夫人を正式に館の管理者とすると定められたのである。

 

 

 十一月三日。アンネローゼがかねてより連絡を取っていた、キルヒアイスの両親がシュヴェーリンに来訪した。アンネローゼは自ら二人を招き入れ、茶を勧めた。移動の疲労が回復するのを待って、彼女は二人をキルヒアイスの治療室へと案内した。二人が息子と再会するのは、帝国歴四八五年の初夏以来、実に三年五ヶ月振りのことである。

 面会を終えて、彼の父母が治療室から出て来た時、キルヒアイスの母が嗚咽を漏らして、その小さな肩を震わせているのがアンネローゼの目に映った。妻を抱き寄せて慰める、キルヒアイスの父親の大きな背中もまた。二人の所へ小柄な軍医がやって来て、キルヒアイスの病状を説明するために、別室へと彼らを誘導していった。

 

 病状の説明を受けたキルヒアイスの両親は、病室を出て行った直後と比較すれば、幾分その悲しみが和らいでいるようだった。二人はアンネローゼに、息子にここまでの事をして頂いて、と何度も何度も丁寧に謝辞を述べた。

 アンネローゼは、二人から礼を言われる度に、胸の奥が痛むのを感じた。自分はキルヒアイスの命を救うのには貢献していない。それどころか、自分の一言が彼らの大事な一人息子を死の淵に立たせたのではないかと考えるにつけ、とても自分が謝辞を受けるに値するとは思えなかった。

 

 

 少しばかり早い夕食を共にした後、アンネローゼは話を切り出した。

 半日近くかかる移動時間の苦労を労わり、もし二人が良ければこの館の客人として逗留し、キルヒアイスの側にいてはどうかという提案である。

 司法局の仕事がある以上こちらに居続けることは出来ないと、キルヒアイスの父親は断りの返事を述べた。キルヒアイスの母親は、しばらく悩んだ後即答を避け、ゆっくりと考えたい旨を告げた。夕食後、辺りはすっかり暗くなっていたが、キルヒアイスの両親は地上車で帰途に就いた。

 

 

 キルヒアイスの母親が、再びシュヴェーリンの館に足を踏み入れたのは、翌週の日曜日の事であった。以降、彼女は一週間をシュヴェーリンで、次の一週間を自宅で過ごすというローテーションで、キルヒアイスの回復までを過ごす事になる。また、キルヒアイスの母が館に逗留する際には、キルヒアイス宅に男性使用人を通わすよう、アンネローゼは個人的に手配をしていた。お蔭で、キルヒアイスの父は、妻が不在の間、食に困る事も、慣れぬ家事に家が荒れる事もなかった。

 

 キルヒアイスの母とアンネローゼは、キルヒアイスとの面会の他、館の維持運営、館の職員達に振る舞う菓子類を作ったり、館の庭園を散歩しながら、思い出話に花を咲かせるなどして日々を過ごした。

 その日々の中で、アンネローゼは最初の来訪時に見た馬上の人影が主治医その人であり、体力作りの一環としてそれを行っているのを知った。

 

 さて、彼女達が館での日々において一番気を使ったのは、職員達の処遇であった。

 如何に風光明美な土地とは言え、実質彼らは隔離状態である。地方星系やフェザーン出身の医療スタッフ達に至っては、リップシュタット戦役からずっと故郷の地を踏んでいない。平均すれば半年、長い者で一年近くになる。

 二人が職員達に菓子を振る舞うのも、せめてもの気晴らしになればと考えての事であった。その他にも、何か職員達の楽しみをと企画を練るのも、彼女達の気を紛らわせるのにうってつけだった。

 特に二人が気に掛けたのが、フェザーン出身の黒髪の看護婦と、地方星系出身の小柄で童顔の軍医であった。どちらも遠く故郷を離れた、医療スタッフの中では一番若い者達である。

 前者の看護婦は、異郷の地で向けられる奔流のような敵意に耐えられずに心労で倒れたことがあり、後者は先年初陣を迎えて地獄を経験し、リップシュタット戦役で酷く傷付き、その心傷も癒えていない。加えて、二人ともキルヒアイスと年齢が近く、それも彼女達の注意を引いた原因かもしれなかった。

 

 

 そんな中、ラインハルトが初めてシュヴェーリンの館を訪れたのは、十一月も終わりの頃だった。ただ、結論から言えばこの訪問は半ば失敗に終わる。キルヒアイスの三度目の手術が行われる日だったからだ。医師達はこの日の手術に備えてキルヒアイスの状態を整えており、一日前に急遽来訪を告げられた所で、手術の予定は変えようもなかったのである。無論、ラインハルトはそれを承知でこの地に赴いたのであり、それは半ば予定された失敗であった。

 手術が終われば面会も可能だったが、今のラインハルトにそれを待つ贅沢は許されなかった。今回の訪問にしても、急遽予定が取り止めになったのを奇貨として、無理矢理時間を開けさせたのである。

 ラインハルトは、手術に立ち会っているアンネローゼとキルヒアイスの母親に挨拶を交わした後、手術室に至る扉の前で立ち止まった。扉の奥を透かし見んとばかりに、氷蒼色の瞳から強い眼差しが向けられる。

 

「キルヒアイス……」

 

 ラインハルトはそれだけ言って、今度こそ振り返らなかった。元帥の白いマントが、白鳥が羽を広げたように翻る。その張りつめた背中を、女性二人だけが見送った。

 

 

 復路の車中でラインハルトは、キルヒアイスと会えなかった残念さを噛みしめていた。しかし自分が無理を押したのだから仕方あるまいと納得していた所へ、

 

「閣下が折角おいでになるというのに、手術位融通を利かせられないのでしょうか。何たる不敬」

 

 同乗していた副官が口走った。その手術にキルヒアイスの命が係っていると知っているラインハルトは、このおべっか使いを今すぐ地上車から投げ捨ててやりたくなった。それを堪えて、ラインハルトは無言で副官を睨みつけた。流石にラインハルトの機嫌を損ねたと分かって副官は黙り込んだ。

 この翌日、ラインハルトはこの副官を更迭した。彼が最良の副官を得るまでには、あと一ヶ月と少しを要することになる。

 

 

 十二月になった。ラインハルトは、年が明ければ帝国宰相の地位に就く事になっており、その為の尚書人事の選考がいよいよ大詰めを迎えていた。ラインハルトは多忙を極め、ついに年内に館を再訪問することはなかった。

 

 十二月の半ばに、キルヒアイスの部下や諸将の代表としてベルゲングリューンとルッツの二人が、シュヴェーリンの館に見舞いに訪れた。

 

 彼らはキルヒアイスとの再開を果たした後、黒髪のフェザーン人看護婦と面談の機会を持った。二人は、まず彼女に、先日の一件について、自分達が至らぬせいで要らぬ心労をかけたことを陳謝した。彼女は最初、静かに二人の謝罪を受け入れていた。

 彼らの謝罪が一通り済むと、彼女はその時自分が感じた不安や恐怖について、ハッキリとした口調で、出来るだけ正確に、努めて冷静に語り始めた。

 語り終えた時、彼女の見目良い顔に涙が流れ始めたのに気が付いて、二人の男は語っていた時の冷静さとの落差に狼狽えた。特に動揺したのはルッツの方で、彼は自分の軍服に仕舞いっ放しであったハンカチを彼女に差し出した。

 そこへ中年の婦人が来て、彼女を慰め始めた。中年の婦人は特に名前など名乗らなかったが、その目鼻立ちはキルヒアイスのそれとよく似ている。彼女がキルヒアイスの母であるのは一目瞭然であった。

 ベルゲングリューンとルッツは、看護婦をキルヒアイスの母に委ねてその場を辞した。

 館を辞すまで、何度もルッツが彼女の方を振り返り、帰りの車中でその看護婦の事を

気にする発言を繰り返したため、ベルゲングリューンはある種の優しさと面倒くささの結果として、そのルッツの発言を聞かなかったことにした。

 

 そのようなこともあったが、それ以外はごく静かにシュヴェーリンでの時は流れ、帝国歴四八八年の十二月が終わった。



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第4話 還って来た男

  年が明けて、帝国歴四八九年一月を迎えた。

 ローエングラム候ラインハルトは公爵に陞爵し、帝国宰相代理から代理の文字が取れ、帝国宰相となった。

また、ラインハルトは帝国軍最高司令官としての地位と権限も保持し続けているので、肩書きとしては帝国宰相兼帝国軍最高司令官。ラインハルトは先年の十月から実質的な独裁権を手中にしていたが、今回の人事で政治と軍事両面、位人臣を極めた事になる。

 帝国歴四八九年から始まるラインハルト新体制は、旧来の帝国で法的に存在していた、貴族と平民の扱いの格差を是正することから始まった。

 新たな民法の制定、免税などに代表される貴族特権の廃止も、それらの一環である。

 カール・ブラッケ、オイゲン・リヒターなど、貴族にも拘らず貴族の称号を捨てた、所謂開明派と呼ばれる人々を広く文官の重職に採用したのも、こういったラインハルトの方針を象徴する人事であったといえよう。

 更に、リップシュタット戦役において貴族連合軍に与した者から没収した財産を、ラインハルトは給付金や公共工事などの形で、気前良く帝国民にばらまいた。

 

 帝国のマスメディアでは、若く美しい宰相閣下の改革がどれだけ素晴らしいかを連日喧伝し続けている。

 

『貴族の免税特権を廃止。公平な税制導入の第一歩へ』

 

 アンネローゼは読み終わった新聞を閉じ、使用人に渡した。新聞など紙媒体は使用人の手によってファイリングされ、ニュース映像など映像メディアや電子媒体は記録され、いつか目覚めるであろうキルヒアイスのために、館の書架で大事に保存されている。アンネローゼはそれを終えると、キルヒアイスの母と一緒に、いつもの様にキルヒアイスとの面会に赴いた。それ自体はいつもの事であったが、今日は、この日付自体が特別な日であった。

 

 この日、シュヴェーリンの館では、アンネローゼ達と料理人が腕によりをかけた巨大な赤いケーキが振る舞われた。

 ケーキ表面はベリーの真っ赤なゼリーでコーティングされ、オレンジやキウイなど新鮮なフルーツが彩りを添えていた。スポンジはリキュールや色素で赤く色付いている。何層にも重ねられたスポンジの間には、雪の様に白いクリームが挟んであり、ルビーレッドとスノーホワイトのコントラストが美しい。

 赤いスポンジはしっかりとした甘い果実味とリキュールの香りも芳しく、白のクリームはスポンジの味と香りを引き立てるためか、ごく上品にシンプルに、甘さ控えめに作られている。スポンジはふわりと溶けてクリームと絡み合ってコクを与えられ、舌の上に絶妙な満足感を残しつつ、するりと喉を通っていく。表面の飾りフルーツと一緒に口にすれば、オレンジやキウイの新鮮な酸味と香りが、ケーキの風味にまた違った奥行きを与える。

 この派手なケーキの案は、フェザーン人スタッフが時折話す、フェザーン流行のケーキをヒントに作られた。帝国では古典的な物が良しとされるので、帝国出身の、特に男性スタッフ達は最初このケーキらしからぬ派手な色彩に面食らっていたが、周りが美味しそうに食べているのを見て食べ始めた。

 フェザーン出身のスタッフからは、外見は同じだが味は全然違う、しかし美味しいので問題ないという感想が上がった。いずれにしろ、このケーキは職員達に概ね好評で、切り分けられた傍から職員達の胃袋に消えて行った。

 その賑やかな様子を、館の管理者たる女性達が微笑ましく見守っている。

 

 帝国歴四八九年一月十四日のこの日、ジークフリード・キルヒアイスは未だ意識を回復しないまま、二十二歳の誕生日を迎えた。

 

「ジーク、お誕生日おめでとう」

「おめでとうジークフリード。もう二十二になったのね」

 

 アンネローゼはキルヒアイスの母親に寄り添いながら、治療液に揺蕩うキルヒアイスを見つめた。半透明の液体へ手を差し入れると、キルヒアイスの母は左手で息子の手を握り、もう片方の手で赤髪を掬い上げた。彼の頭皮に繋がっているそれは、記憶よりも随分と伸びているように彼女達は感じた。

 

「あら、もうこんなに長くなって。ジークフリードが起きたら髪を切らなきゃ。それとも後ろで纏めさせようかしら。そのまま切らない方が良いかしら。どれがいいと思う?アンネローゼさん」

「この長さだともうすぐ肩口までに届くかしら、おばさま。どの髪型もきっとジークに似合いますわ」

 

 キルヒアイスの母親は、少し考え込むとゆっくりと首を振った。彼女は何かを思い出したようにクスクスと小さく笑い始めた。

 

「この子は輪郭や雰囲気があの人に似ているから、伸ばして纏めないのはきっと駄目ね。ちょうど初めて会った時のあの人がそうだったの。これは後で聞いたのだけど、尊敬している司法局の先輩がとても長髪の似合う方で、それを真似たらしいの。でもあの人には全然似合ってなかったわ。だから、つい、髪を短くすればもっと素敵なのに、と口にしてしまったの。それから、次に会った時かしら。あの人の髪が短くなっていて。交際を申し込まれたわ」

「素敵なお話ですね」

 

 アンネローゼは、楽しげに話すキルヒアイスの母の手が震えている事に気が付いた。

 キルヒアイスの母は、自分が握り込んでいる息子の手が、三年以上前の帰省の時よりも、初めてシュヴェーリンを訪れた時よりも、ずっと肉付きが薄くなっている事を認識せずにはいられなかった。この細くなりゆく手が、息子の命の灯火を象徴しているように思われて、彼女はそれが怖かった。何か楽しい事を思い出さねば、その恐怖に彼女は耐えられそうになかった。

 震える手を労わる様に、アンネローゼの手がそれを包み込んだ。そうするアンネローゼの手もまた震えていた。

 

 

 

  二人の抱える不安をいくらか減じたのは、一番若い軍医の言葉であった。より正確を期すなら、主治医が彼に言わせた言葉であったが。

 キルヒアイスの誕生日から三日後の一月十七日、二人は治療室隣の部屋で、小柄な軍医から、キルヒアイスの経過についての説明を受けていた。

 

「以上の事から、キルヒアイス提督の容体は現在安定傾向にあります。このまま安定が続けば、数日中に、機器による呼吸補助。この割合を減らす段階に移れます。ここから、最終的には維持装置を完全に外す所まで行けるでしょう。そうですね、春になる頃までには」 

 

軍医は、女性達を安心させるように童顔に笑みを浮かべた。彼の表情や声、目つき、纏う雰囲気には、独特の愛嬌と安心感があって、それが丁寧な説明とも相まって、アンネローゼやキルヒアイスの母の不安をいくらか解きほぐすのだった。

 この軍医は、まかり間違っても美しいとか恰好良いと呼ばれる容姿ではない。可愛いと言われる事がたまにあるが、それはサイズの小さな虫や動物を表現する時のそれに近く、実際に彼は小柄である。怜悧や洗練を感じさせる人物ではない。良く言えば誠実で素朴、悪く言えば愚鈍と野暮という言葉が似合う青年であった。彼は他人から侮られる事はあっても、決して警戒はされない。勿論それは彼の容姿から受ける印象であって、実際に彼が愚鈍であったり、医師として無能であることを意味しない。

 

 対して、執刀医兼主治医を務めているフェザーン人医師は、猛禽の様な鋭い眼光を持つ貴族的な美男子である。上背もあり、その鍛え上げられた体躯は長時間の手術に耐えうるだけの体力と活力がみなぎっている。それは彼の能力や内面を過不足なく表現した外見であると言えた。しかし、彼自身は、不安に怯える患者やその家族にとって、自分の容貌が時にマイナスに働きかねない事を承知しており、アンネローゼ達への説明には年若い軍医を便利に使っていた。無論それだけでもなかったが。

 

 

 軍医が他のスタッフに呼ばれて部屋を辞した後、主治医が告げる。

 

「残る手術は後一回です。容体の安定が続けば、二月頃に手術の予定です。それが終われば、まず私が。その後、提督の回復に合わせて、フェザーン出身のスタッフ達は順次ここをお暇する事になりますので、宜しくお願いいたします」

「ジークフリードの意識が戻るまでいて下さらないのですか」

 

 キルヒアイスの母親は、不安をにじませながら、疑問を口にした。主治医は先程軍医が出て行った扉の方を見た。しまった、間の悪い、と思いながらも、主治医はそれをおくびにも出さず、慎重に言葉を選んで、疑問に答える。

 

「私は専ら手術専門ですから。全ての手術が終わった後に必要となるのは私ではありません。体の機能回復を専門とする医師です。私の知る優秀な医師を推薦しておきました。専門医の到着までは、軍医達に任せます。その為に必要な事を彼らに現在叩き込んでいます。大丈夫ですよ、ご心配には及びません。それに」

「それに?」

 

 主治医は言いにくそうに言葉を切った。その言葉を促したのは、アンネローゼであった。

 

「本来であれば、軍医が治療すべき所を、様々な偶然が重なって私が執刀することになり、そのまま主治医を仰せつかりました。命が掛かっているとは言え、異例の事です。部外者の私が軍医や軍の看護婦を使い、提督の治療を行っている事を良く思わない方もいます。私だけならまだしも、私の指示で治療に当たっている軍医達にまで……潮時です」

 

 主治医は、自分の黒茶の髪に手をやって大仰に溜息を吐いた。アンネローゼは、主治医の言葉で、自分が後宮に収められた時の事を思い出す。

 何の後ろ盾もない帝国騎士階級の少女とその使用人達に向けられる、門閥貴族や宮廷使用人達の敵意、反感、侮蔑。宮廷社会で孤立するアンネローゼに手を差し伸べるのは、ヴェストパーレ男爵夫人マグダレーナやシャフハウゼン子爵夫人ドロテーア位の物であったように、アンネローゼに仕える使用人達もまた、主人と同じように孤立していた。

 それと同じ事が軍医の世界にもあるのだと、アンネローゼは主治医の発言で気づかされた。キルヒアイスの母も、何となくその事を察したのか、それ以上は何も言わず、宜しくお願いします、とただ頭を垂れた。

 

 やがて今後の治療方針と、その見通しについて一通りの説明が終わって、アンネローゼとキルヒアイスの母親は部屋を出るべく立ち上がった。ふと、アンネローゼはある疑問が浮かんで、主治医の方を振り返った。振り返った拍子に、彼女の豪奢な金髪がふわりと揺れた。

 

「あの、先生。一つお伺いしてもよろしいかしら。フェザーンと帝国では治療の方法がとても違うように思います。私も最初は戸惑いました。軍医の方々は、帝国の医術を長年学んで、経験を積まれていらっしゃいます。私以上に戸惑う事が多いのではなくて?それに、フェザーンの技術や知識を学ばれた後、その事で軍に戻られてから戸惑われるような気がするのですけど」

 

 家事使用人といった、どこの家でもやる事がそれほど変わらない職でさえ、各家の事情によって、最適な立ち居振る舞いが微妙に異なる。ある家で長く過ごし、その家風に慣れたものが、別の家に行けばその違いに戸惑い、時にそれがトラブルの火種になる事をアンネローゼは経験で知っていた。

 フェザーンの民間医と帝国の軍医では、各々技術が違い、使う道具が違い、知識が違い、何より前提となる意識が違う。これ程までに大きな違いを抱えて帰って来た軍医や従軍看護婦は、元の様に軍で過ごせるだろうか。それどころか排除されるのではないか。元々市井で医師をしていた者はまだ良い。ずっと軍の中で生きてきた者はどうなる。異端者として排除された所で行き場などあるのだろうか。アンネローゼにはその危惧があった。

 アンネローゼが、医療スタッフと寝食を共にして二ヶ月以上が経過している。双方多少なりと情のようなものも沸いた。キルヒアイスの命を救ってもらったという恩義もある。すぐ傍にいる彼や彼女達が不幸になること。それを座して傍観するほど、今のアンネローゼは冷淡にも無関心にもなれず、全てを諦念している訳でもなかった。

 

「そうですね」

 

 主治医はそう答えたきり、口を噤んだ。彼はただ静かに微笑むのみだ。それ以上回答が得られない事を察して、アンネローゼは部屋を辞した。

 

「それで良いのです、伯爵夫人」

 

 主治医以外誰もいなくなった部屋に、彼の声がした。彼の精悍な顔に浮かぶ笑みは、今は肉食獣のそれによく似ている。

 

 

 

 同じ頃、元帥府で執務中のラインハルトは、つい今しがた、不愉快な出来事、憲兵総監オッペンハイマー大将との面談と、彼の不愉快な邪推による贈収賄未遂を体験したばかりで、その気分はかなりささくれて居た。

 不愉快の大本は、贈収賄の現行犯で連行させた。だが、ブラウンシュバイク公の元部下たるシュトライトを登用した理由を誤解されている事に、ラインハルトは苛立っていた。

 ラインハルトがその能力と人柄を評価し、自分の副官にと熱望しているシュトライト。彼は現時点では着任するに至っておらず、気の利かない部下が副官として傍らにいる事も、彼の不愉快さを更に悪化させている。

 ケスラー大将を次の憲兵総監に当てるように指示して、傍らにいた副官のフェルデーベルトを追い出し、ラインハルトは自らの不快感を暴発させることなくやり過ごした。

 次にラインハルトは、アンネローゼ達が受けたのと同じ内容の報告を、主治医からの書面で受けた。その報告書を読むラインハルトの表情は、僅かばかり笑みをこぼしたかと思えば、次の瞬間には陰鬱になり、何かを考え込んでいるかのような真剣な物へと、目まぐるしく変化した。

 ささくれていたラインハルトの心に、医師からの報告はいくらかの潤いを与えた。ラインハルトが、近い内にキルヒアイスの所へ行こうか、と考え始めた矢先、書記官テオドール・フォン・リュッケ中尉が、去る十六日にあったイゼルローン回廊での遭遇戦を、直接報告しに来た。

 同盟軍が十倍の増援を繰り出してきたため、ケンプ大将旗下アイヘンドルフ艦隊はやむなく撤退したとの詳報を受け、ラインハルトは敵将ヤン・ウェンリーの名を楽しげに呟いた。

 ただ、そのつぶやきには、優れた敵将への敬意やその人物と戦う事への昂揚感の他に、僅かではあるが違った感情を含んでいるのを、聞く者が聞けば判別する事が出来たかもしれない。

 

 その日の午後、ラインハルトは旗下将帥達を集めて元帥府で会議を行い、先のイゼルローン回廊における遭遇戦についてと、新たに自分の旗下にアイゼナッハやレンネンカンプらを大将として加える事を始めとして、多くの将官人事について申し送った。

 その中で特に諸将の耳目を引いたことと言えば、先年九月から指揮官不在で臨時にラインハルトの指揮下に置かれているキルヒアイス艦隊についてであった。キルヒアイス艦隊は、幕僚や艦船の配置換えも特になく、引き続きラインハルトの指揮下に留め置かれている事になった。これは、多くの将帥達に、いずれキルヒアイスを戦列に復帰させるという、ラインハルトの強い意志を感じさせた。

 他にも、ケンプが先のイゼルローン回廊遭遇戦について陳謝し、ラインハルトがそれを寛容に許す場面などもあった。ただ、ラインハルトはこの件についてもっと別の事を考えており、さしあたって先の遭遇戦における勝敗を重視もしていなければ、陳謝される必要性も感じていなかった。

 

 会議終了後、ミッターマイヤーとロイエンタール、二人の上級大将は、シャフト技術大将が脂肪の詰まった太鼓腹を揺らしながら、宰相府へと移動中のラインハルトとオーベルシュタインに追い縋るのを目撃した。

 

「ローエングラム公をあのような場所でお引止めまでするとは。シャフトも必死だな」

「オッペンハイマーが贈収賄で逮捕された一件を聞いて、気が気ではないのだろう。何しろ、シャフトはオッペンハイマーと同様、六年以上あの地位にありながら、本来の職務などより、己の保身のためだけに動いて来た男だからな」

 

 ミッターマイヤーは半ば呆れたように隣の親友に話し掛け、ロイエンタールは軽蔑しているのを隠そうともせず、シャフトの現状を的確に言い当てた。二人の視線の先、酒場の主人のような太鼓腹の中年が、ラインハルトに必死に何かを訴えかけている。ラインハルトは、最初シャフトを冷たくあしらっていたが、やがて何か興味を惹かれたらしく、薄く笑った。オーベルシュタイン上級大将も、シャフトの方を振り返る。その様子を目撃して、二人は顔を見合わせた。先に口を開いたのはロイエンタールである。

 

「何か新技術の開発にでも成功したとみえる」

「そうだな。公のご様子を見る限り、面白い話ではあるのだろう。最も、それを奴自身が見出したとは限らないが」

 

 二人は職務に戻るため、その場を離れた。ラインハルトがシャフトと何を話していたか、それを彼らが知るのは後日の事になる。

 

 

 ガイエスブルグ要塞を新技術で以てイゼルローン回廊までワープさせ、イゼルローン要塞の攻略に当てる。

 シャフト技術大将のこの提案は、その週の内にラインハルトに採用され、作戦の司令官にはケンプ大将、副司令にミュラー大将が当てられることとなった。

 

 その日の夜、ミッターマイヤー、ロイエンタール、ビュッテンフェルト、それにミュラーの四名は士官用クラブ『海鷲』にて、酒席を囲んでいた。話題の中心は、今日決定されたばかりのイゼルローン攻略作戦とつい最近の将官人事についてで、その内容は概ねオーベルシュタインを腐す物であったと言って良かった。

 先年、キルヒアイスが凶弾によって意識不明の重体になって以来、ラインハルト旗下の諸将の間では、オーベルシュタインを非難、もっと低レベルな話で言えば悪口を言うのが最早時候の挨拶代りとなりつつあったし、それを誰も問題視しようとはしなかった。

 人格的に極めて評判が高く、好意を持つ人間も多いミッターマイヤー。彼からして、オーベルシュタインの悪意を何かにつけ疑っているのだから、その傾向を止める人間などいるはずもなかった。何より、当事者であるオーベルシュタイン自身がそれを言わせるがままにしておいたのである。

 

 ミュラーが、オーベルシュタインが最近拾った老犬のために自ら鶏肉を買いに行く、という話を披露して一頻り場が盛り上がった後、まず下戸のビッテンフェルトが、続いて翌日から始まる激務のためにミュラーが、海鷲を後にした。

 残されたミッターマイヤー、ロイエンタールの両提督の会話は、やがてイゼルローン要塞攻略作戦の是非そのものへ話題を移した。先程まで作戦の当事者であるミュラーがいたため、二人は流石にそこまで踏み込む訳にもいかなかったのである。

 

「この様な無益で無用な出兵、ジークフリード・キルヒアイスが無事ローエングラム公のお傍にあれば、きっとお諫めしただろうに」

 

 ロイエンタールは、キルヒアイスが諌めた所でローエングラム公の方にそれを聞く耳があるのか、と問題提起をしようとして思い止まった。ミッターマイヤーは具体的な解決策としてそれを言った訳ではなく、単なる夢想を口にしたに過ぎないと悟ったからだ。

 

「キルヒアイスがいれば、か」

 

 ロイエンタールは、その事について、友人程には薔薇色の夢を見られなかった。

 アンスバッハの事件の直前、ローエングラム候ラインハルトとキルヒアイスが不和であるとの噂が流れていた。その噂について、オーベルシュタインがナンバー2不要論に基づいて、二人の間を引き裂いたのだろう、とミッターマイヤーが口にしていたのを、彼は思い出す。

 だが、ロイエンタールの見解は違った。オーベルシュタインによって二人の仲に罅が入ったのではなく、二人が既に決裂していたからこそ、オーベルシュタイン如きの持論が受け入れられたのではないか、と。

 オーベルシュタインは、本人が語った通り、キルヒアイスがナンバー2でない限りは思う所などないだろうと、ロイエンタールは考えていた。ロイエンタールはオーベルシュタインを心の底から嫌っていたが、彼自身も不思議なことに、その発言の真偽を疑ってはいなかった。

 一方でローエングラム公について、ロイエンタールは一抹の危惧を抱いていた。

 リヒテンラーデ一族への、あまりに苛烈な処罰。二人が決裂した結果としてオーベルシュタインが重用された可能性。そうであれば、復帰したキルヒアイスがどのようであるにせよ、彼を最も倦厭するのはオーベルシュタインなどではなく、おそらくローエングラム公という事になる。

 

 ロイエンタールの背筋を寒気が走った。それは空調の所為でも、体調や飲み過ぎた酒によるものでもない事を、ロイエンタール自身が一番よく自覚している。

 いつのまにか押し黙った親友へ、ミッターマイヤーの灰色の瞳が気遣わしげな視線を送っていた。

 

 

 

 将官用官舎への帰途。地上車の中で、ラインハルトは、自らの首席秘書官マリーンドルフ伯爵令嬢ヒルデガルド、通称ヒルダから、イゼルローン要塞攻略戦の意義についての見識を聞いていた。彼女曰く、この作戦は戦略的に無意味な出兵で、その様な事でいたずらに兵を損耗するより、今は内政にのみ力を注ぎ、民心を慰撫するべき時期であると。

 ラインハルトは、その発言を聞いた時、一瞬愉快そうな表情を浮かべた。その表情が宰相付首席秘書官のエメラルド色の瞳に映り込む。

 

「貴女もオーベルシュタインと同じことを言うのだな。だが、出兵はする。私はこの状況に甘んじて、立ち止まる訳にはいかないのだ」

 

 キルヒアイスのためにも、と続いた言葉を、ヒルダは確かに耳にした。彼女は、美神の如き上司の顔を伺いながら、その言葉の意味を考え始める。

 

 ヒルダは、キルヒアイスと直接の面識がない。カストロプ動乱の折、彼女の父親であるマリーンドルフ伯フランツはキルヒアイス達の手で救出されたが、それだけである。また、リップシュタット戦役直前、当時侯爵だったラインハルトとヒルダが面会した折も、キルヒアイスは職務のため不在であった。

 マリーンドルフ伯爵家の危急を救ってもらったにも拘らず、彼女はキルヒアイスと面識を得る機会が全くなかった。であるからして、キルヒアイスの能力や人柄について、世間や諸将達が話す以上の事を、ヒルダは知らない。ただ、彼女の卓越した知力をもってすれば、それらの情報からある程度類推することは可能であった。

 ヒルダが類推するところ、キルヒアイスという人はこの様な無益な出兵に諸手を挙げて賛同するタイプではない、むしろ諌める側だろう。それが、ヒルダに限らず大方の認識である。しかし、ラインハルトはこの出兵をキルヒアイスのためだと言っている。

 キルヒアイスの人物像とラインハルトの発言。この間にある齟齬が、ヒルダにはどうしても埋められない。

 人の話というのは多かれ少なかれ、話者、あるいは聞き手の偏見が含まれている。キルヒアイスについて話す側も、それを聞く側も、彼に理想や希望を仮託している。

 結果として、キルヒアイスに関する話は、キルヒアイスという人間の実像と乖離している所があった。

 そのバイアスを比較発見出来るほど、彼女はキルヒアイスを知っている訳でもなければ、それを嗅ぎ分けるだけの人生経験も年齢相応でしかない。

 一方で、キルヒアイスのために、と言ってしまうラインハルトの複雑な心境について、深く洞察できる程、彼女は豊かで幅広い人間関係を築いてきた訳ではない。

 むしろ同年代の大多数と比較しても、彼女の交友関係は分野も人数も極めて限られており、かといって少数と深く交流していたのでもない。どちらかと言えば貧しい人間関係しか持ち得ていない、その自覚が彼女にはあった。

 

 ヒルダがその齟齬について困惑していることも知らず、ラインハルトは思い出したように告げる。

 

「そうだ。今月の下旬にシュヴェーリンに行くから、そのつもりでスケジュールを組んで欲しい」

「はい、かしこまりました」

 

 ヒルダは頭を下げて、了承の意を示した。キルヒアイス提督と会えば何かが分かるかもしれない。彼女がそんなことを思いつつ頭を上げると、ラインハルトは既に別の事柄に意識を向けており、手元の書類にじっとその視線を注いでいた。その精気に満ち溢れた顔を、ヒルダは暫く鑑賞していた。

 

 

 

 官舎の門前で、ヒルダがラインハルトを見送っていると、一台の地上車がやって来た。そこから降り立ったのはオーベルシュタインであった。彼はヒルダ達を全く気にする風もなく、それが当然であるかのように、ラインハルトのいる官舎へと入って行った。

 

 ラインハルトが最近起居に使用している高級士官用官舎。そのテラスからは、新無憂宮を始め、帝都オーディンの街が一望できる位置にあった。

 ラインハルトとオーベルシュタインは、テラスに設えたテーブルセットに腰を掛け、夜景を酒の肴に、年代物の赤ワインを傾け始めた。

 

 殆どの門閥貴族が先の内戦で滅亡して、帝都の貴族街は文字通り火が消えたように静かである。新無憂宮はラインハルトの命で必要最小限を残し、残りは閉鎖されている。そのせいで、帝都オーディンの夜景は、往時と比較して随分と華やかさが消え失せている。それだけではない。門閥貴族から仕事を引き受けていた商店や職人も戦役以降立ち行かなくなり、貴族街や新無憂宮ほどではないが、商業区も明かりが減じている。それが目立たないのは、比較対象である貴族街の現状が酷過ぎる事と、空いたテナントへ帝国以外の商人か、全く別業種が入り込んで、表面上は明かりが維持されているからに他ならない。

 帝都の夜景についての話を端緒に、ラインハルトとオーベルシュタインの対話は、現在帝国の頂点に立っている七歳の皇帝、彼の扱いをどうするべきかに話が及んだ。

 

「皇帝は生かしておく。利用価値のある間はな」

「ええ、左様でございますな。今のところは」

 

 ただ、その存在自体が障害になった時は、年齢など関係なく皇帝を殺す。ラインハルトは言外にそう匂わせていた。それに気付いてか、オーベルシュタインはそれを肯定した。

 

 年代物の赤ワイン、最後の一杯。その味と香りを楽しんで、オーベルシュタインはグラスを置いた。立ち上がろうと体に力を入れたその時、ラインハルトは帝都の暗い夜景に視線を向けたまま、口を開く。

 

「ところで、オーベルシュタイン。よくも私を腹話術人形にしてくれたな」

「何のお話でしょう、閣下」

 

 オーベルシュタインは立ち上がろうとしていたのを止めて、ラインハルトの方を見る。ラインハルトは、オーベルシュタインを相変わらず見ようともしない。ラインハルトは、不満そうに、ふんと鼻で笑った。

 

「あの戦勝会場で自分が取った行動を知らぬというか。まあ良い。その判断のおかげでキルヒアイスの命が助かったかもしれんのだから、一応礼は言っておこう。だが、次はない」

「さて、記憶にございませんな。しかし、そのお言葉は肝に銘じておきましょう」

 

 ラインハルトの発言を否定も肯定もせぬまま、オーベルシュタインはラインハルトの前から辞した。一人テラスに残されたラインハルトは、赤ワインに親友の血の色を重ねながら、それを飲み乾した。

 

 

 こうして、帝国歴四八九年の一月中旬は過ぎて行った。やがて春を迎えるころには、銀河で禿鷲が羽搏くことになるが、それを知るのは、まだ極一部の人々に過ぎない。

 



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第5話 ようやく甦った男

 帝国歴四八九年一月下旬。ガイエスブルグ要塞によるイゼルローン攻略作戦が発令された。ケンプ、ミュラー両大将率いる艦隊は、それに先立つガイエスブルグ要塞の移動実験のため、首都星オーディンを出立した。

 これを知るのはケンプやミュラーなどこの作戦の司令部、それに帝国軍の首脳陣など、ごく一握りに過ぎない。それ以外の士官や末端の将兵達へは、これは軍事演習であるとの説明が現時点でなされていた。

 帝国と同盟が内乱に明け暮れてから数か月が経過した。この銀河を舞台に、再び戦乱の幕が開こうとしていた。しかし、それを知るのはまだごく一部に過ぎず、ラインハルトの政策が民心をいくらか和らげたこともあって、この時期の帝国は概ね平和であった。

 

 シュヴェーリンで館の管理者として過ごすアンネローゼも、帝国の安寧を享受している大多数の一人であった。もっとも彼女は、大多数の帝国民と違い、近い将来に弟ラインハルトが銀河に戦争の嵐を起こすことになるだろう、という予感は持っていた。それが具体的にいつでどういう方法までかは分からなかったが。

 アンネローゼは、弟ラインハルトから、政治や軍事の話は一切聞かされたことがない。ラインハルトが政治に進出したのはつい最近のことであるからまだしも、軍事の方ですら、先の戦功によって昇進したとか、出兵で暫く訪れる事が出来ないとか、そういう事が中心であって、それもリップシュタット戦役が始まるまでの話であった。それは、姉を争い事から遠ざけたい、弟なりの優しさであった。

 であるからして、アンネローゼは弟が為している帝国の政治や軍事について、マスメディア若しくは友人達が伝える事以上の情報を知らない。知らない以上、彼女は自分の予感に具体像を与える事もかなわず、それはただ漠然した危惧に留まっている。

 

 アンネローゼは、いつもの様にキルヒアイスとの面会を終えて、館の使用人達にいくつか言い含めた後、自室に戻った。キルヒアイスの母親もこの日は不在であったため、彼女は一人静かに、自分宛ての手紙を確認する作業に没頭した。まず開いたのは、ヴェストパーレ男爵夫人マグダレーナからの手紙であった。

 アンネローゼ宛の手紙や贈り物は、オーディンにあるシュワルツェンの館にまず届き、中身が色々な意味で安全な物か確認された後、館への補給便と一緒にシュヴェーリンの館へと運ばれてくるようになっていた。この確認作業と輸送方法のため、アンネローゼへの手紙や荷物は、通常の配送日数に加え、最短で一日以上タイミングが悪ければ一週間以上遅れるのが常であった。

 その様な事情を見越してか、マグダレーナから届く手紙はいつも、季節の話題や彼女の日常など概ね差し障りのない内容に終始している。今回の手紙では、彼女お気に入りの靴職人が、つい最近帝都を離れフェザーンに行ってしまった事をしきりに嘆いていた。彼が若くハンサムであったことと、彼女が求める活動的に動くための靴、機能性と貴婦人らしい優雅なデザイン。その二点を高度に両立出来る腕とセンスを持つのが、帝都中にも彼しかいないからだ。靴の製作を別の職人に任せたものの、マグダレーナは満足には至っていないようで、フェザーンにある彼の店へ靴を注文しようかしらなどと締めくくっていた。そういう瑣事を書いていてすら、マグダレーナの手紙はいつも楽しく、凛とした知性と気品をうかがわせる。

 また、今回の手紙に限って言えば、キルヒアイスの誕生日を祝うメッセージカードも同封されていたが、当日に届くとは全く考えていなかったらしい。カードには、『もしかしたら、もう過ぎてしまったかしら?』の一言が添えてあり、それらはアンネローゼの苦笑を誘った。

 

 次にアンネローゼは、シャフハウゼン子爵夫人ドロテーアの手紙を開いた。ドロテーアの字は、穏やかな性格が滲み出たゆったりとした筆跡である。夫との馴れ初めなどもあり、植物や気候など自然科学に対する見識に富む彼女は、その独特の視点と優しい筆致で、日々の自然の移り変わりを豊かに書き連ねている。アンネローゼはその文を見るだけで心が安らぐような気がしたが、後に続いた近況報告に、微かにその美貌を曇らせた。

 つい最近、シャフハウゼン子爵家に長年仕えていた使用人夫婦が、高齢のため引退を決意した。すると、どこからそれを聞きつけたのか、あらゆる繋がりと手段によって、使用人の新採用について、千に届く勢いで人材の自薦他薦の書簡や伝言が舞い込んだという。その多くは滅亡した門閥貴族に仕えていた者達であったが、中には新無憂宮において、皇帝の側に仕えていた輝かしい経歴の人間も少なからずいるという。

 彼らの引退前に、後継者を探して引継ぎをさせようと考えていた矢先の事であって、これにはドロテーア達も驚いたという。中には直接、シャフハウゼン子爵家に来る人間もいた。候補者の書類選考、調査、選別、実際の面接まで、家中の者総出で、新規雇用の一件に追われたとあった。そのせいであろうか、気候や植物について語っていた時とは違い、若干ドロテーアの筆致にも疲れが見える。結局新しく二人、その後数人を追加採用をして、今は引継ぎの最中だという。

 マグダレーナやドロテーアからの手紙を通じて、ラインハルトによって新無憂宮の大部分が閉鎖され、多くの侍従や女官などが老人を残して解雇された、という話を、アンネローゼは知っていた。マグダレーナもドロテーアもそのようにハッキリ書いていた訳ではなかったが、彼女達の日常話にはさり気なく宮廷や街の様子が含まれており、アンネローゼは断片的な情報を継ぎ合せることで、概ねその実態を把握していた。それが世間でどの様に言われているかも。

 

 老人を解雇しなかったのは、最早この生き方しかできなくなった年寄りへの、ラインハルトの優しさもあるのだろう、とアンネローゼは推測していた。しかし、若者や働き盛りの人物にまで、ラインハルトの想像力と優しさは及んでいない、という事も、彼女には理解出来てしまった。

 二十代までの若者なら、学び直すなどして新たな道を切り開くことも出来るだろう。しかし、三十を過ぎた辺りから、新たな道を選ぶことが格段に難しくなる。社会階層が極度に固定化された帝国においてはなおさらその傾向が強く、それを跳ね返せるのは飛び抜けて優秀な人材だけだ。今回の閉鎖で首になった人員の中で、料理人や庭師など、特殊技能を以て宮廷に仕えていた職員の割合は、そう多くない。

 ラインハルトの想像した通り、今の帝国には仕事がない訳ではなかったが、それはラインハルトのばら撒き政策における公共工事の増加や消費活動の増大による物だ。募集職の大半が、工事現場作業員やサービス業の非正規雇用が大半を占めている。確かに働けば金になるが、それは彼らの実務能力の向上にも、経歴の箔にもならなかった。

 この帝国において、門閥貴族とは、一種の大企業でもあった。彼らの事業や消費活動とまったく繋がりのない企業など、この帝国には数えるほどしかない。従って、門閥貴族が軒並み戦乱で駆逐された後、彼らと繋がっていた企業もまた淘汰された。門閥貴族との縁が薄く、この機に乗じてのし上がった民間企業がない訳でもなかったが、彼らの規模だけでは、門閥貴族の滅亡で開けた、生産消費や流通、何より雇用面での大穴をカバーするまでに至っていない。

 

 それまでの宮廷での経験を考えれば、新無憂宮の元職員達は、貴族や政府高官の上級使用人に収まるのが一番妥当であった。

 しかし、使用人達の最大雇用者であった門閥貴族は、先の内戦で殆どが滅びた。門閥貴族に変わって、現在の帝国で権勢をふるっているのは職業軍人達であったが、今は平民や下級貴族出身者が多数派を占めている。彼ら多数派は門閥貴族当人はもとより、その贅沢な生活様式や文化を軽蔑する風潮があった。従って、高級軍人達は、使用人の新たな雇用主とはならなかった。

 かつて門閥貴族達に仕えていた人々も、主家の滅亡で職を探しており、今や彼らの就職に関しては、完全な買い手市場である。リップシュタット戦役で滅亡した門閥貴族。彼らに仕えていた経歴は、今や帝国では烙印となりつつあり、元使用人達はその賃金や待遇を極限まで買い叩かれている。新無憂宮を放逐された人員は、彼らと違い嫌われていた訳ではなかったが、そのような理由で安価に使い倒される人材と雇用枠を巡って戦わねばならないのだった。

 こうして、たった数人の雇用枠にその百倍以上の人員が殺到する、シャフハウゼン子爵家の喜劇は生まれたのである。

 

 アンネローゼは、桃色の唇から小さく溜息を吐いた。

 ラインハルトは決して変わった訳ではない、おそらく今でも優しいのだ。ただ、どの様な感情もそうであるように、それは言葉や行動に繋がらなければ、目に見える形で示さねば、周囲には伝わらないし、ないも同然である。

 今、ラインハルトの側には、彼の不器用な優しさを汲み取り上手に提示出来る、そのような人物がいない。それはキルヒアイスが担っていた役割の中で、最大の物であった。そう彼女は考えている。

 

 アンネローゼは思考の海から浮上し、ふと窓の外を見た。外では音もなく、白い雪が降り続いていた。冷たく美しい雪の下に、全ての色と物が覆い隠されている。

 どこまでも続きそうな雪景色は、母が事故で死んだ日の事を彼女に思い出させた。

 

 クラリベルが死ななければ、セバスティアンは酒に溺れる事もなかっただろう。クラリベルが死んで、セバスティアンの不器用さをフォローしていた人間はいなくなり、急激にミューゼル家の事業は傾いた。それでも、犯人が捕まって裁きを受ければ彼はいくらか救われ、立ち直れたかもしれない。だが、犯人は門閥貴族に繋がる人間だったらしく、犯人が罪に問われる事も、それが誰だったのかも公表されなかった。セバスティアンはこの帝国の腐敗に怒り、絶望した。しかし、セバスティアンには、その旧弊をどうにか出来るほどの才覚や力がある訳ではなかった。

 自分の無為から目を逸らすために酒に溺れたのだと、アンネローゼは今なら理解出来る。それは、アンネローゼの実質上の夫であった故フリードリヒ四世、彼と同じ様子であったからだ。

 皇帝の地位にあった老人もまた、帝国の現実を見抜いていたが、それを是正する能力はなく、諦観の内に政治から遠ざかり、酒と薔薇と女に耽溺したのである。

 

 自分の娘を皇帝に売りとばしたセバスティアンを、ラインハルトは己の父親だと思いたくないほどに嫌っていたが、その本質は驚くほど似通っている。彼らに違う所があるとすれば、才能があったか、その才能を生かすための地位や力を手に入れる手段があったかどうか、ただそれだけに過ぎない。アンネローゼは、弟ラインハルトにそれを言った事はないが、ずっとそう思い続けている。

 

 

 

 

 

 一月下旬も半ばを過ぎた頃、ラインハルトは、首席秘書官ヒルダと、新たに副官となったシュトライト少将、加えて護衛として親衛隊長キスリング准将らを伴い、シュヴェーリンの館を訪れた。

 館に至る長い移動時間。その時間を無意味に過ごす事を、ラインハルトは好まなかった。ヒルダやシュトライトから書類を受け取り、それに目を通すラインハルトの存在は、地上車を臨時の元帥府や宰相府としてしまった。

 

 ラインハルトは、持ち込まれた書類や資料全てに目を通してしまい、暇を持て余し始めた。今この場で指示や判断が出来る事柄については、適宜ヒルダやシュトライトに伝えたし、二人の意見も一通り聞いてしまった。暫し悩んだ後、景色などに注意を払わなかった事を思い出して、ラインハルトはシュヴェーリンまでの景色を眺め始めた。

 白い景色の中に、凍った湖のブルー、その更に向こうに見える濃青色は海である。それを彩る常緑樹の緑も、今は暗い緑をしている。どこまでも寒々しい景色の中で、シュヴェーリンの館から漏れる微かな光が、その景色に温かみを加えている。その明かりに近付くにつれ、ラインハルトの白皙の顔に仄かな赤みが差すのを、同乗する誰もが気付かずにはいられなかった。

 

 

 地上車から降りたヒルダは、初めて見るシュヴェーリンの館を見上げた。彼女の翠玉色の瞳はせわしなく館を観察しているが、それは館の美しさや建築方式への関心からではなく、館の住人であるジークフリード・キルヒアイスへの逸るような興味からであった。

 ヒルダがあらかた館を観察し終え、ふと横を見ると、シュトライトが懐かしそうに館を見つめていた。彼の瞳には、悲しげにも優しげにも見える感情が揺らめいている。ヒルダが、シュトライトがブラウンシュバイク家の旧家臣であり、この館がブラウンシュバイク家の別荘であったことを思い出すまでに、そう時間はかからなかった。

 

「ここはブラウンシュバイク家の別荘であったな。もしかして卿もここへ来たことがあるのか」

 

 ラインハルトはシュトライトに話し掛けた。シュトライトは穏やかな笑みを浮かべ、その問いに答える。

 

「はい、閣下。まだ小官が士官学校に入学する前の話になりますが。皆、先代のブラウンシュバイク公や大奥様には随分と良くして頂きました」

「そうか」

 

 シュトライトの答えを聞いても、ラインハルトは少しも不愉快そうではない事が、ヒルダには不思議であった。ラインハルトにしてみれば、アンスバッハやシュトライトのような有能で忠義溢れる人物を家臣に加えておきながら、ブラウンシュバイク公が無駄にしていた事の方が気に食わなかったのである。ラインハルトが知っている方のブラウンシュバイク公が彼らを見出したのではなく、先代の有形無形の遺産を食い潰したのだとすれば、そのアンビバレンツに辻褄が合う。ラインハルトは疑問の答えを知れて喜んだ。

 ラインハルトは一人得心したように微笑み、素早く歩を進めて屋敷の中へと入って行った。玄関ホールでは、アンネローゼと使用人達が、彼らを出迎えるために立っている。

 

 

 結局この日、ヒルダは胸の内に秘めた決意を果たせぬままに終わる。

 まずラインハルトは、主治医達と話をする間、ヒルダ達に待機するように言い含め、キスリングは部屋のすぐ外で待機し、ヒルダとシュトライトらは別室へ案内された。

 更に三十分後、話が長引きそうなので、先に食事をするようにラインハルトから伝言があり、キスリングを除く全員が来賓用の食堂へ案内され、そこで軽い食事を振る舞われた。

 ラインハルトの随行者達が食事を終えた後、ようやくラインハルトが彼らの前に姿を現した。ラインハルトは、行きの車内である程度裁可した事案について、宰相府や元帥府へ持ち帰るように言い渡し、シュトライトとヒルダが明日休暇であることを再確認した。それはつまり、シュトライトやヒルダ達を、シュヴェーリンから帰すという判断であった。

 もし、ラインハルトが随行したのがシュトライトだけであれば、このような判断はなかったであろう。それは、未婚のうら若き女性に対するラインハルトなりの気遣いであった。気遣いではあるのだが、それがヒルダの望みを阻害するものであるとは、ラインハルトは思い至っていない。

 

「これ以上こちらにいると、卿らが帰り着く頃には夜も更けてしまおう」 

 

 そう申し訳なさそうにラインハルトに言われては、ヒルダはこの館に残る事を主張する訳にもいかなかった。まずはシュトライトが、続いてヒルダもラインハルトの命を承諾する。結局、約二時間ほどの滞在で、ヒルダ達は館を辞することになった。なお、親衛隊長キスリングのみは、警護のためこの場に留まる事になっている。

 

 ヒルダ達が客間から出て来た時、ちょうど彼らの視界を、キルヒアイスの主治医達が通り過ぎた。ヒルダは、主治医の端正な顔立ちにどこか見覚えがある気がして、彼が視界から消えるまで、目だけで彼の姿を追った。

 

 

 ラインハルトは、随員達が館を辞した後、キルヒアイスとの面会に向かった。

 キルヒアイスが倒れた直後に比べれば、面会時間がささやかながらも延びた。他にも、動作の指示をする、という新たな話し掛け要素が、主治医達から提示され、キルヒアイスが回復しつつある事をラインハルトに感じさせた。

 しかし一方で、意識不明のまま四ヶ月以上が経過しており、動けないキルヒアイスの体からは筋肉が恐ろしい勢いで衰えていた。医療機器や外部刺激によって、衰弱の進行速度を遅らせてはいるが、あくまで補助的な物に過ぎない。この四ヶ月で、キルヒアイスの体重は二十キロ以上落ちた。

 ラインハルトは、主治医からの報告書により、数字としてはその事を知っていたが、こうしてキルヒアイスと直接対面し、手や腕に触れれば、如何にそれが恐ろしい事であるかを実感した。今や、キルヒアイスは、全盛期の体つきなど見る影もなく、触れた部分は骨と皮ばかりである。

 

「キルヒアイス、俺の所為で、すまない、すまない」

 

 ラインハルトは、医師から受けた予後についての説明を思い出し、キルヒアイスに謝り続けた。キルヒアイスの人生には、これから後遺症が大きな影を落とす。キルヒアイスの輝かしい未来。その可能性を一部奪った、ラインハルトにはキルヒアイスに対して、強烈な負い目があった。

 キルヒアイスは何も語れずとも、生きていてしかも無事でない事それ自体が、ラインハルトに己の愚かさを突き付け続けるのである。キルヒアイスが死んでいれば、ラインハルトは自分に必要な部分だけを切り取り、キルヒアイスの存在を、美しい思い出として昇華出来ただろう。しかし、キルヒアイスは生きていて、ラインハルトにその逃げを許さなかった。

 

「俺はもうお前や姉上を失うのは嫌だ、だからそのためならどんな事でもしよう」

 

 そうやってキルヒアイスに向けるラインハルトの笑顔は、古代宗教画に描かれる天使のような神聖さと美しさがあった。

 その脳裏を、オーベルシュタインの一言がずっと巡り続けていた。現時点で、キルヒアイスの命は、ラインハルトの命運とほぼ直接的に繋がっている。

 キルヒアイスを死なせない為に、ラインハルトは自分に敵対する者すべてを排除し、自身の権力を保持し続ける必要性に駆られていた。

 それと同時に、自死する前のアンスバッハの言葉について思う事もあった。

 キルヒアイスが自分の半身でなければ、アンスバッハはあれほど満足して自死しただろうか。ラインハルトが狙えないと分かった時、キルヒアイスに狙いを変えたのは、キルヒアイスならラインハルトの代わりになるからではないか。キルヒアイスが、ミッターマイヤーやロイエンタール、オーベルシュタインら、諸将と同じ扱いであれば、アンスバッハはキルヒアイスなど無視して、自分を狙い続けたのではないか。

 

「大丈夫だ、キルヒアイス。俺は全部上手くやってみせる。だからお前は何も心配せずに体を治す事に専念しろ」

 

 ラインハルトにとって、今のキルヒアイスは奇妙な立ち位置にいた。己の半身であり、親友であり、家族のような物でああることに変わりはないが、ラインハルトにとって一方的に守る存在にもなってしまったのである。

 ラインハルトとキルヒアイスは、アンネローゼを守る同士であり、戦場では上司と部下であって、どちらかが一方的に守られる関係ではなかったのに。

 

「手術、成功するといいな」

 

 ラインハルトは、すっかり肉付きの薄くなったキルヒアイスの手を握った。キルヒアイスの手は相変わらず、彼が生きているという事実以外、何も伝えては来ない。

 

 

 

 彼女が、自らの既視感の理由に気付いたのは帰りの車中であった。そして、その事に気が付いた時、彼女の脳裏を、ありとあらゆる最悪の状況がよぎった。ヒルダは、恐ろしい想像に顔を強張らせながら、同乗するシュトライトに話し掛けた。

 

「主治医を務めていらっしゃる医師はもしかして、___伯爵家の」

「ええ、フェザーン人女性を母に持つ庶出の方です。兄君達は、先のリップシュタット戦役でそれぞれ戦死か自殺なさっています」

 

 ヒルダが口にしたのは、リップシュタット盟約に参加したある伯爵家の家名であった。ヒルダは主治医本人とは会ったことがなかったが、当主である兄の方は、パーティなどで顔を見たことがあった。それ故の既視感である。

 ルドルフ大帝の頃から、医師や軍人として帝国に奉職して来た家柄で、伯爵家当主であり、主治医にとって長兄に当たる人物は医学者、次兄は軍人、三兄は軍医にそれぞれ就いていた。兄達との繋がりで、彼はリップシュタット連合軍に与するとある貴族の治療を任される事になったのである。

 リップシュタット戦役における最初の武力衝突でまず次兄が戦死、撤退するリッテンハイム候によって三兄が殺され、そして戦役終結間際に長兄が自殺した。

 主治医にとって、ローエングラム公とその臣下は兄達の仇敵ではないのか。

 もし、主治医にその気があれば、キルヒアイスを殺すことなど容易いだろう。キルヒアイスが死んだところで、それが避けられぬ運命だったのか、故意だったのか、判断のしようがない。ラインハルトがわざわざ引き止める位の腕なら、殺意があったとして、その証拠を見つけるのも難しいだろう。

 そこまで考えて、ヒルダの中性的な美貌からさっと血の気が引いた。

 

「ローエングラム公はそれをご存じですの……?」

「はい、おそらくは」

 

 シュトライトが断言しなかったのは、この一件がシュトライトの着任以前に決定された事であって、彼は事後的に得た情報やラインハルトの言動からそのように解釈しただけだからである。

 ヒルダは顔を上げた。進行方向とは逆向きに座っている彼女には、遠ざかり行くシュヴェーリンの館が、自然と目に入る。

 キルヒアイス一人を生き長らえさせる為だけに、貴族連合軍に与していたフェザーン人医師が登用され、治療のためにあの館が用意されたという事実に、ヒルダは幾分批判的であった。

 知識として、帝国の医療水準が極めて低い事を彼女は知っていたが、それだけであの医師に任せて良い物か彼女には疑念があった。

 それは医師個人への不信でもあったし、同時に、キルヒアイスただ一人を助ける為だけに過剰なまでのリソースを割いているのではないか、との疑問でもあった。

 

 この時、ヒルダは、キルヒアイスの状況やその経緯について誤解をしていたのではないかと、後世の研究家から指摘されている。

 少なくともヒルダは、フェザーン人医師達が末端の士官や兵士達に嫌がらせを受けた一件について、確実に知らなかった。また、キルヒアイスについても、彼女の手記や周囲とのやりとりを検証する限り、自身の従弟であるキュンメル男爵ハインリッヒと同じように見ていた可能性が高いと考えられている。

 つまり、キルヒアイスも、ハインリッヒのような寝たきりではあるがきちんと意思表示は出来る状態だと彼女は想定していたのではないか。故にキルヒアイスの現状を甘く見積もり、後にキルヒアイスらに向ける視線が厳しくなったのであろうと言われている。

 

 キルヒアイス提督が無事でいればローエングラム公をお諫めしたであろう、その仮定については、軍上層部やヒルダの共通する所であった。これまでは。

 しかし、キルヒアイスを生き長らえさせる為にあらゆる手を使い倒すラインハルトを目の当たりにして、ヒルダの心にある疑念が齎された。

 キルヒアイスが無事ではない状態で生き長らえている事。それ自体が、ラインハルトの危うさや酷薄さを助長しているのではないか、と。

 この疑念は、ヒルダの心を海とすれば、インクの一滴に過ぎないささやかな量であった。その疑念の一滴が後にどの様な影響を及ぼすのか、それを知る者はまだ誰もいない。

 

 

 二月に入って、最後の大手術が執り行われた。手術は無事成功し、その一週間後、キルヒアイスは数カ月ぶりにその瞼を開いた。

 それは奇しくも、ガイエスブルグ要塞が銀河に最初の羽搏きを記録した日であった。

 

 

 

 



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第6話 現世に引き戻された男

 キルヒアイスは、知り合いによく似たワルキューレ達と別れ、示された光の道の中をひたすら歩いていた。

 どれ位歩いた頃であろうか、不意に見知らぬ手がキルヒアイスの首根っこを掴んで、白い道の上をずるずると引き摺って行く。キルヒアイスは急激に浮上するような感覚を感じた。

 

 

 ジークフリード・キルヒアイスは、帝国歴四八九年二月初頭にようやくその瞼を開いた。

 ただ、これは文字通り瞼を開いただけで、彼の完全な回復を意味しない。意識が目覚め始めたとはいえ、それは完全な状態ではなく、一日の中で意識がある時もある、という状態であった。加えて言うなら、その意識がある時ですら、光や音などの外的刺激にぼんやりと反応する程度で、明瞭に世界を認識している訳ではなかった。

 

 ただ、日々の気候が春に向かいつつあるのと歩調を合わせるように、キルヒアイスが目覚める時間は僅かづつではあるが、増えていった。その内、キルヒアイスの目が良く動くようになった。

 

 若い軍医が、今回は主治医のパペットとしてではなく一人の医師として、アンネローゼ達に説明した所によれば、寝起きの時と似たような感覚ではないかという。寝惚けていても、目覚ましの音がうるさい、寝具が心地良いと感じる様に、外的刺激に対してごく原始的な快不快は感じ取れる状態であるらしい。

 

「何かを言っている事は分かるみたいですが、何を言っているかは解っていないようです。でも、だからこそ、その言葉に含まれる好意は敏感に感じるみたいです」

 

 キルヒアイスは呼吸機器を付けたままであったので、声をうまく出せずにいる。勿論、人と口を利かなくなって随分経過するから、そちらの影響もあったかもしれない。獣の唸り声のような物しか口に出来ないキルヒアイスだが、それによってらの気持ちを表現するようになっていた。

 身体チェックで、体の特定部分、例えば目や口に触れられることをひどく嫌がって唸りながら涙を流す事もあれば、手に触れられたり、話し掛けられるのは好ましいらしく、相手に話し掛けるように嬉しそうな声を発する事もあった。

 

 

 二月も半ばを過ぎた頃、キルヒアイスの元を二人の医師が同時に訪れた。一人は執刀医で現在の主治医である男である。もう一人は、つい先日オーディンに到着したばかりの、フェザーン人医師である。

 

「キルヒアイスさん、私は貴方の執刀医で主治医の__です。尤ももうすぐ主治医ではなくなるんですが」

 

 キルヒアイスの手を、がっしりとした長く大きな手が掴んで握手をした。とは言え、キルヒアイスは全くどこも動かせなかったので、主治医が一方的にその手を握っているだけである。

 キルヒアイスは、感覚の鈍った手越しに、何となく白い道の途中で自分の首を掴んで引き摺ったのは、この男ではないかと思った。ただ、そのような事を考えたのは、後日キルヒアイスの意識が明瞭になった時のことであって、この時点でのキルヒアイスは、この見知らぬ人物の言葉に温かさを感じる事と、彼の手が何故か安心出来る事を、何の根拠もなく感じる程度である。

 

「間に合って良かった。私が彼から主治医を引き継、あれ」

 

 次にキルヒアイスの手を握ったのは、中肉中背の温和そうな中年男であった。顔立ちは比較的品良く整っていたが、額から頭頂部を越えてハゲが進行している。寂しい頭部と顔貌の相性が悪いのか、何とも風采が上がらない。キルヒアイスは、心地の良い手だと感じながら、彼の言葉を最後まで聞くことなく再びその意識を沈めた。

 

「まあ自己紹介は改めてという事で。今はゆっくりして下さい。貴方にとってはこれからが大変なんですから」

 

 新たに主治医となる中年医師は、キルヒアイスの手を軽くポンポンと叩くと、キルヒアイスの体の側に戻した。彼は、優しさに満ちた口調ながら、冷静に事実を告げるのであった。

 

 

 

 二月に入ってから、ラインハルトは、ヒルダやシュトライトを連れず一人でシュヴェーリンの館に来るようになった。これは別に他意がある訳ではない。単に元帥府や宰相府など官公庁の休日、つまり日曜祝祭日に、休みを使って赴くようになったために過ぎない。

 

 これに関して、護衛も要らぬ一人で良いとラインハルトは主張した。しかし、帝国の最重要人物である以上、休暇中であろうが無防備にする訳にはいかないと、シュトライトやキスリングに相次いで意見されるに至り、運転手兼護衛の他、もう二人護衛をつけることでラインハルトと彼らの間に一応の妥協が成立した。

 

 そのため、公式行事や急務のない限り、ラインハルトは日曜日の度に館を訪れては、キルヒアイスと面会をし、時には医師から直接報告を聞いて、その日の内に館を辞するという行動パターンが出来上がりつつあった。

 一方で、ラインハルトは、アンネローゼやキルヒアイスの母とは軽く挨拶をするのみでなるべく長い間顔を合わさないようにしていた。キルヒアイス本人に対して程ではないが、ラインハルトはアンネローゼやキルヒアイスの両親に対して罪悪感があった。

 それはまるで、悪い事をした後、親に叱られるのを嫌がって逃げ回る子供のようでもあった。

 

 二月中旬の日曜日。ラインハルトはキルヒアイスにたっぷり話しかけた。キルヒアイスは、ラインハルトの話に相槌を打つように唸り声をあげているだけであったが、今のラインハルトにとっては、それでも充分過ぎる程喜ばしい事であった。

 

 暫し面会を終えた後、ラインハルトは、数日後には主治医でなくなる男の部屋へ赴いた。

 彼はちょうど、小柄な軍医を助手に使って、旅支度の真っ最中であった。二人はラインハルトに気付き、軍医の方はラインハルトに敬礼し、男の方は優雅な仕草で深々と礼をした。軍医は何冊かの医学書やノートを持たされた後、二人の様子を察して部屋から出て行った。

 

「卿には是非直接会って礼を言わねばならないと思っていた。キルヒアイスの命を救ってくれたこと、感謝する」

「いえ、私の方こそ。甥の一件、ご厚情痛み入ります」

 

 男の長兄は伯爵家の当主であり、リップシュタット戦役において貴族連合軍に与して、敗北に先立って自決した。伯爵家は、貴族連合軍に与したとして、家屋敷や財産の全てを没収され、長兄の幼い一人息子は路頭に迷うはずであった。しかし、ラインハルトの命令により、伯爵家はその家名と財産を安堵されたのである。

 

「卿には功があった。功には相応に報いるべきで、卿の働きにはそれだけの価値があっただけの事だ」

 

 男を始め、フェザーン人の医療スタッフや軍医達にも、様々な理由をつけて勲章が授与され、それに伴う一時金が下賜される予定であった。これは、ラインハルトから、彼や彼女達への個人的な報酬と言ったところである。

 

 

 暫く謝辞とそれへの応答が続いた後、不意にラインハルトは男に問いかけた。

 

「卿の兄上達は良い医師であったのだろうな」

「ええ、良い医師で、良い軍人で、私にとっては優しい兄達でした。ただ、先見の明はなかったようです、あるいは」

 

 あるいは、ラインハルト陣営の勝利を予測したかも知れない。しかし、兄達はおそらくは古い柵に縛られて、ラインハルト陣営に付くことは出来なかった。後日、自分が伯爵家の籍にはいないことになっていると知り、男はそう思ったのである。

 

「生きていれば必ず希望があるなどとは思いません。死ぬよりも辛い苦しみという物が世の中には多くあって、医者としてそういう人間も多く見て来ました。でも」

 

 男は手元の古い本に視線を落とした。

 

「死んだ人間は帰って来ません。死んでしまえば、その人物の何もかもは終わりです。喜びも苦しみも悲しみも、そして未来も」

 

 古びた本の間には写真が挟まっていて、その印画紙には、愛らしい少年と、少年とどことなく顔立ちの似た三人の青年達の笑顔が焼き付いている。

 

 

 ラインハルトは男との会話を終えて、部屋を後にした。館を辞そうとしていた時、アンネローゼが彼を呼び止めた。

 

「ラインハルト、少し話があるの」

 

 ラインハルトは、いよいよ悪戯を見つかった子供のような顔をして、アンネローゼの方を振り返った。

 

 

 

 その翌日。出兵準備に向けて元帥府で執務をする合間に、ラインハルトはルッツ大将を呼び出した。呼び出されたルッツは何事だろうかと訝しみながら、元帥の執務室に馳せ参じた。呼び出したラインハルトの方も、まるで他人事のような顔をしてルッツを見たので、ますますルッツは違和感を覚えた。

 ラインハルトはアンネローゼに頼まれて、とある伝言をルッツ宛に預かっていた。

 

 姉からの頼みだったので直接伝えようとしたのであるが、そうまでせずとも、シュトライトかリュッケに伝言を頼めば良かったという事に、ラインハルトは最後まで気付かなかった。

 

 その数分後、スキップでも踏みそうなほど浮かれた様子でルッツが元帥執務室から出て行き、ラインハルトは、そんなに気にいったハンカチだったのか、と独言した。

 首席副官シュトライトと次席副官リュッケの二人はラインハルトの言葉を耳にしていたが、シュトライトの方は眉ひとつ動かす事もなく泰然と、リュッケはラインハルトの方を一瞬見るに留まり、結局二人は特に何も指摘せず執務に専念し続けた。

 

 

 数日後、首都星オーディンの宇宙港。

 この日は、キルヒアイスの治療に当たっていたフェザーン人の医療チームがフェザーンへ帰る日で、フェザーン行きの出発時刻までは、まだ随分と時間があった。

 元主治医は、見送りに来ていた若い軍医と子供と三人で食事をしていたし、他のスタッフもラウンジや喫茶、ショップなどで各々自由に過ごしている。

 黒髪の若い看護婦は藤色の私服に身を包み、空港内の帝国風喫茶で、ケーキセットを同僚の女性スタッフ達と共に楽しんでいた。

 とは言え、シュヴェーリンでの数か月で、最高の腕を持つ料理人とアンネローゼ達が最高の食材を使い、手間暇惜しまず作った菓子類に、彼女達は慣れ親しんでいた。

 彼女達の理性は、値段相応の味とサービスであると認識していて、それについて不満はなかった。一方、彼女達の舌は、シュヴェーリンで食べた菓子の美味をまだ鮮明に記憶しており、このケーキセットでは完全に味覚を満足させるまでには至らなかった。

 また、軍服姿の人物にはやたらサービスが丁寧なのに、そうではない人物は蔑ろになっている傾向があること、従業員を客前で平気で怒鳴るなど殊更雇用者への扱いが悪いことなどが、フェザーンで生まれ育ち、館での待遇を経た彼女達にはどうしても目に付いてしまうのだった。

 フェザーンでは払った金額が同じならサービスは平等であるし、グリューネワルト伯爵夫人やキルヒアイス夫人なら、あんなことはなさらないのに、と。

 

 彼女達が、アンネローゼやキルヒアイス夫人、それに館で振る舞われた菓子について思い出話に花を咲かせている中、黒髪の看護婦はバッグの中に入れている包みを眺めている。

 包みの中には、先年ルッツから借りたままのハンカチがクリーニングされて入っている。

 

 あれ以来、ハンカチを返す機会を彼女は窺っていたが、ルッツが館を再び来訪することはなかった。

 彼女は、警備兵、それにキルヒアイス夫人とアンネローゼに、連絡先を知らないか打診してみたものの、前者は階級差と所属の違いから、後者はキルヒアイスの部下について詳細までは把握しておらず、どちらも空振りに終わった。もっとも連絡先が分かった所で、館から外への連絡は厳しく制限されており、一看護婦に過ぎない彼女は何の連絡も取れなかっただろう。

 手紙を添えて館に置いていくか、館に残る人間に言伝てて預ける事も考えたが、何故かそうしたくない気がして、彼女はハンカチをここまで持って来てしまったのだった。

 

 その時、バン、とガラスを叩くような音がして、店内の会話が止まった。黒髪の看護婦が顔を上げると、ガラスの向こうに、淡い麦藁色の髪をした男がいる。私服姿のルッツであった。黒髪の看護婦が慌ただしく立ち上がって喫茶店を出た。

 宙港のロビーで彼と彼女は包みを渡し渡され、紙きれを交換し合い、半時間ほど何かを語らって、黒髪の看護婦は搭乗口へ、ルッツはそれを見送って宇宙港の建物を出た。遠巻きに様子を見守っていた同僚達に何があったか質問責めに合う彼女は耳まで朱に染まっていたし、ルッツはその日一日、普段青い瞳が血の色を透かして藤色になったままだった。

 

 

 

 二月は毎週のように来ていたラインハルトだったが、三月に入ってガイエスブルグ要塞のワープ実験が大詰めを迎えたことや、三月十七日以降は実験の成功を受けてイゼルローン攻略作戦が実行に移された事で多忙を極め、ぱったりと足が途絶えた。

 キルヒアイスは、ラインハルトが来ていない事を感じ取っているのか、時折何かを探すように、彼のサファイア色の瞳が病室の中をきょろきょろと見回している。

 自分の近くに人がいると、時々問いかける様に声を上げていることもあり、アンネローゼは宥める様にしてその赤い頭を撫ぜることもあった。

 

 

 二月が慌ただしく過ぎ去り、三月が大過なく通り過ぎ、四月に入った。シュヴェーリンの湖畔は明るい緑の葉に覆われ、湖の氷は解けて、春の暖かい日差しを受けて水面が煌めく様になった。

 

 シュヴェーリンの景色が本格的な春の装いを見せ始めた頃、キルヒアイスは集中治療用の特殊なベッドから、ごく普通の病人用ベッドに移った。このベッドにも、患者の命を長らえさせるためのチューブや機器を通す穴が開いていたが、最初の集中治療用ベッドに比べれば、普通のベッドの外見をしていた。

 呼吸補助機器がほぼ外れたキルヒアイスは、相変わらず体の方は動かせないものの、何とか言葉を口に出来るまでに回復を見せた。それ自体は回復への大きな一歩であったが、同時にそれによって辛い事実も判明した。

 

 キルヒアイスは世界を正しく認識出来なくなっていた。

 自分に触れたり、話し掛けている人物が誰かは分かるが、その人物の顔や外見が抽象画の様に見え、彼らの名前が錯綜する。簡単な計算式をすれば、答えはちゃんと暗算出来ているはずなのに、口から出るのはいつも同じ数字ばかり。言いたい言葉と実際に言う言葉が違う。何よりキルヒアイスは、それがおかしい事も、自分の意志と行動が一致しない事にも、全く違和感を抱いていないのであった。

 

 これには、キルヒアイスの回復に希望を抱いていた、アンネローゼやキルヒアイスの両親、何よりラインハルトもショックを隠し切れず、新しい主治医と後事を託された若い軍医は、キルヒアイスの状態を見るのと並行して、彼らの精神にも気を配る必要があった。

 

「動物療法?」

「そうです、患者に動物が寄り添う事で、気持ちを安らげ、混乱を抑えるのです。キルヒアイス提督や皆様は動物がお嫌いでしょうか?」

 

 アンネローゼは首を振った。キルヒアイスの母であるキルヒアイス夫人も同様である。主治医は動物と患者を触れ合わせる事のメリットを一通り説いた後、キルヒアイスが本格的に動けるようになるまでに、子犬や子猫を育ててみてはどうかと提案した。無論生き物相手であるから、途中で放り棄てるような事があってはならならず、キルヒアイス達と動物の相性がいいとも限らない。あくまで選択肢の一つとしてお考え下さい、と念押しした。

 

「今、この館にも馬や犬はいますが、あの子達には警備の仕事がありますから、無理をさせるのもいけない。キルヒアイス提督が移動できるようになれば、触れに行けますが」

 

 それに馬は賢いし可愛いが、病室に入れると狭くてしょうがない、と続けた。それは医師なりの冗談であったのだが、残念ながら盛大に滑った。

 

 アンネローゼとキルヒアイス夫人は、医師から提示された選択肢について使用人の意見も伺いつつ、散々話し合った。そうして、四月中旬頃、内務省管轄の動物管理センターで殺処分の順番を待っていた仔犬一匹と仔猫一匹が、館に迎え入れられることとなる。

 

 

 

 帝国本土にいる人々が、季節的にも政治的にも春を満喫していた頃、イゼルローン回廊では、規模的な意味で、未だかつてないイゼルローン攻略戦が始まろうとしていた。

 

 四月十日。ガイエスブルグ要塞がイゼルローン回廊に出現。同日、超光速通信によって同盟の首都星ハイネセンにその一報が齎され、折悪く国防委員会に呼び出されていたヤン・ウェンリー大将が急ぎイゼルローンへの帰途に就いた。

 

 翌十一日、イゼルローン要塞の金属のドレスが、ガイエスブルグ要塞の主砲、禿鷹の鉤爪によって無残にも引き裂かれた。

 

 四月十四日から十五日までに、帝国軍はいくつかの手を打っていたが、それはほぼ成功しながらも、それによってイゼルローンを制圧するまでには至っていなかった。

 要塞主砲の打ち合いに始まったこの戦いは、イゼルローンの特性を利用して、外壁に穴を開け、装甲擲弾兵を突入させたものの、占領作戦はあと少しの所で失敗。

 無人艦をメインポートに突入させ、同盟側艦隊の行動を封殺する、ミュラーの試みも行われた。その作戦はメインポートの機能をいくらかそぎ落としたが、全て艦艇を封じるまでには至らなかった。結果、無事な部分から出撃して来た同盟艦隊と戦闘状態に入り、ミュラーは敵艦隊と要塞の間に包囲の網が編まれつつあるのを察知して、一時撤退を余儀なくされた。

 

 ミュラー艦隊所属の軍医から、ヤン・ウェンリーがイゼルローン要塞にいない、との複数の捕虜の発言について報告が齎されたのは、ケンプとミュラーが通信を介して協議中の時であった。

 二人にとってこの報告は、ラインハルトが提示したある案を早期に実行することへの、心理的後押しになった。

 

 

 その案については、ガイエスブルグ要塞が初めてのワープに成功した日まで遡る。去る三月十七日、ラインハルトは、ワープ実験に成功したガイエスブルグ要塞を訪れた後、ケンプとミュラー両大将を呼び、改めて今回の作戦目的について述べた。

 曰く、この作戦はイゼルローン要塞を無力化する事にあり、イゼルローン要塞が占拠出来ればそれに越したことはないが、場合によってはガイエスブルグ要塞そのものをぶつけてしまって、イゼルローン要塞を壊しても構わないと言い放ったのである。唖然とする二人に向かって、

 

「少々懐が痛むが、まあ仕方がない」

 

 ラインハルトはやれやれといった風情で言った。

 あれはもしかして主君なりの冗談だったのだろうか、と二人は衝撃から立ち直った随分後になって思った。

 ただ、この時点での二人は何のリアクションも出来ないまま、ラインハルトの言葉を待っているに過ぎない。

 

 ラインハルトにしてみれば、無事でないキルヒアイスが己の愚かしさを突き付け続ける存在であるように、ガイエスブルグ要塞は過去の自分の愚かさを思い出させる場所となっていた。ガイエスブルグ要塞を久方ぶりに訪れて、祝勝会場に残ったキルヒアイスの血痕を見た事で、ラインハルトはこの要塞への忌避感を一層強めた。

 

 ひどく忌まわしいこの場所を、出来れば有効活用しつつ葬り去ってしまおう、それがこの作戦案の根底に流れているラインハルトの思考であった。

 質量で以てイゼルローン要塞を破壊せしめるのであれば、その質量がガイエスブルグ要塞である必然性はなく、他の作戦や道具でも事足りるかもしれない。

 しかし、このアイデアは、まずガイエスブルグ要塞の存在を消す事が最重要であって、イゼルローン要塞にぶつけるのは、その行為を有効活用するための後付けに過ぎない。

 まだラインハルトが十歳の時、喧嘩で洋服に付着した血を誤魔化す為、ひいては姉に喧嘩の事を気付かれて心配を掛ける事のないよう、キルヒアイスと共に噴水に飛び込んだ事があった。心配されるより、馬鹿をやったと叱られる方がずっと良いと思っていたからである。

 この作戦案を口にした時のラインハルトは、この一件と正に同じ思考経路を辿っていたのだが、ケンプやミュラーがそれを知ることはない。

 またガイエスブルグ要塞への感情の他に、ラインハルトには別の考えもあった。

 

「要塞が壊れても、必要になればまた作ればよい。しかし卿ら将兵達はそういう訳にはいかぬ。卿らのような有能な将は得難い。死んだ者達は帰って来ない。作戦の成功と死ぬ兵の数を減らすのに、要塞一つで済むなら安い物だ」

 

 ケンプは、雷に打たれた様に感激に震えた。ミュラーは作戦案を告げられた時の衝撃からやや回復し、ラインハルトの気遣わしげな笑顔を見た。彼はケンプと違い、感激に震えるという事はなく、むしろラインハルトに対して不思議な感覚を覚えていた。それは、彼が目の前の黄金の覇者に抱いていた、熱狂的な崇拝に新たな彩りを与えることになる。

 こうして、イゼルローン要塞に、ガイエスブルグ要塞を文字通りぶつける案は、作戦に正式に織り込まれ、後詰めとしてアイゼナッハ艦隊の出撃も決まった。これは新しくラインハルト旗下に加わった人物という事で選ばれた。

 新参という意味ではレンネンカンプもそうであった。もし、ラインハルトが正面決戦で決着をつけるつもりであれば、レンネンカンプという選択肢もあった。一方アイゼナッハは攪乱や陽動などにおいて傑出した手腕を誇っている。これは、この天才か狂人しか考えない作戦の、成功率を上げるための配置であった。

 

 

 

 二人の将帥はそれらのことを思い返した。最初に口を開いたのはミュラーであった。

 

「あのヤン・ウェンリーが、このような時期に最前線を離れているという状況は俄かに信じがたくはあります。しかし、捕虜が意識不明の重傷者ばかりとは言え、複数人がそれを口にしたというのも見過ごせません。あるいはそれがヤン・ウェンリーの策である可能性も否定できませんが」

「……アイゼナッハ艦隊の到着を待って、B案へ移行する。ヤン・ウェンリーが要塞にいるなら、何がしかの行動に出るであろうし、いないのであれば」

 

 ケンプは武人の矜持として、本当であれば、堂々たる正面決戦によってこの作戦にケリをつけたかった。しかし、ラインハルトから目的と最終手段が明示されている以上、それを無視するような事を忠義を良しとする彼がするはずもない。

 ラインハルトから裁可は出ているのだ。そうであれば、取れる手段は有効に使うべきであろう。最終的にケンプとミュラーの気持ちはその辺りで落ち着いた。

 

 アイゼナッハ艦隊は、四月十七日にイゼルローン回廊に来援した。

 帝国軍は、艦隊による総攻撃の準備、を擬態しつつ、ガイエスブルグ要塞を運用するための最低限の人員と物資を残して、将兵と物資の退避を進めた。寡黙なアイゼナッハの手腕によって、予測よりも早くそれは終わった。

 同時刻、同盟側の方も艦隊の動きから総攻撃が来る事を予測し、万が一を考えて民間人を脱出させ始めていた。既に先日の戦闘によって、イゼルローン要塞が絶対に安全とは言い切れないどころか、居る方が却って危険になりつつあったからである。

 

 翌十八日には、ガイエスブルグ要塞がイゼルローン要塞に向けて全力で死への飛翔を始めた。それにミュラー艦隊らが付き従い、禿鷲の行進を邪魔する者を悉く薙ぎ払う。先日滅茶苦茶にされたイゼルローン要塞のメインポートの修復は、完全には済んでおらず、一度に出撃できる艦艇数に限りがあった事も、帝国軍にとって有利に働いた。

 ガイエスブルグ要塞とイゼルローンの距離が、ある一定を切った所で、ガイエスブルグ要塞は自動航行に切り替わり、内部に残っていたケンプや航行士官らの将兵も、整然と脱出用シャトルなどに分乗し、要塞を離脱した。ミュラー艦隊らも後退を始めた。

 この距離を切れば、トール・ハンマーを撃ってガイエスブルグ要塞を粉砕しようが、要塞の推進エンジンを止めてしまおうが、どう足掻いてもイゼルローン要塞は巻き添えになるのである。

 人々を載せた艦船は、国や艦種の別なく、少しでも二つの要塞から離れようと、全速力を出している。

 

 人々の目の前で、イゼルローン回廊に花火が上がった。まず、オレンジや赤をした無数の小さな光が二つの人工天体の表面を飾った。やがて数分後、大きく白い花火が、時間差で二つ輝いた。その花火はあまりに明る過ぎて、画面越しとは言え、誰もそれを直視出来た人間はいなかった。

 

 こうして、ヤンの帰投を待つことなく、禿鷲と虚空の女王は、無理心中を遂げさせられた。瀕死の女王の手から回廊の制宙権は滑り落ち、三十二年に渡った女王の支配は幕を閉じる。三十二年の内、同盟が女王を頂いてイゼルローン回廊を支配したのは、二年にも満たない僅かな期間であった。

 イゼルローン要塞の民間人や将兵の何割かは要塞から辛くも脱出出来たものの、急であった事やポートのいくつかが損壊していて使えなくなったため、脱出に際し幾つかの悲劇が発生した。イゼルローン崩壊までにあった戦闘を含め、命を落とした同盟の将兵及び民間人の数は決して少なくはなかった。

 

 それは宇宙歴七九八年、帝国歴四八九年の四月十九日、ヤンがハイネセンを出立してから一週間と少しの事であった。

 

 

 

 帝国がこの勝利に沸き返る一方、同盟では、この時期に司令官を最前線から呼び出した国防委員会について、責任を追及する声が高まり、それは被害状況が詳細になるにつれて、一層大きく、激烈になっていた。

 国防委員長ネグロポンティは、マスコミによって過去を根掘り葉掘り穿り返され、何もかもが彼を叩く材料になった。イゼルローン失陥の遠因となった、ヤン呼び出しの一件について責任を取るということで、ネグロポンティは敗戦の三日後に辞意を表明した。

 その同日夜、トリューニヒト最高評議会議長は会見を開いた。

 トリューニヒトは会見の場に殊勝な面持ちでやって来て、今回の一件は、彼の資質を見誤り国防委員長に任命してしまった自分の不見識によるものである、そう述べて深々とカメラの前で頭を下げた。そして、彼を任命した責任を取って議長を辞任すると発表したのである。

 これに伴い、トリューニヒト政権は総辞職。最高評議会によって、新たな議長の選出が行われた。

 この選出の際し、最有力であったのはジョアン・レベロ議員であった。彼の他には、ホワン・ルイ議員らの名前も挙がった。しかし、ホワン・ルイは、トリューニヒト前議長と元々同じ派閥の出身であり、レベロら他の候補者と比較してトリューニヒトにより近い政治家と見られたことから、選出レースから早々に消えた。レベロとホワン以外の人物は、実績の点でこの二人に見劣りがした。

 その結果、至極順当に、ジョアン・レベロが新しい議長に選出される運びとなった。

 

 

 惑星フェザーンの中心街。

 黒髪の看護婦は帝国のニュースを伝える電子新聞を読みながら、同盟の政情を解説している立体TVの報道番組を聞き流していた。愛しい人が今回の出兵に関係しているかを確かめるためだ。と同時に、今回の死者の数に思わず息をのむ。それはかつてその戦場のただなかにいた、リップシュタット戦役を彼女に思い出させる。同じサルガッソ・スペースの狭い抜け道である、フェザーンとイゼルローンで、世界は何と違うのだろうと、そんな漠然とした思いが彼女の脳裏をかすめた。

 

「クララ!宇宙港での事故で急患三人、十分後にくるぞ」

「あっ、はい!」

 

 医師に呼ばれ、クララは新聞を置いて急患の搬入口へと走り出す。新聞をゆっくり読む暇は、今夜の彼女にはなさそうであった。

 

 

 

 帝国と同盟の争いも、帝国と同盟、それにフェザーンの内部においても、大なり小なり勢力図が塗り替わっていった。それはこの季節の嵐の様に、急速かつ強烈な変化をこの銀河に齎そうとしている。

 

 時に宇宙歴七九八年、帝国歴四八九年の四月は、こうして終わりを告げた。

 



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第7話 舞い戻った男 (11/9差替済)

 

 宇宙暦七九八年、帝国暦四八九年五月を迎える人々の気分は、サルガッソ・スペースを挟んで著しく色彩が違った。

 帝国においては、イゼルローン要塞攻略戦における完全勝利に国中が歓喜に湧き上がっていた。

 一方の同盟では、気候の暖かさとは逆に、重く沈んだ空気が漂っている。

 同盟軍は、イゼルローン要塞、駐留艦艇の三割強である約五〇〇〇隻、約八十万人の将兵を喪失した。その他、民間人も数百人が犠牲になった。

 失われた艦艇数に対して、失われた将兵の割合が幾分多いのは、要塞主砲の撃ち合いによる犠牲者の他に、要塞脱出の際に生じた、いくつかの混乱と悲劇によるものであった。

 その悲劇の中で最大の物と言えば、パニックを起こした将兵が艦艇の操作を誤り、幾つかの艦艇と避難のために集まっていた将兵を巻き添えにした一件であろう。この一件によってポートに使用出来ない箇所が増え、人員の退避により一層の時間が掛かり、被害が拡大したという点でも、特筆されるに値する悲劇であった。

 そんな中、要塞司令部の面々は、一隻でも多くの艦艇と一人でも多くの人員を逃がすため、最後まで現場に留まっていた。

 

 ヤン・ウェンリー大将が不在の間、司令官代理を務めていたキャゼルヌ少将は、ギリギリまで要塞司令部で脱出の指揮を執っていた。そして、脱出する際、混乱によって生じた爆発事故に巻き込まれ、彼は複数個所の骨折や火傷など、全治四ヶ月の重傷を負った。

 駐留艦隊は、臨時に指揮権を貸与されたメルカッツ客員中将の下、アッテンボロー少将らが、少しでも時間を稼ぐため艦隊を率いて奮戦していた。

 フィッシャー少将はミュラーが駆逐艦を使って行った封じ込め作戦の際に旗艦を壊され、全治一ヶ月の重傷を負って早々に戦線を離脱。グエン少将は、ガイエスブルグ要塞の行進でミュラー艦隊と交戦し、戦死している。

 あまりの事態で情報が錯綜した結果、要塞司令部は全滅との誤報も一時期流れ、軍関係者、政府首班の顔を青褪めさせた。

 結局、要塞司令部の面々の中でグエン以外に死亡した人間はいなかった。ただ、軽い打撲や火傷から全治四ヶ月の大怪我まで負傷程度の幅こそあれ、その中の誰一人として無傷ではありえなかった。

 

 これに対し、発足早々のレベロ政権は、キャゼルヌ少将らイゼルローン要塞司令部の留守番組を始めとして、味方の避難や救出で特に功績のあった将兵らに、勲章を授与する事を閣議で決定し、一週間後にこれを発表した。授与者リストの中には、メルカッツ中将の名前もあった事が、同盟市民の間で大きな話題となった。

 また、戦死したグエンは二階級特進で大将となり、今回の戦いにおける犠牲者達と一緒に、政府によって盛大な葬儀が営まれる運びとなった。

 

 しかし、これらの決定と発表の段階で、生者死者のいずれも未だに同盟の首都星ハイネセンに到着しておらず、イゼルローン失陥に伴う衝撃から、同盟市民は暫く立ち直れそうにはなかった。

 

 また、新しく同盟の最高評議会議長に選出されたジョアン・レベロと新政権にも、同盟市民の不安の種は存在した。

 レベロ本人は、高潔な人物で、能力も実績もある。この事を疑う人間は現時点で殆どいない。しかし、一方で在野の政治家時代から、教条主義的であると政敵から揶揄される事のあった人物でもある。彼はあらゆる意味で理想主義者であり、現実や人間に対して妥協の出来ない男であった。

 彼の潔癖なまでの思考と態度についていける人間はそう多くない。

 レベロは、ヨブ・トリューニヒトの様に取り巻きが大勢いる訳でもなければ、ホワン・ルイの様に意見や派閥の違う様々な人々と幅広く交流がある訳でもなかった。故にレベロは、議長に就任してすぐに、政権の閣僚人事で躓いているのだった。

 彼を慕う若手もいるが、彼らはレベロのミニサイズに過ぎず、しかもレベロと違って何の実績も能力も伴っていない。

 ジョアン・レベロが就任早々に発表した政権人事を見て、多くの同盟市民は、希望を抱くより不安を覚えたという。その事は新政権発足時の支持率に明確に反映されており、トリューニヒト前政権の大失態というアドバンテージがあるにもかかわらず、支持率は五割前後に留まっている。

 レベロ新政権は、早くも同盟市民の厳しい眼差しに晒されていた。

 

 

 帝国と同盟が、正反対の状況にある一方で、二国の中間に位置するフェザーンは、どちらかと言えば勝者側に寄って、幸福の余禄に預かっていた。

 

 惑星フェザーン中心部にある巨大総合病院。

 クララは、同盟の情勢を解説したニュース記事を読みながら、朝食のホットサンドに齧り付いた。この日、彼女が配属されている救急医療センターは、珍しい事にこの時間まで急患が来ず、職員達はのんびりと食事を楽しむ余裕があった。

 クララは、ルッツと交流を始めてから、政治情勢のニュースを殊更注視するようになった。ルッツが軍人である以上、彼が出征するかは帝国の情勢に左右されるからだ。最初は帝国関連のニュースだけに注目していたが、その内に同盟関連のニュースにも、彼女は目を向けるようになった。帝国の政情が穏やかでも、同盟の政情が不安定なら、ルッツが戦場に赴く機会はやはり増えるだろうと考えての事である。

 今やクララは、時間さえあれば看護の勉強をしているか、政治経済のニュースを漁っている。彼女も、フェザーンのメディアで見れる程度のニュースに、速報性や重要性が薄い事は知っていたが、何も知らないよりはましだと思ったのである。

 クララは、休憩室の時計を見上げた。そろそろ朝の五時を迎えようとしている。彼女の休憩もそれに伴って終わり、後は集中治療室にいる患者の経過をチェックしたり、処置を施すなりして、次のシフトのスタッフに引継ぎをすれば、彼女の今日の仕事は終わりである。

 彼女はニュースを見るのを止め、大きく伸びをしてから、集中治療室へと軽い足取りで進んだ。

 

 

 集中治療室のベッドの上で、上品な雰囲気を纏う線の細い青年がうとうとしている。クララが挨拶の声を掛けると、青年はのんびりと目を開け、育ちの良さを感じさせる口調で挨拶に応じた。彼の傍らに付き添う逞しい男が、ごく静かに答礼する。

 

 彼らは、四月の終わりに起きた交通事故に巻き込まれて、この病院に担ぎ込まれてきた。救急車で運び込まれたのは三人で、そのうちの一人は病院に到着した時、既に息を引き取っていて、病院のスタッフが出来たのは彼の死亡確認であった。

 

 しかし、三人には、いくつか奇妙な点があった。まず、交通事故だと聞いていたのに、青年の体にはレーザー・ガンによる真新しい銃創が確認出来たのである。他にも、青年や男、死亡した男性には、交通事故に因るものとは考えられない傷があり、不審に思った医師達は、フェザーン警察に連絡を入れた。

 連絡を受けて、病院職員達にとって顔馴染みの警察官達が来て、先に意識を回復した男に話を聞いたり、色々と調べていた。が、二日後、事件性がないからと上層部に言われ、捜査を打ち切られる事になった、と顔馴染みの警官は悔しそうに告げた。

 それを聞いた男は、まだ意識の戻っていなかった青年に寄り添うようになり、処置を施すのに邪魔だと暗に告げると、医師や看護婦のために場所を開けるようになったが、青年の近くに番犬の様に居座り続けたのである。

 男は先に回復し一般病棟に移ったが、それでも検診や処置のある時間帯以外は、集中治療室に来て青年の傍らにあった。しかし、そんな見慣れた光景も今日で終わりである。何故なら、青年も無事意識を回復し、経過にも問題がない事から、一般病棟に移される事になったのである。

 

 実の所、クララは青年の方に見覚えがあった。リップシュタット戦役の折に、ガイエスブルグ要塞で、彼女は青年の顔を見た記憶がある。それを彼女が強く覚えているのは、偉そうな門閥貴族の中で、彼が例外的に誰に対しても丁寧で謙虚な、感じの良い人物だったからだ。付き添っている男の方に見覚えはなかったが、隙の無い身のこなしや青年への献身ぶりなどから判断して、青年の家臣だろうと、クララ達は推測していた。

 

 リップシュタット戦役後、財産や家臣と共に亡命して来た門閥貴族など、フェザーンでは珍しくもなくなっていたから、彼女達はその事を触れ回ったりはしない。

 身なりや品の良い仕草、流麗な帝国公用語の操り方などから、他の病院職員も、青年が亡命貴族だろうと薄々気付いている。それにあえて触れないのはフェザーンの流儀でもあったし、医療従事者として患者のプライベートを最大限に尊重した結果である。

 そして何より、誰も好んで藪から蛇を出したいとは思わない。

 

 

「フェルディナント。すまないが、後で果物を買って来ては貰えないだろうか」

 

 一般病棟に移れば、食事制限も解除されるという医師の話を聞き、青年は傍らの男に頼み事をした。フェルディナントと呼ばれた男は、やや不満げな顔をして頼み事に即答をしなかった。頼み事自体が不服なのか、青年の体調などを心配してなのか、頼み事を聞くことで青年から離れることが嫌なのか、不服さの理由がいずれにあるのかは、当人以外は知る由もない。

 

「解った、店が開いたら買って来よう」

「ありがとう、宜しく頼む」

 

 フェルディナントと名乗るこの男の存在も、彼の青年に対する態度も奇妙な物だった。男は一方的に青年に献身しているように見えるのに、口調や態度は完全に同格同士のそれであった。

 では門閥貴族同士なのかとも思うが、青年は言動の端々に育ちの良さ、悪く言えば苦労知らずのお坊ちゃんといった感じが見て取れるが、男は全くそういう雰囲気がない。同僚か趣味を通じた友人だろうか、と仮定してみても、二人が同じ職場で肩を並べて働いたり、同じ趣味に熱中する姿を、どうにもクララは想像出来ない。

 

 処置の動作は頭で考えずとも体で覚えているから、その最中につい余計な事を考えてしまう。仕事に慣れ始めた医師や看護婦が、よくやりがちな事ではある。

 クララが強い視線を感じて顔を上げると、男の視線とかち合った。自分の内心を見透かされたような気がして、彼女は慌てて気持ちを切り替えた。

 

 

 翌深夜、クララが病院に出勤すると、救命救急センターの集中治療室に青年の姿が見えた。青年はオープン型の集中治療室にいたはずが、個室タイプの集中治療室に移されている。

 昨日の午前中に一般病棟に移されたはずなのに。クララはそう訝しんだ。それだけではなく、救急救命センター全体がピリピリとした空気に包まれている。

 彼女がその理由を知ったのは、同僚から引き継ぎをした時だった。青年をセンターの集中治療室から、一般病棟へ移送する時の事だった。一般病棟において、一、二分程度目を離した隙に点滴の流量が変更されており、薬液の量が変わったのが原因で、青年の体は変調を来たし、一時昏睡状態に陥ったという。

 監視カメラの映像で、集中治療室を出る直前、点滴の量はカルテの指示通りだったことが確認されている。点滴の器具が故障や不具合を起こしていたということもない。移送する際にそれを弄る必要もなければ、うっかり触れた程度で流量が変わるような代物でもない。

 だから医療ミスではなく、看護婦が目を離した隙に誰かが意図的に操作したのではないか、と職員達の推理が行きつくのは自然な事だった。

 薬と毒は、生体に影響を与える物質という意味において、本質的に同じ物だ。どんな薬でも、分量や投与すべき状況を誤れば、それは患者の死に繋がる。

 青年の死を願う誰かの手が、病院周辺まで伸びているのだと、この出来事は示している。買い物から帰ってきた男は、それからずっと自分の病室に戻らず、青年の側を片時も離れようとしない。そして、今やそのことを誰も咎めなかった。

 

 一睡もせずに青年を見守っている男と、今は安らかに寝息を立てている青年を視界の端に入れつつ、クララはどうしてあんなに人の良さそうな青年が狙われるのだろうと考えた。男の方は狙われる理由に心当たりがありそうであったが、それを口にする事もなさそうだった。

 どうも想像以上に厄介な事情のある患者達らしい。職員達は共通した認識を抱いた。

 

 クララは、これから起こるであろうトラブルに身震いしながら、数分後に来る急病患者に備えて、マグカップに残ったコーヒーを一気に飲んで気合を入れた。

 

 

 

 男の細く骨張った手から、樹脂製のマグカップが何の前触れもなく滑り落ちた。マグカップの中に入っていた水が、ベッドテーブルと、その上に置かれた物を濡らした。

 

「もうしわけありません、アンネローゼさ、ま」

「いいのよ、ジーク」

 

 濡れてぐじゃぐじゃになった、毛虫がのたうち回ったような字があちこちに書き散らされた便箋、線の内側より外側へと多く色が飛び出している塗り絵。帝国軍の活躍を報じた記事のコピー。

 それらをアンネローゼは手早くテーブルから取り除き、彼女のほっそりとした優雅な手が、消毒用のティッシュでテーブル面と、濡れた筆記具を拭き取る。それを手伝おうとキルヒアイスは右手を伸ばした、つもりで、ベッドテーブルの支柱に強かに手をぶつけてしまった。

 アンネローゼのしっとりとした手が、キルヒアイスのぶつけた個所の痛みを和らげるように、優しく撫でさすった。キルヒアイスのサファイア色の瞳とアンネローゼの深青色の瞳が自然と見つめ合い、どちらからともなく視線を逸らし合った。

 

 アンネローゼは、看護婦と使用人にキルヒアイスの事を伝えて事後処理と手当てを頼むと、静かに病室を辞した。

 部屋を出た彼女の足元へ、廊下の向こうから仔犬が走り寄って来て、千切れんばかりに尻尾を振っている。一方、彼女が出て来た扉を、仔猫が興味津々といった様子で見上げている。彼女は、仔犬を一撫でしてから、扉の前の仔猫を抱き上げた。

 

「まだ入っては駄目よ。ジークの体がもう少し良くなったらね」

 

 仔犬の方は了承したとばかりに元気良く吠え、仔猫は不平を述べるかの如く愛らしい鳴き声を上げた。アンネローゼは破顔すると、二匹の体を撫でてやった。

 キルヒアイスの療養のために引き取られた動物達であったが、今の所彼らに一番癒されているのは、アンネローゼかも知れなかった。

 

 

 五月に入ってからのキルヒアイスは、ベッドの背上げ機能を使ってではあるが、上体を起こして、手を動かす作業に取り組み始めた。本や新聞など、文字情報をゆっくりとではあるが、読む事が出来るようにもなっている。もっとも読み始めた最初の頃は、新聞の小さな囲み記事一つを読むのに、一時間以上掛かったりもしたのだが。

 

 相変わらず彼の脳は混乱を来たしており、彼の体は彼の思うようには動いてくれなかった。

 動かそうと思って動かないのは良い方である。時には、思った動きと違う動きになって、ベッドやテーブル、周囲の人々に手などをぶつけてしまう。筋肉が衰えたとはいえ男の大きな手である。変に勢いがついていると、当たられた方も痛くないはずはなく、その度にキルヒアイスは申し訳ない気持ちになるのだった。

 

 また、キルヒアイスの脳の混乱は、体の動作だけではなく、彼の記憶にも及んでいた。

 両親であるキルヒアイス夫妻、アンネローゼが話す思い出話、アルバム写真や映像、自分の事を記した、或いは自分が書き付けた文書。それらを見ても、時々思い出せない出来事がある。

 キルヒアイスは全てを忘れたわけではなかったが、所々に記憶の欠落があるのも確かであった。

 

 リップシュタット戦役時の、キルヒアイス上級大将の華々しい活躍を報じる記事。キルヒアイスはその時の記憶が全く欠落しているが故に、他人事のようにその記事を読んでいる。

 

 ただ、キルヒアイス本人は、過去の記憶の欠落を、殆ど思い悩んでいなかった。何故その過去を大事に思っていたか、という理由も含めて欠落しているからである。それよりも彼が気にしていたのは、将来に渡って記憶障害を起こし、それで日常生活に支障をきたす可能性であった。

 彼の新しい主治医は、キルヒアイスにメモをつける事、手紙を書く事を習慣づけるように勧めた。

 メモを付ける事は、何かを忘れない為にも何かを思い出す為にも有用であるので、何かあれば必ず書き留めるなりして記録するように、と主治医は言い含めた。

 手紙を書くのは、直接口で何かを伝えるのと違って、相手にそれを渡す前に、一呼吸置いて不備がないか読み返せる。言った言わないの揉め事にもなりにくい。今のキルヒアイスの様に、意図したことが上手く口に出来ない、何を言いたいのかが整理出来ない状態にあって、それは非常に有効な手段であると告げた。

 

「そして何より、手紙を書くにも、メモを作成するにも、手を動かす必要がありますからね、手の良い運動になります。手紙の内容を考えるのも、良い刺激になるでしょう」

 

 中年の主治医は、キルヒアイスへの回答をそう締めくくった。

 

 それからというもの、キルヒアイスのベッドテーブルに、書き殴られたメモ用紙の丘がうず高く形成され、見かねたアンネローゼやキルヒアイス夫人の手によって、ノートに記入済みのメモが貼り付けられるようになった。

 

 こうして、シュヴェーリンの館における五月最初の週が終わった。

 

 

 

 イゼルローン要塞攻略戦を大勝利で飾った、ケンプとミュラー、それにアイゼナッハの三艦隊は、五月中旬を過ぎて、ようやく首都星オーディンに帰還した。

  今回の作戦に当たった三提督を乗せた地上車を中間に配し、装甲車と高級地上車で形成された行列が、元帥府への道をゆっくりと進んで行く。その沿道には、多くの帝国臣民が詰めかけ、歓呼の声をもって彼らを迎えた。

 

 丁度それと同時刻、シャフト技術総監は、恐ろしく浮かれきっていた。自分が提案した作戦が当たって、同盟に勝てたのだ。彼の妄想した作戦手順と、実際の戦況は著しく異なっていたがそんな事は些末な問題である。

 彼の提示した技術を使って、帝国軍が勝ったという事実が大事なのである。運良く行けば、ラインハルトの覚え目出度く、尚書の地位も夢ではないかも知れぬ。そうでなくとも、技術総監としてのシャフトの地位は暫く安泰であることは間違いない。

 作戦における肝心要の要塞移動技術は、フェザーンからの供与物であった。それを結実させたのは、科学技術総監部の下っ端研究員とケンプら現場将兵であって、シャフトは殆どそれに寄与していなかった。が、シャフトはその事実を自分の記憶から綺麗に消し去っており、己の欲望を翼として、輝かしい未来への妄想を飛躍させていた。

 

 彼の果てなき妄想を断ち切ったのは、ラインハルトからの呼び出しであった。

 今回の勝利における褒賞の話であろう。と、期待に胸を膨らませて元帥府執務室を訪れた彼を待っていたのは、ラインハルト以下、オーベルシュタイン、憲兵総監ケスラー大将らの、温かさには程遠い眼差しであった。

 公金横領、収賄、機密漏洩、特別背任。ケスラーが、シャフトが今まで犯した罪状を淡々と並べ立てる。

 ラインハルトに、弁解はあるかと問われたので、シャフトは如何に自分がこの度の勝利に貢献したかについて滔々と演説をうち始めた。

 シャフトの自己弁護が十秒にもならない内に、ラインハルトはその美貌に冷笑を浮かべてそれを遮った。

 シャフトは最後の足掻きに、己の罪状に対する証拠を求めたが、それに対してケスラーは罪状の明確な物証や証言を丁寧に羅列してみせた。

 絶望のためにシャフトは項垂れ、屈強な憲兵達に連行されていったが、誰もそれを哀れだとは思わなかった。

 

 科学技術総監部における癌の親玉を掃除したお陰で、ラインハルトは旗下の将帥らと共に、ケンプら三提督を気分良く出迎える事が出来た。

 

 ラインハルトは、まず三提督を労うと、ケンプ、ミュラー、アイゼナッハの三名を上級大将に昇進させると発言して、彼らの功に報いた。

 この中で最年長のケンプはさておき、将来性を買われて大将になったと揶揄されていたミュラー、ラインハルト旗下に加わったばかりのアイゼナッハは、この軍功と地位を持って、ラインハルト体制下における自らの立場と評価を確立するに至った。

 

 ただ、イゼルローン要塞から脱出する艦艇に追撃を掛けなかったことが、イゼルローン攻略戦の直後から三提督の帰還までに、一部将帥の間で批判の対象となった。もし、脱出した艦艇の中にヤン・ウェンリーが居たならば、みすみす大魚を逃したことになるからだ。

 これに関しては、人工天体二つの爆発によってデブリだらけになった回廊を無理に進めば、帝国軍も無傷では済まなかった可能性が高い事。

 ラインハルトから極力将兵の損耗を抑えるよう指示され、ケンプらはそれを全うしただけである事。

 数日間、回廊を監視して、敵軍の完全撤退を確認して帰還の途に着いている事。 何より、作戦目的は回廊の制圧ないしは無効化であり、ヤン・ウェンリーの首を上げることではなかった事を、ラインハルト自らが説いて、その批判を抑えた。

 何より、ヤン・ウェンリーがイゼルローン要塞に居なかった事実が、後日判明するに至って、ケンプらに対するその種の批判は完全に消え去った。

 

 これでラインハルトの旗下には、既にその地位を得ているキルヒアイス、ミッターマイヤー、ロイエンタール、オーベルシュタインを含め、七名が上級大将の地位に並ぶことになる。

 

 

 

「オーベルシュタインの奴が喜びそうな流れだな。ローエングラム公の下に多くの上級大将と大将が並び立ち、それでいて、誰も突出するには至っていない」

 

 ロイエンタールはそう言って、年代物の白ワインを掲げた。その日の深夜、ロイエンタールの私邸において、ミッターマイヤーとロイエンタールの二人は、ゆるりと酒の杯を重ねていた。

 

 士官用クラブ『海鷲』で、ケンプ、ミュラー、アイゼナッハらの上級大将昇進の前祝いと称して、主だった将帥達による馬鹿騒ぎが行われた後だったので、既に二人とも出来上がっており、卓上にある酒の減り具合は著しく遅い。

 言うまでもない事であるがオーベルシュタインは、昇進祝いと称したこのバカ騒ぎには、当然のように不参加である。

  参加者全員に程よく酔いが回った所で、この日の主役で、家族のいるケンプやアイゼナッハを気遣い、比較的早めに場はお開きとなった。

 斯くして、参加者達は三々五々に海鷲を辞し、ミッターマイヤーとロイエンタールの二人は、ロイエンタールの私邸で飲み直しているのである。なお、家族も恋人もいないミュラーは、ビュッテンフェルトに引き摺られて、夜の歓楽街へと消えて行った。

 

 

 ミッターマイヤーは酔いが回っているせいか、ロイエンタールの言葉に対して反応が鈍く、手に持ったロックウィスキーを飲む訳でもなく、ただ氷が解けていく様子をぼうっと眺めていた。

 

「……オーベルシュタインの事もそうだが、ローエングラム公は、キルヒアイスが倒れてから、随分お変りになられた気がする。今回の作戦案と言い、どうにも」

 

 暫く、部屋を沈黙が満たした後、不意にミッターマイヤーが呟いた。それを聞いたロイエンタールは、左右色の違う双眸に、暗い喜びの光を輝かせたが、ミッターマイヤーは本格的に睡魔に負けそうになっており、親友の様子に気が付かなかった。

 

「変わったのではなく、今の姿が本来のローエングラム公だという可能性もある。キルヒアイスの不在でそれが露わになっただけかもしれん。考えてもみろ、ミッターマイヤー。俺達があの方に出会った時には、既にキルヒアイスが傍にいた。俺達が良く知るローエングラム公の御姿で、キルヒアイスが存在しえなかった時というのは、キルヒアイスが倒れるまでただの一度とてなかった」

 

 ミッターマイヤーは、急激に酔いが醒めて、その発言をした親友の顔を凝視した。

 

「それにだな。ローエングラム公がお前の言う通りお変りになっているとして、俺はそれを不思議とは思わぬ。何かを得る為でもなく、何かを取り戻す為でもない。人は、何かを失わない為に最も残酷になれるのだ。そう」

 

 俺の母親の様に。声はしなかったが、ミッターマイヤーは、親友の唇がその言葉を形作るのを確かに見た。五年前のカプチェランカで、酔ったロイエンタールが口を滑らせた話を思い出す。

 

 ロイエンタールの両親は、身分も裕福さも年齢も何もかもがちぐはぐな夫婦であった。

 身分も低く既に若くもない夫は、若く美しく高貴な妻に劣等感があり、彼は自分が唯一誇れる物、財産で関心を引こうとした。ロイエンタールの私邸が、下級貴族の邸宅の割に壮麗なのは、夫が妻に喜んでもらいたい一心でそのように作らせたからだった。

 妻レオノラは、零落した実家マールバッハ伯爵家のため、金のために結婚した。金と物にしか頼れぬ夫に対して愛はなく、愛を求めて、彼女は家庭の外にそれを見出した。

 やがて、オスカー・フォン・ロイエンタールが生まれた。赤子の目が開いた時、ロイエンタールの母は息子の右の瞳に、愛人の瞳の色を見出した。青い瞳を持つ者同士の夫婦には、現出しないはずの黒。彼女は、それを自分の罪の証と思い込んだ挙句、子供の黒い瞳を抉り出そうとしたのである。

 レオノラは、贅沢な生活を、己の名誉を失いたくなかった。失いたくない物の中には、愛人の存在もあったかもしれぬ。自分の不義が表沙汰になれば、全てが終わる。であればこそ、彼女は、息子に宿った罪の証を抹消せねばならなかった。

 

 ただ、ロイエンタールは最近思う事がある。もし、自分が生まれる前に母親の不義が発覚していればどうだっただろうと。母親は不義を犯した女として、ロイエンタール家から放逐されたかもしれない。または、外聞のため、離婚はされぬが家中で冷遇されたかもしれない。いずれにせよ、全てを失っただろうことは間違いない。

 子供の父親が誰か調べられ、愛人の種なら、オスカー・フォン・ロイエンタールはこの世を見ることなく身罷ったかもしれない。或いは全てを失う事に耐えられず、体内の子供ごと母親は自死したかもしれない。

 いずれにしろ母親にとって、子供の黒い瞳が己の罪の証であることに変わりはないが、それを抉り出す必要性はずっと低くなっていたはずだ。この仮定における彼女は、もはや失うべき何物も有していないのだから。

 全てを失った後に自分が生まれていたら、母親は俺を、とそこまで思考が及んで、ロイエンタールはそれを断ち切った。今の彼には他に考えるべきことがあった。

 

 翻って、ローエングラム公は、キルヒアイスを失わない為に、これからどう行動するのか、と彼は思考を切り替えた。

 また、リヒテンラーデ一族の悲劇が繰り返されるのだろうか。もし、その悲劇によって誰かが犠牲になるとして、それが自分やミッターマイヤーでないなどと誰が言い切れるだろうか。

 ロイエンタールやミッターマイヤーの人柄、実績などはこの際関係ない。要はローエングラム公がどう判断するかだ。

 ロイエンタールは、リヒテンラーデ一族を処断した一件でそれを嫌というほど味わった。

 ローエングラム公は、自分が十歳の時に幼年学校に入り、今に至る地歩を固めたという理由で、十歳以上の男子を一人前とみなし、死刑にすると決めたのだった。その中には、明らかに陰謀など企みようのない子供もいたというのに。

 ロイエンタールは、特に人道主義者という訳ではなかったが、謂れのない罪で処刑される子供達を見て、平然としていられるほど冷血でもなかった。

 

 ロイエンタールにとって、誰かが何かを失わない為に自分が犠牲にされるのは、母親との一件だけで充分過ぎた。

 彼の脳裏で、母親の美しい手が自分に向かってナイフを振り上げる光景が、何度も何度も繰り返される。

 

 その光景を打ち消すため、ロイエンタールは光景がリピートする度に白ワインを呷った。ミッターマイヤーが飲み過ぎだと窘めるが、それが聞こえていないかの様に、ロイエンタールはひたすら酒を流し込んでいく。

 

 やがて、気が付けば、ナイフを振り上げる滑らかでなよやかな女の手は、形の良い男の手に変じた。ロイエンタールが、その手を辿って視線を動かせば、そこにあるのは自分によく似た女の顔ではなく、ローエングラム公の華麗な顔貌であった。

 

「おい、ロイエンタール」

 

 ミッターマイヤーは、酔い潰れて机に突っ伏した親友に呼び掛けた。ロイエンタールは目を閉じており、貴公子然とした顔には、苦悶の表情が浮かんでいる。

 ミッターマイヤーは、親友の寝顔を肴にして、グラスに残った酒をすべて平らげた。ロイエンタールと同じように前後不覚になるまで酔い潰れて、ミッターマイヤーは今聞いたことを全て忘れ去ってしまいたかった。だが、残念ながら二人の卓に残った酒は、ミッターマイヤーを即座に酔い潰すには全く量が足りなかった。

 

 卓上の酒を飲み乾したミッターマイヤーは、ロイエンタール邸の瀟洒な天井をしばし仰いでから、ロイエンタール邸で働く使用人達を呼んだ。

 呼び掛けに応じて参じた執事達に頼み、酔い潰れたロイエンタールを寝室まで運んでもらう。その様子を見届けていると、ミッターマイヤーに再びの眠気が襲ってきた。彼は抵抗することもなく、そのままロイエンタール邸の絨毯の上で睡魔に身を委ねた。

 

 

 

 シュヴェーリンへの車中で、ラインハルトはここ数日の疲れから、しばし舟を漕いでいた。

 その寝顔は、女神にその若さと美しさを惜しまれ、永遠の眠りを賜った王子の御伽噺を彷彿とさせるが、残念なことにその芸術品を鑑賞する者は、親衛隊長のキスリング唯一人で、彼は主君の寝顔に心一つ動かされない様子であった。

 ラインハルトがキルヒアイスに最後に会いに来たのは、イゼルローン攻略戦が終わる直前のことだった。それから数えてほぼ一ヶ月ぶりの、シュヴェーリンへの訪問である。

 

 寝起きで、ややぼんやりしながら、ラインハルトはキルヒアイスの病室に入った。

 キルヒアイスはベッドの背上げを起こして、仔猫と仔犬の相手をしていた。ラインハルトが病室に入って来たのに気が付いて、キルヒアイスは二匹の相手を止めて、ラインハルトに穏やかに微笑み掛けた。ラインハルトも、キルヒアイスに子供じみた笑顔を見せて答えたのであった。

 アンネローゼが気を使って、外から二匹の名前を呼ぶと、二匹はまっしぐらに彼女の元へ向かった。

 

 動物達に見せている、アンネローゼやキルヒアイスの笑顔は、全く身構えた所のない自然な物で、いつの間にやら館に増えた住民に姉やキルヒアイスを取られたような気がして、ラインハルトは少し拗ねた。もっとも、そのお陰でこうやって、姉達が安らかでいられるのだからと、ラインハルトは何とか理性で、子供じみた拗ねを抑えた。

 

 ラインハルトが最後に会ったのは、まだ記憶の混濁が酷い時で、端的に言って壊れていたキルヒアイスを、ラインハルトは直視出来ずにいた。それに比べれば、今のキルヒアイスは、記憶の欠落が随所に見られるものの、以前の様な明晰さと明るさが見られるようになった。

 長い昏睡状態の間に痩せこけたキルヒアイスの体も、僅かづつではあるが精気を取り戻しつつあるように見えて、それは幾分ラインハルトの罪悪感を和らげた。

 キルヒアイスは、今は手元のノートに思い付いたことを書き留める様になっており、ラインハルトもそれに少し目を通した。

 毛虫がのたうち回っていたような字が、蚯蚓の這ったような字になり、今は象形文字位のレベルまでになっていた。かつてのキルヒアイスの手跡と比較すれば、下手な字には違いないが、それでも字形の変遷は、確かにキルヒアイスの回復を物語っていて、それを見るラインハルトの顔を思いがけず綻ばせた。

 

 

 ラインハルトとキルヒアイスは、久方ぶりに心の置けない親友同士の会話を楽しんでいた。と、キルヒアイスが何かを思い出したような素振りを見せた。

 

「そうだ、ラインハルト様。私についていた従卒が、今どうしているのかご存じありませんか。最近手紙を幼年学校に送ったのですが、宛先不明で返って来たのです。あの子はまだ卒業する年齢でもありませんし……」

 

 ラインハルトは鷹揚に頷き、その従卒の名前をキルヒアイスに問うた。

 

「フォン・コールラウシュと……」

 

 その瞬間、キルヒアイスの脳内を奔流の様に記憶が押し寄せた。カスタード色の髪をした、少し強がりの、出会った頃のラインハルトに雰囲気の似た少年の顔、幼い彼がキルヒアイスに話した、家族の話。

 つい先日読んだばかりの、リップシュタット戦役前後のニュース記事。それらの事象がキルヒアイスの脳裏である一つの推測を形作った。キルヒアイスの顔から一瞬にして血の気が失せ、その痩せた手が、震えながらもシーツを強く握りしめた。ラインハルトは、聞いた名前を記憶するのに気を取られ、キルヒアイスの様子が先程と変化した事には気が付いていない。

 

「分かった。コールラウシュというのだな。すぐにでも調べさせよう」

「ラインハルト様。彼を覚えていらっしゃらないのですか?」

 

 ラインハルトは笑みをキルヒアイスに向けた時、ようやくキルヒアイスの様子がおかしい事に気が付いた。

 しかし、キルヒアイスは戦役の途中まで自分と別に動いていたのだから、その時キルヒアイスの側にいた従卒の顔や姓名までは良く知らなかった。それなのに、キルヒアイスは何故俺を責める様に見るのだろう?

 ラインハルトはその事を不可解に思いながら、キルヒアイスを見つめた。キルヒアイスのサファイア色の瞳が、深い悲しみを湛えてラインハルトを見返している。

 

「コールラウシュとは、リヒテンラーデ公の姪御が嫁いだ家です、ラインハルト様。私の従卒はその家の息子、ええ、ラインハルト様と私への暗殺事件を使嗾なさったとして、自裁なされたリヒテンラーデ公の又甥に当たります」

 

 ラインハルトの氷蒼色の瞳が、驚きのために見開かれた。キルヒアイスは悲痛に満ちた顔をラインハルトに向け続けている。

 ラインハルトはリヒテンラーデ一門の家名など一々記憶してはいなかったし、処刑を執行したのはロイエンタール達であって、ラインハルトはその現場に立ち会った訳でもない。例え直接見聞きしていたとしても、半年以上前の政争の敗者などラインハルトにとってはもはや無用の物であって、いずれにしろ忘れ去っていたには違いない。

 一方で、今まで意識不明で、つい最近色々と思い出し始めたばかりのキルヒアイスにとって、少年の動向は過去の事ではありえなかった。

 キルヒアイスは、年の割に随分幼く見えた従卒を思い出す。泣き虫で意地っ張りの割に変な所で素直で、両親や姉について語る彼の口調からは、彼が家族から愛されて育ってきたのだとよく分かった。

 

「どうしてです、ちゃんとお調べになれば、あの子に罪はないとお分かりになったでしょうに」

「リヒテンラーデ一族を早急に始末せねば、殺されるのは俺やお前の方だった!あの時は、時間をかける余裕などなかったのだ、キルヒアイス」

 

 キルヒアイスの表情に、絶望の色が混じった。

 キルヒアイスは、かつてゴールデンバウム王朝の始祖ルドルフ大帝が、自分に歯向かった共和主義者の親族をそうしたように、従卒の少年を辺境へ流刑にしたのだろうと考えていた。キルヒアイスは、ラインハルトがルドルフや門閥貴族達ほど残酷だとは思っていなかったし、思いたくなかったのである。

 更に表情を変えたキルヒアイスを見て、ラインハルトは己の失言を悟った。しかし、もう後悔しても遅い。キルヒアイスは、悲しみと怒りを綯交ぜにして、ラインハルトを睨んだ。

 

「何故殺したのですか、ラインハルト様!あの子はまだ一二歳でした。何が出来ようはずもないではありませんか!」

「俺は十歳の時に、この帝国を壊すと決めて幼年学校に入った。だからだ。リヒテンラーデ一族の、その年頃の子供達が、その時の俺と同じ位の気概を持っていないなどとどうして言い切れる。今は子供でも、数年経てば力を蓄え、復讐を果たすために、俺やお前を殺しにやって来るかも知れない。俺はそれで良い。だがな、キルヒアイス。俺はお前を失うのだけは嫌だ」

 

 自分を守るために、将来の禍根になるであろう子供を殺したのだと言われて、キルヒアイスは戸惑った。ラインハルトも、キルヒアイスを守るために行ったはずの事で、キルヒアイスに責められるのは辛かった。

 

「ラインハルト様に出来たからと言って、他の者に出来るとは限りません。ラインハルト様が自分を基準になさるのは結構ですが、それでは皆が辛いのです。もう、わたし、は」

「キルヒアイス、お前は」

 

 常になく感情が高ぶったせいで、キルヒアイスの血圧が上がる。

 言い過ぎた、もう少し言い方という物があったのに、ラインハルト様に謝らなければ、と考えていたキルヒアイスの意識は、突如として暗闇に閉ざされる。

 寝たきりの穏やかな状態に慣れ切っていたキルヒアイスの体は、その血流変化に対応する事が出来ず、気絶した。

 

 意識を失ったキルヒアイスをみて、ラインハルトは医師達のいる部屋に繋がるベルを力一杯押した。医師達が病室に入って来るのと入れ替わりに、ラインハルトはふらふらと病室の外に出た。

 医師達の慌ただしい様子を聞きつけて、アンネローゼが顔を出した。彼女は、力なく歩く弟の背に声を掛けた。

 

「ラインハルト、どうしたの?」

 

 ラインハルトは姉の声に振り返り、罪を宣告された罪人の様に、怯えの混じった表情を浮かべた。

 アンネローゼは、ただ何が起こっているのか知りたくて、弟に声を掛けただけであった。その視線も声も、客観的に見て、何の悪意もありはしなかった。

 しかし、今のラインハルトには、アンネローゼの他意のない視線や声ですら、自分を責めているように感じた。ラインハルトは、姉の問いかけを無視して、館を辞した。

 

 

 これ以降、ラインハルトが、キルヒアイスに会いにシュヴェーリンの館を訪れる事はなかった。

 

 宇宙暦七九八年、帝国暦四八九年五月中旬。首都星オーディンの大地には、静かに雨が降り注いでいた。



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第8話 殺されかけた男

 キルヒアイス家の家長でジークフリード・キルヒアイスの父親、キルヒアイス氏の朝はごく普通に始まる。

 まず、日が昇ってから三十分後に目を覚まし、顔を洗うなどしてから、台所で朝食の準備をする使用人に挨拶の声を掛ける。

 使用人は朝食を作る傍ら、彼の唯一の楽しみであるという、小瓶入りの小さな熱帯魚やごく小さなエビに餌をやっている所であった。

 

 パジャマ姿のまま、家の隣にある蘭専用温室に、キルヒアイス氏は行く。温室の蘭達に水やりなど必要な手入れをして、蘭一つ一つの様子を確認し、キルヒアイス氏は官吏らしい生真面目さを発揮してノートに記録を付ける。

 

 それらの作業が一通り終わると、自室に戻って出勤用の服に着替える。パジャマに外の汚れがついている事に、妻のキルヒアイス夫人は結婚当初困惑していたものだが、結婚後二十年も経過すれば慣れてしまい、彼女は今では特に何も思わない。

 

 彼が食堂にやって来る頃には、朝食の準備が整っている。

 焼き立てパンや、肉とバターの香ばしい香りが、まず食堂に近付くキルヒアイス氏の食欲をそそり、食卓に並んだ燻製肉のピンクに、ふわふわのオムレツの淡い黄色、焼き立ての白パン、瑞々しいサラダが鮮やかな緑や黄で主人の目を楽しませる。キルヒアイス氏と同年代の男性使用人が、食堂でキルヒアイス氏を出迎え、食卓の皿に出来上がったばかりの、旬の緑豆を使ったポタージュスープを盛った。とてもなめらかなスープは、濃厚な味と共にやさしく喉を滑り落ちていく。

 キルヒアイス氏が朝食に対する賛辞を口にすると、彼は今日のスープに似た色の瞳を嬉しそうに細めて礼を述べた。

 

 先年の秋以来、キルヒアイス夫人は息子ジークフリードの看病のため、シュヴェーリンへ泊り掛けをするようになった。そのため、グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼから紹介された男性使用人が、食事の用意や掃除洗濯など、キルヒアイス夫人不在中の家事を賄っている。

 

 男性使用人は、若い頃はさぞ女性に人気があっただろうと感じさせる品の良い外見している。主人に気を使わせないために鍛錬されたのだろう気配の消し方、洗練された立ち居振る舞い。完璧な家事の手腕。

 彼ほど有能な使用人は、平民で下級官吏のキルヒアイス家程度には不釣り合いなように思われて、キルヒアイス氏は当初どう扱っていいか困惑していた。

 彼の給料は、キルヒアイス家の財布から出ているので遠慮なく使ってもいいのだが、彼のいる生活に慣れてしまうと厄介な気がして、キルヒアイス氏は気を使いながら、彼を使役している。

 

 主が食事を終えない限り、使用人は食事を口に出来ない。そのため、キルヒアイス氏は、なるべく手早く食事を終えることにしている。一人の食卓に耐えかねて、キルヒアイス氏が相伴を頼む時もあるが、週末に一回あるかないかといった具合だ。

 

 食事を終えると身支度を再度確認し、彼は昼食の包みと折り畳み傘を使用人から受け取る。包みから漏れるパンの香りから、今日はクロワッサンサンドだろう、とキルヒアイス氏は予測した。

 

「いってらっしゃいませ、旦那様」

 

 家の中から自分を見送る使用人の声を背に、キルヒアイス氏は徒歩で司法省へと出勤した。見上げれば、厚い雲が上空を覆っていて、昼前には大雨が来そうな気配があった。

 

 丁寧に手入れされた家屋と庭を誇る、隣のベックマン家。その前を、キルヒアイス氏は通り過ぎた。庭先で花の手入れをしていたベックマン夫人が、にこやかに挨拶の声を掛け、彼もそれに応じる。

 三人の息子を次々と戦争で亡くして、長らく気落ちしていたベックマン夫妻だったが、昨年の冬前に、遠縁だという十代の少女を養子として引き取った。

 それ以来、夫妻は少しづつ元気を取り戻していった。老夫妻の気力の減退と、それに比例する住居の荒廃ぶりを心配していた近隣住民も、この好ましい変化と、それを齎した少女を歓迎している。

 

 湿った空気にのって、ベックマン夫妻の養女が奏でるピアノの音色が、キルヒアイス氏の背中を見送った。

 

 

 その同日、あるいはラインハルトがシュヴェーリンを逃げる様に去った数日後。

 

 ローエングラム公ラインハルトは、キルヒアイスに投げ掛けられた言葉を処理する暇を与えられる事はなかった。帝国で皇帝を除けば最高の権力を持つ人間に、衝撃を癒す暇を与えられるほど、帝国の状況は安定していないのが現状である。帝国は現在も、ラインハルトの強力な指導力と卓越した手腕を必要としていたし、それは今のラインハルトにとって、格好の逃避先となった。

 

 この日の朝、宰相府で、ラインハルトは、駐フェザーン帝国高等弁務官より定期報告の通信を受け取っていた。

 

「一先ず二人を奴らの目の届かない所へ保護し、関係先への監視も続ける様に。ただ、それが帝国によるものとは一切悟らせるな」

 

 ラインハルトは、端的に命じると通信を切った。首席秘書官マリーンドルフ伯爵令嬢ヒルダが、宰相執務室に足を踏み入れたのは、その直後の事である。ラインハルトは、高等弁務官が伝えた事案について、詳細に思案する時間を与えられなかった。

 ヒルダは、憲兵総監ウルリッヒ・ケスラー大将が至急の面会を求めている事を伝えた。ラインハルトは即座に了承の意を示し、先程からヒルダに頼もうと思っていた事案について口にした。

 

「それと、ケスラーとの面会後、オーベルシュタインをここへ呼んできて欲しい」

 

 ヒルダはふと違和感を覚えた。

 ラインハルトはケスラーの用件が何であるかを薄々察しているのではないか。そして、おそらくそれは、あのオーベルシュタイン上級大将の仕事範囲に入る事案なのだろう。ヒルダは、そのように勘付いた。

 ヒルダは、オーベルシュタインの義眼の眼差しを思い起こして、胸中の不安を掻き立てられた。彼女は決して不公正な人物でも、狭い視野の持ち主でもなかった。しかし、軍首脳部の多くがオーベルシュタインを悪し様に言うのに少しも影響を受けずにはおれなかったし、それとは別にヒルダは彼に対して幾らかの苦手意識があった。

 しかし今はその様な事を考える時ではない。と、頭を切り替えて、ラインハルトのスケジュールを優先度順に組み替えながら、ヒルダはケスラーを呼びに行った。

 

 

 ケスラーが齎したのは、旧貴族連合派の人物二人が、フェザーンから帝都オーディンへ潜入したとの情報であった。一人はランズベルク伯アルフレッド、もう一人はレオポルド・シューマッハ元帝国軍大佐。

 その人物の名前を聞いた瞬間、ラインハルトの口元に僅かな冷笑が浮かんだのを、共に話を聞いていたヒルダは見逃さなかったが、その理由までは判然としなかった。

 安全な亡命地を捨てて、旧貴族軍の残党が帝都に舞い戻ったというのは、何か良からぬ企みを抱いての事ではないか、とケスラーは己の見解を説明した。

 どうして、その事を知り得たのかをラインハルトが尋ねると、密告に拠るものである、とケスラーから返答があった。更にケスラーは、密告がなければ、フェザーン自治領発行のパスポートで、不審な点一つなく入国した二人を、それであるとは判別出来なかっただろうとも付け加えた。

 

「現在二人の監視を続けておりますが、旅券の件から考えまして、この一件にはフェザーンが何らかの関与をしている事は明らかなように思われます。故に宰相閣下のご判断を仰ぐべく、至急の面会を申し出ました次第です」

「解った。その件については追って沙汰する。ところで、その監視中の二名は本当にランズベルク伯とシューマッハで間違いないのだな」

 

 ケスラーは、部下達が顔写真や指紋を照合して確認を取ったと答えた。ラインハルトは少し考え込んだ後、形の良い唇を開いた。

 

「こちらの注意を惹く為に彼らの名前と姿を利用しているとも考えられる。監視を続けるのと並行して、二人が本人かどうかも再度徹底的に確認せよ。また、密告のあった二人が囮である可能性も否定できない。潜入した人間が他にいないか、怪しい動きがないか、帝都中を隅々まで洗い出せ。いずれも相手に気取られぬようにな」

 

 

 ケスラーを下がらせると、オーベルシュタインが来るまでの間、ラインハルトは己の思考整理のために、ヒルダを残した。

 オーベルシュタインは、折悪く軍務省から離れており、宰相府に到着するまでには一刻以上の時間が必要だったのである。

 

 ラインハルトは、彼の周囲が想像、或いは希望するのとは反対に、恋愛感情やそれに類する感情をヒルダに抱いている訳ではない。しかし、卓越した知性を持つ彼女を、他の女性とは別格に扱い、彼女との知的ではあるが散文的な会話を楽しむ所があるのも確かだった。無論、これには姉のグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼを別として、という但し書きが付くのであるが。

 

 ヒルダの視線は、元帥服を纏ったラインハルトの横顔に注がれていたが、ラインハルトの方は激しい雷と雨にけぶる帝都の空に心を奪われているようであった。

 ラインハルトは、ランズベルク伯達が帝都に舞い戻った理由と、それを使嗾したであろうフェザーンの思惑についてヒルダと意見を交わしている。フェザーンや潜入者達の意図する所が、ラインハルトの暗殺などではなく、要人誘拐ではないかという所まで話が及んだ。

 その対象者を、ヒルダが順を追って挙げていく。まずは、帝国宰相たるローエングラム公ラインハルト。次にラインハルトの姉であるグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼ、彼女の名前をヒルダが口にした時、その行為はラインハルトの痛烈なまでの怒気によって報いられた。

 

「フェザーンと潜入者共が、もし姉上らを狙おうものなら、ただでは殺さぬ。生まれて来た事を後悔するほどの苦痛を与えて、これ以上ないほど残虐な方法で殺してやる」

 

 その怒りの発露があまりに急激だったので、ヒルダは反応が数瞬遅れた。雷光に照らされたラインハルトの、怒りに満ちた顔。黄金の覇者の逆鱗に触れた事に気が付き、ヒルダは己の配慮の足りなさを陳謝し、情と理を尽くして彼を宥め始めた。窓の外で猛威を振う雷雨。強烈な雷光は、まるで彼の怒りが具現化した様であった。

 

 か弱い女性であるアンネローゼを狙う事は、ロマンティストであるランズベルク伯の好む所ではない事を挙げるヒルダに対し、ラインハルトは、実行者の主義はさておいて、フェザーンがそのように強制する可能性を提示した。

 ヒルダが、伯爵夫人を最初から標的にするつもりなら、ランズベルク伯という人選はしなかったであろうという事を説いてなお、応ずる彼の声の端々には、猜疑と怒りの感情が乗っていた。

 

 それを感じたヒルダは、ジークフリード・キルヒアイスの名前を対象者として挙げる事を咄嗟に断念した。彼の名前を挙げれば、ラインハルトの更なる憤怒を呼び起こし、一層理性を失うだけだと判断したからである。

 同時に、ヒルダはかつてシュヴェーリンの館に赴いた時に感じたそれを、再び思考の海に浮上させた。

 ラインハルトを冷酷非情の独裁者にするのは、アンネローゼとキルヒアイスの存在、匙加減一つではないか。

 それは近い未来にこの銀河を統べるだろう、この精気に満ち溢れた美しい若者と、彼に統治される民衆にとって何と危うい事だろう、ヒルダはそう感じずにはいられない。

 

 ヒルダは、キルヒアイスの命を最後まで諦めなかったのは、あのオーベルシュタインだと噂で聞いた事があった。それを聞いた時、ヒルダは単なる噂だろうと流したのだが、もしかしたらオーベルシュタインは意図があってキルヒアイスを助けたのではないか、とこの時彼女は初めて思い至った。ラインハルトの精神を揺さぶるのに、キルヒアイス程打ってつけの人物はいない。

 

 オーベルシュタインの事を一先ず思考の外に置いて、ヒルダは未だ怒りの名残を留めるラインハルトへ、以下の三点を重点的に説いた。

 グリューネワルト伯爵夫人ではランズベルク伯の主義故に実行を了承しない。ローエングラム公は、他の対象者に比較して実行が極めて困難である。そしてその最後の対象者こそ、ランズベルク伯とフェザーンの両者を満足させる。 

 

 怒りの冷えたラインハルトが、では彼らは皇帝を誘拐するのか、と特に驚いた様子もなく口にし、ヒルダは短く同意の返事をした。

 

 七歳の少年とは言え、帝国で最高位にある人物に対して、ラインハルトが陛下という尊称を用いないのはまだしも、首席秘書官であり門閥貴族出身のヒルダすらそれを咎める事も驚く事もないのは、彼女の革新的な態度や識見からだけではない。

 この帝国における最高権力者はラインハルトであり皇帝はその傀儡に過ぎないと軽んじられている事、最早ゴールデンバウム家は尊敬を受けるに値しないと看做されている事。そう言った帝国首脳部の持つ意識の、一つの発露であったと言える。

 

「しかし、誘拐の対象が皇帝だったとして、実行犯とフェザーンにとって何の利益があるというのだ、フロイライン(お嬢さん)」

 

 ラインハルトは、アイスブルーの瞳だけを動かして、ヒルダの方を見た。

 ラインハルトの視線は、ヒルダに女学校時代の事を想起させた。女学校時代に師事した教師が、問題を解かせようと生徒を指名する時、丁度このような視線と態度を、ヒルダや同級生達に向けていたものである。

 ランズベルク伯にとって、皇帝誘拐は誘拐ではなく救出であると考える可能性が高いこと、フェザーンにとって何の利益になるか定かではないが、現時点でフェザーンとって明らかな不利益になる可能性もまだ見出せない。

 ヒルダは女学校時代と同じ気分を味わいながら、上司の求める答えを口にした。

 生徒の回答を採点する教師の如く、ラインハルトがなるほどと口にした時、ヒルダは頷くと同時に抱いた疑念を更に深めた。この方は、生徒に答えさせる問題の解を教師が承知しているように、何が為されるのか既にご存知ではないのだろうか、と。

 ラインハルトはその答えに満足したように、視線を再び窓の外へ移した。相変わらず外では春雷が響いているが、その音響は既に遠ざかりつつあった。

 

「それにしても、またフェザーンの黒狐か。この役者と舞台でどういうシナリオを演出するつもりなのやら」

 

 フェザーン自治領の現自治領主ルビンスキーの仇名を忌々しげに吐き捨てた後、ラインハルトは問うというより、確認する様に、密告をして来たのはフェザーンの工作員であろうなと口にした。

 ヒルダはにこやかに同意を示したが、ラインハルトからの反応は特に得られなかった。オーベルシュタイン上級大将が、宰相府に到着した旨が告げられたからである。

 

 ラインハルトはようやくヒルダの方に顔を向けて、無言で首を振った。退室して業務に戻るように、というラインハルトの無言の意思表示を受けて、ヒルダは軽やかに一礼すると宰相執務室を辞して、首席秘書官の部屋へと戻って行った。

 

 宰相執務室の扉前に立つ親衛隊員の一人は、中性的な美貌の首席秘書官の顔を、僅かではあるが寂しそうな表情が覆っている事に気が付いた。

 もっとも、一親衛隊員の立場では、その表情の理由が何かも解らず、何が出来る訳もなく、首席秘書官がいつものような溌剌とした笑顔を見せてくれる事を祈りつつ、彼は己の職分に専念した。

 

 

 オーベルシュタインは、ラインハルトと共に、これから起こりうる事態、皇帝誘拐についての諸々を話し合っていた。彼らにとって、皇帝誘拐とは未来の可能性や予測ではなく、確定した予定であると認識されていたのである。

 

 皇帝誘拐と並行して、姉アンネローゼも襲撃される可能性を考えて、シュヴェーリン周辺の警備を一層強化する事が、まず最初に決定された。

 

 次に、誘拐が実行されるに当たって、犯人達のやりやすいように、皇帝の居住する新無憂宮の警備を緩くするべきか、とオーベルシュタインが問うた。

 当初は、今ですら警備がさして厳重でないのだから、そのままで良いとしていたラインハルトであったが、次の言を聞いて、ラインハルトはその意見を撤回した。

 

「もし、誘拐が成功した場合、現在新無憂宮の警備責任者である、モルト中将が責任を問われる事になりますな。これだけの重大な事件です。残念ですが、死んで罪を贖う以外の道はないでしょう。勿論、彼の直接の上官たる憲兵総監も同様です」

 

 モルト中将という人物は、独創性には乏しいが極めて誠実で生真面目な老将である。その職務への忠実さを買われて、彼は先帝フリードリヒ四世の時代から現在に至るまで、宮中警備の責任者を任されているのであった。彼は、あと半年、大過なく勤め上げれば、定められた年齢に達し、退役することになっている。

 ラインハルトは、古風で誠実そうな老人の顔を頭の中に描きながら、先日リヒテンラーデ一族の処刑についてキルヒアイスに詰られたのを思い返した。それから、ヴェスターラントの一件について、リップシュタット戦役終結間際に、キルヒアイスに糾弾された時の事も。

 

 ヴェスターラントの一件を見過ごしたのは、門閥貴族の愚かしさを広く喧伝することで、早く内戦を終わらせて犠牲者を減らすためである。

 リヒテンラーデ一族の少年達を処刑したのは、彼らが大罪人の係累であり、将来の禍根を断つためだ。

 これまで、そう言い張る事が出来たラインハルトであったが、今回の件に関して、彼は強弁出来るだけの理由を見つけ出せずにいた。

 モルト中将らは誠実に職務を果たしているにも拘らず、己の与り知らぬところで陰謀に巻き込まれ、全く過失のない事で死ななければならないのだから。

 そして、彼を死なせてまで皇帝を誘拐させるのは、同盟に侵攻する口実作りのためであり、邪魔になりつつある子供を他所に捨てる以上の理由などないのだった。

 

「新無憂宮を、今以上に厳重に警備させろ。警備の人間も倍に増やせ。それでも最盛期の警戒態勢には及ばんのだ。こちらが手加減してやらねばならないような無能と、手を組む気はない」 

 

 抗弁しようとしたオーベルシュタインを、ラインハルトの視線が射抜いた。だが、ラインハルトの氷蒼色に、僅かな揺らぎがあるのを、オーベルシュタインの冷徹な観察眼は見逃さなかった。

 

「警備を厳重にしてなお、誘拐が成功した場合は如何いたしましょう。モルト中将にしろ、ケスラー大将にしろ、閣下がご温情を掛けた所で、それに甘んじるような人物ではありますまい」

 

 ラインハルトはしばし逡巡した後、自らの気力を振り絞るようにして答えた。

 

「その時は仕方ない。モルトに責任を取ってもらうほかあるまい。だが、死なせるとしても、モルト一人だけだ。ケスラーにも相応の責任を問わねばならないが、憲兵総監まで死なせるとなると、色々と問題もでよう。別の処分を与える」

 

 出来ればモルトも死なせたくはないが、と考えていたラインハルトの内心を見透かすように、オーベルシュタインが口を開いた。

 

「閣下。差し出がましいようですが、玉座は多くの屍の上にこそ築かれるもので、本質的に白い手の王者など存在しませんし、王者の手足となって働く部下とてそれを承知しております。死が、忠誠に対する最高の報酬、優しさという場合もあるでしょう。それに私は、流血帝アウグストの様に、誰彼構わず殺せなどとは申しておりません。多数の民衆の幸福のために、犠牲が少なく済む方法を御決断下さい、と申し上げているにすぎません。王者は臣民に対して公平で寛大でなければなりません。王にとって、民衆一人一人は全くの例外なく等価値です。ならば、後は単純な算数の問題でしょう」

 

 オーベルシュタインは、彼の周囲が考えるほど、ラインハルトに無慈悲な君主になって欲しい訳ではなかった。

 彼が例に挙げた流血帝アウグスト。ゴールデンバウム王朝史上最悪の暴君である彼は、血縁、身分、老若男女の別なく誰に対しても平等に残虐であり、数年間の治世を暴力と恐怖で染め上げた。しかし、彼はその無慈悲さゆえに怖れられ、殺され、玉座を追われた。恐怖と権力だけでは人を治めることは出来ない。

 オーベルシュタインは、誰に対しても公平で寛大で、一方で必要とあれば誰であろうと躊躇わず切り捨てられる決断力を持った君主を望んでいるだけである。彼の希望から見ると、ラインハルトの決断は時に感情に流されて不安定で、些か甘過ぎる部分があるのが、最大の欠点であった。

 

「オーベルシュタイン。王者にとって臣民は一人の例外なく等価値だと言ったな。ならば卿は、私のために、民のために、必要であれば死ぬことも厭わぬと?」

「御意」

 

 オーベルシュタインは熱意と無縁な調子で、何の躊躇いもなく主君の問いに肯首する。ラインハルトは、不思議と納得したようにオーベルシュタインの、やつれた顔貌を見やった。ラインハルトは、何故か居たたまれない気分になって、おもむろに話題の転換を図る。

 

「ところで、手札に入ったはずのジャック二枚が、何故もう一組あるのか。インチキにしても些かまずい手だ。あの黒狐がやったとは思えん。我々がそれを拾った事は知らぬまでも、捨てた方は何の手札を捨てたかぐらい把握していそうな物だが……」

「もしかすると、対峙するプレイヤーの一人は、一人に見えて複数人の集合体ということもあり得ますな。その中の一人はジャックを二枚捨て、残りの人間はそれを知らぬまま、その二枚がある事を前提に動いているのかと」

 

 ラインハルトは少々思考に耽った後、オーベルシュタインに命じた。

 

「ジャック二枚を私の手元に持って来るように。くれぐれも丁重にな。役を作るのに必要になるかもしれぬし、少なくとも二枚のうち一枚には個人的に興味がある。偽札の方はケスラーに任せておこう。それとこの件でジョーカーがいなくなる訳だが、次の札を探しておいてほしい」

 

 

 一礼して、退出しようとするオーベルシュタインへ、ラインハルトは思い出したように付け加えた。

 

「リヒターとブラッケから興味深い提案があった。そちらにも既に書類が届いていると思うが、軍務尚書代理として、六月中に二人と共にシュヴェーリンへ赴く様に」

 

 こうしてオーベルシュタインは、周囲にとっても、おそらく本人にとっても予想外なことに、シュヴェーリンに行くことが決定した。

 

 

 

 フェザーン中心街に多数あるカフェは、朝出勤する人々を当て込んで、朝食メニューやテイクアウトのドリンクを用意して、今日も客を待ち構えている。

 そんなカフェの一つに入店する黒髪の女性が一人。彼女の煌めくような笑顔に、出勤途中の数人と、店内の若い男の視線が磁石の様に吸い寄せられる。彼女はそのような視線をあえて無視して、カフェにあるカウンター席の一つに腰を下ろした。夜勤帰りのクララである。

 

 温かいハーブティーを口にして、軽くトーストされたパンを一齧りして、クララは一心地ついた。それからおもむろに、週刊誌の目的のページを開く。週刊誌は、先程店内に入った時に、見出しに惹かれて手に取った物だった。

 記事には、先日のイゼルローン失陥に際して避難した民間人と、イゼルローン駐留艦隊の残存兵力が首都星ハイネセンにようやく到着し、生者には表彰式典や激励会が、死者とその関係者に対しては葬儀と追悼会が、盛大に執り行われた事が記されていた。

 自由戦士勲章の授与式の写真が三枚。イゼルローン攻略戦の犠牲者達の国葬の写真が一枚。

 一枚目は、戦闘時事実上の司令官だったアレックス・キャゼルヌ少将、との但し書きが写真に添えられていた。軍人というよりは優秀なビジネスマンと言った風情の中年男性だ。彼は上半身を包帯などの医療用具に覆われ、同盟軍制服の上着を肩に羽織って、杖を突き、何とも悲壮な姿で勲章を授与されている。

 二枚目の写真が、十六歳のユリアン・ミンツ曹長。写真からでも解る、透明感のある亜麻色の髪の美少年だ。クララは、いつかシュヴェーリンの館で直に見た、ローエングラム公の覇気に満ちた美貌を、ふと思い起こした。

 彼は車椅子に乗って授与式に臨んでいる。彼の両足は、膝から下が欠けていて、それは彼がなまじ美少年であるだけに、一層の痛々しさを見る者に伝えて来る。

 彼の車椅子を押しているのは、ヤン・ウェンリー大将。黒髪の、何とも表現しがたい雰囲気と容貌の持ち主だ。不細工ではない事は確かであるが、美形やハンサムであるとも断定し難い。元イゼルローン要塞司令官で、彼はユリアン・ミンツの保護者でもあると記事には記されていた。

 この写真が、記事に添付された写真の中で一番扱いが大きい。それはおそらく、被写体二人、年齢と階級が高い方は知名度において他の追随を許さず、若い方は何とも見栄えがして、いずれにしても話題になるからだろう。

 一番小さい写真は、帝国軍上級大将の制服を着た老人で、メルカッツ客員提督と但し書きがあるのみだった。彼は謹厳実直を絵に描いたような、典型的な帝国軍人の顔つきをしている。

 

 そこまでなら、フェザーン向けに翻訳されている、同盟の一般ニュース誌と然程変わらないが、問題はその後である。攻略戦の追悼式で、露骨に嫌悪の感情を表した、白い士官礼服を着たヤン・ウェンリーの姿が、克明に捉えられた一枚。

 同盟の一般ニュース誌であれば、犠牲者の写真が飾られた祭壇や、悲しみに暮れる遺族などの写真を使う所である。

 クララが手に取った週刊誌は、男性向けの所謂ゴシップ週刊誌で、その辺は遠慮も容赦もなかった。

  記事タイトルは『レベロ新政権と奇跡のヤンの不協和音』とある。

 

 内容としては、この様な時期に前線から自分を呼び付けた国防委員会、政治家に対して、ヤン大将が不信感を募らせている事。

 ハイネセンの政治家の判断ミスで、イゼルローン要塞が失われ、ヤン大将の家族や民間人が犠牲になった。ヤン大将はこの様な政治状況に対して義憤を募らせているらしく、近く軍を辞して、政界へと転向するのではないかと囁かれているらしい。

 それらしい状況証拠として、記事には関係者の談話や、政治家達と会食をしているという目撃談まで添付されていた。

 一方、ジョアン・レベロ最高評議会議長の方でも、ヤン大将以下、イゼルローン帰還者を冷遇している、と記事は続いた。

 例えば、ハイネセンに帰還したイゼルローン駐留艦隊は、新兵や艦船を補充した後、第十四艦隊と名前を変え、新任のモートン中将がその指揮官に任じられた。

 一方で、充てるべきポストがないことを理由に、ヤンは現在同盟軍大将以外の肩書と役職を持たない。名将の誉れ高い彼には、指揮する艦の一隻も存在しない状態である。

 入院中のクブルスリー統合作戦本部長、彼の代理を務めているのがドーソン大将、宇宙艦隊司令長官はビュコック大将。他にも宇宙艦隊総参謀長や統合作戦本部の各部門の本部長。これら大将以上の階級を以て充てるポストの数は数えるほどしかない。

 同盟軍は先年までに、帝国領侵攻作戦や救国軍事会議によるクーデターなどで、多くの人材を失ったが、それでも今あるポストを埋める人材数が足りないという事態には陥っていない。

 また、これら軍の重要ポストの多くが、前トリューニヒト政権と非常に親しかった者達で占められているにも拘らず、レベロ議長や若い国防委員長らは、これらの人事について殆ど手を入れてらず、故に現状維持のまま、ヤンの座るポストがない、という状況になっている。

 

 これは、レベロ議長ら政府首班が、ヤン大将を持て余している事の証左である。

 そもそも、レベロ議長は、イゼルローン要塞におけるヤン大将のありよう、例えば客員提督としてヤンの軍事顧問になっているメルカッツ中将などへの甘い対応などを、常日頃から苦々しく思っていたようだ、とこちらも匿名の関係者筋からの情報が載せられていた。

 

 クララは雑誌記事から目を離して、目と目の間を揉んだ。メルカッツ中将への甘い対応という箇所で、リップシュタット戦役終結前後からフェザーンに帰還するまでの数か月前を、彼女は思い出してしまったのである。

 

 シュヴェーリンでの待遇を、自分達の能力と実績に対する評価ないしは期待であると考えて、自分を含むあの館の職員はごく自然に受け入れていたが、それが一部から非難の対象だったらしい事は、薄々知っていた。

 メルカッツも、彼の能力や人柄に相応しい処遇と敬意をイゼルローン要塞で受けていたのかもしれず、それを甘過ぎると見る人もいるのだろう。

 他から隔絶したシュヴェーリンの館とそれを用意したラインハルト・フォン・ローエングラムの権力が、医療スタッフに対する悪意の防壁になっていたように。

 メルカッツに対する偏見や非難も、イゼルローン要塞が辺境の最前線にあるという地理条件と、要塞におけるヤン・ウェンリーの権限によって和らげられていたのではないだろうか。

 クララはふとそんなことを思いついたのである。勿論、それぞれの事例では事情が違うから、一概には言えないが。

 自分達は仕事が終われば、フェザーンに帰るだけで良かった。家、仕事、家族。その全てがフェザーンの地にある。メルカッツという人は違う。これから、防壁のない同盟で彼はどう過ごすつもりなのだろう。

 同じ要塞に居ながら、一度も顔を合わせた事のなかった老将の行く末について、彼女は己の境遇を重ねながら思いを巡らせた。

 

 

 朝の出勤ラッシュをカフェでやり過ごしてから、クララは帰宅した。彼女は寝る前に一風呂浴びて、先程届いたばかりの手紙を封切った。

 コルネリアス・ルッツからの手紙を読む彼女の顔は、薄らと赤く染まっていたが、それは湯上りのせいだけではなかった。一人暮らしの部屋で、何とも落ち着きのなくうろうろした挙句、帝国の人って情熱的なのかしら、と彼女は独り言ちた。

 早速手紙の返事を書くべく、ペンと便箋を取り出して、クララは最近変わった事や面白い事がなかったかを思い出そうとした。

 直ぐに思い出せたのが、つい最近まで、事故で入院していた青年と付き添っていたフェルディナントという男の事だった。

 付き添いの男が傷物にした責任云々と言いながら、青年に指輪とカフスボタンの入ったジュエリーケースを差し出していた事だとか。つい先日、一般病棟の二人の所に、若様をお探ししておりました、と老人が訪ね来て、その翌日には二人が入院費には過分な現金を病院に支払って逃げた事だとか。

 彼女はそれらを思い出して、直ぐに打ち消した。幾ら印象的だとは言え、患者の秘密を書くのは、この時代のフェザーンであっても職業倫理に反する。

 彼女は、ルッツも近々出征する予定があるのか、聞いてみたい誘惑にも駆られた。同盟が今朝読んだような状況なら、帝国は幾らでも攻め込む機会があることになると彼女は想像したのである。しかし、ルッツも高級軍人である以上、軍事機密に抵触するようなことは返事のしようがないだろう、と思い至って、彼女はその質問を断念した。

 

 結局、フェザーンの天候の話に始まり、最近配属された救急救命センターに話を繋げ、ルッツの体調を気遣い、近く帝国に出店するのフェザーン系資本のレストランやケーキ店の話題を提供し、最後にルッツへの溢れんばかりの思いを綴って締め括った。

 恋文としてはごくありきたりの文面を綴り終えて、クララは遮光カーテンを閉めて、就寝した。

 

  六月に入ったフェザーンは、その気温と空の色に、夏の気配を濃くし始めている。



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第9話 世を儚むどころではない男

  六月を迎え、シュヴェーリン周辺の木々や草は、一層明るく鮮やかな緑を身に纏っている。

 紫や白、黄色の花々が鮮やかな模様を、下草の絨毯に織り込んでいる。その上を、大型草食獣が子供を引き連れて闊歩している。樹上では、孵ったばかりの雛達が巣の中でひしめき合い、太い枝には夏草の実を齧るリスの姿があった。かつて、門閥貴族の勢いがあった頃は、ここでしばしば狩猟が行われたものである。

 

 シュヴェーリン周辺の湖は、それぞれにやや色彩の異なる澄んだ水色を湛えている。覗き込めば、悠々と泳ぐ魚の姿が良く見える程であった。

 シュヴェーリンの小島に館を擁する汽水湖では、小さなボートが浮かんでおり、三人の男が朝早くから釣りに精を出していた。ボートの上に置かれた水入り箱の中には大小様々な魚が犇めいていた。

 彼らは漁師でもなければ観光客でもない。立ち入りが厳しく制限されているこの区域において、そのような人々は足を踏み入れることすら出来ない。

 三人全員、館の関係者である。一人は館の料理長、一人は年少の従僕、一人はキルヒアイスの主治医である。たまに、シュヴェーリンにおける警備の現場責任者が、僅かな休息時間を使ってここに加わる事もある。

 彼らはただ遊んでいる訳ではない。館の住人達に供する食材を確保しているのである。彼らがこの時間をどういう風に位置付けているかはさておき、少なくとも建前上はそうなっている。

 

 シュヴェーリンの館とその周辺は、地理的要因と住人の重要度故に、館の職員から警備兵、医療従事者に至るまで、実質隔離状態にある。

 彼らは交代で休日や休息を与えられてはいたが、このシュヴェーリンを離れることは出来ない。

 キルヒアイスの容体など秘匿しておくべき事も多く、アンネローゼなどを除いて、外への通信や連絡は一切取れない。

 職員や警備兵は、キルヒアイスがオーディンに帰還してから、ずっとこの地に詰めたままで、ある意味ではかつてのイゼルローン要塞やガイエスブルグ要塞に似た環境であると言えた。

 

 だが、シュヴェーリンは、元々皇族や門閥貴族達の保養地で、館はブラウンシュバイク家の元療養用別荘である。その為、要塞等とは違って下々に供する娯楽に乏しい。

 管理者であるグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼは、そういう訳で職員達が、釣りに興じるのを認めている。

他にも、万が一にも迷子にならないよう、必ず集団で、最寄りの警備兵達の目の行き届くところにいる、という条件付きで、野生の草花や実を採取しに、湖周辺の森を散策するというのも行われていた。

 

 男達が朝釣りを楽しむ中、湖中心部にあるシュヴェーリンの館は朝日を受けて、その壮麗な姿を誇っている。

 

 

 玉の様な汗を肌に浮かせながら、キルヒアイスは車椅子の手摺を掴んだ。手摺を掴む彼の手が、己の重量をふるえながら負担している。

 生命を与えられた銅像が動き始めたような、重々しく緩慢な動作でベッドから完全に離れ、車椅子の座面にようやく腰を下ろした。車椅子が勢いのついた重量負荷に、小さく軋む音をあげる。その動作は、座るというより、座面に落ちたと表現する方が、より正確に事態を言い表していたが、ともあれキルヒアイスは、誰の手も借りず一人で車椅子に乗れる様になっている。

 そこから、自走式車椅子のモーターに頼らず、自分の腕だけで、元々部屋に据え付けてあった書棚付書物机の方へと、キルヒアイスは進んだ。移動速度は二足歩行を始めたばかりの赤ん坊に近かったが、キルヒアイスの呼吸は既に乱れ、強い疲労感が彼の体を襲っていた。

 

 朝の検診にやって来た看護婦が、感極まって泣き始めた。本格的なリハビリを始めた初日、ベッドの背もたれなしに座っただけで、血流が下がって即座に気絶した時の事を思えば、それは随分と進歩したと言えたからだった。

 そこへ、小柄な軍医が、ぴょこんと病室に入って来た。看護婦からキルヒアイスの事を知らされると、小動物のような愛嬌のある顔にぱっと笑顔が広がった。

 症例をいくつも勉強したが、その中でもかなり早い回復であると、自分と同じ名前を持つ彼が、回復の早さを素朴に喜んでくれるのが、キルヒアイスには何とも面映ゆかった。一方で、キルヒアイスには焦りもあった。

 

 先月、キルヒアイスが従卒の事を問い詰めて以来、ラインハルトはシュヴェーリンの館を訪れていない。

 今や帝国宰相兼帝国軍最高司令官という地位にあるのだから、ラインハルトが単純に執務や公式行事に忙殺されている事は間違いない。

 しかし、ラインハルトの性格を知るキルヒアイスとしては、あの一件以来自分を避けている所もあるのだろう、という確信があった。そして、キルヒアイスの確信は、正しくラインハルトの内情を捉えていた。

 ラインハルトは、首席秘書官ヒルダや副官シュトライトに命じて、慰問や視察などの公務予定を、過密と表現して良いほどスケジュールに入れまくったのである。

 余談ではあるが、ラインハルトは全く自分の都合で、部下の休日を奪う事に内心思う所があったらしく、複数の秘書官や副官達を輪番制で、己の供にあてる事にした。

 

 相手がこちらに来ないなら、自分から相手の所に行くしかないのだ。特に、ラインハルトとキルヒアイスの間においては、どちらに非があろうと、ラインハルトの方が折れたり、歩み寄るなりする事はまずない。

 その為にも、キルヒアイスは一刻も早く体を治し、復帰する所まで到達する必要があった。実際に対面した時、どういう風に実際振る舞うかは別にして、ラインハルトの目の前に立たなければ何も始まらないのだ。

 

 自分は随分辛そうな顔をしているらしいと、キルヒアイスが気が付いたのは、彼と同じ名前の軍医が心配そうにこちらの顔を伺っていたからだった。一通りの検診をされた後、念の為に主治医を呼びに行って来る、と外へ出て行った若い軍医を見送って、キルヒアイスはシュヴェーリンの風景を描いた天井を見上げた。

 まだ思うように動かない、力の入らない己の体にもどかしさを覚えながら、キルヒアイスは自分の拳を握りしめ、徐に立ち上がろうとした。

 

 

 

「閣下には既にお分かりの事とは存じますが、焦る事と急ぐ事は違うのです」

 

 四十代の主治医は、己の長男と同い年の患者に向かって、窘める様に言った。キルヒアイスは、医師の言に、素直に謝罪する。

 主治医が到着するまでの間に、キルヒアイスは無理を押して立ち上がろうとし、失神しかけて盛大に転んだのである。彼の側についていた看護婦を巻き込んで。この様に言われて当然ではあった。

 この頭部が神々しい主治医は、何を言っても人に素直に言葉を聞かせてしまうような、奇妙な引力を持つ声をしていた。そのため、言葉に若干皮肉の響きがあるのをキルヒアイスも理解していたが、経緯の他に、そういう理由もあって不思議と反発心を覚えることはなかった。

 

 これからのリハビリ計画について、懇々と言い聞かせるような説明がなされた後、キルヒアイスは、改めて自走式車椅子に乗り直し、応接セットへとゆったりとしたスピードで移動し始めた。その後ろを、ぶち模様の仔猫が幼い足取りで追跡している。

 

 

 同日の午前中に、シュヴェーリンの館は三人の客人を迎えた。ブラッケの他、財務省上級官吏オイゲン・リヒター、それに軍務尚書代理オーベルシュタイン上級大将である。

 彼らは、キルヒアイスに、戦傷病者支援制度の試験例になる事を依頼する他に、いわば実態調査の為にやって来たのである。

 

「戦傷病者支援制度ですか、それで私が最初の事例の一つになると」

「左様です。提督は、帝国で一番有名な戦傷病者ですからな。この制度を広く帝国の民衆に広める為の、いわば看板となって頂きたいのです」

 

 キルヒアイスの言葉に、恰幅の良い男が答えた。内務省の役人、カール・ブラッケである。その横では、オーベルシュタインが、じゃれて来る仔猫を器用にあやしてやりながら、黙って話を聞いていた。小さな仔猫が、オーベルシュタインの膝の上で、小さな手足を懸命に動かしている。

 

「勝とうが負けようが、一人の兵も死なず、怪我人も出ない戦さなど、まずありません。演習ですら数十人、数百人の死者が出るのですから。しかし、将兵が帝国の為に命を懸けて戦った、その対価は安い物です。遺族年金は多少の増額が決まりましたが、戦傷病で手足を失ったり、障害を負った兵士への補償はまだまだ充分とは申せません」

 

  そう皮肉っぽく言ったのは、オイゲン・リヒターだった。

 この時代、多くの戦いは宇宙空間で行われる。その為、乗船を沈められればもろともに死ぬ事が多く、戦傷病を負って生き残る人間の割合が、地上戦の場合に比べて極めて少ない。適者生存を謳って弱者を切り捨てる帝国の気風もあり、戦死者に比べて数の少ない戦傷病者への補償は兎角後回しにされていたのである。

 

 カール曰く、戦傷病によって働けなくなった兵士達本人はもちろん、彼らの家族に重い負担がかかる。

 働き手を失って減る収入に、重く圧し掛かる医療費。特に義肢は定期的な交換が必要にも拘らず、義肢代を捻出出来ない為に放置し、働けなくなっている将兵も多いという。

 中には、生活不安から犯罪に手を染めたり、戦場で鎮痛剤として投与されて、麻薬の味を覚え、家庭に麻薬乱用の悪癖を持ち込んだケースもある。

 キルヒアイスは、クロイツナハⅢで刑事から見せられた写真を思い出して、思わず吐き気を覚え、安らぎを求める様に仔猫の毛の感触を手に触れさせた。

 

 戦傷病者を放置するのは容易く、短期的に見ればその方が金もかからない。しかし、彼らやその周囲を放置すれば、いずれ社会不安の元になって、長期的には多大なコストが帝国に降りかかって来る。それを避けたいのだと、リヒターは熱っぽく語った。

 そして、彼の手は同じ位の熱心さで、仔猫の毛並を撫でている。仔猫が、ごろごろと気持ち良さそうに喉を鳴らしていた。

 

 気が付けば、彼らの談話は、昼過ぎにまで及んでいた。

 

 

 湖の白身魚を使った昼食に、アンネローゼとキルヒアイス一家、それに客人達が舌鼓を打った後、ブラッケとリヒターは、それぞれキルヒアイス夫妻と主治医に話を聞く為に、談話室の方へ足を運んだ。

 オーベルシュタインは、復帰についての打合せがあると称して、キルヒアイスの病室へと向かった。

 途中、彼はアンネローゼと出くわした。少しだけ横髪を残して結い上げた髪型が、アンネローゼの明るい表情を更に引き立てている。

 アンネローゼの野外用ドレスは、全体的にほっそりとしていて、膨らみやレースが少ない。上半身はオフホワイトの、ボウタイブラウス風のデザインである。ドレスの裾は地面からやや浮いており、ライトグリーンのスカートの下から、野歩きに向いていそうな編み上げの革靴が覗いている。

 オーベルシュタインは、廊下の端に寄って、深々と頭を下げる。アンネローゼがオーベルシュタインに気が付いて、和やかに話し掛けた。その後ろを、濡れた黒い仔犬を抱えた侍女が付き従っている。

 

 オーベルシュタインが仔犬について問うと、非番の警備兵や軍用犬と一緒に訓練を兼ねた遊びをしている内に、はしゃぎ過ぎて湖に落ちたのだ、と答えが返って来た。アンネローゼは、その時の事を思い出したのか、その微笑みが変化した。

 

「先日は警護の件で御足労頂いて、本当にありがとうございました。……これからも弟を宜しくお願いします」

「確かに承りました」

 

 数分程言葉を交わした後、オーベルシュタインに労いと礼の言葉を述べて、アンネローゼは大広間の方へ、侍女は別の方向へと向かっていった。

 

 

 キルヒアイスとオーベルシュタインは、キルヒアイスが軍復帰するにあたって必要になる、具体的な手続きや事務処理について話し合っていた。キルヒアイスの体調回復も目覚ましく、体調も万全になるだろうという医学的判断に基づいての事である。その話し合いは、極めて事務的に、何の感情もなく進んだ。

 

 キルヒアイスはオーベルシュタインが、どちらかと言えば苦手な方であるし、それほど好意がある訳でもない。ただ、他の将帥がオーベルシュタインを疑い、あるいは毛嫌いするのと違って、彼をそこまで非難するような理由も、積極的に彼を貶める熱意も持ち合わせていなかった。

 それは、時に好きの反対が嫌いではなく、無関心であることに似ている。

 

 三十分程で、それらの話は終わり、ふと二人の間に沈黙が降りた。手続と説明のための書面をめちゃくちゃにして遊ぶ仔猫。オーベルシュタインは、優しい手付きで猫を脇にどけ、キルヒアイスが受け取って膝の上に乗せた。

仔猫は、小さな手足を尚も紙に伸ばそうとしていた。が、それが果たされないと理解したのか、キルヒアイスの膝から離れて、大きな執務机の方へと歩んだ。そこには、便箋やメモ帳、本やファイルなど、仔猫にとって素敵なおもちゃが沢山あるのだ。

 オーベルシュタインは、軽くキルヒアイスに礼を言うと、徐に一通の手紙を差し出した。

 

「これは……?」

「卿の従卒であったコールラウシュが、拘束前に書いていた手紙だ。長らく軍務省で保管していたが、重要な証拠物件ではないため、保管する必要なしと先日判断され、処分される事になった。これは封筒の宛名も内容も卿宛てであるので、こちらへ」

 

 オーベルシュタインはそれだけ言って、応接セットから立ち上がった。キルヒアイスが追い縋るように、腰を浮かせたが、うまく立ち上がり切れずに、応接テーブルに手をついた。

 

「……リヒテンラーデ一族で軍務に就いていた者が、彼以外にも幾人かいたはずですが、彼らの物は」

「売却可能な物は近く競売に掛けられる。売却が難しい物、私信や日記の類は廃棄されるが、家族の申請があれば返却される」

 

 キルヒアイスは、手元の手紙を凝視した。従卒の少年の、家族の事を語る幼い笑顔を思い出し、その青玉色の瞳に薄い涙の膜を張った。

 彼は、オーベルシュタインに頭を下げて、ある事を依頼する。オーベルシュタインは、血色の悪い顔を相変わらず動かさずに、その頼みを承諾した。

 

「分かった。後でこちらへ資料を送る」 

 

 

 

 オーベルシュタインは、ラインハルトより呼び出しを受けたため、一人で先にシュヴェーリンの館を辞することになった。館から出ると、小島に続く一本道を大きな搬入用地上車が向かってくるのが見えた。道幅を考えると、搬入用地上車と行き違う事は不可能であるので、オーベルシュタインは迎えの地上車の中で、少し待つことになった。

 

 大きな搬入用地上車が、館の横にある搬入口に到達すると、そこから食料品や酒類の箱がひっきりなしに下ろされていた。

 オーベルシュタインが、あれは何だと口にする前に、運転手の男がそれを読んだように答える。

 

「二十日の聖霊降誕祭とその前夜に、館の職員達を労うためにパーティを開くそうですよ。二十六日がグリューネワルト伯爵夫人のお誕生日だそうで、日も近いから一緒にまとめて、その分盛大にやるそうです。しかし、一、二週間籠城しても持ちそうな量ですね」

 

 そうか、とオーベルシュタインは頷いて、口を開いた。彼はバックミラー越しに、運転手の甘いハンサムな、しかしどこかふてぶてしさに満ちた顔に視線を注ぐ。

 

「ところで、フェルナー。釣りは楽しかったか」

 

 フェルナーは、さて何のことか分からないと言いたげな表情を、バックミラー越しに見える上司にしてみせると、ようやく空いた小道に向かって車を発進させた。その車内には、ごくわずかではあるが、魚の匂いが漂っている。

 

 

 机とセットになっている書棚の扉が、僅かに開いている。手を伸ばして扉を閉じようとして、キルヒアイスは本やノート類とは明らかに質感の違う物が挟まっている事に気が付いた。三色ぶち模様の小さな毛の塊。仔猫である。仔猫は、キルヒアイスを先回りして待ち構えていたのだが、いつの間にか寝てしまったらしかった。寝ている仔猫を指先で軽く撫でると、キルヒアイスはいつもの作業に入った。

 

 キルヒアイスは、最近ラインハルト宛への手紙を書いている。直接会って話合うのが最上だが、今の体調ではそれも叶わない。

 それに、手紙を書くという形で、ラインハルトに何を言いたいのか、どうしてほしいのかを、自身で明確に把握しておこうと思ったのである。

 感情のままに、ラインハルトに言葉をぶつけて後悔したこともあり、主治医の言の正しさを認識したという事もあった。

 

 そうやって、自分の思考をまとめている内に、キルヒアイスは、ある疑問に行き当った。自分とラインハルトの目指す道は、あの少年の日から同じだっただろうかと。

 そして、ある人物からの遅れてやって来た手紙によって、その疑問はより明確になった。

 その手紙の差出人は、マルティン・ブーフホルツ。キルヒアイスの旧友の一人で、反戦地下運動に身を投じて憲兵隊に逮捕され、獄死した青年である。

 その手紙を届けて来たのは、父のキルヒアイス氏であった。

 

 マルティンは、逮捕前に論文を書き上げた。マルティンは、キルヒアイスとの約束をに従って、論文を送って見てもらおうとした。しかし、彼はキルヒアイスの現住所を知らず、その為、キルヒアイス氏にそれを託したのである。

 キルヒアイス氏も、彼が憲兵にマークされている事を知って、受け取った手紙を隠匿し、息子にそれを渡す機会を伺っていたのだった。

 その経緯を知った時、灯台下暗しという言葉がキルヒアイスの脳裏に浮かんだのは言うまでもない。

 

 論文自体は、文学の素養に乏しいキルヒアイスには、正直な所理解出来なかったり、前提が分からない部分も多く、マルティンの生きた証しとして、いつか世間に公表したいと思うに留まった。

 キルヒアイスの胸中を抉ったのは、論文に添えられていた手紙の方だった。

 マルティンは、キルヒアイスに対して、君が信じるラインハルトを冷血だとか悪く言って申し訳なく思う、キルヒアイスが良いと信じるのならラインハルトを自分も信じてみたい、いつか帝国を良い方向へ変えてくれる事を期待している、と結ばれていた。

 

 それでキルヒアイスは、原点を思い出したのである。

 キルヒアイスがラインハルトについていきたいと思ったのは、アンネローゼを取り戻すためだった。アンネローゼを取り戻す為に、略奪者達が拠って立つ旧社会、その象徴であるゴールデンバウム王朝を滅ぼす必要があったのだ。

 やがて、様々な出来事を経て、キルヒアイスの気持ちは一つの化学変化を起こした。

 アンネローゼのような、この歪な社会に翻弄される人を無くすために、世界を変える。その文脈に、宇宙統一、門閥貴族の打倒を位置付けて、彼はラインハルトの覇業に手を貸して来たのだった。

 

 キルヒアイスにとって、この宇宙を良くする為に、ゴールデンバウム王朝を打倒して権力を奪取し、宇宙を統一するのであって、それは逆ではありえない。

 ヴェスターラントの大虐殺を利用したラインハルトに、キルヒアイスがああまで違和感を覚えて反発したのは、己と思考の主客が逆転しているように感じたからだった。

 

 ラインハルトは、この疲弊した社会を改革する為に、ゴールデンバウム王朝を倒し、宇宙を統一するのだ。キルヒアイスは、あの時までは、何とかそう信じていられた。

 

 しかし、実は、宇宙を手に入れる事、ゴールデンバウム王朝や門閥貴族を打倒する事の方が主目的であって、その為に権力を握る必要があり、ラインハルトはその手段として民衆を利用しているのではないか。

 だから、ヴェスターラントを、数の論理で正当化しているのではないか。

 そんな疑惑が、キルヒアイスの中で生まれ始めたのである。

 

 

 それを決定付けたのは、この帝国に公平な税と公平な裁判を普及させるのだ、とラインハルトが語った逸話を聞いた時だった。

 今日、その当事者である、ブラッケとリヒターからその話を聞いた時、キルヒアイスは思ったのだ。

 では、リヒテンラーデ一族の少年達に対する無残な扱いは何だったのだろう。本当に公正な裁判が行われたなら、少年達は死なずに済んだだろうに。

 しかし、実際には、ラインハルトの命令一つで、子供達も処刑されたのだ。

 

 本当に公正さを目指しているのなら、平民も門閥貴族も同じ基準で裁かれるべきだ。ラインハルト個人の激情で、罪の重さが分かれるようなことがあってはいけないのだ。

 

 キルヒアイスは、纏めていた資料の束を取り出した。そこには、ラインハルト体制になって以降の、小さな事件記事が細々と纏められている。

 

 全体的な傾向として、犯罪者が貴族の場合、平民より重い処罰が下され、平民と貴族の間で事件があった場合、加害者か被害者かに関わらず貴族の側が常に非難される傾向にあった。

 ラインハルトが宰相になってから打ち出した、民法制定と貴族特権の廃止。

 帝国の大多数の平民達にとって、民法制定は、大本営発表が良い事であると喧伝しているから万歳三唱するのであって、それが何を意味するか、という事を理解している者は少ないのかもしれない。それが公平な扱いの根拠になるというのに。

 民衆にとって貴族特権の廃止は、今迄贔屓されてきた貴族達が自分達と同じ労苦を味わうのを見る事で、復讐心を満す以上の意味などないのかもしれない。もしかしたら、現在帝国の頂点に立つラインハルトにとっても。

 

 考え込み過ぎて、鬱々とし始めたキルヒアイスの所へ、父親のキルヒアイス氏が訪れて来た。

 キルヒアイス氏は、ブラッケとリヒターから、息子が一時給付金を貰う事に乗り気ではないと聞かされて、説得にやって来たのだった。

 キルヒアイスは、今の自分は充分恵まれているし、これ以上お金をもらう必要がないと述べて、父親に反論した。

 それに対して、父親はため息をつくと、やっぱりお前何にもわかっていなかったのか、と言って、穏やかに息子を諭し始めた。

 

「お前が単なる一士官ならそれで良い。だけど、お前は上級大将で、しかもこの試みにおける最初の一人だ。お前が先例になって、現場の判断が決まる。もし、お前がここで断ったら、一時金の必要な兵士やその家族は、申請に行った役所でこう言われるんだ。あのキルヒアイス提督もお受け取りにならなかったのに、とね。役所とはそういう所なんだ。それで困るのはお前の後に続く兵士達だ。お前一人の評判が上がった所で、彼らに何の得もない」

 

 お前が一人良い格好をするのは構わないが、後に続く人間の事も考えろ、とはっきり父親に言われて、キルヒアイスは自らを恥じた。その時、キルヒアイスの脳裏には、何故か且てオーベルシュタインがラインハルトに掛けた言葉が浮かんだ。

 

「キルヒアイス中将一人を腹心と頼んで、狭い道をお行きなさい」

 

 この日、自分だけが身綺麗でいるだけでは、多くの人を救えない事もあるのだと、キルヒアイスは頭ではなく、実感として認識した。

 

 

 



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第10話 必死な男

 オーベルシュタインがシュヴェーリンの館を訪ねたその日、元帥府と軍務省は、夜遅くまで煌々と明かりが灯っていた。オーベルシュタインはシュヴェーリンから、直接元帥府に馳せ参じ、フェルナーを軍務省に向かわせた。

 オーベルシュタインが地上車を降りると、水瓶をひっくり返したような雨が降り注いでいた。彼は水たまりが撥ねるのも気にせず、元帥府玄関までの僅かな距離を一気に走り抜けた。

 

 元帥府の執務室では、些かも疲れた様子を見せないラインハルトが、オーベルシュタインの到着を待っていた。

ラインハルトは、この日の昼に出頭させた、帝国駐在弁務官ボルテックとの話について掻い摘んで要点を語った後、極小型の音響機器を机の上に置いた。

 再生スイッチを押すと、ボルテック弁務官のやや気取った喋り声が聞こえて来た。オーベルシュタインは、それを無言で受け取る。

 

「首尾はいかがでしたか」

「フェザーンでは、役人とは、独立して商売をやる覇気も才能もない人間がなる職業だ、という言い回しがあるらしいが、それは一部真実なのかもしれぬな。ボルテックは、商売人にはあまり向いていない男だと見える」

 

 ラインハルトは、ボルテックがランズベルク伯とシューマッハについて通報したのが自分達である事を堂々と白状し、幼帝誘拐の件でフェザーンとの共謀を持ちかけて来た事を説明した。皇帝を同盟に亡命させることで、同盟を侵攻する正当な口実を与え、ラインハルトに全宇宙を掌握させる。その代りに、フェザーンとしてはその経済的利益や権益を頂戴したい、という事であった。

 ボルテックとのやり取りの結果、同盟侵攻の口実、幼帝の穏やかな排除の他、フェザーン回廊での帝国軍の無条件通行を、ラインハルトはボルテックを通じてフェザーンから毟り取った。

 

「商売にも色々あると思うが、雨で難儀している時に傘を売れば良かったのだ。まだ青空が広がっている段階で傘を売っても、簡単に高値では売れぬだろうに。ボルテックは売り時を間違えたのだ」

 

 ラインハルトは、ケスラーがまとめた報告書をオーベルシュタインに提示した。オーベルシュタインが、拝見しますと言って、それに目を通す。

 そこには、フェザーンから密告があり、憲兵隊が密かに監視しているランズベルク伯とシューマッハに関して、二人の潜伏先から密かに髪の毛などを採取し、DNA検査などを行ったと記されていた。

 その結果、軍歴があるシューマッハは、個人認証用の情報が残っていたため、そちらと照合したが一致せず。

 ランズベルク伯は、リップシュタット戦役まで軍歴がないため、帝都にある旧ランズベルク伯邸からDNAサンプルを採取して確認を取った。旧邸からは複数人分のDNAが採取されたが、いずれとも一致しなかった。

 以上の事から、彼らはランズベルク伯とシューマッハ本人ではない可能性が高いと記されていた。

 

 ラインハルトの方は、オーベルシュタイン配下である情報部の報告書を読んでいた。そこには、フェザーン総合病院に入院していた男性患者二人、ゲオルグとフェルディナントの検査用血液サンプルと、上記のデータを密かに照合させた結果、一人はシューマッハの本人であると確認が出来た。もう一人の方も、旧ランズベルク伯邸で採取されたサンプルの一つと合致しており、本人である可能性が高い旨が、簡潔に報告されている。

 

「おまけに売る商品の実態についても知らぬと見える。さて、ボルテック自体はへぼ商人だが、後ろで動いている黒狐が厄介だ。ボルテックが良い目くらましになっている」

「ケスラー大将も良くやっておられますが、なかなか狙いの魚を釣り上げられず、雑魚ばかり釣り上げているようですな」

 

 ラインハルトとオーベルシュタインは、つい先日帝都に移送されたランズベルク伯とシューマッハから、おおよその経緯を聞く事が出来ていた。

 彼らによれば、ランズベルク伯は騙されて、シューマッハは部下の生命を盾に脅されて、幼帝誘拐の実行者に仕立て上げられたという。

 ところが、亡命先として当てにしていた同盟が、イゼルローン失陥という大敗を期した。

 ランズベルク伯は、この時点で騙されているとは気付かなかったので、陛下の安全を考えれば、今である必要はないのではないかと口にした。

 ところが、フェザーン側の代理人、ルパート・ケッセルリンクなる人物は、連絡役を通じて、なお皇帝誘拐の計画を当初のスケジュール通りに実行しろと告げて来た為、流石のランズベルク伯もおかしい事に気が付いた。

 更に、シューマッハが部下を人質に取られている事をランズベルク伯に言ってしまい、ランズベルク伯が随分とショックを受けたらしい。それ以来、ランズベルク伯は計画に乗り気ではなくなった。シューマッハは元からだが。

 そうやって時間稼ぎをしながら、彼らはフェザーンが関与しているという証拠を集め、帝国への通報の機会を窺っていた。ある日、彼らは連絡役だったフェザーンの工作員ごと殺されかけたのだという。

 更に入院先でランズベルク伯の命が狙われるに至り、シューマッハはフェザーンの監視の目を潜って、帝国高等弁務官事務所に駆け込んできたのだという。

 それらは、病院関係者の話や診断から一応の裏付けが取れていた。

 

 シューマッハによれば、皇帝誘拐に際して陽動を掛ける予定であり、自分達が使い物にならなくなった今でも、工作員が帝都内に多数潜伏しているだろう、との事であった。

 

 それらの言を受けてラインハルトが命を発し、先月から憲兵隊が帝都中を必死になって洗っている。その為、帝都内の小規模な犯罪組織が次々と摘発されたりしているが、肝心の獲物にはさっぱり結びついていない。ラインハルトは、苛立たし気に唇を噛んだ。

 

「まだ、まだ何かあるはずだ。こちらの知らない何かを黒狐は隠し持っている」

「ランズベルク伯によりますと、伯爵家に代々伝わる秘密通路を経由して皇帝を連れ去る手筈だったようですな。歴代皇帝と皇位継承権保有者の数だけ、新無憂宮の地下に迷路じみた秘密通路と、それに関わった技術者や貴族がいるのです。フェザーンがランズベルク伯以外の候補者を見つけていても、何の不思議もありませんな」

 

 ラインハルトは、その秀麗な面持ちを窓の外に向けた。もうすぐ日付の変わろうとする夜中、外ではまだ土砂降りの雨が降り続いている。彼が口にしたルビンスキーへの警戒は、論理や確たる物証に基づく推理というより、戦場を生き延びた者特有の嗅覚から発していた。

 

「引き続き、二人から話を聞き、帝都内の捜索を続けよ。偽物の方はケスラーに引き続き任せるとして、フェザーンと表面上繋がりがない者もこの際対象に入れるべきだろうな」

「御意。しかし、そうなりますと人手も時間も足りませぬな」

 

 この広い帝都と、そこに行きかう人々全てを調査するには、憲兵隊にしろ、情報部にしろ、人間が足りず、事実上不可能であった。

 ラインハルトは舌打ちをした。これがルビンスキーの狙いの一つだと考えると不愉快だった。

 警備の手を緩めてわざと皇帝を誘拐させ、その分を捜査に振り分ける事も考えた。しかし、ランズベルク伯やシューマッハらの一件を考えると、誘拐とその陽動だけの穏当な線で済むのか怪しい。

 ボルテックは、多大な流血はフェザーン人の好むところではないと請け合っていたが、彼の背後ではルビンスキーが別の動きをしている。そうである以上、ボルテックの意志とは別に、その発言は信じるべきではないだろう。

 

「何の捜索を優先するかは、卿やケスラーの判断に委ねる。……とにかく全力を尽くせ。何かあってからでは遅いのだ」

 

 オーベルシュタインは、頭を下げると、ふと思い出したようにラインハルトに告げた。

 

「そう言えば、姉君が、あれほど過密な予定を続けていては、いずれ体調を崩されるのではと仰って、閣下の事を心配なさっておいででした」

 

 ラインハルトは、それに対してはうんともすんとも返事を返すことなく、無言のうちにオーベルシュタインの退出を促した。

 

 

 

 シュヴェーリンから帰還して、いつもの様に出勤したキルヒアイス氏を待ち構えていたのは、息子とさして年の変わらない上司からの、長く遠回しな訓示、あるいは嫌がらせであった。

 

 上司の機嫌を何故損ねたのかも分からず、キルヒアイス氏は、若い係長の発言を、内心はどうあれ、粛々とした面持ちを維持しながら聞いている。

 

 氏の一人息子ジークフリード・キルヒアイスは、帝国軍上級大将の地位にあるが、それは司法省はもちろん、キルヒアイス氏の出世には何の関りもない。

 もっとも、その一人息子が、現在の帝国宰相ローエングラム公ラインハルトの個人的な友人で、覚えも目出度い、という付帯事項は非常に重たい意味を持つ。

 キルヒアイス氏自身は、息子の立場を気に掛けていはいるが、自身もラインハルトと縁が深いのだという自覚は薄い。それは、他人事ほど自分の事は良く見えないからかもしれないし、ラインハルトと碌に顔を合わせた事もなければ、キルヒアイス氏がラインハルトが権力を握る前も後も、全く出世する気配がないからであった。

 

 キルヒアイス氏は、未だ司法省の一下級官吏、より正確を期すなら司法省民事局総務課総務係長補佐である。この地位は、下級官吏としては結構な出世である。

 しかし、役職は、ラインハルトが権力を握る以前からの既定路線である。キルヒアイス氏がこの地位に着くにあたり、ラインハルトは何一つとして寄与していない。

 下級官吏の順当な出世終着点として、係長補佐があるのは、経験豊富で気の利く下級官吏が補佐について、右も左もわからない上司を支える、という狙いがある。

 身分だけで上級官吏になったような無能はもちろん、有能でも経験の浅い若手官吏が、いきなり現場の指揮官になった所で、仕事は回らない。

 キルヒアイス氏と、目の前の若い係長もその慣習の典型例と言えた。

 

 なお、下級官吏から上級官吏になった場合は、各省庁の下部組織ないしは地方星系にある各省庁支部の長に任じられるのが慣例で、オーディンの省庁本部の係長職に充てられる事はまずない。

 

 帝国の下級官吏は、帝国軍に例えれば下士官に相当する。出世は事務処理能力、年功序列、派閥力学、何より最初にどんな上司にあたるかという運で、その後の昇進がほぼ決まった。

 定年間際に各省庁本庁の係長にでもなれれば、下級官吏としては大出世である。そして下級官吏の殆どはそこまで到達出来ずに終わる。各省庁本庁の係長は、軍人で言えば尉官と言ったところであろうか。

 

「先日、開明派グループの会合があってね、そこで御二方が、君の事を高く評価されておられた」

 

 キルヒアイス氏は、自分が何故上司の機嫌を損ねたかに気付いて、僅かに眉根を寄せた。

 

 現在、ラインハルト体制下で采配を振るうカール・ブラッケ、オイゲン・リヒターら開明派グループは、現役の上級官吏達がその成員の全てである。

 上級官吏になるためには、帝国上級文官試験を受けて合格せねばならない。これには、大学を卒業しているか、下級官吏として一定年数勤続し、上司の推薦を受けている事が受験資格となる。

 また、ラインハルトが覇権を握る以前であれば、門閥貴族枠が存在し、爵位や家格に応じて相応の官職が授けられた。

 

 下級官吏にとっては大出世の各省庁係長も、上級官吏達にとっては単なる出発点である。

 

 なお、下級官吏は、各省庁の人員補充を目的として、年一回採用試験が実施される。

 これには受験資格に上限があり、上級官吏との差別化のためか、大学卒業者及び予定者は受験不可、年齢も二十歳以下と定められている。

 いずれの試験にしろ、各省庁の欠員状況に応じて採用人数が決まるため、年によって合格率が大きく変動する事もそう珍しくはない。キルヒアイス氏も、高等学校を卒業後、試験を受けて司法省に採用された。

 

 以上の様な事情から、上級官吏は下級官吏を学もないボンクラと見下しているし、下級官吏は上級官吏をエリート意識と権力を振りかざして無茶を押し付ける頭でっかちと看做している。

 

「どうやら、君の息子さんを通じて名前をお知りになられたようだが……君をグループに招きたい、と私に頼まれてね」

 

 つまり、彼の自尊心を支える集団に、能無しの下級官吏が混じるのが嫌なのだ。今をときめく開明派の重鎮が名前を憶えていたからと言って、それがどうだというのだろう。あと数年で定年を迎える下級官吏など、上級官吏から見れば、競争相手ですらないのだ。無視して別の事に労力を割けば良いのに。と思ったが、キルヒアイス氏はそんなことを口にするほど迂闊ではない。

 

 下級官吏としてのキルヒアイス氏にとって、ラインハルトが権力を握って得をしたことと言えば、給料額が上がった事位で、それも官吏全体の話である。

 

 これまで、官吏の給料は、貧民よりややましなレベルの年収であった。特に本庁勤務の場合は、軍人や地方勤務と違い、各種手当を得る機会の少ない分だけ安い。

 キルヒアイス氏が三十を過ぎてから夫人と結婚したのも、一つには、任官したばかりの給与では、妻だけならまだしも、将来生まれるであろう子供まで養っていくのは厳しかった、という事情がある。

 もし新任時代のキルヒアイス氏が、今の一年目官吏と同水準の給与をもらっていたら、夫人との結婚を十年近く待つ必要はなかっただろう。多少の物価変動があって一概には比較できないのだが。

 

「開明派グループには、上級官吏しかいない。君が下級官吏としては初めて呼ばれる訳だ。長年の現場経験という物に対して、期待しておられるようだ」

 

 係長はそれがさも素晴らしい事の様に口にしたが、聞いた方は下級官吏への露骨な侮蔑を感じずにはいられなかった。

 

 ルドルフ大帝以来、帝国では、国家に奉職する事は高貴なる者の義務であり、優秀な者に対する名誉であって、生活の糧を稼ぐための手段ではないと、一般的に解釈されている。

 実際、帝国の上級官吏や高級士官は、その多くは貴族、富裕な平民など、教育に力を注ぐ余裕のある家の出が圧倒的多数を占める。彼らは、実家や自身が資産持ちであるが故に、官吏や軍人としての給料が安い事はそれほど大きな問題にならない。

 一方で、貧乏な貴族や平民が、官吏や士官になった場合はどうか。彼らは安月給について上に文句を言う代わりに、立場を利用して得られる金銭や物品で生活を購うか、誰か有力者の忠実な手下になって厚遇される事を選ぶ。

 軍人の場合、各種手当がついて官吏よりはましな給料である。任地での衣食住は支給で、生活費が掛からないため、官吏よりは可処分所得が多い。

 しかしいつ戦死するか分からないという不安もあって、貧家の出身者は誰かの紐付きが多く、そうでなければ汚職の当事者であるのが殆どだった。

 それが、かつて帝国に汚職や賄賂が蔓延り、官吏や軍人が、市民に公然と袖の下を要求出来る大きな理由であった。

 

「どうかね」

 

 係長は表面上とてもにこやかだが、その眼差しからは露骨に、断われという意志が痛いほど伝わって来た。そういう意志を隠せないのは、若さゆえか無能だからかは分からないが、いずれにしても大した出世は望めないだろうと、かつて仕えた上司達を思い出しながら、キルヒアイス氏は査定した。

 しかし、ここで直属の上司の機嫌を損ねるのも得策ではないので、キルヒアイス氏も相手の意志に沿って返す。

 

「いいえ、私の様な人間が、皆様方のお話に付いて行けるとも思われませぬ。そこまで評価して頂けただけでも」

 

 この帝国で出世するには、能力や仕事ぶり以上に人脈も大切になる。

 その為、賄賂など限りなく黒いやり方から、パーティなどの開催、参加、食事や酒席の付き合いまで、とにかく顔つなぎのための出費が多い。

 特に上級官吏や高級士官ともなれば、職務を円滑に進めるためにも、幅広い交際が欠かせない。

 何しろこの国では、政治や軍事の重要事項について、しばしば私的なパーティーの席上で、その提案から決定までが行われるのだから。

 

 上を目指せば目指すほど、その手の出費が加速度的に増えていく為、実家がそこそこ裕福でもその負担に耐えられなくなることも多い。出世の為に、借金までして費用を捻出する者さえ珍しくない。

 こうして、帝国を上を目指すために汚職に手を染める人間も後を絶たず、上に到達後は、投資を回収する為に、汚職に精を出すのである。

 

 つい一ヶ月ほど前、汚職などの罪で起訴されたシャフト前技術総監が、その典型的人物であった。

 彼は若い頃は真面目な科学者であったが、実家は貧しく、生活の為に汚職に手を染め始めた。そこそこ出世し始めた頃には、汚職に対する罪悪感など消え失せ、最早彼自身にも暴走する欲望を止められなくなっていたのである。

 

 今年の春から、ラインハルトが官吏の手当てを一律で引き上げたり、軍人の補償を手厚くしたりしているのは、その様な事情を知悉する、ブラッケやリヒターの提案によるものであった。 

  

 キルヒアイス氏は、そのような事を思いながら、内心で溜息を吐く。

 

「くれぐれも閣下らのご厚意に甘えることなく、職務に精励する様に」

 

 それに型通りの謝辞を述べた後、キルヒアイス氏は何一つ実りのない訓示から解放された。

 

 

 結局、昼食も碌に食べられないまま、キルヒアイス氏は午後の職務に突入し、定時を迎えた。彼が常にない疲労感と空腹に襲われながら、帰宅準備を始めた。

 司法省の建物を出た途端、雨まで降って来て、キルヒアイス氏の気分はさらに下降線を辿った。

 

 途中、官公庁街の近くで、先日オーナーが代わってリニューアルした、高級レストランの前を通りかかった。佐官や将官達が、吸い込まれるように店の中へと入って行く。

 一瞬、空腹の為に、店に入って食事をしたい気分に駆られたが、店から出て来た人々の会話から料理の値段を漏れ聞いて、キルヒアイス氏は、そっとその場を去った。

  

 ふと、前方から佐官の軍服を来た若い男と、美しい少女が連れ立って歩いているのが、キルヒアイス氏の視界に入った。大きな黒傘の下で、二人は親しげに言葉を交わしあっている。

 男は特に美男子でもないが、やや堅物そうな、感じの良い青年である。少女の方は、淡いカスタード色の髪に、オーディンの夏の晴れた昼空を思わせる、澄んだ空色の瞳をしている。絶世の、という程ではないが、成長すれば更に美しくなるだろう、と皆に思わせるだけの何かを備えていた。

 

 男はともかく、少女の方には見覚えがあったので、キルヒアイス氏は軽く会釈をした。少女こそが、ベックマン夫妻が迎えた養女である。少女は、キルヒアイス氏の視線に、やや頬を赤らめた。その仕草は、大人びた外見に反して年相応で、とてもかわいらしい。彼女は優雅な動作で会釈をして、そそくさと先程のレストランに入って行った。

 キルヒアイス氏は、あたりを憚らぬ様子や、男が憲兵隊の襟徽章を付けていた事から、何となく養父母公認の恋人か婚約者だろうか、と考えたが、疲労感と空腹から考えがまとまらない。

 

 

 やがて、キルヒアイス氏が自宅近くに来ると、寂しげな風情のべックマン夫人が、良く手入れされた庭の花々を、雨空の中でぼんやりと見つめていた。

 

 挨拶の声を掛けようとしたものの、急に腹の虫が鳴って、キルヒアイス氏は気恥ずかしさから、そそくさと使用人の待つ自宅に帰った。自宅の外まで、夕食の良い匂いが漂っている。

 

 

 

 フェザーン中央総合病院の小児科待合室。貴族的な美男子が待合室の椅子に堂々と腰を下ろしていた。彼の隣にいる、顔立ちのよく似た少年は、宇宙船についての図鑑本を読んでいる。そこへ看護婦のクララが通り掛かった。少年の方が、クララを見つけて元気よく声を掛ける。

 

「あっ。クララさん、こんにちは」

 

 声を掛けられて、クララは反射的に挨拶を返しながら、少年の方を見た。救急から小児科へと転科した、子供の患者の中の誰かだろうと思ったのである。しかし、そこにいたのは、帝国の空港で出会った子供と、クララの元上司で子供の叔父であった。

 

「あれ?先生。今日はどうなさったんですか」

 

 先生と呼ばれた男は、キルヒアイスの前主治医で、今はこの病院の外科部長代理をしている。彼は、傍にいた七歳児の頭を愛おしげにぐりぐりと撫でた。少年は最初まんざらでもなさそうに撫でられていたが、クララの方を見てから、恥ずかしそうに叔父の手から逃れてしまった。

 男は黙って、幾つかある診察室の一つを指差した。その扉の案内プレートには、小児予防接種外来と書かれている。

 

「秋からこっちの初等学校に進むんだが、帝国で受けていない予防接種があってな」

 

 フェザーンは、帝国と同盟二つの国を繋ぐ境目にあって、貿易と商業で栄えている。その為、伝染病などに対する対策も徹底しており、それは帝国や同盟以上の厳密さを誇っていた。

 帝国や同盟では任意の接種でも、フェザーンでは必須である場合も多い。もっとも、この種の医療施策は、同盟はともかく、帝国は劣悪遺伝子排除法に関わる物以外さしたる関心を寄せておらず、比較してもあまり意味がない。

 何時もの白衣ではなく、明らかにプライベート仕様の服装をしている相手に、彼女は疑問をぶつけた。

 

「でも、先生の家には執事さんとかいましたよね?」

「任せても良かったんだが、最初は俺が連れてきた方が早く済むからな」

 

 後は、将来の職場見学、と続いた答えを聞いて、クララは苦笑いするしかなかった。お父さんみたいですね、という言葉を、彼女は何とか堪えて、少年を見た。

叔父と同じく、フェザーンで一般的なファッションをしているが、それをきちんと自分の物にしている叔父に対して、少年はどこか着慣れていない印象がある。

 少年は、目鼻立ちこそ叔父に似ているが、その色彩は驚くほど異なっていた。叔父は黒茶の髪に、虹彩の位置が分からないほど黒い目で、肌は小麦色。一方、甥は上質の蜜蝋のような透明感のある薄金色の髪に、アクアマリン色の瞳と、やや青白い肌の持ち主である。よく似てはいても、彼らが血縁上の親子ではない事を、その色彩が如実に現していた。

 

 三人が会話を続けていると、ネイビーカラーのスクラブタイプのユニフォームを来た優男が、薄板状の端末に視線を落としながら、三人の方へ近付いて来た。

 彼のユニフォームは、ここの救急センターに勤務する医師だけが着る物で、首に掛かっている認証カード兼名札には、救急救命センター副センター長の文字が記されている。

 その副センター長は、外科部長代理の姿を見つけると、上機嫌を絵に描いたような表情を浮かべた。外科部長の代理の名前を親しげに呼び掛け、副センター長は、水鳥が水面を滑る様な、滑らかな足取りと速さで歩み寄ってきた。

 

「例の件考えてくれた?」

「嫌だ」

 

 いきなり本題を切り出して来た相手に、ごく短い即答で、外科部長代理は頼みを切り捨てた。しかし、それで諦めるような男が、四十を前に大病院で地位を築ける訳もない。副センター長は、いっそ大げさな位声を上げて、外科部長代理にしがみ付いた。

 昼食を買いにここを通っただけのクララは、少年に小さく手を振って、こっそりその場を離脱した。

 

「何もしないから!見るだけ、触るだけだから!勿論見返りなしとか言わないから!……この溢れる情熱を、好きという気持ちをなんでお前は分かってくれないんだ」

「俺はお前じゃないから知らん」

 

 何を言われようと断る気満々の外科部長代理が、更なる拒絶の言葉を吐こうとした所で、彼は自分達を見る周囲の眼差しに気付いた。

 白アスパラガスみたいな四十近い優男が、三十と少しの精悍な男の胴に縋り付いて離れない光景というのは中々人目を引く。

 憐れむような視線と責めるような視線を交互に受けて、こいつ狙ってやったな、と外科部長代理は小さく舌打ちをした。現に、彼の愛すべき甥は、べそをかく男を可哀想だと思ったらしく、執り成しをしてくる始末だった。

 

「俺は、お前が帝国で貰った勲章をただ間近に感じたいだけだというのに……」

「きらきらの鷲?目元がすごくかっこいい」

 

 少年が愛らしい笑顔で、それと思しき物の感想を述べた。副センター長は、外科部長代理からパッと身を離すと、喜色満面の顔を少年に向けた。彼の後ろで、やっぱり演技かよ、と外科部長代理の恐ろしく不機嫌そうな声が響いたが、そんな物は副センター長にとって虫の羽音程度の価値しかない。

 彼は薄板型端末を操作して、少年の見えやすい所に差し出した。

 

「少年、お前は中々見所がある。そこでいいものを見せてやろう。これ何だかわかるか」

「僕、これ読めます……。えーと、『じゆう、わくせい、どうめい、じゆう、せんし、く……くんしょう』こっちは、えっと、七七八?」

 

 彼が子供に見せたのは、自由戦士勲章。同盟における最高位の武功勲章であった。

 この勲章は、余程の勲功がないと授けられず、授けられた人間は、リン・パオ、ユースフ・トパロウル、ブルース・アッシュビーなど、同盟史に残る名将や英雄。そうでなければ、グランド・カナル事件のように、民間人を守って戦死し、英雄になるしかない。

 該当者のいない年もあり、それなりの稀少価値がある。近年、軍の失態を隠蔽する為に、大盤振る舞いされた事もあるが、それを数に入れても、同盟建国以来の授与者は、四桁には到底届かない。

 画像に写っている物は、細かい擦り傷の目立つ勲章本体。所々色褪せ、シミに塗れた皺くちゃのリボンが、物欲を減退させる。

 二枚目は裏面で、ぽつぽつと黒い斑が浮き出ている部分に、アラビア数字で七八八の文字が刻印されている。勲章を収める箱は潰れたように歪んでおり、どう贔屓目に見ても壊れかけており、端的に言えばゴミにしか見えない。

 

 

「そう自由惑星同盟で貰える一番凄い勲章だ。特に宇宙歴七八八年の自由戦士勲章は凄いんだよ。あ、宇宙歴はな、同盟で使われている暦で、このカレンダーに、帝国歴と並んでいる、数字の大きい方だ。話がそれた、それでこの年は、大きな戦いがない年だったから、貰ったのは」

「落札額五千フェザーン・マルク?お前、偽物だったらどうす……ああ、お前が早く入札した所為で、他の人間も気が付いたかもしれねえな、これ」

 

 外科部長代理が、自分の携帯端末画面を覗き込んでいた。同盟とフェザーンの両国を、実質カバーする大手ネットオークションサイトである。ここには、この宇宙にある、値段の付く物なら、違法でない限り何でも出品されている。

 探し出したオークションページは五月半ばの物で、百件を超える入札が掛かっていた。出品者は、同盟領の人間で、ここ一ヶ月で始めたばかりらしい。

 勲章の稀少性が価格に反映されなかったのは、単純に状態が悪いからであった。勲章やその付属品が汚れなどに侵されていなければ、あと一桁は違ったであろう。

 

「しょうがないだろう。いつ患者が来るか分からないのに、終了時間まで入札を待っていられるか」

 

 話を途中で遮られて、勲章マニアの副センター長は不機嫌そうな口調になった。しかし、少年が、では叔父上の貰った勲章はどの位凄いのか、と尋ねて来たので、すぐにその機嫌を直した。

 

「上から三番目の勲章だから、凄いぞ。この上は、皇帝御一家だけの勲章と、降嫁なさる皇女殿下のご夫君に授与される勲章しかない。とても立派な功績を上げないと駄目だが、軍人だと戦功を称える勲章が別にあるから、この勲章の対象じゃない。それと、上から一番目と二番目は、オトフリート四世帝の時代に量産されたし、内戦後に随分市場に流れたから、今はたくさんあるんだ。でも三番目の勲章は持ってる人が少ない。今迄に、フェザーンでこれを授与されたのは、フェザーン自治領の初代領主だけだ。つまり、今の皇帝陛下は、君の叔父上をそれと同じ位評価してるという事さ。まあ、厳密に言えば、同じ勲章でも等級の分類があって、初代領主は第一等級、君の叔父上は三等級なんだけどね」

 

 彼の熱弁が冒頭部を終わろうとしていた頃、院内用の通信端末に急患が搬送されて来ると連絡が届いた。副センター長は、急に真面目な顔になって、慌てて走り去る。

 やがて、外科部長代理と彼の甥も、整理番号での呼び出しが掛かって、診察室に入って行った。

 

 

 六月十五日、ヤン・ウェンリー大将が、六月一日付で軍を退役していた事が、公に発表された。

 それを聞いて、宇宙のあらゆる場所で、様々な人々が思い思いの事を考えたが、フェザーン在住の勲章マニアの医師程奇矯な反応ではありえなかった。

 その日の彼は、ボリス・コーネフと名乗る独立商人から荷物を受け取ると、その中に落札した複数の勲章とその付属品の他、ヤン・ウェンリーの直筆サイン入り添え状を見つけて、小一時間ほど自宅でスキップを踏んでいた。

 

 

 宇宙歴七九八年、帝国歴四八九年の六月前半は、ヤン・ウェンリーの退役以外にはさしたるニュースもなく、どの地域においても時は平穏に過ぎて行った。

 イゼルローン失陥の余波を残す同盟においても例外ではなく、前政権の後始末と敗戦の処理の為、政治家も軍人も黙々と事務処理に追われているだけであった。

 帝国、同盟、フェザーンなど、所属する国の如何を問わず、宇宙の殆どの人々が、このまま何事もなく六月が終わるだろうと思っていた。それは予測ではなく、願望だったかもしれない。

 

 そして、六月二十日、聖霊降臨祭の日。全宇宙を震撼させる事件が、銀河帝国の首都星オーディンでその第一幕を開く。



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第11話 運の良い男

 宇宙歴七九八年、帝国歴四八九年六月十九日。聖霊降臨祭前夜。

 

 聖霊降臨祭とは、古代地球時代に端を発する宗教的行事だが、この時代においては最早宗教的意味は失われ、初夏のお祭り以上の意味はない。毎年同じ日に行われる訳ではなく、その年の気候や曜日などを勘案して、六月中の適当な日が、聖霊降臨祭と定められる。

 この様な古代地球時代の宗教行事に端を発するイベントはいくつかあり、この時代の人々はその意味など知らぬまま、春の復活祭には鮮やかに彩色された卵殻あるいはウサギ型や卵型の装飾品を、秋の収穫祭にはくり抜いた橙カボチャの明かりや伝説上の怪物達のオブジェを、冬の降誕祭にはモミの木に電飾やオーナメントを飾り付けて、しばし酒食を楽しむのである。

 特に帝国において、これらの行事は、公休日の他、臣民に皇帝の慈悲を示したりするのに利用される。

 今年の聖霊降臨祭も、皇帝エルウィン・ヨーゼフの御名において、学校、養護院、恩賜病院、帝都中心部の広場などにおいて、万単位の菓子のカートン箱と酒樽が臣民に下賜される予定だ。

 

 昨年の聖霊降臨祭は、丁度リップシュタット戦役の最中だったこともあって、自粛ムードだった。その反動や、ラインハルト体制下での消費活動の盛り上がりなどもあり、今年は前日から例年以上の盛り上がりを見せている。

 

 そんな中、帝都の下町にあるキルヒアイス家では、ヴィジフォン(TV電話)のこちら側とあちら側で、キルヒアイス夫妻が対峙していた。

 

「じゃあ、どうしてもこちらには来られないのね」

「ああ、品評会と展示即売会が終わるのが夕方の五時頃になるから、そちらのパーティには間に合わんだろう。家に帰って寝るさ」

 

 解像度の低い画像でも、妻が不機嫌になるのが分かって、キルヒアイス氏はひたすら身を小さくしている。キルヒアイス夫妻は、シュヴェーリンの館で行われる、職員慰労パーティ兼アンネローゼの誕生日会への出席を巡って話をしているのだった。

 

「明日が一番高く売れる機会だからな。ジークフリードの今後を考えると、少しでも多くの現金に換えた方が良いだろう」

「それで息子と会える機会を棒に振るのは本末転倒だと思いますけどね、まあいいわ」

 

 男性使用人を呼んでくるよう夫に言い付けて、キルヒアイス夫人は、保留状態になったヴィジフォンの前で溜息をついた。保留中の画面には、美しいが、ありきたりの風景映像が映し出されている。

 

「本当に、あの人は何にも解ってないんだから。ねえ」

 

 手足の逞しい真っ黒な仔犬が、太い尻尾をぶんぶんと振って、夫人の足元に蹲っている。仔犬は、夫人の言葉の意味を解っているのかいないのか、彼女の手をぺろりと舐めた。

 ヴィジフォンの死角にはアンネローゼがおり、夫人はそちらへ小さく首を振った。

 

 

 キルヒアイス氏は、蘭の温室にいる使用人を呼びに行った。

 温室には、普段であれば、氏が独身時代を含め三十年以上掛けて育種、厳選した蘭達が、棚に整然と並んでいるのだが、この日の棚ははがらんどうであった。その代わり、地面には梱包資材が山のように積まれ、その間に蘭の花が咲き誇っている。使用人は、蘭の蕾に薄い袋を被せている所であった。

 キルヒアイス氏は、妻が呼んでいる事を伝えて、使用人の作業を引き継ぐ。

 

 キルヒアイス氏らが、梱包している蘭は、まだ開花しきっていないか、固い蕾の物ばかりであったが、二つだけ例外があった。

 一つは、氷を削り出したような、青みを帯びた涼やかな色合いの花弁を持つカトレアである。ただ、その青が、完全でも純粋でもない事は、唇弁が限りなく青に近い青紫色である事から分かる。そのカトレアは、まるで女王の様に凛と孤高を保って、唯一の花を薫り高く咲かせている。

 もう一つの蘭は赤くて背が高い。花弁の色と質感は、まるで真紅のベルベットのようである。花の中心部は純白で、それが花弁の赤を鮮やかに引き立てている。青い方と違って花弁にはやや丸みがあり、大振りの花ではない。花の大きさを補うように、枝には多数の花が付いており、それが前者とは違った華やかさを、爽やかな香りと共に醸し出していた。

 

 なお、これらの蘭は、まだ人類の領域が地球の表面だけだった時代にカトレアと称された種とは異なっていて、厳密に言えばバルドル星系種と呼ばれる一群である。

 それは、銀河帝国ゴールデンバウム王朝成立以前に遡る。地球連邦時代、現在は帝国領内となっているバルドル星系。そこで発見された新種と掛け合わされた、交配ではなく遺伝子操作によって作出された蘭がその始まりであった。

 カトレア以外には、胡蝶蘭、デンファレ、デンドロビューム、オンシジュームなど、園芸種として当時人気のあった蘭なら、概ねバルドル種が存在すると言って良い。

 花屋の店頭、一般人の間では、バルドルカトレア、バルドル胡蝶蘭など、バルドルの後ろに、各蘭の俗称を付けて流通している。一方で本来の蘭の方を、古来種、地球蘭などと呼称する向きもある。だが、そこまで花に詳しくない人間にとっては、古来の蘭もバルドル種も区別がつかない。

 

 この二つの蘭は、品評会への出品物で、品評会の日に一番美しく咲ける様に、キルヒアイス氏が神経を使って調整をしていた。手塩を掛けて育てた花のお披露目なのだから、折角なら一番綺麗な姿を見てもらいたい、という親心ももちろんあった。

 キルヒアイス氏としては、優勝は無理でも、何らかの賞を取れるだろうという自負があったし、それはあながち根拠のない自信でもない。

 何しろキルヒアイス氏は、これまでいくつもの賞を取った実績があり、たった一度ではあったが皇室献上の栄誉を賜った事もある。

 

 キルヒアイス氏が、己の傑作を見ながら悦に入っていると、通話を終えた使用人が戻って来て、こう告げた。

 

「旦那様、明日は私が会場までお送り致します」

「えっ、明日休みにしてくれ、と……」

 

 言ったばかりじゃないか、と言おうとしたキルヒアイス氏の言葉は遮られた。

 

「花の品評会というものを是非一度見てみたいものだと思い立ちまして。何でしたら、即売会の時にでも私をお使い下さい」

 

 キルヒアイス氏は、妻が使用人に何か言い含めたらしいと悟った。ここで彼が、主人の意志として断るのは簡単だが、これが妻の差し金だった場合、後が怖い。であるからして、

 

「……休日手当を加算しておくから、よろしく頼む」

 

 と、キルヒアイス氏は告げるに止まった。

 

「畏まりました。ところで、奥様がお呼びです」

 

 そして、再びの通話交代によって、キルヒアイス氏の予測は寸分も間違っていなかったことが証明されたのである。

 

 

 六月二十日。聖霊降臨祭当日。

 オーディン郊外の、国立リヒャルト記念動植物園で、蘭や薔薇など園芸植物から旬の農産物まで、各種の品評会が催されていた。

 これは、別に聖霊降臨祭に日程を合わせたわけではなく、夏季の品評会は毎年六月下旬に一週間開催されるのが通例で、今年はたまたま日程が重なったのだった。

 

 園内にあるホールの一つで大物は床に直接、小型の物は簡素な台の上に、くじ引きで決まった番号順に、蘭の花々が陳列されている。

 番号札には、生産者名も品種名も一切記載されていない。これは、花そのものを審査するに当たって、それ以外の要素、情実や偏見を排除しようという主催者側の狙いがある。

 ホールの中には、バルドル種から古来種、鉢物から切り花まで、部門ごとの出品物が並び、その美しさをを競い合っている。 

 

「今年の蘭も相変わらず素晴らしい。やはりキルヒアイスさんが出ると、品評会のレベルも上がりますな。去年などは、キルヒアイスさんも、例の方もお出にならなかったから、寂しい物でした」

「いや、私なんぞまだまだですよ。出来の良い時だけ顔を出しているだけですから。一昨年、去年は、これぞという蘭は咲きませんでした」

 

  キルヒアイス氏は、持参した二鉢の登録を終えると、早々に審査の場を離れて、他の出品者達と旧交を温め始めた。

 

 

 帝国の花卉品評会で賞を取るのは、これまで門閥貴族やその関係者が多かった。門閥貴族に対する贔屓が絶対にないとは言い切れないが、それ以上に大きいのは、彼らの資金力とマンパワーだった。

 優れた品種を生み出すのにも、それを美しく健康に育てるのにも、膨大な手間暇がかかる。門閥貴族は、金と権力を背景に、多くの人手と時間を費やす事でそれを購えた。ただそれだけの、ごく単純な事実である。

 

 その日の朝までに搬入された出品物は、午前中の内に全ての審査を終え、昼には結果が発表された。

 

「バルドルカトレア鉢物部門の銀賞はキルヒアイス氏作出のメーアザルツ(海塩)です。おめでとうございます」

 

 観衆から惜しみない拍手が、キルヒアイス氏に向けられた。彼は何を気負う事もなく、極めて普段通りに振舞い、壇上でトロフィーと賞金を受け取った。

 

 今回の品評会は、主催者が学芸省という事もあって、銀賞の賞金額は約一万帝国マルクと割合良い。現在のキルヒアイス氏の年収の二割弱である。金賞から銅賞までの三人には、副賞として蘭を象った貴金属のピンバッジが授与される。

 

 また、余談ではあるが、薔薇狂いだった先帝フリードリヒ四世。彼の時代に開催されていた、宮内省主催のバラ品評会は、優勝賞金が十万マルクに加え、記念に豪奢な宝飾品まで授与されるとあって、薔薇好きの趣味人から、人脈作りや一攫千金を狙った人間までが、異様なまでに熱心な薔薇栽培者となって、品評会に犇めいていた物である。

 

 情勢が変われば、受賞者の顔ぶれも変わる。今年の品評会で賞を獲ったのは、キルヒアイス氏の他、蘭専門の園芸農家、平民や下級貴族階層の成金と高級軍人、それにフェザーン自治領の豪商であった。昨年以前と受賞者の顔ぶれを比較すれば、今年は門閥貴族やその関係者が綺麗さっぱり消え失せている。

 この内、高級軍人とフェザーンの豪商は今回が初受賞で、更に言えば、フェザーン人豪商はこれが初出品である。

 受賞者達は、蘭に湯水のように資金と人手と手間を掛けられる人々ばかりである。その中に、たかだか下級官吏に過ぎず、設備や育種にさしたる金銭も使えないキルヒアイス氏が、独身時代から三十年近く食い込んでいるのである。

 その事実を鑑みれば、キルヒアイス氏の蘭育成に関するセンス、技術、知識、何より配合に恵まれる運の良さは驚異的であるかが分かろうという物だ。

 そういう訳で、キルヒアイス氏は、帝国の園芸ラン界隈で、それなりに名の知られた人物だった。

 

 門閥貴族から、下級官吏など辞めてお抱えの園芸家にならないかと熱心に誘われた事もあるし、そうなっていれば銀河の歴史は変わっていただろう。

 キルヒアイス氏は潤沢な収入を得て、本来の歴史よりも早く夫人と結婚し、息子はもう少し早く生まれていたかも知れない。キルヒアイス家はミューゼル家と知己を得る事もなく、雇用主の滅亡に付き合わされていた可能性も高い。

 

 

 キルヒアイス氏は、銀賞を得た青白い蘭と、別部門で特別賞を受賞した赤い蘭の前で、広報用の映像や画像を撮影されていた。なお、赤い方の名前はローターパプリカ、意味は赤パプリカ、または赤唐辛子である。彼の過去の受賞作の名前は、ヴァイスヴルスト(白ソーセージ)やクノブラウヒ(大蒜)であったりする。

 ラインハルトに俗な名前だと初対面で評された、ジークフリードという、帝国でありがちな息子の名前。実は、キルヒアイス氏の命名履歴のなかで言えば、比較的ましな部類であった。

 

 

「キルヒアイスさん、あの蘭はもしかして……」

「あの青色に拘っていたのは、あの人しかいないでしょう」

 

 金賞を受賞した園芸農家が、撮影を終えたキルヒアイス氏に話し掛けた。旧知の間柄である二人の話題の中心は、銅賞を獲得した、混じり気のない真っ青なバルドルカトレアであった。

 かつて、この青色に拘っていたのは、熱狂的な蘭マニアの門閥貴族で、品評会の常連受賞者であった。彼はリップシュタット戦役で、貴族連合軍に与したため、去年から品評会などには顔を出していない。

 

 彼らの疑問を氷解させたのは、銅賞の蘭の出品者となっているフェザーン人豪商自身であった。彼は、バルバドカトレア以外でも、古来蘭の切り花部門で金賞を獲得していた。

 彼の語る所によれば、リップシュタット戦役後、蘭マニアの遺族が金に困って、残されていた蘭株を彼に二束三文で売り払ってしまったのだという。

 

「出来れば高く買い取りたかったのですが、御主人が亡くなられて以降、蘭の手入れもままならなかったようでして……余り状態が良くありませんでした」

 

 二人はそれを聞いて妙に納得する所があった。銅賞の蘭は、花の色や薫りに傑出した物がある一方、葉や茎の色形に僅かな歪みがあるのだった。おそらく、それがこの蘭が金賞を獲得できなかった理由なのであった。

 もっとも、その些少な歪さは、彼らの審美眼だから判るのであって、普通に店頭に並んでいても、それに気づく人間は殆どいない。

 

「これから、よろしくお願いします」

 

 そう言った商人の目が、キルヒアイス氏を何とも形容のし難い熱意で眺めまわしている。しかし、それに気が付いていたのは、即売会で粗方の蘭を売り終えて、キルヒアイス氏の元に駆け付けようとしていた使用人だけであった。

 

 

 結局、賞金を含めた幾多の現金、物々交換で手に入れた有望な蘭の種株、使用人が間違って会場に持ってきた培地苗や記録ノートなどを携え、キルヒアイス氏は、午後二時頃には、急遽シュヴェーリンの館へと向かった。夜の慰労パーティ兼アンネローゼの誕生会に間に合いそうだったからである。

 なお、受賞作は、同園の特別温室で数日間展示されるのが慣例であり、彼の手元には存在しない。

 

 キルヒアイス氏は、地上車の助手席で蘭の売買記録を見ながら、感嘆の声を上げた。いつもと売る数が違うとはいえ、明らかに蘭の売単価が上がっている。例年であれば、二鉢で百から三百帝国マルクの売上だが、今年は四十鉢を売りに出して、年収の四割に当たる金額を叩きだしてしまった。

 

「それにしても、君には商人の才があるんじゃないのか」

「いえいえ、旦那様が銀賞を獲得なさいましたでしょう。そのお陰で買いにいらした方々も盛り上がられましてね」

 

 使用人は謙遜したが、一鉢辺りの単価は最大で十倍程も高くなった。キルヒアイス氏も、かつて賞を獲った時、小遣い稼ぎに幾度となく蘭を売り出したが、こんなに値段が上がった事はない。

 何故こんな出来る男が、伯爵夫人からの紹介とは言え、平民の下級官吏の所で通いの使用人に甘んじているのか。キルヒアイス氏はますますわからなくなった。

 

「ところで旦那様。なるべく早くあちらに到着しますよう、少々スピードを上げますので」

「え?」

 

 言うが早いか、使用人はアクセルを力いっぱい踏み抜いた。シュヴェーリンへの一本道を、搬送用小型地上車が凄い勢いで疾走していく。その後ろから、二台の地上車が、二人の後を追い縋っている。

 

 

 

 キルヒアイス氏が、猛スピードのドライブ楽しんでいるのと同時刻。帝都の中心、新無憂宮では最悪の事態が進行していた。

 

 午後一時半。

 新無憂宮の現在の主、エルウィン・ヨーゼフ二世は、銀河帝国皇帝であると同時に、まだ七歳の男児に過ぎない。従って、彼のスケジュールには、昼寝の時間が一時間半から二時間ほど用意されている。

 幼児の昼寝時間は、一般的には遊び疲れた子供の休息など、子供の健やかな成長を考えて行われるが、エルウィン・ヨーゼフ二世の場合はそうではない。側仕え達にとっては、癇癪持ちで面倒の掛かる子供から、一時的に解放されるための休息時間として認識されていた。であるからして、少年の体調や気分がどうであれ、その時間に無理矢理寝かしつけるのが、常態化していた。

 ここ最近は、皇帝誘拐の可能性を考えて、警備側の人間から、外出を控えるよう進言もあって、少年は外に出て思い切り遊ぶ事が出来ない。

 その為、あまり体も疲れておらず、エルウィン・ヨーゼフ二世は、この日も昼寝の時間が近付いて、寝室に連れて来られても、全く眠ろうとはしなかった。

 側仕えが、無理矢理寝室に連れて来られたことで幼帝が癇癪を起す前に、ジュースを飲ませた。すると、エルウィン・ヨーゼフは、見る間に眠気を催して、自ら豪華なベッドの中に潜り込んだ。ジュースの中には、強力な睡眠導入剤が混入されている。それは今年に入ってから、当たり前の様に行われている悪癖であった。

 

 本来、子供の健やかな成長を考えれば、強力な薬剤を用いるべきではないのは当然だ。が、これには理由があった。

 皇帝がぐずり出して騒ぎになれば、皇宮を警備する兵士や、その責任者であるモルト中将が出張って来る。

 これは、皇帝誘拐を案じたが故の行動であったが、皇帝誘拐の危険性など露ほども考えぬ侍従達には、ただ煩わしかったのである。皇帝が安らかに昼寝をしてくれていれば、警備兵達が顔を見せる事もなく、侍従達はゆっくりと休息出来る。

 

 つまり、皇帝への睡眠導入剤の投与は、主に周囲の大人達の勝手な都合であって、少年の健康や将来を案じたものではない。

 侍従達は、幼帝への薬剤投与に対して何ら良心が咎めなかったので、普通にこの事実を帝国の上層部に報告していた。しかし、幼帝を持て余していたラインハルトを始めとして、この事実を知る誰もが、ある種の幼児虐待を為すがままに放置しておいたのである。

 

 エルウィン・ヨーゼフという少年は、両親は既に亡く、現在身近にいる大人の誰からも軽んじられ、疎んじられながら、利用されて来た子供であった。

 子供らしい無垢な愛らしさも、隔絶した美貌を持っている訳でもない。癇癪持ちの気質もあって、言動一つとっても可愛げがない。

 何かの才能や英邁な資質を秘めていた可能性はあるが、それらは芽が出る前に周囲の大人達によってスポイルされた。

 少年が皇帝の座にあるのは、広大な帝国を治められる器量や才覚の成長を期待されての事ではなく、ゴールデンバウムという、宇宙の半分から憎悪と怨嗟を向けられる一族の血を引いたために過ぎない。

 

 だからと言って、それらの事項は七歳児への虐待的な扱いを何一つ正当化しない。大人達が、その事を眼前に突き付けられるのは、後日のことになる。

 

 

 午後三時半。幼帝の養育係である三十代の婦人が、少年を起こすために寝室に入った。彼女が丁重に寝具を捲りあげた時、そこにあったのは幼帝と同じ大きさの人形であった。

 昼寝に入った午後一時半から午後三時半までのいずれかの時点で拐されたのは確かだ。しかし、睡眠導入剤によって深い眠りに陥っていた少年は、犯人の顔を見る事もかなわず、声一つ上げる事もなかったため、それが正確に何時の事だったかは、終ぞ分からず仕舞いであった。

 

 宮中警備兵が異変に気が付いたのは、三時三十三分、皇帝が誘拐された事を侍従達の口から聞かされたのは更にその五分後である。宮中警備兵は、すぐさま警備責任者であるモルト中将に連絡を取ったが、中々連絡が繋がらない。

 

 その時、宮中警備本部のモルト中将は、既に事切れていたが、警備兵はそんなことを知る由もない。幾度か連絡を試みた後、何らかの不測の事態が起こったものとして、現場の警備兵達は他の場所、憲兵本部への連絡に切り替えた。

 連絡を取っている最中の警備兵達と、その通話相手たる憲兵本部の士官の耳に爆音が響いたのは、三時四十分。その直後、寝室近くの警備兵と侍従や宮女達の殆どは、まとめて現世から強制退場させられた。

 それらは、警備本部と、皇帝の寝所で起こった爆発によるものであった。

 

 後に判明する事だが、検死の結果、モルト中将は三時以前に何者かによって、背中から刺されていた。その前後に、憲兵隊の士官を名乗る人物が、緊急の連絡有として警備本部を訪れ、数分後に退出するのを、生き残った士官からの証言、復元された監視カメラ映像、入退出記録から確認した。

 

 いかし、いずれにせよ、これらの事実が判明するのは、数日後の事であって、現時点での帝国軍は何の情報もないまま、これらの事態に対処せねばならなかった。

 特に、モルト中将ら現場指揮官を欠いた宮中警備隊は、統率者と方向性を失って右往左往し、新無憂宮での捜索活動において、著しく精彩を欠いた。

 

 憲兵総監ケスラー大将が、これらの一報を受け取ったのは、午後四時半を過ぎた頃である。彼は帝都オーディンの外れにある軍事施設へ視察に訪れていた。

 ケスラーは、連絡を受け取ったその場で、宇宙港の閉鎖や、幹線道路の封鎖、憲兵隊の総動員などを即座に指示したが、事態は悪化の一途を辿った。

 

 ケスラーが視察先から駆け付ける間に、オーディン宇宙港、下賜の酒が振る舞われていた帝都中心部のルドルフ大帝記念広場、貴族街など、帝都の数か所で爆発が起こった。一般市民に二千人近い死者と、それに倍する怪我人が発生しており、ケスラーはそれを地上車の中で矢継ぎ早に聞かされる羽目になった。

 幹線道路のいくつかは、爆発事件に伴うパニックによって多重事故が発生し、封鎖を指示する前に、帝都中心部の交通網は麻痺しかかっていた。

 

 一方で、憲兵隊の多くは、この日帝都郊外にあるサイオキシン麻薬の密造工場など、これまでの捜査で発見された数多の犯罪組織の一斉摘発に動いているか、聖霊降臨祭のお祭り騒ぎを監視するために動員されていて、それを今すぐ集結させるのも難しかった。

 

 こうして、帝都は混乱の内に夕方を迎えた。

 

 

 ローエングラム公ラインハルトは、オーディン近郊の養護院で、菓子を子供達に振舞うイベントを終えて、その足で元帥府に入った。夕方の五時頃である。

 

 この時点で、ラインハルトの側には、副官のシュトライトやリュッケの他、キスリングら親衛隊員が既に揃っていたが、宰相付首席秘書官であるマリーンドルフ伯爵令嬢ヒルダは、未だ元帥府に到着していない。

 帝都の貴族街にはマリーンドルフ家代々の館があり、ヒルダはそこから出勤している。幸いにも貴族街の爆発は、マリーンドルフ家の邸宅からは遠く、屋敷や住人自体には微塵の損害もなかった。

 だが、そこから元帥府までの道路と市街は、相次ぐ爆破事件で混乱の極みに達していたために、まともに地上車が通れるような状況ではない。ヘリコプターなどを飛ばすには近すぎた。徒歩ではやや遠く、それにしたところで、警護なしで彼女を歩かせられるような状況ではなかった。

 

 貴族街で起こった爆破は、前財務尚書ゲルラッハ子爵邸近郊でのことであり、彼の妻子や使用人達が犠牲になった。ゲルラッハ子爵は即死こそしなかったが、意識を取り戻さぬまま、搬送先の病院で数日後に亡くなった。 

 

 

 

 元帥府にようやく着いたケスラーは、ラインハルトの前に跪き、己の失態を詫びた。

 

「今は失態を謝罪するより、事態の解決を優先せよ。陛下の御身を何としても取り戻すのだ」

 

 ラインハルトはそう言って再び現場にケスラーを送り出したが、これが単なる執行猶予に過ぎない事を、ケスラー自身がよく理解している。

 

 皇帝の誘拐から、その発覚と対処までに、最大で三時間もの空白時間が既に出来ていた。オーディン宇宙港を閉鎖、前後に出航した宇宙船の臨検を開始してはいるが、最悪の場合、既に惑星オーディンの地表にいないどころか、周辺宙域から離脱している可能性すら考えられた。

 

 

 ケスラーは、過去においても現在においても、無能ではありえなかった。だが万能でもなかった。

 ケスラー率いる憲兵隊は、まだ改革の途上であって、その成果が結実するには少しばかり時間の猶予を必要としていた。

 その隙を突かれたのだ、とケスラーがはっきり認識したのは、憲兵隊の士官の内、事件に巻き込まれるなどして、この時点で死亡ないしは連絡の取れない人間のリストを確認していた時の事だった。

 末端の兵士達はさておき、モルト中将の他、ケスラー着任以前から憲兵隊にいた中堅以上の士官ばかりがごっそりリスト入りしているのである。

 

 ケスラーは憲兵隊に着任して早々、汚職の当事者達を厳しく処罰、悪行酷い者や彼に反抗的な人物を、辺境や死刑台に送って威を示し、既存の憲兵隊を自分に従順な犬に変えた。

 それと並行して、自分の艦隊から士官を引き抜いて、憲兵隊士官の半分程を己の息の掛かった者にした。

 これ自体は、彼の意志の下で組織を掌握するに当たって、必ずしも悪手ではない。この試みが成功していれば、彼は憲兵隊に新風を吹き込んだ改革者として、後世に名を遺しただろう。

 

 だが、ケスラーがとった手段は、一時的にではあるが、憲兵隊の捜査能力の低下、自主性の欠如を招いた。

 ケスラーの着任直前までいた汚職士官達は、単なる無能や悪ではなく、彼らは長年の現場経験や、独自の情報網を有している場合が多かった。

 そうでなければ、とうの昔に、彼らは憲兵隊から放逐されていただろう。仕事が出来るからこそ、少々の悪行や不品行が大目に見られたのである。

 

 ケスラーが実権を握って以降、憲兵隊の人間の殆どは、粛清を恐れるあまり、必要最低限の判断しか行わず、ひたすらケスラーの命令と顔色を伺うだけのイエスマンと化した。

 ケスラーが自艦隊から引き抜いた士官達は、能力や自主性はともかく、憲兵隊に必要なスキルや経験を有していなかった。

 もっとも、時が経てば経験を積むことも、必要な能力を身に着ける事も出来るはずで、ケスラーはあまりこれを問題視はしていなかった。

 時が経てば、ケスラーが抜擢した士官達は、清廉で従順な現場指揮官として、彼の役に立つはずだった。

 

 現在の帝国軍首脳部は、艦隊司令官上がりが多い。彼らは、憲兵隊の仕事を『地上を這いまわる犬の如き』と、軽蔑する風潮があった。

 それは、艦隊司令官として多くの経験を積んできたケスラーも同じで、彼は憲兵隊の独自のノウハウという物を、同僚達程ではないにせよ、いささか軽視しているきらいがあった。

 

 それでも、ケスラーは有能であったから、彼が直接憲兵隊を差配することで、その弱点の埋め合わせはされていた。

 しかし、ケスラーが、末端の一兵卒の一挙手一投足まで指示する訳ではない。ケスラーの命令を、うまく咀嚼して兵士達に伝えられる、現場指揮官が必要だった。

 現時点でケスラーが引き抜いた士官達は、その任を全うするには経験が不足していた。その穴を埋めていたのが、旧来から憲兵隊にいて経験も判断力もあり、汚職にも手を染めていない、数少ない良識派士官達だったのである。

 

 事件の首謀者は、的確に憲兵隊の弱点を狙っていた。

 

 そして、憲兵隊の監視下にあったランズベルク伯とシューマッハの偽物が、連続する爆破事件に巻き込まれて、死亡したという一報が、ケスラーに追い打ちを掛けた。

 

 この時、彼は、自分の喉元に見えざる刃が突き立てられたのを悟った。

 ラインハルトの知遇を得、将来を嘱望されていた若手将官の胸を、これまでに感じた事のない恐れと敗北感が侵食した。

 

 

 当時と後世において、ウルリッヒ・ケスラーに関して、大別して二つの意見がある。

 一つは、無能ではないが運がなかった。彼の就任したタイミングが甚だ悪かった、単純に彼には時間が足りなかった、と考える一派。

 もう一つは、足りなかったのは運でも時間でもなく、事件までにうまく憲兵隊を使い物に出来なかった、ケスラーの運営能力の欠如である、とする者。

  

 そして、現在進行形で事件が展開している現在において、オーベルシュタインに報告を持ち込んだ男は、どちらかと言えば後者に近い意見を保有していた。

 

 

「艦隊戦なら、遭遇戦でもない限り、仕掛けた側も仕掛けられた側も、戦いの時期と場所はある程度予測可能です。そうでなくても、ずっと後方にあって将兵達を訓練してから、最前線に出すことも出来たでしょう」

 

 丸々と太った赤ん坊の様な外見を有する男は、まるでオペラのアリアを歌うように嘯きながら、義眼の軍務尚書代理に調査資料を提示した。

 

「陰謀は、艦隊による正面決戦とは違います。陰謀は仕掛けられる側にとって、いつどこが最前線となるかもわからぬのです。僭越ながら、ケスラー大将は、艦隊運用と同じように憲兵隊を統率なさろうとして失敗したのです」

 

 元内務省社会秩序維持局長官ハイドリッヒ・ラングが提示した書類には、ある老夫婦と、その親類縁者についての、簡潔な報告がまとめられていた。

 

 オーベルシュタインが、ラングに何か言いかけた所で、オーベルシュタインの元に直接の通信が入って来た。軍務尚書代理は、無表情の内に、ラングを退出させる。

 

 執務室の通信画面に現れたのは、グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼの、美しい面差しであった。

 

 

 フェルナーが報告を持ち込んだのは、ラングが退出した後、夕方六時過ぎの事であった。

 

「蘭の花を無事に届けたと、配達人から報告がありました。それと、古い温室の方が、近隣の爆発事故で、半壊しているそうです」

「こちらも今しがた、受取人から丁寧な礼を頂いた所だ。あちらの温室には虫がいない事は確認済みだ。水も肥料も充分ある。嵐が過ぎ去るまで置いておくのに問題はないだろう」

 

 オーベルシュタインは、そう言うとラングからの報告書を無造作に執務机の上に放り出し、ラインハルトのいる元帥府へと向かった。

 

 捲れ上がった書類には、老夫人と少女、二人の女性の顔写真と幾つかの無機質なデータがあり、最後にこう締め括られていた。

 

 『ベックマン夫人と、彼女と母系の上で繋がりがあるはずの少女に関して、ミトコンドリアDNAは一致せず……』

 

 『従って二人の間に、血縁関係は認められない』

 



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第11.5話 花の樹の下には死体が埋まっている

 職責の重さ、必要とされる能力。地位の上昇に伴って爆発的に増える出費。それらが高水準の割に給料が安いのが、帝国の上級官吏であり高級軍人である。

 ハイドリッヒ・ラングは、内務省社会秩序維持局長官と呼ばれる役職にあり、あともう一歩か二歩で尚書の地位に手の届く所まで出世していた。

 

 軍人と違って明快な手柄を立てにくく、手柄を立てたところで必ずしも地位の上昇で報われるとは限らないのが官吏だ。

 帝国の官界で平民や帝国騎士が出世するには、富裕な家の出であるか、誰か有力者の紐付きであるか、汚職に手を染めて財を築くか、出世への投資として借金を重ねるか。

 あるいは、それらに比べて稀だが、芸術家提督として名高いエルネスト・メックリンガー大将の様に、芸術や学問などの分野で際立った才能や実績があり、それが顔と名前を売るのに役立ったり、地位上昇に伴う出費を補填しているケースも存在する。

 しかし、ラングは、このいずれにも該当しない。

 彼は極めて平均的な所得を有する平民の家に生まれた。内務省の上級官吏になって二十数年は経つが、それまで一度も汚職に手を染めることもなく、借金をしたこともない。

 門閥貴族の犬だと周囲から誤解されていたが、実際にその事実はない。そう見えたとすれば、ラインハルト台頭以前、帝国で実権を握っていたのが、門閥貴族だったからである。門閥貴族の方でも公私に汚点がなく、首輪を付けられないラングを煙たがっている所があった。

 私人としては慈善活動に勤しみ、近隣住民と結成した合唱団でその荘厳なバスを披露しているが、それが特に彼の評判を著しく高めたとか、生活費の足しになっているかと言えばまったくそんなことはない。

 

 ラングが帝国の官界で出世出来た理由はたった一つ。この帝国で必要でありながら、しかし誰もがやりたがらない汚れ仕事。民衆の監視と弾圧によって帝国の統制を図る業務、それを自ら進んで引き受けて来たからに他ならない。

 ゴミやし尿の収集清掃から、処刑執行人まで、様々な理由で汚れた仕事とされる物は忌避されるが故に、集団の少数派や嫌われ者に押し付けられる。しかし、それをやる人間がいなければ、人々が快適に過ごせないのも事実である。

 それは従事者への嫌悪感や差別感情を更に悪化させる一方で、従事者に財やある種の影響力を齎す。

例えば、古代のとある大都市では、し尿収集人達を束ねる元締めが、政治に口を出せる程大きな影響力を持っていた。し尿収集が止まれば、都市は途端に機能不全になるからである。

 西暦千二百年代、欧州と呼ばれる地域では、宗教的理由によって金融業が賤業とされ、信者がその職業に就くことは禁じられた。その際、金融業を担ったのは、当時被差別者だったユダヤの民と呼ばれる人々である。彼らは差別の歴史故に金融という道具を生み出し、その扱いに熟達していた。

 しかし、西暦千七百年代以降、貿易や産業の発達によって、金融商品がそれまでとは比べ物にならぬほど大きな役割を果たすようになり、それを握っていた彼らに結果的に力を齎した。

 地球連邦時代に名を馳せた財閥の一つは、かつてアメリカという国でゴミ処理業から身を起こした移民と、その人物が率いた犯罪組織が源流である。人々にとって都合の悪い物の処分を引き受ける事で組織は力を増し、世界に深く食い込む事で自分達が処分される難を逃れた。

 

 ラングは、ラインハルトと彼の旗下で頭角を現した将帥達に対してどこまでも冷ややかであった。彼らは敵を正々堂々と打ち破って今の地位まで来たという自負があり、それ故の武人らしい潔癖さで、ラングの仕事を忌避する。それ自体は、ラングは今更どうとも思わない。この道で生きていくと決めた時から、彼は覚悟をしていた。

 ただ、ラングが可笑しくて堪らないのが、ラインハルトや旗下の将帥達が、自分達を一点も曇りもなく清潔な存在だと思っている事の方であった。

 

 ラングが汚物処理人であり、汚物そのものだとするなら、ラインハルトと将帥達は花だ。確かに汚物と花を単体で比較すれば、誰もが花の方をこそ美しいというだろう。

 だが、ラインハルト達が華麗な花を咲かせる足元には、敵味方幾万もの死体とそれにまつわる汚物で埋め尽くされている。花は汚物を己の糧とするからこそ美しく咲けるのだ。

 オーベルシュタインは、その事をよく理解している。彼こそが帝国軍において汚物の肥料化を一身に引き受けているのだが、それを誰も感謝することはない。そう、ラングには思えた。

 

かつてラングの上位者であった門閥貴族は、滅んで汚物の一部と化した。

さて、帝国軍の将帥達はどうだろうか?

 将帥達の中で誰よりも美しく艶やかな花を咲かせるラインハルト。彼の足元にはどれほどの死体と腐敗が横たわっているのだろうか。

 栄養も過ぎれば、花を腐らせる。ラインハルトは、あの薔薇の如く煌びやかな覇者は、自分が養分にして来たものに、足元をすくわれる日が来るのかもしれない。

 出来れば、花が斃れる前に自分が斃れるような事態になりたくない物だ。斃れる事があれば、ラングを忌避する者は全ての悪を彼に押し付けて知らぬ顔を決め込むだろう。

 そうならない為に、権力者の弱みを握りつつ、目立たずひっそりと過ごすべきだ。オーベルシュタインからも、それを示唆された。

 

 ラングはそこまで考えて、机の上に飾った家族写真を眺めた。

 長年連れ添ってくれた優しい妻、遅くに出来た二人の息子。彼らに汚名が及ぶようなことを、良き夫であり、善き父親であり、善良な帝国市民に過ぎないラングは良しとしなかった。

 



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第12話 白鳥の歌を歌う男

 六月二十日の夜七時、ラインハルト旗下の将帥達が元帥府に全員参集するまでに、帝都の惨憺たる状況は更に継続、拡大の一途を辿っていた。

 

 

 爆発による、直接あるいは間接的被害を蒙ったものの中に、帝都中心部に張り巡らされている電気や水道、民間用通信回線などインフラ網が一部存在したからである。

 

 帝都中心部にある軍病院は、一番最初に起こった警備本部と新無憂宮の爆発事件の負傷者を受け入れるので手一杯で、連続爆破事件における負傷者の多くは、必然的に民間病院が引き受けることになった。

 聖霊降臨祭、すなわち休日という事もあって、救急救命を抱える一部の大病院以外は、個人の診療所から公営の総合病院までに至るまで休みである事が多く、自然と一部の病院に負担が集中した。

 

「もうベッドもストレッチャーも満杯です!」

「良いから、全部受け入れろ!ロビーを閉鎖して、床にマットを!」

 

 民間医の中には、病院や診療所を急遽開けて、近隣住民の受け入れを決断したり、休暇中に現場に居合わせて、救命を始める医療関係者もあったが、それらは個々の善意ではあって、初期段階では著しく横の連携を欠いた。

 

「先生方との連絡は!?」

「とれません!さっきから全く何も繋がりません」

 

 そもそも民間の通信状況が著しく不安定になっている最中で、休暇中の医師や看護婦達と連絡が取れず、何も出来ない病院の方が圧倒的多数であった。

 

「手元を照らしてくれんかね」

 

 また、個人営業の小さな診療所では、自家発電設備など有している訳もなく、インフラ障害の影響が直撃して最低限の処置しか施せなかった。また、個人経営の診療所や医院程度では、薬剤や医療器具の備蓄など知れたもの、押し寄せる患者の数の前には、有って無きがごとし、あっという間に底をついてしまった。 

 

「誰か、この子を診て下さるお医者様はいませんか」

 

 しかし、どこであれ、医者などに診察して貰えた人間はまだ幸運で、救急車が間に合わなかった、そもそも現場に救急車を呼ぶことすら出来ず、処置を施されることもないまま放置された人間の方が遥かに多かった。

 

 加えて、爆発それ自体や、爆発の余波による大規模な火災によって、家を焼け出された人間も多数発生した。

 通信や交通の混乱によって、消防車が現場に駆けつける事すらままならない地区もあり、己の家が炎に焼き尽くされる様を茫然と眺める帝都民の姿が、あちこちで見受けられた。また、消防車の到着を待てず、内部に取り残された家族や財産を救出する為に炎に飛び込み、そのまま亡くなった話も、さして珍しい事ではなかった。

 

 祭りに華やいでいた帝都オーディンは、街を焼き尽くす炎で赤く染められ、やがて各所から立ち上る大量の煙が、帝都の晴れ渡った青空を、楳色に濁していった。

 

 それらの情報は、現場の警察や消防から、二つを管轄する内務省に伝えられた。更に内務省を経由し、この時点で、主要な文官は、この件における民間の被害状況が概ね把握していた。

 元内務省社会秩序維持局長官、現在は内務省内国安全保障局設立準備室室長という肩書を持つハイドリッヒ・ラングも例外ではない。

 

 かつてルドルフ大帝の腹心が、基礎を作り上げた社会秩序維持局は、旧帝国の悪を象徴する物の一つとして、ラインハルトが権力を握って以来、ラングの謹慎など、休業状態に追い込まれていた。

 しかし、皇帝誘拐という陰謀がフェザーンから齎されるに至って、社会秩序維持局の職能とラングの手腕を必要とする事態が到来した。その為、オーベルシュタインはラングの謹慎を解いて、己の配下に置いた。

 ラングは新しい主人に頭を垂れて忠誠を示し、自分と部署の肩書を書き換える作業と並行して、フェザーンや帝国内を秘密裡に洗っていたのである。

 

 

 ラングは、マリーンドルフ伯爵令嬢ヒルダの様に、首席秘書官としてラインハルトの傍らにある訳でもなく、直に意見を求められる事もない。そのため、直接対峙する主君の心情を慮る、悪く言えば顔色を伺う必要がなかった。現在の上司であるオーベルシュタインも、その様な事をとやかく言う人間ではないのも幸いだった。

 その為、ラングは、ジークフリード・キルヒアイス上級大将が、テロリズムの標的になる可能性を織り込んで、調査を始める事が出来た。

 もし、主君ラインハルトと近しい位置にラングがいたとしたら。彼は主君を憚って、その可能性を口にしたり、調査を始めるのは難しかっただろう。あの雷雨の日の、ヒルダの様に。

 

 専制君主国家たる銀河帝国においては、支配階層の考えと感情一つで、下々の運命が決まる。かつてなら、皇帝や門閥貴族の感情や思考が、法や事実に優先された。

 であるからして、皇帝の良き臣民として数百年に渡り、環境に適応した帝国民としては、『正しいかもしれないが支配階層のお気に召さない事』を行ったり、口にして怒りを買うより、支配階層の好むように阿るか、あえて口にしない方がましだ、という気風が強い。

 これは、ラインハルトが実権を握った現在も、変わらない。帝国臣民にとっては、その対象が、皇帝や門閥貴族から、ラインハルト、それに高級士官の軍服を着た人間に変わったに過ぎない。

 高々数年程度で、数百年掛けて培われた意識はそう容易く変わらないのだ。

 

 斯くして、ラングとその部下は様々な可能性を十全に検討することが出来、その結果、キルヒアイスの両親が狙われる可能性が高いと見積もって、その周辺でじっと網を張っていたのであった。

 

 戦いの常道とは、相手の弱点、手薄な部分を突く事である。

 キルヒアイス夫妻は、息子が現在の地位を得てもなお、暮らしぶりも変わらず、社会的地位も高くない。

 また、ラインハルトの方でも、姉グリューネワルト伯爵夫人や、キルヒアイス上級大将を気に掛ける程には、キルヒアイス夫妻を気に掛けていない。故に、夫妻に対する警護は、手薄の一言に尽きる。

 それでいて、彼らが攻撃の対象となった時、息子であるキルヒアイス上級大将が受ける衝撃の大きさは計り知れず、それが間接的かつ効果的にラインハルトを揺さぶれる可能性がある。

 

 テロリスト達にとって、二人を狙うのは、警護の万全なラインハルトや、宮中奥深くの皇帝などを狙うより遥かに容易であり、物のついでに実行して損はない、という所である。

 

 そして、秘密警察の張り巡らした蜘蛛の巣を僅かに揺らした可憐な蝶々、それがベックマン家の養女だった。

 

 

 

「老朽化した配管の取替工事やら理由を付けて、事前に周辺住民を退避させておいて正解でした」

 

 ラングの部下である男は、その言葉とは逆に些か暗い顔をしている。

 

「ただ、極めて残念な事に、一人、フラウ(夫人)が生死の境を彷徨っておられる。なんと痛ましいことか」

 

 ラングの声が、聖句を読む司祭の様に執務室に響いた。声には真摯な響きが伴っていた。だが、それは、死にかけの女性を痛ましく思うというより、事件に関する手掛りを惜しんでのことように、ラングの部下には聞こえた。実際、ラングがどのような気持ちだったかを知るすべはない。

 それも束の間、ラングは声を潜めて部下に問う。顔には、秘密警察の長に相応しい、冷やかさがあった。

 

「フロイライン(お嬢さん)を見失ってはいないだろうね」

 

「それは勿論。腕利きを付けてあります。現在の所、気付かれた様子はありません」

 

 ラングは満足そうに頷いた。そして、この時の彼の判断が、流血の舞台の第二幕に至る、きっかけの一つとなる事を、神ならぬ身が知る由もない。

 

「では、そのまま監視を続けるように。フラウがこのような状態の今、フロイラインに、どこの誰の紐が付いているか、それを知る手掛りは少なくなってしまったのだから」

 

 一通り部下を労って退室させた後、彼は静かにとある場所への回線を開いた。

 

 

 

「では、今回の一件は結果的には事故の可能性が高いと?」

 

「予定外のアクシデントではあったと思われます」

 

 オーベルシュタインとフェルナーは、準備室からの報告書を眺めながら、言葉を交わした。ただ、報告書というよりは、準備室が今まで集めた情報の羅列といった趣であったが。それは、ベックマン家を中心とした爆発についてであった。

 

「少なくとも、ゼッフル粒子を使うつもりだった人間にとっては」

 

 焼け跡から発見された、ゼッフル粒子入りのボンベとそこに繋がったタイマーが、画面に映し出された。タイマーは火災の熱で一部溶け崩れている。

 

「もし、爆発がゼッフル粒子による物なら、あの裏町一帯は綺麗な更地になっている所です、しかし、実際にはそうなっていない。隣接する二軒が半壊、道路を挟んだ向かいと隣裏は、爆発時の破片で屋根や壁の一部が壊れた程度、爆心地になったベックマン家も、少しですが形が残っています。不幸中の幸いとでも言いましょうか」

 

  ゼッフル粒子は通常火災の熱程度では爆発しないこと、タイマーの設定時間が夜の時間帯であったことなどが重なって、消火活動中の爆発には至らなかった。消火後、現場でこのボンベを見つけた時の消防官の気持ちを考えて、フェルナーは現場の彼らを心の中で労った。

 消防はすぐさま警察に、この物体の存在を通報した。警察は回収後に処理をし、目下の所、材料とその流通ルートなど、ラング率いる秘密警察こと、内国安全保障局準備室と警察の合同捜査で進められている。

 

 二人が見ている画像が、切り替わった。家の形をおぼろげながらも残しているベックマン家の残骸。

 

「夫人は意識不明の重体、娘の方はどうした」

「買い物に出かけていて無事でした。帰宅途中に、家の火災を見て、逃げていますが。随分狼狽した様子だとも聞きます。現在、社会秩序維持局、失礼間違えました。内国安全保障局準備室の方で人を張り付かせているようです」

 

 

 今回のベックマン家の爆発について、現状判明している点をまとめると以下の通りである。

  周辺の被害状況から見て、爆発したのは、ゼッフル粒子など爆薬の類ではなく、家庭でしばしば用いられる燃料であること。

 目撃証言や現場検証から、最初に小火があり、通行人から通報を受けた消防が駆けつける前に爆発したこと。

 その時間帯に、ベックマン夫人はちょうど食事の支度をしており、養女は夫人に頼まれて、近所の店に食材の買い出しに行ったこと。

 爆発後、買い出しから戻って来た養女が、家の惨状を見て狼狽し、慌ててその場から逃げ去った事。

 以上の事から、現段階ではベックマン夫人による失火の可能性が高いと見られていた。

 

 そこへ、追加の報告が上がって来たが、それは、二人にとって決して喜ばしい物ではなかった。

 

「ベックマン夫人が、搬送先の病院で亡くなりました」

 

 それは、犯人に繋がる糸の一本が、完全に切れた事を意味した。

 

 

 ラインハルトの元帥府に、オーベルシュタインとケスラー以外の諸将、計十一名が参集した時、彼らはラインハルトの口から、新無憂宮に住む七歳の男の子が行方不明になった事と、それが今回の一連の事件と何らかの関わりがある事を知らされ、それについての意見を求められた。

 

「門閥貴族共の残党が、勢力の復活を企てて起こしたと考えるのが妥当ではあるのだろう」

 

 ミッターマイヤーは、そう口にしたが、他の事象を考えれば、そうと断言すること出来なかった。

 

「だが、あのようなやり方では、身内の門閥貴族からも反発を食らうだろうな。結果だけ見れば、皇帝の身を危険に曝し、数少ない味方候補を殺した、と言って間違いない。案外、共和主義者かもしれん。あちらは、イゼルローン要塞と共に多くの戦力を失い、かのヤン・ウェンリーが軍を去ったという。こちらを混乱に陥れることで、帝国からの攻勢を凌ごうとしたとも言い切れまい」

 

 ロイエンタールが、いまだ正体の解らぬ犯人を嘲るように口にした。味方になる可能性のあった貴族とは、爆発にあったゲルラッハ達、元中立派門閥貴族のことである。

 

「犯人が門閥貴族なのか共和主義者なのかはともかく。そもそも皇帝陛下は生きておられるのか?」

 

 ワーレンのその言葉は、列席者一同の喉元に期せずして見えざる刃を突きつけることになった。そこから最初に立ち直って言葉を発したのは、メックリンガーだった。

 

「……確かに。皇帝陛下がおられないようだ、そういう事でしたが、これは、警備兵が直接、部屋の隅々を確認してのことではないように聞こえますな」

 

 話が、だれが犯人か何が目的かではなく、そもそも前提たる皇帝の行方不明の真偽にスライドしていくのに時間はかからなかった。

 元帥府が俄か仕立ての探偵集団に成りかかるのを阻止したのは、ロイエンタールであった。

 

「誰が犯人で、皇帝の生死がどうあれ、いずれ捜査も進むであろうし、犯人から何かの反応があるだろう。我らは、それを全力で屠るまでのこと」

 

「もし、犯人が名乗り出なかった場合は。暗殺だけが目的ならば、功を誇る必要もあるまい」

 

 そう勤めて静かに口にしたのはルッツであった。彼の顔は僚友の方を向いていなかったので、おそらくは独り言ではなかったかとメックリンガーは回想している。

 

 この時、幾人かの脳裏には、かつてフリードリヒ四世と他の門閥貴族を爆殺しようと試みた、クロプシュトック侯爵のことが浮かんだ。

 クロプシュトック家はルドルフ大帝の時代から名を連ねる名門だったが、オトフリート五世の時代、帝位継承を巡る闘争に敗れて社交界から追放された。

 三十年を経て唐突に事件を起こしたのは、長い年月の間に恨みが積もり積もったからだとも、雌伏することで敵を油断させる為であったとも、事件の少し前に唯一の後継者が戦死し、侯爵家再興の望みが絶たれたからだとも言われている。ともあれ、彼は自らの終幕の手向けとして、自分達をこのような境遇へ追い込んだ者達への復讐を図ったのだった。その後の軍事行動については、侯爵は最初からそのつもりで準備を整えていた、いや討伐軍に抵抗を試みただけだ、と後世に置いて見解が二分している。

 メックリンガーは、事件現場でラインハルトと面識を得た。ロイエンタールやミッターマイヤーは、クロプシュトック侯爵討伐行にまつわる門閥貴族との諍いをきっかけに、ラインハルトに忠誠を誓ったのだった。

 

 ラインハルトは、ロイエンタールの言や良し、いずれ次第が明らかになり次第、犯人と協力者には相応の報いを与えよう、と口にした後、次のように続けた。

 

「それともう一つ、連動する爆弾事件によって、帝都や人民にも甚大な被害が出ている。一刻も早く彼らの不安を取り除いてやらねばならぬ。こちらの方は急を要する。なお、皇帝陛下の一件に関しては、一切口外せぬよう」

 

 各艦隊から、帝都復旧任務に当たらせる部隊を選出し、総責任者はアイゼナッハ上級大将と定められた。これは、アイゼナッハが地方星系を治める伯爵家の出であり、災害の多い土地柄であった為に、彼とその部下達は、そういった任務に熟達していた点があげられる。更に言えば、先日手柄を上げたばかりの彼に、この任務を任せることで、遠からずある外征において、他の者に武功を点てさせようという狙いも少しはあった。

 その下に、メックリンガーとビッテンフェルトが配置された。メックリンガーが選ばれたのは、この手の事務処理に強いからだが、ビッテンフェルトは理由が不明であった。結果的にはよかったのだが。

 残りの諸将と麾下艦隊は、追って沙汰があるまで、即時出動可能な状態で待機せよとのラインハルトの命が下った。

 

「それでは、卿らの働きを期待する」

 

 そろそろ会議も終わろうかという頃、室内にオーベルシュタインが入って来た。オーベルシュタインは、僚友の方にちらりとも視線をよこすこともなく、ラインハルトに向かって礼を正した。

 

「どうした、オーベルシュタイン。顔色が良くないな。何か悪い知らせか」

 

 ラインハルトの言に、諸将達は義眼の男の顔を見やったが何かが変わっているようには見えなかった。しかし、そんなことがどうでも良くなるほどの事態が、オーベルシュタインから報告された。

 

「新無憂宮で、子供と思われる遺体が発見されました」

 

 ラインハルトは、衝撃を受けたように立ち上がった。しかし、それに続いたラインハルトの言葉は、極めて平静そのものであった。

 

「陛下のことは伏せておき、この帝都の混乱が静まった時、改めて公表するものとする。重ねて命ずる。残りの麾下艦隊は即時出動可能な状態で待機せよ。皇帝陛下の一件は他言無用である」

 

 

 

 重苦しさを孕んだまま会合は終わり、ミッターマイヤー、ロイエンタールの両将も部屋を後にした。

通路を歩きながら、最初に口を開いたのは、ミッターマイヤーの方であった。

 

「近い内に、出兵があるな」

「ああ」

 

 それは、彼らの鋭い嗅覚が導き出した結論であった。そして、敵は、皇帝暗殺犯とその背後の黒幕、と認定された者達であろうことも。しかし、数々の戦いによって武勲を立て栄達を重ねた男達は、戦いの予感に心が躍ることはなかった。有体に言ってしまえば、物足りないのである。

 門閥貴族の残党の中には、もはや見るべき人材もおらず、軍を形成する規模もないように思われた。自由惑星同盟は帝国に対抗可能な軍事力を有しているが、イゼルローン要塞は既に宇宙の塵となり、同盟軍の中で最も貴重な宝石、魔術師ヤンは軍を離れてしまった。

 ヤンの退役自体、何かの策略である可能性を誰もが疑っていた。特に帝国軍にはその傾向が顕著である。ヤンが現在の同盟政府からどう見られ、遇されていたかを知れば、この数は多少減ったかもしれないが、あくまで多少である。

 それは、ヤンが人の心理を巧みに突いた戦法で帝国軍を屠ってきた実績によるが、根本的には、誉れ高き名将、偉大な敵と堂々と一戦を交えたい、という彼らの武官としての矜持と願望が原因である。それが、ラインハルトの目に適った英邁なる名将達をしてなお、必要以上にヤンを警戒する結果に繋がっている。

 

 その内、自然と話は、今回のラインハルトの振る舞いに話が移った。

 このような状況下で、ああも冷静でいられるとは流石だ、とミッターマイヤーが、ラインハルトを称賛した時、ロイエンタールは、すぐにそれには賛同出来なかった。彼は、数瞬の間を置いて

 

「……そうだな。流石はローエングラム公だ」

 

 とだけ返した。

 ロイエンタールは、碌に会ったこともない子供を憐れんではいない。ただ、ローエングラム公は本来守るべき存在を死なせたかもしれないのに、良くもああ平気な顔をしていられるものだ、と冷笑気味に思っただけである。

 ローエングラム公の権力は、実質的にはどうであれ、形式的には七歳の幼帝の擁立者、庇護者であることを理由に成立している。いずれ、世間の評判を落とさない形で、ローエングラム公が皇帝の席に座るとして、それまでは皇帝の身の安全は保証されて然るべきものであった。そして、現状、ローエングラム公は、幼帝の擁立者としての責務を果たしきれていない。

 いっそ、わざと皇帝の身を害させたのではあるまいな、と考えたのは、別にロイエンタールの独自の発想ではないが、裏の事情を知らぬまま、それを一番早く思いついた帝国将帥がロイエンタールだった。

 

 幼い皇帝が無事成人すれば、いずれローエングラム公の障害になることは間違いない。ならば、敢えて敵に皇帝を害させることで、皇帝を排除し、帝国の敵という名目で堂々と別の敵、門閥義賊の残党なり、自由惑星同盟を称する共和主義者どもを屠れるではないか。

 もっと単純に、ローエングラム公は、是が非でも犯人を挙げなければならない。そうやって、帝国臣民の意思を統一して軍事行動を起こすことで、彼自身の責任や不忠、幼児の管理責任から、人々の視線を逸らす必要があるのだ。

 しかし、ロイエンタールはその思考をぐっと抑え、敢えて違うことを口にした。

 

「事がここまで大きくなると、誰かが責任を取らねばなるまい。ローエングラム公も頭が痛かろう」

「そうだな、ケスラーかモルトあたりか……」

 

 そう言いながらも、二人は無意識の内に、モルト中将がその責任を取らされるのだろうな、と思っていた。何しろあと少しで退職する男だ。退職に合わせて動いていたこともあって、切り捨てても現場への影響が薄い。新無憂宮の警備自体、軍部では今や重要度の高くない職務である。

モルト中将が、新無憂宮の爆発に先立って暗殺されていたことを、二人が知るのはもう少し後のことである。

 

 その後、家族を心配して慌しく帰ったミッターマイヤーだったが、彼が普段三十分程度で帰れる自宅に帰りつけたのは、四時間後のことだった。更に、彼の両親と妻エヴァンゼリンは、帝都郊外の植物園に出掛けていて帰れなくなり、名前の平凡さなどもあって軍高官の家族と気付かれて優遇されることもなく、再会できたのは数日後のことになる。

 

 

  こうして、ラインハルトの命の下、帝国軍や軍医達を現場に送り込めたのは、最初の事件発生から数時間後の事であった。

 態勢が整うまでの間に、更に千人単位の民間人が天上の門を潜った。この数時間の間に、これ程までに被害が増えた事に関して、後日まとめられた内務省の報告書に、いくつか言及がある。

 

 まずは数え方の問題。当初の二千人は、各所の爆発で直接死んだ人間の数であり、病院などで後から死亡が確認されたり、その余波で発生した火災や事故における死者については、その数時間の間に情報が出揃ったこと。

 

 それから、帝都市民のパニックについても触れられている。というのも、帝都オーディンの地で、今回のように一般市民を大勢巻き添えにするようなテロは、四代皇帝オトフリートの時代以降起きた事がなく、この様な事態を目前にした帝都民のパニックが結果的に被害者の数を増やした可能性である。

 

 皇族や門閥貴族同士の権力闘争において、しばしば暴力的な手段が用いられたが、その舞台は貴族の屋敷か、貴族領の惑星地表、宇宙空間で、その犠牲者の多くは門閥貴族や皇族であった。平民や下級貴族が巻き込まれる場合、使用人、軍人など、皇族や門閥貴族の関係者、周辺の人々である事が殆どだった。

 

 さて、帝国では、こういった不穏な事件の場合、真相が明らかになるまでは、とりあえず共和主義者を犯人に立てて置くことが多い。しかし、テロが本当に共和主義者によるものだったとしても、やはり一般市民を標的にしたテロというのはここ数百年なかった。

 共和主義者を自称する人々にとって、帝国の大多数の民衆は、飼い慣らされた無知蒙昧な羊、哀れな被害者である。そして、自分達こそが、その迷える羊を、正しき道、民主主義へ導く、という自負が、多少なりとある。

彼らにとって、憎むべきは、皇帝ルドルフから始まった歪んだ体制と、体制下で甘い汁を吸う特権階級であり、その手先である帝国軍上層部であって、いずれにも属さない一般市民や兵士ではない。

 また、共和主義に興味のない、ただの不平屋が、暴力を持って自らの鬱屈を周囲にぶつけんとする可能性もあるが、そこからが銀河帝国という相互監視社会の本領発揮だ。こういった小さな不平分子すら、臣民からの密告や、行動パターン、買物履歴の分析によっていち早く発見、処置がなされる。帝国において、単なる不平屋は、大規模テロを引き起こすだけの物資を手にすることすら出来ない。家庭用刃物を振り回すなり、家に火を放つなりするのがせいぜいだ。

 

 こうして、特に門閥貴族の関係者でもない大多数の帝都市民の思考に、第五代カスパー帝の治世から数百年を掛けて、この帝都オーディンの地表なら安全である、絶対にそんな危険な事態には陥らない、という根拠のない思い込みが醸成された。

 昨年末に起こったラインハルトらによるクーデターにしても、対象になったのは門閥貴族のリヒテンラーデ公であり、暴力沙汰になったのは宰相府、軍務省など政府機関であったため、やはり帝都市民の意識を覆すには至らなかった。

 かくして、絶対あり得ない、と思っていた大惨事を目の前にして、帝都市民がとった行動は、概ね生存本能に基づく短絡的行為であった。その結果、動ける軽症患者が我先にと医療機関に押し寄せて、医療リソースを食い尽くし、重症だが手を尽くせば助命出来る患者から、助かる機会を奪った可能性があった。

 現に、押し寄せる患者達の対応に追われ、本来の医療行為に支障が出たという、現場の声も多く記録されている。

 

 

 そういうこともあったが、ラインハルトの号令の元、諸将の指示によって、帝国軍は概ね的確に動いていった。

罹災者の救助、幹線道路やライフラインの一時復旧、避難所の設置。ずたずたになった憲兵隊の代わりに、帝都の治安を維持する事。

 総責任者を任された、アイゼナッハ上級大将以下、ビッテンフェルト大将、メックリンガー大将とその部下達は、よくこれをこなした。この事件で、人命救助の功などによって、顕彰されたものが一番多かったのは黒色槍騎兵艦隊であり、その医療部隊であった。

 特に、ビッテンフェルトは、補給部隊や医療従事者の進言を受けて、現場における物資と医療リソースの分配の方針を定めたこと。メックリンガーがそれを最適化したこと。アイゼナッハがそれを徹底させ、後方支援員の功績を公平に評価し、ラインハルトに進上したこと。

 彼らのこの時の方針とやり方が洗練され、たたき台となり、帝国軍の医療部隊の重要性を高め、帝国における災害支援の歴史に足跡を残した。アイゼナッハやメックリンガーはともかく、ビッテンフェルトは猛将以外の側面を人々に印象付けることになる。

 

 

 さて、急速に帝都オーディンが表面上日常を取り戻す一方、今回の事件の捜査も順当に進んでいた。

 その結果、憲兵総監ウルリッヒ・ケスラーは、今回の事態を招いた大きな責任がある、とされた。

 これには、モルト中将を殺害したのが、ケスラーが麾下艦隊から引き連れてきた、子飼いの部下であった、という事も大きく影響していた。 モルト中将を殺害した犯人は、ケスラーのもと、若くして佐官の地位を得たが、地上勤務への転属で収入が減って、恋人との交際費に困った挙句に、摘発し損ねた犯罪組織と繋がって、今回のテロに加担したのである。

 

 ケスラーは戒告の上、憲兵総監の任を解かれ、中将へ降格、今後半年間の停職処分となった。

 加えて、過去に与えられた勲章の剥奪。またこれらの懲戒処分に伴い、退役後の軍人年金等の受給権を喪失する。停職終了後のケスラーの処遇については、俸給返上で辺境星系へ左遷、そこで正式な死刑執行を待つことになった。

 もっとも、結果として、ケスラーの処刑は行われなかった。死罪の沙汰を待っている間に、新皇帝が即位し、その恩赦によって正式に死罪が取り消された為である。

 

 結果的に、ケスラーは死を免れたものの、免職以外の懲戒処分は、ほぼ全て受けたことになる。本来であれば、一つの非に対して処分は一つと定められているので、些かやりすぎではないかとの声が、文武官のどちらからも上がった。帝国軍の上層部においては僚友に対する親愛の情から、上級官吏においては前例と法の観点から。

 

 例えば、帝国歴四八七年のイゼルローン失陥に伴って、当時の帝国軍三長官は最初辞意を示し、それを慰留させるため、当時の国務尚書リヒテンラーデ候は彼らの俸給を一年間返上させる措置で、その代替とした。

 

 しかし、何事にも例外はある。その例外の最たる人物が、ミヒャエル・ジギスムント・フォン・カイザーリングであろう。

 帝国歴四八三年のアルレスハイム星域における、帝国軍の一方的な敗北。敗戦の原因には、カイザーリング艦隊の狂乱があった。それを御しえなかった指揮官の無能さが糾弾された時、張本人たるカイザーリングに待ち受けていたのは、間違いなく死であった。

 しかし、当時の皇帝フリードリヒ四世の病気回復に伴う恩赦で、処分の減免が為され、カイザーリングは肉体の死を免れる。彼は、敗戦の責任を死で償う代わりに、降格と懲戒免職の二重処分を受けた。

 懲戒免職ゆえに、カイザーリングの名は広く世間に公表された。、彼の犯したとされる過ちと共に。

 後年、カイザーリング自身がその汚名を雪ぐまで、彼は社会的には死んだも同然であった。

 

 戦場ではない、安全なはずのオーディン。そこでいきなりテロに遭遇し、その火の粉が自分達に降りかかって来た時、帝国の民衆は、真犯人とは別に、この事態を招来した責任者を厳しく罰することを欲したのである。

 それは、負の感情のはけ口としてで、理屈や法の上からは甚だ問題だらけであったが、この過剰な処罰に、民衆は感情的には納得をしたのである。

 

 ケスラーへの処置は、カイザーリングの例とよく似ていた。どちらも、出来うる限りの懲罰を積み重ねて、彼らの非の大きさを喧伝する点において。一応、形式上は、それぞれの処分は、各々違う事由によるものと記されてはいるが。

 

 何しろ、皇帝を害されとそれに伴う帝都中心部へのテロをみすみす許したという点をみれば、旧来なら死を賜ってもおかしくない失態ではある。

 新無憂宮の警備、皇帝誘拐関連の捜査や帝都オーディンの防衛は、その予兆から現時点まで、公式的には憲兵隊の職務であった。

 ケスラー以外に処罰を受けるべき人間は、上位はラインハルトしかおらず、下位で新無憂宮警備責任者のモルトは死んでいる。捜査関係においては、実質的にケスラーによる独裁体制で、警備部門におけるモルト中将、軍部におけるミッターマイヤーやロイエンタールら各上級大将のように、適度に重要な地位と権限を持つ人間が存在しない。 これは、ケスラーが憲兵隊上層部から、それなりの権限を有していた中堅以上の幹部を粗方追い出してしまったせいである。

 そして、ケスラーの手足になった憲兵隊士官達には大した地位も裁量もなく、この重大事の責任を取らせるには、彼らは余りに小粒だったのである。

 また、この旧幹部の追い出しは、別の側面でもケスラーの足を引っ張った。

 これは後年明らかにされた資料からであるが、ケスラーが憲兵隊人事の刷新を行って以降、犯罪組織や共和主義者の検挙件数、摘発した組織の規模、捜査の進展が、目に見えて減退している。

 これを、ケスラーが共和主義者に対して手心を加えていた、または旧幹部勢が自分達の手柄を過大に申告していた、と解釈する歴史家もいる。

 確かにそういう側面がなかったとは言い切れない。ケスラーにとって、共和主義者より優先すべき事柄があったし、旧幹部勢は犯人を牢獄に放り込む為に、疑わしい人物をその十倍は捕らえ、無関係の人民を多数巻き添えにしたのだから。

 

 しかし、共和主義者はともかく、サイオキシン麻薬の製造業者など、明らかに手心を加える必要のない犯罪組織まで、捜査の遅滞が見られているので、これは憲兵隊全体で捜査能力が落ちていたと見るべきであり、実際にそちらの意見が多数派である。

 大幅な人事刷新によって、憲兵隊における捜査ノウハウの断絶と情報網の分断が行われ、摘発し損ねた共和主義者や犯罪組織が発生。その一部が、今回の大規模テロに加担していた。

 

 そういう点で見れば、ケスラーは憲兵隊の指揮官として、テロを防げなかった実質的責任があった。

 

 この処置に関しては、ラインハルトが公式発表以上の事を口にしなかったため、当世と後世において、あらゆる側面から様々な憶測が流れた。

 

 一連の爆発事件の後始末も一段落したある夜。高級士官用クラブ『海鷲(ゼーアドラー)』でも、当然ケスラーの顛末について、あちこちで様々な憶測が飛び交っていた。

 

「あれはケスラー提督だから助かったのさ。モルト提督がもし殺されずにいれば、彼が早々に死を賜ってそれで終わりだったということになっただろう」

 

 ラインハルトは、ケスラーを重要な部下と捉え、後日復帰させるつもりだったからこそ、他の処分を乱発してまで軍に留め、死罪を引き延ばしているのだという説。

 

 職務柄ケスラーは、様々な秘密に通じており、それを疎んじた人物が、事件を好機としてケスラーの影響力の弱体化、排除を狙ったのだという説。

 

「いやいや、ケスラー提督は、あれで結構敵が多い人だった。案外、誰かが……」

「おい、クナップシュタイン」

 

 帝国軍将官の制服を纏ったまだ年若い男の口へ、同じ卓を囲んでいる青年将官が己がつまみにしていた太いブルストを突っ込んだ。

 喋っている途中で急に口をふさがれ、抗議の声を上げようとしたクナップシュタインへ、ブルストを突っ込んだ青年は、まあいいから黙って食え、という表情をして見せた。

 クナップシュタインは、口に差し込まれたブルストを無言の内に咀嚼した。

 風味付けに混ぜられているハーブやニンニク、スパイスが、粗みじんにされた豚肉のうまみと脂味を引き立て、僅かに混じった柑橘類の酸味が、全体の味を引き締めている。

 彼はブルストを全て咀嚼し終えると、金色のビールを飲み干した。実にビールがうまく感じられる、味わいのあるブルストだ、という感想をクナップシュタインは持った。

 将官クラスともなると、庶民的なアルコール飲料であるビールは倦厭され、元々ワイン好きな人間でなくても、将官に相応しいアルコールとして、ワインやシャンパンを嗜むのが帝国の常である。そんな中、クナップシュタインは海鷲に出入りできる階級になっても、公然とビール党であり続けた。

 

「グリルパルツァー、うまいなこのブルスト。前に食った時は恐ろしく不味かったが」

「そうだろう、最近業者が変わったらしくて、新鮮で味の良い物が出てくるようになった」

 

 燻製にしていないブルストは、あまり日持ちがせず、宇宙に人類が進出した現在も、その辺りの事情は大して変わっていない。ヴァイスブルストなどが特に顕著で、地球時代からの『早朝作ったヴァイスブルストは正午までに』という格言は、今もヴァイスブルスト好きの間で厳守され続けている。

 グリルパルツァーは実家が富裕なワイン商だという事も影響して、僚友とは反対に根っからのワイン派である。

 彼は、帝国歴四八〇年物の、比較的若い赤ワインを一口飲んで、皿に残った最後のブルストを口に入れた。スパイスの香味が、まだ重くなりきらない赤ワインの味とよく合っていて、それは彼の舌をいつも以上に満足させた。

 しかし、彼がブルストの味を常より美味に感じたのは、ワインの選択が良かったからでも、共に卓を囲む僚友のお陰でもない。

 グリルパルツァーが、咄嗟に僚友の口にブルストをねじ込んだ時、彼の視界には、クラブ海鷲に足を踏み入れんとする、小柄な蜂蜜色の髪の男と、ダークブラウンの髪の男の姿もあったのだ。

 帝国軍の誇る将帥二人、ミッターマイヤーとロイエンタール。

 彼らは、別のテーブルでケスラーの処遇を酒の肴に盛り上がっていた士官達と何やら揉め始めた。

 より正確に言うと、ミッターマイヤーが怒っており、士官達はひたすらそれに恐縮し、それを止めるでも窘めるでもなく、冷笑を浮かべたロイエンタールが、彼らを見やっていた。

 クナップシュタインが口を閉じるのがあと数瞬遅れていれば、あの二人の餌食になるのは、この若い将官二人であるはずだった。

 

 そう、彼がブルストを普段より美味に感じたのは、自分の咄嗟の判断が功を奏して、彼らに目を付けられずに済んだという、安堵感と、自分の読みが当たった時の、ある種の得も言われぬ快感の相乗効果によるものであった。

 僚友の内心など何も知らず、給仕係の従卒にブルストの追加を頼むクナップシュタイン。グリルパルツァーは嘲る様に笑い、赤ワインのグラスを顔の前まで掲げた。

 彼の視線の先には、気が済んだらしいミッターマイヤーとロイエンタールが、カウンター席に並んで座していた。ワイングラスを通して彼の目に映る二人の姿は、歪み縺れ、血の色をした液体の中へと沈み込んでいる。

 

 赤ワインを飲み乾す時、グリルパルツァーは一瞬だけ獰猛な表情を覗かせた。それを見たクナップシュタインは、悪寒と共に、何か不吉な予感に囚われた。次の瞬間には、いつものグリルパルツァーであり、クナップシュタインは思わず安堵の笑みを浮かべた。彼は、己の胸をよぎった不吉な予感を誤魔化すように話題を転じた。

 

「このところ風邪が流行り始めたな、お前も気をつけろよ」

 

 クナップシュタインが、辺りを見回しながらそう言った。この『海鷲』でも、時々咳の音が聞こえる。爆弾事件から数日、帝国軍の一部と帝都オーディンでは風邪が流行し始めていた。

 

「ああ。そうするさ」

 

 追加のブルストが運ばれて来て、二人の関心はそちらに移った。だから、その時、ミッターマイヤーが激しく咳込んでいたのを、彼らはついぞ知ることがなかった。

 

 

 

 

 帝都が狂騒や混乱を経て、やり場のない怒りと戦意と敵意によって高揚する一方、銀河帝国の辺境惑星はそれらの熱とは無縁であった。特に、罪人の流刑地である、この氷の惑星は。

 

 外では吹雪が荒れ狂う中、部屋のベッドでは、十代の少女が粗末な毛布にくるまってぎゅっと身を縮め、骨の髄まで冷えるような寒さに耐えていた。毛布から、ウェーブがかった金髪がはみ出している。

 部屋に近づいてくる足音が響く。やがて、帝国軍の防寒具を着込んだ男が部屋の前に止まり、封筒と一枚の紙きれ、官給品のペンを食事差入口から置いた。毛布を羽織りながら、少女は差入口に置かれた手紙と紙切れを取る。紙切れの、正方形で囲われた部分に、形は美しいがやや肌荒れした指先を押し当て、差入口を机代わりにさらさらと流麗な筆致でサインを書いた。少女が紙切れを向こうへ押し返す。少女の指が紙切れから離れたのを確認して、男はペンと紙切れを回収して去った。

 少女は、足音が聞こえなくなると、扉から離れ、光源近くへと歩を進めた。封書の糊を開く音がやけに大きい。

 封筒を部屋の明かりに向かってかざすと、紋章透かしが入っているのが見えた。それを訝し気に見る少女の瞳は、この惑星に厚く積み重なる氷のように冷たく青い色をしている。

 

 手紙を読み進める少女の顔の部品はみな形よく、端麗に並んでいて、吊り気味の目には、猛禽にも似た鋭利な光が宿っている。それは、母方から唯一受け継いだ遺伝的特徴であった。もっとも、女性に従順と可憐さを求める帝国にあっては、彼女の眼光の鋭さはあまり受けが良くなかったが。

 少女は、手紙を読み終えると、意を決してペンを手にした。彼女は、身の内に迸る感情を取り繕いながら、自分達の現状を淡々とした筆致で官給品の安い便せんに綴った。

 

 建物の外では、少女の激情を代弁するかのように、暴風雪が猛威を振るっている。

 

 

 少女のいる極寒の惑星では、三百年ほど前に、自由を求めた政治犯の係累達が逃亡した事件があった。その子孫の一人は、今は先祖が旅立った星とは真逆の気候を持つ、フェザーンの熱く乾いた地で星を見上げている。

 

 

「まだ起きていたのかい。明日は病院だからもう寝なさい」

「はい、てい……父さん」

 

 ユニコーンめいた清冽な美貌の少年は、黒髪の優し気な養父に続いて、テラスを後にした。車椅子の駆動音が、フェザーンの明るい夜空に、静かに吸い込まれていく。

 

 二人の動向を、やや離れた家の中から、監視する人影があった。

 

 

 こうして、帝都オーディンを襲ったテロ事件の混乱の内に六月が終わり、七月も終わりを迎えようとしていた。銀河のそこかしこで、悪意の熱は収まる気配を見せない。

 

 

 



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