翡翠のグランクチュリエ  --What a beautiful museum-- (三代目盲打ちテイク)
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第一幕 第一の門
1-1


突然ですが、リメイクを開始しました。
文章の増量と、修正を行いました。
大筋の流れは変わりませんが、加筆修正して、新しいエピソードとかも加えてあります。

勝手にリメイクしてますが、どうかこれからもよろしくお願いします。




『覚えておきなさい。いいえ、忘れないで』

 

 夢のように揺蕩う泡沫の水泡の中で、ただ一つの声が響いていた。

 

--その声は、女の人の声だった。

 

 聞き覚えのある声であって、まったく聞き覚えのないようにも感じる。確かに覚えているようで、まったく覚えてないような気もする。わからない。いいえ、わかっている。

 ただ。ただ、全てが重なり合っていて。ただ、全てが曖昧模糊としていて。

 

 あるようで、ないと、誰かが言った。全てはここにあるのだと、あるいは、全ては自らの門の向こう側にあるのだと。

 女の人ではない男の人の声で、確かに知っているはずで、確かに知らないはずの愛しくて仕方がないはずの誰かが言うのだ。

 

 ただ、一つの事実として、その人の声と女の人の声にだけは耳を傾けようと思うのだ。もはや聞く耳を失ったこの身が。

 理解するということを失ったこの身が。全ての色を失って、曇白と漆黒に染まってしまった、この身の全てが聞きたいと叫ぶのだ。

 

 知らない声であっても、知っている声であっても、この女の人と男の人の声だけは聞かなければならない。そう思う。心の底から。

 失ったはずの、そこから。

 

『例え、そう仮定の話ではあるけれど。いいえ、全てはあり得る話だけれど。もしも、貴女の思う全てが無駄だとしても』

 

 それは、曖昧な中でただひとつだけ確かなこと。大切なこと。

 

 糸を紡ぐように、からからと糸車が回る。あの時も、今この時も。

 

 世界の全てを演算する解析機関が駆動するように。糸車もまた、回り続ける。全てを織り重ねて、紡げというように。

 

『必ず価値のあるものがあるということを、諦めない心があるということを』

 

 そして、全ては終わるのだ。いいや、始まるのだ。

 

――感じたのは当然という感覚だった。

――むしろ、喜びだろうか。

 

 ようやく終われるという、そんな安堵を感じた。いいや、本当は何も感じていないのかもしれない。

 

 けれど、けれど――。

 

 誰かが言う。まだ、まだなのだと。あなたは、諦めてはいないのだと。言い聞かせるように。あるいは、自分に告げるように。

 

『そうすれば、きっと――』

 

 そして、全ては、極彩色へと帰る。まだ、全てがあって、全てが光り輝いていた、あの時へと――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

――白い。

――黒い。

――嫌いな、黒と、白だけがここにはあった。

 

 乾いた靴音がそこに響いている。帝都ではだんだんと広まってきた欧州の女性が履くような靴が、整備されたばかりの石畳を叩く音が響いている。

 石畳の路地を歩く私の足音。暗がりを歩く、いいえ、走っている乾いた靴音が路地を満たす。他には何もない。暗い路地を歩く、私の足音と息遣い。それだけが、この路地を満たしていた。

 

 我らが栄光なる大日本帝国。かつては日の(いずる)国として。かつては、戦乱によって割れた国として。かつては、侍の国として。

 繁栄を謳歌していた国。いいえ、今も繁栄を謳歌している。もたらされた機関文明と開国によって、空前絶後の繁栄をこの国は謳歌している。

 

 ふるきものは、急速に姿を変えて、あたらしきものが、姿を与えられていく。急速に、急速に、急速に。目を見張るほど。

 暗がりが消えていく。街を機関灯が照らし、蒸気自動車が走る。侍は消えて、欧州かぶれの紳士が溢れ出す。

 

 1911年。この国を支配していた徳川の世は既に終わり、明治機関政府によってこの国は回っていた。

 機関都市東京。人々は、かつての侍の街をそう呼ぶ。かつては、江戸と呼ばれたこの都市を、人々は大いなる機関都市として、東の京と呼ぶ。

 

 徳川機関幕府が倒れ、江戸が帝都東京と名を改められて既に久しく。もはや、かつての江戸の姿を思い出すことは難しい。

 いいえ、もう誰も覚えてなどいないのかもしれない。公園でただ物語を語る紙芝居屋や、あるいは嘘を買う、嘘を売る、嘘屋だけが、覚えているのかもしれない。少なくとも、若者は覚えてなどいない。知らない。

 

 英国より伝来した機関は更なる発展を遂げて。今や、この極東の島の空は全てが灰色雲が覆っている。ある時を境に生じるようになった境目を除いて、空を仰ぐことは出来なくなった。

 ふるきものは捨てられて、全てが新しくなった。全てが変わった。けれど、変わらないものも、確かにある。あった。

 

――御標(みしるべ)

 

 神子たる偉大なりし明治天皇陛下から告げられる幸福の神託。みんなが幸福に幸せになるための標。いつも変わらずに、みんなを幸せにするもの。従うべきもの。

 そう信じていた。あの日まで、そう信じていたもの。今でも、そう信じているもの。そう信じていたいもの。

 

――むかし、むかし。

 

 路地に誰かの語る声が、響く。靴音に交じるように、あるいは、靴音など意に介さないように。声が響く。焦ったような速足の靴音に交じって、確かに声が響いた。

 優しげで、誰もがきっと安らぎを感じる声でむかし、むかし、と子供たちに御伽噺を語る声が。むかし、むかしと、優しげに自分に語りながら。

 

――むかし、むかし。

 

 声は語る。語る、語る。

 それは御伽噺。極彩色であった白と黒の物語。私と、彼女の物語。幸福だったころの。今でも幸福な、あの時の、今の、私と彼のこれからの物語。

 

 私はそれを聴きたくて耳をこらす。けれど。けれど、私には聞こえない。どんなに耳を澄ませても。歩みを止めても。響く声は変わらずに語っているはずなのに、その声は聞こえない。

 それがどんなに素晴らしい物語でも。それがどんなに楽しい御伽噺であっても。

 

――私には聞こえない。

 

 声は次第に遠ざかって行く。まるで、私をおいていくように。だから、追いかける。手を伸ばす。この身にまだ、伸ばす手があることに感謝しながら。

 

――追って、追って、追って。

 

 追い続ける。追い求めて、右手を伸ばす。左手は、もはや、何かに伸ばすものではなくなっているから。

 けれど、けれど、伸ばしたその手は届かない。

 

 それは、彼と同じ。四本腕の彼と。悲しげな憐れな彼と何も変わらない。伸ばした手は空をきる。あの子の運命を変えるために、伸ばした手は、何も掴むことはなく。

 ただ、残酷な、終わり(けつまつ)だけが聞こえるのだ。残酷だった。冷酷だった。冷徹だった。慈悲などなく、あるのはただ、結果(おわり)だけ。

 

――その事実に、私は、理解した。

 

 何をしようとも届くことはない。

 そう理解した。

 

 けれど。けれど、もしも。そう、もしも。

 私が誰かの語るそれに背いてでも、あの子の為に、していたのなら。

 

 きっと、私は――。

 

――だから、手を、伸ばした――

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

――音が響く

――音が響く

 

 暗がりに音が響いている。

 

 それは、何かの歯車を回す音。

 それは、何かの螺子を回す音。

 それは、何かを組み立てる音。

 

 数多の音が暗がりに響いていた。

 

 東洋において、彼の大碩学、《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。

 遥かに劣る男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てる。

 

 ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。影の研究室、叡智の深淵と人は呼ぶ帝立碩学院の個人研究室。人はここをそう呼ぶ。

 ここは工房だった。暗い工房。この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と概ねその数は同じだ。だが、ここを訪ねる者はいない。

 

 深淵の叡智を求め、自らの望みと夢を求めて訪ねる碩学の卵はいない。論争を求めて、自らの理論を持ってくる若い碩学もいない。協調し深淵へと至る老齢な碩学もここにはいない。

 ここには誰も、彼と、彼の組み立てるもの以外存在しない。ただ、暗がりに音だけが響き渡る。全てを覆い隠す暗がりのベールの中で彼は組み立てを続けるのだ。

 

 彼の組み立てるもの。

 それを知ってはならない。

 命が惜しければ。

 

 それに手を出してはならない。

 命が惜しければ。

 

 ここにはまともな人間などひとりもありはしない。

 ただ暗がりと、ただ歯車の骨と機関の肉体を組み立てるだけの碩学と彼が作り出した機関の人型があるだけだ。ただそれだけだ。

 

 人型。人の形をした機械。概ね、それは欧州における碩学たちの組織であるところの結社に由来した機関人間の構造と同じではある。

 だが、一から創造したという点においてのみ、そこには敢然たる違い存在している。それは無から人を生み出したということに他ならない。

 

 それは神の所業。人が望み、進化(パラディグム)の果てに人がその肉体の機能として獲得したそれを人の()で行ったということ。

 人の身において、この男は、絡繰王と呼ばれるこの男は、人を子宮(うつわ)に頼らずに作り出すという古来からの夢を達成した。

 

 それは純然たる絡繰王(おとこ)の偉業。だが、だが、碩学王(かみ)には届かないと男は自虐する。自虐して、自虐して。

 ただ一つの結論へと至るのだ。己が、及ばぬものであるという事実に。己がどうしようもなく、ヒトであるという結論(ぜつぼう)

 

 ゆえに男は実験を続けるのだ。帝国全土に張り巡らせた機関情報網と明治天皇の威光を利用した数式実験を続ける。

 碩学王が都市を一つで実験をしたというのなら、自分は国一つを使って実験するまで。

 

 男の暗い意志が駆動する。届かぬというのならば、届くようにすればよいという男の暗い意志が。変容の果てに至らんとする意志が。

 

「――主」

 

――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型が声を上げる。

 

 

 女。人型、からくり。

 

 からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。

 自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。

 

 陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。

 この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。

 

 そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。

 

「――主。今宵の演目の再開を確認しました」

 

 その声に、男はその手を止めた。

 

 女の声に、男は、その手を、止めた。

 

 組み立てるだけの男は手を止めたのだ。だが、歯車は回り続ける。回す者がいなくとも、歯車は回転を止めない。

 ただ回り、ただ組み立てる。なにかを。全てを。

 

「ついにか! おおおお、ついに! ついに再開されるのか! 待った。待ち望んだ。待ち続けた。この時を! 此度こそ、今度こそ、今宵こそ! 私は貴様を超えるぞ大碩学(チクタクマン)!!」

 

 男の声が響く。狂気に染まった、声が響く。それがどこかに届くことはない。ただ、暗がりの漆黒の中で吸い込まれて消えていく。

 

 消えて、ただ願うのだ。いつか。そう、いつか、その深淵に手が届くことを願って。

 男は、ただ、深淵にて歯車を回すのだ。

 




というわけで、改稿版第一話でございます!

大幅加筆。大筋は変わりませんが、だいぶ文章が変化しております。

〇時あたりに1-2を投稿する予定です。どうかよろしくお願い致します。


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1-2

――すぅっと。

――唐突に何かが頭に滑り込んできた。

 

「だからねえー、機関科学の課題はバベッジ卿絡めとけばー、それなりにいい点もらえるってー……」

 

 講義が終わった後、そう野枝に説明している最中に。また。また、聞こえた。いつもの声。いつもと同じ声。変わらぬ口調で、違う内容を告げる声がするりと頭に入り込んできた。

 それは、とても気にかかる。自分にだけ聞こえる声だから。だから、それに自然と耳を傾けてしまう。誰にも聞こえない。けれど、誰にも聞こえる声。

 

――それは、確かに存在する声だった。

 

 耳元で、あるいは頭の中で。あるいは、この国のどこにでも。その声は聞こえていて、誰にも聞こえていなくて誰もがその内容を知っている。

 それは、昔から聞こえていた声。聞こえるようになったのは、この左目が瞳が綺麗な黄金色に変わったのとだいたい同じくらい。

 

 時々聞こえる。それは、たぶん御標なのだと思う。確信をもっていないないのは、語り部以外に聞いた者がいないから。

 語り部にしか聞くことのできないはずのそれ。それが聞こえる。

 

――きっと、おかしくなったのよ。

――そう、きっとそう。

 

 誰にも聞こえないから。人には聞こえないはずだから。語り部と呼ばれるからくり以外にその神託を聞けるはずないのだから。

 

――だから、あたしは聞こえないふりをする。

――でも

――駄目

 

 聞こえないふりをしてもその声はずっと、ずっと聞こえるから。良いことも、悪いことも。全部。全部。あたしには聞こえてしまう。

 

 今もそう、ずっと、ずっと、聞こえる。

 

――ずっと、ずっと、ずっと。

 

 絶えず、絶えることなく。いつでも聞こえるわけではないけれど。聞こえるときは、かならず聞こえる。絶えすものかという妄執のような何かすら感じるほどにその声は、絶えず語る。

 昔話のはじまりのように。むかしむかし、と御伽噺のように。幸せになる為の標を告げるのだ。

 

 それは、誰もが望んだもので。

 きっと、それはその人が望んでないもので。

 

 わかる。なぜだか、そう思う。だって、それは――

 まるで、誰かの泣いている声のようで――。

 

「ちょーっと、聞いてる? るいー? 黒岩涙香(くろいわるいこう)ー?」

「う、うぇひゃぁ?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

――ふと、あたしを呼ぶ声であたしは我に返る。

――野枝があたしを呼ぶ声。

――いつもと同じ、あたしが考え事をし始めた時に無意識にするのと同じように、語尾を伸ばし口調で。

 

 どこか、飽きれたような笑みを浮かべているのが彼女の顔を見なくてもわかる。答えなきゃと思う。話をしている途中だから。

 話をしていた途中だから。聞かれたことに答えていた途中。何かを聞かれた。そう確かに聞かれた。質問。野枝からの。

 

――でも、そんなことよりも。

――変な声、出た。恥ずかしい。

 

 だから、しきりに、隣で呼びかける野枝を無視するような形で周りを見る。講義を終えて少しだけ経ってるから人はいない。隠れている人も、おそらくはいない。

 大丈夫。周りに人はいない。大丈夫。そういう人は野枝がきっと追い払ってしまう。そうでなければ、あんな風に声が出ることを知っている野枝が、あんなことはしないから。でも、心配だから、もう一度周りを見て。

 

――うん、大丈夫。

 

 そう黒岩涙香は、安堵する。野枝はいつものことだから、きっと気にしない。初めの頃は、ずっとずっとからかわれた。今は大丈夫。

 最初の頃は、大変だった。けれど、慣れたから。こういう関係もいいかなって、思えるくらいにはなった。たぶん、親友になったのだと思う。

 

――成長? どうだろう。

――大人になったって言ったら、きっと野枝に笑われちゃうかな?

 

「ちょっとー、聞いてるー? まーた、考え事? ちょーっと、るいー?」

 

 もっと近く、耳元で野枝の声。

 

――うん、うん、わかってる。答えなきゃ。うん。

 

 意識を集中して、言葉を絞り出すように。

 

「だ、大丈夫、聞こえてる、うん、うん」

「じゃあ、何の話か言ってみ? ほれほれ」

 

――早く言いなさいー、と野枝があたしをせっつく。

 

 頬をぐにぃ、と押される。

 

――野枝

――伊藤野枝。

 

 自由な人、凄い人。まだまだ珍しい着物襟をしたワンピースという洋装を着た可愛らしい友人。破天荒でいつも振り回されるだけど、大事な、大事な親友。

 

――えっと、なんだっけ。

――そう、話。何の話をしていたか。

――これでもながら聞きは得意だから、わかる。確かそう――。

 

「えっと、機関科学の課題の話だよね」

「ぶー、はっずれー、正解はるいの好みの男性は誰かって話」

 

 野枝はそんなことを言う。そんな話をしてなかったはずなのに。その証拠に野枝はいつものように、人をからかう時のように笑ってる。

 とてもいい笑顔で。

 

「むぅ、そんな話してなかった」

 

 拗ねたように言えば、はは、ばれたか、と舌を出す野枝。

 子供みたい。お姉さんぶったりするのに、時々こんなこともする。だから、野枝はもてる。

 

――ううん、うらやましくない。うん、うらやましくなんかない、はず。

――うん、うん。たぶん。

 

 そんなことを考えちゃって、それを誤魔化す意味でも、ちょっと怒った風にして。それはきっと子供みたいと言われるのだろうけれど。

 野枝の前だと大人ぶることもない。野枝にはかなわない。そう思うからこそ、子供のように拗ねて見せる。

 

「もう」

 

 怒ったように頬を膨らませて。

 

「怒らない怒らない。これでも、気にしてるんだよ私」

「大きなお世話ですー……」

 

 そう大きなお世話。大きすぎるお世話。お節介。

 でも、興味がないとは言えない。

 

――うん、あたしだって、多少は、ね。

 

 少しはそんなことも考える。でも、周りにいる男の人とは、あまりそんなことになるとは考えられない。良い人がいないわけではない。

 ただ、そういうことが考えられないような、そんな感覚。誰か、男の人の隣を歩く自分を想像できない。想像したとして、想像するのはやっぱり、ああいうこと。

 

 顔が少しだけ赤くなる。そこから想像は飛躍して。

 

――うん。うん。やっぱり、あたしにはまだ早い。

――でも、やっぱり気にはなる。

 

 そう言った本を読んでいると自分も、いつか、とか思ってしまう。

 

――ああ、そう言えば、新作の本が出ていたはず。今月は厳しいけれど買いに行こうかな。

――本と言えば、書きかけのお話、どこまで書いたっけ。

 

 お話というよりは、翻訳。ちょっとしたお仕事。友人から送られる英国の本だとかを翻訳するお仕事。割のいい仕事。物語に触れられる楽しい仕事。

 今、やっているのはアレクサンドル・デュマ・ペールのモンテクリスト伯。帝国の人にはあまりなじみないから、タイトルを岩窟王にしたり、少しずつ登場人物の名前とか変えて。

 

――うん、確か、もうすぐ終わりだよね? そうしたら、今度は訳じゃなくて、きちんとしたお話を書こう。

――うん、探偵のお話とか、あの子好きそうから、それを書いて……。

 

 構想が頭の中に流れ出す。蓋をあけたように。物語が進む。考えられる限り、全てが、頭の中で。

 

――そんなことまで考え始めて

――あたしは、気が付く

 

「ちょーっとー、またー、るいちゃーん?」

 

 野枝が呆れたような顔をして、頬をつっつていくる。

 

「ごめん、考え事してた」

 

――あたしの悪い癖。

――こうやって考え事に浸るの。さっきみたいに。

 

 こうやっていろいろ考える。口よりも頭の中でしゃべるほうが楽だから。

 

「もう」

 

 仕方ないなあ、と野枝が苦笑する。そういうこともわかってくれる野枝。本当に、勿体ない友達。みんなにも人気。

 けれど、逃がしてはくれない。結構、しつこい。こういう話題では。

 

「で、実際のとこどうなの?」

 

 それは、男の人のお話。こういう恋だとか、愛だとかの話は、彼女の得意分野。勉強よりもずっとずっと彼女はこういう話が得意だ。

 逃げようとしても逃げられるわけがなく、

 

「えっと、い、いない、うん、いない」

 

 答えてしまう。

 

――でも、良いよね。そんなに話題になることなんてないから。

 

 けれど、野枝はすっと、話題を口にするのだ。

 

「そう? ……なら、野口さんとかは? お似合いじゃない?」

 

――野口さん

――野口英世。

――大日本帝国を代表する女性碩学。左手に手袋をした綺麗な人。凛々しい人。

 

 もちろん、男の人の話をして出てくる人じゃない。れっきとした女性。それでありながら、この大日本帝国の碩学の中でも、五本の指に数えられる高名な碩学様の一人。

 エイダ主義の先駆けのような人物と多くの人たちが言う。男性と同じように前に立つ女性。軍の男の人たちともめることも多いけれど、多くの事が出来る尊敬すべき人。

 

――確かに、スーツを着た彼女は確かに男装の麗人然としているけど、けど。

 

「なんで、今の流れで出てくるの?」

「男の人じゃないなら、女の人かなって。だから、野口さんかなって」

 

――ない、ない。

――あたしは、真っ赤になって否定する。

 

 別に女の人が好きだとか言われるのは良い。良くはないが、良い。

 

――でも、よりにもよって野口さんなんて!

――あたしより、野口さんに失礼。

――でも、でも、あたしの頭は想像してしまう。

――野口さんとの、その、あんなこと、とか。自分でやめようとしても、やめられない。

 

 どんどん顔は赤くなって、もう見ていられないくらい。湯気がでそうなくらい顔は赤くなる。

 

「あはは、るい、真っ赤」

 

 恥ずかしくて、恨めしいというように睨みつけて。それでも野枝には効かない。ただ、楽しそうに笑みを向けるだけ。

 

「ふふ、ごめんごめん。るいが可愛いからね、からかいたくなっちゃうの」

「もう」

「言うじゃない。好きな子ほど意地悪したくなるって。私、男も女もいけるから、るいも狙ってるんだよー」

「もう、冗談やめて」

「あはは、冗談じゃないのに」

 

――もう、もう

 

 彼女は、いつもそうやってからかう。

 いい加減慣れても良い頃なのに、慣れない。

 

――あたしが、特別そういうのに弱い、わけじゃないはず、うん。

――だけど、野枝にはかなわない。

 

「ふふ、さて、それじゃあ。そろそろ時間だし行きましょうか」

「あ、まって、裾踏んじゃう」

「もう、だから洋装にしたらって言ってるじゃない」

「だ、だって」

「るいってば細いんだからきっと似合うわよー。ほら、歩いた歩いた」

 

 今も、こんなふうに自分のペース。でも、嫌いじゃないから、それに時間だというのは本当。教授を待たせるわけには行かないから。

 野枝に手を引かれるように研究棟へと向う。

 




リメイク版2話。

主に地の文を増量。しかし、ここはまだあまり変更はありませんね。
次は、12時に投稿します。

では皆様、良き青空を。


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1-3

 帝立碩学院。

 英国の王立碩学院を模してつくられた碩学の卵たちが通う施設、その研究棟。帝国を代表する碩学たちが日夜研究に励んでいるという。

 

 英国の王立碩学院を模したこの学院に存在する碩学たちの塔と呼ばれる。高層複合建築技術によって建てられたこの建物はどこか箱のようにも見える。碩学が集まった箱。叡智の箱と人は呼ぶ。

 ここには、帝都、いいえ、この帝国において最も優れた頭脳を誇る碩学たちが集められている。ここにあるのは一流と最先端のものだけ。人も、機関も。

 

 碩学がより良い研究を行うことが出来る場所。それがここであり、碩学の卵たちが通い知識を学ぶ場所でもある。

 

――野枝と別れてあたしは一人、研究棟第三階、機関科学や機関医学専攻の研究室、野口さんの研究室に向かっていた。

 

 野口さんの研究室。酷く混沌とした部屋だと思う。ただ、ごみごみとした感じではなくて、いろんなものあが混ざっているような。そんな感じ。

 たとえば、油絵だとか、医学書だとか。他には囲碁だったり、将棋の板だったり。西洋のちぇす板もそう。いろいろ。

 

「いらっしゃい。待っていたわ」

 

――柔らかな声

――いつもとおなじ。

 

「今日も宜しくお願いしますー……」

 

 いつもと同じスーツ姿で野口さんはあたしを迎えてくれる。優しい人。権威だとかそういうのを振りかざさない人。さん付けを許してくれてる。

 

――でも、あんな想像をしたあとで、会うのは、うん、恥ずかしい。うん……。

――やっぱり、そんなのは駄目だと思う。女の人と、女の人だとか。うん、うん。やっぱり、駄目。

 

 でも、野口さんのたたずまいとか、そういう物語の貴公子のようで想像を止めることはできない。

 

――うぅ、駄目、駄目! 想像しちゃダメなのに。

 

 野枝から言われて、なおそうとしてるのに。止まってくれない。より酷くなる。ここ最近はずっとそう。何かあればすぐに思考の海へと沈んでしまう。

 知らないことをまるで知っているかのように。そこには様々なものが沈んでいる。それを掴み取ろうとしても、掴み取れるものではなくて。

 

 ただ、ずっと考え続ける。

 

「ふふ、相変わらずのようね」

 

 そっと、頬に手をそえられて、思考の海から引き戻されて、野口さんの顔目の前。

 

――うぅ、頭、沸騰しそう。

 

 間近で見て、本当に綺麗な人。女の目から見てもただ尊敬以外の感情が湧き出さない。

 

――可愛いとか、そんなのじゃなくて、本当に綺麗って言葉が似合う人だとあたしは思う。

 

「……すみ、ません……」

 

 綺麗な瞳に見つめられて、そう言うのが精一杯。きっと、野枝がいたらからかわれてる。今、研究室には野口さんと二人っきりだから、良いけれど、知られればきっと。

 

――野口さんに見つめられると、あたしはこんなふうにしどろもどろになってしまう。

 

 そうなると、やっぱり色々と考えてしまう。さっきの取り留めもない野枝との会話だとか。野口さんとの絡み、だとか。

 ダメだと思うに、やめられない。想像は、深まって。思考の海は広がって行く。倒錯的な、退廃的な。そんな想像をしてしまう。

 

――だから、あたしはもっと、赤くなってしまう。

 

「ふふ、良いのよ。貴女はそういう顔している時が一番可愛いから」

「か、かわ、かわ――うぅ」

 

――ほめ、褒められた。

――顔、熱くなる。

 

 たぶん、真っ赤。野枝の時よりもたぶん。ずっとずっと顔が赤い。それはどうしようもなくて。見られて、もっと顔が赤くなる。

 今にも唇が触れてしまいそうなくらい野口さんとの顔は近い。教授と生徒の距離ではない。ただでさえ彼女はそういうことを想像させるというのに。それなのに可愛いだとか言われたら頭が沸騰する。

 

 このまま、接吻してしまうのかもしれない。沸騰した頭でそんなことを考える。普通に考えればいけないことだと思うのに、沸騰した頭は全然働いてくれなくて。

 いいえ、働くのはいつもよりも数倍働いて、いけない方向に思考を誘う。

 

――駄目、駄目。

――気をしっかり持って、黒岩涙香。

 

 また野枝にからかわれる。そう思う。けれど、想像は止まることを知らない。顔はもっと、もっと赤くなって。沸騰したように湯気が立ち昇りそうなほど。

 想像は飛躍して、でもやっぱり初めては意中の人とっていう幻想もあって。でも野口さんならいいかも、だなんてそんなことをすら思ってしまって。

 

――駄目、駄目。

 

「ふふ、じゃあ、始めましょうか」

 

 不意に、野口さんが手を放す。冷たい右手の感触が離れて、それにひかれるように思考の海から引き上げられる。

 野口さんの顔は、悪戯が成功した、みたいな笑顔。

 

――助かった。

――これ以上、あんな体勢でいられたらと思うと。

 

 想像して、また赤くなって。野口さんにまた可愛い、って言われて。やっぱりまた赤くなる。それの繰り返し。でも、ずっとそうしていることはできない。

 これでも碩学の卵であり、野口さんからの講義もあれば、課題も多い。詰みあがった書類のいくつかを処理しなければならないのだ。

 

 だから、これ以上の戯れはない。これからは、碩学と生徒という関係。

 

「じゃあ、今日はそうね、この前の続きからやりましょうか」

「うぇひゃっぁ、は、はい……」

 

――ただ、やっぱりまだ顔は熱くて。

――あたしは顔を真っ赤にしたまま、課題を始める。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 日が暮れて、空、暗くなって。野口さんにからかわれながらも講義は終わって。研究棟の外で野枝を待っていると野枝の使いだという人に野枝は今日は一緒に帰れないという言伝を聞いた。

 

――うん、そういうこともある、よね。

 

 そういうこともある。研究室に配属された日から、何度もあった。そういう時は、たいてい野枝は使いを出してくれる。いつまでも待って、待ち続けないように。逆もそう。

 でも、たいていは野枝の方。野口さん、講義、速いから。実験の手伝いだとか、だけど、ついていくのがやっとなくらい、速い。

 

 実験機械(クラッキングマシーン)だとか、人は言う。研究室に配属される前はそう思ってた。あってみると、そうはまったく思えなくて。

 でもやっぱり、実験の速さだけは確かに機械じみていると思うけれど――。

 

――そんなことをいつものように考えていたから

――あたしは、背後からかけられた声に気が付かなくて

――ぽん、と肩におかれた手に、飛び上がるように驚いてしまって。

 

「うっひゃぁ!?」

「おっと!?」

 

 倒れそうになったところをふわり、と支えられる。

 大きな身体、大きな手、男の人の手。それに、あたしは、慌てる。ただでさえ、変な声を聞かれたせいではずかしいのに。

 

――だから、あたしは相手の顔を見る前に、頭を下げて、顔を隠して。

 

「ご、ごめんなさい」

 

 と謝ってしまった。

 

「あ、ああ、いや、すまない。こちらもいきなり女性の肩に手を置いてしまったんだ。謝るならこちらの方さ」

 

――そこで、あたしは気が付く。

――この人、知っている人。

――ええと、そう、何度か会ってる。

――野枝関係、確かそう、名前は

 

「大杉さん?」

「ああ、麗しの野枝に会いに来たんだが、君ひとりかい?」

「野枝は、遅れるそう、ですー……」

 

――大杉さん

――大杉栄。

 

 同じ碩学院の学生。先輩だったはず。野枝と同じで自由な人。いろんな噂を野枝から聞いてる。 学生同士の喧嘩でナイフで刺された、だとか。武道にかまけれあまり勉強してない、だとか。

 この国では珍しい人。新大陸にいるというプレイボーイだとか、そういう言葉が似合う人だって野枝が言っていたのを覚えてる。

 

 欧州に文化に傾倒しているのだとか。

 

――ああ、あとは、おと、男の人のことも、す、好きだ、とか。

――いけない、考えてしまった。

 

 考えてしまったらもう、止まらない。

 きっと、そう、これは野口さんのいたずらのせい。きっと、そうたぶん。女同士だとか、男同士だとか、そんなことを考えてしまう。

 

 だから、顔、熱くなって。また、また。目の前の大杉さんが、男の人とあられもないことになっているのを空想してしまう。

 それでいっそう顔赤くなって。

 

――額におかれたひんやりとした手の感触で、あたしは我に返った。

――大杉さんの顔、目の前にあって。

 

「え? にゃ、な、ひぇ?」

「顔が赤いが、大丈夫かい?」

 

 額、手、おかれてる。

 

――え? え?

 

「風邪かい? 季節の変わり目だ、体調を崩す子は多いと聞くけど、どうかな?」

 

――え? え?

 

――答えないあたしに、心配そうに顔を覗き込んでくる大杉さん。

――額に手は置いたままで、たぶん、体温を測ってるんだと、思う。

――でも、あたしはその事実をうまく認識できなくて。

――口から出るのは言葉にならない言葉だけで。何か答えようとするけれど、何も答えられなくて。

 

 ただぱくぱくと、するばかり。結局、

 

「よし、無理をさせるわけにはいかないから、僕が送って行こう」

 

 いつの間にか、送られる流れになって。さも自然な流れて、彼の腕に抱かれる。いわゆるお姫様抱っこだとか野枝が言っていた恰好。

 気が付いた時にはもう、遅くて。勝手に運ばれることになってしまっていた。どうしてそういう流れになったのかまったくわからない。

 

 野枝がいたらこんなことにはならなかっただろう。今は、野枝がいないから、こんなことになった。また、野枝に危ないと怒られてしまう。

 けれど、そんなことすら今は考えることはできなかった。ただただ今の状況のこと以外に考えることはできなくなってしまっていた。

 

――あたしは恥ずかしくて、顔をさらに真っ赤にして。

 

 幸い、遅い時間。通りを歩く人は少ない。けれど、いないわけじゃなくて。

 

――抱えられたあたしを何事か、とみてくるひとたくさん。

 

 それは心配もあるけれど、好奇の視線が大半で。帝都でもこんな格好で運ばれる女の子は珍しいから、皆が見てくる。

 

――なんで? なんで、彼はこんな中平然としていられるの?

――あたしなんて茹っちゃうくらいなのに。

 

 それなのに、彼には話をする余裕もあるみたいで、しきりに何かを話している。

 すごく軽いから、ちゃんと、食べているのか? だとか。気分はどうだとか、体調に関することとか。心配を言葉にしたものが聞こえる。

 

 とりあえず、うなずいておけば、次は博物王の進化論の原書を手に入れただとか。昔、汽車値上反対の市民大会に参加し、汽車焼き討ち事件で逮捕されてしまったことだとか。野枝に気に入られるために、いろんなことをやっているのだとか。

 そんな話に切り替わる。まるで、ラヂオのように途切れることなく喋っている。

 

――あたしは、それを聞いている余裕なんてなくて。

――とにかくうつむいて、顔を隠して、とにかくうなづくだけ。

――だって、仕方ない。

 

 男の人には、こんなことされるのなんて、初めての経験だから。野口さんにはしょっちゅうされるけど。男の人は、いろいろ違う。

 体格、だとか、力強さだったり。でも、一番違うのは匂い。どこか、男を感じさせる匂い。嗅いだことのない匂い。

 

――だめ、だめ!

 

 これ以上は、駄目。考えちゃダメ。駄目。

 でも、考えないなんてできなくて。頭のなかにそう言う空想が描き出されてしまう。事細かに、感じられた男の人のあれやこれやを加味して。

 

 そんなことははしたない。でも、止められない。悪い子だと良く言われるけれど、その通り。だって、こういう想像が止まらないのだ。

 これを野枝も野口さんも才能という。本当に? 野枝はまだしも、野口さんの言葉を疑うわけではないけれど。こんなものが本当に才能だとは思えない。

 

 助けてくれた男の人に対して、空想を働かせるなど失礼極まりない。それが無意識的なものにしても。これは酷いと思う。

 

「よし、着いた。降ろすよ?」

 

――助かった。

 

 それでもなんとか手遅れになる前に、家についた。

 

「あ、ありがとう、ごひゃいます」

 

 噛んだ。でも、そんなことを気にする余裕、なくて。

 

「いいよ、ゆっくり休むといい」

「は、はい」

 

 そういって、

 

――彼は自然にあたしの手をとって、そこに口づけする。

 

「それじゃあ」

 

 彼は帰っていく。

 いったい何をされたのか、まったくわからなくて、ぼーっと、下宿先の大家さんにも気が付かないで、部屋に行って。そうやって、何をされたか気が付いたのは、部屋に入ってから。

 西洋風の寝台に思わず飛び乗って、足をばたばた。

 

――ばたばた、ばたばた。

 

――落ち着くまでずっと、あたしは、そうしていた。

 





旧版の3話、4話あたりを結合しました。
別に混ぜても問題のないエピソードだったので一つにしました。

これも地の文を増量してます。

次は、〇時にでも。

では、良く青空を。


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1-4

 時間は過ぎて、日は落ちて。すっかり窓の外を暗闇のベールがおちた夜。部屋はひんやりと冷えていて、息は白いかたちとなる。

 今までばたばたやってたから、何もしてなかった。けど、やっぱりこのままでは寒い。特に機関(エンジン)がこの島国を覆ってからは特に。変わらないと人は言うけれど、やっぱり寒さは感じる。

 

 だから、野枝にいつもはしたないって言われるけれど、シーツを引きずりながら壁に備え付けられた温熱機関の起動キイを回す。

 ごうんごうん、という小さくて低い音が響く。部屋に割り当てられた温熱機関の音が響く。温風に手をかざす。温かい風が掌に当たる。

 

 一昔前は暖炉だとか、そういうのが多かったらしい。もっと前は囲炉裏だった。こんなふうに寝台なんてなくて、まだこの国が閉じていた頃の話。

 人伝えにしか聞いたことのない話。歴史の話。ただ、そんな生活に少しは憧れたりする。今では全部が全部機関機械(エンジンマシン)が当たり前。

 

 誰も彼もが忙しなく歩き回るのが普通。少し速い。いいえ、少しではないかもしれない。だから、ゆっくりとしていたらしい生活は少しだけ憧れる。

 でも、不便なのはちょっとけっこう困るかもしれない。困る。だって、今はとても便利だから。

 

――昔よりも遥かに便利になった。

――昔を知らないあたしでもそう思う。とても便利。

 

 特に、公園でゲイトボウルに興じるお年寄りたちは昔を思い出して口々にそう言う。ことあるごとに。

 便利なのは良い。少しの労力で色々とできるから。その分、好きなことができるようになる。だから、便利なのは良いことかもしれない。

 

――でも、暖房機関よりはあたしは、暖炉の方が好き。

 

 手入れは大変だし手間もかかるけど、そっちの方が温かい。ぱりちぱりちという薪が燃える音はひとりきりの寒さを和らげてくれるから。

 でも、いつも温熱機関ばかり。暖炉がないというのもあるけれど、やっぱり手入れが大変だから。なにより野枝が許してくれない。そんな時間、ないでしょ、って。

 

 うん、確かにもっと時間があればいいなって思う。野枝に言われた通り、癖直さなきゃとも。

 野枝。そういえば、いつまで経っても野枝からは連絡が来ない。遅れた時は、講義が終わればいつも電信通信機(エンジン・フォン)に連絡が来るはずだけど、今日は来ない。

 

「こういう日も、ある、よね」

 

――野枝は、あたしと違って友達、多いから。うん、うん。

 

 少しだけその事実に悲しくなる。友達はいるはずだった。たぶん、おそらく。きっと野枝が多すぎるのだと思うことにして。

 

「課題やろ」

 

 だから、野口さんに出された課題をやることにする。

 今日やった機関医学実験結果に関する考察課題。野口さん、実験速いから一杯。レポートは得意だけど、考察課題はちょっと苦手だった。

 

 考えたこと全部書いてたら終わらなくなるから。野枝に言ったら苦笑された。他の人にいったら少しだけ怒られて嫉妬された。

 それも野枝にいったら笑われた。今もその理由は教えてくれない。

 

 教えてって言っても教えてくれない。いつも、わかるでしょって、言って。教えてくれないからむくれて、子供みたいに膨れる頬をつんって突いて、頭を撫でて。

 

――子ども扱い。

――でも、あまり嫌じゃなくて。もっとやってほしいかもって。お母様を思い出すから。もっと、って思う。

――帝都に一人で出てきて良く、そう思うようになってしまった。

――あ、いけない、いけない。

 

 課題やらないと終わらない。夜は弱いからねないと朝起きれない。それで一度、野枝に怒られたこともあるから早めに寝るようにしてる。あの時の野枝、本当に怖かったから。

 怖いと言えば、平井君が言ってた噂。怖い奴。野枝はそういう話をしない。子供みたいに怖がると思ってる。結構好きなのに。

 

 だから、平井君がそういう噂の話し相手。

 

――平井君、平井太郎君。

――近所に住んでいる悪戯好きの男の子。

 

――良くあたしの袴だとか、洋服の時のスカートを捲ってくる。やめてって言っても。

 

 そういう時は野枝がなんとかしてくれる。あの時の野枝も怖い。とっても。だから、あまり平井君に対して怒ったことがない。

 でも、良い話し相手だから、それでいいのかもと思う。きっと野枝に言ったら怒られるんだろうけど、気を使わずに話せる相手だから。

 

 平井君はいろんなこと知ってる。いろんなところに顔を出してるから。なんでも、世界有数の頭脳を持つとされ、特に植物学・化学・地質学に長ける彼の真似事をしてるのだとか。

 少年探偵団と彼は言っている。少年たちのグループ。裏路地や空き地に集まって、大人たちの話を盗み聞きして色々な噂を集めているのだと平井君は言う。将来は彼のようになるのだと言って憚らない。

 

 彼。英国の探偵王、シャーロック・ホームズ氏。彼のような名探偵を目指すのだと彼は言う。確かに、ホームズ氏の伝記を読む限り、そうなっても仕方がない。

 彼の武勇伝は新聞や伝奇小説で幅広く取り上げられて、英国はおろか西欧諸国全土、果ては異郷カダスの北央帝国、この大日本帝国にまでその偉大な功績は知れ渡り、北央皇帝からは《知り得るもの》の大称号を贈られているという。

 

 子供たちの憧れ。そういう自分も結構憧れてる。彼の助手であるワトソンさんが書いてる本は全部読んでるし、新しいものは直ぐに翻訳する。

 読みたいな、って言えば野口さんがわざわざ取り寄せてくれて。原文だったから翻訳は必要だけれど、そういう約束。間違ってると野口さんからきつい御仕置き。痛いのではなくて、逆に気持ちが良いような奴。恥ずかしい奴。

 

――嫌じゃない、けれど恥ずかしい。

――ああ野口さんとと言えば帝都の暗がりに潜む異形の噂もある。

 

 天皇陛下の御標に背いた者がなるという噂。都市伝説。平井君、野口さんも眉唾だけど面白いって、言ってた噂。

 

――帝都の暗がりには異形が出る。

――精神を犯され伽藍となって肉体すら御伽噺の怪物めいた異形になる。

――異形は人を殺すだとか。そんな噂。

 

 野口さんの左手の手袋の下がそうだと言う人もいる。とある三流雑誌がそういう風に書いたこともある。

 この国を代表する碩学がそんなことあるはずないのに。そもそも異形だなんて、偉大なる天皇陛下の国で現れるはずないのに。

 

 けど、野口さんはそれらを否定しない。ただ、笑うだけ。そして、いつの間にか全て解決しちゃってる。

 きっと野口さんが何かしたの。誰にも迷惑をかけないように。凄い人。本当に。憧れの人。

 

――あ、いけない、いけない。

 

 また、また悪い癖。野枝に怒られる。さっきも、今も。

 講義中もそうなってることある。野枝には、たぶん気づかれてないはず。何かしながら別の事するの得意だから。板書してるし、それを野枝に写させてあげたこともあるから、バレてないはず。ない、よね。

 

 うん、何かしながら別の事するのは得意。この左目が変わってからは特に。でも、考えながら考えることできないから、課題進まない。

 

「るいちゃーん、るいちゃーん! お風呂入っちゃってー!」

「……あ、は、はーい!」

 

 気を取り直して課題に向かおうとしたら、大家さんの声。お風呂、沸いたって。

 

「うん、お風呂はいろ」

 

 部屋を出て、階段を下りて、突き当りにある扉を開ける。そこが脱衣所。そこで服脱いで、鏡の前に立ってみたり。

 傷のない綺麗な肌。誰にも見せたことはない。野口さん以外。同棲だから、数に入らないと思う。ただ、誰もいないけど、恥ずかしい。

 

「早く、はいろっかな」

 

 染みついた煤を落とすように、石鹸で身体を洗う。気持ち良い。やっぱり。お風呂は良いと。茹るからあまり長く入れないのだけが残念。

 お湯に浸かれば、

 

「……ふぅ」

 

 無意識に息を吐く。気持がいいから。手足を伸ばせるほど大きなお風呂。もう一人くらいなら大丈夫。休みの日なんかは野枝と一緒に入ってる。

 

――体中から疲れやらあれやこれやが抜ける。

――すごく、気持が良い。

 

 大日本帝国人としては入浴はやっぱり欠かせない。毎日こんなお風呂に肩までつかるのはこの国の人だけだといつか誰かが言っていた気がする。

 でも、やっぱりお風呂は良い。空気が淀んでいるということもあるかもしれないけれど、お風呂は国の文化だから。

 

 わざわざ浄水機関まで使って大量の清水を確保してお風呂を沸かして入る。

 

「ええと、今日は、これかな」

 

 お湯につかりながら本を取り出す。防水加工された機関製のちょっと高い本。実はちょっとどころではなくすっごく高い本。

 

――研究室に配属記念に野口さんからもらったもの。

――ぽんと渡されたから安いのかなと思ったら。

――すっごく高い本。

 

 それに気が付いた時のあたしはすっごく慌てて、とにかく返そうと走って行ったらすっごく笑われた。結局返せず今も持っている。

 言語はカダス語。いつも使ってる言語と近いから読みやすい。口語会話も一週間ほどで修了した。読み書きの方も今では自由自在。

 

 そんな風でも、今日の本はちょっと難解に思えた。カダス古語の本。野口さんにもらった一冊。読み込んでいくと読める。古語のお話は面白くて素敵なお話が多い。

 古語じゃなくてもいろんな本を野口さんはくれる。高いから、本当はやめてほしいけれど、いいえ、実際はやめてほしくはない。高いのは怖いけれど。

 

――だって、素敵な物語が多いから。

 

 飛空挺を駆る少女2人組の物語だとか。青空と星空の下に在る砂漠都市の物語だとか。大英帝国の暗がりを走る少女の物語だとか。

 そういうの。怖い話もある。けれど、ここにはない何かがあるから。

 

 今日のお話は、外国のお話。どこかの洋上にあるという学園都市を救う正義の味方(せかいのてき)の話。いつかどこかで見た輝きの話。

 

「ん……あがろ、っかな」

 

 半分まで読み進めて、ちょっとくらっと来たから、そろそろ上がる。寝巻の浴衣に着替えて部屋に戻る。

 

「ふう、課題、がんばろ」

 

 気合いを入れて、課題へと取りかかる。

 終わったのはだいぶ夜も更けた頃だった。やっぱり野枝から連絡は一度もなかった。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

――暗い。

――暗い。

――暗い。

 

 ここは暗すぎるほどに、暗かった。こんなにも暗かっただろうか。そう途切れがちな思考でそう思う。もはや、何を考えているのかすらわからなかったけれど、成功に向かって進んでいると祈り続ける。

 大切なあの子の為に、進んでいるのだとそう思い続ける。

 

 確認の意味を込めて、それを目の前の男に問うが、

 

「知るかよ。この俺が、お前如きの矮小な目的など知ったことか。良いから役に立てよ。貴様にできることなどそれくらいだろうが」

 

 返ってくるのは罵倒ばかり。ただ、付き合ってみてわかることもあるという感じに、この男の事がだいぶわかってきていた。

 だから、わかる。

 

――少しは、前に進んでいる。

 

 役立たずには愚図という言葉を彼は投げかける。あるいは塵だとか、塵屑だとか。そんな言葉を彼は投げかける。

 だからこそ、その言葉がない以上、自分は役に立っているのだと、そう薄れた意識の中で感じ取った。

 

「何を笑っている。気色が悪いぞ、気でも触れたか」

 

――いいえ、いいえ。

 

 そう否定する。けれど、笑みを隠そうとは思わない。

 

「ふん、続けるぞ。貴様が望んだことだ」

 

――はい。

 

 そう返事をすれば、再び、意識が沈み込む。また目覚められる保証はないけれど、きっと、そう、きっと、これがあの子の為になると信じて――。

 




リメイク版ではなかった、誰かの会話を追加。

次回は12時に更新します。

では、良く青空を。


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1-5

――気が付くと、あたしは、暗い街にいた。

 

 帝都のようで、そこは見知らぬ場所のようにも思えた。色鮮やかな帝都が黒に染まっていたから。どこまでも続く、黒。黒、黒。

 暗く、黒く、それでいて、どこか世界は白んでいるようにも見える。白と黒(モノトーン)。まるで世界から色が失われてしまったかのように思える。

 

「ここ、は」

 

――あたしには、この場所がわからない。

 

 昨晩の記憶はある。課題をやって、眠ったはずだった。まさか夢遊病というわけではないだろうと、思う。自信はなかったが、そういうことは今までになかったので、これが初めて。

 

――本当に?

――本当に、初めて?

 

 自信がない。これが初めてではないような、そんな気がしていた。どこか、心の奥で。あるいは、頭の奥で。思考の海の底で。

 どこかで、これと同じものを見たことがあると感じる。いいえ、実際は、そんなことなどないのかもしれないけれど。

 

 そんな風に、超過した空想として処理しきれない現実について考えを巡らせる。悪い癖。でも、怖がらなくていいのであれば、これもまた良いことではあった。

 ただし、

 

――何もいなければ。

 

『GRAAAAA――――』

 

 聞こえた声。それは、唸り声のよう。

 

――獣?

――ううん、違う。

 

 直感的に、そう感じた。獣ではない。帝都にいる獣なんて、猫だとか犬だとかそういったものくらいだから。田舎であれば熊かもしれないけれど、ここは帝都だからそんな獣がいるはずなくて。

 だから、獣じゃない。

 

――だったら、何?

――あたしは、振り返ってしまう。

 

 まるで、そうすることが正しいというように。身体が勝手に動いて。

 

「ひっ――」

 

――それを、見てしまう。

 

 血のように赤い、紅く染まった瞳を。翼の生えた異形がそこにいた。黒くて、白くて。おそろしいものが、そこにいた。

 呼吸が、止まる。恐怖で。息を吸っても、吐いても、空気が肺に入って行かない。苦しさを感じる。息をするという生物が普遍的に行う呼吸が止まって、苦しくない生き物はいない。

 

 視界が、歪む。我知らず喘いで、強烈な眩暈が涙香を襲う。呼吸困難。眩暈。それでも、思考は勝手に、意志に反して、肉体に反して、回転を続ける。

 思考の歯車が回る。回る、回る、回る。回る、回る。回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る。

 

 苦しいと感じる間もなく、考え続ける。

 

――あれは、なに?

 

 ひび割れた、顔をした。白と黒の何か。異形。頭に浮かぶ言葉。左目がそれを事実だと認めてくれる。左目が教えてくれる。

 黄金に染まった左目が、教えてくれる。あれは、異形なのだと。異形。

 

――あたしは、考える。

――意思に反して。肉体に反して。

――考え続ける。

 

 足は動かない。許容量を超えた思考に、身体は動かない。

 暗がりに浮かび上がる、暗闇に浮かぶ赤い瞳が、近づいてくる。何かが砕ける音がして、破片が、地面に伝う。それは、目の前の存在から剥がれ落ちるものだった。

 

 数えきれないほどのひび割れが、世界にすら広がって行く。世界がひび割れる。

 

――ほつれ

 

 左目がそう教えてくれる。世界のほつれ。記された、運命に従わなかった結果生じる、世界のほつれ。怪物から、異形から生じたそれは、広がって、広がって、広がって。

 世界を呑み込んでいく。

 

 まるで御伽噺のよう。この世ならざる存在。空想の中にしかないもの。

 

『あ、ナ、タ……を、い、……』

 

 その時、異形が何かを喋った。言葉を話した。掠れた声で。まるで、ラジオのノイズのような音を響かせる。それが耳に届く。

 

「あ――」

 

 たったそれだけで、思考の回転が砕かれる。現実離れした認識が現実の色を帯びる。

 

――あたしは、それを鮮明に感じてしまった。

 

――恐怖。

 

 涙が自然とあふれ出る。悲鳴は出ない。呼吸の止まった喉からは、引きつった声がでるだけで、悲鳴なんて、言葉なんて、何も出てはくれない。

 誰か。誰か、誰か。

 

――野枝

 

 必死に、心の中で叫びをあげる。友人に、

 

――野口さん

 

 尊敬すべき恩師に。

 

――あたしは、助けを求める。

 

 けれど、けれど、助けなんて来るはずがなくて。ただ、異形の怪物が目の前で妖しく光る瞳を向けてくる。ただそれだけで、心臓が止まりそうになる。

 何、何。何が起きているの。わけがわからない。意味がわからない。理解ができない。一度、砕かれた思考は、そうもとには戻らない。

 

 いいえ、戻らないようにされているのかもしれない。恐怖に思考は勝らない。恐怖の濁流にのまれて、涙香は思考の海に沈むことが出来ない。

 沈む思考は、苦しさにかき乱されて、それでも意識ははっきりとしていて。混濁する意識と、歪み視界がありとあらゆる全てを呑み込んで。

 

「逃げなさい」

 

 潰れそうになるその刹那。怪物が、漆黒に染まった異形の腕を伸ばしたその時に、声が響いた。

 

――凛とした鋭い声。

――どこかで聞いたような。

 

「――っ!!」

 

 喉を空気が通る。弾かれるように、身体が跳ねて、酸素が脳に回る。

 

「逃げなさい」

 

 声に従うように、涙香は、走っていた。

 

「逃げなさい」

 

 身体は辛うじて動いた。声に従って涙香は逃げる。袴の裾を掴んで、こけないように。和服は酷く走りにくい。脱いでしまおうかとも思う。けれど、そんな暇なんてない。

 振り返れば、背後を異形が追って来ていたから。だから、走る。恐怖に駆られて、走る。恐怖から、逃げるように。

 

 気が付けば、怪物がわかれていた。羽根が散って、それが異形となる。それからも、涙香は逃げる。

 

――走って、走って、走り続けて。

 

 編み上げたブーツは脱げることはなく。足を支えてくれている。

 

――どれだけ走ったの。

――どれだけ逃げればいいの。

 

 聞こえた声はもう聞こえなくて。追ってくる気配は、増え続けていて。時間がたつごとに、逃げ道を塞がれていくような感覚を感じ取る。

 追い込まれている。そんな感覚。事実、それは正解で、いつの間にか暗い路地で、行き止まりに追い込まれていた。

 

 それと同時に、限界も訪れて。

 

「はっ、はあっ、はっ……はぁっ……」

 

 いつの間にか、身体中に傷が走っていて。和服の裾も袖もボロボロで、ところどころ破けていて。お気に入りのブーツには、穴すら開いているようだった。

 

――寒い。

 

 寒い、寒い。身体から血が流れ過ぎたせい。きっと、恐怖もある。寒さで身体が震える。恐怖で身体が震える。動くことは出来なくて、石の壁に背をついて、ただ空気を求めて喘ぐことしかできない。

 思考する気力すらなくて。もう、身体は石のように重くて。指先すらも動いてはくれない。

 

 目の前に怪物がいる。ひび割れて、破片を撒き散らしながら、大きな翼を広げて、ゆっくりと近づいてきている。

 きっと殺される。その大きな爪で。

 

――そして、どうなるの。

 

 死ぬ。そう思った。

 

「い、や……」

 

 死にたくない。まだ、何もしていない。何も。まだ、始まってもいない。終わりまで、進んでもいないというのに。

 

――思考が溢れ出す。

――自分でも何を考えているのかわからない。

――けれど、一つだけわかることがあった。

 

 死にたくない。こんなところで、怪物に殺されるのなんてまっぴら。

 

「いや、あなたに殺されるのなんて、絶対に。諦めない。あたしには、やるべきことがあるの!」

 

――無意識に言葉が口をついた。

 

 それが何を意味するのかも、わからないくせに。けれど、まるでそれが合図であったかのように、誰かが、目の前に。

 

「そう。……そう。あなたは、まだ、諦めないのね。忘れても。覚えていなくても。知らなくても。あなたは」

 

 誰かが目の前に現れる。空間を引き裂いて。誰かが目の前に現れる。それは女の人。掠れた視界で、歪んだ意識では、それが誰だかわからない。

 けれど、確かなことがある。その左手は、異形だった。漆黒の腕。爪先は鋭く獣のようにとがっていて。堅い甲殻に覆われているかのように輝いている。

 

『GRAAAA――』

「まだよ。まだ、彼が来ていないわ。だから、ここは退きなさい」

 

 女の人が左腕を振るう。ただそれだけで世界が引き裂ける。その爪は世界を引き裂く。そのたびに、女の人の何かが軋んでいるのを左目が捉える。

 けれど、それを理解することができない。碩学ならぬ身では。神ならぬ身では。

 

 そもそも、限界を迎えた涙香に目の前の状況を吟味し精査し、判断を下すことなどできるはずもなく。できることはただ見ていることだけだった。

 誰かわからない人が、異形を引き裂くのを。世界を引き裂いて、全ての異形ごと粉砕するのを見ることしか出来なかった。

 

 そして、全ての異形が砕かれて。同時に涙香の意識も、闇に、沈む――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 そこには何もなかった。暗がり。暗闇。いいや、機関(エンジン)しかない。何かの生き物の消化器官の中だと言われても信じられるようなそんな気がするような暗がりにはただ機関だけがあった。

 蒸気を噴き出しながら機関の駆動する音。歯車が回り、シリンダーが稼働しピストンが奏でる重く低い音が響いている。

 

 そこにあるのは巨大な複合機関(ハイエンドエンジン)だ。壁一面歯車の巨大機関。ただ見ただけでは何に使うものなのかすら見当がつかない。

 おそらくは機関数秘(エンジンカバラ)を修めた高名な碩学が設計したのだろう無駄のない機関がそこで駆動していた。

 

『始まる』

 

 止まっていた機関が駆動を再開する。それは、ここにある機関の中ではごく一部であったが、それはもっとも重要なものでもあった。

 止まっていた歯車が回転を始めて、連動して全ての機関が駆動を変える。新たな機能が、存在していた機能を食いつぶして、本来の機能を取り戻す。

 

『さあ、始めましょう』

 

 再開を祝して。あるいは届かぬものを嘲笑して。いいや、違う。何も、何もない。響く声には感情などなく、あるのはただ言葉だけ。

 御伽噺を語る紙芝居屋のように、ただ淡々と、どこか心を込めるだけ込めて、声は、再開を祝すのだ。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「…………」

 

 男は黙っていた。

 

「…………」

 

 男は黙っていた。

 

「…………」

 

 全てを知るがゆえに、男はただ黙っていた。

 

 男は鉄道王と呼ばれる碩学であった。彼について知らぬ者はいない。鉄道を開発した男の名をこの機関文明が栄華を欲しいがままにしている黄金の時代において東洋においても西洋においても知らぬ者などいない。

 だが、同時に彼については何も知られていない。どこから来たのか。どこへ行くのか。少なくとも彼が初めて現れた倫敦での鉄道発明以前の彼について知るものは誰もない。

 

 そう誰も。ただ一人、同郷の者を除いて。

 

「久しいな、と言っておこうか。私は全てを知っているゆえに、君にとっては久しくとも、私には久しくはないのだが、ここはただ久しいな、と言っておこう」

 

 彼は誰かへと語りかける。それはただ一人、男について知る者へと。チク・タク。チク・タク。と音を奏でる者へと静かに語りかけるのだ。

 対する何者かはただ、チク・タクと音を奏でる。

 

「なるほど。そういうこともあるだろうが、それはお前の考えることではない。ゆえに、邪魔などさせはしないし、お前の好きにさせる気もない。あの子が望むのであれば、私は、お前すらも砕こう」

 

 対する何者かは、ただ、チク・タクと音を奏でる。

 

「…………」

 

 男もまた再び、沈黙した。

 




新作エピソードでした。

次は〇時に。

では、また。良き青空を。


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1-6

「るーいーちゃーん、あーさ、ですよー!」

「……ぇ……?」

 

――声。

――あたしを起こそうとする声。

――伸ばし気味に子供に言い聞かせるような明るくて優しげな声。

 

 朝の明るさが英国製の寝台に降り注ぐ。いつもと同じ。けれど、ちょっと違って。

 

「寝坊助さーん? 起きなさいな。大杉君から活動写真(※映画のこと)の券をもらったの。ちょうどペアだったから二人で行きましょ」

 

――活動写真? 券? 何の、ことなんだろう。

 

 そんなことを考えて。昨晩、何かあったような気がしたことを思い出す。けれど、特に何も記憶の底から掘り返すことはできなかった。

 そもそも、何かを忘れていることすら、覚えていない。ゆえに、何かあったのか、なかったのかと言われれば、なかったのだろうという結論に達する。

 

 それよりも気になるのはこの声だった。

 

「ほーらー、起きなさいなー」

 

 でも、昨日は遅くまで課題やっていたから、眠い。

 

「もぅ、ちょぉっとぉ」

「む、まーた、夜遅くまで起きてたなー。もう、仕方ないわねー」

 

 えい、という掛け声とともに、毛布がはぎ取られる。寒い。帝都の朝は冷え込むから、毛布なしじゃ寝てられない。

 返してと彷徨う手も無情にもぺちんと叩かれる。だから、精一杯丸くなって。でも、寒さからは逃れられなくて。

 

「こら、もう起きてるでしょう?」

「うぅ」

 

 観念して起きよう。

 

――うん、本当は起きてるから。だって、夜は弱くても、朝には強いから。

――いつも決まった時間には起きている。でも、二度寝って素晴らしいから。

――うん、つい寝ちゃうのも仕方ない、よね。

――うん、仕方ない。仕方ない。

 

 人はそれを寝坊って言うのよ、寝坊助さんって、何回野枝に言われたかな。十回。それじゃ足りないわ。そんなにしていないと思うのだけれど。

 数十回。これも少ない。数百回。これくらいが妥当。だって、毎日言われているもの。一年言われれば三百回以上は言われるから。

 

 でも、寝坊助さんって何度も、何度も。故郷の母様を思い出すから、つい何度も寝坊してしまう。

 お母様みたいな野枝が悪い。

 

――うん、うん、起きよう。野枝のせいにしちゃ駄目。起きないと。うん。うん。

――あれ?

 

「野枝ぇ?」

「おはよう、寝坊助さん」

「おはよー……――」

 

 野枝。いつもと同じ。おかしなところはない。

 

 

――ないよね。うん、ない。ないと思う。

――連絡がなかったのも夜遅かったから、かな。

 

 野枝は優しいから。夜遅い時は連絡してこない。夜弱いから。すぐに寝ちゃうから。

 

――でも、良かった。野枝が無事で安心した。何かあったんじゃないかって心配していたから。

――こうやって元気な姿が見れてあたしは嬉しさを感じる。

 

 それにしても、活動写真。初めて見る。英国から伝わってきたものの一つ。動く写真が見れる。まだ、富裕層しか見れないくらい高いのに大杉さんは凄い。

 

――あたしじゃ、何年働いてもきっと無理。

――うん、たぶん。実際のどれくらいで見れるのかわからないけど。いくらかな。

 

――ペアの券って言ってたよね。だから、二倍?

――い、いいのかな。いいよね、もらったって言ってたから。

――うん、よし。よし! どんなの見ようかな。確か、この前雑誌に載ってたのがあったような。なんだっけ。

 

「るいちゃーん」

「いたい」

 

 ぺしり、と叩かれる。わかってる。

 

「まだ、眠いのかなー?」

 

 ぐにぃーと頬が引っ張られて半眼で。

 

「いひゃい」

「もう。ほら、着替えて。出かけましょう。それとも着替えさせて欲しいのかな? 私はそれでも良いのよ? それとも、それ以上がしたい?」

 

――それ以上、えっと、つまりはそういうこと?

 

 退廃的な想像が駆け巡る。そういう話が流行っているし、読んでいるから。

 やめたいのにやめられない。想像の中では野枝と二人してそういう行為をしている。

 

 否応なく顔は赤くなる。でも、それを止められない。案外、まんざらじゃないかな、とか思っちゃったりして。

 果てには野口さんまで出てきて。

 

「ふふ、冗談よ。冗談。あれあれ~? 顔が真っ赤ですよるいちゃ~ん。何を想像したのかな~?」

「うぅ」

 

 野枝の一言でなんとか現実に戻ってくる。でも、顔は真っ赤で。もう枕に顔を埋めてしまいたいくらい。

 でも、それは野枝が許してくれなくて。

 

「ふふ、ほら、早く。あんまり遅いと本当に着替えさせちゃうわよ?」

「そ、それは良い。自分で、出来る」

「とか、言って、この前、裏表逆に着てたのはどこの誰かな?」

「うぅ」

 

――うぅ、それは、仕方ないのに。急いでただけだから。今は、大丈夫。うん、きっと、たぶん。おそらく。

 

 と、不意に、ぽーん、という音が聞こえた。

 

――活動写真を見ることがあなたに鍵をもたらすだろう

――めでたしめでたし

 

 そして、声。男の人のような、あるいは女の人のような。子供のような、あるいは大人のような。老人のようにも聞こえる。そんな声。

 たぶん御標。しっかりと、耳にそれは届いて。

 

「るい?」

 

 野枝には聞こえていない。だから、やっぱりそれは御標。この左眼が猫を思わせる黄金色になってから聞こえるようになった声。

 天皇陛下が人々を幸せにするために教えてくださる声。神託とも言うかも。

 

 普通は語り部という人たちだけが聞ける特別な声。

 

――あたしは、語り部じゃないのに聞こえる。どういうわけか。

 

 天皇陛下のお声を直接聞けるなんてとても名誉なことだけど、どこかこの声を聞きたくないと思ってしまう。

 なんだか、泣き声のようにも聞こえるから。でも、そんなことは誰にもいえない。それに御標は良いことばかりだから。

 

 従っていれば皆幸せになれるから。でも、どうしても悲しくなってしまう。この左目が涙を流すことさえある。

 今日は大丈夫。自分に関わることだから。大丈夫。流れてない。野枝に心配はさせられないから。

 

「るいちゃーん? 大丈夫? 具合悪いの?」

「え、あ、うん、大丈夫」

「何か? あった?」

「うん、御標。活動写真を見に行ったら、良いみたい」

「そっか、ならちょうどいいね」

 

 野枝は深くは聞いてこない。きっと、これからも聞いてこないと思う。聞いてほしくないことやしてほしくないことはしないから。

 ふざけることはあっても、本気じゃない。

 

「うん」

 

 でも、鍵ってなんだろう。いいえ、考えるのはあと。まずは、着替えないと。また野枝を待たせるのは悪いから。

 そのあと、急いで着替える。今日は洋装にしなさいと言われたから襟付きのワンピース。野枝にもらった服を着る。それに帽子を被って。

 

 また裏表逆に着ちゃって野枝に駄目出しをもらって、煤避けの朱い傘をさして劇場へと向かった。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 帝都中央。

 富裕層の人の家や軍属の建物が多い地区にその劇場はあった。ぽつりと、何かから隠れるようにけれど、表通りに大きく出るように、その存在を主張している。

 この辺りに来ると軍服の人が多い。帝国軍人さん。陸軍の人。あまり、その方面に詳しくないからよくわからないけれど、厳格な人が多いと聞く。

 

――そんな彼らの、女二人で歩くあたしたちに対する視線はきついものが混じっている。

 

 それも仕方のないこと。近々英国から伝わったエイダ主義による女性の社会進出もあって女性の参政権が認められるという。

 男の人が前に立つことが当たり前だった帝国にとってそれは大きな変化。でも、全ての人がそれについていっているといえばそうでもない。

 

 男は強くなければならない。弱い男など男ではない。女は男をたてて、後ろに控えていればいい。

 まだまだ、そういうことを言う人は多い。特に、軍人さんはそう。

 

 特に、野枝みたいな子には特に。男よりも強い女なんて、認められないから。でも、そうでなくても良いと思う。

 男の人も女の人も。強くていいと思う。弱ければ、誰かに守ってもらえるだなんて、そんな虫のよい話をしていられるのは子供の時だけだから。

 

――野枝は、どうなのだろう。

――野枝はあたしと違って強いから。

――きっと、こんなこと気にしたりしないのかもしれない。

 

――ほら、今も、堂々と歩いてる。

――俯いて顔を傘で隠すようにしか歩けないあたしと違って。

 

 それが悪かった。前は見ていないと、考え事しながら歩けるとは言っても、見えていないものは避けれないから。

 

「あ――きゃっ」

「おっと」

 

――誰かに、ぶつかってしまう。

 

 大きな人。ぶつかった感触は男の人。まずい、と思った。ここで男の人って言ったら、想像するのは軍人さんで。殴られても文句は言えない。

 あたしは前に立っている人を直視できない。俯いて、座り込んだまま、ただ殴られるのを待つ。

 

 けれど、想像した痛みはない。殴るならもっと早くしてほしいと思った。周りの視線が感じられるから。

 けれど、その時に、あたしの目の前に手袋に入った大きな手が差し出される。

 その人は、流暢な英国の言葉で何かを言いかけて、すぐに帝国の言葉で、

 

「申し訳ない、レディ。ほら、掴まっていつまでもレディが座り込んでいるんじゃない」

 

 そう言った。

 そこで初めて、顔をあげた。目に映ったのは想像とは違う男の人だった。

 

――コートを来た大きな人。

――六尺八寸(ニメートル)ほどはある大きな人

――灰色のような銀髪の紳士帽子(シルクハット)に杖の如何にもな英国の人。

 

 軍人さんでないことにまずは安堵する。誰だって殴られたくはないから。外国の人で良かった。でも、ぶつかってしまったのは悪いと思うから、あとで謝ろう。

 それにしても、外国の人は珍しい。帝都の中央に来ることが出来る外国の人なんて、大抵が偉い碩学様ばかり。技術的に遅れている帝国に技術を教えに来てくれる碩学の方ばかり。

 

 だから、この人もきっと偉い碩学の先生に違いない。何の碩学様なのだろう。そう言えば野口さんが近々帝国に鉄道網をつくるための碩学様が来ると言っていた。

 

 なら、この人があの蒸気機関車を創りあげた十碩学にも並ぶと言われている碩学――鉄道王なのだろう。名前は、なんだったか。

 あまり思い出せない。鉄道機関学は分野が違うから、あまり覚えていない。有名な人だから思い出せると思ったけれど。

 

 なぜか、思い出せない。だから考え込んでしまった。

 

「そこまでものを考えられるレディは、なかなかの才能をお持ちのようだ。それに綺麗な瞳をしている」

「え、あ、すみま、せん」

 

――あれ?

――考えごとしてたのに、彼の声とても良く耳に入ってくる。

――というか、双眸が目の前にあって。

 

 彼があたしの顔を覗き込んでいるということで。彼の眼にあたしが映り込む。左右で違う瞳の色をしたあたしが。

 恥ずかしいと思う前に気になった。彼の視線。あたしを見ていない? いつもなら恥ずかしいと思うくらい近くに男の人がいるのに。

 

 彼は何を見ているの? あたしの顔、じゃない。あたしの黄金色の瞳を見てる?

 色の違う左目を見てくる人は多い。特に男の人は不躾なそういう視線を向けてくる。だけど、彼の視線は違う。

 

――好奇? いいえ、違う。

――もっと別の、何か。

――期待、だろうか。

 

 うん、しっくりきた。期待。そうそれが一番近い気がする。でも、何に? あたしの瞳に何を期待するの?

 色が違うだけのこの瞳に。

 

「でも、まずはレディいつまでも座り込んでいるのはどうかと思う。ほら、手を取ると良い」

「え、あ、はい」

 

 やっぱり、不思議に彼の声は耳に届く。

 伸ばしかけた手をとられて、立たされて。落とした傘を差しだされる。

 

「ありがとう、ございます」

 

 ぺこりと御礼も自然と出た。

 

「うむ、怪我もないようで結構。次もう少し上を向くことだ。堂々としていれば良い。前を向くことだ、大切なものを逃したくないのなら」

「えっと」

「おっとレディをいつまでも引き留める訳には行かない。では、レディ、私はこれで」

「あ、あの! あなたは?」

「私か? リチャード・トレビシック。しがない碩学だ。また、縁があれば会おう」

 

 そう言って彼は歩き去って行った。大きくどこからでも見つけられるはずの彼の姿はどこにも見当たらない。

 

「リチャード・トレビシック……」

「大きな人だったわね」

「うん」

「運命感じちゃった?」

「うん、じゃなくて、――って野枝、今まで何してたの!」

「んー、るいちゃんの観察?」

「見てないで、助けてよ」

「だーめ、自分で何とかできるようにならないと、私が……いつまでも助けてあげられるわけじゃないんだから。さ、行こっか」

 

 そう言って前を歩く彼女はどこか、そうどこか、遠くに行ってしまいそうな、どこかに消えてしまいそうな。そんな気がした。

 




文章を修正。

次は12時です。

では、また。良き青空を。


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1-7

――音が響く

――音が響く

 

 暗がりに音が響いている。

 

 それは、何かの歯車を回す音。

 それは、何かの螺子を回す音。

 それは、何かを組み立てる音。

 

 数多の音が暗がりに響いていた。

 

 東洋において、彼の大碩学、《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。

 遥かに劣る男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てる。

 

 ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。影の研究室、叡智の深淵と人は呼ぶ帝立碩学院の個人研究室。人はここをそう呼ぶ。

 ここは工房だった。暗い工房。この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と概ねその数は同じだ。だが、ここを訪ねる者はいない。

 

 深淵の叡智を求め、自らの望みと夢を求めて訪ねる碩学の卵はいない。論争を求めて、自らの理論を持ってくる若い碩学もいない。協調し深淵へと至る老齢な碩学もここにはいない。

 

 ただ一人、誰かの幸せを求めた女以外には。

 

 彼の組み立てるもの。

 それを知ってはならない。

 命が惜しければ。

 

 それに手を出してはならない。

 命が惜しければ。

 

 ここにはまともな人間などひとりもありはしない。

 ただ暗がりと、ただ歯車の骨と機関の肉体を組み立てるだけの碩学と彼が作り出した機関の人型があるだけだ。ただそれだけだ。

 

 人型。人の形をした機械。概ね、それは欧州における碩学たちの組織であるところの結社に由来した機関人間の構造と同じではある。

 だが、一から創造したという点においてのみ、そこには敢然たる違い存在している。それは無から人を生み出したということに他ならない。

 

 それは神の所業。人が望み、進化(パラディグム)の果てに人がその肉体の機能として獲得したそれを人の()で行ったということ。

 人の身において、この男は、絡繰王と呼ばれるこの男は、人を子宮(うつわ)に頼らずに作り出すという古来からの夢を達成した。

 

 それは純然たる絡繰王(おとこ)の偉業。だが、だが、碩学王(かみ)には届かないと男は自虐する。自虐して、自虐して。

 ただ一つの結論へと至るのだ。己が、及ばぬものであるという事実に。己がどうしようもなく、ヒトであるという結論(ぜつぼう)

 

 ゆえに男は実験を続けるのだ。帝国全土に張り巡らせた機関情報網と明治天皇の威光を利用した数式実験を続ける。

 碩学王が都市を一つで実験をしたというのなら、自分は国一つを使って実験するまで。

 

 男の暗い意志が駆動する。届かぬというのならば、届くようにすればよいという男の暗い意志が。変容の果てに至らんとする意志が。

 

「――主」

 

――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型が声を上げる。

 

 女。人型、からくり。

 

 からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。

 自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。

 

 陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。

 この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。

 

 そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。

 

「時が満ちました」

 

 鋼の声。機関声帯が奏でる鉄の音色がただ一言、主に告げる。

 

「あの男が再び(・・)帝都へと入りました」

 

 見つける。あの男を。シルクハットに杖を持ったあの男を。

 

 その声に、男はその手を止めた。

 

 女の声に、男は、その手を、止めた。

 

 組み立てるだけの男は手を止めたのだ。だが、歯車は回り続ける。回す者がいなくとも、歯車は回転を止めない。

 ただ回り、ただ組み立てる。なにかを。全てを。

 

「ついにか! ついに、ああ、待ち望んだぞ、この時を。今度こそだ。今度こそ、あの先へと、辿り着くぞ。黄金螺旋階段のその果て、我が求めし窮極の門の果てへと。この時を! 此度こそ、今度こそ、今宵こそ! 私は貴様を超えるぞ大碩学(チクタクマン)!!」

 

 男の声が響く。狂気に染まった、声が響く。それがどこかに届くことはない。ただ、暗がりの漆黒の中で吸い込まれて消えていく。

 

 消えて、ただ願うのだ。いつか。そう、いつか、その深淵に手が届くことを願って。

 男は、ただ、深淵にて歯車を回すのだ。

 

 女のからくりはただそれを見る。水晶玉の瞳で、ただそれを見る。

 思う事もなく、何も感じることもなく。

 

 だが、確かに己の回路が熱を持っていることを女は感じていた。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 そこは一言で言うと乱雑であった。二言目をかけるならば、整然としているが適当だった。正反対の表現であるが、ここでは競合しない。

 この場においては、ここは乱雑であり、整然と整っているのだ。あくまでも、この場の主においてはという言葉が付くが。

 

「…………」

 

 その主たる女は終止、無言であった。

 己の領域たる研究室にありながら、女は無言だった。無考とも言う。無意識とも言う。彼女は今、何も考えていなかった。

 

 いつもならば、愛すべき自らの教え子に何を送ろうかと考える。安い物ではない。そんなものを与える気などなかった。

 与えるものは最高のものに限る。人も、知識も、あるいは英国風に言うプレゼントでさえ女は妥協する気などなかった。

 

 それは立つ鳥が跡を濁さぬようにするのとはまったくの真逆に思える。事実、そうなのだろう。彼女は爪痕を残そうとしている。

 己の時間が幾ばくも無いことを理解しているから。だからこそ、雛鳥に与えるのだ。最高のものを。己に残せるものを。

 

 また、考えることは可愛らしく初心な教え子をからかうことも入るだろう。可愛らしい愛すべき教え子は実に良い才能を持っている。それは左目が黄金瞳だからとかそういうことではない。

 確かにそれはある一面から見れば稀有なことで、同時にそれは望むべきものでもある。しかし、そうではない。そうではないのだ。

 

 彼女の才能はまた別にある。ものを考えられることもそうだが、もっとも大事なものを彼女は持っている。

 友人であり、敵であり、あるいは他人であり、味方でもある四本腕を持つ仏蘭西へと娘を送り返した馬鹿な鋼鉄の碩学の教え子が持つ才能とはまた別の。

 

 だが今、女は何も考えてはいなかった。白。真っ新な白い思考で、ただ女は煙管を吹かす。紫炎がすぅと中空を満たした。

 それが何等かの形を結んだように見えた。

 

「そう、そう。始まるのね、また(・・)

 

――ああ、これで何度目だろうか。

 

 そう女は呟いた。

 突如として女の頭が回る。高速で。実験機械(クラッキング・マシーン)とも称される女の頭脳が思考を開始する。

 膨大な可能性を模索する。莫大な数値で計算を行う。

 

――演算する。

 

 それは通常、大機関を用いて行う演算であった。だが、女はその身にて行う。そして、両の手は常にせわしなく動いている。

 試験官を傾け、歯車を回す。かと思えば、フラスコを回し、機関を駆動させる。

 

 その速さは尋常ではない。特に、手袋に包まれた左手は特に

 

「ふう、こんなものね」

 

――半刻

 

 それはおおむね、英国においては一時間と呼ばれる時が過ぎた頃、女は全ての動きを止めた。それは教え子がこの研究室に来る時間と概ね同じ時間であった。

 不意に暗い研究室に日が差す。実験台を照らす光は美しき極彩色を描いている。対して、女の左手は白と黒にしか映らない。

 

「どうか、祈っているわ。あなたが、果てへと至れることを」

 

 そう呟いて、女は扉が開くのを待つ。そこに現れるであろう少女を待って。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

――チク・タク

 ――チク・タク

 

「……君にこうやって声をかけるのは随分と久しぶりな気がするね。変わりはないようだね、可愛い涙香?」

 

 そう、なのかな?

 

「そうだよ。君はあの時と何も変わらない。あの時の君とも、あの時の君とも、あの時の君とも。君は変わらない。だからこそ、君に期待してしまうし、君を期待外れに思ってしまうよ」

 

 そう答える人。男の人のような声で、ともすれば女の人のような声で。あるいは老人のようなしわがれた声で、いいえ、子供のような幼い声で。

 目の前の誰かがあたしにそう言う。いろんな声に聞こえるただ一つの声で。たぶん、上から降ってくるような大人の人の落ち着いた声で。

 

 けれど、あたしはその声に覚えなんてなくて。でも、あたしはこの声を知っているような気もしていて。いつも聞いているような気もしていて。

 

――あなたは、誰?

――誰なの?

 

 でも、あたしは思い出せない。ずっと、ずっと聞いているはずで、知っているはずなのに。記憶に霞がかかっているかのようにあたしは何も思い出せない。

 

「私は、私だよ。それ以上でも、それ以下でもない。君にならわかるはずさ。いつも君はわかるよ。思い出す。私を。それがいつになるかは、いつもばらばらだけれど」

 

――…………。

 

「だから、私は君にこう言おう。いつものように変わらないままの君に。いつもと同じように。

 気をつけなさい。もしも、また(・・)目指すというのなら。今度は、間違えないように。今度も正しいままで」

 

――なに、なんのこと。

――わからない。わからない、わからない。

 

「私に言えるのはこれくらいだよ。いつも、いつも、いつも。私も変わらない。君も変わらない。いつになったら、時は進むんだろうね。可愛い私の涙香」

 

――そして、全ては忘我の彼方へと、白んでいく。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「あああ。ああああ!」

 

 暗がりの部屋で声が、音が響いている。何かを掻き毟る音。床を、壁を、あるいは自らを掻き毟る音が響く。

 ここには正気など何一つない。ただ一人の男が狂気の中で喘いでいる。

 遥か遠く、世界の先端を行く重機関都市倫敦より狂気を持ち帰った男が一人、ここで狂気にあえいでいる。

 

「ついに、ついについについに!」

 

 神は来た。神はいた。神はそこにいる。

 

「目の前に、目の前に、ああ、窓に。窓に!」

 

 そこにいる。どこにでも。彼らはどこにでもいる。暗がりに、人の夢にさえも。ああ、人間とはまさに塵だ。宇宙の端で羽虫のようにとぶだけの存在にすぎないのだ。

 

「ああ、あああ、ああああああ」

 

 それこそ、世界の真実あると、男は狂ったように嗤いながら言う。遥か過去、あるいは未来。あるいは現在。英国を覆った漆黒を男は知っている。

 

 しかし、誰もそれに耳を傾けないだろう。傾ける人すらここにはいないのだ。

 

 ここにはただ、男と、狂気があるだけなのだから。

 




新しいものはないですが、場所が入れ替わっていたり、追加されたりしています。

ここは、完全にこいつらの領域。蠢いている碩学たちの話です。時々こんな話が入ります。

次は、〇時に。

では、また。


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1-8

「はあ、面白かったー……――」

 

 活動写真――映画――はとても面白かった。見たのは大衆向けの作品だったけれど、写真が動くと言うのはとても衝撃的だった。それでいて、お話はとても感動的でもあって。

 

――二人の少女のお話。仲良しの二人組。

――あたしと野枝みたいな。

 

 自然とその余韻に浸ってしまう。活動写真の場面をあれやこれや思い返しては、その余韻に浸る。それは思考の海に沈むのと同じこと。

 本当にこんなに良いものに誘ってくれた野枝とか、券をくれた大杉君に感謝する。そうでなかったら、きっと家から一歩も外に出ないから。

 

 外に出るより家にいた方が良い。エイダ主義で女も前に出る時代とこの帝都でも叫ばれるようになった。

 

――けれど、あたしはまだきっと、ううん、たぶんこれからも旧い時代の女なのだと思う。

 

 家で誰かの帰りを待つ女。野枝とは違う弱い女。でもいいと思う。それは正しいとも悪いともいえないから。

 

――きっとあたしは誰かの前に立つことなんてできないと思うもの。

――誰かの後ろにいる方があたしには合っていると思うもの。

 

 誰か、そうあの大きな人とか。

 

――あれ、なんであたしあの人のこと自然に考えているの?

 

 あの人の事なんて何も知らない。鉄道王という肩書きだとかは、名前を聞いた後に思い出した。

 

――だから、あたしはあの人のことを知らない。

――なのに、なんであたしはそんな自然に後ろにいたいと、想ってしまったんだろう。

――もしかして恋?

 

 ううん、違うわ。違う。違いますとも。まだそういうのはわからない。お母様とお父様の話だってよくわからないのだから。

 だから、違うと思う。そういうのじゃない。たぶん、後ろに立つのに良い大きな人を思っただけよ。そう、そう。そうに決まってるわ。

 

――ええ、そうですとも。そうです。そうなんです

――そんな風に考え事をしていたら

 

「るいちゃーん?」

 

――ぐにぃ、と頬を引っ張られる。

 

「いひゃい、いひゃい」

「もう、聞いてた?」

「うん、えっと活動写真の終わりの話だよね」

「ええ、そうよ。でも、私の愛しのるいちゃんはどうやら別のことをお考えの様子。何を考えてたのかな~?」

 

 そう言って野枝は悪戯っ子のような顔をする。きっと、何を考えていたのかバレたのだ。どうしてか野枝はそういうのがわかるようでそういう時は決まって悪戯っ子みたいな顔をする。

 

「あの男の人のことでしょ」

「え、なんで、あ、ち、ちが――」

 

――ううん、違わない。

――正解。

 

 でも、そんなこと認められるわけもなくて、いつものように見事に顔を真っ赤にして取り乱してしまって。言葉もうまく伝えられなくて。

 でも、頭の中だけはずっとずっと早く動いていた。考えが浮かんでは消えて、浮かんでは消える。それは男の人とのそういう関係になっている想像であったり、あるいは野口さんとのあれこれであったりとか。

 

 ダメなのに止められない。そういう時は、本当に駄目になる。湯気でも出るんじゃないくらい顔を真っ赤にしたままあたしは動けなくなる。

 容量がいっぱいになって動けなくなった大階差機関か解析機関のようになる。つまり、動けなくなってしまう。

 

「あー、ごめん、ごめんなさいるい。ほら、落ち着いて。ほら、こっち来て」

 

 こうなるとすぐには戻れない。だから、野枝に手を引かれるままに歩く。どこをどう歩いたとか、野枝が何を言っていたのとか、何もわからないままに。

 認識はしてるけど、それを処理できない。頭はとても速く動いているけれど、身体が付いていかない。

 

 でも、なんとか老人たちがゲイトボウルに興じる公園のベンチに座ったところで、なんとか普段通りに動けるようになっていた。

 まず感じるのはやっぱり

 

「の~え~」

 

 野枝へのお怒り。ちょっと低い声を出して。さも怒っていますという風に。

 

「ごめんなさい、ついね。るいがあまりにも可愛いものだから」

「もう、もうしない?」

「しないしない。だから、機嫌直してねるい? あとで機関製の和菓子買ってあげるからさ」

「もう、調子いいんだから」

 

――でも機関製のお菓子は食べたいかな。

――あまり食べられるものじゃないから。

 

――お菓子。

――随分ご無沙汰だと思う。自分で作れるけれど、本職の職人さんにはどうやっても及ばないから。

 

 野枝はそういうのも得意だから、野枝のお菓子でも良い。英国風のお菓子、名前はちょっと思い出せないけれどあれはおいしかったから。

 

「ごめんさない。でも楽しかったでしょ?」

「うん、いつかまた行こう?」

 

 野枝と一緒に、またいつか。今度は自分たちでお金を稼いで活動写真を見に行こう。きっと今度も楽しいはずだから。

 

「……ええ、そうね」

 

――あれ?

――野枝の返事、少し遅い。

 

 いつもならすっぱりと返ってくるはずの返事が今日は少し遅い。

 

「野枝? どうか――」

 

 した、とは聞けなかった。

 

「探したぞ伊藤。あまり俺の手間をかけせるな」

「森、先生」

 

 そこに男の人が立っていたから。腰に軍刀を下げた男の人。

 

――え、え? いつの間に?

 

 わからない。でも、彼は目の前に立っていた。長身で見下ろすようにまるで幽鬼のような男の人がそこにはいた。

 知らない人じゃない。知っている人。特に、野枝は。

 

――彼、野枝の担当教授。

――森鴎外先生。

――軍服に白衣の碩学様。

 

 この帝国を代表する碩学様の一人。野口さんと同じ機関医学の別分野機関軍医学というのを扱っていると野口さんに聞いたことがある。

 軍の食事事情を改善したとか、野枝に聞いた覚えもある。でも、会うのは初めて。二人の話を聞いて、どんな素晴らしい人なのだろうと想像したりした。けれど、

 

――けれど、こんなに怖い人だとは思ってもみなかった。

 

 怖い、ただひたすらにこの人の近くにはいたくないそう思った。

 

「あ、あの、は、はじめま、して」

「お前は野口のところの黒岩か。ふん、なるほど確かにあの女が入れ込むだけのことはあるようだ」

「え?」

 

 鋭い瞳はあたしの左目を見てる。黄金色の瞳を。

 けれど、すぐに興味を失ってまた視線は野枝に。

 

「行くぞ。ぐずぐずするな。お前の役割は既に決まっている。お前はただ、俺に従っていればいい。それだけのためにお前を研究室に入れたのだ。他の屑と同じになりたくないのならば、早くしろ」

「はい」

 

 彼はそう言って、野枝もまた彼についていく。

 

「あ、の、野枝……」

「ごめん、この埋め合わせはまた今度するから」

「え、う、うん」

「じゃあ、また」

 

 そう言って野枝は森先生と蒸気自動車に乗って行ってしまった。

 

――野枝、気づいてる。

――あなたの顔、あたしが見たことないくらいに暗い。

――いつも明るい野枝。

――なんで、そんな顔してるの? あの人のせい?

 

 何もわからない。何も、何も。

 だから、研究棟を目指す。野口さんに森先生のことを聞いてみようと思ったから。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 日が沈んで、街灯が帝都を照らす。帝立碩学院には人がいない。今日がお休みだということもあるけれど、たぶんそういうことじゃない。

 御標。それのせいだと思う。ぽーんとそんな高い音が頭に響いて、

 

――今日は家にいると幸せになれるでしょう。

――めでたし、めでたし。

 

 耳にはっきりと聞こえたそれ。家にいることを推奨する天皇陛下からの御神託。だから、誰もが家に帰っている。だから、誰もいない。

 眠らない重機関都市東京が寝静まった。だから、機関街灯も見えて通りは暗い。でも、真っ暗闇ではない。都心の常として、人の生活の明かりがある。

 

 だから暗くない。怖くない。それでも自然と、歩く足は速くなる。この帝都の闇には異形が潜むという。御標に背きし異端の獣。

 漆黒と極白の異形。色を失った者たちによる都市伝説。旧い御伽噺。そう異形なんてものは現実にはいない。そういないのだ。

 

 だけれど、歩く速さは速い。速く歩く。走るよりは遅く、けれど歩くよりは速く。恐れじゃないとは思う。いいえ、恐れもある。怖い。夜の街は嫌い。特に光のない路地はまるで誘っているようで。

 今にも何かが出てきてひきこもうとしてるかのよう。それでも歩く足を止めない。真っ直ぐに、ただ真っ直ぐにブーツを石畳に鳴らして歩く。

 

 御標が出ている。本当なら帰らないといけない。

 

――でも、あたしは歩く。歩く、歩く、歩く。

 

 そうして、目の前の碩学院の中へと足を踏み入れる。

 

 寝静まった学び舎。昼間の喧噪が嘘のよう。誰もいない。そこには誰もいない。まるで世界に一人だけしかいなくなってしまったかのように。そこには誰もいない。

 

――前にもこんなことがあったような。

 

 いいえ、そんなことはないはず。恐怖が湧き上がりそうになる。でも、行かないと。

 

「大丈夫、大丈夫よ涙香」

 

 そう自分に言い聞かせながら、研究棟へと足を踏み入れようとする。

 

――けれど、けれど。

 

「あ、れ?」

 

 足が前に出てくれない。先に出そうとするけれど、駄目。身体が前に出ることを拒否してしまったかのように、足は一歩も動いてくれない。

 いいえ、違う。これ以上先に進んだら駄目だと言っているのだ。直感的にそう悟る。ここが分水嶺。ここに壁があるのだと、左目が教えてくれる。

 

 何かの壁。それがなんだかわからない。物理的なものじゃなくて、精神的な。そう例えるならば――暗示だとか。

 そう言った類の壁。これが最後だと教えてくれている。ここから先に入れば、戻れなくなるのだと。そう左目が教えてくれた。それは直感のような閃き。

 

 でも、足を出そうとする。この先に野枝がいるから。いると思ったから。だから、前に。

 

「――やあ、レディ、また会ったね」

「え?」

 

――けれど、かけられた声にあたしはたたらを踏んでしまう。

 

 躓きそうになったのをそっと大きな手に支えられて。

 

「おや、すまないレディ。しかし、レディ。このような時間に一人でいるとは不用心ではないかな? 御標とやらが出ているのだろう?」

 

 そこにいたのは昼間の大きな人。英国風の男性。とても大きな。背の高い帽子に杖。如何にもな英国人。おそらくは、彼の大碩学を除いて、人の為になる最も偉大な発明をしただろう碩学様。

 この帝国において鉄道を全国にひくためにやって来たという人。

 

「え、とえっとリチャードさん、でしたっけ?」

「Exactly。そうだリチャード・ドレビシック。私は、鉄道王と呼ばれるしがない碩学だ。レディのような可愛らしい学生に覚えていてもらえて光栄かな」

 

――か、かわっ!?

 

 可愛いだなんて。そんな、そんな。そんなこと野枝にしか言われたことないのに。聞き間違い? いいえ、確かにはっきりと言った。

 とても聞き取りやすい声で、はっきりと。

 

――う、うあ、だ、駄目、駄目。顔、たぶん赤い。

――でも、急に離れるわけにいかないし、それに用事がある。

 

 大丈夫。ここには機関灯ないから。大丈夫。大丈夫。心配になる。けれど、やっぱり離れることはできないから。

 つとめていつも通りに。そういつも通りに。

 

「あ、あの、あたし用事があって」

 

 上ずってしまったけど、大丈夫だと思う。

 

「ふむ、それでこの研究棟に入ろうというのかね? 確かに用事があるならば仕方がない。呼び止めるのも悪い。手伝う事もやぶさかではない。

 だが、レディ。もしそれが人に会う類のものであるならばやめた方が良いと私は君に言おう。レディ、君の友人はここにはいない。そうここにはいないのだ」

「え?」

 

――え、っと? 今、この人はなんていった?

 

「あの、なんで」

 

 なんで、友達を探していることを知っているの。誰にも言っていない。ここで会ったのも偶然。この人の前で野枝を探しているだなんて一言も言っていないのに。

 なのに、なんでこの人は知っているの。困惑を前に彼は当然と言う調子で答えた。

 

「私は何でも知っている。知らないことなどないよ。君のことも、彼女のことも。これからのことも、今までのことも、今のことも。私は全てを知っている」

「あ、あの?」

 

――え、え? 何、何を言っているの?

――あたしはもっと混乱してしまう。

 

 全てを知っているだなんて、そんなことはあるはずがないから。それではまるで神様のよう。

 

「神様なんて、この世には存在しない。神は死んだ。残っているのはふるきもの。神ならざるもの。あるいは、外なるものだけだよレディ」

「な、なんで」

 

 なんで、この人は心でも読めるの。

 

「言っただろう? 私は何でも知っている。知らないことはない。まあ、今のちょっとした単純なメスメル学だよ。君のご友人についてもだ。私は今までここにいたのだよ。ここに人はない。そう人は。

 この時間、こんな場所に来るのは人に会う以外にないだろうという私の推測からそう言ったのだよレディ。合っていたかね?」

「は、はい」

 

 凄いと思う前に、呆れてしまった。今は冗談なんて聞いている暇なんてないのに。けれど、嘘はついていない。

 鍵を見せられた。彼が最後。もうこの研究棟には誰もいないということだから。

 

「そう。だから、ここから離れて家に帰ると良い。送ろう」

 

 それに鍵なんてなくてもこの人の言葉は嘘じゃない。わかる。するりと頭に直接入ってくるように聞こえるとても聞き取りやすい声に嘘はないと確信できる何かがある。

 いないというのは本当なのだろう。それなら今日は帰るべき。御標も出ている。これ以上、外にいるのは駄目。

 

 なら今日は帰ろう。

 

「あ、あの、お願い、します」

「うむ、任されたよレディ。安心すると良い。レディのエスコートは英国紳士の務めだ。さあ、レディお手を拝借」

「あ……――」

 

 そう言って軽い動作であたしが何かを言う前にこちらの手を取って彼は歩き出す。こつ、こつ、こつ。靴音と杖の音を響かせて通りを歩く。

 静かな通り。少しずつ消えていく生活の明かり。暗くなっていくメインストリートを歩く。

 

――あたしはぼうっと考え事をしていた。

 

 少しだけ前を歩いてくれている男の人のことを。大きな手。手袋に覆われた手はとても大きい。手を包み込むように優しく握りしめられた手はそれだけで安心できる何かがあった。

 包容力と言うのだろうか。そういうの。思い出すのは父の姿だ。父の手もこんな風に大きかったような気がする。

 

 こつ、こつ、こつ。小気味のいい音を立ててあたしとリチャードは歩いていく。暗がりを、暗闇を。機関灯の明かりが照らす通り。

 もうすぐ下宿先。考え事をしていたけれど、それには気が付けて、

 

「あ、あの、もうすぐだから」

 

 もう大丈夫です。とそう続けようとして、

 

「ふむ、そうだね。では、ここまでにしておこう。夜間にレディの家に行くというのは英国紳士らしくない」

 

 全てを察してくれた彼はそっと手を離してくれる。

 

「気を付けたまえ」

「えっと」

「ゴールが目の前だとしても、気を抜かないことだレディ。何があるかはわからない。もう少しというところで石に躓くかもしれない。だから、気を付けることだレディ」

「あ、は、はい」

 

 子供じゃないのに、そう思った。けれどこの人の言葉は素直に聞いておいた方が良い。そうも思って。とりあえず了承を伝えてあたしは下宿の玄関へと向かった。

 特に何事もなく辿り着く。やっぱり、そう思いつつ振り返るともうそこにあの人はいなかった。大きな人なのに姿かたちは通りにはなくて。裏通りに入ったの?

 

 いいえ、いいえ。だって、あの人が歩くと音が鳴るもの。こつ、こつ、こつ、って。

 まるで消えてしまったかのよう。でも、そんなわけはなくて。

 

「うーん?」

 

 でも、とりあえずは下宿の中へ。いつまでも玄関先にいるわけにはいかないから。そっと中に入ってそっと自分の部屋へ。

 でも、大家さんに見つかってしまった。

 

「まったく、遅かったねえ。御標が出ているっていうのに」

「あ、あう、ごめん、なさい」

 

 遅くなることは良くあることだから大家さんもわかっている。けれど、御標が出ているのに遅くなるのは駄目。

 御標は守るべきもので、あたしたちを幸福にするものだから。従っている限り、それはあたしたちを幸せにするものだから。

 

「まあいいわ。無事に帰ってきたんだから。今度からは気を付けること」

「はい」

 

 そう言って部屋へ。

 

「ふぅ」

 

 そっと寝台に倒れ込む。そして、自分の左手を見つめる。彼に握られていた手。そこにはまだ彼の熱があるようで。

 

「…………」

 

 左手を見つめる。そうしている間に、あたしの視界は黒く、黒く染まって。

 いつの間にか眠ってしまっていた。

 




前後のエピソードを結合。

次回は、12時に。

では、また。
良き青空を。


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1-9

 朝。まず感じたのは寒さ。寒い。帝都の朝は決まって寒い。夏も、冬も、春も、秋も。けれど、いつもよりも寒い。

 その理由は明白で。布団も被らずにそのまま寝台に横になっているから。

 

「うぅ」

 

 首が痛い。きっと変な寝方したせい。きっと寝違えてる。それでも寒いからもそもそと布団の中へ。それでも寒いから丸まってみる。

 少しはましになった。その時だった。ぽーんとそんな高い音が鳴って、どこか白や黒を感じさせる声が頭に響いて、

 

――学校に行きましょう。望むものはそこにある。そして、あなたに道を示すでしょう。

――めでたし、めでたし。

 

「え――」

 

 それは予想もしていないことで。御標。昨晩から二つ目。こんなに連続して御標を受けることは珍しい。それも酷く個人的なものは本当に初めてのことだった。

 

「えっと」

 

 この場合、向かうのは碩学院で間違いはない。通っている学校という意味ではそこ以外にないから。とりあえず、行けば良いのだろうか。

 今日は、休もうかと思っていたけれど御標が出たのなら従わないといけない。

 

「よい、しょ」

 

 緩慢な動作で寝台を降りる。寝起き特有の浮遊感は御標で吹っ飛んでいたけれど、睡魔は強いから。さっさと顔を洗いに行く。

 顔を洗って髪を整えて。そうして無事に睡魔は退散してくれた。

 

「ふぅ、よし」

 

――うん、大丈夫。元気そう。

 

 鏡に映る自分を見て、いつもと変わらないことを確認する。

 

「野枝に会えると良いな」

 

 今日は、会えると良いな。研究棟にいるだろうから、たぶん今日は会えるかも。あまり自身はないけれど。

 

「良し、行こう――」

 

 そう思って、玄関を出ようとして、

 

「こらこら、朝食も食べないで行く気かい?」

「あっ」

「まったくしっかりおしよ。それと、寝癖、後ろのほう全然じゃないか」

「あうぅ」

 

 いつもは野枝にやってもらっていたから。だっていつもなら頼んでもいないのに起こしに来るもの。だからよ。だから、たまたま。やろうとすればきちんとできます。

 でも、やっぱり大家さんはそういうところ信じてくれなくて。故郷の母のように髪を梳いてくれる。それがくすぐったくて、少し笑ってしまった。

 

「ありがとうございます」

「いいのよ。さあ、食べていきなさい。野枝ちゃんがいないからってだらしなくしては駄目よ。女の子なんだから」

「はーい。いただきます」

 

 いつもの朝食。一杯のご飯に一杯のおかず。それを食べて、おかわりして、食べて、またおかわりして。一杯だべる。

 野枝には食べ過ぎだぞーと言われるけれど、お腹がすくから仕方がない。

 

 これが、いつも通りの朝。少し違うのは御標が出ていることと野枝がいないこと。

 

「ごちそうさまでした」

 

 きちんと手を合わせて、食べ終えたらさあ行こう。

 

「はい、おまち」

「はい?」

「ご飯粒つきっぱなしだよ。まったくこの子は」

「うぅ、すみません」

 

 きちんと確認しているのに、どうしてだろう。野枝に言ったら、るいだからって言われるけど。意味がわからない。問い詰めてもきまって笑ってごまかされる。

 

「良し、いってきます」

「いってらっしゃい」

 

 確認して、出発。煤避けの傘をさして靴を鳴らして石畳の通りを歩く。朝の通勤の時間。まだ、帝都に存在する大機関工場が稼働して間もないから排煙の量は少ない。

 だから、少しだけ空気が綺麗に感じられる。地方に住む人に言わせればそれはまやかしだというらしいけれど、この時間の空気は嫌いではない。

 

 通りを行く人波に乗って帝都の中央へ。それにつれて馬車のほかに蒸気自動車が混じりだす。乗っているのは主に軍人さん。

 だから、最初蒸気自動車に乗っている人から声をかけられても自分じゃないと思って気が付くのが遅れた。

 

「レディ、レディ」

「え――?」

 

 振り返る。そこにあったのは最新の蒸気自動車で、その運転席から降りてきた大きな影。昨日のあの人。

 

「えっと、リチャード、さん?」

「然り。リチャード・ドレビシックである。そこで見かけたのでね。声をかけさせてもらったよ。これから学校かな」

「はい、そうです」

「ふむ、では乗ると良いレディ。送ろう」

「え、でも悪いです」

「遠慮するものではないよ。あの男ならば若いうちは苦労した方が良いとは言うかもしれないが、私はこの一回でそう何かが変わるとは思えないのでね。変わらないことを私は知っている」

「えっと」

 

 ともかく、乗りなさい。そう言われて、言われるままに腕を引かれて。大きな手から抜け出すには私の力は足りなくて。

 一見したら犯罪の現場。でも、あまりそういう雰囲気を感じないのは人柄のせい? たぶんそう。彼はそんな悪い人じゃない。そんな気がする。

 

 そうして蒸気自動車はゆっくりと発進した。わずかな振動が伝わる。助手席に座って、身を小さくする。男の人と二人。それもこんなに近くで座っているなんてことに慣れているわけもなかったから。

 

「えっと、そのありがとうございます」

「礼には及ばんよレディ。朝の通勤に麗しのレディと同伴できるのであれば、安いものさ」

「う、麗し――」

 

――な、何を言っているの。あ、あたしがそんな、麗しのレディ、だなんて。

――顔、赤くなる。たぶん、真っ赤。

――気づかれてない? うん、たぶん、大丈夫。

 

 彼は前を見ているから。だから、たぶん大丈夫だと思う。

 

「さて、着いたかな」

 

 蒸気自動車に乗ると、すぐだ。

 

「あの、ありがとうございました」

「もし何かあれば、鍵を探すことだ。銀の鍵を。もし、見つけることができたなら、私は君に力を貸そう。どうなるかは私は知っているがね」

「え?」

 

 それはどういうこと。聞く前に彼は行ってしまった。

 

「なんだったんだろう?」

「なにがー?」

「わひゃっ」

 

 むにぃ、と頬をつつかれて驚いて飛び上ってしまった。

 

「あはは、るい、驚きすぎ」

 

 そこにいたのは伊藤野枝その人。いつも通りの笑顔を浮かべていた。あの日の見たこともない顔の野枝はどこにもいない。

 でも、なんで? どこか、何かが違うような。

 

「野枝……?」

「そうよー。どうしたの? まさか、数日会わなかっただけで私の顔忘れたの? ごめんねー。鴎外先生に課題渡されちゃってさ。それが忙しかったの」

「もう、それなら言ってよ」

 

 でも良かった。いつもの野枝。今日は元気そう。

 

「ごめんね。それじゃあ、行きましょ。それにしても人が多いわね」

 

 周りには人が多い。いつもはこんなことはないのに。

 

「なんでだろ?」

「るい知らないの? 英国から鉄道機関学の偉い碩学様が来て講義するからってそっち系の学生だけじゃなくて記者の人たちも集まっているのよ」

「そうなんだ……――」

 

――あれ? 鉄道機関学? どこかで聞いたような。

――というか、その碩学様ってもしかして。うん、たぶんそう。鉄道王とまで呼ばれている人だからきっとそう。

 

 そんな人と話していたなんて、今更だけれど粗相をしていないか心配になる。碩学の卵だと名乗れるくらいには勉強しているはずだけれどやっぱりすごい人には及ばないから、悪く思われてないだろうか心配。

 

 こんなことならもう少しそういう話をしておくべきだったかな。鉄道機関学は専門ではないけれど、少しくらいならばわかるから。

 鉄道を発明したという碩学様だから聞きたいことは色々とあったのに。

 

「はいはい、おしまい。るいちゃーん」

「いひゃい、いひゃい」

「戻ってきた? 往来でなるのは感心しないな。お母さん心配です」

「また子ども扱いする」

「なら、きちんとレディになりなさいな」

 

 そんな他愛もないおしゃべりをしながら研究棟に入る。

 

「……それじゃあね、るい」

「うん、またね」

「……そうね、また」

 

 そして、野口さんの部屋に。混沌としていながら整然とした部屋に足を踏み入れる。いつものように左手に手袋をした野口さんは高速で手を動かしていた。

 早い、今日は心なしかいつもよりも。

 

「いらっしゃい。今日は遅れるかと思ったけれど、早いのね」

 

 顔をあげても手だけは動かし続ける。

 

「ええと、送ってもらえたので」

「そう。では、今日も始めましょう。そろそろ忙しくなるから今日は長いわよ」

「はい、わかりました」

 

 そう言って今日の講義が始まる。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「――お疲れ様。今日はもういいわ」

「は、はいぃ」

 

 講義と実験が終わったのはすっかり日が落ちた時間だった。

 もうくたくた。いつもこれくらいはするけれど、今日はなんだかいつもよりも激しかった気がする。それでもまだまだ実験を続けている野口さんを尊敬する。やっぱりすごい人。

 

「お、お疲れさ、ま、でした」

「お疲れ様。それと、珍しい本が手に入ったから貴女にあげるわ」

「え、えっと、ありがとうございます」

 

 そう言って手渡されたのは、皮の装丁の本だった。少し珍しい。今では、機関製の紙の装丁の本が普通だから。たぶん高いもの。

 断ろうとしても多分断れない。だって、そういう人だから。

 

「さあ、遅くなるからもう帰りなさい」

「はい、ありがとうございました」

 

 そう言ってあたしが、部屋を出ようとすると、

 

「頑張りなさい」

「え――?」

 

 そう野口さんに言われた気がした。何か聞こうとする前に扉はひとりでに閉まってしまう。戻って聞こうかと思ったけれど、なぜだか(・・・・)そういう気分にはならなくて、

 

「あ、るいー、一緒に帰ろう?」

 

 野枝も来たから一緒に帰ることにしたのだ。

 

――いつもとはどこか違うような気がした。

――真夜中の中央区。

 

 いつもは二人で歩いている通り。野枝と一緒に、夜の通りを歩く。それはいつものことで、少しだけ久しぶりの事だった。それだけのはずが今日はなんだか少しだけ違う気がする。

 眠らない街。そう呼ばれている帝都。しかし、今日は少し。そう人通りが少ない気がする。飲み屋から帰る男性の姿も、屋台に顔を出している軍人さんの姿はない。

 

 路地で丸まっている浮浪者の姿もなければ、主人の言いつけどおりに仕事をする絡繰り人形の姿も見えなかった。

 こんなことはとても珍しいと思う。少なくとも、あまり経験することではない。蒸気自動車も馬車も通らない。とてもとても珍しい。

 

「人少ないね」

「そうねー」

 

 伸ばし気味に、そう野枝が頷く。いつもなら野枝の方から言うことだけど、今日はあたしから。どうしてだろう、と考える前に野枝が言葉を続ける。

 

「ねえ、知っている? この帝都の裏側に伝わる御伽噺」

「え?」

 

――なに? なんで、今、そんな話を。

 

 脈絡もなく、予兆もなくただ野枝は言葉を紡いでいく。

 

「精神が変容した伽藍。肉体が変容した異形。化け物。この帝都の裏に巣食うナニカ。狙われたら最後、誰も助からない。その話を涙香は知ってる? 知っているわよね」

「――――」

 

――言葉が、紡げない。

――何も言えない。

 

 ただ一言、知らないともいえない。どうしてそんなことを言うのともいえない。唇が、舌が、喉が、動かない。その時、左目の視界がちらついた。

 恐ろしい何かを感じる。それでも野枝はただただ、言葉を続けていた。

 

「いるのよ。それは、実際に」

 

――駄目、駄目、駄目。

 

 その先を聞いてはいけない。左目がそう叫んでいるよう。でも、何もできない。何も言えない。声が、出てくれない。

 

「仕方ないのよ。仕方がなかったのよ。だって、そうするしかないの」

 

 何を言っているの。何を言うの。

 

――やめて。

 

 その言葉はやっぱり音にはならなくて。ただただ、野枝の顔を見つめるしかできない。野枝の顔。真っ白な、何も浮かんでいない顔。

 どうして気が付かなかったのだろう。最初から、研究棟であった時から、彼女の何かが抜けていたことを。そう、それは色。

 

 人であるための色が抜けている。見れば、ひび割れた、あった。彼女の顔。まるで、蜘蛛の巣が這うように。ひび割れて、漆黒が覗いている。

 夜空のようなものではなく、漆黒。何もかもが飲みこまれているような漆黒。

 

――呼吸が、止まる。

 

 見た瞬間、視えてしまった瞬間、見てしまった瞬間。呼吸が、止まる。呼吸困難。野口さんに聞いた、対処法を試すけれど、どうにもならない。

 多分、これはそういうものではないから。

 

「ねえ、るい。どうしたの?」

 

 野枝は変わらず、まるであたしの変化に気が付いていないかのようで。それが、とても不気味で、恐ろしくて。思わず、後ずさる。

 

「……そう。気が付いてしまったのね。何も気が付かないままなら良かったのに。苦しまずに済んだのに。仕方ないね。だって、止められないのなら――」

 

 声なき声が、通りに響き渡る。いつの間にか、人はいない。どこにも。わずかにまばらだった人ごみが消えて、そこにはあたしと、野枝のただ二人。

 呼応するように、服のほつれのようなものが彼女の背後に広がって行く。ほつれは次第に大きくなっていく。まるで、この世界自体がほつれて消えてしまいそう。

 

 左目はその本質をとらえている。でも、神ならぬ身にて。碩学ならぬ身である自分にはそれがなんなのか、一切が理解できない。

 ただ、あれは駄目だということだけがわかった。

 

 ほつれが脈打ち、虚無の口を開く。掠れて擦れるような声が響く。

 

“黒岩涙香は、幸せのままに死ぬのでした。

 めでたし、めでたし”

 

 それは御標。歪んだ、歪んだ、漆黒の御標。違いが、分かる。極彩色に輝く神の声ではない。それは、漆黒の、野枝の声。

 

――なに、これ、は。

――何なの。

 

 驚く間もなく、世界が漆黒と曇白に塗り分けられていく。塀の上で眠っていた猫も、通りを挟むように建てられた建物も、絡繰り人形も。

 何もかものが白と、黒の存在となっていく。色があるのは自分だけ。あとには、何もない。

 

 薄く微笑む野枝の頬に亀裂が縦の入って行く。まるで涙でも流しているように破片が地って、黒い筋が涙の跡のようにできていく。

 目の前で、彼女の姿が変わって行く。白と黒の反転した瞳、背中から映える異形の手足。帝都をにぎわす怖い御伽噺が、恐怖の噂がそこに現れる。

 

――ぼこり、ぼこり。

 

 音を立てて、変わる。

 

 思わず、持っていた本を取り落とした。輝く何かが、落ちた。それは、銀の鍵。拾う間はなくて、そもそもそんな余裕なんて、あたしはなくて。

 

――その正体を知った。

――恐怖。

 

 呼吸困難の正体。それは恐怖。誰か。誰か。誰か。助けて。

 

――あたしの友達を、助けて。

 

「ふむ、ならば、鍵を拾うが良い」

 

 祈りに応えるように、声が、響いた――。

 

 



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1-10

「ふむ、ならば、鍵を拾うが良い」

 

 祈りに応えるように、声が、響いた。どこかで聞いた声。でも、誰の声か思い出せなくて。でも、反射的に身体は動いてくれた。

 飛びつくように銀の鍵を取る。その時、頭上を通り過ぎて行く異形の爪。ぞわり、と死の感覚が身体を包む。鳥肌が立って全身の毛が逆立つかのよう。

 

「取ったわ! どうすれば良い!」

 

 答える声はない。答える声はない。声は、響かない。

 

――どうするの?

――どうすれば良いの?

 

 わからない。わからない。わからない。

 

「逃げなさい」

 

――また、声。

 

 ここから逃げなければ。そう思う。化け物と化した野枝。その光景がまだ信じられないけれど、そこには確かに怪物がいる。

 白と黒の野枝だった、ナニカがそこにいる。

 

――そこにいて、あたしを殺そうとしている。

 

 その事実に膝を屈しそうになる。それだけじゃない。

 

――御標。

 

 逆らってはならない。帝国の人間ならだれでも知っている常識。逆らってはならない。逆らってはならない。逆らえば酷いことになる。

 それがわかる。だから、殺される。それが正しいこと。

 

――本当に?

――いいの、それで。

 

――ここで殺されてしまえば、野枝はどうなるの? 

――同じように誰かを襲うの?

――それとも、人に戻るの? いいえ、戻らない。

 

 野口さんが言っている。変化すれば最後、戻ることはない。それは実験にも言えること。そもそも、あそこまで変化した野枝が元戻るだなんて、到底思えない。

 逃げよう。御標に逆らってでも。

 

――あたしは、どうなっても良いから。

――野口さんから貰った小説に載っていたあの子のように。

 

 そして、考えるの。野枝を元に戻す方法を。

 

――だから、動いて、脚。

 

 震える脚を叩いて叱咤して、走り出す。

 

「どこへ、いくの私の仔猫ちゃん~?」

 

――野枝があたしを呼ぶ声が響く。

――やめて、聞きたくない。

 

 変わらないようで、どこか変わってしまったその声を聞かないように耳をふさいで走る。夜の街を。白と黒に染まってしまった誰もいない夜の帝都を走る。

 その背に、怪物を連れながら。怪物の攻撃を必死に躱して、走る。

 

――どこへ?

――どこかへ。

 

「――――あぐっ!?」

 

 不意にギチリ、と右腕が音を鳴らす。右腕に何かが這いずるような気配。べきり、べきりと鈍い音が響く。曇白の蔦が右腕に絡みつき、その身体を蝕み始めていた。

 瞬間的に理解する。これが御標に背いた結果なのだと。殺されること。幸せのままに殺されることから背いた結果。

 

 手にひび割れのように亀裂が走って行く。

 

「くっ――」

 

――痛い。

 

 鋭い痛みが脳髄を駆け巡る。身体が組み換わって行く感覚。それでも、脚は止めない。止めれば怪物に追いつかれてしまうから。

 

――頑張りなさい。

 

 野口さんの言葉が、脳裏に木霊する。

 

「はあ、はあ、はあ」

 

 息が切れる。苦しい。右腕がどうなっているのかすらわからない。それを無視して、どこまでも続く漆黒と曇白の通りを走る。

 どれだけ走っただろう。どれほど走っただろう。研究は体力勝負だから、体力だけはある。怪物になった野枝はまだ、後ろをついてくる。

 

――あたしの名を呼んで、殺そうとして来る。

――ああ、ああ、やっぱり。

 

 夢ではない。息苦しさも、全部。何もかも。

 

「――――あ」

 

 足がもつれる。駄目、こける。銀の鍵が手から零れ落ちる。それを拾おうとして、伸ばした右手。

 

「――――」

 

 そこにあったのは、人ならざる手。異形の腕。

 

――誰の手?

――誰かの?

――いいえ、あたしの、腕。

 

 それは紛れもない自分の腕だった。それが現実であるのに、どこか夢み心地のようで、声をあげることすらあたしはしなかった。

 

「るいちゃん、鬼ごっこは、おしまいだよ。さあ、幸せに死のうよ。ちゃんと、殺してアゲル」

 

 追いついてきた野枝。

 

――振り上げられた野枝の異形の爪が貫こうとする。

 

「あ……――」

 

 死を目前にして、思考は加速する。

 

――いいの、涙香?

――これで終わりで良いの?

――諦めるの?

 

 転がって躱しても逃げられない。爪は十もある。避けても次が来る。どうせ、殺されるなら、ここで良いのかもしれない。そう思う自分もいる。

 駄目。駄目。それだけは、駄目。諦めたら、駄目。野口さんから貰った小説の登場人物たちは皆、こんな時でも諦めていなかった。

 

 漆黒の街を走ったあの子も、雷電の輝きを愛したあの子も。

 

――だから、あたしも諦めたくない。

――野枝を助けたい。

 

 顔のひび割れはまるで涙を流しているように見えたから。そうじゃないと、あんな顔はしないと思う。鴎外先生と会った時の見たことない野枝の顔。

 

――ならば、手を伸ばすことだ。

 

 誰。知っている声。誰の声? ずっと聞いたことのあるはずの声なのにわからない。光る銀の鍵。

 

――あれを、掴めばいいの?

 

 わからない。わからない。わからない。

 

――銀の鍵を探すことだ。そうすれば、私はお前を助けよう。

 

 今朝会った、あの人の声が脳裏に木霊する。銀色の鍵。あれがそうかはわからない。けれど、もしそうなら。なんで、野口さんの本から出てきたかだとか、今はわからないけれど。

 でも、もし手を伸ばすことで何かがかわるなら。

 

「あたし、は――」

 

――右手を、伸ばす。

――鍵を、掴む。

 

「――――!!!????」

 

 野枝が驚きの声をあげる。

 

「やあ、お待たせして申し訳ないレディ。少しばかり、講義が長引いてしまってね。いや、言い訳はすまい。レディには申し訳ないことをしたと素直に謝ろう。私は全てを知っている。ゆえに、この結果も、こうなることも全て知っていたのだから」

 

 紳士然とした声が、頭上から響く。そこにいたのは紛れもないあの人。紳士然とした大きな人。鉄道王と呼ばれる碩学様。

 

「りちゃ、-どさん?」

 

――リチャード・トレビシック

 

「そうだよ。レディ。言ったはずだ。私は、君が鍵を見つけたならば、真にその鍵を見つけたならば助けに来ると」

 

 そう言って彼は、野枝との間に割って入る。まるで壁のように立ちふさがる。重圧が消える。恐怖が消える。痛みも、苦しみも、何もかもが消え失せた。

 

「異形化、伽藍化、ここまでくればもう戻れまい。こうなってしまえば、私に出来ることはなにもない」

 

 そう言いながら、野枝の爪を彼は器用に捌いていく。武術の心得もあるのだろうか。柔術。空手、剣道。全てがまじりあったような不思議な型で、彼は全ての攻撃を捌いていく。

 

――その片手間で彼はあたしに問う。

 

「さて、黒岩涙香。彼女はもう助からんが、君はどうしたい」

「あたし、は……――」

 

 リチャードさんが言うとおり、野枝を助けることは出来ない。もはや、彼女を助けることはできない。それはわかってる。

 

――でも、でも。

――野枝はいつもあたしの為に何でもしてくれた。

 

 毎日起こしに来てくれた。いろんな話をしてくれた。男の人の話だとか、女の人の話だとか。

 機関学の話も。からかって、怒って、泣いて、笑って。いつも、野枝は傍にいてくれた。だから、だから。

 

「あきらめたくない。あたしは──」

 

――たとえ、誰が何を言っても。

――たとえ、彼が助けられないと言っても。

――たとえ、彼女がそれを望まなくても。

――あたしは、足掻く。

 

「あたしは諦めたくない!」

 

――諦めない。

 

 野枝は親友だから。諦めたくない。絶対に助けたい。

 そう言った時、

 

「ははははは!」

 

 笑う声が響く。冷笑でなければ、憫笑でもなく、嘲笑でもない。苦笑、哄笑、艶笑、歓笑、喜笑、戯笑、嬌笑。そのどれでもない。それはまぎれもなく喝采だった。

 あきらめずに立ち上がるものを賛美する彼の喝采だった。

 

「良きかな。良きかな。ああやはり、この時、この場所で、今再び、最果ての軌道を見つけるとは。実にすばらしい。何度見ても、この瞬間だけは色あせん。

 ならばこそ、さあ、願いを言うと良い。いと尊きものよ! 一切合財の躊躇なく、私はお前の願いを叶えよう!」

 

 彼はそう言う。願いを言えと。叶えてやると。

 

――本当に?

――本当に叶えてくれるの?

 

 なら、なら。

 

「お願い、あの子を、あたしの友達を、助けて」

 

 ちゃんと出せたかもわからない。声になったのかすら。けれど、けれど――

 

「その願い、確かに聞き届けた!」

 

 彼は、そう確かに言って。

 

――その右手を、伸ばす。

 

「――コル・レオニスの星より落ちし断片

 果て無き地平を疾走する夢を以て

 アカシャは全てを記録する

 過去と現在と未来、我が手にするもの

 全にして一、一にして全

 最果てへと足掻く全てを導くもの」

 

 変化は一瞬だった。大機関の歯車が切り替わるような音ともに世界もまた切り替わる。

 いつしかそこは見慣れた通りではなくなっている。

 六角形の台座が置かれた漆黒。そこは計り知れない暗がり。そこは海。薔薇の香りのする海。

 巨大な石組のアーチが見える。

 

――いつの間にか、あたしはその前に立っていた。

 

「さあ、回せ」

 

――促されるままに、あたしは銀に輝く鍵を動かす。

 

――門が開く。

 

 無限の地平。どこまでも続く遥かなる虚空。

 左目が捉える。黄金をたたえた左目。いつかのあの日に、黄金に変わった左目が何が起きているのかを伝えている。

 

――けど、けど。

 

 それを理解できない。碩学ならぬ身ゆえに、一片たりともそれを理解することが出来ない。

 いや、いいや。理解してはならない。直視してはならない。彼に守られていなければ、きっと狂ってしまうから。

 

 けれど、分かる。あれは運ぶものだと。遥か遠くへと何かを運ぶものであると。過去、現在、未来。同時に存在するどこかへと向かうもの。

 

――ガチリ・ガチリと、歯車が組み合わさっていく。

――蠢くように。瞬くように。震えるように。

――それは形をつくる。それは運ぶもの。軌道(レール)の上を走る蒸気機関車。

 

「さあ、乗るが良い。我が夢は、必ずやお前を望む場所へと送り届けよう」

「なに、ナニをしているの。オマエ、は! ――!?」

「無粋なレディだ。だが、それは意味をなさない」

 

 ひび割れた、掠れた、野枝の声が響く。響いて、その異形の爪を振るう。

 そんなものの前に、形を保っていられるものなどありはしない。けれど、けれど、蒸気機関車に傷はつかない。彼もまた同様に。そして、機関はただ駆動する。

 

――それは確かな熱をたたえて。

――それは確かな輝きを持って。

――それは確かな願いで溢れて。

――鋼鉄の軌道が走る。

――機関は駆動する。

 

 ゆっくりと、そして速く。何より速く。それは、過去、現在、未来、時間すら越えて、あるいは全て越えてそれは門を越えて、漆黒を疾走する。

 黄金の左目が何かを伝える。そう、この場所の本当を。それは世界の真実。知ってはならないもの。

 

――ただ、あたしは気が付けない。

 

 碩学ならぬ身では、あるいは神ならぬ身では、その真実を認識することすらできない。

 

「ヤメテ、ヤメテ、ヤメ――!!!』

 

 伽藍が走り出したそれを止めようとする。けれど、けれど。それは止まらない。

 

「走り出した夢は止まらない。誰にも止めることなどできはしない。

 たとえそれが、初代十碩学第二位《大数式》であろうとも。

 たとえそれが、異形都市の少年王であろうとも。

 たとえそれが、騙り続ける仮面の男であろうとも。

 たとえそれが、鋼鉄の機械卿であろうとも。

 たとえそれが、時計仕掛けの神であろうとも。

 たとえそれが、薔薇と黄金の王であろうとも。

 たとえそれが、漆黒の王だとしても。

 何人たりとも、走り出した夢を止めることはできはしない。

 残念だったな、届かなかったものよ。お前の願いは、聞き届けられない。お前の願いでは、この夢を止めることはできない」

「ギィァアアアアア……ッ!」

 

 絶叫が響く。

 何かが通り過ぎていく。認識すらできない水泡。泡沫のそれ。それは、野枝だった。

 砕けて、崩れて、解けて、散っていく。まるで、何かに呑み込まれるように。元の形が何であったのかさえ認識出来ない、ばらばらの破片へと至るまで、刹那の間に。

 

 目にするのも耐えられないほどの光景。友人が消えていくというのに、眼を背けるほどの光景。だけど、

 

――しっかりと、あたしは見る。

――目を逸らさずに。

――焼き付けるように。

――これは、あたしが願った結果だから。

 

「……ギィ、オ、オ、ァアア……。

 ……タ……ス……ケ……テ……。

 ……ヤ、メ、テ……ル、イ!」

 

 懇願。悲鳴。絶叫。断末魔──。

 野枝が、破壊される。

 野枝の声はかき消される。

 足掻くその全てを、

 

──呑み込む──

――消し去る――

 

 目を逸らさずに、ただそれを見届ける。

 

「喜ぶと良い。お前の願いは今、叶えられた」

 

 その瞬間、

 

――世界は変わる。

――世界が変わる。

――全てを残して。

――私を残して。

――彼を残して。

――世界が変わる。

 

「なに、これ……」

 

 揺れる、揺れる、揺れる。それは蒸気機関車の揺れではなくて。

 今まで感じたことのないような揺れ。頭の中をかき回されるような。まるで、洗濯機関の中に詰め込まれたみたいに。容赦なくかき回される。

 

 何が起きたのかわからない。わからない。わからない。けれど、恐怖はない。これはそういうものではないとわかっているから。

 でも、意識が混濁する。それは、この揺れのせい。それとも何が起きたのかを理解出来ない思考のせい? 男の人の声だけが聞こえる。

 

 自分の声も、息も、何も聞こえてこない。

 

──そして。

──あたしは、誰かに抱かれるような闇へと、落ちる

 

「ああ、また、貴女は進むのね。今度こそ、私はそれを見届けるわ。だから、今は眠りなさい」

 

――誰かの声を聞きながら。

――右手を包まれる感覚を感じながら。

――あたしは、闇へと、落ちていく。

 



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1-11

 暗闇の中、奇妙な感覚があたしの身体を満たしていく。それは、夜眠りについた時のような、それに近い感覚で。でも眠りには程遠くて。

 あたしは、何も見えない。何も感じない漆黒と曇白の中を揺蕩う。身体が動かない。呼吸すら。いいえ、呼吸していない。

 

 生きるのに必要な事をあたしは、何もしてない。けれど、苦しくない。これがここでは普通なのだろう。きっとこれは夢。

 そうでなければ死んでしまったのかもしれない。あの感覚。自分以外の全てが崩れていく感覚を覚えてる。

 

 何が起きたのだろう。わからない。

 

――あたしの左目は知っている。けれど、けれど。あたしにはわからない。何一つ。

 

 未だ、碩学ならぬ身では。神ではない身では。

 

――あるいは、■■であるあたしにはわからないのかもしれない。

 

 何かが外れてしまった。それでも、それでも。諦めたくなかったから。だから、手を伸ばした。

 ふと、誰かの声が聞こえる気がした。聞き覚えのある声。聞きたかった声。その声を聞こうとして、集中して、そして――。

 

「ちょーっと、聞いてる? るいー? 黒岩涙香(くろいわるいこう)ー?」

「――う、うぇひゃぁ?」

 

――あたしを呼ぶ声で我に返る。

――いいえ、目覚める。

 

「え……――?」

 

 視界が光を受容して、辺りの状況を描き出す。それは、いつかと同じ授業終わりの光景。黒板に書かれた白い文字は覚えがある。

 機関学の授業。課題も同じ。前に、あたしが野枝に少しだけ機関学の課題について教えていた時と、同じ。

 

「ちょっとー、聞いてるー? まーた、考え事? ちょーっと、るいー?」

 

 そして、野枝の声。隣にいるあの時と同じ野枝の姿。恐ろしい怪物の姿ではない。いつも通りの。いつも通りの野枝。

 あの時、彼が砕いた彼女がここにいる。どういう、こと?

 

 わからない。わからない。わからない。聞いているのか答える彼女に返事をしなきゃと思う。話をしている途中のようだから。

 

――でも、そんなことよりも。

――この状況は、なに?

 

 しきりに、隣で呼びかける野枝を無視するような形で、周りを見る。講義を終えて少しだけ経ってるから人はいない。隠れている人も、おそらくはいない。

 それはいつかと同じ光景。もう二度と見れないはずの。確かに、同じ。

 

「るーいーちゃーん? おーい、もしもーし? 大丈夫ー?」

 

――野枝、伊藤野枝

――あたしの、親友。

――怪物になって砕かれてしまったはずなのに。

 

 なぜ、なの? 何が起きているの? あたしが、願った。だから、あなたは砕けてしまった。なのに、ここにいるあなたは、誰?

 野枝? そうなの? 本当に? あれは夢? 夢だったの?

 

 いいえ、ちがう。違うわ。だって、あたしの右手が、あたしの左目がそう言っているから。

 

 無意識で隠していた右手。そこには確かに漆黒の輝きがあった。人を越えた手。怪物のように鋭い爪が生えた漆黒の腕がそこにはあった。

 あれは夢ではない。なら、これが夢。いいえ、違う。これも夢じゃ、ない。じゃあ、なに?

 

 わからない。けれど、けれど。とりあえず、話をしようと思う。野枝と。何もわからないから。

 

「だ、大丈夫、聞こえてる、うん、うん」

「じゃあ、何の話か言ってみ? ほれほれ」

 

 早く言いなさいー、と野枝があたしをせっつく。頬をぐにぃ、と押されながら。

 

「えっと、あたしの好みの男性は誰かって話?」

「…………」

 

 無言で額に手を当てられた。

 

「熱は、ないわね。もう、いきなり変なこというもんだから心配しちゃったじゃない。さっきから話しかけても全然答えてくれないし」

「ご、ごめんなさい」

「うん、まあ、熱もないし大丈夫ね。さ、行きましょう? 野口さんが待っているわ。昨日出された課題、一杯だもんね」

「課題?」

 

――え? え?

 

「もー、本当に大丈夫? るいちゃーん? 起きてる? やっぱり熱がある? 気分悪いなら私から野口さんに言っておくわよ? 一緒の研究室なんだし」

「一緒って」

 

――え? え?

――どういうこと?

 

 野枝は鴎外先生の研究室のはず。機関医学について学ぶために入ったって聞いた。数か月前に。だから、その時は残念に思ったのに。 

 なのに、今、野枝は一緒って言った。これは、どういうこと? あたしは、やっぱり夢を見ているの?

 

「るいちゃーん? 大丈夫ー?」

「だ、大丈夫。大丈夫」

「もう、とりあえず行きましょう」

 

 手を引かれるままあたしは、野枝に野口さんの研究室に連れて行かれてしまった。

 

「こんにちはー」

「こ、こんにちは」

「……あら、いらっしゃい。……伊藤、少し用事を頼まれなさい」

「えー、はい、何をすれば?」

「そこの資料と、そこの資料を、鴎外のところに持っていきなさい」

「わかりました」

 

 そう言って野枝が研究室を出ていく。それから、野口さんが指を弾くと同時に、何かが研究室を覆ったのを左目は感じ取った。

 

「メスメル学よ、あなたは気にしないで良いわ」

「あ、あの?」

「右手を見せなさい。放っておくと、呑まれるわよ」

「え?」

 

――え、え?

 

 あたしが、何か言う前に野口さんが袖をまくり上げて、右腕を露出させる。そこにあったのは、怪物の腕。直視してなお、それが自分の腕だとはわからなかった。まだ、右手のみ。けれど、ゆっくりとそれはゆっくりとあたしを蝕んでいるのがわかる。

 それを見て、野口さんが針と糸を取り出した。

 

「痛いわよ」

「―――!?」

 

 刺された。刺された、刺された。大きな針で、腕を刺される。そして、まるで縫い物でもするかのように縫って行く。

 手首、肘、肩。三か所をほとんど一瞬で縫い糸を腕に回す。血は出なかった。

 

「な、なに、を」

「おまじないよ。これで、一気に剥離することはないわ」

「は、くり?」

「そうよ。やっぱり……何もわかっていないのね」

 

 それは、あなたは知っているということ。この状況を。

 

「お、教えて下さい! なにが、何が起きているんですか! 野枝は、確かに」

「わかっているわ。あの子がどうなったのかも。彼が砕いた。それをあなたは確かに見届けた。だというのに。いつの間にか私の研究室に所属している。それが気になるのでしょう? あまりにも――」

 

――そう、あまりにも。

――あたしが願った通りだから。

 

 野枝を助けて欲しいと願った。野枝も一緒の研究室なら良いと願っていた。何もかもが元通りなら良いと願っていた。

 あたしは、思い出す。あの人の言葉を。君の願いを叶えようと言った、あの人の言葉を。

 

「あなたの願いは叶えられた。リチャードの手によって」

「それ、は、どういう?」

「彼によって改変されたのよ」

「改変……」

「そう、この世界がね」

 

 そう言った、彼女の表情はどこか憂いを讃えていたように思えた。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

――音が響く

――音が響く

 

 暗がりに音が響いている。

 

 それは、何かの歯車を回す音。

 それは、何かの螺子を回す音。

 それは、何かを組み立てる音。

 

 数多の音が暗がりに響いていた。

 

 東洋において、彼の大碩学、《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。

 遥かに劣る男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てる。

 

 ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。影の研究室、叡智の深淵と人は呼ぶ帝立碩学院の個人研究室。人はここをそう呼ぶ。

 ここは工房だった。暗い工房。この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と概ねその数は同じだ。だが、ここを訪ねる者はいない。

 

 深淵の叡智を求め、自らの望みと夢を求めて訪ねる碩学の卵はいない。論争を求めて、自らの理論を持ってくる若い碩学もいない。協調し深淵へと至る老齢な碩学もここにはいない。

 

 ただ一人、幸せを求めた女以外には。

 

 彼の組み立てるもの。

 それを知ってはならない。

 命が惜しければ。

 

 それに手を出してはならない。

 命が惜しければ。

 

 ここにはまともな人間などひとりもありはしない。

 ただ暗がりと、ただ歯車の骨と機関の肉体を組み立てるだけの碩学と彼が作り出した機関の人型があるだけだ。ただそれだけだ。

 

 人型。人の形をした機械。概ね、それは欧州における碩学たちの組織であるところの結社に由来した機関人間の構造と同じではある。

 だが、一から創造したという点においてのみ、そこには敢然たる違い存在している。それは無から人を生み出したということに他ならない。

 

 それは神の所業。人が望み、進化(パラディグム)の果てに人がその肉体の機能として獲得したそれを人の()で行ったということ。

 人の身において、この男は、絡繰王と呼ばれるこの男は、人を子宮(うつわ)に頼らずに作り出すという古来からの夢を達成した。

 

 それは純然たる絡繰王(おとこ)の偉業。だが、だが、碩学王(かみ)には届かないと男は自虐する。自虐して、自虐して。

 ただ一つの結論へと至るのだ。己が、及ばぬものであるという事実に。己がどうしようもなく、ヒトであるという結論(ぜつぼう)

 

 ゆえに男は実験を続けるのだ。帝国全土に張り巡らせた機関情報網と明治天皇の威光を利用した数式実験を続ける。

 碩学王が都市を一つで実験をしたというのなら、自分は国一つを使って実験するまで。

 

 男の暗い意志が駆動する。届かぬというのならば、届くようにすればよいという男の暗い意志が。変容の果てに至らんとする意志が。

 

「――主」

 

――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型が声を上げる。

 

 女。人型、からくり。

 

 からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。

 自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。

 

 陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。

 この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。

 

 そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。

 

 

「主、変容の一を確認。第一歯車が回転を開始いたしました」

「ついに、回った。ついに始まった。ああ、ついに、ついに。この時を待ちわびたぞ」

 

 その声に、男はその手を止めた。

 

 女の声に、男は、その手を、止めた。

 

 組み立てるだけの男は手を止めたのだ。だが、歯車は回り続ける。回す者がいなくとも、歯車は回転を止めない。

 ただ回り、ただ組み立てる。なにかを。全てを。

 

「ついにか! ついに、ああ、待ち望んだぞ、この時を。今度こそだ。今度こそ、あの先へと、辿り着くぞ。黄金螺旋階段のその果て、我が求めし窮極の門の果てへと。この時を! 此度こそ、今度こそ、今宵こそ! 私は貴様を超えるぞ大碩学(チクタクマン)!!」

 

 男の声が響く。狂気に染まった、声が響く。それがどこかに届くことはない。ただ、暗がりの漆黒の中で吸い込まれて消えていく。

 

 消えて、ただ願うのだ。いつか。そう、いつか、その深淵に手が届くことを願って。

 男は、ただ、深淵にて歯車を回すのだ。

 

 女のからくりはただそれを見る。水晶玉の瞳で、ただそれを見る。

 思う事もなく、何も感じることもなく。

 

 だが、確かに己の回路が熱を持っていることを女は感じていた。それは男とはまた別のもので。

 男は熱狂する。

 

「おお、喝采せよ! 喝采せよ!

 今宵、この時より、再び、我が機関実験は再開されるのだ!

 今こそ、お前の望みを叶えよう機械仕掛けの天皇、我らが象徴よ。(お前)は死んだ!」

 

 男はただ天を仰ぎ見る。神の如き所業を片手間で行いながら、ただ、ただ、男は、歓喜へとむせぶ。

 碩学王を超越するその時を、ただ夢見て。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「あああ。ああああ!」

 

 暗がりの部屋で声が、音が響いている。何かを掻き毟る音。床を、壁を、あるいは自らを掻き毟る音が響く。

 ここには正気など何一つない。ただ一人の男が狂気の中で喘いでいる。

 遥か遠く、世界の先端を行く重機関都市倫敦より狂気を持ち帰った男が一人、ここで狂気にあえいでいる。

 

「はは、あはひゃははははははははは!」

 

 神は来た。神はいた。神はそこにいる。

 

「目の前に、目の前に、ああ、窓に窓に!」

 

 そこにいる。どこにでも。彼らはどこにでもいる。暗がりに、人の夢にさえも。ああ、人間とはまさに塵だ。宇宙の端で羽虫のようにとぶだけの存在にすぎないのだ。

 

「ああ、あああ、ああああああ」

 

 それこそ、世界の真実あると、男は狂ったように嗤いながら言う。遥か過去、あるいは未来。あるいは現在。英国を覆った漆黒を男は知っている。

 

「次は、お前(わたし)だ。お前(わたし)だ、お前(わたし)だ。お前(わたし)だ!」

 

 ただ、ただ、狂気の声が、響く。

 

「機関刀、腕。それでも求めるのか、お前(わたし)は。あははははははひゃ。滑稽だ、滑稽だ、滑稽だ。お前は、ここで、死ぬ。誰も、彼も、彼には敵わない。彼こそが、全て。全てなのだから、あははははっははははっははははははっは。ははははははははははははははははははは」

 

 まるで、壊れたラジオのように、声が響く。

 

 しかし、誰もそれに耳を傾けないだろう。傾ける人すらここにはいないのだ。

 

 ここにはただ、男と、狂気があるだけなのだから。

 




これにて一章の改稿は終了です。
2章ですが、年末が近づいてきたせいで忙しいので、少し遅くなるかもしれませんが、頑張りますので、これからもよろしくお願いします。

では、また、次回。

良き青空を!


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第二幕 第二の門
2-1


――暗い。

――ただ暗いだけだ。

 

 乾いた靴音が石畳の通りを歩く、俺の靴音だけがそこに響く。石畳の路地を歩く俺の足音。それだけが、この路地を満たしていた。

 それ以外には何の音もない。複合高層機関塔が奏でる共振器(オルゴール)の音色も、夜行機関(ナイトエンジン)が奏でる誰にも聞こえない静かな音もない。

 

 いいや。違う。ただ一つだけある。もう一つ。いいや、二つ。聞こえるのは俺の靴音だけではない。ただ闇の中を歩くこの音だけではない。

 頭の中に響く忌々しい御標。そして、金属音。腰帯(ベルト)に下げた四本の機関刀が奏でる音だけが響いている。

 

 栄光なりし過ちの歴史を歩み続ける世界と我が大日本帝国。蒙昧なる明治機関政府によって駆動する歪な巨大機関。我らが眠らぬ“街”帝都東京。

 その深淵なる暗がりを歩く俺の奏でる音だけが響いている。他には何もない。何も。ここに人はいない。少なくとも常人と呼べるものは。

 

 ただ一つ、御標だけが俺の行く末を暗示するかのように響いて消える。既に一つの時は動き出した。帝都の下に蠢く機関の1つが駆動を開始している。

 全て消えゆく為に。全てを超越するために。神は死んだ。ゆえに、神となる為に。

 

 最愛の者も、最愛の娘も、あの少女すら。零れ落ちて、ここにはもはや己以外にありはしない。ここには誰もいない。

 俺以外に生きる者も、動く者もいない。その中でただ一つだけ、聞こえるのだ。忌々しい御標が。

 

――御標

 

 神子たる明治天皇が下す神託。蒙昧共が幸福になるための標。

 

――ああ、忌々しい。

 

 忌々しい。忌々しい。忌々しい。

 ただただ、聞こえるそれが忌々しい。

 

 忌々しさを感じながら歩いていると、ふと、路地に声が響く。

 

――むかし、むかし。

 

 誰かの語る声が、聞こえる。

 優しげで、誰もがきっと安らぎを感じる声でむかし、むかし、と子供たちに御伽噺を語る声が。

 

――むかし、むかし。

 

 声は語る。声は語る、声は語る。

 それは御伽噺。白と黒色の物語。かつて、幸せであったことを思わせるような極彩色に彩られた白と黒の物語。

 

 だが、聞こえない。

 それがどんなに素晴らしい物語でも。それがどんなに楽しい御伽噺であっても。

 俺には聞こえない。声は次第に近づいてくる。それは、知った誰かの声。かつて、取りこぼした誰かの声。そちらに目を向ける。

 

――手は、伸ばさない。

 

 手は、伸ばさない。己が四の腕は何をしようとも届くことはないのだから。あの時は、既に、もはや過去なのだから。

 

 だが。そう、もしも、そう、もしも、時が止まってしまえば。あの時、時が止まっていれば、

 

 時よ止まれ、お前は、誰よりも美しい。あのときに止まっていれば――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 暗がりが消えていく。

 冷たさが薄れていく。

 霧が、全てを覆い隠す朝が来る。

 

 朝の日はいつものように雲の向こう側からこの帝都東京を照らしている。日出ずる国とこの国が呼ばれたのは今は昔。

 そんな大日本帝国首都、帝都東京の一角。所謂学生街とも呼べるような集合住宅の多い地域。そこにある下宿の二階を女が人知れず見上げていた。

 

 女の名は野口英世。女の身でありながら碩学に名を連ねる者だった。たった数刻だけではあるが、彼の万能の王が行った妙技を模倣し、速度という意味合いにおいては彼の者を凌駕するとすら言われている女であった。

 曰く、実験機械(クラッキングマシーン)。それは正しい。機械のように冷徹に、冷静に、冷血に。彼女は己を機関の一部として使用することの出来る女であった。

 

 そんな女はどこか愁いを帯びた表情で二階を見上げる。彼女がここにいる理由はない。例え、見上げている先が彼女の愛すべき教え子の住まいだとしても。

 朝早くから見上げる意味はない。意義はない。己に許された権能を用いて、人々の視覚から“消える”という透明化を行う必要すら、ない。

 

 ここに来る必要はない。彼女はいつものように研究室に来るのだから。その時を待てばいい。いつでも会えるのだから。

 ここにいる必要もなければ、窓を見上げる必要もない。理由がなければしてはならないということはない。だが、そうここにいてはならない。

 

「…………」

 

 それでも、女は、窓を見つめていた。高度情報機関網。単純に機関網と呼ばれるそれからの監視を受け続けながら。

 あるいは、そこら中に存在する語り部たるからくりからの監視を受け続けながら。

 

「手を出すな、そういうことかしら。ええ、あなたの希望は聞くわ。でもね。あなたもきっと知るわ。あの子の輝きを」

 

 そう小さく呟いて。

 再び、窓を見上げて女は、

 

「るい……」

 

 朝の霧の中へと消える――。 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

――ふと、誰かに、名前を呼ばれた気がした。

――野口、さん?

 

 いつも通りの朝だった。工場区域から響く機械音と、複合高層機関塔の共鳴器(オルゴール)が奏でる旋律、御標の静謐な響きが聞こえてくる。

 うるさいほどのそれにも、今では慣れてしまった。ここへ越した時は、なんにでも驚いていたのに。

 

 瞳を閉じたままでも、朝の気配が感じられる。右手が異形になってからは特に。普段なら、もう少し眠っている時間。まだ起きる時間じゃない。

 野枝が起こしに来てくれるのを待つ。そんな時間。寝たふりじゃなくて、寝ているけれど、無意識に意識的に起こされたくて眠ってる。

 

――けれど、今日は違う。

 

「…………んー……」

 

 瞳を開く。まず見えるようになるのは左目。そして、右目。目につくのは大家さんから貰った柱時計。チク・タク、チク・タク。時を刻むお気に入り。七時半。いつもよりも早い。

 いつも起きるよりもうんと早い時間。耳を澄ませば、大家の栄龍(えいりゅう)さんが朝食の準備をしてくれている音が聞こえる。匂いもそう。魚を焼くにおいであったり、ごはんの炊けるにおいだったり。

 

「もう、朝。おはよう、涙香……。朝よ、起きなさい……」

 

 言い聞かせるように、呟く。目が覚めるように。いつもと違う朝に戸惑わないように。いつもと違うから。

 

――そう、違う。

――いつもと。

――黄金色の左目が告げている。

 

「……起きない、と」

 

 寝台から這うように出て、窓を覆う遮光幕を開ける。灰色の空越しに輝くいているはずの太陽を、感じる。わずかな熱量が、身体に目覚めを教えてくれる。

 ただし、その熱量は右手には届かない。漆黒の右手。おぞましい爪の生えた怪物の手。

 

――あたしの、手。

 

 雲越しに感じる太陽の感覚を右手は感じない。そこだけが、漆黒。まるでなにもないかのよう。けれど、確かにそこにはある。

 

「包帯、巻かないと」

 

 これを誰かに見せるわけにはいかない。栄龍さんにも、野枝にも。だから、いつもよりも早く起きる。これからは。

 包帯を巻く。メスメル学による暗示迷彩というものが施されたという包帯。野口さんから貰ったそれ。右腕に這う糸の縫い跡からそれを隠すように巻いていく。

 

「あ、顔、洗わなきゃ」

 

 それから洗面台へ。たっぷりの冷たい水を使って顔を洗う。左手だけで。

 

――右手では、自分も、誰かも、もう触りたくないから。

 

 怪物の手。それが誰かを傷つけてしまうかもしれないから。大きく歪で、爪も長い。そんなもので顔など洗えない。だから、左手だけで洗う。四苦八苦しながら顔を洗う。

 すっかりと左腕は濡れてしまって。思わず寒さがこみあげてくる。田舎の井戸水ほどではないけれど、機関の冷却と浄水機関の関係上帝都の水は冷たい。洗い物には困るけれど、顔を洗うのには最適。どんな寝坊助でも目が覚める。

 

 淀んだ意識がはっきりとして、これからやるべきことを思い出す。それと同時にたったったった、と聞こえてくる階段を昇る音。

 

――野枝の足音。

――軽快な。

 

 そっとベッドに腰掛けて、待つ。すぐに扉は開いた。

 

「おはよーるいー? ……るいが起きてる。大丈夫? どこか具合、悪い?」

「大丈夫だよ。うん、今日は少し早く目が覚めちゃって」

 

 練習していた言葉を話す。野枝に嘘は通じない。狸根入りも、何もかも。だから、待っていた。

 

「今日は雨かも」

「どういう意味ー!」

 

 少しだけ怒った風に言って、

 

「おはよう」

 

 いつも通りのあいさつから、始めた――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

――あいさつから始めて、着替えて、朝食を食べる。

 

 いつも通り。そういつも通り。今朝の早起きと違って、ここはいつも通り。そう、そのはず。

 

「もう食べないの?」

「へ?」

 

 ふと、かちゃり、と食器の音が響く。落とした音ではない。皿と匙が触れた音。ごはん茶碗はいつのまにか空になっている。

 

――ああ、またやってしまった。

 

 そう涙香は後悔する。いつも通り、いつものように。そう意識しているのだけれど、不意に少しだけ別のことを考えてしまう。

 いつもとは違う。感覚も追いつかない。身体も追いつかないこと。だから、いつもと違う考え事。思考をどこかへと飛ばす行為。

 

 例えるならそういうこと。いつものアレを思考に埋没するというのなら、これはどこかへと飛んでしまう。だから、いつものようにはいかない。

 

「う、うん」

「あら、珍しい。いつもならあと二杯くらいは行くのに。何かあったのかしら」

 

 野枝が驚いた顔から思案顔へと変わる。ふふふ、と笑みを浮かべた思案顔はきっと何か、よくないことを考えている。

 もちろん、犯罪だとかそういうことじゃない。どうやっていじってあげようかしら。そんな猫とどうやって戯れようかという他愛もないようなこと。

 

――この場合の猫は、どうやってもあたし。

 

 この顔の野枝からは逃げられない。

 

「あれかしら。ようやくるいちゃんにも春が来たのかしらねぇ。お相手は一体、誰なのかしら。やっぱり野口さんかしら。それとも、大杉さん? もしかしたら平井太郎君だったりして? うーん、そうなると私としてはやっぱりやめるように言いたいのだけれど、るいが選んだ人だもの尊重するわ」

「だ、れ、も、ち、が、い、ま、す!」

 

 そう言ってきたから、少しだけ語尾を強めて反論してしまう。そういう反応が彼女には面白いのだとしても。やめることはできない。

 子供の用にむくれたように頬を膨らませてみたりもして。やめられない。そういうのが伊藤野枝と黒岩涙香のいつも通りだから。

 

――いつも通り、いつものように。

――そうあたしは意識して、そうなるように努める。

 

「ふふ、ごめんなさいね。でも、待っているのよ?」

「そういう野枝はどうなの?」

 

 知っている。彼女は人気者。特に、この大陸から伝わったエイダ主義と呼ばれるものを受け入れた人たちには。男女問わず。

 だから、引く手あまた。そういうのを断り続けている。理由は、知っているし、知らないとも言える。

 

「そうねぇ。今は、そういうのよりはるいとこうやっていたいかな」

「うん…………――」

 

 野枝が綺麗な黒い短い髪を揺らして呟く。普通では考えられないくらいに短い髪。女としてはありえないと後ろ指を指されても、野枝は気にしない。

 これが自分と自信を持ってこの髪型にしていると宣言している。

 

――野枝、伊藤野枝。

――あたしの親友。

 

 自由な人、凄い人。まだまだ珍しい着物襟をしたワンピースという洋装を着た可愛らしい友人。破天荒でいつも振り回されるだけど、大事な、大事な親友。

 そう、そう言い聞かせる。野枝は変わらない。望んだとおり。いつも通り。

 

――違うのはあたし。

 

 そっと、隠した右手を握り込む。ギチリと音を鳴らす。それは人が、女の子が出してよいような音ではない。暗がりに潜む怪物が鳴らすような音。

 変わってしまった。何もかも。あの日、全てが変わってしまった。

 

――あたしのせいで。

 

 望んだ通りに――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「…………」

 

 男は黙っていた。

 

「…………」

 

 男は黙っていた。

 

「…………」

 

 全てを知るがゆえに、男はただ黙っていた。

 

 男の名はリチャード・トレビシック。鉄道王と呼ばれる碩学であった。彼について知らぬ者はいない。鉄道を開発した男の名をこの機関文明が栄華を欲しいがままにしている黄金の時代では、東洋においても西洋においても知らぬ者などいない。

 彼がもたらしたものは、世界を縮めたからだ。鉄道。今では、世界の全てを繋ぐものと言っても差し支えない。陸における交通。

 日本において機関車は駿城と呼ばれている。まさか装甲蒸気機関とは彼をしても想像はできなかっただろう。いや、知っていたのか。

 極東における大日本帝国人の魔改造には驚くばかりだ。それも知っていたのか。

 

 そんな鉄道はまさに革命的であった。彼の手で最初の蒸気機関車が作られてから、世界は急速にその大きさを小さくした。

 彼の作る鉄道はありとあらゆるものを運ぶ。軌道(レール)の続く限りどこへでも。

 

 だが、同時に彼については何も知られていない。どこから来たのか。どこへ行くのか。誰も知らないのだ。誰も。誰一人も。

 少なくとも彼が初めて現れたロンドンでの鉄道発明以前の彼について知る人は誰もない。そう誰もだ。人は。誰も。

 

 そう誰も。ただ一人、同郷の者を除いて。彼は碩学だった。知らぬものなどいない碩学だった。そんな彼に対して、リチャードはいつものように言葉を紡ぐ。

 

「久しいな、と言っておこうか。私は全てを知っているゆえに、君にとっては久しくとも、私には久しくはないのだが、ここはただ久しいな、と言っておこう」

 

 彼は誰かへと語りかける。それはただ一人、男について知る者へと。チク・タク。チク・タク。と音を奏でる者へと静かに語りかけるのだ。

 対する何者かはただ、チク・タクと音を奏でる。

 

「お前は繰り返すのだろう。私はそれを知っている」

 

 対する何者かはただ、チク・タクと音を奏でる。

 

「ならばこそ、私もまた繰り返すのだ。それも私は知っている」

 

 対する何者かはただ、チク・タクと音を奏でる。

 

「なるほどそういうこともあるだろう。だが、私は、全てを知っている。ゆえに、答えは変わらないよ。意味はあるのだ。私はそれを知っている」

 

 そして――。

 




甲鉄城のカバネリって面白いですよね。
和風スチパンなので、設定を流用しちゃったりねしてみたり。


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2-2

 流れる川。濁ったその川のほとりを野枝と共に歩く。目的地は碩学院。野枝と一緒に登校する。爽やかな朝。川の水は、噂に聞く英国ほど酷いものではない。

 浄水機関によって一度浄水された水。だから綺麗。でも、わずかに残る匂いを涙香は好きにはなれない。何もかも綺麗に落とした匂いは、嫌なものを思わせる。

 

 たとえば、曇白の空間とか。暗闇に浮かぶ数多の白い輝きだとか。彼と共に列車にのって見たあの光景を思い出してしまう。

 あの光景。思い出そうとすると頭が割れそうになる。左目は、理解しているのかもしれない。けれど、理解できない。碩学ならぬ身では。神ならぬ身では。

 

 だからこそ、思い出さないように努めて、今は野枝との会話に集中する。今日の講義内容だとか、野口さんとの実験についてだとか、あとは近づいてきた試験についてだとか。

 あるいは男の子の話も少しだけ。もしくは女の子の話。野枝はしきりに野口さんの話をしてくる。あとには、喫茶店にある洋菓子のお話。女の子らしい他愛もない会話。いつも通りの。

 

 でも、今日は少しだけ違った。

 

「やあ、レディ。奇遇だね」

「あ、リチャード先生、おはようございます」

「あ……――」

 

 彼と出会った。彼。そう彼と出会った。

 

――彼、野枝を砕いた彼。

――リチャード・トレビシック。

――あたしの、会いたかった人。

 

 あの日以来、会えなかったから。いなくなってしまったのかとも思った。けれど、たぶんそれはない。確信のないものだったけれどなぜかそう思った。

 きっとまた会える。そんな確信のない予感は今、こうやって現実になった。この後はきっと講義に出る。遅くまでの鉄道機関学。そのあとは、鉄道敷設の為に現場に行って作業をしている。

 

 これが野枝に聞いた彼の予定。だから、今しかない。

 

――あたしは、意を決して彼へと話しかける。

――包帯の下、袖の下に隠した右手が震える。

 

「あ、あの!」

 

 語尾が上がる。

 

――緊張のせい?

――いいえ、違う。

――これは、恐怖。

 

 怪物を砕いたあの光景が思い出される。

 

――あの慟哭を、あの衝撃を、あたしは忘れられそうにない。

 

 吐きそうになるのをこらえながらしっかりと彼の目からは視線を逸らさないように。

 

――綺麗な目。

――見る角度で色の変わる不思議な。

――虹色の瞳。まるで泡のような。

 

 吸い寄せられるような瞳。思わず、言葉が出なくなる。恐怖も忘れて、ただその眼を見続ける。

 

「どうしたのかな、レディ。私に、言いたいことがあるのだろう?」

「あ…………」

 

 束縛が解ける。彼の言葉がすぅと頭の中に入ってきた。固まっていた身体が動く。

 

「あ、えっと、い、今、御時間、良いですか」

「ふむ、そう来たか。レディのお誘いを断るのは紳士のするべきことではない。そちらのレディも一緒で良いかな?」

 

 その時、野枝もいたことを思い出す。失敗した。そう思った。けれど、

 

「おーっとと、確か私、用事があるんでした。そういうわけで、るい! 先に行くねー!」

 

 大丈夫、ちゃんというから。とでもいうように彼女は笑ってごゆっくりーと言って言ってしまった。勘違いをしている。けれど、今はそれがありがたい。

 

「では、レディ、こちらへ。私は君の選ぶお店を知っているよ」

 

 そう言って彼と共に、行きつけの喫茶店へ向かう。確かにそこは話をする場所として提案しようと思っていた場所だった。

 

「私は何でも知っているよ。君の事も、ありとあらゆることも。私は全てを知っている」

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「…………」

 

 男は何も言わなかった。男は何も言っていなかった。男はただ、黙っていた。

 甚だ浮いた男であった。欧州では一般的だろう紳士服。一見して欧州の者の如き姿であるが、間違いなく彼はこの大日本帝国の人間であった。

 

 しかし、その特徴的な黒髪は酷くぼさぼさで、手には何かを書きなぐったのだろうペンたこの跡がある。物書き。その跡は彼をそう思わせる。

 あらゆる狂気をその身に宿すという男は、その虚構の口を閉じてただただ黙っていた。

 

 何の変哲もないアパルトメントの一室。木製の壁と天井が覆い、わずかな窓には幕がかけられ日を遮っている。いいや、もしかするとそこから先は何もないのかもしれない。

 そこには椅子に腰かけた男、ただ一人しかいなかった。もしかすれば、彼からすれば何か別の誰かもいるのかもしれないが、少なくともこの部屋にいる者は彼だけだった。

 

 やはり男と同じく何の変哲もない部屋だ。古びた本棚に机。物書きの部屋。そう形容するのが正しい部屋。ただ一つ、壁や床、天井にまで書きなぐられた文字以外には。

 それは大日本帝国の文字ではない。文法からすれば大日本帝国の言語のようではあるが、それは違う。奇妙な数式のようにも思えるそれはカダス文字。

 

 書きなぐられたそれは、おそらくはこの世界の事ではないのだろう。狂人(賢者)が知覚したもの。それが部屋一面に書きなぐられていた。

 おそらくはこれを読んで理解できるものはいないだろう。この男の事を知る者と同じくごく限られた人だけ、だ。

 

 ただ一つ、理解できるとすれば、明らかに狂っている、それだけだ。おおよそ、全ての人がこの惨状を見れば狂っていると評する。

 しかし、この場を知る者はいない。少なくとも、まともな者は。だからこそ、誰もこの異常を感知しない。この男が黙っているということを。

 

「吾輩は――」

 

――なんであろうか。

――なにでありたいのか。

 

 猫であったような気もするし、人間であったような気もする。

 全ては気がするだけの幻想なのかもしれない。

 ただ今は、男だった。四本腕の自分だった。それもまた意味はないのかもしれないが。

 男は問いを投げかける。意味のない問いを。

 

「遠く、近く、

 緑の芝生の中を

 糸杉の下を

 炎は移動する

 冷たい光を発しながら

 それは霊魂なのだ」

 

 語る、語る、語る。

 男は語る。何かを。

 

 詩の一節のようではあるし、誰かの言葉のようでもある。いいや、意味などないのだ。この男にとっては。ただ耳にしたこと、目にしたものを言葉にしているに過ぎない。

 狂人の戯言。もとより誰も聞いていないのだから、意味のあるもののはずがないのだ。

 

「会いたい、(お前)の望みはこれだ」

 

 男の声に含まれるものは何一つない。ただ壁に反響して大気へと言葉は消えていく。誰の耳にも届きはしない。男自身の耳も例外ではなく。言葉は誰にも届かない。

 なぜならば、これは届かなかった願いなのだから。

 

「はぁ」

 

 あくびをするように男は息を吐き出した。眠りに揺蕩。覚醒と眠りのはざまで男はただ、言葉を吐き続ける。

 

「あの時に戻りたい。そして、時よ止まれ、お前は美しい」

 

 それは誰かの願い。四本腕の誰かの願い。

 

「ふぁ~あ」

 

 男の欠伸とも取れぬ息が吐き出される。

 

「全は一、一は全。私は、全てを知っている」

 

 それは、男の願いか。

 

「ああ、あああああああ、ああああああ」

 

 そして、暗がりに狂気だけが響くのだ。

 

「見るが良い! これが、私が見つけ出したものだ! お前にはやらない! お前は、ただ、そこで止まっていろ! 後悔で時を停めた四本腕の侍め!!」

 

 男は嗤う。男は嗤っている。男はただただ嗤っている。

 暗がりで、意味不明な言葉の羅列を吐き出しながら、嗤っているのだ。

 嗤い続けているのだ。

 暗がりで。誰もいない暗がりで。

 そうかつて、シャルノスと呼ばれた、暗がりで――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 そこに音はなかった。いや、あった。

 そこに光はなかった。いや、あった。

 そこには何もなかった。いや、そこには全てがそろっていた。

 

 正しい1910年――どこかの研究室の一室に男がいた。白衣をまとった男はそこに立ち、その部屋にいる者たちへと宣言する。

 

「俺は、願いを叶える。神の座などどうでもいい。俺は、そのために手に入れて見せる。お前などにやるものかよ」

 

 それは宣誓だった。何よりも強く、それでいて憎悪と敵意をのせて、それは上座に座る者へと叩き付けられる。その者は無言だった。

 圧倒的なまでの憎悪を向けられながら、さながら稚児のように歯車を回し続けていた。その顔に笑みを浮かべて。

 

――お前には無理だ。

 

 まるでそういうかのように笑みを浮かべて。それはある意味で己に向けたものかもしれない。だが、宣言をした男はそうは受け取らない。

 

「俺は必ず窮極の門の先へと至る。そこにあるものを手に入れる。それこそが、俺の望み」

 

 歯車で形作られた腕がガチリ、と音を鳴らす。かちゃりと腰の四本の刀が音を鳴らす。

 

「俺のほかに、出来るものか。見ているが良い」

 

 圧倒的なまでの唯我。そして、男は背を向ける。以降、男が訪れることは二度となかった。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「おはようございます野口先生」

「ええ、おはよう、るい」

 

 いつものように研究室に入る。時間は一時を過ぎたくらい。野枝はいつものように自分の机で野口さんのレポートと格闘していた。

 ちらりと目を向けられたけれど、何かを聞かれることはない。本当は聞きたいのだけれど、野口さんは実験中の私語を許してはくれない。

 

 そんなことをしていては追いつけないから。実験機械(クラッキング・マシーン)と称されるほどの実験速度についてくのがやっとだから。

 だから、遅れると大変。机の上には山のように紙束が積み上げられている。

 

「うっ」

 

 思わずうめき声をあげてしまうくらいには。これでもマシだと思う。前よりは。前は一人で全部やっていた。今は、野枝がいるから。

 半分。これくらいなら余裕。それでもこれ以上なにもしないと流石に大変。だから、すぐに作業をしようと思っていると。

 

「入るぞ」

 

 ノックも無しに研究室の扉が開く。男の人の声。聞き覚えのある。

 

「――――っ」

 

 思わず、叫びだしそうになった。そこに立っていたのは幽鬼のような男の人だったから。

 

――森鴎外先生。

――怖い人。

 

 誰よりも怖い人。右手が怪物のそれに変わった日からは特にそう感じる。怖い。まるで抜き身の刀のように鋭くて、触れれば最後切られてしまうのではないかと錯覚する。

 腰に下げた軍刀がそれを助長する。

 

「借りるぞ」

「え――」

 

 ただ一言だけ。そう彼が口に出した瞬間、左手を引かれる。そのまま引っ張られるまま連れ出される。許可なんて誰も出していないのに。

 誰かが何かを言う前に連れ出されてしまう。ただ何かを言う暇があったとして何かを言えるとは思えないけれど。

 

「いい加減自分で歩け。それとも貴様は自分で歩けないクズなのか」

「あ、あるけま、す」

 

 前を向いて、彼の三歩後ろを歩く。それに満足したのか彼はそれ以上何も言わずに歩いていく。顔を伏せたままそれについていった。

 

――なに?

――一体、何をさせられるの?

 

 わからない。けれど、警戒してしまう。彼の雰囲気がそうさせる。彼に対して警戒しないという選択肢はない。良い噂はまったく聞かないから。

 世界がこうなる前も、今も。悪い噂しか聞かない。だから想像するのはそういうこと。野枝のこともあったから特に。

 

――けれど。

 

「早くしろ屑が」

 

 ついたのは図書館だった。危ない研究室とかではなく。

 

――碩学院の図書館。

――ありとあらゆる学術書があるという。

――あるいは、明治機関政府の検閲から逃れたアブナイ本だとかが閲覧禁止の棚にあるとか。

 

 それは事実だった。

 

――知っている、あたしは。

――ここにあるのは、学術書ばかりではなく表に出せないような本もあると。

 

 閲覧禁止の棚。あるいは影に覆われた書架。そこには暗がりの叡智が詰まっている。そんな噂も本当。整理したことがある人間からすれば、噂なんてまだ可愛いもの。

 読むだけで正気が削られそうな本が、そこにはたくさんあるのだ。連れてこられたのはそういう書架。図書館の最奥。限られた者しか入れぬというそこ。

 

「探せ」

「え、えっと、何を、です、か?」

「チッ、野口め言っていなかったな――尸条書の写本だ。探せ。貴様は、ここに詳しいと聞いている。俺の役に立て」

「は、はい!」

 

――なんだ、本探しか。

――それならそうと言ってくれればよかったのに。

 

 そう思うけれど、この碩学が普通に頼みごとをする姿など想像できない。だから、何も言わず言われた通りに本を見つけに行く。

 幸いな事に尸条書は知っている本である。目的の書棚へ行って取ってくる。それに時間はかからない。

 

――でも、鴎外先生はなんでこの本を?

 

 彼が読むような本ではない。書かれていることは荒唐無稽なことばかりだ。魔導書とも言われている本。少なくとも軍事機関医学の先生が読む本ではない。

 

「おい、まだか」

「も、持ってきました」

 

 考えるのはまた今度。今は、届ける方が先。それを届けて手渡す。それを彼は懐へしまった。貸し出しは禁止のはずなのに。

 

「あ、あの、貸し出しは」

「許可は得ている」

 

 それだけ言って彼はさっさと帰ってしまった。お礼の言葉すらない、まるで当然だろうとでも言わんばかりの態度で彼は図書館を出て行ってしまった。

 

 

「なんだったの?」

 

 思うのはそればかりだ。何もわからないのが不気味だった。

 

「…………」

 

 何か、あるのだろうか。

 

――予感がした。

――左目がそう言っているような気がした。

 

 また、あの時のようなことが起きる。そんな予感が――。

 




ネクロノミコンの写本がある図書館、それがスチパンクオリティ。

るいちゃん地味にクトゥルフ神話技能が高いんですよねぇ。
ちなみに、SAN値は減ったと思ったら野口さんとの百合ぃで回復する予定。

リチャードはその手のことには使えないので。なにせ全知だからね。


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2-3

 コッツウォルズのクロテッドクリーム。機関製の手作り風アップルジャム。多めのスコーンと、はちみつ入りの紅茶(ティー)

 それは如何にもな英国風のお茶形態。あまりなじみのない午後の紅茶(アフタヌーン・ティー)のメニュー。

 

 栄えある大日本帝国首都帝都においてそのような外国のものを扱っているお店というのは未だ少ない。徳川機関幕府による鎖国政策が撤廃されてから久しくも未だにこの国は、外国のものを完全に受け入れているとは言い難い。

 エイダ主義然り。鉄道もそう。帝都東京を出れば未だ古き良き江戸の文化の名残を感じることが出来る。田舎の村なんかは特にそう。

 

――私の故郷もそう。

――土佐の国の安芸。

 

 そこの田舎はまだかつての趣を残していた。帝都とは違う。

 

――帝都は進んでいる。

――多分、この国のどこよりも。

――外国の料理を出したり、お菓子が食べられるのはここと、長崎くらい。

 

 街並みもなにもかもが違う。

 ここに至る少し前、黒岩涙香は通りを彼に連れられて歩いた。案内されたのは外国の食べ物を出す喫茶店。インテリ向けの店で一般大衆は入りにくいお店。

 碩学院の学生なら時折来る程度。野枝がいればそれは頻繁になる。頼むのはいつもの紅茶とお菓子。つまりは、今目の前に並んでいるもの。

 

 黒岩涙香はリチャード・トレビシックと共に小さなテーブルを挟んだ正面の椅子に座って困惑の表情を浮かべていた。

 それはいつもと違うからか。いや、いつもと同じであったから。目の前に並んだ品の数々がいつも通りであったから。

 

 それはリチャードが頼んだものであった。一切、涙香に相談すらせずに。紅茶にはちみつまで入れて。これは涙香が好むもの。リチャードが知らないこと。スコーンも多め。これもいつものことであり、彼は知らないこと。

 

――だから、あたしは驚いてしまった。

 

 何も言っていないのに、まるで知っているよと言わんばかりに目の前で注文されて、わざわざ頼むまでもなく

紅茶にクリームを入れてスコーンも多めにしてくれた。

 いつも通りの注文で、いつも通り女給が持ってくる。その視線はいつもとは違う相手とここに来ていることへのほほえましげな視線。あきらかな邪推。

 

――それもまたあたしの思考を乱してしまう。

 

 その間も彼は淡々と紅茶に口をつけていた。

 

「ふむ、実に美味だ。この国に来て一番困るのはこれだと思っていたがやはり、ここの紅茶は美味い。本場ほど、とは言い難いが良いものを使っている。それで、どうしたのかね?」

 

 一切手を付けないのでそう彼は問うてきた。

 

「あ、いえ」

「これらは君がここに来るたびに頼んでいるものだと思うのだが、違うかね?」

「いえ、違いません」

「やはり驚くかね? 言っているだろう。私は全てを知っていると」

 

――全てを知っている。

――胡乱な言葉。

――何を知っているというのだろう。

――本当に全てを知っているというの?

 

 疑問が駆け巡る。またいつものように思考の迷路へと足を踏み入れそうになる。けれど、

 

「さて、思考の迷宮を探索することはとても有意義なことではあるが、今の君が行う事としては不適切だと私は思う」

 

 止められる。

 

――野枝にも止められたことないのに。

 

「な、んで」

「私は全てを知っている。君が行う事も、君がどんな娘なのかも。メスメル学などでは断じてないよ。私は事実、史実も、歴史も、あるいは未来ですら私は全てを知っている。君が聞きたことすらも、私は知っているよレディ・ルイ? 君は聞きたいのだろう? 君の願いによって、この世界がどうなったのかを。何が起きているのかを」

「…………」

 

――当たっている。

――全部。

 

「教えて、下さい。あなたが、本当に全てを知っているというのなら」

「それが君の願いならば。私は一切合財の躊躇なく、その願いを叶えよう。しかし、その前に食べると良い。朝もいつもよりおかわりしていないだろう。二杯もだ。それではお腹がすいてしまうよ。さあ、好きなだけ食べていい」

「なっ――」

 

――なんで、そんなことまで知っているの!

 

 顔を赤くして思わず叫びそうになるのを必死にこらえる。周りをきょろきょろと見渡して、誰も見てないことを確認して話をしてもらえるように頼む。

 

「ふぅ、やはり君はそうか。良いだろう。では、話そう。まだまだ、御伽噺は始まったばかりだ」

 

 そう前置きとでも言わんばかりに彼はそう口にする。解釈は好きにしろとでも言わんばかりだ。君がどう受け取るかも知っている。だから、説明はしない。

 彼はただ口にする。望むことを。

 

「この世界がどうなったのかを。彼女に聞いているだろうが、世界は君の望むままに書き換えられた。いや、正確に言えば、君が望む世界を選択したというべきか」

「どういう、こと」

「世界とは無数に存在するということさ。世界は一つではない。無限の可能性の下に存在している。未来は別れ広がる葉脈のようだ。

 その世界の中から君が望む世界を私は持ってきた。いや、可能性を排したというべきか。ふむ、どう解釈するかは自由であるが、結果は一つだ。

 ここは君の望む世界になっただろう? 伊藤野枝は異形になっていない。君が望んだとおりの世界だ」

「で、も、あたしは」

 

――あたしは覚えている。

――あなたの機関車が野枝を砕いたことを。

――あの断末魔を。

 

「そうだ。あれは嘘ではない。以前の世界においてあったことだ。だが、それもまた君次第だ。伊藤野枝はこの世界において生きている。君の願いは確かに叶えられている。私は君をここに連れてきた。望む場所へと。君の望む世界へ。それをどう受け取るかは君次第だ」

 

 そう彼は言った。暗い真実を――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 そこは一言で言うと乱雑であった。二言目をかけるならば、整然としているが適当だった。正反対の表現であるが、ここでは競合しない。矛盾しない。

 この場においては、ここは乱雑であり、整然と整っているのだ。あくまでも、この場の主においてはという言葉が付くが。

 

 ただの人が見ればただの乱雑で汚いだけの部屋だ。しかし、見る者が見ればわかる。家具の配置が、書棚の書籍の並びが、あるいはそこら中に散乱している書類の配置全てにおいて意味があることが。

 ある特定の者だけがそれを知ることが出来る。その効果を得ることが出来る。現状に置いては二人。部屋の主ともう一人。

 

「…………」

 

 その主たる女は終止、無言であった。

 己の領域たる研究室にありながら、女は無言だった。無考とも言う。無意識とも言う。彼女は今、何も考えていなかった。

 

 いつもならば、愛すべき自らの教え子にいつものように贈り物をしようかと考える。最近では、新たに教え子に加わっていた少女にも何かを送ろうかと考える。

 どちらにも与えるものは贔屓しない。与えるものは最高のものに限る。人も、知識も、あるいは英国風に言うプレゼントでさえ女は妥協する気などなかった。

 

 それは立つ鳥が跡を濁さぬようにするのとはまったくの真逆に思える。事実、そうなのだろう。彼女は爪痕を残そうとしている。

 己の時間が幾ばくも無いことを理解しているから。だからこそ、二人の雛鳥に与えるのだ。最高のものを。己に残せるものを。

 

 また、考えることは可愛らしく初心な教え子をからかうことも入るだろう。新しい教え子と共に可愛らしい愛すべき教え子をからかうこと。

 正直、最近の彼女の反応は見ていられないが。

 

 愛する彼女には才能がある。それは左目が黄金瞳だからということではない。確かにそれはある一面から見れば稀有なことで、同時にそれは望むべきものでもある。しかし、そうではない。そうではないのだ。

 彼女の才能はまた別にある。ものを考えられることもそうだが、もっとも大事なものを彼女は持っている。優しさを持っている。妥協しない心を持っている。

 

 だからこそ、見ていられないのだ。それは、それは茨の道であると知っているからこそ。それを憂慮するのだ。愛する彼女を慮って。

 

 しかし、今、女は何も考えてはいなかった。白。真っ新な白い思考で、ただ女は煙管を吹かす。紫炎がすぅと中空を満たした。

 それが何等かの形を結んだように見えた。

 

「そう、そう。次が(・・)来るのね」

 

――次が来る。

 

 そう女は呟いた。

 突如として女の頭が回る。高速で。実験機械(クラッキング・マシーン)とも称される女の頭脳が思考を開始する。

 膨大な可能性を模索する。莫大な数値で計算を行う。

 

――演算する。

 

 それは通常、大機関を用いて行う演算であった。だが、女はその身にて行う。そして、両の手は常にせわしなく動いている。

 試験官を傾け、歯車を回す。かと思えば、フラスコを回し、機関を駆動させる。部屋の様相を変えていく。それは誰も気が付かないほどに小さなものであったが、部屋の意味を思えば大きな変化になりえた。

 

 その速さは尋常ではない。特に、手袋に包まれた左手は特に。

 

「ふう、こんなものね」

 

――半刻

 

 それはおおむね、英国においては一時間と呼ばれる時が過ぎた頃、女は全ての動きを止めた。それは教え子がこの研究室に来る時間と概ね同じ時間であった。

 不意に暗い研究室に月明かりが差す。実験台を照らす月光を受けて、部屋のものは美しき極彩色を描いている。対して、女の左手は白と黒にしか映らない。

 

「どうか、祈っているわ。あなたが、無事に果てへと至れることを」

 

 そう呟いて、女は扉が開くのを待つ。そこに現れるであろう少女を待って。

 

「お入りなさい」

 

 そして、現れた少女を研究室に招き入れた。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

――音が響く

――音が響く

 

 暗がりに音が響いている。

 それは、歯車を回す音。

 それは、螺子を回す音。

 それは、組み立てる音。

 

 東洋において、彼の大碩学、《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。それは少なくとも彼の大碩学よりも優れたもののはずだった。

 しかし、それを遥かに劣ると自嘲する男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てる。散乱する歯車の山の中で、あるいは碩学機械の中で、男はただ組み立てを続ける。

 

 ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。影の研究室、叡智の深淵と人は呼ぶ帝立碩学院の個人研究室。人はここをそう呼ぶ。

 この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と、この碩学院で学ぶ学生の数と概ね同じほどだ。だが、ここを訪ねる者はいない。

 

 ただ一人、四本の腕を持つ軍服白衣の碩学以外には。

 ただ一人、狂気に浸り、発狂した物書き以外には。

 ただ一人、大外套を羽織った熱狂的な軍人以外には。

 

 深い知識、深淵の叡智を求め、訪ねる碩学の卵はいない。学徒はいない。ここには学ぶことなどなにもないゆえに。

 論争を求めて自らの理論を持ってくる若い碩学はいない。ここには論争をする為の論など存在しない。あるのは実践による機関実験のみだ。

 

 ここには誰も、彼と、彼の組み立てるもの、狂った物書きと、大陸へと関心をよせる狂った機関軍人以外にはなにも。

 彼ら以外に、ここにはなにもいないのだ。彼の組み立てるもの以外には。

 

 彼の組み立てるもの。

 それを知ってはならない。

 命が惜しければ。

 それに手を出してはならない。

 命が惜しければ。

 

 ここにはまともな人間は誰ひとりとしていない。

 ただ暗がりと、ただ組み立てるだけの碩学と機関の人型と、発狂した男と、剛毅な軍人があるだけだ。

 

――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型はただ、彼の機関情報監視網にて帝都の全てを視る。

 

「主、変容の兆候を感知、未だ変容はなされません」

 

 女の人型が言う。

 女。人型、からくり。

 それは碩学王の功績でもなく、ただ一人、絡繰王と呼ばれたこの組み立て続ける男の偉業。人工的に生命を創りだすという神の如き偉業の産物に他ならない。

 

 からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。

 自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。

 

 陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。

 この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。

 

 事実同一なのだろう。これはただ語り部と同じく明治天皇が張った高次元機関情報網に介入し、そこから情報を引き出し御標を聞き取るための装置であるからだ。

 そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。

 

「既に歯車は回っています主。ウムル・アト=タウィルの案内は正確です」

 

 鋼の声。機関声帯が奏でる鉄の音色がただ一言、主に告げる。

 

「そうだろうとも。ああ、そうだろうとも。そうだろうとも」

 

 男は手を止めた。組み立てるだけの男は手を止めたのだ。だが、歯車は回り続ける。回す者がいなくとも、歯車は回転を止めない。

 ただ回り、ただ組み立てる。なにかを。全てを。

 

「偉大なるもの、ふるきもの、そとなるもの。

 それにお前が届くとは思わない」

 

 無論、それは己も含むのだろう。言葉に含まれるのは喜びと自虐。

 

「しかして、それがどうしたというのだろうか。お前もまた、届かない。碩学王よ。私がお前に言われたように。お前にも言おう。お前には無理だ」

 

 ただただ、男はここにいない男へと言葉を投げかける。届かない言葉を。それは、四本腕の侍へと告げられる言葉だった。

 だが、言葉は届かない。言葉は、届かない。言葉は、届きはしない。

 

「あるじ」

「そうだろうとも、届きはすまい。しかし、今もまた我が機関実験は進行するのだ!

 今こそ、お前の望みを叶えよう機械仕掛けの天皇、我らが象徴よ。(お前)は死んだ。

 此度の実験こそ、我が愛、我が願いの果てへ至らん。今こそ、私はお前をこえてやるぞ大碩学(チクタクマン)

 

 男はただ天を仰ぎ見る。神の如き所業を片手間で行いながら、ただ、ただ、天を仰ぐのだ。そこにある何かへと。巨大な黄金を仰ぐのだ。

 碩学王を超越するその時を、ただ夢見て。

 




裏で何やら碩学が動いてますが、平常運転です。


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2-4

 ――碩学院研究棟。

 遥か英国の王立碩学院を模したこの学院に存在する碩学たちの塔と呼ばれる建物。高層複合建築によって建てられたこの建物はどこか箱のようにも見える。ゆえに叡智の箱とも人は呼ぶ。

 ここには、帝都、いいや、この帝国、偉大なりし明治天皇が治める豪華絢爛たる帝国において、最も優れた頭脳を誇る碩学たちが集められている。ここにあるのは一流と最先端のものだけだ。人も、機関も、あるいはそれ以外すらも。

 

 碩学がより良い研究を行うことが出来る場所。それがここであり、碩学の卵たちが通い知識を学ぶ場所でもある。

 けれど。けれど、その一つ。碩学院研究棟三階奥の研究室。暗がりに沈んだかのような研究室。

 割れた機関灯が交換すらされず放置されている。明らかに他とは違う。そう、暗がりの中に浮かび上がるように存在する研究室は他とは少しだけ違う。

 

 軍事機関医学研究室。

 ここは森鴎外先生の研究室。

 研究室の扉に、そう傾きかけた看板が下がっている。可愛らしい丸文字は、男のものではなく女の手書きであることを連想させる。

 この場においてと似つかわしいものであるが、誰も気にはしない。それは、この場に来る生徒が少ないというごく単純な理由によって。

 

 これを書いたのは、かつて……そう、かつて。単純にかつてというべきかは定かではないが、この研究室の主の感覚においては少なくともかつて、この研究室にいた一人の娘が勝手に下げたものだった。

 わかりにいくいからかけておきますね、と碩学院の学生ならば声をかけることすら躊躇う男に対して、天真爛漫に言ってのけ許可も取らずにかけていったもの。

 女の丸い文字で書かれた看板はこの部屋の主には酷く不釣り合いだった。だが、下げることはない。下げることは、ない。

 

 ただ一人、この研究室を志望した変人の残した唯一のものだ。いや、それ(変人)は言い過ぎだろうか。いいや、言い過ぎではないか。

 機関医学、それも専門的でニッチな軍事機関医学を専攻しようという学生など奇特なのだから変人で十分だろう、といけしゃあしゃあと自分のことを棚に上げてこの部屋の主は言う。何度も言っていた。

 

 おそらくは一部の学生も言うだろう。

 なぜならば、この研究室は後ろ暗い噂が多い。部屋の主――森鴎外自身が幽鬼のような雰囲気をしていることも拍車をかけているが学問自体も後ろ暗いのだ。

 軍事機関医学。それは、医学でありながらある意味で医学から最も遠い学問であるとも言える。医学を軍事転用しようとしている研究と言えばわかるだろうか。

 

 機関における生体兵器の開発だとか。機関製の義腕、それも己の意思で自在に動かせる義腕、義体。そう言った理論の兵器転用、そして開発。

 医学的見地から人を効率よく殺す為の兵器を作り出す為の研究をこの研究室では行っている。だからこそ、黒く、暗い噂は後を絶たない。この帝都の暗がりと同じくらい深く、暗い噂は常に機関情報網に発信され続けている。

 

 では、中はどうかと言われればそんな噂や雰囲気を体現したかのように研究室の中は暗い。昼間だというのに薄暗く、陰気だ。友人と言われる女の研究室と違い、理路整然と片付いてはいるが暗く狭い印象を受ける。

 全てが整理整頓され無駄なものが何もない。そんな感じではあるが、一つだけ鴎外の私物と呼べそうなものがそこにはあった。綺麗なデスクの上、買ったばかりの額の中に一枚の写真がある。

 

 黒髪に鋭い目つきの女。男のようにも見えるが、女だ。片目が黄金色の女。その隣に映っているのは、顔を歪めた鴎外自身。

 

「…………」

 

 何を考えているのだろうか。一枚の写真を眺めながら鴎外は、ただ黙っている。腕は動いてはいない。その二本の腕は、動いてはいない。

 

「…………女一人、容易いか。ならばこそ……」

 

 そう呟いた時、からん、と音が響く。何かが落ちた音。そこに転がっているのは、糸電話。中空から、いや虚空から現出したそれは、鴎外の前に落ちてきた。

 裁縫組合と呼ばれる輩のものであり、それは女王の言葉を伝える為のもの。手に取らずとも音は聞こえる。聞こえてくる声に鴎外は、何ら感情を動かさない。

 

「何の用だ、貴様」

 

 聞こえてくる声は、無言。いや、あるいは鴎外にしか聞こえない声で何かを言っている。

 

「ふん、そんなことか。知ったことか。俺は俺の目的の為に動いている。貴様に指図されるいわれはないぞ夜の女王。

 せいぜい足掻くことだ。貴様らが何をしようが勝手だが、俺の邪魔をするというのであれば叩き潰す。それだけは胸に刻んでおけ」

 

 そう言って、彼は糸電話を握りつぶす。虚空へ溶けるように消えて、あとには何も残らない。鴎外は目を閉じた。

 しかし、静謐は破られる。

 

――コン、コン

 

 ノックの音が響く。誰もたずねないはずの研究室。その扉が叩かれる。

 

「入れ」

 

 言葉と同時に、どこか熱を感じる声で失礼します、ときっぱりとした断りがあり誰かが入室してきた。

 

「貴様か」

 

 そこにいたのは男だ。陸軍制服を着込んだ男。腰には軍刀をかけた男だ。磨かれた軍靴には曇一つなく、その瞳もまた輝き熱をあげて曇一つない。

 まるで太陽のような男だ。眩しく、鮮烈にして、苛烈。誰もが彼の傍にいれば魅せられてしまう。それでいて、目の前にいる男にすら頓着していないような、そんな印象を受ける。

 

――甘粕正彦。

――若き軍人。

 

 軍人とはこうあるべきとでも言わんばかりの男。私利私欲を排した、人の形をした機関機械(エンジンマシン)と呼ばれる男。

 そして、森鴎外を友人とのたまう狂人だった。

 そう彼は狂人だ。誰もかれもを熱狂させる狂人だ。

 

「ああ、俺だとも。友よ調子はどうかね?」

 

 そんな彼は言う。声から感じられるのは圧倒的な自信であり熱だ。低い声の中にはどこまでも高い理想すら感じられそうではある。

 その声を聞くだけで常人は酔うだろう。誰も彼もが、彼の言葉に酔いしれるだろう。扇動者というべき男とはまさにこういう男なのではないだろうか。

 

 しかし、鴎外には響かない。彼の言葉は届かない。熱は、彼の心に火をともすことはないのだ。

 冷えた鋼はもはや、燃えはしないのだ。

 

「何様だ、貴様」

「何、軍医殿におかれましては、何か勝負事をするとか。そう聞き及びましてね」

 

 機関製の帽子。機関機械を内蔵したそれは、おそらくは情報集積器。張り巡らされた機関情報網を読み取る軍事装置。

 鴎外が作り出したものの一つだった。網膜に情報を投射するそういった技術を医学的に作り上げた。人を機械化するというそういった技術の一つだった。

 

「貴様には関係ない。とっとと出ていけよ、俺は忙しい。貴様もだろうが」

「仕事の間に友と語らう暇くらいはつくるさ。それにこれで最後となる。これより中華に渡るのでな」

「…………」

 

 中華。そこは今、水面下で大日本帝国が動いている場所であった。

 

「国をつくる。是非とも軍医殿にはおいでいただきたいものですな」

「ぬかせよ。国をつくる(その程度の)ことで俺を煩わせるな」

「それは失敬。では、我が友よ。俺は行こう。お前を俺は待っている」

「勝手にしているが良い。貴様も、どうせ、何も変わらん。この世界はとうの昔に変容しているのだからな」

 

 なればこそ、背を向けた甘粕は言う。

 

「俺がこうして動いている。何、安心するといい。俺は負けん。例え、白き男が現れたとしても」

 

 雷電纏いし白き衣の男。正義の味方を自称する男になど負けはせんよ。そう吐いて、甘粕は軍靴を鳴らして去って行く。

 

「勝手にすればいい。俺にとって、お前などに価値はない」

 

 価値のあるものは、その手から零れ落ちている。生身の手からも、機関の手からも。

 その呟きは、誰にも届かず、虚空へと消えた――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

――帝都ホテル。

 

 高級ホテル。貴族や大商人であるような富裕層。あるいは優秀な碩学しか滞在の許されないそこの最上階に、黒岩涙香はいた。

 明らかな場違いに、目を回している。野口さんに連れられて、リチャードにあって、気が付けばここにいた。意味が解らない。

 

 素敵なお部屋。しかし、どうにも場違いにしか思えない。自分は和装だ。洋装の部屋にはどうにも浮いているような気がする。

 野口さんやリチャードのような洋装であればまだ場違い感は薄れたのだろうか。いいや、たぶんそうはならない。どうやってもここでは浮いてしまう。

 

 せめて野枝がいてくれたら、と涙香は嘆かずにはいられなかった。運悪く、大杉君に誘われて彼女は行ってしまった。珍しく。

 いいえ、ここでは珍しくない。そうここでは。この世界では、というべきかもしれない。涙香が望んだとおりに。お似合いの二人。付き合えばいいのに、そう思っていたその願いがかなった形。

 

 涙香の願いが全て叶っていると、彼らは言った。

 

――彼ら。

――野口さんとリチャードさん。

 

 尊敬すべき碩学様。そして、何かを知っている人たち。

 

 今も目の前で彼らは、この素敵な部屋の中で物おじせず座ってくつろいでいるようだった。

 

「あ、あの」

 

 意を決して声を出す。声を出すことすら場違いに思えるほどの部屋の中、涙香の声は酷く響いた。

 

「気にする必要はない。自分の部屋のようにくつろぎたまえよ。何も心配することはない。何かを壊したところで数十万もの金が飛ぶだけのことだ」

 

――数十万!!

 

 もはや迂闊に動くことすらできなくなってしまった。

 

「そうよ。るい、遠慮せず座りなさい」

「は、はい」

 

 いつまでも立っていては始められないでしょう? そう言われてしまえば座るしかなくて。おずおずと、椅子の一つに座る。

 沈み込んでしまうのではないか。そう思えるほどに柔らかな椅子。値段を想像してしまって背を付けることすら憚られて半分くらいしか座れなかった。

 

 そんな涙香を確認して、野口さんが話し始める。

 

「さて、リチャード、始めましょう」

「ふむそうだな。私は全てを知っているが君たちは違うゆえに、作戦会議は必要だ」

「作戦? 会議?」

 

――何の?

 

「まったく、あなたは言葉が足りないわ。まずは、あなたの置かれた状況を話す必要があるようね」

 

 そう言って野口が話したことは、リチャードにも聞いたことで、そして、話されていなかったことでもあった。

 

「狙われる、あたし、が?」

 

――どうして、なぜ?

 

 そんな疑問はあった。けれど、涙香にはどこか確信があった。あの夜は終わりではなく、始まりなのだ。そんな漠然とした確信を持って言える予感が涙香にはあった。

 

「ウムル・アト=タウィルに目をつけられたから、そして、()に選ばれたから」

 

 銀の鍵を見つけられる者だから。時を、空を超えることを許された者であるから。

 彼女はそう言った。あなただけが、全てを可能にし、全てを書き換える資格を得たのだと。

 その果てに至らねばならない。真に願ったのであれば。

 

「…………あたしは、どうすれば良いですか」

「自分で考えなさい」

 

 どうすれば良いかは己で決めなければならない。誰かに頼ってはいけない。誰かに頼るわけにはいかない。自分で考えなければ。

 そうしなければ意味がないのだ。最後に鍵を握ることが出来るのは、ただ一人なのだから。

 

「…………」

「私は全てを知っている。ゆえに、君が何を思い、何を成すのかもまた知っているが、結末だけは違う。どこに至るのかは、君次第だ。その選択を、私は尊重するし、君の願いを私は全霊を以て叶えよう。他ならぬ、君だからだ」

「…………」

 

――世界を歪める。世界を書き換える。鍵。資格。

――そんなものあたしにはない。

 

 そう言いたかった。けれど、けれど――。そうは言えなかった。あのときに見た銀の鍵。それは今も、この手の中にあるのだから。

 捨ててもきっと戻ってくるのだろう。そもそも捨てるという気すら起きない。これはそういうもの。己の魂。それに準ずるもの。

 

 持っていなければならない。最後の時まで。

 見つけ続けなければならない。願い続けるなら。

 

「…………」

 

 そして、これは己の罪の証なのだ。勝手に、好き勝手に世界を書き換えた、罪の。全て覚えている。全て。砕く全てを、消した全てを。

 

「そこに至れば全てが分かる。全て、お前が望むことの全ては叶う。ゆえに、走り抜けろ。願い続けろ。お前が進むたびに、真実がお前を待っている。至れば、本当の救いが存在する。お前が至らなければ、この世界は終わる」

 

――彼はそう言った。淡々と。世界が終わると。

 

 終わる。世界が終わる。何もかもが終わる。

 

 このまま走り抜ければ何が起きるのか。また、きっと何かを望んで。何かが書き換えられるのだ。誰かが。何かの為に。

 それを涙香は知っている。きっと。全てはこの時の為にあったのだと。左目が教えてくれる。かつて、同じようなことがあったような気もしている。

 

 だから、

 

「わかり、ました」

 

 走り抜けよう。至れというのならば、そこへ。

 誰かのために。今は、そう、野枝の為に。砕いた彼女の死を無かったことにしない為に。

 今は、ただ、走る。

 

――門の向こう側へと。

 

 そこに何があるのわからないけれど、きっとそこには何かがあるはずだから。

 そうしてほしいと誰かが言った。まるで泣いているように誰かが言った声を覚えている。

 だから、門の向こう側へと行くのだ。

 




次回は――待て、しかして希望せよ


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2-5

 ――黒一色。

 ――極彩色の輝きは失せて。

 

 気が付けば、そこにはあたしは、一人、そこに立っていた。

 あたしがしる帝都とは違う帝都。

 歪んだ街路、歪んだ町並み。

 

 どこかでこれと似たものを見た気がする。

 いつだったか。

 どこだったか。

 

 あたしは覚えている。ここがどこだったのかを知っている。

 囁く声も、ここにいる何かの声も。

 

 ――ううん、違う。

 ――これは、誰かの求める声。探す声。

 

 

 あたしは、その異変に気が付けなかった。ホテルで話をして、その夜。すっかりと遅くなった帰り道。野口に言われるままに帰っている最中、何かの声を聞いた。

 そこまでは覚えている。けれど気が付けば、ただ一人涙香は何もない空間に立っていた。左目は何も捉えていない。右目もまた、同様に。

 

 歩いていたはずのとおりにある機関灯も、通りの左右に存在する商店街も。ここには何も。そう、何も、なにもない。

 浄水施設から流された浄化された水の臭いもない。ここには何もない。極彩色の輝き溢れる世界は、黒い炭のような漆黒とカンパスのような純白に染まっていた。

 

 モノトーンの世界。

 そう思う。

 そう理解する。

 ここはそういう世界なのだと。

 ここは、世界から外れた場所なのだと――。

 

 剥離した場所なのだと理解して。

 

「ここ、は……」

 

 剥離した場所、どこかも知れない場所。どこでもないかもしれない場所。あるいはどこか。もしくは、あそこかもしれない。

 

 ただ、はっきりとしているのは地面。今まで歩いていた通りの石畳だけがどこまでも続いている。排煙で汚れた漆黒の石畳。足を踏み出せばこつりと音が鳴る。

 どこまでも、どこまでも響き渡る音。この空間には果てなどないかのように。どこまでも、どこまでも。

 

 そして、そこには何かが立っているようだった。人形。少なくとも、そう見える。漆黒の中にただシルエットだけが浮かび上がる。

 背景も黒ければ、その人形も黒いというのに、どうしてかそれが人形なのかわかる。いいや、それは当然だった。

 

 ――目。

 ――赤く輝くような

 

 さながら中空に浮いているようにも見える妖しい目が涙香を見つめていたから。それが人形なのだとわかった。左目が、教えてくれた。

 

 ――逃げろ。

 

 声が響く。誰かの声。聞いたことのある声。男の人の声。

 それと同時に、待ちわびたように人形が動く。四本の腕を広げて、その手に、刀を持って。

 

『ヨコセ……』

 

 それは声を上げる。歯車がかきむしるような鋼の軋みのような声を上げる。

 

 同じだ。あの時と、これも、同じ。

 怪物は、涙香を見ていた。

 

 いや、いいや違う。

 それは、涙香を視てはいない。

 涙香が持つものを見ている。

 

 ――銀色の鍵、暗がりで輝くもの。

 ――扉をひらくもの。

 

 その殺意にも似た視線に、怒気に、一瞬平衡感覚を失って、視界が揺らいで。あの時と同じに、呼吸は、とまってはいないけれど、苦しくて。

 それでも、止まってはいない。手足は震えて、でも、動く。

 

 ――どうして。

 ――いいえ、どうするの。

 

 ――どうしてではなく、どうするの。

 ――決めたでしょう、涙香。

 

 何が起きているのかわからない。けれど、やるべきことはわかっている。

 今やるべきことは、怖がってうずくまることじゃない、やるべくことは。

 走ること。

 逃げること。

 

 この鍵を渡してはいけないから。

 

 だから――

 

『……ヨコセ……』

「いやよ!」

 

 迫りくる人形に、あたしは言った。叫んだだけなのかもしれない。けれど、明確に、ちゃんと拒絶を口にした。口にすれば、それが力となって壁になってくれるかもしれないから。

 言霊というものが、この国には存在している。それはとても強い力。天皇様の御標だってそう。

 同じ。全部、言葉。

 

 だから、あたしは、来ないでと叫んで。

 

 ――あたしは、走った。

 ――逃げ切れる?

 ――いいえ、逃げ切るの。

 

 野枝が、野口さんが待っているから。それに死にたくないから。生きたいから。まだ何もわからないままに死んでしまいたいなんて思ったりしない。

 

 ――死んだりしない。絶対に。

 

 ――だって、覚えているから。

 

 だから、走るの。

 そうじゃないと、あの野枝のことを覚えている人がいなくなるから。

 本当に死んでしまうから。

 もうあの野枝のことを覚えているのはあたしと、リチャードだけ。彼はきっと全部を知っている。野枝に興味なんてない。

 だから、あたし。

 あたしが覚えていないといけない。そうじゃないと、本当に彼女がいなくなってしまうから。

 

 ――だから。

 ――だから、走るの。

 

 涙香は走り出す。人形が大小六つに分裂して、猛烈な勢いで襲い掛かってくるのを背中で感じながら。

 

 ――全力で、あたしは、前へと。

 

 走って、走って、走って。

 

 漆黒の空間を走る。何もない。何も見えない漆黒の中を走る。背後には、人形のように動くナニカが追ってくる。四本の腕を振り上げて、刀を持って。

 

 どこをどうやって走ったのか。

 今、どこにいるのかもわからない。

 ただ、めちゃくちゃに、ただ野枝に教えてもらった走るコツだけを頭に描いて。

 荒い息を吐きながら。

 

 あたしは、走っている。

 

 これからどうすればいいのか。

 

 なにをすればいいのか。

 

 わかることはない。わからない。

 これから何をすべきなのかも、考えないようにしてきた出来事。ここと似たような場所で起きたコトを必死に思い出す。

 

 ――あの時は、どうやって、あたしは

 

 助かったのかと。

 誰かの声を聴いた。

 

 けれど、声はない。声は聞こえない。

 

 ――だから、助からない。

 ――いえ。

 ――いいえ、違う。

 

 探すの。

 

 探す。探さないといけない。

 

「そうだとも――」

 

 声が響く。

 

 それは、彼の声。

 全てを知る、彼の――。

 

「探せ。鍵を――君が、諦めていないのなら」

 

 ――探す、鍵を。

 

「もう持ってるわ!」

「それではない」

 

 違うのだと声は言った。そうじゃない。そうじゃないのだと。

 何の鍵なの。

 わからない。

 わからないけれど、探す。

 

 その時、ふと思い浮かんだものがあった。追いかけてくる人形の姿。探す者はきっと、アレに関係していると思った。

 鍵。鍵。鍵。

 

 どこにあるの。どんなものなの。

 

 ――あたしは探す。

 ――走りながら、鍵を探す。

 ――それがどんなものかもわからないのに。

 

「はぁ、はあ、はあ――」

 

 そして、追いつかれて、追い込まれて。

 

「もう、はしれ、ない……」

 

 息が苦しい。それは、走り続けたせい? 違う。恐怖も混じってる。息ができない。視界が揺れる。視界が回る。

 いま、立っているのか、立っていないのかもわからない。

 

『ヨコセ……黄金瞳……、カギを……』

 

 ――人形の瞳が、あたしを見つめる。

 ――暗い、虚のような瞳。

 

 恐怖に身体がすくむ。自分が尻もちをついてしまっているのだと気が付いた。もう逃げられない。

 背には硬い石の壁。目の前には 血のように赤い、紅く染まった瞳を持った四本腕の侍人形。

 

 黒くて、白くて。おそろしいものが、そこにいた。

 呼吸が、止まる。恐怖で。息を吸っても、吐いても、空気が肺に入って行かない。苦しさを感じる。息をするという生物が普遍的に行う呼吸が止まって、苦しくない生き物はいない。

 

 視界が、歪む。我知らず喘いで、強烈な眩暈が涙香を襲う。呼吸困難。眩暈。それでも、思考は勝手に、意志に反して、肉体に反して、回転を続ける。

 思考の歯車が回る。回る、回る、回る。回る、回る。回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る回る。

 

 苦しいと感じる間もなく、考え続ける。

 

 ――あれは、なに?

 

 ひび割れた、顔をした。白と黒の何か。異形。頭に浮かぶ言葉。左目がそれを事実だと認めてくれる。左目が教えてくれる。

 黄金に染まった左目が、教えてくれる。あれは、異形なのだと。異形。

 

 ――あたしは、考える。

 ――意思に反して。肉体に反して。

 ――考え続ける。

 

 足は動かない。許容量を超えた思考に、身体は動かない。

 暗がりに浮かび上がる、暗闇に浮かぶ赤い瞳が、近づいてくる。何かが砕ける音がして、破片が、地面に伝う。それは、目の前の存在から剥がれ落ちるものだった。

 

 数えきれないほどのひび割れが、世界にすら広がって行く。世界がひび割れる。

 

 ――ほつれ

 

 左目がそう教えてくれる。世界のほつれ。記された、運命に従わなかった結果生じる、世界のほつれ。怪物から、異形から生じたそれは、広がって、広がって、広がって。

 世界を呑み込んでいく。

 

 まるで御伽噺のよう。この世ならざる存在。空想の中にしかないもの。

 きっと死ぬのだろう。

 

「い、や……」

 

 死にたくない。まだ、何もしていない。何も。まだ、始まってもいない。終わりまで、進んでもいないというのに。

 

 涙が自然とあふれ出る。悲鳴は出ない。呼吸の止まった喉からは、引きつった声がでるだけで、悲鳴なんて、言葉なんて、何も出てはくれない。

 誰か。誰か、誰か。

 

――野枝

 

 必死に、心の中で叫びをあげる。友人に、

 

――野口さん

 

 尊敬すべき恩師に。

 

――あたしは、助けを求める。

 

 けれど、けれど、助けなんて来るはずがなくて。ただ、異形の怪物が目の前で妖しく光る瞳を向けてくる。ただそれだけで、心臓が止まりそうになる。

 何、何。何が起きているの。わけがわからない。意味がわからない。理解ができない。一度、砕かれた思考は、そうもとには戻らない。

 

 いいえ、戻らないようにされているのかもしれない。恐怖に思考は勝らない。恐怖の濁流にのまれて、涙香は思考の海に沈むことが出来ない。

 沈む思考は、苦しさにかき乱されて、それでも意識ははっきりとしていて。混濁する意識と、歪み視界がありとあらゆる全てを呑み込んで。

 

 ――思考が溢れ出す。

 ――自分でも何を考えているのかわからない。

 ――けれど、一つだけわかることがあった。

 

 死にたくない。こんなところで、怪物に殺されるのなんてまっぴら。

 

「いや、あなたに殺されるのなんて、絶対に。諦めない。あたしには、やるべきことがあるの!」

 

 ――無意識に言葉が口をついた。

 

 それが何を意味するのかも、わからないくせに。けれど、まるでそれが合図であったかのように、誰かが、目の前に。

 

「そう。……そう。あなたは、まだ、諦めないのね。忘れても。覚えていなくても。知らなくても。あなたは」

 

 誰かが目の前に現れる。空間を引き裂いて。誰かが目の前に現れる。それは女の人。掠れた視界で、歪んだ意識では、それが誰だかわからない。

 けれど、確かなことがある。その左手は、異形だった。漆黒の腕。爪先は鋭く獣のようにとがっていて。堅い甲殻に覆われているかのように輝いている。

 

 

「目を閉じなさい」

 

 潰れそうになるその刹那。怪物が、漆黒に染まった異形の腕を伸ばしたその時に、声が響いた。

 

 ――凛とした鋭い声。

 ――どこかで聞いたような。

 

「――っ!!」

 

 喉を空気が通る。弾かれるように、身体が跳ねて、酸素が脳に回る。

 声に従うように、涙香は、目を閉じる。

 

「良い子ね」

 

  女の人が左腕を振るう。ただそれだけで世界が引き裂ける。その爪は世界を引き裂く。そのたびに、女の人の何かが軋んでいるのを左目が捉える。

 けれど、それを理解することができない。碩学ならぬ身では。神ならぬ身では。

 

 そもそも、限界を迎えた涙香に目の前の状況を吟味し精査し、判断を下すことなどできるはずもなく。できることはただ見ていることだけだった。

 誰かわからない人が、異形を引き裂くのを。世界を引き裂いて、全ての異形ごと粉砕するのを見ることしか出来なかった。

 

 そして、全ての異形が砕かれて。同時に涙香の意識も、闇に、沈む――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 ――気が付けばあたしは、帝都の大通りにいた。

 

 霧と排煙の向こうにある機関街灯は、黒い街よりも明るく見えた。

 目覚めた場所は、帝都の通り。いつの間にか家の近くだった。それでもいつもとの違いに目を白黒させる。

 それは、いつもと違って人の通りがなかったから。

 それは、いつもと違って車の通りがなかったから。

 

 そう思いながら、身を起こす。

 

「ん……ぅ……頭、いたい……」

 

 ――頭の奥底が妙に傷んで、記憶が霞む。

 ――はっきりと思い出せない。

 

 ――いいえ、いいえ。

 ――思い出せるはず。

 ――覚えているはず。

 

 ――黒い街、人形。

 

 切れ切れの篆刻写真のようであるけれど、はっきりと、あたしは思い出していた。

 そして、探せなかったことも。

 

「大丈夫?」

 

 ――声、女の人の声に思わずびくりとする。

 ――その声は、あの街で聞いたのと同じ声だったから。

 

 恐怖を思い出す。

 モノトーンの街の。

 白と黒の怪物の。

 それを倒したと思う女の人への。

 

 ――けれど、振り向いた先にいたのは、あたしの予想外の人。

 ――ううん、予想していた人。

 

「野口、さん……」

「今は、何も聞かないで。眠りなさい」

「は、い……」

 

 ――彼女の言葉を聞くと、あたしの瞼が閉じ始める。

 

 聞きたいことがあった。

 アレが何なのか。

 何をしたのか。

 何をしなければいけないのか。

 どうすれば良かったのか。

 

 けれど、けれど。

 ――あたしは睡魔に勝てなくて。

 ――痛みもあったから。

 

 野口さんの腕の中で瞼を、閉じる。

 

「お休み、仔猫ちゃん」

 

 そんな言葉を聞きながら、どこか優しい子守歌を聞きながら、あたしの意識は闇へと沈んだ――。

 




次回、朝チュン。
目覚めれば裸
目覚めれば見知らぬ天井。
隣には裸の女性。
多くは語らぬ。
待て、しかして希望せよ。


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2-6

「ん……んぅ……」

 

 慣れない感覚で目が覚めた。

 

 ――なんというか、とても涼しい?

 ――でも、なんだか悪くないとそう思ってしまうのは、身体を包む温かさのせい?

 

 微睡みのぼやぼやの中。いつもと違う部屋の輪郭を感じる。

 大きな窓、雲越しの陽光。身体を包む温かさは、これのせい?

 違うとすぐに思い至る。窓越しの陽光は、こんな温かさを感じさせるにははるかに弱いから。

 

 ――じゃあ、なに?

 

 ぼやぼやした瞼をこすって、ぱちぱちと。ぼやけた視界が線を結ぶ。

 

「すぅ、すぅ」

 

 ――だれかが、あたしの腰のところに抱きついている。

 ――裸の女の子。

 ――かわいい子

 

 少しだけおかしいのは、腰に結ばれた刀。機関式のそれではなく、昔ながらの鍛造刀(オールド・ソード)

 それを持てる者は、この国ではとても少ない。今では、この帝都では。

 

 侍だけが、その刀を持てる。機関侍(エンジンサムライ)とは違う、かつてこの国の象徴だった人々。

 

 だけど、そんな事実は、涙香には関係なくて。

 頭の中に沸き上がったのは、この状況に対する当然の感情と予想。

 裸で一つのベッドに男女よりは、はるかにマシだけれど、裸で一つの寝台に女の子二人。

 

 しかも、腰回りに抱きついてきていて。昨日からいっぱいいっぱいの涙香には、色々と余裕がなかった。

 更に――

 

「ん、んんー」

 

 女の子、目を覚まして。

 猫のように口を大きくあけて、伸びをひとつ。

 ぱっちりと綺麗な黄金色の、猫のような瞳をこちらに向けて。

 

「んっ、おはよー、昨日は凄かったね」

 

 ――なにが?

 

 なんて思う暇はなく。

 

「ぁ……ぅあ……」

 

 頭が一瞬にして真っ黒に染まった。

 火の山の噴火のように溢れ出す思考。もはや自分ですら何を考えているのかすら不明。

 思考の言葉で、頭は真っ黒。顔は真っ赤。耳まで真っ赤にして、言葉ならぬ言葉であえぐ。

 

「ぇぅ、ぁ、な、んで……――」

 

 もう、お嫁にいけない。

 女の子同士だから大丈夫。

 女の子同士なんて不潔。

 女の子同士でもよいかも。

 この子、誰。

 かわいいかも。

 あ、黄金色の瞳。

 私と同じ。

 ここどこ。

 何があったの。

 野口さんは。

 リチャードは。

 野枝は。

 お腹すいた。

 お腹なっちゃった。

 眠い。

 顔赤いよ、はずかしい、死にたい。

 あ、鍵は!? どこにもない。

 あった、枕元にある。

 服は! ない、どこにも。

 

「あははー、すごいすごい、こんなに考えてる人始めてみた――あーむっ」

「ひゃあああ!?」

 

 ――み、耳!

 ――な、なめられ!?

 

「にひひー、おいしい。こっちがわもー」

「やめっ、ひゃああんん!?」

「おい、朝っぱらから何をしている」

「あー、柴せんせーおはよー」

 

 また、新しい人が部屋に入って来た。

 眼鏡をかけた男の人。

 男の、人。

 

「ひぅ、ぁ、ぅぁぁ、ひぐぅ」

 

 もう、限界で。

 もうどうしようもなくて。

 

 ――あたしは、泣き出して。

 

「何をしているんですかね北里先生」

 

 絶対零度の野口さんの声が、この場を切り裂いた。

 

「む、いや、野口君、待とう。真の碩学ならば、短慮はいかん」

「ゆっきーな?」

「はい! 柴せんせーが泣かしました!」

「裏切ったなあ貴様ぁ!?」

「先生、お話をしましょう」

「くっ、こうなれば眼鏡(リミッター)を解除してでも!」

「先生」

「はい……」

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「全く、淑女の寝所に入るとは何事ですか、北里先生」

「事故だったのだ」

「言い訳無用です」

「あははー、柴せんせー弟子に怒られてやんのー」

「あなたもよ、ゆき」

「……はーい」

 

 ――気がつくとあたしは、野口さんの腕の中いた。

 

 薔薇の香りがした。柔らかな胸に包まれていると嫌なことを忘れられる。

 その代わり、また顔が赤くなる。顔があげられない。

 

 ――だって人様の前で子供みたいに泣いてしまったあとだもの。

 

「もう大丈夫よ、るい、怖くないわ」

「ぅ、すみま、せん」

「いいのよ、あなたは何も悪くない」

 

 それから、あたしは――。

 

「~~♪」

 

 鼻歌を歌う彼女。

 福沢諭吉。

 ゆっきーな。

 彼女とともに大通りを歩いていた。

 いつもと違う洋風の装い。

 野口さんから着替えとして受け取った服を着て歩くには少し――とても恥ずかしい。

 

「あの、野口さんは」

「んー? 気になるのー?」

「えっと、すこし」

「そっかそっか。んー、ボクは知らないなー。柴せんせーのことくらい」

 

 柴せんせい。

 北里柴三郎。

 

 この国随一の碩学として有名な彼。

 会ったのは初めて。

 

 そう言えば、裸みられていたのを思い出す。

 忘れようとしても忘れられなくて、あたしはまた赤くなる。

 

「んふふ、るいちゃんはかわいいねー」

「ひゃあ!?」

 

 でも、いつものように考えに没頭させてはくれない。

 ゆきちゃんは。

 野枝とは違う。

 

 彼女は、あたしの考えていることがわかるかのように、的確にあたしの思考を遮る。

 

「せっかくのお出かけなんだからさー、もっと楽しもうよー。ね?」

「たのしむ?」

「そう。だって、るいちゃん色々と疲れてるみたいだからさ。楽しいことしようよ」

 

 楽しいこと。

 最近では考えられないこと。

 

「じゃ、いこっ」

 

 あたしが返事をする前に、彼女に手を取られて。

 凄い力で引っ張られる。

 どこにそんな力があるのかわからないほどの力で引っ張られるままに連れまわされる。子供のように元気で、ずっとずっとはしゃぎっぱなし。

 これじゃあ、どっちが年上なのかもわからない。

 

 ――あたしは、ただ探していた。

 

 ずっと言葉が残っている。

 鍵を探す。

 何を探せばいいの。

 どこを探せばいいの。

 

 なにもわからない。

 暗がりの街。

 モノトーンの街。

 白と黒が織りなす極彩色の失われた剥離世界で、あたしは探さなければいけない。

 

 鍵を。

 四本腕の侍が持つ鍵を探さなければならない。

 それはきっと大事なもののはず。

 

「まったくぅー、君は本当に、えい」

「ひゃ!?」

「もうそんなことはいいでしょー」

「いいって……」

「いいんだよ。今はまだ、お昼だよ。そういうことは夜に考えればいいの宿題と同じだよ。休みの日は朝から遊んで夜にやればいいの。それで十分。君は真面目すぎだからいうよ。背負いすぎるからいうよ。

 君はもう少し不真面目になるべきさ」

「でも……」

 

 それでいいの、と涙香は思う。

 だって、そうじゃないと何かが起きてしまうのではないかと不安になってしまう。

 

 ――あたしは強くないから。

 ――怖くて、怖くて仕方ない。

 ――でも、あたしがやるしかないから。

 

 世界を変えてしまったから。

 だから、黒岩涙香がやらなければならない。

 この巌窟の中で、ただ一人の助けを受けて、光の中へと進まなければならない。

 

 愚かなりし監獄城の中を、ただ走り続けなければならないのだ。

 

 それが、黒岩涙香の罪の贖罪。

 それは、きっと何も意味のないこと。

 誰かがやらなければ、誰かが代わりにやること。

 

 けれど、それでも――。

 

「あたしがやるの」

 

 どういうわけかそう思う。

 

「はー、なるほどなるほど。そうか、君はそうなのか。本当――何度でも変わらないんだな君は」

 

 ――え?

 ――どうして、そんな顔をするの。

 

 涙香は、それを聞くことは出来なかった。

 とてもまぶしそうなものを見る彼女の、涙香の左目と同じ猫のような黄金の瞳が、聴くことを躊躇わせた。彼女の言葉の意味を聞きたかった。

 何度でも? どういう意味があるのか。

 

 ――けれど、けれど。

 

 何一つ、聞くことは出来なかった。

 その時の彼女は陽気な仕草もなにもかもがなくなって、寂しそうな女の子のように見えたから。

 

 ――だから。

 ――だから、聴くことが憚られて。

 ――躊躇っているうちに彼女は先ほどまでのように陽気な笑顔に戻って、あたしの手を引く。

 

 力強い手に惹かれて、大通りをあっちへいったり、こっちへいったり。

 野枝と遊ぶ時もそうだけれど、それ以上に疲れてしまって。 

 だったら、お店に入ろうとなったけれど。それがとても高いお店。高級料亭だとかで。

 

 ――遠慮したけれど、彼女はずんずんとあたしの手を握って入って行ってしまって。

 ――出るに出られなくなった。

 

「お金なら腐るほどあるし、もしもの時は柴せんせーに頼めばいいのいいのー」

 

 なし崩しにご飯をおごられてしまった。

 高級料理。

 蟹だとか、海老だとか。そういうお高い料理。

 

 ――絶対に、そんなに食べてやらない。

 ――そう思っていたけれど。

 

「おいしい……」

 

 食べてしまったら、そんなことを涙香は考える暇などなかった。

 あとはもう出される料理をただ食べるだけ。

 

 ――おいしかった。

 ――お値段を聞いたらきっと気絶しちゃうから聞かないようにしよう。

 ――食べ終わる頃にはもうそんな風に思ってしまう。

 ――相変わらずお腹中心ね、と野枝に笑われちゃう。

 ――でもおいしいんだから仕方ないじゃない。

 ――うん。うん。仕方ない。

 ――仕方ないったらない。

 

「おいしかった?」

「えっと、はい」

 

 食べ終えて。ごちそうさまを言って。

 あとはゆっくり話そうかなどと彼女は言った。

 

 ――あたしは、野口さんのことが気になった。

 ――すっかり忘れていたけれど、もう遅い時間。

 ――一体どうして二人で遊ぶことになったのだろう。

 

 それを涙香は聞いてみた。

 

「んー? 気分転換だよー楽しかったでしょ?」

「それだけ?」

「そう、それだけ。それに女の子と遊ぶの楽しいからね。君みたいなかわいい子となら特に」

「かわ、かわいい!?」

「そうだよ、とーっても、可愛いよ。なんなら――」

 

 ――彼女の言葉、遮られる。

 ――何かが部屋に入ってきた。

 

 料亭の個室に侵入者。

 それは、あまり歓迎したくない人物たち。

 

 それは鋼鉄の肉体と鋼鉄の刃を持った者たち。

 

 ――機関侍(エンジンサムライ)

 

 幕府を裏切り、この時代を切り開いた機関文明の先駆者たち。

 肉体のほとんどを機械に変えた機械人間。

 彼らは、かつての侍を駆逐したこの時代の侍。

 軍の上層部の存在。

 権力者と言ってもいいかもしれない。

 

「おいおい、空いてるじゃねえの。おい、そこのガキども。出てけ、これからここは俺様たちが使うんだよ」

 

 喉元の機械から声が発せられる。ノイズにまみれた声。でも、よく聞こえる声。

 

「なに、君たち」

「見てわからねえのか、これが」

 

 そう言って彼らは腰の刀を見せる。

 蒸気機関が伝わって以降発展を告げる機関刀。

 蒸気機関によって駆動する刀。

 大陸のある場所において改造されたこの刀は、幻想すらも切り裂くという。

 

 普通ならば畏怖する。

 普通ならば言う通りにする。

 でも――。

 

「それが?」

 

 ――彼女は違った。

 ――いつもと変わらぬ様子。

 ――今の状況がわからないはずがないのに。

 

「おいおい、馬鹿なのか貴様。政府直轄の機関侍様に立てつこうってのか?」

「別に、物の道理の話さ。ここはボクらが最初に使ってた。まだ帰らない。だからキミらは余所に行くべき。子供でもわかる道理さ」

 

 彼女は、いつも通りだった。

 何一つこの状況に不安を覚えている様子もない。

 いつも通り。いいえ。ただ、少しだけ気に入らないなと機嫌が悪い様子で。

 

「――あ〝 ――おい」

「へい」

 

 それは相手も同じこと。

 部下の一人が、痛い目を見せようと機関刀を抜いた。

 蒸気機関の調べが鳴り響く。

 料亭の女将は既に逃げている。この場をとめてくれる人は、いない。

 

「ゆき――!」

「だいじょーぶだいじょーぶ」

「昔の侍の真似してる馬鹿なガキめ。お灸をすえてやる!」

 

 振り上げられた機関刀。

 

 ――このままじゃ、ゆきちゃんがやられてしまう。

 ――振り上げられた機関刀はきっとゆきちゃんを切り裂いてしまう。

 

 ――なんとかしなければ。

 ――どうにかしなければ。

 

 ――どうするの涙香。

 ――何をするの涙香。

 

 考えても答えは出ない。

 答えなでないまま思考の渦は、ずっとずっと深くに深まって行って。涙香は動けない。

 

「だい、じょーぶ」

 

 その声がするまでは。

 

「え?」

 

 彼女の声がした。

 

「な!?」

 

 機関侍の声も。

 

「はあ、いつの時代もこれだ。機関の体に機関刀を持った君は、確かに機関「侍」なんだろうけどさあー、強いんだろうけどさー。所詮それじゃあ、(サムライ)じゃないんだよ」

 

 相手の剣戟を跳びかわした彼女は、そのまま天井に立っている。

 

 ――あたしも、あたしたちを襲った機関侍も驚いて、声をあげて。

 

 それを彼女は、心底鬱陶しそうにしてから、腰の刀に手を添えた。

 刀。いささか艶の消えた朱鞘に納められた彼女の武器。

 名刀ではない。使い手の名が広まった百年後であれば美術的価値を持つそれも、今はまだただのどこにでもある量産品。

 使い込んで磨り減って彼女の手に馴染んだ柄だけが、彼女と共に刀の歩んだ歴史の重さと長さを物語る。

 

 業物と言えた。

 

「んじゃー、見せてあげるよ。侍ってのが、なんなのかを」

 

 機関侍が身構えて。

 甲高い高いひとつ。

 

「よっと」

「え?」

 

 鈴の音響かせて、天井から彼女が降りてきた。 

 そして、機関侍の首が音もなく落ちた。

 一つじゃない。三つ。

 

 ――え、え?

 

 目の前で起きたことに理解が追い付かない。何をしたの。

 

「あーあ、しらけちゃった。行こっ?」

 

 ――あたしは、連れられるまま、店を出る。

 

「ごめんねー、あんなもの見せちゃって」

「あ、え、えっと」

「ほんと、嫌だよねー。侍の魂をあんな風に使うなんて」

「魂……」

「そう。刀。君なら、これだけでわかると思うよ――さ、行こっ」

 

 ――何が、なんて聞く暇などなく。

 

 夜の街へと彼女に手を引かれて、繰り出して羽目になった――。

 




はい、予告通り、裸の女性がベッドにいたじゃろ?

次回は待て、しかして希望せよ。

ちなみに北里柴三郎先生がおそらくこの世界の日本碩学最強の武力持ち。

真の碩学は目で殺す! が必殺技だ。


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2-7

 ――暗い。

 ――ここは、なんと暗いのか。

 ――いや。いいや、ただ暗いだけだ。

 ――ここには何もない。

 

 乾いた靴音が石畳の通りを歩く、俺の靴音だけがそこに響く。

 偉大なりし日本帝国首都。未曾有の繁栄へと向かい、先進諸国へと臨む黄金道を征く我らが帝国首都。

 

 帝都東京。その暗い石畳の路地を歩く俺の足音。

 それ以外には、此処には何もありはしない。ただ、それだけが、この路地を満たしていた。

 

 それ以外には何の音もない。

 複合高層機関塔が奏でる共振器(オルゴール)の音色も、夜行機関(ナイトエンジン)が奏でる誰にも聞こえない静かな音もない。

 無音の大音量があるだけだ。虫の声一つ、排水溝を流れる水音すらもありはしない。

 

 いや。いいや。

 違う。ただ一つだけある。もう一つ。

 いいや、三つ。

 

 聞こえるのは俺の靴音だけではない。ただ闇の中を歩くこの音だけではない。

 頭の中に響く忌々しい御標だ。

 むかしむかしと語る偉大なりし明治天皇陛下の声が頭の中、路地の中を響いている。

 

 それをかき消すように金属音が響く。腰帯(ベルト)に下げた四本の機関刀が奏でる音だけが響いている。

 

 そして、俺の息だ。珍しく、荒い吐き続ける息がある。

 

 栄光なりし過ちの歴史を歩み続ける世界と我が祖国、偉大なりし大日本帝国。蒙昧白痴なる明治機関政府によって駆動する歪な巨大国家機関。

 

 我らが眠らぬ“街”帝都東京。

 その深淵なる暗がりを歩く俺の奏でる音だけが響いている。

 それ以外には、もうここにはなにもない。他には何もない。何も。ここに人はいない。少なくとも常人と呼べるものは。

 逃げられたのだ。捕らえたはずのものは、再びこの手から滑り堕ちていった。女も。子供も。少女も。友すらも。

 

 野口英世。

 我が友と言うべき人間。だが、もはやそれはここにはいない。この暗がり。我らが盟友は、既に暗がりを抜け出した。

 ほころび、剥離した。

 もはや、何一つここには残っていない。

 

 だが――。

 ただ一つ、御標だけが俺の行く末を暗示するかのように響いて消える。既に一つの時は動き出した。帝都の下に蠢く機関の1つが駆動を開始している。

 次期にもう一つが動き始めるだろう。いいや、すべてか。

 全て消えゆく為に。全てを超越するために。神は死んだ。ゆえに、神となる為に。

 

 最愛の者も、最愛の娘も、あの少女も、友ですら。零れ落ちて、ここにはもはや己以外にありはしない。ここには誰もいない。

 俺以外に生きる者も、動く者もいない。その中でただ一つだけ、聞こえるのだ。忌々しい御標が。

 

――御標

 

 神子たる明治天皇が下す神託。蒙昧共が幸福になるための標。

 

――ああ、忌々しい。

 

 忌々しい。忌々しい。忌々しい。

 ただただ、聞こえるそれが忌々しい。

 女一つ、殺せぬ自らの腕が忌々しい。

 

 腕、四本の腕。

 自らのものと、機関のそれ。

 鋼鉄のそれは力強いが、それだけだった。

 もはや何一つつかめない。

 未だ、何もつかめてなどいない。

 

 ただただ忌々しさが募っていく。

 それだけだった。

 

 なぜだと叫ぶ。

 それは、俺の叫びだ。

 ヤツの声ではない。

 俺の、俺自身の叫びだった。

 

 忌々しさを感じながら歩いていると、ふと、路地に声が響く。

 

 ――むかし、むかし。

 

 誰かの語る声が、聞こえる。

 優しげで、誰もがきっと安らぎを感じる声でむかし、むかし、と子供たちに御伽噺を語る声が。

 

 ――むかし、むかし。

 

 声は語る。声は語る、声は語る。

 それは御伽噺。白と黒色の物語。かつて、幸せであったことを思わせるような極彩色に彩られた白と黒の物語。

 

 だが、聞こえない。

 それがどんなに素晴らしい物語でも。それがどんなに楽しい御伽噺であっても。

 俺には聞こえない。声は次第に近づいてくる。それは、知った誰かの声。かつて、取りこぼした誰かの声。そちらに目を向ける。

 

 ――手は、伸ばさない。

 

 手は、伸ばさない。己が四の腕は何をしようとも届くことはないのだから。あの時は、既に、もはや過去なのだから。

 

 だが。そう、もしも、そう、もしも、時が止まってしまえば。あの時、時が止まっていれば、

 

 時よ止まれ、お前は、誰よりも美しい。あのときに止まっていれば。

 

「ああ、だが、次こそは――」

 

 ゆえに、もはや、すべては闇に堕ちる。

 剥離していく。

 白と黒のモノトーンが、世界を覆っていく。

 極彩色は、もはやどこにもありはしない。

 そこにはただ――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 ――ふと、何かの声を聞いた気がした。誰か、かもしれない。

 機関都市帝都東京の大通り。確かに声は多い。何かの声。いろんな声。行き交う人々の声。たくさんの日常の声はとても多い。

 ここは東京。未曾有の繁栄を謳歌する大日本帝国。その首都。だから、人は多い、どこよりも。

 

 眠らない街としてもこの都市は有名だった。眠らない街。不夜城。いつまでも明かりがついている。田舎では信じられない光景。

 声は多くある。猥雑に雑多に。下品も上品も。あらゆる声がここにはある。

 

 けれど、頭の中に響く声というのはそれほど多くない。一つだけ。御標というもの。

 黄金の歴史を歩む大日本帝国を導く偉大なりし明治機関天皇が告げる導きだ。

 

 ――今聞えたのは、御標じゃない。

 ――じゃあ、なに?

 

 ――何かに導かれるように、あたしは裏路地へと入っていく。

 

 普段は来ない場所。怖い場所。暗がり。

 帝都の裏路地には伽藍の異形が出るという。心をなくした怪物の噂。都市伝説。人が人ならざるモノに剥離するという噂。

 御標に逆らったらそうなってしまうという不敬なお伽噺。

 でも、今は――。

 

 右手を見る。

 右手。

 包帯にまかれた手。

 異形の手。

 

 それは逆らった証だから。

 

 ――――

 

 ――聞こえた。

 ――何かの声。

 ――あたしを呼ぶような。

 

 裏路地を頭の中に響く声のようなものを頼りに進んでいく。きっと野枝にあったら何か言われてしまうだろうけれど、どうしてもいかないといけないと思った。

 そして、見つけた。

 

「――あたしを呼んだのは、あなた?」

 

 ――仔犬。

 ――青い毛並みのかわいらしい。

 

 怪我をしているのか、とても弱々しい。

 

「───っ!! 大変!」

 

 ――あたしは、咄嗟にその仔犬を抱え上げる。

 

 仔犬はとても具合が悪そうにぐったりとしている。

 

「具合が悪いの? ど、どうしよう……子犬なんて飼ったことないし……とにかく───」

 

 なんとかしないといけない。そう思った。どうしてそう思ったのかわからない。きっと、疲れていたのかもしれない。癒しがほしかったのかもしれない。頼ってほしかったのかもしれない。

 

 ――何もできない無力なあたし。

 ――ただ言われるがままに走って、走って。

 ――あの光景を覚えている。

 ――あの声を覚えている。

 

 でも、何より助けたいと思ったから。

 優しく、抱きしめて。

 

「───よし、よし! うん、あなた、うちにおいで」

 

 下宿まで抱えて戻る。

 大家さんに見つからないように。

 

 ――うん、たぶん見つかったら大変だから。

 

「思ったよりも元気そうで良かった」

 

 部屋に戻る。

 

 ――ベッドの上の、彼? は先ほどよりも元気そう。

 

「でも、大家さんに秘密で連れて来ちゃった……怒られる? ううん、もしかしたら追い出されたりするかも……――」

 

 ――そんなない、と思いたい。

 ――でも、きっと。

 

 などと思考が渦を巻く。

 いつもの癖。

 こうなってしまうと止められない。

 けれど、不思議と、今日は仔犬がいるからか、すっと彼が思考の中に割り込んできていた。

 すぐにどこかへ脱線していた思考は、これからのことを考え始める。具体的には、追いだされたらどうするか。

 

「――その時は野枝の部屋にでも……うん、野枝ならきっと泊めてくれるよね?」

 

 ――うん、大丈夫。

 ――だって野枝だもの。

 ――あたしの親友。

 ――事情を言えばきっと泊めてくれるわ。

 

 ふと、そう言えば彼に名乗っていないことに気が付いた。

 

「私の名前を教えてなかったね。私の名前は───」

 

 ――黒岩涙香。

 ――くろいわるいこみたいで、あまり好きじゃない名前。

 ――野枝は可愛い名前だって言ってくれている。

 

 ――でも、名乗る名前はこれ以外にないから。

 

 両親からもらった大切な名前。それを彼に話す。名もない小さな彼に。

 

「あなたにも名前をつけなきゃ。うん、そうしよう」

 

 ぱんと手を叩いたのは野枝の真似。良い思い付きをしたときに野枝はいつもこうやって手を叩く。

 

 ――名前はあったほうがいいから。

 ――でも、どうしよう

 

「名前、どうしよう……野枝に『ネーミングセンスゼロ』なんて言われたし……」

 

 ――そんなに悪くないはず。

 ――うん、絶対。

 ――団友太郎だっていい名前のはず。

 

 でも、これじゃあ野枝に何を言われるか。

 だからもう少し頭をひねらせて――。

 

「うーんと、うーんと……そうだ!! 今、私が翻訳しようとしている本なんだけど───とっても素敵なお話なの」

 

 机の上に置いてある小説が目に入った。

 モンテ=クリスト伯。

 大デュマの小説。野口さんからのプレゼントの一つ。

 

「うん……うん。そうしよう。決めた! あなたの名前はね───」

 

 ――あたしのネーミングセンスが駄目なら、他の人からもらう。

 ――うん、それなら誰にも馬鹿にされない。

 ――野枝だって納得してくれるはず。

 

 だから、仔犬の名前は決めた。

 いつか、希望へとたどり着いてほしくて。

 あの暗がりの路地裏がどこか巌窟のようにも思えたから。

 

「───《エドモン・ダンテス》」

 

 それは、いつか希望を手にする人の名前。

 いつか地獄のような巌窟から這い出して幸せになる人の名前。

 

 貴方に似合っていると思う。

 なぜかそう思って。

 仔犬も喜んでいて。

 

 良かったとそう、思った。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 ――音が響く

 ――音が響く

 ――暗がりに音が響いている。

 

 それは、何かの歯車を回す音。

 それは、何かの螺子を回す音。

 それは、何かを組み立てる音。

 

 数多の音が暗がりに響いていた。

 それは声であった。

 それは叫びであった。

 それは悲鳴であった。

 

 東洋において、彼の大碩学、《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。

 遥かに劣る男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てる。

 

 ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。

 影の研究室、叡智の深淵と人は呼ぶ。ここは、帝立碩学院の個人研究室。地下深き奈落の工房。

 人産みの穴倉。人はここをそう呼ぶ。

 ここは工房だった。暗い工房。この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と概ねその数は同じだ。だが、ここを訪ねる者はいない。

 

 深淵の叡智を求め、自らの望みと夢を求めて訪ねる碩学の卵はいない。論争を求めて、自らの理論を持ってくる若い碩学もいない。協調し深淵へと至る老齢な碩学もここにはいない。

 

 ただ一人、幽鬼のような男以外には。

 

 彼の組み立てるもの。

 それを知ってはならない。

 命が惜しければ。

 

 それに手を出してはならない。

 命が惜しければ。

 

 ここにはまともな人間などひとりもありはしない。

 ただ暗がりと、ただ歯車の骨と機関の肉体を組み立てるだけの碩学と彼が作り出した機関の人型があるだけだ。ただそれだけだ。

 

 人型。人の形をした機械。概ね、それは欧州における碩学たちの組織であるところの結社に由来した機関人間の構造と同じではある。

 だが、一から創造したという点においてのみ、そこには敢然たる違い存在している。それは無から人を生み出したということに他ならない。

 

 それは神の所業。人が望み、進化(パラディグム)の果てに人がその肉体の機能として獲得したそれを人の()で行ったということ。

 人の身において、この男は、絡繰王と呼ばれるこの男は、人を子宮(うつわ)に頼らずに作り出すという古来からの夢を達成した。

 

 それは純然たる絡繰王(おとこ)の偉業。だが、だが、碩学王(かみ)には届かないと男は自虐する。自虐して、自虐して。

 ただ一つの結論へと至るのだ。己が、及ばぬものであるという事実に。己がどうしようもなく、ヒトであるという結論(ぜつぼう)

 

 ゆえに男は実験を続けるのだ。帝国全土に張り巡らせた機関情報網と明治天皇の威光を利用した数式実験を続ける。

 碩学王が都市を一つで実験をしたというのなら、自分は国一つを使って実験するまで。

 

 男の暗い意志が駆動する。届かぬというのならば、届くようにすればよいという男の暗い意志が。変容の果てに至らんとする意志が。

 

「――主」

 

――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型が声を上げる。

 

 女。人型、からくり。

 

 からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。

 自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。

 

 陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。

 この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。

 

 そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。

 

「我が主。侵入者を感知。第一の鍵守が接触しました。ご指示を」

 

 それは完全なる異常。

 完全を求めるからくりは、ただ一つのほころびすらも許容できない。

 それは主の数式を歪める。

 

「放っておけ」

 

 だが、男は手を止めない。

 男は手を止めない。

 

 数式に狂いはない。

 機関に狂いはない。

 

 それは、些事である。

 それは、砂塵である。

 それは、路石である。

 

 関与する必要はない。

 触れる必要はない。

 

 計算に狂いはない。

 機関は正常に稼働している。

 ならば、問題などありはしない。

 

 そう何一つ。

 問題はないのだ。

 




6mol氏が書かれているオリジナルスチパン。
赭石のイアーティス  ───What a beautiful dawn───

面白いですし、読んでいるとおっ、ってなるかもしれない。

次回、レズパート。



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2-8

「あっ、ん、の、野口さ、ん――」

「駄目」

 

 大日本帝国中枢。

 そこにある帝都ホテル。

 最高級のホテル。開国し、世界の最先端を取り入れたホテルの最上階。

 

 ――スウィートルーム。

 ――以前、話をした場所。

 

 そこにあるいくつもあるベッドの一つで、女と女は肌を重ねていた。

 いいや。正確に言えばそうではない。

 片方の女。左手に手袋をした裸の女。その女は、目の前で腕を縛られ寝台にて拘束された少女と肌を重ねていた。生まれたままの姿で肌を触れ合わせていた。

 

 少女の方は混乱している。仔犬を拾った翌日。それについて話をして。野枝と相談もして。あとは野口さんに色々と話をしようと思っていたら、いきなりホテルに連れ込まれて、縛られて。

 裸にされていた。上着も、着物も下着も。全て剥ぎ取られて生まれたままの姿。隠すものは何もない。

 

 女同士。けれど気恥ずかしさの方が勝る。少女、黒岩涙香が今、相手にしているのはあの野口英世だったから。日本におけるエイダ主義の見本のようなカッコイイ女性であったから。

 肌は紅潮し、汗ばんでくる。それはきっと二人の体温が混じり合っているから。いつもよりも体温が高いから。

 

「やめ、てくだ、さ、い」

「あなたの言う仔犬を捨てるなら、言うことを聞いてあげるわ」

「い、い、え」

「そう」

 

 敏感なところをさわられる。優しく、されど容赦なく。

 涙香の口から、喘ぐような声が漏れる。出したことのない声。自分じゃない自分の声に涙香は泣きそうになる。

 痛いこと、痛めつけられることには慣れている。けれど、優しくされるのも気持ちがいいのも初めてだった。

 

 先ほどから同じやり取りをしている。

 野口は涙香が拾ってきた仔犬を捨てるように言っている。理由は、何一つ言わない。ただ彼女はそれを見た瞬間に、それを捨てるように言った。

 

 きっとそれは自分の為なんだろう。

 涙香はそう思った。野口さんは、涙香の為になるようなことしか言わないし、しない。理由が言えないのはきっと知らなければいいことだから。捨てなければいけないのはエドが危険だから。

 

 けれど。けれど。

 涙香には彼を捨てることが出来ない。

 だって呼ばれてたから。だって、哭いていたから。

 巌窟のような路地の中で、涙香を呼んだのだから。

 

 だから、涙香はエドモン・ダンテスを絶対に捨てない。彼から離れていかない限り、涙香は彼を保護し続ける。観測し続ける。彼が、どこかへ行ってしまうまで。

 

 待て、しかして希望せよ。

 

 その言葉の通りに希望を手に入れて誰かとともに、歩んでいける日まで。

 

「あた、し、は――」

「…………」

 

 それが野口英世は気に入らない。

 彼女の為を思っている。

 彼女の事を思っている。

 

 その想いは口には出していない。

 しかし、態度で示していた。

 もとより口は達者な方ではない。ならば、行動で示してきた。彼女の為になることをした。彼女を裏切ることは絶対にないと断言できる。

 

 けれど、けれど――。

 

 彼女は野口の思う通りには動かない。こんなにも想っている。その想いは、おそらくこの惑星よりも重い。

 彼女のことを想えば、あの仔犬。エドモン・ダンテス。エドと彼女が呼ぶ仔犬は追放すべきだ。

 

 四足歩行の機関精霊。

 あれは邪悪なるものだ。

 あれは邪なるものだ。

 

 涙香と引き合わせてはいけなかった。

 そのままにしてはいけない。

 

 ――ああ、でも。でも

 

 野口は思う。

 涙香がそれを飼いたいのならば、飼わせてやるべきであると。

 

 そうわかっている。頭では。

 鋼鉄なりし碩学の理性は、回答を導き出している。

 合理的な解答だ。

 何一つ問題なく。彼女の幸せを考えるならば、こんなことをする必要などありはしない。

 

 けれど。けれど。

 

 そうではない。そうではないのだ。

 

 だからこそ、行き場のない感情を、ぶつけているに過ぎない。無表情のまま、舌を涙香の肌へと這わせる。彼女の声が響く。

 舌先が熱い。彼女に触れた場所が燃え上がるかのように熱い。涙香の声が耳に届いた瞬間、脳がスパークした。かつて、白き男の雷電をその身で受けた時のようだった。

 電流。白き彼が使っていたものが、脳を焼いたかのよう。熱い。ただ全てが熱く、恍惚で。歯止めがきいていないのを野口は自覚する。

 

 けれど。けれど。

 

 やめられない。やめたくない。

 

 ――剥離しすぎた。

 ――感情が不安定。

 ――理性で制御できない。

 

 熱暴走を起こす脳は、されど冷静に判断を下していた。

 そう、こうなっているのは自分の責任。きっかけは仔犬であったのかもしれないが、元を辿れば全ては自分のせいなのだから。

 

 それがわかっていても、感情は、久しく忘れていた感情は、止まらない。とまってはくれない。止められない。止めない。

 

 手袋に包まれていない右手が彼女の胸を肌を撫でる。控えめだけれど、綺麗なそれ。まだまだこれから成長していくかもしれないそれ。まだ誰にも触れられていないそれを手にする。

 背徳の情欲は止まらない。

 

 抵抗する彼女を組み敷いて。

 ただ要求する。

 そして、否定される。

 

 怒りはない。ただ、制御できない情欲だけが、涙香へと注がれていく。ただそれを繰り返す。

 いつまでも。いつまでも。

 

「そこまでにしておくと良いミス・ノグチ。レディは、絶対に言う通りにはしない」

 

 全てを知り得る男。

 全てを知る男が、そこに来た。

 

「…………」

「そうだとも。私は全てを知っている。ゆえに、彼女が首を縦に振らないことも知っている。何一つ。問題などありはしないだろう」

 

 彼は言った。何も問題はないと。

 そう問題はない。

 彼の機関精霊は、涙香になついているのだから。

 

 だが、だからこそ――。

 

「嫉妬はよせ、野口英世。それは君がまだ人である証ではあるが、それではレディにとって苦痛でしかない」

 

 攻められて、攻められて、もはや息も絶え絶えな涙香を見て彼は言った。

 嫁入り前の娘の姿ではない。あられもない姿であった。もはや意識などほとんど残っていないだろう。

 そうなるように野口はしたし、全て知り得る男リチャードはそうなることも知っていた。

 

 だからこそ、このタイミングで来たのだから。

 

「…………そう……そうね。あなたは……いつも……」

「そうだ。私は全てを知っている。知っているがゆえに、君たちに何かを言う必要もない。君がどうするかも私は知っているのだから」

「……本当に……。……悪いことをしてしまったわね……」

 

 野口英世は、感情を押し込める。蓋をして心の奥底へと沈める。

 そうでなければならない。

 そうしなければならない。

 

「そう思うのならば、わかっているだろう?」

「そうね。おいしいごはんにでも連れて行ってあげましょう」

 

 すっかりといつもの調子に戻った彼女は、脱がした服を涙香に着せて、自らもいつもの服に身を包み部屋を出る。

 

 そこには、眠る少女と全て知り得る男だけが残された。

 

「あのようなものを見つけるとはね。これは何度目だろうか。こうして君が、ここで眠るのは。何度目なんだろうね」

 

 問いかけるような言葉。

 されど意味はない。

 なぜならばその問いの答えすらも知っているのだから。

 

 問いに意味はない。

 誰かに聞かせているのではない。

 

 ただ呟いているだけだ。

 その呟きは、ただ機関の奏でる音に消える。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「お休み、ですか?」

「ええ」

 

 ――お休み。

 

 研究室がお休みになった。こんな日は珍しい。

 

 ――あたしが所属する野口研究室。

 ――機関医療だとか、そんなことについての研究室。

 ――あたしとるいが所属する研究室。

 

 涙香も休みならば伊藤野枝が残ることもない。全てはあのいとおしい友人の為だと彼女は入る研究室を決めている。

 もともと野口さんに興味があったのもある。

 

 ――野口英世。

 ――日本エイダ主義の先駆け。

 

 世の女性憧れである彼女の下で学べるのならばこれほど有意義なことはない。

 

 ――あたしは、そうね、るいとは違うから。

 ――女性にあるまじき短髪、男の子のような服装も少々。

 

 決して褒められたものではない。世界的にエイダ主義が普及していたとしても、百年以上の時を鎖国して過ごした我が機関帝国。

 大日本帝国が未だ、その名を世界に黄金郷として認識されていた頃からまだ数十年余りだ。国家として成熟するには時間が足りない。

 偉大なりし明治機関天皇がいたとしても、それは変わらない。

 まだまだこの国は、女性よりも男性の方が強く、男性の後ろを女性が歩くのが一般的だった。

 

 ――強い女性は少なくはないけれど、まだまだ一般的ではないから。

 ――女は女らしくが当たり前に叫ばれる。

 ――あたしは、それが嫌だった。

 

 だから、ここに来た。女性であっても碩学になれると証明した人のところに。そう、それは自分の意思。

 

 ――そう、そのはず。

 

「んー、どうしよっかな」

 

 などと口に出しながらも伊藤野枝はふと思うのだ。

 自分は、本当にここにいるのだろうかと。

 

 ――きっとそう、昨日、告白されたから。

 ――きっとそう、昨日、涙香と知らない女の子が歩いているのを見たから。

 

 ――きっとそんな理由だ。

 ――変なことを考えるのは。

 

「駄目だな、あたし」

 

 そう駄目駄目だった。伊藤野枝は駄目な女であるのだ。

 などと際限なく思ってしまうが。

 

「やめておけ」

 

 ――え、え?

 

 そこにいたのは幽鬼の如き男であった。

 

 ――知っている。

 ――知っている人。

 

 ――森鴎外。

 

 軍事機関医学者。

 

「やめておけ」

「えっと?」

 

 ――何を言っているのかわからない。

 

 でも、不思議と耳を傾けるのはどうしてだろう。

 彼に似合わない昼下がりの繁華街。腰に下げた機関刀は四本。一人で使うには多いが、誰もそれを気に留めていない。

 四本も下げていれば普通は気が付くのに誰もそれに気が付いていなかった。

 

「やめておけ」

 

 三度目。これが最後。

 

「えっと、何を、でしょう」

「愚鈍は変わらずか。少しは役に立つかとも思ったが、期待外れだ」

 

 ――失礼な人。

 

 そう野枝は思った。けれど、不思議と不快ではない。

 それはどこか安堵したような響きがあったからかもしれない。彼にしては珍しい。他人に興味を示すのも。こうやって女性に話しかけるのも。

 

「あの、先生?」

 

 彼は何も言わずに去って行った。

 

 ――なんだったんだろう。

 ――何がしたかったんだろう。

 ――何が言いたかったんだろう。

 

 わからない。

 神ならざる身では。

 わからない。

 彼ならざる身では。

 

「これはこれは奇遇ですね、レディ、ノエ」

「リチャード先生」

 

 今日はよく人と会う。

 次はリチャード先生。英国から来ている鉄道機関学の先生。

 

「奇遇というほどでもないかと。まだ大学構内ですし。そうだ、ちょうどあったのですから――」

「そういうことも知っているとも。このあと、紅茶に私を誘うのかな」

「紅茶にでも――相変わらずですね」

「そうだとも。私は全てを知っている。君が私を紅茶に誘い、そこでレディ・ルイについて聞くことも知っている」

「それなら、オーケーしてくれますよね?」

 

 ――彼、リチャード・トレビシック先生は不思議な人だ。

 ――全てを知っているとうそぶく人。

 

 本当かどうか野枝は疑っているけれど、それでもいつもこうして相手の言いたいことを言い当てる。メスメル学の応用ではないかと思っているけれど、どうなんだろうか。

 

 ――案外未来を視ていたりして。

 

「私が視るのは未来ではなく、世界だよ」

「え?」

 

 ――え?

 

「いま――」

 

 ――なんていったの?

 ――見る? 世界を?

 

「さて、では行こうか」

 

 聞こうとしたが、彼は何も言わず馬車を呼ぶ。乗合の馬車に乗って行きつけの茶房へ。紅茶に誘ったけれど、途中でそう言えば新メニューが出来たからそう提案しようとする前に彼は既にそこを行き先へと設定していた。

 本当に全てを知っているかのよう。

 

 ――注文もあたしが頼もうとしたもの。

 ――本当に全てを知っているかのよう。

 

「…………」

「さて、レディが聞きたいことに応えよう。私と彼女の関係についてだが、少しばかり私の研究を手伝ってもらっている。君が気になっているのはいかがわしい行為があるかないのか。NOだ。純粋に助手として手伝ってもらっているのだよ」

「…………」

 

 ――聞く前に、聴きたいことを全てしゃべってしまう彼。

 ――会話というよりは、彼が一方的にしゃべっていると言っていい。

 

「あの」

「意味ならばある。余計な首を突っ込ませないためだ」

「…………」

 

 ――また当てられた。

 

「既に砕かれた。もう一度砕くつもりはないし、その扉は既に開いている。開いた扉をまた開けることは出来ない。おまえの役割は既に終わっている」

「だから、一体」

「君の話だ。より正確には、君に関わっている話だ。君は待っていればいい。それだけで、黒岩涙香は走り続けられるだろう」

「…………」

 

 ――この人を嫌いになりそうだった。

 ――全てを知っている。

 ――いったい何様なのだろう。

 

「代金は支払っておこう。君の疑問を全て応えるわけにはいかない。だが、君が聞きたい一番大事なことだけは間違えるつもりはない。私は全てを知っている。だが、そうであったとしても求めるものはある。全ての扉を開き、未知の地平に辿り着く。それまでは、私は何があろうとも彼女を護ろう。

 君の大切な黒岩涙香を護ろう。その願いを叶えよう。

 この身にかえても。

 この魂にかえても。

 この命にかえても。

 この身が滅んだとしても、護ろう。

 例え黄金の王であろうとも。

 例え黒の王だとしても。

 それが例えチクタクマンだとしても」

 

 あらゆる全てから涙香を護ろう。そう彼は言った。

 

「……わかりました」

 

 それを野枝は信じることにした。そう言っている時の彼だけが、唯一全てにおいて真剣であるとそう感じたから。

 

「わかりました。信じますよ。じゃあ、こちらからも忠告を」

「ああ、知っている。その胡乱な態度はやめた方がいい、だ」

「違いますぅ―。あまり女の子をこんなところに誘わない方がいい、ってことですよ」

「くく。なるほど。そういうことにしておこう」

 

 彼はそのまま茶房を出ていった。

 

「浮かない顔だね」

 

 入れ替わりにまた誰か来た。男性の声。

 いったい誰だろうと野枝が見る。

 

「北里先生と、ユッキーナ?」

 

 ――疑問形なのは、ユッキーナが何故か縛られているから

 

「そう。北里である」

「どうかしたんですか?」

「こやつが少々やりすぎたのでな、お仕置きだ」

「勘弁してよぉー、せんせー、やりすぎたのは謝るからさー」

「戯け。明治機関政府の機関侍に喧嘩を売って」

「売ってきたのは奴ら」

「同罪である。それを返り討ちにして、その復讐すらも全部ぶった切ったのはやりすぎだバカ者」

「えー、だって、さぁ」

「だってではない」

 

 だからこそ、お仕置きとしてこの茶房にきた。

 茶房でお仕置きとはおかしいと思うだろうか。いいや、可笑しくない。この茶房はだって――。

 

「うへぇーん、勘弁してよぉー」

 

 地獄のように甘いお菓子が出るのだ。西洋のお菓子だというけれど、それはこれをさらに甘くしたものだそう。完全に調理法を間違えている。

 だから、これはお仕置き用だとか言われる代物。だべれば最後、死ぬ。そんなものだから。

 

「助けてー、のえりん!」

「えっと」

 

 ――助けてあげたいのだけれど。

 

 北里柴三郎の目が光っている。あれは行けない。あのひとは眼で人を殺せるのだ。

 あくまでも都市伝説。噂。

 

 ――だってそう。普通の人が目から光線をはなつだなんてありえないもの。

 ――真の碩学ならば当然だとか、言ってはばからないだとか、ありえないもの。

 

 ――だから、そうきっとそれは錯覚。

 

 でも、怖いから。

 

「ご愁傷様」

「だー、のえりんの裏切り者ぉぉお――」

「さあ食べると良いぞ。あまーいお茶もつけてやろう」

「ひぃぃぃ――」

 

 ――あたしは、なるべくそっちの方を見ないようにして店から出た。

 

「うん、大変だ――」

 

 そう言えば、何か心配事があった。

 北里柴三郎の前、リチャードさんに会った時から、何かを忘れたように心が軽い。

 

「んー、まいっか。それよりるいのとこいこっと」

 

 女の子同士なんて。

 そう思うかもしれないけれど、今はそういうのが楽しいから――。

 




レズパート。
R指定入らない程度に書いたつもりだけど、ダイジョウブかな?

まあ、問題あったら消して書き直すだけですね。

では、また次回。


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2-9

 ――学院へ来い。望むものはそこにある。其れこそが貴様の道を示す。

 ――めでたし、めでたし。

 

 朝。

 来たと、涙香は思った。

 頭の中に響く声。

 

 ――御標

 ――従うべきモノ。

 ――偉大なりし天皇陛下から与えられる祝福。

 

 涙香は緩慢な動作で寝台を降りる。寝起き特有の浮遊感は御標で吹っ飛んでいたけれど、睡魔は強い。昨日、遅くまで野口さんに攻められたせいだろうか。 

 ともかく、顔を洗いに行く。

 顔を洗って髪を整えて。そうして無事に睡魔は退散してくれた。

 

「ふぅ、よし」

 

 ――うん、大丈夫。元気そう。

 

 鏡に映る自分を見て、涙香はいつもと変わらないことを確認する。

 

 この場合、向かうのは碩学院で間違いはない。学院はそこ以外にないから。とりあえず、行けば良いのだろう。

 そして、きっとそこに待っているものは。

 

 ――怪物。

 ――あの時の、あの野枝のような。

 

「大丈夫」

 

 ――大丈夫。

 ――どうすればいいのかわかってる。

 

 探すのだ。

 探すのだ。

 鍵を。

 

「涙香」

「野口さん……」

「行くのね」

「……はい」

「…………そう。気を付けてね」

「はい……」

 

 ホテルを出て、煤避けの傘をさして靴を鳴らして石畳の通りを歩く。朝の通勤の時間。まだ、帝都に存在する大機関工場が稼働して間もないから排煙の量は少ない。

 だから、少しだけ空気が綺麗に感じられる。地方に住む人に言わせればそれはまやかしだというらしいけれど、この時間の空気は嫌いではない。

 

 けれど、今はもう何もない。

 朝だけど、人は誰もいない。

 此処には、涙香一人のみだ。

 

 ――黒一色。

 ――極彩色の輝きは失せて。

 

 気が付けば、一人、そこに立っていた。

 

 ――あたしがしる帝都とは違う帝都。

 ――歪んだ街路、歪んだ町並み。

 

 どこかでこれと似たものを見た気がする。

 いつだったか。

 どこだったか。

 

 ――あたしは覚えている。ここがどこだったのかを知っている。

 ――囁く声も、ここにいる何かの声も。

 

「…………」

 

 ――ううん、違う。

 ――これは、誰かの求める声。探す声。

 

 気が付けば、ただ一人涙香は何もない空間に立っていた。左目は何も捉えていない。右目もまた、同様に。

 

 歩いていたはずの通りにある機関灯も、通りの左右に存在する商店街も。ここには何も。そう、何も、なにもない。

 浄水施設から流された浄化された水の臭いもない。ここには何もない。極彩色の輝き溢れる世界は、黒い炭のような漆黒とカンパスのような純白に染まっていた。

 

 モノトーンの世界。

 そう思う。

 そう理解する。

 ここはそういう世界なのだと。

 ここは、世界から外れた場所なのだと――。

 

 剥離した場所なのだと理解して。

 

「ここ、は……」

 

 剥離した場所、どこかも知れない場所。どこでもないかもしれない場所。あるいはどこか。もしくは、あそこかもしれない。

 

 ただ、はっきりとしているのは地面。今まで歩いていた通りの石畳だけがどこまでも続いている。排煙で汚れた漆黒の石畳。足を踏み出せばこつりと音が鳴る。

 どこまでも、どこまでも響き渡る音。この空間には果てなどないかのように。どこまでも、どこまでも。

 

 そして、そこには何かが立っているようだった。人形。少なくとも、そう見える。漆黒の中にただシルエットだけが浮かび上がる。

 背景も黒ければ、その人形も黒いというのに、どうしてかそれが人形なのかわかる。いいや、それは当然だった。

 

 ――目。

 ――赤く、輝くような

 

 さながら中空に浮いているようにも見える妖しい目が涙香を見つめていた。

 だから、それが人形なのだとわかった。左目が、教えてくれた。

 

 ――逃げろ。

 

 声が響く。誰かの声。聞いたことのある声。男の人の声。

 それと同時に、待ちわびたように人形が動く。四本の腕を広げて、その手に、刀を持って。

 

『ヨコセ……、シロガネ、ノカギ、オ』

 

 駄目。

 駄目、絶対に。

 

「駄目よ」

 

 ――駄目。この鍵は渡せない。

 ――この鍵を渡してはいけない。この鍵は、あたしのものだから。

 

「渡さないわ、貴方には!」

『ヨコセ』

「嫌よ!」

 

 走る。

 涙香は暗がりの街を走る。

 

 ――どうして?

 

 考える暇はない。

 黒岩涙香は、走る。

 

 怪物から逃げるように。

 何かを、探すように。

 

「どこ――」

 

 ――どこにあるの?

 

 探すもの。

 鍵。

 

 涙香が持つ銀の鍵ではない。

 

 その背に、怪物を連れながら。怪物の攻撃を必死に躱して、走る。

 

 ――どこへ?

 ――どこかへ。

 ――鍵のある場所へ。

 

「――――あぐっ!?」

 

 不意にギチリ、と右腕が音を鳴らす。右腕に何かが這いずるような気配。べきり、べきりと鈍い音が響く。曇白の蔦が右腕に絡みつき、その身体を蝕み始めていた。

 瞬間的に理解する。これが御標に背いた結果なのだと。殺されること。幸せのままに殺されることから背いた結果。

 

 手にひび割れのように亀裂が走って行く。縫い留められていた部分がほどけて、ほつれて、肩口へ白と黒が広がっていく。

 

「くっ――」

 

 ――痛い。

 

 鋭い痛みが脳髄を駆け巡る。

 身体が組み換わって行く感覚。それでも、脚は止めない。

 まだ、何もしてない。まだ何も見つけていない。

 

 何もわからないまま殺されてやる気なんてない。

 何よりもあの野枝を覚えている人がいなくなってしまうから。

 

 だから、走る。

 

 走って、走って。

 

「はぅ、っ、はあ――」

 

 息を切らせて。

 着物を振り乱して。

 

 どれだけ走っただろう。どれほど走っただろう。研究は体力勝負だから、体力はある。

 

 夢ではない。息苦しさも、全部。何もかも。

 

「――――あ」

 

 足がもつれる。駄目、こける。

 地面へと、伸ばした右手。

 

「――――」

 

 そこにあったのは、人ならざる手。異形の腕。

 それが、空間を引き裂く。

 

 空間をほつれさせ、現実の糸を切って、別の場所へとつなげる。

 空間を易々と引き裂く手応えは、吐き気にも似た嫌悪感を伴って全身へ回る。 

 

 ――誰の、手? 

 ――これは、あたしの腕。

 ――異形となった人ならざる腕。

 

 腕を振るうたびに、痛みが走る。針で刺すような痛みよりも、よほど、強い。

 

 空間が易々と引き裂かれたのがわかる。

 左目は、暗がりが歪んだということを報せていた。空間が広がる。

 壁が出来る。

 

 ――これで大丈夫?

 ――いいえ、いいえ。

 

 同時に左目が教えてくれる。

 相手もまた、同じであることを。

 

 黒い剣。

 白い剣。

 

 白い剣が空間を繋ぎ止める。

 いいや、結んだ。

 ほつれてほどけた空間の繋がりを、裁縫した。

 

 次に振るわれた黒い剣が空間を引き裂いた。

 空間をほどき、ほつれさせ、空間の繋がりを断ち切った。

 

 そして、繋ぎ合わせる。

 

 身体が引かれる。

 左目だけが真実、理解した。

 

「あ……」

『モウ、ニゲラレナイ』

 

 それは目の前にいた。

 四本腕の侍。

 能面のように、なにもない白の仮面をつけた血涙を流す燃える目がそこに。

 

 あたしの左手を見つめている。

 そこにある鍵を見つめている。

 

『ヨコセ』

「いやよ」

 

 震える声で涙香は拒絶する。

 

「これだけは……っ!」

 

 これだけは渡せないのだと。

 

『アキラメロ、キサマニ、モハヤミチハ、ナイ』

 

 最果ての軌道はない。

 ここには、なにも。

 

 ここには暗がりしかないのだ。

 

 ――本当に?

 ――本当にそうなの涙香。

 ――貴女は見つけているはず。

 ――ずっと見ているはず。

 

 左目が教えてくれる。

 いいえ、最初から知っている。

 

 ここにあるもう一つ。

 ここを形成する一つ。

 伽藍の中にある一つ。

 

 そう、鍵を。

 

 ――見つけた。

 ――違う。

 ――最初から、そこにあった。

 

 鍵。

 それは一本の刀。

 何の変哲もないもの。

 

 風景の中に溶け込んでいたもの。

 この世界の楔の一つ。

 四本腕の侍が持つ、強い想い。

 

『ヨコセ――』

「いやよ!」

 

 それに手を伸ばす。

 右手はもう、伸ばせない。だから左手を。

 

 ――その時、あたしは見た。

 ――誰かの記憶。

 ――誰かの、夢。

 

 時よ、止まれ、おまえはなによりも美しい。

 

 伝えられなかった想い。

 伝えられなかった想い。

 

 時よ止まれ、時よ止まれ。

 

 ――切実に、鮮烈に。

 ――強く、強く。

 

 願われた願い。

 叶わなかった願い。

 

 分かたれた想い。

 そして、再会。

 

 愛した女が死した後、娘との和解。

 それでもなお、男は止まれなかった。

 止まるつもりなどなかった。

 

 ただ時よ止まれと、願った。

 あの時よ、永遠に。

 

 願ったのだ。

 願ってしまったのだ。

 

 もはや、もはや、この身は、伽藍なれば。

 その中にある虚ろなりし願いは、何よりも強く残っているのだ。

 

「鴎外、先生……」

 

 理解した。

 彼の願いを。

 彼の記憶を。

 

 ただ愛する人といたかっただけの不器用な人の願いを。

 だから――。

 

 刀を掴んだ。

 

 その瞬間に。

 

「やあ、お待たせして申し訳ないレディ。少しばかり、講義が長引いてしまってね。いや、言い訳はすまい。レディには申し訳ないことをしたと素直に謝ろう。私は全てを知っている。ゆえに、この結果も、こうなることも全て知っていたのだから」

 

 紳士然とした声が、頭上から響く。そこにいたのは紛れもないあの人。紳士然とした大きな人。鉄道王と呼ばれる碩学様。

 

 ――リチャード・トレビシック

 

「そうだよ。レディ。言ったはずだ。私は、君が鍵を見つけたならば、真にその鍵を見つけたならば助けに来ると」

 

 そう言って彼は、森鴎外との間に割って入る。

 まるで壁のように立ちふさがる。重圧が消える。恐怖が消える。痛みも、苦しみも、何もかもが消え失せた。

 

「異形化、伽藍化、ここまでくればもう戻れまい。こうなってしまえば、私に出来ることはなにもない」

 

 そう言いながら、四本の刀を彼は器用に捌いていく。

 柔術。空手、剣道。全てがまじりあったような不思議な型。名をバリツ。偉大なりし大英帝国における名探偵がつかう技術。

 その太源。彼は全ての攻撃を捌いていく。

 

 ――その片手間で彼はあたしに問う。

 

「さて、黒岩涙香。彼はもう助からんが、君はどうしたい」

「あたしは……」

 

 リチャードさんが言うとおり、森鴎外を助けることは出来ない。もはや、彼を助けることはできない。それはわかってる。

 

 ――でも、でも。

 ――彼の願いを知っている。

 ――彼の想いを知っている。

 

 だから、だから。

 

「あきらめたくない。あたしは──」

 

 ――たとえ、誰が何を言っても。

 ――たとえ、彼が助けられないと言っても。

 ――たとえ、彼がそれを望まなくても。

 ――あたしは、足掻く。

 

「あたしは諦めたくない!」

 

 ――諦めない。

 

 諦めたくない。

 そう言った時、

 

「ははははは!」

 

 笑う声が響く。冷笑でなければ、憫笑でもなく、嘲笑でもない。苦笑、哄笑、艶笑、歓笑、喜笑、戯笑、嬌笑。そのどれでもない。それはまぎれもなく喝采だった。

 あきらめずに立ち上がるものを賛美する彼の喝采だった。

 

「良きかな。良きかな。ああやはり、この時、この場所で、今再び、最果ての軌道を見つけるとは。実にすばらしい。何度見ても、この瞬間だけは色あせん。

 ならばこそ、さあ、願いを言うと良い。いと尊きものよ! 一切合財の躊躇なく、私はお前の願いを叶えよう!」

 

 彼はそう言う。願いを言えと。叶えてやると。

 

 ――本当に?

 ――本当に叶えてくれるの?

 

 なら、なら。

 

「お願い、鴎外先生を、助けて」

 

 ちゃんと出せたかもわからない。声になったのかすら。けれど、けれど――

 

「その願い、確かに聞き届けた!」

 

 彼は、そう確かに言って。

 

 ――その右手を、伸ばす。

 

「――コル・レオニスの星より落ちし断片

 果て無き地平を疾走する夢を以て

 アカシャは全てを記録する

 過去と現在と未来、我が手にするもの

 全にして一、一にして全

 最果てへと足掻く全てを導くもの」

 

 変化は一瞬だった。大機関の歯車が切り替わるような音ともに世界もまた切り替わる。

 いつしかそこは見慣れた通りではなくなっている。

 六角形の台座が置かれた漆黒。そこは計り知れない暗がり。そこは海。薔薇の香りのする海。

 巨大な石組のアーチが見える。

 

――いつの間にか、あたしはその前に立っていた。

 

「さあ、進め」

 

 既に門は、開いている。

 意思確認は終わっている。

 

 だから進むだけ。

 

 異形のものが六角形の台座で低い音を発し、輝く球体により体を揺らしリズムを取っている。

 そこへ、進む。

 

 無限の地平。どこまでも続く遥かなる虚空。

 左目が捉える。黄金をたたえた左目。いつかのあの日に、黄金に変わった左目が何が起きているのかを伝えている。

 

 ――けど、けど。

 

 それを理解できない。碩学ならぬ身ゆえに、一片たりともそれを理解することが出来ない。

 いや、いいや。理解してはならない。直視してはならない。彼に守られていなければ、きっと狂ってしまうから。

 

 けれど、分かる。あれは運ぶものだと。遥か遠くへと何かを運ぶものであると。過去、現在、未来。同時に存在するどこかへと向かうもの。

 

 ――ガチリ・ガチリと、歯車が組み合わさっていく。

 ――蠢くように。瞬くように。震えるように。

 ――それは形をつくる。それは運ぶもの。軌道(レール)の上を走る蒸気機関車。

 

「さあ、乗るが良い。我が夢は、必ずやお前を望む場所へと送り届けよう」

「ジャマヲスルカ、マタシテモ――!」

「無論だとも。マイ・レディは願った。ならば、私は砕くだけだ」

 

 ひび割れた、掠れた、鴎外の声が響く。響いて、その異形の刀を振るう。

 そんなものの前に、形を保っていられるものなどありはしない。けれど、けれど、蒸気機関車に傷はつかない。彼もまた同様に。

 そして、機関はただ駆動する。

 

 ――それは確かな熱をたたえて。

 ――それは確かな輝きを持って。

 ――それは確かな願いで溢れて。

 ――鋼鉄の軌道が走る。

 ――機関は駆動する。

 

 ゆっくりと、そして速く。何より速く。それは、過去、現在、未来、時間すら越えて、あるいは全て越えてそれは門を越えて、漆黒を疾走する。

 黄金の左目が何かを伝える。そう、この場所の本当を。それは世界の真実。知ってはならないもの。

 

 ――ただ、あたしは気が付けない。

 

 碩学ならぬ身では、あるいは神ならぬ身では、その真実を認識することすらできない。

 

「ヤメロ、ヤメロ、キサマァ――!!!』

 

 伽藍が走り出したそれを止めようとする。けれど、けれど。それは止まらない。

 

「走り出した夢は止まらない。誰にも止めることなどできはしない。

 たとえそれが、初代十碩学第二位《大数式》であろうとも。

 たとえそれが、異形都市の少年王であろうとも。

 たとえそれが、騙り続ける仮面の男であろうとも。

 たとえそれが、鋼鉄の機械卿であろうとも。

 たとえそれが、時計仕掛けの神であろうとも。

 たとえそれが、薔薇と黄金の王であろうとも。

 たとえそれが、漆黒の王だとしても。

 何人たりとも、走り出した夢を止めることはできはしない。

 残念だったな、届かなかったものよ。お前の願いは、聞き届けられない。お前の願いでは、この夢を止めることはできない」

「グォオォオオオオ―――ッ!」

 

 絶叫が響く。

 何かが通り過ぎていく。認識すらできない水泡。泡沫のそれ。それは、森鴎外そのものだった。

 砕けて、崩れて、解けて、散っていく。まるで、何かに呑み込まれるように。元の形が何であったのかさえ認識出来ない、ばらばらの破片へと至るまで、刹那の間に。

 

 目にするのも耐えられないほどの光景。眼を背けるほどの光景。だけど、

 

 ――しっかりと、あたしは見る。

 ――目を逸らさずに。

 ――焼き付けるように。

 ――これは、あたしが願った結果だから。

 

「……ギィ、オ、オ、ァアア……。

 ……時ヨ、トマレ……

 タダ、ソレダケ、ガ!」

 

 悲鳴。絶叫。断末魔──。

 森鴎外が、破壊される。

 森鴎外の声はかき消される。

 足掻くその全てを、

 

 ──呑み込む──

 ――消し去る――

 

 目を逸らさずに、ただそれを見届ける。

 

「喜ぶと良い。お前の願いは今、叶えられた」

 

 その瞬間、

 

 ――世界は変わる。

 ――世界が変わる。

 ――全てを残して。

 ――私を残して。

 ――彼を残して。

 ――世界が変わる。

 

「これ、ま、た……」

 

 揺れる、揺れる、揺れる。それは蒸気機関車の揺れではなくて。

 今まで感じたことのないような揺れ。頭の中をかき回されるような。まるで、洗濯機関の中に詰め込まれたみたいに。容赦なくかき回される。

 

 何が起きたのかわからない。わからない。わからない。けれど、恐怖はない。これはそういうものではないとわかっているから。

 でも、意識が混濁する。それは、この揺れのせい。それとも何が起きたのかを理解出来ない思考のせい? 彼の声だけが聞こえる。

 

 自分の声も、息も、何も聞こえてこない。

 

 ──そして。

 ──あたしは、誰かに抱かれるような闇へと、落ちる

 

「ああ、また、貴女は進むのね。今度こそ、私はそれを見届けるわ。だから、今は眠りなさい」

 

 ――誰かの声を聞きながら。

 ――右手を包まれる感覚を感じながら。

 ――あたしは、闇へと、落ちていく。

 

 そして、目覚めたのは路地だった。

 

「おい、そんなところで寝るな愚図め」

「あらあら、そんなことをいうものではありませんよ、あなた。ごめんなさいね、娘が仏蘭西に戻ってからずっとこうなの」

 

 そして、そこにいたのは、誰かと連れそう、あの人だった。

 

 ――ああ、ああ。

 ――あたしは、理解する。

 ――あたしの願いが叶えられたことを。

 

 ――そして、あたしのせいで、『彼』が砕かれてしまったことを。

 

 彼らと別れて、また座り込む。

 どこからか現れたエドが、あたしに寄りそう。

 

「ごめん、なさい……」

 

 言葉とともに、涙が溢れだす。

 止まらない。

 謝罪とともに、あたしは、ただ泣きじゃくるだけで。

 

「帰りましょう。るい」

 

 野口さんが来るまで、あたしは、ただ泣き続けていた――。

 




すっかり遅くなったが、世界改変二回目でございます。
東洋の大碩学も大喜びでしょう。

誕生日だから、頑張ろうと思って、書いてたのをしれっと投稿するクズは私です。
あ、やべ、バレるバレる。いえ、なにもしてないです。
小説投稿なんてシテナイヨー。

さて、また一年が経ち、全然無理がきかなくなってきた。ツライヨー、まあ、ゆったりと更新していきます。
相変わらず、オーバーラップに出すと一次選考は通るネ。

夏までに二本仕上げたいからこちらは不定期だけど、頑張りますね。


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2-10

 列車が、駆動する。

 耳障りな金属音を響かせて、無限なりし最果ての軌道上を車輪が回る。

 前に進むために。

 前へ向かうために。

 

 窮極の門へと至る為に。

 避けなければ死ぬ。轢かれ、砕かれ、痛みを伴うこともない一瞬のうちに、死ぬだろう。

 あれはそういうものだ。

 しかし、既に。この身は動かない。

 

 伽藍と化した身は既に。

 いいや。いいや、既に、伽藍すらもなくなった。

 

 森鴎外の身は、既に、終わっている。

 

「ああ。女一人、容易いと思ったが……」

 

 女。女性。柔らかなもの、愛しきもの、守るべき、もの。どこかで、なくしたものだ。私が、どこかで。あるいは、あの場所で。

 

 僅かに力の入った右手が、拳を形作る。既に。もう既に、握るものを無くした手が。

 左手の刃は既に中程から圧し折れている。白の剣も、黒の剣も、二本の機関腕も、既に、もはや私の手の中にはない。

 

 一瞬のうちに、あの男の一撃は、邪を祓う力の篭った刃や人生を賭けた機関ですら容易く破壊して見せたのだ。

 あがくな。無駄なことはするな、と。

 そう告げるように。

 既に運命は決定しているのだと。

 そう告げるように。

 

 ああ、そうなのだろう。

 

 偉大なりし鉄道王。

 一であり、全であるもの。

 全であり、一であるもの。

 最果てにありしものよ。

 

 おまえは全てを知っているのだから。

 もはやこうなることすらも知っていたのだから。

 

 滑稽なり、滑稽なり。

 

 けれど。

 けれど――もしも時が止まっていれば。

 

 そう思わずにはいられなかった。

 それが、伽藍。

 それが、異形。

 

 いずれ、誰もが落ちるだろう。

 偉大なる明治機関天皇に治められた我らが帝国は、既に。

 既に――。

 

「ああ、だが……なかなかどうして……」

 

 後悔はない。

 後悔は、ない。

 

 それを作り出す思考を、私は既に捨てている。

 一年前、たった一人の我が子を仏国へ送り返したときに。

 だから、あるのはただ。僅かばかりの親としての想いだけ。

 

「ベルタ、野枝……。すまない……」

 

 たった一人の娘と、娘同然に見ていた我が同志の名を口にする。

 それから、迫り来る荘厳なりし黒だけを見て。

 

 これが、末路だと。

 目に焼き付けろと、言わんばかりに。

 ただ、黒を見た。

 

 ──……エリス。

 

 ああ、時よ、止まれ、おまえは誰よりも美しい。

 

 そして、私は砕かれた。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 ――夢を見た。

 

 彼の夢。

 砕いた彼の、今わの際の夢。

 

 最低の目覚め。

 最悪の目覚め。

 

 涙がまた人知れず流れ出す。

 自分が何をしたのかを思い知らされる。

 

 砕いて、良いように作り替えた。まるで、神様のように。

 

 ――いいえ。いいえ。

 

 其れよりも酷い。

 神ならざる身にて、そんなことを行った大罪人。

 それが、黒岩涙香。

 

「あぁ、そっか」

 

 異形の右手。

 それこそが、証。

 剥離の証。

 罪人の印。

 

「ならば、諦めるかね?」

 

 ふわりと、彼の手が涙をぬぐう。

 

 ――彼。

 ――大きな人、異国の人。

 ――異形を砕く人、あたしを導く人。

 ――リチャード・トレビシック。

 

 彼は問う。

 もう諦めるかね? と。

 

 涙香は答える。

 いいえ、と。

 

「諦めません……そうしないと、なにもわからないから……」

 

 何一つ。

 何も。

 

 黒岩涙香はまだ、何一つわかっていない。

 彼女が。

 彼が。

 

 何を目指していたのかを。

 銀の鍵が何を指し示すのかを。

 

「そうとも。君は、そういう子だ。だから、今は眠りなさい」

 

 寝台へと戻される。

 抱き上げられたのは、少しだけ恥ずかしかったけれど、もう、今更だった。

 泣いた姿を、目を腫らしたすがたを見せているから。

 それに彼の声がいつもよりも優しく聞こえたから。

 

 だから、素直に寝台へと戻されて、頭を撫でられる。

 

「お話をしよう。君の好きなお話を。むかしむかしと語ろう。私は何でも知っているよ」

 

 彼はそう言って、話をする。

 

 ――あたしの知らない話。

 ――あたしの知っている話。

 

 身近な話。遠い話。

 色々なことを。

 ほんとうに全てを知っているように。

 

「おやすみ、可愛いレディ。君が諦めない限り、私は、君の願いを叶えよう。会いに来てくれたまえ、私に」

 

 ――もう会っている。

 

 そんな思考をして、ううん、と思った。

 違う。

 まだ、会っていない。

 この果てで、会える。

 

 誰に?

 きっと、本当のあなたに。

 

 そんなことを考えながら、意識は、闇に沈んだ――。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 ――音が響く

 ――音が響く

 

 暗がりに音が響いている。

 

 それは、何かの歯車を回す音。

 それは、何かの螺子を回す音。

 それは、何かを組み立てる音。

 

 数多の音が暗がりに響いていた。

 

 東洋において、彼の大碩学、《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。

 されど遥かに劣る男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てる。

 

 ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。影の研究室。

 叡智の深淵と人は呼ぶ帝立碩学院の個人研究室。人はここをそう呼ぶ。

 ここは工房だった。暗い工房。この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と概ねその数は同じだ。だが、ここを訪ねる者はいない。

 

 深淵の叡智を求め、自らの望みと夢を求めて訪ねる碩学の卵はいない。論争を求めて、自らの理論を持ってくる若い碩学もいない。協調し深淵へと至る老齢な碩学もここにはいない。

 

 一人、幸せを求めた女以外には。

 もう一人は来ない。もうここに来ることはない。

 四本腕の碩学は、死んだ。

 

 ここにいるのは、一人、幸せを求めた女。

 ここにいるのは、一人、あらゆる全てを求めた、不定形なるたなびくマフラーをつけた男だけだ。

 

 彼は組み立てを続ける。

 

 彼の組み立てるもの。

 それを知ってはならない。

 命が惜しければ。

 

 それに手を出してはならない。

 命が惜しければ。

 

 ここにはまともな人間などひとりもありはしない。

 ただ暗がりと、ただ歯車の骨と機関の肉体を組み立てるだけの碩学と彼が作り出した機関の人型があるだけだ。ただそれだけだ。

 

 人型。人の形をした機械。概ね、それは欧州における碩学たちの組織であるところの結社に由来した機関人間の構造と同じではある。

 だが、一から創造したという点においてのみ、そこには敢然たる違い存在している。それは無から人を生み出したということに他ならない。

 

 それは神の所業。人が望み、進化(パラディグム)の果てに人がその肉体の機能として獲得したそれを人の()で行ったということ。

 人の身において、この男は、絡繰王と呼ばれるこの男は、人を子宮(うつわ)に頼らずに作り出すという古来からの夢を達成した。

 

 それは純然たる絡繰王(おとこ)の偉業。だが、だが、碩学王(かみ)には届かないと男は自虐する。自虐して、自虐して。

 ただ一つの結論へと至るのだ。己が、及ばぬものであるという事実に。己がどうしようもなく、ヒトであるという結論(ぜつぼう)

 

 ゆえに男は実験を続けるのだ。帝国全土に張り巡らせた機関情報網と明治機関天皇の威光を利用した数式実験を続ける。

 碩学王が都市を一つで実験をしたというのなら、自分は国一つを使って実験するまで。

 

 男の暗い意志が駆動する。届かぬというのならば、届くようにすればよいという男の暗い意志が。変容の果てに至らんとする意志が。

 

「――主」

 

 ――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型が声を上げる。

 

 女。人型、からくり。

 

 からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。

 自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。

 

 陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。

 この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。

 

 そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。

 

 

「主、変容の二を確認。第二歯車が回転を開始いたしました」

「回ったか、進んだか。ああ、ついに、ついに。この時を待ちわびたぞ」

 

 その声に、男はその手を止めた。

 

 女の声に、男は、その手を、止めた。

 

 組み立てるだけの男は手を止めたのだ。だが、歯車は回り続ける。回す者がいなくとも、歯車は回転を止めない。

 ただ回り、ただ組み立てる。なにかを。全てを。

 

 大日本機関帝国。

 明治機関天皇の治世を支える大動脈機関の中で二つの歯車が駆動を開始した。

 もうすぐだ。

 拡大変容(パラディグム)の時はあと五つの歯車を残すばかりだ。

 

「ああ、待ち望んだぞ、この時を。今度こそだ。今度こそ、窮極の門の先へと辿り着くぞ。

 黄金螺旋階段のその果て、我が求めし窮極の門の果てへと。

 この時を! 此度こそ、今度こそ、今宵こそ! 私は貴様を超えるぞ大碩学(チクタクマン)!!」

 

 男の声が響く。狂気に染まった、声が響く。それがどこかに届くことはない。ただ、暗がりの漆黒の中で吸い込まれて消えていく。

 

 消えて、ただ願うのだ。いつか。そう、いつか、その深淵に手が届くことを願って。

 男は、ただ、深淵にて歯車を回すのだ。

 

 女のからくりはただそれを見る。水晶玉の瞳で、ただそれを見る。

 思う事もなく、何も感じることもなく。

 

 だが、確かに己の回路が熱を持っていることを女は感じていた。それは男とはまた別のもので。

 男は熱狂する。

 

「おお、喝采せよ! 喝采せよ!

 今宵、この時より、再び、我が機関実験は次なる段階に進むのだ!

 今こそ、お前の望みを叶えよう機械仕掛けの天皇、我らが象徴よ。(お前)は死んだ! 超人はいない。この世界には、神などいらぬ!」

 

 男はただ天を仰ぎ見る。神の如き所業を片手間で行いながら、ただ、ただ、男は、歓喜へとむせぶ。

 碩学王を超越するその時を、ただ夢見て。

 必ずやそれらを打倒するのだと誓っている。

 

「……かならずやてにいれよう、全てを。この世に不要なものなどありはしない。まずは、知らなければ」

 

 マフラーを棚引かせた男が、暗がりから呟いた。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「あああ。ああああ!」

 

 暗がりの部屋で声が、音が響いている。何かを掻き毟る音。床を、壁を、あるいは自らを掻き毟る音が響く。

 ここには正気など何一つない。ただ一人の男が狂気の中で喘いでいる。

 遥か遠く、世界の先端を行く重機関都市倫敦より狂気を持ち帰った男が一人、ここで狂気にあえいでいる。

 

 二つ目の狂気は去った。

 だが、男の狂気はなくならない。

 あと四つ、いいや、五つ。

 

「はは、あはひゃははははははははは!」

 

 神が来た。神がいた。神はすぐそこにいる。

 

「目の前に、目の前に、ああ、窓に窓に!」

 

 そこにいる。どこにでも。彼らはどこにでもいる。

 暗がりに、人の夢にさえも。ああ、人間とはまさに塵だ。宇宙の端で羽虫のようにとぶだけの存在にすぎないのだ。

 

 伽藍の少女は死んだ。

 四本腕の侍は死んだ。

 

 あと何人死ぬのかな。

 

 狂気の果てで男が笑う。

 

 世界の真実を見通す黄金瞳がその両眼が全てを捉えて離さない。

 

 愚かなる傲岸不遜な東洋の大碩学。

 その果てを幻視して――。

 

「ああ、あああ、ああああああ」

 

 それこそ、世界の真実あると、男は狂ったように嗤いながら言う。遥か過去、あるいは未来。あるいは現在。英国を覆った漆黒を男は知っている。

 それ以上の全てを、男は知っている。

 

「次は、お前(わたし)だ。お前(わたし)だ、お前(わたし)だ。お前(わたし)だ!」

 

 ただ、ただ、狂気の声が、響く。

 

「自律機関辞典。求めるものは変わらぬか、世界そのものが不要であるというのに!

 お前(わたし)は、何一つ理解していないのだな! 愚かなり、愚かなり!

 ははははははは。滑稽だ、滑稽だ、滑稽だ。

 お前は、ここで、死ぬ。誰も、彼も、彼には敵わない。彼こそが、全て。全てなのだから。全てならざる知恵辞典に何が出来るものか! 

 あははははっははははっははははははっは。ははははははははははははははははははは」

 

 まるで、壊れたラジオのように、声が響く。

 

 しかし、誰もそれに耳を傾けないだろう。傾ける人すらここにはいないのだ。

 

 ここにはただ、男と、狂気があるだけなのだから。

 



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2-11

 暗闇の中、奇妙な感覚があたしの身体を満たしていく。

 それは、夜眠りについた時のような、それに近い感覚で。でも眠りには程遠くて。

 あたしは、何も見えない。何も感じない漆黒と曇白の中を揺蕩う。身体が動かない。呼吸すら。いいえ、呼吸していない。

 

 生きるのに必要な事をあたしは、何もしてない。けれど、苦しくない。これがここでは普通なのだろう。きっとこれは夢。

 そうでなければ死んでしまったのかもしれない。あの感覚。自分以外の全てが崩れていく感覚を覚えてる。

 

 何が起きたのだろう。わからない。

 

 ――あたしの左目は知っている。けれど、けれど。あたしにはわからない。何一つ。

 

 未だ、碩学ならぬ身では。神ではない身では。

 

 ――あるいは、■■であるあたしにはわからないのかもしれない。

 

 何かが外れてしまった。それでも、それでも。諦めたくなかったから。だから、手を伸ばした。

 その手は空を切った――

 

 伸ばしたはずの手は何もつかめず。

 ただ泡沫だけが闇に散る。

 薔薇の匂いがする。

 

「っ……」

 

 目を覚ます。

 黒岩涙香は目を覚ます。

 目を、覚ました。

 

 そこは暗い場所。

 あたしの部屋。

 

 ここには誰もいない。

 何かを砕いた、罪深い女一人。

 

 つまり、あたし。

 黒岩涙香。

 黒い悪い子。

 名前の通り、罪深いあたし。

 

 彼を砕いた。

 彼。

 強い人。

 四本腕の人。

 侍。

 

 森鴎外先生。

 あたしが、あたしの願いが、彼を砕いた。

 

 その事実を黒岩涙香は理解した。

 左目が。

 いえ、いいえ。

 

 違う。そんなものがなくてもわかる。

 

 きっと彼は生きている。

 今は大学の自分の研究室にいる。

 きっと、それがわかってしまう。

 

「あたし、が、願った、から」

 

 そうあたしが願ったから。

 彼を助けてと、願ったから。

 彼の願いを踏みにじって。

 

「うぁ……」

 

 涙があふれる。

 ぽろぽろと。

 苦しくて。

 悲しくて。

 

 嗚呼、あたしはなんて罪深いのだろうか、なんて。

 

 暗い部屋でそう思う。

 あたしは、ただ涙を流す。

 

「――――」

 

 誰かがあたしに触れる。

 いいえ、誰か、じゃなくて――。

 

「エド……」

 

 青い仔。

 本物の空のような貴方。

 

「慰めて、くれるの……?」

 

 あたしの涙をなめとるように。

 彼はあたしを慰めるように、そっとそばにいてくれる。

 

 心配そうな青が私を見つめている。

 

「うん……だいじょうぶ。あたしは、大丈夫だよ。エド」

 

 諦めない。

 そう決めたから。

 そう選んだから。

 

 ――あたしは、前に進む。

 

「その果てに、きっと貴方に逢えると思うから」

 

 誰に?

 彼に。

 

 白と黒の世界のことをあたしはあまり覚えていない。

 けれどわかることがある。

 その果てにきっと彼に逢えるということ。

 

「さあ、頑張らないと」

 

 努めて明るく。

 泣いた後は、お化粧で隠して。

 

「うん、行こう」

 

 あたしはいつも通りの日常を始める。

 変わってしまった日常を。

 離れてしまった日常を。

 あたしは、始める。

 自分の罪を隠して。

 

 ごめんなさい。

 野枝。

 こめんなさい

 鴎外先生。

 

 それでもあたしは進むのだ。

 伸ばす右手はない。

 けれど。けれど。

 進む足はまだあるのだから――

 

「っ――」

 

 痛み。

 足に。

 そこにあったのは異形の脚。

 

 罪のカタチ――

 

 ●

 

 ――音が響く

 ――音が響く

 

 暗がりに音が響いている。

 

 それは、何かの歯車を回す音。

 それは、何かの螺子を回す音。

 それは、何かを組み立てる音。

 

 数多の音が暗がりに響いていた。

 

 東洋において彼の大碩学と並び立つ者、西欧においてあるいはとある世界において《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。

 いや、いいや。

 遥かに劣る男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てている音だ。

 彼が生み出すからくりの声だ。

 

 ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。

 影の研究室、叡智の深淵と人は呼ぶ帝立碩学院の個人研究室。人はここをそう呼ぶ。

 ここは工房だった。

 暗い工房。この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と概ねその数は同じだ。

 

 だが、ここを訪ねる者はいない。

 

 深淵の叡智を求め、自らの望みと夢を求めて訪ねる碩学の卵はいない。

 論争を求めて、自らの理論を持ってくる若い碩学もいない。

 協調し深淵へと至る老齢な碩学もここにはいない。

 誰も、ここには誰もいない。

 

 ただ一人、幸せを求めた女とテケリ・リとなく奇妙な粘性を従えた男以外には。

 

 彼の組み立てるもの。

 それを知ってはならない。

 命が惜しければ。

 

 それに手を出してはならない。

 命が惜しければ。

 

 ここにはまともな人間などひとりもありはしない。

 ただ暗がりと、ただ歯車の骨と機関の肉体を組み立てるだけの碩学と彼が作り出した機関の人型があるだけだ。ただそれだけだ。

 ただ左手に手袋をつけた女と、テケリ・リと鳴く奇怪な粘性を従えた万能なりしと謳われる男だけだ。

 

 人型。

 人の形をした機械。

 概ね、それは欧州における碩学たちの組織であるところの結社に由来した機関人間の構造と同じではある。

 

 だが、一から創造したという点においてのみ、そこには敢然たる違い存在している。

 それは無から人を生み出したということに他ならない。

 

 それは神の所業。

 人が望み、進化(パラディグム)の果てに人がその肉体の機能として獲得したそれを人の()で行ったということ。

 人の身において、この男は、絡繰王と呼ばれるこの男は、人を子宮(うつわ)に頼らずに作り出すという古来からの夢を達成した。

 

 それは純然たる絡繰王(おとこ)の偉業。

 だが、だが、碩学王(かみ)には届かないと男は自虐する。

 自虐して、自嘲して。

 ただ一つの結論へと至るのだ。己が、及ばぬものであるという事実に。己がどうしようもなく、ヒトであるという結論(ぜつぼう)

 

 ゆえに男は実験を続けるのだ。帝国全土に張り巡らせた機関情報網と明治天皇の威光を利用した数式実験を続ける。

 碩学王が都市を一つで実験をしたというのなら、自分は国一つを使って実験するまで。

 

 男の暗い意志が駆動する。

 届かぬというのならば、届くようにすればよいという男の暗い意志が。変容の果てに至らんとする意志が。

 

「――主」

 

 ――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型が声を上げる。

 

 女。人型、からくり。

 

 からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。

 自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。

 だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。

 

 陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。

 この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。

 

 そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。

 

 

「主、変容の二を確認。第二歯車が噛みあい回転を開始いたしました」

「ついに、回った。次なる歯車、我が心が駆動する。嗚呼、ついに、ついに。この時を待ちわびたぞ」

 

 その声に、男はその手を止めた。

 

 女の声に、男は、その手を、止めた。

 

 組み立てるだけの男は手を止めたのだ。

 

 だが、歯車は回り続ける。回す者がいなくとも、歯車は回転を止めない。

 それは永久に回り続けるだろう。

 ただ回り、ただ組み立てる。なにかを。

 

 何を?

 ――全てを。

 

「ついにか! ついに、ああ、待ち望んだぞ、この時を。今度こそだ。今度こそ、あの先へと、辿り着くぞ。

 黄金螺旋階段のその果て、我が求めし窮極の門の果てへと。

 この時を! 此度こそ、今度こそ、今宵こそ! 私は貴様を超えるぞ大碩学(チクタクマン)!!

 時に連なる者よ見ているがいい! 我が愛、我が心の形を!!! 必ずやお前の涙をもらい受け、薔薇の香りに沈めようぞ!!」

 

 男の声が響く。狂気に染まった、声が響く。

 それがどこかに届くことはない。ただ、暗がりの漆黒の中で吸い込まれて消えていく。

 

 消えて、ただ願うのだ。いつか。そう、いつか、その深淵に手が届くことを願って。

 男は、ただ、深淵にて歯車を回すのだ。

 

 女のからくりはただそれを見る。水晶玉の瞳で、ただそれを見る。

 思う事もなく、何も感じることもなく。

 

 だが、確かに己の回路が熱を持っていることを女は感じていた。それは男とはまた別のもので。

 男は熱狂する。

 

「おお、喝采せよ! 喝采せよ!

 今宵、この時より、再び、我が機関実験は次なる段階へと進むのだ!

 今こそ、お前の望みを叶えよう機械仕掛けの天皇、我らが象徴よ。(お前)は死んだ!」

 

 男はただ天を仰ぎ見る。神の如き所業を片手間で行いながら、ただ、ただ、男は、歓喜へとむせぶ。

 碩学王を超越するその時を、ただ夢見て――。

 

 ●

 

「あああ。ああああ!」

 

 暗がりの部屋で声が、音が響いている。

 何かを掻き毟る音。床を、壁を、あるいは自らを掻き毟る音が響く。

 

 その男は狂気に堕ちた男だった。

 発狂している男であった。

 着物を身にまとった優美な男はしかして、狂気の中にあった。

 

 もはやかつての容貌はない。

 美しい容貌は発狂の果てに狂人のそれに成り果てた。

 今ではもう、誰も彼のことを想う者などいやしない。

 

 かつての歴史ならばもしくは。

 ありえざる歴史ならばあるいは。

 

 そう彼が語るのは猫の言葉。

 真理を知る、心理の百万猫。

 

 吾輩は猫であると、語る。

 狂気なりし人の言葉だ。

 いいや、真実だ。

 

 ここには正気など何一つない。

 ただ一人の男が狂気の中で喘いでいる。

 遥か遠く、世界の先端を行く重機関都市倫敦より狂気を持ち帰った男が一人、ここで狂気にあえいでいる。

 

「はは、あはひゃははははははははは!」

 

 神は来た。神はいた。神はそこにいる。

 

「目の前に、目の前に、ああ、窓に窓に!」

 

 そこにいる。どこにでも。彼らはどこにでもいる。

 暗がりに、人の夢にさえも。

 嗚呼、人間とはまさに塵だ。宇宙の端で羽虫のようにとぶだけの存在にすぎないのだ。

 

「ああ、あああ、ああああああ」

 

 それこそ、世界の真実あると、男は狂ったように嗤いながら言う。

 男、夏目漱石と呼ばれた男は遥か過去、あるいは未来を語る。

 いや。いいや、それは現在の出来事。

 英国を覆った漆黒を以て、持ち帰った欠片をのぞき込み男は知っている。

 

 何を?

 すべてを

 

「次は、お前(わたし)だ。お前(わたし)だ、お前(わたし)だ。お前(わたし)だ!」

 

 ただ、ただ、狂気の声が、響く。

 

「テケリ・リ。テケリ・リと鳴かせて喜ぶか変態め。それでも求めるのか。

 お前(わたし)は。あははははははひゃ。

 滑稽だ、滑稽だ、滑稽だ。

 お前は、ここで、死ぬ。誰も、彼も、彼には敵わない。

 彼こそが、全て。全てなのだから、あははははっははははっははははははっは。ははははははははははははははははははは」

 

 まるで、壊れたラジオのように、声が響く。

 

お前(わたし)がニューヨークで見たものにどうして届こうか! 大英博物館で手に入れたものなどたかが知れている!! テケリ・リと鳴くだけだ!!

 諦めろ、お前(わたし)はどうあがいても届かないのだから!! っははははははは!!」

 

 しかし、誰もそれに耳を傾けないだろう。傾ける人すらここにはいないのだ。

 

 ここにはただ、夏目漱石たる猫の狂気があるだけなのだから。

 




お久しぶりの更新でございます。

るいちゃんは相変わらずの御様子ですが、これからどんどん敵がハッスルしてきます。
頑張れるいちゃん。
諦めない限り、なんとかなるさ!


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