新訳 そして伝説へ・・・ (久慈川 京)
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第一章
プロローグ


久慈川京と申します。

以前は某サイトで連載いたしておりました。
そのサイトの閉鎖に伴い断筆を宣言していましたが、どうしても物語の続きを描きたいと思い、こちらのサイトに掲載させて頂きました。

よろしくお願い致します。



 

 

 

 

人々は望む。

 

この最悪な世界から誰かが救い出してくれる事を………

 

自分の子供達が外で元気に走り回れる日々を………

 

自分がその光景を見ながら目を細める日々を………

 

その為に、『勇者』が必要だった。

 

自分たちが平和に暮らせる日々の為に………

 

自分以外の誰かであれば良かった………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カミュ、起きなさい。私の可愛いカミュ」

 

とても裕福とは思えない、城下町のはずれにひっそりと佇む一軒家の二階で、母親が子供を揺り起こす声がする。ベッドにはまだ覚醒しきれない少年が寝ていた。年の頃は十五・六といったところであろうか。

 

艶のある黒髪は()の英雄から譲り受けたもの。

 

「……ああ、起きたよ。着替えて下に行くから」

 

母親の呼びかけに、心底鬱陶しそうに少年は答える。

それは、反抗期を迎える子供とはまた違う、一線を引いたものであった。

 

「今日はお城に行く大事な日ですよ。すぐに着替えて降りていらっしゃい」

 

母親は息子がベッドから起き上がるのを確認してから階下に降りて行った。

 

「……はぁ……」

 

少年は本当に気だるそうに身を起こし、着替えの準備を始めた。寝巻きから青を基調にした服に着替え、靴を履く。ベルトに薬草などを入れたポーチを付け、ベッドの枕元に立てかけてあったひと振りの剣を背に回して、鞘についているベルトを胸の前で止めた。

 

この剣は、この日に十六歳を迎える少年への祝いとして、彼の祖父から貰ったものだ。年期は入っているが、とても丁寧に手入れをされており、切れ味は申し分なく見える。マントを羽織った少年は、最後にサークレットを頭に付けた。サークレットの中心には青く輝く石が付いており、これも、十六歳の祝いにと、昨夜に母から手渡された物であった。

 

準備が済んだ少年は一度自分の姿を見下ろし、盛大な溜息をついてから階段を下りて行った。

 

 

 

 

 



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アリアハン

 

 

 

 ここは、英雄を産みし国アリアハン。

 

 昔、人と魔物はそれぞれの住み分けをし、共存共栄が暗黙の了解のもとに成り立っていた。

 しかし、人間の繁殖能力は恐ろしく優秀であり、人口の増加に伴い人はその領分を広げて行くことになる。

 森を切り開いて平地にし、人の往来があるところに町ができ、今や未開の土地という場所は限られてきた。

 その為、住処を奪われた魔物達は徐々に凶暴化して行き、次第に人間を襲う事が多くなっていったのだ。

 それでもまだ人間の繁栄に衰えという言葉はなかったのだが、その人間にとっての平和が崩れる時が来た。

 

 『魔王バラモス』の登場である。

 

 バラモスの登場により、人を襲っていた魔物はより凶暴になり、今まで人に牙を向ける事がなかった魔物達までもが人間を襲い食すようになった。

 その結果、街と街の間の移動も困難となり、商品を輸送するにも傭兵を雇う分赤字になってしまう為、商品の供給も満足に出来なくなって行く。

 日増しに強くなる魔物の脅威は人々から笑顔を奪い、活気を消した。

 そして、自分達では対抗出来ない恐怖に対し、人々は自分達の信じる神である『精霊ルビス』へ祈りを捧げる事しか出来なくなっていたのだ。

 

 そんな中立ち上がった一人の青年がいた。

 彼の名は『オルテガ』

 アリアハンの若き勇者である。

 

 腕っ節はアリアハン随一の腕前であり、宮廷騎士達が数人でかかっても太刀打ち出来ない程のものであり、()の者は魔法さえも行使する事が出来た。

 

 自国の勇者が魔王討伐に立ち上がったのだ。

 国王は嬉々として各国に書状を送り、その勇者への支援協力を要請。

 国を挙げて魔王討伐を後押しした。

 

 そして、オルテガは旅立った。

 まだ幼ささえも残す若い妻と、生まれたばかりの息子を残して……

 

 

 

 旅立って一年、その知らせは魔王消滅を心から願う人々を絶望の淵に落とした。

 

 『オルテガ死去』

 

 その知らせは、瞬く間に全世界へと広がった。

 アリアハン国王はその知らせを聞いた時に、目の前が暗い闇に覆われる。

 しかし、国王の決断は迅速だった。

 

 早急に大臣達に命を下し兵士を招集させ、レーベの村の東にあるアリアハン大陸と別大陸を結ぶ旅の扉の破棄を命じる。

 命を受けた兵士達は、旅の扉の洞窟に分厚い壁を製作し、他国との繋がりを断ったのだ。

 これにより、別大陸から強力な魔物たちがアリアハンに入って来る事はなくなった。

 同時に、アリアハンの他国との交流すらも断絶し、鎖国状態となる。

 年に何度か海上からの渡航はあるが、それも海の強力な魔物達の影響で渡航成功率は皆無に等しかった。

 

 アリアハンの勇者『オルテガ』の死。

 たった一つの人類の希望は、たった一人の青年の死によって永遠に閉ざされたかに思われた。

 

 しかし、彼には息子がいた。

 これはそんな生い立ちを持ち、後に伝説となった少年の物語である。

 

 

 

 

 

「カミュ、朝ごはんは出来ているから、席に座って」

 

 母親はやっと降りてきた息子に対し席に着くように促す。

 すでに食卓には祖父は着席しており、料理もテーブルで主を待っている。

 祖父は息子であるオルテガを、三十歳を過ぎて授かった為、既に齢七十に近い。

 しかし、若い時は剛の者として名を馳せていた事もあり、腰も曲がらず、その体躯はとても七十歳の身体には見えなかった。

 

「お爺様、おはようございます」

 

 少年は慣れ親しんだ自分の場所に座り、家長である祖父に丁寧に挨拶をする。

 

「うむ。カミュ、いよいよ今日じゃな。わしやオルテガの名に恥じぬようしっかりとやるのだぞ」

 

 カミュと呼ばれた少年は、既に耳にタコが出来る程に聞いている祖父の言葉にうんざりとしながらも、それを表情には出さず『はい』と答え頷いた。

 

「大丈夫ですよ、お義父様。カミュはオルテガ様の子です。立派に果たしてくれますよ」

 

 台所から卵を焼いたものと、具がそれほど多くはないスープをお盆に載せて、にこやかな笑顔で母親が出て来た。

 彼女の名はニーナ。

 魔王討伐に行く前の諸国を旅していたオルテガと恋に落ち、十八歳という若さで妻となりカミュを身籠った。

 二十歳で未亡人となり、オルテガの功績による国からの補助や、宮廷騎士であったオルテガの父の老後手当があったとはいえ、女手一つでカミュを育てた女性である。

 

「さぁさぁ、スープが冷めないうちに頂きましょう。大事な日に登城を遅刻する訳にはいかないでしょう?」

 

「ふむ、そうじゃな。カミュ、王にお会いする時に失礼のないようにな」

 

 堅苦しい会話を幾度も交わす母と祖父の言葉に返事を返しながらも、どこか上の空でカミュは食事を済ませた。

 

 

 

「では、お爺様、行ってまいります」

 

 食事を済ませ、休む暇もなくカミュは城へと向かう事になった。

 

「うむ、くれぐれも王に失礼の無きようにな。そして、アリアハンの勇者としてオルテガの後を継ぐのだ、その名に恥じぬ行いを心掛けよ。それに、勇者としてこの家を出るのじゃ、目的を果たすまでは、この家の戸を開ける事は許さん。あとは……」

 

「お父様、その辺りで……登城が遅れてしまいます」

 

 果てしなく続きそうな祖父の小言にカミュが辟易していると、ニーナが祖父の言葉を遮る。

 それは、カミュを助ける為というよりは、言葉通りに城へ行く時間を気にしているようであった。

 

「さあ、カミュ、お城までは私も一緒に行きます。私の後についていらっしゃい」

 

 自宅の敷地を一歩出ると、ニーナはその表情を一遍させ、悠然とカミュの前を歩いて行く。

 外に出れば、ニーナは勇者オルテガの妻であり、カミュは勇者オルテガの忘れ形見なのである。

 

「おはよう、ニーナさん。あら、そう……今日だったのね……」

 

「頼んだぞ、カミュ! 魔王を倒して平和を取り戻してくれ!」

 

「夫とあの子の敵討ち、貴方に託すわよ」

 

 家を出て、城までの道で街の住人がそれぞれの想いをカミュに託す声が響く。

 ある者はこの荒れすさんだ時代からの解放を……

 ある者は失った身内の敵討ちを……

 ある者は無念にも命を落としたアリアハンの勇者へ託した希望を……

 

 十六歳の少年に背負わせるにはあまりに重すぎる責任と希望を嬉々として投げかける。

 それに対し、ニーナはにこやかな笑顔で応対しながらも、悠然とカミュの前を歩き、一方のカミュは能面のような、表情の抜け落ちた表情で、街の住民を一瞥もせずに前を歩くニーナを追っていた。

 

 

 

 アリアハンの城下町から城へと続く橋の麓に着くと、ニーナは振り返りカミュを見つめる。

 

「さぁ、ここからは一人でお行きなさい。お父様もおっしゃっていましたが、オルテガ様の名を汚すような事のないようにね。貴方はこのアリアハンが産んだ英雄の息子なのです。その事は忘れてはいけませんよ。それと、お父様はああ言っていましたけれど、あそこは貴方の家でもあるのですから、いつでも帰って来て良いのですからね」

 

「……ああ……」

 

 家を出る前に祖父がカミュに言ったことをそのまま繰り返すような母の言葉に、カミュは無表情のまま返事を返し、それっきりニーナの方を振り返る事なく城門に向かって歩き出した。

 『いってらっしゃい』、『いってきます』という世間でありふれた親子の会話すらもなく、ニーナとカミュの別れは済んだ。

 

「オルテガ様……カミュをお守り下さい……」

 

 そのカミュの背中を見つめながら、呟くニーナ。

 これが、ニーナが見るカミュの最後の姿になるとは当のニーナは考えもしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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アリアハン城

 

 

 城門につくと、門の両端に槍を片手に持った兵士が一人ずつ立っていた。

 見覚えのない顔。

 おそらく新しく配属された兵士達なのだろう。

 最近では、如何に他国との行き来を断ったとはいえ、魔王の影響からかアリアハンの魔物達の凶暴化が進んでいた。

 昔から大陸にすむスライム。

 死者の亡骸を啄ばむカラスが魔王の影響で巨大化した大ガラス。

 数多くの魔物達がアリアハン大陸を住処としている。

 民衆の生活を保護するため、国では討伐隊を定期的に組織し、アリアハンとレーベ間の街道周辺の魔物討伐を行っていた。

 それは宮廷騎士だけでなく、街の酒場に集まる冒険者達からも志願を募り討伐隊を組織する。

 いくら宮廷騎士や旅慣れた冒険者達といえども、相手は魔物である。

 一回の討伐で多いときには数十人の死者が出る事もある。

 ここ数年はその傾向が強く、城の中の兵士や騎士達も、重臣以外は入れ替わりが激しくなっていた。

 

「カミュと申します。本日、アリアハン国王様との謁見のお約束を頂いております。ご確認をお願い致します」

 

 カミュとて、立つ事が出来る歳になった途端に剣が振るえた訳ではない。

 基本的に祖父に師事していたが、宮廷騎士であった祖父のつてで、城の兵士や騎士隊長から教えを受ける事もあった。

 顔見知りの兵士達であれば、カミュの顔を見れば今日ここに来た要件も解るだろうが、城門の両側に立つ彼らはカミュの顔を知っているようには見えなかった。

 

「むっ、少し待っていろ」

 

 右側にいた兵士がカミュの言葉に嘘がないことを確認するために城内へと入って行く。

 カミュはその姿を見送ると、左側の兵士からの無遠慮な好奇の視線を無視し、身動き一つせずにその場で待っていた。

 

「確認が取れた。国王様がお待ちだ。城内に入った所に案内役がいる。そいつに謁見の間まで案内してもらえ」

 

 戻って来た兵士は、それでもカミュの素性を知らされなかったのであろう。 

 見下すような傲慢な態度でカミュへ指示を出す。

 

「畏まりました。お手数をお掛け致しました」

 

 カミュは城内の兵士の平民に対する態度には慣れていた。

 武力では一般人より強いのだろう。

 そして、言葉通り命を懸けて民衆を護る為に最前線に立たされるのは、宮廷兵士ではなく彼らのような一般兵である。

 それを考えると仕方がない事なのかもしれない。

 カミュはそう思っていた。

 

「カミュ様、お待ちしておりました。王様もお待ちです。どうぞこちらへ」

 

 城内に入るとすぐに兵士ではなく線の細い男が立っていた。

 おそらく政に携わる文官であろう。腰は低く、それでいて眼だけはこちらを試すような光を灯している。

 

「ありがとうございます。宜しくお願い致します」

 

 文官は一つ頷くと、カミュを先導し前に見える階段へと向かって行った。

 幼い頃は、剣を習うために何度も通ったことのある城だが、ここ数年は城内に入ることもなくなった。

 記憶とは違う部分がちらほらとあり、それを見つけることがカミュは不思議に嬉しかった。

 

「きゃ!」

 

 女性の短い悲鳴に我に返ったカミュが見たものは、先導していたはずの文官に涙目で頭を下げている給士の女性であった。

 

「この私の前を横切るなど無礼ではないか!!」

 

「も、申し訳ございません……」

 

「貴様、どこの給士だ! 所属を言え!」

 

「も、もう…し…わけご……ざいません」

 

 カミュは見慣れた光景に溜息を洩らす。

 権力、腕力のある者がない者を虐げる事はこの世では当たり前の事だ。

 既にそう割り切っているとは言え、気分の良い物ではない。

 カミュはオルテガの息子ということで文官に案内させるような立場にいるが、実質はその給士の女性と変わらない、アリアハンの街はずれに住む一国民なのだ。

 

「文官殿、そこの給士の方の無礼にお怒りなのは当然ですが、よく見れば、給士の方も相当慌てたご様子。ここは文官殿の寛大なお心でお許しくださる訳には参りませんか?」

 

相変わらずな無表情で、カミュはやんわりと文官と給士の間に入る。突然のカミュの登場に、両者ともに驚いていたが、その後は対照的な表情をしていた。

 

「むぅ……カミュ様がそうおっしゃるならば……もう良い! 早急に仕事に戻れ!」

 

 カミュの登場に苦虫を噛み潰したような表情をしていた文官が忌々しそうに給士に当たり散らす。

 対する給士は『ほっ』とした表情を浮かべ、深々と頭を下げフロアを出て行った。

 何をあそこまで慌てる事があったのかが疑問であったが、結局自分には関係のない事だとカミュは忘れる事とする。

 奥の方で、『お姫様~~』という先程の給士の声が聞こえた事も聞かなかった事にしたのだった。

 

 

 

 

「よくぞ来た、勇者オルテガの息子カミュよ。面を上げよ」

 

 謁見の間に通され、カミュは王の前に跪いていた。

 跪くカミュの右手には見下すような形でアリアハン国務大臣が立っている。

 

「国王様におかれましては、ご健勝で何よりでございます」

 

 カミュは一度顔を上げたがまたすぐに面を下げ、謁見の間に敷かれている赤い絨毯を見つめながらありきたりな挨拶を交わす。

 

「うむ。さて、カミュよ。そなたも今日で十六歳となった。このアリアハンでは十六歳になれば、一人の大人として認められる。故にここにそなたをアリアハンの一戦士として認め、命を下そう。勇者カミュよ、これよりこのアリアハンを出て『魔王バラモス』を討伐せよ!」

 

 カミュは内心、国王の身勝手な言葉に毒づいていた。

 十六という歳で戦士として認められるならば、この『アリアハン』という国には何人の戦士がいると言うのだろう。

 その中で、誰一人『魔王バラモス』の討伐に向かった人間等いないのだ。

 

「はっ、謹んでお受けいたします。このカミュ、アリアハンの旗の元、国王様や勇者オルテガの名に恥じぬようその命、命を賭して果たしてごらんにいれます」

 

「うむ。期待しておるぞ。しかし、カミュ、そなたの父オルテガも一人で旅に出、そして命を落とした。日増しに魔王の力が強まる中、一人での旅は危険だ。城下町にある酒場には多くの経験豊富な冒険者たちがおると聞く。そこで旅の仲間を募れ。良いな?」

 

 顔を上げずに返答を返すカミュに、アリアハン国王は満足気に頷く。

 そして、まるでカミュの身を案じているかのような言葉をかけた。

 

「畏まりました。このような我が身を案じて頂き、有難き幸せに存じます。仰せの通りに致します」

 

 自分の身を案じた物ではない事など、カミュは百も承知だ。

 それでも未だ顔も上げずに国王へと返答する。

 

「うむ。ただ、魔王討伐という目的では思うように仲間を募る事も出来ぬであろう。よって、我が宮廷騎士からそなたに一人分け与える……大臣よ!」

 

「はい。これ、呼んでまいれ」

 

 思わぬ国王の提案に思わず顔を上げそうになったカミュだが、何とか抑える事が出来た。

 国王から呼びかけられた大臣が、その言葉が前から指示として受けていたかのように更に下の文官に指示を出す。

 しばらく経って、カミュの後ろの扉が開き足音が近づいて来た。

 足音はカミュのすぐ後ろで停止し、カミュと同じように跪く気配がする。

 

「うむ……カミュよ。その者の名はリーシャ。前アリアハン宮廷騎士隊長の一人娘だ。女子ではあるが、今の宮廷騎士の中でもその剣技の実力は上位に入る。そなたの旅の助けとなろう」

 

 カミュは国王の言葉に多少驚きながら、姿勢はそのままで顔だけ後ろに振り返る。

 そこに居たのは、確かに女であった。

 少しカールがかかった金髪は肩にも届かないぐらいの長さ。

 アリアハンの一般的な女性と比べると比較的筋肉のついた体格ではあるが、筋肉隆々と言う訳でもなく、女性特有の丸みを残した引き締まった身体をしている。

 跪いているのではっきりとは解らないが、背はおそらくカミュより頭一つ大きいだろう。

 宮廷騎士隊長の娘として幼い頃から剣の手ほどきを受けて来たのか、その気の強そうな瞳が彼女の性根を物語っていた。

 

「はっ、国王様のご寛大なお心を決して忘れず、魔王討伐の命、必ずや果たしてまいります」

 

「支度金と旅に必要な物を用意した。大臣から受け取るように。では、行け! 勇者カミュよ!」

 

 国王のその言葉を聞き、支度金と袋に入った道具を大臣から受け取ったカミュは、後ろに控えたリーシャを一瞥し、謁見の間から出て行った。

 

 

 

 

 



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アリアハン城下町

 

 

 

「ちょっと待ってくれ。これから一緒に旅に出るんだ。自己紹介ぐらいさせてくれないのか?」

 

 城から出て、アリアハンの城下町に続く橋を歩いている途中で、リーシャは前を歩くカミュに意を決して声をかけた。

 カミュは謁見の間からの出掛けに、リーシャへと視線を向けたきり城を出てからこの橋に来るまで、会話どころか顔を見る事すらなかったのだ。

 

「……」

 

 後ろからの声にカミュは無言で振り返る。

 謁見の間ではそれ程じっくりと見なかったが、リーシャの容姿は周りの視線を集めるに十分値するものだった。

 

 気の強そうな切れ長の瞳。

 すっと通った鼻。

 薄い唇。

 

 美人の部類に入るものだ。

 着ている物がワンピースのような物であれば、街を歩けば掛る男性の声に、なかなか前へ進めない状態に陥るだろう。

 しかし、リーシャはアリアハン下級騎士に支給される、なめし皮を叩いた鎧を身につけ、腰にはこれも国からの支給品である剣を差していた。

 

「ようやくこっちを向いたな。私は前宮廷騎士隊長クロノスの一人娘のリーシャだ」

 

「……カミュだ……」

 

 リーシャの自己紹介の後、しばらく間を置いて口を開いたカミュから出た言葉は、自分の名前だけを言う簡潔なものだった。

 幾分か不満はあったが、彼が自分の憧れていた人物の息子だと伝えられていた為、リーシャは気を取り直し、会話を続ける事にした。

 

「剣は幼き頃から父より教わってきた。そこら辺の男に負ける事はない。オルテガ様には幼き時分に何度か声をかけて頂いた事がある。その息子である貴殿と『魔王討伐』の命を受けた事を誇りに思う。よろしく頼む」

 

 そう言ってリーシャが手を差し出す。

 カミュはその手をしばし眺めると、盛大に溜息をついた。

 

「貴方が誰であろうと別段興味はない。『英雄オルテガ』への憧れを俺にスライドしても無意味だ。アリアハン国王の勅命という事で俺についてくるのなら、辞退してくれても構わない。理由はどう言っても良い。全てこちらの責任にしてくれても構わない」

 

 全く友好的ではない発言。それは、先程まで国王の前で雄弁に応答していた少年と同一人物とは思えない物だった。

 リーシャは信じられない者を見たように、オルテガの息子であるカミュを見つめる。

 呆然とするリーシャを見て、もう一度溜息を吐いたカミュは、踵を返し、再び橋を歩き始めた。

 カミュが歩き出した事を見て我に返ったリーシャは、慌ててその後を追った。

 

「ちょ、ちょっと待て! それはどういう意味だ。私が女だからか!? 女の騎士は旅の邪魔だとでも言うのか!?」

 

 それはリーシャにとっては、決して許せる理由ではないのだ。

 幼き頃、宮廷騎士だった父クロノスには子供が出来なかった。

 ようやく授かった子は望んでいた男ではなく女子。

 それでもクロノスは女のリーシャに剣を教えた。

 クロノスの同僚は、女子に剣を教える彼を嘲笑う。

 リーシャと同年代の子供達もまた、男女を問わずリーシャ親子を馬鹿にし始めた。

 

 そんな父クロノスも、宮廷騎士隊長まで登りつめたが、リーシャが七歳になる頃に魔物討伐の際に仲間をかばって戦死する事となる。

 それは、『英雄オルテガ』の死から三年後。

 アリアハン国周辺の魔物達もその狂暴性を更に増して来た頃だった。

 リーシャは父の死後も一人で鍛練を行い、同世代の子供達の中では頭一つ飛び出した実力者になって行く。

 だが、女が剣の実力を磨く事に対し、周りの視線は冷たい物であった。

 

「そうか、名はリーシャと言うのか。良い筋をしているな……流石はクロノス殿の子だ。私の子供が成長したら、剣を教えてやってくれないか?」

 

 だが、彼女の頭に残る、遠い昔に聞いた言葉が、リーシャを突き動かしていた。

 それは、彼女がまだ齢四つの頃、初めて父から与えられた木剣を、嬉々として振り回し遊んでいた頃の事。

 不意に掛った声に対し、振り返ったリーシャは、その人物の姿を見て、緊張で身体を固くしたのだ。

 

 旅による日焼けした肌。

 筋肉で武装された身体。

 それが、アリアハンの英雄と謳われ、まだ魔王討伐に出る前のオルテガだった。

 

 今回、そのオルテガの息子の魔王討伐という旅に同道できる命を受けた時、あの時の『英雄オルテガ』との約束を果たせる時が来たと喜んだのだ。

 成長し、騎士団に入ってからも、女というだけでの差別と侮蔑はあった。

 ましてや、自分よりも弱い男からは、嫉妬からの嫌がらせ等が日常茶飯事となっていたのだ。

 それでも耐えて来たのは、この日の為であったのだとリーシャの身は震える。

 謁見の間で見たオルテガの息子の背は、あの頃のオルテガに比べ見劣りはするものの、十六歳という歳を考えると成長が楽しみなものだった。

 

 だが、先程の言葉は、そんなリーシャの希望を容易く打ち砕く。

 

「……先程も言った通り、貴方が誰であろうと、女であろうと男であろうと興味はない。俺は始めから一人で旅に出る予定だった。故に、貴方が強かろうが弱かろうが、共に旅をする気はないという事だ」

 

 溜息と共に、振り返りもせずにカミュが放った言葉は、憤っていたリーシャの熱を一気に冷まし、絶望の淵へ落として行く。

 『彼は本当にあのオルテガ様の息子なのだろうか?』

 リーシャの頭の中で、既に否定的な答えが出ている疑問が、彼女の口を開かせた。

 

「お、お前は、本当にオルテガ様の息子なのか……?」

 

 呟くようなリーシャのその一言に、もう一度振り返ったカミュの表情は、何の感情も見い出せない、本当に生きている人間かを疑いたくなるようなものだった。

 今のカミュの表情を見れば、先程までリーシャと相対していた時がどれだけ表情豊かなものであったかが解る。

 遠巻きに見ている者には、その違いが解らないかもしれないが、言葉を直に交わしたリーシャには恐怖さえ感じるものだった。

 

「英雄オルテガの息子というステータスが貴方にとってどれほど重要なのかは知らないが、それを他人に押し付けるな。そのステータスと旅に出たいというのなら、人違いだ。他を当たるんだな」

 

 そう言ったきり、もう話しかけるなとでも言うように、カミュはアリアハンの城下町を賑す人の波へと飲まれて行く。

 先程までの喧騒も消え失せ、その場に一人の女性だけを残して行った。

 

『何故、このような事になったのだ?』

 

 リーシャは、カミュが喧騒の中に消えてからも、しばらく橋の上で放心状態にあった。

 三日程前にアリアハン国王直々にお呼びを受け、魔王討伐の命を頂いた。

 その命を最初に聞いた時は、周辺の魔物討伐の言い間違いかと思ったが、そうではなかった。

 討伐隊のリーダーは自分ではなく、若干十六歳の少年だったのだ。

 彼の名は『カミュ』。

 『アリアハンの英雄』であるオルテガの息子。

 

 生まれた時から英雄になる事が決まっている少年に対して、羨望の念を抱いた事もある。

 決して自分の父を蔑にする訳ではないが、全世界に誇る事の出来る英雄の血を引く子である事を素直に羨ましく思っていた。

 そしてリーシャは、この三日間の鍛練を強化し、自分を鍛え直した。

 『英雄オルテガ』の息子に同道する者として恥じぬよう、アリアハンの英雄の想いを引き継ぐ者として胸を張って旅ができるようにと。

 

 それがどうだ……

 会話して数分でリーシャの旅は終結しようとしていた。

 カミュというあのオルテガの息子は、仲間と旅をするつもりはないと言う。

 それはリーシャであろうと、他の誰であろうと同じだと言う。

 

 つまりは、彼はリーシャをリーシャという個人として見ていないのだ。

 それは、どれほどの屈辱だろう。

 未だに、亡き父クロノスには及ばないとは思ってはいるが、今の宮廷騎士の中では自分が一番だという自信もあった。

 なればこそ、旅への同道者として認めるどころか、存在すら認識されないという事は最大の侮辱なのである。

 リーシャは意識の覚醒と共に湧いてくる怒りを感じた。

 

「なんだと言うんだ! あのオルテガ様でさえ、一人旅で命を落としたのだぞ! オルテガ様の足元にも及ばない実力で、どうやって一人で魔王を倒すと言うんだ!」

 

 突然大声を張り上げたリーシャに、街の方から奇異の視線が飛んで来るが、怒りに我を忘れかけているリーシャには関係のない事であった。

 

「くそ! こうなったら、意地でも付いて行ってやる。あんな奴がオルテガ様の息子などと、私は認めない。きっと養子か何かだ。化けの皮を剥いでやる!」

 

 自分の中の『英雄オルテガ』像と、先程の少年とが結びつかない理由を、自分の中で強引に結びつけ、リーシャは偽勇者となった少年を追った。

 

 

 

 リーシャは、街に入り、街の門の方へ向かう途中で、道具屋に入っていく少年を見つけた。

 旅に必要な道具でも買いに行くのだろうか。

 『国王から旅の道具は支給されたはず』とリーシャは首を捻る。

 そのまま道具屋に続いて入ると、ちょうどカミュが道具屋の主人から薬草を数枚受け取っているところだった。

 

「何をしているんだ?……薬草なら国王様からの支給品の中に入っていたのではないのか?」

 

「……また貴方か……旅の仲間は間に合っていると言ったはずなんだが」

 

 不意にかけられたリーシャの声に対して驚きもせず、無表情のままカミュはリーシャを見る。

 だが、カミュの口から出た言葉は、リーシャの質問に一切答える事なく、リーシャとの接触を拒絶するものだった。

 

「ぐっ! わ、私はアリアハン国王様から直々にお前の旅への同道を命じられたのだ。どれ程お前に断られてもついていく」

 

「呼び名はお前に降格確定か……くっくっ、勝手にすれば良い。ただ、自分の身は自分で護ってくれ」

 

 意外にも、カミュはリーシャの同道を簡単に認めた。

 それでも、リーシャはカミュのある一言が気に食わない。

 それは、リーシャの生きて来た年月を否定する言葉なのだから。

 

「自分の身を護る!? それはこちらのセリフだ! オルテガ様の足元にも及ばないお前が何を言っている!? おそらく、お前の剣の腕などは私よりも劣るのだろう? お前こそ自分の身すら護れないのではないか?」

 

 アリアハン宮廷騎士随一だと自負しているリーシャにとって、立て続けの侮辱である。

 どうしても挑発的な物言いになってしまう。

 対するカミュはというと、そんなリーシャの言葉を聞いていなかったかのように、リーシャの脇を抜け道具屋を出て行った。

 慌てて後を追い、リーシャはカミュの横に並び歩き出すが、一切の会話がない。

 カミュはリーシャを見ようともせず、リーシャもそんなカミュに自分から声をかけるような事はしなかった。

 武器屋を通り過ぎ、アリアハン唯一の酒場が見えて来る。

 リーシャはさも当然のように酒場への道を曲がったが、カミュはそのまま道を真っ直ぐに進んで行った。

 

「お、おい! 国王様にお言葉を頂戴した筈だぞ?……酒場で仲間を募るのではないのか?」

 

 全く酒場へ向かう気がないカミュを追ってリーシャは声をかけるが、カミュはそんなリーシャに心底呆れたような溜息をついた。

 

「俺は、元々一人で旅に出る予定だった事は話したはずだが……それに、あんな酒場に入り浸っている人間が、魔王討伐のような、ほぼ確実な死の旅について来ると思うのか?」

 

 カミュの答えに、リーシャは息を飲んだ。

 一人で旅する予定だと言われた事を忘れていたためではない。

 国王様の忠告を無視するカミュに驚いたためでもない。

 カミュが、この魔王討伐という旅での『死』を当たり前の事と受け入れている事にだった。

 普通、このぐらいの歳の人間が、一国の国王から直々の命を受けて旅立つ時、その胸には多少の恐怖はあるだろうが、希望と好奇心、そして選ばれた事への優越感に興奮するのが当たり前だ。

 リーシャですら、国王直々の命に興奮を覚えた。

 それにも拘わらず、目の前の少年にはそのような感情のかけらもない。

 むしろ、死という絶望が自分の未来であることを納得しているかのようであった。

 

「こんな他国との交流もなく、大陸から強い魔物も入って来る事のない国の酒場に、昼から入り浸っているような人間達だ。碌な魔物と戦った事もない連中ばかりだろう。魔物討伐で街道沿いにいる魔物と多少の戦闘をして、それで得た給金で生活している名ばかりの冒険者。そんな我が身が可愛い奴らだ。死の旅について来るとは考えられない。例え、ついて来たとしても足手纏いなだけだ」

 

 カミュは言い終わると、そのままアリアハン城下町の入口の門に向かう。

 リーシャはカミュの言うことに反論が出来ない事に悔しさを覚えるが、よくよく考えれば、カミュの言い分が的を得ている事を理解し、その後を追った。

 

 

 

「アリアハンの英雄オルテガの意思を継ぐ勇者カミュ、バンザーーーーーイ!」

 

「勇者に精霊ルビスの加護のあらんことを!」

 

「頼んだぞ~~~~~~~~!!」

 

 門が近づくにつれて見えてきた人だかりに、リーシャは目を丸くした。

 街の住民の大半が勇者の旅立ちを見送ろうと押し寄せて来ていたのだ。

 口々にアリアハンから旅立つ新しい勇者への声援を発し、羨望と期待の眼差しを向ける。

 リーシャは、その民からの応援を受ける我が身を、若干気恥かしさを感じつつも、誇らしく思った。

 だが、少し前を伺うと、そこには先程橋の前でリーシャに向けた、恐怖すら感じる、表情の抜け落ちた顔をして門を潜ろうとするカミュがいた。

 

『彼はこれほどの声援を受けても何も感じないのだろうか?』

 

 そう感じたリーシャは、これからの先の長い旅路に若干の不安を抱きながらも、カミュに続いて門を潜った。

 

 

 

 

 

 



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アリアハン大陸①

 

 

 

「おい、まずどこに向かうんだ?」

 

 アリアハンの城下町を出てすぐに、リーシャは旅の計画についてカミュと話し合う必要性を感じ、声をかけた。

 

「まずはレーベの村に行く。何にせよ、このアリアハン大陸から出ない事には仕方がない。国王からも大陸の出方は教えて貰ってはいない……大陸からの出方も教えずに、『魔王討伐』か……」

 

 吐き捨てるように、アリアハン国王への愚痴を言うカミュに対し、リーシャは眉をしかめた。

 王都の中でこのような事を公に言えば、不敬罪で処罰されるぐらいの物だ。

 それを、王都から離れたとはいえ、宮廷騎士の一人である自分の前で発する等、どうゆうつもりなのだろうかと。

 リーシャは抗議の言葉を発しようとする。

 

「おい! お前そ……」

 

「お待ちくださ~~~~~~~~~~~~い!!」

 

 リーシャの抗議の声は、後ろから唐突にかけられた大声に阻まれる。リーシャは反射的に声のした方を振り返るが、カミュは相変わらず無表情で手元の地図を睨んでいた。

 声は城の方からした。

 見ると、一つの人影がこちらに近づいて来ている。

 リーシャはいざという時の為に、右手を腰に差す剣の上に置いて低く姿勢を取った。

 

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 しばらくすると、小さかった人影が大きくなって行き、カミュとリーシャの前で停止する。

 それは、遠くからでは分からなかったが、法衣を纏ったカミュと同世代の少女であった。

 背はリーシャの肩ほどまでしかなく、髪は癖のない黒味がかった蒼色の物を肩の下まで伸ばし、眼は慈愛に満ちた碧眼。

 

「何者だ……?」

 

 リーシャは未だに自分たちの前で息を整えることに必死な僧侶に声をかける。

 この時点でも、カミュはまだ地図を睨んでいた。

 

「はぁ……はぁ……は、はい! わ、わたくしは、アリアハンの僧侶でサラと申します。失礼ですが、勇者カミュ様でよろしかったでしょうか?」

 

 息が整えきれずに話し始めたため、とても流暢なしゃべり出しではなかったが、それでもきっちりと名乗りを上げる少女にようやくカミュは地図から顔を上げた。

 

「…………」

 

「あ、ああ、そうだ。こちらが、オルテガ様のご子息であるカミュだ。私はアリアハン国王様から同道を命じられた宮廷騎士のリーシャという」

 

 顔は上げたが返事をしようとしないカミュの代わりに、リーシャが慌てて名乗りを上げる。

 サラと名乗った少女は、それでもにこやかな笑顔を向けていた。

 

「ありがとうございます。勇者カミュ様にお願いがございます。どうぞ、このサラも勇者様の旅への同道をお認め下さい」

 

 サラは言葉と共にカミュの前に跪き、まるで一国の国王にするような対応を取る。

 その態度にリーシャは驚いたが、隣のカミュは冷たい目を向けるだけであった。

 

「あ、あの……」

 

 一向に返事を返さないカミュにしびれを切らし、サラが恐る恐る顔を上げる。

 サラが顔を上げると、無表情で自分を見下ろす冷たい瞳と視線がぶつかった。

 その視線と目を合わすだけで、死へと誘われるような感覚をサラは受けてしまう。

 

「い、良いじゃないか。回復魔法が使える僧侶は、旅には必須だぞ。こちらとしては願ったり叶ったりじゃないか?」

 

 カミュの態度に『またか』という思いを持ちながら、リーシャは僧侶を仲間に加える利益を説く。

 街や村から城へと延びる街道沿いにも魔物が横行する時代である。リーシャの言う通りに、回復魔法を使う事の出来る僧侶を旅の時に雇う商団などは多い。

 魔王討伐となれば、魔物との戦闘の数は十や二十では済まないだろう。

 多少の傷程度であれば薬草で十分補えるが、深い傷となれば回復魔法でなければ治癒が難しくなる。

 街や城の近くであれば、治療のために一度戻り、街にいる回復魔法の使い手に金を支払い、治療をして貰う事も可能であるが、旅に出ればそんな都合のいい形で街があるとは考え辛い。

 故に、長旅には回復魔法を使える人間が必ず同行する事になる。街の教会の収入源の一つは、そうした旅の同行での報酬で成り立っているのが現状であった。

 

「あ、あの、まだ僧侶として未熟ですので、高度な回復魔法は使えませんが、旅への同道を認めて頂けるのであれば、今以上の努力をお約束致します。必ず勇者様のお役に立てるような僧侶となります。ですから、ですから……」

 

 最後の方は感極まって涙声になっているサラに驚いたリーシャであったが、カミュは未だ冷たい目でサラを見下ろしていた。

 

「おい、カミュ。何か言ってやれ。このままでは、あまりにも不憫だろ」

 

「……何故、そこまでして旅に出たい?」

 

 簡潔な疑問。

 街の僧侶であれば、この時代なら食うに困る事などは、まずあり得ない。

 であるならば、比較的安全な旅に同行し、報酬を貰った方が利口であるのだ。

 

「そ、それは……」

 

「俺の旅は安全どころか、ただ死に向かうような旅だ。それに報酬など払えない。俺の旅に付いて来たとしても一文の得にもならない。僧侶であるならば、商隊に同道して報酬を貰っていれば、地位も食も保証される筈だ」

 

 表情も変えずに淡々と事実を述べ、跪いているサラに向かって、少しの温情も見せないカミュに対し、リーシャは我慢が出来なかった。

 

「もう良いだろう! 人には言いたくはない事情もある。この子の面倒は私が見る。私と同じようにお前に勝手について行くさ」

 

 横からのリーシャの怒声に、少し視線を動かし、カミュは溜息を吐いた。

 そのカミュの態度に、益々怒りを増長されたリーシャは、未だ跪いているサラを立ち上がらせようと腕を取る。

 だが、当のサラは、そのリーシャの腕を控えめに解き、改めてカミュに頭を下げたのだ。

 

 

「私は孤児として、アリアハンの教会の神父様に引き取って頂きました。それまではレーベの街に住んでおり、両親はレーベで商人をしていましたが、十四年前に私を連れてアリアハンに行く途中で魔物に襲われ命を落としています。母が遺体となりながらも私を護ってくれていた時に、魔物討伐隊に同道していた神父様に救って頂き、今に至りました」

 

 サラが自分の痛ましい過去をぽつりぽつりと、カミュの顔ではなく地面を見ながら話し出した。

 その内容は、過酷な過去ではあるが、今の時代ならば有り触れている話だ。

 リーシャにしても、そのような孤児なら数え切れないほど知っている。

 いや、サラはその中でもとても恵まれている方だろう。

 如何に平和なアリアハンといえども、街全てに王の威光が届くわけではない。スラム街と呼ばれる一角の存在もあり、そこにいる子供は、娼婦の子か魔物に親を殺された孤児である者が大半だ。

 盗み等の犯罪にも手を染め、雨を凌ぐ場所もない子供すらいる。

 生きるために必死なだけだが、そのような子供が成長したとしても、まともな仕事に就ける訳がない。

 大抵の者が盗賊稼業に身を落とすか、良くて剣の腕を磨き冒険者として生きていく者が多いのだ。

 それに比べれば、例え両親を失ったとはいえ、教会の神父に拾われ、生きていく技能を指南してもらえたことを考えれば、孤児の中では幸福な部類に入るだろう。

 

「それで、魔物へ復讐か?」

 

 カミュの言葉は感情が籠ってはいなかった。

 まるで、人形に話しかけるように、サラへと言葉を浴びせる。

 

「……はい……魔物が凶暴化したのは魔王バラモスの影響だという説が有力です。ならば、両親の仇はバラモスです。魔王討伐には何人もの人間が向かいましたが、未だに倒せた人間はおりません。しかし、勇者様なら……英雄オルテガ様の血を引く貴方様ならと思い、私はここにおります。私の個人的な問題ですが、魔王討伐にかける想いは嘘ではありません。勇者様!どうか……どうか、このサラの力をお使い下さい!」

 

 『復讐』

 その言葉をサラは否定する事をしなかった。

 親を目の前で殺されたのだ。

 その復讐心が消えずに成長するのも当然だろう。

 ただ、その復讐の為に、アリアハンの英雄と謳われた者の息子である勇者を利用する事を、臆面もなく言い切ったその神経にリーシャは驚愕した。

 

 

「……ふっ、自分の復讐の為に他人を利用する僧侶か……勝手にすれば良い。まぁ、俺が断っても、そこの女騎士が既にアンタの身柄の保証はしたらしいが……」

 

 カミュは自嘲気味な笑みを浮かべ、サラから視線を外した。

 カミュの視線が外れると同時に、それまでのやり取りに対する気負いなのか、それともこのプレッシャーこそがカミュを勇者たらしめん物なのかはわからないが、サラはその場に崩れそうになる程の疲労を感じた。

 

「しかし、こんな事はこれっきりにしてくれ。この調子では、俺が許可していないにも拘わらず、何時の間にか大行列を作って歩かなければならなくなりそうだ。アンタ方が勝手について来る事については、この際何も言わないが、これ以上の人間は邪魔になるだけだ」

 

 サラは心底迷惑そうに言葉を発するカミュを信じられなかった。

 サラは孤児だったため、友と呼べる者が存在しない。

 街にいる子供達は、街で商いをする者達の子供が多い為、自然とその仲間達で集団を作り、その他の者を排除しようとする。

 その対象になるのが、孤児達だった。

 

 幼い頃、教会でのお勤めを終えると、神父様に『外で遊んでおいで』と言われて外に出された。

 しかし、孤児であるサラと遊んでくれるような子供は誰一人いない。いつも遊んでいる子供達を遠目に見ていて、稀に人数合わせの為に誘ってくれる事がとても嬉しかった。

 子供の遊びと魔王討伐を一緒にするのはとても失礼な事だろう。

 しかし、人がいる事を邪魔だという気持ちがサラには理解が出来なかった。

 

「わかった。まあ、魔王討伐に行こうという酔狂な人間がそんなに多くいるとは思えないが……。サラと言ったな?……改めて自己紹介をしよう。アリアハン宮廷騎士のリーシャという。国王様の命で魔王討伐に同道している。これからは長い旅になると思うが、よろしくな」

 

 先程のカミュの発言に答えたリーシャが、そのまま自分に目を向け話し始めた事で、サラは我に返った。

 

「あっ、は、はい! こちらこそ、宜しくお願い致します。あっ、改めまして、サラと申します」

 

 自分に声がかかっていることを認識し、その内容を飲み込んで、サラは慌ててリーシャに向け頭を下げた。

 その拍子にサラの肩まである髪は下へ流れ、頭の上にある僧侶を示す帽子が地面に落ちてしまう。その帽子を慌てて拾うサラの姿に、リーシャは笑いを堪え切れず、優しい笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 



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戦闘①【アリアハン大陸】

 

 

 

「和やかなところ申し訳ないが、戦闘態勢に入ってもらえるか?」

 

 リーシャとサラがお互い微笑み合っているところに、それにまったく関心を示さず、少しも表情を変えない人間が言葉を発した。

 戦闘態勢という単語にリーシャは素早く反応し、腰にかけた剣を抜く。サラも慌てて帽子をかぶり直し、腰のホルダーから使った跡がない綺麗な短剣を抜いた。

 身構えてすぐに近くの茂みから、青い物体が現れる。

 それは、アリアハン大陸に住む最古の魔物、スライムであった。

 魔物の中でも最弱と呼ばれる物で、主に女や子供を襲う。力がない者に飛びつき、体当たりや噛みつきを攻撃の主とする魔物。

 取り付いた者をその体液で溶かし消化するという、見た目に反し至極残酷な形で人を食す魔物である。

 

「……スライムか……まぁ、着ている物は別として、見た目は女と子供だからな……可哀そうだが、食事は出来ないだろうな……」

 

「女と子供!? くっ! 人間だけではなく、こんなスライム如きにまで女である事で馬鹿にされるのか!」

 

「……可哀そう……?」

 

 スライムの登場を見て、背中の鞘から剣を抜くカミュが発した言葉に、他の二人は異なる反応を示した。

 

 スライムは最弱の魔物であるが、最古の魔物でもある。

 自分の力量を過剰評価はしない。

 自分の目の前にいるものが自分よりも強い存在であれば、躊躇なく逃走を図るのだ。

 

 今、食を求め出てきた三匹のスライムも同様であった。

 目の前にいる三人の内、子供の方の女は三匹一斉にかかれば何とかなるのかもしれないが、残りの二人はいけない。

 特に、女だと思っていたもう一人の方は、何故か憤怒の表情を自分たちに向け剣を構えている。三匹のスライムには選択肢がほとんど残されていなかった。

 そして、一匹のスライムが剣を構える女の発する気に怯え、恐怖から飛び出してしまう。

 

「ピキ――――――――!!」

 

 奇声を発しながら、自分に向かってくるスライムをリーシャは怒りの中でも冷静に見ていた。

 一直線に何の策もなく飛び込んで来るスライムに構えていた剣を合わせる。

 下級騎士に配給される大量生産の剣とはいえ、リーシャが毎日手入れを欠かさないその刃はスライムの身体に何の抵抗もなく入って行った。

 それほど力も込めず、カウンター気味に入ったリーシャの一閃はスライムの身体を真ん中から真っ二つに断ち切る。地面に落ちた二つに分かれたスライムの身体は、その形状を保つ事は出来ず、青い粘着性のある液体に変わっていった。

 瞬く間に一匹の仲間が土に返ったのを見て、残りのスライムがパニックに陥っているのが見て取れる。

 そんな中、カミュはリーシャの動きとスライムの動揺を見て、剣を鞘に戻していった。

 サラはカミュの行動に疑問を持ったが、戦闘経験の少ないサラは自分に対しているスライムへの対応で手一杯になっていたのだ。

 

「ピ、ピキ―――――――――!!」

 

 パニックに陥っているスライムが二匹同時に剣を鞘に収めたカミュに向かって飛びかかっていった。

 それをカミュは微動だにせず、拳を握り込み立っている。

 スライムも必死である。

 一匹はカミュの顔を目掛け、もう一匹は地面すれすれから足元に攻撃をかけて行った。

 

「あっ、勇者様!」

 

 サラは二匹の魔物の同時攻撃を見て、反射的に勇者と呼ばれる少年の名を口にする。

 自分が信じ、憧れる『勇者』であれば、このような所で苦労する事はないとは思っているが、それでも無意識に声を出してしまっていた。

 

「ピキュ!!」

「プキュ!!」

 

 サラが危ないと思ったスライムの攻撃は、二匹の潰れた声で終わりを告げていた。

 カミュは顔に飛びかかって来たスライムを右拳で払い除け、足元から腹部目掛けてきた方を左拳で地面に叩きつけたのだ。

 カミュのカウンターを受けたスライムは目を回してはいるが、死には至っていない。

 カミュの様子を見ると、スライムへの攻撃は手加減を加えていた事は明白である。

 剣を使っていない事もそうだが、例え拳だけでもスライムを叩きつけ、土に還す事も可能であったように思われる。

 サラはそんなカミュの行動に不信感を覚えた。

 『なぜ、魔物に手心を加えるのか?』

 その微かな不信感は、次に発したカミュの言葉で決定的な物となった。

 

「逃げるのなら、早くしろ。追いかけはしない。次は相手を見誤るな」

 

「な、なにを!」

 

 その言葉は、サラだけでなくリーシャにとっても信じられない言葉だった。

 目の前にいる魔物を逃がそうとする。

 

 『そんな勇者がいるのだろうか?』

 『それ以前に魔物を逃がそうとする者が勇者と呼べるのだろうか?』

 

 リーシャは改めて、この世界的な英雄の息子の異常さを見た気がした。

 スライム達は起き上がるが、すでに戦意は消失していて、怯えた目で自分達の攻撃を軽く捌いた人間を見つめていたが、言葉を理解する事が出来ないまでも、相手が自分達に追い打ちをかけてこない事を悟ると、身を翻して茂みに身を隠そうとした。

 しかし、命を拾ったスライム達の希望は、身を隠す事が出来るまであとわずかの所で潰えた。

 

「ニフラム!」

 

 後方からかかった声に呼応するように、二匹のスライムの周りに光があふれ、その存在を跡形もなく消していく。

 

<ニフラム>

聖職者である僧侶にのみ使用可能な魔法。聖なる光で相手を包み込み、この世に生を持っていない者に効力を発揮する魔法ではあるが、スライムのような最下級の魔物にも効果があるのだ。

 

 魔法を行使したサラは、右手を天に向かって広げたまま、スライムが消え去った場所を見つめていた。

 逃がした筈の魔物が目の前で消されたにも拘わらず、カミュは何の感慨も持っていないような表情で踵を返し、歩き出す。

 

「お、おい! ちょっと待て! 今のは何なんだ!」

 

 リーシャは、何の説明もなしに歩き出すカミュの肩を掴み、強引に振り向かせた。

 その声に我に返ったサラは、身を正して、リーシャの後ろに控える。

 

「何がだ?」

 

 本当に何の事かも解らないといったように、カミュはリーシャの顔を眺めている。

 リーシャはそのカミュの態度、表情、言動の全てが気に喰わない。

 自然と語気も激しくなり、怒鳴り散らすように言葉を続けた。

 

「『何がだ?』ではない! 何なのだ、お前は! 戦闘中に剣を鞘に戻すなど、戦う気があるのか! 手加減をして魔物を叩き、挙句の果てには逃げろだと! 勇者が魔物を逃がしてどうするんだ! お前は魔王を倒す為に旅に出たのではないのか!?」

 

 リーシャの興奮度合いは、とても仲間に向けて発している言葉とは思えない。

 後ろに控えているサラにしても、無言でカミュを見ている事から、リーシャの意見に同意しているのは明らかだった。

 そんな熱くなっている二人の言動をカミュは冷めた目で見つめながら表情も変えずに聞いている。

 一通りリーシャが捲くし立てた後、いつものように溜息をついたカミュは重い口を開いた。

 

「別に魔物が相手とはいえ、無駄な殺生をする必要はない筈だ。スライムなどを今さらいくら殺したとしても、俺の剣の腕前が上がる訳でもない。確かに、アンタの言うとおり、俺は『魔王討伐』の旅に出た。だからと言って、この世から魔物全てを滅ぼすつもりは毛頭ない」

 

「な、なんだと!」

 

「!!!」

 

 リーシャの驚きも相当なものであったが、その後ろで事の成り行きを見ていたサラは目の前が暗くなるような錯覚に陥った。

 サラにとって、勇者とは人類の希望であり、『精霊ルビス』の加護の下に魔物たちの手から人間の平和を取り戻す事のできる世界で唯一人の人間であった。

 その勇者が、こともあろうに魔物を殺すつもりはないと宣言したのである。

 

 『では、何の為に旅に出たのか?』

 『人間の敵である魔物から平和を取り戻すためではないのか?』

 『その為に、この世界に蔓延る魔物達を根絶やしにするのは正しい事ではないのか?』

 

 サラのいた教会の教えでも、魔物は悪であった。

 人を殺す事を最大の罪とする教会の教えの中でも、魔物を殺す事はむしろ正義であったのだ。

 

「ちょ、ちょっと待て、カミュ!」

 

「では、勇者様は何の為に旅に出ているのですか?……人々の幸せのためではないのですか?……魔物は人々の生活を脅かしています。子供を魔物に攫われた親は、昼夜問わず涙に暮れています。私のように親を魔物に襲われ、親を失った孤児は世界中でも数えきれません。その人達を、悲しみや苦しみから救うべく立ち上がったのが勇者様ではないのですか?……魔物は人類にとって敵です。ルビス様の護る世界を、我が物顔で暴れ回る絶対悪です。その魔物に情けをかけるなど、ルビス様の慈悲を裏切る行為に他なりません!」

 

 溜息交じりに話すカミュに文句を言おうと口を開いたリーシャの言葉を遮って、今まで後ろで黙っていたサラが一気に捲くし立てた。

 リーシャは突然のサラの変貌に驚いたが、発している言葉はリーシャの言いたい事を八割方表現しているので、その成り行きを見守る事にした。

 

「魔物を逃がせば、また別の人々に襲いかかります。そうすれば、また泣く人達が出て来る事でしょう。魔物の命など救う必要などありません!」

 

 最後の方は感極まっているのか、サラは眼に涙を浮かべながら叫んでいた。そんなサラの肩を、リーシャは抱くように支える。

 しかし、二人とも自分の考えをカミュにぶつける事に必死になり、それを聞いている相手の表情にそれほど注視していなかった。

 サラの肩を支え、どうだと言わんばかりにカミュの目を見たリーシャは、アリアハン城下での恐怖を思い出す事になる。

 そこには、表情を失くし、汚らわしい物を見るような、本当に冷たい瞳で二人を見るカミュが居た。

 

「……だから、教会の人間は嫌いなんだ……」

 

 一言。

 本当にたった一言だけ。

 まるで、スラム街の道端で寝ている浮浪者に吐き捨てるように。

 

 自分の感情を爆発させ、詰めよった言葉を、たった一言で切り捨てられたサラは、しばらく呆然としていた。

 同じように、一度味わった恐怖を思い出させられたリーシャも、カミュが先に歩き出した後も、しばらくはその背中を呆然と眺めている事しか出来なかった。

 

 

 

 



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アリアハン大陸②

 

 

 

 アリアハン大陸は二つの陸地から成り立っている。

 大きく分けると、アリアハン城がある比較的小さな陸地と、レーベの村がある大きな陸地となり、その間に、アリアハン城から西に聳える<ナジミの塔>がある小島があるが、それもアリアハン国の一部と認められている。

 その陸地同士を分けている大きな川があり、昔そこに橋をかける作業がとても難航していた。

 海へと続く大きな川の流れはとても速く、橋の土台となる部分が作成出来なかったのである。その為、レーベの村へ向かう時は一度船に乗り、ナジミの塔の側で上陸してから歩く方法しかなかった。

 しかし、カミュがアリアハンを出た日から四十年程前に、一人の青年が川底への橋の土台作成に成功した。

 

 その青年は橋職人ではなく、レーベに住む小さな鍛冶屋の息子であった。

 基盤のできた橋は、時間をかけながらも少しずつ作成されていき、その完成までは実に7年の歳月を費やす。

 完成を迎えた橋ではあったが、アリアハン国は、橋の基盤を築いた青年に何の恩賞も与えなかった。

 今まで、何人もの名のある橋職人が挑み、すべて失敗に終わった事業をレーベに住む一青年が成し遂げてしまったのである。それは、アリアハンが国を挙げての資金と労力が全て無駄であったという事実を、全世界に公表する事になってしまうという、一国の威信に係わる重大な案件となってしまったのだ。

 故に、国は青年の功績を認めなかった。

 その青年は生まれ育ったレーベにも戻る事が出来ず、行方が分からなくなってしまったと言う。

 だが、その真実はアリアハン国民のほんの一握りしか知らない。カミュ達一行はそんな橋に差し掛かっていた。

 

「いつ見ても大きな橋だ……」

 

 幅は馬車が横に四台並んでもまだ余り、長さは橋の袂から向こう岸が見えない程もある。

 声を発したリーシャも、その横にいるサラも初めて見る物ではないが、その雄大さに思わず見とれてしまう程の物であった。

 そんな二人の感慨を余所に、何の感情も読み取れない表情でカミュは橋を渡り始めた。

 その大きさの為、緩やかではあるがアーチ状になっている橋を、カミュは脇目も振らずに前だけを見て渡って行く。後ろから続くサラは、物珍しそうに橋の上から見える<ナジミの塔>や、その後ろに広がる大きな海原を眺めていた。

 橋を渡り始め四半刻ほど歩いて、やっと橋を渡り終える事となる。

 アリアハン城下町を出て、もう随分経ち、太陽が真上を越え、疾うに昼時を過ぎていた。

 橋を背にしばらく歩き、大きな木の麓にカミュが腰を下ろす。前を歩くカミュが腰を下ろしたのを見て、リーシャとサラもその近くの木の根に座り込んだ。

 

 日頃から宮廷騎士としての鍛練を欠かさないリーシャとは違い、サラのその姿は疲労困憊の言葉がぴたりと当てはまる姿であっただけにこの休憩はありがたかった。

 おそらく、サラにとって初めての旅なのだろう。これ程に長く歩く事も初めてならば、魔物との戦闘の緊張も初めての体験。それらの見えない疲労がサラを蝕んでいた。

 カミュは、腰に付けた水筒を取り外して口を付け、腰のポーチから干し肉を取り出すと、それを千切って口に入れた。

 ふと、リーシャやサラの方に視線を向けると、そんなカミュの仕草を呆然と眺めているのが見える。

 

「……聞く事も嫌になるが、まさか水や携帯食も持たずに旅に出たとでも言うつもりか?」

 

 そのカミュの質問に、サラは恥ずかしそうに下を向き、リーシャはカミュを睨みつける。

 リーシャの瞳を見ようともせずに、干し肉を口に入れるカミュの姿に、リーシャは口火を切った。

 

「私は国王様の命でお前に同道しているんだ。国王様から、この旅の資金や物資を頂いたのはお前だろう!? それには私達の分も含まれているのではないか!?」

 

 リーシャは、旅を共にする者の食糧や水、その他の旅に必要な物を、旅のリーダーが管理するのは当然だと考え、カミュへと嚙付く。

 実際、魔物討伐に向かう際にも、その隊の隊長が物資の管理をしていた。

 隊員の数や目的地までの日数などを計算しながら、隊の人間に物資を配っていたのだ。

 『魔王討伐』という命を受け、国王から必要な資金や物資を受け取ったのは、他でもないカミュである。

 ならば、その管理から同道者への分配なども、カミュが行うというのが筋だとリーシャは思っていた。

 

「……国王から渡された旅に必要な物資とは、資金50Gと<こんぼう>二本、<ひのきの棒>一本、<旅人の服>一着の事か?……そんな物は、街に出てすぐに道具屋に売り、その金で<薬草>を買った」

 

 溜息と共に吐き出されるカミュの言葉。

 それは、一国の国王を蔑にするような物を含んでいた。

 

「それに、俺は一人で旅に出ると言った筈だ。勝手に付いて来たのはアンタだ。ならば、アンタの物資は自分で用意するのが筋なのではないか?……それと……そこの僧侶の面倒はアンタが看ると言っていたはずだ。ならば、それもアンタが用意するのが当然の筈だ」

 

「!!」

 

 サラはそのカミュの発言に愕然とした。

 同道は認められた筈であったが、それは自分の認識が甘かったという事を実感したのだ。

 確かに勝手にしろと言われたが、それでもパーティーとして認められたと思っていた。

 それは、今のカミュの発言で完全に否定されてしまう。呆然とするサラとは逆に、リーシャは、カミュの言葉の別の部分に意識が行っていた。

 

「ま、待ってくれ! 国王様から頂いた支度金が50Gだと!? そんな金額では、<銅の剣>どころか<革の鎧>すら、街の武器屋では買えないぞ!? それに、物資の中身が<こんぼう>二本と<ひのきの棒>だと!? <薬草>は? <毒消し草>は? <キメラの翼>すらないのか?」

 

 アリアハン国が、英雄オルテガの跡目として、国を挙げて送り出す勇者に与えた物資と支度金の酷さに、リーシャは我が耳を疑った。

 アリアハンの勇者として祭り上げて送り出した筈だ。

 しかも、それは城周辺の魔物退治にではなく、その魔物を統括している魔王の討伐という物への筈。

 それにも拘らず、アリアハン城下町で武器すらも買えない支度金しか、カミュには与えられてはいなかった。

 これでは、物資にない<薬草>などを購入すれば、行く先々で宿を取る事もできはしない。

 

「……アンタがどんな勘違いをしているかは見当がつくが、この程度だろう……アンタは、本当にアリアハンから剣の腕を買われて、魔王討伐の同道を命じられたとでも思っているのか?」

 

 カミュの投げかける言葉は、リーシャには理解が出来なかった。

 『それ以外に何があるだろう?』

 自分は、父クロノスには劣るかもしれないが、他の騎士たちとの模擬戦で一度も遅れを取る事はなかったし、戦った事はないが、現騎士隊長にも負けるとは思っていない。

 

「当たり前だ。剣の実力や旅に耐えられる若さを考えれば、私の他にいないと自負もしている。それがなんだと言うんだ!?」

 

「……本当に戦士という職業の人間は、脳味噌まで筋肉でできているのか?」

 

「な、なに!?」

 

 カミュの人を馬鹿にしたような、いや、確実に馬鹿にしている物言いにリーシャの頭に血が上った。

 そんなリーシャに視線も向けず、カミュは持っていた水筒を溜息交じりにサラへと投げ、腰に下げた小さな袋を手に取る。水筒を投げられたサラは、その水筒を落とさないよう必死に両手で掴み、そのまま口へと運んだ。

 

「では聞くが、アンタはそれ程の剣の腕を持っていながら、何故下級の宮廷騎士の地位にいる?……アンタが着ている鎧は、下級騎士に支給される、アリアハン城下町の防具屋で買える<革の鎧>だ。他人に誇れる剣の腕を持つ騎士を、下級騎士として扱うのは何故だ?」

 

「そ、それは、私はまだ若い。上級騎士となれば、戦闘での経験を基に隊を率いて魔物と戦わなければならない。それには私の経験がまだ足りない為だろう……」

 

 カミュの歯に衣を着せぬ物言いにリーシャは気圧され気味に答えた。

 その瞳は、動揺を隠せない程に揺らいでいる。彼女の中にも、何か思い当たる節があった事は明白だった。

 

「ふん。では、アンタより後に騎士となり、アンタと同年代の隊長はいなかったとでも言うのか?……それに、先程の戦闘を見て、アンタの戦闘経験が乏しいとは思えない。アンタのように、前線で戦って来た若い騎士がいたのか?」

 

「そ、それは……だが、その人間達は家柄も良く、それに……若くから隊の指揮を学んでいたからだろう……」

 

 何とか言葉を繋げるリーシャであったが、その言葉遣いとは逆に、勢いは失われている。水を飲み、幾分か落ち着きを取り戻したサラは、そんなリーシャの様子を心配そうに見ていた。

 

「ならば、前宮廷騎士隊長クロノス殿の嫡子であり、その手解きを受けて来たアンタも、立派な家柄ではないのか?……少なくとも、俺のような、アリアハン城下町の外れに住む一国民よりも格式の高い家だと思うが?」

 

「ぐっ、そ、それは……」

 

 先程とは違い、瞳を真っ直ぐ見て話すカミュの視線を受け、リーシャは僅かに視線を逸らす。カミュの瞳に宿る冷たい光を見る事が出来なかったのだ。

 その奥には、リーシャが意図的に気付かないようにしていた物を突きつけられるように感じた為だった。

 

「アンタも、既に気付いている筈だ。何故、アンタが下級騎士のままなのか……明確な答えが欲しいのならば言ってやる……それはアンタが女だからだ」

 

「!!」

 

 リーシャにとっては、それは一番言われたくない言葉だった。女だからと馬鹿にされない為に、父の死後も鍛練を続けて来た。

 男の騎士にも馬鹿にされないように、力だけではなく技も磨いて来たのだ。

 それでも、下級騎士から上に昇進出来ない。

 薄々は解っていたが、それでも、それは自分の力が足りないからだと言い聞かせ、無理やり納得をして来たのだ。

 

「違う! 女であっても、国王様に直々にお呼び頂き、お言葉を下さった。『魔王討伐』という名誉を与えて下さったのだ」

 

 認められない。

 これを認めてしまったら、今までの自分を否定するのと同じ事だ。

 だが、そんなリーシャの葛藤をカミュは容赦なく破壊する。

 

「お目出度いな。要は、アリアハン国宮廷騎士団にとって、アンタの存在は邪魔だったのだろう。例え、前宮廷騎士隊長の子でも、力量が無かったり、あったとしても男であれば何も問題はなかった筈だ。だが、アンタはその鍛練のおかげで、他の騎士をも圧倒する程の実力を示した。宮廷内は基本的に男社会。例え、技量があったとしても、女が自分達の上司になる事など、ちっぽけな国の騎士達の、ちっぽけなプライドが許さないのだろう」

 

 『ちっぽけ』という部分を、吐き捨てるように強調して発した後、カミュは一息つき、再びリーシャの瞳を真っ直ぐ見て、口を開いた。

 

「だが、実力がある分、解雇は出来ない。ならば、魔物退治の前線に出して戦わせ、間違って父親と同様に死んでくれれば、国としては良かったのかもしれないな。だが、アンタは功績は残しても、命は落とさなかった」

 

「…………」

 

 リーシャもサラも口を開く事など出来ない。

 カミュの醸し出す雰囲気に完全に飲まれてしまった。

 その言葉一つ一つに、異様な説得力を有し、心と頭に直に響いてくる内容に、彼女達は言葉を発する余裕はなかったのだ。

 

「ならば、死が確実視される『魔王討伐』に同道させれば良い。『実力があるのだから、万が一にも魔王討伐を成し遂げてくれるかもしれない』。最悪、討伐が叶わないとしても、アリアハンとしては、国内の英雄の息子と、女とはいえ国内トップクラスの戦士を魔王討伐に出せば、周りの国家に示しも付き、後々大きな発言権を得る事になる。そして、討伐に失敗したと言う事は、アンタも生きてはいないという事だ。正に一石二鳥だな」

 

 淡々と述べるカミュは、その顔に侮蔑も嘲笑も浮かべず、いつもの能面のような無表情である。

 サラはその話している内容も然る事ながら、何も感じていないような顔で、人の傷を抉って行くカミュに怯えていた。

 

『これが、自分があこがれ続けた勇者の姿なのだろうか?』

 

 育ての親である神父からは、『あと数年すれば、アリアハンの英雄と謳われたオルテガ様の息子が、魔王を討伐して下さる。そうすれば、皆に笑顔が戻る。それまでの辛抱です。その時はサラ、貴女達の時代です』と聞かされて来た。

 そんな希望ある未来を切り開く筈の青年が、今、同道者の傷を深く抉っている。サラは、頭の中にある、希望に満ちた未来の世界が歪んで行くのを感じていた。

 

 一方、リーシャは、まだ昼時が過ぎた程だというのに、自分の周りが夜になってしまったかのように暗くなって行くのを感じていた。

 女だから上に行けないという事実は認めたくはないが、自分でも感じていた事だ。言われたくない事だが、言われたとしても怒り以外には何も感じないだろう。

 しかし、カミュによって齎された可能性は、驚愕の物であった。

 まさか、自分の死までも望まれていたのかもしれない等、リーシャは今まで考えた事もなかったのだ。

 

「勇者様、何もそこまで……」

 

 完全に沈黙してしまったリーシャを見かねて、サラが重い口を開くが、聞く気がないとばかりにカミュは立ち上がる。

 そして、顔を下げてしまったリーシャを見下ろして、止めの言葉を発した。

 

「何れにせよ、勝手に付いてくると言ったのはアンタ達だ。魔物との闘いや、俺の言動が気に喰わないなら、去ってくれて構わない。付いてくるのなら、一々俺の行動や発言に突っかかるのは止めてくれ。それと、俺は『勇者』でも何でもない。アリアハンから出たばかりの唯の旅人だ。何も成し遂げていない者を『勇者』と呼びはしない」

 

「……しかし……」

 

 サラの反論は、歩き出すカミュの背中に空しく消えて行った。

 茫然自失のリーシャに声をかけ、何とかカミュの後に続いて歩き出す二人であったが、その心には自分達が描く勇者像と、目の前を歩くカミュとの違いに大きな溝ができて行く事になる。

 

 

 

 

 

 



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アリアハン大陸③

 

 

 

 茫然自失なリーシャを何とか促し、サラはカミュの後を追おうとしたが、すでにカミュは先に進み、その姿は小さくなっていた。

 ここが広い平原だから良かったものの、森の中での移動などであれば、既にカミュを見失い、リーシャとサラの旅は、終了の鐘が鳴っていた事だろう。

 サラはカミュの身勝手な行動に、落胆と怒りを覚えた。

 それでも、今はこの勇者の後に付いていくしかない。サラの念願である『魔王討伐』は、この勇者以外に成し遂げる事は出来ないのだから。

 

 魔王が登場して数年は、各国の腕自慢達が我こそはと名乗りを上げ旅立って行ったが、誰一人生きて帰ることはなかった。

 それでも、血の気の多く、未来を夢見る若者たちは次々と死地へと赴いて行く。

 しかし、全世界に轟いた一つの訃報が、状況を一変させた。

 

『英雄オルテガの死』

 

 このニュースが世界各国に行き渡ってから、名乗りを上げる若者の数は、減るどころか皆無となった。

 誰しもが未来への希望を捨て、その日をどう生きていくかを考えるようになる。

 街に活気はなくなり、大人達は未来を諦めたような会話をし、魔物に怯える自分への苛立ちを自分よりも弱い者へとぶつけるようになって行った。

 結果、魔王登場以前よりも、各国で貧富の差は広がり、階級等の貴族社会の傾向が強くなって行く事となる。

 そんな中、世界の唯一の希望である英雄オルテガの息子が、ここ十年以上、誰一人向かう事がなかった『魔王討伐』に名乗りを上げたのだ。

 育ての親である、アリアハン教会の神父の話を毎日のように聞いていたサラは、旅立つ日を今か今かと待ち侘び、探り、そして勇者の旅立ちと共にアリアハンを出た。

 今更、サラに帰る場所はなく、またサラの悲願である親の仇を討つには、どうしても『勇者』と呼ばれるカミュの力が必要なのである。

 

「サラ、すまない。もう大丈夫だ。カミュを追おう」

 

 自分の意識に埋没していたサラは、突然聞こえたリーシャの声に、自分が未だリーシャの手を引いて歩いている事に気付き、慌てて手を離した。

 

「あ、あ、も、申し訳ありません! 私のような者が、リーシャ様のお手に触れるなど……ああ、どうしたら……本当に申し訳ございません」

 

 自分の手を離し、我を忘れたように取り乱すサラを見て、リーシャは驚きと共に腹部から湧き上がる物を抑える事が出来なかった。

 

「ふっ、あはははっ! いや、大丈夫だ。先程もカミュに話したが、私は宮廷騎士とはいえ、下級騎士であり、下級貴族の出だ。父の代ではそれなりの功績を認められ、爵位を貰ってはいたが、父の死後は爵位も返還し、下級貴族に戻った。扱いは平民とそれほど変わらない。だから、『様』は止めて欲しい。そのまま、リーシャと呼んでくれ。こそばゆくなってくる」

 

 リーシャは下級騎士ではあるが、代々、宮廷に上がっている貴族の一つだ。

 リーシャの名は、正式には『リーシャ・デ・ランドルフ』という。ランドルフ家の現当主でもあるのだ。

 父であるクロノスの時代に全盛期を迎え、中級貴族の仲間入りも果たし、小さくない館を建て、最大で六人程の召使いを雇うまでになっていた。

 だが、父の死後、リーシャは父の爵位を相続する事を国王に許されず、爵位は返還。

 その財産も、高すぎる相続税の為に館を売る羽目になり、六人いた召使いも、一人を残して解雇する事になった。

 現在は、宮廷騎士達に与えられる国営の住宅に、代々ランドルフ家に仕えている老婆と二人で暮らしている。下級貴族とはいえ、その生活は平民出の騎士とほとんど変わらない物であったのだ。

 ただ、それも、先程のカミュの話が事実だと仮定すれば、何か納得のできる物ではあるのだが……

 

「い、いえ、そんな。貴族様を呼び捨てにするなど、恐れ多くてできません」

 

 カミュを見失わないため、前へと進みながらも、わたわたと慌てふためくサラに、リーシャは『妹がいればこんなものか?』と考え、先程の暗い気持ちが少し晴れたような気がしていた。

 

「そんなことはない。それに、私の手に触れただけで慌てていたが、先程、カミュが口を付けた水筒を貪るように飲んでいたじゃないか?……私の手は駄目だが、勇者様との間接的な口付けは良いのか?」

 

 その証拠であろう。リーシャの口から、先程まで自身を見失っていた者とは思えないような軽口が出ていた。

 

「え?……え?……えぇぇぇ! や、や、そんな事はありません! そんな事もしてはいません! あ、いや、しましたけど、違います!」

 

 先程よりも更に慌てふためくサラに、可笑しさが込み上げて来たリーシャは、周りを気にせず大声で笑い出す。

 そんなリーシャの様子を見て、からかわれた事に気付いたサラは、顔を真っ赤にし、リーシャから顔を逸らしてカミュの後を追った。

 

「あはははっ……いや、すまない。少しからかい過ぎたな。だが、これから辛く険しい旅を共にするんだ。貴族や平民という垣根などなく、仲間として見て欲しい。仲間であれば、名前に『様』を付けるのは可笑しいだろう?」

 

 

 ひとしきり笑った後、先を行くサラにかけた言葉は、サラの身体を強張らせ、足を止めさせてしまう。

 足を止めたサラに追いついたリーシャは、突然活動を停止してしまったサラを覗き込んだ。

 

「……仲間ですか……私は、仲間と認められているのでしょうか?……勇者様は私達と旅をする事を認めて下さるのでしょうか?」

 

 幾分か距離が縮まり、近づいた勇者の背中を見つめながら、サラは小さく呟く。その疑問はリーシャも感じていた物だった。

 今までのカミュとのやり取りからは、お世辞にも友好的な会話が出来たとは思っていない。

 むしろ険悪である。

 リーシャにしても、今はサラの慌てる姿で気持ちが和んでいるが、先程までのカミュとのやり取りで刻まれた傷は、簡単に消える物ではない。

 そんな傷をつけた相手に背中を任せ、これから先、旅を続けて行く事ができるのかというと、正直自信が無いというのが、リーシャの今の気持であった。

 

「確かに……カミュの行動、言動から見れば、私達を仲間とは認めていないのだろう。私としても、アイツがオルテガ様の息子だとは認めたくもない。だが、経過がどうであれ、アイツが魔王討伐へ向かっているのは間違いないだろう。ならば、私達の目的は同じだ。私は自身の誇りの為、サラは親の仇討ちの為」

 

 リーシャは視線と口調はサラに向かってはいるが、それはまるで自身に言い聞かせているように聞こえる。

 そんなリーシャの心情を慮ってか、サラは暫く俯いた後、意を決して振り返り、真っ直ぐリーシャを見た。

 

「……そうですね。その心にどの様なお考えがあろうとも、目的は皆同じですね。どの様な形であれ、勇者様に同道を認められたのです。これもルビス様のお導き。勇者様のお考えを正して行くのも、ルビス様が私にお与えになられた試練なのかもしれません。私達『人』は、皆等しくルビス様の子。旅を続ける中で、解り合える日が来ますよね?……それまで頑張ります」

 

 胸の前で拳を握り、決意を誓うサラに、リーシャは先を行くカミュの背中を見つめ、本当にサラの言うような日が来るのだろうかと苦笑した。

 

「旅慣れぬ身ゆえ、リーシャ様にはご迷惑をおかけする事も多いとは思いますが、改めてお願い致します」

 

「こちらこそ。私は魔法など一切使えないからな。傷の手当等はサラ頼みになってしまうだろうから、宜しく頼む。ああ、それと、さっきも言ったが、様はやめてくれ。呼び捨てで良い。できれば、その敬語も止めて貰えると嬉しい」

 

 リーシャが言うように、この世界では全ての人間が魔法を使える訳ではない。

 魔法を使う為には、その個人が所有する精神力が必要となる。

 その精神力を『魔法力』と呼ぶ。魔法力は、生まれ持った物であるが、その量は個人によって様々だ。

 その魔法力も、自己の能力の向上と共に、少しずつではあるが上がって行く。その構造は解明されてはいないが、人の成長、即ち精神の成長と共に魔法力も変化して行くようである。

 そして、魔法を使う者は、自己の成長と共に変化した魔法力に応じ、新たな魔法と契約を交わし、行使出来るようになるのが、この世界での魔法である。

 力量が足りない場合は、最悪、魔法の契約は出来ない。

 例え、出来ていたとしても、その魔法力の乏しさから魔法が発動しないという状況になるのだ。

 故に、リーシャのような『戦士』は、基本的に魔法が使えない。職業故に魔法が使えないのではなく、魔法が使えないからその職業に就くというほうが正しい考えだ。

 その中に例外もいるにはいるが、やはり魔法が使える戦士は、力は戦士専業よりも弱く、魔力は本業である魔法使いには敵わない。

 例外中の例外は、等しく皆『英雄』と呼ばれる者達だ。

 つまり、そういう者達の職業は『勇者』とでも言えば良いだろう。

 ただ、世界中のどこかで、人の生まれ持った性質さえも変化させる事ができる場所があるという噂が、ここアリアハンにも流れてはいるが……

 

「……いえ、この口調は、もう私の癖になっていまして……変えるように努力はしてみますが、難しいと思います。それに、お名前を呼び捨てにする事も、どうしても出来そうにありませんので、『リーシャさん』と呼ばせて頂こうと思うのですが……」

 

「『さん』か……まぁ、それでも良いか。さあ、急ごう。アイツのことだ、私達が遅れていたら、我関せずで置いて行かれてしまうぞ」

 

「あ、は、はい!」

 

 お互いに気持を若干ではあるが吐き出した事により、胸に痞えていた物を胃に落とした二人は、先を行くカミュの背中を追い駆け出した。

 だが、カミュへの不満と疑惑が、頭の大部分を占めている二人には、これだけの時間二人で会話をし、時には立ち止まっていたにも拘わらず、カミュとの差が広がっていないという事を疑問に思う部分は残っていなかった。

 

 

 

 

「クキャ――――――!」

 

 自分に向って、足に持つ人の頭部の骨を投げつけて来る<大ガラス>の攻撃をかわし、カミュは背中の剣を抜いた。

 攻撃をあっさりとかわされた<大ガラス>は、その鋭利な嘴を武器へと変える。人間にはとても届かない高みまでその身を上昇させ、加速をつけ一気にカミュ目掛けて降下して来た。

 武を持たない人間であれば、そのスピードに足は動かず、<大ガラス>の嘴に喉笛を掻き切られその命を落とす事になっただろう。

 今まさに、<大ガラス>の頭には、いつものその光景があった。だが、今回前にしている者では相手が悪い。

 カミュは抜いた剣を構え、降下してくる<大ガラス>へと照準を合わせる。

 <大ガラス>の鋭利な嘴は、カミュの喉に触れることはなく、あっさり身を捩りかわされた。

 <大ガラス>が、自分の攻撃がかわされたことに気がついた時にはその胴体が二つに分かれ、死を意識する暇もなく絶命することになる。

 

「まだ、いたのか?……かかって来るのなら、容赦なく切り捨てるぞ。戦う気が失せたのなら、早く行け」

 

 一振りし、付着した血糊を払った剣を、懐から出した獣皮で拭きながら、カミュは近くで身を震わせている魔物二匹に声をかける。

 その魔物は、通常のウサギよりも身体が大きく、特徴となる一本の角がちょうど眉間から生えていた。

 <スライム>、<大ガラス>と同じく、アリアハン大陸に古くから住む<一角うさぎ>である。

 自分達が相対した人間の圧倒的な強さに、身を震わせていた二匹であったが、その相手が持っていた剣を背中の鞘に納めるのを見届けると、脱兎そのもので逃げ出して行った。

 カミュは、二匹の<一角うさぎ>の姿が見えなくなるのを確認すると、<大ガラス>の死骸へと向かって行く。その途中に、先程<大ガラス>がカミュ目掛けて投げつけて来た骸骨の残骸が目に留った。

 人間の頭蓋骨であるそれは、後頭部の部分が派手に飛び散っており、その中から、金色に光るものが出て来ている。

 

「ゴールドか……266G……しかし、一国の王からの支度金より、魔物から得るゴールドの方が多いという物も皮肉だな」

 

 カミュは、頭蓋骨の中から出てきたゴールドを手に取って、その数に苦笑を洩らす。

 <大ガラス>の様な魔物は、魔物とはいえカラスであり、光った物を好む。人間を襲い、その死肉を食した後、持ち物にあったゴールドを巣に持ち帰ったのであろう。

 大体の冒険者は、魔物を討伐した後に、その身体の一部で売却できそうな物を持ち帰り、街の道具屋や武器屋などに売って資金を得る。先程の<一角うさぎ>等は、その特徴である角が、加工し易く丈夫である事から、あらゆる工芸品に使われる事も多く、ここアリアハンではそれ相応の金額で取引されていた。

 リーシャが装備している<革の鎧>のなめし皮もまた、魔物の皮から作られている。

 

「……なんだ?……また何か文句でもあるのか?」

 

 手に入れたゴールドを、腰の袋に入れて立ち上がったカミュの前に、追い付いてきたばかりの二人が、何か言いたそうな表情で立っていた。

 

「……また、魔物を……」

 

「先程言った筈だ。俺の行動に不満があるのなら、ついて来るな」

 

 魔物が逃げる所を見ていたサラが、再び魔物を逃がす勇者に疑問を投げかけようと開いた口は、カミュの拒絶にも似た先制攻撃に閉じられてしまう。サラの口が再び開かない事を確認したカミュは、ゴールドの入った袋を腰に結び付け、無言で歩を進めた。

 その後を、強い怒りと不満が渦巻く顔でリーシャが続き、硬直が解けたサラも歩き出す。

 

 

 

 その後も何度か魔物との戦闘はあったが、リーシャが剣を振い、サラは補助魔法を使いながら止めを刺す。カミュは、自分に向かって来る魔物以外には一切手を出さずに、死骸と化した魔物の身体から、売却できそうな部位を切り取っていた。

 

「…はぁ…はぁ…」

 

 何度目かの戦闘を終えた頃には、サラの息遣いが荒くなり始め、サラの歩調に合わせて歩いているリーシャと、先頭を行くカミュとの差が開き始めた。

 

「おい! 陽も落ちた。サラの様子を見ても、今日はこれ以上の進行は無理だ」

 

 リーシャは自分からも遅れがちなサラに近寄り、その身体を支えながら、前にいるカミュへ声をかけた。

 カミュは立ち止まり、ゆっくりと振り返った後、冷たい瞳でサラを見る。

 その姿に、リーシャはまた『付いて来る事が出来なければ、置いていくだけだ』というような言葉を予想し、カミュが口を開いていないにも拘わらず、頭に血が上って来た。

 

「わかった……この辺りが限界だろう。街道から逸れて、少し森の方へ向かう」

 

 予想とは反したカミュの答えに、リーシャは呆気に取られ動けない。支えていたサラからも、息を飲む気配がした事から、サラにとっても予想外の言葉だったのであろう。

 

「おい……まさか、ここから一歩も動けない等と、子供のような駄々を捏ねるつもりか?」

 

 一向に動き出さない自分達に、今度こそリーシャの予想通りの言葉が返って来るのではと怯え、二人は慌ててカミュの後を追った。

 

「なぁ、カミュ。森に入る必要があるのか?……街道沿いででも良いのではないか?」

 

 街道を逸れ、少し行くと、木が生い茂る森がある。通常は森の中は魔物も多く、人々は街道を逸れる事はない。

 馬や馬車での行き来が当然であるので、街道沿いで火を熾し、魔物を警戒しながら夜を明かす事が多い。

 

「ああ、普通はそれでも良いだろうな。だが、アンタ達は、旅の支度を何もしてはいない筈だ。食糧や水を手に入れる為にも、一度は森に入らなければならない。それに、雨が降れば、徒歩の俺達には、それを凌ぐ場所がない」

 

 森に入った後、リーシャの質問に顔も向けずにカミュは動いていた。

 確かにカミュの言う通りである。リーシャ達は、食糧や水などは全く所有していないのだ。

 サラに至っては、着のみ着のままの状態に近い。

 

「くっ……」

 

「この辺で良いだろう……その木の根元辺りで火を熾す。火は熾せるのか?」

 

 場所を決めたカミュは、腰に付けていた水筒をサラに投げ渡し、リーシャに無表情で言い放つ。

 

「ば、馬鹿にするな! 火ぐらい熾せる!」

 

 リーシャは、そんなカミュに激しく抗議をするが、『なら、頼む』というカミュの呆気ない回答に口を噤んだ。

 カミュは腰のポーチから出した瓶の蓋を開け、火を熾す予定の場所を中心に、円を描くように中身を振り掛けて行く。

 

「聖水か……」

 

 リーシャの言う<聖水>とは、教会にて精製される水の事を言う。

 どういう精製方法なのかを公表はされていないが、教会神父の祈祷によって精霊ルビスの加護がある水として売り出されており、その効力は弱い魔物であれば近付く事すらできないという代物である。

 これの利益もまた、教会の資金源の一つになっていた。

 

「空になった方の水筒を渡せ」

 

 カミュから渡された水筒に夢中で口を付けていたサラの目の前に、不躾な手が伸びて来た。

 最初の休憩時にカミュから渡された水筒の中の水は、その後の道中でリーシャと分けながら飲み、疾うの昔に空となっていた。

 先程、カミュから渡された水筒は、中身が満々であった事から、カミュがこの水筒に口を付けた形跡がない事は明らかである。

 先程までのカミュの態度から、自分達に水分を残しておいたとは考え辛いが、そんな疑問を思いながら、サラは腰につけていた、空となった水筒をカミュに手渡した。

 

「火は熾しておいてくれ。水と食料を調達してくる」

 

 水筒を受け取ったカミュは、森の奥へと進んで行く。カミュの姿が見えなくなってから、サラは恐る恐るリーシャへと言葉をかけた。

 カミュが入って行った方向に疑問を持ったのだ。

 

「水の調達と言っても、川がある方向は違うのでは?」

 

「さあな……アイツが何を考えているのかさっぱり解らない。とりあえず、言われた通りに火を熾そう。これで、火も熾していなければ、帰って来たアイツに何を言われるか解った物じゃない」

 

 

 

 結局、火はほとんどをリーシャ一人で熾した。

 サラは『何か手伝います』とリーシャに声をかけるが、旅をした事のないサラに出来る事は何もなく、大人しく腰掛けているのが最大の手伝いだというリーシャの呆れ声に肩を落とす事になる。

 火が点き、未だに戻らないカミュを待ちながら、リーシャとサラはお互いの話をするが、慣れない旅での疲れからか、サラの瞼が自然に落ちて行った。

 そんなサラの様子に、リーシャは苦笑しながら火に薪をくべていくが、森の中からの気配に気づき、傍に置いた剣に手をかける。

 近づく気配に緊張を高めていたが、それが、両手に何かを下げたカミュだと解ると、その緊張を緩めた。

 

「遅かったな」

 

「ああ。少し、食料を取ってきた」

 

 カミュの言葉通り、その右手には魚三匹を蔦に繋いだ物と、ウサギ一羽、左手には果物を三個持っている。火の傍に腰を下ろしたカミュは蔦から魚を取り外し、リーシャが拾ってきていた木の枝で刺した後、腰の袋の中から取り出した白い粉を振りかけ、火の回りの地面に刺していった。

 そして、果物をリーシャに渡した後、残ったウサギを持って立ち上がり離れた場所で捌いて行く。

 リーシャは、そのカミュの慣れた手つきに感心していた。

 リーシャのイメージでは、英雄の息子として、剣の訓練などは行っていただろうが、基本は温室育ちだとカミュを見ていたが、実際は、寝床の場所の確保から水や食料の調達の仕方、その調理の仕方を見ると、一度や二度の経験では身に付ける事が出来る物ではない事を感じる。

 

「随分、手慣れているのだな。それにその粉は塩か?」

 

 捌いたウサギにも先程の粉を振り、木の枝に挿し火の回りに並べていくカミュの手つきに目を奪われながら、リーシャは声をかけた。

 

「ああ。それより、起こしてくれ。魔法力の回復には食事を取ってから眠ったほうが良い」

 

「あっ! わ、わかった。おい、サラ。寝るのは食事の後にしろ」

 

 傍で丸くなって寝ているサラを少し揺らすと、サラは薄く眼を開けるが、疲れに勝てず再び目を閉じようとする。

 

「サラ、食事をとったら存分に寝ればいい。今は起きて、腹に何か入れろ。食わないと明日は歩く事が出来なくなるぞ」

 

 今度は容赦なく揺さぶるリーシャの手に、さすがにサラも飛び起きる。

 周囲の状況を確認するように、何度も首を動かしたサラは、慌てて立ち上がった。

 

「も、申し訳ありません。あ、ああ……私は何もせずに……お二人に何もかも任せっきりで寝てしまうなど……申し訳ありません」

 

 目を開け、今の状況を確認し終えたサラは、火がもたらす温かさとその周りから漂う肉の焼ける香ばしい匂いに気づき、自分の犯した失態に対して必死に謝罪を繰り返す。

 

「いや、もう良いだろう?……さあ、食べよう。カミュ、もう食べても大丈夫か?」

 

 『やはり、この娘の慌てぶりは場を和ます』とリーシャは思いながら、この食料を取ってきた功労者に確認を取る。

 

「いや、魚はもう少しで大丈夫だが、肉はどう考えても、今、火にかけたばかりだろ?」

 

 カミュは、確認を取っているくせにすでにウサギの肉に手をかけようとするリーシャに呆れながら、汲んで来た水をサラへと放る。

 

「むっ、そうか……匂いから、もう良いかと思ったが……」

 

「ふふっ」

 

 カミュの注意に心底残念そうに肩を落とし、串にかけた手を戻すリーシャにサラは微笑む。

 そこに、何度かの休憩時の時のようなギスギスした雰囲気はなく、とても和やかな夕食にほっと胸を撫で下ろした。よくよく考えれば、先程まで意見が対立していた人間同士が、僅か一日で和解する事など有り得ないというにも拘わらずに。

 

「魚はもう大丈夫だな。ほら、サラ」

 

 和やかな雰囲気に笑みをこぼすサラに、リーシャは魚を一串渡し、自分は豪快に頬張る。

 サラも渡された串と、頬張るリーシャを見比べ、意を決したように魚を口に入れた。

 

「なんだ、サラ?……こういう食事は初めてか?」

 

「あっ、は、はい。神父様に引き取られてから、アリアハンの町から出る事自体が初めてですので、このように外で食べる食事も初めてです。でも、美味しいですね」

 

 魚には良く火が通っていて、ところどころ焦げ等もあるが、皮はパリッとしており、中の肉は柔らかく、塩加減も絶妙であった。

 

「そうか。では、慣れないとな。長い旅になるのだから、これからはこういう食事が多くなるだろう。おっ、もう肉の方も良いか?」

 

 サラの回答を本当に理解して応えているのか怪しくなるくらいに、魚を頬張り、先ほど諦めた肉に手をかけようとするリーシャの姿を見て、サラの頬は更に緩む。

 そんなサラの様子を横目で見ながら、リーシャは食べ終わった魚の串を火の中に放り、肉の串を手に取って、口に放り込んだ。

 カミュは、二人の会話に全く参加せず、黙々と食べていた。

 サラはリーシャとの会話を楽しみながら魚を食べ終え、いつまでも食べないと、もう既に果物まで食べ終わったリーシャに取られてしまう恐れのある肉を取り、口に入れる。

 肉の方も脂が乗っており、とても美味しく感じられた。

 

「……魚や肉は、普通に食うのか……」

 

 そんな和やかなムードを一瞬で吹き飛ばす言葉が小さく漏れた。

 何故か、カミュの声はよく通る。小さく呟くような一言は、それまで笑顔で食事をしていた二人の動きを止めてしまう程の冷たさを宿していた。

 

「……どういう……意味ですか……?」

 

 突然のカミュの呟きに活動停止をしていた二人であったが、その内容の理解が出来ず、カミュの次の言葉を待つ事となる。

 

「どうでも良い事だが……魔物が人を喰らう食事を認めようとはせず、自分は嬉々として他の動物を食べるのだな……」

 

「!!」

 

 別に糾弾している訳でもなく、咎めるような様子もない。

 ただ、淡々と無表情でサラの顔を見ずに言葉を発するカミュに、二人は再び言葉を失った。

 

「ま、『魔物』と『人』を一緒にしないでください!」

 

 再起動を果たしたサラは、カミュの言動に食って掛かった。

 サラは、教会の『人は精霊ルビスの子』との教えが当然という前提ありきで物を考えている。

 故に、『精霊ルビスの子』である人と、憎き魔物が同等の者として扱われる事が許せなかった。

 

「お前は魔物が人間を襲う事が正しいとでも言うつもりなのか!」

 

 リーシャも同じ考えであったようで、こちらもカミュの発言に噛みついて来た。

 彼女もまた、ルビス教徒である。

 サラのように、ルビスの下に仕えるような『僧侶』ではないが、日々の糧は『精霊ルビス』の加護の賜物と考え、休日には祈りを捧げて来たのだ。

 

「……失言だったな……」

 

 あっさりと自分の非を認めるようなカミュの言葉に、ここからのカミュとの口論を予想し、身構えていた二人は拍子が抜けてしまう。

 しかし、大きく息を吐き出したカミュの表情は、リーシャには穏やかな物には見えなかった。

 それは、次に続いたサラの一言から始まる事となる。

 

「そうです。解って頂けて、良かったです」

 

 サラはカミュの言葉を額面通りに受け取り、人と魔物が同等ではない事を、カミュに理解して貰えたという事に素直に喜びを表す。

 だが、カミュの次の言葉は、今までの和やかな夕食時間を無にするものであった。

 

「いや、そういう意味で言った訳ではない。俺の考えに文句は言わせないのだから、アンタ達の考えを否定する事を口にするのは、ルール違反だったという意味だ」

 

『自分達の考えを否定する?』

『なぜ?』

 

 そんな考えが、リーシャとサラの頭を横切る。アリアハンのみならず、世界中で信仰されている宗教の最大勢力は『精霊ルビス』を崇める物である。

 地域によって、異なる神を崇めるところもあるという噂もあるが、それは地図にも載らない国の話である。ほぼ全世界の信教は『精霊ルビス』の教えと言っても過言ではないのだ。

 サラやリーシャの考えを否定する事は、教会の教え、即ち『精霊ルビス』そのものを否定する事になる。

 それが、サラには理解が出来ない。

 自分の考えだけではなく、『精霊ルビス』の存在までも否定されるのだ。

 目の前の『勇者』に絶望を通り越し、怒りすら湧いてくる。

 

「勇者様は、ルビス様を侮辱するのですか!」

 

 サラの手にある肉は疾うの昔に冷めきっている。それを串ごとカミュに向かって投げつけそうな勢いで、身を乗り出していた。

 

「本当に失言だったな……教会の人間の面倒くささは、昔に学んだ筈だった……」

 

 リーシャがカミュへの怒りによって忘れ果てた、火に薪をくべる作業を代わりにこなしながら、カミュは心底面倒くさそうに呟いた。

 その姿に、リーシャとサラの怒りが増幅する。

 

「め、めんど……どういうことですか!?」

 

「カミュ! 取り消せ! お前が今言った言葉は、サラ個人だけではなく、教会に属している僧侶達や、人々を導いて下さるルビス様すらも冒涜するものだぞ!」

 

 今までの和やかなムードは一変して、怒声が飛び交う世界と化した。

 そこに他の生物が介入できる隙間はなく、赤々と燃える炎の周りに座る三人だけの世界が、周囲の世界を塗り潰して行く。

 

「まず、魔物が人間を襲う事だが、食事という観点から見れば、食物連鎖的には正しい事ではないのか?……アンタ達が言っている通りだと、全ての生物の頂点は『人』という事になる。頂点にいる『人』は、何をしても許されるが、頂点にいる物を害せば、それは悪か?」

 

「当然です! 人々の幸せを害するものは悪です!」

 

 然も当然の事のようにサラは言い放つ。

 この間違った考えを持つ勇者を正す事が、自分の使命とも言わんばかりの毅然とした態度で。

 

「……そうか……王家が腐っていく訳だ」

 

 次に出てきたカミュの答えは、今度はリーシャの逆鱗に触れる物であった。

 王家の冒涜。

 アリアハンの城を出てから、時折、国家への不満を口にするカミュであったが、それでも一個人の不満として片付けるレベルではあった。

 しかし、それでも今のは見過ごせる物ではない。

 

「お前! ルビス様への冒涜だけでも許されざる行為なのにも拘わらず、王家すらも侮辱するつもりか!」

 

 リーシャも『精霊ルビス』を崇めてはいるが、教会に属するサラ程ではない。

 むしろ、代々仕えているアリアハン王家に忠誠を誓っている。

 例え、爵位を剥奪され、平民並みの生活しか送れなくてもだ。

 

「……ルビスを信仰する人間が多ければ、まず国家転覆などあり得ないだろうな。『人』の頂点に立つ王家に逆らう者は、どんな理由があれ悪なのだから。故に、王家は理不尽な事も平気で行う。なにせ、民が不満に思ったとしても、自分達に敵意を向ける者はいない。王家が腐れば、その周りを固める人間も腐って来る。王に刃向わなければ、下の人間に何をしても良いのだからな。よく、国家として成り立っているよ」

 

「くっ! よくも言った! それは貴族の事か!?」

 

 カミュの呆れたような言葉に、リーシャの頭は瞬間沸騰を果たす。

 王家を支える周囲の者となれば、貴族以外にあり得ない。

 それは、貴族であるリーシャを侮辱しているに等しい言動なのだ。

 

「……すべての貴族がそうだとは言わない。アンタのように自分の境遇に疑問を挟まず、馬鹿の一つ覚えで忠誠を誓っている貴族もいるだろう」

 

「馬鹿の一つ覚えだと! 抜け、カミュ! 私は貴様をオルテガ様の息子とは認めん! 偽者であるならば、ここで私が斬って捨ててやる!」

 

 カミュの容赦のない言動は、完全にリーシャの怒りに火をつけた。

 その様子を見ながら、これ程までに他人の怒りに触れるような言葉を選んで発するカミュを、サラは不思議に思う。まるで、自分に人を近付けないようにするかのように、相手から離れて行くように仕向けているようであった。

 

「まだ話は終わっていない。剣の相手なら明日にでもするさ……」

 

 腰の剣に手をかけ、構えを取るリーシャへ視線を向けたカミュは、火に薪をくべる手を止めず相手にしない。

 ここで、リーシャが怒りに震えながらも剣を抜いていないのは流石であった。

 お互い剣を持つ者同士、相手が抜いてしまえば、戦わない訳にはいかない。剣を持つ者同士の、訓練ではない戦闘の終結は、どちらかの沈黙、即ち死である。

 リーシャは戦闘時のカミュの動きを見て、その力量を低く見てはいない。

 若干自分に分があるように思うが、最悪同等の力量を持つと考えていた。

 故に、怒りに任せて剣を抜く事はなかったのだ。

 斬り捨てるといった言葉は、本当の希望であったが、実際それが出来るかどうかは別である。

 

「その人間と、魔物の違いというのは、一体何だ?……魔物の食の対象が『人』であるという事だけのはずだ。魔王の影響で、人を襲う率が上がった事は確かだが、魔物が突然現れた訳ではない。遥か昔から、魔物は人間を食してきた。それは知っている筈だ」

 

 沈黙するリーシャを余所に、カミュは少しサラの方を見て言葉を発する。

 その内容は、サラの培ってきた知識を根底から否定する物であり、とても容認出来る考えではない。それでも、カミュが発している内容も、紛れもない事実の一つであった。

 

「し、しかし、魔物に家族を殺された人々の悲しみはどうするのですか!?」

 

「……では聞くが、アンタが先程食したウサギが、巣に帰れば小さい子供がいたとしたら?……もし、食したウサギが生まれて数か月の子供で、今もそのウサギを探して親ウサギが森を彷徨っていたとしたら?……魔物に子や親を奪われた者達が、魔物に復讐を考えるように、アンタや俺らもそのウサギ達から恨みを買い、復讐の対象になっておかしくないはずだ」

 

 感情に任せたサラの問いかけは、カミュの冷静な返しによって遮られる。

 立場を変えただけの観点。

 しかし、それは弱肉強食の世界で生きる者達の中にある、太古からの矛盾。

 そして、サラの育ってきた環境の根底を揺るがす考えであった。

 

「違います! 人と獣は違います!」

 

「だから、何がだ?……知能が有るか否かの違いか?……知能がなければ、それを殺しても食しても良いとでも言うのか?……知能がなければ、悲しみを感じる事などないとでも言うのか?……アンタ達のような教会の人間が言う事は、常に自分達が中心だ。自分達に都合が良い事は疑問に思う事もせず、自分達にとって害になる物は排除の対象になる。魔物であっても、子を産み、育て、子孫を残して行く。アンタが殺して行く魔物であれ、家族があり、その帰りを待つ子がいるのかもしれない。その子を育てて行く為に人を襲い、子へ運ぶのかもしれない。何故、その生活を否定する事が出来る?」

 

 カミュが理論で捲くし立てる。サラには教会からの教え以外の知識はないのだ。

 街で生きている限り、サラは秀才のレベルの知識があり、周りから褒められて過ごして行けただろう。しかし、この『勇者』と呼ばれる少年を前にすると、自分の知識の少なさに唇を噛む事が多いのだ。

 

「そ、それは……しかし、『人』は精霊ルビス様の子です。その『人』を害するという事は、ルビス様への裏切りです」

 

 その証拠に、カミュへと出てきたサラの反論は、最初の剣幕とはかけ離れた、弱々しい物へと変化していた。

 そんなサラの反論に、いつもの様にカミュは盛大な溜息を吐き出す。

 

「……また、ルビスか……」

 

「ルビス様を、お前のような者が呼び捨てにするな!」

 

 カミュの言葉に、横合いからリーシャの檄が飛ぶ。

 リーシャは信仰心こそ、サラには劣るが、決して『精霊ルビス』を蔑にしている訳ではない。

 僧侶以外の全世界の人間と同等の信仰心は持っているのだ。

 『精霊ルビス』という存在を呼び捨てにする人間など、世界中探してみても、教会が示す異教徒以外ではカミュぐらいのものだろう。

 

「では聞くが、アンタ方が崇め、祀っているルビスが何をしてくれた?……もし、アンタが言うように、『人』がルビスの子であるならば、魔王の登場で子供達がこれ程に苦しんでいるのにも拘わらず、何故、手を差し伸べて来ない?」

 

「そ、それは、私達『人』に与えられた試練なのです。ルビス様の子といえども、何から何までルビス様に縋る事は出来ません。ですから、これは私達『人』に与えられた試練なのです」

 

 カミュの問いかけに、胸を張って答えるサラではあったが、その瞳は微かに揺らいでいた。

 ここまでのやり取りで、自身の中にある価値観の壁に大きな衝撃を受けている証拠である。それ程に、カミュの語る内容は、サラに対して影響を及ぼし始めていたのだ。

 

「『人』全体に与えられた試練を、俺のような人間一人に丸投げしている奴等が、熱心な信徒なのだから泣けてくるな……もし、万が一、俺が『魔王』を討伐する事が出来たとしたら、それは『人』が試練に打ち勝ったという事にでもなるのか?」

 

 カミュは、『魔王討伐』を若干十六歳の少年に国命として課し、自分達は安全な城の中で、ぬくぬくと過ごす人間を思い浮かべ、その表情を多少変化させる。

 カミュの表情の変化を初めて見たサラはそれにも驚いたが、それよりもカミュの言葉に衝撃を受けた。

 そのような事を考え、思いついた事もない。

 

「し、しかし、勇者様が生まれる前から、人々は戦っています。その戦いに終止符を打つ為に、勇者様が魔王討伐に出たのではないのですか?」

 

「まあ、俺の事はどうでも良い……その戦って来た人間だが、ルビスの子であるならば、何故ここまで差がある?……王家の下、貧しい国民から巻き上げた金で、私腹を肥やす貴族がいるという事実は知っている筈だ。何故、そういう腐った人間にもルビスの加護はある? 何故、スラム街で空腹で死んでいく子供達にはルビスの加護は届かない? そもそも、ルビスの加護とは何だ?……それこそ、アンタが言っている魔物に命を奪われた者達には、何故加護が届かない?……彼らは『人』ではないのか?」

 

 カミュの疑問。それは、遺骸が届いた時の遺族の気持ちなのかもしれない。

 『精霊ルビス』に愛されていると言われていた英雄オルテガ。

 カミュの父親もまた、魔物に命を奪われている。

 この疑問を教会にぶつけてくる遺族がいない訳ではなかった。

 しかし教会は、この遺族に対する答えを持ち合わせてはおらず、唯一掛けられる物は『これも貴方達に与えられた試練なのです』という言葉だけである。

 

「そ、その……貧富の差は、前世での行いの差です。彼らは、前世ではルビス様の教えに背く事をして来たのでしょう。ですから、今生ではそれを償っているのです」

 

 カミュとのやり取りで、感情的になっているサラは気がつかない。

 共に旅する、リーシャもカミュも父親を魔物に殺されているのだ。

 更に言えば、サラの両親もまた魔物に襲われ、その命を散らしている。

 敬愛する父親を、前世での罪人扱いされれば、通常の人間は激怒するだろう。 

 しかし、カミュは驚いた顔をした後、二人の前で初めて笑いを洩らした。

 

「……くっくっ……前世での罪人か……くっくっ……ならば、そのような人間が死したとしても、喜んでやるべきで、哀しむものではないな……罪も償ったのだから、来世では裕福な家に生まれる事だろう……くっくっ……」

 

 そんなカミュの姿に、サラは狂気にも似た感情を見る事となる。

 その感情に恐怖し、唖然としていたサラとは対照的に、リーシャは苦虫を噛み潰したように顔を顰めていた。

 

「……もう良いだろう……ほら、サラも食事が済んだのなら、もう寝るんだ。明日も陽が昇り次第、出発するぞ」

 

 リーシャは、カミュの狂気じみた笑いによって凍り付きそうな時間を強引に動かす。

 先程のサラとカミュの最後のやり取りが、自分の胸に突き刺さっているにも拘わらず、その場を収める為に、サラを誘導して寝かしつけようとする。

 対するサラもカミュの変貌に驚き、すでに反論する気力すらも失っていた。

 故に、リーシャの促しに逆らおうともせずに、その身を横たえ瞼を閉じる。

 サラは、未だ噛み殺したような笑いを繰り返すカミュの声を遮断するため、耳を手で覆って眠りに誘われるのを待つのであった。

 

 

 

 

 

 



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~幕間~【アリアハン宿営地】

 

 

 

 夜も更け、あと数刻もすれば日も昇って来るであろう時刻に、リーシャは目を覚ました。

 眠る前に、見張りをする事を譲ろうとはしなかったカミュと口論に発展したが、数刻毎に交代で行う事で同意を得た。

 それにも拘わらず、カミュに起こされる事もなく、ここまで眠ってしまった自分にも腹が立つが、起こす事をしないカミュへ沸々と怒りが湧いて来る。

 文句の一つでも言おうと身を起こし、火の傍にいるはずのカミュを探すが、その姿がなかった。

 一瞬、『置いて行かれたか?』という疑問が湧き上がるが、荷物がそのままである事から、席を外しているだけなのだろう。

 リーシャは昨夜のカミュの様子もあり、カミュの動向が気になり始めていた。

 サラはまだ自分の横で深い眠りに落ちている。サラの上には何時の間にかけたのであろうか、カミュが身につけているマントが掛けられていた。

 自分がこの場所を離れた後のサラの身を案じはしたが、聖水が撒かれている事を考え、カミュを探す為に森の中へと入って行った。

 

 

 

 森の中では方向感覚が狂い、迷った挙句に森から出る事が出来なくなるケースも多いが、そこは宮廷騎士として数多くの戦闘を経験して来たリーシャである。

 微かな人の気配を探り、ついにカミュの姿を視界に収めた。

 そこは、木々達が犇めき合う森の中にあって、異様な場所であった。

 中央に小さな水の湧き場が存在し、そこから下流に向かい河が出来ている。

 カミュはその湧き場の傍で、剣を振っていた。

 その動きは、幼い頃から積み上げてきた物に他ならない。リーシャ自身、アリアハン随一の剣の使い手である故に、そのカミュの剣捌きを正直に美しいと感じた。

 まだまだ荒削りな部分は残されているが、これから努力と経験を積めば、その剣は更なる高みへと昇って行く事であろう。

 

『自分にあれほどの剣の才能があるのだろうか?』

 

 そんな嫉妬にも似た感覚を味わいながらカミュの動きを見ていると、どうやら一通りの型が終了したようである。

 

「……なにか用か?」

 

 振っていた剣を鞘に納め、リーシャのいる場所に視線も向けずにカミュは口を開いた。

 自分の存在に気付かれていた事に気まずい想いを抱いたリーシャであったが、気を取り直してカミュの下へと近付いて行く。

 

「い、いや、交代の時間になっても起こさないお前に文句を言おうとしたら、いなかったのでな」

 

 カミュの動きに見惚れていた自分を認識してしまったリーシャは、誤魔化しも含め、幾分不機嫌そうに答えを返す。

 そんなリーシャの心の葛藤を知ってか知らずか、カミュは大きな溜息を吐き出した。

 

「……また、文句か?……余程、アンタ達は、俺が気に食わないのだろうな」

 

 リーシャは文句を言うつもりではなかったが、カミュのその物言いに夕食時の事を思い出し、同時にその時の怒りも再沸して来る。

 顔を上げたリーシャの瞳は吊り上がり、睨む眼光は、常人であれば竦み上がる程の強さを宿していた。

 

「当たり前だ! なぜ、あのような事を言った! 私は良い……確かにお前の言う通り、私は国王様の側近連中に媚を売る貴族連中のようには、世を渡る事のできない下級貴族だ。だが、サラは違う。自分を拾ってくれた神父を信じ、その幸福を与えてくれたルビス様を、心から信仰しているんだ。お前のような男が簡単に否定して良いものではない!」

 

 アリアハンを出てから一度もこの少年に口論で勝てた事がないのにも拘わらず、またその口火を切ろうとしている自分を可笑しく思いながらも、リーシャは真剣にカミュと渡り合う事にした。

 

「そうかもしれないな……それでも俺は、人間と同じように、魔物にも生きる権利はあると思っている」

 

 リーシャの言葉に、表情を変えずに間を置いてから、カミュは呟いた。

 その言葉は、夕食時のような熱はなく、まるで自問自答しているような呟き。

 そのまま、リーシャを背にするように、水の湧き場で水を少し口に含んだカミュは、その場に座り込んだ。

 

「生きる権利だと……?」

 

 リーシャはカミュの様子を訝しみながらも、その言葉を聞くためにカミュの傍に近寄り、そしてその横に座った。

 そんなリーシャの行動を咎める事なく、カミュは視線を目の前の湧水に向けたまま、ゆっくりと口を開き出す。

 

「……ああ……俺は、剣を握れる歳には、強制的に街道の魔物討伐隊に同行させられるようになった。オルテガの息子ならば、それが当然の事なのらしい。魔物が出てくれば、オルテガの息子というだけで、その魔物の群れの中に単身で放り込まれた。オルテガの息子ならば、魔物を打ち滅ぼすのは当然だという言葉と共にな……」

 

 不意に話し始めたカミュに驚くリーシャであったが、何よりあのカミュが、自分の生い立ちを語っている事に驚いた。

 もしかしたら、カミュは夕食時の事を後悔しているのかもしれない。

 リーシャの勝手な解釈ではあったが、カミュの話をそう受け取り、静かに先を促す事にした。

 

「俺は生きる為に、魔物を殺すしかなかった。数え切れない程の魔物を殺した。傷だらけになりながら帰って来ると、教会の人間が魔法で傷を癒し、次の場所に放り込まれる。その繰り返しだった」

 

 絶句した。

 先を促した身でありながら、その壮絶な幼少時代に驚き、かける言葉も見つからない。

 幼い身でありながら、大人たちの重圧に押され、単身で魔物と戦い、傷つき帰れば、休む暇もなく戦いに出される。

 例え、身体の傷は癒されても、それでは心が壊れてしまうだろう。

 

「ある討伐隊に連行されている時に、森の中で一人の人間が行方不明になった。そいつは討伐隊のメンバーではあったが、碌な戦闘もせず、支給品にある酒を飲みながら俺に指図するような奴だった」

 

 討伐隊には夜の食事の際に、士気を上げるためと、多少のアルコールが用意されている。

 軍には規律が必要ではあるが、あまり規律を締めすぎると、命をかけている分、割に合わないと言って志願する冒険者がいなくなるといった理由からのものでもあった。

 

「当然のように、俺一人が探索隊となる。その指令の内容は森の入り口で討伐隊が待ち、俺が中を確認し、その男を連れて来る事だった。森の奥に入り暫く行くと、人間の腕が落ちてあり、そこから血糊が続き、少し行った所にある巣穴まで続いていた」

 

「殺されていたのか?」

 

 答えは解っている。

 巣穴まで引きずられているのだ。

 生きている訳はない。

 

「……ああ、その男は疾うに死んでいた。俺の気配に気づいたのか、巣穴から一匹の<一角うさぎ>が出て来た。口の周りは血で汚れ、食事中だったのだろう」

 

 カミュは魔物が人を襲う事を食事と言う。リーシャはその考えを理解する事は出来なかったが、カミュにとって人が獣を食す事と、魔物が人を襲い喰らう事は同等の行為なのであろう。

 

「俺の存在を認識し、警戒を強めた<一角うさぎ>は、その身の毛を逆立て威嚇してきた。今考えると『去れ』という意思表示だったのかもしれない。それでも俺は剣を抜いた。その瞬間に<一角うさぎ>は、俺に向かって牙を剥いて飛びかかって来ることになる」

 

 そこで、一息入れるように、『ほうっ』とカミュは息を吐いた。

 まるで、その時の状況を思い出すのを躊躇うように……

 

「無我夢中だった。まだ、歳もようやく二桁になったばかりで、大抵は<スライム>か<大ガラス>が相手だったからな。<一角うさぎ>の予想外の動きに戸惑いながら、夢中で剣を振るった」

 

「二桁になったばかりだと……?」

 

 リーシャは、カミュの話で『剣を握れるようになってから』というのは、剣を振るえる歳になってからだとばかり考えていた。

 しかし、今の話であれば齢十になったばかりだと言うのだ。

 リーシャにしても、討伐隊に同行するようになったのは、十八になる頃からだ。

 未だ十歳にしかなっていない少年を、単身魔物の群れに放り込むなど、人間の行いではない。

 

「ああ、家の者も同意していた事だ。まさか単身魔物の群れに放り込まれているとは思ってなかったのだろう。いや、率先して俺を討伐隊に同行させていた感がある以上、むしろ知っていたのかもしれない。この際、それはどうでも良い。俺も、<一角うさぎ>と戦った事がない訳ではなかったが、その<一角うさぎ>は何かが違い、俺に向かって来る気迫は鬼気迫るものだった。それでも、夢中で放った俺の一撃が、たまたま<一角うさぎ>の首を捉え、その命を奪い、その死骸を前にして、俺は身体の力が抜け、座り込んだ」

 

 カミュから、もう一度溜息が洩れる。それは、何かを悔やむような儚い溜息。

 リーシャはそんなカミュが醸し出す雰囲気に飲み込まれてしまった。

 

「その時、あの巣穴から出てくる影を見た。流石に、もう一度<一角うさぎ>と戦う体力などない俺は、半ば諦めにも似た覚悟を決めて、出てくる影を待った。出て来たのは、二匹の<一角うさぎ>。だが、身体が異様に小さかった事から、それが今、俺が殺した魔物の子である事は容易に想像できた。その子うさぎたちは、血を流し動かなくなっている親を見た後、怯えた目で俺を見ていた。その身体は気のせいか、小刻みに震えていた」

 

「そ、それで……」

 

「おそらく、死んだ馬鹿な男は、あの<一角うさぎ>の縄張りに入ったのだろう。小さな子供がいる親は、子を護るために必死で抵抗し、その結果、男を殺害した。だとすれば、人と何が違う?……そう思った。俺が子供だと安心して、剣を支えに立ち上がると、二匹は凄まじい勢いで逃げ出して行った」

 

 これで、終わりだと言わんばかりに、カミュは瞳を閉じる。

 横からその姿を見ていたリーシャは、水が湧く泉の畔で静かに目を閉じるカミュの姿がとても幻想的に見えた。

 

「親や子が魔物に命を奪われ、憎しみに燃える人間は多い。討伐隊の中にも、そんな人間は多かった。だが、人間がそうであるならば、俺が魔物を殺せば殺す程、魔物の人間に対する憎悪も増えるのではないかと考えるようになった……まあ、そんな話だ」

 

 そう言うと、カミュは横に置いた剣を再び背に装着し、腰を上げた。

 立ち上がるカミュを追うように、リーシャの視線と共に顔が上がる。

 そんなリーシャの方を見る事もなく、溜息と共に言葉を吐き出した。

 

「つまらない話をした。今のは忘れてくれ。アンタ達の考え方の方が常識だ。俺の考えと、世間の一般常識が相容れない物である事は重々承知している。レーベの村に着いたら、アリアハンに帰ってくれ。一人の方が気楽だ」

 

 背を向けながら話すカミュに、リーシャは言葉をかけられない。

 ただ単に、自分達を否定し、受け入れない為に、このような態度を取っているのだと思っていた。

 だが、実際は、自分の考えと世間の常識とがかけ離れている事を認識しているからこそ、一人で旅に出ようとしていたのだ。

 

「まぁ、アンタの場合、アリアハンに帰ったとしても、今度は、腐った王族から貴族の称号を剥奪されて、宮廷騎士ですらなくなるかもしれないがな」

 

 泉から離れて行くカミュがリーシャに聞こえるようにわざとらしく呟き、その言葉を聞いたリーシャの怒りの炎は再燃した。

 『もしかすると、王家や貴族への侮辱は、自分を旅から外すために敢えて口にしていたのかもしれない』と、一瞬でも考えた事をリーシャは後悔する。

 

「そんな訳に行くか! 私は、国王様から魔王討伐の命を受けているんだ。例え何があっても、その使命を投げ出す事などあり得ん! それに、サラだって同じ筈だ」

 

 『こんな偽勇者の思い通りになってたまるか』

 そんな思いが、リーシャの言葉から滲み出ていた。

 リーシャの叫びに振り返ったカミュは、またいつものような無表情に戻っている。

 

「アンタの考えは解った。ただ、あの僧侶は無理だな。教会の人間は昔から苦手だが、あれはその中でも筋金入りの者だ。自分の身内を、前世での罪人として扱われたら、大抵の者は怒り狂う。アンタも、そうではないのか?」

 

 カミュの言葉を聞き、リーシャは唇を噛む。

 確かに、サラの考えには、納得が出来ない部分もある。

 貧富の差や生まれの差は、前世での行いの違いという教会の教えは知っていた。

 その為に今生でその罪を償い、徳を重ね、そして来世での幸せを夢見る。

 だが、ルビス様の加護の違いにも当て嵌るとなれば話は別であるのだ。

 

「確かに、納得は出来ない。だが、あの時のサラは、お前に追い詰められて正当な考えから言葉を発していない。それにサラはまだ幼い。しかも、アリアハンから全く出た事がなかった。これから、世界中を旅し、見聞を広げれば、少しずつ変わって行く筈だ」

 

「感情で話をしている時の方が本音を話すと思うが……それに、あの僧侶の歳は俺とそう変わらない筈だが……」

 

 確かにあの時、サラは感情的になっていた。自身の培ってきた価値観を真っ向から否定するカミュに対し、何も反論できない自分への苛立ちとも取れる。

 自分が誇って来た知識では対抗できない理論。

 それは、サラから冷静さを奪ってしまっていたのだ。

 

「お前が異常なんだ!」

 

「お前に続いて、すでに俺は異常者か・・・」

 

 もう、リーシャとカミュの間でやり取りされている事は、売り言葉に買い言葉となっている。

 実際、カミュは買うつもりはないのだろうが、リーシャはカミュの淡々と、尚克冷静に紡がれる言葉にどうしても荒れてしまっていた。

 傍から見ると、とてもいいコンビなのだが、リーシャは絶対にそれを認めないだろう。

 短めに整えてある髪が逆立つような意気で迫るリーシャに、溜息をつきながら宿営地に向かうカミュは、その後一言も言葉を発する事はなかった。

 そんなカミュの後ろを歩きながら、これから先の旅への不安が、アリアハンを出た当初よりも大きくなっている事に、リーシャは気持ちが暗くなって行く。

 

 火の場所に戻れば、薪をくべる事を怠っていたせいで、火が小さくなっていた。

 傍で寝ているサラも寒さを感じているのか、掛っていたカミュのマントに(くる)まっている。

 リーシャは慌てて火に薪をくべ、火の大きさを安定させ、カミュはその傍に座りながら、静かにその様子を見ていた。

 

「お前も、少し寝ろ。ここから朝までの見張りと火の番は私がやっておく。明日は陽が落ちる前にはレーベに着くつもりなのだろ?……その為に寝ておけ」

 

 薪をくべながら、隣に座るカミュに声をかける。

 剣を振っていた事を考えると、カミュは寝てはいないのだろう。

 故に、リーシャは、カミュの代わりに見張りの番を買って出たのだ。

 

「……わかった……少し眠らせてもらう」

 

「ああ。一人旅では、眠れないだろうからな。仲間がいるのも悪い事ばかりではないだろう?」

 

「……一人旅であれば、既にレーベの村に着いている頃だろうな……」

 

 意趣返しのつもりでリーシャが放った一言は、カミュの容赦ない切り返しで、逆にやり込められてしまった。

 確かに、戦闘を極力避け、休憩なしで歩き続ければ、夜中から朝方になるかもしれないが、レーベには着いているのかもしれない。

 ただ、引き下がれないリーシャは、尚もカミュに言い募ろうと顔を向けると、すでに革袋を枕にカミュは寝息を立てている。

 その顔は、先程までの捻くれた考えと物言いをする男ではなく、年相応の幼い寝顔である事に、リーシャは溜息を吐き出した。

 

「寝顔を見れば、サラの寝顔と然程違いはないのにな……」

 

 小さな笑みを作りながら溢したリーシャの呟きは、安定してきた焚き火の中に吸い込まれて行った。

 

 

 

 

 

 



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レーベの村①

 

 

 

 瞼の外の明るい光に導かれるように、サラは目を覚ました。

 暖かい陽の光がサラを包む。

 

「あれ?……こ、ここは……」

 

 まだ覚醒しきれない頭で、サラは自分の置かれている現状を必死に理解しようとする。

 昨日からの記憶を辿り、昨夜のカミュとのやり取りにまで到達した所で、ようやく今、自分がここに一人で寝ていた事への異常さに気がついた。

 

『置いて行かれた』

 

 昨夜には、あれほど周囲を暖かな空気で包んでいた炎は、既に消えてから時間が経過しており、サラを寝かしつけてくれたリーシャの姿もない。

 カミュだけがいないのならば、何故か納得のできる部分もあったが、リーシャまでいないとなると話は変わってくる。

 

『見捨てられた』

 

 自分の身体が、恐怖と絶望に震えて行くのが解る。

 切望していた『魔王討伐』の旅への同行。

 しかし、長い間憧れていた『勇者』は、自分が考えている人物像とはかけ離れていた。

 ルビスの子である『人』と、その天敵である魔物を同類としている考え。

 それは、魔物擁護の発言と同意であり、そして、この世界を護る『精霊ルビス』を侮辱する発言と同意。

 

 それがサラには許せなかった。

 最後には自分でも何を話したのか記憶が曖昧なぐらい感情的になってしまっていた。

 最初は自分と同じようにカミュに対して敵対心を剥き出しにしていたリーシャが、途中から無言になっている事に気が付いてはいたが、感情的になっているサラには、その事を考慮に入れる余裕がなかったのだ。

 

『自分は、何かとんでもない事をしてしまったのかもしれない』

『自分一人を置いて、あの二人は旅立ったのだろう』

 

 気持ちが益々沈んで行くサラは、そこでようやく自分が手に持つ、先程まで包まっていた布に気が付く。

 それは、『勇者』と呼ばれる青年が身につけていたマントだった。

 火の傍で寝ていたとはいえ、夜の森の気温はとても低い。

 

『自分は、寝ている最中に寒さに震えていたのかもしれない』

『それを見て、マントを掛けてくれたのだろう』

 

 それが、カミュが自ら掛けたのか、リーシャが無理やり引き剥がして、サラに掛けたのかは分からない。おそらく後者だろう。

 

「マントがあるということは……」

 

 サラは素早く身を起こし、周りの状況を確認する。

 マントがあるという事は、先程までのサラの考えが杞憂である可能性が高いのだ。

 自分を置いて行ったのではなく、リーシャとカミュが、何かしらの理由で席を離れているのかもしれない。

 サラはマントを手に取り、立ち上がる。

 上を見上げると、背の高い木の葉の隙間から朝日が差し込んで来ていた。

 もう、陽が昇ってそれなりの時間が経っている証拠である。今日中にレーベの村に着くつもりであれば、そろそろ歩き出さなければならないだろう。

 周りを見てみても、二人がどこにいるのかの手がかりすら無い。今、無闇に動くよりも、ここで待っていたほうが無難ではあったが、先程感じた心の内の焦りがサラを森の奥へと進ませて行った。

 

 

 

 

 サラには、カミュのような森の知識もなければ、リーシャのような経験もない。

 当然のように、奥に入って暫く歩くと、前後左右の場所が分からなくなった。

 引き返そうにも、自分がどちらの方角から来たのかさえ分からない。ここで初めて、サラは自分がした愚かな行為に気が付く。

 このままでは、森の中を彷徨うだけ。

 リーシャ達が宿営地に戻り、自分がいないことに気が付けば、探しに来てくれるかもしれないという期待はあるが、逆に良い機会だと置いて行かれる可能性をサラは捨て切れなかった。

 森で迷いそれほど時間が経過していないにも拘わらず、サラは、自分の考えによって気力を根こそぎ奪われ、その場に座り込んだ。

 

『自分は何をやっているのだろう?』

 

 経験豊富なリーシャや、何故か旅慣れている様子のカミュに強引に付いては来たが、完全に足手纏いになっている。

 自分の為に休憩をとらせて目的地までの日数を遅らせ、果ては勝手に出歩き迷子になっている。

 

「……ルビス様……私は……」

 

 自分の状況を分析し、尚更沈んで行く気持ちから、溜息混じりの呟きを漏らした。

 ふと視線を感じ、そちらの方向に目を向けると、一羽のうさぎがサラを見ている。

 昨日のカミュの話を思い出し、顔を顰めたサラではあったが、何故かこちらに視線を向けたまま動かないうさぎを不思議に思い、歩み寄ろうとした。

 

「あっ……」

 

 しかし、サラが腰を上げたと同時に、うさぎは踵を返し逃げて行く。

 そのうさぎの姿がサラの気持ちを更に沈めて行くが、うさぎはサラからある程度の距離をとると、再び小首を傾げながらサラを見ていた。

 

「……何ですか?……付いて来なさいという事ですか?」

 

 そんな事がある訳がない。

 そのうさぎにとって、サラのような『人』を見るのが初めてだったのだろう。

 故に、好奇心からサラを見ているが、危害が加わる事がないように距離を取っているだけなのだ。

 勝手に良い方に解釈をしたサラは、恐る恐るうさぎの方に近寄る。

 うさぎが気付き、距離を空ける。

 サラが近づく。

 距離を空ける。

 そしてまた近付くを繰り返しながら、サラは森の奥へと進んで行った。

 

 

 

「行くぞ! カミュ!」

 

 本来魔物に向けるはずの剣を、味方であり、世界最後の希望であるアリアハンの勇者に向け、リーシャは構えを取っている。

 対するアリアハンの勇者は、溜息混じりに背中の剣の柄に手を掛けた。

 

「……わかった。昨日、相手をすると言ったのは俺だったな……」

 

 心底、面倒くさそうに背中の鞘から剣を抜くカミュ。

 なぜ、味方同士の争いになったのか……

 それは少し前に遡る。

 

 

 

 カミュが気温の変化に目を覚ました時には、すでに夜が明け、少しずつ森を明るい光が包み始めた頃だった。カミュが感じた寒さの原因はすぐに解った。

 火が消えかけているのだ。夜が明けた今となっては、朝食の準備でもしない限り必要はないのだが、見張り兼火の番をするはずの女戦士が、火の傍で丸くなっているのはどういう訳なのか、カミュには一瞬理解ができなかった。

 火の状況を見ると空が白み始めた頃に眠りに落ちたのであろう。

 森の入り口ではあり、木々がひしめき合っていて、日光の差し込みが分かり辛いが、もう火が消えてしまっても差支えはない。

 ある程度の余熱があれば、寒さに震えるような事はないだろう。

 カミュは火に残った薪をくべ、火を安定させると、その場を後にした。

 昨日剣を振っていた水の湧き場で水を汲み、顔を洗った後、カミュは身体をほぐし始めた。

 寝具の中で寝ていた訳ではない為、筋肉に変なストレスがかかり硬くなっている。

 首をほぐし、肩、腕、腰をほぐし終わり、足の筋肉に取りかかっている時に、後方に気配を感じた。

 

「……大人しく待っている事は出来ないのか?」

 

 後方の気配はカミュの予想通り、リーシャであった。

 憮然とした表情で立つリーシャの表情は、不満を言う為というよりも、何やら本当にカミュに用があるようである。

 

「お前が勝手に一人で出発する可能性があるからな。まぁ、マントをサラに掛けたままだったから、そんな事はないと思ったが、念の為だ」

 

 リーシャは、後ろから極力気配を消してきたのにも拘わらず、近寄る前に声をかけられ、多少動揺をしながら歩み寄って来る。

 

「見張りや火の番を放棄して眠りこけていた人間とは思えない言い草だな」

 

「うっ! そ、それは……」

 

 カミュの容赦のない言葉に、リーシャは言葉に詰まる。

 眠ってしまっていた事を自覚しているだけに、その言葉はリーシャの胸に突き刺さったのだ。

 魔物の巣窟である森の中で、全員が眠りに落ちている等、死を望む者以外は行わない事である。仲間の命を危機に晒したという事実を突き付けられたリーシャが目を伏せるのも仕方のない事なのだろう。

 

「それでなんだ?……あの僧侶も起きたのか?」

 

「い、いや。サラはまだ寝ている。そうではなくてだな……また剣を振るのか?」

 

 自分の失態をつつかれ、狼狽しながらもリーシャは、昨日のカミュの訓練の様子を思い浮かべて問いかけた。

 サラが起きるまで、まだ少しばかり時間があるだろう。

 ならば、自分もカミュと共に剣を振るおうと考えていたのだ。

 

「まだ寝ているのか……言い出した見張りを放り出して眠りこける『戦士』に、昨晩から何もせずひたすらに眠り続ける『僧侶』か……一つ聞きたいが、このまま俺はアンタ方が付いて来る事を黙認していても良いのだろうか?」

 

 しかし、そんなリーシャの前向きな考えも、カミュの言葉で霧散してしまう。

 口端を少し上げたカミュは、自問自答するような口ぶりで、リーシャへと容赦のない言葉を投げかけたのだ。

 

『どうしてこうも捻くれているんだ?』

『しかも、その厭らしい笑いはなんだ?』

 

 リーシャは自分の血液と共に頭に上ってくる疑問に、怒りが増幅されるのを感じていた。

 事実、リーシャの考えるように、カミュの口端は上がり、笑みを浮かべているように見える。

 

「くっ! 私達が役に立たないというのか!? いいだろう! 昨日、剣の相手をすると言ったな。私が稽古をつけてやる。実戦と思ってかかって来い!」

 

 売り言葉に買い言葉である。

 カミュの表情を確認したリーシャは、腰の剣を素早く抜き、その剣をカミュに向かって掲げながら挑発をし返した。

 そのリーシャの姿を見て、カミュの瞳は驚きで開かれ、大きな溜息を吐き出す。

 

「……本当に頭に血が昇り易いな……よくそれで、魔物討伐で命を落とさなかったものだ」

 

 対するカミュは、明らかに失敗したというような表情に変わり、肩を落とした。

 そして、先程の状況になった次第である。

 

 

 

『かかってこい!』と受けに回る事をほのめかしながら、先に仕掛けたのはリーシャであった。

 瞬時にカミュとの間合いを詰め、踏み込む足の動きに合わせ、右手に持った剣を横薙ぎに振るう。

 必殺の速度である。

 

『殺す気か!?』

 

 対するカミュは、右手に持っていた剣を両手に持ちかえ、リーシャの剣に合わせる。

 間一髪、リーシャの剣とカミュの身体の間に剣を滑り込ませ、その剣を受け止めた。

 しかし、女とはいえ、アリアハン屈指の戦士の剣である。

 カミュは勢いを殺し切る事が出来ず、たたらを踏んで後退した。

 その隙を見逃さず、リーシャは二撃目を繰り出す。

 刺突である。

 魔物と戦う時に剣を横薙ぎに振るう事は少ない。

 魔物の身体は大抵人間のそれよりも堅い皮や毛に覆われている。横薙ぎに切った場合、運が悪いと魔物の身体の途中で斬撃が止まってしまい、剣が抜けなくなってしまう事があるのだ。

 故に魔物と戦う場合、牽制以外では刺突を用いる事が多くなる。

 つまり、リーシャは本気でカミュを殺しにかかっている証拠であった。

 

「くっ!」

 

 初手の対応を間違えたカミュは、防戦一方になる。

 リーシャの刺突をギリギリのところでかわし、リーシャの肩口目掛け剣を振り下ろす態勢に入るが、その前にカミュの腹部に衝撃が走った。

 刺突を、態勢を崩しながらかわしたカミュの腹目掛け、リーシャの蹴りが入っていたのだ。

 

「ぐはっ!」

 

 腹部に蹴りを受けたカミュは、後方に下がり際に剣を横薙ぎに振るう。

 しかし、それはアリアハン屈指の騎士に対する攻撃としては、無意味に近い物だった。

 

「甘い!」

 

 横薙ぎに振るわれたカミュの剣を弾き返し、返す剣でカミュの首を狙い一閃。

 辛うじてカミュは剣を戻し、首を狩りに来る剣を受け止めるが、リーシャは手首を返し、その剣を巻き上げた。

 

「!!」

 

 剣はカミュの手を離れ、回転しながら後方の地面に突き刺さる。

 武器を無効化されたカミュに、リーシャと渡り合う方法はなくなったのだ。

 

「勝負ありだな!」

 

 カミュの首筋に剣を添えながら、どうだと言わんばかりに顔を綻ばせ、リーシャは高らかに勝利を宣言する。

 カミュは格闘家ではない。

 素手での戦いができない訳ではないが、剣を持った戦いに比べれば、数段劣る。

 何より、剣での戦いで遅れを取った相手に、素手で勝てると思う程カミュは愚か者ではなかった。

 

「……今の勝負は……負けで良い……」

 

「今の?……なんだ? いきなり仕掛けた事を卑怯だとでも言うのか? 私は『いくぞ!』と言った筈だぞ?」

 

 リーシャは、カミュが負け惜しみを言っているのだと思い、ここぞとばかりに意趣返しを図る。

 リーシャの剣が首筋から離れた事を確認し、カミュは後方に飛んで行った剣を拾い、再び構えを取った。

 

「??」

 

「もう一度だ。アンタの力を見縊っていた事は認める……実戦形式とはいえ、本気で殺しに来るとは思わなかった。ならば、俺も実戦と同じように、魔物相手と考え相手をしよう」

 

 構えを取ったカミュの瞳が、先程までとは異なる光を宿し始めていた。

 しかし、カミュに戦闘で勝利した事を喜ぶリーシャは、その変化にまだ気付いてはいない。

 

「あははは……なんだ? 今の戦いは、本気ではなかったとでも言うのか?」

 

「……ああ……」

 

 『子供だ』 

 どれほど捻くれていようと、どんな厭味な事を言おうと、やはり年相応の子供なのだとリーシャは思った。

 リーシャの見立てでは、カミュは人間相手の戦いには慣れていない。

 昨夜の話の内容通り、幼い頃から魔物を相手にしてばかりいたのであろう。

 基本的に、魔物は本能によって行動をする。人間の動きよりも素早く、予測はつかないが、そこに思考がある訳ではない。

 反面、人間の動きは魔物には劣るが、様々な事に対応できるように思考を巡らし、攻撃や防御を行う。 

 つまり、力量の差がそれ程ない人間相手には、その駆け引きが重要になるのだ。

 それは日々の訓練による経験からくるものが多い。カミュも騎士と訓練を共にした事はあるのだろうが、その経験が圧倒的に足りないのだ。

 そんなカミュが、自分の負けを認める事を拒み、子供がよく使う『今のは、本気でなかったのだから負けたのだ』というような負け惜しみを言うのを見て、リーシャは内心で笑いを堪えるのに必死だった。

 

 『次は本当に稽古をつけてやろう』

 そのように軽く考えていた。

 故に、カミュの瞳が宿す光の変化に気付かない。

 

「良いだろう。存分にかかってこい」

 

 カミュを見据えながら、リーシャも剣を構える。多少心に余裕を持ち、それが侮りに近い物になっているリーシャは、カミュの纏う空気の変化に意識を向ける事をしなかった。

 カミュのその瞳は、今までの魔物の戦闘ですら見せた事のない、冷たく突き刺すような瞳に変化している。

 つまり、それは正しく敵を見据える瞳。

 

「来ないのなら、こちらから行くぞ!」

 

 一向に動く気配のないカミュに、今度もリーシャが先に仕掛けた。

 間合いを詰めながら剣を突く。

 それをカミュは自分に届く前に横にいなし、突き返す。

 リーシャとカミュの剣が幾度となく交差する。

 リーシャの見立て通り、カミュの剣の腕前は、まだリーシャには及ばない。

 しかし、その実力の差は天と地ほど離れている訳でもなかった。

 少しの実力の差が勝敗を左右する世界である故のリーシャの勝利なのである。リーシャがカミュに剣を教えるつもりで剣を交えれば、その攻防を続ける事が可能であった。

 

「ほら、どうした? 本気で来るのではなかったのか? これでは先程と同じだぞ!?」

 

 カミュの足を狙った剣を弾き、カミュの肩口めがけ剣を振るいながらリーシャはカミュへの挑発を繰り返す。

 そんなリーシャの挑発に、カミュの瞳が一瞬揺らぎを見せた。

 しかし、それは『怒り』という感情ではなく、『憐れみ』に近い物。

 

「……頭に血が昇り冷静さを失くすだけに飽き足らず、慢心までとは……アンタ、本当にアリアハン屈指の戦士なのか?」

 

 リーシャの剣をかわし、一旦距離を取ったカミュが溜息交じりに呟いた言葉は、リーシャの心に火を着ける物であった。

 一度、剣を下げたリーシャが、再び剣を構える。 

 その構えは、敵を見据えるような構え。

 

「わかった。稽古をつけてやるつもりだったが、お前がそう望むのなら本気で行こう」

 

 リーシャの目も敵を見る目に変わる。

 一本目よりも本気の証拠に、再び合わせた二人の剣が発する音は今までになかったものであった。剣を振るい、弾き、また振るい、弾くの繰り返し。

 何度目かのカミュの剣を弾いた後に、リーシャの瞳に信じられない物が映り込む。

 

「メラ」

 

 抑揚のない口調での詠唱。

 それと同時に目の前に迫る火球。

 リーシャは間一髪でその火球を避けるが、完全に態勢を崩した。

 そしてそれに合わせるように、リーシャの横っ腹にカミュの蹴りが入り、たまらずリーシャは地面へと転がる。

 焦って態勢を立て直そうと起き上ったリーシャの喉元に剣先が突き付けられた。

 

「……勝負ありだな……」

 

 おそらく意図的なのであろう。

 先程のリーシャの口調そのままで、カミュが勝利宣言をする。

 その瞳は、先程のような冷たい視線ではなかったが、表情はなかった。

 

「ちょっ、ちょっと待て!」

 

「……なんだ? まさか、魔法を使ったから卑怯だとでも言うつもりか? 俺は『実戦と同じように』と言った筈だが……」

 

 完全なる意趣返しであった。

 その証拠に、先程まで表情のなかったカミュの口元が片方上がり、厭味たらしい笑みが浮かんでいた。そのカミュを見て、リーシャは言葉に詰まる。

 悔しげに歪んだ口元が、その無念さを物語っていた。

 確かにカミュは『魔物相手と同じように』と言っていた。

 それに対し、リーシャもそれを了承し、途中からは自分も本気でカミュに剣を向けていた。

 剣でのせめぎ合いは、リーシャに分があった筈。

 しかし、カミュはそのリーシャの剣を何とか凌ぎながらも、魔法を使う隙を窺っていたのだ。

 カミュの力の具合や剣の腕から、魔法は使えないと無意識に決めつけていた事がリーシャの敗因だった。

 考えれば、アリアハンの英雄と謳われたカミュの父親である『オルテガ』もまた、剣の腕は世界中で右に出る者はいないと云われ、魔法も行使する事が出来た。

 しかし、それは真の勇者しか契約する事の出来ない魔法だとも聞いた事がある。それ以外の、先程カミュが行使したような、魔法使いが最初に契約をする『メラ』と呼ばれる火球呪文を行使できたかは解らない。

 何れにせよ、カミュの言う通り、この勝負はリーシャの慢心から来た思い込みが敗因なのは確かだった。

 

「ぐっ…………もう一度だ!」

 

 再度剣を構えるリーシャを嘲笑うかの様に、カミュは剣を背中の鞘に納める。

 そして、自分達の戦いの影響で喧騒を失くした森へと視線を動かした。

 

「いや、時間切れだ……これ以上は、出発が遅れる。それに、迎えも来ているようだしな」

 

 先程までリーシャに向けていた笑みを消し、カミュが視線を動かした方向を見れば、こちらを見たまま放心しているサラの姿があった。

 サラの姿を見て、リーシャも軽い溜息を吐き出す。

 そして、身体に入った力を緩めた。

 

「……わかった。だが、また勝負だ、カミュ。この先、お互い剣の腕を磨いていかなければ、待っているのは『死』だけだ。相手が思考能力を持たない魔物だけとは限らない。その為にも人間との鍛練は必要な筈だ」

 

 リーシャにとっては、苦し紛れの言葉だったのかもしれない。

 こう言わなければ、カミュは自分と剣を合わせる事がないと思っていた。

 しかし、それに対してのカミュの対応はリーシャの想像の遥か上を行っていた。

 

「……そうだな……アンタと相対して、俺の腕がまだまだだという事を思い知らされた。これからも頼む」

 

「……は?」

 

 リーシャはカミュの意外な言葉に一瞬呆けてしまう。それもそうだろう。

 昨日の夜までは、レーベの村に着いたらアリアハンに帰れと言っていた男が、直接的ではないにしろリーシャの同道を認めたのだ。

 

「……早々にここを出発する……今日中には<レーベ>に着きたい」

 

 リーシャが呆けている間に、カミュは早くも移動してしまう。

 我に返ったリーシャは、先程のカミュの言葉を改めて振り返り、自然と顔を緩めながらその後を追った。

 

 

 

 サラは、木々に覆われた場所から、唐突に開けた空間に出た。

 ついて来いと促していると考えていたうさぎは、疾うの昔に逃げ去っていた。

 興味本位でサラを見ていたが、いくら距離を空けても、その距離を詰めてくる人間に恐怖を覚えたのであろう。サラを置き去りにして、森の奥の方に一目散に逃げて行ってしまった。

 サラはそのうさぎを走って追う程の間を与えて貰えず、再び森の奥深くで取り残される形となった。

 立ち止まる訳にもいかず、うろうろと彷徨っていると、頬に当たる風が湿り気を帯び始めた事に気付く。水場が近くにあるのか、その周りの空気に湿気が含まれ、それが風に乗って来たのであろう。

 サラは僅かな期待を胸に、その風元に足を向ける。近付くにつれ、その期待が確信に変わって行った。

 そして、不意に広がった光に目を覆う。そこは幻想的な世界だった。

 木々は周りを覆うように生い茂り、その中央から一本の川が森の下流に向け流れ、大地には芝が生え、とても自然が造り出したとは思えない程の光景であった。

 そして、その中央の池の近くに、サラの探し求めていた二人の姿を見つける。

 ようやく辿り着いたことに安堵と喜びを感じ、駆け寄ろうと近づくサラの瞳に、信じられない光景が映し出された。

 

 二人は互いの剣を抜き、対峙しているのだ。

 しかも、その二人を取り巻く空気は、サラにでも感じられる程の緊迫した物であった。

 二人を止める為に声を出そうとするが、その空気に飲まれ、言葉を発することが出来ない。

 そして、サラが右往左往している間に、リーシャが動いた。

 リーシャの突きを剣で防いだカミュは、その後も何とかリーシャの攻撃を凌いで行く。途中、二人が距離を空け何か話していたようだが、この距離からはその会話が聞き取れない。

 しかし、サラにはカミュがリーシャを挑発したように思えた。

 その証拠に、その後からのリーシャの攻撃が先程よりも苛烈になっている。それでも、なんとか凌いでいるカミュではあったが、勝敗が決するのは時間の問題だという事は、サラにも理解できた。

 そんな時、サラの目にカミュの左手の動きが入って来る。右手の剣をリーシャの頭部めがけ振り下ろすカミュの左手が握られ、人差し指一本を立てた状態になっていた。

 

『何をするつもりなのか?』

 

 それはリーシャが頭部を狙う剣を振り払った時に判明する事となる。 

 左手の人差し指をリーシャに向けると、その指から火球が飛び出したのだ。

 それは、『魔法使い』と呼ばれる職業の人間が使える魔法。

 生来、魔力が高い人間が、初めに契約する事のできる魔法で、教会に入らない魔力を持った人間の将来を左右する魔法である。

 

 サラは驚いた。

 剣だけではなく、魔法の才能も持ち合わせている勇者と呼ばれる少年の能力に。

 リーシャの剣の腕は、素人の自分でも理解できる程に優れている。

 このアリアハンの地に住む魔物達では相手にすらならないだろう。

 そのリーシャに劣るとはいえ、あれ程のせめぎ合いが出来る腕を持つカミュも、相当な腕を持っているという事になる。その上、魔法まで行使できるとなれば、『自分は、唯の足手まといにしかならないのではないか?』とサラは考えた。

 

 カミュが魔法を行使できると言っても、それは魔法使いの魔法であって、回復魔法まで使える訳ではないだろう。もし、回復魔法が使えるのであれば、それは文献などに載る存在、『賢者』ということになる。

 今の世界に『賢者』はいない。

 遠い昔、その存在がいたとされているが、魔との契約による魔法と、神との契約による魔法を同時に使える存在は今現在確認されてはいないのだ。

 回復魔法が行使できるという強みは、パーティーの中での存在感となると考えていたサラは、魔法も行使できるカミュに、その存在価値を否定されたような感覚を持ってしまう。

 更には、リーシャとカミュの剣の腕である。

 『僧侶』であるサラは、剣の才能など皆無に等しい。

 しかし、魔物との戦闘の際に、常に後ろに控えている訳にはいかない。

 ただ、魔物に傷つけられた仲間を回復するだけであれば、それこそ魔王討伐には必要ないだろう。ならば、攻撃にも使える魔法を覚えるか、剣の腕前を、あの二人とまではいかなくとも、魔物に傷を与えられる程度には上げていかなければならない。

 そんな事をサラが考えている間に、二人の勝負は終わっていた。

 どうやら、先程の魔法が鍵となりカミュが勝利を収めたようだ。

 リーシャが何か悔しそうに、言葉をぶつけているが、それを無視するように、カミュがこちらに向かって来る。固まっていた自分に気が付きサラは二人に歩み寄り、その時、カミュの後ろから歩き出したリーシャの表情が、少し柔らかくなっていたのをサラは不思議に思った。

 

 

 

 三人は宿営地に戻り、火が完全に消えている事を確認した後、念の為、そこに土をかけてから森を出る。

 再び街道に戻った頃には完全に日が昇り、明るい日差しが街道を照らしていた。

 昨日と同じようにカミュが先頭を歩き、その後ろをサラの歩調に合わせてリーシャが歩く。

 その間隔は、ある一定の距離が刻まれ、それ以上縮まる事もなければ、逆に広がる事もなかった。

 昨日は、頭に血が上る事も多く気が付かなかったが、旅慣れぬサラの歩調を気遣いながら、カミュは先頭を歩いていたのだとリーシャは感じていた。

 相変わらず、出て来た魔物との戦闘では、自分に牙を剥いてくる魔物以外には全く興味を示さず、倒れた魔物の部位を切り取っていたし、別段サラや自分に向かってくる魔物を、代わりに倒したりすることもないが、彼は彼なりに自分達に気を使っているのかもしれない。

 昨日あれほど考えが対立していた相手を、何故このように思うのかは解らないが、何となく自分の考えが間違っていないという確信がリーシャにはあった。

 昨日と同じように、街道沿いでは<大ガラス>や<一角うさぎ>、そして<スライム>との戦闘はあったが、それらの魔物は、カミュやリーシャの敵ではない。

 サラが回復呪文を使う場面はないが、手に持つ一振りのナイフで、何体かの魔物に止めを刺して行った。

 昨日、サラが初めて魔物をその手の凶器で殺害した時には、その手に残る感触に暫し呆然としていたが、それを見るカミュの冷ややかな視線に気づき、カミュと睨み合う場面もあった。

 この先、その時に呟いたカミュの一言が、その後魔物をその手で倒す度に、サラの胸の奥に出来たしこりを大きくして行く事を実感するのであった。

 

「どうだ……魔物をその手で殺す気分は?……爽快か?」

 

 その言葉をカミュが発した時のリーシャは、完全に我を忘れるくらいに激昂していた。

 そのリーシャに呟いた一言も、サラの心の奥に張り付いて離れない。

 

「相手が魔物であろうと、命をその手で奪った事には変わりはない筈だ」

 

 昨日のカミュとの対立は必然であったと言えよう。

 未だにカミュの考えは解らないし、解ろうとも思わない。

 だが、カミュのその言葉は確実にサラの心に定着してしまっていた。

 

 

 

 後ろを歩く二人が全く違う想いを胸に、前を行く自分を見ているとは全く知らず、カミュはレーベへ向かい歩を進めていた。

 二度の休憩を挟み、何度かの戦闘を行い、日が沈み始めた頃、カミュ達一行はようやくレーベの村へと辿り着いた。

 

 木で出来た柵で、簡易の防壁を作って魔物の侵入を阻み、その囲われた小さな場所で、人々は集落を営む。

 『魔王バラモス』の出現による影響で魔物が凶暴化した事により、アリアハンから交代制で兵士が常駐し、監督を続けている。村の入口には、兵士達の番所があり、ここで兵士たちは寝泊りをしていた。

 基本的に、ここに派遣される兵士達は、アリアハンから募集した平民の兵士が多く、出世欲などはそれ程ない者が多い為か、兵士と村人の衝突などは一切起きてはいない。周りの魔物も強い魔物ではない為、世界で一番平和な村なのかもしれない。

 村の入り口でカミュ達三人は兵士たちに身分を伝え、村の中へと入る。

 

「レーベの村にようこそ」

 

 村に入ってすぐに、若い女性に声をかけられた。

 三人の服装なども見て、旅人と見たのだろう。にこやかな笑顔に偽りはなく、この時代に<レーベ>へと立ち寄る旅人を歓迎している様子であった。

 

「ああ、ありがとう」

 

 いつものように全く関心を示さないカミュの代わりにリーシャが村娘に答えるが、サラはというと、休憩を挟んではいたが、慣れない旅の疲れからか、リーシャの後ろを黙々と歩いていた。

 村の入り口から少し進むと、左手に道具屋の看板が見えて来る。

 陽が沈みかけているためか、店仕舞いをと考えているようであった。

 カミュは、魔物から切り取った部位の入った袋を持ちかえ、リーシャに『これを売ってくる』と告げて道具屋へと入って行った。

 その後ろ姿に、『先に宿屋を探しておく』と返したリーシャの言葉が、カミュに届いたかどうかは分からないが、とりあえず早めにサラを休ませようと、リーシャは宿屋を探す事とする

 

 宿屋は案外あっさりと見つかった。

 道具屋の向かいにある大きな建物が宿屋であったようで、入口が反対側だったため看板が見えていなかっただけであった。

 カミュを待つかどうか考えたが、サラを一刻も早く休ませたい事もあり、とりあえず宿屋の入口を潜る事にする。

 

「いらっしゃいませ」

 

 入り口付近で入るか入るまいかを悩んでいたリーシャの姿を見ていたのだろう。リーシャが店に入り切る前にカウンター越しから中年の男性に声を掛けられた。

 恰幅の良い男で、顔には優しげな笑みを浮かべている

 

「こんにちは。旅人の宿屋にようこそ。二名様ですか?」

 

 中年の男は営業的な笑顔でありきたりな文句を言い、こちらの人数を尋ねて来る。

 それに対し、サラの手を引きながらカウンター前にまで歩き、リーシャは口を開いた。

 

「いや、三人だ。できれば、二部屋用意してもらいたい。一つは一人部屋で、もう一つは二人部屋が良いのだが?」

 

「ああ、大丈夫だよ。このご時世、なかなか宿屋を利用する旅人も少なくなってきているからな。うちもガラガラさ」

 

 先程までの営業口調をいつの間にか取り払い、宿屋の親父は気さくにリーシャの要望に応える。

 先程までの営業的な笑顔とは違い、柔らかな笑みを浮かべているのを見ると、人柄の良さが窺えた。

 

「一緒の部屋なら、三人で6ゴールドなんだが、二部屋となると8ゴールドになるよ? それでも良いかい?」

 

「ああ、それで良い。金は、後から来るもう一人の連れが持っているから、そいつが来るまでそこに座らせてもらっても良いか?」

 

 ふらつくサラを支えながら、カウンターの前にあるソファーを指差したリーシャに、店主は笑みを濃くする。

 

「ああ、どうぞ。そちらのお連れさんは相当疲れているようだな……ちょっと待っていな。今、茶でも入れてやるから」

 

 もはや、丁寧な口調でもなくなっている宿屋の親父だが、その人柄はとても好印象が持てるものであり、リーシャの気持ちも自然と柔らかいものに変わって行った。

 奥からお盆に冷たいお茶を載せ戻って来た親父は、それをサラに渡すと、再びカウンターの中へと戻って行く。

 

「ああ、そうだ。ひとつ言い忘れた事がある。今夜の夕食と、明日の朝食は出せないが、それでも良いかい?」

 

「夕食も朝食も出せないのか?」

 

 なんでもないような事かのように口を開く宿屋の親父の発した言葉は、リーシャにとっては疑問が浮かぶ事柄だった。

 通常、深夜の到着でもない限り、宿屋の料金には、夕食と朝食が込みとなっている。

 それがないという事は、外の酒場などで夕食を取らなければならないという事だ。

 

「ああ、材料は多少あるんだが、生憎、私の家内が風邪をひいてしまって、昨日から寝込んでいてね。私も料理は出来るが、とてもお客様に出せる物ではないから……申し訳ないが、食事は無しでお願いしているんだよ。もしそれで良ければ、先程言った8ゴールドを、二部屋で通常通りの6ゴールドにしても良いよ」

 

「そうか……それでは仕方ないな……ん? そうだ! 6ゴールドにしてもらうお礼に、料理は私が作ろう。材料はあるのだろう?……ついでに親父さんの分と、奥さんの分も作ろう。風邪であるならば、消化の良い物が良いだろうな。台所を貸してくれ」

 

「は?」

 

 宿屋の親父の謝罪に対して発したリーシャの言葉は、その場を凍りつかせるのに十分な威力を持っていた。

 先程までぐったりと頭を下げていたサラでさえ、その頭を勢い良く上げ、疑問の言葉を発している。

 昨夜、串に刺さった、焼き上がっていない肉を頬張ろうとするリーシャを見ていたサラだけでなく、初対面の宿屋にとっても、リーシャと料理が全く結びつかなかったのだ。

 

「……な、なんだその顔は! 私が料理も出来ないとでも思っているのか!? サラまで何だ!?」

 

 リーシャはそんな二人の態度に戸惑いながらも、怒りを露わにした。

 リーシャの怒りを受けても、サラや店主の疑問は晴れない。腰に剣を差している『戦士』が料理を作るなど、彼女達には想像すら出来ないのだ。

 そんな宿屋のカウンター越しの微妙な状況の中、『勇者』が現れる。

 

「……ん? 何を騒いでいる? 魔物の部位は、思っていたよりも高く売れたから、ある程度の宿代は払える筈だ」

 

 登場したカミュは、その異様な雰囲気を不思議に思いながらも、見当違いな発言をする。

 そんな、いまいち状況を読めていないカミュに、サラが事の顛末を告げる為、リーシャの下を離れ、覚束ない足取りでカミュへと近付いて行った。

 

「宿屋の奥様が風邪をひかれたらしく、食事は出ないそうなのです」

 

「……は? そんな事で騒いでいるのか? 別段、外で食べれば良い。食い意地まで張っているとは、たいした戦士様だ。さすが脳まで筋肉で出来ているだけはある……」

 

「なんだと!」

 

 カミュの発言に、それまで微妙な空気を作っていた張本人がその身体に怒りを纏い、カミュを睨みつける。

 まさに一触即発の緊迫感に、宿屋の親父の顔も引きつるが、サラはカミュの間違いを正す為、もう一度口を開いた。

 

「あ、あ、違います。それは良いのですけれど、『材料があるのだったら私が作る』とリーシャさんが言いまして……」

 

「………………は?」

 

 サラは自分が伝えた言葉に対するカミュの反応に、心底驚いた。

 あのカミュが呆けているのだ。

 サラの発言の意味が全く理解できないといったような、完全な無防備な表情。

 無表情という訳でもなく、冷たいと感じる訳でもない、本当に人間らしい表情であった。

 

「~~~~!! 何なんだ、お前たちの反応は!! 私が料理を作るのが、そんなにいけない事なのか!?」

 

 先の二人の反応に続き、無表情と口端を釣り上げた厭味な笑いの顔しか見た事のないカミュに、人間らしい表情を出させた事への喜びなど感じる事もなく、リーシャは爆発した。

 

「い、いや、流石に俺も、アリアハンを旅立った二日後に、魔物との戦闘ではなく、食中毒で死ぬ事は、できるならば願い下げたいのだが……」

 

 初めて人間らしい感情を表に出したカミュが、そのままの状態でリーシャの言葉に返答を返すが、それは唯、火に油を注いでいるだけの行為であった。

 

「カミュ様……その言い方はちょっと……」

 

 <レーベ>までの道程で、カミュから『勇者様』と呼ぶ事を禁止され、お互いの落とし所であった『カミュ様』という呼び方でカミュに呼びかけるサラであったが、それは直接的ではないが、サラも気持ちは同じである事を明確に表していた。

 

「~~~~~~!! ああ、そうか、わかった。お前達が私をどう見ていたのか、良く解った。まさか、サラにまでそのように見られていたとはな。こうなれば意地だ。誰が何と言おうと、食事は私が作る。良いな! 親父、材料を見せてくれ。献立を考える。足りない物があったら、私が買いに行く!」

 

「あ、は、はい……わかりました。わ、わたしは頂きます……ですから、家内だけは……どうぞご容赦を……」

 

 旅の同道者である、サラとカミュの反応を見て、不安が尚一層深まった宿屋の主人は、何とか自分の妻だけは護ろうと、先程までの気さくな口調を正し、リーシャに懇願するように頼み込む。

 しかし、その主人の態度が、リーシャの怒りに益々火をつける結果になった。

 

「~~~~~~~~!! もういい!! 私は勝手に作業を開始する! お前達は出来上がるまで部屋で休んでいろ!!」

 

「は、はい!」

 

「……はぁ……」

 

 雷鳴の如く鳴り響くリーシャの怒声に、宿屋の主人とサラは同時に声を上げ、その横で心底疲れ切ったと云わんばかりに溜息を洩らすカミュがいた。

 そのまま台所へと消えて行ったリーシャの背中を暫し見ていたサラであったが、横にいる店主の心配そうな顔を見て、苦笑を浮かべる。

 カミュは、早々と自分の部屋へと向かって行った。

 

 

 

 リーシャが料理をしている間に、諦めきった表情で、宿屋の主人はお客の為に湯を沸かし、帳簿をつける。

 湯が沸いた事を確認し、二階の部屋で休んでいる二人のお客に、それを告げ、階下に戻って行った。

 宿屋の主人の声がした時、サラは疲れから睡魔に襲われていたが、二日間の身体の汚れを清める為、一応、カミュに先に入ることの了承を貰い、階下にある浴場へと足を運ぶ。

 これから起こるであろう惨劇を思うと気が重くなっていくが、まずは身体の汗を流す事にしたのだ。

 

 一人部屋に入ったカミュは、道具屋に売った魔物の部位の分のゴールドを袋に入れ、明日に道具屋などで揃える物を考えていた。

 これから先、アリアハン大陸から出る事になれば、この大陸の魔物とは比べ物にならない強敵が出てくるだろう。自分やリーシャが身につけていた、魔物の皮で出来た<革の鎧>では身を守る事が難しくなってくる筈だ。

 その為にも、少しでも良い物を買わなければならない。

 サラと呼ばれる『僧侶』は、戦闘に慣れるまでは危険が多いので、法衣の下にでも何か身を護る物を着せた方が良いだろう。そこまで考えて、自分が他の二人の装備品の事まで考えている事に驚き、カミュは苦笑を洩らした。

 

 サラが湯から上がり、カミュも軽く身体を清めた頃、台所からリーシャの声が響いて来る。

 その声は、サラにとって地獄からの呼び声のように聞こえた。

 もはや、先程の人間らしい表情を消し去ったカミュが、一番乗りで食堂に入る。その後から、ゆっくりと一歩一歩を確かめながらサラが食堂に入って来て、最後に宿屋の主人が食堂に姿を現した。

 それぞれが席に着き、サラと宿屋の主人がお互いの顔を見合せて愛想笑いをしていると、台所の方から両手に皿を二つ持ち、リーシャが現れる。

 

「おっ、揃っているな。さあ、これが、お前達が散々馬鹿にした私の料理だ。全部持ってくるまで手をつけるなよ」

 

 手に持った皿をテーブルの上に並べながら、リーシャは得意げに胸を張る。

 外にいたような鎧をつけている姿ではなく、鎧の下に着ている服の上からエプロンを纏い、先程まで台所の炎に当っていた為か、顔が上気していた。

 サラはその姿がとても美しく、とても羨ましく見え、眩しく見上げる。戦闘中では考えられないリーシャの女らしさに驚いたのだ。

 鎧を外し、エプロンをつければ、身体は引き締まっているが、女性らしさを損なわない丸みを帯びた美しいプロポーションだった。

 女性の仕事の一つである、子への授乳の為の胸は、一般的に見てもそれなりに大きい部類に入るだろう。髪は戦闘中に邪魔にならないよう短く切り揃えてはあるが、独特の癖のあるカールがかった金色の髪が、リーシャに良く似合う。

 

 サラがリーシャに見惚れている間に次々と料理がテーブルに並んでいった。

 暖かそうなコンソメのスープ。

 鶏肉を炙り、その上に気持程度にソースが掛けられたソテー。

 野菜と共に炒められ、疲れ切った身体でも食欲が溢れ出しそうな香りを出している。

 これはうさぎの肉であろうか?

 更には、野菜のサラダに、軽く焼き色のついたパン。

 

 どれも、湯気と共に食欲をそそられる香りを発している。ふと、サラが隣を見ると、食堂に入ってくるまで無表情を貫いていたカミュの表情が、先程宿屋の入り口で表した人間味のある唖然とした表情になり、料理とそれを運んでくるリーシャの顔とを見比べていた。

 その様子がとても可笑しく、カミュとは反対側に顔を背けて笑いを堪えていると、その方向にいた宿屋の主人も同じ事を思ったのであろう、必死に笑いを堪えていた。

 お互いの状況を確認した二人に笑いを堪える事は、もはや無理な話であった。

 

「あははははははははははっっ!!」

 

 突如、爆笑する二人に驚き、カミュの表情がいつものような無表情に戻るが、料理を運んで来たリーシャは、それが自分の料理を笑われたと思い、苦い顔をする。

 

「なんだ!? 失礼な奴らだな……人の料理を見て笑うなんて。良いから食べてみろ」

 

「ち、違うのです、申し訳ありません。リーシャさんの料理を笑った訳でないのです。ぷぷぷっ……」

 

 必死に弁解しようとするサラだが、一度落ちた笑いの渦から脱出する事は叶わなかった。

 顔を背けて笑うサラの様子に、先程まで強気の瞳を向けていたリーシャの意気も消沈して行く。

 

「……そんなにこの料理は変か?」

 

 先程までの剣幕はどこへやら、気落ちしたように顔を落とし、リーシャの表情は沈んで行った。

 そんなリーシャの様子に一気に笑いが引いて行ったサラと宿屋の主人は、何とか弁解をと必死に考えを巡らせ始める。

 しかし、そんな三人の様子を余所に、カミュが料理を食べ始めていた。

 スープをスプーンで掬い、一口啜ると、それからは怒涛のように他の料理に手をつけていく。

 

「あ、あの……カミュ様?」

 

「……ん? 料理は揃ったんだ。食べ始めて良いのだろう?」

 

 カミュの姿に驚き、恐る恐る声をかけたサラに、まるで当然の事のように答えたカミュの様子を見る限り、この料理の味は惨劇を生み出す物ではないようだ。

 

「……ど、どうだ?」

 

 今まで沈んだ様子だったリーシャは、自信のあった料理を笑われたと感じていた為、カミュが黙々と食べ続けるのを見て、感想を聞く。

 その声は、気のせいか若干震えているようだった。

 

「……旨い。凄いな……アンタの料理を馬鹿にするような発言をした事を謝罪する。ああ、それも食べて良いか?」

 

「そ、そうか! そうだろう!? 仕方がない。その謝罪を受け、先程の事は不問にしてやる! こ、これか? ああ、いいぞ! まだあるからどんどん食え!」

 

 凡そあのカミュとも思えないような素直な感想に、喜びを隠しきれない様子で、リーシャはカミュの前に野菜と肉の炒め物の皿を置いた。

 サラはそんな二人の様子を見ながら、カミュの態度に驚きながらもどこか得心の行く部分を感じる。

 カミュ達と出会い、まだ二日しか経ってはいないが、カミュは自分に非がある時には、その相手に対して謝罪する事や、感謝の意を表す言葉を言う事を厭わない。そんな気がしてならなかった。

 ならば、散々対立している自分に対して謝罪がないのは、カミュが全くその事に対して、自分には非が無いと考えているという事ではないだろうか。

 自分が考えた事もない考えをカミュは持っている。

 その考えを改めさせ、自分が受けてきた教えを、カミュに理解させる事ができる日が来るのだろうか。

 サラはそんな考えに没頭していた。

 

「……サラには口に合わなかったか?……やはり、ソースの酸味がきつ過ぎたか?」

 

 そんなサラの様子を心配し、リーシャが声をかけてくれている。

 旅の道中では、あまり表面には出て来ないが、このリーシャという女性は、本当にアリアハンの貴族らしからぬ人間だった。

 平民を虐げ、貴族である事がアリアハンで生きる為のステータスとでも言うような貴族が多い中、貴族であるという誇りは持っていても、それを驕るのではなく、平民であるサラに対しても気さくに接してくれる。

 リーシャは、そういう優しい女性であった。

 

「いやいや、このソースは絶品だ。凄いな、これは。俺も先程の態度を謝るよ。いやぁ、旨い。こりゃ、うちの家内にも食わせてやりたかったな」

 

 リーシャの味に気を良くした宿屋の主人は、最初の頃のような気さくな口調に戻っていた。

 そんな主人の態度の変化に苦笑を浮かべながら、リーシャは台所の方を指差し、口を開く。

 

「ああ、アンタの奥さん用に、台所に別にスープを作っておいたよ。消化に良い物で、体が温まるように作っておいたから、飲ませてあげると良い」

 

「そりゃ、本当かい? ありがとう。早速家内に持って行ってやることにするよ。ああ、本当に美味しかったよ。ご馳走様」

 

 嬉しそうに顔を綻ばせながら、リーシャに頭を下げ、宿屋の主人は台所の方へと消えて行った。

 主人の背中を見送ったリーシャは、テーブルに顔を戻し、目の前にある料理が少ししか減っていないサラへと声をかける。

 

「サラも食べろ。早く食べないと、昨日と違ってサラの分も無くなってしまうぞ」

 

「は、はい! このスープ、本当に美味しいです。リーシャさんは、お料理がお上手なんですね」

 

 スープを飲み、その味の良さに感激を覚えるサラであったが、隣のカミュの食の勢いを見ていると、リーシャの言う事も、満更嘘ではない気がして、急いで他の料理も取り分けて行く。

 

「ああ、ありがとう。料理は、うちに昔から仕えている婆やに教わったんだ。剣の鍛錬ばかりしていた頃に壁にぶつかってな。その事を婆やに話したら、『女には、女の強さがあるのですよ』と言って、料理を教えてくれたんだ」

 

「そうだったの……」

 

「それを食べないのなら、貰っても良いか?」

 

 リーシャの話に相槌を打とうとしたサラの言葉を遮り、リーシャの前にある料理にカミュが手を伸ばしてきた。

 

「ん、これか? ああ、いいぞ。食べたかったら、食べれば良い……ほら」

 

 自分の分の料理まで欲しがるカミュに、リーシャは嬉しそうに笑顔を向け、カミュの前に皿を持って行く。

 カミュの食の勢いに圧倒されていたサラが、リーシャの前に、何も料理が残っていない事に気付き、慌てて言葉を掛けた。

 

「良いのですか? リーシャさんは、食べていないのではないですか?」

 

「ああ、料理は作る時に、味見とかで少しずつ口に入れるからな。意外に腹が膨れるものなんだ」

 

 自分を心配してくれるサラに柔らかな笑顔を向けたリーシャは、テーブルにあるお茶を一口啜る。

 その姿は、無理をしているようには見えない。満腹ではないが、空腹でもないのであろう。

 

「は、はあ……」

 

「まあ、サラも料理を作るようになれば解るさ」

 

 それでも納得が出来ないサラの様子に苦笑するリーシャは、サラの肩を軽く叩く。

 それは、サラ程の年齢の女性からしてみれば、少しばかり不服を申し立てたい程の発言であったが、異議を申し立てようと開いたサラの口からは、聞き取れぬ程の声量しか出ては来なかった。

 

「わ、わたしだって、料理は……でき……ません……けれど……」

 

「ふふふっ。いや、良いさ。私も小さな頃から出来た訳じゃない。その内、嫌でも覚えるようになるさ」

 

 サラの必死な様子を、リーシャは暖かい目で微笑を浮かべたまま見ている。

 サラは、そんなリーシャの視線に、恥ずかしそうに身を縮ませていた。

 

「ご馳走様」

 

 リーシャとサラが和やかな会話を続けていると、それまで黙々と食事を続けていたカミュが一言呟き、席を立った。

 カミュの前にあった皿は、全て空になっている為、先程の言葉はお世辞ではないのであろう。

 まず、カミュがお世辞などを言う事ができるとは、サラにはどうしても思えなかったが。

 

「ああ、明日はどうする?」

 

 席を立ったカミュに、リーシャは明日の予定を問いかけるが、カミュは食堂の入り口に立ったまま少し考えた後、振り返りもせず、またもや火の種を投じた。

 

「明日は物資を少し買いたい。店が開いた頃に出る……アンタはこの町に残って店でもやったらどうだ?……その料理であれば、客は来るだろう」

 

 火の種を投じたまま、リーシャの反応も待たず、カミュは二階の部屋に上がって行ってしまう。

 カミュが発した言動を、ゆっくりと噛み砕き理解し始めているリーシャが爆発するまで時間は、それ程残されてはいなかった。

 

 その夜、爆発したリーシャを宥め、共に洗い物などをしてから部屋に戻ったが、尚も収まりきらないリーシャの怒りの捌け口になったのはサラであった。

 サラはリーシャの愚痴を聞きながら、頭の中でカミュに対して怨み言を言い続けた。

 

 

 

 

 

 



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レーベの村②

 

 

 

 まだ、夜が明け切れてない時分に、一人の男が宿屋の階下に下りて来た。

 

「お早いご出発ですね。皆様、まだお休みになられていますが?」

 

 誰もいないと思っていたカウンターから突然声がかかり、驚いてそちらを見ると、宿屋の主人が帳簿に目を落としながら筆を走らせていた。

 

「ああ、既に料金は払っているのだから、構わない筈だが」

 

 見つかるとは思っていなかったのであろう。二階から降りてきたカミュは、鬱陶しそうに宿屋の主人の方に視線を動かし、そのまま出口に向かおうとしていた。

 

「ええ、それは構いませんが、おそらく簡単には出られないと思いますよ」

 

 そんなカミュに視線も向けず、宿屋は奇妙な事を言い出す。

 宿屋の主人には昨日のような気さくさはなかった。

 いや、始めからカミュに対しては気さくな口調ではなかったかもしれない。

 

「どういう事だ……?」

 

「いえ、あのお方に、貴方が勝てるとは思えませんので……」

 

 その言葉と共にやっと顔を上げた主人の表情を見てカミュは咄嗟に身構えた。

 主人の顔には、ある感情が張り付いたままだったのだ。

 

 それは『恐怖』

 『何故、こんな片田舎の宿屋の主人がこれ程までの恐怖を味わっているのか?』

 『あのお方とは誰の事なのか?』

 カミュは背中の剣に手をかけながら、宿屋の出口に向かう。

 

 まだ夜も明けきらぬ時刻。宿屋は暗闇に支配され、カウンターにある一本の蝋燭では、帳簿を見る事は出来ても、宿屋全体を照らす事は叶わない。

 カミュが慎重に足を進めていると、やがて一つの人影が見えた。

 

「ほう……やはり一人で行くつもりか?……主人に言っておいて正解だったよ」

 

 徐々に明らかになる人影とまだ聞きなれたとは言えない声。

 腰に挿した剣に金髪の髪。

 気の強さを表す吊り上がった瞳は、今まさに、目前に立つカミュを射抜いていた。

 

「……誰かと思えば、アンタか……」

 

 目の前に立つ人物が、カミュの胃の中で未だに消化されていない物を作った女性である事を認識し、緊張を解きながら、剣から手を離した。

 

「こんな早くにどこに行くつもりだ?……お前は昨夜、宿を出るのは、店が開いてからと言っていたのではないのか?」

 

 緊張を解いたカミュは、もう一度身を強張らせた。

 宿屋の入り口に立つリーシャの身体から立ち上る怒気が、想像を絶する程の物だったのだ。

 表情は、周辺の暗闇に隠れて見えないが、宿屋の入り口を中心に空気が変わっている事から、リーシャの怒りが相当な物であるという事は理解出来る。

 

「お前は、私と剣の鍛錬も続けると言ったな。それも嘘か?……アリアハンから認められた勇者は、嘘しか言わないのか?」

 

 一言一句に呪いが籠められているのかと思ってしまうほど、リーシャの発する言葉の振動が重い。

 ふとカウンターに意識を戻すと、先程までいた宿屋の主人は跡形もなく消えている。

 カミュにも先程の宿屋の主人の怯え様が、ようやく理解できた。

 

「……以前、森の中でも話した筈だ……俺とアンタ方の考え方は、決定的に違っている。このまま旅を続けたとしても平行線なだけだ。俺の考えが変わる事はないし、幼い頃からルビス信仰を擦り込まれて来たアンタ方の考えが、変わる訳もない」

 

 『擦り込む』という単語にリーシャの反応があったが、今はカミュの言い分を聞く事にしたようだった。

 いつも即座に怒声を飛ばすリーシャが、何の返答もしない事を若干不思議に思ったカミュだが、先を続ける事にした。

 

「もし、アンタ方がどうしても『魔王討伐』に出たいというなら、俺とは別に行ってくれ。その方がお互いの為だ」

 

 カミュはそれだけ言って、リーシャの立つ横を通り抜けようとする。

 だが、それはリーシャの剣に阻まれた。

 まるで、カミュの進行を邪魔するように突き出された剣は、明け始めた空から降り注ぐ太陽の光を微かに反射させる。

 

「……お前の考えは聞いた……だが、聞いた事と理解できる事とは違う。お前は『魔王』を討伐する為に出ているだけで、実際に『魔王』を討伐する気は、本当はないのだな?……もし、お前が本気で、単身で『魔王』を討伐出来ると考えているのだとすれば、お前の脳こそ筋肉で出来ているのではないか?」

 

 横を通ろうとするカミュに抜き身の剣を向けながら、リーシャはカミュをまっすぐ見据えている。

 カミュは先程からリーシャが放つ言葉の中に、自分を挑発している部分がある事には気が付いていた。

 だが、『魔王討伐に出ているだけで、実際に倒す気がない』という言葉が、カミュの胸に突き刺さり動けない。 

 

「『魔王討伐』という旅に出たのだ。『魔王』を討伐する目的の旅であることは、当然の筈だ。討伐の可否は、その場で『魔王』の前へ辿り着かない限り、解りはしないが……」

 

 自分の心の中を、たった二日間行動を共にした人物に見透かされたのではという動揺を表情には出さずに話すカミュであったが、リーシャと視線を合わす事は出来なかった。

 

「あのオルテガ様でさえ、一人旅の末に倒れられたのだぞ! 何故、そのオルテガ様にも遠く及ばないお前が、単身で『魔王』を討伐する事ができるのだ!」

 

「……オルテガと俺は、関係ない筈だ。それに、俺はアンタ方が『魔王討伐』に向かう事を否定はしていない。アンタ程の腕があれば、あの僧侶の他に何人か仲間を募って旅に出る事は可能な筈だ?」

 

「そういう事ではない!」

 

 カミュは困り始めていた。

 最初ほど殺気を放つ事はなくなってはいるが、その怒りは幾分も和らぐ事はなく、未だに自分の行く手を遮っているリーシャが、何故これ程の怒りを感じているのかが、カミュには本当に解らないのであった。

 

「何が不服だ?……俺は俺で旅に出る。そこで、俺の力が足りずに死ぬ事があったとしても、直接アンタに関係する事ではない筈だ……」

 

「……そうか……お前は、自分の重要性を何も解っていないのだな。お前は、望もうと望まなかろうとアリアハン国が認め、全世界に通知された『勇者』であり、ここ十数年、誰一人旅立つ事がなかった『魔王討伐』に向かう全世界の人間の希望なんだ。それが、旅の準備も碌にせずに一人で旅立った末、『魔王討伐』も出来ずに死んだとなれば、皆の期待と希望はどうなる!?」

 

 カミュの問いに答えたリーシャの言葉は、カミュの顔から表情を失わせて行く。

 能面のように冷たい仮面を被ったようなカミュの表情は、リーシャの怒気によって熱せられていた周囲の空気を冷やして行った。

 

「それこそ、俺には全く関係のない事だ。俺に期待や希望を背負わせるのは勝手だが、それを背負うかどうかは俺が決めることだ」

 

「!! ふざけるな! お前は、あのオルテガ様の息子なのだろう! オルテガ様は、全世界の人間の期待や希望をしっかりと受け止めていたぞ!」

 

 リーシャは、まさしく激昂している。

 幼き頃、英雄オルテガに憧れ、その強く暖かな瞳に淡い想いを抱いていた。

 そんな相手を、よりにもよって、その息子に侮辱されたという思いが、リーシャの頭に血を上らせていたのだ。

 しかし、感情を露わにするリーシャとは反比例に、目の前のカミュの表情が消えて行った。

 

「……顔を見た事もない人間を、親と思った事は一度もない。前にも言ったが、オルテガという男への憧れや希望を俺に向けようとするな。迷惑以外何物でもない」

 

「なっ!」

 

 確かに、カミュが生まれてすぐにオルテガは旅立ったのだから、カミュがオルテガの顔を憶えていないのは当然だろう。

 しかし、全世界の英雄と謳われた父を誇りに思う事はあっても、ここまで拒絶するカミュを、リーシャは理解できなかった。

 

「……くっ! わかった。では、こうしよう……私と毎朝勝負しろ! 私に勝つ事ができるようになれば、この旅に私は必要ないと認めよう……ただし、それまでは旅の仲間として行動してもらう。お互いの衝突などはあるだろうが、それはこの際目を瞑ろう」

 

「随分と勝手な条件だな……俺がそれを飲むメリットは、何一つ見当たらないのだが?」

 

「勝手なのはお互い様だ!」

 

 リーシャは、自分が身勝手な言い分をしている事を十二分に理解している。

 ただ、そうせざるを得なかった原因は、目の前の男にあると思っているので、押し通す事にした。

 

「……わかった……ここを押し通るにしても、アンタを倒さなければならないのなら、結局同じ事だろう」

 

 カミュは、出口とは反対側のカウンターまで歩き、持っていた荷物を肩から下ろした後、もう一度リーシャの前まで戻って来る。

 

「主人! この辺りに、少し広めの場所などはあるか?」

 

「は、はい! この店の裏に少し広い場所があります。そこであれば、余り人も来ないので大丈夫だと思います」

 

 戻って来たカミュを満足気に見つめ、リーシャはカウンターに向け声を張る。

 カミュが消えたと思っていた宿屋の主人は、カウンターの下に潜っていただけのようで、リーシャの声に素早く反応し、まるで、軍の上官に返答するように背筋を伸ばして質問に答えた。

 

「そうか、ありがとう。では、カミュ、準備は良いな?」

 

「……準備が良いも悪いもないだろう……」

 

 諦めたような溜息をつくカミュを無視し、リーシャは意気揚々と宿屋の外に出ていった。

 その後姿に、もう一度深い溜息を吐き出したカミュは、宿屋のカウンターへと振り返る。その瞳には、階段を下りて来た時のような鋭い光は宿っていなかった。

 

「ああ……悪いが、適当な時間になったら、あの僧侶を起こしてやってくれ。それと、朝飯を頼む。簡単な物で良いから、作ってくれないか?」

 

 もはや、一人で旅に出る事を諦めたかのような言葉を自分に向かって掛けて来るカミュに、主人は驚きながらも、苦笑を浮かべて頷いた。

 

「畏まりました。朝食の方は、昨晩の食事には遠く及びませんが、ご用意させて頂きます」

 

 宿屋の主人の返答を聞くと、それに対し何の反応も示さずカミュは宿を後にした。

 周囲に静けさが再び戻る。

 太陽の光が差し込み始めた窓を眺めながら、主人はようやく、安堵の溜息を洩らした。

 

 

 

 

「……う~ん……」

 

 木の扉をノックする音に、サラは夢の世界から引き戻された。

 昨日は食事の後、リーシャが湯浴みに行く隙に、強引にベッドに入ったが、戻って来たリーシャに再び起こされ、遅くまで愚痴に付き合わされていたのだ。

 出発は店が開く時間ぐらいという話だったため良かったが、これが朝早くの出発であったのなら、完全に寝不足になり、いつも以上に役に立たないどころか、足手まといになってしまうところであった。

 

「お客様、起きていらっしゃいますか? そろそろ朝食が出来上がります」

 

 半身をベッドから起こしてはいるが、未だ覚醒しきれていない頭でドア越しにかかってくる声を聞いていたサラは、その内容を次第に理解し、慌てて返事を返した。

 

「あ、はい。わかりました。すぐ着替えて下に降ります」

 

「そうですか。別段慌てる必要もございませんので、どうぞゆっくりご支度をなさってください」

 

 その言葉の後、階段を軋ませる音が続いた。

 サラは昨日聞いたことのない声を不思議に思ったが、自分をお客様と呼ぶのであれば、この宿の人間なのだろうと、大して気にもせずに準備に取り掛かる。

 

 サラは、そこで初めて隣のベッドが空になっている事に気が付いた。

 それと同時に昨日の朝に感じた恐怖が再び蘇って来る。

 いや、正確には昨日よりも悪い予感が強い。何故なら、隣のベッドの傍には荷物がないのだ。

 サラは身支度をする事も忘れ、寝巻きのままで廊下に飛び出し、隣の部屋をノックした。

 サラの鬼気迫るノックに対して無反応を決め込む部屋に、悪い予感が確信へと変わって行こうとするが、頭を振り、それを払い除けると、ドアノブに手をかけてみる。サラの考えを裏付けるように、ドアには鍵がかかっておらず、すんなりとノブが回った。

 ノブが回り切り、ゆっくりと開いていくドアの向こうにはサラの最悪の予想通りの光景が広がる。

 

 誰もいない。

 本当に、この場所に人がいたのかをも疑いたくなるような冷たい空間。

 荷物など何処にもある訳がなく、この場所に居た人間が、かなり前に部屋を後にした事を表している。

 サラは、暫く呆然とその光景を眺めていたが、弾かれたように階段を下りて行った。

 階段を降りた場所にあるカウンターには、昨夜共に食事をした、この宿の主人が帳簿を見ながら、お茶を飲んでいる。

 

「ど、どうしたんだ、そんなに慌てて!? 服も寝巻きのままじゃないか!」

 

 突然鳴り響いた階段を駆け下りてくる音に、驚いたように顔を上げた主人は、寝ぐせで跳ね回っている髪の毛を気にする事もなく、更には着崩れた寝巻きが肌蹴ていることにも気が付いていない様子で、息切らし降りてきた人物を見て、驚きを通り越して呆れてしまった。

 

「あ、あの! 私と一緒にいた二人は……二人は、もう出発してしまったのですか!?」

 

「え!? あ、ああ、あの二人な……」

 

 サラの発言に、最初は戸惑った様子を見せた主人が少し口籠り、話し辛そうにする様子を見て、サラの顔色は真っ青に変化して行った。

 

「や、やはり……私は置いて行かれたのですね……」

 

 そう言ったきり、力なく俯いてしまったサラに、主人は更に困惑した。

 主人が何と声をかければ良いのか悩みながらサラを見ていると、俯いていたサラの顔から、木で出来た床下に水滴が落ちている事に気が付く。

 その水滴は、陽が昇ってから主人が拭き掃除をしておいた床に徐々に染み込んで行くが、その上に新たな水滴が落ち、乾く間を与えなかった。

 

「い、いや、嬢ちゃん、ち、違うんだよ」

 

 サラの状況は、既に主人の手に負える状態ではなかった。

 主人には子供がいない。

 今の妻と結婚してから早二十年近くになり、その夫婦仲はこの<レーベ>でも有名な程ではあるが、子宝には恵まれる事はなかった。

 実は最近になって、ようやく養子という形で子供を引き取ったのだが、その子もある事情から塞ぎ込み、なかなか部屋から出てこようとはしない。故に、主人は小さな子供達と遊ぶ事はあっても、成長していく過程の少年や少女達の心の中身を推し量る術を知らない。

 そんな主人の心の負い目が更に困惑を招いていた。

 

「……うぅ……うぅ……ぐすっ……」

 

 本格的に嗚咽を漏らし始めたサラに、主人は匙を投げたくなった。

 もはや、自分が何を言っても聞かないだろう。小さな子供が泣くように、何かを堪えながら咽び泣くサラの姿を見て、主人も違う意味で泣きたくなって来てしまう。

 

「あらあら、どうしたの?」

 

 そこに、正しく女神の如く、朝食の支度を終えた最愛の妻が奥から出てきた事に、主人は歓喜した。

 藁にも縋る思いで、主人は妻に事情を説明し始める。

 

「……ちょうど良かった……このお嬢ちゃんが突然降りて来て、泣き出したもんだからよ……困っちまって……」

 

「ふふ、そうなの? どうしたのかしら?もうそろそろ、お連れ様もお戻りになるでしょうから、ご一緒に朝食を食べた方が宜しいかと思ってお呼びしましたけれど、何か不都合がおありでしたか?」

 

 本当に困り果てた表情で頭を掻く夫の姿を見た妻が、柔らかく微笑みながら、未だに俯いたまま床に水滴を落とし続けるサラに近寄り、肩を抱くようにして落ち着かせる姿は、とても子供を産んだ事のない女性とは思えない程に、慈愛と母性に満ちた姿であった。

 

「え、えぇぇぇ!? 戻って来られるのですか!? 私は置いて行……」

 

「ふはははっ! まだまだだな、カミュ。魔法が使えると言っても、それを生かすための剣がそれでは、まだオルテガ様どころか、私にすら及ばない」

 

「くそっ!」

 

 自分の肩を抱く女性の言葉に違和感を覚え、突如顔を上げて叫び出したサラの言葉を遮るように、入口のドアから入って来た二人の声が宿屋に響き渡る。

 

「あら、お帰りなさい。既に朝食は出来ていますので、少し汗をお拭きになってから食堂に来て下さいな」

 

 そんな二人に、何ともゆったりとした言葉を投げかけ、サラから離れた女性は、奥の方に入って行く。

 

「ん?……サラ、起きていたのか?……それにしても酷いな……髪は起きたままボサボサだし、寝巻きのままじゃないか? そんなはしたない恰好で、年頃の娘が男達の前に出て来ては駄目だろう」

 

 返事をする前に奥へと消えた女性が若干気になってはいたが、それよりも目元を濡らしながら、呆然とこちらを見ているサラの格好に眉を顰め、リーシャは説教を始める。

 

「……まぁ、見られて減る物は、何もないだろう……」

 

 そんなリーシャの後ろから、憮然とした表情で現れたカミュが、サラの格好を一瞥し鼻で笑うように声を洩らす。

 

「……えっ!? えっ!? えぇぇぇぇ!! あっ、あっ」

 

 そんな二人の反応に、今の自分の状況を理解したサラが素っ頓狂な声を上げ、先程よりも大きな音を立てて階段を上って行った。

 階下まで響く程の音を立てて閉まるドアを確認すると、リーシャは宿屋の主人の方へ、確認の為に視線を送った。

 

「いや、アンタ方に置いて行かれたと勘違いしたみたいでして……」

 

 主人の言葉を聞き、リーシャは目を丸くし、カミュは溜息を吐き出す。

 カミュの溜息を聞いたリーシャが、鋭い視線をカミュへと向けた。

 

「……そうか、あの子も、薄々感付いてはいたのだな……カミュ! 先程も言ったが、約束は約束だぞ。私に勝てるまでは、勝手に出て行く事は禁じるからな」

 

 少し寂しく笑った後、鋭い視線を投げかけ釘を刺すリーシャに、カミュは『わかってる』と一言返し、身体を拭きに流し場に向かって行った。

 

「それはそうと、主人。先程の女性は、もしかして奥方か?」

 

「ええ、紹介しそびれましたね。お~い!」

 

「はい? 呼びましたか?」

 

 主人の声に奥から女性が顔を出す。

 台所にいたのだろう。

 手元をエプロンで拭きながら出て来る女性は、にこやかな笑顔をリーシャに向けながら、夫である主人へと近付いて行った。

 

「昨晩のスープが効いたのか、明け方には熱も下がって、起きられるようになりましてね。止めたんですが、お礼も兼ねて朝食を作りたいって言うんで、任せようと思いまして。本当にありがとうございました」

 

 女性を自分の横に立たせて、リーシャに頭を下げる主人。

 その夫の言葉で全てを察した女性もまた、リーシャへと深く頭を下げた。

 

「本当にありがとうございました。昨日のスープは美味しかったわ。できれば、今度お料理を教えてもらいたいぐらい」

 

 頭を下げる女性を見ると、若くはないが、年をとても良く重ねて来た事を窺える程に、綺麗な笑みを浮かべていた。

 何やら、こちらまで『ほっ』とするような家庭的な笑みを見て、リーシャの表情も無意識に和らいで行く。

 

「いや、そんなに礼を言われる程の事はしていないさ。元気になって良かった。料理に関しても、宿の食事を一人で切り盛りをして来られた人に教える程の物は持っていない」

 

 おそらく自分よりも二十年近く年上の二人に頭を下げられ、リーシャは気恥かしさで一杯になり、逃げるように流し場に消えて行く。

 

「ふふふっ、最近では珍しい、とても気持ちの良いお客さん達ね」

 

「そうだな」

 

 逃げて行くリーシャの背中を見つめながら、宿屋夫婦はお互いに微笑み合うのであった。

 その後、流し場で上半身裸のカミュを目の当たりにしたリーシャが、顔を赤くして戻って来たのは、夫婦揃っての笑い話になるのはまた別の話。

 

 

 

 

 朝食とは思えない程の量と質を備えた朝食を食べ終え、カミュ一行は宿を後にする。

 

「また、レーベに寄る事があったら、是非うちに来て下さいね」

 

 宿の出口まで夫婦揃って出て来てカミュ達に声をかける夫婦に、リーシャとサラは温かい気持ちに包まれながら、手を振っていた。

 

 太陽も昇りきり、レーベの村はすでに活動を始めていた。

 まず、宿屋を出てすぐにある武器屋へと向かって行く。

 リーシャとサラは、カミュの後に続いて武器屋の門を潜った。

 

「いらっしゃい。ここは武器と防具の店だ。どんな用だい?」

 

 無骨な主人の無骨な言葉にサラは驚いたが、カミュはそんな店主の問いかけも一切無視して陳列している武器や防具に目を向ける。

 店内には所狭しと商品が並べてあり、品揃えはアリアハンと大差ないが、一つだけサラの目を引く物があった。

 

「……甲羅?」

 

 それは、亀がその身を護る為に、生来身につけている甲羅であった。

 何故、亀の甲羅が武器と防具の店にあるのか、それがサラには理解出来なかったのだ。

 

「おう、それは『亀の甲羅』だ。結構な守備力はあると思うぜ」

 

 サラのこぼした疑問に対して、即座に武器屋の主人は答えるが、その答えも見たままのものであった。

 故に、サラの疑問は晴れない。

 武器屋の主人が発した『守備力は高い』という言葉が、尚更サラの思考を混乱させて行った。

 

「なんだ、サラ、それが欲しいのか? 今日からは、必要であれば、装備品なども買う事はできるぞ。勿論、代金はカミュが払ってくれる」

 

「えっ!? そうなのですか!?」

 

 主人の言葉に首を傾げているサラの横からリーシャが声をかけて来るが、その内容にサラは驚き、話題に上がった本人の方に視線を向けた。

 

「……ああ、旅に必要な物であれば揃える……途中で死なれても、面倒が増えるだけだしな。その『亀の甲羅』は、アンタに良く似合うのではないか?」

 

 視線を向けられたカミュは表情を変えず肯定するが、その後に決して年頃の娘には言わない褒め言葉をつなげた。

 『亀の甲羅』が似合う事を喜ぶ女性などいる訳がない。

 それはサラも同様であり、決して着飾ったドレスを着たいとは思わないが、それでも人並みの女性と同じように美しくありたいと思っている。

 

「な、なぜですか!? 『亀の甲羅』が似合うというのは、私が鈍臭いという事ですか!?」

 

「……解っているのだな……」

 

「なっ!!」

 

 自分が否定を求める為にぶつけた疑問を、あっさりと肯定で返した相手に、サラは言葉を詰まらせる。

 何かを言い返したいが、頭の中が真っ白になってしまい、思うように口が動かない。

 

「冗談はそれぐらいにして、何か買う為に来たのだろう?」

 

 二人のやり取りを眺めていたリーシャは、絶句したまま顔を赤くしているサラを宥めながら、カミュへと視線を移す。

 

「……オヤジ……その<革の鎧>を、この僧侶の法衣の下に着る事ができるように調整してもらえるか?」

 

「おう、そのぐらいなら少し時間を貰えればできるが……調整代金も含めて150Gになるがいいか?」

 

 壁に掛けられている<革の鎧>を指差しながら武器屋の主人に依頼をし、主人の要求通りの額のゴールドを取り出す為に、カミュは袋に手を入れた。

 

「まいど。じゃあ、寸法を取るから、そっちのお嬢ちゃんはこっちに来てくれるか?」

 

 サラは、自分を絡ませずに進んで行く話に付いて行く事が出来ず、言われるままにカウンターの中に入り、主人に寸法を取られることになった。

 リーシャは店の中の品揃えの少なさに飽きたのか、何をする訳でもなく、サラの寸法取りを見ている。

 

「オヤジ、この大陸から出る方法等を知っている人間はこの村にいるか?」

 

 寸法を取っている最中に話しかけられ、若干眉を顰めながらも、主人はその問いかけに暫く考える素振りを見せ、口を再度開いた。

 

「う~ん……アンタ達、この大陸から出たいのか?……それならば、そこの泉の近くにある家の爺さんなら話を聞いてくれるかもしれないな。まあ、変わり者の爺様だから、手こずるかもしれないがね」

 

 武器屋の主人の言葉通り、武器屋の向かいには、少し大きめな泉があり、その泉の畔に一軒の家が建っている。

 サラは寸法を取られながらも、その家の美しい情景に息を漏らした。

 

「……そうか、ありがとう……150ゴールドだったな。ここに置くぞ」

 

 主人の回答に、カミュは一瞬首を向けただけで、袋からゴールドを取り出しカウンターの上へと置いた。

 

「カミュ。私が言うのも何なのだが、サラに自衛の為の武器を何か持たせたらどうだ?……<銅の剣>くらいなら、サラでも扱えるのではないか?……流石にあのナイフ一本では、この先厳しいだろう」

 

 買い物はこれで終いだとでも言うように、切上げ始めたカミュを引き止め、共に旅する仲間の武器に関しても気を配れとばかりにリーシャが声をかける。

 だが、そんなリーシャを一瞥した後、カミュは呆れたような溜息を盛大に吐き出した。

 

「……そいつが持っているナイフは、この店で売っているような唯の<ブロンズナイフ>ではないだろう。おそらく、聖水で清められたナイフだ。放っている雰囲気が違うのに気が付かないのか?」

 

「……聖なるナイフか?」

 

<聖なるナイフ>

それは元々切れ味の鋭いナイフを、長時間聖水によって清め、その刀身全体に加護を施したナイフであり、その切れ味、耐久性などは通常のブロンズナイフの比ではない。

 

「はい! このナイフは、私がアリアハンを出る前に神父様から頂いた物です」

 

 サラは、腰についている革でできた鞘を愛おしそうに撫でながら、カミュの推測を肯定する答えを発する。

 そんな、サラの様子をリーシャは優しい目で見ていた。

 

「アリアハン屈指の戦士ならば、もっと周りの状況を冷静に分析するのだな。自分の仲間の戦力を見誤れば、待っているのは『死』だけだ」

 

「なんだと!! その私にも勝てない奴が偉そうに言うな!!」

 

 溜息交じりに挑発するカミュの言葉に、先程まで本当に優しく細められていたリーシャの瞳は、鋭く吊り上がるように細められる。

 そんな二人に苦笑しながらも、サラはカミュの言葉に驚いていた。

 カミュが初めて『仲間』という言葉を使ったのである。昨日の夕食後でさえ、リーシャに対して、『村に残って、食堂でもやるように』と言っていた筈なのに。

 自分が眠っている間に何があったのかをサラは疑問に思ったが、仲間として認められたことが嬉しく、深く考えない事にした。

 

「……よし! お嬢ちゃん、もう良いぜ。寸法を変える作業に少し時間がかかるが、ここで待つかい?」

 

 ようやく寸法取りから解放され、安堵の溜息を吐きながら戻って来るサラに、カミュに噛み付いていたリーシャの意気も削がれてしまった。

 

「いや、話に出た老人の家に行って来る。その後で取りに来るから、仕上げておいてくれ」

 

 カミュは主人の問いかけに答えると同時に、踵を返して店を出て行った。

 そんなカミュの様子に主人は肩を竦めて、残った二人に視線を送るが、リーシャもサラも苦笑を返すことしかできなかった。

 

 

 

 

 武器屋を出た三人は、泉の畔の一軒家の玄関に立っていた。

 近くで見ると、それなりの規模の家ではあるが、どこか生活臭のない雰囲気がある。 

 まるで、ここで何十年も通常の生活を送る人がいなかったような、そんな雰囲気に、ノックをするカミュを見ながら、サラは、『もしかしたら、誰もいないのではないだろうか』とさえ考えていた。

 サラが失礼な事を考えていると、不意にドアの鍵が開き、ほんの少しドアが開く。

 ドアの隙間から、こちらを射るような視線でのぞき込む老人の眼が見えた。

 

「なんの用じゃ?」

 

 カミュが挨拶をする間も与えず、呟くような疑問がドアの向こう側にいる老人から発せられる。

 その声は、お世辞にも友好的とは言えず、むしろ拒絶的といっても過言ではない物だった。

 

「……突然、申し訳ございません。このアリアハン大陸からの出方を知りたく、貴方であれば、その方法をご存じだと伺ったもので……」

 

 ドアを少ししか開けず、更にはこちらが何もしていないにも拘わらず、攻撃的な物言いをする老人に対してのカミュの接し方に、サラは息を飲んだ。

 リーシャは、アリアハン国王との謁見の際に同席しているので、カミュの外交的な態度を思い出し、多少の驚きはあっても、それを表に出す事はなかったが、今までの道程でのカミュの態度しか知らないサラにとって、今のカミュは別人に見えた事だろう。

 

「……お主は?」

 

 カミュの丁寧な問いかけに、すぐにでもドアを閉めようとしていた手を止め、老人は再度カミュに疑問を投げかける。

 

「申し遅れました。先日、アリアハンから旅に出ました、カミュと申します。後ろの二人は旅の同道者です」

 

 不意に話を振られた二人は驚いたが、紹介された手前、名乗らないのは失礼だと考え、二人は自己紹介をする事にした。

 

「あ、サ、サラと申します」

 

「アリアハン宮廷騎士のリーシャという」

 

 サラの言葉に視線だけを動かしていた老人であったが、リーシャの言葉にその双眸を大きく見開いた後、鋭くリーシャを睨みつけた。

 

「アリアハン宮廷騎士などと話す事は、何一つない!」

 

 突然の拒絶の発言に面食らった三人は、同時に力一杯閉まるドアを、ただ見送る事しかできなかった。

 

「どういうことだ!?」

 

 しばらく呆然としていた三人であったが、リーシャが覚醒と共に、閉まったドアを叩きながら、先程の老人の言葉に対しての疑問をぶつけているのを見て、時間が動き始めた。

 

「……やめろ……何をしても、今はドアが開く事はない……やはり、アンタ方を連れて来る事は、失敗だったかもしれないな」

 

「わ、私が悪いとでも言うのか!?」

 

 カミュの言葉にドアを叩く手を止め、その手を今度はカミュにぶつけるかのように振り向くリーシャは、何故こうなったのかを理解できない。

 しかし、視線の先にいる『勇者』には、朧気ながらも理解出来ているようだった。

 

「……おそらく、アンタ個人ではないとは思うが、アンタの名乗りが悪かったのは間違いないだろうな。何故かは解らないが、あの老人はアリアハンを嫌っている。いや、嫌っているのではなく、あの目は『憎しみ』を宿していた」

 

 家のドアから離れ、武器屋の方に足を向けながら、後ろに続く二人に、カミュは考えている事を語り始めた。

 カミュは、幼い頃から、大人に交じり魔物討伐をして来た事実がある。

 その中で、大人達が表す、ありとあらゆる感情を目の当たりにして来たのだ。

 それは、魔物に殺された親族に対する哀しみや憐み、その魔物に対しての憎悪。

 そして、魔物に対してだけではなく、同じ人間に対する、羨望や侮蔑。

 故に、人間の感情が籠る瞳は、カミュにとって、相手がどんな感情を持つのかを確認する事の出来る手段の一つであった。

 

「何故だ!?」

 

「……何故だかは解らないと言っているだろう……アリアハン国自体への恨みか、宮廷騎士に対しての恨みなのかすらも解らない。つまり、今は何も出来ないという事だ」

 

 カミュの言葉を頭では納得しながらも、心では納得が出来ないリーシャは、カミュの後ろで『うんうん』唸ってはいるが、サラはそんなリーシャを一先ず放置し、先程のやり取りについて話をしようとカミュの隣に付いた。

 

「カミュ様。あの方がアリアハンに対して特別な感情を持っている事は解りましたが、これからどうするおつもりですか?……アリアハン大陸から出ない事にはどうしようもありませんし……」

 

「……さあな……まぁ、大陸から出る方法を知っているのは、あの老人だけではないだろう。他を当たるさ」

 

 サラの問いかけが、特段重要な物でもないとでもいう様に答えを返し、カミュは武器屋の門を潜って行った。

 サラは、未だブツブツ言っているリーシャを促し、そんなカミュの後に続き武器屋に入る事にした。

 

 

 

「おう、早かったな。調整はもう少しで出来るから、その辺でちょっと待っていてくれ。それはそうと、うまく話は聞けたかい?」

 

 武器屋に入ってくるカミュの顔を見ると、手元で<革の鎧>をいじっていた手を止め、主人が話しかけてきた。

 主人の問いかけに三者三様の表情を返した事で、主人は彼らの成否を知る事となる。

 

「いや、何故かアリアハンに相当な思いがあるらしく、話すら出来なかった」

 

「ん?……ああ……アンタ達の中にアリアハンの国営に関わっている人間がいたのか?……それはしくじったな……前もって話しておけば良かったか……」

 

 カミュの返事を聞き、明らかに失敗したとでもいうように顔を顰め、手を額に乗せる主人にはその理由がわかっている様子であった。

 その主人の顔を見たカミュが、表情を変える。主人の顔を真っ直ぐ見つめたカミュは、こちら側の情報の一部を晒す事にしたのだ。

 

「国営に関われる程に頭の良い者ではないが、宮廷騎士だ。それよ……」

 

「なんだと!!」

 

 それまでサラの横で何か考え込んでいたリーシャは、カミュの発言の中に自分を侮辱する単語があった事に気が付き反応したが、それでは話が前に進まないと、サラが宥める役を買って出た。

 

「……失礼した。それで、オヤジはあの老人が宿すアリアハン嫌いの理由を知っているのか?」

 

 サラがリーシャを宥めている様子を横目で見たカミュは、話を続けるため、再度主人と視線を合わせる。

 カミュの視線を受けた主人は、少し眉を顰めた後、言い難そうに口を開いた。

 

「……ああ……まぁ、原因に関しては、実際の所は分からんが、俺の親父が言っていた話だと、あの爺さんの兄貴が関わっているらしい。詳しい内容は知らん」

 

「……お兄さん……ですか?」

 

「……」

 

 主人の言葉に、カミュの後ろにいるサラや、先程まで怒り心頭だったリーシャも聞く態勢に変わって行く。

 そんな二人を見て、一拍置いて再び主人が口を開いた。

 <革の鎧>を調整して行く音が一旦止んだ武器屋の中に、主人の声だけが響き始める。

 

「なんでも、あの爺さんとその兄貴は、この<レーベ>で暮らしていたらしいんだが……ある時期を境に、兄貴の方は<レーベ>では暮らせなくなったらしい。その辺にアリアハンとの関係があるんじゃないか?」

 

「その兄貴の方は、もう死んだのか?」

 

 武器屋の主人が実際会ったことがないという事は、主人の見た目の年齢からいっても四十年近く前の話になる。

 だとすれば、カミュが問いかけた内容のように、既に故人である可能性が高い。

 

「……そうだな……今はどうか分からないが、うちの親父の話だと、なんでも<レーベ>を出た後『ナジミの塔』に住んでいたって話だったがな。まあ、うちの親父も死んじまったから、その兄貴も生きてまだそこにいるという保証はないぞ」

 

「いや、それだけ解れば十分だ。ありがとう。これは少ないが、<革の鎧>の調整を急いでくれた分という事で受け取ってくれ」

 

 自信なさげに話す主人に対し、カミュは礼を言って、そのカウンターに10ゴールドを置いた。

 決して安い金額ではない。この<レーベ>では、カミュ達三人の食事付き宿代よりも多い金額なのだ。

 

「あ……いや、何か悪いな。ありがとうよ。一応、調整は出来上がったよ。お嬢ちゃん、向こうで着てみてくれ。実際着てみて、更に調整するところはするから」

 

 実際主人は、カミュに声をかけるために一度止めた手を、その後話しながらも再び動かしていた。

 サラは主人から<革の鎧>を受け取ると、奥にある試着室のような場所に移動し、法衣の中に着込む。

 着込み終わったサラは、そのままの姿で、もう一度主人の前へと出て来た。

 

「うん。お嬢ちゃん、どっか苦しいところとかあるかい?……見た感じはちょうどいいと思うが、実際魔物と出くわせば、動かなきゃいけないから、動き辛そうなところは言ってくれよ?」

 

 出て来たサラの姿を一通り見た後に、主人はサラの具合を聞いて来る。

 サラは主人に言われた通りに、何度か身体を動かし、動きづらい箇所も息苦しい箇所もない事を実感し、それを主人に告げた。

 

「そうか、じゃあそれで良いな。そういや、お嬢ちゃんの武器は<聖なるナイフ>なんだろ? あれは滅多な事じゃ刃毀れなんてしないが、血糊なんかはやはり付いてしまうからな。さっき貰った金額の事もある。アンタ方の剣の手入れが必要な時は寄ってくれ。三人とも一回だけ無料で手入れしてやるよ」

 

「……ああ……ありがとう」

 

 何とも豪勢そうに言う武器屋の主人であるが、全員一回ずつという制限をつけている辺り、やはり商売人なのであろう。

 そんな武器屋の主人に礼を言い、三人は武器屋を後にした。

 

 

 

「カミュ様、ひとまず『ナジミの塔』へ向かうのですか?」

 

「……ああ……ただ、正直『ナジミの塔』への行き方も解らない。その情報もどこかで得られると良いのだが」

 

「『ナジミの塔』であれば、地下道を通っていけば行けるぞ」

 

 サラの行先に関する質問を聞き、更なる課題が出てきたと悩むカミュの後ろにいた意外な人物から、その課題に対する答えは返って来た。その声に反射的に振り向く二人の顔は、異なった表情を浮かべてはいるが、その内心は同様の物である事が窺える。

 

「…………」

 

「~~~!! なんだ、お前達のその反応は! これでも、私は宮廷騎士だぞ。アリアハン国が管理している塔の行き方ぐらい知っている!」

 

 答えの出所に対し、言葉を失い疑惑の目を向けるカミュと、ただ単純に驚きを表すサラに、リーシャは癇癪を起した。

 二人の表情が、『リーシャに限って、知っている訳がない』という内心を明確に物語っている。

 そんな二人の内心が、手に取るように理解出来たリーシャは、切れ長の瞳を細め、二人を睨みつけた。

 

「……すまない……」

「……申し訳ありません……」

 

 癇癪を起すリーシャを見て、今のやり取りは完全に自分達に非がある事を認め、二人は素直に頭を下げる。その様子に、怒りを納めてリーシャは話を繋げた。

 

「勿論、アリアハン城内から続く地下道への入口には鍵がかかっており、見張りもいる事から無理だが、確か<レーベの村>の近くの森の中に、もう一つ入口があった筈だ」

 

「……確定した情報ではないのか?」

 

 続けたリーシャの言葉を聞き、明らかな落胆を態度で表すカミュに、隣のサラは胸をハラハラさせていた。

 貴重な情報ではあったが、胸を張って答えるリーシャも噂程度にしか聞いた事のない場所。

 それが本当にあるのかどうかも怪しい。

 カミュは、その不確定な情報に溜息を洩らしたのだ。

 

「まぁ、今の所はそれしかないのだから、行ってみるしかないだろ!?」

 

「……そうだな……」

 

「そうですね!」

 

 カミュの発言に若干気を悪くしたリーシャであるが、今の自分たちの状況を再確認させる事にし、行動を促す。

 それに対し、仕方ないといった様子のカミュと、一段落と胸を撫で下ろすサラといった対照的な二人の反応ではあるが、今後の方針が決定された。

 

「あっ、すぐに出ますか? もし少し時間があれば、教会に寄る時間を頂きたいのですが?」

 

 方針が決定され、村の外へと歩き始めたパーティーであったが、歩き出してすぐに、その場の雰囲気にそぐわないサラの一言が割って入って来た。

 サラにしてみれば、方針も決まり行動するのなら、先に教会で祈りを奉げたいというささやかな願いであったのであろうが、その願いを聞く程の時間はなかった。

 

「いや、すぐに出る。入口の場所が確定していれば時間も読めるが、探すところから始めるのであれば、一時でも惜しい。悪いが、教会に寄りたいのであれば、もう少し早く起きて行ってくれ」

 

「……は、はい……」

 

 サラにとっても、カミュの言う事は理解出来る物であった。

 ましてや、寝坊した挙句、置いてかれたと勘違いし、とんでもない醜態を晒した身としては、そんなカミュに反抗する事など出来よう筈がなかった。

 

「サラ、大丈夫だ。ルビス様もサラの頑張りは認めてくださる。これからは、朝のお祈りが出来るように早起きすれば良い。今日は夜のお祈りをいつもの倍すれば良いさ」

 

「……はい……」

 

 幼子を諭すように語りかけてくるリーシャの言葉が、益々サラの羞恥心を煽っている事にリーシャは気が付かない。

 恥ずかしそうに顔を俯かせるサラを、後悔していると勘違いしたリーシャは、サラの手を取りながらカミュの後を追い、レーベの村の出口へと向かった。

 

 

 

 

 



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ナジミの塔①

 

 

 

 一行はレーベの村を出て、真っ直ぐ南に進む。

 既に陽は高く昇り、強い日差しがアリアハンの大地を照らしていた。

 気温が上昇して行く中、カミュを先頭に進む一行の前を、広大なアリアハンの大地が広がり、雲一つない青空がカミュ達を見守っている。

 

「森の中とは、どの辺りなのですか?」

 

 いつものように先頭を行くカミュとの距離を少し空け、サラは隣を歩くリーシャに問いかけた。

 周囲を警戒しながら歩いていたリーシャは、視線をサラへと向け、何かを思い出すように考える。

 

「ああ、レーベの村から真っ直ぐ南に向かった森の中に、小さな小屋があるらしい。その横に地下へと続く通路があるはずだ」

 

「その小屋は森のどこにあるのですか?」

 

 リーシャの話す内容は、サラの予想に反して具体的な物だった。

 『森の中にある小屋の近くにある地下への通路』とは、まるでその場所を見て来た事があるのではないかと思う程に明確な物。

 故に、サラはその森の場所もリーシャは知っていると思い、もう一度訪ねた。

 

「真っ直ぐ南にだ」

 

「…………」

 

 結局、『ナジミの塔』への通路の入口の場所を聞いた筈が、返って来たのは目印についてだけであり、しかも、その目印の場所は何とも曖昧な物でしかない事に、サラは言葉を失った。

 カミュは、この曖昧な情報だけでどうやって探すつもりなのだろうか。

 サラは今日の旅に一抹の不安を覚えながら、前を行くカミュの背中を見つめた。

 

「他に『ナジミの塔』への行き方はないのですか?」

 

「先程も言ったが、アリアハン城内にも通路はある……ん? そう言えば、もう一つ何処かにあったような気が……う~ん、思い出せないな……」

 

 期待をせずに聞いてみると、何やら重要な事を、リーシャが呟いている。

 耳を傾けるが、それはすぐに落胆に変わった。

 肩を落とすサラを不思議そうに見た後、リーシャは再び視線を前へと移動させる。

 

「まあ、気にしても仕方がない。今は地下通路への道を探そう」

 

 『それを探すのが難しいのでは?』

 そんな言葉を何とか飲み干し、サラは再び前を行くカミュに目を向ける。

 視線を受けた『勇者』は、こちらに視線を向け立ち止まっていた。

 何かあったのかと慌てて駆け寄るリーシャの後ろを、サラも小走りについて行く。

 

「見つけたか?」

 

「……いや、まだ森にも入っていない……アンタの言葉を信じるのなら、森の中にあるのではないのか?」

 

 カミュに近づいてすぐに声を掛けるリーシャに、溜息を吐きながら返すカミュの言葉は、サラの顔に笑顔を戻す物であった。

 先程も森の中の小屋の近くにあるという話をしたばかりだというのに、まだ日差しを強く受けるこの平原で見つかる訳がないのだ。

 自分が言った手掛かりにも拘わらず、そのような事を問いかけるリーシャに嘆息するカミュの姿は、サラの心の中に、一時の休息を与えてくれた。

 

「そ、そうだな……森の中に小屋があるはずだ。その近くに、地下へ続く通路がある」

 

「……小屋……?」

 

 今初めて聞いた新たな情報に、カミュの瞳が鋭く細められる。

 サラには話していたが、カミュに小屋の事を話すのは初めての事であったのだ。

 完全に足を止めたカミュは、リーシャの瞳を真っ直ぐ射抜き、その視線の強さに若干怯みながらも、彼女はもう一度口を開いた。

 

「ああ、本当に小さな小屋らしいんだが……」

 

「…………」

 

 カミュはリーシャの『小屋』という単語を聞くと、何かを思い出すように目を瞑り黙り込んでしまった。

 突然黙り込んでしまったカミュにリーシャは疑問を覚え、サラは不安を覚える。

 

「……その小屋らしき物なら、憶えがある」

 

「本当か!?」

「本当ですか!?」

 

 暫くの瞑想の後に、突然目と共に開いた口から発せられたカミュの言葉は、二人を驚かせるのに十分な物であり、更にそれは、先程まで感じていたサラの不安を払拭させる物であった。

 

「……以前、森の中での休憩時に使った宿営地の近くに、そんな小屋があった。まあ、あれは小屋というより、牢屋に近かったような……確か、古い鍵がかかっていて、中には入れなかったが……」

 

「おそらく……それだな……」

 

 カミュの言葉に対して、情報源であるリーシャはしきりに頷いていた。

 サラはそんなリーシャの様子に苦笑しながらも、行き先が確定し、その行き方についても先頭を歩くカミュが知っている事に安堵する。

 

 

 

 森に入った事で、平原を歩く時と違い、カミュと他の二人の距離は空く事なく、密着した状態での移動となる。

 このアリアハンでも、平原に出て来る魔物よりも、森の中で生活する魔物の方が手強いのだ。 

 故に、唯の旅団や商団は、街道から外れて森へ入る事は、余程の事がない限りあり得ない。

 ただ、それでも雨を嫌い、森の入口で野営をしていて魔物に襲われたという話が減らない事から、人々の意識はそれほど強くないのかもしれない。現に、今一行の前に姿を現した魔物も、ここアリアハンでは中堅クラスの魔物と言っても良い物だった。

 

<おおありくい>

この魔物もアリアハンに古くから住む魔物の一つであり、その体躯は<一角うさぎ>よりも一回り大きい。ありくい特有の長い舌を持ち、その舌で人間に襲いかかる。鋭い武器となる長い舌は、人間の体躯など容易く貫く程の強度も誇っていた。

 

 その<おおありくい>が三匹に、<一角うさぎ>が二羽。

 そんな魔物の群れが今、カミュ達の前に立ち塞がっている。

 腰の鞘から剣を抜き放ったリーシャは、そのまま<一角うさぎ>に突っ込み、瞬く間に一羽を切り倒す。一瞬の攻防に驚いた残りの一羽も、その刺突によって絶命を迎えた。

 二羽の<一角うさぎ>を葬ったリーシャが後方に視線を向けると、カミュも二匹目の<おおありくい>を、その剣で突き刺しているところであった。

 その様子を見たリーシャに多少の安堵から来る油断があったのかもしれない。

 残った一匹の<おおありくい>は、攻撃を加えていたカミュでも反対側にいるリーシャでもなく、二人の動きを呆気にとられて眺めていた人物に向かって行った。

 <おおありくい>の動きに我に返ったサラは、慌てて<聖なるナイフ>を構えるが、<おおありくい>の動作はそれよりも早かった。

 その口の中に納められていた長い舌を、サラ目掛けて飛ばし、ナイフを持つサラの右手に絡めて来る。

 突然自分の手に巻きついてきた舌に驚き、その臭いまで漂ってきそうな感触を受けて、サラは硬直してしまった。元々の魔物嫌い故に、汚されたという想いまで抱いてしまう。

 

「サラ!!」

 

 追い詰められた魔物の本能を知っているリーシャは、自分の迂闊さを悔やんだ。

 大抵の魔物は、人間を殺す事も、自分が逃げる事も敵わないと知ると、その人間の集団内で瀕死の者や弱っている者、もしくは元々力の弱い者を狙い、そこから突破しようとする。

 リーシャの叫びもサラの硬直を解く事は出来ず、その魔物特有の強い力に引かれたサラの右手首から上の色が変わり始める。遂には<聖なるナイフ>を握っている事も難しく、その手からナイフが零れ落ちた。

 魔物へ対抗する武器をも失い、死すらも覚悟したサラの目にこちらに飛びかかって来る魔物とは別の何かが移り込む。

 

それは、拳大の火球であった。

 

 

 

 カミュが二匹目の<おおありくい>を刺し殺し、三匹目に剣を走らせようとすると、既にそこに最後の一匹はいなかった。

 リーシャによる、<一角うさぎ>の瞬殺と、自分達に飛び込んで来るカミュを見て、力量の違いと命の危険を感じた一匹の<おおありくい>は、この場からの離脱のみを考えたのだ。

 離脱をするのなら、三方向に分かれた人間達の間を縫うか、誰かを殺して、その方角を無人にするしかない。

 狙いをつけたのは、一人何も行動を起こさず佇んでいる子供だった。

 魔物の意図に気がついたのか、僧侶姿の少女はその手にナイフを構えるが、魔物の動きの方が早い。

 

 カミュは心底うんざりしていた。

 自分の力量を図る事も出来ずに、『魔王討伐』に出ようとすること自体が『死』を意味する。

 しかも、そんな人間と共に行動した場合、その人間が一人で死ぬのなら問題はないが、魔物が強くなって行くに連れ、その他の同行者にも危害が加わる事になる可能性が強い。

 女戦士の方の剣の腕は、『アリアハン随一』と云われるだけの力量はあった。

 しかも、鍛練も怠らず、その腕はこれから先も伸びて行くのは間違いない。

 この先の旅で、アリアハン大陸から出れば、今まで見た事もない魔物が現れ、いずれカミュ一人での限界にぶつかることだろう。

 

『その時は、そこで朽ち果て、魔物の食料となる』

『それならば、それで良い』 

 

 カミュはそう思っていた。

 リーシャに関して言えば、カミュのその限界を幾分か延ばしてくれるのかもしれないが、この教会に属する少女に関しては逆だ。

 カミュのみに降りかかる危害を前倒しにし、この旅の終了を早める存在になるだろう。

 

「サラ!!」

 

 リーシャの叫びと共に、サラの手からナイフが滑り落ち、その瞬間を狙った<おおありくい>がサラ目掛けて飛びかかった。

 その瞬間、カミュの身体は無意識に動き出す。

 考えた訳ではない。

 葛藤を振り払った訳ではない。

 それでも、彼は動いた。

 

「メラ」

 

 一瞬、『見捨てるか?』という想いが胸をかすめるが、自然とカミュの左手は前に出され、詠唱が行われる。

 カミュの左人差し指から出現した火球は、飛び出した<おおありくい>に寸分の狂いもなく命中した。

 

 

 

 サラは、<おおありくい>の爪が自分の左手を掠めた途端、目の前の魔物が炎に包まれて行くのを呆然と見つめていた。

 魔物の舌が絡みついていた右手は、魔物の飛び出しと同時に外されている。咄嗟に庇うように挙げた左手からは血が滴り落ちていた。

 

「サラ!! 大丈夫か!?」

 

 血相を変えながら、自分に駆け寄ってくるリーシャを見て、ようやくサラは自分の状況を確認する。

 我に返ったサラは、自分の右手首に残る鬱血した痕と、そこに残る不快な感触に眉を顰め、血が出ている左手をその部分に添えた。

 

「……は、はい……」

 

「そ、そうか……左手を見せてみろ! おい、カミュ。薬草をくれ!」

 

 力なく返事を返すサラを気遣い、リーシャはそれ以上質問せず、サラの怪我の処置に入ろうとする。

 しかし、自分の左腕を掴むリーシャの手を解き、サラはもう一度、傷がある左手を右手首に添え直した。

 

「あっ、この程度、大丈夫です」

 

「何を言っているんだ! どんなに小さな傷だろうと、魔物につけられた傷を甘く見てはいけない。<おおありくい>の爪に毒はないだろうが、水で洗った後に薬草をつけておいた方が良い」

 

 リーシャの言っている事は尤もな話だった。サラはこのような些細な事でもリーシャに心配をさせている事に心苦しさを覚える。

 『自分は本当に役立たずだ』 

 『役に立たないどころか、足を引っ張っている』

 そういう想いが浮かんでは消えて行く。それを振り払うように、嫌な感触の残る右腕を左手の傷口に添え、サラは自身の中にある能力を解放した。

 

「ホイミ」

 

 詠唱と共に、サラの左手の患部は癒しの光に包まれた。

 <おおありくい>の爪によって出来た裂傷が、淡い緑色の光に包まれながら徐々に塞がって行く。

 

<ホイミ>

教会が所有する『経典』の最初のページに記載されている初歩の回復呪文。魔法力を有した『人』の進むべき道を示唆する程に重要な呪文の一つである。最初にこの魔法との契約を済ませた者は、以後は『経典』に記載されている魔法以外の契約は不可能となり、同じように魔法力を所有する『魔法使い』という職業とは一線を画す存在となる。

 

「……ほぅ……」

 

 サラと出会って三日目にして初めて見た魔法。教会に属する僧侶として十年以上教えを受けて来たのだ。サラが回復呪文である『ホイミ』を行使できる事は予想出来ていたが、実際に行使している場面を見て、リーシャは改めて感心した。

 そんなリーシャの眼差しを受け、自分の不甲斐なさも合わせ、更に恥ずかしくなるサラであったが、傷に当てていた右手を離し、傷口に視線を落とす。先程まで、<おおありくい>の爪痕から血が滲みでていたサラの左腕の傷は、その傷跡も残らない程に綺麗に消えていた。

 

「流石はアリアハン教会の僧侶と言うべきか」

 

 サラの左腕の傷が消えたことを確認したリーシャは、その腕を手に取りサラに褒め言葉をかけるが、サラは困ったような苦笑を浮かべ俯いた。

 そして、思い出したように顔を上げたサラは、先程自分の危機を救ってくれた青年を目で探し、その姿を捉えると、以前と同じように、被っていた帽子が落ちてしまう程の勢いで頭を下げた。

 

「カミュ様、先程はありがとうございました」

 

「……」

 

 カミュからの返答はない。『役立たず!』と罵られるのではないかと思い、恐る恐る顔を上げるサラではあったが、そこで見た光景は罵られた方がまだ良かったと思えるほど冷たい物だった。

 カミュは何も言わず、まるで何か言うほどの価値もない者を見るような目で自分を見下ろしていたのだ。 

 サラは心底震えた。

 『この勇者にとって、自分の存在は何の価値も無い物なのかもしれない』と思う程に、カミュの瞳の中にサラは映ってはいなかったのだ。

 

「……俺が仕留め損なった魔物を殺しただけだ……礼を言われる筋合いはない」

 

「そ、そうだぞ、カミュ。仕留めるなら最後まで気を抜くな!」

 

「リ、リーシャさん!」

 

 カミュにとっては、三匹いる<おおありくい>を全て仕留めきれなかった事を納得はしていないのだろう。リーシャに剣の闘いで勝てない事は勿論、魔物に対しても、この先強い魔物に相対すれば苦戦する事は、現状では明白である。

 先程、サラを見捨てる事をせずに自然と身体が動いたのは、そういう事があるからだと結論付け、カミュはサラの感謝を否定した。

 

 リーシャは、カミュがサラを救った事に驚いていた。

 今まで、どんな状況であっても、自分に向かって来る敵以外には全く関心を示さなかった男が、仕留め損ねた為とはいえ、サラの窮地を救うとは思わなかったのだ。

 確かに、今日の朝、カミュとは自分達を仲間として扱う事を約束させたが、昨日まで、いや正確には今日の朝までは、自分達を仲間と思うどころか邪魔な存在として見ていた節のあるカミュの心が、ここまで変化するなど、リーシャにとって予想外にも程があったのだ。

 故の困惑した発言なのである。

 

 サラは、先程自分がカミュの眼差しに感じた印象とは正反対の言葉に、呆気にとられた。

 実際、救う価値もないと思っているのかもしれないが、もしかすると自分が取り逃がした責任を感じているのかもしれない。

 やはり、この『勇者』は自分が憧れていた通りの人物なのかもしれない。

 若干、自分の都合の良いように考えて行こうとする、サラの強引な楽観主義が発揮されていた。

 

「……余計な時間を使わされた……このままでは、地下道への入口を見つける頃には陽が沈むな……」

 

 それぞれの思いで各々を見ていた一行であったが、カミュが森の木々の隙間から見える太陽の傾き加減を見て、今後の予定が狂い始めていると洩らした事によって現実に戻された。

 カミュの言う通り、太陽の場所が西の方角へと傾きかけている。時機に太陽の傾き加減と比例し、闇の支配が始まる事だろう。

 

「……そうだな……まあ、地下道を進むのだから昼でも夜でもあまり変わりはないがな」

 

「……アンタは地下道や塔のような、<聖水>の効力がない場所で眠るつもりなのか?……ああ……眠るつもりはないのだな。ならば、アンタに見張りを任せて、ゆっくり眠らせて貰おう」

 

「ぐっ」

 

 少し緊迫していた空気を、リーシャなりに和ませようと楽観的な軽口を叩いたつもりであったが、カミュの容赦のない現実的な言葉で言葉を詰まらせた。実際、教会の販売する<聖水>は、カミュの言葉通り、洞窟や塔ではその効力を発揮する事はない。既に出来上がっている空間には、それぞれの縄張りが出来上がっている。その部分に強制的に新たな結界を敷く事は難しいのだ。

 

「……まぁ、アンタに任せた挙句、途中で眠られたお陰で、全員が魔物の腹の中という可能性がある以上、それも無理な話か……」

 

「カミュ様……」

 

「~~~~~~!!」

 

 更に続けられたカミュの厭味に、サラはリーシャを気遣うように声をかけるが、リーシャは事実なだけに反論できず、悔しそうに唇を噛むだけであった。皆を勇気づけようと口にした言葉の上げ足を取られ、俯くリーシャの肩が震えている。

 

「じ、時間も勿体ないですので、先に進みましょう」

 

「……そうだな」

 

 サラの自分の事を棚に上げたセリフに、若干疲れた様子のリーシャは頷くしかなかった。

 カミュ、サラ、リーシャという順序で三人は警戒しながらも森の奥へと進んで行く。

 森の中は静けさが広がり、徐々に近づく夜の闇を待っているかのようだった。

 

 

 

 カミュの記憶は正確であった。まるで、昨日ここに来たかのように迷う事なく道を選択し、進んで行く。

 カミュが討伐隊に同道していたという話は、リーシャも聞いた事がない。理由は解らないが、カミュはリーシャが討伐隊に組み込まれた頃には、既に参加をしていなかったのかもしれない。であるならば、カミュが討伐隊の宿営に参加していたのは四年以上前になる。そんな昔の事を明確に憶えており、更にはその道すらも記憶にあることにリーシャは驚いていた。

 途中で、<一角うさぎ>や<大ガラス>、<おおありくい>と、魔物に遭遇しては戦闘を行っていた為、陽も落ち切り、少し開けた場所に出た頃には、森の中は暗闇による支配が始まっていた。

 

「……ここが俺の記憶にある場所だ……小屋とはあれの事ではないのか?」

 

 開けた場所には森に入る前にカミュが語った、小屋というよりも牢屋に近いような建物が建っていた。岩を加工した物で造られたその建物は、入口を鉄格子で塞ぎ、頑丈に鍵が掛けられている。

 とても小さな建物ではあるが、その中は窺い知れず、何か言いようのない不穏な空気が立ち込めていた。

 

「……森の中に、このような場所があるのですか……」

 

 サラはその光景に驚いていた。二日前に野営をした森の中で、カミュとリーシャが対峙していた場所も幻想的であったが、あそこの上空は木々の枝や葉に覆われていて、その隙間から月光や日光が差し込む程度であった。

 だが、この場所は空を隠す枝や葉は一切なく、見上げれば一面の空が広がっている。

 

「……まずは、地下道の入口を探す……ここは、魔物の気配がないな……」

 

 カミュは、口を開いたまま空を見上げるサラを放って、小屋の方へ歩いて行く。リーシャはサラの様子に苦笑しながらも、そんな背中を叩くと、カミュの後に続いた。

 カミュの言う通り、サラが見惚れていたこの幻想的な場所には、何故か魔物の気配が一切ない。まるで、何かに護られているかのようなこの場所を野営地と決め、一行は野営の準備の前に、<ナジミの塔>へと続く地下道の入口を探す事にした。

 暫くの間、三人で手分けするように入口を探していたが、陽が完全に落ち、足元を照らす月明かりさえも雲によって一旦隠れてしまった為、『一旦休憩して、火を熾そう』というリーシャの提案を受け入れる事となった。

 リーシャとカミュが火熾しを行っている間、手持無沙汰になってしまったサラは、熾した火の為の薪や木の枝を拾っていた。暗い足元を、足を動かしながら探っては拾うという行為を繰り返していると、足に当たって飛んで行った小石が金属音を立てて転がった事にサラは微妙な違和感を覚える。

 サラは拾った枝を抱えながら、小石が飛んで行った方向へ歩き、その場を確認する為に屈み込んだ。落ち葉と、石や木の枝が散乱している地面は、暗さで分かり難いが、通常の地面とは違う光沢を持っている。

 

「リ、リーシャさん! カミュ様!」

 

 突然の叫び声に、リーシャはサラの身を案じ、カミュは「またか」というような雰囲気で振り返った。魔物にサラが襲われたのかと思ったリーシャは、サラの周りに魔物がいないことに安堵したが、屈み込んでいる事に再び不安を感じ、サラの近くまで歩み寄る。

 

「どうした、サラ! 何かあったのか!? 毒虫にでも刺されたのか!?」

 

 自分に近づき、開口一番に心配をしてくれるリーシャに嬉しさを感じながらも、サラは自分の足元にある土で出来た地面ではない物を指差す。雲が移動し、再び照らされた月明かりがサラの指差す大地を映し出した。

 

「これ、金属の蓋ではないでしょうか? もし、地下通路の入口を塞ぐ蓋だとしたら」

 

「なに!!」

 

 リーシャはサラの指差す地面へと慌てて視線を落とした。確かにサラの言うように、下の地面は土で出来た物ではない。サラとリーシャが、足元の落ち葉などを手で掻き出すと、ほぼ正方形の金属による蓋が姿を現した。

 リーシャは、サラに『お手柄だ』という言葉と共に微笑みを向け、サラはそんなリーシャの微笑みに恥ずかしそうに微笑を返す。そんな二人に火を熾し終えたカミュが近付き、二人が露わにした金属の蓋を見下ろしていた。

 少し重量のある蓋を、『一人で大丈夫だ』と言い張るリーシャをサラが宥め、カミュとリーシャでずらして行く。ずらされた蓋の隙間から、地下へと続いている証拠となる風が吹き出して来た。完全に陽も落ちた事もあり、穴の奥は何も見えないが、入口の渕に掛けられている梯子が、奥まで続いている事を推測させる。

 

「よし! これで明日は朝早くから地下道へ入る事ができるな。サラお手柄だ!」

 

 確認が終わると、今度はリーシャ一人で蓋を戻し、サラに褒め言葉をかける。

 いつもは無表情なカミュも『そうだな』という同意の言葉を残し、火の下に戻って行った。火の下へと戻った三人は、<レーベの村>で補充した干し肉などを口に入れ、リーシャとカミュとで一応の見張りを交代で行うことを決めて就寝した。

 

 

 

 翌朝、サラは耳元で響く金属のぶつかる音で目が覚めた。

 目元を擦り、徐々に覚醒していく瞳でサラが見た物は、以前見たようなカミュとリーシャの剣の打ち合いであった。

 流れるような動きではあるが、素人のサラにはお互いがお互いを殺す意図で打ち合っているのではないかと思う程の緊迫感があった。リーシャの振るう剣の一撃は、まともに身体に受ければ、致命傷どころか即死の可能性がある程の剣であり、対するカミュの剣もまた同じであった。『また喧嘩か?』とも思ったが、真剣でありながら、お互いの身体に傷はない事からも『鍛練なのだろう』と納得する。

 だが、それと同時に、昨日自分を襲った焦燥感が再び湧き出てきた。

 『自分は、このままでは置いて行かれる』

 それは、二人の鍛練を見ている時間が経過すれば経過する程に強くなり、サラの心にある決意をさせる事に至った。

 

 

 

「……ここまでだな。まあ、お前に負けるつもりは、私もないからな」

 

 カミュの剣を弾き、腹部に剣をリーシャが突きつけたところで今日の勝負は決着がついた。魔法を使っていないとはいえ、二日続けてリーシャに敗れた事を、カミュは表情に出さないまでも悔しく思っていた。

 彼もまた、自分の力量を低く見ている。

 正直、一国の騎士の中でも随一と謳われた程の実力者と渡り合っているのだから、それはそれで認められる事実ではあるが、カミュはそれに納得している様子はないのだ。

 

「……」

 

 いつも無表情を貫いているカミュの表情が憮然とした物に変わり、無言で剣を鞘に押し込める。カミュはリーシャに剣で敗れると、いつも同じような表情になるのだ。

 そんなカミュの子供らしい仕草に少し頬を緩めながら、リーシャも剣を腰に戻して火の下に戻って行った。

 

「おっ、サラ、今日は珍しく早起きだな」

 

 火の近くに戻ると、先程まで夢の中であったサラが起きていたことに、リーシャは驚きを正直に出したが、その言葉はサラにとっては心に突き刺さる物であった。

 何かの決意に燃えていた瞳は、自信なさ気に揺らぎ、顔自体を伏せてしまう。

 

「……いつも、いつも、申し訳ありません……」

 

 リーシャは、自分の軽口に意気消沈といった態度を取るサラに慌てるが、カミュはそのやり取りを無視するように、火に木の枝を入れて行く。カミュの無関心さを非難するように、一瞬鋭い視線を向けたリーシャであったが、一向に上がらないサラの顔を見て、サラへと近付いて行った。

 

「い、いや、そう言う訳ではないんだぞ、サラ。ただ、まだ太陽も姿を現したばかりだったからな」

 

「……はい……」

 

 リーシャの弁解を聞いても、更に下を向いてしまうサラではあったが、何か意を決したように顔を上げ、リーシャを睨むように見つめた。

 そんなサラの瞳に怯みながらも、何かサラが真剣に話そうとしている事を感じたリーシャは、先程までの表情を一変させ、真面目な顔でサラと向き合う事とする。

 

「リ、リーシャさん!」

 

「どうした、サラ?」

 

 自分の気持ちが伝わっている事を理解したサラは、逆にそれを言い出し難くなってしまい、真剣にこちらを見ているリーシャから視線を外して、口籠ってしまう。

 そんなサラの様子に苦笑を浮かべ、リーシャはサラの前にゆっくりと座り込んだ。

 

「サラ、何か言いたい事があるのだろう?……焦らなくても良い。私は、今のサラのように、何かを決心したような真剣な想いを笑ったりはしない」

 

「は、はい! あ、あの、わ、わたしにも……剣を教えてください!」

 

 リーシャの柔らかな笑顔を見て、サラは先程胸に抱いた『決意』を吐き出した。

 それは、サラがこのパーティーに残る為の自衛手段。回復呪文という『僧侶』の強みまでも、世界を救う筈の『勇者』が脅かそうとする中、サラにはこの選択以外に自分の存在価値を護る方法がなかったのだ。

 

「……わかった」

 

 サラは、『笑われる』と考えていた。

 自分の願いを爆笑される事はないにしても、少なくとも『カミュには、鼻で笑われるのでは?』という思いがあった事は否定できない。だが、リーシャは勿論、その後ろで聞いていた筈のカミュにすら、そんなサラの考えは、良い意味で裏切られる形となった。

 それどころか、呆気に取られたりする事もなく、少し考えただけで、その願いを受け入れてくれたのだ。呆気に取られたのはサラだけであった。

 

「なんだ、サラ。自分が言い出した事に何を呆けている? 今日はもう準備をして出なければいけないから、明日からだな」

 

「あっ、は、はい!」

 

 リーシャは先程とは違い、少し緩めた表情で、サラに稽古開始日を告げる。

 サラは、この後自分に降りかかる苦難を知らずに、そんなリーシャの優しさに感謝していた。

 もしかすると、実際に剣を交えていたカミュは、サラに少なからず同情していたのかもしれない。

 

 その後、支度をし終えた三人は、昨日見つけた地下道への入口に入る為、金属の蓋を再び動かした。

 その中は、昨夜程ではないが、闇に包まれ奥まで見る事は叶わない。奥へと続く梯子の姿が、昨晩より少し見えるようになった程度であった。

 

「私が先に行こう。次にサラ、最後にカミュが続いてくれ」

 

 未知の閉鎖空間に入るには、慎重さが重要である。

 その点でカミュは反論をしようとするが、この地下道はアリアハン国が管理している物であり、宮廷騎士として、誰かを先に入れるという事は、リーシャの気持ち的にも穏やかではないのかもしれないと考え、面倒事を起こす事を躊躇い、リーシャの提案に首を縦に振って肯定した。

 レーベの村で購入しておいた<たいまつ>に火を灯した物を片手に、リーシャは中に入って行く。徐々に小さくなって行く<たいまつ>の炎を見ながら、サラはその深さを知り、同時にリーシャの身を案じた。

 

「ふむ。とりあえずは、大丈夫そうだな。お~い、大丈夫だ。降りてきても良いぞ!」

 

 暫く炎の行方を見守っていたが、炎が小さくなる事がなくなると、下からリーシャの声が聞こえてきた。

 その内容を聞くと、人が呼吸に困難する事などもないようだ。

 

「おい、アンタの番だ。下を見ないようにゆっくり下りて行け。ゆっくりで良い。決して焦るな」

 

 リーシャの声を聞いたカミュは、サラに降りるよう促すが、その口調は今までのような冷たさはなく、サラを気遣っているような物である事に、サラは驚きながらも頷いた。

 カミュに言われたように足元は確認しながらも、下を覗き込む事はせず、そしてゆっくりと降りて行く。その梯子は、金属で出来ていたが、長年放置されていた為か、苔のような物が全体を覆い尽くし、金属の部分は錆で赤茶けており、掴んだ手にもその色は付着していた。

 苔による滑りに気を付けながらも本当にゆっくりと降りているサラに、下にいるリーシャも、上で待つカミュも一言も文句を言わず、黙って待っている。

 そして、サラの足が、硬い石で出来た地下通路の床に付いた。

 『ほぅ』と安堵の溜息を漏らし、サラはにこにこと優しい微笑みを漏らしているリーシャと笑い合う。最後のカミュが金属の蓋を閉めながら降りてきたため、地下道内は<たいまつ>の灯りだけとなり、薄暗い物となって行く。

 カミュがその手に<たいまつ>を持ち、難なく降りて来るのを二人は唯じっと見守った。

 

 地下道に全員が降り立ち、リーシャとカミュの持つ<たいまつ>で周りを照らし出す。

 洞窟という場所を想像していたサラは、この地下道に人の手がかなり加えられている事に驚いた。

 床は石畳が敷かれ、壁の所々に、明かりを灯す台が設置されている。カミュとリーシャは近くの燈台に<たいまつ>の火を移して行った。

 灯された明りによって、地下道の一部が明るくなり、三人はいつものようにカミュ、サラ、リーシャという縦の列を作りながら慎重に歩を進めて行く。 

 

「息苦しくはないな?……サラ、足元に気をつけろよ。カミュ、もう少しゆっくり進め!」

 

 前を歩くサラを気遣いながら、リーシャはカミュへと隊列を維持するように声をかける。カミュはリーシャの声を聞き、少し歩を緩めた。

 余り時間を掛けたくないのは当然だが、周辺の燈台に火を灯しながら前を進むカミュと、後方の二人の距離が離れる事はできるだけ避けたい。

 

 しばらく一本道を進むと、別れ道が現れた。

 真っ直ぐ進む道と、左へ曲がる道だ。

 

「ここは、真っ直ぐだろ」

 

「……リーシャさんらしいですね……」

 

 『何事も真っ直ぐに』という言葉が妙にイメージと合うリーシャに、サラは素直な感想を述べて微笑む。カミュの了承があり、一行は真っ直ぐ進む事となったが、すぐに少し開けた広間、つまり行き止まりへと行き着いた。

 

「……」

 

 カミュ、サラの二人がある人物へと視線を送る。その人物であるリーシャも無言で俯くといった何とも言えない空気が地下道内に流れた。

 一息溜息をついたカミュは、持っていた<たいまつ>を掲げ、周囲を照らし出す。左側を照らしたが、岩の壁が広がっていた。

 そして、右側を照らした瞬間、ある一点に緑色の物体が折り重なるように固まっているのが映り、三人は身構える。その物体は、急な明かりを突き付けられた事に驚き、凄まじい速さで散開して行った。

 

「……あれは……」

 

「……バブルスライムか……ちっ、数が多い……」

 

 サラは初めて見た生物に驚きを表すが、カミュが呟くように返答した。

 カミュの言う通り、魔物の数は四匹。

 カミュ達を取り囲むように四方を囲んだ緑色の魔物は、独特の質感の体躯を揺らしながら、虎視眈眈とカミュ達を見つめていた。

 

<バブルスライム>

通常のスライムよりも潰れたように見えるその体躯は、スライムが青色をしているのに対し、淡い緑色をしている。最古のスライムの変種と云われているが、その出生は未だに解明されてはいない。瘴気の多い場所を住処にしていたスライムとも云われ、その体躯には毒素を宿している。毒を受けて動けなくなった対象に張り付き、その対象を消化して行くという残酷な方法を取る魔物である。

 

「サラ、気をつけろ。<バブルスライム>は毒を持っている。それほど強い毒ではないが、傷口から入る」

 

 リーシャの忠告に、サラは神妙に頷くが、気をつけ方が良く解っていない。

 リーシャの忠告と同時に、カミュは背から剣を抜き、<たいまつ>をサラへ手渡すと、<バブルスライム>に向かって飛び出した。

 カミュの飛び出しを確認したリーシャも、サラを庇うように立ちながら腰の剣を抜き放つ。<バブルスライム>はその身に毒を有してはいるが、基本的な性能は<スライム>と大差ない。その攻撃に気を付けていれば、例え傷を受けたとしても、毒に侵される危険性は五分といったところだ。

 突然の出来事に動揺していた<バブルスライム>は、カミュとリーシャに苦もなく斬り捨てられて行く。<たいまつ>を持たないカミュは、動転して動き出そうとする一匹目を真っ二つに切り捨て、それを見て動けない二匹目を上から突き刺した。命の灯を失った魔物達は、その形状を保つ事が出来ずに地面に溶けて行く。

 リーシャも一匹の<バブルスライム>を切り捨てるが、後方から飛んで来た<バブルスライム>が、避けるために態勢を変えたリーシャの左腕を掠めた。

 

「くっ!」

 

 リーシャは苦悶の表情を表すが、<バブルスライム>が地面に着地する前に、その体躯を切り捨てる。空中で二つに分かれた<バブルスライム>は左右に散らばり、液体へと変わって行った。

 

「リ、リーシャさん、大丈夫ですか!?」

 

「……ああ……だいじょ……」

 

 リーシャが魔物の攻撃を受けたことを見ていたサラは、慌ててリーシャへと駆け寄る。

 そんなサラに返答しようとしたリーシャだが、途中で眩暈を覚え、言葉に詰まった。そのまま壁にもたれるように座り込んだリーシャの肩をサラが支え、剣を鞘に納めたカミュが二人の下へと近付いて行く。

 

「……毒を受けたか……」

 

 リーシャの様子を見て、カミュは肩にかけていた袋から一枚の葉と布きれを取り出す。リーシャに駆け寄ったサラは、『毒』という言葉に過敏に反応を示し、リーシャの身体を壁際に座らせながら、カミュの行動を見つめていた。

 カミュは、取り出した葉を半分に裂き、片方を布の中に入れて揉み込み始める。

 カミュが再び開いた布は、擦り潰れた葉から出た液によって緑色に染め上げられていた。

 

「……まず、これを患部に押し当て、その上からこれを巻いていろ」

 

 カミュはその布と包帯のような物をサラに手渡し、また作業を始めた。

 再び革袋から小さなお椀のような物を取り出し、水筒から水を少し注ぐ。

 先程の布よりもずっと薄い布で、残った半分の葉を丸めた物を包み、手で絞り出すように葉液を水に溶かして行った。

 

「巻き終わりました」

 

「……今度はこれを飲ませろ……<バブルスライム>の毒は、多少熱は出るだろうが、少し休めばその熱も引く」

 

「は、はい」

 

 サラはカミュから受け取ったお椀をリーシャの口へと運び、少しずつ飲ませて行く。即効性のある毒なのか、リーシャは先程から口も開かずにぐったりとしている。

 カミュの言葉を信じてはいるが、やはり心配である事は変わらず、サラはカミュにお椀を返しながらも、リーシャの顔を心配そうに見つめていた。

 

「……<バブルスライム>が群がっていたのはこれか……」

 

 一通りの作業を終え、袋に道具を仕舞終えたカミュは、先程緑色の魔物達が折り重なるように群がっていた場所に移動し、珍しく眉間に皺をよせながらその場所を見つめていた。

 そこにあった物は、二つの人骨。

 その大きさから見て、おそらく親子なのだろう。

 大きな人骨が小さな人骨に折り重なるように横たわっている。

 

 何故、この場所に親子が来たのかは解らない。

 白骨の具合から見て、つい最近というわけではないが、それほど古い物ではないだろう。

 おそらく、ここ数年といったところか。

 骨となって尚、魔物に吸い付かれていたその様を見て、自然とカミュの表情に変化が出ていたのだ。

 その骨の脇には、一本の<銅の剣>と、一つの袋があった。

 カミュはその両方を拾い、袋の中身を確認する。袋の中には、32ゴールドと小さな指輪が入っている。

 

「あ、あの……カミュ様」

 

 リーシャの顔から苦悶の表情が消えた事により、その場を離れてカミュの傍に寄ったサラは、その骨を見て魔物への憎しみが湧いて来ていた。

 隣に立つカミュを見ると、その表情も険しい物である事に疑問を持ち、思わずサラは声をかけてしまう。

 『何故、自分の魔物への憎悪を否定する彼が、このような表情を浮かべるのか?』

 そんな疑問がサラの表情に表れていた。

 

「……これは、アンタが持て……剣の鍛練をするのであれば、<聖なるナイフ>では難しい。この<銅の剣>であれば、重さも申し分ないだろう」

 

 カミュはサラの方を見ずに、袋の紐を締め、床に転がる人骨の手の部分に戻した。

 そして、その脇に転がる<銅の剣>をサラに手渡す。

 手渡された<銅の剣>を受け取る事が出来ず、サラは呆然とカミュの顔を見上げる事しか出来なかった。

 

「そんな……死体から物を奪うなど……」

 

「ああ、この袋に入っている物はそのままにしておく。だが、これは何処にでも売っている武器だ。呪い等の類が掛けられている訳ではないだろう」

 

「そういうことでは……」

 

 自分の伝えたかった事を全く理解出来ていないカミュに、サラは困惑する。

 呪いがかかっているという事を心配して言っている訳ではない。

 ただ、死人が持っていた武器を、断りもなく奪うのが遣り切れないだけなのだ。

 

「……ならば、無残にも魔物に殺された親子の武器を手に取って、この二人の無念も晴らしてやったらどうだ?」

 

「うっ……」

 

 サラはカミュの言葉が、自分を少なからず軽視している事は理解できた。

 しかし、それに対して反論する言葉が見つからない。

 確かに、魔物への復讐のためにこのパーティーに参加させてもらってはいる。そして、復讐への想いは、この親子らしい人骨を見て、更に膨れ上がった事は事実だ。

 

「……わかりました……すみません、貴方の剣をお借りいたします。そして、貴方方の無念を晴らす事をここに誓います。貴方方の冥福と、来世での幸福を祈ります」

 

 サラは、カミュの持つ<銅の剣>を受け取り、そしてその持ち主であった物言わぬ屍に向かい、手を握り合わせてその誓いを行った。

 そのサラの姿を、冷めきった目でみるカミュの姿があった。

 

「う、う~ん」

 

「あっ!リーシャさん、眼が覚めたのですか!?」

 

 サラの祈りが終わり、合わせていた手を解いた辺りで、意識を失っていたリーシャが覚醒を果たし、それに気がついたサラがリーシャの下へ駆け寄って行く。

 カミュはサラが去った後、もう一度床に倒れている人骨を一人で見下ろしていた。

 

「……来世があるとしたら、幸せに暮らせ……次に生を受けたら、他種族の縄張りには近付かない事だ……」

 

 

 

 

 

 

「先程は済まなかった。ありがとう」

 

 自分が落ちた状況と、その後の処置の事をサラから聞いたリーシャは、戻ってきたカミュに素直に感謝の意を表し、頭を下げていた。

 

「……毒消し草は基本装備の物。一回分の宿代を使わされただけだ」

 

 頭を下げるリーシャから逃げるように、荷物を取って歩き出したカミュに、リーシャは『多少の厭味にも慣れるものだな』と思いながら、苦笑していた。

 

 一行は、先程あった別れ道まで引き返し、もう一つの道を歩き出す。

 暗闇に支配されているが、燈台に火を灯すと、うっすらとではあるが、その道が真っ直ぐな道である事が推測できた。

 先程と同様に、カミュを先頭に二人が続くという形で通路を歩いて行く。

 歩けど歩けどその一直線の通路に果ては見えず、<たいまつ>の効力の範囲外は真っ暗な闇が広がるだけであった。

 通路の途中で何度か魔物と遭遇するが、カミュ達の行く手を阻む事は出来ず、屍と化して行く。

 <たいまつ>の火種も残り少なくなり、新しい物に切り替えようかと思っていた頃に、長く続いた一直線の通路は終わりを告げ、突き当たりに階段らしき物が見えて来た。

 

「……あれか……?」

 

「そうではないでしょうか?……既にかなりの距離を歩きましたから……海を越えたのではないでしょうか?」

 

 サラは疲れていた。地下であるという事もあり、陽の光は見えないが、何度かの休憩を挟みながら歩いている事を考えると、地上ではもう太陽が傾き始めている時間であろう。

 しかも、最初の<バブルスライム>と遭遇して以来、サラはその手に慣れない<銅の剣>を手に持ちながら戦闘を行っていた。

 最初にその姿をみたリーシャは、ため息を漏らしながら、まずは構え方から教える事となる。

 付け焼刃で振るえる程、剣の道は甘い物ではない。

 サラの姿は、剣を振っているというよりも、剣に振り回されているといった物であった。

 まだまだ、旅慣れたと言うには無理があるサラは、そんな理由もあり、いつも以上に肩で息をしていたのだ。

 カミュを先頭に階段を昇り始める。階段を上る度に、明るくなってくる様子が、地上に出ていることを実感させた。

 昇りきった場所は、石畳が一面に敷き詰められ、夕日が眩しい程に差し込む塔の内部であった。

 

「はぁ~~~~~」

 

 穴が空いただけの窓らしき物が壁一面に空けられ、無数の穴から差し込む、橙色に光る夕日がとても美しく、装飾が施された石畳を更に幻想的に彩って行く。

 そんな光景にサラは溜息を漏らし、感嘆の声を上げた。

 

「……もう陽が落ちるな……落ち着ける場所を探す。陽が落ちれば、魔物の活動も活発になる筈だ」

 

「そうだな。まあ、良い場所があれば良いが」

 

 建物の中とはいえ、吹きさらしの風が入って来る塔では、陽が落ち、夜の帳が広がれば寒さに震える事となる。

 しかも、このような塔や、先程歩いていた地下道などは<聖水>の効力は届かない。

 大抵が魔物の住処と化している場所が多く、眠っている間に殺されていたという可能性があるだけに、野営地には神経を使わなくてはならないのだ。

 リーシャがサラの様子を気遣いながらも、前を行くカミュに続いて塔内部を歩き出した。

 『ナジミの塔』はその建立が何時なのかはわかっていない。

 アリアハン初代国王がこの大陸に城を築く以前から立っていたとも、『精霊ルビス』がこの世界を創造した時に作られたとも云われている。

 柱や床の石畳には、様々な彫刻や絵画が装飾として成されており、その内部の広さも相当な物であった。

 

「……なんだ……これは……」

 

 前を行くカミュが、ある広間で立ち止まり、独り言を呟く姿に、リーシャとサラは首を捻りながらカミュの下へと歩く。カミュの傍まで近付くと、その不思議な光景を見て、二人は更に首を傾げる事となった。

 少し開けた場所に、木造の机とその両端に同じく木造の椅子があるのだ。

 このような魔物の住処となっている塔の中に、なぜ人が憩うような設備があるのか。

 ご丁寧にその机と椅子の周りには鉢植えに入れられた花が飾られている。

 

「……人がいるのか?……こんな場所に?」

 

 カミュと同じようにその不思議な光景に飲まれてしまっていたリーシャの呟きが、他の二人の覚醒を促した。

 

「カミュ様! あれは……?」

 

「!!」

 

 リーシャの声に我に返ったサラが、周辺を見渡して指差した物は、ここに来る前の野営地で地下道への入口を塞いでいたような、金属で出来た板であった。リーシャが金属板に近づき、地下道への入口の時のように少しずつずらしていく。

 

「お、おい、階段があるぞ?」

 

「……また地下道へ戻るのですか……?」

 

 下へと続く階段だという言葉を聞き、サラは再びあの地下道へ戻るのかと、肩を落として溜息を吐き出す。

 

「……いや、そうとは限らないな……地下道から上がってきた階段のような長い階段ではないようだ。下の階の床が、ここからでも見えるからな」

 

「降りるのか?」

 

 カミュが言うようにリーシャの目にも、階下の床が見えているのであるならば、先程の階段の半分の長さもないという事になる。

 状況から考えて、ここは地下道ではなく、この塔の地下部分になるのだろう。

 リーシャの疑問に、軽く頷いたカミュは、金属板を完全にどかし、下へと階段を降りて行った。

 リーシャはその後を続き、サラもしぶしぶカミュの後に続く事になる。

 

「お、おお! 久々のお客さんだ! いらっしゃい!」

 

 サラはそこで信じられない物を見た。

 下へ降りると、そこは完璧な家が存在していたのだ。

 いくつかの部屋に続くドアがあり、降りてすぐの場所にはカウンターもあり、そこに一人の中年の男性が立っている。

 

「……や、宿屋なのか……ここは?」

 

 リーシャもまた、その異様な光景に言葉を失っていた。

 リーシャの言葉通り、その佇まいは宿屋そのもの。

 いくつかの部屋へと続くドアの先には、ベッドが置かれた部屋が広がっている事だろう。町であれば当然の光景ではあるが、ここではこれ以上に異様な物はないという程の物だった。

 

「……どうやら、そのようだな……オヤジ、三人は泊まれるのか?」

 

「おう、大丈夫だ。三部屋で6ゴールドだな」

 

「い、いや、ちょっと待て、カミュ。どう考えてもおかしいだろ! 何故こんな場所に宿屋があるんだ?……その前に、この男は本当に人間なのか?」

 

 なんでもないように会話を進めるカミュ達に、リーシャが待ったをかける。確かにリーシャの疑惑は真っ当なものだ。

 このような魔物の住処で宿屋を営むなど、考えられる事ではない。

 故に、この男自体、魔物が姿を変えた者ではないかとリーシャは考えた。

 ただ、今まで人間に姿を変えた魔物など、リーシャも見た事はなかったのだが。

 

「あはははっ! お客さんが疑うのは尤もだ。ただ、俺は紛れもない人間だよ。まあ、色々あってこんな場所で暮らしてはいるが、お客さん方を取って食おうなんて事はないから、安心してくれ」

 

 リーシャの失礼な物言いに気を悪くした様子もなく、豪快に笑いながら答えを返す男に、サラは『苦手な部類の人』という印象を受けていた。

 

「……しかし、言葉は悪いが、何故このような場所で宿屋を?……それに、ここではまともな食事など出せないだろう?」

 

「……また、食事についてか……」

 

 男の言葉を信じきれていないリーシャが続けて発した言葉に、カミュは嘆息を漏らし、うんざりといった表情を見せる。

 

「な、なんだ!? 食事は大事なものだろ! お前も、散々私の料理を頬張っていただろうが!」

 

「そ、そうですよね……」

 

 リーシャとカミュのやり取りを見ていたサラは、そんないつもの光景に安堵したのか、力なく言葉を発した後、近くにある椅子に座り込んでしまった。

 サラが座り込んでしまった事に気が付いたリーシャは、慌てて近くへと駆け寄って行く。

 

「サ、サラ!!」

 

「……とりあえず、6ゴールドだ……食事に関しては、気にしなくても良い」

 

「あ?……ちゃんと材料はあるぞ……俺は元々漁師なんだ。アリアハンの海で取れる豊富な海産物が、うちの宿の自慢だ。塔の外で小さな畑も作っているから、新鮮な野菜もあるぞ」

 

 袋から金を取り出し、カウンターに置いたカミュが言った言葉に、心外だと言わんばかりに胸を張って答える男に、リーシャの目は輝いた。

 

「ほ、本当か!? アリアハンの海産物なら貝や魚等も結構あるのか?」

 

「ああ、今朝取ってきたばかりだからな。まあ、作るのは俺だから、大した物はできないけどな」

 

 自分の問いかけに返って来た言葉が、リーシャの瞳を益々輝かせて行く。

 材料があるのならば、何も問題はないのだ。料理を作る人間ならば、ここにいる。

 

「いや、それなら問題はない。食事は私が作ろう。材料と調味料、そして調理器具さえあれば、それなりの物を作れる自信はあるからな。なあ、カミュ?」

 

 宿屋の男に負けじと胸を張って答え、先日自分の料理を褒めた後に、他人の分まで取り上げて、貪るように食べていたカミュに問いかけるリーシャの顔は、先程までの疑惑の表情ではなく、意地の悪い笑みを浮かべていた。

 

「おお、そりゃありがたいが……本当にアンタで大丈夫なのか?」

 

「ぶっ!」

 

 勝ち誇るリーシャに対して放った宿屋の一言は、椅子に座ったままやり取りを傍観していたサラを直撃し、盛大に吹き出してしまった。

 宿屋の男の発言に続き、サラの態度に腹を立てたリーシャの喚く声が、この魔物しかいないはずの塔にあった、奇妙な宿屋に響いた。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

本日は、初回投稿と言う事で、一気に第一章を公開しようと思ったのですが、力付きました。明日の夜にでも続きを公開したいと思います。

宜しければ、ご意見ご感想を頂ければ嬉しく思います。


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ナジミの塔②

 

 

 

 三人は塔にある奇妙な宿屋で夜を明かし、日が昇ると同時にその宿屋を後にした。

 塔の壁面にある窓から、昨日の夕日とは違う眩しい光が差し込み、塔内部の装飾をまた違った趣に彩って行く。

 

「サラ、今日中に頂上まで行って戻って来る事になる。少し急ぐ形になるが、辛くなったらいつでも言うんだぞ。サラは迷惑を掛けたくないと思うかもしれないが、休みもせず無理した結果が倒れる事になってしまえば、それ以上に進む速度が遅くなってしまうからな」

 

「……はい……」

 

 出発に先立ち、サラに向かってリーシャが忠告した内容は、サラにとって厳しい物であった。

 『自分は足手まといになっているのかもしれない』という負い目を常に感じているサラは、今まで無理を重ねて来ている節がある。今までは、そんなサラの無理に気付かないふりをしながらも気遣っていたリーシャであったが、ここから先は、常にサラを気遣える状況にあるとは限らない。

 『ナジミの塔』は今では人の往来もなく、完全に魔物の住処と化していた。

 近年で人が入ったと言われたのは、魔物と同様にこの塔を住処としていた盗賊を捕らえる為に、アリアハン兵が入った事ぐらいだろう。

 

「そんなに不安そうな顔をするな。この『ナジミの塔』は比較的低い。あって四階部分があるぐらいだ。順調に行けば、日が沈む頃には戻って来れるさ」

 

 多少厳しい忠告をして、サラの気持ちを引き締めようと思っていたが、リーシャの言葉の影響で不安顔になってしまったサラの表情に、リーシャは鬼になりきれなかった。

 宿屋の入口がある広間の反対側に上へと続く階段が見えている。塔の一階部分を隅から隅まで見た訳ではないが、まずは見える階段を昇り、上へ行こうという結論に達し、三人は階段を上って行った。

 階段を昇り切ると、太陽が若干近くなった為か、先程より強い朝日が目に飛び込んで来たようにサラは感じた。

 だが、それが勘違いである事にすぐに気付く事になる。

 実際は、一階部分とは違い、塔の周りを囲う壁が存在していないのだ。

 二階部分は、壁で仕切られた広間がいくつか存在するのだが、それらを取り巻くように作られた通路には壁が作られていない。つまり、足を踏み外せば、地上まで真っ逆さまに落ちてしまうというものだった。

 

「ひっ!」

 

 強い風が吹けば、転がり落ちてしまいそうな錯覚に陥ったサラの足は竦んでしまう。

 思わず立ち止まったサラを振り返ったカミュは、深い溜息を吐きながら、その口を開いた。

 

「……恐怖を感じるのなら、その戦士にでもしがみ付きながら歩け。良い重りになるだろう」

 

「なんだと!」

 

 いくら腕っ節自慢のリーシャといえども、同性のサラよりも重いとはっきり言われて喜ぶ訳はない。カミュの軽口に怒りを露わにして噛みつこうとするが、カミュの言う事を真に受けて自分の腕にしがみ付いて来るサラに、諦めの溜息を吐く事になる。

 結局、塔の外側の通路を歩いている間、サラはリーシャに手を引かれる形で歩いていた。

 前を歩くカミュが、幾分か内部へと足を進め始めた事を確認し、サラと共にリーシャも安堵の溜息を吐く。もし、この状況で魔物と遭遇した場合、カミュ一人で戦わせる事になってしまう可能性を、リーシャは気にしていたのだ。

 カミュの腕と魔法があれば、大抵の魔物に遅れを取る事はないとは思っているが、数が多ければ危険も上がって行く事となる。

 

「サラ、もう大丈夫だろ?……悪いが、手を離してもらえるか?」

 

「あっ、は、はい! 申し訳ありませんでした」

 

 振り解く訳でもなく、優しく声をかけてくるリーシャに、自分のしていた行為に今気がついた様子でサラは手を離す。

 以前、サラ自身も語っていた通り、平民が貴族の身体に触れる事は、このアリアハンの平民の間では禁忌とさえされている。

 もし、身体が触れようものならば、その瞬間に貴族に罰せられたとしても不服は言えないのだ。

 故にサラは、リーシャという貴族を信じ始めてはいても、何かを窺うような視線を向けてしまう。

 

「高い所は苦手なのか?」

 

「い、いえ……申し訳ございません。別段、特別に高い所が苦手な訳ではないのですが……」

 

 しかし、サラの不安とは裏腹に、申し訳なさそうに俯き話すサラにリーシャは微笑みを浮かべながら気遣うような言葉をかけて来る。少し面喰ったサラではあったが、尚も暖かな笑みを浮かべ続けるリーシャに、心に纏う物を脱ぎ捨てて行った。

 

「まあ、もう少し歩けば慣れて来るさ。誰でも最初は足が竦むものだ」

 

「リーシャさんは、以前にこの塔に上ったことがあったのですか!?」

 

 サラの心を理解したように、先程よりも優しい笑みを浮かべたリーシャの言葉に、サラの顔が勢い良く上がった。

 

「いや、私も初めてだ」

 

「……」

 

 サラは、自分が高所恐怖症だとは思っていない。教会の屋根の修理をするために、屋根に上ったことは多々あった。

 その際は、不安定な足場にも拘わらず、歩き回りながら金槌で釘を打った事もある。

 故に、リーシャの言葉に、『もしかすると、リーシャも自分と同じ気持ちを抱いた事があったのでは?』と期待を込めて聞いたのだが、返って来た言葉は、サラの期待を大いに裏切ってくれる物であった。

 

「サラ、戦闘だ! 剣を構えろ!」

 

 前を行くカミュが立ち止まり背中の剣に手を掛けた事を見逃さず、リーシャは戦闘開始の合図をサラへ送って来た。

 リーシャの合図に、サラも手に持つ<銅の剣>を握りしめ、リーシャの後ろに付く。カミュが剣を抜き対峙していたのは、アリアハン大陸でも生息する地域が限られている魔物、<フロッガー>であった。

 

<フロッガー>

巨大なカエルの魔物である。魔力を持って生まれたカエルが巨大化したのか、魔王バラモスの影響で凶暴化したカエルなのかは解明されていないが、このアリアハン大陸では上位の魔物に当たる。その体躯は、通常のカエルと同じように滑りがあり、剣による斬撃では傷をつけ難い。また、その跳躍力で人に襲いかかり、逃げ道を塞いで来る為に、アリアハン大陸では恐れられている。だが、それはあくまでも、対する人間が普通の人間であればという話だ。

 

「カミュ!」

 

 声と共に、リーシャはカミュに駆け寄り飛び掛って来た<フロッガー>に剣を振るう。リーシャの一閃は<フロッガー>の左腕を切り飛ばし、<フロッガー>の着地を無様な物にした。

 カミュは、もう一匹の<フロッガー>の攻撃をかわしながら剣を振るい、<フロッガー>を追い詰めて行く。追い詰められた<フロッガー>は最後の一撃とばかりに、その発達した後ろ脚に力を溜め、カミュ目掛けて飛びかかって来た。

 カミュは落ち着いて<フロッガー>の動きを見て、剣を立てて屈み込む。

 屈み込んだカミュに覆いかぶさるように飛んで来た<フロッガー>の喉元に、カミュの剣が突き刺さった。

 突き刺した剣を抜く為に、カミュに足蹴にされた<フロッガー>は、床に転がった後、数度の痙攣を最後に動かなくなった。

 

「やぁぁぁ!」

 

 リーシャに左腕を飛ばされた<フロッガー>は踏ん張りがきかず、十分な跳躍が出来ない。

 リーシャの攻撃を避けるにしても、片腕がないため十分に動けず、リーシャの剣を無様に受ける事となる。

 リーシャの最後の一閃が、自らの首を刈る瞬間に見せた<フロッガー>の表情は、苦しみから解放されたような安堵を含む表情に見えていた。

 

「まだだ!!」

 

 <フロッガー>の体液の付いた剣を振って、血糊を落とし鞘に収めたリーシャに、珍しくカミュの大きな声が掛けられた。

 リーシャに駆け寄ろうとしたサラは、剣を鞘に収めたリーシャの後ろに飛ぶ巨大な蛾のような生物を視界に収める。

 

「@%#$&&$」

 

 カミュの珍しい叫び声に振り向いたリーシャは、すぐ目の前にいた巨大な蛾が人語ではない詠唱のような音を発した途端に霧に包まれる感覚に陥った。

 今まで戦っていた筈の塔の内部ではなく、全てが霧に包まれたように景色がぼやけ、カミュやサラの姿まで無くなって行く。

 そのくせ、霧に包まれる前に見た蛾が、神出鬼没に自分の周りを飛び回っていた。

 

「そこか!」

 

 リーシャは飛び回る蛾へ剣を振るが、真っ二つになったはずの蛾が蜃気楼のように消えて行き、再び別の場所に現れるのを見て混乱に陥る。

 

 

 

 サラは、蛾が奇声を発した後に暫く動かなかったリーシャが、突然何もない所に向けて剣を振るのを見て驚いていた。

 状況が全く掴めないサラは、救いを求めるようにカミュへと視線を向ける。視線を向けられたカミュの表情は、苦虫を噛み殺したような物だった。

 

「ちっ! マヌーサか」

 

「えっ!?」

 

<マヌーサ>

教会が所有する『経典』に記載されている魔法の一つで、その効力は脳内に及ぼす物。この魔法を受けた者は、周囲が霧に包まれたような錯覚に陥り、敵の場所を特定できなくなる。陽炎のように現れる敵の姿に戸惑い、剣を振って敵を切り裂いても、蜃気楼のように消えてしまい、倒す事が叶わない。所謂、催眠のような魔法である。

 

 サラも<マヌーサ>との契約はすでに済ませてある。

 まだ使用した事はないので、実際発動するかどうかはわからないが、何れにしても、その効力に関しての知識はサラにもある。

 このパーティー内の一番の剣の使い手が、幻覚に包まれているのだ。

 迂闊に近づく事など出来はしない。

 

「そこかぁぁ!」

 

「!!」

 

 どうしたら良いのか判断をする事が出来ず、サラは動けない。その中で、リーシャは闇雲に剣を振るい続けていた。

 その剣は、カミュに対して振るわれる。間一髪のタイミングで避けたカミュではあったが、連続するリーシャの剣に防戦一方になって行った。

 

「!?……何故、俺に向かって来る!?……くっ……<メダパニ>でもかかっているのか!?」

 

 カミュの疑問は尤もである。

 基本的に<マヌーサ>によって幻覚に包まれた者は、敵と味方を間違えるような事はない。

 同じように脳内に影響を及ぼす、<メダパニ>と呼ばれる混乱魔法の影響を受けているのならば、別ではあるのだが。

 

<人面蝶>

その名の通り、『人』の顔を持つ蝶である。いや、その姿は蝶というよりも蛾に近い。通常の蝶や蛾の腹部に人面を宿し、その口の部分には鋭い牙を持つ。アリアハン大陸では珍しい、魔法を唱える事の出来る魔物である。

 

「くそっ! おい、何を呆けている! あの<人面蝶>を早く片付けろ!」

 

「えっ、えっ、で、でも……」

 

 リーシャの攻撃を何とか自分の剣で防ぎながらも、サラに巨大な蛾の討伐を指示するカミュではあったが、声を掛けられたサラは戸惑うばかりであった。

 手に持つ<銅の剣>を下げたまま、おろおろと視線を彷徨わせるサラを見て、カミュは盛大な舌打ちを鳴らす。

 

「今、あの蛾を倒せるのも、この脳筋馬鹿を救う事が出来るのも、アンタだけだ!」

 

 幻覚に包まれているリーシャは、しつこくカミュに斬り掛っている。

 確かに、今のカミュに、リーシャと対峙しながら魔物を倒す余裕はない。

 カミュの言う通り、今動く事が出来るのはサラだけである事は事実なのだ。

 

「わ、わかりました!」

 

 カミュの瞳が真剣である事を見たサラは、覚悟を決めた。

 ここで、自分が何もできなければ、今度こそこの『勇者』に愛想を尽かされ、置いて行かれる。

 その考えが頭を掠め、サラは緊張と恐怖で、<銅の剣>を握る手に汗が溢れた。

 それでもサラは、右手を胸に抱いて、呟くような詠唱を行った。

 

「ピオリム」

 

<ピオリム>

教会が管理する『経典』に記載される補助魔法の一つ。術者の魔法力によって、対象者の身体能力を限界まで引き上げる効力を持つ。本来『人』に限らず、生物は自身の身体に眠る能力を最大限まで活用出来てはいない。その眠りし能力の一部分を、一時ではあるが、術者の魔法力によって引き上げるのだ。

 

 <人面蝶>はリーシャに<マヌーサ>をかけた後、リーシャに攻撃を仕掛けようと考えていたのだろうが、そのリーシャの凄まじい動きに近寄る事ができず、場所を変えながらも周辺を飛んでいた。

 身体能力の上がったサラには、その<人面蝶>の動きが目でしっかりと追う事が出来ていたのだ。

 ちょうど、サラの頭の高さで飛んでいる<人面蝶>に向け、サラは<銅の剣>を振るう。

 <人面蝶>は、今まで、全く動く事のなかった『僧侶』が自分に向かって来た事に驚くが、それをひらりとかわし、上空へと飛び上った。

 

「あっ……」

 

 自分の攻撃を簡単に避けられ、更には自分の手の届かない所まで上がってしまった<人面蝶>に、サラは思わず声を漏らしてしまう。

 だらりと下げられた腕に握られた<銅の剣>は、その役目を果たす事無く、沈黙を続けていた。

 

「簡単に諦めるな! 魔物は、必ず攻撃を加えるために降りてくる! それに剣を合わせるように振り抜け! あぁ、くそっ! アンタ、本当に幻覚と戦っているのか?」

 

 珍しく良く話すカミュにサラは驚くが、自分への忠告の後、リーシャへと愚痴をこぼすカミュの姿を見て、緊張と恐怖で固まっていた自分の身体から、余計な力が抜けて行くのを感じた。

 

『どんな形であれ、今、あの捻くれた勇者は自分を信じている』

『自分であれば、あの魔物を倒せると信じてくれている』

 

 サラはもう一度剣を構え直し、<人面蝶>を見据える。

 自分を嘲笑うかのように上空を飛び回っている<人面蝶>は、剣を構え直すのを見て、その動きを制止させた。何度か羽ばたきを繰り返した後、サラに向かってその口にある牙を剥いて急降下して来る。

 <ピオリム>の効果が続いているサラは、<人面蝶>の動きを落ち着いて見詰め、カミュの忠告通りに、その動きに合わせるように<銅の剣>を振るった。

 基本的に、<銅の剣>は切れ味が良い物ではない。カミュやリーシャの持つ剣のように斬り裂いたり、突き刺したりといった攻撃は出来ず、主に叩きつける武器と言っても過言ではない武器だ。

 しかも、サラはその武器を未だに扱いきれてはいない。

 実際、身体能力の上がっているサラが振るった剣は、絶妙のタイミングだった。

 しかし、扱いきれていない武器の為、その剣の軌道にはブレが生じる。自分の動きに合わせられた事に気が付いた<人面蝶>は無理やり態勢を変え、サラの剣の軌道から外れようとしたのだ。

 結果、またしてもサラの剣は<人面蝶>を倒すに至らなかった。

 

「あぁぁ……」

 

 自分の不甲斐なさに俯きそうになるサラ。

 振われた<銅の剣>は石畳の床に打ちつけられ、乾いた音を立てる。

 『やはり、自分は唯の足手纏いに過ぎないのだ』と首を垂れるサラの後方から、その時、鋭い声が響いた。

 

「良く見ろ! アンタの剣は魔物を掠めている! 止めを刺せ!」

 

 気分が落ち込み、魔物から目を離しそうになったサラの後方からカミュの声が響く。

 その声に、もう一度顔を上げたサラの瞳に、上手く飛ぶ事が出来ず、サラの胸ぐらいの高さをふらふらと飛んでいる<人面蝶>の姿が映った。

 カミュの言う通り、サラの剣は<人面蝶>の片方の羽に大きな傷を与えていた。

 空を飛ぶ者にとって、羽とは生命線であると共に、非常に繊細な物でもある。

 <人面蝶>のような、昆虫の延長にある魔物にとっては顕著であり、湿気を帯びただけでも、その飛行は困難となるのだ。

 <銅の剣>を握り直したサラは、渾身の力を込めて<人面蝶>に向けて剣を振り抜いた。

 羽にダメージを受け、避ける事も叶わない<人面蝶>は、そのサラの剣を勢いそのままに受ける事となる。真正面から攻撃を受けた<人面蝶>は、床に叩きつけられ、数度羽を動かした後に動かなくなった。

 

「やりました!」

 

 <銅の剣>を持つ自分の手と、物言わぬ屍と化した<人面蝶>を見比べながら、込み上げて来る喜びを抑えきれず、サラは喜びの声を上げた。

 

「このっ!……ん?……どういうことだ!!」

 

 振るった剣を受け止めた相手がカミュであることに気がついたリーシャは、理不尽にもカミュを怒鳴りつける。嵐のような剣撃が止んだ事を理解したカミュは、手に持つ剣を一振りした後、それを鞘へと納めた。

 

「……それは、こっちが聞きたい……何故、<マヌーサ>に掛った筈のアンタが、俺に向かって攻撃して来た?……アンタにとって、俺は『敵』と認識されているのか?」

 

「……<マヌーサ>……だと?」

 

 背中の鞘に剣を納めたカミュは、鋭い視線をリーシャへと向ける。その視線を受けたリーシャには、現在の状況が理解出来てはいなかった。

 故に、カミュが口にした何かの名を反芻する事しかできなかったのだ。

 

「……ああ……アリアハン随一の戦士様は、上達する剣の腕とは反比例に、脳味噌は退化したのだろうな。だからこそ、ある程度の知識と判断力が備わっていれば惑わされる事の少ない、<人面蝶>如きが唱えた<マヌーサ>に惑わされ、俺に向かって剣を振るっていた」

 

「……カミュ様……その辺で……」

 

 先程まで、自分が果たした仕事の余韻に浸っていたサラではあったが、またしても不穏な空気を醸し出す程のカミュの厭味を聞き、慌ててリーシャとの間に入って来た。

 しかし、そんなサラの心配は杞憂に終わる。

 

「しかも、アンタが俺に剣を振るっていた為、アンタの幻覚を解く方法は、その『僧侶』が術者である<人面蝶>を倒す事しかなかった。それも、何度も諦めかけながらだ。アンタのおかげで、いきなり全滅の危機だった。流石に、俺も諦めかけた」

 

「……ぐっ……す、すまない……」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュの諦めかけたという言葉を聞き、自分の達成感からの高揚が覚めて行くのを感じたサラは、心配そうにリーシャを気遣いながらも、言葉を発するカミュを見て驚いた。

 カミュの口端が上がっているのだ。

 リーシャは何度か見た事のあるカミュの顔ではあるが、サラは初めて見る顔だった。

 あれは、明らかにリーシャをからかい、楽しんでいる顔に他ならない。

 対するリーシャは、カミュのからかい顔を理解してはいるが、現状を見れば、カミュが決して嘘を言っている訳ではない事も理解出来るだけに、反論は許されずに、されるがままになってしまっていた。

 剣を持つ右手が強く握りしめられ、小刻みに震えている事から、そのリーシャの堪忍袋の緒が切れるのも、時間の問題なのかもしれないが。

 

「まあ、良い。思わぬ時間を喰わされた。先を急ぐ」

 

 『あれだけ挑発しておいて、『まあ、いい』はないだろう』とサラは思ったが、先を行こうとするカミュへ何の反論も出来ずに歩き出すリーシャを見て、『火に油を注ぐ事はするまい』と、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 

 その後も、何度か魔物と遭遇するが、一度不覚を取ったリーシャに慢心や油断はなく、次々と魔物の命を奪って行った。

 そんなリーシャの様子に、カミュは積極的に戦いに参加する事もなく、屍となった魔物の部位を切り取り、革袋へと詰めて行く。

 サラも、ようやく自分の闘い方を見出しかけたことから、剣を振るう回数も多くなり、リーシャの取りこぼした魔物を倒しながらも、そんなリーシャの闘いを見ていた。

 リーシャの闘いは凄まじく、まるでカミュからの厭味の鬱憤を晴らすような動きであった。

 中でも、再び出て来た<人面蝶>には、流石のサラも同情を禁じ得なかった。

 共に姿を現した、<おおありくい>や<フロッガー>に見向きもせず、<人面蝶>へと一直線に向かって行ったリーシャは、<人面蝶>の両羽を切り落とし、飛べなくなり地面に落ちながらもまだ生きている<人面蝶>へ剣を突き立てたのだ。

 カミュでさえ、そのリーシャの怒気を纏った姿に唖然としていた。

 ましてや、<おおありくい>や<フロッガー>等は、サラ達の比ではない恐怖を感じ、唖然とするカミュとサラの隙を見て、我先にと逃げ出して行った。

 

「……カミュ……様……」

 

「……ああ……少し言葉が過ぎた事は認める……」

 

 この後、鼻息も荒く戻って来るリーシャに、魔物を取り逃がした事への説教をされる事を覚悟した二人は、ため息交じりに会話を交わしていた。

 

 

 

 その後も何度か魔物と遭遇しながらも、三人は順調に塔を登って行く。

 最初のリーシャの見立て通り、『ナジミの塔』はどうやら四階構造になっているようだった。

 しかし、四階部分に到達した一行はその様子に溜息を吐く。

 四階部分は下の階とは違い、中心に壁があり、その周りを囲むように広い通路のような部分が広がっていた。

 当然通路に壁はなく、強い風が吹けば真っ逆さまに落ちてしまう事になるだろう。

 

「これ以上、上へは進めなさそうだな……」

 

「下の階にもう一つ階段がありましたよね。もう一度戻ってそちらに向かいましょう」

 

 リーシャの言葉に、一つ下の階で見つけた階段を思い出し、サラは来た道を引き返す事を提案する。今回は、戦闘においても見ているだけではなく、剣を振るい戦闘に参加していたサラは、良い緊張感が続き、気力が充実していた。

 サラの提案を受け入れ、一行は一度下に戻り、違う階段で再び四階部分に出る事にする。

 先程、階段の上部を見た際に光は見えず、『行き止まりになっているか、作りかけの階段かもしれない』というリーシャの言葉から上る事をしなかったのだが、再び見てもやはり上部に光はない。カミュを先頭に一段一段上ってはみたものの、やはり、天井部分にぶつかってしまい、それより先には進めないようになっている。

 

「やはり、ダメか?」

 

「いや、この階段は何かで塞がれているようだ」

 

 後ろからかかるリーシャの諦めの声に、天井部分に手を当てていたカミュが答えた。

 カミュの言うように、塔内部は基本的に石で出来ているのだが、この階段の天井部分だけは木で出来ていた。

 階段の上部の為、暗く判別はし難いが、手触りが石や金属のような冷たさを感じない。

 

「……木か……?」

 

 天井の隙間に木が隙間なく嵌め込まれており、更には、その上から尚も木を釘で打ちつけている。

 まるで、この先にある何かを出すまいとしている程の厳重さであった。

 

「……少し下がっていろ……一度燃やす」

 

 カミュはリーシャとサラの二人を、一度階段の下へと下し、蓋をしている木に向かって左手を上げる。

 サラとリーシャはカミュに言われるまま、階段の下からその姿を見ていた。

 

「メラ」

 

 カミュの指先から出た火球は打ちつけられた木に命中するが、すぐには燃え上がらない。

 それ程、打ちつけて時間が経っていない木だとは思われるが、吹きさらしの風や雨が入ってくる塔の中で湿気を帯びてしまっているのだろう。

 何度目かの詠唱でやっと木に火がつき、天井を塞いでいる木が燃えて行った。

 

 燃え終わり、黒い炭と化した木々をリーシャとカミュで動かして行くと、この塔の一階にあった宿屋の入口の時のような金属の蓋が出てきた。

 リーシャがその金属の蓋に、下から突き上げるような衝撃をかけ、そして少しずつ横へとずらして行く。最初は、リーシャを持ってしてもなかなか動かなかった蓋だが、重く引き摺られる音を発しながら、徐々に動いて行った。

 完全に開けた蓋から暖かな空気が流れてくる。三人はカミュを先頭に一人ずつ上がって行った。

 

 

 

「お前さん達は、誰じゃ?」

 

 階段を上った場所は広い部屋になっており、石畳の床に、寒さ防止の為か絨毯が敷かれ、机や椅子が置かれている。その椅子には、白いひげを生やした老人が一人座っていた。

 

「あっ!」

 

「……失礼……カミュと申します。失礼ですが、貴方は<レーベの村>にある泉の畔の家に住まわれている方のご兄弟でいらっしゃいますか?」

 

 人が居た事に驚きの声を上げるサラの言葉を遮り、カミュが余所行きの仮面を被り、話し出した。

 その様子を見たリーシャは、『何度見ても、違和感しかないな』と思いながらも静観する事にする。

 

「……ふむ……それが誰の事を指しているのかがはっきりせんが、わしが居た頃とあの村がそう変わらないのであれば、おそらくお前さんの言う通りじゃろうて」

 

 カミュの質問に、少し考える素振りを見せながらも、白いあご髭を撫でつけ、老人はゆっくりと肯定の意思を示した。

 そして、カミュ達三人を一通り見渡した後、その細い腕を前へと差し出す。

 

「まあ、立ち話もなんじゃから、適当に掛けなされ」

 

 続く老人の言葉に、リーシャは入口の金属蓋を元に戻し、老人の対面に座る。それにカミュ、サラと続き、三人が老人と対する事となった。

 

「それで……わしに何の用かの?」

 

 三人が着席したのを見計らって、老人が口を開く。

 老人は頬が扱け、直視するのも気が引けるほど、骨と皮と言っても過言ではない程の身体になっていた。

 その老人の姿に、サラは思わず目を伏せる。

 

「な、なぜ……このような場所に、一人で住まわれているのですか?」

 

 そんな老人の姿に我慢ができず、誰よりも先に口を開いたのはサラであった。

 カミュは、サラの行動に顔を顰める様子であったが、口を開きかけた老人に遠慮し、言葉を飲み込んだ。

 

「お前さんは?」

 

「あ、申し訳ございません。アリアハン教会に属します僧侶で、サラと申します」

 

 名前を名乗っていなかった失態に、慌てて名乗りを上げ、それに倣ってリーシャも自己紹介を済ます。二人の名乗りに、一瞬表情を変えた老人だったが、その哀れな姿によって小さな変化は埋もれていた。

 

「ほう……アリアハンの僧侶様に宮廷騎士様ですか……ならば、私のような老人と言葉を交わしてはなりません。私は神敵であり、国家では罪人となっておりますのでな……」

 

 二人の自己紹介に力なく笑う老人はそれ以上を語らない。疑問を口にしたサラは、何故、老人がそのような事を言うのかという新たな疑問が湧いて来るが、老人の雰囲気がサラの口を再び開くことを遮っているようだった。

 

「……貴方は、あの橋を作った方ですか?」

 

「!!」

 

「ふむ……お若いの……何故、そう思われるのでしょう?」

 

 そんな中、沈黙を破ったカミュの言葉にリーシャとサラの二人は驚く。カミュへと視線を移すが、老人は少し目を細めただけで、静かにカミュへと問いかけた。

 この場にいる全員の視線が集まった事に怯みもせず、カミュは一度瞳を閉じた後、内心を語り始める。

 

「アリアハンの王家では、汚い物には蓋をする習慣があります。昔、あの橋の土台を築いたのは、国家が雇った橋職人ではなく、<レーベ>に住む鍛冶屋の青年という噂がありました。その青年は、功績を称えられるどころか、故郷である<レーベ>を追われたと聞いています。もし、貴方がその青年であれば、<レーベ>に残る老人の、アリアハンに対しての憎しみも理解できるのです」

 

「な、なんだと! そんな話、聞いた事はないぞ!」

 

 疑問を疑問で返されたにも拘わらず、それを気にしたような素振りすら見せずに語るカミュの話は、宮廷騎士として親の代から王家に仕えていたリーシャにとって初耳の物であった。  ましてや、教会という閉ざされた社会で育ったサラにとっては尚更だ。

 

「……良くご存じですな。まあ、宮廷騎士様と教会に属する僧侶様である貴方達が、ご存じない事は無理もないでしょう。アリアハン王家に仕える方々に、国家の暗部を公表する訳はありませんからな……」

 

 カミュに向かって、怒鳴るように投げかけたリーシャの疑問は、カミュではなく目の前の老人から答えが返って来る事となった。

 カミュへと鋭い視線を向けていたリーシャは、勢い良く老人の方へと振り返る。そこには、窪んだ瞳に寂しい影を落とした老人の姿があった。

 

「……カミュ殿と申したかの?……お前さんの考え通り、わしがその青年という事になるかの……しかし……そうですか……弟は、アリアハンを恨んでしまっておりますか……」

 

「!!」

 

 老人からカミュの話を肯定するような言葉が出た。

 それは、先程、カミュが話したアリアハン国家の行為をも肯定する言葉になる。そのアリアハンが抱える黒歴史の事実に、リーシャは言葉を失い、サラは愕然と老人を見つめた。

 

「わしは、四十年以上ここで暮らしてきました。<レーベ>に戻る訳にもいかず、この大陸を出る訳にもいかず……国家の罪人である私には、この大陸の中で暮らす事の出来る場所は、この魔物の住処である塔以外はありませんでしたからの……」

 

「そ、そんな……」

 

 老人の告白に、サラから声が漏れる。老人が言葉を洩らす度に、サラの中で築かれて来た『アリアハン国家』という偶像が音を立てて崩れて行くのだ。

 信じていた度合いが大きければ大きい程、その崩れる速度も加速して行く。

 

「幸い、妻も子もありませんし、親も既に他界しておりましたからの。ただ、唯一人の弟には苦労をかけてしまったようです。初めの頃は、何度か私に食糧などを持って来てくれていたのですが……」

 

「何か、他にもご兄弟がアリアハン国家を恨む要素があるのですか?」

 

「……ふむ……」

 

 会話を途中で止めてしまった老人に先を促すように、カミュが言葉をかけるが、それでも尚、老人は言い難そうに口籠る。

 それは、カミュの聞いた内容に思い当たる節がある事を示唆し、加えて、その内容がカミュ達三人に新たな衝撃を与える物である事を示していた。

 

「カミュ! 人には言いたくはない事もあるだろう!」

 

 尚も催促しようとするカミュに、先程まで我慢していたリーシャが口を挟む。アリアハン国の有する暗部の一部を知り、心に衝撃を受けてはいた。

 だが、それにより取り乱す事はなく、冷静に話を聞いていたが、心に残った引っかかりをカミュにぶつけてしまう事となる。

 

「……いや、良いのじゃ……お前さん達は……『バコタ』という人物を知っておるかの?」

 

「最近、捕まった盗賊ですか?」

 

 『盗賊バコタ』

 アリアハン大陸で活動している盗賊で、どんな扉も開けてしまうと云われている。

 つい数か月前に、住処としているこの『ナジミの塔』にアリアハン兵が踏み込み、捕縛される事となり、今はアリアハン城の牢獄に監獄されている。

 

「……ふむ……それは、あの弟の子なのじゃ」

 

「それで、捕まった事を恨んでいるのですか!? それは、自業自得ではないですか!?」

 

 息子である『盗賊バコタ』が捕まり、牢獄に入れられている事を恨んでいるというのなら、『それは筋違いだ』とサラは声を上げる。

 リーシャにしてもサラに同意であったが、カミュはいつもの無表情で声を上げるサラを冷ややかに見つめていた。

 

「あの子は、盗賊以外にはなれなかった。わしが原因で、母親も出て行き、父親も仕事を失い、そして周りからの侮蔑の視線を受けながら育ったのじゃ。働ける場所などなく、鍛冶屋を継いだとしても、造った物を買う者などいない」

 

「そ、それでも……人の物を盗み、それで生きていくなんて……真面目に働いて生きている人達に失礼です」

 

 生い立ちが厳しい人間は数多くいる。

 それでも皆必死で生きている。

 サラはそう信じているのだ。

 

「……誰もアンタの感想など聞いてはいない。それに元はと言えば、アリアハン国が、橋の土台を真面目に考えて完成させた人間の功績を自分の物へと変えたのが発端だ。それこそ、人の技術を盗む行為になる筈だ。アンタ方は認めたくはないだろうが、それが現実だ」

 

「……で、ですが!」

 

 尚を喰い下がろうとするサラに向けられたカミュの視線は、冷たく厳しい。その瞳を受け、サラの身が硬直した。

 人を殺しかねない瞳は、サラへの蔑みを宿している。

 とても仲間に向ける視線ではないのだ。

 

「……カミュ殿、良いのじゃ。このお嬢さんの言う通り、自分の境遇に悲嘆し、甘んじたあの子が悪い。どんな事情があれ、犯罪は犯罪。それは弟も解っておる」

 

「では、他にも理由があるというのか!」

 

 リーシャが若干憔悴した様子で、再度老人の話を促す。リーシャの叫びに近い声を聞き、老人は一度目を瞑った。

 何かを躊躇い、そして何かを決意するように開かれた瞳が、骨と皮だけとなった老人に凄みを持たせる。

 

「……ここから先は、アリアハンの中枢機関に属するお嬢さん達には、少しきつい話になるかもしれん……それでも良いか?」

 

 老人の痩せこけ窪んだ瞳に、鋭い光がともり、それが眼光となってリーシャとサラの二人を射抜く。

 サラはその眼光を受け、これから先の話に対する不安が募るが、リーシャと共に大きく頷いた。

 

「……そうか……わしは父の後を継ぎ、鍛冶屋となった。弟には鍛冶の才能はあまりなかったが、バコタは名人と云われた私の父の才能を受け継いだのか、光る物をもって生まれていた。だが、鍛冶屋として生きていく事はできない。毎日鬱憤を溜めながら暮らし、出来る事といえば、家の物を修理するくらいのものだ。そんな中、あの子は一つのカギを造り出した」

 

「……『盗賊の鍵』か……?」

 

 『盗賊の鍵』

 カミュが発した言葉にあるそれは、バコタが造り出したと云われる物。

 簡単な作りの鍵であれば、どんな扉も開けてしまうカギという話だ。

 その鍵を使い、バコタはアリアハン大陸にその名を馳せる程の盗賊となった。

 

「そうじゃ。そのカギを造ったあの子は、報われる事のない労働よりも、盗賊稼業に身を落としてしまう」

 

「……」

 

 その真実に、リーシャとサラの口は閉ざされてしまった。

 アリアハン大陸で暮らす鍛冶屋が作って来た鍵の全てを開けてしまう程の『カギ』。

 それは、国民にとっては、とてつもない脅威であり、他の鍛冶屋の生活をも奪う程の脅威でもあった。

 

「私の弟は、激怒したそうじゃ。どれ程皆から蔑まれようと、どれ程苦労しようとも、真っ当に生きてきた弟にとって許せる事ではなかったのじゃろう。弟はあの子を勘当し、周りの人間には、『息子は死んだ』と言っていたそうじゃ」

 

 自分の子を勘当するなど、余程のことだろう。

 父親として、息子に与えてしまった苦しみに負い目を感じながらも、それでも幾分かでも幸せに暮らせるようにと努力してきた自分を否定されたように感じたのかもしれない。

 

「<レーベの村>を出たあの子は、名前を捨て『バコタ』と名乗り、わしの住むこの塔を住処とした」

 

「それが、恨みにどう繋がると言うんだ!」

 

 元来気が長い方ではないリーシャは、老人の話すことに痺れを切らし、声を上げた。

 隣で、心底呆れたように溜息を吐くカミュが視界に入ったが、リーシャは早く結論を言えとでも言いたげに老人を促す。

 

「……ただ……あの子一人がここに来たのではないのじゃ……あの子には妻と幼い子供がおった。妻となった年若い女性は、あの子の境遇を知って尚、あの子を愛し、盗賊になると言ったあの子を必死に止めていたそうじゃ。それでも決意の変わらぬあの子に付いて行く事を決め、三人でこの塔に移り住んで来た」

 

「……それは……もしかして……」

 

 サラは自分の考えが辿り着いてしまった結末を信じたくなかった。

 そんな悲しい結果は知りたくもない。

 しかし、老人が話し出す結末は、サラの考えていた物など遥かに飛び越えたものであった。

 

「<盗賊の鍵>を使い、盗みを行っていたあの子が、小さなミスからこの住処を知られる事となる。アリアハンから大量の兵士がこの塔に押し寄せて来たが、既に下の階での生活場所はあの子たちに譲り、ここで生活していたわしは気付く事が出来なかった」

 

 話が進むにつれ、老人の顔の皺は濃くなり、骨と皮だけの身体を尚更痛々しく見せていく。

 話を聞いているリーシャとサラも、これから話される結末を考え、顔を歪めた。

 カミュは能面のような表情を更に深め、表情を失くして行った。

 

「あの子を捕らえた兵士達は、捕らえられる直前にあの子が逃がした妻と子を追った。地下道に逃げ込んだ二人を数人の兵士で執拗なまでに追い詰め、子供の方を先に殺し、妻の方は兵士達で何度も何度も凌辱を繰り返し……最後には殺したそうだ……」

 

「!!」

 

「……そうか、地下道にあった親子の骨はその二人か……魔物ではなく、人間に殺されていたとはな……」

 

 サラは完全に俯いてしまう。

 自分が先程ぶつけた言葉がどれ程酷い言葉だったのかを痛感していた。

 もし、この真実を知っていたとしたら、<レーベの村>にいる老人の『恨み』と『憎しみ』は、サラ等が口を挟む事を許さない程の物であろう。

 

「ちょ、ちょっと待て! 何故、貴方がそれを知ったのだ!? 貴方は階下の事は解らなかったと言っていただろう!」

 

「わしは、元から国家の罪人であり、神敵だからの……わしの所まで上って来た兵士が、自慢気に話してくれた……」

 

 肉の付いていない手を、血が滲む程に握り締め、小さな呟きのような声で老人は答えた。

 リーシャとしては、一般兵とはいえ、アリアハンを代表して盗賊捕縛の命を受けた者が、そのような非道な行為をした事実を信じたくはなかったが、老人が何の脚色もなく真実を語っている事は明白。

 それは、先程、盗賊行為に関しての見解を述べた事でも窺えた。

 

「わしは、その兵士達がここの入口を塞いでからの事は解らん。あの子が生きておるのか、それすらも解らん」

 

「バコタは生きています。まだ牢獄の中でしょう……一つお聞きしたいのですが、貴方がその兵士の行為を知った経緯は解りましたが、何故弟さんはそれを知ったのですか?」

 

 再び、余所行きの仮面を被ったカミュが老人に素朴な疑問を投げかける。

 確かに、今の話では、<レーベ>にいるバコタの父親がその事実を知る経緯が解らないのだ。

 リーシャとサラがそれを知らない以上、アリアハン大陸で公表されている訳ではない。

 

「それは、わしにも解らん。あの子には何人か部下のような人間がいたが、その人間が伝えに行ったのか、もしくはあの子自身が文でも託したのかもしれん」

 

「……」

 

 一連の話が終わり、『ナジミの塔』の頂上にある部屋に何とも形容しがたい沈黙が広がる。

 サラは自分の発言を悔やみ、現実の重みに涙を流していた。

 リーシャもまた、アリアハン国にある黒い部分の大きさに悩み、何も知ろうとしなかった自分を悔やむ。その横で、カミュだけは、何事もなかったかのような、何も感じない表情で老人を見つめていた。

 

「……これを……」

 

 沈黙を破ったのは、老人であった。その破れかけた衣服の懐から取り出した物をカミュへと手渡す。

 それは、小さな鍵。

 錆などが見当たらない程に磨かれ、銀色の光沢を放っていた。

 

「それは、<盗賊の鍵>じゃ。ミスを犯したあの子は、盗賊稼業から足を洗おうとしておった。それは、その前にあの子から渡された物じゃ。この鍵であれば、弟の家の鍵も開ける事が出来るじゃろう」

 

「ですが……それでは、犯罪者と同じではないですか!?」

 

 手渡された物が、盗賊の所有物である事を知り、サラが叫び声を上げる。

 バコタの境遇を知り、アリアハン国の持つ黒い歴史を知って尚、サラはその鍵を受け取る事に抵抗を感じていたのだ。

 

「わしから託された事を伝えなされ……ふむ……少し待っていなさい。手紙も託そう。それも共に渡せば良い」

 

 サラの心の叫びを受け流すように答えた老人は、その細い腕で取り出した紙に筆を走らせた。

 相手の心情を慮る事のない言葉を吐いた自覚のあるサラは、それでも柔らかな笑みを浮かべる老人を見て、居た堪れない思いを抱く。

 

「……まだ、我々の目的を話してはいない筈ですが……」

 

「……ふむ……数か月前に、あの子から噂を聞いた事がある。『魔王』の支配からの解放の為、十数年ぶりにアリアハンから旅立つ者がおると……アリアハン宮廷騎士にアリアハン教会の僧侶。お前さんじゃろ、お若いの?……ならば、お前さんの望みは、この大陸から出る事の筈」

 

 余りにもスムーズに話を進める老人は、カミュが感じた疑問にも、さも当然の事のように一行の目的を言い当てる。その老人の答えにリーシャとサラは驚くが、カミュは無表情に老人を見つめたままであった。

 

「弟は、鍛冶屋の才はなかったが、それとは違う物に非凡な才を示しておった。あ奴ならば、お前さんたちの要望に応える事もできるじゃろう……今の世界が歪んでしまっているのも、魔物達が横行するこの時代が影響している部分も多々ある筈じゃ……」

 

 何かを想うように瞳を閉じた老人を三人は見つめていた。

 一つ息を吐き出した後、老人は再びカミュ達を見回し、ゆっくりと口を開く。

 

「わしはもう長くはない。だが、今苦しんでいる子供達が、少なくとも今よりも幸せに暮らせる世が来れば良いと思っておる。その手助けが出来るのならば、わしが生きていた意味も少しはあるというものじゃ」

 

 続けて話す老人の言葉に、サラは再び自分の頬を流れ落ちて行く物を感じた。

 リーシャもまた、サラの涙を見ながら、老人の話に感じ入る所があったのであろう。先程までの雰囲気はなく、瞳に力が宿ってはいなかった。

 

「……ほれ、これも持って行くが良い」

 

 書き終わった手紙を老人から受け取ったカミュは、無言で老人に頭を下げた。

 暫くの間、頭を下げていたカミュだが、顔を上げたと同時に老人に背を向け歩き出す。

 サラは、初めてみるカミュの姿に、溢れる涙を抑える事が出来なかった。

 

「下の階に宿屋があった。貴方も私達と共に下へ降りよう。このままでは、貴方の身体がもたない」

 

 階段に脚を掛けたカミュを追いかける前に、リーシャが老人へと声をかける。その内容にサラも同意するように頷き、老人を促すように後ろに立った。

 そんな二人の気遣いにも、顔の皺をより一層濃くしながら、優しい微笑みを浮かべて老人は頭を横に数回振る。

 

「……いや、わしはいい……」

 

「な、なぜですか!? このままでは……このままでは……」

 

 老人の悟りきったかのような笑みに、リーシャは何かを感じたように俯くが、サラには老人の言う事が理解できない。老人の手を掴もうと伸ばした手が、行き場を失い、宙を彷徨っていた。

 

「ありがとう……お嬢さん。しかしの……わしは少し疲れた……これからはお嬢さん達の時代じゃ……」

 

「で……ですが!」

 

 尚も言い募ろうとするサラの肩が優しく包まれる。サラが顔を上げると、そこには本当に辛そうに顔を歪めながら、頭を静かに振るリーシャの姿があった。

 サラはそんなリーシャの姿に老人の意志が固い事を感じ、そして、それを飲み込まなければならない事に再び涙する。

 自分の胸に顔を埋めるサラを歩かせながらリーシャが階段まで辿り着くと、先に降りていた筈のカミュが立っていた。

 カミュは、老人が手紙を託した時に、その覚悟を感じていたのだろう。リーシャを見るカミュの瞳がそう語っていた。

 カミュに向かって一度頷いたリーシャは、サラを歩かせながら階段を降りて行く。部屋に残ったカミュは、もう一度深く頭を下げると、振り向く事なくリーシャの後に続いて階段を下りた。

 

広い空間に一人残った老人は、深く息を吐き、虚空を見上げる。

 

「これで良い……わしは、この日の為に生きて来たのかもしれんの……ならば、これでわしの役目も終えよう……」

 

老人は、椅子に深く座りながら言葉を吐き出し、そして静かに目を瞑った。

 

 

 

 一階部分に降りるまで、カミュ達は何度かの魔物との戦闘を行った。

 だが、誰一人として言葉を発する者はいなかった。それぞれの胸中に、先程の老人との対話が影響を及ぼしていたのだ。

 リーシャとサラは今日の朝までは、もう一度、あの宿屋に泊って行こうと考えていた。

 だが今は、とてもではないがそんな気分にはなれない。出来れば、早々にこの塔から離れたいとさえ、二人は思っていた。

 

「……カミュ……<キメラの翼>を買ってはいないのか?」

 

 そんな思いが、リーシャの口から言葉として零れ落ちた。

 少し前を歩くカミュは、その言葉に足を止め、二人の顔を見るように振り向く。

 カミュが二人を見て感じた印象は、『顔面蒼白』。

 それ程、二人の顔色は酷かった。

 

「……アンタは、何時の時代の人間だ?……今のアリアハン大陸で、<キメラの翼>を置いている道具屋などある訳がないだろう?」

 

「ど、どういうことだ!」

 

 カミュが溜息交じりに発した言葉に、リーシャは驚いた。

 いつもと違うのは、サラがそんなリーシャに驚いていた事だろう。それは、サラもカミュと同様の事を考えている事に他ならない。

 

「アンタは国からの補助によって、何度かの魔物討伐の際に<キメラの翼>を使用した事があるのだろうな……だが、今のこの時代に、アリアハン大陸の道具屋が<キメラの翼>を入手する手段などあると思うのか?」

 

「!!」

 

 カミュの言葉を聞いても、その意図する物を理解できていない様子のリーシャに、カミュは盛大な溜息を吐き出す。

 彼女は、例え下級といえども『騎士』だった。

 与えられた武器と防具で国家を護る。

 国家から支給される物で、彼女は全てを賄えていたのだ。

 実際に、食料などの調達でさえ、貴族である彼女には召使いがいる。

 つまり、彼女は正確な意味で、平民の生活を知らないのだ。

 

「……唯でさえ<キメラの翼>自体が希少なのに、こんな外の世界との交流を断った大陸に入手できる方法がある訳がない……アンタが使用した物も、国が昔に入手して、宝物庫にでも入れて置いた物だろう」

 

<キメラの翼>

希少種の魔物である<キメラ>が持つ二つの翼を胴体から切り離した物であり、頭に行きたい場所をイメージしながら、その翼を天高く放り投げると、翼から発する魔力によって行きたい場所へ運んでくれるという、非常に便利な道具である。<キメラ>自体が非常に強力な魔物であり、一匹の<キメラ>から二枚しか取れない為、昔から希少価値が高かったが、他大陸との交流を断ったアリアハンでは、既に一般の者では手に入らない程の道具となっていた。

 

「……サ、サラも知っていたのか?」

 

「は、はい。私のような者は、その存在を文献などで知るだけで、実物を見た事さえありません」

 

 一国の宝物庫にしかない道具である。

 サラのような教会に住む一少女が目にする事などあり得る筈がない。

 それが、貴族であるリーシャと、平民であるサラとの大きな隔たりだった。

 

「……そうだったのか……」

 

 自分の無知と、この塔からすぐに離れられないという事実から、更に落ち込むリーシャの様子を見ていたサラも、同様に気分が沈んで行く。リーシャの言う<キメラの翼>を使用する事が出来れば、塔の外に出てすぐにでも<レーベの村>まで戻る事が可能な筈だ。

 しかし、それが使えないとなると、またあの地下道を通らなければいけない。あの親子の屍のある地下道を。

 重い空気を引き摺りながら、一行は一階へと続く最後の階段を下り終えていた。

 もう一度、あの地下道を通るのであれば、その前に宿屋で身体を休め、明日移動した方がまだ良いとさえサラは考える。この塔の内部で眠る事自体が可能かどうかは別にしても、このままの状態であの地下道を歩くなど出来る訳はなかったのだ。

 それはリーシャも同様であった。

 

「……わかった。とりあえず、塔の外に出るぞ」

 

 一階に降りてから、サラが歩き出さない事に対して、カミュは呆れ返ったように溜息を吐き、外へと歩き出す。カミュの行動を不思議に思うが、付いて行く以外に選択肢はない為、サラはカミュに続いて歩き出し、その後をリーシャも続いた。

 

「……それで、どうするんだ?……一つぐらい<キメラの翼>を持っていたのか?」

 

 塔の一階部分から出た外部は、見渡す限り海であった。

 そもそも『ナジミの塔』自体が小さな島の中央にあるのだ。

 サラが日暮れの海風に当たっている横で、リーシャはカミュへこれからの行動を問いかける。

 

「ルーラを使う」

 

「なに!?」

「えっ!?」

 

<ルーラ>

その効力は<キメラの翼>と全く同じ魔法である。術者自身のイメージと魔法力によって、対象を目的地に運ぶ事の出来る魔法。国家が管理する『魔道書』の中に記載されており、中級の『魔法使い』が契約する事の出来る魔法である。運ぶ事の出来る対象は、その術者である『魔法使い』の力量によって違うが、数人が限度であり、卓逸した魔法力を有する者であっても、荷車や馬車などが限界と云われていた。

 

「カミュ様は<ルーラ>を行使する事が出来るのですか?」

 

 サラの疑問は尤もだ。通常、初級の修行を終えた『魔法使い』が契約出来る魔法である。それを『魔法使い』でもないカミュが使うと言ったのだ。

 それは、アリアハンのみならず、全世界の常識を覆す程の話である。

 

「……俺が初めて覚えた呪文だ……昔、必要に駆られてな」

 

「……」

 

 サラの疑問に答えたカミュの言葉に、カミュの幼少時代の片鱗を見た事のあるリーシャは言葉に窮していた。

 サラもリーシャの様子から、カミュのその答えに、これ以上疑問を挟む事は許されないと感じ、黙り込む。

 

「俺の腕を掴め。掴んだのなら絶対に離すな」

 

 そんな二人の様子を気にするわけでもなく、カミュは詠唱の準備に入る。二人は躊躇しながらも、カミュの腕をしがみつくように掴んだ。

 二人が自身の両腕を掴んだ事を確認したカミュが、一度目を瞑り、何かを考えるように空を見上げる。

 そして詠唱は紡がれた。

 

「ルーラ」

 

 カミュの詠唱の言葉と同時に、カミュを中心に魔法力の光が三人を包み込む。

 サラが、自分の身体が宙に浮いたのを感じたのも束の間、三人の姿は空高くに舞い上がり、北の空へと消えて行った。

 

 

 

 

 

 



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レーベの村③

 

 

 

「サラ、もう大丈夫だ」

 

 リーシャが掛ける声で、サラは自分が目を瞑っていた事に気が付き、慌てて周囲を確認する。そこは、つい先程までの見渡す限り海がある小島ではなく、周辺が平原の<レーベの村>の入口付近であった。

 <ルーラ>は、魔力により術者を運ぶが、時間までを超える事は出来ない。遠くへ行こうとすれば、それなりの時間を要してしまうのだ。

 実際、塔の外で潮風に当たっていた時は、陽が半分ほど沈んだ夕暮れ時であったが、今は、サラの近くにいるリーシャの顔すらも、はっきりとは確認出来ない程、周辺には夜の帳が広がっていた。

 

 一行が<レーベの村>に入ると、外に出ている人間はほとんどいなかった。

 それぞれの家には明かりが灯され、煙突からは暖かな煙が立ち上っている。入口にある番所にも明かりが点けられ、入口の門にも篝火が焚かれていた。

 門に立つ兵士に身分を伝え、村に入る事を許されたカミュ達は、店仕舞いが終わり、どこか物悲しい雰囲気を漂わせる通りを歩いて、宿屋へと足を向けて行く。

 

「……カミュ様、一つお伺いしてもよろしいですか?」

 

 小走りでカミュへと追いついたサラが遠慮がちに問いかける言葉に、カミュは無造作に振り返る。

 サラの顔色は塔内部にいた頃よりも良くはなっていたが、それでも心の奥に残る暗い物を隠しきれてはいなかった。

 返事はしないが振り返った事で、質問を許されたと考えたサラは、そのまま<レーベの村>に着いてから考えていた事を口にする。

 

「……カミュ様は以前に<レーベの村>に来た事はなかったのですか?……地下道の入口のあった小屋の場所に行った時に、<レーベ>に寄る事はなかったのですか?」

 

「……そう言われれば、そうだな……<ルーラ>が使えるのなら、アリアハンを出てすぐに、<レーベ>に来る事が出来たのではないか?」

 

 サラの発した疑問の内容に、リーシャも思いついた疑問を口にする。

 確かに二人が言うように、カミュに<レーベの村>の記憶があれば、<ルーラ>という魔法によって、瞬時に移動する事が可能であっただろう。

 サラの出身地である<レーベの村>ではあるが、幼かったサラには、その村の記憶など微塵も残ってはいない。幼き頃に教会に引き取られ、その後は、つい先日までアリアハンを出た事はなかったのだ。

 

「……<レーベの村>に来た事があるならば、そうしている。討伐隊に同道した時でも、俺には村の中に入る資格はない。周辺警備か、夜通し魔物と戦っているかのどちらかだ。そんな人間に、村の記憶などある訳がないだろう」

 

「!!」

 

 カミュが受けて来た物がどういった事かを知っているリーシャにとっては、そのカミュの言葉に、更に驚く結果となった。

 傷つき戻れば、回復魔法で癒され、再度戦場に送り込まれる。村の中で眠る事も許されず、村周辺で夜通し魔物と戦わされていたと言うのだ。

 自分が所属していた討伐隊がして来た事の苛烈さに、リーシャは聞いた事を後悔する。逆に、カミュの話している内容を理解できないサラは、首を傾げながら、一気に意気消沈してしまったリーシャを不思議そうに見ていた。

 

 

 

「こんばんは、旅人の宿屋にようこそ……おっ、この前のお客さんかい。また、うちに寄ってくれて嬉しいよ。この前と同じ部屋で良いかい?」

 

 宿屋の戸を開けると、先日と同じようにカウンターの中で帳簿と睨めっこしていた主人が、一行を見て嬉しそうに声を上げた。

 この宿屋を出てからあった様々な出来事に参り気味であったサラとリーシャは、そんな宿屋の主人の優しい微笑みに自分達の心が癒されていくのを感じていた。

 

「ああ、この前と同じで頼む。確か、8ゴールドで良かったか?」

 

 カウンターに向かって、腰の革袋からゴールドを取り出したカミュは、そのまま階段の方に向かって行く。旅の疲れと精神的な疲れから、疲労困憊となっていたサラは、部屋に戻る前に、以前と同じようなソファーへと腰掛けていた。

 

「ありがとう。今日は夕食もあるから、出来上がるまでは部屋で一休みしていてくれ」

 

 宿屋の主人の言葉に、リーシャとサラの二人もカミュに続いて階段を上り部屋へと入って行く。主人は妻に来客を告げ、三人分の食事の用意を頼むと、湯を沸かすために風呂場へと向かった。

 

 サラが、主人の沸かしてくれた湯で身を清めた後に食堂に入ると、既にカミュと主人が席に着いていた。

 自分が遅れてしまったのかと思い、慌てて席に着くサラに、柔らかな微笑みを湛えながら主人は口を開く。

 

「普通は、お客さんと一緒に食事をする事はあり得ない事なのだけれど、家内も貴方方がすっかり気に入ってしまって……あの戦士様のお言葉に甘えて、ご一緒させてもらうことになったんだ」

 

「えっ!?……ああ……リーシャさんでしたら、きっとそう言うでしょうね。私は全く構いません。大勢で食べた方が楽しいでしょうし」

 

 宿の経営者が客人と食事を共にするなど聞いた事はない。

 だが、厨房の方から聞こえてくる声の主は、そんなことを気にはしないだろう。自分の身分に誇りを持ってはいるが、それを押しつける事も振りかざす事もしない女性だ。

 サラは日を追うごとに、そんなリーシャという人間を『人』として好きになって行く自分を実感していた。

 

「本当に人が悪いな。こんなに料理が上手なのに、私のような者に『教えて欲しい』など、厭味以外の何物でもないですよ」

 

 両手に皿を持ち、隣にいる女性とにこやかに会話をしていたリーシャが厨房から出て来た。

 両手に持つ皿からは、湯気と共に食欲を誘う匂いも立ち上っている。リーシャの言葉の内容を聞くと、そのほとんどは、宿屋の奥方が作った物なのだろう。

 

「ふふふ。うちの主人が余りにも貴方の料理を褒めるものだから、悔しくなってしまってね。少し、意地悪をしてみたの」

 

 宿屋の妻が持つ大皿からもリーシャが持つ皿と同じように良い香りがしている。サラの隣に座っているカミュもその匂いに唾を飲み込んでいた。

 二人が何往復かして、次々と食卓に料理を並べて行く。数々の料理が放つ匂いにサラの食欲も制限が出来ない状況に陥った頃に、ようやく全ての料理が出揃った。

 

「こら、カミュ!まだ手をつけるな!」

 

 料理が出揃ったことを確認し、料理に伸ばそうとした手をリーシャに叩かれたカミュは明らかに不満そうに眉を顰めた。

 それでも、戦闘時などとは違い、食卓という場所では、カミュよりもリーシャが上である。

 カミュの不満そうな瞳を真っ直ぐと見詰めるリーシャの視線を、カミュの方が先に逸らしてしまった。

 

「ふふふ。ごめんなさいね。もう一人、まだ来ていない子がいるから呼んで来ますね」

 

 そんな二人のやり取りに微笑みながら、宿屋の妻は厨房とは反対側にある戸の中に入っていった。

 その扉の先は、この夫婦の居住区なのだろう。

 

「他にお客様がいらっしゃったのですか?」

 

「……いや……お客じゃないんだ。私達には子供が出来なくてね。つい最近に、養子を貰ったんだ。少し辛い目にあった子なんだが……その影響でなかなか心を開いてくれなくてね……」

 

 サラの問いかけに、宿屋の主人は珍しく俯きながら、哀しそうに言葉を紡いで行く。

 カミュは全く関心を示していなかったが、サラはそんな主人の言葉に何か引っかかる物を感じていた。

 

「……辛い目に?」

 

 サラの呟くような問いかけに、主人は軽く目を伏せ、言い難そうに口を開く。

 これから楽しく食事をしようとする時には合わない話題なのだろう。ぽつりぽつりと語り出した内容は、サラの心を抉って行った。

 

「……ああ……あの子は、両親と共にアリアハンからこの村に向かう途中で魔物に襲われてね。母親が傷だらけになりながら、あの子をこの村まで連れて来たんだ」

 

「……では、ご両親は……」

 

 何か思う所のあったサラは、続け様に問いかけを投げかける。一つ息を吐き出した主人は、サラの方に顔を向ける事なく、テーブルの端を見つめながら、その痛ましい過去を語り出した。

 

「父親は、妻と子を逃がすために死んだようだ。母親の方も、番所の兵士にあの子を預けると、そのまま息を引き取ったそうだ……」

 

「……」

 

 自分と全く同じような過去を持つ子供がいる事に、サラは言葉を失う。

 サラはその子供とは逆に、<レーベの村>からアリアハンに向かう途中で魔物に襲われた。

 三者三様の想いを感じていると、先ほど閉まった戸が再び開く音が食堂に響いた。

 そこから、先ほど入っていった宿屋の妻と一緒に四、五歳の少年が食卓に向かって歩いて来る。主人が言った通り、その姿は暗く物思いに沈んだ表情をし、心を閉ざしている様子だった。

 

「さあさあ、こっちに座って。今日はお客様と一緒に食べさせて頂くから、いつもより賑やかよ。ごめんなさいね、お待たせしてしまって」

 

 宿屋の妻に導かれるまま席に着いた少年は、食卓に並ぶ料理を見る訳でもなく、自分の手元を見詰めたまま動かない。

 宿屋夫婦はそんな少年の姿を沈痛な面持ちで見ていた。

 

「……もういいか?」

 

 食卓に着く全員が言葉を発することさえもできない空気が広がる中、唯一人関心を示していなかったカミュが、その場の空気にすら何の関心も示さずに、食事をとる許可を求めた。

 

「え、ええ、そうですね。いただきましょう」

 

 その言葉を皮切りに食事が始まった。

 例の如く、スープから口にしたカミュは、おそらく、リーシャやサラにしか気がつかない程の満足そうな、小さな小さな表情の変化を起こし、他の料理へと移って行く。

 

「カミュ、前から言おうと思っていたが、食事の前の祈りをお前に言うのは無駄だろうが、食事を作ってくれた人に対しての礼儀はしっかりとしろ」

 

 料理を、掻き込むように口に入れるカミュを見て、ため息交じりにリーシャがその姿を窘める。サラは、そのリーシャの言葉に少なからず驚いた。

 カミュが、『精霊ルビス』への祈りを行わない事を容認したような発言をしたのだ。

 サラにとって、『今日の糧が自分にあるのも、ルビス様の加護の賜物』という教えを受け、それを本心から信じている。カミュが祈りを行わない事を本当は快く思ってはいないが、それを言い出す事は出来なかったのだ。

 

「……ん?……ああ、そうだったな……すまない。頂いています」

 

「ぷっ!」

 

 リーシャの言葉に素直に従ったカミュが発した言葉はどこか間の抜けたような言葉で、リーシャとサラは唖然としてしまったが、カミュの普段を知らない宿屋一家は総じて吹き出してしまった。

 意図的ではない趣向により、食堂が和やかな雰囲気に包まれる。

 その証拠に、先程まで料理の美味しさに多少表情が緩んでいたように見えたカミュの顔が、憮然とした物に変わっていた。

 

『何故、カミュはリーシャの言葉は比較的素直に聞くのか?』

 

 和やかな笑いの中、サラはふと疑問に思った。

 カミュはリーシャの前だと、表情の変化を見せることが多い。

 皮肉気な笑みや、怒り表情に、からかいの笑みや不機嫌な顔。

 日常的な事でのリーシャの注意には、素直に従う事も多々ある。

 

『何故?』

『カミュは、リーシャに一目惚れでもしたのか?』

『自分が知らない間に、二人の中で何か進展があったのか?』

 

 サラは、自分の考えがただの勘違いではないように感じ始める。いつの間にか、カミュの事を考えていた筈が、リーシャまでをも巻き込み、二人の間の在らぬ関係まで想像を膨らませていた。

 たった、一週間やそこらで、あれだけいがみ合っていた者同士が、恋仲になどなる訳がない。

 サラの盛大な勘違いは、後々二人の逆鱗に触れる事になるが、それはまた別の話。

 

 食堂に来た時は、料理に手をつけようとしなかった少年でさえ、ゆっくりではあるが、料理を口に運び始めている。 

 そんな様子を、宿屋夫婦が優しい眼差しで見ている。

 その家族の優しさを、サラは若干羨ましく見ていた。

 

「そう言えば、お客様の事をお聞きするなどは大変失礼なのですが、お客様方の旅の目的は何なのですか?……商団の護衛という訳でもなさそうですし……」

 

 主人は、いつものような砕けた調子の言葉ではなく、宿屋と客という部分に遠慮をした様子で、カミュとリーシャのどちらともつかない方へ問いかけた。

 これには妻の方も同じ疑問を持っていたのか、子供へと向けていた視線を上げ、興味を示す。

 リーシャは、一度カミュとサラを見てみるが、カミュは食事を続けていて、リーシャの視線に気が付いていない様子であり、リーシャはサラに一つ頷くと、主人の問いに答えるため咳払いをした。

 その様子が若干滑稽であった事が、サラの顔に笑みを浮かばせた。

 

「私達は、魔王討伐の命を国王様から受けて旅を始めた。こっちは、英雄オルテガ殿の息子のカミュ。こっちはアリアハン教会に属する僧侶のサラ。そして、私は宮廷騎士のリーシャという」

 

 リーシャが語る言葉が進めば進む程、宿屋夫婦の表情から笑顔が消えて行き、その顔色が青を通り越して土色に変わって行った。

 少し自慢気に語るリーシャに微笑んでいたサラも、夫婦の変化に気付き、首を傾げてしまう。

 

「も、申し訳ございません! 貴族様とは知らずにとんだご無礼を! ましてや、食事の席に同席してしまうなど…………お許しください!」

 

 リーシャの言葉が終わった途端、夫婦揃って、椅子を立ち、その場で膝を折り平伏してしまった。

 サラは宿屋夫婦の変貌ぶりに驚いたが、カミュはその様子を冷ややかに見た後、リーシャへと批難の視線を向ける。当のリーシャはその状況が理解できず、ましてや何故自分が批難の視線を受けるのかも理解出来ていなかった。

 

「い、いや、顔を上げてくれ。そんな気はないんだ。それに、共に食事をする事を提案したのは私なんだ。許す許さないの問題ではない」

 

 何とか絞り出したリーシャの言葉は本心であったろうが、宿屋夫婦は床に平伏したきり動こうとしない。

 サラも呆然とした状態からは立ち直りはしたが、今の状況に戸惑い、何をすれば良いのか答えが出せず、おろおろとするのみであった。

 そんな中、口に入れた物を飲み込み、溜息を吐きながら無関心を通していたカミュが口を開いた。

 

「貴族とは言っても、貴方方を罰する程の権力を有さない没落貴族だ。俺に至っては、貴方方と同じ様な、アリアハン城下町の外れに住む平民の出。こっちの僧侶に関しては、元を辿れば孤児でしかない。貴方方が恐れるような存在ではない。席に戻ってくれ。今、話した通り、貴方方と共に食事をする事を望んだのはこちら。できれば、前の時のように食事を続けたいのだが……」

 

 没落貴族と言われた時、リーシャの額に筋が立ったようにサラには見えたが、カミュの口調の中に、本当にこの宿屋夫婦を気遣う物を感じたのであろう。リーシャはカミュの話に口を挟まず、黙って聞いていた。

 

「……は、はい……」

 

 ようやく顔を上げた夫婦の表情は、食事を始める前の自然の笑顔とは似ても似つかない、堅く引き攣った物であった。

 その表情にリーシャは遣る瀬無い思いになり、サラは改めて貴族と平民との垣根の高さを実感した。ただ、この場にいた者の中で、一人だけは違っていたのだ。

 

「お兄ちゃん達は、『魔王』を倒しに行くの?……これから、魔物とたくさん戦うの?」

 

「こ、これ!」

 

 今まで口を開く事が全くなかった少年が不意に言葉を発した事に、食堂にいる全ての人間の視線が少年に集まった。

 主人は、今までのやり取りで一息ついた途端の義息子の一言に、大いに慌てる事となる。しかし、少年の視線は、三人の中心にいる『勇者』だけに向けられていた。

 

「ああ、そうだな。『魔王』を倒す為には、ここから先、数多くの魔物と戦う事になるだろうな」

 

 少年を見つめながらも口を開こうとしないカミュに代わって、リーシャが少年へ返答する。そのリーシャの答えに、今まで心痛な面持ちで食事をしていた少年の顔に変化が現れた。

 手に持っていたスプーンをテーブルに置いた少年は、答えたリーシャに対してではなく、黙って自分を見つめる一人の青年に向かって口を開く。

 

「じゃあ……いっぱい、いっぱい魔物を倒してね! あいつらは……僕のパパとママを……うっ…うっ……」

 

 少年の胸の内を明かされ、先程の余韻が残る食堂内は、更に重苦しい雰囲気に飲まれて行く。

 両親が自分の目の前で死んで逝くのを見て、心に傷がつかない人間などいない。

 同じような境遇を持つサラには、その心が痛い程わかった。

 幼い少年の悔しさと歯痒さをぶつけられ、リーシャも決意を新たにする。唯一人、カミュだけは食事の手を止め、表情を失くしたまま、少年を見ていた。

 

「約束します。貴方に代わって、魔物達に正義の鉄槌を下す事を……そして、『魔王』を倒して、平和な日々を取り戻す事を……」

 

 最初に口を開いたのはサラであった。

 少年を真っ直ぐに見詰め、胸に手を置き、少年の願いを受け止めるように頷く。チラリと視線をサラへと動かした少年は、表情を変化させずに頷きを返す。

 流れる涙を腕で拭い、顔を上げた少年の顔を、リーシャは優しく眺めるが、ふと隣に座るカミュの手が止まっている事に嫌な予感が発動し、視線を向け、頭を抱えたくなった。

 そこには、あの表情を失くしたカミュが、サラと少年のやり取りを見ていたのだ。

 

 『まさか、ここで以前の宿営地でのような話をするつもりなのか!?』

 

 リーシャは、『少年に向かって、あのような事は言わないだろう』という思いはあるが、自信がない。

 少年の返事に、先程まで土色だった宿屋夫婦の顔色もようやく戻って来たというのに、再び重苦しい雰囲気になる事を望む者はいないのだ。

 リーシャは僅かな望みをカミュに託すしかなかった。

 『余計なことは言うな』と。

 そんな、リーシャの懇願を余所に、満を持してカミュの口が開かれた。

 

「……確かに、魔物を倒して行くのは俺の役目だ……だが、お前にはお前の役目がある。お前には、幸いにも引き取ってくれた夫婦がいる筈だ。産みの親を忘れろとは言わない。だが、これからは、今お前の両隣で、お前を心から心配している二人を護るために強くなれ。それは、魔物に対してだけではなく、貴族等にも対抗できる力もだ」

 

 リーシャはカミュが発する言葉が頭に入ってきたが、あまりにも予想外な為、理解が追い付かない。

 必然的に呆然とカミュを見つめる事になる。

 それはサラに至っても同様であった。

 

「……ち…から……?」

 

 ただ、少年一人だけは、カミュの言葉をしっかりと聞いていた。

 彼のような年の子供にとって、剣を取り、魔物へと向かっていくカミュのような青年は、憧れの対象となり得る者なのだ。

 

「……ああ……この世の中、俺の隣で呆けた顔をしているような、抜けた貴族ばかりではない。そういう者達から、お前の周りの人間を護る力だ」

 

「なっ!!」

 

 突然自分に振られた事に驚いたリーシャであるが、カミュが自分に向けて発した言葉は、明らかな侮辱とは取り辛い物であった。

 カミュは、貴族が平民を虐げている事実を言っているのだ。

 その貴族達の中に、リーシャを含めてはいない事を暗に示しているとも言える。

 『抜けた貴族』という部分に怒りが込み上げるが、それが発散できない歯痒さをリーシャは噛み締める事となった。

 

「お前という個人を、そして自分という存在を、しっかりと見てくれる人間がいるという事は、本当に幸せな事だ」

 

「……うん……」

 

 サラに返した頷きとは違い、少年は自らで思考しながらカミュへと頷きを返している。

 それは、カミュの語る内容を理解できなくとも、聞き洩らすまいとする心の表れ。 

 カミュも少年に向かって一つ頷いた後、もう一度口を開いた。

 

「お前には、二人の父と二人の母がいる。すぐにその幸せを感じろとも言わない。何れそれが理解できる時が来る。その時に、自分の周りの人間を護れる力を持て」

 

「……うん……」

 

 静寂が支配する食堂にカミュの言葉だけが静かに響く。

 大きな声でもない、強い声でもない、どちらかと言えば呟くような声で淡々と話すカミュの言葉が、食堂にいる全ての人間の心を飲み込んでいた。

 

「……カミュ……」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュが、少年を労わるように、そして導くように話す姿を見て、サラは呆然としていた。

 『これは、暗に自分の魔物への復讐という考えを否定しているのでは』とも考えたが、カミュの瞳は純粋に少年だけを映している事が、そうではない事を示している。

 サラは益々、この『勇者』という存在が解らなくなって行く。

 教会の教えを無視し、『精霊ルビス』を侮辱し、意にも解さないと思えば、哀しみと苦しみに苛まれている少年を導くような言葉を発する。

 どれが彼の本性なのか。

 彼の考えの根底にある物は何なのか。

 それが、サラには解らない。

 

「……お前が持つ、周りの人間を護る力がどのような物なのかは分からない。それはおそらく、お前がこれから先、生きて行く中で見つけるのだろう。お前には、数多くの選択肢が残っている筈だ」

 

「……せん…たく…し……?」

 

 カミュと少年以外の人間を置き去りにして、二人の会話は進んで行く。

 この食堂は、今は二人だけの世界となっていた。

 そこに他者が入り込む余地などはなく、ましてやその権利もあり得ない。カミュの言葉に異論を唱える事は許されず、少年の思考を止める事も許されはしないのだ。

 

「……ああ……今のように塞ぎ込んだまま、横にいる二人を悲しませ続ける事を選ぶのも、お前を護る為に死んで逝った両親の為にも、前を向いて生きる事を選ぶのもお前だ。そして、前を向くと決めたお前の目指す先を決めるのもな。その目指す先は、何も一つだけではない。ゆっくりと考えて、見つけて行けば良いさ」

 

「……うん……」

 

 少年はカミュに引き寄せられるように、一言一句を聞いている。その隣にいる宿屋夫婦は何時の間にか涙していた。

 リーシャは、そんなカミュを眩しく見上げる。彼の過去の一部しか知らないリーシャは、自分が思っている以上に過酷で哀しい過去を、この『勇者』が持っている事を改めて感じる事となった。

 

「……ご馳走さま……」

 

 言う事はもうないとばかりに、少年から視線を外し、スープの残りを飲み干した後、カミュは席を立った。

 残された人間がカミュを呆然と見守る中、少年の瞳だけがカミュの背中を追って行く。

 

「……お兄ちゃんも……頑張って魔王を倒してね……」

 

 食堂を出ていくカミュの背中に少年は声をかける。その声に、カミュは一度立ち止まるが、応える事も振り向く事もせず、そのまま食堂を出て行った。

 カミュが出ていった食堂は、先程と同じような静寂が支配していたが、それは重苦しい物ではなく、どちらかと言えば戸惑いに近い空気であった。

 誰もが胸に何かを宿し、その想いは決して不快な物ではない。

 

「…………」

 

 カミュと会話をしていた少年の目は、先程まで悲嘆に暮れていた物ではなかった。

 未だに、カミュの話していた内容の八割以上を理解できてはいなかったが、それでも塞ぎ込んでいた心の扉の鍵は開いている。

 後は、その扉を押し開く能力を、少年が持つだけなのであろう。

 

 再度食事を始める少年の様子を、宿屋夫婦は涙で滲んだ視界で捉え、更に涙する。

 リーシャは、ようやく新たな親子としてのスタート地点に立った三人を、優しい瞳で見つめながらも、この空間を作り出した一人の青年に思いを馳せた。

 彼を、英雄オルテガの息子とは認められなかった。

 彼の考え、行動を見ていて、どうしても許せない物も数多くあった。

 しかし何度か、周りへの気遣いや優しさを感じさせる事があったのも事実なのである。 

 

 今も、一人の少年を導いて行った。

 『人』一人の悲しみや苦しみを理解し、そしてその道を示す事など、誰でも出来る事ではない。

 もし、リーシャが同じ事を少年に話したとしても、それを素直に受け止めてくれたかどうかは、正直分からない。それは、『魔王討伐』に向かう『勇者』への憧れが、少年の胸の内にあったという理由もあるかもしれないが、それでも、あれ程心に浸透させる事は他の人間には無理であろう。

 それが、英雄と云われる人間達が持つ、不思議な魅力なのかもしれない。リーシャはそう考え始めていた。

 

 

 

「リーシャさん……カミュ様は、どのような人なのでしょうか……?」

 

 部屋に戻り、寝巻きに着替えながら、サラがリーシャに呟き出す。あれから、食事が終わり、この部屋に入って来る今まで、サラは一言も言葉を発する事はなく、何かを思いつめているような様子であった。

 

「……私にも解らない……ただ……一つ言えるとすれば、アイツは、私達が考えているような幼年時代は送っていないのだろうな……」

 

 リーシャとしてもそう答えるしかなかった。

 カミュから、以前に聞いた話はある。だが、リーシャはその話を、自分の口からサラに言う事はしなかった。

 それは、カミュが語る事だと思っていたのだ。

 サラとカミュの確執は深い。根底にある考え方が真逆に近い。それは、いくら話しても平行線を辿るだけで、もしかすると、『魔王バラモス』を倒したとしても、交わる事はないのかもしれない。

 

「……そうですね……私は正直、カミュ様という『人』が解りません。カミュ様がどんな想いを持ってこの旅に出ているのかも……」

 

「……ああ……」

 

 リーシャには、相槌を打つ以外出来なかった。

 『僧侶』としての教育を施されて来たサラにとって、カミュの考え方や行動が理解できる訳がない事を、リーシャも理解している。しかし、リーシャの胸の中には、先程の食堂での出来事が引っ掛かっていたのだ。

 

「カミュ様は、ルビス様を蔑にされるような方です。私におっしゃっていた事は、今でも私は理解出来ませんし、納得も出来ません……」

 

「……」

 

 サラは、上半身が裸のまま、寝巻きの上着を手に持ち、うわ言のように呟く。年齢の割に膨らみ切れてはいない胸が露わになっている事にも気が付いていないようだ。

 最も、見ているのは、同性のリーシャだけなのだから、気にする事はないのだが。

 

「……私は……ルビス様を蔑にし、魔物を擁護しようとするカミュ様のお考えを許す事は出来ません。魔物は私達の生活を脅かす罪悪です。その考えは、今も変わりません。ですから、私は『魔王討伐』の旅に同道させて頂いています。私が本来進む事の出来た幸せを奪った魔物達に復讐する為に……」

 

「……そうか……」

 

 サラの上着を持つ手に力が籠る。もはやあの上着は、皺で酷い事になっている事だろう。

 だが、サラが初めて自分から『復讐』という単語を口にした事に、リーシャは何故か気持ちが沈んでしまった。

 

「……でも……あの子は、私が魔物を倒す約束をした時も、あのような顔をしてくれませんでした……カミュ様は、あの子の魔物に対する憎悪や、両親を失った悲しみや苦しみを否定する事はありませんでした……それでも、あの子は……魔物への想いは消えなくとも……復讐を考える事はないのかもしれません……」

 

「……」

 

 リーシャは何も語らず、只サラの話す言葉を聞き続ける。

 暫しの沈黙が流れた。

 無理に先を促そうとはせず、サラの胸の中に残る物が自然と吐き出されるのを待つように、リーシャは彼女の瞳を見つめ続ける。

 

「……私は…私は……カミュ様が……あの子に話した言葉を…否定する事が出来ません……」

 

 最後には、持っている上着にサラは顔を埋めてしまった。

 そこで、リーシャはサラが何を話したがっているのかが、ようやく理解できた。

 サラは恐れているのだ。

 自分の考えが変わって行ってしまう事を。

 そして、自分の誓った想いが揺らいでしまう事を。

 

 サラの中で、両親を殺した魔物達への憎悪が消える訳ではない。ただ、自分がその想いによって歩んで来た事が間違いとまでは言わないが、他の道があったのではないかという考えが浮かんで来ているのであろう。

 あの少年が、前を向いて歩き出そうとしているのは、カミュという存在が大きい事は間違いがない。

 それに比べ、『自分は後ろ向きに進んでいるのではないか?』。

 カミュの言っていた、両親の代わりに育ててくれた人間に当たる『アリアハン教会の神父を蔑にしてしまっているのではないか?』と。

 

「……今はそれで良いのではないか?……何も、サラの目的が変わる訳ではないだろ?」

 

 リーシャの言葉に顔を上げないまま、サラは頷き返す。上着に埋めたサラの顔は小刻みに震え、自身の不安を吐き出している事が窺えた。

 彼女は今、自身の中に生まれ始めた、理解不能な『想い』の中、恐怖に震えているのだ。

 

『自分を含め、まだまだ視野が狭い』

 

 それが、リーシャがここ数日で感じた事実だった。

 サラは勿論、カミュに至ってもこのアリアハンから出た事はない。

 故に、自分達の世界は、この小さなアリアハン大陸だけなのだ。

 色々な出来事に対し、良い事なのか悪い事なのかの判断が、その狭い視野の中でしか出来てはいない。

 今は『自分の価値観について考える』という事だけで十分ではないだろうかと、サラの話を聞きながらリーシャは考えていた。

 

「さぁ、もう寝よう。明日は、アリアハンから出る為の準備だ。いつまでも裸のままでは、風邪を引いてしまい、ここまでの苦労が無駄になってしまうぞ」

 

「??……あっ!」

 

 リーシャの言葉を聞き、自分がまだ着替え途中で、しかも上半身が完全に裸のままであるという事にサラは気づき、慌てて寝巻きに着替える。

 その姿は、握りしめ過ぎた上着のせいで、皺だらけのみすぼらしい物になっていた。

 

「…ふっ…ふっ……あはははは! サラ、その寝巻き、皺だらけだぞ! いくらなんでも握りしめ過ぎだ! あはははは!」

 

「……うぅぅ……」

 

 今までの重苦しい雰囲気をぶち壊しにしたリーシャの笑いと、自分の間の抜けた姿を恨めしそうに見詰めた後、サラは無言でベッドの中に入って行った。

 サラがベッドに入るのを確認し、笑いを徐々に納めていったリーシャもまた、ベッドへ入り込む。

 部屋を照らしていたランプの明かりも消え、部屋全体を静寂と闇が支配した。

 

「……サラ……誰しも同じだ。朝からの様々な出来事や話が全て正しいのかは、正直私にも解らない。だが、この世の中には私達の知らない事が山程あるんだ。ならば、知っていけば良い。これから進む道は長く、サラは若い。色々な事を知り、考え、そして答えを出せば良い。焦る必要はないさ」

 

 暗い部屋に響く、リーシャの独り言のような呟きは、隣のベッドに入っているサラの耳にもしっかりと届いていた。

 

「……はい……」

 

 サラの返答を最後に二人の会話は途切れ、暫くすると、リーシャの静かな寝息が聞こえて来る。その寝息を聞きながら、サラはベッドの中で、自分が眠りに落ちるまでの間、自身の胸の中に生まれた『想い』について考え続けていた。

 

 

 

 翌朝、宿屋一家に見送られて宿屋を出た三人は、泉の畔にある家に向かって歩き出した。

 宿屋夫婦に手を引かれ、見送りに出て来てくれた少年を見るサラの表情は、どこか優れない物であったが、自分達の素性を知り、深々と頭を下げている夫婦に、余計な気を遣わせない様に笑顔を作っている。

 つい二日前に訪れた家の戸の前に立つ頃には、サラは勿論、リーシャの表情までもが沈痛な物に変わっていた。

 塔での話を思い出しているのであろう。

 

『例えそれが事実だとしても、どう伝えれば良いのであろう』

『この家に住む老人は、事の全てを知っているのだろうか?』

 

 様々な考えが、浮かんでは消え、二人を悩ましているのだった。

 そんな二人の想いを余所に、カミュは再びその重い扉をノックする。その重苦しい音は、二人の身体を緊張という感情で包み込んで行った。

 暫くして、遠慮がちに空いた扉の隙間から、先日と同じように覗く瞳が見えた。

 その瞳が宿す感情を理解してしまったリーシャ達は、暗がりに光る瞳に怯み、声を出す事が出来ない。カミュという壁が、彼女達の前にあるが故に立っている事は出来たが、もし、前面に立つ事になっていたとしたら、その場に座り込んでいたかもしれなかった。

 

「……また、アンタ達か……話す事など何もないと言ったはずだ!」

 

 これまた先日と同じように、こちらの話を聞く気もないとばかりに扉を閉め、鍵まで掛けられてしまう。三人は大きな溜息を同時に吐くが、その溜息が示すものは、カミュと他の二人では違った物であった。 

 

「……仕方ない……出来る事ならば、使いたくはなかったが……」

 

 カミュは腰につけた革袋から、塔の老人に託された鍵を取り出し、そのまま扉の鍵穴に差し込んだ。

 サラは、差し込む瞬間に何かを呻いたが、鍵を手にしたカミュの手は止まる事はなく、差し込まれた鍵はゆっくりと回される。

 『カチャリ』という乾いた音を立て、まるでその扉の鍵を差し込んだ時と同じように鍵は開けられた。鍵を革袋の中に戻し、ドアノブに手をかけたカミュは扉を押し開く。開かれた扉の先には、広い広間が広がっていた。

 

「……いくぞ……」

 

 カミュの言葉を聞いても、乗り気になってはいない二人は、ゆっくりとカミュの後ろに続いて行く。勝手に鍵を開けて他人の家に入っていく罪悪感が、リーシャとサラの胸に湧き上がっていた。

 入った広間はかなりの広さを持ち、中央にはこれまた大きな囲炉裏のような物があった。

 囲炉裏には大きな壺とも鍋とも言えない物が火に掛けられており、何かを煮詰めているのか、湯気が立っている。

 鍛冶をしていた人間がいなくなって幾年か経った為なのか、鍛冶に使用する道具らしき物はあるが、埃をかぶり錆だらけの状態でころがっていた。

 

「……上か?……カミュ、どうするんだ?」

 

 広間に先程の老人が見当たらない事から、階段を目に留めたリーシャがカミュへと尋ねる。

 カミュはそれに返答はせず、無言で階段に向かって行った。

 必然的に、リーシャとサラもそれに続く事となる。

 

「ワン! ワン! ウゥゥゥゥゥ……」

 

 二階に上がってすぐに、カミュ達は犬の襲来を受ける事となる。

 突然走り寄り吠え出した声に、サラは危うく階段を踏み外しそうになり、リーシャに腕を掴まれた。

 

「なんじゃ、お前達! どうやって入ってきた! わしは鍵をかけた筈じゃ!」

 

 吠え出した犬の鳴き声に、カミュ達の存在に気がついた老人は、今まで手にしていた紙を机に置き、犬の下に歩いて来る。カミュも、それ以上中へ入る事はなく、姿勢を正し、老人が歩み寄って来るのを待った。

 

「……申し訳ありません……『ナジミの塔』にいらっしゃったご兄弟から、手紙とこの鍵をお預かりしました。お渡ししようとお伺いしたのですが、話をする前に扉を閉められてしまいましたので、失礼とは存じながら、この鍵を使用させて頂きました」

 

 かなりの剣幕で詰め寄ってくる老人に、動じた様子もなくカミュは淡々と言葉を繋ぐ。犬に引き続き、凄まじい剣幕で怒鳴る老人に、サラはリーシャの後ろに隠れてしまっていた。

 

「……兄弟だと!?……それに、それは……あの子の鍵……」

 

 <盗賊の鍵>を目にした老人は、纏う怒気を鎮め、カミュが取り出した手紙を受け取った。

 そのまま、未だにカミュ達に敵意を向けている犬の頭を撫で、先ほど座っていた椅子へと腰を下ろす。そんな主人の様子に、犬も唸るのを止め、老人の足元に丸まるように腰を落ち着けた。

 

「……掛けなされ……」

 

 手紙の封を切りながら、老人は自分の前の席に座るようにカミュ達を促す。促されるまま、三人は老人と対峙するように座った。

 サラは犬に対し、多少警戒しながら座ったが、もはやこちらに犬が関心を示す事は、老人に敵対心を持たぬ限りあり得ない事であろう。

 老人が手紙を読む間、三人は言葉を発する事なく、ただ静かに読み終わるのを待った。

 老人はゆっくりとまるで噛み締めるように一文一文を読んで行く。読んでいた手紙を机に置き、老人が溜息を吐いたのは、結構な時間が経ってからであった。

 

「……済まなかったの……お主達にそれほどの使命があったとは知らなんだ。大陸を出るには、他大陸とを結ぶ『旅の扉』へと続く道を塞いでいる壁を取り払わなければならぬ。これを持って行け」

 

 老人は一度立ち上がり、カミュ達に軽く頭を下げた後、机の引き出しから何かを取り出し、カミュへと手渡した。

 差し出された物を受け取ったカミュは、その不思議な物体を疑問に思う。

 

「……これは……?」

 

「それは、『魔法の玉』じゃ。わしが作った物じゃが……それを壁に取り付けて、その紐の部分に火をつければ壁を壊せるじゃろう……うむ……火を付けたのならば、壁から距離を取る事を忘れるな。近づけば、怪我をする」

 

 老人が机の中から取り出し、カミュが手渡された物は、丸い毬程の大きさの球だった。

 毬よりも重量感があり、更にその球体のある個所から一本紐のような物が飛び出ている。老人が言う点火する部分がここなのであろう。

 

「ありがとうございます」

 

 球を受け取ったカミュは、老人へと頭を下げる。それに倣うように、リーシャとサラも軽く頭を下げた。

 『ナジミの塔』に居た老人が、どのような手紙を記したのかは解らないが、それは決してカミュ達を悪く言う物ではなかったのだろう。

 

「……良いのじゃ……それで、兄は……?」

 

「……」

 

 兄の安否を気に掛ける老人に対し、三人は言葉に詰まった。

 手紙の中には書いていなかったのだろう。カミュ達が去る時の状況を考えれば、あの老人の余命も幾許もなかった筈だ。

 それは、目の前にいる弟との永遠の別れを意味していた。

 

「……」

 

 そんな老人の目をしっかりと見据えてカミュが二、三度首を横に振る。その様子を落胆した様子もなく老人は見ていた。

 手紙には書いてはいなくとも、おそらく覚悟はしていたのだろう。

 

「……そうか……これで、わしは完全に天涯孤独となってしまったのう……お主達は兄の事を知っておったのか……?」

 

 老人の問いかけに、リーシャもサラも返答に窮した。

 『ナジミの塔』に居た老人の境遇は、リーシャの属するアリアハン国家の恥であり、暗部である。それを知っていて尚、この場を訪れるという行為を糾弾されたとしたら、リーシャもサラも返す言葉がないのだ。

 

「……はい……塔の中で色々とお聞きしました」

 

「……そうか……兄も報われぬ人生であったが……わしも兄も、最後にお主らのような若い希望の力になれた。もうそれで良かろう……」

 

 老人の独白に、サラはもう老人の目を見ていられなくなってしまった。

 彼らが悪い事など何一つなかったのかもしれない。国や教会の罪人として括られてはいるが、それが全て正しい事ではないという事実を、理解しなければならないのだろう。そして、サラはまた悩むのであった。

 

「……嫁や孫も帰ってこぬ……兄がそのような状況であれば、二人も既に生きてはなかろう」

 

「!!!」

 

 老人が発した一言にリーシャとカミュは目を見開き、サラは弾かれたように顔を上げる。まさか、バコタの家族の安否を知らなかったとは思わなかったのだ。

 その衝撃の事実に、サラは思わず口を開いてしまう。

 

「……知らなかったのですか?」

 

「……うむ……この子がな……あの子の手紙を持って来てくれたのじゃよ。傷だらけになりながらもな……手紙には『妻子の身柄の保護を頼む』と書いてあったのじゃが……帰って来たのはこの子だけじゃった」

 

 老人が知らなかったとは思っていなかったサラは反射的に問いかけて、返って来た返答にまた気持ちが沈んで行く。バコタは自分自身が投獄された後の事を、この父親に託していたのだ。

 だが、その望みは、アリアハン国家に属する兵士達によって潰されてしまった。

 

「……お主達は……知っておるのか?」

 

「……いえ……その……」

 

 サラには答える事は出来ない。

 あの塔の老人の言う事が全て事実だとすれば、これ程に酷な事はない。

 今は優しげな瞳をした老人の胸に、再び憎悪の炎を灯してしまう事になる可能性をサラは恐れた。

 リーシャも老人の真っ直ぐな問いかけに、言葉を窮している。

 

「奥様とお子様は、『ナジミの塔』から<レーベ>へ抜ける洞窟で、魔物に襲われ命を落としていました。その犬に手紙を託したのでしょう」

 

「ワン! ワン!」

 

 カミュが答えた言葉は、リーシャとサラの予想する言葉ではなかった。

 『嘘』

 それは、アリアハンが犯した罪を覆い隠す嘘。

 『何故?』

 リーシャとサラの胸に、カミュに対する疑問が浮かび上がる。今まで、老人の足元で静かに眠っていた犬でさえ、まるで嘘を言うなとばかりにカミュに吠えかかった。

 

「……そうじゃったか……あの子達には、少しも良い思いをさせてやれなかった……」

 

「ワン! ワン!」

 

 未だにカミュに吠えかかる犬を見つめながら、リーシャは遣り切れない気持ちに苛まれた。

 『アリアハン国に仕える者として、何を言えば良いのか?』

 『謝罪をするべきなのか』と。

 

「あ……」

 

 リーシャが老人に声をかけようとした時、その眼前にカミュの手が挙がった。

 まるで『言うな』とでも言うように。リーシャにも解っていたのだ。

 『今、自分が謝罪の言葉を述べて何になるのか』、『老人の気持ちを軽くするどころか、傷を更に抉ることになるのではないか』。

 そんな考えが回った結果、リーシャは口を噤み、押し黙ってしまう。

 

「……おぉ……すまんの。引き止めてしまったようじゃ……お主達の旅は長い……これから色々な困難にもぶつかるじゃろう……時間はいくらあっても足りない程じゃ。こんな老人の話に付き合わせる訳にはいかん。ほれ、もう行くが良い」

 

「……」

 

 未だに吠え続ける犬の頭を撫でつけながら口にした老人の言葉に、リーシャとサラの二人は、更に押し黙ってしまう。

 サラは、この兄弟の心の強さに言葉を失っていた。

 苦境に立たされ、数十年もの間辛い生活を送って来た者達にも拘わらず、カミュ達を思い遣る事の出来る『強さ』は、サラの心の中に新たな風を送り込んでいた。

 

「……ありがとうございます……では、この<魔法の玉>を頂いて行きます」

 

「……うむ……」

 

 最初に扉の前で出会った時とは違い、老人は優しげな微笑みで、カミュ達を送り出そうとする。

 その笑顔が、サラに再び口を開かせた。

 それは、『ナジミの塔』で口にした言葉であった。

 

「……あの、一緒に……」

 

「サラ!!」

 

 そのサラの提案を予測していたのであろう。リーシャがサラの言葉を途中で遮った。

 リーシャは、この老人の胸中にある想いを理解していたのだ。

 その想いの重さと厳しさを理解しているからこそ、それを『覚悟』として受け止める事が出来る。

 それは『諦め』なのかもしれない。

 それでも、それを受け入れる以外に他はない事を、リーシャは知っていた。

 

「……ありがとう、お嬢さん……じゃが、兄があの塔を出ずに最期を迎えたように、わしも生まれ育ったこの村で死を迎えたいのじゃ……」

 

「……あ…あ……」

 

「サラ、行こう」

 

 兄弟そろって申し出を断られ、その決意を理解しながらも、『何故?』という想いをサラは捨て切れなかった。

 それが、今のサラの限界なのだろう。

 この大人に成り掛けている女性には、圧倒的に経験が少な過ぎるのだ。

 リーシャのように、『人』の覚悟を受け入れる事は出来ない。しかし、俯くサラの肩を抱きながら、『それが、サラの良さなのかもしれない』とリーシャは考えていた。

 

「……では、失礼します……」

 

「……うむ……わしが言うのも可笑しいが、世の中には色々な『想い』が渦巻いている。それに飲み込まれぬよう、しっかり自分の道を歩みなされ」

 

 老人に向かい一つ頷いた後、頭を下げたカミュも階段の方へ向かって行く。既に、リーシャはサラを伴って階段付近まで移動していた。

 しかし、そんな一行の進路を阻む者が現れる事となる。

 

「ワン! ワン! ワン!」

 

 カミュ達が階段に辿り着くと、噛みつかんばかりの勢いで、先程の犬が飛びかかって来た。

 サラはリーシャの後ろに隠れるが、犬の目的はカミュのようであり、その足下に移動して来た犬は、カミュの顔を見上げながら、力の限り吠え続ける。その犬の様子に驚いていたのは、この家の主である老人だけであった。

 

「どうしたのじゃ?……いつもはこのような事はないのにの……」

 

 老人は、飼い犬の予想外の行動を不思議に見つめるが、三人にはその犬の行動の理由が理解出来ていた。

 吠える事を中断した犬は、カミュのマントの裾を口で掴み、椅子の方へ引っ張って行こうとする。

 まるで、『もう一度座り、話をしろ!』とでも言うように。

 カミュはその様子を、無表情に見つめていたが、やがて座り込み、優しく犬の頭を撫で始めた。

 

「……すまない……許してくれ……」

 

 カミュは犬の頭を優しく撫でながら、犬と目線を合わせ語りかける。

 この家に一人暮らす老人に真実を伝えられない事への謝罪を。

 そして、この犬の無念を晴らす事の出来ない事への謝罪を。

 

 カミュの後ろ姿を見たサラは、視線を落とす。

 リーシャは、サラが泣き出してしまう前にその場を立つ事にし、『先に行く』と告げた後、サラを伴い階段を降りて行った。

 

「クゥン……」

 

 暫くはカミュの目を見つめていた犬であったが、諦めにも似た鳴き声を漏らし、首を下げて老人の下へ戻って行った。

 その泣き声に、どれ程の罵声が織り交ざっている事だろう。

 もし、彼が飼い主の惨殺される現場を見ていたのならば、その事を伝える事が出来ない不甲斐無さをどれ程悔やんでいるのだろう。

 そして、それを伝える事の出来る筈の人間が真実を話さない事にどれ程の憤りを感じているのだろう。

 カミュは無表情のまま、離れていく犬の後ろ姿を見つめていた。

 

「ふぉふぉ。どうやら、久しぶりに若い人達に会い、寂しくなったようじゃな」

 

「……では……」

 

 犬の心情を図る術を知らない老人に言葉を返す事なく、カミュはもう一度頭を下げると、老人の送り出す言葉を背に階段を下りて行った。

 

 

 

「……カミュ様……どうして……」

 

 老人の家を出て、しばらく歩いたところで、サラが口を開く。

 『何故嘘をついたのか?』

 それをカミュに問いかけているのだろう。自分の口からはとても真実を話す事は出来なかったのに、嘘を告げたカミュに対し疑問を投げかける。

 事情を知っている人間からすれば、随分と勝手な言い草である。

 

「何もかも事実を知るという事が、何時も幸せに結び付くという訳ではない筈だ」

 

「……」

 

 カミュから返って来た答えに、サラもリーシャも返す言葉がなかった。

 正に今、サラは真実を知ったばかりに思い悩む事となっている。その先にある物が幸せに結びつくか否かは、今のサラには分からないのだ。

 

「……ですが、バコタさんが帰って来た時には、真実を知る事になりますね……」

 

「……いや、それはない……」

 

 今、自分達が伝えなかったとしても、何れ真実は老人の耳に入るとサラは考えていたのだ。

 しかし、そのサラの言葉を否定したのは、カミュではなくリーシャだった。

 サラの後方を歩いていたリーシャは、振り向いたサラの目を真っ直ぐ見つめ、口を引き締めたまま立っている。

 

「……どうしてですか……?」

 

「……それは……」

 

 サラの言葉を反射的に否定はしたが、その理由については言い難そうに口籠るリーシャに、サラは嫌な予感を禁じえなかった。

 そして、その嫌な予感を現実にしたのは、やはりカミュであった。

 

「現状のアリアハンでは、バコタが帰ってくる事はあり得ない」

 

「……どういう事ですか……」

 

 後方に振り向いていた首を戻したサラは、再び疑問を口にする。

 その瞳は不安によって揺れ動き、カミュの瞳を正視する事が出来てはいない。彼が何を口にするのかは解らないが、それが良い物ではないという事に気付いてはいるのだ。

 

「今のアリアハン国では、民達の不満の捌け口が無いからだ」

 

「……え!?」

 

 サラはカミュが話している内容が理解できない。

 『何故、バコタの帰還にアリアハン国民の感情が関係してくるのか?』

 そんな疑問が浮かんでは消え、サラの頭は混乱を強くして行った。

 

「アンタのように、親や子供を魔物に殺された人間の怒りの捌け口は、何処へ向かう?……魔物か?」

 

「……当然です……」

 

 サラは即座に返答する。

 サラ自身が、『憎しみ』という感情を、この世界に生きる魔物全てに向け、『復讐』を胸に抱いているのだ。

 世界中には、サラと同様に、魔物によって親族を亡くしている者達は数多い。その者達の『怒り』や『憎しみ』の矛先は、当然自分と同様に、魔物であるとサラは考えていた。

 

「それは、アンタが魔物に対抗する能力があるからだ。では、能力を持ち合わせていない人間はどうする?……魔物を憎んでも、自分では魔物に向かって行く事の出来ない人間は?」

 

「……それは……」

 

 魔物に家族を襲われ、途方に暮れた人間は数多くいる。その中には、魔物への復讐の念を募らせ、自ら討伐に出る人間もいるが、大多数は泣き寝入りとなってしまうのだ。

 そして、大黒柱である男を失った家族は、生活する事もままならず、路頭に迷う事となる。

 

「その不満の行き着く先は、国家やそれに準ずる施設だ。それ以外にも、国の要人達への不満なども多く上がっているだろう。その為にも、捌け口を国が作る必要がある」

 

「……」

 

 カミュの言葉の意味が、未だにサラには理解できない。そんなサラの様子に、カミュは深い溜息を吐き出した。

 後方で立ち止まっていたリーシャは、そんなサラに近づき、傍に控えている。リーシャには、カミュの話している内容が理解できているのだろう。

 

「まだ解らないか?……自分達よりも境遇が悪い人間がいれば、それに対する優越感が生まれ、一時的にでも不満は発散される。ならば、国がそれに相当する人間を作ってしまえば良い」

 

「……何を…するの…ですか……?」

 

 『聞いてはいけない』

 サラの中で、そんな警告が鳴ってはいたが、サラはカミュに先を促してしまう。それは、茨の道の門を叩く愚かな行為であった事を悔やむ事となるのだが、この常に考え、悩む『僧侶』は、自らその道の門を潜ろうと足を踏み出した。

 

「……公開処刑だ……」

 

 しかし、促した答えを口にしたのは、サラの後ろを歩くリーシャだった。

 サラはリーシャの発した言語の意味を、頭の中で理解するまでに数秒の時間を要する。

 それ程に、衝撃の強い問題であり、教会という閉ざされた空間で生きて来たサラの頭の許容範囲を大きく逸脱してしまう問題だったのだ。

 

「……罪を犯した罪人を、国民皆の前で処刑する……『この人間は、他の人間にとって厄災となった人物であり、魔物と同じだ』とな。それも、バコタ程の大物であれば、処刑までの日取りも早まるだろう」

 

 リーシャを見つめていたサラの後ろから、カミュが先を話し出す。頭の中の混乱に拍車をかけるように、前から後ろから答えが出て来る事に、サラは目眩がしてきた。

 サラの身体を支えるように腕を掴んだリーシャの瞳を、虚ろに見上げたサラの瞳は、大きく揺らいでいる。

 

「……そんな…そんな…こと……」

 

「それは、国を統べる者が考える、国民感情の操作として当たり前の行いだ。簡単に批難出来る物ではない」

 

 縋るようにリーシャを見つめるサラに向かって、カミュが止めの一言を発する。サラのような一介の『僧侶』が疑問を呈して良い問題ではないのだ。

 国家を維持する為、その国に生きる国民の心を護る為、その行事は『必要悪』だとカミュは言っていた。

 

「で……ですが!」

 

「……サラ……それが事実だ。殺人などの罪を犯した人間の処刑は、そのような形で行われる。それはサラも知っていた筈だ。その人間がどういった人間なのか、どういう生い立ちなのかは、国民には関係がない事なんだ」

 

 リーシャも宮廷にいる際に、何度かこの処刑に立ち会った事がある。ただ、その頃は、罪人達の内情など考えもしなかった。

 罪を犯した人間が裁かれる事は、当然とさえ思っていた。

 それはサラも同様である。教えに背く者、国家の罪人となった者、そういう人間が裁かれるのは、自業自得とさえ考えていたのだ。

 

「俺が聞いていた話では、バコタは盗賊であっても、殺しという罪を犯した事は一度たりともない。だが、最近スラムでも事件が起こっていない筈だ。故に、アリアハン大陸一の盗人である『バコタ』という人物を、国を挙げて捕縛したのだろう」

 

「……」

 

「……おそらく、あの老人もそれは解っていたんだろうな……」

 

 カミュはそう言うと、止めていた足を再び動かし、先を歩いて行く。

 余りにも大きな衝撃を受け、サラは呆然としていた。そんなサラの背中に優しくリーシャの手が触れる。

 先程まで対していた老人は、そんな国の掲げる『必要悪』とされた者の一人。

 故に、自分の息子の行く末にも察しは付いていたのだ。

 

『これで、わしは完全に天涯孤独となってしまったのう』

 

 自身の兄の最後を聞いた時に老人が溢した言葉をサラは思い出した。

 本来であれば、投獄されてはいても、『バコタ』が生きている以上、あの老人の肉親はいる筈なのだ。

 サラのように考えていれば、何れ戻って来るであろう息子を想い、あの言葉が出て来る事はない。しかし、あの老人は、自身を『天涯孤独』と語った。

 それは、息子を勘当した事を考慮に入れていた訳ではなかった事が、リーシャの言葉で明白となる。

 

「……サラ……冷たいようだが、バコタの事は、私達の旅とは関係のない事柄だ。殺しはしていなくとも、罪は罪。それは、あの老人も、そしてバコタも覚悟の上だろう」

 

「!!」

 

 サラはリーシャの言葉に驚き、落胆した。

 リーシャは、カミュとは違い、自分と同じように考えてくれていると思っていた。

 『裏切られた』という思いを持ったサラは、横に立つリーシャに鋭い視線を向けて、後悔する。

 リーシャの顔は、今にも泣き出しそうな程、歪んでいたのだ。

 リーシャとて、全てを飲み込む事等できる訳ではない。カミュのように、全ての事柄に諦めという感情を持ち、自分には関係ない事だと割り切る事等できる筈はないのだ。

 それでも、このパーティーの中で最年長の自分が取り乱す訳にはいかない。その想いが言わせた言葉だった。

 

「……行こう……サラ」

 

「……はい……」

 

 二人は重い足を引きずるように、前を歩くカミュを追って行く。太陽は既に昇り切り、サラ達の心と裏腹に、雲一つない抜けるような青空が広がっていた。

 それぞれの消化しきれぬ想いを溜め込んだままに一行は歩き出した。

 

 

 

 

 



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いざないの洞窟

 

 

 

 カミュが向かった先は、先日来た武器屋であった。

 中に入ると、まだ開店したばかりということもあり、客もいない。

 カウンターでは、店主が武器の手入れをしているところだった。

 

「おっ、いらっしゃい」

 

 カミュ達三人が入って来たことに気が付いた店主は、その厳つい顔に精一杯の営業的な笑顔をを貼り付け、歓迎を現してくる。

 

「……すまないが、先日言っていた好意に甘えさせてもらえるか?」

 

「ん?……ああ、剣の手入れのことか?良いぜ、どれをするんだ?」

 

 先日、金額を多めに払ったカミュ達に、店主が約束したサービスをさっそく使おうとするカミュに対し、拍子抜けしたような顔をしながらも、店主は快く承諾した。

 

「ああ、俺のこの剣と……アンタはどうする?」

 

「あ、ああ、そうだな。これも頼む」

 

 カウンターに鞘ごと剣を置くカミュの言葉に、リーシャも腰の剣をカウンターへと置いて行く。二人の剣は、アリアハンを出てから手入れを欠かした事はないが、専門の職人に手入れをして貰えるのであれば、それに越した事はないのだ。

 

「確かに預かった。少しの時間で出来ると思うから、適当に店内を見ていてくれ」

 

「ああ、わかった。それと、その<革の盾>も三つくれ。それぞれの手に合うように加工して欲しいのだが」

 

 剣を持って奥へ下がろうとする店主に向かって、カミュは店主の横にある<革の盾>を指差す。カミュの言葉を聞いて、店主は商売人らしい笑顔を向けて、壁に掛けられてあった盾を下ろし、カミュ達の前に置いた。

 

「おう、ありがとうよ。じゃあ、剣を研いでいる間に盾を装備してみて、不具合を確認しておいてくれ」

 

「この先は、どんな魔物が出てくるのか分からない。万全の用意をしておく為にも、盾は必要になる筈だ」

 

 サラはカミュから手渡された盾を両手で抱えながら、自分の盾の具合を確認しているカミュを見ていた。

 サラの心の中では、未だに様々な想いが渦巻いている。

 浮かんでは消え、浮かんでは消えの繰り返しを続ける疑問を消化する事が、彼女には未だに出来ないのだ。

 

 『なぜ、何事もなかったように振る舞えるのか?』

 『カミュにとって、この一連の出来事は、関心を示す価値もないものなのだろうか?』

 

 今のカミュの姿に、無理をしている様子は見えない。

 『やはり彼は、『人』としての感情を持っていないのかもしれない』とサラは考えてしまっていた。

 

「サラ、あまり考えるな」

 

「……リーシャさん……」

 

 そんなサラの肩に手をかけ、覗きこんでくるリーシャは、まだ無理をしているようだが、それでも普段通りに接しようとしている事が理解出来る。そんなリーシャの優しさに、サラは昨日の夕食時に感じた疑問をぶつけてみる事にした。

 

「あ、あの……リーシャさん……?」

 

「……ん?…どうした?」

 

 リーシャは、左腕に<革の盾>をつけ、具合を確かめながら、サラを見ずに返答した。

 新たな防具の具合を確かめるのも、『戦士』として当然の行為である。ましてや、カミュやリーシャといった最前線に出る人間にとって、盾は生命線に等しい防具でもあるのだ。

 しかし、その重要な行動は、サラのたった一言で狂い始める。

 

「……リーシャさんは、カミュ様のどういった所をお好きになったのですか?」

 

「……はぁ!?……な、なに!?」

 

 突然ぶつけられた、サラ特製の大型爆弾にリーシャは思わず大声を張り上げた。

 サラの問いかけの内容は聞こえていなかったカミュも、突然上げられたリーシャの奇声に振り返り、訝しげに二人を見ている。

 

「な、何を言っているんだ、サラ!?」

 

「えっ、えっ?……リーシャさんとカミュ様は、あの……そういったご関係に……なられたのではないのですか……?」

 

 自分が、この堅物な戦士に投げつけた大型爆弾の威力を、サラは理解していない。

 故に、突如として、とんでもない事を言い出したサラに凄い剣幕で詰め寄って来るリーシャの圧力に対し、昨日確信していた自信と共に声まで尻すぼみになって行った。

 

「なっ!? なにが、どうなって、そうなったんだ!?」

 

 もはや、完全なパニックに陥ってしまったリーシャは発する言動も支離滅裂であった。

 『これは、もしかしたら、照れているのではないか?』という盛大な勘違いを、サラがしてしまう程の取り乱し様であり、先程萎んでいった自信が再び膨らみ始めて来たサラは、カミュに聞こえないようにリーシャへと話しかける。

 

「い、いえ、何となくなのですけれど、リーシャさんのカミュ様への対応が、最初の頃より柔らかくなったような気がして……」 

 

「どこがだ!!??」

 

 もう、リーシャの声は怒声になっていた。

 確かに根も葉もない事を突然言われれば、頭に血が昇るのも当然だ。

 ましてや、リーシャは色恋には全く縁がない生活を送って来ていただけに尚更である。

 幼い頃から父より剣を学び、父が死んでからは宮廷に入り剣を磨いた。

 異性からの視線など、リーシャの剣への羨望よりも、嫉妬の方が多く、とても甘い香りのする物とは程遠い青春時代であった。

 

「……サラ……お前が、何をどう勘違いしたのか全く理解出来ないが、アイツのような捻くれた奴とそんな関係になる事は、世界が引っ繰り返ってもあり得ない!」

 

 サラの両肩を痛いぐらいに掴み、ゆっくりと否定をするリーシャは、それこそ鬼の形相に近い表情であった。

 しかし、もはやリーシャを姉のように慕い始めているサラには、そんな鬼気迫るリーシャの変貌も通じなかった。

 

「あっ、も、もしかして、照れていらっしゃるのですか?」

 

 サラが発したその言葉は、リーシャの顔から表情を無くさせるのに十分な威力を持っていた。

 まるで、カミュを彷彿とさせる無表情。そんなリーシャを見て、サラは自分の言った事の重大さに気が付き始めたが、それは既に遅過ぎた。

 

 ゴツン!

 

 盛大な鈍い音と同時に、サラは自分の頭部に凄まじいまでの痛みを感じた。

 目の前に火花が飛ぶ。

 眩暈と共に、一瞬サラは自分が立っているのかも分からなくなる程の衝撃だった。

 曲がりなりにも、アリアハン随一の戦士の拳骨を受けたのだ。

 

「……そうか……どうやら、私はサラを甘やかしすぎたのかもしれないな……」

 

 サラに対し振り上げた拳骨を納めながらも、未だに表情を取り戻さないリーシャは、サラに向かって何やら不穏な空気を出している。

 落ちぶれたといえども『貴族』。

 平民の出であり、しかも孤児であるサラが、本来ならば対等に話せる人物ではないのだ。

 何を話していたのか聞こえていなかったカミュでさえ、今のリーシャが放つ雰囲気を感じ、間に入ろうとしていた。

 

「……サラ、今日の朝の訓練は、確か剣の素振りだけだったな……?」

 

「……えっ?……あ、は、はい……」

 

 痛む頭に手を伸ばしかけたサラにリーシャが問いかける内容は、サラの脳裏に疑問符を浮かび上がらせる。

 しかし、近寄っていたカミュは、リーシャの言葉に何かを理解したのであろう。それ以上近寄る事はせず、遠巻きに二人の様子を窺う事にした。

 

「……魔物との実戦を経験しているサラに、素振りだけでは失礼だったな。明日からは、私が直々に稽古をつけてやる。まぁ、簡単な模擬戦だな……」

 

「えっ?……えぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 リーシャとの模擬戦。

 それはいつもカミュと剣を打ち合っている、あれの事である。 

 剣を持って数日のサラには、土台無理な話であるだろう。

 『リーシャは、自分を殺すつもりなのか?』という疑問が湧いて来る程に、その提案は無茶な物であった。

 サラがリーシャの言葉を理解すれば理解する程、その身を恐怖が支配して来る。

 

「……あ、あの……リーシャさん……?」

 

「ん?……なんだ、サラ?」

 

「ひっ!」

 

 恐る恐る顔を上げたサラが見たものは、先程まで無表情だったリーシャの貼り付いたような満面の笑みだった。

 無表情だったリーシャを見た後だけに恐怖が大きい。サラは、痛む頭をさすろうと手を伸ばしながらも、その目を伏せた。

 

「……えっ!?……あ、あぁぁぁぁぁ!!」

 

「!! 今度はどうした!?」

 

 突然上がったサラの奇声に、笑みを張り付けていたリーシャも驚き声を上げる。

 サラは、自身の頭を摩る為に僧侶帽を取り、それを見つめて呆然と立ち尽くしていた。

 

「……私の帽子が……へこんでしまっている……」

 

 先程、リーシャが下ろした拳骨は、サラの脳天を捉える為に、サラが被っていた僧侶帽をも突き抜けていた。

 その際に、当然帽子に拳骨がぶつかり破壊したのだ。

 通常、僧侶が被る帽子は、その形状を崩さない為という理由と、頭部を守るという理由で、その内部をなめし皮で覆っている。つまり、リーシャにあっさりと破壊されはしたが、本来の強度は<革の帽子>よりも高いという事になる。

 

「……柔な帽子だな……そうだ、少し待っていろ……」

 

 自分が破壊した事を全く意に介さず、何かを思いついたように店内を見渡すリーシャを見て、サラはへこんだ帽子を眺めながら溜息を吐く。傍観していたカミュも、盛大な溜息を吐き出し、再び<革の盾>の具合を調整し始めた。

 

「おっ! あった、あった」

 

 そんな言葉と共に戻って来たリーシャは、帽子を外したサラの頭に、取って来た何かを被せる。サラは、突然の事に目を丸くし、リーシャの顔を見つめ返すが、そのリーシャの顔は徐々に崩れて行った。

 

「……ぷっ、あははははははははは! サラ、良く似合っているぞ! あはははは! それを被って、昨日の皺だらけの寝巻きを一緒に着たら、最高装備だ!」

 

「……ぷっ……」

 

 崩れていったリーシャの顔は、爆笑という結果を生み出していた。

 腹を押えながら笑い出すリーシャは、もう止まらない。その状況で、ようやく自分に被せられた物が<革の帽子>である事にサラは気が付いた。

 普通の装備品の筈が、リーシャにあれだけ盛大に笑われると、恥ずかしい物のように感じてくる。カミュにまで噴き出された事が、その感情に拍車をかけた。

 

「それに組み合わせて、<亀の甲羅>でも背負ったらどうだ?」

 

「ぶっ! あはははははは!」

 

 更なるカミュの追い打ちに、収まりかけたリーシャの笑いは、歯止めを失い暴走して行く。

 腹を抱え、崩れ落ちてしまいそうな程に笑うリーシャを見ている内に、今度はサラの顔から表情が失われて行った。

 

「……なんだい?……いやに賑やかだな?」

 

 リーシャの笑い声が響きわたる店内に、店主が戻って来る。手にはカミュとリーシャの剣を持ち、あまりにも賑やかな店内に苦笑を洩らしていた。

 武器屋の店内がこれ程の笑い声に満たされる事は、通常ではあり得る事ではない。

 しかも、自慢気に討伐した魔物の話をする冒険者の不快な笑いではなく、本当に心から湧き上がったような笑いは、店主自体も久しく聞いた事がなかった。

 

「あっ! こ、これも直してください!」

 

 未だに笑い収まらないリーシャに顔を背け、頭から<革の帽子>を取り払ったサラは、手に持つ僧侶帽をカウンターに置き、店主に修理を頼み込む。

 カウンターに置かれた帽子を手に取り、暫く鑑定を行っていた主人だが、サラの瞳を見つめ、若干顔を歪めた。

 

「……ああ、僧侶帽か……まあ、直せなくはないが、何せ特製品だからな……ちょいと値が張るぜ……?」

 

「……えっ?」

 

 店主の言葉に、ゴールドが必要な事に初めて気が付き、サラはカミュに向けて視線を向けるが、そこに立っていたカミュからは、とても良い答えが返って来る様子はなかった。

 必要な装備品を整える為の資金は出すが、個人の所有物に関する事は、自己責任だとでも言うような瞳を向けている。

 

「……自分の懐から出せよ……」

 

 案の定、カミュから帰って来た回答は『出せない』というものであった。

 カミュの瞳を見た瞬間に予想は出来ていた事ではあるが、その答えにサラは愕然としてしまう。

 今、サラの味方は何処にもいなかった。

 

「どうすんだい?」

 

「うぅ……リーシャさんが壊した物なのに……」

 

 三人の様子を見ていた店主が、サラに向かって再度問いかける。カミュから視線を外し、壊れた僧侶帽を哀しそうに見つめたサラは、小さく恨み事を呟いた。

 笑い声が収まり、静けさを取り戻した店内に、その小さな呟きは響いて行く。

 

「サラ……何か言ったか?」

 

「い、いえ! 何も!……修理をお願いします」

 

 『本来ならば、壊したリーシャが出してくれても良い筈だ』という、サラの胸の内はあっさりと見破られ、僧侶帽を壊した張本人に先手を打たれた。

 サラの投下した大型爆弾の結果は、サラの剣の訓練の過酷化と、アリアハンから持って来ていた少ない資金の減少という、サラにとって最悪な状況へ陥れるものとなった。

 

 

 

 武器屋を出た後、一行はその足でレーベの村から出る事になる。村から出た三人は、抜けるような青空の下、アリアハンへ向かう道と反対方向へ歩き出した。

 

「カミュ、他大陸に行く為に必要な『旅の扉』は、<いざないの洞窟>と呼ばれる洞窟内にある筈だ。この先の山道を超えた先に、その洞窟はある」

 

リーシャがカミュの横に立ち、これから進むべき道を指し示している。そこから、少し離れた所で、サラはしょんぼりと俯いていた。

 未だに、リーシャの拳骨が落とされた頭部には、鈍い痛みが伴い、大きな瘤が出来ている。

 

「サラ! 行くぞ!」

 

 リーシャの声に顔を上げると、既に二人は先に歩き出していた。

 慌てて、サラはその後を追いかける。

 彼らの頭上には力強い太陽が輝き、楽な道程ではない事を示していた。

 

 一行はレーベの村から、真っ直ぐ東へと向かって歩き出す。途中の道で出て来る魔物の中には、『ナジミの塔』に住む魔物達なども存在した。

 カミュやリーシャの敵ではなかったが、剣を持ち始めたサラにとってはどれも難敵であり、しかも、<レーベの村>の一件以来、極力、サラを単独で魔物に向かわせるようになったリーシャは、サラの身に危険を感じるまでは手を貸す事をしなかった。

 サラの身に危険が迫ればリーシャが救ってはくれるが、二人が既に魔物を片付け終わった後も、一人で魔物と対峙しなければならない事は、戦闘初心者のサラにとっては辛い物だった。

 中でも、山道に入ってすぐに姿を現した魔物との戦闘は、サラにとって辛い経験となる。

 

 

 

 陽も高くなり、見渡す限り草原だった場所を抜けた辺りで、道が傾斜になり始め、そのまま山道へと入っていった。

 山道を歩く事を知っていたカミュとリーシャは、日が暮れる前に山道を抜ける為、ここまでの道で休憩を挟まずに来ている。その為、サラの息遣いは若干荒れ、歩む速さも衰えていた。

 そんな矢先、先頭を行くカミュの足が止まったのを視界の隅で確認したサラは、『休憩か』と胸を撫で下ろしたが、その期待はもろくも崩れる事となる。

 

「……」

 

 無言で背中の鞘から剣を抜き放つカミュの姿に、サラは大いに落胆した。

 剣を抜いたという事は、また魔物との戦闘の合図なのだ。

 しかし、リーシャに続いて、サラが腰にさした<銅の剣>を抜き、身構えた先に出て来たのは『人』であった。

 黒に近い色のフードを頭からすっぽりと被り、異様な雰囲気を持ってはいるが、姿形は『人』そのものである。それが三人、脇道から姿を現した。

 

「サラ! 気を緩めるな!」

 

 出て来た『人』の姿を見て、一瞬『ほっ』と息を吐いたサラに向かって、リーシャの檄が飛んだ。

 何を言っているのか理解の出来なかったサラの視線の先にいる、フードを被った一人がサラに向け右手を掲げる。サラがそれを視認したと同時に、フードの男の掲げた手から炎を纏う球体が、サラ目掛けて飛んで来た。

 サラがそれを『メラ』だと認識できた時には、避ける事も防ぐ事も出来ない距離まで、火球は迫っていた。

 思わず目を瞑ってしまったサラは、予想していた衝撃と熱が来ない事を不思議に思う。ゆっくりと目を開けると、そこには<レーベの村>で新調した<革の盾>を掲げたリーシャの背中が見えた。

 

「サラ、あれは人ではない。<魔法使い>という魔族だ」

 

<魔族>

獣のような魔物とは違い、知能が発達した者。本能で人を襲う魔物とは違い、理性を有し、理知的に獲物を追い詰める事が出来る者。この世界の魔物には大きく分けて、二種類の魔物が存在する。自然界に存在する獣のような姿形を持ち、知能が低く、本能で人を襲う<魔物>。そして、『魔王バラモス』が登場するまではこの世界には存在してはおらず、『魔王』の出現と共に、この世界に現れた<魔族>。知能は高く、時には魔物を従えていたりする事もある。

 

<魔法使い>

『魔王』の出現と共に現れ、アリアハンが旅の扉を封じる前にこの大陸に渡って来た種。最下級の<魔族>とされ、その身に宿す魔法力も少ない。人間の『魔法使い』と呼ばれる職業の初歩の魔法である<メラ>以外に魔法を行使できない事から、人間の『魔法使い』が魔族に堕ちた者ではないかという説もある。

 

 サラが人の姿をした魔物に戸惑っている間に、カミュは一人の<魔法使い>を斬り捨てていた。

 カミュの剣によって袈裟切りに切られた<魔法使い>は、肩口から盛大に血を噴き出し、山道を赤く染めながら崩れて行く。

 サラには、それが、『人』が倒れて行く様に見えた。

 

「サラ! 呆けるな!」

 

 我に返ったサラは、再び剣を握る手に力を込めるが、その手は小刻みに震えている。

 初めて見る人型の魔物。

 それは、『魔物=獣』という図式が成り立ってしまっていたサラの心に、大きな波紋を作り出していた。 

 

「くそ!」

 

 再びリーシャに向かい『メラ』を放ってきた<魔法使い>に向かって、火球を避けながら突き出したリーシャの剣は、魔法使いの胸を突き抜け、背中からその刀身を見せる。フードの奥にある口のような部分から、血液を吐き出す姿が、サラの目の裏にこびり付いた。

 勇者一行に動揺が走る中、サラが動けない事に気がついた<魔法使い>が、一点突破を考えてサラへ向かい攻撃を繰り出して来た。

 『メラ』による目くらましを仕掛けた後に、そのまま突進を始める。サラは自分に向かって来る魔法を辛うじて避ける事は出来たが、態勢を崩し、<魔法使い>の突進に対処する術はなかった。

 

「サラ!」

 

 リーシャの叫びが空しく響く。

 サラは、リーシャの叫びを耳にし、苦し紛れに手に持つ<銅の剣>を振り抜いた。

 それが、サラの持って生まれた運なのか、サラの言う『精霊ルビス』の加護の賜物なのかは解らない。

 それでも、サラが振るった剣は、カウンター気味に突進してきた<魔法使い>の、フードに隠れた眉間部分に吸い込まれて行った。

 元々打撃系の武器である<銅の剣>が、まともに眉間を打ち抜いたのだ。

 いくら非力なサラの剣とはいえ、その衝撃は相当な物である。

 <魔法使い>は、頭部から噴水のように血液を撒き散らし、崩れるように倒れて行った。

 

「……あ…あ……」

 

 自分の剣が起こした事象を確認したサラは、声にもならない呻き声を上げる。

 リーシャは一息安堵の溜息を洩らし、サラに近寄って行くが、カミュの方は、<魔法使い>の持っていた物資などを革袋に入れた後、そんなサラの様子を冷ややかに見ていた。

 

「サラ……何度も言うが、あれは『人』ではない。サラは『人』の命を奪った訳ではない」

 

 リーシャは、今サラが何を考え、何に押し潰されそうになっているのかが解っていた。

 リーシャも討伐隊に入隊したばかりの時に、あの<魔法使い>という魔族に遭遇し、今のサラと同じような状況に陥った事がある。

 魔物と言えば、その姿は獣のようなものが多い中、突如出現した人型の魔物。

 討伐隊に入隊する以前から、その存在は知っていたが、初めて目にした時、殺人に近い行為をする事に手が震え、足が竦んだ。

 

「……は、はい……」

 

「サラだけではない。私も、初めてあれと対峙した時には、同じ葛藤があった。殺した後は、今のサラと同じように罪悪感にも苛まれた」

 

 俯きながら小さく返答したサラであったが、そんなサラの肩に手を置いたリーシャの言葉を聞き、弾かれたように顔を上げる。躊躇なく<魔法使い>を斬り倒して行ったカミュとリーシャを見て、『自分の感覚が異常なのだろうか?』という疑問を持っていたサラにとって、そのリーシャの言葉は、光明にも見えたのだ。

 

「リーシャさんも……ですか……?」

 

「……ああ……恥ずかしい事だがな。あの時は、今のサラの歳よりも下だった」

 

 リーシャの告白に、今まで胸を締め付けるようにあった罪の意識が軽くなったような錯覚に陥る。今の自分よりも年若い時に、このような感情を抱く事になったリーシャに同情する反面、強い精神力を有していると考えていた宮廷騎士でさえ、そんな葛藤を持っていた事に安堵したのだ。

 

「だが、どんな姿形をしていても魔物は魔物。私が属す、アリアハン国で暮らす国民達の生活を脅かす存在に変わりはない……そう考えるようにした」

 

「……そうでしたか……」

 

 自分と同じような葛藤を、アリアハン随一の戦士が駆け出しの時分に持っていたという事実。

 そして、それを克服するための考え方を聞き、サラも下げていた頭を上げる。顔を上げたサラを、リーシャは優しく見つめていた。

 すぐに克服出来る物ではないが、その為に歩き出す事を決意したとリーシャに伝えるために、サラはリーシャに向けて微笑んだ。

 

「獣であれば殺しても良いとは、随分都合の良い話だな」

 

 その時、微笑み合う二人の表情を凍りつかせる言葉が、後ろにいる無表情の青年から発せられる。

 今まで前にいた筈のカミュが、いつの間にか二人の後ろに移動していたのだ。

 その言葉に、勢い良く振り向いたリーシャとサラの表情は、対照的な物となっていた。

 

「なんだと!?」

 

 いつものように、過剰に反応を返すリーシャに対し、サラはその真意を知りたくなる。この無表情な青年の思考を知る事こそが、その考えを正し、『精霊ルビス』の教えを伝える事への第一歩となると考えた。

 

「では、カミュ様は、なぜ魔物を殺すのですか?……カミュ様も、今まで数え切れない程の魔物を倒して来た筈です」

 

 リーシャのいつも通りの反応を受けていたカミュは、突然自分に向け強気な発言をしたサラの方に視線を向け、少し考える素振りを見せた後、その口を開いた。

 それは、辛辣な言葉を予測していたサラや、怒りを見せていたリーシャの予想を外す物だった。

 

「……俺に敵意を向けたからだ……魔物であれ、人間であれ、俺の存在を無にしようとする者ならば、殺す……それが、旅に出る時に決めた事だ」

 

「……人間でも……」

 

 カミュの言葉の一部分がサラの胸に突き刺さる。

 それは、サラが受けて来た『教え』の中では、最大の禁忌とされている行為。

 それを、目の前の青年は、平然と言ってのけた。

 軽い衝撃を受けたサラは、答えの解っている問いかけを向けてしまう。

 

「……ああ……例え人間でも……だ」

 

 サラは予想外の答えに言葉を失った。

 世界を救う存在である『勇者』が、その救うべき対象の『人』を殺す事を宣言したのだ。

 サラの視界が揺らいで行く。

 サラの信じていた『勇者』という偶像が音を立てて崩れ落ち、彼女を思考の迷宮へと誘って行った。

 

「……もしかして……もう……既に……」

 

 サラの思考は、最悪の方向へと向かって行く。

 それは、『カミュが、既に人間を殺しているのではないか?』という疑問。

 そして、もしそうだとすれば、『殺人者』という大罪人を、『勇者』として国家が送り出した事となる。サラにとっては、信じる事はできず、そして許す事のできない事実だった。

 

「……何を考えているのかは解るが……残念ながら、『人』を殺した事は、未だにない」

 

「……本当か?」

 

 サラの問いかけに答えるカミュに向けて、横にいたリーシャから再度確かめるような言葉が飛ぶ。

 リーシャにしても、カミュが『人』を殺した事がないという確信が欲しかった。

 もし、他国と戦争にでもなれば、リーシャのような宮廷騎士は、前線に立ち他国の兵士を殺して行く事が仕事となる。

 だが、ここ数十年、魔物が横行している影響で、国同士の争いは皆無となっている。『魔王バラモス』の登場により、人同士が寄り添っていかなければ、生きてはいけないからだ。

 故に、現在では、犯罪者以外に『人』を殺すという行為をする存在はいない。

 

「……俺がアンタ達に嘘を付く必要性は見当たらないが?」

 

 そんなリーシャの真剣な問いかけに対しても、カミュは無表情のまま答えを返す。暫しカミュの瞳を睨むように見つめていたリーシャは、その瞳に嘘がないと判断し、一つ息を吐き出した。

 視線が外れた事を確認し、カミュはもう一度口を開く。

 

「……それで?……アンタ達はこれから先、何の目的で旅を続けるつもりだ?」

 

「……は?」

 

 カミュの問いかけの意味が理解できず、リーシャは素っ頓狂な声を上げた。

 サラもリーシャの横で首を傾げている。カミュの質問の意味は解り過ぎる程に知っている。アリアハンが国を挙げて送り出した『勇者』の目的など、唯一つなのだ。

 その目的の為に、リーシャもサラも、この捻くれた青年に付いて歩いているのである。

 

「……え?……『魔王討伐』の旅ではないのですか?」

 

「目的が『魔王討伐』ならば、この先、魔物であれ人間であれ、自分達に敵意や害意を持つ者を倒していかなければ、自分達が目的も達せずに死ぬだけだ。悪いが、俺にそのつもりはない。自分の力量不足で殺されるならまだしも、何もせずに死ぬ事は断る」

 

 続けられたカミュの言葉に、リーシャとサラの二人は返答に窮していた。

 確かに、カミュの考えを否定する事など出来ない。最終目的は『魔王討伐』なのだ。

 それは、世界を救う為、そして人々を今の苦しみから救う為の旅。

 そのような大義のある旅をしている自分達に敵意を持つ者へ抵抗をしなければ、自分達の使命は果たせず、土に還る可能性も否定は出来ない。

 

「何れにしろ、俺は魔物だからという理由で殺す訳ではない。これから先も、それは変わらないだろう。魔物であれ、俺に敵意を見せず生活をしている魔物なら殺す事はしない」

 

「……傍で人が襲われていても……ですか……?」

 

 カミュは言葉と共に、二人に背を向け歩き出していた。

 サラはそのカミュの背中に向けて、疑問を投げかける。それは、サラにとって最後の境界線だった。

 そんなサラの心情を知ってか知らずか、珍しくカミュは立ち止まり、少し考えるように天を仰いでから、口を開いた。

 

「実際、その場に立ってみなければ解らないな。それが魔物にとって、『食料』という死活問題なのか、単純に襲っているだけなのか……襲われている人間にも、襲っている魔物にも言い分はあるだろうからな」

 

「……カミュ……」

 

 リーシャは、以前カミュから聞いた言葉を思い出した。

 『魔物にも生きる権利はある』

 人の中にも、弱い魔物をいたぶり殺す者はいる。それは、世間では肯定されてはいるが、カミュはそれを許さないのだろう。

 そんな事をリーシャは考えたが、それ以上に、サラに対して、カミュが自分の考えを語る事に驚いていた。

 

 『仲間として見る』というリーシャとの約定はあるが、自分を曝け出す事を義務付けた覚えはない。考えてみると、カミュの一連の言葉は、言い方は最悪だが、サラを悩ます罪悪感を軽減させる効果がないとは言い難いものだった。

 『自分に襲いかかって来る者を殺すのは、正当な行為だ』と言っているのだ。

 その真意がサラに届いているかと言えば、それに関してリーシャは自信を持てはしない。それでも、リーシャの中での『勇者カミュ』という存在に小さな変化が生じていた。

 

「日が暮れる前には、山道を出たい」

 

 再び背を向け歩き出したカミュに、リーシャもサラも黙って従うしかなかった。

 カミュが語った内容に対し、二者二様の想いを持ったまま、一行は再び山道を歩き出す。まだ彼等の旅は始まったばかりであり、この先の道は果てしなく長い。

 

 

 

 その後も、山道には魔物が多く、今まで出会った事のない魔物等も、一行の前に立ちはだかった。

 尻にある針に潜む毒によって、人の神経を麻痺させ、動けなくなった人を食す<さそり蜂>などは、アリアハン大陸にいる魔物の中でも最上級の魔物だ。

 針による攻撃を回避しながら、その胴体を切断して行くリーシャとカミュを、サラは呆然と見ている事しかできなかった。

 その姿を見ていたサラは、『カミュの考えを否定するにも、その行動を止める為にも、自分の力量が足りない』という事を改めて実感し、今後のリーシャによる稽古を、今以上に真剣にこなす事を決意するのであった。

 魔物との遭遇の多さに、一行の計画は崩れる。山道を抜ける前に陽が沈み始め、周辺を赤く染め始めていた。

 そんな太陽を忌々しげに見つめ、カミュは軽く舌打ちした後に振り向く。

 

「……予想より時間がかかった……このまま進んでも、陽が完全に沈んでしまえば、方向感覚も狂う」

 

「そうだな……この周辺で、休める場所を探そう……」

 

 カミュの申し出を快諾したリーシャは、周辺を見回し、火を熾せるような場所を探し始める。サラにとっても、この申し出は渡りに舟であった。

 朝から、休憩を取る事もなく歩き続け、戦い続けて来た為、サラの膝は笑っている状況だったのだ。 

 やがて、宿営地を決め、リーシャは火を熾し始めた。

 その周りを囲むように三人は座り、<レーベ>で購入した干し肉を炙り食して行く。そんな中、リーシャが、干し肉を噛み切りながら、おもむろに口を開いた。

 

「そう言えば、サラ……はむはむ……先程、サラの歳の話になったが……ああ! この干し肉は噛み切れないな!……実際、何歳なんだ、サラは?」

 

「……え?」

 

 干し肉を口に入れ、もごもごしながら話すリーシャの言葉を、何とか聞き取ったサラであったが、質問の意図が見出せない。突然年齢の話をし始めた理由が解らないのだ。

 干し肉を片手に呆然としているサラに、リーシャはもう一度口を開く。

 

「いや……カミュと同年代だとは思ってはいるが、はっきり聞いた事はなかったからな……別に、深い意図がある訳ではないんだ」

 

「え?…あ、はい……十七になります」

 

「はぁ?」

 

 リーシャに対しての回答であったのだが、返答したのはカミュの間の抜けた声であった。

 良く見ると、リーシャも口に入れた干し肉を噛む事を忘れてしまったように、唖然としている。

 

「……何かありましたでしょうか……?」

 

「アンタは、俺より年上だったのか?」

 

 二人の姿に、何か変な事を言ってしまったかと思い、慌てるサラに対して発したカミュの言葉は、非常に失礼な言い草だった。

 リーシャも、そんなカミュの言葉に我に返り、何かを思いついたような笑顔を見せる。

 

「この中では、お前が一番年下という事になるな。これからは、その辺りを弁えた言動をするんだな」

 

「ぷっ!」

 

 リーシャが得意げに話す姿が滑稽で、思わずサラは噴き出してしまう。カミュは一瞬不機嫌そうな顔をしたように見えたが、すぐに元の無表情に戻っていた。

 そして、視線をリーシャへと向ける。

 

「旅に年功は関係ない筈だ。唯単に、先に生まれたというだけだ。その証拠に、少なくとも、俺はアンタよりも『賢さ』を持ち合わせているつもりだが」

 

「なんだと!」

 

 無表情のまま、失礼極まりない言葉を発したカミュに、リーシャは激昂する。

 今にも立ち上がり際に、剣を抜きそうな勢いのリーシャに向かって、カミュは大きな溜息を吐き出した。

 

「俺は<マヌーサ>にかかって、味方を攻撃したりはしていない筈だが?」

 

「ぐっ……くそっ、古い話をいつまでも……」

 

 サラはいつの間にか、こんな二人のやり取りに慣れてきている自分がいる事に驚いた。

 旅に出たばかりの時は、リーシャの怒声を聞く度にどうしようかと慌てたものだが、今は笑みを零し、食事を続けながら二人を見ている事が出来る。それが良い事なのかどうかは解らないが、少なくとも、少しずつ仲間として行動し始めていると感じていた。

 怒鳴りながらも、本気で怒っている訳ではなさそうなリーシャと、時に口端を上げながら話すカミュのやり取りは、サラが眠るまで続いた。

 

 

 

 翌朝、陽が昇ると同時に山道を歩き始め、陽が高くなる前に一行は平原に出る事が出来た。

 平原の中、地図を見ながら歩くカミュが先頭を歩き、魔物を警戒しながらリーシャが最後尾を歩くという、いつもの布陣で目的地を目指す。

 途中に一軒の家が立っており、その中には<いざないの洞窟>を管理しているという老人が住んでいた。

 その老人と話をし、その家から北にある湖の畔に<いざないの洞窟>に続く道があるという情報を得て、一行は北に歩を進める。

 老人の話の通りに北へ進むと、周りを山に囲まれた澄んだ湖があり、その畔に大きく口を開けた洞窟が存在した。

 十年以上も前に閉じられた場所へ続く洞窟とは思えない程に手入れがされており、滑って足を踏み外したりする心配もなく、一行は地下へと降りて行く。

 

「貴方は、カミュ殿ですか?」

 

 階下に降り、一本道を進んだ先に、何人かの兵士が立っていた。

 着ている鎧は、リーシャが着ている物と同じ物であり、その鎧が、この人間達がアリアハンの兵士である事を物語っていた。

 

「……はい。カミュと申します」

 

 いつも通り、対外の仮面を被ったカミュを見て、リーシャとサラはお互いの顔を見合せて苦笑し合う。目の前に立つアリアハン兵士は、そんな従者二人の態度を訝しげに見つめるが、カミュの視線に気づき、話を前に進める事にした。

 

「国王様から話は聞いております。どうぞお通りください」

 

「……国王様から……?」

 

 リーシャの問いかけに表情を崩さず、一人の兵士が答えるために前に出る。それはリーシャも良く知る、宮廷騎士の一人であった。

 上級貴族の出身で、剣技や指揮力は皆無に等しいが、父親とその家柄の力で、宮廷部隊長まで伸し上がった人物である。そして、常にリーシャを嘲っていた人物でもあった。

 

「久しぶりだね……どういう風にこの大陸を出るつもりなのかは知らないが、国王様から、そこの若い奴が大陸から出る所を見届けるようにと指示を頂いたのでね。余りに遅かったんで、使命の重さに逃げ出したのかと思ったよ」

 

「なに!?」

 

 その七光の言葉に一瞬頭に血が上りそうになったリーシャだが、よくよく考えると、毎日のように交わされるカミュの皮肉の方が、ずっと身に詰まされる物である事に気付き、抑える事にした。

 この男の言っている事は、全く自分には関係のない事なのだ。

 カミュ流に言うと、『名前を覚える必要性も価値もない人間の戯言であり、別段、敵意と殺意を向けてきた訳ではない。相手にする必要さえもない』。

 そうリーシャは考える事にした。

 一向に噛みついて来ないリーシャを不審に思ったが、その部隊長はリーシャを無視し、カミュへと声をかける。

 

「それで?……どうやって、この壁の向こうにある『旅の扉』へ向かうつもりなんだ?」

 

「……下がっていてください」

 

 サラは後方からやり取りを見ながら、カミュの対外的な仮面にも、二通りの物がある事に気が付いた。

 一つは、本当にカミュが敬意に近い物を持って相手に接している時の仮面。

 もう一つは、全く相手にする気もない人間に対する時の仮面である。

 サラは不謹慎ながらも、もし、今あの部隊長がカミュの態度に腹を立て、剣を抜いたとしたら、カミュはどうするのだろうと考えていた。

 しかし、少し考えた結果、簡単に切り捨てた後、『こいつらを洞窟内に捨てておけば魔物に食われる。アンタ方が話さなければ判明しないことだ』と語るカミュの言葉しか思い浮かばない自分の頭を振り、考える事を止めてしまった。

 そんなサラの関係ない脳内会議を余所に、カミュは<魔法の玉>を壁に引っ掛けていた。

 壁に取り付けられた<魔法の玉>からは、一本の紐が飛び出ている。その紐にカミュは小さく、『メラ』によって火を点けた。

 

「下がれ!」

 

 点火し走って戻って来るカミュの言葉に、その場にいた全員が数歩後ろに下がる。

 そして、カミュが自分達の場所まで辿り着いた時、凄まじい程の爆音と眩いばかりの閃光が地下のそれ程広くない広間を包み込んだ。

 

「な、なんなのだ、一体!お前達、何をした!」

 

 耳を劈くような爆音に、兵士達の全員の耳が機能しなくなる。

 声は発しているが、聞こえてはいないのだろう。もはや、怒鳴り散らしているとしか思えない程の音量で、宮廷部隊長がカミュへ問い質すように詰め寄って来た。

 全員の耳の機能が回復した後に、カミュが兵士達に説明を返す。

 <魔法の玉>の出所は明確にせず、『ナジミの塔で見つけた古の道具』とだけ答えた。

 部隊長は完全に納得は出来はせずとも、余りにも信じられない光景だった為、追及を諦めざるを得なかった。

 

「……では、私達は参ります。お勤めご苦労様でした」

 

 全く心の籠っていない労いの言葉をかけ、カミュは先へと進む。その後を、小走りにサラが追って行った。

 最後に残ったリーシャは、瓦礫が散乱する広間を見渡し、一つ溜息を吐き出す。

 

「ふ、ふん。精々頑張るんだな。まあ、『魔王討伐』という使命を失敗すれば、アリアハンにお前が帰って来る場所などはないだろうがな」

 

「……」

 

 『やはり、カミュが語った内容は事実だったのか』

 リーシャは、部隊長の一言に腹を立てるよりも、その事実が確認できた事が何よりも哀しかった。

 『出来るならば、自分が『魔王』を討伐し帰って来るまで、自分を育ててくれた古い使用人である、あの老婆だけは無事でいてほしい』

 そう思いながら、リーシャは二人の後を追った。

 

 

 

 カミュ一行の姿が、洞窟の奥へと消え、広間には近衛兵達しかいなくなった。

 誰もが、先程ここであった出来事が信じられない心境であり、皆口を開く事をしなかった。

 

「……何を呆けている! これより国王様の命を遂行する。外で控えている職人達を呼び寄せ、作業に当たらせよ! くそっ! 派手にぶち壊しやがって! 何を使ったのか知らないが、時間を掛ける訳にはいかない。早急に壁を修繕するぞ!」

 

 部隊長の指示の下、部下である兵士達が慌ただしく動き始める。

 外に職人を呼びに行く者。

 弾け飛んだ瓦礫を片付け、修繕の準備をする者。

 部隊長が言うようにそれは時間との戦いであった。

 いざという時の為に、部隊全員を連れてきてはいるが、他大陸の魔物と対峙した事のない兵士達である。

 何がどうなるか、予想もつかない。

 先に進んだカミュ達が取り溢した魔物達が、こちらに向かって来る可能性も充分に有った。

 その為にも、最低限の防壁は、すぐにでも作っておかなければならないのだ。

 

 部隊長は『国王の命』と叫んだ。

 つまり、アリアハン国は、自国が送り出した『勇者』を、自国で締め出す算段なのだ。

 アリアハン大陸から出れば、その後の援助はなく、自力で『魔王討伐』という使命を遂行しろという事なのだろう。しかし、国としても『魔王討伐』は願うが、自国の民をこれ以上苦しめない為にも絶対的に必要な事でもあったのだ。

 それが、この行動として表れていた。

 

 

 

 更に地下に進んだカミュ達は、入り組んだ洞窟内を彷徨いながらも、着実に前へと進んでいた。

 しかし、洞窟内部は長年の放置により劣化が進んでおり、ところどころの床が抜け、進む事が不可能であったり、壁が崩れ進めなかったりと、行ったり来たりを繰り返している。その中でも、魔物の種類の変化が、サラに負担をかけていた。

 

「サラ、大丈夫か?」

 

「……はい……ホイミ……」

 

 サラの詠唱と共に、淡い緑色の光が、サラの患部を包み癒して行く。つい先程の、<一角うさぎ>の上位種である<アルミラージ>との戦闘で、その鋭い角によりサラの腕は傷を負っていた。

 魔物は、アリアハン大陸では見た事のない種の物ばかりだった。

 そして、その魔物達の力量も、アリアハン大陸の魔物とは大きく違っていたのだ。

 カミュとリーシャはいつも通りに斬り伏せては行くが、ようやく剣を振るう事が出来るようになったばかりのサラにとっては、それらの魔物との戦闘は厳しい物だった。

 リーシャがサラを護るように、戦闘をしてくれてはいたが、少しの気の緩みで、サラの腕は<アルミラージ>の角の攻撃を受ける事となる。

 

「……すまない……今日は、少しやりすぎたかもしれないな……」

 

 リーシャがサラに謝っている内容は、今朝の山道での事だろう。朝、陽が昇る前に起こされたサラは、すでに剣の稽古とは名ばかりの模擬戦をカミュと共に終えたばかりのリーシャに、剣を構えるように言われた。

 最初は戸惑っていたサラであったが、自分から頼み込んだ事でもある為、その指示に大人しく従い、出発までの間、リーシャに剣を打ち込む事となったのだ。

 

「……当然だな。剣を持つ事も初めてに近い相手に、初めからあれ程の事を求める事自体がおかしい。俺には、アンタがコイツを殺そうとしているようにしか見えなかったがな」

 

「そ、そんな事、ある訳がないだろ!」

 

「……何故口籠るのですか……?」

 

 一瞬口籠ったリーシャを見て、サラは一抹の不安を抱いたが、杞憂であるという希望を胸に問いかけてみる。『戦士』であるリーシャにとっての訓練と、『僧侶』であるサラにとっての訓練には、雲泥の差がある事をリーシャもサラも気付いてはいなかったのだ。

 

「サ、サラまでか!? 私の時は、最初からあんな感じだったんだ! 私がサラに害意を持つ訳がないだろ!」

 

 その証拠は、次のリーシャの言葉で明らかになった。

 彼女は、自分が行って来た鍛錬を、若干の手加減はあるにしても、サラへと求めていたのだ。

 幼かったとはいえ、リーシャは宮廷騎士隊長の娘であり、剣の才を有している娘である。それと比べられては、サラでなくとも疲労困憊になるのは当たり前であった。

 

「……脳筋戦士と同様に考えられたら、普通の人間は倒れるぞ……」

 

「なっ、なんだと!」

 

 しかし、こんな魔物が蔓延る洞窟内でも全く雰囲気を変えない二人が、サラにはとても頼もしく映る。それと共に、完治した腕を見ながら笑いが込み上げて来た。

 剣の鍛錬にしても、リーシャに悪気がない事は明白である。サラの願いに応えようと、彼女なりに真剣である事は、サラも理解していた。

 

「ふふふ、大丈夫です、リーシャさん。私も、いつまでもこのままでは駄目ですので、これからも稽古をお願致します」

 

「そ、そうか。よし、わかった。だが、その日の旅に支障をきたさないようにしよう。すまない、今日は私も張り切り過ぎた」

 

 困ったような表情で頭を下げるリーシャの貴族らしからぬ行動に、今度はサラの方が慌ててしまった。

 手を大きく振りながら、リーシャに顔を上げてもらい、一行は再び洞窟の奥へと歩を進めて行った。

 

 

 

「こっちではないか?」

 

 先程、稽古について話した階から一つ降りた階層は、階段を降りたところから、道が三方向に分かれていた。

 右、中央、左の三方向にである。リーシャが示したのは階段を降りて、左の方向であった。

 

「……そうですね。とりあえず行ってみましょう」

 

 リーシャの言葉に同意するサラの一言で一行の進行方向が決まり、左へと進路を取る。左の方角へ真っ直ぐ進むと、更に右に折れる道があり、そこに大きな扉があった。

 

「……鍵がかかっているな……」

 

「ほら見ろ! そんな立派な扉があるんだ。やはり左だっただろう?」

 

「<盗賊の鍵>では開きませんか?」

 

 一人得意げに語るリーシャを無視し、カミュはサラに言われた通りに、革袋から取り出した<盗賊の鍵>を、扉とは反比例に小さな鍵穴に差し込む。

 乾いた金属音と共に鍵が開き、カミュと未だに得意げに鼻を鳴らすリーシャの二人で、大きく重い扉を押し開いて行った。

 開かれた扉の先には、再び一本道の通路が続いている。そのまま進むしか選択肢のない一行は、その通路を真っ直ぐに進んで行った。

 

「……行き止まりですね……」

 

「……」

 

 サラの言う通り、その通路は少し進むと壁にぶつかった。

 この壁が、<魔法の玉>で破壊する必要がない物であれば、間違いなく行き止まりであろう。

 

「……戻りましょうか……」

 

 溜息交じりなサラの提案に、カミュは素直に頷き、来た道を戻って行く。リーシャも何とも言えない表情を作りながら後に続いた。

 

「……左ではないのなら、中央の道だな……普通は、中央の道が怪しい物だ」

 

「……リーシャさん……」

 

 リーシャの言葉にサラは曖昧に返事を返すが、再びリーシャの提案通り、降りてきた階段から中央にある通路を進む事となる。

 

 

 

「……」

 

「……もう進路に関しては、アンタは黙っていてくれ」

 

 中央の道の先にあった鍵のついた扉の先は、再び壁であった。

 言葉が出ないサラとリーシャは、無言で壁を見上げていたが、カミュは溜息交じりに辛辣な言葉をリーシャに投げかける。

 

「くっ……」

 

 悔しそうに顔を歪めるリーシャを申し訳なさそうに見ていたサラも、内心はカミュの申し出に賛成であった。

 『ナジミの塔』への地下通路の時から、リーシャの指し示す道は行き止まりばかりなのだ。

 サラやカミュでなくとも、溜息が出て当然であろう。

 

 

 

 気を取り直し、残った右への通路を進む。ここにも、先程までの二本の通路と同じように扉があったが、その扉の先は今までとは違っていた。

 扉を開け、進んだ先には、少し開けた広間があり、中央には渦を巻いている小さな泉があった。 

 

「……これが、『旅の扉』?」

 

 サラが確認するように口を開くが、残る二人も知識こそあれ、実物を見るのは初めてだった。

 故に、サラの問いかけに確かな回答が出来ない。三人が泉へと近付き、神秘的な輝きを放つ水の渦を見下ろした。

 小さな泉は、カミュ達が手に持つ<たいまつ>の明かりを反射するように輝き、不思議な事に渦巻くような動きを見せている。

 

「……おそらく、そうだろうな……」

 

「……これに、飛び込むのか?」

 

 カミュの自信なさ気な答えに、リーシャは弱気な質問を返した。

 そんな二人のやり取りに、サラの不安は大きくなって行く。

 少し泉を眺めながら考えていたカミュではあったが、意を決したようにリーシャを見つめ口を開いた。

 

「俺から先に入る。状況上、これが『旅の扉』である事に間違いはないだろう」

 

「……わかった。その後にサラを入れ、私が最後に続こう」

 

「……えっ!? 私ですか!?」

 

 不安が高まっていたサラは、リーシャよりも先に飛び込まなければならない事に驚き、思わず問い返してしまう。しかし、そんなサラの問いかけに、リーシャの方が驚きを見せた。

 

「なんだ?……サラはここに残るのか?……最後にサラを残しては、魔物が出て来た時の対応が出来ないだろう? 二番目に入れば、向こうにはカミュがいる」

 

「……はい……」

 

 リーシャの当然の心配に反論する事が出来ず、リーシャの申し出を受ける事しかサラには出来なかった。

 確かに、カミュやリーシャがいない状況で、この洞窟を住処にする魔物と遭遇しては、サラ一人ではどうする事も出来ないだろう。

 

「……先に行く……」

 

 リーシャとサラのやり取りを尻目に、カミュが『旅の扉』へと飛び込んで行った。

 眩い光と共に、カミュの姿が『旅の扉』の中へと消えて行く。それを見届けたリーシャが、サラの背中に手を置き、先を促した。

 心細そうにリーシャを見上げたサラの目を見つめ、リーシャが一つ頷きを返す。サラも覚悟を決め、リーシャに頷き返した後、目を閉じ、鼻を摘まんで『旅の扉』に足から飛び込んで行った。

 カミュの時と同じような光を伴って消えて行ったサラを見送った後、リーシャもまた、周囲の警戒をしながら泉へと飛び込む。

 最後の光に包まれた後、暗い洞窟内を再び闇と静寂が支配した。

 

 

 

 

「国王様、先程魔法兵士から報告があり、勇者一行がアリアハンを出たようでございます」

 

 大広間にて食事中のアリアハン国王に、国務大臣が火急な用事と近寄り報告をする。その内容を聞いた国王は、手に持つフォークとナイフを置き、しばし目を瞑った。

 

「……そうか……それで、<いざないの洞窟>は?」

 

「はっ! ご命令通り、兵士と職人達により、再び閉じさせております」

 

 その大臣の報告に安堵した為か、国王は一つ頷きを返した後、食事を再開した。

 時折何かを考えるように、手を止めながらも食事を続けて行く国王の姿は、締め出す形になってしまったカミュ達への懺悔の為か、それとも『魔王討伐』に馳せる想いか、それは横に立つ大臣にも解らないものであった。

 

 

 

 

 

 



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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

 

※勇者一向装備品等

 

 

名前:カミュ

 

素性:アリアハンの英雄オルテガとその妻ニーナとの息子

 

年齢:16歳

 

装備:頭) サークレット

※中心に青く輝く石がはめ込まれている

 

  身体) 革の鎧

 

   盾) 革の盾

 

  武器) 騎士の剣

※祖父から譲り受けたもので、その強度は<鋼の剣>より劣る

 

魔法:メラ

   ルーラ

※現在使用が確認されたもの

 

 

 

 

名前:リーシャ

※正式名称は リーシャ・デ・ランドルフ

 

素性:アリアハン下級貴族並びに宮廷騎士

※父の代では中級貴族として爵位も拝命していたが、父の死後、爵位を返還し、下級貴族となる

 

年齢:現在のところは不明

 

装備:頭)なし

 

  身体)革の鎧

 

   盾)革の盾

 

  武器)騎士の剣

※アリアハン宮廷騎士に配給される剣。

 大量生産品であるため、カミュの持つ祖父の剣よりも劣る強度

 

魔法:魔法力が皆無の為、行使不可能

 

 

 

 

名前:サラ

 

素性:アリアハン教会僧侶

   元孤児

※元はレーベの商人の娘であったが、アリアハンに向かう途中で両親を魔物に襲われて亡くし、その後、アリアハン教会神父に引き取られ、僧侶として育てられる。

 

年齢:17歳

※その容姿や体型から、幼く見られることが実は若干コンプレックスとなっている

 

装備:頭)僧侶帽

※中をなめし革で補強されており、単純な<革の帽子>よりも防御力は高い

 

  身体)革の鎧

※僧侶の一般的な服装である法衣の下に着込む形で装備している。

 

   盾)革の盾

 

  武器)銅の剣

※バコタの妻子の遺骨の傍にあった物。それが、バコタの妻の物なのか、それともアリアハン兵士の物なのかは定かではない

 

     聖なるナイフ

※初期装備品であったが、リーシャから剣を習うために、今は腰に挿したままである

 

魔法:ホイミ

   ピオリム

   ニフラム

   マヌーサ?

※マヌーサの契約は完了しているが、行使した事がない為、発動するかは定かではない

 

 

 

 

 




ここまで読んで頂き、ありがとうございました。

これにて、第一章は終了です。
第二章はロマリア編となります。
明日の夜には、更新を開始致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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第二章
ロマリア城①


 

 

 

 サラは、自分の顔を照らす熱気に目を覚ました。森程ではないが、周辺を木々に囲まれた美しい場所であった。

 サラの感じた熱気の元である焚き火が、中心で赤々と燃えており、その光が周辺の闇を照らしている。

 <いざないの洞窟>に入る頃は、まだ陽も傾いてはいなかったが、洞窟内で結構な時間を要し、また、サラが気を失っていた時間もあったのか、空には星が輝き、周辺には夜の帳が広がっていた。

 

「ん?……サラ、眼が覚めたのか……?」

 

 サラが夜空に広がる星の輝きに目を奪われていると、横からリーシャの声が聞こえて来る。

 サラが目を覚ました時にはそこにはいなかったのであろう。その手にはうさぎを二羽持っていた。 

 

「あっ、リーシャさん……申し訳ありません……ここは……?」

 

「ああ、ここは、おそらくロマリア大陸だろう。あの『旅の扉』は、ロマリアに通じている筈だからな」

 

 狩って来たうさぎを持ちながらリーシャが話す国の名は、サラにとって書物の中だけに存在していた国の名だった。

 アリアハンという島国から出た事のないサラは、この世界のあらゆる事の知識は、アリアハン教会にあった書物から得ているのだ。

 

「……ロマリア……」

 

<ロマリア王国>

アリアハンと同じように、王権による統治を行っている国である。その大陸の大きさから、広い領土と大きな生産力を持ち、産業などもアリアハンとは比べ物にならない力を持っている国である。

 

「ああ、アリアハンから出る事は出来た。ここからが本当の旅になるだろうな。カミュとも話し、まずはロマリア城に向かい、ロマリア国王様に謁見する事になった。とは言え、既に陽が落ちたからな……今日はここで休む」

 

「あっ、は、はい」

 

 頷いたサラの頭を、うさぎを持っていない手で撫でた後、火に薪を数本くべ、リーシャはナイフでうさぎを捌き始めた。

 その手つきはやはり慣れたもので、うさぎが解体されていくのを直視できないサラには見えないように捌かれていた。

 

 リーシャがうさぎを捌き終わった頃に、カミュも戻って来た。その手に種類の違う魚と、ねぎのような物を持っている。魚は川で捕れる種類ではない事が見て取れる為、この近くの海でカミュが捕って来たのかもしれない。

 

「カミュ、魚は捌くのか?」

 

「……アンタは魚を生で食べる趣味でもあるのか?」

 

 ナイフを水で清めながら問いかけるリーシャは、カミュの返しに口籠った。

 基本的に、料理を得意とするリーシャであれ、アリアハン国民である以上、魚を生で食す習慣はない。ソテーにしたり、煮込んだり、焼いたりして食すのが普通だ。

 遥か遠い所にある国ではそういう習慣があるらしいのだが、彼等はそれを知らない。

 

「……流石に私も生で食べる習慣はない……焼くのなら串が必要だろ?」

 

「……」

 

 カミュの厭味に近い物言いに対し、反論せずに串を渡すリーシャを眺めながら、サラの頭の中には先日の事が横切って行く。途端に、リーシャの拳骨が落ちた場所が痛み、余計な事は口に出す事はしなかった。

 串にうさぎの肉と、カミュが取ってきたねぎを交互に刺し、そのまま焚き火の周りに直に刺して行く。

 魚の方も同様だった。

 焚き火を囲うように三人が座り、身体を温めながら、肉などが焼けるのを待つ事になる。

 

「ロマリア国王様に謁見された後は、どこに向かわれるのですか?」

 

 いままで、焦点が合っていない瞳で炎を眺めていたサラが、ふと思いついたように顔を上げ、カミュの方を見ながら口を開いた。

 目的は『魔王討伐』の旅ではある。

 アリアハンを出てから今まで、サラは確認した事はなかったが、一言に『魔王討伐』とは言っても、実際その『魔王』の所在や、どう進めば近付いて行けるのかが分かっていない。

 故に、サラは何処に行くのも、カミュの判断について行くしかないのだ。

 

「ロマリア国王様との謁見内容次第だが、ロマリアの南東に<アッサラーム>という街があるらしい。その街は大きく、栄えているという話だ。何か情報は入るだろう」

 

 答えはカミュの横にいるリーシャから返って来た。

 カミュやリーシャにしても、『魔王』の居場所を知っている訳ではない。一つ一つ情報を掴みながら前進して行くしかないのだ。

 

「おそらく、宮廷魔術師の誰かが、<ルーラ>を使って、アリアハン国からカミュが旅立った事を伝えてはいるだろう。援助が受けられるかもしれない」

 

 サラの目を見て話すリーシャの言葉は、国の使命を受けた者としては当たり前の考えだろう。国の使命とは言え、『魔王討伐』という使命は全世界の希望であり、全世界の願いでもあるのだ。

 その使命を受けた者は、必然的に世界各国の命を受けた事に等しい。その者達への援助は、ある意味では当然の行いなのである。

 

「な、なんだ!?」

 

「……アンタの幸せな頭にはつくづく感服するよ……」

 

 しかし、リーシャの考えに対して盛大な溜息を洩らしたカミュは、頭に血が上りかけたリーシャの血流に、更に拍車をかける。

 カミュの考えている事など、リーシャには理解が出来ない。

 それはサラも同様で、至極当然のように聞こえるリーシャの考えの何が、カミュに言葉を吐かせるのか理解できなかった。

 

「なんだと!!」

 

「あれだけ、アリアハン国のやり方を見て来て、まだそんな事を言えるアンタを尊敬する。これ程の忠義者を、外へ出そうと躍起になっているアリアハンもアリアハンだがな」

 

 カミュの言う通り、アリアハンを出るまでに、リーシャもサラもアリアハン国の裏側を何度か見て来た。

 それは、とても許容出来る物ではなく、むしろ拒絶感さえ覚える物。

 それでも、リーシャは宮廷騎士なのだ。そして、『騎士』としてのそんなリーシャの姿を、カミュは評価していた。 

 

「……ロマリア国王に謁見したとしても、援助を受ける事など出来る訳がない。他国が推挙する人間を擁護すると思うのか?」

 

「し、しかし……今、国同士や人間同士で争っている場合ではありません。それは、一国をお治めになる国王様であれば、ご理解されているはずです」

 

 カミュが言った内容に、今度はリーシャではなくサラが噛みつく。

 その言葉に、カミュは『お前もか』とでも言いたげな視線を向け、溜息を吐き、そんな溜息を聞き、サラは身構える。

 次に出て来るカミュの言葉は、必ず辛辣な物である事は、サラにも予測できたのだ。

 

「それが、理解出来ないからこその国王だ。謁見した事などはないが、何処も同じだろう。自国の立場と、自分の立場を第一に考えている筈だ。でなければ、オルテガの死の時に、あれ程アリアハンに批難が集中する訳がない」

 

「!!」

 

 オルテガの死。

 その情報は、アリアハン国を絶望の淵に追い込む物だった。

 しかし、それは決してアリアハンだけではない。

 アリアハン国王が世界に向けて発した援助申請を受け、様々な国がオルテガの旅を援助して来た。それは資金援助であったり、物資であったりと様々であったが、世界中が一人の青年に期待と希望をかけていた事は事実なのである。

 その国々にとって、援助した相手が何も成さないまま命を落とすという事は、資金や物資をどぶに捨てた事と同じ物となるのだ。

 その矛先はそれを押し出した国家。

 それにより、世界中の国々から糾弾を受けたアリアハン国は、その立場を急落させ、現在のような辺境国という不名誉な扱いを受ける事となったのだ。

 

 勿論、その家族への影響もあったのだろう。

 オルテガの家への援助打ち切りの話は、何度となくあった。

 オルテガの台頭を快く思っていなかった、国家の重役に位置する貴族達や文官を牽引する者達等、それはかなりの数に上り、国命によって命を落としたにも拘わらず、オルテガの今までの功績を無にしようとしていたのだ。

 その数は、日を追うごとに数を増し、激しくなってくる他国からの糾弾により、遂に国王の判断が下る事となる。

 カミュの家は、オルテガの功績による恩給を停止された。

 残った収入は、祖父が宮廷騎士として残した功績に対する僅かな恩給だけとなったのだ。

 

「謁見が叶ったとしても、援助の申し出どころか、下手をすれば余計な依頼を押し付けられる事になるかもしれない」

 

 カミュは無表情で、夢も希望もない事を言う。その言い方と内容に、二人は言葉に窮した。

 以前リーシャが言ったように、カミュの生い立ちは自分が考えていた物よりも、ずっと過酷な物であったのかもしれない。親のいない孤児達は、今日食べていく物もなく、毎日に絶望している。

 それに比べれば良いとはいえ、『カミュは魔物ではなく、人間に人生を狂わされた人間なのかもしれない』。

 リーシャはそう思った。

 

「……も、もう、焼けただろ! ほら、明日も早い。サラもさっさと食べて、早く寝ろ」

 

「あっ、は、はい!」

 

 リーシャは、強引に話題を変えようと、刺さっていた串を取り、頬張り始める。

 重い空気に堪りかねていたサラも、そのリーシャの行動に乗り、慌てて魚が刺さった串を手に取った。

 呆れたような溜息を吐き、水を口に含んだカミュの横顔に浮かぶ僅かな悲壮感が、隣でねぎを口に入れていたリーシャの頭の中に、無意識に残って行く事となる。

 

 

 

 翌朝、焚き火の炎に土をかけて消し、一行は北へ向けて進路を取った。

 昨夜カミュが取って来た魚は、南方にある海で取ってきた物であり、その話から、南には海しかない事を知った一行は、目指す先は北と決まったのだ。

 いつものように、カミュを先頭に歩き出す。

 暫くは広く見渡す限り平原が続き、周囲の海から吹く潮風が心地良い。サラは、靡く自分の蒼味がかった髪を押えながら、壮大な平原を、目を細めて見つめていた。

 

 その内、前を横切っていく馬車が見えて来る。

 馬二頭に引かれた、かなり大きめな荷台には、白く大きな幌が被さっており、その内部は見る事が出来ない。先頭には一人の男が手綱を引き、馬車を制御している。その風貌は商人には見えず、むしろならず者と言っても過言ではない物。

 歩くカミュ一行から徐々に距離が離れていく馬車を、サラは何か言いようのない不安感を胸に抱きながら眺めていた。

 

「あの馬車は、おそらくロマリア城に向かっているんだろう。あれと同じ方向に向かおう」

 

 同じように馬車を見ていたリーシャは、自分達の向かうべき方向を示してくれた馬車の後について行くように指示を出す。

 それに対してカミュも頷いた事から、進路を若干変更し、馬車が向かった方角へ歩き出す事となった。

 

 

 

 馬車の車輪の跡を追いながら数刻歩くと、不意に先頭を歩くカミュが背中から剣を抜いた。

 その様子に、リーシャも腰の剣に手を置き周囲を警戒する。サラも<銅の剣>を抜き、リーシャとは反対方向に警戒の目を向けた。

 見渡す限り平原なだけに、それはすぐに確認出来た。

 草原を歩く一行を挟み込むように、両側から現れた魔物は、左手には巨大な芋虫のような魔物、右手にはアリアハン大陸に出て来た<フロッガー>のような巨大なカエル。芋虫のような魔物は、その大きな体躯に無数の足をつけ、こちらを威嚇するように身体を置き上がらせて来る。 

 

<キャタピラー>

見た目は蝶類の幼虫のような姿形ではあるが、芋虫とは違い、その背中は硬い鎧のような皮膚で覆われている魔物。その為、剣で斬り刻む事や、突き刺す事は容易ではない。特別な攻撃方法を持ち合わせてはいないが、アリアハン大陸に生息する魔物と比べれば、段違いの強さを誇る。

 

 カミュは右手に剣を持ったまま<キャタピラー>へと突っ込み、左手を掲げ<メラ>を唱える。

 カミュの指先から飛ばされた火球は、狂いなく<キャタピラー>に命中し、<キャタピラー>が苦悶の表情を見せる僅かな隙を作った。

 その隙を利用し、カミュは<キャタピラー>の懐に入り、剣を上から振り下ろすが、まるで金属と金属が衝突したような音を上げ、カミュの振り下ろした剣は上へと弾かれる。

 完璧な振り下ろしだったにも拘わらず、その剣を弾かれた事に驚きを隠せないカミュには若干の隙ができてしまい、<メラ>の炎から抜け出した<キャタピラー>は、そのまま態勢を崩したカミュに体当たりのように突進し、カミュの身体は後ろへ飛ばされる形となった。

 

「サラ!」

 

 カミュが魔物に遅れをとる姿を初めて見たサラは、その光景を不思議な眺めのように呆然と見つめていたが、リーシャの声に我に返り、間近に迫った巨大なカエルの攻撃を避ける事が出来た。

 

「サラ! そのカエルは毒を持っているようだ! 気をつけろ!」

 

 リーシャの言葉を裏付けるように、巨大カエルが振り下ろした手の先にあった木の枝に付く葉は、毒液を掛けられたように煙を吹きながら萎れて行く。

 

<ポイズントード>

その名の通り、その身に毒を持ち、その毒にて人間を食す魔物である。その毒はバブルスライムよりも若干強い性質を持ち、人の神経を侵すだけではなく、その身体をも傷つけて行くのだ。アリアハンに生息していた<フロッガー>と同様に、発達した後ろ脚を使った跳躍力は健在で、そこから繰り出される威力も段違いの物である。

 

「この!」

 

 サラに近づいて来た<ポイズントード>をリーシャが手に持つ剣で突き刺した。

 後ろからの刺突は、正確に魔物の脳天を貫通し、その傷跡から赤ではない体液がこぼれる。

 しかし、一体の身体から剣を抜き、もう一匹の<ポイズントード>に身構えたリーシャは、飛んで来る舌にその剣を絡め取られた。

 <ポイズントード>の唾液が滴る舌が剣に絡まり、力比べとなる。サラは、以前に<おおありくい>と力比べをした事を思い出し、魔物の力の強さにリーシャの身を心配したが、そのような心配は、このアリアハン随一の戦士には無駄な物であった。

 

「ふん!」

 

「ギニャーーーーー!」

 

 暫しの間、力比べをしていたリーシャは、剣を横に寝かせ、逆に舌に剣を這わせ、そのまま力任せに舌を斬り千切った。

 リーシャに舌を切られた<ポイズントード>は、力のぶつける場所を失い、奇声を発しながら後ろへ転がって行く。そこには、現在<キャタピラー>と戦闘中のカミュがいた。

 カミュは<キャタピラー>から剣を背け、その剣を転がって来たポイズントードの眉間に突き刺す。眉間に剣が深く突き刺さった<ポイズントード>は手足をバタつかせた後、その力も尽き絶命した。

 <ポイズントード>から剣を引き抜いたカミュは、その剣を横薙ぎに<キャタピラー>に向け振るう。剣は、カミュに向かって体躯を上げていた<キャタピラー>の腹部を薙ぎ、数本の脚と共にその体液を飛ばした。

 背中を覆う金属のように厚い殻と違い、腹部は通常の昆虫のように柔らかく、剣でも傷が付く事を理解したカミュは、怯んだ<キャタピラー>の喉元に剣を突き刺し、その剣を下に滑らせて行く。大した抵抗もなく滑るカミュの剣は、<キャタピラー>の喉元から腹部までを切り裂き、剣を引き抜いたカミュが距離を空けたのと同時に、その体躯から盛大に体液を撒き散らし、沈黙した。

 残るは一体だけ残った<キャタピラー>。

 傷一つない三人に敵う訳もなく、数秒で斬り伏せられて行く。

 

「ふぅ、何とかなったな。流石はロマリア大陸の魔物だ。アリアハンとは比べ物にならないな。まさか剣が通じないとは……」

 

 最後のキャタピラーを斬り倒したリーシャは、剣に付いた体液を振り払い、鞘に収めながら、今対峙した魔物達の感想を漏らす。

 サラは何もしなかったにも拘わらず、その場に座り込んでしまった。

 

「……カミュ様が飛ばされるところは、初めて見ました……」

 

「……」

 

 サラの正直な感想に、カミュは一瞬顔を顰めたが、そのまま表情を失くし、その瞳でサラを射抜くように見つめる。その視線を受け、慌てたのはサラだった。

 勢い良く立ち上がったサラは、大きく手を振りながら弁解を始める。

 

「あっ、い、いえ、そういう意味ではないのです! ただ、驚いてしまったというだけで……別にカミュ様が弱いとか……そういう……意味……では……」

 

「……」

 

 サラが言葉を紡ぐにつれ、カミュの視線が厳しくなって来るのを感じ、尻すぼみとなる。

 そんなサラを手助けする為、リーシャがカミュとサラの間に入った。

 

「いや、実際その通りだ。カミュはまだまだと言う事だな」

 

「……」

 

 サラの言葉を肯定するように、頷きながら腕を組むリーシャにカミュの視線が突き刺さる。

 そんなカミュの視線もどこ吹く風で、リーシャはサラを支えながら笑っていた。

 今のカミュの瞳は、アリアハンでリーシャが受けた物とは質が違う。他者を凍り付かせる物に変わりはないが、その内容が違うのだ。

 

「ん?……なんだ?……悔しかったら、せめて私に勝てるようになれ」

 

「……ちっ……」

 

 続くリーシャの言葉に舌打ちをしたカミュは、剣を背中の鞘に収め、先を歩いて行く。リーシャはそんなカミュの態度に軽く微笑みながら、起き上がったサラの手を放し、カミュの後に続いた。

 リーシャの優しい微笑み、カミュの拗ねたような態度、サラの頭の中でそれらが結びついた先は、やはり<レーベ>で考えていた事と同じ物であった。

 

 

 

 その後も何度か戦闘があったが、カミュとリーシャの活躍により、何とか魔物を撃退し、一行はロマリア城城下町の門前に辿り着く。ロマリア城はアリアハンと同じように、ロマリア城下町までを一括りに城壁で覆っていた。

 その門を潜った先には城下町が広がり、ロマリア国民の生活がある。その先に王族が住み、また国政を司る者達が働く本城が聳え立つのだ。

 門は、アリアハンのそれよりも大きく、そこから続く城壁の高さもアリアハンとは比べ物にならない。その城壁の長さも、肉眼では果てが見えない程の物であった。

 門の横には番所があり、兵士達が待機している。そこに、先程カミュ達の前を横切った馬車が止まっており、何やら兵士達と会話をしていたが、決着が着いたのか、門の中へ馬車ごと入って行った。

 

「……さっきの馬車ですね……」

 

「商人か何かだろ」

 

 サラの呟きに、リーシャは気にした様子もなく答える。

 リーシャの言う通り、この時代に馬車を使って移動する者は、裕福な者達がほとんどであった。

 自分達以外の荷物を馬車を使って運ぶしかない者など、裕福な貴族か商人の類しか考えられないのだ。

 

「……商人にしては、らしくない格好でしたけど……」

 

 サラは先程感じた以上の胸騒ぎを感じていた。

 実際、裕福な貴族や商人達の物であるならば、馬車の周囲を護衛の者達が囲んでいる筈なのである。この時代、裕福な者など数は限られており、町で生活できない者達の一部は、盗賊等に身を落とす者も多いのだ。

 故に、そんな盗賊への防衛手段として、腕の立つ冒険者や傭兵を雇う事が当たり前となっている。

 

「止まれ!」

 

 サラが物思いに耽っている間に、一行は城下町を護る門の前に辿り着いていた。

 城下町の護衛も兼ねている兵士が門の両側に立っており、その手に持つ槍をカミュの前で交差させ、その行く手を遮っている。

 これも、城下町に住む国民を守る為の仕事である。

 それは、カミュ達も解っていた。

 

「アリアハンから来ました、カミュと申します。後ろの二人は従者となります」

 

「……アリアハンから?」

 

 アリアハンという国名を出すと、右側にいた兵士は訝しげな顔をした。

 左側にいる兵士は、一目で嘲りの顔だと解る表情を浮かべ、カミュ達一行を舐めるように見ている。その視線はとても不快な物であったが、リーシャ達の前面に立っているカミュは、顔色を変える事無く、視線を向けていた。

 

「……私は、ここ数年ここの門を任されているが、お前達は初見だな……それ以前に、このロマリアへ来た事があるのか?」

 

「いえ、ロマリアには初めて訪れました」

 

 カミュの返答を聞いた右側の兵士は更に思案顔を深め、疑わしい者を見るようにカミュを見る。左側の兵士は、もはやにやけ顔を隠そうともせず、サラを見ていた。

 不快な視線にリーシャは顔を顰め、サラはその視線に耐えられず俯いてしまう。

 

「……では、<ルーラ>を使って来た訳ではないのだな……どうやって来た?」

 

「『旅の扉』を使用して参りました」

 

 兵士の問いかけに対し、間髪入れず答えたカミュの言葉は、大きな門の前を流れる時を止めてしまう程の威力を誇った。

 一瞬、何が起きたのか理解できないように、兵士は呆然と立ち尽くす。

 

「『旅の扉』だと!! あれが開通したと言うのか!?」

 

 アリアハンが『旅の扉』を封印し、行き来が出来なくなっているという事実は、ロマリアにも知られてはいる。その行為は、自国の安全だけを考えた卑怯な行為であり、『アリアハンは臆病者の国だ』と嘲る人間は多数いた。

 未だに、ニヤニヤと厭らしい目でサラやリーシャを見ている左側の兵士は、間違いなくその部類の人間なのであろう。

 

「はい。ですが、おそらく、我々が『旅の扉』に入った後、再度封印が施されたと思われますので、使用は出来ないでしょう」

 

「!!」

 

 カミュの言葉に驚きを表したのは、何も門兵だけではなかった。

 その言葉に、サラとリーシャの顔にも驚愕の色が表れている。まさか、自分達がアリアハンを締め出されるとは考えてもいなかったのであろう。

 

「へっへっ、やはりアリアハンだな。腰抜けの卑怯者ばかりが集まった国らしいや。自分達が犯した罪の尻拭いもせずに、小さな島に閉じ籠ったままだ……けっ!」

 

 予想していたのか、初めから決めつけていたのかは解らないが、左に立つ兵士がその手にある槍を下ろし、嘲るような笑いと言葉を一行へ向けて来る。その兵士の態度に真っ先に反応を返したのは、やはり彼女だった。

 

「くっ! なんだ……」

 

 しかし、頭に血が上りそうになるリーシャをカミュの手が押え付ける。

 ただ、リーシャの顔前に出されただけではあるが、その威圧感はリーシャでも声を紡ぐ事が出来ない程の物。力の強さという面では、まだリーシャに分があるが、こういう交流面では明らかにカミュの方が上なのだ。

 

「失礼しました。ロマリア国王様には、話は通っていると思います。謁見をお許し頂ければと思い、ここを訪れました。城下町に入る許可を頂ければと思うのですが」

 

 そう話すカミュは、一通の書状を右側の門兵に手渡した。

 それは、アリアハン城を立つ際に、国務大臣から手渡された物資の一つで、アリアハン国王の花押が押された認可状である。他国の街や城に入る際に、カミュ達の身分を証明する物となるのだ。

 

「……ああ…………うん、確かに……入れ」

 

 カミュから手渡された書状にじっくりと目を通した兵士は、許可を出し、槍を下げた。

 その兵士に一礼した後、カミュは門を潜って行く。リーシャは左側の兵士に、未だ収まり切らない怒りの視線をぶつけその後を追って行った。

 

「ふん! お前たちの国が、どれ程の事をしたと思っているんだ! 卑怯者が!」

 

「……」

 

 通り抜け様に罵声を浴びせられ、リーシャの顔色が変わるが、それは再度カミュによって抑えられる事となる。サラは、何故ここまで罵倒されるのかが理解できず、顔を俯かせながら門を潜った。

 

 

 

「何故止める! あそこまで祖国を馬鹿にされて、黙っていろと言うのか!」

 

 門から離れたところで、リーシャが今まで抑えていた怒りの感情が爆発し、その矛先は前を歩くカミュへと向かう。サラはリーシャを抑えるようにその腰に手をかけるが、その程度の力では、リーシャの突進は止められない。

 

「……アンタは本当に馬鹿なのか? アンタは、ロマリアの国敵にでもなりたいのか? ロマリアでアリアハンの人間が問題など起こしてみろ。今の人間を見て解るように、反アリアハン感情が爆発し、すぐにでも戦争になるぞ」

 

「……ぐっ……しかし、お前は悔しくはないのか!?」

 

 カミュの語る内容は、決して大袈裟な事ではない。それを、心の中ではリーシャも解っているのだ。

 ただ、知識として知ってはいても、実際に受けてみると、宮廷騎士としてではなく、アリアハンの一国民として納得が出来なかった。

 

「……アンタは、この俺に愛国心でも期待していたのか? それこそ、アンタの脳は、どういう構造になっている?」

 

「なっ、なんだと!!」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュの言葉は、サラにも信じられない物だった。<レーベ>の生まれであるサラであっても、国籍はアリアハンであり、長く生活をしてきたアリアハンに対し、国の騎士であったリーシャ程ではないにしろ愛着はある。故に、あの兵士に対し、やはり抑えてはいるが怒りの感情は持っていたのだ。

 ただ、リーシャが我慢し、カミュもそれを抑えていると思い込んでいたからこそ、下を向き堪えて来た。

 

「あの兵士が言うように、アリアハンが送り出した者が、世界中での英雄という訳ではない。それはアリアハンに近ければ近い程、憎しみに近い物を持っている可能性が高い筈だ」

 

「なに!?」

 

 サラは、続いたカミュの言葉を理解する事が出来ない。

 彼が言う『英雄』とは、紛れもなく、アリアハンの英雄『オルテガ』であろう。それは彼の父親なのである。

 それを憎しみの対象と、平然と言いのけるカミュが信じられなかった。

 

「そいつの旅の為に、国家が提供する資金や物資の出所は、大抵その国に住む人間達だ。無理な搾取を受ければ、国民の生活水準は間違いなく下がるだろう。今、この城下町を見ると、その片鱗は見えない。それが、ここ十数年の中での国民の踏ん張りの為なのか、それとも為政者の手腕なのかは解らない。どちらにしても、そんな状況に追い込む原因を作った国が、それに対しての後始末もせずに、自国の為だけに鎖国したという事は事実だ」

 

 それは、リーシャも同様であった。

 自分が仕える国と、そして幼い頃からの憧れの人物を、これ程までに愚弄された事に、目の前が暗くなる程の怒りを覚えたのだ。

 故に、彼女はその内に湧き上がった感情を吐き出してしまう。

 

「カミュ!! お前は父親を何だと思っている!!」

 

 リーシャはその胸倉を掴み、怒りに燃えた瞳でカミュを睨みつける。そのリーシャの姿を抵抗する事なく受け入れ、冷やかな瞳でカミュは見つめ返していた。

 その瞳は、<キャタピラー>との戦闘の後に見せた物とは質を違えている物。

 サラの身体は硬直し、口は開くが言葉は出て来ない。

 

「以前にも話したと思うが、アンタが『オルテガ』という人物にどんな想いを持っているのかは知らないが、俺にはそれが理解出来ない。俺はあれを『英雄』だと感じた事はなく、ましてや身内だとも感じた事はない。この話は平行線を辿るだけだ」

 

「貴様!!」

 

「リーシャさん! 落ち着いて下さい!」

 

 カミュの言葉を聞き、今まで我慢していた怒りが爆発したリーシャは、掴んでいる腕を放し、カミュに向かって殴りかかろうとする。サラは、周囲からの奇異の視線を感じ、硬直した身体を無理やり動かし、リーシャの行動を止めるため、その背中に抱きつくような形でしがみ付いた。

 

「……アンタにはアンタの、俺には俺の考え方がある。俺の考えを押しつける事をするつもりはないが、逆にアンタの考えに染まる事もない。それを理解した上での旅ではなかったのか?……それに、今俺が言った事を、あの門兵が証明するのを見た筈だ。アンタがどう思おうと、この国では<アリアハン>も『オルテガ』も崇拝する対象ではないという事だ」

 

「……ぐっ……」

 

「で、ですが、この国の人達の中に、『魔王討伐』を志した人間がいましたか? 魔王に立ち向かおうとする人間を、その成否だけで判断するなんて……」

 

 リーシャがレーベの宿屋でカミュと交わした約束の中には、考え方については何も入っていない事を思い出し、言葉に詰まる。確かに、リーシャは『お互いの衝突については目を瞑る』と伝えていた。

 それは何もサラとカミュの間だけではない。リーシャとカミュの間の事も含まれている筈なのだ。

 言葉に詰まるリーシャの後ろから、サラは自分の考えをカミュにぶつけるが、それは本来カミュにぶつけるには筋違いの話だった。

 

「それこそ、ロマリア国民には関係のない話だ。力のない人間、その日を過ごす事に必死な人間に、『魔王』を倒せという方が馬鹿げた話だろう。要は、勝手に国から討伐に向かい、勝手に死んでいった人間のおかげで苦しんだという事実、唯それだけだ」

 

「か、勝手に死んだだと!!」

 

「リーシャさん!!」

 

 再度血が上って飛びかかろうとするリーシャを、サラは必死で押さえる。そんな二人を余所に、カミュは周りを気にした様子もなく、怒りに燃えるリーシャの目を無表情に見つめていた。

 

「アンタ方がどう考えていようと構わないが、この国の人間には、この国の人間の主張がある。これからロマリア国王に会いに行けば、おそらく今以上に理不尽な言葉を浴びせられる可能性もある事だけは理解しておいてくれ。それでなければ、旅の邪魔だ」

 

 リーシャとサラに向かって、淡々と話すカミュの言葉は抑揚がなく、それこそ人形相手に話しているような物。

 サラはカミュの話に納得は出来ないが、理解する事は出来ていた。

 今、<ロマリア>で問題を起こせば国同士の戦争となる。リーシャやサラが、一時の感情に流された事の結末は、多くの人間の死に繋がるのだ。

 旅を続けるどころか、それは大袈裟に言えば、人の歴史に終止符を打つキッカケになり兼ねない問題だという事だ。

 

「……わかりました……」

 

「……」

 

 カミュはそのまま大通りを歩き、真っ直ぐ王城に向かい歩を進める。その後を、未だに目に怒りの炎を残し、前を歩くカミュの背を睨みつけるリーシャが続いた。

 リーシャとて、カミュに言われる程の馬鹿ではない。カミュが何を懸念しているのかは十分に理解している。しかし、理解する事と、心で納得する事とは違うのだ。

 その冷めやらぬ怒りの全てをカミュにぶつけるしか、今のリーシャには、自分を抑える方法を見つける事が出来なかった。

 

「それで、どうするんだ!? このまま王城に向かうのか!?」

 

 先程の感情を捨て切れていないリーシャは、カミュに行先を訪ねる声がほとんど怒鳴り声に近い物になっていた。

 そんなリーシャをサラも抑える事はせず、カミュも気にした様子もなく歩いて行く。

 

「いや、宿屋を手配しておいた方が良いだろう。今日は謁見が終われば、ここに泊まる事になるだろうからな」

 

 カミュの言葉に、二人は反論することはせず、宿屋を探す為に歩き出した。

 その時、左手の方から声がかかる。その声は、綺麗ではないが良く通る声であり、昼の喧騒が広がるロマリア城下町に響いていた。

 

「いらっしゃい、いらっしゃい。今日は良い武器を仕入れといたよ。寄って行っておくれ」

 

 三人が声のかかった方向を確認すると、そこには盾に武器が重なった独特の看板を掲げている武器屋であろう店が開いていた。

 店先で、主人であろう人間が手を叩きながら客引きをしている。視線を動かしたカミュの瞳が店主とぶつかった。

 

「おい、兄さん。旅の人だろう? 見て行ってくれよ」

 

「どんな武器がある?」

 

 店主の言葉に興味を引かれたのか、珍しくカミュが街の人間の声に耳を貸した。

 カミュが店の方に歩いて行く事に驚きながらも、リーシャとサラもその後を追う。店主に誘われるままに入った建物の中には、大きなカウンターがあり、武器や防具の品揃えも中々の物であった。

 

「おっ、ありがとうよ。今日はな、これさ、これ。この<鉄の槍>が仕入れられてな。どうだい? 王宮の兵士達が使っている槍よりも良い物だと思うぜ」

 

「……」

 

 店主が差し出した<鉄の槍>は、柄の先に鉄製の刃が付いている、何処にでもある槍であった。

 王宮の兵士達が使っている物と大した違いはない。店主の商法なのだろう。カミュはそれを理解していた為、その事を責める事はなかった。

 

「いくらだ?」

 

「おっ、買ってくれるのか?650ゴールドになるぜ」

 

 650ゴールドは決して安い金額ではない。アリアハンを出る際に、カミュが手にした支度金は50ゴールドである。しかし、少し考える素振りを見せてから、カミュはリーシャへと振り返り、口を開いた。

 

「……アンタは槍も使えるのか?」

 

「な、なんだ、突然。私はそんな物は要らないぞ。この剣で十分だ」

 

 突然振られた話題に、リーシャは驚いた。しかし、自分の腰に下げている剣を軽く叩きながら、カミュへと返答をするが、その答えはカミュが期待していた物ではなかったようだ。

 

「……誰もアンタの為だとは言ってない。その僧侶にも、これから先は、戦闘でも役に立ってもらわなければならない。アンタが槍を使えるのなら、教えられると思っただけだ。非力な人間であれば、<銅の剣>より、射程距離が長い槍の方が戦い易い筈だ」

 

「わ、私ですか!!」

 

 リーシャとカミュのやり取りを、我関せずで眺めていたサラは、それこそ飛び上らん程に驚きを表していた。

 剣や槍等の武器を見る時、自分には関係のない物として考えていた節のあるサラは、当然ではあるが槍の使い方など分かりはしない。

 

「一概にそうだとは言えないだろう。槍のような長い武器は、それなりの訓練をしなければ、手足の様には動かせない。一朝一夕に使いこなせる武器ではないぞ」

 

「だからこそ、アンタが居る。それに、ここまで来る間に遭遇した魔物達を見ていなかったのか? あれは、アンタでもなければ、もはや<銅の剣>でどうにかなる魔物ではない」

 

 カミュの言う事は尤もな話だった。

 あの硬い殻に覆われた魔物などは、とても<銅の剣>で叩き潰せるような相手ではない。それこそ、殻ごと突き刺すような鋭利な武器でなければ、太刀打ちは出来ないだろう。それは、リーシャも解っている事だった。

 故に、リーシャは一度黙り込み、何やら考え込んだ後、もう一度顔を上げた。

 

「わかった。槍は私が教えよう……任せろ、伊達に宮廷騎士をして来た訳ではない。大抵の武器は、使いこなす事は出来る」

 

「え、えぇぇぇぇ!! リ、リーシャさん!?」

 

 少し考えた後、リーシャが発した言葉は、サラの戦闘訓練の過酷化を宣言する物であり、サラは驚きと共に、天を仰ぎたくなるような心境であった。

 今、現状の訓練でも、サラは悲鳴を上げているのだ。

 それが、槍の鍛錬となれば、再び一からの訓練となる。

 基本的な足捌きから、槍の振るい方。

 その全てが初めて尽くしのサラにとっては、気が遠くなる作業である事は間違いない。

 

「……決まりだな……親父、その槍を貰おう。それと、そこに掛けてある物は何だ?」

 

「ありがとうよ!! ん…これか? これは<鎖帷子>と言う防具だ。細い金属を編み込んだ物でな。まあ、刺突には弱いが、剣等で切りつけられても傷はつかないって代物だ」

 

 腰に付けている革袋を取り外したカミュは、店主の後ろに掛けてある網状に金属を繋ぎ合わせている服のような物を指差すと、店主は自慢気に答えを返す。まるで自分が作成したかのように語る店主を無表情で見つめていたカミュは、説明を聞き終わると一つ頷いた。

 

「なるほど……では、それも貰う。コイツに合うよう仕立ててくれ」

 

 カミュは、店主が指差す防具をサラに合わせるよう指示を出す。サラは、その言葉に更に驚く事となった。武器ばかりか、防具までも新調された事に驚いたのだ。

 確かに、<レーベ>にて、リーシャから『武器や防具の代金はカミュが支払う』と聞いてはいたが、自分ばかりが与えられる事に戸惑ったのだ。

 

「カ、カミュ様!! わ、私ばかり、そんな……」

 

「何を勘違いしているのか知らないが、アンタがこの中で一番危うい。命が惜しければ、下に着ている<革の鎧>を脱いで、これに替えておけ」

 

「そうだぞ、サラ。ゴールドの事は気にするな。確かに、旅にはゴールドは必要だし、私達の旅はそれ程裕福な旅ではない。だが、使う事を惜しみながら旅をしていても、命を落としてしまえば、そこで終ってしまう。私達も、この<青銅の盾>という物を買っておくさ」

 

 そう言って、自分の懐から出す訳でもないにも拘わらず、既に自分用の盾に目をつけていたリーシャは、店内に置いてある<青銅の盾>を手に取り、寸法を合わせるよう指示を出している。カミュはその様子を呆れたように眺め、自分の<青銅の盾>を手に取り、具合を確かめる事にした。

 

「おう、ありがとうよ。お嬢さん、こっちに来て一度試着してみてくれ」

 

「……は、はい……」

 

 つい何日か前にあった出来事を彷彿とさせるようなやり取りに、サラはどこか達観したような表情を浮かべながら、店主に言われた場所へと歩いて行く。試着室とは名ばかりの、布で仕切られただけの部屋で<鎖帷子>を着込んだサラは、再び店主の前に戻った。

 

「……そう言えば、私達が来る少し前に、馬車で来た人達がいましたけど、あの人達から商品を仕入れているのですか?」

 

 サラは、店主に寸法を合わせてもらいながら、街に入る時に感じた疑問を店主に投げてみた。

 あの馬車を動かしていた人間は、とても商人とは見えない姿だったが、『もしかしたら、色々な場所でものを仕入れて、店に提供するために旅をしている一団なのかもしれない』とサラは考えたのだ。

 だが、店主から返って来た言葉は、サラの想像を遥かに凌駕する物であった。

 

「とんでもない!! あんな奴らから仕入れる物なんて、うちの店で取り扱う訳がないだろ! その前に、あんな奴らから買う物なんて何もない!!」

 

 それは、怒りの感情を含ませた怒鳴り声だった。

 突然の怒鳴り声に、目を丸くしたサラであったが、すぐに店主が何故怒りを露わにしているのか疑問が湧いて来る。

 

「……どういうことだ……? あいつらは何者だ?」

 

 店主に疑問を投げかけたのは、サラではなくリーシャであった。

 サラと店主のやり取りを何気なく眺めていたリーシャであったが、店主の変わり様に、サラと同じ疑問を持ったのだ。

 

「……あいつらは……奴隷商人だよ。今の時代、自分達の子供を、口減らしの為に売る親も少なくない。そこから買って来たのか、それとも攫って来たのかは知らないが、定期的にここへ来ては奴隷を売って行く。その後、適度に城下町で遊んで行くから街は潤うが、俺は嫌いだ」

 

「……奴隷商人?」

 

「……」

 

 『魔王』が現れ、世が乱れたといえども、それ程に世情が変わる訳ではない。『奴隷』という存在は、それ以前から存在するのだ。

 それは、孤児であったり、攫われてきた者だったり、罪人であったりと様々ではあるが、大抵は碌な扱いを受けていない。

 

「……そんな……一体誰がそんな……奴隷などを買うというのですか?」

 

 サラは、孤児ではあるが、教会の神父にはそのような扱いを受けてはいない。

 アリアハンに奴隷商人などが来る事は、サラの記憶の中にはなかった。

 故に、そんな状況がある事が信じられないのだ。

 ただ、先程、店主に疑問を投げかけたリーシャと、最初から一言も発していないカミュは、そんなサラをそれぞれの表情で見つめていた。

 

「……誰って……そんなの貴族以外いねえだろうが! この国には、奴隷商人から奴隷を買える程に裕福な人間など、貴族達しかいねえよ」

 

「えっ?」

 

 国を担う人材であるはずの貴族が、奴隷商人から奴隷を買い、虐げているという事実をサラは信じる事が出来なかった。

 思わず、リーシャの方へと顔を向けるが、リーシャの表情を見て愕然とする。

 それは『既に知っていた』という表情。

 知っていて、それをサラが知った事を心配するような表情。

 つまり、アリアハンでも、貴族が奴隷を持っていたという事実に他ならない。

 

「……それにな……あいつ等が連れて来る者は、女ばかりなんだよ。奴隷として買われた女どもの扱いなんて、知れているさ」

 

「……慰みものか……」

 

 今まで一言も発していない、カミュがぼそりと呟くような言葉を発した。

 それは、サラに絶望を感じさせるのには、十分な威力を持った物であり、女性を『人』として認めていない行為。

 権力と金によって『人』の尊厳すらも冒涜する行為。

 サラの視界が闇に覆われて行く。

 

「リ、リーシャさん?」

 

 サラは救いを求めてリーシャに縋ろうとするが、その懇願は振り払われる事となる。

 目を伏せるように、サラから視線を外したリーシャは、その重い口をゆっくりと開いた。

 

「……サラ……貴族の中にはそういう人間もいる。勿論、少数ではあるが、奴隷商人から奴隷を買い、自分の欲求を満たそうとする人間がな。だが、今は国にそれを取り締まる法律がない」

 

「……そんな……」

 

 サラは教会で祈る時のように、胸の前で手を合わせ、リーシャを見つめる事しか出来なかった。

 サラの信じていた国家の根底に揺らぎが生じ始める。

 その揺らぎは、まだ小さい。

 だが、一つの物を信じ込んでいたサラの価値観に大きな変革を及ぼし始めていた。 

 

 この時代、このような城下町で暮らしている人間は、ゴールドさえあれば食に困るようなことはない。そして、五体満足であり、労働内容さえ選り好みしなければ、資金を稼ぐ方法はあるのだ。

 しかし、辺境の村などでは、自給自足の生活が当然である。作物が取れる内は良いが、天候などにより不作が続けば、それに比例して生活は苦しくなって来る。

 そうなれば、扶養家族が不要家族となるのも時間の問題なのだ。

 まずは歳をとり、労働力として戦力にならない老人達が対象となり、近くの山などに捨てられる。その後は、未だ食すだけの小さな子供達の順番になるのだが、そこでゴールドに変える方法が出て来るのだ。

 それが奴隷商人となる。

 奴隷商人に自分達の子供を、二束三文で売り払う。

 元は食費が掛るだけの存在だった者が、ゴールドへと変わるのだ、嬉々として我が子を売り払う親も出て来る。

 むしろ、そのために子を生し、母乳から離れる頃に売り払う親までもいるのだ。

 我が子に名前すら与えず、全く関心を示さない。教育も施さず、その子の将来を憂う事もない。

 

それが、今の時代なのだ。

 

「……調整は終わったか……?」

 

 そんな二人の心の葛藤にまったく関心を示す事なく、店主に向かって仕事の進み具合を問い質すカミュの表情は、能面のように冷めた物であった。

 

「あ、ああ、すまない。余計な話をした。頼む、忘れてくれ」

 

「……別に、アンタの今の話を上申しようとは思わない。それぞれ想いはあるだろう。だが、よく知らない人間に自分の内心を語るのは止める事だ」

 

 冷静さを取り戻した店主は、カミュの言葉に顔色を失う。それでも気を取り直し、その忠告を受け入れ、商品をカミュ達へと手渡した。

 

「ありがとう、肝に銘じておくよ。<鉄の槍>と<鎖帷子>と<青銅の盾>が二つ、全部で1630ゴールドだが、今の話を黙っていてくれるのなら、1500ゴールドで良いよ」

 

 先程、店主が語った内容は、完全な貴族批判である。このロマリアでは、どれ程の罪になるのかは解らないが、国民が犯してはいけない罪である事は、万国共通な事柄であろう。

 カミュは、再度、店主に公言しない約束をし、カウンターに袋から取り出したゴールドを置いて行く。

 

「……奴隷商人がこの街で遊ぶというのは、どういうことだ?……悪いが、見た限り娯楽がそれほどあるようには見えないのだが?」

 

 カミュから受け取ったゴールドを引き出しに仕舞っていた店主に、カミュが話しかける内容は、店主の話を先入観なく、全て聞いていた事を主張する物だった。

 カミュに国家批判をしてしまっている店主には、その質問に答えないという選択肢はない。

 

「……ああ……それなら、ほら。そこの階段を降りて行けば解る」

 

「……」

 

 店主の指さす先には、地下へと続く階段が存在していた。

 その先に、店主が言う娯楽があるのだろう。後ろを振り返った三人は、その階段を訝しげに見つめる。

 サラの胸の中に不思議な警告音が鳴り響いた。

 不安そうにリーシャを見つめるサラとは裏腹に、表情を完全に失くしたカミュは、店主へと振り返る。

 

「……わかった……」

 

「ああ、ありがとうよ。また何かあったら寄ってくれ」

 

 店主の謝礼の言葉を背に、カミュは階段へと歩を進めて行く。

 慌てたのはリーシャである。この旅に『娯楽』は全く関係しない筈だ。

 故に、カミュ達が向かう必要性もない。それでも、その場所に向かおうとするカミュに、リーシャは疑問を感じたのだ。

 

「カミュ! 行くのか?」

 

「何があるのか、見てみる」

 

 リーシャの問いかけにも、振り向く事なく答えたカミュは、下へと続く階段へと真っ直ぐ進んで行く。リーシャとサラは顔を見合せながら、それに続くしかなかった。

 

 

 

「血肉湧き躍る『闘技場』へようこそ!」

 

 階段を下りた一行に、真っ先に声をかけて来たのは、陳妙な格好をした男だった。

 蝶ネクタイに燕尾服、宮廷の舞踏会に出るかのような格好なのである。その男が、カミュ達に深々と頭を下げながら、不穏な言葉を発したのだ。

 

「……闘技場……?」

 

「はい! ここは、魔物達を戦わせる闘技場です。どの魔物が勝ち残るか予想して頂き、あちらでその券を買って頂く運びとなります。見事予想が当たれば、そのオッズに伴った配当が戻ってきます。ジャンジャン稼いで行って下さい!」

 

「……魔物を……?」

 

 闘技場という言葉に疑問を投げかけたサラの言葉に対し、男が返して来た言葉は、カミュの表情から熱を奪った。

 咄嗟にリーシャはカミュの横に立ち、いつでも抑え込めるように備える。それ程に、今のカミュの醸し出す空気は危うかった。

 サラには、その理由を正確に把握する事は出来なかったが、カミュをここに置いてはいけないという事だけは理解する。

 

「カミュ様……行きましょう……?」

 

 そんなリーシャの動きを視界の脇で捕らえたサラは、ここから出る事をカミュに提案するが、カミュは一つ首を振った後、奥へと進んでいった。

 慌ててその後を追うリーシャとサラは、その先で驚くべき物を見る事となる。

 

 中央には、下を見下ろすような展望席が設置されており、その下には、周囲を壁で丸く覆ったまさしく闘技場が存在していた。

 その円の至る所に、鉄格子があり、おそらくそこから魔物を出すのであろう。その光景を、カミュは冷たい目で見下ろしていた。

 その冷たい瞳は、周りをも凍りつかせるような雰囲気を纏っている。

 

「長らくお待たせいたしました! これより本日の10試合目を行います。皆さん闘技場にご注目下さい!」

 

 そんな中、会場全体にアナウンスが響き渡った。

 そのアナウンスに呼応するように、周囲の人間の狂気じみた声援が、闘技場を震わせる程の大音量となり、続く魔物の紹介のアナウンスの後に、闘技場内の鉄格子が三つ開き、中から<大ガラス>、<フロッガー>、<おおありくい>の三匹が、ゆっくりとした足取りで中央へと集まって来る。

 何か、特殊な魔法が掛けられているのか、それとも何か特殊な薬品が撃ち込まれているのか、魔物達の目は焦点が定まっていないような正気の目ではなかった。

 

「では、戦闘開始です!!」

 

 アナウンスと共に一斉に動き出した魔物達は、身体というお互いの武器を使い、襲い合って行く。それを見ていた観衆の熱気も更に増し、闘技場を包む空気も異様な物へと変わって行った。

 

 <大ガラス>が<おおありくい>目掛けて急降下をし、その鼻先を鋭い嘴で抉ると、<フロッガー>がその長い舌で<大ガラス>の体躯を叩き落とす。

 叩き落とされ、一瞬動きが止まった<大ガラス>に、<おおありくい>の鋭い爪が突き刺さった。

 数度痙攣した後、<大ガラス>はその息を引き取り、<大ガラス>の死骸を満足そうに見ていた<おおありくい>に今度は<フロッガー>が襲い掛かる。体当たりによって弾き飛ばされた<おおありくい>は、先程<大ガラス>に切り裂かれた鼻先から、血を撒き散らせて転がり崩れ、倒れ込んだ<おおありくい>の頭上に、<フロッガー>はその発達した後脚で大きく跳躍し、大きな前足で押し潰すように顔面へと着地した。

 <フロッガー>の全体重を掛けられた<おおありくい>の顔面は、まるで花火のように弾け飛び、その内部を形成する物を派手に撒き散らす。

 

「……うぉ……おぅぇ……」

 

 サラは、闘技場を直視する事が出来ず、吐き気を抑えるように口元に手を置いた。

 そんなサラの顔を自分の胸に押しつけるように、リーシャはサラの身体を抱き抱える。そんな二人へ視線を移す事無く、カミュはその冷たい瞳を闘技場へ落としていた。

 

「勝負あり!! フロッガーの勝ちです!! お賭けになっていた方々、おめでとうございました!!」

 

 戦闘の終了を告げるアナウンスの後、今まで以上の、声になっていない音が闘技場を取り巻く。それは、もはや人間が発するような物ではなく、気が触れた生物が発する奇声のように、サラには聞こえた。

 そして、再び闘技場の鉄格子が開いた。

 中から出て来た十人程の兵士が、残った<フロッガー>を切り刻んで行き、無残な死骸と化した<フロッガー>を引き摺るように運び出し、他の二匹の死骸も綺麗に片づけられる。

 魔物は負けても勝っても、待っているのは『死』だという事だった。

 

「……これが、『人』のする事か……」

 

「……カミュ……」

 

 その様子を能面のような表情で見つめていたカミュがぼそりと呟く。

 そんなカミュに対し、リーシャも、魔物に恨みを持つサラも、何も言うべき言葉を持ち合わせてはいなかった。

 唯、その能面のような横顔を眺める事しかできなかったのだ。 

 

「……<メダパニ>か<毒蛾の粉>で自我を消されていたのだろうな……」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュの表情は、二人が見た物の中でも、一番と言っていいほど冷たい物だった。

 その表情が、カミュの心を雄弁に語っている。熱気と狂気が未だ渦巻く闘技場を、三人はそれぞれの想いを持ったまま後にした。

 

 

 

 武器屋の正面に位置する場所にあった宿屋に入るまで、誰一人口を開く事なく、カミュが宿屋の主人に宿の手配をし、一度それぞれの部屋に入るまで会話はなかった。

 カミュが、ここまでの道程で手に入れた魔物の部位を売り払って戻って来てから王城へ上がる事となり、サラとリーシャは荷物を置いた後、宿屋の広間でカミュを待つ事となる。その間にも、二人の間には会話はなく、ひたすら先程の光景が頭の中で繰り返されるという地獄のような時間であった。

 

 狂気に満ちた人々の表情と発する奇声。

 魔物達の正気を失った瞳。

 それらを煽るような主催者のアナウンス。

 

 それら、全てがサラの頭の中をぐるぐると回っている。自分がどこにいるのか、自分は何を成す為に旅を続けているのかすら解らなくなる程の物だった。

 そんな時間が経過していく中、カミュが戻って来る。手に持つ袋は、中身が無くなっている為、萎んでいた。

 

「……王城へ向かう……」

 

 未だに、その表情は能面のようなままでカミュは謁見に向かうと言う。リーシャは渋い顔をしていたが、反論を挟もうとはしなかった。

 この状態で謁見の間に入れば、リーシャとサラは、まともな表情を作る事は出来ないだろう。

 しかし、謁見の間にて、国王の前に跪くのはカミュなのだ。

 リーシャ達はその後ろに控える従者に過ぎない。彼女達に発言する機会など有り得なく、顔を上げる事さえ許されはしないだろう。故に、リーシャ達は黙ってカミュの後ろを歩き出したのだ。

 

 

 

「止まれ!!」

 

 王城の城門の前には、街の門と同じように兵士が立っていた。

 街と違うのは、立っている兵士の階級が、街の門番よりも上である事。

 着ている鎧には、ロマリアの国章が記されており、正規の軍の兵である事が分かる。

 

「アリアハンから参りました、カミュと申します。アリアハン国王様からの書状も持参しております」

 

「アリアハンからだと!!」

 

 カミュの仮面を被った話し方に、街にいた兵士と同じような反応が返って来る。

 その様子に、再びリーシャは顔を顰めるが、サラが腕にしがみ付いていた為、何とか気持ちを抑える事に成功した。

 

「卑怯者のアリアハンの人間が、今さら何の用だ!!」

 

「ロマリア領を通る許可を頂きたく、ロマリア国王様へのお目通りをお取次ぎ頂きたいのですが」

 

 普通一介の兵士が、国家に対しての侮辱をすれば国際問題になりかねない。

 しかし、それでもロマリアの兵士がこのような態度に出るのは、恨みの深さだけではなく、単純にアリアハンを辺境国として見ている侮りが存在しているのだろう。もしくは、『戦争になっても勝てる』という想いがそうさせているのかもしれない。

 

「ふん!! ここで待っていろ! 良いか、一歩でも動くな!」

 

 カミュが手渡したアリアハン国王の書状を持ち、一人の兵士が城内へと消えて行く。

 アリアハンとは違い、彼らのような兵士と平民の間には、高い垣根は無いのかもしれない。アリアハンへの憎しみが同じ物であるからなのか、それとも、彼らのような兵士が、平民出身の者達で組織されているのかはわからない。

 

「許可が下りた。このまま真っ直ぐ歩けば、謁見の間に続く階段がある。それを上れ。それ以外の余計な場所には行くな。良いな!」

 

 戻って来た兵士は、相変わらず横柄な態度で、カミュ達にあれこれと指図をする。リーシャの拳は怒りに震えてはいるが、カミュは涼しい顔で聞き流していた。

 

「ありがとうございました」

 

 カミュは兵士に一つ礼をした後、城門を潜って行く。リーシャを促し、サラもその後を続いた。

 すれ違い様に、兵士の発する大きな舌打ちが聞こえ、リーシャが顔を上げそうになったが、必死なサラの腕に我に返り、大人しく城門を超える。

 

 

 

 言われた通りの階段を一行が上った先に、広く開けた広間があり、その前方には二つの玉座が存在した。

 一つの椅子には、恰幅が良く、口に黒い髭を蓄えた中年の男が座り、もう片方には、年若く見目麗しい女性が座っている。おそらく、年の頃から、中年の男がロマリア国王であり、その隣に座るのが王女なのであろう。

 また、ロマリア国王の傍には、アリアハンと同じように、大臣らしき人物が立っていた。

 

「そなたが、あのオルテガの息子、カミュであるか?」

 

「はっ」

 

 前に進み、跪いたカミュの一歩後ろに、リーシャとサラの二人も同じように跪き、そんな一行に、国王自ら声を掛ける。

 跪いたカミュが、顔を上げる事無く、返答をし、その答えに満足そうに頷いた国王は、跪く一行を見渡した。

 

「ふむ。面を上げよ……なるほど、良い目をしておるの」

 

「……」

 

 カミュは答えない。真っ直ぐロマリア国王を見つめ、その真意を探ろうとしていた。

 彼の中では、『王族』という存在は、気を許して良い部類の人間ではないのかもしれない。表情一つ変える事はないが、顔を上げたカミュの瞳は鋭い光を宿していた。

 

「アリアハン国王からの書状は目を通した。そなたは、あのオルテガ殿と同じように『魔王討伐』に向かうとな?」

 

「……はい……アリアハン国王様より、そのように命を頂いております」

 

 国王の言葉は、カミュ達の旅の目的を尋ねる物であった。

 しかし、その口調はどこか冷ややかであり、まるで厄介者を抱え込んでしまったかのような響きを持っている。それを敏感に感じ取ったサラは、違和感を覚えつつも、広間に敷かれた赤い絨毯を見つめていた。

 

「……そうか……アリアハン国王からも、援助願いが来ておる。しかしの……そなたも知っての通り、度重なる魔物との闘いや、そなたの父への援助で、国は見た目以上に疲弊しておる。そなたの力量も解らない段階で、援助というのも難しい」

 

「……はっ……」

 

 国王の話は、カミュの予想していた通りだった。

 援助など断るつもりなのだろう。

 確かに、成功するか分からない『魔王討伐』という旅の援助を、毎回毎回してはいられないという想いは、国を預かる者として当然の発想であろう。

 

「……そこでじゃ、そなたの力量を見る為にも、今この国を騒がしている盗賊の討伐をしてもらいたい。その盗賊は、このロマリア城から盗みを働いた不届き者だ。生死は問わん。その盗賊が盗んだ物を取り返して見せよ。それが出来た時、ロマリアはそなたを真の『勇者』として認め、惜しみない援助を行う事としよう」

 

 実際に、カミュは援助などを願い出てはいない。

 ただ、ロマリア領の通行許可が欲しいだけなのである。

 それを、ロマリア王家の失態の尻拭いをすれば認めるなど、王族でなければ鼻で笑われるような事を、平然と言ってのけるロマリア国王にカミュは呆れていた。

 

「……はっ……確かに承りました。その盗賊の名と、王城から盗まれた物をお教え下さい。必ずや陛下の御前にお届け致しましょう」

 

「……」

 

 カミュの返答に、後ろに控える二人は言葉を失くしていた。

 国王の命を断る事など出来る筈もないが、不快感ぐらいは表すのではとリーシャは考えていたのだ。

 しかし、そのカミュは、表情を全く変えずに、再び赤い絨毯を見つめている。

 

「うむ。良き返事じゃ。その盗賊の名は『カンダタ』という。最近ロマリア国内で盗みを働いてはいるが、根城は分かっておらん。盗まれた物は『金の冠』じゃ。そなた達の良い報告を期待しておる」

 

「はっ! では、これにて」

 

 カミュは、もう一度深々と頭を下げた。

 それに倣い、リーシャとサラも赤い絨毯を見つめ直す。これで、国王との謁見も終了を迎える筈であった。

 

「……しばし待て……」

 

 しかし、盗賊の名と盗難物を聞き、早々にこの場を離れようとするカミュを、目の前に座る国王が引き止めたのだ。

 立ち上がりかけたカミュは、再び膝を付く。その姿を暫し眺めていた国王の口が、唐突に開かれた。

 

「ふむ。そなた、本当に良い目をしているの。そなたのような者が、一国の王となるべきなのかもしれん。どうじゃ、この国を治めてはみんか?」

 

「……は?」

 

「!!」

 

 続くロマリア国王の言葉は、カミュを含めた三人を混乱の渦に陥れた。

 『この王は何を言っているのだ』

 そういう考えが、三人の頭に同時に浮き上がって来る。

 

「国王様!!」

 

「良いではないか。この者が王となれば、否が応でも『金の冠』を取り戻さねばなるまい。同じ事ではないか。ならば、このような若者に国の未来を託した方が良い。娘と婚姻させ、婿となれば、王位を継ぐ事も可能であろう」

 

 カミュ一行を放って、国王と大臣の話は進んで行く。

 未だ混乱から抜け出せないサラではあったが、当のカミュと、その後ろに控えるリーシャの頭は冷静さを取り戻していた。

 その証拠に、カミュの表情はいつもの無表情へと戻っており、何の感情も湧いてはいないように、冷たく国王を見つめている。

 

「どうじゃ、カミュ? 一度、試してはみんか? そなたが出来そうにないと思えば、再びわしが王の座に戻ろう。これは約束しよう」

 

 そう続けるロマリア国王の横に立つ大臣を見ると、どこか諦めたような顔でこちらを見ている。まるで、カミュが肯定を示しても良いと思っているかのようだ。

 更には、国王の横に座る王女にしても、にこやかな笑みを崩す事なく、こちらを見ている。サラもリーシャも顔を上げないまでも、視界の隅にそれを入れ、不思議に思っていた。

 

 そして、暫しの静寂が謁見の間に流れた後、カミュの口が開かれる。

 

「……畏まりました……国王様の申し出、謹んでお受け致します。ただ、私は未熟な身ゆえ、王としての職務を何時投げ出すか分かりません。この事は、国民には告げずに置いて頂きたいのですが」

 

「!!」

 

「カミュ様!! 何を……」

 

 カミュの答えに驚いて声を上げそうになったサラの口を、リーシャの手が塞いだ。

 サラは『何故?』という表情でリーシャを見るが、リーシャは未だ顔を下げたままであった。

 

「ふむ、そうか。それも良い。一度試してみよ。政務で解らない事があれば、この大臣に聞くがよい。それでは今日より、カミュが国王じゃ! 皆の者良いな!」

 

 良い訳がない。

 しかし、大臣や周りの兵士達の表情には、怒りや戸惑いなどは微塵もなく、どちらかと言えば呆れに近い物が混じっていた。

 その表情が何を意味しているのかは、サラには理解出来ない。しかし、今この時を持って、カミュがロマリア国王になる事だけは、国政を預かる者達の中で承認された事を意味していた。

 ロマリア国王からマントが掛けられたカミュは、玉座に座り、そこからリーシャ達を見る事となる。

 

「供の者たちよ、表を上げよ」

 

 大臣の声にようやく顔を上げる事を許された二人は、玉座に座るカミュを見る。サラは、疑問と困惑が混ざった表情でカミュを見上げていたが、リーシャはどこか達観した様子で、玉座に座るカミュの瞳を見詰めていた。

 

「カミュ王、この者達は如何致しますか?」

 

 玉座に座るカミュへ大臣が問いかける。先程までそこに座っていたロマリア国王は、既に自室へと戻ってしまっていた。

 それでも、カミュの隣の玉座に座る王女の表情は、柔らかな笑みを湛えており、謁見の間に異様な空気を醸し出していた。

 

「……宿を取っている筈だ……今日はそこに泊まり、旅の疲れを癒してくれ」

 

「……と、言う事だ。下がって、ゆっくりと旅の疲れを癒すが良い」

 

 大臣からリーシャ達の処遇を聞かれたカミュが発した答えは、簡素なものだった。

 その内容は、今日の夜の事のみ。

 これから先の事などは、何一つない。

 

 『一体どうしろと言うのだ?』

 『ここまで来たのに、どうすればいいのだ?』

 サラはそんな気持ちを抑えきれなくなり、口を開きかける。

 

「……畏まりました……では、これにて……」

 

 だが、隣にいたリーシャの言葉に、サラは言葉を発する機会を失い、そのままリーシャと共に、謁見の間を後にするしかなかった。

 

 

 

「何故ですか!? 何故、何も言わなかったのですか!? リーシャさんは、このまま旅を止めるおつもりですか!?」

 

 王城から出ると、陽も落ち始め、街を赤く染め始めている時分になっていた。

 王城と街を結ぶ橋を歩き終わり、街に入ってすぐにサラの感情は爆発し、矢継ぎ早にリーシャへと謁見の間で渦巻いた疑問をぶつける。リーシャは立ち止まり、ゆっくりと振り返った後、真面目な表情でサラを見つめ返し、サラはその表情を見て、後の言葉を繋げなくなり、押し黙った。

 

「……サラ……ここから先の旅の為にも言っておく。これから先、数多くの国家に行き、その国にある城の謁見の間にて、国王様とお会いする事があるだろう。その際に、謁見するのは私達ではない」

 

「……えっ?」

 

 急に話し始めたリーシャの意図が掴めず、サラはもう一度聞き返す形で言葉を発した。

 謁見の間に入っている段階で、自分やリーシャも国王と謁見している筈だ。

 少なくとも、サラは今の今まで、ロマリア国王と謁見しているつもりだった。

 

「謁見の間で国王様とお会いし、お言葉を頂戴するのはカミュだ。私達はその従者に過ぎない」

 

「そ、そんな……」

 

 納得する事が出来ないサラを見て、一つ溜息を吐き出した後、リーシャは真っ直ぐサラの瞳を見詰めたままに語り出す。宮廷と言う場所がどのような場所であるかをリーシャは知っているのだ。

 

「私達だけの場合は、私もカミュも気にはしない。普通に話し、時には対立して罵声を浴びせる事もある。しかし、他国の代表と相対する時は、カミュは『魔王討伐』に向かうアリアハンの『勇者』であり、それに同道する私達は付き従う者なのだ」

 

「……」

 

 カミュが『勇者』だという事実を、最も認めていない人間が口にする内容は、説得力に欠けてはいた。

 しかし、リーシャの瞳は真剣であり、それが彼女の心の中を正確に表わしている事を窺わせる。

 

「サラには納得がいかないかもしれないが、そういうものだ。私達は、謁見の間でお許しの言葉がない限り、顔を上げる事も許されはしない。ましてや、言葉を発する事など以ての外なんだ。アリアハンを代表している人間は、カミュだけという事だ」

 

 リーシャの言っている事は、宮廷で働く人間にとっては当然の事でもあった。

 国王となれば、例え貴族であっても、おいそれと言葉を交わす事は不可能である。ましてや、他国の王族ともなれば、国家を代表して謁見する時にしか、言葉を発する事は許されない。

 だが、平民出のサラには、雲の上の存在過ぎて、想像が難しいのだ。

 

「……では……リーシャさんは、このままカミュ様がロマリア国王様となって、旅を終わらせてしまう事も仕方がないと言うのですか!?」

 

「そうは言わない。サラ、よく考えてみろ。あのカミュが、何の考えも無しに、あのような申し出を受けると思うのか?……サラもここまでカミュを見て来た筈だ。アイツが……魔物よりも国家や貴族、そして王族の方を嫌悪している節のあるカミュが、あのような申し出を喜んで受けると思うのか?」

 

 行き場を失ったサラの憤りは、リーシャへと向けられたが、諭すように語るリーシャには届かない。サラの感情の全てを受け入れるように、リーシャはサラの心へと入り込んで来た。

 

「……それは……」

 

「何か考えがあるのだと思う。それが何かは、私には解らないが、アイツがそうする理由があると思っている。だから、今夜は宿屋で休めと言ったのだろう……おそらく、明日には、アイツは国王という職を辞退するつもりなのではないか……」

 

 確かに、カミュは今日の宿の事だけを話していた。

 それが意味する事など、頭に血が上っていたサラは、考えもしなかったが、リーシャの言う通り、あのカミュが何の理由もなく、貴族や王族になるとは思えない。自分やリーシャが考えつかない事をするつもりなのかもしれない。

 その時、突如サラの頭に閃いた物があった。

 

「……もしかして……闘技場を潰すつもりでは!?」

 

 カミュが闘技場で見せた表情は、今までで一番の物であった。

 そこには怒りや哀しみを始めとした、色々な感情が混じりあった結果の無表情ではないかとサラは感じていたのだ。

 故に、その元凶の闘技場を廃止するのではとサラは考えた。

 

「……いや、それはないだろう。前に話した国民の不満の捌け口が、ロマリアではあの闘技場なのだ。それは、カミュも理解している筈だ」

 

「……そうですか……」

 

 自分の考えが否定された事の安堵に、サラは一つ息を吐き出す。それと共に、再びカミュの行動に対する疑問が湧き上がり始めた。

 頭の中を渦巻く疑問に目を回していたサラの肩が叩かれる。

 

「何にせよ、今、私達が考えたところで、何かが解る訳ではない。今日は、カミュ王のご好意に甘えて、宿屋でゆっくりと疲れを取るとしよう」

 

 リーシャは、サラの頭を軽く叩いた後、宿屋へと向かって行き、サラはどこか釈然としない思いを残し、リーシャの後を追った。

 その後、久しぶりに個室を取った二人は、湯浴みをし、ゆっくりと食事を取った後、少し早めにベッドへと入る。久しぶりのベッドは、サラを簡単に眠りに落とし、異国の地での夜は更けて行った。

 

 

 

 暗く、一寸先も見えない闇に覆われた王城の廊下を、一人の青年が歩いていた。

 手には、少し前に大臣から借り受けたランプを持ち、辺りを照らしながら慎重に歩を進めて行く。それは、衣装を替えたカミュであった。

 リーシャの考え通り、カミュはある目的の為にロマリア国王の申し出を受けていた。

 今、その目的を達する為、夜の廊下を一人歩いているのだ。

 

「……ここか……?」

 

 カミュの足は、一つの扉の前で止まり、その扉の上部に掲げられたプレートをランプで照らした後、その扉を開き中に入って行く。カミュが入っていった後、廊下には再び暗闇が戻って行った。

 

 どのくらいの時間が過ぎたであろう。

 再び扉を開け、戻ってきたカミュの手には、ランプ以外の物が抱えられていた。

 扉を閉め、歩き出したカミュは、それを小脇に抱えるようにして歩き、寝室へと戻って行く。

 静寂と闇に包まれた王城は、ランプの明かりが消えて行くと同時に、再び眠りへと落ちて行った。

 

 

 

 

 



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ロマリア城②

 

 

 

 翌朝、サラは日の出と共に目覚めた。

 昨晩早くに、ベッドへ入った為であろう。十分な睡眠により、身体の疲れも大分取れている。サラは早々に着替えを済ませ、宿屋を出てロマリア教会へと向かった。

 

 宿屋から、少し王城の方向に歩くと、アリアハン教会よりも若干大きめな教会が見えて来た。

 屋根には、『精霊ルビス』が天に向かって手を合わせている彫像が掲げられている。

 この世界では、『精霊ルビス』を崇める事は万国共通の宗教なのだ。例え、いがみ合っていても、人は皆等しく『精霊ルビス』の子なのである。

 教会に入ると、まだ陽が昇って間もないというのに既に先客がおり、ルビス像へ向かって跪き手を合わせていた。

 年老いた老婆であったが、サラが入って来た事に気が付いていないのか、微動だにせず、静かに祈りを続けている。サラは、老婆の祈りが終わった後にしようかと考えたが、この後にリーシャとの稽古が控えている事から、老婆の隣に跪き祈りを始める事にした。

 

「若いのに、良い心がけと思ったが、その服装からすると『僧侶』様でありましたか?……いや、『シスター』とお呼びした方がよろしいのかな?」

 

 真剣に祈りを続けるサラへ不意に声がかかる。

 声のする方へ視線を向けると、祈りが終わった老婆が、顔の皺を濃くした笑みを浮かべ、サラを見ていた。

 

「あ、いえ、『シスター』と呼ばれる程の者ではありません。未だ修行中の身です」

 

「これは、これは。立派な『シスター』とお成りなさい。貴女のような若い方ならば、色々と悩む事もお有りでしょう。ですが、何事も貴女を成長させる試練とお考えなされ……悩み、考え、前に進む事こそが、人を成長させる一番の物です」

 

 老婆に対して、一言礼を述べたサラではあったが、何か自分を見透かされているような、そんな不思議な感覚に包まれた。

 サラが今持っている悩み。

 それは、ルビス像を前にして話せるような内容ではない。

 

「……僧侶様……この世に、絶対はありませんよ。ルビス様は『人』を子としてお考えになられます。子であるからこそ、教え導く事はありますが、子の考えや子が歩む道を否定し、阻害する事などありません」

 

「……あ、あなたは……」

 

 押し黙ったサラに対して老婆が続けた言葉は、聞き方によってはルビス信仰を否定しているようにも聞こえる物だったのだ。

 熱心にお祈りをしていた老婆が、それも教会の中でそのような事を話す事にサラは驚き、そして呆れた。

 

「申し訳ありませんな。悩める若者に説教をするのも、年老いた婆様の楽しみの一つでしてな……ついつい……」

 

 サラが呆けた顔で老婆を見ていると、やわらかな笑みを保ったまま、老婆もまたサラを見ている。不思議な空気が教会内に流れ始めていたが、そんな空気を破ったのは、やはり彼女だった。

 

「サラ、お祈りは済んだか?」

 

 教会の扉が開き、眩いばかりの光と共に中に入って来たのは、姉のように思い始めている、頼りになる『戦士』だった。

 

「ほっほっ。お連れさんかね?」

 

「は、はい……」

 

 悠然とこちらに向かって歩いて来たリーシャは、サラの隣にいる老婆の存在に気が付き、軽く一礼した後、正面のルビス像に向かって手を合わせる。リーシャの姿は、既に旅立てるような恰好で、それはつまり、祈りが終わると同時に、サラにとって地獄に近いリーシャとの鍛練が開始されることの証明でもあった。

 別段暑くもないのに、額から汗の雫が垂れ落ちて来るのを感じながら、サラはリーシャの祈りが出来るだけ長くかかるように祈るのだった。

 

「サラ、行こう。おそらく今日、ここを発つ事になる筈だ。ならば、今日は軽めの鍛練にしよう」

 

「あ、はい!」

 

 祈りの終わったリーシャが振り向き様に言った言葉は、サラの胸を撫で下ろさせる物であり、自然とサラの返事も明るくなる。そんな二人のやり取りを見ていた老婆もまた、顔の皺を濃くし、笑みを溢していた。

 

「ほっほっ。悩みは、死すまで無くなる事はありません。自身の悩みに押し潰されそうになられたのなら、またここに寄りなされ。心の内をお聞きするだけであれば、この老婆にも出来ます故」

 

「……ありがとうございます……貴女は……この教会の……」

 

 先程のような物ではなく、サラの身を気遣う物言いに、サラの疑問は大きくなって行く。

 お礼を述べて、深く頭を下げたサラは、窺うような視線を向け、老婆へと問いかけるのだが、その問いかけにも、老婆は優しい笑みを浮かべていた。

 

「……はい。この教会で司祭をしております」 

 

「!! 失礼致しました!」

 

 司祭となれば、教会を任されている者と考えて遜色はないだろう。

 サラを育ててくれた神父様もまた、司祭である。

 ルビス信仰で司祭とは役職であるが、それに対し、神父とは呼称であって役職ではないのだ。

 更に、その役職は、男女問わず与えられる。

 故に、この老婆が、実質ロマリア教会の管理者であると考えて良いという事となる。

 

「いや、いや、お気になさいますな。今、私は法衣を着てはいませんよ。ですから、ただの老婆と思ってくだされ」

 

「……はい……ありがとうございます」

 

 身分を明かされ、『老婆と思え』など、土台無理な話だ。

 熱心な信徒であるサラにとって、司祭程の人間と面と向かって話す事さえ出来よう筈がない。現に、今のサラは、ルビス像にしていたように、老婆の前で跪いている。

 昨日、一国の国王を前にして、立ち上がり言葉を発しかけたようなサラとは違う。同じ雲の上の存在でも、国王と司祭とでは、サラ自身が感じる畏れ多さの実感が違うのだ。

 

「サラ、時間があまりない。行こう」

 

 このままでは埒が明かないと感じたリーシャの声で、ようやく立ち上がったサラは、深々と司祭に頭を下げた後、先を行くリーシャを追い、教会の門を開いて外へ出た。

 残された老婆は、未だ温かい笑みを浮かべながら、サラの出て行った門を見詰めていた。

 

 

 

「カミュ王、お目覚めでしょうか?」

 

 カミュは既に目を覚ましており、着替えを済ませていた。

 濡らしたタオルで顔を拭いていると、ドアのノックと共に、中を確認する声が聞こえて来る。

 カミュに割り当てられた部屋は、王が暮らすような部屋ではなく、一般に他国の貴族等の客賓が通されるような部屋であった。

 この事からも、王室全体が、カミュを国王として担ぐ気は微塵もない事を示している。

 

「……はい……どうぞ、お入り下さい」

 

 カミュがドアに向かい了解の意を示すと、遠慮がちにドアは開かれ、外から給士が顔を覗かせた。

 それなりの年齢を重ねた女性であり、おそらく若い頃から、このロマリア王宮に仕えている者なのであろう。

 

「お食事をご用意しています。皆さまも、そろそろお集まりになる頃ですので、お急ぎ下さい」

 

 一人の給士が、国王に掛ける言葉とは思えない内容を告げた後、カミュを案内する事なく、下がって行った。

 来いと言われても、食事を取る場所が何処であるのか分からないカミュは少し考えたが、あまり遅くなっても失礼と考え、とりあえず外に出る事にした。

 部屋を出てはみたものの、謁見の間までの道程は知っていても、食堂の場所が右か左かも分からない。数度周囲を見たカミュは、謁見の間からこの部屋までの間に何もなかった事を思い出し、謁見の間とは逆方向に歩き出した。

 

「あら、カミュ王、おはようございます」

 

 カミュが廊下を歩いていると、不意に横から声がかかる。彼は驚く事もなく、そちら側に顔を向けると、にこやかな笑顔を湛えた王女が立っていた。

 この王女の顔には、謁見の間でカミュ達が謁見をしている時から、その後の食事の時、更には夜に就寝の挨拶に至るまで、まるで、『作り物の仮面を被っているのでは』と思う程、常に笑顔が張り付いていた。

 

「……おはようございます、王女様……」

 

「あら、随分と他人行儀ですのね。これから、我が夫となるお方が」

 

 カミュの返しに、初めて笑顔という仮面を取って、明らかな不満顔を表す。その表情は、元来の美しさを持つ王女に、可愛らしさというエッセンスを加えた、男という性別に生まれたからには惹かれずにはいられない、そんな表情であった。

 

「……いえ、それは……」

 

 しかし、それは、一般の男性ではという話であり、当のカミュは全く興味を示しておらず、何やら口籠っているのも、また違う理由のようであった。

 うろたえたカミュの姿に、王女の表情が笑顔へと戻って行く。

 

「ふふっ、まあ、よろしいですわ。さあ、食事に参りましょう、あなた」

 

「……」

 

 再び笑顔の戻った王女であったが、その笑顔は、先程までの仮面のようなものではなく、心から楽しんでいるような、花咲く笑顔であった。

 カミュは、一瞬驚いたように目を見開くが、小さな溜息を吐いた後、王女に腕を取られ、食堂へと歩き始める。

 

 食堂での食事は、カミュと王女の二人以外にも、老人が一人同席していた。

 歳を考えると、おそらく先代のロマリア王と考えて間違いないだろう。カミュに対し、興味の欠片も示さないところは、他の重臣たちと同様で、この場に明らかに不似合いなカミュを、空気と同様に扱っているようでもあった。

 

「どうしたのですか、あなた? 食事が口に合いませんか?」

 

 カミュの手が止まっている事に気がついた王女が、カミュへと声をかけるが、その表情や物言いを聞くと、完全に面白がっているのが理解出来る。彼女は、この状況を明らかに楽しんでいた。

 常に周囲の人間に対し、興味らしき物を示した事のないカミュでさえ、今自分が置かれている状況に、内心焦りに近いものを感じているのにだ。

 

「すまんの。お主も、あのどら息子の我儘に付き合ったのであろう。あ奴は、昔から遊び好きであったが、歳をとり、子が出来てもその辺は全く変わっておらん。政も国務大臣と、その子に任せっきりでな……」

 

「!!」

 

 突然話し始めた先代の言葉に、カミュは心からの驚きを表す。

 カミュがここまで驚く事は、それ程ある物ではない。

 先代が『その子』と示した人間は、カミュの隣で、からかう事を面白がっている王女その人であったのだ。

 つまり国政は、王女が絡みながらも、国務大臣を陣頭に行っているという事になる。王女とはいえ、一国の国政を司るとなれば、中途半端な事は出来ず、まともな大臣であれば、才がないと感じれば、前に出て来る事を許さないだろう。

 そうなれば、今のロマリアは国務大臣が無能なのか、それとも、この横で楽しそうに笑っている王女が有能なのかのどちらかになる。

 

「……では、あの闘技場等も……」

 

「うむ。案は、その子が出した。実際に指揮したのは大臣じゃがな」

 

 昨日見た闘技場。

 その存在は、カミュの心象では最悪な物であった。

 ただ、国の取る政策として考えれば、あれ程に優れた施設はない。『人』にとって、憎しみの対象たる『魔物』同士の戦いを賭けの対象にする。

 その対象である魔物は、死という決着がつくまで戦わせ、最後に生き残った物も、人間の手によって大観衆の前で殺されるのだ。

 民の不満の捌け口としては、これ以上の物はないと言っても過言ではない。

 

「ふふっ、私は思った事を口にしただけですわ。それをどう実現させるかは、全て我が国の重臣たちの腕です。優秀な家臣たちを持っているからこそ出来た事です」

 

 手で口元を押さえながら、謙遜するその姿は、自分の頭脳や才能に絶対の自信を持っている表れであろう。

 もしかすると、このロマリア国の頭脳は彼女なのかもしれない。

 

 

 

 朝食も取り終わり、部屋に戻ろうとするカミュの横に、再び王女が並んで来た。

 廊下に出て、周囲の人間の姿がなくなるまで、一言も発する事はなく、カミュと同じ速度で歩いて来る。

 

「……何かご用でしょうか……?」

 

 堪りかねたカミュが、王女に向き直り口を開いた。

 そんなカミュの行動も予測していたように、柔らかな笑みを浮かべながら、王女も歩む速度を落として行く。立ち止まったカミュの瞳を見上げる王女の瞳は、何か悪戯を思いついた子供のように輝いていた。

 

「そうですね……目的の物は見つかりましたか?」

 

「!!」

 

 少し、顎に指を置いて考える素振りを見せた王女が発した言葉に、カミュは表情にこそ出さなかったが、驚きで言葉が出なかった。

 カミュの昨晩の行動は、城の者が寝静まった夜中に起こされた筈。

 それにも拘らず、この王女はカミュの行動を知っている節を見せているのだ。

 

「……何の事でしょうか……?」

 

「あら、別に惚ける必要はないですわよ。少し見ただけですが、貴方のような方が、自らの使命を投げてまで王になりたいとは思わないでしょう?……ですから、何か目的があるのではないかと思っただけですわ」

 

 何を言っているのか分からないとでも言うようなカミュの言葉に、王女は間髪入れず反応する。それは、まるで、『私にはお見通しですよ』とでもいう得意気な様子であった。

 

「ご心配には及びませんわ。貴方のようなアリアハンから来た人間が、ロマリアで何か事を起こせばどうなるかは知っていらっしゃると思いますもの。でしたら、例え貴方がこの城から何かを持ち出したとしても、それは、この国には必要のない物。それも、例え失ったとしても、その事を誰も気がつかないような程の物なのでしょう?」

 

「……」

 

 沈黙を続けるカミュを見て、自分の推測が間違ってはいない事を確信した王女の表情が、悪戯を成功させた子供のように咲き誇る。男性であれば、表情を崩すであろう王女の笑みを見ても、カミュの顔は能面のように静かであった。

 

「ですから、私はその事で、事を荒げるつもりはありません。それに貴方は、今日にはこの城をお出になるつもりなのでしょう?」

 

「……はい……」

 

 自分の考えが正しいと証明できた事に満足そうな王女は、畳みかけるようにカミュへと言葉を繋いで行く。カミュを見上げる王女は、顔の前で両手を合わせ、飛び上りそうな程に喜びを表していた。

 

「やはり、そうでしたのね。ああ、口調も元に戻してくださって構いませんわ。それこそ、私を王女としてではなく、平民のように扱ってくださいな」

 

「……」

 

 だが、王女が続けた一言を聞いたカミュの表情に変化が現れる。

 その変化は、おそらく、今現在では誰にも理解はできない程に小さな物だった。

 

「ふふっ、こう見えても、私は結構貴方を気に入っているのですよ。たった一日ですけど夫婦となりましたし。お父様の言う通り、意志の強い目をされておりますしね」

 

「……」

 

 王女が一方的に話す中、カミュの口は開く事なく、徐々に表情が失われて行く。

 王女の言葉の何かが、カミュの心を動かした事に間違いはない。 

 だが、それはプラスではなくマイナスの方向であった事は、確かであろう。

 

「そうですわ! カミュ殿、あなたが『魔王バラモス』を倒した暁には、本当に私と婚姻を結び、このロマリアの王となりませんこと? 『魔王』を倒した勇者であれば、一国の王となっても誰も文句は言いませんわ。どう、良い考えでしょう?」

 

 王女は自分が考えた案が、とんでもない名案だと言わんばかりに、柏手を打ち、目を輝かせながらカミュの返事を待った。

 確かに、カミュが『魔王』を倒したとなれば、カミュの名声は瞬く間に世界中へと広がるだろう。

 それこそ、彼の父オルテガも遠く及ばない程に。

 そんな英雄がロマリアという一国の王となり、先代王の血を引く王女を妃として迎え、その間に子を成せば、ロマリア王国は世界で並ぶもののない程の国となる事は間違いがない。それこそ、全世界を統一できる程の力を有す事だろう。

 おそらく、この賢女である王女からすれば、そこまで考えての発言なのであろう。

 もし、カミュが『魔王討伐』を成し遂げられないという事は、それは『死』という結末を意味する。つまり、ロマリア王国としては、多大な利益はあるが、損はないという提案なのである。

 しかし、王女の視線の先には、王女の可愛らしさや美しさ、そして聡明さに対し、照れたように顔を綻ばせる男達とは、全く正反対の表情で立つカミュの姿があった。

 

「……王女様、失礼を承知で、先程の王女様のお言葉に甘えさせて頂きます」

 

「え…ええ……」

 

 無表情のカミュの様子に、怯みながらも返事を返す王女の姿は、流石と言っても良いのかもしれない。リーシャや、サラでさえ、このカミュの無表情には足が竦みかねないというのにだ。

 

「ここ十数年での国家の立て直しに関しての賢策、見事だと思います。今このロマリアが国家として成り立っているのも、王女の力無くしては有り得ない事でしょう」

 

「そ、そうね……」

 

 カミュの表情や瞳からは、とても王女を褒め称えている様子は見受けられない。言葉では、その王女の功績を讃えてはいるが、その内心は違う物である事が明白なのであった。

 

「その上で敢えて言わせて頂きます」

 

「ええ……」

 

 徐々に、顔が強張って行くのを感じた王女であるが、カミュの瞳から目を離す事は出来ない。それが『勇者』としての能力なのか、それともカミュという人間の質なのかは王女には理解できない事だった。

 

「俺は、賢しげな女は嫌いだ。平民と同じようにと言うのなら、この国に来ている奴隷商人にでも売り飛ばしてやろうか?」

 

「!!」

 

 突然豹変したカミュの姿に驚き目を見開く王女。

 自分の言葉の何が気に食わなかったのかさえ、理解が出来ない。

 対するカミュも同じだった。

 こんな事を言うつもりもなかった。自分の物言いが、仮にも王族に向ける言葉ではない事は解っている。しかも、発している言葉は、カミュ自身も勝手さに身悶えてしまうような内容なのだ。

 昨日見た、闘技場の実情。

 それの発案者の、『平民と同じように』と言った一言が、カミュの中の何かを弾けさせた。

 この王女は知らないのかもしれないが、この城で働く貴族達の中には、平民の奴隷を蹂躙している者達もいる。闘技場で働く人間の中には、魔物に誤って殺された人間もいるだろう。

 平民とは、王族や貴族が考える程、平穏な暮らしをしている訳ではない。『人間は皆平等とでも言うのであれば、それ相応の立場で話せ』とでもカミュは思ったのかもしれない。

 しかし、当のカミュもまた自分の発言に困惑していた一人であり、『何故このような事を言ったのか』、『何に腹を立てたのか』という事さえ理解してはいなかった。

 そんな中、先に立ち直ったのは、王女の方であった。

 

「……そ、そうですか。残念ですわ。まあ私も、自分の損得の勘定もできず、感情だけで判断をするような脳なしは御免です。今の私への言葉は、『平民と同じように』と言った私にも落ち度がありますから、不問に致します」

 

 立ち直った王女の表情に憤怒の気配は微塵もない。

 謁見の間で見たような張り付いた笑顔を見せながら、カミュへと返答するところは流石一国の王女であり、その国政を担う賢女なのであろう。

 

「……失礼致しました……」

 

「お父様は、いつものように闘技場へ向かっている事でしょう。そちらへ行けば、会う事も出来る筈ですわ」

 

 それでも、自らが受けた動揺を隠すように髪を後ろへと靡かせ、王女はカミュへと視線を向けた。

 その視線を受け、カミュの表情に若干の色が戻る。

 『相対するに値する人間』。

 それは、カミュの傲慢な考えであるだろうが、彼は王女をそう評価し始めていた。

 

「……ありがとうございました……」

 

「いえ。それでは、ごきげんよう」

 

 頭を下げるカミュにちらりと視線を向けるだけで、王女はそのままドレスのスカートを翻して歩いて行く。

 頭を上げたカミュは、王女の後ろ姿を見送った後、自室へ戻り、剣とサークレット等の武具を身に着け、王城を出るために外へと向かった。

 

 

 

「うぅ……うぅ……」

 

 リーシャとの稽古が終ったサラは、宿で用意されている朝食を食べるのに四苦八苦していた。

 今日から、剣の素振りに加え、槍の立ち回りも入ったのだ。

 教会での言葉とは違い、リーシャの訓練は厳しく、槍など持った事のないサラは、その重みと重心の取り辛さに何度となく尻もちをついた。

 アリアハン城下町を出た時には、肌荒れもしていない綺麗な物であったサラの手は、今や、剣の素振りと槍の稽古でマメだらけになっている。マメができ、そのマメが潰れ、そしてその上にまたマメが出来る。剣の素振りでの力の入れ具合が、やっと解りかけていただけに、新たな武器の登場で、サラの手には新たなマメがぎっしりと出来ていた。

 その為、食事をとる為のフォークやスプーンが思うように持てない。

 

「はははっ。サラ、最初は誰しもそうだ。そのうち、今、マメができている場所の皮が厚くなって、少しぐらいの稽古ではマメなど出来なくなるぞ」

 

「うぅ……それはそれで嫌です……」

 

 ごつごつした手になる事を、好ましいと思う女性は少ない。

 いや、目の前に座るリーシャならば、『この手を見る度に、自分が強くなっている事を実感する』と嬉しそうに言いそうだとサラは思ったが、自分の身の危険を感じ口にする事はしなかった。

 

「そうも言ってはいられないだろう? これから先、旅は過酷になって来る。それこそ、私とカミュだけではどうにもならない事があるかもしれないのだ。そんな時、サラも剣や槍で戦力となれば、私としては心強い」

 

「……はい……」

 

 リーシャの顔を見れば、それはサラを乗せる為に言っているのではない事ぐらい、サラにも解る。リーシャは心からそう思っているのだろう。

 だからこそ、サラも心苦しいのだ。

 サラは、自分にそれ程の能力が隠れているとは思っていない。リーシャの大きな期待に応える事の出来る才能など、自分の中の何処を探しても見つからないとさえ思っていた。

 

「……ですが……カミュ様は、本当に旅を続けられるのでしょうか?」

 

「ん?……それは、大丈夫だろう。朝食を取り終わったら、城門の方まで行ってみよう」

 

 サラの中にある別の心配事を聞き、『そちらは全く心配していない』とばかりに、リーシャは卵を口に放り込む。その姿に、サラは溜息を吐くしかなかった。

 リーシャという『戦士』の中に、何故それ程の自信があるのかが理解できないのだ。

 サラの信じ続けていた『勇者』像とは掛け離れた存在であるカミュという青年を、まだサラは信じ切る事が出来ていなかった。

 

 

 

 リーシャとサラが城門に辿り着き、暫く経つと、城門に立つ兵士達が何やら話した後に、城門が開いた。

 城門から出て来たのは、王が纏うマントではなく、旅へと向かう為のマントを羽織ったカミュ。

 

「……なんだ、もう来ていたのか……?」

 

 リーシャ達の下まで歩いて来たカミュは、リーシャとサラの存在に大した驚きもせず、まるで当たり前の事のように言葉を交わす。そんな二人の会話を、サラは不思議な物を見るように眺めていた。

 

「ああ、サラは不安がっていたが、私は、お前が王になどなれない事は、解っていたからな」

 

「……そうか……」

 

 得意げに胸を張り、『どうだ』と言わんばかりに話すリーシャの姿に、後ろに控えるサラは笑みを溢す。それでも、カミュは何の感情も持たない表情で、歩き出した。

 

「実際、今日中に王位を返上するとは思っていたが、ここまで早いというのは正直予想外だった。追い出されるような事をして来たのか?……まあ、お前を夫として迎えなければならない王女様にしてみれば、何とか破談の方向に向かわせたいと必死になるだろうがな」

 

 続くリーシャの言葉に、サラは、朝早くから城門に向かう事になった我が身を憐れんだ。

 同時に、確信もなくこの時間から城門で待つ事にしたリーシャの行動に、脱帽したい気分になったのだ。

 当のリーシャは、カミュの行動を見抜いていた自分に大層満足気で、カミュに対して無謀な戦いを挑んで行く。

 

「……やはり、女は多少抜けていたり、馬鹿であったりした方が楽で良い……」

 

「な、なんだと!!」

 

 カミュは、そんなリーシャの挑発には乗らず、一つ深い溜息をついた後、リーシャからあからさまに視線を外し、呟きを洩らす。

 彼の発言は失礼極まりない。

 明らかに、それはリーシャを指している。

 誰と比較してなのか、どんな想いを込めているのかは、サラには想像もできないが、心底呆れ顔で溜息を吐くカミュの姿は、とても印象的な物であった。

 

 

 

「それで、すぐに出発するのか?」

 

「いや、まずは闘技場に向かう」

 

 もはや恒例になりつつある、不毛な戦いを繰り広げた後、リーシャはカミュに今後の方針を尋ねるが、返って来た答えはリーシャとサラの二人には、驚きの物であった。

 

『何故向かうのか?』

 

 その理由を述べる事もなく、カミュはさっさと闘技場に向かって歩き出してしまう。

 リーシャは別として、サラにとっては、あの闘技場は極力近寄りたくない場所の一つとなっていたのだ。 

 武器屋の前にある階段を降りると、昨日と同じように、珍妙な格好をした男が、歓迎の挨拶をかけて来た。

 その男の言葉を完全に無視するように、カミュは辺りを見回した後、目標を定めたように一直線に歩いて行く。何が何やら解らないリーシャとサラは、昨日と同じような歓声とも奇声とも判別できない音の中を、カミュに続いて歩いて行った。

 

「……国王様……」

 

 ある人物の真横に立ったカミュが、その人物に囁くように出した言葉にサラは驚きを見せる。その人物は、みすぼらしい恰好をしてはいるが、まさに昨日謁見の間にて拝顔した、ロマリア国王その人であったのだ。

 

「……ん?……おお、これはこれは。カミュ王ではありませんか……ですが、私はこの上にある道具屋の隠居です。人違いではありませんか?」

 

「……国王様……今の段階で私を『王』と呼ぶ者は、昨日あの場にいた者以外はおりません。間違っても道具屋のご隠居にそれを知る方法はありません……」

 

 国王と呼ばれたその人物は、惚けるように視線を外すが、それを許すカミュではなかった。

 カミュの言葉に、一瞬眉目を顰めた国王は、一つ深い溜息を吐き出す。サラはそんな二人のやり取りを唯呆然と眺める事しか出来なかった。

 

「……おお、これはしくじったわ! それで、如何したのじゃ?」

 

 ロマリア国王は、もう一度カミュに向き直る。その姿は、やはり一国の王が持つ威厳が、見え隠れしていた。

 国政を王女や大臣に任せてはいても、王族が生れながら有する威厳という物を、この国王も有しているのだろう。

 

「……はい。やはり、私のような若輩者には、国王という重責に耐える事のできるだけの物はございませんでした」

 

「……ふむ。そのような筈はないだろう。わしには、『王』としての能力など微塵もない。だが、その分、人を見る目というのは備わっていると自負しておる」

 

 確かにロマリア国王の言う通り、この国王には人を見る目が備わっているのかもしれない。それでなければ、若い王女の資質を見抜き、案を出させ、その案を実行する為の人物までも見抜き、国務大臣という地位を与えたりはしないだろう。

 愚王という者にも、二種類存在する。

 政治や軍部、またはその時勢を顧みる事を全くせず、民を苦しめ、国を滅亡に追いやる者。

 逆に、自分の能力を信じ過ぎ、何もかもを自分一人でやろうとし、家臣達を信用する事なく潰して行く者もまた、国を滅ぼす愚王なのである。

 今、目の前にいる国王は、確かに個人の能力としては、国王として及第点にも届かない者なのかもしれない。しかし、周りの者を信じ、その人物達を適材適所に配置する事の出来る王なのだろう。

 

「確かに……王女様や国務大臣、それにその他の文官や武官の方々を見ると、国王様の目は確かな物であると感じております。ただ、私のような若輩者では、今は国王様の期待にお応えする自信がございません。私では、成す事が出来たとしても、この闘技場の廃止ぐらいな物です」

 

「なんと!! お主は、この闘技場の持つ意味合いが理解出来ぬとでも申すのか?」

 

 国王の席を辞退する理由を聞き、国王は驚きに目を見開いた。

 国政を担う事の出来る者として見ていたカミュという青年が、その政策の一つである『闘技場』の役割に気付かない訳がないと考えていたのだ。

 

「いえ、それは存じておりますが、所詮アリアハンの田舎者ですので、賭け事という物に対しての免疫がございません。一度廃止してから、他の方法を考える事となるでしょう」

 

「……むむむ……解った。この闘技場は、製作にもかなりの時間と資金がかかっておる。そう簡単に廃止する訳にもいかん。わしの楽しみの一つでもあるしの。やはり、お主には、その姿が一番似合っておるのかもしれんの」

 

「……申し訳ございません……」

 

 サラが未だ、この闘技場に不釣り合いなロマリア王の存在に、呆けたままになっている間に話が進み、サラが気付いた時には、すでに決着がついている頃であった。

 リーシャは、淡々と話を進めるカミュを見ながら、素直に感心する。

 ロマリア国王の自尊心を傷つける事もなく、自分の意の方向に話を進めて行くその話術に。

 祖国アリアハンを田舎と吐き捨てはしたが、この場では仕方がない事だと納得もしていたのだ。

 

「良い良い。では、わしは城へ戻るとしよう。お主達は、このまま旅立つが良い。『金の冠』を、我が前に持って来る事を期待しておるぞ」

 

「……はっ……」

 

 場所が場所なだけに跪く事はしなかったが、手を胸に置いて、頭を下げるカミュを満足気に頷きながら見つめ、ロマリア国王は階段を上って行った。

 国王の退場は、カミュ達一行しか知らない。

 この闘技場にいるロマリア国民達の誰一人として、この場に国王がいた事など気付きもせず、この場を去って行った者へ目を向ける者などもいなかった。

 

「良かったです。もしかしたら、カミュ様はこのまま旅を止めてしまうのではと考えてしまいました」

 

 ロマリア王の後ろ姿を見送った後に、サラは安堵の溜息と共に、自身が今まで不安に思っていた胸の内を吐き出す。その不安は、疲労感を伴ってサラの身体から溢れ出した。

 

「だから言っただろう。それは心配ないと」

 

 サラの様子に、再び胸を張り答えるリーシャの姿に、珍しくカミュは苦笑する表情を出した。

 カミュの表情の変化を見て、自然とサラも笑顔が戻る。

 三者三様の和やかな雰囲気を保ちながら、三人は地上へと続く階段を上って行った。

 

 

 

「死にてぇのか!!」

 

 階段を上り終えた途端に三人の耳に入って来たのは、人の怒鳴り声と、馬の嘶きだった。武器屋のカウンターに先程までいた筈の主人はおらず、武器屋と宿屋の間にある道には多くの人だかりが出来ている。先程の罵声の発生源であろう人間は、昨日見た馬車の操縦士であった。道に唾を吐きかけたそれは、手綱を引き、再び馬車を動かして街の出入口へと走らせて行く。

 カミュ達三人が立つ武器屋側とは反対側に、武器屋の主人が倒れており、それを確認したサラが慌てて駆け寄り、リーシャもその後に続くが、カミュはゆっくりと道を渡って行った。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 倒れ込んでいる武器屋の主人にサラが声をかけると、その体躯がゆっくりと動き始め、主人の腕の中から、一人の少年が這い出て来た。出て来た少年は、未だ気を失っている武器屋を一瞥したが、そのまま泣きながら走って行ってしまう。その姿にサラは声をかける隙を見つけられず、走り去る少年を見送るだけしかできない。

 リーシャが気を失っている武器屋の身体をそっと起こし、頭部などに外傷がないかを確かめた後に、再度仰向けに寝かせた。

 

「……うぅ……」

 

 すぐに武器屋の意識は戻り、その目を開けていく。

 外傷はなかった事から、一時的に気を失っていただけなのだろう。何とか身体を起こす武器屋の顔を覗き込むように、サラとリーシャの顔が動いた。

 

「大丈夫か?」

 

「……うぅ……ああ、なんとかな……」

 

 リーシャの問いかけに回答し、身体を起こす様子からは、どこも異常がなさそうに見える。しかし、状況的に考えて、あの馬車から子供を救うために飛び出し、子供を抱えたまま反対側へ突っ込んだのだろう。馬車と接触していたら、どこか打っているかもしれない。

 

「……馬車とは接触はしていなさそうだな……」

 

「ん?……ああ、間一髪だったがな」

 

 武器屋の無事が確認でき、ほっと胸を撫でおろすサラの後ろから、今まで傍観していたカミュが前へ出て来るが、その表情からは、武器屋の身体を心配していた様子は微塵も感じない。

 

「……しかし、何故アイツらは、あれ程に急いでいた?……こんな街中で、あそこまでの速度を出す必要性はない筈だ」

 

 カミュの疑問は尤もである。如何に城下町の正門へ続く街道といえども、そこまで広い訳ではない。馬車がすれ違うのも一苦労する程の幅しかないのだ。

 そんな状況の中で、あれ程の速度で馬車を走らせれば、人を撥ねる可能性も出て来る可能性もあるだろう。

 

「……ああ……実は城門近くで、あいつ等の馬車の幌が捲れる場面があってな。その中が偶然見えたらしい。中には一人の女の子供がいた。売れ残りなのかもしれない。それを見た子供が騒ぎ出したら、人が集まってきちまって、この状態になった」

 

「……子供…ですか……?」

 

 つまり、馬車の中に売れ残った奴隷がいる事に気付いた子供が騒ぎだした為、元々奴隷商人を快く思っていないロマリア国民の感情を揺さぶり、大人も含め馬車を囲むように騒ぎ始めたと言うのだ。

 奴隷商人としても、一人や二人の民ならば、高圧的に出る事も可能であったろうが、群衆となれば、逃げるより他に道はなかったという事なのだろう。

 

「……それにな……奴隷商人と門兵が話している内容を聞いてしまった奴がいたらしい。そいつが言うには、その中にいた少女は売れ残りではなく、奴隷商人のお気に入りという事だった」

 

「……」

 

「どういう事ですか!?」

 

 カミュと、リーシャの二人は、武器屋の言葉が指し示す先が見えていたが、サラには見当がつかない。自然とその声も荒くなって行った。

 サラの声に、リーシャの顔は悔しそうに歪み、武器屋も再度俯いてしまう。

 

「……奴隷商人達に嬲られた後、殺されるという事だ……」

 

「えっ!!」

 

 カミュが呟いた言葉にサラは絶句し、武器屋は更に呻き、リーシャの顔は更に歪む。

 その様子を見ても、カミュの表情に変化は見られない。元々関心がないのか、それともこの時代に諦めているのかは解らない。

 それでも、カミュの瞳は冷たく、感情を宿していないようだった。

 

「な、何とかならないのですか!?」

 

「……ならない……」

 

 サラの呟きに返って来たのは、リーシャの答えだった。

 リーシャは、カミュに馬鹿にされる事はあるが、紛れもなく、国の中枢にいる『宮廷騎士』なのだ。

 冷静に判断しなければならない事には、非情ともいえる冷酷さを見せる。

 

「……アンタは奴隷全てを解放でもするつもりなのか? 奴隷や孤児、この世界には報われない人間など数多くいる。そんな人間の全てを救うつもりなのか? もし、奴隷商人の下から解放出来たとしても、誰がその面倒を見る? アンタか? 食糧、資金、住処に仕事、誰がそれを世話する?」

 

「……そ、それは……で、ですが!」

 

 カミュの放つ正論は、サラの胸に深く突き刺さり、その願いを抉って行く。

 実際に、サラはそこまでの思考はなかった。

 『奴隷』という報われない道を歩み始めてしまった人間の未来を憂い、その未来に同情しているだけ。

 そこに確固たる決意はなく、そして覚悟もない。故に、カミュへ反論する事が出来ないのだ。

 

「……話にならないな……」

 

 話を途中で打ち切ったカミュは、そのまま街の出入口に向かって行く。リーシャは、未だに顔を上げないサラの頭に手を置くが、何も言葉が浮かばず、黙ってサラを促した。

 信仰の理想と、教会の中だけでは知りえない現実とのギャップに、サラは押し潰されそうになる。しかも、その現実を知らないのは、このパーティーの中でサラだけなのだ。

 それが、更にサラの心を苦しめていた。

 

 様々な想いを胸に、一行はロマリアの城下町を護る門を潜って行く。

 新たな大陸で始まる彼らの旅には、暗雲が立ち込め始めていた。

 

 

 

 



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ロマリア大陸①

 

 

 

 門を出たところで、カミュは二人を待っていた。

 リーシャはそのカミュに一つ頷くと、いつも通りの隊列を組み、歩き出す。リーシャには、カミュの言っている事は理解できていたのだ。

 確かに言い方は最悪ではあるが、言っている事は正論である。それに対し、サラが納得するかしないかではなく、それを飲み込んでいかなければならないのだ。

 故に、リーシャはこの事で、サラを擁護するような事は一言も発しなかった。

 

「ここから北へ向かえば、<カザーブ>という村があるらしい。噂によれば、『カンダタ』一味は、北に向かって逃亡したようだ。その村へ行けば、多少なりとも情報が入るだろう」

 

「そうか」

 

「……」

 

 歩きながら地図を広げたカミュは、これからの行先を告げるが、返って来た返事は、気のないリーシャのものだけであった。

 サラは、未だに俯いたまま、カミュの後ろを、唯ついて行くだけである。

 サラは、ロマリアで新調した<鉄の槍>を背中に背負い、今まで腰に下げていた<銅の剣>は売り払っていた。

 その背中の槍の重さに、潰されてしまいそうな歩き方をするサラを、心配そうに眺めるリーシャであったが、やはり掛ける言葉が見当たらない。今、口を開いてしまえば叱咤激励となり、それが、更にサラの心の負担になりかねないのだ。

 サラを気にかけながらも、そこはアリアハン随一の戦士。自分達に近寄る不穏な影の存在に一早く気がついた。

 

「カミュ! 魔物だ!」

 

 先頭を行くカミュに、警戒を投げかけると、リーシャは腰の剣を素早く抜く。

 リーシャの声を聞いたサラも、顔を上げ、背中の<鉄の槍>を掴む。

 如何なる状態であろうと、敵との遭遇での対応を誤らないサラの成長に、自然とリーシャの口元が緩んだ。

 カミュも背中の剣を抜き、こちらに歩み寄る魔物に注視するが、その姿は野生の狼のように見えた。

 狼であるならば、傷つける事なく追い払う事も可能である。しかし、徐々に近付いて来るその姿を見て、三人は絶句した。

 陽光に照らされたその狼らしき獣の目は、眼球が零れ落ちて下に垂れ下がっており、その腹部の肉は削げ落ち、中の肋骨や内臓が見えている。とても生物の姿ではないのだ。

 それが三匹、狼とは思えない程の速度で、一行を取り囲むように近寄って来る。

 

「ひっ」

 

 意気込んで槍を構えたサラは、その魔物の姿の異様さに悲鳴を上げてしまう。

 明るい日差しの中で見ても、その姿は異様である。その身体から瘴気や異臭すら撒き散らしていそうな程に、それは腐り切っていた。

 

<アニマルゾンビ>

狼などの死骸が、魔王の魔力によってゾンビとなって魔物化したもの。その肉体は腐敗が進み、腐り落ちている。それでも、生への執着なのかこの世への未練なのか、魂の休息をせず、生者の世界に留まり続ける。死者である故に、その動きは遅い。しかし、死者であるが故に、その身体の能力を最大限に発揮する事も可能であった。

 

 剣を手に持ち、カミュが駆ける。

 <アニマルゾンビ>の一匹に狙いを定め、その剣を振るった。

 所詮、死体である身体を動かしている<アニマルゾンビ>の動きは遅い。カミュの剣は、腐りきっているその身体に吸い込まれ、頭部から上半身の途中までを二つに分けた。

 腐った異臭を放つ体液が飛び散るが、その臭いは、通常の人間であれば、耐える事など不可能な程の物。

 体液を浴びないように素早く剣を抜き、カミュは飛び退くが、剣で顔面を二つに分けられたはずの<アニマルゾンビ>は、その異臭漂う体液を撒き散らしながらも、未だに活動を止めようとはしない。

 

「メラ」

 

 カミュの一刀で腐り落ちていた眼球を完全に落としてしまった<アニマルゾンビ>は、避ける事も出来ずにその火球を受けた。

 腐った肉体が<メラ>の炎で焼かれ、その臭いを更に増して行く。二つに分かれた顔面を焼かれ悶える<アニマルゾンビ>に、カミュは再度剣を振るった。

 先程とは異なり、正面からではなく側面から繰り出されたカミュの剣は、再び<アニマルゾンビ>の身体に抵抗なく滑り込み、上半身と下半身を真っ二つに分ける。

 顔面を炎で焼かれ、下半身と分けられたアニマルゾンビは、成す術なくこの世に繋ぎ止めていた魂を昇華させて行った。

 

 カミュの戦いぶりを見る事もなく、残る二匹は、リーシャに襲いかかって行く。

 動きの遅い<アニマルゾンビ>の攻撃が、リーシャに触れる事など出来る訳がない。何の策略もなく飛び込んで来た<アニマルゾンビ>を避け、リーシャは両断するつもりで身構えた。

 

「ウォォォォォォン」

 

 その時、リーシャに飛びかからず、静観しているようだった方の<アニマルゾンビ>が突然、遠吠えのような鳴き声を上げる。その鳴き声が響いた途端、先程まで、十分に避ける事が可能であった筈の攻撃を、リーシャは避け損なった。

 飛びかかって来た爪を簡単に避ける筈が、リーシャの着込んでいた<革の鎧>の肩当てを弾き飛ばしたのだ。

 リーシャの身体に傷はつかなかったが、触れられる筈のない攻撃を受けた事にリーシャは驚いてしまう。しかも、リーシャの返しの剣すらも、<アニマルゾンビ>に避けられてしまったのだ。

 

「リーシャさん!!」

 

「なんだ、これは!?」

 

 リーシャの様子が奇妙である事に気がついたサラは叫ぶが、当のリーシャは自分が陥っている状況が把握出来てはいない。

 サラの目には、明らかにリーシャが手を抜き過ぎているように見えるのだが、そうではないらしい。どうやら、リーシャ自身はいつものように剣を振るっているつもりのようだった。

 

「くそ! おい、アイツに<ピオリム>をかけろ!」

 

「えっ? あ、は、はい!」

 

 二匹の<アニマルゾンビ>に翻弄され始めているリーシャの援護に走るカミュが、サラの横を駆け抜けざまに指示した内容は、身体能力向上の魔法の行使だった。

 サラは理由が分からないまでも、それをする必要性をカミュの言葉の強さで理解する。

 

「ピオリム」

 

 その対象となった人間の身体能力を向上させる魔法が、リーシャを包み込む。

 <アニマルゾンビ>の緩慢な攻撃に、四苦八苦していたリーシャの動きが戻って行き、常時の剣速を取り戻したリーシャの剣は、一匹の<アニマルゾンビ>の身体へと吸い込まれて行く。

 寸分の狂いもなく、<アニマルゾンビ>の首をリーシャは刈り取るが、先程のカミュの時と同じように、それではこの魔物の魂を昇華させる事は出来なかった。

 首の根元から斬り落とされ、地面に転がった頭と首の部分から、粘着性があり異臭を放つ体液をこぼしながらも、未だに動くその身体に向かって、後ろからカミュの『メラ』が放たれる。

 炎に包まれる胴体部分に、再度リーシャが剣を走らせ、ようやくその活動が止まった。

 

「ニフラム」

 

 残る一匹に、カミュとリーシャが目を向けるのと同時に、サラの詠唱が響いた。

 聖職者の本来の仕事である『迷える魂の浄化』。

 その為にある魔法の正常な行使であった。

 しかし、聖なる光に包まれ消えるはずの<アニマルゾンビ>の身体は、光に包まれて尚、一向に消える気配がない。動きこそ止まってはいるが、この光が収まれば、再びカミュ達に襲いかかって来る事であろう。

 

「うぅぅ……ニフラム!!」

 

 それに対し、サラが取った行動は、再度の詠唱。魔法の重ね掛けであった。行使する為に天へ向けて掲げていた手とは反対の手を再度天へと掲げ、諸手を挙げる形での<ニフラム>の行使である。

 更に強い光に包まれたアニマルゾンビの身体は、本来腐り、落ちていくだけの肉が、反対に上へと上がって行く。徐々に光によって天へと運ばれる身体は、数秒の後に欠片も残さず消えて行った。

 

「サラ、よくやった!」

 

「あ、はい……!!……リ、リーシャさん、その腕は!?」

 

 嬉しそうに駆け寄ってくるリーシャの声に、思わず返事を返してしまったサラであったが、そのリーシャが、片腕を押えながらこちらに向かってくるのを見て、慌てふためいた。

 

「ん?……ああ、あの魔物の攻撃を避け切らなくてな……少し傷をつけられた……」

 

「えぇぇ!! は、早く診せてください!」

 

 リーシャの抑えている方の腕を取り払い、サラは患部を注意深く見る。幸い傷は深くなく、爪で抉られてはいるが、サラの<ホイミ>でも治療が可能な範囲の物だった。

 サラは急いでリーシャの患部に手を当て、<ホイミ>を詠唱する。患部を暖かな光が包み、リーシャの傷口を塞いで行った。

 

「念の為、<毒消し草>も当てておけ」

 

 <ホイミ>の効力で傷口が塞がれて行くのを確認したカミュが、腰につけた革袋から一枚の毒消し草を取り出し、サラへと手渡す。

 

「そ、そうですね。腐敗している体液などが身体に入っていたら、毒に侵されるかもしれません」

 

 半分に割いた毒消し草を患部に当て、残りの半分を水に溶かしリーシャに手渡す。一つ礼を言い、リーシャはその水を飲み干した。

 幾分落ち着きを取り戻したリーシャは、先程の戦闘を思い返し、カミュへと問いかける。

 

「しかし、あれは何だったんだ? 急に身体が重くなったというか、言う事を利かなくなったというか……」

 

「……<ボミオス>だろうな」

 

「それでカミュ様は、私に<ピオリム>を唱えるように指示したのですね」

 

<ボミオス>

対象の身体能力を向上させる<ピオリム>とは正反対の効力を持ち、その術の対象となった者の身体能力を下降させる。対象となった者は、通常の動きをしているつもりなのだが、身体が言う事を利かないような錯覚に陥り、動きが緩慢になっていく。

 

 カミュはリーシャの動きから、<アニマルゾンビ>に<ボミオス>をかけられた可能性を考え、サラに<ピオリム>を唱える事を指示したのである。

 もし、身体能力が低下させられていたのであれば、反対の呪文を唱え、身体能力を戻せば良いのだ。 

 

「そ、そうか、すまなかった。ありがとう、サラ」

 

「礼を述べる前に、いい加減、その抗魔力の弱さを何とかしてくれ」

 

 以前の<マヌーサ>に続いての失態を突かれ、リーシャは言葉に詰まる。サラは、そんな二人のやり取りを心配そうに見ていた。

 この状態で、リーシャが怒りを爆発させる事はないとは思うが、サラはカミュがまた余計な一言を繋げるのではと不安視していたのだ。

 

「魔法の知識があるだけでも、幾分かは違う筈だ。剣の鍛練が終わった後にでも、そいつに魔法の知識を教われ」

 

「そうですね! 私でよければ、お教えします」

 

「……わかった……そうする事にする……」

 

 カミュの言っている事は正論である。

 魔法の特性、効果などについての知識があれば、下位の魔物が放つ魔法ぐらいでは、惑わされる可能性が少なくなるのも事実。

 カミュやサラと違い、魔法に触れる機会が少なかったリーシャは、魔法についての知識が明らかに不足していたのだ。

 苦々しい表情をしているリーシャを見ても、その内情に気付く事無く、サラは自分がリーシャの役に立てる事を喜び、諸手を挙げて賛成の意を伝えている。そんなサラの様子に、断る事が出来なくなったリーシャは、しぶしぶ了承する事となった。

 

 

 

 休憩を兼ねたリーシャの手当を済ませ、一行は再び北へと向かって歩き出す。途中、以前遭遇した<ポイズントード>や<キャタピラー>などと出くわすが、対処方を見つけていたカミュ達は、それほど苦戦する事はなく、悉く魔物を倒して行った。

 ロマリア大陸に入ってから、カミュが魔物を見逃す回数が少なくなっているが、それは、魔物達の力量がアリアハンとは違い、カミュ達を恐れて動きを止める事や、逃げ出そうとしない事が原因であろう。

 

 暫し歩き、陽が真上から西へと傾きかけた頃、順調に北へ向かう一行の前に、木々が生い茂る森が見えて来た。

 周辺の草原を阻むように広がる森は、北へ行くには抜けざるを得ない。おそらく、この分では、森を抜ける前に陽が落ち、夜の闇が支配する事となるだろう。

 カミュにその事を伝えられた一行は、ロマリアを出る時にサラが託された道具袋の中に聖水がある事を確認し、森へと歩き出した。

 森へ向かって歩き出すと、前方に見憶えのある馬車が停車している。それは、間違いなく、あのロマリアにいた奴隷商人の馬車である事にサラは気が付いた。

 

「……カミュ様……」

 

「……まだ、問答を続けるつもりか?」

 

 サラがカミュに向かって口を開くが、その内容を予測しているカミュは、冷たく突き放すように呟いた。

 それは、おそらく先程ロマリアの城下町で行った会話となるのだろう。

 今の時代では、恵まれない環境で育つ者など少なくはない。その者達に同情しない訳ではないが、一つ一つ気に掛ける程、誰しもが恵まれている訳でもないのだ。

 

「……で、ですが……」

 

「アンタは、以前俺に言った筈だ……貧富の差は、前世での行いの結果だと……」

 

 完全に立ち止まったカミュは、珍しくサラの目を見て語り始めた。

 尚も言い募ろうと口を開いていたサラの喉からは、言葉が出て来ない。カミュが言っている事を理解できないように、疑問符だけが漏れ出していた。

 

「あの馬車に乗せられている奴隷の子供は、親に売られたのか、それとも攫われて来たのかは知らないが、どちらにしても裕福とは言えない育ちの筈だ。つまり、アンタが言うような、前世でルビスの教えに背くような行いをした人間なのだろう」

 

「……カミュ……」

 

 サラの目を見て話すカミュに、リーシャは<レーベの村>の宿屋での一幕が頭を横切った。

 諭すような、相手の考えを導くような、無表情ではあるが、冷酷ではない話し方であったのだ。それをサラも感じており、カミュの瞳から目を離す事が出来ない。その言葉を聞きたくもないが、聞かなくてはならない事である事を理解しているのだ。

 

「アンタの言うルビスの教えの通りならば、この世での『償い』をしている最中という事になる。奴隷として売られ、奴隷商人に辱めを受け、そして殺される事が、アンタの言うような『償い』となるのならば、早々に死んで、幸福な来世を迎えさせてやった方がその子供にとっても幸せの筈だ」

 

「……そ、そんな……」

 

 サラは、言葉が出て来ない。

 確かに、サラは『前世での罪の償いの為』と話した事は記憶している。

 しかし、『その罪を償って死んだ方が幸せだ』等とは考えた事もない。

 その隙間を突くように語るカミュの言葉が、理解不能な物であるように、サラの頭の中を回り巡って行った。

 

「アンタが、あの森の中で俺に言った内容はそういう事だ。『この世には、ルビスという精霊の許、必要な命とは別に、死んで当然で不必要な、そして生きる価値も権利もない命がある』、とアンタが語ったんだ」

 

「そ、そんな……こと…は……」

 

「……カミュ……」

 

 サラは、カミュの言っている事が理解出来ない。

 『自分は、そのような事は言ってはいない』

 『そのような考えを持ってもいない』

 『人の命を、そのように軽く考えた事もない』

 『何故、このように酷い事を、自分は言われなくてはならないのか』

 それが、サラには解らなかった。

 

 リーシャは、カミュの無表情が闘技場等で見せた物ではなかった為に、静観している事にしたが、その内容の過激さに、間に入る事すら出来なかった。

 カミュの言っている事は、以前サラの発した言葉の揚げ足を取って、曲解している物だ。

 ただ、『精霊ルビス』を崇めない人間など、リーシャがまだ見ぬ異国の異教徒しかいない世界で、カミュのような考え方をする人間もいなければ、教会の教えをそのように解釈する人間もいない。

 つまり、サラもリーシャも、初めて聞く解釈なのである。

 

「アンタは、あの奴隷を救う為に泥を被る覚悟があるのか? 前世とはいえ、ルビスに対しての罪人を救うという事は、教会に属するアンタにとっても罪になるのではないのか? それとも、アンタが救えば、罪人である奴隷の罪は許されるのか?」

 

「!!」

 

「……」

 

 そんな規則はない。

 そんな規則があれば、サラとて今生きている訳はないのだ。

 親が魔物に襲われ、天涯孤独となった自分を拾い、育ててくれたのも教会の司祭職にある神父様である。そして、前世での罪人と言うのであれば、アリアハン教会の神父に育てられたサラもまた、『精霊ルビス』に背きし罪人なのだ。

 

「そ、そんな事はありません!」

 

 カミュの残酷ともいえる糾弾を受け、下がり切っていた顔を勢い良く上げたサラの瞳は、何かを決意したような瞳に変わっていた。

 それは、リーシャに剣の師事を頼み込んだ時の瞳と同じ物。

 その瞳の中に燃える炎が何であるかは、リーシャにもサラにも解らない。ただ、この小さな炎が、サラという一人の『僧侶』の運命を大きく変えて行く事となる。

 

「この世に死んで当然の命などありません! 誰しも、生きて幸せになる事を許されている筈です! 生きる価値のない者などいません!」

 

 カミュの瞳を見て、自分の内にある物を吐き出したサラは、その叫びを聞き終わった後のカミュの表情を見て驚いた。

 カミュが微笑んだのだ。

 口元を緩めるだけの微笑みではあったが、それは口端を上げる皮肉気な笑いでもなく、鼻で笑うような嘲笑でもない、そんな優しい微笑みだった。

 

「……そうか……それには、同意見だな……」

 

 カミュはその言葉と共に、馬車のある場所に向かって一直線に歩いて行った。

 サラは、カミュの微笑みの理由は分からず、唯その不思議な光景に呆然としたまま、カミュの背中を見送る。しかし、不意に肩に置かれた手に、そちらに顔を向けると、そこにはサラと同じようにカミュの背中を見つめるリーシャの姿があった。

 

「サラ……今のサラの言葉が、おそらくこれから先、サラを大いに苦しめる事になるだろう」

 

「えっ?」

 

 サラは突然告げられたリーシャの言葉が理解できない。

 何故、自分の言葉が自分を苦しめる事になるのか。

 『自分は、何も間違った事は言ってない筈だ』という想いが、サラの疑問を大きくする。

 それでも、サラの瞳を見ないリーシャの横顔は、サラを煽っている節はなく、唯単純な事実を告げている事を示していた。

 

「だが、カミュと同じように、私もサラの意見に賛成だ……例えそれが、これから先、私を苦しめる物であったとしてもだ」

 

「……リーシャさん……」

 

 リーシャは、軽くサラの頭を掌で叩き、既に馬車に辿り着いているカミュの後を追う。サラは、そのリーシャの背中も暫く見つめていたが、我に返り、慌てて後を追った。

 

 

 

「しかし、兄貴も面倒な事をするもんだよな……」

 

「ああ、流石に城下町では肝を冷やしたぜ……」

 

 停車していた馬車の近くで、二人の奴隷商人が休憩を兼ねて話していた。

 話している内容から、彼らが兄貴と呼ぶ存在が近くにいない事が分かる。用を足しに行ったのか、それとも馬車の中なのかは分からない。

 

「それに加え、趣味も悪いと来たもんだ。あんなガキじゃ、面白みもないだろうによ」

 

「ああ、それに、こんな事をしている事を(かしら)に知られちゃ、俺達自体がやばいからな……結構な値をつけた馬鹿貴族もいたんだから、さっさと売っ払っちまえば良かったんだよな」

 

 柄の悪い恰好をした二人は、何やら愚痴を言い合っている。それは、おそらくこの馬車の中にいる奴隷の少女に関しての事なのであろう。

 しかし、その話の内容は、通常の神経をしている『人』が紡ぎ出す物ではなかった。

 

「だよな……しかも、あんなガキじゃ、俺達は全く楽しめねぇしよ。どうせ殺すのも、俺らの仕事なんだろ? 流石にガキを殺すのは気が引けるな」

 

「嘘を言うな! お前がそんなたまな訳ねぇだろ!」

 

 もう一人の奴隷商人の切り返しに、二人は盛大に笑い合った。

 さも、楽しい事を話しているように笑うその姿も、やはり『人』の姿ではない。

 

「……楽しんでいるところに悪いが……」

 

「ああ?」

 

 楽しい談笑の中に割り込んで来る声。

 二人が同時にその方向を振り向くと、そこには、頭に蒼い石の嵌め込まれているサークレットをつけ、背中に剣を背負っている男が立っていた。

 

「なんだ、てめぇは?」

 

 一人の奴隷商人が立ち上がり、突然現れた男の方へ近づいて行く。もう一人は、にやにやと汚らしい笑いを絶やす事なく、その男を眺めていた。

 彼らには、サークレットを着けた青年の醸し出す空気を読む能力は備わっていない。もし、自然界に生きる獣であれば、その青年の纏う空気を敏感に感じ取り、逃げ出した事だろう。

 

「……少し尋ねるが、その馬車に乗っている奴隷は、お前達が買った物なのか? それとも、攫って来た物か?」

 

「ああ? なんだ? そんな事、お前には関係ねぇだろうが!」

 

 直接的すぎる質問を奴隷商人にぶつける男は、先程、サラとのやり取りの後に馬車へと向かったカミュである。そんなカミュの不躾な質問に、奴隷商人は鼻息荒く返答し、再び二人で笑い出した。

 一体何が面白いのか、とでも言いたげな表情を浮かべたカミュが、尚も質問を繋げる。

 

「いや、もし買い取って来たのならば、その金額を払うから譲って貰いたいのだが……」

 

「はぁ? 何を言ってやがるんだ!? 俺達の買値で、奴隷が買えるわきゃねぇだろうが!」

 

 奴隷商人達は、カミュの申し出に呆れ返ってしまう。彼らも、曲りなりにも商人を名乗っているのだ。仕入値で売却しては、利益など取れやしない。

 商売の基本も解っていない青年に向かって、奴隷商人達は罵声を浴びせた。 

 

「それによ、どんなにてめぇが奴隷を欲していても、あの娘は無理なんだよ。兄貴のお気に入りだからな」

 

 黙り込んだカミュを見た一人の奴隷商人が、諭すように語り出す。

 『どれ程資金を積んだとしても無駄だ』と。

 奴隷商人達にしてみれば、滅多に見る事の出来ない優しさだったのかもしれない。しかし、それを聞いていた青年は、無表情で溜息を吐き出した。

 

「……端金で買い叩いてきたものを偉そうに……」

 

「なんだと!!」

 

 カミュの切り返しに、一気に頭に血が上った奴隷商人達は、商人が持っている筈のない腰にぶら下げた剣に手をかける。

 

「抜くな!」

 

「!!」

 

 剣に手をかけた二人に、今まで呟くような話し方だったカミュの声質が変わる。その威圧感に、二人の奴隷商人は声に詰まった。

 先程までの青年はそこにはいない。

 相変わらずの無表情であるが、身体から噴き出したような空気が明らかな変化を告げていたのだ。

 

「……抜けば、斬るぞ……」

 

「!! ふ、ふざけるな!」

 

 カミュの最後通告を無視し、二人は剣を抜いて、カミュへと斬りかかって行く。

 しかし、素早く背中から剣を抜き、二人の襲撃に備えたカミュの剣が振るわれた。

 一刀目で、右側から襲いかかって来る奴隷商人の剣を持つ左手を斬り飛ばし、二刀目で、左側からの者の右腕を斬り落とす。

 その一瞬の早業に、呆然としていた奴隷商人達は、斬り落とされた腕から血が噴き出した事で我に返った。

 

「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 利き腕を失った二人の悲鳴が周囲に轟き、その声に全く関心を示さず、カミュは剣を一度振るい、血糊を飛ばす。のた打ち回るように、赤い血液を撒き散らす奴隷商人達を冷たく見下ろし、カミュは一歩足を進めた。

 

「……カミュ……」

 

「……カミュ様……」

 

 やっとカミュに追いついたリーシャとサラは、絶叫に近い悲鳴をあげながらのた打ち回る奴隷商人を見て、『人』に対しても容赦なく剣を振るうカミュの冷酷さに、言葉を失っていた。

 森の入り口に生えている草木には、奴隷商人達が撒き散らす血液が付着し、赤い染みを作っている。サラはその光景を信じる事が出来なかった。

 

「……それで、いくらで買った……?」

 

 未だに腕から血を流し続け、地面を転がる奴隷商人の身体を足で抑えつけたカミュは、先程の質問を繰り返す。その姿は、先程サラに微笑んだ優しさは微塵もなく、鬼さながらの物であった。

 その『人』と掛け離れたカミュを見て、サラはようやく我に返る。

 サラは、二人の奴隷商人に駆け寄り、その腕に<ホイミ>をかけて行った。二人の腕が暖かな光に包まれ、斬り飛ばされた部分の止血をし、赤々とした肉が皮に覆われて行く。

 元来、<ホイミ>では、傷などは癒せるが、身体の欠損した部分までは復活させる事が出来ない。それは、最上級の僧侶が使えると云われている蘇生呪文も例外ではない。

 この世で唯一、そのような事ができる物があるという伝説はあるが、それもあくまで伝説の域を出ない物であった。

 

「どうした!? 何を騒いでやがるんだ!」

 

 サラが二人の治療が終えた頃に、後ろの茂みから一人の男が出て来た。

 その姿は、腕を失った二人とは一線引いたものである。この男が、先ほど二人が『兄貴』と呼んでいた男である事が一目で解った。

 

「な、なんだ、てめぇら!」

 

「あ、兄貴!」

 

 カミュ達の存在に気がついた男は、自分に駆け寄って来る二人の弟分の腕が失われているのを見て、更に動揺を深めた。

 そんな男の心の動きを余所に、カミュが一歩前に出る。男は、カミュのその動きに恐怖し、腰の剣に手をかけようとするが、初めから剣を抜いている者と、これから抜く者では勝負は見えていた。

 男が剣を抜くよりも早く、カミュの剣が男の喉元に突き付けられる。

 

「……抵抗はするな……殺すつもりはない……」

 

「な、な、何が……も、目的だ……?」

 

 喉元に剣がチラついているため、男は思うように話す事が出来ていない。二人の弟分もまた、兄貴分の後ろに隠れ震えていた。

 リーシャもサラも口を開く事が出来ない。

 それ程に、カミュの纏う空気は厳しい物だった。

 

「……この馬車にいる奴隷の娘は、攫ってきたのか……?」

 

「あ、ああ!? な、何言ってやがる!? しっかりと親から……買い取って来たに決まってるだろうが!」

 

 カミュに剣を突き付けられながらも、男は気丈に言い放つ。カミュの瞳は冷たく、サラであれば失神しかねない程の圧力を放っていた。

 現に、奴隷商人の回復が終わったサラの身体は、カミュの圧力の余波で小刻みに震えている。

 

「……そうか……いくらだ……?」

 

「ああ!? それがてめぇに関係あんのか!?」

 

 曲がりなりにも、二人の弟分を持つ奴隷商人だ。

 既に心の動揺は抑える事に成功し、剣を突き付けられながらも、カミュと対等にやり取りを行い始める。しかし、通常の人間相手であれば有効な手段は、目の前に立つ青年には全く通用しない。

 カミュは冷たく鋭い瞳を向けたまま、地の底から響く声を絞り出した。

 

「……勘違いするな……殺す気はないが、殺さないとは言ってない。そこの奴隷の買値を教えろと言った。嘘を言うな……ふっかけられる相手ではない事は解る筈だ」

 

「……」

 

 持っている剣の角度を変え、再び男の喉元に突きつけたカミュの剣は、男の喉の皮を破り、血を滲みださせた。

 『兄貴』と呼ばれたこの男も、それなりの修羅場は潜って来ている。故に、カミュの瞳の中に宿る物へ恐怖したのだ。

 

「……20……ゴールドだ……」

 

「20……」

 

「!!」

 

 緊迫したカミュの様子に、男は少女の買値を白状した。

 その金額に、サラもリーシャも絶句する。

 高いのではなく、人一人の値段としては安すぎるのだ。

 今のこの世界で、20ゴールドで買える物など、たかが知れている。宿屋に2泊すれば全て無くなり、食費としても、一週間も過ごせない。

 

「……40ゴールドだ……少なくとも倍にはなる……」

 

 リーシャとサラが活動停止になっている横で、カミュが男から剣を外し、革袋から硬貨を取り出して男の足元に投げた。

 剣が喉元から離れた事で、男は安堵の溜息を吐き、鋭い目つきでカミュを睨みつけた後、硬貨を拾い上げ、弟分を引き連れて森へと入って行った。

 

「……カミュ様……」

 

 剣を背中の鞘に納め、馬車の方に歩くカミュの背中を、サラは複雑な想いで見送っている。リーシャは今回の一件には、極力前に出ないよう心掛けていた。

 その辺のゴロツキに手こずるカミュではない。更に言えば、このサラとカミュとの間でのやり取りが、この先の旅で重要な起点となる事を感じていたのだ。

 

 カミュが馬車の後方から中へと入って行くと、中は、幌によって日光が遮られている為か薄暗く、奴隷を詰め込んでいた為、独特な臭いが籠っていた。

 その奥で、一人の子供が手足を縄で縛られている。手を縛っている縄は、馬車の側面に繋げられており、その子供を吊るすような格好になっていた。

 カミュは、縄を剣で切り、子供に身体の自由を返還してやるのだが、手足を動かす事が出来るようになった子共は、不思議な物でも見るように小首を傾げながらカミュを見返すだけ。

 その子供は、年の頃は二桁に届くか届かないかに見える。

 別段、食事を取り上げられ、成長に異常をきたしているようには見えない為、見た通りの年齢で間違いはないだろう。髪は、不衛生の為に虫などが湧かないように、耳が隠れるくらいに短く切り揃えられてはいるが、ロマリアの武器屋が言っていたように性別は『女性』である事が解った。

 奴隷とはいえ、貴族に売り払う商品である為、餓死寸前では値が下がるのだ。

 奴隷商人達は、奴隷の食事に、量の制限はかけるが、必ず何かを口にさせる。そんな食費を含めて、貴族達にかなりの金額を吹っ掛けるのだ。

 故に、奴隷として売られるのは、食の細い女が多く、屈強な男の奴隷などは皆無に等しい。

 

「……歩けるか……?」

 

 立ち上がった少女を見上げる形となったカミュの問いかけに、少女は首を縦に振る事で返答する。少女の答えを確認したカミュは、少女の背を押すような形で馬車の外へと促して行った。

 自分の背を押すカミュの顔を確認するように振りかえる少女に対し、カミュは頷きで応え、そのカミュの頷きにも少女は小さく首を傾げる。それでも、促されるまま、少女は閉鎖された馬車の中から外の世界へと足を踏み出した。

 それが、この少女と、この世界の未来を変える一歩となる事を、まだ誰も知りはしない。

 

 

 

 傾きかけている太陽の放つ西日が、周囲を赤く染め始めていた。

 暗い馬車の中から出た少女は、眩しそうに目を細め、目が慣れるまで、その場に立ち尽くす事となる。

 

「……大丈夫ですか……?」

 

「!!」

 

 目を瞑るようにしていた少女を心配し、サラは確認の意も込めて少女に触れようと手を伸ばした。

 少女は徐々に慣れ始めた目に映った、サラを興味深げに見ていたが、ある一点に目を向けた途端、声にならない悲鳴を上げ、少女に遅れて馬車から出て来たカミュのマントの蔭に隠れてしまう。

 

「……えっ?……何故で…すか……?」

 

 カミュのマントの蔭に隠れ、その腰にしがみつくようにしながら、怯えた目を向ける少女にサラは愕然とする。先程まで夕日に輝いていた少女の髪は、今やカミュのマントに隠れて見えなくなってしまった。

 カミュのマントの隙間から見える濃い茶色をした髪の毛を呆然と眺め、サラは呆けてしまっている。

 

「……サラ……どうやら、その服装が、怯える原因のようだ」

 

「えっ!?」

 

 リーシャの言う通り、カミュのマントの蔭から見ている少女の目は、サラの法衣に止まっていた。

 それは、法衣を見た事がないからなのか、それとも他に理由があるのかはサラには解らない。

 

「奴隷商人が子供を買い取る時に、教会の人間と偽っている事もあるらしい。もしかすると、この子を買い取った奴隷商人も法衣を身に纏っていたのかもしれないな」

 

 リーシャが言う予想の内容に、サラは大いに憤慨した。

 自分が深く信仰する『精霊ルビス』。

 そして、その高貴な存在を信仰する証であり、誇りでもある法衣をそのような目的に使うなど、言語道断なのである。

 

「大丈夫だ。私達はお前に危害は加えない……おいで」

 

 一人憤慨するサラを放っておく事にしたリーシャは、少女の警戒心を解くようにゆっくりと優しく声をかける。暫くは、マントの蔭に隠れ、カミュの腰にしがみついていた少女だが、少しずつ顔を出し、リーシャの目を見つめるようになった。

 実は、少女に話しかけている時、リーシャは必死に笑いを堪えていたのである。

 何故なら、少女にマントと腰を取られたカミュが、今までリーシャが見た事のないような困惑した表情を浮かべていたのだ。

 少女を引き剥がす事も出来ず、只々困惑するカミュが、可笑しくて仕方がない。それが、自然な笑みとなり、少女の警戒心を解かせたのかもしれなかった。

 

「……ん……名前は……?」

 

「……」

 

 顔を恐る恐る出した少女に、リーシャは続けて柔らかく問いかけた。しかし、少女は答えない。

 『もしかすると、親に名前すら貰えていないのかもしれない』という考えが頭に浮かび、リーシャは後悔に顔を歪めてしまった。

 

「…………メルエ…………」

 

 そんな、リーシャの顔の歪みを、自分が話さない事に悲しんでいるとでも感じたのだろうか。小さな小さな声で、名前だけを単語のように少女は溢した。

 その呟きを聞き逃さなかったリーシャの顔が輝きを取り戻す。

 

「そ、そうか、メルエか! うん、良い名だ! 私はリーシャだ。よろしくな」

 

 少女の答えに、喜びを顔全体で表すリーシャは、自己紹介をするために自分の名をメルエと名乗った少女に宣言する。

 そんなリーシャに、こくりと一つ頷いたメルエは、続いてマントを掴みながら、そのマントを羽織っているカミュの顔を、まるで『貴方のお名前は?』とでも言うように見上げた。

 

「……カミュだ」

 

 カミュの自己紹介にも一つ頷く事で返事をし、少女はそのまま、またマントの中に隠れてしまう。その少女の行動にリーシャは笑顔を濃くし、カミュは困惑顔を濃くした。

 そのカミュの表情が益々リーシャの笑顔を濃くして行く。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい。私の名前も聞いて下さいよ」

 

 先程の憤慨から立ち直ったサラが、自分の名前も聞かずに再びカミュのマントに隠れてしまったメルエに対し、哀願するように話しかけた。

 先程のカミュの表情を思い出さされたリーシャは、サラの慌てぶりが笑いのツボの最後の一押しとなり、爆笑してしまう。

 

「あははははははっ!」

 

 突然響き渡ったリーシャの笑い声に、驚きで身体を跳ねさせたメルエは、尚更マントを身体に巻きつけるようにして隠れてしまった。

 その動きに、カミュの表情はますます困惑を極めて行き、リーシャの笑いは熱を増す。そんな和やかな循環が出来上がり、サラがメルエに自己紹介が出来るまで、かなりの時間を要する事になるのだ。

 

 

 

 リーシャの笑いも沈静し、状態が落ち着いた中、カミュが口を開いた。未だにメルエと名乗った少女は、カミュのマントの裾を離さない。その対面に立つサラに向かって向けられたカミュの瞳は、突き放すような冷たい物ではあったが、何処か優しさを含む物でもあった。

 

「それで、どうするつもりだ?」

 

 『この少女を救ったのはいいが、どうするつもりだ?』

 言葉は少ないが、カミュの言いたい事はそういう事であろう。カミュにしてみれば、サラの願いを聞いて、救っただけと言うつもりなのかもしれない。

 全てはサラが決めた事であり、カミュはその手助けをしたに過ぎないのだ。

 

「……」

 

 未だにカミュのマントの裾を握るメルエは、カミュとサラの両方の顔を見比べている。サラは、そんなメルエの視線を感じ、尚更言葉が出て来ない。

 ロマリア城下町でカミュの話した内容がサラの胸に突き刺さっていた。

 メルエを救っても、幼いメルエの人生を請け負う事は、サラには出来ない。『魔王討伐』という大望がある以上、少女を養う事も育てる事も出来はしないのだ。

 

「連れて行けば良いじゃないか」

 

 そんな二人の膠着状態を破ったのは、やはりリーシャであった。

 リーシャとしては当たり前の事なのかもしれない。幼い少女を、このような森の中に置いて行く事が出来ない以上、連れて行くしかないのも事実なのである。

 

「……本当に、アンタはどうしようもない馬鹿か……?」

 

「なんだと!!」

 

 しかし、呆れたような溜息を吐き出しながら開いたカミュの口からは、失礼極まりない言葉が飛び出して来た。

 その言葉に反射的に怒りを向けるリーシャであったが、瞳を向けた先にあったカミュの表情を見て、息を飲む。

 

「俺達の目的は分かっている筈だ! このような『死』への旅に、子供を連れていくつもりか!? それこそ、何の為に救った!?」

 

 珍しく語気が荒いカミュに、意見を述べたリーシャも、言葉が出なかったサラも驚きを隠せない。

 ただ、カミュの横に立つメルエだけは、カミュのマントを握る手に力を込めていた。

 

「…………メルエも……行く…………」

 

「……アンタの馬鹿な発言のお陰で、こんな事になる」

 

 メルエが発した言動に、心底疲れ切った様子で溜息をつくカミュは、リーシャへと怒りに燃えた鋭い視線を投げかける。

 先程、カミュがリーシャへ向けた表情は、無表情とは程遠い『怒り』の感情を乗せた物だった。

 そのカミュがメルエの発言に困っている。

 それが、再びリーシャを可動させる事となった。

 

「ま、まぁ、良いじゃないか。どちらにしろ、こんな場所に置いて行く事は出来ないのだから、<カザーブ>までは一緒に行くしかないだろ?」

 

「そ、そうですね。とりあえず、<カザーブ>までは一緒に向かいましょう」

 

 リーシャの言い訳のような言葉に乗るように、サラは同意を示した。

 そんな二人に、カミュの視線はますます厳しくなって行く。サラは俯いてしまうが、リーシャはそんなカミュの変化を好ましく思っていた。

 あのカミュが、二桁の歳になったかならないかの少女に翻弄されているのだ。

 これ程面白い事などある訳がない。

 

「よし! メルエ、ここからの道は危険が多い。カミュの傍を離れるな」

 

「おい!」

 

 カミュの抗議の声を無視するかのように、マントの裾を握ったまま、こくりと頷いたメルエに、リーシャはにこやかな笑みを作った。

 そんなやり取りに、俯いていたサラも顔を上げ、笑顔を見せるのだった。

 

 

 

 




ここまで読んで頂き、ありがとうございました。

本日は帰宅が遅く、結局3話しか更新できませんでした。
明日の夜は、もう少し更新できるようにしておきます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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~幕間~【ロマリア野営地】

 

 

 

「カミュ、馬車はどうするんだ?」

 

 マントの裾を握ったままのメルエを引き摺るように森に入ろうとするカミュに、リーシャが放置されたままの馬車について尋ねた。

 幌の付いた馬車は、メルエを救い出した時のまま、静かに佇んでいる。

 

「あの40ゴールドに、馬車の代金までは含まれていない。その内、あの奴隷商人達が取りに戻って来るだろう」

 

「しかし……」

 

 馬車があれば、メルエのような幼い子供がいても、行軍速度の心配はない。そう思って言い募ろうとするリーシャに、カミュは自分のマントの裾を握って放さない少女に視線を移す事で、その申し出を拒絶する姿勢を見せた。

 

「……そうだったな……メルエ、すまない」

 

 今まで、奴隷として縛られ、運ばれる為に乗っていた物に、再度乗りたがる訳はない。それを理解したリーシャは、メルエに向かって謝罪の言葉をかけたが、メルエはただ、首を横に数回振ったのみであった。

 少し、気不味い雰囲気のまま一行は森へと入って行く。もはや、夕陽も沈みかけ、夜の静けさが森の中に漂っていた。

 カミュとリーシャで、今夜の野営地を絞り、火を熾して行く。その間、サラは周囲から薪として使える木の枝などを探し、拾っていった。

 簡単な食事を終えた後、焚き火の傍でうつらうつらと船を漕ぎ始めたメルエをリーシャが横たえ、カミュから剥ぎ取ったマントを掛けてやる。まだ幼さが十分に残る寝顔を見て、リーシャに優しい笑みが浮かび、メルエの綺麗な茶の髪を手で梳き始めた。

 その後、リーシャは、今日の<アニマルゾンビ>との戦闘後に話した通りに、サラに魔法についての講義を受ける事になる。

 幼い頃から、剣だけを磨いて来たリーシャにとって、初めて聞く事も多く、何度も聞き返すような事はあったが、サラは嫌な顔一つせずに、懇切丁寧にリーシャの疑問に答えて行く。その講義の中には、時折サラの職業柄、『精霊ルビス』に纏わる話も織り交ぜられていたが、リーシャとてアリアハン国民である以上、『精霊ルビス』を崇めている一人であるため、そんなサラの話も真面目に聞いていた。

 

 サラの講義を受け始めてどのくらいの時間が立ったであろう。

 不意に、傍で寝ていたはずのメルエが、むくりと起き上った。

 傍で火に当たりながら講義を受けていたリーシャが、その変化に気付き、視線を動かす。

 

「ん……どうした? まだ寝ていても良いんだぞ」

 

「……」

 

 リーシャの優しい声にも上手く反応出来ていない様子で、目を擦る仕草をするメルエに、サラは笑みを溢した。

 ようやく、寝惚けから覚醒したメルエは、掛っていたマントを握りしめ、周囲を見渡し始める。その様子に、カミュを探しているのだと感じたリーシャは、今さらながら、カミュがいない事に気が付いた。

 

「カミュか? おそらく、その辺にいるとは思うが………少し待っていれば戻って来るさ」

 

 その声に、少しリーシャの方を見たメルエであったが、マントを持ったまま立ち上がり、周囲を歩き回り始める。それはまるで、迷子になった子供が、親を探しているかのような必死さであった。

 サラには、何故メルエが、そこまでカミュを頼みにするのかが理解できない。別段、特別な優しさをカミュがメルエに向けているようには見えなかった。

 メルエの傍でも、サラから見れば、いつものカミュにしか見えないのだ。

 

「あっ! お、おい!」

 

 自分の考えに没頭していたサラの意識が、リーシャの上げた声で戻される。メルエが野営地を抜け、森に入って行ってしまったのだ。

 野営地の周辺に<聖水>を振り撒いているとはいえ、そこを抜ければ魔物達が住処にする森である事に変わりはない。

 

「サラ! 私はメルエを連れ戻しに行く。ここは、かなりの量の<聖水>を使用しているから安全だ。火を絶やさぬように待っていてくれ」

 

 サラが頷く間も与えず、リーシャはメルエの後を追い、森へと入って行った。

 呆然とするサラであったが、今から自分が追いかけても仕方がないと感じ、ここで待つ事にした。

 

 

 

 どこをどう歩いたのか分からない。

 だが、親を探す帰巣本能なのか、メルエはカミュの下へと辿り着いた。

 そこは少し開けた場所で、周囲を木々が囲んではいるが、先程の野営地を一回り程小さくしたような、平地のある場所。

 そこにカミュはいた。

 

 カミュは胡坐をかくように、地面に座り、目を瞑っている。その周辺は、何か暖かな風に包まれ、淡い光を放っていた。

 メルエにはそれが何か分からなかったが、不思議と違和感を覚える事はなく、まるで昔から知っているような感覚に陥る。

 

「……どうした? 眠れないのか?」

 

 メルエが近付くと、カミュが目を開く。カミュのたった一つの行動で、メルエが先程まで感じていた、カミュの周囲を満たしていた物が霧散して行った。

 その不思議な雰囲気に、メルエは小首を傾げるのだった。

 

「…………なに…………?」

 

「……ん? ああ、魔法の契約だ」

 

 メルエの発した、意図の掴みとれない単語だけで、カミュは何を言いたいのかを正確に理解する。

 『何をしていたのか?』とメルエは聞いているつもりなのだろう。それを汲み取ったカミュは、傍に置いてあった『魔道書』を掲げ、自分が行っていた事をメルエへと伝えるが、先程まで『奴隷』であったメルエに、それを理解する知識はなかった。

 

「…………ま……ほう…………?」

 

「ああ」

 

 カミュの目の前まで移動して来たメルエは、小首を傾げたまま、カミュの表情を見ている。それに、頷くようにカミュは答えた。

 それでも、カミュの口にした単語が理解できないメルエは、反対側へと小首を傾げるのだった。

 

「…………か…ぜ…………」

 

「……お前……魔力の流れが見えるのか?」

 

 メルエが先程感じた、カミュを取り巻く風。

 それは、魔法の契約時に、契約者が纏う魔力そのものだったのだ。

 その流れが視認できるという事は、その人物もまた、魔力を有しているという事になる。

 別段、この世界で魔力を有しているという事は、それ程珍しい物ではない。しかし、二桁に届くか届かないかの子供に、他者の魔力を視認できる程の魔力があるとなれば話は別であった。

 

「……ここに座ってみろ……」

 

 カミュは、何やら地面に円を描いた後に、そこに幾何学模様のような物を描き、メルエを呼んだ。カミュが何をやっているのか理解はできないが、その声にメルエはこくりと頷き素直に従う。

 メルエがカミュの描いた円の中に入り、腰を下ろすと同時に、円に沿うように淡い光が溢れ出し、メルエを包み込んで行った。 

 

「……???……」

 

 暫くの間、メルエを包んでいた光は輝き続け、そして、まるでメルエの中に吸い込まれるようにその光は収縮して行く。不思議そうに自分の身体を見ているメルエとは正反対に、カミュは呆然とその光景を眺めていた。

 

「……まさか、本当に契約が完了するとは……」

 

「……???……」

 

 その様子を傍で見ていたカミュの顔に、珍しく心からの驚きの表情が浮かぶ。そんなカミュの表情を見て不安になって来たメルエは、飛び上がるように円を飛び出し、カミュの下に駆け寄って行った。

 

「……メルエ……あの方角へ指を向けて、『メラ』と唱えてみろ……」

 

 駆け寄って来たメルエに、カミュは違う指示を出す。カミュの顔を見上げていたメルエは、再度こくりと頷いた後、言われた方向に右人差し指を向けた。

 指を掲げた瞬間にカミュの眉間に皺が寄って行く。

 メルエの纏う空気が変わったのだ。

 

「…………メラ…………」

 

 メルエの呟くような<メラ>の詠唱と共に、人差し指から凄まじい音を立て、岩のような大きさの火球が飛び出した。予想はしていたのだろうが、その桁違いの<メラ>を見て、カミュは呆然となってしまう。

 

「あっ!」

 

「なっ!?」

 

 メルエから飛び出した火球の規模に、尚更目を見開いたカミュであったが、その後に起こった事に、らしくない叫びを上げてしまう事となる。

 木々しかなかった、火球の進行方向には、運悪くメルエを探しに来たリーシャが、突然姿を現したのだ。

 

 

 

 メルエを探し、森へ入ったリーシャであったが、あの小さな身体がどこへ向かったのか皆目見当もつかない。

 ましてや、闇に閉ざされた森の中である。

 一行は、ロマリアで見つけた『ランプ』を購入しようかどうか迷ったが、その燃料である油が高級なため、再び<たいまつ>に落ち着いていた。

 その<たいまつ>を持っての探索となる為、難航していたのだ。

 そんな中、自分の右手の茂みから、淡い光が輝いた事に気が付き、リーシャは腰の剣に手をかけながらそちらへと歩いて行く。しかし、近くまで近寄った時には、その光は消えてしまっていた。

 途方に暮れそうになったリーシャが最後に掻き分けた茂みの先に、突如昼になったかと思う程の熱気と光が飛び込んで来たのである。

 

「なっ!?」

 

 咄嗟に左手に持つ、<青銅の盾>を顔面に掲げ、その光から目を護ろうとしたリーシャに、更なる衝撃が襲った。

 <青銅の盾>を持つ左腕に何かがぶつかり、その力にリーシャは吹っ飛ばされる。何が起きたのか理解出来なかったリーシャではあったが、魔物の襲来を考え、素早く態勢を立て直し、腰の剣を抜き放った。

 

「……まいったな……」

 

 しかし、リーシャの耳に聞こえて来たのは、魔物の雄たけびや奇声ではなく、もはや聞き慣れて来た、自分と共に旅する捻くれ者の声であった。その声を聞いたリーシャは、<青銅の盾>から顔を上げ、前方から歩いて来る青年に厳しい視線を向けた。

 

「カ、カミュ! お、お前……何をする!」

 

「……いや、すまない……悪気があった訳ではない」

 

「……」

 

 リーシャの激昂に、カミュは素直に謝罪の意を表し、その傍にいたメルエはカミュの後ろへ隠れてしまう。小さな姿を確認したリーシャの怒りは、一瞬沈静化するが、再び湧き上がる怒りを隠そうともしなかった。

 

「……メルエ、ここにいたのか? それより、カミュ! 今のはなんだ!? まさか、メルエに良い所を見せようと、魔法でも見せていたのか!?」

 

 メルエの存在に気がついたリーシャは、ほっと胸を撫で下ろし、一つの問題を解決したとばかりにカミュへと詰め寄って来る。リーシャの剣幕に、メルエは更にカミュの後ろで小さくなり、カミュの足を掴むその手にも力が籠っていった。

 

「……少し落ち着いてくれ……俺も多少混乱している……」

 

「お前が……混乱?」

 

 カミュと混乱という全く結びつく事のない単語に、リーシャの頭に疑問符が浮かぶ。しかし、カミュの顔は真面目そのものだ。

 別段、口端を上げている訳でもない。

 そこで初めて、リーシャは冷静さを取り戻した。

 

「……落ち着いて聞いてくれ……信じられないかもしれないが、今、アンタがその盾で受けた<メラ>は、俺が放った物ではなく、メルエが放った物だ」

 

「何……メルエが!?」

 

 カミュの言葉に、リーシャの声は自然と大きくなる。その声量に、カミュの後ろに隠れていたメルエの身体は大きく跳ね上がった。

 リーシャの怒りの矛先は、カミュへ向かっているのだが、それをメルエが自分に向けられている物だと勘違いしてしまっているのだ。

 

「馬鹿も休み休み言え!!」

 

「……いや、アンタの気持ちは理解できる……だが、事実は事実だ」

 

 カミュへ向けられた怒鳴り声は、メルエの身体を完全にカミュのマントの中へと移動させてしまう。激昂したリーシャを抑える為に、カミュは冷静に話をするが、カミュへと詰め寄って来ているリーシャには通用しなかった。

 

「メルエが魔法を使えるとでも言うのか!?」

 

「……いや、今までは使えなかったのだろうが……たった今、契約が完了した」

 

 リーシャは完全に混乱している。

 カミュの言っている事は理解できるが、うまく飲み込めないのだ。

 そして、それを理解して行くに連れて、カミュが犯した罪を認識し、怒りを更に増して行った。

 

「お、お前! メルエに魔法の契約をさせたのか!? 何を考えている!? 」

 

「……それについては、謝る他ない……魔力の流れを見ていた為に、試しに魔法陣の中へ入れてみたら、契約が完了してしまった」

 

 掴みかからんばかりに詰め寄って来るリーシャに対し、カミュは表情を崩さないまでも、いつものような横柄な態度を取る事なく謝罪の言葉を呟いた。

 一瞬気が抜けたような表情を浮かべたリーシャであるが、再びカミュへと怒りを向ける。

 

「お前は馬鹿か!?」

 

「……アンタに言われると、かなり堪えるな……」

 

 自分が馬鹿にしているリーシャから馬鹿扱いされた事に、若干肩を落とすカミュであるが、リーシャの詰問は終わる事を知らなかった。しかも、それはリーシャ自身を馬鹿にしたような言葉を吐いた事に対してではなく、今話題に上がっている幼い少女に関する事。

 そこにリーシャの人と成りが窺える。

 

「お前は、メルエに魔法を教えてどうするつもりなんだ!? まさか、旅に連れていくつもりなのか!?」

 

「……いや、そのつもりはない……」

 

 自分の事よりもメルエを優先させるリーシャを見て、カミュは言葉を濁し始める。

 カミュ自身、何か思う事があるのであろう。そこに直接突き刺さるリーシャの言葉は、カミュから精彩を奪って行った。

 

「お前が私達に言ったのだぞ! しかも、あれ程の威力の魔法が使える少女を、引き取ろうとする人間が何処にいる!? お前は、メルエの将来をも暗い闇に閉ざすつもりか!?」

 

 もはや、リーシャはカミュの胸倉を掴み、その瞳を怒りの炎で燃やしてカミュを糾弾していた。

 そのリーシャに対し、カミュは反論する言葉を持たず、沈黙を貫いている。

 リーシャの言うように、普通の村でメルエの里親を探そうとすれば、魔法などという物はむしろ邪魔にしかならない。普通に暮らし、普通の幸せを願うのならば、魔法など『百害あって一利無し』なのだ。

 魔物に襲われた時の対処にはなる。だが、それは普通であった場合に限るのだ。今の<メラ>がメルエの放った物であるならば、それは十歳前後の子供が唱える威力の物ではない。<メラ>だけで言えば、カミュ以上の物なのである。

 強すぎる力は、畏怖の対象になる。

 魔物を退治した時などは、周囲の人間に喜ばれるかもしれないが、時が経つにつれ、『その力が、自分達に向けられやしないか?』という疑心を生み、そして恐れられるようになる。

 メルエが行使した能力は、そういう類の物なのだ。

 魔法力をその身体の内に微塵も所有していないリーシャでさえ、契約時の魔力の流れによる発光を視認できた程の魔法力をメルエは持っている。それは、メルエを幸せに導く物だとは言い難いのだ。もし、そのようなメルエを喜んで引き取るとなれば、それは跡目のいない魔法武官の家か、それとも研究材料としてしか見ない魔法学者の場所しかない。

 

「……すまない……俺の考えが足りなかった」

 

「くっ!」

 

 カミュは、本当に珍しく、謝罪を繰り返す。そんな様子に、リーシャもカミュを責め続ける事が出来なくなっていた。カミュも、自身の犯した罪と、それによって道を限定されてしまった幼い少女の未来を十分に理解しているのだ。

 故に、彼は何も反論をしない。

 

「…………メルエ…………だめ…………?」

 

 そんな中、今までリーシャの声量に怯え、カミュの後ろに隠れていたメルエが、少しだけ顔を覗かせてリーシャとカミュの顔を見上げる。その顔は、形の良い眉毛をハの字に歪め、怯え切った物であった。

 

「……いや……メルエは何も悪くない」

 

 カミュはそんなメルエの頭を撫でながら、何も知らない少女に非がない事を伝える。リーシャも、それ以上は何も言えず、ただメルエを見つめる事しかできなかった。

 カミュを責めれば事態が好転する訳ではない。彼がそれを理解している以上、リーシャが言う事は何もないのだ。

 

「さあ、戻ろう……もう夜も更けた。眠らなければ、明日が辛くなる」

 

「……ああ……」

 

 リーシャが、不安そうなメルエの手を引き、野営地の場所に戻って行く。リーシャに手を引かれながらも、カミュの存在を確かめるように、何度も何度も振り返るメルエを見て、カミュもその足を動かさざるを得なかった。

 

 

 

「あっ! メルエちゃん!……無事で良かったです」

 

 野営地に戻った三人の姿を確認したサラは、満面の笑みを浮かべ駆け寄って来る。そんな、サラの言葉に、何が不満だったのか、リーシャの手を握りながらあからさまにメルエは顔を顰めた。

 

「…………メルエ…………」

 

「えっ!?……あ、は、はい……ではメルエ、無事で良かったです。それでは、私の事もサラと呼んで下さいね」

 

 暫くサラの顔を眺めていたメルエが、ぼそりと呟いた一言に、サラはすぐに何を言いたいのかを理解する。そのサラの答えに、満足そうに頷くと、メルエは先程寝ていた場所に戻り、カミュのマントを被って横になった。

 

「ふふっ……あれ?……どうされたのですか? お二人とも顔色が優れませんけど?」

 

「……ああ、大丈夫だ」

 

「……」

 

 メルエとは違い、何とも難しい顔をしている二人を不思議に思い、サラは声をかけた。しかし、返って来た答えは、表情と同じく重苦しい雰囲気漂う物であり、そんな二人を見て、サラの疑問は不安へと変化して行くが、そんなサラの肩にリーシャが手を置く。

 

「サラも、今日はもう休め。この場所は、<聖水>を多量に使用したためか、魔物の気配が全くしない。今日は見張りを立てずに休める。ゆっくり休め」

 

「あ、は、はい」

 

 何があったのか聞こうと口を開きかけたサラを制するように、リーシャは就寝する事をサラに勧めて来る。それは、有無も言わせぬ迫力を持った物であった為、サラは自らの寝床に入る他なかった。リーシャも、既に静かな寝息を立てているメルエの傍に横になり、目を閉じる。願わくは、隣で安らかに眠る少女の将来も、安らかな物である事を祈りながら、リーシャは眠りへと落ちて行った。

 

 

 

「おい、起きろ! カミュ、起きてくれ」

 

 カミュは、耳元で声を出さないように抑えている叫びに、目を覚ました。

 まだ、森の中は暗闇が支配しており、陽が昇るまでは、まだかなりの時間がある事が分かる。ゆっくりと身体を起こすカミュの肩を、リーシャが激しく揺すっていた。

 

「……起きた……余り揺らすな」

 

 鬱陶しそうにリーシャへと視線を動かすカミュの瞳に、顔を真っ青にしたリーシャの顔が飛び込んで来る。

 その顔に余裕など全くなく、焦燥感に駆られている事は目に見えて明らかであった。

 

「カミュ、メルエがいない!」

 

「……何……?」

 

 リーシャの言葉に周囲を見渡すと、確かに火の傍で丸くなっているのはサラだけである。先程までメルエが眠っていた場所に少女の姿はなく、身体に掛けられていたカミュのマントも一緒に消えていた。

 カミュは、少し前に、火に薪をくべる為に目を覚ましている。その時には、確かにメルエはそこに寝ていたはずだが、夜の暗さから、その時からそれ程の時間が立っていない事が分かる。

 つまり、カミュが薪をくべ、少し眠りに落ちている間にいなくなっているのだ。

 

「カミュ、どうする!?」

 

 横で、開く口の大きさと声量が一致していないリーシャは、いつになく焦っているのが一目で分かるほど狼狽していた。カミュにしても、この狼狽している戦士にしても、それなりの者である。魔物や襲撃者が襲ってくれば、その気配に目を覚ます筈だ。

 つまり、そんな二人の横を歩く事が出来るのは、気配を消す事の出来る者か、警戒に値しない小動物かのどれかという事になるのだ。

 

「……一先ず、落ち着け……少し周辺を探す。何か盗られた物などはないか?」

 

 もし、昼に相対した奴隷商人などが再び現れていたら、眠りこけている三人など、疾うに殺されているはずだ。いや、その前に、カミュやリーシャが目を覚まさない訳がない。

 

「いや、盗られた物などは何もない」

 

 既にその可能性は確認していたのであろう。カミュの問いかけに、リーシャは即座に答える。カミュは、リーシャの言葉に頷きながら、自分の荷物を確認していた。

 そして、ある物が失われている事に気が付く。

 

「……なるほど……」

 

「何か盗まれていたのか?」

 

 カミュが呟いた一言に、何か手掛かりでも見つけたのではと、リーシャは必死の形相でその肩を掴んだ。カミュは、いつも以上に狼狽するリーシャの姿に、正直戸惑っている。昼に出会ったばかりの少女の身の上を、ここまで心配するリーシャが不思議だったのだ。

 

「メルエの行き先が、何となくだが見当がついた」

 

「本当か!?」

 

 肩を掴むリーシャの手を退けるが、カミュの言葉を聞いた彼女の腕が、再び彼の肩口を掴んだ。

 そのリーシャの行動に、カミュは大きな溜息を吐き出す。

 

「……ああ……連れてくる」

 

「私も行こう」

 

 メルエが何故いなくなったのか見当がついたカミュは、その予想場所に向かおうとする。しかし、付いて来る事を言い出したリーシャの言葉に、頭を振って拒絶の反応を示すカミュに、再びリーシャが咬みついた。

 

「何故だ!?」

 

「……<聖水>の効力もいつまで持つか分からない。ここにいてくれ」

 

 言葉に詰まったリーシャを置いて、カミュは森の中へと入って行く。リーシャは初めて感じる不安感や焦燥感を抑え込むように、火の傍に座り込み、深く溜息を吐き出した。

 

 

 

「……やはり、ここだったか……?」

 

「!!」

 

 突然後方からかかった言葉に驚き振り向くメルエの怯えた表情は、小動物そのものだった。

 そこは、先頃カミュが、魔法の契約をする為に魔法陣を敷いていた場所である。

 カミュの持つ袋に入っていた筈の『魔道書』を広げたまま、おそらく自分で描いたであろう魔法陣の中に座っていた。

 

「……俺の『魔道書』を使って、何をしている……?」

 

「……」

 

 カミュの静かな問いかけに、ビクッと身体を震わせたメルエは、俯き黙り込んでしまう。そんなメルエの様子に、溜息を吐きながら、カミュはメルエへと近付いて行った。

 カミュが近付いて来る事に怯えるように身体を縮込ませたメルエは、眉の下がった瞳をカミュへと向けている。

 

「……別に怒っている訳ではない……契約をしていたのか?」

 

「…………」

 

 傍に来たカミュの手が、自分の頭に柔らかく載せられた事に安心したのか、メルエは黙って一つ頷いた。

 メルエが座っていた場所に描かれた魔方陣は、拙いながらもしっかりとした物で、『魔道書』を見ながら一生懸命に描いた事が見て取れた。

 

「…………これ…………?」

 

 メルエは近くに広げてある『魔道書』を手に持ち、あるページを指さして、カミュに見せるように持ち上げた。

 メルエの持ち上げた『魔道書』のページには、カミュも習得出来ていない魔方陣が描かれてある。

 

「……<ヒャド>か……」

 

「…………ヒャ………ド………ヒャ…ド………ヒャド…………」

 

 メルエは一言一句確かめるように、また噛みしめるように、カミュの口から出た魔法の名を反復する。そして、何度か同じ言葉を繰り返した後、納得がいったのか、また違うページを選び出した。

 

「…………これ…………?」

 

「……これは<ギラ>だな……」

 

 メルエの指し示した場所を見たカミュが、再びその魔法の名を口にする。発音を確かめるようにカミュの口元を見ていたメルエは、『魔道書』に視線を戻し、再びその名を反復した。

 

「…………ギ……ラ………ギラ…………」

 

 何度も反復するメルエの姿を眺めながら、カミュは一つの結論に辿り着く。それは、この時代では決して珍しくはない物であり、それに関して、カミュがメルエを蔑視する事などないのだが、確認を込めて、カミュは口を開いた。

 

「メルエ、お前は字が読めないのか?」

 

「!!」

 

 メルエは、カミュの問いかけに、驚きと戸惑い、そして哀しみを混じり合わせたような表情をし、目を見開く。そのメルエの態度が、カミュの考えが間違っていない事を示していた。

 おそらく、メルエの両親は、メルエに対して教育は全く施さなかったのだろう。だが、それ自体は、この時代では責められる事ではない。

 今の時代、読み書きが出来ない子供が大半であった。ある程度の収入がある家に生まれた人間であれば、親や近所にいる知識がある者の教えを請い、読み書きや計算などを覚える事が出来るが、貧しい家に生まれれば、そもそも親自体が読み書きをする事が出来ない。

 故に、『子供に教育を』と考える親の方が稀なのである。そういう世の中だからこそ、国の中枢に蔓延る人間は、教育を受ける事の出来る貴族がその割合を大きく占める。

 メルエは、カミュの言葉に完全に俯いてしまった。

 先程まで次々と『魔道書』のページをめくり、目を輝かせていた少女の姿は微塵もない。そんなメルエの姿に、カミュは手のひらをその頭に乗せ、優しく撫でた。

 

「字が読めない事は、珍しい事ではない……すまない、そんなに落ち込むな」

 

「……」

 

 カミュの慰めのような言葉にも全く反応を示さないメルエに、カミュは困りきってしまう。

 カミュは、実際に『人』との接し方が分からない。幼い頃から友人などおらず、子供達と遊んだ事などないのだ。

 

「……それで、他に契約した魔法はあるのか?」

 

 一向に顔を上げないメルエに、カミュは溜息をついた後、話を続ける事にした。

 何度かメルエの頭を撫でながら、他に出来た契約の内容を聞いてみると、ようやくメルエの顔が上がり、再度『魔道書』を持ち上げる。

 

「…………これ……とこれ…………」

 

 正直に言えば、問いかけたカミュ自身が、『これ以上は、契約出来てはいないだろう』と考えていた。

 しかし、それは、メルエの言葉で完全に否定される事となり、『魔道書』を開いた二つのページに記載されている魔法を指差したメルエは、自信なさ気な表情をしたまま、カミュを見上げて来るのだった。

 

「……スカラ……と、リレミトだな……効力は解るのか?」

 

「…………???…………」

 

 魔法の名前を反復していたメルエは、カミュの言葉に小首を傾げた。

 もう一度溜息をついたカミュは、メルエにその魔法の効力を話し出す。どのような魔法であるのかを知らなければ、契約は出来たとしても、行使する事は出来ないだろう。

 それに気付いていたカミュであったが、期待するような瞳を向けるメルエに溜息を吐き出し、今までの魔法の効力も教えて行くのだった。

 

「理解出来たか?」

 

 再度確認したカミュに、大きく頷いたメルエは、再び『魔道書』を開き始める。そのメルエの行動に、カミュは驚きを強くし、目を見開いた。

 メルエの歳は、多く見積もっても二桁に届いてはいないだろう。その幼い少女が、『魔道書』に記載されている魔法を一晩で複数契約したと言うのだ。驚かない訳がない。

 

「…………これ…………」

 

「……メルエ……お前は、何処まで契約出来た?」

 

 『魔道書』を突き出して来るメルエを手で制したカミュは、メルエと目を合わせるように屈み込み、広げた『魔道書』を指差し尋ねる。カミュの質問の意図が把握出来ていないのか、暫し首を傾げていたメルエは、再び『魔道書』をカミュへと突き出した。

 

「…………これ…………」

 

 おそらく、メルエが契約出来たのは、今、指している魔法が最後なのだろう。

 この暗闇の中で『魔道書』を読むのならば、灯りが必要になって来る。傍に転がっていた木の枝の先は若干の焦げ跡が残っており、メルエが<メラ>を唱えた事が窺えた。

 その木から出る火の粉の破片が、メルエの指差すページに残っていたのだ。

 

「……凄いな……それはルーラだ」

 

「…………ルー……ラ………ルーラ…………」

 

 再び反芻し始めたメルエを、驚きの表情で見つめていたカミュは、メルエへの懸念が浮かび、苦い顔になる。

 その表情に浮かぶ物は、確かな『感情』。

 ここまでの旅で決して見せる事のなかったカミュの感情は、この幼い一人の少女によって引き摺り出されたのだ。

 

「……メルエ……よく聞いてくれ」

 

「…………???…………」

 

 魔法の名の反復を終えたメルエが顔を上げるのと同時に、カミュはその瞳を見つめながら語り出す。首を傾げたメルエは、それでもカミュの言葉を聞こうと、まっすぐカミュへ瞳を移した。

 

「メルエが魔法の契約を出来た事は理解した。だが、その魔法は、俺達の前以外では使うな。他の人間が周りにいる時には、絶対に使うな……わかったな?」

 

 カミュの忠告は、リーシャが心配している事への予防策である。メルエが魔法を行使すればする程、平穏な生活を送る可能性を狭める事になる。それは、リーシャも、もちろんカミュも願う事ではない。

 だが、それを聞くメルエは悲しそうな表情で、カミュを見つめていた。

 

「…………メルエ………だめ…………?」

 

 それは、『怯え』にも似た感情。

 自分が異常だから、カミュは認めないのではないかという疑念。

 そして、カミュやリーシャに拒絶される事が、今のメルエに取って一番の哀しみなのかもしれない。

 

「……いや……そうではない。俺も、メルエの歳と変わらない頃に、<ルーラ>の契約を終えていた」

 

「…………」

 

 カミュはメルエの横に腰を下ろし、『奴隷』から解放されるべき少女に向かって語り出した。

 自分の隣に座ったカミュの顔を見上げ、メルエは眉を下げたまま口を開かない。恐怖や怯えにも似た感情を持ったメルエは、カミュが何を話そうとしているのか見当が付かないのだ。

 

「……俺は、メルエの歳とそう変わらない頃から、魔物と戦っていた。俺もメルエと同じように、法衣を纏った人物は畏怖の存在だった。いくら怪我をしても、傷を治され魔物に向かわされる。それで、<ルーラ>を覚えた」

 

「…………おな…じ…………?」

 

 カミュの口調から、『自分が拒絶されている訳ではない』という事を理解したメルエは、ようやくカミュの話に反応を示した。

 『自分と同じ』という言葉に関心を示したメルエは、小首を傾げたまま、カミュの横顔を見つめる。

 

「……ああ……一人で戦って、傷ついて、それでもまた戦わなければならなくて……逃げ出したかったのだろうな……<ルーラ>を行使すれば、家に帰れると思った」

 

「…………かえれ……た…………?」

 

 カミュの独白に近い話に、こくりこくりと相槌を打ちながら聞いているメルエは、所々で疑問を挟む。そんなメルエの方を見ずに、カミュは一つ一つ答えて行った。

 この場には、心に傷を負った二人しかいない。その傷は、決して他人には理解されず、そして自身で癒す事も出来ないのだ。

 

「……帰れはした。だが、追い出された」

 

「!!」

 

 カミュの答えに、メルエの身体が弾かれるように揺れた。

 カミュの言葉の何に反応したのかは解らない。しかし、それがメルエの過去の一部と繋がっている事だけは確かなのであろう。

 尚一層、眉を下げたメルエは、黙り込んだままカミュを見上げていた。

 

「……魔物から逃げ出すような人間は、孫でもなければ子でもないとな……」

 

 放り込まれた先の魔物との戦闘によって満身創痍となった身体を引きずり、残りの魔力を振り絞った。

 しかし、契約を終えたばかりの『ルーラ』を唱え、家に辿り着いたカミュを待っていたのは、祖父と母親の叱責と罵倒であったのだ。

 討伐隊を置き去りにし、自分一人が魔法を使って逃げ出し来たと責められ、カミュは再び外へと放り出される。

 『英雄の子として有るまじき行為であり、恥じるべき行為である』とその身体の治療も受ける事も叶わずに、外へと投げ出された人間の心には、どれ程の傷が刻まれる事だろう。

 実情は、異なっていた筈なのである。

 カミュはたった一人で魔物の中に放り込まれていたのだ。

 『討伐隊』など名ばかり。討伐の六割以上は、カミュが行っていたと言っても過言ではなかった。

 それをカミュの家族は、誰も知らない。いや、『たとえ知っていたとしても変わらなかったであろう』とカミュは考えていた。

 

「……俺もメルエと同じようなものだ」

 

 その言葉と共に、ようやくカミュはメルエの方を向き直る。その表情は苦笑を浮かべていた。

 見る者によっては、痛々しくも映りそうな程の苦笑を浮かべたカミュを見て、メルエは眉を下げたまま黙り続ける。

 

「メルエ、魔法を行使出来る事が、お前の幸せには繋がらない。行使する事が出来ない方が、この先平穏な暮らしが出来る筈だ」

 

「…………」

 

 メルエは、カミュの話している難しい言葉を理解出来てはいない。だが、何を言いたいのか、何を自分に求めているのかは、何となくだが理解出来ていた。

 故に、彼女の顔は歪んで行く。

 

「……それ以上、契約は行うな。必ず俺達が、メルエが平穏に暮らせる場所を探してやる。それまでは、魔法ではなく、言葉や文字などをあの僧侶に教われ」

 

「…………」

 

 今まで黙ってカミュを見つめていたメルエは、カミュの最後の言葉を聞き、その頭を大きく横に何度も振った。

 完全なる拒絶である。

 自分の感情や考えを他者に上手く伝える事が出来ない程に幼いメルエの精一杯の拒絶。

 

「……メルエ……」

 

「…………た……る…………」

 

 微妙に肩を揺らすメルエの姿に、カミュは何とも居た堪れない思いになって行く。声をかけようと手を伸ばしたカミュの耳に、何か呟くような声が入って来た。

 それは小さな小さな慟哭。幼いメルエの心の叫びだった。

 

「…………メルエ………ダメ…………すて……る…………?」

 

「!!」

 

 やっとの思いで吐き出したのであろうメルエの言葉に、カミュは絶句する。自分が、良かれと思って話した話で、尚更メルエを追い込んでしまっていたのだ。

 既に、メルエの瞳を大粒の水滴が濡らしていた。

 それでも、カミュを射抜くように向けられた瞳は、幼いとは思えない程の力を宿している。

 

「……メルエ……」

 

「…………メルエも………行く…………」

 

 おそらく、あの奴隷商人達に聞かされていたのだろう。

 『お前の親は、お前を金で売っ払ったんだ。お前は捨てられたんだ』と。

 それは、メルエのような歳の子供にとって、どれ程、心に傷をつけるものであっただろう。そんな自分の状況を知りながらも、『自分を救ってくれた人間達と一緒にいたい』というその一念で、魔法の契約を一人でしていたこの小さな少女に、カミュは言葉を失った。

 

「…………メルエ………まほ…う………おぼえる………うぅぅ…………」

 

 メルエの瞳からは、溜めに溜めていた涙が溢れ出し、その頬を濡らしていた。

 もはや、言葉すらも聞き取る事は難しい。

 おそらく、メルエの瞳には、カミュがはっきりとは映ってはいないだろう。それでも、真っ直ぐと見つめる少女を、カミュは胸に抱いた。

 

「……わかった……」

 

 小さなメルエの身体は、カミュの胸にすっぽりと収まり、その手に持っていた『魔道書』は地面へと落ちて行く。カミュの胸の中で、すすり泣くような声を上げるメルエを、カミュはそのまま抱き締めていた。

 

 

 

「……落ち着いたか?」

 

 メルエの肩の震えが収まった事を確認したカミュが、そっとメルエの身体を離した。

 カミュの胸の部分は涙で濡れてはいたが、もはやメルエの瞳の中に涙はない。代わりに、真っ赤に腫れ上った瞼と、頬に残る涙の跡が、その哀しみの度合いを理解させた。

 カミュに向かって、こくりと頷いた後、もう一度『魔道書』を拾い上げるメルエの手をカミュが止める。

 

「……今日は、もうお終いだ。この先は、明日以降にしろ。それに……おそらく今は、<ルーラ>までが限界の筈だ。この先の魔法は、メルエが成長してからだ」

 

「…………せい………ちょう…………?」

 

 言葉の意味が解らないのか、小首を傾げるメルエに、カミュは苦笑を洩らす。土が付いてしまった『魔道書』を軽く手で払い、カミュは『魔道書』をメルエへと手渡した。

 

「……簡単に言うと……メルエが、大きくなってからだ」

 

 カミュの言葉にこくりと頷いた後、手渡された『魔道書』を胸に抱いたメルエは、少し微笑んだ。

 初めて見るメルエの微笑みは、とても暖かく、カミュの胸に不思議な空気を運んで来る。

 

「その『魔道書』は、メルエが持っていろ。俺が見たくなったら、メルエから借りる。失くすな」

 

 カミュもまた、メルエへと微笑んだ。

 再び頷いたメルエは、踵を返し、野営地への道を戻って行く。その後ろ姿を見ながら、カミュもまた歩き出した。

 メルエが先に森の中に入って行った事から、野営地への道は分かっているのだろう。確かに、ここは、野営地からそれ程離れてはいない。メルエの身に危険はない筈だった。

 

「……連れて行くのか?」

 

 メルエの背中を追っていたカミュの横から、突然かけられた声。

 それは、待つように指示を受けていたのにも拘わらず、やはりメルエへの心配で付いて来ていたリーシャであった。

 突然現れたリーシャに多少の驚きを見せたカミュであったが、木に背中を預けながら睨むリーシャを見て、一度足を止める。

 

「お前の心に、メルエを連れて行く事への覚悟はあるのか? 魔法は使えるが、子供だ。その命を背負えるのか?」

 

「……」

 

 カミュは黙して何も語らない。

 一度瞳を閉じたリーシャは、深い溜息を吐き出し、もう一度カミュを睨みつける。しかし、その瞳に宿る物は、怒りなどではなかった。

 それをカミュも理解しており、リーシャの瞳から目を離す事はない。

 

「お前に勝手に付いて来る事になった私やサラとは違い、メルエに関しては、お前が連れて行く事を決めたんだ。それは、しっかりと憶えておけ」

 

「……ああ……」

 

 リーシャの言葉を聞いていたカミュは、しっかりと頷きを返す。リーシャという『戦士』が何を気遣っているのかを理解したのだ。

 故に、カミュの纏う空気も変化して行く。

 相対する価値のある者に向けられる物へと。

 

「お前が連れて行くと決めた以上、反対はしない。私にとっても妹のようなものだ。何も、お前一人で護り切れとも言わない」

 

 リーシャは、真面目な顔で言葉を続けていたが、メルエを『妹のように』と表現した辺りで、カミュの口端が上がっている事に気が付いた。

 それを見たリーシャの頭には嫌な予感しか浮かばない。先程までの緊迫した空気はそこにはなく、不思議な空気が漂い始めた。

 

「な、なんだ?」

 

「……いや……メルエはアンタにとって、『妹』というよりは『娘』ではないのか?」

 

 これ程に失礼な話はない。

 メルエ程の子供がいるとすれば、それ相応の歳でなければならない。少なくとも、現在のリーシャの歳よりも相当な開きがあった。

 そして、リーシャは憤慨する。

 

「わ、わたしは、そこまでの歳ではない!!」

 

「……初耳だな……では、幾つだ?」

 

 更に失礼を重ねるように、カミュはリーシャの年齢を聞き始めた。

 そのような返しが来るとは思っていなかったリーシャは、息を詰まらせたような顔を見せる。

 

「なっ!?……くっ……女性に対して年齢を聞く事が、失礼に当たると知らないのか!?」

 

 リーシャの怒りとは反対に、カミュの口端は上がって行く。自分とメルエの話を立ち聞きしていたリーシャへの報復なのか、その手を緩める事はなかった。

 怒りの為か恥ずかしさの為か、顔を真っ赤に染め上げたリーシャが、瞳を泳がせながらカミュを睨みつける。

 

「……俺の記憶が正しければ、アンタはあの僧侶に対して、何の抵抗もなく年齢を聞いていた筈だが?」

 

「あ、あれは、サラの場合、明らかに年齢が若い部類に入るではないか!?」

 

 湯気が出ているのではないかと思う程に上気したリーシャの顔が間近に迫っているにも拘らず、カミュは苦笑のような表情を浮かべたまま、更に彼女を煽って行く。

 

「……ほう……では、アンタは明らかに歳をとっている部類に入るという事か……」

 

「ち、ちがっ!」

 

 もはや、完全にペースをカミュに握られてしまったリーシャは、わたわたと手を震わせながら、動揺を繰り返す。その様子を、カミュは笑いを堪えるように眺めていた。

 先程までメルエに関して話をしていた時の重苦しい雰囲気は、既に微塵もない。

 

「まぁ、アンタがこの中で最年長である事は確かだろう。おそらく、メルエよりも二十年程は長く生きているのだろうな」

 

「そんな歳ではない!!」

 

 更に挑発を繰り返すカミュであったが、リーシャの怒声を聞く様子もなく、リーシャに背を向けて歩き出した。

 自分の年齢を完全に勘違いされたままのリーシャは、慌ててカミュの後を追う。そんなリーシャの耳に、呟くようなカミュの声が入って来た。

 

「最年長のアンタの言葉は護るさ」

 

「……カミュ……?」

 

 カミュが呟くように溢した言葉が、リーシャの熱を冷まして行く。リーシャに言わるまでもなく、既にカミュの覚悟は決まっていたのだろう。それ以上は、お互い話す事もなく、野営地に戻って行った。

 既にメルエは戻っており、カミュのマントに身を包み、静かな寝息を立てていた。

 リーシャは苦笑しながら、メルエの身体を包み込むように抱き、瞳を閉じる。メルエという少女の体温の温かさを感じながら、リーシャは眠りへと落ちて行った。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

次の更新は、22時以降になると思います。
ご意見ご感想を心よりお待ちしております。


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戦闘②【ロマリア】

 

 

 

 勇者一行の朝は早い。

 まず、まだ陽が昇り始める前にカミュが起き、暖を取る為に火を安定させる。続いて起きて来たリーシャが、カミュと鍛練とは名ばかりの勝負を始め、それが佳境に入る頃にサラが起床して来る。サラの意識が覚醒すると、今度はリーシャによる地獄の特訓が始まるのだ。

 その後に、昨晩から加えられた、サラという講師を迎えた授業が始まり、リーシャは魔法の知識を、そして、メルエは字と言葉の授業を受ける。

 意外と言っては失礼だが、サラの授業は解り易いものであった。

 うろ覚えであった魔法について、リーシャは四苦八苦している様子であったが、メルエは初めて知る事に興味を示し、次々とサラへ質問を繰り返す。メルエの勢いに始めは圧されていた感もあるサラであったが、熱心な生徒程、教師として教え甲斐のある者はいない。

 サラは、一つ一つメルエの質問に答えながら微笑んでいた。

 朝陽が昇り、周囲を明るくし始めた頃に、一行はようやく朝食を取り始める。ただ、朝食と言っても、鍋などを使える訳ではない。保存食として持っていた干し肉と、カミュやリーシャが取って来た果物を食す事になる。

 果物を口いっぱいに頬張っているメルエの口元を、微笑みながら手にした布でふき取っていたリーシャが、不意にカミュに向き直り口を開いた。

 

「そう言えば、アリアハンを出た時から気にはなっていたのだが、お前のその剣はアリアハンの騎士剣ではないのか?」

 

「……ああ……アンタの見立て通りの剣だ」

 

 カミュは背中から剣を抜き、その剣をリーシャへと手渡す。リーシャは手渡された剣の柄に彫られているアリアハン国章に目を留めた。

 先程まで、果物を頬張っていたメルエも面白い物でも見るように、リーシャの横から眺めている。

 

「メルエ、あまり近づくな……カミュ、お前はこの剣を何処で手に入れた? 少なくとも、この剣は下級騎士程度では手に入らないような代物の筈だ」

 

 身を乗り出すように剣を見ようとするメルエの頭を押さえながら、リーシャは疑問を口にした。

 リーシャも、カミュが剣を盗んで来たなどと考えてはいない。ただ、上級騎士以上の者しか手に入れる事の出来ない筈の剣を持つカミュを、不思議に思っただけなのだ。 

 

「それは、俺の剣ではない。俺の祖父の物だ」

 

「祖父?……ああ……お前の祖父というと、オルテガ様の父君のオルテナ様か……なるほど……」

 

 リーシャにとって、英雄であり憧れの存在である『オルテガ』。

 その父もまた優秀な騎士であった。勿論、リーシャが生まれる以前に宮廷騎士として在籍していた為、その存在を話で聞く限りの物しか、リーシャも知り得ていない。その剣の腕は、アリアハンでは右に出る者はおらず、常に戦場では前線に立っていたと聞く。

 ただ、オルテガやカミュのように魔法を行使する事は出来ず、その身に魔力を宿してはいなかった。

 また、アリアハン宮廷騎士で随一の腕を所持してはいたが、『責任を持てば、前線に立てなくなる』という理由から、騎士隊長の勅命を辞退したという逸話も残っている。その際に、当時のアリアハン国王から、前線に拘る猛将ぶりへのお褒めのお言葉と共に賜った剣があると云われていた。

 おそらく、そう伝えられている剣が、今、リーシャが手に持つ騎士剣なのだろう。

 

「……これが、国王様から賜ったとされる剣か……」

 

「それ程に凄い剣なのですか!?」

 

 リーシャが呟いた一言に、サラもまた過剰に反応する。そのサラの反応に、リーシャの腕の下から剣を眺めていたメルエは、身体を跳ねさせた。

 驚いたメルエは、サラの方を怯えたように見つめ、リーシャの背中に隠れてしまう。

 

「どんな曰くがあろうと、剣は剣だ。鉄を型に流し込んだ物に過ぎない」

 

「お前は……仮にも、お前の祖父が国王様から直接賜った剣だ。その事実だけでも大変栄誉な事なのだぞ!」

 

 カミュの発言に対し、リーシャの発する言葉まで荒々しくなり、遂にメルエはリーシャの傍から逃げ出し、カミュの隣へと移動した。

 もはや、メルエにとってリーシャの隣も安全な場ではなくなっていたのだ。

 

「……この話は、前にも言ったが平行線だ。話題を出した俺が悪かった」

 

 自分の足を掴んで来るメルエに、溜息を一つ溢したカミュは、未だ鼻息の荒いリーシャへ話の終了を提案する。しかし、自身の内から湧き出す怒りを抑える事の出来ないリーシャは、そんなカミュの小さなサインに気付く事はなかった。 

 

「お前はっ!! お前は何故、そのように考えるんだ!! 自分の父だけでなく、祖父までもが一国の英雄なんだぞ! 誇りに思いこそすれ、蔑む事にはならないはずだ!!」

 

 リーシャは、カミュのこの考えだけは理解が出来ない。自分の父であるクロノスは、宮廷騎士隊長という一国の英雄には及ばない地位ではあるが、そんな父をリーシャは誇りに思っている。仲間を救う為にその人生に幕を下ろした父を、リーシャは誰よりも尊敬していた。

 故に、理解が出来ない。

 宮廷騎士隊長のリーシャの父クロノスのように国内の話ではなく、全世界にその名が轟いているオルテガを父に持つカミュが、その父を誇りに思わない事に、リーシャは怒りを感じずにはいられないのだ。

 人それぞれの考えや想いがある事は、リーシャとはいえ理解しているつもりだ。

  しかし、アリアハン国内に数々の逸話を残している祖父や、全世界に英雄として名を残す父を侮辱するカミュが許せない。それは、昨夜にカミュがメルエに話していた内容を聞いていても許せない物なのだった。

 

「……………リーシャ………いや……………」

 

 しかし、その怒りは、横から響いたか細い声に霧散して行く事となる。カミュに向かっていたリーシャの怒りに燃えた瞳の端に、怯えた目でこちらを見ているメルエの瞳が映ったのだ。

 

「メ、メルエ……こ、これは違うんだぞ! 何も、メルエを怒っている訳ではないんだ」

 

 メルエの怯えた様子に口籠るリーシャには、先程まで立ち上らんばかりに纏っていた怒気は既になく、幼子を怖がらせてしまった言い訳を四苦八苦する姿になっている。

 リーシャに余裕はなく、この三人の中で初めてメルエが名前を口にしたのが、自分の名前だった事にも気が付かない。後にサラからその話を聞き、得意顔でカミュに自慢する事になるのは、また別の話である。

 

「……」

 

 リーシャは、宥めるように手を伸ばすが、それに反比例するように、メルエはカミュのマントの中に隠れて行く。その二人の追い駆けっこが、サラには可笑しくて仕方がない。

 いつもなら、剣呑な雰囲気での出発となる所が、メルエの行動で和やかな物へと一変してしまっていた。

 

 

 

 朝食を取り終えた一行は、順調に歩を北に進め、昼前には森を出る事となる。森の中では、大した戦闘もなく、メルエが魔法を使う場面も全くなかった。

 当のメルエも、昨夜カミュに言われたためか、カミュの指示がない限り使う気がないようにも見える。

 昨日出現した、<キャタピラー>や<アニマルゾンビ>との戦闘は、リーシャとカミュが<キャタピラー>を片付け、サラが<ニフラム>の行使によって<アニマルゾンビ>を光の中へ消して行くといった物が続き、メルエはサラの後ろでその様子を眺める事が多かったのだ。

 森を抜けると、途端に道が傾斜を強くし、山道に入った事が解る。山道に入ると、今まで軽快に歩いていたメルエの足の進みが緩やかになり、前を行くカミュのマントの裾を握っていられなくなった。

 先頭を歩いていたカミュの後ろにいたメルエは、徐々に後退して行く。次第にサラの横を歩き、最後にはリーシャに手を引かれる形になっていった。

 

「カミュ! 少しスピードを落とせ!」

 

 メルエの様子を見て、リーシャがカミュへ指示を出す。少し苛立ちを含めていたリーシャとそれを眺めていたサラは、振り向いたカミュの表情を別々の想いで見ていた。

 振り向いたカミュの顔は、明らかに後悔の念を持つかのように歪んでいたのだ。

 それは、メルエの存在を考えていなかった事への後悔なのか、それともリーシャの言葉に対しての物なのか。おそらく前者なのであろう。

 そのカミュの表情に、リーシャは顔を緩ませる。カミュは、何故かメルエが同行する事になってから少し変わった。

 それは、ほんの些細な変化ではあるが、自分の内にある感情を表に出す事が多くなって来ている。リーシャにとって、その些細な変化はどこか微笑ましい物だった。

 逆にサラにとっては、どこか釈然としない物がある。

 自分の時は、『ついて来る事が出来なければ、置いて行く』とでもいうような物だったにも拘わらず、メルエに対しては優しさを見せるからだ。

 リーシャにしてもそうだった。何かにつけ、メルエを気にかけている。それは、『自分の姉を取られた』という子供の感情に近い物だったのかもしれない。

 

「悪かった……だが、この分では<カザーブ>に着く前に、陽が落ちるな……」

 

「…………メルエ………だいじょうぶ…………」

 

 気恥かしさからなのか、空に顔を向けながら謝罪を溢したカミュの何気ない一言に、メルエは気丈にも顔を上げ、再び歩き出す。そのメルエの姿を見て、カミュの表情は困惑を極めて行った。

 反対に、カミュを見るリーシャの瞳は鋭さを増して行く。

 

「メルエ、大丈夫だ。ゆっくり歩こう。カミュ!! <カザーブ>へ急ぐ用があるとでも言うのか!?」

 

「……リーシャさん……」

 

 急ぐ用など、『魔王討伐』という目的以外あり得ない。

 それを、まるで急ぐ必要がないかのように言うリーシャを、サラは信じられない物でも見るように見つめていた。

 

「……わかった……」

 

 驚愕に固まるサラを余所に、カミュが速度を極端に落として歩き始める。そんな二人の様子に、サラは尚一層驚きを感じ、暫し呆然としていた。

 二人の対応は、サラに対しての物とは明らかに違っている。歳が二桁に届かない少女と、カミュよりも年上のサラを同列に考える事自体が間違っているのだが、旅慣れないという点では、サラもメルエも同じなのだ。

 

「サラ! 何をしているんだ! 置いて行くぞ!!」

 

「!!」

 

 前方からかかったリーシャの声に対し、サラは釈然としない想いを抱いたまま、頬を膨らませて一行の後を付いて行くのであった。

 

 

 

「な、何故こんな場所に!!」

 

 一行が速度を大幅に緩め歩いた先で、リーシャは素っ頓狂な声を上げる事となる。それは、山道の中腹に入り、陽も陰り始めた頃だった。

 何度か魔物達とも遭遇し、疲れの見えるメルエを何度か休ませながらも歩き続けた先にそれはいた。

 

「リ、リーシャさん、落ち着いて下さい」

 

「い、いや、サラ。これが落ち着いていられるか!?」

 

 リーシャを宥めようとサラが声をかけるが、それは徒労に終わる。その奇妙な物体を目にしたリーシャの瞳は、驚きに見開かれたままであったのだ。

 カミュ達一行の進行方向を塞ぐように現れたそれは、奇妙な音を立てながらこちらの様子を伺っていた。

 

「な、なぜ、こんな山道に…………か、かにがいるんだ!?」

 

 リーシャが驚いた物。それは、本来は海にいる筈の<かに>であった。

 リーシャの生まれ育ったアリアハンは島国である。故に、周辺を海で囲まれ、そこでは様々な海産物が水揚げされる。その中に当然<かに>も含まれていた。

 リーシャの家の使用人である老婆が市場で購入してくる<かに>を、リーシャも何度も見てはいる。

 しかし、ここは周囲を木々が覆う山道なのだ。

 水辺もない山に<かに>が存在する事が、リーシャの知識では理解出来ない。

 

「…………」

 

「……山にも<かに>はいるだろう……」

 

「それでも、それは川などがあった場合だろ!? ここに水辺などないぞ!?」

 

 メルエの何とも言えない視線とカミュの心底呆れ返ったような反応に、多少戸惑いながらもリーシャは常識を口にする。しかし、その常識とは、アリアハンという小さな島国の中だけの知識が根底になっていた。

 

「…………リーシャ………ダメ…………?」

 

「なっ!! 私はまともだぞ! まともでないのは、こんな山奥に出てくる<かに>の方だろ!?」

 

 満を持してメルエの口から出た言葉に、リーシャは慌てて弁明をするが、メルエはカミュのマントへと隠れてしまう。抗議する対象を失ったリーシャの口は、何度も開閉をしながらも、結局閉じる事しか選択肢は残っていなかった。

 

「魔物なのですから、どのような場所に出て来ても不思議ではない筈です!! そ、そんな事よりも、戦闘準備をして下さい!! 」

 

 一行の目の前に現れた<かに>は三匹ではあるが、それは普通の<かに>ではない。

 その体躯はカミュどころか、リーシャよりも大きな物で、明らかに魔物であった。

 

<軍隊がに>

このカザーブ近辺の山々を住処とする超大型の<かに>である。元々は普通の<かに>であったのかもしれないが、何かの突然変異からなのか、その体躯が大きくなり、水辺の動物を食している内に魔物と化したと云われている。住処を水辺から陸地へと移し、山岳に住処を置く。その大きなハサミは、人間の身体など何の抵抗もなく切り裂き、腹部にある牙の生えた口で食していく魔物である。 

 

 しかし、料理を得意とするリーシャにとって、海辺にいる筈の<かに>が山岳地帯の川の傍でもない場所にいるのが、未だに信じられなかった。

 

「ちっ! メルエ……悪いが、マントを放してくれ。」

 

 メルエの手がマントから離れた事を確認したカミュは、背中の鞘から祖父の剣を抜き、<軍隊がに>目掛け駆けて行く。カミュの行動に目を覚ましたリーシャも、慌てて腰から剣を抜いて後を追った。カミュが行動を開始した事を見て、<軍隊がに>達も隊列を整え出す。

 元来、単独で行動する事の少ない魔物の為、戦闘においても単独で敵に当たる事はしない。向かって来たカミュを囲み込むように、横へと身体を移動させて行った。

 

「カミュ!!」

 

 敵に囲まれそうになるカミュに遅れて到着したリーシャは、一体の<軍隊がに>の体躯に体当たりをかける。リーシャの突進を受けた<軍隊がに>はカミュとの距離を離されるが、ひっくり返される程ではなく、態勢を立て直した。

 囲い込まれる心配のなくなったカミュが、二匹の<軍隊がに>の内の一体に狙いを定め、剣を振るう。

 しかし、カミュの剣が<軍隊がに>の身体に振り下ろされると同時に、金属の乾いた音が周辺に響き渡り、その音の元凶であるカミュの剣の刀身は、<軍隊がに>の身体ではなく、遥か後方の地面へと突き刺さっていた

 

「!!」

 

「く、くそっ!!」

 

 根元から折れてしまい、今や柄の部分しか残されていない剣を忌々しげに見たカミュは、その柄を放り投げ、<軍隊がに>から距離を置くように飛び退く。しかし、飛び退いた先に、先程リーシャに吹き飛ばされた<軍隊がに>が残っていた。

 

「カミュ様!!」

 

 サラの叫びが響く。

 カミュの身体は、<軍隊がに>の持ち上げた大きなハサミに吸い込まれるように納まった。

 万力のような強い力に、カミュは呼吸もできない程の締め付けを受けている。いや、ロマリアで新たに購入した<青銅の盾>をハサミとカミュの身体の間に挟まなければ、カミュの身体は上半身と下半身に分けられていただろう。

 

「カミュ!! くそっ! 並みの剣では、傷一つ付けられないのか!?」

 

 カミュを救いに行こうとするが、明確な手立てはなく、リーシャは二の足を踏んでいた。

 そのハサミから逃れようとするカミュであったが、手に持つ武器もなく、魔法を行使する為に指を動かす事も儘ならない。その時、今まで、余り戦闘で役に立たなかった者の声が響き渡った。

 

「リーシャさん! あの魔物の甲羅めがけて、その剣を力一杯振り下ろしてください!」

 

 リーシャの横に立つサラが、カミュを挟む<軍隊がに>を指さし怒鳴ったのだ。

 その声に反応したリーシャは、サラの瞳を見る為に軽く振り向いた。

 そこでは、微かに震える手で<鉄の槍>を握りしめるサラが立っていた。

 

「サラ! 何を言っている!? カミュの剣を見ていなかったのか? 私の剣は、おそらくカミュの剣よりも強度が劣る。あの二の舞を踏むだけだぞ!」

 

「大丈夫です! 私に手立てがあります」

 

 『状況を掴めていない』

 サラの言葉にそう感じたリーシャは、自分の剣の強度を伝えるが、返って来たのは珍しく自信に満ちているサラの答えであった。暫しサラの瞳を見詰めたリーシャは、先程自分が感じた物が間違いである事を悟る。サラは状況が掴めていない訳ではなかった。

 この状況を理解して尚、自身の出来る事を行おうとしている者の目をしていたのだ。

 

「何か手があるんだな?……わかった! 任せたぞ、サラ!!」

 

 自分の問いかけに、尚も自信に満ちた頷きを返すサラを見て覚悟を決めたリーシャは、剣を握り締め、カミュを拘束する<軍隊がに>へと向かって行く。リーシャが<軍隊がに>の攻撃を避け、右手に持つその剣を振り下ろすタイミングに合わせて、サラは詠唱を開始した。

 

「ルカニ!!」

 

 サラの詠唱と共に、<軍隊がに>の身体は光に包まれた。

 <軍隊がに>を包み込んでいた光が収束したその瞬間に、リーシャの渾身の一撃が<軍隊がに>の甲羅へと襲いかかる。先程のカミュの剣とほぼ同じ軌道を描きながら振り下ろされたリーシャの剣は、カミュの剣とは違う結果を生み出した。

 剣は、甲羅に弾き返され折れる事はなく、まるでやわらかな肉にナイフを入れるように<軍隊がに>の体躯に吸い込まれていったのだ。

 

「ギニャ―――――――!!」

 

 凄まじい雄たけびを上げながら、その身体を半分に切り裂かれた<軍隊がに>は、地へと伏して行く。命の灯を失った<軍隊がに>のハサミを自力で抉じ開け、カミュも身体の自由を取り戻した。

 

<ルカニ>

術者から発せられた魔力に包まれ、その身体を覆う物の耐久力を弱らせる魔法。例えば、鎧を纏った人間に対してはその鎧が脆くなり、通常の剣等は通さない堅固な鎧であろうと、真っ二つにする事が可能となる。魔物であれば、その体躯を覆う硬い殻や硬い体毛の強度を脆くし、剣や槍での攻撃を可能にする。

 

「サラ!! よくやった!!」

 

「はい!」

 

 自分の剣が生み出した結果ではあったが、その原因を作ったのがサラである事を認め、リーシャは後方にいるサラに労いの言葉をかける。その言葉に心底嬉しそうに頷くサラを、今まで事の成り行きを見守っていたメルエが、どこか悔しそうに見つめていた。

 

「……まだ二匹か……」

 

 ようやく呼吸を整えたカミュは、残る二匹の<軍隊がに>の戦意が衰えていない事を感じて身構えるが、その手には対抗する武器がない。

 

「カミュ様!!」

 

 そのカミュの様子を見ていたサラは、手に持つ<鉄の槍>をカミュ目掛けて放り投げる。今のサラの力量であれば、<鉄の槍>を所持していたとしても、あの硬い魔物に対抗するだけの攻撃を繰り出す事は不可能であろう。ならば、カミュが持っていた方が良いのだ。

 <軍隊がに>の攻撃を警戒しながらも、サラから投げられた<鉄の槍>を掴み取ったカミュは、使いなれた剣ではなく、槍に適した構えを取る。カミュの構えを見て、『伊達にアリアハンの勇者と呼ばれている訳ではないのだ』とリーシャは感心した。

 

「右の魔物に先程の魔法をかけます!!」

 

 サラの提案に大きく頷いたリーシャとカミュは、二人で一体の魔物に攻撃を加える為に飛びかかる。サラの詠唱と共に光に包まれた魔物にカミュの槍が突き刺さった。

 だが、それは浅く、槍を突き入れたカミュを振り払うかのように<軍隊がに>のハサミがカミュを襲う。そのハサミを今度はリーシャの剣が斬り飛ばした。

 槍を抜き、もう一度差し込もうとするカミュに向かって、忘れ去られていたもう一体の<軍隊がに>のハサミが襲いかかったその時、後方から、サラの声ではない詠唱が響き渡った。

 

「…………ヒャド…………」

 

「えっ?」

 

 呟くような詠唱。

 そして、その隣にいたサラの間の抜けた声。

 詠唱の言葉と共に、その術者の指先を取り巻く空気が冷気を纏い、カミュに向かおうとする魔物目掛け襲いかかる。大気を凍らせる程の冷気が魔物に直撃し、その体躯を包み込んで行った。

 徐々に凍りついて行くその身体は、最後には氷の彫像を作るように<軍隊がに>の動きを停止させる。後顧の憂いを失くしたカミュとリーシャは、残る一匹に止めを刺し、それぞれの武器を鞘と鉾に納めた。

 

「メルエ!! よくやった!!」

 

 剣を腰に納めたリーシャが、メルエの傍に駆け寄り、その頭を乱暴に撫で回す。髪の毛が乱れていくのを気に留める様子もなく、メルエは嬉しそうに目を細めていたが、サラは、メルエが発した詠唱の衝撃から未だ立ち直る事が出来ず、その光景を呆然と見るのであった。

 

「……助かった……すまない……」

 

 そんなサラを現実に戻したのは、らしくないカミュの一言であった。

 あのカミュが、戻って来て早々、サラに向かって頭を下げているのだ。

 サラは、尚更ショックを受け、それこそ今尚そこで凍りついている<軍隊がに>のように彫像となってしまった。

 

「…………メルエ…………」

 

 固まってしまったサラを呆れるように見ているカミュのマントを引く力に視線を下げると、若干頬を膨らまし気味のメルエが、カミュに何かを期待したような目を向けていた。

 自分の名前を口にし、見上げるメルエにカミュは苦笑を浮かべる。

 

「……ああ……メルエもありがとう 助かった」

 

 表情はいつも通り、無表情を貫いてはいるが、言葉に優しさを含ませながらメルエの頭を撫でるカミュと、嬉しそうに目を細めながらその手を受け入れるメルエを、リーシャは微笑みながら眺めている。

 サラの彫像が行動を再開したのは、他の三人が出発の準備を完了した頃だった。

 

 

 

「カミュ!! あの柄を捨てるつもりか!?」

 

 準備が完了し、歩き出す一行の最後尾を歩くリーシャは、ふと目に留まった折れた剣の柄を指差し、カミュへと声をかける。それは、先程の戦闘で、カミュが槍を手にする代わりに放り投げた剣の柄だった。

 

「……刀身の無い剣を持って行って、どうするつもりだ?」

 

「お前!?……あれは国王様から賜った物だろう!! それに祖父殿から頂いたものではなかったのか!?」

 

 振り向くカミュが表情も変えずに呟く言葉に、再び朝の怒りが湧き上がり、リーシャは激昂する。再燃したリーシャの怒りに、メルエはカミュのマントに隠れてしまった。

 

「祖父から貰った物ではあるが、その祖父は健在故に形見でもない。それに俺にはアリアハン国王から賜った物という事に価値を感じてはいない。そんな柄だけになった剣を後生大事に持っていても、自分の身を護る術にすらならないだろう」

 

「……ぐぐぐ……」

 

 カミュが言う通り、カミュの祖父オルテナは未だアリアハンにて健在である。祖父から譲り受けたとはいえ、カミュにとっては自分の身を護る為の武器の一つでしかないのだ。

 その考えは、リーシャの中で飲み込む事が出来ず、また争いの種となる。サラにとっては、アリアハン国王からの賜り物等は想像もつかないが、リーシャの様子から、それがとても名誉な事であるということは理解出来た。

 しかし、サラにとっても遥か雲の上の話過ぎて、リーシャとカミュの確執に頭が追い付いて行かない。困惑を極めるサラにとって、頼みの綱は彼女だけしか残されていなかった。

 

「…………リーシャ………おこる…………?」

 

「メ、メルエ……いや、怒ってはいない……大丈夫だ……」

 

 サラが望んだ人物が口を開いた事によって、何とか感情を抑え込んだリーシャは、引き攣った笑いを浮かべながら歩き出した。

 サラは、そんなリーシャの様子に胸を撫で下ろしながらも、このような形での抑えはいつまでも続かないと感じていた。

 カミュの考え、理想、価値観は、リーシャだけでなくサラとも遠くかけ離れている。それは、必ず衝突する程の物であり、この先交わる可能性など、どちらかが相手の考えに染まらない限りあり得ない物であるのだ。

 何れ何処かで、カミュとリーシャ、もしくはカミュとサラが大きな溝を作る程の衝突をする可能性をサラはこの時感じていた。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

もう一話ぐらいは今日中に更新したいなと思っています。
ご意見、ご感想等を心よりお待ちしています。


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~幕間~【カザーブ村近辺山岳地】

 

 

 

 カミュの予想通り、山の山頂近くまで上った後、下山し始めた頃に陽は落ちてしまった。

 一同は、野営を行う準備をする為、野営の適地を探し、火を熾して行く。いつも通り、火を熾している間、サラは薪となる小枝などを拾い集めていた。

 

「サラ! 私達は、食物を探しに行ってくる。火の回りには<聖水>を撒いてあるから心配ないとは思うが、気をつけてくれ」

 

「えっ? あ、は、はい」

 

 火の傍で呆けたように火を見つめているメルエの頭を撫で、リーシャはサラへと声をかけた。

 既にカミュはこの場所を離れている。山中である事から、獣や果物を取ってくるつもりなのだろう。

 サラの返事に一つ頷いたリーシャは、そのまま山中に入って行った。

 

 

 

 火に定期的に薪をくべながら、サラとメルエは大した会話もなく火を見つめていた。

 基本的に無口なメルエではあるが、特にサラに対しては全く口を開かない。最初のようにサラの法衣に怯えた様子を見せる事はないが、極力サラを避けているようにも感じる。

 

「……メルエは魔法が使えるのですね……」

 

「…………」

 

 沈黙の空気に耐えられなくなったサラが、今日、自分の目で見た出来事をメルエに対して確認を取る為に声をかけた。

 そのサラの問いかけにも、メルエはわずかに視線を向けた後、かすかに頷くだけである。その後は、また元の静けさが戻ってしまった。

 『何故、魔法が使えるのか?』

 『何時から使えるのか?』

 『誰に教わったのか?』

 『カミュやリーシャは知っていたのか?』

 聞きたい事は山程あったが、メルエの態度がそれを拒絶しているようにサラには感じていたのだ。

 

 

 

 どれくらい時間が経っただろう。未だ、カミュとリーシャは戻らない。

 辺りは完全に夜の帳が降り、メルエとサラの間にある焚き火が唯一の灯りとなっていた。

 黙っている事に何の違和感もなかった為、サラは今まで気がつかなかったが、そこになって、メルエの視線が火の下ではなく、あらぬ方向に向かっている事に気が付いた。

 メルエは座っている位置に変化はないが、首を動かし、闇に染まる山中を見ているのだ。少なからず、その口元は動いているようにも見える。

 

「……メ、メルエ……?……何を見ているのですか……?」

 

 メルエの奇怪な行動に、自分の中で嫌な予感が働いている事を故意的に無視し、サラは恐る恐るメルエへ声をかける事にした。

 虚空を見ていたメルエは、そちらの方向に向かって少し口を開いてからサラの方へと向き直った。

 

「…………女の…子…………」

 

「えっ?……ど、どういう事ですか?」

 

 メルエがサラに向かって語った内容は、サラが理解出来る物ではなかった。

 メルエの言葉は極端に短い。それが幼い頃のトラウマからなのか、言葉自体の知識がないからなのかはサラには分からない。だが、今まさに、メルエの言動では意味が掴めない事は事実なのだ。

 

「…………女の子………いた…………」

 

「えっ?……今、そこにいたのですか?」

 

 続いたメルエの言葉にサラが聞き返すと、メルエは一つ頷いた。メルエは、先程まで見ていた場所に女の子がいたと言っているのだ。

 少なくとも、サラには見えなかった。という事は、メルエがサラと会話をしたくない故に嘘をついているのか、それとも本当にサラには見えない誰かと話をしていたかのどちらかという事になる。

 メルエが、そこまで姑息な手段を使ってまで、サラとの会話を拒むとは考え辛い。ならば、やはり本当にあの場所に少女が立っていた事になる。

 とすると、それはこの世の存在ではない者となるのだ。まさしく本職のサラが相手にするべき存在である。

 

「メ、メルエ! ど、何処にいるのですか!?」

 

「…………もう………いない…………」

 

 突然立ち上がり、サラが発した声は、若干裏返ったものであった。

 そして、それに対するメルエの返答は、相反するような冷めた物である。視線を火に戻したメルエは、暫し黙り込んだ後、再び口を開いた。

 

「…………女の子も………サラ………きらい…………?」

 

「えっ?……メ、メルエ……『も』ということは……メルエは私の事が嫌いなのですか?」

 

 メルエの発言の一部分に引っかかりを感じたサラは、恐る恐るといった感じにメルエへ真意を問い質す。しかし、無情にもメルエの首は縦に振られる事となった。

 これ程面と向かって、自分の事を『嫌いだ』とはっきり言われた事は、孤児であるサラにしても今まで一度もなかった。孤児であるが故、周りの子供達から揶揄される事も多かったが、メルエの目は真剣そのものだ。

 それがサラの心を大きく抉っていく。

 

「ど、どうしてですか……?」

 

 やっと絞り出した言葉は震え、その震えはサラの心境を物語っていた。

 火から顔を上げたメルエは、対角線上に座るサラの瞳を見て、本当に小さな呟きを残す。

 

「…………メルエ………どこか………連れていく…………」

 

「そ、そのような事はしません!! 私は偽者の『僧侶』ではありません!!」

 

 メルエが口にした内容は、メルエを買い叩いた奴隷商人の扮した僧侶と同じように、サラがメルエを何処かへ売り飛ばそうとしているという物だった。

 サラは思わず声を張り上げる。

 『精霊ルビス』に仕える自分が、そのようなことをする訳がない。何故、同じくルビスの子である『人』を売り飛ばすような真似をしなければいけないのだ。サラはそう考えていた。

 しかし、ルビス信仰をカミュのように曲解すれば、前世でルビスへの裏切りを犯したこの世の弱者は、その担い手に何をされても文句は言えないという事になるのだが、サラにその解釈は出来ない。

 勿論、幼いメルエにその解釈が出来よう筈がなかった。

 

「ほ、本当ですよ。私は、メルエをどこかに連れて行く事などしませんよ。それに、そのような事をしたら、それこそリーシャさんに殺されてしまいますよ」

 

 必死にメルエに対し弁明を繰り返すサラを、メルエはじっと見つめていたが、納得がいったのか、一つこくりと頷いた。

 メルエの頷きに胸を撫で下ろし、メルエの方ももう一度見ると、すでにメルエの視線は再び虚空を見つめている。

 

「……メ、メルエ……また来ているのですか……?」

 

 聞きたくはない。

 聞きたくはないが、聞かねばならない。

 そんな決死の思いでサラはメルエに問いかけた。

 恐れるサラに、メルエは振り向きざまに頷くのだった。

 

 

 

 

 

「カミュ、戻る前に言っておきたい事がある」

 

 山中での戦利品をそれぞれ抱えたリーシャとカミュは、申し合わせた訳ではなかったが、途中で鉢合わせとなった。

 カミュの手には木の実や果物。リーシャは右手で猪を引き摺っていた。

 

「……話の前に……アンタはこんな山奥で、そんな大きな猪をどうやって調理するつもりだ?」

 

「ん?……鍋を作る訳にもいかないからな……まあ、最終的には丸焼きにでもすれば良いだろう」

 

 驚くべき事を平然と言い張るリーシャ。それは、カミュにとっても驚きを隠せないものだった。

 女性であるリーシャが猪の丸焼きを頬張る姿を想像出来るだけに、カミュは片手を顔に当て、溜息を吐き出す。

 

「……正直、アンタが本当に女なのかも疑問に思う時がある」

 

「……カミュ……言葉に気をつけろ……今の私は、先程からのお前への怒りを何とか抑えているのだ……お前の不用意な発言で、何時斬りかかってもおかしくない程にな……」

 

 カミュの失礼千万な言葉に、リーシャは地面を見つめながら小刻みに震え出し、猪から離した手を腰の剣にかけていた。

 リーシャの纏う怒気は、周辺の木々を揺らし、休んでいた鳥達を羽ばたかせた。

 

「おい。まさか丸腰の人間相手に剣を抜く気か?」

 

「……お前なら、何とかなるだろう……」

 

 カミュの言葉通り、昼間の戦闘でカミュは剣を失っている。その為、獣等の食料の調達をリーシャに任せたのだ。

 しかし、顔を伏せたまま、地鳴りのように響くリーシャの答えに、流石のカミュも表情こそ崩さないが、その額から一筋の汗が滴り落ちていた。

 

「……ここは抑えておいてやる……」

 

 緊迫した時間が過ぎ、お互いがお互いを牽制し動けない状態が続いた時、止めていた息をリーシャが大きく吐き出す事によって、この場の空気が一気に緩む。

 リーシャの手が腰から離れた事を確認したカミュも、大きく息を吐き出した。

 

「カミュ、お前はどんな生活をして来たのだ?……どうやったら、今のお前のような考え方が生まれる?……私には理解が出来ない。お前の言うように、このままお互いの主張をぶつけ合ったとしても平行線のままだろう。だからこそ、お前の考えや価値観の根底を私は知りたい」

 

「……」

 

 カミュは、その内面を探るように、リーシャの瞳の奥を見つめていた。

 相手の心を知りたい等、通常の人間であれば、容易く口にしない事だからである。それ程に、リーシャは奇妙な事を口にしたのだ。

 

「ここまで来るまでの道程で、私は今まで見た事のなかった『人』の暗い部分を見た。いや、知っていて、敢えて見ようとはしなかったのかもしれない」

 

 リーシャは、顔を上げないまま、一人独白のように呟きを始めた。その内容は、カミュの知っている頑固一徹な戦士のものではなかった。

 そこにいるのは、宮廷騎士でも戦士でもない、紛れもない『人』そのものである。

 リーシャは、カミュに言われる程頭の固い人間ではない。それは、今までの行動に少しではあるが、表れている事もあった。

 自分に理解出来ない事や納得の出来ない事を無闇に拒絶するのではなく、その考えはどうして生まれたのかを知る必要性を知っているのだ。

 

「私は、お前がロマリアの闘技場で発した言葉が忘れられない。魔物を擁護する訳ではないが、私もあの闘技場に渦巻く淀んだ空気に、吐き気を抑えるので必死だった」

 

「……」

 

 独白を続けるリーシャに対し、カミュは黙して何も語らない。ただ、リーシャのその下げた頭を見つめるだけであった。

 その表情は、冷たい訳でもなく、かと言ってメルエに向けるような優しい物でもなく、ただ単に何も考えていないような無表情。

 

「……カミュ……お前は、我が祖国で何を見て来たのだ?」

 

「……アンタに話すような内容ではない……」

 

 リーシャの絞り出すような声は、直後に発せられたカミュのたった一言で霧散する事となる。

 それは、冷酷なまでの拒絶。

 メルエの加入により、少なからず開きかけているように見えたカミュの本心へと続く扉が、再び閉まってしまった音だった。

 

「!!」

 

 リーシャは勢いよく顔を上げた。

 その表情は怒り、哀しみ、悔しさ等、色々な感情が合わさり、かなり歪んだ物へ変化している。それ程リーシャにとって、カミュへのこの問いかけは覚悟を決めた物だったのだ。

 それを無碍に切り捨てられた。それがリーシャには許せない。

 そんなリーシャに向かいカミュが口を開いたのは、リーシャが『このまま剣を抜き、カミュを切り捨ててしまおうか』と、腰に手を伸ばした時だった。

 

「……アンタはそのままで良いさ。俺の内情など知る必要はない。『何事にも真っ直ぐに』向かって行けば良い。俺に歩み寄る必要も何処にもない」

 

「……カミュ……」

 

 カミュは先程リーシャと相対するために地面に置いた果物を拾い上げ、踵を返し歩き始めた。

 リーシャは暫くの間、呆然とカミュを見ていた。しかし、不意に立ち止まり、もう一度振り向いたカミュの言葉に、再び剣を構える事となる。

 

「ああ……アンタは、大分良く言えば『真っ直ぐ』な人間だが、一般的には『猪突猛進』という言葉が良く似合う人間だったな……ならば、それは共食いという事になるのか……」

 

「~~~~~~!!……カミュ……覚悟は良いんだな……今度という今度は、如何にお前が丸腰であろうと、切り捨てるからな……」

 

 地面に横たわる猪の亡骸を指さすカミュを斬り捨てる為、リーシャは腰の剣に手をかけ、大きく歩幅をとった。

 目は憤怒の炎に燃え、一刀両断の構えである。

 

「その猪は、アンタが捕って来た筈だ。調理はアンタに任せる」

 

 そんなリーシャに構う事なく、カミュは先へと進んで行く。リーシャは、怒りの向ける矛先を失い、立ち尽くしてしまった。

 

「……何をしている?……メルエが腹を空かせて待っているぞ」

 

「くっ! わかっている! 今行く!!」

 

 先に進むカミュの口から出た名前に反応したリーシャは、地面に横たわる猪の足を掴み上げ、カミュの後を追って歩き出す。しかし、その進行方向は、リーシャが考えていた方向とは異なっていた。

 リーシャの信じる帰り道の方角自体が正解であるのかどうかも怪しいのだが、次に発したカミュの言葉が、リーシャの考えている事を肯定する。

 

「少し寄り道をして行く」

 

「何処にだ?」

 

 リーシャは、先程までの怒りの名残を残しながら問いかけるが、振り向いたカミュの口端は上がっており、これから発する言葉が、決してリーシャの心を穏やかにする物ではない事を窺わせた。

 

「向こうに水場があった。まぁ、<かに>はいなかったがな……」

 

「!!」

 

 先程の自分の混迷ぶりを突かれ、リーシャは再び血が上り始める。本当に斬り捨ててしまった方が、自分の精神衛生上、良いのではないのかと悩むリーシャであった。

 

 

 

 

 

「メルエ! こっちに来て下さい!」

 

 メルエが未だに虚空を見ている事に、サラは身を震わせながらも、自分の下へメルエを呼ぶ。しかし、当のメルエは、サラの声が聞こえていないかのように、全くサラに関心を示さない。

 それがサラの恐怖心を尚一層掻き立てた。

 

「メ、メルエ……その子は一人なのですか……?」

 

 動こうとしないメルエに掛けるサラの声は、先程とは打って変わって心細い物になっていた。

 ようやくサラの方へ顔を向けたメルエは、ゆっくりと頭を横に振る。

 

「…………お母さん………いっしょ…………」

 

「ふ、ふたりなのですか!?」

 

 焚き火の灯りに映し出されたメルエの顔が、夜の闇に覆われた山中に浮かび上がり、サラの恐怖心を煽って行く。

 周囲の闇に溶け込み、メルエが視線を向ける先には何も見えない。サラの心の中には、『メルエが嘘を言っている』という考えはなかった。 

 

「…………いま………ひとり…………」

 

「メ、メルエ! 早くこっちに来て下さい! そ、その子は……も、もう『人』ではないのです!」

 

 サラの必死な叫びに、メルエは小首を傾げる仕草をする。サラが何に怯え、何に目くじらを立てているのか、メルエには全く解らないのだ。

 自分はただ、少し離れた場所でこちらを見ている少女に気が付き、そちらに顔を向けていただけ。その少女は、自分の存在に気が付いたメルエに優しく微笑みかけ、メルエが聞けば、それに対して答えてくれている。

 不思議そうに自分を見つめるメルエに痺れを切らしたサラは、震える指先に力を込め、メルエの傍に駆け寄った。

 そのまま、メルエの肩にかかっていたカミュのマントごとメルエを胸に抱き包む。

 

「………???………」

 

 サラの胸の中でモゴモゴと動くメルエに構わず、メルエの見ていた方向に視線を向け、サラは口を開いた。

 その声は鬼気迫る程の物であり、闇が支配する森の中に響き渡る。

 

「メルエは生きています。貴方方とは、もはや違う存在なのです。メルエを連れて行かないでください!」

 

 教会では、死者の魂が現世に彷徨い続ける事を良しとはしない。彷徨い続ければ、その内にある未練や後悔、憎しみや悲しみが増幅し、魔物へと変化してしまうと云われているからだ。

 また、死者の魂は生者の魂をも引き込むと恐れられ、その魂を救う事も、本来は『僧侶』の仕事の一つと言われている。

 しかし、実は、サラはその仕事が得意ではない。実際、死者の弔いの為に、何度か育ての親である神父に付いて行った事はあるが、除霊自体を行った事はないのだ。

 

「…………ぷふぁ…………」

 

 マントに包み込まれたままサラに抱かれていたメルエが、何とかマントからの脱出に成功し、胸一杯に新鮮な空気を吸い込む音が辺りに響いた。

 予想以上に、サラの身体は強張っていたのだろう。力を込めて抱き締め過ぎた対象は、眉を顰めている。

 

「…………サラ………くる……しい…………」

 

「えっ!? あ、ご、ごめんなさい。メルエ、大丈夫でしたか?」

 

 未だに虚空を睨んでいたサラの下からメルエの不満の声が聞こえ、サラはその腕に込めた力を緩める。少し息が楽になったメルエは、軽くサラを睨むように視線を動かした。

 『むぅ』と頬を膨らませて睨むメルエの視線は子供らしい物で、周囲の空気が緩み始める。

 

「…………もう………いない…………サラ………きらい…………」

 

「え、えぇぇぇぇ!!」

 

 顔を出したメルエの頬は軽く膨れ、サラから視線を外した後に呟いた一言は、サラに大きなダメージを与える物だった。

 サラは、自分の恐怖の対象が去った事よりも、メルエの一言に盛大な声を上げる事となる。だが、メルエの改めての拒絶は、先程の物とは違い、どこか拗ねたような軽い物であり、理由が分からないまでもサラが自分の身を挺して護ろうとしてくれた事は理解出来ていたのであろう。

 

「何を騒いでいるんだ!?」

 

 わたわたとするサラの後方からかかった声に、サラの胸の中にいたメルエの顔が上がり、もぞもぞと自分を拘束するサラの腕を外して、その声の下へと駆けて行った。

 

「あっ……」

 

 駆けて行くメルエの方向をどこか名残惜しそうに見ていたサラだが、その方向にいた声の主であるリーシャが手に持つ、大きな獣を見て両目を見開いた。

 駆け寄ったメルエは、リーシャの足に掴まる間際にその獣の存在を認識し、慌ててサラの腕の中へと戻って行く。

 

「ふふふっ……なんだ? メルエは、これが怖いのか?」

 

 メルエとサラの反応を可笑しそうに微笑みながら、リーシャは手に持つ獣を高々と掲げる。その様子に尚一層怯えを増したメルエは、サラの腕の中ですっぽりとカミュのマントに包まってしまった。

 

「……そんな馬鹿でかい猪を、どう食べるつもりなんだ……」

 

 声と共にリーシャの後ろから現れたカミュは、その手に果物を抱え、呆れたような表情を見せていた。

 カミュの声に、再びマントから顔を出したメルエは、その手にある果物を見て嬉しそうな微笑みを洩らす。

 

「だから、最終的には丸焼きにでもすると言っただろう!」

 

「……丸焼きですか……?」

 

「…………メルエ………焼き…………?」

 

 カミュに向かって怒鳴るリーシャに、先程までの鬱憤が残っている様子は見えない。純粋にカミュの言葉へ反論しているだけなのだろう。

 カミュの考えに納得した訳ではない。だが、リーシャは、『カミュには自分の考えと他者の考えに大きな隔たりがある事を認識しているにも拘わらず、それでも自分の価値観を変える事が出来ない経験があるのだ』という事を理解したのだ。

 

「ば、馬鹿者! メルエを焼くか! この猪の毛を排除した後、そのまま焼くんだ」

 

「……そんなに食べられるのですか……?」

 

「……そこにいる大食漢である『戦士』様が平らげてくれる……」

 

「…………メルエ………いらない…………」

 

 リーシャの申し出に三者三様の答えが返って来た。どれも、好意的な反応ではない。最後のメルエの言葉は、胸に突き刺さり、リーシャは顔を俯けてしまう。

 しかし、その肩は小刻みに震え始めていた。

 

「~~~~!! お前達は……」

 

「調理を始めなければ、夜が明けるぞ」

 

 三人の答えに、身を震わせながらも耐えていたリーシャは、カミュの声に諦めたような溜息を吐き、猪を解体する為に少し離れた場所へと移動して行った。

 

「メルエ、まだ食べては駄目ですよ」

 

「…………サラ………きらい…………」

 

 カミュが置いた果物に早速手を伸ばそうとしたメルエに向かって、サラの小言が飛ぶ。対するメルエは、自分の手を止めるサラを睨み、再び頬を膨らませていた。

 

「……うぅ……嫌いでも駄目です。カミュ様がメルエを甘やかすからいけないのです!」

 

「……アンタは、何から何まで他人に責任を投げるのだな……」

 

 予想外の方向転換にカミュは呆れたような溜息を吐きながら、何かを作っていた。

 果物から目を外したメルエは、そんなカミュの手元を興味深げに覗き込む。横から出て来たメルエの頭を軽く押さえ、カミュの手は再び動き出した。

 

「…………なに…………?」

 

「ん?……ああ、まさか猪を丸焼きで食べる訳にはいかないからな……」

 

 メルエの簡略化された問いかけにもカミュは手を休める事なく、言葉短めに答える。

 傍にあった石で土台のような物を作り、その上に、先程果物と一緒に持っていた少し大きめだが薄く平らな石を載せる。

 サラはテーブルを作っているのかと思ったが、四人で囲むには小さすぎるのだ。そして、上に載せられた石は、泥や埃などは付着していない。むしろ、洗ったためなのか全体が水で濡れていた。

 石で組んだテーブルの下に、サラが拾い集めた木の枝を、薪を組むように置き、リーシャが置いて行った<たいまつ>から火を移す。石の下で燃え始めた薪の炎によって、上に載せられた石が徐々に乾いて行った。

 時間が経てば、この石自体が熱せられ、触る事の出来ない程になる事は容易に想像出来る。それではテーブルとしての役割など担える訳がない。

 

「なんだ……何を拾って来たかと思えば、それを作る為の物だったのか?」

 

 メルエとサラが、カミュの作り出した石のテーブルに見入っていると、猪の解体を終えたリーシャが割と薄めに切った猪の肉を持って現れた。

 リーシャへと視線を移したメルエは、リーシャの手に血の跡が残っている事に身体を震わせ、カミュの背中に隠れてしまう。

 

「串に刺すしかないかと思っていたが、それなら焼く事が出来そうだな……となれば、何か野菜でも欲しいところではあるが……」

 

「リーシャさんは、これが何か分かるのですか?」

 

「…………」

 

 石のテーブルを見て嬉しそうに頷くリーシャに、サラとメルエは小首を傾げながらその用途を問いかける事しか出来なかった。

 作成を終えたカミュは、既に場所を離れ、焚き火の傍に腰を下している。リーシャはそんな二人の様子を見て、軽く微笑んだ後、言葉で答えを返さずに行動に移した。

 猪の血であろうか、少し赤く染まった手で猪の肉を取り上げ、そのまま石の上に置いたのだ。まだ石全体が熱しきれてはいなかったが、リーシャが置いた猪の肉は、微かに焼ける音を発して煙を立ち昇らせる。

 

「……わぁ……」

 

「…………ほぅ…………」

 

 焼ける肉の様子に、サラとメルエの二人は、それぞれの感嘆の声を上げた。

 その様子に満足そうに頷くリーシャは、石の状況を確認しながら何枚かの肉を載せて行く。焼ける肉の音と、香ばしい香りに、メルエの身体はカミュのマントから出て来ていた。

 

「カミュ! 塩をくれ」

 

 焼けてきた肉を見ていたリーシャがカミュに調味料を依頼すると、その方角から、小さな革袋に入った塩が放り投げられて来た。

 塩を振り終わった肉を木の枝で挿しひっくり返す。それを何度か繰り返し、完全に焼けた事を確認した肉を、リーシャはサラの口に放り込んだ。

 

「!! ハフッ……ハフゥ……おいしいです!」

 

 突然放り込まれた肉に、目を白黒させながら口を動かしていたサラが、飲み込むと同時に味の良さを満面の笑みで報告する。

 

「…………メルエも…………」

 

 そのサラの姿を横目に眺め、メルエもリーシャに向かって口を開ける。その姿は、ひな鳥が親鳥に餌をねだる姿に良く似ていた。リーシャはそんな事を感じながら、焼けた一切れの肉をメルエの小さな口に、火傷をしないように入れて行く。

 先程のサラと同じように、口に入った肉の熱さにモゴモゴと口を動かしながらも、何とか飲み込んだメルエもまた、その顔に笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 あれほどあった猪の肉もなくなり、果物を食しながら一行は火を囲むように座る。メルエはリーシャとカミュの間に座り、満足そうに果物を頬張っていた。

 

「猪の肉は意外と美味しいものなのですね」

 

「…………おい……しい…………」

 

 サラの言葉にメルエも同意を表わし、何かをねだるようにリーシャを見上げる。リーシャはメルエの視線が何を意味するのかは解らないが、満足そうなメルエの姿に顔を綻ばした。

 

「…………もっと………たべる…………」

 

「な、なに!?」

 

 しかし、そんなメルエの口から出た言葉は、リーシャの予想の遥か上を行く物だった。

 先程の食事では、リーシャ程ではなかったが、その小さな体では信じられない量をメルエは腹に納めていたのである。それが、まるでまだ食べ足りないとでも言うような意味の発言をするのだ。

 

「い、いや、もう猪の肉もない」

 

「…………リーシャ………とる…………」

 

 やっと絞り出したリーシャの言葉にメルエは不満そうに頬を膨らましていた。

 サラは、出会ってたった数日なのにもかかわらず、赤の他人であった自分達に我儘を言うメルエを不思議に思った。

 いや、メルエは、それが我儘だと理解していないのかもしれない。自分の欲望を口にしても、怒鳴られる事もなければ、叩かれる事もない。それが、メルエの口を軽くさせていたのだろう。

 

「メルエ!!」

 

 サラと同じようにメルエの我儘に苦笑していたリーシャの反対側から、今まで黙っていたカミュの声が響いた。

 それは、珍しい程の声量であり、声を掛けられたメルエは身体を跳ね上がらせる。

 

「…………」

 

 恐る恐るカミュの方に顔を向けるメルエが見たのは、今まで自分には向けた事のない表情をして自分をみるカミュの姿だった。

 

「メルエは、まだ腹が空いているのか?」

 

 静かに語るカミュの言葉に、返答を否応なくされたメルエは、ゆっくりと首を横に振った。そのメルエの後ろにいたリーシャもまた、カミュの瞳に吸い込まれていくような感覚に包まれる。

 唯一人、カミュが何を話すつもりなのか、それを聞き逃すまいと、サラは次の言葉を待っていた。

 

「……ならば、メルエは魔物以下の存在だな……」

 

「!!」

 

 カミュが次に発した言葉に、三者三様の驚きがあったが、三人が同時に感じた感情は絶望であったのかもしれない。

 この世界で、魔物以下となれば、それこそ生きる価値のない者であり、ルビス信仰の中では、存在自体が許されざる者となる。何度輪廻転生を繰り返しても、決して許される事のない者であるという事なのだ。

 

「…………???…………」

 

「メルエ、魔物が人間を食す事は知っているな?」

 

 メルエは、カミュに怒られる事を覚悟して、怯えた目を向けながらもこくりと頷いた。それを見たカミュは、話の先を続けて行く。

 メルエの眉は下がり、怯えるような表情を見せながらも、自身の着ている薄汚れた<布の服>の裾を強く握っていた。

 

「魔物は人間を食べる。だが、それは自分の食欲を満たす為だけだ。腹が減った時に人間を襲い、それを食す。基本は必要以上の人間を襲わない。必要以上に人間を襲うのは、知能のある魔物だけだ」

 

「…………ち……のう…………?」

 

 メルエが予想していたような怒鳴り声ではなく、ましてや手を出す事のないカミュの話をメルエは聞き入る。

 メルエの中では、相手を怒らせた時は、抵抗する事は無駄だと認識されているのかもしれない。それ程に、メルエの表情に変化が見えていた。

 

「ああ……知能や理性があり、人間を襲う事に愉悦を感じるような魔物だ。自分より弱い者を自己の楽しみの為だけに虐殺するような者。まあ、俺もそんな魔物はまだ見た事はないがな」

 

「……」

 

 知能のある魔物。それを想像する事は今のリーシャ達には難しい事だった。

 アリアハンを住処にする魔物達のほとんどは、本能のまま『人』を襲っていた。それは、カミュの言う通り、食料として『人』を襲っている事に他ならない。

 アリアハン大陸の中で上位に位置する<魔法使い>と呼ばれる魔族にしても、高い知能は持っておらず、本能のまま『人』を襲っているのだ。

 

「メルエ、それは人間にも言える事だ。メルエが腹を空かせているのだとすれば、食料の為に獣を捕って来よう。しかし、それは違う筈だ」

 

 カミュの真剣な眼差しに、メルエは黙って首を縦に振る。

 空腹を訴えている訳ではない。

 初めて味わった肉の味と、初めて自分の欲求に応えてくれる人。その二つに、メルエの心は浮かれていたのだ。

 

「それでもメルエが獣を捕って来いと言うのならば、それは、ただ単に獣の命を弄んでいるだけだ。人間の中にも、自分よりも弱い相手をいたぶり殺す者もいる。メルエはその部類の人間なのか?」

 

「…………ちが………メルエ………ちがう…………」

 

 もはや、メルエの瞳には涙が溜まり始めていた。

 自分が言った事がどれ程の事なのか、それを完璧に理解した訳ではない。ただ、自分が考えもせずに発した言葉が、いけない事だったのではないかという思いを持った事だけは確かであった。

 

「メルエ……メルエも俺も、自分が生きる為には、何かを食べなければならない。しかし、それは何処かで必死に生きようとしている者の命を奪っているという事だ。何時か、逆に自分が誰かの食料として命を奪われる時が来るかもしれない。それは憶えておいてくれ」

 

 一つまた一つと、メルエの目から涙が頬を伝って行く。それでもメルエは唇を噛みしめ、気丈にもカミュの目を見て頷くのであった。

 カミュもメルエの瞳を見て、自分の中にある想いを伝えようとしている。それは、本当に珍しい光景であった。

 

「……メルエ……おいで」

 

 涙を流し、肩を震わせながらも、カミュに向かって頷くメルエの後ろ姿を、痛々しく見ていたリーシャが、カミュの口がもう開かない事を確認し、メルエを自分の下へと導く。

 緊張で硬くなった身体を振り向かせ、リーシャの胸の内に顔を埋めたメルエは、ようやくその緊張を解き、すすり泣くように嗚咽を漏らした。リーシャは、自分の胸に顔を埋めるメルエの短く刈り揃えた茶色い髪の毛を優しく撫でる。

 サラはそんな一連の出来事を見ていて、昔、アリアハン城下町で見た事のある親子の図式を思い浮かべた。

 悪戯をし、父親に怒られ泣いている子供を母親が優しく慰める。そんな図式だ。

 カミュが話していた事は辛辣な内容なのにも拘わらず、この場の空気はとても優しい物であった。唯一人、魔物は悪と信じきっている女性を除いて。

 

「カミュ様! では、何故貴方は魔物を殺しながら『魔王』の討伐に向かっているのですか? カミュ様のお考えでは、魔物に食料として襲われた人間は、諦めるしかないという事になります」

 

 場を満たしていた優しい空気を切り裂くようなサラの声が響く。だが、カミュもリーシャも驚く様子はない。

 まるで、サラの発言を予想していたかのように、動じる事はなかったのだ。

 

「カミュ様の言い分では、『魔王』を倒す意味がありません。今のまま、魔物の横行を許し、人々が襲われても構わないと言っているのと同じです! ならば、何故カミュ様はアリアハンを出たのですか!?」

 

 サラの声は、アリアハンを出て初めての夜にカミュと口論した時のように激しい物へと変わっていた。

 ここまでの道程、リーシャが我慢して来たのと同じように、サラもまたカミュの価値観を認められず、内に溜めていた物も多かったのだ。

 『魔物も人間も、命を食し生きている事に変わりはない』

 『その対象が、人間か獣かの違い』

 カミュはそう言っているのだ。

 サラにとっても、ロマリアの闘技場で見た魔物同士の戦いは、『人』による魔物の命の弄びに見えなくもなかった。だが、魔物達は人間を襲っているのだ。

 サラの中で『自業自得』という言葉を使い、その気持ちを抑えるようにして来た。

 また、サラはこの旅が始まってから、教会の中だけでは決して見えない物を見る事が多かった。

 それは、決して良い物ばかりでなく、サラの価値観に大きく影響を及ぼす程の物。だが、人の考えなど簡単には変える事は出来ない。今まで、その考えの下に形成して来た自分自身をも否定する事になるからだ。

 故にサラは葛藤している。それが、カミュへの問いかけにもなっているのだろう。

 サラが立ち上がり、その拳を握り締めながら叫ぶ姿を静かに見つめながら、カミュはようやくその重い口を開いた。

 

「……俺には、生きて行く為の選択肢が許されてはいなかったからな……」

 

「!!」

 

 それは、聞き逃してしまいそうなほど小さな呟きで、カミュの口から出た途端に目の前の炎の中に吸い込まれて行く。だが、その小さなカミュの呟きは、確かにこの場にいた全員の耳に聞こえていた。

 

「カ、カミ……」

 

「明日も早い……もう休め……」

 

 尚もカミュに語りかけようとするサラの言葉を遮って、カミュは火の傍に身体を横たえた。それは、この話題の終了を意味している。

 リーシャの腕の中のメルエも、泣き疲れてしまったのか、いつの間にか寝息を立てていた。

 リーシャとサラのそれぞれが、別々の複雑な想いを抱いたまま、夜は更けて行く。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

本日はここまでに致します。
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過去~カミュ~

 

 

 

 カミュは、十歳になったばかりの時に出会った<一角うさぎ>との戦闘以来、魔物との戦闘において無意味な殺生をしなくなった。

 自分達を食料とし、襲いかかって来る魔物に剣を振るう事はあっても、逃げようとする魔物や恐怖で動けない魔物などには、剣を構える事もない。自分に剣を振るわない事を理解した魔物は再び森に返って行き、自然とカミュを侮り、食料を捕縛する為に襲いかかって来る魔物か、若しくは自身の身の危険を感じて窮鼠となった魔物以外、相手をする事がなくなっていた。

 日一日と身体も成長し、剣の腕も上達はして行くが、その力を闇雲に振るう事はなかったのだ。

 

 しかし、<一角うさぎ>との戦闘から二年程経った頃に事件は起こった。

 

「どういうつもりだ!! 何故、お前はあの魔物を逃がしたんだ!!」

 

 常に一人戦場に放り込まれていた為、カミュが魔物を数匹逃がしていてもそれを見咎める者はいなかったが、今回の討伐では、カミュに二人の人間が付いて来ていたのだ。

 成長したとはいえ、まだ子供と言っても過言ではない歳のカミュには、周りに注意を払う意識が全くない。自分が行っている事が、周りの人間にとってどう映るのかを考える事はなく、ましてそれに対して激昂されるとは思ってもみなかったのだ。

 

「……」

 

「何を黙っているんだ!! ふざけるなよ!!」

 

 相手の激昂ぶりに困惑しているカミュの表情は、元々表情の変化の乏しさから、ふてぶてしく黙っていると見た男の感情に、更に火をつける。

 

 

 

 この男の激昂ぶりには訳もある。

 周囲の反対を押し切って、カミュの赴く方角に珍しく付いて来た人間は、『アリアハンの英雄と呼ばれたオルテガの息子の戦いぶりを、一目見たい』と言った若い一組の男女であった。

 しかも、その男女は恋仲という、幼いカミュには全く理解できない存在。

 女性は魔法を少し使え、男性は剣を使う傭兵崩れの人間である。

 いつものように討伐隊の隊員達に方向を示され、それに黙って頷き隊を離れて歩き出したカミュに、首を傾げながらも付いて来た二人ではあったが、この行動をすぐに後悔する事となる。

 

「な、なんだ……これは……」

 

 カミュの父オルテガは、まさしくアリアハンの英雄だった。

 それは、アリアハンに住む子供達にとって自分達の身近にいる分、『精霊ルビス』への物よりも強い信仰が生まれる程である。

 カミュについてきた男女にとっても、それは変わらない。

 彼らもまた、幼い頃に旅立つオルテガの姿を、興奮して見ていた者達の一人であった。

 

 そんな英雄の子。

 自分達の憧れであり、嫉妬すら感じる存在のカミュが、自分達がオルテガを見送った年齢と変わらない歳で魔物の討伐をしていると聞いて、何としてもその雄姿を見たいと思っていた。 しかし、そんな二人が付いて行ったカミュの行く先には、彼らが見た事もない程の数の魔物が、奪い合うように何かの肉を貪っていたのだ。

 それは、彼らの少し前に出発した討伐隊の人間の肉。

 実は、カミュ達三人が同道していた討伐隊には、斥候の人間から前を行く討伐隊の全滅の情報は入っていた。

 しかし、それをカミュには伝えず、討伐隊は魔物が仲間を襲った場所へカミュを向かわせたのだ。

 討伐隊の人間の数も相当な物なら、それを食す魔物の数もそれに輪をかけた数である。確かに、カミュの魔物討伐は見られるかもしれない。

 しかし、この数を相手にするとなれば、自分達の命すらも危うい。如何に英雄の子とはいえ、まだまだ子供のカミュが、この数の魔物を全て駆逐する事が出来るとは思えなかった。

 そうなれば、待っているのは死のみだ。

 

「……あ…あ…ああ……」

 

「く、くそっ!! ど、どうなってるんだ!! おい、どうするんだよ!!」

 

 言葉を失った女性は、恋人に身を寄せる。女性を抱き抱えた男は、この状況を飲み込む事が出来ず、その理不尽な怒りをカミュにぶつける事しかできなかった。

 

「……」

 

「お、おい!! どうするんだって聞いてるんだ!!」

 

 もはや、英雄の子に対する発言ではない。

 ましてや、子供に対して尋ねる発言でもない。

 男女は、完全にパニックに陥っていた。

 それ程、目の前に広がっている光景は、この男女にとって地獄そのものであったのだ。

 もはや命の灯が消え失せている『人』であった物に群がっている魔物達。

 皮を引き千切り、肉を貪るその口は血液で真っ赤に染まっている。

 女性魔法使いの方は、その光景に嘔吐を繰り返し、まるで、カミュ達の存在に気が付いていないように、魔物の群れは食事に夢中になっていた。

 

「……うぇ……」

 

「大丈夫か!? もうここから離れよう」

 

 嘔吐が止まらない女性の肩を抱き、男はこの場からの離脱を提案する。

 カミュ自体の戦闘力は分からないが、所詮は子供。

 自分達二人の力量を考えても、とても三人で相手が出来る数ではない。

 

「……ギッ!!」

 

 しかし、女性を抱きながら踵を返した男の目の前に、食料にあり付けなかった魔物達が涎を垂らして立ち塞がっていた。

 討伐隊の肉に群がる魔物達の数程ではないが、少なくとも、カミュ達の倍の数は優に超えている。

 

「キャ――――――――――!!」

 

 目の前の魔物の数に半狂乱の声を上げる女性。

 その声に驚いたように、今まで肉に群がっていた魔物達もまたカミュ達の方向に顔を向ける。

 最悪の状況。

 今、目の前にいる魔物達だけでも精一杯なのにも拘わらず、後ろにいる魔物達まで加わるとなると、三人の生存は絶望的と言っても良い。アリアハンの魔物は世界中の中でも弱い部類に入る物がほとんどではあるが、それは『人』も同様であり、この最弱の魔物達が住む大陸で暮らす『人』もまた、魔物との戦い方を知らないのだ。

 その時、一匹の<一角うさぎ>が、声を上げた女性に向かって飛び出した。

 もはや、混乱の極致にいる女性に、魔法を詠唱する暇などない。肩を抱く男が剣を抜く間もなく、<一角うさぎ>の角が女性の太ももに突き刺さった。

 

「キャ――――――!!」

 

 <一角うさぎ>は突き刺さった角を引き抜き、距離を取る。

 再び大きな叫びを発した女性は、男に支えられながらも立っている事が出来ず、太ももから盛大に血を流しながら崩れ落ちた。

 女性が崩れ落ちるのと同時に支えていた男もまた、地面に膝を突く形となる。その機を見て、魔物達が一斉に動き出した。

 先頭を切ったのは、大きなカエル。

 <フロッガー>であった。

 その大きな後ろ脚からの驚異的なバネで、男女の上に飛び上がって来たのだ。

 

『もうダメだ』

 

 男がそう覚悟を決めて目を閉じた時、人間の物ではない叫びと、酷く生臭い液体が自分に降りかかって来る。

 恐る恐る目を開けると、そこには、座り込んだ自分達よりも若干高い位置で、両手で握り締めた剣を天に向かって掲げるカミュと、その剣に貫かれ、喉元から体液を噴き出させている<フロッガー>の姿があった。

 

「す、すまない」

 

 先程まで怒鳴り散らしていた相手、しかも自分達より一回り以上も小さな少年に救われた事に、男は驚きを隠せない。英雄の息子とはいえ、少年であるカミュをどこか侮っていた自分に気がついたのであろう。

 <フロッガー>から剣を引き抜いたカミュは、そのまま前方にいる魔物の群れへと突っ込んで行く。

 

「「……」」

 

 女性の足の応急処置をしながら、無言で魔物を切り裂いて行く少年の後ろ姿を見ている事しか、男は出来なかった。

 前方だけでなく、後方にその倍以上の数の魔物達がいる事も忘れ、呆然と立ち尽くす。

 カミュは所々で、覚えたばかりの火炎呪文を唱えながらも、魔物の群れを駆逐して行った。

 数に頼っているところのあった魔物達に、次第に焦りが見え始める。

 半分も魔物の首を落とした頃辺りから、カミュに襲いかかって来る魔物の数が止まった。

 カミュから距離を取るように後ろへと下がり、遠巻きでカミュを見ているのだ。その様子を見ていた男は、好機とばかりに自分も剣を抜こうとするが、自分の腕の中で額に大粒の汗を滲ませる恋人が気にかかり、カミュの応援には動けなかった。

 いや、カミュが半分を駆逐するまで、恋人を口実に動こうとはしなかったのだ。

 

「何をしている!! 今が好機だ! 早くしろ!!」

 

 しかし、人間というものは、自分の危機が遠のいた事を実感すれば、声は出る。

 自分の手を全く煩わせてはいないにも拘わらず、魔物の返り血で衣服がどす黒く変わりつつあるカミュへ投げかけた男の言葉は、尚もカミュを魔物に向かわせようとする物だった。

 

「……」

 

 しかし、その声を受けたカミュは、暫くの間、魔物達と睨み合いをした後、一匹の魔物が逃げ出すのを見て、剣を鞘へと納める。男だけでなく、未だに角が刺さった部分に焼けるような痛みを主張している女性魔法使いも、そのカミュの行動に驚愕した。

 一匹また一匹と姿を消していく魔物達を呆然と見ていた男は、剣を鞘に納めてしまったカミュが戻って来るのを見て、ようやく状況を理解する。

 

「どういうつもりだ!! 何故、お前はあの魔物を逃がしたんだ!!」

 

 男は戻って来るカミュの胸倉を掴み、そのまま持ち上げ、少年であるカミュの身体は軽々と持ち上がり、その足は完全に地面を離れてしまった。

 歳が二桁になったばかりの少年の首を絞めるように持ち上げた男の瞳には、狂気の炎が揺れている。

 

「……まだ、向こうに魔物がいる……」

 

「!!」

 

 首を絞められながらも、顔色一つ変えないカミュが漏らした言葉に、首を絞めている男だけでなく、足から血を流しながら倒れている女性も今の状況を改めて認識し直した。

 カミュの言う通り、食事を終えた魔物達は仲間達を斬り捨て終わったカミュをじっと見つめていたのだ。 

 

「お、おい!! どうするんだ!!」

 

 再びその顔に恐怖と焦りの表情を張り付けた男が、胸倉を掴んだままカミュに怒鳴りつける。女性は足の痛みに苦悶の表情とその額に大粒の汗を滲ませながらも、カミュを睨みつけていた。

 彼らにしてみれば、自分達を傷つけた魔物を逃がすカミュは、もはや憎しみの対象に近い存在となりかけていたのだ。

 

「……手を離してくれませんか……」

 

「く、くそっ!!」

 

 現状、自分の頭が混乱状態にも拘わらず、カミュが異様に冷静な事を見て、男の苛立ちは益々勢いを増して行く。文字通り放り投げるように、カミュの胸元から手を離した男は女性に近寄り、魔物の群れを見ながら叫び声を上げる事しか出来なかった。

 起き上がったカミュは、そんな男の狂い様に関心を示す事もなく、女性の近くに近寄り、患部である太ももに手を当てる。

 

「な、何をするつもりだ!!」

 

「や、やめて!!」

 

 もはや、カミュという存在を魔物と同等の位置まで落としている男女は、カミュの行動が奇怪な物に映り、恐怖の対象となっていた。

 故に、近づくカミュから身を避けるように、女性は身体を捩り、男は女性の前に立つ。

 

「ホイミ」

 

 しかし、そんな男女の在り方にも関心を示す事なく、カミュは静かに詠唱を始める。

 カミュの詠唱と共に、淡い緑色の光が女性の太ももを包み込み、<一角うさぎ>の角が突き刺さった大きな穴を塞いで行った。

 実際は傷を塞いで止血をした程度であり、内部の損傷などを復元させるまでは至っていない。 

 

「……血は止まりましたが、動かないようにして下さい……」

 

 言葉少なめに話をするカミュに、自分の患部を呆然と見ていた女性は慌てて首を縦に振る。まさか、回復呪文を行使出来るとは思っていなかったのであろう。

 基本的に、『経典』に記載されている魔法は、『精霊ルビス』の祝福を受けた『僧侶』しか行使は出来ない。『魔道書』に記載される魔法との契約を行った者は、『経典』の魔法は二度と契約する事が出来ない事はこの世界では常識である。

 それにも拘らず、カミュは先程<メラ>を行使し、今、『経典』の魔法である<ホイミ>という回復呪文を行使したのだ。

 

「……」

 

 女性の足の応急処置を終えたカミュは、魔物の群れに向かって再び剣を構える。女性の傷を治したカミュを、男は憎々しげに睨みつけていた。

 その心の中にある感情は、とても醜く暗い物。

 自分の半分にも満たない歳の少年に抱くには、余りにも情けない感情であった。

 

「えっ?」

 

 しかし、その異様な緊迫感は、足の痛みから若干解放された女性の、間の抜けた声に霧散する。女性の声を聞き、カミュに向けていた視線をその奥にいる魔物に向け直した男は驚きを隠せなかった。

 魔物の群れが引き揚げて行くのだ。

 絶対的有利な立場にいたのは、間違いなく魔物の方である。如何にカミュが奮闘していたとしても、数の暴力には敵う訳がない。

 それでも、こちらに襲いかかる事なく一匹また一匹とその場を後にして行く。カミュは暫くその様子を見ていたが、魔物の半数以上が森に消えて行ったのを見届けてから剣を鞘に納めた。

 その様子を、再び男女が憎々しげに見つめる。おそらく、逃げて行く魔物達を追撃しろとでも言いたいのだろう。

 魔物達が消えて行った後には、魔物に食い散らかされた元『人』であった骨が散乱するだけであった。 

 

「何故魔物を追わないんだ!? お前はオルテガ様の……英雄の息子じゃないのか!!」

 

 余裕を取り戻した男は、再びカミュを問い詰める。

 その表情は怒りに燃えており、自分の発言自体が感情的な物である事にすら気が付いていない様子であった。

 地面に座り込んでいる女性も同様の意見なのであろう。幼い頃より、『魔物=悪』という構図を作られてきた男女にとって、魔物を倒す力があるにも拘わらず、それをしないカミュに怒りしか湧いてこなかったのだ。

 自分達では、魔物に立ち向かう事すら出来なかったのにも拘わらず喚き散らす男女を、カミュはどのような感情を持って見ていたのだろう。

 

「……」

 

「くそっ!! また黙秘か!?」

 

 黙して何も語らないカミュに侮蔑の眼差しを向け、男は女性を背負い他の討伐隊に合流するように歩き出した。

 反対にカミュは魔物に食い散らかされた骨が散乱する場所へと向かって行く。

 カミュはこういう場所に一人で向かわされ、魔物の討伐を行う事が多いが、大抵は既に人間が襲われ食された後である。

 つまり、もはや生きた人間などいない所に放り込まれているのだ。

 故に、遺族の下に遺品を持ち帰るために、拾い集めるのもカミュの仕事の一つだった。

 

「……」

 

 骨が散乱し、血の海が広がるその場所に、若干十一・二歳の少年が立つ光景は異様な物であった。

 靴に血をべっとりと付けながらも周辺を探し、血に染まった指輪や肉片のこびりついたロケットなどを拾い集め、持っていた革袋に一つ一つ入れて行く。革袋に入れて行く前に一つ一つ持っていた布で拭いて行くカミュの表情は、先程まで男女に見せていた物とは違い、哀しみに歪ませた物であった。

 それは、幼い身なのにも拘わらず、このような仕事をさせられている自分に対しての憐れみなのか、それとも無残にも食い殺され、『人』の原型を留めていない者達に対しての哀しみなのかは、本人にしか解らない。

 

「おい!! 何をしているんだ!! 早くしろ!」

 

 ゆっくりと作業を続けるカミュの後ろから、女性を背負った男の呼ぶ声が聞こえる。

 彼らにとってみれば、もはや死者となり果てた者達よりも、自分の身の安全が大事なのであろうし、それは責められる事ではない。

 むしろ当然の感情でもあり、今生きている人間がこの先も生きられるような対策を取る事の方が、死者の弔いよりも優先されるのも当然の処置である事は明白であった。

 

 

 

 遺品を拾い終えたカミュを先頭に、街道に向かって歩き出した一行は、魔物との遭遇もなく、無事に討伐隊との合流を果たす。合流と同時に怪我人である女性魔法使いは、同行している僧侶の治療を受ける為、奥のテントへと運ばれて行った。

 残ったのは、討伐隊の面々とカミュに同行した男、そして遺品が入った革袋を討伐隊に手渡すカミュだけとなる。

 

「やはり、襲われた後だったか……」

 

 カミュから遺品を受け取った隊長らしき人物は、その革袋のずっしりとした重みから、先に進んでいた討伐隊の全滅を理解した。

 『やはり』という言葉に、その状況を予想していたにも拘わらず、カミュを一人で向かわせた事が推測出来る。

 

「か、数も相当な物でした。襲っている魔物とは別に、私達の後方から更に魔物が増え窮地に陥りました」

 

 隊長に対しても、黙して語らない姿勢を崩さないカミュに代わって、男が状況の説明をする。自分達が感じた恐怖を少しでも伝えようと、身振り手振りを加えて話すその姿を、討伐隊長は冷やかに見下ろしていた。

 

「だから、あれ程コイツについて行く事は反対したんだ」

 

「し、しかし、コイツはオルテガ様の息子ですよ!!」

 

 一般的な考えさえ持っていれば、この二人の発言はおかしいと気付く筈だ。

 この数年後に、カミュと共に旅に出る二人の同道者がこの場所にいたとしても、この二人に敵意を向けていたかもしれない。

 

「コイツ一人なら何とかなるんだ。傷を負って戻ってきても回復させて、また向かわせれば良い」

 

「……」

 

 とても英雄の息子に対しての言葉とは思えない発言に、身ぶり手ぶりで状況を伝えていた男も押し黙る。しかし、そこにカミュを憐れむ気持など湧いては来なかった。

 むしろ、討伐隊長の苦言を無視し、愚かにもカミュへ同道を申し入れた自分を悔やんでいるのだろう。

 

「……が、今回は傷一つないな……本当に戦闘を行って来たのか?」

 

 服に多少の魔物の体液が付着してはいるが、カミュに傷はない。

 靴に赤い血がついてはいるが、それはカミュの物ではないのは見て解る。

 討伐隊全員の視線が、幼い少年唯一人に集中した。

 そこに好意的な物は一つとしてなく、全員がカミュに対し、何かを問い詰める雰囲気を醸し出している。

 

「まさか、お前は討伐隊が襲われて行くのを黙って見ていた訳じゃあるまいな」

 

「い、いえ、私達が到着した時には既に全滅しており、魔物に食われているところでした!」

 

 カミュに向かって鋭い視線を向ける隊長の様子に、このままカミュが黙秘を続ければ、自分の身にも危険が及ぶと判断した男が弁明を口にする。カミュから目を離す事なく、男の話を聞いていた隊長は、少年であるカミュと暫く睨みあった後、視線を外し背を向けて自分の場所へと戻って行った。

 

「し、しかし、コイツは魔物を逃がしました!」

 

 しかし、その後に男の口から発せられた言葉に、戻りかけた隊長の足が止まった。

 周囲を取り巻くように立っていた隊員達の眼の色も変わって行く。それは、先程までの探るような色ではなく、もはや狂気と言っても過言ではない程の強い敵意であった。

 

「……どういうことだ……?」

 

「は、はい。コイツは、魔物達を何匹か倒した後、魔物が襲いかかって来なくなると剣を鞘に納めました。しかも、討伐隊を襲っていた魔物達に対しても斬りかかる事もなく、魔物が引いて行くのを黙って見ていました」

 

「!!!」

 

 男の発言に、周囲を取り巻く空気が一変する。

 それは怒気と殺意。

 

 男の発言は、その場にいた者であれば、頭を抱えたくなる程の勝手な言い分。

 勝手に付いて来たにも拘わらず、魔物の攻撃を受けて足に傷を負い足手まといになる女性魔法使いに、混乱し怒鳴り散らす事しか出来なかった男。

 そんな足手まといを二人も抱え、如何にして魔物と対峙すれば良いと言うのか。

 しかし、そんな内情はこの場にいる人間には解らない。例えカミュがその状況を話したとしても、取り合ってすらもらえないだろう。

 

「お前……仲間を襲っていた魔物達に一太刀も浴びせなかったのか!?」

 

「ふざけるな!!」

 

 その仲間の危機に自分達は赴かず、少年一人を放り込んだ人間達が、カミュの行動を責める為に、その包囲の輪を徐々に縮めて行く。カミュは、その周囲の圧力にも表情を変える事なく、どこか諦めにも似た感情を持って、周囲で目を血走らせる『人』であるはずの集団を見ていた。

 

「何とか言ってみろ!!」

 

「この野郎!!」

 

 黙ったままのカミュに業を煮やした隊長が、怒声と共にその拳をカミュの頬に叩き込んだ。

 それを機に、拳を受けて倒れ込んだカミュに、周囲の隊員達が群がって行く。倒れ込んだカミュの腹を蹴り、顔面を蹴り、もはや収集のつかない状況に陥った討伐隊は、我先にとカミュへ制裁を加えて行った。

 カミュに同行していた男もその輪に加わり、蹲るカミュの腹部を力一杯に蹴り上げている。当事者である人間までもがその輪に加わった事により、その制裁は更に加熱して行くのであった。

 

 何も知らない人間が見れば、先程討伐隊に群がる魔物と、今カミュに群がる『人』に、何の違いがあるのか疑問に思うのではなかろうか。

 いや、今の時代に魔物と『人』を同じ生き物として考える人間は、群がる討伐隊の中心で頭を抱え蹲る少年しかいないのかもしれない。

 

「お前は、英雄オルテガ様の息子じゃないのか!? お前が次代の勇者なんだろ!? お前が魔王を倒さなければならないんだ!! 魔物を逃がすような真似しやがって!!」

 

 『英雄オルテガの息子』

 その事実は、通常であれば多くの国民から称えられ、そして期待と共に大事に育てられる者の持つ称号の筈だった。

 しかし、アリアハン国は、英雄であるオルテガの功績を公式的に無にした経歴がある。

 憧れをもっていた人物の地位の陥落。

 それは、多くの国民の心のギャップを生みだした。

 国が認める事を止めた英雄。

 しかし、国民の頭には今もその雄姿が焼き付いている。

 

 その矛先は、家族へと向かったのだ。

 オルテガの父。

 オルテガの嫁。

 この二人には、オルテガと同様の知名度があり、それなりの交流もあった。

 しかし、オルテガが死んだ時には、まだ赤子であったその息子は、国民にとって様々な感情の捌け口となる。

 

 それは、今尚魔物に怯える生活を余儀なくされているこの時代への不満。

 魔王に対して何の対抗策もないことへの苛立ち。

 そして、自分達をこの苦しみから解放してくれるという期待と希望。

 そのような感情の全てが、この小さな少年の成長に多大な影響を与えていた。

 

 カミュにしても、その腕と魔法を持ってすれば、この討伐隊の半数の息の根を止める事は可能であったかもしれない。

 しかし、一国民にしか過ぎないカミュが、国が組織した討伐隊のメンバーを殺したとなれば、アリアハンで暮らす事は出来ない。それどころか、厳格な騎士であった祖父の手によって、カミュのその首は瞬時に斬り落とされる事だろう。

 故に、まだ少年にすぎないカミュは、ただ身体を丸め、この暴力が通り過ぎるのを待つしか出来なかったのだ。

 暴力を振るっている討伐隊も、カミュが家の者への報告もしない事を知っていたし、例え報告したとしても、それを家の人間が信じない事を分かった上での行為なのだ。

 気が済むまで暴力を振るった後に、回復魔法で痣までも消してしまえば良い。それぐらいにしか考えていなかった。

 

 これは、本当に『人』の行為なのだろうか

 

 そんな想いを胸にカミュは上から繰り返される暴力を受けていた。

 右から左へと身体を振り回されながら、尚も続く暴力の中、カミュという一人の人間の人格が形成されて行く。それの人格は、彼の人生と共に、ある者達によって大きく変化して行くのだ。

 

 

 

 

 身体の揺さぶりに耐えていたカミュは、余りにもその揺さぶりが大きくなった為に、ゆっくりとその目を開ける。そこには、小さくなった焚き火の灯りに映し出された、心底心配そうに顔を歪めるメルエの顔があった。

 

「…………おきた…………?」

 

 心配そうな表情を残したまま、メルエは言葉少なにカミュに確認をとる。メルエの表情が、寝ている間にどれ程カミュがうなされていたのかを物語っていた。 

 

「うなされていたのか……ありがとうメルエ。もう大丈夫だ……」

 

「…………ん…………」

 

 礼と共に頭に乗せられたカミュの手に、心底安心したようにメルエは表情を緩める。改めて確認すると、リーシャとサラは未だ夢の中のようだ。

 唯一、カミュの対角線上にいるメルエだけがカミュの変化に気付き、掛っていたカミュのマントを放り投げたまま傍に駆け寄ったのだろう。

 カミュが頭を撫でている内に再び睡魔が襲って来たのか、メルエはカミュの太ももに崩れ落ちて行き、そのまま静かな寝息を立て始めた。カミュは一つ苦笑をすると、自分が枕代わりにしていた革袋にメルエの頭を載せ、マントを取りに行き、それを眠るメルエに掛けた後、焚き火に薪をくべてながら、まだ明けるまで時間のかかるであろう夜の空を見上げる。

 空は雲一つなく、空一面の星達と、優しい月の光が地面へと降り注いでいた。

 

「……ふぅ……」

 

 何かを想うように吐き出されたカミュの溜息は、新たにくべられた薪によって燃えあがる炎の中へと消えて行った。

 

 

 

 



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カザーブの村①

 

 

 

 朝を迎えた一行は、朝食を取り始める。

 朝食の間中、メルエはリーシャの後ろに隠れながらチラチラとカミュの方に顔を出していた。

 その様子を不思議に思い、カミュが声をかけるが、カミュの声を聞くとまたリーシャの後ろに隠れてしまう。

 

「……何だ?」

 

「あははっ、メルエはお前が怖いんだ。また怒られるのではないかと思ってな」

 

 疑問を口にするカミュに答えたのはリーシャだった。

 朗らかな笑顔を浮かべながら、背にメルエを隠して話すリーシャを忌々しげに睨みつけるカミュの目は、いつもよりも迫力に欠けている。

 

「…………」

 

「……メルエ、俺は別に怒っている訳ではない。昨日話した事も、メルエには憶えておいて欲しいだけだ」

 

 再びリーシャの背中から少しだけ顔を覗かせてきたメルエに溜息を吐きながら、カミュはその幼い少女に話しかける。

 明け方に自分を心配して必死になって起こそうとしてくれ、起きた事に安心すると自分の膝枕で眠ってしまった筈のメルエが、今朝になって自分に怯えているという事をカミュは不思議に思っていた。

 

「あははっ、嫌われたな、カミュ」

 

「…………きらい………ない…………」

 

 尚も笑いながら話すリーシャの言葉に、先ほどよりも顔を出したメルエが反論する。言葉の抑揚に伴わない強い瞳を向けるメルエに、リーシャは少し戸惑った。

 

「…………メルエ………カミュ………きらい…じゃ……ない…………」

 

「そ、そうか……」

 

 続くメルエの言葉にリーシャはたどたどしく答え、サラは昨晩自分に向けられたメルエの言葉とカミュへの言葉の違いに不満を持ち、頬を膨らませていた。

 はっきりとした拒絶を向けられたサラにとってみれば、当然の感情だろう。

 

「もう一度言うが、俺は怒ってない。だから、メルエが怯える必要はない」

 

「…………」

 

 暫くカミュを見つめていたメルエは、こくりと一つ頷くと、リーシャの背中から身体を全て出し、カミュの傍に座りなおした後、朝食の果物を口に入れ始める。

 そんな様子を微笑みながら見つめるリーシャと、『何故自分よりもカミュの方がメルエに好かれているのか』とカミュを睨みつけるサラの姿があった。

 

 

 

 朝食を取り終わり、再びカザーブへと一行は歩み始めた。

 果てしなく続きそうな山道を、途中に何度か休憩を挟みながらもひたすら北上する。昨日はへばっていたメルエも、旅慣れてきたサラに不思議な対抗心を燃やし、弱音を吐く事なくカミュの後ろを必死について行った。

 カミュの歩く速度がいつもよりも若干遅い事を感じ、サラは釈然としない想いを抱くが、リーシャはそんなサラをも励ましながら山道を進んで行く。

 途中では、何度か魔物との戦闘もあったが、昨日リーシャが混乱に陥った<軍隊がに>や、アリアハンに住む<さそりばち>の上位種に当たる<キラービー>などであり、リーシャの剣、メルエの魔法、サラの補助魔法などの活躍で問題なく駆逐されて行った。

 

「なんだ、カミュ。今日は役に立たないな。お前もサラと一緒に、槍の稽古でもした方が良いのではないか?」

 

 扱えるとはいえ、本来の武器ではない<鉄の槍>を使っているカミュは、この旅に出て初めてパーティーの中で戦闘中に出番がなかった。

 それは、カミュが自ら出る事を拒んだ訳ではなく、実は今カミュに厭味を言っている張本人であるリーシャが、メルエとサラの力量を上げる為、カミュを抑えていたのだ。

 今思えば、只単にこの厭味を言いたかっただけなのかもしれない。

 

「…………カミュ………だめ…………?」

 

「ふふふっ、そうですね。今回はメルエの方が凄かったですね」

 

「あはははっ、その通りだな。カミュは駄目だ」

 

 メルエの好意を受けるカミュへの嫉妬から、サラは珍しくカミュへ攻撃的な言葉を発した。

 リーシャに至っては、先ほど<キラービー>を両断した剣に付着する体液を振り払った後、メルエの言葉を肯定し、豪快に笑い飛ばして行く。

 

「……そうだな……<かに>の登場でパニックを起こすような騎士よりも、メルエの魔法の方が役に立っている事は確かだな」

 

「な、なんだと!!」

 

 しかし、リーシャの笑いもいつものように長続きはしない。そのやり取りはもう見慣れた光景になりつつあり、サラもあたふたする事なく見守っていた。 

 

「…………メルエ………いちばん…………?」

 

「ふふふっ、そうですね。メルエが一番ですね」

 

 リーシャとカミュのやり取りをそのままに、サラも笑みを浮かべながらメルエの問いかけに答える。昨日の焚き火での出来事以来、メルエは自分からサラに話しかけて来るようになった。

 それは、言葉は少ないものの、しっかりとサラの目を見て話しかけるもので、サラはその事を心から喜んでいた。

 

 

 

 山道を下りきった一行は、周囲を山々に囲まれたのどかな盆地に辿り着く。見渡す限りを山々に囲まれたそこは、山からの吹き下ろしの風は吹いているが、自然豊かで、空では鳶の鳴き声が響くような場所であった。

 ただ、そんなのどかな場所にも魔物は出現するのか、所々に『人』の手で作られた物の残骸や、『人』そのものの骨などが埋葬される事なく野ざらしになっている。埋葬するための『人』が来る事が出来ない程に危険な場所なのか、『人』を手配する余裕がないのかは解らないが、その骨は新しい物から古い物まで様々であった。

 

 人が踏み歩いた土が道のように続く場所を一行は歩き続ける。

 山を降りしばらく歩くと、前方に簡易な柵で覆われた集落が見えて来た。

 おそらくあれが『カザーブ村』なのであろう。

 入口の門のような物の場所まで歩くが、その周囲に駐在所のような場所はなく、兵士が門番をしている様子などもなく、カミュが木で作られた門につく金具で叩き、村への来訪を知らせるが、しばらくは村から何の反応もない。

 何度も門を叩き、声を上げ続けると、門の中側にある見晴らし台の上に人影が現れた。

 

「アンタ達、何の用だ!?」

 

「旅の者です。今晩の宿をこの村でとらせて頂ければと思い訪れました」

 

 何かに警戒するような物言いでカミュ達一行を拒むような仕草をした男であったが、一行の中に少女と言っていい程の子供が混じっている事に気が付き、門を開ける事を了承した。

 徐々に開いて行く門の向こう側が一行の目に飛び込んで来る。村の中の様子にメルエを除く一行は息を飲んだ。

 

「遠いところ大変だったな。さあ、何もない村ではあるが、ゆっくりしていってくれ」

 

 門を開き、中に一行が入った事を確認すると、再び門を閉めて行く。

 男の表情は先程のように警戒心に覆われた物ではなく、山道を歩いて来た旅人の労を労うような優しい表情に変わっていた。

 門を閉め終わった男は、カミュ達に一言告げると、村の奥へと歩いて行ってしまう。

 

「……さびれている……」

 

「……酷いな……」

 

「……なるほどな……」

 

 男の姿が見えなくなり、改めて周囲を見渡したサラが発した言葉に、リーシャも同意を示す。メルエは二人の様子を不思議そうに眺めていた。そんな三人を余所に、カミュは一人納得したように頷いていた。

 

「何が『なるほど』なんだ? この村の惨状はどういうことなんだ?」

 

 カミュが一人で納得している内容が理解できないリーシャが、カミュへと問いかけを洩らす。リーシャと共にサラもカミュに視線を向けた事から見ても、同じ様に理解出来てはいないのだろう。

 メルエに関しては、初めて見る生まれた場所以外の集落に目を輝かせていた。

 

「……つまり、この村がロマリアに取っての暗部そのものなんだろう」

 

 カミュの洩らした言葉は、言葉が足りず、リーシャとサラの両名は理解出来ない。

 この<カザーブ>の村と、その存在が暗部となるロマリア王国との関連性が見えないのだ。

 それは、感情に置き換えられ、リーシャの口から飛び出した。

 

「どういう事だ!?」

 

「宿を取る前に食事にしよう。そこで話す」

 

 リーシャの声量の大きい問いかけに、周囲の視線を気にしたカミュが場所を変えるよう提案し、サラも同じ事を気にしていたため、すんなりと場所の移動に移る事となった。

 ただ、メルエだけは、少し寂しげな表情を映し出していた。

 

 村の一番奥に酒場があり、そこで食事を出しているという事を聞き、一行は酒場へと場所を移す。酒場に入ると、寂れた村に相応しい寂れた雰囲気を漂わせる内装で、客も二人きりという、なんとも言い難いものであった。

 

「いらっしゃい。空いている席に適当に座ってください」

 

 カウンター越しに、マスターであろう男の声が響き、その指示に従って全員が一つのテーブルを囲うように座る。メルエを椅子に座らせたリーシャが最後に席に着き、水を持って来たマスターに、適当に食事を持ってくるよう注文した後、先程の話題へと戻って行く。

 

「それで、カミュ。どういう事なんだ?」

 

 口火を切ったのは、やはりリーシャ。

 サラもカミュを注視している。

 メルエだけが水を口に運んでいた。

 その様子を横目で見ていたカミュは、一つ息を吐き出し、ゆっくりと口を開いて行く。

 

「アンタ方は、ロマリア城の様子を見たか?」

 

「ああ、それがどうした?」

 

 カミュの問いかけに即座に反応したリーシャであるが、その問いかけが何に繋がるのかは理解出来ていない。その姿に、カミュは盛大に溜息を吐き出した。

 吐き出されたカミュの溜息は、静けさが広がる酒場に良く響き、何とも言えない空気を生み出して行く。

 

「……ロマリア城下町は比較的落ち着いていた。だが、本来なら考えられない筈だ」

 

「……何故ですか……?」

 

 カミュが話す一言一言にリーシャやサラが疑問を挟む。二人とも頭が悪い訳ではない。だが、育ってきた環境で、自分の目で見た物をそのまま信じるという体質が身に付いているのだ。

 そこへ疑問を挟むという考えに辿り着く前に、納得してしまう。

 

「……ある英雄と呼ばれる男の為に、各国が相当の支援を出した。それは、『魔王』という最悪の根源を討伐する為の物だ。半端な量ではない。それこそ一国が傾く可能性がある程の量だろう」

 

「……」

 

 『ある英雄と呼ばれた男』

 それこそ、カミュの父であり、アリアハンが誇る英雄『オルテガ』その人であろう。

 そんな誇るべき父の名前すら呼ばないカミュに、再び怒りが湧き上がるリーシャではあったが、昨晩のカミュとのやり取りで、そこを追求するのは後回しにすると決めたばかりだった。

 故に、その怒りを飲み込む事とする。

 

「支援の為に、国庫にある財産を全て吐き出す訳がない。前にも言ったが、その物資や資金のほぼ全ては、国民に重税などを課して搾取した物だ。そうすれば、当然国力が弱まる。国の生産力を支える国民を虐げるのだから、生産力が上がる訳がない」

 

「で、でも、城下町は潤っていました。とても搾取が続けられた様子はありませんでしたよ」

 

 カミュの言葉に挟まれたサラの疑問は、至極当然の物である。

 ロマリア城下町は、寂れてはいなかった。国民は普通に生活し、店には商品が並び、買い物客などで賑わいも見せていた。

 

「それを不思議に思わないのか?……本来あり得る形ではない。ロマリアはアリアハンとの交流も多かった事から、一番多く援助を行っていた筈だ。最初は、あの王女が色々と奔走して国を立て直したと思っていた。だが、この村の現状を見て、その考えが間違っているとは感じないのか?」

 

「だから、どういう事なんだ!!」

 

 言い回しが回りくどいカミュの言葉に、痺れを切らしたリーシャの大きな声が飛ぶ。

 店にいた二人の客の視線を浴び、恥ずかしそうにするサラとは対照的に、そんなことを気にも留めないリーシャは真っ直ぐカミュを見つめていた。

 

「……少し声量を落としてくれ……」

 

「リーシャさん……」

 

「…………リーシャ………うるさい…………」

 

「うぅ……すまない」

 

 サラやメルエにまで、嫌な視線を浴びせられリーシャは声を落とした。

 メルエは水を持っていた両手で耳を塞ぎ、眉を下げてリーシャを睨んでおり、『奴隷』であった少女が向ける眼差しではないが、それがこの少女の心の中でリーシャという存在が大きくなっている事を示していた。

 

「つまり、搾取はこの村からだけだったのだろうな」

 

「!! しかし、この村にはそんな資金が出るようには見えません」

 

 カミュの言葉にサラが反論を返す。寂れたとはいえ、本来の村の姿はアリアハンにあるレーベの村とそれほど大差がある訳ではないだろう。ならば、膨大な資金援助分の搾取など出来る訳がない。

 

「もちろん資金の全てがこの村から出たとは言わない。だが、ロマリアの武器屋に聞いたが、この村の特産は『鋼鉄』だそうだ。『鋼鉄』は鉄を練成した物。つまり、この村は周囲の山が鉱山なのだろう」

 

「……この山々は鉱山なのか……?」

 

 カミュの語る推測は、リーシャには驚きの内容であった。

 この村を取り囲む山々の全てが鉱山である事は想像も出来なかったのだ。それに合わせて、この辺境の場所にある<カザーブ>という名の村の特産を、何時の間にか情報として仕入れていたカミュに驚いていた。

 

「ああ、鉱山から取れる『鉄鉱石』を他国などに売却する事で国は資金を得る。ロマリア国に属する村の鉱山だ。国有化すれば、この村の男達を安い賃金で雇い、鉄鉱石を掘らせて生産量を上げれば良い」

 

「じゃあ、この村の人達は……」

 

 サラは一抹の望みを託し、カミュの答えを待った。ようやくカミュの言いたい事が見えて来たサラは、この<カザーブ>という名の村の実情を把握し始め、その先にある重い現実を予想してしまっていたのだ。

 

「……使い捨てだ……」

 

 サラの願いを無視するように、カミュから出た解答は『絶望』

 何の希望もない物であった。

 リーシャとサラが顔を伏せたところに、マスターが料理を運んで来る。

 肉と豆を炒めた物に、生野菜のサラダ。

 塩で味付けしただけのようなスープ。

 正直、ロマリア城下町で食べた食事に比べれば、貧相極まりない。

 それでも初めての食事らしい食事に、メルエは目を輝かせて顔を近付けていた。

 メルエにとって、カミュの話す内容には興味が湧かないらしい。彼女にとっては、カミュやリーシャ達と行動が出来るのならば、その他の事はどうでも良い事なのかもしれない。

 

「……メルエ、食べても良いぞ」

 

 カミュの許可が下り、嬉しそうに頷いたメルエは、フォークを鷲掴みにして皿に乗った豆を突き刺し始めた。

 メルエの必死な様子に沈みかけていた空気が再び和む。

 メルエの加入により、このパーティーの気分が深く沈みこむ事が少なくなっている事を感じ、リーシャはメルエの頭を撫でつけた。

 

「…………???…………」

 

「気にせずゆっくり食べろよ。誰もメルエの分を取り上げたりはしないから」

 

 不思議そうに見上げるメルエの頭を撫で続けながら、リーシャは柔らかな微笑みを浮かべる。サラはそんなリーシャの様子を複雑な思いで見てはいるが、内心はメルエに感謝していた。

 

「……国に献上する『鉄鉱石』の他の僅かに残った鉱石で、剣や鎧などを造って売り、山々にある薬草類で商売をしようとはしているだろうが、こんな辺鄙な村に人が来る事はまずない。自然と金の収入はなくなり、自給自足の生活になって行ったのだろう」

 

 メルエのおかげで和んだ空気を犯すような毒をカミュは続けて吐き出した。

 一息つけたリーシャとサラはカミュの言葉を再び聞く態勢を取る。それは、とても重い現実ではあるが、それを知らない事には何も始まらないのだ。

 

「ロマリア国は、この村を犠牲にする事で、対外的な視線の的である城下町の優雅さを守った事になる。犠牲にされた村は、朽ち果てないような最低限の場所で保たれているのだろう。村の住民が全て去れば、鉱山を掘る人間すらも失ってしまうからな」

 

「……」

 

 カミュが話す内容は、所詮全て推測の域を出ない物である。だが、ロマリア城下町を見た後にこの村を見れば、カミュの言葉の信憑性は何倍にも膨れ上がる。

 それは、疑う余地など残された物ではなく、リーシャとサラの心に『事実』として植えつけられた。

 

「…………カミュ………たべない…………?」

 

「ん?」

 

 暗く沈む雰囲気をただ一人理解できず、全員が食事に手をつけない事を不思議に思ったメルエが、フォークを口にしながら声をかけて来た。

 話が一段落ついたカミュがメルエに視線を向けると、メルエの皿の上の料理は半分以上無くなっている。

 

「…………カミュ………だめ…………?」

 

「ぶっ!?」

 

「あはははっ、カミュもメルエには片なしだな!あはははっ」

 

 不意に発したメルエの言葉にサラは盛大に吹き出し、リーシャは大笑いする。

 おそらくメルエは、昨晩カミュがメルエに言った事を言いたいのだろう。

 『空腹でもないのに、食事を頼んだのか?』と。

 そうなれば、カミュは魔物以下の存在となる。

 不思議そうに小首を傾げたメルエの姿に困惑した表情を向けるカミュの姿は、リーシャとサラの顔に笑みを戻した。

 

「カミュ、話は解った。それは今も続けられていると思うか?」

 

「……いや、おそらく今は、鉱山の採掘を国から派遣された人間が行っているのだろう。だからこそ、ここに男たちがいる。この村は収入源を国に奪われ、自給自足でしか生き残って往けない村になっているのだろう」

 

 メルエの言葉で一斉に食事を始めた一行ではあったが、リーシャが再び話を戻した事で、カミュがその手を止めて話し始めた。

 

「食事が終わり次第、武器屋へ向かう。俺の剣を新調しなければならないし、新しい防具があるかもしれない。それに、流石にメルエの服を何とかしてやらなければならないだろうからな」

 

 カミュの言う通り、メルエの服は奴隷として運ばれた時のままで、<布の服>一枚なのである。しかも、湯浴みもしていない事から、正直発している臭いも結構なものであった。

 カミュ達は気にはしていなかったが、やはり酒場のマスターや他の客からは、奇妙な者を見るような視線が注がれている。

 

「そ、そうですね……メルエの服は新調しましょう。女の子がいつまでもこのような格好では可哀そうです」

 

 このカミュの意見には一も二もなく、サラは賛同の意を表す。

 リーシャもまた頷く事で同意を示した。

 話題の人物であるメルエだけは、自分の名前が出て来る度に反応を示しながら、不思議そうに首を傾げている。

 

 

 

 食事を終え、カウンターのマスターの場所に行く間に、他の客の横を通った。

 その客は、若い男女であり、食事はすでに終え談笑を楽しんでいるところであった。

 

「だからね、その村はエルフを怒らせた為に、村中の住民が眠らされたわけ!!」

 

「そんな村が何処かにあるだなんて信じられないよ」

 

 何気ない会話ではあるが、『エルフ』という単語が、一行の耳には残った。

 『エルフ』という種族は、人々の間で魔物と同様に恐れられている。その魔力は魔物以上といわれ、寿命も人間よりも遥かに長い。ただ、繁殖能力は魔物よりも更に低く、その人口は人間の数%にもならない程の物であった。

 

「……エルフ……?」

 

 サラはその男女の会話に引っかかりを感じるが、カミュがカウンターへさっさと向かってしまい、慌ててその後を追う事にした。

 

「ご馳走さま。いくらだ?」

 

「ああ、ありがとうございました。5ゴールドで結構です」

 

 カウンター越しにグラスを磨いていたマスターが、カミュの問いかけに答える。その勘定を聞き、カミュは革袋からゴールドを取り出し、カウンターへと置いた。

 

「マスター、この辺りにカンダタ一味は出没するのか?」

 

「!! アンタ達、まさかロマリア王からカンダタ様の討伐を依頼されて、ここへ来たのか!?」

 

 カミュがゴールドを置きながら発した自然な問いかけに、マスターは過剰と言えるほどの反応を返して来る。

 その過剰なまでの反応を見たカミュは、全てを察したように、その答えを濁して行った。

 

「いや……」

 

「そうだ。カンダタ一味が盗みを働き続ける事で、国王様をはじめ、民が困り果てているという事だったからな」

 

 しかし、マスターの様子に疑問を感じ、否定の言葉を口にしようとしたカミュの横合いから、よせば良いものをリーシャが割って入って来た。

 カミュはリーシャの言葉に溜息を吐き出し、もう一度マスターの方へ視線を向ける。そこで、事の重大さに気付く事となる。

 

「くっ、ロマリア王の狗かよ! 食事なんか出すんじゃなかった。もう出て行ってくれ! そして、ここへ二度と来るな!!」

 

 視線を上げたカミュに向けられた罵声は、先程のカミュの話が唯の推測ではない事を如実に物語っていた。

 カミュは諦めたように息を吐き出し、リーシャは目を白黒させる。突如響き渡った怒鳴り声に、メルエはカミュのマントの中へと潜り込んでしまった。

 

「えっ!? ちょっ、ちょっと待って下さい」

 

「うるさい!! 早く出ていけ!」

 

 突如変貌したマスターの様子に、サラが慌てて抗議をしようとするが、全く取り合う気もない。まさか、村の一般人に手を上げる訳にも行かず、成す術もないままに店の外へと追い出されてしまった。

 

 

 

「な、なんだ!?わ、私が悪いとでも言うのか!?」

 

 店の戸が閉じられ、外に追い出されたカミュ達は未だに状況を掴みきれてはいなかった。

 カミュの溜息と同時に送られた呆れたような視線を受けたリーシャは、開き直りに近い反応を返す。

 

「……俺は、アンタにこの村の状況の予測を話した筈だ。もし、俺が話した事がこの村での事実であれば、この村の住人がロマリア国に良い感情を持っていない事ぐらい理解出来るだろう?」

 

「……」

 

 カミュの言葉は正論である。

 もし、先程のカミュの話の可能性を理解していれば、リーシャの話す言葉は出て来なかった筈だ。

 ましてや、『カンダタ』という名に、過剰な反応を示していたマスターを見た直後ならば尚更である。

 

「アンタは、本当に脳味噌まで筋肉なのか? 少しは考えてくれ。今後交渉や、情報収集の場では口を開かないと約束してもらえないか? アンタが口を開いて、碌な事になった試しがない」

 

「……ぐっ……」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュの言う通り、ここまでの旅でリーシャが相手の感情を逆立てた事は多い。それは、サラや張本人であるリーシャも十二分に理解している事だった。

 元々、一人で旅をするつもりであったカミュにとって、サラやリーシャの発言や行動に怒りを感じる事は多々あったのであろう。それでも、サラやリーシャのようにその怒りを表に出し、相手にぶつけるような事はしては来なかった。

 しかし、今回は、村の状況の予想を話した直後の出来事だっただけに、カミュの怒りが臨界点を超えてしまったのかもしれない。

 

「…………カミュ………おこる…………?」

 

 しかし、リーシャを糾弾するカミュのマントの裾を掴んでいたメルエが、カミュの顔を見上げて問いかける姿が、再び場の雰囲気を変えて行く。視線を落としたカミュの深い溜息が周囲に響いた。

 

「……怒ってはいない……」

 

「…………おこる………だめ…………」

 

 カミュの否定を信じていないのか、メルエがもう一度口を開いた。

 眉は垂れ下がり、自信なさ気に見上げるメルエの姿を見て、カミュはもう一度溜息を吐き出す。

 

「……怒るにも値しない……」

 

 カミュは、メルエの目を見ることもせずに答えると、そのまま武器屋へと足を向けた。

 メルエはカミュのマントの裾から手を離し、リーシャの前に立つ。何かを告げるように見上げるメルエの瞳は、どこか必死な想いが籠っていた。

 

「…………カミュ………おこる……ない……だいじょうぶ…………」

 

「……メルエ……」

 

 何かを訴えるように、優しく語るメルエの姿に、リーシャもサラも言葉が出て来なかった。

 もしかすると、メルエは『人』と『人』の争いを絶えず見て来ていたのかもしれない。

 故に、それを彷彿とさせるカミュとリーシャのやり取りは、その不安感を大きくする物であったのだろう。

 

「メルエ、私は大丈夫だ。ありがとう。さあ、カミュの所へ行こう」

 

「…………」

 

 リーシャがメルエの頭に手を乗せて微笑む。

 すると、今まで心配に歪んでいたメルエの表情が緩み、こくりと一つ頷くのだった。

 サラはそんなメルエの様子を見て、複雑な表情を見せる。それが、どんな感情なのかは、サラ本人にも理解出来なかった。

 

 

 

「いらっしゃい。何がご入用で?」

 

 リーシャ達が追いついたのは、カミュが武器屋の門を入る頃だった。

 入った先は、ロマリアやアリアハンよりも小さな武器屋で、陳列されている商品も所々埃が被っている状態である。

 

「この村の特産は『鋼鉄』だと聞いて来た。<鋼鉄の剣>等は置いていないのか?」

 

「おっ、今時この村の特産を訪ねて来るなんて珍しいね。あるよ、<鋼鉄の剣>というのが。それにアンタが着込んでいるのは<革の鎧>だね? これも特産になるんだが、<鉄の鎧>という防具もあるぞ。よく見て行ってくれ」

 

 カミュの問いかけに気分を良くした武器屋の主人は、次々と商品を出して来る。店の中に陳列されている埃の被った物ではなく、店の奥から出して来ている辺りがとても良心的な人間に見えた。

 

「これが<鋼鉄の剣>か……」

 

 店主が出して来た一振りの剣を見たリーシャが、感嘆のため息を漏らす。

 鉄を型に流し込んだだけのリーシャの剣とは違い、何度も練成を重ねた剣は、その刀身の輝きも違っていた。

 切れ味も相当な物なのであろう。

 

「オヤジ、その剣を一振りくれ……アンタもこの剣に変えておくか?」

 

「むぅ」

 

 <鋼鉄の剣>の輝きに目を奪われていたリーシャは、カミュの問いかけに即答する事が出来なかった。

 リーシャの持つ剣は、下級騎士に配給される大量生産の剣で、その剣にアリアハンの国章等はついてはいないが、それでも長年苦楽を共にし、手入れもして来た大事な剣であり、愛着もある。

 それをここで捨て去る事を決断出来なかったのだ。

 

「リーシャさん。これから先は、良い武器に変えて行った方が良いのではないですか? 魔物もアリアハンとは比べ物にならない程ですし、このロマリア大陸を出れば、更に強い魔物が出て来る事が予想出来ます」

 

「むぅ」

 

 カミュの言葉に続き、珍しくサラがリーシャに意見をする事に若干驚きながらも、リーシャは更に悩む。<鋼鉄の剣>を睨みつけながら悩むリーシャに溜息を吐いたカミュは、もう一度カウンターに視線を戻した。

 

「……まあ、好きなだけ悩んでくれ。オヤジ、この<鉄の鎧>だが、動き辛くはないか? これでは、重騎兵だ」

 

「う~ん。まあ、そうだねぇ。重騎兵とまでは行かなくても、少し動きに制限されるかもしれないな……」

 

 カミュの言うとおり、<鉄の鎧>は、首から腰まですっぽりと鉄で覆うような鎧で、お世辞にも俊敏に動けるような見掛けではない。

 魔物と対峙するカミュ達にとって、行動を制限される事は決して良い事ではなかった。

 

「オヤジ、この<鉄の鎧>を改良してはくれないか? 肩当てと、胸当てを残す形で良い」

 

「う~ん。それじゃあ、<鉄の胸当て>になっちまうぞ? まあ出来なくもないが……」

 

 カミュと武器屋の主人が、ああだこうだと防具について議論している間、リーシャは未だに悩み、サラは物珍しげに周辺を歩き回るメルエの世話をしていた。

 メルエにとっては、武器屋という場所自体が初めての物なのだろう。所狭しと並べられている商品を見上げては見下ろしていた。

 しかし、決して手を触れようとしないのは、彼女の育ちが影響しているのかもしれない。

 

「よし!! 私の剣もこれにしよう」

 

 意を決して、リーシャが顔を上げた時は、防具の買い物も終わり、商品を受け取ったカミュがカウンターに代金を置いている頃であった。

 

「……まだ悩んでいたのか? もうアンタの分の剣も買っておいた。防具も新調したから、着ている<革の鎧>とその剣を置いてくれ。オヤジが引き取ってくれるらしい」

 

「あ、ああ」

 

 自分の一大決心を無碍に流されたにもかかわらず、サラやメルエの視線もあり、リーシャはいそいそと装備品を着替えて行く。

 

「それと、オヤジ。この娘に合うような服は何かないか?」

 

 メルエを前に出し、主人に見立ててもらう為に、話を続けるカミュは、先程のリーシャとの衝突がなかったかのような平然とした対応であった。

 

「ん? う~ん……うちは<旅人の服>は置いてないしな……あったとしても子ども用はないからな」

 

「……そうか……」

 

 メルエの服装を見て、一瞬顔をしかめた主人であったが、真剣に自分の店にあるもので代用出来る物はないかと考えてくれている辺りは善人なのだろう。品揃えを頭に思い浮かべる店主の頭の中に何かが閃いたのか、店主は突然顔を上げた。

 

「あっ! うちの店でこの娘に出せるのは、あれぐらいしかないな……」

 

 不意に何か思いついたように手を打った主人は、そのまま店の奥へと入って行った。暫くして出て来た主人の手には一つの帽子。三角にとがった帽子の周囲につばが付いているものだった。

 

「この<とんがり帽子>ぐらいしかないな……お譲ちゃん、これを被ってみるかい?」

 

「……」

 

 主人からの問いかけに、こくりと一つ頷いたメルエは、<とんがり帽子>を手に取り頭に乗せてみる。少し大き目だが、大き過ぎるという訳ではなく、メルエの頭に綺麗に収まった。

 

「おお、それはカンダタ様がどこからか持って来た物で、うちで売却した物だが、その小ささから買い手がいなくてね。格安の30ゴールドでいいよ」

 

「……メルエ、気に入ったのか?」

 

 頭に乗った<とんがり帽子>のつば部分を嬉しそうに持つメルエにカミュが問いかけると、今までで一番の笑顔をカミュに向けながらメルエは大きく頷いた。

 そんなメルエに笑顔を向けるリーシャは、何かを期待するような瞳をカミュへと向ける。

 

「……そうか……30ゴールドだったな。オヤジ、この辺で子供の服を売っている所はないか?」

 

「ありがとうよ。う~ん、この村では基本的に子供服は親が自ら作る物だからな……売っている場所はないと思うが……」

 

 自給時自足の村である。当然、自分達や子供の服に至るまで、母親が布から作成したりするのであろう。

 子供達は、親や兄弟のお下がり等を着る事も少なくない筈だ。

 故に、商売としては、防具ではない洋服などは成り立たないのだろう。

 

「……そうか……悪かったな」

 

 武器屋の主人の謝礼を背中越しに聞きながら、一行は武器屋を後にする。

 無言で武器屋を出るカミュの後ろを、初めて被った帽子を何度も被り直しながら、嬉しそうに続くメルエの姿を、リーシャはどこか痛々しげに見守っていた。

 

 

 

「アンタ達だね、カンダタ様の討伐の為にこの村に来ているってのは? アンタ達を泊める宿はここにはないよ。さあ、出て行った、出て行った」

 

 武器屋を後にし、宿屋に向かった一向に待っていたのは、酒場の主人から事の内容を聞いていたのであろう宿屋の女将からの冷たい拒絶であった。

 『一晩泊まりたい』というカミュの言葉の後、一行の姿を改めて確認した女将の言葉は、交渉の余地もない程の物で、血の気の多いリーシャだけではなく、冷静沈着なカミュまでも一言も言葉を発する間もなく宿屋を追い出される事となる。

 

「アンタ達も宿屋を追い出されたのか?」

 

 宿屋を追い出された一行の前に一人の男が現れ、カミュ達の状況をあらかた予想出来たと言わんばかりに話しかけて来た。

 『も』という部分に、その男も宿が取れなかった事を暗に示している。

 

「……アンタは……?」

 

「ああ、私は、カンダタがどこかの塔をアジトにしているという噂を聞きつけてここまで追って来た。しかし、村の人間に情報を確認しようと思ったのだが、アンタ達と同じようにこの様だ」

 

 カミュの問いかけに、カンダタの情報と共に自分の境遇までも男は話し出した。

 リーシャは、酒場での自分の失言の結果がこの状況を呼んでいる事を改めて突き付けられ項垂れてしまう。

 

「……どこかの塔……?」

 

「ああ、この村の西に塔があるらしいのだが、詳細が解らなくてな。この村でその塔の内部に詳しい人間でもいないかと思ったのだが……」

 

 男が話す情報は、カミュ達にとっては初耳の物で、その価値は計り知れない。カミュは突如現れたこの男が何か企んでいるのではとも考えたが、心底困った表情を浮かべる男の内部を窺う事は出来なかった。

 

「あ、あの! 何故、この村の人達はこれ程までに、盗賊であるカンダタを擁護するのですか?」

 

 疑惑の視線を向けるカミュの横から、今まで事の成り行きを見守っていたサラが口を開いた。

 その内容は、顔を伏せているリーシャも思っていた事であった。

 

「ん? ああ、どうやら、カンダタはロマリア王都で盗みを働いた後に根城にしている塔に向かう前に、この村で金を落として行くらしい」

 

「……金を落とす?」

 

 男の答えにリーシャの顔が上がった。男の表現が、宮廷騎士であるリーシャには想像出来なかったのだ。

 良くも悪くも、彼女は貴族であり、戦士である。

 経済の流れ等に関する知識は持ち合わせてはいないのだ。

 

「この村で宿を取り、酒場で酒や食事をたらふく頼み、そして武器屋で武器や防具を揃えて行く。早い話が、カンダタ一味はこの村にとって金づるなんだよ」

 

「……金づるですか……」

 

 リーシャに説明を返すような男の表現は、サラにとっては理解出来ない物。

 良くも悪くも、温室育ちの『僧侶』であるサラには、男の表現は難しかった。

 

「すまない。言葉が悪かったな。カンダタ一味は、本来貴族や豪商などからしか盗みは行わない。そして盗んだ金や物を使って、この村のような貧しい村々に落として行く。この村のような自給自足しか生きて行く術がない村々にとっては、村という集落を維持する為にもカンダタ一味はありがたい存在という訳さ」

 

「……義賊という事か……」

 

 続く男の言葉に、ようやくリーシャの口が開いた。

 カンダタ一味が盗みを働く相手は、国民から金を巻き上げ私腹を肥やす貴族か、商売で大きな財産を築いた商人に限定されるという事らしい。私腹を肥やす貴族は論外として、大きな財産を築いた商人には、少なからず商いをする中で後ろ暗い事があるのだろう。

 しかし、基本は自ら稼いで作った金である。盗んで良いという物ではない。それでも、貧しい人間にとっては、不遜な事をして稼いだ金をばら撒いてくれるカンダタ一味は義賊と映るのだろう。

 

「そう言う事だな。しかし、この村の人間は解っていない。例え、カンダタの標的が貴族や豪商だとしても、盗賊は盗賊だ。自分達の邪魔になったり、自分達の障害となれば、アイツらは容赦なくその人間達を殺すだろう」

 

「……」

 

 続く男の言葉に、リーシャもサラも黙り込んでしまった。

 義賊を謳ってはいても、所詮は盗賊。自分達の行動の邪魔となれば、その者を殺す事ぐらいは行って来ただろう。

 それは、何も過去だけの話ではない。

 これから先も、彼らが盗賊団を組織している限りは続く事ではあるのだ。

 

「現に王都でも、奴らが逃げる過程で、罪もない一般国民が犠牲になっている。必要となれば人も殺すし、人も犯す。それが盗賊だ。だからこそ、討伐できる時に討伐するべきなんだ」

 

 いつの間にか、語る男の口調は熱くなっていき、その拳を握り締めながら熱弁を振るっていた。

 もしかすると、この男の身内はカンダタ一味の犠牲になった者なのかもしれない。

 

「しかし、根城も判明している中、何故ロマリア王国程の国が討伐隊を組織しない?」

 

「……カミュ様……」

 

 そんな男とは対照的に、熱の全く感じられない口調でカミュが発した言葉は、当然の疑問であった。

 国の大罪人とも言える『カンダタ』を、何故国を挙げて捕縛しないのか。

 その罪状を見る限り、アリアハンを揺るがせた盗賊『バコタ』の罪の比ではない筈だ。

 

「討伐隊は何度か組織されたさ。しかし、それも悉くあしらわれた」

 

「……国が組織した討伐隊で敵わないのならば、それこそアンタ一人でどうにかなる次元の話ではない筈だ」

 

 カミュの容赦のない追及は、男の心に影を落とす。

 暫しの間、カミュの瞳を睨んだ男は、そのまま肩を落とすように俯いてしまった。

 だが、カミュの言う事が正論である以上、リーシャもサラも助け舟を出す訳にはいかない。

 

「……わかっている。私は、別に国から依頼を受けた訳ではない。これは私個人の問題だ……」

 

 男は悔しそうに俯き、吐き出すように言葉を洩らす。

 やはり、この男が持つ感情は、カミュの後ろに立つサラと同じく『復讐』なのだろう。その証拠に、男の拳は固く握り込まれていた。

 

「カンダタ自体を討伐するのが目的でもない。その一味にいる人間が目的なんだ。カンダタを追えば、必然的にそいつにもぶつかる筈だからな」

 

「……」

 

 男の内情を推測する事が出来たリーシャとサラは、その口を固く閉ざしたままであった。

 メルエだけが、その中身を図る術を持たず、カミュのマントの裾をつかんだまま、男を見詰めていた。

 

「……すまない。つまらない話を聞かせてしまった。この村に泊まる所がない以上、村の外に出て野宿するしかないな。私は、まだ陽の光がある内に宿場を探すよ。アンタ達も早いところで見切りをつけて今日休む場所を探すんだな……」

 

しばらく俯いていた男の顔が上がり、一度太陽を見上げた後、そのまま村の出口へと歩いて行った。男の背中を見送りながら、リーシャとサラの胸中には複雑な感情が湧き上がっていた。特に、他人の『復讐』に関する感情を初めて感じたサラは、自身の中に何かが生まれ始めていた。

 

「……カミュ……すまなかった……」

 

「リーシャさん!?」

 

 男の背中を見えなくなるまで眺めていた後、カミュの方を向き直ったリーシャが徐に頭を下げる。リーシャが頭を下げるという初めて見た光景に、サラは驚きの声を上げた。

 

「……悪気はなかったとは言え、私の不用意な発言の結果がこのような事態を引き起こしたのは紛れもない事実だ。その為にこのパーティーの全員が身体を休める場所を失い、メルエに至っては身体を清める事すらできなくなった。本当にすまなかった」

 

「…………リーシャ…………」

 

 メルエですら、そんなリーシャの姿に見入っている。

 リーシャにとって、酒場での発言に悪気がなかった事は事実なのだろう。ただ、村での宿泊を不可能にしてしまった事もまた事実なのだ。

 その為に、旅慣れぬメルエやサラの疲労回復の手段を奪い、そしてカンダタ討伐への情報収集を困難にさせてしまったという事がリーシャの胸に圧し掛かって来ていた。

 

「……別にアンタが言わなくても、結局こうなった可能性が高い。この村を訪れる理由が、現段階ではカンダタ一味以外はあり得ないのだからな」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュの言葉通り、この村を通り抜ける理由は、あの男の情報を信用するとするならば、カンダタ一味の根城となっている西にある塔に向かう為という物しかあり得ないのだ。

 必然的に、カミュ達がカンダタ一味でなければ、カンダタ討伐の為に動いているという事になる。大々的に組織された物ではなかったとしても、村の住民に悪感情を持たれる事は間違いないだろう。

 実際は、『カザーブ村』を抜けて辿りつける場所は他にもあるのだが、この時点でのカミュ達には知る由もない。

 

「この村にもう用はないな。陽も暮れて来た。外に出て野営の準備をする」

 

 空を見上げながらのカミュの言葉に、リーシャやサラも頷き、村の出口へと歩き出す。

 メルエは未だに、初めてカミュ達から買い与えられた『とんがり帽子』を嬉しそうに何度も被っては脱ぎ、被っては脱ぎを繰り返しながら歩いており、その様子に、リーシャの罪悪感は更に増長して行く。

 帽子一つであれ程の喜びを表すのだ。

 カミュはああ言うが、もし、リーシャの一言がなければ、宿屋の女将にでも頼めばメルエの服ぐらい作ってくれたかもしれない。

 宿屋で湯浴みをさせ、新調した服を着せてやればどれ程喜んでくれたであろう。

 リーシャは思わず目を瞑ってしまった。

 

「おっと!!」

 

 その時、帽子に気をとられているメルエの方向から何かとぶつかった音が聞こえ、リーシャの目は開かれる。

 そこには、大きく尻もちを付くメルエと、これまた大きな荷物を担いだ男の姿があった。

 男の年齢は三十過ぎと言ったところか。どことなく影を匂わす風貌で、呆然と尻もちを付くメルエを見つめていた。

 

「メ、メル……」

 

「アン!!」

 

 慌てて駆け寄ろうとするサラとリーシャの声を掻き消す程の声量で、男はメルエに向かってどこの誰かも分からない名前を叫んだ。

 後ろの状況に気がついたカミュもメルエの下に歩み寄って来る。

 大きく名前を呼んだにも拘わらず、呆然と立つ男。

 そんな男を訳も分からないというように見るリーシャとサラ。

 奇妙な空気が辺りに流れていた。

 

「…………違う………メルエ…………」

 

 そんな空気を破ったのは、いつものようなリーシャの声ではなく、未だ地面に尻を付けているメルエの少し憤慨したような声であった。

 

「……あ、あっ、すまない……大丈夫かい? 怪我はないか?」

 

 メルエの反論に我に返った男は、メルエを立たせる為に手を差し伸べながら、その安否を確認を始めた。

 男の手を取り立ち上がったメルエは、即座にカミュのマントの中へと消えて行く。カミュももはや慣れたもので、メルエが立ち上がると少しマントを広げ誘導するようにメルエを受け入れた。

 

「本当にすまない。少し考え事をしていて、周りを見ていなかった」

 

「いや、こちらこそ注意を怠っていました。そちらが謝る事ではありません。幸い怪我もないようですし、むしろそちらの荷物に損傷はありませんか?」

 

 メルエをマントの中に導いたカミュは、対外的な仮面を被り男と相対した。

 リーシャとサラもカミュの言っているように、幼いメルエの行動に注意を払う事を怠っていた非がこちらにある事を感じ、カミュと共に男へ軽く頭を下げる。

 

「ああ、こっちの荷物には全く問題はない」

 

「そうですか。お急ぎのところ申し訳ありませんでした」

 

 男の荷物についての回答を貰ったカミュは、再び軽い会釈を男に返す。そんなカミュの姿に、男は苦笑しながら荷物を持っていない方の手を何度か振って答えた。

 何事もなく、安堵の溜息を吐き出したサラは、少し笑顔を浮かべる。

 

「…………アン………誰…………?」

 

 そんな大人の対応をする一行とは別の所から声がする。何時の間にか、カミュのマントから顔を出したメルエが、先程男の口から出た名前を聞いて来たのだ。

 その声の出所に驚いた男は、幼い少女へと視線を移した。

 

「ん?……ああ……」

 

「こ、こら! メルエ!」

 

 答え難そうな男の姿に、リーシャはメルエに視線を送りその言動を窘める。そんなリーシャの声に、メルエは再びカミュのマントの中へと逃げ込んでしまった。

 男は、一行のやり取りに苦笑を浮かべながら口を開く事となる。

 

「あ、いや、良いのですよ。すまなかったね、名前を間違えてしまって」

 

「…………」

 

 男の謝罪に再度顔を出したメルエは、その頭を数回横に振る事で、『気にしていない』という事を男に伝え、男はメルエの返事に、もう一度苦笑に近い微笑みを返した。

 

「……アンというのは、おじさんの娘の名前なんだ。ちょうど、君と同じぐらいの歳でね。一瞬見間違えてしまったのさ。娘と他人を見間違えてしまうなんて、親として失格だね……あはは……」

 

「……」

 

 男の乾いたような笑いを含んだ言葉に、一行はかける言葉が見つからない。

 『アン』という名前を口にし、メルエを見詰めていた男の表情は、どこか心を失っている様子であった。

 自分の娘と見間違ったとしても、何か事情がなければ、このような表情を浮る筈がない。

 しかし、その事情までも聞き出すような資格は、カミュ達にはないのだ。

 必然的に言葉が出ないようになる。

 

「もしかして、アンタ達かい?……カンダタ一味の討伐に来たって言うのは……?」

 

 黙り込む一行をしばらく眺めていた男が、今思いついたとばかりにカミュ達の素性を聞いて来る。

 その言葉に、一行は再びその口を閉ざしてしまうのだった。

 このような状況に陥った一番の責任が自分にある事を既に理解しているリーシャにとってみれば、男の問いかけは、身に積まされる物であったのだ。

 

「そうです」

 

「……カミュ様?」

 

 否定するだろうと思っていたサラは、カミュが男の問いかけを肯定した事に驚き、声を漏らした。

 リーシャも顔を上げカミュを見詰め、不思議な雰囲気が漂う中、それを感じる事無く、男が口を開く。

 

「そうか……ならば、宿は取れなかっただろう。この村じゃ、カンダタ一味は救いの神だからな」

 

「……」

 

 沈黙するカミュ達を一通り見渡した男は、少し考え込むように腕を組んだ。

 カンダタ一味の討伐という目的を話してしまった以上、宿屋の時のように糾弾される可能性を考えたサラは、幾分か距離を取りながら身構える。しかし、再び口を開いた男の言葉は、サラの予想とは大きく異なっていた。

 

「そうだな……なんなら、うちに来るかい? 小さな家で、宿屋のように設備は整っていないが、野宿をするよりは幾分かはマシな筈だ」

 

「いえ、そこまでして頂く訳には……」

 

 男の申し出に、若干の疑心の視線を送りながらカミュは答えた。リーシャやサラはどうだかは分からないが、カミュにとって『人』の好意と言う物程信じられない物はない。

 常に、『人』の裏側を見て来たカミュだからこそ、『人』の好意には、何か企みが隠されているのではないかと疑ってしまうのだが、純粋な好意であろうが、カミュには判断する経験がないのだ。

 

「その娘とぶつかったのも何かの縁だろう。私は、この村の住人と違って、カンダタを崇拝している訳じゃないからな。まあ、無料でと言うのが嫌なら、うちの商品を買っていってくれ」

 

「……商品……?」

 

 サラは男の語った『商品』という単語に反応を返した。

 その単語が出て来る以上、この男が商売を営んでいる事は確かだろう。そうであれば、『カンダタ一味』の恩恵を預かる身の筈であり、崇拝していない理由が見つからない。サラと同じように疑問を感じたカミュの中に、新たな疑惑が生まれてしまった。

 

「ああ、うちは宿屋の北側で道具屋をやっているんだ。品揃えはそんなに豊富ではないが、旅をしているのなら必要な物もあるだろう?」

 

 サラが挟んだ言葉にも律儀に答える男に、リーシャとサラは好感を持った。未だに男に疑惑の目を向けるカミュのマントが下から引かれる。

 

「…………カミュ………いく…………?」

 

 下からカミュを見上げるメルエは、純粋にカミュが行くと言えば行き、行かないと言えば行かないという様子である。もはや、リーシャとサラの二人の心は、男の好意に甘える方向に傾きかけていた。

 カミュにしても、メルエやサラをこの村で暖かなベッドで休ませた方が良い事くらい理解はしてはおり、未だに下から受けるメルエの視線に頷く他、カミュには選択肢がなかったのだ。

 

「……すみません……では、お言葉に甘えさせて頂きます」

 

「ああ、そうか。じゃあ、ついてきてくれ」

 

 そう言って、荷物を持ち直した男は、一向に背を向け歩き出す。一つ大きな溜息を吐いたカミュは、未だにマントの裾を掴むメルエを促して男の後を追った。

 カミュが自分達の前を過ぎて行くのを確認した後、リーシャとサラも男の背中を見ながら後に続く。皆が先を行く男の背中を見ながら歩いて行く中、ただ一人、メルエだけは皆とは違う方向を見ていた。

 

 

 

 



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カザーブの村②

 

 

 

 陽も落ち始め、辺りが薄暗くなって来た頃、一行は男の家である道具屋へと辿り着いた。

 男の家は大きな家と言う訳ではないが、この村の中では宿屋に次ぐ大きさの建物で、それこそロマリアにある道具屋よりも大きな家である。

 

「ただいま。さぁ、何もない家ではあるが、遠慮せずに入ってくれ」

 

 家のドアを開け、男はカミュ達を中へと導き、男の帰りを待つ人間がいるのか、男は自分の帰宅を告げる言葉も発している。

 男に続くように中に入って行く一行であったが、先頭を歩くカミュの歩調が、どこか警戒を示していた為、最後のリーシャが家の中に入るのには、少し時間を要した。

 

「ああ、おかえり。ん?……その方達は?」

 

 中に入ると、初老の男が出迎えに出て来る。

 年齢から考えて、道具屋の男の父親であろう。その顔には年輪を表す皺が濃く刻まれ、実年齢が予測し辛い。

 人柄の良さは、外見でも判断できる程に滲み出ており、サラは若干の安心感を覚えた。

 

「ああ、今夜の宿に困っていてね。少し縁があって、今晩はうちに泊まって行ってもらおうと思ってさ」

 

「申し訳ありません。勝手な事とは重々承知していますが、宿が取れなく困っていた事は事実でして、ご好意に甘えさせて頂く事になりました」

 

 男の紹介にカミュが前に出て、いつもの仮面を被った口調で挨拶をする。カミュの言葉に後ろでリーシャとサラも軽く会釈を行った。

 男の父親らしき人物は、カミュの言葉を疑う様子もなく、すぐに笑顔を向ける。

 

「そうでしたか、それは大へ………アン!!」

 

 笑顔で対応しようとした父親は、カミュのマントに隠れていたメルエが現れると、その姿を見た途端、先程の男と同じように、その名前を叫んだ。

 父親の瞳は大きく見開かれ、口は驚きで開いている。

 それ程の衝撃を受けたのだろう。

 

「…………ちがう…………」

 

 しかし、またもや自分の名前を間違えられた事に憤慨したメルエは、頬を膨らまして、『アン』と呼びかけた老人を睨みつける。

 サラは、メルエの物怖じしない言動と態度に焦るが、老人の表情を見て、その心配がない事を感じて安堵した。

 

「そ、そうか。すまなかったの。いやいや……まぁ、懐かしい顔を思い出してしまい、思わず名を呼んでしもうた」

 

 泣き笑いのような表情で老人はメルエへと謝罪をし、道具屋の男と顔を見合わせると、苦笑を浮かべた。

 そんな二人の表情に、サラは何か事情がある事を感付いたが、それは聞いて良い物なのかを悩む。 

 

「さあ、何もない所ですが、一晩ゆっくりとして行ってください」

 

「ありがとうございます。お二人でお住まいなのですか?」

 

 サラが自分の中の疑問を抑えておく事が出来ずに口を開いてしまう。カミュは明らかに呆れたような顔をしていたが、リーシャは真剣な表情で親子を見つめていた。

 リーシャもまた、サラと同じような疑問を感じていたのであろう。

 

「いえ、家内がおりますが、生憎身体を患っておりまして、床に伏しています」

 

「あっ、申し訳ございませんでした」

 

 自分がした質問の回答が予期せぬものであったため、反射的にサラは頭を下げるが、老人は軽く笑いながら手を振っていた。

 

「いえいえ、お気になさらずに。ただ、男二人ですので、食事など至らぬ点も多いかとは思いますが、ゆっくり疲れをとってください」

 

 サラを気遣うように話す父親の言葉の一つに、リーシャの眉が動いた。剣以外で自慢出来る物。その触手が反応したのだろう。

 

「食事なら、私が作ろう」

 

「はあ……」

 

 自分の出番だとばかりに声を上げたリーシャに、道具屋親子は先程とは打って変わって気のない返事を返す。

 しかし、リーシャにしても自分に対しての周囲の反応にはもう慣れていた。

 

「何を言いたいのかは予測できるが、自分で言うのもなんだが、私の料理の腕は確かだぞ。疑うのなら、そこにいる二人に聞いてみろ」

 

 リーシャが指差した場所には、カミュとサラが立っている。親子はおもむろに視線を向けるが、実は親子だけでなく、カミュは下からメルエの視線も感じていた。

 『お前は、あの戦士の調理する猪の肉をたらふく食べただろ』、とカミュは言いたかったが、何も言わずに、道具屋親子に向かって一つ頷いた。

 

「だ、大丈夫です。リーシャさんはお料理がとても上手ですので」

 

「そ、そうですか……あまり材料などもありませんが、でしたらお願い致します」

 

「承った。では、台所を見せてもらえるか?」

 

 満足そうに頷いたリーシャは、男と共に台所に消えて行く。

 残されたカミュ達は、老人と相対する事となるが、外観から見るよりも建物の中は広く、ゆったりとした生活感が溢れていた。

 失礼とは知りながら、サラはその家屋を眺めていた。

 

「湯を沸かしましょう。まずは、身体を清められた方がよろしいでしょうな」

 

 老人は、三人の身体を見てそう提案する。

 実際、カミュやメルエは気にしていなかったが、ロマリアを出て既に野営で数日過ごしている。その間、川等もなかった事から、身体を清める事なども出来なかった。

 実を言えば、サラは自分の体から発せられる汗の臭いなどを気にはしていたので、老人の申し出に喜び、勢い良く頭を下げる。

 

「何から何まで、申し訳ない」

 

「気になさるな。このような村は、本来であれば旅人あっての村なのです。旅人が困っていれば手を差し伸べる。それが昔は当たり前だったのですがな……」

 

 カミュの感謝の意に、老人は少し遠い目をしながら村のあり方への疑問を口にした。

 確かに、このような村では、いかに『鉄鉱石』が採掘出来たとしてもそれを国家相手に売却する術がない。必然的に、それを元に作成した物を旅人などに買ってもらい、生計を成す事が生業となるのだ。

 

「…………アン………は…………?」

 

 老人とカミュの会話の中、この家に入ってから自分の名前しか口にしてなかったメルエが、不意に話し出した。

 自分と同じぐらいの娘がいると聞いていた為に、その所在を知りたかったのであろう。しかし、それは事情を察しているカミュやサラにとっては禁句と言っていい程の内容であった。

 

「メ、メルエ!!」

 

 堪らずサラが、カミュのマントの中にいるメルエを叱責するが、何故サラが慌てているのかが解らないメルエは小首を傾げている。

 メルエにとって、カミュやリーシャの叱責は恐怖を感じるようだが、サラの叱責には全く動じる様子がない。カミュやリーシャは父や母、もしくは兄や姉と同じ感覚なのだろうが、サラに関しては、良くて自分と同等の友人という位置か、悪ければ自分より下の人間として見ているのかもしれない。

 

「……ふむ……アンは、もうこの世にはおりません。早いもので、三年になりますかな……村の外で母親と共に魔物に襲われておりました」

 

「……」

 

 メルエの問いかけに目を瞑っていた老人は、自分の中の膿を吐き出すようにゆっくりと話し出す。その内容にカミュとサラは言葉を見つける事が出来なかった。

 予想していたとはいえ、他人にその事を話す老人の心情を考えると、かける言葉が見つからなかったのだ。

 

「…………やまで…………?」

 

「ん?……そうじゃな。山中で二人の遺体は見つかった」

 

 だが、メルエにはまだ他人の心情を推し量る術が備わっていない。故に、老人の表情からその心情を量る事が出来ず、自分が持った疑問をそのまま吐き出していたのだ。

 そんなメルエの顔を見ながら、老人は辛い過去を口にした。

 

「……魔物に……心中お察しいたします」

 

 魔物に殺されたと聞いたサラの表情はあからさまに歪み、その胸の内に『憎悪』の炎が灯り始める。

 未来のある少女が、魔物に襲われ命を落とすという事実。

 それを魔物の食事の為と納得する事は、サラにはどうしても出来なかった。

 

「…………やまに………女の子………いた…………」

 

「ん?」

 

「メ、メルエ!」

 

 悲痛な表情を浮かべるサラを余所に、常に無口なメルエが言葉を紡ぎ始める。カミュのマントから出て来たメルエは、老人に近寄り、見上げるような視線を向けて言葉を発していた。

 メルエが何を言いたいのかを理解したサラが止めに入ろうとするが、メルエは再び口を開く。

 

「…………またいたら………なまえ………きく…………」

 

 メルエが老人に向かい、何かを話そうとしている。常に単語だけを並べるように話すメルエが、一生懸命に何かを話そうとしている姿に、サラはその内容を察したのだ。

 だが、もはやメルエを止める事は出来なかった。

 

「…………アン………つれてくる…………」

 

「……メルエ……」

 

 メルエが老人に宣言した言葉を聞き、サラは全てを理解した。

 メルエは昨晩の事を言っているのだ。

 サラには見えなかったが、メルエには見えていた少女。メルエは、その少女が魂だけの存在だという事が解っていない。

 メルエには、はっきりと見えていたのであろう。しかも、あの時の事をよくよく思い出すと、メルエは確かに会話をしていたようにも見えた。

 故に、老人が如何に魔物に襲われ命を落としたと言っても、メルエにはそれが飲み込めないのだ。

 『遺体が見つかった』とは言っていたが、魔物に襲われたのならば、骨だけなっていた可能性が高い筈なのだった。 

 

「……メルエ……それはできないの……もう、できないのよ……」

 

 老人に向かって一生懸命に『自分に出来る事をする』と伝えるメルエの姿に、サラは思わず涙を流していた。

 既にカミュのマントから身体の全てを出しているメルエの身体を、後ろから抱き締めたサラは、そのまましくしくと泣き始める。

 

 そんなサラの姿がメルエには理解できない。

 『何故泣くのか?』

 『何故出来ないのか?』

 メルエの頭の中に様々な疑問が浮かび、そして消えて行く。

 

「メルエちゃん、ありがとう。もし、メルエちゃんが出会った女の子が、アンであったら、『私達は心配いらないから、ゆっくり休みなさい』と伝えてくれるかな?」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの言葉を子供の戯言とせず、老人はメルエの言葉を有り難く受け取っていた。

 そして、メルエに仕事を託す。

 メルエは、しばらく老人の目を見た後にこくりと一つ頷いた。

 

「ありがとう……さぁ、湯を沸かそう。メルエちゃんも手伝ってくれるかの?」

 

 少し潤んでいた目を一擦りした老人は、次の行動に移る為に、年齢に見合わない大きな声を上げる。手伝いを依頼されたメルエは、また一つ頷いた後、未だに自分に縋り付きながら涙を流すサラを引き摺るように老人の後について行った。

 一人残されたカミュは、何かを考えるように目を瞑って、大きな溜息を吐く。

 それが何を意味する溜息なのか。

 それは、近くにあった椅子に座り天を仰いでいるカミュにしか分からない。

 

 

 

 湯が沸いた後、リーシャが調理中だったため、サラがメルエを連れて浴場に向かって行った。

 その際に、メルエが少し怯えた表情でカミュに助けを求めていたが、カミュはそれを敢えて無視する事にする。その時のメルエの絶望にも似た表情を思い出すと、流石のカミュも口元が緩んでしまった。

 

「……そうか……あいつ等はまだ山中を彷徨っているのか……」

 

 父親からメルエの話した内容を聞いた道具屋の男は、テーブルの上に置く手を握り締めて、唸るような声を絞り出していた。

 

「……」

 

「これ、トルド! お客人の前でそのような顔をするな。まだ、アン達だと決まった訳ではなかろう」

 

 『トルド』というのが、この道具屋の名前なのであろう。

 父親に窘められ、ようやくカミュの存在を思い出したように顔を上げたトルドは、『すまない』と一言言葉を放つが、再び俯いてしまった。

 

「……このような事を聞いて良いものか迷いますが、何故奥様とお子様は村の外に出たのですか?」

 

 村の外は魔物が蔓延る危険地帯だという事は知っていた筈だ。

 それでも、妻と子の女二人で外に出たには訳があるのだろう。そう考えていたカミュは、会話を始める為に口を開いた。

 他人の内情に対して、自分から干渉する事の少ないカミュには珍しい事である。

 

「……わからない……」

 

「……」

 

 しかし、トルドの答えは予想外のものであった。

 トルドの父親も同じ様に顔を下げた事から、父親も知らないのであろう。そんな二人の態度に、カミュの疑問は更に大きくなって行った。

 

「普段は絶対に村の外には出なかった。出る理由もなかった……何故か、あの日に限って出て行ったんだ」

 

「……そうですか……」

 

 トルドは眉を顰め、何かを吐き出すように言葉を紡ぐ。それはとても痛々しいものであり、問いかけたカミュ自身の表情も歪んでしまう程の物だった。

 

「いや、出て行ったんじゃない。アイツは近くに買い物に出る時や水汲みに行く時にすら、あそこに書置きをしていく奴だった」

 

 トルドが指差す場所には、壁にかかった黒板があり、石灰を固めたような物で文字などを書けるようになっていた。

 つまり、忙しい道具屋を営む家族内で、何かを伝える時は黒板に用事を記す事になっていたと言う事なのだろう。

 

「それが、書置きもなかった。俺は連れ出されたんじゃないかと思っている」

 

「誰にですか?」

 

 カミュは静かに話の続きを促す。父親の方の顔は、話が進むにつれて表情を一段と歪めて行っていた。

 その表情から見る限り、この先でトルドが語る者の名を、この父親も予想していたという事なのだろう。

 

「あの時はちょうどこの村にカンダタ一味が来ていた。そして、妻たちが居なくなった日に、カンダタ一味もまた、この村を出て行った」

 

「トルド!!」

 

 トルドが真相を語ろうと口を開いた拍子に、父親の大きな声が響いた。

 トルドの口から出た名は、この村の救世主である者の名。

 義賊と名乗る盗賊団の総裁の名前だったのだ。

 トルドを諌めるように声を上げた父親の表情は複雑な物であり、カミュは二人の様子から、大凡の全貌を悟る事となる。

 

「あの娘達は、魔物に襲われたのだ。山中で魔物に襲われて命を落としたのだ。お前も見ただろう?……あの娘達の骨を……」

 

「……ああ……傍に矢が数本落ちていたがな……」

 

「……矢……?」

 

 父親には、トルドに言い聞かすというよりは、自分がそう思い込もうとしているような節があった。

 それは、返したトルドの言葉に込められた一つの単語が示しており、そして、それはカミュの予測が間違っていなかった事も示唆している。

 

「ああ、弓矢の矢だ。妻たちの遺品と一緒に矢が数本落ちていた」

 

「……それは……」

 

 見当はついてはいるが、それでもカミュはトルドへと問いかける。もはや父親の表情は、悲痛を通り越して、苦痛へと変化していた。

 そんな父親の表情が見えていないかのように、トルドはカミュの問いかけに答える為に、まっすぐカミュの瞳を見つめ返す。

 

「この辺りで、弓矢を使う魔物はいない。必然的に人間の物だろう。妻と娘の死に関係はないかもしれない。だが、俺は……」

 

「……トルド……それこそ、この方達には関係のない事だ。もう、よしなさい」

 

 トルドの独白はどこまでも続くような感じで進められていたが、父親がそれを止めた。

 父親の言う通り、トルドの語る内容は個人的な話であり、カミュ達には関係がない話であろう。それを十分に理解していて尚、カミュは問いかけ、トルドは語っているのだ。

 カミュを知る者から見れば、自身に関係のない事を問い質す今日のカミュは、異常である。

 

「わかっているさ。だけど、納得いかないんだ。本当に、俺の妻と娘は魔物に襲われたのか?……アンタ、カンダタの討伐に向かうんだろう?……だったら頼む。その真実を聞いてきてくれないか? 頼む!」

 

「トルド!!」

 

 カミュはようやく、何故トルドが自分達を家に招いたかを理解した。

 最初から、これを言うつもりだったのだろう。

 カミュ達がカンダタ討伐に向かっている事は、トルドとの最初の会話で認めていた。つまり、トルドはカミュ一行の実力が確かならば、必ずカンダタ一味との接触があると踏んでいたのだ。

 

「……わかりました……」

 

「お客人!!」

 

 カミュの了承の言葉は、トルド親子には意外な物だったのだろう。父親はカミュを窘めるように言葉を発し、トルドに至っては完全に言葉を失っていた。

 おそらく、この場にリーシャやサラが居たとしたら、二人の口はぽっかりと開いていた事だろう。

 

「……真実が解るかどうかはお約束できませんが、それに向けて行動する事はお約束致します」

 

「そ、それで構わない。ありがとう。頼む」

 

 トルドも、真実を知る為に、この家を飛び出して行きたいと何度も考えた筈だ。ただ、年老いた両親、しかも母親の方は嫁と孫を同時に失ったショックで寝たきりになっていて、父親もその母の看病でつきっきりの状態で置いて行く訳にはいかなかった。

 だからこそ、自分でその真実を知る為の行動が出来ない悔しさを噛みしめながらも、カミュへと託すしかなかったのだ。

 

「よし、ある程度仕込みはできた」

 

 そんな三人の間に流れる空気を全く無視した声が居間に響いた。

 巻くってあった袖を元に戻しながら台所から戻ったリーシャである。

 久しぶりに調理をした事に喜びを感じているのか、充実した良い笑顔を作りながらの登場。カミュはそんなリーシャの顔を暫く見ていたが、いつものように一つ溜息を吐いた。

 

「ん?……何かあったのか?」

 

「いや、なんでもない。料理の仕込みが終わったのなら、メルエ達の後にアンタも湯浴みをして来たらどうだ?」

 

 カミュの表情に自分が場違いであるような感覚を持ったリーシャがカミュへと問いかけるが、返って来たのは溜息交じりの回答であった。

 しかし、それはどこか温かみを宿している。

 

「いや、私は食事が終った後に入らせてもらおう。サラとメルエが一緒に入っているのか? ならば、カミュがその後に入れば良いだろう。カミュが上がった後に食事にしよう」

 

 溜息混じりながらも、女性である自分に湯浴みを先に勧めてくれたカミュの心遣いに幾分感謝しながら、リーシャは席についた。

 カミュもそれ以上リーシャに勧める事はせず、自分が次に入る事を了承する。

 

 

 

 その後、身体から湯気を上げて浴場から出てきたメルエの姿に、リーシャとカミュは少なからず驚いた。

 黒に近い茶だと思っていたその髪の毛は、明るく綺麗な茶であり、少し日に焼けたように褐色がかったものであった肌は、透き通るような白になっていたのだ。

 髪の毛は、奴隷として買われた頃から洗う事が出来ずに、埃と油に塗れていたのであろう。肌も、垢と埃や泥等で色を変えられていたのかもしれない。

 

「驚きましたか?私もメルエの身体や髪を洗って行くうちに、驚いてしまいました」

 

 サラも言葉通りにメルエの変貌に驚きながら世話をしていたのであろう。それ程にメルエの姿は変化していた。

 白く透き通るような肌は、湯を浴びた事で上気しており、表情は柔らかな笑みに変わっている。

 

「その服はどうした?」

 

 メルエの変貌はそれだけではなかった。

 リーシャが問いかけた通り、湯上りのメルエは、カミュに買ってもらった<とんがり帽子>こそ、その手に持ってはいるが、服装は今まで着ていた<布の服>ではなく、緑を基調とした可愛らしい服に変わっていたのである。

 

「ああ、お下がりで申し訳ないんだが、<布の服>一枚ではあまりにも可哀そうだと思ってね。アンの着ていた物なんだが、サイズもピッタリのようだし貰ってもらえないか?」

 

「……良いのですか……?」

 

 リーシャの問いに答えたのはトルドであった。

 メルエの為に、自分の中で踏み込んではいけない思い出の扉を開き、最愛の娘の着ていた服を取り出したのであろう。それは、決して軽々しく着て良い物ではない。

 故に、カミュはトルドへと問いかけたのだ。

 

「家の中で眠らせているよりも、メルエちゃんのような女の子に着て貰えれば、服も喜ぶだろう。それに思い出になる物は他にもある」

 

 カミュの問いかけに、哀しみを帯びた笑みを浮かべながら、トルドは優しく答える。実はトルドも、アンの服を着たメルエを見た時に不覚にも涙が出そうになっていたのだ。

 正直、アンとメルエはそこまで似ていたとは言えない。

 だが、何故かその面影を想わせるのだ。

 

「メルエ、お礼を……」

 

「……???……」

 

 サラがメルエの背中を押し、トルドへ感謝の意を示す事を促すが、当のメルエは何をすれば良いのか分からずに、サラの顔を見て小首を傾げている。

 

「メルエ、おいで」

 

 そんなメルエにリーシャが呼びかけ、メルエが『とてとて』と自分の下へ駆け寄って来るのを見ながらリーシャは顔を綻ばせる。メルエが不思議そうにリーシャを見上げ、リーシャはメルエに視線を合わせるように屈み込んだ。

 

「メルエ、人から何かをしてもらった時には、感謝の言葉を伝えるんだ。メルエはトルドさんから娘さんの服を頂いた。メルエが今まで着ていた<布の服>より着心地が良いだろ?」

 

「…………ん…………」

 

 メルエを傍に寄せ、諭すように一から教えるリーシャにメルエは真面目に頷いている。サラはその二人の様子に、再び母子の姿を思い浮かべる事となった。

 それは、サラだけではなく、トルドもトルドの父も、アンとその母を思い起こしていた。

 

「感謝の言葉は何か分かっているな? カミュや私、それにサラも、メルエに対して言った事があるだろ?」

 

 リーシャの確認の意味を込めた問いかけに、メルエは考え込むように眉を下げ、暫し黙り込んだ。

 そして、自分の頭を撫でながらカミュやリーシャが発した言葉を思い出す。自分が言われて、とても嬉しかった言葉を思い出したメルエは、自信なさ気にリーシャを見上げた。

 

「…………あり………がと………う…………?」

 

「うん。そうだな。では、今度は、メルエがその言葉をトルドさん達に言う番だ」

 

 リーシャの言葉にこくりと頷き、確認の意をこめてメルエはカミュの方を見た。

 カミュも自分に視線を向けたメルエに対して頷き返す。カミュの頷きを見たメルエは、トルドとその父の前まで移動して行った。

 

「…………ありが………とう…………」

 

「……ぐすっ……い、いや、良く似合っていて……良かった」

 

「……そうじゃな。よう似合っておる」

 

 今までの一行のやり取りにトルドの涙腺は壊れていた。

 トルドの父も同じである。そんな二人とメルエを見て、何故かサラまでもが涙を流していた。

 自分の言葉でトルドを泣かせてしまったらしい事に驚いたメルエは、リーシャとカミュの方を慌てて振り向くが、そこにあったリーシャの優しい笑顔を確認し、安堵する。

 

 

 

 その後、寝ていた筈のトルドの母も、トルドに抱きかかえられながら一行の前に姿を現し食事を共にする事となり、精神的な面から体力を失くしていた母親の方は、意識等はしっかりとしていて、メルエの姿を見て涙を流しながら微笑み、その姿にまたトルド親子は涙するという何とも言えない優しい雰囲気が、数年ぶりにトルド家を満たして行った。

 食事も終え、後は眠るだけとなり、ベッドが二つしかないという事から一つのベッドをサラとメルエで使い、もう一つをリーシャが使う事になった。

 カミュはというと、居間の暖炉のそばに毛布を敷き、その上で寝るという、野宿とあまり変わらないものとなる。

 そして夜が更けて行った。

 

 

 

 家の中を闇と静寂が支配する真夜中。

 家の者が誰も起きていないことを証明するように、家の中では物音一つしない。

 そんな中、サラは何故か目が覚めた。

 目を開いても、その先は真っ暗な世界しか広がっていない。暫くして、目も闇に慣れ、周囲の物の輪郭が確認できるようになって初めて、サラは自分の覚醒の理由が分かった。

 

 メルエがいない。

 

 いざ寝るとなった時、てっきりメルエはリーシャと一緒に寝る事を希望するだろうとサラは思っていた。

 しかし、リーシャが割り当てた物はサラとメルエが一つのベッドで眠るもの。考えれば、身体が大きなリーシャとよりも、サラとメルエの二人の方が窮屈な思いをする事なく眠る事が出来るだろう。

 自分と会話をするようになったとはいえ、母親のように慕うリーシャと共に居たがるのではと思われていたメルエは、素直に頷き、サラと共にベッドに入ったのだ。

 そのメルエの体温の温かさを感じながら眠りに落ちて行ったサラであったが、その温もりが失われ目が覚めたのだろう。もしかすると、やはり夜中に恋しくなり、リーシャのベッドに移ったのではないかとも思い、リーシャのベッドまで移動して、掛っている毛布を少し上げてみるが、中にはリーシャしかいない。

 

「うん?……どうした、サラ?」

 

 自分に近づく気配がサラのものである事が解っていたリーシャは、サラのしたいようにさせてはいたが、その奇妙な行動に声を掛けざるを得なくなる。

 

「あ、い、いえ、なんでもないです」

 

 起きているとは思わなかったリーシャから掛った声に驚いたサラは、慌てて両手を振りながら答えを返す。リーシャは目を開けてもいない。

 サラの行動は奇妙な物ではあったが、心配する程の物ではないと感じたのだろう。

 

「なんだ?……まさか、その年にもなって一人で眠れないとでも言うつもりか?」

 

「そ、そんなことありません!」

 

 リーシャの言葉は、完全にサラを子供扱いしているものであり、サラは思わず声を上げる。

 正直、サラはアリアハンにいる頃、一人で眠るのが怖くなった事は何度もある。神父様と一緒に除霊に向かった後や、神父様から勉強の為にと除霊の話を聞いた夜だ。

 しかし、そんな夜も自分のベッドで毛布に包まり耐え、誰かのベッドに潜り込む事などありはしなかった。

 

「……サラ……声が大きい。メルエが起きてしまうだろう。何でもないのなら、もう寝ろ。明日も、朝の礼拝が済んだら鍛練だぞ。寝ておかなければもたない」

 

「……は、はい……すみません……少し用を足してきます」

 

 サラの言葉を聞き、再びリーシャは毛布をかけ直し眠ってしまった。

 サラの気配を感じる事の出来るリーシャが、メルエがいなくなっている事に気付いていない事を不思議に思いながらも、サラは部屋の戸を開け外に出る。この部屋にもいないとなると、メルエが外に行ったのは間違いないからだ。

 カミュのところかとも思ったが、居間の暖炉の傍で、座りながら眠るカミュの姿を見てメルエがいない事はすぐに分かった。

 ならば、やはりこの家にもいないだろう。

 つまりは外。

 

 『まさか、アンを探しに山の中に入ったのではないか?』

 

 そんな最悪の考えがサラの脳裏に浮かぶ。

 音をたてないように家の戸をあけ、サラは外へと出て行った。

 村の中も人工的な明かりは皆無となり、完全に闇に支配されていたが、満月に近い月明かりが明るく村を照らしているおかげで、足元に注意を払う必要はない。

 村の中央の通りを歩き、右手に泉を見ながら村の出口の方向にサラは歩を進めて行った。

 左手に昼間に寄った武器屋があるが、当然その明りは消えており、戸も閉まっている。そのまま真っ直ぐ歩くと、左手に教会が見えて来た。

 その教会は、アリアハンやロマリアの教会とは違い、墓地も併設されているようで、教会の右手に柵で覆われた墓が見える。

 

「えっ!?」

 

 自分の中で湧き起こる夜の墓地への恐怖を鎮める為、出来る限り墓地の方向を見ないようにしていたサラであったが、確認の為とちらりと見た視線の端に、月夜に明るく輝く茶色の髪をした小さな人影を見つけた。

 

「メ、メルエ!?」

 

 恐怖心を抑え込み、もう一度墓地を見ると、やはりその人影はメルエに間違いない。一つの墓の前に佇んでいるように見え、彼女はこちらに背を向けているので、その表情までは確認できないが、サラは焦燥感に駆られ、教会へと急いで駆け出した。

 

 

 

 教会に辿り着き、息を切らせながらその大きな扉に手をかけると、何の抵抗もなく扉が開く。

 基本教会は、夜中だろうが早朝だろうが、救いを求める者にその扉を閉ざす事はない。不用心と言えば不用心ではあるが、神父などが済む住居にはしっかりと鍵が掛けられているのだ。

 教会の内部に入ると、礼拝堂が広がり、前方にはルビス像が天に向かって祈りを奉げている。ルビス像の後ろや、天井にはステンドグラスが貼られており、月夜に照らされ綺麗な色彩を放っていた。

 その美しさにアリアハン時代を思い出し、祈りを捧げようかと思ったサラであるが、まずはメルエを探さなければと墓地へと通じる道を探すため周辺を見渡す。暫し周囲を見渡していたサラは、ルビス像へと続く赤絨毯の道から外れた右側に、小さな一つのドアを見つけた。

 完全に閉じてはいないドアの隙間から月光が漏れている事から、そのドアの先が外である事を示している。

 ドアノブに掛ける自分の手が小刻みに震えている事を意図的に無視し、サラはドアをゆっくりと引いて行く。ステンドグラスを通しての物ではない直接的な月光に、サラの目は一瞬眩んだ。

 何とか慣れて来た目を見開き、メルエを探すと、一つのお墓の前で男性と思われる人間とメルエが話しているのが見える。

 

「メルエ! こんな夜中に外へ出ては駄目ですよ」

 

 人と話している事に幾分か安堵したサラは、メルエへの叱責も兼ねた呼びかけをしながら近づいて行く。メルエはサラの声に気が付き、ゆっくりと近づいて来るサラを不思議そうに見つめていた。

 

「…………サラ…………?」

 

「そうですよ。メルエが一人で出て行ってしまうから、探しに来たのです。何をしていたの………!!」

 

 メルエに近づいたサラは、発していた言葉を途中で飲み込んでしまう。メルエの足元に男性が転がっているのだ。

 墓地で倒れている男性という事実が、サラの言葉を失わせてしまう。そして、その横に平然と立っているメルエに疑惑の視線を向けてしまうのだった。

 

「メ、メルエ……何をしたのですか……?」

 

 サラの問いかけに、一度地面に倒れている男性に視線を向けるが、何の興味も示さず、再びサラへと視線を戻した。

 

「…………ねてる…………」

 

「えっ!?」

 

 『男性が倒れている=死人』

 そう考えてしまったサラであったが、返って来た答えは簡潔明瞭な物だった。

 驚いて確認すると、確かに地面に転がっている男は、ゆっくりと身体を揺らしながら小さないびきをかいていた。

 

「……よかった……」

 

 『ほうっ』と息を吐き安堵を表すサラの視線が、自然とメルエが対峙していた男の足元へと移って行く。メルエの姿を確認していた事で忘れてはいたが、確かにメルエは男性と話をしていた。

 恐る恐る、サラはその足元から視線を上げて行く。先程とは違い、今や手だけではなく、サラの身体全体が小刻みに震え始めていた。

 

「……あ………あ……あ…あ……あ………あ……」

 

「やあ、今晩は……君はこの娘のお姉さんなのかな? 私は、この村では偉大な武道家として知られている者だ」

 

 サラが見上げた男性。非常識にも、今サラに向かって自己紹介をしている男性は、サラにもしっかりと見えている。

 先日の女の子のように、メルエだけが見えている訳ではない。

 ただ、その姿は、はっきりとは見えているが、身体の向こうにある景色までもはっきりと見えるのだ。

 つまり、その男の身体は透けているという事になる。

 

「……あわわ……あわ……あ……」

 

「…………あわ…………?」

 

 完全に尻を地面に付けてしまったサラは、うわ言のように何か言葉を発してはいるが、それが何なのか判別できない。メルエもまた、サラの言葉の意味を図りかねて、小首を傾げていた。

 

「……ふむ……そうだの……これも何かの縁。お主達に良い事を教えてやろう」

 

 サラの混乱状態に全く関心を示さず、その武道家を名乗る男の魂は話を進めて行く。既に、サラの目は白目をむき始めており、発している言葉通りに口端に泡が出来始めていた。

 普通の人間ならば、それが危険な状態なのが解るのだが、そこにはメルエしかいない。サラの状況より、武道家の魂の話し出す内容の方がメルエの興味を引いていた。

 

「私は、素手で熊を倒したと噂になってはおるが、実は<鉄の爪>を装備していたのだ。アハハハッ、非力な者でも装備品で変わって行く。忘れるな……」

 

「…………ん…………」

 

 サラがいよいよ危なくなっている横で、メルエが武道家に向かってこくりと頷いた。

 そのメルエの頷きに満足そうな笑顔を浮かべた武道家は、その姿をゆっくりと景色と同化させて行く。サラは、残る黒目の端でその姿を捉え、そしてそのまま意識を失った。

 

 

 

「おい! おい!」

 

 サラは自分にかかる声と、揺さぶられる身体に意識を覚醒させて行く。ゆっくりと目を開けると、自分の顔を覗き込むカミュの顔と、その横から心配そうに顔を歪めたメルエの顔が映った。

 

「…………おきた…………?」

 

 サラの目が開かれた事に安堵したような言葉を漏らし、メルエの表情から歪みが消えて行く。カミュはそんなメルエの頭を撫でながら、再びサラに向き直った。

 

「大丈夫か?」

 

「え、えっ??……あ、は、はい。あれっ、私、何でこんな所に……」

 

 サラは、意識は取り戻したものの記憶が混乱していた。

 いや、無意識にサラの頭脳が感じた恐怖を忘れようとしていたのかもしれない。しかし、彼女の仲間達はそんな事を許す程、甘い人間達ではなかった。 

 

「…………サラ………あわ………あわ………言ってた…………」

 

「……幽霊を見て失神する僧侶とはな……」

 

「なっ、なっ……」

 

 メルエの冷たい実況中継。

 止めを刺すようなカミュの一言。

 サラの記憶は、否応なしに復元されていく。

 

「い、いやぁぁぁぁぁぁ!!」

 

「…………サラ………うるさい…………」

 

「まだ夜更けだ、騒ぐな」

 

 記憶の覚醒による叫びも、この二人は許してくれない。

 もはや、サラに残された選択肢は、泣く事だけであった。

 

「…………また………泣いた…………」

 

 『メルエは本当に自分のことが嫌いなのか?』

 そう感じずにはいられない程に、メルエの言葉は冷たいものだった。

 

 こつん

 

「!!」

 

 しかし、そんなメルエの容赦のない攻撃は意外な人物によって止められた。

 拳を軽くメルエの頭に落としたカミュは、突然頭を叩かれた事への驚きに、目を見開くメルエの瞳を見据えて苦言を呈す。

 

「コイツはメルエが夜中に出て行った事を心配して、ここまで来た。今回悪いのはメルエ、お前だ。本来なら、メルエがコイツに謝らなければならない」

 

「…………」

 

 メルエは、カミュの目が真剣なのを理解し、自分が叱責を受けている事を理解する。幼い頃から、罵倒や暴力を受けた事は何度もあるが、これ程真剣に叱られた事のないメルエの目に、自然と涙が溢れていった。

 

「後で、しっかりとコイツに謝れ」

 

「…………」

 

 溢れる涙を抑える事をせず、唇を噛みしめながらこくりと頷いたメルエの頭をカミュが優しく撫で、そんなカミュの仕草に、必死に抑えていたメルエの涙腺が崩壊する。

 泣き声を上げる事はなくとも、墓地の地面に水滴を落とすメルエに、カミュは一つ溜息を吐き出した。

 

「さあ、メルエ。あの脳筋戦士も呼んで来てくれ」

 

 ぼろぼろと涙を溢すメルエは、それでもカミュの頼みに大きく頷き、道具屋への道を駆けて行った。

 残ったのはカミュとサラ。

 自分の失態の全てを知られた事への恥ずかしさもあり、サラは口を開く事が出来ない。

 

「……カミュ様……この事は……リーシャさんには……」

 

 やっと開いた口から出た言葉は『せめてリーシャだけには隠してほしい』という、体裁を繕うための自己防衛だった。

 そんなサラの最後の望みも、カミュによって断ち切られる事となる。

 

「……アンタ、立てるのか?」

 

「えっ!?」

 

 サラはカミュの言葉を理解するのに時間を要した。

 『立つ?』

 そう言われてみれば、腰から下に力が入らない。

 

「……幽霊を見て……腰を抜かし、失神する僧侶か……」

 

「うぅぅ……どうしてメルエは、よりによってカミュ様をお呼びしたのですか!?」

 

 それはサラの切実な叫びであった。

 最初からリーシャを呼んで来てくれれば、カミュに知られないようにする事は出来たかもしれない。メルエが、今日の出来事を詳細に伝える事が出来るとは思えないし、必要がなければ話す事もしないだろう。

 それなのに、よりにもよって真っ先に伝えたのがカミュなのである。居間の暖炉の傍という、部屋に戻る途中にいたとはいえ、『何もカミュを呼ばなくても良いではないか』というサラの叫びであった。

 その叫びは、次のカミュの言葉で絶叫に変わる。

 

「それにな……運ぶだけなら俺だけでも出来るが……言い難いんだが……アンタ、失禁しているぞ」

 

「えっ、えっ!? えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

 

 カミュから告げられた最後通告。

 それは、サラを奈落の底へと落とす、とんでもない爆弾であった。

 腰を抜かし、失神。

 おまけに失禁までとは、もはや、余すところなく隅から隅まで網羅だ。

 

「うぅぅぅ……ぐすぅ……うぇぇぇぇぇん……」

 

「お、おい……」

 

 サラに残されたものは、もう泣く事しかなかった。

 十七歳にもなる、この時代では結婚適齢期の女性が、自分よりも年下の男性に失禁した事実を告げられる。

 こんな屈辱がある訳がない。

 逃げ出したくても、下半身に力が入らない。

 記憶を消去したくても、覚醒した記憶が消え去る事はない。

 サラの悲痛な泣き声は、事の顛末を知ったリーシャがカミュを追い出した後まで、この寂れた村の墓地に響いていた。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

本日中に、もう一話更新したいと思います。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ロマリア大陸②

 

 

 

 『この先何時まで、自分はこの男を相手に優勢を維持出来るのだろうか』

 

 リーシャは、カミュの剣筋を受けながら、嫉妬にも近い感情を抱く自分に苛立っていた。

 カミュの剣を弾き、自分の剣を突き入れる。もはや、リーシャにもカミュに手心を加える余裕などない。カミュの突き入れてくる剣を払い、その剣を横薙ぎにカミュの腹部に斬り入れる。払われた剣を強引に戻し、カミュはリーシャの剣を受け止めた。

 暫くの間、力比べが続くが、無理やりな態勢であるカミュの分が悪い。剣を滑らせ、リーシャとの距離を取ろうとするカミュを許す程、リーシャは甘くはなかった。

 剣を滑らし後方に引こうとするカミュと同じスピードで、リーシャはそれについて行く。リーシャの剣を離しきれないカミュは、その剣を横に薙ぎ、リーシャの剣を弾いた。

 その行動を予測していたリーシャは弾かれた反動を利用し、がら空きになったカミュの左胸に蹴りを入れる。カミュにはその蹴りに対応する余裕はなく、リーシャの足はカミュの左胸に吸い込まれて行った。

 

「ゲホッ!!」

 

「……残念だったな」

 

 胸を強く打たれ、呼吸が止まったカミュの首筋に剣を突き付けたリーシャが口を開いた。

 以前とは異なり、リーシャの呼吸も若干乱れている。それが、カミュの成長を如実に示していた。

 

「……カミュ、何か悩んでいるのか?……今日のお前の剣は、どことなく覇気がない」

 

 リーシャはカミュの成長は認めたものの、今のカミュの剣に迷いがあるように見えていた。しかも、カミュに語りかけるリーシャの表情を見ていると、その理由も理解している様子である。

 要は確認の儀式なのであろう。

 

「……」

 

 呼吸はすでに回復している筈のカミュからは、答えが返って来ない。それがまた、リーシャの疑問を肯定している事を示していた。

 返答をしないまま、剣を鞘へと戻そうとするカミュの行動をリーシャは許さなかった。

 

「メルエの事か?」

 

「……」

 

 続くリーシャの言葉に、胸を押えながら膝を着いていたカミュは立ち上がり、リーシャの脇を抜けようと歩き出す。何としてでも答えない姿勢を見せるカミュに気分を害す事無く、リーシャは冷静に問いかけ続けた。

 

「……メルエをここに置いて行くべきかを悩んでいるのだろ?」

 

「!!」

 

 リーシャにはカミュの考えていることが本当に解っていたようだった。推測の域ではなく、もはやその口調は断定である。

 しかし、カミュは足を止めたものの振り向く事はしなかった。

 

「別に、お前が『連れて行く』と決めた事を覆していると責めるつもりはない。お前が見て、メルエが幸せに暮らせると思うのなら、そうすれば良い」

 

「……」

 

 リーシャの声は、その言葉通りにカミュを責めるような物ではなかった。むしろ、本当にそう思っているのだろう。数日前に出会ったばかりのメルエを可愛がってはいるが、その処遇に関しては、カミュに一任している事もまた事実なのである。

 

「……ここで暮らすとしたら、あの親子はメルエを本当に可愛がってくれるだろう。それは間違いない………ただ、これだけは言っておく。ここで可愛がられるメルエは、『アン』という娘の代わりだ。あの親子は否定するだろうが、メルエは常に『アン』という少女と重ねられて見られるだろう」

 

「……」

 

 リーシャの言葉に、カミュの肩が小さく揺れた。

 振り向く事はせずとも、リーシャの言葉をしっかりと聞いている事が解る。それは、リーシャにも解っていた。

 故に、リーシャは再び口を開く。

 

「……お前が悩んでいるのは、そこなのだろう? 『アン』という少女の代わりに愛される事がメルエにとって幸せな事なのか………それをよく考えて答えを出せ」

 

 リーシャが話す事は、カミュが考えている事と全く同じ内容であった。おそらく、あの道具屋にメルエを置いて行き、トルド一家と暮らせば、メルエは家族全員から愛を注がれる毎日を送る事が出来るだろう。

 『だが、それは本当にメルエとして愛されているのか?』

 『彼らが失った『アン』という娘や孫の代わりとして愛されるのではないか?』

 『それは、本当にメルエにとって幸せな事なのか?』

 カミュが昨日の夜、溜息を吐きながら考えていた事はそこであったのだ。それをリーシャは、その場にいなかったにも拘らず、正確に見抜いていた。

 このコンビは、どこか深い所で似通っているのかもしれない。

 

「……アンタは……そこまで人の心情が理解出来るのに……」

 

「ん?……なんだ?」

 

 カミュの考えを全て理解していたリーシャに振り向いたカミュは、どこか悔しそうに顔を歪めながら何かを呟くが、それを最後まで話す事はなかった。

 途中で話を止めてしまったカミュを不思議そうに見ているリーシャの視線に耐えられなくなったかのように、カミュは話題を変える。

 

「……今日は、あの僧侶の鍛練はないのか?」

 

「ん?……いや、サラもメルエもまだ寝ている。明け方まで起きていたんだ。今日ぐらいゆっくりさせてやるさ」

 

 メルエもサラも、日付が変わる頃まで起きていた為、早朝鍛練に参加していなかった。

 いや、サラに至っては、昨晩の出来事への自己嫌悪で寝込んでいるような状態と言っても過言ではない。

 

「……まあ、あんな事があれば、起きて来る事が出来ないのも無理はないな……」

 

「カミュ!! その事は、もう言うな! サラも昨日の事は忘れたいと思っている筈だ。良いか? 今後その事に触れる事は、禁止するからな!」

 

 カミュが言っているのは、昨晩のサラの失態だ。

 リーシャとしても、もし自分がそんな姿を晒す事になれば、旅を続けられないだろう。いや、その前に手に持つ剣で自分の首を刎ねるかもしれない。

 

「……わかった。しかし、メルエはどうするつもりだ?……流石に、メルエの口までは責任は持てない」

 

「それなら、昨晩メルエと二人で話した。幸いな事に、サラの失禁の事は、夜であった為にメルエは気がつかなかったらしい」

 

 メルエは、サラが気を失っている事に気が付くとすぐに、カミュを呼びに道具屋へ駆けた。そして、サラを心配し、しゃがみ込むカミュの後ろから覗いていた為、サラの失態は、気を失った事しか知らないのだ。

 サラの腰が抜けた事も、ましてや最大の恥辱の部分も、メルエが去ってからカミュが話した事で、メルエに気が付かれてはいない。メルエが解るとすれば、サラが幽霊と呼ばれる物を恐れているという事だけである。

 

「……なるほどな……」

 

「カミュ、これについては、お前の配慮に感謝する他ない」

 

 リーシャは、カミュへと軽く微笑みを返す。

 その微笑みから視線を外すように、カミュは顔を背けた。

 

「……そこまで考えていた訳ではない……」

 

 カミュはそう答えるが、リーシャはそうではないと思っていた。

 サラの失態に気がついた段階で、メルエを必要以上にサラに近付ける事をせず、すぐに注意を自分に向けた後、その場を立ち去らせた事。それが、女性であるサラに対する配慮でなくて何だというのだ。

 

「ふふっ、まあ、そういう事にしておこうか」

 

 天邪鬼のように否定するカミュを微笑ましく見るリーシャが気に入らず、カミュは鋭い視線を向けるが、表情のあるカミュに対しては、恐怖を感じなくなったリーシャはどこ吹く風である。

 

「しかし、メルエはあんな夜中に、ただ幽霊に会う為に外に出たのか?」

 

「……さあな……」

 

 リーシャに答えるカミュは言葉とは裏腹に何かを解っている様子であった。メルエが夜中に外に出る理由など、カミュには一つしか思い浮かばない。その予想は、おそらく外れてはいないだろう。

 

「……そうか……まあ、メルエの事はお前に任せたぞ。メルエを置いて行くにしろ、連れて行くにしろ、今のお前なら真剣に考えた結果だろう……ならば、私達はそれに反対を唱える事はない」

 

 リーシャは、『メルエがパーティーに加入してから、カミュは変わった』と感じていたが、カミュから見れば、リーシャも同様なのである。

 リーシャの今の言葉は、決してアリアハン大陸では出なかった物だろう。

 

 『今のカミュであれば、真剣にメルエの幸せを考える筈』

 

 リーシャが考えている事は、ある意味、カミュの人柄を信じているという事になる。

 何度も衝突を繰り返し、価値観や見聞の違いをまざまざと見せつけられているのにも拘わらず、リーシャはカミュのその人間性を信用し始めているのだ。

 おそらく、リーシャ本人は気付いてはいないだろうが、確実に、この二人は変化している。

 

「……」

 

 そんなリーシャに、カミュは見た目では分からない程の悔しそうな表情を再び浮かべ、無言で踵を返し道具屋へと向かうのであった。

 

 

 

 サラとメルエが起床した際、サラは鍛練に遅れた事を必死にリーシャに謝るが、リーシャは優しく微笑みながらそれを許した。

 何度も頭を下げていたサラが、リーシャの後ろから現れたカミュの姿を発見した時の表情は、後にメルエにからかわれるものとなる。

 それは、まさしく絶望。

 この世であり得ないものを見たような、自分の生を諦めたような、そんな表情。

 目を見開き、顔は青ざめ、歯が噛み合わない。昨晩の失態を見られたという事は、サラにとって恥ずかしいという次元の問題ではなく、もはや死を望む次元の物なのかもしれない。

 

「……随分遅い起床だな。大事なお祈りとやらは、しなくても良かったのか?」

 

「えっ!?」

 

 カミュの言葉通り、サラは起きてから日課の礼拝を行う為に、教会へ向かってはいなかった。

 それは、昨晩の出来事に対する心の動揺によって忘れていたのではなく、潜在意識の中で故意に教会に向かいたくないという表れであったのかもしれない。

 教会に足を踏み入れれば、否応にも昨晩の事が思い返される。ルビス像に祈りを捧げている最中にその事を思い出せば、サラはきっと、こんな試練を自分に与え給うた『精霊ルビス』に愚痴を言ってしまうだろう。それでは、『精霊ルビス』の下にいる僧侶として失格である。

 

「今日は良いだろう。サラ、今日は部屋でお祈りをしろ」

 

「あっ、は、はい!」

 

 容赦のないカミュの指摘に、顔をしかめたリーシャがサラへと妥協案を出し、思わぬ助け船に青ざめていたサラの顔に生気が戻る。しかし、それもサラの後方から忍び寄る小さな影に即座に奪われた。

 

「…………あわ………あわ…………」

 

「メ、メルエ!……うぅぅぅ……」

 

 サラをからかうように、昨日意識を失う前のサラの言動を真似するメルエが、服も寝巻きのままでサラの後方から現れたのだ。

 そんなメルエからの揶揄に、再び暗い影を背負ったサラは顔を俯かせる。他人の機微を感じる事を学んでいないメルエには、それが楽しい物として理解されたのだろう。 

 

 ゴツン!

 

 再び昨夜のサラの口調を真似しようとしたメルエの頭に衝撃が走る。昨晩、カミュに落とされた拳骨の衝撃とは比べ物にならない程の痛みが、メルエの頭部を襲った。

 驚いたメルエは、痛む頭に手を翳し、衝撃が来た方向へと視線を移す。

 

「メルエ、サラが嫌がっているだろう! 人の嫌がる事をするのは、いけない事だ」

 

 メルエが見た方向にあったのは、出会ってから初めて自分に向けられたリーシャの表情であった。

 メルエには何故、自分が叩かれたのかが理解出来てはいない。自分は面白いと思った事をしていただけなのだ。

 訳が分からず、助けを求めようとカミュの方を見るが、カミュの瞳は、厳しくメルエを見据えている。メルエを受け入れる様子がないカミュを見て、メルエの胸中に不安が広がって行った。

 

「メルエ、今メルエがサラにした事は、サラにとってとても嫌な事なんだ。メルエを心配して、夜中に探しに来てくれたサラに対して、メルエは嫌な事をするのか?……感謝の気持ちも表わさずに、メルエは大事な仲間を傷つけるのか?」

 

 常に自分を優しく包んでくれていたリーシャが豹変した事に、暫く驚いていたメルエであったが、尚も続くリーシャの叱責に、昨晩と同じように無意識に目に涙が溜まって行く。今のリーシャには、昨日のカミュのように優しく諭すような雰囲気はない。

 

「あっ、メルエ!」

 

 リーシャが怖くなってしまったメルエは、その場から逃げる事を選択した。

 『とてとて』と走り、味方だと信じるカミュの所へ辿り着き、そのマントの中に潜り込もうとする。

 しかし、それは唯一の味方と信じる者によって阻まれた。

 

「!!」

 

「……」

 

 カミュによってマントに隠れる事を阻害されたメルエは、その双眸を大きく見開き、溜まっていた涙を床に溢す。味方だと信じていた相手に裏切られたメルエの瞳には、新たな涙が溢れ出し、もはや止める事が出来ない。

 そんなメルエと視線を合わせるようにしゃがみ込んだカミュは、ゆっくりとメルエへと語りかけた。

 

「……メルエ……昨晩、俺とした約束は果たしたのか?」

 

「!!…………………」

 

 静かなカミュの声に顔を上げたメルエは、しばらく黙り込んでいたが、観念したようにゆっくりと首を横に振った。

 小さな溜息を吐いたカミュは、メルエの肩に手を乗せる。カミュの手が自分の両肩に乗った事に身体を跳ねさせたメルエであったが、それ以上の暴力が自分に及ばない事を理解し、再びカミュの顔を涙の溜まった瞳で見詰めた。

 

「……謝り方が解らないのか?」

 

「…………」

 

 カミュの言葉に、メルエは黙ったまま、頷きもせずに佇んでいる。そのメルエの姿が、カミュの問いかけを如実に肯定していた。

 再び小さな溜息を吐き、カミュは再度口を開く。

 

「……感謝の言葉は、昨日言っただろう?」

 

「…………」

 

 今度はメルエの首が縦に動く。

 それを確認し、カミュは言葉を続けた。

 

「まずは、夜中にも拘わらず、メルエの身を心配して歩き回ってくれたあの僧侶に感謝の言葉を。自分の事を、あれ程に心配してくれる人間がいる事は、メルエにとってとても幸せな事だ」

 

「……カミュ様……」

 

「……カミュ……」

 

「…………」

 

 カミュの言葉に、サラとリーシャの二人も驚きを隠しきれない。あのカミュがサラの擁護をしているのだ。

 メルエは、涙が流れ続ける瞳を拭う事もせず、カミュの瞳を見つめ、小さく頷いた。

 

「謝り方は、あの戦士に聞け」

 

 しかし、再び突き放され、先程自分に拳骨を落とした相手に突き出されそうになると、メルエの目に怯えの感情が現れる。眉を下げて、許しを乞うような視線を向けるメルエに、カミュは小さく溜息を吐き出した。

 

「……大丈夫だ……あの戦士には脳味噌は足りないが、訳もなくメルエに暴力を振るう人間ではない。メルエが悪い事をしない限りは、心配する必要はない」

 

「…………」

 

「……カミュ……覚悟は良いのか……?」

 

 真剣に見つめ合うメルエとカミュの二人を見ていたリーシャが、カミュの一言が引っ掛かり、怒りを露わにする。そんな、いつものやり取りに近い状況になって初めて、サラの表情にも余裕が生まれてきた。

 リーシャの怒りを余所に、カミュにこくりと頷いたメルエは、恐る恐るといった印象を持つ足取りで、再びリーシャの下へと戻ってきた。

 『とてとて』という覚束ない足取りで近寄って来るメルエに視線を向けたリーシャの瞳から、怒りの炎が鎮火して行く。

 

「…………」

 

 何かを期待するような、メルエの涙の溜まっている瞳に、リーシャはカミュへの怒りを内に戻し、メルエと会話をする方を選んだ。

 

「……メルエは、謝り方が分からないのか?」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの言葉に、今度は素直にメルエが頷く。

 その動作で、未だに流れるメルエの涙が床に落ちて行った。

 

「私達が謝罪をしているところを見ていただろう?」

 

「…………すま………ない……………?」

 

「ぶっ!!」

 

 リーシャに返したメルエの言葉にサラは盛大に吹き出してしまう。

 確かに自分達の行動を見ていたとしたら、カミュにしろリーシャにしろ、その言葉しか言っていない筈だ。これは、リーシャの問いかけが悪い。

 しかし、自分が一生懸命に考えて発した答えを笑われた事に、怒りと悲しみを宿したメルエは、吹き出したサラに鋭い視線を送る。

 

「……ご、ごめんなさい……」

 

 メルエの視線の強さに、サラは条件反射的に頭を下げて謝ってしまった。

 サラが頭を下げても、厳しい瞳を向けるメルエに苦笑を浮かべながら、リーシャはもう一度メルエと視線を合わせ語りかけた。

 

「……メルエ、今、サラが言った言葉が謝罪の言葉だ。人は相手に謝る時には『ごめんなさい』と謝る。それが万国共通の言葉だ。サラは今、メルエを笑った事を謝った。今度はメルエの番だぞ」

 

「…………」

 

 どこか納得しきっていない様子のメルエではあったが、サラが自分に謝罪をした事は理解出来たのだろう。カミュの言う通り、昨晩サラが自分を心配してくれていた事も理解している。

 故に、メルエはリーシャに小さく頷くのだった。

 

「…………」

 

「メ、メルエ?」

 

 いざ、サラの前に移動したメルエであったが、何の抵抗があるのかなかなか口を開かない。もしかすると、サラには不本意だろうが、メルエにとって、サラはライバルに近い存在なのかもしれない。

 

「…………あり………が………とう…………」

 

「は、はい!!」

 

 ゆっくりと、本当にゆっくりと口を動かすメルエの言葉を聞き逃さないように、サラは耳を澄ませる。溜めに溜めた感謝の言葉を聞き、サラの顔に笑顔が戻った。

 メルエは一度頭を上げた後、もう一度サラの瞳を見つめる。

 

「…………ごめん………な……さ……い…………」

 

「は、はい! もう大丈夫ですよ」

 

 メルエの内情が分からないサラは、一生懸命自分に向かって感謝と謝罪の意を表そうとするメルエがとても愛おしい者に映る。

 謝罪を言い終わったメルエを、サラはその胸に掻き抱いた。

 モゴモゴとサラの腕の中で動いていたメルエではあったが、先程までの緊張が抜けて行くのを感じ、再び涙を流し始める。結局、サラの胸でメルエは声を殺して泣く事となった。

 

 

 

「少し話をしたいのだが……」

 

 朝食を取り終えたところで、不意にトルドが口を開いた。

 食卓には昨日の夕食時と同じようにトルドの両親も席に着き、総勢七人での賑やかな食事であったため、重苦しく口を開くトルドに全員の視線が集まる。

 

「アンタ達は、そんな小さな子供まで討伐のメンバーとして扱うのか?」

 

 全員の注目に耐えられなかったのか、トルドは下手に溜めを作らず、考えていた事をそのまま吐き出した。

 それは、今朝カミュとリーシャが語っていた事である。

 

「そ、それは……」

 

 しかし、黙って鋭い目を向けるカミュとリーシャの代わりに答えたのはサラ。それは、如何にも曖昧な、確固たる決意を持ってトルドの意見に対抗する事が出来ない物であった。

 

「アンタ達は良いかもしれない。お二人が腰に差しているのは、この村で売っている<鋼鉄の剣>だ。その剣は、そんじょそこいらの人間に振るえる程の物じゃない。しっかりとした腕を持っている筈だ。お譲さんだって、法衣を纏っているのだから、どこかの僧侶さんなのだろう?……ならば、身を守る魔法も使える筈だ。だが、メルエちゃんは幼すぎる」

 

 トルドは、自分の問いかけに答えたサラでも、目を瞑って腕を組んでいるリーシャでもなく、後ろから鋭い視線を向けるカミュだけを見つめて語っていた。

 対するカミュも視線をトルドから外す事なく、その疑問を真っ向から受けていた。

 

「し、しかし……」

 

「……サラ……」

 

 トルドの言葉に反論しようと口を開くサラを、リーシャが静かに抑える。振り向いたサラに、リーシャは尚も首を横に振る事で、サラの言葉を許さなかった。

 

「カンダタは義賊を謳ってはいるが、所詮盗賊だ。そんな場所に、こんな小さな少女を連れて行く事を俺は認められない」

 

「……であれば、何だと言うのだ?」

 

 やっと開いたカミュの口から発せられた言葉は、この家に入って来てから初めて余所行きの仮面を取り払った物であり、その豹変ぶりに、トルド一家は驚く事となる。

 久しく見ていなかったカミュの能面のような表情のない顔。その表情に、サラの身体は凍り付き、リーシャの瞳は抉じ開けられた。

 

「……メルエちゃんを、うちで預かりたい……」

 

「……」

 

「そ、そんな……」

 

 驚きはしたが、カミュから目を離さず紡いだトルドの言葉に、カミュとリーシャは何も語ることなく、サラは言葉を失っていた。

 カミュは、表情を変えないまま、鋭い視線をトルドへと向けている。

 

「…………いや…………」

 

 その時、一行の話を今まで黙って聞いていた張本人が、満を持して口を開いた。

 一行の視線がその発言元に集まると、そこには、食事をしている最中には横に置いてあった<とんがり帽子>をしっかりと被り、鋭くトルドを睨むメルエの姿があった。

 

「し、しかし、メルエちゃん! 君はまだまだ幼い」

 

「…………いや…………メルエも………行く…………」

 

 メルエの言葉にトルドは反論するが、メルエはその言葉に聞く耳を持たず、椅子から降りてカミュの下へと駆けて行く。

 カミュの下へと辿り着いたメルエは、カミュのマントの裾を掴み、その顔を見上げて自己主張をした。

 

「……メルエ……決めるのはお前だ。ここにいれば、メルエは今までのような不自由をする事なく暮らしていける筈だ」

 

「…………」

 

 カミュの言葉に、メルエは全力で首を横に振る。

 完全なる拒絶。

 リーシャはこの時、メルエの決意を感じた。

 おそらくこの先、どんな人間が現れても、メルエはカミュの傍を離れる事はないのかもしれない。例え産みの親が彼女を再び引き取りたいと言っても、メルエの首は縦に動かないのでないかとさえリーシャは思った。

 

「……わかった……申し出はありがたいが、そう言う訳だ。メルエはこのまま俺達と共に行く」

 

「し、しかし!!」

 

 涙を溜めて見上げるメルエの頭を撫でたカミュは、再びトルドと渡り合う。その口調は、トルドの提案を拒絶する物であり、メルエの望みを叶える物。

 故に、メルエの顔に笑顔が戻って行った。

 

「……アンタの心配も十分に理解出来るが、これは俺達の問題だ。もし、このまま強引にメルエをここで引き取ったとしても、このままでは、決してメルエはアンタ達には懐かないだろう。むしろ、俺達から引き剥がした人間として、恨みの対象となるかもしれない。ここまでお世話になった人間に、そんな想いを抱かせたくないというのも俺の気持ちだ。わかって欲しい」

 

 尚も言い募ろうとするトルドをカミュは静かに拒絶する。相手の気持ちを配慮しながらの物ではあるが、逆に反論する事が出来ない程の拒絶である。それはトルドにも届いたのか、その場に押し黙る沈黙が流れた。

 暫く黙ってテーブルを見つめていたトルドではあったが、おもむろに立ち上がると、後ろにある小物入れから小さな箱を取り出して戻って来た。

 

「……ならば……これを持って行ってくれ」

 

 カミュの傍まで来たトルドは、しゃがみ込んで、その箱をメルエの手の上に乗せる。メルエは、不思議そうにその箱とトルドとカミュを何度も見比べていた。

 

「……これは……?」

 

「開けて見てくれ」

 

 トルドの答えを聞いたカミュはメルエへ箱を開ける事を促した。こくりと一つ頷いたメルエは、その手にある小さな箱の蓋を開いて行く。そこには、小さな棒しかなかった。

 その尖った短い棒には、持ちやすいように布が巻いてあり、その尖った先端は金属にはあり得ない色をしてる物だった。

 

「…………???…………」

 

 開けた箱の中身が全く分からないメルエが、箱を開いたまま小首を傾げる。それはカミュも同じで、箱の中身に皆目見当もつかない。リーシャやサラも同様であった。

 

「それは、<毒針>だよ」

 

「ど、どくばり!!」

 

 問い質すように向けられた四人分の瞳に怯む事なく、トルドは箱の中身の正体を明かす。その内容にサラは驚きを返すが、カミュやリーシャは納得し、メルエに至ってはその品の本質が解らず、反対側に小首を傾げていた。

 

「昔は、この道具屋で売っているような、ありふれた物だったのだが、今はおそらくその一本しか残ってない。それで急所を刺せば、人間は勿論、魔物でさえ一撃で仕留められる筈だ」

 

「……それ程の物なのか……」

 

 トルドの話す内容に、そこまでの品と理解出来たリーシャが素直に感嘆を表す。メルエは箱から毒針を取り出し、しげしげと眺めていた。

 

「これなら、いくら非力なメルエちゃんでも、魔物と戦う事は出来るだろう?」

 

「……しかし、ここまで短い武器では、相当魔物に近づかなければ意味がないだろうな……」

 

 カミュの言う通り、魔物の急所をこの短い<毒針>で刺す為には、ゼロ距離まで近づかなければいけない。それこそ危険という物だ。

 メルエに武器を持たせる事を反対する訳ではないが、わざわざ危険に晒す必要もない。

 

「当たり前だ! それは、いざという時の為の武器だ。メルエちゃんに魔物を近付けないのが、アンタ達の役目だろう。それでも魔物に捕まったりした場合の最後の手段としてくれと言っているんだ!」

 

 トルドはカミュの物言いに、憤慨したように怒鳴りつける。もはやカミュは、トルドにとって、メルエと暮らす事の出来る未来を奪った悪者であったのだ。

 故に、カミュの言動に必要以上の感情を吐き出す。

 

「なるほどな……良かったな、メルエ」

 

「……」

 

 トルドの説明を理解したリーシャは、メルエを見下ろして微笑みを浮かべる。その使用目的を未だに理解しきれていないメルエだったが、リーシャの笑顔から、それが良い物だと理解し、一つ頷いた。

 

「…………あ……りが……とう…………」

 

「!! うぅぅ……ぐすっ……良いんだよ……気をつけるんだよ……」

 

 昨日学習した感謝の言葉を自発的に発したメルエに、トルドの涙腺は再び制御不能に陥る。サラもその様子を静かな微笑みを浮かべていた。

 

 

 

「カミュ殿……少しよろしいか?」

 

 そんな居間での空気を少し離れた所で見ていたカミュは、突然掛けられた声に振り向くと、トルドの父親が暗い顔をして立っていた。

 

「……ああ……」

 

「では、こちらに」

 

 未だに居間で響く笑い声から少し離れた場所まで移動させられたカミュは、トルドの父親の真意を測りかねていた。

 深刻そうに俯くその顔から、あまり楽しい話題ではない事が窺える。

 

「……実は、迷ったのですが、カミュ殿にはお話しておこうと思いまして……」

 

「……なんでしょう?」

 

 再び仮面を被り直したようなカミュの言葉に、父親は話を始める。俯きながら一つ一つ呟くように話す父親の心情は、決して良い物ではないのだろう。

 

「あの子の言葉に気を悪くしないでください」

 

「……いや、全く気にしてはいませんが……」

 

 カミュの返答に、一つ息を吐いた父親は、何度も口籠り、それでも意を決したように語り出す。

 

「そうですか……よかった。あの子は必死なのです。ロマリア国から収入源を奪われた、この村を立て直す事に……」

 

 謝罪から始まった父親の話は、カミュには考えつかないものであり、その証拠に、カミュは父親が何を言いたいのか分からずに、次第に表情を失くしていった。

 

「……あの子には、私達にない商才がありました。私達の代では細々とした商いをしていましたが、あの子の代になってから商売は大きくなり、<薬草>や<毒消し草>の販売だけではなく、この地方独特の<満月草>などの販売も始め、アクセサリー等の販売、そしてこの地方で古くから伝わっていた、あの<毒針>の独占販売など……」

 

「……」

 

 カミュは黙して何も語らない。

 相槌も打たない。

 ただ、何も感じていないような表情で、父親を見つめている。

 

「それが、ロマリア国の鉱山国有化で全てが変わりました。国内の人間の覇気が日々失われ、それに伴い人々の来訪も皆無になって行く。この村に残された選択肢は、滅び逝くだけとなりました」

 

 父親の話は、昨日カミュが仲間に語った予測が当たっている事を物語っていた。

 それと同時に、寂れた村の道具屋に似つかわしくない立派な住居の理由も明らかになる。

 

「そのような時も、行動に移したのはあの子でした」

 

「……カンダタか……」

 

 父親の話の流れで、行きつく先が予測でき始めたカミュが話に入る。カミュの割り込みに、気を悪くする事なく、少し驚きの表情を浮かべた後、父親は大きく頷いた。

 

「その通りです。あの子はカンダタ一味を村に入れる事を提案しました。当初、村の住民は、盗賊を村の内部に入れる事に猛反対しましたが、カンダタが通りかかる時に、あの子が必要な物資を一味に販売し利益を得ている事を知り、反対意見も次第に鳴りを潜めて行きました」

 

「……」

 

 ロマリア界隈でも有名になりつつあったカンダタの一味を村に引き入れる事は、通常村を破滅へと導くような物である。村の住人にしてみれば当然の反対だったのであろう。

 しかし、それでも、トルドは危険な賭けに出たのだ。

 

「村への出入りを許可されたカンダタ一味は、この村に膨大なゴールドを落として行きました。それは、店の種類を問わず。教会にさえも、寄付という名目でゴールドを渡しています」

 

「!!」

 

 カミュは最後の一言に驚きを示す。

 食堂、宿屋、道具屋に武器屋、それらにゴールドを落とす事は、需給の面から見て当然の事だろう。しかし、教会にまで寄進をしていくという事がカミュには信じられなかった。

 教会が崇める『精霊ルビス』は、カンダタのような盗賊を前世での罪人として冷遇している。およそ、盗賊が『精霊ルビス』を崇める理由がないのだ。

 

「教会へのゴールドは、連中が酒に酔った時のものですから、定期的に寄進していた訳ではありません」

 

「……」

 

 カミュの驚きの意味を察したトルドの父親は、慌てて訂正をし直した。盗賊が教会に寄付を行うという行為自体が常軌を逸していただけに、カミュは父親の言葉に納得する。父親のほうは、息を一つ吐き出し、もう一度ゆっくりと語り始める。

 

「ただ、この村が今も尚、村としての形状を保っていられるのも、カンダタ一味が齎したゴールドのお陰と言っても過言ではありません。そして、あの子はカンダタ一味がゴールドを落としやすいように、色々な趣向も凝らして行きました」

 

「……それでか……」

 

 父親の話を聞き、カミュは全てを理解した。

 トルドの感じている罪の意識を。

 そして、この父親が話そうとしている事を。

 

「ええ、ですから、あの子は自分の妻と子がいなくなり、そこにカンダタ一味の影がちらつく事に、誰よりも後悔したのです。自分のやって来た事が間違いだったのかと日々苦しんで来たのです……」

 

 最後の方は、もはやトルドの父親の言葉は声になっていなかった。息子が苦しみ塞ぎ込んで行く事を傍で相当悩み苦しんだのであろう。

 妻や子を失い、そしてその影響で母親まで倒れる。

 その原因は全て自分が作ったのかもしれない。

 それは、一人の人間の心を壊すには十分な威力を持っていただろう。

 

「……それで……アンタは俺に何を望んでいる……?」

 

 一部始終を冷ややかな無表情で見つめながら聞いていたカミュの言葉は、その場の空気を凍らす程に冷たいものであった。そんなカミュにトルドの父親は絶句する。

 

「……一晩の宿と暖かな食事には、本当に感謝している。だからこそ、アンタの息子の願いは、自分に出来る限りの事をすると約束した。それ以外に、何を求めている?」

 

「……い、いえ……」

 

 カミュの強い言葉に、父親のほうは二の句を繋げなくなる。それ程に、カミュの瞳に宿る光は強いのだ。

 明らかな拒絶を示すその光は、父親の勇気を根こそぎ奪って行くのに充分な威力を誇っていた。

 

「例え、真実を知ったとしても、過去が戻って来る訳ではない。むしろ、今よりも酷い状況になるのかもしれない」

 

「……それは、わかっております……」

 

 カミュが語る言葉は、正論であるが、他人を突き放す冷たい物であった。

 トルドの父親も、勿論トルド本人も理解している事。それを敢えて突き付けるカミュの姿は、トルドの父親には鬼のように映っていただろう。

 

「……貴方方がどう望もうと、メルエをここに置いて行く事は出来ません。貴方方の気持ちも理解は出来ますが、それとこれとは別です。メルエ本人も我々と行動する事を望み、我々もメルエと行動する事を望んでいます」

 

「……そうですか……」

 

 最後に、カミュは再び仮面を被り直す。トルドの父親の目的は、やはりメルエであった。

 希望も覇気も失いかけている自分達に、メルエという光を与えて欲しいという願い。しかし、口調を丁寧にした分、カミュの言葉の拒絶の強さが明確に示されていた。

 

「……時間をとらせてしまいました。申し訳ございませんでした」

 

 最後にカミュに向かって頭を下げ、居間に向かっていくトルドの父親の背中は、初めて会った時よりも更に小さくなってしまったような錯覚を受ける。いや、なまじメルエという希望の光を見せられた事により、その落胆が加えられ、気力が尽きてしまったのかもしれない。

 それ程、彼らの絶望は強かったのであろう。

 

 

 

 

 

「本当にありがとうございました」

 

 道具屋の前でサラが声を出して頭を下げる。リーシャやカミュもトルド一家に向かって頭を下げているのを見て、メルエも慌てて頭を下げた。

 

「……いえ、いいのです。お気をつけて……」

 

 未だにカミュとの対話のショックを引きずっている様子のトルドの父親の顔色は優れない。トルドも未練がましく頭を下げるメルエを見つめていた。

 顔を上げたメルエは、自分に集まっている視線の理由が分からず、首を小さく傾げていた。

 

「しっかりメルエちゃんの身を守ってください……」

 

「ああ、言われなくても、メルエは私の命に代えても護って見せるさ」

 

 トルドの絞り出すような声にリーシャが笑顔で答えた。朝は、カミュに対してあのように言ったリーシャではあったが、実際はもはやメルエに対し相当な愛着を感じていたのだ。

 その証拠に、トルドが『メルエを引き取りたい』と言った時に、リーシャの表情は固まってしまった。無表情に近いように見えてはいたが、内心は焦燥感に襲われていたのだ。

 故に、カミュがそれを断る発言をした時には、溜めていた息を吐き出し、全身の力が抜けて行くのを感じていた。そんな自分の心の変化にリーシャは驚き、そしてそれを嬉しくも思う。

 それが今、トルドに答えるリーシャの表情に出ていたのだ。

 

「……」

 

 トルドが確認を込めてみた方向には、無表情に頷くカミュの姿があった。その横には、彼が欲してやまない、生前の娘と同年代の少女がマントの裾を掴んでこちらを見ていた。

 別れの儀式も済み、カミュ一行は村の出口へ向かう。

 トルド一家は、入口の木の門が閉じられるまで、その背中を見つめていた。

 

 

 

 

 

「それで?何処へ向かうんだ?」

 

 村から出て、再び平原にでた一行が向かう場所を、メルエの手を引きながらリーシャがカミュに問いかける。メルエは、まるで何処かに遊びに行くような笑みを浮かべ、リーシャの手を握っていた。

 

「村の西の方面に向かうと<シャンパーニの塔>という塔があるらしい。おそらく宿屋の前であった男が言っていたのは、その塔だろう」

 

「……シャンパーニの塔?」

 

<シャンパーニの塔>

アリアハン大陸にある<ナジミの塔>と同じように、有史以前に建立されたと思われる塔だが、<ナジミの塔>とは違い、近くに海はあるが港はなく、何の為に建立されたのか現在の研究者達を悩ませている塔である。

 

「数年前からは、カンダタ一味のアジトとなっているらしい。トルドが教えてくれた。盗賊達だけではなく、魔物の住処ともなっているようだがな」

 

「では、一先ずはそこへ向かう訳ですね」

 

 サラの問いかけにカミュは静かに頷く。未だにカミュの目を見る事が出来ずに、サラは明後日の方向を向いてカミュに問いかけていた。

 そんなサラの様子に、メルエは何かを言いたそうな表情をしていたが、鉄拳を恐れて何とか言葉を飲み込んでいた。

 

 村を背に西の方角に進み、一行は山道へと入って行く。四方全てを山に囲まれている<カザーブ>から出るには、どこに向かうにしても峠を越えなければいけない。

 そんな中、<カザーブ>へと進む山道と違い、メルエの足は軽やかだった。

 カミュが、自分をあの村に置いて行こうとしなかった事。

 カミュ達が自分に帽子といえ、物を与えてくれた事。

 そして、あれ程に自分を怒ったリーシャが、今は既にいつもの優しいリーシャに戻っている事。

 それらの全てが嬉しく、被っている<とんがり帽子>のつばの部分を常時触りながら、メルエは笑顔を作っていた。

 サラはそんなメルエの姿に心が和んで行く。昨晩の失態に関して、リーシャからは、カミュとリーシャの二人しか知らない事を聞いていた。

 メルエには、自分がうわ言のような物を口にしながら失神した事しか気づかれてはいないと言う。カミュにしても昨晩の事を口にする様子はなく、リーシャがサラの嫌がる事をするなどあり得ない。

 そんな安心感から、サラは昨晩の出来事を強引に頭の隅に追いやっていた。

 

「メルエ、そんなに走ると疲れてしまいますよ」

 

「…………だいじょう………ぶ…………」

 

 サラの微笑みを混ぜた忠告に、メルエは若干『むっ』とした表情を浮かべ、反論する。

 メルエは何故か自分に対しては、強硬な態度を取る。その事に少し疑問を持つサラではあったが、子供の強がりとして受け止め、柔らかな笑顔を浮かべた。

 

 

 

 山道の中腹まで来たときに、先頭を歩くカミュの背中の剣が抜かれた。もはや見慣れた戦闘の合図である。

 カミュの姿を見たサラが、背中に担ぐ<鉄の槍>を構え、最後尾でメルエの手を引いていたリーシャもまた、腰の剣を抜き放った。

 しかし、山の木々の隙間から不穏な空気は流れてくるが、その元凶であるはずの魔物の姿が一向に見えない。

 一瞬、『自分だけが見えないのでは?』と思ったサラではあったが、カミュやリーシャも辺りの様子を探っている事から、全員が魔物の姿を確認出来ていない事を理解する。

 

「メルエ! 私の傍を離れるな!」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの叫び声に、カミュの下へと移動しようとしていたメルエが大きく頷き、再びリーシャの足下に戻る。リーシャも目を凝らして魔物の姿を探すが、その姿は未だに見えなかった。

 

「!!」

 

 もしや、魔物ではない何かが発する殺気なのかと勘繰り始めた頃、周囲に変化が起こった。まるで、霧が立ち込めるかの様に一行の周りが曇り始めたのだ。

 一行を取り囲むように発生した霧のような煙は、次第にその姿を固定させて行く。

 カミュの持つ<鋼の剣>が上段に構えられ、徐々に収束していく煙を一閃するが、煙を霧散させるだけの効力しか発揮しない。必然的に、煙が完全にその姿を現すまで、見守るしかなかった。

 剣を構えたまま何も出来ない一行の前にようやく魔物がその姿を現した。灰色に染まる煙が円を描くように集まり、その中央に顔のような物が浮かび上がる。

 

<ギズモ>

その繁殖方法及び、生態は全く解明されていない魔物の一つである。雲のような煙のような身体を持ち、魔法を使いながら人々を襲う。<ギズモ>の食事の状況を見た人間がいない事から、どのように人間を食すのかも解ってはいない。ロマリア大陸に住む魔物の中でも中位に属する魔物だ。

 

「ふん!!」

 

 煙が収束されたことを確認し、カミュの剣が再び振り下ろされる。カミュの顔の位置をふわふわと飛ぶ<ギズモ>に抵抗なく剣が入って行くが、顔が浮かび上がる中央から真っ二つにされたにも拘わらず、その表情は変わる事なく嫌な微笑みを浮かべたまま、再び元の形状に戻って行く。

 

「なっ!!」

 

 カミュの剣の行方を見ていたリーシャは、その魔物の構造に驚きの声を上げた。サラも同じ様に目を見開き、<ギズモ>を見ている。今のカミュの攻撃の一部始終を見ていていれば、剣での斬撃では効力が乏しい事がはっきりと証明されたのだ。

 パーティーとして、カミュとリーシャの剣に頼りがちである一向にとって、深刻な問題が浮き彫りとなってしまった。

 

「……カミュ、どうする?」

 

 一旦、リーシャの傍まで後退したカミュに、周囲への警戒を緩めずリーシャが問いかける。メルエもリーシャの足元からカミュを見上げていた。その瞳は、何かを訴えかけるような色を帯びている。

 

「……剣での攻撃では、ほとんど意味がないとなると……」

 

「…………メルエ………の…………」

 

 カミュが<ギズモ>の方から視線を離さずに話し始める内容を聞き、途中でメルエが口を開く。メルエのたどたどしい言葉に被せるように、カミュは視線をメルエに移し、頷きを返した。

 

「…………あたらしい………おぼえた…………」

 

「なにっ!? 新しい魔法を覚えたのか!?」

 

 カミュの言葉に頷いた後、メルエから発せられた言葉に、再びリーシャが驚きの声を上げる。

 メルエが<ルーラ>までの約七種類の魔法の契約が済んでいる事をカミュから聞いた時、リーシャは驚きを通り越して呆れてしまった。

 成人の『魔法使い』でも、<ルーラ>を覚えるのには何年もの修行や鍛練が必要なのだ。それをメルエはこの歳で、階段を飛び越えるように契約を済ませ、行使する事が出来ると言う。更には、新しい魔法の契約も済ませたと言うのだ。

 正直、異常にも程がある。元々、魔法に特化した家の出なのか、それとも突発的な才能なのかは解らないが、メルエの魔法の才能は、おそらくこのパーティーの中だけでなく、世界中の『魔法使い』と呼ばれる人間の中でも飛び抜けたものなのかもしれない。

 

「リーシャさん! カミュ様! メルエと一緒に、少し下がっていて下さい!」

 

 リーシャの驚いた顔を見て、満足そうにメルエが頷いた時、三人と少し離れた場所にいたサラの声が響いた。

 声に気が付き、視線を<ギズモ>からサラへと移すと、既にサラは詠唱の構えに入っていた。その様子に何らかの魔法を行使しようとしているのが解る。しかし、カミュ達が今までの旅で見てきた限り、サラが行使出来る魔法の中で、あの魔物に有効的な魔法はない筈だ。

 

「サ、サラ……」

 

「バギ!」

 

 サラに向かって、問いかけと共にメルエの魔法の行使を伝えようとリーシャが口を開くのと同時に、サラの魔法詠唱の声が辺りに木霊した。

 サラの詠唱と共に、サラの周囲を取り巻く空気という空気が唸りを上げ始める。しかし、サラの変化に気がついた<ギズモ>の内の一体も、人語ではない音で詠唱を行った。

 <ギズモ>の詠唱と同時にその口から火球がサラ目掛けて飛び出して来る。それは、カミュの得意呪文である<メラ>と同様の大きさを持つ火球であった。

 

「サラ!」 

 

 リーシャは、<ギズモ>から発せられた火球の狙いがサラである事に声を上げる。しかし、サラの手が上がり、その指先が四体の<ギズモ>へ向けられると、渦巻いていた空気は一斉にサラが指し示した方向へと、まるで風龍のように突っ込んで行った。

 真空の風は、飛んで来た火球を怒涛の勢いで飲み込み、それを霧散させながら<ギズモ>の集団へと向かって行く。

 

「!!」

 

 戦闘に取り残されたような状況になった三人は、サラが行使した魔法の威力に驚き、言葉を失った。

 サラが起こした風の渦は、<ギズモ>四体を巻き込み、その流動的な体躯を切り刻んで行く。凄まじいまでの速度で、四方八方から真空の刃を受けた<ギズモ>達は、風が収まり辺りに静けさが戻ると、跡形もなく消えていた。

 

「……良かった。上手く行きました……」

 

 振り上げていた手を下ろし、額の汗を拭ったサラは、安堵の溜息と共に充実感に満ちた言葉を溢した。

 

「サ、サラ! 凄いな! 新しく魔法を契約出来たのか!?」

 

「あっ、リーシャさん! は、はい! 持って来ていた『経典』の中に、攻撃呪文がありましたので……」

 

<バギ>

教会が管理する『経典』の中に存在する魔法の一つで、『経典』の中から魔法を契約する僧侶にとって、唯一と言っていい攻撃魔法である。術者の詠唱と共に、周辺の空気に動きが起こり、風を産み出す。その風が真空となり、対象に襲いかかるのだ。真空の刃に襲われた対象は、その刃で体躯を切り刻まれる。

 

「…………むぅ…………」

 

「……ふぅ……」

 

 リーシャに褒められ、頭を撫でられて笑顔を作るサラを、カミュのマントの裾を掴んでいる少女が頬を膨らませながら見ている。そんなメルエの表情に苦笑しながらも、カミュはサラの成長に驚いていた。

 アリアハン大陸を旅する時には、全くの足手まといと言っても過言ではなかったサラが、先日の戦闘でも今回の戦闘でも、勝利に大きく貢献している。いや、今回に限っては、サラ一人で戦闘を終わらせているのだ。

 メルエが加入するまでは、全く頼りなかった僧侶が、徐々に『人』を導く者としての能力を開花させ始めているのかもしれない。

 

「メルエ、大丈夫でしたか?」

 

 リーシャからのお褒めの言葉に、上機嫌でメルエの安否を確認しようとするサラが見たのは、決して友好的とは言えないメルエの表情であった。

 

「…………サラ………きらい…………」

 

「えっ!? えぇぇぇぇぇ!!」

 

 メルエを護る事に貢献出来たと自画自賛していたサラには些かショックな言葉。しかし、驚くサラの耳に続いて入って来たメルエの声は、更にサラを落ち込ませるものだった。

 

「…………あわ………あわ…………」

 

「メ、メルエ!! うぅぅ……」

 

 機嫌を損ねてしまったメルエの口に戸は立てられない。今朝、拳骨と共にあれ程リーシャに叱られた言葉を、メルエは再び口にするのだった。

 

「あはははっ……メルエ、それは今朝、もう口にしないと約束した筈だろ?」

 

 メルエの言葉を聞き、リーシャが再びメルエを諌める。しかし、その表情は柔和な笑みを浮かべており、諫めてはいるが怒ってはいない事を示していた。

 

「…………メルエ………あたらしい………の…………」

 

「……メルエ……新しい魔法は今度見せてもらう。その時を楽しみにしている」

 

 リーシャの言葉に俯いてしまったメルエが途切れ途切れに話す言葉を理解したカミュは、メルエの頭に手を乗せて慰める。

 最後にカミュから『楽しみにしている』と言われたメルエは、顔を上げてこくりと頷いた。

 メルエにとって、魔法を使う事が、このパーティーの中で自分の存在価値を示す、たった一つの方法だと思っている節があった。せっかく、その機会が巡って来たのに、同じ様に新しい魔法を習得したサラによって、その出番は奪われてしまったのだ。

 そして、本来自分に齎される筈だったリーシャの褒め言葉を、サラが受けてしまう。メルエにとって、それは何よりも悔しい事だったに違いない。

 

「うぅぅ……メルエは、私が本当に嫌いなのですか?」

 

「…………きらい…………」

 

 両親の生前でも、教会での生活でも、一人っ子として育ったサラにとって、メルエは初めて出来た小さな妹のような者なのである。そんな妹から嫌われているというのは、サラには耐えがたい哀しみであった。

 

「…………じゃない…………」

 

 メルエの表情は、悔しそうに歪んではいるが、事実を語っているのだろう。口では『嫌い』と発しているが、どんな事を言っても自分を気にかけてくれているサラを、悔しいながらも嫌いにはなれないのだろう。

 リーシャに褒められるサラを見ていると、悔しくなる。

 カミュにお礼を言われているサラを見ると邪魔をしたくなる。

 それでも、メルエはサラが好きなのだ。

 

「メ、メルエ!!」

 

 溜を作ったメルエの言葉を聞き、サラは嬉しそうに笑顔を浮かべ、メルエを抱きしめる。サラの腕の中でモゴモゴ動くメルエに構わず、サラはその少女をしばらく抱きしめていた。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今週中には、第二章の全てを更新して行きたいと思っています。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ロマリア大陸③

 

 

 

 一行は山道を抜けるまでにも、何度か魔物に遭遇し、戦闘を行った。

 大抵は、以前遭遇した<アニマルゾンビ>や<キラービー>、そして<軍隊がに>であり、カミュとリーシャによって悉く排除されて行く。カミュやリーシャも、サラやメルエの陰には隠れているが、ロマリア大陸に入ってから、剣の腕が上がっている事は確かであった。

 剣での攻撃の効き難い魔物が多くなっている中、闇雲に剣を振るうのではなく、どこをどう攻撃すれば有効な攻撃になるのかを、常に考えながら剣を振るっているのだ。

 自然とその剣の軌道は鋭く研ぎ澄まされ、それを振るう身体も無駄な動きが少なくなる。彼らが、自分の力量のレベルアップに気が付いているかは定かではないが、<軍隊がに>をサラの補助魔法の助け無しで倒しているのは、何も<カザーブの村>で購入した<鋼鉄の剣>という武器の変化だけが原因ではないだろう。

 ただ、もう一度一行の前に姿を現した<ギズモ>は、再びサラの<バギ>の前に消え失せる事となる。一度ならず二度までもサラによって、自分の新魔法の行使を妨げられたメルエの機嫌はますます下降していった。

 

「うぅぅ……メルエ……」

 

「…………」

 

 先程の戦闘から、一言も口を聞いてくれなくなってしまった少女にサラは、ほとほと困り果てていた。

 実際、サラが<ギズモ>を倒した時のメルエの表情は、その手に掴むマントの持ち主であるカミュと同じような無表情を貫いている。メルエのその表情に、その怒りの度合いを感じ取ったサラは先程から頭を下げ続けているのだが、メルエはその口を開こうともしなければ、表情を緩める事もしない。

 

「メルエ、いい加減許してやったらどうだ?……カミュも言っていただろ? 『メルエの新魔法は使うべき時が必ず来る。その時にメルエの実力を見せてくれれば良い』と」

 

「…………」

 

 サラの困り顔を不憫に思い始めていたリーシャは、メルエを宥める為に声をかける。リーシャの隣を歩いていたメルエは、その声に頬を膨らませてリーシャを見上げた。

 今まで、カミュのような表情を失くした顔をしていたメルエに、頬を膨らませた不満顔ではあるが、表情が生まれた事に若干安堵しながらリーシャは溜息を漏らす。

 

「メルエが、活躍の場をサラに奪われたと怒る気持ちが分からないでもないが、私達は仲間なんだ。私やカミュの剣では倒し難い魔物はメルエとサラが、メルエとサラの使う魔法が効き難い魔物は私とカミュが……そうやって協力していかなければ、これから先でもっと強い魔物が現れた時に苦労する事になる」

 

「…………」

 

 不満顔を続けるメルエに、リーシャは苦笑を浮かべた。

 『奴隷』という状態であるメルエが、カミュによって救い出されてから、まだ数日である。それにも拘らず、今のメルエは、自己の中に芽生えた嫉妬を前面に出しているのだ。

 それが、自分達を認めている事の表れだとリーシャは感じ、喜びも含んだ不思議な感情に包まれていた。

 

「メルエは、これから先も私達と旅を続けるのだろう?」

 

「!!…………ん…………」

 

 リーシャの顔を見上げ、その言葉を不満そうに聞いていたメルエであったが、最後の問いかけに、力強く頷いた。

 メルエの返事に満足そうに頷いたリーシャは、メルエの肩に手を乗せて笑顔を見せる。

 

「それなら、サラと仲直りだな? メルエにも、もちろんサラにも魔法では活躍してもらわなければならない。それに二人は違う魔法を使うだろ? メルエに使えない補助魔法をサラが使う。メルエが使う攻撃魔法の威力は、どう頑張ってもサラには使えない」

 

「…………」

 

 リーシャの言葉の中には、納得の行かない部分も含まれてはいたが、メルエはじっとリーシャの瞳を見つめながら、真剣にその話を聞いていた。

 

「メルエの魔法は、私達全員を助けてくれる魔法だ。だから焦らなくても良い。これから、私達がメルエと共に旅する道は、果てしなく長いのだから」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの言葉はメルエをどこか途中の町や村で置いて行くものではなかった。

 それがメルエには嬉しい。

 メルエは、リーシャの顔を見上げながら笑顔で頷いた。

 

「メルエ!!」

 

「…………でも………サラ………きらい…………」

 

「あぅっ!」

 

 メルエの表情の変化を、少し前を歩きながらも確認したサラは、メルエに笑顔を向けるが、冷たいメルエの言葉に珍妙な声を上げる。山道を抜けて平原に出るまで、魔物がうろつく場所に似つかわしくないリーシャの笑い声が響いていた。

 

 

 

 平原に出てから休憩を取り、休憩中に地図を見ていたカミュが指し示す方角へ一行は再び歩を進める。平原を西に進むと、肌に触れる風に塩分が混ざっているのを感じ始め、一行の鼻に潮の匂いが広がって来た。

 リーシャの隣を歩くメルエが、不思議そうにリーシャを見上げる。

 もしかすると、メルエは海を見た事がないのかもしれない。若干鼻につくその香りに顔を顰めているメルエの表情がおかしく、リーシャは笑顔を作った。

 

「メルエは、海を見た事はないのですか?」

 

「…………うみ…………?」

 

 リーシャの代わりに発したサラの疑問に対し、メルエは小首を傾げて言葉を反芻する。その様子にリーシャとサラの疑問は確信に変わった。

 

「そうか……メルエが生まれ育ったところは、内陸の町か村なのだろうな……」

 

「……そうですね」

 

「…………???…………」

 

 リーシャがそのメルエの言葉に、考えた憶測を口にし、それにサラも同意を示すが、当のメルエは二人の会話内容が分からず、反対側に首を傾げていた。

 これから先に、盗賊との戦闘が控えているかもしれない者達と思えない程の和やかな雰囲気が流れるが、それは一人だけ会話に参加していなかった先頭を行くカミュによって壊される。

 例の如く、カミュが背中の剣を抜き放ったのだ。

 その合図に、今まで笑顔を作っていたリーシャとサラの顔も引き締まり、警戒しながらもそれぞれの武器に手をかける。

 現れたのは<軍隊がに>が二匹。

 魔物の方もこちらに気がついたが、襲いかかって来る様子はなく、戸惑っている様子だった。 

 

「カミュ様! 魔物は戸惑っています!」

 

 魔物達の様子を見て、自分達の好機を理解したサラが先頭で剣を構えるカミュへ声をかけるが、カミュは動こうとしない。そればかりか、しばらく魔物と睨み合っていたカミュが、ハサミを上げ威嚇を始めた<軍隊がに>を見て、その剣を背中の鞘に納めてしまったのだ。

 

「なっ!? 何をしている!」

 

「カミュ様!!」

 

 アリアハン大陸以来となるカミュの行動に、驚きの声を上げたリーシャとサラは武器を構えて魔物に向かおうとするが、それはカミュが上げた両腕によって阻まれる事となった。

 

「……行け……」

 

 ハサミを上げて威嚇を続ける二匹の内の一体がカミュの様子をじっと見つめた後、そのハサミをゆっくりと下ろす。もう一匹の<軍隊がに>は、なぜか威嚇をしていた<軍隊がに>の後ろで終始動かず、成り行きを見つめていた。

 

「くっ! カミュ! お前は何を言っているんだ!?」

 

 怒鳴るリーシャに一瞥をする事なく、カミュは<軍隊がに>の方を見つめている。そんなカミュを見るサラの表情は、最近あまりなかったカミュとの衝突時と同じ様に、憤怒に耐えるような厳しい物だった。

 暫くカミュと見つめあっていた<軍隊がに>達は、成り行きを見守っていた方の<軍隊がに>から徐々に離れて行き、ある程度の距離を保つと、もう一方も離脱を始め、カミュ一行との距離を離して行く。

 

「!!」

 

 突如、カミュの手が上がり横に立つサラの口を塞いだ。

 サラは、詠唱を始めていたのだ。

 おそらく、覚えたばかりの攻撃呪文である<バギ>を使用しようとしたのであろう。

 

「ぷはっ!」

 

 <軍隊がに>の姿が見えなくなって、カミュはサラの口から手を離した。

 リーシャはカミュを見つめている。息が回復したサラもまた、息を整えながらもカミュを睨むが、そんな二人の様子に一人だけ訳が分からないメルエは、リーシャとサラの様子に若干怯えながらもカミュのマントの裾を掴んでいた。

 

「……どういう事ですか?」

 

 サラがカミュを糾弾する。

 それは、魔物を逃がしたという行為。

 それは、仲間達の行動までも制限した行為。

 それら全てについてであった。

 

「……カミュ……」

 

 しかし、サラ以上の糾弾をすると思われていたリーシャは、何故か悲哀に満ちた表情をしながらカミュを見ていた。

 サラはそんなリーシャを不思議に思いながらも、再びカミュへと視線を移す。

 

「……何がだ?」

 

「な、何がではありません!! 何故魔物を逃がすのですか!? 何故私達が魔物を倒す事まで妨害するのですか!?」

 

 平原に響くサラの声量は凄まじく、カミュのマントを掴んでいたメルエは、マントから手を離し、両耳を塞ぐ。しかし、カミュの顔は能面のような無表情で、そのサラの叫びに更に表情を失くしていった。

 

「……アンタには見えなかったのか?」

 

「何がですか!?」

 

 質問を質問で返すカミュにサラの苛立ちが募る。

 しかも、カミュの言っている意味が理解出来ないのだから尚更だ。

 

「……一匹何もしてこないで後方に控えていた<軍隊がに>がいた筈だ……」

 

「そ、それが、どうしたと言うのですか!?」

 

 サラとカミュの問答は、リーシャを彷彿とさせる程に堪え性がない物だった。

 サラの怒りが凄まじいのか、それともサラが本当は答えを解っているのかは解らないが、サラのその姿には焦燥感すら感じられた。

 

「……後方に控えていた<軍隊がに>の後ろには、小さな<かに>が二匹程いた……」

 

「!!」

 

「……」

 

 カミュが言うように、後方にいた魔物は何かを庇うようにしていた。

 リーシャは、実際にその事を気が付いていたのだ。

 

「そ、それで見逃したとでも言うのですか!? 新たな脅威となる子供の魔物を見逃したのですか!?」

 

「……ああ……」

 

「……カミュ……」

 

 魔物は『人』にとって悪以外何物ではない。

 そう信じているサラには、新たな脅威となる魔物を見逃したと平然と言うカミュを、信じられない物を見たような表情で見つめていた。

 

 『何故?』

 『この人間は、『人』に勇気と希望を与える勇者ではないのか?』

 『これから成長し、脅威となる子供を、何故見逃すのか?』

 それがサラには理解できない。

 

「な、何故ですか!? 何故魔物を見逃すのです!? カミュ様が見逃した子供が成長し、凶暴な魔物となって『人』を襲ったとしたら、カミュ様はどう責任を取るのですか!?」

 

「……どうもしないが……」

 

 サラが必死に行う疑問にカミュは一言だけ答えた。

 その一言に、文字通りサラは言葉を失う。世界中の人間が希望を託す勇者が、『人』に対する責任放棄を口にしたのだ。

 サラは絶望すら覚えた。

 

「ど、どういう……こと……ですか……?」

 

 もはやサラには怒鳴る事も出来ない。

 カミュにその真意を確認したい一心で口を開いた。

 

「そのままの意味だ。別に、あの魔物達がこの先『人』を襲ったとしても、俺の知った事ではない」

 

 しかし、返って来た答えは、サラを奈落の底へ落とす程の物であり、サラは自分の視界が暗く染まって行くのを感じる。

 それでも、この『僧侶』は果敢に闇へと突き進んだ。

 

「……カミュ様は……勇者ではないのですか……?」

 

「前も言った筈だ。俺は、何も成してはいない」

 

 サラの頭の中で築き上げられていた『勇者』像が、音を立てて崩れて行く。

 ここまで、色々な事があったが、それでもサラは、カミュこそが『勇者』だと心のどこかで信じていた。

 それが完璧に裏切られたのだ。

 

「……アンタも、メルエを助ける時に言っていた筈だが……?」

 

「な、何をですか……?」

 

 サラは、カミュの言っている意味が全く理解できない。それは、カミュへと向けた表情が物語っており、そのサラの表情を見たカミュは、一つ溜息を吐き出した。

 何故か、この場で口を開いているのは、カミュとサラの二人だけとなっている。リーシャはメルエの手を握りながら、じっと二人を見つめていたのだ。

 

「『この世に死んで当然の命などない。生きる価値がない者などいない』とな」

 

「そ、それは!!」

 

 確かにサラはメルエを救う時のカミュとの問答の際に、そのような言葉を発した事を憶えてはいた。

 しかし、それはサラにとって『人』に対しての物であり、『魔物』は含まれてはいなかったのだ。

 

「俺はあの時、アンタの言葉に同意した。今、逃がした<軍隊がに>の子供にしろ、生きる権利はある筈だ。しかも、一匹は身を捨ててでも後ろに控える子供と、おそらく妻を護ろうとしていた。そこまでする者に、生きる価値も権利もないと言うのか?」

 

「し、しかし!!」

 

 ここまでカミュの話を聞いて初めて、あの時リーシャがサラに言った言葉の意味を、サラは知る事となる。

 

 『今のサラの言葉が、おそらくこれから先、サラを大いに苦しめる事になるだろう』

 

 今思えば、リーシャはこうなる事を予想していたのかもしれない。そして、あの時のカミュの小さな笑顔は、この時を予想し、自分をいたぶる事への楽しみの笑みだったのかもしれない。その証拠にリーシャは、先程から一言も口をきかず、黙ってメルエの肩に手を置き、サラを見つめていた。

 

「アンタが魔物に恨みを持つ経緯も知っている。だが、先程の魔物の姿と、アンタを護ろうとして死んでいった親達の姿と何が違うんだ?」

 

「!!」

 

 カミュが言った一言に、サラの顔は戸惑いの表情から怒りの表情に変わって行く。

 自分が誇りにすら思っている親を侮辱された。

 それは許されない事。

 サラが憎悪を瞳に宿し、カミュを見上げたその時、今まで一言も声を発しなかった者が口を開く。

 

「カミュ!! 今の発言は取り消せ! そこまでの言い分は理解した。それでも、他人の親と魔物を同類として扱うな!」

 

 今まで黙って成り行きを見ていたリーシャが怒鳴り声を上げたのだ。

 メルエの肩に手を置いたまま口を開くリーシャの瞳は怒りを宿してはいるが、それは憎悪ではない。

 

「サラ、サラも落ち着け! カミュ、サラに謝罪をしろ! 今のは明らかにお前の失言だ!」

 

 自分達の傍まで歩いて来たリーシャは、サラの気持ちを鎮静させるために、サラの肩を抱きながら、語りかける。カミュは無表情ではあるが、いささか自分の言葉が過ぎた事は認めているのだろう。

 それ以上、サラを糾弾する事はなかった。

 

「……すまなかった……言葉が過ぎた……」

 

 その代り、カミュはサラに向かって頭を下げる。

 自分の考えが、この世界では異常なのは解っていた筈。しかし、この旅で自己の考えを他者に話す機会が多かった為、自己防衛にも似た配慮を忘れていたのだ。

 それは、カミュは気が付いていないが、仲間となったリーシャやサラに対する甘え以外何物でもないだろう。

 

「……ただ、『魔物』であろうが『人』であろうが、命は命だと俺は思う。アンタ方は納得しないかもしれないが、この旅が続く限り、俺はその考えを捨てる事はない」

 

「……カミュ……」

 

「では、カミュ様は、『魔王バラモス』が子供を護っていたら、魔王討伐も諦めると言うのですか!?」

 

 その証拠に、続いて出たカミュの言葉は、その内心を他者に話し、己の考えを他者に理解してもらおうとする物に近かった。

 しかし、カミュの謝罪を聞いても、サラの瞳に宿った憎悪が消える事もなく、尚も問答を続けようとする。

 

「……さあな……その場にならなければ答えようがない」

 

「それでは答えになっていません!!」

 

 尚も執拗にカミュへと噛み付くサラに、カミュは盛大な溜息を吐き出した。

 頭に血が昇り、瞳に『憎悪』の炎を宿しているサラは、カミュの態度に苛立ちを覚える。しかし、それはカミュの次の言葉で、急速に冷まされて行った。

 

「……俺は……『人』自体が、護る価値のある物なのかも分からない……」

 

「えっ?」

 

 答えをしつこく求めるサラは、珍しく口ごもりながらカミュが返してきた言葉に、憎悪に満ちていた瞳を驚きに見開く物へと変化させ、言葉を失ってしまう。リーシャもまた、初めて見るカミュの苦しみに近い苦痛な表情に、戸惑いを隠せなかった。

 

「……メルエ……?」

 

 苦しみに似た表情で想いを吐き出したカミュの手を、何時の間にかメルエが握っていた。

 『どこか痛いのか?』

 『何か哀しいのか?』

 問いかけるようにカミュを見上げるメルエの瞳は、哀しみを宿していた。

 

「……大丈夫だ……」

 

「…………ん…………」

 

 カミュがどのような考えを持っていようと、そのような想いを抱きながら苦しんでいようと、カミュの手を握るこの少女を、カミュが救った事は紛れもない事実なのだ。

 カミュが救わなければ、メルエは少女の身でありながら、女としての最大の恥辱を味わい、絶望に苛まれながらその命を散らしていただろう。

 リーシャは、カミュの考えに全面的に賛成は出来ない。しかし、メルエはルビス教では、前世の咎人という位置づけになっている。

 つまり、魔物とほぼ同類の扱いなのだ。そのメルエを救うという事は、信仰に関係なく、命ある全てが等しく生きる権利があると認める事になる。

 それをリーシャも否定する事は出来なかった。

 

「……カミュ様、私はカミュ様の考えを認める事は出来ません。私は『人』の幸せを奪う魔物を許す事は出来ませんし、そんな魔物の命を価値ある物として考える事など出来ません」

 

「……そうか……」

 

 カミュの目を見て、その考えを真っ向から否定するサラを、カミュは瞳に色々な想いを宿して見つめている。そこに宿る物は、これから先の旅で、カミュとサラが決して交わらない事を示唆していた

 

「これから先、カミュ様が魔物を逃がすような事があったとしても、私はそれを追って葬ります」

 

「……『人』の幸せを奪う者が、必ずしも魔物だとは言えない筈だ……」

 

 カミュの言葉に再び眉をしかめたサラであったが、気を取り直し、カミュに言葉を投げかけ続けた。

 それは、カミュとサラの決定的な決別を意味し、このパーティー内に走る亀裂を物語っている。

 

「カミュ様が何を考えているのかは、私には全く理解できませんが、カミュ様が『魔王』に向かって旅をしている事に変わりはない筈です」

 

「……」

 

 カミュは、もはやサラと視線を合わせようともしない。

 何も話す気はなく、考えを理解しようとも思わない。

 そんな様子で、カミュはサラへ背を向けた。

 

「でしたら、私は旅を続けます。『魔王バラモス』に近づく事が出来る可能性があるのは、今の時代ではカミュ様だけです。悔しいですが、それが現実です。ですから、私はカミュ様について行きます」

 

 無言で頷きもしないカミュの態度を肯定と受け取ったサラは、自分の想いを吐き出し、そのサラの姿を見て、リーシャはサラの成長を認めざるを得なかった。

 今まで、カミュに噛みつく事はあっても、ここまで自分の想いをはっきり口にする事のなかったサラが、カミュに対して毅然と話しているのだ。

 その内容は決して仲間が交わすようなものではない。

 以前リーシャが考えたようにこの二人の考えが交わる事は、永遠にないもののような気さえする。お互いの妥協点は、『魔王バラモス』の討伐という物だけだ。それも、今のカミュの言葉を聞く限り、いつ挫折するか分からない。

 リーシャは再びこのパーティーの行く末に暗雲が立ち込め始めて行くのを感じていた。

 

「…………サラ………きらい…………」

 

 呆然とするリーシャ。

 背を向けてしまったカミュ。

 内に静かなる憎悪の炎を燃やすサラ。

 そんな三人を見ていたメルエが、目に涙を溜めながら発した言葉は拒絶。

 

「……メルエ……き、嫌いでも結構です」

 

 対するサラが発した言葉もまた拒絶であった。

 サラはカミュとのやり取りで頭に血が上っている。今は、カミュを庇う為のようなメルエの言葉に感情を露わにしてはいるが、冷静になった時、彼女はきっと後悔するだろうとリーシャはサラを見ながら思っていた。

 

「…………うぅぅ…………ぐずっ…………」

 

 いつも、メルエの『嫌い』発言に慌てるだけだったサラが、強硬な態度をとった事によって、メルエはどうしたら良いのかが分からない。メルエに残された事は、その双眸に溜まった涙を重力に従って下へと落として行く事だけだった。

 

「メルエ、こっちにおいで」

 

 重苦しい雰囲気でお互いを傷つけるようなやり取りに、最も心を痛めていたのは、この幼いメルエなのかもしれない。

 メルエは、言葉に反してサラを気に入っているのだろう。故に、そんなサラと自分を救い出してくれたカミュとの争いが、たまらなく嫌だったのかもしれない。

 『とてとて』と自分の方に歩いて来たメルエの身体を抱きしめながらリーシャは考える。

 『どうすれば、このパーティーが前に進む事が出来るのか?』と。

 しかし、その答えは出て来ない。それは、何もリーシャの頭が悪いのが原因ではないだろう。

 

 

 

 その後、誰一人口を開く事なく、平原を歩き始める。方向を変えて南に下って行き、川にかかった橋を渡ると、一行の視線の先に高々とそびえ立つ一つの塔が見えて来た。

 距離はまだある為、根元は見えないが、塔としては、<ナジミの塔>よりも大きいのかもしれない。

 

「……あれが<シャンパーニの塔>……」

 

 サラが発した言葉に誰一人反応は示さなかった。

 先程の争いから、メルエがサラに近づく事はなく、リーシャもまたそんなメルエの手を引いていた為、答える余裕がなかったのかもしれない。

 

「おそらく、あそこに着くまでに陽が落ちる。今日はこの辺りで一度野営してから、明日に塔へ入る」

 

 先頭を歩いていたカミュがリーシャに向かって口を開くのだが、先程のサラとのやり取りなど忘れてしまったかのようなカミュのその態度に、リーシャは疑問を感じていた。

 『カミュは、人としての心を持ち合わせていないのではないか?』と。

 あれ程のやり取りをした後なら、後悔や憤怒といった感情が表に出ていても仕方がない筈だ。ましてや、先程はカミュの言い分など誰も聞く事はなく、サラが一方的に捲くし立てていただけである。

 

「わかった。メルエ、向こうの森の入口に行こう。向こうに着いたら、サラと一緒に薪を集めてくれ」

 

 カミュの言葉にリーシャが頷き、突然の雨に備えて森の中に入る事を提案する。その際に、いつものようにメルエへ仕事を与えるが、当のメルエは、リーシャの発言に怯えたような目を向けながら首を横に振った。

 

「ん?……どうしてだ? この前は、しっかりと薪を集めてくれただろう?」

 

「…………」

 

 メルエの必死の様子に、疑問を持ったリーシャが問いかけるが、返って来たのはまたしても首を横に振る否定的なものだった。

 メルエの示す強い拒否反応に、リーシャは大いに戸惑う。

 

「……メルエは、私と集めるのが嫌なのだと思います……」

 

 リーシャの疑問の答えを出したのは、そんなメルエの様子に悲しそうな微笑みを浮かべたサラであった。

 サラの答えが正解である事を示すように、サラの声に怯えたメルエがリーシャの後ろへと隠れてしまう。サラは、メルエが隠れてしまった事を確認し、笑みの影を一段と濃くした。

 

「……薪は私が集めます。メルエはカミュ様かリーシャさんと果物などを取って来て下さい」

 

「……サラ……」

 

 サラはそう言うと、リーシャの脇を通って、一人で森へと向かって歩き出す。その背中は、先程までカミュに向けていた憎悪の炎の欠片もなく、ただ哀しみだけを宿していた。

 カミュ、リーシャ、そしてメルエの三人はその後ろ姿をただ見送るしか出来なかった。

 メルエが悪い訳ではない。

 自己の拒絶を恐れる少女にとって、軽々しく口にしていた『嫌い』という言葉を返されたのだ。

 それは、『メルエに嫌われても良い』という事と同意。つまり、『メルエの事が嫌いだ』と言われたのと同じ事のように感じたのだろう。

 ただ、メルエはサラが激昂した事を恐れているのではないのだ。

 それは、再び自己を否定される事や拒絶される事への怯え。言葉とは裏腹に気に入っているサラという人物から、突き放される事を恐れての事。

 故にメルエは、これだけ怯えても尚、サラが好きなのだ。それが理解出来るからこそ、リーシャはメルエに何も言う事が出来ない。メルエの怯えも理解出来るし、先程のサラのメルエに対する言動も理解出来るからだ。

 そんなパーティー全員の心の中と同じように、今まで晴れ渡っていた空にも暗雲が立ち込め始めていた。

 

 

 

 森の中に入ってからサラが火を熾し、食料を取りに行っていた他の三人が戻って来た頃、雲行きが怪しかった空から、大粒の雨が降り始めた。

 木が鬱蒼と茂る森の中であった為、雨に打たれる事はなかったが、それでも身体が感じる温度は下がり、肌寒さを感じた一行は、自然と火の回りに集まる形となる。

 夕食を取る際も、お互いに口を開く事はなく、黙々と食事をこなしていた。

 メルエは俯きながら、いつもよりもゆっくりしたペースで食事を口に運ぶ。その様子を気にかけながらも、掛ける言葉が見つからないリーシャは、心配そうにメルエを見つめていた。

 

「……」

 

 カミュは、軽く食事を済ませ、今は背負っていた<鋼鉄の剣>の手入れを始める。サラは、そんな三人の様子に気まずさを感じ、この空間を誰が作ってしまったのかを理解しながらも、自分の行動を後悔すまいと心に決めていた。

 

「カミュ、この様子では明日も雨だろう。明日の塔の探索はこの雨の中では危険ではないのか? 足元も滑り易くなっているだろうし、塔の内部も<ナジミの塔>のような吹き曝しになっているだろうからな」

 

「……確かにそうだろうな。しかし、それこそ何時止むか分からない雨を気にしている時間はない。カンダタから<金の冠>を取り戻して、カザーブにでも帰った方が良いだろう」

 

 沈黙が続く食事風景の中、リーシャが口にした物は、雨の心配というより、おそらく雨の影響によるメルエの心配なのだろう。<ナジミの塔>も上の階に上がれば、塔の外側に壁は存在せず、上空の風に吹かれて態勢を崩せば、地上まで真っ逆さまに落ちてしまうような物であった。

 おそらく、この<シャンパーニの塔>もそう変わりはないだろう。

 そうなれば、この雨によって塔の内部は水浸しになっている可能性が高い。雨の影響で、塔の床は滑り易くなり、唯でさえ歩みがたどたどしいメルエが、足を踏み外す事も考慮に入れなければとリーシャは考えているのだ。

 それぐらいは、カミュも頭には入っているだろう。それでも、空模様を見れば、一日や二日で止むような気配ではない。目に入る限り、空には黒い雲が広がっており、上空には風がないのか、雲の流れはとても遅いのだ。

 とすれば、雨の降りしきる中、例え森の中といえども、何日も野営をする訳にはいかない。火を熾してはいるが、人の体温の低下は否めなく、長くその時間が続けば、それこそ幼いメルエの体力が持つかどうか分からないのだ。

 故に、カミュは強硬策を取る事にした。

 

「……わかった。お前がそう決めたのなら、それで良い」

 

「……リーシャさん……」

 

 サラは、大人しくカミュの案を受け入れるリーシャに違和感を覚える。先程のサラとカミュのやり取りの間も、カミュに対して言った言葉は、サラへの謝罪の要求だけだった。

 決してカミュの考えを否定する事はなく、そればかりか『言い分は理解した』と言ったのだ。

 冷静になって初めて、サラはリーシャのその言葉の異常性を理解する事となる。

 

「とりあえずは、ここの火は絶やさないように気を付けてくれ。雨によって、寒さが厳しくなる筈だ。メルエ、俺のマントにしっかり包まって火の傍で寝ろ。ここなら雨の雫が落ちて来る事もないだろう」

 

 リーシャの理解を得たカミュは、次々と指示を出して行く。特にメルエの身体に気を遣う部分に、サラは驚きと共に若干の悔しさが込み上げて来た。

 カミュはメルエを、旅を共にする大事な仲間と認識しているのだろう。いや、むしろ家族に近い感覚で見ているのかもしれない。ならば、『自分は、カミュから仲間として見られているのだろうか?』という疑問がサラの頭の中に渦巻くのであった。

 

「それとメルエ、今日は夜のあれは禁止だ。わかったな?」

 

「!!」

 

「……あれ?」

 

 続くカミュの言葉に、メルエは驚きで目を見開く。

 だが、リーシャとサラはその言葉の真意を読み取れずにいた。

 

「…………どう………して…………?」

 

「……気がつかれてないと思っていたのか? とにかく、今日の夜は禁止だ。わかったな?」

 

 メルエは眉尻を下げ、何かを懇願するようにカミュを見上げている。カミュの言葉通り、メルエの中では皆が知らない事であったのだろう。

 故に、メルエはカミュへ怯えた瞳を向けるのだ。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「……メルエ、そんなに焦るな」

 

 メルエの『何故知っているのか?』という問いに、若干呆れ顔で念を押すカミュ。しかし、尚も唸り声を上げて首を縦に振らないメルエに、カミュは優しく諭し始める。

 <とんがり帽子>を脱いだメルエの頭に手を置きながら諭すカミュに、ようやくメルエもその首を縦に振る事となった。

 

「あれとは何ですか?」

 

 一部始終を見ていたサラがカミュへと問いかける。

 それは、あの衝突があってから初めての二人の会話となった。

 

「……ああ、それは……」

 

「…………だめ!!…………」

 

 しかし、カミュがサラに応えようとしたとき、この場の全員を固まらせる程の声が森の中に響く。言葉を途切れ途切れにしか話した事のないメルエが、はっきりとそれも周囲に響くような声量でカミュの言葉を遮ったのだ。

 

「……メルエ……」

 

「…………だめ………言う………だめ…………」

 

 驚きにメルエの名を口にするサラを余所に、再度いつもの口調に戻ったメルエが、カミュのマントを抱えながら拒絶を繰り返す。その瞳には睨むような強さはなく、まるで何かに怯える子供のような姿だった。

 

「……わかった……」

 

 メルエの懇願するような瞳に、カミュは静かに頷いた。

 サラは、再び悔しさに似た感情を胸に抱く事となる。

 『何故、メルエは自分に教えてくれないのか?』

 『自分だけが、このパーティーからはみ出してしまっているのではないか?』

 そんな想いがサラの胸に渦巻くのだった。

 しかし、サラの横で『訳が分からない』という表情でメルエを見ているリーシャの姿には気が付いていなかった。

 もし、気が付いていたのなら、メルエが隠している事を知らないのが自分だけとは思わなかっただろう。いや、カミュの言葉にメルエが驚いていたのだから、メルエはここにいる全員に対して隠していた事が理解出来た筈だ。

 

 

 

 雨雲によって、いつも照らしている月の光もすべて隠れてしまい、焚き火の火だけが唯一の灯りとなる中、火の周りで横になっていた一つの人影が起き上がった。

 

「……またか……」

 

 カミュは火の傍で膝を抱え、身動き一つしない人影に向かって盛大な溜息をついた。

 火の番と見張りをしている筈の人物は、既に眠りに落ち、その役目を果たしていないのだ。

 

「おい! いい加減にしろ」

 

「!!」

 

 珍しく怒気を含ませたカミュの声に、丸くなっていたリーシャは勢いよく顔を上げた。

 火の傍で薪をくべている内に、眠気に負けてしまったのだろう。それは、ほんの数分かもしれない。火の状況から考えて、それ程長い時間眠りに落ちていた訳ではない事は推測出来た。

 

「アンタな……これでは、俺達も眠る事など出来ない! アンタを信用して、見張りを任せていた筈だ!」

 

「!!……す、すまない……気をつける」

 

 感情を剥き出しにするカミュの姿に、リーシャは素直に頭を下げるしかなかった。

 それは、カミュの言葉の中に『信用して』という言葉が混じっていた事も大きな原因ではあるとは思うが、何故かカミュの『怒り』という感情は、何かを気遣っている節がある事をリーシャは無意識に悟っていたのだ。

 

「……頼む……疲れているのは解っているが、メルエやあの僧侶には魔物の気配を感じる事は出来ない」

 

「……すまない……」

 

 そして、リーシャの無意識の推測が間違っていなかった事は、続いたカミュの言葉で証明された。

 カミュの心境にどんな変化があったのかは解らない。だが、カミュの言葉には、リーシャの疲れを考慮する言葉どころか、メルエやサラへの配慮も含まれていた。それを明確に理解したリーシャは、再びカミュに向かって頭を下げる。

 

「メルエ……は……何処だ?」

 

「!!」

 

 リーシャの謝罪を横目に、カミュは何気なく他の二人を確認しようとして首を巡らし、一点を見つめて止まってしまった。

 そのカミュの言葉に、リーシャも動きが止まる。そこで丸くなっている筈の人物が見当たらないのだ。

 

「……あの馬鹿……」

 

 何故か、カミュもリーシャも、夜のメルエの動きを察知出来ない。

 気配が動くのを感じないのだ。

 それが何故なのか、カミュにもリーシャにも理解できない。

 

「……ん? ど、どうかしたのですか?」

 

 カミュとリーシャのやり取りに、身体を横たえていたサラが目を覚まし、目を擦りながら事の次第を問いかけて来た。

 カミュは、サラの顔を見ても何の返答もせず、周囲を再び確認し始める。そんなカミュの態度に溜息を吐きながら、リーシャはサラへと答えた。

 

「メルエが居なくなった! この近くにいる事は間違いないと思うのだが……」

 

「えっ!? どうしてですか?……はっ! ま、まさかカミュ様が言っていた事ですか!?」

 

 リーシャの答えに、しばらく呆けていたサラだったが、頭の回転が正常に戻ると、すぐに夕方のカミュの言葉を思い出す。その表情、話し方全てが、いつものサラであり、そこにあの暗い影は差していなかった。

 

「カ、カミュ……ど、どうするんだ!?」

 

「……落ち着け……例え魔物が出て来たとしても、メルエならば夜明けぐらいまでなら、魔物との戦闘は出来るだろう」

 

 メルエの事となると何故か我を忘れてしまうリーシャのパニック状態を見て、カミュの方は逆に落ち着きを取り戻す。しかし、カミュも言葉とは裏腹にメルエの身を案じている事は、その表情を見ればすぐに解った。

 

「手分けして探しましょう!! 今、私達がここでメルエを案じても仕方ありません」

 

「そ、そうだな」

 

 その二人の慌てぶりを余所に打開策を講じたのは、意外にもサラであった。サラの冷静な判断に、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をしてリーシャが頷き返す。サラの中に息衝いていた何かが、動き出そうとしていた。

 

「では、リーシャさんは向こう。カミュ様が向こうで、私はあちらを探します。一刻程経ったら、見つけても見つからなくても、ここに集合という事で良いですね」

 

「……ああ、わかった……」

 

 きびきびと指示を出すサラに、面を食らいながらカミュも頷く。

 実際、カミュはメルエの目的を理解しているだけに、それ程に心配はしていない。だが、雨により避難していた魔物達の警戒心を刺激し、メルエが襲われやしないかという部分が気にかかっていたため、素直にサラの指示に従ったのだ。

 

 

 

 三方に散ったカミュ達は、それぞれの手に<たいまつ>を持ち、森の中を彷徨い始める。リーシャがメルエを呼ぶ声は、逆方向を探しに行ったサラの耳にも暫くの間は聞こえていた。

 それも次第に遠くなり、聞こえなくなった頃、サラは雨でぬかるんだ地面に残る小さな足跡を見つける。

 その足跡を追って行くと、サラは妙に開けた場所に出くわした。

 そこは、森の中でも一際大きな木々がそびえ立ち、その木々が伸ばす枝と葉のおかげで雨の雫一つ落ちて来ない、そんな場所であった。

 真っ暗なその空間に<たいまつ>の火を向ける。サラはここに来て、真っ暗な暗闇の森の中を自分が一人で歩き回っているという事実に気がついた。

 メルエの事を聞いてから、必死な想いが大部分を占め、その事に気が付く余裕はなかったのだ。

 故に、大胆にも、頼りになる二人とは別方向を選択し、ここまでの道を歩いて来たのだが、開けた所に出て火を翳す瞬間に、サラの心は冷静さを取り戻し、恐怖心を呼び起されるのだった。

 

「ひっ!!」

 

 サラは自分が翳した火の先に、二つの光る物を見て悲鳴を押し殺した。

 その二つの光は、暫くはじっと動かなかったが、急に上昇し、ある一定の高さを保ったままサラの方向に向かって来たのだ。

 

「ひっ! ひぃぃぃ!!」

 

「…………」

 

 サラは恐怖で膝が笑い始め、その場を動くことが出来ない。しかも、一度照らすために掲げた<たいまつ>を落としてしまい、足元以外を暗闇で覆ってしまった為、更に恐怖が増して行った。

 

「…………なに…………?」

 

「へっ!?」

 

 二つの光が次第に大きくなり、ぼんやりとその光を象る影が見えて来た時、その光は言葉をサラに掛けて来る。その声はサラの知っている声であり、間抜けな声を上げる事となった。

 

「メ、メルエですか!?」

 

「…………」

 

 サラの記憶にあるこの声の持ち主の名を呼ぶと、その二つの光は、ゆっくりと上下に動いた。

 その反応にサラは『ほう』と溜息を漏らし、足元に落ちた<たいまつ>を掲げる。そこには、メルエが首を傾げて立っていた。

 

「よ、よかったぁ……メ、メルエ、駄目ではないですか。一人で歩いては……」

 

「…………」

 

 サラの言葉を聞いているのか解らない程の無表情で、メルエはサラを見上げていた。

 自分の言葉に何の反応も示さないメルエを、サラは眉尻を下げて見つめ返す。先程までの恐怖心も消え、心を落ち着かせたサラは、溜息と共に、再び安堵の言葉を洩らした。

 

「本当に心配したのですよ」

 

「…………サラ………メルエ………きらい…………」

 

 サラの安堵の溜息と語りかける内容に、メルエは意味不明な言葉を綴っていた。

 サラは、それが何を意味しているのか理解出来ない。先程までの無表情とは違い、<たいまつ>のよって照らし出されたメルエの表情は、『哀しみ』という感情に包まれていた。

 

「えっ?……ど、どうしたのですか?」

 

「…………サラ………メルエ………きらい…………?」

 

 メルエはその言葉を言うと俯いてしまった。

 サラは、全ては理解出来なかったが、何が言いたいのか要点だけは理解する。つまり、メルエは『自分がサラに嫌われたのではないか』と心配しているのだ。

 

「そんな事はありませんよ。私がメルエを嫌いになる事等ありません」

 

「…………」

 

 サラが感情的に発した言葉は、この幼い少女の心を想像以上に傷つけていたのだ。

 誰からも認められず、誰からも必要とされず、誰からも好かれない、そして、挙句の果てには『奴隷』として売り払われた少女にとって、初めて自分に好意を示してくれた存在からの拒絶。

 それは、メルエという少女の心を破壊するのには、充分な威力を持っていたのだ。

 

「本当です。そんな心配はいりませんよ。例えメルエが私を嫌っても、私がメルエを嫌いになる事は絶対にありません」

 

「…………」

 

 力強くメルエに宣言するサラは、先程までのような怯えは一切なく、むしろ胸を張って答えている。サラも気付いてしまったのだ。

 自身の発した言葉で、どれ程に相手を傷つけていたのかを。

 笑顔で宣言するサラの様子を見て、メルエは小さく微笑み、そしてこくりと頷いた。

 

「ところで……メルエは、こんな夜中に一人で何をしていたのですか?」

 

「…………」

 

 メルエの笑顔に心が晴れ渡るような感覚を覚えたサラは、メルエに何をしていたのか問いかけるが、メルエは言い難そうに俯いてしまった。

 先程までの小さな微笑みは消え、再び眉を下げてしまったメルエを見て、サラは大いに慌てふためく。

 

「あ、い、いえ! メ、メルエが言いたくないのなら、良いのですよ?」

 

「…………言わ………ない…………?」

 

 メルエの様子に調子に乗っていた自分の心を悔い、サラは慌てて弁解を始める。しかし、そんなサラを窺うように見上げたメルエは、ゆっくりとサラへ問いかけた。

 

「えっ!? も、もちろんです。誰にも話しません。メルエと私の秘密です!」

 

 メルエの問いかけを聞いたサラは、自分とメルエの間に出来る信頼の証を喜び、それを口外しない事を宣言する。力強く握った拳で胸を叩いたサラを、メルエは暫し呆けたように見つめていた。

 

「…………ひみ………つ…………?」

 

「はい!!」

 

 メルエはサラの答えに訳が分からないのか首を傾げていたが、満面の笑みで頷くサラの表情に、自分の言った事をサラが了承した事を感じ、その腕を取る。不意に握られた手を引き摺られるように、先程メルエが居たであろう場所までサラは連れて行かれた。

 

「…………ここ…………」

 

「……魔法陣…ですか……?」

 

 サラの答えに、メルエは黙って頷きを返す。

 つまり、何時ぞやのように、メルエは魔法の契約をしていたという事になる。周囲には、魔方陣を書く為の木の枝と、『魔道書』を読むために灯した木の枝が落ちていた。

 

「メルエは、新しい魔法の契約をしていたのですか?」

 

「…………」

 

 <たいまつ>に照らされたメルエの眉は、再び下へと落ちてしまう。サラの言葉の何がメルエの表情を変えてしまうのかが解らず、サラは困惑の表情を浮かべる事となった。

 

「えっ!? 違うのですか?……契約は出来たのですか?」

 

「…………」

 

 サラの最初の問いに全く動かなかったメルエの首は、二回目の問いには、ゆっくりと横に振られた。

 つまり契約の魔法陣は敷いたが、契約が成立しなかったのだろう。それは、メルエの魔力が足りないのか、それともメルエの力量が契約完了の条件を満たしていないのかは解らない。だが、契約が出来ずに、メルエが哀しんでいる事だけは、サラにも理解が出来た。

 

「メルエは、毎日契約の儀式をしているのですか?」

 

「…………ん…………」

 

 メルエは、サラの問いに素直に頷きを返す。実は、メルエは最初にカミュから契約の方法を教わってから、毎夜、『魔道書』を持ち出して契約の儀式を行っていたのだ。

 カミュの契約を見た時が夜中だった事もあり、メルエの頭の中には『契約儀式=深夜の儀式』という構図が成り立っていたのだろう。 

 

「メルエ、魔法の契約の仕方は誰に教えてもらったのですか?」

 

「…………カミュ…………」

 

 メルエの答えに、若干顔を顰めたサラではあったが、その表情をすぐに戻し、もう一度メルエとの話をする為、空模様とは裏腹に乾いている地面に座り込んだ。

 サラの様子に、メルエもその隣に座り込む。

 

「カミュ様はメルエに、魔法陣さえ敷けば契約出来ると教えたのですか?」

 

「…………」

 

 サラの問いかけにメルエの首は横に振られ、それは、サラの想像とは相反する答えを導き出す。

 幼いメルエに強引に魔法を教え込んだのではないという事。

 つまり、この魔法との契約はメルエの独断である事を確信したのだ。

 

「では、メルエも、魔法は簡単に契約出来ない事を知っているのですね?」

 

「…………大き………く………なって………から…………」

 

 サラの問いかけに、暫しの間俯いていたメルエが、たどたどしくも明確な答えを口にした。

 それは、以前、魔法の契約を続けようとしたメルエにカミュが告げた言葉。メルエはその言葉を覚えてはいても、正確に理解をしていなかったのだ。

 

「そうですよ! メルエが、身も心も成長してからです! ですから、焦っても仕方ないのですよ。毎日新しい魔法を覚えられるという事はありません」

 

 メルエは、カミュが言っていた言葉を思い出しながら、一生懸命サラに答えている。それが解るからこそ、サラも真剣に教えていた。

 サラの真剣な想いを感じられないメルエではない。サラが自分に向かって何かを伝えようとしている事を察し、真剣な表情で隣に座るサラを見つめていた。

 

「メルエの気持ちも解ります。私も、アリアハンの教会でお世話になっていた頃、早く魔法を覚えたいと思っていました」

 

「…………おなじ…………」

 

 小首を傾げるように動かすメルエの姿を見て、サラは柔らかな笑顔を作る。サラにとって、孤児となった後の人生は、決して不幸ばかりではなかった。

 しかし、親代わりとはいえ、親ではないという事実が常にサラを脅かしていたのもまた事実なのだ。

 

「はい! それでも、メルエと同じように契約が出来なくて、何度も泣いてしまいました」

 

「…………サラ………すぐ………泣く…………」

 

 メルエから発せられた厳しい指摘に、サラは声を詰まらせる。それと同時に、忌まわしき記憶がサラの頭の中で蘇った。おそらく、メルエは<カザーブ>での出来事を言っているのだろう。

 

「うっ! そ、それはメルエも同じですよ!」

 

「…………メルエ………違う…………」

 

 その会話は、諭すように話すサラの雰囲気とは裏腹に、姉妹などが交わす会話のように和やかな、そして微笑ましい物であった。

 もし、この場にカミュやリーシャが居たとしてもこの二人の会話に割り込む事はしなかっただろう。

 

「うぅぅ……それで良いですよ……とにかく! 私もメルエと同じように、早く魔法を覚えたいと思っていたのです」

 

「…………また………泣く…………?」

 

 話を戻そうとしたサラの意図を無視するように、メルエは小首を傾げる仕草をしながら問いかける。サラは、戻そうとした話を蒸し返され、がっくりと肩を落とすのだった。

 

「な、泣きません! メルエこそ、私の事が嫌いなのではないですか?」

 

「…………きらい………じゃない…………」

 

 この二人の会話は全く前に進まない。しかし、今度は間髪入れずに返って来たメルエの答えに、サラは笑顔を戻した。

 自分が発した言葉で、サラを傷つけてしまう事をメルエは恐れたのかもしれない。

 

「よかった。私はね、メルエ……今がとても充実しています。リーシャさんがいて、メルエがいて……そして、カミュ様がいて……」

 

「…………サラ…………」

 

 カミュの名を口にする時に若干顔を顰めたが、自分の中の気持ちを正直にサラは吐き出しているようだった。

 その想いはメルエへと確かに伝わる事となる。だからこそ、メルエは正直な疑問を口にした。

 

「…………サラ………カミュ………きらい…………?」

 

「……どうでしょう? 確かにカミュ様の考えは、納得出来ない事ばかりですし、怒りを覚える事もあります。ですが……カミュ様は、私がアリアハンの教会にいるだけでは知り得なかった事を色々と教えてくださいます。それに……」

 

 『嫌い』か『嫌いじゃない』かの二通りしか『人』に対する評価を知らないのか、メルエの問いかけは酷く単純な物だった。

 しかし、サラはカミュをその二通りの感情では計れないと感じている。

 

「それに、カミュ様は『勇者』様です。きっと、何時の日か分かって下さると信じています……最近、カミュ様の優しさが少しだけ解るのです。それはね、メルエのお蔭なのですよ」

 

「…………メルエ…………?」

 

 突如出て来た自分の名前に、メルエは再び小首を傾げた。

 不思議そうにサラを見つめるメルエを見て、サラもまた、笑顔を見せる。<たいまつ>の炎が揺らめく中、この姉妹のような二人の会話は続いて行った。

 

「はい。メルエに接するカミュ様を見ていると、優しさを感じます。冷酷に思えたカミュ様は、やはり人々をお導きになる『勇者』様だと思う事が多いのです。何故、あのような考え方をするのか理解は出来ませんが、もう少しカミュ様を見てみたいと思うのですよ」

 

「…………カミュ………勇者………ちがう…………」

 

 しかし、今までサラの話を静かに聞いていたメルエが、突如サラの話に反論した事にサラは驚く。メルエの方へ視線を向けると、メルエはサラの方をじっと見ていた。

 

「…………カミュ………は………カミュ…………」

 

「!?……メルエは知らないかもしれませんが、カミュ様はこの全世界で、『勇者』様として認められているのですよ?」

 

 暫し見つめ合った後に口を開いたメルエの言葉は、とても単純な回答。それは、サラにとっては子供の戯言に聞こえたのかもしれない。カミュが『勇者』である事を知らないメルエだからこそ言える言葉である事もまた事実である。

 

「…………ちがう…………」

 

「??」

 

 メルエの必死の反論はサラには届かない。カミュを『勇者』と信じているサラには、何故メルエが、ここまでむきになっているのかすら理解が出来ないのだ。

 それが、今のサラの限界でもあった。

 メルエの語ったこの一言が、途轍もない重みを持った言葉である事をサラが知るのは、遥か先の事である。

 

「メルエにとってはそうなのですね」

 

 故に、サラは無難な言葉を返すのみとなるが、幼いメルエはサラも理解したのだと思い、頷くのだった。

 満面の笑みで頷くメルエに、サラも笑顔を返す。暗闇で覆われた森の中は、雨が木々の葉を打つ音だけが響いていた。

 

「さあ、メルエ戻りましょう。このように寒い所に居れば、身体を壊してしまいます。リーシャさんもカミュ様も、メルエを心配して探していますよ」

 

「…………ん…………」

 

 サラの呼びかけに頷いたメルエは、魔法陣の傍に置いてあった『魔道書』を大事そうに胸に抱えて、サラの後ろについて歩き出した。

 

「あ、あれっ?……ここからどう行ったら戻れるのでしょうか?」

 

「…………こっち…………」

 

 しかし、最後まで締まらないサラの一言に、メルエが前に出てサラを先導する事になってしまうのだった。

 

 

 

「カミュいたか!?」

 

「……いや……」

 

 一刻を遙かに過ぎ、リーシャは野営地へ戻る途中でカミュと出くわした。

 メルエの所在を問いかけるが、返って来た言葉は良い物ではない。カミュの返答を聞いたリーシャの表情は、この世の終わりでも見て来たかのように暗く沈んでおり、彼女がメルエをどれ程に心配しているのかが窺える。

 

「そうか……一体、何処へ行ったというんだ!?」

 

「あの僧侶の方かもしれない……一度戻る」

 

 カミュの提案にリーシャも頷き返し、二人は野営地へ向かって走り始める。カミュもリーシャも途中で魔物と遭遇はした為、抜き身の剣を握っていた事に気が付き、鞘へと戻しながら走った。

 野営地に戻ってリーシャは周辺を見渡すが、サラの姿はない。

 『自分達が襲われたように、魔物に襲われたのではないか?』という不安がリーシャを襲う。

 攻撃呪文を<バギ>しか行使出来ないサラにとって、強力な魔物が何体も現れた場合、苦戦する事は必至であろう。

 

「……おい……」

 

 そんな最悪な状況を考え、顔を青くしていたリーシャは、肩を叩かれ我に返る。肩を叩いた人間へ振り返ると、カミュが火の近くを指さし、呆れ顔で溜息を吐いている途中であった。

 

「……あれは……?」

 

 カミュの指さす場所を、目を凝らして見てみると、火の傍に置いてあったカミュのマントが異様に膨らんでいる。カミュは呆れたように、自分の寝床へと歩いて行ってしまった。

 リーシャも確認の為に火の傍まで進むが、途中で溜息を漏らしてしまう。

 

「すぅぅ……すぅぅ……」

 

 そこには、カミュのマントに包まったサラとメルエが、可愛らしい寝息を立てていたのだ。

 メルエを抱きしめ、幸せそうな寝顔を見せるサラを見て、リーシャは呆れを通り越して笑みまで浮かんでしまった。

 おそらく、メルエを見つけて戻っては来たが、リーシャもカミュも戻ってはおらず、暖を取る為にメルエと共にマントに包まって火にあたっている内に、二人とも眠りに落ちてしまったのだろう。

 何と人騒がせなことだろう。

 しかし、そんな二人をリーシャは怒る気はなかった。

 カミュはすでに身体を横たえ、眠りに落ちていた。

 今度こそ、カミュに厭味を言われないよう、リーシャは焚き火に薪をくべながら、カミュとの交代時間まで見張りを続けるのだった。

 

 雨は止む気配はなく、未だに木々を揺らし大きな雨音を立てている。

 この分では、リーシャの予想通り、明日も雨は降り続いている事だろう。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

本日は、この一話だけで更新終了です。
申し訳ございません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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シャンパーニの塔①

この辺りから、少しきつい話に入って行きます。
皆様、心を強く持ってお読みください。


 

 

 

 メルエが目を覚ますと、他の三人は既に剣の鍛練を終えていた。

 カミュは森に果物などを取りに行っているのだろう。火の周りにはリーシャとサラしかいない。

 周囲は昨晩とあまり変わらない程の明るさしかなく、それが今日の天気も雨である事を物語っていた。 

 

「ん?……メルエ、起きたのか?」

 

 メルエの身体が起き上がるのに気が付き、リーシャの首が動く。

 どうやら、鍛練後の魔法についての勉強をサラとしている様子だった。

 

「メルエも文字の勉強をしますか?」

 

「…………ん…………」

 

 続いて掛った声の主であるサラも、カミュと衝突していたサラではなく、昨晩メルエと話していたような優しいサラのままである事に嬉しくなったメルエは、サラの問いかけにこくりと頷くのだった。

 

 

 

 その後、果物を両手に抱えたカミュの帰還と同時に朝食となり、それを食べ終わると三人は森を出る準備を始めた。

 <カザーブ>で購入したメルエの為の少し小さめのマントをリーシャがメルエに着せ、冷たい雨の中でも体温の低下を抑える為の処置をする。最初は自分に着せられるマントを不思議そうに見ていたメルエではあったが、マントという、カミュとお揃いの物を自分も着せられた事を素直に喜んでいた。

 

「さあ、行こう。カミュ、この雨では視界も悪い。離れずに行こう」

 

「ああ……しかし、あまり時間をかければ体温を奪われる。ある程度の速度を維持したまま歩く。アンタには悪いが、メルエの事を頼む」

 

 リーシャの提案を認めながらも、できるだけ早く塔内部に入る為に、自分にメルエの事を頼むカミュの姿を、リーシャはもはや驚く事もせずに受け入れた。

 

「わかった。サラ、メルエの手を引いて歩いてくれ。私は最後尾を歩く」

 

「あっ、は、はい。メ、メルエ……私で良いのですか?」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの声に慌てて返事を返すサラは、昨日のメルエの態度を思い出し、手を引くのが自分で良いのかを恐る恐る問いかけるが、しっかりサラの目を見ながら頷くメルエを見て、その頬を緩めた。

 

「よし! カミュ、行こう!」

 

 昨晩、共に眠る二人を見てはいたが、若干心配の残っていたリーシャは、サラに向かってしっかりと頷くメルエを見て、明るい声でカミュへ出発を促す。

 森から先は、一面が雨の世界。

 既に溢れんばかりに大地を濡らす雨の中、先頭のカミュが足を踏み出した。

 

 

 

 雨はその激しさを更に増し、一寸先すらも見えないという状況となって行った。

 メルエの手を握るサラは、自分の視界からカミュが消えてしまわないよう必死に歩き続ける。豪雨と言っていい程の雨であるからだろうか、一行は塔へと続く道で魔物と一切遭遇する事はなかった。 

 いや、実際、魔物と遭遇しながらでも、天気の良い晴れた道の方が一行にとっては良かったのかもしれない。昨日は見えていた塔は全く見えず、サラは自分達が本当に塔へと向かっているのかすら分かっていなかった。

 豪雨により衣服は下着までが濡れて来ており、それが原因による体温の低下、そして体温の低下による体力の低下。特に幼いメルエには厳しい物に違いないだろう。

 

「早く、中に入るんだ」

 

 塔の入口に辿り着いたカミュは、メルエの手を引くサラの腕をとり、塔の内部へと導いていった。

 突然握られた腕にサラは驚き顔を上げるが、体力が心配なメルエの事を考え、カミュに導かれるまま塔の内部へと入って行く。その後を、最後尾を歩いていたリーシャが続き、最後にカミュが中に入って行った。

 塔内部は、とても盗賊のアジトとは思えないほど静まり返っており、激しい雨音だけが響いている。カミュは内部を確認しながら壁伝いに進んで行った。

 ずぶ濡れの衣服を気にしながらも、その後をサラ、メルエ、リーシャの順に進んで行く。少し進むと、例の如く左右への別れ道に出た。

 

「ここは右ではないのか?」

 

「リ、リーシャさん!?」

 

「…………???…………」

 

 別れ道で立ち止まったカミュへと、最後尾からいつもの声がかかる。その声に、『またか!!』という想いからサラが声を上げ、その様子を理解できないメルエの首が傾いた。

 

「……アンタが右だと言うのなら、右が行き止まりという事か……」

 

「ど、どういう意味だ!?」

 

 先頭を行くカミュから溜息交じりの言葉が漏れ、その内容にリーシャは声高らかに反論しようとする。しかし、振り向いたサラの目を見て、口を噤んでしまった。

 カミュとサラは、リーシャの当てずっぽうには散々苦汁を舐めさせられているのだ。

 それを責める事はないが、『またか』という想いまでは隠そうとはしていない。それを、サラの瞳が物語っていたのだ。

 

「えっ? あ、あれ? カ、カミュ様!?」

 

 しかし、そこから起こしたカミュの行動に、サラの瞳は驚きに包まれ、素っ頓狂な声を上げる事となる。カミュは自分でも言ったように、リーシャの指し示した方向が行き止まりである可能性が高いと理解しているにも拘わらず、その方向へ向かって歩き出したのである。呆然とするサラを置いて、カミュの後を『とてとて』とメルエが続き、その後ろを若干得意気にリーシャが歩いて行った。

 釈然としない想いを胸に残しながらも、サラは皆の後ろについて行く選択肢しか残っていなかった。

 

 

 

 

 

「……」

 

 しかし、やはりその先には、周囲を壁に覆われた少し開けた空間があるだけであった。

 サラにとっては当然の結果と言えるこの状況に、サラは溜息をつきそうになる。リーシャはリーシャで、この結果が悔しいながらも、皆に申し訳がないと言う気持ちが強く、項垂れていた。

 

「…………なに…………?」

 

 そんな二人それぞれの反応を余所に、メルエが口を開いた。

 メルエの視線の先には、この場所に先頭で入って行ったカミュ。メルエの声に顔を上げた二人もカミュへと視線を向ける。全員の視線を向けられたカミュは、マントの中で抱えていた革袋を逆さにし、塔の床に何かを落としていた。

 その革袋は、本来カミュが換金目的である魔物の部位を入れておくものだ。

 カミュは革袋の中身を換金した後、この革袋を洗ってから干している為、魔物の体液で満たされている事はなかった。

 カミュの行動を不思議そうに見ていた三人の目に、革袋から出てきた物が映り込む。

 それは、大量の枯れ木だった。

 

「……枯れ木? 何をするんだ?」

 

「……薪を取り出したら、する事など一つしかないだろう」

 

 革袋の中身を見て、その用途を問いかけるリーシャに、溜息を吐きながらカミュは答える。確かに、このような塔の中での行動としては少し妙な部分はあるが、この状況で枯れ木を取り出したとするならば、カミュの言う通り、する事など一つだろう。

 濡れたマントを脱ぎ、カミュは火を熾し始めた。

 全員の衣服はずぶ濡れの状態である。今の天候や気温を考えれば、衣服が乾くよりも先に体調を崩しかねない。

 故に、火を熾し衣服を乾かし、暖をとって体力の低下を避けようというのだ。

 

「随分と用意が良いのだな」

 

「……普通に考えれば分かる事だ。ただ、これは一度きり。この後は、暖を取る為の火を熾す事は出来ない」

 

 メルエは、カミュの手元で煙を上げ始めた木々に、目を輝かせている。カミュやリーシャを困らせたり、それによって自分を疎ましく思われたくなかったのかもしれない。口には出さなかったが、相当肌寒さを感じていたのだろう。

 

「……暖かいですね……」

 

 火が灯り、揺らぐ炎を囲みながら、四人は自分の身体を包む衣服を乾かし、身体を温めようと火へと近づいた。雨により濡れ切った衣服が水蒸気を上げて乾いて行く。それと共に体温も上昇し、四人の身体に体力が戻って行った。

 

「こ、こら、メルエ! そんなに、火に近づくな! 服が乾く前に燃えてしまうぞ」

 

「!!」

 

 リーシャに腕を引かれ、メルエはリーシャの腕の中にすっぽりと収まる。冷たい衣服によって冷え切った身体に、リーシャの体温による温もりは心地良かった。

 自然とメルエの瞼が落ちてゆく。

 

「あっ、メ、メルエ! 寝ては駄目ですよ!」

 

「!!」

 

 瞼が落ち、夢への旅路を歩み始めようとしたメルエを、サラの叫びが引き戻す。驚きと共に開いたメルエの目は、自分の心地よさを妨げたサラへと鋭い光線を発するのだった。

 

「うぅぅ……そんな目をしても駄目です」

 

「あははっ、そうだぞメルエ。まだこの塔に入ったばかりだ。衣服が乾いたら、すぐ出発だぞ。眠るのにはまだ早い」

 

「…………むぅ…………」

 

 メルエの視線に怯えながらも気丈に言い放つサラの様子に、リーシャは笑い声を上げ、自分の膝に乗るメルエの頭を撫でながら諭すが、メルエは眠い目を擦りながら不満げに頬を膨らませていた。

 

「さあ、さっさと服を乾かしてしまおう」

 

「…………ん…………」

 

 尚も優しく声を掛けるリーシャにしぶしぶながら頷き返すメルエにサラはほっと胸を撫で下ろした。

 サラの気が緩んだその時、カミュが背中の剣に手をかける。それは、望まない珍客の来訪を意味していた。

 

「何でこんな所に、女とガキがいやがるんだ!? ここは悪名高い<シャンパーニの塔>だぜ!?」

 

 現れたのはカミュが警戒していた魔物ではなく、二人の男だった。

 容貌は、ガラが悪く、目は血走ったように赤い。それに加え、無精髭とも言えない物を蓄えた人間であった。

 一目見ただけで、とてもまともな仕事をしているような人間ではないことが分かる。

 

「何の用だ!?」

 

「おお怖い。お前達こそ、この塔に何の用だ?」

 

 メルエを膝に抱いたまま、凄むリーシャに何の恐れも抱いていないように、男の内の一人が肩を竦めながらカミュ達の目的を聞き返す。リーシャの怒気に近い程の物に動じない程の実力者なのか、それともそれを感じ取れない程度の者なのかは解らない。しかし、疑問を疑問で返しながら不用意に近づいてくる男達の様子から、おそらく後者なのだろう事は推測出来た。

 

「……それ以上近づくな……」

 

 その証拠に、カミュが背中の剣を素早く抜き、前を歩く男の喉元に突きつける行動が、男達には見えていなかった。

 剣を突き付けられた男は、若干怯む様子を見せるが、一歩下がる事によって、再び厭らしい笑みを浮かべる。

 

「なんだよ? 俺達とやる気なのか?」

 

「へへへっ。こいつら、ここが誰のアジトなのか知らねぇんじゃねぇのか?」

 

 単純に見れば、4対2の構図である。幼い子供が見た所で、数の上では圧倒的にカミュ達が有利だ。

 それぐらいは、この男達も解っているだろう。それでも余裕を崩さない男達の中には、自分達が組みしている組織への絶対的な信頼があったのかもしれない。

 

「そうかもしれないな。へへっ、仕方がねぇから教えてやるが、俺達はカンダタ一味だ。まさか、『カンダタ』の名前も知らねぇとは言わねぇよな?」

 

「……」

 

 『カンダタ』という、このロマリアでは恐怖に近い存在の名を聞いても微動だにしないカミュ達を見て、男達は一瞬だけ戸惑いを見せた。

 しかし、その理由までもは想像する事は出来ず、ある推測に辿り着くのだ。

 

「おお、恐怖に声も出ないか? へへへっ、おい坊主、その三人の女達を置いて行くんなら、お前の命は見逃してやってもいいぜ?」

 

 だが、男達から見れば、四人のうち三人は子供と見えるのだろう。

 メルエは言うに及ばず、少女と言って良い。サラにしても、カミュより一つ年上とはいえ、見た目は大人の女性と言うには、まだ早いように見える。そして、カミュは唯一の男ではあるが、少年から青年に変わる頃の年相応の子供に映ったのだろう。残るリーシャは、剣を腰に差しているとはいえ、所詮女性だ。

 ロマリアの騎士達を幾度も撃退して来たという自信がある彼等にとって、それは大した脅威にはならないと判断したのだろう。彼等の口調と態度が、それを物語っていた。

 

「へへっ。命は大切にした方が良いぜ、坊主。この三人の女どもは、俺達が責任を持って可愛がってやるからさ」

 

 男達の態度と言動から、その実力を確認したのか、カミュが<鋼鉄の剣>を鞘へと戻す。その行動が、男達に更なる自信を付けさせた。

 自分達に恐れを成し、逃げる準備を始めたとでも思ったのだろう。

 

「カ、カミュ様!!」

 

「……」

 

 カミュの行動に、サラが驚きの声を上げる。

 まさか、カミュがこのような『ならず者』を恐れたという事はないだろう。しかし、『いい機会だ』と言って、自分達を見捨てるのではないかという考えを、サラは振り払う事が出来なかったのだ。

 それに対し、カミュと同じように『いつでも斬り捨てられる』と見ていたリーシャと、状況をいまいち掴めていないながらも、カミュとリーシャの態度から良い人間ではない事を理解したメルエは、ただ黙って成り行きを見ていた。

 

「そうだぜ、それでいい。後は俺達に任せて、さっさとこの塔から出て行きな」

 

「へへへっ、久々の上玉じゃねぇか? あの僧侶と剣士は俺達で楽しむとして、あのガキはどうする?」

 

 カミュが剣を鞘へと納めた事により、先程よりも余裕を大きくした二人が、カミュが消えた後の事を話し始める。それは、リーシャとサラにとっては我慢出来ない程の事であり、ましてやサラにとっては、一人で対処出来る物ではなかった。

 

「ああ……そうだな、前と同じように、狩りをすれば良いんじゃねぇか?」

 

「おお! そりゃ良い。この塔の中でガキ狩りか。でもよ、あの時は夜の森だったからな……少し簡単過ぎるんじゃないのか?」

 

「……なんだと?」

 

 しかし、続く男達の話の内容にいち早く反応したのは、憤るリーシャでも、顔を青ざめさせたサラでもなく、剣を鞘に仕舞い戦闘態勢を解除していたカミュだった。

 鋭い視線を男達に向けたカミュの纏う空気が変わって行く。

 

「ああ?」

 

「……もう一度、詳しく話してもらおうか?」

 

 女達を置いて早急に塔から立ち去ると思われていた少年が、自分達の話の腰を折った事に男達は腹を立てる。しかし、挑発的な返しをしながら振り向いた先には、先程と同じような無表情ながらも、全てを凍らせるような雰囲気を纏うカミュが立っていた。

 

「ああ!? まだいたのか、坊主! お前には、用はないんだよ! さっさと消えちまいな!」

 

「……お前達に無くとも、俺の方にはある……」

 

 怒気を通り越し、殺気に近い物を纏ったカミュの返答が、挑発的な言動を繰り返していた男達の口を縫いつけた。

 男達は、先程と別次元の雰囲気を醸し出すカミュを見て、石像のように固まり続ける。

 

「何度も言わせるな……お前達が話していた内容を、詳しく話せ」

 

「……カミュ様……」

 

「……カミュ……」

 

 地獄の底から響くような低い声に、サラは久しく感じていなかったカミュへの恐怖を思い出す。リーシャの方は、カミュの背中から漂う殺気の原因に見当がつき、果たして自分がカミュの怒りを止める事が出来るのかを悩んでいた。

 

「て、てめぇ! 誰に上等な口を利いてんのか、分かってやがるのか!?」

 

 カンダタ一味としてのプライドなのか、それとも身も竦むような思いを誤魔化す為なのか、男達は虚勢を張り続ける。そんな男達を冷ややかに、そして威圧的に睨むカミュの姿に、男達とは別に、後方に控えるサラの身体が恐怖で硬直して行った。

 最近は、メルエの加入により、カミュの物腰は幾分か柔らかい物になって来ている。サラに対しても、<カザーブの村>での出来事のように、多少は気を使ってくれるようになった。

 勝手について来た厄介者ではなく、『旅の仲間として見て貰えるようになったのではないか?』とサラは感じていたのだ。

 しかし、今のカミュの後ろ姿から、否応にもその異常さを受け入れさせられる。

 

 『あの勇者は、本当に人も魔物も同じと思っている』

 『例え人であったとしても、何の躊躇いもなく斬り捨てるだろう』

 『最近感じる優しさやメルエに対しての困惑など、表情に変化を生みだすカミュに自分は甘えていたのではないか?』

 『もし、カミュがその気になれば、自分等何の躊躇いもなく斬り殺されるのではないだろうか?』

 

 一般的な常識であれば杞憂に終わる筈のサラの心配は、自力で立っていられなくなったサラがリーシャの身体に捕まったその時に現実のものとなる。

 

「ギャ――――――――!!」

 

 鞘に納めた筈の剣が、カミュの右手に握られていたのだ。

 カンダタ一味の男達と問答をする気など毛頭ないカミュは、男達の挑発が終わるか終らないかの瞬間に背にある鞘から<鋼鉄の剣>を抜き放ち、男の腕を斬り落とした。

 

「……あ…あ……」

 

「……」

 

 恐怖から言葉がうまく出て来ないサラ。

 空中を漂い、枯れ木の如く地に落ちた男の肘から先を黙って見つめるリーシャとメルエ。

 そして、仲間の腕が一瞬にして消え失せたのを見て、自己の中での恐怖が明確化した男。

 

「て、て、てめぇ……」

 

「……話せ……」

 

 腕から盛大に血を噴き出させ、床を転げ回る仲間を見て、残った男は声を震わせる。しかし、返って来たカミュの静かな一言で、明確化した恐怖心が、男の怒りを覆い隠した。

 

「あっ」

 

 その時、今まで全く口を開かなかったリーシャが、場にそぐわぬ間抜けな声を上げる。

 恐怖に居たたまれなくなった男が踵を返し逃げ出したのだ。

 しかし、力量の差がある者から逃げ出す事など出来はしない。

 それは、魔物対人間も、そして人間対人間でも同じ事である。

 

「ギャ――――――――!!」

 

 先程まで雨音しかしなかった塔の一階部分に、再び絹を裂くような悲鳴が轟く。悲鳴と共に、逃げだそうとした男の大柄な体は地に伏すような形で崩れ落ちた。

 先程の男の肘から先を飛ばしたように一閃されたカミュの剣は、逃げようとした男の膝から下を斬り飛ばしたのだ。

 自己の大柄な体を支える杖の片方を失った男は膝から血を垂れ流しながら苦悶の表情を浮かべ、悲鳴を上げ続ける。

 サラは二人の男の甲高い悲鳴を聞き、更に恐怖心を増して行った。

 何故、カミュは話を聞く前にこのような行動に出たのか。人々を導く勇者であるカミュが、例え盗賊といえども『人』である男達に行った行為は、決して納得出来る事ではない。しかし、その心を覆う恐怖心から、サラの口は言葉を紡ぎ出す事は出来なかった。

 

「話せ……お前らがした事を……」

 

「ひぃ!!」

 

 血を噴き出しながら転げ回る二人を足で踏みつけ、更に剣を突き付けるカミュの姿は、サラにとって『魔王』にも思えただろう。しかし、それはサラ一人だけだったのかもしれない。

 何故なら、同じ様に恐怖を感じる筈のメルエや、カミュの行動を諌めようとする筈のリーシャは、その双眸を細め、黙って光景を眺めていたのだから。

 

「……あ…あ、あ……い、いま……治療を……」

 

 ようやく口から吐いて出た言葉は、サラの人柄を滲ませるものだった。

 『どんな者であろうと、失くして良い命はない』

 カミュに言ったサラの言葉は、『人』に関してだけは、嘘偽りはないのだろう。

 しかし、言葉と共にようやく動き出したサラの足は、一人の青年の冷たい言葉に遮られた。

 

「……必要ない……」

 

 静かだが、有無も言わせぬ威圧感を持つその言葉に、サラはその発言元であるカミュを見た。

 そこにいたのは、とても『人』とは思えない程の冷酷な目をした無表情に立つ、一体の石造のような『勇者』。

 

「……お前達の傷は致命傷ではないが、このまま長く治療をしなければ死を招く。もし、治療を受けたいのなら話せ……」

 

「……カ、カミュ様……」

 

 更には脅し。 

 とても、人々の希望となる人物が取る行動ではない。

 何がカミュをここまで冷酷にさせたのか。

 先程、剣を鞘に納めた時のカミュは、無表情ではあるがここまで殺気立ってはいなかった。

 

「……話さないのなら……死ね……」

 

「ひぃっ!! は、話す!!」

 

 しかし、サラが考えていたのとは異なり、この場にいる人間の誰一人として、カミュの発言を脅しとは思っていなかった。

 リーシャですら、カミュは二人の男を殺すつもりだと感じていたのだ。

 それを誰よりも明確に感じたのは、血を流しながら床を転げまわっていた男達であろう。二人の男は、自分達の身体を襲う激痛に顔を歪めながらも、カミュの言葉に従う事を大声で示していた。

 

 

 

 男達が、カミュの顔色を窺いながら話した内容は、嘘偽りのない物だった。

 それは、嘘を言おうとすると、何故それが解るのかは理解が出来ないが、カミュの剣が喉元に食い込んで来るのだ。自然と男達は真実を話す事となる。

 全てを話し終わった時、男達が見た物は、本当に何も感じられない表情をした少年と、その後ろから鋭い視線を向ける少女の眼差しだった。

 

「……それで、全部か?」

 

「は、はい」

 

 話が終わってから、誰一人口を開こうとしなかった重苦しい空気を破る一言がカミュの口から零れた。

 今や、カミュに対して敬語になってしまった男達は、それぞれの患部を押えながらも何度も首を縦に振る。その滑稽とも言える姿に対しても、誰一人表情を緩める事はなく、逆に肯定を繰り返す男達に殺意に似た感情を持っていた。

 

「…………イ……!!……うぅぅ…………」

 

「メ、メルエ!! こんな所で魔法を使うな!」

 

 その証拠に、カミュの後ろでリーシャの足に掴まりながら成り行きを見ていた幼いメルエでさえ、男達に指先を向け魔法の詠唱を行おうとしていたのだ。

 メルエの不穏な動きに咄嗟に取ったリーシャの行動がそれを止めはしたが、リーシャ自身もメルエの行動を止めた事が、果たして正しい事なのか判断出来ずにいた。

 

「お、お前の言う通り、ちゃんと話したんだ。治療をしてくれ!」

 

「うぅぅ……いてぇよ……」

 

 足を斬り飛ばされ、立ち上がる事も出来ない仲間の代わりに、身体を起こした男の方が、先程のカミュの言葉の遂行を嘆願する。しかし、先程自分から志願して動き出そうとしたサラでさえ、その男の嘆願に動こうとはしない。

 いや、動けないのだ。

 

「……何の事だ?」

 

「なっ!?」

 

 それは、カミュの纏う空気が先程と全く変わらないどころか、サラの行動を抑制してしまう程に鋭かったのだ。

 もし、カミュのその眼差しやその言葉が、サラに向けられた物であったとしたら、サラは再び<カザーブ>で見せた失態をここで見せる事になったかもしれない。それ程、カミュの纏う怒気と殺気は凄まじい物であったのだ。

 

「……俺は、お前達と約束した覚えはない……」

 

「ふ、ふざけるな!! お前は、話せば治療をすると言っただろう!!」

 

 治療を望む男達にカミュが返したのは、果てしなく冷たい一言。その表情はとても冗談を言っている物ではなかった。

 怒りと共にカミュへ食ってかかるが、男達の胸には絶望感が広がって行く。それは、次のカミュの言葉と行動で確定した。

 

「……『治療を受けたければ話せ』と言っただけだ。治療をこちらがするとは言っていない。お前達を生かすとも言っていない筈だ……」

 

「イギャ――――――――!!」

 

 カミュの言葉は男達を奈落の底に突き落とすものだった。

 しかも、カミュは持っていた剣を再度振り、カミュに怒鳴り散らしていた男の足をも斬り飛ばしたのだ。それは、約束を守る等の次元の話ではない。

 

「カ、カミュ様!!」

 

 腕と足を斬り飛ばされた男は、盛大に血を撒き散らしながら地面を転げ回る。再び轟く、闇を切り裂く悲鳴に、皮肉にもサラの身体はようやく本来の活動を開始した。

 

「触るな!!」

 

 しかし、治療の為に動こうとしたサラに、今まで聞いたこともないような怒声が降りかかる。振り返ったサラは、声の主であるカミュを一睨みし、その声を無視して男達の治療に入った。

 <ホイミ>を詠唱したサラの右手を淡い緑色の光が包み、その手を翳していた患部を照らして行く。光と共に患部の痛みも和らいでいき、苦痛に歪んでいた男達の表情も同様に和らいで行った。

 

「……サラ……」

 

「…………」

 

 カミュの制止も聞かずに治療を始めたサラの名前を溢したリーシャの表情は、何とも言えない歪んだ物であり、その横に立つメルエのサラに向ける視線は冷ややかな物だった。

 それが、この場でサラだけが浮いた存在である事を明確に示している。

 

「……服は乾いたな? 行くぞ」

 

「ま、待って下さい! この方達はどうするのですか?」

 

 治療をするサラを冷めた目で見ていたカミュであったが、興味を失くしたように後ろを振り向き、リーシャとメルエの着ている服を確認し、出発を告げる。しかし、その確認の対象にサラは入っていなかった。

 

「カ、カミュ様! 質問に答えてください!!」

 

 自分の方を向く事なく足を進めるカミュに、サラは我慢できずに叫び声に近い声を上げた。

 それでもカミュは、サラを振り返る事なく歩いて行く。『勇者』と呼ばれる青年の行動は、サラの希望を大きく打ち砕き、現実へと突き落した。

 

「そのまま放置していれば良い……血の匂いに誘われて来る魔物達の恰好の餌になるだろう」

 

「そ、そんな!?」

 

「ひぃぃ!!」

 

 振り返る事なく呟いたカミュの言葉に、サラは自分の耳を疑いたくなった。

 とても『人』の所業とは思えない。しかし、リーシャやメルエにしてみれば、今芋虫のように転がっている二人の男達の所業も、『人』の物とは言えない。

 云わば自業自得なのだ。

 

「……それに、アンタこそどうするつもりだ?」

 

「は?」

 

 ようやく振り返ったカミュは、冷たく冷えた目をしたまま、サラに意味不明な問いかけを投げかける。カミュの言っている事が何の事なのか全く見当もつかず、呆けたように見上げるサラを、尚も冷たい瞳で見下ろしたカミュは、サラを奈落の底へと突き落す言葉を発した。

 

「……昨日、アンタが俺に言った事をそのまま返す……そいつ等を助け、生かす事で、またそいつ等の被害に合う人間がいたとしたら、アンタはどう責任を取るつもりだ?」

 

「えっ?」

 

 それは、<軍隊がに>を逃がしたカミュに向かって告げたサラの糾弾。更なる脅威となる者を見逃す事への責任の追及だった。

 サラは、その事実を認識するのに暫しの時間を要するが、次第に理解をして行く中で、カミュに対しての返答が出来ない自分をまざまざと見せ付けられる事となる。

 

「……アンタにとって、俺の行動全てが気に食わないのも解るが、時には自分の頭だけで考えてみろ……」

 

 その言葉を最後にカミュは、開けた場所を出て行った。

 その後を『とてとて』と歩くメルエが続き、そのメルエを保護するようにリーシャも歩いて行こうとする。サラは、リーシャぐらいは自分の意見に同意してくれるだろうと考えていた。

 しかし、それは見事に裏切られる結果となる。

 

「リ、リーシャさん!!」

 

 それでも諦めきれないサラはリーシャへと言葉を投げかけた。

 その最後の希望も、振り返ったリーシャの目を見て絶望へと変わって行く。

 

「……カミュの言葉を全面的に支持する訳ではないが、今の私は、メルエとカミュの怒りを抑える事で精一杯だ。そいつ等の命が、今ある事だけでも感謝して欲しい」

 

 それは詭弁。

 リーシャがサラと同意見であれば、カミュへと怒りをぶつけていただろう。

 それをしないという事は、カミュ寄りの意見なのだ。

 

「そ、そんな……」

 

 メルエはサラを一瞥もせずにカミュを追って行く。

 リーシャもその言葉を最後にその場を後にした。

 残ったのは呆然とするサラと、<ホイミ>により傷が塞がったものの、己から出た血溜まりの中で絶望の淵に落ちている二人の男達だけとなる。その空間を支配するのは、『絶望』と僅かな『期待』。

 男達は、縋るような眼差しでサラを見つめていた。

 

「お、おい!! た、たすけてくれ!! お前は『僧侶』なんだろ!? まさか、このまま俺達を見捨てて行ったりはしないよな!?」

 

「……」

 

 サラには答えられない。

 『自分一人で何が出来ると言うのだ?』

 大柄な男二人を担ぎ出す事など不可能に近い。

 

「な、何とか言えよ! 『僧侶』が嘘を付くのかよ!? 俺達はちゃんと話しただろ!?」

 

「!!」

 

 男の言葉に、サラの顔が跳ね上がる。男達が話した内容が、鮮明にサラの頭に呼び起された。

 そして男達はサラの表情の変化ではなく、感情の閉鎖を知る事となる。それと同時に自分達の未来へと続く扉も閉じた事を理解したのだ。

 

「お、おい……ま、まさか……」

 

「たすけてくれよ!!」

 

 徐に立ち上がったサラを、絶望の表情で見上げる男達。しかし、そんな男達の嘆願も、もはやサラには届かない。

 法衣の裾を皺が出来る程に握り締め、男達に背を向けるように暫く立っていたサラは、決意をしたように顔を上げ、猛然と走り出した。

 

「……あ……ああああ……」

 

 誰も居なくなってしまった空間に、もはや燃え尽きようとする焚き火と、焚き火の灯りがあるにも拘わらず、目の前が真っ暗になってしまうような感覚に陥った男達だけが残った。

 

 やがて、焚き火の炎も消え果て、その広間を冷たい空気が支配する。

 血の臭いが充満する中、何とか這ってでも移動をしようと試みる男達の前に大量の影が差し、塔の一階部分に再び絹を裂くような悲鳴が轟くが、その悲鳴も一瞬の内に潰え、『人』ではない物の咆哮と、肉を裂き、骨を砕く音だけが響いていた。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございます。

次話は更にきつい内容です。
ここからの数話は、賛否両論あると思います。
次話は明日の夜に更新します(もう既に今日の夜ですね)

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。



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過去~アン~

今回の話は、正直かなりきついです。
心を強く持ってお読みください。


 

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 陽が西の大地に沈み切り、夜の帳が降りてから既に数刻の時が経った。

 所々に立つ木々達も眠りについたそんな山中を、一人の少女が駆けて行く。陽が沈んだ頃から走り続けていた少女の息は、呼吸困難に陥っているかの如く粗い物になっていた。

 

「……はぁ……はぁ……うっ、ごほっごほっ……」

 

 呼吸困難の末、咳込みながら口の中に溜まった唾とも痰とも言えない液体を少女は吐き出した。

 もはや、少女の顔の穴という穴から様々な液体が出ており、年の頃七、八歳という少女の愛らしい部分は全く見られない。

 数刻前までに彼女と共に居た母親は、少女が走り始める少し前に目の前で動かなくなってしまっていた。いつでも優しく、常に少女に向けられていた暖かい微笑みはもう二度と見る事が叶わない。 

 

 少女の名は『アン』。

 

 この山の麓にある<カザーブ>という村にある、道具屋を営む男の一人娘である。

 過疎化が進む村の中、道具屋夫婦に生まれた待望の子であり、常に両親の愛を一身に受けていた少女。その少女が何故、このような山中を一人、涙と鼻水で顔を汚しながら駆けているのか。

 

 それは、太陽が傾き始めた頃まで遡る事となる。

 

 

 

 <カザーブ>の村は子供が少ない。過疎化が進み、若者と言える人間自体が少なくなって来ているのだ。

 最近では旅人も少なく、村に移住してくる人間も皆無に等しい。必然的に村の中に若者は少なくなり、その間に生まれる子供も皆無となる。

 故にアンには遊び相手がいなかった。物心がついた頃から、一人で遊ぶ事が当たり前になっていたのだ。

 大抵は家の中が多いのだが、天気も良く陽が暖かい日等は、外に出て何をする訳でもなく、花を見たり虫を見たりしながら歩きまわる事が、彼女にとっての遊びとなっていた。 

 

 この日も、朝から雲一つなく晴れ渡った空は、まるで神の慈悲を降り注ぐような暖かさを運んでいた。

 昼食を終えたアンは、母親に外に出る事を告げ、村の中を歩き始める。自宅を出て、アンのお気に入りの場所である湖に浮かぶ島のような場所へと足を進めていた。

 そこにはいつも老人が火を熾し何かを焼いている。この老人はアンの祖父とも仲が良いらしく、アンだと解ると、にこやかな微笑みを返してくれた。

 初めてこの場所に足を運んだアンの『何を焼いているの?』という問いかけに、いつもと同じ微笑みを浮かべた老人が火の中から二つの芋を取り出し、アンに手渡してくれた事がある。それから、ここはアンのお気に入りの場所となったのだ。

 

「ほほほっ、アンよ。今日は、お芋さんはないぞ」

 

「うん! アンは、お昼ごはんを食べて来たからいらないわ」

 

 アンが笑顔で現れた事に、嬉しそうな微笑みを浮かべた老人は、楽しみにしているだろうと思って声をかける。しかし、アンからは笑顔と共に、予想とは違う答えが返って来た。

 

「そうか、そうか。そう言えばもうお日様がてっぺんを越えてしまっていたの」

 

「おじいちゃんは、お昼ごはんを食べてないの?」

 

 まるで昼を過ぎた事を忘れたかのような事をいう老人を心配し、アンは一度家に戻り何か食べ物を持ってこようかと考えていた。

 

「いやいや、わしは良いんじゃよ。腹も大して空いておらんしの」

 

「おなか減らないの?」

 

 眉尻を下げて、窺うような視線を向けるアンに、老人は柔らかな微笑みを浮かべる。自分の答えを聞き、小首を傾げて、不思議そうな瞳を向けるアンに、老人は更なる微笑みを作った。

 

「うむ。アンのように、お転婆ではないからの。動かなければ、そんなにおなかは減らんよ」

 

「アンはお転婆じゃないわ!!」

 

 自分を心配してくれるアンの優しさに尚一層顔の皺を深めた老人は軽い冗談を言ったつもりだったが、アンにとっては酷い心外な言葉だったようだ。

 しかし、頬を膨らまし、老人から顔をそむけるアンの姿が尚更可愛らしく、老人の笑みは増していくのであった。

 

「それよりも今日はどこに行くのかな?」

 

「もう! アンは怒ってるんだからね!」

 

 話をそらそうとした老人の目論見にアンの許可は下りなかった。

 頬を膨らまし、腰に手を当てる少女の姿は、可愛らしい以外の感想を持つ事は出来ないのだが、老人は慌てた様子を作り、頭を下げる事にした。

 

「すまん、すまん。それで、アンは何処へ行くのじゃ?」

 

「今日はね、お花を摘んで、それを教会に持って行くの!」

 

 老人の謝罪を聞いて、膨らませていた頬を戻したアンは、少し考えるような仕草をした後、今日の予定を老人に話し出す。その内容は、とても子供の遊びの範囲ではない物だったが、嬉しそうに話すアンを見た老人は、笑みを浮かべたまま頷きを返した。

 

「ほぉほぉ、そうか。それは良い事じゃ」

 

「うん!!」

 

 『今泣いた烏がもう笑う』

 そんな言葉がぴたりと当てはまるように機嫌を直したアンに老人の頬は再び緩んだ。

 アンが花を大切にしている事は老人も知っている。アンが花を摘むのは、いつもの事ではななく、一月に一度と言っても良いだろう。

 この心優しい少女は、頑張って咲いた花を簡単に摘んでしまったりはしない。月に一度、教会に並ぶ墓に供える為に、毎日水をやっていた花を摘むのだ。

 それが今日だった。

 

「じゃあ、もう行くわね」

 

「うむ。転ばないように気を付けて行くんじゃぞ」

 

 老人に向かって手を振り、アンは教会の方角へと身体を向ける。そのアンの背中に老人は言葉をかけるのだが、その内容は、またしてもアンの機嫌を損ねる物だった。

 

「もう! アンはお転婆じゃないの!!」

 

「ほぉほぉ、そうじゃった、そうじゃった」

 

 老人の切り返しに再び頬を膨らましたアンであったが、老人の笑顔に自然とアンの顔にも笑顔が戻って行き、大きく手を振りながら、老人の下を離れて行った。

 老人は小さく手を振りながら、何度も振り返るアンを優しく眺めている。この老人が見たアンの姿は、この太陽のような明るい笑顔が最後であった。

 

 

 

「こんにちは!」

 

 大きく重い扉を身体全体で押し開けたアンは、日光がステンドグラスを通って醸し出す鮮やかな色合いに目を細めながら、泉の畔にいる老人と同じように笑顔を絶やさない神父の到来を待っていた。

 

「アン、いらっしゃい」

 

「こんにちは、神父様。今日はお花を持ってきたの」

 

 アンの予想通り、いつもと同じ笑顔を浮かべながら、神父が登場する。アンは、教会に行く途中にある、アンの花壇から摘み取った瑞々しい花達を誇らしげに神父に見せ、今日の来訪の理由を告げた。

 

「そうですか。それは、それは。いつもありがとうございます、アン」

 

「はい!」

 

 その笑顔が更に優しさを増し、神父は深々と自分の腰ほどしかないアンへと頭を下げる。

 それは、毎月行われる二人の儀式。

 最初は、自分に頭を下げる神父に戸惑っていたアンだったが、『これが感謝を示すという事です』と神父から教えられてからは、それを素直に受け取る事にしたのだ。

 

「では、お墓の方に供えてくれますかな? 私がするよりも、アンのような子に供えてもらった方が、皆喜ぶでしょう」

 

「はい、神父様」

 

 自信の提案に、元気よく返事をするアンを見て、神父は苦笑に近い表情を作った。

 仕方がない事ではあるのだが、何でも無邪気に受け入れるアンに向けて冗談を言った自分を笑ったのだ。

 

「ふふふっ。アン、そこは否定して頂くと、私としても嬉しいのですが」

 

 まだ、謙遜や社交辞令が解らない歳なのだから仕方ないのだが、神父の言葉に不思議そうに首を傾げるアンに、神父は笑みを強くした。

 

「いえ、なんでもありません。さあ、陽が陰る前にお願いしますね」

 

「はい!!」

 

 話を戻した神父の言葉に元気よく頷いたアンは、『ルビス像』に続く赤絨毯から逸れた所にある扉へと向かって行った。

 その後ろ姿を微笑みながら見ていた神父もまた、自分の仕事へと戻って行く。

 

 

 

「♪~~ふん~~~ふんふ~~」

 

 機嫌よく鼻歌を口ずさみながら、アンは手に持つ花を墓の前に供えて行く。アン程の子供にとって、お墓に物を供える事が楽しいという子供は少ないだろう。

 しかし、アンはこの墓が並ぶ場所から見る<カザーブの村>がとても好きだった。

 周囲にそびえる山々、そこから心地よい風が降り、立ち並ぶ家の前に干してある洗濯物を靡かせる。活気があるとは言えないが、ここから聞こえる人々の声が、それぞれの生活が存在する事を認識させていた。

 決して華やかではないが、確実な営みがある。それが何よりアンに安心感をもたらすのだ。

 アンが口ずさむ歌も、古くからこの村で歌われていた歌。生まれた頃から、子守歌代わりに母親が歌ってくれていた歌である。アンは機嫌が良い時、楽しい時には、この歌を無意識に口ずさむようになっていた。

 

「こんにちは、蟻さん。今日は何を見つけたの?」

 

 墓地の土の上を這いまわる蟻を見つけ、アンは声を掛ける。アンにとって、この村にある物、この村で生きている者は全てが見ていて楽しいものだった。

 それと言うのも、最近村に出入りするようになった盗賊が最初に来た時は、村中の人間が外へ出て来ないようになってしまっていた。

 それは、アンも例外ではなく、両親に抑えられ、外に出してもらえなかったのだ。

 最近になって、ようやく外へ出る許可がアンに下りる事となる。故に、外の景色、肌に触れる風、暖かく照らす日光、その全てが、アンにとって喜ばしい事だったのだ。

 教会に戻り、神父から水差しを借りたアンは、墓地の周辺に咲く花々に水をやって回る。山からの吹き下ろしの風で傾いた花には、小枝を支え木にし、土から根が出そうになっている物は再び土をかけてやる。その作業の合間にも、虫達を見つければその後を付いて行った。

 

 そんなアンの一人遊びも、足元が見え辛くなった頃に終わりを告げる。

 アンを迎えに母親が来たからだ。

 

「アン、暗くなる前に帰って来なければ、駄目でしょ?」

 

「あっ!? ご、ごめんなさい……」

 

 一人遊びに夢中になっていたアンに苦言を呈すこの女性が、アンの母親。

 アンを産んで既に十年近くも経つが、その美貌は衰えず、<カザーブ>でも人気のあるこの母親がアンは大好きだった。

 

「ふふっ、気をつけるのよ。今日はお母さんと一緒に帰りましょ」

 

「うん!!」

 

 アンが項垂れてしまうと、厳しい顔をしていた母親もすぐに笑顔がこぼれ、言葉と共にアンに手が差し伸べられる。母親の笑い声に嬉しそうに顔を上げたアンは、大きな声を上げて、母親の手を取った。

 

「あら、アン? まずは、神父様にお礼を言ってから、手を洗わせて頂きましょうね」

 

 自分の手を握るアンの手が、土と埃で汚れている事に気が付いた母親は、にこやかにアンに向かって言葉をかけた。

 アンが土いじりや色々な事に興味を示している事を知っている母親は、それを咎めるような事をしない。幼い頃に、自分の感触で触れ、見る事が子供の成長に必要な事だと知っているのだ。

 二人は、墓地を出て神父に挨拶を済ませる。教会の洗い場で、母親と二人で手を洗うアンは、終始笑顔を絶やさなかった。

 

 

 

 教会を出ると、陽は大分傾き、周辺を赤く染め始めていた。

 各家に灯りが灯り始め、夕食の支度の為、煙突からは煙が出ている。村の外を歩く人達も既に誰もおらず、遠くに見えるアンの自宅である道具屋も、店仕舞いを済ませていた。

 

「さぁ、アン。早く帰りましょ。お父さんもお腹を空かせて待っているわよ」

 

「うん! アンもお腹が空いたわ」

 

 手を繋ぎながら家路を急ぐ母子。

 普通の村であれば、何の違和感もない、ほのぼのしい光景。

 そんな母子の幸せは、唐突に終焉を迎える。

 

「な、なんですか!?」

 

 手を繋ぎ、笑顔で見下ろしていたアンに影が降りたかと思うと、周辺が突如夜になったかの如く闇が広がる。何事かと顔を上げた母親は、自分達を囲む大勢の屈強な男達を見た。

 アンは、恐怖から母親の腰にしがみつき、怯えたように目を瞑る。

 

「へへっ、流石は<カザーブ>自慢の若奥さんだ。噂以上に別嬪じゃねぇか」

 

「本当だぜ。こりゃ、道具屋なんかにゃ勿体ねぇ」

 

 周囲を取り囲む男達が、母親を見て口々に何かを語り出す。周囲を完全に包囲されている為、周りから見れば、『またあいつ等が集まって何かやっている』としか見えないだろう。この男達こそ、ここ一年程で村に出入りするようになった盗賊一味であった。

 

「な、何をするんですか? そこを通して下さい!」

 

「へへへっ、声も良いじゃないか。あの時はどんな声で鳴いてくれんだろうな」

 

 母親は恐怖に身が竦む中、それでもアンを護ろうと毅然とした態度で立ち向かうが、盗賊達の耳には全く届いていなかった。

 それどころか、何か不穏な事を言い始めている。その間も、アンは母親の腰にしがみ付いて震える事しか出来なかった。

 

「大声を出しますよ! 何を……うぅぅ……」

 

 身の危険を感じた母親の言葉は最後まで発する事が叶わない。

 男達の内の一人が、後ろから母親の口を塞いだのだ。

 

「ああ、いけねぇや。そんな態度に出ちゃ。俺達は何もする気はなかったんだぜ。それが、大声なんか出されたら村の連中に気付かれちまう」

 

「そうだぜ。そんな事になって、お頭に話が行っちまったら大事だ」

 

「こりゃ、もうしょうがねぇな。連れて行くしかねぇだろ」

 

 最初から逃がす気など毛頭なかった事は、男達の態度を見れば明白だ。

 それにも拘わらず、自分達を正当化するような言葉と下種な笑い声に、母親は絶望する。口を手で塞がれ声を出す事も出来ない。更に、腕を掴まれ動く事も出来なくなっていた。

 

「おい、このガキはどうするんだ?」

 

「あぁ? 連れて行くしかねぇだろ。この場面を見られちまったんだからな。俺はガキには興味ねぇからお前らにやるよ」

 

「俺達もいらねぇよ。ギャハハハッ」

 

 母親と同じように口を押さえられたアンは、男に抱えられるように持ち上げられ、別の男がアンと母親の口を布のようなもので塞ぎ、歩き出した。

 下種な笑い声を周辺に響かせ、陽が傾き、隣にいる人間の顔すらもはっきりとは見えなくなり始めた<カザーブ>の村を出て行く。

 母親は最後の気力を振り絞り抵抗をするが、一人の男からの腹部への強烈な拳を食らい、意識を失った。総勢十人にもなろうかという男達は、ぞろぞろと村の外へと歩いて行く。門番に不審に思われないように、二人を担ぎ上げた男達を取り囲むように、別の男達が周囲を歩いた。

 あまり歓迎していない人間達が村から出て行くのを、門番がわざわざ止める筈もない。すんなりと男達は村を出て行く事が出来たのだ。 

 

 

 

 アンは頬に暖かな空気がかかる感触に目を覚ます。静かに目を開けると、目の前には焚き火による炎。その周りを十人程度の男達が囲み、酒を酌み交わしていた。

 アンは、先程の出来事を思い出し、母親を探す為に起き上がろうとするが、そこで初めて、自分が木に縛り付けられている事を知る事となる 。

 

「ギャハハッ……ん? おお、お譲ちゃんのお目覚めだ!!」

 

「―――オオォォォ――――」

 

 アンの目覚めに気がついた男が、周囲にその事を告げる声を上げると、『待ってました』とばかりに喜びの歓声が湧き上がる。その声は、周辺の木々を震わせ、アンの身も振るわせる程の大きさを誇った。

 

「へへっ、しかし、すげぇ事考えるよな」

 

「違いねぇ。子供の目が覚めるのを待って、実の子供にも見せてやろうって言うだからよ」

 

「ギャハハハ。まあ、楽しけりゃ良いだろうよ」

 

 アンには男達の会話の内容が理解出来ないが、全ての男達が自分を見て、下種な笑いをしている。それでも、アンにはそれに構っている暇などなかった。

 母親を見つけなければと、何度も左右に首を振り、周辺を見渡す。しかし、その行為も下種な笑いを繰り返す男達にとっては格好の酒の肴となってしまうのだった。

 

「ん~? おお! お譲ちゃんが、母親を探していらっしゃるぞ!」

 

「――――ギャハハハハッ―――――」

 

 屈強な男達の大きな笑い声は、アンにとって恐怖以外の何物でもない。

 『何故このような事になってしまったのか?』

 ほんの数刻前には、暖かな日の光の下で花を愛で、山から吹き下ろす心地よい風に髪を靡かせていた筈の自分が、山の中で男達に囲まれている現実に、アンは恐怖した。

 

「おい! お母様をお連れしてやれ!」

 

 戸惑い、目に涙を浮かべるアンを余所に、一人の男が別の男に向かって声を上げる。声を上げた男の下にいる人間なのか、『へい!』と間の抜けた返答をした男が火から離れ、アンとは逆方向へ歩いて行った。

 

「お、お母さん!!」

 

 火から離れた二人の男が連れてきた母親は、服装などは乱れていないが、抵抗をした時に暴力を受けたのか、その美しい顔の右頬が赤く腫れ、涙の跡を残している。

 暗くなり始め、火の灯りが頼りな場所で、アンにそれを確認する事は出来ず、ようやく頼りとする母親が現れた事に安堵に近い叫びを上げた。

 

「……ア、アン……」

 

「へへへっ、感動のご対面だ。ギャハハハ」

 

 アンの叫びに項垂れていた母親の顔は上がり、絶望に打ちひしがれた表情を浮かべる。アンだけでもなんとか逃げていて欲しかった。

 母親は、自分の運命は既に諦めていたのだろう。しかし、娘だけはという想いは未だ捨て切る事は出来なかった。

 

「む、娘だけは! 私をどうしても良いです。でも、娘だけは、娘だけは……」

 

 その母親の想いは、盗賊達への懇願という、世間が知れば全く意味のない行為と嘲笑われる行動に出ていた。

 そしてやはり世間の考え通り、それは徒労に終わる。

 

「ギャハハハ、安心しな。娘の前で、たっぷりアンタを可愛がってやるから」

 

「!!……うぅぅ……」

 

 母親の嘆願など聞く気もないのだろう。下種な笑い声を発している口から涎を垂らしながら、優越感に浸ったような表情を浮かべて男は笑う。

 『絶望』という感情が母親の心を満たし、許しや助けを請う気力さえも奪って行き、ただ嗚咽を漏らす事しか出来なかった。

 

「まあ、俺達がする事を見てしまったんだから、お譲ちゃんには悪いけど、生かしておく事はできねぇよな」

 

「ちげぇねぇ。ギャハハハ」

 

「……そ、そんな……」

 

 男達が口々に話す内容が、母親を更なる絶望の淵に落として行く。

 それは二度と這い上がる事が出来ない程の深さを持つものであり、男達の話の内容は、二人の死を意味していた。

 しかも、母親はその前に死をも超える程の恥辱を受け、アンはその母親を強制的に見せられるという耐えがたいトラウマを埋め込まれる筈だ。

 

「さあ、野郎ども、始めようぜ!」

 

「―――――オオォ―――――」

 

 中心人物のような男の掛け声に、その他大勢の人間が声を揃える。それは、盗賊達にとっての饗宴の始まりを意味し、アンと母親にとっては地獄の始まりとなる合図となった。

 男達は我先にとアンの母親へ群がって行く。木に縛り付けられるアンの目と鼻の先まで母親は引き連れられ、服を剥ぎ取られて行った。

 

「キャ――――――――!!」

 

 アンの耳に切り裂くような母親の悲鳴が轟き、アンは目を瞑る。

 だが、傍にいた男がそれを許さなかった。

 

「目を閉じるな!! しっかりと見るんだよ。お前の母親の喜んでいる姿を」

 

 アンにはとても母親が喜んでいるように等見えない。苦痛に歪み、今まで見た事のない程に大きく口を空け悲鳴を上げる母親が、喜んでいる訳がない。アンはその光景を何処か別世界の出来事のように見る事しか出来なかった。

 

「や、やめてぇ――――!! ア、アン、見ないで!!」

 

「へへへっ、一番乗りは俺だ」

 

 叫び声を上げ続ける母親が、アンと湯浴みをする時のように一糸纏わぬ姿に変わった時に、中心人物を見られる男が下半身を露わにし、母親に覆い被さった。

 手足を他の男達に抑えられている母親は、抵抗する事も叶わない。

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

「うるせぇ!! おとなしくしやがれ!!」

 

 泣き叫ぶような母親の叫びは、圧し掛かった男の拳に途切れる。何度も何度も母の上で動く男がアンには気持ち悪い物にしか見えなかった。

 この姿であれば、虫の方が遥かに可愛い。

 いや、魔物の方が良いぐらいだ。

 

その後、満足したように母親から離れた男が他の男達に頷くと、次々と男達が母親に覆い被さって行く。母親もその頃にはすでに叫ぶ気力もなく、涙も枯れ果てたのか、目は虚ろとなり、その眼差しはもはや『人』と呼べる色をしていなかった。

 次々と男達が入れ替わり立ち替わり母親の上で蠢いて行く姿は、甘い物に群がる蟻のようである。いや、それは懸命に餌を運ぶ蟻達に失礼なのかもしれない。

 周囲にいた男全員が母親を虐げ終わるまで、アンは顔を背ける事も、目を閉じる事も許される事はなかった。

 そして、十人もの男達の欲望を一身に受けた母親は、ぐったりと横たわる。

 

「……お……お…かあ……さん……?」

 

「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 

 人形のように色を失った瞳をして虚空を見つめていた母親が、アンの呟きで正気に戻ってしまった。

 それは耐えがたい苦痛を思い出させる。

 夫以外の人間に身体を奪われ、しかも、その恥辱を最愛の娘に一部始終見られていた。女性にとって、そして母親にとって、この事実は人間を崩壊させるのに十分な物。

 しかし、自身の自己防衛のような母親の叫びは、今まで散々楽しんでいた人間によって止められる。

 

「うるせぇ!!」

 

「ぐふっ!」

 

 アンの目に飛び込んで来たのは、胸の真ん中に太く鋭利な刃物が突き刺さった母親の姿。アンの母親を真っ先に組敷いた男が、母親の叫びが耳触りとばかりに、腰に差していたナイフのような物で胸に突き刺したのだ。

 水を飲む時にむせたような音を口から発したのを最後に、アンの愛する優しい母親は胸から盛大に赤い液体を噴き出し、動かぬ人形となってしまった。

 

「あ~あ、死んじまった。俺は、もう一回しようと思ってたんだがな」

 

「いいじゃねぇか。まぁ、血で真っ赤に染まっているが、硬くなる前にやっちまえよ」

 

「ギャハハハ、そうだ、そうだ」

 

 『これは夢ではないのか?』

 『そろそろ、母親の優しい声で揺り起こされるのではないのか?』

 アンの目は見開き、今目の前で起こったことが何なのかも理解出来ない。アンのそんな儚い希望は、アンの周りを取り囲む男達の常軌を逸した会話に握り潰された。

 母親は、既に死んだのだと。

 

「何言ってやがる。それに俺達には、まだ楽しみが残ってるだろ?」

 

 中心人物であろう男が宥めるように周囲の男達を見回し、最後にアンへと視線を向ける。呆然と母親の死体を眺め、『夢なら早く覚めて』と願っていたアンは、その男の視線に目の前が真っ暗になったような感覚に陥った。

 追い打ちをかけるように、男の宥めに反応したその他の男達が歓声を上げる。

 

「よ~し、お前ら。今持っている有り金を全部をここに出せ。持っているゴールド全部だ。隠していたりしたら命はないと思えよ!」

 

「何を始めんだ!?」

 

 男の提案に盗賊達はしぶしぶと言った感じで、焚き火の近くに自分の持っているゴールドを置いて行く。十人分の盗賊の有り金だ。

 それは、次第に山になって行き、それを見ていた盗賊達が再び歓声を上げ始めた。

 

「これで全部だな? よし、じゃあ、今からこのガキの縄を解く。ガキを山に放してから……そうだな半刻後に狩りを始める。このガキを狩った奴が、ここにあるゴールドを独り占めだ!」

 

「オオオォ―――――――」

 

 地鳴りのような歓声が山全体に響き渡り、アンの恐怖心を増大させる。

 正直、アンは男が何を言っているのか解っていない。

 

「おい」

 

 男の掛け声に、アンの近くにいた盗賊がアンを縛りつけている縄をナイフで切り、アンを解放した。

 自由の戻った身体に戸惑い、『やはり夢だったのでは』という希望を持つアンの視線の先に、再び血達磨になった母親の姿が映る。

 

「お、お母さん!!」

 

 縺れる足を何とか動かし、母親の傍に駆け寄るが、それは母親の姿をしてはいたが、もはや物言わぬ肉塊となっていた。

 

 もう、あの優しい微笑みをアンに向けてくれる事はない。

 もう、あの暖かな食事を作ってくれる事もない。

 もう、アンの髪を洗い、拭いてくれた後に、優しく梳いてくれる事もない。

 もう、父親と微笑み合いながら、『アン』と呼んでくれる事もないのだ。

 

 目を見開いたまま、首から下を真っ赤に染める母親を見て初めて、アンはその現実を理解した。

 わずか七、八歳の少女にとって頭の許容範囲を大きく逸脱する情報。しかし、アンは理解せざるを得なかった。

 

「お、お母さん! お母さん! うぅぅ……お母さん!!」

 

 それでも、血で染まった母親の身体を何度も揺すりながら、再び笑いかけてはくれないかと声をかけ続ける。だが、命の灯が消え果てた身体は、アンの悲痛な呼びかけに何の反応も示さない。

 

「い、嫌だよぉ……お母さん! ねぇ……お母さん!!」

 

「おい! いつまでやってやがる! お前には最後の仕事があるんだよ!」

 

 理解しながらもそれを飲み込む事を拒絶し続けるアンに痺れを切らした男は、母親の傍で座り込むアンを強引に立たせ、引き摺るように焚き火の近くまで移動させる。

 

「いやぁぁ! お母さん!!」

 

「うるせぇ!! ここでお前も殺してやろうか!?」

 

 引き摺られながらも、尚も母親を呼び続けるアンを、男が殴りつける。屈強な男の手加減なしの拳を受け、アンの小さな身体は軽々と宙に待った。

 強い衝撃と共に地面に落ちたアンの鼻からは赤い血液が流れ、ここ最近でやっと生え変わって来た歯が口内で折れていた。

 

「……うぐっ……ごほっ……うぇ……」

 

 口から血を吐き出し、目からは涙、鼻からも血を流しているアンの顔は、もはや少女の愛らしいものではなかった。

 それでも、周囲の男達の表情は愉悦に歪んでいる。まるで、それが今から始まる舞台の幕開けとばかりに。

 

「おい! ほら、早く逃げろよ。そんなとこに這いつくばってちゃ、つまんねぇだろうが! 良いか? 俺達から逃げる事が出来たら死ぬ事はねぇんだ。必死になって逃げな」

 

「ギャハハハ、逃げられりゃ良いけどな!」

 

 懸命に顔を上げようとしたアンの泥と血で汚れた髪を掴み、男はドスの利いた声でアンに促す。その言葉に再び周囲の盗賊達から野次や笑い声が響き渡った。

 

「……うぅぅ……ぐずっ……」

 

 それでも立ち上がったアンは、もう一度母親の姿を見た後、もはや完全に闇と化し始めた山の中へと走り込んで行く。その行動は、もはや本能であったのかもしれない。彼女は聡い子供であった。母親の死を理解したと共に、自身の死も理解していたのだろう。

 それでも、『生物』としての本能が、彼女の小さな足を動かしていた。

 

「おしっ。野郎ども! 半刻後だ。半刻経ったら、武器は何でもかまわねぇ。剣であろうが槍であろうが、それこそ弓だってかまわねぇ。とにかく仕留めた奴がゴールド総取りだ! 張り切って行けや!」

 

「オオオォ――――――」

 

 盗賊達の狂った雄叫びが、闇のカーテンをかけたカザーブの山々に響く。

 それは、これから始まる狂宴の始まりを意味していた。

 

 

 

 逃げ出したものの、アンはどこをどう走ったらいいのか全く分からない。

 それもその筈であり、アンはやっと家の外を出る事を許されたばかりだ。

 村の外に出た事自体、これが初めてである。幼いアンの脚力ではどうしても速度は出ない。おまけに、肺活量も少ないため、すぐに息が切れてしまう。それでも、アンは懸命に走った。

 もはや、息が切れる事など構ってはいられない。肺が悲鳴を上げ、呼吸をする度に、喉に焼けるように痛みが走っても、アンは夜の山道を駆け続けた。

 どこをどう走ったのかさえ分からない。家では、眠るまで多少の明かりをつけたまま母親に手を握ってもらいながら眠るアンも、今ばかりは山を支配する暗闇を怖がっている余裕はなかった。

 

 『もう<カザーブの村>が見えてくる頃だろうか?』

 『もうすぐ、いない自分と母親を探しに来た父親と会える頃ではないか?』

 

 そんな希望が頭に浮かびながら懸命に走るアン。しかし、現実は無常。アンの幼い足では、半刻という時間の中、盗賊達の声が聞こえない距離までも移動する事は出来ていなかった。

 突如上がった歓声とも怒号とも知れない叫び声にアンの足が止まう。それは半刻という時が経ってしまった事を意味する合図であった。

 

「……うぇ……お母さん……お父さん……ぐずっ……」

 

 夜の闇の恐怖。

 先程まで見ていた光景の恐怖。

 そして今まさに上がった咆哮への恐怖。

 

 幼いアンには、もはや泣く事しか出来なかった。

 呼吸困難になるほどに、アンの息は切れている。もう走る事など出来はしない。故に、アンは近くの茂みに隠れた。

 

「こっちには来てねぇのか? こっち側だと思ったんだけどな」

 

 アンが隠れた茂みのすぐ近くを、手に持つ剣を振り回しながら盗賊の男が歩いて来る。アンは息を殺し、手を口に当てながら、木の根元にある茂みにしゃがみ込んでいた。

 

「あ~あ、いねぇのかよ。ちきしょう!」

 

「……はぁ……ごほっ……」

 

 剣を振り回しながら、アンの隠れている茂みを通り越し、男が暗闇へと消えて行こうとするその時、知らず知らずに止めてしまっていた呼吸を戻し、アンは咳込んでしまった。

 それは、闇と静けさに包まれる森に木霊する。

 

「ああ?」

 

 暗闇に消えて行ったはずの男の声が聞こえ、こちらに戻って来る気配をアンは感じた。

 もはや猶予などない。このままここにいれば、間違いなく殺されるだろう。その程度の事は、アンにでも理解出来た。

 結果的に、アンは最悪な選択をしてしまう。

 全速力でその場から逃げたのだ。

 

「おっ、やっぱりいやがったな。待ちやがれゴールド!」

 

 賞金の対象としてしかアンを見ていない盗賊は、幼いアンの歩幅を考慮にいれ、決して走ることなく、早足で追いかけていた。

 狩りが簡単ではつまらないとばかりに、執拗にアンを追い詰めて行く。剣を高々と掲げながらアンを追う盗賊の顔は、愉悦に満ちていた。

 アンは懸命に走る。

 小さく短い歩幅ながらも、その回転数を上げ懸命に前へ前へと踏み出して行くのだが、後ろの男との距離は広がらない。いや、縮まりもしないのだ。

 だからこそ、アンは諦める事をせずに懸命に走る。

 

「ほらほら、どうした。そんなんじゃ追いつかれちまうぞ!」

 

 賞金がすぐ目の前まで来ていることが盗賊の余裕を生んでいるのかもしれない。アンのスピードが緩まれば、自身の歩くスピードも緩める。

 アンに希望を与えながらも、絶望を味あわせ、そのアンの表情に愉悦を感じているのだ。

 

「はぁ……はぁ……ぐずっ……はぁ…はぁ……」

 

 盗賊の目論見通り、涙や鼻水をすすりながらも懸命に走るアンは、後ろから追って来るその男しか見ていなかった。

 故に、前から聞こえる弓を引き絞る音が聞こえていなかったのだ。

 

「あっ!!」

 

 アンを追う盗賊の叫び声に、後ろを振り返りながら走っていたアンの顔が前方に向けられる。 

 

「……ごふっ……」

 

 アンが振り返るのと同時に、その小さな胸に矢が突き刺さった。

 アンには何が起きたのか理解が出来ない。息を吐いていた口からは、真っ赤な液体が出て来ていた。

 先程まで呼吸困難に近いながらも、しっかりと空気を吸う事の出来ていた胸は、今はもう思うように動いてはくれない。

 

「!!」

 

 高速に回転していたアンの短い脚は、そのスピードを落とし、もはや前に出す事も叶わなくなっていた。

 アンの視界が、霧がかかったように霞んで行く。もう、どこが痛くて、どこが苦しいのかすら分からない。アンの身体が地へと沈みそうに崩れ始め、霞がかかりながらも、わずかに見えていたアンの瞳が、前方で再び弓を構える男の姿を捕らえた。

 

 それは、真っ先に母親を組敷いた男。

 それは、アンを殴り、号令を掛けた男。

 

 その男の姿が、アンがこの世で見た最後の映像となった。

 再び引き絞られた弓から放たれた矢は、膝を地面につけたアンの額に突き刺さり、糸が切れた人形のように、アンの身体は崩れ落ちて行く。

 

「汚ねぇぞ、兄貴! 俺が追い詰めていたんだぜ!」

 

「ああ? 俺は言っただろ、『武器はなんだって良い』と。剣なんかを振り回しているてめぇが悪いんだろ。とにかく賞金は俺のもんだ」

 

 アンを後ろから追っていた盗賊の不平をどこ吹く風で聞き流し、男は弓を背負い直す。男の言っていた通り、武器は何を使っても良い事になっていた。

 しかし、それを言うのなら、この十人の中で、今回弓を持っているのは、矢が二本刺さったままになっている少女を引き摺っている男だけなのである。必然的に他の盗賊は、剣や槍などの直接的な武器となってしまう。そう考えれば、最初から結果が解っていた出来レースのようなものだ。

 

「ちくしょう……わかったよ。その変わり、そのガキを見つけたのは俺なんだ。少しぐらい分け前をくれても良いだろ?」

 

 しかし、兄貴分に当たるこの男に直接そのような事が言える筈はない。

 故に、口から出たのは最大限の譲歩案なのであろう。

 

「ああ? 仕方ねぇな。気持程度にはやるよ」

 

「本当か!? やったぜ! でもよ、そのガキや母親の死体はどうするんだよ。村の連中が見つけたら問題になるぜ」

 

 兄貴分に当たる男の回答を聞いて、喜んだ男であったが、不意に後始末に関しての疑問と不安が頭を過った。

 実際に村にいる道具屋の主人は、今頃は血眼になって妻と娘を探しているだろう。もし、死体が発見され、それがカンダタ一味の仕業だと解れば、それはカンダタへ報告される事となる。その時、身が危ないのは、彼ら十人なのである。

 

「そんな事は、心配する必要はねぇんだよ。夜の山じゃ、魔物がうじゃうじゃいる。そのまま放っておけば、魔物が掃除してくれらぁ」

 

 既に、母親の死体は魔物が食している最中かもしれない。アンの死体は仲間の確認の為、運ばなければならないが、母親と同じ所に置いた後で、宿営地を移せば、それだけで証拠は隠滅されると考えているのだ。

 

「そりゃそうだな。流石、頭が良いぜ」

 

 夜も深まり、周辺が暗い山中に、二人の男達の笑い声が木霊する。唯一の明かりを発する月だけが、その一部始終を見ていた。

 

 

 

 これが、男達が死の恐怖からカミュに話した事実。

 メルエが詠唱を行う程の怒りを露わにした内容。

 そして、常に冷静沈着なカミュを鬼に変えた原因である。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

この話は賛否両論あると思います。
もしかすると、否のほうが多いかもしれません。
しかし、この物語全体を通して必要なイベントとして描かせて頂きました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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シャンパーニの塔②

 

 

 

 サラが一行に追いついた時、カミュ達は戦闘状態にあった。

 相対しているのは、ロマリア大陸に入ってすぐに遭遇した<キャタピラー>のような魔物。形状は、<キャタピラー>のように背中を固い殻に覆われていて、数多くの足を持っている。

 それが三体。

 カミュとリーシャが剣を振り、一歩後ろでメルエが詠唱に入っていた。慌てて一行に近づくサラに鋭い声が届く。

 

「サラ! 不用意に近づくな! こいつらは、<キャタピラー>ではない!」

 

「えっ!?」

 

 リーシャの声に拍子を抜かれたサラは、魔物への警戒を緩めてしまった。

 その結果、固い殻に覆われた芋虫のような魔物は、その無数にある足の一部をサラに振り下ろし、反応が遅れたサラの左手を切り裂いた。

 

「サラ!!」

 

 サラが左腕を切られ、血飛沫を上げながら倒れ込むのを見たリーシャは、サラを攻撃した魔物を剣で牽制しながらサラに駆け寄る。

 

「……うぅぅ……」

 

「サラ! 大丈夫か!?」

 

 リーシャはサラの様子を見て、更に声を上げる。痛みに苦痛の表情を浮かべながら押さえている左腕からは真っ赤な血が吹き出し、押さえ切れていない為に、サラの右手を真っ赤に染め、更に床に血液が滴っていたのだ。

 

「ちっ!」

 

 そんな二人の様子を視界の端で捉えたカミュは、盛大な舌打ちをしながら、自分に向かってきた魔物の足を<鋼の剣>で斬り落とした。

 盛大に苦悶の鳴き声を発した魔物を一瞥し、カミュはメルエの場所まで後退した。

 

「…………まほう…………?」

 

 戻って来たカミュの傍に『とてとて』と駆け寄って来たメルエは、カミュを見上げるように顔を上げ、小さく呟きを洩らす。足下から見上げるメルエに視線を動かしたカミュは、少し考えてから、メルエに言葉を返した。

 

「ん?……ああ、今なら一ヶ所に集まっているな。出来るのか?」

 

「…………ん…………」

 

 今までカミュとリーシャが交差し、なかなか詠唱が完成しなかったメルエだったが、リーシャが下がり、カミュも戻って来た事で魔法使用が可能になった事をカミュに伝えたのだ。

 そしてカミュの回答にこくりと頷いた。

 カミュに足を斬り落とされ、怒り心頭といった魔物、そして、リーシャに牽制され、距離を保った魔物が一ヶ所に集まっている。狙った訳ではなかったが、それは魔法を効率良く行使するならば、都合が良かった。

 

「…………ギラ…………」

 

 詠唱と共に、三体の魔物に向けたメルエの右腕から熱風が迸る。メルエが唱えた呪文は、カミュ達と出会った最初の夜に覚えた呪文の一つ。

 

<ギラ>

『魔道書』に記載されている攻撃呪文の一つ。簡単に言えば、灼熱呪文である。<メラ>のように火球が飛び出す訳ではなく、火炎と共にその周囲を熱風が襲い、焼け野原へと変える。その範囲はある程度に広がり、<メラ>の火球の様に敵単体に向けられる物とは用途が異なってくる。 

 

 メルエの腕から発せられた火炎が、芋虫のような魔物の周辺に広がる。その熱に身体をうねうねと動かしながら耐える姿は、芋虫そのものの姿であった。

 周囲に魔物の焼け爛れていく異臭が広がり、魔物を焼いていた炎が収まると、そこには無残な魔物の姿が残されていた。

 

「……す、すごい……」

 

 左手を押えながら、その光景を魅入られたように眺めていたサラは、メルエの放つ魔法の威力に圧倒されていた。

 炭の様に黒焦げになった魔物が二体。リーシャの牽制を受け、他の二体と若干距離があった一体は、身体全体が焼け爛れ、身体を覆っている殻が溶けている。炭化していない一体にはまだ息があった。

 カミュは、無表情で<鋼鉄の剣>を振り上げ、魔物へと突き刺す。炭化はしていないまでも、全身が焼け爛れ、呼吸をする事も困難であるように横たわっていた魔物は、カミュの一突きによって絶命した。

 あの状態で生きているという事は、想像できない程の苦しみを味わっていた事になるだろう。ある見方をすれば、カミュの突き出した<鋼鉄の剣>が、その苦しみから魔物を解放した事なった。

 

「…………ん…………」

 

「……ん? あ、ああ、よくやった」

 

 魔物に止めを刺して戻って来たカミュに向けて、何かをねだる様にメルエは頭を突き出して来た。

 初めは何をしているのか理解出来なかったが、それが頭を撫でて貰いたいのだと気がついたカミュは、褒め言葉と共にメルエの頭を撫でつける。気持ち良さそうに目を細めてそれを受けるメルエ。

 

「サラ、大丈夫か!? お、おい、カミュ! 早く薬草を!」

 

 しかし、そのメルエの幸せな時間は、焦燥感に駆られたリーシャの声で終わりを告げる。カミュの手が自分の頭から離れてしまった事に、メルエは残念そうにしながらもリーシャを睨む事はせず、そちらに足を向けるカミュの後についてサラ達の下へと歩いて行った。

 

「アンタは慌て過ぎだ……まず体内に入った毒を抜かなければ、いくら薬草を使ったところで、傷口が膿んで来るだけだ」

 

「な、なに!? 毒を受けたのか、サラ!!」

 

「ぐっ!……わかりません……」

 

 カミュが発した溜息交じりの言葉に、更に驚きの声を上げたリーシャは、血が流れ続けるサラの左腕を掴んで声を掛ける。傷口を握られ、激痛に顔を歪めるサラは傷の痛みからなのか、毒からなのか分からない眩暈に悩まされていた。

 

「カ、カミュ! 早く<毒消し草>をよこせ!」

 

 ふらつくサラを支え、リーシャは後ろに立つカミュへと怒鳴りつける。先程の魔物から、サラが毒を受けたのであれば、早急な対応が必要である事は間違いない。アリアハンで遭遇した<バブルスライム>の毒よりも強力である可能性もあるからだ。

 

「リ、リーシャさん、大丈夫です……」

 

「大丈夫な訳あるか!! 毒を受けているとしたら、早めに解毒しなければ、最悪、死に至るのだぞ!」

 

 リーシャは、完全にパニック状態だ。

 朦朧としながらも、自分をそこまで心配してくれるリーシャをサラは嬉しく思っていた。

 仲間と認めた人間をそこまで想う事が出来るリーシャの人間性は、確かに好感の持てるものなのであろう。

 

「……完全に取り乱している『戦士』様は放っておくとしても、解毒はしておいた方が良い。幸い<毒消し草>の数には余裕もある」

 

「…………サラ……死ぬ……だめ…………」

 

 リーシャに続き、カミュ、メルエと言葉は違えど、サラを心配するような言葉に、サラの瞳は潤みそうになった。

 サラは、先程の盗賊との一件で、確かな溝が出来たと感じていたのだ。それは、サラとカミュに限る事ではなく、サラに向けるメルエの視線やリーシャの言葉から、自分と他の三人との関係はここで終ってしまうのかもしれないとまで考えていた。

 それ程の出来事。サラの根底にある物すらも大きく揺さぶり、崩してしまうかもしれない程の大きな物。それは、何もサラだけではなく、パーティー全体にも言える事だった。

 それでも、メルエは口を開いた。

 先日、森の中で小さな女の子を見つけた際に、サラから教わった『人の死』という概念。それをサラと結びつけたメルエは、眉尻を下げて涙を溜めていている。そんなメルエを見て、サラは込み上げる想いを押さえつけ、気丈に顔を上げた。

 

「……だ、大丈夫ですよ、メルエ。私は死にませんよ……キアリー……」

 

 視界が霞んで来た瞳をメルエへ向け、優しく微笑んだサラは、左腕を右手で押さえたまま詠唱を行った。

 <ホイミ>を掛けた時とは異なる色を放つ淡い光が、サラの患部を照らし出し、徐々に弱まる光と共に、サラの視界が開けて行く。

 

<キアリー>

教会にある『経典』の中に記載される呪文の一つ。身体を侵す毒を解毒するための魔法である。この魔法が教会に保管される『経典』内にしか存在しない為、必然的に『僧侶』以外は行使する事は出来ない。故に、<毒消し草>等で浄化しきれない程の毒等は、教会に赴き神父などに解毒してもらう。それも、教会の資金源の一つなのだ。

 

「ホイミ」

 

 解毒の光が収まると、サラは続けて<ホイミ>の詠唱を行う。

 <キアリー>とは違う、淡い緑色の光が再びサラの左腕を包み、ぱっくりと裂かれていた傷口を塞いで行った。 

 

「凄いな! サラ、解毒の魔法も覚えたのか!?」

 

「……あ…は、はい……」

 

 傷口は塞がっても、失った血液はそう簡単には戻らない。多少貧血気味なサラは、疲れたような声を出してリーシャへと答える。しかし、座りこんだままリーシャの方を見た際に、その後ろに立つメルエの頬が膨らんでいる事を感じたサラの脳は覚醒された。

 

「あ……あ…で、でも、メルエの新しい魔法も凄かったですよ! 私では、あのような魔法は使えません。わ、私など、驚いて呆然としてしまいました!」

 

「…………あたらしい………ちがう…………」

 

 サラが呆然としてしまったのは事実なのだが、メルエの機嫌を取るために多少大袈裟に話すサラに返ってきた答えは、予想外のものだった。

 そのメルエの答えにサラは驚きの声を上げ、メルエを見つめてしまう。そんなサラの視線を受けても、メルエは頬を膨らませたまま、『ぷいっ』と顔を背けてしまった。

 

「…………まえに………おぼえた…………」

 

「えぇぇぇぇ!! そ、そうなのですか!? メ、メルエ……貴女は、どこまで魔法を習得しているのですか?」

 

 サラはここに来て初めて、メルエの魔法の習得率の凄さを実感した。

 若干十歳に満たないような少女が習得するレベルの魔法の数ではない。貧血気味である事すらも忘れて、サラは大声を上げてしまっていた。

 

「メルエ、先程は凄かったぞ。良くやった」

 

「…………ん…………」

 

 サラが普段通りの様子に戻った事に安心したリーシャは、まだ労う事をしていなかったメルエの頭に手を乗せ、優しく撫でた。

 再び到来した至福の時に、メルエは目を細める。

 

「……新しい魔法は、また今度見せてもらうさ……もう、良いか? 良いのであれば、先に進む。陽が落ちる前にはここを出たい」

 

「少しくらいサラを休ませてやれ!」

 

 早々に動き出そうとするカミュを見たリーシャは、その行動に抑制を掛けるように声を上げる。しかし、その声に振り返ったカミュの表情は、明らかな呆れを含んでいた。

 そのカミュの表情に、リーシャは僅かに怯む。

 

「……アンタは何日かけてこの塔を上るつもりだ? まぁ、休もうが休まなかろうが、アンタの示す道を歩いていたら同じだろうがな……」

 

「ぶっ!」

 

 サラを気遣うリーシャの叫びに返したカミュの言葉は、サラのツボを突いてしまった。

 リーシャにも自覚があるだけに、その顔は見る見る赤くなって行く。それは、恥ずかしさからなのか、それとも怒りからなのか解らない。ただ、サラの噴き出しは、リーシャの堪忍袋を繋ぐ最後の緒を切ってしまった事に間違いはなかった。

 

「ふっふっふっ……カミュ、サラ……覚悟は良いのだな……」

 

 サラは、噴き出した後に胸に込み上げて来る笑いを抑える事が出来ず、くすくすと溢していたのだが、顔を伏せていたリーシャの声を聞き、その笑いも腹の底に引っ込んだ。

 まさか、リーシャがカミュだけでなく自分までも対象にするとは思わなかったのだ。

 

「あ……あ……リ、リーシャさん?」

 

 サラの顔から笑いが消え、青くなって来ているのは、決して貧血だけが原因ではないだろう。カミュにとってはいつもの行為である為、涼しい顔をしているが、サラにとっては初めてに近い。

 

「…………もう………いく…………」

 

 しかし、そんな二人の戯れのような行為は、リーシャの手が離れた事を不満に思っていた小さなお姫様によって幕を閉じられた。

 リーシャの手を引くように見上げたメルエが、先に進む事を提案したのだ。

 

「そ、そうですね! 私は大丈夫ですので、もう行きましょう!」

 

 メルエの呟きは、サラにとって渡りに舟だった。

 『とてとて』と先を進むメルエとカミュが先行し、サラ、リーシャが後ろを続く。リーシャとしても、先程まで一行を包んでいた重苦しい雰囲気を思っての行動だっただけに、怒りを治めた後にも拘わらず、笑顔を浮かべていた。

 

「しかし、あの魔物は<キャタピラー>ではなかったな」

 

「そ、そうですね。<キャタピラー>が毒を持っている筈はありませんからね」

 

 歩きながらリーシャが漏らした疑問は、サラも同様に考えていたものだった。

 若干、<キャタピラー>よりも色が濃かったような気もするが、見た目は<キャタピラー>と変わらないように見えていたのだ。

 

「おい、カミュ。あの魔物は何なのだ?」

 

 リーシャはその疑問を、前を行くカミュへとぶつける。リーシャの声に振り返る事なく、カミュの答えは返って来た。

 

「あれは、<毒いもむし>だろう。何の変異かは知らないが、<キャタピラー>が毒性を持った物だと云われているらしい。俺も遭遇したのは初めてだから、詳しい事は解らない」

 

<毒いもむし>

その名の通り、毒を有した芋虫である。<キャタピラー>の様に背中を固い殻に覆われており、その行動も<キャタピラー>に酷似していることから、魔物研究者の間では、<キャタピラー>の上位種とされている。何らかの変異か、環境への適応なのかは解明されてはいないが、毒性を持つ事になった<キャタピラー>ではないかと考えられていた。芋虫と呼ばれてはいるが、それが蛹となり、羽化をするかとなると、その過程や結果を見た者はいない。

 

「なるほどな……しかし、この塔の周辺では見なかったが、この塔にしかいないのか?」

 

「……さぁな。アンタは、少し魔物の知識も詰め込んだ方が良いのではないか? だが、魔法に続き、魔物の知識まで無理に詰め込む事は、筋肉の脳味噌には酷か……」

 

 カミュの答えを聞き、頷いたリーシャが更なる疑問をカミュにぶつけると、返って来たのは失礼千万な答えだった。

 今度は先程とは違い、リーシャの頭の中で、本気の怒りによる血液上昇が始まった。

 

「カミュ! 先程から言いたい放題言ってくれるな! そこまでして私と決着を着けたいのなら受けてやる!」

 

 腰の剣に手を掛けるリーシャの目は本気だ。

 サラは、そんな二人のやり取りを見て、不謹慎にも笑顔を浮かべ、笑い声を溢してしまった。

 

「な、なんだ? サラ、私は本気だぞ!? サラには悪いが、アリアハンの勇者はこの<シャンパーニの塔>に於いて、魔物に打ち倒されて死ぬ事となった!」

 

 サラの笑みを見て、リーシャの頭から、多少の血液が下がって行く。自分が本気である事をサラに伝えようと話せば話す程に、サラの笑みは濃くなって行き、洩れる笑いも大きくなって行った。

 

「ふふふっ、ありがとうございます。私はもう大丈夫です」

 

「ち、違うぞ、サラ。お前に元気がない事を気にしていた訳ではない。今の私は、本気で怒りを感じているんだ!」

 

 リーシャの怒りに、見当違いの言葉を返すサラに対し、リーシャは目を白黒させる。

 確かに、先程は若干演技の部分はあったのだろう。しかし、今回のリーシャの怒りは本物だ。その証拠に、腰の<鋼鉄の剣>は半分以上の刀身が出ている。

 今、まさにそれを抜き放とうとしていたのだ。

 しかし、そんなリーシャの弁明もサラには通じなかった。

 にこやかな笑顔を向け、リーシャに頷き返すサラを見て、流石のリーシャも怒りを鎮める他なくなる。

 

「……茶番は終わったか?」

 

「…………はやく………いく…………」

 

 そんなリーシャとサラのある意味微笑ましいやり取りも、その他の二人の冷たい言葉で終わりを告げる。しかし、リーシャ達のやり取りを茶番と言い捨てるカミュの表情も無表情ではあるが、冷たい雰囲気を持つものではなかった。

 再び歩き出した一行は、順調に一階部分を探索していく。先程の別れ道からは、ほぼ一本道だった。

 一本道といえども、それは塔の一番外側の部分を回り込むような道で、大きくカーブを描いている。途中で、<ギズモ>や<軍隊がに>などと遭遇はしたが、その程度の魔物は、もはやカミュとリーシャの剣、そしてサラとメルエの魔法の敵ではなかった。

 <ギズモ>をサラの<バギ>で吹き飛ばし、<軍隊がに>はカミュとリーシャが斬った後、メルエの<ヒャド>で凍らせる。

 

「…………また………サラ………たおした…………」

 

「えぇぇ!? メ、メルエも魔法で倒したではないですか!?」

 

「あはははっ。メルエ、皆で力を合わせると言っただろ?」

 

 サラの<バギ>で吹き飛ばされて行く<ギズモ>を見て、メルエは渋い表情を作っている。頭では、サラの攻撃呪文を認めてはいるが、幼いメルエの心では納得が出来ないのだろう。

 

「……これで一階部分も終わりだな……」

 

 後方での三人のやり取りを余所に、魔物達の死骸の後ろに見える階段を見つけ、カミュは二階部分へと足を運んで行く。

 

 

 

 二階部分に上がる階段を上ると、小さな広間のような空間に出る。

 その空間から一歩出ると、そこは酷い有様だった。

 

「カミュ、慎重に進んでくれ! メルエは私から離れるな! サラは私とカミュの間を歩け! カミュを見失うなよ!!」 

 

 後方からリーシャの大きな声がかかる。

 それ程周囲の音が大きいのだ。

 

 二階部分から<ナジミの塔>と同じように、塔を覆う壁が存在していないのだ。

 外の豪雨と言っていい程の雨と風が、直に塔の中に入って来ている。通路は強い風と雨で水浸しとなり、一歩踏み外せば、真っ逆さまに落ちて行く事は間違いないだろう。雨のおかげなのか、塔の外周に魔物の気配はないが、探索をする程の余裕もなかった。

 乾いたばかりの衣服は再び濡れ始め、徐々に体温を奪って行く。

 

「カミュ! とりあえず、少し中に入れる場所を探せ! 左側に行こう! 先程の階段があった空間の横に、同じような空間がある筈だ!」

 

「……」

 

 『リーシャは懲りない』

 サラは、雨風の中、必死に目を空けながらそう思った。 

 あれ程、自分が示す先が行き止まりだと知っているのに、まだ道を指し示そうとする。しかし、カミュはサラと違う印象を受けていた。

 リーシャも自分の方向音痴ぶりは解っているのだろう。故に、まずは雨風を防ぐ為の空間へ入ろうとしたのだ。

 自分の指し示す方向に、行き止まりの空間があると信じて。

 

 だからこそ、カミュもリーシャの発言通りに進路を左に向けたのだった。

 

 しかし、無情にもそれが仇となる。リーシャが指し示した左側には、いくら歩いても塔の中心部分に進む通路はなく、ようやく雨風を防ぐ事の出来る壁がある場所に辿り着いたのは、二階に上がる為の階段のある空間の真反対に当たる場所まで歩いてからだった。

 もはや、衣服の意味を見いだせない程に全身は濡れており、メルエに至っては寒さの為、小刻みに身体を震わせている。

 

「……すまない。もう少し早くにあると思ったのだが……」

 

「気にするな……先頭を歩いていたのは俺だ。アンタに責任はない」

 

 ずぶ濡れになり、身体を震わせるメルエやサラを見て、リーシャは素直に頭を下げる。しかし、そんなリーシャの考えていた事が、自分の予想通りだったと感じたカミュは、そんなリーシャの謝罪に対して気に病む必要性を否定した。

 リーシャはカミュの言葉に驚き、暫く放心したように立ち尽くしていたが、寒さに震えるメルエの呟きに我に返る。

 

「…………メラ…………」

 

「!!」

 

 寒さを和らげるためのメルエの詠唱と共に、薄暗かった周辺に明かりが灯り、全貌を現すと、広がるその光景にサラは息を飲んだ。

 そこは異様な世界だった。雨による気温の低下と共に、周囲に広がる筈の臭いは鳴りを顰めている。

 そこには無数の死体。いや、もはや皮も肉も存在していない骸骨達の墓場であった。

 鎧や衣服を纏っている者もいるが、ほとんどが骨だけの存在になっている。

 

「紋章はロマリアの物だな……カンダタ討伐隊の人間達か……」

 

 カミュが言うように、骸骨の一体が身に纏う鎧に施された紋章は、ロマリア王国の物であった。

 何度か編成されたカンダタ討伐隊の成れの果てなのだろう。塔まで辿り着いたが、カンダタ一味に返り討ちにされ、一ヶ所に集められた後、魔物の餌になってしまったのかもしれない。剥ぎ取られた衣服などが散乱しているが、骨は一ヶ所に固まっている事から、その予想は間違っていないと思われた。

 

「……酷い……」

 

「確かにな……死者の弔いもせず、こんな形で放置する等、人の所業ではない」

 

 その光景に呟いたサラの言葉に同意するように、リーシャが口を開く。しかし、カミュは何の感情も見い出せない表情でそれを見つめていた。

 雨音が消えた空間は異様な空気に満ちている。そこで眠る死者達の無念と、それを見つめる生者の想いが交差し、沈黙だけが広がって行った。

 

「……自らを守る為に、他者を害する事は当然の事だ。それに、立場が逆であれば……カンダタ一味がロマリア兵に殺されていたのなら、首領であるカンダタ以外の遺体は同じような扱いを受けていた筈だ」

 

「で、ですが!!」

 

「…………メラ…………」

 

 カミュの言葉に即座に反応したサラの反論は、再び唱えられたメルエの詠唱に搔き消された。

 メルエの指先から現れた火球は、周辺に散乱する骸骨達が身に着けていたであろう衣服の残骸に着火し、燻りながらも小さな炎を発し始める。衣服についた血液や肉片等が焼ける異臭が漂うが、炎が上がり始めたのは確か。しかし、メルエのその行為は、サラにとっては、死者への冒涜に映った。

 

「メ、メルエ! 亡くなった方の衣服に火をかける等、してはいけません!」

 

「…………さむい…………」

 

 突然自分に向けられたサラの叱責に、メルエは不満顔をサラへと向ける。サラは、メルエの表情を見て、驚きを隠せなかった。

 『精霊ルビス』を崇める者からすれば、サラの言っている事は至極当然の事なのだ。

 

「寒くても駄目です! その方達は、国の為にここまで来て、無念にも命を落とした方々なのです。その方々に敬意を払う事はあっても、その方々の遺品に手を掛ける事はしてはいけません」

 

 何故自分が叱責されているのかが、メルエには解らない。故に、自分の状況を正直に答えたのだが、それでもサラの叱責は止まなかった。

 困惑したメルエは、カミュとリーシャに顔を向けるが、リーシャはどうしたものかと渋い表情を浮かべるだけで援護はしてくれない。代わりに答えたのは、やはりサラの天敵たるカミュだった。

 

「……死んでしまった者に遠慮などする必要はない。遺品となりそうな物に、火をかけた訳ではない筈だ」

 

「そう言う事ではありません! 死者とは言え、『人』であった者に対して、敬意を払うべきと言っているのです」

 

 カミュの答えに満足するどころか、火に油を注いだ形となり、サラの言質は苛烈な物へと変化して行く。サラは、先程感じたカミュへの恐怖を忘れていた。

 魔物と対峙してから流れる穏やかな空気がそうさせていたのだ。

 

「……死者は何も感じない。今、生きている者こそ考慮に入れるべきだ。このまま暖を取らずにいれば、体温は低下し、最悪メルエの体力は底を尽きるぞ」

 

「……そ、それは……」

 

 カミュの言い分はサラにも理解出来る。しかし、だからと言って、何も理解していないメルエが、死者の物には何をしても良いと思ってしまうのではという危惧がサラにはあったのだ。

 

「サラの考えが正しい事は尤もだ。だが、カミュの言い分にも一理ある。ここは、死者達へ感謝しながら、申し訳ないが暖を取らせてもらおう」

 

「……はい……」

 

 調停に入ったリーシャの言葉に、サラは不承不承頷いた。

 サラが敗北した事が、自分の正当性を認めた物だと感じたメルエは、微笑みながら火の傍へ近づこうとするが、前に進まない。襟元を何かに掴まれているのだ。

 

「メルエ、サラの言う事は間違ってはいない。例え寒かったとしても、本来ならば、死者の持ち物を無碍に扱う事はいけない事だ。先程、メルエはあの男達に怒りを覚えただろう?」

 

「…………」

 

 襟元を掴んでいたのはリーシャだった。早く火に当たりたいと思っていたメルエではあるが、リーシャの表情を見て聞かなければいけない事なのだと感じ、リーシャの方を真っ直ぐと向き直る。

 話の内容は、サラの意見を肯定するもの。それ故に、最初はメルエも若干不貞腐れ気味だったが、リーシャの話の後半に先程の盗賊の話が出て来ると、メルエの表情も変わり、真剣に頷き返すようになった。

 

「私も、メルエと同じだ。殺してやりたいと思った。少し違うかもしれないが、もし、アイツ達がアンの遺品も持っていたり、その遺品を無碍に扱っていたりしたら、メルエはどう思う?」

 

「…………いや…………」

 

 メルエは、少し考える素振りを見せた後、首を横に振りながら否定的な呟きを洩らした。

 想像通りの反応を返すメルエに、リーシャは柔らかな笑みを作りながら頷き返す。

 

「そうだな。私も嫌だ。メルエ、死者の遺品の中には、その人を思い出させる大事な物があるかもしれない。それと同じように、その人間を表す物もある。だからこそ、本当であれば、メルエが先程した事は許される事ではないんだ」

 

 一つ一つ諭すように話すリーシャの話の内容にサラは頷いているが、それを聞くカミュの表情は冷たいものだった。

 まるで、全く関心を示していないような、馬鹿な事を言っているとでも思っているような態度である。

 

「死者となれば、何も言う事は出来ない。だから、私達のような生きている人間が死者の尊厳を守らなければならない。わかったな、メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 最後に自分の頭に乗せられたリーシャの手を見上げ、メルエはこくりと頷いた。

 メルエの頷きを見たリーシャは、満足気に微笑み返す。サラも安堵の表情を浮かべて、表情を笑顔に戻した。

 

「ならば、ここにいる死者達に感謝をしよう」

 

「…………あり………が………とう…………」

 

 メルエが頷くのを優しい笑顔で見つめ、リーシャは更にメルエに促す。もう一度頷いたメルエは、一ヶ所に集まっている肉も皮もない死者に対して頭を下げ、感謝の言葉を発した。

 通常ならば、恐怖心すら覚える場所で流れる場違いのような穏やかな空気。それにサラの頬も緩んだのだが、そうは問屋が卸さなかった。

 

「……アンタは、幽霊は駄目なのに、完全な骸骨は大丈夫なのか?」

 

「はぅ! なっ、ど、どういう意味ですか!?」

 

 笑顔を作るサラの後方から掛けられたカミュの言葉は、サラを混乱状態へと突き落す。勢い良く振り向いたサラの表情は、恐怖と困惑に満ち満ちていた。

 

「そのままの意味だが……」

 

「あ、あれは……あれは急に出て来た為に、驚いただけです! ベ、別に、常に怖がっている訳ではありません!」

 

 誰がどう聞いても嘘。サラの弁明をカミュだけではなく、メルエもリーシャも若干呆れ気味に聞いていた。

 サラは誰にでも見る事が出来る骸骨は、死者が残した遺品と同じ物として考えている。しかし、魂は違う。つまり幽霊となれば、常に見えている訳ではないのだ。

 しかも誰でも見える訳でもない。実を言えば、サラが幽霊を見たのは、<カザーブ>が初めてなのだ。

 『僧侶』としての除霊という仕事が得意ではない理由は、サラには霊魂という物が見えないという最大の欠点があった。しかも、自分には見えない物が、神父や他の僧侶には見えており、その場所へ共に行かなければならない。

 どこにいるのか解らないもの。見えないだけで、自分のすぐ隣にいるかもしれない等と言われれば、誰でも恐怖を感じるだろう。

 見えないだけで、確実にいる物という恐怖を、サラは持っていたのだ。

 

「…………あわ………あわ…………」

 

「メ、メルエ!!」

 

 サラの悲痛な叫びが空間に響いた時、メルエの頭上へ軽い拳骨が落とされた。

 拳骨を落としたリーシャの表情は笑顔ではあるが、痛まない頭を手で押さえたメルエは、少し頬を膨らませる。

 

「もう言わない約束だろ、メルエ」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 再びメルエがサラをからかい、リーシャに窘められる。

 そんな和やかな一時が激しい雨音が響く塔内で営まれた。

 

 

 

「……行くぞ。再びここを出れば、結局衣服は濡れる。中途半端に乾かした所で無駄だ。体が温まったのなら、すぐに出る」

 

 死者達の衣服も残っている物が多い訳ではない。もとより、衣服を完全に乾かす事など出来る量ではなかった。

 それを解っていた為、リーシャはカミュの言葉に頷き返す。

 死体置場を出ると、やはり外の雨脚は緩んでいる事もなく、むしろ雨も風も強くなっているかのようだった。

 そんな場所へと出て行く手前に、珍しくカミュがサラへ話しかけて来た。

 

「アンタの盾はまだ<革の盾>だったな。この<青銅の盾>を使え」

 

「えっ!? そ、それは?」

 

 何故、カミュが装備していた筈の<青銅の盾>を渡して来るのか、サラには見当がつかなかった。

 盾は、前線で戦うカミュやリーシャにとって、生命線と言っても過言ではない程の装備品である。敵の攻撃を防ぐだけではなく、その盾を使って敵を抑え込んだりと、様々用途がある物なのだ。

 故に、サラは驚いた。

 

「俺は、ロマリアの兵士が使っていた物を使わせてもらう。アンタにそっちを渡しても、死者の物という事で使わない筈だからな」

 

「えっ!? まさか、先程の方々の遺品を持って来たのですか!?」

 

 カミュの言う事が本当であれば、サラがメルエに話していた内容を無視された事になる。死者の遺品に手をかける事は、死者への冒涜であると信じているサラは、平然とその事実を告げるカミュを信じられない物でも見るように見上げた。 

 

「死者の遺品とはいえ、もはや遺族の手に帰る事のない物だ。あの兵士達の無念が、カンダタ一味へ向いているのならば、俺達が持っていっても何も言わない筈だ」

 

「で、ですが!」

 

 尚も反論しようとするサラを、カミュは冷やかな瞳で見下ろす。カミュからしてみれば、その無念を晴らすために使用するという大義があるのだろう。

 しかし、それは『僧侶』であるサラには理解が出来ない。

 

「使う、使わないはアンタの自由だ。ただ、この先のカンダタ一味が、一階で見たような雑魚ばかりではない事は、先程の兵士達の死体を見ても解る筈だ」

 

 曲がりなりにも一国の紋章を背負っている兵士達が、十人以上死んでいるのだ。カンダタ一味の力量を不当に低く見積もる訳にはいかない。カミュやリーシャだけで対抗出来る者達であれば、サラやメルエに危害が及ぶ事もないだろう。

 だが、一国の騎士達が手玉に取られる程の実力者であれば、最悪の状況も考えておくべきなのだ。

 

「……わかりました……」

 

 納得はいかない。

 だが、カミュの言葉にも一理ある。

 先程のリーシャの言葉を借りて、サラは無理やり納得する事にした。

 

 

 

 来た道を戻る形で歩き出した一行は、強い風と、その風によって叩きつけて来るような冷たい雨を全身に受けながら前へと進んで行く。サラは、先程渡されたカミュのお下がりとなる<青銅の盾>を顔の横に掲げ、雨によって視界が悪くなり、前を行くカミュを見失う事を避けて進んで行った。

 元の位置まで戻った時には、全員が再びずぶ濡れになってはいたが、今度は、リーシャがメルエに壁側を歩かせ、暴風壁のようにメルエの横を離れずに歩いていた為、メルエの身体は、マント以外はそれ程濡れてはいなかった。

 

「このまま、真っ直ぐ進む。ここから先は道が狭くなる。足を滑らせるな」

 

 前を行くカミュから後方の三人に声がかかり、この先についての注意事項が告げられた。

 カミュの言葉に大きく頷いた三人は、今までと同じ隊列で進んで行く。カミュの話す通り、通路が急激に狭くなり、踏み外せば、地面まで真っ逆さまという状況を四人は進んで行った。

 

 サラは必死に壁に手を付きながら。

 メルエはリーシャの腕に掴まりながら。

 

 

 

 ようやく一行は、塔の中心に向かう通路を見つけ、中へと入って行った。

 サラはここまで自分が息を止めていた事に初めて気が付き、慌てて目一杯空気を肺に入れ込む。メルエも頭からすっぽりと被っていたマントを取り、大事な<とんがり帽子>が濡れていないかを確かめていた。

 

「ふふっ、メルエ、大丈夫だ。帽子は何ともない」

 

 帽子の隅々まで確かめているメルエに優しい微笑みを浮かべたリーシャは、少し湿っぽいメルエの髪を梳いてやった。

 目を細めながらその手を受け入れるメルエは、年相応の少女のようで、サラにはつい先程、地獄の業火のような魔法を行使した『魔法使い』には見えなかった。

 

「……衣服を乾かしている暇はない。このまま上へと進む……」

 

「……わかりました……」

 

 やっと豪雨から解放され、和む一行の気をカミュの言葉が再び引き締める。おそらく、この上あたりから、カンダタ一味の本拠になっているのだろう。

 その証拠に、階段の上から暖かな空気が降りて来ている。通常暖かな空気は上へと昇るものだが、下までその空気が降りて来るという事は、人工的に空気を暖めている可能性が高い。

 

「…………いく…………」

 

「……メルエ……」

 

 しかし、リーシャはメルエの様子が少し気がかりだった。

 一階部分での一味の人間の話を聞いて以来、メルエの瞳に何かが宿り始めている。リーシャはその何かに見覚えがあったのだ。

 

 それは、アリアハン大陸で魔物を見るサラの瞳に宿っていたものと同じもの。

 それは、<カザーブの村>で見たトルドの瞳に宿っていたもの。

 そして、もしかすると自分の瞳にも宿っていたのかもしれないもの。

 

 リーシャは不安だったのだ。

 幼いメルエが抱える物としては、あまりにも重く、あまりにも大きすぎるそれを、彼女が背負ってしまったのではないかと。

 

「……カミュ……」

 

 それが言葉に出てしまう。

 しかも、それは先頭を行くカミュへ向けて。

 何故、カミュへなのか。リーシャは今までの人生の中で弱気になることなど滅多になかった。

 そんな弱音に近い物を漏らした相手が、よりにもよって『人』の感情など一切考慮に入れないであろうカミュであったのだ。リーシャにも、自分が何故そんな言葉を発してしまったのか、解っていなかった。

 

「……わかっている……いざという時は、何とかする……」

 

 しかし、リーシャの声で振り返ったカミュから発せられた言葉は、そんなリーシャの弱気を払うのに十分な威力を持った言葉だった。

 リーシャは何も言っていない。それなのにも拘わらず、このアリアハンが掲げた勇者には通じていたのだ。

 詳しい内容など一切会話の中に入っていないにも拘わらず、それがリーシャにも伝わった。

 カミュに力強く頷いたリーシャは、後ろに控えるサラを促し、カミュに続いて上へと続く階段を上り始めた。

 

 

 

 階段を上って行くと、上から漏れていた光が徐々にその明るさを増して行く。今日のように、真っ黒な雨雲に空が覆われている日にこのような光が差す事など、人工的な明かり以外にはあり得ない。

 

「あん?……なんだてめぇら?」

 

 リーシャが昇り切る前に、先頭のカミュとメルエが上階のフロアに辿り着き、そこにいたのであろう人間達とやり取りをしている声が聞こえた。

 リーシャのすぐ前を昇るサラを急がせ、リーシャも上のフロアに足を踏み入れると、そこは完全な一つの部屋になっていた。

 石畳の塔内部に赤い絨毯が敷かれ、机に椅子、更には壁側に暖炉もある。暖炉は赤々と炎が燃え盛り、フロアの温度を暖かく保っていた。

 一階や二階部分と違い、ここには外の雨音すら聞こえて来ない。そこに、五、六人の男達が杯を手にしながら座っていた。状況から考えて、彼等がカンダタ一味なのは間違いないのだろう。

 

「何だと聞いてるんだ! てめぇら、ここがカンダタ一味のアジトだって知ってるのか!?」

 

「おう! よく見りゃ女じゃねぇか!?」

 

「本当だぜ! しかも良い女じゃねぇか!?」

 

「なんか、余計なもんまで混じっちゃいるがな」

 

「たかだか一人じゃねぇか!?」

 

 薄汚い男達が、口々に一行を見て、その汚い口を開く。

 その様子にサラは顔を顰め、リーシャは眉を顰めた。

 

「…………アン………?」

 

 しかし、瞳の奥に重く暗い何かを宿し始めた、この少女には男達の言動など耳に入ってはいない。その少女の姿に、リーシャは再びカミュに視線を向ける。視線の先のカミュは、今度はリーシャの方を見ずに首だけを縦に動かした。

 

「ああ!? なんだお嬢ちゃん?」

 

「……アン? どこかで聞いたことあるな……?」

 

「ギャハハハッ。お嬢ちゃんよぉ…悪いが、俺達は殺した人間の名前を一々憶えてらんねぇんでな」

 

「ちげぇねぇ。ギャハハハ」

 

「おお! あれじゃねぇか? 昔、そのお嬢ちゃんぐらいのガキを狩りした……」

 

 それが決定打だった。

 この五人の男達は、間違いなくアンとその母親の殺害に関与していたのだ。それが、メルエにも理解出来た。

 

「おい!」

 

「…………イ!!!!…………うぅぅ!!」

 

 メルエの詠唱が始まるよりも一瞬早く、カミュがリーシャに声を上げる。カミュのその声に、リーシャは急ぎ隣に立つメルエの口を塞いだ。

 詠唱を邪魔されたメルエは、珍しく半狂乱の様になりながら、リーシャの腕から逃れるようにもがくが、幼いメルエが屈強なアリアハンの騎士を振り切れる訳がない。

 

「な、なんだ、てめぇ……ギャ―――――!!」

 

 そんなメルエとリーシャの二人のやり取りを眺めていた男達であったが、気を取り直し、声を上げようとした時、彼等にとって地獄の始まりである叫び声が響いた。

 リーシャへ声を上げたカミュは、一気に男達に肉薄していたのだ。

 近付き様に背中から剣を抜き、一番前にいる男の足を薙ぎ払う。鋭く鍛え抜かれた<鋼鉄の剣>が、男の太ももから下を斬り飛ばした。

 

「て、てめ……ギャ―――――――!!」

 

「……カ、カミュ様……」

 

 カミュは返す剣で近くにいた男の腕を斬り飛ばし、そのままその男の太ももに剣を突き刺した。苦しむ男は肩口から腕を失い、足には太い剣が貫通している。カミュは剣を抜くために男を蹴り飛ばした。

 もんどりを打って倒れ込む男の肩口からは、盛大に血液が噴出する。

 サラは再びカミュへの恐怖を思い出していた。

 本当に先程まで、無表情ではあったが、恐怖を感じるものではなかった筈なのに、リーシャに声をかけた途端、カミュから立ち上ぼる雰囲気は一変していたのだ。

 

「お、おい、ちょっと待てよ。何なんだお前ら……意味が分からねぇよ」

 

「お、おい! 逃げるぞ! こんな奴ら構ってられるか!?」

 

 残る三人の内、二人が目の前で剣を握る青年への恐怖を抑え、行動に出た。

 カミュ達が昇って来た階段の対角線上にある、上の階へと続く階段へと駆け出したのだ。しかし、力量に差がある者から逃げ出す事など出来はしない。

 

「ギラ!」

 

 いつものように呟くような詠唱ではなく、力強い詠唱。それが、術者の怒りを表していた。

 逃げる男達の背に向けて掲げたカミュの右手から熱風が巻き起こる。

 

「あ、あれは……」

 

 サラは言葉を失った。

 先程の戦闘でメルエが使った魔法。

 『魔道書』に記載される攻撃呪文。

 本来は、『魔法使い』しか使えない筈の呪文。

 

「ギャ――――――!! た、たすけてくれぇ!!」

 

 燃え盛る火炎の中、男達と思われる黒い影が二つ蠢いている。男達を取り囲むように巻き起こった炎は、サラの目にはメルエが起こしたそれよりも小さいように見えた。

 炎が収束し、下に引かれた絨毯等もあらかた燃えきったその後に、二人の男であった物体が姿を現す。サラの感じたように、カミュの放った<ギラ>は、メルエのそれよりも威力を抑えた物であった為か、男達は消し炭のように炭化した物ではなかった。

 

「……うぅ……うぅ……」

 

「……あがっ……」

 

 しかし、あの様な状態であれば、瞬間に炭化する程の威力の魔法を受けた方が彼らにとっては良かったのかもしれない。身体は焼け爛れ、皮が剥がれ、肉が焼け落ち、呼吸すらも定かではない。それでも生きているのだ。

 生きているよりも、死んだ方が良かったと考える程の苦痛を味わっているだろう。

 

 『もし、これがカミュの意図的な行為なのだとしたら』

 

 サラはそれが怖くて仕方ない。

 そんな呆然とするサラの前にいた最後の一人となった一味の男は、震える足を引きずりながら階段を上ろうと必死に移動していた。

 それに気が付き、そちらに視線を向けたカミュはもう一度腕を掲げる。

 それを止めたのは、意外な人物だった。

 

「…………メルエ………やる…………」

 

「メ、メルエ!」

 

 カミュの掲げられた腕に掴まったのはメルエだった。

 五人の内、瞬時に四人を片付けてしまったカミュへ、不満と若干の怒りを滲ませた表情をしする。そんなメルエの様子を見て、更に不安を掻き立てられたリーシャは、未だにカミュの腕にしがみ付くメルエを後ろから抱き締めた。

 一行が予期せぬアクシデントに戸惑っている間に、階段に辿り着いた男は、震える足で立つ事が出来ない為、這いつくばりながら階段を上って行く。

 

「……上の連中に気づかれたな……」

 

 リーシャがメルエを引き剥がした事により、カミュは腕の自由を取り戻す。その腕を軽く振りながら、剣を背中の鞘に納めたカミュは、未だに呻きながら横たわる男達の下へと歩いて行った。

 

「……カ、カミュ様……な、何を……」

 

「……カミュ……」

 

 サラはカミュの行動に眩暈を覚える。

 メルエを胸に抱くリーシャも言葉を失っていた。

 

「た、たすけてくれ。な? 頼む……」

 

「……」

 

 剣を受けた足から血を流し続け、立つ事も叶わない男達の襟首を掴んだカミュは、その命乞いに耳を傾ける事なく、先程上って来た階段から男達を落として行く。

 まるで家庭で出たゴミを捨てるように何の感情も感じさせない表情で、カミュは二人の男を階下に落として行った。

 

「ギャ――――――――!!」

 

 石で出来た階段に身体を打ちつけながら転がり落ちて行く男達の叫び声が遠くなって行った。おそらく彼らの末路も、血と肉に飢えた魔物達の餌となってしまうのだろう。

 サラは唇を震わせながらその光景を見ているしか出来ない。

 メルエは何も感じていないような、カミュのような表情を作っていた。

 二人の男達を階下に落とし終わったカミュは、続いて呻き声を上げ続けている二人へと近づいて行く。そのカミュの行動を、リーシャは止めべきかを悩んでいた。

 

「……うご……うぅう……」

 

 男達であったものに近づいたカミュは、そのまましゃがみ込み、手を二人の上半身に掲げる。その姿に他の三人は見覚えがあった。

 それは、何度かサラが行った事のある態勢。

 

「……ホイミ……」

 

 それは、本来、聖職にある『僧侶』にしか使用する事の出来ない魔法。

 教会にある『経典』にその契約方法が記されている回復魔法の詠唱だった。

 

「……カ、カミュ……お前……」

 

「……ど、どうして……」

 

 カミュの行動に対し、発したリーシャとサラの疑問の言葉は根本的に違っていた。

 リーシャは、『何故回復させる必要があるのか?』という疑問。

 そして、サラは『何故、<ホイミ>が使えるのか?』という疑問。

 しかし、本当はこの時点で、カミュの考えている事が大凡ではあるが、リーシャには見当がついていた。

 それでも、それを飲み込む事をリーシャの心のどこかが拒絶していたのだ。

 カミュが当てた掌から淡い緑色の光が瞬き、男達を癒して行く。焼け爛れ、肉も溶け落ちていた男達の顔面が奇麗に修復されて行くのだが、<ホイミ>程度の回復呪文であれば、これが限界であった。

 逆に、カミュにとってみれば、それで十分だったのかもしれない。

 男達に、ほんの数時間の命が残るだけで。

 

「あ、あ、あ、た、たすけてくれ!」

 

「いてぇよ……」

 

 口が動くようになった男達は、身体を蝕む痛みを我慢しながら、カミュへと命乞いを繰り返す。しかし、その男達の姿を見下ろすカミュの表情は氷のように冷たい物だった。

 先程と同じように男達の頭に残った髪を鷲掴みにし、階下へと続く階段へ引き摺って行く。

 

「た、たすけてくれ―――――!!」

 

「死にたくねぇよ!」

 

 男達の悲痛な叫びがサラの耳に残って行った。

 それでも、サラは口を開く事が出来ない。無言で男達を引き摺って行くカミュが、『人』には見えなかったのだ。

 恐怖がサラの心を支配し、その身体の自由を奪って行く。

 

「…………カミュ………きらい…………」

 

 再び男達を階下に突き落とし終えたカミュへ、初めてメルエが嫌悪感を表した。

 それは、サラの様に恐怖を感じた物ではなく、自分の出番を奪ったカミュへの怒り。アンの話を聞いた時から、メルエの胸に渦巻いていた『憎悪』に近い感情を吐き出す事が出来なかった事への憤り。

 

「メルエ……俺の事を嫌うのは構わない……だが、メルエはアンとは友達なのだろう?」

 

「!!…………とも………だち…………?」

 

 『嫌っても良い』と言われ、自分を嫌いになったのではないかと身体を震わせたメルエであったが、その後に続く聞き覚えのない言葉に首を傾げた。

 

「メルエ……カミュは、『メルエとアンは仲が良いのだろう?』と聞いているんだ」

 

「…………」

 

 カミュの言葉の補足をするためにリーシャが口を開く。その言葉に、再びメルエの首が傾いたが、しばらく考えた後にこくりと頷いた。

 

「だからだ。だから、メルエの代わりにカミュがあいつ等に剣を振るったんだ」

 

「…………???…………」

 

 メルエにはリーシャの言葉が理解出来ない。

 それはサラも同じだった。

 

「メルエ……アンはメルエに会った時に、『あいつ等を殺して欲しい』と言ったのか?」

 

「…………」

 

 メルエは少し考えた後、首を横に振った。

 アンはメルエに優しく笑いかけていた筈だった。

 

「メルエの気持ちは解る。私もメルエと同じようにあいつ等を許せない。だが、カミュもそして私も、メルエに『人』を殺して欲しくはないんだ。それは、私は会った事はないが、アンも同じではないかと思う」

 

「…………」

 

「……リーシャさん……」

 

 暖炉の炎が赤々と燃え、周囲の壁に血液が飛び散っている部屋の中で、リーシャはメルエの帽子を脱がし、頭に手を乗せる。サラはリーシャの話す内容が何となくだが理解出来た。

 それは、カミュが全ての罪を被ったという事。

 

「メルエ……ここからは少しメルエには難しくなるかもしれない」

 

「……それでは、アンタにとっても難しくなるのではないか?」

 

「う、うるさい! お前は少し黙っていろ!」

 

 リーシャの話の腰を盛大に折る声が、先程までの無表情を少し崩したカミュから上がる。向きになって怒鳴るリーシャに口端を上げるカミュのそれは、もしかすると照れ隠しなのかもしれないとサラは見当違いの事を考えていた。

 

「カミュは納得しないかもしれないが、今の世の中で魔物を倒す事は奨励されている。つまり認められているんだ。だけどなメルエ、『人』を殺すという事は忌むべきものとして嫌悪される」

 

「…………」

 

 メルエは、瞳を見つめながら真剣に話すリーシャの言葉は大事な事だと、この短い旅で学習している。その言葉の全てを理解する事は出来ない。それでも、メルエはリーシャの瞳を見つめながら、その言葉を聞いていた。

 

「『人』を殺す者は、アンを殺した盗賊達ような奴等だけだ。そして、そう言う人間は普通に暮らす事など出来ない。村に入っても忌み嫌われ、隠れて住んでいたとしても、気付かれれば追い出される。もし、メルエがあいつ等を殺したとなれば、アンもメルエをそういう目で見てしまうかもしれない」

 

「…………いや…………」

 

 自分の話を一つ一つ頷きながら、真剣に聞いていたメルエが、首を横に振りながら発した言葉を聞き、リーシャは満足そうに頷いた。

 

「そうだな。私やカミュも、メルエがそういう目で見られるのは嫌だ。だから、メルエには手を出させなかった。もし、もう一度メルエがアンに会った時に、また笑って話せるようにな」

 

「…………でも………カミュ…………」

 

 リーシャの言いたい事は、メルエにも理解出来た。

 本当の意味で理解出来たかどうかは定かではないが、納得はした。

 しかし、それならば、手をかけてしまったカミュはどうなるのか。メルエは不安な表情を浮かべカミュの方へと顔を向ける。

 

「俺は大丈夫だ……元々、俺はどうなろうと普通に暮らす事など出来ないのだから……」

 

「カミュ……はっ! メ、メルエ、カミュもあいつ等を殺してはいないぞ!」

 

「……生きている方が辛いでしょうけど……」

 

 カミュの言葉は、まるで自分に言い聞かせるような呟きだった。

 一瞬、カミュを見つめてしまったリーシャが気を取り直し、メルエへまだ盗賊達が死んでいない事を告げるが、それも隣で放心状態にあったサラの故意的な呟きにより意味を無さなかった。

 

「……メルエ……これから先、俺と旅をする中で、こういう場面が何度もあるだろう。だが、メルエが罪を被る必要はない。それらは、全て俺に被せれば良い。メルエが苦しんだり、悩んだりをする事はないんだ」

 

「……カミュ……お前は……」

 

 眉尻を下げてカミュを見上げるメルエは、自身の頭に手を乗せながら話すカミュを見つめていた。

 その哀しいやり取りを見ていたリーシャは、言葉に詰まってしまう。それは、望んで持った責務ではない。それでも、言葉を洩らすリーシャに視線を動かしたカミュは静かに口を開いた。

 

「……元々、俺はそういう存在だ……」

 

 アリアハンが国を挙げて送り出した世界の希望。

 綺麗な言い方をすればその通りだろう。しかし、裏を返せば、世界中の人間が、自分の命が惜しいが為に、この『勇者』一人の命を犠牲にしているとも言える。世界の黒い部分も、世界中の欲望も、この青年と言うにはまだ若い少年に全てを背負わせているのだ。

 

「…………」

 

 リーシャの言葉も、もちろんカミュの言葉も半分程しか理解していないのだろうが、メルエはカミュにこくりと頷いた。

 メルエの頷きを満足そうに見つめ、リーシャは軽くメルエの頭を撫でた後、再びその頭に<とんがり帽子>を被せた。

 

「わ、私も、メルエに『人』を殺してほしくはありません……ですが、あの行為は酷過ぎるのではないですか!?」

 

 会話に置いて行かれていたサラがようやく口を開く。リーシャの話の中に、自分の名前がない事を、実は不満に思っていたのかもしれない。

 

「……サラ……」

 

 『人』である者の命に格差はないという事を根底に持つサラは、やはりどこか納得が行かなかった。

 確かに、あの盗賊達の所業は許されざる物ではあるが、カミュのした事は余りにも酷過ぎるのではないかと思うのだ。

 ひと思いに殺す事をせず、いたぶり殺しているようにさえ感じる。ましてや、<ホイミ>までかけて傷を癒しておきながら、魔物の餌とする為に階下へ放り投げるなど、悪魔の所業ではないかとサラは感じたのだ。

 

「……その戦士が話した話と矛盾するが、俺はあいつ等を『人』とは思っていない」

 

「ど、どういう事ですか!?」

 

 暫し、サラの目を見据えてからカミュは重い口を開いた。

 その言葉の内容は、サラの口にする前提を根底から覆す物である。

 

「……逆に聞きたいのだが、アンタは、あいつ等が犯した罪は『人』の行う所業だと考えているのか?」

 

「そ、それは……しかし、カミュ様がした事もまた、彼らと同じ事ではないのですか?」

 

 サラは引き下がらない。

 この旅を始めて、もはや何度目かすらも分からない程のサラとカミュの問答が始まる。その二人のやり取りを、リーシャもメルエも、唯見守る事しか出来なかった。

 

「そうかもしれないな……奴等を裁く権利など俺にはない。ただ、他者の命を、自己の快楽の為にいたぶり殺したあいつ等に対して、憎しみを感じただけだ。魔物以下である奴等を、『人』とも、ましてや『魔物』とも思わない。その辺に転がるゴミと同じだ」

 

「……そ、そんな……」

 

 サラはカミュが漏らした考えに絶句する。

 『これが世界を救うと信じていた勇者の姿なのか?』

 『自分は、この勇者に何を望めば良いのか?』

 サラはこの旅に同道する意味を見失いそうになる。

 

 しかし、アリアハン大陸であれば、おそらくサラと同じような想いを持ったであろうリーシャは、違う感想を抱いていた。

 カミュは、アリアハン大陸では、サラの糾弾に対して、自己の考えなどをあまり話す事がなかった筈だ。話の途中でサラの存在自体を拒絶すような言葉を発したり、話す意味がないと黙りこんだりというのが常であった。

 それが今は、しっかりとサラに告げている。

 それは、果たしてカミュの変化なのか、それともカミュへの見方が変わった事が理由なのかは解らなかった。

 

「時間をかけすぎた。メルエ、服は乾いたか?」

 

「…………ん…………」

 

 もう話は終わりだとでもいうように、視線をメルエに向けたカミュの言葉に、メルエは一つ頷く事で返した。

 

「……上へ進む……カンダタ本人がいるか分からないが、『金の冠』はこの塔にある筈だ」

 

 一行が疾うに忘れていた、カンダタ一味を追っている理由を述べ、カミュは上のフロアに続く階段に足をかけた。

 カミュ、メルエ、リーシャと続き、階段を上って行く。

 一人残されたサラは、今尚、先程までカミュが立っていた場所を焦点の定まらない瞳で見つめていた。

 その時、階下から悲痛な叫び声が上がる。おそらく、血の臭いと肉の焼ける臭いに誘われた魔物達が、カミュによって階下へ落とされた者達を発見したのだろう。

 

 サラは叫び声を聞き、ようやく覚醒を果たす。

 『自分が目指すのは、魔王ただ一人』

 『その為にも、ここで立ち止まる訳にはいかない』

 強引に自分の心を抑え込み、サラは立ち上がった。胸に去来する様々な葛藤は、このメンバーで旅を続ける限り無くなる事はないだろう。それでも、サラは前に進む事にしたのだ。

 

 サラが階段を上りきった頃、階下では魔物達の咆哮が響いていた。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

ここ数日、帰宅がこの時間になってしまっています。
明日も更新をする予定ですが、もしかすると眠ってしまうかもしれません(苦笑

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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シャンパーニの塔③

 

 

 

 サラが上のフロアに足を踏み入れた時、既に三人はカンダタ一味と対峙をしていた。

 カミュ達三人の前にいるのは、身体に<鉄の鎧>と思しき物を着込んだ男達が三人。そして、先程階下から、命からがら逃げ出した男がその後ろで座り込んでいる。

 しかし、そんな四人よりもサラの目を引き付けたのが、中心に立つ大柄で筋肉質な男だった。

 その威圧感は凄まじく、カミュが能面を被った時と同等、いや、それ以上にサラには感じられる。おそらく、この大男こそが、『カンダタ』その人なのであろう。

 

「……お前だったのか……」

 

「…………」

 

 しかし、カミュとメルエ、そしてリーシャの三人は、サラとは違う方向を見ていた。

 それは、<鉄の鎧>を着込んだ男達の中心に位置する場所に立ち、最もカンダタと思われる大男に近い場所に立っている男。

 サラにも、その男には見覚えがある。

 それは、ロマリア城下町を出てすぐの森の前。

 サラがメルエに初めて会った場所。

 その男は、あの奴隷商人であり、手下のような者から『兄貴』と呼ばれていた男だったのだ。

 

「て、てめぇらは!!」

 

 向こうもカミュ達の顔を覚えていたのであろう。見覚えのある顔を見て、驚愕の表情を浮かべていた。

 そう言われれば、先程カミュの纏う空気に気を取られていたが、後ろで座り込んでいる男の右手は、手首から先がない。あの時、カミュに腕を斬り捨てられた男に違いなかった。

 おそらく、カミュの<ギラ>で燃やされた男の一人の左手は同じように手首から先はなかった事であろう。

 

「貴様が……アンとその母親を……」

 

 リーシャが怒りに歯を食いしばる。実は階下でカミュが盗賊を斬っている時から、メルエはその事に気が付いていた。

 それもあって、カミュの手を止めたのだ。

 自分とアンの苦しみを味あわせる為に。

 

「おいおい、ここまで辿り着いた事は褒めてやるが、ここの主である俺を無視するとは、良い度胸じゃねぇか?」

 

 カミュ達四人の視線が部下の一人に向けられている事に若干の苛立ちを表しながら、大男は口を開いた。

 

「……アンタが……カンダタか……?」

 

「おうよ! この俺様がこのロマリア大陸に知らぬ者はいない、大盗賊のカンダタ様だ! 良く覚えておきな!」

 

 カミュの問いかけに、誇らしく胸を張る大男が発した言葉は、リーシャの顔を歪ませ、カミュの表情を失わせる。そんな二人の胸中は、次に発したカミュの言葉の中に集約されていた。

 

「……ゴミに名前があるなど、迷惑以外何物でもないな……」

 

「なんだと?」

 

 『アリアハンの勇者』と、『ロマリアの義賊』と謳われる男の対峙。

 それは、サラの想像を遥かに超えた緊迫感を有する対話だった。

 カミュの挑発的な物言い。

 そして、それに返答するカンダタの凄みの聞いた声。

 どれも、通常であれば身震いを起こす程の物であったのだ。

 

「奴隷の売買や、村の人間を拉致し殺害するような組織の親玉の名を覚える必要などないという事だ!!」

 

 最後の言葉から睨み合いを続ける、カミュとカンダタに変わって、リーシャが腰の剣に手を掛けながら声を張り上げる。リーシャの手の動きに、隣に立つメルエも構えを取り始めた。

 

「ああ!? 奴隷売買? 何を言ってやがるんだ!?」

 

「ここに来て、まだ白を切るつもりか!?」

 

「…………」

 

 リーシャの怒鳴り声に、しばし宙を見ていたカンダタは、何を言いたいのか全く分からないとでも言うように言葉をリーシャに返す。リーシャの頭にはもはや完全に血が上って来ていた。

 カミュ、メルエを抑えるのに冷静さを保って来たつもりではあったが、リーシャ自身もまた、胸に沸々と湧きあがる怒りを溜めに溜めて来ていたのだ。

 

「か、頭! こんな訳の分からねぇ事を言ってやがる奴等なんて、さっさとやっちまいましょうぜ!」

 

「……貴様……」

 

 そんなカンダタとリーシャのやり取りに慌てたように、部下の中心人物であろう男がカンダタへと声を掛けた。

 それが、メルエを馬車に押し込めていた張本人である事を知っているリーシャは、怒りに我を忘れそうになる。しかし、その一歩手前でリーシャの目の前にカミュの手が挙がった。

 

「……アンタがカンダタで間違いないな……」

 

「ああ!? さっきから、そうだと言ってんだろうが!?」

 

 先程から自分一人が事情を飲み込めていない苛立ちから、カンダタは更に声を張り上げた。

 後方に控えるサラの身は、自身の意志とは関係なく竦み上がる。しかし、リーシャは勿論、メルエまでもがリーシャの足を掴んだまま、カンダタを睨みつけていた。

 

「そうか……ならば……『金の冠』を出せ」

 

「カミュ! こいつらは、奴隷売買も行うような奴らなんだぞ! そんな奴等が交渉等に応じる訳はないだろ!」

 

 カミュの言葉に、交渉をしようとしていると感じたリーシャは、カミュの胸倉を掴む勢いで詰め寄って行く。しかし、カミュから返って来た答え、そして視線は、リーシャの口をそれ以上開かせない物だった。

 

「……あいつ等には、それ相応の報いを受けさせる。だが、カンダタへの要件は『金の冠』だ」

 

「てめぇら……さっきから何の事を話してやがる? 俺は盗賊ではあるが、奴隷の売買などやった事はねぇぞ……」

 

 一方的に進む会話を飲み込む事の出来ないカンダタは一度構えを解き、カミュ達へと問いかけた。

 彼の中で、奴隷売買という外道は、盗賊という悪行以下の所業と認識されているのだろう。故に、彼の自尊心がこの問答を生んでいた。

 

「まだ言うか! そこにいる奴等が、奴隷の売買をしている事は私達が見ているんだ!」

 

「……なんだと……?」

 

 カミュの言葉に氷ついたリーシャであったが、カンダタの一言に再起動を果たし、再び声を荒げた。

 リーシャの言葉を聞いたカンダタは、その指し示す先にいる自分の部下達へと視線を向ける。

 

「な、何を言ってやがるんだ! か、頭……こいつらの言っている事なんて出鱈目ですぜ。俺達がそんな事をする訳ないじゃないですか!」

 

「…………メルエ………連れてった…………」

 

 焦る男の言葉に、満を持してメルエの口が開く。奴隷として買われ、売られそうになった少女の言葉は、何よりも説得力を持った。

 暫しの間、メルエの瞳を見つめていたカンダタは、その視線を再び自身の部下達へと向けたのだ。

 

「……てめぇら……」

 

「か、頭! 俺達は嘘なんて吐いちゃいませんぜ! か、頭は、俺達の言葉より、こんなどこのどいつかも分からねぇ奴等の言葉を信じるんですか!?」

 

「そうですよ! まずはこいつ等をやっちまいましょう。話はそれからしましょうぜ」

 

 メルエの言葉に、部下を見るカンダタの目は鋭さを増す。それに怯え始めた部下達は、カンダタと目を合わせない為なのか、さっさとカミュ達との戦闘に入りたい為なのか、<鉄の兜>のような物を頭に被った。

 カミュ達との戦闘を望む理由もまた、『死人に口なし』という物を実行する為なのかもしれない。

 

「……わかった……こいつ等を片付け終わったら、次はお前達だ。覚悟を決めておけよ……」

 

 暫し、部下達を睨みつけていたカンダタだったが、何かに諦めたように呟きを洩らした後、腰から巨大な武器を取り出し、カミュ達に向かって構える。

 その武器は斧らしき物。

 しかし、それは木こりが使うような<鉄の斧>ではなく、戦闘用に作り変えられた斧だった。

 

「へへへっ、残念だったな。お前達にはここで死んでもらうぜ」

 

 カンダタの威圧感から解放された男は、下種な笑みを浮かべながら、カミュ達に向かって腰から剣を抜いた。それが、戦闘の合図。

 

「メルエ!!」

 

「…………ん…………」

 

 部下達全員の武器が抜かれた事を確認したカミュが、メルエへと合図を送る。カミュの言葉に短く答えたメルエは、素早く詠唱の態勢に入った。

 高々と掲げられたメルエの右腕を中心に、魔法力が集結する。

 

「…………イオ…………」

 

 いつもよりほんの少し力の入った詠唱。

 それは、カミュ、リーシャ、サラの三人も初めて聞くメルエの詠唱。

 そして、散々、メルエが出したがっていた新しく契約を済ませた魔法であった。

 メルエの詠唱と共に、三人の部下、いや、奴隷商人から『兄貴』と呼ばれていた男の目の前の空気が振動を始める。何事かと考える暇を与えず、振動を始めた空気が圧縮されて行き、突如弾けた。

 

 カミュ達に見えたのはそこまでだった。

 一瞬、『兄貴』と呼ばれていた男の前が真っ白になったかと思うと、凄まじいまでの爆発音を響かせ、視界が奪われたのだ。

 メルエに声をかけたカミュですら、その光景に呆気にとられている。爆発音のすぐ後に、<ギラ>よりも強い熱と風が周囲を取り巻き、カミュの耳に耳鳴りを残していた。 

 ようやく視界が戻った時に見た状況に、再びカミュは絶句する事となる。

 爆発の中心であったであろう男は吹き飛ばされ、左半身がほぼ失われていた。左腕は初めから無かったかのように消滅しており、左足は太ももの所で皮一枚で繋がっており、鎧で覆われていなかった部分は焼け爛れ、血と露わになった肉が赤々と剥き出しになっている。

 他の二人も、規模こそ違え、その被害は甚大と言って差し支えはないだろう。

 熱風により、器官が焼けたのか、呼吸困難に陥っている者。

 そして、爆発の際の光に目をやられ、目が見えなくなっている者。

 生きてはいるが、もはや生きる事すらも苦痛と言った状況だった。

 

<イオ>

『魔道書』に記載されている攻撃呪文の一つ。<メラ>や<ヒャド>、そして<ギラ>とも全く違う系統の魔法。それは、爆発呪文。詳しい原理は解明されていないが、大気中にある物を術者の魔力を触媒にして圧縮し、その力を一気に解放させる事によって強大な爆発を引き起こす。その威力は術者によるところも大きいが、広範囲に及び、対象を爆発の直撃以外にも、熱風等のダメージを与える物である。

 

「……」

 

 その光景から真っ先に立ち直ったカミュがある方向へと視線を向ける。そこには驚きながらも、立ち直りかけていたリーシャの顔があった。

 カミュの視線に気が付き、目線をカミュに合わせたリーシャが一つ頷きを返す。

 

「…………まだ…………」

 

「メルエ!! もう良い!!」

 

 もう一度詠唱に入ろうとするメルエに、声を張り上げ近寄ったのはリーシャ。そして、反対に息も絶え絶えなカンダタの部下達へと真っ直ぐ向かって行ったのはカミュ。

 リーシャとカミュの心の中にあるのは、ただ一つの想い。

 『メルエに人を殺させてはいけない』

 メルエの詠唱を止めたリーシャがカミュへ視線を向けた時には、カミュの<鋼鉄の剣>が一人目の喉に突き刺さった所だった。喉を焼かれ、呼吸が出来ない者の喉を突き刺し、その命を奪っていたのだ。

 もはや助からない命を楽にさせる為に奪ったとも見えなくもないが、サラにはカミュが遂に、明確に『人』を殺したとしか見えていない。メルエの魔法の威力に続き、カミュの行為に呆然とし、周囲が見えなくなっていたサラには致命的な隙が生じていた。

 

「呆けているなよ、嬢ちゃん!」

 

 カミュが、二人目の男に剣を向けた時にはもはや遅かった。

 部下達に気を取られ、最も目を離してはいけない人物から注意を逸らしてしまっていたのだ。

 カンダタ一味の総大将であり、その一味の掲げる名前を持つカンダタである。カンダタは、強力な魔法を行使した『魔法使い』でもなく、それを護るように立つ『戦士』でもなく、そして部下の一人を殺害した少年でもない、法衣を纏い放心している『僧侶』に目をつけた。

 

「ぐふっ!」

 

 目の前にカンダタの顔を確認したと思うや、サラは腹部に強烈な痛みを感じた。それは、意識を手放してしまいそうになる程の衝撃。

 カンダタは一瞬でサラとの距離を詰め、豪快にサラの腹部を蹴り上げたのだ。

 内臓を破壊されたかと思う程の衝撃を受けたサラの身体は、その体重の軽さから、完全に空中へと浮き上がる。意識が薄れていく中で、サラはカンダタらしき足が踏み込むのを見た。

 

「じゃあな、嬢ちゃん」

 

 後方に仰向けの状態で飛んだサラの腹部に、いつの間にか振り上げていたカンダタの斧が振り下ろされた。

 それは、戦闘用として鍛え上げられた斧。

 まともに入れば、サラの身体など真っ二つにされる事は明白である。

 

「ちぃ!」

 

「サラ―――――――!!」

 

 リーシャの叫びが木霊する。

 リーシャにはカンダタの斧の軌跡が見えていた。

 あのまま振り下ろされれば、間違いなく、サラの上半身と下半身は永遠の別れを告げ、同時にサラの人生も幕を閉じるという結末が。

 その時、リーシャの叫びの少し前に舌打ちをしたカミュの手が、サラ目掛けて上げられる。そして、カミュが何かを呟くのと同時に、カンダタの斧が間近に迫っているサラの身体が光に包まれたのだ。

 

「……駄目だ……」

 

 光に包まれるサラを見ても、リーシャの見ている結末は変わらなかった。

 リーシャはカミュがサラに<スカラ>か<スクルト>をかけたのだと思ったのだ。

 しかし、既に腹部へと正確に打ち下ろされた斧の軌跡は変わらない。故に、リーシャの絶望も変化する事はなかった。

 

<スカラ><スクルト>

『魔道書』に記載される、数少ない補助魔法の一つ。それは、術者の魔法力を対象の身体へ纏わせる事により、致命傷などを防ぐ事の出来る魔法である。対象になった者は、術者の魔法力が薄い膜として身体を覆い、敵の攻撃などを微妙にずらす事が可能となり、致命傷を避ける事が出来るのだ。二つの呪文の違いは、一人に向けて使うか、対象を複数にするかの違いである。その場合、術者は一人である為、纏わせる魔法力の量は変わらず、必然的に対象が複数より一人の方が効力は高くなる。

 

 しかし、光に包まれるサラへと振り下ろされたカンダタの斧は、リーシャが予想していた結末を産む事はなく、全く理解不能な音を立てた。

 それは、サラの身体が斧によって叩き切られる、あの肉を潰すような音ではなく、まるで硬い金属同士をぶつけ合ったような凄まじい音。

 リーシャは目の前で起こった事を飲み込めない。

 凄まじい金属音を響かせたサラの身体は、石でできた床に落下するのだが、落下音もまた異常な音を塔に響かせたのだ。

 それは、何か重い石か金属が、石畳に落下したような音だった。

 

「……間に合ったか……」

 

「て、てめぇ、何をしやがった!!」

 

「サラ!!」

 

 先程階下の部屋から逃げ出して来た男の太ももに剣を突き刺しながら言葉を漏らすカミュに、カンダタは金切り声を上げた。

 その間に腰の剣を抜いたリーシャが、カンダタを牽制するように剣を振るい、サラの下へと辿り着く。メルエもまた、右手をカンダタに向かって掲げながらリーシャの後を追った。

 そこでリーシャが見た物は、完全にリーシャの頭では理解の範疇を超えたサラの姿。 

 サラの姿は、カンダタに蹴り上げられたままの物なのである。意識を失い、倒れているだけならわかるが、その身体はリーシャの持つ<鋼鉄の剣>ような光沢を持ち、また色合いもそのものであったのだ。

 恐る恐るその身体に触れてみると、体温を全く感じられないような冷たさまで感じる事が出来た。

 

「ホイミ」

 

 カンダタの剣幕にも動じず、メルエが真っ先に<イオ>の対象とした奴隷商人の男に、カミュは回復呪文を掛ける、淡い光を受けた男の身体は、傷口などが少し塞がり、呼吸も可能となって行った。

 意識は失っているが、呼吸が復活した事を確認したカミュは、再びカンダタへと向き直る。あまりに常識を逸脱した出来事に、カンダタといえども、カミュの不意を突く事すら出来ない程に困惑していた。

 

「カ、カミュ、サラに何をしたんだ? サラは大丈夫なのか?」

 

「…………サラ…………」

 

 リーシャに於いても、珍しく怒鳴り散らす事はせず、カミュへサラの状態を問いかけていた。その横に立つメルエも、心配そうにサラを見つめる。

 

「少しの間、鉄になってもらっただけだ。暫くすれば元に戻る」

 

「鉄にだと!!」

 

 リーシャに返したカミュの言葉に逸早く反応したのは、リーシャではなくカンダタ。

 文字通り目を丸くし、カミュを見据えるカンダタの表情は、とても大盗賊の親玉には見えない物だった。

 

「何だそれは! そんな魔法見た事も聞いた事もねぇぞ!」

 

「……どちらにせよ、アンタには関係ない事だ……」

 

 続くカンダタの叫びを、カミュが斬り捨てる。

 『サラの状態がどうなっていようと、カンダタには関係ない』と。

 しかし、カンダタにとっては、仕留めたと思った相手が鉄になっていたでは納得がいかない。しかも、自分に向かってくる相手は四人パーティーだ。

 ならば、カンダタの攻撃を受けた後、回復呪文で仲間の傷を癒してしまう可能性のある『僧侶』を、まずは消してしまおうとする目論見も外れてしまった事になる。実際、その目論見も、カミュが<ホイミ>を行使した事により、意味を成さなかった可能性は、カンダタも否定は出来なかったのだが。

 

「カミュ! では、サラは大丈夫なんだな?」

 

「……ああ、時機に戻る……」

 

 カンダタとカミュのやり取りに興味を示さず、サラの身だけを案じているこの女性に、カミュは苦笑に近い表情を浮かべた。

 

「そ、そうか……よかった……」

 

 カミュの言葉に、『自分が戦場にいる事を覚えているのか?』と聞きたくなる程にリーシャは脱力感を表し、目に光る物を浮かべていた。

 それが、彼女の優しさなのだろう。

 一度は諦めかけた命が救われた事に、心底喜びを表す。

 カミュも、そんなリーシャの姿を暫し見ていたが、もう一度カンダタへ向き直った。

 

「ふっ、ふはははっ、ちげぇねぇ、ちげぇねぇ。あの状態が何であろうと、俺様には関係のないこった。しかし、てめぇは何者だ?」

 

「……別段、アンタに名乗る必要もない」

 

 突如笑い出したかと思えば、再びカミュの身の上を問いかける為に、カンダタは目を細める。しかし、その問いかけもまた、カミュによって斬り捨てられた。

 

「ふはははっ、そいつも尤もだ! この様子だと、てめぇらが言っていた事も、どうやら真実のようだな?」

 

 自分の問いかけを、カミュに再び斬り捨てられた事を気にもせず、豪快に笑い飛ばす姿は、とても奴隷の売買や拉致殺害を行っている棟梁には見えない清々しさがあった。

 

「……アンタの仲間は、ここにいる者だけではない筈だ」

 

「ん? ああ、他の地方にも手下どもは散らばっている」

 

 お互いが相手の目から視線を外さずに語り合う。手にした武器を下げてはいるが、いつ相手がその武器を掲げても対処できるように、カミュもカンダタも瞳の奥には冷たい炎が宿っていた。

 

「……アンタの一味は大きくなり過ぎた」

 

「カ、カミュ、どういう事だ?」

 

 鉄になったサラの身体を労わるように触りながらも、リーシャは二人の会話を聞いていた。

 もう一人のメルエの方は、サラは無事だと安心した為か、今のサラの状態を純粋に楽しんでいるようにさえ見える。

 

「大きくなり過ぎた組織が行き着く結末は、国であろうと一味であろうと同じ……」

 

「……破滅か……」

 

 リーシャの問いかけに対し、中途半端に答えるカミュの言葉を補足したのは、その大きくなり過ぎたと言われる組織の親玉であった。

 

「は、破滅だと?」

 

「……ああ、そこへ辿り着くのには大きく分けて二通りあるが、結局行き着く先は同じく、崩壊あるいは破滅だ」

 

「……」

 

 リーシャが言葉に詰まっている横で、我関せずのメルエが鉄となったサラの頬をペシペシと叩いている。緊迫して来た話も、メルエに取ってはサラの状態以上に興味のある事ではなかった。

 

「……二通りとは?」

 

 それでも尚、リーシャはカミュに問いかける。それが、自分の祖国であるアリアハンにも当て嵌る可能性が高い事は、カミュの口ぶりから理解出来ていた。

 

「……上が腐るか、下が腐るかの違いだけだ……」

 

「……」

 

 カミュが言う内容は、組織が大きくなれば、全構成員へ指示伝達等が行き届かなくなり、必然的に影の差す部分が出来て来るというもの。目の届かない場所となり、何をしても見つからず、当事者達さえ黙っていれば明るみには出ない部分。組織が大きくなれば大きくなるだけ、その影の面積も大きくなる。

 それを作り出すのが、組織の上に立つ者達なのか、それとも上層部の監督は行き届かない末端の者なのかの違いだけだと言うのだ。

 それは、組織の規模や性質は問わない。盗賊一味だろうと、国家であろうと、教会等の法人施設であろうとだ。

 

「ふっ、ふははははっ。小僧、てめぇの言う通りかもしれねぇな。確かに俺達の一味は大きくなり過ぎた。俺の目が届かない所も多くなった。そっちの姉ちゃんの言う通り、義賊が聞いて呆れるわな」

 

 その言葉と同時にカンダタは斧を構え直す。

 それが当然の事であるように。

 

「だがな……例え俺が与り知らぬ所で手下が行った事も、全てカンダタ一味の行った事だ。それを、知らぬ存ぜぬで済ますつもりはねぇ。『金の冠』も、てめぇらが持つ復讐の念も、俺から奪いたけりゃ、掛って来な!!」

 

 再び、フロア全体を凄まじいまでの威圧感が支配する。先程まで感じていたよりも巨大なそれに、カミュですら額に汗が滲む程であった。

 

「うぅぅん……あ、あれ……私……何故?……あれ、生きている……」

 

「…………おきた…………」

 

 カミュもリーシャもカンダタの放つ威圧感に飲まれそうになる程の緊迫感の中、どこか間の抜けた声を上げながらサラが覚醒する。

 カミュの呪文の効力が切れたのであろう。サラの身体は元の体温を取り戻し、鋼色をしていた身体も人肌の色に戻っていた。

 相変わらずペシペシとサラを叩いていたメルエが、どこか面白くなさそうな表情を浮かべている。

 

「サラ! 説明は後だ! 来るぞ!」

 

「えっ!? あ、は、はい!」

 

 カンダタから視線を外さずに、リーシャはサラへ檄を飛ばした。

 そのリーシャの剣幕に飛び起きたサラもまた、背中の<鉄の槍>を構え、カンダタへと視線を向ける。メルエもまた、<とんがり帽子>のつばを掴んで深く被り直し、戦闘態勢に入った。

 

「おらぁ!!」

 

 先手はカンダタ。

 一瞬の早業で、リーシャとの距離を詰め、手にした斧を横薙ぎに振るう。その速度を見て、避ける事が叶わないと感じたリーシャは、左手に装備する<青銅の盾>でカンダタの斧を受けた。

 凄まじい衝撃がリーシャの身体に響く。確かに盾で防御したはずなのに、小柄ではないリーシャの身体がふわりと宙に浮いた。

 

「メルエ!!」

 

 受けた盾を持つ左手に痺れを感じたリーシャの様子を見て、カミュがメルエへと声を上げた。

 そのカミュの声だけで、メルエはカミュの言わんとする事を理解する。

 

「…………ん…………スクルト…………」

 

 先程、リーシャが、カミュがサラに唱えたと勘違いした魔法。

 パーティー全員に、メルエの魔法力が行き渡り、その身体に薄い魔力の膜を作り出す。

 自分の身体を魔力が包む感触を確認し、カミュがカンダタ目掛け走り寄り、剣を振るう。しかし、リーシャを吹き飛ばした斧を戻していたカンダタは、カミュの剣をその斧で薙ぎ払った。

 本来の力が違う為、弾かれた勢いでカミュの態勢は僅かに崩れる。そんな僅かな隙もカンダタは見逃さなかった。

 態勢を崩したカミュを、左手に持つ<鉄の盾>のような物で押し出し、もう一度カミュへ斧を振り下ろす。

 

「くっ!」

 

「…………ヒャド…………」

 

 咄嗟にカミュも、手に持つ<青銅の盾>で防ごうとするが、間に合わない。しかし、先程<スクルト>を唱えたばかりのメルエが、後方から異なる呪文の詠唱を完成させた。

 メルエの指先から生じた冷気は、真っ直ぐカンダタが斧を持つ右手に向かい、その手を凍りつかせようとする。

 

「ちぃ!!」

 

 メルエの冷気に気が付き、強引にカミュへの振り下ろしを止め、カンダタは身体を捩るが、避け切る事が出来ず、脇腹付近に<ヒャド>の冷気を受けた。

 カンダタの着ている衣服が凍り、脇腹も皮膚の色を変色させて行く。

 

「そこだぁ!」

 

 カンダタがメルエの魔法に怯んだのを確認し、走り込んで来たリーシャの剣が横薙ぎに払われる。その剣速は並みの者ならば対処できない程の速度。

 

「甘い!!」

 

 だが、そこは大所帯を束ねる盗賊の棟梁。

 左手に持つ<鉄の盾>をリーシャの剣の軌道に合わせた。

 体格的には、『戦士』であるリーシャよりも二周り近く大きいカンダタであれば、この剣も難なく防ぐ事が出来たであろう。しかし、リーシャは一人ではないのだ。

 

「ルカニ!」

 

「な、なんだと!」

 

 カンダタは確実に防いだと思っていた。

 リーシャの剣の軌道は変えられない。ならば、『<鉄の盾>に弾かれ、態勢を崩すところに斧を叩き込んでやろう』とカンダタは考えていた。

 しかし、そんなカンダタの目論見は、先程から戦闘に参加していなかった、死に損ないの『僧侶』の叫びによって崩されてしまった。

 リーシャの剣が、チーズでも切るかのように盾へと吸い込まれて来るのだ。

 <鉄の盾>の上部分をすっぱりと斬り飛ばし、自分に向かってくる剣をカンダタは紙一重で避ける事に成功する。しかし、その代償に、カンダタの頬はぱっくりと裂け、血が滲み出していた。

 

「く、くそっ。えげつねぇ魔法を使いやがって!」

 

 自らの血液の流出を確認したカンダタの目が明らかに変貌した。

 それは明確な殺意を宿した瞳。

 ここに来て、ようやく四人を敵と認識する事にしたのかもしれない。カミュやリーシャを侮っているようにも感じるが、この大男にはそれだけの実力があった。

 アリアハンが誇る『宮廷騎士』、そして駆け出しだが着実に成長している『僧侶』、更には膨大な魔力を秘めた『魔法使い』に、アリアハンが国を挙げて送り出した『勇者』。

 これ程のパーティー等、世界中を探しても見つける事など出来ない。それでも、その四人を相手に、ここまで頬の傷一つで済んでいるという事実が、カンダタの力量を示していた。

 

「死ね!」

 

 カンダタは怒りに燃えた瞳をしたまま、自分の盾の防御力を落とした元凶に斧を振るう。その速度は、やはり先程に比べて遥かに速い。サラは、咄嗟に手に持つ<鉄の槍>を放り投げ、ここに来る間にカミュから手渡された<青銅の盾>を両手で抱えるように持ち直した。

 

「きゃあ!」

 

 両手で持った盾で受け止めたにも拘わらず、サラの身体は宙を舞い、石畳の床を転げて行く。吹き飛んだサラを追って行こうとするカンダタの目の前にカミュが姿を現した。

 横合いから突き出された剣を、その手の斧で弾き返し、カンダタはカミュと何度か突き合いを繰り広げる。三度目のカミュの剣を弾き返そうと斧を振るうカンダタの視界に別の剣が入って来た。

 

 リーシャの剣である。

 

 アリアハン宮廷騎士としての誇りがリーシャには存在する。本来、『人』との闘いでは、騎士は一対一の闘いを誉としているのだ。

 しかし、リーシャも、そしてカミュも理解している。

 『一人では、カンダタには勝てない』という事を。

 故に、恥じも外聞もなく、二人がかり、いや四人がかりでカンダタと対しているのだ。

 仲間の命を守る為に。

 そして、何より自己の命を守る為に。

 

「ち、ちきしょう!」

 

 間一髪カンダタはリーシャの剣を、半身だけになった盾で防いだ。

 いくら実力はカンダタの方が上だと言っても、天と地ほどの差はない。次第に、カンダタは圧されて行く。

 

「…………イオ…………」

 

 一度、カミュとリーシャがカンダタから距離をとった一瞬を見計らって、メルエが先程の爆発呪文を唱える。カンダタの半身しか残っていない盾の手前の空気が圧縮され、瞬時に弾け飛んだ。

 空気の圧縮に気がついたカンダタは、左手の盾を放棄する。盾から手が離れるか否かで爆発が起こり、カンダタの持っていた<鉄の盾>が粉々に吹き飛んだ。

 しかし、メルエの唱えた<イオ>は、先程手下の奴隷商人に向けて唱えたものよりも、明らかにその威力が低下しているように見えた。

 カミュがメルエの方に視線を向けると、その小さな身体は、肩で息をするように小さく波打っている。

 

「一気にケリをつける!」

 

「はっ! やれるものならやってみやがれ!」

 

 リーシャへと声をかけるカミュの言葉に、手にした斧を構え直したカンダタが反応した。

 <鋼鉄の剣>を突き入れるカミュ、そして、それを弾くカンダタ。

 弾く事で振られた斧の隙に剣を刺し入れるリーシャ、身を捩るカンダタ。

 

「ぐっ!!」

 

 身を捩ってリーシャの剣をかわしたカンダタの返しの斧が、リーシャの手を切り裂くが、一歩後退したリーシャに近寄ったカミュは、素早く患部に手を翳す。

 

「ホイミ」

 

「カ、カミュ……」

 

 切り裂かれたリーシャの腕の傷は見る見る塞がって行く。その傷が深い事を悟ったカミュは、二度詠唱を行い、再びカンダタへと向かって行った。

 暫し、カミュが自分を治療してくれた事に放心しそうになったリーシャではあったが、すぐさま気を取り直し、カンダタへと向かって行く。

 

「くそ! 回復呪文まで使えるんだったな!」

 

 カミュが先程自分の手下達に行っていた行為を思い出し、カンダタは忌々しそうに唾を吐き捨てる。確かにカンダタからすれば、傷を与えても、回復呪文で治療されれば、その攻撃は意味を成さない事になってしまうのだ。

 カミュの剣が、カンダタの肩口目掛け振り下ろされる。カンダタはそれを再度斧で弾き、走り込んで来たリーシャの腹部に蹴りを繰り出した。

 カンダタの攻撃を予想していたリーシャはその蹴りを難なく避ける。避けられるとは思っていなかったのか、カンダタは微妙に態勢を崩すが何とか立て直し、カミュに注意を向けて目を見開いた。

 そこには、左手人差し指を自分に向けるカミュがいたのだ。

 

「メラ」

 

 言葉に抑揚のない詠唱と共に、カミュの指先から火球が飛び出す。それは、カンダタの顔面目掛け飛んで来ていた。

 リーシャでも、その火球をカンダタは避けられないと思った。

 そして万が一避けられても、次の攻撃で仕留めるつもりで、カンダタへと走り込んでいたのだが、火球が目の前に迫っていたカンダタの行動は、リーシャの予想を遙かに超えていた。

 

「うぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 カンダタは、カミュの放った<メラ>を避けもせず、受けもせず、そのまま火球目掛けて斧を振り下ろしたのだ。

 その行動はカミュとしても予想外だったのか、目を見開き、一瞬行動が遅れてしまう。

 

「カミュ!!」

 

 リーシャの叫びが響く。

 『やられる!』

 リーシャの頭に絶望に近い感情が湧き上がった。

 それはカンダタも同様で、『獲った』と思った事だろう。

 その後に、<メラ>による若干の火傷を負おうかもしれないが、それで一人を戦闘不能に出来るのならば御の字だった。

 しかし、カンダタは、その存在を完全に忘れていたのだ。

 戦闘開始直後に、自分が最も脅威になり得ない存在だと考えていた少女を。

 

「バギ!」

 

 突如としてカンダタの右腕を中心に風が巻き起こる。

 その風は瞬時に真空と化し、カンダタの右腕を切り刻んで行った。

 

「うぎゃぁぁぁぁ!!」

 

 カンダタ目掛け飛んで来ていた<メラ>の火球すらもその真空に吹き飛ばされる。切り刻まれたカンダタの右手から斧までも吹き飛んで行く。

 血が滴る右腕を押えながら、詠唱が聞こえた方向へカンダタが視線を移すと、もはや座り込んでしまったメルエを庇うように立つサラが、右腕を自分に向けて掲げている姿があった。

 カンダタが回復呪文しか能がないと考え、真っ先に殺しにかかった『僧侶』がカンダタの唯一の攻撃手段を奪ったのだ。

 そして、それはカンダタの敗北を意味するものだった。

 

「……終わりだな……」

 

 右腕を抑えるカンダタの喉元に剣を突き付けるカミュ。

 それを見届け、リーシャはメルエとサラの下へ駆け寄った。

 

「俺の負けだな」

 

 斧は、サラの<バギ>によって吹き飛ばされ、もはやカンダタから遠く離れてしまっている。反撃するにしても、流石のカンダタも無手ではカミュに敵う訳もない。

 

「メルエ! 大丈夫か!?」

 

 少し、離れた所で疲れ果てているメルエを気遣うリーシャの声が聞こえている。カミュとカンダタの視線が合わさった。

 後ろでは二人を褒め、気遣うリーシャの声が続いている。

 

「……良い仲間だな」

 

「……ああ……」

 

 カンダタの呟きに、カミュは視線を外し、リーシャがメルエを胸に抱いている姿を見つめた。そこに隙が出来る。カミュは胸に大きな衝撃を受け、後ろへと吹き飛ばされた。

 転がるように弾き飛ばされたカミュの身体。

 その場所は、奇しくもリーシャ達が集う場所に程近いところであった。

 

「ふはははっ。悪いな、俺もまだこんな所で死ぬ訳にはいかないんでね。約束は約束だ。『金の冠』はここに置いておいてやる。じゃあな」

 

 カンダタは、豪快に笑いながら片足を上げ、そのままその足を床に落とした。

 

「メルエ!!」

 

「き、きゃあ!」

 

 カミュの叫びと、カミュ達が立つ場所の床が抜けるのは同時だった。

 続いて、サラの叫び声が上がる。床が抜けた瞬間に、カミュが何故自分に声をかけて来たのかを理解したメルエは、自分をしっかりと抱いてくれているリーシャの腕の中から、疲れを振り払い詠唱を行った。

 

「…………スクルト…………」

 

 落下して行くパーティーの身体を再びメルエの魔法力が包み込み、薄い防御膜が出来上がる。落下しながら剣を鞘に納めたカミュは、落下による衝撃に供える為、受け身の態勢に入った。

 

 

 

 無事に受け身を取りながら、何とか衝撃を和らげたカミュが態勢を立て直した後、その近くにメルエを抱いたリーシャが落下して来た。

 

「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 そのすぐ後に、盛大な叫び声にも負けない程の破壊音を立てて、木で出来たテーブルを派手に破壊しながらサラが落下して来る。その派手な音を気にする様子もなく、探るように周辺へと視線を巡らして行った。

 

「メ、メルエ、大丈夫か?」

 

「…………ん…………」

 

 腕の中にすっぽりと納まっているメルエの状態を確認する為にリーシャは声を掛ける。それに対し、腕の中から若干上目使いでメルエはこくりと頷いた。

 

「……いたたた……メルエのかけてくれた<スクルト>のおかげで助かりました。ありがとうございました。あれがなければ、私はどうなっていたか……あいたた……」

 

「そうだったな。ありがとう、メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 テーブルだった木片を身体に付着させながら、サラが近寄って来る。

 如何に<スクルト>で強化されていたとはいえ、木のテーブルに直撃した痛みはあったのだろう。身体のあちこちをその手で押さえていた。

 

「……もう一度、上に上がるぞ……」

 

「あっ、カミュ様、お待ち下さい」

 

 階段に足を掛けそうになったカミュが足を止め、サラの言葉に振り返った。

 リーシャとメルエも、サラが何を言うのかと若干不安な物を感じ、サラを見つめる。

 

「……なんだ? 文句なら聞き飽きたが……」

 

「違います! あ、あの……私は何故生きているのでしょうか? カンダタに蹴飛ばされ、斧を目にしたところまでは記憶にあるのですが……」

 

 しかし、リーシャやメルエの不安は杞憂に終わる。サラは、ただ、自分がどうなっていたのかの疑問を訊ねただけであった。

 サラ自身、あの時に死を覚悟したのだろう。薄れ行く意識の中で、踏み込まれるカンダタの足と、振り降ろされる斧を見ていたのだ。

 

「…………サラ………硬かった…………」

 

「え!? やはり死んでしまっていたのですか!? で、では、蘇生呪文を?」

 

「あはははっ。違う、違うぞ、サラ。サラは『鉄』になっていたのだ」

 

 メルエの言葉が、死後硬直の事を言っていると勘違いしたサラは、自分を蘇生させる程の事が出来る人間がいた事に驚きの声を上げる。しかし、横から豪快な笑い声と一緒に出て来たリーシャの言葉に、驚きを通り越して言葉を失ってしまった。

 

「ん? そう言えば、あれは何という魔法なんだ?」

 

「魔法? 私は魔法で鉄になったというのですか!?」

 

 魔法という言葉に、サラは過剰に反応を示す。

 このパーティーで魔法に重きを持つ者はサラとメルエであり、その一人であるサラはそんな効力のある魔法を聞いた事がない。

 いや、『魔道書』の方を網羅していない為、もしかすると『魔道書』にある上位魔法なのかもしれないが、それならメルエがその魔法の名前を口にしても良い筈だ。

 

「……アストロンだ……」

 

「<アストロン>? そ、そんな名前の魔法、聞いた事もありません」

 

「私もないな……『魔道書』にあるのか、メルエ?」

 

 カミュがその魔法の名前を口にしても、やはりサラには聞き覚えのない物であった。

 それは、リーシャにしても同じのようで、『魔法使い』としての才能の片鱗を見せ始めるメルエへと問いかけるが、メルエもゆっくりと首を横に振った。

 まず、第一に、まだメルエは全ての文字を読める訳ではない。ようやく自分の名前の文字を読み、そして書く事が出来るようになったばかりだ。

 そんなメルエに『魔道書』の中にあるかどうかを尋ねるリーシャもリーシャであったが、メルエの反応にサラまでも納得してしまう。

 

「……通常の『経典』や『魔道書』には記載されていない……」

 

「……では、古の賢者様が残した最上位魔法という事ですか!?」

 

 この世界には、もう何十年と『賢者』は存在していない。しかし、数十年前にはたった一人、『賢者』と呼ばれる人間がいた。

 その人間は、魔と神の魔法を使いこなし、『経典』や『魔道書』には載っていない魔法をも行使する事が出来たと云われている。その魔法は、<ホイミ>の様な回復呪文を一度に複数の人間に掛ける事が出来たり、『魔道書』に記載されている攻撃呪文の威力を跳ね上がらせた物だったりと、鍛練を続けた『僧侶』や『魔法使い』にも行使出来ない物であった。

 その『賢者』が自分の使用していた魔法の契約方法や効力などを記した書物が、この世のどこかに存在するという伝説がある。ただ、誰も見た者はおらず、また、手にした者も当然いない事から、その話の信憑性はかなり怪しいものではあるのだ。

 

「いや、この魔法は、契約者を選ぶ物らしい」

 

「もしや! それは、『勇者』だけが行使できるという、あの魔法か?」

 

「えっ!?……そんな魔法が?」

 

 『経典』にも『魔道書』にも記載されていない魔法。

 そして、本当にあったとしても、おそらく『賢者』の残した書物にも記載されていないであろう魔法があるとリーシャは言うのだ。

 この世には、教会が持つ『経典』に載る神との契約魔法と、『魔道書』に載っている魔との契約魔法の二つがある。『賢者』が行使していた魔法も、その例外に洩れてはいない。

 ただ、その他に、後に英雄と呼ばれる人間だけが使う魔法があると云われていた。

 それは、有史以来、現代に至るまで、等しく英雄と呼ばれる人間だけが手に入れる事の出来る魔法。しかも、その英雄は同じ時系列に二人と存在しないと云われる。

 そして、その魔法は、その力を手にした者が後世の若者に残す為、その契約方法と効力を書き残していたと伝えられていた。

 だが、その魔法は余りにも強力な為、一つの魔法につき一冊とし、世界中に分散される事となった。

 主に国家の国宝として保管される事が主ではあったが、近年では契約出来る英雄は出現せず、その存在すら忘れ去られかけている。故に、実際にそのような魔法があるかどうかという事自体、疑わしい物だったのだ。

 

「お前……ま、まさか、ロマリアで……」

 

「ああ、ロマリアの図書室の中にあった」

 

 リーシャの問いかけに対し、カミュは即座に返答する。その返答を聞いたリーシャの瞳が怒りの炎を宿し始めた。

 

「だから、お前は国王になったのか!? し、しかも、国宝とも云われる物を、ロマリアから盗んで来たと言うのか!?」

 

 リーシャには大方理解する事が出来た。

 先程のカミュの発言で、リーシャの脳の中でバラバラになっていた摩訶不思議な出来事が、高速に繋がって行く。しかし、それはアリアハンの勇者が盗みを働いたという結論に達する事になるものだった。

 ロマリアの中で、その書物の存在を知る人間が何人いるか分からない。いや、もしかすると、もはや国王ばかりか、財務を担当する人間すら知る者がいないかもしれない。

 それでも、犯した罪は罪。

 リーシャの持つ雰囲気が久しく見なかった剣呑な物へと変わって行った。

 

「……始めはそのつもりだったが、王女と話す機会があった為に、許可を貰う事が出来た」

 

「何!? それは本当だろうな?」

 

 カミュの様子から見て、リーシャに弁明をしている訳ではない事は明らかだった。

 ただ、単純に問いかけに応えているだけなのだろう。しかし、それを理解出来ないリーシャは、念を押すように問い質す。

 

「……何度も言うが、俺がアンタに嘘を言わなければならない理由が分からない……アンタに嘘を言ってまで自分を正当化する理由がない」

 

 旅を続けているのも、リーシャ達が付いて来ているだけだと暗に示す内容。

 嘘を言ってまで自分を正当化し、ついて来て欲しいとは思っていないとでも言いたいのであろう。

 

「カミュ様しか使えない魔法……」

 

「…………カミュ………ずるい…………」

 

 何かを思い悩むようなサラとは別に、微妙に着眼点がずれているメルエが、カミュへ嫉妬を露わにする。魔法が自分の存在価値という考えが抜けきれていないメルエらしい発言と言えばそれまでだが、頬を膨らますメルエを見て、リーシャは頬を緩めた。

 

「そ、その<アストロン>ですか? それで、私は『鉄』にされたのですか?」

 

「……ああ……」

 

<アストロン>

前述の通り、古より、英雄と謳われる才のある人間しか契約する事が出来ない魔法。それ以外の人間が契約の魔法陣を作成しても、契約が履行されない。効力は、対象をある程度の時間『鉄』に変えてしまうもの。しかも、その『鉄』は通常の鉄とは違い、熱などで溶ける事もなく、何で打ちすえても欠ける事もない。故に、<アストロン>によって『鉄』に変えられた者には、どんなに切れ味の鋭い武器も、どれほど強力な魔法も効果を発揮する事はない。絶対無敵の存在となるのだ。ただ、『鉄』となった者も、自ら動く事は出来なくなり、また思考する事も出来なくなる。非常に使いどころが難しい魔法でもあるのだ。

 

「そうですか……で、では、カミュ様……私を救って下さり、ありがとうございました。あのままでは、確実に私は死んでいました」

 

 自分が九死に一生を得たのはカミュのお陰だった事を認識し、サラはカミュへ深々と頭を下げた。

 本当は、心の何処かで今回もまた、自分の命があるのはカミュのお蔭なのだろうという思いもあったのだが、サラは改めて確認の意も含めて訊ねていたのだ。

 

「確かに、そうだな。あの時は、流石にサラの身体が真っ二つになる事を疑いもしなかったからな」

 

「……リーシャさん……酷いです……」

 

 再び笑顔に戻ったリーシャが笑い話でも話すように、あの時のサラの状況を口にするが、サラにしてみればそれは笑えるどころか、血の気を引かせてしまうのに十分な威力を持ったものだった。

 

「い、いや、それは仕方がないだろう。カミュの魔法だって間一髪というタイミングだったんだぞ!」

 

 慌てて弁明するリーシャであるが、サラの顔色が晴れる事はなかった。

 自身が摩訶不思議な魔法によって変化させられていなかったら、既にこの世に存在する事が出来なかった事を知ったのだ。

 それは、かなりの衝撃であったろう。

 

「……もう良いか? さっさと『金の冠』をもらって、この塔を出るべきだな」

 

「そ、そうですね」

 

 三人は、カミュの言葉に頷き、もう一度上へと続く階段に足を掛ける。おそらく、カンダタは消えているだろう。

 上のフロアに続く階段は、この階段しか見つけられていないが、アジトとしている一味には他に脱出方法があるのかもしれない。

 

 

 

 上のフロアに戻った四人の視界に、目を覆いたくなるような惨状が広がっていた。

 先程、カンダタが居た場所にあの大男は既におらず、その代わりに、光輝く『金の冠』が置かれている。しかし、四人の視線の先はそれではなかった。

 カンダタとやり合う前に戦闘不能に陥っていたカンダタの手下四人全て、首から上がなくなっていたのだ。

 メルエの<イオ>によって完全に虫の息だった奴隷商人をはじめ、下の階から逃げて来た者や、閃光により目をやられた者も首を落とされていた。

 カンダタが、あの戦闘用に改造された斧で首を落としていったのであろう。ただ、カミュがその喉を突き刺した者までも首を落とされている。

 もしかすると、カミュが突き刺した人間はまだ息があったのかもしれない。それでなければ、カンダタがわざわざ首を落として行く必要性を説明する事は出来なかった。

 

「……酷い……」

 

「……もはや、用済みという事か?」

 

 その光景にサラは眉を顰め、リーシャはカンダタの仕打ちに怒りを覚える。しかし、カミュ一人だけは、その光景を冷たい瞳で眺めながらも、異なった感想を持っていた。

 

「……いや……あれは、カンダタの慈悲だろう……」

 

「ど、どういう事だ! この状況が慈悲だと!」

 

 リーシャには、カミュの言っている事が全く納得出来なかった。

 自分の部下の首を斬り落とす事が優しさなど聞いた事がない。ましてや、部下達も、自分の組織の長に殺される事を望む訳がないのだ。

 

「……もし、カンダタがあいつ等を殺さずに置いて行ったとしたら、奴等はどうなっていたと思う? もはや歩く事も出来ない人間達を連れていける訳がないという事が前提だが……」

 

「も、もしかして……」

 

 カミュの言葉に、サラは何かを思いついたようだった。

 リーシャには、まだ解らない。

 その答えは、リーシャの腕の中にいた少女から発せられた。

 

「…………メルエ………やる…………」

 

「はっ!?」

 

 メルエの言葉にようやくリーシャもカミュが言う結論に達する。

 あの手下達は、自分達の憎しみの対象と言っても過言ではない存在。もちろん、自分の身内や、自分の身に何かをされた訳ではない。

 しかし、許せない存在である事は間違いないのだ。

 

「メルエにさせるかさせないかは別としてもだ……奴等が生きていたのなら、それ相応の報いを受けさせるつもりだった。それこそ、『早く殺してくれ』と願う程の報いをな」

 

「……カミュ様……」

 

 いつもと同じカミュの無表情。

 しかし、そこには、静かな怒りと、静かな悲しみが入り混じっているようにリーシャは感じていた。

 それが、自分の手で報いを受けさせる事が出来なかった事への物なのかというと、おそらくそうではないのだろう。サラは、カミュの言動が恐ろしく、その報いの内容まで聞く事は出来なかった。

 聞いてしまえば、もはや、カミュの目を見る事等、永遠に出来なくなるような気がした為だ。

 

「……『金の冠』を取って、早々にこの塔を出るぞ。このままだと、この雨の中で野宿をする事になる」

 

 カミュは、何かを振り払うように、視線を手下達の死体から外し、『金の冠』の場所へと歩いて行く。そのまま、目的の物を手にして戻って来たカミュへ、リーシャは疑問に思っていた事を聞く事にした。

 

「カミュ、野宿をする必要はないだろう。塔の外に出れば、またお前の<ルーラ>で<カザーブ>へ戻れば良いだろう? 一度あの村には行ったのだから」

 

「……流石は、短絡的な考えしか思い浮かばない脳だけはある」

 

 しかし、返って来たのは、リーシャを挑発する内容ではあるが、心底疲れ切ったカミュの言葉だった。

 溜息を吐き出すカミュの表情には、疲れが見え隠れしており、それは何も、リーシャの言葉に対しての物だけではないのだろう。

 

「な、何だと!!」

 

「……まぁ良い。メルエ、今<リレミト>を行使できるか?」

 

「…………ん…………リレミト………????…………」

 

 カミュの問いかけに、こくりと頷いたメルエは、脱出呪文を詠唱した。

 

<リレミト>

魔道書に載っている、<ルーラ>と並ぶ移動呪文の一つ。対象を頭に浮かべた場所へ飛ばす<ルーラ>と異なり、<リレミト>は洞窟や塔などの入り口付近へと移動する為の呪文である。原理は解っていないが、<ルーラ>と違い、<リレミト>は時間すらも飛び越える。それは、何も、過去に戻ったり、未来へと進めたりするものではなく、術者の魔力により、粒子と化した対象を瞬時に入り口付近へと運んでくれるのだ。

 

「…………できない…………」

 

 <リレミト>の詠唱を行った筈にも拘わらず、魔法が発動しない。

 その事に、哀しそうに眉を下げ、メルエは俯いてしまう。

 

「……大丈夫だ。発動しないのは当然だ。魔法力が枯渇に近い状態なのだろう。俺も同じだ。アンタにかけた<ホイミ>が限界だった。元来、俺の魔法力は、メルエやそこの僧侶程高くはないからな」

 

「な、何!? では、この豪雨の中、再び歩いて<カザーブ>へ戻るというのか? <キメラの翼>は!?……無いのだったな……」

 

 魔法力がある人間と言えど、無限に魔法力が続く訳ではない。枯渇したからと言って、生涯魔法を使えなくなるという訳ではないが、魔法力といえど人間の力である以上、しっかりとした休養を取り、体力気力共に回復しなければ魔法の使用は出来なくなる。つまり、メルエもカミュも、例外なく疲労困憊である事を示していた。

 

「リ、リーシャさん……仕方ありませんよ。下の階で少し休んでから出発しましょう。外に出れば雨で濡れてしまいますので、下の暖炉の薪を少し持っていきましょう」

 

「そうだな……ん? メルエ、そんなに落ち込むな。メルエの落ち度ではない。元々歩いてここまで来たんだ。さっさと帰って、ゆっくり眠ろう」

 

 魔法が使えなくなってしまった事に顔を伏せているメルエを慰めながら、三人は階下へと降りて行った。

 生きている人間がカミュ以外誰も居なくなったフロアで、カミュはもう一度首から上を失ったカンダタの手下達に視線を送る。

 

「良かったな……楽に死ぬ事が出来て」

 

 心まで凍りつくような表情で呟いたカミュの言葉は、誰も居なくなった<シャンパーニ>の塔の最上階に溶けて行った。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

第二章も残すところあと1話です。
明日には更新できると思いますので、よろしくお願い致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ロマリア大陸④

 

 

 

 むせ返る様な血の匂いと、人の焼けた臭いが漂う部屋の中で、一行は未だに炎が生きている暖炉で暖を取る。その後、暖炉の近くに束ねられていた薪を袋に詰め、階下への階段を降りて行った。

 降りたフロアは静まり返ってはいたが、未だに止む事のない雨音が周囲に響いており、一歩フロアから出ると、乾いたばかりの衣服がまた体温を奪う布と化してしまう事が予想出来る。

 更には、至る所に人骨が散乱しており、ほんの少し前まで、ここで地獄絵図が拡げられていた事も容易に想像出来た。

 フロアへと最後に降りたサラは、周囲に散乱する人骨を見て足を止める。この惨状は、先頭を行く、アリアハンの勇者と謳われるカミュが起こした物と言っても良い。直接止めを刺した訳ではないが、カミュが殺したと言っても遜色はない筈なのだ。

 それが、サラの心に棘として残っていた。

 

「サラ、あまり思い詰めるな。この世には『因果応報』という言葉もある。この盗賊達が行ってきた所業が、彼らにそのまま返って来たとも考えられる筈だ」

 

「……はい……で、ですが……」

 

 足を止めたサラに、少し前を歩いていたリーシャが見かねて声をかけて来る。サラも、リーシャの言っている事は理解出来る。

 それでも、どうしても納得する事が出来なかった。

 

『人殺しは重罪』

 

 それを幼い頃から植え付けられているサラにとって、相手がどんな人物であろうと、『人』である以上、殺す事を容認する事は出来ないのだ。

 

『盗賊達の所業が許されないとしたら、カミュが行った事もまた、許される事ではないのではないか』

 

 サラはそればかりを考えるようになる。しかし、サラのその考えは、カミュという人物が決して相容れぬ者である事を意味していた。

 そして、二人の考えにどこか似通っているものがあるという事も示唆していたのだ。

 

『人間が食事の為に獣を殺し食す事も、魔物が食事の為に人間を殺し食す事も同じ』と考えるカミュの思考。

 

『盗賊達が快楽の為に人の命を散らす事も、憎しみに駆られ盗賊達を斬殺する事も同じ』と考えるサラの思考。

 

 それは、全く違うようでどこか通じるものがある。

 

「……」

 

「……サラ……」

 

 自分を心配そうに見るリーシャの視線に気が付きながらも、サラは自分の心の中に芽生えた考えに苦しみに似た悩みを抱え、反応を返す事が出来なかった。

 それは、カミュを許せないという自分の考えが、結局自分自身もその対象になり得るという事に思い当ってしまったからでだった。

 例え、食事の為とはいえ、自分の親を殺した魔物達を、その『復讐』の念から手当たり次第殺す事は、自分が抵抗を感じているカミュと同じ事なのではないかという疑問。

 そして、それを認めた時点で、自分の旅が終結を迎えてしまうという恐れ。その考えは、サラを苦しめ、そして悩ませる。

 

『人と魔物は違う』

 

 何とか自分の心を抑えつけようとするが、そう考えれば考える程、『魔物』を生物として考えない自分と、盗賊を『人』として見ていないカミュと何が違うのかという思いに駆られ、堂々巡りを繰り返す。

 

「カミュ! 私はサラと共に歩く! メルエを頼む!」

 

 そんなサラの葛藤は、フロアから外に出て、降りしきる雨の中に出ても尚続いていた。

 放心状態に近いサラの身を案じ、リーシャがその横を伴走するように歩く。カミュは、リーシャの言葉に返事を返す事はなかったが、メルエを風下のマントの中にいれ、雨風を防ぐ形で、壁伝いに歩を進めて行った。

 先程、この道を通った時と同じように魔物の影や気配は一切ない。しかし、ある意味、魔物よりも悪い、横殴りの雨風が一行の体温を奪い、体力を削って行く。いつの間にか、堂々巡りだった思考も停止してしまったサラは、リーシャに庇われながら歩を進めていた。

 

「カミュ! そこは真っ直ぐではなかったか!?」

 

「……」

 

 先頭を行くカミュは、後ろからかかる見当違いなナビゲーションを無視し、壁伝いに歩を左へと移す。ようやく雨風を防ぐ壁に囲まれたフロアへと出た事に、全員が安堵の溜息をついた。

 リーシャの言葉とは違い、フロアの奥には、階下へ続く階段が見える。

 

「……い加減に自覚してくれ……」

 

「ぐっ!!」

 

 カミュが吐いた溜息は、サラやメルエの溜息とは微妙に用途が違っていたようだ。溜息と共に吐き出された言葉に、リーシャは言葉に詰まる。

 

「…………」

 

 雨風の脅威が止んだ事への安堵から、サラの思考は再び活動を始めていた。

 それが、表情にも表れ、険しい表情を作ったまま黙り込んでしまっている。リーシャもサラの様子を心配してはいたが、もう一人、そんなサラをじっと見つめる人物がいた。

 

「一度下に降りてから火を熾そう」

 

 サラやメルエの体力を心配したリーシャの提案を拒む理由もなく、全員が頷き、階下へ続く階段を降り始める。雲に覆われた空から入る光は乏しく、階段は暗闇に支配されていた。

 カミュがメルエの手を取り、リーシャがサラを支える形で、階段を降りて行く。

 階段を降り終わり、持って来ていた薪を組んで火を熾す。

 次第に大きくなる炎の周りを一行で囲み、暖をとり、衣服を乾かした。

 火の傍に座ってからも、考え込んでいるようなサラ。しかし、何故かメルエまでも何やら寂しそうに俯いていた。

 

「メルエ、どうした?」

 

 サラだけでなく、メルエまでもが黙り込んでしまった事に困惑したリーシャが、メルエの肩に手を置き声をかけるが、メルエは尚更下を向いてしまう。

 

「……メルエ?」

 

 その様子に、『身体を冷やした事で、体調を崩してしまったのでは?』とカミュもメルエへと声をかける事となった。

 しかし、そんな二人の心配していた内容とは違う答えが、先程からじっとサラを見つめていた少女から返って来る事となる。

 

「…………ごめ………ん………なさい…………」

 

「……は?」

 

「ど、どうしたんだ、メルエ!? ど、どこか身体の調子が悪くなったのか!?」

 

 いきなりの謝罪。

 その言葉に、カミュが以前見せたような、呆気にとられた表情を浮かべる。カミュが呆けてしまった事により、メルエの謝罪の意図を問いただす役目は、リーシャとなってしまったが、リーシャの問いかけに、メルエはただ下を向いたまま首を横に振っただけであった。

 

「一体どうしたんだ? 首を振るだけでは分からないぞ。メルエは何故、私達に謝っているんだ?」

 

 メルエの反応に落ち着きを取り戻したリーシャは、湿気を帯びているメルエの<とんがり帽子>を取り、その頭に手をのせながら、優しく声をかける。そんな三人のやり取りに、今まで己の思考の海に潜っていたサラの顔がようやく上がった。

 

「…………メルエ…………まほう………できない…………」

 

「何!?」

 

 メルエは下を向いたまま、ぽつりぽつりと謝罪の理由を話し出す。それは、リーシャの予想の遥か斜めを行った物であり、しかも、俯いているメルエの顔辺りから床に落ちて行く水滴は、決して先程まで叩きつけられていた雨ではない事がリーシャだけでなく、カミュやサラにも理解出来た。

 

「…………まほう…………できない…………出れない…………」

 

 メルエの足りない言葉を、何故か全員が正確に理解する。

 『メルエの脱出呪文がない故に、この塔から出られない』とメルエは言いたいのだろう。メルエなりに、その責任を感じていたのかもしれない。

 

「そ、それは……」

 

「…………サラ………元気………ない…………?」

 

 『それは、メルエのせいではない』

 そう言おうとしたリーシャの言葉は、尚も必死の言葉を繋ごうとするメルエの言葉に阻まれた。

 そして、繋げられた言葉を発しながら、顔を上げたメルエの涙の溜まった瞳は、真っ直ぐサラを見ている。サラが思考に陥っている事を、メルエは『元気がない』と感じていたのだ。

 しかも、それは魔法を行使出来ない自分の責任と感じていたのだろう。

 

「……メルエ……」

 

 そんな幼い少女の瞳を見て、サラは恐怖を感じる。

 『このような純粋な少女の暖かな視線を受ける資格が、今の自分にあるのか』と。

 しかし、それ以上に喜びを感じたのも事実だった。自分をこれ程までに心配してくれる『人』がいるのだと。

 思考の海に溺れてしまっていたサラの様子に、これ程の責任を感じてしまうほど好意を持って接してくれる『人』がいる事に。

 

 サラは、自分自身、教会の管理をしている神父に拾われ、育てられた事から、『僧侶』になるのは当然の事だと思っていた。

 自分が今、こうしている事が出来るのも、『精霊ルビス』様のご加護があってこその物。ならば、そのルビス様を信仰するのは当然であると。

 しかし、サラ自身気がついてはいないが、彼女にはそれしかなかったというのも事実なのである。

 孤児という事で、一時的なもの以外の友人と呼べる存在はなかった。自分を気にかけてくれる存在は、両親なきサラには、神父とルビス像しかいなかったのだ。

 

「……メルエ……大丈夫です。私は少し考え事をしていただけなのです」

 

「…………」

 

 喜びを噛み締めながら、サラはメルエへとゆっくり語りかける。眉を下げたメルエは、じっとサラの瞳を見つめていた。

 

「それに、この塔から出る事が出来ないのは、メルエの責任ではありませんよ。もし責任があるとすれば、メルエの魔法力が枯渇してしまう程に疲労させてしまった私達の責任です。ですから、メルエがそのような顔をする必要はありません」

 

 自分は何を迷っているのだろう。

 親の仇を取る為に、魔王への『復讐』を誓ったその日から、覚悟は出来ていた筈だ。

 確かにそれは、『人殺し』をする覚悟ではない。しかし、どんな事があっても、その『復讐』をやり遂げるのだという覚悟だ。

 それは、自分の殻に閉じこもり、幼く純真な少女に悲しい表情をさせるものではない。自分に好意を持って接してくれ、これ程まで自分を心配してくれる少女を泣かせる事でもない。サラの瞳に、再び覚悟の炎が灯り始めた。

 

「…………サラ………元気…………?」

 

「はい! 元気ですよ。私の場合、メルエと違い、戦闘でほとんど役に立っていませんから、魔法力も余っています。だから、メルエが謝る事など、全くないのですよ」

 

 呟くようなメルエの問いかけは、とても単純な物だった。

 単純な物だからこそ、この幼い少女が、如何にサラを心配していたのかが窺える。上目遣いで問いかけるメルエに、サラは満面の笑顔で答えた。

 

「そ、そうだぞ、メルエ。魔法が使えないのがダメというのならカミュだって同じだ」

 

「……最初から魔法を一切使えないアンタは、全くの役立たずという事になるがな……」

 

「な、なんだと!?」

 

 メルエの問いかけに、自分の内にある苦悩を飲み込み笑顔で答えるサラの瞳は、塔を登る前と発する光が変わっていた。

 しかし、サラに倣ってメルエを何とか励まそうと口を開いたリーシャの言葉は、即座に皮肉気に口端を上げているカミュによって斬り捨てられる。サラとは違い、この二人のやり取りはいつも変わらない。

 それが、メルエにも、そしてサラにも嬉しかった。

 

「…………ん…………」

 

 全員の言葉に、目に涙を溜めたまま、こくりと頷いたメルエの笑顔は、塔内部での出来事で荒んでいたパーティーの心を和らげる優しい物だった。

 

「よし! 衣服も乾いてきたな。出発しよう………カミュ、お前は常に後ろに気を付けて歩くんだな……」

 

 リーシャが最後にカミュへ言った言葉は『後ろのサラやメルエを気にしろ』という意味なのか、『私の剣に気をつけろ』という意味なのかを考えてしまうような不穏なものであった。

 カミュの溜息は、未だに火の勢いの衰えない焚き火の中へと吸い込まれて行く。これぐらいの休憩では、カミュもメルエも魔法力が回復する事はない。つまり、自分達の足でこの塔を降り、<カザーブ>までの道程を歩かなければならないという事だ。

 

 

 

 一行は、再び<シャンパーニ>の塔の内部を歩き出す。雨と風をその身に受けないという事が、これほど素晴らしい事なのだという事をサラは初めて感じていた。

 そんな感動を吹き飛ばす声がサラの後方からかかった。

 

「メ、メルエ、見てみろ。大きなきのこが生えているぞ! あれだけの大きさなら、料理のし甲斐がある」

 

 疲れ果てている一行にとって、何とも形容しがたいその内容に、サラは顔を顰めながら振り向いた。

 

「…………きの………こ…………?」

 

 誰よりも早く振り向き、リーシャの傍へと小走りに移動したメルエは、リーシャの指差す方向に目を凝らした。

 暗がりの中で、確かにきのこらしき物が地面から生えているのが見える。それは、リーシャやメルエだけではなく、サラにも確認出来ていた。

 

「本当に……きのこ……ですねぇ……」

 

「よ、よし! あれを採って来て、先程の場所まで戻ろう。もう一度火を熾してから、炙って食べる事にしよう」

 

 自分の見識が間違った物でなかった事が、サラの言動によって証明されたと考えたリーシャは、きのこらしき物が生えている場所へと近づいて行く。

 

「…………メルエ………も………いく…………」

 

「メルエは、ここで私と待っていましょう。リーシャさんに任せた方が良いですよ」

 

そんな後方でのやり取りに、再度溜息を吐きながら、カミュは振り向き、そして目を見張った。 

 

「お、おい! それはきのこではない! 魔物だ!!」

 

 振り向きざまにカミュが見た物は、大きなきのこのような形をした物に不用意に近づくリーシャであった。

 しかし、こんな塔の中にきのこなど生えている訳がない。例え生えていたとしても、<毒キノコ>の可能性の方が高く、そのような物を食そうとしている人間がいる事自体がおかしいのだ。

 それを注意しようとしたカミュであったが、リーシャが近づいたきのこは<毒キノコ>よりもたちの悪い物であった。

 

「ちっ! 全員呼吸を止めろ!!」

 

「えっ!?」

 

 メルエの元に駆け寄りながら、カミュが出した指示は、サラにとって意味が良く理解出来ない物ではあったが、カミュの表情を見て、それが適切な指示なのであろう事を理解し、鼻と口を押さえた。

 メルエは駆けて来たカミュのマントの中に潜り込み、同じ様に鼻と口を手で覆う。

 

「な、なんだ…………と…………」

 

 リーシャがきのこに手をかけようとしたその時、その現象は起こった。

 突如として振り向いた巨大きのこには牙の生えた大きな口と、ぎょろっとした目が付いていたのだ。

 それに驚いたリーシャが声を上げようとするが、リーシャの声が喉を通ったその時に、きのこの大きな口から、甘ったるい息が吐き出された。

 声を上げようと息を吸い込んだリーシャは、そのきのこが吐き出した息をもろに吸い込んでしまう。その息は甘く、リーシャの脳を蝕んで行き、徐々に意識が薄れ、それは何日も徹夜をした後にベッドに入った時のような、逆らう事の出来ない睡魔に似たものであった。

 

「お、おい……まさか……」

 

 瞬く間に睡魔に負け、崩れ落ちてしまったリーシャにカミュは愕然とする。曲がりなりにも、アリアハン宮廷騎士の中でも屈指の実力を持つ戦士の筈だ。

 これ程、簡単に敵の術中に嵌るとは、流石のカミュも予想だにしていなかった。

 

「えっ、えっ!? ど、どうなっているのですか?」

 

「…………リーシャ…………ねた…………」

 

 困惑を隠しきれないサラに、メルエの淡々とした声が突き刺さる。サラがこのパーティーで最も頼りにしている女戦士は、床に倒れ込むようにして寝息を立てているのだ。

 

「呆けるな! メルエは、後ろに下がっていろ! おい、アンタも<鉄の槍>を構えろ! 鍛練は積んで来た筈だ」

 

「は、はい!」

 

 横たわるリーシャの周りには、先程きのこと間違えた魔物が三体。

 獲物を食すのは後回しとばかりに、カミュ達の方に全体で向かって来ている。

 

<おばけきのこ>

その姿は、巨大なきのこそのものであり、その生態は全く解明されていない。基本きのこなどは、木に自然と生えて来る物であるというのがこの世界での常識である為、この魔物の繁殖方法は全く持って解ってはいないのだ。<シャンパーニ>の塔周辺でしか出没しない為、何らかの要素がこの塔にあるのではないかというのが研究者達の考えであった。きのこと勘違いをし、近づいて来た人間を、その口から吐き出す<甘い息>で眠らせてから集団で食す魔物である。<甘い息>は神経性のものであるため、吸い込まなければ影響はない。また、少量であれば効果も薄いが、大量に吸い込めば、暫くの間、その人間は覚醒する事がない。激しく揺さぶったり、叩いたりすれば覚醒は早まるが、それも個人差があったりするのだ。

 

「カミュ様、行きます!」

 

 背中から剣を抜いたカミュよりも速く、サラが槍を構えて駆け出した。

 サラとしても、ロマリア城下町を出てから毎日、朝と夕にリーシャから稽古をつけてもらっているのだ。

 ここまで、カミュやリーシャの剣技、そしてメルエの攻撃魔法によって、サラが槍を振るう場面などなかったが、カンダタのような相手でなければ、その槍での攻撃は十分に通用する物となっていた。

 

 <おばけきのこ>との距離を一気に詰めたサラは、<鉄の槍>の穂先を魔物目掛けて突き出す。

 サラの突きは、カミュやリーシャに及ばないまでも、アリアハン大陸の魔物であれば一撃で倒せるような速度。

 しかし、ここはロマリア大陸。しかも、大陸でも中位に位置する<シャンパーニ>の塔の魔物である。

 サラが突き刺せると確信した突きを、<おばけきのこ>はギリギリのところで身を翻した。

 その大きな口を皮肉気に歪ませた<おばけきのこ>であったが、サラとて<ナジミの塔>で<人面蝶>と対していた時のサラではない。突き刺した穂先をそのままに、両手を返す事によって、<鉄の槍>の柄を<おばけきのこ>が身を返した場所目掛け振るったのだ。

 

「ギュエ!」

 

 避けたと思った槍の穂先に注意を向けていた魔物は、横から飛び込んで来る柄の部分に全く気が付いていなかった。

 <鉄の槍>の柄で横っ面を殴られた<おばけきのこ>は、潰れたカエルのような声を出して吹っ飛んで行く。 

 自分の力量が思っていた以上に上がっている事に、自分自身驚いてしまったサラには、一瞬の隙が出来てしまう。

 一体を倒したとはいえ、三体の内の一体である。残る二体の内の一体がサラ目掛けて飛びかかって来た。

 自分の失態に気がついたサラは、続いて来る衝撃に供えて身体に力を入れて目を瞑った。

 しかし、いくら待っても衝撃などは来ず、聞こえて来たのは、荷物でも落としたような、重量のある物が床に落ちる物音だけであった。

 恐る恐る目を空けたサラが見たものは、真っ二つに斬り裂かれた<おばけきのこ>だったものの残骸と、剣に付く体液を飛ばしているカミュの姿。

 

「……呆けるな、と言った筈だ……」

 

「……申し訳ありませんでした」

 

 視線を向ける事無く呟くカミュを見て、サラは小さく謝罪の言葉を口にする。自身の落ち度を理解しているだけに、サラには反論する言葉などありはしないのだ。

 

「アンタが吹っ飛ばした魔物は、まだ生きている。あれはアンタに任せる」

 

 カミュの言う通り、サラが先程、槍の柄で吹き飛ばした魔物は、もう一度起き上がり、サラに向かって飛びかかろうと力を溜めていた。

 サラは、カミュに向かって一つ頷くと先程自分が吹き飛ばした<おばけきのこ>に向かって槍を構える。

 暫しの膠着状態。

 今度は、サラから不用意に近づく事もなく、<おばけきのこ>の方もまた、サラの動きを注視して動かない。

 その時間は、どのくらい続いただろう。数分かもしれないし、ほんの数秒であったのかもしれない。

 先に動いたのは<おばけきのこ>の方であった。

 

 サラの後方を見て動き出した事から、カミュがもう一体の<おばけきのこ>を斬り捨てたのであろう。均衡した腕同士の戦いの中では、隙を見せた方が負ける。

 動き出した<おばけきのこ>も魔物ながらそれを理解していたのかもしれない。サラに向かって走りながら、それでも動かないサラに向かって、再び牙の生えた口を開き、息を吐き出した。 

 何も眠らせようとした訳ではない。

 少量でも吸い込めば、意識が混濁し隙が出来る。

 それが目的だったのだろう。

 しかし、サラは曲がりなりにも、アリアハン教会に属する僧侶である。一度見た物を、すっぱりと忘れる訳がないのだ。

 動かずに、そして魔物から視線も外さなかったサラは、<おばけきのこ>が口を開くのと同時に息を止め、そして、手に持つ<鉄の槍>を渾身の力を込めて突き出した。

 

「ギョエ―――――――――!!」

 

 吸い込まないまでも、下がるか避けるかするだろうと考えていたのか、<おばけきのこ>は突き出されるサラの槍をまともに食らう事になる。突き出された槍は、大きく開いた<おばけきのこ>の口に吸い込まれるように入り、そのまま<おばけきのこ>の身体を貫通した。

 断末魔の叫びを上げ、サラの槍に突き刺さったまま絶命した<おばけきのこ>の重みに耐えきれず、サラは<おばけきのこ>の穂先を床につけてから引き抜いた。

 魔法ではなく、自らの腕で魔物を倒す事が出来たサラは、全身を襲う疲労感と共に、胸の奥から湧き上がるような興奮を抑えきれないまま、カミュやメルエのいる後方を振り向くが、そこで見た物は、そんなサラの抑揚感を凍りつかせるものだった。

 

 

 

「メラ!!」

 

 カミュの周囲を飛び回る二体の魔物。それは、以前アリアハン大陸で見たような人型をした魔物である<魔族>と呼ばれる者達。背中からコウモリの羽根のような物を生やし、口は耳近くまで裂け、その口の中の犬歯は魔物の牙の様に尖っていた。

 

<こうもり男>

吸血種である魔族の最下級種である。上級種の吸血魔族から血を奪われて吸血種に堕ちた、『人』であった者達の成れの果てとも言われているが、定かではない。その背には、その名の通りコウモリの羽を生やし、空を飛び、人間の生き血を食料とする魔物。他の魔物と違い、人間の肉を食らう事はないが、一度吸いつけば、身体中の血液を吸い尽くされ、干からび命を落としてしまう。本来、夜にしか現れないが、塔や洞窟など、日光の届き難い場所には生息する事がある。

 

「ちっ!」

 

 先程、カミュが詠唱した<メラ>は、カミュの周囲を飛んでいる<こうもり男>達に向けたものではない。

 現れた<こうもり男>の数も、先程の<おばけきのこ>と同じく三体。その内二体がカミュの周囲。

 ならば、もう一体は……

 

 サラがカミュの唱えた魔法の行き先に視線を向けると、そこに居たのはメルエ。

 この<シャンパーニの塔>に入る前に、リーシャに着せてもらったマントを振りながら、周囲を飛行する<こうもり男>を威嚇している。

 今のメルエには魔法が使えない。もしかすると、カミュが唱えた<メラ>程度なら詠唱が可能かもしれないが、当のメルエにはそのような事に気が付く余裕はなかった。

 <リレミト>が発動しなかった時点で、『もう自分には魔法が使えない』と思い込んでいるのだ。

 

「メルエ!!」

 

 先程のカミュの<メラ>は、しっかりと<こうもり男>に直撃していた。

 しかし、それが本当にカミュの最後の魔法力だったのだろう。その威力は通常の時よりも明らかに劣っていた。

 <こうもり男>が身に纏っている衣服を焼き、その素肌に若干の火傷を負わせた程度のダメージしか与える事は出来ず、むしろ、身体に傷を負った<こうもり男>はその傷を癒す為に、躍起になってメルエの血液を欲しているようにも見えた。

 

「…………いや…………」

 

 何度も、小さな身体で懸命にマントを振り、<こうもり男>を牽制するメルエではあるが、それも時間の問題である。

 一番近いカミュの周囲には鬱陶しく飛び回る<こうもり男>が二体。

 メルエの危機に、珍しく取り乱し気味なカミュがその二体を斬り倒し、メルエの下に向かうまでには暫し時間を要するだろう。そして、サラからメルエへの距離は、空き過ぎていた。

 それでも、サラがメルエの場所に<鉄の槍>を構えて駆け出し、カミュが一体の<こうもり男>の羽を斬り飛ばした時、遂にメルエを襲う<こうもり男>の手が、メルエの肩を捕まえた。

 

「メルエ!!」

 

 この旅に出て初めて、カミュとサラの声が重なった。

 羽を失い、地面に落ちた<こうもり男>の眉間に剣を突き刺し、メルエに駆け寄ろうとするカミュの表情にも絶望感が漂っている。

 

 『もう駄目だ』

 

 サラも、そして諦めという言葉とは縁遠いカミュも、メルエに向かう足を止めはしなかったが、心ではそう感じていた。

 しかし、二人が絶望に目を覆いたくなったその時、メルエの右腕が動く。手探りのような動きで、腰元に持って行ったその小さな手で、そのまま<こうもり男>の首筋を殴り付けたように見えた。

 

「ギャ―――――――――――――!!!」

 

 メルエのような幼い少女の力で殴り付けたところで、どうにもならないと考えてしまっていた二人の耳に信じられないような叫び声が轟く。

 その叫び声の主である<こうもり男>は、メルエの肩を掴んでいた両手を離し、そのまま床に落ちて数度の痙攣を起こした後、その息を引き取った。

 サラも、常に無表情を貫くカミュですらも、その信じられない光景に暫しの間、呆然と佇んでしまう。サラに至っては、その手に握る槍を床に落としてしまっていた。

 

 しかし、それは本来、戦場にあるまじき行為。

 自分の命はいらぬという程の愚行。

 カミュが倒し、そして今メルエが倒した<こうもり男>は合わせて二体。

 しかし、この場に出て来た<こうもり男>は三体の筈だ。

 

「キョエ―――――――――!!」

 

 後方からかかる、耳を劈くような叫び声に、自分の失態に気がついたカミュが慌てて振り返った時はすでに遅かった。

 降下しながらカミュの喉元めがけて振り下ろした爪は、もはや、手に持つ盾も剣も間に合わない場所まで来ていた。

 

「ゴフッ!」

 

 しかし、ある種達観したように受け入れるつもりであったカミュの喉元に、その爪が届く事はなかった。

 <こうもり男>の振り下ろした腕だけでなく、その身体自体も空中で停止していたのだ。

 それを止めたのは、<こうもり男>の胸を後ろから貫通して飛び出ている剣先。

 

「……すまない……また迷惑をかけた……」

 

 その剣の持ち主は、アリアハン国屈指の騎士。眠りを誘う息を吐き出した魔物の死と共に、その効力も薄まり覚醒を果たしたリーシャである。

 

「……もう、慣れた」

 

「ぐっ! 返す言葉もない」

 

 剣の持ち主がリーシャである事を確認したカミュが、リーシャの謝罪に溜息を吐き出しながら発した答えは、無意識に近い厭味となり、リーシャの心に突き刺さる。

 

「メルエ! 大丈夫ですか!?」

 

「…………うぅぅ…………ぐずっ…………」

 

 サラがメルエに駆け寄った事を表す声を聞き、カミュとリーシャもメルエの下へと急いだ。

 リーシャがそこへ辿り着くと、メルエは手にしていた物を落とし、リーシャの胸に飛び込んで行く。

 メルエが戦闘の時に魔物と一人で対峙した事など、今まで一度たりともなかったのだ。その恐怖は相当なものだったのであろう。無我夢中で何とか魔物を撃退はしたが、リーシャの顔を見た途端、今までの緊張と恐怖から抑えていた感情が溢れ出し、涙となってメルエの顔を濡らしていた。

 

「怖かったな……すまない、メルエ。私があんな様だったから……お前を護るとトルド達に誓ったのに……本当にすまない……」

 

「…………えぐっ………えぐっ…………」

 

 メルエが<こうもり男>を倒す少し前にリーシャは覚醒を果たしていた。メルエの危機に駆け出そうとした時に、メルエの手が動いたのだ。

 リーシャもその光景に息を飲む。しかし、すぐ目の前にいる<こうもり男>がカミュ目掛けて攻撃を加えようとしているのを見て、自然と身体が動いていた。

 

「そうか、これか……」

 

 リーシャがメルエの身体を優しく抱き締め、その小さな背を撫でている横で、カミュはメルエが落とした物を拾い上げ、感嘆の声を上げる。

 

「……それは?」

 

「……<毒針>だ。トルドはしっかりとメルエを護ってくれた」

 

 カミュの手にある物を見て、サラも言葉に詰まった。それは、<カザーブ>で最後までメルエがこの塔に行く事に反対していた人物がくれた物。

 そして、『自分は護る事が出来ないのだから、代わりに護ってほしい』とカミュやリーシャに願い、頭を下げた男がくれた物だった。

 

「……トルドは、アンにこれを持たせてやれなかった事を、ずっと悔やんでいたのかもしれないな……」

 

「カミュ様……」

 

 『まただ』

 サラはそう思った。

 また、カミュはこのような表情を見せる。それは、物悲しく、そして人の心を思い遣っているような表情。

 『人』を『人』とも思わない言動や行動を繰り返すカミュが、時折見せるこの表情がサラには理解できなかった。

 『何故、こんな表情をする事が出来る人間が、あのような残酷な行動を取れるのか?』。

 そう思えて仕方がないのだ。それが、今のサラの限界だった。

 『人』の心の矛盾。

 そして、十人十色の思考や理想。

 それを考慮に入れる余裕が、サラにはまだないのだ。

 

「もう大丈夫か? うん。よし、行こう。早く帰ってゆっくり休もう」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの泣き声が止んだ事を確認し、リーシャがゆっくりと自分の胸からメルエを引き剥がす。メルエは自分に優しい笑顔を向けるリーシャに向かってこくりと頷いた。

 

「しかし……やはりアンタは、魔物の性質や特徴も頭に入れた方が良さそうだな」

 

「ぐっ! わ、わかっている!! 今回は私が悪かった。それは謝る」

 

 自分の非を認め、謝罪をするリーシャに容赦のない揚げ足取りが待っていた。

 <ナジミの塔>に引き続き、今回も失態をしたことの自覚があるだけに、リーシャは悔しくとも唇を噛む事くらいしか出来ない。

 

「今回『も』だ……」

 

 リーシャから離れたメルエは、カミュが血糊を拭き終えた<毒針>を受け取り、大事そうに腰のホルダーに仕舞い込んだ。

 メルエにとって、この<毒針>は命を救ってくれた物と言うだけでなく、カミュの言う通り、アンとメルエを繋ぐ物でもあるのだ。

 

「メルエはその戦士の傍を離れるな。そいつもここから先は、無闇矢鱈に魔物に近づくような馬鹿はしないだろうからな」

 

「ぐっ! わ、わかっている! メルエ、私の傍を離れるな。カミュの傍にいるより安全だという事を証明してやる」

 

 そんないつも通りの二人のやり取りを聞きながら、サラ達は先を急いだ。

 

 

 

 塔の一階部分に辿り着いた一行は、再び豪雨の中に身を晒すために準備を行う。メルエのマントを頭から被せるように着せた後に、カミュのマントの中へと導いた。

 塔の扉を開けると、肌に突き刺さるような雨が叩きつけられる。いつもの様に、先頭をカミュ、そしてそのマントの内部にメルエ、その後をサラ、最後尾をリーシャと言った隊列を組み、間を空けないように、歩き出した。

 雨風は、塔に入った時よりも酷くなっているようにも感じ、サラには目を開く事すらも難しい状況であった。

 塔に入る前に野営をした森は、進行方向からは少し逸れており、休憩をする為にその森に入るのであれば、<カザーブ>へ一歩でも近づいた方が良いというのが全員の認識であり、視界をも覆うような横殴りの雨は、魔物の登場をも遮っており、進行速度が遅いにも拘わらず、一行が魔物と遭遇する事はなかった。

 

「……メルエ、大丈夫か?」

 

「……」

 

 先頭を行くカミュが、目を開ける事すらも困難な状態で、マントの中にいるメルエに声をかける。いくらカミュのマントによって護られているといえども、この雨と気温では、幼いメルエの体温の低下は避けられない。休憩を挟みたくとも、雨風を凌げる場所がないのだ。

 カミュの言葉にマントの中で頷く仕草をするメルエではあるが、その身体に感じている寒さは相当な物なのであろう。小刻みに震えているのがカミュにも伝わっていた。

 

 

 

 それでも、何とか橋を渡り、<カザーブ>の周囲を囲む鉱山の山々に入る為の山道に辿り着く。

 

「カミュ!! この辺りで一度休憩をしよう! 陽も落ちてきた!」

 

「このまま進む! 夜道は危険だが、今は火を熾せる場所がない!」

 

 山の中の木々たちも、昨日から降り続く大雨の影響で濡れきっていおり、それは、大地も同じこと。下に落ちていた枯れ木も水分を多く含み湿気ってしまっている。

 これでは、薪を常備している訳ではないカミュ達に、火を熾せる訳がない。故に、苦渋の決断として、カミュは幼いメルエや、女性であるサラやリーシャの状況を考えても強硬策を実行するのだった。

 

「くそっ! サラ、大丈夫か!?」

 

「は、はい!」

 

 山は登って行くにつれ天候が激しくなる。雨雲が近付いている為なのか、風が上空を踊っているからなのか、暗い闇が支配し始めた山は、もはや一寸先も見えない程に雨風が激しくなって行った。

 後方を歩く二人でさえ、前にいる人間の姿すら見え辛くなっているのだ。

 サラは先頭を歩くカミュが、迷う事なく、暗闇の中を突き進んでいく事が信じられなかった。

 『何故、カミュは道を誤る事なく、暗闇の中も歩けるのか?』

 もしかすると、<アストロン>という魔法と同じように、それがカミュを勇者足らしめる物なのかもしれない。

 

「……」

 

 メルエは、カミュのマントに覆われながらも、その隙間から自分が歩いて行く道をしっかりと見据えていた。

 激しい雨風と、夜の闇によって視界は悪いが、自分がカミュの邪魔になってしまう事を何よりも嫌うメルエは、カミュの足元を気にしながらも前方に目を向けて歩いている。

 そんなメルエの前方の一角に、雨風が止み、暗闇さえも払っている場所が目に入った。大きな木の下にぽっかりと穴が開いたように雨が降り注がない場所が出来ており、そこには、メルエの知っている少女と、その少女の肩に手を乗せた女性が立っていた。

 メルエがカミュのマントにしっかりと包まれているにも拘わらず、その二人の目は真っ直ぐメルエを見ていたのだ。

 

 アンである。

 

 にこやかな笑顔を向け、メルエに向かって小さく手を振っているその姿は、塔の内部でリーシャがメルエに話したような感情をメルエに対して持っていない証拠。

 アンの肩に手を乗せ、もう片方の手をアンと同じように振っている女性はおそらくアンの母親であろう。こちらも優しい笑顔をメルエへ向けていた。

 メルエは二人の姿を確認し、そしてその優しい笑顔に嬉しさが込み上げ、カミュのマントを開き、木の根元に向かい手を振り返す。

 突如マントから顔を出したメルエに驚いたカミュであったが、ある一点に視線を向け、笑顔を作りながら手を振るメルエに何かを察し、メルエの邪魔にならぬよう、それでも雨がメルエに当たらぬように、マントを操作しながら前に進んだ。

 

「……メルエ、アンに手を振るのは良いが、足元には気をつけろよ……」

 

 それでも、幼いメルエの疲れが溜まった足元への注意も怠らない。自分が見ているアン母娘がカミュにも見えるのだと勘違いしたメルエは、嬉しそうに微笑みながらカミュを見上げ、大きく頷いた。

 そんな二人のやり取りはサラやリーシャには見えない。雨風の影響もあるが、カミュのマントに覆われているメルエの動きは見えないのだ。

 故に、この山のとある一点のみを包む、暖かい空気にも気がついてはいない。しかし、それは責められる事ではないだろう。雨も風もないその一点は、メルエにしか感じる事が出来ないのだ。

 メルエの行動の内容を察したカミュであっても、メルエの視線の先は雨が降りしきり、ずぶ濡れになっている木しか見えていなかった。

 

 

 

 メルエが手を振り終わり、再びカミュのマントに包まる状態に戻る。その頃になると、先程まで外気に触れている肌に突き刺さるように降っていた雨の勢いも、少なからず弱まりを見せ始めた。

 

「ふぅ……一先ず落ち着いたな……サラもメルエも大丈夫か?」

 

「は、はい。なんとか……」

 

「…………ん…………」

 

 被ったマントを取りながら声をかけるリーシャに、サラとメルエはそれぞれの返答を返す。サラとリーシャはずぶ濡れになってはいたが、カミュにガードされていたメルエは幸い、ほとんど濡れていなかった。

 大事そうに抱えていた<とんがり帽子>を再び被り直し、メルエは嬉しそうに空を見上げる。

 

「ふふふっ、メルエは何か良い事でもあったのですか?」

 

「…………アン………いた…………」

 

「そ、そうか! 良かったな、メルエ」

 

 くるくると回るメルエに微笑みを浮かべながら訪ねたサラの問いに対してのメルエの答えは、リーシャの心をも弾ませる物だった。

 メルエがこれ程嬉しそうにしているのだ。それは、アンがメルエに微笑んでいた証拠であろう。それがリーシャにも嬉しかった。

 <とんがり帽子>のつばを掴みながら空を仰ぎ、天から降り注ぐ雫を受けながらも嬉しそうに歩き回るメルエに、サラもリーシャも自然と頬が緩む。

 しかし、久々に訪れた、そんな和やかな空気は突如終止符が打たれた。

 

「……おい、メルエ、あまりはしゃぎ過……!!」

 

「!!」

 

「メルエ!!」

 

 カミュがくるくると回るメルエを窘めようとした時にそれは起こった。

 和やかな空気が流れてはいたが、ここは山の中腹に位置する場所。しかも、昨晩から、豪雨と言っていい程の雨が降り続いている。

 地盤が脆くなっていたのだ。

 バケツをひっくり返したような雨は山の地面の吸収力の許容を遥かに超えていた。

 メルエが踏みしめた事が原因なのか、それとも既に限界を超えていたのか、メルエは隣にそびえ立っていた大木と共に後ろ向きに崖下へと落ちて行く。メルエの表情は、何が起きているのかすらも解っていない物であり、何かを掴もうと前に出された手は宙を掴んでいた。

 

「メルエ――――――!!」

 

 その場にいた全員が一斉にメルエに向かって駆け出す。

 リーシャの叫びは雨が降り続く闇に溶けて行った。

 

「!!」

 

 絶望に落ちそうになるリーシャの目に、奇跡が映る。

 一番メルエに近かったサラが、宙を漂うメルエの腕をしっかりと掴んでいたのだ。

 

「……うぅぅ……」

 

 しかし、如何に幼いメルエとは言え、サラ一人では持ち上げる事など出来ない。しかも、踏み締める大地の地盤は、雨によって緩んでいる。踏ん張りのきかない足ではメルエを支えるだけでも手一杯なのだ。

 

「サラ! メルエの手を離すな! すぐに行く!」

 

 何とかメルエの腕を握っているサラに声をかけ、リーシャはサラの下へと駆け寄ろうとする。しかし、それがいけなかった。緩みきった地盤にとって、乱暴に走り込む衝撃は追い打ちとなったのだ。

 

「キャ――――――――!!」

 

「サラ!!」

 

「くそっ!!」

 

 地盤がサラの足元から崩れて行く。

 その後を追って飛びこむリーシャ。

 リーシャの腕は間一髪、支えを失い天を仰ぐサラの腕を掴んだ。

 しかし、飛び込んだリーシャに踏みしめる大地等はない。

 そのまま崖下へと吸い込まれて行く。 

 

 リーシャは諦めにも似た感覚で、天を仰いだ。自分の腕にかかる重みが、自分も落ちている事により、全くと言っていいほど無くなっていた。

 雨を降らしていた真っ黒な雨雲が広がる空。

 陽も落ち、夜の帳が広がるその空に、リーシャは太陽にも似た光を見た。

 地を踏みしめる感覚もなく、無意識に伸ばした手を力強く握られる。それは、リーシャの父であった宮廷騎士隊長クロノスのような暖かく、そして安心感を与える力強い腕。

 もう一度、見上げるリーシャの瞳には、一瞬父クロノスの面影が映った。

 

「くっ! お、おい、何とか上げられるか?」

 

「はっ!?」

 

 リーシャの腕を力強く握っていたのは、認める事を拒否し続けている相手。

 アリアハンの英雄の息子でありながら、その事を誇りに思うどころか、迷惑とすら考えている親不孝者。

 それでも、自身の思考や理想を理解しようとはしない仲間の腕を必死に掴むカミュの姿だった。

 

「いや、サラを上げる事は出来るが、サラに掴ませる物がない」

 

 リーシャの言葉通り、今のリーシャ達三人は、カミュの片腕だけで支えられている。そのカミュも、崩れかけた大地に立ってはいるが、もう一方の腕で太い木の枝を掴み身体を支えていたのだ。

 例えサラを引っ張り上げたとしても、そのサラ掴ませる物は、崩れかけている大地しかない。それは現状では危険すぎる事であった。

 

「くそっ!」

 

 どこか掴む事の出来る物はないかと周囲に目を向けたリーシャの上から、カミュの舌打ちが聞こえたと同時に、リーシャの身体は重力に従い、下へと落ち始める。

 カミュが掴んでいた木の枝が、その木の根ごと大地から抜けてしまったのだ。

 そのまま重力に従い、崖下に落ちて行く一行。

 それでもそれぞれの腕を決して離さずにいるのは、ここまでの旅で出来た各々の絆なのだろうか。 

 

 

 

 崖下へと落ちて行くカミュの頭には不思議と後悔はなかった。

 余計な事をしたという想いが全くない訳ではない。それでも、あの状況で咄嗟にリーシャの腕を掴んだ自分の行動を悔やむ事はなかった。

 見上げた空は、真っ黒な雲が広がり、星一つ見る事は出来ない。先程まで叩きつけるように頬を打っていた雨も、その勢力を弱め、自然の恵みと呼ばれる程度の物へ変わっていた。

 

 『この旅もここまでか』

 

 カミュの胸に諦めとは違う、現実を現実として受け止めるような達観した想いが去来する。

 生まれた時から決められた道を歩く事を強要され、ようやく自分の見識だけで活動する事を許される事となった旅も、予想していなかった同道者の出現によって、様変わりする。魔法の才能の塊のような幼い少女の出現もまた、旅の様相を変化させる要因となった。

 それら全てが、今のカミュの心の変化を生み出したのかもしれない。

 

 カミュが旅に出る時に覚悟をしていたような、魔物と戦い、それに敗れて死ぬ訳でもなく、他国で恨みや憎しみの対象として糾弾されて殺される訳でもない。

 迷惑以外何物でもなかった同道者と、途中で自分が連れて行く事を決めた妹の様な存在の命を救うために、手を伸ばした結果としての『死』。真っ黒な雲が広がる空を見上げながら、カミュの口元は皮肉気に上がっていた。

 

「!!」

 

 その時、空を見上げるカミュの目に、先程リーシャが見た光が映り込む。

 例え雲が晴れたとしても、既に夜の闇が広がる空に日光などが差す訳がない。その不思議な光景に目を奪われながら、カミュは目を凝らした。

 光は次第にその明るさを増し、突如カミュ達の落下速度が停止する。落ちながらも、何かを掴もうと伸ばしていたカミュの腕が何者かに掴まれたのだ。

 眩く光る光の中に、カミュは確かに人影を見る。メルエと同じ年頃の少女が、その両腕でカミュの腕を掴んでいた。

 その後ろには、女性の様な人影があり、顔までははっきりとは見えないが、柔らかな微笑みを浮かべている。

 

 カミュは、魂や幽霊などという物を見た事はない。魔物の中にその手の物がいない訳ではないが、カミュが相手をした事はないのだ。

 しかし、メルエの行動や言動を見ていると、そういう存在は自分に見えなくとも存在するのだろうとは思っていた。

 故に、自身の腕を、微笑みを浮かべながらしっかりと掴んでいる、暖かな光を纏う人影を見た時に、それが、メルエが山の中で見、そして先程手を振っていた相手なのだと理解した。

 その不思議な光景を、現実の物として受け入れたのだ。

 

「……あ、あれは……」

 

 そんなカミュのもう片方の腕をしっかりと握りながら、リーシャもまた、カミュと同じ光景を目にして言葉を失っていた。

 カミュの腕を握る反対の手が掴んでいるサラは、全員が落下を始めた当初に気を失っていた筈。気を失いながらも、メルエの腕に爪が食い込む程、握る力を緩めていない事は称賛に値する程の事だろう。

 そんなメルエも、魔法力の枯渇や、ここまでの疲れなどもあり、意識を失っていた。

 その光の中にいる人影を見た者は、カミュとリーシャの二人。

 しかし、見た事のあるメルエの同意を得なくとも、二人はそれがアンとアンの母親なのだと理解したのだ。

 魅入られるように、吸い込まれるようにその光と、光の中にいる人影を見ていたカミュとリーシャの意識も次第に薄れて行く。

 

 『ここで意識を失ってはいけない』

 

 そう自分を戒めても、抗う事など出来ない程の衝動。

 お互いの腕を先程以上の力で握る事で、意識の覚醒を図るが、抵抗空しくカミュ達の意識は刈り取られて行った。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これで第二章は終了です。
勇者一行の装備品一覧を更新し、第三章は来週になるかもしれません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

★装備品一覧

 

【名前】:カミュ

 

【素性】:アリアハン国が掲げる勇者 

※古代英雄が残した魔法の契約を完了したことから、後の世に名を残す可能性を示す。

 

【年齢】: 16歳

 

【装備品】:

 

頭):サークレット(中央に青く輝く石がはめ込まれている)

 

胴):鉄の鎧・改

※武器屋によって、肩と胸、そして腹の部分を残しながらも動きやすく改良したもの

 

盾):青銅の盾

※ロマリアで買ったものは、サラへと譲渡したため、シャンパーニの塔で拾ったもの

 

武器):鋼鉄の剣

 

【魔法】:

  メラ

  ルーラ

  ギラ

  ホイミ

  アストロン

 

 

 

 

 

【名前】:リーシャ(リーシャ・デ・ランドルフ)

 

【素性】:宮廷騎士

 

【年齢】: ? (パーティー最年長であることには間違いはない)

 

【装備品】:

 

頭):なし

 

胴):鉄の鎧

※カミュと同じく、武器屋の手によって動きやすく改良された物

 

盾):青銅の盾

 

武器):鋼鉄の剣

※以前の配給品には愛着があったが、泣く泣く武器屋に引き取ってもらう

 

【魔法】: 使用不可

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【素性】:アリアハン教会所属の僧侶

※自分の内にある葛藤と苦悩を繰り返し、成長を見せ始めている

 

【年齢】:17歳

 

【装備品】:

頭):僧侶帽

 

胴):鎖帷子

※一般的な法衣の下に着込む形で装備している

 

盾):青銅の盾

※元はカミュがロマリア城下町で購入したもの

 

武器):鉄の槍

聖なるナイフ

 

【魔法】:

   ホイミ

   ニフラム

   ピオリム

   ルカニ

   バギ

   マヌーサ

   キアリー

 

 

 

 

【名前】:メルエ

 

【素性】:元奴隷

※どこの出身なのか、親がいるのか等は全く解っていない

 それは、カミュ達が聞かないということだけでなく、メルエにも正確には解らない

 

※魔法使いとしての才能に恵まれており、幼い歳で魔法を習得する

 その習得スピードも通常の魔法使いの数倍の速さ  

 

【年齢】:6~8歳?

※素性と同じように、メルエ自身が年齢を把握していない

 その知識の少なさから、見た目よりも幼い可能性もある

 

【装備品】

 

 頭):とんがり帽子

 ※一般的な魔法使いが被るような三角形の帽子

  カミュ達に買ってもらったメルエの大のお気に入り

 

胴):アンの服

※アンの父親であるトルドから貰ったアンのお下がり

 女の子らしいものであるが、お転婆のアンに合わせた動きやすい物である

 

※その上に、<カザーブ>で購入したマントを羽織っている

 

盾):なし

 

武器);毒針

※<カザーブ>の道具屋であるトルドから身を守る手段として譲り受けた物

 本来であれば、彼の娘であるアンに渡される筈だった

 

【魔法】

  メラ

  ヒャド

  ギラ

  イオ

  スカラ

  スクルト

  ルーラ

  リレミト

 

 

 

 



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第三章
ノアニールの村①


第三章突入です。
正直、第三章もまた、なかなかに重い話の連続です(苦笑


 

 

 

 メルエは閉じている筈の目からも解る程の眩い光に目が覚める。眩しそうに、それでもゆっくりと開いたメルエの目には理解し難い光景が広がっていた。

「…………???…………」

 

 目を開いた筈なのにも拘わらず、目の前をはっきりと見る事が出来ない事を不思議に思い、メルエは小首を傾げる。更に身体を起こすと、そこは雨が降り、足元がぬかるんだ山道ではなく、一面が鼻をくすぐるような微香を放つ花に囲まれた場所だった。

 その事に、尚一層メルエの首の傾きが深くなる。

 

「…………カミュ………リーシャ…………?」

 

 周囲を見渡すが、メルエが呼ぶ名の者達が見当たらない。一面の花の中を駆け回りながら、メルエは何度も自分と共に歩く仲間の名前を呼ぶが、いつもならすぐに返事を返してくれる暖かな声は聞こえなかった。

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

 常人が見れば、冷たいと感じる無表情ながらも、常にメルエを気にかけてくれる青年。

 時に厳しく、時に優しく、母の様に姉の様にメルエを包み込んでくれる女性。

 メルエが何か悪い事をしたとしても、必ず最後には笑って許してくれる少女。

 まだ、数日しか共にしてはいないが、それでもメルエの始まったばかりの人生に夢と希望を与えてくれた三人がいない。それは、メルエの胸に絶望を落とした。

 自然と駆け回る足の速度も落ちて行き、その双眸には涙が溜まり始める。そのまま、メルエは立ち止まり、天を見上げながら泣き始めてしまった。

 

「もう! 泣いてちゃ駄目なんだよ。泣いていたら幸せも寄って来ないんだよ」

 

「!!」

 

 もはや、声を上げる事も厭わなくなったメルエに、後方から不意に声がかかった。その声に、しゃくりあげるように涙を流していたメルエの呼吸が一瞬止まってしまう。

 聞いたことのない声。

 しかし、なぜか聞き覚えのある声。

 メルエの歳とそう変わらないような幼い声。

 勢いよく振り返ったメルエの涙で濡れた瞳に映ったのは、メルエの想像していた通りの人物だった。

 

「…………アン…………?」

 

「うん! 私はアン。よろしくね!……お名前聞いても良い?」

 

 メルエの問いかけに満面の笑みを浮かべながら頷いた少女は、メルエが<カザーブ>へ行く途中の山道で見た人物。そして、先程は木の根元に母親と共に立ち、手を振ってくれたアンその人であった。

 

「…………メルエ…………」

 

「メルエ……メルエ……うん! 良いお名前ね!」

 

 メルエの名乗りを聞き、その名を何度か反芻した後に、アンは光輝く太陽のような暖かな笑みを浮かべる。その笑顔に、先程まで絶望に苛まれていたメルエの心も和んで行った。

 

「メルエ、よかったら私と一緒に遊びましょう!?」

 

「…………!!…………でも…………カミュ………いない…………」

 

 続いたアンの魅惑的な提案に、笑顔を作りながら頷きかけたメルエであったが、先程感じた絶望を思い出し、首を横に振った。

 メルエにとっての絶対的存在であるカミュの姿が見えない。それはメルエに途轍もない程の恐怖を宿していたのだ。

 

「う~ん……大丈夫よ。ちょっとだけだから」

 

「…………」

 

 それでも眉を下げて、首を縦に振らないメルエに、アンは若干困った表情を作って小首を傾げた。

 アンを困らせている理由が自分にある事を感じたメルエは、静かに顔を俯かせてしまう。

 

「う~ん……あの人達は大丈夫。みんな元気よ。今は眠っているけど……だから、少しの間だけ……あの人達が起きるまでだけ、私と一緒に遊びましょう?……ダメ?」

 

「…………」

 

 困ったような、こちらを窺うようなアンの自信無さげな表情にメルエはしぶしぶながら首を縦に振る事になる。

 元々、メルエはアンを疑う事などない。アンが大丈夫と言えば、カミュ達は大丈夫なのだろう。アンが少しの間と言えば、アンと遊び終われば、自分はカミュ達の下に帰る事が出来るのだろう。

 そう感じていた。

 

「……よかった……あはっ! メルエは、お花は好き!? 私は大好き!」

 

「…………???…………お……はな…………?」

 

 安堵の表情を浮かべたアンだったが、突如としてメルエの手を握り話題を切り替えるのは、幼い子供特有の物なのであろう。そんなアンの姿に、同年代の人間が周りにいた事のないメルエは戸惑うが、アンに手を引かれるままに一面を覆い尽くすような花の中へと進んで行く。

 

 

 

 花の中を駆け回り、メルエは生まれて初めて楽しいという感情を持ったかのようにアンへ笑顔を向ける。アンもまた、メルエの笑顔を釣られるように、満面の笑顔をメルエに向けていた。

 追い駆けっこの様に一頻り駆けまわった後、二人は花々に囲まれる地面に座り込む。アンは、傍に咲く花を摘みながら器用に手を動かし始めた。

 メルエはアンが何をしているのか見当がつかず、ただ、アンの手元で何かが作られて行くのを首を傾げながら見守っているしか出来なかった。

 

「あのね……メルエ……あのね……」

 

「…………???…………」

 

 手を止めずに、下を向きながら何かを言い出しきれないアンの言葉に、メルエの首は一層曲がって行く。何も言わないメルエに、意を決したように顔を上げたアンの表情は、不安を隠しきれない、そんな表情だった。

 

「……あのね……私と……私と……お友達になってくれる……?」

 

 メルエを窺いながら不安そうに口を開いたアンの言葉は、メルエには聞き覚えのある単語だった。

 それは、カミュが自分に問いかけていた単語。

 そして、リーシャが解り易く噛み砕いてくれ、自分が肯定した単語。

 

「…………アンと………メルエ………なかよし…………」

 

「えっ!? あ、う、うん! じゃあ、メルエとアンは今日からお友達ね!」

 

 真っ直ぐアンを見つめたメルエは、<シャンパーニの塔>でリーシャが噛み砕いてくれた言葉を口にする。その言葉を聞いたアンの瞳は、眩いばかりに輝いた。

 

「…………ちがう…………」

 

「えっ!?」

 

 しかし、メルエの言葉に嬉しそうに顔を輝かせ、確認の意味を込めて発したアンの言葉は、メルエが首を横に振った事で否定されてしまった。

 そのメルエの態度に、輝いた花は急速に萎んでいく。

 

「…………もっと…………前から…………」

 

「う、うん! ず、ずっと前からお友達だね!……うぅぅ……ぐずっ……」

 

 萎んだ花は、メルエという太陽の、微笑みという名の光と、アンの流す嬉しさに満ち溢れた水によって、その輝きを取り戻す。

 

「…………アン………すぐ泣く………サラと………同じ…………?」

 

「ぐずっ……ち、違うもん! そ、それにメルエだってさっき泣いてたでしょ!」

 

 涙を流すアンを見たメルエの頭の中に浮かんだ人物は、常に悩み、良く涙する人物。『どんな事があっても、メルエを嫌わない』と宣言してくれた大切な女性。

 

「…………メルエ………泣いてない…………」

 

「うそ! さっき泣いてたもん! 『カミュ……リーシャ……』って!」

 

 メルエの言い方に頬を膨らませ否定するアンの言葉を、メルエもまた頬を膨らませながら否定する。しかし、そんな時間も長くは続かない。どちらからとも言わず、頬が緩み、ほほ笑みを浮かべていた。

 

 初めてできた同年代の友人。

 初めて交わす子供同士の会話。

 初めて行う無邪気な意地の張り合い。

 

 アンもメルエも、今行っている事は全て、生まれて初めての行為ばかりであった。

 相手の自分と同じような笑みに、同じ感慨を持っている事を感じ、照れくさそうに微笑む。

 そんな一時の幸せ。

 

「……できた……できちゃった……」

 

「…………???…………」

 

 そんな二人の幸せな時間が過ぎるのは早かった。アンが手元で作っていた物の完成。それがまるで哀しい出来事のように俯くアンを、メルエは不思議そうに見つめる。

 

「はい! これ、メルエにあげる! 私とお友達になってくれたお礼……ぐずっ……」

 

「…………ありが……とう………また………アン………泣く…………?」

 

 アンは自らの作品を、メルエの<とんがり帽子>に掛けてから、再び俯き嗚咽を漏らし出す。先程と同じように返すメルエの言葉にも、反応を示さないアンにメルエの首が傾いた。

 

「……ぐずっ……とっても綺麗よ、メルエ……ぐずっ……私ね……メルエの事、ずっと忘れないから……うぅぅ……もっと早くにメルエと……会いたかった……な……」

 

「……メルエ……<ルーラ>……ある…………」

 

 嗚咽を漏らしながら言葉を絞り出すように話すアンの姿に、メルエの胸にも何かが込み上げて来る。それは、メルエの言葉に何も言わずに首を横に振るアンを見て、涙へと変わって行った。

 

「…………なんで…………?」

 

「……ぐずっ……メルエとはもう会えないの。だからアンの事も憶えていてね……私の初めてのお友達がメルエで良かった……」

 

 もはや、メルエの目から零れ出す雫を留める手段は何もなかった。

 メルエの手をアンが握り、そのアンの手をメルエも強く握り返す。忍ぶような嗚咽は、盛大な泣き声となり、言葉を発する事もない。

 暫し、二人が泣き続けていると、不意にアンの顔が上がり、後方を振り向いた。未だにしゃくりあげながら、嗚咽を続けるメルエも、顔を上げてアンを見詰める。

 終りの時間が近付いているのだ。

 

「……ぐずぅ……も、もう……行かなきゃ……お母さんが……呼んでる……」

 

「!!…………いや………メ、メルエも………いく…………」

 

 『置いて行かれる』

 初めて出来た同年代の友達。その友との別れは、経験のないメルエにとって、絶望を感じるのに十分な物だった。

 その絶望の重さにメルエは考えるよりも先に言葉が出てしまう。

 

「……ぐずっ……ダメでしょ……メルエは……うぅぅ……メルエはあの人達と一緒に行かなきゃ……」

 

「!!」

 

 『別れを嫌がる自分とは違う想いをアンは抱いているのか?』と感じたメルエの顔が跳ね上がる。メルエの頬は、既に流れ落ちる涙で濡れ切っていた。

 顔を上げたとしても、アンの顔さえもはっきりとは判別出来ない。それでも、メルエは真っ直ぐアンを見つめていた。

 

「……アンも……メルエとずっと遊んでいたいけど……でも……ダメだから……メルエには……きっと……もっと楽しい事が待っているから……」

 

 アンと共に行く事を口にするメルエに対して返ってきた答えは拒絶だった。

 しかし、それはとても優しい拒否。

 初めての友であるメルエを案じたもの。

 

 もはや、先に続く未来への道が閉ざされたアンにとって、輝くような眩い道が広がっているメルエの未来は、妬みを持ったとしても仕方がない物だろう。しかし、それを少しも出さずに、友であるメルエを諭すアンは、メルエよりも精神的に上なのかもしれない。

 ようやく、他人からの愛情という物を受け、それに甘える事を学んだメルエと、幼い頃から目一杯の愛情を受けて育ったアンとは、比べ物にならない程の差があったのだ。

 

「…………アン………メルエと………いく…………」

 

「……ありがとう……でも……行けないわ。アンはお母さんと一緒に行くから……だから、メルエともここでお別れ……ぐずっ……元気でね……アンの事、忘れないでね……」

 

 『自分がアンと共に行けないのならば、アンが自分と共に行けば良い』

 そんな子供らしいメルエの発言は、またしてもアンによって拒まれてしまった。

 

「…………いや…………アン!」

 

 初めて上げるメルエの叫び。

 しかし、叫んだ名前は周囲を覆う花達の香りの中に溶け込んでいった。

 目の前にいる筈のアンの姿が消えていく。

 光に吸い込まれるように、光から差し伸べられる手に導かれるように。

 それは、メルエにとって哀しみに押しつぶされるようなもの。

 

「……いっぱい、いっぱい……ありがとう……メルエに会えて良かった……ばいばい……」

 

「…………うぅぅ………メルエも………アン………好き…………」

 

 『好き』と『嫌い』という二種類しか他人に対する評価を知らないメルエにとって、最大の讃辞である言葉を、アンはしっかりと受け取った。

 お互いが流す涙は、咲き誇る花々を輝かせ、この不思議な世界を鮮やかな光が包み込む。

 

「う、うん! アンも……メルエの事……ぐずっ……大好き!!」

 

 二人の会話はそれが最後だった。

 お互いの気持ちを伝え、手を振り合い、そして別れた。

 もう、メルエの前に、太陽のような微笑みを浮かべる少女はいない。咲誇る花々の中、メルエは一人すすり泣くのであった。

 

 

 

 

 

「………エ!………ルエ!!」

 

 徐々に覚醒していく意識。花畑の中にいたはずが、強引に糸を手繰り寄せられるようにメルエは現実へと引き戻される。

 

「メルエ!! よ、よかった……メルエ、私が解るか!?」

 

「…………リーシャ…………」

 

 自分の名前が出て来た事に、覗き込んで来た顔が笑顔に変わった。

 

「そうだ! どこか痛むところはないか!? 気分が悪いところはないか!?」

 

 ゆっくりと開いた視界に、一番早く飛び込んで来たのは、メルエが母や姉の様に慕うリーシャであった。

 眼尻に光る雫を溢れさせ、メルエが目を開いた事を心から喜ぶ姿にメルエの胸にも安心感が広がって行く。

 自分の名をしっかりと呼んだメルエの横たえていた身体を抱き上げ、リーシャはメルエの身体のいたる所を確認するように撫で上げた。

 

「……目が覚めたか……」

 

「…………カミュ…………」

 

「良かったです……本当に良かったです……ぐずっ……」

 

「…………サラ…………」

 

 リーシャの腕の中から、周囲を見ると、珍しく安堵の表情を浮かべるカミュと、感極まって涙を流しながら喜ぶサラの姿がメルエの瞳に映り込む。それは、態度こそ違え、皆の内心が同じである事を示していた。

 

「……メルエも起きた……地図によれば、おそらくこの先に村がある筈だ」

 

「な、何!? お前、この状況で歩き出すというのか!? メルエは今目覚めたばかりなのだぞ!?」

 

 カミュはメルエの顔を確認すると、地図に視線を戻し、次の目的地を告げた。

 今すぐに出発をしそうなカミュの姿を見たリーシャは、メルエの身体を気遣うようにカミュへと怒鳴り声を上げる。

 

「だからこそだ! 雨は止んだとはいえ、大地も草木も濡れている。火を熾す事が出来ない以上、このままでは体温の低下は避けられない。メルエは俺が背負う」

 

 しかし、反発を示すリーシャに向かって口を開いたカミュの言葉は、珍しく語気も荒く、それがカミュの心配度合いの大きさを示していた。

 それはリーシャにもしっかりと伝わる。

 

「……そうだな。わかった。だが、メルエは私が背負う」

 

「えっ!?」

 

 そんな緊迫を感じる空気も、やはりこのアリアハン屈指の戦士の言葉で霧散する事となる。あまりの突拍子のない言葉に、隣にいたサラは唖然とした表情を浮かべた。

 

「……何に対して張り合っているのか解らないが、今、俺もメルエも呪文を唱えられない以上、魔物の相手はほとんどアンタとその僧侶に任せる事になる。そのアンタがメルエを背負っている訳にはいかない筈だ」

 

「ぐっ! わかった……」

 

 カミュの言葉には一理ある。

 しかし、サラはカミュの言葉に驚きと微かな喜びを感じる。

 カミュの言葉の中には、『信頼』の二文字が見え隠れしているように感じたのだ。サラには、魔物との対峙の時、リーシャとサラを頼るという意味に聞こえた。

 それは、旅の同道者ではなく、旅の仲間として見ている事の証拠ではないかと。

 

「そ、そうですね。任せて下さい。さあ、リーシャさん、行きましょう」

 

「お、おい! サラ!」

 

 そんな気持ちがサラの行動に表れる。未だに悔しそうな表情を浮かべるリーシャに声をかけ、先頭を歩き出そうとしていた。

 

「……メルエどうした?」

 

「…………帽子…………」

 

 何かを探すように周囲を窺うメルエに声をかけたリーシャは、不安そうに眉を下げて答えたメルエの言葉に、柔らかな笑顔を浮かべた。

 

「帽子なら、ほら、ここにある。被せてやろう」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの頭に帽子を被せたリーシャに前方からサラの声が再びかかり、リーシャは苦笑のような笑みを浮かべながら歩き出した。メルエは傍で待っていたカミュの下へと歩いて行く。

 

「メルエ……帽子についているそれは?」

 

「…………???…………」

 

 傍に寄って来たメルエの一点を見つめて呟いたカミュの言葉を不思議に思ったメルエが、その視線の先にある、先程リーシャに被せてもらった<とんがり帽子>を脱いで見ると、そこには、アンが掛けてくれた作品である『花冠』がかかっていた。

 メルエの目が驚愕に見開かれた後、その冠の花にも負けぬ程の輝く笑みを浮かべ、カミュへと視線を戻す。

 

「…………アン………くれた…………」

 

「……そうか……お礼は言ったか?」

 

 花咲くような笑顔で頷くメルエを見て、カミュはその言葉の内容を追求しようとはしなかった。

 笑顔のまま、カミュの背中に乗るメルエの表情は、雨も止み、陽の光が見え始めた空のように晴れ渡っている。

 カミュもリーシャも、あの時確かにアンとアンの母親という二人の存在を見た。

 それは、夢なのかもしれないし、幻想なのかもしれない。しかし、カミュはどちらでも構わないと考えていた。

 カミュは、自分達が今生きているのは、あの二人のお蔭なのだと、目の前で花咲くように笑うメルエを見て、信じる事にしたのだった。

 

 メルエの<とんがり帽子>に掛けられたアンの花冠は生涯枯れることはなく、メルエの進む未来をメルエと共に見ていく事となる。

 

 

 

 いつもとは異なり、先頭をリーシャ、続いてサラ、そして最後尾にはメルエを背負うカミュという布陣で一行は歩き出した。

 カミュ達が、地崩れによって落とされた場所は、カミュが見ている地図で言うと、<カザーブ>の北北西に位置する場所だと予想される。山々に囲まれた<カザーブ>には、東西南北全てに抜ける山道が存在するのだが、西に抜ける山道の<カザーブ>寄りの場所から転落した一行は、北の方角に抜けてしまったらしい。

 一行が気を失っている間に夜が明けてしまったらしく、東からは昨日までの雨が嘘のような眩しい太陽が昇り始めていた。

 雨が止み、魔物が活動を開始する夜中であったにも拘わらず、気を失っていた全員が五体満足なのは、おそらくメルエの友達が護ってくれたのであろうと、カミュは人知れず思っていた。

 

「おい、カミュ! 方角はこっちで良いのか?」

 

「ああ……このまま北へ抜けて、平原に出たら西へ進む」

 

 太陽が昇り始め、方角も読めるようになったこともあって、一行の行軍速度は速度を上げる事となる。歩く速度の遅いメルエはカミュに背負われている事から、前を歩くリーシャとサラも、気兼ねなく速度を維持する事が出来た。 

 メルエはカミュの背中に乗りながら、先程までのアンとの話をたどたどしくではあったが、一生懸命にカミュへと話している。その話を、嫌な顔もせず、ましてや鼻で笑う事もせず、真面目に頷きながら聞くカミュの姿勢に、メルエの話は益々熱を増して行った。

 

 そんなメルエも、話疲れたのか、それとも魔法力や体力の限界だったのか、カミュの背中で可愛らしい寝息を立て始めていた。

 今では、そんなメルエの寝顔を見る為に、先頭にいたリーシャも、一歩前を歩いていたサラもカミュの両脇に陣取りメルエの幸せそうな顔に頬を緩めている。

 

「カミュ! 後ろに下がれ。メルエを起こすなよ!」

 

 そんな一行の静かな時間も、不意に来訪した招かざる客に終焉を迎えた。

 リーシャが腰に下げていた<鋼鉄の剣>を抜き放ち、サラもまた背中に背負った<鉄の槍>を構える。

 目の前に現れたのは、アリアハン大陸で見た<大ガラス>に良く似た魔物。カラスには間違いないだろうが、その羽根の色は若干アリアハンに居た物とは異なっていた。

 それが二匹、上空から一行を睨みつけている。

 

「サラ! おそらくあれは<大ガラス>ではない。似てはいるが、違う魔物として考えろ!」

 

「は、はい!!」

 

<デスフラッター> 

リーシャの予想通り、それは<大ガラス>ではない。その上位種に当たる魔物。<大ガラス>よりも若干体格も大きく、その嘴の鋭さも比ではない。更に、その体格に似合わず、動きの素早さも<大ガラス>とは段違いである。おそらく、<大ガラス>が一度攻撃を繰り出す間に、対象に向かって二度の攻撃が可能な程の素早さと言っても過言ではないだろう。

 

「せい!」

 

 夜が明けたばかりの朝陽を背にしてから急降下してきた<デスフラッター>の攻撃を見る限り、知能も<大ガラス>よりも高い事が窺えた。

 目を細め、眩しさを堪えながらも降りて来た<デスフラッター>を避け、リーシャは剣を振り下ろす。しかし、リーシャの剣も身を翻した<デスフラッター>に容易く避けられてしまった。

 

「リーシャさん、下がって!」

 

 悔しそうに顔を歪めたリーシャであったが、後方からかかったサラの声に<デスフラッター>の一撃を剣で弾き、後方へと飛び退いた。

 

「バギ!」

 

 リーシャが下がった事を確認したサラの詠唱。サラの周囲に風が巻き起こり、真空を生み出して行く。サラの指が<デスフラッター>に向けられると同時に、唸りを上げた風が<デスフラッター>目掛けて吹き荒れた。

 

「ギシャ―――――――――!!」

 

 魔物の悲痛の叫びが周囲に轟き、真空の刃が収まったそこには、一匹の<デスフラッター>の細切れになった死体が落ちていた。

 『一匹?』

 サラのそんな疑問は、自分の斜め上空から聞こえる羽ばたき音が答えている。サラの指が向けられる一瞬早くに一匹の<デスフラッター>は上空へと移動していたのだ。

 

「えっ!?」

 

 サラが驚いて顔を上げた時には、すでに<デスフラッター>は攻撃態勢に入っていた。迫り来る脅威にサラは目を瞑る。しかし、目を瞑る際に、サラは視界の隅で動く気配を感じていた。

 

「ギニャ―――――――――!!」

 

 そう、残った<デスフラッター>は失念していたのだ。自分達が対峙しているのが魔法を行使した僧侶一人ではない事を。

 目を開いたサラが見た物は、羽を失い地面に落ちた<デスフラッター>に剣を突き刺すリーシャの姿だった。

 

「ふぅ……やはり、ここらの敵も少しずつ強くなっていくな」

 

「あ、ありがとうございました」

 

 剣に付着した魔物の体液を飛ばすリーシャに、サラは頭を下げる。そんなサラに微笑みを浮かべながら手を振ったリーシャは、本当にリーシャの言葉通り、後ろに下がったまま戦闘に参加しなかったカミュの下へと歩いて行った。

 

「まさか、本当に戦闘に参加しないとは思わなかったぞ」

 

「……アンタがするなと言った筈だが?……メルエを起こすなと……」

 

 苦笑を浮かべながら話すリーシャを一瞥したカミュは、深い溜息を洩らした。少しずり落ちそうになったメルエを再び背負い直したカミュは、静かな寝息を立てているメルエを気遣いながらリーシャへ向き直る。

 

「……ん?……ま、まあそうなんだが……」

 

「……アンタの頭が悪い事は知っていたが、まさか少し前に自分が発言した内容まで忘れる程とは……その魔物の方がマシではないのか?」

 

 メルエを背負いながら盛大な溜息を吐くカミュは、地面で動かぬ肉塊となった魔物を顎で差して暴言を吐く。そのカミュの言葉に、青筋を立てながら震えているリーシャの右腕には、まだ<鋼鉄の剣>が握られていた。

 それらを結びつけた時に起こりうる惨劇の可能性を見たサラが、慌てて二人の間へと割って入った。

 

「ま、待って下さい! リ、リーシャさん、カミュ様はメルエを背負っています。剣等振ってしまえば、メルエも怪我をしてしまうかもしれません!」

 

 もはや、サラの中ではリーシャがカミュ目掛けて剣を振るう事は確定事項のようだった。

 先程まで仲間意識が芽生え始めていたような雰囲気を漂わせていたパーティーであったが、ほんの一言二言でいつも通りに戻ってしまう。それが、このパーティーの良いところなのかもしれない。

 

「ぐっ……カミュ……次の鍛練の時は憶えていろよ……」

 

「……俺よりも、アンタの方が忘れているのではないか?」

 

 カミュの口端がいつもの様に上がり始める。リーシャをからかっている事は明らかだ。それは、傍で見ているサラにも、当事者であるリーシャにも解るものだった。

 故に、尚更リーシャの頭に血が上って行っているのだろう。その証拠に、リーシャの肩は小刻みに震え始めていた。

 

「……ふふふっ……カミュ……静かにメルエを下せ……」

 

「リ、リーシャさん! も、もう歩きましょう。メルエをゆっくり休ませる為にも、早く町に向かわないといけません」

 

 サラの一理も二理もある言葉に、しぶしぶリーシャは手に持つ<鋼鉄の剣>を鞘に納めた。

 そのリーシャの姿に『ほっ』と胸を撫で下ろしたサラが先頭に立ち、再び一行は西に向かって歩を進める。

 

 

 

 

 

「この村か……?」

 

 先頭を歩くリーシャが、その佇まいを呆然と見上げ声を発する。サラも同じ感想だったらしく、只々、眼前に控える村を眺めていた。

 一行がカミュの持つ地図の通りに歩き、その地図に名前だけが記載されている村に辿り着いたのは、東から上った太陽が、西に半分ほど沈み始めた頃。

 その間に何度か戦闘を行ったが、メルエを背負うカミュが参加する事は一度もなかった。それだけ、リーシャにしても、サラにしても戦闘レベルが上がっている証拠だろう。

 ただ、カミュの参戦しない闘いでは、必然的にサラの魔法使用頻度が上がってしまうため、村に辿り着く頃には、サラの魔法力は枯渇に近い状態になっていた。

 そんなサラをリーシャが支え、未だに静かな寝息を立てるメルエをカミュが背負った状態で辿り着いた村は、一行の疲れを倍増させるような佇まいだった。

 

「……なんなんだ……この村は……?」

 

 再度口を出たリーシャの疑問は当然であろう。その村は、外界との隔たりを表す柵こそあるが、人の営みの気配など一切ないのだ。

 村の入口に立つ門を起点に続く柵にも、その門にも、分厚い埃や泥がこびり付き、もう数年以上も人の出入りがないのではないかと疑いたくなるような物だった。

 

「……とにかく中に入る。話はそれからだ」

 

「あ、ああ」

 

「そ、そうですね」

 

 カミュの言葉に一行は通常は中からしか開ける事がない門を押し開ける。城下町の入口にそびえる門でも城へと続く城門でもない普通の町や村の門は、外からでも人が押し開ける事は可能なのである。

 村を見た時は、流石のカミュも『廃墟か?』と疑いたくなるような物であったが、門を潜り中に入ると、そんな疑問が生易しい物であったと気が付く事となる。門を潜った三人はその光景に言葉を失った。

 

「なんだ……これは?」

 

 その光景を目の当たりにし、カミュが言葉を溢す。

 それは、通常では考えられないもの。

 

「あれは……銅像なのか?」

 

「そんな……これ程多くの銅像を誰が?」

 

 リーシャやサラが発した内容は、その村の中に人の姿をした彫像が至る所に立っている事だった。

 この村は、<カザーブ>や<レーベ>よりも大きな村である。その敷地、建物の具合などを見ても、生活水準が前述の二つの村よりも高い事は明白であった。

 しかし、その村で生活をしているのは、人の姿形を象った彫像だけなのである。

 その彫像の形は様々で、村の中を歩いているような恰好や、しゃがみ込んで何かの作業をしている様な物、少し村の奥に向かって歩けば、店のカウンターに立って客と思しき彫像の相手をしている物まである。

 

「……とりあえず、休める場所を探す」

 

 リーシャとサラの混乱具合を余所に、カミュは村の奥へと進んで行く。メルエを背負うカミュが歩き出した事から、周囲の異様な光景に戸惑っていたリーシャとサラも、お互いの顔を見合せながらも後に続いた。

 周囲に立ち並ぶ人型をした彫像を傍目にしながら進んでいたカミュであったが、ふと近くに立つ彫像の傍を通る時に珍しく目を見開き、その彫像へ触れる。

 

「……生きている……」

 

「な、なにっ!!??」

 

 ぼそりと呟いたカミュの言葉に、すぐ後ろでメルエの様子を確認しながら歩いていたリーシャが驚愕の声を上げ、その叫びに驚いたサラが何事かとリーシャの傍に寄って来た。

 

「ど、どういうことだ、カミュ!」

 

「ど、どうしたのですか?」

 

「……これは、彫像でも銅像でもない……『人』だ」

 

 カミュが口にしたもの。それは、今この村に立ち並ぶものが生きた人間という驚きの事実。カミュが手を触れたそれは、体温とまでは呼べないまでも『人』の温もりを宿していた。

 更には、微かではあるが呼吸の様な息遣いを感じる。時が止まったように、そして身体が固まったように動かないが、それは生きている『人』であったのだ。

 サラは、その驚愕の事実に言葉を失った。

 

「『人』だと!? どういう事だ! 何故、『人』がこのような姿になっている!」

 

「……アンタと共にアリアハンから出て来た俺に、それが解ると思うのか?」

 

 余りの出来事に若干混乱気味のリーシャは、その理由をカミュに詰め寄るが、カミュの言う通り、リーシャが解らない事をカミュが全て知っているという訳ではない。

 

「理由は解らないが、ここにある人型をした物は全て、この村の住人だった者達だろう。何らかの理由で時が止まっているのか、もしくは固まってしまったのか……とりあえず、まだ生きている事には違いない」

 

 カミュの言葉は、かなり強い衝撃を受ける物だった。その証拠に、リーシャはその言葉の意味が理解出来ず、サラも困惑の表情を浮かべている。それ程に突拍子もない物だったのだ。

 

「カ、カミュ! もしや、<シャンパーニの塔>でお前がサラに使った魔法の影響がこの村にまで及んだのではないのか!?」

 

「……アンタは本当に馬鹿なのか?」

 

 勢い良く振り向いたリーシャの発言に、メルエを背負ったままのカミュは盛大に溜息を吐く。

 リーシャの言っている事は、誰が聞いてもおかしい事が理解出来る。しかし、リーシャも混乱しているのだ。

 

「……<アストロン>に離れた所にいる人間まで巻き込む程の効果はない。それに、アンタもそこの僧侶が元に戻るのを見ていた筈だ」

 

「そ、それはそうだが……」

 

 言葉に詰まるリーシャを見るカミュの瞳の色がいつもと少し違う事にリーシャは気付いた。

 それが何を意味するのかまでは解らず、リーシャはカミュの瞳から視線を放す事が出来ない。先に視線を外したのは、カミュだった。

 

「……何もかもを俺の仕業としたい気持ちも解らないでもないが、少しはその頭で考えてくれ……」

 

「そ、そんな事はない!……い、いや、すまなかった……」

 

 カミュのどこか諦めたような溜息は、リーシャの心に刺さった。リーシャにも何故だかわからないが、カミュのその自虐的な物言いは哀しく感じたのだ。

 混乱していたとはいえ、自分の発言をカミュにそう解釈されてしまったという事が、何故かリーシャの心に影を落とす。

 

「……もしかして……」

 

 そんなリーシャとカミュのやり取りを耳に入れる事なく、今まで何かを考え込んでいたサラが不意に口を開いた。

 何か思い当たる事があったような口ぶりに、カミュとリーシャの顔が揃ってサラの方へと向けられる。

 

「サラ、何か知っているのか?」

 

「あっ、は、はい。本当かどうかは解りませんが、<カザーブ>で食事をした場所にいた若い方達が話していた内容にそのような事があったような気が……」

 

 自分の頭の中の引き出しを順に開けていくように考えを巡らすサラに、掴みかからん程の勢いでリーシャは先を促した。

 

「た、確か……どこかの村では、『エルフ』の怒りに触れ、村中の人間が眠らされてしまった……というような内容だったかと……」

 

「眠らされた!? こ、ここにある彫像は、眠っているだけの人間だと言うのか!?」

 

 サラは<カザーブ>の酒場で話をしていた若いカップルの話を思い出していたのだ。

 何処かの村で『エルフ』という他種族の怒りを買い、その村の住人全てが永久に覚める事のない眠りに落とされてしまったという話。

 それは、今、その姿を目の当たりにしているリーシャにも、俄かには信じがたい物だった。

 

「なるほどな……『エルフ』独自の道具か魔法でこうなったという訳か……」

 

「その通りでございます」

 

「!!」

 

 サラの話にカミュが独自の解釈を入れた言葉に、予想外の方向から返答が返って来た。

 その突然の来訪者にリーシャとサラは驚いてその方向を振り返るが、メルエを背負うカミュだけは解っていたかのように平然とその声の主を見ていた。

 

「この村への旅人など十数年ぶりです。ようこそ、<ノアニール>の村へ」

 

 カミュ一行に歓迎の挨拶を述べるその人物は、髪の毛や下に長く延びる髭も真っ白に染めた老人であった。

 近付いて来る老人に警戒を向けるリーシャであったが、老人と相対するカミュが身動き一つしない事に気が付き、その警戒を緩める。

 

「……貴方は?」

 

「はい。私はこの村で暮らす者です。こんな所で立ち話もなんですから、私の家へどうぞ」

 

「この村の住人だというのか!? では、何なのだ、この光景は!?」

 

「リ、リーシャさん。話はこの方のご自宅で聞きましょう。まずは身体を少しでも休めないと……」

 

 彫像のように『人』が眠る村の住人であると言う老人の提案を無視して詰め寄るリーシャにサラが掛けた言葉は、切実なものであった。

 メルエに話したように、サラにはカミュやメルエよりも若干ではあるが魔法力の余裕がある。しかし、ここまでの道中での戦闘による呪文詠唱によって、その蓄えも尽きていた。

 更には、未だに使いこなしているとは言い難い<鉄の槍>での戦闘で心身ともに疲れ切っていたのだ。

 やつれた表情を見せるサラの提案に、リーシャも頷く他なかった。

 リーシャがカミュを見、そして目が合ったカミュが頷いた事によって、一行は<ノアニール>の住人と名乗る老人に導かれて一軒の家に入って行く。その家は、周囲の家とは違い、生活感に満ちていた。

 老人の後を、メルエを背負ったカミュ、サラ、リーシャの順に戸を潜って行く。家の中は、小さいながらも整理されており、暖炉に点る火が部屋の空気を暖かな物にしていた。

 

「狭い家ですが、そちらに座りなされ」

 

「……」

 

 老人に勧められるまま、一行は暖炉の近くに座る。カミュは老人が指差す椅子を繋げ、メルエの身体を横に寝かせた。

 暫くすると、奥に消えた老人が手に湯気の立つカップを三つ持って出て来る。

 

「さぁさぁ、まずはこれでも飲んで身体を温めなされ。随分身体が冷えているでしょう?」

 

 にこやかな笑みを浮かべながらカップを差し出す老人の姿は、本当に久しぶりな旅人の到来を歓迎しているようだった。

 最初は警戒心を持って対していたリーシャも、その警戒感を緩める。サラに至っては、ようやく腰を下ろせる場所を得て、一気に脱力感に襲われていた。

 

「……それで、私達に話とは……」

 

 しかし、一行の中でカミュだけは未だにこの老人に対して含む所があるようだった。口調はいつものように仮面を被ったカミュの物ではあったが、その表情は冷たい無表情。

 それは、相手が何を言い出すのか半ば察しているような態度であった。

 

「そうですな……どこから話せば良いのか……」

 

「それ程の話なのですか?」

 

 老人の呟きに真っ先に答えたのはサラ。椅子に腰かけ、老人の差し出した飲み物を口に含みながらも老人の話を聞いていた。

 言い難そうな表情とは裏腹に、老人の口は滑らかに言葉を紡ぎ出して行く。

 

「……ええ。これは、私の息子と、その恋人に関する話なのです」

 

「……恋人?」

 

 老人はぽつりぽつりと過去を話し出す。そこから紡ぎだされる話は、サラが以前に読んだ事のあるような物語。それは一人の青年と、一人の女性が生み出す哀しい人生の物語。

 

 

 

 

「……そんな事が……」

 

「……はい。お恥ずかしい話ですが、今、この村の惨状は全て私の責任なのです。私があの子達を認め、そして祝福していれば……」

 

 老人の話が終結を迎える頃には、老人が持ってきた飲み物も全て冷え切り、小さな部屋を満たす空気は重く、暗いものになっていた。

 サラの呟きに対しての老人の答えは、『全ての責任は自分にある』という、リーシャやサラにとって何ともやりきれない物である。しかし、カミュの表情は、先程よりも更に冷たい物へと変わっていた。

 

「……それで?」

 

 その心情は、満を持して口を開いたカミュの言葉に表れていた。

 ここまでの老人の話に何の感情も湧かなかったような口調。

 まるで、『自分には全く関係のない事だ』とでも言うような態度。

 その言葉にサラは思わずカミュの顔を振り返ってしまった。

 

「うむ。旅のお方に、このような事をお頼みする事が筋違いなのは解ってはいますが、どうか『夢見るルビー』を探し、<妖精の隠れ里>に住むエルフの女王に返してやってくだされ。そうしなければ、この村にかけられた呪いが解けぬのです」

 

「……それをなぜ私達に……」

 

 老人が頼み事を口にしても、カミュの姿は変わらない物だった。

 冷たい瞳、そして口調も仮面を被ってはいるが、底冷えするような冷たい物。サラは、カミュの表情を見つめている事しか出来なかった。

 

「見たところ、貴方方は旅慣れたご様子……」

 

「……私以外はすべて女性。しかも、一人は年端もいかぬ幼子ですが?」

 

 カミュの答えは、徐々に冷たさを増して行く。カミュには、この老人の心の裏側が見えているのかもしれない。しかし、そんなカミュの冷たさにも、当の老人は怯む様子もなかった。

 

「貴方方は、ご自分達では気が付いておられませぬか……貴方方が纏う雰囲気が物語っております。この時代に、この村へ足を運ぶ者などおりません。この村はどこかへの通過点でもない、ロマリア大陸最北の場所。<カザーブ>からの山道を通ってここに来られたという事実だけでも、十分それは証明されております」

 

「……」

 

 老人が言うように、基本的に<ノアニール>に特別な用事がない限り、この場所に人は渡っては来ない。カミュ達にしても、山中でのアクシデントがなければ、この村を訪れる事などなかったであろう。

 

「おそらくあの子が向かった先など、西にある洞窟ぐらいしかありませんでしょう」

 

「……貴方が向かえばよろしいのでは?」

 

 カミュの疑問は当然の物であろう。場所まで特定出来ているのであれば、何もカミュ達に頼む必要などないのだ。

 カミュの瞳は冷たく老人を射抜いている。それでも、老人はカミュの雰囲気を気にもせず、先を語り出した。

 

「西の洞窟には、魔物が住んでおります。私の様な老人ではとてもではありませんが、生きて帰って来る事など出来ませんでしょう」

 

 冷たさを増して行くカミュの瞳とは別に、サラは絶句してしまった。

 呆然と老人を見つめるサラの瞳には疑問だけが浮かんでいる。

 『初めから行き先が解っていたのならば、何故こうなるまで放置していたのか?』

 そんな疑問がサラの頭の中に渦巻く。しかも、それを何の関連性もない自分達に頼む。それが、どれ程に無責任な事なのかを、この老人は気付いているのかという疑問がサラを襲ったのだ。

 

「貴方達は装備もしっかりと整えなさっておる。ロマリアの騎士様なのではないでしょうか?」

 

 カミュ、リーシャの身なり、そしてサラの僧侶とはっきり分かる服装を見て、老人は再度カミュに疑問を投げかけて来た。

 その質問に何も答えようとはしないカミュの後ろから信じられない横やりが入る。

 

「ロマリア騎士と一緒にしないで頂こう。私達はアリアハンから『魔王討伐』に出た者だ」

 

「リ、リーシャさん!」

 

「……この馬鹿が……」

 

 アリアハン宮廷騎士としての誇りなのか、それともカミュが言ったようにただの馬鹿なのか、名乗りを上げてしまったのは、パーティーが誇る剣の使い手だった。

 

「な、なんと! では、貴方様は『勇者』様でございますか? これはとんだ失礼を」

 

「ちっ!」

 

 リーシャの答えに驚きから目を見開き謝罪をする老人に対して、リーシャによって仮面を破壊されたカミュは盛大な舌打ちを行う。カミュの変貌ぶりに驚くリーシャであったが、サラはその理由を察していた。

 

「それでは、話がお早い。勇者様、是非、この村をお救いくだされ」

 

「……私達は先を急ぐ身ですので……」

 

 カミュに向かって頭を下げる老人。しかし、カミュは暫しの沈黙の後、遠回しの断りを口にした。

 確かに、『魔王討伐』という使命を受けている以上、カミュ達の旅に余裕などない。刻一刻と広がる『魔王』の脅威。この<ノアニール>で過ごしている間にも、数多くの人間が魔物によって命を落としているのだ。

 

「な、なんと! 勇者様はこの村を見捨てられるという事ですか!? この世界に住む『人』に希望と平穏を齎すのが『勇者』としての責務の筈。それを放棄するのですか!?」

 

「お、おい……ご老体……」

 

 先程とは打って変わった剣幕になった老人に若干気圧されながら、ここに来てやっと自分の失言に気がついたリーシャは、老人を制する為に声をかけようとする。しかし、一度火の点いた老人の感情を消す事は出来なかった。

 カミュの正論はこの老人の事情から見れば、取るに足らない物だったのかもしれない。

 

「『勇者』なれば、この村を救う為、恐ろしき『エルフ』の怒りを鎮めて来られるのが当然ではないのか!? 『魔王』を倒して救われる世界に、この村の住人は不必要だとでもおっしゃるのか!? そなたも『勇者』を名乗るのであれば、全ての『人』を救う為に、その身を捧げるのが使命であろう!?」

 

「……そ、そんな……」

 

 もはや激昂に近い程の老人の剣幕。そしてその物言いにサラは口元を押さえ、俯いてしまった。

 リーシャにしても、自分の失態が招いた事とはいえ、老人の物言いに良い感情を抱いていない事は、その表情から理解出来る。カミュに至っては尚更であろう。

 

「……わかりました。<妖精の里>には明日にでも向かいましょう。『エルフ』側の話も聞いてみない事には、何ともお答えは出来ませんが、この村の呪いを解くように最善を尽くしましょう……」

 

 しかし、周囲の想像を覆す、老人の要望の一切を全て引き受けるようなカミュの言葉。リーシャとサラはそんなカミュの顔を思わず振り返ってしまった。

 そこには、最近自分達に見せる事が少なくなってきた、能面のような無表情を張り付けたカミュの姿があった。

 

「そ、そうですか。それを聞いて安心致しました。こちらこそ出過ぎた事を言ってしまい、申し訳ありませんでした」

 

「……カミュ……」

 

 カミュの答えに満足したのか、老人は先程まで吊り上がっていた眉と瞳を下げ、口調を治した後、カミュに向かって一つ頭を下げた。

 通常、ロマリアとアリアハンという違いはあれど、リーシャに至っては、一村民が声をかける事等出来よう筈がない貴族なのだ。しかし、今回の名乗りに『宮廷騎士』の言葉は出ていない。

 オルテガの死の以前は、『魔王討伐』を謳って旅立った者達が数多くいた。『魔王』という諸悪の根源である者に挑もうとする者は、皆等しく『勇者』だったのだ。

 カミュが先日リーシャ達に見せた<アストロン>のような、英雄独自の魔法の存在などは平民が知る筈もない。いや、リーシャの様な貴族とて、その存在は都合の良い伝承とさえ思っているのだ。

 

「この村は、皆等しく眠っております。宿屋などには、空き部屋がたくさんありましょう。少し埃を被っているかもしれませんが、眠る事は出来るかと思います。どうぞお好きにお使いなされ。食糧は、私が細々と作っている野菜などがありますので、それを持って行って頂ければよろしかろう」

 

 老人の物言いへのショックから立ち直れていないサラや、自分の胸に渦巻く感情を抑える事に尽力しているリーシャを余所に、老人は今夜の一行の宿についての話を進めて行く。

 

「…………うぅぅん…………」

 

 そんな中、先程の老人の怒鳴り声に目が覚めてしまったのか、メルエが目を擦りながら身を起こした。

 周囲の状況について行っていない為、何かを探すように周囲を見渡し、見つけた<とんがり帽子>を被った後、リーシャの足元へと移動して来る。

 

「メルエ、起きたのか……行こう。今夜はベッドの上で眠る事が出来そうだ」

 

 再度奥に消えていった老人が、両手に抱えながら持って来た野菜と少量の肉を受け取り、リーシャはメルエを促し、外へと歩いて行った。

 その後ろを俯きながら、力ない足取りでサラが続く。

 

「よろしく頼みましたぞ、『勇者』様」

 

「……」

 

 先程とは全く違うにこやかな笑顔を向けてカミュに念を押す老人に、軽く会釈をしてカミュも外へと出て行った。

 

 

 

 宿屋は老人の言う通り、彫像のように眠りに付く客がいない部屋が三部屋空いていた。一室をカミュ、そしてもう一室をサラ、最後の一室をリーシャとメルエで分け、休む事になる。

 いつもとは違い、サラ自ら別室で一人になる事をリーシャに頼み込んで来た事から、何か思う事があったのだろうと考えたリーシャは、首を縦に振った。

 埃の被った浴場を洗い、湯を張って、順番に入る。リーシャが厨房を借りて作った料理を食べる頃には、再びメルエに睡魔が襲って来ていた。

 フォーク片手にこくりこくりと舟を漕ぐメルエに苦笑しながら、リーシャが部屋へと運び、残った食器類の片付け等は、サラとカミュが行う。

 

 

 

 メルエを部屋に運び、ベッドに横たえたリーシャは、窓から差し込んで来る月明かりに照らし出されるメルエの明るい茶の髪を梳きながら考えていた。

 

「もしかすると、メルエが一番アイツを解ってやれるのかもしれないな……」

 

 サラは今頃、一人で考え込んでいるだろう。

 <シャンパーニの塔>での出来事、そしてこの村の老人の話について。

 彼女は真面目すぎるのだ。何事も右から左へと流す事が出来ない。

 故に、『生きる権利を有する者は、<人>だけなのか?』とその胸を痛めているに違いない。

 リーシャがそう考えるのにも訳があった。それが、先程の老人の物言いだ。本来それはカミュに向けられた物であって、決してサラやリーシャが思い悩む事ではない。しかし、今のサラには、それが身勝手な物に映ったのかもしれない。

 そう、『今の』なのだ。

 アリアハンを出た直後のサラであれば、もしかすると老人と同じ考えを持っていたかもしれない。いや、老人と共にカミュを糾弾していただろう。しかし、今日のサラはそれをしなかった。

 この旅に出て、カミュが歩むべき『魔王討伐』へと続く道の険しさを知り、そして僅かではあるが、カミュが抱える苦悩の片鱗を見て、自分達が出来ない事の全てを『勇者』に背負わす事自体への疑問が生まれて来ているのだろう。

 それは、リーシャとて同じである。あの老人の発言は、カミュを一人の人間としては見ていなかった。

 例え『勇者』と呼ばれていようと、カミュも命ある『人』である事に間違いはない。『人』である以上、傷つけば痛みを感じ、それが酷ければ命を落とす事もあるのだ。

 しかし、老人の言葉の中に、それを理解している節はどこにもなかった。それに対し、リーシャは怒りを覚えたのだが、振り返ると、『自分も同じではなかったか?』という恐怖も湧き上がって来ていたのだ。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「!!」

 

 月を見上げながら考えに耽っていたリーシャの手元で、すすり泣くような声が聞こえる。ふと手元に目を落とすと、メルエの目から一筋の涙がベッドへと流れていた。

 リーシャは、その雫を指で拭き、優しくメルエの頭を撫で続ける。この宿屋で皆それぞれが悩み、考え、そして涙している中、この少女の涙だけは悲しみに彩られたものでないようにと祈りながら。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

第三章は、ノアニール編です。
このノアニール……幼い頃から疑問ばかりのイベントでした。
その辺りを細かく描いていければと思っています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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エルフの隠れ里①

 

 

 

「カミュ!! 起きているか!?」

 

 辺りも薄暗く、まだ日も昇りきっていない明け方に、カミュは怒鳴り声と、中の状況も確認しないまま突入して来るその声の主に、叩き起こされる事となる。

 気配すら感じる余裕も与えられずに、些か不機嫌になりながらカミュは身を起こした。

 

「……何の用だ?」

 

 半身を起したカミュは、扉を開け放ったままのリーシャを軽く睨む。その口調は冷たく、突き放すような物であったが、リーシャは怯む事はなかった。

 意識はしていないのだが、リーシャにはカミュの表情が何となく読めるようになって来ていた。カミュが『怒り』を感じている時、心底相手にしたくないと考えている時の表情と、リーシャ達三人に向ける表情には僅かではあるが差があるのだ。

 

「起きたか? まあ良い。お前の衣服を全て出せ!」

 

「……は?……追い剥ぎか、アンタは?」

 

 入って来て早々のリーシャの物言いに、状況を掴みきれないカミュはベッドに半身を起したまま呆然と答えるが、当のリーシャはそんなカミュの返答に不服なようだった。

 

「何を言っている? 洗うんだ。お前のマントや衣服も、アリアハンを出てからそのままだろう?」

 

「……洗う?……誰がだ?」

 

「決まっているだろ! 私がだ!」

 

 不服そうにカミュへと口を開いたリーシャの言葉に更にカミュの頭は混乱してくる。リーシャの申し出は衣服の洗濯だというのだ。

 リーシャと洗濯という単語が結び付かないカミュは、尚一層困惑を強めた。

 

「……は?……アンタが洗濯するのか……?」

 

「だから、そうだと言っているだろう!? 今日は<エルフの隠れ里>へ行くのだろう? 時間的に考えて、里に向かうだけならば昼近くに出ても良い筈だ。それならば、皆の衣服を洗濯し干した所で、この天気ならば昼前には乾くだろう」

 

 カミュもリーシャの言う通り、今日は<エルフの隠れ里>に行くだけで、もう一度この村に帰って来るつもりだった。

 だが、その事をリーシャに話した覚えもない。何よりも、出発する時間も計算して、全員の衣服を洗濯するという提案をするリーシャにカミュは珍しく口をポカンと開けたまま、提案主であるリーシャを見つめていた。

 

「な、なんだ? は、早く衣服を渡せ! 早く洗ってしまわなければ、昼前に乾かなくなるぞ!」

 

「……あ、ああ。い、いや、待て……衣服を洗濯している間、俺は何を着ていれば良い?」

 

 カミュの表情を見ていて、自分が言った事が何か恥ずかしい事の様に感じたリーシャは、カミュの衣服を強引に脱がすような勢いで迫って行く。そんなリーシャの気迫に押されるように、首を縦に振ったカミュだが、何かに気がついたように疑問を投げかけた。

 

「ん?……ああ……別に、裸で昼まではベッドで眠っていても良いんだぞ。お前も疲れは溜まっている筈だからな」

 

「……アンタも裸で洗濯をするつもりなのか?」

 

 カミュの問いかけに厭らしい笑みを浮かべ、言葉を返すリーシャ。

 それは、言葉こそカミュをからかっているようだったが、内情はカミュの身を心配するものも含まれていた。

 そんなリーシャに対し、カミュは盛大な溜息を吐き出す。その後にリーシャへと向けられたカミュの瞳は、先程までとは異なり、何かを楽しんでいるような色を宿した物だった。

 

「ば、馬鹿を言うな!」

 

「村の住人は皆眠りについている。誰も見る者はいないのだから、構わない筈だ」

 

 リーシャのちょっとしたからかいは、瞬時に口端を上げたカミュの言葉で、我が身へと倍になって返って来る事となる。

 歴戦の『戦士』であり、男性顔負けの剣技を持つリーシャも歴とした女性であるのだ。誰の視線がないといえども、裸で歩く事など出来よう筈がない。

 

「そんな事が出来るか!……ふぅ……部屋の引き出しの中に、宿屋が用意している部屋着が仕舞ってある。洗濯をしている間はそれを着ていれば良いだろう。ほら、さっさと脱げ!」

 

「……くっくっ……わかった。脱いで下へ持って行く」

 

 カミュに対し声を荒げるリーシャの顔は赤かった。それは、怒りに血が上っているからなのか、羞恥に顔を染めているからなのかは解らない。

 何れにしろ、珍しいカミュの忍ぶような笑い声に驚いたリーシャは、しばらく呆然とした後、慌てたように部屋を出て行った。

 

 

 

 リーシャが出て行った後、カミュは着ている衣服を脱ぎ、部屋にある部屋着に着替え、壁に掛けてあったマント等も抱えて、階下へと降りて行った。

 下に着くと、十数年間眠りについた村に似つかわしくない子供のはしゃぎ声が聞こえて来る。言わずと知れたメルエの声だ。

 カミュと同じように部屋着に着替えているリーシャとメルエ、そしてサラまでもが、一つずつ桶を前にして衣服を洗っていた。

 

「ほら、メルエ、もう少し力を入れないと汚れは落ちないぞ」

 

「ふふふっ。メルエ、泡が顔に付いていますよ。ほら」

 

「…………ん…………」

 

 カミュは、余りにも微笑ましく、自然なその光景に失念していたが、メルエが声を上げて笑うなど、未だ見た事はなかった。

 そのメルエの笑顔は、傍にいるリーシャとサラの笑顔を、より濃い物へと変えて行く。

 

「…………カミュ…………?」

 

 そんな家族の一コマのような光景に暫し見入っていたカミュの存在に気がついたメルエが振り向き、手に泡を大量に付けながらカミュの足元へと歩いて来る。

 

「あ、ああ、おはよう、メルエ。衣服を持って来た」

 

「…………ん…………」

 

 メルエは、カミュの洗濯物を受け取るように、その小さな手を前に出した。

 『渡せ』とでも言うようなメルエの手を見て、カミュは戸惑いを見せる。まず、メルエが洗濯をしている事自体に驚いていたのだ。その上、自身の衣服までも受け取ろうとするメルエをカミュは呆然と見つめてしまう。

 

「い、いや、俺も自分で洗うさ」

 

「…………ん!…………」

 

 メルエの手に戸惑い、それを断るカミュではあったが、手と顔に泡をつけたメルエが、珍しい程強硬に手を突き出す姿を見て、しぶしぶ洗濯物をメルエへと渡す。カミュの洗濯物を受け取ったメルエは、花咲くような笑顔を向けた後、桶の方へと戻って行った。

 そんなメルエの姿に、自然とカミュの口元にも優しい笑みが浮かぶ。メルエの行動を目で追っていたリーシャとサラは、カミュの表情の変化に目を見開くが、二人に見られていた事に気が付き、再び表情を消すカミュを見て、笑いが込み上げて来た。

 

 メルエは、今、三人で行っている洗濯を楽しんでいる。

 洗濯など、一時期は毎日のようにしていた。いや、させられていた。

 その時は、手に付く泡も、朝の冷たい水も大嫌いだった。だが、今は泡も水も、とても素敵な物に感じている。

 隣で自分の手元を見ながら一緒に洗ってくれるリーシャがいて、反対側で微笑みながら自分の衣服を洗っているサラがいる。そんな洗濯が心から楽しかった。

 故に、カミュの洗濯物も受け取る。メルエは、まだこの時間を終わらせたくなかったのだ。

 

「ほら、メルエ。メルエはカミュのマントを洗ってやれ、それ以外はこっちに渡せ」

 

「…………???…………」

 

 洗っている桶の中に次々と洗濯物を入れられる事はあっても、桶から洗濯物を抜かれる事など経験した事のなかったメルエは、不思議そうにリーシャを見上げるが、そのリーシャの表情が優しい笑みである事を確認すると、笑顔を作ってこくりと頷いた。

 ただ、自分の洗濯物を取り上げられたカミュだけは、三人が洗い終わるまで、後ろで三人の姿を見守るしかなかったのだ。

 

 

 

「カミュ、一つ聞いても良いか?」

 

 洗濯物を全員で物干し紐に干した後、リーシャの作った朝食を食堂で食べている時に、メルエの口元を拭っていたリーシャがカミュへと問いかけを発した。

 

「……なんだ?」

 

「<エルフの隠れ里>へ行ってどうするつもりなんだ?……あの老人の話を聞く限り、簡単に許されるような話ではないだろう?」

 

「……そうですよね……」

 

 リーシャの疑問は当然の疑問。昨日の老人の話を聞く限り、エルフの怒りは相当な物である事が分かる。しかも、老人側の言い分でもそれが解る程の物。

 それがエルフ側の言い分という事になると、話は昨日以上の物になる可能性が高い。リーシャもサラもそれが懸念材料となっていた。

 

「……だろうな……おそらくあの老人も、何度も<エルフの隠れ里>へは足を運んだのだろう。だが、会っても貰えてはいないのだろうな。それ程までにエルフの怒りは凄まじい」

 

「……でしたら……」

 

「た、戦うのか?」

 

 カミュの言葉に反応したリーシャの言葉に、カミュは盛大な溜息を吐いた。

 サラも自分の言葉に続いたリーシャの言葉に驚いて振り返っている。リーシャの考えは極論であり、本当に『人』側の考え。自種族の妨げになる者達を力によって捩じ伏せるという最も強行的な物だったのだ。

 

「……アンタは本当に馬鹿なのか?……いや、何度も聞いているから、本当に馬鹿なんだろうな……」

 

「な、なんだと!」

 

 リーシャの口から出た言葉は、最終極論ではあるが、『人』の考えとしては決して間違ってはいない。カミュ達の旅もまた、『人』の世界を蝕む『魔王』という存在を討伐する事が目的の物なのだ。

 つまり、リーシャの発言に驚いたサラも、自身の発言に疑問を持っているリーシャも、若干ではあるが、『人』そのものとしての考えからはみ出し始めている事になる。

 

「今の俺達がどう足掻いても、『エルフ』という種族に対抗は出来ない。それが解らないアンタでもない筈だ」

 

「そ、それはそうだが……だとすれば、どうするつもりなんだ?」

 

 『エルフ』の内蔵している魔法力は、人外の物である。それは、カミュ一行がここまでに対して来た魔物では、比べ物にならない程の物。

 カミュ一行の中にも、魔法の才能を開花させ始めている少女はいる。その少女の才能は、成人の『魔法使い』よりも数段優れているかもしれない。しかし、それでも『人』の枠内の話なのだ。

 

「……話してみるしかない……」

 

「話だと!?」

 

「そ、そんな……カミュ様は『エルフ』に話などが通じると思っていらっしゃるのですか!?」

 

 人外の能力を有しているが故に、『エルフ』は太古より『人』から恐怖の対象として見られて来た。

 それこそ、『人』にとっての魔物と同類の様にだ。

 サラのカミュへの疑問は、そこから来ている。

 

 『<人>は精霊ルビスの子である』

 

 教会が広める教えに基づいた疑問。

 『精霊ルビス』の加護があるのは『人』である者だけというのが、教会が広く世界に発信しているものである。それは、裏を返せば、『人』以外の生物には『精霊ルビス』の加護は届かず、生きる権利すら認められていないという事。

 如何に言語を有し、文化を築いていたとしても、話すら通じぬ低俗な存在として評価されているのだ。余談になるが、それは『精霊ルビス』以外を崇める異教徒も同じとなる。

 

「……あの老人の話を聞けば、『エルフ』も俺達の言葉は通じている筈だ。言語が同じであれば、話は出来る」

 

「……それでも……」

 

 『エルフ』という種族に対するカミュの考え方は、教会の教えしか知らないサラにとっては、納得の出来る物ではない。

 尚を言い募ろうとするサラを見て、カミュは一度大きく息を吐き出した。

 

「……アンタの様な教会の人間が考える事は大体解る。しかし、俺にとっては、『人』を快楽の為に殺す盗賊や、自分が国で一番偉いのだと踏ん反り返る国王などよりも、『エルフ』の方が遥かに話は通じる筈だと思っている」

 

「……カミュ……」

 

 『一番偉いと踏ん反り返る国王とはアリアハン国王の事なのか?』

 その疑問が浮かぶリーシャであったが、カミュの考え方をこれまで見て来た分、ここで激昂する事はなかった。

 それよりも、カミュが『魔物』だけではなく、『エルフ』までも『人』と区別する事がない事に、純粋に驚き、そして何処か納得していたのだ。

 基本的に、カミュは他人を差別する事がない。それは決して良い意味ではない。自分以外の者は総じて他者なのだ。

 誰をとっても、それが『人』だろうが、『魔物』だろうが、『エルフ』だろうが変わらない。カミュの心の中の線引きは解らないが、皆興味のない他者という括りなのかもしれない。

 リーシャはただ、『自分も、自分達もカミュにとって、初めて会う<エルフ>と変わらない位置にいるのだろうか?』という疑問だけが心に残っていた。

 

「この村から<エルフの隠れ里>までは、そう掛からないはずだが、昼過ぎに出るのであれば、着く頃に夜になる可能性もある。今の内に身体を休めておけ」

 

 カミュのその言葉を最後に、一行の朝食は終わりを告げる。そのままカミュは二階にある自分の部屋へと上がって行き、残ったリーシャ達も食器の片付けが終わった後、各自の部屋で身体を休める事にした。

 

 

 

 一行が干してあった衣服に着替え、<ノアニール>の村を出たのは、リーシャの目測通り、太陽が頂上を過ぎた頃だった。

 村を出た一行はそのまま真っ直ぐ西へと歩き出す。汗の臭いが染み付いていた衣服は、太陽と微かな石鹸の匂いが漂っている。

 メルエは自分の衣服から漂う匂いと、いつも包まっているカミュのマントの匂いに満面の笑顔を作りながらカミュの後ろを歩いていた。

 リーシャやサラが、それぞれの胸の内に『エルフ』の存在の大きさを抱えている中、メルエに至っては全く関係のない事だったのであろう。

 メルエは教育を受けていない分、カミュと同じように生き物を差別はしない。簡単に言えば、『好き』か『嫌い』の二種類しかないのだ。

 

「カミュ、方角はこっちで良いのか?」

 

 後ろからかかるリーシャの声に、先頭を行くカミュは一度振り向くが、答える事なく再び歩き出す。カミュが迷いなく進むのであれば、それが正しいのだろうというアリアハンを出てからの常識と化した事柄がなければ、カミュの態度にリーシャは腹を立てていたかもしれない。

 

「メルエ! 余りはしゃぎ過ぎると、転んでしまうぞ!」

 

「…………ん…………」

 

「うふふっ」

 

 お気に入りの<とんがり帽子>もアンの花冠を外してから洗い、アンの花冠の匂いと同様に良い香りに包まれた事が、メルエにはとても嬉しかった。

 何度も何度も帽子をとっては、花冠を見、そして被り直す。リーシャの注意にも、笑顔を見せながら頷く様子に、サラは自然と頬が緩んで行った。

 そんな和やかで微笑ましい時間も、いつもの様に無粋な乱入客によって壊されてしまう。先頭を歩くカミュが、背中の鞘から<鋼鉄の剣>を抜いたのだ。

 

「リーシャさん!」

 

「わかっている! サラ、私の後方へ! カミュ、メルエを頼んだぞ!」

 

 カミュの剣が抜かれた事により、サラとリーシャも戦闘態勢に入る。せっかくの良い気分を邪魔された形となったメルエの機嫌も急降下して行った。

 剣を構え、カミュが見据える先に、魔物の群れが出現する。その姿を見たサラが、以前見た時と同じように呻き声を上げて口を押さえた。

 辺りに瘴気と異臭を放つような腐りきった身体。瞳は垂れ下がり、涎なのか腐敗した体液なのか区別できない物を口から垂れ流している。

 

「ウゥゥゥゥゥゥゥ」

 

「メルエ! 詠唱の準備をしろ!」

 

 リーシャがメルエに魔法の行使を促す。だが、メルエの表情は先程まで不機嫌に膨れていた物とは違い、眉はハの字に下がり、瞳は自信なさ気に潤んでいた。

 

「……大丈夫だ……もう魔法は使える。メルエが昨日ぐっすり眠ったのなら大丈夫だ」

 

「…………ん…………」

 

 メルエが心配している内容に気がついたカミュが、メルエの肩に手を置き、諭すように語りかける。メルエはカミュを見上げ、下がっていた眉を上げて力強く頷いた。

 狼と言えない程のスピードでゆっくりゆっくりとカミュ達を取り囲んで行く魔物達。その数は四体。

 以前現れた<アニマルゾンビ>に酷似している魔物。だが、<アニマルゾンビ>よりもその身体の腐敗は凄まじく、もはや元の色など想像が出来ない程の色をしていた。

 

<バリィドドッグ>

<アニマルゾンビ>と同様、狼などの死体が魔王の影響で蘇った魔物である。<アニマルゾンビ>よりも現世に留まっている期間も長く、その身体の腐敗は進み、近づくだけでも周囲に腐敗臭が漂う。それは、通常の人間であれば嘔吐を繰り返してしまう程の物であった。現世に留まる期間が長い分だけ、人の死肉を食らう機会も多く、腐敗臭に加え、凄まじいまでの死臭も纏う魔物である。

 

「ウォォォォォォォン!!」

 

 カミュ達が戦闘態勢に入り切る前に、一匹の<バリィドドッグ>が遠吠えの様な声を上げる。その遠吠えに、魔法の行使の可能性を感じたカミュは、意識をしっかりと保つため、口の中の肉を奥歯で噛み切った。

 意識が薄れる事はなく、一見何の影響も受けた形跡はなかったが、一瞬パーティー全員の身体が弱く光っていた事からも何らかの魔法を行使された事は間違いがない。

 

「……気をつけろ。神経性の魔法ではないようだが、何かしらの魔法を行使している可能性が高い」

 

 カミュの言葉に頷いたリーシャが、一匹の<バリィドドッグ>に狙いを定め、一刀を振るう。リーシャの剣速はいつもと同じ。つまり、<アニマルゾンビ>が行使した<ボミオス>ではない事が証明された事となる。

 ロマリア大陸に入り、確実に腕を上げているリーシャの一刀は、動きの緩慢な<バリィドドッグ>の身体へ吸い込まれるように入って行く。腐りきった肉に入って行ったリーシャの剣は、一体の<バリィドドッグ>の首を斬り落とした。

 異臭を放つ体液が零れ落ち、周囲にとてつもなく不快な臭いが漂う。

 

「…………ギラ…………」

 

 体液が身体に付着しないよう飛び退いたリーシャの帰りを待っていたかのように、メルエの詠唱が完成した。

 メルエの右腕から発せられた熱風は、首の落ちた<バリィドドッグ>とその後ろに控えていたもう一体を包み込むように炎を生み出した。

 

「キャイ――――――ン!」

 

 首の落ちた一体は、完全に炎に包まれ、その腐敗しきった身体を燃やして行く。後ろにいたもう一体もまた、周囲を炎に満たされ、逃げ場もなく叫び声を上げながら地獄の業火に包まれて行く。

 

「……すごい……」

 

 再び呪文の詠唱が可能な事を教えられたメルエは、自信を持って詠唱を行った。

 そのメルエの自信に応えるように、その腕から巻き起こされる炎は、<シャンパーニの塔>で使用した時よりも威力を増していたのだ。

 そして、いつもの様にその威力に見惚れてしまったサラは、残る魔物の行動を見落としてしまう。 

 

 出現した<バリィドドッグ>は四体。

 そして炎に包まれた物は二体。

 ならば、残る魔物の数は二体の筈なのだ。

 

「サラ!」

 

「はっ!?」

 

 リーシャの声に我に返ったサラが見た物は、緩慢な動きをしながら自分に牙をむける<バリィドドッグ>であった。 

 リーシャの声が早かったため、今なら、左手に持つ<青銅の盾>が間に合う。頭で考えるよりも早く、サラの左手が上がり、<バリィドドッグ>の牙を抑えたかに見えた。

 

「キャ――――!!」

 

 しかし、サラが完全に防御をしたと思われた<バリィドドッグ>の牙が、青銅で出来ている筈の盾を食い破ったのだ。

 手に持っていた<青銅の盾>を容易く破られたサラの左腕は、牙が突き刺さり、盛大にその生命の源である血液を流し始める。

 

「ちっ! <ルカナン>か!?」

 

 カミュが舌打ちと共に、サラに襲いかかった<バリィドドッグ>を斬り捨てる。切り捨て際に<メラ>を放ち、その斬り口に火球を送り込んだ。

 斬り捨てられ、体内を焼かれた<バリィドドッグ>は絶叫を上げながら絶命し、残る魔物は一体。

 再度詠唱しようと手を挙げたメルエを抑え、<バリィドドッグ>にリーシャの剣が振るわれる。

 

「防御力が下げられている! 敵の攻撃は盾で防ごうとするな!」

 

「わかった!」

 

 魔物へと向かったリーシャに向け、カミュの言葉が飛んだ。

 カミュの方に視線を向ける事なく、リーシャは理解した事を示し、迎撃態勢に入っていた<バリィドドッグ>の牙をかわし、その胴体に<鋼鉄の剣>を滑り込ませる。派手に腐敗した体液を飛び散らせ、上半身と下半身を分断された魔物は、その内臓を引き摺りながら、尚もリーシャへと牙を向けた。

 

「メラ」

 

 大きく開けられた<バリィドドッグ>の口の中に、カミュの指先から発せられた火球が吸い込まれて行く。体内へと入って行った火球により、喉を起点に焼かれていく魔物は断末魔の叫びを上げる事も出来ずに地に伏して行った。

 

「サラ! 大丈夫か!?」

 

 魔物の掃討を確認したリーシャが、サラへと駆け寄って行った。

 <バリィドドッグ>の牙が突き刺さっていたサラの左手からは、真っ赤な血液が流れ落ちている。それは、昨日の雨が乾いた大地へと吸収される事なく、血溜まりを作っていた。

 

「……毒は受けていないようだな……」

 

「…………サラ………いたい…………?」

 

 リーシャに続いて到着したカミュの安堵を含ませた言葉に、メルエの心配そうな声。それは、ここ最近悩みがちであるサラの乾いた心を潤して行く。

 

「だ、大丈夫ですよ、メルエ……ホイミ……」

 

 痛みに歪んだ顔を無理やり笑顔に戻し、サラは回復呪文を詠唱する。穴が空いたような左手首を、淡い緑色の光が修復して行った。

 一度の詠唱では全てが修復されず、再度サラは<ホイミ>を唱る。最近では、一度の<ホイミ>では修復しきれない傷が多く、サラは最下級回復魔法である<ホイミ>の限界を感じていた。

 

「……しかし、あの魔物が唱えた魔法は何だ? 前に、身体能力が落ちた者と同じか?」

 

「……俺はアンタに防御力が下げられている事を伝えた筈だが……」

 

 自身が疑問に思った事を何でも口にするリーシャに、カミュは呆れた溜息を吐き出した。

 確かに、カミュはリーシャに向かってその魔法の属性を伝えている。しかも、それに対して、リーシャも頷きを返しているのだ。

 

「そ、そうだったな! では、あれは<ルカニ>か!?」

 

「いえ。<ルカニ>は単体に効力を発揮する呪文です。あの魔物が遠吠えをした瞬間、私達全員の身体が光りました。であれば、おそらくあれは複数を対象とする呪文である<ルカナン>だと思います」

 

 カミュの防御力低下という言葉に、リーシャはここ最近受けていた授業の内容を必死に思い出す。そして辿り着いた答えを、自信を持って告げるのだが、それはカミュではなく、彼女の講師をしていたアリアハン教会の僧侶によって否定されてしまった。

 

「……アンタ、しっかりと教えを受けているのか?」

 

「くっ! 少し間違えただけだ! 効果は合っているんだ! あながち、不正解という訳でもないだろ!」

 

 サラの容赦のない採点。

 呆れたようなカミュの呟き。

 リーシャは居た堪れない気持を抑えきれず、顔を赤くしながらカミュへと唾を飛ばす。

 

「…………ん…………」

 

「……ん?……ああ、メルエ、よくやった。また魔法が使える事は解ったか?」

 

 拳を握り締めながら羞恥に耐えるリーシャに向かって、そこまでの会話を全く無視するように、<とんがり帽子>を脱いだメルエがリーシャへと頭を突き出してきた。

 もはや、メルエが魔法によって魔物を倒した時の恒例となった儀式。お褒めの言葉を掛けながら、リーシャが優しく頭を撫でてやると、メルエは嬉しそうに頬を緩め、目を細めていた。

 

「さ、さあ、行きましょう。私の傷ももう大丈夫ですので」

 

 カミュがリーシャをからかい、リーシャが怒る。そして、それに割り込むようにメルエが現れ、場が和む。そんな、このパーティー独特の流れが出来始めていた。

 サラはこの空気が好きになりかけている。そんな空気の中にいる自分も含めて。

 

 

 

 それから先、何度か魔物と遭遇しながらも順調に歩を西に進める一行は、陽が傾き始め、西日と変わる頃に、木が鬱蒼と生い茂る森へと辿り着いた。

 

「……老人の話では、この森の中に<エルフの隠れ里>があるという事だが……」

 

「こんな所まで、あの方は一人で来ていたのですか? それならば、<西の洞窟>と呼ばれる洞窟にだって……」

 

「いや、それは無理だ、サラ。洞窟内は逃げ場がない。それに、基本的に洞窟内では<聖水>の効力は届かない。ここまでであれば、<聖水>を大量に自身の身に振りかければ、なんとか来る事も出来よう」

 

 <ノアニールの村>を出て、この村まで歩き、そして森の中を通って<エルフの隠れ里>まで老人が来ていたという事に、サラは昨晩から感じていた疑問をつい口に出してしまった。

 しかし、それは即座にリーシャによって否定される。確かにリーシャの言う通りの行動を取り、太陽の光が届く所であれば、魔物を寄せ付けない状況を作り出す事も可能であろう。それでも、サラの表情は晴れなかった。

 それがサラの苦悩の深さを如実に表している。

 

「……あの老人の事は、この際どうでも良い……行くぞ」

 

 冷たく言い放ったカミュが先頭に立って森の中に入って行く。表情が優れないサラも、考えるのを中断し、カミュの後を追って森の中に入って行った。

 

 

 

「あの老人は、エルフに会ってもらう以前に、里に辿り着けてもいないようだな……」

 

 森に入って暫く歩いた時、不意にカミュが口を開いた。

 その言葉にリーシャは不思議そうに森の中を見渡すが、特に変わった様子もない。しかし、森に入ってから、一行は魔物に一度も遭遇してはいない。いや、魔物の気配すらも感じていないのだ。 

 このような広い森の中で魔物と遭遇しない事は、珍しいというよりも、異常な事であった。

 

「……どういう事だ、カミュ?」

 

 リーシャの疑問に振り返ったカミュの顔は呆れ顔だった。

 『また、何か変な事を言ってしまったか?』という不安がリーシャを襲うが、静かにカミュは口を開いた。

 

「……アンタは何も感じなかったのか? そっちの僧侶は気が付いていたみたいだが?」

 

「なに!? サラ、何かあったのか!?」

 

「えっ!? あ、い、いえ、何か違和感があるだけです」

 

 そうなのだ。

 カミュは、森に入ってから、奇妙な感覚に襲われていた。

 一瞬、眩暈のような感覚を覚え、目を瞑った後に開いた瞳に映った森には、何か違和感があった。それは、カミュだけではなく、サラも感じていたのだ。

 

「……おそらく、『エルフ』の結界か何かだろう。里に『人』を近付けない為の処置なのか、魔物が森に入り込まない為の処置なのかは知らないが……」

 

「結界だと!?」

 

 カミュの考えは、あながち的外れとは言えないものだった。

 『人』と『エルフ』という異種族は、昔から相容れない者として争いを続けて来た歴史がある。しかも、それは大昔の話ではない。故に、『エルフ』が『人』を敵として認識していてもおかしくはないのだ。

 『人』が『魔物』と『エルフ』を恐れるように、『エルフ』も『人』と『魔物』を排他しようとしても何ら不思議な事ではない。

 

「そんな……話し合いにも応じようとしないのですか?」

 

 カミュの言葉と自分の感じる違和感の正体を理解したサラは、絶望にも似た表情を浮かべ、自身の胸に湧き上がる想いを口にしてしまう。しかし、その小さな呟きは、隣に立つ『勇者』の耳にしっかりと届いていた。

 

「……そんな事は、アンタのような教会の人間もまた、同じ筈だ」

 

「そ、そんな事は!?」

 

 サラが漏らした感想にカミュが冷たく呟く内容は、サラにとって許容できない物。

 しかし、ここまでで『人』の醜い部分を知ってしまったサラには、カミュに強く反論するだけの自信がなくなって来ている事もまた事実であった。

 

「……メルエ、どうした?」

 

 俯いてしまったサラを一瞥した後、カミュは会話に参加せずに一点を凝視しているメルエに気が付いた。

 メルエは木の上の方を見上げていたのだ。

 

「……ま……まさ…か……また……なのですか……?」

 

 カミュの声に顔を上げたサラは、メルエを見て、以前の宿営地での出来事を思い出してしまう。

 メルエだけが見える住人達。それがここにもいるのではないかと。

 

「…………あれ…………」

 

「ん?……ああ。メルエ、あれは『リス』だ」

 

 振り返ったメルエは、見上げていた木を指差し、首を傾げる。そんなメルエの指差す方向を見て、メルエが見ていた小動物の名前を、リーシャは微笑みを浮かべながら教えた。

 メルエは『リス』を見た事がなかったのだろう。リーシャが紡ぎ出した小動物の名を、何度か反芻した後、嬉しそうに微笑み、再び木の枝の上で木の実をかじるその動物を見上げていた。

 

「ふぅ……驚かせないで下さいよ、メルエ」

 

「なんだ? サラは幽霊でも見つけたとでも思ったのか? 怖がりだな」

 

 安堵の溜息を洩らすサラに対して言葉を掛けるリーシャの頬は明らかに緩んでいる。からかっている事が丸解りだ。

 

「ち、違いますよ! わ、私は『僧侶』です。霊の存在など恐怖の対象ではありません!」

 

「ほう……そうなのか?」

 

 そんなリーシャの心の中が透けて見えたサラは、顔を赤くしながら反論する。その声は自然と大きくなり、森の中に木霊した。

 生い茂る木々の間を抜け、サラの声が森の中を響き渡る。

 

「…………あ…………」

 

 そんなサラの叫びに驚いてしまった『リス』が、木の枝で食べていた木の実を口に頬張り、逃げ出してしまう。残念そうに肩を落とし、サラへと振り返ったメルエの瞳は、鋭く睨みつける物だった。

 

「あ、あの……メルエ?」

 

 メルエの厳しい視線を受けたサラが、窺うようにメルエの名前を呼ぶ。しかし、サラの視線を無視するように、メルエの口が小さな呟きを洩らした。

 

「…………サラ………きらい…………」

 

「はうっ!」

 

 久しく聞いていなかったメルエの拒絶。

 可愛く頬を膨らましながら睨みつける姿は、リーシャにとって微笑ましい物であったが、当のサラにとっては、十分痛い物となっていた。

 

「さて、どうしたものか……」

 

 そんな一行の和やかムードも、カミュの一言で吹っ飛んでしまう。森に入ったは良いが、正直今のカミュには、この森から里に行く事も出る事も儘ならなかった。

 

「…………リス…………」

 

 カミュと同じように途方に暮れていたリーシャとサラであったが、突如メルエが、先程見ていた小動物を再び見つけて、そちらに駆け出してしまった。

 三人が気付いた時には、メルエが駆け出した後。

 

「お、おい! メルエ!」

 

 メルエを追ってリーシャが駆け出す。そんな状況に、諦めの溜息を吐いたカミュは、ゆっくりと歩き出した。

 取り残されたサラは、自分の身を覆うような不思議な感覚に戸惑いながらも、一度周囲を見渡した後、カミュ達を追って森の奥へと走って行った。

 

 

 

「メルエ! 勝手に走って行っては危ないだろ!」

 

「…………リス…………」

 

 考えていたよりも速いメルエの足に四苦八苦しながら、ようやくその小さな身体を捕まえる事に成功したリーシャは、メルエの帽子を取って軽く拳骨を落とす。リーシャの拳骨を受け、手を頭に乗せたメルエの眉はハの字に下がり、か細い声で言い訳を口にした。

 

「メルエ……メルエが『リス』を初めて見て、嬉しくなるのも解る。だがな、こんな森の中を一人で走り出してしまったら、迷子になってしまうだろう? そんな事になってしまったら、私達と二度と会えなくなってしまうかもしれないんだぞ」

 

「…………いや…………」

 

 リーシャの言葉を正確に理解したメルエの眉が益々下がって行く。哀しそうに瞳を伏せたメルエは、拒絶を示すように、小さく首を横に振った。

 

「そうだろ? 私もメルエと会えなくなるのは嫌だ。だから、一人で勝手にどこかに行ってしまわないでくれ」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの真剣な表情。

 そして、真剣な訴え。

 メルエの未来への道を抉じ開けてくれた人物を、これ程に困らせてしまった。その事がメルエは非常に悲しかった。

 目に涙を溜めながらこくりと頷くメルエに、リーシャは笑顔で頷く。お互いを想う二人には、周囲に気を払う余裕はなかった。

 

「……すごいな……」

 

「……カミュ様……これは……」

 

 故に、その空間の異様さに気が付いたのは後から来たカミュとサラの二人となる。

 そこは、カミュですら目を見張る程、異様な光景が広がっていた。木々が奇妙に曲がり、アーチを描いている。その木々は枯れ果てた物ではなく、青々と葉が茂っており、人工的に無理やり曲げたというよりも、自然にそのような形になったと言われても納得してしまうような代物であった。

 両側の木々がアーチを描いたトンネルは、カミュ達を歓迎するかのように、その奥へと誘う。導かれるように、誘われるように、メルエがその木々のトンネルの中へと足を踏み入れた。

 

「メ、メルエ! 私の話に納得したのではなかったのか!?」

 

「…………メルエ………走って………ない…………」

 

 先程自分がメルエにした注意を無視される形となり、リーシャはメルエへと叫ぶが、不思議そうに振り返ったメルエは、<とんがり帽子>のつばを握りながらリーシャへと反論を始めた。

 そんなメルエに溜息を吐きながら、リーシャは何故かカミュへと視線を移す。リーシャの視線を受け、カミュは一つ頷き、メルエの後に続いて木々のトンネルへと入って行った。

 その後を、リーシャとサラも続き、先が暗い闇に閉ざされるトンネルの奥へと進んで行く事となる。

 

 

 

「……ここが、<エルフの隠れ里>ですか?」

 

 トンネルを抜けた場所に佇み、サラが呆然とそこから見える景色に見入っていた。

 そこは木々が生い茂り、花が咲き乱れ、心地よい風が吹いている。馬が近くを通り、その馬を引いているのは、『人』に見えるが、『人』成らざる者。『人』どころか『魔物』よりも強い魔法力を持つ『エルフ』であろう。

 

「……すみません……ここは<エルフの隠れ里>でよろしいでしょうか?」

 

 呆然とするサラを放って、カミュが一人のエルフに話しかけた。

 そのエルフは年若く、サラと同年代に見える。

 

「ええ、ここは<エルフの隠れ里>よ。……あっ!?……アナタ方、人間ね!? 人間と話す事など出来ません!」

 

 にこやかに振り返り返答したエルフの女性は、カミュの姿を見て、驚愕の表情を浮かべた後、脱兎の如く、里の奥へと逃げて行った。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ! カ、カミュ……どういう事だ?」

 

「……」

 

 凄いスピードで走り去るエルフに驚き、声を上げたリーシャは、追う様に挙げた手のやり場を失くし、手を挙げたまま眉尻を下げ、カミュへと振り返る。しかし、カミュの表情は濃さを増した無表情が張り付いていた。

 

「……カミュ様……」

 

「……とにかく中に進む……」

 

 リーシャの表情を見て、不安が広がったサラまでもカミュの方へと視線を向けた。

 二人の表情に自然と、カミュのマントの裾を握っていたメルエの手の力も強くなる。カミュは、三人の視線を一身に受け、里の奥へと目を向けながら一言だけ答え、歩を進めた。

 

 

 

「貴方方『人間』には物を売りませんわ。お引き取りあそばせ」

 

 里の奥に入ると、一軒の店が開いていた。里の状況を聞こうと、カミュが声をかけた所、身も蓋もない言葉が返って来る。それは、完全なる拒絶。

 カミュやリーシャを拒絶しているのではなく、『人』を拒絶しているのだ。

 

「いや、物を欲っしている訳ではないのだ!」

 

「お引き取りあそばせ……」

 

 リーシャが弁明をしようと口を開くが、それに被せるように口を開いたエルフの言葉はまたしても拒絶。仕方なく、一行は店を離れた。

 

「ひぃ、人間ね! キャ―――!! 攫われてしまうわ!」

 

 店から離れた場所に立っていたエルフの女性に至っては、カミュ達の姿を見るや、叫び声を上げて逃げ去ってしまう。

 

「……どうしてこのような……『エルフ』を攫うなど……」

 

「実際に、そういう事があった筈だ。何もなければ、これ程に『人』を恐れ、拒絶する事はない」

 

「……そ、そんな……」

 

 逃げ去っていくエルフの背中を見つめながら溢したサラの言葉は、カミュによって斬り捨てられた。

 今、目の前で起こっている状況がサラにはいまいち掴みきれない。

 『何故このようなことが起こっているのか?』

 『何故、自分達がこれ程拒絶されなければいけないのか?』

 いつも一行以外の他人にあまり興味を示さないメルエまでも、どこか怯えたような瞳をカミュへ向けていた。 

 

「……相当嫌われているな……老人の言っていた女王に会う事など出来るのか?」

 

「ど、どうするんだ? このままでは、話等夢のまた夢だぞ」

 

 嘆息と共に吐き出されたカミュの言葉に、リーシャも同意を表す。確かに、この里に入ってからの住民の反応を見る限り、とてもではないが友好的とは言い難く、この里の長である女王もまた同じ感情を『人』に対して持っている事も明白である。

 

「…………みんな………メルエ………きらい…………?」

 

「メルエ……いいえ、メルエの事が嫌いなのではないのです。ただ……」

 

 歯切れの悪いサラの答えに、メルエの首は傾き、救いを求めるようにカミュを見上げる。メルエの視線が自分から映った事に気が付いたサラもまた、このパーティーのリーダーであり、この世界の勇者である青年へと視線を移す。

 自然と三人全員の視線が再びカミュへと集まって行った。

 

「……ここでこうしていても仕方がない。とりあえずは、女王がいる場所へと移動する」

 

 周囲を見渡すように視線を巡らせたカミュは、メルエやサラの疑問には答えずに、今後の方針を口にする。自分の問いかけに対し、明確な答えがなかった事で、メルエの眉は下がったままとなっていた。

 

「移動と言っても、女王様のいる場所など解るのですか?」

 

「……少しは自分で考えてくれ……まずは、ここから見える中で一番大きな建物を目指す」

 

 全ての疑問を自分に向けてくる仲間達に、若干疲れた顔をしたカミュが、方針を説明し歩き出した。疑問を投げかけたサラも、気不味い表情を浮かべその後を付いて行く。

 

 

 

「何用か? ここは我らが女王様のおわす館。そなた等の様な『人間』が立ち入って良い場所ではない。お引き取りあれ」

 

「…………」

 

 カミュが指差したこの里一番の大きさを誇る建物には、これまた女性のエルフ騎士が門番をしていた。

 その姿はどこかリーシャを彷彿とさせるような立ち振る舞いで、カミュのマントの裾を握っていたメルエは、門番とリーシャを交互に見比べていた。

 

「……初めまして。私は、アリアハンのカミュと申します。この近くの村、<ノアニール>について女王様とお話をさせて頂きたく、お取次ぎをお願いしたいのですが」

 

「先程申した筈だ。そなた等『人間』と話す事など何一つない。早々に立ち去れ!」

 

 仮面をつけたカミュの言葉にも、冷たく突き放す門番。

 話をする以前の問題なのだ。

 

「……どこにおいても、『戦士』という職業は脳筋馬鹿ばかりなのか?」

 

「……カミュ……それは私も含まれているのか?」

 

 カミュの小さな小さな呟きは、隣にいるアリアハンからの付き合いとなる『戦士』にだけは聞こえていた。

 カミュの物言いには腹が立つ。だが、この門番が行っている事や言っている事は、仕事柄当然の事でもあるが、リーシャも、この門番の頭の固さには溜息を吐きたくなっていたのだ。

 その門番と自分がイコールで結ばれてしまう事に、リーシャは些か落胆していた。

 

「私達は『人間』ではありますが、女王様をはじめ、『エルフ』族に危害を加える気は全くございません。何卒、お取次ぎをお願致します」

 

「ふん! そんな事が信じられるとお思いか?……我らがどのような苦しみを味わったかを知っているのならば、そのような言葉が口から出る事などあり得はしない」

 

 深々と頭を下げるカミュの嘆願も、この門番には演技にしか見えていなかった。

 そして、頭を下げていたカミュも、門番の最後の言葉に、諦めにも似た表情を浮かべて顔を上げる事しか出来なかった。

 

「…………メルエ…………だめ…………?」

 

 カミュ、リーシャ、サラの三人が、エルフの長と会う事を半ば諦めかけた時に、今までマントの裾を握りながら、門番を見つめていたメルエが口を開いた。

 つい先日、初めての友人を得て、『他人』からの好意という存在を知ったメルエは、他人からの拒絶に関して敏感になっている。カミュ達一行は、もはやメルエにとって家族の様な物。それ以外の『人』からの嫌悪や敵意という物は、その小さな胸を締め付ける程の威力を誇ったのだ。

 メルエから見れば、『人』も『エルフ』も大した違いなどない。いや、もしかすると、カミュ達さえ剣を抜かなければ、『魔物』とて、先程目にした<リス>とそう違いがないのかもしれない。

 

「む!?……幼き者、そうではない。何もそなたが悪い訳ではないのだ。う~む……どう申せば良いか……うぅぅ……」

 

「…………」

 

 そんなメルエの純真な問いに、真剣に考え込んでしまう門番を見て、カミュの口元に変化が表れる。

 この門番は、良くも悪くも真面目なのだ。『人』を嫌悪してはいるが、それは個人ではない。メルエという人格を否定している訳ではない。それでも、『人』を許す事が出来ない。

 それが、この門番を悩ませている。

 カミュは、何故かこの門番の姿を好ましいと思った。

 凝り固まった固い頭の中に自分の感情や考えがあるにも拘わらず、それでも自分の中で新しく考えようとする気持ちがあるこの人物を。

 それは、最近少しずつ変化を見せ始めている誰かに似ているからなのかもしれない。

 

「う~む……はっ!? あっ!……か、畏まりました……女王様がお会いして下さるそうだ。失礼なきよう気をつけよ」

 

「え!?」

 

「……ありがとうございます」

 

 メルエの問いに尚も頭を捻っていた門番の女性エルフは、突如何かに導かれるように顔を上げ、まるで誰かと会話をしているような仕草をした後、門を開け、カミュ達を中へと促した。

 門番の変貌に驚きの声を上げるサラであったが、カミュは門番に恭しく頭を下げる。そして、それを見ていたメルエも、門番に可愛らしく頭を下げた。

 メルエの姿に、今まで険しい顔をしていた門番の頬も少し緩んだように見えた。

 

「……幼き者よ。一つだけ憶えておいてくれ。私達は皆、そなたの事を嫌っている訳ではない。ただ……そなたと同じ『人』が犯した行為を忘れる事が出来ないのだ。出来る事ならば、そなたの様な瞳を我らに向けてくれる『人』が育ってくれる事を願っている」

 

「…………ん…………」

 

 カミュに続いて門へと入ろうとするメルエに向かって語った門番の言葉は、サラの胸に矢の様に突き刺さり、思わず顔を上げてしまった。

 『人』が犯した行為。それがどれほどの事なのかは解らない。ただ、『エルフ』全体にここまでの感情を持たせてしまう程の事なのは間違いがないだろう。

 それ程の事なのにも拘わらず、同じく『人』であるメルエに対し笑顔を作る事が出来る彼女に、サラは再び悩み出す。

 

『果たして、自分はこのように『魔物』に対し笑顔を向ける事が出来るのだろうか?』

 

 親を殺されたという事は、とてつもない哀しみである事は間違いがない。しかし、この里を見た限り、『エルフ』達はそれ以上の哀しみを受けた可能性を否定は出来ない。サラは、また深い悩みに落ちて行くのだった。

 

 

 

「よくぞここまで辿り着けましたね。貴方方の中には、余程純粋な者がいるのでしょう。ここへの入口に辿り着く事は、通常の『人』には到底不可能な筈です」

 

 案内された先の広間に着くと、前方の玉座に一人の女性が座っていた。

 歳の頃は解らない。門番の女性とそう変わらない歳にも見えるし、若干上にも見える。いや、もしかしたら下なのかもしれない。

 『エルフ』は人間の寿命とは比べ物にならない程の寿命を持つ。それは、数百年単位であり、長寿となれば千年を超える者もいるのかもしれない。

 

「……初めてお目にかかります。カミュと申します。女王様へご拝謁出来る栄誉を賜り、有難き幸せに存じます」

 

「……知っております。ふむ。そなた等がここに来る事が出来たのは、そこの幼き者のお蔭なのですね。これ、そなたの名は?」

 

 名乗りを上げたカミュを一瞥した女王は、すぐに興味を失くしたように視線を動かす。女王の『知っている』という言葉の意味する事を理解出来ずに、カミュは女王の視線の先で跪いている幼い少女を紹介する為に口を開いた。

 

「この者は……」

 

「よい! 直答を許します。して、そなたの名はなんと申す?」

 

 女王の問いに、答えようとしたカミュの言葉を途中で遮り、もう一度女王はメルエへと問いかける。リーシャと一緒に可愛らしく膝をついていたメルエは、大いに困惑していた。

 横にいるリーシャがメルエの小さな背中を軽く押してあげる事で、ようやくメルエの顔が上がる。

 

「…………メルエ…………」

 

「ほう……メルエと申すか……ふむ。そなたにも、何か懐かしい風を感じますね」

 

 メルエの名乗りに何やら考え、意味深な言葉を残す女王にメルエは小首を傾げていた。

 それは、カミュ達も同じ。特に、サラは、女王の『そなた<にも>』という部分に引っかかりを覚えていた。

 

「……それは良いとして、そなた等『人間』がここに一体何の用ですか? 我々は『人』であるそなた等とは関わり合いを持たぬ事にしておる。用がないのなら早々に立ち去るが良い」

 

「……はい。此度は女王様に嘆願を致したく、ご尊顔を拝しました。この近くに<ノアニール>という村がございます。その村の住人は全て、十数年の眠りに落ちております。それらは、女王様のお力という事をお聞き致しました。出来ますれば、眠りを解く方法をお教え頂ければと……」

 

 カミュの言葉を、女王は無表情に聞いていた。

 一切の感情が見えない表情。

 それはカミュのそれと大した違いはない。

 そこに嫌悪と敵意が隠されているか否かの問題であった。

 

「……断る。何かと思えば、そのような事か。そなた等『人』は、自分達の窮地になれば、そのように申して来る。自分達が行って来た行為も忘れてな」

 

「……」

 

 『エルフ』の女王が語る<人の業>。

 カミュの嘆願を斬り捨てた女王の怒りが、その深さと重さを物語っていた。

 

「ふむ……そなた達は皆まだ若い。故に知らぬ事かもしれん。しかし、実際に起きた出来事である事に変わりはない。我々『エルフ』はそなた等『人』の十倍程の寿命を持つ。つまり、そなた等『人』が忘れ去ろうとしている罪を、その身に受けた者達もまだ生きているという事。『人』が忘れても、『エルフ』は忘れぬ」

 

 カミュの嘆願を容赦なく斬り捨てた女王は、黙り込んでしまった一行にぽつりぽつりと過去の『人』と『エルフ』の歴史を語り出した。

 

「『人』はこの世界で、一番遅くに生まれた種族であった。神が創り、『精霊ルビス』が護るこの世界には、既に他の種族が生活をしていた。それぞれにそれぞれの生活場所を作り、暗黙の了解の下、不可侵を約束しておった」

 

「……」

 

 語り出された女王の話は、遥か昔に遡る。この世界が創生され、『人』という種族が生まれる頃。それは、『人』の歴史の原点であり、もはや記録なども残っていない程に昔の話。

 

「生まれたばかりの『人』は、余りにも弱かった。故に『精霊ルビス』は、我々『エルフ』に『人』の守護を依頼されたのだ」

 

「ル、ルビス様が!?」

 

 その内容に、前回ロマリアでの謁見時にリーシャに言われた事を忘れてサラが声を上げる。この世の守護者である『精霊ルビス』が『人』の守護を他種族である『エルフ』に頼んでいたというのだ。

 それは、教会が教えている事を、根底から覆す内容である。

 

「そなた等『人』は、都合の良いように話を作っているのであろう。我々『エルフ』は脆弱な『人』の生活を様々な面で助けた。時には『魔物』からの脅威を取り除き、時には生活に必要な知識を与え、また、『人』の中にも魔力を持つ者達には、魔法を教えた」

 

「……」

 

 サラの叫びに、女王は一度目を瞑り、遥か昔に想いを馳せる。自分達の歴史を残す手段も、長い寿命も持たぬ『人』は、未来を生きる者達に『人』の原点を伝える事は出来なかった。

 故に、後世の人間達が、己の都合の良いように歴史を作り変えたと女王は語っているのだ。

 

「時が経ち、『人』は独自の集落を作り、この世界で暮らし始めた。我らも、『人』が窮地に陥った時のみ手を差し伸べる形となり、彼等の独立を喜んでいた。しかし、『人』は我らや『精霊ルビス』が考えるよりも、遥かに貪欲であったのだ。そして、神は『人』に『エルフ』や『魔物』以上の能力を与えていた……何か解るか……?」

 

「……繁殖能力ですか?」

 

 過去を語る女王が不意にその話を止め、一向に疑問を向けて来る。それに答えたのは、『精霊ルビス』がこの世に落とした希望と云われる『勇者』。

 その『勇者』の答えを聞き、女王は満足そうに頷いた。

 

「そうだ。『人』の増加は、我々『エルフ』にとって脅威と感じる程の速さだった。数を増やした『人』は一つの場所では留まらず、大陸を移動し、更に数を増やして行く。当初、寿命の短い『人』であれば、それほどの数にはならないだろうと思ってはいたが……」

 

「……子や孫ですか……」

 

 言い淀む女王の言葉を繋げたのも、やはりカミュであった。

 過去を思い出すように目を瞑った女王は、一つ息を吐き出した後、小さく頷きを返す。それが、カミュの言葉を肯定していた。

 

「うむ。『人』は年月を経て行く内にその数を更に増やして行く。また、『エルフ』が魔法に頼る事や『魔物』が翼などに頼る事を、『人』は試行錯誤を繰り返し、文化として成長させて行った。船なる物を作り、大陸同士を結び、移動を繰り返してはその数を増やす」

 

 サラもリーシャも女王の話に聞き入ってしまっていた。自分達の知らない遥か昔の出来事。

 女王の話では、ほんの一瞬の様に話してはいるが、人間が生まれ、子孫を残し、船などを作ったとなれば、それは気の遠くなるような時間を要する事であろう。

 

「その内、『人』は同種族同士での争いを始めた。我々『エルフ』では考えられない事だ。同じ種族として生きる者達が手を取り合わないなど……しかし、それも『人』の数が増え過ぎた為なのだろう」

 

「……」

 

 続く女王の言葉に、サラは顔を伏せてしまった。

 確かに、人間は他国同士での争いを絶えず行って来た。今、まさに『魔王』という存在が皆の心を纏めてはいるが、それも討伐されれば、どうなるかは分からない。

 

「我々は、『人』同士の対立に関与はしなかった。しかし、我々の住処を脅かす可能性が出てくれば、守護すべき対象であろうと排除して来た。それが、『人』に恐怖を植え付けたのかもしれん。いつしか、『人』は『エルフ』に牙を向くようになっておった。我々が施して来た恩も忘れて……」

 

「し、しかし、『エルフ』と『人』では……」

 

 堪らず、サラが声を上げる。ここは、<エルフの隠れ里>とは言え、その長がいる謁見の間。カミュの従者であるサラが口を開いて良い訳がない。

 リーシャは慌ててサラを抑えようと手を上げるが、玉座に座る女王自らの手によって遮られた。

 

「良い。確かに、『エルフ』は『人』よりも遥かに高い魔力を有している。しかし、基本的に力などは『人』よりも劣る者達が多い。そして、数が圧倒的に少ないのだ。ここでは語るまいが、我々の繁殖方法は、『人』とも『魔物』とも違う。我々は基本、『人』でいう性別という者は女性しか産まれない」

 

「……では、どうやって……」

 

 曲がりなりにも、サラは十七歳になる女性であり、子を成す方法などの知識は有している。人間では、男と女という性別の違う者達が最低一組いなければ、子を成す事など出来ない。

 

「それを『人』であるそなたに語る気はない!……数の暴力の前に我々は次々と倒れて行った。見た目は女性という者達ばかり。攫われ、奴隷として売られた同朋も多いだろう。基本的に他種族の『エルフ』と『人』では子を成す事など出来はしない。故に、それを幸いとばかりに『人』に蹂躙された者達も数多くおり、『人』よりも寿命の長い我々は、心の傷を抱えながら長い年月を生きなければならなかったのだ」

 

「……そ、そんな……」

 

 女王が広げる人の歴史の巻物は、膨大な情報と、そして罪が隠されていた。

 『人』に辱められた者を救い出したとしても、その者は生きている限り、心の傷が癒える事はない。その『エルフ』に消えない傷を残した人間は、その『エルフ』の三分の一も生きる事が出来ずに死んで行く。

 向かう矛先を失った『怒り』と『哀しみ』と『憎しみ』は、『エルフ』の心を更に蝕んで行くのだ。

 

「親を目の前で殺された子供や、身内を目の前で凌辱された者、我々が救う事の出来なかった者達は数多い。それ程の事をして来た人間が、我らに頼み事など良くも言えたものだ!」

 

 人間が成して来た黒い歴史。それを目の前に広げられ、サラは言葉を失った。

 リーシャにしても、女王が虚言を発している訳ではない事ぐらい理解出来る。故に、唇を強く噛み、下を向いて震える事しか出来なかった。

 

「わかりました……ただ、今回の<ノアニールの村>での事は、それとは別と考えてもよろしいのでしょうか?」

 

 リーシャもサラも、何の反論もできず、ただ俯くしか出来なかった場面で、ただ一人口を開いた者。それは、やはり全員が最近何かにつけ信頼を置き始めている青年だった。

 感情的になり始めた謁見の間の中で、カミュの瞳だけはとても冷静に状況を見極めていた。

 女王の語る『人』の歴史は、確かに『エルフ』の心に残る傷跡であり、憎しみの欠片なのであろう。だが、それが<ノアニール>に結びつく事を、女王は明言してはいない。

 

「……全く関係がない訳ではない。ただ、『人』が私にとって最も忌むべき存在になったという事だ」

 

「……そ、それは……」

 

 カミュの冷静な問いかけを聞いても、女王は態度を変える事はなかった。

 この『エルフ』の長が持つ、『人』への憎しみの度合いに、サラは言葉を失う。元々、この場で発言が許される者ではないサラの声は、謁見の間に虚しく響いた。

 

「そなた達が生まれる前の話になるかもしれん。私には一人娘がおった……」

 

 女王が話し始めた内容は、<ノアニール>で老人から既に聞いていた話。

 『人』と『エルフ』の哀しい恋の話。

 しかし、次の女王の言葉に、一行の全員が息を飲んだ。

 

「……私の娘『アン』は、一人の人間を愛した……」

 

「アン!?」

 

「!!」

 

 カミュを除く全員が、女王の口から出たその名前を叫んでしまう。それは、常に場を弁え、頭を下げているリーシャですら、勢い良く顔を上げて声を上げてしまう程の衝撃のある名前だったのだ。

 

「……そなた等が何を驚いているのかは知らぬが……我が娘『アン』は我ら『エルフ』の至宝である『夢見るルビー』を持って、その男の下へ行ったまま帰る事はなかった」

 

「……」

 

 王の言葉に口を挟むという無礼な態度に気を悪くした様子もなく、女王は自分の胸の内に巣食う、憎悪と言っても過言ではない感情を吐き出し始める。

 

「所詮は『エルフ』と『人』……アンは騙されたに違いない。おそらく、『夢見るルビー』もその男に奪われ、この里に帰る事も出来ずに、辛い思いをしていた事だろう」

 

「……そ、そのような事は……」

 

 女王の言葉の中には思い込みの部分も多々あった。しかし、それを単なる思い込みだと口に出来る程、一行は人生という名の経験を積んではいなかったのだ。

 女王が見て来た『エルフ』と『人』の歴史。それに対して、軽々と発言が出来る程、カミュもリーシャも、そしてサラも自惚れてはいなかった。

 

「……本来、私は人間等、見たくもない。今回はただ、そなた等の中に純真な存在がいただけの事。理解したのなら、早急にここから立ち去るが良い」

 

 カミュは、『ここまでか』と理解する。これ以上は、どうあってもこの女王とまともな会話など出来よう筈がない。後ろに控えるリーシャとサラに目配せをし、退室する事にした。

 

「…………アン…………」

 

 リーシャに促され、背中を押されながら歩いて行くメルエがぽつりとその名を溢した。

 その名を持つ者、それは彼女の最初の友であり、二度とは会えない存在。

 そして、女王の最愛の娘にして、おそらく二度とは会えない存在。

 リーシャ達三人全員が退室したことを確認し、カミュも深く頭を下げ、女王に背を向けた。

 

「……待て」

 

「……何かございましたでしょうか?」

 

 カミュの背に掛った声は、女王の物。振り向く無礼を働かず、カミュは再び女王の前に跪いた。

 跪き、顔を上げないカミュを冷たく見下ろしていた女王の瞳からは、いつの間にか憎しみという感情は消えている。

 

「……あの幼き者は、最後に我が娘の名を呼んでいた。それに、そなたの従者達もまた、我が娘の名を叫んでいた……何故だ?」

 

 立ち去るカミュを止め、女王が訪ねた事。それは、カミュですら辛い記憶となり始めている事柄だった。

 メルエの心に大きな傷と、それよりも大きな希望を宿した出来事。話すべきかどうかを迷ったカミュであったが、女王の雰囲気を察し、重々しく口を開いた。

 

「……メルエには、つい先日に、生まれて初めての友が出来ました……その少女の名が『アン』と申します」

 

「……そうか……その者は健やかに育っているのか?」

 

 カミュの言葉に嘘を見なかった女王は、その内容を信じ、メルエの友の身を尋ねる。まるで、自分の一族を慮るような優しい口調は、『エルフ』という種族の大きさを示しているようにカミュは感じた。

 

「……いえ、その『アン』も、同じ種族である『人』の手によって命を落としています……」

 

「……すまない。あの幼き者には辛い事を思い出させてしまったようだな……しかし、そなた等もまた、そのような『人』の姿を見て、何故『人』を救おうとする?」

 

 メルエの心情を思い、『人』であるはずのカミュへと頭を下げる。その姿は、やはり『人』の保護者である『エルフ』の長としての威厳があった。

 そして、その後ろに続くカミュへの疑問。それは、物心ついた頃からカミュの根底にある疑問でもあった。

 

「……今の私は、女王様のご質問にお答え出来る回答を持ち合わせておりません……それでも尚、女王様が答えをお望みであるのならば……私もまた『人』です」

 

「……そうか……」

 

 もう一度、深々と頭を下げたカミュは、謁見の間を出て行った。

 傍の者達を人払いした謁見の間には、玉座へと座る女王だけが残される。

 

「……アン……母はどうすれば……」

 

 『人』の保護を『精霊ルビス』より言い遣った『エルフ』の長の呟きは、虚空の彼方へと吸い込まれて行った。

 

 

 

 <妖精の隠れ里>を出て森を抜けきるまで、一行の中で誰一人その口を開く者はいなかった。

 いつもは楽しそうに歩くメルエですら、何かを思いつめたように下を向いて歩いている。その手を引くリーシャもまた、メルエの様子を気にしながらも自分の中で消化しきれない想いを抱いていたのだ。

 里に入っている内に、いつの間にか陽は落ち、森を抜ける頃には、空に大きな月が輝く夜と化していた。

 背中にある森の中から、フクロウの鳴き声が響き、月明かりしか光がない平原は足元もおぼつかない程の闇に閉ざされていた。

 

「…………」

 

 そんな中、ふと顔を上げたサラは、リーシャの手を握りながら進行方向ではない方向を凝視しているメルエに気が付く。

 

「……ま、またですか、メルエ……もう驚かそうとしても駄目ですよ。それとも、このような夜中に何か動物を見つけたのですか?」

 

 サラは、そのメルエの視線の先を恐る恐る見ながら、メルエを窘める。

 しかし、メルエから返ってきた言葉は、サラの恐怖心を倍増させるものだった。

 

「…………なにか…………くる…………」

 

「へゃっ!!」

 

 静かに呟くメルエの声。その真剣さに奇妙な声を上げるサラ。そして、メルエの言葉に対し、剣に手を掛けるカミュとリーシャ。

 そして、暗闇に支配され、一寸先も見えない平原の先から響く奇妙な音。

 それは、金属を擦り合わせるような音であった。

 

「……あ……あ……あわ……」

 

「…………あわ………あわ…………?」

 

 暗闇の平原に、その音の主が月明かりに照らし出される。その姿にサラは、以前<カザーブ>で上げた意味不明な言葉を発する。暗闇を凝視していたはずのメルエが、そのサラの姿を見て真似を始めた。

 

「カミュ!!」

 

「……あれは、ロマリア王国の鎧か?……何故こんな所に……?」

 

 カミュとリーシャは剣を抜き放ち、そして戦闘へと突入するために身構えた。

 しかし、その現れた者の姿に、リーシャはカミュの名を叫び、カミュはその姿を冷静に分析し始める。

 

「鎧だと!! あれは人が着ているのではないのか!?」

 

「……わからない……しかし、あの鎧からは生気が全く感じられない」

 

 カミュはリーシャの問いに短く答えると、カミュ達の方向に真っ直ぐ進んでくる全身をすっぽり包む鎧を着た者に向かって、剣を構えて駆け出した。

 鎧に向かって躊躇なく振り落としたカミュの<鋼鉄の剣>は、鎧騎士の左腕にある盾によって防がれた。

 それでも、カミュは離れ際にもう一度剣を振るう。

 

「なに!?」

 

「!!!」

 

 カミュが振るったその剣は、鎧騎士が身に着けている兜に直撃し、その面甲が上がった。その面甲の中を見た一行は息を飲む事となる。

 そこに見えたのは一切の闇。

 人の目の部分が見える筈のそこには、何もなかったのだ。

 

<さまよう鎧>

無念の死を遂げた国家の鎧騎士が魔王出現による影響で肉体無き鎧だけが現世を彷徨う事になってしまった者。鎧に染み込んだ無念と怨念のみにて行動している為、人と魔物の区別なく襲いかかる。その身に魔力を有している訳でもなく、ただ、生前に所有していた剣を振り続ける者。その攻撃力は生前の騎士に相応しく、かなりの威力を有する。

 

「カミュ!!」

 

「メルエ! ヒャドをぶつけろ!!」

 

 全員が<さまよう鎧>の実態に動揺を起こすが、真っ先に立ち直ったのは、やはり国は違えど同じ騎士であるリーシャだった。

 そのリーシャが剣を抜き、<さまよう鎧>に向かう途中にカミュへと声をかけ、カミュはメルエへと魔法の行使の指示を出す。

 

「…………ん………ヒャド…………」

 

 リーシャの振るった剣が再び<さまよう鎧>の盾に弾かれ、リーシャ自身の身体が離れたその瞬間を見計らって、メルエの魔法が発動した。

 大気が凍りつく冷気が<さまよう鎧>へと真っ直ぐ向かって行く。本能からなのか、それとも意図的なのか、<さまよう鎧>の盾はメルエの放った冷気を受け止めるように動いた。

 まともに冷気を受けた盾は、その盾を持つ左腕部分諸共凍り付き、その機能を失う。

 

「やあぁぁぁ!!」

 

 再度斬りかかったリーシャの剣が凍り付いた<さまよう鎧>の左腕を叩き壊す。ガラスが砕け散るように、氷像と化していた左腕が砕け落ち、大きな音を立て地面へ落ちて行った。

 

「ルカニ!」

 

「ふっ!」

 

 左腕を失い、一瞬の隙ができた<さまよう鎧>にカミュが追い打ちをかけ、その右肩へ<鋼鉄の剣>を突き入れる。直前にサラが唱えた<ルカニ>によって防御力が低下している<さまよう鎧>の甲冑に、カミュの剣が抵抗なく突き刺さった。

 

「グォォォォォ」

 

 人とも魔物とも言えない叫びが、暗闇の平原に響き渡る。カミュ達の優勢は明らかだった。

 しかし、剣を素早く抜き放ったカミュが瞬時に飛び退き、メルエが次の詠唱に入る時にその形勢は大きな変化を起こす。<さまよう鎧>から全員が離れたその時、突如として<さまよう鎧>を淡い緑色の光が包み込んだのだ。

 それは、カミュ一行にとって何度も見て来た光。サラが、そしてカミュが使用する事の出来る癒しの光。

 カミュ達の見立てが正しい事の証明に、先程カミュが空けた甲冑の穴が塞がって行く。

 

<ホイミ>

それは、本来教会が保有する経典にしか載ってない筈の物。そして、神の祝福を受け、『精霊ルビス』の加護がある者にしか使用する事が出来ない魔法。

 

 驚きに目を見開く一行の前に現れたのは、アリアハンを住処にする最古にして最弱の魔物であった。

 それは、<スライム>。

 しかし、その<スライム>は青く半透明な身体は同じでも、身体の下に黄色い多数の触手を垂らし、空中をふわふわと漂っていた。

 

「な、何故!?」

 

「か、回復呪文だと!?」

 

<ホイミスライム>

最古の魔物であるスライムの上位種と云われる魔物。地を飛ぶように、這うように徘徊する<スライム>とは違い、空中を漂う。その身体から伸びる触手を使い何かを掴み、使用する事も可能な知能も持つ魔物。しかし、その最大の特徴は、魔法が使えるということ。しかも、それは神の祝福を受けた魔法<ホイミ>。その存在自体が教会の教えを根底から覆す存在となり得る魔物である。教会では、契約中の人間を襲い、何かの手違いで契約を済ませてしまった<スライム>が進化した物として伝えられており、教会が崇める『精霊ルビス』を侮辱する魔物として討伐の対象とされている。

 

「くそっ! <ホイミ>が使える魔物か!? メルエ! まずは、あのスライムからだ!」

 

「…………ん…………ヒャド…………」

 

 カミュの言葉にこくりと頷いたメルエは、先程まで<さまよう鎧>に唱えるつもりだった魔法を急遽変更し、<ホイミスライム>へと向ける。大気を凍らせる冷気が真っ直ぐ<ホイミスライム>へと向かうが、その魔物は張り付いたような気味の悪い笑みを浮かべたまま、その冷気をひらりとかわした。

 

「…………あ…………」

 

 自身の魔法を避けられたことにメルエは驚いた。

 今までの魔物には、避けられた事などないのだ。

 

「メルエ!」

 

 そのメルエの隙を見逃さず、瞬時に近づいてきた<さまよう鎧>が剣を振り下ろすが、間一髪その剣はリーシャの<青銅の盾>によって防がれる。

 

「くっ……サラ! あのスライムを頼む!」

 

「は、はい!」

 

 思っていた以上の力で押しこまれる剣を必死に盾で防ぎながら、リーシャがサラへと檄を飛ばす。メルエを護りながらでは、リーシャとて<さまよう鎧>に致命傷を負わせる事は難しい。ましてや軽傷では、<ホイミスライム>によって傷を癒されてしまう。

 本来、回復呪文で鎧などの傷を修復する事は出来ない。しかし、鎧に染み込んだ怨念や無念で動く<さまよう鎧>にとって、その鎧は身体その物。故に、回復呪文によって修復が可能となっているのかもしれない。

 

「やぁぁぁぁぁ!!」

 

 サラが手に持つ<鉄の槍>を<ホイミスライム>目掛けて突き入れる。しかし、ふわふわと空中を漂う<ホイミスライム>はその槍をひらりと避けてしまった。

 

「メラ」

 

 <ホイミスライム>が相手をしているのは、何もサラだけではない。避けた後方から、カミュの唱えた<メラ>の火球が襲いかかる。身を翻した先へ予測したように着弾した火球は、<ホイミスライム>に直撃した。

 瞬間炎に包まれた<ホイミスライム>へ、再度サラの<鉄の槍>が襲いかかる。一瞬で消え去った炎によって身体の一部が溶けた<ホイミスライム>の眉間部分に、サラの槍が突き刺さった。

 不気味な笑顔を張り付けていた<ホイミスライム>の表情が歪んだように見えたのも一瞬。命の灯が消えた魔物は、その形状を保つ事が不可能となり、ずるりとサラの槍から地面へと滑り落ち、粘着性のある液体へと変化して行った。

 

「リーシャさん!」

 

 <ホイミスライム>を倒したサラは、メルエを護りながら剣を振るうリーシャの応援に向かう為に振り返るが、そちらもすでに佳境へと入っていた。

 

「…………イオ…………」

 

 リーシャと共に<さまよう鎧>から距離を空けたメルエが先日覚えた爆発呪文を唱える。魔法力に余裕のあるメルエが唱えたそれは、以前見たものよりも大きな威力を誇り、弾け飛んだ大気と共に<さまよう鎧>の右腕も吹き飛ばした。

 

「よし! メルエ良くやった!」

 

 剣を持つ右腕を失い、攻撃手段を失った<さまよう鎧>など、もはやリーシャの敵ではなかった。

 地面を蹴って高く跳び上がったリーシャの振り下ろす剣が、先程サラが唱えた<ルカニ>によって脆くなっている甲冑へ脳天から吸い込まれて行く。

 兜から股までを斬り裂かれた<さまよう鎧>は、その体躯を真っ二つにして地面へと倒れて行く。暫くメルエを庇いながら立っていたリーシャであったが、鎧が全く動き出さない事を確認し、剣を腰の鞘へと納めて行った。

 

「……ふぅ……」

 

「……回復呪文が使える魔物がいるとはな……これからの旅は少しきつくなりそうだ」

 

 剣を鞘に納めて息を吐くリーシャへ、カミュは初めて現れた魔物についての感想を溢しながら近寄って来る。そのカミュの言葉にサラは再び思考の渦へと飲み込まれて行くのだ。

 回復呪文が使える魔物がいるという事。教会の伝える事を鵜呑みにすれば、それは何かの手違い。しかし、先程のエルフの女王の話を聞いた後であれば、何か納得の出来る事でもあったからだ。

 世界で一番遅く生まれた種族である『人』。それは、逆に言えば『精霊ルビス』の加護を『人』以前に受けていた種族があるという事になる。サラだけでなく『人』が忌み嫌い、ルビスを蔑にすると云われている『魔物』もまた、加護を受けていた種族という事にもなるのだ。

 

「……サラ……」

 

 再び、黙り込んでしまったサラを心配そうに窺うリーシャ。それは、サラの悩み、考えが何かを理解している表情である。リーシャとて、僧侶程ではないにしろ、『ルビス教』の信者である事に変わりはない。魔物が回復呪文を使う。それが意味する事が何なのかが分からない年でもない。

 

「……行くぞ。夜が更ければ、魔物達の動きも活発になる。明日は<西の洞窟>へと入る事になる筈だ。早々に村に帰って休む」

 

 そんな二人の葛藤を知ってか知らずか、カミュはその事に全く触れようともせず、村への道のりを歩き出す。リーシャとサラの様子に首を傾げていたメルエもまた、カミュのマントの裾を握り、後方のリーシャとサラを何度も振り返りながらも先を歩き始めた。

 

「さぁ、サラ……考えるのは、村の宿屋に入ってからにしよう。まずは身体を休めよう」

 

 先を歩くカミュ達に遅れないよう、リーシャはサラの背中を軽く押し、<ノアニール>への道を歩き出す。サラは、リーシャの言葉に無言で頷いた後、とぼとぼと月が照らす道に足を踏み出した。

 久しく見ていなかった、雲一つない月夜。戦闘をしている内に空の雲が全て流れてしまったのか、先程よりも強い月の光が、一行が向かう<ノアニール>への道を明るく照らし出していた。

 

 

 

 

 



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西の洞窟

 

 

 

 東から朝陽が上り、夜という幕を上げ始めた頃、<ノアニール>の宿屋の外では、カミュとリーシャが剣を交えていた。

 サラの鍛練はすでに終了しており、カミュとリーシャのせめぎ合いを地面に座りながら眺めている。メルエはここにはいない。まだ、宿屋の部屋のベッドで睡眠中である。今のメルエにとっては、文字や言葉の学習よりも、しっかりとした栄養と、十分な睡眠が一番必要な事なのだ。

 それを三人は理解している。故に、無理に起こしたりせず、メルエが自然に早起きをした時だけ、文字や言葉を教える事が暗黙の了解となっていた。

 サラの目から見て、カミュとリーシャの剣の力量はアリアハン出立時に比べ、格段に上がっているように見える。しかし、『どちらが上なのか?』と問われると答えに窮してしまう物でもあった。

 それは、アリアハン大陸にいた頃を知っていれば、可笑しな事。カミュとリーシャは、雲泥の差はないにしても明らかな力量の差があった筈である。

 

「くそっ!」

 

 カミュは、リーシャの剣を紙一重でかわしながら、舌打ちをした。

 カミュとて、アリアハンから出てから自分の剣の腕が上がっている事は実感している。それは、魔物との戦闘でも明らかになっていた。

 しかし、目の前にいるアリアハン屈指の戦士まで届かない。

 『もしかすれば、その差は縮まっているかもしれない』

 そう思い、毎朝挑んではみるが、その希望は必ず打ち砕かれる。

 宮廷騎士とはいえ、相手は女性。基本的に純粋な力であれば、女性より男性の方が強くて当たり前。では、目の前の人間が異常なのか。

 しかし、カミュの頭はそれを否定する。確かに、まだ力では及ばないかもしれないが、物を持つような力はいずれカミュが追い抜く事は出来るだろう。カミュにとって、目の前に立つリーシャという壁は途方もなく高い物に見えていた。

 越えなければならない者。されど、

 容易に越える事の出来ない者。

 

「……はぁ……はぁ……残念だったな、カミュ。今日も私の勝ちだ」

 

「……」

 

 カミュの中では、<レーベの村>でリーシャと約束した内容など、もはや気にはしていなかった。

 しかし、この目の前の高い壁を越えない限り、一人旅など到底不可能である事もまた、揺るぎようのない事実であったのだ。

 

「お疲れ様でした!」

 

 地面に座り込み、リーシャを見上げていたカミュとその前に立つリーシャにサラが汗を拭く為の布を手渡す。受け取った布で顔を拭いたリーシャの顔は清々しく晴れ、とても美しかった。

 

 

 

「カミュ、今日はどうするんだ?」

 

「今日の行動は、昨夜に話した筈だが?」

 

 鍛練を終え、休憩を兼ねてその場に座り込んだリーシャは、顔をカミュへと向けて今日の予定を尋ねる。それに関してのカミュの答えは簡素なもので、多くを語らなかった。

 

「確かに聞いた……しかし、本当に<西の洞窟>へ向かう気なのか?」

 

 リーシャの疑問。それは、カミュにとって困惑するに値するような代物だった。

 <ノアニール>で話を聞き、<エルフの隠れ里>で話を聞けば、自然と行く先は<西の洞窟>という事になる。何故それに疑問を挟むのか。それがカミュには理解出来なかった。

 

「……ああ……アンタが何に疑惑を感じているのか知らないが、<西の洞窟>へ向かう……」

 

「お、お前は……お前はそれで良いのか!? この村に、それ程の義理がある訳ではないだろう。それでも行くのか!?」

 

 感情の堰を切ってしまったかのように、リーシャが叫び声を上げる。その瞳は真剣そのもの。

 何かをカミュへと訴えたいが、それが自分でも分からない為、うまく伝える事の出来ないもどかしさを感じているような叫びだった。 

 

「……元々、俺はそういう存在だと言った筈だが……」

 

 しかし、感情を露わにするリーシャとは反対に、カミュは<シャンパーニの塔>で語った言葉を、再度リーシャへと語る。しかし、その言葉はリーシャの顔を歪めてしまうのだ。

 

「あの老人は……お前を『人』として見ていない! それでも、お前は行くというのか!? お前には……お前には自分の意思はないのか!?」

 

 続くリーシャの言葉。その言葉をリーシャが発した瞬間、その場は凍り付いた。

 カミュの目を見て叫んでいたリーシャですら、その口を閉じる事を忘れてしまう程の威圧感。

 先程まで、無表情ながらも『人』としての暖かさを持っていたカミュの顔は、何の感情も見えない能面と化していたのだ。

 

「……アンタが、それを言うのか?」

 

「……な…なに……?」

 

 カミュが放つ相手を恐怖させる程の威圧感の中、リーシャはそのカミュが紡いだ言葉の意味を脳内で必死に消化しようとする。だが、それを理解すれば理解する程、リーシャの心の中に自責の念が生まれて来た。

 それは、時間が経てば経つだけ、リーシャの心を蝕み、壊して行く事だろう。それ程の物であった。

 

「し、しかし、カミュ様。<エルフの隠れ里>でのエルフの対応は……酷過ぎるのではないでしょうか?……いくら『人』と『エルフ』が争っていた歴史があるとはいえ、話し合いにも応じないなど……」

 

「……では、逆にアンタに聞きたい……もし、昨晩遭遇した<ホイミ>を唱えるスライムがアリアハンの城下町に入り、『自分はホイミを使える。だから怪我をした人間を治療させてくれ』と言って来たとしたら、アンタはそれを許すのか?」

 

 リーシャの助け船を出す意味合いもあったサラの言葉は、カミュへの問いかけというよりは、自身に言い聞かせるような物でもある。

 幼い頃から教え込まれて来た『エルフは悪い者』という偏見を正当な物とするその言葉に反論したのは、全ての者を平等に見続ける異色の『勇者』であった。

 

「……そ、それは……」 

 

「『自分は知能のある魔物で、人間に危害を加えるつもりはない』と門の前で叫ぶ魔物を町の中に入れるのか?」

 

 サラには答えられない。

 カミュの言う例え話。

 それは、内容こそ違え、昨晩サラが悩んだ事と同意の物であったからだ。

 

「……城下町や村に魔物が入り込んだとしたら、例え『人』に危害を加えていなかったとしても、その来訪の意図も、そして害意の有無も確かめずに、兵士達が討伐をするだろう。『エルフ』があれ程『人』を憎んでいるにも拘わらず、俺達は生きてあの里から出る事が出来た。それだけでも、俺は、『エルフ』に対して敬意を表するに値すると思っている」

 

「……カミュ……」

 

 『人』の希望であり、『人』の味方となる筈の『勇者』と呼ばれる者。

 そうである事を義務付けられたカミュという青年は、『人』の間で恐怖の対象である『エルフ』に対し敬意を表している。リーシャは、自分の中にある『勇者』像が大きく揺れ始めているのを感じていた。

 しかも、それは不快に感じる物ではない。

 

「……アンタ達の考えが、この世界の『人』の常識である事は知っているが、アンタ達は実際に目で見て、その耳で聞いている筈だ。アンタ方こそ、そろそろ自分の意思で考える事をしたらどうだ?」

 

 これで話は終わりだとでも言うように、カミュは立ち上がり、宿屋へと戻って行く。取り残される形となったリーシャとサラは、それぞれの胸にそれぞれの想いを抱く事となった。

 

 

 

 メルエの起床と同時に、リーシャが朝食の準備を始める。カミュは剣の手入れを行い、サラは寝ぼけ眼のメルエが、顔を冷たい水で洗うのを手伝ってやっていた。

 食卓に四人全員が揃い、食事を開始するこの時が、メルエにはたまらなく嬉しく、自然と顔には笑顔が浮かぶが、その他のリーシャとサラの表情は優れない。メルエは不思議そうに小首を傾げた後、自分の皿に乗るハムの様な肉の一つをサラの皿の上に乗せた。

 

「……メルエ?」

 

「…………あげる…………」

 

 突如自分の皿の伸びて来た手と、乗せられた肉を見て、サラは驚いた。

 メルエへと視線を向けると、そこにあったのは笑顔。サラを気遣うようなメルエの優しい笑顔に、サラは困惑してしまう。

 

「えっ!? だ、大丈夫ですよ。メルエはしっかり食べないと……」

 

 このような小さな少女に心配をされてしまう程に自分の顔が歪んでいた事を知り、サラの気分は更に落ち込んで行った。

 

「そうだぞ。メルエには、魔法で頑張ってもらわなければいけないのだから、しっかり食べておけよ」

 

「…………サラ………げんき………ない…………」

 

「だ、大丈夫です! 私は元気ですよ。あっ!? もしかすると、メルエは自分の嫌いな物を私に渡そうとしているのではないですか!?」

 

 無理に笑顔を作りながら発したサラの言葉は、メルエの自尊心を大きく傷つけた。

 元気である事示す為に軽口を叩いただけであったが、メルエにしてみれば、心配を無碍にされたと感じたのだろう。メルエの頬は見る見る膨れ上がって行く。

 

「あっ、い、いえ、メルエ? 本当はそんな事は思っていないのですよ。し、心配してくれたのですよね?」

 

「…………サラ…………きらい…………」

 

「はぅっ!」

 

 『ぷいっ』と横を向いてしまったメルエに、サラは困惑を極める。慌ててメルエへと弁解を繰り返すサラの姿は、重く沈んでいたリーシャの心をも、幾分か軽くしてくれた。

 リーシャにしても、今朝のカミュとのやり取りで胸に棘が刺さったままになっていたのだ。

 それは、容易に抜ける物でもなく、そしてその傷口から何かが漏れ続けている事もまた、否定しようのない事実である。

 

 

 

 朝食も終わり、<西の洞窟>へと向かおうと村の出入口へと歩く一行の前に、先日の老人が現れた。

 今朝、話していた事の中心人物である老人の顔を見たリーシャは、その表情を歪ませる。

 

「おはようございます、勇者様。今日はお早い出発なのですね」

 

「……」

 

 貼り付いたような笑顔を作り、声をかけてくる内容には若干棘を含ませているように感じる。昨日、昼過ぎにこの村を出た筈が、今朝にはもう村に帰って来ていたというカミュ一行の行動に、何かしら思う所があったのかもしれない。

 

「今日は、どちらへ向かわれるのですか?」

 

「……<西の洞窟>です……」

 

 カミュの答えを聞いた途端、老人の表情が一変した。先程までのような不穏な空気は微塵もなく、晴れやかな笑顔を見せる。

 

「おお!! そうですか。では、『夢見るルビー』を探しに行って下さるという事ですね!」

 

 昨日、この村を出て、戻って来たという事は、この村に掛っている呪いを解く為に行動している事は理解出来てはいた筈だが、老人はカミュ達に念を押す為に、今朝一行の前に現れたのであろう。

 『アンタ達は勇者一行なのだろう?この村で休んだだろう?』と。

 

「これで……十数年続く、この村の眠りも解かれる……」

 

「い、いえ。もし、『夢見るルビー』が見つかったとしても、エルフの女王様がこの村の呪いを解いてくれるとは……」

 

 早くも『眠り』という呪いが解かれる事を見ている老人に、横からサラが楽観視出来ない事を告げるが、その言葉は、結果的にサラやリーシャの悩みを更に大きくさせる物となってしまった。

 

「ふぉふぉふぉ、何をおっしゃいます。例え、エルフの女王が許さず、この村の呪いを解く事を拒んだとしても、勇者様がおられるのですから、何の心配もしておりません」

 

「そ、それは……」

 

 老人が口にした一言。

 それは過剰な期待。

 要約すれば、『エルフ側が拒んだとしても、アンタ達が何とかしてくれるのだろ?という』物であり、それは、サラの深読みかもしれないが、『いざとなれば、エルフと戦ってでも呪いを解け!』というようにも聞こえた。

 

「<西の洞窟>は、魔物が巣食っております。僅かではありますが、こちらをお持ち下さい」

 

 老人が手渡して来た物。

 それは、麻で出来た袋だった。

 中には、薬草が数枚と毒消し草が数枚。

 町の道具屋で揃えられる物だった。

 

「……ありがとうございます……では……」

 

「お気をつけて。どうぞ、この<ノアニールの村>をお願致します」

 

 頭を下げる老人を振り返る事なく、カミュは村の出口へと歩を進める。サラは、そんな二人の姿に対し、胸にしこりを残したまま旅立って行くのだった。

 

 

 

 昨日歩いた時とはまた違った憂鬱感。それが、リーシャの胸にも、サラの胸にも広がっていた。

 朝食時から、優れない表情の二人を心配するように、今日のメルエの手は、カミュのマントではなくリーシャの左手を握っている。

 

「…………リーシャも………げんき………ない…………?」

 

「ん?……あ、ああ、大丈夫だ、メルエ。少し考え事をしていただけだ」

 

 リーシャを見上げながら心配そうに声をかけるメルエに、リーシャは顔を上げて笑顔を向けるが、それでもメルエの瞳の色は変わらない。

 

 メルエの瞳。

 それは、サラだけではなく、リーシャも時々悩まされる。

 純真で無垢な瞳。

 奴隷として売られる前には様々な苦痛があったであろうに、それを思わせない程の澄んだ瞳。

 その瞳に見つめられると、自分が浅ましく、汚らしい物の様に感じてしまうのだ。

 

 しかし、サラもリーシャも気がついてはいない。今、メルエがその瞳の色を取り戻したのは、自分達の影響なのだという事を。

 赤の他人であり、しかも奴隷として売られ、身分も出自も分からないメルエに対し、何の躊躇いもなく、無償の優しさを向けてくれる人間の存在が、自然とメルエをも変えているのだという事に。

 

 

 

 道中、何度か<バリィドドッグ>や<デスフラッター>と遭遇し、戦闘を行いながら一行は<西の洞窟>を目指した。

 気分が落ち込んでいるサラも、戦闘となれば、そこは『勇者』カミュの従者。自分達へ襲いかかって来る魔物達を次々と斬り伏せて行った。

 最近は槍の使い方にも慣れ始めたサラは、素早い<デスフラッター>の速度に惑わされる事なく、冷静に動きを見極め、槍を突き出す。今朝、カミュから、極力魔法の使用を抑えるように言われたメルエは、要所要所でその魔法を行使する事にしていた。

 しかし、ただ一人だけ、昨日とは異なる人間がいたのだ。

 

「えっ?」

 

 それは、<デスフラッター>を槍で突き刺したサラが振り返った先にいた人間。貴族としての誇り、宮廷騎士としての誇り、何より自分自身への誇りを持ち、常に凛と立つサラの憧れでもある女性。

 その女性が、剣を腰の鞘に納めたのだ。女性の前には、まだ、生きている<デスフラッター>が羽ばたいているにも拘わらずだ。

 

「……」

 

 カミュもまた、アリアハンから共に行動をして来たその戦士の変化に驚いていた。

 リーシャの前で羽ばたいていた<デスフラッター>は、隙を見つけたとばかりに、大空に飛び去って行く。リーシャは、ただその魔物の姿を目で追っていた。

 

「リーシャさん!! ど、どうしたのですか!? ま、まさか、どこかお怪我を……」

 

「……いや、大丈夫だ……」

 

 慌てて近寄るサラの問いかけにも、どこか上の空といった様子で、リーシャが返答を返す。その姿に、サラの胸に浮かんだ、ある疑惑が確信へと近づいて行った。

 

「で、では……何故……?」

 

 聞きたくはない。

 よりにもよって、リーシャからその言葉を聞きたくはない。

 それでも、サラの口は自然と動き出す。

 『何故、魔物を逃がしたのか?』と。

 

「……今日は<西の洞窟>を探索するんだ……あんな魔物に構っている時間はない」

 

 『嘘だ!』

 サラは瞬時にそう頭の中で叫んでいた。

 今では、サラでさえ、自分一人で討伐出来る魔物である。ましてや、カミュよりも上の剣技を持つリーシャであれば、気にするような時間をかけるまでもなく、魔物の息の根を止めていただろう。

 それでも魔物を仕留めなかった理由。

 それがサラには理解出来た。

 いや、理解してしまったのだ。

 

「さ、さあ、行こう! 陽が落ちる前には<西の洞窟>からは出て来たい」

 

「……ああ……」

 

 リーシャの行動を見て、表情に出さないまでも驚きを浮かべていたカミュは、その口端を少し上げて、リーシャの声に答えた。

 空元気ではあるが、後ろを振り返ったリーシャの表情に、メルエは笑顔で頷いた後、再びリーシャの手を掴み歩き出す。戦場であった場所には、ただ一人、新たな悩みを抱えたサラだけが残った。

 

「…………サラ………いく…………」

 

「!! あ、は、はい!」

 

 サラを気遣うように振りかえったメルエの声を聞き、弾かれたように顔を上げたサラは、胸に渦巻く様々な想いを抱えたまま歩き出すのであった。

 

 

 

「……ここか……?」

 

 その洞窟は、<エルフの隠れ里>から南に行った森の中にひっそりと存在していた。

 それ程大きくはない入口が、ぽっかりと口を開けている。周囲には木が生い茂り、鳥のさえずりすら聞こえるその場所は、とても魔物が巣食うような場所には見えない。ただ、入口から覗かれる洞窟内は、暗い闇に覆われ、どれほど深いのかも想像が難しいものだった。

 

「……<たいまつ>の準備もしているな……入るぞ……」

 

 カミュの言葉に全員が頷きを返し、一行は洞窟内へと足を踏み入れて行く。太陽がまだ真上にくる前ではあるが、日光がもたらす暖かさがあった外とは違い、一歩踏み入れた洞窟内は、身体を震わせる程の冷気が立ち込めていた。

 

「メルエ、私の手を離すなよ」

 

「…………ん…………」

 

 中の様子に若干怯え気味なメルエへ、リーシャは優しく声をかけ、メルエの手を強く握った。

 先程より力強く手を握られたメルエは、嬉しそうに頬笑みを返しながら小さく頷きを返す。その二人の様子を、サラはどこか遠い所の出来事の様に見ていた。

 まだ、先程の戦闘での出来事が頭から離れない。サラにとって唯一の味方と言って良かったリーシャは、今ではサラとは異なった考えを持ち始めているように感じてはいた。

 しかし、それが表面に出てしまうと、薄々感じていた事が確信へと変わり、サラの胸の中で複雑な感情へと変わって行く。

 

「カミュ! 右へ抜ける道があるぞ!?」

 

「……アンタが言うのなら、そっちは行き止まりの筈だ」

 

「な、なんだと!? そ、それは行ってみなければ分からないだろ!」

 

 そんなサラの苦悩を余所に、リーシャとカミュがいつも通りのやり取りを始めていた。

 リーシャが道を示した事へのカミュの反応は、当たり前と言えば当たり前の物。しかし、それに納得しないリーシャの叫びに再び大きな溜息を吐いたカミュは、リーシャの言う通りに右へと進んで行った。

 

「……」

 

「……理解出来たか? 何故かは知らないが、アンタは行き止まりを探知する嗅覚があるとしか思えないのだが……」

 

「…………リーシャ………だめ…………?」

 

 リーシャが示した先、それはサラとカミュが予想した通りの場所。岩で出来た壁が立ち塞がり、前へと進む事が出来ない空間。一言で言えば、『行き止まり』。その結果が示す物にリーシャは肩を下げる。

 リーシャの右手を握るメルエの上目使い気味の疑問が、リーシャの心を更に抉って行った。

 

「あれ?……これは……?」

 

 リーシャが唇を噛みしめる姿を横目にサラが何かを拾い上げた。

 それは、サラがアリアハンを出てから数回しか使わずに、腰に差したままとなっている鋭く光るナイフに形状が酷似している物だった。

 

「それは……<聖なるナイフ>か?」

 

「あ、は、はい。おそらくそうだと思います。でも、何故このような場所に?」

 

 気を取り直したリーシャがサラの手の中で光る物の名を口にし、サラもまたそれに同意を示す。しかし、サラにも何故ここに<聖なるナイフ>があるのかは解らなかった。

 

「…………メルエ………もつ…………」

 

「だ、駄目ですよ、メルエ。危ないです!」

 

 <聖なるナイフ>へ手を伸ばそうとするメルエを必死に避けるサラの姿は、リーシャから見ても滑稽なものだった。

 自然とその顔に笑顔が浮かんで来る。

 

「…………サラ…………きらい…………」

 

「うぅぅ……嫌いでも、駄目です」

 

 サラが言うように、メルエに刃物を持たせる事は、危険な事かもしれない。しかし、見方によっては、すでにメルエの腰に差さっている<毒針>は<聖なるナイフ>以上に危険な物とも言える代物だ。

 今サラが持っているナイフと似た物を、サラが腰に差している事を知っていた故に、自分に<聖なるナイフ>を渡そうとしないサラは、幼いメルエから見れば『ずるい!』としか見えなかったのかもしれない。

 

「あはははっ! メルエ、諦めろ。それは、誰か他の人の物だ。この洞窟に持ち主がいるかもしれない」

 

「…………むぅ…………」

 

 笑い声と共にメルエに声を掛けるリーシャの言葉に、サラとやり取りを繰り広げていたメルエが頬を膨らませながら振り向く。しかし、その後の真面目な表情に戻ったリーシャの言葉に、眉を顰めながらも素直に頷くしかなかった。

 

「それに……そのナイフは、もしかしたら遺品かもしれない。死者の物であるのなら、遺族に届けてあげよう。前に教えただろ?」

 

 <シャンパーニの塔>でリーシャから教わった『死者を尊ぶ』という事。

 それを、メルエも思い出し、首を縦に振ったのだ。

 

「メ、メルエ……」

 

「…………でも………サラ………きらい…………」

 

「はうっ!」

 

 メルエの姿に安堵を漏らしたサラに告げられた言葉は、またしてもメルエ得意の戯れであった。

 サラの落胆する姿を見て、再び笑い声をあげたリーシャは、サラの後ろに立っていたカミュの行動が目に入った。注意深く、周囲を見回し、<たいまつ>を上に掲げたカミュが、その背中の剣に手をかけたのだ。

 それは、もはやパーティー全員の暗黙の了解となった『戦闘の合図』。

 魔物の襲来を知らせる物だった。

 

「メルエ! こっちへ来い!」

 

 リーシャは傍にいたメルエの腕を引き、自分の下へと引き寄せる。その声に、サラも背中の槍を取り、持っていた<たいまつ>を上に掲げ、カミュが見た物を見ようと目を凝らした。

 

「!!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 その姿にサラは息を飲み、メルエはリーシャの足にしがみ付くように怯えた様子を見せる。そんな二人の前に、彼女達にとって最も頼りになる二人が、それぞれの剣を抜き放ち、立ち塞がった。

 洞窟の上空には、六つの光。

 その姿は<たいまつ>の炎の光に照らし出され、全貌を現した。

 天井にぶら下がるように逆さまに立つ人影は、どうやって岩で出来た洞窟の上部にしがみついているのかは解らないが、確かにそれは人型をした魔物であった。

 それは、以前、一行が<シャンパーニの塔>で遭遇した魔物に酷似した者。メルエの命を脅かしたあの魔物である。リーシャの足で震えるメルエの姿が、その魔物に植えつけられた恐怖の度合いを測る事を可能にしていた。

 

<バンパイア>

<こうもり男>の上位種に当たる吸血種の魔族。<こうもり男>と同じように、人の生き血を好み、カラカラに干乾びるまで吸い尽くす。ただ、手下のような者達を増やす為に、全てを吸い尽くさず、吸血種としての遺伝子を送り込む事があると云われている。その結果、<バンパイア>よりも下級種となる<こうもり男>が生まれたというのが、世の学者たちの中で有力とされている説である。

 

「メルエ、大丈夫だ。今回は必ず私が護ってやる。安心して呪文の詠唱を行え」

 

「…………ん…………」

 

 怯えるメルエの上から降り注がれる暖かく、力強い言葉。その言葉はメルエの胸の奥から勇気を湧き起こす。

 今にも羽ばたきそうな<バンパイア>に向かって右手を掲げ上げたメルエは、言葉を紡ぎ始めた。

 自分が、母や姉の様に慕う女性の期待に応える為に。

 

「メルエ! <イオ>は使うなよ!」

 

「…………ん…………ヒャド…………」

 

 メルエが口を開く寸前にカミュが叫んだ忠告に、軽く頷いたメルエは、右腕から冷気を生み出す。それは、カミュの声に羽ばたき始めた一体の魔物の背中から生える羽に直撃した。

 冷気に包まれた羽は徐々に凍り付く。自分の意志で動かす事が出来なくなった羽に困惑したまま、一体の<バンパイア>が地面へと落ちて来た。

 

「よし! よくやった、メルエ!」

 

「…………ん…………」

 

「ふふっ、頭を撫でるのは後だ、メルエ。今は、こいつ等を倒してしまおう」

 

 地面に落ちた<バンパイア>の胸に剣を突き立て、その命を奪った後、リーシャは頭を突き出して来るメルエに微笑んだ。

 いつものお褒めの作業を断られたメルエは、若干頬を膨らますが、リーシャの言葉に素直に頷き、剣を振るカミュとリーシャの邪魔にならぬよう、サラの傍へと下がって行く。

 

「カミュ! そっちは任せたぞ!」

 

「……ああ……」

 

 一瞬の目配せの後、頷き合った両者は、背中の羽を羽ばたかせて飛び回り始めた<バンパイア>にそれぞれ向かって行く。<こうもり男>の上位種とは言え、能力に格段の違いはない。それは、日々成長を続けるこの二人を相手にする者としては致命的だった。

 別段、撹乱する魔法を唱える訳でもない<バンパイア>は、向かって来る二人の剣速をかわす事など出来なかった。

 身を捩り、何とか避けようとする<バンパイア>の右腕を斬り飛ばしたリーシャの剣は、そのまま<バンパイア>の胸に吸い込まれて行く。右肩から血液の様な体液を噴き出しながら、床に落ちた<バンパイア>は数度の痙攣の後、その活動を停止させた。

 振り返ったリーシャの目に、<バンパイア>の鋭い爪を剣で弾き、返し際に肩口から剣を斬り入れるカミュの姿が映った。

 カミュの左腕には、現在、<青銅の盾>はない。昨日までカミュの左腕にあった盾は、今リーシャの左腕に装備されている。先日の戦闘で盾を失ったサラへリーシャが盾を譲り、カミュがリーシャへと盾を譲ったのだ。

 初めは、自分より力量が劣るカミュが盾を自分に渡そうとするのを拒んだリーシャであったが、カミュの最近の言動が、仲間を想っての物である事のように思い始めていたリーシャは、その盾を受け取る事にしたのだ。

 

「…………ん…………」

 

「ん?……ああ、よくやった、メルエ」

 

 カミュが最後の<バンパイア>を倒した事を確認したリーシャの横から、移動して来たメルエの頭が突き出される。

 メルエの姿に笑みを溢しながら、<とんがり帽子>を取ったその頭をリーシャが撫で、それをメルエは目を細めながら受ける様子に、戦闘にほとんど参加しなかったサラの顔にも自然と笑顔が浮かんだ。

 

「……先に進む……」

 

 そんな微笑ましいやり取りも、カミュの一言で幕を閉じた。

 

「…………ん…………」

 

 かに思われたが、リーシャの手から離れ、カミュの下へと移動して来たメルエの突き出す頭に、歩き出そうとしていたカミュも溜息を吐く事となる。

 

 

 

 メルエの頭を撫で終えた一行は、洞窟の奥へと進んで行った。

 洞窟内は所々水が滲み出しているような場所が見える。その水は、毒に侵されている様子などもなく、綺麗に澄んでおり、魔物達の影響で濁ってしまった洞窟内の空気を浄化しているようでもあった。

 

「おや?……このような場所に人が入って来るなど……」

 

「!!」

 

 メルエがカミュのマントの裾を掴みながら、空いている手で壁から滲み出る水を触っていると、不意に広がった空間で、前方から聞いた事のない声がかかった。

 驚き、剣や槍を構えようとするリーシャとサラを制し、カミュが<たいまつ>を声の発信元へと向けると、そこにはサラと同じような服装をした初老の男が立っていた。

 男の前には、壁からにじみ出た水が溜まり、小さな泉ができている。

 

「……貴方は?」

 

「あ、はい。驚かせてしまったようですね。私はロマリア教会に属する僧侶です」

 

「ロマリア教会の?」

 

 男の答えに、サラはロマリア教会で会った、女性司祭を思い出す。慈悲深い微笑みを浮かべ、人を導くような優しい言葉を話す老婆の姿を。

 彼女ならば、今自分が胸に抱えている悩みに対し、どのような言葉をかけてくれるだろう。それは、ルビス教会の司祭としての叱責か、それとも人生というエルフにとっては一瞬のように短い旅の先輩としての言葉か。

 

「……ロマリア教会の僧侶様が、このような所で何を?」

 

 対人用の仮面を被ったカミュの言葉に、僧侶は少し困ったような顔をした後、苦笑に近い笑顔を一向に向けた。

 

「実は……この洞窟のどこかに、体力や気力を回復させる『聖なる泉』があるという噂がありましてね」

 

「では、その噂の真意を確かめる為に、わざわざロマリアからここまで……」

 

 僧侶の言葉にサラは呟きで返す。『聖なる泉』という噂が流れているにも拘わらず、<ノアニール>の呪いの噂が伝わっていない訳がない。

 <ノアニール>の話は、通常は国家レベルの物である。

 エルフの話を聞いた後に、サラが真っ先に感じた疑問。

 

 『何故、ロマリア国は動かないのか?』

 

 国家レベルの問題にも拘わらず、十数年も放置されている問題。

 『カンダタ』問題は、国で討伐隊を出し、更には他国が掲げる勇者と呼ばれる存在に依頼までした国とは思えない程の対応。

 その疑問は、僧侶の言葉によってサラの胸の中で大きくなっていった。

 

「はい。何故、このような場所にそんな泉が湧いたのか解りませんが、何やら哀しげな呼び声に聞こえるのですよ……」

 

「……哀しげな……」

 

 サラの呟きは周囲を岩の壁に覆われた洞窟内に寂しく響いていた。

 僧侶の言っている『哀しげな呼び声』とは、『人』との哀しい恋をした『エルフ』である<アン>の物なのであろうか。

 

「それで……泉を調査しに来た貴方が、何故ここに留まっているのですか?」

 

 干渉に浸るサラを余所に、それまで黙って両者の話を聞いていたカミュが口を開く。自然とパーティー全員の視線が再度、僧侶の下に集まる事になった。

 その視線のせいなのか、僧侶は恥ずかしげに頭を下げ、弱々しく語り始める。

 

「……それが、途中で武器を落としてしまったらしく、攻撃呪文を行使出来ない私としてはこれ以上先へは進めず、戻る事も叶わずとなってしまいまして……」

 

「……武器を? サラ、さっきの<聖なるナイフ>じゃないのか?」

 

「えっ!? あ、ああ! は、はい。これではありませんか?」

 

 僧侶の言葉に思い当たる節があったリーシャはサラを振り返るが、自分の考えに没頭していたサラは、慌てた様子で顔を上げ、先程拾ったナイフを取り出した。

 

「おお! それです。良かった……」

 

「……」

 

 サラからナイフを受け取って胸を撫で下ろす僧侶の姿を、カミュはいつもの様に表情を失くした顔で見つめていた。

 ナイフ一本あるかないかで何が変わるというのか。サラの様に『バギ』でも行使する事が出来るのであれば理解出来るが、この様子では回復呪文といえど、最下級の<ホイミ>しか行使出来ないのだろう。

 <ホイミ>と<聖なるナイフ>一本で切り抜けられる程、この洞窟の魔物は弱くはないというのが、カミュの見立てであった。

 

「……大変失礼ですが、貴方はこのまま洞窟から出た方が良いでしょう。幸い出口はすぐそこです」

 

「い、いや、しかし……私には泉の調査という……」

 

 カミュの申し出に対する僧侶の反応を見る限り、僧侶自身もカミュの言う事を肌で感じている事が窺える。ロマリア国家からの命なのか、それとも教会からの指示かは解らないが、それを放棄する事への抵抗と、自身の身の安全が天秤にかかっている様子であった。

 

「……この洞窟を住処にしている魔物は、ロマリア城付近の魔物よりも強力な物が多いようです。貴方一人でこの先を進むのは、かなり困難になると思います」

 

「そ、そうです。私はアリアハン教会の僧侶でサラと申します。同じ教会の人間として、その調査は、未熟ではありますが私が引き継ぎますので」

 

 カミュの提案にサラが後押しする。

 被せるような誘惑に、僧侶の心は大きく動き始めていた。

 

「……しかし……貴方方は……」

 

「私達は、『魔王討伐』の為にアリアハンから出た者だ。私はアリアハン宮廷騎士のリーシャという」

 

 尚も躊躇する僧侶に向かって口を開いたのは、成り行きを見ていたリーシャであった。

 余計な事を言うまいと口を閉ざしていたリーシャであったが、サラが名乗った以上、この問題を収拾するのはその地位である事を察したのだ。

 リーシャは国家に仕える騎士である。その名の力は、他国にも及ぶ物である事は自負しているのだろう。

 

「……『魔王討伐』に……では、オルテガ殿のご子息……」

 

「ああ、ここにいるのが、その息子であるカミュだ」

 

 揺れ動く心を押えながら、一行の身元を尋ねる僧侶に驚愕の事実が告げられた。

 ロマリア国の人間にとって、アリアハン国は卑怯者の国とされている。アリアハンで英雄であるオルテガもまた、『魔王討伐』という使命を果たせなかった男。

 しかし、それは大部分を占めるが、決して国民全員の感情ではない。中には、アリアハン同様に、オルテガを勇気ある者、『勇者』として見る者もいるのだ。

 それは、教会に属する人間等に多く見られる。『魔物=悪』とする教会に属する人間にとって、例え志半ばで倒れたといえども、全世界の人間を救う為に立ち上がり、魔物に立ち向かっていった人間は、『英雄』となり得る資格を備えている者と考えているのだ。

 

「そ、そうですか……貴方がオルテガ殿の……わかりました。貴方方に比べれば、私など何の役にも立たないでしょう。私はここを出る事にしましょう」

 

 明らかに胸を撫で下ろした表情。自分の力量では、この洞窟の奥へと進む事が難しいという事を、この僧侶が一番理解していたのであろう。自分に課せられた命を誰かに委ねてしまう事を咎められるのではという危険を考慮に入れられない程に追い詰められていたのかもしれない。

 

「…………メルエの…………」

 

「……メルエには<毒針>があるだろう? それとも『アン』の<毒針>では不満なのか?」

 

「!!」

 

 メルエは、僧侶に手渡された<聖なるナイフ>を物欲しそうに見つめ、愚痴を溢した。

 そんなメルエを見て、カミュが発した言葉は、メルエにとって胸を鷲掴みにされたような衝撃を受ける物であり、弾かれたように顔を上げたメルエの首は、千切れんばかりに横に振られる事となる。

 

 

 

 僧侶が去った後、一行は再び洞窟の奥へと歩き始めた。

 奥へ進むにつれ、洞窟内に漂う冷気は濃くなり、肌に感じる気温もまた低下して行く。暗く狭い道を進む一行は、各人との距離を空けず、カミュを先頭に歩を進めて行った。

 途中、<バンパイア>や<バリィドドッグ>等の魔物と遭遇し、戦闘を行いながらも進む一行の前に下へと続く坂道が出現する。

 

「……カミュ……」

 

「……ああ。進むしかないだろうな」

 

 どうするかと尋ねるリーシャに対して、一つ頷いたカミュの反応に、一行はその坂を下へと降り始める。

 下へ下へと続く長い坂道を下って行くと、今度は上り坂。

 カミュへと確認の為、視線を向ける一行。

 頷くカミュに、一行の足は再び前へと進み始めた。

 

 

 

「……どうなっているんだ?」

 

 リーシャの呟きは、全員の耳に届いてはいたが、誰一人その問いに明確な答えを出せる者はいなかった。

 坂を上り終えた場所は少し開けた場所。

 壁から滲み出ている水が溜まっている。

 しかし、一行の視線の先には、再び現れた下へと向かう坂道だったのだ。

 

「……また、上るのですか?」

 

「……嫌なら帰るのだな……」

 

 溜息と共に吐き出したサラの呟きは、カミュによって即座に斬り捨てられた。

 無表情で吐き捨てるカミュの方を見て、サラは考えずにはいられない。

 『カミュは、今の言葉が自分ではなく、メルエの言葉だったら、あそこまで冷たい言葉をかけただろうか?』、『リーシャであったら、あそこまでの無表情で言葉を吐き捨てたであろうか?』と。

 それは、『自分は、カミュに仲間として認めてもらっているのだろうか?』、『教会の教えや考えを何よりも忌み嫌うカミュが、その教会に属している自分を認めてくれるのだろうか?』というサラの心に常に渦巻く二つの疑問。

 そして、その答えはカミュの一挙一足に表れているようにサラは感じていた。更には、今朝のリーシャの行動。それが、このパーティーの中でサラの存在だけを更に浮き彫りにする事になってしまっていた。

 

「ほら、サラ、行こう。もう少しだ」

 

 カミュと睨み合った状態のサラに、リーシャの意識的な声がかかる。サラとカミュの様子を遠巻きに見ていたメルエも、サラの手を引くために傍に寄って行った。

 

「あっ、は、はい。頑張って行きましょう」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの言葉、メルエの表情、それが一時的ではあるが、いつでもサラの心を前へと向けてくれる。サラの手を取り、歩き出そうとするメルエの姿に、サラの表情にもささやかな笑顔が戻った。

 

 

 

 再び上り始めた一行を待ち受けていたもの。

 それは、坂を上り終わる前に登場を果たす。

 

「……前もって言っておくが、あれは決して<きのこ>ではないぞ……」

 

「わ、わかっている! 馬鹿にするな! それに例え<きのこ>だったとしても、あのような色の物を食そうとするものか!」

 

 現れた者は魔物。それも、カミュの言うとおり<シャンパーニの塔>でリーシャが間違えた<きのこ>の様な魔物。ただ、その体躯の色素は決して食物とは言えない毒々しいものだった。

 

<マタンゴ>

<おばけきのこ>の上位種と云われているが、その生態などは謎が多い。きのこのような形をしてはいるが、その体躯の色は毒々しく、見るからに毒キノコと解るようなものである。<おばけきのこ>と同じように、牙の生えたその口から甘い息を吐き、対象の神経を麻痺させ眠らせてから食す。上位種とはいえ、その力量等は<おばけきのこ>と大した差はない。

 

 坂道の途中に現れた<マタンゴ>は全部で三体。

 リーシャは既に腰から剣を抜き、構えを取っていた。

 

「……解っているとは思うが、アイツが口を開いたら息を止めろ。また眠りにつかれたら面倒だ」

 

「わ、わかっていると言っているだろ!」

 

 同じように剣を抜いたカミュは、視線を<マタンゴ>へと向けたまま、溜息を吐き出す。それは、<シャンパーニの塔>でのリーシャの失態を突く物であり、再びリーシャの頭に血を上らせるような物でもあった。

 

「…………リーシャ…………ねてた…………」

 

「メルエ~~~~~」

 

 カミュの忠告に五月蠅そうに答えるリーシャの横から無邪気な声がかかる。それに対し、地の底から響くような声を出すリーシャに、メルエは一目散にカミュのマントの中へと避難していった。

 とても魔物を目の前にしている人間達のやり取りではない。しかし、決して侮っている訳ではない。目の前の魔物程度では動じる事がないだけなのだ。

 

「先に行くぞ!」

 

 剣を抜いて飛び出したのはリーシャ。

 剣を右手に持ち、一体目掛けて駆けて行く。

 しかし、リーシャが倒したのは、最初に目標にしていた<マタンゴ>ではなかった。

 リーシャの飛び出しに驚いた<マタンゴ>が後方に引いた反面、横合いからもう一体の<マタンゴ>がリーシャ目掛けて体当たりをかけて来たのだ。

 意表を突かれる形となったリーシャであるが、対応は冷静だった。急遽足を止め、横合いから飛んで来る<マタンゴ>に照準を合わせ終わると、<鋼鉄の剣>を躊躇なく突き出す。カウンター気味に突き出された剣は、<マタンゴ>の胴体に吸い込まれ、きのこの串刺しが出来上がった。

 

「サラ!!」

 

 前回の教訓から素早く剣を魔物から抜いたリーシャは、後方へと飛びながらサラへ掛け声を送る。それは、魔法の行使の合図。

 

「はい!」

 

「待て!! 息を止めろ!!」

 

「バ……!!!」

 

 リーシャへのサラの返答と、カミュの声は重なってしまった。サラが詠唱を開始しようとしたその時、残る二体の<マタンゴ>の口が一斉に開いたのだ。

 カミュの言葉にメルエとリーシャは慌てて息を止める。だが、リーシャの要望に応えようと詠唱を始めていたサラだけは、呪文を紡ぎ出すために息を吸い込んでしまっていた。

 <マタンゴ>二体から発生した甘く眠りに誘う息は、詠唱を始めたサラだけが吸い込んでしまう事となる。

 

「……またか……」

 

 崩れ落ちて行くサラの体躯を素早く支えたカミュは、大きな溜息を吐いた。

 そんなカミュの姿に、リーシャも居た堪れない思いを抱く。眠ってしまったのはサラではあるが、そのキッカケを作ったのはリーシャであるのだ。

 結果論になるが、リーシャがサラに攻撃呪文の詠唱を指示しなければ、この事態は起きなかったかもしれない。

 

「……まぁ、あと二体だ。何とでもなるだろう」

 

「そ、そうだな。私とカミュで一体ずつ倒せば終わるだろう」

 

 近くにサラの身体を横たえたカミュが出した結論に、リーシャも大げさに頷いた。しかし、そんな二人の考えは、あっさりと覆される事となる。

 

「…………メルエ………やる…………」

 

「ん?……別にメルエがやらなくても大丈夫だ。私とカミュで何とかなる」

 

 それは、今まで出番のなかったパーティー最年少の少女からの言葉。それに対し、柔らかく制するリーシャの言葉にも大きく首を横に振り、納得しようとしない。

 

「…………あたらしい………おぼえた…………」

 

「な、なに!?」

 

「!!」

 

 その少女の言葉に、目の前にまだ魔物が残っているにもかかわらず、カミュとリーシャは驚きを隠しきれず、胸を張って答えるメルエの顔を振り返ってしまった。

 『いくらなんでも、魔法習得のスピードが速すぎる!』

 それが、カミュとリーシャの感じた感想だった。

 メルエの魔法の才能は、カミュやリーシャも知ってはいる。しかし、それでもメルエの歳で、この習得速度は異常であったのだ。

 

「……わかった。メルエ、頼む」

 

「…………ん…………」

 

 諦めに似たようなカミュの言葉に、メルエは力強く頷きを返す。そのまま、こちらの様子を窺っていた<マタンゴ>二体へ右腕を向けると、メルエはいつもと同じように、呟くような詠唱を始めた。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 瞬間、メルエの傍にいたカミュとリーシャの頬にまで火傷を負わせそうな程の熱気が、メルエの右腕から発生する。それは、渦の様な熱風となり、一直線に<マタンゴ>へと向かって行った。

 熱風が着弾した<マタンゴ>の周囲に広がって行く凄まじい炎。

 まさしくそれは炎の海。

 声を発する事も、ましてや逃げる余裕なども与えられないまま、<マタンゴ>はメルエの右腕から出現した炎に包まれていった。

 

<ベギラマ>

その名の通り、<ギラ>の上位魔法になる。灼熱呪文としての効力は<ギラ>を遥かに上回り、その炎はすぐには終息を迎えない。その炎は大地を焦がし、上空の空気すらも焼き払う。現在、古の賢者が残した魔法を行使出来る人間がいないこの世界では、『魔法使い』と呼ばれる職業の人間が使える攻撃呪文の中でも上級に位置する呪文である。

 

「……」

 

「カ、カミュ……メルエは一体……」

 

 メルエが造り出した光景は、カミュとリーシャの行動を止めてしまう程の物だった。

 炎が未だ収まらない前方では、すでに活動を停止しているであろう<マタンゴ>らしき影が見える。それは、もはや原型を留めてはいないだろう。それ程の炎なのである。

 メルエは未だに字を全て読む事は出来ない。故にメルエは、『魔道書』に載っている全ての魔法の名を、少し前にカミュへと尋ねていた。

 最初は、もう全ての契約を終えてしまったのかと驚いていたカミュであったが、メルエのたどたどしい説明を受け、納得して全ての名を教えていたのだ。

 故に、メルエが新しい魔法を覚えたとしても、カミュが知らない場合が多々出て来る。<シャンパーニの塔>で行使した<イオ>や、今回の<ベギラマ>もそれに当たる物だった。

 

「…………ん…………」

 

 驚きに声を失っていた二人を呼び戻したものは、帽子を脱ぎ、頭を突き出すメルエの声だった。

 

「……あ、ああ……凄いな、メルエ……」

 

「……」

 

 若干顔を引きつらせながら、メルエの頭に手を乗せるリーシャとは違い、カミュは炎の収まった先にある黒焦げの物体を見て目を瞑ってしまっていた。

 それは、魔物への哀悼なのか。

 それとも、目の前の惨劇を作った術をメルエに与えてしまった事への後悔なのか。

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの手を受け取り、『今度はカミュの番』とばかりにカミュへと頭を突き出して来るメルエに、ようやくカミュの目は開かれた。

 

「……!!……メルエ、顔を良く見せろ。それに右腕もだ!」

 

「ど、どうしたんだ!!」

 

 メルエの頭に手を乗せようとしたカミュは、メルエのその顔と右手に残る痛々しい火傷の跡を見つけ慌てて手をかざし始めた。

 そのカミュの様子に、リーシャが慌てて近寄って来る。

 

「ホイミ……少し跡が残ってしまうな……メルエ、良いか? とりあえず、今使った<ベギラマ>は、しばらく禁止だ」

 

「…………いや…………」

 

 自分の頭を撫でてくれる手が下りて来ない事に不満顔を向けていたメルエは、自身の頬や腕に回復呪文を掛けながら語るカミュの言葉を即座に拒絶した。

 

「駄目だ」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 カミュの言葉に反論を返すメルエに再度戻ってきた言葉は、有無を言わせぬ程の迫力を持った物だった。

 カミュがここまでの迫力を持って言うという事は、メルエの反論は認めないという事であることぐらい、メルエにも理解できた。

 

「ど、どういう事だ、カミュ!?」

 

「……<ベギラマ>は、まだメルエには早かったという事だ」

 

 メルエの目線に合うように屈み込んだリーシャは、事の成り行きが理解出来ずに問いかけを洩らす。その問いかけに返って来たカミュの答えは、魔法に疎いリーシャでさえも疑惑を持ってしまうような物だった。

 

「しかし、発動していたぞ?」

 

 本来、魔法を使用する者、僧侶や魔法使いと呼ばれる者達は、自分の力量に応じて契約を行い、行使を可能とする。それに対し、力量に合わなければ、契約が出来なかったり、魔法が発動しなかったりするのだ。

 しかし、メルエは発動した。ならば力量不足というのは当て嵌まらない筈である。

 

「……いや、正確には、暴走に近い。本来、魔法は術者に被害が及ぶ事はない。<メラ>を放った術者の指先が燃えて火傷を負ったり、<バギ>を唱えた術者の腕が切り刻まれたりはしない筈だ」

 

「???……どういう事だ?」

 

 カミュとしては、今の説明で理解してもらえると思ったのであろう。しかし、目の前のリーシャは訳が分からないと言った表情を浮かべているのを見て、溜息を吐き出した。

 カミュへ問いかける前に考える素振りは見せた事から、少なからず、自分で考えようという意思はあったのだろう。

 

「……つまり、メルエは、この魔法を行使する為の魔法力を制御する事が出来ていないという事だろう。自分が行使する魔法に対して過剰に魔法力を注いでいるのか、もしくは過剰に魔法力を吸い取られているのかは知らないが、メルエがまだ自分の魔力を制御しきれていない事は確かだ」

 

「…………うぅぅ…………」

 

カ ミュの説明の間もずっと、メルエは上目使いでカミュを見上げ唸り声を上げている。魔法しか存在意義を見い出せていないメルエにとって、その魔法を奪われる事は何よりも避けたい事だったのだ。

 

「……メルエ、唸っても駄目だ」

 

「…………ぐずっ…………」

 

 抵抗を続けても、カミュが折れてくれない事を悟ったメルエの瞳に涙が溜まって行く。メルエにとっての『魔法の行使』という行為は、決して自己の我儘ではないのだが、カミュ達がその事に気付くのは、もう少し後になってからの事であった。

 

「……何も『一生使うな』と言っている訳ではない。メルエがこの先、魔法を使いながら旅を続けて行く内に制御が出来るようになる。契約が出来、呪文も発動出来た。それは遠い話ではない」

 

 目に涙を溜め、鼻をすすり始めたメルエに、流石のカミュも困ったように譲歩案を出した。

 傍に寄って頭を撫でていたリーシャも、カミュに釣られたように困り顔になってしまっている。

 

「……メルエの魔法が凄い事は、ここにいる全員が知っている。だが、その魔法でメルエが傷つく事は、誰一人望んではいない。わかってくれ」

 

「……カミュ……」

 

「…………ん…………ぐずっ…………」

 

 メルエと視線を合わせ、真剣な表情で話すカミュの言葉に、メルエは鼻をすすりながら頷くのだった。

 リーシャはこの時、カミュの確かな変化を見る。他者が傷つく事を考慮に入れるなど、アリアハンを出た時のカミュでは想像も出来なかったのだ。 

 

「ほら、右手も出せ」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの右手にカミュがホイミをかけ、火傷の治療を始める。若干の跡が残ってしまうが、メルエの顔と右腕の治療が終わりに近づいた頃、ようやく治療の本職である僧侶が目を覚ました。

 

「あ、あれ?……私……あっ!! 申し訳ありません!」

 

 上体を起こし、周囲を確認するように首を動かしたサラは、ようやくその状況を理解する。慌てて起き上がって仲間の下へと走り寄り、勢いをそのままに頭を下げた。

 

「大丈夫だ、サラ。先程は仕方がない。むしろ、私がサラに声をかけなければ起きなかった事態だ。私の方こそすまなかった」

 

「そ、そんな! リーシャさんは悪くありません! 私が未熟なせいで……」

 

 頭を下げるサラ。それを制して、逆に謝罪を口にするリーシャ。お互いがお互いを気に掛ける。そんな普通のやり取り。

 しかし、そんな常識的なやり取りは、アリアハンが掲げる『勇者』には通じなかった。

 

「……どちらにしろ、もう少し魔物の習性について理解しておいてくれ。今回はまだ三体だったから良いが、アンタ方二人が眠ってしまった後、七体も八体も残っていたら全滅の危機だ……」

 

「ぐっ!」

 

「はうっ!」

 

 カミュの歯に衣着せぬ物言いに、リーシャもサラも言葉に詰まってしまう。眠りに落ちた人間二人を庇いながら、魔物を倒すのは至難の業だ。

 メルエの広範囲にわたる魔法を使用すれば可能な事は可能なのだが、それをリーシャもサラも口にはしない。

 彼女達にとっても、メルエは幼い子供であり、何より妹同様の存在なのだ。

 出来るならば、無理はさせたくない。しかも、リーシャに至っては、先程のメルエの姿を見ている。メルエにあんな思いをさせたくはないのだ。

 

「…………もう…………いく…………」

 

 何とも言えない空気が漂う中、右手の痛みがなくなったメルエが、その右手でリーシャの左手を握り、先へと促す。それは、いつもリーシャとサラ、そしてカミュさえも突き動かす事のできる力。

 抑揚もなく、呟くような小さな声にも拘わらず、力強い声。

 

「……ああ……行こう……」

 

 メルエの声に一つ頷いたカミュを先頭に一行は再び坂道を上り始めた。今や、時に彼ら一行を結ぶ楔となり、時に彼ら一行を突き動かす動力となり得る少女を引き連れて。

 

 

 

「……これは……」

 

「す、すごい」

 

 坂道を上り終わったその先に広がる光景は、一行をすっぽりと飲み込む程のものだった。

 そこは、水が壁から染み出しているのではなく、地下から湧き出したように中央に泉となって広がっている。囲むように四方に立つ柱が、まるで泉を護るように、そして泉を優しく包み込むように立ち並んでいた。

 

「……魔物の気配が全くない……」

 

 カミュの言葉通り、この坂道を上がりきった広間には泉が湧き出ている以外、邪悪な気配は何一つない。それとは相反するような、慈悲深く、清らかな空気が広がっているだけであった。

 

「…………お水…………」

 

「あっ!! メ、メルエ!!」

 

 その空気を肌で感じたためか、それとも単純に喉が渇いただけなのか。メルエが、いち早く泉へと駆け出して行く。

 未だにどんな物なのかすら解っていない物に駆け寄るメルエを制止しようと伸ばしたリーシャの手は、横から上げられたカミュの手によって止められた。

 泉に辿り着いたメルエが泉の水を掬おうと右手を泉の中に入れたその時、一行は不思議な光景を見る事となる。

 メルエの右手が、まるで<ホイミ>を掛けた時の様に光り始めたのだ。

 いや、正確には<ホイミ>程度の物ではなかった。それは、回復呪文であるならば、上級に位置する魔法と同等か、もしくはそれ以上の光だろう。

 

「……メルエの右手の火傷が……」

 

「や、やけど!?」

 

 リーシャの言葉通り、光に包まれたメルエの右腕に残されていた火傷の痕が薄れて行く。メルエの火傷の存在自体を知らないサラが素っ頓狂な声を上げるが、カミュもリーシャもその不思議な光景に魅入られ、サラの問いかけに答えることは出来なかった。

 

「……メルエ、顔にもその水をつけてみろ……」

 

「…………ん…………」

 

 自分の腕を包む光を不思議そうに見つめていたメルエの後方に移動したカミュが声をかけ、メルエはそのカミュの言葉にこくりと頷いて従った。

 火傷の痕が綺麗さっぱり消え失せた小さな右手で再び掬った泉の水を、メルエが頬の火傷痕に掛けると、右腕と同様に緑色の光を伴い傷跡を消して行く。

 

「……すごい……ど、どういう事なのですか?……この泉が<聖なる泉>なのでしょうか?」

 

「あ、ああ、おそらくそうだろうな……カミュ、しかし、この泉は何故このような場所に?」

 

 全員が泉に手を入れているメルエの傍まで移動した後、サラが疑問を口にした。

 それは、この<西の洞窟>に入ったばかりの頃に出会ったロマリア教会の僧侶が口にしていた物。それは、サラの隣に立つリーシャも気付いていた。

 しかし、何故このような場所に、何故あるのかが解らない。

 

「……いつも思うのだが、アンタが知らない事を俺が知っていると思う根拠を知りたいのだが……」

 

「そ、それは……カミュだからだ!」

 

「ぶっ!?」

 

 いつもの様に解らない事柄をカミュへ尋ねるリーシャに、カミュは答えを与えなかった。

 期待していた答えとは別の言葉にリーシャ自身戸惑い、そして結局、自身もあながち的外れでもないような答えを叫んでしまう。その珍回答は、久しぶりにサラの笑いのツボを刺激したらしく、サラは思わず吹き出してしまった。

 

「…………おいしい…………」

 

 そんな恒例ともなりつつある三人のやり取りを余所に、すでにメルエは泉の水を口に含んでいた。

 清らかで優しい空気を纏う泉の水とは言え、そのメルエの行動を注意していなかった事を三人は悔やんだ。

 メルエは何も知らないのだ。

 危険性などの注意をしていなければ、この先どんな行動に出るか分からない。サラは、メルエへの教育に力を入れる事を心に決めた。

 

「……なるほど……掛ければ傷などを癒し、飲めば気力や魔法力を回復させるのか……万能だな……」

 

「それは凄いな……体力や気力まで回復するのか?」

 

 そんなサラの静かな決意を尻目に、カミュはメルエと同じように泉の水を口に含んだ後、納得したように頷くが、横から感心したような声を上げて近付いて来るリーシャに、どこか歪んだ笑みを浮かべた。

 

「……ああ。まぁ、アンタには、そっちの方は関係のない事だ」

 

「……カミュ、回復の泉もある……ここで一晩と言わず、二晩でも稽古をつけてやろう。どんな傷も癒し、気力も回復させるのであれば、多少無理も出来よう……」

 

 確かにカミュの言う通り、『魔法力の回復』に関してはリーシャには関係がない。しかし、リーシャにも気力が萎える事ぐらいはある。誇り高き宮廷騎士ではあるが、リーシャは自身が女性である事も捨ててはいない。

 カミュの言葉は女性であるリーシャに対する配慮に欠けているのだ。

 

「ふふっ、でも、回復が出来る泉がここにあるというのは強みですね。この先、少し手強い魔物が出て来たとしても、もう一度ここに戻れば良いのですから」

 

「……アンタはここで何日過ごすつもりだ? 例え、傷や気力が回復するにしても、食料がない。それとも、アンタはこの洞窟に住む魔物を食料とするつもりなのか?」

 

「そ、そんな事はしません!」

 

 カミュとリーシャのやり取りを微笑ましい物のように笑顔で見つめていたサラは、カミュの逆襲に合う。カミュの言う通り、食料がなければ、例え傷が回復したとしても『生物』である限り飢えで命を落としかねない。

 それは、何も『人』だけではない。『エルフ』も、そしてサラが忌み嫌う『魔物』であろうと、食料がなければ、その生を全うする事など出来はしないのだ。

 

「……回復は終わった。先へ進む……」

 

 いつもの様に、突然話を切り上げたカミュが先へと進み始める。その後をリーシャが歩き、傷や魔法力を回復させたメルエが続いた。サラも、慌てて泉の水を口に含み、仲間の後を追う事となる。

 

 

 

 <聖なる泉>を出た一行は、洞窟の更なる奥へと足を進める。もはや、この<西の洞窟>に入ってからかなりの時間が経過していた。

 <聖なる泉>で気力も回復しているため、一行に自覚はないが、おそらく洞窟の外では完全に陽も落ち、夜も更けた頃だろう。

 更に、塔のように階段のような物がない為、自覚し辛いが、坂道の上り下りを繰り返し、相当地下へと潜っていた。

 水が壁から流れ出たり、所々では上層部分から瀧の様に落ちて来ている為、空気の出入りはあるのだろう。

 現に、カミュとリーシャの持つ<たいまつ>の炎の火が小さくなって来ている訳ではない。一行が息苦しさを感じる事もなかった。

 

「しかし、随分と奥に行くのだな……こんな所まで、『人』が来るのか?」

 

 奥へと進む中で発したリーシャの疑問は、<ノアニール>の若者と<エルフ>の『アン』の事を言っているのだろう。確かに魔物の住処である洞窟の最深部へと続く道を歩いて来ても、ここまでそれらしき姿は確認されていない。

 つまり、<ノアニール>の老人の話が本当であるならば、二人は更に奥へと向かったという事になる。

 

「……さあな。まず、あの老人の話は仮定に過ぎない。ここにその二人が来たという確証がない以上、行ってみなければ分からない」

 

「で、では、ここまで来て、無駄足という可能性もあるという事ですか?」

 

 <聖なる泉>を出て、ここまで進む途中だけでも、一行は五度も魔物と遭遇していた。

 この洞窟を根城とする<バンパイア>がほとんどだったが、先程は<マタンゴ>四体と<バリィドドッグ>三体という異色な組み合わせ。メルエの<ギラ>と、サラの<ニフラム>、そして、カミュとリーシャの剣技で退ける事は出来たが、なかなかの苦戦であった。

 そんな魔物との戦闘を繰り返しながら進んできた道が、全くの無駄であったとしたら、それは、サラにとってかなりの精神的ダメージを受ける代物である。

 

「…………サラ…………はやく…………」

 

 カミュの言葉に足が止まってしまったサラに、メルエの容赦ない一言が掛けられる。サラの問いかけに答える事がなかったカミュは、既に地下へと続く坂道を下り始めていた。

 

「あっ!ま、待って下さい」

 

 最近パーティー内で置いて行かれそうになる頻度が増しているサラの叫びが洞窟内に響き渡った。

 

 

 

「……」

 

 先程の坂道を下り終わった一行は、再びその光景に飲み込まれる。今回は、誰一人声を上げる事すら出来なかった。

 それ程の広大な景色。地下から湧き出ている水が、泉という形ではなく、一面を覆い尽くしている。むしろ、見渡す限りの地下湖と言っても過言ではない。申し訳程度にカミュ達が立つ地面があるようなものだった。

 そこは、先程の<聖なる泉>周辺と同じように、魔物達の気配はない。あるのは、慈悲深い澄んだ空気と、そこに微かに混じる物哀しい空気だけであった。

 

「……カミュ……」

 

「……奥へ行こう……」

 

 カミュへと視線を移したリーシャの呟きに、一つ頷いたカミュは、地下湖の中心に位置する場所にある浮島の様な場所へと歩を進めて行く。リーシャの手を離し、カミュのマントの裾を握ったメルエも、周囲を興味深く見渡しながら奥へと歩いて行った。

 

「……」

 

 そして、一行はついに見つける事となる。

 <ノアニール>の住民全てを巻き込んだ騒動の発端となった二人を。

 

「……そ、そんな……」

 

「……やはりか……」

 

 その姿は、既に変わり果てていた。

 愛し合った二人の姿は、生きている時の姿を想像する事すらも拒むように、骨だけの姿になっている。折り重なるように重なった肉体は、魔物の食料になる事もなく朽ち果て、土へと還っていた。

 十数年の時間が立っているのだ。先程のカミュの言葉通り、食料がなければ、例え<聖なる泉>があろうと、餓死してしまうだろう。

 

「……何故……何故、死を望んだのですか?」

 

「……サラ……」

 

 白骨に静かに語りかけるサラの言葉。それは、『人』を導く僧侶の問いかけ。餓死する事が解っていても、この洞窟から出ようとせず、この場所で死を迎えた若い二人への心からの疑問であったのだろう。

 

「…………あれ…………」

 

「……ん?」

 

 白骨を見つめるサラとリーシャとは別に、メルエが白骨の傍にあった小さな木箱を発見し、カミュへと伝えていた。

 それは、本当に小さな木箱。女性が、自身の身につける装飾品などを入れるようなとても小さな箱だった。

 

「……カミュ、それは?」

 

「……」

 

 木箱を手にしたカミュへとリーシャとサラも近寄って来る。メルエにも見えるように、カミュは一度しゃがみ込んでからその木箱へと手を掛ける。

 ゆっくりと開いて行く木箱の中には、小さな木箱には似合わない程の大きな赤い宝石と、一つの手紙が入っていた。

 それこそが、おそらく<エルフの至宝>と呼ばれる『夢見るルビー』なのだろう。大粒の赤く輝く宝石。それは、女性であれば誰しも魅入られる程の輝きを放っていた。

 『夢見るルビー』に魅入られる、リーシャ、サラ、メルエの三人。

 だが、カミュは、ルビーの他に木箱に入っていた手紙を手に取った。ルビーの入った木箱をサラへと手渡し、数枚に及ぶ手紙を開き読みはじめたカミュの表情は、読み進めるに従い、その表情を失くして行く。

 そして、最後まで読み終わったカミュは、手紙をリーシャへと手渡し、深い溜息を吐いた後、ここからでは見る事も叶わない天を仰ぎ、目を瞑った。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ここから、少しずつ更新して行きたいと思っています。
宜しくお願い致します。


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過去~アン【エルフ】~

今回はとても長いです。
そして、暗いです。
心を強く持ってお読みください。


 

 

 

 優しい陽の光が降り注ぐ芝生。

 周囲の木々を宿り木にしている小鳥達のさえずり。

 それは、通常、実に心地良く、そして心が躍る物の筈である。

 しかし、一人の女性にとってそれは、毎日繰り返される日常の一コマ。

 決して変化する事のない、刺激も心の躍動もない毎日の始まりを意味していた。

 

「……はぁ……毎日、毎日同じだわ」

 

 溜息と共にこの里での暮らしに不満を呟く娘の名は『アン』

 この<エルフの隠れ里>を治める女王の一人娘である。

 エルフ達は、広いこの世界の中で、今ではこの里以外にはほとんど存在しない。元々、繁殖能力が乏しいエルフではあったが、度重なる争いにより、その数を更に減らして行った。

 世界のどこかに、ここと同じような<隠れ里>が存在するのかもしれないが、そんな噂はここまで届いては来ない。もう数十年、数百年とエルフはこの<隠れ里>でひっそりと暮らしているのだ。

 まるで、『魔物』や『人』から身を隠すように。

 

「……何故、私達がこんな風に隠れて暮らさなければいけないのかしら……」

 

 生まれて二十年程しか経たない、エルフにとっては赤子同然に幼い『アン』には、それが理解出来ない。

 エルフの女王の一人娘であるアンには、エルフの中でも有数の魔力が備わっていた。それを生きている物に向けた事はないが、『流石は女王の子』として育って来たアンにとって、同族達が『魔物』や『人』に怯えるように暮らす意味が理解出来ないのだ。

 

「……森の外はどんな所なのかしら……」

 

「アン様、ここにおられましたか。女王様がお呼びです」

 

 溜息を繰り返すアンに不意にかかった声。その声の主は、母である女王の側近とされるエルフの戦士であった。

 魔力は高いが、筋力の弱いエルフにおいて、稀に生まれてくる筋力の高いエルフは、代々エルフの長の親衛隊として重宝される。目の前でアンに跪いているエルフも同様であった。

 

「……わかりました。すぐに向かいますと伝えてください」

 

「畏まりました」

 

 溜息と共に吐き出されたアンの言葉に、女王の側近は恭しく頭を下げ、アンの母親である女王の待つ屋敷へと下がって行った。

 女王である母から呼び出される時は、大抵の場合何かのお咎めである。

 心当たりが有り過ぎるアンにとって、母親の呼び出しは溜息を吐いてしまうほど憂鬱な物であった。

 

「アン様、おはようございます。今日は良い天気ですね」

 

「……おはよう……私の心は、曇り空だけどね……」

 

「また何か女王様に叱られる事をなさったのですか? アン様もそろそろしっかりなさいませんと」

 

 さわやかな笑顔で挨拶をくれた里の住民に向けるアンの表情は、言葉通り曇った物だったが、それがいつもの事なのか、住民は気にした様子もなく、零れるような微笑みを浮かべたままアンとの会話を続けていた。

 

「……じゃあ、私はお母様の所へ行ってくるわ。行きたくはないけれど……」

 

「ふふふっ、はいはい。アン様に心当たりがおありなのでしたら、覚悟を決めて早めにお顔を出された方がよろしいですよ」

 

「……心当たりが多すぎて、どれだか分からないわ……」

 

 優しい笑みを浮かべたままの里の者に別れを告げ、アンは母親が待つ『女王の屋敷』へと足を進めた。

 

 

 

「アン様、お待ちしておりました」

 

「……お母様は、中にいるの?」

 

「はい。先程からお待ちになっております」

 

 屋敷の入口に、先程アンを呼びにきた側近が立っていた。

 恭しく頭を下げる側近の態度に何故かアンは溜息を溢す。

 アンは、母親の周囲にいる者達には辟易していた。

 確かに自分は女王の娘である事は間違いない。しかし、次期女王かと問われれば、それは否なのだ。

 元来、エルフの長は世襲制ではない。長い年月を生きるエルフにとって、それを纏める者にはそれ相応の能力が必要となってくる。

 それは、魔力の量であったり、エルフとしての質であったりするのだが、アンは自分がその素質を持っているとは思ってはいない。母親の様に常に笑顔を見せずにいる事などアンには無理な注文であったし、周りのエルフ達全ての態度が、今目の前にいる側近の様な態度であれば、それこそアンは窒息死してしまう。

 

「こちらです」

 

「……わかってるわ。一人で行けます」

 

 先導しようとする側近をその手で制し、アンは女王の待つ謁見の間へと進んで行った。

 これ以上、母の周囲を固める者達と共に居れば、アンの呼吸は止まってしまいかねなかったのだ。

 

 

 

「待っていましたよ、アン」

 

「お母様、今日はどのようなご用件ですか?」

 

 娘である自分ですら、物心ついた頃から目の前の玉座に座るエルフの笑顔を見た事がない。里を護るエルフの長としての顔しか、娘のアンも見た事がないのだ。

 母親としての優しさも、暖かさも、そして厳しさも感じた事はない。

 

「アン、貴女はまた里の外へ出ましたね。何故、私の言う事を聞けないのですか!?」

 

 アンは、何度か里の外の森へ出る事がある。しかし、それはこの里の中では禁忌の行為。

 例え、『結界』があり、魔物や人が近寄る事がないとは言え、まだ生まれたばかりの赤子同然のアンが、外に出る事は大きな危険を伴うのだ。

 

「……でも……魔物も出ないですし……」

 

「『結界』は絶対ではありません。『魔物』も『人』も迷い込んで来る可能性もあるのです」

 

 アンの弁解は母親によって斬り捨てられる。女王にとって、自分の娘であるアンが率先して里の規則を破ってしまえば、里の者達に示しが付かないと考えているのだ。

 それは、アンを通常の里の住民と同列に考えていない証拠でもあるのだが、若いアンにはそれが解らない。

 

「……でも……」

 

「『でも』ではありません! 貴女のその勝手な行動に、何人のエルフが動いたと思っているのですか!?」

 

 言葉を発しようとするアンを制するように、女王が言葉を被せる。女王の言う通り、アンの行動によって、アンの捜索の為に数多くのエルフが動いた。

 アンがいなくなるのは今に始まった事ではないが、曲がりなりにも女王の娘である以上、その安否は最重要事項となるのだ。

 

「……良いですね。今後は里から出る事は固く禁じます」

 

「わ、私は、籠の中の鳥ではありません! 私は女王の娘という前に、普通のエルフの娘です!」

 

 再度、静かにアンに語りかける女王の言葉に、アンは素早く反応を返す。それは、悲痛な叫びであると共に、自分の立場や存在を軽く見るような発言と女王には聞こえた。

 女王は、一度目を瞑った後、再度厳しい表情を作り直しアンを見つめる。

 

「……同じ事です。アン、貴女は私の唯一人の娘なのです。貴女は、一人のエルフの娘である前に、この里の女王である私の娘。それは、貴女がどれ程否定をしようとも、外れる事のない物なのです」

 

「……」

 

 女王の言葉は、アンの期待していたものではなかった。

 このような時だけでも、アンを女王の娘としてではなく、普通の母子として接して欲しかったのだ。

 しかし、今も尚、玉座に座る母親の顔には、女王としての仮面が着けられている。いや、元々それは仮面なのではなく、素顔なのかもしれない。

 そう、アンは思っていた。

 

「……お話はそれだけでしょうか、女王様?……でしたら、これで下がらせて頂きます」

 

 アンの精一杯の抵抗。

 自分を女王としての視線でしか見ない母親に対しての精一杯の皮肉をぶつけ、素早く身を翻したアンは、謁見の間から足早に退出していった。

 

 

 

「……ふぅ……」

 

 アンの出ていった謁見の間に、女王の溜息が洩れた。

 目を瞑り、天を仰ぐように顔を上げた女王の表情は雲っている。

 女王には、アンの感じている不満が理解出来ていたのだ。アンが生まれた時には、既に女王として彼女はこの椅子に座っていた。

 やっと生まれた愛しい我が娘を腕に抱く暇もなく、里に住む者と、世界中に散らばったエルフの保護に奔走していた為、アンに寂しい思いをさせてしまっていた事を悔やんでもいる。

 しかし、エルフを護る為には、そうするしかなかったのだ。

 『人』は神から与えられた、繁殖能力と、努力という才能を持っていた。知識も魔力も『エルフ』には及ばず、身体能力は『魔物』には及ばない。だが、他種族にはない、新しく何かを『産み出す』という事にかけては『人』に敵う種族などなかったのだ。

 そして、彼等は他種族の脅威へと成長して行った。

 傍観を決め込んでいたエルフにすら牙を向けるようになる程に。

 

「……アン……貴女がどれ程否定しようとも、次期女王は貴女以外にはいないのですよ……」

 

 目を瞑ったまま女王が呟いた言葉は、エルフの未来に関する事。

 『人』との争いも、今は膠着状態に入っている。原因は『魔王バラモス』の台頭である。

 それ以前から、エルフを護るかのように魔物が人を襲う事が多くなってはいたが、魔王の登場という決定的な出来事に、『エルフ』と『人』の争いは沈静化していったのだ。

 おそらく、このまま『魔王バラモス』が『人』を支配したとしても、逆に『人』が『魔王』を討伐したとしても、『エルフ』と『人』との争いは終止符を打ったままだろう。

 女王はそう考えていた。それならば、自分の役目も、もうあと百余年。

 『人』との争い、それに対する報復を考えるエルフ達。それを抑え、一つに纏める為には、エルフ内を厳しく律し、そして率いていかなければならない。

 女王として即位した時には『人』との争いの真っただ中だった為に、女王はその感情を胸の深い底へと隠したのだ。

 

「……アン……」

 

 だが、それももう必要がなくなるだろう。これからはアンの様なエルフが上に立つ時代。

 アンは、『自分は女王の娘というだけで、次期女王ではない』と思っている事だろう。しかし、女王は、身贔屓ではなく、次期女王はアンしかいないとすら思っていた。

 確かに、魔力の量や質では、アンは現女王である自分には敵わないだろう。しかし、アンには自分にはない物を数多く所有しているのだ。

 通常女王の娘となれば、周囲のエルフからの扱いも変わって来る。それこそ、自分の周囲にいる側近達のような態度が当然とも言えるのだ。

 しかし、アンに対しての里の者達の反応は違う。それは、里一番の若い者という事を差し引いても、アンへの接し方は異常なのだ。

 長く続いた争いにより数が減り、世界中に散らばってしまったエルフを、これから先で纏めて行くのは、厳しい規律でも、女王としての威光でもなく、アンが持つような暖かさだと女王は考えていた。

 まるで里にいるエルフ全体が一つの家族であるように接し、お互いで助け合い、叱咤激励しながら前へと進めて行く。アンにはその能力があると思っていた。

 

「……誰か!」

 

「はっ、ここに……」

 

 暫し、目を瞑ったまま考えていた女王の目が開かれ、玉座に座ったまま、近従の者を呼ぶ声を上げた。

 その声は決して大きい訳ではないにも拘わらず、即座に女王の前に一人のエルフが跪く。

 

「アンの護衛を頼みました。出来るだけあの子の自由に。しかし、身の安全を最優先に」

 

「はっ。畏まりました」

 

 とても難しい注文である。それでも、控えていた側近は表情一つ変える事なく、恭しく頭を下げると、謁見の間を出て行った。

 残ったのは、またしても女王唯一人。もう一度目を瞑り、何かを考えるように思考の渦に落ちていく女王の姿があった。

 

 

 

 女王の屋敷を出たアンは、その胸の内に色々な想いを持ったまま、里の中を歩いていた。

 基本、女王の屋敷とアンの自宅は違う為、あの屋敷はアンの家ではないのだ。

 幼い頃から、アンが起きている時間帯に、女王である母が、自宅と呼ばれる家へ帰って来た事は数える程しかないのだが。

 

「……私はもう子供じゃないのよ……魔法だって覚えたし」

 

 家への道を歩きながらアンは愚痴を溢し始める。確かに『人』であれば、成人として扱われる歳ではあるが、アンはエルフ。長寿のエルフの中では、赤子も同然なのだ。

 それが、若いアンには不満なのである。

 

「……アン様、女王様はご心配なのです。女王様は心からアン様を愛しておいでです。愛しているからこそ、里の外へ出る事を禁じているのです」

 

「お母様は、女王の視点からしか私を見ていないわ。私は、お母様に甘えた事も我儘を言った事もない……」

 

 屋敷を出てすぐに、護衛及び監視の役目を担った側近が近付いて来て、アンに言葉をかける。アンは、その側近の登場に驚く様子もなく、答えを返した。

 『今、愚痴をこぼしている内容、里の外へ出る行為自体が我儘なのでは?』という疑問が側近のエルフの頭に浮かんだが、『そこはまだ子供なのだ』と口には出さなかった。 

 

「そんな事はございません。女王様はアン様を想って言っているのですよ」

 

「はいはい! もう良いわ。もう私はこのまま家に帰るから、監視は必要ないわよ。貴女も暇ではないのでしょ?」

 

 鬱陶しそうに側近の言葉を遮り、アンは家へと向かう道を歩いて行く。女王の側近に対し、そのような態度を取ること自体、アンがその他の里の者達と違うという事にも、アンは気が付いていない。

 

「アン様、くれぐれも里の外にはお出にならぬようにお願い致します。『結界』がある森とはいえ、何が起こるか解りません故に」

 

「はいはい。わかっているわよ」

 

 アンの態度を気にかけた様子もない側近の続く諫言には、アンは振り向く事もなく答え、家へと入って行った。

 戸が閉まった事を確認し、側近は女王の屋敷へと下がって行く。

 この分では、今夜は家から出てくる事はないだろう。明日の朝、再び護衛に戻れば良いと考えての行動であったが、この側近も指示を出した女王も後々、この時の事を悔やむ事となる。

 

 

 

 里の中は静まり返り、薄暗い。まだ、太陽は地平線からその顔を出し始めたばかりの刻限に、アンは家を出ていた。

 強く拘束されれば、尚更強く反発したくなる。それは、子供特有のものであるが、女王の娘であるアンも例外ではなかった。

 母親も側近も里の外の森は危険が伴うと言うが、アンは森の中で『魔物』はおろか、『人』に出会った事すらない。

 

 『この前が大丈夫であったのだから、今日も大丈夫。』

 

 そういう子供ならではの言い訳がアンにはあったのだ。

 故に今日もまた木々がアーチを描く門を潜り、里の外へと足を踏み出す。側近が迎えに来るであろう刻限までには戻れば良いと考えて。

 

 

 

 森の中は今日も静けさに包まれていた。朝の早い鳥たちの囀りや、小動物達の姿。里の中だけの生活を送っていたアンにとって、日々変わる森の色合いは、その心を弾ませるものであった。

 朝露を掬い、木々を見上げる。大きく広げた枝々に色付く葉達によって、昇ったばかりの太陽の光は遮られているが、それでも森の中は徐々にその色合いを鮮やかにしていった。

 

「ふふっ、やっぱり、魔物の気配なんて全然ないわ。お母様も心配し過ぎなのよ」

 

 確かにアンの周囲に魔物の気配はない。『結界』の影響もあるだろうが、基本的にこの森に魔物が入って来る事はなく、暗黙の了解として、互いの領域を区別しているようであった。

 以前に一度、アンも森の中に迷い込んだ魔物を見た事はある。その時はアン一人ではなく、女王である母親と数人の側近が一緒であった。

 思えば、あれ以降、アンに対する里の外出禁止令が出たのだった。

 エルフの里の民も、食料などを取る為に、この森へ入る事はある。

 しかし、その時には必ず護衛をつける事になっていた。

 決して、アンのように、たった一人で森へ入る事はないのだ。

 

「……でも……魔物の気配はないけれど……何か今日は違うわね?」

 

 アンが感じたのは、森の中のざわめき。魔物の様な邪悪な気配はないが、それとは違う森の中の生物達の喧騒。それは、焦りや興味。内に秘める魔力の高さからなのか、アンにはそれを感じる事が出来ていた。

 

「……あっちの方ね……」

 

 森の声にならないざわめきの方向へと歩を進めるアン。

 それは、危険に遭遇した事のない子供の行動。

 恐怖や警戒心よりも興味が勝ってしまった結果であった。

 

 

 

 森を進むと、アンが感じるざわめきは大きくなって行く。それは、森にある全ての物達の意識がそこへ向かっているようであった。

 そしてアンは出会う事となる。

 彼女の運命を大きく左右する存在に。

 

 そこは、森の木々たちが作る動物達の憩い場。立ち並ぶ木々がぽっかりと開けた空間。優しく降り注ぐ朝陽がその空間を照らし出し、幻想的な光景を作り出していた。

 その空間にある切り株に腰を落とし、集まって来る小動物や鳥達に食料を与えながら、自分の口へも運んでいる一人の青年がいた。

 

『……人間?』

 

 木の陰に隠れながらその光景を見ていたアンは、その青年が何なのか分からない。生まれて二十年、里の外に出た事がないアンは、『人』自体を見た事がない。そして、男という性別も。

 その人間のような青年は、穏やかに微笑みながら手に持つパンを千切りながら、周囲に集う動物達へと与えており、朝陽が照らし出すその姿は、とても優しげに映し出されていた。

 青年の様子では、おそらくこの森に入ったのは初めてではないのだろう。何かの拍子で迷い込んでしまったが、入口付近であったため、何事もなく出る事も可能であったのかもしれない。

 そして、森に入った時に魔物の気配がない事に気付き、何度か足を運んでいたようだ。

 

『……あれが人間?……聞いていた話と違うわ……穏やかそうな生き物ね……』

 

 アンは遠目に見ながらその青年の動きをじっと見ている。その内、食料を与え終えた青年は、ゆっくりと立ち上がり、野草などを入れた籠を抱えて森を出て行った。

 森の出口に向かう青年の後姿を、動物達が見送るように見つめる中、アンもまたその青年の後ろ姿に魅入ってしまう。

 青年の姿が全く見えなくなった頃に、やっと我に返ったアンは、自分がいつの間にか森の出口付近まで来てしまっていた事に気が付く。それは、側近たちが自分を迎えに来る刻限にまで間に合わない事を意味するものだった。

 

「い、いけない! また怒られてしまうわ!」

 

 弾かれたように身を翻し、里への道をアンは全速力で走り出す。

 アンの声に驚いた森の動物達もまた、それぞれ森の中へと散って行った。

 

 

 

「……アン様……今までどちらに?」

 

 家に辿り着くと、そこには石像のように固まったまま門の前に立ちはだかる側近がいた。

 家に辿り着く少し前に息を整えていたアンは、カモフラージュの為に持ち出していた水桶を抱えてにこやかな笑顔を側近に向ける。

 

「おはよう。水を汲みに行っていたの。少し、そこで話し込んでしまって、遅くなってしまったわ」

 

「……そうですか……出来るならば、水汲みも私が来てからにして下さい」

 

「はいはい。気をつけるわ」

 

 水を並々に注いだ水桶を両手で抱えているアンに側近は溜息を吐く。いつも、里の外へ出たアンならば、夕方まで戻る事はないため、アンの言葉を信じる事にしたようだった。

 

 そして、アンにとって、これまで過ごして来たような退屈な毎日とは違う日が始まった。

 里に暮らすエルフ達との会話もいつもと色合いが違う。アン自体は気が付いていないが、里の住民はアンの変化に少なからず気が付いていた。

 いつもより笑う回数が多い。笑顔をよく見せるアンではあるが、今日のアンの笑顔はいつもよりも輝いていたのだ。

 アンの頭の中には、常に今日見た光景が思い浮かんでいた。それは、誰かと会話をしている最中でも、一人で洗濯をしている時でも、つい呆けたように思い浮かべてしまっていたのだ。

 

 それは、アンのつまらない退屈な日々を変えてくれるような予感のする光景。

 アンはそんな予感に胸震えていた。

 

 

 

 その日から、明朝の森訪問が始まった。

 毎日毎日、朝陽が昇る前に起き、側近が迎えに来るまでの時間はアンにとって心が躍る物となって行く。アンが出会った青年は、毎日森に現れる訳ではなかったが、それでもアンは雨の日も風の日も森へと訪れた。それこそ、愛しい者へ会いに行く女性の様に健気に。

 

 そして、歯車は動き始める。

 それは、アンにとって幸せの始まりなのか、転落への序章なのか。

 

 

 

 その日、いつもの様にアンは里を抜け出し、森へと歩いて行く。いつもの場所、いつもの光景。そこに、いつもの様に朝陽に照らし出され、美しく輝く青年がいた。

 その周囲には、やはり動物達。朝露に濡れた野草を籠いっぱいに取り終え、休憩を兼ねて朝食を取る青年の姿に、アンは魅入られた。

 

 ここ最近は、アンの心の中をこの青年が占める割合が大きくなっていた。

 それは淡い恋心なのかもしれない。

 しかし、経験のないアンには理解出来ない感情であった。

 

 一人の人間を見つめるアンは、いつもよりも近付いてしまっている。アンの気配に真っ先に気が付いたのは動物達。

 与えられたパンをかじっていたうさぎが、ぴくりと耳を動かし顔を上げたかと思えば、そのまま森の中へと逃げ去ってしまう。うさぎに続くように次々と森の中へと動物達は逃げ去って行った。

 

「!!」

 

 動物達の行動に驚いた青年は、周囲を見渡し、その視線の先にアンを捉えて止まった。

 アンは自分の姿が人間に見つかってしまった事に身体を強張らせるが、視線を止めた青年の柔らかな笑顔に緊張が解けて行く。

 

「……初めまして。君は誰?」

 

「えっ!?……あ、あの……」

 

 突然掛けられた声に、アンは戸惑い口籠る。

 そのアンの様子に笑みを深めた青年は、優しく手招きを返して来た。

 

「僕は、<ノアニールの村>に住む、ギルバード。君はこの森に住んでいるの?」

 

「あ、う、うん。私はアン。貴方はこの森に毎日来ているの?」

 

 アンの問いかけは、答えを知っている物。青年を毎日見かけている訳ではないのだから、何日に一度という事は間違いがないだろう。

 

「いいや。毎日ではないけど、この森には不思議と魔物がいないから、たまに野草やきのこを取りにね」

 

「そ、そう……」

 

 何時の間にか青年がすぐ前にいる。

 それは、青年が近づいた訳ではない。

 切り株に座る青年へとアンが近づいて行ったのだ。

 

「この森の中には、村があるのかい?」

 

「いいえ、村ではないわ。貴方は……『人間』なの?」

 

「えっ!? 人間って……君は違うのかい?」

 

 近づいても優しく微笑む青年に対し、警戒感を解いてしまったアンは、不用意な質問をぶつけてしまう。それは、アンの素性を明らかにしてしまう程に危険な物。しかし、それがどれ程危険な物なのかをアンは理解出来ていない。アンの母親である女王に話したのなら、極刑に値する行為だと叱責を受ける可能性すらあるものだった。

 

「……ええ……私はエルフ。この森にある<エルフの隠れ里>に住むエルフよ」

 

「……エルフ……」

 

 『人』に話してしまった以上、もはや<隠れ里>でも何でもない。アンの母親である女王が、長い時をかけて培って来たエルフの歴史を、アンは今まさに一瞬の内に不意にしてしまったのだ。

 

「へぇ~。君がエルフなのか……僕も初めてみるよ。でも、君の様な美しい子がエルフなら、世間でいうエルフの話は大袈裟なのだろうね」

 

「……噂?」

 

「あ、ああ、いや、なんでもないよ。それより、君はここに毎日来ているのかい?」

 

 『人』の間で噂される『エルフ』がどんな物なのかがアンは気になったが、苦笑の表情を浮かべるギルバードを見て、その事を追求することが出来なかった。

 

「ええ、毎日森には来ているわ」

 

「そうなのかい? なんだ。だったら、もっと前に声をかけてくれれば良かったのに」

 

 苦笑から柔らかな笑顔に再び戻ったギルバードの表情にアンは見とれてしまう。人間の噂ならアンも数多く聞いている。

 エルフとみれば、襲いかかり、連れ去ろうとしたり、殺したりするというようなもの。しかし、目の前で微笑む青年には、そのような感じは一切なかった。

 『もしかすると、猫を被っているのかもしれない』等とは、経験の少ないアンには思い浮かばなかった。

 只々、『<人>という種族も、母親が話しているような存在ではないのではないか?』としか思っていなかったのである。

 

 

 

 そんな二人の出会い。

 その出会いから、二人は何度もこの森で逢瀬を重ねる事となる。

 ただ、同じ時刻、同じ場所で会い、他愛もない会話を繰り返すだけ。

 それでも、アンはその日常の変化が何よりも楽しかった。

 

 やがて、お互いが種族という大きく、とても高い壁を越え、恋に落ちて行く。それは、それほど時間を要するものではなかった。

 相手に名前を呼ばれるだけで心が躍り、会えない時間を相手の事を考える事で潰す。そんなありふれた恋愛に、『エルフ』と『人』という相容れない者達が陥って行く。

 

「……アン……」

 

「……ギルバード……」

 

 朝陽が昇る前のそんな短かな時間。

 それこそ、雨が降ろうが雷が鳴ろうが二人はその時間を共に過ごして行く。 

 

 

 

 しかし、そんな甘い時間も唐突に終わりを告げた。

 

 毎日毎日、朝早くから水汲みに行くアンに対し、ついに女王の側近が動いたのだ。

 夜から見張りをつけ、アンの起床と共に気付かれないよう行動を監視する。案の定、アンは朝早くに家を出て、里の出口へと向かう木々のアーチを潜って行く。そして、脇目も振らずに森の出口へと進んで行くアンを側近の一人が制止しようとするが、その側近の動きそのものを制止する手が挙がった。

 それは、いつもアンを護衛していたあの側近。女王の親衛隊の隊長を担う女性だった。

 

「今しばらく、アン様の行動を追う。余計な事はするな」

 

「はっ」

 

 そのまま数人の親衛隊は、アンの後ろを気付かれないように追って行った。

 そして辿り着く。

 『エルフ』と『人』の禁忌の地へと。

 

「……隊長……これは……?」

 

「……」

 

 親衛隊の一人が声を発した。

 それは何かに脅えているように震えている。

 

「……全員、帰還する……この場で見た事は他言無用だ。良いな?……もし、誰かに口を割った者がいた場合は、私がこの手で裁く」

 

 暫しの沈黙の後、隊長である側近が口にした言葉は、かなり理不尽な物である。現実、裁かれる者は、目の前で『人』と抱き合っているアンである事は、誰の目にも明らかだった。

 しかし、誰の反論も受ける事なく、隊長は身を翻して里へと戻って行く。慌ててその後を追う少数の親衛隊は、何かを問いかけようとして隊長の顔を見た瞬間、その口は針と糸で縫いつけたように開く事が出来なくなった。

 

 彼女の表情は、それ程に厳しく、そして哀しみに彩られた物だったのだ。

 

 

 

「……アン……よく顔を出せましたね」

 

 アンは今、女王の謁見の間に跪いていた。

 いつも見慣れた光景。

 今日もまた、家に帰った後、母親である女王から呼び出しがかかった。

 しかし、今日はいつもと違う部分が目に入る。常にアンと謁見する際は、アンと女王の二人だけであった。例え、親衛隊と言えど、女王とアンの謁見中は広間に入室しては来なかったのだ。

 それが、今日に限って、女王の座る玉座を囲むように親衛隊が立ち並び、アンの後方にも控えていた。そして、女王の言葉。何かを含んだような、奥歯に何か詰まったように口を開いたのだ。

 

「お母様が呼んだのでしょう? 別に私もここへ好んで来ようとは思いません」

 

「……アン……」

 

 アンの言葉に、周囲を囲む何人かの親衛隊の表情が変わった。

 それは、今までアンに対して向けられた事のないような表情。

 敵として見るような冷たく、厳しい表情。

 自分に向けられた敵愾心剥き出しの視線にアンは怯える。

 

「……アン……貴女のような娘が、里の外の森へ出かける事は少なからず目を瞑っていました。しかし……貴女が森で『人』と会っているという報告を受けました。それに相違はないですか?」

 

 怯えるアンに対し、呟くように溢した女王の言葉に、アンの瞳は大きく見開かれた。

 それは、ギルバードとの逢瀬が発覚したという事より、今まで里の外に出ている事すら黙認されていたという驚愕の事実に。

 

「……それは……」

 

「……事実なのですね……」

 

 アンの煮え切らない答えに、女王は目を瞑り、深い溜息を吐いた。

 その女王の瞳が再び開かれた時、アンは思わず声を上げそうになった。目を開いた女王の表情は、今までアンが見た事のない物だったのだ。

 今まで、自分は母親の女王の顔しか見ていなかったと思っていたが、それが誤りである事に気が付く。今、自分の目の前にあるその表情が、まさしくエルフの民を護る女王の顔。

 自分が見て来た物は、母親としての情を捨てきれていない顔だったのだ。

 

「アン。貴女が行った行為は、万死に値する行為。当分の間、自宅にて監禁とします。常に親衛隊の監視をつけ、許可なく自宅から出る事を固く禁じます」

 

「……そ、そんな……」

 

 女王としての威厳を持ち、女王としてアンと相対する気迫に、アンは言葉を紡げなかった。

 それでも絞り出すように口にした言葉は、今まで聞いた事もない程の声量に搔き消される事となる。

 

「異議は認めません! 貴女が行った行為は、この里に住むエルフ全員を危険に晒す行為。貴女は我々エルフの民を裏切ったのです。その罪を自覚なさい!」

 

 アンは目の前が暗くなっていくのを感じた。

 女王の言葉は絶対。

 それは、もう二度と外へは出られないという事。

 そして、二度とギルバードには会えないという事。

 しかし、その絶望的な事実に覆い隠され、アンは気付かない。

 アンが恐怖すら感じた女王の表情の中にまだ母の情が隠れている事を。

 アンの生存が許されている。

 それは、母の愛以外何物でもないという事を。

 

 

 

 親衛隊の護衛と言うよりは監視を伴って、アンは自宅へと辿り着く。この戸を開け、中に入ってしまえば、もはや外に自由に出る事など出来ない。

 『逃げ出そうか』とも考えたが、周囲をがっちりと囲む親衛隊に隙などない。むしろ、逃げ出した瞬間に腰に差す剣にて斬り捨てようと考えている者までいるのではないかと疑ってしまう程、目を血走らせている者までいた。

 

「……アン様……大人しく家に入って頂きたい。女王様の慈悲を無駄にしないで下さい」

 

 悲痛の表情を浮かべて口を開いた隊長の言葉に、アンは諦めたように自宅の戸に手をかけ、絶望への扉を潜って行く。家の中は、アンの心の中を映し出したように暗く、静寂に満ち満ちていた。

 一際大きな音の様に、戸の閉まる音が響く。戸が閉まる音の反響も収まり、静寂が戻った部屋で、アンは一人崩れ落ちた。自分に起きた不幸を嘆くように、呪うように。

 

 

 

 あれから、幾日も過ぎた。

 その間、アンはほとんど家から出る事はなかった。

 心配した親衛隊の隊長が家の中に入ると、椅子に座り、一点を見つめて涙を流すアンの姿を見つける。食事も碌に取ってはいないため、女性特有の柔らかな丸みを帯びた身体は、病的に痩せていた。

 顔に生気はなく、何かうわ言の様に呟く姿は悲痛な物に映る。

 

「……アン様……」

 

 隊長が家に入って来た事も、言葉を発した事にも気がつかないように、一点を見つめて口を開くアンが呟く言葉は、あの『人間』の名前かもしれない。

 確かに女王の判断は正しい。そして、アンが行った行動は、エルフ全体を裏切るような行為であった事も事実。

 通常ならば、処刑と言う形で命を散らす筈が、今も尚、健康的ではないが生きてはいる。

 しかし、それは、本当に良かったのか。ここまでの苦しみを与えて、生き長らえさせるのであれば、命を奪ってしまった方が良かったのではないだろうか。

 女王の娘というステータスを考慮に入れずに、隊長はそう考えてしまった。

 

「……アン様……今日は良い天気です。たまには女王様にお顔を見せてはいかがでしょうか?」

 

 そんな考えが、隊長の口を動かしてしまった。

 常に流れ落ちていた涙の為、赤く染まってしまったアンの瞳を哀れと思い。

 

「……そうね……」

 

 ようやく、隊長の存在に気が付いたアンは、焦点の定まらない瞳を動かし、隊長の提案に首を縦に振った。

 その姿は、隊長の言葉を理解出来ているとは到底思えないものだった。

 

「はい。では、参りましょう。女王様もお喜びになるでしょう」

 

 アンの肯定に、隊長は表情を幾分か和らげ、アンを外へと導いて行く。

 この事を、後々まで悔やむ事になるとは知らずに。

 

 

 

「アン! よく来ました。ちゃんと食事をとっていますか?……顔色が優れませんよ?」

 

「……はい……お母様……」

 

 謁見の間に久方ぶりに姿を現したアンの姿を見て、女王は言葉を失った。

 アンが行った事への事後処理である、里の民の心を静める為、昼夜を問わずに奔走していた女王はアンの自宅へ帰ってはいなかった。

 この期間に仕事漬けだった女王もまたやつれてはいたが、アンはその比ではない。美しく艶やかだった髪はその輝きを失い、生気と好奇心に充ち溢れていた瞳は虚空を見つめるように儚かった。

 

「……アン……貴女の悲しみが解るとは言いません。ただ、貴女の未来は長いのです。それこそ『人』の道の数十倍になる程に……」

 

「……それでも……それでも私は……」

 

「……アン……」

 

 女王の言葉に再びアンの瞳に涙が浮かぶ。

 娘の姿に、女王も言葉を繋ぐことが出来なかった。

 今ここには、親衛隊等の女王の側近はいない。

 女王とアンの二人だけであった。

 

「……アン……ならば、母として願います。食事をしっかりと取り、生きて下さい」

 

「……」

 

 女王が見せた母としての顔も、今のアンには届かない。いや、むしろ女王の言葉など聞いていないかのように、ただ一点を見つめていた。

 アンの視線のその先にあったものは赤く輝く大粒の宝石。

 エルフの長が持つ事を許される<エルフの至宝>。玉座に嵌め込まれたその至宝をアンは見つめていたのだ。

 

「……少し待っていなさい。良い物を持って来ましょう」

 

 反応を示さないアンの姿に、女王は何かを思いついたように玉座を離れ、奥へと消えて行った。 

 

 空っぽとなった謁見の間。

 残された者はアン一人だけ。

 そこからのアンの行動は早かった。

 玉座に近づき、嵌め込まれている赤く輝く宝石を抜き取る。そして、周囲を警戒しながら、謁見の間を離れて行く。

 謁見の間から廊下へ続く戸を開ければ、親衛隊達が待ち構えている。しかし、アンにとってこの屋敷は幼い頃からの遊び場。誰も知らない抜け道等も心得ている。

 通気口を通り、謁見の間から脱出。その後は他の部屋から部屋へと移動し、誰にも会わないよう細心の注意を払いながら動いた。

 幼い頃より成長したアンであれば通れない場所も、ここ幾日かで痩せ衰えたアンの身体であれば可能であったのだ。

 無事、屋敷の外へ出たアンは、息つく暇もなく走り出す。

 自由と希望、そして輝く未来が待っている筈の里の外へ。

 愛しき『人』の待つあの場所へと。

 

 

 

「待たせました……アン……?」

 

 何かを手に持ち、謁見の間に戻った女王の目には誰もいない空間が広がっていた。

 アンがいない。

 待ちくたびれて帰ってしまったのか?

 それはない。

 もし、そうであれば、側近が一言告げに来る筈である。

 

「!!……誰か!? 誰かおらぬか!!」

 

 奇妙に思い、見渡した謁見の間に、感じてはならない違和感。その違和感の正体に気が付いた女王は、久しく上げていなかった程の声量で側近達を呼び寄せる。

 

 

 

 『ギルバードなら、いつもの場所で待ってくれている筈』

 アンは、その想いだけを胸に走り続ける。

 アンの予測は正しかった。アンが現れなくなったその日から、ギルバードはアンと逢瀬を重ねたあの場所に毎日来ていたのだ。

 仕事も手につかなくなり、ほとんど一日中、森の中の切株に座っているだけだった。

 

「ギルバード!!」

 

「!!……アン!!」

 

 引き裂かれた糸が修復されて行く。

 引き寄せられるように抱きあう二人。

 何年も会っていなかったかのように、お互いの存在を確認し合った。

 

「ギルバード、急ぎましょう。ここにいれば、里から追手が来るわ」

 

「わかった。僕の村に一緒に行こう。そして、一緒に暮らそう、アン」

 

 手と手を取り、二人は森を抜け出して行く。

 アンにとって未知の世界への旅立ち。

 しかし、そこに感慨など感じる余裕はなかった。

 『この<人>と共にいたい』

 アンの想いは、唯それ一点のみだったのだ。

 

 

 

「……女王様……間に合いませんでした……アン様は森の外へ出てしまわれたようです」

 

 陽も落ち、夜の帳が落ち始めた謁見の間で、玉座に座り目を瞑っていた女王に掛った報告。それは、エルフにとって最悪の結果であった。

 

「……それ以上、追う必要はありません……」

 

「し、しかし! 『夢見るルビー』が……」

 

 目を開いた女王が口にした言葉に、すかさず反論を返す側近に対して女王は鋭い視線を向ける。<エルフの至宝>と呼ばれる宝石の紛失は、既にこの里中に広まっていた。

 

「……例えアンといえども、『夢見るルビー』の力を解放する事など出来ません……」

 

「しかし、邪悪な心を持つ者が持てば……」

 

「……確かに、『人』の手に渡っただけではどうする事も出来ないでしょうが、『魔王』等の手に渡れば、あるいは……」

 

 鋭い視線のまま、口を開いた女王の言葉に、謁見の間に集まったエルフ達から次々と言葉が飛び交い始める。既に事は、女王とアンの二人の問題だけではなくなっているのだ。

 『夢見るルビー』という膨大な力を宿す宝石は、この世界を揺るがす程の物。それをこの場にいる全員が知っていた。

 

「……わかっています。今回の件では、エルフの民全てを巻き込んでしまいました。私には既に、女王としての資格はありません」

 

「……それは……」

 

 言葉が飛び交う謁見の間に女王の静かな声が響き渡る。

 その言葉に、周囲の声がピタリと止まった。

 誰も、今の女王に不満がある者等いないのだ。

 『人』との争いの中では先頭に立って戦い、争いが沈静化すれば民を導く力を持つこの女王には、皆感謝こそすれ、思うところなどない。

 確かに、争いが沈静化した後も、血気に逸る者がいなかった訳ではない。元来、温厚な種族であるエルフでも許容出来る範囲がある。それを権力で抑えるのではなく、諭し導きながら民全員の視線を前へ向けさせたのは、目の前で自分の悩みや悲しみを押し殺して話す女王その人なのだ。

 

「……恐れながら……このような時だからこそ、我らエルフを率いる事が出来るのは女王様だけだと心得ます……アン様の事は、確かに『許せぬ』と言う者もいるでしょう。しかし、おそらく……アン様は『人間』に誑かされたのです。アン様は外の世界を知らぬお人。悪いのはアン様ではなく、あの『人間』です」

 

「そ、そうです。何も女王様がその責を負う必要などありません」

 

「皆の言う通りです。『夢見るルビー』とて、『魔王』の手に渡る事などないでしょう。それに、云い伝えでは『邪悪』なる者では使う事など出来ないと云われておりますし」

 

 女王の言葉に反論を唱えたのは、やはり親衛隊の隊長。アンを幼い頃から見て来ていた者であった。

 彼女の一言が、周囲を囲むエルフ達への救いの手となる。女王の引責退陣など認めたくはない。しかし、アンの行為はすでに里のエルフ全員の周知の事実となっていた。

 アンの責=親である女王の責。

 その構図を崩す為には、アンの責を無にするしかない。

 ならば、『人』に負わせれば良いのだ。

 

「……わかりました。私の娘が犯した罪です。私に出来る限りの事をして行きます。皆には苦労をかけます」

 

 玉座から立ち上がり、深々と頭を下げる女王の姿は、女王と言うよりは、子供の失態を謝罪する親そのものだった。

 その姿に言葉を失う者、涙を溢す者。それは、各人皆違いはしたが、想いは同じだった。

 

 

 

 それから時は流れる。

 

 アンはギルバードと共に<ノアニール>の村へ辿り着き、ギルバードの父に『恋人』と紹介され、女っ気のない息子に突如現れた嫁候補に父親は素直に喜んだ。

 共に暮らし、洗濯をしたり料理を作ったり。里で過ごしていた時とやっている事は変わらないにも拘わらず、アンの心は軽やかだった。

 

 しかし、そんなアンの幸せも長くは続かなかった。

 

 それは共に暮らし仲睦まじい二人に対するギルバードの父親の『結婚は何時するのか?』という問い掛けから始まった。

 その場は言葉を濁したギルバードであったが、その夜、アンに『父親にアンがエルフである事を話す』という決意を告白する。『エルフ』と『人』の歴史を幼い頃から物語の様に聞いていたアンは、ギルバードの提案に迷うが、彼の強い決意と愛を信じ、首を縦に振る事となった。

 

「……僕は彼女と結婚しようと思う……」

 

 その言葉から始まったギルバードの言葉。

 次の日の夜、父親を含めた三人で夕食を取り終えた後の事だった。

 

「そうか! うむ。アンのような娘であれば文句はないぞ」

 

「……そうか、良かった。それなら親父に言っておく事がある」

 

 父親の柔らかな笑顔を受け、ギルバードの心は軽くなる。まずは最初の関門は突破出来た。

 アンという女性を父親が気に入っている事は、ギルバードも承知していた為、ここまでは障害がない事は予想出来ていたのだ。

 

「なんだ? 暮らしの事なら心配するな」

 

「……そうじゃない。落ち着いて聞いてほしい……」

 

 意を決したように口を開き始めたギルバードの言葉を聞いていた父親の表情は、最初に見せていた微笑みとは真逆の表情へと変貌して行く。そしてついに感情が弾けた。

 

「エ、エルフだと!! 馬鹿も休み休み言え!! エルフなど息子の嫁に向かえる事が出来る訳がないだろ!!」

 

「今、アンなら文句はないと言ったじゃないか!?」

 

 突如弾けた父親の感情に、ギルバードは一瞬戸惑った。

 難色を示すとは考えていたが、ここまで感情を剥き出しにするとは思ってもみなかったのだ。

 

「ふ、ふざけるな! エルフだと知っていれば、そんな事は言わなかった! わしを騙していたのだな!? エルフと知っていれば、家の中に上げなかったものを!」

 

「アンはアンだ! 『エルフ』だろうと『人』だろうと関係ないだろ!」

 

 父親が示した感情は激昂。

 アンが『エルフ』だという事が彼の逆鱗に触れたのだ。

 

「お前は『エルフ』の恐ろしさを知らないのだ! 今は大人しくしているかもしれないが、この娘がその気になれば、わしやお前など一瞬の内に殺されてしまうのだぞ!」

 

「アンはそんなことはしない!」

 

 感情をぶつけ合う父とギルバード。

 突如変わった家の中の空気に、傍にいたアンは驚き戸惑う。

 

 『何故?』

 『何がいけないのか?』

 

 少なくとも、アンの周囲にいたエルフ達は、理由もなく人間を殺すような者はいなかった。この父親が、何をそこまで怯えるのかがアンには理解出来ない。

 そして、自分に浴びせられる罵声。これまであれほど優しかった父親の豹変ぶりにアンの思考回路がついていけない。アンの素性が『エルフ』というだけで、昨日のアンと今日のアンが変わる訳ではないのにも拘わらず、何故ここまでの罵声を浴びなければいけないのか。

 結局この日、ギルバードと父親はケンカ別れの様になり、離れのように建てられたアンとギルバードの家へと帰る事になった。

 

 そして、アンは知る事になる。

 何故、彼女の母親が『エルフ』達を隠していたのかを。

 何故、『エルフ』が『人』を怯えるような態度を示すのかを。

 

 

 

 父親の豹変ぶりを見た次の朝、アンが見ていた<ノアニールの村>の景色が一変していた。

 いつもの様に朝の挨拶を交わそうと、村人に近づくと、その村人は一瞬怯えた表情を見せた後、アンの挨拶に答える事なく逃げるように自宅へと引っ込んでいったのだ。

 最初は何かあったのだろうかと思ったアンであったが、村人は全員例外なく同じような態度をアンに取り始めた。

 おそらく、昨日のギルバードと父親の口論を聞いていた村人がいたのだろう。

 

「……おはよう……ございます……」

 

「!!……ヒィィィィィ!!」

 

 一対一で声をかけると、必ず悲鳴を上げて逃げてしまう。そして、遠巻きで見つめる数人の村人が、まるで汚物でも見るような目でアンを見ているのだ。

 アンは、その視線を感じ、初めて恐怖を感じた。

 これ程の悪意ある視線を受けたのは生まれて初めてだったのだ。

 そして、それは日を追うごとにエスカレートして行く。少数では、アンの存在自体に怯えて逃げる村人であったが、それが集団となると次第にアンの姿を見ても逃げ出さなくなった。

 

「まだいるわよ、あの亜人」

 

「ほんと。エルフなんでしょ?……私達人間の村に来て何をするつもりかしら」

 

「あまり言うと、聞こえてしまうわよ。エルフは魔法で人間を焼いた後に食べてしまうらしいわ」

 

「えぇぇぇぇぇぇ」

 

 そんな話は聞いた事もなければ、人間等食べた事もない。わざと聞こえるように話しているのではないかと思う程の声で話す村人の言葉はアンの心に暗い影を少しずつ落として行く。

 村に住む子供の中には、アンが洗う洗濯物に泥をかける子供も出て来た。しかも、その子供の親は近くにいて、戻って来た子供を叱るどころか、まるで『良くやった』とでも言うように、その子供の頭を撫でていたりもする。

 アンは、泥で汚れた洗濯物を再度洗いながら、自分の瞳から流れる涙を抑える事が出来なかった。

 

 

 

 そして、ついに村人達が動く。

 

 その日、まだ陽が昇り切らぬ内から、戸を叩くノックの音にアンは目を覚ました。それは、等間隔に響くノックで、とても人が手で行っているものではなかった。

 不思議に思い、隣で眠るギルバードを起こし、玄関へと出てみた二人が見た者は、獣と化した『人』の姿だった。

 

「……ギルバード……」

 

「……アン、僕の後ろに隠れるんだ……」

 

 玄関の戸を空けたそこには、村人全員がアンとギルバードの家を囲むように立っていた。その中央にはギルバードの実の父親まで見える。

 思い思いの武器を手にした大人達。手に石を握った子供達。そして、全員に共通した悪意ある炎を宿した瞳。

 

「エルフはこの里から出ていけ~~~!!」

 

「出ていけ!!」

 

 誰かが叫んだ言葉に、村人全員の声が重なる。その言葉と同時に、子供達は手にした石をアンとギルバードの二人目掛けて投げつけて来た。

 子供が投げる石といえど、数が多ければ、殺傷能力のある凶器。

 

「痛い!」

 

「アン!!」

 

 一人の子供が投げた石が、アンの肩に直撃した。衝撃と痛みに声を上げるアンだったが、当の子供は罪悪感を覚えるどころか、身の毛もよだつような微笑みを浮かべ、胸を張って親を見上げていた。

 

「ここは『人間』の村だ。エルフが暮らす場所なんてない! 早急に村から出ていけ!」

 

「!!」

 

 その言葉を発したのは、アンがこの村に来た事を誰よりも喜び、誰よりも優しく接してくれていたギルバードの父親だった。

 アンの心は絶望に打ちひしがれる。

 

「くそっ! アン! もう中に入ろう」

 

 父親の姿に舌打ちをしたギルバードは、次々と飛んで来る石つぶてからアンを護りながら家の中へと導く。アンはもはや顔を上げる事すら出来なくなっていた。

 ギルバードに引かれるまま家へと入り、ベッドに横になったまま動かなくなってしまう。

 二人が家の中に入っても、尚続く外からの罵声。そして扉にぶつかる石の音。それらの音から身を護るように毛布を頭まで被り、その中で更に耳を塞いで震える事しかアンに選択肢は残っていなかったのだ。

 アンは、初めて『人』の恐ろしさを垣間見た。

 少人数では、怯えるだけで何も出来ない『人』が、人数が増えただけであれ程強気に変貌する。数を増やした中には、それ程アンや『エルフ』の存在を嫌悪していない者もいたかもしれない。

 それでも、数の暴力の前では自分の考えを押し通す事は出来ないのであろう。

 子供達が良い例だ。彼等は、もしかすると『エルフ』という存在自体知らないかもしれない。それでも、『親達が行っているのだから、それは正しい事なのだ』と考えているのだろう。しかし、その顔に浮かぶ表情は実に醜い。

 

「……アン、ごめんよ。僕が父に話そうとしなければ……」

 

「いいえ、ギルバードの責任ではないわ。やはり、『人』と『エルフ』では……」

 

 『エルフ』の住む里を追われ、『人』が住む村でも拒絶されたアンの心は折れかけている。毛布を頭からすっぽりと被り、小刻みに震えるアンの姿をギルバードは見ていられなかった。

 

「……この村を出よう」

 

「えっ!?」

 

 ギルバードの突然の提案に、被っていた毛布を取り、アンが顔を出す。

 余りの提案に、アンの耳には外の騒音が入って来なかった。

 

「……アンにはすまないと思ってる。でも、ここに居ても僕達二人は幸せにはなれない。二人で村を出よう」

 

「……でも……どこへ?」

 

 アンの疑問は尤もな物である。住処を追われているアンには、この<ノアニール>以外に居場所はないのだ。

 それを誰よりも知っている筈のギルバードが村を出る事を口にした。つまりは、行く当てがあるのだと、アンは考えたのだ。

 

「……わからない。アンが住んでいた<隠れ里>は駄目なのかい?」

 

 しかし、アンの問いかけに返したギルバードの言葉は計画性など全くない愚かな物。そんなギルバードの提案は、アンとしても簡単に了承出来る物ではなかった。

 

「……里は無理よ。『エルフ』は『人』を嫌っているわ。もし、里の中に入ったとしたら、今度はギルバードが攻撃の対象となるだけよ」

 

「……でも……もう、僕達はこの村には住めない」

 

 ギルバードの言う事は真実であった。

 いや、ギルバードは『エルフ』に誑かされた者として、村人から同情をもらえるかもしれないが、アンは無理である。『エルフ』と言う存在を恐れ、アン個人を見ようともしない『人』に何を話しても、何を示しても、それは無駄に終わるだけなのだ。

 

「……とにかく今夜、村を出よう。このままでは、いずれ村の皆は何をしでかすか解らない。アンの身が危険なんだ」

 

「……ええ……わかったわ」

 

 愛しい女性の身だけを案じるギルバードに、アンは首を縦に振らざるを得なかった。

 そして、彼等は転落して行く。

 幸せな時間、幸せな夢。

 それはとても儚く、そして脆かった。

 

 

 

 村人達の攻撃も止み、それぞれが各家に戻って眠りについた深夜。月明かりだけが頼りになる村の中を、周囲を警戒しながら歩く二つの影。

 アンとギルバードである。お互いの手を取り、村の門を潜る。ギルバードと繋ぐ手と反対のアンの手には、小さな木箱が握られていた。

 もう二度と帰って来る事など出来ない村を暫く見つめた後、ギルバードはアンの手を引き平原を歩き出した。

 行く当てなどない。お互いの身体に大量の<聖水>を降りかけ、魔物を寄りつけないようにはしているが、どこをどう歩けば良いのかが分からない。

 <エルフの隠れ里>しか知らないアン。

 <ノアニールの村>しか知らないギルバード。

 二人の行先は、自然と初めて出会った森へと向かっていた。

 

 

 

 森の入口まで来て、アンの足が止まった。

 不思議に思いギルバードが振り向くと、アンは思い詰めたように俯いている。

 

「……アン……?」

 

「やっぱり無理よ。この森に入ってしまえば、お母様に気づかれてしまうわ。そうすれば、また離れ離れになってしまうわ。私はもう貴方と離れたくない。離れるぐらいなら死んだ方がマシよ」

 

 顔を上げたアンの瞳には涙が滲んでいた。

 悲痛な叫び。

 それはギルバードの心に突き刺さる。

 

「……わかったよ、アン……僕達は永遠に一緒だ……行こう」

 

「……ええ……」

 

 アンに笑顔を向け頷いたギルバードは、進行方向を変更し、二人が初めて会った森とは真逆の森へと踏み込んで行く。行き先に見当がつかないアンは、それでもギルバードに頷き返し、歩を進めて行った。

 

 

 

「アン、大丈夫かい?」

 

「……ええ……」

 

 二人が向かった先。それは、<ノアニール>の真西に位置する場所にぽっかりと口を開ける洞窟だった。

 <西の洞窟>と呼ばれるこの洞窟には、多数の魔物が生活をしている。森で束ねた木々に、アンが魔法をかけ明かりを取りながら中に入って行ったが、洞窟内のような天の恵みのない場所では<聖水>の効力は及ばない。

 必然的に、何度か魔物と遭遇する事となるが、アンの魔法で距離を取り逃げる事で難を逃れていた。ギルバードも『アンを護る』という一念で能力を限界まで引き出し、魔物へ対応をしていた事も原因の一つであろう。

 

「ぐわっ!」

 

「キャ―――――!! ギルバード!」

 

 しかし、魔物との戦闘などした事のない二人には、常に緊張感を保つような事は出来なかった。

 洞窟内に出来た傾斜を登りきり、『ほっ』と一息ついた時、横合いから出て来た腐った狼にギルバードの腹部が喰い千切られたのだ。

 慌ててギルバードに近寄ろうとするアンを塞ぐように、腐った狼<バリィドドッグ>が立ち塞がる。アンも仕留めてから食そうと考えているのだろう。

 

「……許さない……許さない……」

 

 しかし、<バリィドドッグ>を睨みつけるアンの瞳に怒りが浮かび上がっていた。

 今まで一度たりとも、これ程怒りを覚えた事はない。女王に里の外へ出る事を禁止された時も、村人から石を投げられた時も、村人から『エルフ』としての存在意義を否定された時も。

 

「我が前から消え失せよ! ベギラマ!!」

 

 アンの振りかざした右腕から凄まじい熱風が吹き荒れる。熱風はアンを仕留める為にゆっくりと近づいて来ていた<バリィドドッグ>に直撃し、炎の海へと変化して行った。

 炎の海に溺れる三体の<バリィドドッグ>は、断末魔の叫びを上げる暇もなく、その身体を消し炭へと変えて行く。

 怒りに燃えた瞳で、<バリィドドッグ>を見つめていたアンは、その後ろで倒れるギルバードの姿を見つけ、瞳の色を戻していった。

 

「!!」

 

 傍まで近付き、アンは言葉を失った。地面に倒れるギルバードの身体はもはや虫の息だったのだ。

 腹部を食い破られ、内臓が出始めている。地面は血の海と化していて、その原因である液体は、今も尚ギルバードの身体から流れ落ちていた。

 

「ギルバード! ギルバード!」

 

「……アン……良かった……無事なんだね……」

 

 動かす事の出来ない首を無理に動かしてアンを見つめたギルバードの瞳は、焦点が合っていない。

 微かにアンの姿を確認し、安堵の言葉を溢すが、それも痛々しいものだった。

 

「動かないで!……何故……何故、私達がこんな……誰か……誰か助けて……」

 

「……アン……もう僕は……」

 

「ギルバード!!」

 

 アンの悲痛な叫び。

 ギルバードのか細い声。

 魔物の気配もなくなったその空間にそれだけが響いていた。

 

 その時、奇跡が起こる。

 

 目を瞑ってしまったギルバードの身体を抱き抱え、涙を流すアンの胸元から眩いばかりの赤い光が放たれたのだ。

 突如起こった出来事に、アンは胸元から光の出所を探る。胸元から出て来たのは、<エルフの隠れ里>から持ち出し、着のみ着のままで抜け出した<ノアニール>からも持って来た『エルフの至宝』。

 

【夢見るルビー】

それは、長く続くエルフの歴史の中で最古の品。この世界にエルフが生まれ落ちた時に『精霊ルビス』から与えられたと伝えられし物。それは、代々エルフの長が所有する事になっていた。純粋な者が持ち、心からの願いを向けた時、その赤く輝く宝石はその願いを『精霊ルビス』へ届けると云われている。

 

「!!??」

 

 ルビーの放つ光は、それを仕舞っている木箱から漏れ出し、もはや木箱全体が光っているようですらあった。

 恐る恐る木箱を空け、中のルビーを取り出したアンは、その光の強さに目が眩む。視界を失ったアンの耳に地響きのような音が入り、その音と共に、アンが座る地面が大きく揺れ動き始めた。

 

「キャ――――」

 

 大きく揺れる地面に愛しき者が攫われないよう、アンは叫び声を上げながらも血だらけのギルバードの身体をしっかりと抱き抱えた。

 やがて、『夢見るルビー』から放たれていた光が収まると同時に、地面の揺れも収まって行く。

 

「えっ?」

 

 揺れが収まるが、まだ視界が戻らないアンの足元が濡れ始めた。それは、次第に上がっていき、アンの胸までを覆い尽くして行く。視界が戻り、アンの目に入って来た光景は、とても信じられない光景だった。

 アンとギルバードを囲むようにそびえ立つ四本の石柱。そして、アンの足元からは、冷たく澄んだ水が湧き出している。アンの膝元で横になっていたギルバードの身体は水面に浮かび上がっていた。

 今まで洞窟内を覆っていた魔物の邪悪な空気はなく、静かな澄んだ空気が広がっている。何より不思議な事は、あれだけ血を流していたギルバードの身体に傷がなくなっていたのだ。

 

「……ギルバード……ギルバード!!」

 

「……うぅん……アン……?」

 

 そして、二度と目を開けることがないと思われたギルバードの瞳が開いた。愛しき人の生還。その余りにも信じられない出来事に、アンの涙腺は崩壊した。

 

「……これは……何をしたんだい、アン?」

 

「……ぐずっ……うぅぅ……わから…ない……ただ、『夢見るルビー』が……」

 

 ギルバードの胸に顔を埋めながら差し出されたアンの手に握られた赤い宝石を受け取り、ギルバードは何かを考え込むように黙り込んだ。

 

「……この宝石に願いをかけたから僕の傷は治ったのかな?……だったら、僕を『エルフ』にしたり、アンを『人間』にしたりする事も出来るんじゃないのか!?」

 

「……えっ!?」

 

 ギルバードの話は、アンにとっても願ってもない事だった。

 そんな事が出来れば、アンとギルバードは二人で暮らす事が出来る。

 アンはギルバードに言われた通り、もう一度『夢見るルビー』を握り、懸命に願う。しかし、『夢見るルビー』は光らない。それでも諦め切れず、何度も何度も試みるが、赤い宝石は暗闇に覆われた洞窟の中で輝きを取り戻す事は二度となかった。

 深い溜息を吐き、希望を失った二人は、疲れた体を起こし、再び洞窟の深部へと歩き出す。数度の魔物との接触もあったが、警戒心を怠らなかった二人は、何とか最深部へと足を踏み入れた。

 

 そこは、更に幻想的な世界が広がった空間。

 先程、ギルバードの傷を癒した物と同じ水が溢れ、地底湖を作っている。その中心にまるで浮いているように地面が続いていた。

 地底湖の中央まで歩き、二人は手を繋いだままその場に座り込んだ。

 

「……アン……僕達はこの世界で生きる事が出来なかったけれど、ずっと一緒だよ」

 

「……ええ……ずっと一緒よ」

 

 そして、再びアンの膝枕でギルバードは眠りについた。

 そのギルバードの髪の毛を愛おしく撫でながらアンは寝顔を見つめ続ける。

 

 

 

 幾日が過ぎても、アンは未だにギルバードの髪を撫でていた。

 もはや、ギルバードの身体は動く事はなく、冷たく冷え切っている。例え、傷を治す水が湧き上がっている場所でも、食料がなければ生物の活動は停止するのだ。

 生物としての生命力はやはり『エルフ』であるアンの方が上だった。

 二日間泣き続けたアンであったが、今は、虚ろな目で虚空を見上げている。もう、アン自体の命も長くはない。アンの頭の中にここまでの出来事が蘇って来た。

 仕事ばかりの母親を追って、母親の仕事場である屋敷に行き、そこで何でもない毎日の出来事を母親に話す。

 そんなアンの話を仕事中にも拘わらず、笑顔は見せずとも静かに聞き、一つ一つ答えてくれる母。

 外で遊んでいて怪我をしてしまった時は、政務を放り駆けつけ、自らの魔法で癒してくれた母。

 遊んでいた内容を話すと、こってりと叱られ、痛みは消えても泣いてしまった自分。それでも最後は『無事で良かった』と抱きしめてくれた母。

 蘇って来るのは、膝元で静かに眠る愛しい『人』ではなく、いつも厳しく、自分に笑顔を向けてくれた事のない母親の顔ばかりであった。

 

「……うぅぅ……お母様……」

 

 次第に込み上げて来る感情を抑える事が出来なくなったアンの双眸から、涙の雫が溢れ出す。それは、母への溢れる想い。

 勉強も魔法もアンは母親から教わった。

 常に仕事場に顔を出すアンに嫌な顔をせず、母の玉座の近くに小さなテーブルを作り、政務の傍らで字を教え、魔法を教え、そして生き方を教えてくれた。

 

『アン、良いですか。我々<エルフ>は、<人>の守護を『精霊ルビス』から託された種族。それを誇りとしなさい。<人>は弱い。弱いからこそ、怯え、備え、そして牙を剥きます。だからと言って、<人>は単体では生きる事が出来ません。彼らは集まり、力を合わせる事で何かを作り出す種族。我ら<エルフ>はそれを遠くから見守り、保護していく誇り高い種族なのです』

 

 その母の教えの一つがアンの頭に不意に浮かんだ。

 『人』への復讐を唱える者達を諭し、『エルフ』としての誇りを蘇らせた女王の想い。

 アンが<ノアニールの村>で村人達から仕打ちを受けた時、アンの胸には怒りよりも哀しみが真っ先に湧き上がった。

 それは、自分の境遇に関する悲哀だと考えていたが、違ったのだ。

 

 『何故、<人>はこのように弱いのか。何故、母の様に考える事が出来ないのか』

 

 その想いが、アンに無自覚の感情を呼び起こさせていた。

 ギルバードが<バリィドドッグ>に傷つけられた時のアンの天突く程の怒りは、愛しい『人』が傷つけられた為ではなかったのだ。

 誇り高き『エルフ』の誇りである、『人の守護』という物を傷つけられた事への怒り。

 アンは無意識に母の教えを思い出していたのだ。心に刻まれた『エルフ』としての誇りを。

 それは、アンの母親である女王がアンに残した物。アンが一度も母親としての顔など見た事もないと思っていた母の愛は、しっかりとアンに刻まれていたのだ。

 初めて知った、大きく暖かな母の愛。

 胸に込み上げる熱い思いに、アンの涙は止まらなかった。

 アンは、『夢見るルビー』の入っている木箱を空け、その中にある、一枚の紙とペンを取り出す。そして、涙で滲んだ視界の中、震える指で文字を書き始めた。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

親愛なるお母様

先立つ娘の不孝をお許しください

私達は『エルフ』と『人』

どうせ叶わぬ仲ならば……

天国で一緒になろうと思います

 

アンは、お母様の娘として産まれて来た事を誇りに思います

 

                           アン

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

 短い手紙を書き終え、ペンと共に木箱に入れて蓋をし、地面に木箱を戻す。もう一度ギルバードの髪を愛おしそうに撫でたアンの顔は、美しい笑みを浮かべていた。

 

「……ギルバード……約束よ。私達はずっと一緒……」

 

 静かに目を瞑ったアンの身体は、二度と動く事はない。

 静寂と澄んだ空気が満たした空間には、地底から湧き出す<聖なる水>の音だけが響いていた。

 

 

 

 

 




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エルフの隠れ里②

 

 

 

「……カミュ……」

 

「……なんだ?」

 

 <西の洞窟>から、メルエの<リレミト>によって瞬時に脱出した一行は、陽も完全に落ちた森を抜け、平原へと出た。

 平原を<ノアニールの村>に向かって歩いている最中に、共に歩いていたメルエのマントが緩んでいる事に気付いたサラが、メルエのマントの紐を結ぶ為、一行が立ち止まる。その僅かな時間で、リーシャはカミュに、その重い口を開いたのだ。

 

「……メルエは……メルエは何者なんだ?」

 

 顔を上にあげ、サラに首元の紐を結び直してもらっているメルエの姿を横目で見ながら話すリーシャの姿は、悲哀に満ちたものだった。

 

 

 

 実は、あの時、手紙を読んでいたリーシャ達を余所に、赤く輝く『夢見るルビー』をメルエがその手に取ったのだ。

 赤く美しい光を讃えるその宝石の輝きに、メルエの頬はにこやかに緩む。

 その時、一行の視界は完全に失われた。

 メルエが持つ『夢見るルビー』が突如凄まじいまでの光を放ったのだ。声を上げる暇もなく、一行の視界が奪われ、それぞれの頭の中に強制的に情報が送られて来た。

 それは、この<西の洞窟>という地へ『夢見るルビー』を運んで来たエルフの記憶。

 エルフの長である女王の娘にして、『人』との禁忌を犯した娘の記憶。

 その情報とは、アンが経験した行動が里を出たその時から始まり、この地で果てるその時までを映していた。

 しかも、それはアンが見た物、聞いた物だけではなく、感じた感情までも頭の中に送り込まれて来る物だった。

 

 突如現れ、突如消え失せた情報に戸惑い、取り乱す一行。

 その姿が、全員が同じ時に同じ物を見た事を物語っていた。

 

 

 

 リーシャがカミュに問いかけた内容は、その時の事なのだ。

 何故、あのような出来事が、メルエが『夢見るルビー』に触れた時に起こったのか。メルエが原因なのか、そうではなく『夢見るルビー』が勝手に起こした現象なのか。それがリーシャには解らなかったのだ。

 

「……さあな……俺には分からない……」

 

「し、しかし、メルエが触れた瞬間に起こったんだぞ」

 

 カミュの相手にしていないような口ぶりに、リーシャの声は大きくなる。しかし、再び振り向いたカミュの表情は、いつもの無表情。しかも、リーシャの思い違いでなければ、それは冷たく相手を突き放すような瞳をしたものだった。

 

「……では、なにか?……アンタはメルエの正体が、『エルフ』や『魔物』であったとしたら、その態度を変えるのか?」

 

 それは、リーシャに取って心外な一言。

 そういう意味でカミュへ問いかけた訳ではない。

 

「馬鹿にするな!! 例えメルエが『エルフ』であろうと、それこそ『魔物』であったとしても、メルエは私の妹だ!!」

 

 感情を露わにし声を荒げ、カミュを睨みつけるリーシャの瞳に信じられない物が映り込む。その映像にリーシャの口は閉じられ、逆に目は大きく見開かれた。

 

 微笑んでいるのだ。

 それは優しい微笑み。

 今までリーシャに向けられたことのないもの。

 皮肉気に口端を上げた物でもなく、相手を嘲笑するような物でもない。

 純粋に心から湧き上がったような、優しく柔らかな微笑み。

 それを、目の前に立つカミュは浮かべていた。

 

「……そうか……安心した……」

 

「なっ!」

 

 続いたカミュの一言で、リーシャは自分がカミュの浮かべる微笑みに魅入っていた事に気が付く。そして、驚いた。

 カミュが『安心した』と呟いたのだ。それは、カミュとしてもリーシャと同じようにメルエを大事に思っている証拠。

 メルエへの接し方を見れば、カミュの想いは解ってはいたが、そこまでメルエの事を考えているという事は、正直リーシャの中で予想以上だったのだ。

 驚きと共に、理由の分からない、喜びに似た感情がリーシャの胸に浮かんで来る。

 

「…………リーシャ…………よんだ…………?」

 

 そんなリーシャの感情を余所に、名前を呼ばれたメルエが、マントを結び直した後にリーシャへ近づいて来る。

 

「あ、ああ。なんでもない。さあ、メルエ、村へ戻ろう。もう陽が暮れた」

 

「…………ん…………メルエ…………ねむい…………」

 

「ふふふっ、まだ眠っては駄目ですよ」

 

 カミュの反応。

 メルエの反応。

 それが、<西の洞窟>で知ったアンの過去によって沈んでいたリーシャの心を浮かび上がらせた。

 それは、サラも同様であり、エルフのアンの記憶によって、『エルフ』と『人』についての悩みを深くしていたサラには、眠そうに目を擦るメルエの姿が有難かった。

 

 『……俺は……『人』自体が、護る価値のある物なのかも分からない……』

 

 以前、カミュがサラに言ったその言葉が、彼女の頭の中で何度も反復されていた。

 今回、アンの記憶を垣間見た時、最初サラは自分勝手なアンの責任だと思っていた。しかし、アンが<ノアニール>で受けた仕打ちは、『人』の業。

 『<人>以外の生き物には、生きる権利も価値もないのか?』とサラに問いかけたカミュの問いかけに、今のサラははっきりと答える事が出来ない。

 

 眠らされた<ノアニールの村>の住民達。

 果たして、それは理不尽な仕打ちなのか?

 彼等がアンに行った行為の代償ではないのか?

 ともすれば、あの老人の頼みを聞く必要など最初からあったのだろうか?

 サラはメルエに微笑みながらも、胸の中で葛藤を繰り広げていた。

 

「さあ、メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャはメルエへと声をかけ、手を差し出す。

 目を擦っていた手をリーシャに向け、にこやかに微笑むメルエ。

 そんな二人の姿は、姉妹と言うよりは親子に近いものだった。

 

「……どうした? アンタは戻らないのか? 置いて行くぞ」

 

「えっ!? あ、は、はい!」

 

 今まで自分の行動など意に介さなかったカミュが、自分に声をかけてくれた事に驚き、そしてサラの中に喜びに似た感情が湧きあがった。

 

「……カミュ様……一つお伺いしてもよろしいですか?」

 

「……」

 

 だからだろう。サラは、絶対に自分の考えと相容れないカミュへ問いかけてしまった。

 振り向くだけで、肯定も否定もしないカミュへサラは口を開く。

 

「……カミュ様は……『エルフ』の民の事を知っていたのですか?……それに、<ノアニール>の村人の行為の事も……」

 

「……」

 

 カミュは何も答えない。

 ただ、サラの目を見ていた。

 

「あ、あの……」

 

「……アンタが俺から何を聞きたいのかは解らないが……アンタの様な考え方を持つ者が、この世界では通常の『人』だ。この世界の『人』は、大抵が通常である者が多い。ならば、容易に想像が出来る筈だ……」

 

「!!」

 

 カミュの一言にサラの表情は凍りつく。

 一番言われたくない言葉。

 一番指摘されたくない場所。

 そこを寸分違わずに突かれたのだ。

 

「……もうアンタも気が付いているだろうが、この世に生きる生物は、何も『人』だけではない。アンタには育んで来た価値観があるのかもしれないが、それが絶対でもない。それは、俺を見ていて解っている筈だ」

 

「……」

 

 核心を突かれてしまったサラには、カミュの変化に気が付く余裕は既になかった。

 カミュの言葉は、いつもの様なサラを突き放すような物ではない。サラの目を見、そして自分の心を少しではあるが溢している。

 それは、先程見せたリーシャへの笑顔がきっかけなのか。

 それとも、サラが悩んでいる事への手助けの為なのか。

 

「……ですが……それならば、カミュ様はどうして<ノアニール>を救おうと?」

 

 サラの言葉は、カミュがこのような結果を予想していたにも拘わらず、何故元凶とも言うべき村の住民を救う為に動こうとしているのかという問い掛けだった。

 それに対し、カミュの表情は再びいつもの様な冷たい無表情へと変わって行く。

 

「……何度も言うが、俺はそういう存在だ……」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュの考えは歪んでいる。自分の存在自体を否定するようなカミュの言葉に、サラは二の句を繋げる事が出来なかった。

 自分が感じる憎しみや悲しみを捨て、決められた道を歩むように。

 周囲の人間が示した人物像を演じるように。

 カミュは唯、歩いているのだ。

 

「……行くぞ……」

 

「は、はい!」

 

 それでも、今回のカミュの行動によって、『人』だけでなく『エルフ』の心も救われる事になるだろう。

 それは、<ノアニールの村>の老人の言葉を鵜呑みにせず、<エルフの隠れ里>に住むエルフ達の対応に怒りもせず、そしてどちらの言い分にも偏る事のないカミュだからこそ、皆が救われる結果に導く事が出来たのかもしれない。

 もしも、カミュがもっと早くに、それこそアンとギルバードが出会い、逃げだす前にここを訪れていたとしたら、彼女達は命を散らす事がなかったかもしれない。命を捨てるという選択しか残されない状況に追い込まれる事はなかったかもしれない。サラは、この旅に出て初めて、信じていた『勇者』像にカミュが重なる想いがした。

 森から出た一行は、リーシャの提案により、一同がカミュの下へと集まる。皆それぞれがカミュのマントや足を掴み、それを確認したカミュが詠唱を開始した。

 

「ルーラ」

 

 瞬時に光に包まれた一行は、空の彼方へと飛んで行く。

 

 

 

 ノアニールのいつもの宿屋で一泊した一行は、アンの愛したギルバードの父親であろう老人に会わぬよう、明朝太陽が顔を出したのと同時にノアニールの門を潜った。

 

 連日の好天。

 太陽を遮る雲一つない青空。

 それは、誰の心を表すものか。

 

 女王の娘アンの心や行動を知り、それぞれがそれぞれの想いを胸に抱いていた。

 このパーティーの中でその表情や態度が変わらないのは、カミュだけ。リーシャやサラは勿論、メルエもまた何か思う所があるのだろう。その表情にはいつもと違う影が入っていた。

 

「……囲まれたか……」

 

 先頭を歩いていたカミュの溢した一言。

 それが、後方を歩く全員の顔を上げる原因となった。

 顔を上げたリーシャの面前には、腐った狼。<アニマルゾンビ>と<バリィドドッグ>がカミュ達一行の周囲を取り囲むように歩いて来ていた。

 風下に位置しながら近寄って来ていた為とは言え、その腐敗臭に気が付く事が出来なかった事をリーシャは後悔する。しかし、リーシャの手を握っていた小さな少女は、目に怒りの炎を浮かべていた。

 

「…………メルエ…………やる…………」

 

「メルエ! <ベギラマ>は使用禁止だぞ!」

 

「……ベギラマ?」

 

 決意と共にリーシャの手を離したメルエの瞳を見たカミュが、洞窟内で警告した言葉を再びメルエに投げかける。その聞きなれない呪文の名に、サラが首を捻るのとは対照的に、メルエはカミュを一瞥し、大きく頷いた。

 

「…………ギラ…………」

 

 メルエの腕から、洞窟内で唱えた物より縮小された熱風が腐った狼の群れに放たれた。

 着弾した熱風によって火柱を上げ燃え上がる大地。しかし、六体いた魔物の内数体は、その炎から逃げ出そうと、身を動かしていた。

 それも、パーティー内最年少の少女によって阻まれる事になる。

 

「…………イオ…………」

 

 立て続けの詠唱。それが、この小さな少女の怒りの度合いを表していた。

 炎から逃げるように動いていた<バリィドドッグ>達を包み込むように空気が圧縮し、弾け飛ぶ。

 

「……メルエ……」

 

 怒りのメルエの右腕から発せられた魔法の威力に、リーシャの表情は哀しみを湛えていた。

 メルエの怒り、それは、『夢見るルビー』を手に取った時に流れて来た感情が乗り移ったようなものだったのだ。

 誇りを踏み躙られた『エルフ』としてのアンの怒りそのもの。それが、リーシャには哀しかった。

 

「…………ベギ…………」

 

「メルエ!! 禁止だと言った筈だ!!」

 

「!!」

 

 尚も怒りにまかせ詠唱を行おうとするメルエに、カミュの厳しい叱責が飛ぶ。怒りに燃えていたメルエの瞳の光が、瞬時に怯えに似た物へと変わって行った。

 既に、<バリィドドッグ>達は、原型を留めてはいない。そこにあるのは、もはや物言わぬ物体。それを見ながら、洞窟内で見せたようにカミュは目を瞑り溜息を吐いた。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 先程までの怒りはどこへやら、メルエは上目使いにカミュへと視線を送るが、カミュがメルエに視線すら向けない事に俯いてしまった。

 

「……メルエ……」

 

「……カミュ……」

 

 そんなメルエの姿を心配そうに見つめる二人。しょんぼり落ち込むメルエに近寄るサラ。何かを考え込むようなカミュの姿に、彼が苦しんでいる内容に察しがついているリーシャ。

 

「メルエ」

 

 もう一つ溜息を吐いたカミュに名を呼ばれ、メルエはびくりと身体を震わす。

 そんなメルエにカミュは近づいて行った。

 

「……言う事が聞けないのなら、魔法全てを禁止するぞ」

 

「…………いや…………」

 

 カミュの言葉に怯えたように眉を下げ、メルエは全力で首を振る。

 それは、叱られた子供の様だった。

 

「……嫌なら言う事を聞いてくれ。何も、俺はメルエを嫌って言っている訳ではない。何度言っても、メルエが俺の言葉を無視するのなら、メルエを<ノアニール>に置いて行く事も考えなければならない」

 

「!!」

 

「カミュ!! 言い過ぎだ!」

 

 続くカミュの言葉に、俯いていたメルエの顔は弾かれたように上がる。傍で聞いていたリーシャも、そのカミュの言葉に声を荒げて抗議を表現した。しかし、カミュの表情は、ピクリとも動かない。

 

「……言い過ぎだとは思わない。厳しいかもしれないが、メルエが無理な魔法を使い怪我をした場合、誰がその責を負う?……アンタか? 洞窟内で見たと思うが、今、ここにいる人間が使う事の出来る回復魔法で、メルエの魔法の暴走による傷を完全には癒せない」

 

「…………いや…………いや!…………」

 

 カミュの言葉に涙を浮かべながらも首を振るメルエの声は、叫び声に変わって行く。やっと見つけた自分の居場所。それを奪われる。

 それがメルエの心に、恐怖に似た感情を湧き上がらせたのだ。

 

「カミュ様! わ、私が、もっと効力の高い回復魔法を覚えます! それなら、メルエの怪我も癒す事が出来る筈です」

 

「……サラ……」

 

 今まで成り行きを見つめていたサラがその口を開く。

 それは『僧侶』としてのレベルアップを誓うもの。

 それは、今のサラには非常に高い目標。

 必死なメルエを見て、サラはそれを解った上で決意したのだ。

 

「……そういう問題ではない。俺は、メルエが約束を破った事を言っている。先程も言ったが、何も永久に使用を禁止した訳ではない。ただ、今のメルエでは無理だと、俺も、そこの戦士も判断した。それを破るのであれば、結局は戦闘の足枷となるだけだ」

 

「……カミュ……」

 

 サラの決意は、尊い物である。しかし、カミュが話したい事からは論点がずれていた。

 カミュの言葉は、素直にサラの心に落ち、今、メルエが行った行為がどれ程に危険な事なのかを理解する事となる。

 

「自爆に近い形で怪我を負ったメルエを庇いながら戦闘を毎回行うつもりか? それに、無理な魔法行使は、メルエの成長の妨げにもなる筈だ」

 

 カミュが言う言葉に、ようやくリーシャは得心する。カミュは、心底メルエを心配しているのだ。

 メルエに戦う術を与えてしまった自己の罪を自覚し、ならば全力でメルエを護ると決めているようなカミュの覚悟を見たような気がした。

 

「……そ、それは……」

 

「アンタが、<ホイミ>以上の回復魔法を使用出来るのであれば、それに越した事はない。だが、それとこれは話が違う……メルエ、良いか? もう一度言う。<ベギラマ>は禁止だ。良いな?」

 

 サラに向けていた顔をメルエに再度向け直し、カミュはメルエへ言葉を投げる。

 それは念を押すというよりは、それよりも強い力を感じるものだった。

 

「…………ぐずっ…………」

 

 カミュの強い言葉に、目に溜めた涙を落し、鼻をすすりながらも、メルエは深く頷いた。

 カミュの強い視線と言葉が、先程のカミュの言葉の信憑性を高めている。ここで、まだ駄々を捏ねれば、本当にカミュは<カザーブ>でメルエをトルドに預けてしまうだろう。

 それを幼いメルエも感じたのだ。

 

「……メルエ……おいで」

 

 そして、メルエはいつもの様に、優しく両手を広げるリーシャの腕の中へと収まって行く。サラは、そんな二人の姿を見て、この三人のやり取りに自分が入っていけないのではと、少し寂しさを感じていた。

 故に気がつかない。

 カミュの言葉に、サラのレベルアップを奨励する言葉が入っていた事を。

 何も、このパーティーの中で心境に変化を見せているのは、常に悩むサラやリーシャだけではないのだ。この表情に乏しい、アリアハンが掲げる『勇者』にも変化は見えていた。

 

 

 

 <ノアニール>を出る頃には、少し顔を出していただけの太陽が真上に上る頃、一行は『エルフ』達の住む里を護っている森の入口の前に到着する。

 ただ、一行は、森の前に着いてからある事柄に悩む事となった。

 それは、エルフの里への行き方。

 先日は、メルエの純粋さにより到達出来たが、その頼りのメルエも、再度案内を頼むリーシャに弱々しく首を横に振るだけであった。

 

「ここで、立ち止まっていても仕方がない! まずは森へと入ろう!」

 

「……入るのは良いが、出られなくなる可能性を少しでも考えているのか?」

 

 猛然と森へ入ろうとするリーシャを留める為、苦言を言うカミュであったが、すでにリーシャの姿は森へと消えていっていた。

 

「……カミュ様……」

 

「仕方がない」

 

 リーシャに続くように入って行ったメルエを見て、サラがカミュへと指示を仰ぐが、もはや二人が完全に森に入ってしまった以上どうしようもないという事が事実である。

 カミュの諦めにも似た溜息を聞き、サラも森へと入って行く。それに続く形でカミュも森へと歩を進めた。

 

 

 

「……カミュ、どうするんだ?」

 

「……それは俺が聞きたい。俺の忠告も聞かずに森へと入ったのはアンタだぞ?」

 

「…………リーシャ…………一番…………」

 

「リーシャさんですね……」

 

 森へ入ったは良いが、入った途端に方向感覚を狂わせたリーシャが、カミュへと指示を仰ぐのだが、それに返って来たのは、パーティー全員からの冷たい反応だった。

 全員の冷たい反応に言葉を詰まらせるリーシャであったが、確かに森へ入る後方でカミュの声が聞こえた事を思い出し、頭を下げる。

 

「……入ってしまったのはどうしようもない。これからどうするかだが……」

 

「メルエ? やっぱり何も解りませんか?」

 

「…………ん…………」

 

 溜息を再び吐き出すカミュを横目に、サラがもう一度メルエに話かけるが、それは静かに首を振るメルエの姿を見て、落胆に変わった。

 しかし、その時、一行は再び不思議な光景を目の当たりにする事となる。

 明らかな落胆を示すサラやリーシャの横で、申し訳なさそうに視線を落とすメルエの懐から赤く輝く光が漏れ出したのだ。

 それは、一行が<西の洞窟>で目にした物と同じ光。

 <エルフの至宝>である『夢見るルビー』が放っていた光に間違いない。

 それがメルエの身体を包み込む程の勢いで漏れ始めたのだ。

 

「えっ?」

 

「ま、またか!?」

 

 その光を見つめるサラは驚き、リーシャに至っては再び先日の様な他人の過去を見せられるのかと警戒心を露わにする。しかし、それは懐から木箱を取り出したメルエの行動で、杞憂に終わる事となった。

 何事も起らない事を不思議に思う一行を余所に、メルエは興味深そうに木箱を開け始める。

 

「メ、メルエ!!」

 

 慌てたリーシャがメルエに駆け寄ろうとするが、時すでに遅し。まるで木箱の蓋が開く事を心待ちにしていたかのように、中に控えていた赤い宝石の輝きが増して行った。

 再び、<西の洞窟>と同じように視界が奪われる一行。

 しかし、それは一瞬の事だった。

 

「!!」

 

「うわ~~」

 

「こ、これは……」

 

 その後の出来事は、正に神秘的と言う言葉が良く似合う物だった。

 目が眩む程の光を放った『夢見るルビー』が、まるで本来自分がいるべき場所を示すように、ただ一点だけを目指して光を放ったのだ。

 一本の線と化した光は、太陽の光が届きにくい森の中で赤い光線となり、カミュ達を誘うようにその光を放ち続ける。

 

「……カミュ……これは……」

 

「……何度も言うが、アンタが解らない事の全てを知っている訳ではない。だが、この光が<エルフの隠れ里>を指し示している可能性は高いだろうな……」

 

「では、この光に沿って歩くのですか?」

 

 自分の胸から真っ直ぐ伸びる光に興味を示し、その光線の行方の間に自分の手をかざしたりしながら上機嫌なメルエとは別に、他の三人の表情は固かった。

 それは、<エルフの至宝>という情報しか持ち合わせていないカミュ達にとって当然の疑惑だろう。得体も知れない物が指し示す方向に歩くという事がどれ程の危険を含む物かを知っている人間にとっては尚更である。

 

「メ、メルエ! だから勝手に行くなと言っているだろう!」

 

 面白そうに光が指し示す方角へと歩き出すメルエに、リーシャは慌てて声をかけるが、本気で怒ってはいないリーシャに対し、メルエは先程のカミュに対してとは正反対に、柔らかな笑みを浮かべて振り向いた。

 そんなメルエの様子に溜息を吐いたカミュは、先頭を切ってその後を追って歩き出す。そしてリーシャやサラも続くのだった。

 

 

 

「……私は、生まれてから、これ程立て続けに不思議な経験をしたのは初めてだ」

 

「……はい……私もです……」

 

 目の前に広がる光景に、嘆息を漏らしながらリーシャが呟き、それに同調するようにサラも言葉を紡いだ。

 今、一行の目の前には、先日見た美しい木々のアーチが、誘うように立ち並んでいる。それは、<エルフの隠れ里>への道程を指し示していた。

 先程まで、メルエの手の中で一筋の光を放っていた赤い宝石は、もうその輝きを失い、静かにメルエの手の中に納まっている。一行が唖然とする中、メルエはその宝石を木箱の中に戻し、再び懐の中にしまい込んだ。

 そして、そのままメルエが先頭を切って、木々のアーチを潜って行く。

 

 

 

 里の中は、先日と変わらない。カミュ達の姿を確認したエルフ達は、驚愕の表情を浮かべた後、逃げ出して行った。

 そんなエルフ達の姿に、サラは心を痛める。『アンは<ノアニール>でこんなやりきれない想いを抱いていたのだろうか?』と考え、サラは首を振って考えを振り払った。

 彼女は一人だった。

 今の自分の様に、心強い仲間達がいた訳ではない。

 ならば、彼女が抱いた想いは、今自分が感じている物の何倍も厳しい物だったのだろう。

 

「……行くぞ……」

 

 そんなサラに心強い言葉がかかる。メルエに変わって先頭を歩くカミュが、真っ直ぐ女王の居る屋敷に向かい歩き出したのだ。

 

「……サラ、行こう。エルフ達の態度は気にするな。種族によって想いは違う。ただ、それだけの事だ……」

 

「……はい……」

 

 サラを気にしてかけてきたリーシャの言葉。だが、言葉の内容とは違う物を胸に抱いている事は、リーシャの表情を見れば明らかだった。

 リーシャもまた、サラと同じように心を痛め、今までの自分の価値観との板挟みにあっているのだろう。自身が築き上げてきた価値観が打ち砕かれ、世界の真実を目の当たりにする苦しみに似た感情をリーシャもサラも抱えていたのだった。

 

 

 

「またお前達か……何の用だ? 先日は例外である事ぐらい、お前達の方が良く解っているだろう?」

 

 屋敷の門に着くと、そこには待ち構えていたように先日と同じ側近が立っていた。

 彼女こそ、女王の側近達で組織される親衛隊の隊長を務めるエルフ。女王とアンを最後まで護り通そうと奮闘した者であった。

 

「申し訳ございません。どうしても女王様にお伝えし、お渡ししたい物があり、無礼を承知で再度上がらせて頂きました」

 

「……」

 

 カミュの真摯な対応に、エルフのエリートでもある彼女は、その目を真っ直ぐ見つめる。カミュのマントの裾を握ったメルエもまた、彼女を真剣に見上げていた。

 

「…………アン…………」

 

「……アン様に関わる事なのだな?」

 

 そのメルエの呟きに視線を向けた隊長は、確認を込めて言葉を繋げる。そして、その言葉に、カミュ達全員が頷くのを見て、一度目を瞑ってから溜息を吐いた。

 

「……わかった……通れ。女王様は謁見の間にいらっしゃる。失礼のなきよう」

 

「ありがとうございます」

 

 隊長の言葉にサラは目を見張る。里にいる住人達の反応から考えれば、通してはもらえないだろうと思っていた。しかし、現実はサラの考えていたものとは正反対なものだったのだ。

 人間を嫌う、いや、人間を憎んでさえいるエルフのそれも女王を護る側近が、よりにもよって自分達『人』を女王の許しもなく通す事が信じられなかった。

 

 

 

 自分の横を通り、謁見の間に向かう四人の背を見つめながら、隊長は考えていた。

 『何故、自分は通してしまったのだろう?』

 それは、女王の側近として、女王の『アン様の守護』という命を果たせなかった事への負い目からなのか。それとも、あの先頭に立っていた男という性別の、『人』の持つ蔑みや恐怖等の感情の見えない混じり気のない真っ直ぐな瞳のせいなのか。

 何れにせよ、女王の許可なく謁見の間へと続く門を開けてしまった以上、厳しい沙汰がある事だろう。それはもはや承知の上であった。

 しかも、エルフの敵と言っても過言ではない『人間』を通してしまったのだ。死罪は免れないだろう。

 それでも、彼女の心に『後悔』の二文字はない。何故か、それが自分の出来る最良の行動だったように思えて仕方なかった。

 

「……アン様……」

 

 自らが敬愛する人物の娘の名を呟く隊長の表情は、どこか晴れやかなものであった。

 

 

 

「再びここを訪れるとは、先日の私の話を聞いていなかったのですか?」

 

 謁見の間に入った途端、厳しい視線と共に向けられた冷たい言葉に、サラは身が竦んでしまう。女王から発せられる威圧感はそれ程までに強い物であった。

 

「お怒りは御尤もです。ただ、女王様にお伝えしたき儀とお渡ししたき物がございます」

 

「…………これ…………」

 

 女王の前で跪く一行の一番前で、カミュが口を開くと、待ちきれない様子で、メルエがその懐から木箱を取り出し、立ち上がった。

 

「メルエ!!」

 

「よい!……幼き者よ、それをこちらへ……」

 

 メルエの行動を咎めようと口を開いたリーシャを抑えるような、女王の強い言葉が謁見の間に響く。女王に命を受けたメルエは、木箱を両手に抱え少しずつ玉座へと近づいて行った。

 

「…………ん…………」

 

 文字通り、礼儀を知らないメルエは、無造作にその木箱を女王に手渡す。そんなメルエの作法に気を悪くした様子もなく、女王はメルエの手から木箱を受け取り、蓋をゆっくりと開けて行った。

 

「…………アン…………ないてた…………」

 

「メ、メルエ!!」

 

 いくらなんでも、メルエの言動は無礼すぎる。

 例え『エルフ』といえども、相手はそれを束ねる云わば『国王』の様な存在だ。とても、メルエの様な一少女が気軽に話して良い存在ではない。

 

「良いのです……そうですか……あの子は……」

 

 メルエの言葉に軽く視線を向けた後、女王は木箱の中にあった手紙に目を通し、全てを把握したように呟いた。

 そして、中にある『夢見るルビー』を手に取り、一度目を瞑り黙り込む。

 

「…………???…………」

 

 そんな女王の姿を不思議に思い、首を傾げたメルエであったが、先程からこちらを鋭く睨むリーシャの視線に気付き、慌ててカミュの傍まで戻って行く。

 カミュの傍で、跪いたメルエは、極力リーシャと目を合わせないようにしながら、カミュのマントの裾を力強く握っていた。

 

「……これを、持って行きなさい……」

 

「……これは……」

 

 暫し瞳を閉じていた女王は、一つ大きな息を吐き出した後、その双眸を開いた。そして、玉座の後ろから取り出した物を、跪くカミュの前に置き、再び玉座へと戻って行く。

 

「<目覚めの粉>です。これを風に乗せ、村の人間達に振りかければ、村人達の眠りも覚めるでしょう」

 

 その言葉にパーティー全員が驚きに目を見開いた。先程、女王が『夢見るルビー』を手に取り、目を瞑ったという事は、その宝石内に宿る娘の記憶をカミュ達と同じように見たと考える事は容易である。

 あの、村人から迫害を受けていたアンの姿をだ。

 それなのにも拘わらず、<ノアニール>の呪いを解くと言う。

 サラにはそれが不思議で仕方がなかった。

 

「……女王様は……見たのではないのですか?」

 

「サラ!!」

 

 メルエに続きサラまでもが立場を弁えぬ行動に出た事で、リーシャは頭を抱えたくなった。

 通常、サラやメルエ、リーシャでさえ、このような場所で口を開く事はおろか、身動きすらも出来ないというのにも拘わらず、よりにもよって、疑問をぶつけるなど言語道断の行いであるのだ。

 

「……そうですか……そなた等も見たのですね、我が娘アンの記憶を……」

 

「……はい」

 

 女王の問いかけに、サラが反応する事を遮るようにカミュが返答を返す。

 女王は少し目を瞑った後、再度口を開いた。

 

「そなた等は……『何故、人間達に迫害されたアンを見て尚、人間の眠りを覚ますのか?』と思っているのでしょうね……」

 

「……」

 

 女王の言葉は、謁見の間にいる女王以外の者全てに共通する疑問であった。

 女王として、エルフが受けたと言うだけでも許されない事の筈だ。それが、自分の娘となれば、尚更の事である。

 『人』に対し、更なる憎しみを覚え、復讐を考えても可笑しくないという程の事でもあった。

 

「……愛する我が娘が最後まで護り通した『エルフの誇り』を、母である私が汚す訳にはいきません」

 

「!!」

 

 サラは、女王の言葉に胸を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。

 娘を傷つけ、死へと追いやった『人』への嫌悪や憎しみを捨ててまで、娘であるアンの誇りを護る女王の大きさを目の当たりにし、言葉を失ったのだ。

 母と父を魔物に殺され、ただその『復讐』の為だけに旅に出た自分。

 『人』である男性を愛したが、その愛した男性と同じ『人』によって死に追いやられながらも、エルフとしての誇りを胸に、恨む事をせず、死を受け入れたアン。

 そのアンの結末すらも誇りとして受け止める女王。

 それは、サラが言い訳の様に自分に言い聞かせていた、種族の違い、価値観の違い、育ちの違い等では片付ける事など出来ないものであった。

 

「……私が、もっとアンの話を聞き、そして、あの子達の生きる道を共に探してやれば、あの子達が死を選ぶ事はなかった。私の責も大きいのです。あの子がこの里へ帰って来る事が出来なかった事自体が私の罪……」

 

「…………アン…………お母さん…………すき…………」

 

 自分を責めるように言葉を発し、目を瞑る女王に対して、メルエが再び口を開いた。

 言葉をたどたどしく繋げながら話すメルエの姿に、リーシャは止めるのを失念してしまう。

 

「……ありがとう……幼き者よ」

 

 メルエの声に目を開いた女王は、視線を向け、本当に微かに微笑んだ。

 その微笑みに、メルエもまた微笑み返す。

 一瞬の微笑み。

 すぐに表情を戻した女王は、再び厳しい目をカミュ達に向け、口を開く。

 

「……アンの最後を伝えてくれた事、そして、『エルフの至宝』を取り戻してくれた事には礼を言います。しかし、私が『人』を許せない想いは変わりません。用が済んだら早々に立ち去りなさい」

 

「……はっ。失礼致します」

 

 女王から<目覚めの粉>を受け取ったカミュは、深々と頭を下げた後、立ち上がる。それと同時にリーシャやサラも立ち上がり、謁見の間から出て行った。

 

「……そなたは暫し待て」

 

 メルエの手を引くリーシャも出て行き、残すはカミュ一人となった時、以前と同じように女王から制止の声がかかった。

 振り返ったカミュは、女王の視線を受け、再び玉座の正面に移動し、跪く。

 

「……そなたの瞳……見覚えがある。昔、この里へ迷い込んだ『人間』が居た。その者の瞳によく似ておる」

 

「……」

 

 顔を上げたカミュの瞳を覗き込むように見つめる女王の言葉に、カミュは何も答えない。いや、答えられないのだ。

 先に続く言葉を聞きたくないが為に。

 おそらく、女王の続けるであろう言葉は、カミュが予想した物と寸分も違わない物だろう。

 

「確か……『オルテガ』と言ったか……」

 

「!!」

 

 顔を下げ、赤い絨毯を見つめるカミュの予想通りの言葉が、女王の口から飛び出した。

 動揺を悟られないようにしていたカミュではあったが、『人』の守護者たる者達の長を相手では、カミュの虚勢は虚しいだけの抵抗であった。

 

「ふむ。そなたの縁者か?」

 

 カミュの反応に、女王の疑問は確信へと変わる。

 それ程、彼の身体に動揺が走っていたのだ。

 

「しかし、そなたの瞳と似てはいるが、決定的に違う部分もあるな」

 

「……」

 

 カミュは女王の言葉に反応出来ない。予想していた筈の名前でこれ程まで動揺する訳がない。

 カミュは、女王の放つ空気に呑まれていたのだ。

 『エルフ』という存在にではなく、『守護者』の中の女王の持つ強さに。

 

「そなたも、魔王の討伐の為に旅をしておるのか?」

 

「……はい……」

 

 女王の問いかけに、ようやくカミュは反応を返す。

 しかし、それはどこか弱々しいものであった。

 

「ふむ。そうか……以前、そなたは私に向かって、『人を護る理由』について答える事が出来なかった。それは今も変わらぬか?」

 

「……はい……」

 

 

 『人を護る理由』

 それは、カミュが物心ついた時から模索し続けている事柄だった。

 そして、未だに答えが見つからない。

 未だに顔を上げないカミュを見下ろした女王は、息を一つ吐き出した。そして、何かを考え込むように固まっているカミュに向かって姿勢を正し、その口をゆっくりと開く。

 

「……ここからは、アンの心を解放してくれた感謝の意を込めて話します」

 

「……」

 

 女王が姿勢を正した事により、カミュも姿勢を正し、真っ直ぐと顔を上げた。

 本来ならば、王の前で顔を上げる事など無礼に値する事ではあるが、この女王の言葉は、瞳を見て聞かなければならない事だと、カミュの何処かが理解していたのだ。

 

「貴方は、これから先、この世界を旅する中で、様々な事を見るでしょう。その中には今回の様な『人』の醜い部分を見る時や、逆に『人』の美しさを見る時など、貴方の悩みを大きくする物もある事でしょう」

 

 女王の口調が何時の間にか変わっていた。

 母が子を諭すような優しい口調。

 これが、『人』を守護し、導く『エルフ』の本来の姿なのかもしれない。

 

「もし、貴方が迷い、悩み、前へ進む事を躊躇う時には、あの『幼き者』を見なさい」

 

「……メルエを……ですか?」

 

 カミュは、完全に女王の雰囲気に飲まれていた。その一言一言が、カミュの胸の中に素直に落ちて行く。

 疑う事も、嫌悪を感じる事もない。川が海へと流れて行くように、女王の言葉はカミュの胸へと落ちて行った。

 

「ええ。あの『幼き者』は貴方を見ています。貴方を見ているからこそ、あの『幼き者』の瞳は美しい。何者の考えにも染まらず、自らが見聞きした物で判断する。貴方が迷い、悩む時、あの『幼き者』の瞳が貴方に答えを指し示してくれる事でしょう」

 

「……はい……」

 

 その言葉が意味する事は、今のカミュには理解出来ない。だが、カミュは頭を下げ、女王の言葉に肯定を示した。

 彼が歩む道に迷う時が来るのかは解らない。彼の歩む定められた道に悩む事などないのかもしれない。

 それでも、この言葉は、カミュの胸の中に残って行くだろう。

 

「貴方の瞳に似ている『オルテガ』と貴方の瞳の決定的違いは、貴方が答えを見つけた時、自ずと理解するでしょう」

 

 女王の話は終わった。

 具体的な教えは何もなかった。

 だが、カミュは、何か心に楔を打ちつけられたように感じていた。

 

「外へ出れば、私の真面目な側近が待っています。その者に『貴女の判断は正しかった。罪は問わない』と伝えてあげて下さい」

 

「……畏まりました……では、失礼致します」

 

 そして、女王とカミュの対談は終わりを告げた。

 色々な物をカミュの胸に残して。

 

 

 

 誰一人居なくなった謁見の間の玉座に一人座り、一枚の手紙を見つめる女性がいた。

 

「……アン……」

 

 愛しい娘の名を呟き、たった一枚の紙切れとなってしまった娘を胸に掻き抱く。

 女王と呼ばれ、エルフを護る為に奮闘して来たが、たった一人の自分の娘の身すら護る事が出来なかった事を悔やみながら。

 

「……うぅぅ……うぅぅ……」

 

 今日、この日だけは、女王ではなく、唯の母親に戻る。

 愛しい一人娘の死を悲しみ、涙を流す母親に。

 

 圧し殺すような嗚咽が、静寂と夜の闇に覆われた謁見の間にいつまでも響いていた。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございます。

この「エルフの隠れ里」編では、色々なご意見があると思います。
ご意見、ご感想等を心よりお待ちしています。


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ノアニールの村②

 

 

 

 エルフの隠れ里から出て森へ戻る頃には、陽も傾き、森の中は暗闇を帯びていた。

 思いのほか、カミュ一行は里で長い時間を過ごしていたようであり、カミュを先頭に森の出口に向かって歩き始め、その後をリーシャに手を引かれたメルエが続く。

 一行の間に会話は何もない。それが、全員の心を顕著に示していた。

 そんな落ち葉や枯れ木を踏みしめる音だけが森の中に響く中、不意にサラが呟きを溢す。

 

「……カザーブのアンは、『エルフ』のアンの……生まれ変わり……」

 

 本当に何気なく溢したサラの独り言は、思わぬ結果を生み出す事になる。

 一言も話さずに歩き続けていた一行の雰囲気が明らかに変わったのだ。

 

「……なんだと?」

 

 そして、それは先頭を歩いていたカミュの一言で爆発した。

 振り向いたカミュの顔は、表情を失くし、能面の様な物になっている。何度となく、その顔を見た事があるサラにとって、そのカミュの表情は自分の奥底にある恐怖を呼び覚ます物として十分な威力を誇った。

 

「カ、カミュ!!」

 

 慌てたようにカミュを制するリーシャであったが、もはや、カミュを止める事は出来ない。能面のような表情で、顔から奪った感情を吐き出すようにカミュは口を開いた。

 

「……生まれ変わりだと? 『エルフ』として死んだ者は、『精霊ルビス』に背いた者として、死後もその罪を償っているとでも言うつもりか? 生まれ変わった先でも、その罪によって、十年も生きられずに死ぬ事が決められていたとでも言うのか?」

 

「……そ、そんなことは……」

 

 サラが言う輪廻転生の考えは、この世界では常識ではある。その為、前世で『精霊ルビス』に背いた者は、今生でその罪を償いながら生きるというのが、教会が広める教えでもあるのだ。

 

「アンタが言っているのは、そういう事だ! アンタが僧侶として、どれほど『精霊ルビス』を崇めているのか知らないが、二人のアンの死をくだらない教えで汚すな!」

 

「!!」

 

「カ、カミュ!!」

 

 見た事のない程の激昂。カミュがこれ程感情を露わにするのを、リーシャもサラも初めて見た。

 サラは、そのカミュの感情をまともに真っ直ぐ受けた事によって、その身を強張らせている。そんなサラの近くに駆け寄ったリーシャも、その胸にある動揺を隠す事が出来てはいなかった。

 

「…………アンは…………アン…………」

 

 そんな二人を見上げるように、下から小さな声がかかる。感情を剥き出しにしたカミュとは異なり、哀しさを滲ませながらも、優しく微笑む少女。

 『人』のアンの唯一の友人にして、『エルフ』のアンの心を解放した張本人。

 

「……ごめんなさい、メルエ。そのような意味で言ったのではなかったのですが……それでも無神経でした。本当にごめんなさい」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの哀しみを感じさせる笑顔を見て、サラは自分の言った言葉の重みを理解し、頭を下げる。そんなサラにメルエは微笑みながら頷いた。

 

「…………サラ………また………泣く…………?」

 

「な、泣きません! だ、大丈夫です……ぐずっ……」

 

 メルエの茶化すような言葉に、反論するサラであったが、最後には溢れた涙を抑える事が出来なかった。

 自分の発した言葉の重みを理解し、カミュが激昂した理由も理解する。それでも、最も悲しんでいる筈のメルエの笑顔に、サラは感情を抑えきれなかったのだ。

 

「…………カミュ………だめ…………」

 

 サラの泣き顔を見たメルエは、カミュへ振り返り、厳しい目を向ける。それは、いつもの逆の姿。カミュに叱られ、涙を流すメルエという構図を覆すものだった。

 

「そうだな。言っている事は解るが、メルエの言う通り、言い過ぎだ」

 

「…………ごめんなさい………いう…………」

 

 いつの間にかメルエの後ろに立ったリーシャがメルエの援護に回り、メルエはカミュにサラへの謝罪を要求する。

 そんな二人の後ろで、サラは泣き笑いに似た表情を浮かべていた。

 

「……」

 

「…………カミュ………ノアニール………置いてく…………」

 

 無表情のまま、何も言わないカミュに、メルエが追い打ちをかける。それは、メルエがカミュに言われた言葉。しかし、それはメルエが嫌な事であって、決してカミュが嫌がる事ではない。

 むしろ、アリアハンを出た当初であれば、願ったり叶ったりの事であろう。

 

「……わかった、言い過ぎた。すまなかった」

 

 それにも拘わらず、カミュは頭を下げた。そんなカミュの姿にリーシャは多少の驚きはしたが、頭を下げたカミュに柔らかく微笑むメルエと共に表情を和らげる。

 

「い、いえ! 今のは、私が無神経だったのです。カミュ様が謝る必要などありません!」

 

 しかし、カミュが頭を下げるなど、考えもしなかったサラは完全に面を食らっていた。

 カミュにしてみれば、エルフの隠れ里で女王との話の中に出て来た存在への苛立ちをサラにぶつけてしまったという、唯の八つ当たりに近い物であった為、素直に頭を下げる事にしたに過ぎないのだが。

 サラも、教会の教えを全て否定する訳ではない。しかし、それが全てだとは、今のサラにもはっきりと断言する事が出来ないのだ。

 『エルフ』という民を見て、それを取り巻く『人』の過去を見て、サラの心は少しずつ変化をきたしていた。故に、面を食らっていたとは言え、教会の教えを『くだらない』と吐き捨てたカミュの言葉を否定しなかったのだ。

 

「…………ん…………」

 

 二人のやり取りを微笑みながら見つめていたメルエが、満足そうにカミュのマントの裾を握り、先を促した。

 剣呑になっていた空気は一気に和み、一行は再度森の出口に向かって歩を進める。メルエという存在の大きさを、リーシャは改めて認識する事になった。

 

 

 

 夜も更けた頃、一行は<ノアニール>の門を潜り、十数年の眠りにつく静寂が支配する村の中に入る事ができ、サラは安堵の溜息を洩らす。夜は完全にノアニールを支配し、只でさえ不気味に映る眠りに落ちた像達が月明かりを浴びて哀しく微笑んでいた。

 

「……カミュ……すぐに『目覚めの粉』を使うのか?」

 

「……いや、明日で良い」

 

 少し表情に疲れの見えるリーシャがカミュへと言葉をかけるが、それは明らかに『明日にしよう』という投げかけに聞こえるものだった。

 案の定、カミュにもその言葉に秘められた想いは届いたのか、カミュは溜息交じりにリーシャの物言わぬ提案に同意した。

 

「そ、そうですね。ギルバードさんのお父様にも立ち会って頂かないといけませんし」

 

「…………メルエ………ねむい…………」

 

 カミュの言葉は、満場一致で可決された。

 そのまま、一行は宿屋に入り、それぞれ湯浴みをした後に就寝する事になる。

 

 

 

「…………ん…………」

 

 翌朝、カミュの目の前に泡の付いた手を突き出すメルエに、カミュは再び自分の着ていた物を渡す事になる。先日、皆で一緒に行った洗濯が気に入ったのか、朝陽が昇るか昇らないかの時刻にメルエによって叩き起こされたリーシャが、カミュの部屋へ怒鳴り込んで来た。

 それは、メルエに対して怒っている訳ではなく、呑気に寝ていたカミュへの理不尽な怒りであった。

 そして、現在に至る。

 

「ふふふっ、村の方々に目覚めてもらうのは、洗濯物が乾いてからですね」

 

「そうだな。十数年眠りについているんだ。目覚めるのが数時間遅れても、文句は言わないだろう」

 

 メルエと共に桶を囲む二人が話しているものは、彼の老人に聞かれでもしたら、それこそとんでもない剣幕で怒り狂うであろう内容だった。

 終始笑顔の零れる二人に挟まれ、メルエは幸せそうな笑顔を浮かべながら、桶の水の中に入った手を懸命に動かし、服の汚れと戦っていた。

 

 

 

「これは、勇者様。朝早くから衣服の洗濯とはご苦労様ですな」

 

「!!」

 

 そんな和やかな空気を一変させる声が響く。それは、先程まで全員の話題の中心にいた人物だった。

 サラは先程までの会話が聞こえていたのではと訝しむが、言語の端々に厭味を含ませてはいるが、村人の解放を後回しにしている事には気が付いていない様子に、ほっと胸を撫で下ろした。

 

「『夢見るルビー』は見つかったのでしょうか?」

 

 まるで、『アンタ達は、やるべき事をやっているのか?』とでも言いたげな老人に、リーシャは苦虫を噛みしめたような表情を浮かべた。

 どちらかと言えば、この常にカミュ達に厭味を吐き続ける老人が、この村の惨状の原因であると言っても過言ではないのだ。それでも、この老人はカミュ達へ厭味を繰り返す。それが、サラに対してカミュが言った『そういう存在』という者である事の哀しさなのかもしれない。

 だが、サラは、老人の表情に嫌悪感を覚える。それが、自らが信じて来た道を、自らで脇へと逸れた証拠である事に気がつかずに。

 

「……はい。『夢見るルビー』をエルフの女王様にお渡しし、この村の呪いを解く事の許可を頂きました」

 

「な、なんですと! では、この村は眠りから覚めるのですね!」

 

 リーシャやサラが感情を表情に出してしまっている中、カミュは静かに老人と相対する。そのカミュの言葉に、老人は目を見開き、そして心からの喜びを表した。

 この老人にとっても、自分だけが取り残され、村の人間が全て眠りという呪いを掛けられた事へ責任を感じていたのかもしれない。もしかすると、それも、『自分の息子が犯した罪のせい』と考えているのかもしれないが。

 

「で、では、何をのんびりと洗濯などをしているのですか!? 早く村人の呪いを解いて下さい!」

 

「……村人の呪いは、解くつもりです。ただ、もうしばらく、この者達の洗濯が終わり、衣服が乾く午後までお待ちいただけませんか?」

 

 呪いが解かれるという事実を知り、老人はカミュの肩に掴みかかった。揺する老人の手をそのままに、カミュは後ろで作業をしている三人に視線を送った後、その許可を老人に求める。

 だが、そんなカミュ達のささやかな時間も、この老人にとってはどうでも良い事であった。

 

「アンタ達の衣服など、どうでも良い! それよりも十数年の呪いに苦しむ『人々』を救うのが先決であろう!」

 

「このっ!」

 

 そこに、呪いを解く為に奮闘したカミュ達への労いの言葉はない。カミュ達の旅の疲れを癒す時間も与えようとはせず、只々自分達の都合を押し付けるだけ。そして、その老人の態度が、遂に獅子を眠りから覚ました。

 他者との交渉時には絶対に間に入って来ない事を約束した人間。

 アリアハンから出発した『勇者』をアリアハンの英雄の息子とは認めなかった女性が、その青年を庇うように老人の前に立ち塞がったのだ。

 

「ならば、言わせて頂こう。ご老体、貴方が何をしたのか!? エルフの娘を多数で迫害し、実の息子と駆け落ちをしたにも拘わらず、その行方を探そうともせず……」

 

 突然前に出て来たリーシャに、カミュは面を喰らった。

 まさか、この『戦士』が前に出て来るとは思わなかったのだろう。カミュの中でのリーシャの評価は、ここ最近で随分と様変わりしている。それでも、『人』として当然の感情を吐き出す老人に嚙付くとは思わなかったのだ。

 

「お、おい……」

 

「カミュは黙っていろ! そして、その結果、エルフの女王の怒りに触れ、村に呪いが掛けられたのにも拘わらず、エルフの里へ謝罪にも行かない。その上で、赤の他人であり、何の縁もない人間にそれらの責任を丸投げし、その人間が奮闘した事に対し労う事もせず、発した言葉がそれか!?」

 

 サラやメルエはもちろん、カミュですら、ここまで怒気を発しているリーシャを見た事がない。いつもカミュと繰り広げているやり取りの中で、カミュのからかいに怒りを見せる事はあったが、それは納める事の出来るレベルだ。決して、以前交渉の場への介入を禁止したカミュの言葉を無視し、まして怒鳴り上げる事をする程の怒りではなかった。

 老人も、目の前に立つ、腰に剣を差した女性戦士の怒りに怯えを見せる。元来『人』は弱い。弱いからこそ、仲間を集い、そして大義名分を探す。その後ろ盾があってこそ、他者に対し強く出る事が出来るのだ。

 

「だ、だが、それが『勇者』であろう?」

 

「ふざけるな! 例え、『勇者』であろうと『人』である事には違いはない! 傷つけば倒れ、死に至る事もある。それ程の苦労をして来た同じ『人』を労う事すらも出来ないのか!?」

 

「……リーシャさん……」

 

 サラはリーシャの言葉を重く受け止めていた。

 『勇者といえども人』という言葉が、何故かサラの頭から離れない。それは、サラの中にある『勇者』という特別な存在の根底を覆す程の言葉であった。

 

「し、しかし、こうしている間も、村人達は呪いを受け苦しんでいる。その苦しみから救いたいと思うのは間違っているとでも言うのですか?」

 

 リーシャの激昂に劣勢になりながらも、老人は尚も食い下がる。

 しかし、老人のその反論に、リーシャの表情から怒りが消えた。

 そこに残ったのは、哀しみとも憐みともつかない微妙な表情。

 

「……長い眠りについているだけの村人に苦痛を感じる事があるのか? しかも、それに関しても、私から見れば『自業自得』とすら思える。貴方方が行った行為によって受けたアンの傷は、それ以上に深く苦しい物だったろう。私は、ご老体やこの村の人間がアンに行った行為を、同じ『人』として軽蔑する……そして、貴方には真っ先に我々に尋ねる事があるのではないのか?」

 

「なっ!!」

 

 それだけ言うと、リーシャは顔を下げ、俯いてしまう。老人としても、自分達がした迫害という行為の一部始終をこの勇者一行が知っている筈等ないと思っていたのだろう。まさしく言葉を失っていた。

 

「……何故……何故、貴方は実の息子の安否を我々に尋ねないのだ? それこそ、血を分けた息子を想う『人』としての感情ではないのか?」

 

 俯いたまま、絞り出すように呟いたリーシャの言葉は、完全に世界の時を止めてしまう。目の前で言葉を失っていた老人の顔はゆっくりと歪み、後ろに控えていたサラの表情も苦悶の物へと変化していた。

 確かに、長い時間が経過した。それでも、彼の息子が生きている可能性もゼロではなかった筈。諦めの為なのか、それとももはや他人と同様に思っている為なのか、その事を一言も口に出さない老人に最も落胆したのだ。

 

「……もういい……」

 

 止まってしまった周囲の時間を再び動かしたのは、『人』である『勇者』と呼ばれる青年だった。リーシャの前に再び立ち、老人の顔を見る。

 

「……」

 

 老人の顔は蒼白だった。

 身体も微かに震えている。

 カミュにまで、先程リーシャにぶつけられた蔑視の言葉を浴びせられるのではと老人は身を硬くするが、カミュから出た言葉はそうではなかった。

 

「……供の者の言葉はお気になさらずに。午後まで待って欲しいと言ったのは、理由があるのです」

 

「……理由……ですか?」

 

 予想とは違った言葉に、老人は呆気にとられたように言葉を溢す。カミュの後ろに下がったリーシャも、カミュの顔を見つめる事しか出来なかった。

 

「はい。女王様から頂いた呪いを解く為の道具は、風が必要なのです」

 

「……風?」

 

 先程の衝撃が抜け切れない老人は、只、カミュの言葉を繰り返すのみ。カミュの話している事を正確に理解しているかどうかも怪しい程に、目は泳ぎ、視線は定まっていなかった。

 それ程に老人の心は抉り取られていたのだ。

 

「はい。ご覧の通り、今はこの村に風が吹いて来ていませんが、午後になれば風も出て来ましょう」

 

 カミュの言葉通り、今この村には風が全くと言って良い程に吹いてはいない。女王が言っていた『目覚めの粉』の使用方法は、『風に乗せて』という物であった事は事実であるのだ。

 何故に風が必要となるのかという事に見当が付いているカミュにとって、今の状況で<目覚めの粉>を使用する事は出来なかった。

 

「そ、そうでしたか……そうとは知らずに、申し訳ございませんでした。では、私はこれで。午後に入り、その道具を使用する時には是非同席させて下さい」

 

「……はい……」

 

 そう言って、老人はそそくさとその場を後にする。まるで、自覚していた自分の罪から逃げ出すように。

 残った一行には気不味い空気が流れていた。

 激昂したリーシャ本人は当然として、それを傍観していたサラにも、そして庇われた形となったカミュにも。

 しかし、それを破ったのは、またしてもパーティーの癒しとなる少女だった。

 

「…………リーシャ…………」

 

「おっ!? な、なんだ? どうした、メルエ?」

 

 今まで、手に泡を付けながら呆然とその光景を眺めていたメルエが、リーシャの腰元に抱きつくように駆け寄って来たのだ。

 突然のメルエの行動に面を食らうリーシャではあったが、メルエをしっかりと抱き寄せ、その背中を撫でつける。

 

「…………リーシャ………すき…………」

 

「ん? そ、そうか……ありがとう……私もメルエが大好きだ」

 

 メルエにとって、老人とカミュのやり取りは、老人が一方的にカミュを攻撃しているように見えていたのであろう。

 そんなカミュを虐める老人に対して立ち上がり、やっつけてしまったリーシャを眩しげに見つめながら、カミュを救ってくれた恩人に自分の気持ちを吐き出したのだ。

 気不味い雰囲気に気持を沈めていたリーシャは、メルエの真っ直ぐな好意に嬉しそうに微笑み、メルエを抱く腕に力を込めた。

 

「さあ、メルエ、洗濯を終わらせてしまおう。昼までに乾かさないといけないからな」

 

「…………ん…………」

 

「そ、そうですね!」

 

 メルエの笑顔に気を取り直したリーシャの掛け声で、三人は再び泡の静まった桶に向かって歩き出した。

 皆がカミュに背を向け、桶へと歩き出す中、その中の一人の背に向かって、カミュが軽く頭を下げていたのを誰も見る事はなかった。

 

 

 

 雲一つない青空の中、カミュ達の洗濯物は順調に乾き、太陽が真上に上がる頃には、洗濯物を薙ぐように風が吹き始めていた。

 乾いた洗濯物を取り込み、それに着替えたカミュ達は、先刻の老人を呼び出し、村の中央に当たる宿屋の入り口付近に集まった。

 

「して、どうなさるおつもりなのですか?」

 

 先程のリーシャの怒りの余韻が残っているのであろう。少し、遠慮気味に口を開いた老人に、カミュは袋の中に仕舞っていた小さな巾着を取り出して見せた。

 

「これは、『目覚めの粉』と呼ばれる物だそうです」

 

「ほう……『目覚めの粉』とは何とも皮肉な……」

 

 あれ程、カミュ達に皮肉を言っていた人間が、その粉を皮肉な物として受け取る神経がサラには理解出来なかった。

 それは、リーシャも同様で、呆れと憐みを浮かべた瞳で老人を見ている。

 

「……では、始めます」

 

「お、お願いします!」

 

 カミュの言葉に返事を返したのは老人唯一人。

 他の三人の胸の内にある想いはそれぞれにしか分からない。

 巾着の様な袋から、カミュは自分の掌に中の粉を出して行く。

 予想と反して、金色(こんじき)に輝くその粉は、見方によっては砂金の様にも見えなくもない。ただ、実際手にしているカミュにしてみれば、その粉は手のひらに山盛りに乗せているにも拘わらず、羽根の様に軽く、何も重みなどを感じさせない物だった。

 

「あっ!?」

 

 それは誰の声であっただろう。

 その声が聞こえたと同時に、ノアニールの村から音が消え失せた。

 

 カミュの掌に出された『目覚めの粉』は風にさらわれ、舞い上がり、そして村全体を覆って行く。それは、あたかも金色(こんじき)の絨毯が敷き拡げられて行くように村の上空を覆って行った。

 空に舞い上がった金色(こんじき)の羽が村全体に行き渡り、次第に降り注ぐように舞い降り、人々の上へと落ちて行く。

 

 外で談笑をしている人々に。

 井戸の周りで水を汲んでいる人に。

 

 そして、風は、戸や窓の開いた建物の中まで金色(こんじき)に輝く雨を運び、建物の中にいる人々の上にも『エルフの優しさ』を運んで行く。

 それは、個人の怒りや憎しみを二の次にし、最愛の娘の誇りを護った人物の優しさ。

 どんな種族よりも誇り高く、そしてどんな人間よりも暖かさを持つエルフの慈愛。

 そして、その『エルフの慈愛』は、アンが暮らし、そして短い時間の中でも確かに幸せを感じていたであろう村の営みを戻して行く。

 

「あ、あれ?」

 

「ふぁ~~~あ、あれ?……なんでこんな所で……」

 

 人々は目覚め始めた。

 

 

 

 歓喜の雄たけびを上げ、もはやカミュの隣から移動していった老人の背中を、サラはその胸に色々な想いを抱きながら見ていた。

 リーシャはカミュを見ていた。

 あれだけの仕打ちを受けて尚、『それが人だ』と言い切る事の出来る、全世界の人々の希望と言って良い青年を。

 メルエは見ていた。

 いつもと変わらぬ無表情ながらも、その瞳に微かな優しさを湛えるその青年の瞳を。

 

「……宿屋に置いた荷物を取って、村を出る……」

 

 人々の笑い声、話声が戻り、本来の村としての喧騒が戻った村を背にし、カミュは宿屋へと向かう。その後を三者三様の想いを抱きながら続いて行った。

 

 

 

「あら? この荷物、あなた方のなの?」

 

 リーシャが荷物を置いていた部屋にはすでに人が入って来ていた。おそらく、眠りにつく前に部屋を出ていたのであろう、若い女性であった。

 

「あ、すまない。少し置かせてもらっていた」

 

「それはいいのですけど。なんだ、オルテガ様が忘れ物をして行ったのかと思ったわ」

 

「な、なに!?」

 

 女性のいない間に使っていたのは事実。その事実にリーシャは素直に謝罪をするが、女性から返って来たのは、想像以上の言葉だった。

 戸の外で成り行きを見ていた他の三人も、女性の言葉の内容に驚きを隠せない。

 

「ああ……オルテガ様はやはり行ってしまわれたのですね……森で魔物に襲われていた私を救い出してくれたあの方は、やはり昨日この村を出て行ってしまったのね」

 

「き、昨日だと!?」

 

 リーシャは言葉の内容をそのまま受け止めていた為、驚きの声を上げるが、戸の外に居たカミュとサラは得心が行った。

 おそらく、女王がこの村を眠りにつかせる前日に、オルテガはこの村を出て行ったのであろう。

 

「……行くぞ……」

 

 驚くリーシャに、後ろから冷たい声がかかる。

 そこには、先程瞳に秘めていた優しさのかけらもないカミュが立っていた。

 

「あ、ああ。すぐに行く」

 

 もう一度頭を下げ、部屋を後にしたリーシャが戻った一行は次にサラとメルエの寝ていた部屋へと入って行く。

 

「おお、この荷物はアンタ方のか? 勝手に置いてもらっちゃ困るだろ」

 

「あ、も、申し訳ありません」

 

 この部屋も部屋の主が戻って来ていた。

 その姿は国家の正式な騎士には見えないが、それでもそこそこの実力を備える戦士なのだろう。鍛えられた肉体は、筋肉隆々とまではいかないが、立派な体つきをしていた。

 

「……ふむ。そちらにいるのは連れの人間か? なかなかの面構えをしている」

 

 その男は、後ろに立つカミュに視線を向け、言葉を溢し始めた。四人は、全く聞いてもいないにも拘わらず話し始めた男に呆気にとられていた。

 もしかすると、十数年眠りにつき、会話すらしていなかった事への反動なのかもしれない。

 

「しかし、あのお方程ではないな」

 

「……あのお方?」

 

 男の言葉に、嫌な予感はしていたが、サラは聞き返さずにはいられなかった。

 いや、サラが聞かなければ、リーシャが聞き返していただろう。

 

「うむ。俺は世界中を旅し、色々な戦士を見て来たが、あのアリアハンのオルテガ殿こそ真の『勇者』と言えるだろう」

 

「オ、オルテガ様か!?」

 

 リーシャは驚きの声を上げるが、その横にいるカミュの表情は更に冷たい物へと変わって行く。そんなカミュを心配そうに見上げるメルエの手に力が入った。

 

「ほう、オルテガ殿を知っているとは、アンタ方はアリアハンの出か?」

 

「そうだ。この男はそのオルテガのむす……うぐっ」

 

 男の問いかけに反射的に返したリーシャの答えは、その口を抑え込むカミュの手によって無理やり止められてしまった。

 

「なんと! そなたはあのアリアハンの勇者オルテガ殿の息子だというのか?」

 

「……いや、人違いだ……」

 

 途中で止まったリーシャの言葉をしっかりと聞いていた男が、カミュへとその真意を問いかけるが、間髪入れず否定が返って来る。そのカミュの答えに、サラは目を見張り、口元を押さえられているリーシャの瞳には怒りではなく、哀しさが宿った。

 

「そうか……確かに、そなたのような大きな子供がオルテガ殿にいるとは考え難い。オルテガ殿はつい昨日まで、その隣の部屋に泊まっていた筈。何でも『魔法のカギ』を求めて<アッサラーム>に向かうと言っておったが……」

 

 男が示す、この部屋の隣の部屋。それは昨日までの数日間、奇しくもカミュが寝泊まりしていた部屋であった。

 村の人々の時間が止まっているだけに、十数年という月日は経っているが、オルテガが出て行ってから誰も泊まっていない部屋に、次に泊まったのが実の息子であるというのも何か運命めいたものを感じずにはいられない。

 

「……しかし、それが果して本当に昨日の事だったか……不思議な事に十数年眠っていたような気もするのだ……」

 

 そんな男の独白に適当に相槌を打った四人は、カミュの泊まっていた部屋へ向かう。

 アリアハンが誇る世界の英雄オルテガが泊まったと言われる部屋に入り、既に纏められていた荷物を取ったカミュは、早々に部屋から出て行く。それは、一刻も早くこの部屋から出ようとしているようにすら見えた。

 

「……カミュ様……」

 

「さあ、行こう、サラ」

 

 カミュを止めるような事をせずに、リーシャは仲間達の背中を押し、部屋を後にする。最後に自分の憧れでもある英雄が泊まっていたと云われる部屋を一瞥して。

 

 

 

 外に出た一行は、昨日までとは全く違う村の雰囲気に驚いた。十数年の埃などが積もっている部分を皆で手分けしながら掃除をし、笑顔を浮かべながら談笑をする。そんなとても暖かな空気。

 サラは、このような暖かな空気を醸し出す村人達が何故あのような行為をして来たのか、それが解らなかった。

しかし、カミュに言わせれば、『それが人』なのだ。時にはどんな者より慈愛を持ち、そして時にはどんな生物より残酷になる。まだ経験の浅いサラには、その考えに到達する事が出来ない。

 

「おっ!? アンタ方、旅人だね? 良い所に来た。何か、しばらく商売をしていなかった気がして、無性にやる気になっているんだ。安くするから見て行ってくれないか!?」

 

 自分の考えに没頭しているサラの耳に突如響いた声。

 それは、宿屋の向かいにある道具屋の主人の声だった。

 主人の言葉通り、やる気になっているのであろう。わざわざカウンターから出て来て、自ら呼びこみの様な事をしている。

 すぐに村を出ようとしていた一行であったが、厄介な相手に目をつけられてしまった。

 

「……いや……」

 

「おっ!? お譲ちゃんが着ている服は、<みかわしの服>と同じ素材じゃないか!?」

 

カミュの返答を遮って発せられた主人の言葉に、一行の視線は一斉に主人が指差したメルエへと向かった。突如、話を振られたメルエは、驚いた表情を浮かべ、リーシャの後ろへ隠れてしまう。

 

「……みかわしの服とは?」

 

「ん?……ああ。この村の特産でな。羽根の様に軽い素材で出来た服で、魔物等の攻撃を避けやすくする服だ。まあ、避けやすくするってだけで、必ず避けられる訳ではないけどな。それに結構丈夫でな。なかなか切り裂く事など出来ないよ」

 

 カミュの質問に丁寧に答える主人。

 その答えにカミュは少し考え込んだ。

 そう考えれば、思い当たる事もある。

 武道の経験もないメルエが、シャンパーニの塔でこうもり男の攻撃を何度となく避けていた。

 メルエの魔法の暴走時に、メルエの右腕に火傷を残したが、服に燃え移る事もなかった。

 それもこれも、<みかわしの服>と同じ素材でできたアンの服のお陰であったのだと考えれば、全て辻褄が合う。

 

「……そうか……もう何度も、トルドとアンに救われていたのだな」

 

「……ああ……」

 

 道具屋の主人の話を聞いたリーシャが溜息と共に溢した言葉に、カミュも同意を示す。メルエがここでこうしていられるのも、全てとは言わないが、トルド一家のお陰と言っても過言ではなかったのだ。

 

「良かったですね、メルエ。メルエはいつでもアンと一緒なのですね」

 

「…………アンと………メルエ………お友達…………」

 

「はい! そうですね」

 

 リーシャとカミュの話を聞いていたサラがメルエへその事を話し、メルエの答えを聞いて、とても綺麗な笑顔を見せる。

 自分達は、四人だけで旅をしている訳ではないのだ。色々な人の想いや願い、哀しみや喜びと一緒に旅をしている。サラの心には、その事が強烈に残された。

 

「……みかわしの服は、今あるのか? それと特産の武器等もあるか?」

 

「お、おお! みかわしの服ならたくさんあるぜ。寸法を整えないといけないから少し時間はもらうが。それと、特産ねぇ……おお! 魔道師の杖ってのがあるぜ」

 

「……魔道師の杖?」

 

 主人が暫し考えた後に言った武器の名前は、全員が聞き覚えのない物であった。

 特産の武器と言えば、大抵は剣や槍だったりするが、杖というのは初めて聞いたのだ。故に、サラはその武器の名前を反芻する。

 

「この杖はな。まあ、『魔法使い』が良く持っている杖と形は似ているんだが……この先端についた石が特殊なんだ」

 

 一度店に入り、戻ってきた主人の手には、木でできた光沢のある杖が握られていた。

 木が捩じられたように一本に纏められた杖で、主人の言うように先端には赤黒い石が嵌め込まれていた。

 

「何が特殊だと言うんだ?」

 

「ふふん。それはな、この杖に嵌め込まれた石を相手に向け、呪文の詠唱ではなく、ただ念じれば、メラが飛び出すって代物だ」

 

 リーシャの問いかけに、自慢気に胸を張った主人が発した一言に、パーティー内での反応は真っ二つに分かれた。

 

「メラですか!?」

 

「魔法力がなくても使えるのか!?」

 

 目を輝かせ、主人が持つ魔道師の杖を食い入るように見つめるサラとリーシャ。

 それとは反対に、明らかな落胆を示すカミュ。

 そんな三人を、小首を傾げながら不思議そうに見るメルエ。

 

「どうだい? 買って行くかい?」

 

「カミュ!?」

 

 親父のセールストークにつられ、カミュへと振り返るリーシャの瞳は爛々と輝いていた。

 同じく、攻撃魔法の幅の狭いサラの目も輝いている。

 

「……メラの魔法ならば、俺も、そしてメルエも使える。第一、アンタに魔法は必要ない筈だ。アンタは剣を片手に持ち、その杖をもう片方に持って魔物と戦うつもりなのか?」

 

「で、では、私が!」

 

 リーシャに駄目出しをするカミュ。

 落胆するリーシャに、今度はその横からサラが名乗りを上げた。

 

「……こう言ってはなんだが……アンタがその杖でメラを唱える暇があるのなら、俺かメルエが詠唱した方が早い。それに、アンタはメラを放つよりもやるべき事がある筈だ」

 

「はぅ!」

 

 カミュが言っているのは、昨日サラがカミュに宣言した内容。僧侶としてのレベルアップの事である。サラにもカミュの言わんとする事が理解出来た為、それ以上は何も言えなかった。

 

「……みかわしの服をこの僧侶に合わせてくれ」

 

「はいよ。ありがとよ。じゃあ、こっちに来てくれるかい?」

 

 カミュの言葉に主人は笑顔でサラに手招きする。いつもと同じように自分だけが装備を整える事に遠慮がちなサラだが、リーシャの手が背中に触れた事で、主人の方へ歩いて行った。

 

 

 

「……そうか……」

 

 サラを待つ間、品揃えを見ていた一行だったが、不意に開いたカミュの口に視線が集まった。

 

「どうしたんだ、カミュ?」

 

「…………」

 

 訝しげにカミュに問いかけるリーシャの足元にメルエまで駆け寄って来る。見上げるようにカミュを見ているメルエの表情は笑顔であった。

 そして、その笑顔には、サラだけではなく、もしかしたらまた自分も何か買ってもらえるのかもしれないという期待が滲み出ていた。

 

「……もしかすると、あの杖がメルエの暴走を抑えるかもしれない」

 

「なに!?」

 

 そのカミュの言葉が、自分に杖を与えられる可能性を含むものであった為、メルエの笑顔が濃い物へと変わって行く。逆に、予想外の言葉に、リーシャの表情は驚きに彩られていた。

 

「メルエの魔法は、これまで、自身の指や腕から発していた。まあ、それは俺も同じだが……魔道師の杖を媒体にする事によって、メルエに被害がいかないようにする事が出来るのではないかと思っただけだ」

 

「で、では、メルエにあの杖を買ってやるのか?」

 

「…………メルエの…………?」

 

 リーシャとメルエの目の輝きの意味合いは違う。自分にも魔法を使う事が出来る道具を手にする事が出来るというリーシャの喜び。

 自分の武器を買って貰えるというメルエの喜び。

 

「お待たせしました……へ? 何かあったのですか?」

 

 奥から戻ったサラが見た物は、爛々と目を輝かせたリーシャとメルエがカミュと見つめ合っている異様な光景だった。

 

「……その魔道師の杖も一本くれ」

 

「お、おお! ありがとうよ。今、みかわしの服を手直ししているところだから、もう少し待ってくれ」

 

 サラと一緒に出て来た主人の手にみかわしの服はない。

 おそらく、この主人の妻などが奥で手縫いをしているのだろう。

 

「……ああ。いくらだ?」

 

「店に入ってもらう時に『安くする』と言っちまったからな。全部で4400ゴールドだが……そうだな、3500ゴールドで良いさ」

 

 気前よく値引きする主人は、本当にやる気に満ち満ちていたのかもしれない。その表情には、商売をする事への力が漲っていた。

 カミュがゴールドをカウンターに置き、受け取った魔道師の杖をメルエへと手渡す。メルエは、嬉しそうに<魔道師の杖>を抱きかかえるように受取り、笑顔をカミュへ向ける。

 

「…………ありが………とう…………」

 

「メ、メルエ、後で一度私にも使わせてくれ」

 

 カミュに向かってにこやかにお礼をするメルエに、横からリーシャが待ちきれないように声をかけるが、メルエは杖を抱きかかえたままリーシャに背を向けてしまう。

 『メルエ~~』という涙声が聞こえて来るが、カミュは残りのゴールドをカウンターに置く事にした。

 

「確かに……ありがとうよ。そろそろ出来る頃だと思うんだが……おっ! 出来たようだ。こっちに来て着てみてくれ。微調整は着てからするからな」

 

「あっ、は、はい」

 

 メルエとリーシャのやり取りを笑顔で見ていたサラは、不意に掛けられた主人の声に慌てて奥へ入って行く。

 

「……アンタが魔法を使っても仕方がないと言った筈だ」

 

「カ、カミュは魔法が行使出来るから解らないかもしれないが、魔法力がない者にとって、魔法を行使する事は憧れなんだ!」

 

 溜息と共に吐き出したカミュの言葉に、リーシャはらしくない反応を示す。そんな自分の心を素直に吐き出すリーシャに目を見開いたカミュではあったが、その口端は徐々に上がって行った。

 

「メルエ、一度ぐらい使わせてやれ」

 

「…………メルエの…………」

 

 カミュの言葉にメルエが小さく反論を溢す。

 子供特有の独占欲。

 それは、微笑ましいものであるのだが。

 

「頼む! メルエ、一度で良いんだ」

 

 小さな少女に懇願する屈強な戦士という構図はかなり滑稽に映る。

 それを見てカミュはもう一度大きな溜息を吐いた。

 

「……この戦士が、それを使ってメラを行使している横で、メルエの<メラ>を見せてやれ。そうすれば、その杖を使ってメラを行使する事が無意味だと解る筈だ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの言葉は、メルエが心の底で持っていた恐怖を的確に指していた。

 それは、自分以外の人間が魔法を使う事への恐怖。

 それが、自分の存在価値を否定する事になるのではないかという恐怖。

 それをカミュは見透かしていたのだ。

 カミュの言葉は、メルエの魔法を否定する物ではない。そればかりか、メルエの魔法の方が強力な事を知っているというような発言。それがメルエには嬉しかった。

 

「ありがとう、メルエ! では、外に出てから、一度使わせてくれ」

 

 メルエから杖を受け取ったリーシャは、自分の身長の半分にも満たない少女に頭を下げる。それは、ただ単に礼を言ったのではなく、リーシャ自身、メルエを唯の子供として見ていない証拠でもあった。

 

「お待たせしました」

 

 そんな三人のやり取りが終息に向かった頃、奥からサラが出て来た。

 今まで来ていた法衣と全く変わらない姿。

 その姿にメルエは小首を傾げる。

 

「中の鎖帷子はこっちで引き取らせてもらうよ。法衣も引き取ろうか聞いたんだが、法衣は脱ぎたくないと言うんでね。<みかわしの服>の中で、法衣と同じ『青』に染めていた物を使ったんだ」

 

 主人のその言葉に、カミュ達三人は、全く変わったように見えないサラの姿に納得がいった。

 僧侶が着る法衣についている前掛けのようなものを付け替えたのだろう。

 

「本当にありがとうよ。何か久々にお客さんを相手にしたような気分だ。また来てくれ」

 

 人の良さそうな主人の笑顔に見送られ、一行は村の外へと歩を進める。サラは、道具屋の主人の笑顔に思うところもあったが、それを表情に出さずリーシャの後について行った。

 

 

 

 ノアニールの村の住民達は、自分達が十数年の眠りについていた事など知る由もない。ロマリア大陸最北端の村故に、他の村や町との交流がある訳でもない為、隣に住む人間の姿が十数年前の物と同じであれば、それに気が付く事はないだろう。

 そして、それは、自分達が犯した罪を自覚する事がないのと同義。

 その罪を雪ぐ為に奮闘したカミュ達一行に感謝する事もないと言う事。

 おそらく、あのギルバードの父親は、決して村人達に事実を告げる事はないだろう。

 自分だけが歳を取ってしまっている状況で、その事実を話す事なく土へと還って行く。

 永遠に報われる事はなく、誰も知る事のない旅は、カミュ達の心と<ノアニール>の西にひっそりと住むエルフ達の心にだけ残って行く事となるのだ。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

第三章はもう二話程続きます。
宜しくお願い致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ロマリア大陸⑤

 

 

 

 <ノアニール>を後にした一行は、再びカザーブへ向かう道を歩く。

 空は雲一つない青空。

 先程、<ノアニールの村>全体に『エルフの慈愛』を行き渡らせた風は、今も尚、心地よい風となって一行の髪をなびかせている。

 

 サラは今回の一連の出来事に、今までの自分の価値観を大きく揺り動かされた。

 それは、サラの生きて来た十七年という年月が無駄であったと思わせる程に大きなもの。

 しかし、サラの目の前を歩く、メルエの手を引いたリーシャの表情は晴れやかなものである。それが、サラには不思議で仕方がない。

 サラと同じように、自分の中にある積み上げて来た物の崩壊という事が、リーシャにも起こっている事は確かなのだ。それでも、リーシャは笑顔を見せている。

 

「リーシャさん……少しよろしいですか?」

 

「ん?……どうした、サラ?」

 

 そんな自分の中の疑問をサラは吐き出す事にした。

 サラの表情を見た、リーシャは何か思う所があったのであろう。手を引いていたメルエを促し、カミュの下へと送り出す。メルエは不思議そうにサラとリーシャを見比べた後、前を行くカミュの下へと駆けて行った。

 

「……ありがとうございます」

 

「いや、いい。それで、どうしたんだ?」

 

 メルエがカミュのマントの裾を握り、カミュがリーシャ達を一瞥した後、また歩き出したのを確認したサラは、重い口を開き始めた。

 

「リーシャさんは、大丈夫なのですか?」

 

「……何がだ?」

 

 カミュ達に遅れないように、ある程度の距離を保ったまま歩きながら、リーシャ達の会話は始まった。

 リーシャもサラが何を問いかけているのかは、大まかには理解出来ているのだろう。しかし、サラが口にするのが良いと感じたのかもしれない。そしてこの会話は、終世サラの心に残る物となる。

 

「……私は、今まで信じて来た物が解らなくなってきました。今回のエルフの女王様の話、そして村の人達の行為。何が正しくて、何が間違っているのか……」

 

「……それは、私も同じだ」

 

「で、では!」

 

 やはり、サラが思っていたように、リーシャの心も同じ事を考えていたのだ。

 救いを求めるように、答えを求めるように、俯いていたサラの顔はリーシャへと向かって勢い良く上がった。

 

「……私は、アリアハンを出た頃、カミュを『人』とは思っていなかったのかもしれない。あのご老体のようにな……」

 

「……リーシャさん……」

 

 リーシャが始めた独白。それは、自分の罪を認める行為。『人』として通常の考えかもしれないものではあるが、それでもリーシャは罪として考えている証拠であった。

 

「……確かに、私達が信じて来た『人』としての常識は覆されたかもしれない。だがな、サラ。私はそれが全てではないと思うんだ」

 

「……全て……」

 

 リーシャは今回の騒動の全てを認め、胸に残した。それでも、これが『人』の全てではないと言う。サラは、その言葉が示す内容を理解しきれない。『人の業』を見せつけられたサラの心は、大きく揺れ動いているのだ。

 

「ああ、何も私達が信じて来た物全てが間違いでもない。あのご老体とて、私達から見れば『悪』に近い。しかし、見方を変えれば、眠りという呪いを掛けられた村人の為に、逃げ出そうとせずに奮闘していた者だ。それは、罪の意識かもしれないし、責任を感じていたのかもしれない。それでもたった一人で、あの村を何とかしようと思っていた事は確かな筈だ」

 

 サラは、リーシャの考えの深さに驚いた。

 リーシャを馬鹿にしていた訳でも、侮っていた訳でもない。ただ、姉の様に慕うこの戦士が、あの村であれ程の怒りを見せたのだ。その中で、感情とは別にこのような考えを持っているとは考えていなかった。

 

「……『人』はエルフから見れば、儚い生を送る者だろう。それでも、その中で必死にもがいている者もいる。それが他種族に対して残酷に映るかもしれない。だけど、カミュの言う通り、それが『人』なのだと私は思う事にした」

 

「……リーシャさん……」

 

 『それが人』

 カミュの語った内容の奥深さを、サラは初めて理解した。

 種族の醜さも、残酷さも含めて『人』だという事を。

 

「サラ、何も今見て来た物が『人』の全てではないだろう? 私達は『人』の暖かさや、優しさ。その素晴らしさも知っている筈だ。おそらく……カミュはそれを知らないのだろう。哀しい事だがな……」

 

 リーシャの言う通り、サラは『人』の素晴らしさを知っている。魔物に両親を殺され、孤児となった自分を、実の娘の様に育ててくれた神父。それは、決して偽りの愛ではなかった。

 本当に大事に、本当に厳しく、そしてそれ以上に暖かく育ててくれた。

 アリアハンを出ると告げた日には、とても辛そうに顔を歪め、それでも自分の為に<聖なるナイフ>を手渡してくれた。

 

 『必ず、生きて帰って来なさい』

 

 涙を溜めてサラに告げた神父の言葉は、今もサラに勇気をくれている。自分の決意を後押ししてくれ、そして帰る場所を与えてくれた。

 その言葉が、サラに『人』の愛を教えてくれ、サラの心の根となっている。

 

「はい!」

 

「サラ、私達はこれからもっと大きな世界を見て行くだろう。その先では、これ以上に残酷な『人』の一面を見る事もあると思う。だが、私は信じている。それが『人』の全てではないと」

 

 サラは、このアリアハン屈指の戦士が眩しく映った。

 最初は優しさや頼もしさは感じたが、同時に頭の固い人物という印象も受けた。しかし、今目の前にいる人物にそんな雰囲気はない。自分が見た物を事実として受け止め、その上で自己の中で消化をし、それでも前を向こうとするこの女性を、サラは改めて好きになった。

 

「……今私が言った事は、サラの質問に対しての答えになっていないかもしれない。私達は知らない事が多すぎる。教会の教えに異論を唱えるつもりもなければ、ましてルビス様を蔑にする訳でもない。しかし、私はこれから先、自分の中の想いが変化して行くと思っている」

 

「……はい……」

 

「私は……それを否定する事を止めた」

 

 リーシャの言葉。

 それは、物事をありのままに受取り消化すること。

 その上で自分の信じている事も曲げない。

 そんな強い決意だった。

 

「はい! 私も……私も自分が変わって行く事を否定しません。それが、『僧侶』として正しい事なのか……それは解りませんが……」

 

「……私は、本来の僧侶という職業は……いや、その上にいる神父様や司祭様という方々は、暗闇に怯える人々を光のある方へ導いて行く存在だと思う。サラがそういう存在になる為にも、これから先色々な物を見て行く必要があると思う」

 

「はい!」

 

 迷いは晴れた。

 リーシャの言う『本来の役目』というのなら、他人の迷いを晴らすのがサラの役目なのであろうが、そこはまだ、未熟な者という事だろう。

 

「さあ、行こう。私達の旅はまだ始まったばかりだ」

 

「はい!」

 

 少し前までの様な暗い影がなりを潜めたサラは、笑顔をリーシャに向け、再び歩き出す。

 その一歩が、今までの自分からの脱却の様に。

 そして、新たな旅の始まりを告げる物の様に。

 

 

 

「戻って来て早々だが、剣を抜いてくれるか?」

 

 カミュとメルエは、少し先で立ち止まっていた。

 リーシャとサラを待っていたのだろうか。

 しかし、それはカミュの声によって否定された。

 カミュとメルエの行く手を遮るように、もはや馴染顔と言っても良い魔物が立ち塞がっていたのだ。

 大きなハサミを掲げ、相手を威嚇するような<軍隊がに>。何度嗅いでも慣れる事のない、腐敗臭と死臭を放つ<バリィドドッグ>。

 それぞれが三体ずつ。計六体の魔物の群れが、カミュとメルエの前で戦闘態勢に入っていた。

 

「ちっ! サラ、メルエを頼む」

 

「はい!」

 

 駆け寄ったリーシャが、腰の剣を抜き放ち身構える。リーシャの言葉を受けたサラも、メルエの前に立ち、背中の槍を手に取った。

 しかし、攻撃方法を持つ少女は、護られるだけを良しとはしない。彼女もまた、勇者一行の中の一人なのだ。

 

「…………メルエも…………」

 

「今回は、魔法は良い。少し後ろに下がっていろ」

 

 サラの後ろから、戦闘参加の意思表示をするメルエに、すかさずカミュの声がかかる。そのカミュの言葉に不満そうに頬を膨らますメルエであったが、それを口に出す事はなく、買って貰ったばかりの<魔道師の杖>を片手にサラの後ろへ下がった。

 

「カミュ! 準備はいいか? 魔法を使われると面倒だ。先にあの狼もどきを倒してしまおう」

 

 リーシャは、以前<バリィドドッグ>が使用した<ルカナン>を警戒していた。

 速度こそ遅いが、<ルカナン>をかけられた状態で攻撃を受ければ、決して楽観視できない程の傷を負ってしまう。しかし、彼女が声をかけた青年は違う考えを持っていた。

 

「いや、<軍隊がに>の方から始末する。あの狼の攻撃は油断しない限り当たる事はない。しかし、アンタの心配している<ルカナン>を掛けられた状態で、あのかにの攻撃は少し厄介な事になる筈だ」

 

 カミュは、スピードの遅い<バリィドドッグ>の攻撃に脅威を感じていなかった。

 反面、大きなハサミを持ち、そのハサミも万力の如き力を有する<軍隊がに>の攻撃力を警戒していたのだ。

 

「わ、わかった。サラ! あのかにの守備力を下げてくれ!」

 

「はい!」

 

 リーシャは、カミュの提案に頷き、後方でメルエを護るサラに魔法の行使を要求する。リーシャの考えが理解出来たサラは、大きく頷いた後に右手を魔物達に向け、詠唱を始めた。

 サラの詠唱が始まった事が確認出来たカミュとリーシャは、それぞれ手に剣を構え、<軍隊がに>へと向かって走り出した。

 

「ルカナン」

 

 カミュとリーシャが<軍隊がに>の下に辿り着いた頃、サラの詠唱が完成し、その魔法が言霊となって行使される。

 サラが唱えたのは、初めての魔法。以前使った<ルカ二>の広範囲魔法であり、今敵として前にいる<バリィドドッグ>が得意とする魔法。

 サラがその魔法の名を叫ぶと同時に、カミュとリーシャが対峙していた三匹の<軍隊がに>の身体が淡く光り出した。

 全体的に自分の魔法力を行き渡らせる為、通常その効果は単体目的の魔法よりも劣る物である。しかし、ロマリア大陸に入り、強敵との戦闘を繰り返して来た二人は、<軍隊がに>と初めて相対した時とは違う。

 効果が薄いとは言え、サラの唱えた<ルカナン>で十分であった。

 

「やぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 走り込みながら振り抜いたリーシャの<鋼鉄の剣>は、何の抵抗もなく<軍隊がに>の身体へと吸い込まれて行く。あたかもケーキにナイフを入れるかのように、固い殻で覆われていた身体を二つに斬り裂かれた一匹の<軍隊がに>は、そのままそこで命の灯を吹き消された。

 自分の身を護ってくれる筈の固く頑丈な殻が役に立たなくなっている事を見た他の二匹がたじろぎ、逃げ出そうとするが、それは叶わなかった。

 

「……」

 

 普段なら、逃げようとする魔物を追う事のないカミュが、一匹の<軍隊がに>を突き刺すように剣を突き入れる。絶叫の様な雄たけびを上げ、<軍隊がに>は絶命した。

 カミュの心の中がいつもと同じでない事を示すような行動。それは、<エルフの隠れ里>に続き、<ノアニールの村>で立て続けに聞いた、ある人物の名前が影響しているのかもしれない。

 残り一匹の<軍隊がに>を始末する間、その力量の差に三体の<バリィドドッグ>は呆然と見ているしか出来なかった。

 そんな魔物の様子を見ていたメルエが、徐に先程買って貰った<魔道師の杖>を<バリィドドッグ>へ向けて掲げる。

 

「…………ギラ…………」

 

 いつもと同じ、抑揚のない、呟くような詠唱。

 カミュ達と出会い、ようやく魔法という自分の存在意義を見つけた少女の唯一の武器。

 それは、経験を重ねる毎に威力を増して行っていた。

 

「…………???…………」

 

 しかし、迸る炎となって<バリィドドッグ>を包み込む筈の<ギラ>の熱風は、メルエの掲げる<魔道師の杖>の先から発生する事はなかった。

 不思議そうに自分の手にある杖の先を見ていたメルエであったが、その表情には徐々に焦りの様な感情が浮かんでくる。

 

「……メルエ……?」

 

「!!」

 

 前に立っていたサラの自分の名を呼ぶ声に、メルエは弾かれたように顔を上げた。その顔は、焦り、哀しみ、そして絶望が彩られている。

 

 『魔法こそが存在意義』

 

 それは、どれ程カミュやリーシャに大事にされていると感じようと、どれ程サラに優しい言葉をかけられようと、メルエの中で変化する事はなかった。

 その魔法が使えない。それは、カミュ達と一緒にいる事の出来る資格を剥奪されたように感じたのだろう。

 

「サラ! メルエを護れ! 魔物から目を離すな!」

 

 メルエの姿に一瞬の驚きを示したリーシャであったが、そこは『戦士』。即座に気持ちを切り替え、サラへと指示を出す。

 リーシャの言葉に、我に返ったサラは、再び槍をもつ手に力を入れ直し、<バリィドドッグ>と改めて対峙した。

 

「カミュ!」

 

「一体は任せる」

 

 カミュは剣を構え、猛然と<バリィドドッグ>へと向かって行く。カミュの動きに気がついたリーシャが声をかけるが、それに対し短く応え、そのまま二体の<バリィドドッグ>が集う場所に突っ込んで行った。

 

「サラ! 何かカミュを援護できる魔法を!」

 

「は、はい!」

 

 残る一体に剣を振りかざしながら、リーシャはサラへカミュの援護を指示する。自分に声がかかるとは思わなかったサラは慌てて返事を返しながらも、片手を上げ詠唱を始めた。

 

「マヌーサ!」

 

 サラが詠唱を完成させたと同時に、先程の<軍隊がに>とは違った光が二体の<バリィドドッグ>を包み込む。

 それは、以前<ナジミの塔>でリーシャが惑わされた魔法。幻に包まれ、相手を見失ってしまう幻覚魔法。

 使用するのは初めてであったが、サラは契約を既に終えていたのだ。

 元々動きの鈍い<バリィドドッグ>の動きにカミュが傷つく事は皆無に等しかったが、それでも全く攻撃が当たる気がしない程、ありもしない方向に攻撃を繰り出す<バリィドドッグ>を見て、カミュは素直に感謝した。

 

「ふん!」

 

 カミュは、ありもしない方向を向く<バリィドドッグ>に剣を振るい、その体躯を両断する。上半身と下半身を分断されても動く腐乱死体の頭部を突き刺し、その活動を停止させ、残るもう一体へとカミュは剣を向けた。

 

「…………ギラ…………ヒャド…………!!!!」

 

 後方で、もはや泣き声となり始めたメルエの声がカミュの耳に聞こえて来る。何度も何度も<魔道師の杖>を突き出し、呪文を唱えるメルエの姿は哀しい程に必死な物だった。

 

「……メルエ……」

 

「!!!!」

 

 そんなメルエの姿に名前を再度呼ぶサラ。メルエは、とうとう癇癪を起したように<魔道師の杖>を投げ捨てた。

 乾いた音を立て、平原に転がる<魔道師の杖>。そして、涙の溢れる瞳を残るたった一体の<バリィドドッグ>に向け、その小さな手を挙げた。

 

「メルエ! ダメだ!」

 

「!!」

 

 しかし、そんなメルエの詠唱は、このパーティーのリーダーである一人の青年に阻まれた。

 それは、メルエが兄の様に父の様に慕い、そして先程のメルエの癇癪の原因となった杖を買い与えた人物。カミュの声に、メルエの腕は下がる。

 そんな緊迫した空気の中、メルエが投げ捨てた<魔道師の杖>を拾い上げた人物がいた。

 それは、一体の<バリィドドッグ>を片付け終わった『戦士』。

 そして、魔法という神秘を行使する事を夢見ていた、魔法力の欠片も持ち合わせてはいない女性であった。

 

「お、おい! アンタが魔法を実戦で使うな!」

 

 メルエの行動により、一度<バリィドドッグ>から距離を取っていたカミュがリーシャへと声をかけるが、リーシャの耳にそれが届く事はなかった。

 <魔道師の杖>を握り、何やら念じ始めたリーシャ。そして、そのリーシャの願いに応えるように<魔道師の杖>の先に嵌め込まれた宝石が光り始めた。

 

「くっ!」

 

 光を放った瞬間、リーシャの持つ<魔道師の杖>の先から、小さな火球が放たれる。それは、本当に小さな火球。メルエが使う<メラ>に遠く及ばず、カミュが使う<メラ>にも及ばない程の火球。しかも、それは<バリィドドッグ>へ向かって飛んで行く事はなかった。

 杖の先から発生した火球は、敵である魔物ではなく、味方である筈のカミュ目掛けて飛び出したのだ。

 

「カミュ様!!」

 

 カミュは、今、盾を所有していない。小さな火球とは言え、盾で防げない以上、避けるしか方法がない筈だが、まさか味方に攻撃されるとは考えていなかったカミュは、虚を突かれる形となっていた。

 

「…………ヒャド…………」

 

 放ったリーシャですら、カミュに当たってしまう事を覚悟したその時、先程カミュから魔法を直に行使する事を禁じられたメルエが、詠唱を完成させた。

 冷気の塊が、リーシャが放った<メラ>目掛け飛んで行く。元々、杖という道具から出た魔法と、魔法の才能の塊であるメルエが唱えた魔法とでは、その性能には雲泥の差があるのだ。

 故に、メルエが唱えた<ヒャド>は正確に火球を打ち抜く。相殺されるように掻き消えた火球ではあったが、威力の違う魔法の為、メルエの唱えた<ヒャド>の冷気が辺りを包み込み、周囲に広がった。

 

「カミュ様、大丈夫ですか?」

 

「カミュ! すまない!」

 

 慌てたようにカミュに駆け寄るリーシャとサラ。メルエは、叱られる事を恐れるように、徐々に近づいて行く。

 残っていた<バリィドドッグ>は、一行のドタバタ騒ぎの隙をついて逃げ出していた。

 

「……馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまでとは知らなかった」

 

「なっ!?」

 

 近寄ったリーシャに吐き捨てるように言葉を漏らすカミュの表情は無表情だった。

 それは静かな怒りの証拠。リーシャは言葉を失った。

 

「アンタの様に、魔法を行使した事のない人間が、いきなり実戦で行使出来る訳がない。魔法のタイミングも、距離感も、何もかもが分からない状態で何が出来る!?」

 

「……」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュの言っている事に、リーシャは反論が出来ない。

 それもその筈。

 カミュの言っている事は正論なのだ。

 

「……そこの僧侶ならまだ解る。魔法の発現を体感しているのだから、その感覚は身体が憶えているだろう。だが、アンタは違う。メルエ、二度とこの戦士に<魔道師の杖>を渡すな」

 

 カミュは、<魔道師の杖>の持ち主であるメルエへと視線を向け、再び禁止事項を増やした。

 それに対し、俯いた顔を上げ、カミュの瞳を見ながら、メルエの口が開く。それは、初めて見せるメルエの姿だった。

 

「…………メルエ………いらない…………」

 

 <魔道師の杖>を持っていれば、魔法が使えない。メルエにとってそれは、唯一の武器である魔法を禁止されたのと同じなのだ。

 今まで見せた事のない強い瞳の中には、涙が滲んでいる。カミュ達と共に旅をする事の条件が、魔法を使える事だとでも考えているのだろう。

 

「……メルエ……」

 

 メルエの答えに、カミュは深い溜息を吐く。

 それは、『どいつもこいつも』という言葉がピタリとはまる表情であった。

 

「メルエ、杖を持って魔法が使えないのは、修練不足だ。メルエの持つ魔法力を杖に行き渡らせてないだけだ。それが出来れば、杖の先からメルエの思う通りの魔法が飛び出す」

 

「…………いらない…………」

 

 カミュの言葉に納得せず、再び首を横に振るメルエを、サラは心配そうに見つめる事しか出来なかった。

 既に、メルエの魔法に関しての問答は、サラの中では終結しているのだ。カミュの考えがメルエを護る為である以上、ここでサラが口を開く事は出来ない。

 

「ダメだ。先程、俺を救ってくれた事には礼を言う。ありがとう。だが、今のままでは、メルエは<ギラ>や<イオ>以上の強力な魔法は、契約は出来ても行使する事は出来ない筈だ」

 

「…………いや…………」

 

 これ以上の魔法は行使出来ないと言う事は、旅がここで終わる事を意味するとメルエは感じたのかもしれない。カミュの言葉を最後まで聞く事無く、メルエは全力で首を横へ振った。

 

「……ならば、杖から魔法を出す練習をしよう。何もメルエ一人でやる必要はない。俺も、そこの僧侶も手伝う」

 

「…………いや…………」

 

 もはや、駄々を捏ね始めた子供だ。

 メルエは何を言ってもただ首を横に振るばかり。

 カミュは困り果ててしまった。

 

「……メルエ、今回、私がメルエを注意する事は出来ない。だが、お願いがある」

 

「…………リーシャ…………?」

 

 そんなカミュの横から、今まで顔を下げていたリーシャが口を開く。自信なさげに眉を下げたリーシャは、メルエに対し、注意ではなく願いがあると言う。そのリーシャの姿に横に振られていたメルエの首は止まり、そして傾いた。

 

「私は幼い頃から魔法という神秘に憧れを持っていた。今でも同じだ……だが、魔法力を持ち合わせていない私には、身体を鍛え、剣を振るう事ぐらいしか出来なかった……正直、メルエが羨ましい……魔法力がなくとも魔法が行使出来る杖と聞いて、どうしても自分を抑える事が出来なかった」

 

 メルエの肩に手を置き、顔を伏せたまま呟くリーシャの姿を見て、サラは言葉を発する事が出来なかった。リーシャの魔法への憧れがここまでとは思っていなかったのだ。

 リーシャには剣技がある。未だ発展途上であるそれは、これからの鍛錬次第で更なる高みへと昇り、それこそ世界屈指の『戦士』になる事も可能なのだろう。故に、サラはそれ程の能力を有するリーシャが魔法という物へそれ程執着する理由が解らなかった。

 だが、それは持つ者と持たざる者の価値観の違いなのかもしれない。

 

「……しかし、やはり私には魔法は無理だった。これから先、魔法を使おうとは思わないだろう。だがなメルエ……これから先の旅では、魔法が必ず必要なのだ。それは、サラの使う補助魔法でもなく、カミュが使う鉄になってしまう魔法でもない。メルエが使う、敵を攻撃する魔法だ」

 

「…………メルエの…………?」

 

 カミュが何を話しても抵抗するばかりであったメルエの反応が変わった。

 リーシャの真摯な声は、メルエの小さな胸へと落ちて行く。リーシャが何を言おうとしているのかを理解出来た訳ではない。その証拠に、メルエの首は横に傾いていた。

 

「ああ、もちろんサラの補助魔法も必要だ。だが、剣が効かない敵に対しては、メルエの使う攻撃呪文が、どうしても必要になる。その時、メルエがまた自分の使う魔法で怪我でもしたら、やはり私もメルエに魔法を禁止するだろう」

 

 リーシャは、メルエと視線を合わすようにしゃがみ込み、そしてゆっくりと話す。今まで駄々を捏ねるように、他者の話に聞く耳を持たなかったメルエも、そんなリーシャの言葉を静かに聞いていた。

 

「逆に、メルエが杖等を使いながら、今以上に強力な魔法を使用する事が出来れば、これ程心強い事はない。戦闘で私やカミュを救ってくれるのは、サラやメルエの魔法だ。その為にも、杖を使って魔法を使用する事を練習してはくれないか?」

 

「…………魔法………出ない…………」

 

 リーシャの真摯な願いに、メルエは小さな呟きを返す。

 それはメルエの恐怖の大きさを物語っていた。

 

「ふふっ、それはメルエが練習をしていないからだ。私だってカミュだって、メルエぐらいの歳で今の様に剣が使えた訳ではない。何度も何度も練習を繰り返し、剣を振るって来た」

 

「…………れん……しゅう…………?」

 

「……リーシャさん……」

 

 リーシャの言葉は、メルエの心に沁み込む。それはサラも同様であった。

 今は自信を持って剣を振るうリーシャもカミュも、やはり額に汗し、更には何度も傷を受け、そして今の剣技を手にしたのだ。

 

「メルエ、私には魔法の使い方が分からない。だからメルエの魔法の練習で、私が教える事は出来ないが、いつでもメルエの傍にいよう。メルエが練習で挫けそうになる時、嫌になる時、その時は私の所へおいで。一緒に話をしよう」

 

「…………ん…………」

 

 遂に、メルエの首が縦に動いた。

 それは、リーシャの願いを受け入れた証拠。

 そして、これから続く辛い練習を受け入れた証拠。

 

 サラは、リーシャを眩しそうに見上げた。

 幼いメルエを諭し、導くリーシャの姿を。

 それは、サラが憧れ、そしてこの先目指す道標となる者の姿だった。

 

「……それは良いが、アンタにはそれ相応の罰則を与えたい……」

 

 そんな感動が取り巻く空間をぶち壊しにする声が、リーシャの後ろから掛かる。それは、先程リーシャによって火球をぶつけられそうになった『勇者』だった。

 

「い、いや、カミュ。先程はすまなかった。まさか、お前の方に飛んで行くとは思わなかった」

 

 悪びれもせずに頭を下げるリーシャを見て、カミュは一度大きく息を吐き出す。そこに不穏な空気を感じたリーシャとサラは、思わず身構えてしまった。

 

「<ナジミの塔>での事といい、アンタは無意識なのか自覚があるのか知らないが、余程俺を亡き者にしたいのだろうな……」

 

「そ、そんな事はないぞ!」

 

 カミュの言葉にむきになって反論するリーシャ。

 しかし、敵の<マヌーサ>にかかり、カミュに対して攻撃を繰り返していたリーシャの姿を知るサラにとって、カミュの言葉の方がどこか説得力のある物だった。

 

「…………リーシャ………カミュ………きらい…………?」

 

「いや、メルエ、そんな事はないぞ。確かに認められない事もあるが、嫌ってはいない。それこそ、殺そうなどとは思った事もない」

 

 追い打ちをかけるメルエの言葉に、リーシャは更に慌てる。

 故に見えていなかった。

 カミュの口端がいつの間にか上がっている事を。

 逆にサラは見てしまった。

 リーシャをからかう事を楽しむようなカミュの表情を。

 

「……まあ、良い。罰則に関しては、追々考えるさ」

 

「……罰則はやはり与えるのですね……」

 

 口端を上げたまま呟いたカミュの言葉は、静けさが広がる平原に溶けて行く。しかし、その言葉は、全員の耳に届き、サラは呆れと共に、小さな言葉を吐き出した。

 リーシャに至っては若干青ざめた顔で、背を向けたカミュを見つめている。

 

 慌てるリーシャを残し、カミュは詠唱の準備を始めた。

 先程はサラとリーシャが話していた為、平原を歩いていたが、行く目的地が決まっていて、その場所が一度行った事のある場所である以上、カミュ達に歩く必要などないのだ。

 

「…………???…………」

 

 <ルーラ>の詠唱に入るカミュに近寄ろうとしたメルエが何かを見つけ、<バリィドドッグ>の死体の近くに座り込んだ。

 

「メルエ? 何かあったのですか?」

 

「…………これ…………」

 

 メルエの行動を不思議に思ったサラは傍に近寄り、メルエがしゃがみ込んで見ている物を覗き込んだ。

 そんなサラに、その物を持ち上げて見せるメルエの表情は、不思議な物を見るような瞳であった。

 

「……これは……何かの『種』ですか?」

 

「…………た………ね…………?」

 

 それは、小さく細長い種の様な実。

 メルエの小さな手でも、人差し指と親指でつまめる程の大きさしかない。

 

「メ、メルエ! それは、魔物の死体から出て来た物ではないのか? あの腐った魔物が食した物の中に何かの果物でもあって、種だけが残っていたのかもしれない。汚いから触るな」

 

 不思議そうにその種を見つめるメルエとサラの後方から、リーシャの声がかかる。その言い分は当然だろう。腐乱死体と化し、腐敗臭と死臭を撒き散らす魔物の体内にあったとしたら、それ自体も異臭を放っている筈だ。

 

「……ですが、嫌な臭いはしませんね?」

 

 それに答えたのは、メルエではなく冷静に分析していたサラ。その種が、何か不思議な物であるという、何か言い表せない勘が働いていた。

 それはメルエも同じで、カミュに与えられたメルエ分の水筒から水を出し、その種を軽く洗った後、大事そうに<ノアニール>で<魔道師の杖>と一緒に買い与えられた、肩掛けのポシェットへ仕舞い込んだ。

 

「メルエ~~~~~」

 

「…………メルエ………見つけた…………」

 

 見つけた自分の物であるという、子供ながらの主張。肩から斜めにかけているポシェットを軽く叩き、メルエは軽く微笑む。そんなメルエの微笑みにリーシャも諦める他なかった。

 

 

 

 メルエがカミュに駆け寄った事を皮切りに、一行がカミュの下へと集合する。

 全員が自分の衣服を掴んだ事を確認したカミュが、詠唱を開始した。

 

「ルーラ」

 

 カミュの詠唱の言葉と同時に鮮やかな魔法力の光が一行を包み、上空に飛び上がる。

 目的地は、誰も口にしていない。

 しかし、口にしなくても全員の考えは同じだった。

 

 メルエの友人の故郷。

 そして、常にメルエを護ってくれていた武器や防具を与えてくれた人物のいる村。

 そこへ行き、辛く悲しい事実を伝える義務を誰もが胸に抱いていたのだ。

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

明日は私用で更新できないと思います。
さくさく進めるつもりでしたが、何度か見直しながら更新していると、一日一話が限度でした。この辺りが私の限界なのかもしれません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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カザーブの村③

 

 

 

 一行が辿り着いた村は、夕刻が近付き、本日の営みを終了させる準備を始めていた。店を出している者達は、店仕舞いを始め、各家からは夕食の準備をしているのか煙突から煙が出ている。

 そんな夕刻時の慌ただしさが表れている村の中を一行は、たった一つの家目指して歩いていた。そこは、メルエの初めての友人である『アン』の生まれ育った家。

 一行の足取りはやはり重く、誰一人この村に入ってから口を開く事はなかった。

 

 店仕舞いを終えていたその道具屋には人影はなく、カミュがその扉をノックする。その後ろには表情を硬くしたリーシャにサラ。そして、少し哀しみを帯びた表情をしているメルエが控える。

 遠慮気味に開けられた扉から出て来たのは、アンの父親であるトルドであった。先日会った頃より、若干衰えたように見えるその顔が、彼の苦悩を表しているようである。

 

「おっ!? おお! アンタ達か!?」

 

「お久しぶりです」

 

 カミュ達の顔を見た道具屋の主人トルドは、その表情を輝かせ、一行の来訪を心から喜ぶ。特に、一番後ろにいるメルエの柔らかな笑顔を見て、トルドも優しい笑顔を浮かべた。

 

「まあ、入りな。メルエちゃんも元気そうで何よりだ」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャとサラの表情を見て、何か感じるところもあったのであろう。トルドは、一行を中へと導いて行く。最後に戸を潜るメルエに、声をかける事も忘れなかった。

 中に入ると、ちょうど夕食の用意をしている最中であったのだろう、トルドの父親と母親も食卓につき、談笑している最中であった。

 

「どうせ、また宿屋に泊る事が出来なかったんだろ? 今日はうちに泊まると良い」

 

「すまない。ありがとう。夕食の準備なら、私も手伝おう」

 

 トルドの暖かな提案に一度頭を下げたリーシャが、自分の得意分野で礼をしようと鎧を外し、腕まくりをする。

 

「おお! ありがとう。またアンタの作った料理が食べられるのなら嬉しいよ。その間に湯を沸かすから、湯浴みでもしておきな」

 

 笑顔を作るトルドは、メルエの方を向き湯浴みを勧める。そのトルドの言葉に、父親が立ち上がり、湯を沸かす為に浴室へと向かって行った。

 

「……何から何まですまない……」

 

「いいさ。アンタ方は、『メルエちゃんを護る』という約束を果たしてくれた。それが俺には嬉しいだけだ」

 

 カミュの礼に対して、トルドは笑顔で答える。

 その言葉に、リーシャの表情は曇った。

 

「……いや、実質、メルエを護ってくれたのは、貴方だ」

 

「ん?」

 

 続くカミュの言葉にようやくトルドの顔がカミュへと向けられた。そこには頭を下げるカミュの姿。その光景に、トルドだけではなく、リーシャもサラも驚きを隠せなかった。

 

「……貴方がメルエに譲ってくれた<毒針>と<みかわしの服>が、メルエを何度も護ってくれた。心から感謝している」

 

 カミュの口調は、仮面を被ったものではなかった。

 リーシャやサラに向けるものと同じもの。

 それは、唯の他人としてトルドを見ていない証拠。

 

「……そうか……良かった。メルエちゃんを護る事が出来たんだな……」

 

「…………ありが………とう…………」

 

 メルエの上半身を折るようなお礼に、トルドの瞳に涙が溢れて来る。再び上げられたメルエの眩しい笑顔が、彼の娘であるアンの姿と重なって行った。

 メルエを護れた事が、最愛の娘を護れなかった事への罪滅ぼしのように。

 

「ぐずっ……いや、メルエちゃんが元気そうで良かった。アンも喜んでいると思うよ」

 

「…………アンと………メルエ………お友達…………」

 

 たどたどしいメルエのその言葉がトルドの涙腺を崩壊させる。

 彼は自身の娘を護る事が出来なかった。

 しかし、愛娘の大事なたった一人の友人を護る事が出来たのだ。

 

「そ、そうかい! メルエちゃんはアンと友達になってくれたんだね。ありがとう。本当にありがとう……うぅぅ……」

 

「…………これ………アン………くれた…………」

 

 もはや、手で顔を覆うように涙を流すトルドに、メルエが更に追い打ちをかける。被っていたお気に入りの<とんがり帽子>を脱ぎ、そこに掛っていた花冠を指差し、トルドに向かって掲げたのだ。

 

「そ、それは!!」

 

 それは、アンが得意としていた花で作った冠。アンの母親であり、トルドの妻である女性がアンに教えた物。

 初めて自分で作った花冠をトルドに向け自慢げに見せるアンの表情が思い出される。そして、その初物は枯れはしているが、今もトルドの部屋の引き出しに大事に仕舞ってあった。

 

「……うぅぅ……メルエちゃんは、アンと会ったんだね……そうか、羨ましいな……うぅぅ……」

 

 にこやかに微笑むメルエの表情に向かって泣き笑いを浮かべたトルドであったが、もはや限界だった。近くにあったテーブルに突っ伏すように泣き崩れる。そんなトルドの背を、自らも大粒の涙を溢しながらも、優しく撫でる母親の姿があった。

 泣き崩れるトルドに、自分がいけない事を言ったのではないかと不安になるメルエの頭をリーシャが優しく撫でつける。そんなトルド家の空気にサラも涙を拭うのも忘れていた。

 湯を沸かし終えた父親が戻り、状況をリーシャが説明すると、トルドと同じように父親も泣き崩れてしまった事から、湯浴みも夕食もかなり遅くなってしまう事となった。

 

 

 

 ようやく落ち着いたトルド一家を席に座らせ、リーシャは料理の為に厨房へ、メルエとサラは湯浴みをするため浴室へと移動して行く。残されたカミュは、居心地のあまり良くない居間で、トルド一家と共にする事となった。

 

「……それで……妻達の事は分かったのか?」

 

 それぞれがそれぞれの場所に消えて行った事を確認し終えたトルドは、確認したかった項目をカミュへと問いかけた。

 それは、一家全員の共通する疑問だったのであろう。父親も母親も身を乗り出すようにカミュへと視線を向けていた。

 

「……できれば、夕食後にお話したかったのですが……」

 

「いや、今さら話を聞こうが聞くまいが、夕食が喉を通らない事には変わらない。ならば、早く真実を知りたいんだ」

 

 カミュがトルドの家を訪ねて来た事。その事実が大体の事を予想させる。

 カミュの判断次第では、この小さな村など通り過ぎても良かった筈だ。ここにカミュ達がいるという事は、カンダタから『金の冠』を取り返したという事実を示すもの。それであれば、この村など通らずロマリア城に行っても良い筈なのだ。

 カミュ達であれば、山の中で野宿をする事にも慣れている筈であり、このような小さな村で一泊する事に意味はない。

 それでもトルドの家に立ち寄った。

 そのカミュの真摯な行動が、トルドは嬉しかった。

 

「……わかりました……」

 

 トルド一家の視線を受け、カミュは一度目を瞑り、溜息と共に目を開いた。それは、真実を告げる決意をした証拠。サラやメルエがいない時に話したいとは考えていたが、それが今になった事への心の整理を終了させた証拠だった。

 

「……結論から言うと……貴方方が考えていた通りです」

 

「!!」

 

 カミュの最初の一言で、全員が息を飲んだ。

 アンとその母親がカンダタ一味に殺されたという事実。

 そして、この先はその凄惨さを知る事になるのだろう。

 

「……娘さんと奥様は、この村に残っていた十人程のカンダタの子分に連れ出され、殺されました」

 

「くっ! やっぱりか! くそっ! 俺が、俺がカンダタをこの村に入れなければ……」

 

「……トルド……落ち着きなさい。まだ、話は終わっていない」

 

 カミュの言葉に激しくテーブルを拳で叩いたトルドを父親が制する。しかし、カミュもこの先を話すつもりはなかった。

 それは、余りにも酷で、余りにも衝撃の強い話になってしまうからだ。

 

「カミュ殿……話し辛いのは解ります。しかし、ここにいる者は、皆覚悟をしておりました。どうぞ遠慮なく、お話し下さい」

 

 父親の真っ直ぐな瞳。

 その隣に座る母親の病弱ながらも強い光を放つ瞳。

 その視線を受け、カミュも覚悟を決めた。

 

「……わかりました。ただ、まず最初に言っておきます。娘さんと奥様の殺害にカンダタは一切関与していませんでした。子分達の独断です。それは間違いないでしょう」

 

 その言葉を皮切りに、カミュは自分が子分達から聞いた話をトルド達に話し始めた。話しを脚色する事なく、自分が聞いた通りに話す。いや、脚色する必要などない程の事実であったのだ。

 

 

 

 嗚咽とテーブルを叩く音が響く居間。そこは、誰も入る事の許されない空間であった。

 リーシャも調理が終わっていたが、台所から居間へ入る事が出来ず、サラとメルエも湯浴みから上がっていたが、湯冷めを気にする余裕もなく、居間への入口で立ち尽くしていた。

 

「……これが、私が知った事実です。それに関与していた子分達の話なので嘘はないと思われます」

 

「……うぅぅ……アン……」

 

 カミュの最後の言葉に、今まで気丈に話を聞いていたトルドの母親は泣き崩れた。父親の方も顔を歪めて涙を流していたが、妻を抱えるように持ち上げ、ベッドのある寝室へと運んで行く。居間に残るのは、カミュとトルド。

 

「すまない……こうなる事は解っていた。ただ、どうしても事実を知りたかったんだ」

 

「……」

 

 カミュは何も言わない。

 ここで何を言っても仕方がない事だと知っているのだ。

 

「……その子分達は?」

 

「……一人残らず死にました……」

 

 仇の生死を問うトルド。

 それに短くカミュは答えた。

 

「アンタ方が殺したのか!?」

 

「……私一人で殺しました。まぁ、その内四人程は、事実を知ったカンダタに殺されていましたが……」

 

 トルドの瞳の奥には、僅かな恐怖が宿っていた。

 『人』を殺すという行為は、ルビス教においての禁忌。それを平然と告げるカミュに、『人』として当然の感情を抱いたのだ。

 しかし、トルドは、その怯えを抑え込み、カミュに向かって深々と頭を下げた。

 

「……そうか、すまない。そんな汚れ仕事を、アンタの様な人間にさせてしまって」

 

「……いえ、元々そういう存在です……」

 

 カミュの返答は、居間の外にいるサラやリーシャも聞いた事がある言葉。

 自分という存在自体を否定してしまうような、そんな哀しい言葉。

 その言葉にリーシャは目を瞑った。

 

「……最後に聞いても良いか?」

 

 カミュの言葉を理解出来ないトルドは、一度目を瞑った後、カミュへ最後の問いかけを洩らした。

 その瞳は、何かに縋るような、哀しい色を宿している。それが、トルドの心を明確に表わしていた。

 

「……はい……」

 

「……アンタ方はアン達に会ったのか?」

 

 最後の問い。

 それは、先程メルエが話した言葉を確かめる物だった。

 正確に言えば、カミュはその問いに答える事は出来ない。

 あれが、幻なのか事実なのかすらカミュにも解らないからだ。

 

「……正確には解りません。メルエが会った事は確かでしょう。ただ、メルエだけでなく、私達全員が、娘さんと奥様によって救われています。おそらくそれも事実だと思います」

 

 そう言って、カミュはトルドにあの雨が降りしきる山中での出来事を話し出す。その話を聞きながら、トルドは目を見開き、そして泣いた。

 

「……そうか、あいつ達はアンタ方に礼をしたかったんだろうな……そういう優しい妻と娘だったから……」

 

「私達が生きているのも、貴方と貴方の妻、そしてメルエの友人であるアンのおかげです。こちらこそ感謝しています」

 

 深く頭を下げたカミュの姿がトルドの瞳に映り込む。それは、妻と娘の存在を認めている者の姿。既に死んでから数年経つ者への敬意に満ち満ちていた。

 

「……ありがとう……ありがとう……」

 

 トルドは再びテーブルに頭を落とし、泣き崩れた。その鳴き声は、もう何年も溜め込んでいた涙。妻と娘が消え、その死の理由も分からないまま溜めこんでいた感情を、一気に爆発させたものだった。

 哀しく、やり切れない空気が居間に漂う中、一人の少女が居間へと入って来る。少女は、台の上に置いてあった自分の帽子を手に取り、そしてトルドの傍へと駆け寄って行った。

 

「…………これ………あげる…………」

 

「そ、それは……ありがとう……でも、それはアンがメルエちゃんの為に作った物。メルエちゃんが大切に持っていておくれ。その方が、アンも喜ぶだろうから」

 

 アンがトルドに渡そうとした物。それは、先程トルドに見せた花冠だった。

 メルエにとっても、命の次に大事な物といっても過言ではない物。それでも、今のトルドを見ていて、メルエはトルドに渡すべきと考えていたのだろう。故に、トルドの拒否に戸惑い、カミュの方へと視線を送る。

 その時には、居間にリーシャもサラも入って来ていた。

 

「……それはメルエが持っていろ。それは、アンとメルエの友達としての証だ」

 

 視線を送ったカミュではなく、横から現れたリーシャから返答が返って来る。その言葉に、メルエは眉を下げながらもこくりと一つ頷いた。

 

「……本当にありがとう。アンタ方のお陰で、ようやく事実を知る事が出来た。何もないところだが、今日はゆっくりして行ってくれ」

 

 無理やりの笑顔を浮かべながら、そう言ったトルドではあったが、『先に休ませてもらう』という言葉を残して自室へと入って行った。

 残った四人は、重苦しい空気の中で食事をとり、そして就寝する。サラとメルエは同じベッドで眠る事となり、メルエを大事そうに抱えたサラの姿が、メルエを労わる彼女の心を表していた。

 そんな隣のベッドに、リーシャの姿はなかった。

 

 

 

「何をしているんだ?」

 

 誰もが寝静まり、村を静寂が支配する夜中。

 リーシャはトルドの家から出ていた。

 気持ちの整理がつかず、夜風を浴びようと外へと出た。

 トルドの家から出ると、空一面を覆う星達。

 そして、大地を照らす月明かり受け、町は淡く輝いている。

 

 そして見つけた。

 村の中央に位置する場所にある泉の真ん中で一人空を見上げる青年を。

 

「ん?……ああ、アンタか?」

 

「こんな夜中に何をしているんだ?まさか、<盗賊のカギ>を使って盗みでも働こうというのか?」

 

 言葉の内容とは別に、リーシャにはカミュの心の中が何となく想像出来ていた。

 その証拠に、リーシャの表情は薄い笑顔である。

 

「……少しな……」

 

「そうか……<レーベ>の時の様に、トルド達に真実を伝えずに誤魔化すべきだったのかを考えていたのか?」

 

「!!」

 

 図星だった。

 それは、カミュが考えていた事を正確に射抜いていた。

 果たして過酷な真実をトルド一家に伝えるべきだったのかという事。

 くぎは刺しておいた。実際、この村を出る前に父親の方に真実が幸せには結びつかない可能性がある事は伝えてある。しかし、それは言葉だけのもの。

 『覚悟は出来ている』とはいえ、その内容の悲惨さに心が壊れてしまう事はある。母親の方が寝室へ戻ってしまった事、そして連れて行った父親も戻らなかった事。

 それが、カミュを悩ませていた。

 

「……私が何を言っても、お前は悩むのだろうな。だが、私はあれで良かったと思う。お前が誤魔化した所で、トルド達が真実を求める事は止めないだろう」

 

「……」

 

 カミュの瞳は驚愕の色を隠し、今は静かにリーシャを見つめている。そこに何かの感情を見出す事は出来ない。

 

「そして、いずれ真実にぶつかる。それならば、アンとその母親に出会ったメルエのいる私達が、彼女達の事を伝えてやる方が良いだろう」

 

 リーシャはカミュの方は見ず、空に輝く星を見上げながらぽつりぽつりと言葉をつなげて行く。自分の言葉では、カミュの中で何かが変わる事はないという事を理解してはいても。

 

「……そうかもしれないな……」

 

「それに……<レーベ>の時とは違う。おそらく、お前が真実を話さない事に抗議するのは、今度は物言わぬ犬ではなく、メルエだ。お前はメルエの澄んだ瞳に耐える事が出来るのか?」

 

 <レーベの村>では、老人に真実を話さなかったカミュ。

 それに対して、リーシャもサラも何も言わなかった。

 おそらく今回も、カミュが真実を話さなかったとしても、リーシャもサラも何も言わなかっただろう。しかし、今回はその他にメルエがいる。アンの唯一人の友人であるメルエが。

 <レーベの村>で吠えかかって来た犬の様に、メルエが喚き散らすとは思えない。だが、『何故?』という瞳でカミュを射抜く事になっただろう。

 それは、この村を出て、旅を続けて行く中で永遠に続くのだ。

 

「……無理だろうな……」

 

「ふふふ……お前もメルエには敵わないのだな。あの時メルエは『アンは笑っていた』と言っていた。もう、山中でアンを見る事もないのかもしれない。私達は出来るだけの事をした。後は、トルド達が自分の力で立ち上がるだけだ」

 

 一瞬優しい笑顔を浮かべたリーシャだったが、トルド達の今後を考えたのだろう。厳しく表情を引き締め、言葉を続けた。

 カミュは、リーシャの話の間中、空に浮かぶ月を見つめている。彼の胸中に何があるのかは、正確には解らない。だが、リーシャは、この『勇者』の本質を無意識に理解し始めていた。

 

「……冷たいのもしれない……突き放すように感じるかもしれないが、これから先は私達に出来る事はない。だが、真実を知らずに悩み、苦しむよりは良いのではないか?」

 

「……アンタ、少し変わったか?」

 

 何の脈略もないカミュの返答に、視線を動かしたリーシャは驚いた。カミュの表情が、微かではあるが、笑みを浮かべている物になっていたのだ。

 つい先日、メルエの事を話した時に見せたような、作り物ではない笑顔。それを浮かべるカミュを、リーシャは呆然と見つめてしまった。

 

「……すまない……少し気が晴れた」

 

 呆然とするリーシャに一言溢したカミュは、そのままトルドの家に戻って行く。我に返ったリーシャはそのカミュの後ろ姿を見送り、そしてもう一度、星達が輝く夜空を見上げた。

 

「変わったか……そうかもしれない。この先、私はどこへ向かって行くのだろうな……」

 

 リーシャの呟きは、静寂が支配する夜の村の中へと溶けて行った。

 

 

 

 翌朝、いつも遅くまで寝ているメルエを起こし、サラとカミュの指導の下、メルエの鍛練を行う。その間に、カミュとリーシャの模擬戦等も挟みながら朝食までの時間を過ごした。

 その後、リーシャが村の市場に寄り、食材を買ってトルドの家に戻ると、まだ家の中は静けさが広がっていた。

 それは、家人が誰も起きてきていない証拠。少し表情を歪めたカミュの肩を叩いたリーシャは、そのまま台所に入り、食事の準備を始める。自分達の朝食だけではなく、おそらく今日は起きて来ないであろうトルドの両親の為に、栄養のあるスープ等も作る。

 そうこうしている内に、ようやくトルドが居間へと顔を出した。

 

「おお、すまない。客人に食事の準備などさせてしまって……」

 

「……いや……」

 

 おどけて見せるトルドの顔は、昨日とは打って変わってやつれを感じさせるものだった。それ程、カミュが齎した情報は、トルドにとって重い物だったのだ。

 

「親父も、お袋も今日は休ませようと思う。悪いが勘弁してくれ」

 

「……そのほうが良いでしょう……」

 

 予想通り、余りのショックに両親は起きる気力を削がれているのだろう。

 トルドの言葉に、カミュは無表情のまま小さく頷いた。

 

「あ! おはようございます」

 

「…………おはよう…………」

 

 そこへ、顔を洗い、身体の汗を拭いてきたサラとメルエが居間へと現れる。早く起き、少し眠そうなメルエにトルドの表情も幾分か和らいだ。

 

「ああ、おはよう。昨日はよく眠れたかい?」

 

「…………メルエ………ねむい…………」

 

 いつもより一刻以上早い時間に起きたメルエは、目を擦りながらトルドの質問に答えるが、そのメルエの言葉が余りにも珍妙で、サラとトルドは同時に吹き出してしまった。

 

「あはははっ。まあ、朝食を食べよう。アンタ方は今日にはこの村を出るのだろう?」

 

「……ええ……そのつもりですが……」

 

 トルドの質問は、確認の意も込められていた。カミュ達には、この村に用事などある筈がない。唯一つの約束を果たしに来てくれただけだろう事はトルドにも解っていた。

 

「……そうか……じゃあ、アンタ方の武器などを見せてくれ。これでも鍛冶も出来るんでな」

 

「……助かります……」

 

 カミュ達の心意気に返す物が、トルドにはない。

 故に、せめてもの恩返しに、カミュ達の武器を手入れしようというのだった。

 

「…………これ………何…………?」

 

 そんなトルドの行為に頭を下げるカミュの横から、自分のポシェットを持ってメルエが割り込んで来る。その手には、ポシェットから出した小さな『種』の様な物を手にしていた。

 それは、昨日メルエが<バリィドドッグ>の死体の傍で見つけた物。

 

「ん? これは……メルエちゃん、これはどうしたんだい?」

 

「…………落ちてた…………」

 

 メルエの手から「種」を受け取ったトルドは鑑定を始める。その頃、ようやく朝食を作り終えたリーシャが両手に皿を持ちながら居間へと現れた。

 

「よし、できたぞ!……ん? 何をしているんだ?」

 

 居間に戻り、目に映った不思議な光景にリーシャはカミュへと疑問を投げかける。その問いに、カミュは顎で示すようにトルドを指し、リーシャの視線をトルドの手元へと導く。そこで、リーシャにも何をやっているのかが理解出来た。

 

「う~ん。拾ったのかい……これはね……俺の記憶違いでなければ、<かしこさの種>という道具だな」

 

「<かしこさの種>?」

 

 トルドの言葉に、その場にいた全員の声が重なった。

 誰もが聞いた事のない名称であったのだ。

 

「ああ、これを食すと、食した者の『かしこさ』を少し上げる効力があると云われている。まあ、俺も使った事がないから、それが目に見えて解るような効力があるのかどうかは解らないがな」

 

「……!!……な、なんだ?……何故、私を見るんだ!?」

 

 トルドの話を聞いたカミュ、サラ、メルエの三人の視線が一斉に一人の女性に向けられた。自分に向けられ一斉に動いた視線に、リーシャは戸惑う。

 

「……いや、アンタの頭も若干でも良くなるのかと思ったのだが……」

 

「な、なんだと!! 私に『かしこさ』が少しもないとでも言うのか!?」

 

 カミュの失礼な言動に、久しぶりにリーシャが激昂する。久しく見ていなかったその光景にサラは不謹慎ながらも笑顔を浮かべてしまった。

 しかし、その様子を見ていたメルエの首が片方に傾げられる。

 

「…………リーシャ………食べる…………?」

 

「メ、メルエまで! 食べる訳ない! それに、それはあの腐った狼の体内にあったものだろう!? そんな物を食せる訳ないだろ!」

 

「それに関しては、大丈夫だと思う。元来『種』は種類が色々あるが、それ自体神聖な物らしく、実や種が何かに覆われていて汚れる事はないと云われている。それに、もし、アンタの言うように魔物の体内に入っていたとしたら、その魔物の『かしこさ』を上げてしまい、もはや原型は留めていないはずだ。 おそらく体毛にでもくっついていたんじゃないか?」

 

 メルエがリーシャにその種を差し出すが、リーシャは全力でそれを拒絶する。

 しかし、拒絶する理由を傍観者であったトルドが真っ向から否定した。

 

「な、なおさら嫌だ。なぜ、腐敗した魔物の体毛についていた物を食べなければいけないのだ! それに、私はそこまで馬鹿ではない!」

 

 拒絶を表すリーシャに白い視線が集まる。全員からの視線にリーシャはたじろぎを見せるが、ここで弱気になれば、あの不快な物を食べなければならなくなると感じ、必死の抵抗を見せた。

 

「……ああ……罰則が残っていたな……」

 

 そんな中、不意に口端を上げる嫌な笑みを浮かべながら、カミュが口を開かれる。その言葉が、リーシャには地獄からの声に聞こえた。

 確かに、昨日リーシャが起こした失態により、カミュは火傷の危機を被った。しかし、その罰がこの『種』を食べる事では、流石に割に合わない。下手すれば、命に係わるかもしれないのだ。

 

「ふ、ふざけるな!! あんな『種』を食べれば、食中毒で死ぬかもしれないんだぞ!」

 

「……俺も、アンタに何度か殺されかけているが?」

 

 予め予想していたのか、カミュはリーシャの反論を即座に切り返した。確かに、カミュは何度かリーシャの為に命を落としかけている。事実であるが故に、リーシャは言葉に詰まってしまった。

 

「そ、それは……死んでいないだろう!?」

 

 もはやリーシャの頭は大混乱だ。

 何故、自分ばかりにその役目が回されているのかが解らない。別にサラであっても、メルエであっても良い筈だ。

 

「その『種』を食べても、死ぬとは限らない筈だが?」

 

「死んでしまうかもしれないじゃないか!?」

 

 カミュは口端を上げながらからかうように。

 逆にリーシャは心底必死だ。

 そんな応酬が繰り返される中、突如全く違う声が響き渡る。

 

「ふっ……あははははっ! くくっ、あはははははははっ!」

 

「ぷっ……あはははっ」

 

 堪え切れなくなったトルドが最初に吹き出し、我慢に我慢を重ねていたサラがそれにつられて大声で笑い始める。その横で、二人の笑顔を見比べながら、メルエも笑顔を見せる。

 

「くくくっ……」

 

 そして、リーシャと対峙していたカミュもまた、珍しく声を漏らして笑ったのだ。一瞬の出来事に、リーシャの思考が追い付かない。

 そして、ようやく思考が開始されたリーシャの顔は見る見る赤くなり、瞳は怒りの炎を宿し始めた。

 

「お前達! 私を愚弄していたのか!?」

 

「あははははっ! い、いや……そんなつもりはないよ。あはははっ……あれが『かしこさの種』というのは本当だしな……あはははは……」

 

 もはや、トルドも弁解になっていない。笑い声を押えながら事実を伝えようとするが、八対二の割合で笑い声が多ければ、リーシャの気持ちを逆撫でするだけだ。

 

「~~~~~~~~!! 私は、そんな物を絶対に食べないからな!!」

 

「…………リーシャ………かしこく…………」

 

 大きな笑い声を発し続けるトルドとサラに、リーシャは完全にへそを曲げてしまう。小刻みに震える肩を抑え込むように、リーシャが視線を逸らした場所には、『かしこさの種』を持ったメルエが立っていた。

 

「メルエまで私を馬鹿にするのか!? 良いだろう……わかった。全員今日の朝食は抜きだ」

 

 笑顔のメルエが『種』を手に持ちながら、リーシャに掛けた言葉がギリギリで繋がっていたリーシャの堪忍袋の緒を切ってしまった。

 リーシャが持って来た湯気の立っている朝食は、すでに全員の目の前に並べられている。その状態で食せないとなると、かなり精神的なダメージを受けるだろう。

 

「…………いや…………」

 

「嫌でも駄目だ! メルエもサラも朝食は無しだ。カミュの分は今後一切、私は作らないからな!」

 

 もはや、リーシャを止める事は不可能だった。

 一行の食事は、野宿でない限り、基本的にリーシャが作っていた。それが食せなくなるという事は、自分で作るか、もしくは食さないかしか残されていないのだ。

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

「あっ! わ、私も、申し訳ありませんでした」

 

 すかさず謝罪の為、頭を下げるメルエとサラ。メルエに至っては、もはや涙目である。

 生まれて初めて暖かな食事をメルエは知ってしまった。もう、その暖かな食事を奪われる事に耐える事は出来ないのであろう。

 

「……」

 

「…………リーシャ………ごめん……なさい………ぐずっ…………」

 

 それでも返事を返さないリーシャの足元に寄って来たメルエが何度も頭を下げ、リーシャを見上げる。その姿に、段々とリーシャ自身が悪い事をしているような気持ちになって行く。

 そして、遂にリーシャは折れた。

 

「……反省しているか?」

 

「…………ん…………」

 

「は、はい!」

 

 リーシャの言葉に、メルエとサラは大きく頷いた。

 二人の表情に、リーシャは厳しい顔を作ったまま頷きを返す。

 

「……今回だけだ。許してやる。さあ、朝食を食べよう。カミュの分は三人で分けよう」

 

「……いや、俺も悪かった。少し度が過ぎた。すまなかった」

 

 カミュの席に置いた皿を取り上げ、サラとメルエの皿へ分けようとするリーシャに対し、最後にカミュの頭が下がった。

 カミュとしても、『食』が大事な事は承知である。ただ、以前のカミュであれば、自分で何かを作っていた可能性はあるのだが。

 

「……わかった。じゃあ、座れ。言っておくが、私はあんな物は食べないぞ!」

 

「……ああ、もうアンタの頭の悪さは諦める事にするさ……」

 

「……お前は……本当に食事はいらないらしいな……」

 

 せっかくリーシャの許しを得たにも拘わらず、収まり始めた火に再び油を注ぐようなカミュの言動に、サラは驚き、メルエは怒った。

 

「…………カミュ………だめ…………」

 

「……ああ……すまなかった……」

 

「あははははっ。あ、あんまり笑わせないでくれ……あははははっ……」

 

 リーシャとカミュのやり取りに続き、メルエとリーシャにサラとリーシャ。最後にメルエとカミュに、カミュとリーシャ。休む間もなく続く、どこかほのぼのとしたやり取りに、トルドの笑いはなかなか収まらない。

 

「トルド! 私は真剣だ!」

 

 いつまでも笑い止めないトルドに、リーシャは叫ぶ。そこに、年長者に対しての敬意など欠片もない。あるのは、親しみを込めた叱責。それが、トルドにとって、何よりも嬉しく、そして可笑しかった。

 朝有った重苦しい雰囲気など、どこかに霧散して行き、変わって生まれたのはどこか暖かく優しい空気。その空気の中、笑い声が絶えないまま、五人は朝食を終えた。

 残念なのは、最後までトルドの両親は、居間に姿を現さなかった事だろう。

 

 

 

 食事を終え、トルドにそれぞれの武器を手入れしてもらった時、トルドはメルエの持つ<魔道師の杖>に気がついた。

 

「メルエちゃんも、杖を持つようになったのか?」

 

「…………ん…………」

 

 誇らしげに杖を掲げるメルエに、トルドは表情を緩めた。それは、杖を掲げる為に手を挙げたメルエの腰に、大事そうに<毒針>が装備されているのが見えた事もあるだろう。

 

「うん。どこから見ても、立派な『魔法使い』だ」

 

「…………ん…………」

 

 メルエが魔法を使う事をトルドには話していない。しかし、長年道具屋を営むトルドには、メルエが纏う魔力がおぼろげながらも見えていたのかもしれない。

 そんなトルドの褒め言葉に、メルエは満面の笑みを持って応える。しかし、すぐにメルエは表情に陰りを見せた。

 不思議に思って、下げてしまったメルエの顔を覗き込むようにトルドが姿勢を変えると、不意にメルエの口が開き出した。

 

「…………アン………の………これ…………」

 

 メルエが指し示したのは、先程トルドが目に留めた<毒針>だった。メルエにとってそれは、トルドの物ではなく、アンの物。故に、アンの花冠をトルドにあげるか、この<毒針>を返すかしかないのだ。

 

「いいや、それもメルエちゃんが持っていておくれ。それがアンの代わりにメルエちゃんを護ってくれるのなら、これ程嬉しい事はない」

 

 しかし、その返還もトルドは許さなかった。もう、決定的な死というものからメルエを護っている武器。ならば、この先もメルエの護身刀となって欲しいというのがトルドの願いだった。

 

「…………ん…………ありが………とう…………」

 

「ぐずっ……うん……メルエちゃんも元気でな……」

 

 

 

 武器の手入れを終え、トルドの家を後にする一行に手を振るのはトルド一人だった。トルドの両親は最後まで自室から出て来なかったのだ。それがサラの心に不安として残って行く。

 

 人を導く者として、何かをしようと思っていた矢先の出来事。

 自分に何か出来る事があったのではないだろうか?

 もっとかける言葉があったのではないか?

 サラはそう思わずにはいられなかった。

 

 <カザーブの村>の門を潜った一行は、再びカミュの下へと集まる。

 カミュの袋の中にある『金の冠』の奪還を依頼した人間の待つ城へ向かうために。

 リーシャもサラも、その人物に聞きたい事は山ほどあった。しかし、その場で言葉を発する事が出来る唯一の人物が、その事を問いかけるかは解らない。それでも、何故か、リーシャにもサラにも『カミュはそれを追求するだろう』という自信があった。

 

「ルーラ」

 

 それぞれの想いを乗せ、一行の身体は上空へと浮かび上がる。

 そして、日が高くなった空へと消えて行った。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

次話で第三章も終わりです。
長々となかなか進行しない物語ではありますが、よろしくお願い致します。

ご意見ご感想を心よりお待ちしています。


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ロマリア城③

 

 

 

重税による寂れた村と、エルフの力によって長い時を止められていた村を見て来たカミュ一行にとって、一際大きく見えるようになった城門は、沈みかけの太陽の光によって赤く染められていた。

 

「今日は、どうするんだ?」

 

 正直、<ルーラ>によっての移動なだけに、一行に疲れはない。陽も沈み始めている事から、今日の謁見は無理であろう。であれば、宿で休むしかないのだが、リーシャやサラは今起きたばかりの様な感覚を拭えないのだ。

 

「……宿に入るしかないだろうな……」

 

「で、ですが……何も疲れてはいませんよ……」

 

 カミュの返答に、サラが思っている事を返す。ロマリアから出たばかりで目的地の姿を見ていない時は、ここから<カザーブ>まで、三日以上という時間をかけたのだ。その先の旅もそうだった。

 サラの頭の中には、疲れてへとへとになってから宿に入るという構図が成り立っていたのであろう。

 

「ならば、アンタ一人で、この辺りの魔物と戦って来たらどうだ?……それこそ、飛躍的に力量が上がる筈だ……」

 

「……そ、そんな……」

 

 カミュの軽口を何度も受けているリーシャは、それが『カミュなりの冗談なのではないか?』という事に何となく気が付いていたが、サラに至ってはその経験がない事から、冗談として受け取れず、言葉通りの意味として真に受けてしまっていた。

 

「そうだな。サラは僧侶として、上位の回復魔法を覚えると宣言していたしな。この辺りの魔物であれば、サラの<バギ>で十分通用するだろう。頑張れ、サラ」

 

 <カザーブ>で受けた愚弄の報復なのか、リーシャはカミュの言葉に乗っかり、サラへと意地の悪い言葉を投げかける。

 

「…………サラ………がんばる…………」

 

 それにメルエまで同調した。

 『四面楚歌』

 そんな言葉が今のサラに当て嵌るようなものだ。

 

「……メルエまで……うぅぅ……」

 

「…………サラ………また………泣く…………?」

 

「な、泣きません! もういいです! 一人で行ってきます!」

 

 メルエの言葉で追い詰められてしまったサラには、開き直るしか道がなかった。

 城門に背を向け、再び平原へと歩き出そうとするサラの後ろからトルドの家で響いたような暖かい声が響く。

 

「あはははっ、冗談だ、サラ。そう意固地になるな。あははははっ」

 

「…………サラ………いかない…………?」

 

 リーシャの笑い声。

 しかし、それとは反対にメルエは小首を傾げてサラを見つめた。

 

「こら、メルエ。あまりサラをいじめるな」

 

「……うぅぅ……リーシャさんもメルエも、本当は私の事を嫌っているのではないですか?」

 

 自分の事を棚に上げてメルエを窘めるリーシャを恨めしそうに睨みながら、サラが愚痴をこぼす。その瞳は、悔しさからなのか、安堵からなのか、若干涙が溜まっているように微かな光を帯びていた。

 

「……宿屋に荷物を置き、空いた時間に魔物の部位を売る。その後は、買い物なり、それぞれの鍛練なりを行えば良いだろう……」

 

 三人のほのぼのとしたやり取りを全く無視するように、カミュが門に向かいながら提案をし、それに頷いたリーシャもメルエの手を引きながら門に向かって行く。一人取り残される形となったサラは、頬を軽く膨らませながら、一行の後を追って城下町へと続く門へと歩き出した。

 

 

 

「なんだ? またお前たちか? 臆病者のアリアハンの奴等と……ん? もう一人ガキが増えたのかよ! ぎゃはははっ、女に子供を旅に出すなんて、卑怯者が治めるアリアハンらしいや」

 

 カミュ達がロマリアに初めて訪れた時と同じ門番が、カミュ達の顔を憶えていた。口を開いたのは、あの時もリーシャを挑発した人物だったのだ。

 

「おい!」

 

「なんですか!? その通りでしょ。アリアハンのお陰で、我々がどれ程の苦労を強いられたか……」

 

 門のもう片方の脇に控えた上官のような兵士が窘めるが、その兵士の口は止まらない。それ程、ロマリア国民の感情は反アリアハンに傾いているのだと感じずにはいられない物だった。

 しかし、それは、このロマリア大陸に入ったばかりの頃ならばだ……

 

「……貴方は、<カザーブ>か<ノアニール>のご出身なのですか……?」

 

 口を開いたのは、アリアハンを代表する者。その唐突な発言に、当の兵士だけでなく、リーシャもサラも驚いた。まさか、ここでカミュが口を開くとは思っていなかったのだ。

 

「は!? そんな田舎の出身じゃない。俺はロマリア生まれのロマリア育ちだ」

 

 カミュの問いに答えた兵士は、自分に質問をして来た青年の表情が変わって行くのを見た。

 いや、正確には、変わって行くのをではなく、無くなって行くのをだが。

 

「……ならば、それ以上は口にされない方がよろしいでしょう。貴方の恥となります。それに、私はアリアハンからロマリア国王への使者も兼ねております。あまり無闇な言葉を発言しない方がよろしいかと」

 

 初めて見るカミュの仮面を被ったままの攻撃。仮面を被り、口調は丁寧だが、その内容はかなり辛辣な物だ。

 『余りにも無礼と感じれば、国家レベルの問題へと発展します』と暗に仄めかしているようだった。

 

「……すまない。部下の失礼を許して欲しい。許可証は先日拝見した。一人増えてはいるが問題はないだろう」

 

 カミュの瞳に気圧された兵士の代わりに、上官がカミュ達へと対応を再開した。

 メルエという存在を容認し、門を開けるように指示を出す。その間も、カミュの変貌ぶりに驚いたままの兵士は、呆然とその様子を眺めていた。

 

「さあ、通ってくれ。ようこそ、ロマリアの町へ」

 

 門が完全に開いた事を確認した上官は、カミュ達を促すように、先日は発しなかった歓迎の言葉も付けて手を門の中へと翳す。

 カミュは上官に一礼した後、門の中へと入って行った。その後をサラとメルエ、最後にリーシャが門を潜って行く。

 

「……自国の民だけを護る為に他国を切り捨てた国と、自国の民すらも護る事をせずに見て見ぬふりをする国。どちらが卑怯者なのだろうな?」

 

「なっ?」

 

 未だに呆然としている兵士の横を通り抜けざまに、リーシャは自分が思っている疑問をぼそりと呟いた。

 おそらく、その意味は、ここにいる兵士達には理解出来ないだろう。それは、カミュ達四人と、そしてこの街を抜けた先にある城に住む何人かにしか理解出来ない事なのだから。

 

「……カミュ様……」

 

 先頭を歩くカミュの名をサラは思わず呟いてしまう。まさか、カミュがあそこで争いの種になりかねない発言をするとは思っていなかったサラにとって、先程のカミュの発言は釈然としないものだったのだ。

 

「…………アリ………アハ………ン…………?」

 

 そんなサラの横で手を引かれていたメルエが違う呟きを洩らす。それは、先程の兵士が口にした国名。リーシャやサラ、そしてカミュが生まれ育った国の名前だった。

 今までの旅で何度か出て来た単語ではあったが、メルエにその説明をした事はなかった。故に、メルエの中で解らないままだった『アリアハン』という単語が思わず口から出てしまったのであろう。

 

「ん?……それは、私達の故郷の国の名だ」

 

「…………こ………きょう…………?」

 

 後ろからかかったリーシャの答えに、メルエは再度首を傾げる。

 解らない単語が次々と出て来て混乱しているようだった。

 

「故郷とは、『生まれ育った』場所という意味ですよ」

 

「…………」

 

 隣を歩くサラが小首を傾げるメルエへ答えるが、その答えを聞いたメルエの表情はいつになく沈んで行った。

 先頭にいたカミュもまた、後方での会話を耳に入れ振り向くが、メルエの表情を見て、深い溜息を吐く。

 

「行くぞ。宿屋に荷物を置いた後は、メルエの魔法の鍛練をする」

 

 メルエが感じている不満を察したカミュが、その不満が漏れる前に蓋をしてしまう。それが正しいかどうかは分からない。しかし、今現在、メルエの故郷が何処か解らない以上、この問答はするだけ無駄なのだ。

 

「ん?……あ、ああ、そうだな。メルエ、私は見ているしか出来ないが、サラが鬼の様に見えたら、いつでも私の所へ来いよ」

 

「お、鬼って……そんなに私は怖くないですよ!」

 

 カミュの意図に気がついたリーシャは、メルエに軽口を叩き、その軽口にサラが過剰に反応を示す。

 確かに、リーシャに魔法のいろはを教えているサラは、時に厳しい教師と変貌する時がある。

 

「私の時は、『本当にサラか?』と思う程、厳しい時があるからな。メルエも気をつけろ」

 

「…………ん…………」

 

「メ、メルエまで! 言葉や文字を教えている時はそんな事はないでしょう!?」

 

 しゃがみ込んだリーシャの笑顔に、沈んでいたメルエの表情にも明るさが戻る。リーシャの目を見て頷いたメルエに、サラは再び雄たけびを上げた。

 メルエを護るように会話を進める三人。それが彼等の中に出来始めた絆だとすれば、それは、メルエを中心に出来上がっている物なのかもしれない。

 

 

 

 宿に荷物を置き、外に出た一行はメルエを中心に円を描くように腰を下ろす。メルエは、<魔道師の杖>を手にし、壁に向かって杖を振るように魔法の詠唱を行っていた。

 

「…………メラ…………」

 

 いつもは詠唱と同時にメルエの指から、カミュのより大きな火球が出て来るのだが、杖の先からは何も出て来ない。

 元来この杖を持っていれば、念じるだけで<メラ>が発生する物ではあるのだが、メルエが行っているのは、自身の魔法力を使っての詠唱なだけに杖の先からは何も生まれはしなかったのだ。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「メルエ、落ち着いて、指から出る炎と同じように、杖の先から炎を出すようにイメージをして」

 

 杖の先を恨めしそうに睨みながら唸るメルエにサラは声をかける。

 実際、サラの言っている事は、自身の経験を踏まえている物だった。

 試しに、サラが杖を持ち、杖の先をリーシャの腕につけ<ホイミ>の詠唱を行ってみると、杖の先が淡い緑色に光り、リーシャの腕にあった細かな傷を癒したのだ。

 杖に魔法力を通し、魔法を発動させる。それをサラは実践していた。

 

「…………もう………いや…………」

 

「メルエ……まだ始めたばかりですよ?」

 

 自分の思い通りにも行かない事にメルエは癇癪を起こし始める。元来メルエは、サラの様に考えて呪文を行使していた訳ではない。

 文字の読めないメルエは、契約でさえ、感覚で行っていたのだ。

 カミュから教えてもらった魔法の名を、手を掲げながら詠唱する。唯それだけで、メルエの身体に眠る魔法力が動き出し、魔法が発動していた。

 故に、メルエにアドバイスを繰り返すサラの言っている事が理解出来ない。理解している者にとっては当たり前の事でも、理解できない者にとっては何を言っているのかも解らないのだ。

 『魔法力を杖に通して』という言葉にしても、メルエにとって、どうやって杖に魔法力を流すのかが解らない。まず、魔法力とは何なのかが理解出来なかった。

 

「……メルエ……焦らなくても良い。俺も昔は、何故自分が魔法を使えるのかすら解らなかった。メルエの中には呪文を完成させるための能力がしっかりとある。まずは、メルエの中にあるそれを感じる事だ」

 

「…………」

 

「メルエ、おいで」

 

 カミュの言葉もぼんやりとしか理解出来ない。それが悔しく、哀しいと感じているメルエの表情は益々雲って行った。

 そんなメルエの表情に気がついたリーシャは、メルエを自分の下へと呼び寄せる為に声をかけた。

 

「リーシャさん! まだ、始めたばかりですよ。余りメルエを甘やかしては駄目です」

 

 しかし、そんなリーシャの気遣いは、メルエに魔法を教える教師に阻まれる。実際、まだメルエが杖を振るった回数は一ケタ台だ。外に出て一刻も経っていない。

 

「…………おに…………」

 

「なっ、何故ですか!? 私はメルエの為に言っているのに!」

 

 そんなサラに、メルエがリーシャの腕の中に収まりながらぼそりと呟いた言葉は、先程リーシャが教えたサラを表現する言葉だった。

 

「ふっ、あははははっ。そう言うな、メルエ。サラが鬼になる時はもっと怖いぞ」

 

「なっ、何を言うのですか!? そんなに私は怖くありません!」

 

 アリアハンを出てから、休憩と言えば、誰かとカミュの討論になっていたパーティーとは思えない程の和やかさ。

 時にお互いをからかい、笑い合う。

 それは、とても『魔王討伐』という絶望の旅へと向かう一行には見えないものだろう。

 

 

 

 結局、この日もメルエの持つ<魔道師の杖>から魔法が発現する事はなかった。

 小さな肩を落とすメルエの頭を撫でながら、リーシャは宿屋への道を歩いて行く。

 

「何故、メルエは杖へと力を注ぎ込めないのでしょう?」

 

「……さぁな。いずれにしても、メルエが感覚と才能だけで発現させていた物が、少し頭を使わなければならないようになったという事だろう」

 

 メルエとリーシャの後ろ姿を見ながらサラとカミュはメルエの魔法が何故発現しないかを考える。しかし、この二人も、杖から魔法を発動させる事が初めてだったにも拘わらず、成功させている。

 初めから出来る者には、出来ない者が出来るようになる過程が解らない。何がキッカケとなるのか、どうすれば魔法力という物を認識し、思う通りに動かせるのかをメルエに教える事は、彼ら二人には初めから無理だったのかもしれない。

 

「今日は、宿屋の台所を少し借りて、メルエの好きな物を一品だけ作ってやる」

 

「…………ん…………」

 

 残念そうに俯いているメルエに、リーシャが慰めの声をかけている。それにも力なく頷くメルエを心配そうに見つめるリーシャ。それは、どこから見ても親子の構図であろう。

 しかし、それを言えばリーシャが怒りを露わにする事が解っているだけに、サラは口にはしなかった。

 

 

 

 翌朝、まだ城下町の店なども開いていない時間に、カミュ達一行は城門の前に立っていた。

 それは、『できる事なら、昼前には<アッサラーム>へ向かいたい』というカミュの言葉からだった。朝の鍛練を終えた一行は、朝食もそこそこに城へと向かっていたのだ。

 高くそびえ立つ城門の両脇には、朝早いからなのか、若干眠そうに立つ二人の兵士が経っていた。

 

「カミュと申します。ロマリア国王からのご依頼の報告に上がりました。お取次ぎをお願致します」

 

 仮面をつけたカミュが門番に取次ぎを頼む。『ロマリア国王』という単語に、半ば欠伸をしていた兵士がその表情を引き締め、応対を返して来た。

 

「わかった。少しそこで待っていろ」

 

 カミュ達を訝しげに眺めながらも、その職務を果たす姿は、城下町へと続く門を護る人間よりも上の兵士なのかもしれない。初めてロマリア城を訪れた時とは違うその兵士に、リーシャはそう感じていた。

 

 

 

 暫くの間城門の前で待たされ、カミュ達の背中の方から町の喧騒が聞こえ始めた頃、城の中から先程の兵士が戻って来た。

 

「中に入れば、案内役がいる。その者について行け」

 

「ありがとうございます」

 

 やはり、以前の兵士より上の人間なのかもしれない。今回は謁見の間に続く道の案内役まで手配していたのだ。

 その事実にリーシャとサラは驚くが、カミュは何か思い当たる節があるのか、表情を変える事はない。

 城門を潜り、城内に入ると、そこには以前に謁見の間で見た事のある文官が張り付いたような笑顔を浮かべ、待っていた。

 

「カミュ様ですね……国王様がお待ちです。こちらへ……」

 

「……はい……」

 

 以前とは余りにも違いすぎる対応にリーシャやサラは何か不快感を覚えた。

 何が彼等を変えたのかなど、考えなくとも解る。

 『金の冠』だ。

 カミュ達が、国宝と言ってもいい『金の冠』を取り戻したという情報がこのロマリア城に既にもたらされているのだろう。だからこそ、サラの頭には『何故?』という疑問が浮かんだ。

 

 『何故、この城にその情報がもたらされたのか?』

 

 それが、リーシャにもサラにも解らない。そんな疑問を頭に残しながら、一行は謁見の間へと足を踏み入れると、そこには以前と同じように、国王と王女、そして大臣が待っていた。

 

「よくぞ戻った、『勇者』カミュよ。貴殿の働き、褒めて遣わす」

 

 謁見の間に入り、玉座の前で跪いたカミュ達に国王が声を上げた。

 その言葉もまた、以前ここに来た時とはかなり違いがある。それがまた、リーシャとサラの心に影を背負わせる。

 

「はっ。こちらが『金の冠』です。お確かめください」

 

「大臣!」

 

 袋から『金の冠』を取り出し、国王へと差し出すカミュを見て、国王が大臣に指示を出す。

 恭しく掲げたカミュの手から、歩みよって来た大臣に『金の冠』は渡り、そのまま国王の手に戻って行った。

 

「ふむ。確かに。これぞロマリアの『金の冠』じゃ。よくぞ取り戻した」

 

「はっ」

 

 手渡された冠をしげしげと眺め、それが本物である事を確信した国王は、自分の頭の上という本来あるべき場所に戻した。

 どれ程、冴えない老人であろうと、その冠を被れば、一角の者へと変貌する。ましてや、人を見る目という物を備えている生まれながらにしての王となれば、尚更であった。

 

「これより、ロマリア国は、そなたを『勇者』と認めよう。援助も行う。何なりと申せ!」

 

「……いえ、援助の方は謹んでお断りさせて頂きます」

 

「なっ、なんと!」

 

 気前よく援助の約を与えた国王は、表情一つ変えずにその申し出を断ったカミュに目を見張る。

 ()の英雄オルテガでさえ、各国から莫大な援助を受け、旅をしていた。それでも、志半ばで、その旅に終止符を打ったのだ。

 援助失くして、『魔王討伐』という人間離れした旅が続けられる訳はない。魔物を倒すその武器も、魔物の脅威から護るその防具も、そしていざという時の為の道具ですら、自らの懐からゴールドを出さなければならなくなるのだ。

 

「し、しかし、そなたの父オルテガでさえ、各国から援助を受けていたのだぞ」

 

「……恐れながら、オルテガという人物と私は別人でございます。私には、後ろに控える従者もおりますので……」

 

 サラは驚きに顔を上げてしまった。

 そこには、頭を下げ、謁見の間に敷かれる赤い絨毯を見ながら国王と接するカミュの姿。

 その内容は、初めて、本当に初めて、リーシャやサラを共に旅する仲間として認めた事を意味するものだった。

 『従者』と言った事は何度かある。しかし、自分と父であるオルテガの違いにリーシャ達を上げたのだ。

 それは、『一人旅を続けたオルテガと違い、自分には仲間がいる』と宣言したと同じである。

 それも、一国の国王への発言としてだ。

 

「ふむ……なるほど、仲間と力を合わせ進んで行くという事か……」

 

「……」

 

 ロマリア国王の問いかけに、カミュは顔をもう一度深く伏せて肯定の意思を表す。それは更にサラを驚かせる。

 これ程までに明確に仲間という言葉を肯定した事は一度たりともない。

 サラの身体に感動と共にとても大きく重い責任が圧し掛かって来た。

 

「あい解った。そなたの言葉、このわしの心に響いた。じゃが、この国宝を取り戻してくれた『勇者』に何も与えないという訳にも行くまい」

 

 カミュをじっと見て、何かを思案するように考えていた国王は、ふと思いついたように口を再度開いた。

 それは一国の国王としての威信。

 きつく口外を禁じてはいても、何れ何処かでこの噂は漏れるだろう。その時、国の一大事を解決した者へ恩賞を与えていなければ、それこそ国王の名声は下がり、国家としての沽券にも係わる問題となるのだ。

 

「……ふむ。ならば、この先お主達はどこへ向かう?」

 

「はっ。まずは<アッサラーム>へ行き、情報を得ようと思っています」

 

 これからの行き先を尋ねる国王に、カミュは淀みなく応える。

 その姿に、国王は少し目を細めた。

 

「……ならば、その先の<イシス>へも足を踏み入れる事となろう。その時の為、わしが『文』を渡しておこう。それを<イシス>を治める女王に渡せば、色々と優遇してくれるであろう」

 

「……有難き幸せ……」

 

 それは、通行許可証と同じ物となる。

 一国の国王が『認めた者』として他国に入る事が出来る。その国との関係が友好的な国であれば、それは身分を証明する手形となり得るのだ。

 

「……ふむ。それだけでは、ちと物足りぬな……おお、お主、見たところ『盾』を所有しておらぬ様子じゃな?」

 

「……はい……」

 

 カミュの盾は、後ろに控えるリーシャが持っている。

 そのリーシャの盾をサラが持っているのである。

 

「大臣! あれを!」

 

「はっ」

 

 国王から指示を出された大臣は、後ろに控える文官に耳打ちをし、その文官が扉の奥へと消えて行くのを見ている。文官が戻って来る間、間が少し空いてしまったが、カミュ達全員が床から視線を外さなかった為、誰一人口を開く事はなかった。

 やがて、戻って来た文官の手には、それほど大きくはない盾が乗せられた盆があった。その盆ごと大臣が受取り、カミュの前に置いて行く。

 

「それは、<うろこの盾>と呼ばれる盾じゃ。魔物の頑丈な鱗を張り付けたもので、魔物の攻撃は勿論、魔法への耐久力もあると云われておる」

 

「……」

 

 顔を上げ、目の前に置かれた盾を見ると、それは、カミュですら見た事もない代物であった。

 鉄を薄く伸ばした物に、一枚一枚魔物の鱗を張り巡らせたもの。それは、銅でできている<青銅の盾>よりも頑丈に出来ていた。

 国王の話を信じるのであれば、その上、魔法への耐久性もあるという。

 

「今は、この地方に鱗を持つ魔物が存在しない為、貴重な物となっておる。お主ならば、その盾を有効に使う事も出来よう。この城にあっても宝の持ち腐れとなるだけじゃ」

 

「……有難き幸せ……国王様のご寛大なお心、有り難く頂戴いたします」

 

 <うろこの盾>を恭しく掲げ、再び頭を下げるカミュ。後ろに控えるサラは、そんなカミュの姿が常識的な姿と知りながらも、どこか違和感が胸に残っていた。

 

「うむ。他に何か望みはないか? お主の願いとなれば、横にいる王女の婿として迎えてやっても良いぞ」

 

「!!」

 

 国王の申し出に、リーシャとサラは顔を勢いよく上げてしまう。

 それ程、驚くべき発言だったのだ。

 アリアハンの英雄オルテガの息子とは言え、カミュは平民である。その他国の平民を、王女の婿として王族に迎え入れるというのだ。

 リーシャやサラでなくとも驚くだろう。リーシャの隣で小さく跪くメルエだけは真意が分からず、不思議そうにリーシャを見てはいたが。

 

「……では、国王様にお尋ねしたき事がございます……」

 

「ん?……なんじゃ? 申してみよ」

 

 黙って頭を下げていた、カミュが突如顔を上げた事に、若干の驚きを表した国王ではあるが、興味を示したのか、カミュの発言を許した。

 

「では……国王様は<ノアニール>という村をご存じでしょうか?」

 

「!!」

 

 満を持して開かれたカミュの口から出た単語に、国王に王女、そして大臣の他にリーシャやサラに至っても、驚きに息を飲む。カミュからその単語を口にするとは思っていなかったのだ。

 しかし、リーシャやサラは、それを心のどこかで望んでいたのかもしれない。驚きはしたが、その後の返答が気になり、無礼とは知りながら国王に視線を向けてしまっていた。

 

「ん、ううん。ごほん。ノ、ノア……ニールじゃったか?……これ、大臣。我が国にそのような村があったかのう?」

 

「えっ?……ご、ごほん。確か……ロマリア大陸の最北端に……そのような村があったような……」

 

 リーシャとサラは愕然とする。

 これが、国を預かる者達の態度なのだろうか。

 この答え方は、すでに<ノアニール>で起こっていた事を知っていたと言っているようなものだ。

 それにも拘わらず、国王に至っては自国の村として認識すらしていないと言う。それが、国を預かる者として、どれほど恥知らずな行為に当たるのかが解っていない。

 

「……確かに、我が国の最北端にそのような村があったと聞いていますが、すでに滅びたという報告もあります。勇者殿、それが何か?」

 

 動揺が走る謁見の間。

 国王の目は泳ぎ、大臣は慌てる。

 そんな中、謁見の間にはいながら一言も発していなかった女性が口を開いた。

 王女である。

 この国の指針を示し、それを部下達に行わせている、この国の頭脳と言っても良い女性であった。

 

「……いえ……それであれば、結構です」

 

 王女の瞳には厳しい光を宿していた。

 『王家は<ノアニール>の状況を知ってはいる』

 『だが、それがなんだというのだ?』

 『他国から来た旅人ごときが、国政に口を出し、内部干渉をするのか?』

 強い意志と、強い戒めを王女の瞳は語っていた。

 その瞳を見て、カミュは諦める事となる。

 

 村が復活したという情報も、その内この城に届く筈。そうなれば、今まで十数年取れなかった税を、ここぞとばかりに取り立てに行くのであろう。そしてそれが、重税となる。

 しかも、村人は自分達の時が止まっていた事など知らない。ロマリア国が要求する重税の理由が理解できない以上、<ノアニール>の村人達の不満は高まるだろう。下手をすれば、暴動が起きる可能性もある。

 

 カミュは、その事を告げる事も諦めた。

 もし、そうなったとしても、この王女が何か良い案を出すだろう。

 それが、村人を更に苦しめる内容になるかもしれないが。

 

「そうですか……ならば、謁見はこれにて終了ですわね。では、こちらが<イシス>女王への文です。大臣から受け取ったのであれば、早々に立ち去りなさい」

 

「……では、失礼いたします……」

 

 深々と頭を下げたカミュは、立ち上がり、数歩国王に向かって後ずさった後、身を翻して謁見の間を出て行った。

 その後を三人の従者が追って行く。

 

 

 

「……あの者達、<ノアニール>まで行っておったか……」

 

「おそらく、あの者達が行ったとなれば、<ノアニール>の呪いも解けたのでしょう。人を派遣させます。その上で、これからの事を検討致しましょう」

 

 呟くように漏れた国王の言葉に、すかさず隣に座る王女が答えた。王女の提案に頷きを返し、大臣は派遣するための人選を頭の中で考える。

 『金の冠』を<カンダタ一味>から奪還した事で、彼ら四人の力量は証明された。国を挙げても捕縛出来なかった者達から奪還したのだ。

 王女の言葉は当然の評価であろう。そして、それ程の力を持つ者達が<ノアニール>に赴いたとなれば、あの小さな村に掛けられた呪いという問題も解決したに違いない。

 

「……しかし、<ノアニール>の事を他国に話すなどされれば……」

 

「その点は心配いらないでしょうね。あの者達はそれほど愚かではありません。もし、他国へ我が国の情報を漏らせば、一国を敵に回す事となり、とても『魔王討伐』など叶わない事は解っていましょう」

 

「姫様のおっしゃる通りかと……今はまず、<ノアニール>の確認と税率の設定について話し合うべきかと」

 

 王女の言葉に同意を示し、大臣が国王に提言を繰り返す。一つ目を瞑った国王であったが、もう一度開いた瞳は、一国を預かる王としての瞳に変わっていた。

 

「わかった。<ノアニール>の件は、王女に一任する。早急に確認の後、税率を設定し直せ。全て十数年も眠りについていた者達ばかりだ。国政に不満を持つ者などおるまい」

 

「父上のお心のままに……」

 

 国王としての威厳を放つロマリア王に、大臣たちは跪き、王女もまた瞳を下げた。

 <ノアニール>の行く先が、カミュの予想とそう変わらないものとなった瞬間であった。

 

 

 

「……カミュ……」

 

「……カミュ様……」

 

 リーシャとサラの呼びかけ。それは各々の中で同じような感情が蠢いている証拠。

 国王の言葉に、ロマリア国へ対する不信感と絶望感を持ったのであろう。

 

「……アンタ方が何を考えているのかは解るが、この城下町を出るまで吐き出すな」

 

「…………???…………」

 

 溜息と共に吐き出された言葉に、カミュのマントの裾を握っていたメルエは小首を傾げてリーシャとサラの二人を見ていた。

 一行は、武器屋や道具屋に寄る事もなく、ましてや闘技場など見向きもせずにひたすらロマリアの町の出口となる門へ向かって歩いて行く。その間、誰一人として口を開く者もなく、そして、リーシャとサラに至っては、顔を上げる事もなかった。

 <カザーブ>よりも、<ノアニール>よりも活気に溢れる街並み。人々の表情には笑顔が浮かび、笑い声と大きな呼び込みの声が聞こえて来る。

 そんな人々の営みという素敵な喧騒にもかかわらず、リーシャとサラの心は沈んで行った。

 

「……カミュ、ロマリア国王様も王女様も、<ノアニール>の事を知っていたのではないか?」

 

 門番からの嫌な視線を無視してロマリアの門を潜ったカミュ達一行は、平原を北東へと歩き出す。

 ロマリアで貰った地図を広げ先頭を歩くカミュに、リーシャは重苦しい口をようやく開いた。

 

「……そうだろうな……」

 

「な、ならば、何故?……何故、ロマリア国家は<ノアニール>を救おうとしなかったのですか?」

 

 地図から顔を上げる事もなく、カミュはリーシャの言葉を肯定した。そんな素っ気ない答えに、サラは勢いよく抗議を開始する。

 リーシャにしても、サラにしても、自分が疑問に思った事をカミュに抗議するという行為自体が、おかしな事だという事は解っていた。だが、彼女達の様に、謁見の間で発言を許されない者ならば、仕方のない事だと言えよう。

 

「……今のこの国の状態はアンタ方も見ている筈だ。ならば、国家は疲弊し、辺境の村からの搾取で、ようやく国としての体面を繕っている状態である事も解るだろう……」

 

「そ、それは解ります!……で、ですが、あれでは余りに酷い。<ノアニール>自体がロマリア国の村ではないかのようではありませんか!?」

 

 カミュの続けた言葉に、またしてもサラが真っ向から対抗する。リーシャは瞳を瞑り、メルエはサラの剣幕に怯えてカミュのマントに包まってしまった。

 

「……では、聞くが、あのロマリア王女が、<エルフの隠れ里>へ交渉に行くと思うのか?」

 

「そ、それは……」

 

 逆にカミュが問いかけた内容は、サラから強気の姿勢を奪う程の物だった。

 ロマリアの頭脳があの王女である事は、サラも気付いていた。国王や大臣があからさまな態度を取る中、あの王女だけは毅然とした態度でカミュと相対していたからだ。

 しかし、その王女も、やはり王族。国家の頂点にいる人間が、他者に頭を下げる訳がない事は、サラも充分に理解していた。

 

「行く訳がない。行くのは、アンタ達も見た高圧的な兵士だろう。それでは、行き着く先はエルフとの全面衝突だ」

 

「!!」

 

 カミュが言ったことは決して大袈裟な話ではない。

 むしろ現実に限りなく近い話であろう。

 そして、それが現実となれば、行きつく先は目に見えている。

 

「エルフの数が減ったとはいえ、元々『人』が刃向える存在ではない。長期的な戦争となるだろう。唯でさえ疲弊した国だ。下手をすれば、ロマリア国家自体の存続にかかわってくる」

 

 カミュの言う通り、エルフとの全面戦争を行えば、まず間違いなく、多くの『人』が死ぬだろう。その結果、更に国は疲弊し、多くの国民が苦しむ事となる。

 

「……一部だけを見れば、国王や王女が行った事は非人道的に映るかもしれないが、国家を預かる者として、一部の国民だけを護れば良いと言う訳ではない。<ノアニール>という村の人間を切り捨てでも、他の国民を優先した結果だ」

 

「……な、ならば……カミュ様は、ロマリア国王様の判断は正しかったと言うのですか?」

 

 カミュの言葉は、サラには国王を擁護するもののように聞こえていた。

 国民を護る為に国民を見捨てる。それが国家として正しいとはサラにはとても思えないのだ。

 故に、その考えを示すようなカミュの発言と真っ向から対立する姿勢を見せる。

 

「……さぁな。それこそ、俺に聞く事自体が間違っている。俺は国王でもなければ、国の重臣でもない」

 

「……そんな……」

 

 カミュの言葉は、サラを突き放すようなもの。

 サラの頭の中は真っ白になって行く。

 自分が信じていた国家像。アリアハンでは、『精霊ルビス』に選ばれた人間が王族として国家を成し、『人』を『精霊ルビス』の代わりに護り、導いて行くと教えられていた。

 その王族が護るべき『人』を見捨てているなど、サラは理解したくはなかった。

 

 だが、サラは頭の片隅にある想いに気付かない振りをしているだけなのだ。

 『精霊ルビス』に『人』の守護を託されたのは『エルフ』であるという話を。

 それは、サラの信じるルビス教の教えを根底から覆すもの。だからこそ、蓋をしていたのだ。

 しかし、まるで禁断の箱の様に、ゆっくりとその蓋は開いて行く。

 『人々』の守護者は王族ではなく『エルフ』だとすれば、<ノアニール>の人々を護るのは『エルフ』。

 その『エルフ』が原因だとすれば、<ノアニール>の呪いは、唯の罰。親が子供を叱りつけるような、唯の罰則なのではないかと。

 

 『ならば、『王族』とは、『僧侶』とは何なのか?』

 サラの頭はもはや許容範囲を超え、オーバーヒートを起こしていた。

 目の前に立つカミュの姿が歪んで行く。自分の信じていた理想は、偶像と共に歪み、崩れて行くのだ。

 

「……サラ……気をしっかり持て。あの時、私はサラに言ったはずだ。これが『人』の全てではない」

 

 気を失ってしまいそうになるほど、視界の歪みが酷くなった時、サラを引き戻す声がかかり、自分の肩に暖かな温もりが感じられた。肩に添えられた温もりを中心にサラの視界が戻って行く。

 それは、サラが憧れ、目指すべき者の一人である女性の声。

 いつでもサラが迷い、苦しんでいる時に手を差し伸べてくれる声。

 サラが進むべき道を指し示す事はせずとも、もう一度道を探す勇気をくれるリーシャの声だった。

 

「……はい……そうでした……」

 

 軽く首を振り、サラは意識を覚醒させて行く。リーシャの言う通り、自分もあの時、『自分が変わる事』を否定しないと宣言したのだ。こんな事で意識を失う訳には行かない。

 

「…………サラ………いたい…………?」

 

「えっ?……だ、大丈夫です。少し眩暈がしただけです。どこも痛くありませんよ」

 

 サラの身を案じる純粋な少女。

 その心配そうな瞳にサラの決意は更に堅くなって行く。

 

「……<アッサラーム>までは、かなり時間がかかる。何日かは野宿になるだろうな……」

 

 サラとリーシャのやり取りを無視するように、いや、意図的に流すようにカミュが地図に目を落とした。

 それが、カミュなりの優しさなのかもしれない。最近は、メルエだけではなく、リーシャやサラに対しても小さな気遣いを見せるカミュの変化を、リーシャは好ましく思っていた。

 

「まぁ、仕方ないだろうな! 今までが恵まれていた方だ。さぁ、サラ、メルエ。行こう」

 

「…………ん…………」

 

「はい!」

 

 意図的に声を張り上げるリーシャ。

 それに笑顔で応えるメルエ。

 そして、胸の内に新たなる決意を灯したサラが元気の良い声を返す。

 地図を持つカミュを先頭に、その裾をメルエが握る。

 そんなメルエに優しい視線を送るリーシャ。

 そして、その横をサラが歩き、彼等は新たなる土地を目指して行く。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

これにて第三章も終了です。
この後は、勇者一行の装備品一覧を更新し、第四章に入って行きます。
この第四章は、私の中でも結構好きな章なんです。
頑張って描いて行きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

アリアハンの英雄の息子として生まれながらにして『魔王討伐』という重責を負う

 

【年齢】:16歳

既にアリアハンから出て数か月の日数が経過している

 

【装備品】

頭):サークレット

 

胴):鉄の鎧・改

 

盾):うろこの盾

ロマリア大陸には存在しない魔物のうろこを使用して造られている為、国家の財宝として保管されていたものをロマリア国王から賜った物

 

武器):鋼鉄の剣

 

所持魔法):メラ

      ホイミ

      ルーラ

      ギラ

      アストロン

 

 

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

宮廷騎士として修業を重ねてきたので、大抵の武器防具の使用が可能

 

【年齢】:不明

 

【装備】

頭):なし

 

胴):鉄の鎧・改

 

盾):青銅の盾

<バリィドドッグ>に盾を破壊されたサラに自分の<青銅の盾>を渡した為、今リーシャが装備している盾は本来カミュが持っている筈の盾である

 

武器): 鋼鉄の剣

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。魔法に対しての憧れは強く、持って念じるだけで魔法を使用できる付加価値のある武器に興味を示すが、それによる失敗から二度と使わないと心に決めている

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:僧侶

日々、精神的に成長を続ける。人を教え導く者になることが目標であり、いつしか、その目指す者の一人が、常に隣に立つリーシャになっている事にまだ自覚はない。

 

【年齢】:17歳

 

【装備】

頭):僧侶帽

 

胴):みかわしの服

以前から来ている法衣と同じように青く染められた生地でできており、見かけは依然とあまり大差がない

 

盾):青銅の盾

<バリィドドッグ>との戦闘で破壊された為、リーシャが装備していた盾を譲り受けた

 

武器):鉄の槍

日々のリーシャとの特訓により、ようやく人並の腕前になっている。カミュ・リーシャといったアリアハンでも上位に入る使い手しか見ていないサラは自分の腕前が一般兵士より上になって来ている事に気が付いていない

 

所持魔法):ホイミ

      ニフラム

      ルカニ

      マヌーサ

      キアリー

      バギ

      ピオリム

 

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

魔法の才能は『人』としては、ずば抜けた物を持つ。主に感覚と才能のみで呪文行使をする為、魔法力の操作や応用などはまで出来てはいない

 

【年齢】:不詳(見た目は7,8歳)

奴隷として売られていた為、幼い頃に親から全く教育を施されていない可能性が高く、世間の常識や読み書き等、多くの事を知らない

 

【装備】

頭):とんがり帽子

カミュに買って貰ったメルエのお気に入り。帽子にはアンが作った花冠が掛けられており、それは不思議なことにかなりの時間が経っているにも拘わらず、未だに枯れる様子はない

 

胴):アンの服

<カザーブの村>にて、トルドから貰ったアンの着ていた服。実は<みかわしの服>と同じ生地で作られており、トルドの妻がアンの為に作った物である

  

盾):なし

 

武器):魔道師の杖

カミュがメルエの魔法暴発を防ぐために買い与えた物。当初、満面の喜びを示してはいたが、自分の思い通りに魔法が発動せず、今はメルエにとって憎むべき杖となりつつある

:毒針

 

所持魔法):メラ

      ヒャド

      スカラ

      スクルト

      ルーラ

      リレミト

      ギラ

      イオ  

      ベギラマ

 

 

 




これにて第三章終了です。

次話からは第四章となります。
カミュ達の旅もようやくこの辺りから動きを見せてきます。
頑張って描いて行きます。
宜しくお願い致します。


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第四章
イシス地方①


第四章の始まりです


 

 

 

 カミュ達一行は、ロマリアを東に向かって歩き始めた。

 陽は高く上り、既に正午は過ぎている。太陽が真上より西に傾きかけた頃、一行の前に大きな橋が見えて来た。

 それは、アリアハン城がある大陸とレーベの村がある大陸とを結ぶ橋と大差のない物であり、サラはその橋の壮大さに思わず見とれてしまう。

 

「はぁ~、大きな橋ですね……」

 

「そうだな。アリアハンにあるあの橋よりも大きな物だな……」

 

 バコタの叔父が基礎を築いたあの橋よりも大きい。それが、サラの感嘆の声に反応したリーシャの率直な感想であった。

 もしかすると、自分達が考えているよりも、アリアハンは技術的にも文化的にも他国から遅れているのかもしれない。

 <鉄>の様な特産品もなければ、鉄を鍛える技術もない。防具にしても、魔物の皮を伸ばし、形を作った物しかない。

 

「……もしかすると、アリアハンは他国から色々な意味で遅れているのか?」

 

 そんな疑問が思わずリーシャの口から零れてしまう。それは、祖国に対しての誇りは揺るがないまでも、その誇りである祖国が他国から文化的に遅れているという微かな哀しさが窺えるものだった。

 

「……確かに、文化や技術はかなり遅れているのかもしれない。だが、この橋に関しては、そうとは言えないだろうな」

 

「どういうことだ?」

 

 リーシャの考え通り、『文化の遅れ』を肯定したカミュに、リーシャは肩を落とすが、言葉の中に出てきた橋に関しての言葉に疑問を投げかける。そんなリーシャに少し溜息を吐きながらもカミュは言葉を続けた。

 

「アリアハンのあの橋は、海から近い。川となって海に流れ込む激流と海水とがぶつかる場所にある橋だ。この橋とは違い、川の流れは相当に激しい」

 

「……それは……」

 

「つまり、そのような川の状況の中で、あれほど大きな橋をかけた事自体が凄いのだと言う事ですか?」

 

 言い淀むリーシャの代わりに答えたのは、未だに橋の壮大さに目を奪われているサラであった。

 メルエも物珍しそうに橋を見上げている。独特のアーチを描く橋は、メルエの目には不思議な物に映っていたのだろう。

 

「……そう言う事だ。この地方の人間があの場所で橋の土台を作れと言われても、そうそう出来る物ではない。それだけ、あの橋の土台を築いた人間が、素晴らしい発想と技術を持っていたと言う事だろう」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュの言葉に、サラの頭にあの柔和な笑顔を浮かべる骨と皮だけになった老人の顔が思い浮かぶ。

 自分の甥とその嫁、そしてその子供をも惨たらしく殺害されて尚、世界を救う一助となる為に、カミュへ<盗賊のカギ>を手渡したあの老人だ。

 

「……だが、それも個人の話だ。アンタの言う通り、完全に他国との関係を断ち、技術や文化の交流を拒否したアリアハンの文化が遅れている事は事実であり、おそらくあの国は、これからも進歩は望めないだろうな」

 

「……」

 

 カミュの言う通り、鎖国前もアリアハンの武器と防具は今とほとんど変わりはない。つまり、文化や技術の向上はこの先もそれ程変化はないと言っても良いだろう。

 それよりも自分の祖国であるアリアハンを『あの国』呼ばわりするカミュの姿が、リーシャの頭に血を上らせていた。

 

「しかし、カミュ様が『魔王』を倒せば、再び他国との交流を持って、文化や技術も進歩するのではないでしょうか?」

 

「……アンタは、自分達を見捨てるように交流を断った者を許す事が出来るのか?……アリアハンは自国を護る為に他国との交流を断った。平和になったからと言って、そのような国を相手にする国があると思うのか?」

 

「……」

 

 世界中の危機の中、自己の為だけに他者を見捨てた者の末路などたかが知れている。最悪、世の中が魔物の脅威から解き放たれた時に、攻め滅ぼされる事もあるだろう。

 唯でさえ、戦闘に使う武器・防具を生産する能力も加工する技術もないのだ。ならば、他国からの侵略に抗う術など、皆無に等しい。

 

「……その為のお前だろう。カミュ、お前が『魔王討伐』に成功すれば、アリアハンの功績となる。それが世界交流への復帰を可能にする切り札だ」

 

「……えっ?」

 

 サラは驚く事となる。彼女の後ろからかかったリーシャの言葉は、今までのリーシャの物ではなかった。

 アリアハンという国に誇りを持ち、その行いは正当であるという認識を持っていた宮廷騎士。それが、サラが考えても納得出来ないような内容を口にしたのだ。

 

「お前の父オルテガ様は、世界でもその名を知られる英雄だ。その息子であるお前が世界を救ったとなれば、アリアハンは『魔王』を倒した国となれる」

 

 リーシャの顔に表情はなかった。

 唯淡々と事実を話しているだけ。

 

「……俺にそのつもりはない。俺はあんな国の為に旅をしている訳でもなければ、あんな男の代わりになるつもりもない……」

 

「くっ! アリアハンはお前の祖国であろう!?」

 

 リーシャと同じように表情を失くしたカミュが話す内容に、遂にリーシャの怒りが爆発した。

 

「……俺に愛国心や忠誠心を求めるアンタの頭の中身がよく解らないのだが……」

 

「……ほぉ……それは、暗に私が馬鹿だと言いたいのか?……私に『かしこさ』が少しもないとでも言いたい訳か?」

 

「……リーシャさん?」

 

 怒りが爆発し、剣を抜きかけたリーシャの話の内容が、急遽大幅に逸れる。そんなリーシャの言動にサラが溢した声は、どこか呆れを含ませている声だった。

 

「…………リーシャ………たべる…………?」

 

 そんなリーシャとカミュのやり取りを傍で聞いていたメルエが、おもむろに肩から提げたポシェットに手を入れて取り出した物は、<カザーブ>で盛り上がった話題の物だった。

 

「メルエ~~~~~~!」

 

「!!」

 

 地の底から響くような声。

 その声にびくりと身体を跳ねさせたメルエは、急いでカミュのマントへと包まって行く。

 あれ程、緊迫していた一行の空気はどこか和やかな物に変わって行った。

 

「……もう良いか? 先に進むぞ」

 

「カミュ! これだけは言っておく。お前がどれ程否定しようと、世界中の人間は、お前をアリアハンが送り出した『勇者』と見る。そして、オルテガ様の息子と言う事実も変えようのない事実だ」

 

 身を翻し、歩き始めようとしたカミュに、後ろからリーシャの声がかかった。

 それは、先程までような怒気を含ませた声ではない。どこか諭すような、そんな声量だった。

 

「……アンタに言われるまでもない。今まで生きて来た中で、それは嫌と言うほど知っている」

 

「……カミュ様……」

 

 サラには何故カミュがここまで、父親であり、世界的な英雄であるオルテガを拒絶するのかが理解できない。

 自分の両親は、<レーベの村>に住む商人だった。そんな普通の両親であっても、サラは両親を誇りに思っているし、敬愛もしている。

 故に、カミュの発言とカミュの心情がサラには推し量る事が出来なかったのだ。

 

 

 

 一行は、会話もなくなり、橋を渡って行った。

 橋の上から振り返ると、遠くにそびえ立つロマリアの城。

 前を向くと、遠くに広がる平原と森。

 それは広大な光景だった。

 

「…………ひろい…………」

 

「そうだな。世界はとても広い。この先は、メルエも私も見た事のない世界が広がっているんだ」

 

 リーシャから手を離したメルエが橋の手すりに掴まり、そこから見える見果てぬ大地を眺めている。そのメルエが呟いた言葉に反応し、メルエの後ろから同じ光景を眺めていたリーシャが発した言葉は、サラの心に残って行った。

 

 

 

「……カミュ……あれは私の幻覚なのか?」

 

 橋を渡り終えた先に広がる平原に足を下ろした一行の前に奇妙な光景があった。その光景を見たリーシャが、前を歩くカミュへと声をかけるが、それはどこか呆然としたもの。

 

「……何がだ?」

 

「…………ねこ…………」

 

「あれっ? メルエは、猫は知っているのですね?」

 

 振り返ったカミュはそっけなく答える。リーシャの傍からカミュの傍へ移動していたメルエが呟きを溢し、その呟きにサラが思わず反応してしまった。

 しかし、どこか間の抜けたやり取りは、リーシャには信じられない物に映る。

 

「お、お前達は、何故そんなにのんびりとしていられるんだ!? 猫だぞ! 猫が空を飛ぶのか!?」

 

 どこか和やかな空気を纏う三人に苛立ちを隠せないリーシャは、混乱を表に出しながら声を荒げた。

 そんなリーシャをメルエは小首を傾げて見上げ、カミュは呆れたように溜息を吐く。

 

「……アンタは毎回毎回魔物が出て来る度に取り乱すつもりか? 水辺でなくても<かに>の魔物は生息するし、<きのこ>に酷似した魔物も存在する。猫のような、空飛ぶ魔物がいても何も不思議ではないだろう」

 

「…………リーシャ………変…………?」

 

 カミュは溜息を吐きながら、ここまでのリーシャの行動をなぞって行く。更にはメルエの追い打ち。そして、後ろでは半笑いのサラ。リーシャは逃げ道を失って行った。

 

「だ、だから、変なのは空飛ぶ猫だろ!? メルエは猫が空飛ぶところを見た事があるのか!?」

 

「…………ん…………」

 

 そんな追い詰められたリーシャの言葉に、メルエは目の前に手を上げ、今見ている空飛ぶ猫を指差してリーシャを見上げた。

 

「そ、それは、今初めて見たと言う事だろう!? くそっ、この中で常識的な考えを持つのは私だけなのか!?」

 

「……それは、心外だな……俺達から見れば、アンタこそ一番常識からかけ離れている言動をしていると思うが……」

 

「カ、カミュ様。とりあえずは目の前の魔物に集中しましょう。確かに、あれは初めて見る魔物に違いはありません。リーシャさんも、相手は魔物なのですから、どんな魔物が出て来ても不思議ではありませんよ」

 

 リーシャの混乱した言動に、少しむっとしたように眉を顰めたカミュであったが、後ろからかかったサラの提案に一つ頷き、背中から剣を抜き、構えを取った。

 リーシャも諦めたのか、腰の剣を抜き、目の前で前足をバタつかせながら飛ぶ猫に向かって構えを取った。

 

<キャットフライ>

リーシャの言う通り、顔や身体は猫そのもの。しかし、猫と違うところは、その前足に大きな水掻きのような翼が生えていること。その前足を動かすことによって空を飛んでいるのだ。まさしく猫とコウモリの身体を交配させたような魔物であり、生息地はロマリアの東に位置する地方でよく見受けられる。

 

「カミュ! そっちの二匹は任せた!」

 

 先程まで混乱していたリーシャが剣を立て<キャットフライ>目掛けて駆けて行く。

 出て来た<キャットフライ>は全部で四匹。

 魔物にもその生息地の住み分けがある。何故かは解明されていないが、大体同程度の強さを持つ魔物達が地方地方に固まって生息しているのだ。

 それは、種族を護って行く為に出来上がった魔物の中での暗黙の了解なのかもしれない。

 地方を移動した魔物達は、強力な魔物に縄張り争いで敗れる事となるが、稀にその中で生き残った魔物は、その地方の風土や、そこに住む魔物達に適応する為に進化して行く事になる。

 

「メルエ、魔法の準備を」

 

「…………」

 

 前へ出て行ったリーシャとカミュの後方で、サラがメルエに呪文詠唱の準備に入るように指示を出すが、メルエは自信なさげに眉を顰めたまま項垂れていた。

 メルエはロマリアを出た後も休憩の度に魔法の練習を行っていたが、一度も杖の先から魔法が発動する事はなかった。

 メルエは今、自分の魔法に対する自信が皆無に等しい。カミュがメルエの為にと買い与えた杖は、奇しくもメルエの自信を根こそぎ奪ってしまう物と化していたのだ。

 

「大丈夫です、メルエ。今度はきっと出来ます。メルエは私よりもずっとずっと魔法の才能があるのですから、メルエに出来ない訳がありません。落ち着いて」

 

 そんなメルエの表情に気が付いたサラが、メルエの前にしゃがみ込み語りかける。いつも自分に勇気をくれるリーシャの様に、いつも自分に優しさと安らぎをくれるメルエに対して。

 

「…………ん…………」

 

 それでも尚、自信なさ気に頷いたメルエは力なく右手に持つ杖を掲げ、<キャットフライ>に照準を合わせる。

 その時であった。

 

「フニャ――――――――――――――!!」

 

 突如、<キャットフライ>の内の一匹が、メルエとサラの方向に顔を向けて、何か奇妙な鳴き声を上げた。

 それは、距離があるにも拘わらず、サラとメルエの頭の中へ入り込んで来るように響く。

 

「…………ギラ…………」

 

 <キャットフライ>の鳴き声に驚いたサラを余所に、メルエが杖を掲げたまま詠唱に入った。

 何度となく自身の指から発したはずの魔法を唱えたメルエであったが、杖は何の反応も示さない。

 杖の先を憎々しげに睨み、再度メルエは呪文を詠唱するが、それでも杖は沈黙を守り続けた。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「メ、メルエ……」

 

 何度も何度も呪文の詠唱をする訳でもなく、右手に持った杖を振ったメルエは、そのまま以前と同じように杖を投げ捨てた。

 

「メルエ、駄目です!」

 

「…………ギラ…………」

 

 杖を投げ捨てたメルエが、怒りにまかせて右手を掲げ、詠唱を始める。それを察したサラが、メルエを止める為に叫ぶが、もはやメルエの感情を押し止める事は出来なかった。

 

「…………???…………」

 

「えっ?」

 

 予想とはかけ離れた結果に、サラは奇妙な声を上げる。メルエも自分の右腕を不思議そうに眺めていた。

 メルエの魔法が発動しないのは、杖を媒体とした時だけだった筈。しかし、今は、杖を投げ捨てて自らの腕を掲げ詠唱したにも拘わらず、メルエの腕に何の変化も見られない。

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

「メ、メルエ……はっ! も、もしかして……」

 

 自分が完全に魔法が使えなくなってしまったことに、遂にメルエは泣き出してしまう。

 自分が自分である証。

 それがメルエにとっては魔法だったのだ。

 それが使えない。

 自分は用済みとなる。

 そんな考えに陥っているメルエにどう言葉をかけて良いものかを悩むサラであったが、何かに思い当ったのか、顔を上げ、メルエの肩に手を置いた。

 

「大丈夫、大丈夫です、メルエ。今、あの魔物が使った魔法によって、メルエも、おそらく私も、魔法が使えなくなっているだけです。あの魔物を倒せば、また魔法が使えるようになりますから!」

 

「…………ぐずっ………サラ………うぅぅ………ホント…………?」

 

 肩に手を置いたサラの言葉にメルエはようやく顔を上げる。

 サラの話す内容を、涙で滲む視界を拭いながら聞いていたメルエが、サラに確認を取ると、優しく力強い笑顔が返って来た。

 

「本当です。私はメルエに嘘は言った事はありませんよ。大丈夫、メルエはここで待っていて下さい。私もカミュ様達とあの魔物を倒して来ますから」

 

「…………ん…………ぐずっ…………」

 

 そんなサラの笑顔に鼻をすすりながらもしっかりと頷くメルエ。そのメルエを見たサラは、もう一度メルエに笑顔を向けた後、背中の槍を構え、<キャットフライ>と対峙しているカミュとリーシャの下へと駆けて行った。

 サラの背中を滲む視界で見送った後、メルエは投げ捨てた<魔道師の杖>をとぼとぼと取りに行く。

 今、別の魔物が出て来ない限り、もはやメルエの身に危険もなければ、出番もない。杖を拾ったメルエは、その場に座り込むように、カミュ達の闘いを眺めるしか出来なかった。

 

 

 

 サラがカミュ達の下へ辿り着いた時には、すでに二匹の<キャットフライ>が地面に落ちて絶命していた。

 残る魔物は二匹。

 

「サラ! メルエはどうした!?」

 

「後ろで控えてもらっています! おそらく、私もメルエもこの魔物が唱えた<マホトーン>によって魔法を封じられました。今、メルエは魔法が使えません」

 

 サラの発した聞き慣れない言葉にリーシャは驚くが、槍を構えたサラの魔物を見据える視線に、自身も戦闘に集中する事にした。

 如何に新たな地方の魔物とはいえ、カミュ達が三人揃っている状態。しかも、二対四という数的有利も崩れた中、<キャットフライ>はもはや死への秒読みが始まっていた。

 

 サラが突き出す槍をひらりと避けた<キャットフライ>にリーシャの剣が一閃する。それも避けようと身を捩った<キャットフライ>であったが、避けきれずに翼に小さな傷を作られた。

 飛ぶ魔物にとって、翼は生命線である。翼を傷つけられた<キャットフライ>は上手くバランスを取る事が出来ず、ふらふらと飛び上がろうとするが、再び突き出されたサラの槍を避ける事は出来なかった。

 

「ギニャ――――――――――――――!!」

 

 猫の様な、いや、まさしく猫の叫び声をあげ、サラの槍を胸に受け入れた<キャットフライ>は絶命し、地面へと落ちて行く。

 一匹を倒したサラとリーシャが振り向くと、カミュもまた、最後の一匹となった<キャットフライ>の首を刎ねた所だった。

 

「サラも大分腕を上げたな。これなら安心だ」

 

 剣を鞘に納めながらリーシャがサラの所へ近づいて来る。

 サラの成長を心から喜んでいるのだろう。リーシャの顔に浮かんだ笑顔が、それを象徴していた。

 

「それで……メルエがどうしたんだ?」

 

「あ、は、はい。メルエの所に戻りましょう」

 

 その笑顔をすぐに引っ込め、リーシャは先程サラが言った事を確かめるように声を出した。

 その言葉にメルエの事を確認するように振り向いたサラは、遥か後方で平原に座り込んでいるメルエを視界に収め、ほっと安堵の溜息を吐いた。

 魔物の体液を振り払ったカミュは、移動を開始したリーシャ達の後ろを付いてメルエの下へと戻って行く。

 全員が自分の所へ歩いて来ている事に気が付いているにも拘わらず、メルエは座り込んだまま、歩いてくる面々の顔を眺めていた。

 それが、メルエの受けた哀しみの度合いを示しているようであった。

 

「メルエ、大丈夫でしたか?」

 

「…………」

 

 サラの問いかけにも、メルエは何一つ答えない。

 その双眸からは、未だに哀しみの涙が流れていた。

 

「……何があった?」

 

 リーシャとサラの会話が聞こえなかったカミュは、現状を把握する事は出来ていなかった。

 何一つ話さず、ただ涙を流して座り込むメルエを見たカミュは、困惑する事しか出来ない。

 

「あの魔物が、サラやメルエに何か魔法をかけたらしい」

 

「……マホトーンです……」

 

 先程、リーシャに対して、確かに魔法の名を伝えた筈なのに、それを口にしないリーシャの言葉をサラが言い直す。その魔法の名を聞いたカミュが、今の現状に納得したかのように表情を変えた。

 

「……マホトーンか……」

 

「それで、メルエは落ち込んでしまって……」

 

 未だに座り込み、地面を眺めるメルエをリーシャが優しく抱き締める。リーシャには、何となくメルエの苦しみが理解できたのだ。

 役に立ちたいと願っているのに、役に立てる物がない。そんな自分の無力さを歯がゆく思ってしまっているのであろう。

 メルエの中に『ただ魔法だけが存在意義』という考えがあったとしても、闘いの中で自分でも皆の役に立つ武器を失った衝撃は、リーシャの考えている事が根底にあったのだ。

 

「……大丈夫だ。もう魔法は使えるようになっている筈だ。今回は、メルエが杖から魔法が出せない事とは別。試しに、杖を媒体にしなくても良いから<メラ>を唱えてみろ」

 

「…………」

 

 溜息交じりのカミュの言葉にも、メルエは何も言わずに首を横に振るだけだった。それが、サラにも不思議だった。

 サラは、メルエが全く魔法を使えなくなってしまったと勘違いし、落ち込んでいるのだとばかり思っていた。

 

<マホトーン>

教会が保持する『経典』の中にある魔法の一つ。唱えた術者の魔法力によって、対象の魔法力の流れを狂わせ、呪文の詠唱を不可能にする魔法。それは、術者の魔法力の効果範囲を抜けるか、術者の死によってしか解除する事は出来ない。術者が自ら解く場合はそれには当てはまらない。また、術者の魔法力によって、相手の魔法力を抑える為、極端に力量の差がある者に対してはその効力は薄く、全く効果がない訳ではないが、余程運が良くなければその効力を発揮する事はない。

 

「……私達はメルエが魔法を使えなかったとしても変わらないぞ。魔法が使えようと使えなかろうと、メルエはメルエだ」

 

「…………リーシャ…………」

 

「ほら、おいで」

 

 だがメルエは、サラが思っていたような簡単な事で落ち込んでいる訳ではなかったのだ。

 おそらく最初はそうであったのであろう。しかし、魔法が使えない事により、魔物と戦う三人の姿を後方からただ眺めるだけとなった時、そして座りこんでいるだけで何も出来ない自分を感じた時に、メルエの小さな胸を違う感情が締め付けていたのだ。

 

 『孤独』

 

 そのような感情には、慣れていた筈だ。

 物心ついた頃から、誰からも愛された記憶はなく、そして誰にも必要とはされては来なかった。 

 口を開けば『うるさい』と殴られ、黙っていれば『気味が悪い』『うっとうしい』と殴られる。

 挙句の果てには『奴隷』として売られた。

 メルエのこの数年間の人生は、常に孤独であった。それが、馬車の幌の中で一人の青年に出会った事によって、彼女の人生が急変する。

 優しさを知り、愛を知り、そして仲間ができ、友まで出来た。

 そんなメルエにとって、『孤独』と言う物は、既に当然の物ではなく、恐れさえ抱く物となっていたのだ。

 手を広げ柔らかく微笑むリーシャの顔が更に歪んで行く。

 先程に比べ、更に大粒に変わったメルエの涙は地面へと吸い込まれた。

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

「さぁほら、おいで、メルエ」

 

 いつもと違い、なかなか自分の胸に飛び込んで来ようとしないメルエに、リーシャは微笑みながら再度促す。

 もはやメルエの瞳にリーシャの姿は映らない。目を瞑ったまま、立ち上がったメルエは、リーシャの胸へと飛び込んで行った。

 

「大丈夫。大丈夫だ、メルエ。メルエは何があろうと私達と一緒だ。いつでも私が傍にいる。それはメルエと私の約束だ」

 

「…………ぐずっ………うぅぅ…………」

 

 リーシャは、メルエの表情を見た時、メルエの胸の中にある『孤独』という感情を読み取っていた。

 何故なら、それはリーシャもまた幼い頃に経験した感情だからだ。

 

 自己の能力に無力さを感じ、そして孤独に陥る。

 それは、リーシャがアリアハンで父親に剣を習っていた頃の事。

 そして、早く父に追いつこうと無我夢中で剣を振るっていた頃の事。

 彼女は父親に剣を教わり、同じ年代の子供の中ではずば抜けた才を発揮していたそれは、男女を問わない程の才能。彼女に勝てる子供がいないどころか、まともに剣を合わせる事が出来る子供すらいなかった。

 子供は時として残酷であり、自分達より特出する存在は排除しようとする。

 当然幼いリーシャはその対象となった。

 誰に話しかけても何も返って来ない。

 そんな孤独な日々。

 しかし、リーシャには剣があった。 父クロノスの下、鍛練を重ね、大人顔負けの実力を保持するようになって行くのだ。

 

「…………リーシャ…………ぐずっ…………」

 

「ん? もう、落ち着いたか?」

 

 父が死んだ時、リーシャは己の無力さに苛まれた。

 『何故、自分には父について行くだけの力量がなかったのか?』と。 

 リーシャがついて行った所で、何が変わる訳ではなかったかもしれない。それでも、リーシャの頭にはそれが後悔となって行った。

 父が己の命を賭して護った者達も、リーシャの家であるランドルフ家に対し、感謝をするどころか、今まで以上の冷遇をするようになる。元々下級貴族の出であったランドルフ家が宮廷騎士隊長になる事を快く思っていなかった人間達だ。

 命を救われようが、『アイツが勝手にやった事』と括ったのだろう。自分一人ではなく、その場にいた大勢がそう思ったのだから、自分がそう思っても当然。

 『人』は数が多くなると、自己の中の良識が狂う事もある。

 大人がそうなのだ。子供達は、大人の背を見て育つ。当然リーシャへの対応も尚一層冷たい物へと変わって行った。

 父も死に、友もいない。爵位も剥奪され、住む家もなくなった。

 リーシャが抱えた感情は『孤独』。 

 唯一人、昔からランドルフ家に仕える老婆だけがリーシャの心の支えであった。

 メルエにはそんな老婆すらいなかった。故に、リーシャには、メルエの感情が朧気ながらにも把握する事が出来たのだ。

 

「杖は自分で拾ったんだな。偉いぞ、メルエ。ゆっくり行こう。メルエが魔法を使えるその日まで、私がメルエを護ってやる。だが、メルエが魔法を再び使えるようになった時は、メルエが私を護ってくれ」

 

「…………ん…………メルエ………護る…………」

 

「ありがとう」

 

 ゆっくり自分の胸からメルエを引き剥がしたリーシャが目を見て語る内容に、メルエは真剣に頷き、宣言する。

 『この姉であり、母である女性を護る』と。

 

「……陽が傾いて来たな……今日はこれ以上は進まず、この辺りで野営地を探す」

 

「そ、そうですね。まだこの先<アッサラーム>までの距離が解らない以上、無理をする必要はありませんね」

 

 リーシャとメルエの姿を、カミュは茶番だとは思わなかった。彼もまた『孤独』を知っている人間だったからだ。

 サラも同じである。それぞれの『孤独』の度合は違えど、このパーティーは『孤独』の怖さを全員が体験していたのである。

 

 

 

「メルエ、サラと一緒に薪探しをしてくれ。私とカミュは食料を取ってくる」

 

「…………ぐずっ…………ん…………」

 

 平原から少し森の中に入った場所でちょうど良い場所を見つけ、<聖水>を撒いているカミュを横目に、リーシャは先程から自分の手をしっかりと握るメルエへと声をかける。一瞬、寂しそうな表情を見せたメルエであったが、鼻をすすりながらもしっかりと頷いた。

 リーシャの手を離したメルエの反対の手を、今度はサラが握り直す。

 

「さぁ、メルエ、行きましょう」

 

「…………ん…………」

 

 サラに手を引かれ、メルエは森の中へ入って行く。 

 サラとメルエだけであれば、先程遭遇した<キャットフライ>が行使した<マホトーン>のような魔法を浴び、窮地に陥るかもしれないと考えたリーシャがカミュへ同道を提案したが、カミュは『あの僧侶に<鉄の槍>を持たせるならば、問題ない』と相手にしなかった。

 カミュから見ても、サラの力量の向上を認めているのだ。そのカミュの想いを理解したリーシャは、心配は拭えないながらも了承せざるを得なくなる。

 

 

 

 それぞれがそれぞれに分担された仕事をこなし、野営地へと戻って来た。

 カミュはその手に豊富な果物と川魚を、リーシャはうさぎを数羽その手に持っている。サラとメルエは両手に抱えるように木の枝を持って帰って来ていた。

 その様子では、魔物に出会う事はなかったようだ。

 しかし、カミュもリーシャも気がつかなかった。

 メルエの表情が浮かないものであることに。

 

 カミュが火を熾し、リーシャが調理を始める。カミュが取って来た果物にメルエが手を伸ばし、それをサラが窘める。先程楽しく二人で薪集めをしていたにも拘わらず、メルエはサラに対してふくれっ面を見せた。

 その表情がおかしく、そして可愛く、サラは思わず吹き出してしまう。しかし、メルエが若干の不満顔を見せたのも一瞬だった。すぐに眉を下げ、そして俯いてしまう。

 そんなメルエの様子に、笑顔を作っていたサラも表情を曇らせ、ほんの数刻前に遭遇した出来事を思い出す事となった。

 

 

 

 薪を拾いに出たサラとメルエは、順調に枯れ木を集めていた。

 この森に人が立ち入る事はあまりないのかもしれない。枯れ木は至る所に落ちており、二人の腕にはすぐに抱えきれない程の薪となる枝が集まった。

 陽も陰り始め、森を満たす闇が濃くなって来た事から、サラは薪集めを終了し、カミュ達の待つ場所へ戻る為、メルエへと視線を向ける。

 メルエも薪集めに集中していた証拠に、抱えきれない程の枯れ木が、メルエの両腕を満たしていた。

 それでも、昼間の戦闘での事が尾を引いているのか、より多くの枯れ木を拾おうとして手を伸ばすが、地面に落ちている枯れ木を拾い上げる前に抱えている物が落ちてしまう。

 落ちては拾い、拾っては落ちるという、何とも滑稽な仕草を繰り返すメルエに、サラの表情が和らぐ。若干の苛立ちを浮かべるメルエの表情が、更にサラの表情を緩めて行った。

 故に気づくのが遅れてしまう。メルエの後方に立つ木の上から目を光らせている魔物の姿に。

 

「ニャ――――――――――!」

 

 木々を集める事に集中しているメルエに飛びかかるように降りて来た魔物。それは、昼間に遭遇した<キャットフライ>だった。

 

「!!」

 

「メルエ!!」

 

 飛びかかってくる<キャットフライ>。

 メルエの名を叫ぶサラ。

 咄嗟の事に反応が遅れたメルエであったが、<キャットフライ>の後ろ脚はメルエが抱える枯れ木を吹き飛ばしただけであった。

 弾き飛ばされた枯れ木を放り出し、メルエが倒れ込む。

 <キャットフライ>の攻撃を避けたのは、メルエが身につける<みかわしの服>の効力なのか、それともその服の所有者であった『アン』の加護なのかは解らない。しかし、幸運にもメルエの身体に傷は出来なかった。

 安堵の溜息を洩らしたサラは、素早く背中から<鉄の槍>を抜き、構えを取る。メルエもまた倒れ込みながらも、リーシャに結んでもらった紐を解き、背中に背負っていた<魔道師の杖>を構えた。

 

「…………ギラ…………」

 

 構えて早々にメルエが呪文の詠唱を行った。

 しかし、例の如く、メルエの持つ<魔道師の杖>は何の反応も示さない。

 

「…………ヒャド…………」

 

 苛立ちを含ませた声で、メルエが再度違う呪文を詠唱した。

 それでも<魔道師の杖>は、先程と同じように何の反応も示さない。

 

「フニャ―――――――――!」

 

 メルエが苛立ち、杖を地面に投げ捨てた時、昼間の戦闘で聞いた猫の威嚇のような叫び声が森の中で木霊した。

 杖を放り投げたメルエが、自身の右手人差し指を<キャットフライ>に向けて、呪文の詠唱を行う。それすらも、昼間と同じように何の効果も生み出す事はなかった。

 

「…………うぅぅ………うっうっ………ぐずっ…………」

 

 昼間同じように、自分の得意とする魔法が発動しない事で、メルエは泣き出してしまう。

 メルエにしてみれば、サラやカミュが言うには、昼間の魔物を倒せば使えるようになると言われていたのにも拘わらず、全く行使出来ない事に絶望を感じたのだ。

 自分が、永遠に魔法を使う事が出来なくなったと思っても仕方がないのかもしれない。

 

「メルエ、大丈夫です! また<マホトーン>に罹っただけです。メルエは私の後ろに下がっていて下さい」

 

 泣き出してしまったメルエと<キャットフライ>の間に素早く身を投じて来たサラが、手にする槍の切っ先を<キャットフライ>へと向けながらメルエに指示を出す。

 涙を拭いながら杖を拾ったメルエが、サラの後ろに移動した。

 

「大丈夫。大丈夫です、メルエ。私が絶対にメルエを護って見せますから」

 

「…………サラ…………」

 

 上空で翼をバタつかせて威嚇を繰り返す<キャットフライ>は一匹。周囲を見渡しても、この魔物しか見当たらない。

 仲間を呼ぶ気配もない事から、サラは自分が倒す事に決意を固めたのだ。

 

「やぁ!」

 

「シャ――――――!」

 

 サラが突き出す槍を<キャットフライ>は軽やかに避ける。その避け方を見れば、若干の余裕が窺われた。

 しかし、サラも伊達にリーシャの訓練に耐えて来た訳ではない。これで終わる訳はないのだ。

 

「ふん!」

 

 突き出した槍を切り返し、<キャットフライ>を叩き落とすかのように、槍を振り下ろす。その速度は、もはや通常の兵士が繰り出す物を大きく越えていた。

 

「シャ――――――!」

 

 先程とは違い、余裕などない避け方でそれを辛うじて避けた<キャットフライ>は、そのまま槍を持つサラの右腕に牙を剥いた。

 

「きゃ!」

 

「!!」

 

 <キャットフライ>の牙によって抉られたサラの右手から鮮血が飛び、後ろで見ていたメルエが息を飲む。サラの血液が付いた牙を、一つ舌舐めずりした<キャットフライ>は、一瞬嘲笑うような笑みを浮かべ、次の攻撃の為に上空に舞い上がった。

 次で決めるつもりなのだろう。空を飛ぶ魔物はその攻撃方法が似通っている部分がある。上空から一気に下降し、そのスピードにより、相手を息の根を止める攻撃を好んで使う事があるのだ。

 

「大丈夫。大丈夫です、メルエ。そんなに心配しないで下さい。そして、泣いても駄目ですよ。私なら大丈夫ですから」

 

「…………サラ…………」

 

 自分の後ろですすり泣くような嗚咽を漏らすメルエに、サラはゆっくりとした優しい声をかける。

 サラにも解っていたのだ。今、メルエが流しているその涙は、自身が魔法を使えない事によって招いたサラの危機に対しての物なのだという事が。

 

「ギニャ――――――――――!」

 

 メルエがサラの名を溢したその時、上空に舞い上がった<キャットフライ>がサラ目掛けて急降下を始めた。

 もはや、<キャットフライ>の目にはサラしか映っていない。その後ろにいる少女は<マホトーン>によって、魔法を封じ込められているのは先程証明されていた。

 しかし、<キャットフライ>は知らなかったのだ。

 今自分が敵対しているもう一人の少女が、能力の優秀な者達の集まったパーティーの中でも、ずば抜けた『かしこさ』を誇る『僧侶』である事を。

 

「バギ」

 

 先程<キャットフライ>に抉られた筈のサラの右腕からは、もはや血が流れ落ちてはいなかった。

 傷の深さから未だに痛々しい傷跡は残っていたが、傷口は塞がり止血はされている。

 サラは、<キャットフライ>が上空に舞い上がり、メルエに話しかけているその間に、自身の腕に<ホイミ>をかけていたのだ。

 時間もなかった事から、傷口を塞ぐだけの簡単な詠唱ではあったが、そこでサラは自身に<マホトーン>の効力が及んでいない事を確認する。そして、真っ直ぐに自分に向かってくる<キャットフライ>へその右腕を掲げ、詠唱を行ったのだ。

 

「ギャシャ―――――――――――!」

 

 サラの掲げられた右腕を中心に、空気が暴れ始める。真っ直ぐと降りて来た<キャットフライ>は、その風の暴走をカウンター気味に受ける事となった。

 真空と化したその風の刃は、<キャットフライ>の身体を切り刻み、生命線であるその翼にも無数の傷を付けて行く。

 

「やぁ!!」

 

 翼を切り刻まれ、辛うじて生きてはいても、虫の息といった状態で翼をバタつかせる<キャットフライ>に、サラの槍が突き刺さる。断末魔の叫びを上げる余裕もなく、サラの槍によって胸を貫通された<キャットフライ>の目から光が失われた。

 

「…………サラ!!…………」

 

「わっ!?」

 

 <鉄の槍>を引き抜いたサラの背中に、珍しく声を荒げたメルエが抱きついて来る。バランスを崩し、倒れ込みそうになるのを必死でこらえ、サラはメルエの方向に態勢を変えた。

 

「メルエ、大丈夫でしたか?」

 

「…………サラ………痛い…………?」

 

 メルエの安否を窺うサラの言葉を無視し、メルエはサラの右腕を取り、何度も傷跡を確かめていた。

 そのメルエの必死な様子に、サラの頬は自然と綻び始める。自身を守ってくれた者へ心配を隠そうともしないメルエがとても愛おしく映ったのだ。 

 

「ふふっ、大丈夫ですよ。……ホイミ……ねっ? もう傷跡も消えました」

 

「…………ん…………」

 

 メルエに微笑みながら、再度自分の右腕にホイミをかけ、サラは傷跡を消して行く。その様子を見ていたメルエの頬には、まだ涙の跡がくっきりと残って入るが、笑顔で頷いた。

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

「えっ?」

 

 笑顔で頷いた筈のメルエの表情は、顔を上げた時にはもう雲っていた。そして、そのまま小さな声で謝罪の言葉を漏らす。

 一瞬メルエが何を言っているのか理解出来なかったサラであったが、<魔道師の杖>を握るメルエの右腕に力が籠っている事に気が付き、その理由を理解した。

 

「……メルエ、焦る必要はありませんよ。私もメルエの魔法の才能を疑った事はありません。メルエは凄いのですよ。それこそ私などよりも」

 

「…………魔法………でない…………」

 

 サラの言葉にも、メルエは俯いたままだ。サラは少し考える素振りをした後、戦闘で投げ捨てた枯れ木を再び拾いながらメルエへと語りかける。

 

「そうですね。きっと、私やリーシャさんがメルエにいくら『大丈夫』と言っても、メルエは納得しませんよね。私もそうでしたから……」

 

「…………サラ………も…………?」

 

 不思議そうに小首を傾げたメルエに、サラは拾った枯れ木を渡し、今度は落ち葉を拾い始めた。

 杖を背中に結び直し、サラから枯れ木を受け取ったメルエは、落ち葉を掻き集めるサラを暫く呆然と眺める。

 

「はい。私も自分に自信がありませんでした。う~ん、自信がないのは今も同じですかね。でも、信じるようにしました。私には神父様やリーシャさんが信じてくれるような能力がきっとあるのだと」

 

 搔き集めた落ち葉を、サラは先程倒した<キャットフライ>の上へとかけて行く。それは、死体を見たくない為なのか、それともサラなりの供養なのだろうか。

 サラは、メルエに『自分が変わった』と言っている。それは、何も魔法に関する事ばかりではない。

 『僧侶』としての資質。それは、他者に言われても納得などする事は出来なかった。

 剣の腕なら、リーシャは勿論、カミュの足元にも及ばない。魔法にしても、カミュが<ホイミ>を使える以上、『僧侶』としてパーティーに同道する意味がない。

 それでも、リーシャはサラが旅に必要だと言ってくれる。カミュにしても、最近は衝突こそあれ、『アリアハンに帰れ』とは言わなくなった。

 それは、極端ではあるが、同道を認めてくれた事になるのではとサラは思っていた。

 

「私もまだまだ未熟者です。あぁ、全然駄目という事です」

 

「…………サラ………だめ…………?」

 

 メルエの為にもう一度言い直したサラの言葉に、メルエが反応する。落ち葉を魔物の死体にかけ終わったサラは、今度は自分が持つ枯れ木を拾い集め出した。

 

「ふふふ。ええ、駄目ですね。だから、メルエと同じようにたくさん練習しますし、鍛練もします。私が自分に自信を持てるように。そして、私を信じてくれた人達に胸を張れるように」

 

「…………メルエ………も…………?」

 

 確かにサラは変わったのだろう。アリアハンを出た当初であれば、このような事を口にする事はなかった。

 彼女の目的はただ一つ。魔物への『復讐』だけだったからだ。

 『僧侶』として、人を導く姿に憧れを持ってはいただろうが、それを目標にする事はなかっただろう。まして、自分が倒した魔物の死後の姿を落ち葉で隠すという、情けをかけるような行為は間違いなくなかった。

 

「そうですね。メルエは凄いという事は私もリーシャさんも、そしてカミュ様が一番知っています。でも、それは、メルエが自分に自信を持てるぐらい練習を重ねて行った結果だと思います」

 

「…………練習………いや…………」

 

 サラの言葉にメルエの子供らしい答えが返って来る。

 それがサラには可笑しく、思わず軽口が出てしまった。

 

「ふふふ。私も嫌ですよ。リーシャさんは私を『鬼』と言っていましたが、鍛練の時のリーシャさんは『悪魔』ですよ。それこそ『魔王』の様です」

 

 しかし、その軽口は、とてつもない威力を誇っていた。自身で口に出してから気付いたのだろう。不思議そうに見つめるメルエの瞳を見て、サラは慌ててメルエへと弁解を始めた。

 

「あっ!? 今言った事はリーシャさんに言っては駄目ですよ。私とメルエの秘密にしていてくださいね」

 

「…………」

 

 自分の言った軽口の重大さに気が付いたサラは、メルエに口止めをしようとするが、返って来たのは、無言の視線であり、更にサラは慌ててしまう。

 

「ほ、本当に言っては駄目ですよ!?」

 

「…………ん…………」

 

 枯れ木を集める事を中断して、念を押すようにメルエを見るサラに、ようやくメルエの首が縦に振られた。

 メルエの様子に『ほっ』と胸を撫で下ろしたサラは、小さな笑みを浮かべた後、最後となる枯れ木を拾い上げる。

 

「と、とにかく、練習や鍛練は私も嫌ですが、そのままでは私など何の役にも立たなくなってしまいますからね」

 

 自嘲気味に笑うサラは、ようやく拾い終わった枯れ木を両腕に抱え、立ち上がる。顔を上げたサラは、いつの間にかすぐ横に立っていたメルエに驚いた。

 メルエは何かを宿した瞳でサラを見上げていたのだ。

 

「…………サラ………メルエ………護った…………」

 

「えっ!? は、はい。本当にメルエを護る事が出来て良かったです」

 

「…………ありが………とう…………」

 

 小さくお辞儀をするように頭を下げるメルエの姿にサラは目頭が熱くなる。自分はメルエを護れたのだ。

 アリアハンを出た時には、戦闘など出来なかった。回復呪文が使えるだけ。手に持つ武器も<聖なるナイフ>のみであったし、その使い方も知らなかった。

 そんな自分が、大切な仲間であり妹の様な存在であるメルエを護る事が出来た。それが、サラにとってどれ程自信になる事だったであろう。

 

「…………メルエも………サラ………護る…………」

 

「うっうぅ……は、はい! その時はお願いします」

 

 メルエの言葉に、サラの涙腺が緩んだ。どこか自分に線を引いている様子すらあったメルエが、自分を護る事を宣言したのだ。

 それは、サラにとってこの上ない喜びであり、そして自分がここまでして来た事が間違いではなかった事を証明するもの。

 それがサラには何よりも嬉しかった。

 

「さ、さあ、メルエ。戻りましょう。余り遅くなっては、リーシャさんとカミュ様に心配をかけてしまいますよ」

 

「…………ん…………」

 

 二人は、両手に抱えきれない程の枯れ木を抱え、野営地へと向かって歩き出す。サラは上機嫌で歩くが、その横を歩くメルエの表情は浮かない物だった。

 

 

 

 そんな経緯があった為、メルエが悩んでいる事がサラには解っていたのだ。

 本来、メルエの様な年頃の少女が悩む悩みではない。それでも、メルエはそれに対して真っ直ぐ向き合おうとしているのだとサラは気付いていた。

 ならば、ここではもう自分が口を挟む事が許されないとサラは考えたのだ。

 

「ん?……メルエ、どうした? 果物はもう食べても良いぞ?」

 

「…………ん…………」

 

 獲って来たうさぎや魚を調理し終えたリーシャが、いつもと違い果物に手を伸ばしていないメルエを不思議に思い声をかけるが、返って来たのは気のない返事であった。

 その後も、終始元気のないメルエをリーシャが気遣いながらも食事は終わり、<聖水>の効力がよく効いている事から、皆が眠りにつく事にした。

 

 

 

「……またか……」

 

 森の木々も寝静まる真夜中。

 カミュは目を覚ます。

 皆が眠れるといえども、火を消す訳にはいかないため、カミュやリーシャが何度か薪を補充しながら朝を迎えるのだ。

 そして薪を火にくべて安定させた後、周囲を見渡すと案の定、一人足りない。いつも野営の度に夜中に居なくなってしまう少女がいないのだ。

 

「ん?……カミュ、どうした?」

 

「……また、メルエがいない……」

 

 カミュの声に反応し、身体を起こしたリーシャの問いかけに、既に立ち上がり、剣を背負ったカミュが答える。その答えを聞いたリーシャも立ち上がり、頭の傍に置いておいた剣を腰に差した。

 

「別方向を探すか?」

 

「いや、俺やアンタの横は通っていない筈だ。いくらメルエの気配が探れないとはいえ、傍を通れば流石に気付く」

 

 カミュの言う通り、メルエの動きはカミュやリーシャですら感じる事が出来ない。しかし、それでも傍を通っていれば、何度となく野営を行っている二人が気付かない訳はないのだ。

 

「ならば、あっちの方角か……」

 

 リーシャが指し示す方角はメルエが眠っていた方角。そして、それは夕刻にサラとメルエの二人で薪拾いに行った方角だった。

 

 

 

 メルエはすぐに見つかった。

 リーシャが差した方角へ少し歩くと、小さく呟くような声が聞こえて来たのだ。

 

「…………ヒャド…………」

 

 メルエを見つけたリーシャが駆け寄ろうとしたところをカミュの手が制した。不満そうにカミュを見上げるリーシャであったが、もう一度メルエを見たリーシャは、その足を止めるしかなかった。

 そこから見える何度も何度も小さく詠唱を呟き、右手に持った<魔道師の杖>を目の前の木に向かって振るメルエの姿は、リーシャでも声をかける事を躊躇う程のものだったのだ。

 

「…………メラ…………」

 

 詠唱する呪文を変えては杖を振る。

 しかし、結果は変わらない。

 杖は何の反応も示さず、メルエの詠唱は霧散して行った。

 何度も何度も詠唱しては杖を振り、肩を落としては詠唱する。

 リーシャがそのメルエの姿を見始めて、何度目だったであろうか。詠唱と同時に振った杖が何の反応も示さない事に苛立ったメルエが、杖を投げ捨てた。

 

「…………うぅぅ………うっ………うっ…………」

 

「メ、!!!」

 

 泣き出してしまったメルエの傍に駆け寄ろうとしたリーシャを再びカミュの手が制した。

 今度こそ『何故だ!?』という思いが込められた視線でリーシャはカミュを睨みつけるが、カミュは手を挙げたままメルエを見ているだけ。仕方なくリーシャはメルエに視線を戻す。

 しばらく嗚咽を溢していたメルエではあったが、投げ捨てた杖に歩み寄り拾い上げた。

 そして、再び呪文の詠唱を始める。何度も何度も。

 自分を護ってくれるカミュやリーシャ、そしてサラに対して胸を張れるように。

 いつでも自分が彼らに笑顔を向けられるために。

 

 

 

 それから、どれくらいの時間が経ったであろうか。リーシャがもはや数える事を止めてしまう程にメルエは杖を振っていた。

 それでも一度もメルエの持つ<魔道師の杖>が反応する事はなく、遂にはメルエ自身が座り込んでしまう。精も根も尽き果てたかのように、メルエはそのまま横へ倒れた。

 

「メ、メルエ!!」

 

 流石に今度はカミュが制する事はなかった。

 リーシャに続いてカミュもメルエの傍へと駆け寄って行く。

 リーシャがメルエの傍に辿り着くと、杖を握ったまま地面に倒れ、小さな寝息を立てるメルエの姿があった。

 その姿にリーシャは安堵の溜息を洩らし、カミュもまた胸を撫で下ろしているような様子を見せる。

 

「……カミュ……」

 

「随分、魔法力を消費しているな……メルエの身体から魔法力が出ている事は間違いない……メルエは俺が運ぶ」

 

 メルエの様子を見て何かを溢したカミュであったが、眠っているメルエを起こさないように抱きかかえ、来た道を引き返し始める。リーシャもそれ以上の追及をカミュにぶつける事はなく、カミュの後ろについて野営地へと戻って行った。

 何故メルエが急にこのような事をし始めたのかはリーシャには解らない。もしかすると、昼間の戦闘が影響しているかもしれないし、『孤独』を感じたメルエが、とある道を歩み始めてしまったのかもしれない。

 『孤独』を拭い去るために『強さ』を求めてしまったリーシャの様に。

 それは、カミュの腕の中で小さな寝息を立てる少女にしか分からないもの。彼女が何をどう考え、どこへ向かって行くのか。

 彼女が歩む道の先に『幸せ』という光がある事をリーシャは祈る事しか出来なかった。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

題名通り、第四章は<イシス>編となります。
結構長い章となると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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戦闘③【イシス地方】

お気に入り件数が300件を超えていました。
多くの方々に読んで頂いている事を本当に喜んでいます。
これからもよろしくお願い致します。


 

 

 

カミュを先頭に歩き出す一行。カミュとリーシャに挟まれるように、サラとその手を握るメルエが歩いた。

<キャットフライ>と対したあの夜が明け、既に一日歩き続けたが、まだ<アッサラーム>は見えて来ない。もう一晩を野宿で明かし、一行は陽が昇ると同時に歩き出したのだった。

 

 

 

 メルエはその晩も、皆が眠りについた後に一人で魔法の練習を行っていた。

 あらかじめ予想していたカミュとリーシャは、メルエが起き出すのを確認した後、メルエの様子を見に行っている。

 魔法が思うように使えない今のメルエは、魔物が現れた時の対処が危うい。故に、カミュとリーシャが常に傍に控え、いざという時にすぐに行動できるようにしていたのだ。

 何度も何度も杖を振り、肩を落とすメルエは、カミュの瞳にはどう映っていたのであろうか。

 それは、リーシャも然り。

 

 自身の魔法力が枯渇するまでそれを繰り返し、強制的な眠りにつくメルエ。

 朝起きると何故か皆と一緒に寝ている事に不思議そうに首を傾げてはいたが、聡いメルエはすでに気が付いていたのだろう。自分が最も頼りにする者達が見守ってくれている事を。

 故に、幾日も意識がなくなるまで杖を振っていた。

 

 そんなメルエも今はサラの手を握りながら、しっかりと前を向いて歩いている。広く広大な大地を真っ直ぐと見据え、まるで未来へと続く自身の道を遠く見るように。

 メルエの瞳に自信とは異なる何かが宿り始めている事は、カミュもリーシャも気が付いていた。

 リーシャはそれが不安要素になってはいるが、カミュは違っていた。今まで、無邪気な子供の様に魔法を使い、魔物の命を奪い、人の生命すらも脅かしていたが、今のメルエは異なるからだ。

 自身の才能だけで出来ていた物が出来なくなった。その事がメルエを変えつつある。

 遊び半分で使用出来た物が、頭で考え、感じ取らなければいけない物となり、メルエは必死に何かを考え、結論を出そうとしている。それが、カミュには、頭上に輝く太陽の様に眩しく見えていたのだ。

 それぞれの想いを持ち、個々に輝き始めた内面を解き放ちながら一行は南へと歩き進める。

 

「カミュ!」

 

「……囲まれたか……」

 

 後方を歩くリーシャの声に、周囲を見渡したカミュが舌打ち気味に呟く。森を横目に歩いていた一行であったが、その森から不穏な気配が近付いて来ていたのだ。

 

「……カミュ様……」

 

「サラ! サラはカミュの方へ、メルエは私の方へ来い!」

 

 メルエとサラを背に護るように剣を抜いたカミュは、森から目を離さない。リーシャが後方からサラとメルエに指示を出し、その指示にメルエがリーシャの下に移動した。

 

「……カミュ様……」

 

「……来たぞ」

 

 カミュの声と共に森から現れたのは、予想通り敵意を剥き出しにした魔物だった。その体躯は大きくカミュやリーシャの倍近くもある。それが三体。

 

「…………???…………」

 

「さ、猿なのか……」

 

 その魔物の風貌を見て、メルエは首を傾げ、リーシャはいつものようにただ驚いていた。この女性は、動物と魔物の境界線が曖昧なのかもしれない。

 

「グォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!」

 

 剣を構えながらも呆然とする一行を前にして、一体の魔物が両手を広げ、自身の胸を叩きながら雄叫びを上げる。それは威嚇を込めた物。

 その雄叫びを合図に三体の魔物は一斉にカミュに向かって来た。

 

「カミュ!!」

 

 三体の巨大な猿がカミュへ向かって、メルエの身体並みに大きな拳を振り上げた。その魔物の行動に反応したリーシャが叫び声を上げる。

 その声に反応したのか、それとも最初から攻撃を予想していたのか、カミュは魔物の拳を紙一重で避け、その腕に<鋼鉄の剣>を振るった。

 

「なっ!?」

 

 しかし、腕を斬り捨てるつもりで放ったカミュの渾身の一撃は、あり得ない音と共に弾かれた。

 それも、魔物の身体にではなく、その身体を覆っている体毛にだ。

 

<暴れザル>

イシス地方に生息する巨大な猿。人間等に遭遇すると、その巨体を生かした力任せの攻撃で暴れ回ることから、この地方ではそう呼ばれている魔物である。特出した特技がある訳ではないが、その力は人間を遥かに超えており、まさしく暴力と言っても過言ではない程の力を有する。力任せの攻撃の方ばかりが目立つが、その巨大な体躯を覆う体毛は非常に堅く、並みの武器では傷一つ付ける事が出来ない程の強度を誇る魔物である。

 

「カミュ様、下がってください!」

 

 瞬時に飛び退いたカミュに、後ろで詠唱の構えに入ったサラから声が飛ぶ。

 カミュに腕を攻撃された<暴れザル>はその腕を自らの舌で舐め取った。体毛により弾かれたようになったカミュの剣ではあったが、その体躯に傷は付けていたようだ。

 しかし、それが今の状況では仇となる。

 

「グォォォォォォォォォォォォ!!」

 

 傷つけられた怒りで再度雄たけびを上げた<暴れザル>は、距離を取ったカミュに突進して行く。

 そこでサラの詠唱が完成した。

 

「バギ!」

 

 <暴れザル>へ向けられたサラの右腕から真空と化した風が巻き起こった。カミュに向かって突進して来た<暴れザル>は、その魔法をまともに受ける事となる。

 一行の誰もが仕留めたと感じた。身体を覆う体毛が切り刻まれ、<暴れザル>の体液が飛び散ったのを見たが故に。

 

「グォォォォォォォォォォォォォ!!」

 

 しかし、<バギ>をまともに受けた筈の<暴れザル>は、ただその怒りを増しただけだった。

 確かに体毛はあちこちが切られているが、それは人間でいう散髪をした程度。身体も切られ体液が滲んではいるが、それは切り傷があちこちに出来た程度だったのだ。

 

「ぐおっ!」

 

「カミュ様!!」

 

 怒りに身を任せてサラ目掛けて振り抜かれた<暴れザル>の拳は、咄嗟に割り込んで来たカミュの<うろこの盾>に直撃する。盾でも勢いを殺し切れず、カミュはくぐもった声を上げて吹き飛んだ。

 『カミュが自分を護る為に割り込んで来た』

 この驚愕の事実を認識する事も出来ない程、サラは困惑に陥る。

 ここまでの旅で、これ程魔物に苦戦した覚えがない。リーシャやカミュに護られながら戦って来たといえども、サラも一人で魔物を倒せるようになって来ていたのだ。

 そんなサラの胸に生まれかけていた小さな自信が揺らぎ始める。カミュですら歯が立たない。自分の持つ唯一の攻撃魔法も通用しない。サラの中に芽生え始めていた物が揺らぎ、音を立てて崩れ落ちて行った。

 

「ギラ」

 

 そんなサラの困惑を余所に、カミュが吹き飛ばされながらも、右腕を<暴れザル>に突きつけ、灼熱呪文を詠唱する。その詠唱と共に、カミュの右腕から熱風が巻き起こり、着弾した<暴れザル>の足元を炎で満たして行った。

 

「はぁぁぁぁぁ!!」

 

 足元から立ち上る炎に巻かれ、暴れるように身を捩る<暴れザル>にリーシャが剣を突き入れる。リーシャの後ろに居たメルエもサラの横に移動をして来ていた。しかし、突き入れたリーシャの剣もまた、雄たけびを上げた<暴れザル>の左腕によって弾き返される。

 体毛が焼け、肌が露出している部分もあるが、それでもまだ<暴れザル>は生きていた。カミュの<ギラ>の灼熱も、この魔物の体毛を焼くのが精一杯であったのだ。

 そして、その隙をついたリーシャの剣も弾かれる。

 

 『万策尽きる』

 

 ロマリアから出て、まだ数日しか経っていない。新たな大陸に足を踏み入れた一行は、目的の町に着く前に大きな試練と相対する事となったのだ。

 

「…………ギラ…………」

 

 だが、絶望色に彩られた表情を浮かべる一行の中で、まだ諦めない者が一人。

 それは、最も幼き少女。

 結びつけられた紐を解き、その杖を大きく掲げた後、呟くような詠唱と共に振り下ろす。それは先程カミュが唱えた呪文と同じ物。しかし、術者が違えば、その威力も異なる。メルエとカミュでは、本来の魔法使いとしての質が違うのだ。

 もし、このタイミングでメルエの魔法が<暴れザル>に直撃していれば、形勢は逆転したかもしれない。

 しかし、無情にもメルエの杖の先から熱風が巻き起こる事はなかった。

 

「…………うぅぅ………ヒャド…………」

 

 再び杖を振るメルエ。しかし、杖は何の反応も示さない。

 意を決したように、メルエは杖を投げ捨て右手を突き出した。

 しかし、その数度の無駄となってしまった詠唱の時間は、虚を突かれた<暴れザル>に態勢を立て直す時間を与えただけとなってしまう。残る二体の<暴れザル>が自分達に杖を向けていた少女に向かって突進を始めた。

 そして、杖を捨てたメルエが右手を掲げた時、その内の一体が、もう目の前に迫っていたのだ。

 

「メルエ―――――!!」

 

「!!」

 

 間に合わない。

 カミュもサラもそう思った。

 巨大な猿の巨大な拳が唸りを上げてメルエに振り抜かれる。 

 凄まじい衝撃音を上げ、<暴れザル>の拳は何かを吹き飛ばす。吹き飛ばされた物は、地面を数度跳ね、回転しながら地面を転がり、そして動かなくなった。

 

「…………あ………あ…………」

 

 それは、メルエではなかった。

 メルエは咄嗟に駆けて来たリーシャによって押され、尻もちをついている。

 メルエの遥か向こうに転がり、今地面に伏したまま動かなくなったのは、メルエを護ると約束していたアリアハン屈指の女性戦士。

 メルエの姉であり、母の様なリーシャだったのだ。

 余りの出来事に、メルエは動かなくなったリーシャに呆然と視線を向け、うわ言の様な言葉を口にするだけ。それは、未だ拳を握る<暴れザル>を前にして、するべき行動ではなかった。

 

「グォォォォォォォォォォォォ!!」

 

 雄叫びと共に両拳を合わせ、<暴れザル>がそれをメルエ目掛けて振り下ろそうとハンマーの様に高々と掲げる。リーシャが護った命は風前の灯だった。

 

「…………リー………シャ…………」

 

 うわ言の様に何度もその名を口にするメルエに、今自分が置かれている状況を把握する事は出来ない。

 <ギラ>によって焼かれた怒りを露わにする一体に苦戦中のカミュにメルエに、その場へ近寄る時間は与えられなかった。

 

「ラリホー!!」

 

 カミュが、<暴れザル>の攻撃を避けながら、その顔を珍しく歪めたその時、カミュの後方に居たパーティー内最強の補助魔法使いの声が響いた。

 カミュが声の方向を振り返ると、そこにはメルエの傍にいる二体の<暴れザル>へ両手を突き出したサラの姿。

 リーシャが吹き飛ばされ、動かなくなった場面でようやく混乱から解き放たれ、自分のやるべき事を理解した『僧侶』が立っていた。

 

「グォォォ……………Zzzzzz……………」

 

 メルエに向かって両腕を天高く掲げていた<暴れザル>は、そのまま仰向けに倒れて行く。もう一体も、メルエへと駆け寄ろうとしていた態勢のまま、前のめりに倒れた。そのまま、鼾なのか鳴き声なのか分からない音を立て、二体の魔物は眠りについたのだ。

 

<ラリホー>

教会に安置されている『経典』に記されている補助魔法の一つ。生物の脳内に干渉し、強烈な睡魔を与える魔法。<おばけきのこ>の甘い息と同様の効力を持ち、その魔法で眠りについた者は、多少の衝撃では目を覚まさなくなる。魔物に対して力で劣る人間が、本来その場から逃げ去る為に使う魔法とも云われているが、術者と被術者との力量がかけ離れていると効果が薄くなる為、実際は使いどころが難しい魔法とも云われていた。

 

「…………リーシャ…………リーシャ…………」

 

 自分の目の前から脅威がなくなったメルエは、吹き飛ばされたリーシャの傍へと駆け寄って行く。メルエの目には涙が浮かび、それは母を求めて駆け寄る子供の様な姿であった。

 駆け寄ったメルエが見たリーシャの姿は、頭から若干の血を流し、青白い顔で横たわる痛々しいもの。

 

「……息はしていますね……よかった……頭の傷も、転がった時に擦れたもの……気を失っていますが、大丈夫です」

 

 今にもリーシャに抱きつき泣き出しそうなメルエの横から、先程魔物を眠りにつかせたサラがリーシャの状態を落ち着いて診察する。

 もし、メルエがいなかったら、この状況に混乱し、何をして良いか分からなく、あたふたとしていたのはサラであったろう。しかし、リーシャが吹き飛ばされ、それを呆然と見ているメルエを見た時、サラの意識は覚醒された。

 

「…………リーシャ…………」

 

 青白い顔で横たわり、見える傷にサラの<ホイミ>を受けているリーシャの姿を見るメルエの目つきが変化して行く。俯いているため、それがサラには解らなかった。

 

「…………カミュ…………こっち…………」

 

 リーシャを背に立ち上がったメルエは、未だに奮闘中のカミュへ呼びかけるが、その声は呟くように小さく、隣にいるサラにしか聞こえないもの。

 

「カミュ様! 隙を見て、こちらに来て下さい!」

 

 メルエの意図が何かも分からないまでも、メルエの身体を覆う憶えのある気配を感じたサラは、カミュへ下がるように指示を出した。

 その声に『無茶を言うな』とでも言いたげにちらりと視線を動かしたカミュもまた、メルエの纏う気配に何かを察し、目の前で拳を振るう<暴れザル>に向けて<メラ>を放つ。<メラ>の火球に若干の怯みを見せた<暴れザル>の隙をついて、彼もまたメルエ達の下へと戻った。

 

「……そいつは大丈夫なのか?」

 

「あっ、は、はい。気を失っていますが、骨が折れた様子もありませんので、大丈夫だと思います」

 

「……なんて頑丈な……」

 

 戻って来て早々にリーシャの心配をするカミュに、サラは驚いた。

 しかし、サラの返答に失礼極まりない回答をするカミュに、場の雰囲気にそぐわない笑みが零れる。

 

「…………」

 

 その間も、メルエは自分との格闘を演じていた。

 メルエの瞳にある物は、『怒り』ではない炎。

 それは『決意』。

 そして、メルエを取り巻く風。

 それは『魔力』。

 メルエは、久々に見るそれをごく自然に受け入れていた。

 カミュと初めて会った晩に見た風。カミュが『魔力の流れ』と言っていたものが、それ以来メルエには見えていなかった。自分が契約をする時も、そして詠唱を行い、魔法を行使する時も。

 ここまで、ただ漠然と契約を行い、意識せずとも魔法が行使される。それが当たり前だとメルエは思っていた。

 しかし、それは大きな間違いであった。メルエの内にある『魔法力』、それを『魔力』として、魔法の行使の為に使うには、その流れを肌で感じ支配しなければならない。

 今、メルエは初めてそれを感じているのだ。

 

「……メ、メルエ……?」

 

 急激に変わったメルエの雰囲気に、先程笑顔を溢したサラの表情が不安気に変化する。そのサラの声にも気がつかない様子で、メルエの意識は自身の内へと入って行った。

 

「!!」

 

 徐に杖を掲げ、カミュの<メラ>から立ち直り、怒りを露わにする<暴れザル>へと照準を合わせる。

 メルエは自分の内から腕を通る『魔法力』を感じていた。

 今までは、ただ杖を振り詠唱するだけ。

 故に、詠唱と共にメルエの身体の内から発生した『魔法力』は腕を通るが、メルエの持つ杖へとは渡らず、霧散していたのだ。

 腕から流れる『魔法力』を杖の先へと流し込むようにメルエは意識を強くする。視線は<暴れザル>から外さずに。

 自分がこれから口にする呪文に必要な魔力は、はっきりとは分からない。だが、メルエには説明はつかないまでも、その量の調節はここまで無意識に行って来ていたのだ。

 一度は暴走してしまった『魔力』。

 ならばあの時の感覚より少なくすれば良い。

 メルエは教育という物を施されてはいない。しかし、決して生来頭が悪い訳ではないのだ。いや、むしろ『かしこさ』で言えば、サラと同等かそれ以上の物を持っている筈である。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 杖の先に行き渡った『魔法力』を確認し、最後の詠唱という合図と共にそれを解放する。今まで、メルエの詠唱に何の反応も示してこなかった<魔道師の杖>は、まさに今この時を待っていたかのように、持ち主の魔法力を魔法という形で解放した。

 凄まじいまでの熱風。それは、メルエの後方に控えていたカミュやサラの髪の毛すらも焦がすのではないかと感じる程の熱量だった。

 それがメルエの持つ<魔道師の杖>から迸り、こちらに向かって駆け出した<暴れザル>に向かって着弾し、先程のカミュの<ギラ>とは比べ物にならない程の炎を生み出す。

 それは、まさしく炎の海。

 <西の洞窟>で見た時よりも大きな赤い海。

 

「グギャオォォォォォォォ!!」

 

 カミュですら初めて見るような、その凄まじいまでの炎に包み込まれた<暴れザル>は、まるで大海原の波に攫われて行くように、炎の中に消えて行く。

 

「……す、すごい……」

 

「……」

 

 目の前に広げられた凄まじい光景に、カミュもサラも言葉を失っていた。魔法の行使が終わっても尚、杖を下げないメルエの後ろ姿は、どこか大きく見える。

 炎の海が風に攫われて引いて行ったその後には、体毛も焼かれ、丸焦げになり絶命している一体の<暴れザル>であった肉塊が転がっていた。その酷い姿にサラは再び言葉を失う。

 サラは、先日メルエに言ったように、メルエの魔法の才能を疑った事など一度もない。だが、逆にこれ程の才能がある事にも気がついてはいなかった。

 恐ろしくなる程の才能。

 実際、現存する『魔法使い』が持つ灼熱系の最強呪文は、<ベギラマ>と言っても過言ではない。古の賢者が残した魔法を知らない限り、今メルエが行使した呪文が『人』にとって最強の灼熱呪文なのだ。

 それをこの歳で行使するメルエは、おそらくサラがアリアハン宮廷で見かけた事のある、どの『魔法使い』よりも『魔法力』を持ち、その魔法の威力も桁違いであるだろう。

 現に、『勇者』として世に送り出されたカミュが行使する魔法より、格段上の威力をメルエの魔法は持っているのだ。

 

「…………ん…………」

 

「……メルエ……もういい」

 

 一体の<暴れザル>を倒したメルエは、その杖を眠りについたままのもう二体へ向け、詠唱を始めていた。

 それを見たカミュが止めに入ると、先程までの雰囲気とは違う、いつものメルエが、若干頬を膨らませて振り返る。

 

「…………リーシャ………ぶった…………」

 

 眠った魔物に対して攻撃する理由がリーシャの仇撃ちなのだ。

 そんなメルエにサラの表情はやっと緩んだ。

 

「……メルエ……気持ちは解りますが、今はリーシャさんを安全な場所で横にする事が一番大事です」

 

「!!」

 

 メルエへとかけたサラの言葉に、今度はカミュがその表情を変化させる。

 それは、『驚愕』。

 目を見開き、今にも叫び出しそうなほど口を開けるカミュに、サラは少し眉をひそめた。

 

「な、なんでしょうか……カミュ様?」

 

「い、いや。何でもない。その戦士は俺が背負おう」

 

 眉をひそめ、睨むようにカミュを見るサラに、カミュは表情を戻してリーシャを背負う準備をする。

 カミュが驚くのも無理はない。

 眠っているとはいえ、<暴れザル>はまだ生きている。それを見逃す事を良しとするばかりか、攻撃を主張するメルエを抑える発言をしたのだ。

 それは、魔物への『復讐』に凝り固まっていたサラの心の変化以外何物でもない。

 今、魔物への『復讐』よりも、仲間の身の安全の方が優先されるということ。それを彼女は別段、苦渋の決断という訳でもなく、小さな笑顔を作りながらメルエに告げていたのだ。

 

「…………リーシャ………痛い…………?」

 

「傷は全て直しましたから、後は目を覚ますのを待つだけだと思いますよ。その後でリーシャさん自身から身体の具合を聞くしかなさそうですね」

 

 リーシャを背負ったカミュの後ろを、手を繋いだ姉妹の様にサラとメルエが続いて行く。サラを見上げて質問するメルエの顔に、先程までの雰囲気は欠片もない。自分が魔法を使えた事への喜びよりも、今はリーシャの身を案じるメルエに、サラは安堵に近い想いを持つ事になる。

 カミュは、<暴れザル>が出て来た森から少し離れた森の入口の木陰にリーシャを寝かせ、一行はそこで休憩を取る事にした。

 

 

 

 リーシャは、陽が落ちる頃まで目を覚まさなかった。

 日ごろの疲れが溜まっていたのか、寝息は安らかであったが、一向に目を覚まさないリーシャにメルエの不安は募り、メルエはリーシャの傍を片時も離れようとはしなかったのだ。

 サラが近くの小川から汲んで来た水で布を冷やし、リーシャの頭に乗せるのを不思議そうに見ていたメルエであったが、その行為を自分がすると主張し始め、それからは、気温で布が温くなると、水で濡らし直しリーシャの頭に乗せるのはメルエの仕事となっていた。

 

「……一度<ルーラ>でロマリアまで戻って、宿を取った方が良いかもしれないな……」

 

 陽が傾き始めても目を覚まさないリーシャに、カミュが小さく提案を溢す。

 ここまでの道程を無にしてでもリーシャの身を案じているカミュにサラは驚くが、カミュにしてみれば、このままここに置いて行く訳にはいかない以上、そうするしか方法がないという事だったのであろう。

 

 目を覚まさないリーシャを横目に、陰って来た陽の光を感じたカミュは、野営の準備の為、食料と薪となる枯れ木を探しに森の奥へと入って行った。

 メルエが何度目かも憶えていない布の交換をしている最中に、ようやく件の女性が目を覚ます。 

 

「……う、ううん……」

 

「…………リーシャ!…………」

 

 布を水に入れていたメルエが視線を向けると、そこにはゆっくりと目を開けるリーシャが映る。それを見たメルエは、水から勢い良く手を取り出し、身を起こしかけたリーシャへとしがみ付く様に抱きついた。

 

「うわっ! な、なんだ、メルエ。驚かせるな」

 

「…………リーシャ………リーシャ…………」

 

 勢い良く抱きついて来たメルエを窘めるが、リーシャの声が耳に入る様子もなく、リーシャの名を何度も口にしながら涙を流すメルエに、リーシャは戸惑ってしまった。

 

「あっ!? リーシャさん! 良かったです……なかなか目を覚まさないので、心配しました」

 

「サラか……ここは……」

 

 メルエの声を聞き、笑顔を向けながらこちらに歩いてくるサラを目にし、リーシャは自分が何故こういう状況にいるのかを思い出そうと頭を捻る。しかし、リーシャが思い当たるよりも早くに、正解はサラの口から出た。

 

「メルエを庇って、あの大きな猿の魔物の攻撃を受けてしまったリーシャさんは、そのまま気を失ってしまって……」

 

「な、何!? 私は気を失っていたのか!?」

 

 サラが口にした事実は、リーシャの戦士としてのプライドを大いに傷つけるものだった。

 確かにメルエを庇い、無防備な状況で魔物の攻撃を受けたとしても、それで気を失い、しかも丸半日以上も眠りこけていたなど、恥以外の何物でもない。

 

「…………リーシャ………痛い…………?」

 

「はっ!? そ、そうです。どこか痛む所や、おかしいところはありませんか?……一応外傷は直しましたし、念の為、身体全体にホイミをかけておきましたけれども」

 

 リーシャの答えに、リーシャの考えている事が何となく理解出来たサラは、何と声をかけるべきか悩む。しかし、メルエの直接的な問いに、本来真っ先に尋ねるべき問いを思い出し、慌てたように声をかけた。

 

「……いや……少しふらつくぐらいで、別段おかしなところもなさそうだ。しかし、失神したとは……」

 

 サラの問いかけにしっかりと答えるが、その後に再び苦々しく表情を顰めて呟きを洩らす。その表情がリーシャの考えている事を如実に表していた。

 

「…………リーシャ…………ありが………とう…………」

 

「ん? いや、メルエ、良いんだ。メルエが無事でよかった」

 

 リーシャに抱きついたまま、その胸で溢したメルエの言葉に、今まで歪んでいたリーシャの表情も暖かな物へと変わって行く。既に、<とんがり帽子>を脱いでいるメルエの明るい茶色の髪を、愛おしそうに撫でるリーシャの表情は母そのもの。

 そんな言葉が喉まで出かかったサラであったが、口にしてしまえば暖かな笑顔になっているリーシャの顔を再び歪ませてしまうと思い、口を噤んだ。

 

「しかし、あの後、どうなったんだ? カミュが魔物を倒したのか?」

 

「いえ、魔物を倒したのは、メルエです。メルエが、杖から<ベギラマ>を行使し、魔物を焼きました」

 

「何!? メルエ、<ベギラマ>を使ったのか!? 大丈夫か!? どこか痛むところはないか!?」

 

 サラが話す驚愕の真実も、<西の洞窟>でメルエの被害を見ているリーシャには別の恐ろしさを思い出させるものとなる。メルエが<魔道師の杖>から魔法を使えたという事実よりも、魔法の反動によるメルエの身体を心配するリーシャに、サラの顔に濃い笑顔が浮かぶ。

 しかし、それは幼いメルエにとっては不満だった。

 

「…………魔法………でた…………」

 

「ふふふ」

 

 不満そうに涙で濡れた瞳でリーシャを見上げ、頬を膨らますメルエ。

 そのメルエの姿に、サラの口から優しい笑い声が漏れる。

 

「ん?……ああ、そうか!? 良かったな、メルエ。では、メルエが気を失った私を護ってくれたのだな。こちらこそ、ありがとう」

 

「…………リーシャ…………」

 

 メルエの不満顔に、ようやくメルエの快挙に気が付いたリーシャは、その快挙を喜び、そして丁寧にお礼を言う。

 最も認めてほしかった人物からの評価に、メルエの瞳から涙が零れ、再びリーシャの胸へとその顔を埋めてしまった。

 

「その後、気を失ったリーシャさんをカミュ様が背負ってここまで運んで、今に至る訳です」

 

「何!? 私はカミュに運ばれたのか!?」

 

 サラの言葉にリーシャの表情が再度歪む。それは羞恥からなのか、それとも屈辱からなのかはサラには判断出来なかった。

 

「……しかし、私もまだまだだな。魔物の攻撃で気を失うとは……こんな無様な状態では、とてもではないが、『魔王討伐』など夢物語になってしまう」

 

「…………リーシャ…………とう………ばつ…………?」

 

 悔しそうに歪めたリーシャの言葉に、顔を上げたメルエが不思議そうに首を傾げる。自分の溢した言葉が生み出したメルエの行動に、リーシャもまた不思議そうにメルエを見た。

 

「ん?……メルエ、なんだそれは?……何故私が討伐される?」

 

「…………リーシャ…………ま……おう…………?」

 

「メ、メルエ! そ、それは言わない約束ですよ!」

 

 疑問に思ったリーシャの問いに反応したメルエの答えは、サラの顔色を失わせるのに効果絶大だった。

 それは、あの夜メルエに口止めしたはずの軽口。メルエもはっきりと頷いた筈の物である。

 そんなサラの心中を余所に、ゆっくりとリーシャの視線がサラへと移って行った。

 

「……どういう事だ……サラ……?」

 

「い、いえ。ど、どうして私に聞くのですか?……言ったのはメルエですよ!」

 

 問い質す為に、リーシャは地獄の底から響く音の様な声を出し、その恐怖からサラは先程メルエに言ってしまった自分の失言を忘れてしまっている。

 

「…………サラ…………ごめん……なさい…………」

 

「今更遅いですよ!」

 

 サラとの約束を思い出し、頭を下げるメルエではあったが、それは既に遅過ぎた。

 ゆっくり立ち上がるリーシャに足が竦みながらも、メルエに叫ぶサラの声は涙声になって、陽の傾いた森の中に響き渡る。

 

 その後、食料と薪を拾って帰って来たカミュが見たものは、頭を押さえながら蹲るサラと、その横で先程まで眠っていたはずの人間が仁王立ちしているという奇妙な光景だった。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

イシス編とは言いながらも、イシスに入るまでもう少し話数があります。
この章は結構長いです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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アッサラームの町①

 

 

 

 夜が明け、カミュが取って来た果物を朝食として口に運んだ一行は、再び森を出て南へと歩を進めた。

 空は抜けるように青く、太陽の恵みが、遙か彼方に見える大地にまで降り注いでいる。

 

「メルエ! 一人で先に行っては駄目だと言っただろう!」

 

 いつもと違う隊列。メルエを先頭に、それを窘めながら追うリーシャ。最後尾にはカミュといった、いつもとは逆の順に一行は歩き出していた。

 メルエの表情は、地上を照らす太陽のように輝いている。いつものように自分を窘めながらも優しい笑みを浮かべるリーシャがいる事が嬉しい。

 青白い顔をして横たわるリーシャを見た時、メルエは呼吸が止まりそうになった。それ程、今のメルエにとってリーシャという存在は大きくなっているのだ。

 それこそ、自分が魔法を使えるようになったという喜びすら忘れる程に。

 

「カミュ様、少しよろしいでしょうか?」

 

「……」

 

 そんなメルエを遠目に見ていたカミュに声がかかる。

 少し前を歩いていたサラが振り返り、不安そう表情でカミュを見ていた。

 

「……メルエは……メルエは……いったい……」

 

「……」

 

 サラは立ち止まり、カミュに話し始める。その内容はカミュには大方予想出来てはいたが、サラ自身の中で話す事が整理出来ていないようだった。

 

「……あのメルエの魔法の才は、一体何なのでしょうか?」

 

「……」

 

 カミュは黙して何も語らない。それは、サラの言葉を無視しているのではなく、何を言いたいのかを探っているようだった。

 

「……メルエは……『人』なのでしょうか?」

 

「……」

 

 遠まわし遠まわしに話してはいたが、サラが言いたいのはこれであった。

 メルエの異常な程の魔法の才能。それは、サラから見て、『人』として規格外な物であったのだ。

 サラの言葉の中に、若干の畏怖がある事もカミュは気が付いていた。

 

「……カミュ様?」

 

「……その質問は、あの戦士からも受けたが……何故、俺に聞く?」

 

 何も言わないカミュに不安になったサラが、カミュの名を口にしたのと同時に、ようやくカミュの口が開いた。

 それは、単純な疑問であり、サラが求める答えではなかった。

 

「えっ!? リーシャさんもですか?……そ、それで、カミュ様は何と答えられたのですか?」

 

 リーシャがサラと同じ疑問を以前にカミュにしていたという事実にサラは驚いた。

 以前に同じ疑問を持ったリーシャが、今はメルエとあれ程笑顔を交わしている。それは、カミュが答えを知っていたからなのではないだろうか。そう思わずにはいられなかった。

 

「……答えなどない……俺もアンタ方と同じように、メルエの素性を知らない」

 

「で、では、何と!?」

 

 カミュもメルエの素姓を知らないという事は当然の事である。リーシャやサラと共にアリアハンを出て、ロマリアで初めてメルエに出会ったのだ。

 もし、カミュがメルエと以前に出会っていたとすれば、サラとの問答など行う事無く、メルエを救出する為に動いていただろう。

 

「……『メルエが<エルフ>や<魔物>であったとしたら、態度を変えるのか?』と聞いた」

 

「!!」

 

 それは、サラの胸に突き刺さる言葉だった。

 自分でもどこか考える事を拒否していた言葉。

 メルエが『人』でなかったとしたら、自分はどうするのだろう。

 その答えは、まだサラの中で結論が出ていなかったのだ。

 

「……そ、それで、リーシャさんは何と?」

 

「『<エルフ>であろうと<魔物>であろうと、メルエは自分の妹だ』という事らしい」

 

「……そうですか……」

 

 サラはどこか納得してしまった。

 リーシャなら、まず間違いなくそう答えるだろう。それは何も、メルエに限った事ではない。

 もし、サラがスラム街の出身だとしても、それこそ『魔物』だとしても、リーシャはきっとそう答えてくれるだろう。

 しかし、サラはリーシャの様に答える自信がない。

 

「……アンタはメルエが『魔物』だとしたら、『復讐』の対象として、メルエの息の根を止めるのか?……その手でメルエを殺すのか?」

 

「そ、それは!?」

 

 続くカミュの言葉が、サラの胸を鷲掴みにした。

 それは、昨日の夜からサラが人知れず悩んでいた内容であり、リーシャに作られた頭のこぶを摩りながら考えていた内容だったからだ。

 

「……そう言えば、アンタに言うのを忘れていた……」

 

「えっ!?」

 

 そんな自分の苦悩の中に入り込んでいたサラに、不意討の様にカミュの言葉がかかった。

 その内容に『まだ何かあるのか?』とサラは密かに身構える。

 

「……ありがとう……」

 

「えっ!?」

 

 しかし、カミュの口から出たものは、人間が相手に感謝の意を表す言葉。

 サラは咄嗟の事で、その意味が全く分からない。カミュが自分に頭を下げているという事自体が驚愕に値する物であるが、その行為が意味する事に全く覚えがなかったのだ。

 

「……アンタがいなければ、あの時メルエは死んでいた筈だ。アンタの咄嗟の判断が、メルエの命を救ってくれた。俺には何も出来なかった……本当に感謝している」

 

「あ、あ……」

 

 サラは理解した。

 カミュは、昨日の戦闘での事を言っているのだ。

 

 メルエに向かって行った二体の<暴れザル>。

 呆然とするメルエに振り上げられた、太い幹のような腕。

 その時は何も考えていなかった。

 

 『メルエが死んでしまう』

 

 その想いだけで、サラは呪文を詠唱した。

 もはやサラにとっても、メルエが死んでしまうという事は耐えられないものなのだ。それにサラは気が付いた。

 『もし、メルエが<エルフ>であったら、もし<魔物>であったのなら、その想いは変わるのだろうか?』

 サラの胸に新しい問いかけが押し寄せて来る。

 

「……メルエが何者なのかは解らない。だが、メルエもきっとアンタには感謝しているだろう。そして、今度は必死にアンタを護ろうと、メルエは動く筈だ。今のメルエを見て、アンタには解らないのか?」

 

 カミュの言葉を聞いたサラの瞳から自然と涙が零れていた。

 あの森での夜、メルエは確かにはっきりと自分に告げていた。

 『サラを護る』と。

 きっとカミュの言う通り、メルエはサラが窮地に陥れば、我が身を挺してでもサラを護ろうとするだろう。例え、魔法が暴走し、その身が焼け爛れたとしても。

 それは、『予想』ではなく『確信』。

 サラにも、メルエがそう行動する事は理解出来た。

 

 『ならば、自分ができる事は?』

 

 メルエは何者だろうと構わないと今すぐに言えない自分がいる。しかし、逆にメルエが何者だろうと死んでほしくない、傷ついてほしくないと思う自分もいるのだ。

 メルエがサラを護りたいと思うのと同様に、メルエを護りたいという想いがサラの中にも確かに存在していた。

 

「……すぐに答えを出す必要はない……だが、アンタがもし、メルエに対して危害を加えようとするならば、俺と敵対する事だけは憶えておいてくれ」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュはメルエが何者であろうと、メルエ側に付く事を宣言した。それは初めから解っていた事。

 カミュは『魔物』だろうが『エルフ』だろうが、それによって見方を変える人間ではない。むしろ『人』に対しての見解が一番厳しい人間だ。

 自分よりもメルエを取る事は当然だろう。

 いや、そうではない。

 もしかすると、サラがメルエと対峙した時、カミュやリーシャは悩み、その行為を思い直すように説得を試みるだろう。

 それでもサラの意志が変わらないのならば、リーシャは涙を流しながら剣を抜くに違いない。カミュもまた表情こそ変えないものの、その胸中に複雑な想いを持ってくれるかもしれない。

 サラは、厳しい目を向けるカミュを見ながら、何故か自分の胸に湧き上がる予想が間違っていない自信があった。

 ならば、後は自分が結論を出すだけだ。

 

「……胸に刻みつけておきます……いつか……いつか答えを出します」

 

「……ああ……」

 

 そこで二人の会話は終わった。

 

 『サラは変わった』とカミュは思う。

 アリアハンを出たばかりの時であれば、迷わなかったのかもしれない。

 それこそ、強力な魔法を使い、人間離れした才能を見せるメルエに対し、畏怖の念を強め、警戒を怠らなかっただろう。

 

 『カミュは不思議な人だ』とサラは思う。

 カミュは『人』だけでなく、どんな種族でも先入観で判断しない。

 出会った時、『僧侶は嫌いだ』と言っていた。それでも、サラの行動を、色眼鏡を通して見ている訳ではなかった。

 意見の相違、価値観の相違から衝突する事はある。それでも、サラの行動の中で感謝に値するものがあれば、頭を下げる。

 それは何もサラに対してだけではない。基本的にカミュの瞳は本質を見る。それこそが『勇者』と呼ばれる所以なのかもしれない。

 

「…………はやく…………」

 

 そんな物思いに耽っていると、前を歩いていたメルエが戻って来た。そのままサラの腕を取り、先へと促し始める。

 

「あっ!? は、はい。行きましょう、メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 我に返ったサラの言葉に笑顔で頷いたメルエは、サラの手を握った。

 そんなメルエに、サラは胸の内にある想いを抑え、にこやかに歩き出す。

 カミュから見れば、サラの中では既に答えなど出ているのだ。彼女が、メルエを切り捨てる事など出来はしない。後は、その折り合いを何処で着けるかだけなのだ。

 

 それぞれの想いを胸に一行は歩き出す。

 

 

 

 メルエの目から見て、何故かサラいつもと違うように思う。サラの手を握って歩きながら、何気なくサラの方を見ると、西の方から来る海風に靡く髪を押えながらもにこやかに前を向いていた。

 

「…………サラ……おこる…………?」

 

「えっ!? 何故ですか?」

 

 『いつもと違う=怒っている』という図式はメルエならではであろう。そんな公式が解らないサラは、唐突にかかったメルエの言葉に驚き、問いかけた。

 

「…………きのう…………」

 

「昨日?……あっ!? そ、そうですよ、メルエ。あれは二人の秘密と言ったではないですか!?」

 

 メルエの中でサラが怒る理由など一つしか思い浮かばない。

 メルエが何を言いたいのかが思い当たらなかったサラは、不思議そうに首を傾けた後、思い出したようにメルエへと視線を向ける。

 サラのその言葉にびくりと身体を震わせたメルエは、小さく謝罪の言葉を繋いだ。

 

「もう! 『秘密』は簡単に話してはいけないのですよ。今度からは気を付けてくださいね」

 

「…………ん………リーシャ……あく……ま……言わない…………」

 

 『秘密』という言葉の意味をメルエは知らなかったのかもしれない。そう思い、サラがメルエにその言葉の持つ意味を教えると、神妙に頷いたメルエがとんでもない言葉を溢す。

 

「メ、メルエ! 言った傍から口にしては駄目ですよ」

 

「……ほう……『魔王』だけでは飽き足らず、サラは私を『悪魔』呼ばわりしていたのか?」

 

 メルエの言葉を抑えようと口を開いたサラの後方から、地獄の使いのような声が響いた。

 メルエの方を向いていたサラの顔色が失われて行く。

 振り返る事は許されない。それは即ち『死』に直結しかねないからだ。

 

「さ、さあ、メルエ。い、急ぎましょう。今日中には<アッサラーム>につかなければいけませんからね」

 

 結果、サラは気付かなかったふりをする事に決めた。 

 メルエの手を握り、そのまま南へと進路を取って早足で歩き出したのだ。

 

「ま、待て!」

 

 自分の方を振り返りもしなかったサラの行動に驚いたリーシャは、少しの間呆然とサラを見ていたが、慌てたように追いかけはじめる。

 昨日までのどこか重苦しい雰囲気はどこにもなかった。

 そんな三人のじゃれあいを、後方からどこか呆れた表情を作ったカミュが見守る。地図を片手に、周囲の警戒を怠る事はしていないが、メルエの笑顔を見ているカミュの表情は若干柔らかな物へと変わって行った。

 

 

 

「ん?……どうした、メルエ?」

 

 あの後、リーシャから制裁を加えられたサラと共に歩いていたメルエが、不意にリーシャの足にしがみついて来た。

 休憩を挟みながら歩き続け、もはや太陽も西の方角に沈み始めている。辺りは暗闇が支配の手を伸ばし始め、森の方角からはフクロウの声が響いていた。

 

「…………いや…………」

 

「ん?……何がだ?……本当にどうした、メルエ?」

 

 リーシャの足にしがみついたメルエは首を横に振るばかり。歩き出そうとしないメルエに、リーシャはしゃがみ込んでメルエに視線を合わせた。

 何事かと、カミュやサラもリーシャのもとへと近寄って来る。

 

「……とりあえず、町へ入るぞ」

 

「…………いや…………」

 

 カミュ達の目の前には、夕焼けに染まる<アッサラーム>の町が見えていた。

 ここまで旅をして来た中で初めて見る、城下町以上に栄えた独立した町。町の門を隔てても聞こえる喧騒が、その町の繁栄を物語っていた。

 しかし、その町に入る事を拒む者がいる。今、リーシャの足にしがみつき、涙目で首を横に振るメルエだった。

 メルエは一向に動こうとしない。そればかりか、リーシャにしがみ付き、リーシャすらも動かそうとしないのだ。

 

「メルエ、どうしたのですか? 疲れたのなら、早く町の宿に向かいましょう?」

 

「…………」

 

 サラの言葉にもただ首を横に振るばかりのメルエに、リーシャもサラも困り果ててしまう。唯一人、カミュだけは、そんなメルエの姿を少し冷たい表情で見ていた。

 そのカミュの表情に気が付いたリーシャは嫌な予感が働く。まさか、メルエに冷たい言葉をかける事はないとは思うが、何をカミュが言い出すのかが分からないのだ。

 

「……ここが、メルエの暮らしていた場所なのか?」

 

「!!」

 

 身構えていたリーシャですら、カミュの言葉に驚いた。

 サラは目を見開き、口を開けて放心状態になっている。

 それ程、驚愕の内容だったのだ。

 

「…………」

 

「……わかった……メルエは俺のマントの中に入っていろ。町に入ったらそのまま宿屋へ向かう」

 

 カミュの言葉に固まってしまったように動かないメルエを見て、溜息交じりにカミュはマントを広げる。

 自分がどれだけ嫌がったとしても、この町に入らないという選択肢がない事を理解したメルエは、俯きながらカミュのマントの中へと移動した。

 

「……メルエ……」

 

 肩と頭を下げ、カミュのマントへと歩くメルエの姿は、リーシャやサラの胸に小さなしこりを残す。

 もし、カミュの言うとおり、この町がメルエの暮らした場所という事であれば、メルエはここの生まれで、メルエを奴隷として僅かな金額で売り払った親もこの町に住んでいるという事になるのだ。

 ここまでメルエが町に入るのを嫌がるのだから、メルエがその親に碌な扱いを受けていなかったのだろう。そのような親がいる町へ入るのであれば、メルエが恐怖にも似た感情を持つのは当然である。

 メルエの心には、頼りになる人間として、リーシャやカミュの存在がある事は間違いない。

 しかし、幼い頃から植え付けられた心の傷は拭えない。どれ程、カミュやリーシャが強くとも、メルエの心にある親への恐怖の方が上なのだ。

 

「……行くぞ……」

 

 メルエのマントの中に包み、傍から見てもマントが膨れてはいるが、中に誰が入っているのかも分からない状態で、カミュは町の門へと向かって行く。万が一、町の門を警備する兵がいた場合、不審に思われる可能性もあるのだが、その場合はカミュが何とかするのだろう。

 それを、リーシャもサラも疑いもしなかった。

 

「ようこそ、アッサラームの町へ!」

 

 しかし、リーシャとサラの心配も杞憂に終わる。にこやかに対応して来た男性は、門の前にいたカミュ達一行に気が付き、門を開けてくれた。

 そのまま、街の中に入り、にこやかな笑顔を向けて来る男性を見ると、この町を訪ねて来る旅人はそう珍しい物ではない事が解る。

 それでも、町の中に入ると、カミュのマントの中でカミュの足にしがみ付くメルエの力が強まるのが感じられた。

 メルエにしてみれば、奴隷として売られるまで、町の外には出た事がなかったのであろう。そして、幼さゆえ、自分が暮らす町の名を覚えている事もなかった。

 

 奴隷として売られ、馬車から見た景色。

 孤独を当然として受け入れていたメルエにとっても、不安を隠しきれない状況で見る景色。

 そんな初めて外から見た街の景色を、メルエは憶えていたのだろう。故に、町の外に一行が辿り着いた時に、その景色が自分の記憶と寸分の狂いもなく重なり、以前は感じた事もなかった恐怖が、メルエの心を支配したのだ。

 

「はぁ……凄いですね……」

 

 町へ入ってすぐにサラが声を漏らす。その言葉通り、夜の帳が降り始めた町は、喧騒が広がっていた。

 今まで歩んで来た町や村では考えられない事である。

 通常であれば、陽が落ち始めると店仕舞いなどを始め、暗闇が支配する頃には、外に出ている人間等皆無となるのだが、この町では異なっていたのだ。

 昼の状況を見た訳ではないが、もしかすると昼に外に出ている人間よりも多いのではないかと思う程、町は人で溢れ返り始めていた。

 

「……まずは、宿屋へ向かう。情報収集はそれからだ」

 

 周囲を興味深げに見ているサラに、冷たいカミュの言葉が飛ぶ。我に返ったサラは、自分の行動を恥じ、顔を俯かせながらカミュの後を追った。

 

 

 

「こんばんは! 旅人の宿へようこそ! 三名様ですか?」

 

 宿屋はすぐに見つかった。

 入口を入ってすぐ右手に、宿屋の看板をぶら下げた大きな建物が見えていたのだ。

 これ程の大きな町であれば、旅人も多く訪れるのであろう。宿屋の中も綺麗に整頓されている。

 

「……いや……四人だ……」

 

 宿屋の主人の問いに、カミュは若干マントを広げ、メルエの腕を見せる。その行為に驚いた主人であったが、隠したままであれば、三人分の料金で済んだところを、わざわざ見せるカミュの紳士的な行為に表情を緩めた。

 

「四名様ですね。あいにく二部屋しか空いておりませんが、よろしいでしょうか?」

 

 このような大きな宿で、二部屋しか空いていない筈はない。しかし、大きな宿であればこそ、急な客に対応できるように部屋を空けておくのだろう。

 

「……構わない……ただ、一部屋は三人が入れる大きめの部屋を頼む」

 

「畏まりました。では、お一人様7ゴールドで、全部で28ゴールドとなります」

 

 カミュの要求に考える素振りもなく応える主人の様子が、部屋に余裕がある事を示していた。

 カウンターに袋からゴールドを取り出したカミュへと、主人は部屋の鍵を渡す。

 

「夕食は食べられますか?」

 

「何?」

 

 ゴールドを受け取った主人の言葉に、真っ先に反応したのはカミュ達一行の食の番人であるリーシャだった。

 基本的に、宿と食事はセットであるのが常識である。それに伺いを立てるという事は、食事を出さない可能性があるということだ。

 

「……食事は出ないのか?」

 

「お客様は、この町は初めてでございますか?」

 

 リーシャの問いかけに主人は若干驚いた様子を見せる。それが、この町に何度も訪れる旅人が多いことを意味していた。

 カミュは静かに主人に向かって頷きを返す。

 

「そうでしたか。では、夜の町をご覧ください。この町が本領を発揮するのは夜でございますので。先程の私の問いかけも、この町に来た旅の方の中には、夜の町で食事をされる方も多く、その方々には食事分だけ料金を割り引きさせて頂いていましたので」

 

 一行は主人の話にようやく納得がいった。

 つまり、この町は夜に動き出すのだ。

 その為、それを楽しむ人間も多いのだろう。

 

「……食事の用意は頼む……」

 

「畏まりました。では、食事が出来ましたらお呼びいたします」

 

 カミュの言葉ににこやかにほほ笑んだ主人を置いて、一行は部屋へと向かった。

 部屋への階段を上っている最中に、不意にリーシャが口を開く。

 

「カミュ、お前は町で情報収集をして来てくれ。私はメルエを見ている。サラもカミュについて行ってやってくれ……メルエ、おいで……」

 

「…………」

 

 リーシャの提案に対してカミュが答える前に、カミュのマントからメルエが飛び出し、リーシャの足元にしがみ付く。

 そのメルエの様子に、カミュもリーシャの提案を飲むしかなかった。

 

「……わかった……メルエを頼む……」

 

「ああ。食事も変更する事を主人に言っておく。私達の分だけを作ってもらうようにするから、サラ達は外で食べてこい」

 

 情報収集に時間がかかる事を考慮に入れるリーシャに多少驚きを見せるが、カミュはその提案にも素直に頷いた。

 サラは逆に戸惑ってしまう。今まで、カミュと二人で行動した事などないのだ。

 おそらく、カミュは一言も自分から話す事はないだろう。口を開けば、衝突を繰り返して来た相手にどう接すれば良いのかが、サラには解らなかった。

 

 

 

「リ、リーシャさん、何故あのような事を!?」

 

 部屋に荷物を置いてからすぐ出るというカミュの言葉に荷物を置きに部屋へと入った途端、サラはリーシャに噛みついた。

 そんなサラの言葉に驚いたような表情を見せながらも、メルエの着替えを手伝っているリーシャが口を開く。

 

「ん? 私が付いて行っても良いのだが、サラも知っての通り、私は交渉事にはあまり適していない。私が行くよりも、サラが一緒に行った方が情報収集に役立つだろう?」

 

「そ、それでしたら、カミュ様一人でも良いではないですか!?」

 

 リーシャの言い分は尤もだった。

 リーシャが交渉に向かない事は周知の事実だ。

 しかし、それはサラがついて行く理由にはならない。

 別段カミュ一人でも良い筈なのだ。

 

「そうかもしれないが……他人から話を聞くのに、カミュの態度ではな……サラが共に居れば、相手も少しは心を許すんじゃないかと思ったんだが……」

 

 メルエの着替えを終えたリーシャがサラに視線を向けながら呟いた言葉に、サラは『ぐぅ』の音も出なかった。

 確かに、カミュは人から話を聞く事はするが、あの無表情で問いかけられれば、それに快く対応してくれる人間は限られるだろう。ならば、リーシャの言うとおり、自分が横にいる事で多少なりとも軽減できる可能性がある。

 

「…………サラ…………カミュ…………きらい…………?」

 

「そう言う訳ではありません。確かに許せない部分もありますが……」

 

 サラは最近のカミュを量りかねていた。

 相変わらず、カミュは『人』も『魔物』も区別しない。しかし、それに対するサラの気持ちの中に、以前の様な抑えきれない怒りが湧いて来ないのだ。

 

「私は、少しメルエとのんびりさせてもらう。それに……サラ、『魔王』や『悪魔』の言う事を聞かなければ、どうなるか解っているんだろう?」

 

「リ、リーシャさん!」

 

 リーシャの顔には意味ありげな笑みが浮かんでいる。

 『まだ根に持っていたのか!?』とサラは驚かずにはいられない。サラからすれば、自分に向かって『鬼』と表現したリーシャが怒る道理はない筈なのだ。

 『自分の事は棚に上げて』とでもサラは言いたい事だろう。

 

「…………サラ…………言ってない…………」

 

「メルエも! もう遅いですよ!」

 

 それに対し、リーシャに露呈した原因であるメルエが必死に弁解するが、それは既に遅すぎる。

 泣きたくなる気持ちを抑えて、サラは部屋を後にした。

 

 

 

 リーシャとメルエを宿屋に置き、カミュとサラは夜の<アッサラーム>を歩く。夜とは思えないほどの賑わいを見せる町は、サラにとってとても新鮮な物だった。

 アルコールを含み、大きな声で笑う人々。

 そんな人々を店へと誘う男達に、その横で妖艶な笑みを浮かべる女達。

 どれもこれもがサラにとって初めての事で、サラはしきりに周囲を見渡していた。

 

「……武器屋があるな……」

 

「えっ!?」

 

 前を歩くカミュが、不意に見つけた看板に声を洩らす。そして、そのまま武器屋の中に入って行くカミュに驚きの声を上げながら、サラも店の中に入って行った。

 

「おお! いらっしゃい!」

 

 武器屋の中は外観よりも広く、様々な武具が陳列されていた。

 カザーブの村の特産であった<鋼鉄の剣>は勿論、それ以外の武器や防具なども所狭しと並べられている。

 奥にあるカウンターには、三十半ばの主人がおり、店の中に入って来たカミュ達を見て笑顔を向けて歓迎を表していた。

 

「……武器を見たいのだが……」

 

「ん?……おう、初顔だね。アンタ、昼間に変な奴に、何か売りつけられたりしなかったかい?」

 

 武器を見たいというカミュの顔を見て、武器屋の主人は妙な事を口走る。ぼったくりでもあるというのだろうか。

 サラは、武器屋の主人の真意を測りかね、首を傾げてしまった。

 

「どういう事ですか?」

 

「おお、こんな可愛い娘さんまでいるとは……いや、この町は人が多いからな。妙な商売をする奴もいるのさ。あっ、うちはまともだぜ。武器の値段もロマリアで売っている物は、ロマリアと同じ値段だ」

 

 何か、目の前で主人が口を開くほど怪しさが増して行く。

 サラは、『可愛らしい』という部分に反応し、少し頬を赤らめていたが、カミュは訝しげに主人の瞳と、その後ろに陳列されている商品を見比べていた。

 

「……親父、これは?」

 

「ん?……ああ、それは<鉄の斧>って代物だ。木こりが使う斧を少し加工した程度の物だが、その切れ味、破壊力は折り紙つきだぜ」

 

 カミュが持ち上げたものは、本当に『斧』そのもの。

 店主が言うように木こりが使うような単純な斧とは異なるが、<シャンパーニの塔>で出会ったカンダタの持っていたような斧とも違う。

 ハルバードと呼ぶにはお粗末であり、ただの斧と呼ぶには手が込んでおり、<鉄の斧>とは言い得て妙な物だった。

 

「……あの戦士は、斧も使えると思うか?」

 

「えっ!? リーシャさんですか?……え~と……何でも使えるのではないでしょうか?」

 

 カミュの問いかけに、サラは戸惑いながら答えるが、その頭の中には斧を振り回すリーシャの姿が浮かぶ。

 それはまさしく『悪魔』か『魔王』。

 

「……親父、いくらだ?」

 

「おお! 買ってくれるのか? 2500ゴールドだ」

 

 サラはその金額に驚いた。

 <鋼鉄の剣>の倍以上なのだ。

 

「……高いな……<鋼鉄の剣>が二本買える……」

 

「しかし、正規の値段だぜ。何処に行っても、この値段で売っている筈だ」

 

 カミュの言葉に店主が反論する。その口ぶりに慌てた様子が全くない事から、言っている事は真実なのだろう。

 ただ、カミュやサラの感じた通り、値段が高い。

 <鋼鉄の剣>より、格段攻撃力が高い訳ではないだろう。それなのにも拘わらず、倍以上の値段がする事に抵抗感を感じてしまったのだ。

 

「……わかったよ。うちは夜しか営業してなくてね。夜の町だから、武器屋に足を運ぶ酔っぱらいは少ないんだ。2200ゴールドで良いよ。悪いが、それ以上はまけられない。俺にも生活があるんでね」

 

「……もらうよ……」

 

 店主の言葉は事実だろう。その上で、カミュ達に値引きをすると言っているのだ。

 流石のカミュも、値引きまでさせておいて買わないという選択肢は選べなかった。それが、サラには微笑ましかったが、その<鉄の斧>を持ったリーシャを想像してしまうと、どうしても血の気が引いてしまう。

 

 ゴールドを支払った後、その商品を宿屋にいる人間に届けてくれるように交渉すると、意外にも店主は快く了承してくれた。

 部屋の番号と、リーシャの名前、そして簡単に書いた手紙を渡し、カミュとサラは店を後にする。

 

 

 

「お客さん! アンタ方、もう劇場には足を運んでくれました?」

 

「きゃ!」

 

 店を出てすぐ、突如横からかかった声に、サラが驚きの声を上げる。視線を移すと、そこには手揉みをしながら、奇妙な笑みを浮かべる男が立っていた。

 

「見た所、アンタ方初めてだね? アッサラームに来たのなら、一度はベリーダンスを見て行かないと! ああ、女の子でも見ていけるダンスだよ」

 

「ベリーダンスですか?」

 

「ああ、この町の名物さ。この町には、綺麗な女性が集まってくるからね。それこそ、お譲さんみたいなさ。そんな綺麗どころが躍るダンスだよ。一度見て行っておくれ」

 

 明らかにお世辞に近い男の言葉に、サラは顔を赤らめる。

 サラの容姿は整っている部類に入るだろう。しかし、片田舎と言っても過言ではないアリアハンの『僧侶』として育ったサラは、この町にいる女性の様に垢抜けてはいない。

 

「……時間があれば、寄らせてもらう」

 

「是非、後で寄ってください!」

 

 男の言葉を意に介さないカミュのそっけない言葉にも、愛想笑いを浮かべながら男は勧誘を忘れない。

 サラは、男とカミュを見比べて、カミュを慌てて追った。

 サラにとって、自分の容姿を褒められた事は、育ての親である神父からしかなかった。故に、それはじわじわと自分の胸に嬉しさと恥ずかしさにを混ぜた物として湧き上がって来る。それは、サラもまた女性である証拠だった。

 それが表情にまで出てしまっているが、そのサラの小さな喜びは、すぐ目の前に現れた者によって潰される事なる。

 

「あら、お兄さん。結構良い男じゃない?」

 

 前を歩くカミュの前に立ち塞がるように現れた妖艶な女性。

 綺麗な髪を長く靡かせ、元々整った顔立ちは化粧という魔法をかけ、更に美しくなっている。

 着ている服もどこか露出が高く、否が応にも女を感じさせるものだった。

 

「……」

 

「??……無口な人なのね。そんなお兄さんでも笑顔になるわよ。私と気持の良い事をしない?」

 

「なっ!?」

 

 立ち塞がる女性を突き飛ばす事も出来ず、その場に無言で立つカミュに、その妖艶な女性は、サラが絶句してしまうような言葉を投げかける。

 

「『ぱふぱふ』なんてどう?」

 

「えぇぇぇぇ!!」

 

 妖艶な女性の投げかける言葉の意味を理解したサラは、大きな叫び声をあげる。しかし、カミュは無言なまま。

 その不思議な光景に、女性は少し驚いたように目を開いた。

 

「……まず聞きたいのだが……それは何だ?」

 

「えぇぇぇ!?」

 

 続いてカミュが呟いた言葉に、今度は女性とサラの言葉が重なった。女性の提案を『知らない』というカミュに二人とも驚いていたのだ。

 女性は、耳年増が多い。

 同じ年齢の男と女でも、興味の問題があるのかもしれないが、知識は女性の方が高い可能性があるのだ。

 

「お、お兄さん。『ぱふぱふ』を知らないのかい?……そりゃあ、勿体ないね……こんな可愛らしいお嬢さんを連れているのに……」

 

「そ、そんな……」

 

 先程の男に続き、サラから見ても女として完成されている妖艶な女性に『可愛い』と言われ、サラの頬は紅潮する。

 しかし、その女性の視線に気が付いた時、サラの血の気は一気に下がった。

 

「……う~~ん……まぁ、これじゃあ仕方がないかね」

 

「なっ!?」

 

 その女性の視線の先は、サラの顔ではなく、もう少し下の部分であり、サラの法衣の前掛けに刺繍された十字架の先当たり。つまり、それはサラの胸部であった。

 咄嗟に、サラは自分の胸を護るように両手で隠す。

 

「……それじゃあねぇ……まぁ、やりたくても出来ないわね」

 

「し、失礼な!?」

 

 その女性は、サラの胸の膨らみをしみじみと眺め、とても残念そうに眉を下げて感想を洩らすが、それはサラにとって屈辱的な言葉だった。

 サラとしても、同年代の人間より、若干劣っているとは感じているが、他人が憐れむ程だとは思っていない。 

 

「わ、私のは、成長途中なのです!?」

 

「……まぁ、そうだね。歳が二桁になったばかりじゃ、そんなもんさね」

 

「なっ!?」

 

 サラの反論に、何か思い当たったように女性が溢した言葉は、サラの心を更に抉る一言だった。

 彼女が言うには、サラはメルエとそう歳が変わらないという事になる。

 サラは、こう見えてもカミュより年上なのだ。

 

「し、失礼ですよ! 私は十八です!」

 

「えっ!?」

 

「はぁ?」

 

 我慢の限度を超えたサラの叫びに、今度は女性とカミュの声が重なる。

 カミュが聞いた時のサラの歳は十七だった筈だ。何時の間にか、二つも離れている事にカミュは驚いたのだ。

 

「へ、へぇ~、十八なのかい?……私とそう変わらないじゃないか。それじゃあ、尚更厳しいねぇ……私が十八の頃にはこんなだったからね……」

 

「ぐっ!?」

 

 サラの歳を聞いた女性は、一瞬サラの剣幕に怯むが、余裕の笑みを取り戻し、自分の豊かな胸を持ち上げながら、挑発的な視線をサラに送る。

 サラは、その様子を悔しそうに睨むが、遠巻きに見ている事しか出来なかったカミュには、女性がサラをからかっているようにしか見えなかった。

 

「……私だって……」

 

「まぁ、気にする事はないさ。好みも人それぞれだからね……アンタの方が良いって奴もどこかにいるさ」

 

 それは、サラの望みを真っ向から否定する言葉。

 『もうそっちの望みはないのだから、別の視点で進め』という何とも怒りが湧いて来るような助言であった。

 

「ぐぐぐぐ」

 

「可愛らしくて、良いじゃないか?」

 

 悔しさに歯を噛みしめるサラに、妖艶な女性は最後の追い打ちをかけた。

 それは、からかいであったが、からかいとは受け取れないサラの感情は爆発する。

 

「カミュ様!!行きましょう! このような失礼な方の話を聞く必要などありません!」

 

「ふふふっ、人間、図星を突かれると感情が高ぶるのよね……」

 

「……初見の人間をからかうのは、そこまでにしてくれないか?」

 

 怒りの炎を宿したサラの発言に、尚もからかうような言葉を投げる女性に、ようやくカミュが間に立つ事にした。

 このままだと、感情を抑える事が出来なくなったサラが、女性目掛けて<バギ>でも唱えそうな瞳で睨んでいたからだ。

 それは、おそらくカミュの過剰な心配ではなかっただろう。実際、サラの視線は人を殺しかねない物だった。

 

「ふふふ、お兄さん、『ぱふぱふ』をする気になったの? その子には出来ない事を色々としてあげるわよ?」

 

「カミュ様!!」

 

 溜息交じりのカミュに、余裕の笑みを浮かべる女性は、尚も言葉の端でサラを挑発する。その言葉をまともに受けたサラは、憎しみと怒りを混ぜた視線をカミュにまで向けて来た。

 

「……いや、それが何なのかは知らないが、やめておく……それよりも、『メルエ』という名前を聞いた事はないか?」

 

「はぁ?……なんだって?」

 

 カミュは、この女性が若いながらも、この夜の町でそれなりの情報力を有していると見ていた。

 夜の町に立ち、色々な男に声をかけているのだろう。必然的に噂話などは数多く耳に入って来る。

 その上でカミュは、この先の進路の目安になる『魔法のカギ』等の情報ではなく、『メルエ』という少女の事を尋ねたのだ。

 

「……『メルエ』という少女を知らないか?」

 

「ん?……メルエ?……どっかで聞いた事あるね。どこだったかね……」

 

 暫し考えるように唸っている女性をカミュは無言で見詰め、サラは未だに敵意剥き出しの視線を女性へ向けていた。

 そんなサラの呪詛混じりの視線を気にする様子もなく、暫し虚空を見上げた女性は、何かを思いついたように手を叩いた。

 

「ああ! そうだ。あのおばさんの所のちびっこの名前が『メルエ』と言ったね、確か。そう言えば、最近見ないね、あの子。毎朝、あの劇場の裏で洗濯していたけど」

 

「!!」

 

 やはり、メルエはこの町の出身だったのだ。

 メルエはここで親に迫害され、そして売られたのだろう。

 妖艶な女性が見ていた光景がそれを物語っている。

 

「……その『おばさん』とは?」

 

「う~ん。どっかにいる筈だよ……」

 

 もはや、女性の興味はカミュから失せていた。

 サラをからかう事にも飽きたのか、次に声をかける男性を探すように周囲に視線を動かしている。

 その時、カミュの後方で罵声が飛んだ。

 どうやら、酔っぱらいの男性に、酔っぱらいの女性がぶつかったようだった。

 罵声に振り向いたカミュとサラが見た物は、尻もちをつく女性と、その女性に悪態をつき、唾を吐きかける大柄な酔っぱらいの姿だった。

 

「ああ、あれだよ。あのおばさんが、お兄さんが聞いていた『メルエ』ってちびっこの母親だよ」

 

 後ろに立っていた妖艶な女性が、今まさにカミュ達の視界に入っている酔っぱらいの女性を指差しながら、声を出す。

 そして、その言葉を最後に、新たに見つけた男に悩ましい声を出しながら近づいて行った。

 

 カミュ達の視線の先にいる女性は、唾を掛けられた部分を薄汚れた服でふき取り、ふらふらとよろめきながら立ち上がった。そして、視点が定まっていないような瞳で歩き出す。

 サラには、それがとてもメルエの母親には見えなかった。

 色こそメルエに似てはいるが、手入れすらされていないような、バサバサの髪。

 いつ洗ったのかも分からないような薄汚れた服。

 そして、何よりも、大量のアルコールを摂取していると一目でわかる姿。

 どれを取ってもメルエに結びつく所が何もないのだ。

 

「……カミュ様……」

 

「……行くぞ……」

 

 『宿に戻りたい』という微かなサラの願いも、女性に視線を向けたまま歩き出すカミュの姿に潰えてしまった。

 カミュの歩く先にいる人物は、メルエの母親と呼ばれた女性唯一人。故に、カミュの目的はサラでなくとも解るものだった。

 

「……申し訳ない……少し話を聞かせてくれませんか?」

 

 ふらふらと歩く女性には、すぐに追いついた。

 仮面をつけたカミュの言葉に振り向く女性。その女性を間近に見て、サラは尚のこと驚いた。

 近づいただけでも解るアルコールの臭い。長年飲んで来たのであろうアルコールによって爛れた肌は、その女性の年齢を不透明にしている。

 もちろん良い意味ではない。

 

「……なんだい……アンタ達は?」

 

 その女性の声は、肌と同じように、アルコールによって焼け爛れていた。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

さて、かなり重要度の高いアッサラームの町です。
ゲーム上はそれ程重要視されていませんが、この物語ではかなりのキーとなります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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過去~メルエ~

今回は過去話です。
例によって、重く暗い話です。
心を強く持ってお読み下さい。


 

 

 

 ここ<アッサラーム>は、夜にその真価を発揮する。

 町に人が溢れ、それぞれの願望という名の欲望が交差する。

 財ある者は己の欲求を満たす為にこの町を訪れ、また貧しき者は己の願望を叶える為にこの町を訪れる。

 

 彼女は後者だった。

 貧しき家に生まれ、幼い頃から教育を施されずに畑仕事などを手伝わされていた。

 母親譲りの整った顔も、貧困な食事と、貧相な衣服によって見る影もない。

 そんな生活に嫌気が差し、彼女は十三で生家を出た。

 目指すは、近隣の国にもその名が轟く<アッサラーム>。

 その町は、将来を夢見る若者が集まる町。

 自分の夢や欲望を叶える事の出来る町。

 逆に、その分絶望や孤独を味わう事もあるが、それは若者達には解らない。

 

「そうかい!? アッサラームに行くのか!? 何もしてやれないが頑張れよ」

 

 両親は反対しなかった。

 数年前に彼女に弟が出来ていた。

 一家を支える若い男子の誕生。

 それに両親は狂喜した。

 

 それと同時に出来た苦悩が食糧難である。

 子供二人を養って行くにはあまりにも貧しい。候補としては、元は整っている娘を奴隷として売りに出すか、娘を捨てるかの選択肢しかない。

 故に、アッサラームに行くと彼女が両親に伝えると、諸手を挙げて喜ばれた。これで、変な罪悪感に苛まれる事なく、口減らしが出来ると。

 彼女は、両親から何の餞別も貰う事なく、生家を出た。

 

 

 

 <アッサラーム>に着いてすぐに、彼女は近くにある劇場に住み込みで働く事になる。

 劇場に出入りしている女性を見ていると、まさに夢の国にいるようだった。

 

 『自分もああなりたい』

 

 <アッサラーム>へ入ってすぐに見たその光景に、彼女は一人の踊り子に衝動的に声をかけていた。

 

「ん?……アンタも踊り子になりたいってのかい?……ふ~ん、まぁ、容姿はそこそこか……ついて来な!」

 

 彼女は運が良かったのだろう。

 話しかけた女性。

 それが、この劇場の座長の奥方だったのだ。

 着る物もみすぼらしく、生まれてこの方化粧などをして来た事のなかった彼女は、その奥方や気の良い先輩方におもちゃにされながらも、変貌して行く。

 その姿は、『本当に自分なのか?』と疑ってしまう程の物だった。

 

「へぇ~、物は良いと思ってはいたが、ここまでとはね。アンタ、いい踊り子になるよ」

 

「は、はい! よろしくお願いします!」

 

 鏡越しに、変貌した彼女を見ながら唸った奥方に、彼女は深々と頭を下げる。

 これから待っている自分の生活を夢見ながら。

 

 彼女の名は『アンジェ』。

 貧しい家を出て、都会で夢を掴もうとする、どこにでもいる若い女性。

 そんな彼女の物語である。

 

 

 

「アンジェ! 何してるんだい!? 私達の服は洗ったのかい!?」

 

「はい! もう、外に干してあります!」

 

「アンジェ! 私の靴はどこ!?」

 

「はい! すぐお持ちします!」

 

 夢と現実は違う。ましてや、アンジェは夢を掴むための道を見つけたばかり。そんな女性が、踊り子として舞台に立つ事など出来る訳がない。

 やっている事は、ほぼ全て雑用。先輩方の衣裳の洗濯から、荷物運びまで、一番若いアンジェの仕事であった。

 先輩方は厳しく、まるで『自分をいたぶって楽しんでいるのではないか?』と疑ってしまう程、アンジェに仕事を投げかけて来る。

 それでも、アンジェは必死に働いた。

 

 ここでは、働いた分、しっかりと食事が与えられる。

 それが下働きだとしてもだ。

 その事が、この劇場が如何に豊かかを示している。

 

 踊り子でNO.1やNO.2などになれば、それ相応の報酬が入る。その踊り子見たさに客は劇場へ足を運んで来るのだ。

 指名などの制度はないが、劇場の出口には、帰りがけに劇場の踊り子の人気投票の様な物が行われ、それによって踊り子にも格差が出て来ていた。

 

「アンジェ! 何してるんだい!? 私が舞台に出るよ! しっかり見ておきな!」

 

「はい!」

 

 お客から人気が出る人間というのは、外面だけが良い訳ではない。心に余裕が出て来るのか、自分の後釜を作る為なのか、後輩への配慮も怠らない。

 それが、アンジェが辛くとも苦しくとも、この劇場を出て行かない理由の一つであった。

 

 アンジェを可愛がってくれる先輩は、NO.1の人気ではなかった。

 常にNO.2からNO.4近辺を上下する人間だったが、アンジェは彼女の教えを受ける事に決めた。

 それは、彼女の踊りがとても綺麗だったからだ。その先輩は、決して見目麗しいとは言えない容貌だったが、その踊りの美しさ、華麗さに人々は魅了されていた。

 彼女の人気は、その容姿によるものではない事は、周知の事実。故に、アンジェは彼女に憧れた。

 アンジェは、いつしか彼女が舞台に立つその時間までに、全ての雑用を終わらせ、彼女の出番を舞台の袖で見つめる事が多くなった。

 そして、自分の踊りを食い入るように見つめるアンジェの視線に気が付いた彼女は、アンジェの面倒を良く見、可愛がるようになって行く。

 

「アンジェ! 違う! そこはそうじゃなくて、こう!」

 

「はい!」

 

 その先輩踊り子は、アンジェが雑用を終える頃を見計らって踊りの稽古をつけた。

 基本、踊り子は、自分の才と先輩の踊りを盗む事によって成長する。盗んだ踊りを自分なりに変えて行きながら、自分独自の特徴として完成させるのだ。

 もちろん演目によっては決まった踊りを一糸乱れずに踊る必要もある。しかし、ただそれだけしか出来なければ、表舞台に立つ事は出来ない。

 稽古は深夜にまで及ぶ事があったが、文句も言わずに一心不乱に踊り続けるアンジェに、先輩である彼女も苦笑しながら付き合う事が日常となっていた。

 

 

 

 そして、月日は流れる。

 アンジェに踊りを教え、この町での暮らし方を教えてくれた先輩は、昨年の結婚を機に劇場を引退した。

 彼女は、お客とは別に男性を見つけており、幸せそうな笑顔を見せながら、<アッサラーム>を出て行った。

 夫の故郷に戻り、主婦として生きて行くらしい。

 

「アンジェ、これからはアンタの時代だよ。アンタがこの劇場を盛り上げて行くんだ。頼んだよ」

 

「はい!」

 

 別れ際にアンジェの髪へ自分の髪に差していた髪飾りを付け、幸せそうに微笑む彼女の笑顔は、アンジェが見た中でも一番の美しさを誇っていた。

 そして、いつしかアンジェも、幸せな結婚というものに憧れを持つようになる。

 

 

 

 先輩が去って、数年。

 アンジェは、この劇場の顔となっていた。

 常にNO.1とNO.2を争う相手も出来た。

 レナと呼ばれる踊り手がライバルだった。

 アンジェより若干遅くに入って来た娘であったが、当時のNO.1に気に入られ、生来の容姿の美しさと快活さを武器に、めきめきと頭角を現した。

 踊りが綺麗なアンジェ。

 たまのミスも愛嬌として許されるレナ。

 互いが違う個性を発揮し合いながらも、劇場を盛り上げて行く。

 

 ライバルと認め合いながらも、年の近い二人は仲が良かった。

 踊りの事について論議しながら夜を明かす事もあり、そんな時は、仲良く座長の奥方に叱られた。そんな自分が夢見たような生活をアンジェがしていた頃、もう一つの夢がアンジェの下に予期せずに転がり込んで来た。

 

 『お客からの熱烈なアプローチ』

 

 それは、アンジェにとっても日常茶飯事な事であった。

 プレゼントが届けられたり、花束が届いたり。手紙が入っていたり、アンジェが家に帰る頃に待ち伏せをしていたり。

 そんな日常にある鬱陶しい客の一人と思っていたアンジェであったが、しかし、その客の熱烈なアプローチは手紙だけだったのだ。

 花束もプレゼントもない。

 待ち伏せもないから顔も見た事がない。

 しかし、手紙だけは毎日届くのだ。

 最初は、話しかける勇気もない貧乏で不細工な男なのだろうと思って、読まずに捨てていた手紙であったが、毎日毎日続く手紙に辟易し、一度その手紙を開封した。

 

「……」

 

 そこには、とても貧乏で教育を受けていない人間が書く事が出来るとは思えない綺麗な字でアンジェへの想いが綴られていた。

 アンジェも、この劇場に来るまで読み書きは出来なかった。

 それでも、『客からもらうカードが読めなきゃ嫌われるよ』という先輩の言葉に、懸命に学び、読めるようになった。

 しかし、書く字はお世辞にも綺麗とは言えない。

 そんな自分では書けない綺麗な字に興味を持ったアンジェは、その手紙を読み始める。

 中に書いてあったのは、どこにでも有り触れた言葉。決してアンジェの心を動かす物ではなかった。

 それでも美しい文字は人の心を動かす。

 

 『どんな殿方がこれを書いたのだろう?』

 

 そんな疑問が沸いたアンジェは、毎日届く手紙を楽しみにし始める。最初は胸に響かなかった有り触れた言葉も、毎日毎日美しい文字で書かれていると、アンジェの心に残って行った。

 そして、遂にアンジェはその相手に返事を書く事にした。

 それは異例の事。一人一人の客に返事を書いていたりしたら、踊り子などやってはいけない。

 それでも、アンジェはその手紙の送り主に会いたくなった。

 返事を認め、それを客からの手紙を受け取る受付の人間に手渡す。それからは、アンジェの心は一日中鼓動が速く、早く明日にならないだろうかと踊り中も上の空の状態であった。

 

「アンジェ! ほいよ」

 

「ありがとう」

 

 そして待ちに待った翌日。アンジェの手に今日の客が持ってきた手紙やプレゼントが手渡された。

 それを受け取り、他のプレゼントを見向きもせずに、アンジェはみすぼらしい封筒に入った手紙を探し出す。

 それはすぐに見つかった。

 他の手紙とは一線介したように、何の装飾もされていない封筒。待ちきれないようにアンジェはその封筒を破り、中身を取り出した。

 そこには、アンジェから返事が来た事に対しての喜びが紙一杯に広がっており、会う日時、場所は全てアンジェに任せる事が書かれていた。

 その男にしてみれば、そうする事でもう一度アンジェからの返事を貰う事を狙っていたのかもしれないが、恋愛経験など皆無に等しいアンジェは、嬉々として自分の都合を綴り、その日の内に返事を送った。

 

 

 

 待ちに待った男との逢瀬の日。

 アンジェは、めかし込む様子を不思議に思うレナの言葉をあしらいながら、外へ出た。

 劇場に住み込み始めてから、アンジェは昼のアッサラームに出るなど、洗濯物を干しに出る時だけだった。

 久しぶりに見る昼のアッサラームは静かで穏やかで、夜の喧騒が嘘の様な佇まい。

 それが、新鮮で、アンジェの心は更に浮き出す。

 

「あの……は、はじめまして」

 

 夢見るように、周囲を見渡していたアンジェは、唐突に自分の世界を壊した声に一睨みする。そこに立っていたのは、線は細いが、もやしのようではなく、気が弱そうだが、自分の考えを持っていないと言う訳でもない、何とも不思議な男が立っていた。

 

「貴方が……?」

 

「はい。アンジェさんがデビューする前から見ていました。お、お会い出来て、こ、光栄です!」

 

 顔はとても整っている。身なりも、今日の為に新調したのだろうか。プレゼント一つ添えない手紙を毎日送って来るような貧しい生活を送っている様子ではなかった。

 

 

 

 その日から、アンジェは非番の日等は、この男と会う事にした。

 その男の顔はとても整っており、笑顔が実際の年よりも大分若く見えるものだった。実際の歳はアンジェよりも二つ三つ上だろう。

 そして、何よりもアンジェを魅了したのは、その声。歌でも歌うかのように心地よく耳に入ってくる声にアンジェの心は奪われた。

 基本的に、劇場の下働きの男か、いやらしい目で見てくる客しか男を知らないアンジェは、日々を重ねる毎にこの男にのめり込み始めた。

 

 そして、月日を経て、アンジェは男と共に暮らし始める。

 男は、親もなく親戚もいない。アンジェと同じようにこの町へ夢と希望を持って出て来た若者だった。

 昼は町の清掃を行い、夜は劇場に通う。そう言う毎日を送って来た男だけに、ゴールドを蓄えている訳はない。

 必然的に生活はアンジェの収入によって賄われていた。

 

「じゃあ、アンジェ。今日も頑張って」

 

「ええ、貴方もお仕事頑張ってきてちょだい」

 

 それでも、男はアンジェと暮らす為に、夜も働き始めた。

 アンジェを想う気持ちは本物だったのだろう。

 夜の町でバーテンの様な仕事につき、朝方まで働く。

 そんな姿を見ていたアンジェもまた、ひた向きに踊りを踊った。

 

「アンジェ、僕はアンジェが好きだ」

 

「私もよ……」

 

 日々、お互いに愛をささやく二人の間にも月日は流れる。

 暮らし初めて数か月。

 踊り子としてのアンジェの人気に陰りが差し始める。

 基本、踊り子の恋愛は隠蔽しなければいけない。

 誰か他の男の物になったと知れれば、その人気は急降下して行く。

 しかも、アンジェの相手は元客だ。

 

 『何故自分ではないのか?』

 『自分の方が豪華なプレゼントを贈っていたのに』

 『自分の方が何度も足繁く通ったのに』

 

 そんな想いが常連の中に広がり始めたら、それは踊り子として命取りになるのだ。

 アンジェは、ライバルだったレナに大きく差を広げられる。それでも、純粋にアンジェの踊りを愛してくれるファンのおかげで、アンジェの人気は踏み留まっていた。

 そのようなアンジェの頑張りの月日が流れる中、相手の男は、アンジェに結婚を申し込む事はなかった。

 それは、未だに自分の収入が安定していなかったかもしれない。もしかすると、アンジェに踊りを辞めて欲しくなかったからかもしれない。

 

「アンジェと僕の子供が欲しいね」

 

 そんな男から、ある夜言葉が洩れた。

 それは、アンジェにとっても嬉しい言葉。自分と愛する男との間の子供。その子供が出来れば、自分はいつしかの先輩の様に幸せな笑みを浮かべて、この男と結婚が出来るのではないだろうか。

 

「そうね。私も貴方との子供が欲しい」

 

 アンジェの答えに、嬉しそうに歳より幼い笑みを浮かべた男はアンジェを抱きしめる。男の腕の中に包まれながらも、アンジェは喜びと幸せを噛み締めていた。

 

 

 

 それから数年。

 アンジェはまだ劇場で踊っている。

 男との間に子供は出来てはいない。アンジェが石女なのか、男に種がないのかは解らない。それでも、数年間身体を重ねても、ついぞ子供がアンジェの中に宿る事はなかった。

 それでも男の態度は変わらない。

 アンジェには優しい笑顔を向け、夜の町でも、懸命に働いていた。

 そんな男の姿に、アンジェは心を痛める。自分の責任だとは決まってはいないが、それでもアンジェは責任を感じてしまっていたのだ。

 

「アンジェ姉さん。ここはこれで良いですか?」

 

「えっ!? あ、ご、ごめんよ。もう一度踊ってくれるかい?」

 

 劇場でも、上の空になってしまう事が度々あった。

 今アンジェの前で踊りを披露しているのは、彼女の下で踊りを学ぶ若者。彼女はNO.1のレナでもなく、現在NO.2の踊り子でもなく、踊り自体が美しいアンジェの舞台を袖から食い入るように見ていた。

 その姿に昔の自分を重ねたアンジェは、自然と笑いがこみ上げ、その娘を呼び寄せ、自分がしてもらったように自分付きの練習生としたのだ。

 

「ほら! そこの足が違う! 何度言えば解るんだい!」

 

「は、はい!」

 

 自分がされたように厳しく、それでいて暖かく指導をして行くアンジェ。そのアンジェの想いが伝わっているのか、娘も必死でついて行こうとする。それは、娘が止めようとする明け方まで続いた。

 アンジェも自分を教えてくれた先輩の様に、娘が止めない限りは教える。その代り、本当に危ないと思えば、強制的に止めさせ、休ませていたが、この日は娘の調子も良かったのか、空は白み始めていた。

 

「ひゃ!」

 

 娘を部屋まで連れて行き、アンジェも自宅へ戻ろうと、劇場の裏口を出た時、思わず驚きの声を上げてしまった。

 そこには一つの籠。

 裏口の横に、小さな小さな籠が置かれていた。

 

「なんだい。驚かせないでおくれよ。誰だい、こんな所にプレゼントを置いたのは」

 

 大方面と向かってプレゼントを渡せずに、名前の書いたカードと共にプレゼントを置いて行ったのだろうと思っていたアンジェは、籠の中身を見る為にかがみ込む。

 

「!!」

 

 確かにカードはあった。

 しかし、書いてあった文章は、アンジェの予想を遥かに超えた物であり、そのカードが示す籠の中にあった物も、アンジェの想像を飛び抜けた物であった。

 

「……赤ん坊なのかい?」

 

 中に居たのは生まれて間もないであろう赤子。

 綺麗な布に包まれ、幸せそうな寝顔を浮かべている。時折、むにゃむにゃと口を動かし、手を開いたり握ったりしてはいるが、よく眠っている赤子だった。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

心優しき方へ

 

この子はとある女性から託された物です。

 

その女性は血だらけになりながらもこの子を私に託しました。

おそらく、その人はこの子の母親だったのでしょう。

自分の命を賭してまで子供を護り、その場で息絶えました。

 

しかし、私には、子供を養える余裕はありません。その女性が血を吐きながらも私を信じてくれた事を裏切るようになってしまいますが、私には幼子を養う能力もなければ、何かに襲われる事になった女性の子を育てる覚悟もありません。

 

この町の、この劇場であれば、生きていけるのではないかと思い、連れて参りました。

どうか、この子を育ててあげてください。

 

この子の名は『メルエ』と言います。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

「なんだい、これは!」

 

 その文を読んで、アンジェは思わず叫んでしまった。

 それは、この手紙を書いた人間の無責任さに対しての怒り。

 自分の身を挺してまで子を護り、必死で『人』の居る場所まで戻った後、子を託して息絶えたと言うのに、託された人間は、まるでそれが迷惑とでも言うように、ここに捨てて行ったというのだ。

 

 この安らかに眠る赤子の母親が、何に襲われたのかは解らない。それは、『魔物』かもしれないし、盗賊などの『人』かもしれない。

 それでも、血だらけになる程に痛めつけられたという事は、自分より力量が上なのか、それとも数が上なのかのどちらかだろう。

 そのような過酷な中にも拘わらず、我が子を護り、傷一つなく人里まで連れて来たのだ。

 その母親の心を無にするような行為にアンジェは怒りを覚えた。

 

「こっちは、子供が欲しくても出来ないっていうのに!!……この子、別に劇場で育てなくても良い筈じゃ……私と彼で育てれば……」

 

 アンジェの頭の中に、不意に浮かんだ自分自身に対する提案。

 それはとても甘美なものだった。

 これで、二人の間に子供が出来る。

 

 ここ<アッサラーム>は夜の町であり、見目麗しい女性が必須となる。

 その為に、奴隷商人から幼子を買い、踊り子や娼婦に育てるという事が当然の様に起こっている。

 しかし、どれ程、アンジェが子供を欲しているとはいえ、まさか奴隷商人から奴隷を買う訳にはいかない。だが、この赤子は、見た目は生まれたばかり。

 劇場内の人間以外には、自分の子供として通る筈だ。

 

「メルエってのかい?……アンタは今日から私の子供だよ」

 

 そんな言葉を掛けながら急いで籠を抱き上げ、アンジェは家路を走る。

 胸に湧き上がる喜びを抑える事なく、笑顔を浮かべながら。

 

「アンジェ!? その子は……」

 

「劇場の裏口に捨てられていたんだよ! この子は私と貴方の娘として育てようよ」

 

 興奮気味に扉を蹴り開けたアンジェの姿に驚いた男は、そのアンジェが両手に抱える籠の中身に更に驚いた。

 そんな男に満面の笑みを浮かべ、アンジェは先程自分が考えた事を男に向かって息継ぎもせずに言い切る。

 

「……その子は捨て子なのかい? へぇ~、結構良い布で包まれているね」

 

「ええ。劇場の前に捨てられていたわ」

 

 赤子を包む布が上質な物である事を確認している男に、アンジェは先程の手紙を手渡す。その手紙を読み終わった後に、顔を上げた男の表情は笑顔だった。

 

「そうだね、アンジェ。僕達で育てよう。はじめまして、メルエ。今日から君のお父さんだよ」

 

「ふふふ。おはよう、メルエ。今日からお母さんになるアンジェよ」

 

 目が開いているのか、開いていないのか分からないが、目を覚ました様子の赤子に対し挨拶をする二人。

 その様子はどこにでもいる夫婦の様な、微笑ましく、暖かい姿。

 

 

 

 それから数年、アンジェは忙しかった。

 近くに子供が生まれたばかりの母親の噂を聞きつけては、母乳を一緒に上げてもらえるようにゴールドを渡して頼みこむ。そして、明け方から眠る生活だったのを、仕事が終わってすぐに眠り、夜泣きをするメルエをあやし、ミルクを与えた。

 しかし、それはアンジェにとって確かな幸せだった。

 男も未だに結婚を口にしないが、メルエをあやす表情は優しい物であり、劇場で踊り、その傍にメルエを置く。

 子供のいない座長夫婦も、おおっぴらに許可しないまでも、黙認するという形でそれを遠巻きに見ていた。

 

 そんな幸せは、突如として変貌する。

 

 それは、アンジェと競っていたレナという踊り子が、しつこく付きまとう客に嫌気が差し、劇場を飛び出してしまった事から始まった。

 レナはここ最近悩んでいた。

 しつこい客が、待ち伏せをし、家までついて来る。プレゼントの中に、見るのもおぞましい物が入っている等、彼女は踊りを踊る精神状態ではなくなって来ていた。

 そして、ついに劇場を去って行ったのだ。

 突如消えたNO.1に劇場はひっくり返したような騒ぎとなった。今や、押しも押されぬNO.1となったレナの代役はいない。

 かつては人気を二分していたアンジェも、その人気に陰りが差していた。

 

「アンジェ、アンタの下に付いているあの娘はどうなんだい?」

 

「えっ!?」

 

 いないのなら、作るしかない。それが、夜の町<アッサラーム>の中で、この劇場が常に一番輝いている理由。

 上の者が年老いていっても、すぐにそれに代わる若い娘が出て来る。それを育てるのも踊り子の役目なのだ。

 

「え、ええ。踊りなら、もう舞台に出しても大丈夫でしょう。後は慣れの問題かと」

 

「そうかい……なら、今日からあの娘にも舞台に立ってもらうよ。アンジェ、しっかり見てやんな」

 

 アンジェの目から見ても、アンジェが可愛がっているその娘は、生まれついての器量良し。そして、アンジェが先輩から受け継いだ踊りを必死の想いで我が物にしようとしている。

 そんなアンジェの答えに、満足そうに頷いた奥方は、今日の舞台に立つ人間を読み上げた。

 

 その日から、アンジェの生活が様変わりを迎える。

 

 

 

 アンジェの育てた娘が舞台に立ち始めてから数日が経った辺りから、アンジェと暮らしていた男が夜の仕事をサボるようになって来た。

 メルエが『はいはい』をするようになり、目が離せなくなって来たアンジェは、舞台に上がる頻度も少なくなって来る。それに伴い、収入も下がり、アンジェの手元に入ってくるゴールドも減るのだが、そのゴールドもまた、いつの間にか無くなっているのだ。

 アンジェはメルエにとって必要な物や食料などを買い、戸棚にゴールドを仕舞っていたが、いつの間にか戸棚の中が空っぽになる。

 初めは盗賊が出たのかと考えた。しかし、周辺の家に被害はない。ならば、該当者は一人だけ。

 その事に思い至ったアンジェは、共に住む男を問い詰めるが、答えは白々しい嘘。誰にもでも解るその嘘を平気で突く男にアンジェは呆れた。

 

「何に使っているんだい!? 貴方、最近仕事にも行ってないみたいじゃないか!?」

 

「だから、ゴールドは取ってないって言ってるじゃないか!? 仕事だって行っているさ!」

 

「嘘言いなさんな! 私は知っているんだよ!」

 

「うるさいな!」

 

 何度か繰り返される罵声。

 最後に捨て台詞を吐いた男は家を出て行った。

 そして、その日から男が家に帰って来ない事が多くなる。たまに帰って来るのは、アンジェがいない時。

 今では、掴まり立ちを始めたメルエが『ぼうっ』と見守る中、戸棚からゴールドを取り出し、そのまま町へと出て行った。

 アンジェの生活は崩れ、それと共にアンジェの心も崩れて行く。そして、決定的な事が起こった。

 

「なんだって!?」

 

 久しぶりにアンジェのいる時に戻って来た男を見て、アンジェは心底喜んだ。

 『また自分の所に戻って来てくれたのだ』と。

 男に新しい女が出来たのではないかという事ぐらいは、アンジェにも解っていた。故に、男が飛び出してからは、メルエを劇場に連れて行く事なく、踊りに集中した。

 また、昔の様に美しい踊りを踊れば、人気も上がり、収入も上がる。そうすれば、あの男は自分の所へ戻って来ると。

 しかし、帰って来た男の言葉は、アンジェが待っていた物とは遠く離れた物だった。

 それは、アンジェとの離別の宣言。

 そして、それは衝撃の結果を生む。

 

「私は嫌だよ!」

 

「アンジェが嫌でも、僕はもう二度と君に会う事はない。今、僕の傍にいる女性がね、僕の子供を身籠ったのさ」

 

「えっ!?」

 

 男の言葉を了承しないアンジェに告げられたのは、厭らしい笑みを浮かべた男の言葉。

 その言葉にアンジェの視界が黒く染まって行く。もはや、アンジェの視界に何かが入り込む事はなかった。

 

「その女性は、若く美しい。しかも上品なんだ。きっと僕との子供は可愛いに違いないよ」

 

「なっ!? こ、ここにいる『メルエ』だって、私と貴方の娘じゃないか!?」

 

 男が視界に入って来ない状態にも拘わらず、アンジェは必死の抵抗を繰り返す。それを聞いた男は、更にあざ笑うかのような表情を浮かべ、吐き捨てるように呟いた。

 

「はっ! 僕と君の娘だって?……その捨て子がかい?……良い布で包まっているから、どこかの貴族の子供かもしれないって思っていたけど、ここ数年全く捜索している様子もない」

 

「……まさか……」

 

 アンジェは驚愕した。

 男が言っている内容は、メルエの身なりが良かったから引き取ったというのだ。

 メルエを探しに来た人間から礼を貰う為に。

 

「悪いけど、そんな子供は僕の子供ではないよ。子供が出来ないのは僕のせいかもしれないから、今まで黙っていたけど……そうではない事が分かった以上、そんな捨て子を自分の子供と思うつもりはない。それと、もう舞台でも華がなくなった君と暮らすつもりもないから」

 

「……そんな……」

 

 その言葉を最後に男は出口へと向かう。その後ろ姿をアンジェは呆然と眺めていた。

 出口へと向かう男の足元に、それまで指を咥えながら座っていたメルエが立ち上がり、向かって行く。

 

「…………あぁ~…………」

 

「!! なんだよ! 汚い手で触るな!」

 

 自分の足元を掴むメルエの手を、足を振る事で払い退けた男は、そのままメルエを蹴り飛ばした。

 男に蹴り飛ばされ後ろに転がるメルエ。

 ようやくその身体が止まった時には、大きな声を上げて泣き出した。

 男が出て行った後には、呆然と座り込む女性と、大きな泣き声を張り上げる赤子が残る。

 その日から、アンジェの虐待が始まった。

 

 

 

 結局男は、<アッサラーム>の町を出て行った。

 それもそのはず。

 男の子供を身籠ったのは、アンジェが可愛がっていたあの娘だったのだ。

 娘もまた、身籠った身体で男と共に逃げるように<アッサラーム>から消えていた。

 NO.1が去り、次代のNO.1までもが居なくなった劇場は大慌てだった。

 誰もアンジェに同情してくれる人間等いない。

 そんな話は、この夜の町には溢れ返っているのだ。

 

 呆然としているアンジェに舞台に上がる仕事が回って来なくなって来た。座長も、その奥方も、これを機会に踊り子の世代交代を進め始めたのだ。

 アンジェとしても、まだ若い。しかし、十代の頃の様に華がある訳ではなかった。

 必然的に、家にいる事が多くなる。

 仕事もなく、収入もない。

 僅かなゴールドでアルコールを買い、ひたすらそれを飲み尽くす。

 

「…………あぅ…………あぁぅ…………」

 

「うるさいね!」

 

 母親に近寄ろうと、おぼつかない足取りで歩くメルエを容赦のない平手が襲う。

 メルエはすでにミルクではなく、食料を口にし始めている。しかし、アンジェのアルコールに消えて行くゴールド以外、食料を買うゴールド等余ってはいない。

 アンジェに頬を打たれたメルエが泣き叫び、その泣き声にアンジェの神経は更に逆撫でされる。仰向けになりながら泣き声を上げる赤子をアンジェは組み伏せ、更にその手を上げた。

 何度も何度も振り下ろされる平手に、メルエの頬は真っ赤に腫れ上がり、泣き疲れるまで、その虐待は続く。

 

 

 

 立ち上がり、一人で歩けるようになり、自我が目覚め始めた頃、メルエは一切口を開かなくなった。

 目は光を宿しておらず、食料を与えられていない為、その身体は痩せ細っている。外に出てアンジェのアルコールを買いに行く時に、そのメルエの姿を見かけた劇場の座長夫妻が、『良く今まで生きていたものだ』という想いを持つ程のものであった。

 そして、座長夫妻は、メルエの為に仕事を与える事にする。

 劇場の下働き。

 それは、踊り子の服を洗い、踊り子の身の回りを世話する物だった。

 

「メルエ! アンタ、しっかり働いておいでよ!」

 

「…………」

 

「なんだい!? 何か喋りなよ、気味が悪いね!」

 

 座長夫妻の話を聞いたアンジェは、嬉々としてメルエを劇場に送り込む。多少なりともゴールドが入るのであれば、それで良いと思ったのであろう。

 メルエにそれを伝え、黙ったまま頷くメルエに、再びその平手を打ちすえる。

 座長夫妻は、そんな変わり果てたアンジェに驚き、そして哀しんだ。

 『あの、踊りにひた向きで、明るく笑うアンジェは、もうどこにもいないのだ』と。

 

 

 

 メルエはその後数年、劇場で下働きを続けた。

 下働きの給金は10ゴールド。それは、全てアンジェのアルコール代へと消えて行く。

 メルエの食事事情を心配した座長夫妻は、メルエに賄いの様なものを毎日与えていた。その為、痩せ衰えていたメルエの身体にも、次第に肉付きが戻り、年相応の少女の姿になって行く。

 一度、メルエのその変貌を疑問に思ったアンジェが、座長に詰め寄り、メルエの食事はいらないから、食事分も給金に反映させろと言った事があるが、座長は頑として受け付けなかった。

 もう、あの優しく微笑むアンジェはいない。優しく、それでいて厳しく教えていた娘に裏切られたあの日から、アンジェは別人に変わってしまった。

 そんなアンジェから、メルエの身を護るのは座長夫妻の仕事となっていた。

 護ると言えば、聞こえは良いが、実質は『人』として生きていけるようにする事。唯それだけだった。

 

「メルエ! 何やってんだい! こっちに洗い物がまだ残ってるだろ!」

 

「本当に鈍臭い子だね!」

 

 小さな手で、必死に洗濯をしているメルエの頭を小突き、その桶の中に新たな洗い物を大量に入れて行く。そんな行為に対しても、泣きもせず、ただ焦点の合っていない瞳を向けるメルエに、踊り子達の神経が逆撫でされた。

 劇場の踊り子達からも謂れのない暴力を受けるメルエを、座長夫妻はただ見ているだけ。それは、世間の厳しさを教える為なのか、それとも何か別の目的があるのかは解らない。

 メルエは、ただ黙々と洗濯を行い、それを干し、そして舞台を掃除する。

 踊り子の態度は、その下にいる練習生にも波及し、下働きをしているくせに踊りを学ばないメルエは、格好の攻撃の的となっていた。

 家にいてはアンジェに殴られ、劇場にいても、食事は与えられるが、更に大勢から謂れもない攻撃を受ける。

 メルエに、居場所など何処にもなかった。

 

 

 

 そんなある日、メルエはアンジェに呼ばれた。呼ばれる事は珍しい事ではない。アルコールがなくなった時、劇場から給金が出た時などは、必ずアンジェに呼ばれる。

 何も考える事なく、アンジェの前に顔を出したメルエは、そのアンジェの顔を見て驚いた。

 笑顔だったのだ。

 それも優しい笑顔。

 メルエが物心ついた時から一度も見た事のない笑顔。

 

「メルエ。アンタ、今日は劇場に行かなくても良いよ。私について来な」

 

「…………」

 

 笑顔のまま、メルエに向かって『仕事にいかなくても良い』と言うアンジェの言葉に、しばらく首を傾げていたメルエであるが、初めて見る母親の笑顔に恐怖を感じ、ゆっくりと首を縦に振った。

 素直に頷くメルエに、機嫌良く身支度を整えるアンジェは、黙って頷くメルエを叩く事はなかった。

 

「行くよ、メルエ!」

 

「…………」

 

 アンジェに手を引かれて歩き出すメルエは、劇場の前を通らないように、町の外へと連れ出された。

 初めて見る町の外。

 それは、メルエの目に強烈に焼き付いて行く。

 

 町の門を出た左手に、一台の馬車が止まっていた。

 薄汚れた幌に、くたびれた馬。

 そして、その馬の手綱を引く男は、屈強で大きい。

 アンジェは躊躇なくメルエの手を引きながら、馬車の傍に立っている男に近づいて行く。そこで、初めてメルエの胸に恐怖が湧き上がった。

 メルエの目から見ると、山の様に大きな男達が三人。手綱を握る男も含めると、四人。

 それは、家と劇場の往復しかして来なかったメルエにとって初めて見る光景であり、初めて見る生物。

 それがメルエには怖かった。

 

「おお、来たか!? 約束の20ゴールドだ」

 

「どうも……じゃあ、頼んだよ」

 

 アンジェを確認した男の一人は、アッサラームの町にある教会にいる人間のような法衣を纏っていた。

 その男からゴールドを受け取ったアンジェは、引いていたメルエの手を男へと引き渡そうとする。

 ゴールドを支払った男の手がメルエへと伸びた時、メルエは動いた。

 

「なっ!?」

 

「おいおい、頼むぜ……」

 

 アンジェは驚いた。

 メルエは、男の手を嫌がり、自分の足にしがみ付くように抱きついて来たのである。あれ程、怒鳴り、殴り、罵倒して来た自分にしがみ付くメルエの姿は、アンジェを驚かせたのだ。

 

「ほら! こっちはゴールドを払ったんだ。てめぇは俺達の物なんだ。さっさと来いよ!」

 

 しがみ付くメルエを強引に引き剥がし、メルエを連れ去ろうとする男達。それは奴隷商人と呼ばれる男達だった。

 メルエが働いて貰える給金は10ゴールド。その倍の20ゴールドでアンジェはメルエを売った。

 たった二月分の給金だ。

 

 奴隷商人に引き摺られるメルエの目を見て、アンジェは初めて後悔した。

 メルエの瞳が怯えを見せていたのだ。

 自分にどれだけ怒鳴られ、どれだけ叩かれても、死んだ魚の様に生気のない瞳をしていたメルエが怯えている。

 まるで、自分に助けを求めるように。

 

「メ、メル……」

 

 その先の言葉は繋げなかった。

 言葉を発して何になるというのか。

 引き止めるのか?

 このゴールドを突き返し、メルエを取り戻すのか?

 

 それはおそらく不可能。

 奴隷商人が一度ゴールドを支払えば、そこで契約は成立する。

 その契約を覆す事は出来ない。

 

「…………いや…………」

 

 その声を聞いた時、アンジェは自分を呪い殺したくなった。

 初めて聞いたメルエの声。

 泣き声以外、話そうともしなかったメルエが、今、話す事も咎めていた自分に向かって助けを求めるように言葉を発したのだ。

 母親としての仕事など、あの時以来何もしていない。むしろ、メルエが生きているという事実が不思議な程の事を繰り返し行って来た。

 それでも、メルエはアンジェに助けを求めているのだ。アンジェを母親と信じ、アンジェだけがこの場で自分を救ってくれる存在だと信じて疑わない。そんな自分を信じきったメルエの瞳を、アンジェは見ている事が出来なかった。

 故に視線を外す。

 それが、この後、自分を生涯苦しめる事になる行為だとは知らず。

 

 アンジェが視線を外している間に、メルエは男達の手によって馬車の中に入れられた。

 視線を背けたアンジェを見て、メルエは諦めたのかもしれない。馬車に入るまで、アンジェの耳にメルエの泣き声も、叫び声も聞こえなかった。

 

「よし、行くぞ!」

 

 馬車に乗り込んだリーダー格の男の合図に、手綱を引いていた男の手が動き、ゆっくりと馬車が動き出す。<アッサラーム>から北の方角へ向かって行く馬車は、その先にあるロマリアへ向かって行くのかもしれない。

 それは、もうアンジェには関係もなく、立ち入る事も出来ない。

 

「……メ、メルエ……うぅぅ……」

 

 馬車の後ろ姿が小さくなっていく。

 そこで、初めてアンジェは涙を溢した。

 

 あの時、男に裏切られ、可愛がっていた後輩に裏切られても涙一つ見せなかったアンジェが、今涙を抑えきれずに溢している。

 それは、哀しみの涙なのか、後悔の涙なのか、それとも懺悔の涙なのかは、アンジェしか解らない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回の話には賛否両論があると思います。
いや、「否」の方が多いかもしれません。
それでも、これがメルエの過去の一旦です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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アッサラームの町②

 

 

 

 カミュとサラは、一件の酒場のテーブルについていた。

 二人の前には、先程声をかけた女性が注文した酒を呷り、出て来た料理を口に入れている。

 酒場で酒と食事の代金を肩代わりする事を条件に、カミュ達は彼女の話を聞ける事となり、彼女の言う酒場までついて来たのだ。

 彼女は、聞いていた通りにメルエの母親だった。

 ただ、義理のではあったが。

 

「まぁ、そんな話さね」

 

「そ、そんな話!?」

 

 グラスに酒を注ぎながら、ぼそりと呟いたメルエの母親と名乗る女性の言葉に、サラが勢いよく立ち上がる。

 サラにとって、それは『そんな話』で許されるような問題ではない。それこそ、目の前の女性を八つ裂きにしてしまいたい程の怒りを覚えた。

 

「貴女は……貴女は……メルエをなんだと思っているのですか!?」

 

「私の娘さね。娘なんだから、何をしようと私の勝手だろ」

 

 サラの怒りの発言も、この女性にはまさにどこ吹く風。

 返って来た余りの言葉に、サラは絶句する。

 隣に座るカミュの瞳も、かなり厳しい物になっていた。

 

「よりにもよって、『人』を……『人』を、たかだか20ゴールドで売り払うなど……」

 

「はっ! メルエはそのお陰でアンタ方と一緒にいる事が出来たんだろ?……感謝こそされ、恨まれる謂れはないね」

 

 自分の非を棚に上げる発言に、サラの感情が遂に爆発した。

 握りしめていた拳を開き、目の前のテーブルに叩きつける。テーブルに乗っていたスープは零れ、料理の一部が引っ繰り返った。

 

「メルエは……メルエは殺されるところだったのですよ!!」

 

「!!」

 

 その時サラには見えていなかった。

 目の前の女性の目が一瞬見開かれた事が。

 女性の物言いに激昂し、周囲の視線も気にせずに叫ぶサラにはそれに気が付く余裕などなかったのだ。

 

「……もういい……」

 

「……カミュ様……」

 

 激昂するサラを抑え、口を開くカミュ。

 そのカミュの言葉に、目の前の女性も落ち着きを取り戻す。

 

「ど、奴隷なんだから、何をされても仕方ないんだろ?」

 

「……そうだな……それもこれもアンタが招いたものだ。メルエには、ここで幸せに暮らすという可能性もあった筈だ。それを潰したのはアンタだ」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュは、先程の女性の動揺を確かに見ている。それでも、自分の胸の内に湧き上がる黒い衝動を抑える事はしなかった。

 自分の叫びを抑制した筈のカミュが、女性に向かって冷たい言葉を投げかける姿をサラは呆然と見守るしか出来ずにいる。カミュは、先程まで被っていた仮面を取り外していた。

 もはや、その口調の何処にも遠慮などない。

 

「……話はそれだけだな……」

 

 カミュは腰の袋に入っているゴールドをいくらかテーブルに置き、立ち上がる。それは、メルエの義母であるアンジェとの会話を打ち切るものだった。

 

「……メ、メルエは……メルエはアンタ方とは話をするのかい?」

 

 背中を向けるカミュに、テーブルを見つめたままアンジェは呟いた。

 アンジェの頭には、未だにメルエとの別れの場面がこびり付いて離れない。

 あの、救いを求める瞳が、救いを求める言葉が。

 

「……ああ」

 

「……アンタ方には、笑顔を見せるかい?」

 

 いつからだろう。

 メルエがアンジェに笑顔を見せなくなったのは。

 まだ、アンジェに口を開いてくれていた頃、言葉を知らず、声を洩らすだけだった頃は、確かにメルエはアンジェに笑顔を向け、アンジェの傍に近寄ろうとしてくれていた。

 

「……ああ」

 

「……そ……そうかい……うぅぅ……」

 

 カミュの返事に、アンジェは机に崩れる。カミュやサラに聞こえないように嗚咽を漏らし、顔を上げる事はなかった。

 

 アンジェは、あの日、メルエを奴隷商人に引き渡したその日から、摂取するアルコールの量が一段と増えていた。

 いくらアルコールを飲んでも、あのメルエの瞳が忘れられない。

 あのメルエの声が耳から離れない。

 あの日から、アンジェの心に自分を裏切った男も、自分を裏切った娘も浮かんで来る事はなかった。 

 浮かぶのは、全てメルエの事。

 他人の乳を懸命に飲むメルエの姿。

 腹を満たし、満足そうに目を閉じ眠るメルエの姿。

 自分の姿が見えなくなると泣き、自分が近寄ると輝くような笑顔を向け笑うメルエ。

 裏切られ、自暴自棄になり、その捌け口をメルエに求めた自分に、それでも笑顔を向けるメルエ。

 叩いても、叩いても、真っ赤に腫れあがった頬をしながらも、自分に手を伸ばすメルエ。

 そして、最後に必ず、あの怯えたメルエの瞳と、助けを求めるメルエの声がアンジェを襲うのだ。

 気が狂いそうだった。

 何度も死のうと考えた。

 メルエを奴隷として僅かなゴールドで売り払った立場にも拘わらず、その安否に思い悩む自分を許せなかった。

 故に、自分の前に出て来た今のメルエの保護者が、自分がメルエにした行為に激昂し、叫び声を上げる姿を見て、感極まった。

 メルエは今、幸せかどうかは別にしても、自ら笑顔を見せる事を躊躇う事はないのだ。

 

「……行くぞ……」

 

「……はい……」

 

 テーブルに伏せるアンジェを残し、カミュとサラは酒場を後にする。

 サラの心には暗い影が残った。それは、あのメルエの母親と名乗る女性が行った行為に対する怒り。

 だが、今サラを苦しめているのは、『僧侶』という身分でありながら、あの女性を許す事も導く気も起きずに、ただ『殺してやりたい』という想いを持ってしまっている黒い自分に対してのものだった。

 サラの復讐の対象は『魔物』であり、『人』ではない。

 『魔物』の脅威に怯える『人』の未来を救う事がサラの目標なのだ。

 あの女性も、大まかに括れば、その『人』である事は間違いがない。この世の中に生きている『人』は少なからず『魔物』の脅威に怯えている。

 それでも、サラはあの女性が『魔物』に襲われていたとしても、それに救いの手を差し伸べる気持ちは微塵もなかった。

 そんな自分をサラは許せなかったのだ。

 

「……ついて来たのが、アンタで良かった……」

 

「えっ!?」

 

 宿屋への道を歩きながら、ぼそりと呟いたカミュの言葉に、自分の思考の中に入り込んでいたサラは、弾かれたように顔を上げた。

 

「……あの戦士が隣にいたら、あの母親は、俺が止める前に叩き切られていたかもしれない……」

 

「えっ!? そ、そんな、いくらリーシャさんでも、それは……」

 

 カミュの言葉に反論しようとするサラであったが、自分の頭の中でその事を想像すると、決して強く反論出来る物ではなかった。

 

「この事を……リーシャさんには話すのですか?」

 

 リーシャは間違いなく激昂するだろう。

 それこそ、殺しかねない程に。

 それは、サラにも予想が出来た。

 

「……話さない訳にはいかない……あの戦士は、この情報を掴む為に俺を外に出したのだろうからな……」

 

 しかし、カミュから返って来た言葉にサラは再び言葉に詰まる。それはサラの予想だにしなかった物だったからだ。

 メルエの素姓を知る為に外へ出た等、サラは考えもしていなかった。その証拠に、カミュがあの失礼な女性にメルエの母親について尋ねた時、サラの頭には疑問符しか浮かんでいなかったのだ。

 

「えっ!? そ、そうなのですか? 次の目的地に関する情報の事ではなかったのですか?」

 

「……アンタは、あの戦士が、そこまで頭が回ると思っているのか?」

 

 カミュの言葉に、サラは再び答えに窮する。

 サラはてっきり、<ノアニール>で聞いたオルテガの足取りを追うために外に出たと思っていた。

 <魔法のカギ>という物を求めて<アッサラーム>に向かったオルテガがどこへ向かったのか。それが解らなければ、自分達の行動もここまでが限界となる。

 

 サラが戸惑っている間に、二人は宿屋の入口に到着した。

 そのままカミュは宿屋の階段を上がり、サラ達が泊まっている部屋の前に辿り着く。部屋のドアをノックすると、中からリーシャの声が聞こえて来た。

 サラは、そのリーシャの声で、自分の中を渦巻く黒い衝動が幾分かの落ち着きを見せて行くのを感じていた。

 

「で?……どうだったんだ?」

 

「……メルエは?」

 

「もう寝た。疲れていたんだろう。食事をして湯浴みを終えたら、もう寝ていた」

 

 メルエの状況を聞くと、リーシャは優しい笑みを浮かべて、膨らんでいる一つのベッドに視線を向ける。

 サラは、『これこそ母親が我が子に示す母性ではないか?』と思う。

 メルエの身を案じてその身を投げ出し、優しい笑顔を向けメルエを労わる。そんな表情が出来るリーシャが、サラは好きだった。

 

「……そうか……下で話す……」

 

「……わかった……サラ、メルエを見ていてくれるか?」

 

 カミュの発言に、リーシャが問いかけた内容が、重く、苦しい話だと理解したリーシャは、サラにメルエの事を頼み、カミュと共に階下へと降りて行った。

 残されたサラは、メルエのベッドへと近寄る。

 そこには、あどけない表情で眠るメルエの姿。

 この町に入る事を拒む程、メルエの心は傷ついていたのだろう。

 

「……メルエ……私は、メルエを護りますよ……」

 

 サラの呟きは、灯りを消した部屋の闇に溶けて行く。

 

 

 

「……カミュ……今、その義母親(ははおや)はどこにいる?」

 

「……行ってどうするつもりだ?……斬り殺すつもりか?」

 

 宿屋の一階部分にあるラウンジの様な場所で、カミュは先程メルエの義母に聞いた話を、脚色などせず、そのままリーシャに伝えた。

 案の定、リーシャは話の途中から、その身体を震わせ始め、カミュの話が終わった時にはその震えが収まっていた。

 夜中に差し掛かり、宿屋のラウンジの灯りも消されている。真っ暗な中、月明かりに照らされたテーブルで、表情の見えないリーシャの呟きは、サラではないが『悪魔』の呟きに聞こえるような物だった。

 

「お、お前は! お前は許せるのか!? メルエを……メルエをそんな目にあわせた人間を許せるのか!? メルエはお前にとって何なのだ!」

 

「……」

 

「カミュ!」

 

 リーシャは、カミュがサラに話した予想通り、激昂した。

 怒りに震えていた肩は、その震えを収め、目は怒りに染まっていた。

 その怒りは、抑えようと口を開くカミュへと向けられる。

 リーシャは、自分でも理不尽である事は承知していた。それでも、胸の奥から湧きあがる怒りを抑える事が出来なかったのだ。

 

「……メルエに関しては、アンタと同じだ……だが、許す許さないは、俺達が決める事ではない。それを決めて良いのは、メルエだけだ」

 

「……カミュ……」

 

 リーシャは自分の中で暴れ回っていた怒りの炎が鎮火していくのを感じた。

 それは、カミュが言った言葉にある、『メルエに関しては、リーシャと同じ』という物が原因である。

 何度も確認して来た筈だ。カミュがメルエを大切に思っている事など、リーシャも解っていた筈なのである。それでも、聞かずにはいられなかったのは、カミュが余りにも冷静だからだった。

 しかし、それは間違いだった。

 最近の表情があるカミュを見ていたリーシャは忘れていたのだ。

 カミュが怒る時、興味がない人間と対する時、その表情が失われる事を。

 今のカミュの表情は『無』。リーシャを見てはいるが、見てはいない。それが、カミュの怒りの度合いを顕著に表しているものだった。

 

「……すまない……感情的になり過ぎた……」

 

「……それが、アンタだ。気にするな……」

 

「なにっ!?」

 

 カミュの怒りに気が付き、素直に頭を下げるリーシャに対し、表情を失くしたままカミュは失礼千万な事を口にする。

 カミュの言い分では、まるで自分が常に感情むき出しで突っ走っている頭の悪い人間の様に聞こえたのだ。

 しかし、失礼な言い分に顔を上げたリーシャは、カミュの表情が変わっていない事に気が付く。

 もし、カミュがリーシャをからかっているのだとしたら、口端を上げるような仕草をしているはずだったが、そんな素振りは少しもない。つまり、カミュの発言は、リーシャを馬鹿にしていたのではなく、本心からそう思い、それを悪い事とは思っていないという事なのだろう。

 

「……決めるのは、メルエだ……」

 

「……お前は……この町に……そんな親の下にメルエを置いて行くつもりなのか?」

 

 続くカミュの言葉にリーシャは恐怖した。

 カミュは自分達が怒りを覚えるような親の下へメルエを置いて行くつもりなのか、メルエを大事に思っているのにも拘わらず、メルエが幸せになる可能性を潰すつもりなのかと。

 

「……それも……メルエが決める事だ……」

 

「あっ!? ま、待て、カミュ!」

 

 リーシャの追随にも、同じ回答をし、カミュはそのまま外へ出て行ってしまう。

 一瞬カミュの行動を掴みきれなかったリーシャは反応が遅れるが、慌ててカミュを追って外へと飛び出した。

 

 

 

 夜の喧騒はまだ続いている。

 町の灯りは灯り続け、夜だというのに昼の様な明るさを誇る。

 月明かりはその人工的な光に阻まれ、地上に降り立つ事はない。

 外に出てカミュを探すと、宿屋の裏手に向かって歩いて行くカミュの姿を見つけ、リーシャはその後を追った。

 

「……お前は、よく月を見上げているな」

 

「……もう、話は終わった筈だ……」

 

 宿屋の裏手という、町の灯りが届かない場所で月を見上げるカミュに、リーシャは後ろから語りかけるが、それに対するカミュの答えは、簡素な拒絶だった。

 それでも、今のリーシャはめげない。

 

「まだ終わっていない。お前は、メルエがその義理の親の下に戻り、再び虐待を受けたとしても、それを無視する事が出来るのか?」

 

「……」

 

「カミュ!」

 

 リーシャの問いに黙して語らないカミュに、リーシャの我慢も限界に達した。

 そのリーシャの叫びにカミュはゆっくりと振り返るが、その表情を見たリーシャは驚く事となる。

 無表情でもない、笑顔でもない、その哀しみの交る表情に。

 

「……俺は、親という物が解らない……アンタは、親は子を愛するというのが、当然なのだろうな……」

 

「なっ!? 当たり前だろ!?」

 

 カミュの呟きが、リーシャの胸を抉る。

 『何を当然の事を言っているのだ?』と。

 

「……子供にとって『親』とは、何があっても自分を護ってくれる象徴だ……それは、おそらく産まれ落ちた時から植え付けられているのだろう……」

 

「……カ、カミュ……」

 

 突然語り出すカミュ。

 リーシャは戸惑った。

 

「……どんなに傷つけられても……どれ程痛めつけられても……どれだけ突き放されても。子供にとって、頼る者は自分の親しかいない……」

 

「……」

 

 もはや、リーシャは言葉すら発する事は出来なかった。

 カミュが何を話すのか解らない。しかし、身体を襲う寒気はまるで周囲の気温が急激に下がったのではないかとすら思わせる。

 

「……『自分が何か悪かったのではないか?』、『言う通りにしていれば、笑いかけてくれるのではないか?』、『辛いと言っても助けてくれないのであれば、我慢していれば、哀れと思い、抱きしめてくれるのではないか?』と常に考える。絶対の保護者である『親』が自分を傷つけるのは、自分が悪いからだとな……」

 

「……」

 

 リーシャの歯が噛み合わない。

 カミュが語る内容に恐怖すら感じる。

 『怖い』

 『逃げ出したい』

 リーシャの脳は足へと指示を出すが、足は動かない。

 

「絶対の保護者である『親』がする事は正しい筈。それでも、自身の身体は痛み、悲鳴を上げる。自分が悪い……親は正しい……だが、痛く、苦しい。救いを求めても、それを拾い上げてくれる筈の保護者に払い除けられる。親の言いつけを守り、必死に耐えても、報われはしない……子供の願いはどこへ行く?……願いを聞き入れて貰う為に、また耐えるしかない。何度も何度も……」

 

「……」

 

 もはや、リーシャの身体は小刻みに震え始めていた。

 生まれてから、これ程の恐怖をリーシャは味わった事がない。

 頭が考える事を拒絶する程の恐怖。

 自分の知らない世界を垣間見た時、『人』は恐怖を感じ、それを拒絶しようとする。それでも、リーシャはカミュの言葉自体を拒絶する事はなかった。

 

「……だが……それでも……それでも報われない時、最終的に子供が何を思い、どう考えるのか……アンタに解るか?」

 

「……」

 

 カミュがリーシャの目を見据えた。

 リーシャは恐怖のあまり、首を横に振る事しか出来ない。

 

「……『他人』だ……」

 

「!!」

 

 一息吐き出した後に紡いだカミュの言葉は、リーシャの予想を遙かに超え、その身体を硬直させる。

 いつの間にかリーシャの額に滲み出した汗が、頬を伝い、地面へと吸い込まれて行った。

 

「……これは、『親』ではない……ただの『他人』だと認識する……」

 

 哀しすぎる。

 それは、父親であるクロノスの愛を一身に受けて育ったリーシャに取っては、考えたくもないものだった。

 

「……メルエは、その認識をするのが早かったのだろうな……」

 

「そ、それ……」

 

 『それは、誰と比べてだ!?』

 そう言おうとして、リーシャは思い留まった。

 それは解りきっている事。

 おそらく、今カミュが話した内容は、メルエではない。

 カミュ自身の体験なのだろう。

 

 カミュは生まれながらにして『勇者』としての責務を負わされた。

 アリアハンの英雄オルテガの死が決定的になった時、それは『次代の』という物や『勇者候補』という物ではなく、カミュの存在自体が『勇者』である事を義務付けられたのだ。

 おそらく、オルテガの父オルテナも、オルテガの妻ニーナも、カミュが『勇者』として生きて行く為に厳しく接したのだろう。

 リーシャよりも幼い頃から剣を学ばせ、魔法を学ばせる。剣を学ぶ時には、怪我など付き物だ。魔法にしても、実戦で使えるようになる為には、それ相応のリスクを背負う事となる。

 何度も傷つけられては立ち上がる事を要求され、立ち上がれば再び傷つけられる。

 リーシャの場合は、自分で学びたいと父に話した事がきっかけであり、父の剣も厳しかったが、娘であるリーシャを傷つける事はなかった。

 ましてや、剣を握った途端、討伐隊への同道などを求められる事もなかった。

 それでも、幼いカミュは、親であり祖父であるニーナとオルテナに救いを求めていたのだろう。それは、カミュがメルエにルーラの話をしていた時の内容に表れていた。

 おそらく、カミュはあの時から、ニーナとオルテナを『他人』として見るようになってしまったのかもしれない。

 

「……メルエが……それでもまだ、あの義母を母として見ているのなら、俺が口を挟む問題ではない。メルエはあの女性を、まだ本当の母親だと思っている筈だ」

 

「……なに?」

 

「あの女性は、捨て子であった事をメルエに話してはいない」

 

 カミュが話を聞いた限り、メルエの義母であるアンジェは、メルエが自分の本当の娘ではない事を話してはいない。メルエは、最後の最後まで、アンジェを母と思い、親と思い、救いを求めていた。

 奴隷商人に引き渡される時、救いをアンジェに求めていた事をカミュも、サラも聞いてはいない。

 もし、カミュの言う通り、メルエがアンジェを『他人』として見ているとすれば、あの時、救いを求めて母を見つめた自分の瞳から目を逸らされた時からかもしれない。

 

「……カミュ……お前は……」

 

「後は、メルエの判断に任せる」

 

 その言葉を最後に、カミュは自室へと戻るため、宿屋の入口に入って行った。

 取り残されたのは、リーシャ唯一人。

 

「……カミュ……お前は、メルエがお前より母親を選ぶとでも思っているのか?」

 

 リーシャの呟きはカミュの耳に届く筈もなく、夜の闇へと溶けて行く。

 先程感じた冷気などどこにもなく、町の喧騒が遠く聞こえていた。

 

 

 

「カミュ! これは何なんだ!?」

 

 翌朝、まだベッドに入っていたカミュの部屋を強引に開け、怒鳴り声を上げたリーシャが入って来た。

 その後ろには眠そうに目を擦るメルエ。そして、寝癖も直しきっていないサラがその後ろについて来ている。

 何故そこまでして、自分の部屋に突入してきたリーシャについて来たのか。

 それがカミュには皆目見当もつかなかった。

 

「……何があった?」

 

「『何が』ではない! 昨日は聞きそびれてしまったが、これは何だ!?」

 

 リーシャが怒鳴り声と共にカミュに突き出した物は、昨晩カミュが購入した物だった。

 サラがそれを手にするリーシャを想像し、身震いした物。

 そこで、ようやくカミュも事の顛末を理解した。

 朝起きたリーシャが、部屋に置いてある包みを見て、昨日武器屋が持って来た事を思い出す。そして、サラを叩き起こして事情を聞くが、要領を得ない為にカミュも部屋に突入して来たという事だろう。

 メルエは騒がしさに目を覚まし、皆が部屋を出て行くからついて来ただけのようだ。

 

「……見て解らないのか? 鉄の斧という武器らしい」

 

「だから! 何故、それが私の下に届けられたかを聞いているんだ!?」

 

 ベッドから身体を起こすが、出ようとはしないカミュに一歩近づき、リーシャは唾を飛ばして詰め寄って行く。

 メルエはサラの足に手を置きながら、その包みを興味深げに眺めていた。

 

「……手紙を添えておいた筈だが?」

 

「『アンタの武器だ』の一言しか書いていないこの紙の事か!?」

 

「……カミュ様……」

 

 一枚の紙を振り回すリーシャが叫ぶ内容を聞いて、サラは溜息を溢した。

 『いくら何でも、それはないのでは?』と。

 リーシャの為に買ったとはいえ、少しばかりの説明はあって然るべきだとサラは思っていた。

 

「……斧は使えないのか?」

 

「そう言う問題ではない! 私には、<鋼鉄の剣>がある。他の武器も使う事は出来るが、剣が一番得意だ。得意な武器を使用していた方が戦闘の時には役に立てる」

 

 宮廷騎士ともなれば、どんな武器にも対応する事が出来るように求められる。それは、戦場で自分の得物が破損する可能性もあるからだ。その場合、近くに落ちている武器、または敵から奪った武器で対応しなければならない。その為に、『騎士』や『戦士』は、ほぼ全ての武器の対応性を求められるのだ。

 しかし、リーシャの言う通り、それぞれに得意分野というものがある。それは、幼き頃より訓練を積んだ武器や、訓練の中で自分の戦いにあった武器などだ。それがリーシャにとっては剣なのであろう。

 

「……そうか……似合うとは思ったのだが……」

 

「……ほぅ……お前は、私にはこのような無粋な斧を振り回すのが似合うというのか?」

 

「……そこの僧侶もそう言っていたぞ……」

 

 サラは突然振られたことに、驚き、咄嗟の反論ができなかった。

 ゆっくりと振り返るリーシャの手には、<地獄の鎌>ならぬ<鉄の斧>。

 カミュの発言に怒りが湧き上がって来ているリーシャは、すでにその包装を解いていた。

 

「……サラ?」

 

「い、いえ。な、何故、私なのですか!? に、似合い過ぎていて怖いなとは思いましたが、言ってはいませんよ!」

 

 振り向くリーシャへの恐怖からなのか、髪の毛が所々跳ねているサラは、不用意な発言を溢してしまう。

 言い出したカミュですら、そのサラの発言に表情が固まってしまった。

 

「……ふふふ……そうか……サラが私をどのように思っているのかが良く解った。拳骨くらいでは足りなかったのだな……」

 

「ふぇっ!?」

 

 笑顔を見せながら、リーシャは包装を解いた<鉄の斧>を構え、サラへと一振りする。間の抜けた声を上げたサラの目の前に、リーシャが振るった斧の切っ先が落ちて来た。

 

「……ほぉ……」

 

「…………おお…………」

 

 そのリーシャの斧捌きに、ベッドからカミュが嘆息を漏らし、リーシャの傍にいたメルエは感動の声を上げた。

 心なしか、斧に向けられるメルエの瞳は輝いている。

 

「……サラ、覚悟は良いな?」

 

「えっ、えっ、えぇぇぇ!?」

 

 斧の切っ先をサラに向けたまま、呟くリーシャの言葉に、ようやくサラの意識が現実に戻された。

 今自分が置かれている状況を認識し、部屋中に響く程の大声を上げる。

 

「…………リーシャ…………すごい…………」

 

「メ、メルエ、危ないぞ。今は斧を持っているんだ。危ないから下がっていろ」

 

 『その切っ先を仲間に向けているのは誰だ!?』

 そうサラは叫びたかった。

 輝く瞳を向け、近寄ってくるメルエに注意を促すリーシャをサラは恨めしそうに見つめる。

 メルエは斧という武器を持った人間を『カンダタ』しか知らない。

 それは、メルエが加わって初めての強敵。

 あの塔での戦闘は、幼いメルエの心にもしっかりと残っていた。

 メルエが敬愛する、カミュもリーシャもあの大男には敵わなかった相手。そんな大男が持っていた武器である<斧>という武器を軽々と振るうリーシャが、メルエにはとても頼もしく見えたのだ。

 

「…………リーシャ………つよい…………?」

 

「ん?……もちろんだ。例え、武器が剣ではなく、この斧だとしても、カミュ程度であれば負けるような事はない」

 

 斧を持った方とは反対の腕にしがみ付いたメルエは、小首を傾げながらリーシャを見上げている。

 『斧を振う者=強者』という図式が成り立っているメルエにとって、その疑問は当然の事だったのかもしれない。リーシャは、そんなメルエの意図を理解せずに、メルエの求めている答えを伝えた。

 

「…………カミュ………より…………?」

 

「ああ! カミュが私に一度も勝てていない事は、メルエも知っているだろう?」

 

 メルエの問いに、胸を張って答えるリーシャ。そのリーシャの問いかけに、一度カミュの方に視線を向けたメルエは、大きく首を縦に振った。

 そんなメルエの姿に少し表情を歪めたカミュの姿を、サラは横目で見てしまう。

 

「……どうでも良いが……その<鉄の斧>は使わないのか?」

 

「い、いや、ちょっと待て……う~~ん……」

 

「…………すごい………すごい…………」

 

 顔をしかめながらも、問いかけるカミュに、先程までの勢いが失われたリーシャは、考え込む素振りを見せる。傍で目を輝かせているメルエの視線が気になっているのだ。

 この町に入って初めて見せるメルエの笑顔。その笑顔がリーシャの回答次第によっては消えてしまう可能性がある。

 

「そ、その斧は、結構な値段がするのですよ。カミュ様も私もそれを使えるのはリーシャさんしかいないと思っていましたし」

 

「……そうだな……それに、<鋼鉄の剣>では、この周辺の魔物には苦戦する事はこの前の戦闘で解っただろう?」

 

 切っ先が外れたサラが、斧の値段を口にし、それに同調するようにカミュが斧の必要性を説く。

 見事なコンビネーションだった。

 

「そ、それならば……カミュ、お前はどうするんだ?」

 

「……俺は、斧を使えない……」

 

 明らかに嘘である。

 サラはそう思った。

 『勇者』として育てられたカミュが、斧という武器を使用出来ない筈がない。

 

 それはリーシャにも解っていた。

 カミュの今までの行動を見れば、それぐらいの事は解る。

 剣を失った時、サラの持つ<鉄の槍>を扱っていた。それは、そこいらの兵士では太刀打ち出来ない程の腕である事は間違いないものだった。

 そこまで考えて、リーシャは思い当たる。先程のリーシャの言動の中にその答えはあったのだ。

 おそらく、カミュはリーシャに剣の腕で劣る事を良しとしていないのであろう。剣で劣る者が、武器を変えた所で変わらない。カミュは、剣を極めるつもりなのかもしれない。

 

「…………リーシャ………おの………きらい…………?」

 

「ん?……そうだな……わかった。この<鉄の斧>は私が貰おう」

 

 返答をしないリーシャに、その下から心配そうに眉を下げたメルエが尋ねる。そんなメルエの頭に手を置いて、リーシャは笑顔でその斧を武器とする事を了承した。

 

「…………ん…………」

 

 メルエはくすぐったそうにリーシャの手を受け入れ、そして笑顔で頷く。

 メルエの笑顔に、その場にいた三人の表情も緩んで行った。

 

「……それで……いつまで、俺の部屋に居座る気だ?」

 

「あっ!? す、すみません。すぐに出て行きます!」

 

 和やかな空気を破るカミュの一言。その言葉に、サラは自分の身なりに気が付き、大慌てで部屋を飛び出して行く。その後に続くメルエ。

 そして最後にリーシャだけが残った。

 

「……カミュ、昨日の話は、メルエにするのか?」

 

「……いや……あの義母が会いに来ない限り、こちらから出向く気はない」

 

 その答えに満足そうに頷いたリーシャは、カミュの部屋を出て行く。

 誰も居なくなった自室で、しばらく天井を見つめていたカミュは、ベッドから出て、身支度を整え始めた。

 

 

 

 朝食を取り終え、一行は再び<アッサラーム>の町に出る。

 そこは、昨晩カミュ達が見た光景とは何もかもが違っていた。

 喧騒など何もなく、人も疎らにしか歩いてはいない。昨晩酒に酔ったものが吐き出した嘔吐物やゴミをその少ない人間で清掃を行っている。

 とても、昼間の町とは思えない程の物であった

 

「……メルエ……大丈夫か?」

 

「…………ん…………」

 

 外に出た途端、メルエの声に元気がなくなった。カミュのマントに包まっている為、メルエの表情は見えないが、カミュのマントの中から聞こえて来るか細い声が、サラの胸を締め付ける。

 それと共に、再びサラの心にどす黒い感情が湧き上がり、サラは苦しむのだ。

 カミュ達は、リーシャの<鋼鉄の剣>を引き取ってもらう為に、昨晩訪れた武器屋に向かうが、そこは店仕舞いをした後だった。

 

「そう言えば、夜の間しか営業していないと言っていましたね」

 

「……そうだったな……」

 

 昨晩武器屋が言っていた事を思い出したサラとカミュは、他の店が空いていないかどうかを確認するために、周囲を見回す。そんな二人の姿に状況を判断したリーシャが、左手に武器屋の看板が見えている事を伝え、一行はそちらの方に移動する事にした。

 

「おお! 私の友達! お待ちしておりました!」

 

 武器屋の入口を入った途端、カウンターにいた主人らしき男性に声をかけられる。それは、とても初対面の人間に対する対応ではなく、リーシャは驚いた。

 

「カ、カミュ……この店主は知り合いなのか?」

 

「……全く知らないが……」

 

 昨晩、知り合いになったのかもしれないとリーシャが声をかけるが、かけられたカミュの反応は酷く冷たいものだった。

 『何かあったのか?』とも思ったが、横にいるサラも首を横に振った事から、カミュが言っている事が本当である事を知る。

 

「お客様は、皆さん私の友達! どうぞ好きなだけ見て行ってください!」

 

 気の良い笑顔を向ける店主に、リーシャは『そう言う物なのかもしれない』と思う事にし、店の中を見回すと、今朝論議の種となった武器が飾ってあるのを見つけた。

 <鉄の斧>に目をつけたリーシャを店主が目敏く見つける。

 

「おお! お目が高い! それは<鉄の斧>という武器です。今ならなんと、40000ゴールドです!」

 

「よ、40000ゴールドだと!!」

 

 リーシャは驚愕する。まさか、自分の為にとカミュ達が買って来てくれた武器が、それ程の高値をつける物だったとは思いもしなかったのだ。

 そして、それ程の金額を支払ってでも、自分の為に武器を調達して来てくれたカミュ達に、自分が吐いてしまった暴言を悔やんだ。

 

「……す、すまない……カミュ。ま、まさか、それ程に価値のある物だとは知らなかった」

 

「えっ!?」

 

「……はぁ……」

 

 素直に頭を下げるリーシャに、サラは驚きの声を上げ、カミュは呆れの溜息を吐く。サラにしても、まさかリーシャがこの店主の言う事を鵜呑みにするとは思わなかったのだ。

 如何に値段を知らないとはいえ、40000ゴールドは余りな値段だ。

 昨晩、訪れた店で『昼間はぼったくり店などもあるから気をつけなさい』というような事を言われていた為、カミュとサラはすぐに合点がいった。

 

「友達! 買ってくれますか!?」

 

「……いや、いい……」

 

 当然のようにカミュは首を横に振った。

 リーシャは、それを『既に所有している為』と受け取るが、サラは呆れて物が言えなかった。

 2500ゴールドの物を数十倍の40000ゴールドという値をつけ、『買ってくれますか?』はないだろう。

 

「おお! 友達、とても買い物上手。私、困ってしまいます。では、20000ゴールドに致しましょう。これでどうですか?」

 

「なにっ!?」

 

 カミュの断り文句に、言葉と反して左程困った様子も見せずに発した店主の言葉に、リーシャは驚きの声を上げる。それもその筈、いきなり半額になったのだ。

 それでも、20000ゴールド。

 

「……いや、結構だ……」

 

「おお! これ以上まけると、私、大損してしまいます! でも、あなた友達。では、10000ゴールドに致しましょう! これならいいですか?」

 

「なんだと!」

 

 更に半額。

 もう、当初提示した金額の四分の一になっている。

 徐々に湧いてくるリーシャの怒り。

 

「……いらないと言っただろう……」

 

 対するカミュは辟易していた。

 人の話を聞かない人間と対する事が苦痛な事など、カミュは経験済みだ。

 それでも、これは今まで経験した物の中でも、余りにも酷かった。

 

「おお! あなた、酷い人。私に首吊れと言いますか?……わかりました……では、5000ゴールドにしましょう。これなら良いでしょう?」

 

「……この!」

 

 もはやリーシャの我慢も限界だったが、それに気が付いたサラが必死にリーシャの身体を抑え、それを見たメルエもカミュのマントから顔を出し、リーシャに飛び付いた。

 メルエの場合は、リーシャを止めるという理由ではなく、サラが抱きついたから自分もというような単純な物であったが。

 

「……先程から、俺は買わないと言っているのだが……」

 

「そうですか、残念です。またきっと買いに来て下さいね」

 

 断りを入れるカミュに、肩を落とす店主は、それ以上値段を下げる事はしなかった。

 カミュやサラは、昨晩<鉄の斧>の正規の値段を聞いていた事から、店主が最後に言った値段が正規の倍の値段である事を知ってはいたが、リーシャは違った。5000ゴールド以上値段を下げないという事は、それが正規の値段だと勘違いしてしまったのだ。

 急に大人しくなったリーシャに、サラはその拘束を解き、それと同時にメルエもカミュのマントの中へと戻って行った。

 カミュが買わない代わりにリーシャの<鋼鉄の剣>の引き取りを頼むと、店主はちょっと複雑そうな顔をしていた。それでも、大変意外な事に、その引き取り価格は正常な価格であったのだ。

 店主の言う値段にカミュはしばらく驚いていたが、問題がない事を認識し、<鋼鉄の剣>を渡し、ゴールドを受け取った。

 

「……それでも、5000ゴールドもする物だったのだな。カミュ、ありがとう。この斧は大事に使わせてもらうよ」

 

「えっ!? リ、リーシャさん……それは……」

 

「……ああ、そうしてくれ……」

 

 リーシャの言葉を慌てて訂正しようとするサラの言葉を遮って、カミュが真面目な顔でリーシャに答える。そのカミュに大きく頷いたリーシャは、斧を背中に担ぐように結びつけ、歩き出した。

 サラは、一度『良いのですか?』というようにカミュを見るが、カミュが何も言わない事から、リーシャの後を追う事にした。

 

「それで、カミュ。この町を出たらどこに向かうんだ?」

 

「あっ!? そ、そうですよ。昨日の夜は、その情報を聞きそびれてしまいました」

 

 町を歩きながら、次の目的地を聞くリーシャの言葉に、サラは思い出したかのようにカミュへと視線を向ける。そんなサラを見たカミュは、呆れたように溜息を吐き出した。

 

「……アンタが、変な女と言い争っていたからな……」

 

「そ、それは……」

 

 カミュは昨日のサラと妖艶な女性の会話を言っているのだ。

 その事にサラは言葉が詰まった。

 

「ん?……何だそれは?」

 

「な、なんでもありません!」

 

 会話を聞いていたリーシャは疑問を口にするが、咄嗟に反応したサラの発言に目を丸くしていた。

 サラの慌てぶりが何かあった事を確実に示しているが、それは追求する程でもない事である事はカミュの口ぶりから解る。

 結局リーシャは、柔らかな笑顔を向け、再び町を歩き出した。

 

 

 

「ん?……<カギ>?……ああ……十何年前に、オルテガという人間がカギを求めて南に向かったらしい。まぁ、あの人間なら、例え<魔法のカギ>がなくとも道を切り開いただろうけどな」

 

「……」

 

「……南へ……」

 

 情報収集のため、町の中を清掃する人間に話を聞いて行く。

 陽も高い事もあり、アルコールを摂取している人間もおらず、皆まともに相手をしてくれる。清掃の合間である事から、視線を向けずに話す人間もいるが、思い出す為に頭を捻ってくれる者もいた。

 何人目かの男の話の中で、ついに『オルテガ』の名が出て来た。

 その足取りは、南だという。この<アッサラーム>の南と言えば、正直地図には徒歩ではいけないようになっている。

 

「……<カギ>?……う~ん。カギが関係するかどうかは解らないが、この町の南西にある砂漠の更に西に<イシス>という国があるそうだよ。古い国らしいから、そういう不思議なものがあるかもしれないね」

 

 更に他の男に話を聞くと、少し興味深い話が返って来る。

 先程の男の話と組み合わせると、オルテガが向かった場所が見えて来た。

 

<イシス>

それは、ロマリア王からその国に入るための書状を頂いた国。

『必ず行く事になるだろう』と言われた国でもあった。

これで、行く先は決まった。

そう思ったリーシャとサラは、続くカミュの言葉に驚いた。

 

「……一度、<ノアニール>に戻る……」

 

 驚きの声を上げるリーシャとサラの二人を無視し、カミュはさっさと<ルーラ>の詠唱準備に入った。メルエは既にマントの中でカミュにしがみついている。

 驚きの声を上げ固まる二人であったが、<ルーラ>を使う事の出来る二人が先に行ってしまえば、<キメラの翼>がない以上、自分達は完全に置き去りになってしまうと気付き、慌ててカミュの腕に掴まった。

 

「……ルーラ……」

 

 カミュの詠唱と共に、一行の身体が魔力を纏い、上空へと投げ出される。メルエの故郷でもある<アッサラーム>が急スピードで小さくなり、そして見えなくなっていった。

 

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございます。

アッサラームは一先ず終了です。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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イシス砂漠①

 

 

 

「おい、カミュ! 何故、<ノアニール>に戻る必要があったんだ!?」

 

 ノアニールに戻った一行は村の様子に若干の驚きを覚える。それは、カミュ達が出て行った時と比べると、村人の表情の輝きが失われているように感じたからだ。

 これが、カミュが恐れていた事。

 おそらく、カミュ達が出て行ってすぐに、ロマリア王国はこのノアニールに足を踏み入れたのだろう。

 

「……」

 

「おい!? 聞いているのか?」

 

 カミュは周囲の変貌を気にも留めず、リーシャの問いにも答える事もなく、ある一点に向かって迷いなく歩を進める。その姿に、リーシャは先程より、大きな声を上げた。

 メルエも<ノアニール>に着いてから、リーシャに手を引かれるように村の中を歩いている。<アッサラーム>というメルエにとって嫌な思い出しかない町を出たからだろうか、メルエの表情は晴れやかだった。

 そのメルエと共に笑い合うサラ。

 無表情に歩く男に、その男に向かった怒鳴る女性、そしてその横を笑いながら歩く少女達。

 村の人間から見れば、異様な一行に映った事だろう。

 

「……ここは……」

 

 結局、カミュはリーシャの問いに答えることなく、目的地へと辿り着いた。

 そこは、ノアニールを出る際に買い物をした武器屋。

 

「お! いらっしゃい。あれ?……アンタ達は……また来てくれたのか?」

 

「……<みかわしの服>をくれ……」

 

 カミュ達の顔を覚えていた店主は、その笑顔を営業の物から、自然な物へと切り替える。そんな店主に向かって発したカミュの言葉に、リーシャとサラは首を傾げた。

 

「ん?……それは良いが……なんだ? 破れちまったのか?」

 

「……いや、今回は、その人間と俺の分を頼む……」

 

 てっきり、メルエかサラの分の服が破れてしまったのかと思った店主の言葉を否定し、カミュはリーシャを指差す。

 

「おい! カミュ、説明しろ!? 私はいらんぞ。この<鉄の鎧>がある」

 

「……アンタは本当に馬鹿なのだな……」

 

 自分の分の<みかわしの服>を買うと宣言するカミュに、リーシャは反論をするが、胸を張って答えるリーシャを心底馬鹿にしたような溜息をカミュは吐いた。

 

「なんだと!? メルエも、もうその種はいい!」

 

 カミュの物言いに頭に血が上ったリーシャは、カミュの言葉に自分のポシェットを探ろうとするメルエに大きな声を上げた。

 びくっと身体を震わせたメルエは、サラの後ろに隠れてしまう。

 

「……アンタは、その装備で砂漠を渡る気なのか?」

 

「いけないのか?」

 

「あっ!?」

 

 カミュの本気の溜息に、リーシャは少し戸惑いながらも、先程より萎んでしまった声量で声を出す。それは、まるで悪い事をしてしまった子供が、その事を問うような物だった。

 しかし、リーシャの横で、メルエを庇いながら事の成り行きを見ていたサラは、カミュが何を言おうとしているのかに気が付く。

 

「……アンタがそれで良いのなら、もう何も言わないが……そのまま砂漠に入れば、アンタ、死ぬぞ?」

 

「なに!?」

 

「リ、リーシャさん……砂漠には、日差しを避ける場所がありません。常に直接日光に当たり続けている為、異常な熱を持ちます。カミュ様の言うとおり、<鉄の鎧>などを着たまま砂漠に入るのは、自殺行為に近いかと思います」

 

 カミュの中途半端な説明をサラが補足する。その内容に、リーシャは驚いた表情を浮かべた。

 その驚きの大半が、<鉄の鎧>を着ている事で生じる問題よりも、カミュが自分を心配し、その装備を変えようと思った事に対してだったのだが。

 

 サラの言う通り、砂漠は一面砂の場所。基本的に、木が生えている場所もなければ、水が湧き出している場所もない。

 そんな中を延々と歩かなくてはならない上、炎天下の中で歩くのであれば、気温は異常なまでに跳ね上がる。そして、日差しを遮る物がない以上、陽が落ちるまで延々と直射日光をその身に受け続ける事になるのだ。

 着ている物には熱が溜まり、汗となった水分塩分は身体から抜け落ちる。もし、<鉄の鎧>などを着ていれば、汗によって錆びがつくだろうし、その熱により肌を焼いてしまう可能性もある。

 

「……そうか……」

 

「……理解したなら、さっさと寸法を合わせてくれ」

 

 カミュの言葉ではなく、サラの言葉で納得したリーシャは、自分の考えが至らなかった事に肩を落とし、追い打ちをかけるカミュを睨みつける。

 

 

 

 カミュと、リーシャの寸法合わせが終わり、後は待つだけとなる中、メルエは『ぼうっ』と店から見える人の営みを眺めていた。その先に目をやると、メルエと大差ない程の歳の子供達が駆け回っている。

 そんなメルエの視線の先に気が付いたサラが、その心を痛めた。

 自分も感じた事のある孤独感。

 サラも親無しの孤児であった事から、アリアハンの子供の輪には入れなかった。たまに人数合わせで入れて貰えたとしても、話しかけられもしない。

 それは、小さな子供の心には辛い経験である。

 

「……メルエ……メルエは、歌を知っていますか?」

 

「…………???…………」

 

 サラは、メルエの過去を知っているため、メルエが劇場で下働きをしていた事を思い出し、劇場で流れる歌などを知っているのかを聞いたのだ。

 不意に自分に掛けられた声に、慌てたように振りかえったメルエは、サラの言葉に小首を傾げた。

 

「私は、小さな頃、たくさん歌を謡っていました。私もいつも一人でしたから……」

 

「…………う………た…………?」

 

「はい! これでも、神父様に褒められるぐらいには上手に謡えるのですよ」

 

 少し自嘲気味に笑うサラにメルエの首が更に曲がる。そんなメルエの姿に笑みを柔らかくしながら、多少誇張気味に話すサラは、<ノアニール>に明るい光を降り注ぐ太陽の様に暖かかった。

 不思議そうに見上げるメルエと視線を合わせたサラは、その口を開き、謡い始める。

 それは、教会の人間なら誰でも知っている歌。礼拝の時に僧侶達が謡う歌だった。

 

「…………」

 

 突然謡い始めたサラにメルエは目を丸くするが、その声の美しさに、瞳が輝き始める。

 サラの声は美しかった。

 それこそ、メルエの沈んだ心を再び浮き上がらせる程に。

 

「ど、どうでしたか?」

 

「…………サラ………すごい…………」

 

「そ、そうですか? ありがとうございます」

 

 謡い終わったサラが、少し恥ずかしそうにメルエへ視線を向けると、明らかにメルエのサラへの視線が変わっていた。

 それは、リーシャが<鉄の斧>をサラに向けた時に見た物と同じもの。

 

「…………メルエ………も…………」

 

「えっ!? あっ、は、はい! メルエも勿論謡えますよ! 今度一緒に謡いましょう。私も数多く知っている訳ではありませんが、私の知っている歌をメルエにも教えてあげます!」

 

「…………ん…………」

 

 サラの言葉に笑顔で頷いたメルエの表情を、そんな二人の後ろから、カミュとリーシャは見つめていた。

 サラの意外な才能に驚いた二人であったが、サラとメルエの交流にそんな驚きも忘れ、心に暖かな風が吹いて行く。

 

「できたぞ。着て見てくれ」

 

 そんな中、ようやく、カミュとリーシャの<みかわしの服>が出来上がる。カミュとリーシャが試着室へと向かい、その間もメルエとサラは、鼻歌のように笑顔で歌を口ずさんでいた。

 

「なんだこれは!!」

 

「ぶっ!」

 

 試着を終えたカミュが試着室から出てきた後、遅れて出て来たリーシャはかなりの大声を店主にぶつける。その声に反応し、慌てて視線を向けたサラは、謡う為に吸い込んでいた息を盛大に吹き出してしまった。

 隣のメルエの目も大きく見開かれている。カミュに関しては、呆れたような溜息を吐くばかりだ。

 

「な、なにか不都合があったかい?」

 

「『何かあったか?』ではない!」

 

 店主はリーシャがこれ程怒りを露わにする理由が分からず、その理由を聞くが、カミュ達三人はその理由がはっきりと分かった。

 

「何故、私のはスカート状になっているのだ!?」

 

「えっ!?」

 

 そうなのだ。リーシャが着ている<みかわしの服>はメルエが着ている物や、サラが着ている物と同じように、スカート状になっている。それも、サラは長いスカート状になっているが、背の高いリーシャの物は短い丈になってしまっていた。

 

「ぷっ、くくくっ……」

 

「……サラ……何がおかしいんだ?」

 

 リーシャの女性らしい姿など、エプロン姿しか見た事のないサラは、その意外性がつぼに入り、笑いを堪え切れなかった。

 その笑い声を聞き逃す事のなかったリーシャがゆっくりとサラに振り返る。リーシャの表情に、あれ程堪える事が困難であった笑いも、サラの腹に引っ込んだ。

 笑いを止めたサラから再び視線を店主へと移したリーシャに店主の顔も青くなって行く。

 

「……悪いが、店主。これは女性ではあるが、騎士だ。俺の様に動き易いように仕立て直してくれるか?」

 

「えっ!? ああ、そうなのか?……鎧を着ていたから、そうなのかと思ったが、寸法を取ったのは家内なもんでな……すまないが、もう一度仕立てなおすよ」

 

 いきり立つリーシャの口が開くよりも早くにカミュが店主へと声をかける。目の前に迫った脅威から救い出してくれる声に縋り付くように、店主は慌てて奥へ引っ込んで行った。

 

「まっ、待て! 私はまだ脱いでいないぞ!」

 

 奥へ引っ込もうとする店主を追いかけるリーシャ。

 その姿は、滑稽以外何物でもない。

 

「…………ふふ…………」

 

 そのリーシャの姿に真っ先に反応したのは、メルエ。

 声を出して笑う事など今まで皆無に等しかった少女が笑った。

 カミュはメルエの姿に目を細めるが、サラの最後の紐は切れてしまった。

 

「ふっ、ふふふ……ふふ……あはは……ふふ……あははは……」

 

 我慢していた笑いは、もう止まらない。

 メルエと笑顔を見比べながら、サラは笑い続ける。

 メルエの顔に笑顔が戻った事への喜びに。そして、メルエに笑顔を戻したリーシャの姿に。

 それは、奥まで響いており、仕立て終えたリーシャが戻って来た時に、報いを受ける事にはなるのだが。

 

 

 

 一行は、<ルーラ>で<アッサラーム>へ戻り、カミュとサラがもう一度町に入って旅支度を整え始めた。

 町の人間に話を聞き、砂漠の旅に必要な物資を買って行く。必需品である水や食料。特に水は多めに購入した。

 また、昼は差すような日差しが降り注ぐが、陽が落ちると凍えるような寒さへと気温を落とすという事から、数枚の毛布も購入する。

 町に入りたがらないメルエは、町から無事カミュとサラが戻って来た事に安堵の表情を浮かべ、花咲くような笑顔で二人に向かって行った。

 メルエの表情を見たサラは、そのメルエの心に表情を曇らせるが、すぐに笑顔を浮かべ、メルエを迎え入れる。

 メルエという楔で、このパーティーが繋がり始めていた。

 

 

 

 砂漠へと入って、数刻。

 雲一つない空からは、容赦ない日差しが降り注ぎ、一行の身体から水分という要素を根こそぎ奪って行く。

 

「…………お水…………」

 

「だ、駄目ですよ……先程飲んだばかりじゃないですか……」

 

 カミュとリーシャに挟まれながら歩くメルエは、手を握るサラに向かって喉の渇きを訴えるが、休憩も碌に取れない中、先程メルエに水を飲ませたばかりである為、サラが窘める。

 そのサラも、直射日光の影響を否定出来ない状況にあった。

 <アッサラーム>で購入した水は、移動するのに邪魔にならない程度であるが、通常よりもかなり多めに準備してはいた。

 しかし、予想以上の気温の上昇の為、その減る速度もまた、通常の倍以上であったのだ。

 その為、幼いメルエや体力の乏しいサラに優先的に水を回して行く事となり、必然的に、カミュとリーシャは水を口にする事が少なくなって行く。

 

「……メルエ……カミュ様もリーシャさんも、メルエの為に水を口にしていないのですよ。あまり我儘を言ってはいけません……」

 

「…………ん…………」

 

 サラの忠告に、眉を下げながらも神妙に頷くメルエの姿に、サラは疲れた表情を見せながらも笑顔を浮かべた。

 

「……メルエに関しては、飲みたい時に飲ませてやれ……」

 

「またそのような事を!……カミュ様は、メルエに甘すぎます……喉が乾くのは皆同じです」

 

 サラとメルエのやり取りに振り返ったカミュの言葉は、サラにとって聞き捨てならないものだった。

 サラにしてみれば、カミュはメルエを甘やかし過ぎなのだ。

 例え子供といえど、我慢する時は我慢させなければならない。それが、故意的に食事や水分を与えないという虐待でない限り、サラはメルエの躾だと思っていた。

 

「…………おに…………」

 

「だ、だから、私は鬼ではありません! メルエの為を思って言っているのですよ!」

 

「サラ……そんなに興奮すると、体力がすぐに無くなるぞ……私やカミュの事は余り気にするな……水分を取れない状況には慣れているとは言わないが、経験があるからな」

 

 ぼそりと呟くメルエの言葉に過敏に反応するサラ。

 そんなサラに、今度は後ろから声がかかる。リーシャは、<アッサラーム>で購入した布を頭に乗せて歩いていた。

 カミュやリーシャは、サラやメルエと違い、その頭に帽子を被ってはいない。故に、二人とも布を頭に乗せてこの砂漠に入ったのだ。

 

「……皆さんはメルエに甘すぎます……それではメルエは我儘な大人になってしまいますよ」

 

「…………だいじょうぶ………サラ………いる…………」

 

 リーシャの言葉にも納得のいかないサラは、流れ落ちる汗を見ながら一人呟くが、その呟きはサラの手を握るメルエにしっかりと届いていた。

 自分の名が出た事に不満を見せず、『自分の行く末には、カミュとリーシャ、そしてサラがいるのだ』という事を信じて疑わないメルエに、サラは汗とは違う水分が流れ落ちそうになる。

 

 

 

 その後、陽が高くなり、体力も衰えて行く一行の前に容赦なく魔物が現れる。

 <キャットフライ>に<バリィドドッグ>。

 以前に相対した魔物達ばかりであったが、その中に<暴れザル>がいない事に、サラは内心安堵していた。 

 

『もし、今の状況で<暴れザル>を相手にしなければならないとなると、正直全滅も覚悟しなければいけないかもしれない』

 

 サラはそうまで考えていた。

 周囲は見渡す限り『砂』。

 砂漠である為、当たり前の事ではあるが、身体からの水分と共に歩く気力すらも奪って行くような景色に一行は辟易し始めていた。

 サラには、右も左も分からず、ましてやどちらが北でどちらが南なのかも分からない。

 自分がどこを歩いて、どこへ向かっているのかも分からない中、ただ前を行くカミュの背中を追って足を動かしているだけなのだ。

 

「…………サラ…………」

 

「ん? どしたのですか?」

 

 そんな中、不意にサラの手を握るメルエが口を開いた。見上げるように、サラを見つめながら声をかけたメルエの表情に浮かぶ物は『困惑』。

 それが何を意味しているのかが分からないサラは、首を傾げるしかなかった。

 

「…………あれ…………」

 

「えっ!? どれですか……あれ?……何か砂から出ていますね?」

 

 メルエが指し示す方角に目を向けると、今までと同じような何もない砂が広がっていたが、その一点の場所に、不思議な物が見えた。

 まるで砂の中から飛び出すように何かが出ているのだ。

 

「……何でしょうね?」

 

「…………メルエも…………」

 

 それが気になってしまったサラは、その場所へと歩を進める。

 真っ先に気が付いたメルエもまた、サラの後を追って隊列を外れてしまった。

 近付いて行くと、その飛び出していた物が徐々に見えて来る。それは長細い管の様な物の先に、丸い何かが付いていた。

 

「……う~ん……なんでしょう? えっ!? きゃぁぁぁぁ!!」

 

「!!」

 

 すぐ傍まで近寄った時、その細い管が動き出した。

 管の先についていた丸い物が開き、見えたのは『眼球』。

 突如ぎょろりと開かれた瞳に、サラは叫び声を上げる。

 サラの後ろについていたメルエもまた、サラの叫び声に驚き言葉を失ったが、次の瞬間には、サラは跳ね飛ばされ、自分も宙に舞っていた。

 出て来たものは『かに』。

 <カザーブ>の村周辺で見かけたような巨大なハサミを持つ『かに』であった。

 サラは文字通り、この『かに』が砂の中から飛び出して来る勢いで跳ね飛ばされていたが、宙に舞ったメルエは違う理由であった。

 

 サラとメルエが隊列を崩し、違う方向に向かっている事に後方を歩くリーシャはいち早く気付いていた。前を行くカミュを止め、サラ達の後方からその様子を窺っていたのだ。

 そして、サラが魔物に弾き飛ばされると同時に、メルエに駆け寄り、その身体を抱き上げて飛び退いたのはリーシャだったのである。

 

「勝手に隊列を離れてはダメだろ!」

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

 リーシャから叱責を受けたメルエは、そのリーシャの腕の中で小さくなって行く。

 サラは甘い甘いと言ってはいるが、リーシャとて何もかもを許している訳ではない。叱る時には叱り、優しく包む時にはそれ以上ない程の愛情を注いでいるだけ。

 しかし、サラに言わせれば、『何故メルエは助け出したのに、自分は魔物に跳ね飛ばされたのか!?』と抗議するかもしれないが、それは自業自得というものだろう。

 

「カミュ! 魔物だ!」

 

「……アンタ達は、魔物を見つけると近寄らなければ気が済まないのか?」

 

 リーシャの叫びに、溜息を洩らしながらカミュは背中の剣を抜いた。

 相手は明らかに堅い甲羅に覆われている魔物である。サラの補助魔法がなければ、実際の戦いでも苦戦する事が必至なのにも拘わらず、弾き飛ばされたサラは砂の上で気を失っていた。

 

<地獄のハサミ>

カザーブ周辺に生息する<軍隊がに>の上位種に当たる魔物。山の中などに生息する<軍隊がに>とは違い、砂漠地方の砂の中で生息する。直射日光の強い砂漠において、砂の中に身を隠す事によってその身を護り、砂漠を通る人間や動物を砂の上に出した目玉で確認し捕獲する魔物である。その強力なハサミは<軍隊がに>以上の物で、一度そのハサミで挟まれると、その身を抜く事は不可能であると云われており、万力の様に締め上げ、挟んだ物を文字通り『ぶった斬る』のだ。その行為から、このイシス地方では<地獄のハサミ>という名で呼ばれるようになった。

 

 その<地獄のハサミ>が二体。今や、その体躯の全貌を砂の上に晒している。

 カミュは抜いた剣を持ち、魔物へと突進した。

 ただ斬るだけであれば、その甲羅にヒビも入れる事は出来ないだろう。故に、カミュは剣を寝かせ、そのまま突き刺すように突っ込んでいった。

 

「くっ!」

 

 しかし、予想に反し、乾いた音を立ててカミュの剣が止まる。甲羅に突き刺さった剣は、その刀身の先が甲羅に刺さっただけであった。

 カミュの突進力と貫通力を持ってしてもそれまで。

 反撃のハサミを警戒し、カミュが素早く剣先を引き抜き、後ろに跳ぼうとするが、意外にも<地獄のハサミ>の反応は早かった。

 

「くそっ!」

 

 カミュが飛び退くタイミングに合わせて出された<地獄のハサミ>のハサミは、カミュの横っ腹を殴りつけた。

 踏鞴を踏むように一瞬よろけたカミュであったが、剣をもう一度構え直す。

 

「メラ」

 

 尚も攻撃を加えようとする<地獄のハサミ>に対して、カミュの指が上がり、火球の呪文の詠唱を完成させた。

 火球は見事に魔物の顔面を唱えるが、それは<地獄のハサミ>からすれば、少し注意が逸らされた程度の物。むしろ、それによって怒りを露わにする<地獄のハサミ>の攻撃は、加熱して行く筈だった。

 ただ、カミュ以上の攻撃力と破壊力を持つ者にとってすれば、その隙が出来れば十分だったのだ。

 

「カミュ! どいていろ!」

 

 カミュの蔭から現れたのは、<アッサラーム>で購入した一振りの斧を高々と掲げたリーシャ。サラが『魔王』とまで称した強者である。 

 

「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 ひらりと道を空けたカミュの横を駆け抜け、<地獄のハサミ>の両腕の間も抜けたリーシャは、その手に持つ斧を力任せに振り下ろした。

 

「ギャオォォォォォォォォ!!」

 

 リーシャの腕から渾身の力を込めて振り下ろされた<鉄の斧>は、<地獄のハサミ>の飛び出した目玉と目玉の間に深々と突き刺さる。いや、それは突き刺さるというものではなく、『粉砕』と言った方が正しいのかもしれない。

 事実、<鉄の斧>が突き刺さった部分を中心に、<地獄のハサミ>の甲羅はヒビが入り、粉々に砕かれていた。

 一度大きく両腕についたハサミを高々と掲げ、一体の<地獄のハサミ>は絶命する。

 

 まさに『会心の一撃』。

 

 リーシャは、新しく自分の武器となった<鉄の斧>で、<地獄のハサミ>を一撃の下に倒してしまったのである。

 その光景に、カミュは勿論の事、メルエまでもが後方で目を丸くしていた。

 

「クギャァァァァァ!!」

 

 それは、もう一体の<地獄のハサミ>にとっても同様であった。

 共に人間と相対していた仲間が、一瞬で死に追いやられたのだ。 

 パニックの為なのか、残った<地獄のハサミ>は奇声を発する。

 

「くっ! 何か魔法を行使したのか!?」

 

「…………スクルト…………?」

 

 奇声を上げたと同時に、<地獄のハサミ>の身体は淡い光に包まれる。その光景に、リーシャが魔法の行使を示唆するが、その答えは意外な方向から届いた。

 

「……スクルトか……もう、俺やアンタの攻撃は受け付けないかもしれない……」

 

「何!? ど、どうするのだ!?」

 

 メルエが魔物を包む光を見て、その魔法の名を口にした。

 それが間違いではない事を確認したカミュが、リーシャに不用意に近づかないよう警告するが、リーシャは他の対応が思い浮かばない。

 

「……あの僧侶の<ルカニ>があれば良いが……それがないとなれば……」

 

 現状では、サラは気を失ったまま。

 敵の防御力を低下させる補助魔法は、この中では『僧侶』であるサラにしか行使出来ない。故に、<スクルト>によって上げられた防御力を低下させ、再びカミュ達が斬りつけるという戦闘方法は使えないのだ。

 となれば、相手の防御力など無視する程の力によって強引に突破する他ない。それを行使出来る者は、この四人の中で唯一人。

 

「…………メルエ…………」

 

「……ああ。メルエ、やれるか?」

 

 カミュの言葉を最後まで言わさずに、手に持つ<魔道師の杖>を掲げたメルエは、カミュの問いかけに大きく頷いた。

 横で見ていたリーシャも心配そうにメルエを見るが、メルエの自信を取り戻した表情にその勇姿を見守る事にする。

 

「…………ヒャド…………」

 

「ギャ!?」

 

 まるで、<スクルト>によって自分の絶対防御を誇っているように掲げていた<地獄のハサミ>の片方の腕が、メルエの持つ杖の先から発せられた冷気によって凍りつく。

 何が起こったのか解らないような瞳を自分のハサミへ向けた<地獄のハサミ>をリーシャの斧が一閃した。

 

「ギャオォォォォォォ!!」

 

 凍り付いたハサミはリーシャの一線で根元から砕け散るように斬り飛ばされた。

 いくら防御力を上げていようが、凍り付いた物は皆同じとなるのだ。

 痛みと怒りに燃えた<地獄のハサミ>の腕は、斧を構え直したリーシャへと振り抜かれるが、そのハサミも、もう一人の人間によって阻まれる。

 手に持つ<鋼鉄の剣>を振り下し、弾かれると解っていてもハサミの軌道を変えたのはカミュだった。

 カミュの剣で弾かれたハサミが砂に突き刺さる。それを抜こうと躍起になっている<地獄のハサミ>の周囲には、既にカミュもリーシャもいなかった。

 そこにあったのは、圧縮された空気だけ。

 

「…………イオ…………」

 

 呟くような詠唱と共に、<地獄のハサミ>の目の前にある圧縮された空気の塊が弾け飛ぶ。

 周辺が色を失ったかのように白く染まり、凄まじい轟音と共に全てを弾き飛ばした。

 <地獄のハサミ>が見た、この世で最後の景色は真っ白で何もない世界であった。

 

「お、おい、カミュ……メルエの魔法は以前よりも威力が上がっているのか?」

 

「……ああ……そのようだな……」

 

 <暴れザル>と対した時の<ベギラマ>の威力を知らないリーシャは、メルエの魔法の威力に驚き、カミュへと問いかける。

 その時、カミュが浮かべた表情は、リーシャの胸に残る事となる。

 『驚きと哀しみと後悔が入り混じったような表情』

 後にリーシャは、その時のカミュの表情をこう表現していた。

 

「…………ん…………」

 

「あ、ああ……凄いなメルエ。本当に、しっかりと杖から魔法が使えるのだな」

 

 <とんがり帽子>を脱ぎ、頭を差し出してくるメルエ。

 手に持つ<魔道師の杖>を購入してから遠ざかっていた褒め言葉と、その報酬である頭を撫でてもらう事をメルエは切望していたのだ。

 そんなメルエの様子に苦笑を浮かべながら、リーシャはメルエの頭に手を乗せ、優しくその髪を撫でてやる。気持ち良さそうに目を細めながらも、リーシャの言葉に誇らしげに頷くメルエ。それは、メルエ流の自己の存在を主張する方法なのかもしれない。

 魔物がいた場所には、もはや何もない。

 唯一、魔物が存在していたと感じられる物は、弾け飛んだハサミと周囲を満たす焦げくさい臭い。そして、散らばった甲羅の一部であろう。

 

「……しかし……あの僧侶は何とかならないのか?」

 

「あっ! そ、そう言えば、サラは大丈夫なのか?」

 

 メルエを撫でるリーシャを余所に、カミュは後方で未だに意識を取り戻さず、砂の上に寝転がっているサラに視線を向け溜息を洩らす。

 リーシャは、カミュの言葉を聞き、ようやくサラの存在を思い出し、慌ててサラの下へと駆け寄って行った。

 

「……」

 

「サ、サラも疲れていたんだろう……許してやれ……」

 

 サラの下に辿り着いたカミュは盛大な溜息を吐く。

 そんなカミュに場違いの様な弁明を繰り出すリーシャ。

 そして、何事かも分からずに首を傾げるメルエ。

 

 サラは眠っていたのだ。

 初めは間違いなく、弾き飛ばされた衝撃で気を失っていたのだろうが、途中から幸せな夢でも見ているのだろうか、笑顔を浮かべながら眠りこけていたのだった。

 

「…………サラ………ねてる…………?」

 

「い、いや、メルエ。あの魔物が、眠りにつく魔法でも唱えたのではないか?」

 

「……とても<ラリホー>を唱えたようには見えないがな……」

 

 サラの表情を見たメルエがぼそりと呟いた言葉に、リーシャがサラの弁護のために慌てて理由を作り出すが、それもカミュにばっさりと斬り捨てられた。

 カミュの容赦のない言葉に言葉が詰まってしまったリーシャは、カミュに対して強い視線を向ける。まるで『余計な事を言うな!』とでも言いたげに。

 

「……どうでも良いが、さっさと起こしてくれ……このままだと、陽が落ちるぞ」

 

 カミュの言葉通り、既に太陽はてっぺんを過ぎている。買い物などを済ませてから歩き出した一行は、正直砂漠に入るには時間が遅すぎたのだ。

 陽が落ちれば、砂漠の気温は氷点下になる事もある。とてもではないが、毛布一枚でやり過ごせるものではない。

 しかも、砂のど真ん中で毛布一枚を敷き、寝転がる訳にもいかないのが現状である。

 

「どうするつもりなんだ、カミュ?……私が言うのも何なのだが、とてもではないが、陽が落ちる前に<イシス>の城に辿り着けるとは思えないが?」

 

「……今は西ではなく南に進んでいる。当初から、今日中に<イシス城>に着く気はない」

 

 サラを揺さぶりながらもカミュにこの後の進路について尋ねるリーシャに驚きの回答が返って来た。

 サラを起こす作業をメルエに委ねたリーシャは、立ち上がってその答えを返して来たカミュを見据える。

 『何を言っているんだ?』と。

 

「では、どこに向かっていると言うのだ? 私達は<イシス>へ行く為に歩いていた訳ではないのか?」

 

「……アンタはどこまで考えなしだ? これほどの広大な砂漠を一日で歩けるとでも思っていたのか?」

 

 質問を質問で返す非礼。

 そんなカミュの態度にリーシャの怒りが沸点を迎えた。

 

「だから、どこに向かっているのだと聞いているんだ!?」

 

「……<アッサラーム>で、この砂漠の南に一人で暮らす変わり者の老人がいると聞いた。まずはそこに向かう」

 

「何!? それは、確かな情報なのか!?」

 

 リーシャの心配事は尤もである。不確かな情報であれば、リーシャ達はこの半日余計な労力だけを使った事になる。

 それこそ、真っ直ぐ西に向かっていた方が良いという程に。

 

「……<アッサラーム>の商人の中にも<イシス>と商売をしている者がいた。そいつが<イシス>に行く途中で必ず立ち寄り、物を売っていると言うのだから本当の事だろう」

 

「……そうか……すまなかった。それで、そこまではどのくらいかかるんだ?」

 

 カミュの話しぶりから、それが明確な理由のある行動であった事を理解したリーシャは、素直に頭を下げる。実際、カミュがメルエを危機に晒す事をする筈がないと考えていたリーシャであった為、冷静さを取り戻すのが比較的早かったのだろう。

 

「……馬車で半日というのだから、夜には着けるだろう……」

 

「……わかった……」

 

 カミュとリーシャの会話が終わる頃、ようやくサラの意識が戻る。

 いや、眠りから覚めたと言った方が正しいのかもしれない。

 自分が眠っていた事を、言葉少なにメルエから聞いたサラは、飛び起きたように立ち上がり、カミュとリーシャに頭を下げた。

 リーシャは苦笑しながらも気にしないように手を振り、カミュは呆れたように溜息を吐きながらも、サラの失態を追求する事はなかった。

 それが、サラには尚のこと心苦しい。サラは、また自分自身のレベルアップを心に誓うのだった。

 

 

 

 一行はそのまま、南へと進路を取り、休憩も碌に取らぬまま歩き続ける。

 途中では、<キャットフライ>に<バリィドドッグ>、そして先程遭遇した<地獄のハサミ>等に遭遇したが、名誉挽回を胸に誓うサラが行使する<ルカニ>や<ルカナン>によって防御力を上げる事を阻止された<地獄のハサミ>は、強力は破壊力を持つ<鉄の斧>を持ったリーシャの敵ではなかった。

 そんな戦いも終盤に差し掛かり、一体の<地獄のハサミ>をメルエが魔法で倒した時、不意に呟いたリーシャの言葉は、一行を凍りつかせた。

 

「……ふと思ったんだが……メルエの<ヒャド>で出来た氷を口に含めば良いんじゃないのか?」

 

「!!」

 

 メルエが作り出す冷気によって出来上がった氷は、基本的に空気中にある水分を凍らせた物だと云われている。それならば、それを口に含めば、喉の渇きも潤わせる事が出来るのではないかというのだ。

 これには、カミュも『何を馬鹿な事を』と斬り捨てる事が出来なかった。

 ただ、このリーシャの驚くべき提案には、一つの難点も存在しているのだ。

 

「……それで、<ヒャド>の対象はアンタで良いのか?」

 

「な、なに!? 何故そうなる!?」

 

 溜息を洩らしながら言葉を発するカミュに、リーシャはまた何か自分が変な事を言ってしまったのではと思うが、それを素直に認める事を良しとせず、声を荒げた。

 

「……こんな砂漠のど真ん中で<ヒャド>を使うのなら、凍らせる相手がいなければ氷など出来ない……そうであれば、『魔物』に向けて行使するか、『人』に向けて行使するかのどちらかだ。岩もなければ木もない。アンタ方は魔物を凍らせて出来た氷を口に含む事が出来るのか?」

 

「そ、そのような事は出来ません!」

 

「……そうだな……流石に魔物の身体についた氷を口に含むのには抵抗があるな」

 

 カミュの言葉に真っ先に拒絶するサラ。

 リーシャもまた顔を歪ませながら呟いた。

 

「……ならば必然的に、言い出したアンタを人柱にする事になる。アンタについた氷を口に含むのも抵抗はあるが……すまない……アンタの犠牲は極力無駄にしないようにする……」

 

「なっ!? なんだと!?」

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

「メ、メルエまでか!?」

 

 カミュの言う事に含む部分もあって、その部分にリーシャは反応したのだが、その後に続いた言葉にメルエが同調した事によって、話が自分が思っている遥か斜めに進んでいる事に気が付いた。

 サラは例の通り、炎天下の砂漠で額に汗を浮かべながらも、くすくすと笑っている。

 そこで、リーシャは自分がからかわれている事に思いが至った。

 

「~~~~~~~!! お前達! 私が今の状況を何とか出来ればと真剣に考えていたのに、何なんだ!」

 

 強い日光にも負けぬリーシャの叫びが周囲に砂しかない砂漠に響き渡る。

 メルエは素早くカミュの後ろに隠れ、サラはその笑みを引っ込める。

 唯一人、口端を上げたままのカミュが、『時間を取られた。先を急ぐ』と何事もなかったかのように前を歩き出した。

 やりきれない思いを胸に残し、自分の一歩前を歩くサラを睨みつけるリーシャ。

 その視線に気が付きながらも、サラは隣のメルエに話しかけながら歩いた。

 その額に日光による暑さのせいだけではない汗を浮かべながら。

 

 

 

 辺りが薄暗くなったかと感じた後、砂漠はすぐに闇に覆われる。

 陽と共に落ちた周囲の気温は、肌寒いを既に通り越し、刺すような寒さへ変わっていた。

 メルエはその寒さに震え、すでにカミュのマントの中に潜り込んでいる。サラとリーシャも服の上に購入しておいた毛布をかけ、寒さを凌ぎながら歩いていた。

 そんな一行の前に遂に目的地であった一軒の家が見えて来る。それは、本当に小さな家。

 砂漠の南の果てに位置し、その家の後ろには雄大な山がそびえており、山から流れた水によって堀の様な物を作り、魔物の侵入を防いでいたのであろうが、その堀を満たす水も、今や腐り果て、毒素を撒き散らしているのではと思う程の色をしていた。

 

「……カミュ、本当にここがその家なのか?」

 

「……カミュ様?」

 

 その家の佇まいに、リーシャとサラは疑問を呈す。それは無理もない。そこは、『人』が住む場所では決してないと思われるような場所であるからだ。

 

「……入ってみれば分かる……」

 

 堀を満たす腐った水は、異様な臭気と瘴気を撒き散らしている。

 その堀にかかった一つの橋を渡り、カミュ達は建物の玄関の戸を叩いた。

 

「……誰じゃ?」

 

 中から返って来たくぐもった声。

 それが、サラの恐怖心を煽った。

 丁重に自分の身分を名乗ったカミュの言葉に、ゆっくりと扉が開いて行く。

 中から出て来たのは、一人の老人。それは、リーシャやサラが考えていたような者ではなく、人の良さそうな笑みを浮かべる優しげな人物であった。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

ようやく、イシスへ向かいます。
イシス城内に入るにはもう少し話数が掛ると思われます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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イシス砂漠②

 

 

 

 扉の前で立ち尽くすカミュ達を暫しの間観察していた老人は、『立ち話もなんですから』という言葉と共に、カミュ達を家の中へと招き入れた。

 

「こんな砂漠の果てにどのような御用かの?……商人には見えんが……」

 

「……はい……まずは突然のご訪問、大変申し訳ございません。私達は<イシス>の城に向かう途中でして。途中で陽も気温も落ちて来た時にこのお宅が目に入り、厚かましくも一晩の宿をお願いする事は出来ないかと思い、戸を叩かせて頂きました」

 

 仮面を被ったカミュが、嘘の話を作り上げ始めた。

 その事にサラは一瞬顔を顰めるが、カミュの言葉を真っ向から否定する事は、気温が氷点下に下がっている砂漠に放り出される可能性がある事である為、サラは口を開く事が出来なかった。

 

「ほぉ、それは、それは……ここから、<イシス城>まではまだ丸一日掛かりますからの。狭い家ではあるが、疲れを癒しなされ」

 

「……ありがとうございます……」

 

 カミュの言葉を信じ、老人は快くその願いを聞き入れた。

 その老人の優しい笑顔にサラの心は痛む。それと同時に、世界を救う為に旅する『勇者』といえども、一晩の宿を取る為に相手を騙すしか方法がないという現実に落胆した。

 

「しかし、今の<イシス>にどんな御用かの?……新しく士官するつもりなら、今は無理だと思うが……そうではなさそうじゃのう……」

 

 家の外でカミュ達の衣服に付いた砂を払わせてから、老人は椅子を勧めた。椅子に座った一行の前に暖かな飲み物を置いた老人は、カミュ達を一通り見廻してから、疑問を口にする。

 それは、あたかも<イシス>の番人であるかの様な物言いであり、カミュとサラは表情を引き締めた。

 もし、この老人が<イシス>と通じる者であれば、下手な事を話す事は出来ない。 

 

「私達は、<魔法のカギ>という物を求めて<イシス>に向かう途中でな」

 

「リ、リーシャさん!」

 

「……この馬鹿……」

 

 しかし、そんな二人の思慮を余所に、いつもの様に相手の疑問に素直に答える正直者の姿があった。

 その発言に、サラは慌て、カミュは顔を顰める。

 <魔法のカギ>は、云わば伝説の域に入る代物である。ともすれば、それは『国宝』として扱われていてもおかしくない。

 実際に、<魔法のカギ>は<イシス>にあるという話も出ていた。つまり、リーシャの言葉は、<イシス>の『国宝』を狙っていると言っているようなものなのだ。

 

「ほっほっほ。実に真っ直ぐな回答が返って来たものじゃ。いや、何、そなた等もそこまで警戒する必要はない。儂は、もはやあの国とは何の関係もない老いぼれじゃよ」

 

「……では……以前は<イシス>で?」

 

「ふむ……先代の女王様の下で文官としてお仕えをしておった……」

 

 警戒を強めるカミュ達を柔らかな笑顔で制した老人の過去を聞いたカミュ達は、心底驚いた。

 まさか、そこまでの高官だとは思っていなかったのだ。

 <イシス>は代々女王が治める国として知られている。

 何故か、イシス王家には男子が生まれない。その時代の女王が懐妊すると、それは例外なく女子であるのだ。

 その女王の下で文官として働くのであれば、大抵は女。しかし、この老人は見るからに男であった。

 ならば、それなりの能力がなければ仕える事など不可能なのである。

 

「先代の?……今の女王様は若いのか?」

 

「……ふむ。数年前に先代の女王様が原因不明の奇病で身罷られた。現女王様はまだお若い。そうじゃのう……お主は幾つなのじゃ?」

 

 空気が一瞬張りつめた場をもろともせずに、リーシャは老人の言葉に疑問を呈す。リーシャの姿に若干の呆れを滲ませながらも、老人の問いかけの的が自分である事に気が付いたカミュは正直に質問に答えた。

 

「……十六になります……」

 

「おお! そうか……ならば、アンリ様と同じ年じゃのう……」

 

「アンリ様?」

 

 老人は現女王とカミュの歳を比べる為に問いかけた筈だ。

 しかし、歳を答えたカミュを遠い目で見つめる老人が発した名前は、聞いた事のない名前だったのだ。

 

「おお……すまぬ……軽々しくも女王様のお名前を口にしてしまった……聞かなかった事にしてはもらえぬか?」

 

「……畏まりました……」

 

 老人は無意識にその名を口にしていたのだろう。

 改めてカミュ達に頭を下げ、口外しない事を願った。

 

「ふむ。では、その代わりと言っては何だが、お主達は<魔法のカギ>を求めているのだったな?」

 

「……はい……」

 

 カミュは苦々しく顔を顰めて答えた。

 リーシャの不用意な発言によって情報の収集が困難になった事を内心でかなり怒りを感じていたのかもしれない。

 

「ならば、<イシス城>の北にある<ピラミッド>へ向かいなされ」

 

「……ピラミッド?」

 

 カミュ達三人の声が合わさる。

 聞き覚えが全くない単語に揃って疑問を持ったのだ。

 

<ピラミッド>

この広い世界の中でも、<イシス>という国にしかない独自の文化である。石を積み上げる事で人工的な山を作り上げるのだ。その石の配置から寸法まで、この時代の建造物中でも群を抜いた技術が積み込まれている。それが、砂漠という荒れた大地を所有する<イシス>の地位を高めている一つの要因でもあった。

 

「うむ。代々のイシス王族が眠る場所じゃ。そこに<魔法のカギ>が奉納されていると云われておる。まだ、誰も発見した者はおらんがな」

 

「……」

 

 誰も発見したことのない鍵。

 それはまさしく伝説。

 それが存在する可能性よりも、存在しない可能性の方が高い代物である。

 その現実に三人は声を失った。

 

 オルテガが歩んだ道を辿って来た筈であった。

 <ノアニール>や<アッサラーム>で聞いた話によると、オルテガもその鍵を求めていた筈。しかし、その鍵の伝説は今も尚語られているという事は、オルテガがそれを手にしていない証拠と言っても良いだろう。

 あのオルテガでも手に入れる事が不可能であった物。いや、それは、手に入れる事が出来なかったのではなく、『存在しなかった』のではないかという疑問が三人の頭に浮かんだのだ。

 

「それでも、まずは<イシス城>に向かいなされ。ピラミッドに入るにしても、それは今現在唯一の王族である女王様のお許しが必要じゃからのう」

 

「……ありがとうございます……」

 

 実際、イシス王家が眠る<ピラミッド>と呼ばれる巨大な墓には、イシス王家代々の宝物が安置されていると云われており、それを狙う者達が後を絶たない。

 もし、カミュ達がこの老人の話を信じ、このまま<ピラミッド>へ向かったとすれば、<イシス>国家から『墓荒らし』のレッテルを貼られ、国敵とされる事は間違いないだろう。

 

「……今夜は狭苦しい家ではあるが、ここで休んでいきなされ。余程疲れていると見えるからな……」

 

 カミュ達から視線を外し、柔らかな笑みを作りながら話す老人の視線の先には、先程まで湯気が出ていたカップを両手で持ちながら舟を漕いでいるメルエが座っていた。

 慣れない『砂漠』という歩き辛い土地を一日歩き続け、更には何度も戦闘を繰り返して来たメルエの疲労は、限界に達していたのだろう。

 

「……重ねてお礼を申し上げます……」

 

「良いのじゃ。こんな場所に人が訪ねて来ること自体、多くはない。儂も久しぶりに若い者と話が出来て、随分楽しませてもらった」

 

 奥の部屋の床に毛布を敷き、購入していた毛布をかけてメルエを寝かせる。その横で身体を横たえたサラもまた、襲いかかる睡魔に負け、すぐに眠りについた。

 居間に残ったのは、老人とカミュとリーシャの三人。老人が差し出した暖かな飲み物のおかわりを受け取り、リーシャは再び口を開いた。

 

「しかし、何故貴方の様な高官が、このような場所で暮らしているんだ?」

 

「……ふむ……」

 

 国こそ違いがあれど、国家に仕える者として、リーシャの口調はカミュ達へ向ける物と大した違いはない。

 そして、リーシャは貴族。

 アリアハンでは、『尊い人間』とされる者であるのだ。

 

「……まぁ、簡単に言うと、追い出されたんじゃの」

 

「……」

 

 リーシャの問いかけに、少し躊躇しながらも理由を口にする老人のその意図をカミュは掴みかねていた。

 訝しげに老人を睨むカミュには、老人が身の上話をする理由が解らなかったのだ。

 

「追い出された?」

 

「……ふむ。先代の女王様は、それはそれは素晴らしきお方じゃった。あの方が在位している間は、<ピラミッド>に盗みに入る輩もいなかった。しかし、若くしてお亡くなりになられ、その原因も解らん……」

 

「……」

 

 リーシャは老人の話に聞き入って入るが、カミュは未だに老人を睨むだけ。

 何でもないような事の様に話してはいるが、決してその国の高官だった者が、他国の、それも只の旅人に話す内容ではないのだ。

 

「……残されたのは、まだ歳が二桁になったばかりの王女様だけじゃった。すぐに女王として即位なされたが、幼子故、(まつりごと)など出来はしない」

 

「……傀儡……ですか?」

 

 ようやく口を開いたカミュの方に視線を戻した老人は、目を瞑り、溜息を吐くように頷いた。

 リーシャは正直、話について行く事が困難になりかけている。

 

「……先代の夫。つまり、現女王様の父君は早くして亡くなられておる。女王様はお一人じゃ。父君の母、女王様の祖母に当たる者が今、実質的には<イシス>を動かしていると言っても過言ではないだろう」

 

「……何故、それを私達に話したのですか?」

 

 ついにカミュはその疑問を口にした。

 王家の内情まで話したこの老人の考えが解らないのだ。

 

「……ふむ。お主が疑うのも尤もな事じゃな……今話した内容を考えれば、儂は国家の反逆者の様なものじゃからな……」

 

「……確かに」

 

 ようやくリーシャもカミュの話す疑問の意味を知る事となる。国家に仕える者が、他国の者にその内情を話すなど、裏切り行為以外何物でもない。

 思いつくまま、感じた感情を口にするリーシャではあったが、アリアハンの内情等を軽々しく話した事はない。

 

「……儂は、現女王様であるアンリ様がお生まれになる前から、イシスに尽くして来た。 アンリ様の周囲には同年代のご友人などおられない。いつもお一人であった。それは女王となった今も変わらんじゃろう……いや、今の方が酷いかもしれん」

 

「……」

 

 ぽつりぽつりと語り出す老人を見つめるカミュの瞳は冷たい光を宿したまま。反面、リーシャは老人の話す内容に真剣に聞き入っていた。

 それが、お互いの経験の差なのかもしれない。

 老人の真意を探る者と、その言葉を受け入れる者の違いなのだろう。

 

「……今のアンリ様は、女王として玉座に座っておられるだけじゃ。幼い頃から利発なお方じゃったから、すでに国政にかかわれる程の知識は持っておられよう。しかし、それを周囲の人間が許さない……お主達がイシスを訪れるのであれば、アンリ様の話し相手になっては貰えぬか?」

 

 カミュは、老人の話の内容を全て信じた訳ではなかった。

 とてもではないが鵜呑みに出来る内容ではない。

 一国に仕える者が、それだけの理由で内情等を話す訳がない。

 

「……そういう事だったのか……わかった、私の様な者で役に立つかどうか分からないが……」

 

 しかし、カミュの隣に座る脳筋戦士には疑う余地すらなかったようだ。

 そんなリーシャにカミュは盛大な溜息を吐く。

 

「……謁見の間で発言すら許されないアンタが、どうやって女王陛下と会話をするつもりだ?」

 

「うっ!?」

 

 カミュの容赦のない言葉に、リーシャは声に詰まる。

 カミュの言う通り、リーシャ等は謁見の間での自主的な発言は許されていない。それこそ、女王様から話しかけられたとしても直答は許されていないのだ。

 

「……それで……それだけの理由ではないのではないですか?」

 

 もう一度老人に戻したカミュの視線は、凍てつくような冷たさだった。

 無表情に睨むカミュの姿に、一瞬老人は怯みを見せるが、流石にそこは数十年<イシス>に文官として仕えてきた男性。今までの優しげな瞳を消し、カミュと暫し睨みあった。

 

「……若いのに、良い瞳をしておるの……流石は『オルテガ』殿のご子息と言ったところか……」

 

「!!」

 

 睨み合いの均衡を崩したのは老人であった。

 その老人が溢した単語に、カミュとリーシャは驚きを見せる。

 カミュ達はその事をこの老人に話した事もない。

 アリアハンから来た事すらも話してはいないのだ。

 

「そう警戒するでない。お主達の旅は既に世界各国に伝わり始めておる。ロマリア国王が各国にその旨を伝える伝書を流したのじゃろう」

 

「……」

 

 カミュから完全に表情が消え失せた。

 反対にリーシャには解りやすい程の感情が表れる。

 

「その話は、この小さな家にも届いておる。そして、この時期に<魔法のカギ>を求めて<イシス>に来る者ならば、その者達に間違いないだろうとは思っておったが、儂の目もまだ曇ってはおらんかったようじゃな」

 

 老人の話はカミュとリーシャにとって驚きの連続だった。

 ロマリア国王がそこまで便宜を図るとは思ってもみなかったのだ。

 各国へカミュ達の事が伝われば、各国の城に上がる事がかなり容易になって来る。また、その逆に弊害も多くなって来るのではあるが。

 

「……お主があの『オルテガ』殿のご子息であれば、我が祖国である<イシス>を変える事も可能じゃろう……いや、国家を変える事は出来なくとも、アンリ様のお心を変え、真の女王国家を再生させる一石となってくれるじゃろう」

 

「……私は『オルテガ』とは何の縁もありませんが……」

 

「カミュ!?」

 

 老人が本当の目的を話し出すが、その内容にカミュの表情が益々失われて行く。

 そして出た言葉は拒絶。

 自分が『オルテガ』と血縁である事すら認めないものだった。

 その言葉に真っ先に反応したのはリーシャ。最近は、カミュのその生い立ちを理解し始めてはいるが、それでも自分の父を父と認めないカミュの考え方にはどうしても納得がいかなかった。

 しかも、その父は全世界で名が知られる者であり、リーシャが祖国として愛するアリアハンの英雄である男なのだ。

 

「……ふむ……そうか、お主も……いや、言うまい。<イシス>に行く必要性はお主も解っておろう。後は、お主がアンリ様にお会いしてから考えてくれれば良かろう」

 

「……」

 

「……カミュ……」

 

 カミュの言葉の中に老人は何かを見たのだろう。故に、その先を語る事はなかった。ただ、『<イシス>に行って女王に謁見せよ』というのみ。

 暫し、睨み合っていた両者であったが、老人が席を立ち寝室へと入って行った事によりその睨みあいも終了する。

 

「……カミュ……」

 

「……今、アンタとあの男について議論するつもりもなければ、する意味もない。アンタと俺は違う……」

 

 老人がいなくなっても席を立とうとしないカミュにリーシャが話しかけようと声をかけるが、それに対して返ってきたカミュの答えは完全な拒絶。

 『オルテガ』に関して、リーシャと話す意味も気持ちもないという物だった。その答えは、リーシャに『怒り』の感情を湧き上がらせるのではなく、『哀しみ』を胸に残した。

 

 その後、会話もなく二人は就寝する。

 リーシャは先日<アッサラーム>で聞いた話を思い出していた。

 

 カミュにとっては、十六年間共に過ごした祖父や母でさえ、今や『他人』として見ているのだ。ましてや、顔を見た事もなければ声も聞いた事もない者である『オルテガ』を父として見る事が果たして可能なのかと。

 しかも、『オルテガ』はカミュが母や祖父を『他人』として見なければ生きてはいけない元凶と言っても過言ではないのだ。

 自分の中の憧れの存在である『オルテガ』という英雄。

 自分の仲間であり、アリアハンが『魔王討伐』の命を下した『勇者』であるカミュの父としての『オルテガ』という存在。

 リーシャの中で、その同一である筈の存在が結びついて行かない。

 リーシャは眠りにつくまで、その事に頭を悩ませる事となる。

 

 

 

 翌朝、老人の提案により、一行は朝陽が昇る前に<イシス>へと向かう事とした。

 老人の話では、この家から<イシス城>までは丸一日。途中で魔物との戦闘や、咄嗟のアクシデント等があれば、当然その進行速度は変わり、予定が狂って行く。

 基本、老人がいう日数は、馬車での行動を基準にそれを徒歩に直した物である。つまり、馬車であれば魔物との戦闘を計算には入れない。故に、眠い目を擦るメルエを無理やり起こし、一行は砂漠へと出たのだ。

 

「アンリ様はとてもお美しい方じゃ。くれぐれも懸想等せぬようにの」

 

 別れ際に老人がカミュに告げた一言は、一行を大いに困惑させた。

 リーシャやサラは、『カミュ』と『恋』という単語が全く結びつかない事に。

 カミュは、昨日の話から全くかけ離れたその内容に。

 メルエは、知らない言葉が出てきた事に。

 そんな各々の表情を見て、淡く微笑んだ老人は、『気を付けて』という言葉で一行を送り出した。

 

 

 

 老人の家から離れた一行は、真っ直ぐ西へと進む。まだ太陽が昇りきっていない砂漠は肌寒く、メルエはカミュのマントに包まりながら進み、その後ろをサラとリーシャが歩いて行く。

 そんな涼しげな砂漠に突然の熱気が発現した。

 カミュがその熱気の方向に視線を向けると、<メラ>級の火球がカミュ達に向かって複数飛んで来ていたのだ。

 

「伏せろ!」

 

 珍しいカミュの大声に、リーシャもサラも驚きよりもその指示に従う事を優先させた。

 身を伏せた一行の上を火球が飛んで行く。

 涼しかった砂漠を熱気が包むが、自分の頭すれすれを飛んで行った火球に、サラは自分の身体が冷えて行く思いを持った。

 

「魔物か!?」

 

 飛び去った火球を後ろ目に立ちあがったリーシャは、背中の斧を構え周囲を警戒する。マントからメルエを出したカミュもまた背の剣を抜き、構えを取った。

 一行の左手の砂煙の中から現れたのは二体のムカデ。

 ロマリアで生息していた<キャタピラー>のような固い殻で覆われているようには見えないが、その身体は毒々しい色をし、相手を威嚇するような模様が浮かび上がっている。

 その姿はムカデというより芋虫のようなものだった。

 一体のムカデがカミュ達に向かって口を大きく開いたかと思うと、その口から先程カミュ達に向かって飛んで来たような火球を吐き出した。

 カミュ、リーシャ、サラの三人はそれぞれ自分が持つ盾でその炎を防ぎ、メルエはカミュの後ろに控え、<魔道師の杖>を握っていた。

 

「カミュ! 突っ込むぞ!」

 

「……わかった……」

 

 盾で火球を防いだリーシャは、斧を片手にムカデに向かって駆け出す。

 リーシャの言葉に頷いたカミュもまた同じムカデに走り込んだ。

 

<火炎ムカデ>

イシス砂漠に生息する魔物で、その体躯に火を纏う。その口から『火の息』を吐き出し、敵を襲う魔物。背にある殻の様な物は、<キャタピラー>とは違い、それほど硬くはなく、剣等の攻撃も可能ではあるが、その身に纏う熱気に容易に近づく事が出来ない。

 

 一体の<火炎ムカデ>を斬りつけるカミュの剣が足を斬り飛ばす。怒りに燃える<火炎ムカデ>の口から<火の息>と呼ばれる火球が飛び出しカミュを襲った。

 火球が直撃し、炎に包まれるカミュ。その事に一瞬気を向けたリーシャに、<火炎ムカデ>の尾の様な部分が襲いかかった。

 咄嗟に盾で防いだリーシャではあったが、その身体は浮き上がり、後方へと下がって行く。

 火球に包まれたカミュは、その手に持つ<うろこの盾>で火球を完全に防いではいたが、一度態勢を立て直すためにメルエとサラのいる後方まで位置を下げた。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 カミュ達が下がって来た事を確認したメルエが、手に持つ<魔道師の杖>を<火炎ムカデ>二体に向けて詠唱を行った。

 杖の先から凄まじい熱風が巻き起こり、<火炎ムカデ>に襲いかかる。魔物の周辺に着弾した熱風は火炎へと姿を変えて、魔物の周囲を火の海と化した。

 

「……メルエ……」

 

 杖の先から発現させた光景に、リーシャは思わず息を飲んだ。

 リーシャに魔力のコントロール等の事は理解出来ない。ただ、その方法を身につけたメルエが、更なる才能の開花をさせた事は間違いないという事は解ったのだ。

 真っ赤な海の、炎という波が引いて行き、魔物の残骸があるだけとなると予想していた一行の前に、信じられない光景が広がる。

 

「……馬鹿な……」

 

「……そ、そんな……」

 

 その光景が信じられないとでも言うように言葉を洩らすリーシャとサラ。

 メルエも目を見開き、そこにある筈のない姿を見つめていた。

 炎の波が引いて行ったその場所には、全く変わらない姿の<火炎ムカデ>が鎮座していたのだ。

 いや、むしろその身に纏う熱気を増し、カミュ達と対する時よりも凶暴になっているようにさえ見える。

 

「……メルエ、おそらくあの魔物には、火炎の魔法は通用しないのだろう。その身に纏う熱気に変えてしまうのかもしれない。使うなら、<ヒャド>か<イオ>にしろ」

 

「…………ん…………」

 

 自分の魔法が通用しない相手など、メルエは今まで相対した事はなかった。

 どんな魔法でさえ、何らかの効果を与えていたのだ。

 しかし、目の前の魔物はメルエの魔法に何の脅威も感じてはいない。それが、メルエの心に恐怖を植え付けた。

 それでも、カミュの言う通り、もう一度杖を掲げ直し、詠唱を始める。カミュとリーシャはそれぞれの武器を構え、メルエの詠唱と共に駆け出す用意をしていた。

 

「…………ヒャド…………」

 

「バギ!」

 

 しかし、カミュ達が駆け出すその前に、メルエの呪文行使に被せるようにサラの詠唱が完成した。

 メルエが放った冷気が一体の<火炎ムカデ>に襲いかかり、その無数にある足を凍らせて行く。身動きが取れなくなった魔物が息つく暇もなく、その周囲の風が真空と化した。

 凍り付いた足が切り刻まれ、砕け散るように飛び散って行く。

 

「ギャオオオオオオオオオオオオオオ!!」

 

 凄まじい雄叫びを上げた一体の<火炎ムカデ>が前のめりに倒れた所に、<地獄の鎌>ならぬ<鉄の斧>が振り下ろされる。それ程硬くはない殻を突き破り、<火炎ムカデ>の体内に食い込んで行った斧は、そのままその体躯を二つに分けてしまった。

 身体を二つに分けられた<火炎ムカデ>は、その体躯を数度くねるように動かし、体液を撒き散らした後に絶命する。

 残るは一体。

 先程のサラの<バギ>により、体躯に無数の切り傷をつけた<火炎ムカデ>は、その傷口から体液を流しながらも必死に砂の中に隠れようともがいていた。

 

「バ……!! 」

 

「……もう、良い……」

 

 その身を隠そうと必死な魔物に向け、もう一度腕を掲げて呪文の行使を試みるサラの右腕が、戻って来たカミュによって掴まれる。それは、これ以上の攻撃を認めないというカミュの意志の現れ。

 サラとカミュが暫しの間、睨み合う事となる。

 

「……わかりました……」

 

「……」

 

 睨み合いの後、サラの腕は下げられた。

 その事にリーシャは素直に驚きを表す。

 それは、カミュも同じだったのかもしれない。

 既に<火炎ムカデ>は砂の中に入ってしまっている。

 これ以上追う意味はもうない。

 しかし、サラは、攻撃を邪魔したカミュに文句一つ言う事はなかったのだ。

 

「…………サラ…………」

 

「はい?……あっ……さあ、メルエ行きましょう!」

 

 自分の中でも消化しきれていなかったのだろう。若干険しい表情をしていたサラを心配し、声をかけて来たメルエを見た途端、サラは表情を改めた。

 いつものサラの表情に戻った事に安心したのか、メルエはサラの手を取り、再び西へと歩き始めた。

 

「カミュ……私も認めなければいけないのかもしれないな……」

 

「……何をだ?」

 

 不意にかかったリーシャの声。

 それは、カミュにとって、全く理解出来ない呟きだった。

 

「サラの成長を……だ」

 

 リーシャにとって、サラもメルエと同じように妹の様な者だった。

 いつも一人で苦しみ、悩み、答えを出せずに涙するサラ。

 しかし、いつからだろう。

 彼女が自分の力で立ち上がり、自分の瞳で物事を見始めたのは。

 リーシャは、今までそれを感じてはいたが、はっきりと認識はしていなかった。

 今、サラは間違いなくこのパーティーに必要な存在になっている。それは、サラには解っていないかもしれない。

 しかし、リーシャは、いや、カミュもまたその事を認めているだろう。

 

「……アンタは相変わらず、余り進歩は見えないようだがな」

 

「な、なんだと!?」

 

 しかし、この二人の真面目な会話はあまり続かない。

 失礼千万なカミュの言葉に、瞬時にリーシャの頭に血が上って行く。

 

「……相変わらず、頭に血が上り易い……」

 

「ぐっ……」

 

「……先を急ぐぞ。夜が更ける前に<イシス>へ着きたい」

 

 カミュの反撃に言葉に詰まってしまったリーシャを置き去りに、カミュもまた西へ向かって歩き出す。悔しそうに歯噛みするリーシャは、そのカミュの後ろ姿を睨みつけるが、先程のカミュの言葉を思い出し、その表情を緩めた。

 カミュは、リーシャが口にしたサラの成長に関しては否定しなかった。

 それが、カミュの成長なのかもしれないとリーシャは一人納得するのであった。

 

 

 

 一行は、ひたすら西へと歩を進める。途中では、様々な魔物との遭遇があったが、一度戦えば、その魔物との闘い方も見えて来る。特にサラはその対処法を考え、時にはカミュやリーシャに指示を出す場面なども出て来るようになっていた。

 やがて陽も落ち、砂漠に闇のカーテンが敷かれる頃に、ようやくカミュ達の頬に湿り気のある風が当たるようになって来る。

 

「……水場が近いな……」

 

「あのお爺さんは、オアシスの傍に<イシス城>はあるとおっしゃっていましたね?」

 

 湿り気のある風に目的地が近い事を悟ったカミュとサラは口を開くが、カミュのマントに包まり寒さを凌いでいるメルエは限界が近かった。

 老人の住処からここまでの間に遭遇した魔物の数は、おそらくメルエが加入して以来最大数となっている筈だ。

 もはやカミュ一行の中で、無くてはならない存在になっているメルエの魔法は、その魔物達との闘いにおいてもその効力を発揮していた。

 只でさえ、砂漠に直接降り注ぐ日光により体力を削られて行く中での呪文の行使は、幼いメルエにとっては酷過ぎるもの。その為、陽が陰りはじめた頃からの戦闘では、カミュは極力メルエに魔法を使わせなかった。

 それでも、メルエの状態は限界ぎりぎりになっているのだ。

 

「行こう、カミュ! 早くメルエを休ませてやりたい」

 

「……わかっている……」

 

 そんなメルエの状態を一番気に掛けていたのはリーシャだ。

 自分が魔法を使えない事で、その魔法力の低下による苦しみが解らない為、尚の事メルエへの心配が強い。何度か途中で抱き抱えて歩こうとしたが、それはサラに止められた。

 

 『これから先もメルエと旅するつもりなら、メルエが弱音を吐くまでは駄目です』

 

 サラの強い言葉に、リーシャは何も言えなかった。事メルエに関しては、サラは完全な躾役になっている。本当にメルエの為だけを思って言っているのが解るだけに、『鬼のようだ』と思いながらも、リーシャはその言葉に従う事にした。

 

 

 

 そんな一行の前に、ついに目的地である<イシス城>が見えて来る。

 雲一つない空に輝く月の灯りに照らされ、神秘的に輝く城は、一行の脳裏に焼き付いて行った。

 

「……綺麗ですね……」

 

「ああ……これ程までに神々しい城は私も初めてだ……」

 

 オアシスを背にそびえるその城を見上げ、リーシャとサラが溜息を洩らす。

 その城の麓には明るい営みの光を溢す<イシス>の城下町。

 城を囲む城壁とは別に、城下町を囲む防壁がそびえ立っている。

 通常、アリアハンでもロマリアでも城下町は城の城壁内につくられる事が多い。だが、<イシス>は城と町は別の物として存在している。

 よりオアシスの水場に近い所に城が立っているが、その在り方がこの国の王族の在り方を表しているようだった。

 

「……まず町に入り、宿を探す……」

 

「…………ん…………」

 

 疲れきっているメルエは、カミュの言葉に一つ頷くと、視線を上げずにカミュのマントを掴みながらその後を歩く。

 リーシャは、そんなメルエとサラを見比べ、サラが溜息と共に頷くのを確認すると、カミュの足元からメルエを担ぎ上げた。

 

「…………???…………」

 

 不思議そうに自分を担ぎ上げた人物の表情を見ていたメルエであったが、それが母の様に慕うリーシャであり、浮かべている表情が笑顔である事に安堵し、瞳を閉じて行った。

 

「すみません……メルエがそこまで疲れているとは……」

 

 リーシャの腕の中に納まると同時に小さな寝息を立て始めたメルエを見て、サラの胸に罪悪感が湧いて来る。

 この先の過酷な旅を思えばこそ、心を鬼にしてメルエを甘やかしては来なかった。しかし、幼年時代から一人で過ごす事の多かったサラは、メルエの幼さへの配慮が足りなかったのかもしれない。

 

「いや、サラは正しい。この先の旅はもっと厳しい物になる事は間違いない。それに、メルエも解っているさ。その証拠に、何一つ弱音を吐かなかった」

 

「……そうだな……」

 

 優しい笑みを浮かべながらメルエの顔を覗き込むリーシャの言葉に、珍しくカミュが賛同の意を示した。

 それは、サラの考えを誰も否定していないという証拠。

 サラの言う通り、辛く苦しい旅になる事は、幼いメルエですら感じているのだ。

 

「……はい……メルエ、ごめんなさい。今日は、本当によく頑張りましたね」

 

 リーシャとカミュの言葉に未だ罪悪感を抱えたままサラは頷き、リーシャの抱くメルエの帽子を取って髪を撫でながら、今日のメルエの頑張りを讃える。

 そして、一行は<イシス>の町へと入って行った。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ようやくイシス到着です。
次話からはイシス国内編です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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イシス城①

 

 

 

イシスの町に入って、サラは驚く事になる。

町は活気に溢れていた。

 

いや、活気に溢れているとは言えないのかもしれない。夜とはいえ、人の往来が激しい。そして、皆同様に何かに焦っているような表情を浮かべている。それは、決して<アッサラーム>で見た、夢と希望の詰まった活気ではなく、<ロマリア>で見たような充実した活気でもない。どちらかと言えば、<みかわしの服>を買う為に戻った時の<ノアニール>に似た雰囲気であったのだ。

 

「カミュ!まずは宿屋だ!」

 

「……ああ……」

 

周囲を見渡すサラの様子を見たリーシャが、そのサラではなくカミュへと口を開く。実に理不尽な物言いではあるが、カミュはそれに黙って頷いた。サラもメルエを心配するリーシャの胸の内を理解し、すぐさまカミュ達の後を追う。

 

 

 

宿屋はすぐに見つかった。いつもの様に部屋を三部屋取り、今回はサラとメルエを同室に、リーシャとカミュは個室となるように配分される事となる。

 

「カミュ様。メルエは私が見ています。リーシャさんとカミュ様のお二人は情報収集を」

 

「なに!?」

 

部屋に入ろうとするカミュに、サラが口を開き、その内容にリーシャはメルエを取り落としそうな程に驚きを表す。完全な意趣返し。まるで、<アッサラーム>で受けた自分の苦しみをリーシャに投げ返すようなサラの姿にリーシャは愕然とした。

 

しかし、実情は違ったのだ。サラもまた、明らかに疲れを露わにしていた。おそらく、湯浴みを済ませた後には、食事も取らずに、メルエと共に深い眠りに就く事だろう。それがサラの表情に明確に表れていたのだ。

 

「サ、サラ!……わ、わかった。一度メルエを起こして湯浴みをさせてやってくれ。砂と埃で汚れているだろうからな……それと軽くでも良いから食事も取らせてやってくれ。」

 

「はい」

 

まるでメルエの母親の様なリーシャの言葉に、サラは柔らかな笑みを浮かべて頷く。カミュはそんな二人のやり取りを横目で眺め、自分の部屋へと荷物を置きに行った。未だに釈然としない表情を浮かべるリーシャではあったが、疲れきっているサラを休ませる為にも、一度サラ達の部屋のベッドにメルエを寝かせた後、自らの部屋へと入って行く。

 

 

 

メルエは案の定、サラと共に湯浴みをした後、食事を取りながら舟を漕ぎ出した。せっかく洗った髪をスープの中に浸してしまうのではと心配したサラが、メルエを部屋へと連れて行く。そして、サラとメルエの二人は、食堂に戻って来る事はなかった。メルエを寝かせたサラもその横で添い寝をしている最中に、本格的に寝入ってしまったのだろう。

 

「……食事が終わったなら、もう一度町へ出る……」

 

「ん?……ああ、わかった」

 

最後の肉の切れ端を口に放り込んだリーシャは、テーブルの上に残った食器を片づけて行く。メルエが残した物はカミュが食べ、サラが残した物はリーシャが食していた。

 

「うぐ……もぐ……それで、カミュ?……何処へ行くつもりだ?」

 

「とりあえず、この国の現状を把握しなければ何も出来ない」

 

口の中の物を飲み込み、問いかけるリーシャの方を振り返る事なくカミュが答える。<イシス>に入る前に会った老人の話がこの国でどういった意味を持つ言葉だったのかをカミュ達は確かめなければならない。その為にも、今この町がどういう状況なのかを把握する必要があるのだ。

 

「わかった。では行こう」

 

食器を片付け終えたリーシャと共に、カミュは夜の町へと踏み出した。

 

 

 

宿屋を出た右側。<イシス>の町の門を入ってすぐの場所に墓地がある。<カザーブ>の村とは違い、その墓地は教会と隣接はしておらず、小さな柵で囲まれた簡素な墓地であった。そこに男が一人立っている。

 

「おや?……旅の方ですか?……貴方たちにもこの声が聞こえますか?」

 

「「??」」

 

墓地の横を歩くカミュ達に突然かかった声。それは、墓地に立つ一人の男からだった。語りかける内容が全く理解出来ないカミュ達は首を傾げるが、そんな事に興味を示さずに男はそのまま話し続けた。

 

「ここにいると、死者達の声が聞こえて来るようです……私達も何れ土へと還って行くのでしょうね……」

 

墓の上に輝く星空を眺めながら、そんな事を話し出す男にカミュは曖昧な答えを返し、二人はその場を後にする。残された男は、立ち去るカミュ達を気にした様子もなく、そのまま夜空を見上げていた。

 

 

 

「カミュ……あれは一体何だったんだ?」

 

墓場から離れた所で、カミュに真意を問いただすリーシャの表情は困惑を極めていた。あの男が何を言いたかったのかがリーシャには皆目見当もつかなかったのだ。

 

「……さぁな……何にせよ、俺には関係がない事だ……俺は自分が土に還れるとは思っていない……魔物の腹の中か、もしくは魔法で骨すら残らないかのいずれかだ」

 

「……カミュ……」

 

まるで自分を嘲笑うかのような表情を浮かべるカミュにリーシャは言葉を失った。それ程にカミュの語る内容はリーシャに取って胸に詰まるものがあったのだ。

 

自分にまともな『死』などあり得ない。

魔物と対峙し死ぬか、魔物の使う魔法にて殺されるか。

 

しかし、リーシャも気がついてはいなかった。

カミュの言葉の中には、『人』によって殺される可能性も示唆していた事を。

 

 

 

再びカミュ達は夜の町を歩き出す。各店はすでに店仕舞いを終え、それぞれの家へと入って行っていた。それでも、町には人が往来している。そんな中、カミュはふと、何人か人間がお互いを軽く罵りながら、ある場所に入って行くのが見えた。

 

それは、塀に囲まれた場所で、下へと続く階段を降りて行っている。

リーシャは頭の中で、その姿がある場所と結びついた。

人が狂気と化す場所。

それは、<ロマリア>にあり、カミュ達三人の心に重い影を背負わせた場所である。

 

「……」

 

「カ、カミュ!こ、ここは止めておいた方が良いと思うぞ」

 

その階段をじっと見つめたカミュへのリーシャの悲痛な叫びは、無言の拒否を受け霧散した。そのままカミュは、リーシャを振り返る事無く階段を降りて行く。

 

 

 

「ようこそ!血肉湧き躍る『闘技場』へ!」

 

『やはり!』

リーシャは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。そこはリーシャの予想通り、ロマリアが行っていた国民不満の捌け口となる場所であった。兵士達が捕獲した『魔物』同士を戦わせ、生き残る物を予想して賭け事とする。それは、魔物を悪と考えるリーシャやサラにしても吐き気がするほどおぞましい物だった。

 

血走った目をして、狂気じみた叫び声を上げる人間。

生死を賭けて己の身を傷つけ合う魔物に罵声を飛ばす人間。

どれもこれも、リーシャが信じていた人間像を根底から覆す光景なのだ。

 

「さあ、次の試合が始まってしまいますよ。貴方の予想がピタリと当たれば、大儲け間違いなし!」

 

「……カミュ……出よう……」

 

アナウンスに応じる周囲の声に、心が沈みこんでいくような感覚を覚えたリーシャは、言葉少なにカミュへと懇願するが、その願いも無駄に終わってしまう。

 

確かに、この『闘技場』によって、国民の不満の幾分かは解消されるだろう。そして、賭け事という物は、常に胴元に利益が出るように作られている。配当はあるだろうが、それ以上に掛け金が多いのだ。その回収された掛け金は、運営費を差し引いても一日当たりで莫大な金額となるだろう。それは、この『闘技場』全体を揺らす程の怒声にも似た歓声を上げる人の多さが物語っている。

 

では、その莫大な金はどこへ行くのか。それはもちろん国家にである。国民の不満も解消し、尚克、税収には劣るものの、相当な金額が国家へと入って来る。これ以上の施策があるだろうか。

 

「おや?……アンタ方見ない顔だね?……旅人かい?」

 

「……ああ……」

 

カミュの後ろを、顔を歪ませながら歩いていたリーシャの耳に前方からの声が入って来る。ふと顔を上げると、青年とも中年とも言えない歳の頃の男がカミュへ話しかけているところだった。

 

「そうかい!凄い『闘技場』だろう?ロマリアにもあるらしいが、ここ程ではないらしいからな。しかも新しい!」

 

「……」

 

男の言うように、この『闘技場』は<ロマリア>にあったものより、一回り大きい物だ。そして、まだ制作されて数年と言ったところなのだろう。『闘技場』特有の血生臭さが染み付いてはいなかった。

 

「ここには、一度だけ女王様もお見えになった事があるのだ。あの若くお美しい女王様がだぞ。まぁ、すぐにお帰りになられてしまったが……」

 

「……一度……?」

 

<ロマリア>国王は、他人に国政を放り投げてでも通う事を切望していた。それがたったの一度ということに、カミュは疑問を覚える。それはリーシャも同様であった。

 

「この国は、神聖なる女王様の治める国。神聖でお美しい女王様が我々の住むこのような下界の町に降りて来られるなど、数十年に一度なんだ。その女王様が、この『闘技場』が出来たばかりの時に視察に来られた。それがどれ程凄い事なのかは、旅人のアンタには解らないだろうがな」

 

「「……」」

 

男は悦に入ったような表情を浮かべ、虚空を見上げて話す姿は、どこか空恐ろしい物に感じる程のものだった。自分が生きて来た世界とは、また違った価値観のある国なのではないかとさえ、リーシャは考える。

 

「……ただ……」

 

「「???」」

 

しかし、ふと表情を曇らせた男は、そのまま言葉を続ける。

その内容に、リーシャだけではなく、カミュまでも驚きを露わにした。

 

「……先代の女王様は美しいばかりでなく、国民を第一に考えるお方だった。国民は皆笑顔で過ごし、そして、外敵に怯える事もなかった……」

 

突然話し始めた男の内容。

それは、決して他国からの旅人に話す内容ではなかった。

 

男の様子を訝しげに見るカミュの瞳にも、男の発言に何か思惑があるようには見えない。つまり、国民感情の中に、抑える事の出来ない不満が溢れ始めている証拠と言っても過言ではない程の国家の状況が見て取れた。

 

「……今は、税金も高い。この『闘技場』に来る人間も少なくなる一方だ……代々の女王様がお守りして来た<ピラミッド>にも墓荒らしが横行し、もはや王家の宝もないのではないかと噂される程……この国はどうなるのだろう……」

 

「……そこまでに……」

 

カミュは静かに男の傍に近寄り、声をかける。

うわ言のように不満を漏らし始めた男を軽く制したのだ。

 

「……周囲の兵士がこちらに注意を向け始めています……」

 

「はっ!?す、すまない……今の言葉は忘れてくれ……」

 

カミュが言うように、魔物対策という建前によって『闘技場』に配備されていた兵士が、見慣れぬ服装のカミュ達と、男の会話に疑念を持ち、注意を向け始めていた。このまま、男が話し続ければ、その不満は熱を持ち始める。当然、その内に声量も大きくなり、兵士達の耳にも入って行くだろう。そうなれば、男は間違いなく国家反逆罪となる。それを聞いていたカミュ達も同様に処罰される危険性もあるのだ。

 

「……出る……」

 

慌てて離れて行った男を見送り、カミュは『闘技場』を後にするため、身を翻して出口への階段を上って行く。今の男の話を消化しきれていないリーシャは、ただカミュの背中を追う事しか出来なかった。

 

 

 

「カミュ!どういうことだ?……この国はどうなっているんだ?」

 

『闘技場』を出て、町に入ってからリーシャが前を行くカミュへと疑問を投げかける。それは、リーシャにとっては当然の行為だったのかもしれないが、当のカミュにとっては呆れる行動だった。

 

「……なぜ俺に聞く?……俺は、終始アンタと共に行動して来たと思うが?」

 

「そ、それは……」

 

老人の家にいる時も、話を聞いていたのはカミュとリーシャの二人であるし、今も片時もリーシャと離れて行動した事はない。頭に入れた情報量はカミュもリーシャも変わらない筈なのだ。それでもリーシャはカミュへと問いかけた。生来、リーシャとカミュでは、その情報の処理方法も、処理スピードも、理解の度合いも違うのだ。リーシャにもそれは解っている。それはカミュも同じであろう。その証拠に、カミュの口端はいつの間にか上がっていた。

 

「くっ……い、今までの話を私の中で考えても答えは出ない!」

 

「……ふぅ……あの老人が言っていただろう……女王は幼くして即位し、周辺の者達の傀儡となっていると……」

 

悔しそうに顔を歪め、それでも理解しておきたいという気持ちを誤魔化す事の出来ないリーシャは、素直にカミュへと答えた。その言葉を聞いた途端、カミュの表情はいつもの無表情へと戻り、周囲に漏れないように音量を絞った声でリーシャへと話し始める。

 

「……税を上げたのも、周囲の人間の政策だろう……おそらくだが、女王は印を押す仕事しか与えられていないのではないか?……その証拠に、一度『闘技場』に来ている。」

 

「……『闘技場』とそれに何の関係が……」

 

カミュの話す内容がリーシャには未だに理解しきれない。いつも思うが、カミュは回りくどいのだ。リーシャの様な人間には結論だけを言えば済む筈である。しかし、カミュはそれをしない。結果が出る過程から始めるのだ。それは、逆に言えば、リーシャに本当の意味での理解をさせようとしているとも見る事が出来る。

 

「……『闘技場』には一度しか来ていない。それは、施策として作った物が女王の命であると示す為のものだ。だが、すぐに席を外し、帰ったと言う。おそらく、見ている事が出来なかったのだろう」

 

「……」

 

まだリーシャは理解出来ない。故に、無言でカミュを見つめ、次の言葉を待っていた。そのリーシャの表情を見たカミュは、大きな溜息を吐き出し、再び口を開く。

 

「通常であれば、女王陛下が観覧するのであれば、特等席を用意し、それなりの時間を過ごさせる。しかし、自分はただ印を押しただけで、何が出来るのか、それがどういう物なのかも分からない状態で連れてこられた場所が、あの人間の狂気を映し出す場所であれば、通常の神経の者は持たないだろうな……」

 

サラも初めて『闘技場』を見た時は、その腹にある物全てを吐き出した。リーシャにしても、目の前が暗くなって行く感覚を味わっている。魔物と対峙し、何度も魔物を殺して来た者達であってもそれ程の衝撃を受けるのだ。ましてや、宮廷という温室で育てられた人間にとっては、世界が一変してしまっても可笑しくはない。

 

「……では、カミュ……お前は、女王は何も知らなかったと言うのか……?」

 

「……はぁ……アンタは今までの話を聞いていたのか?」

 

自信を失くした表情を浮かべながら聞くリーシャに、カミュは更なる追い打ちをかける。その言葉に一瞬むっとした表情を見せるが、怒りを抑えカミュをもう一度見るリーシャに、カミュはゆっくりと話し出した。

 

「……あの老人は……宮廷から追い出されたと言っていた……先代から仕えて来た敏腕文官は、幼い女王を担ぎ挙げ摂政政治を行うには邪魔だったのだろう……それに、幼い子供が大人の都合に振り回される事は、アンタも<アッサラーム>で知った筈だ」

 

「……カミュ……」

 

「ここは、<アッサラーム>でもなければ、相手はメルエの様な捨て子でもない。俺達に出来る事など何もない」

 

やっと理解が出来始めたリーシャは、今まで数々の難題を越えて来た目の前に立つ『勇者』へと伺いを立てるが、それは無碍に斬り捨てられた。確かにカミュの言う通り、国家の問題にカミュの様な平民。しかも、他国の人間が入る余地などありはしない。

 

「……カミュ……お前なら……お前なら何とか出来るのではないか?」

 

それでも納得の出来ないリーシャが発した言葉は、カミュの顔から表情を消し去った。カミュにとって、それは最も言われたくない言葉だったのかもしれない。

 

「……アンタ方が求める、『そういう存在』にも限界はある……『人』を救う為に川へ飛び込む事や、『尊い貴族様』を救う為に魔物の群れの中へ放り込まれる事は出来る。だが、一個人が国の問題の何を変えられると?……そんな事が出来るのならば、疾うの昔にやっているさ……」

 

「はっ!?す、すまない……そういう事ではない……そうではないんだ……」

 

無表情に戻ったカミュの顔を見て、その発言を聞いたリーシャは、自分の口から出た言葉がどういう意味を持っていたのかに気が付いた。それは、リーシャが意図していたものではなかった。

 

自分が伝えたいこと。

自分が問いかけたい事が正確に相手に伝えられない。

リーシャは自分の不甲斐なさに哀しさすら浮かんで来ていた。

 

「……ただ……先代の女王が……何故死んだのか……」

 

「……何……?」

 

リーシャの表情に気が付いたのか、カミュは溜息を吐きながら言葉を続ける。

それは、またしてもリーシャを混乱に陥れるものとなった。

 

「……傀儡が必要である前に、賢王は邪魔となる……」

 

「……先代の女王か……?」

 

ようやく答えに辿り着いたリーシャが、恐る恐る問いかけた名に、カミュは静かに頷きを返す。周囲を気にかけ、声を押し殺しながら歩いている為、必然的にリーシャの顔はカミュへ近づいていた。

 

「……ああ……現女王を傀儡にする事を目論む人間であるならば、それなりの下準備は必要だ。いきなり倒れた女王に代わって、即座に幼い王女を即位させ、その権力を握る事など不可能に近い……」

 

カミュが言っている結末にリーシャもようやく辿り着く。

それは、一国の国情としては最も醜悪なもの。

 

「……女王が殺されたとでも言うつもりか……?」

 

「……毒殺にしろ……暗殺にしろ……足がつかなければ問題はない」

 

淡々と語るカミュの言葉のないように、リーシャは身震いする。

それは、途方もない罪。

一国の王の謀殺など、死を持っても償う事など出来はしないのだ。

 

「……しかし……あの老人は奇病で亡くなったと言っていたぞ!」

 

「……あの老人は『男』だ。<イシス>は代々女性国家と云われているとも言っていた。男であるあの老人が、緊急事態とはいえ、女王の部屋に入る事など出来ない筈だ。ならば、女王に近しい者達が入り、状況を確かめて皆に報告する」

 

藁にも縋る思いで、先日出会った老人の言葉を思い出したリーシャであったが、その願いもカミュの語る正論によって打ち砕かれた。淡々と語るカミュの表情は冷たく、その言葉は、推測とは思えない程に淀みない。

 

「……それは……」

 

「……中の状況がどういう物であれ、実際見た者しか知らないという事だ……」

 

カミュの言う事は、もう予想や想像という枠を超えている。実際、まだ城に上がっていない状態にも拘わらず、リーシャにもその光景が鮮明に思い浮かべる事が出来た。

 

とても、十六歳の青年が考えつくものではない。

改めてリーシャはカミュが恐ろしく思え、また哀しく感じた。

 

「な、ならば!その証拠を掴めば……」

 

「……それは無理だ……『毒殺』であれば、確かめる術はない。まさか、十年以上前に使用した毒物を後生大事に持ってはいないだろう……『暗殺』だとしても、それを実行した者達は、既にこの世にはいない可能性すらある」

 

「……そんな……」

 

カミュの言う通り、毒殺の証拠など残っている訳がない。暗殺にしても、依頼したものだとすれば、依頼された人物は口封じの為に殺されている可能性もある。万が一、徒党を組む者達だとしても、この近辺にいない可能性が高いのだ。

 

「……どちらにせよ……俺達ができる事など何もない。」

 

「……カミュ……」

 

リーシャにしても、甘い事は重々承知している。本来ならば、これはサラの発するべきものだ。しかし、リーシャもこれまで遭遇してきた出来事から、『救う事が出来るのであれば、何とかしたい』という騎士精神にも似たような感情を湧き上がらせていた。それは無残にも叩き壊される事となってしまったのだが。

 

その後、終始無言で宿屋へと帰ったカミュ達は、それぞれの部屋に入り、朝を待つ。リーシャはベッドに入ってからもなかなか寝付く事は出来なかったが、それでも砂漠を歩き続けた疲れからなのか、自然と意識が吸い込まれて行った。

 

 

 

その頃、一人起き出す人物がいた。自分の隣に眠る幼い少女に一度顔を向けた後、寝巻きから自分の服へと着替え、外へと出て行く。夜空には星が瞬き、もはやかなり夜も更けているためか、人も町には皆無の状況である。その町から町の外へ出る少女。

 

未だに眠るメルエと共に就寝したサラである。

サラは、カミュとの情報収集をする役目をリーシャに託した。

それには、三つの理由があったのだ。

 

一つは、そのまま。

身体が疲れで言う事を聞かなかったという事。メルエと同様、炎天下の中歩き続け魔法を行使していた疲れが、町に着いた安心感からどっと出て来ていたのだ。

 

二つ目は、町に着く前に遭遇した<火炎ムカデ>との戦闘。

あの時、サラは一匹の魔物を逃がした。それは、カミュに止められてしまったからではない。あの時、サラの目には、傷を負いながらも必死に身を隠そうとしている<火炎ムカデ>の姿がメルエの姿と重なってしまったのだ。傷を負いながら、その身を護ろうと必死にあがく姿が、親からの虐待を受ける子供の姿に見え、その手を下してしまった。魔物が子供であれば、弱い者に手を上げる親が自分という事になる。

 

「……何が正しかったのでしょうか……」

 

サラは、自分のした行為が正しいと胸を張る事は出来ない。聖職についている僧侶として、教会の教えに背く行為をしてしまったのだ。それは、『精霊ルビス』の子としては裏切りに等しい行為。しかし、その事を考えていた途中に、自分の手を引くメルエの姿を見た時、サラは自分の行為を否定も出来なくなってしまった。

 

魔物を逃がしたにも拘わらず、メルエがサラに向ける顔は笑顔だった。アリアハンで魔物を故意に逃がしたとなれば、それは決して許される事ではない。むしろ非難の対象となり、住民からは白い目で見られ、アリアハン国民として生きて行く場所を失う事となる。

 

「……私は……私はどうすれば……ルビス様……」

 

サラは夜空に輝く星達を見つめ、胸の前で手を結ぶ。

祈るように、そして救いを求めるように。

サラはそのまま町の外へと出て行った。

カミュとの情報収集をリーシャに押し付けた三つ目の理由を実行するために。

 

 

 

夜が明け、朝食の時には、眠そうに目を擦るメルエとサラの二人が降りて来る。カミュとリーシャはすでに席に着いており、顔を洗い終わった二人が席に着くのを待っていた。

 

朝食を取り終えた一行は、昨晩カミュとリーシャの間で話題の上がった女王と謁見するために<イシス城>へと向かう事となった。<イシス城>は町とは別になっており、一度北側の出口から町を出なければならない。その為に町を横切る一向の前に、一件の家が見えた。本当に何気ない家。しかし、一行の目を引いたのは、その家の前に立つ一人の男。

 

その男は玄関の前で、ぼうっと空を見上げていた。日差しの強い太陽の光に目を細める訳でもなく、手をかざす訳でもない。只々、空を仰いでいるだけだった。

 

「おい、カミュ……一体あれは何をしているんだ……?」

 

「……はぁ……だから、何故俺に聞く?」

 

その不思議な男を横目で見ながら、リーシャが前を歩くカミュへと声をかけるが、カミュは『またか?』とでも言いたげに、溜息を吐きながら振り向いた。もはや、リーシャの頭の中には、『解らないこと=カミュに聞く事柄』という項目が成り立っているのだろうか。それが、ここ最近はかなりの頻度となっている事にカミュは溜息を洩らしたのだ。

 

「……貴方達は旅人ですか……?」

 

今まで空を仰いでいた男が、不意に視線をカミュ達の方に動かし話し始めたため、メルエは驚きのあまりカミュのマントの中へと隠れてしまった。

 

「先程から、空を仰いで何をやっているんだ?」

 

「……おい……」

 

疑問に思った事を口にしなければ気がすまないリーシャに、カミュは呆れてしまう。それはサラも同じであった。余りにも不躾なリーシャの言葉であったが、男は大して気にもせず、笑顔を浮かべた。

 

「私はソクラスと言います。こうやって空を見上げながら、夜が来るのをただ待っているんです」

 

「……夜を……?」

 

男から出た、一行の予想を遥かに超える奇妙な言葉に、サラは疑問を洩らしてしまう。ただ、空を仰いで夜を待つ事に何の意味があるのか解らない。

 

ソクラスと名乗った男は、そのまま再び空を仰ぎ見た。

会話はそれだけ。

リーシャの疑問が晴れる訳はない。

 

 

 

「……カミュ……さっきの男は一体何だったんだ?」

 

男が立っている家から離れ、町の出口に当たる門をくぐる辺りで、ついにリーシャが疑問を口にした。その相手は、やはり彼女の疑問解消機である、表情の少ない青年である。

 

「……何度も言うが……何故、俺に聞く?」

 

「……私にも解りません……カミュ様はお解りなのですか?」

 

「…………メルエも…………」

 

カミュがリーシャに先程と同じ答えを返した時、一歩後ろにいたサラが同じ疑問を口にした事で、メルエも同じ様に答えるが、メルエに関しては周りの人間がカミュに答えを求めた為、自分も口にしただけであって、内容を理解している訳ではないだろう。

 

「……はぁ……陽が落ちれば夜が来るという事だろう……」

 

「当たり前ではないか!真面目に答えろ!」

 

カミュのやる気のない答えに、リーシャの怒声が響く。

余りと言えば、余りの言葉。

陽が落ちれば暗くなるのは当然と言えば当然なのだ。

 

「……俺やアンタにとってみれば、それは余りにも当然の結果だろうが、それを不思議に思う人間もいる」

 

「……どういうことですか……?」

 

怒鳴るリーシャを無視するようにカミュが続けた言葉は、サラにも理解出来なかった。常識という物を幼い頃から擦り込まれている二人には、全く理解出来ない言葉なのだ。

 

「……アンタ方は、夜の後に朝が来る事や、太陽がなくなれば夜が来て月が輝く事の理由を明確に説明できるのか?……俺には出来ない」

 

「「……」」

 

カミュがサラの疑問に答えるように、視線も向けずに話す言葉を聞いたリーシャもサラも、喉から言葉が出て来ない。確かに、『当然だ』『常識だ』と言う事は出来る。しかし、『何故?』と問われれば、その理由を明確には答える事が出来ないのだ。

 

「……あの男は、他の人間が『常識』として考える事を放棄した事を考えているのだろう。それに答えが出るのかどうかは解らない。そして、その答えが、『常識』という物に囚われている人間に対して通じるかどうかもな……」

 

「「……」」

 

もはや、リーシャもサラも言葉が出る事はなかった。カミュの言うとおり、夜が来る理由をリーシャやサラは鼻で笑うかもしれない。

 

「……例えば、メルエの魔法にしても同じだ。おそらく生涯を賭けても、俺やアンタには理解が出来ないだろう。『魔法が使えれば、杖に魔力を通す事は当然出来る』というように思っていた俺やアンタにはな……メルエは、俺達には見えない何かを掴んだのかもしれない……」

 

「…………メルエ…………?」

 

自分の名前が出た事に、不思議そうに首を傾げて見上げるメルエの頭を撫でながら、カミュは前にそびえ立つ<イシス城>を見上げた。

 

「……ただ……これから先は……俺達の常識など一切通用しない旅になるだろうな……」

 

「……カミュ……」

 

『これが本当に自分より年下の男が考える事なのか?』

リーシャはそう感じずにはいられなかった。カミュの生い立ちはリーシャも知っている。その生い立ちは決して平坦なものではない。彼は隠してはいたが、先程の男の様に『常識』を『常識』とは認めない人間だったのだろう。それは、この世界では異端。

 

メルエの頭を撫でながら城を見上げる青年をリーシャは複雑な想いで見ていた。サラもまた、リーシャとは違う複雑な想いを抱いている。サラが『常識』と考えていた物が、この旅で通用した事がない。その度に悩み、苦しむ。カミュが言うには、それこそが『当然』だというのだ。それがサラをまた悩ませていた。

 

 

 

町の門を出て、一度外へと一行は歩き出す。町の門から真っ直ぐ続く石畳の道が、目の前にそびえ立つ<イシス城>の城門へと伸びていた。カミュを先頭に、メルエ、サラ、リーシャといういつもの順序で一行は<イシス城>へと向かう。その間、誰一人口を開く事はなかった。いや、メルエだけは、にこにこと笑顔を浮かべながら、強い日光を浴びていた。

 

「ここは、<イシス城>だ。何用だ?」

 

「……アリアハンから参りましたカミュと申します。女王様への謁見をお許し頂きたく登城致しました。お取次ぎをお願い致します」

 

城門に辿り着くと、両脇に控える門兵が手に持つ槍を交差させ、カミュ達の進行方向を遮った。その門兵へカミュは目的を話し、懐に入れておいた<ロマリア>国王の書状を手渡す。カミュから手紙を受け取った門兵は、その書状の刻印が<ロマリア国>の物である事を確認し、城の中へと入って行った。暫くの間待った後、一行は奥へと通される事となる。

 

城の中で一行を待っていたのは一人の若い女官。威風堂々とはいかないが、それでもその女官は、この仕事に誇りを持っているような立ち振る舞いであった。女性が王位に就くこの国では、自然と女性の権力が高くなる。その中でも、宮廷で女王の傍に仕えるという事は、とても名誉な事なのであろう。それがカミュ達を先導する女官の身体から溢れていた。

 

「……貴方方も<ピラミッド>の探索のご依頼に来たのですね……」

 

そんな女官が振り返りもせず、口を開く。それは通常ではありえない。いくら女性上位の国とはいえ、引率する者が客人の内情を探る事が失礼な行為である事は、万国共通な物だからだ。

 

「……はい……」

 

「……何と無謀な……今や魔物すら住処とする場所……幾人もの墓荒らしを飲み込み、そしてイシス王家の尊い方々が眠る場所へ……」

 

カミュの返答を嘆かわしげに溜息を吐く女官は、その足を緩める事なく、顔だけを俯かせる。リーシャもサラも、その女官の言葉が胸に刺さった。<魔法のカギ>という物を求めてとはいえ、他人の安らかな永久なる眠りを妨げる行為である事は否めない。それは本当に『人』として正しい行為なのか。それが、サラには解らない。

 

「……気をつけなさい……王家の力はとても強い。<ピラミッド>には魔法の使えない場所があると云われている……」

 

「……魔法が……?」

 

『魔法が使えない』という言葉にメルエの肩が震える。そんなメルエの肩に手を置きながらリーシャが口を開いた。魔法の有無は、正直このパーティーの死活問題に係わってくるのだ。しかし、リーシャの疑問に女官が答えるよりも前に、一行は女王のいる謁見の間への扉を開いていた。

 

 

 

そこは謁見の間というには、余りにも広く開けた広間。周囲は開け放たれ、砂漠の中にある城にも拘わらず、オアシスの傍に立つ事から心地よい風が謁見の間へと入って来ていた。

 

「女王様、<アリアハン>のカミュなる者をお連れ致しました。」

 

カミュ達を先導していた女官は、前方に一礼した後に脇へと身を引いて行く。

必然的に前方への視界が開けたカミュ達の目に玉座が映り込んだ。

 

「……そなた達が、ロマリア国王が言っていた『勇者』か……?」

 

視界の先にある玉座に座る女性がこの<イシス>を治める女王。その姿は、ここへ来る前に会った老人が言っていたようにカミュとそう変わらない程の若さ。そして、何と言っても、その美しさは、もはや神格のレベルに達しているのではと思わずにはいられない程のものだった。サラとリーシャは無礼と知りながらも、その視線を玉座に座る女王から外す事が出来ない。それ程の美貌であったのだ。

 

カミュ程ではないが、黒くしなやかな髪は綺麗に切り揃えられ、肩に付くか付かないかという所で同じ長さに揃っている。前髪も眉の所までで切り揃えられており、その黒い髪を引き立たせるように金のサークレットの様な冠をかぶっていた。瞳は切れ長ではあるが、リーシャとは違い、吊り上がってはいない。唇は薄く、口は小さい。鼻は高すぎず、低すぎず。一つ一つのパーツであれば、リーシャもサラも引けを取らないが、それら全てが集まった時の完成度が余りにも違ったのだ。

 

「……『勇者』と呼ばれるような事は、まだ何も成してはおりません……」

 

女王の姿に唖然としてしまっているリーシャとサラを余所に、仮面を被ったカミュが、玉座の前に跪く。カミュの行動を見ていたメルエもまた、カミュの一歩後ろで跪き頭を下げた。

 

「……そなたは、あの『オルテガ』殿の息子とか?……同様に魔王討伐という旅をしていると聞くが、相違はないか?」

 

「はっ!?『魔王討伐』などいらぬ事を……他の国は知らぬが、我が<イシス>は魔王等、恐れるに足らず。女王様のお美しさに、魔王すらもひれ伏すというものを!」

 

頭を下げるカミュへ再び声をかけた女王の言葉を聞いた直後に、ようやくリーシャとサラは、この謁見の間に女王以外の人物がいる事を理解した。それは、女王が座る玉座のすぐ横に立つ老婆。若く美しい女官達が立ち並ぶこの謁見の間において、異彩を放つ人物。おそらくこの女性が、玉座に座る女王の祖母に当たる人物なのだろう。その権勢は相当な物である事が、一目で理解できる。一国の王の言葉を遮って話す姿は、その老婆の権力を物語っていた。

 

「……アリアハン国王様からは、『魔王討伐』の命を受けております……」

 

「それは、そなたの意志か?……それとも『オルテガ』の呪いか?」

 

「「「!!!!」」」」

 

カミュの発言に被せるように発した女王の言葉に、メルエ以外の一行は全員息を飲んだ。それは、一国の王としてはとんでもない爆弾発言。とある国が『英雄』と崇める者を侮辱する言葉であり、その国が『勇者』として送り出した者を疑う言葉。

 

何よりも『呪い』という言葉が指し示す意味をリーシャとサラは量りかねていた。だが唯一人、カミュだけは違う。どの国にいても、謁見の間で顔を上げた事のない青年が、イシス女王を真っ直ぐと見つめていたのだ。

 

「……女王様のお言葉の意味が、私の様な者には……」

 

珍しく言葉を濁すカミュの胸の内の動揺をリーシャは見る事となる。

この旅で、誰一人、カミュの本質を突いた者はいなかった。

それにも拘らず、初対面の人間の最初の発言がそれであったのだ。

 

「……解らぬと申すか?……そなたはこの世の『人』を救う為とはいえ、自らの命を犠牲にする事に対して何も感じてはおらぬのか?」

 

「……」

 

故意的に言葉を濁し、会話を打ち切ろうとするカミュの目論見は脆くも崩れ去る。女王は敢えて理解していないふりをするカミュへ追い打ちの様な言葉を繋げた。それに対し、カミュには沈黙で答えるしか方法は残されていなかったのだ。

 

「……そなたは自殺志願者か?……それとも只の戦闘好きなのか?……魔物を打ち倒す自分に酔っておるのか?」

 

「……」

 

「……そなたは……そなたは……自分の意志で生きたいとは思わぬのか?」

 

最後の女王の言葉は、どこか切実な想いが籠っていた。この女王は、先日カミュ達が会った老人の言うように、非常に聡明で、非常に優秀な人間なのであろう。カミュの物言い、カミュの瞳を見て、その内情を正確に把握していた。

 

「……私は、そういう存在ですので……」

 

暫しの沈黙の後、口を開き絞り出すように紡いだ言葉は、リーシャもサラも聞いた事のある、あの哀しい言葉だった。その言葉にリーシャの顔が歪む。カーペットを睨みつけ、悔しそうに歪めるその表情の内にどんな想いがあるのか、それはリーシャにしか解らない。いや、リーシャにも解らないのかもしれない。

 

「……そなたも……私と同じなのですね……」

 

「さ、さあ!女王様はお疲れです!そなた達は<ピラミッド>探索を願い出ていましたね。許可します。本日の謁見はここまで!さあ、女王様、こちらへ……」

 

カミュの言葉に反応した女王の言葉は、呟くように小さい。

その声が聞きとれたのは、横にいる老婆とカミュだけであった。

 

呟くような言葉を発した後、押し黙ってしまった女王に対し、傍の老婆は慌てたような声を上げ、一方的に謁見を打ち切る。カミュ達に<ピラミッド>の探索の許可を与えた後、女王を伴って早々に謁見の間の奥にある扉を開け、中へと入って行ってしまった。

 

 

 

「……カミュ……行こう……」

 

女王が退室された事で発言が可能になったリーシャが、未だに跪いているカミュへと声をかける。その空気はとても重苦しい。サラはこのような空気を今まで味わった事がなかった。どれ程偉い国王や、エルフの女王の前にいても、サラにこのような空気が及ぶ事はなかったのだ。ここで初めてサラは気付く事になる。

 

どんな時も、どの場所でも、自分達の前にカミュが立っていた。他国の国王や、他種族の女王からのプレッシャー。そして、険悪な態度を取る兵士や、『勇者』一行として見る老人からの容赦のない言葉や罵声。そういった物から、自分達はカミュによって護られて来たのだという事に。サラよりも年下のこの青年が前に立つだけで、パーティーに及ぶ空気は、まるで濾紙を通ったように澄んでいたのだ。

 

「…………カミュ…………」

 

「……ああ、行こう……」

 

しかし、今メルエの呼びかけに、ようやく女王がいなくなった事に気が付いたかの様な素振りを見せるカミュに、後ろの人間を護る余裕はなかった。カミュ自体が放つ空気が既に重いものであったのだ。

 

「……<ピラミッド>へ向かうのならば、子供らが謡う童歌を聞いて行きなさい。私には全く理解できないが、<ピラミッド>の謎を解く鍵が隠されていると云われている」

 

玉座に背を向け歩き出した一行に、先程カミュ達を先導してくれた女官が口を開いた。もはや、謁見の間にはカミュ達とこの女官しかいない。しかし、例え誰も聞いていないといえども、<イシス>の中枢となる女王の傍に仕える女官が、その王家の先祖が眠る墓の謎を他国からの旅人に教える事自体がサラには不思議に思えて仕方がなかった。

 

それはカミュも同じであったのだろう。

明らかな疑惑の目を、この若い女官に向けている。

 

「……訝しがるのも解る……私は幼い頃に、そなたの父『オルテガ』殿に命を救われているのだ」

 

「「「!!!」」」

 

暫し、カミュと睨み合っていた女官であったが、ふっと息を洩らした後、その経緯を話し始めた。再び出て来た『オルテガ』の名に、カミュの顔が歪んだ。

 

「幼い頃、家族で砂漠を歩いていた私は、周辺に住む魔物に襲われた。戦う術のない私達は逃げる事しか出来なかったが、魔物に回り込まれてしまい、どうする事も出来なくなった時に『オルテガ』殿に救われた。父はその前に死んだがな……」

 

女官が話す内容は、この時代にはよくある出来事。家族で商売の為か、移住の為かは解らないが、この<イシス>に向けて歩いていたのだろう。そこで魔物と遭遇した。カミュ達であっても、<イシス>に到着するまでに相当の数の魔物と遭遇していたのだ。おそらく、この女官の父親は、妻と娘を逃がす為に単身で魔物に戦いを挑み、命を落としたのであろう。そして、その後逃げようとする二人の前に、『オルテガ』が現れたというのだ。

 

「……息子であるそなたに恩を返すのは筋が違うかもしれぬが、返す相手亡き今、これぐらいしか私には出来ぬ」

 

そう言って、呆然とする一行を置き去りに、女官は謁見の間を出て行った。リーシャもサラもすぐには動けない。彼女達にとって、『オルテガ』という存在は、女官の話通りの人物であるのだが、これまでのカミュの言動、そして、先程この謁見の間を支配した重苦しい雰囲気の原因となった女王の言葉が二人の心を縛りつけ、思考を停止させていたのだ。

 

 

 

その後、謁見の間の横にある部屋にいた二人の子供に、童歌を謡ってもらい、サラがその歌詞を書き留めてから、一行は<イシス>の城を出た。いつもより重苦しいパーティーの雰囲気に、メルエは頻りに首を傾げている。カミュを見て、その表情がいつもと変わらないものの何かが違う事に首を傾げ、サラを見ては、その眉間に皺が寄っている事にまた首を傾げる。

 

「……メルエ、おいで……」

 

そんなメルエの姿にリーシャが声をかけた。首を傾げていたメルエは、リーシャの呼びかけに振り向き、その手を握るためにリーシャへと駆け寄って行く。一行はそれぞれの胸に、それぞれの想いを抱え、太古からイシス王家が眠る壮大な建造物へと向かう為、北へと歩を進めて行った。

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

イシス女王登場です。
皆様の中のイシス女王のイメージはどのような物でしょうか?
ここから、久慈川式のイシスが始まります。
ご期待に応える事が出来るか解りませんが、楽しんで頂ければ幸いです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ピラミッド①

 

 

 

「アンリ! 余計なことは話さなくてよろしい! 貴女は<イシス国>の女王なのです。私の言う事を聞いていればそれで良いのです!」

 

 アリアハンという辺境の貧しい国が送り出した二度目の勇者との会見を終えたアンリは、祖母であり、イシスの家老でもある老婆に連れられ、自室に戻された。

 

「……申し訳ありません……」

 

「ふん! 勘違いはしないよう。貴女は唯の女王なのですから、政には口を挟まぬように。ましてや、自国の内情を旅の者に話すなど以ての外です!」

 

 現女王を自室へと投げ出し、高圧的な言葉を吐き捨てた後、老婆は部屋を去って行く。

 残されたのは、<イシス>という国家の名ばかりの女王。

 本来、その美しさと優しさを慕われ、多くの国民から支持を受ける筈の存在。

 そして、現女王である彼女には、その才が確実に引き継がれていた。

 母である先代女王の持つ指導力や人々を纏め惹きつける神々しさ。更には、先程までいた祖母である老婆の持つ賢しさ。その全てを、彼女は受け継いでいたのだ。

 しかし、それが今まで表に出る事はなかった。傀儡として担がれ、実質の権力は祖母が握っている。

 彼女には女王であるという仮面しか手渡されてはいなかった。

 

「……あの人も……私と同じ目をしていた……」

 

 一人残った部屋の中で、備え付けられていた鏡台の鏡に映る自分の瞳を眺め、アンリは呟く。

 この部屋は母である先代女王が使い、死んだ部屋。この部屋にある全てが母の形見なのである。

 アンリの呟いた言葉は、先程謁見の為に部屋に入って来た四人の旅の者を見て感じた事であった。

 代表して自分の前に跪いた青年の瞳を見た瞬間、アンリはその瞳の中に自分が持っている感情と同じ物を見た。

 

 それは『絶望』と『諦め』。

 

 故に、初対面にも拘わらず、あのような事を問いかけてしまった。

 彼は何の為に旅を続けるのか?

 彼の胸に『希望』はあるのか?

 あるとすれば、何を見て『希望』としているのか?

 そんな疑問が次々とアンリの頭に浮かんでは消えて行った。

 

「……それでも……何か違う……私とは何かが……」

 

 アンリはアリアハンが送り出した『勇者』の中に自分を見た。その想いは、アンリの発言に驚いた彼が顔を上げ、その瞳を再度見た時も変わらなかった。

 しかし、彼女の悲痛な叫びに対し、彼が最後に発した言葉。

 その時にアンリは違和感を覚えたのだ。

 

 『……私は、そういう存在ですので……』

 

 その言葉を発した『勇者』と称される存在の瞳は先程までとは宿している光が違った。

 その光の違いが何なのかがアンリには解らないが、違う事だけは肌で感じていたのだ。

 

「……それに……あの娘も……」

 

 もう一人。

 アンリの頭に浮かんだ少女。

 驚きに顔を上げる『勇者』を心配そうに見つめていた幼い娘。

 その娘の瞳もまた、アンリと同じ物を宿していた形跡をアンリは感じていた。

 おそらく、通常の人間にはその違いが解らないだろう。それが、アンリがこの砂漠の王国である<イシス>の正当な継承権を有している証拠なのかもしれない。

 

「……でも、あの娘はもう違う……『希望』と『喜び』に満ちていた」

 

 アンリは鏡に映る自分の顔を見ながら一人呟き続ける。

 謁見の間で自分と相対している青年を心配気に見つめ、隣で跪く女性戦士の手を握っていた少女は、その瞳を自分に向けて来たのだ。

 その瞳はとても攻撃的な瞳。

 今にも叫び出しそうな程に怒りに燃えた目をしていた。

 

 『自分の大好きな人間を虐めるな!』

 

 その瞳を見て、アンリは言葉に詰まった。

 おそらく、あの少女は、アンリと同じような『絶望』と『諦め』の中を生きていたのだろう。そして、その中から引き出し、救い出してくれたのが彼なのかもしれない。

 それがアンリにはとても羨ましい。

 自分はそれをどれ程に願った事か。

 この『絶望』と『諦め』に支配された世界から救い出してくれる存在が現れる事を。

 

「……私は……母上様……」

 

 彼女は確かに母の愛を注がれて育って来た。しかし、その幸せも、この世界に産まれ落ちて数年後には断ち切られてしまう。

 

 イシス女王の突然死。

 

 それがアンリの世界を一変させた。

 母の死に際し、彼女は即位の儀式を済ませ、すぐさま女王として玉座に座る事となる。右も左も解らなかった彼女は、祖母である女官に頼らざるを得なかったのだ。

 しかし、今にして思えば、不思議な事ばかり。

 先代女王である母は、公的には『病死』とされた。だが、アンリはその日の午前中まで元気な母を見ていたのだ。とても突然命を奪う病魔に侵されている様子などなかった。

 そして、最も不可思議なのは、アンリは母の死体を一度も見てはいない。死後の葬儀の際もその姿を見る事はなく、何よりも、母の死体は火葬されたのだ。

 

 <イシス>では、王族の遺骸はその身体から水分抜き、ミイラとされる。

 それは、古人が王族は甦るという考えがあった事が原因とされるが、それがこの時代まで風習として残っていたのだ。

 しかし、母である女王は例外的に火葬された。

 何かを隠すように燃やされ、骨だけになった母との対面。

 それは、幼いアンリの心に大きな疑惑として残っていた。

 

「……あの人は……どのようにして前を向いたのでしょう……」

 

 

 

 アンリが<イシス>の女王としてではなく、一人の人間として想いを馳せた青年は、前方にそびえ立つ途方もなく大きな太古の建造物を仲間と共に見上げていた。

 

「…………おおきい…………」

 

「……そうですね。予想以上です。これ程の物を何百年も前に建造したとは、俄かには信じられませんね」

 

 自分の何百倍もの大きさを誇る建造物を、首を直角に曲げながら見上げるメルエの横で、サラはその建造物を建てた<イシス王家>の威信を目の当たりにし、驚きを漏らしていた。

 

「凄いな。イシスという国は、古からこれ程の技術と文化を持っていたのだな」

 

「……行くぞ……」

 

 同じように<ピラミッド>を見上げていたリーシャの横をカミュが通り過ぎて行く。未だに首を直角に曲げているメルエの背中を押し、リーシャがその後に続いた。

 

「止まれ!! ここは<イシス国>の所有地だ。許可証はあるのか?」

 

 カミュ達が<ピラミッド>の入口に差しかかった時、その小さな入口の前に門番の様に兵士が二人立っていた。

 よく見ると、その横には、急造で作り上げた掘っ建て小屋があり、この兵士達が寝食をそこで行っている事が窺われる。

 

「……女王陛下及び、筆頭文官の方から許可は頂いております……」

 

「ふん! 許可証に間違いはないな……では、四人で6000ゴールドだ!」

 

「はぁ!?」

 

 その門番の兵士達に、許可を受けている旨を伝えながらカミュが渡した許可証を眺めていた兵士が続けた言葉は、リーシャとサラの予想を遥かに越えたものだった。

 ゴールドを要求する兵士達を唖然と見る二人を余所に、カミュは当然の事のように腰の革袋へ手を伸ばす。

 それをまるで不可思議な生物を見るようにリーシャは眺めていた。

 

「……確かに……しかし、アンタ方も物好きだな。こんな場所にはもう何一つ宝物などありはしないのによ」

 

 カミュからゴールドを受け取った兵士は、その数を数え終えると、カミュ達に呆れたような、それでいて蔑むような瞳を向けていた。

 サラからしてみれば、自分達の国の王家が眠る古代の建造物に無闇に人を入れ、その上、入場料の様な物まで要求する<イシス国>の方に呆れを感じてしまうものだったのだ。

 

 

 

 一行は、兵士達の不愉快な視線を無視し、<ピラミッド>の中へと足を踏み入れる。そこは、もはや観光地の様になっており、薄暗くはあるが、道の端には火が灯され、視界が開けていた。

 砂漠の中心で容赦のない直射日光を浴びている時の様な、焼けるような暑さを感じる事はなく、むしろひんやりと肌寒さすら感じる程の気温である。

 

「もはや、王家が眠る墓の様相ではないな……」

 

 辺りには、人が何人も通った形跡が色濃く残されている。それは、決して全ての人間が生きて帰っている訳ではない事も示されていた。

 

「……魔物に食われたのか?」

 

「……その様ですね……」

 

 道端の向こうに、白骨が転がっている。その白骨の様子を見ると、まだ新しい物だ。この<ピラミッド>に巣食う魔物に襲われ、命を落とした後に食されたのだろう。

 それが、今の<イシス王家>の在り方を示していた。

 王家の墓にある財宝を切り売りするような行為。横行する墓荒らし対策として、門番を立てたが、それでも中に入ろうとする者が後を絶たず、その結果、入ろうとする者から通行料を取る事で採算を取ろうとしたのだろう。

 それは、現女王の威光が下々まで及んでいない事を隠す為とはいえ、余りにも外道な行為である。王家が誇る先祖の霊に対して、敬意を欠くその行為は、一行の胸に複雑な想いを起こさせる。

 そんな白骨など見向きもせずに、カミュは真っ直ぐ続く道を歩いて行った。メルエはカミュの背中だけを見つめ歩き、その後ろを周囲に視線を向けながらサラが続く。最後尾で周囲を警戒しながらリーシャが歩いて出した。

 

「…………???…………」

 

 どれ程歩いただろうか、意に立ち止まったカミュの背中を、首を傾げて見上げたメルエは、余所見をしながら歩いていたサラに後ろから衝突された。

 

「あっ!?」

 

 サラよりも体重の軽いメルエは、後ろからの衝撃に前へと押し出される。転ばぬように、前に立ち止まっていたカミュのマントを掴もうと手を伸ばすが、その手は空しく空を切り、メルエは倒れ込むように更に前へと出て行った。

 

 ガゴン!

 

 その瞬間、メルエが手を突こうとした床が消えた。

 石畳が敷き詰められていた白い床の一ヶ所が消え、まるでメルエを誘うように真っ暗な闇が口を開ける。

 

「メルエ!!」

 

 咄嗟に手を伸ばすカミュの手は、虚空へと落ちて行くメルエの服の裾をしっかりと握りしめる。間一髪のタイミングであった。

 空中に浮かぶように掴まれたメルエは、自分に纏わりつくような闇に恐怖を覚える。

 ゆっくりと上げられ、しっかりとした床に足が付いた瞬間、後方から血相を変えて近づくリーシャの胸に飛び込んで行った。

 

「……注意して進め……」

 

「も、申し訳ありません!」

 

 メルエの行方を見守った後、カミュは鋭い視線をサラへと向ける。久しく見ていなかったカミュの冷たい視線に、サラの背筋に冷たい汗が流れた。

 自分の不注意で、メルエを危ない目に合わせてしまった。

 それが、サラに恐怖を植え付けたのだ。

 

「メルエ……ごめんなさい」

 

「…………サラ…………きらい…………」

 

「はぅっ!!」

 

 リーシャに抱かれるメルエに向かって頭を下げたサラに対し、メルエは以前によく発していた言葉を口にする。

 涙目で訴えるような言葉は、サラの胸を深く抉った。

 

「ふふっ。メルエ、無事だったのだ。あまりサラを責めてやるな」

 

「…………こわか………った…………」

 

 サラを庇うリーシャの言葉に、メルエの頬は瞬時に膨れ上がった。

 最近、サラの指導の下、言語のボキャブラリーが増え始めているメルエは、頬を膨らませたまま、自分の感じた恐怖をリーシャへと訴える。

 

「そうだな。サラも注意しろ。ここは何があるか解らない場所だ。行動一つで死に繋がる事もある」

 

「……はい……本当に申し訳ありません……」

 

 リーシャからも注意を受けたサラは、もう一度メルエに頭を下げたまま俯いてしまう。

 サラの謝罪を受け入れる様子をようやく見せたメルエは、その手を握るために近づいて行った。

 

「……それを、アンタが言う事自体が驚きだがな」

 

「……カミュ……何が言いたい?」

 

 しかし、それで終わらないのが、このパーティーだった。

 サラに注意を促すリーシャに、若干の呆れを見せながら呟いたカミュの言葉は、リーシャを豹変させる。

 

「……今までの経験から物を言ったまでだ……この中で一番、アンタが行動に注意を払って欲しいと俺は思うが?」

 

「……ほぅ……カミュ……それは、私に喧嘩を売っているのだな?」

 

 カミュの口端は上がっていない。

 つまり、それはからかいではなく、事実なのだ。

 リーシャには認識はないのだが。

 

「……マヌーサに掛かり、仲間を攻撃したり……<きのこ>と間違えて眠りに就いたり……アンタが行って来た数々の事を知っていれば、当然の事だと思うが?」

 

「ぐっ!? 古い事をいつまでも……」

 

 カミュから言われた言葉に、リーシャの頭にもようやく合点が行った。

 反論する意欲も削がれて行く。

 そんな二人のやり取りに、サラとメルエの顔にも自然と笑みが浮かび始めた。

 

「カミュ! それで、どっちに進むんだ!!」

 

 これ以上の問答は自分が不利になるだけという事を理解したリーシャは、四方に分かれた道の行く先をカミュへと問いかける。そんな八つ当たり気味のリーシャの反論にも涼しげな顔で答えようとするカミュの表情が、リーシャの苛立ちを更に濃い物として行った。

 

「……アンタはどっちだと思う?」

 

「な、なに!?……うっ……右だ……若しくは左だ……」

 

 カミュの答えはリーシャの意表を突く物であり、答えに詰まるリーシャであったが、自分が思った方角を示す。そこには、以前の失敗からなのか、ある種の保険を掛けているような節が見え隠れしていた。

 

「……ならば、このまま真っ直ぐ進むべきなのだろうな……」

 

「なんだと!? 私は右か左だと言ったはずだ!」

 

「……だからこそ、右へも左へも曲がらずに進むべきではないのか?」

 

 その頃には、カミュの表情に変化が出ている事にサラは気が付いていた。あれは、カミュがリーシャをからかっている時の物だ。

 確かに、サラもリーシャが右か左だと言うのであれば、カミュの考え通り、真っ直ぐ進むべきではないかと思う。それ程、カミュやサラの頭の中には、『リーシャの指し示す方角=行き止まり』という方程式が信憑性を持っていた。

 いや、確立されていると言っても良いだろう。

 

「ぐっ!? 右だ! 行ってみれば解る!」

 

「……リーシャさん……」

 

 カミュの表情の変化に気が付いたリーシャは、もはや後には引けない。

 自分の心の中に『もしかすれば、また行き止まりかもしれない』という想いがないとは言えないのだが、目の前で口端を上げるカミュを見ては、そんな弱気を口にする訳にもいかなかった。

 

「……わかった。急ぐ訳でもない」

 

 からかってはいたが、ここまで意固地になるとは予想していなかったのだろう。カミュは一つ溜息を吐いた後、リーシャが指し示す右へと歩み始める。その後を、二人のやり取りを不思議そうに見ていたメルエが続き、未だに怒りに震えるリーシャを促してサラが後を追った。

 

 

 

「……」

 

「……やはりか……」

 

 右へと進んだ一行は、その先一本道となった通路を歩いた。

 そして行き着いた先は、やはりカミュとサラが想像していた場所であり、リーシャが一抹の不安を抱えた場所。

 右へも左へも、そして前にも進む事が出来ない『行き止まり』であった。

 

「わ、わたしは、右か左と言ったぞ!」

 

「……リーシャさん……」

 

 暫し呆然と高くそびえる壁を眺めていたリーシャであったが、我に帰った後、先程掛けた保険を切り札として出すが、流石のサラもその言葉に溜息しか出て来なかった。

 

「…………はこ…………」

 

「あっ!? メ、メルエ!!」

 

 リーシャに対して溜息を吐くカミュとサラを余所に、今まで不思議そうに三人を見ていたメルエが何かを見つけ走り出す。メルエの動きに気が付いたサラはメルエに視線を向けるが、そんなサラの横をすり抜けるようにメルエはある一点へと向かって走り出していた。

 

 メルエが見つけた物。

 それは、俗にいう宝箱であった。

 宝物が納められる箱。

 

 煌びやかな装飾が施されていない事から、それ程高価な物が入っているとは思えないが、それでも<イシス王家>の遺体と共に納められている以上、ある程度の価値のある物の可能性を否定する事は出来ない。

 

「メルエ! 勝手に開けるな!」

 

 メルエの行動に、珍しく語気を荒げたカミュではあったが、その声はメルエには届いていなかった。

 小さな笑顔を作り、その箱に手を掛けたメルエは、そのまま勢いよく箱を開け、そして表情を曇らせた。

 

「…………ない…………」

 

「えっ!?……あれ? 本当に空っぽですね……」

 

 メルエの開けた箱の中身を、追いついたサラが覗き込むと、そこには何も納められていなかった。

 箱の底がそのまま見えるだけ。

 メルエにしてみれば、洞窟や塔などで見つけた箱は、<西の洞窟>でアンとギルバードの遺骨の傍にあったあの箱だけだった。

 その中身は、『エルフの至宝』と謳われた『夢見るルビー』。

 それは、強烈にメルエの心と頭に残っていたのだろう。

 『あの様な綺麗な物が入っているのでは?』と思ったメルエは、喜び勇んで箱を開けたのだ。

 

「……近年は墓荒らしが横行していたという話を聞いていなかったのか?……そんな場所で、入口に程近い所にある宝箱の中身が抜かれもせずに残っている訳がない」

 

 眉を下げ、自分を見つめるメルエに、カミュは深い溜息を洩らす。カミュの言葉の内容が理解出来たサラは、納得はするが複雑な想いを抱いた。

 王家の人間が死後も苦労する事のないようにと、遺体と共に納められた財宝を盗んで行くという行為に、釈然としない想いがあったのだ。しかし、それは結果的に、今自分達が行っている行為に結びつく事に気が付き、また落胆する。

 

「……サラ、余り深く考えるな。我々が進む道に必要な物がここにある。ただ、それだけだ」

 

「……しかし……」

 

 サラの表情を見て、彼女が何を考えているのかを察したリーシャが、サラへと声をかける。それは、根本的な救済にはなり得ない言葉ではあったが、その言葉がリーシャ自体もまた、サラと同じ葛藤を持っている事を示していた。

 それでも、サラとは違い、リーシャは自分の目的の為に割り切る事の出来る経験があった。

 それは、一朝一夕に培われた物ではない。 

 勿論、リーシャの中に死者への敬意がない訳ではない。それは、<シャンパーニの塔>で死者の衣服に火をつけるメルエを窘めた事からも窺える。

 だが、リーシャにとって、死者への敬意よりも、アリアハン国王からの命である『魔王討伐』という物の方が重い物であるというだけの事であった。

 

「さあ、カミュ、行こう。次は左の道だ」

 

「……アンタは……この状況でまだ、左へ進むつもりなのか?」

 

「当たり前だ!」

 

 サラを促し、先へと進もうとするリーシャの言葉に、カミュは驚きを示した。

 まさか、自分が指し示した方角が、案の定『行き止まり』であったにも拘わらず、保険として発した左の道へと進む事をまだ頑固に主張するとは思っていなかったのだ。

 

 

 

「……」

 

「……もう良いだろう……今回は、アンタに聞いた俺が悪かった」

 

 元の十字路まで戻り、再度入口から見て左の方向に歩き出した一行が辿り着いた場所は、先程と入って来た方角が違うだけの『行き止まり』。

 サラは、リーシャがある意味、カミュよりも勝る能力を持っている事を認めざるを得なかった。

 閉ざされた道を見つけるという才能を。

 

「…………はこ…………」

 

「メルエ! 開けるなと言っただろう!」

 

 落胆を示すリーシャの横から、先程と同じように何かを見つけたメルエが走り出す。

 メルエの姿に先程よりも大きな声でカミュが怒鳴るが、すでにメルエは、再び見つけた宝箱に手を掛けていた。

 

「…………ない…………」

 

「また、空っぽなのですか……?」

 

 落胆し、眉を下げるメルエの後ろから、先程と同じようにサラが覗き込むが、宝箱の中身もまた、先程と変わらず底が見えるだけであった。

 

「……その前に……メルエ、勝手に何でも手を掛けるな」

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

 緊張感に欠けたサラの言葉を遮り、カミュがメルエの瞳を見つめた。

 その目は真剣であり、顔を上げたメルエもカミュが真剣に自分に向かって注意をしている事を悟る。叱られた事で込み上げる哀しさを堪えてカミュへ頭を下げるメルエの瞳に、涙が溜まって行き、その顔を見たカミュは、溜息を吐く事しか出来なかった。

 

「……カミュ……剣を抜け……」

 

「!!」

 

 そんな、メルエとカミュのやり取りの中、今まで自分の指し示す方角の行き先に落胆していた筈のリーシャの声が響く。何かを押し殺すような、何かから身を隠すような低い声は、リーシャがカミュへ怒りを向けているのかと錯覚してしまう程の物であった。

 実際、サラは『こんな場所で、また?』と考えてしまっていたのだ。しかし、リーシャの身体は、カミュへではなく、この行き止まりへの入口に向かっている。

 それが示す事は一つしかあり得ない。

 それは、魔物の襲撃。

 

「ゲゲゲッゲ」

 

 斧を構えたリーシャの横に、背中から剣を抜いたカミュが並び立った時、入口の方から何か喉を鳴らすような音が聞こえて来た。

 そして、次第にその全貌が見えて来る。

 赤黒い色をし、長い舌を床に付くほど垂らした魔物。色以外であれば、ここに来る前に見た事のあるような魔物だった。

 

<大王ガマ>

その名の通り、カエルの魔物の中でも最上種に位置する魔物である。カエル系の魔物の頂点に立つだけあって、その跳躍力は群を抜いており、跳躍から繰り出される攻撃もまた、他のカエル系の魔物とは桁違いの威力を誇る。群れを成す事が多く、大抵は同種の者と行動を共にする事が多い。

 

「ゲコッ! ゲゲゲ」

 

 カミュ達『人間』の匂いに釣られて出て来た<大王ガマ>は三体。天井がある<ピラミッド>の中では、自慢の跳躍力も半減するとはいえ、決して侮る事は出来ない。

 

「カミュ!」

 

「……わかった……」

 

 しかし、アリアハンを出てから、彼らもまた、既に数え切れない程、魔物と対峙して来た。

 その度に、前線で剣を振るっていたのは、彼等二人。

 自分の名前を呼ばれるだけで、相手の意図する事を理解し、静かに頷く相手の姿で自分の意図が伝わった事を理解する。

 

「メルエ!」

 

「…………ん…………」

 

 それは、後方に控える二人とて同じ。

 自分達がする役割を理解し、それを確認し合う。

 彼等は、すでにパーティーとしての基礎を築き始めているのだ。

 カミュ達一行という食料を見つけ、喜び勇んで飛びかかろうとする一体を、先に飛び出したリーシャの斧が牽制する。

 後ろ脚をたたみ、跳躍への力を溜めた<大王ガマ>の太腿部分をリーシャの斧が掠め、その体液を飛び散らせた。

 

「ゲギャ―――――――!」

 

 叫び声にならぬ奇声を発し、<大王ガマ>が後方へと後ずさるが、斧を振り抜いたリーシャにもう一体の<大王ガマ>が飛びかかって来る。

 しかし、それに気が付いたリーシャに焦りは見られない。

 

「ピギャ―――――――!」

 

 飛び掛かって来る<大王ガマ>がリーシャへと伸ばした両腕は、リーシャの目の前ですっぱりと消え失せ、その体躯が床へと叩き落とされる。

 そして、リーシャの視界を覆うように現れた背中。

 カミュである。

 リーシャより一歩後に駆け出したカミュが横合いから剣を振るったのだ。

 

「……流石に隙が多過ぎだ……」

 

「お前こそ、出て来るのが遅過ぎだ!」

 

 背中を向けながら溜息を洩らすカミュに向けて放ったリーシャの言葉は、語気こそ荒いものの、その表情には笑みが浮かんでいた。

 カミュに腕を斬られた<大王ガマ>は同族の中へと戻って行くが、それは後方に控える二人にとって恰好の的となる。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 カミュとリーシャが下がるのを確認し、見える三体の魔物に向けてメルエが<魔道師の杖>を掲げ、詠唱を行う。詠唱の完成と共に、杖の先から凄まじい熱風が巻き起こり、三体の<大王ガマ>に着弾。

 魔物の周囲を炎が覆い、飲み込んで行くかに思われた。

 

「…………!!…………」

 

 しかし、メルエが放った現時点での最強呪文に飲まれたのは、リーシャの斧で生命線である太腿を傷つけられた一体だけ。

 残る二体は、熱風の着弾と同時に両脇へと跳躍していたのだ。

 無傷の一体が伸ばした舌が、メルエの腕から<魔道師の杖>を弾き飛ばす。少し前の様に自ら投げ捨てた訳でもなく、乾いた音を立てて転がる杖を、メルエは反射的に追ってしまう。

 それは、サラという庇護を離れてしまう事と同義。

 狙い澄ましたように<大王ガマ>が飛びかかって行った。

 

「メルエ!!」

 

 サラの叫びに自分の状況を察したメルエは、拾い上げた杖を掲げる余裕もなく、目を瞑る。

 直後に自分に訪れる痛みと衝撃に恐怖しながら。

 

「……ゲ……ゲ……コ……」

 

 しかし、メルエに訪れたのは、衝撃でも痛みでもなく、途切れ途切れに聞こえる魔物の苦悶の声だった。

 恐る恐る目を空けたメルエの視界に飛び込んで来たのは、彼女が最も頼りとする人間の一人。

 常に表情を変えず、自分を導いてくれる青年。

 

「……勝手に動くな……」

 

「…………ん…………」

 

 飛びかかったカエルを横一線の剣筋で斬り捨てて、若干呆れた目を向けるカミュであった。カミュの注意に、深く頷いたメルエは、そのマントの中へと潜り込む。どんな場所であっても、自分にとって最も安全で安心できる場所へと。

 

「バギ!!」

 

 メルエをマントの中へと迎え入れたカミュが残る一体に目を向けた時には、すでに戦闘は終局を迎えていた。

 サラがその腕を掲げて唱えた呪文によって、両腕を失っている<大王ガマ>は切り刻まれて行く。床や壁にその体液を飛ばしながら吹き飛んだ<大王ガマ>に、止めの一撃をリーシャの斧が加えた。

 もはや、断末魔の叫びすら上げる事の出来ない<大王ガマ>は、数度の痙攣をした後に沈黙し、その活動を停止する。

 

「メルエ! 無事か!?」

 

「…………ん…………」

 

 魔物の身体から斧を抜いたリーシャがカミュの下へと近づく。リーシャの問いかけに、カミュのマントから顔だけを出したメルエはリーシャに向かって満面の笑みを浮かべながら頷くのだった。

 

「でも、メルエの魔法が効かないなんて……」

 

「そうだな……ここの魔物は、ここにしか生息しない魔物なのかもしれないな。注意して進む事にしよう」

 

 和やかな雰囲気の中、サラは斬り捨てられた魔物の死骸を見ながら、胸に湧き上がった不安を口にする。サラの言葉に少し考える素振りをしたリーシャが答えるが、それを若干呆れた表情を浮かべながら見る視線に気が付いた。

 

「な、なんだ?……私は、何か可笑しな事を言ったか?」

 

「……いや、言っている事はまともだ……ただ、この『行き止まり』へ来る事になったそもそもの原因はアンタだという事を忘れないでくれ……」

 

「ぐっ! べ、別段、魔物はここだけに出てくる訳ではないだろう!? あのまま真っ直ぐ進んだとしても、魔物と遭遇していた可能性はある筈だ!」

 

 カミュの表情を見て、自信なさ気に問いかけるリーシャに容赦ない言葉が降り注いだ。

 それに過剰に反応するリーシャの言葉は至極当然の事ではあるが、サラにはどこか滑稽に映ってしまう。

 

「……サラ……何か面白い事でもあったのか?」

 

「い、いえ! な、なにもありません!」

 

 くすくすと笑うサラを振り返るリーシャの表情は、サラの笑いを消すには十分な威力を誇っていた。

 風切り音が鳴りそうな程、首を横に振るサラの姿は蛇に睨まれた蛙の如し。

 

「……どうでも良いが、先に進むぞ」

 

「ど、どうでも良いって!……カミュ様が原因なのですよ!」

 

 リーシャとサラのやり取りを興味なさ気に流し、先へと進もうとするカミュの背中に、サラの悲痛な叫びが轟いた。

 

 

 

 一行は、元の位置に戻って、カミュが指し示した通り入口から真っ直ぐ続く道を歩き始める。

 しばらくは一本道となっており、迷う事なく進む一行であったのだが……

 

「…………」

 

 再び、行く先に迷う十字路に出る。先頭で立ち止まったカミュを不思議そうにメルエが見上げ、サラは不安そうな瞳でカミュの背中を見つめていた。

 

「こ、今度こそ、左じゃないかと思うんだが……」

 

「……リーシャさん……」

 

 『本当にこの人はめげない』

 半ば尊敬に変わりつつあるサラの想いは、リーシャへと向けられた。

 どれ程、失敗をしようと前へと進もうとする意思。

 おそらく、カミュもそれに気が付いているのだ。

 只単に、意固地となって自分の考えを押し付けようとしている訳ではなく、仲間を大切にし、『その行く先を示唆する事が出来れば』と真剣に考えている結果だからこそ、カミュもまた皮肉は言うが、それを糾弾したりしないのではないかとサラは考えていた。

 

「……左ではないとしたら?」

 

 いや、それはサラの思い過ごしかもしれない。

 カミュは、リーシャの推測から本当に正しい道を見出そうとしているだけではないだろうか。

 

「うん?……あ、ああ……左ではなかったら、今度も真っ直ぐじゃないか?」

 

「……そうか……」

 

 若干自信なさ気に聞こえるリーシャの声であったが、その言葉を聞いたカミュは、迷わず右へと進路を取る。カミュの態度に一瞬驚愕の表情を浮かべたリーシャだが、悔しそうに唇を噛んだ後、少し肩を落としてカミュの後を追った。

 サラはそのリーシャの表情に複雑な想いを抱くが、よくよく考えれば、カミュの行動はある意味当然の結果であり、考え方によっては、リーシャがパーティーの行く先を示唆している事になる事に気が付き、そのまま歩き出す。

 見方によれば、カミュはこのリーシャの特異な能力を頼りにしているのだ。

 確かに、行く先が解る相手よりも、『行き止まり』が解る人間がいる方が行動の幅が広がる可能性がある。それを今のリーシャに告げたとしても、怒りの矛先が自分に変わるだけなので、サラは黙っておく事にした。

 

 

 

 右に進路を取った一行は、そのまま道なりへと進む。その先には、大きな銅像が立ち、まるで何かを護っているかの様に一行を見下ろしていた。

 

「……墓の守り人か……」

 

「……凄いですね……本当の人のようです」

 

 墓の番人。

 王家の復活の為、その遺体と財宝を護る銅像。

 それは、とても古の人間が作ったとは思えない程の完成度を誇っていた。

 

「……」

 

 その銅像の完成度に驚くリーシャとサラに、カミュは何かを言いかけるが、何かを飲み込むように口を噤み、先へと進む。

 唯一人、そんなカミュの様子に気が付いたメルエであったが、カミュが何を言うつもりだったのかまでは解らない。必然的に、首を傾げる事しか出来なかった。

 

 

 

 銅像があった場所から、更に道なりへ進むと、上へと続く階段が現れる。この辺りから、所々にしか明かりが灯されていない事から、侵入者が限られて来ている事を示唆していた。

 壁にかけられた火から、買っておいた<たいまつ>へ火を移し、一行は階段を上って行く。基本、この<ピラミッド>に入ってからは、十字路の様な別れ道が出現しない限り一本道が続いていた。

 侵入者を拒むように道は細く、自然と縦に伸びるような隊列を組まざるを得ない。

 

「…………」

 

 再び現れた別れ道。

 その前で佇む一行。

 流石に今度は、いくら視線を向けられようとも、リーシャは言葉を発しなかった。

 

「……どっちだ?」

 

「何故、私に聞く?……私が道を示しても、その方向には行かないのだから、お前が決めれば良いだろう?」

 

 堪りかねたように、振り向きざまにカミュはリーシャへと視線を送るが、それに対してのリーシャの答えは、素っ気ない物だった。

 

「……アンタは、メルエと同じ年頃の子供なのか?」

 

「…………リーシャ………メルエと………同じ…………?」

 

 呆れを含んだ溜息を洩らすカミュ。

 自分の名前が出た事に反応し、リーシャを振り返るメルエの純粋な瞳。

 それが、リーシャを追い詰めて行く。

 

「ぐっ! 今度こそ右だ! 私は言ったぞ! まさか、今度もそれを無視して進むつもりか!?」

 

「……わかった。良い加減、自分の能力に気がついてくれ」

 

 再び盛大な溜息を洩らしたカミュは、若干の諦めを匂わせながら、リーシャの指示通り、右へと進路を取る。

 しかし、そんなカミュやサラの予想に反して、リーシャの指し示した方角には道が続き、やがて、下へと降りる階段が現れた。

 

「ほ、ほら、言った通りだろ!」

 

「……でも……また下へと降りるのですか?」

 

 階段を見つけ、子供のようにはしゃぐリーシャの横で、不安を隠しきれないサラが呟き、カミュの表情も概ねそれに同意しているようであった。

 それでも、そこに階段がある以上、降りて見なければならない。<西の洞窟>では、上っては下り、下りては上るを繰り返した先に、目的地が現れた。

 故に、胸に一抹の不安と、何故かとても嫌な予感を抱きながらも、サラは階下へと降りて行った。

 

 

 

「…………はこ…………」

 

 下りた先は、少し開けた空間で、そこに二つの宝箱が鎮座していた。

 カミュのマントの裾を握っていたメルエが、目敏くそれを見つけ、先程カミュから受けた注意を忘れて駆け寄って行く。

 

「メルエ! カミュに駄目だと言われただろう!」

 

「…………!!…………」

 

 宝箱に駆け寄るメルエに、慌てたように声を荒げてリーシャが駆け寄った。

 先程のカミュの真剣な瞳を思い出したメルエが、宝箱の前で踏み止まり、メルエに追いついたリーシャが、宝箱とメルエの間に入るように立つ。そして、メルエへと少し怒ったような表情を向けて、その行為を窘め始めた時、その場に異変が起こった。

 サラは、リーシャがメルエを窘める姿を微笑ましく見ていたが、突如横に立っていたカミュが駆け出した事に驚く。

 彼女は、メルエとリーシャの直線状に立っていた為、その異変に気がつかなかったのだ。

 

「どけ!!」

 

 素早くリーシャの下へと駆け寄ったカミュが、珍しい程の声を上げ、リーシャを吹き飛ばしたのが見えた後、その音が全員の耳へと入った。

 

 それは、身の毛が逆立つような音。

 鋭い刃物が肉に突き刺さるような音。

 鋭い牙が、生きている生物の肉を食い破るような音だった。

 

「カミュ!!」

 

 リーシャを突き飛ばし、メルエの前に代わって立ったカミュの腹部に、何かが牙を立てている。

 それは、先程メルエが駆け寄ろうとした物。

 本来であれば、貴重品が納められている筈の『宝箱』であった。

 その箱の様な物がカミュから離れたと同時に、カミュの腹部からその生命の源である赤い液体が盛大に吹き出し、床を真っ赤に染め上げた。

 

<人喰い箱>

その名の通り、人を食す箱である。何故、この魔物が生まれたのかは解明されていない。長い年月が経過した宝箱に、そこで命を落とした者達の怨念が宿り、魔王の魔力の影響で魔物化した物という説もある。『宝箱』と勘違いして近づいた人間をその鋭い牙で突き刺し、喰い千切る。その牙の鋭さは、肉食である魔物の中でも上位に位置し、凄まじい攻撃力を誇った。

 

「…………カミュ…………カミュ…………?」

 

 自分の目の前でゆっくりと倒れて行くカミュをメルエは信じられない物を見るように眺めていた。

 メルエの中で、カミュは『絶対的強者』なのだ。どんな事からも逃げる事はなく、どんな敵でも倒れる事はない。

 そんなカミュが、真っ赤な血を噴き出しながら倒れて行く。

 それがメルエには信じられなかった。

 

 それは、サラにとっても同じ事だった。

 どんなに皮肉を言われても、どれ程衝突を繰り返しても、この世で唯一『魔王討伐』への道を歩める存在であるカミュは、倒れる事はないと、心のどこかで考えていたのだ。

 『勇者も人だ』と言いきったリーシャも、心の奥ではカミュと『死』という単語は繋がっていなかった。

 それらが今、目の前で崩れて行く。

 

「サラ! カミュに回復魔法を!」

 

 それでも、一番先に現実に戻ったのは、やはりリーシャだった。

 『カミュが自分を庇った』

 その事実に困惑しながらも、目の前で箱の渕に生える牙をカタカタと鳴らす魔物へ斧を構える。

 

「は、はい! メルエ! 早くこっちへ!」

 

「…………カミュ…………?…………カミュ…………?」

 

 リーシャの声に我に返ったサラが、回復を行うためにカミュへと近寄り、自分の背にメルエを移動させようとするが、メルエは、床を真っ赤に染め上げてピクリとも動かないカミュの傍を離れようとしない。

 

「カタタカタタッタタタ」

 

 そんなメルエを<人喰い箱>は見逃さない。奇妙な音を立て、その牙の生えた口のような物を開け、メルエへと襲いかかる。

 しかし、メルエの覚醒は、<人喰い箱>の考えを大きく超えていた。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 <人喰い箱>に向かって上げたメルエの顔に浮かんでいる表情。

 それは、純粋な怒り。

 リーシャの時とは、また少し違うその感情は、メルエが掲げた腕から発した熱風の量が物語っていた。

 

 カミュやリーシャに禁じられていた、触媒を解さない魔法の行使。

 しかし、本来の魔力の流れを認識し始めたメルエには、すでに触媒を必要とはしていなかった。

 メルエが放った熱風は、大きく開けた<人喰い箱>の口の中へと吸い込まれて行く。

 

「アバババ、ゴバゴバ」

 

 直接体内に取り込まれた熱風は、<人喰い箱>の内部にて炎の海と化す。瞬間的に閉じてしまった口の中で燃え盛る炎に、<人喰い箱>は奇妙な音を発しながら、黒煙を吐き始めた。

 

「…………リーシャ…………」

 

「ああ! 任せろ!」

 

 地面でのた打ち回りながら黒煙を吐く<人喰い箱>を冷たく見下ろしたメルエは、呟くようにリーシャの名を呼ぶ。

 メルエの意図を把握したリーシャは、手に持つ<鉄の斧>を高々と掲げ、渾身の力を込めて<人喰い箱>へと振り下ろした。

 

 派手な音を立て、砕け散る木片。

 所々黒く焦げたそれは、<人喰い箱>であった物の一部。

 

 リーシャの渾身の力を込めた一撃は、寸分の狂いもなく<人喰い箱>に突き刺さり、粉々に粉砕したのだ。

 まるで薪でも割るように叩き割られた<人喰い箱>は原型も留めない程に砕け散り、その息吹を停止させていた。

 

「サラ! カミュは!?」

 

 辺りに散らばった木片が動かない事を確認したリーシャは、未だに倒れて動かないカミュの下へと駆け寄るが、そこには、必死に<ホイミ>をかけ続けるサラの姿があった。

 

「…………カミュ…………」

 

「<ホイミ>では追い付きません……深く抉られ、内臓が傷ついていて……血が止まらないのです……」

 

 心配そうにカミュの名を呟くメルエに、先程までの様な眼の光はない。

 そして、その横でカミュの腹部に手をかざすサラの声も悲痛に震えていた。

 

「で、では……カミュは……カミュは、死んでしまうというのか!?」

 

「…………カミュ…………だめ…………」

 

 パーティー唯一の回復役であるサラの魔法でも回復しないと言うのだ。

 それは、即ち死に繋がるということ。

 リーシャの叫びの意味を理解したのだろう。

 傍に座るメルエの瞳から大粒の涙が零れ出す。

 

「サラ! 何とかならないのか!?」

 

「……くっ! 大丈夫です……カミュ様は絶対に死なせません」

 

 こんな時にリーシャの様な戦士に出来る事など何一つない。

 リーシャの胸に自身の無力さに対する憤りが突き刺さる。

 故に、無茶な事だと解ってはいても、サラに大声を上げるしかなかった。

 そんなリーシャの叫びを聞き、サラは一瞬悔しそうに顔を顰める。

 しかし、噛みしめた唇を開き、再び絞り出した言葉は、サラにしては珍しい強気な発言であった。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

イシスと言えば「ピラミッド」。
皆様にも、様々な思い出があると思います。
このピラミッド編は、もう2話程かかります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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ピラミッド②

 

 

 

 湿気の少ない建造物の中、外の気温とはかけ離れた涼しい空気が支配する。

 リーシャが破壊した<人喰い箱>であった木片が散らばるフロアの中央部分では、『人』の希望である青年が静かな寝息を立てて眠っていた。

 その青年の胸の上で、涙の跡を色濃く残した幼い少女もまた眠りにつき、先程までで魔法力を大量に使用した法衣を纏う少女もまた、少し前に倒れるように眠ってしまった。

 唯一人、この場で何も出来ず、見守る事しか出来なかった女性が、魔物の巣食うこの場所で見張りを兼ねて起きていたのだ。

 メルエの頬に残る涙の跡を見ながら、リーシャは先程一行を襲った混乱を思い出す。それは、まさに阿鼻叫喚と言っても良い状況であった。

 

 

 

 

 血が止まらず、床を満たしていくように流れ出るカミュの命の灯。

 一向に目を開かないカミュを見て、涙を流し、最後にはリーシャやサラですら聞いた事もない声を上げて泣き出すメルエ。

 メルエが泣く事を見るのは初めてではない。しかし、声を上げ泣き叫ぶという姿は、リーシャもサラも初めて見た。

 それは、リーシャが倒れた時と違い、サラが安心できる言葉をかけなかった為。

 メルエにとって、事、怪我等に関しては、サラの言う事は絶対なのだ。

 サラが『大丈夫』と言えば、心配の必要はない。しかし、カミュに対してはどこか弱気な発言をしたサラを見たメルエは、困惑し、絶望した。

 

「大丈夫です! メルエ、大丈夫! 絶対にカミュ様は死なせません。私を信じてください!」

 

 メルエが泣き叫び、リーシャが絶望に呆然とする中、そんな二人を強引に現実へと戻したのは、先程と同じように珍しい強気な発言をするサラであった。

 その瞳は、どこか自信のない揺らぎを見せるが、その奥にある炎はまさしく『決意』。

 以前、リーシャが倒れた時に、メルエが宿した瞳の炎と酷似したものであった。

 

「……………えぐっ………サラ………えっぐ…………」

 

「メルエ、私はメルエに嘘を言ったことはありませんよ? 私がメルエに『大丈夫』と言ったのなら、『大丈夫』です」

 

 サラの強い声に、泣き叫んでいたメルエが、嗚咽を繰り返しながらもサラを見つめ、その視線を受けたサラは、尚も強く頷いた。

 そのサラの様子が、どこか危うく、しかし、どこか頼もしい。

 リーシャは、以前カミュと話したように、サラの成長を認めなければならないと場違いな感想を持っていた。

 

「し、しかし、サラ……どうするつもりだ? <ホイミ>では無理なのだろう?」

 

「……はい……」

 

「…………カミュ………えぐっ………だめ…………?」

 

 我に返ったリーシャの問いかけに、悔しそうに俯くサラを見て、メルエは再び涙を溢し始める。もはや、メルエは完全にパニック状態なのだ。

 アッサラームの町にいた頃には何度も殴られ、何度も罵倒されて来た。

 道端に他人が倒れていようと、例えその者が死んでいようと、メルエの心が動く事はなかったのだが、今のメルエの心はあの頃とは異なる。

 倒れ伏す青年によって世界を知り、呆然とする女性戦士によって愛を知り、今何かの決意に燃える僧侶によって心を教わったメルエは、もはや人形ではないのだ。

 

「大丈夫です……<ホイミ>でなければ良いのです……」

 

「……サラ?」

 

 顔を上げたサラの表情はいつになく厳しい。それは、意見や思考の食い違いから、カミュと相対する時のサラよりも厳しいもの。

 その表情に、メルエは若干の怯えを見せ、リーシャは疑問を感じずにはいられなかった。

 一度、胸の前で大きく印を切り、胸の前で手を合わせたサラは、その手を天高く掲げ、未だにじわじわと血が滲み出ているカミュの腹部へと押し当てる。

 

「ベホイミ!!」

 

 サラの詠唱と共に、サラの手のひらだけでなく、腕の肘部分までが淡い緑の光に包まれて行く。

 その光の強さは、<ホイミ>の比ではない。

 サラから放たれた淡い緑色の光は、カミュの腹部を起点にカミュの身体を包んで行った。

 

「…………サラ…………」

 

「……」

 

 今まで見た事もない不思議な光景に、リーシャとメルエは言葉を失う。

 <ホイミ>では、傷を癒す速度よりも、傷つけられた内臓から滲み出す血液の喪失の方が早くなってしまっていたが、今サラが唱えた<ホイミ>の上位魔法である<ベホイミ>の癒しの力は、カミュの血液の流出を許さず、内臓の傷を塞ぎ、更には腹部に開けられた穴をも塞いで行ったのだ。

 

「……ふぅ……良かった……成功した……良かった……うぅぅ」

 

 腕を包むように覆っていた淡い緑色の光が消えた時、カミュの腹部の傷も綺麗に消えていた。

 カミュの傷跡を確かめたサラは、安堵からなのか、声を詰まらせて嗚咽を漏らす。

 

「…………カミュ…………だいじょうぶ…………?」

 

「ぐずっ……は、はい! もう大丈夫ですよ。傷は治りました。後は少しずつ<ホイミ>をかけて行けば、目も覚めると思います……うぅぅ……」

 

 不思議な光景を間も辺りにし、カミュの傷跡も消えた事で、メルエは、回復関係で最も信頼を置いているサラへとその容体について尋ねた。

 鼻をすすりながらも、満面の笑みでメルエに答えるサラであったが、サラの答えを聞いたメルエの双眸から再び大粒の涙が流れるのを見て、自らも再び嗚咽してしまう。

 

「ふふふ。ありがとう、サラ。よくやってくれた。もう、立派な僧侶だな」

 

 そんな妹のように思っている二人の可愛らしい姿に頬を緩めたリーシャが、サラへと労いの言葉をかけながら、二人の傍に腰を下ろした。

 

「……わ、私も……初めてだったので……心配で……心配で……」

 

「ああ。それでも、サラがしてくれた事に変わりはない。サラのした事は、この世界にとっても本当に重大な事だ。自信を持て」

 

「…………サラ………ありが………とう…………」

 

<ベホイミ>

教会が保持する『経典』内に記載されている上位の回復呪文。その効力は<ホイミ>を遥かに凌ぎ、瀕死である人間の傷も癒すと云われている。古の賢者の使用した回復呪文が『経典』に記載されていない今、事実上は僧侶が使用する最上級の回復呪文であると言っても過言ではない。

 

 この魔法の習得。

 これが、<イシス>の町で情報収集をリーシャに押し付ける事になった三つ目の理由であった。

 彼女がメルエの状況を知り、そしてカミュへと宣言した僧侶としてのレベルアップ。

 その必要性を強く感じ始めていたサラは、あの砂漠の途中に一人で住んでいた老人の家でも、そして<イシス>の町でも、夜、全員が寝静まってから、経典を手に持ち契約の儀式を行っていた。

 

 そして、それが契約出来たのは、昨日。

 あの<イシス>での夜だった。

 契約は出来たが、行使をした事がない魔法。

 それをこの土壇場で使用するという行為は、並大抵の勇気ではない。それを成功させたサラが、感極まり涙を流す事をリーシャは誇らしく思った。

 

「ぐずっ……は、はい……でも……本当に良かった……」

 

「…………サラ…………」

 

 リーシャの言葉に、更に涙を溢すサラへメルエが飛び付く。

 サラの薄い胸の中で泣くメルエを強く抱き締め、サラは今、自分の立ち位置を確立した事を改めて感じていた。

 

「ふふふ……ぐずっ……メルエ、まだカミュ様に<ホイミ>をかけてあげなければいけません。もう少しでカミュ様も目覚めると思いますから、カミュ様のお傍で待っていて下さい」

 

「…………ん…………」

 

 しばらく抱き合っていた二人ではあったが、涙を拭きながら話すサラの言葉に、メルエが小さく頷き、サラの胸から離れ、横たわるカミュの傍へと移動して行く。

 その間、リーシャは、周囲の警戒をしながらも、二人を穏やかな気持ちで眺めていた。

 

「サラ。ここで少し休んで行こう。カミュも言っていたが、ここでの探索はそう急ぐものではない。ゆっくりカミュが起きるのを待とう」

 

「あっ、は、はい」

 

 リーシャが腰を落ち着けた事により、サラの胸の中の焦りは皆無となった。

 カミュの命の鼓動は消えていない。今は、身体が失われた血液の回復をしているだけであり、後はその回復を待つだけなのである。

 

 

 

 

 先程まで、この場所で抱き合い涙を流していた二人は、今深い眠りについている。

 片方は魔法の行使での疲れの為。

 もう片方は、極度の不安とその解放による泣き疲れの為。

 

「……サラも、メルエもどんどん成長して行く……私はこのままで良いのだろうか……」

 

 静かな寝息が響く、古の建造物の中でリーシャの声だけが闇に溶けて行く。

 それは自問自答。

 リーシャは、妹の様な二人の成長を頼もしく感じると共に、寂しさも感じ始めていた。

 

「……うっ……」

 

 そんな物思いに耽っていたリーシャの耳に、先程までの騒動の原因でもある青年の声が入って来た。

 目を開き、身体を起こそうとしたのだろう。しかし、胸の上で眠るメルエの存在に気が付き、起きるに起きられず、困ったように再び身体を横たえるカミュを見て、リーシャは口元を緩めた。

 

「まだ寝ていろ。お前は死にかけたんだ」

 

「……アンタの代わりにな……」

 

「ぐっ!」

 

 微笑みながらカミュの顔近くに座り込んだリーシャの声に、視線だけを向けたカミュは一瞬自分の身に起こったことに想いを巡らし、皮肉気に口を開いた。

 それは、間違いない事実。

 <人喰い箱>の前にいたのは、カミュではなくリーシャだった筈。

 メルエを窘めるリーシャは、<人喰い箱>に背を向けた状態であった。であるならば、本来、カミュが受けた傷はリーシャが受け、生と死との狭間を行き来していたのはリーシャであった可能性が高いのだ。

 

「……すまなかった……お前のおかげだ」

 

「……俺も生きている……アンタが受けたとしても、生きているという事だ」

 

 頭を下げるリーシャに、驚いたように目を開いたカミュが呟いた言葉は、遠回しながらもリーシャが気にかける必要がない事を伝えるものだった。

 

「後でサラによく礼を言っておけよ。サラがいなければ、お前は死んでいたのだからな」

 

「……わかった……」

 

 リーシャの言葉に素直に頷くカミュに、リーシャも驚きを浮かべる。彼がここまで素直に頷くとは思っていなかったのだ。

 眠っているメルエを胸から太腿の位置まで移動させ、膝枕をしてもらうように眠らせてから、カミュは身体を起こした。

 

「それと、今回は私が救われたから、強くは言えないが、お前はもう少し自分の身体を気にかけろ! お前はこの世界に住む『人』の希望なんだ。私とは違う」

 

 身体を起こしたカミュに、リーシャが声をかける。その内容は、『勇者』として送り出されたカミュの責任を追及するものであった。

 そんなリーシャの言葉に、カミュは目を細める。

 

「……俺もアンタも同じ『人間』だ。生まれた家が違うだけで、『人』としての価値に違いなどない……それに、俺はこの旅は『死への旅』だと言った筈だ」

 

「な、なに!? ならば、お前は、今生きている事も余計な事だとでも言うのか!? サラがあれ程必死になってお前を救った事を余計な世話だとでも言うつもりか!?」

 

 冷たく細められた視線を発し、カミュが口にした言葉に、反射的にリーシャは激昂してしまう。

 サラがあれ程までに強い決意を示し、勇気を振り絞って魔法を行使した後、その安堵から大粒の涙を溢した姿が、カミュにとって無駄な事と片づけられる事がリーシャには我慢ならなかった。

 

「……どこをどう聞けば、そういう事になる? あの僧侶が回復呪文を唱えた事によって命を繋ぎ留めた事に関しては、感謝している。俺が言っているのは、この旅の途中で、何処でどういう死に方をしようと覚悟は出来ているという事だ」

 

「ぐっ……だが、それも間違っているだろう! お前はこの世界の『勇者』なんだ。オルテガ様に代わり、魔王を討伐出来るのは、お前しかいないんだぞ!?」

 

 リーシャは頭に血が上っていて気がつかない。

 カミュが素直にサラに対して感謝の意を示している事を。

 それは、カミュが唯の死にたがりではない事を示していた。

 命を繋ぎとめてくれた者に対しての素直な感謝。それは生への執着とは少し違う想い。それが何であるのかは当の本人すら気がついていないのかもしれない。

 

「……アンタが言うように、俺は『そういう存在』だ。ただ、『魔王』を討伐出来るか否かは、解らない。この世界にいる以上、俺はそれを求められ、それ以外の生き方は許されないだろう。旅は続ける……だが、その先が『魔王討伐の成功』なのか、それとも『死』なのかは、俺の判断でどうこう出来る物ではない」

 

「……」

 

 呆然とするリーシャに向かって、カミュは一息入れた後にもう一度口を開く。

 会話の内容はとても辛辣な物ではあったが、語るカミュの口調は、以前とは違い、若干柔らかな物へと変わっていた。

 

「……アンタが慕う『オルテガ』という存在と俺は別物だ。『オルテガ』に出来た事全てを俺に求めないでくれ……アンタが慕う存在ですら成しえなかった事を、俺が出来るとは思わない事だ」

 

 カミュの淡々とした口調に、リーシャは言葉を発する事が出来なかった。

 ただ、リーシャの心の中では、あらゆる感情が蠢く。

 『違う』

 『こんな問答をする為に、言葉を交わしたのではない』と。

 

「ち、ちがっ……いや、もう良い。ただ、カミュ。お前が自分の死をどういう風に考えているのかは解ったが、メルエの顔を見てみろ」

 

「……」

 

 自分の胸にある想いを伝えようとして、リーシャは諦めた。

 今の自分では、正確に想いをカミュに伝える事が出来ないと感じたからだ。故に、リーシャは視点を変える事とした。

 

「メルエの頬に残るその跡こそ、お前が考えるべきものだ。お前は、自らの『死』を受け入れる覚悟はあるのだろう。だが、メルエにはお前の『死』を受け入れる覚悟などない! お前はそれを解っているのか!?」

 

「……」

 

 突如として切り口が変わったリーシャの言葉に、カミュは押し黙ってしまう。

 視線を向けたメルエの頬には、くっきりと残る涙の痕。

 余程泣き続けていたのだろう。その瞼は赤く腫れ、疲れ切ったように深い眠りに落ちていた。

 

「私とて、目標は『魔王討伐』という使命だが、お前の言うとおり、それが必ずしも実現出来るとは思っていない。いや、実現する為に最大限の努力はする。しかし、この旅がそのような甘い旅ではない事ぐらいは百も承知だ」

 

 一度、自分の胸の中にある説明できない感情を吐き出し始めたリーシャの言葉は止まらなかった。カミュが口を開く間を与えないように、言葉を捲し立てて行く。

 カミュの目には先程までの冷たい光はもう存在しない。

 そこにあるのは、『困惑』と『焦り』。

 まさか、この頭の固い戦士からこのような事を言われるとは思っていなかったのであろう。

 

「だが、カミュ。メルエはお前に『魔王討伐』を無理強いしているのか? メルエがお前を『勇者』として見ているのか? 確かにお前の使命は成功するかどうか解らない『魔王討伐』だ。それでも、その先にある未来が『お前の死』では駄目なんだ」

 

「……」

 

 そこまで言い切って、リーシャはカミュから視線を外した。

 まるで逃げるように外されたリーシャの視線にカミュは首を傾げる。直線的な性格を持つこの『戦士』が、まるで何かに罪悪感を覚えているかのように視線を外したのだ。

 

「私は、お前を一人の人間として見ていたかと問われれば、アリアハンを出た時は確実に見ていなかった……いや、今でもどうかわからない……しかし、メルエは違う! メルエにとって、お前はカミュなんだ……それを今日実感した。メルエだけは血の気を失うお前を見て『カミュの死』というものを連想し、絶望していた。私やサラは、『勇者の死』としてしか見ていなかったのかもしれない……」

 

 リーシャの頭は下げられ、カミュの瞳と交差する事はない。

 自分でも収集がつかない程の想いが、零れ出しているのだ。

 それは『懺悔』のようにも聞こえる。

 

「……すまない……もう何を言っているのか解らないな……とにかく、お前は自分の身をもう少し考えてくれ」

 

「……」

 

 もはや、自分でも何をどう話したのか、それがどういう意味だったのかが理解出来なくなってしまったリーシャは、最初にカミュに掛けた言葉をもう一度口にする事で口を閉じた。

 カミュは黙して何も語らない。

 ただ、目の前で下を向いている頭の固かった女性戦士を見ていた。

 

「……アンタはどこまで変わって行くつもりだ?」

 

「な、なんだそれは!?」

 

 不意に口を開いたカミュの言葉にリーシャの思考が追い付かない。リーシャが今まで必死に話した内容など無視したように話すカミュの顔を見る為に、リーシャは俯いていた顔を上げた。

 

「……俺の頭が追い付かない……」

 

「ば、馬鹿にしているのか!?」

 

 カミュの言葉の真意が何処にあるのかがリーシャには理解出来ない。故に、小馬鹿にされたように感じ、反射的にカミュへと怒りを向けた。

 それに対し、カミュは軽い溜息を吐き出し、リーシャを真っ直ぐ見つめ返す。

 

「……その辺りは変わらないな」

 

「ぐっ!」

 

 カミュとリーシャのやり取りに先程までの重苦しいものはない。

 あるのは、会話と同様に軽い空気。

 

「……それに、アンタも以前にメルエを護る為に身を挺した筈だが?」

 

「あ、あれは、身体が勝手に動いたんだ!」

 

 カミュの表情に先程と違った余裕が戻って来ている。そんなカミュにリーシャが敵う筈もなく、いつものように、後手後手に回ってしまう。しかし、そんな軽い空気も変化する。

 次のカミュの言葉が、周囲の時を止めたように空気を固めてしまった。

 

「……ならば、俺もそれと同じで良い……」

 

「は?」

 

 カミュが言う事。それは、リーシャがメルエを救った時のように、リーシャを救う為に無意識に飛び込んで来たというのだ。

 リーシャは、ここまで、様々な難局をカミュが越えて来たのを見ている。

 <ノアニール>でも<エルフの隠れ里>でも<カザーブ>でも、彼は、やり方はどうあれ、そこに住む者の心を救って来た。

 しかし、<ノアニール>の村の住人を救う為にカミュが身を挺するとは思えない。

 『エルフ』は『人』であるカミュの救いなど必要としないだろう。

 <カザーブ>のトルドに対しては、もしかしたらカミュは動くかもしれないが、想像が難しい。

 そうなれば、カミュが無意識に助けたリーシャは、カミュの周囲にいる人間の中でも違う意味を持っているという事になる。

 その事にリーシャの理解が追い付いていかない。

 

「……う……う~ん……」

 

 カミュの目を見つめ呆然としているリーシャの横で、眠りから覚醒する声が聞こえ始める。

 ゆっくりと顔を上げ、目を擦るのは、カミュを死の淵から生還させた功労者。

 傷が塞がった後も、<ホイミ>をかけ、カミュの覚醒を速めたサラであった。

 

「はっ! も、申し訳ありません。カ、カミュ様、どこか具合の悪いところはありませんか? 一応、一通り<ホイミ>をかけておきましたが……」

 

 顔を上げて、真っ先にカミュの身を案じるサラ。

 それは、先程リーシャが言っていた『勇者』として見ているものなのか、それとも、『カミュ個人』を見て発しているものなのかは解らない。

 

「……いや、大丈夫だ。アンタには本当に助けられた。ありがとう」

 

「ふぇ!? い、いえ。そ、僧侶として当然の事をしたまでです。私もカミュ様を……『勇者様』を救う事が出来て嬉しく思います」

 

「……」

 

 カミュが示す感謝の意を受け、サラは眠気が吹っ飛んで行く。何度かカミュの感謝を受け取りはしたが、カミュと感謝が未だに結びつかないのだ。

 そして、その後に続けたサラの言葉が、リーシャの表情に微かな影を差す。

 

「…………うっ…………」

 

 周囲の騒がしさに、パーティー最後の少女も眠りから覚醒する。

 カミュの太腿から顔を上げ、何度も目を擦り、開いた目に飛び込んで来たカミュの顔に、メルエは輝くような笑顔を浮かべた。

 

「…………カミュ!…………」

 

「ふふふ」

 

 カミュの首に巻きつくように抱きついたメルエを、サラは微笑みを浮かべながら見つめ、カミュはメルエを複雑な想いを持って迎え入れていた。

 それは、先程のリーシャの言葉。

 『メルエにとってお前は<カミュ>なんだ』

 それは、カミュが初めて受ける見解。

 自分を『アリアハンの勇者』としてではなく、ましてや『オルテガの息子』としてでもない、純粋に『カミュ』として見られる事は、カミュには初めての体験だったのだ。

 この純粋で小さな少女は、『アリアハン』という国も知らなければ、『オルテガ』という存在も知らないのだから、当然の事なのかもしれないが、カミュはこの後、メルエとどう接していけば良いのかが解らなかった。

 

「今まで通りで良い。メルエにとってそれが『カミュ』なんだ」

 

「??」

 

 そんなカミュの困惑顔を見ていたリーシャが口を開き、その会話の内容が理解出来ないサラとメルエが仲良く首を傾げた。

 

「……時々、アンタが解らなくなる」

 

「お前は、私をどう見ているんだ!!」

 

 自分の胸の内をリーシャが悟る事は、今回ばかりではない。

 カミュが、胸の内で悩み、表情に出さないまでもその悩みに苦しんでいる時、必ず現れるのは、この女性戦士であった。

 カミュに『脳味噌まで筋肉で出来ているのでは?』と揶揄される程に軽率な行動に出る事も多い反面、人の心の機微には敏感。そんなリーシャという存在が、カミュは時々解らなくなっていた。

 

「……良く解りませんが……カミュ様、もう少し休んで行かれますか?」

 

「いや。アンタのお陰で、体調も大分戻った。このまま探索を続ける」

 

 カミュとリーシャのやり取りが理解出来ないサラではあったが、カミュの身を案じ休憩を示唆した。

 そのサラの言葉をさらりと流したカミュは、そのまま探索する為に立ち上がる。若干のふらつきを覚え、血液流出による貧血状態である事が解るが、時間が解決してくれると、カミュはそのまま自分の状態を把握していた。

 <人喰い箱>の牙を受けたカミュの腹部の<みかわしの服>には大きな穴が空き、マントや服には乾いた血液がべったりとこびり付いている。

 結果論にはなるが、もし、カミュの身に着けている防具が<鉄の鎧>であれば、カミュは死に繋がる程の怪我にはならなかったのかもしれない。

 

「…………カミュ…………いたい…………?」

 

「ん?……ああ、大丈夫だ。メルエ、血で汚れている部分のマントは握るな」

 

「…………ん…………」

 

 少しふらついたカミュを心配そうに見上げるメルエの瞳は、純粋に『カミュ』を心配しているもの。それがカミュにとっては不思議な光景に見えた。

 それでも、そんなメルエの手が汚れる事を心配するカミュの心もまた、メルエを妹のように思っている証拠なのだ。

 かなりの時間をこの空間で過ごした一行ではあったが、再びこの古の建造物の中に眠ると云われる『魔法のカギ』を求めて歩き出す。

 彼等四人を取り巻く空気は、ゆっくりとではあるが、確実に変化を起こしていた。

 

 

 

「…………」

 

「……前言は撤回しよう。アンタは何も変わらない」

 

 カミュの一大事で、一行は忘れていた。彼等が<人喰い箱>のある場所を目指すきっかけになったのも、全てリーシャが指し示した方角へと歩いて来たからだという事を。

 その行き着く先など、決まっている。

 『行き止まり』であった。

 

「くそっ!」

 

「あれ?……なんでしょう? 壁に何かついていますが……」

 

 吐き捨てるように言葉を吐くリーシャの姿を横目に、サラは自分達の行き先を遮るようにそびえる壁の中央にある小さく丸いボタンの様な物を見つけた。

 

「……なんだこれは?」

 

「…………おす…………?」

 

「ちょ、ちょっと待て、メルエ! 何でもかんでも無闇に触るな! また、誰かが傷ついたらどうする!」

 

 目を凝らすカミュを見上げたメルエが、壁に付いているボタンを押そうと指を伸ばすのをリーシャが慌てて止めに入る。

 リーシャの言葉に、先程のカミュの姿を思い出したメルエは、眉を下げ、俯いてしまった。

 

「ああああ!! も、もしかしたら……」

 

「な、なんだ、サラ。突然大声を上げるな」

 

 しょんぼりと俯いてしまったメルエを慰めようと手を伸ばしたリーシャの後ろから、サラが素っ頓狂な声を上げた。

 そのサラの大声に全員が驚き、サラへと振り返る。一斉に視線が自分に集まった事に驚いたサラであったが、呼吸を整え、自分の考えを話し始めた。

 

「<イシス>のお城で聞いた童歌ですよ。あの子供達は、『まんまるボタンはお日様ボタン。小さなボタンで扉が開く。東の東から西の西』と謡っていました」

 

「ん?……それが何か関係があるのか?」

 

 人の心の機微には素早い回転を見せるリーシャの頭ではあったが、サラの話す謎解きのような物にはその回転力を全く発揮しない。

 

「……なるほどな。このボタンが、その扉を開く鍵だと言うのか? では、『東の東から西の西』という部分は?」

 

 対して、カミュには何か納得がいったようだ。

 困惑顔のリーシャを置いて、カミュとサラの話が始まる。

 

「そこが、まだ解りませんが、きっとここ以外にもボタンがある筈です」

 

「何が、何だというのだ!? 私にはさっぱり解らないぞ!」

 

 勝手に進むカミュ達の話に置いて行かれてしまい、リーシャは癇癪を起こして行く。メルエはというと、ピラミッドの床を歩く、小さな小さな生物に興味を引かれたらしく、しゃがみ込んで、行列を作る<蟻>を眺めていた。

 

「……アンタはこの先どちらの方向に行けば良いと思う?」

 

「な、なに!? それとこれとどう……先程の曲がり道を左だな……」

 

 リーシャの言葉を無視して問いかけるカミュの目が真剣なものである事を見たリーシャは、反論するのを諦め、自分が思った先を指し示す。

 

「……だそうだ。とりあえず行ってみる」

 

「そ、そうですね。わかりました」

 

 躊躇なくリーシャの指し示した方角に移動しようとするカミュの考えが解っただけに、サラは戸惑うが、その意図を測りきれていないリーシャは、ただ、自分の意見がすんなり通った事を喜んでいた。

 

 

 

 リーシャが指し示した方角は、計四方向。

 その全てが『行き止まり』であった。

 その事に肩を落とすリーシャであったが、カミュやサラはその事を責めるような言葉は発しなかった。

 むしろ、改めて見直したような視線を送ってくるサラを、リーシャは不思議に思う事となる。

 

「……これで四つ目ですね……」

 

「……ああ……」

 

 リーシャが指し示した方角にある『行き止まり』は、最初に辿り着いた時と同じように、細い道の先が壁となっており、その壁にも全く同じ丸いボタンが取り付けられていた。

 

「……おそらく、このボタンが最後ではないかと思います。ここまでの道は一本道でした。そこで二手に分かれて同じボタンが二つ。一番最初に見たボタンも、その手前の別れ道の先にもう一つのボタンがありました」

 

「……『東の東から西の西』か……」

 

「何だと言うんだ!? 解るように説明してくれ!」

 

 サラとカミュの会話はどんどん進んで行く。それにリーシャとメルエは置いて行かれていた。

 いや、関心を示さないメルエと違い、リーシャは聞いていても理解が出来ない。

 

「……この<ピラミッド>の入口から考えて、このボタンがある場所が、東の方角でしょう。そして、東側にある二つのボタンの内、最も東にあるのがこのボタン……」

 

「東側にある東のボタンを押した後に、西側にある西のボタンを押せば……」

 

 サラの推理は、カミュの考えているものと同じだった。

 四つのボタン。

 ピラミッド内で、東側に二つ。そして西側に二つ。

 童歌がカギとなるならば、指し示す内容はそれしかない。

 

「……お前達は、意図的に私を無視しているのか?」

 

 サラとカミュの話が進み、説明を求めるリーシャの声等聞こえない素振りを見せる二人にリーシャの癇癪が爆発しそうになっていた。

 それにサラは、大いに慌てる。

 

「い、いえ! そのような事はありません!」

 

「……アンタに話した所で、理解出来ないだろうからな」

 

「カ、カミュ様!!」

 

 弁解しようとするサラの言葉を遮って、口を開いたカミュの言葉は辛辣。そのような事を言われれば、リーシャでなくても、通常の人間であれば怒り出す。

 案の定、リーシャの肩は震えていた。

 

「そんな事、聞いてみなければ解らないだろう!!」

 

「……何事にも適材適所がある。こういう事は他人に任せておけ」

 

 激昂したように叫ぶリーシャに対し、何も感じてはいないように、カミュは言葉を返した。

 それは、サラにしてみれば、恐ろしい発言。そのままリーシャの背にある<鉄の斧>で首を刈られてしまうのではないかとすら考えた。

 

「カミュ……お前は、私は考える事に向いていないと言うのか!?」

 

「……アンタは向いていると思っていたのか?」

 

 怒りに燃えるリーシャの顔を、本当に不思議そうに見るカミュの表情は、先程まで恐怖に強張っていたサラの顔を微笑みに変えてしまう程に自然なものだった。

 

「…………リーシャ………たべる…………?」

 

「~~~~~~~!! もういい!! やる事があるなら、さっさとしろ!」

 

 カミュ達の会話を眺めていたメルエがポシェットから例の種を取り出した事で、この問答は終了した。

 最後にメルエの帽子を取り、その頭に軽く拳骨を落としたリーシャは、不貞腐れたように後ろを向いてしまう。不貞腐れたリーシャに謝罪をしているメルエを余所に、サラとカミュは再び<ピラミッド>の謎解きを始めた。

 

「おそらく、カミュ様の言うとおり、この『東の東』に位置するボタンを押した後、先程見た『西の西』に位置するボタンを押すのではないかと……」

 

「……押せばどうなる?」

 

 考えれば、こうしてカミュとサラが向き合って話し合う事など、この旅が始まって以来初めての事かもしれない。それ程までに、彼等の距離は懸け離れていたのだ。

 『魔王討伐』という同じ目的に向かってはいるものの、視線の先にある物が違い過ぎていた。

 本当に少しずつ、彼等の距離が縮まって来ているのかもしれない。

 

「そ、それは、わかりません……もしかすると、罠のような物が出て来てしまうかもしれませんが……」

 

 サラの推理はカミュの考えと同じもの。ただ、その先に何が待っているのかは予測が出来ない。それをサラに問いかける形となり、自分の意見に賛成の手を上げてくれないのを見て、サラの自信は萎んで行ってしまう。

 

「……やってみなければ解らないか……メルエ!!」

 

 俯いてしまったサラを横目に、呟くそうな言葉を漏らしたカミュが、リーシャの傍にいるメルエを呼んだ。

 カミュの声に首を向けた後、メルエはカミュの下へ『とてとて』と走ってくる。

 

「……メルエ、そのボタンを押して良いぞ……」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの言葉に表情を笑顔に変えて頷くメルエ。

 それを見たサラは血相を変えた。

 

「カミュ様! メルエにさせるおつもりですか!?」

 

「……心配するな。メルエの身に何かが起こるような事はない」

 

「…………メルエ…………おす…………」

 

 サラの心配は尤もな事だ。

 押した途端ボタンの場所から弓矢が飛び出して来るかもしれない。

 床が抜け、下へ落とされるかもしれない。

 そんな危険な役をメルエにさせようとするカミュが信じられなかった。

 

「カミュ、お前はまた私に同じ言葉を言わせるつもりか?」

 

「……死ぬ事はない……」

 

 サラとカミュのやり取りを見ていたリーシャの呟きは、低く小さな物だったが、嫌な汗が出る程の迫力があった。

 そのリーシャの声を聞いたカミュさえも、視線を合わせようとはしない。

 

「し、しかし、メルエが押す必要はどこにもありません!」

 

「…………もう…………おした…………」

 

「えぇぇぇぇ!!」

 

 尚も反論しようとするサラの耳に、信じられないような事実が響く。丸いボタンに指を伸ばし、それを深く押しきったメルエがカミュの足元から声を発したのだ。

 サラは、そのメルエの姿を確認し、大袈裟な驚きを表すが、彼女の心理的にそれは決して大袈裟なものではなかったのかもしれない。

 

「押してしまっては、もうどうしようもないな……メルエの身は大丈夫だったし、次に行くんだろ、カミュ?」

 

「リ、リーシャさんも何を落ち着いて……どうしようもないではありません!」

 

 ボタンを押した事に満足そうな笑みを浮かべるメルエの手を引いたリーシャは、カミュの方へ視線を向けるが、サラはそれを許す事が出来なかった。

 

「サラ、そんなに怒るな。もう、押してしまったものはどうしようもないだろう? 次はサラが押せば良いじゃないか」

 

「私が押したかった訳ではありません!」

 

「…………おに…………」

 

「何故ですか!?」

 

 いつものように、とても生死を賭けた場所でのやり取りとは思えない空気が広がり始める。

 いや、実際、メルエには始めからそのような感覚はないのかもしれない。ただ、カミュ達が行く場所に行かないという選択肢がないだけなのだろう。

 それでも、先程のカミュの一大事は彼女にとって、生まれて初めて『死』というものを実感した瞬間であった。

 

 

 

 未だ興奮冷めやらぬサラを連れ、再び最初に見つけたボタンの場所へと戻って行く。その間にも、魔物との戦闘もあったが、出て来た魔物は<火炎ムカデ>や<大王ガマ>であり、一行を死の淵をに落とすようなものではなかった。

 

「またメルエが押すと、サラが怒るから、次はカミュが押せ!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

「に、睨んでも駄目です!」

 

 リーシャの言葉に、メルエが恨めしそうにサラを睨む。

 サラは一瞬怯みかけるが、気丈にメルエを見つめ返した。

 

「……わかった……」

 

 カミュがボタンの前まで進み、そのボタンを奥まで押し込む。

 

 ガゴン!

 

 ボタンが押し込まれると同時に、どこかで何かが開くような音が聞こえた。

 それは、ボタンがあった壁を見つめる一行の遥か後ろの方。その音は一向全員の耳に確かに入って来た。

 

「カミュ、今のは?」

 

「……わからない。とりあえず、音のした方へ向かう」

 

 いつものように、カミュへと問いかけるリーシャの言葉に律儀に返した後、先頭をカミュが歩き、一行は音が聞こえた場所に向かって歩き出す。

 その先に彼等が求める<魔法のカギ>がある事を信じて。

 

「しかし、『オルテガ』様の軌跡を辿ってここまで来たが、<魔法のカギ>という物は、これからの旅に必要な物なのか?」

 

「……」

 

「リ、リーシャさん……」

 

 カミュを先頭に、東と西のボタンへと続く通路の中央から延びる一本道を歩いている時に不意に溢したリーシャの言葉に、カミュは絶句した。サラも同様に、溜息を吐き出す。

 

「な、なんだ!? 私は何か変な事を言ったのか?」

 

「……いや、もういい……」

 

「<魔法のカギ>自体が本当にあるのかどうかすら解りません。いえ、<魔法のカギ>を求めていた『オルテガ』様が<イシス>を訪れて尚、その伝説が伝えられ続けている事が、その存在を否定している可能性の方が高いのです」

 

 カミュが疲れたように視線を前に戻した事で、代わりにリーシャの前を歩くサラが口を開く。既にメルエは、リーシャの手からカミュのマントに移っている。

 何度も言うが、メルエにとって、カミュ達と共に居る事が出来れば、その理由等はどうでも良いものなのだ。

 

「では、一体何の為に?」

 

「『オルテガ』様の軌跡を探る為です。『オルテガ』様が何故、<魔法のカギ>を求めたのか。そのカギを何に使うつもりでいたのか。それを知るためにも、<魔法のカギ>の有無はとても重要なのです」

 

 二人が話している間も、歩は進む。サラの言葉に納得したのか分からないリーシャの曖昧な声が返って来た頃、カミュの前には開かれた扉が現れた。

 かなり分厚い鉄で出来ているその扉は、とても人間の力で開く事は不可能に思われる。それが壁に押し込まれるように開かれていた。

 

「先程のボタンの仕掛けでしょうか?」

 

「……ああ……そうだろうな……」

 

 大きく重い扉だった物を見上げながら呟いたサラの言葉を、カミュが肯定するように頷く。

そして、その二人を残し、前へ進む者がいた。

 

「…………はこ…………」

 

「メルエ!!」

 

 前方に見える一段上った祭壇の様な場所に見えた物に興味を示したメルエである。再び、宝箱に向かって、『とてとて』と駆け出すメルエを、リーシャが追って行った。

 

「メルエ! 何度言えば解るんだ! いい加減、私も本当に怒るぞ!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 祭壇を駆け上がろうとするメルエの服を捕まえたリーシャが、メルエの向きを変え、怒りの瞳を向けた。

 その瞳を見たメルエは、自分が本気で怒られている事を知り、目に涙を溜め始める。

 

「いいか、メルエ。メルエは、まさか先程カミュが死の淵を彷徨った事を忘れた訳ではないだろう?……あの後、誰もメルエを責めなかった。だが、敢えて私は言おう。あの時、カミュが瀕死の怪我を負ったのは、カミュの言う事を聞かずに宝箱に近寄ろうとしたメルエの責任だ」

 

「!!」

 

 祭壇の麓で、向き合ったリーシャとメルエ。後ろから近づいて来たカミュとサラの二人は、リーシャの言葉に驚いた。

 リーシャの言う通り、あの時の事で誰もメルエを責めはしなかった。

 傷を負ったカミュも、本来傷を負う筈だったリーシャも、そしてメルエの躾役であるサラでさえも。

 しかし、それは間違っていたのかもしれない。

 故に、リーシャは心を鬼にしてメルエと向きあう。

 己の罪を自覚させるために。

 メルエ自身の成長の為に。

 

「あのまま、もしカミュが死んでしまっていたら、メルエがカミュを殺した事になる。メルエが取った行動はそれ程の事だ。それにも拘らず、同じ行動をするという事は、メルエはこの中の誰かを殺したいという事なのか?」

 

「…………ちが…………」

 

「では何故同じ事をする! カミュだけではなく、私もメルエにそれは駄目だと言った筈だ!」

 

 メルエに辛辣な言葉を投げかけるリーシャ。その言葉に反論しようとするメルエの言葉に被せるように、語気を荒げ、怒気を隠そうともしない。メルエの瞳に溜まった涙は、既に頬を伝っている。

 

「…………ごめん………なさい………ごめ…………」

 

「いいか、メルエ。私達は、この先もメルエと旅をして行きたい。その為に私達はメルエに話をしている。何もメルエの嫌がる事をしたい訳ではない。メルエと旅を続ける為に必要だと思った事を言っているんだ」

 

 リーシャの言葉が自分に向けられている事。

 いつも優しく微笑むリーシャの瞳が本気の怒りを表している事。

 それが、自分が起こした行動に原因がある事。

 それを理解したメルエは、涙で滲んだ瞳をリーシャに向けながら、何度も謝罪の言葉を発する。

 それは、見ていて痛々しい程の姿。実際サラは、リーシャの怒りに驚く反面、当然の事と考えていたが、メルエの表情を見た時に、何故か罪悪感が胸を襲っていた。

 

「解るな、メルエ? ボタンの時のように、カミュも私もメルエを護れる状況である時には、メルエにボタンを押させてやるし、宝箱も開けさせてやる。だから勝手に動くな」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの肩に置き、念を押すように語りかけるリーシャに、メルエは力強く頷いた。

 サラはその様子を痛々しく見守っていたが、ふと隣を見て、再び驚いた。隣に立っていたカミュの表情がとても優しいものだったのだ。

 リーシャとメルエのやり取りを、とても優しい表情で眺めるカミュ。

 驚いていたサラであったが、そのカミュの表情に、自然と自分の表情も緩んで行くのが解る。

 カミュがリーシャとメルエに何を見たのかは解らない。ただ、その瞳は、アリアハンを出たばかりの時に自分達に向けていたものではない。

 それが、サラにはとても嬉しかった。

 

 

 

 リーシャの胸でしばらく泣いていたメルエが落ち着いたのを見計らって、カミュが宝箱へと近づいて行く。その後ろをリーシャに手を引かれたメルエが続いた。

 宝箱を見下ろしたカミュが、背中から剣を抜き、宝箱を数回小突き、それに対し、宝箱が何の反応も示さない事を確認し、カミュは振り返る。

 

「……メルエ……開けても良いぞ……」

 

 カミュのその言葉に、メルエは手を握っているリーシャを見上げ、そのリーシャが頷いた事を確認し、カミュに護られるように宝箱の前にしゃがみ込んだ。

 宝箱の渕に手をかけ、ゆっくりとそれを開いて行く。

 

「…………???…………」

 

 そこにあったのは、宝箱の大きさに似合わない小さな物。

 金色の輝きを放つ、小さな物がひっそりと納まっていた。

 

「……<魔法のカギ>か?」

 

「……これが……」

 

 メルエが宝箱から取り出したものは、本当に小さな鍵。

 それは、奇妙な形をした鍵だった。

 

<魔法のカギ>

古来<イシス>の国宝とされていたものであり、門外不出とされていた。その鍵自体に解錠の術式が組み込まれており、魔法の力によって扉や宝箱にかかった鍵を開ける事が出来るように作られている。何代も前の<イシス王>がその力を危惧し、自分の遺体と共に、<ピラミッド>に封印した。いつしか、国宝として保持していた<イシス>ですらも伝説として語り継がれる物になり下がり、今までその存在が明るみに出る事はなかったのだ。

 

「…………ん…………」

 

「!! メルエ……それをポシェットに入れて、後ろに下がっていろ……」

 

 <魔法のカギ>をメルエから受け取ろうと動いたカミュが、何かの気配に気が付き、メルエを後ろに下がらせる。メルエは、カミュの言葉の真剣さに、即座に<魔法のカギ>をポシェットへと押し込み、後ろに控えるサラの傍まで下がって行った。

 

「カミュ!」

 

「……わかっている……『王家の護人』か……」

 

 自分達を取り巻く不穏な空気を感じ、背中の斧を手に構えたリーシャの叫びに反応したカミュの呟きはサラの首を傾けさせた。

 しかし、そのサラの疑問もすぐに恐怖という形で解消される。

 

「ひぃぃぃ!」

 

「サラ! 恐れるな!」

 

 カミュ達の数歩前の地面から突如飛び出した物。

 それは、人の手。

 その余りにも奇妙な光景に、サラは叫び声を上げる。

 地面から突き出された手は、人の手の形はしているが、肌は見えない。白であったであろう包帯の様なものが巻き付いた腕が地面から次々と突き出されて来た。

 

「メルエ! 呪文の準備だ!」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの指示にメルエが頷いた頃には、地面から突き出された腕は、その全貌を露わにしていた。

 腕と同じように、全身を包帯で覆いつくすように巻いている人型の魔物。いや、あれは正式には魔物とは言えないのかもしれない。

 

「……あれは、『人』ですか?」

 

「……正確には、『人』であった物だ。王家の兵士だろう。女王の死に殉じた者達……そして、いつしか蘇る女王とその財宝を護る『護り人』……」

 

 その魔物の姿を見たサラの率直な疑問に、剣を構えながらカミュが答える。それは、決してサラが望んでいた答えではない。

 カミュの言葉通りであれば、目の前に現れた者達は、自分達の責務を全うしている誇り高き騎士なのだ。

 サラは、そこに迷いを感じる。

 

<ミイラ男>

全身の臓器全てを取り出され、包帯で包まれた後、湿気のない所に放置され水分を抜かれたミイラである。本来、<イシス王家>の女王の死後にその身を護る兵として共に安置されていた。その使命は甦る女王の兵となること。そして、それまでの間、女王の遺骸を護ること。復活の際に使用する財宝を守護すること。これら三つの誓約があり、死後はその呪いとも言える使命だけを忠実に守り通す。

 

「……カミュ様は、あの『人』達も葬り去るのですか?」

 

 故に、サラは尋ねてしまう。

 返ってくる答えなど解っている筈。

 しかも、この質問は、サラ自身もとても理不尽な物である事は承知している。

 目の前に現れた者達が、もはや、『人』という括りではない事も。

 

「……ああ……俺に敵意を向ける以上、倒し続ける……俺は『死』すらも認めてもらえないようだからな」

 

 しかし、カミュの答えはサラの想像の遥か斜めを行っていた。

 そして、カミュの表情。

 それは薄い微笑。

 今まで見た事のないような、『哀しみ』とも『喜び』とも受け取れるような、本当に小さな小さな笑み。

 

「……カミュ……」

 

「……行くぞ……メルエ、<ベギラマ>の準備を!」

 

 カミュの表情を見、言葉を聞いて驚いたのは、サラだけではなかった。

 リーシャもまた、一瞬ではあるが、カミュを見て呆けた表情を浮かべた。

 カミュが言った事は、回復したカミュと二人で話した内容。

 それは、自分の言葉がカミュへと届いていた証拠。

 その事実にリーシャは驚いたのだ。

 

 カミュはメルエへの指示と共に<ミイラ男>へと走り込んで行く。そして、それに気が付いたリーシャもまた斧を構えて駆けた。

 

「……動きが遅い……一ヶ所に集める……」

 

「わかった!」

 

 近付いて来たリーシャに作戦を告げると、カミュは横に広がり始めた<ミイラ男>を誘導するように剣を振るう。

 基本的にアンデットである<ミイラ男>の動きは、他のアンデット種と同じように遅い。カミュへと腕を振り回すが、難なく避けられ、その腕を斬り捨てられて行った。

 カミュとは反対側に移動したリーシャも斧を振り回しながら、<ミイラ男>の活動範囲を狭めて行く。そして、五体いた<ミイラ男>は、カミュの思惑通りに一ヶ所へと集められて行った。

 

「メルエ!」

 

「…………ん…………ベギラマ…………」

 

 カミュの掛け声にメルエが手に持つ<魔道師の杖>を掲げ、呪文の詠唱を行った。

 メルエが振り下げた<魔道師の杖>の先から強烈な熱風が巻き起こる。

 その熱風は、一ヶ所に集められた元『人』であった者達に、確実に着弾した。

 ミイラ化し、完全に身体から水分を抜かれている者達であり、更には長い時を経て来たため、包帯もかなり劣化している。メルエの<ベギラマ>が巻き起こす炎の海に飲み込まれた瞬間、その身体は勢いよく燃え上がって行った。

 

「……あ…あ……」

 

 唯一人、その光景を哀しげに見つめる人間。

 それは、『人』を救う為に旅出た者。

 だが、そんな想いとは相反する『復讐』の炎を胸に灯す少女。

 サラは、自分の中で生まれる葛藤をその燃え盛る炎の中に見ていた。

 

 カミュとリーシャがサラとメルエの下に戻った時には、既に戦闘は終了していた。

 激しい炎の中で悶えていた<ミイラ男>五体は、その身体を消し炭へと変化させる。後に残ったのは何とも言えない臭いと、焼け焦げた包帯の様な残りカスだけだった。

 

「サラ、余り考え込むな。私達は前へ進まなければならない。過去を護る彼等とは見ている先が違うのだ」

 

「……はい……」

 

 呆然と燃えカスを見つめるサラの肩に手をかけたリーシャが語りかけるが、サラはどこか上の空の様な返答をする。そんなサラに溜息を吐きながら、カミュは歩き出した。

 実際、目的であった<魔法のカギ>は入手したのだから、メルエの持つ<リレミト>の魔法で<ピラミッド>からの脱出をしても良かったのだが、今のサラの状態を考えると、危険を含んでいる可能性の方が高いため、歩いて出る事を考えたのだ。

 

 

 

 カミュを先頭にメルエ、サラ、リーシャの隊列で出口へと戻って行く。道中で魔物との戦闘は行うが、それにサラはほとんど参戦していなかった。

 何かを考えるように俯き、決意をしたように顔を上げては、魔物を見て再び悩み出す。そのように歩いている途中、サラは突然床が無くなったような錯覚に陥った。

 

「え!?」

 

 考えに没頭していたため、自分に起きた状況が掴みきれない。

 しかし、それは錯覚ではなかった。

 サラが踏み出した先の床は見事にまで消え失せていたのだ。

 

「…………サラ…………」

 

 バランスを崩し、そのまま落ちて行こうとするサラに気が付いたメルエがその手を掴んだ。

 しかし、サラよりも体重の軽いメルエがサラの落下を食い止める事など出来る筈がない。重力に従い下へと落ちて行くサラと共にメルエも落ちて行った。

 

「メルエ!!」

 

 そして、当然のようにそのメルエ服をリーシャが掴むが、加速の付いた二人を支える事は不可能。

 まるで闇に吸い込まれるように、リーシャの身体までもが穴の中へと落ちて行った。

 

「ちっ!? メルエ!」

 

「…………ん…………スクルト…………」

 

 落下の瞬間、舌打ちと共に叫ばれたカミュの言葉に反応し、メルエが唱えた魔法は、パーティーの守備力を上げるもの。

 以前、<シャンパーニの塔>での落下の際に使用した方法を取ったのだ。

 

「……はぁ……」

 

 落下を確認したカミュが、溜息を一つ吐いた後、三人が落ちて行った穴へと飛び込んで行った。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

ピラミッドは、私にとってドラクエⅢの中でもかなり印象的な場所でした。
故に、物語として描いて行く中で、比重が大きくなってしまっています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ピラミッド③

 

 

 

 アンリは玉座で呆けていた。

 彼女の前には、跪く四人の人間。

 先日、<ピラミッド>探索の許可を貰いに来たアリアハンの輩出した勇者一行である。

 

 アンリがこの謁見の間に来る時に、呼びに来たのは祖母である老婆ではなかった。

 若く優秀な女性文官。

 幼い頃に父を魔物に奪われ、母と共に逃げている時に、この<イシス>を目指していたオルテガに救われた女性であったのだ。

 謁見の間に着いたアンリは、驚愕の余り声を出す事が出来ない。

 この十年間、アンリの行動を束縛し、この国を思うがままに動かしてきた祖母が、近衛兵達に拘束され、喚いていたのだ。そして、玉座の向かいに、頭に蒼い玉が埋め込まれたサークレットをつけた黒髪の青年が跪き、その後ろには、従者である三人が同じ姿勢で跪いている。

 何よりもアンリを驚かせたのは、その『勇者』と呼ばれる青年の前に投げ出されている縄で縛られた二人の小汚い男達であった。

 

「……それで……この者達は?」

 

 ようやく絞り出したアンリの言葉は、震えている。

 それは自分が十数年の間、胸の内に仕舞っていた物が開封される事を恐れの為。

 何より、自分の問いかけに対する『勇者』一行の答え次第で、自分が下さなければならなくなる言葉を恐れて。

 このアンリの恐怖に関しては、まず、落とし穴に落ちた後のカミュ一行の行動まで遡る。

 

 

 

 

 

「……ここは……」

 

 メルエの<スクルト>のお陰で、身に傷一つなかったサラがその場で立ち上がり、辺りを見渡す。その横にリーシャが立ち、そのリーシャの腕の中にはメルエが抱きかかえられていた。

 

「…………カミュ…………」

 

 近くから聞こえた溜息の方向を見ると、上のフロアから穴を飛び降りて来たカミュが立っていた。

 リーシャの腕から下りたメルエが、カミュの傍へと駆け寄り、そのマントの血で染まっていない部分を掴む。

 

「ここはどこだ、カミュ?」

 

「……何度も聞くが、何故それを俺に聞く? 俺がこの<ピラミッド>に入ったのは、アンタと同じく初めての筈だ」

 

 カミュの存在を確認したリーシャが、いつものように『解らない事』をカミュへと問いかける。そんなリーシャに明らかな溜息を吐きながら、カミュは律儀に答えて行った。

 

「お前にも解らないのか……」

 

「……下を見てみろ……」

 

 カミュですら分からないことに肩を落とすリーシャへカミュは言葉をつなげる。その言葉の指し示す、このフロアの地面に視線を向けたリーシャ達三人は、そこにあるものに驚き、声を上げた。

 上のフロアと違い、明かりがついていないこのフロアでは、足元も暗闇に覆われていたのだ。そこへ、持っている<たいまつ>を向けると、自分達が今まで踏みしめていた物が、その全貌を現した。

 人骨。

 それは、フロアの地面一面に敷き詰められるように広がる、夥しい程の人骨だった。

 

「……こ、これは……」

 

「……王家の宝を狙って来た、墓荒らしの成れの果てだろう……」

 

 サラが発した驚愕の言葉に、カミュが答える。

 そして、その答えは、おそらく間違いはないだろう。

 <ピラミッド>の上のフロアには様々な仕掛けがなされていた。

 至る所に仕掛けられていた落とし穴。

 宝箱に混ざった<人喰い箱>

 そして、ボタンの謎。

 おそらく、あのボタンを何の考えもなく押した者達は、このフロアへと落とされていたのだろう。

 

「……ここにある人骨は、魔物にやられたでしょうか?」

 

「カ、カミュ! も、もしかして、この者達はここから出る事が叶わずに朽ち果てた者達ではないのか?」

 

 サラの疑問。

 リーシャの推測。

 それはあながち的外れなものではない。

 ここに落とされるということはここに魔物が多数いる可能性が高く、また出口がない可能性も高い。それはカミュ達もまた、ここから出る事が不可能である事を示すものだ。

 

「……可能性は高いだろうな……メルエ、試しに<リレミト>を使ってみてくれ」

 

「……試しに?」

 

 サラとリーシャの疑問に頷いて答えたカミュが、メルエに向けて発した言葉にサラは首を傾げた。

 カミュの言葉の中にある『試しに』という言葉が引っ掛かったのだ。『試しに』と言う事は、カミュの中では可能性が限りなく低いという事に他ならない。

 サラは<西の洞窟>でメルエの唱える<リレミト>を体験している。メルエの<リレミト>はしっかりと成功し、一行を洞窟の外へと運んだ筈だ。ならば、何故、メルエの魔法を疑う事を言うのかがサラには理解出来なかった。

 

「…………メルエ…………できる…………」

 

 そんなサラの疑問はメルエの中にもあったのだろう。

 若干頬を膨らまし、カミュを見上げるメルエの瞳がそれを語っていた。

 

「いや、別段メルエを疑っている訳じゃない」

 

「…………???…………」

 

 そんなメルエの瞳を受け、珍しく戸惑った表情を見せるカミュがメルエを見下ろしながら、自分の見解を話し出す。

 

「<イシス>の城にいた若い文官の話を覚えているか?」

 

「……もしかして、あの『魔法が使えないという場所』の事ですか?」

 

 カミュが話し始めた内容に、仲良く首を傾げるメルエとリーシャ。その横にいたサラが自分の感じた答えを話し始めた。

 カミュは、首を傾げるメルエの肩に手を置いたが、同じく首を傾げるリーシャには、白い目を向け溜息を吐き出す。

 

「……ああ……今まで歩いて来た部分には『魔法が使用できない場所』というものはなかった。アンタに掛けてもらった魔法で俺が生きているのが証拠だろう」

 

「えっ!? あ、は、はい!」

 

 『サラのお陰で生きている』

 その言葉は、サラの胸を熱くさせた。

 自分が成し得た事の大きさ、重さを噛みしめる事が出来たからだ。

 

「……ここにいる白骨の中には、魔法を使える者も居たはずだ。それが<リレミト>を使用せずにここで朽ち果てている。まぁ、<リレミト>自体を使えなければ仕方ないがな」

 

「……という事は……どういう事だ?」

 

 カミュとサラの話がいまいち理解できないリーシャは、再び首を傾げる。

 そのリーシャを見て、メルエも首を傾げていた。

 ただ、メルエの表情は困惑ではなく、笑顔ではあったのだが。

 

「……歩いて出口を探るしかない……そして、魔物と遭遇してもメルエの魔法は期待出来ないという事だ。それに、怪我をした場合も同様。ちょっとしたものなら<薬草>で何とかなるが、死に直結するような怪我となれば、諦めるしかない」

 

「なに!? メ、メルエ、本当に魔法が使えないのか!?」

 

 今やっと、カミュとサラの話の内容の端が見えたリーシャは、慌てた様子で、メルエへと声をかける。メルエも、カミュの物言いに再び頬を膨らまし、その手に持つ<魔道師の杖>を高々と掲げた。

 

「…………リレミト…………」

 

「……やっぱり……」

 

 本来であれば、メルエの詠唱と共に、魔力で編まれた光が一行を包み込む筈であったが、その光がメルエの杖から一向に出て来る事はなかった。

 それを見たサラは、カミュの予想が正しい事を知り、愕然とする。

 

「…………うぅぅ…………リレミト…………」

 

 また杖が言う事を聞かなくなった事に唸り声を上げ、メルエは再び詠唱を行うが、結果は同じだった。

 以前のように魔力の流れが解らない訳ではなく、魔力はしっかりと杖へと流し込んでいる筈。

 それは、<マホトーン>にかかった時とは異なる感覚だった。まるで、自分の中から取り出した魔力を、周囲を取り巻く壁が吸い込んでしまったような感触。それがメルエを不安にさせた。

 

「……そんな顔をするな……メルエが悪い訳ではない」

 

「…………ん…………」

 

 慰めるようなカミュの言葉に、哀しそうに頷いたメルエは、カミュのマントの中に入り込んでしまった。

 

「……そうだな。元々歩いて入って来たものだ。歩いて出るしかないな」

 

「えっ!? リーシャさんは、出口がないかもしれないという話を聞いていましたか?」

 

 メルエの姿を見ていたリーシャが前向きな発言をするが、それを聞いて、サラは驚きの声を上げる。

 『今まで、自分達の話していた内容を聞いていたのか?』と。

 

「き、聞いていたぞ! だから、出口を歩いて探すしかないと言ったのだ!」

 

「あ、い、いえ……すみません……」

 

 軽口を叩いてしまったサラであったが、猛烈なリーシャの反論に、思わず謝ってしまう。

 正確には、サラの方が正しいのだろう。現に、リーシャの慌てた表情を見る限り、とても憶えていたと思えない。

 

「……聞いていたとしても理解出来てはいなかったという事か……」

 

「なんだと!!」

 

 サラとリーシャのやり取りに、いつものようにカミュが溜息を洩らす。白骨が辺り一面に敷き詰められた場所で繰り広げられるやり取りは、どこか間の抜けたような、このパーティーらしいものだった。

 

「……それで、アンタはどちらに進めば良いと思う?」

 

「あっ! そ、そうですね。こういう時こそリーシャさんですね!」

 

「そ、そうか?……う~ん……そうだな……右だろうな。よし! 右だ」

 

 リーシャの怒りをさらりとかわし、カミュが発した発言に、サラも何かを思い当たり、リーシャに視線を向ける。

 そんな二人の視線を受け、満更でもないような表情を作ったリーシャは、少し考えた後に一方を指差し、その方角を示した。

 

「……わかった……」

 

「あっ! お、おい!? 私は右と言ったはずだぞ!?」

 

 リーシャの指し示す方角を見たカミュは、静かに頷き、歩き出す。

 リーシャが指し示したものとは真逆の方角へと。

 抗議の言葉を発するリーシャを余所に、当然の事のようにサラがカミュに続いて歩き出した。

 メルエがリーシャを見上げた後に、その手を握って先を促す。何か釈然としない想いを抱きながらもリーシャは歩くしかなかった。

 

 

 

 歩いても、歩いても続く道。しかも、地面には、その土の色が見えない程に白骨が敷き詰められている。

 歩き難い道を歩く度に削られて行く体力。そして、サラの予想通り、この場所には数多くの魔物が生息していた。

 いや、正確には魔物ではなく、この<ピラミッド>の番人でもある<ミイラ男>であった。

 メルエの魔法が使用できない分、カミュやリーシャが剣と斧を振るって駆逐して行くしか方法がない。しかも、魔法の使えないメルエという存在は、言い方は悪いが、戦闘に措いて言えば『足手まとい』と言っても過言ではないのだ。

 常にメルエを護る必要がある分、サラは積極的に戦闘に参加できない。四体、五体と<ミイラ男>が出現する中、カミュとリーシャはお互いの背中を護りながら戦う以外方法はなかった。

 

「……ふぅ……もう何体目だ?」

 

「……さぁな、数えるだけ無駄だ……」

 

 最後の一体を<鉄の斧>で吹き飛ばしたリーシャが、息を整えながら溢した言葉が、この地下で遭遇した魔物の数を物語っていた。

 

「メルエ、大丈夫ですよ。この場所から出たら、また魔法は使えるようになりますから」

 

「…………ん…………」

 

 自分が『足手まとい』になっている事は、幼い子供ながらも理解しているのであろう。カミュ達がそんな素振りを全く見せていないのにも拘わらず、戦闘を重ねる毎にメルエの気持ちは沈んで行った。

 そんなメルエに声をかけるサラもまた、かなりの疲労感を見せている。

 足の踏み場もない程に敷き詰められた白骨の上を歩くのだ。

 必然的に、時間と共に脆くなった白骨を砕きながらの徒歩となる。

 歩く度に、『バリッ』と音を立てて砕けて行く物。

 それは、かつては『人』であった物の成れの果て。

 それは、体力というよりも、サラの心から気力を失わせるような音だった。

 

「サラこそ、大丈夫か? 少し休むか?」

 

「いえ、大丈夫です。まず、ここから出ない事には……」

 

 心配そうに声をかけてくるリーシャに対して上げたサラの顔は、血の気を失い、どこか虚ろな瞳をしていた。

 そのサラの表情に、休憩よりもここから出る事が先決であると判断し、リーシャは強く頷く。

 その時だった。

 

「えっ!? きゃっ!」

 

 出来るだけ、白骨の上を歩かないように注意して歩いていたサラの片足が地面を踏み外した。

 急に襲って来た浮遊感に驚きの声を上げたサラであったが、叫ぶ間もなく一行の前からその姿を消して行く。

 

「サ、サラ!!」

 

「……またか……」

 

 慌てふためくリーシャ。

 前を歩いていたカミュは振り返った後、再度起こった出来事に溜息を洩らした。

 

「…………かい………だん…………」

 

 サラが消えた場所に移動したカミュとリーシャに、メルエが地面を指差し、何かを伝えている。メルエの指差す地面を見ると、更に地下へと続く階段が見えていた。

 白骨が敷き詰められ、その上に更に白骨が重なり、長い年月と共に薄い膜のようになっていたのであろう。それにサラは気がつかなかったのだ。

 

「サラ! 大丈夫か!?」

 

「………はい~~~~………」

 

 階段の下を覗き込んだリーシャの声に、地下からどこか間の抜けたサラの返答が返って来る。

 木霊のようなそれに、メルエの瞳が輝いた。

 

「…………サラ…………」

 

「は~~い……いたた……」

 

 いつもより若干大きなメルエの声にも律儀に返事をするサラ。

 それが面白かったのか、メルエが笑顔でカミュに振り返る。

 何が面白いのか、何がメルエを笑顔にしているのかが理解出来ないカミュは、メルエに反応を返す事が出来ない。しゃがみ込み、隣のメルエの肩に手を置きながら、階段の下を見つめた。

 そんなカミュの反応に、表情を不満顔に変化させたメルエが可笑しく、サラの無事を知り、気の緩んだリーシャが笑顔を溢す。

 

「……出口とは関係なさそうだが、行ってみるか?」

 

「そうだな。もしかすれば、出口に繋がる為の道なのかもしれない」

 

 カミュの提案に、リーシャは一も二もなく頷きを返す。しかし、リーシャの反応とは真逆に、カミュは大きな溜息を吐き出した。

 

「……アンタがそう言うのなら、間違いなく関係のない場所なのだろうな」

 

「なんだと!!」

 

 サラが下に落ちたにも拘わらず、二人が話す内容はそれを心配している素振りはない。

 それはサラを信用しているからなのか、それともサラを心配する必要性がないのか。

 メルエは、二人の掛け合いを不思議そうに見上げながら、それでも二人の醸し出す雰囲気に笑顔を浮かべていた。

 

「…………いく…………?」

 

「ん!? あ、ああ、そうだな。カミュ! 先に降りるぞ!」

 

 メルエが手を引くのに気付いたリーシャは、カミュに言葉を吐き捨て、そのまま階段を下りて行った。

 リーシャに奪われた<たいまつ>の光を失い、カミュの周囲を闇が支配する。軽く溜息を吐いたカミュもまた、地下へと続く階段を下りて行った。

 

 

 

「サラ、大丈夫だったか?」

 

「あっ、大丈夫です。少し、腰を打ちましたが、足に擦り傷が出来たくらいです。でも、ここもやはり魔法が掻き消えてしまいます。<ホイミ>が使えませんでした」

 

 下に着き、照らした<たいまつ>の明かりがサラの顔を映し出すと、その安否をリーシャが確認する。

 サラは階段を転げ落ちた時に、所々打ったのだろう。身体のあちこちを摩りながらも、今パーティーが抱えている問題となっている『魔法の使用の可否』についてを口にする。

 

「……この先に何があるか解らないが、とりあえず進んでみるしかないだろうな」

 

「そうですね。もし、何もなければ、またこの階段を登れば良いのでしょうし」

 

 サラの無事を確認し終えた後、カミュが<たいまつ>で照らし出された先を見据えながら口を開き、それにサラも同意する。

 先程の落とし穴と違い、戻る事が可能な分、気持ちが楽なのだろう。実際、一行の前に続く道は一本道であり、リーシャの意見を聞かなくとも、進むべき方向は明白だった。

 

 別れ道のない迷路の様な通路を歩く一行の前には、予想と反して魔物の襲来はなかった。

 実際、先程の階段を下り、このフロアに入ってから、魔物の姿は見ていない。それは、死して尚、この建造物を包む王家の能力なのか、それとも別の理由があるのかは解らないものだった。

 

「こ、ここは……」

 

「……す、すごい……」

 

 歩いた先にあったものは、カミュの予想通りの『行き止まり』であった。

 だが、この建造物の中で辿り着いた、数多くの『行き止まり』とは様相がまるで異なっている。

 そこにあった物は、壁面に刻まれる古代文字。

 古代文字と共に描かれている様々な絵画。

 そして、中央に位置する場所には祭壇の様なものがあり、それを上った先には大きな棺が安置されていた。

 

「……王の棺か……」

 

 カミュが溢した言葉通り、ここが<イシス王>の眠る場所なのであろう。

 それが何代前の<イシス王>なのかは解らない。

 しかし、ここが特別な場所であることは一目で分かった。

 

「カミュ!!」

 

「!!」

 

 カミュとサラ、そしてメルエが祭壇を見上げていると、最後尾にいたリーシャの切り裂くような叫びが三人の耳を劈いた。

 

 ボゴッ

 

 カミュの足元から急に飛び出て来た腕。それは、先程嫌という程に対峙した<ミイラ男>と同じような登場の仕方。

 一ヶ所異なる事と言えば、土の中から出て来た腕に巻かれている包帯の様な布の色が腐食したような色をしている事だった。

 

「メルエ! 私の後ろに!」

 

「…………ん…………」

 

 魔法が使えない今の状況ならば、メルエは戦う術がない。誰かが護らなければメルエの身が危なくなる事を理解しているサラが、メルエを自分の後ろに隠すように立つ。

 

「カミュ! 一気に叩くぞ!」

 

 <鉄の斧>を構えたリーシャは、その魔物との距離を詰めて行く。少し前に遭遇した<ミイラ男>の時と同じように、動きが緩慢なその包帯を巻いた魔物に肉薄したリーシャは、渾身の力を込め、手に持つ<鉄の斧>を横薙ぎに振り抜いた。

 しかし、それはその魔物の胴体を斬り分ける事は出来ず、数切れの包帯を宙に舞わせて空を斬る。

 ここまで、様々な強敵を切り裂いて来た自分の斧に手ごたえが何もない事に驚いたリーシャではあったが、もう一度その魔物と対峙するために斧を構え直す。

 

「カミュ! 先程の『護り人』とは違うようだ!」

 

「……ああ……」

 

<マミー>

イシス王家に仕える兵士が王に殉じてミイラとなり、ピラミッドに埋められるのとは違う者達。それは、元々イシス軍の高官や、イシス国の英雄と呼ばれた者の成れの果て。その者達は、生きたままの身体に包帯を巻きつけられ、王の遺骸と共にピラミッドに安置される。長い年月を経て、気候や気温の影響を受けてミイラとなる事の出来る者は、その中の一部。大抵の者は死に絶えた後に腐り、朽ち果てて行くが、この者達はその苛酷な条件を全て乗り越え、『生き仏』となった者。一般の兵士達より、元々武力や頭脳が優れていた者達である。その戦闘力は<ミイラ男>を遥かに凌ぎ、その動きも長い年月を経て来た者とは思えない程に機敏であり、生きたまま包帯をされ、長い年月を掛けてミイラとなるため、その包帯はその過程で腐食した肉がこびり付き、どす黒い色を放っている。

 

「サラ! メルエを頼む!」

 

「は、はい……で、でも……何か、数が益々増えているようですが……」

 

 リーシャの叫びに答えたサラは、リーシャと対峙している<マミー>の後ろの地面から次々と包帯で巻かれた腕が出て来るのを見て、声が震え始めた。

 サラの言う通り、地面から次々に突き出された腕は徐々にその全貌を地上に出して来る。それは、リーシャが対峙している<マミー>と同じ様な、生前その武勇を誇っていた者と、殉死している一般の兵士であった<ミイラ男>だけではあったが、その数はカミュ達四人の数倍の数に膨れ上がって来た。

 突然の多数の来訪に、サラだけではなく、リーシャもカミュも驚きに目を見開く。今まで、魔物の集団に襲われた事はあるが、このように突然その数を増やした事など一度もなかった。

 『何故?』

 カミュ達三人が疑問に思ったその答えは、意外な所から出てくる事となる。

 

「…………これ…………」

 

「メ、メルエ! そ、それはなんですか!?」

 

 サラの後ろに居た筈のメルエが、そのサラに向かって、何かを掲げて来たのだ。

 それは、金色に輝く鉤爪のような物。<カザーブ>の村の武器屋で見かけたが、誰一人興味を持たなかった<鉄の爪>によく似た物であった。

 

「なっ!? メ、メルエ! また私との約束を破ったのか!!」

 

 サラの驚きの声に気づき、次々と現れる<マミー>や<ミイラ男>を牽制しながらサラの下に戻ったリーシャが鋭い声をメルエへ向ける。同じように戻ったカミュもまた、リーシャと同じ事を考えていたようで、メルエに向かって厳しい視線を送っていた。

 

「…………むぅ…………」

 

 しかし、いつもならリーシャの怒声や、カミュの厳しい視線に眉を下げて俯くメルエであるが、この時の態度は異なっていた。

 『むっ』としたように頬を膨らませ、首を横に何度も振るのだ。それは、幼いメルエなりの否定。

 自分は約束を破ってもいないし、カミュの言葉を軽く考えてもいないという主張。

 

「…………おち………てた…………」

 

「落ちていただと!? メルエ、嘘をつくなら、もう少しましな嘘をつけ!」

 

 メルエが発した言葉を受けたリーシャは、その信憑性の低さに愕然とし、メルエを窘めるような言葉をかけるが、当のメルエの頬は一段と膨れ上がった。

 

「…………リーシャ………きらい…………」

 

「なに!?」

 

 『ぷいっ』と横を向いてしまったメルエが口にした言葉は、いつもはサラが受ける言葉。その言葉を初めて受けたリーシャは、何か言い表せない程の不安が胸に湧き上がった。

 包帯を巻いた魔物達が徐々にカミュ達との距離を詰めて行く切羽詰まった状況にそぐわない和やかな雰囲気が流れるが、その雰囲気をカミュが打ち砕く。

 

「メルエ! それはどこで見つけた!」

 

「!!…………あそこ…………」

 

 カミュの鋭い声に、膨らませていた頬を萎ませてメルエが指し示した場所は、棺へと続く祭壇の麓。

 そして、今まで棺に気を取られて気がつかなかったが、大きな棺の脇に小さな宝箱が口を開いている。

 

「おい! 俺とコイツで敵を防ぐ。その間にアンタはメルエを連れて、あの祭壇の上にある宝箱の中に、それを戻して来い!」

 

「わ、わたしですか?」

 

 カミュの口にした言葉は、この場にいる誰もが驚く内容であり、アリアハン出発時のカミュであれば、口にする事のない物であった。

 

「アンタ以外に誰がいる!」

 

「は、はい!!」

 

 思いがけない大役に、瞬時に疑問を口にしてしまったサラであったが、その自分を信用しているような、以前のカミュであれば考えられない言葉に、決意を込めた表情に戻り、力強く頷いた。

 

「カミュ、あれは何だ?」

 

「……おそらく、『王家の宝』だろう。王家の棺があり、その横に安置されているのだから、王の復活に必要な物とされている筈だ。それを手にし、盗み出そうとする者には『護り人』達が立ち塞がる」

 

 カミュとリーシャに近づいてくる『護り人』と呼ばれる元武人達から目を離さずに呟くカミュの言葉に、リーシャの表情が引き締まって行く。

 ここから先は、魔物対人間の闘いではない。

 お互いの存在意義と誇りを賭けての戦い。

 それをリーシャは察したのだ。

 

「……王の亡骸に、王の秘宝。そして、それを護る番人か……カミュ、ここが正念場だ! 足を引っ張るなよ!」

 

「……アンタこそ、容易く魔法に翻弄されないように気を付けてくれ……」

 

 後ろのメルエとサラが祭壇に向かって駆け出す気配を感じたリーシャとカミュは、お互いに憎まれ口を叩き合いながらも、その表情に皮肉気な笑みを浮かべ、迫り来る<マミー>と<ミイラ男>に向かって己の武器を構えて突進して行く。

 

 

 

「メルエ! その『爪』をしっかりと持っていて下さいね」

 

「…………ん…………」

 

 祭壇に向かって駆け出したサラとメルエであったが、そう簡単に王が眠る場所には近寄る事は出来ない。メルエの手を引くサラの前の地面から二つの腕が突き出され、地面から一体の<ミイラ男>が出現した。

 それが、<マミー>でないという事や、一体であるという事は、サラの運なのか、それともメルエの運なのか。

 しかし、本来、戦闘を魔法主体で行う二人にとって、魔法が使えない今の状況では<ミイラ男>一体であろうと強敵である事に間違いはない。ましてや、サラは背に付けている<鉄の槍>での戦闘も可能であるが、幼いメルエは武器によって魔物と対峙できる能力など皆無である。

 つまり、これは、サラと<ミイラ男>の一対一の戦いとなるのだ。

 

「やあ!」

 

 背にある<鉄の槍>を構え、その槍を<ミイラ男>へ突き出した。

 サラの突き出した槍は、<ミイラ男>の左腕に突き刺さるが、動く屍となっている<ミイラ男>に痛覚等存在しない。槍の突き刺さった左腕を大きく振るう事で、サラの槍を己の身体から抜き去った。

 未だにサラの胸には、元『人』であった者に刃を向ける事に若干の抵抗がある。

 しかし、それ以上に、サラの中にある『誓い』の方が重きを成していたのだ。

 サラは、あの<アッサラーム>での夜、一人静かに眠るメルエの髪を梳きながら、『メルエを護る』という誓いを月夜に立てたのだ。

 もし、ここで、サラがこの<ミイラ男>への攻撃を躊躇し、相手の攻撃によって倒れるような事があれば、被害はサラだけではなくメルエにも及び、戦う術のないメルエはその命を落としかねない。

 メルエに向かって約束した訳ではない。

 しかし、サラの中の『誓い』は既に自分の中だけの物ではないのだ。

 メルエに危害が及べば、それはサラの『誓い』を破る事になる。

 サラの中で、それは約束を破る事と同義。

 つまり、メルエに嘘を吐いた事になるのだ。

 

 『メルエには嘘をつかない』

 

 それは、サラの中での決め事。

 『大人の嘘を数多く聞いて来たであろうメルエに信用してもらう為』というのがキッカケではあったが、今はそれがサラの誇りになりつつある。

 

「大丈夫です。メルエは私が護ります」

 

 メルエに『大丈夫』と言えば、サラには『大丈夫』にしなければならない責任が発生する。そして、それを遂行する程、メルエの中でサラの『大丈夫』の信用度が増して行くのだ。

 『サラが大丈夫と言えば、絶対に大丈夫』

 そうメルエに思われる事が、サラにとって誇りになりつつある。

 サラの瞳に『決意』と『覚悟』の炎が灯った。

 

「やあ!」

 

 再度突き出した槍は、先程貫いた場所より若干下に位置する<ミイラ男>の腋部分に突き刺さる。

 そして、<ミイラ男>が動き出す前に、サラがもう一度動いた。

 

「ふん!」

 

 突き刺さった槍を、力一杯に上部へと引き上げる。鋭利な矛先は、水分を含まない乾いた<ミイラ男>の左腕を斬り飛ばした。

 サラの槍が指し示す方向へと弾き上げられた乾いた腕は、数度回転し、地面へと落ちて行く。

 

「えっ!? きゃぁぁぁ!」

 

「…………サラ…………」

 

 しかし、痛覚のない<ミイラ男>にとって、腕がなくなった所でその動きを止める程の事ではない。事実、サラが斬り飛ばした部分から、生きている者の証である血液が流れ出る事はなく、左腕を斬り飛ばされた事に、見向きもせず、<ミイラ男>は残る右腕を振り抜き、サラの身体を殴りつけたのだ。

 意表を突かれ、その拳をまともに受けたサラの身体は、メルエから離れてしまい、床へと倒れ込む。その手からは、<鉄の槍>が離れてしまい、唯一の武器すらも失くしてしまった。

 床に倒れ込んだサラの方向に身体を動かし、ゆっくりとサラに近づいて来る<ミイラ男>。

 その距離を考えると、床に落ちた槍を拾い上げる暇はない。サラは、必死に状況の打破の為の策を考えるが、経験の少ないサラにそれは酷な事だった。

 

 ポコッ

 

 ポコッ

 

 その時、サラが見上げる<ミイラ男>の後部から、何とも頼りない打撃音が聞こえて来た。」 それは、非力な力で壁を叩くような小さな、小さな打撃音。

 メルエである。

 自分の力では、打撃等の攻撃で敵に傷一つ与えられない事をメルエは知っている。故に、戦闘となれば、魔法が使える状況でも、忠告通り誰かの後ろに控えていた。

 魔法が使えなければ、自分が何の役にも立たない事を一番理解していたのは、他ならぬ、この幼き少女なのだ。

 

「…………」

 

 そんな少女が、非力な力を振り絞り、手に持つ<魔道師の杖>で<ミイラ男>の背を叩いていた。

 頼りない音を発しながら。

 

 サラが『メルエを護る』という誓いを立てたのと同じように、メルエもまた『サラを護る』と、あの<アッサラーム>へと向かう途中の森で誓ったのだ。

 サラにとっては、幼いメルエが感じた事をただ口にしたようにしか聞こえなかったかもしれない。

 しかし、メルエの中では、それこそメルエとサラの約束だった。

 故にメルエは、サラに危害を及ぼそうとする<ミイラ男>を必死で叩く。

 『いつも護ってくれるカミュやリーシャ、そしてサラの様に自分もサラを護るのだ』と。

 しかし、そのメルエの攻撃は、哀しいかな、<ミイラ男>の注意をメルエに向ける程の効果しかない。それは、メルエに危害が及ぶという事。

 そして、サラの『誓い』が果たせないという事。

 

「やあ!!」

 

 だが、リーシャの虐待にも近い鍛練を受けて来たサラにとって、その小さな隙は十分過ぎる程の大きなものであった。

 床に転がる<鉄の槍>を拾い上げ、その矛先を目の前で身体を捻っている者の首目掛けて振り切る。繰り返される鍛練の結果生み出されたサラの一撃は、寸分の狂いもなく<ミイラ男>の首筋に吸い込まれて行った。

 鋭利な矛先が食い込んだ<ミイラ男>の首が、綺麗に落ちて行く。ミイラとなる事で、その身体を支える骨も脆く、サラの力でも容易く斬り落とす事が出来たのだ。

 

「メルエ! こちらに!」

 

 元々が死体なだけに、首を落とした所で活動を止めるとは限らない。首が落とされた事で、今は動きが止まっている<ミイラ男>を確認し、サラはメルエを自分の後ろへと再度誘導する。

 

「やあ!!」

 

 メルエが移動した事を確認したサラは、手にした槍を再び<ミイラ男>へと突き入れた。

 動かない相手にすんなりと突き刺さった槍を、横薙ぎに振るい、その胴体を切り裂く。首もなくなり、腰から二つに分かれてしまった<ミイラ男>に、もはや戦う力など残ってはいなかった。

 その身体は、長い間囚われていた『呪い』が解かれ、崩れて行くように土へと還って行く。

 

「……ふぅ……メルエ、ありがとうございました」

 

「…………ん…………メルエ……サラ……護る…………」

 

 土と同化して行った<ミイラ男>を見届けたサラは、先程懸命にサラを護ろうとした幼い少女へ頭を下げる。サラの謝礼を受け取ったメルエは、若干胸を張り気味で杖を掲げた。

 その行為がとても頼もしく、とても可愛らしく、サラの頬は自然と緩んで行く。

 

「さあ、メルエ。早くそれを箱に戻しましょう」

 

「…………ん…………」

 

 和やかな空気が漂いかけたが、後方から聞こえるリーシャの声に気を取り直し、サラはメルエの手を引き祭壇を上り始めた。

 後方では、リーシャの声と、敵を吹き飛ばす盛大な音。そして、カミュの振るう剣の風切り音と斬り飛ばされた『護り人』達の呻き声。

 自分達に託された仕事をやり切るために、後方を振り返る事なく、サラとメルエは大きな棺の乗る祭壇を駆け登った。

 

 祭壇を登りきり、大きな棺の横を過ぎると、二人の前に大きく口を開いた宝箱が見えて来る。その宝箱は、ここまでの道程で見て来た物とは明らかに違う装飾がなされていた。

 長い年月が経っていても、その装飾が褪せる事はなく、丁寧に彫り込まれた紋章が見る者を魅了する。

 言わずと知れた<イシス王家>の紋章である。

 口を開いた宝箱の中には、もはや原型は留めていないが、遥か昔はとても高価な布であったであろう物が敷き詰められ、傍には同じような布が落ちていた。おそらく、今メルエが持つ、この黄金に輝く爪を包んでいた布なのであろう。

 

「さあ、メルエ。それをこちらに」

 

「…………ん…………」

 

 手を広げるサラに、メルエは大事そうに抱えていた物を手渡した。手渡された宝を、傍に落ちていた布で慎重に包み、サラは宝箱の中へと納めて行く。

 しっかりと納まった事を確認し、メルエも頷いた事を見届けると、サラは丁寧に宝箱を閉じた。

 

 

 

 カミュとリーシャにも限界が近づいていた。

 斬っても斬っても、次から次へと湧いてくる『護り人』と称される者達。

 一体、何人の人間がこの<ピラミッド>に埋め込まれているのか。

 その疑問すら湧いてこない程に、カミュとリーシャは無我夢中に己の武器を振るっていた。

 それでも、カミュとリーシャは『人』。

 いくら鍛練を積んだとしても、『人』である以上、体力にも限界がある。ましてや、回復魔法すら使えない状況なのだ。

 自然と、致命傷を避けようと神経を使う事となり、通常では有り得ない程に擦り減らして行く。

 そして、それが『疲労』として蓄積されて行くのだ。

 

「く、くそ! カミュ! 大丈夫か!?」

 

 その右腕を上げ、肉薄してきた<マミー>の首を斧で吹き飛ばしたリーシャがカミュの姿を横目で捉え、その安否を確認しようと声を張り上げる。

 

「……限がないな……」

 

 <ミイラ男>の横合いの攻撃を、左手に持つ<うろこの盾>で防ぎ、前にいる<マミー>を袈裟斬りに斬り伏せたカミュは、倒れゆく<マミー>の後ろに見える多数の『護り人』の数に言葉を吐き捨てた。

 

「弱音は聞かんぞ! お前の考えが何なのかは解らないが、お前はサラとメルエに何かを託したのだろう!?」

 

 更に近寄る二体の<ミイラ男>を斧で吹き飛ばし、リーシャはカミュを振り返る。

 その瞳には、疲労は見えるが、諦めは見えない。未だに赤々と燃える炎は、カミュの目にも頼もしく映った。

 

「ならば、私達に出来る事は、サラとメルエがそれを成す時間を稼ぐ事だけだ。あの二人ならば、必ずやり遂げてくれるさ!」

 

「……本当に……アンタはどこまで変わるつもりだ?」

 

 いつものカミュの様に口端を上げて叫ぶリーシャの言葉に、反対にカミュは苦笑を浮かべ小さく呟く。その心に何が浮かんでいるのかは、すでにカミュから視線を外したリーシャには解らない。

 そんな二人が、再び気を引き締め直し、前にそびえる『護り人』の壁に向かって、それぞれの武器を構え直した時、変化は訪れた。

 

「……カミュ、どういう事だ?」

 

「……メルエ達を信じて、時間を稼いでいたのではなかったのか?」

 

 今まで、カミュ達に群がって行くように、にじり寄って来ていた『護り人』達の動きが止まったのだ。

 操作をしていた糸が引っ掛かったように動かなくなった<マミー>達に疑問を呈すリーシャ。しかし、その疑問は、先程リーシャが発した言葉とは矛盾するような物であり、カミュは思わず溜息を吐いてしまった。

 

「どういう事だ!?」

 

「……メルエ達が、あの国宝を無事元に戻してくれたのだろう。王家の宝が元に戻り、盗まれる心配がなくなれば、『護り人』の役目も終わる」

 

 動かなくなった<マミー>達から視線を外し、再度説明を求めたリーシャに、呆れたような表情を浮かべながらも、カミュが現状を話し出した。

 カミュの言葉が終わりを告げるのを待っていたかのように、あれ程広間を覆い尽くしていた『護り人』達が土へと還って行く。

 まるで時間を巻き戻したようにその姿を消して行く『護り人』達を呆然と眺めていたリーシャであったが、この原因を作ってくれた二人の安否を確かめる為、視線を祭壇の上に移した。

 

「サラ! メルエ!」

 

 そこで目にした物は、メルエを後ろに庇いながら目の前にある物を見上げるサラの姿であった。

 瞬時にサラとメルエの名を叫び、祭壇へと駆け出すリーシャを追って、カミュもまた抜き身の剣を片手に祭壇の上へと駆け出した。

 

 

 

 メルエの見つけた『王家の宝』を元通りに安置し終えた二人は、祭壇の下で繰り広げられている死闘に視線を移す。しばらくは剣を振るっていたリーシャとカミュであったが、突如剣を振るう相手の動きが止まった事により、武器を下ろした。

 そのまま土へと還って行く『護り人』達を見て、自分達がカミュから与えられた仕事を全う出来た事を知り、サラはメルエの手を取って喜びを露わにする。そんなサラの姿に、自然とメルエの表情にも笑みが浮かんだ時、二人の後方から不穏な音が響いた。

 

「サラ! どうした!?」

 

 大きな棺を見ながらメルエを背に隠していたサラに、リーシャが駆け寄る。サラが身体を強張らせて見上げる棺の方に、リーシャが視線を移した頃には、カミュもその場に到着していた。

 

「……あ……ああ……」

 

「なに? 何を言っているんだ?」

 

 リーシャの問いに対して言葉を発する事すらも出来ないサラの指差す方向に、全員の視線が集まる。そこにあるのは少し開きかけた大きな棺。

 それが開きかけているのだ。

 奇妙な音を立てながら、その棺がゆっくりと開いて行く。

 

「……メルエ……」

 

「…………ん…………」

 

 警戒したカミュの呼びかけに素早く反応を返したメルエが、カミュのマントの裾を握り、カミュの後ろへと移動する。

 リーシャも、震えるサラを後ろに庇い、訪れる何かに対処するために身構えた。

 

「…………???…………」

 

 棺は完全に開いた。

 しかし、サラが考えていたような事は何も起きない。

 棺の蓋は天井に向けて大きくその口を開くが、中から何が出て来る訳でもなかった。

 その現象が予想外だったメルエは、不思議そうに棺を見つめ、小首を傾げている。先程まで、声も震えていたサラもまた、自分の予想が覆された事によって、口を大きく開いたまま固まっていた。

 

「……カミュ?」

 

「……ふぅ……ここで待っていてくれ」

 

 リーシャの問いかけに、一息溜息を吐いたカミュが、棺へと近づいて行った。『危険だ』と止めようと考えたリーシャであったが、この棺を背にして歩く事の方が危険である可能性が高く、いつでもカミュの傍に駆け寄れるように、サラとメルエを背に護り身構える。

 しかし、カミュが剣を構えながら棺へと慎重に近づき、大きな蓋の中を覗き込むように見ると、そこには更に予想を大きく外した物が入っていた。

 

「おい! カミュ! 大丈夫なのか?」

 

「……少し手伝ってくれ……」

 

 中の様子を問いかけるリーシャに対し、返って来たカミュの答えは、少し呆れた雰囲気を滲ませた物だった。

 それが、リーシャとサラ、そしてメルエの表情に困惑を浮かべさせる。

 恐る恐る近づくサラ。その様子を見て、リーシャの後ろに隠れながら近づくメルエ。

 再び深い溜息を吐いたカミュが、棺の中から何かを引き摺り出した。

 その行為に、サラは悲鳴を上げる。まさか、カミュが棺の中にある王族の遺骸を引き出すとは思わなかったのだ。

 

「サラ。何を考えているのかは解るが、違うようだ」

 

「え!?……『人』ですか?」

 

 悲鳴と共に目を瞑ろうとするサラに、リーシャの優しい声がかかる。その言葉に、瞑りかけた目を再び開き、カミュが引き摺り出す物を確認すると、それはサラの言うとおり、『人』らしき影であった。

 

「カミュ! 生きているのか?」

 

「……さあな……あと二人程入っている」

 

 一人を引き出し、祭壇に寝かせたカミュは、再び棺の中へと手を差し入れる。カミュの言葉に、急ぎリーシャも棺に近づき、カミュの掴んだ物を引き出す為に棺の中へと手を差し入れた。

 

 

 

 棺から出て来た者は、全部で三人の男。

 着ている物は、粗末な物。決して裕福とは言えない生活をしているのか。それとも、明るい表の道を堂々と歩く事の出来ない事を生業にしているのか。

 

「……二人は気を失っているだけだと思いますが……一人は……」

 

「……そうか……」

 

 引き出された男の状態を見ていたサラであったが、二人の息がある事は確認出来たが、残る一人は呼吸も止まり、身体も冷たく冷え切っていた。

 それは、『死』を意味するもの。

 その答えを聞いたリーシャは、少し目を伏せる。

 

「とりあえず、息のある二人を起こさない事には、ここから出る事も叶わない」

 

「そ、そうだな。サラ、少し退いていてくれ」

 

 現状を冷静に話すカミュの言葉に、一度頷いたリーシャは、サラを下げて男達の上体を起こし、後ろから羽交い絞めにするような態勢を取る。

 

「ふん!!」

 

「ごっ! ごほっ!」

 

 そのまま、軽い衝撃を背に与えると、静かに眠っていた男が咳込、意識を覚醒させる。その男を解放し、リーシャはもう一人の男にも同じ事をする為に背に回り込んだ。

 

 

 

「いやぁ、助かった。突然、大量の魔物達に襲われて、棺に押し込まれた後は記憶がなくてよ」

 

「すまねぇな。ありがとうよ」

 

 意識を取り戻した男達は、今、カミュ達の前で地面に擦りつけるように頭を下げている。

 それを、胸を撫で下ろすように見るサラ。

 不思議な生物でも見るような視線を送るメルエ。

 何か不穏な空気を感じ取り、苦虫を噛み潰したような表情を作るリーシャ。

 そして、引き出した張本人であるカミュは、とても冷たい無表情を貫いていた。

 

 男達が押し込められていた棺の一番下には、王家の紋章の入った小さな黄金の棺が納められていた。

 おそらくそれが本当に<イシス王>だった者の眠る棺なのであろう。彼等を襲った<マミー>や<ミイラ男>は、王の復活の為の血と肉になるように、王の財宝を狙う者を生贄として捧げていたのかもしれない。

 

「それで、お前達はここで何をしていたんだ?」

 

「あ?……そりゃ、アンタ達と一緒さ」

 

 自分の問いに口を開いた一人の男の答えに、リーシャは露骨に顔を顰めた。

 唯でさえ、仲間である筈の男の死に対してそれほど感情を出さないこの男達に、リーシャは良い感情を抱いてはいなかったのだ。

 それに合わせ、『魔王討伐』という栄誉ある命を受けている自分達を盗賊紛いと一緒に扱われた事が、リーシャの頭に血を上らせる。

 

「リ、リーシャさん、落ち着いて下さい!」

 

「…………リーシャ………だめ…………」

 

 背に戻していた<鉄の斧>に手をかけたリーシャに、サラが慌てて声をかける。それと同時に、メルエがリーシャの足にしがみ付いた。

 幼いメルエですら、リーシャが何をしようとしているのかが解っている。そして、今リーシャがやろうとしている事が、<シャンパーニの塔>で教わった、『人』が忌み嫌う物である事を思い出し、リーシャを止めに入ったのだ。

 

「……悪いが、俺達は王家の財宝目当てで入って来たのではない」

 

 正確には、カミュの発言は嘘である。『魔法のカギ』という<イシス国>の国宝を欲して入って来たのだから、実際は目の前にいる盗賊と同じなのかもしれない。

 

「……ならば……はっ!? お前達、まさか『追手』か!? くそ! あのババア、まだしつこく追手なんかを寄越してきやがるのか!」

 

「お、おい!」

 

 カミュの半ば嘘に近い発言に、男の一人が過剰な反応を示す。もう一人の男に窘められるが、<イシス>の内情を予想していたカミュ達には十分過ぎる情報だった。

 

「……詳しく話してもらおうか……」

 

 カミュの表情が更に冷たい物へと変わって行く。それは、横にいるサラに恐怖を思い出させる程のもの。

 <シャンパーニの塔>で見た、『人』を『人』と思わない行為を行った時と同じものだった。

 

「は、はん! 何故、アンタ達に話さなきゃならない」

 

「……話さないのなら、俺達の帰路に邪魔になるだけである以上、ここで殺して行く」

 

「カ、カミュ様!」

 

 先程、仲間の失言を窘めた方の男が、カミュの威圧感に若干怯みながらも反論を返して来た。

 それに対するカミュの言葉は、そのまま実行に移す事が容易に想像できる程の冷たい声色。

 サラは、恐怖の余り、カミュの名を叫んでしまう。

 それが、男に余裕を取り戻させた。

 

「殺すなら、殺せば良い。どうせ、話したとしても待っているのは『死』だ。アンタ達が何者であろうと、俺達が話をするメリットがねえ」

 

「貴様ら……」

 

 男の物言いに、リーシャは更に頭に血を上らせるが、カミュは男の目を見て、気が付いた。

 この男達も、数多くの修羅場を経験して来たのであろう。歳の頃は、カミュどころか、リーシャの倍は生きているような姿。

 カミュ達の予想が正しいのであれば、大罪を犯した者達である。それなりの度胸と肝は座っているのであろう。

 

「……わかった。とりあえずは、<イシス>に連れて行く。その上で、お前達が犯した罪を告白しろ。それが確認出来れば、お前達の助命を口添えしてやる」

 

「……カ、カミュ様……」

 

「へっ! 口では何とでも言えるさ。俺達が、アンタを信用する理由がねえ」

 

 カミュの譲歩は、サラには予想外だった。

 まさか、盗賊の助命を図るとは、誰が予想出来たであろうか。これには、リーシャも開いた口が塞がらなかった。

 

「……別に信用しろとは言わない……唯、言っておくが、俺はお前達を<イシス>へ連れて行く。それでも話さないのであれば、適当に罪をでっち上げるだけだ」

 

「ああ?」

 

 挑発的な男の物言いにも、カミュは動じた様子はない。リーシャやサラは、予想外の男の強気に飲まれそうになっているが、この年若い『勇者』には、男の言動などは大した影響を及ぼしてはいなかったのだ。

 故に、表情一つ変えないカミュの言葉は、男には容易に理解出来る物ではなかった。

 

「……別段、お前達の罪が何であろうと、俺には関係がない。王家の秘宝を狙ったものだとしても、王族の遺骸に触れたという罪だとしても………それこそ、先代女王の殺害だとしてもだ」

 

「!!」

 

 男達二人は、目を見開いた。

 男達は、カミュが言う『話せ』という内容を履き違えていたのだ。

 それは、『何の事なのか解らない』という物ではなく、『何について言っているのかは解っているが、確認させろ』という意味であった事に初めて気が付く。

 『コイツ達は、自分達の<罪>を知っている』

 その想いが、男達の胸の中で大きな不安として生まれた。

 

「わかった……だが、約束は守れ。俺達は、<イシス国>で話をする。アンタは俺達の助命を女王に掛け合う。それで良いな?」

 

「……ああ……」

 

 地べたに座っていた男は、カミュの目を見上げ、真剣な眼差しでその冷たい目を見つめる。

 その視線を真っ向から受け止めたカミュは、しばらく後にしっかりと頷いた。

 

「おい! カミュ、どういう事だ?……まさか、コイツ達は先代の女王を殺害した者達だとでも言うのか?」

 

「……その、まさかという事です……」

 

 状況を把握しきれていないリーシャは、カミュへ半ば怒鳴り声にも近い声を上げるが、それに答えたのは、横で呆然とカミュを見ていたサラだった。

 サラにしては青天の霹靂のような出来事が起こっている。口を開き、リーシャの問いに答えてはいるが、視線は虚ろで、人形のように立っているだけだった。

 

「……ふっ……あはっ……あはははは!」

 

「リ、リーシャさん!?」

 

「!!」

 

 その時、呆然自失なサラの答えを聞いたリーシャが突然、大声を出して笑い始めた。

 今の話の内容に、笑う部分など何一つなかった筈だ。それなのにも拘わらず、リーシャは、本当に面白い事でも聞いたかのように、大声で笑い出す。

 そんな場違いな大笑いに、サラは我に返り、驚いたメルエはリーシャの後ろからサラの後ろへと大慌てで移動して行った。

 

「あははははは! カミュ、お前は間違いなく『勇者』だ! あははは、誰が何と言おうと、お前がどれ程否定しようとも、お前こそが『勇者』だ!」

 

「……何を?」

 

 突然笑い始めたリーシャを奇妙な物でも見るように振り返ったカミュに、リーシャがその笑いの理由を話し出す。

 しかし、その理由はリーシャにしか解らない。サラもメルエも不思議な物を見るようにリーシャを見ている。珍しく、カミュも呆然と言葉を漏らしていた。

 しかし、リーシャの中では確固たる理由なのであった。

 アリアハンからここまで、カミュと共に旅をして来た。

 その行く先々で色々な問題が一行に降り注いで来た。

 そして、それは色々な人間の手助けを得て、乗り越えて来たのだ。

 リーシャは今まで、それはたまたまだと思っていた。

 今、救い出した人間が、大罪を犯した者達であるという事実を知るこの時まで。

 

「であれば、一刻も早くここを脱出しよう」

 

 しかし、それは違った。

 リーシャが偶然と考えていた事は、数が多すぎる。

 偶然も重なれば、それは必然になる。

 カミュがいなければ、おそらくリーシャ達はアリアハン大陸すらも出る事は出来なかっただろう。そして、<ノアニール>を救う事も。いや、それよりも前に、メルエを救う事も出来なかった筈だ。

 

 そして、それはこの<ピラミッド>でもそれは変わらない。

 <イシス>への到着があと一日早かったら。

 もし、あの時リーシャを庇ってカミュが傷つかなかったら。

 もし、サラが足を踏み外さずに、落とし穴にも落ちなければ。

 そして、再びサラが下へと続く階段を落ちて行かなければ。

 そんな様々な偶然が重なった結果、今リーシャ達はこの場所にいる。それは、カミュが『勇者』故の必然だったのではとリーシャは思ったのだ。

 

「……脱出するも何も、落とし穴を上らない限り、ここからが出られないのでは?」

 

「はぁ?……アンタ達、落とし穴を落ちて来たのか?」

 

 上機嫌なリーシャの言葉に難点を告げるように呟いたサラに、今尚、地べたに座る男がさも不思議そうに言葉を発した。

 

「お前達は違うのか!?」

 

「外からこの上のフロアに入る階段があっただろう?」

 

 それは、カミュ達にとって救いの言葉となった。

 もし、ここの上のフロアから直接外へ出る階段があるのだとすれば、これ程嬉しい事はない。リーシャに言わせれば、それもまたカミュが『勇者』である為に起きた必然なのかもしれない。

 

 

 

 遺体となった男は、心苦しいが、そのまま放置する事にした。

 遺体を担いで抜ける事が出来る程、カミュ達に余裕はない。ましてや、度胸と肝は座っているが、実力的にはカミュやリーシャの足元にも及ばないであろう足手まといを二人も増やしたのだ。

 二人の男を立ち上がらせ、王の棺の眠る部屋から一歩出たその時、カミュ達は驚きで言葉を失った。

 

 目の前には敵の山。

 <マミー>や<ミイラ男>の大群が通路を覆いつくすように群がっていたのだ。

 

「カミュ! どうする!?」

 

「……俺が一気に駆け抜けて、道を開く。アンタは最後尾で他の人間を護りながら走ってくれ」

 

 背中から斧を取り、身構えたリーシャの問いかけに少し考えた後、カミュが強行突破という危険な策を口にした。

 強行突破は成功率も低く、そしてリスクも大きい。とても危険な賭けとなってしまう。

 

「わかった。サラ! メルエの手を引いて、合図と同時にカミュの背中だけを見て駆けろ! メルエ! サラの手を絶対に離すな!」

 

「はい!」

 

「…………ん…………」

 

 しかし、方法が今はそれしかない。リーシャもカミュも、先程の戦闘で、思っていた以上に疲労している。ここで、無数に出現する『護り人』達を相手に出来る程の余力がある訳ではなった。

 

「お前達も死にたくなければ走れ!」

 

「わ、わかった!」

 

 リーシャは、横にいる盗賊達にも声をかける。リーシャの中で、この盗賊達は正直どうでもよかった。

 冷たい言い方かもしれないし、残酷かもしれない。しかし、リーシャの中では、サラやメルエの方が重要度は遥かに高い。

 サラやメルエが『護り人』に捕縛されそうになれば、身を挺して護るつもりではあるが、この盗賊達が『護り人』達に囲まれようとその時は見捨てるつもりだったのだ。

 

「……行くぞ……」

 

「はい!」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの小さな呟きに、サラは大きく返事をし、メルエも大きく頷いた。更に後ろを見ると、リーシャも真剣な目で頷く。そして、その少し前で佇む男二人も、怯えた目を向けながら何度も首を縦に振った。

 

「走れ!」

 

 視線を前に向けたカミュが珍しい程の声量で全員に向け、一気に駆け出した。

 カミュが一歩を駆け出したと同時に、サラがメルエの手を引き、メルエのスピードを気遣いながら走り出す。その後ろを盗賊二人組、そして、その後ろを男二人がメルエを追い抜かしたり、突き飛ばしたりしないように睨みを効かせながら、リーシャが斧を構えて走り出した。

 

「メルエ! その僧侶の手を離すな!」

 

「…………」

 

 カミュは、前方を囲むように立つ<マミー>を剣を振るう事で弾き飛ばし、伸ばして来る<ミイラ男>の腕を返す剣で斬り払う。その奮闘によって開けた道をサラとメルエは必死に駆けた。

 カミュが弾き飛ばした『護り人』が態勢を立て直す前に、その道を駆け終わらなければならない。

 それは、幼いメルエには過酷な事だった。

 サラの手を握り、懸命に足を動かすが、土台となる足の長さがまるで違うのである。次第に、メルエの手が引き千切れないようにサラのスピードが落ちて行った。

 

「サラ!! メルエは任せろ! 今はカミュを目掛け、懸命に走れ!」

 

 突如、横から声が聞こえたかと思うと、サラの手からメルエの手が離れてしまった。

 その事に驚き、声の方向へとサラが視線を動かす。そこには、メルエを抱き上げ、前を向いて走っているリーシャの存在があった。

 

「は、はい!」

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

「ふふっ。メルエ、しっかり口を閉じていろ。舌を噛んでしまっても知らないぞ」

 

 リーシャの顔を確認し、サラは大きく返事をした後、全力でカミュの後を追った。

 メルエを気にする必要がなくなった以上、サラの走りを邪魔するものは何もない。

 先程よりも速い走りでカミュを追って行くサラを眺めたメルエは、リーシャの腕の中で小さく呟く。その声は、若干涙が混ざっているように聞こえた。そんなメルエに微笑みながら注意を促したリーシャもまた、すぐに笑みを消し、斧を片手で振り回しながら、カミュが通り終わった事によって狭まり出した『護り人』の隙間を広げて行く。

 

 

 

 サラが落ちた階段を上った先でも、状況は同じだった。

 階段を上った先には、フロア全体を埋め尽くすのではないかと思われる程の<マミー>と<ミイラ男>。

 先に階段を上ったカミュが、階段周りの『護り人』を相手に奮闘しているのを見たリーシャがメルエを一度下ろし、<鉄の斧>を振り回した。

 階段周りの『護り人』を一掃した一行は、再び出口に向かって走り出す。カミュの後をサラ、その後ろを男二人、そして最後尾にメルエを抱いたリーシャ。

 

「そ、そこを左だ!」

 

 進む方向は、外からこの地下の部分に入ったと言う、男二人が声で示す。その掛け声に頷きもせずに、カミュはその方向へと足を動かした。

 サラも疲れている。

 リーシャの息も切れて来た。

 第一に、先頭を走っているカミュは、少し前に死線を彷徨っていたのだ。

 絶対的に血液が足りていない筈。

 あれ程の怪我をし、あれ程の血液を流し出した。

 その後、大した休憩もなく、戦闘をこなして来ている。

 そして、最後にこの走り。

 本来なら貧血を起こして倒れても可笑しくはない。

 

「階段が見えました!」

 

 カミュが開いた前方に石畳の階段が目に入ったサラは、その表情に笑みを浮かべ、全員に聞こえるように報告を発する。

 サラのその声に、後ろを走る男達にも、安堵の表情が浮かんだ。

 

「階段を駆け上がれ!」

 

 階段の麓に辿り着いたカミュは、全員に先に階段を登るように指示を出す。そして、当のカミュは、剣を構えたまま、麓に残り、にじり寄る『護り人』達を牽制していた。

 

「……カミュ……」

 

「いいから行け!」

 

 カミュの横をサラが駆け抜け、その後を男二人が階段を駆け上がる。最後に階段に到着したリーシャは、メルエを抱き抱えながらカミュへ言葉を洩らすが、その言葉もカミュの強い声に掻き消された。

 

 『彼はまた無茶をしている』

 

 リーシャはそれが歯痒くて仕方がない。

 リーシャやサラの事に関して色々と言うカミュではあるが、ここまでの旅で、彼は一度たりとも二人を見捨てた事はない。

 それが、『勇者』としての責務であり、資質なのか、それとも、それこそがカミュ本人の人間性なのか。

 リーシャは、ここに来てカミュという一人の人間を量りかねていた。

 

「……すまない……アンタ達の平穏な眠りを妨げた事を謝罪する」

 

 リーシャも階段を駆け上がり、『護り人』達とカミュだけになった<ピラミッド>の地下の一室で、カミュは小さく頭を下げた後、階段を駆け上がった。

 

 

 

 これで終わりだと思っていた自分達の思考が恨めしい。駆け上がった階段の先に広がる光景に、カミュは安堵の一息を吐いて階段を上った自分の考えの甘さを悔いた。

 

「……あ……あ……」

 

「も、もう……ダメだ……」

 

 そこに見えたのは、<イシス国>の歴史的建造物である<ピラミッド>を囲むように埋め尽くされた魔物。

 <火炎ムカデ>に<地獄のハサミ>、<ピラミッド>内で遭遇した<大王ガマ>までおり、その数は、カミュ達の倍やそこらではない。

 まともにぶつかっては、命がいくらあっても足りない程の数。

 

「カ、カミュ!」

 

「ルーラを使う!早く傍に寄れ!」

 

 カミュの方に視線を移したリーシャの目を見ずに、カミュは全員に向かって叫ぶ。カミュの声に、全員の視線が魔物からカミュへと移り、同時にカミュの方へと駆け出した。

 全員がカミュの身体のどこかしらを握った事を確認したカミュが詠唱を紡ぎ出す。

 

「ルーラ!」

 

 呟くような詠唱ではなく、珍しく声の張った詠唱をカミュが行ったと同時に、カミュの魔力が全員の身体を包み込み、勢いよく上空へと跳ね上げた。

 <ピラミッド>の地下からの出口である階段付近に群れを成して突進していく魔物達。

 カミュ達は、まさしく間一髪で、魔物の牙を逃れたのだ。

 

「グォォォォォォォ!!」

 

 後に残るのは、魔物達の咆哮。

 それは、カミュ達を逃した事への悔しさの為なのか。

 それとも、自分達の強さを誇示する為のものなのか。

 それは、上空を見上げ雄叫びを上げる者達にしか解らない。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

三話かかったピラミッド編もこれで終了です。
次回は、イシス城内となります。

ご意見ご感想を心よりお待ちしています。


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イシス城②

 

 

 

 現<イシス>女王であるアンリは、目を瞑り、話を聞いていた。

 その胸の内に渦巻く葛藤と闘いながら。

 男達が話している最中に喚くような声を上げる祖母を、近衛兵に命じて黙らせ、如何に自分達の罪を軽くしようかを考えたような男達の話を静かに聞いていた。

 

「……話はそれだけか?」

 

 アンリは男達の声が途切れて、暫しの時間が過ぎてから、ようやくその双眸を開く。その瞳の中にある光は、<ピラミッド>へ向かう前にカミュ達と謁見した時の物とは全く違う物であった。

 何かに怯えるようなものでもなく、何かに絶望しているものでもない。

 それは、王の威厳に満ちた瞳。

 

 その瞳が、男達の後ろに控える四人の旅人を射抜く。

 一番前に跪くカミュと名乗る『勇者』。

 そして、今回は最初からその『勇者』を護るように隣に跪き、その小さな手でマントの裾を握った少女がいる。

 その少女は、他の人間と違い、真っ直ぐ自分の瞳を見つめていた。それこそ、一国の王であるアンリであっても、その者を傷つける事は許さないとでもいうような宣言にも見える。

 その姿にアンリは、少し瞳に宿る光を緩めた。

 

 

 

 カミュは、<ルーラ>でイシスの町の中へと入った後に、突如倒れた。

 あれ程の怪我をし、サラの<ベホイミ>によって、傷は塞がれたといえども、血液が圧倒的に足りなかったのだ。その上で、戦闘を繰り返し、そして走った。

 その連続した行動が、カミュの身体を確実に蝕んでいたのだ。

 

「…………カミュ…………」

 

 先頭を歩いていたカミュが、町に入った途端、糸が切れたように倒れたのを見て、真っ先に駆け寄ったのは、リーシャの手を握っていたメルエだった。

 『自分の中の絶対的強者が倒れる』

 それはメルエに、<ピラミッド>内で感じた絶望を再び思い起こさせるものだった。

 

「カミュ!」

 

 メルエの動きに気が付き、遅れて駆け寄ったリーシャが、サラを呼ぶ。

 カミュの下に駆け寄ったサラが診察をした結果、貧血によるものであろうという結論が出た為、とりあえずは宿屋で休み、回復を待つ事となった。

 宿屋の一室までリーシャがカミュを運ぶ際の序列は、先頭を歩くサラ、その後ろを二人の盗賊、そして、その盗賊を警戒するように最後尾をリーシャが歩き、その横をメルエが歩いた。

 

 一度、カミュが倒れたどさくさに紛れて逃げ出そうとした一人の男に気が付いたリーシャがメルエに指示を出したという経歴がある。

 その際にメルエの<魔道師の杖>から発生した<メラ>の火球の大きさに、男達は逃げ出す気力すらも削がれていたのだ。故に、最後尾を歩くリーシャの横で、杖を向けて歩く幼い少女に、男達は怯えながら宿屋への道を歩いていた。

 

「…………カミュ…………」

 

「ふふっ。大丈夫ですよ、メルエ。カミュ様も、目が覚めた後に、しっかりと食事を取れば元気になります」

 

 ベッドに横たわるカミュを心配そうに覗き込むメルエの姿にサラの頬は緩み、安心させる為にカミュの状況をメルエへと伝える。サラの言葉に、視線をサラに移し、ゆっくりと頷いたメルエではあったが、結局カミュが目覚めるまで、その場を離れようとはしなかった。

 結局カミュは一晩眠り続け、その為、リーシャが一晩眠らずに盗賊二人の監視を続ける事となる。

 野営等の見張りでは、何度か夢の世界に旅立っていたリーシャではあったが、この日はその鋭い瞳が閉じられる事は一度もなかった。

 

 

 

 そのような経緯があり、メルエはカミュの傍を離れようとはしないのだ。

 メルエの心には、<ピラミッド>内でリーシャに告げられた言葉が残っていた。

 

 『カミュが瀕死の怪我を負ったのは、メルエの責任だ』

 

 自分の行動が起こしたカミュの現状。

 それがメルエの責任感を生んでいた。

 

「……ふっ……心配せずとも良い。そなたの大事な者に危害を加えるつもりはないぞ」

 

「…………」

 

 少し表情を緩め、言葉をかけるアンリは、メルエが暫し時間をかけて頷いた事を確認すると、その表情を再び引き締めた。

 

「……今の話に相違はないか?」

 

 表情を引き締め、王としての顔になったアンリに、側近達は若干の驚きを表す。この数年、何かに諦めたように淡々と話をするアンリしか見た事はないのだ。

 今のアンリが放つ威厳は、正しく王そのもの。

 その威光に、側近達は威圧されてしまっていた。

 

「な、何を言う!……じょ、女王は、この国を支えて来た老臣を疑うのか!? それも、このようなどこの馬の骨とも知らぬ者達が連れて来た、盗賊の様な者達の話を!」

 

「……応か否かを問うておる……」

 

 近衛兵に取り押さえられながらも、アンリへと反論を始めるが、その言葉を静かに聞いていたアンリが再び口を開いた時、老婆はこの女王が既に傀儡ではない事に気付いた。

 

「ア、アンリ……まさか、この私を本気で疑うておるのか?」

 

「……」

 

 不安になった老婆は、言葉を擦れさせながらアンリへと問いかけを発するが、それに対しても、アンリは鋭い視線を向けるだけで何も言わない。

 謁見の間に緊張が走る。

 全ての者達に、この場での発言権は認められていなかった。

 今、この場で口を開いて良い者は、アンリとその祖母である老臣だけなのである。

 

「こ、このような事、許される事ではないぞ! この国の者ではない旅人が連れて来た盗賊の様な卑しい身分の者達の言葉を信じ、国の忠臣を排斥するなど、女王は正気を失ったと人心は離れる事になるぞよ!」

 

 自分を排斥する事で起こり得るデメリットを懸命に説く老婆であったが、アンリはその言葉を聞いていないかのように、静かに瞳を閉じた。

 

「このような事を許すのであれば、この国の秩序は乱れ、いずれ崩壊に……!!!!」

 

「……お祖母様……妾が何も知らないとでも?」

 

 再び口を開いた老婆の言葉は、途中で遮られた。

 他でもないアンリの言葉に。

 

 そして、そのアンリの行動は、この謁見の間にいる人間全てに驚愕の表情を浮かべさせるものであった。

 アンリは、祖母である老婆の目の前に立ち、その言葉を遮ったのだ。

 誰も、アンリが玉座を立ち上がった姿を認識出来ていなかった。

 それこそ、顔を上げて一部始終を見ていたカミュやリーシャであってもだ。

 

 カミュやリーシャはこの謁見の間にいる人間の誰よりも戦闘経験が豊富であり、その相手も人間の能力を遥かに超えた魔物である。

 魔物が生み出すスピードを目で追い、攻撃や防御をしてきた二人ですら認識出来ない程の速さ。それは、時を止めてしまったのではないかと思う程のものだった。

 

「……ア、アンリ……」

 

 カミュ達と同じように驚愕に彩られた表情を浮かべた祖母が、アンリを見上げる。

 そこに居たアンリの瞳に浮かぶ物は、『哀しみ』と『決意』。

 それは相反する物でありながらも繋がって行くもの。

 

「……」

 

「!!!!……そ、それは……」

 

 祖母を見下ろし、何も言葉を口にすることなく、アンリは自分の背に掛るマントを払い、着ている服の袖を二の腕付近まで一気に捲り上げた。

 そこにあったのは、金色に輝く一つの腕輪。

 カミュ達が<ピラミッド>内で見た、<イシス>の国宝が入っていた宝箱の装飾よりも凝った物が彫られているそれは、太陽の光を受け、この謁見の間を眩く照らし出すが如く輝いていた。

 そして、その腕輪の中央に彫られている物は、イシス国の紋章。

 

「……この腕輪が妾の腕にあるという事が何を意味するのか……それが解らぬお祖母様ではあるまい」

 

 二の腕に輝く金の腕輪を見せていたアンリの言葉は、未だに祖母を気遣う節のあるものだった。

 自分の呼称に謙ったものを使用している部分にそれが見受けられる。

 

「……ど、どうやって……それを……」

 

「……母上から……先代女王から妾が受け継いだのじゃ」

 

<星降る腕輪>

それこそが、<イシス>王家に伝わる表向きの国宝。王位を継承する際に、先代女王から受け継がれる物。先代の女王が突然崩御した場合などは、遺骸となったミイラの棺の前で、継承の儀式を行い、嫡子が王位を継承した証としてその腕に身につける事になっていた。そして、それは唯の宝飾品ではなく、絶大な付加価値を持っている。身に付けた者の「すばやさ」を天突く程に上げ、通常の人間では目で追う事の出来ない程の速度での行動を可能とするのだ。しかし、その効力を発揮するのも、王家の血がその腕輪と共鳴する為であり、王家以外の人間には唯の宝飾品と化してしまうという物である。

 

「……そんな馬鹿な……」

 

 祖母は認められない。先代女王が死んだ時、その腕輪を真っ先に探した。

 しかし、先代女王の腕になかった為、先代女王の部屋の隅々まで探し、それでも見つからない事から、娘であるアンリの部屋もアンリの身の回りも全て探し尽くす。

 それでも発見出来なかった為、この高位の文官であった祖母は、『殺害を依頼した盗賊が盗んで行ったのだ』という結論に達していた。

 つまり、今、謁見の間にて縛り付けられている盗賊達が追われていた追手には、『口封じ』という目的の他に、『<星降る腕輪>の奪還』という使命もあったのだ。

 

「……母上は……先代女王は、お祖母様を一番信頼しておった。故に、お祖母様を常に傍に置いて置く為に『相談役』という職を与えたのじゃ。女王の責務は、あの偉大な先代女王をも苦しめ、蝕んでおった」

 

「……あ……あああ……」

 

 この先代女王の義母であり、現女王の祖母である女性が、その義理の娘の殺害を企てた最大の理由が、今アンリが話し始めた事だったのだ。

 

 文官として長く<イシス>の国政に携わって来たこの女性は、<イシス>国内で一番の知識とそれを生かす才能を有していると自負していた。故に、女王からの信任も厚く、自分の息子を女王の夫とする事も出来たのだと。

 しかし、息子である女王の夫が早くして病死した頃から様相に変化が見え始めた。

 自分の能力と知識で女王の信任を受け、この地位まで上り詰めたという自負がある女性と反し、周囲の人間は『息子を出汁にして、女王に擦り寄り、権勢を有した浅ましい者』としか映っていなかったのだ。

 

 故にその息子の死は、周囲の側近達の動きを活発化させる。

 後添えに自分の息子を押す者。

 ここぞとばかりに、女性を扱き下ろす様なことを女王に吹き込む者。

 当初は、そのような事を鼻で笑って、気にも留めなかった女王であったが、日増しに増え続ける周囲の人間の言葉に、遂に女王は動かざるを得なくなった。それが、この女性の中では『裏切り』に映ったのだ。

 自分が懸命に仕えて来たこの十数年の時間は、女王にとって何の意味も見出す事の出来ないものだったのだと……

 

「……母上は、妾にお祖母様を恨むなとおっしゃった。お祖母様程、この国を憂い、この国を想っている臣下はおらんと……」

 

「……じょ……女王様……」

 

 もし、本当にアンリが先代女王の魂と会話をしたとするならば、自分はあの頃の側近達が噂していた通りに、浅ましく、汚らしい人間に間違いはない。

 先代女王の義母であるこの女性は、毅然として自分を見下ろすアンリに先代女王の姿を重ね始めていた。

 

 『相談役』に任命された時、『政務の場所から追いやられた』と感じた。

 その為、それ以降、何かを話したそうに女王の部屋へと自分を呼び出す女王の命を、理由を付けて断り続ける事となる。最後の方には、女王自ら義母の部屋に訪ねて来たが、それも仮病を使い、顔を見る事もしなかった。

 しかし、アンリの言う通りに女王が考えていたとすれば、この国の行く末を義母と話し合い、方向性を見出そうと考えていた事になる。

 

「……だが……明るみに出た以上、妾の胸に留めておく訳にはいかん。お祖母様……イシス国王である先代女王の殺害を企て、自らの手を汚してはいないとはいえ、実行の首謀者である以上、それは大罪……」

 

「……」

 

 祖母をじっと見下ろし、口を開いたアンリの言葉は、誰一人口を開く事のない、静けさに満ちた謁見の間に響き渡った。

 罪状を説き、一度瞳を閉じたアンリが言葉を途切る。

 再び開いたアンリの瞳には、もはや『哀しみ』は残っていなかった。

 あるのは、当代女王としての威厳に満ちた光。

 

「……そなたに、死罪を申しつける!」

 

 『決意』と共に告げられた、老婆の処断。

 それは、イシス国で最も罪深き者が告げられるものであった。

 謁見の間に暫しの静寂が広がる。

 心地よい静けさではない。

 誰もが固唾を飲み、緊迫に張りつめた静寂。

 

「……謹んで……お受け致します……」

 

 緊迫の細い糸が切れてしまうのではないかと皆が感じ始めた時、孫娘の瞳を見ながら老婆は静かに口を開き、当代女王に向かって深々と頭を下げた。

 孫娘の瞳に宿る想いを理解し、自分が今、何をするべきなのかを悟ったのだ。

 元々、女王の信を一身に背負った程の高官である。まだまだ幼いと思っていた孫娘の成長を目にし、冷静さを取り戻した時、自分が成すべき事を理解し、それを飲み込んだ。

 自らの犯した罪を認識し、己が愛した国を託すに値する程の孫娘の成長に涙する。

 

 悔いは残る。

 悔やんでも悔やみきれない。

 それでも、老婆は全てを受け入れた。

 

「……但し、その亡骸はミイラとし、<ピラミッド>に安置するものとする。今この時より、他国の者が<ピラミッド>に入る事を固く禁ずる! 我が<イシス国>の礎を築いて来た者達の眠りを妨げる者は、如何なる者であろうと許さん。良いな!」

 

「……ア、アンリ……」

 

 繋げられたアンリの言葉に、もはや近衛兵の拘束も外された老婆は涙する。先代女王の殺害という、許されない大罪を犯した祖母を、<イシス>の礎を築いた者として扱っているのである。

 自らの母親を殺した人間なのにも拘わらず。

 

 余談になるが、先代女王の時代は、他国の者ばかりか、イシス国民であろうと、王家の人間以外は<ピラミッド>へ入る事を許されてはいなかった。

 故に、この地に<魔法のカギ>を求めて訪れた『オルテガ』は、<ピラミッド>の立ち入り許可を得られず、<魔法のカギ>を手にする事は叶わなかったのだ。

 

「アンリ……いえ、女王様……一つお願いが……」

 

「……なんじゃ?」

 

 近衛兵に抱え上げられた老婆は、自分の足で謁見の間にしっかりと立ち上がってから、涙で濡れる瞳をアンリへと向け、口を開いた。

 

「……私が言う事の出来る物ではありませんが……この国を……イシス国をお願い致します」

 

 言葉の通り、自分の思い通りに作り変えて来た老婆にそれを言う資格などない。しかし、この老婆が悪役に徹しきれていない部分が確かにあったのだ。

 先代女王は、国を想う一番の人間として、この老婆の名を挙げた。

 その理由は、この老婆が、国民から搾取した税や、<ピラミッド>の通行料として取った物、そして闘技場等での利益金などを全て国庫に入れていた事からも解る。決して私腹を肥やす為ではなく、国の蓄えとして保管されていたのだ。

 魔王登場で疲弊する世界の中、それの討伐へと向かうアリアハンという国が送り出した英雄への援助に始まった国庫からの支出。その討伐が不発に終わり、世界は再び魔物の脅威に落とされた。

 そんな中、魔物に親を奪われた孤児達の養育費は全て国庫から捻出されていたのだ。

 <イシス>の町では、皆重税に苦しんではいたが、アリアハンのようなスラム街はない。皆全て等しく生活が出来ているのだ。苦しいながらも生きて行く事は出来る。

 それが良い事なのか、否かは別としても、国民が絞り出した血税は、国民の為に使用されていた事だけは確かである。

 それを、アンリは知っていた。

 

「……ふっ、誰に物を申しておる? 妾は歴代の女王の中でも五指に入ると云われた先代女王の娘であり、イシス国始まって以来の賢者と謳われた文官の孫であるぞ?」

 

「……うぅぅ……は…はい……」

 

 もはや、老婆の口から言葉は出て来ない。

 様々な想いが渦巻き、胸を締め付けているのだ。

 アンリは、小さくなった祖母から視線を外すように一度目を瞑る。

 そして、何かを振り払ったように瞳を開いたアンリの口から言葉が漏れた。

 

「……お祖母様……さらばじゃ……連れて行け!」

 

 アンリの言葉に涙を流し、何度も頷いた老婆を一瞥し、別れの言葉を発した後、アンリは近衛兵に命じ、祖母の退席を指示する。退席を命じられた祖母は、名実共に『イシス国女王』となったアンリを眩しげに見上げ、一度深々と頭を下げた後、謁見の間を辞した。

 残った者は、誰一人口を開く事など出来ない。

 今まで、この国を牛耳っていた者の罪の暴露。

 それは、側近達の心に大きな穴を空け、自分を見失っていたのだ。

 唯一人、カミュ達に<ピラミッド>の謎を伝えた人間だけが、その老婆の後ろ姿を複雑な表情で見送っていた。

 彼女は、オルテガに救われたとはいえ、一家の大黒柱を失っている。その為、生活は貧しく、母の手だけでは、娘一人育てられない状況に陥っていた。

 そんな中、救いの手が伸ばされる。それこそ、先代女王が崩御し、混乱を極める<イシス>の国でその手腕を最大限に発揮し始めたあの老婆なのだ。

 

 初めは気がつかなかった。新女王が孤児や、魔物により働き手を失った者達へ援助を決定したのだと思っていた。

 その恩返しという理由もあり、宮廷での士官を志す事となる。だが、宮廷内に入った時、その中の様子は、彼女の考えていた物とは違っていた。

 傀儡という事が一目でわかる女王。

 権勢を想うがままにするその祖母。

 彼女は、自分の恩人がその祖母である事に、複雑な想いを持っていた。

 

「……さて……残るは、お前達の処遇じゃな……」

 

「!!」

 

 そんな周囲の人間を無視し、振り向いたアンリの顔は、厳しいものだった。

 その表情に、びくりと身体を震わせた二人の男は、視線を後ろにいるカミュへと向ける。

 『俺達は約束を守ったぞ』と。

 

「……恐れながら……」

 

「よい! そなたの言う事は解っておる」

 

 溜息を一つ吐いたカミュが口を開くや否や、アンリがそれを遮った。

 その口調は穏やかではあるが、瞳に宿る光はとても厳しい物であった。

 

「お前達の内、王家の秘宝が入った宝箱を開けたのはどちらじゃ?」

 

 突如口を開いたアンリの言葉に、最初は何を言っているのか理解出来なかった男達であったが、その内容を理解した後、男の内一人が手を挙げた。

 

「……そうか……では、その秘宝自体を最初に手に取った者はどちらじゃ?」

 

 続いたアンリの言葉は、謁見の間にいる人間全てを混乱に陥れる。

 何故、今そのような事を聞くのか。

 それが誰にも理解できなかった。

 そして、内容を理解した男達の内、先程宝箱を開けたと手を挙げた男とは別の男が手を挙げる。それを確認したアンリは、一度目を瞑り、そして口を開いた。

 

「……わかった……お前達が犯した罪は、このイシスを包む砂漠の砂よりも深い。その大罪は、死をもって償う以外ない」

 

「!!」

 

 アンリの言葉は、静かな謁見の間に響き渡る。

 男達には、もはや反論する気力は萎えていた。

 アンリの威光に委縮してしまっていたのだ。

 実際は、何度も逃亡を企てた。

 <ピラミッド>から出た時。

 町に入った時。

 

 しかし、そのどれも実行が不可能だった。

 <ピラミッド>から出た彼等に待っていた物は、数え切れぬ程の魔物。カミュの<ルーラ>でなければ、そこからの脱出は不可能であり、彼等はイシスの町に来る以外はなかったのだ。

 そして、町の中での逃亡は、彼等が最も見下していた幼い少女によって阻まれる。その強力な魔法を持ってすれば、自分達等、すぐにでも灰と化してしまう事を知ったのだ。故に、そこでも逃亡は成功しなかった。

 

「……だが、お前達の話が、このイシス国を解放に向かわせた事も事実……よって、イシス国内の永久追放を申し渡す。今後いかなる理由があろうとも、イシス国内に立ち入る事を禁ずる。この謁見の間を出た瞬間から、二度とこのイシスの城及び、町への立ち入りも禁ず」

 

「!!……ほ、本当か!? 約束する。もう二度とこんな国には来ねぇよ!」

 

「お、おれも誓うぞ!」

 

 アンリの言葉を最後まで聞き終わった二人の男は、何度も首を縦に振った後、アンリが発した退席の命に従い、跳ねるように謁見の間を出て行った。

 そして、残るはカミュ一行だけ。

 

「じょ、女王様。お言葉ですが、あの者達を捨て置く事は、この国の為になりません。先代女王の殺害など、前例のない程の大罪。それを咎めもせずに国外に出すなど、イシスの沽券に係わります」

 

 静けさが支配する謁見の間で初めに口を開いたのは、あの女官であり、アンリを呼びに来た者である。アンリの祖母が決定した施策により命を拾われ、イシス国に全てを捧げる事を誓った者。

 しかし、国を憂うその言葉は、続く女王の言葉で砕かれた。

 

「……よい……いずれにせよ、あの者達は、このイシスを出る事など出来はしない。いや、イシスの町から幾ばくも離れる事など出来ぬであろう」

 

「……ど、どういう事ですか?」

 

 毅然とした女王の話の内容が掴めない。

 聞き返した女官に向かって、アンリは若干表情を緩めた。

 

「……あの秘宝には、王家の呪いがかけられていると言い伝えられておる。その秘宝が納められている箱を開けた者と、秘宝を手にした者には呪いが及ぶとな。その内容は詳しく伝えられてはおらぬが、王家の『護り人』の怒りを買い、魔物を呼び寄せてしまう呪いという事だ」

 

「!!」

 

「……ふむ……そなた達には、何か覚えがあるようじゃの?……そなた達の中に秘宝を手にした物はおるのか?」

 

 アンリが語る『王家の呪い』の内容に、カミュ達全員が驚き、一斉に顔を上げてしまう。その様子に、アンリは一行の中にその秘宝を手にした物がいるのかを尋ねた。

 恐る恐る手を挙げたのは、サラ。そしてそれに遅れるようにメルエも手を挙げた。

 実際、もう一つ<魔法のカギ>と呼ばれる秘宝もあるのだが、アンリの言う『呪い』の内容が起こり始めたのは、黄金に輝く鉤爪に触れてからであった為、カミュは沈黙を通し続けた。

 

「……そうか……そなた達二人は、その秘宝に触れた後、この場に持って帰って来たのか?」

 

「…………」

 

 呪いの内容に恐怖したサラは、言葉を出せず、全力で首を横に振る。元々口数の少ないメルエは、いつものように否定を表す為にゆっくり首を横に振った。

 

「…………もどした…………」

 

 首を振った後、その秘宝への対処をメルエが口にする。直答を許されていない場面での発言にリーシャは驚くが、女王であるアンリの瞳は柔らかな光を湛えていた。

 

「……そうか……ならば問題はなかろう。手に取っても、それを元に戻した場合、その者達の呪いは解かれる。戻した者が別の者であった場合は、その者の呪いが解かれる事はないがな……」

 

 つまり、落ちていた秘宝を手に取ったメルエは、箱に戻す際にサラに手渡したとはいえ、共に箱に戻し、蓋を閉めた。しかし、あの盗賊達は、盗み出す目的で取り出し、『護り人』達の怒りを買った為、その秘宝を取り落とし、元に戻す事は出来なかったのだ。

 故に、彼等に対する『呪い』はまだ活きていると言うのである。

 確かに、一度は土に還って行った『護り人』達が再度登場したのは、あの盗賊達が合流してからという事になる。

 何とも微妙な線引きではあるが、もし、カミュ達がこのイシスの町を出た際に魔物の大群が待ち受けていなければ、『呪い』は解かれたと言っても良いのだろう。

 しかし、もしそれが事実だとすれば、あの盗賊達の末路は相当に悲惨なものとなる。

 逃げても逃げても現れる大量の魔物。

 立ち向かうには数が多すぎ、逃げるには限がなさすぎる。

 古代のイシス王家もとんでもない『呪い』を残したものだ。

 

「……そなた達には、礼を言う。このイシスを長き眠りから覚まさせてくれた事を。本日はこのイシスでゆっくりと休むが良い」

 

「……ありがとうございます……」

 

 再び玉座に戻ったアンリは、カミュ達一行に労いの言葉をかけ、本日の宿泊を認めた。しかも、それは、イシスの町の宿屋ではなく、このイシス城の客間でという申し出だ。

 それは、旅の者としての扱いではなく、イシスの国賓としての扱いに等しい。

 畏れ多いその言葉に、カミュは遠慮をする事を失礼と考え、素直に頭を下げた。

 カミュが頭を下げた事により、その隣に跪くメルエもまた小さく頭を下げる。その様子に、アンリの表情は優しい物へと変わって行った。

 しかし、メルエは気付いていた。

 頭を下げる前に見たアンリの瞳が潤んでいる事に。

 まるで泣く事を必死に我慢するような、そんな気高い姿がメルエの心に焼き付いて行く。

 

「……カミュとやら……そなたに話したき事がある。陽が落ちた頃、我が部屋に参られよ」

 

 そしてリーシャは聞いていた。

 跪き、頭を下げるカミュの横を通り過ぎる時に呟いたアンリの言葉を。

 それは、逢引の約束。

 いくらアリアハンの掲げる『勇者』といえども、一国の女王と行って良い物ではない。

 『はっ』と顔を上げたリーシャは、去りゆく女王と視線が合ってしまった。

 この世と思えぬ程の美貌を持つ女性。

 『この女性にかかれば、如何に人間味の少ないカミュも虜になるのではないか?』

 『そして、旅をここで終えてしまうのではないか?』

 そんな疑惑がリーシャの胸に残った。

 

 

 

 イシス砂漠の西に太陽が沈み、城内を暗闇の支配が始まった頃、夕食を取り終え、湯浴みを終えたカミュが謁見の間から左に入った所にある階段を上り、一つの部屋の前に立っていた。

 軽いノックの後、返答もなくドアが開く。

 ドアを開いたのは、この部屋の主であり、この国の主でもある女王アンリその人であった。

 

「よう来た。さあ、誰かに見られぬ内に中へ入れ」

 

 アンリの言葉に導かれるようにカミュは中へと入って行く。部屋には、数多くの花々が飾られており、むせ返る様な花の匂いが部屋を満たしていた。

 

「本来ならば、従者がここで寝泊りをするのだが、今宵は下がらせた。これで、心おきなくそなたと話が出来る」

 

「……私のような者に、どのような話が……」

 

 部屋へとカミュを誘った後、部屋の扉に鍵をかけ、自らは中央に位置する場所に置かれているベッドへと腰かけた。

 どこに行けばよいのか判断し辛いカミュは、アンリの対面に立ち尽くしている。

 

「ふっ。そう身構えなくとも良いではないか……ふむ……まずこれをお主に」

 

 薄い笑みを浮かべたアンリは、ベッドの脇から何かを取り出し、カミュへと手渡す。それを受け取る為に一歩前に出たカミュは、手渡された物に驚いた。

 

「……これは……」

 

「それは、このイシスに古来より受け継がれてきた物じゃ。そなたが真の『勇者』であれば、これも役に立つじゃろう」

 

 アンリがカミュに手渡した物は、一冊の書物。

 それは、ロマリアでカミュが持ち出した物と同じものだった。

 書物といえど、ページは二枚しかない簡素なもの。

 古の『勇者』が残した魔法の契約書である。

 

「……このような物を……」

 

「よい。この国にあったとしても無用の長物じゃ。そなたが手にした方が使い道もあろう」

 

 カミュは、手渡された物が、各国が保有する現存の魔法書の中でも希少性が高い物だという事を理解し、驚きに顔を上げるが、アンリはそれに対して首を一つ横に振る事で答えた。

 

「……そのような物の事はどうでも良い。妾は、そなたの事を聞きたい」

 

「……私に女王様を喜ばせる話など出来はしませんが……」

 

 女王の言葉に珍しく困惑を表すカミュの表情にアンリは少し表情を緩ませる。それが、カミュにとっての辛い会話の始まりだった。

 

「……まぁ、良い。では、問おう。そなたの瞳には、『絶望』と『諦め』が今も尚宿っておる。それでも前に進むのは何故じゃ?」

 

 女王の問いかけは、カミュの予想を大きく違えていた。

 しかし、その問いかけの内容は理解が出来る。

 カミュ自体、己の胸の中にある感情は知っているのだ。

 それでも、カミュはそれに答えるつもりはなかった。

 

「女王様のお言葉の……」

 

「逃げ口上はなしじゃ。真剣に答えてください……」

 

 カミュは驚いた。

 アンリの最後の言葉は、今までの様な口調ではなかったのだ。

 年相応のカミュと同年代の女性のもの。

 今日、玉座に上り、謁見の間に広がる光景を見た時、アンリは『覚悟』を決めたのだ。

 真の女王となるべく、その態度を毅然とした物へと変え、そして前を向いた。

 

「……そなたは……そなたの瞳に宿っている物は、変わりつつある。それは何故です?……何の為に、何を想って、そなたは前を向こうと決めたのですか?」

 

 カミュはアンリの姿を見て、視線を落とした。

 暫しの静寂の後、カミュは口を開き、言葉を溢す。

 

「……わかりません……」

 

「そのような言葉……!!!」

 

 カミュの言葉に、自分の真剣さが伝わらなかったのかと怒りを露わにしようとするアンリの瞳に映ったのは、唇を噛み、悔しそうに俯く一人の青年だった。

 それが意味するもの。

 それは、アンリの問いを真剣に受け止め、考え、それでも自分の変化の理由が解らないという意思表示に他ならない。

 

「……そうですか……」

 

「ただ、女王様がおっしゃるように、私が少しでも変わったとしたのなら……それは、身近にいる人間の変化を目の当たりにしたからかもしれません……」

 

 残念そうに俯き、ベッドのシーツを強く握ったアンリの耳に絞り出すようなカミュの声が聞こえた。

 それは、彼なりに考えた結果の答え。

 それが、アンリの顔を勢い良く上げさせた。

 

「……そなたの瞳には、若干の『希望』も含まれています。それが、そなたの中の変化に繋がっているのか……それとも、そなたの未来を表しているのかは解りません」

 

「……」

 

 カミュは押し黙った。

 自身の胸に生まれ始めている物。

 それに、カミュは気付かないようにして来たのだ。

 『死』という明確な最後が見える旅。

 そこに迷いを生む可能性をカミュは気付いていた。

 

「そなたは、今、前を向いて歩いていますか?」

 

 アンリの表情はとても優しい。玉座に座っていた時のような張りつめたものでもなく、以前見たような全てに諦めたような生気のないものでもない。

 とても慈愛に満ちたその優しい笑みにカミュは暫し見とれてしまう。

 

「……わかりません……」

 

「ふふふっ。そなたは全て『わかりません』ですね」

 

 アンリの問いに先程と同じ答えを繰り返すカミュ。しかし、その答えにアンリは、先程とは異なる微笑みを浮かべている。

 整った絶世の美女の微笑みは、薄暗い部屋を明るく照らし出すような綺麗な微笑みだった。

 

「……本日、そなたの隣に幼い少女が控えていたのに気が付いていますか?……あの者の名は?」

 

「……メルエと申します……」

 

 微笑みを浮かべたまま、少し話題を移動したアンリにカミュは完全に飲まれていた。

 例え女性であろうが、国の要人であろうが、気後れする事のないカミュがペースを乱されている。

 もしかすると、カミュは女王という存在に弱いのかもしれない。

 

「……メルエ……素敵な名。メルエはそなたを護っていました……私やその他の外敵から……彼女が何故、そなたを護ろうとしていたのか。それが、そなたの中にある迷いを晴らしてくれる物となるのかもしれません」

 

「……」

 

 カミュは心底驚いた。アンリの言葉は、種族こそ違えど、アンリと同じ女王としての立場を持つ女性が発した言葉と同じものだったのだ。

 

「そなたは私と違い、色々な場所で、色々な物を見て行くのでしょう。できれば、再びこの地を訪れてほしい……そして、『魔王討伐』という使命を果たし、その迷いも晴れたのならば、この地で……共に暮らしてはもらえないだろうか」

 

「!!」

 

 今度こそ、カミュは息が止まる程の驚きを見せる。常に表情に感情を出さないカミュが、誰でも解る程の驚愕の表情を見せたのだ。

 それもその筈であり、アンリの発したその言葉は、求婚の言葉。

 それも、ロマリアの王女が発したような打算に満ちたものではない。その証拠に、俯いたアンリの褐色の肌は、暗がりでも解る程に赤らんでいるのだ。

 

「……何故?」

 

「わ、わかりませぬ!……ただ……色々な場所に行き、色々な物を見て、そして変わって行くそなたを見て行きたい。そなたの瞳の色がどのように変わって行くのかを妾は見たいのです!」

 

 再び口調が変化したアンリに、カミュは目を丸くする。

 これが、アンリの本性なのかもしれない。

 威厳を見せる為の物でもなく、女性としての体裁を繕っている物でもない。

 そして、ついにカミュの表情が崩れた。

 

「……くくくっ……申し訳ありません」

 

「……むっ……女性の一世一代の真剣な想いを笑うなど、死罪に値するもの」

 

 カミュの仮面が剥がされたのと同様に、アンリの仮面も見事に剥がれて行った。

 そこにいるのは、同年代の男と女。

 十六という、子供と大人の境目にいる者達。

 それは、女王と旅人という垣根をも越えて行く。

 

「……女王様……」

 

「アンリです」

 

 口を開きかけた、カミュの呼びかけに、不満気な表情を作り、自らの名を叫ぶアンリ。それが、カミュの中でメルエと重なってしまう程、幼く映った。

 

「……そなたには、妾の名を預ける。それが、そなたと妾の約定の証。妾の夫となるか否かは別としても、再びこの地を訪れる事の約定……良いな?」

 

 最後は若干不安気な表情を浮かべたアンリに、カミュは笑顔で頷いた。

 カミュの笑顔。

 それは、リーシャやサラですら数える程しか見た事のない希少な物。

 それをアンリは一夜にして、生み出したのだ。

 

「……ただ、おそらく私は、アンリ様の意向に沿う事は出来ないでしょう。この旅の先にあるのは、私の『生』ではないでしょうから……」

 

「!!……そなたは……」

 

 カミュの語った可能性は、『魔王』という強大な存在に立ち向かう者に付き纏う当然の可能性。

 アンリとて、カミュ達の旅の目的を忘れた訳ではない。それでも、当の本人から、悲観的な言葉が出るとは思っていなかった。

 『魔王討伐』という悲願に向かう者とは『英雄』であるという先入観は、アンリという女王もまた持っていたのだ。

 

「……そして、もうよろしいでしょう?……アンリ様が、私に問いかけた問いは、自らに対する問い。謁見の間での自分の決断に対する疑念。私はそれを肯定する事も、否定する事も出来ません」

 

 余裕を取り戻したカミュは、アンリの内にある本来の姿を見出す。

 今宵、カミュを呼び、問いかけた内容は、自問自答を繰り返した物だろう。

 如何に国を前に進める為とはいえ、自らの最後の血縁である祖母を処断し、死罪を告げた。

 それが果して正しかったのか。

 母親の仇といえども、アンリが幼い時にはとても優しかった祖母を処断したという事実は、アンリの心を苦しめていたのだ。

 

 勉強も、(まつりごと)も、アンリは祖母に教わった。

 イシス国随一の賢者と謳われた女性の指南を受け、アンリは育ったのである。

 その祖母の命を奪ったのは、孫娘である自分だった。

 カミュを見上げるアンリの頬を大粒の涙が伝う。

 それは、後悔の涙なのか。

 それとも、哀しみの涙なのか。

 

「……妾は……妾は……」

 

 そのまま顔を伏せ、大粒の涙を落すアンリ。

 それは、あの謁見の間でメルエが見た『気高い姿をした女王』という衣を脱いだアンリの姿。

 祖母が謁見の間を出て行く後姿を見て、アンリは恨む気持ちが湧く事はなかった。母を奪い、自分の自由さえ奪った相手にも拘わらず、アンリの脳裏には笑顔を浮かべる祖母の姿しか浮かんでは来なかったのだ。

 

 必死に涙をこらえ、その場を終えて部屋に戻った時、アンリの胸に大きな穴が空いていた。

 母親の霊に出会い、真実を知らされた時、アンリの心に『復讐』の二文字が浮かばなかったと言えば嘘になる。

 それでも、母親の言う『恨むな』という言葉、そして、母の信じる『忠臣』としての祖母の存在、祖母の行う政治の裏に、数え切れぬ程の国民の苦しみがある反面、それと同様に数え切れぬ程の国民の命が救われている事実、それらが、アンリの心を幾度も思い留まらせた。

 

「!!」

 

「……今宵だけで良い……胸を……」

 

 俯いて涙を流していたアンリが、突如、カミュの胸に飛び込んで来る。それに驚き、戸惑うカミュであったが、一つ溜息を吐いた後、その肩を抱き、アンリに胸を貸した。

 

 

 

 暗闇が支配する廊下で、一人の女性が苛々と指で腕を叩きながら、壁に背をつけ、立っていた。

 カミュ達一行が宿泊を許された客間は二部屋。勿論、一つはカミュの一人部屋であり、もう一つはリーシャ達三人の部屋となる。

 その一つの部屋のドアの前で、その部屋に泊まるはずの青年を待つ一人の女性。

 それは、パーティー内で最強の攻撃力を誇るアリアハン屈指の女性戦士。

 

「……どこに行っていた?」

 

 暗闇の中、その部屋に近づいた影に視線を向ける事なく発したリーシャの言葉は、まるで地獄の底から響くような声。

 自分の部屋のドアの前から突如かかった声に、カミュは顔を上げた。

 

「……ああ……アンタか……こんな夜更けに一体何の用だ?」

 

「お前こそ、こんな夜更けにどこへ行っていたんだ!?」

 

 何事もなかったように口を開くカミュの態度が、リーシャの怒りの導火線に火を点す。突如怒鳴り出したリーシャにカミュは溜息を洩らした。

 

「……アンタの機嫌が何で決まるのか、良く解らないな……」

 

「な、なんだそれは!? 私の質問に答えろ! お前は女王様の寝室へ行っていたのか!?」

 

 もはや、リーシャの質問は『何処に行っていた?』というものではなく、その場所を断定し、確認を取っているだけのものになっていた。

 そのリーシャの発している言葉に、もう一度カミュは深い溜息を吐き出す。

 

「……知っていたのか?」

 

「!! やはりか! 女王様の寝室で何をしていた!?」

 

「それをアンタに話す必要性はないが……」

 

 最近、表情が豊かになり、感情を表に出す事の多くなったカミュを見続け、リーシャは忘れていたのだ。

 今目の前にいる青年が己に干渉される事を嫌うという性質の持ち主である事を。

 

「~~~~!! お前は、アリアハンの掲げる『勇者』ではあるが、一国の女王と釣り合う身分ではないぞ! そのように浮ついた気分では、とてもではないが、オルテガ様の遺志を継ぐ事など出来はしない!」

 

「……」

 

 無表情を強くしたカミュの返答に、リーシャの頭に血が昇る。

 そんなリーシャが発した言葉は、カミュの感情を完全に削ぎ落としてしまった。

 

「……変わったと思っていたが……見誤っていたようだ……」

 

「はっ!?」

 

 カミュの冷たい表情と言葉に、リーシャの頭から一気に血の気が引いて行く。

 自分は何を言ったのだ?

 『身分』?

 『オルテガの遺志』?

 そんな事が言いたくて、このドアの前で数刻もの間、苛々しながら待っていた訳ではない。

 リーシャは自分の感情的な行動に嫌気が差した。

 

「ち、違うんだ。そういう意味ではない!」

 

「……身分の違いで言えば、俺がアンタと話す事すら許されはしないのだろうな……」

 

 カミュは表情を失くしたまま、能面のような顔で、リーシャの脇をすり抜ける。自分の横を通り過ぎるカミュの言葉を聞いた時、リーシャは思わずその腕を取ってしまった。

 

「……まだ、何か用なのか?」

 

 腕を取られた事にも表情を全く変えずに振り向いたカミュの顔に感情は見えない。まるで、その辺にある置物に触れた時の様なもの。それに対し、リーシャは久しく感じていなかった恐怖を感じた。

 だが、それがアリアハンで感じた『恐怖』とは異なる物である事までは気付いてはいない。

 

「すまない。そういう事ではないんだ。話を聞いてくれ」

 

 先程の失言を素直に謝罪するリーシャの言葉が、カミュの表情に変化をもたらす。

 感情を表に出す事の多いリーシャではあったが、自分の発した言葉を即時に撤回する事は珍しい。カミュはその事に驚いていた。

 

「……何だ?」

 

「いや……つ、つまりだな……お前は……イシス国王である女王様の寝室で何をしていたんだ?……ぶ、無礼な事はしていないだろうな?」

 

 もう一度振り返り、リーシャの目を見て立つカミュに、当のリーシャは視線を合わす事をせずに、床に向かってつぶやき始める。

 

「……無礼な事?」

 

「そ、そうだ。お前が何か無礼を働けば、私達全員がイシスの国敵となるばかりか、お前を送り出したアリアハンまでもがイシスと敵対する事になる!」

 

 リーシャの言葉を聞き返すカミュに、リーシャは明らかに今思いついたような理由を話し出した。

 言っている事は当然の事ではあるが、対外的には常に仮面を被るカミュがそのような事をしない事ぐらい、リーシャにも解っている筈だった。

 

「……無礼になるのかは解らないが、これを拝領した……」

 

「そ、それは……?」

 

 カミュが差し抱いた物は、一冊の書物。いや、書物というよりも、表紙と背表紙しかない三枚の紙と言っても良いのかもしれない。

 

「……この<イシス>に伝わる、古代の英雄が残した魔法書らしい……」

 

「なに!?……とすると……あの『勇者』しか使えない魔法の事か?」

 

 差し出された物を見つめながら問いかけるリーシャに対し、カミュは一つ頷いた。

 古代の英雄。つまり、時代と共に『勇者』として語り継がれている者達が残した遺産。

 そして、今この時代でその魔法を行使出来る者を、リーシャは目の前に立つ青年しか知らない。

 もしかすれば、リーシャが知らない土地にその魔法を使える者がいるのかもしれないが、そのような者がいるとすれば、『魔王討伐』という宿命を背負う事になるのは明白である。

 だが、ここ十数年の間で、世界中で『魔王討伐』の旅に出た『勇者』の中で、国を挙げての者となれば、アリアハンの英雄オルテガとその息子であるカミュしかいないのだ。

 

「そ、そうか……それ以外は何もしていないのだな?」

 

「……先程から気になっているが、アンタの言う『それ以外の事』とは何を指している?」

 

 カミュの答えを聞き、どこか安堵の表情を浮かべたリーシャではあったが、もう一度カミュに念を押した際に、聞き返された内容に再び苦い表情を浮かべた。

 

「そ、それは……解るだろ!」

 

「……解らないから、聞いているのだが……」

 

 少し慌てたように返答するリーシャであったが、冷静に、そして本当に理解出来ないかのように問いかけてくるカミュに絶句する。

 

「くっ!……無礼な事だ!」

 

「……いや……何度も聞くが、何が『無礼』に値するのかを聞きたい。アンタが指し示す『無礼な事』と言うのは何の事だ?」

 

 絞り出すようなリーシャの答えにも納得の意を表さないカミュは、尚もリーシャを問い詰める。

 『うっ』と言葉に詰まるリーシャを見つめ、その答えを待つカミュの目を見たリーシャは俯きながら、言葉を呟いた。

 

「……解らないのならば、もう良い。変な事を聞いて、すまなかった……」

 

「……良いのか?」

 

 若干肩を落とし気味に言葉を洩らすリーシャに、もう一度問いかけたカミュは、本当にリーシャが言いたい事を理解していないようだった。

 『つまりはそういう事なのだろう』とリーシャは思う事にしたのだ。

 『自分の考えているようなことは起きていないのだ』と。

 

「あ、明日はもう<イシス>を出るのだろう?」

 

「……ああ……もしかすると、歩く旅はここらで限界かもしれないからな……」

 

 誤魔化すように話題を変えたリーシャを訝しむ事もなく、カミュはその問いに答える。しかし、カミュが呟く内容に疑問を持ったリーシャは、首を若干傾げる仕草をした。

 

「どういう事だ?」

 

「この大陸以外に行くには、アリアハンの時の様な『旅の扉』がある訳ではない以上、『船』等が必要になってくる筈だ」

 

 律儀に答えるカミュの言葉に、『あっ!?』と声を上げたリーシャはようやくカミュの紡ぎだす意味を理解したようだった。

 アリアハン大陸から出る為には、強い魔物達が蔓延る海域を渡る船ではなく、『旅の扉』という古からの移動手段を使ったが、この大陸にその扉があると言う噂は聞かない。

 ならば、絶壁のような山を登るか、それとも海を渡るかしか方法がない事は事実だ。

 ならば、山に杭などを打ち込みながら登るよりも、多少魔物が出ようが、海を渡った方が安全である。ただ、問題はどこから船が出ているのかという事と、今も尚、その船は出ているのかという事だけである。

 

「船がどこから出ているのかは、見当が付いているのか?」

 

「……さあな……」

 

 リーシャの疑問に、素っ気なく答えるカミュ。

 その態度に、先程の問題での怒りが再び湧き上がるリーシャ。

 

「『さあな』とは何だ!? この旅は、お前が行く先を決めなければ、路頭に迷うんだぞ!」

 

 カミュは大きく溜息を吐き出した。

 もはや、先程までの無表情ではない。

 

「……アンタには、考える頭はないのか?」

 

「なに!? 私が考えるより、お前が考えた方が良いに決まっているだろ!」

 

 再び、頭に血が上り始めたリーシャが叫ぶ言葉は、全てをカミュに丸投げするようなものだったが、不思議とその言葉にカミュは不快感を覚えなかった。

 それが何故なのかをカミュはおそらく理解出来てはいないだろう。

 

「……この城に居た人間の兄が、世界を旅する事を夢見ていたそうだが、<アッサラーム>へ行ったきり、その町に居付いたらしい。その人物なら、世界を回る手段に心当たりがあるかもしれない」

 

「な、なに?……あの町に戻るのか?」

 

 溜息と共に吐き出されたカミュの答えを聞いた瞬間、リーシャの頭から血が下りて行く。再び、あの町に入る。それは、リーシャにとって、あまり歓迎する事の出来ない決定だった。

 

 メルエの義母がいる町。

 それは、メルエにとって、忌むべき記憶の眠る町という事。

 その町に情報収集の為とはいえ、入らなければいけない。

 メルエは大丈夫だろうか。

 そんな想いが、リーシャの表情に影を落とす。

 

「……心配するな……メルエをあの義母に会わせるつもりはない……」

 

 豹変したリーシャの表情に、カミュの無表情が崩れる。

 彼は知っているのだ。

 この屈強な女戦士が、自分の悩みだけでこのような表情をしない事を。

 彼女が悩む表情をする時は、決まって自分以外の人間を想っての事であるという事を。

 

「そ、そうか……仕方がないな……どうしても寄らなければいけないのだろう? 私達がメルエを護ってやらないとな……」

 

 そんなカミュの考えが正しい事が、リーシャの言葉で証明された。

 リーシャの答えに、少し笑みを浮かべたカミュは、小さく頷き、部屋へと入って行く。ドアの前に一人残されたリーシャもまた、表情を引き締め、明日は苦しみに悩むであろう幼い少女の眠る部屋へと歩き出した。

 

 

 

 

「……船か……ふむ……そうじゃな、もしかすると<ポルトガ国>へ向かう事になるかもしれんな……」

 

 翌日、旅立ちの報告の為に謁見の間に訪れた一行に、イシス女王であるアンリは呟く。その姿には、昨日カミュに接したような気やすさはなく、威厳に満ちた物へと変化していた。

 

「古来より、ポルトガは貿易で栄えた国と聞く。貿易となれば船も必要となろう。妾が文を認めてやろう」

 

 いや、実際はカミュ達に心を許し始めているのかもしれない。その証拠に、アンリの話す一人称が『妾』という自分を下げる為のものとなっていた。

 

「……有難きお言葉……」

 

「むっ! これ、カミュ……その言葉は止めよ」

 

 恭しく頭を下げるカミュに、端正な顔を曇らせたアンリは、一言苦言を呈した後、側近に筆を運ばせ、すらすらと文を認め始めた。

 

「ふむ。これでよかろう……これ、そこの幼き者」

 

 しかし、アンリは書き終えた文を側近に渡す事もなく、今日もカミュの横で跪くメルエに向かって、声をかける。

 昨日とは違い、顔を下げたまま赤い絨毯を見つめるメルエは、その言葉に気付かない。

 

「う~む。これ、メルエ!」

 

「!!」

 

 少し悩んだ様子の後、意を決したように、アンリはメルエの名を口にした。

 突然呼ばれた自分の名に、メルエは驚き、弾かれたように顔を上げる。本来なら、顔を上げる前に返事を返すのだが、幼いメルエにその作法など解ろう筈がない。

 

「ふむ。近う寄れ」

 

「…………???…………」

 

 顔を上げたメルエにアンリは再び声をかけるが、メルエにはその内容が示す意味が理解出来てはいなかった。

 どうしたら良いのか解らずに、小首を傾げながらカミュの方に視線を向ける。小声で『女王の近くに行けるか?』と聞くカミュの言葉に小さく頷いたメルエは、恐る恐る立ち上がり、ゆっくりと玉座に近づいて行った。

 

「もっと近う」

 

 ゆっくりと近づくメルエを歯痒そうに見つめ、アンリは再び声をかけた。

 一歩一歩ゆっくりとではあるが、しっかりと近づくメルエは、ついに、玉座のある祭壇の様な場所の麓に辿り着く。作法の知らないメルエは、そこで跪く事なく、玉座に座るアンリを見上げていた。

 

「その者! 無礼であろう! 女王様の御前であるぞ!」

 

「よい!」

 

 メルエの姿に、不快感を露わにした側近の一人が声を荒げるが、アンリは静かにそれを制する。そして、そのまま玉座を立ち、メルエの立つ場所まで下り、そしてメルエに視線を合わせる為にしゃがみ込んだ。

 それは、一国の国王としては異例の行為である。例え、昨日イシスにとって功績を残した者達であったとしても、その待遇は一国の国王として行ってはならないものだったのかもしれない。

 それでも、アンリはこのメルエという幼い少女と話をしたかった。

 

「……メルエで良いな?」

 

「…………ん…………」

 

 再び名を尋ねるアンリに、言葉少なにメルエは一つ頷きを返す。後ろに控えるリーシャ等は、不安と心配で胸を押し潰されるような感覚を味わっていた。

 

「メルエ、そなたは『魔法使い』なのか?」

 

「…………ん…………」

 

 アンリの問いかけに、今度は若干胸を張って答えるメルエ。

 アンリの問いかけは、メルエの誇りでもあった。

 

「ふむ。ならば、そなたにこれを送ろう。手をこちらに」

 

 メルエの答えに、とても美しい笑顔を浮かべたアンリは、その懐から小さな指輪を取り出す。

 メルエは、何をするのか理解できない様子で、小首を傾げながらも、右手をアンリに向かって差し出した。

 

「これは、『祈りの指輪』と呼ばれる物。この指輪を指に嵌め、『精霊ルビス』様に祈りを捧げれば、その者の気力と魔法力を再び戻すと云われておる。そなたは後ろに控えるカミュ達にとって、これからの旅でなくてはならぬ存在となろう」

 

 メルエには少し大きな指輪であったが、メルエの中指に通すと、その指輪は自然とその形状を変化させて行き、メルエの指にすっぽりと納まった。

 不思議そうにその様子を見ていたメルエは、もう一度アンリを見上げ、首を傾げた。

 

「この指輪は、そなたが皆を護ろうと強く願った時に、必ずそなたの助けとなろう。祈りの捧げ方は、そなたの仲間の僧侶に聞くが良い」

 

「…………ん…………あり………がと……う…………」

 

 一国の国王に対する謝礼としては余りにも軽い。その言葉に、女王の後ろに控える側近や文官、武官の人間達が眉を顰めるが、女王自身がとても美しい笑顔を浮かべている事から、何も言えずに黙っていた。

 

「ふふふ。ただ、メルエ。その指輪は何度もルビス様のお能力(ちから)に耐える事が出来る程の強度はない。過信は禁物じゃぞ」

 

「…………ん…………」

 

 笑みを浮かべながらメルエに注意を促すアンリに、メルエは真剣な表情で頷いた。そんなメルエに、アンリの表情は暖かく美しい笑みを濃くする。

 

「それと……メルエ、約束してはくれぬか?」

 

「…………???…………」

 

 続くアンリの提案に、メルエの首が傾いた。

 一国の女王と約束等、メルエには思い浮かばないのだ。

 

「旅が一段落する度にでも、この国に顔を出してくれぬか?……いや、最悪『魔王討伐』を成した後でも良い。必ず、元気な姿を妾に見せておくれ。」

 

「…………ん…………やく……そく…………」

 

 アンリの言葉を一つ一つ頭の中で消化し、内容を把握したメルエは、とても優しい笑顔を浮かべ、大きく頷いた。

 サラやリーシャ、そして唯一の友である『アン』以外との約束。

 それは、メルエの胸に暖かな風を運んで来る約束だった。

 

「ふふふ。ありがとう、メルエ。カミュを頼んだぞ」

 

「…………ん…………」

 

 最後にメルエの耳元で囁いたアンリの言葉は、メルエにしか聞こえないものだった。

 その頼みに、表情を真剣な物へと変えたメルエがしっかりと頷きを返す。書き留めた<ポルトガ>国王への文も一緒に手渡されたメルエがカミュの横へと戻り、そのマントの裾を掴み、カミュへと花咲く笑顔を向けた。

 

 

 

 町に戻り、目を覚ましたカミュの衣服を新調し、カミュの下へと持って行ったのはメルエだった。

 真新しいカミュの衣服を嬉しそうに両手で抱え、カミュの下へと駆けて来たメルエに、カミュが薄く微笑んだ事がメルエは嬉しかった。

 メルエが微笑めば、カミュも薄く微笑む。

 メルエが哀しそうに眉を下げれば、カミュもまた沈痛な面持ちとなる。

 それをメルエは知っていたのだ。

 

 

 

「カミュ。そなた達の旅は、とても険しく長い。その中で様々な物を見、様々な出来事が起こるじゃろう。それを妾へ報告する義務を課す」

 

「!!」

 

 その言葉に、カミュを始め、リーシャやサラも驚いた。

 とても一国の女王が口にする事ではない。いや、国王という『唯我独尊』を自負する人間であれば、言う可能性もある言葉だが、リーシャもサラもこの若き女王が口にするとは思わなかったのだ。

 

「な、なにか、不服があるのか?」

 

「……いえ、『魔王討伐』を果たした暁には、横に控えるメルエと共に、必ず女王様の下へご報告に上がります」

 

 自分の言葉に静まり返る広間。そして、唖然とした顔で、自分を見上げる『勇者』一行の姿に少々気不味い想いを抱いたアンリの問いかけに、少し時間を置き、苦笑のような表情を浮かべたカミュが頭を下げた。

 彼のその行動に、サラは驚き、リーシャはどこか不満顔を表す。

 

「うむ。決して、自分の身を蔑にするな。そなたは、ここに必ず戻って来るのじゃ。良いな。妾との約定、ゆめゆめ忘れるでないぞ」

 

「……はっ……」

 

 アンリの何か含みのある言葉に、カミュは静かに返答を返す。

 それを不思議そうに見るサラ。

 眉を顰め、表情を険しくするリーシャ。

 嬉しそうに微笑むメルエ。

 そして、そんな一行を暖かな瞳で見つめるアンリ。

 それぞれがそれぞれの想いを胸に、女王との謁見が終了する。

 

 

 

「……カミュ……本当に昨夜は、何もなかったんだろうな?」

 

 城を出て、町に入ってから、珍しく先頭を歩くカミュの横に並び、リーシャが口を開く。それは、昨夜と同じ問いかけ。女王の最後の言葉が、再びリーシャの胸に疑惑を持たせたのだ。

 

「……『何も』とは、何を意味しているのかをはっきりさせてくれ……」

 

 そんなリーシャに溜息を吐いたカミュも、昨夜と同じ問いかけをリーシャへと返す。カミュの言動に、リーシャは再び眉を顰めた。

 これでは、昨夜のやり取りと同じ事になってしまうのだ。下唇を噛んだリーシャは悔しそうに顔を歪める。

 

「も、もういい!」

 

「…………???…………」

 

 リーシャの突然の激昂に、カミュの足元にいたメルエが驚き、カミュのマントに潜り込む。そして、マントの隙間から、リーシャを不思議そうに見ていた。

 

「そ、それで、これからどうするのですか?……女王様の言う通り、ポルトガへ向かうのですか?」

 

 そんなリーシャの急変した機嫌による雰囲気を変えるように、サラが今後の方針をカミュへと尋ねる。

 一度サラへと視線を向けたカミュが、少し考えた後に口を開いた。

 

「いや、一度<アッサラーム>へ戻る」

 

「!!」

 

 そのカミュの回答に驚いたのは、メルエ。

 マントの隙間からリーシャを見ていた瞳が、カミュへと移った。

 

 以前に初めて知った、自分が育った町の名前。

 それが、再びカミュの口から出たのだ。

 しかも、次の目的地だという。

 

 『何故?』

 

 そんな疑問と共に、メルエの身体は震え出した。

 どんなに今がメルエにとって幸せな物だとしても、昔覚えた恐怖は消え去る事はない。

 出来る事なら、行きたくはない。しかし、カミュが口にした以上、どんなに自分が反対したとしても、決定事項である。

 それが、メルエの顔を俯かせてしまう。

 

「メルエ、大丈夫だ。今のメルエの傍には、私がいる。それにサラも。ああ……あまり必要ではないが、カミュもいたな」

 

「…………リーシャ…………」

 

 顔を俯かせたメルエを、カミュのマントの中から抱き上げる腕。

 それは、メルエが姉のように慕う女戦士。

 その口調はとても優しいが、どこか棘を含んでいた。

 

「ふふふ。そうですよ、メルエ。メルエが私を護ってくれるように、私も全力でメルエを護ります。それにカミュ様もいますし」

 

「……俺は、あまり必要ではないらしいがな……」

 

 抱き上げられたメルエの瞳にサラが映る。

 優しく、慈愛に満ちた表情で笑うサラに、メルエの震えは自然と治まって行く。そして、サラの言葉に続けたカミュの答えが、メルエの顔に笑顔を生んだ。どこか拗ねたような言葉に、自然とリーシャやサラの表情にも笑顔が浮かぶ。

 

「……ルーラを使う……」

 

 自分に集まる生温かい視線を逸らすように、移動魔法の詠唱に入るカミュを見て、一行は慌ててカミュの下へと集まって行く。

 リーシャの腕から下ろされたメルエも、カミュの腰にしがみ付き、笑顔でカミュを見上げた。

 

 今、自分がいる事を許された場所。

 今、自分を必要としてくれる場所。

 そして、何よりも、今、自分が願っている場所。

 メルエは今、その場所に立っている。

 

「ルーラ」

 

 メルエの視線に苦笑の様なものを返した後、カミュが詠唱を行った。

 砂漠へと暖かな光を降り注ぐ太陽に向かって、一行は浮かび上がる。

 そして、砂漠の東へと消えて行った。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

これでイシス編もとりあえず終了です。
第四章はあと一話残っています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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アッサラームの町③

 

 

 

 メルエが自分の記憶の中に良い物が何一つない町の門の前に辿り着いたのは、陽が傾き始め、その町の本領を発揮する事の出来る時刻が近づき出した頃だった。

 

「カミュ様、もし、それ程お時間がかからないお話であれば、私はメルエと門の外で待っていますが……」

 

「いや、今晩一晩はここで宿を取る。メルエ」

 

 メルエを気遣うサラの言葉に視線を向けたカミュは、少し表情を曇らせたが、マントを広げてメルエを呼び込む。若干怯えを見せるメルエは、眉を下げた表情のまま、カミュのマントの中に滑り込んで行った。

 メルエは、カミュのマントの中に隠れ、宿屋へと向かって歩き出す。

 町は人で溢れ始め、いたる所に派手な明かりが灯り始めた。

 これから、この町は一日で一番の活気に満ちて行く。

 宿屋に着く頃には、太陽も西に沈み始め、活気を見せ始める町の人々を紅く照らし出していた。

 太陽が完全に沈み、この町を人工的な光が覆い始める時刻まで、もうあと僅かである。

 

「カミュ、私はここでメルエと共に待とう」

 

 宿屋のカウンターで、部屋を取り終わったカミュにリーシャが声をかける。それは、サラも予想出来たものだった。

 この町に入ってから、メルエは全く口を開かない。それどころか、カミュのマントの中に隠れ、顔を出しもしない。それが何を意味するのかは、リーシャにもサラにも解っていた事だ。

 だからこそ、その後で口を開いたカミュの言動に驚いた。

 

「いや、荷物を置いた後は、全員で町に出る」

 

「な、何故だ!」

 

「そ、そうです。カミュ様もメルエの気持ちを理解しているのではないのですか!?」

 

 カミュの言葉は、今、カミュのマントの中で震えるメルエをも町に連れ出すという物だった。

 その言葉に、反射的にリーシャはカミュへと詰め寄り、サラもまた疑問の声を上げた。

 

「……メルエを護る為だ……」

 

「な、なにっ!? お前は、私の護衛では不安だとでも言うのか!?」

 

 驚く二人に振り向いたカミュは、言葉少なに答えを返す。しかし、その答えはリーシャには心外なものだった。

 メルエを護るために連れて行くという事は、メルエを護るリーシャを信頼していないという事になる。それがリーシャには許せなかった。

 リーシャは、剣の腕はこのパーティーの中でも一番であると自負している。その自分の護衛が信頼出来ないという事は、自分自身の存在価値をも否定されたと感じたのだ。

 

「……アンタの腕を疑っている訳ではない。アンタは気付いていないのだろうな……」

 

「何をだ!?」

 

 溜息を吐き、リーシャに向かって話し出すカミュの言葉に、リーシャは気勢を削がれ、首を傾げた。それはサラも同様で、カミュの話す意図が掴めない。

 

「……アンタと<イシス>で情報収集をしていた時に、立ち寄った闘技場での事を覚えているか?」

 

「ん?……どういう事だ?」

 

「???」

 

 カミュが繋げた言葉に、サラとメルエが仲良く首を傾げる。イシスの町を歩いていない彼女達は、カミュの言っている事が理解出来る訳もないが、共に歩いた筈のリーシャまでもが理解していない事に、カミュは眉を顰めた。

 疑問を返しておきながら、カミュの表情の変化に気が付いたリーシャは、自分が発した言葉がカミュの表情を生んでいる事に気が付き、言葉を詰まらせる。

 

「……アンタには諦めざるを得ないな……」

 

「くっ……もう良いだろう! さっさと内容を話せ!」

 

 明らかに呆れた表情に変わったカミュを見て、リーシャは我慢する事を止めた。

 そんなやり取りの内に一行はカミュの部屋の前まで到着していたが、鍵を解除し、ドアの中に入るカミュの後ろから、他の三人がぞろぞろと入って行く。

 カミュは、そんな一行に一瞬怪訝な表情を浮かべるが、何も言わずに部屋の中に荷物を下ろした。

 

「……あの闘技場で、兵士を見た筈だ……」

 

「ん?……ああ! あの兵士の事か?」

 

 カミュの部屋に入ったと同時に、マントの中からベッドへとメルエが移動する。ベッドの上に靴を脱いで乗り、寝転がってしまったメルエを見ても、カミュは何も言わない。どちらかと言えば、優しげな表情を浮かべていた。

 

「……あれをイシスの兵士だと思うのか?」

 

「なに!?」

 

 怪訝な表情を浮かべるリーシャ。

 サラは、まだ二人の会話について行く事が出来ない。

 

「イシスは、基本的に女性国家だ。まぁ、末端の兵士が男である可能性もあるが、あの闘技場にいた物は、その服装や立ち振る舞いから見ても、まず間違いなくイシス兵士ではないだろう」

 

「どういう事ですか?」

 

 カミュの話に、ようやくサラが口を開いた。

 イシスという国家に、イシス兵士以外の兵が入っている訳はない。

 もしそれが事実であれば、国家の問題となって来る筈だ。

 

「俺も、初めは闘技場に出る魔物対策の為に配備された兵士だと思った。アンタ達は気付いていないかもしれないが、あの兵士は、外へ出てからも俺達の後ろを歩いていた」

 

「なに!?」

 

 カミュが言うこと。

 それはつまり、自分達一行が尾行されていたという事である。

 しかも、兵士の姿をした者達に。

 ならば何故?

 

「ピラミッドに入る時にはいなかった。だが、町へ戻り、翌日登城するまでの道程ではやはり付いて来ていた」

 

「何故だ?……そいつは何者だ?」

 

 カミュの言葉に疑問を投げかけるリーシャの声は慎重なものだった。

 サラは言葉を発せずとも、視線だけはしっかりとカミュへと向けている。この場で、カミュの話に関心を示していないのはメルエだけである。

 彼女は気持ち良さそうにベッドに横たわり、目を瞑っていた。

 

「これは俺の想像にしか過ぎないが、ロマリアの兵ではないかと思う」

 

「ロマリア!?」」

 

 カミュの話す内容は、リーシャとサラの考えの斜め上を行っていた。

 何故、その国名が出て来るのかが理解できない。

 その国との関わりは、すでに終わっている筈だ。

 

「……忘れたのか? 俺達はロマリアにとっての汚点を見て来ている」

 

「なに?」

 

「あっ!?」

 

 溜息と共に吐き出されたカミュの言葉に、リーシャは答えへの道が全く見えていないが、サラは異なっていた。カミュが導き出す答えへの道を歩き始めたのだ。

 元々、鈍い部類に入る人間ではあるが、その頭の回転能力は、群を抜いている。何れは、この女性こそが、このパーティーを牽引する存在になるかもしれない程なのだ。

 

「サ、サラは解ったのか!?」

 

「えっ、は、はい。何となくですけれども……」

 

 サラの声に振り返ったリーシャは、驚愕の表情を浮かべる。カミュと共に歩いていたリーシャが全く糸口すら掴めていないのに、宿屋で待っていた筈のサラが理解するという事にリーシャは愕然としたのだ。

 そして、いつの間にか寝転んでいたメルエが起き上がり、ポシェットを探っているのを横目で確認し、顔を上げたメルエを厳しい目で睨みつけた。

 

「ど、どういうことなんだ? 説明してくれ」

 

「あっ、は、はい。これは、カミュ様と同じように想像の域を出ませんが……」

 

「それでも良い」

 

 リーシャはカミュの話を聞くよりも、サラの方へ説明を求めた。

 回りくどいカミュの話を嫌ったのか。それとも、小馬鹿にしたように話すカミュの話を聞いている事が出来なかったのかは解らない。ただ、説明を求められたサラは、一つ断りを入れると、ゆっくりと話し出した。

 

「カミュ様の言うとおり、ロマリアで私達は、ロマリア王国の恥部を見て来ました。カンダタ一味によって王家の冠が盗まれるというもの。カザーブの村の惨状。エルフとの争いを恐れ、ノアニールを見殺しにしている国家の状況などです」

 

「……そうだな……」

 

 サラが話し始めた内容に、リーシャは静かに頷いた。

 確かに、今、サラが語った物は、広大な大地を領地としている国家にとって『汚点』や『恥部』と言っても過言ではない物である。

 

「しかも、王家の冠に関しても、そしてノアニールの村に関しても、解決したのはカミュ様です」

 

「そうだな……それがどう繋がるんだ?」

 

 ここまでサラが話しても、納得しない。サラが話す内容は理解出来るが、それが先程カミュの話したようなものに結びつかないのだ。

 ただし、それはリーシャの頭の中だけの話ではあるが。そして、そんなリーシャの問いかけに、横で黙っていたカミュは盛大な溜息を吐いた。

 

「くっ! 解らない物は、解らないんだ!」

 

「……本当に『かしこさの種』でも食べたらどうだ?」

 

 カミュに鋭い視線を向け、叫ぶリーシャに、カミュは一つの提案を出す。

 そのカミュの言葉に、再びメルエが起き上がった。

 そんなメルエに厳しい視線を向けたリーシャは、サラに続きを促した。

 

「あっ、は、はい。国家の汚点とも言える問題を解決したのは、例え『勇者様』といえども、他国のアリアハンが送り出した者であるカミュ様です。それは、ロマリア王国の威信に関わる問題になります」

 

「何故だ?」

 

「……本当に……アンタは……」

 

 続くサラの話。

 それでも理解出来ないリーシャに、呆れた視線を向けるカミュ。

 そして、そんなカミュに怒りの瞳を向けるリーシャ。

 アッサラームにある宿屋の一室は、異様な空気が満ちていた。

 

「国家で解決出来なかった問題を、『勇者』とされている人間とはいえども、他国の年若い人間が、たった四人で解決したのです。『ロマリアは何をやっていたんだ?』と周辺の国家に見下されても可笑しくないという事です」

 

「……なるほど……だが、それと、先程の兵士と何が関係するんだ?」

 

 ここまでの話は理解した。それを口に出したリーシャに、少しほっとした表情をしたサラではあったが、その後に続いたリーシャの疑問に驚きの表情を浮かべる。

 

「えっ?……あ……えっ!?」

 

「~~~~!! なんだ!? サラまで私を馬鹿にするのか!?」

 

 驚きと共に、声を上げてしまったサラの表情を見て、リーシャの顔に怒りが浮かぶ。まさか、サラにまでそんな態度をされるとは思っていなかったのであろう。

 そんな二人を見て、カミュは呆れの中にも、少し優しさを混ぜた表情をしていた。

 正直言えば、カミュはリーシャの物分かりの悪さに辟易していた。しかし、それ以上に感心もしていたのだ。

 通常、『戦士』などの職業であれば、その旅の目的さえ知っていれば、後は道中で武器を振るうだけしか能のない人間が多い中、この女性戦士はその姿勢が全く違う。

 『自分が理解したい』という想いがないとは言わない。ただ、それ以上にリーシャの真剣な様子の中には、他者を思いやる部分が見え隠れしている。

 『自分が何も解らない』という状況では、いざという時に行動に迷いが出る。そうなれば、自分以外の人間を護る事に支障をきたすと言いたいのだろう。

 それはカミュの憶測の話である。実際は違うのかもしれない。だが、カミュはリーシャの怒りに燃えた瞳を眺めながら、自分の考えに確信を持っていた。

 

「……つまりだ。もし、アリアハンにとって、アンタ達宮廷騎士が何度も解決に向かい行動しても解決しなかった問題が、『ぽっ』と出て来た他国の旅人によって解決されたとすれば、何を恐れる?」

 

「……それは……」

 

 サラを問い詰めるリーシャに、苦笑を浮かべたような表情で溜息を吐き、リーシャが理解しやすいように、彼女の仕える祖国であるアリアハンを例え話に出し、カミュは話し始める。

 

「……その旅人が、アリアハンの恥部を……!!!!」

 

「……ようやく理解出来たようだな?……ロマリア王国は、俺達がイシスにて、その国情を吹聴しないように監視していたのだろう。それは、俺達の事を全世界に報告した事からも解る筈だ」

 

 カミュの問いに答えようとしたリーシャが、自分が導き出した答えを最後まで口にする前にカミュやサラの話す答えへの道に辿り着いた。

 驚愕の表情を浮かべるリーシャに、一つ溜息を吐いたカミュは、そのまま現状において推測できるものを話し続ける。

 

「俺達の行動は、常にロマリアの監視下にあったという事だ。全世界に通告したのも、先手を打って、俺達の口を封じる目的もあるだろう」

 

「……それでか……だ、だが、こう言っては何だが、私はロマリアの兵士の一人や二人に遅れを取るつもりはないぞ!」

 

 ようやくカミュが、何故メルエを宿屋に置いて行かないという選択に至ったのかが理解出来たリーシャであるが、リーシャとて、ここまで数多くの魔物と対峙して来ただけに、一般兵士相手でカミュに心配される事が心外なのには変わりない。

 

「……アンタの力量を疑っている訳ではない。ロマリア兵も強硬に出て来る事はないだろう。ただ……」

 

「??」

 

 リーシャが追求する言葉に、カミュは呆れたように呟くが、最後は言葉を発せずに黙ってしまう。その様子に首を傾げるサラ。サラは、てっきり、リーシャが考えているように、兵士が押し込んで来た時の心配をカミュがしているのだと思ったのだ。

 しかし、謎解きや国家の思惑を考える事は不得意としているが、『人』の心の機微には驚く程に鋭い一人の女性は違った。

 

「……そうか……解った。ならば共に行こう。メルエ、カミュのマントの中でも、私の傍でも良いから、絶対に私達から離れるな」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの尻すぼみな言葉に、何かを悟ったリーシャ。リーシャは、先程とは違うとても優しげな表情を浮かべ、ベッドに座るメルエに向かって注意を促す。その言葉を聞いたメルエは、眉を下げたままではあるが、しっかりと頷いた。

 

「??」

 

 理解出来ないのは、今度はサラの役目となった。不思議そうにリーシャとカミュを見て首を傾げるが、メルエが頷いたのを見ると、『自分に出来る範囲でメルエを護ろう』と心に誓う。

 

 リーシャが悟ったもの。

 それは、カミュの心配が向かっている先だ。

 リーシャが考えるには、それはメルエ。

 カミュが言うように、リーシャの腕を疑っている訳ではない。

 ただ、それでもメルエが心配なのだ。

 もしかすると、あの義母が訪ねてくるかもしれない。

 それこそ、リーシャが少し席を外した隙に、メルエが攫われるかもしれない。

 メルエの魔法という強みを差し引いても心配なのだ。

 それこそ、父や兄が抱く感情の様に。

 それが、リーシャには何故か嬉しく感じた。

 

「ほら、メルエ、行くぞ。カミュ、町へ出るのは、食事が終ってからで良いのか?」

 

「……ああ……余り遅くならない程度であれば、それで良い」

 

 ベッドから降り、リーシャの手を握ったメルエに笑顔を浮かべ、そのままの表情でカミュへと問いかけるリーシャを見て、カミュは視線を逸らしながら答えた。

 『わかった』と返した後に、リーシャはサラを伴ってカミュの部屋を出て行く。一人残されたカミュは、深い溜息を一度吐き、ベッドに腰かけた。

 

 

 

 食事を取り終え、一行は宿屋を出た。

 数多くの人々の往来と、それに伴う喧騒が混じるアッサラームの町。それは通常の人間であれば、何かしら心躍る部分があるものだろう。だが、一向にそのような浮ついた物はなかった。

 神妙な表情で歩き出すカミュ。

 そして、そのマントの中に身を隠すメルエ。

 その後ろを歩くサラ。

 そして最後尾を、周囲を警戒しながらリーシャが歩いた。

 

「カミュ、どこへ行くんだ?」

 

「……アンタ方が湯浴みをしている間に、宿屋の親父に聞いたが、イシスから来た人間が町の北の外れに居を構えているらしい」

 

「もしかして、以前に訪れた、あのぼったくりのお店の近くですか?」

 

 後方からかかるリーシャの言葉に、振り返りもせずにカミュは答えた。

 カミュの答えを聞き、自分が把握している町の状況を頭に浮かべたサラは、以前リーシャの<鋼鉄の剣>を売却した武器屋を思い出す。予想を口にするサラに、一つ頷いたカミュは町の北外れにある武器屋の方角へと歩を進めた。

 行き交う人々を描き分けて進む中、マントの中で前を見る事もせずについて来るメルエを気遣い、ゆっくりと歩を進めながら歩くカミュを見て、リーシャやサラもメルエを気遣い歩調を緩めて行く。

 

「……ここですか?」

 

 サラが見上げた場所は、すでに店仕舞いを終え、看板を下げ終えている武器屋の隣。二階建てになっている建物だった。

 その辺りには、もはや人影も疎らで、街の喧騒もどこか遠く聞こえる。

 

「カミュ、この扉には鍵がかかっているぞ?」

 

 その場所は、表札も何もない建物であり、本当に人が住んでいるのかも分からないような場所。そして、一階のフロアの横に、リーシャが言うように一つの扉がある。それにはしっかりと鍵がかけられており、まるで、侵入者を拒むかのように立ち塞がっていた。

 

「……カギを使うしかないな……」

 

「えっ!?……そ、それは……」

 

 その扉についた金具で何度かドアをノックするが、何の反応も示さない為、溜息と共にカミュは持っていた袋から<盗賊のカギ>を取り出した。

 それを見ていたサラが、抵抗感を示す。

 世界を救う旅を続ける『勇者』ともあろう人物が、盗賊のような真似をする事に抵抗を感じたのだ。それは、リーシャも同様のようで、少し顔をしかめている。

 

「……これでは無理か……」

 

 そんな二人を余所に、カギを鍵穴に差し込んだカミュではあったが、その鍵が一向に回らない。カギが合わない事を確認したカミュは、数日前に手に入れたばかりのカギを代わりに取り出した。

 

「……」

 

 もはや、リーシャとサラも何も言わない。

 『明日の朝に出直せばいいのでは?』という疑問が浮かんだ事は確かではあるが、実質そこまで時間がある訳でもない。そして、以前、隣にある武器屋を訪ねた際にも、サラの記憶の中では、この扉はしっかりと閉まっていた。

 故に、明朝に足を運べば、鍵が空いているという確証はない。中にいる人間が起床していて、開けてくれる可能性はあるのだが。

 

 乾いた音を立て、カミュの持つ<魔法のカギ>が鍵穴で回転する。

 解錠を終えた扉を押し開き、カミュは中へと足を踏み入れて行った。

 中は、火は灯されているが、その数は少なく、薄暗い明りを灯している。奥に見える階段に近づき、上の状況を確認したカミュは、一度振り返った後、その階段を上り始めた。

 気は進まないが、リーシャとサラもその後に続く以外にない為、恐る恐る階段を上り始める。建物内に入った事から、メルエもカミュのマントの中から顔を出し、リーシャの下へと移動していた。

 

「……」

 

 階段を上った先に見える光景は、一行が考えていた物と様相が異なるものだった。

 月夜が差し込むテラス。

 そして、その横に扉がある部屋。

 それは、宿屋の部屋の様に鍵の掛るドアで塞がれていた。

 集合住宅のような建物にも拘わらず、ある部屋は一つ。

 何とも変わった建物である。

 

 テラスに差し込む月明かりがとても幻想的に映る中、その灯りに照らし出されたテラスに咲く花を見つめるメルエの肩にそっと手を置くリーシャ。

 そんな二人を横目にカミュは戸口に掛る金具を叩いた。

 暫しの時間が流れた後、ゆっくりと扉が開き、中年の男が一人顔を出す。それがカミュの言っていたイシスに仕えている者の兄なのだろうか。

 

「ん?……なんじゃ、お主たちは? 外のドアにはカギをかけていた筈じゃが」

 

 出て来た中年の男は、不思議そうにカミュ達を見渡した後、少し怪訝な表情に変わった。 鍵をかけた筈のドアからの侵入者を快く迎えるはず等ない。そんな男の問いかけに、リーシャとサラは苦い顔を浮かべた。

 

「……いえ……申し訳ありません。下の扉には鍵がかかっていませんでしたので……」

 

「なに?……そうか。かけたと思っておったが、失念しておったか……」

 

 即座に返されたカミュの嘘。

 その明らかな嘘に、自分の過失である事を納得してしまう男。

 リーシャとサラは、驚愕の表情に変わった。

 特にサラ等は、世界を救う『勇者』という者に、ある意味『幻想』に近い物を持っている。それが、アリアハンを出た時に出会った青年がカミュであった事もあり、微妙な変化を生んではいるが、サラの中の根本は未だ大きく変わってはいない。

 『勇者たる者が、平気で嘘を吐く』

 その事がサラにはどうしても許容出来なかった。

 

「それで、こんな夜更けに何用じゃ?」

 

「……はい。私達は先日まで、イシスに滞在しておりました。その際に貴殿の弟君にお会いし、貴殿が世界を回る為に旅に出た旨をお聞きしました」

 

 納得はしたが、夜更けに訪れる旅人への警戒感を緩めない中年の男は、自分の問いかけに答えるカミュの言葉に、遂に警戒感を解いて行った。

 

「そうか……イシスに。あ奴は元気にしておったか?」

 

「はい。貴殿の身を案じていらっしゃいましたが」

 

「……あ奴には心配ばかりかけてしまうの……」

 

 カミュの言葉に何かを懐かしむように遠い目をした男が、気付いたように、カミュ一行を部屋の中に通す。サラはどこか罪悪感にも似た感情を持ちながら中に入った。

 

「お主達は、旅をしておるのか?」

 

「……はい……」

 

 ここは、カミュと男の交渉の場。そこに口を挟む人間はいなかった。

 リーシャですらも、もはや交渉の場に口を挟もうとはしない。耳はカミュ達の会話に向いてはいるが、視線は部屋の中を興味深げにきょろきょろと見ているメルエに向けられていた。

 

「そうか……私も、いつか東へ行ってみたいと思っておった」

 

「……東へ?……海に出るのではなく?」

 

 男が呟いた言葉に、カミュが疑問を呈す。カミュが考えていた方角とは違ったのだ。

 男が言う事には、このアッサラームの東へと向かうという意味がある。アッサラームの東側にそびえる険しい山脈を越えて行くということ。

 それは、不可能に近い。

 

「ふむ。船を使って海に出るのも良いが、東の国には面白い物が多いと聞く。半ば伝説に近い<ダーマの神殿>等がその一つじゃな」

 

「……<ダーマの神殿>?」

 

 男の言葉に反応したのはサラ。サラはその名に聞き覚えがあった。

 僧侶を目指す人間にとっての『聖地』。

 そこでは、その人間が持つ生まれながらの性質さえも変えてしまう程の能力を持つ神官がいると云われている。

 

「うむ。しかし、東の国に行くには、ホビットだけが知っているという抜け道を通るしか手段がない」

 

「……ホビット……」

 

<ホビット>

以前カミュ達が出会った<エルフ>族に属する種族。その姿は『人』よりも小さいが、その俊敏さや器用さは『人』を遥かに凌ぐ者。普段は、平和と食事を何よりも愛する大人しい種族であるが、いざとなれば、驚くべく芯の強さを見せる。

 

「この町より、少し北に向かった山肌にホビットが作った洞穴があるのだが、そこに住んでいる『ノルド』というホビットは、とぼけているのか、抜け道を教えてはくれぬのだ」

 

「……他に東へと向かう方法はないのですか……?」

 

 ホビットという種族を見たことのないサラは、若干の恐怖を感じるが、男の話しぶりでは凶暴な生き物ではないようだ。

 メルエは、その初めて聞く名前に興味を持ったのか、リーシャの手を握り、何かを聞きたそうな表情を浮かべるが、そんなメルエの視線に応える事の出来ないリーシャは、視線を逸らした。

 

「ない。ここより東に向かう為には、その抜け道を通るか、それこそお主の言うように、船でも調達せねば向かう事は出来ないだろう。やはり、『ノルド』が友と呼ぶポルトガ国王にお話し申し上げるしか方法はないかもしれんな」

 

「……ポルトガ国王……」

 

 ここに来て再び登場した国名。

 それは、船旅をする為に寄る事が必須と言われた国。

 カミュやサラの頭の中で何かが繋がり始めた。

 

「お主達に東に向かう気持ちがあるのなら、一度ポルトガには足を踏み入れるべきじゃろう」

 

 これ以上は、この男性から聞くべき内容はないだろう。

 そう感じたカミュは、男に向かって軽く頭を下げた。

 

「……はい……貴重なお話をありがとうございました」

 

「うむ。旅の目的は何なのかは知らぬが、魔物が日に日に増えている。気を付けて旅を続けられよ」

 

 礼を告げるカミュに、人の良い笑顔を向けた男に、一行は一度深く頭を下げ、部屋を後にした。リーシャの手を取っていたメルエも、移動と同時にカミュのマントの中へと入って行く。

 外に出ると、月が少し雲に隠れたのか、テラスを照らす光が薄くなっている。本当に淡い光だけが差し込むテラスは、暗い闇が広がり、先程まで幻想的に映し出されていた花々までもが、どこか萎れてしまったように禍々しく映っていた。

 

「…………なにか…………いる…………」

 

 そんなテラスを一瞥し、階段を降りようと動き出すカミュのマントの中から顔を出したメルエが何かを呟いた。

 その言葉に勢いよく振り返るリーシャとサラ。しかし、そこには闇が広がっているだけだった。

 

「いないではないか」

 

「…………いる…………」

 

 メルエに向かって否定を口にするリーシャに、メルエは頬を膨らませて反論した。

 メルエがここまで強情になるという事は、間違いなくこのテラスにカミュ達以外の何者かがいるという事。それは、カミュだけではなく、リーシャもサラも理解した。

 

「……テラスへ出てみる……」

 

「えっ!?……で、でも……」

 

 腰にしがみ付くメルエを少し剥がし、テラスへと足を向けるカミュに、サラは抗議を向ける。

 サラはかなり恐怖していた。

 サラが恐怖するという物は、ただ一つしかあり得ない。

 暗闇が支配する夜に出現するものであり、カザーブの村にて、サラが見た怪奇。

 

「ふふふ。サラ、怖いのか? 手を繋いでやろうか?」

 

「なっ!? こ、怖くなどありません!」

 

 そんなサラの様子にからかいを向けるリーシャ。

 ここ最近、サラをからかう事が少なかったリーシャは、ここぞとばかりにサラに言葉を向け、挙句の果てには子供扱いをして手を伸ばす。

 そんなリーシャの姿に憤慨したサラは、顔を背け、ずんずんと歩き出した。そして、カミュの前に出て、先頭を歩き出す。

 その様子に、若干呆れ顔をしたカミュと不思議そうに見るメルエ。そして、笑いを堪えながら笑顔を作るリーシャ。

 なんとも、闇の中に似つかわしくない雰囲気が流れる。

 しかし、それは唐突に終焉を迎えた。

 

「なっ!?」

 

「カミュ! あ、あれは……」

 

 先頭を歩いていたサラが絶句する声が響く。その後ろを歩いていたリーシャが、サラが驚いた原因を視界に入れ、驚きと共にカミュへと振り返ったのだ。

 

「……どう見ても……魔物だな……」

 

 カミュが答えた通り、テラスの縁付近に、ちょこちょこと動き回る一つの影が見える。しかも、その影のシルエットは、決して『人』の物ではない。

 背丈こそ小さいが、頭の先から伸びる角。そして、手元には、巨大なフォークのような形状の矛。

 月明かりが少ないとはいえ、その姿は『魔物』である事に間違いはないだろう。

 しかし、何故、町の中に魔物が入り込んでいるのか。

 町には、基本的に国からの守備兵が備えられており、どこの国にも属さない自治都市であるアッサラームにも自警団が備わっている。このような魔物が町に入れば、かなり大きな騒ぎになるのは確実な筈なのだ。

 それが、誰も気がつかない状況で魔物が侵入している。

 町や城の安全対策を根底から揺るがすものであった。

 

「カミュ、どうする?」

 

「……放っておいても良いが……そういう訳にはいかないだろう……」

 

 リーシャの問いに、カミュの視線はある人物へと移った。

 そこにいるのは、人を導き、悪を駆逐する事を生業としている者。

 今のその瞳は、目の前をちょこちょこと動き回る魔物を見据えている。

 

「当たり前です。『人』の営みの地である町までもが魔物に侵されるなど、私は許しません」

 

 瞳は魔物に向けたまま、サラの口調は真剣なものに変わっていた。

 その言葉に、視線を戻したカミュの瞳を見て、リーシャは薄く笑う。

 『皆、変わり始めている』と。

 以前のカミュであれば、この場を何の躊躇いもなく去っただろう。サラの意見を聞く事などあり得なかった。

 以前のサラであれば、カミュの言葉に憤りを感じていただろう。魔物を発見し、『放っておいても良い』等、『勇者』が発する言葉ではない。

 しかし、サラはその言葉を容認して尚、自分の意見を発したのだ。

 

「ふふふっ。メルエ、魔法の準備はいいか? このテラスは広いがあまり無茶な魔法は使うなよ」

 

「…………ん…………」

 

 笑みを浮かべ、足元にいるメルエに注意を促すと、杖を構えたメルエが表情を引き締めて頷いた。

 準備は出来た。後は、魔物と対峙するだけである。

 

「にゃ~ん」

 

「??」

 

 その時、近づくカミュ達の存在にようやく気が付いたその魔物が奇妙な鳴き声を発し、カミュ達はその突然の奇行に揃って首を傾げる。

 意味が解らない。

 何故、猫の姿など何処にも見受けられない魔物が、猫の鳴き声を上げるのか。

 そんな一行の姿を見て、小さな魔物も首を傾げる。

 何とも緊張感に欠ける空気。

 

「ギッ!? クソッ……バケソコネタカ……」

 

「!!」

 

 そんな空気を破ったのは、魔物の方だった。

 そして、カミュ達一行全員が、息をのむ程に驚く。

 魔物が『人』の言葉を使ったのだ。それも、何の違和感も覚えさせない程に完璧に。それは、知能が高い証拠。

 魔物の姿は人型である。それも、メルエと同じ頃の子供の様な姿。それが、人語を理解し、使いこなす程の知能を持つ事に驚いた。

 

<ベビーサタン>

その名の通り、子供の様な容姿を持つ魔族。その内に秘めた能力は未知数で。数多くの魔法を所持していると言われている。ただ、容姿同様に、中身も幼いのか、それら全てを使いこなしている姿を見た者はいない。手に持つ武器は、子供が使うフォークをそのまま巨大にしたような矛であり、その先端は鋭く研がれ、人間の肉を容易く貫く。

 

「マァ……ドチラデモオナジダ」

 

 そんな言葉を発し、構えを取った<ベビーサタン>に、一行が我に返った。虚をつかれた形となり、突き出すフォーク型に光る<ベビーサタン>の矛を、カミュは咄嗟に<うろこの盾>で受け止める。金属が壁に当たる様な鈍い音を立てて弾かれ、防いだカミュも数歩後ろへと後ずさった。

 見た目はメルエと同じぐらいの子供の姿ではあるが、魔族の名に恥じぬ力。

 カミュが後ろへ下がったのを見て、リーシャは気を引き締め直し、両手で<鉄の斧>を握って魔物に向かって行った。

 しかし、リーシャの一閃は、小さな<ベビーサタン>の頭の上を通過する。リーシャの動きを見て、咄嗟に屈み込んだのだ。

 

「メルエ!」

 

「…………ん…………ヒャド…………」

 

 態勢を整えながら、後方で杖を構えるメルエへとリーシャは指示を出す。

 リーシャの言葉に一つ頷いたメルエは、<魔道師の杖>を魔物へ向け、詠唱を行った。

 メルエの杖の先から迸る冷気。

 それは、真っ直ぐ<ベビーサタン>へと向かって行った。

 

「ギッ!」

 

 だが、その冷気は魔物の身体に届く事はなかった。冷気に向かって、その左手に持った矛を振り抜いたのだ。

 振り抜かれたフォーク型の矛が生み出した風圧により、<ヒャド>の冷気が霧散される。それでも消しきれない冷気が矛の先を凍らせるが、それも僅かな部分。

 並みの魔法使いではないメルエの<ヒャド>だからこその威力ではあるが、それでもメルエの魔法が完全に防がれたのだ。

 

「……バ……!!!」

 

 そして、そんなメルエの横から、今度は、サラが呪文の詠唱に入るが、詠唱途中で<ベビーサタン>の動きを見て絶句した。

 それは、サラが見た事のない詠唱の形。何の魔法なのか、どれ程の威力があるものなのかも分からない。

 ただ、軽視してはいけないという事だけは理解できた。

 

「み、みなさん! 身構え……」

 

「イオナズン!!!!」

 

 サラの皆への警告は、<ベビーサタン>の詠唱に掻き消された。

 その詠唱は、間違いなく人語。

 人語での詠唱の為、『イオナズン』という魔法の名前だけがしっかりとサラの頭の中に残った。

 

「??」

 

 どれ程の魔法なのかが分からない一行は、掻き消されたサラの声を耳にし、それぞれ身構えたが、いくら待っても<ベビーサタン>が振り下ろしたフォーク型の矛の先から、魔法が発動する事はなかった。

 メルエ等は、明らかに敵の前ですべきではない筈の、小首を傾げるという行動を取る。幼い彼女から見れば、以前の自分の様に、自らの魔力を矛に流し込む行為が出来ないのだと映ったのかもしれない。

 

「ギッ!!」

 

「あっ! ま、待て!!」

 

 そんな一行の隙をつき、<ベビーサタン>は、テラスから外へと飛び出して行った。

 真っ先に我に返ったリーシャが、飛び出した<ベビーサタン>の後を追うが、もはや飛び降りた後であり、横薙ぎに振った<鉄の斧>は再び空を斬った。

 

「カ、カミュ様、町には大勢の人達が!」

 

「……追うぞ……」

 

 魔物が逃げ出した事に呆然としていたサラだが、魔物の逃亡というものが齎す最悪の結果に思考が辿り着くと、勢いよく振り返り、カミュへ行動を促した。

 カミュとて、一つの町が自分達の取り逃がした魔物によって『阿鼻叫喚』の地獄絵図になる事を望んでいる訳ではない。故に、踵を返し、部屋を横切った先にある階段に向かって駆け出した。

 その後ろをリーシャとサラが続く。

 

 そして、メルエだけが取り残された。

 

 

 

 表に出ると既にそこは『地獄絵図』と化していた。

 広間に出た先の中央には<ベビーサタン>。

 そして、その左手に持つフォーク型の矛の先は天ではなく地に向かっている。

 そして、倒れ伏す男。

 男の背中には、深々とフォーク型の矛が突き刺さり、その命の源である血液が湧き水のように地面へと流れ出ている。

 その光景を、円を囲むように眺める人々。

 その野次馬達の表情には、驚愕と恐怖、そして絶望に彩られていた。

 カミュ達が中央へと足を踏み入れた時、止まっていた時が再び動き出した。

 

「きゃああああああああああ!!!」

 

「ま、まものだぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 一人の女性が上げた悲鳴を皮切りに、次々と逃げ出す町人達。

 前にいる人間を押し退け、倒れ伏した者を踏みつけ、我先にと逃げ惑う人々。

 それは、『人』としてではなく、『生物』として当然な本能。

 しかし、その姿がサラにはとても醜く見えていた。

 子供を抱えて逃げる母親を押し倒し、その上を走る男。

 自分より前を走る人間の髪を掴み、引き倒してでも前に出ようとする者。

 その光景は、もはや知性や理性を持った『人』ではなく、本能に突き動かされている『獣』と同じ。

 <ベビーサタン>から目を離す事なく構えを取るカミュやリーシャとは違い、サラはそんな『人』であった者達を眺めていた。

 

 

 

 メルエはその小さな足を全力で回転させ、階段を下りて行った。

 『置いて行かれる』

 その恐怖がメルエを突き動かしていた。

 前を行くサラの姿が、メルエが階段を下りきる前に見えなくなった。

 メルエの目に涙が浮かぶ。

 

 メルエが外に出た時、そこは人で充ち溢れていた。

 昔見た町でもここまで人々が一点に集中していた事は一度もない。

 

「…………カミュ…………リーシャ…………」

 

 自分に向かって押し寄せて来る人の群衆。メルエは必死に前に進もうと足を動かすが、自分の倍近くの身長がある大人達が半狂乱になって押し寄せて来る中を掻き分けて前に進む事は、メルエには不可能だった。

 狂ったように腕を振るう男の肘を頭に受けてよろけ、押しのけて前に出て来る女に弾き飛ばされ、最後に、身体が曲がった所に足を受けて倒れた。

 倒れたメルエを蹴り飛ばすように迫って来る足に、メルエは、自分の腕で頭を庇い、蹲る事しか出来なかった。

 いつも自分を何からも護ってくれる三人は近くにいない。

 メルエの胸を襲う孤独と哀しみ。

 溢れ出て来る涙を抑える事は出来ず、地面には次々と雫が零れ落ちる。

 背中を襲う衝撃、足を襲う痛み。

 その全てが、メルエの恐怖を増長させた。

 

「…………サラ…………」

 

 『メルエを護る』と宣言してくれた、優しく慈愛に満ちた笑顔を浮かべた僧侶の顔が浮かぶ。いつも自分を包み込んでくれる女戦士。そして、自分が最も安全な場所と思っている、周囲から『勇者』と呼ばれる青年。

 彼等三人にとって、メルエとの時間は短い期間なのかもしれない。

 だが、この幼い少女にとって、それが全てだった。

 自分が生まれて初めて感じた、『生』という時間。

 それを与えてくれたのは、彼等三人。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 哀しみに涙を流すメルエの背中に再度衝撃が襲う。

 それでも、メルエは、ゆっくりと立ち上がった。

 自分が大好きな、自分の居場所に帰る為に。

 

 転がった杖を拾い上げ、背中や肩に衝撃を受けてよろけながらも、前を向こうと必死に立ち上がるその間も自分の顔や頭に痛みが走っていた。

 そして、痛みを堪えながら、立ち上がったメルエの視界が開けた。周囲の人間達が逃げ終わったのだ。

 メルエの前に見えるのは、アッサラームの中央広場。

 そして、突如現れた魔物…………

 

「メルエ!!」

 

 普段叫び声など上げない無口な青年の声が広場に響く。メルエと魔物の距離は、メルエが頼りにする三人と魔物の距離より明らかに近い。自分の状況に気が付いて、メルエが杖を構えるのは遅すぎた。

 <ベビーサタン>が逃げるために一点突破を目論んだ場所はメルエ。フォーク型の矛を構え、<ベビーサタン>が突進して来る。

 

 その時、一つの影が動いた。

  

 

 

 カミュは後悔した。

 これ程に自分の行動を後悔し、自分を許せないと感じたのは、何時以来であろう。

 

 『メルエがいない』

 

 それに気が付いたのは、魔物を追い詰めるために、<ベビーサタン>を囲んだ時であった。

 いつもなら、戦闘の時は同道する僧侶の後ろで杖を構えているメルエの姿が見えない。その僧侶は、カミュやリーシャと同じように<鉄の槍>を構え、魔物を見据えている。

 『メルエが心配』という理由で、自分は、宿屋に残る筈だったメルエを強引に連れ出したのだ。

 それなのに、今初めて、メルエの存在がない事に気が付いた。それにカミュは愕然とする。

 

「メルエは!?」

 

 隣の女戦士に問いかけると、その女戦士の表情も急変する。自分もこの戦士も、そしてあの僧侶も、魔物に気を取られ過ぎた。

 『自分らしくない』

 カミュは、そう唇を噛んだ。

 普段なら、町の人間が魔物に襲われようが、特段気にする事等ない。例え、アッサラームの人間が何人魔物に殺されようと、自分には関係がない。

 そう考えていた。

 だが、イシスで女王に言われたように、自分の中で何かが変わり始めている。それにカミュは気が付いていた。

 そして、それに戸惑い、必死に否定しようとしていたのだ。

 

「カミュ!」

 

 自分の思考に陥っていたカミュを呼び戻したのは、顔面蒼白になっている女戦士だった。

 顔を上げたカミュは、彼女の視線の先を見た時、表情を失くした。そこにいたのは、埃と泥にまみれた服を払う事もせず、顔や腕に痣を作った少女が佇んでいたのだ。

 それこそ、カミュの後悔の原因となっている少女。カミュが生まれて初めて護りたいと考えた他人。

 

「メルエ!!」

 

 カミュ達が囲んでいた<ベビーサタン>メルエに向かって矛を向ける。距離を考えれば、どうあっても間に合わない。この旅で、カミュがそう思った事は何度かあるが、それはカミュが間に合わないという状況だった。

 しかし、今は、メルエを護るべき人間三人全てが、間に合わない。以前にサラを救った事のある『勇者』特有の魔法も間に合わない。

 <アストロン>と呼ばれる呪文を詠唱する時間もなく、その魔法の存在を思い出せる程の余裕も今のカミュには残っていなかったのだ。

 

 その時、カミュの視界の片隅に、一つの影が横切った。

 野次馬のように集まっていた人間は、全て広場から散って行った筈だ。

 残されたのは、カミュ一行と魔物。

 そして、最初に殺された男だけの筈だった。

 

「ゴフッ!」

 

 カミュがその影を視界に入れると同時に、肉に鋭い刃先が突き刺さる音と、配管が詰まったような音が広場に響く。

 目を瞑ってしまっていたサラが、再び目を開けた時に目にした光景。

 それは、一人の女性がメルエにしがみつくように抱きつき、その背中に深々と矛が突き刺さっているもの。そして、その女性をカミュの様な冷たい視線で見下ろしているメルエの姿だった。

 

 

 

「……ごほっ……ふふっ……今更さね……」

 

 メルエの目の前で、大量の汗を掻きながら微笑む妙齢の女性。

 それは、かつてメルエと共に暮らし、そしてメルエを奴隷として売り飛ばした女性。

 魔物が襲って来る瞬間、杖を振る時間もなく迫り来る矛を見ていたメルエに、突如衝撃が走った。

 抱きつかれるような人間の温かみと、アルコールの臭い。

 それは、以前のメルエが毎日傍で感じていたものだった。

 

「……ゴボッ……」

 

 突き刺さっていた矛が抜かれた為であろう。

 苦痛に満ちた表情を浮かべ、僅かに血を吐いた。

 

「ギッ!」

 

 抜いた矛を再び向けた<ベビーサタン>は、背筋どころか、全身が凍りつく程の圧力を後方から感じた。

 この小さな魔物の周りに存在していたどの魔族よりも鋭く強い力。それは、このアッサラームにいる筈のない程の魔物をも怯えさせる。

 

「……誰に矛を向けている……」

 

 静かな、とても静かな声が響く。それは、何の感情も見いだせない程の冷たい声。

 <ベビーサタン>は恐怖と共に振り向こうと身体を捩るが、ついにその声の主の姿を見る事は叶わなかった。

 

 

 

 <ベビーサタン>の首が地面へと落ちる。

 しかし、それはこの場では些細な事だった。

 

「……メルエ……マントを汚し……ちまった……ね……」

 

「…………」

 

 自分が吐いた血が掛かり、マントについた血痕を震える指で拭おうとするアンジェをメルエは無言で見下ろしていた。それはとても冷たく、そして何の感情も見い出せない表情で。

 そのメルエの瞳にリーシャは恐怖した。

 以前、この町でカミュが話していた事。

 『親を他人として見る』という事が、メルエを見て真実だと知ったのだ。

 

 サラは、葛藤していた。

 この町で許せないと思い、例え魔物に襲われても救う気なども起きないと考えていた女性が起こした行為に。

 自分が何かに偏った視点で見ていたのではないかと。

 

「……ふふっ……そうさね……あたしは……ゴホッ……そんな…目で見られる……ことを……」

 

「…………」

 

 カミュ達三人は、遠巻きで見ている事しか出来ない。

 この女性の傷は、どう見ても致命傷。

 例え、カミュを瀕死の状態から救い出したサラの<ベホイミ>でも、回復させる事は出来ない。もっと高位の回復呪文であれば、救う事が出来たのかもしれないが、サラにはその呪文を唱えるだけの力量はなかった。

 それでも、自分のやるべき事をと考え、サラは女性に近づき、<ベホイミ>の詠唱を繰り返し行うが、傷は塞がらない。

 消えかけた命の灯が再び燃え上がる事はなかった。

 

「……メルエ……あたしが……あ…たしが……言える事……ではないけれど……しあ……わせ…に……幸せ……に…おなり……」

 

「…………」

 

 アンジェの絞り出すような最後の言葉も、メルエには届いているのかどうか解らない。ただ冷たく、ただ空虚な瞳を、メルエはアンジェに向けていた。

 

「……これ…を……」

 

 最後の力を振り絞って、アンジェは自分の髪に刺さっていた髪飾りをメルエの髪に差した。

 それは、若かりし日のアンジェが、憧れていた先輩踊り子から譲り受けた髪飾り。

 最後まで幸せを運んで来なかったと思い込んでいた髪飾りであったが、アンジェは常に身に着けていた。

 そして、アンジェの前にカミュ達が現れた時、アンジェは知ったのだ。

 確かにこの髪飾りは、自分に幸せを運んで来てくれていたのだと。

 ただ、自分がその幸せを手放し、放棄したという事を。

 

「……メルエ……」

 

 最後に、本当に愛おしそうにメルエの名を呼び、その茶色の髪を撫で、笑顔を向けたアンジェの瞳が閉じられた。

 ズルズルと崩れるようにメルエの身体から離れて行くアンジェの姿を、何の感情も見出せないメルエが見下ろす。

 

「……」

 

 最後の最後で、母としての行動を起こした女性を、サラは責める事が出来なかった。

 いつの間にか、サラの頬には大粒の水滴が流れ落ちている。それは、<ベホイミ>をかけている最中だったか、それともメルエとアンジェの会話の間だったか、もうそれも解らない。

 そして、その涙の理由もサラには解らなかった。

 

「…………」

 

 そんなサラの涙を余所に、自分の身体から離れたアンジェを見下ろしていたメルエが、おもむろに自分の髪に手をやり、髪飾りを取り外した。

 そして、そのままその手を高々と掲げる。

 

「メルエ!!」

 

 しかし、その行為は、メルエが姉のように慕う女性に止められた。

 『ビクッ』と震えるようにメルエの身体が固まる。

 

「それを投げ捨てる事は、私が許さんぞ!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 メルエに向けられるリーシャの厳しい視線。

 その瞳を見上げ、悔しそうに唸るメルエ。

 しかし、メルエは、再びその手を動かした。

 

「メルエ! それを投げ捨てたら、その時点で私とメルエの旅も終わりだ!」

 

「!!!…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

 投げ捨てようと振り上げた腕は真上で止まり、だらりと下げられた。

 リーシャの言葉は、メルエにとっては最後通告。

 これ以上ない程にメルエを絶望の淵へと落とす言葉だった。

 

「メルエ……気持ちはわかります……でも、それはここに仕舞っておきましょう?」

 

 手と共に頭まで下げてしまったメルエの視界にサラの顔が入って来る。

 息を引き取ったアンジェの遺体を横たわらせ、手を胸の前で合わせた後、リーシャの叫びに委縮してしまったメルエの肩を抱き、話し始めたのだ。

 サラは、メルエの握りしめた手を開き、その中にあるアンジェの髪飾りを取り出した後、メルエが肩から下げるポシェットを指差し、優しく微笑んだ。

 そのサラの笑みを受けても、メルエの首は縦に振られる事はない。

 

「……メルエ……」

 

 思い詰めたように俯くメルエにサラはもはやかける言葉はなかった。

 『気持ちは解る』とは言ったが、真にメルエの気持ちがサラに解る訳はない。

 幼い頃、魔物によって親を失った孤児とはいえ、それまで受けて来た両親の『愛』は今でもサラの心の支えとなっている。物心ついた頃から『愛』を知らないメルエの気持ちを理解する事は出来ないのだ。

 

「……何にしても、メルエとの約束を破った俺達に何も言う資格などない」

 

「…………カミュ…………」

 

 押し黙るメルエに、どうしたら良いのか解らなくなったサラの後ろから、サラとは違う歪んだ『愛』を受けて育った青年が歩み寄った。

 その声の主を見上げるように、ようやく上げられたメルエの瞳には涙が滲んでいる。

 

「……メルエ……すまなかった……」

 

「……カミュ……」

 

「……カミュ様……」

 

 メルエの前に屈みこんだカミュは、一度メルエと視線を合わせた後、深々と頭を下げた。その突然の行為に、リーシャもサラも言葉を失う。

 何故カミュが頭を下げるのか。

 それが二人には思いつかない。

 しかし、頭を下げられた幼い少女は、カミュが頭を下げる理由が分かったのか、大粒の涙を流し始めた。

 

「…………こわ………かった…………」

 

「……本当に、すまなかった……」

 

 一言。

 本当にたった一言呟いたメルエは、カミュの胸へと飛び込んで行く。もう一度謝罪するカミュの言葉は、メルエの大きな鳴き声に掻き消された。

 カミュの胸で泣くメルエの姿を見て、ようやくリーシャとサラの胸にも答えが浮かぶ。

 

 『怖かった』

 

 メルエのその言葉が何を意味するのかを。魔物の存在に気を取られ、メルエの身を案じる事を疎かにしていた。

 全員が飛び出すスピードにメルエが付いて来る事が出来ない事は、<ピラミッド>からの脱出の際に解っていた事だ。

 一人取り残されるメルエの胸には、どれ程の『哀しみ』と『恐怖』が襲いかかって来た事だろう。幼い頃の『恐怖の対象』であった女性と相対する時に、メルエの心を何が支配したのだろう。

 あのメルエの無表情は、決して『他人』を見る物ではなかったのだ。

 『恐怖』

 ただ、それだけがメルエの身体を固めていたのかもしれない。

 

「……メルエ……すまなかった……」

 

「……メルエ……ごめんなさい……」

 

 未だにカミュの胸で鳴き声を洩らすメルエに、近寄ったリーシャが頭を下げる。同時に、サラもまた深々と頭を下げた。『メルエを護る』と本人の前で誓ったのだ。

 それも、イシスからこのアッサラームに来る事を怯える今日の朝に。

 それを破ってしまった。

 

 メルエは無事である。

 だが、それは今まで旅を共にして来た三人が護ったのではない。

 メルエが怖れたアンジェという義母がその命を賭して護ったのである。

 メルエのすすり泣く声が、人々が消えうせた広間に静かに響き続けた。

 

 

 

 

 雲一つない青空、太陽がようやく大地を照らし始めた。

 昨日の騒動の跡は、もはや町のどこにも見られない。

 この町の良い所でもあり、冷たいと感じる部分。自分に被害さえなければ、昨日起きた事象に気を取られている暇など、この町の住民にはないのだ。

 今日もまた朝の清掃が始まり、陽が落ちれば、再び自分の夢を掴む為の道が人工的な灯りによって照らされる。

 

 そんな自分の夢に貪欲な人々が眠りに付く早朝。

 一人の少女が、一つの墓標の前に立っていた。

 

 その瞳は、昨晩この墓の下に眠る女性に対して見せた冷たいものではなく、何かを思いつめたような、そんな哀しい瞳の色を彩っていた。

 この幼い少女が、何を思い、何を見ているのは、本人にしか解らない。

 

「…………」

 

 メルエは、暫くその墓標を眺めた後、無言で墓標に何かを掛けた。

 それは、一つの花冠。

 メルエが被る<とんがり帽子>に掛けられた物のように美しい出来栄えではないが、何種類もの花を輪にし作られた物。

 メルエは、あの不思議な世界で、アンの作る花冠を完成までずっと眺めていた。

 アンの様に作り方を教えてくれた師はいない。見よう見真似なために、出来栄えもお世辞にも綺麗とは言えない。それでも、メルエは今朝早く起き、これを作る為に野花を集めた。

 

「……メルエ……やはりここにいたのか?」

 

「!!…………カミュ…………」

 

 後ろから掛った声に、驚いたようにメルエは振り返った。

 そこに立っていたのは、一人の青年。

 メルエを絶望の淵から救い出し、この世に希望と夢を与えてくれた青年。

 

「……用は済んだか?」

 

「…………ん…………」

 

 カミュは、数刻前に例の如くリーシャに叩き起こされた。

 『メルエがいない』と。

心配はいらないだろうと返すカミュに、烈火の如く怒り出したリーシャを抑える為に、同じ様に叩き起こされたサラを含めた三人で町を探し始めたのだ。

 リーシャの必死な姿の理由が解るだけに、カミュは不満を洩らさなかった。

 昨日の件が彼女を苦しめているのだろう。『メルエとの約束』を破った上に、メルエの行動を止める為とはいえ、そのメルエを置いて行くという脅しを使ったのだ。

 何事も真っ直ぐに感情を出すリーシャだからこそ、あの場で口を吐いてしまったのだろうが、その事を悔やんでいる。

 起きた時に隣のベッドが空になっていたのを見た時、リーシャは血の気が引いたのであろう。その証拠に、カミュの部屋へと突入して来た時のリーシャの顔は、この世の終わりのように真っ青な顔をしていた。

 

「……メルエ……少し待っていてくれ……」

 

「…………ん…………」

 

 そう言ったカミュは、メルエを待たせ、墓標の前に屈みこんだ。

 暫し目を瞑ったまま、カミュは黙り込む。

 

 

 

 昨晩、カミュの胸の中で泣くメルエを囲むように集まった三人の下に、一人の神父が近づいて来た。いつの間にか町の住民達の何人かは広間に戻り始めていたのだ。

 『アンジェと最初に殺された男は、教会の墓地で安置する』と言う神父の提案をカミュ達は有難く受ける事にする。

 アンジェも、もはや身寄りは誰もない。誰もアンジェの故郷を知らない為、教会が引き取る形となった。

 

 その時、最初に殺された男をこの時、三人は初めてまともに見る事になる。

 それは、カミュとリーシャには見覚えのある顔。

 それは、イシスの闘技場で見た兵士だった。カミュ達の監視のためにこのアッサラームに戻ったのだろう。

 どのように戻ったのかは解らない。<ルーラ>が使用できたのか、それとも<キメラの翼>を使ったのか。

 何れにしても、この町に入った兵士は、町の広間で起こった騒ぎに遭遇したのだろう。その時、『人』の営みがある町の中に入り込んだ魔物を見た。そして、立ち向かったのだ。

 彼は、本当の意味での『兵士』だった。ロマリア国から監視という役目を受けていた。

 そして、このアッサラームという町は、ロマリア国領でもない独立した自治都市。それでも、彼は力無き町の人間を護る為、単身で魔物に立ち向かった。

 このアッサラームやイシスの周辺に住み着く魔物であれば、彼にでもどうにかなったのかもしれないが、昨日出て来た魔物は、見た事のない<ベビーサタン>。

 力及ばずに彼は息絶えたが、彼が命と引き換えに作ったその時間が、アッサラームに住む全住民の命を護る事となった。

 

 『どんな命を受けていようと、彼もまた誇り高き騎士だったのだな』

 

 運ばれて行く兵士の遺体に呟いたリーシャの言葉に、サラは再び涙を浮かべ頷いた。

 <ノアニール>を出る時にサラは『人』の業を見、大いに悩んだ。そんなサラに掛けたリーシャの『人の一部』という言葉。

 醜い心も『人』であれば、この尊い心も『人』なのだ。

 サラは、それが嬉しく、そして哀しかった。

 

 

 

 

「……行くぞ……」

 

「…………ん…………」

 

 アンジェの墓標と、名も知らぬロマリアの兵士の墓標の前で目を閉じ終えたカミュは、立ち上がり、優しい表情をメルエに向ける。

 一つ頷いたメルエは、もう一度アンジェの墓標に目を向けた後、カミュの手を握り、青い顔で半狂乱になっているであろうリーシャが待つ宿屋へと戻って行った。

 

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにて第四章は終了です。
次回は、勇者一行装備品一覧と、ここまでのサブキャラクターの紹介を入れます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

勇者としての重き責務を負い、自分を殺す日常を送ってきていた。しかし、この旅に出てから、周りにいる人物達の変化を見て、自身が少しずつ変わって来ている事に戸惑い、それを受け入れられずにいる。

 

【年齢】:16歳

歳の割にかなり達観している部分もあるが、その歳の青年らしい負けん気も持っている。

 

【装備品】

頭):サークレット

 

胴):みかわしの服

ノアニールで手に入れた服は、ピラミッドでリーシャを庇う際に受けた攻撃で破損し、イシスの町に戻った際にサラとメルエで買い物に行き、新調した物。

 

盾):うろこの盾

 

武器):鋼鉄の剣

勇者として、祖父オルテナから全ての武器の鍛練は受けているが、アッサラームで鉄の斧を持つリーシャに語った内容からすると、剣を極めて行くつもりらしい。

 

所持魔法):メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      

 

 

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

通常、戦士という職業は『考える』という行為をしない人間が多い中、彼女は常に考える。自分の理解出来ない事を必死で理解しようとし、自分が知らない事を知ろうとする。その姿勢には、カミュでさえも感心した。

 

【年齢】:不明

 

【装備】

頭):なし

 

胴):みかわしの服

砂漠を歩くためにノアニールで買い揃えた。当初、女性という事もあり、防具屋の女房がスカート式の物に仕立てたが、背丈の大きさからミニスカートのようになってしまい、当のリーシャは相当慌てた。

 

盾):青銅の盾

 

武器):鉄の斧

カミュとサラがアッサラームの武器屋でリーシャ用として買った物。当初は嫌がってはいたが、メルエの尊敬に近い眼差しとアッサラームに入ってから初めての笑顔を見て、自分の武器とする事を決める。リーシャ自体は5000ゴールドもする武器だと思っている。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無な為、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:僧侶

『人の業』に悩む心優しき僧侶。魔物を憎む心は消えてはいないが、現在は魔物を殺すという事よりも優先される『誓い』が胸にある。

 

【年齢】:18歳

アッサラームに入る前の森の中で誕生日を迎え、18歳となった。カミュよりも2つも上になった事で、若干歳上ぶる場面がある。18歳の女性としては、身体的に成長が遅く、その事を揶揄され激昂する事がある。

 

【装備】

頭):僧侶帽

 

胴):みかわしの服

みかわしの服の上から法衣に付いている十字の刺繍がある前掛けを下げている。

 

盾):青銅の盾

 

武器):鉄の槍

リーシャの虐めに近い鍛練の効果もあり、今では魔物と一対一で対峙する事も可能となっている。本人は、カミュやリーシャという強者を見ているだけに、自分の力はメルエを護るのが精一杯だと思っている。

 

所持魔法):ホイミ

      ニフラム

      ルカニ

      マヌーサ

      キアリー

      ピオリム  

      バギ   

      ラリホー

      ベホイミ

 

 

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

メルエにとって、魔法の使用が可能な『魔法使い』という職業は、今や誇りに近い物となっていた。幼い彼女の胸の中には、どこかでまだ『魔法』が自分の存在意義という考えが残っている。

 

【年齢】:7,8歳

メルエを拾った義母であるアンジェの話を辿ると、大よそそのぐらいの年齢となる。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):アンの服

みかわしの服と同じ素材で出来た服。

 

盾):なし

 

武器):魔道師の杖

    毒針

リーシャを護るために『決意』を固めたメルエは魔法力の支配を完成させる。その為、魔道師の杖の先から魔法の行使が可能となり、今では自虐的な魔法の行使とはなっていない。

 

所持魔法):メラ

      ヒャド

      スカラ

      スクルト

      ルーラ

      リレミト

      ギラ

      イオ

      ベギラマ

      

 

 

 

 

 




これにて第四章は完結です。

登場人物一覧は、第五章の後にします。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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第五章
ロマリア大陸⑥


第五章の始まりです


 

 

 

 一行は門をくぐり、町の外に出る。

 宿屋で朝食を食べる時、リーシャはしきりにメルエの世話を焼いていた。

 本来、メルエの躾役であるサラが、食事の時はメルエの隣の席に座っていたが、リーシャにその場所を取られたサラは、苦笑しながら戸惑うメルエを眺めていた。

 

「カミュ?……まずはどこへ向かうんだ?」

 

「話に出て来た『ノルド』というホビットのいる洞窟へ向かう」

 

 メルエの手を引いたリーシャが、門を出てすぐにカミュへと問いかけを投げる。良く晴れた空を見上げながら、カミュはそれに答えた。

 カミュに釣られて空を見上げるメルエの表情は笑顔。

 リーシャはそれが嬉しかった。

 

 メルエの表情を見る限り、その表情の理由が『虐待を行って来た義母からの解放』というものではない事が解る。

 メルエの中で、何かが変化したのだろう。それが、アンジェへの認識なのか、それともメルエの気持ちなのかは解らない。

 それでも、空を見上げ、両手を広げながら笑顔で青空を見ているメルエを見ていると、その変化が悪い物ではない事だけはリーシャには解った。

 カミュは、『親を他人として見ている』とメルエを評価している。だが、リーシャは、そうではないのではと考えていた。

 メルエは虐待を行うアンジェに諦めた訳でもはない。只単にその『愛』を今尚欲していただけなのであろう。故に、昨日アンジェにつかまり恐怖で身体を硬直させながらもその行為を見ていた。

 メルエの髪を愛おしそうに撫でるアンジェを見た時に自分の中にあるアンジェの姿が崩れて行ったのかもしれない。それを見て、軽い混乱に陥り、感情的に髪飾りを投げ捨てようとはしたが、一晩ベッドの中で何かを考え、そして答えを出したのだろう。

 

「ふふふ。メルエ、ほら」

 

「…………ん…………」

 

 笑顔のメルエを見つめ、頬笑みを浮かべたリーシャは、メルエに向かって手を差し伸べる。笑顔のままリーシャに頷き返し、メルエはその手を取った。

 彼等の旅はまだ始まったばかり。

 だが、確実に一人一人の心は変化して行く。

 それが成長なのかどうかは、本人達も解らないだろう。

 

 

 

 前を行くカミュがアッサラームから北の位置にある森の中へと足を踏み入れる前に、何やら詠唱を始めた。

 

「??」

 

 カミュが詠唱を完成させるのと同時に、カミュの身体を淡い青色の光が包み込む。その光は次第に大きく広がり、最終的には、サラやメルエ、そして最後尾を歩くリーシャをもすっぽりと覆う程の物となった。

 まるで魔法力のドームの中にいるような感覚を味わうが、それも一瞬の事。全員をすっぽりと覆い終わった青い光は、その色を失くして行き、次第に消え失せた。

 突然の出来事に驚いた三人であるが、その不思議な光景に同時に首を傾げる。そんな三人の表情を無視し、詠唱を終えたカミュはそのまま森の中へと入って行った。

 

「カミュ、先程の魔法は何だ?」

 

 森をしばらく歩いた後、少し休憩を兼ね木の根元に座り込んだ時、水筒の水を飲み終えたリーシャがカミュへと問いかけた。サラもまた興味深そうにカミュを見上げ、メルエは水筒の水を美味しそうに飲んでいる。

 メルエにとって魔法は特別な物であるが、別段それに興味を示す訳ではない。

 

「……トヘロスという魔法らしい……」

 

「……らしい?」

 

 周囲を見回り、木の根元に腰を落としたカミュがリーシャの問いに答えるが、その言葉にサラは妙な引っかかりを覚えた。

 まるで他人から聞いたような言葉。不明確な答えで、自分でも正しいのか解らないとでも言うような口ぶりに疑問を持ったのだ。

 

「もしかして、『あの夜』に女王様から拝領した『魔道書』の魔法か?」

 

「……何が言いたいのか理解は出来ないが、あの『魔道書』に載っていた魔法だ」

 

「で、では、『勇者』様にしか使えない魔法という物ですか?」

 

「…………カミュ…………ずるい…………」

 

 カミュの言葉に思い至ったリーシャが、一部分を強調するように問いかけるが、カミュはそんなリーシャを不思議そうな表情で見た後、その問いを肯定した。

 カミュが頷くのを見たサラが『古代英雄の残した遺産』という答えに辿り着き、カミュ専用という言葉に、水を口に含んでいたメルエが不満を漏らす。

 

「それは、どんな効果のある魔法なのですか?」

 

「そうだな。私達の周囲を包み込むように光っていたが、あれは何だ?」

 

 頬を膨らますメルエを微笑ましく見た後、サラはその効力を聞き、自分達に効力を及ぼす為、リーシャもまたカミュへと視線を戻した。

 

「……簡単に言えば、<聖水>と同じ効果を持つ魔法らしい。魔法力が包み込んだ部分には弱い魔物は近寄る事が出来ない。まぁ、余りにも力量が違う魔物には効果はないようだが」

 

「……力量が違う?」

 

 カミュの回答に再び首を傾げるサラ。しかし、流石に数多くの魔物と、宮廷騎士として対峙して来た経験のあるリーシャはカミュの発言を理解出来た。

 

「つまり、私達よりも強い魔物という事だ。私達が相対した事のない魔物の中には、信じられない程の力を持った魔物もいるだろう。今の私達ではどうしても敵わない魔物もいるのかもしれない」

 

「えっ!? わ、私達は『魔王』を倒す為に旅をしているのではないのですか?」

 

 サラはリーシャの口にする事に驚愕した。まさか、生粋の『戦士』であるリーシャがこのような事を言うとは思っていなかったのだ。

 

「確かに、私達の目的は『魔王討伐』だ。しかし、今の私達が『魔王バラモス』に勝てると思う程、私は馬鹿ではないつもりだ」

 

「……ふっ……」

 

 リーシャが口にする言葉一つ一つが妙な違和感を持たせる。サラには、それが何故であるか解らないが、カミュは鼻で笑うような態度を取った。

 瞬時に鋭い視線をカミュに向けるリーシャ。だが、サラが縮み上がるような視線を受けても、カミュは口端を上げる仕草で笑っていた。

 

「このパーティーの力量はまだまだ未熟だ。それは、何もサラやメルエの事だけではない。カミュや、当然私もまだまだ未熟者の一人なんだ。だが、サラも気付いているだろうが、私達の力量はアリアハンを出た頃よりも確実に上がっている」

 

「は、はい」

 

 カミュに向かって苦虫を噛み殺したような表情を浮かべたリーシャが言葉を続ける。

 その内容はサラも感じていた事。

 アリアハンを出た時には、サラが使えた魔法など高が知れていた。それは、契約をして来なかった訳ではなく、契約が出来なかったという理由があってこそなのだ。

 つまり、サラは、ここまでの旅の中で、新しい魔法の契約を可能とするだけの力量を備えたという事に他ならない。

 

「今日明日にでも『魔王バラモス』を倒すべきなのは理解しているが、私達が魔王の居城に明日辿りつける訳ではない。魔王と対峙する時、その力量を身につけていればそれで良いとも思っている」

 

「はい」

 

「…………メルエも…………」

 

 リーシャの言葉に、納得したように真剣に頷くサラ。

 そして、自分もと声を上げるメルエ。

 そんな三人の姿を見て、カミュは水を口に含んだ。

 

 

 

 カミュが習得した新魔法<トヘロス>により、森の中で魔物と戦闘を行う事はなかった。途中、<キャットフライ>と出くわしはしたが、カミュの周囲を包む雰囲気をあからさまに嫌がり、一行に襲いかかる事なく逃げて行っている。

 魔物との戦闘もなく一行は森の中を進み、森の先にある山肌にぶつかる。そびえ立つ山肌は、険しい外観を表し、東へと向かう者をはっきりと拒んでいるようだった。

 

「カミュ様。あれではないですか?」

 

「…………あ………な…………」

 

 しばらく山肌に沿って歩む一行は、陽が高く上りきった頃、その横穴を見つけた。

 先頭を歩くカミュに何かを発見した旨を告げるサラの言葉に、メルエもその方向へと視線を向け、その存在を告げる。

 メルエの言葉通り、木が生い茂り見えにくくはあるが、確かにぽっかりと山肌に穴が空いている。それは、人が立って入れる程の大きさで、明らかに人工的に掘られた事が解るものであった。

 

「……入るぞ……」

 

 穴の内部を少し確認したカミュの言葉に、一行は軽く頷き、洞窟内へと足を踏み入れる。その洞穴は、入口こそ明かりが日光しかないものであったが、内部は所々に火が灯され、カミュ達が<たいまつ>を使用する必要はなかった。

 

「魔物の気配が全くありませんね」

 

「そうだな。これ程の洞窟内に魔物が住みつかないとは」

 

 サラが口にしたように、この洞窟内には不思議と邪気に満ちてはいなかった。<西の洞窟>にあった『聖なる泉』の周辺の様な聖なる空気に満ちている訳ではないが、邪悪な気配は一切しない。

 サラの呟きに答えたリーシャが言うように、これ程の規模の洞窟内であれば、魔物が住処として好む物と言っても良い。しかし、これ程邪悪な気配がしないとなれば、魔物が一匹もいないと言っても良いのだろう。

 

「……あれは?」

 

 周囲への警戒を弱めて、そのまま一本道を進む一行の前に、一段と大きな明かりが見える。先頭を歩くカミュが漏らした言葉に全員が前方を注視すると、そこには生活感のある家具などが置かれた部屋が見えた。

 

「こんな場所に、人が住んでいるのか?」

 

「そ、そのようですね」

 

 その奇妙な様子に当然の疑問を口にするリーシャの言葉をサラが肯定した。

 家具は、手作り感のある木で出来た物で、テーブルと椅子が一組。誰かが住んでいたとしても、一人住まいの可能性が高い事が見受けられる。

 

「なんだ?……アンタ達は?」

 

 きょろきょろと周囲を見渡していたメルエは、急に聞こえた声に驚いたが、声と共に奥から現れた姿にそれ以上の驚きを表す。

 それもその筈。

 奥から現れた先程の野太い声の持ち主は、顔面を覆い尽くす程の髭を蓄えた男。

 肌は浅黒く、腕は太い。

 しかし、メルエが驚いたのはそこではない。

 身長がメルエとそう変わらないのだ。

 

「……アリアハンから来ましたカミュと申します。東の大陸に渡りたく、ホビット族のノルド殿という御仁を探しております」

 

「ほぉ……」

 

 表れた小人と思われる中年の男にカミュは軽く頭を下げた後、目的を話し始めた。

 例の如く、カミュが話し始めた事で、後ろに控えるリーシャとサラは口を開く事はしない。メルエもまた急ぎリーシャの下に戻り、リーシャの後ろに隠れるようにしながら、興味深げに小人を見ていた。

 

「私がその『ノルド』だが、東の大陸に渡る方法など知らんぞ」

 

「……そうですか……」

 

 正直な話、ノルドと名乗る小人は驚いていた。

 エルフ族に連なる者といえども、ホビット族は所謂小人である。それも、同じく小人族であるドワーフ族とは違い、強大な力もない。通常の『人間』であれば、その姿を見て侮り、罵る事もある。

 それが目の前の若者にはない。どんなに表面を繕っていても、内面で考えている事は滲み出て来る物。

 いや、それがこのホビット族の特技の一つなのかもしれない。相手が考えている事など、良く解る。現に若者の後ろに控える、僧侶帽を被った少女は、通常の『人』が考えるような事を頭に浮かべているようだった。

 

「アンタは何者だ?」

 

「……申し訳ありません。おっしゃっている意味が理解できませんが……」

 

 カミュを不思議な生き物を見るような目で見ていたノルドは思わず、その疑問を口にしてしまった。

 突然掛けられた言葉に、今度はカミュが困惑を示す。そんなカミュの姿を見て、ノルドの顔は自然と緩んで行った。

 彼は、本当にノルドの言葉が意味する内容に思い当たるものがないのだろう。つまり、彼にとって、ホビット族という種族を蔑視する理由がないという事。

 よくよく彼の後ろに控える者達を見れば、その表情の奥に困惑や驚きが見えるが、侮蔑や嫌悪のような不愉快な物は何一つない。

 青年と同じぐらいの背丈がある戦士の様な女性は、初めて見る生物への純粋な驚きがあり、その足元でちらちらこちらを見ている幼い少女の目は、単純な好奇心が露わになっている。最も『人』としての色が濃い僧侶でさえ、『人』以外の生物に対する『恐れ』こそあれ、侮蔑の視線を向けてはいないのだ。

 

「悪いが、アンタ達の言う『東の大陸への道』はここにはない」

 

「……では、どこに?」

 

 少し緩んだ表情のままノルドが口にした言葉に、カミュは純粋に疑問を呈す。

 そのやり取りに、ノルドは思わず笑い声を洩らした。

 

「ははは。アンタはあの方達によく似ているな」

 

「……あの方達……?」

 

 ノルドの頭に浮かぶ二人の人物。

 それはカミュと同じように、自分を特別視しない瞳を持った二人の男。

 一人は、一国の王という『人』の世界で最高位に値する地位を約束されながらも、見聞を広めるために世界を歩いた男。

 そしてもう一人は……

 

「アンタはアリアハンから来たと言っていたな?」

 

「……はい……」

 

 ノルドの口ぶりが、カミュの頭に嫌な予感を感じさせる。

 そして、それは現実のものとなる。

 

「『オルテガ』という人物を知らぬか?」

 

「!!」

 

「オルテガ様もここに訪れたのか!?」

 

 予想通りのノルドの言葉。

 しかし、予想はしていても、その名が出た事にカミュの眉は顰められる。

 ノルドは、その表情に『嫌悪』を見た。

 いや、『憎悪』に近いのかもしれない。

 

 青年が黙してしまった事により、後ろに控えていた女性の戦士が口を開く。

 相手に物を尋ねる物言いではないが、彼女の心に見下しているような感情がないため、それがこの女性の人柄なのだろう。若しくは、育って来た環境なのかもしれない。

 

「ほぉ……何やら関係がある人間か?」

 

「カミュ様は、その『オルテガ』様のご子息です」

 

 今度口を開いたのは、最も『人』らしい僧侶。

 その口調も生来の物のようだ。

 彼女の生い立ちが、何に対してもどこか遠慮せざるを得ないものだったのだろう。

 

 いつもはカミュの出自を口外する事を控えているサラであったが、ここでははっきりとカミュの出自を告白した。それは、オルテガの息子というステータスがあれば、このホビットが東への道を教えてくれるのではないだろうかという考えがあった為だ。

 

「そうか。ならば、その瞳も合点が行く」

 

「では、東への道も……」

 

「いや、オルテガ殿は、東へは行ってはいない。確か、ポルトガから船に乗ったという話だ」

 

 一人頷いたノルドの姿に、サラはもう一度東への道を尋ねるが、返って来た答えは期待通りの物ではなかった。

 ノルドの話では、オルテガは東の大陸には徒歩ではなく船を使って渡ったという事。

 

「まぁ、今は海の魔物の凶暴化によって、連絡船などは出ていないかもしれないがな」

 

 そして、続いた言葉は、サラだけではなく、リーシャをも絶望へと落とすものだった。

 徒歩で歩く道もなければ、海を渡る船も出ていない。それは、『魔王討伐』の旅の終わりを意味するのだ。

 

「さぁ、私はそんな道は知らないんだ。帰った、帰った」

 

 愕然とするサラを追い出すように、ノルドは手を叩きながら一行を穴の外へと誘導する。言葉こそ邪険な物であるが、その対応は一行の歩調に合わせた物で、『とてとて』と歩くメルエに優しい視線を送り、微笑む場面などもあった。

 メルエもまた、微笑まれた事によって、ノルドと視線を合わせて微笑み返す。

 幼い彼女にとって、初めて見る種族ではあるが、そこはやはりメルエであった。誰に対しても何の先入観もない。

 『自分に微笑んでくれる』

 その嬉しい行為だけで、メルエは心を許す。

 いや、最大の原因は、カミュかもしれない。

 メルエの傍にいるカミュが敵対心を表していない。

 それが、メルエの中の方程式なのかもしれない。

 

 

 

「カミュ、どうするんだ?」

 

 穴から抜け、森に出た一行は、目的地を見失い途方に暮れる。そんな中、口を開いたのはパーティー最年長の女性だった。しかし、それは、方向性を示す物ではなく、そのパーティーのリーダーである青年に方向性を求めるという、何とも他人任せな物となる。

 

「……一度ポルトガに行くしかないだろう。東の大陸へは『船』を使うしかない。今現在、ポルトガから船が出ているかどうかは解らないが、行ってみるしか選択肢が残っていない筈だ」

 

「……そうですね……」

 

 そんなリーシャに、軽く溜息を吐いたカミュの言葉は、一時的な代替案だった。

 サラもまた、カミュの言う通りに、選択肢が一つしか残っていない事を理解し、同意を示す。胸の前で腕を組んだリーシャも、そんなカミュの言葉に小さく頷き、一行の方向性が決定した。

 

「しかし、カミュ。ポルトガにどうやって行くのかは知っているのか?」

 

「はっ!? そ、そうですね……肝心のポルトガへの道を知らない事にはどうにもなりません」

 

 方向性は決まったが、そこへ行く方法がリーシャもサラも思いつかない。故に、今回も、全てをカミュへと丸投げする事になるのだ。

 そんな二人の言葉にもう一度溜息を吐いたカミュは、少し離れた所で、木を見上げているメルエへ視線を向けた。

 メルエにとって、三人の会話の内容には興味がない。三人が行く場所へ共に行くだけ。もはや、メルエが恐怖を抱く場所など何処にもないのだ。

 

「……ロマリアの西に関所があるらしい。その関所へ行ってみる」

 

「そ、それは……もう一度ロマリア城に上がるという事ですか?」

 

 ロマリアの西にある関所というのであれば、当然ロマリア国が管轄する関所となる。ロマリア国とポルトガ国を結ぶ関所を無断で通過する訳にはいかない。しかし、サラも、そしてリーシャも、ロマリア城に上がる事に拒絶感があった。

 自分達の監視の為に兵士を送り込んだ国。しかし、その兵士は任務の全うよりも、『人々の生活の守護』という兵士としての道を選び、その尊い命を落とした。

 リーシャとサラの心に影を落としているのはその事だった。

 

「……必要があれば、そうする……」

 

 カミュはそう言うが、必要がない訳はない。それこそ、強引に関所を突破すれば、一行は晴れて犯罪者となり、ロマリア国が大義名分を掲げて討伐を命じる事が出来るようになるのだ。

 

「わかった。では、まずロマリア城に向かおう。メルエ! 行くぞ!」

 

「…………ん…………」

 

 行く場所も、方向性も決まった。もはや、後は動き出すだけだ。

 未だに木を見上げ、この森に住む小動物を嬉しそうに眺めているメルエをリーシャが呼び寄せ、森を抜ける為に歩き出す。サラはまだ何か思う事があるのか、思い詰めた表情を浮かべるが、リーシャと共にカミュも歩き出した事に気が付き、慌ててその後を追う事となる。

 

 

 

 カミュの『トヘロス』の効果が切れたためなのか、ロマリア領へと向かう一行の前には再び『魔物』が襲いかかって来る。

 魔物は<キャットフライ>に<暴れザル>等が大半で、<暴れザル>に対してはサラの<マヌーサ>や<ラリホー>といった補助魔法で撹乱した後、止めをメルエの攻撃魔法で刺すと行った形で倒して行った。<キャットフライ>に至っては、イシス地方の魔物と相対し、<ピラミッド>内部で死線を潜り抜けて来たカミュ達にとってもはや敵ではなかった。

 <キャットフライ>が<マホトーン>を唱える暇もなく、カミュとリーシャがその翼を切り落とし、サラがその胸を突き刺した。

 力量の差に怯え、逃げ出す魔物をカミュは追う事はせず、リーシャもまた、その魔物の姿を遠目に見ながら構えを解く。唯一人、サラだけは未だに魔物を逃がす事に抵抗感を持ってはいたが、その魔物を追う事はせず、苦々しい表情を浮かべて見つめていた。

 一行は、ロマリア領とイシス地方を結ぶ大きな橋の手前で野営を行い、翌日の陽が昇り始めたと同時に、その橋を渡り始める。

 

「メルエ、いつまでも見ていると陽が暮れてしまうぞ?」

 

「…………ん…………」

 

 橋から見える雄大な大地。

 それをメルエが橋の手すりの下から眺めている。

 朝日の輝く川。

 その先に広がる大地。

 そして遠くそびえ立つ山々。

 それは、本当に幻想的な光景だった。

 

 皆が橋を渡って行く間、カミュのマントから抜け出したメルエは、その光景をまるで目に焼き付けるかの様に眺めていた。

 その姿を、どこか哀しげに見つめるサラ。

 メルエと共に、後方から遠い目で見つめるカミュ。

 このままではいつまで経っても前に進めなくなるのではと感じたリーシャが、手すりを掴むメルエに声をかけ、手を伸ばした。リーシャの言葉に、振り向いて頷いたメルエは、その手を掴む。

 

 この橋を渡りきれば、そこはロマリア領。

 様々な事があった大地にカミュ達は再び降り立った。

 

 

 

 厭味たらしい門番を相手にせずに城下町内に入った一行は、その活気に驚いた。

 カミュ達が初めてこの城下町を訪れた時も、その活気に驚きはしたが、ここまでの物ではなかった筈。それがサラには不思議であり、少し困惑の表情を表すが、彼女の同道者はどこか納得が行ったような表情を浮かべていた。

 

「カミュ。この活気は何なのだ?」

 

 そんなサラの疑問と同じものを感じたリーシャが、例の如くカミュへと問いかける。その問いに、振り向いたカミュは、これもいつも通り深い溜息を吐いた。

 

「……税率でも下がったのだろう……」

 

「なに? どういう事だ?」

 

 そして、これまたいつも通り、リーシャはカミュの言葉が指し示す結論に到達出来ない。しかし、カミュの一言で、サラはその結論に達する事が出来た。

 

「つ、つまり、ノアニールから税を取り立て、この城下町の税を軽減させたという事ですか?」

 

「……おそらくな……」

 

 カミュの予想。それは、復活したノアニールの住民に重税をかけ、その分『お膝元』である城下町の税を軽減させたというのだ。

 税が下がれば、人々の暮らしに余裕が出る。

 余裕が出れば、人々の消費力が高まる。

 消費力が高まれば、店などにも活気が出る。

 店に活気が出れば町に出てくる人間も増えると言った、良い循環になっているという事だった。

 

「な、ならば、逆にノアニールの村は、どんどん寂れて行くではないか!?」

 

「……周辺国の視線が集まるのは、この城下町だけだ。国領の田舎であれば、ある程度は無理が利くのだろう。逃げるにしても、国外には出る事など出来ないのだからな」

 

「そ、そんな……」

 

 ようやく理解に及んだリーシャの投げかけに返すカミュの言葉は、サラを絶句させるような内容だった。

 ただ、国を切り盛りするという事は、サラが考えているような綺麗事だけでは無理な事もまた事実なのである。

 

「…………」

 

「……メルエ、呆けているとはぐれるぞ……」

 

 カミュのマントから手がいつの間にか離れ、周囲を興味深そうに眺めていたメルエにカミュが呼びかけ、その声に気が付いたメルエがカミュの許へと戻って来る。

 メルエですら、この活気に驚きの表情を浮かべたのだ。

 メルエが育った場所は、夜の町<アッサラーム>。

 それでも尚、メルエが驚いた事で、今のロマリア城下町の雰囲気が解るだろう。

 

「……城へ上がる……」

 

 メルエが戻った事を確認したカミュは、ロマリア城へと続く街道を真っ直ぐ歩いて行く。その後ろをメルエとサラ。そして最後尾をリーシャという順で、一行は城へと向かった。

 

 

 

「ほう……勇者カミュよ、よく戻った」

 

「はっ。ロマリア国王様におかれましても、ご健勝の事とお慶び申し上げます」

 

 謁見の間に通された一行を待っていたのは、以前と変わらず玉座に座る二人の王族。ロマリア国王と、ロマリア国の施策を担っているであろう王女である。

 

「して、此度は如何様な用向きじゃ?」

 

「はっ。この先の旅を続けるに当たり、ポルトガ国への入国をお許し頂きたく、参上致しました」

 

 跪くカミュの、仮面をつけた会話は進む。

 その間、カミュの後方に控えたリーシャ達三人に出番はない。

 顔を上げる事もせず、ひたすら床に敷いてある赤い絨毯を見つめ続ける。

 

「ほぉ……ポルトガとな……」

 

「はっ」

 

 その時、カミュの言葉に少し考える仕草をする国王の横の玉座に座る王女が、何かを思いついたような表情を浮かべた。

 

「ポルトガは貿易で伸し上がってきた国。『船』を手に入れるおつもりですか?」

 

「……いえ。『船』を手に入れる程、私達に余裕はございません。もし、定期的に船が出ているのであれば、乗船させて頂こうとは考えております」

 

 国王に代わり口を開いた王女の言葉に、カミュは律儀に答えて行く。カミュのその言葉で、王女は、カミュ達が<イシス>においても、国からの援助を断った事を知った。

 実際は、そのような申し出自体がなかったのだが、『勇者』という存在が各国を訪れるのは、援助の願いが第一目的である事が多いからだ。

 

「なるほど。良いでしょう。西の関所の守兵には、貴方方の事は伝えておきます」

 

「……有難き幸せ……」

 

「しかし、ポルトガと我が国を隔てる通路には、その昔に鍵をかけておる筈。それはどうするのじゃ?」

 

 国王を差し置いて、カミュ達に許可を出す王女の言葉に、カミュは若干驚きを見せるが、すぐに表情を戻し、丁重に頭を下げた。しかし、会話に乗り遅れた国王が、一つの危惧を口にする。

 カミュは、国王の言葉にもう一度顔を上げた時に、国王へと視線を向ける王女のどこか歪んだ笑みを見た。

 一国の王女といえども、それはカミュが先日相対した、絶世の美女が浮かべる微笑みとは真逆の物。

 それは、慈しみと優しさにあふれた微笑みと違う、どこか黒い影が伴う微笑み。

 

「確かに、あの扉の鍵は、もはやこの国にはございませんね」

 

「ならば、この者達もポルトガへと渡る事は出来ぬであろう」

 

 王女が口にした言葉は、カミュ達一行を驚かせたが、その後に続いた国王の問いに返答した王女の言葉は、絶望すら感じるようなものだった。

 

「いえ。私達は、この者達に許可を与えたのです。その後の事をどうするのかは、この者達の仕事。私達には関係ございません」

 

「……」

 

 許可は与えた。

 そこへ行くのは許すが、その扉を開き、ポルトガへと渡る方法は自ら考えろ。

 王女の考えにカミュは言葉を失った。

 

 もしかすると、あの朝にカミュが王女に発した言葉を、根に持っているのではとも思ったが、この聡明な国の独裁者がそのような些細な事で嫌がらせをするなどという事は、カミュには考えられなかった。

 そこが年若いカミュの限界なのかもしれない。

 

「……ポルトガへの入国のご許可を頂き、有難き幸せ。関所に関しては、私どもの方で思案致します」

 

「そうですか。ではご用も済んだ様子。これにて……」

 

「……お待ち下さい」

 

 カミュがもう一度頭を下げた事により、王女が謁見の幕を下ろそうとするが、その声を顔を上げたままのカミュが遮った。

 王族の言葉を遮るなど、罪にも値するほどの行為。

 それを、仮面を被ったままのカミュがするという事に、後ろに控えていたリーシャとサラも驚きを表し、思わず顔を上げてしまった。

 

「まだ何かあるのか?」

 

 そう問いかけるロマリア国王に対し、一度瞳を閉じ、一息空気を飲み込んだ後、カミュは口を開いた。

 その言葉は謁見の間の空気を凍らせる。

 

「……アッサラームで一人の兵士が命を落としました……」

 

「!!」

 

 カミュの言葉に、リーシャとサラは息を飲んだ。まさか、カミュがその事を口にするとは思わなかったのだ。

 ロマリアの監視ではないかというのは、カミュ達の推測でしかない。推測の域を出ない物を、疑惑の相手にぶつける事の愚かしさを知らないカミュではない筈だ。

 しかも、相手は一国の王族。

 王族に疑念をぶつけるなど死を覚悟しているとしか思えないものだった。

 

「……それが、なにか?」

 

 ロマリア王女とカミュの視線が完全にぶつかる。

 一国の王女と目を合わせるという行為だけでも、それは畏れ多い事。それでもカミュは真っ直ぐと王女を見つめ返す。

 その瞳に映る物は冷たい光。

 何者も恐れないカミュだからこそ出来る瞳なのかもしれない。

 

「……その兵士は、アッサラームやイシスまで我々の後を付いて来ていました」

 

「それは、我々ロマリア国が差し向けた者とでも言うつもりですか?」

 

 カミュの話す言葉に、徐々に表情を険しくして行く王女。

 反対に、ロマリア国王や大臣の表情は若干青ざめ、狼狽が手に取るように分かる。

 リーシャやサラが見ても、この国の実権の在処は一目瞭然だった。

 

「……いえ。そうは言いません。ただこれを……」

 

「!!」

 

 カミュが差し出した物。それは、王女ですら表情を変える程の物だった。

 アッサラームのあの夜、アンジェの遺体を運ぶリーシャやサラとは別に、兵士の遺骸を教会まで運んだカミュがその兵士の胸の中で見つけた物。

 

「……それは、兵士の身分証です……」

 

「……」

 

 各国の正規の兵には身分証がある。

 傭兵や使い捨ての兵などと違い、正規兵は国の所有物であるからだ。

 

「……その兵士は、アッサラームの町で住民の命を護るため、町に入り込んだ魔物と戦い、そして命を落としました……」

 

「!!」

 

 身分証を大臣から受け取り、若干顔を顰めた王女ではあったが、カミュが続けた言葉に息を飲んだ。

 国王はもはや灰のように佇むだけである。

 

「兵士の亡骸はアッサラームの教会の墓地に埋葬されました。その兵士の尊い犠牲により、町の住民の犠牲は皆無となっています」

 

 カミュの言葉に、リーシャやサラが反論の視線を向ける。

 確かにリーシャやサラが考えている通り、アッサラームで犠牲はあった。

 メルエの義母であるアンジェその人である。

 

「……どんな命を受けていたのかは解りませんが、自国から受けた命よりも、他国の町に住む住民の命を優先させたその兵士の死をお伝えしない事は、色々とお力添えを頂いたロマリア王国に対する無礼に当たると考え、これをお持ち致しました」

 

「……」

 

 リーシャとサラの視線。そして、どこか哀しげな光を宿すメルエの視線を受けながらも、カミュは言葉を続ける。

 そのカミュの目を見つめる王女の表情に、もはや狼狽は見えない。未だに慌てふためく国王と大臣とは違い、その表情はまさしく一国を束ねる王族の顔。

 

「……叶う事ならば、その兵士の勇気と優しさにお褒めのお言葉を……」

 

 最後にカミュはそう締め括った。

 その言葉がカミュの本心なのかは解らない。ただ、その兵士に対してリーシャやサラが感じた『人』の一部をカミュも感じていたのかもしれない。

 そう、リーシャは考えた。

 

「……話は解りました。確かにこれはロマリアの身分証。よくぞ持ち帰ってくれました。大義でありました」

 

「はっ」

 

 暫しの逡巡の後、王女が口にした言葉。

 それは、暗にカミュの言葉を全面的に認めた事になる。

 カミュ達の監視の為にロマリアが兵を送ったという事実を、明確に言葉にはしていないが、カミュ達がそのように考えている事は王女にも伝わっている筈。つまり、周囲の人間には解らなくとも、カミュ達に向かっての肯定という事になるのだ。

 王女もそれを理解しての発言なのだろう。

 

「……では……」

 

「こ、これにて謁見を終了する。」

 

 カミュが頭を下げた事を確認した王女が、未だに狼狽を見せる大臣に視線を送り、それを受けた大臣は慌てたように謁見の幕を下ろした。

 

 

 

 謁見の間を出て行くカミュ達一行の背が消えた後、王女は深い溜息を吐いた。

 それは、どんな意味を持つものなのかは、隣に座る国王には解らない。

 

「父上……この兵士は、身寄りのない者。ただ、このままでは国の沽券に係わります。直ちにアッサラームに使者を向け、遺体の引き取りを」

 

「……うむ……」

 

 王女の言葉に、頷く国王。再び国王としての威厳を戻した国王は、傍に立つ大臣に視線を送り、それを受けた大臣は人選や手配の為、席を外す。

 必然的に国王と王女の二人となった謁見の間に静けさが広がった。

 

「今回はしてやられました。まさかあのような形で報告して来るとは……」

 

「これからは、あ奴等の行動を監視する事が難しくなるのぉ」

 

 一つ溜息を吐いた王女に、国王が思案気な表情を浮かべ、言葉を発する。狼狽が顔に出やすく、交渉に向いていないといえども、そこは一国の国王。

 これまでのカミュと王女の会話で、それが齎す弊害に思い至っていた。

 

「そうですね。しかし、心配はいらないでしょう。すでに各国へは通知済み。彼等の行動は逐一世界に届く事は間違いないでしょうから」

 

「ふむ。しかし、あ奴等はポルトガに入国出来るのか?」

 

「それも心配は無用でしょう……あの者達ならば……」

 

 国王と王女の会話は続く。

 カミュ達一行のこれからについて。

 初めてこの謁見の間に現れた彼等を見た時、とてもではないが『魔王討伐』は無理だろうと国王も王女も感じていた。

 それが、『金の冠』を取り返し、ノアニールの村を解放し、そして今、イシスへの旅を終えて新たな土地を目指して歩き出している。王女は自分の胸にある彼らへの期待が、会う度に大きくなっている事に気が付いていた。

 おそらく、彼ら自身は、周囲が感じる程の大きな『成長』を実感してはいないだろう。しかし、彼等を一度でも見た事のある人間は、時間の経過と共に確かに変わって行く彼等を否が応でも認めずにはいられないのだ。

 

 

 

「……カミュ様……」

 

 ロマリア城を出て、町の門へと続く街道を歩いている途中で、サラが口を開いた。サラの声に振り向いたカミュに、リーシャが口を開く。

 

「何故、アッサラームでの犠牲を皆無と言ったのだ!? お前は、あの女性は『人』ではないとでも言うつもりなのか?」

 

 リーシャが発した言葉は、サラと同じもの。

 謁見の間で疑問に思い、危うく反論の声を上げそうになったものである。

 リーシャは、メルエの義母であるアンジェの死に様を侮辱するようなカミュの言葉が許せなかった。

 確かにアンジェがメルエに行って来た物は許される事ではない。しかし、あの最後は、母としての確かな『愛』を感じるものだった。

 カミュの言葉は、その『愛』すらも否定するようなもの。それがリーシャには悔しかった。

 

「……誰が何時そんな事を言った?……アンタが短絡的な事は知っていたが、いい加減にしてくれ」

 

「な、なに!?」

 

 そんな怒りに燃えるリーシャに向かって発したカミュの言葉は、溜息の混じった明らかな呆れ。もはや諦めの境地に達していそうなそれに、リーシャは目を見開いた。

 

「……メルエ……」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの視線を無視し、カミュはメルエを自分の下へと呼び寄せる。呼ばれたメルエは、先程までの会話で下がった眉のまま、カミュの下へと駆け寄って来た。

 カミュのマントの裾を掴み、見上げるメルエの帽子を取り、軽く頭を撫でる。くすぐったそうに目を細めたメルエの表情から哀しみが少しずつ消えて行った。

 

「……あれは、俺の責任だ。あの兵士が負う物ではない」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュに言わせれば、それはカミュ達一行の責任であり、あの兵士が背負う物ではないという事なのだろう。

 もし、カミュがメルエの動向に注視し、メルエと共にあの広間に出ていたら、アンジェの命が散る事はなかったのだ。

 それが、カミュの胸に残る懺悔。

 

「……あの時、メルエと共に宿屋に残ると言ったアンタの意見を無視し、メルエを連れて行く事を強行したのは俺だ。あの義母親が死ぬ事になったのは、そんな俺の独断の責任」

 

「……カミュ……」

 

 カミュの表情は、今までに見た事のない程の悲痛なもの。

 それがカミュの後悔の深さを物語っていた。

 リーシャはそれが理解出来た。

 カミュを胸の奥で苦しめている後悔が……

 

「…………わらっ………てた…………」

 

「……メルエ?」

 

 そんな苦しみの表情を浮かべるカミュに声をかける事が出来ないリーシャとサラ。

 その時、不意に口を開いたのは、カミュのマントの裾を握る幼い少女。

 アンジェに庇われ、その命を救われたアンジェの義理の娘であるメルエだった。

 

「…………はじ………めて…………」

 

「……メルエ……」

 

 悲痛な表情のカミュに、何かを伝えようと一所懸命に話すメルエの姿は、サラの目から涙を溢れ出させる。

 それが、何の涙なのかはサラにすら解らない。ただ、メルエの哀しみを含んだ必死な表情がサラの涙を誘うのだ。

 

「…………メルエ………に…………」

 

「わかった! わかった、メルエ! もう良い、もう良いんだ!」

 

 メルエの頬を水滴が流れる。その溢れ出る涙を見た時、リーシャが動いた。

 メルエを後ろから抱き締め、その髪に顔を埋める。

 メルエは、あの町を出てから哀しみの表情を見せる事はあっても、決して泣く事はなかった。それを見たリーシャは、カミュの言うように『アンジェを他人として見ている』という言葉が、どうしても頭から離れて行かなかった。違うと思っていても、頭の片隅では『やはりそうなのでは?』という想いが抜けなかったのだ。

 だが、それは間違いだった。

 メルエは、しっかりとアンジェの最後の笑みの意味を理解している。故に、前を向いて歩いていたのだ。

 カミュ達と出会い、喜びと楽しみを知ったメルエは、あの義母を許せない気持ちはあっただろう。それは、髪飾りを投げ捨てようとする行動が示している。

 しかし、それでもアンジェが最後に伝えようとしたものは、メルエの心に届いていたのだ。

 リーシャはその事実に涙した。

 

「……メルエ……ありがとう…………すまない」

 

 しゃがみ込み、後ろからリーシャに抱かれるメルエに視線を合わせたカミュは、相反した単語をメルエへと伝える。

 自分を気遣ってくれた事への感謝。

 そして、護る事が出来なかった事への謝罪。

 それは、メルエだけでなく、メルエの義母をも護れなかった事への謝罪だった。

 

「…………ん…………」

 

 涙を流しながらも、しっかりと頷くメルエに、サラの涙は加速する。一人の幼子を中心に涙する集団は、活気あふれた城下町で異様な光景だった。

 次第に周囲の注意がカミュ達一行に向けられる事となり、それに気が付いたカミュは門へと向かい歩き始めた。

 

「…………いく…………」

 

「あ、あぁ、そうだな。行こう、サラ」

 

「は、はい……ぐずっ……」

 

 メルエの言葉に立ちあがったリーシャは、サラへと声をかけ、三人は歩き出す。

 周囲の奇異の視線を無視し、ただ前を歩く青年の背を追いかけて。

 

 

 

「ここは、ロマリア管轄の関所だ。どのような要件だ?」

 

 ロマリア城下町を出た一行は、ロマリア城から北西へと歩き、一夜を明かした後、この場所に辿り着く。そこは簡素な関所だった。

 守番となる兵士が一人。そして、ロマリアとポルトガを結ぶであろう通路の入口と見られる場所は建物で覆われており、ロマリア王女の言っていた通りの扉がある。

 

「アリアハンのカミュと申します。ポルトガへの入国許可は、ロマリア国王様と王女様に頂いております」

 

 訝しげにカミュ達を見つめる兵士に、仮面を被ったカミュが頭を下げる。

 兵士の怪訝は当然の感情。

 カミュ達のパーティー構成は、青年一人に女性が一人。

 そして、まだ女性とは言い切れない少女の様な者が一人に、明らかな幼子が一人。

 とても『魔王討伐』等に向かう人間達には見えない。

 

「……確かに……しかし、この通路のカギは、疾うの昔に失われている。カギを壊し中に入ろうとしても無駄だぞ?」

 

 カミュから許可証を受け取り、中身を確認した兵士の言葉は、これもまた王女が話した内容と同じ物だった。

 扉は大きく、その周囲にはとても高い塀を持つ建物が覆っている。加えて、その扉は鉄製で、とても人間の力で破壊出来る物ではない。

 

「……カミュ様……どうするのですか?」

 

「流石にあの扉は、私でも壊せないぞ?」

 

「……」

 

 小声でカミュに問いかけるサラの問いにカミュは振り向く事はなかったが、リーシャが発した言葉に、思わずカミュは振り返ってしまった。

 同じく、疑問を呈したサラであっても、そんなリーシャを呆然と見つめてしまう。

 

「な、なんだ?」

 

「……何でもない」

 

 自分に向けられる複数の視線にたじろぐリーシャに、カミュは溜息を洩らした後、兵士が護る通路への入口へと歩いて行った。

 

「どうするつもりなのでしょう?」

 

「…………カギ…………ある…………」

 

「メルエ!」

 

 カミュの行動を不思議に思ったサラが口にした疑問に答えたのは、リーシャの手を握っていた少女だった。

 メルエの答えと、入口の扉に辿り着いたカミュがメルエを呼ぶ声が重なる。

 

「ん?……あっ!」

 

「そうか!」

 

 カミュの下へと駆け寄り、肩から提げたポシェットの中身を探るメルエの姿を見て、ようやくリーシャとサラにも合点がいった。

 何故、あれの存在を忘れていたのだろう。

 その伝説となりつつあった道具を手に入れる為に、彼等は<ピラミッド>と呼ばれる古代建造物へ入ったのだった。

 メルエが今、ポシェットの中を確認しているのは、その<魔法のカギ>を取り出しているのだろう。

 基本的にカギ等の小物はメルエのポシェットに入っている。それは、メルエが持つ事を主張した為でもあるが、メルエの方が激しい動きがない分、落として無くす事はないだろうというカミュの考えもあったのだ。

 そこで、リーシャに持たせたりなどしたら『あっという間に、何処かへ消えて無くなりそうだ』という余計な一言を付け加えた為、リーシャが激昂したのは、また別のお話。

 

 カチャリ

 

 メルエから<魔法のカギ>を受け取ったカミュが、扉の鍵穴にそれを差し込む。

 カギを回す事もせずに、周囲に乾いた音が響いた。

 

「な、なんだそのカギは!?」

 

 黙って成り行きを見ていた兵士が、十年以上前に紛失された鍵が開く現場を目撃し、言葉を失っている。もはや、徒歩でポルトガへ渡る事は出来ないであろうとさえ思われていた問題が、今、目の前で解決されたのだ。

 それも、まだ年若い四人の人間によって。

 

「……行くぞ……」

 

「…………ん…………」

 

 守番に軽く一礼した後、重い鉄製の扉を開けたカミュは、その中へと入って行く。カミュから返された<魔法のカギ>を大事そうにポシェットへと戻した後に、メルエが続いて行った。

 

「ロマリアも、他国からの魔物の流入を恐れて、交流を閉じていたのですね」

 

「……そうだな……」

 

 カミュ達の後を追う前にサラが溢した言葉に、リーシャが一つ頷き、歩き出す。

 サラの言う通り、元来この関所は関税などの徴収の為に作られた物であったが、魔物の横行が激しくなり、そして世界の希望である一人の青年の死によって、その門が閉じられる事になった。

 それは、他国からの強力な魔物の流入を恐れて、<旅の扉>という門を閉じたアリアハン国の様に。

 

 目の前で遭遇した、信じがたい出来事に呆然と佇む守番の横をリーシャとサラが通り過ぎ、十数年ぶりに開かれた重い扉を潜って行く。そして再び、重厚感のある音を立て、その扉は閉められた。

 しかし、もうその扉は誰もが開けられる扉。

 他国との交流を再開させ、古い体質を破壊するような音を立てて閉まって行く扉を眺めながら、守番は我に帰った。

 

 『誰も開ける事が出来なかったこの扉は、未来へと繋がる扉となるのかもしれない』

 

 そんな誰にも言う事の出来ない不思議な想いが胸に湧き上がる。不思議な感覚の余韻を残したまま、守番は報告の為にロマリア城に向かって歩き出した。

 

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございます。

ようやく第五章の始まりです。
第五章は、この物語の中でもかなりの重要度となっています。
頑張って描いて行きます。

ご意見ご感想を心よりお待ちしています。


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戦闘④【ポルトガ地方】

 

 

 

 カミュ一行は地下に降りたところにある、長い直線の通路を歩いていた。

 ロマリア王国とポルトガ王国は険しい断崖絶壁の山々に隔たれている。そして、山々の隙間のようにぽっかりと空いた場所には、海から流れ込む大きな河が広がっていた。

 ロマリアの関所を抜けた場所は地下への階段があり、地下へ降りた場所は、その河の真下に位置する。そこに地下通路が作られていた。

 ロマリアとポルトガが友好関係を結んでいた頃、その行き来には流れが急な河である事から橋を架ける事も出来ず、渡し船が必要であった。

 しかし、急な河を渡る渡し船の為、物資などの運搬はスムーズには行かない。その為、その河の下にトンネルを作る事によって人々の往来をスムーズにしようと考えた両国の国王が、多数の人員の犠牲を払いながらも建設を継続し、完成させた通路であった。

 それが、今から百年程前の話である。

 

 

 

 カミュを先頭に、直線に延びる通路を歩く。<たいまつ>に照らされた通路は、十数年使われなかった事もあり、埃にまみれてはいるが、魔物達の放つ邪気を感じさせない。

 それが解るのであろう。カミュの後ろをサラと、その手を握るメルエが歩く。二人は所々で笑顔を見せながら、歌を口ずさんでいた。

 ノアニールでサラの歌を聞いたメルエは、それからほぼ毎日、サラに歌をせがむようになっていた。

 サラが謡った歌を聞き、自分も口ずさむ。いつしか、文字や言葉を覚えるよりも早く、その音程を物にし始めていた。そこは義理とはいえ、世界で五指に入る歓楽の町<アッサラーム>の劇場でNO.1の地位に手をかけた踊り子の娘という事なのかもしれない。

 そんな陽気な二人の後ろを歩くのは、アリアハン屈指の騎士。先頭を歩きながらも、時々振り向き、メルエの様子を確かめるカミュを見ながらリーシャは考えに耽っていた。

 

 『カミュは変わった』

 

 それが、今リーシャの頭の中にある想い。

 徐々に変わり行くカミュを見ては来たが、これ程に感じたのは始めたかもしれない。

 そう考えたのは、ロマリア城での一件。

 

 『……叶う事ならば、その兵士の勇気と優しさにお褒めのお言葉を……』

 

 カミュは謁見の間で、玉座に座る二人の王族に向かってそう語った。

 初めは気にも留めなかった。

 リーシャには判別出来なかったが、カミュは何らかの交渉をしていたのではないかと思っていたのだ。

 あの兵士のような、自分達の監視に対しての抑制。それの交渉をする為にあの兵士の死を美化した形で国王に告げたのではないかと。

 しかし、それは、謁見の間を後にした時に、間違いだと気が付いた。

 

 『……あれは、俺の責任だ。あの兵士が負う物ではない……』

 

 そう語るカミュの表情を見て、リーシャは自分の浅はかさを悔やんだ。

 カミュは心からそう感じていたのだろう。

 自国の民でもない、アッサラームの町民を救う為に散った一人の兵士の命を尊いと。

 それでも尚、失ってしまった一つの命は、その兵士が負う物ではなく、その場に居合わせた自分が負う物だと。

 アリアハンを出た頃のカミュであれば、間違いなくそんな考えをする事はなかったとリーシャは断言できる。

 『自分には関係のない事』で済ませてしまっていただろう。

 魔物と戦い散った兵士の命を『自分の力量も解らぬ馬鹿な男』と吐き捨てていたかもしれない。

 メルエを庇って死んだアンジェを『自分の命よりも他者の命を優先した人間』と嘲笑ったかもしれない。

 それこそ『無意味な死』と。

 

 何がカミュを変えているのかは解らない。ただ、カミュは確かに変わっていた。

 魔物の命の重みを語った少年は、今まで蔑んだような瞳を向けていた『人』の命の重みをも体感しているのかもしれない。

 それがこの先、カミュをどんな風に変えて行くのか。

 それはリーシャにも解らない。

 ただ、その変化が齎す可能性は広がったのではないかとリーシャは思っていた。

 

「…………シャ…………」

 

「ん?……どうした、メルエ?」

 

 考え事に耽っていたリーシャは、近くから聞こえて来た声で思考から戻される。

 ふと足元を見ると、若干頬を膨らませたメルエがリーシャを見上げていた。

 

「…………いっぱ………い………よん………だ…………」

 

「ん?……ああ、すまない。少し考え事をしていたみたいだ」

 

 自分に向かって頬を膨らませるメルエを見て、リーシャは苦笑する。

 おそらく何度もリーシャの名を呼んだのであろう。自分を無視するように歩くリーシャに、哀しみを感じていたのか、目には涙まで溜めていた。

 リーシャは、そんなメルエの帽子を取り、軽く髪を撫でてやった後、メルエの手を握り直し、先頭でこちらを振り返っているカミュの後を追って歩き出した。

 一行が地下通路を歩き終わり、階段を上った先は、ポルトガ領だった。

 一段上がった場所にあるその関所の名残から見える広大な大地は見る者を魅了する。

 大地の中央には、高くそびえ立つ巨大な山。その周辺を樹海の様な森が円を作るようにその山々を囲んでいる。

 そして遙か遠くに見える海。貿易国であるポルトガ城はその海の近くにあるのだろう。

 

「凄い光景ですね」

 

「…………ひろ………い…………」

 

「そうだな。とても美しい」

 

 その光景を見たサラがメルエに感動を伝え、メルエが目を丸くする。

 そんな二人に微笑みながら、遠くを見据えるリーシャ。

 三人の髪を遙か遠くから吹く海風が撫でて行く。

 

「……行くぞ……」

 

 三人を一度振り返ったカミュが先を促し、広大な大地へと降りて行く。

 新たなる大地への旅立ち。

 彼等は、また一歩『魔王討伐』への道を踏み出した。

 

 

 

「お、おい! カミュ!」

 

「……ああ……」

 

 新たなる大地に降り立ち、地図を確認しながら、海の方へと進む一行の足取りを止める気配。

 その気配に気づいたリーシャが、気配のする方向に目を凝らし、驚きの声を上げる。リーシャだけではなく、そちらに視線を動かしたカミュもまた、驚きに目を見開いていた。サラの手を握るメルエは、サラの後ろに隠れてしまい、サラは武器を構える事も忘れ、その奇態な生物に驚きの視線を向けていた。

 

 カミュ達の方向にゆっくりと近づいて来る四体の魔物らしき影。

 それは、大きな人面に手と足が生えたような奇態な生物。

 全体的に腐敗したような肉に顔面を持ち、その顔面から小さな手足が生えている。

 その右手にはメルエの<魔道師の杖>のような木の杖を持っていた。

 

<ドルイド>

古代の僧侶と云われる者の名。『精霊ルビス』を信仰している教会に属している訳ではなく、独自の神を信仰する云わば『異教徒』であったため、人の町から追い出され、森や山の中で独自に生活をしていた。その教えも独特であり、『人』を神への生贄として捧げるため、人の町での罪人を匿って、その者を生贄としたり、生贄の為に奴隷商人から奴隷を買ったりしていたと伝えられている。いつしか、その存在が『人』の間で忘れ去られた頃に現れた魔物。その身体は、数多くの人間の死肉で出来ており、多くの人々の無念が顔となって死肉に浮かび上がったと云われている。生贄の死肉で出来ているのか。それとも、ドルイドと呼ばれた僧侶達の死肉で出来ているのか。それは解らないが、森の奥から出て来るその姿を恐れた人々から『ドルイド』という僧侶の名称をつけられた。

 

「カミュ! 来るぞ!」

 

「……ああ……」

 

 斧と剣を構えたリーシャとカミュは、それぞれ奇態な魔物へと向かって行く。その二人の姿を見て我に帰ったサラもまた、背中から<鉄の槍>を構え、メルエを後ろに庇う。メルエもまた、杖を高々と掲げ、詠唱の準備に入っていた。

 しかし、そんな一行の出鼻は大きく挫かれる事になる。

 

「@%#&@」

 

 一体の<ドルイド>に向かって斧を振り上げたリーシャに、その魔物は手に持つ杖を向け、人語ではない詠唱を行ったのだ。

 咄嗟の行動に、カミュがリーシャの方向に割り込んで来るが、それも間に合わない。リーシャの周囲の空気が真空と化し、鋭い刃となって襲いかかって来た。

 庇うように入って来たカミュが<うろこの盾>を掲げるが、それも襲いかかる真空の刃を全て防げる訳ではない。

 

「くっ!」

 

 自分の皮膚を切り裂いて行く風に苦痛の声を洩らすカミュ。

 そして、その後ろにいるリーシャもまた斧を持つ手を切られていた。

 

「……一度下がるぞ……」

 

「わ、わかった」

 

 真空の刃がある程度落ち着いた時に、カミュが振り返る事なく発した言葉に、リーシャも一つ頷き、二人はサラとメルエがいる後ろに下がった。

 

「だ、大丈夫ですか? ホイミをかけます。こちらへ」

 

 戻って来たカミュとリーシャの身体の至る所から血が流れているのを見たサラが、二人の身体に<ホイミ>をかけて行く。

 淡く光る緑色の光が、二人の患部を包み込み、傷を癒す。

 

「サラ、ありがとう。もう大丈夫だ。それより、カミュ。あれは<バギ>か?」

 

「……アンタ……魔法の名を憶えていたのか?」

 

「な、なんだと!?」

 

 サラの治療を受けたリーシャは、視線を<ドルイド>から外す事なくカミュへと問いかけるが、同じく<ドルイド>に視線を向けていたカミュは、そのリーシャの言葉に心底驚いたように目を見開き振り返った。

 その態度が、リーシャの怒りを誘う。

 魔物を前にした者達の雰囲気ではないその空気が、サラとメルエに安心感を与えた。

 

「ふふ。リーシャさんのおっしゃる通り、あれは<バギ>です。何故、魔物が『経典』の魔法を使えるのかは解りませんが……」

 

 戦場には似合わない空気に少し笑顔を見せたサラであったが、瞬時にその表情を引き締め、四体の<ドルイド>へと視線を向けてリーシャの考えを肯定した。

 サラは、魔物が魔法を使う事は理解している。

 以前遭遇した<ホイミスライム>が『経典』にある<ホイミ>を使用した。

 それは、サラの中にある常識を大きく覆す出来事だったのだ。

 しかし、サラは、<エルフの女王>からこの世の真実とも言える話を聞く事になる。それがサラの世界観を根底から揺るがして行くのだ。

 <エルフの隠れ里>で聞いた話がサラの中で大きく影響している証拠に、サラは<ドルイド>が<バギ>を使用した事に、あの時程のショックを受けてはいなかった。

 

「カミュ! あの四体に<バギ>を連発されたら、近寄る事が出来ないぞ?」

 

「……一人が囮になるしかないな……」

 

 方針を尋ねるリーシャの言葉は、サラもカミュも聞き慣れた。全てをカミュに丸投げしているように聞こえはするが、リーシャ自身が、自分が考える事に向いていない事を理解しての事。

 それは、自分が独断で行動した結果、待っていたのが仲間の危機であるというものへの恐怖と言っても良いだろう。

 それをカミュもサラも理解しているのだ。

 

「囮!? まさか、またお前がやると言うんじゃないだろうな!?」

 

「……他に誰がいる?」

 

 しかし、提示された策は、一人を危険に晒す物。そして、それを聞いたリーシャは、再び自分を危険に晒そうとする青年に咎めるような視線を送る。

 その視線に怯む様子もなく返されたカミュの言葉は、リーシャの表情を歪めてしまった。

 

「お前は……」

 

「だ、大丈夫です。カミュ様とリーシャさんは、そのまま魔物達に向かって下さい。<バギ>の詠唱を確認したら、盾を構えて頂きますが、何とかなると思いますので……」

 

 カミュの発言に表情を歪めたリーシャは、何かを言おうと口を開くが、それはサラの言葉に阻まれた。

 最近、時として見せる、サラの強気の態度。それは、今やリーシャの中では確固たる地位を築いていた。

 

「何か策があるんだな?」

 

「はい」

 

 自分の問いかけに、強く頷くサラに、リーシャは小さく作った笑顔で頷き返す。少し前で魔物を警戒しているカミュと頷き合った後、リーシャとカミュは<ドルイド>に向かって駆け出した。

 如動き出したカミュ達に、<ドルイド>達は一斉に杖を向ける。

 基本的に死肉で出来た<ドルイド>達は動きが遅い。遅いが故に、魔法を行使出来るようになったのか、それとも、魔法を使うが故に、更に動きが遅くなったのか。

 一体の<ドルイド>がリーシャに向かってその杖を振り上げ、先程と同じような詠唱を行う。その動きを見たリーシャは、手に持つ<青銅の盾>を構え、真空の刃の衝撃に備えた。

 詠唱が完成した<ドルイド>の杖先から風が狂ったように吹き荒れる。

 リーシャの持つ<青銅の盾>に乾いた金属音と共に襲って来る相当な衝撃。

 真空と化した刃が青銅で出来た盾を削って行く。盾では防ぎきれなかった風の刃がリーシャの頬をかすり、肉を切り裂いた。

 

「ぐっ!」

 

 暴風が終わり、盾を下して、駆け出そうとしたリーシャは、自分に向かって再び杖を上げるもう一体の<ドルイド>の姿を見た。

 先程の<バギ>をまともに受け、リーシャの左手に装備されている<青銅の盾>は、もはや盾としての機能を全う出来る程の性能がない事は見て解る。

 

 『まずい』

 

 そう考えたリーシャの前に<うろこの盾>を構えたカミュが立ち塞がった。

 最初の<バギ>をまともに受けたカミュの盾ではあるが、流石はロマリアの宝物庫にあった盾だけあり、その強度は<青銅の盾>を遥かに凌ぐ。魔法にも、その防御力を発揮するという言葉通り、盾を覆う魔物のうろこには傷一つなかった。

 

「@%#&@」

 

「マホトーン!!」

 

 魔物の詠唱が始まり、もう一度来る衝撃にカミュとリーシャが身構えた時、後方から呪文の詠唱が聞こえた。

 それは、このパーティー内最強である補助魔法の使い手。そして、常に成長を続ける年若い僧侶。魔物の詠唱に被せるように唱えられたその呪文は、固まっていた四体の<ドルイド>を不思議な光で包み込む。

 その効力は、実際にサラやメルエがアッサラームへと向かう途中で体験したもの。

 相手の魔法力を乱し、その行使を阻害する魔法。

 

 カミュとリーシャに向けて振り下ろした<ドルイド>の杖からは何も生み出されはしなかった。

 それは、サラの<マホトーン>が確かに効いた証。

 大きな顔面を困惑に歪める<ドルイド>達は、それでも奇声を上げ、先程と同じような人語ではない詠唱を行うが、その杖の先からは何も生み出されはしなかった。

 魔法が使えない以上、もはやリーシャやカミュの相手ではない。死肉の集まりであるその身体の動きは遅く、武器は手に持つ杖だけ。

 そのような魔物に遅れを取る程、カミュやリーシャは弱くはなかった。

 

「やぁぁぁ!」

 

「ふん!」

 

 瞬く間に自分の近くにいた一体を斬り捨てたリーシャが、カミュへと視線を向けると、カミュの方も一体を片付け終わっていた。

 残るは二体。

 残った<ドルイド>達に、それぞれの武器を構えたカミュ達の頬を熱された空気が撫でて行く。その原因が何であるかを悟った二人は、瞬時に後方へと飛んだ。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 もはやその二体をカミュ達が相手をする必要はなかった。

 後方で闘いの成り行きを見ていたパーティー内最強の『魔法使い』が、小さな手に持つ<魔道師の杖>を振り翳し、『魔道書』に載る最強の灼熱呪文を唱えたのだ。

 

「グモォォォォォォ」

 

 二体の<ドルイド>達は、成す術もなく炎の海に飲まれて行った。

 身体を象っている死肉が焼けて行く臭いが、平原に広がる。その異臭に顔を顰めるメルエではあったが、カミュとリーシャは、その炎を武器を構えたまま眺めていた。

 二人のその表情は、とても似通っている。

 驚きと哀しみと後悔が入り混じったような表情。

 それは、奇しくも、イシス砂漠で見せたカミュの表情を表現したリーシャの言葉通りの表情だった。

 

 

 

「サラ! <マホトーン>も使えるようになったのだな?」

 

「……アンタ……魔法名を憶えているのか?」

 

「お、お前は、先程から何が言いたいんだ!?」

 

 戦闘が終わり、リーシャとカミュは、サラとメルエのいる後方へと歩み寄る。その途中で、こちらに視線を向けたサラに語りかけるリーシャの言葉を、本当に不思議そうに眺めて後にカミュの吐き出した物が、再びリーシャの心に怒りの火をつけた。

 

「あっ!? は、はい。少し前に覚えたばかりですが、上手く行って良かったです。時には魔封じに罹り難い者もいるようですけれど」

 

「そうなのか?……まぁ、何にしても良くやった」

 

 カミュへと怒りの視線を向けるリーシャに慌てて声をかけるサラ。そんなサラの言葉を聞き、『もしかすると、あの中でまだ<バギ>が使えた魔物がいたかもしれない』という事に想いが及ぶが、リーシャは笑顔でサラの健闘を讃えた。

 その言葉に嬉しそうに微笑むサラの横で頬を膨らます一人の少女。

 

「…………メルエも…………」

 

「ん? そうだったな。メルエも良くやった」

 

 不満顔で、自分の成果を告げて来るメルエに苦笑しながらも、リーシャは帽子を取ったメルエの頭を優しく撫でてやる。その手を嬉しそうに目を細めて受け入れるメルエを、サラも微笑みを浮かべたまま眺めていた。

 

「……マホトーンの効力は絶対ではない。これから先は、あの魔物のように魔法を行使する魔物も多くなるだろうな」

 

「そうだな。色々と対策を練る必要がありそうだな」

 

 そんな三人のやり取りを見ていたカミュが発した言葉に、リーシャの表情も真剣な物へと変わって行く。この先の闘いでは、カミュやリーシャが先頭を切って魔物に飛び込んで行くだけでは、必ずしも万全とは言えない事をリーシャも理解したのだ。

 

「とりあえずは、ポルトガに向かいましょう。戦闘では、私もメルエもいます。私達の用途の違う魔法とお二人の剣を交えれば、出来ない戦闘方法はないと思いますから」

 

「……」

 

「あ、ああ……そ、そうだな」

 

 深刻な表情を浮かべるカミュとリーシャにメルエの帽子を被せ終わったサラが口を開く。その内容に、カミュは驚いたような表情を浮かべ、リーシャは何故か口籠った。

 それは、サラの成長を目の当たりにしたからなのかもしれない。今のサラは、アリアハンを出たばかりの時の様な、力のない少女ではない。

 自分で槍を取って闘い、魔法で仲間を援護する。それが少しずつ、本当に少しずつ、サラの自信となって行っているだろう。それにカミュとリーシャは驚いたのだ。

 しかし、カミュとリーシャには、サラの真実の『誇り』がどこにあるのか解ってはいない。いや、サラにさえ、それが何なのかは理解していないのだろう。

 

 サラの『誇り』。

 

 それは、今、サラの手で被せてもらった<とんがり帽子>を嬉しそうに掴み、サラの手を握って来た幼い少女。

 ここ最近、メルエは、戦闘となれば、必ずサラの傍に寄って来るようになっていた。

 それは、カミュ達が前線に向かう為である事も確か。

 しかし、カミュ達が魔物へと向かった時に、頼れるのはサラだと感じている事に他ならない。

 

 『誰かに頼られる』

 

 そんな事は、サラは生まれて初めての経験なのだ。幼くして両親を亡くし、町の教会の神父に育てられた。そして、旅立つまで神父に『愛』を注がれ、旅立ってからは、常にカミュとリーシャに護られていた。

 サラ自身が誰かを頼る人生を歩んで来ていたのだ。

 そんな自分が生まれて初めて頼られた。

 それがサラの心の奥で責任感と変わって行ったのは必然だろう。

 

「……行くぞ……」

 

「あ、ああ」

 

 メルエと共に笑顔を浮かべるサラを眺めながら、物思いに耽っていたリーシャにカミュの声がかかった。その言葉が号令となり、一行は再び平原を南に向かって歩き出す。

 

 

 

「しかし……派手にやられてしまったな……」

 

 ポルトガ城への道を歩きながら、リーシャは自分の左腕に装備していた<青銅の盾>を眺めてしみじみと呟く。

 その言葉通り、先程の戦闘で<バギ>をまともに受けた<青銅の盾>は、元々の綺麗な円の形を崩し、所々欠けてしまっている。削れられた部分を中心にヒビのような亀裂が入り、もう一度大きな衝撃を受けた途端に、粉々に粉砕されてしまう事は誰の目にも明らかであった。

 今の一行は、隊列を組むというよりも、一纏まりになって歩いている。行列を組むよりも、先程相対した<ドルイド>に遭遇した場合、対処しやすいというリーシャの考えがあったからだ。

 そのリーシャの考えにカミュも頷いた事から、一行は纏まって歩いている。だが、先頭がカミュである事には変わりはなかった。

 

「私の盾をお使いになりますか?」

 

「いや、大丈夫だ。どちらかと言えば、私よりもサラの方が危なっかしいからな」

 

 しみじみと呟くリーシャに向かって、サラが自分の左腕に装備している<青銅の盾>をリーシャへと差し出す。元々、この盾はリーシャの物だった筈であり、それを返すだけという事がサラにとっては当たり前の事だったのだが、それはリーシャに笑顔で断られた。

 サラにとってどこか不満が残る言葉を添えて……

 

「……危険の度合いは、アンタもそう変わらないだろう?」

 

「なんだと!?」

 

 不満顔のサラの代わりに、前を歩いていたカミュが口を開いた。

 そこからはいつものやり取りが始まる。この二人の掛け合いは、アリアハンを出た頃から全く変わらない。

 徐々に変わって行く四人の心情。その中にも変わらない物がある事にサラは微笑んだ。

 

「……いつも、相手の魔法の影響を受けるのはアンタだ……まぁ、盾があろうとなかろうと魔法の影響は受けるだろうがな……」

 

「ぐっ! 古い事をいつまでも言うな!」

 

 古い話をいつまでも蒸し返すカミュにリーシャは激昂する。

 そんなリーシャに振り向いたカミュの口端もまた、いつものように上がっていた。

 

「……ポルトガへ行けば、新しい武器や防具も手に入るだろう」

 

「そ、そうですね。ポルトガであれば、目新しい商品等があるかもしれませんね」

 

 リーシャの怒気を、いつものように右から左へと流したカミュが口にした言葉に、サラは慌てたように両手を振りながらリーシャに声をかける。

 

「ふん! そうだな。イシスでは気候の為に新しい防具などを見る事は出来なかったが、貿易で栄えたポルトガであれば、何か面白い物があるかもしれないな」

 

「…………メルエも…………」

 

 気を取り直したリーシャの言葉に、今まで黙って皆を見上げていたメルエが自分もと声を上げる。そんな幼い我儘にリーシャは苦笑した。

 メルエにとって、このパーティーと共に行く買い物はとても楽しいイベントの一つであった。幼い頃から物を買い与えられた事など一度もないメルエにとって、生まれて初めてカミュによって買い与えられた、今頭の上に乗っている<とんがり帽子>は『アンの花冠』も相まって、一番の宝物となっている。

 そんなメルエは、新しい土地での買い物には、『自分にも何か買い与えられるのではないか?』という期待を持ってしまうのだ。

 大好きな人間から与えられる喜びを知ったメルエに、期待するなと言う方が無理な話であろう。

 

「ふふ。メルエには、これ以上ない程の防具が揃っているだろう?」

 

「…………むぅ…………」

 

 そんなメルエの姿に苦笑を浮かべながら、リーシャが窘めるが、当のメルエの頬は膨れて行った。

 『ずるい』とでも言いたげに頬を膨らますメルエに、リーシャは困ったような表情を見せ、メルエの頭を撫でた。

 

「メルエは、アンの服は気に入らないのか?」

 

「!!」

 

 頬を膨らませていたメルエは、リーシャの言葉に顔を上げ、力一杯に首を横に振る。

 リーシャの言葉は、それこそ『ずるい』言葉だろう。メルエの心情を理解した上で、その心情を利用しているのだ。しかし、リーシャは、最近になって感情を豊かにして来たメルエを止める術を、これ以外に持ち合わせてはいなかった。

 

 メルエは、喜怒哀楽を表すようになった。<カザーブの村>に向かうあの森の入口で出会った時と比べると、本当に雲泥の差である。

 まだ、リーシャ達三人にしかその表情を見せる事はないが、怒る時は頬を膨らませて、顔を背ける。哀しい時には目に涙を一杯に溜め、楽しい時には花咲くように微笑む。そんなメルエの変化がリーシャは嬉しい反面、少し寂しくもあった。

 

 メルエの感情は豊かになった。

 初めて会った時とは比べようもなく。

 そして、わずか数日前に母親を失った幼子とは思えない程に。

 

 確かに、メルエにアンジェの最後の想いは届いていた。そして、それをメルエは受け止めた。

 だが、その死を悲しみ、塞ぎ込む程には、メルエの中でアンジェへの『愛』は戻って来なかったのだろう。いや、初めから、そのような物はなかったのかもしれない。それが、『愛』を受けて育って来たリーシャには哀しく感じたのだ。

 

「メルエが着ている『アンの服』以上の防具は、おそらくここにはないぞ?」

 

「…………ん…………」

 

 残念そうに俯くメルエの頭を軽く撫でてやったリーシャは、再びその手をとって歩き出す。

 『メルエが『愛』を知らないのであれば、自分こそが伝えてやろう』と堅く胸に誓って。

 そんなリーシャとメルエのやり取りを、微笑みを浮かべながら見ていたサラもまた、心に誓っているのだ。

 『どんな事からも、メルエを護る』と。

 

 それもまた一つの『愛』

 

 そして、興味なさげに前を向いて歩いている青年もまた、変化を始めている。

 初めて覚えた『他人への情』。

 だが家族からの『愛』を知らない彼は気付かない。

 それは、もはや肉親を想う『家族愛』に酷似した情だという事を。

 

「さあ、行こう」

 

「はい」

 

「…………ん…………」

 

 それぞれに、それぞれの想いを胸に、新たな大地を再び歩き出した一行の肌を徐々に湿った空気が撫でて行く。

 それは、海が近い証拠。

 目的地である『ポルトガ城』が近づいている証拠であった。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

この物語は、なかなか目的地にたどり着かない事で有名です(笑
どうしても、その場所へ向かう途中の過程を描きたいと思ってしまい、長くなってしまいます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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ポルトガ城①

 

 

 一行が、海が見える高台にそびえるポルトガ城に辿り着いたのは、夕陽も沈み、辺りを闇が支配し始めた頃だった。

 何度かの休憩を挟みながら歩いて来た一行であったが、何度か魔物と遭遇し、戦闘を行って来る事となる。その魔物達は先程苦労した<ドルイド>の他に<バリィドドッグ>や<マタンゴ>など、何度か遭遇した事のある魔物ばかりであった。

 <ドルイド>には、サラの<マホトーン>で魔法を封じた後、カミュやリーシャが斬りかかり、魔法が封じきれていない<ドルイド>に関しては、相手より先にメルエが魔法を唱える事で駆逐して行った。

 その他の魔物は、何度か対峙した事があるだけに、注意点なども把握しており、苦労する事なくここまでの道を歩いて来ている。

 

「……今日の謁見は無理だな……」

 

「そうだな。一晩の宿を探そう」

 

 カミュ達一行は、夜の闇が支配する城下町へと続く門で門番に身分を証明する『イシス女王の文』を見せ、中に入る許可を貰う。

 城下町は既に夜の静けさが広がっており、町の外には人影はなかった。

 アッサラームの様な夜の町を見て来たサラは、これが普通の夜なのだと改めて実感する事となる。

 宿屋は城下町に入ってすぐ右手に見えた。

 宿屋へと足を進めて行くリーシャ達を余所に、カミュはある一点に気を取られたように視線を向ける。

 そこは、その宿屋の放牧地の様な場所。通常であれば、馬などの家畜が放されている場所であった。

 

「カミュ! 宿屋はこっちだぞ」

 

「……ああ……」

 

 先に行ったリーシャがカミュへと声をかけ、その声に返事を返したカミュが続いて宿屋へと入って行く。その宿屋の床には、酔っぱらった兵士が寝ていた。

 その姿にリーシャやサラは眉を顰め、サラは明らかな嫌悪を見せる。しかし、メルエはそう言う光景を見慣れているのか、ちらりと視線を向けたきり、視線を元に戻した。

 

「いらっしゃいませ。旅の宿屋にようこそ。四名様ですか?」

 

 宿屋のカウンターに着くと、カウンター越しに初老の男が一行に営業的な笑顔を見せる。

 しかし、宿屋の看板は出ていたものの、その中には、武器屋や道具屋の看板などもある、いわゆる集合店舗。モールと呼ぶには狭いが、この世界にある主要な店は、この建物の中に揃っていた。

 

「ここは宿屋ではないのか?」

 

「いえ、宿屋だと思いますが……」

 

 リーシャの疑問は尤も。宿屋の看板は出ていて、カウンターこそあるが、肝心の宿泊する部屋がどこにもないのだ。

 上の階に続く階段がある訳でもない。長屋の様な平屋の中にあるカウンターだけを見れば、誰しもそう思うだろう。

 

「あははは。大丈夫ですよ、お客様。宿泊するお部屋は、別棟にありますので」

 

「そ、そうか。いや、すまなかった」

 

 リーシャとサラの会話が聞こえていた宿屋の主人は、苦笑しながら、その疑問に答えた。

 小声の会話を聞かれていた事に、若干顔を赤らめたリーシャは、素直に頭を下げる。

 

「……四人だ。最低でも二部屋の用意を頼む」

 

「畏まりました。一部屋は一人部屋で、もう一部屋は大部屋でよろしいですか?」

 

 リーシャやサラの状態を無視し、カミュは交渉を始める。商人らしい笑顔を作りなおした主人は、カミュの言葉を聞き、空いている部屋の状況を見た後に提案を出して来た。

 主人の言葉に一つ頷いたカミュは、腰の革袋からゴールドを出し、カウンターに置いて行く。ゴールドを確認した主人から部屋のカギを貰ったカミュ達は、別棟にあると言われる部屋の場所を聞き、移動を開始した。

 

「……オヤジ……外の放牧地は、何の為にある?」

 

「はい?……ああ、あそこは馬が一頭いますよ。それが何か?」

 

 移動を開始するリーシャ達とは別に、カミュが宿屋の主人に奇妙な質問をぶつけた。その内容が一瞬、何の事か理解出来なかった主人は、呆けたような表情を浮かべるが、質問の意図は見出せなくても、意味を理解し、自分が知っている事を話す。その答えに、『そうか』と一言呟いたカミュは、三人とは別の方向へと歩き出した。

 

「お、おい。カミュ?」

 

 突然のカミュの行動に驚いたリーシャが、その後ろをついて歩き出す。必然的に、リーシャの手を握っていたメルエもカミュの後を付いて行く事になり、残される形となったサラが慌ててその後を追って行った。

 

 

 

 月明かりが照らす、柵で囲まれた牧草地。そこは、それ程広さがある訳でもないが、馬一頭を飼うにはもったいない場所であった。

 扉を開けその場所へと出た一行が目にした物は、予想に反した物。

 カミュはその光景を知っていたようで、表情一つ変えず眺めていたが、先程の宿屋の話を信じていたリーシャとサラは驚きに目を見開いた。

 

「…………ひ………と…………?」

 

 メルエが呟いた言葉。

 それが今、リーシャとサラが驚いている光景。

 月明かりに濡れる、柵に囲まれた牧草地。

 そこにいたのは、一頭の馬ではなく、一人の男。

 

「カ、カミュ?……馬はどうしたんだ?」

 

「……何故俺に聞く? 俺もアンタも、ここに初めて訪れた事に変わりはない筈だが」

 

 いつものようにカミュへと尋ねるリーシャの言葉に、カミュは溜息を吐く。最近になって、カミュも気が付いたのだが、ここ最近は、リーシャがカミュに尋ねた時、サラもまた疑問の視線をカミュへと向けるようになっていた。

 サラは決して頭の弱い人物ではない。しかし、リーシャと同じように『常識』という名の縛りが強い人間でもあるのだ。

 故に、自分の思考が動き出す切っ掛けをカミュへと求める。

 

「おや? 貴方達は旅人ですか?」

 

「そ、そうですが……ここにいる筈の馬は?……貴方は?」

 

 月を見上げていた男が視線を動かし、カミュ達の存在に気が付き、言葉を洩らす。それに答えたのは、カミュやリーシャの後ろで、身を隠すように佇むサラであった。

 

「私は……いえ、良いのです。それより貴方達は、サブリナという女性を知っていますか?」

 

「ふぇ!? し、知りません!」

 

 正体不明の男が視線を向けた先は、男の質問に答えたサラ。何かに脅えているサラは、その視線に驚き、反射的に答えた声は、意外な程大きな物だった。

 

「そうですか。ああ、サブリナは元気でいるだろうか?……愛しのサブリナ。でも、今は、もう会う事も、話す事すらも出来ない……」

 

 サラの答えに対して興味を持った様子もなく、男は独り言のように言葉を呟き、夜空を見上げる。既にカミュ達に興味を失ったように星空を見上げる男に、カミュは一つ溜息を吐いた後、踵を返し、室内へと戻って行った。

 リーシャも疑問に思う所がなかった訳ではないが、おそらくこの男に何を聞いても自分に理解出来る言葉は出て来ないように感じ、カミュの後を追う事にした。

 当初からそれほど興味を持っていなかったメルエは、そこにいたのが『人』であった為、尚更興味を失ったのか、振り返りもせずに、その場を後にする。

 残ったサラは、その男が醸し出す雰囲気が、自分が知り得る『人』の物でない事には気が付いていた。

 最初は、幽霊と呼ばれる魂だけの存在なのかと考えていたが、何故かそれ程恐怖が浮かばない。

 『自分が僧侶としての本領に目覚めたのでは?』などと安易に考える程、サラは馬鹿ではない。それであるならば、どこかが歪んでいる可能性はあるのだが、おそらくこの男は『人』なのであろう。

 

 放牧地を後にした一行は、町の北側にある、宿屋の別棟へと移動する。建物の二階部分が宿泊の部屋となっているようで、一階部分はテラスの様になっていた。

 二階部分に上がり、一人部屋の鍵をカミュが持ち、大部屋の鍵をリーシャが持って、一行はそれぞれの部屋へと分かれて行く。

 

「にゃ~ん」

 

「!!」

 

 カミュが部屋に入ると、先客がいた。

 小さな先客は、カミュが入って来た事に驚いたように、部屋の隅へと移動して行く。

 一瞬アッサラームで遭遇した出来事を思い出したカミュではあったが、カミュの存在を恐れるように部屋の隅へと移動していった小動物を見て、警戒を解いて行った。

 

「……すまない……先客がいるとは知らなかった。危害を加える事はない。ただ、ベッドだけは使わせてくれ。後は好きにして構わない」

 

「にゃ~ん」

 

 通常の客ならば、宿を取った部屋に、動物が入っている等、クレームの原因となる。しかし、カミュはその先客である小さな猫に対し、軽く頭を下げた後、その猫に部屋での就寝の許可を取ったのだ。

 カミュの言葉が理解出来たのか、その猫は一つ鳴き声を上げると、部屋の隅で丸くなった。その様子を見て、軽く微笑んだカミュは、衣服を脱ぎ、部屋着に着替えた後、ベッドに入る。

 そして、そのまま眠りに落ちて行った。

 

 

 

 眠ってからどれくらいの時間が経っただろう。アッサラームを出てから、ベッドで眠る事のなかったカミュは、熟睡と言って良い程に深い眠りに落ちていた。

 しかし、そこはアリアハンという一国が掲げる『勇者』。

 空が明るみ始めた頃に、先程まで一切なかった『人の気配』に気づき、意識を覚醒させる。

 ふと、目を開けると、窓から差し込む朝日が眩しく、その光に慣れるまで、部屋全体を見渡す事は出来なかった。

 

「!!」

 

 間違いなく『人の気配』である故に、手元に<鋼鉄の剣>を引き寄せ、いつでも抜けるように身構えていたカミュの目が慣れ、部屋全体を見渡せるようになる。

 そこにいたのは、間違いなく『人』。

 昨晩、猫が眠りについていた部屋の隅にある椅子に、一人の女性が座っていた。何かに怯えるように、そして、何かにひどく悲しむように座っている女性に、カミュは剣から手を放し、ベッドから降り、近寄って行く。

 

「……何時入って来た?」

 

「はっ!? も、申し訳ございません」

 

 突然響いたカミュの言葉に驚きを露わにした女性は、飛び上がるように椅子から立ち上がった。

 その様子に、害がないと判断したカミュは、部屋着のまま、女性の対面にある椅子に腰かける。まだ、陽が昇ったばかりである。リーシャ達が起き出すには、まだ少しの時間があるだろう。

 

「……いや、良い。ただ、アンタは何者だ? 部屋に鍵はかけておいた筈だが……」

 

「えっ!? あ、あの……」

 

 カミュの言葉に、女性は言いにくそうに口籠る。盗賊や娼婦のような類の人間ではないようだ。

 それが解っているだけに、カミュの声は比較的穏やかな物である筈だが、それでも女性は何かに怯えるように口を噤んでしまった。

 

「……アンタがどう考えているのか知らないが、俺は金を払ってこの部屋を借りた。それが、朝起きてみれば、見知らぬ人間がいるとなると、疑問に思うのは当然の筈だが?」

 

「……はい……」

 

 穏やかな口調で続けるカミュの言葉に対しても、女性の顔は俯いて行くだけ。

 これには、カミュもほとほと困り果てた。

 続ける言葉が見つからないカミュ。

 黙して何も語らない女性。

 時が止まったように、部屋には沈黙が流れる。

 

 だが、時は突然動き始める。

 それは、カミュの予測が間違っていた事を示す者。

 そんな者の来訪を意味していた。

 

「カミュ! 着ている物を出せ! 洗濯をす…………!!!!」

 

「きゃあ!」

 

「……鍵はかけていた筈だが……」

 

 突然開いた扉と共に、部屋へと乱入してくる一人の女性。

 部屋着のままで洗濯物を片手に入って来たのは、言わずと知れた女性戦士。

 しかし、その女性戦士の言葉は最後まで綴られる事はなかった。

 寝ていると思っていたカミュが起きていて、視線の先には、一人の女性。

 それがリーシャの思考を止めてしまったのだ。

 

「……アンタ、メルエからカギを取って来たのか?」

 

「はっ!? な、何のつもりだ! お前は、女性を部屋に連れ込んでいたのか!?」

 

 カミュが溜息交じりに洩らした言葉は、リーシャの怒声に掻き消される。憤怒の表情を目覚めさせたリーシャは、勢い良くカミュの下へと向かって行った。

 そんなリーシャの剣幕に、尚更怯えた女性は、カミュの後ろに隠れるように身を隠す。それがリーシャの怒りに、更なる油となって投入された。

 

「お前は何をやっているんだ! この旅が何の旅なのか解っているのか!」

 

「……人の話を聞け……」

 

 カミュの胸倉を掴むような勢いで迫って来るリーシャの迫力にも、カミュは溜息を吐くばかり。しかし、この場にその行為を諌める『僧侶』や、言葉少なに感想を漏らす『魔法使い』の少女はいない。

 

「良いだろう! 説明してみろ! 生半可な言い訳であれば、その首、ここで叩き落としてやる!」

 

 熱くなったリーシャを止める役目を担う人間がいない以上、彼女を落ち着かせるには、彼女が欲している情報をカミュが提供する以外に方法はない。何かを諦めたように溜息を吐くカミュは、一度目を伏せた後、リーシャに向かって口を開いた。

 カミュの中での一番の変化はこれかもしれない。

 アリアハンを出た頃であれば、『アンタには関係ない事だ』の一言で片づけていた事だが、今はそれを、溜息を吐きながらも一から説明するのだ。

 それは紛れもない変化。しかし、それにリーシャは気が付いていないのだろう。

 

「昨晩、この部屋の前で、俺はアンタ達と別れた筈だ」

 

「ああ。その後にこの娼婦を呼んだのか?」

 

 話を聞くと言っていたのにも拘わらず、リーシャはほとんどカミュの話を聞いていない。

 もはや、自分の頭の中で決定された事項を確認しているだけの様な物言いであり、そんなリーシャの言葉に、流石のカミュも顔を顰めた。

 

「……言葉に気をつけろ。俺は、アンタ達と行動している人間だ。しかし、この女性は違う筈。見も知らぬ女性を『娼婦』呼ばわりするとは、人間性を疑うな」

 

「ぐっ……ち、違うのか?」

 

 カミュの視線に自分が発した言葉が見当違いである可能性を感じたリーシャは言葉に詰まる。そして、そんなリーシャの問いかけに、無言のままでいるカミュを見て、自分の考えが間違っている事を知った。

 

「す、すまない。確かにカミュの言う通り、初見の人間を『娼婦』呼ばわりするなど、有るまじき行為だった。本当にすまない。許してくれ」

 

「あっ、い、いえ。良いのです。そう思われても仕方ありません」

 

 自分の考えが間違っている事を知ったリーシャは、素直に頭を下げる。先程まで上り詰めていた血液は、頭から下がって行き、その胸には後悔が占めて行った。

 頭を下げられた女性は、慌てたように手を振り、リーシャの頭を上げさせようとするが、途中で横にいるカミュの手が伸びて来た為、それは中断された。

 カミュの方へ視線を移した女性は、カミュと目が合う。その瞳は、まるで『気の済むようにさせてやれ』と物語っているようだった。

 

「……アンタ達と別れてからこの部屋に入り、すぐ眠りについたが、その時にはこの部屋に俺以外の人間はいなかった。鍵もかけたから、その後に人が入る訳もない」

 

「そ、そうか。私が入る時も鍵はかかったままだったしな」

 

 顔を上げたリーシャを見て、カミュは話の続きを始めた。先程、未だに眠るメルエのポシェットから持って来た<魔法のカギ>でこの扉の鍵を開けた経緯のあるリーシャは、カミュの言葉に一人納得する。

 

「……やはり……アンタは……」

 

「ん?……あ、ああ。サラもメルエもまだ眠っているからな。眠っている内に洗濯を済ませておいてやろうと思ったが、ついでにお前の物もとな……」

 

 珍しいカミュの視線を受け、リーシャが少したじろぐ。

 先程、この部屋に入って来た時の怒りなど、どこへやら。

 やはり、この二人だけでは、会話が一向に進まない。

 サラの調停か、メルエの横やりがなければ、会話が別方向へと進んでしまうのだ。

 

「……あ、あの……」

 

「ん?……ああ、そうだったな」

 

一行に前へと進まない会話に、女性が口を挟む。二人の会話が始まるキッカケとなった当事者である女性が口を挟むというのも、また奇妙な話ではあるが、カミュは、その女性の言葉で、リーシャとの会話を打ち切った。

 

「大変失礼だが、貴女は『盗賊』の類か?」

 

「……本当に失礼な物言いだな……少しは考えて話してくれ」

 

「う、うるさい!」

 

 会話を打ち切られたリーシャが、女性に対して、とんでもない質問をぶつける。

 リーシャの言葉に、カミュは先程の様な強い視線ではないものの、強度の呆れを含んだ視線を向け、溜息を吐いた。

 

「い、いえ! 滅相もありません。私はこの町に住む者です」

 

「そ、そうか。重ね重ね、すまない」

 

 自分の言葉を否定した女性に対し、再び頭を下げるリーシャ。

 基本的に盗賊の類だとすれば、素直にそれを認める訳がない。それでも、女性の言葉を素直に受け取ったリーシャは、言葉とは違い、その可能性を信じてはいなかったのだろう。

 

「……この女性に関しては、アンタより、俺の方が知りたいぐらいだ。昨晩は確かにこの部屋には誰も…………!!!」

 

「ど、どうした、カミュ?」

 

 リーシャの言動に再び溜息を吐いたカミュは、元の席に戻り座り直した女性を見ながら、話を戻して行く。しかし、昨晩の事を思い出そうとした時、カミュは何かを思いついたのか、部屋中に視線を巡らし始めた。

 そのカミュの様子を不思議そうに眺め、言葉をかけるリーシャ。

 反対に、女性の方は何処か哀しみを浮かべた表情を作っていた。

 

「……アンタ……あの猫か?」

 

「……はい……」

 

 カミュは、昨晩自分以外で、この部屋にいた生物を思い出した。

 そして、それが結論へと導く。

 それは、余りにも突拍子もなく、そして余りにも非現実的な答え。

 しかし、カミュには、それしか答えを導き出す事が出来なかった。

 そしてそれは、対面に座る女性の首が静かに縦に振られた事で現実となる。

 隣に立つリーシャは会話に付いて行けてはいない。その証拠に、『これほど驚きに彩られたカミュの顔も珍しい』と別次元の感想を抱いていた。

 

「私の名は、サブリナと申します。このポルトガに暮らす者です」

 

「……それが、何故猫に?」

 

「何?……猫?……おい、カミュ。何の事を言っているんだ?」

 

 自己紹介を始めたサブリナと名乗った女性に、カミュが核心を問うように口を開いた。しかし、会話に置いて行かれたリーシャが口を開いた事により、再び会話が中断される事となる。

 もはや慣れてしまったカミュではあったが、少し厳しい視線をリーシャに送った。

 

「……最後まで聞いて、解らなければ、説明してやる。今は黙って話を聞いていてくれ」

 

「ぐっ! わ、わかった」

 

 カミュに釘を刺されるように黙らされたリーシャは、悔しそうに顔を歪めながらも、大人しく一つ残っていた椅子に腰かける。『洗濯は良いのか?』と思わず聞きたくなったカミュではあったが、それを口にするとまた話が前へと進まなくなる為、思い留まった。

 

「……それで、何故、猫に?」

 

「は、はい。ある夜、私達は海辺に浮かぶ小島にある『恋人たちの憩い場』と呼ばれる場所で夜空に輝く星達を眺めていました」

 

「私達?……あっ、いや、すまない……」

 

 話の続きを促したカミュに一つ頷いたサブリナは、何かを思い出すように語り始めた。

 最初の一言に引っかかりを覚えたリーシャが疑問を洩らす。だが、即座にカミュの視線を感じ、口を閉じた。

 

「あの夜は、前日から続いた雨も上がり、澄んだ空気が広がる綺麗な星空でした。私とカルロスは愛を語らいながらその星空を飽く事なく見ていたのです」

 

「……」

 

 恋人の事でも想っているのだろう。

 サブリナの表情は『哀しみ』よりも『愛おしさ』に溢れていた。

 それを見たカミュとリーシャは、余計な口を挟む事をしなかった。

 

「しかし、そんな私達の幸せの時間は、夜空を飾る星達の中に見えた何者かによって妨げられました」

 

「……何者か?」

 

 今度はカミュが口を挟む。このカミュの疑問に、今まで『思い出』に浸っていた筈のサブリナは、表情を『哀しみ』へと変化させ、静かに頷いた。

 

「はい。光輝く星達の中に異様な光が見え、初めは『流れ星かな?』と思ったのですが、それは、私達へと次第に近づき、その異様な風貌が見えました」

 

 ここでひとつ話を途切り、サブリナは深く息を吸い込んだ。

 まるで、今から話す事への覚悟を示すかのように。

 

「それは見た事もない魔物でした。小さな体で、片手には大きなフォークの様な武器を持ち、私達の前に降り立ったのです」

 

「!!」

 

 サブリナの話に、カミュとリーシャは驚きを露わにした。

 それは、まさしくカミュ達がアッサラームで戦った魔物。

 そして、メルエの義母アンジェの命を奪い、ロマリアの兵士の命をも奪った魔物。

 

「魔物に怯える私を庇うように立ちはだかったカルロスへ向け、その魔物は大きなフォークの様な武器を掲げました。『殺される』。そう思った時に私達の身体を光が包み込みました」

 

「……呪いか……」

 

 驚いているカミュ達を無視し、話続けるサブリナの話は、カミュをある結論へと導いた。

 『呪い』

 それは、多種多様な物。

 有名な物で言えば、呪われた武具などがある。

 それを装備した者は、呪いの影響から様々な害を受ける。

 その他で言えば、イシスのピラミッドで遭遇した<黄金の爪>もその一部であろう。

 王家の呪いとも言うべき物がかかっており、それを手にした者を死ぬまで呪い続ける。

 

「……はい……ただ、カルロスは何ともなかったようです。私だけが猫の姿にされました。幸いカルロスは私を庇う為に背を向けていた事から、私が猫に変化された事に気がつかなかったようです。私は、猫の姿になった事で、カルロスの前から逃げました。あのような姿をカルロスだけには見せたくはなかった……」

 

 サブリナは、そのまま顔を俯かせ、嗚咽を漏らす。

 その様子をリーシャは痛々しく見ていた。

 

「……その魔物は、おそらく俺達が排除した。それでも呪いが解けないという事は、術者の影響を受けない呪いか……厄介だな……」

 

「そ、そうなのですか?……私は、一生このままなのですね……ああ、カルロス」

 

 カミュの呟きに、サブリナは絶望の表情を見せる。リーシャは、サブリナの表情を見て、カミュへと厳しい視線を投げかけた。

 『言い過ぎだ』とでも言うように睨むリーシャに、カミュは一つ溜息を吐く。

 

「しかし、男の方は無事だったのか?」

 

「……わかりません。羞恥の余り、あの場所を逃げ出した私には、その後の事は……しかし、カルロスは私と違い、姿を変化させられてはいませんでした。私達へ武器を向けた魔物も、奇妙な笑い声を残し、すぐに飛び立ってしまったので……」

 

「……殺された訳ではないと?」

 

 カミュの言葉に、サブリナは一つ頷く。男の方の身を訪ねたリーシャは、聞く事は聞いたが、その先が示す結論に到達する事は出来ていなかった。

 必然的に視線はカミュへと向かう。

 

「私は、ご覧の通り、太陽が昇れば人間の姿に戻ります。人間の姿になった時に、この町を隈なく探しましたが、カルロスの姿はありませんでした。もう、この町にはいないのかもしれません」

 

「……」

 

 がっくりと肩を落としたサブリナを、カミュは眺める事しか出来なかった。リーシャもまた、カミュの瞳を見て、自分達が解決出来る問題ではない事を知ったのだ。

 

「……話は解った……」

 

「あっ! 申し訳ありませんでした。旅の方にこのような話を……」

 

 話の終了を告げるカミュの言葉に、今さらながら自分の置かれた立場を理解したサブリナは、カミュとリーシャに頭を下げ、部屋を出て行った。

 残された二人に何とも言えない感情が残る。

 リーシャの胸にあるもの。

 それは魔物に対しての『憎悪』

 そして、何も出来ない自分への『もどかしさ』

 

「カ、カミュ……」

 

「悪いが、今の俺達には何も出来ない。ただ、あの女が言っていたカルロスという男は、間違いなくこの町にいる。それだけは確かだ」

 

 そんな自分の不甲斐なさと、何とか出来ないかという想いを瞳に乗せたまま、リーシャはカミュへと問いかける。

 『何か自分達に出来る事はないか?』と。

 しかし、カミュの口から出た言葉は、リーシャの願いを斬り捨てる物。ただ、その中にも、微かな希望は残されていた。

 

「なに?……恋人の方も、この町に残っているのか!?」

 

「……アンタは昨晩の話を聞いていなかったのか?」

 

「昨晩?」

 

 リーシャの問いかけに答えるカミュの言葉は、いつものように回りくどい。故に、リーシャには核心に迫る結論が導き出せなかった。

 

「……昨晩、あの放牧地にいた男が言っていた筈だ。『愛しのサブリナ』と」

 

「!!……で、では、あの男がカルロスなのか!?」

 

 カミュが結論を切り出した事により、ようやくリーシャもそこに至る事が出来た。

 そして、その現実に驚くと共に、『そうか……よかった』と薄く微笑むリーシャに、何故かカミュの表情も優しい物へと変わって行く。

 

「……ここからは、想像の域を出ないが……おそらく、あの男は女とは反対に、昼は馬の姿になっているのだろう……」

 

「な、なに!?」

 

 暫し、リーシャを見ていたカミュは、もう一つの結論を口に出す。それは、希望を見出していたリーシャにとって、再び心を沈めてしまうようなものだった。

 昼間に人間に戻れるサブリナという女性とは反対に、カルロスという男は夜に人間に戻ると言うのだ。それであれば、昼間に人間となる女性がいくら探したところで、昼間に動物になっている男の姿を見つける事など出来る訳がない。

 

「……宿屋の主人は、あそこにいるのは馬だと言っていた。つまり、あのオヤジは馬しか見ていないのだろう。あの放牧地へ人が入って行けば、あのカウンターからなら見えるだろうからな」

 

「では、あの男もサブリナと同じように、動物に変化する呪いをかけられたと言う事か?……それも、サブリナとは真逆に、日中に動物に変化する類のものだと?」

 

「……ああ……」

 

 カミュの考えは、リーシャの気持ちを更に沈めて行く。それでも、確認の為に問いかけるリーシャに、カミュもまた、何かを思いつめた表情で頷いた。

 生涯をかけて相手を想っている者同士ではあるが、この先どれ程の時間が経過しても、お互いの姿を見つける事は出来ない。それがどれ程に残酷な事であるのかをリーシャは理解し、途方に暮れてしまう。

 

「……カミュ……この話は……」

 

「……ああ……あの僧侶と、メルエには話す事はない」

 

 リーシャの最後の言葉をカミュは理解していた。

 この話を聞けば、サラの魔物への『想い』は更に強くなってしまうかもしれない。メルエにしても、純粋なだけに、どんな事を考えるのか予想が出来ない。

 故に、二人はこの話を胸に仕舞う事にした。

 

 二人が黙り込み、しばらくの時間が流れた時、不意にカミュの部屋の扉がゆっくりと開かれた。

 それは、本当にゆっくりと、遠慮がちに少し開かれ、それに気付いたカミュとリーシャが視線を向ける。

 カミュに至っては、警戒のために再び剣に手をかけていた。

 

「…………カミュ…………?」

 

 しかし、ほんの少し開かれた扉の隙間から見えた顔に、カミュは剣から手を離した。

 遠慮がちに中を除く瞳は、もはや見慣れた物。それは、カミュが唯一、自らこの旅に連れて行く事を決めた少女の瞳。

 

「……どうした、メルエ?」

 

「…………リーシャ…………いない…………」

 

 未だに扉を全部開ける事をしないメルエは、リーシャやサラに『男性であるカミュの部屋には軽々しく入ってはいけない』とでも言われているのかも知れない。

 いつものリーシャの行動を考えると、サラの言葉なのだろう。

 少しだけ覗いた場所に、カミュの姿を確認した為、それ以上扉を開かないメルエには、リーシャの姿は見えない。故に、カミュへと自分が目覚めた時に気が付いた事を告げているのだ。

 おそらく、リーシャと同じベッドで眠っていたのだろう。起きた時にリーシャの姿がない事を不思議に思い、そして不安になったのだ。

 故に、カミュの部屋へと向かった。

 

「メルエ? 私はここにいるぞ」

 

「…………!!…………」

 

 ほんの少し扉を開け、その隙間から中を覗いていたメルエは、中から突然聞こえたリーシャの声に驚き、ゆっくりと扉を更に開いて行く。

 完全に部屋の中を一望出来るぐらいまで、扉を押し開けたメルエは、カミュが座っていた椅子の横でこちらを見ているリーシャを見つけ、その表情を笑顔に変えた。

 

「…………リーシャ…………」

 

 扉を開け放したまま、『とてとて』とリーシャに向かって駆けて来るメルエをリーシャが優しく包み込む。それは正に母親の様な暖かさを持つものだった。

 笑顔で駆け寄るメルエは、リーシャの胸に飛び込み、しっかりとその背に腕を回して顔を上げる。

 

「どうした、メルエ?」

 

「…………リーシャ…………いな………かった…………」

 

 抱き締めたメルエに問いかけるリーシャが見た物は、若干頬を膨らませたメルエ。それは、自分が起きるまで、傍にいてくれなかった事を糾弾しているようにも見える。

 そんなメルエの表情に、リーシャは思わず苦笑を浮かべた。

 

「ふふ。カミュの服も洗濯してやろうと思ってな。カミュ、服を出せ。メルエ、一緒に洗濯をするか?」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの頭を軽く撫でたリーシャは、カミュへ服を出すように指示を出し、共に洗濯をする事をメルエに提案する。そのリーシャの提案に、メルエは表情を笑顔に変え、大きく頷いた。

 普通、このくらいの歳の子供であれば、家事などをする事を嫌がるものだ。しかし、そんな常識は、この幼い『魔法使い』には通用しない。カミュ、リーシャ、サラの三人と共に何かをするという事が、メルエにとっての幸せの一部なのだ。

 中でも、幼い頃から行っている洗濯というものであれば、メルエが足を引っ張る事にはならず、本当の意味で共に行う事が出来る。それがメルエには嬉しかった。

 

「うん。では、私は主人に言って、洗濯道具を借りて来る。メルエはカミュの服を貰ってから下に降りて来てくれ」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの言葉に大きく頷いたメルエを見て、柔らかく微笑みながら、リーシャは階下へと降りて行った。

 リーシャの後ろ姿を見送った後、メルエがカミュへと両手を差し出す。それは、カミュの服を渡せという意味。

 そんなメルエに、カミュもまた苦笑を浮かべながら、昨晩着替えた服をメルエへと手渡した。

 ノアニールを出てから、何度か洗濯をして来たが、一度たりともカミュは自ら洗濯をする事はなかった。

 それは、何も、カミュが洗濯という行為自体を拒否した訳ではない。

 ノアニールの頃から、カミュの服を洗う事はメルエの仕事となっていたのだ。そして、何故か、メルエはそれを譲らない。

 

 

 

 洗濯道具を借りて来たリーシャと共に、別棟の外に出て洗濯を始めたリーシャとメルエをカミュはただ眺めている事しか出来なかった。

 本当に楽しそうに微笑みながら手を動かすメルエ。

 微笑むメルエに、優しい笑顔を浮かべながら、その顔にまで付いた泡を取ってやるリーシャ。

 それは、どこから見ても、家族が見せるような日常の一コマ。

 

 カミュは、幼い頃、アリアハンでそのような光景を傍目で見る事しかなかった。

 事実、カミュが母親であるニーナと洗濯をしたという記憶はない。だからこそ、メルエとリーシャの姿が微笑ましく見えるのだ。

 リーシャとメルエが赤の他人であれば、カミュはそれを鼻で笑っただろう。

 リーシャやメルエがどうでも良い人間であれば、カミュはリーシャの行為を『偽善』と感じただろう。

 だが、カミュにとって、もはやメルエは他人ではない。そんなメルエを笑顔にするリーシャという存在に、素直に感謝の念を持ち始めていた。

 

「リ、リーシャさん! た、大変です。衣服が……衣服が盗まれています……あれ?」

 

 そんな穏やかな空気は、部屋着姿のままで髪を梳かしてもいない僧侶の乱入で弾け飛ぶ。

 目が覚め、リーシャもメルエもいない部屋。更には衣服まで全て失われている。それに気が付いたサラは、大慌てで階段を下りて来たのだ。

 

「あははは。サラ、以前に私は言ったはずだぞ。女性がそんな姿で人前に出るものではないと」

 

「えっ!? あ、ああああああああああ!!」

 

 リーシャとメルエが手元で行っている事に気が付いたサラは、呆然とその行為を見ていたが、笑い声と共に発したリーシャの言葉に我に返る。

 確かに、メルエが加入する前のレーベの村で、サラはリーシャにそのような忠告を受けていた。そして、改めて自分の姿を見ると、部屋着は乱れ、へそが丸出しになっており、髪の毛は纏まっておらず、あらぬ方向に飛び散っている。

 同じ部屋着を着ていても、リーシャもメルエを身なりをきちんと整えているだけに、サラの姿の異常さは際立っていた。

 己の姿を確認したサラは、大声を上げ、部屋へと戻って行く。その姿にリーシャは盛大に笑い、メルエもまた、声を出して笑った。

 世界を救う為に旅を続け、様々な困難に立ち向かう者達の、ほんの僅かな休息。そんな穏やかな空気は、ポルトガの城下町を吹き抜ける海風に乗って、空を舞って行く。

 

 

 

 宿屋のカウンターに部屋のカギを返した後、カミュは昨晩訪れた放牧地へと向かう。その後ろ姿にサラやメルエは首を傾げるが、リーシャは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。

 

「ヒヒ――ン!」

 

「……やはりか……」

 

 放牧地に入ると、昨晩男がいた場所に、一頭の馬がいるだけ。それは、カミュの予想が間違っていなかった事の証明。

 まだ、この馬が昨晩の男である事や、昨晩の男がサブリナの言っていたカルロスという恋人である事は証明されてはいないが、リーシャは既にそれを事実として受け止めていた。

 何故なら、その馬はカミュを見つめ、哀しそうに一声鳴き声を上げたのだから。

 その悲痛な叫びが、リーシャの胸を打った。

 

 

 

 訳の分からないという顔をしていたサラとメルエを促し、カミュ達は放牧地を出た。

 向かうは、ポルトガ城。

 ポルトガの城下町は、西に長く伸びる。

 城下町と城との間には大きな港が存在し、そこには数船の漁船が繋がれてはいるが、朝の漁業を終えて戻って来たという様子ではない。

 

「やはり、ここにも魔物の影響はあるのですね」

 

「ああ、海には強力な魔物が住んでいるからな」

 

 港の様子を見て、サラが呟く内容にリーシャも同意を示した。

 『寂れている』

 それが正直な感想だろう。

 カザーブ等の村とは違い、城下町であるため、活気はある。しかし、それが、ポルトガ本来の活気ではない事ぐらい、余所者であるサラにも理解出来た。

 ポルトガ国のメイン収入である貿易が行われていない事が一目瞭然だからだ。

 ゼロではないだろう。しかし、頻繁に船が往来していない事は間違いがない。

 本来であれば、この様な昼近くであれば、船からの荷降ろしや、今朝獲って来た魚等を売る声等で、賑わいを見せている筈だろう。

 

「…………お魚…………」

 

「ん? メルエは魚が好きなのか?……よし。今度は私が魚を使った料理を作ってやろう。私の故郷アリアハンも海辺の国だ。魚料理も婆やにみっちり仕込まれたからな」

 

 少なからず水揚げされた魚達を売っている店を横目に見ていたメルエを見て、リーシャは笑いながら胸を張る。

 別段、メルエは魚を食す事が好きだとは言っていない。ただ、未だに生きている魚達を目にする事が少なかっただけに、物珍しさに声を上げたのだ。

 それでも自分を想って笑顔を向けてくれるリーシャに、メルエは嬉しそうに微笑み、大きく頷いた。

 

 

 

 港を抜けると、一行の前に大きな城門が見えて来る。貿易国ポルトガの全盛期の勢いを残す城の佇まいは、城門にもしっかりと残されていた。

 見上げなければ全貌が見えない程の大きな門。

 そして、鉄で出来ているであろう大きな扉には、細かい装飾が施されている。

 アリアハンの城門は、周囲は鉄であったが、扉自体は木で出来ていた。

 それが、ポルトガとアリアハンの国力の差を如実に表している。

 

「……アリアハンから参りましたカミュと申します。国王様への謁見をお願い致したく、お伺い致しました」

 

「アリアハンから?」

 

 門番をしている二人の兵士に軽く会釈し、カミュは名乗りと共に、アリアハン国王から拝領したカミュの身分を証明する証文を門番へと手渡す。それを受け取った兵士は、聞き慣れぬ国名に軽く首を傾げながらも、証文に目を通した。

 

「……確かに……しかし、どのようにしてこの国に……一度ポルトガを訪れた事があるのか?」

 

「……いえ。ロマリアの西にある関所を通って、ポルトガに入国させて頂きました」

 

「なに!?」

 

 兵士達の疑問、そして驚きは当然の結果であろう。

 この十数年間、ポルトガは陸の孤島となっていた。

 ポルトガから他国に行くとなれば、船で海を渡る以外は、ロマリアと接するあの川を渡らなければいけない。その関所は、十数年前に閉じられたままだったのだ。

 それが開かれた。

 それはロマリアが国交を回復させた事に他ならない。

 

「い、今、取り次いで来る。暫し、待たれよ」

 

 カミュの顔を驚愕の表情で見ていた兵士の一人が我に返り、城内へと入って行く。もう一人の兵士は、未だに驚きの表情を浮かべながら、カミュ達一行を一人一人眺めていた。

 暫くして、城門の前で待っていたカミュ達の下へ、兵士と共に文官らしき人間が現れた。

 おそらく、国王との謁見等の取次ぎをする者なのであろう。もう一度、アリアハン国王からの証文をカミュから受け取り確認した後、訝しげに四人に視線を向ける。

 その視線は決して心地よい物ではなかった。

 端的に言えば、『侮り』に近い視線。

 年若い青年と、三人の女性。

 その内一人は明らかな幼子だ。

 魔物が横行するこの時世であれば、文官の危惧は当然の物であり、国王の傍に仕える者ならば、なくてはならない猜疑心。

 それを理解しているからこそ、リーシャは不愉快な気分になりながらも何も言わない。メルエもリーシャが何も言わない事から、その文官の視線を避けるようにリーシャの背中に隠れた。

 

「……こちらは、イシス国女王様からの紹介状です。ご確認を……」

 

「何と! イシス女王様からの紹介もあるのか?」

 

 カミュ達を舐めるように見る文官に埒が明かないと感じたカミュは、先日イシス女王であるアンリから受け取った紹介状を文官へと手渡した。

 思いがけない名を聞いた文官は、疑いの瞳から驚きの瞳へと変化させて行く。素早く紹介状を広げ、その中身を確認した後、文官の表情は穏やかな物へと変わっていた。

 

「大変失礼致しました。ご無礼をお許しください」

 

「いえ。今の世では、貴殿の態度こそ、国を護る姿勢と考えます。お気になさらずに」

 

 深々と頭を下げる文官に、カミュも一つ頭を下げる。

 それは、一種の社交辞令。

 しかし、そんなカミュの言葉に、文官は軽い笑顔を作った。

 

「国王様との謁見の準備を致します。どうぞ、こちらへ」

 

「……ありがとうございます……」

 

 文官から、アリアハン国王の証文とイシス女王の紹介状を受け取ったカミュは、軽く頭を下げ、文官に導かれるままに城の中へと入って行く。その後をリーシャが続き、その手を握ってメルエが続いた。

 先程の文官の態度に若干腹を立てていたサラは、文官の変貌ぶりに頭が追い付かなくなり、また、最もあの態度に怒りを露わにすると思われていたリーシャが何も言わない事を不思議に思う。

 常に仮面を被り続け、こういう視線に慣れているカミュや、元々国家に属する立場であったリーシャの様な考え方は、平民の出であり、教会という、ある意味閉塞的な場所で育ったサラには出来なかったのだ。

 

 

 

「よくぞ参った。そなたが、英雄オルテガの息子カミュであるか?」

 

「はっ。ポルトガ国王のご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます」

 

 謁見の間には、玉座が一つ。その横に大臣らしき小太りの中年男が控えるだけ。

 その玉座に座っていた歳の頃三十代後半に見える若い国王が、床を見つめるように頭を下げるカミュへと声を落とした。

 

「ふむ。そなたの願いは?」

 

「はっ。この先の旅の為、ポルトガ国からの船での出港の許可を頂きたく」

 

 単刀直入なポルトガ国王の言葉に、一瞬カミュは驚き、声を詰まらせた。

 だが、今のカミュは仮面を被っている。

 そのまま何事もなかったかのように言葉を続けた。

 

「ほぉ……出港の許可とな?」

 

「はっ」

 

 一度顔を上げたカミュは、国王の瞳に何か違和感を覚える。ここまでの旅で、いくつかの国を回って来たが、このポルトガ国王の瞳は、他の王族の物とは一線を介していた。

 その理由こそ分からないが、カミュは何故か言いようのない不安感に襲われる。

 

「ふむ。しかし、今、この国の港からは定期船などは出ておらん。港を見て解ると思うが、貿易船なども年に数回。そなた等の希望には添えぬと思うが?」

 

「……では、次の貿易船とは……」

 

 予想はしていたが、それが国王自らの口から聞いた事により、カミュだけではなく、後ろに控える三人の表情にも僅かばかりの影が差した。

 カミュの問いかけに、気を悪くした様子もなく、ポルトガ国王は傍にいる大臣へ視線を送る。その視線を受けた大臣が、少し考えるような素振りを見せた後、口を開いた。

 

「先日、船が港から出たばかりでありますので、早くても一年後かと。しかし、ここ最近は海の魔物の凶暴化も進んでいますので、それも希望的観測に過ぎません」

 

「……だそうだ」

 

 もう一度視線を戻す国王の目には、明らかに落胆に肩を落とす勇者一行の姿が映った。

 『もしかすると、彼等の旅は、行き詰まっているのかもしれない』

 国王は、そう感じていた。

 

「ふむ。そなた等は、東の大陸へは足を運んだのか?」

 

「……いえ……まだにございます」

 

 突如掛けられたポルトガ国王の言葉に、カミュは何を言われたのかを理解するのに数秒を要さねばならなかった。

 カミュの否定の言葉に、ポルトガ国王は髭の生えていない顎を一撫でしてから、再度口を開く。

 

「別段、船がなくとも東の大陸には渡れよう」

 

「はっ。そのような噂を耳にしましたが、その道が見つかりませんでした」

 

 顔を上げて答えるカミュの目を、国王は見つめる。

 その瞳の奥にある何かを探し求めるように。

 

「ふっ。ノルドの奴か?……暫し待て」

 

 カミュの瞳を見ていた国王が一つ笑うと大臣に目配せをし、持って来させた文箱を開いて、何やら書き始める。

 下を向いたままのリーシャ達三人は、謁見の間で何が起こっているのかが解らない。ただ、今までのカミュと国王とのやり取りが、何かしら進展しそうだという事だけは理解出来る。

 国王の口調が変化している事には、リーシャだけが気づいていた。

 

「ふむ。これで良い。これをノルドの奴に渡してみよ」

 

「……はっ……」

 

 大臣経由で手渡された文を、両手を掲げて受け取ったカミュは、どこか気の抜けたような返事を返す。カミュの中で、このポルトガ国王が、今まで謁見した国王とは違うという事が確定された瞬間だった。

 

「よし。カミュと申したな。そなた等に命を申し渡す。東の大陸に行き、そこの名産である『黒胡椒』を持ち帰って来い。さすれば、このポルトガは国を挙げて、そなたを『勇者』と認め、支援する事を約束しよう」

 

「……はっ……」

 

 カミュの返答は、相変わらず、一国の国王の前で発する物ではなかった。

 どこか、釈然としない想いがあるのだろう。

 

「できぬか?……東の大陸は、ここの魔物より強い。しかし、そなた等の使命は『魔王討伐』の筈。魔物程度にそなた等の行動が止められたのであれば、『魔王討伐』など夢のまた夢ではないのか?」

 

 『なんて失礼な物言い』

 サラは、後ろで控えながら、そう感じていた。

 一国の国王が、世界を救う為に立ち上がった青年にかける言葉ではない。

 しかも、『黒胡椒を持ち帰れ』等、国王の我儘でしかないではないか。

 サラは、赤い絨毯を見つめながら、怒りを感じていた。

 

<黒胡椒>

それは、ある地方にしかない調味料。

その他の地方では、調理に使う調味料は塩が基本。

いや、正確に言えば、塩しかないのだ。

 

 サラにしても、その名は知っていても、実物など見たことはない。

 昔は、アリアハンに入港した商船がたまに持って来ていたが、その価値は、庶民が手を出せるレベルのものではなかった。

 その一粒は、黄金一粒と同価値とまで言われていたのだ。

 

「『黒胡椒』を手に入れる方法は、そなたに任せる。そなたが持ち帰った分、全てをこの私が買い取る事を約束しよう」

 

 その『黒胡椒』を一粒買うだけでも、黄金が一粒必要なのだ。そのような資金を与えもせずに、手に入れて来いなど、横暴にも程がある。

 元金がなければ、仕入れる事など出来ない事は常識の範疇。それすらも理解出来ない王族なのかとサラは憤った。

 しかも、カミュ達の使命が何であるかを理解しておきながら、自分の我儘を優先して命を下すなど、サラからしてみれば、最低の人種と映ったのだ。

 

 しかし、サラは気がつかない。

 そもそも、一国を担う王族に対し、そのような考えが浮かぶ時点で、もはや以前のサラではないのだ。

 『王族は人の守護を、<精霊ルビス>から委ねられた選ばれし者』という教え自体に、疑問を感じ始めている証拠であった。

 第一、カミュは既に、アリアハン国王から同じような命を受けているのだ。

 少ない資金、貧弱な物資での『魔王討伐』という命を……

 

「はっ。確かに承りました」

 

 カミュの返答は、先程よりもはっきりとしたもの。そんなカミュの声を聞きながら、リーシャは考えていた。

 憤るサラとは対照的に、リーシャは落ち着いている。それは、感じ方の違いに他ならない。

 リーシャは、このポルトガ国王の言っている事にどこか違和感を覚えた。

 この国王は、カミュ達の目的を確かに聞き、理解しているだろうし、これから先の旅に、船が必要である事も理解しているのだろう。その上で尚、自分達に東の大陸への道を示したのだ。

 

「では、そなた達が我が前に『黒胡椒』を持ち帰って来る事を楽しみにしているぞ」

 

「……必ず……国王様の御前に……」

 

 リーシャが感じた違和感は、カミュも同じ様に感じていたもの。

 そして、カミュは国王の言葉を受ける事にした。

 それは、この国王の瞳の色に何かを感じたからに他ならない。

 今まで見て来た王族の物とは違い、どちらかと言えば、自分達に近いその色に。

 

 

 

 カミュ達が謁見の間を去り、そこにまだ若い部類に入る国王と、大臣が残された。一つ溜息を吐いた国王に、傍に立つ大臣の顔に苦笑が浮かぶ。

 

「昔を思い出されましたかな?」

 

「……ふっ……俺には、『魔王』に挑む腕も度胸もなかったさ」

 

 大臣の言葉に、どこか哀しく、どこか優しい表情を浮かべたポルトガ国王は、謁見の間から見えるポルトガ港を眺めた。

 数々の品と、そして数多くの人が旅立った港。

 そして、今や何も送り出す事のなくなった港を。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ようやくポルトガ城です。
ポルトガという国は、ゲームの中ではイメージ的にどうかな?という部類でしたが、この物語中のポルトガはどうでしょう……

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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~バーンの抜け道~

 

 

 

「カミュ。このままあのホビットの所へ向かうのか?」

 

「……いや、武器屋に寄る……」

 

 鉄で出来た重い城門が開かれ、カミュ達一行は城下町へと踏み出す。城門が重い音を響かせながら閉じられると、その前に門番の兵士が二人立ち、再びポルトガ城に静けさが戻った。

 町へと続く港を歩きながら、リーシャはカミュへと今後の方針を尋ね、その問いにカミュが間髪入れずに答えを返す。

 

「そうか。私の盾も新調しなければならないしな。ん?……サラ、どうした?」

 

「えっ!? あ、いえ……なんでもありません」

 

 カミュの答えに満足そうに頷いたリーシャであったが、ふと隣を歩くサラの様子が変である事に気づき、声をかけた。実際、サラは謁見の間からここまで、パーティーの最後尾を歩き、一言も言葉を発していない。

 サラが何かを考え込み、悩んでいる時の行動である事は、ここまでの旅でリーシャには解っていた。

 サラは、城門前での文官の態度に始まり、謁見の間での国王の発言に複雑な想いを持っていた筈。それは、サラの心に刻みつけられている『教え』と相反する物。

 『何故、自分はここまで憤りを感じるのか』

 しかも、それは人類の保護者であると教えられた王族に対して。

 それがサラを悩ませる。

 

「サラ?……行こう」

 

「あっ! は、はい」

 

 その悩みは、目の前でにこやかな表情で声をかけて来る女性戦士も含まれていた。

 『何故、自分はこれ程までに憤りを感じるのに、沸点が低いと言っても過言ではない筈のリーシャがここまで穏やかなのか?』

 サラは、それに疑問を感じ、そして、その事実が自分の『精霊ルビス』に対する信仰心の薄れなのではないかという恐怖に襲われる。

 サラは『精霊ルビス』への信仰が、自分にとっての唯一の物だと信じている。

 いや、その事を今、リーシャやカミュに話せば、彼等は鼻で笑うだろう。

 しかし、サラはそれに気付かない。

 疾うの昔に、自分の中での優先事項が変化している事実に。

 

「…………メルエも…………」

 

「あはは。アンの服以上の装備品はここにはないと言ったろう?」

 

 買い物に行くという事実を知ったメルエが、この城下町に辿り着く前に発した言葉を繰り返す。自分を物欲しげに見上げてくるメルエに、リーシャは声を出して笑い出してしまう。そんなやり取りをしている内に、一行は港を通り抜け、城下町へと入った。

 昨晩に訪れた集合店舗へと向かうと、宿屋や武器屋に道具屋が犇めく様に揃うその場所は、陽も高くなったためなのか、人で溢れていた。

 

「……ここに置いてある盾で、一番良い物は?」

 

 数ある店の中で、カミュが立ち寄った場所は、集合店舗の中でも一際小さな武器と防具の店。カミュが向かった先が、何故このような小さな店なのか、リーシャもサラも理解出来なかった。

 他に大きな店が近くにある。そこは客も多く、品揃えも良いように見えた。それでも、カミュはその店を一瞥しただけで、迷わずにこの店に向かって歩いて来たのだ。

 

「ん?……おお! いらっしゃい。盾か?……そうだな……やはり、この<鉄の盾>だろうな。少し重さはあるが、その分防御力は高い」

 

「……そうか。合わせてもらえるか?」

 

「もちろんさ。装備してみて、具合を確かめてくれ!」

 

 店主がカウンターに置いた<鉄の盾>をカミュは手にとってみる。小さな店で、来客も少ない割に、その<鉄の盾>は埃も被らず、その光沢を誇っていた。

 それは、この武器屋の主人が手入れを怠っていない事の証明。

 

「……これを二つくれ……」

 

「ありがとう! 2400ゴールドになるよ」

 

 カミュはカウンターにゴールドを置き、主人はそのゴールドを確認した後に、カミュとリーシャの具合を聞き、調整の為、奥へと入って行った。

 

「……この盾はアンタが使え……」

 

「えっ!? これを私がですか?」

 

「お、おい。カミュ、その盾は……」

 

 奥へと入って行った主人を見送った後、カミュはその手に持っていた<うろこの盾>をサラへと手渡した。

 カミュから盾を受け取ったは良いが、サラはカミュのその行為に戸惑っている。それは、おそらく、少し顔を歪めているリーシャが考えている事と同じ物が原因なのであろう。

 

「……誰から貰った物であろうと、盾は盾だ。その盾よりも良い物があれば、そちらに替える。後生大事に貧弱な装備のまま旅を続けて、死ぬつもりはない」

 

「ぐっ!」

 

 リーシャが考えていることを理解したカミュが、先に釘を刺した。

 カミュが持っていた<うろこの盾>は、ロマリア国王から賜った物。

 一国の宝物庫にあった程の物である。

 それをカミュは、『貧弱な装備』と吐き捨てたのだ。

 

「……アンタには、<鉄の盾>は重すぎる。<うろこの盾>ならば、防御力の割に軽く、扱い易いだろう」

 

「あ、は、はい……ありがとうございます」

 

 一瞬、血が頭に上りそうになったリーシャではあったが、続いたカミュの言葉を聞き、その血は急速に下がって行く。カミュの言葉の中に、サラの事を考えている節が多分に見受けられたからだ。

 確かにサラの細腕では、<鉄の盾>を装備する事は出来ないだろう。例え、手につける事が出来ても、それを掲げて、魔物からの攻撃を防御する事は難しい。

 そして、この辺りの魔物の攻撃でさえ、もはや<青銅の盾>では心許ない事は、リーシャが持つ盾の有り様が物語っている。しかも、これから先の旅となれば、更に強い敵と遭遇する事はまず間違いはない。

 

「さぁ、出来たぞ。もう一度、手に嵌めてみて、具合を確かめてくれ」

 

 リーシャが、複雑な想いでカミュとサラのやり取りを見ていると、奥から主人が戻って来た。

 持っている二つの<鉄の盾>をカミュとリーシャにそれぞれ渡し、二人が具合を確かめている様子を真剣に見守っている。少しでも具合が悪ければ、再び直すつもりなのであろう。

 

「……俺の方は、これで大丈夫だ……」

 

「私も大丈夫だ」

 

 具合を確かめ終わった二人が、不備がない事を告げると、主人は人の良さそうな笑みを浮かべ、『そうか』と一言呟いた。

 

「……この二つの<青銅の盾>を引き取ってくれるか?」

 

 手に<鉄の盾>を装備し終えたカミュは、リーシャとサラの持っている<青銅の盾>を指差し、主人に尋ねるが、主人はその盾を一瞥し、苦い表情を作った。

 

「う~ん。そっちの盾は引き取れるが……悪いが、アンタの方の盾は、買い取る事は出来ないな……まぁ、処分して良いと言うのであれば、ゴールドは支払えないが、引き取らせて貰うよ」

 

「これは、ダメか……」

 

 サラの方の盾は、正直無傷に等しい。カンダタの斧の攻撃を受けた事もあるが、微かに傷らしき物が付いているだけである。

 それに対し、リーシャの盾は、もはや原型を留めてはいない。所々が欠け落ち、表面は傷だらけになっている。それは、何も、ポルトガ城下町に辿り着く前に遭遇した<ドルイド>が放った<バギ>だけが原因ではない。

 彼女は、ここまでこの盾で、自分だけではなく仲間達を護って来た。

 <ギズモ>の放つ<メラ>からサラを護り、同じ様に<さまよう鎧>の剣撃からもサラを護った。

 アッサラームに向かう途中では、<暴れザル>の暴力からメルエの命を護っている。あの時、咄嗟にこの盾を<暴れザル>の拳と自身の身体の間に滑り込ませた事によって、リーシャもまた命を繋げたのだ。

 『買い取る事は出来ない』とまで言われた<青銅の盾>の姿は、言うなればリーシャの身代わり。彼女のここまでの行動を意味するものだった。

 

「……それで良い。悪いな。売り物にならない物を引き取らせて」

 

 リーシャの盾の経緯を知っているからこそ、カミュは一言も不平を口にしない。暫し、しみじみと盾を見つめていたリーシャは、<青銅の盾>を一撫でした後、カウンターへ置き、同じようにサラも自分の盾をカウンターに置いた。

 

「いや、こちらこそ、すまないな。ん?……そう言えば、アンタ達は兜を被っていないんだな?……頭を護るのも重要だぞ?」

 

「……何か、良い物があるのか?」

 

 カミュ達一行を見て、主人は何かに気が付き、その内容を口にする。その内容通り、カミュ達一行は頭を護る物を装備してはいない。サラは僧侶帽、メルエは<とんがり帽子>を頭に乗せているが、それは敵からの防御を考えての装備ではない。

 

「これなんて、どうだ?」

 

「……これは?」

 

 主人が取り出した物は、小さな兜。

 頭頂部をすっぽりと覆うように、頭に乗せるようなものだった。

 

「それは<鉄兜>さ。鉄で出来ているだけに、多少の重さはあるが、女性でも被れる重さだし、結構防御力もある」

 

「……<鉄兜>か……おい、アンタが被ってみろ」

 

「えっ!? また私ですか?」

 

「…………サラ…………ずるい…………」

 

 主人から<鉄兜>を受け取ったカミュは、それを再びサラへと手渡す。

 カミュにしてみれば、メルエには無理だろうが、サラであれば、もしかすると可能かもしれないという考えだったのだが、ここまで黙って買い物を眺めていたメルエは、再びサラに物が与えられる事に不満を漏らし、頬を膨らませていた。

 

「……オヤジ……この()に合う物は何かないか?」

 

「う~ん。子ども用の物はなぁ……」

 

 メルエの言葉と表情に苦笑しながら、カミュは主人へと声をかけるが、主人の言葉は期待に沿うようなものではなかった。

 その言葉に、メルエは肩を落とし、リーシャの足元に戻って行く。何とも言えない罪悪感がカウンター付近を支配した。

 

「あ、あの……少し重いですが、動く事に支障を来す程ではありません」

 

「……そうか……ならアンタはそれを被れ」

 

「…………サラ…………ずるい…………」

 

 皆の空気が固まっている中、<鉄兜>を被ったサラが、その具合を口にする。サラの言葉に、カミュはそれを装備するように指示を出し、リーシャの足元から少し顔を出したメルエが再び不満の言葉を洩らした。

 

「えっ!? で、でも、私には、この帽子が……」

 

「サラ。ここから先は、自分の身を一番に考えるんだ」

 

 僧侶である自分の身の証である<僧侶帽>を脱ぐ事に抵抗感を持ったサラが、<鉄兜>を脱ごうとするが、それは隣に立つリーシャによって止められた。

 ここから先の魔物相手では、それこそカミュの言う通り、貧弱な装備では命を落としかねない。それは、リーシャも良く理解していたのだ。

 

「……でも……」

 

「……それ程に嫌ならば、その<鉄兜>を覆うように<僧侶帽>を被れば良い?」

 

「おっ! そう言う事なら、手伝うぞ。少し形状は変わってしまうかもしれないが、時間をもらえれば、手直ししてみよう」

 

 納得が行かずに肩を落とすサラに対して発したカミュの提案に、意外なほど武器屋の主人が乗り気を見せる。

 彼にしてみれば、久しぶりの上客なのかもしれない。<鉄の盾>というこの町で一番上等な盾を、即決で二つ購入し、そのまま<鉄兜>も店主の提案を受け入れる形で購入しようとしている。

 ただ、この主人は、根っこから人の良い人間なのであろう。自分の提案を一も二もなく受け入れるカミュ達に対し、ふっかけたり、粗悪品を売りつけたり等という事を考えてもいなかった。ただ、ただ、久しぶりに現れたやりがいのあるお客に対し、目を輝かせている。

 『自分ができる可能な限りのことを提供し、満足して旅に出てもらいたい』

 そんな、商人としての本来の輝きに満ち満ちていた。

 

「その兜、私も貰おう。ほら、サラ手直しをしてもらえ。カミュはどうする?」

 

「……俺はいい……」

 

 それでも、決心がつかず、悩むサラをリーシャが後押しする。

 そのついでに、カミュへも伺いを立てるが、カミュはその首を軽く横に振った。

 

「…………むぅ…………」

 

「……今回はメルエに新しい物はないが、次の町ではきっと何かあるだろう……」

 

 リーシャがサラと共に武器屋の主人の方へ行ってしまった為にカミュの下へと移動したメルエは、カミュのマントの裾を握りながら不満気にむくれていた。

 そんなメルエの頭を一撫でしたカミュは、苦笑を浮かべながら慰めの言葉をかける。もし、その言葉をリーシャやサラが聞いたのなら、少し驚いた表情を見せたのかもしれないが、メルエにとってはカミュがそう言う言葉を言ってくれる事に違和感はない。

 少し拗ねたような表情をしながらも、こくりと頷いた。

 

「ありがとう。また、寄ってくれ」

 

 主人の気の良い声に見送られ、カミュ達は武器屋を後にする。装備品を充実させ、新たな大陸への準備を済ませた一行は、城下町を抜け、平原に出る為に歩いた。

 その途中で、未だに膨れているメルエをサラが慰めるが、逆効果になってしまった事は、また別の話。

 

「……一度、アッサラームの近くまで戻る……」

 

 城下町を出たカミュ達は、海風が吹く平原に立っている。潮風は強く、未だにその匂いに慣れないメルエが、若干顔を顰める様子が可笑しく、サラは微笑んだ。

 カミュの言葉に、一行はカミュの下へと集って行く。一度訪れた先が目的地である場合、彼等は歩く必要などない。それぞれがカミュの一部を掴んだのを確認すると、カミュが詠唱を開始した。

 

「ルーラ」

 

 四人の身体をカミュの魔法力が包み込み、上空へと浮き上がらせる。

 暫し上空に停止していた四人の身体は、方角を決定したように、南東へと進路をとり、消えて行った。

 

 

 

 アッサラームの町の近くに降り立った一行は、そのまま町に入る事をせずに、北東へと進路をとって歩き出す。

 基本的に<ルーラ>という呪文の効力は、街や城等にしか発揮する事はない。それは、『人』の頭の構造故なのか、洞窟や塔などは、一度訪れた事のある場所であったとしても、<ルーラ>によってその場所に移動する事が出来ない。

 陽が落ち始めていた事もあり、ノルドが住む洞窟を覆うような森の中へ入った所で、カミュ達は野営をする事となる。

 カミュの<トヘロス>の呪文が、周囲を神聖な空気で包み込み、その中で火を熾して眠りに付く。見張りは、カミュとリーシャで交代しながら行うが、魔法の効力がある以上、余程の事がなければ、魔物が近寄る事もない。

 最近では、カミュの傍よりもリーシャの傍で眠る事が多くなったメルエの髪を梳きながら、リーシャは一人夜空を見上げる。

 

 『アリアハン大陸にいた頃より、確かに私達の視野は広がった』

 

 夜空を見ながらリーシャが思う事。

 それは、自分達の成長。

 特にサラの視野の広がりは、顕著だった。

 しかし、果たしてそれが良い方向に向かっているものなのか。それがリーシャには解らない。決して悪い物ではないと感じてはいるが、サラの様な僧侶にとって、その職務を遂行するに当たり、今の心理状態が正しいものなのかと問われれば、リーシャは即答出来ない。

 自分にしても、宮廷騎士としての誇りは失っていないが、その視点に微妙なズレが生じている事は自覚している。

 

 『私達がこの先の旅で見て行く物は、どのような物なのだろう?』

 

 そんな恐怖にも似た感情がリーシャの胸の中で広がり始めている。

 誰しも自分が変わって行く事を自覚する事は怖い物だ。そして、この先の時間で、その変化の度合いが更に大きくなって行くという可能性が高ければ、それは恐怖となる。

 今のリーシャがそうなのかもしれない。

 

 『魔王討伐』

 

 それが、彼女等の最終目的である事に変わりはない。それは、この先も揺らぐ事はないだろう。

 ただ、それは何のためなのか、そして、そこに向かうのが誰のためなのか。

 それは変化して行くのかもしれない。

 リーシャは、自分の膝元で眠るメルエのあどけない表情を眺めながら、そう考えた。

 月は明るく、森に茂る木々たちの間から一行を照らす。それは、彼等の未来へ続く明るく照らす光のようであった。

 

 

 

 翌朝、朝食を取り終えた一行は、ノルドの洞窟の前へと歩き出す。

 もはや、カミュの唱えた<トヘロス>の効果は切れていたが、遭遇した魔物達は、カミュ達の放つ何かを敏感に感じ取り、戦わずに逃げ出す事が多かった。

 逃げる魔物に追い打ちをかける事は、誰一人しない。サラであっても、その姿を苦々しく眺めるだけで、魔物の背に魔法をぶつけるような真似はしなかった。

 何かを耐えるように、拳を握り締めるサラの背中をリーシャが軽く叩き、一行は歩き出す。

 

「…………サラ……いたい…………?」

 

「えっ!? あっ……大丈夫ですよ。ありがとうございます、メルエ」

 

 サラの苦痛を表すような表情に、メルエが心配そうに声をかけ、その手を握った。

 自分の手を突如包み込んだ暖かさに、サラは偽りではない微笑みを浮かべ、メルエと共に歩き出す。その姿にリーシャもまた、微笑みを浮かべた。

 

 

 

「なんじゃ?……また来たのか? ここにはそんな道はないと言ったろう?」

 

 洞窟に入り、奥に進んだ所にある居住区に入りこんだカミュ達を、その小さな男は待っていた。

 発する言葉の刺々しさと反し、その表情はどこか優しく、四人を迎え入れる。

 

「……こちらを……」

 

「……」

 

 自分達の前まで移動して来たノルドに対し、カミュはポルトガで貰った王の文を手渡した。

 半ば予想はしていたのだろう。ノルドは、別段疑いの眼差しを向ける事なく、その文を受け取り、中を開いた。

 暫く文に目を通したノルドは、一つ目を瞑り、息を大きく吐き出す。

 

「……やはり、アンタは、思った通りの『人』だったな……」

 

 その瞳は真っ直ぐカミュを射抜いている。カミュはその視線を受け止めてはいるが、その真意は掴めていない。

 ノルドの考えていたカミュの『人物像』。

 それは、おそらくこのパーティー以外の人物は、すべからく感じるものなのかもしれない。

 

「他ならぬポルトガ王の頼みとあらば、致し方なし。さぁ、ついて来なされ」

 

 暫し、カミュの瞳を見つめていたノルドは、意を決したようにその口を開き、一度メルエに優しげな微笑みを浮かべた後、その横を通り過ぎ、居住区を出て行った。

 

「……カミュ……」

 

「……行くぞ……」

 

 予想外の急展開に戸惑うリーシャの視線を受けたカミュは、一度全員の顔を見渡し、ノルドの後を追って歩き出す。その後をそれぞれの顔を見合わせた三人が続いて行った。

 

「ふむ。そこで、待っていなされ」

 

 居住区を出た先にある、大きな石の壁の前に立っていたノルドは、出て来たカミュ達を確認すると、その足を制止させた。

 ノルドの声に何かを感じた四人の足が止まる。

 『何が起きるのか?』と不安な表情を浮かべるサラに反して、メルエの目は期待と好奇心に輝いていた。

 メルエの好意的な視線と、他の三人の訝しげな視線を受け流し、ノルドは助走を取るように数歩後ろへ下がり、そのまま石の壁に向かって突進していった。

 

ドシ―――ン!!

 

 小さなその肩を石壁にぶつける音が洞窟内に響き渡る。それは、相当な衝撃なのか、石壁は軋み、洞窟の天井からは小石や砂がパラパラと降りかかって来た。

 

ドシ――――ン!

 

 先程よりも大きな音を立て、ノルドが石壁に体当たりをする。

 石壁はきしみ、『ビシッ』という音を立て、大きな亀裂が生じた。

 余りの出来事に口を開けて、呆然と佇むリーシャとサラ。

 期待と好奇心が、憧れや羨望に変わって行くメルエの瞳。

 カミュは唯、目の前で起こっている事を素直に受け入れていた。

 

ドシ―――――――ン!

 

 止めとばかりに、大きな助走をとって、走り出した小さなノルドの身体が石壁と接触した瞬間、あれ程強固な壁であった石壁が、亀裂が出来た箇所を中心に粉々に弾け飛んだ。

 以前、アリアハン大陸を出る時に<魔法の玉>を使用した時のように、壁が瓦礫へと変わって行く。

 

「さぁ、行きなされ。これが<バーンの抜け道>への入口だ」

 

<バーンの抜け道>

彼等ホビット族の英雄とも言えるバーンが作ったと云われる抜け道。それは、高くそびえ立つ険しい山々の間をくり抜く様に作られ、東の大陸と西の大陸を結ぶ唯一の陸路である。この道は本来、バーンと同じホビット族しか知らず、その一族が護っている物であった。

 

「…………すごい………すごい…………」

 

 呆然とするリーシャやサラとは別に、メルエは感動に目を輝かせ、ノルドの近くへと駆け寄って行く。

 今度はノルドが驚く番だった。

 ホビット族という異種族に嫌悪や侮蔑を露わにする人間を数多く見て来た。その中に、稀にノルドの友であるポルトガ王やカミュのように、差別する事なく接する人間はいるが、これ程純粋な好意を向けて来る者は、彼の人生の中で初めての経験だったのだ。

 

「…………すごい…………」

 

「あ、ああ。ありがとう」

 

 ノルドと同じぐらいの視線の高さから、尊敬に似た眼差しを向けてくるメルエに、ノルドは大いに戸惑った。

 彼は、ホビット族の中での異種であった。

 バーンの末裔という事もあり、同種から迫害される事はなかったが、その巨大な力は恐れの対象となったのだ。

 本来、同じエルフ族で括られる<ドワーフ>とは違い、力が強い訳でもないホビット族の中で、山々を切り裂き、洞窟を掘る力を有し、それを封鎖する岩壁を破壊する事が出来るノルドは自然と同種から孤立して行った。

 そんな中で出会ったのが、未来のポルトガ国の玉座に座る事を約束されていた一人の青年である。

 彼の瞳は優しく、暖か。

 人間からは侮蔑や嫌悪の視線しか受けて来なかったノルドが、そんな中で出会ったのが、未来のポルトガ国の玉座に座る事を約束されていた一人の青年であった。

 人間に対し、良い感情を持っていなかったノルドにとって、ある意味恐怖の対象であった『人』という種族への見方が変わった瞬間でもある。

 

 しかし、今それ以上の暖かな瞳を受けている。

 それは、ノルドと同じ高さの視線。

 ノルドの十分の一も生きていない程の少女。

 

「ふふ。メルエ、その御仁にお礼を」

 

「…………ん…………ありが………とう…………」

 

 戸惑っているノルドを見て我に返ったリーシャが、メルエのはしゃぎ様に微笑み、感謝の意を表すように告げる。リーシャの言葉を受けたメルエが一つ頷いた後、ノルドに向かって頭を下げるのと同時にリーシャも、小さな大人に向かって頭を下げた。

 その二人の様子に、ノルドの戸惑いは、拍車をかける。

 

「い、いや。良いんだ。頭を上げてくれ」

 

「……いえ。本当にありがとうございました……」

 

「あっ! す、すみません。本当にありがとうございます!」

 

 両手を振って、リーシャ達の行動を止めようとするノルドの言葉を遮って、一番近くにいたカミュまでもが頭を下げ、全員がノルドに感謝する姿に、遅まきながら我に帰ったサラも慌てて頭を下げた。

 サラの姿を見たノルドは、もはや戸惑う事を止めた。

 彼等は、そういう『人』なのだ。

 ノルド自身が多く見て来た『人』の姿が、『人』の全てではない事は、若き日のポルトガ王や、カミュの父親であるオルテガを見て知っていた。しかし、その後十数年間、『人』と接する事を避けて来たノルドは忘れていたのだ。

 

「……では……」

 

「あ、ああ。東の大陸に入れば、ここよりも強力な魔物が住むという。このバーンの抜け道は、魔物の侵入を防ぐ役割もしている。気を付けて行かれよ」

 

 カミュが再び、頭を下げた事で、ノルドの頭は完全に覚醒した。この抜け道を護る本来の意味を告げ、注意を促す。

 それに対し、もう一度頷いたカミュは、そのまま抜け道の奥へと進んで行った。その後をサラ、そして最後にリーシャとその手を握るメルエが続く。最後に通り過ぎるメルエが、リーシャの手を握っている反対の手をノルドに軽く振った。

 その事に、軽い驚きを示したノルドではあったが、ゆっくりと顔に微笑みを作り、ノルドもまた、メルエに対し軽く手を振り返す。ノルドの行動を見てにこやかに微笑む少女を見て、ノルドは自分が数十年、いや百余年の間、この抜け道を護って来た意味を理解した。

 

「この時の為に……この世界に生きる全ての者達の希望の為に……この抜け道があったのかもしれんな……」

 

 カミュ一行の背が奥へと進み、見えなくなってから呟いたノルドの言葉は、洞窟内に反響し、静かに消えて行った。

 

 

 

 ノルドが開いてくれた<バーンの抜け道>は、魔物の気配など一切無く、澄んだ空気に満ちていた。

 通常は、洞窟内などは魔物が好んで住み着くのだが、この洞窟は違っていた。それが、ホビットのようなエルフ族の特性なのか、それとも、何か術式が組まれているのかは解らないが、カミュ達一行は何の障害もなく、東の大陸への道を歩いて行く。

 

「あっ! カミュ様、あれは?」

 

 それ程距離を歩く事なく、前に進む道が途切れた。

 緩やかに下る道ではあったが、一本道であった為、道を誤る事等はなかった筈。それは、サラが見つけた何かによって証明された。

 

「……梯子か……」

 

「上るのか?」

 

それは、壁に立てかけられるように立つ一つの梯子。

 それは、上部へと続いていた。

 

「……一つ聞きたいのだが、ここまで来て、これを上らないという選択肢がアンタの中には存在するのか?」

 

「ぐっ……いや、すまない」

 

 リーシャの呼びかけに、心底呆れたように溜息を吐いたカミュの声が、リーシャに心に突き刺さる。確かに、一本道を歩いて来た先にあった梯子であれば、その先にあるのは、ノルドを信じるのならば、東の大陸へと繋がる出口しかあり得ない。

 

「あっ! ま、まずは、カミュ様が先に行ってください」

 

「?」

 

「そ、そうだな。カミュ、お前が先に行け!」

 

 何かに気が付いたように、突然声を出したサラに、カミュは首を傾げるが、サラの様子に何かを感じ取ったリーシャが、カミュを先に行かせる後押しの声をかける。

 よくよく見れば、サラの装備している<みかわしの服>は、リーシャとは違いスカート状になっていた。真っ先に上れば、サラの下着が露になってしまう。

 女性特有の羞恥心をリーシャは理解したのだ。

 

「……わかった……」

 

 リーシャの剣幕に、カミュは意味が理解出来ないながらも、素直に頷いた。

 もう一人、全く意味を理解出来ないメルエは、大きく首を傾げながら、その様子を眺め、先に行こうとするカミュに柔らかな笑顔を向けていた。

 メルエに一つ頷いたカミュを先頭に、一行は梯子を上って行く。だが、梯子の上に光は見えない。本当に出口へとつながっているのか疑い始めた時、カミュの手が固い何かに当たった。

 それは、自然の鉱物ではない硬さ。

 

「……木の蓋か?」

 

「カミュ! 何かあったのか?」

 

 上に行くカミュが止まってしまった事によって、後方から上り始めていた三人の動きも停止してしまった事に、リーシャが疑問を投げかけてくる。

 その言葉にカミュは何も返さず、自分の行く手を遮った蓋らしき物を確認していた。

 

「カミュ様、大丈夫ですか?」

 

 明かりが途切れ、手元すらも怪しくなった事もあり、すぐ後ろから上って来ていたサラにもカミュがしている事は解らない。故に、カミュへと声をかけるが、その時、サラの目に急激な明かりが飛び込んで来た。

 余りの明るさに目が眩み、思わず梯子を掴んでいた手を離してしまいそうになる。

 

 それは、地上の光。

 太陽が昇り切り、大地を照らす明かりが、光の届かない洞窟内を照らしたのだ。

 

 カミュが予想した通り、それは、木で出来た蓋の様な物だった。

 カミュが力を込めて、それを上部に押し上げる。長年、誰一人開ける事のなかった扉なのだろう。まるで地面と結合してしまったのではないかと錯覚を起こす程に重い扉が、『メリッ』っというような剥がれる音を立てながら開いた。

 

「……手を取れ」

 

「あっ!? あ、ありがとうございます」

 

 差し込む光に慣れるまで時間のかかったサラの目に入って来たのは、既に上り終えたカミュが差し出す手。サラは突如出されたその手に驚き、戸惑った。

 以前のカミュであれば、このような行為は考えられない。手を差し伸べるカミュの表情に、何の感情も浮かんでいない所は、アリアハンと全く変化はない。しかし、最近は、サラにもカミュの変化は認識出来る程までになっていた。

 理想や思想。全てに於いて、サラとは交わる事のない程にかけ離れた『勇者』という存在。

 それは、サラが信じていた『勇者像』とは全く違う存在であり、未だに相容れない部分は多分に残されている。

 おそらく、この先の旅でも、彼とは対立する事は多いだろう。それでも、少しずつ、自分達の目的が一つに定まり始めている。

 サラはそんな気がし始めていた。

 

「…………サラ…………はやく…………」

 

「あっ!? ご、ごめんなさい」

 

 カミュの手を呆然と眺めていたサラに、後ろから不満の声が聞こえた。 

 それは、サラのすぐ後ろを上って来ていた、このパーティー最年少の『魔法使い』。

 上を見上げ、頬を膨らませている表情は、初めて会った時には考えられない程、豊かな物であり、それこそ、彼ら全員の変化の原因となっているものなのかもしれない。

 

「ふふふ。メルエ。そうサラを責めるな」

 

 その小さな少女の後ろから上って来た、アリアハンの女性戦士の表情も柔らかい。

 サラ、メルエと順番にその手を取って、引き揚げたカミュの手が、最後にリーシャへと伸びる。自分へ伸ばされた手を見て、一瞬驚きの表情を浮かべたリーシャであったが、すぐに、小さな笑みを浮かべ、その手を取った。

 

 

 

 最後のリーシャが大地に降り立った後、カミュはもう一度木の蓋を閉める。そして、その上を草木で覆い、更に大きな石を乗せた。

 その行為が、魔物が入り込まない為の物だと理解したリーシャとサラは何気なく見ていたが、メルエは石を押すカミュを手伝うように、一緒になって石を蓋の上へと押していた。

 

「ふふふ。カミュ、ここからどの方角に進むんだ?」

 

 石を押し終わり、満足そうにカミュへと笑顔を向けるメルエに微笑んでいたリーシャが、この後の進路についてカミュへと尋ねるが、その問いかけに、地図を開いたカミュは短く答えるのみだった。

 

「……南だ……」

 

 カミュの言葉少ない返答に、もはや慣れてしまっていたリーシャやサラは、一つ頷き、進路を南にとって歩き出す。

 <バーンの抜け道>の出口は、西の大陸と東の大陸を隔てる険しい山脈を抜けた山道にあった。故に、一度山道を抜けてから、進路を南に取る必要性があり、一行はカミュを先頭に山道を下って行く。

 

 

 

「カミュ!」

 

「……ああ……」

 

 一行が傾斜の緩やかな山道に入った頃、最後尾を歩くリーシャの声が響く。同じように、リーシャが感じた気配を感じ取っていたカミュが、背中の剣を抜きながら頷きを返した。

 それは、以前遭遇した事のある様な気配。姿は見えずとも、自分達を見つめているような視線をカミュやリーシャは感じたのだ。

 カミュの行動に、マントの裾を握っていたメルエが素早くサラの後ろに移動する。もはや、戦闘時のメルエの定位置となりつつあるその場所で杖を構えるメルエの表情は厳しく、魔法使いとしての顔になりつつあった。

 

「カミュ様! 来ます!」

 

 カミュ達から少し遅れは取ったが、同じ様な視線を感じ取ったサラは、その気配が急速に近づいて来る事をカミュへと告げ、背中の槍を構えた。

 

「!!」

 

 サラの言葉に斧を握る手に力を込めたリーシャの目の前の景色が一瞬歪んだ。

 怯んだリーシャの頬を熱気を含む空気が通り過ぎたかと思うと、歪んでいた景色に変化が見える。熱気を含む空気が急速に収束し、その形を形成していった。

 

「盾を構えろ!」

 

「!!」

 

 その光景に見とれていたリーシャは、カミュの叫び声に我に返り、咄嗟にポルトガで新調した<鉄の盾>を前方に向けて構える。リーシャが盾を構えるのとほぼ同時に、その盾を強い熱気が包み込んだ。

 鉄で出来ている盾を通じて、自分の左手に伝わって来る熱さに、苦痛の表情を浮かべながら、リーシャはカミュ達がいる場所へと移動する。自分の身に何が起きたのかが理解出来ていないリーシャではあったが、まずは状況把握のため距離を取ったのは戦士としての経験なのかもしれない。

 

「カミュ様、あれは?」

 

「<シャンパーニ>の近くで遭遇した魔物に近いが、異なる物と考えた方が良いだろうな」

 

 カミュ達の下に戻り、熱された盾を下ろしたリーシャが見た姿。

 それは、以前<シャンパーニの塔>に向かう途中で遭遇した<ギズモ>によく似た魔物。煙の様な姿に、中央に映る目と裂けたような口。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 以前<ギズモ>と遭遇した際、<ギズモ>を倒したのはサラだった。それは、魔法をある意味自分の存在価値と考えているメルエには屈辱だったのだ。

 故に、誰かが仕掛ける前に、リーシャが戻ってすぐ、メルエは手に持つ杖を目の前に浮かぶ二体の魔物に向け、呪文を唱えた。

 

「なに!?」

 

「!!」

 

 しかし、ここまで数多くの魔物の命を奪ってきた最強の灼熱呪文は、まるで魔物の身体に吸収されていくように掻き消えた。

 それは、イシス砂漠で遭遇した<火炎ムカデ>を彷彿とさせるものだった。

 

<ヒートギズモ>

ギズモと同様、その繁殖方法及び、生態は解明されていない。霧の様な煙の集合体であるギズモと異なり、その身体は熱気を帯びた空気によって形成されている。その熱気は人間の身体を容易く焦がす程のものであり、それを象徴するかのように、形成された煙は赤々とその温度を露わしていた。自らの熱を外に放出するかのように、<火の息>を吐き出し、敵を焦がす魔物。故に、その身体に火炎や灼熱の魔法は効力を発揮しないのだ。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 再び、自分の魔法が効かない敵を前にし、メルエは悔しそうに唸り声を上げる。目の前に敵さえいなければ、和やかな空気が流れる一コマではあったが、未だ敵は無傷。

 

「メルエ、悔しがるのは後だ! メルエは氷結の魔法も使える筈だろ!」

 

「…………ん…………」

 

 悔しそうに唸るメルエを窘め、前を向かせる声はリーシャのもの。握っている斧を構えたまま、視線を向けずに掛るリーシャの声に、メルエは小さく頷いた。

 

「カミュ! あの魔物は、武器では倒せないのか!?」

 

「……解らない……ただ、形状を保っている限り、その核となる部分があるのは間違いないだろう。そこを叩けば、何とかなるかもしれない」

 

 以前遭遇した<ギズモ>は、全てサラの唱えた<バギ>によって一掃している。一度剣を振るった事もあったが、霧の様な存在を撒き散らしただけに終わっていたのだ。

 

「……だが……あの系統は、メルエやその僧侶に任せた方が無難だろう……」

 

「は、はい。任せて下さい!」

 

「…………メルエ………やる…………」

 

 リーシャの問いに、自分の考えを語ったカミュであったが、それはあくまで可能性の話である事を付け加えた。続いたカミュの言葉に、任された事の喜びを感じ、胸を張って答えるサラであったが、何かに対抗意識を剥き出しにしたメルエに阻まれる形となる。

 

「メルエ!」

 

 その時、もう一度<ヒートギズモ>が裂けたような口を大きく開き、小さな火球を吐き出す。それが、メルエに向かっている事に気が付いたリーシャが、再び盾を構えてメルエの前に立ちはだかった。

 

「…………ヒャド…………」

 

 <鉄の盾>で火球を受け止めたリーシャの足元から、狙い澄ましたような冷気が、未だに口を開いている<ヒートギズモ>に寸分の狂いもなく突き刺さる。

 <鉄の盾>に阻まれた熱気は霧散し、代わりに迸る冷気が唸りを上げた。

 

「グモォォォォォォ!」

 

 <ヒートギズモ>の熱された身体に突き刺さる冷気。

 それは、熱と冷気の闘い。

 水を蒸発させ、氷さえ溶かす<ヒートギズモ>の身体をメルエの放った冷気が包み込む。

 

 勝者は、冷気だった。

 通常の魔法使いが唱える<ヒャド>であれば、こうはいかなかったかもしれない。しかし、メルエが唱えた<ヒャド>は<ヒートギズモ>を形成する熱気を帯びた空気を包み込み、それを凍らす事で固定させた。

 凍り付いた<ヒートギズモ>は、空中を漂う事が不可能になり、重力に従ってそのまま地面へと落ちる。落下のスピードと、地面の固さによって、落ちた瞬間に凍り付いた<ヒートギズモ>は粉々に砕け散った。

 

「よし! よくやった、メルエ!」

 

「私も、負けられません。バギ!」

 

 自分の足元で、杖を構えていたメルエに、軽く視線を送るリーシャに、メルエが頷いた。

 その様子を見ていたサラが、今度は自分の番とばかりに、もう一体残っている<ヒートギズモ>に向かって片手を上げ、呪文の詠唱を開始する。しかし、サラの唱えた真空呪文は、<ヒートギズモ>を完全に消滅させるに至らなかった。

 熱された空気を切り裂き、確かにその体積を減少させたのだが、<バギ>ではその威力が不十分であったのだ。

 

「……くそ……」

 

「はっ!?」

 

 若干自分の身体を削り取られた<ヒートギズモ>は、怒りを露わにし、その口をサラに向けて大きく開く。サラがそれに気付いた時は、既に火球が吐き出された後だった。

 迫り来る火球に目を瞑りそうになるサラの目の前に突如現れた影。

 リーシャと同じようにポルトガで新調した<鉄の盾>を前に掲げ、後ろにいる人物を護るように立ちはだかる大きな背中。

 それは、『勇者』らしからぬ『勇者』。

 

「メルエ!」

 

「…………ん…………ヒャド…………」

 

 盾を前方に構えながら、小さな『魔法使い』へと声をかける。メルエは一つ頷き、再びリーシャという大きな背中に護られながら、<ヒートギズモ>に向けて杖を振るった。

 再び放たれた、熱気を帯びた空気さえも凍りつかせる程の冷気。それは、<火の息>を吐き出した余韻に浸っていた<ヒートギズモ>を正確に射抜く。

 

「やぁぁぁぁ!!」

 

 メルエの<ヒャド>によって徐々に凍りついて行く<ヒートギズモ>を象る熱した空気を、リーシャの斧が一閃する。

 冷気によって凍りついていた部分が、粉々に弾け飛び、<ヒートギズモ>から生命という炎を奪い取った。

 

「……いつまでも、同じ呪文が通用すると思うな」

 

「は、はい……申し訳ありませんでした」

 

 魔物の脅威が去り、盾を下ろしたカミュが、一度振り向きざまに放った言葉は、サラの心を抉った。

 自分を護ってくれたという事に感謝の意を表そうとした矢先の言葉だっただけに、サラはただ謝る事しか出来ない。

 カミュにしても、ここ最近のサラの成長を認めている節がある事はリーシャには解っていた。故に、カミュにとっては何気ない一言だったのであろう。

 ただ、基本的に、このパーティーの中で劣等感を少なからず抱えているサラにとって、リーダー的存在であるカミュから告げられた言葉は、意外な程に重かったのだ。

 

「…………ん…………」

 

「えっ!? あ、は、はい。ありがとうございます。メルエ、凄いですね」

 

 そんな自分の世界に陥っているサラに対し、帽子を取ったメルエが近づいて来た。

 最近のメルエは、リーシャやカミュからの労いだけでは満足せず、サラに対しても労いを要求するようになっていたのだ。

 以前は、自分に対して、どこか線を引いているような感があったメルエが、無防備な姿を晒して来る事に嬉しさを感じていたサラだが、この時のサラの表情はどこか引き攣りを見せる。頭を撫でられながらも、サラの様子を不思議に思ったメルエは、しばらくの間小首を傾げていた。

 

 

 

 山道を下りきり、一行は山々を取り囲むような森の中に入る。木々が生い茂り、果物や昆虫などが豊かなこの森には、数多くの小動物が生息していた。

 生まれて初めて見る昆虫や小動物に、目を輝かせたメルエが、所々で立ち止まり木々を見上げるため、一行の進行速度は明らかな遅れを見せる。最初は、そんなメルエの行動を窘めていたリーシャであったが、窘められる度に、とても哀しげな表情を見せながら、振り返り振り返り進むので、カミュへと伺いを立てるしかなかった。

 一息溜息を吐いたカミュが、一つ頷いた事により、メルエが立ち止まり見上げた時は、暫しの休憩を挟む事となった。

 その為、一行は陽が高い内に森を抜ける事は出来ず、当然のように森の中で野営を行う事となる。

 

「メルエ。私と薪になる枯れ木を取りに行きましょう」

 

「…………ん…………」

 

 サラの呼びかけに、近くにいた『りす』から視線を外し、小さく頷いたメルエは、サラの手を取り、森の中へと入って行く。その後ろ姿を一人の女性が心配そうに眺めていた。

 

 

 

 食事も取り終え、火の番をしているリーシャ以外が眠りに就き、サラとメルエが拾って来た薪を火にくべながら、リーシャは夜空を見上げた。

 木々の葉の隙間から差し込む月明かりが、ささやかな明るさが眠っているメルエの顔を映し出している。その様子に微笑むリーシャの視界に、もぞもぞと蠢く姿が入って来た。

 『魔物の襲来か?』と、傍にある斧に手をかけるが、それはリーシャのよく知っている人物。毛布を掛けながら眠っていたサラであった。

 

「どうした?……眠れないのか?」

 

「えっ!? あ、いえ。少し、用を足してきます」

 

 リーシャが起きているとは思わなかったのかもしれない。

 通常、野営の際に見張りとして起きているのはカミュとリーシャの二人だけ。サラやメルエは、目を瞑った後は、差し込む朝陽の眩しさで目を開くまで、目覚める事はないのだ。

 

「そ、そうか。ついて行こうか?」

 

「いえ。大丈夫です」

 

 サラの言葉に、多少の戸惑いを見せたリーシャであったが、夜の森という危険から、付き添った方が良いかを尋ねる。サラはそれにも首を横に振り、そのまま、森の中へと入って行く。

 しかし、リーシャはサラが何かを持って森の中に入って行った事に気が付いていた。

 

「……本来なら……そっとしておいた方が良いのだろうな……」

 

 サラが消えて行った方向を眺めながら一言呟いたリーシャは、そのまま<鉄の斧>を持ち立ち上がった。

 カミュの<トヘロス>がかかっている以上、この場所は基本的に安全ではあるが、強力な魔物であれば、<トヘロス>が作り出す結界に似た物を越えて来る。

 一瞬逡巡を見せたリーシャであったが、『もし魔物が入り込めば、カミュが目を覚ますだろう』と考え、サラが消えて行った方向に歩き出した。

 

 

 

 サラはすぐに見つかった。

 それ程離れていない場所で、座り込んでいるサラを見て、リーシャは本当に用足しに出て来ただけだったのかと考えたが、見えないながらもサラの周囲を取り巻く雰囲気を感じ取り、もう一歩近づく。

 

「サラ。何をしているんだ?」

 

「!!……リ、リーシャさん?」

 

 突如後ろから掛けられた声に、飛び跳ねるように振り向いたサラは、暗闇に浮かぶ人影と聞き覚えのある声からその人物を予想した。

 徐々に近づいて来る人影は、サラの予想通りの人物。

 姉のように厳しい所もあれば、母のように優しい部分もある、サラにとって憧れであり、指針となり得る存在。

 

「魔法の契約か?……何も今でなくても良いだろうに」

 

「いえ。私は未熟ですから……」

 

 サラの隣に座ったリーシャは、隣に座るサラを中心に描かれた魔法陣を見て、溜息を吐く。

 確かに、魔法の契約であれば、このような夜中でなくても良い筈。しかし、それをサラは物哀しい表情を作り、否定した。

 

 自分が未熟者だからと。

 自分が足を引っ張っているのだからと。

 

 そんな事を溢す、このもう一人の妹の様な存在に、リーシャは言わなくてはいけなかった。

 彼女の存在意義を。

 そして、彼女の事を認めている人間がいる事を。

 

「サラ。強くなる為に、今よりも成長する為に、こうやって魔法の契約をするなとは言わない。だがな……焦るな」

 

「……リーシャさん……」

 

 寝ていた場所に<僧侶帽>を置いて来ていたサラの頭に手を乗せ、リーシャは苦笑を浮かべた。濃い蒼色をした癖のない髪の毛は、リーシャの手を受けて乱される。

 だが、髪が乱される事を気にする余裕もない程、サラの気持ちは沈んでいた。リーシャを見上げる瞳は、自信を失い、潤みながら揺らぐ。アリアハン教会から持ち出した『経典』を持つ手は、小刻みに震えていた。

 

「昼間のカミュの言葉を気にしているのか?」

 

「……」

 

 問いかけに、無言の肯定を返すサラ。そんなサラに、リーシャの苦笑は強くなった。

 『あの捻くれ者め』と、ここにはいない青年に呪詛を唱えながら、リーシャはもう一度サラへと視線を戻す。

 

「気にするな。アイツは、ああいう言い方しか出来ないだけだ」

 

「……」

 

 先程とは違い、若干興味を引いたように視線を向けるサラに、リーシャは軽く微笑む。

 慈しむように、そして勇気を与えるように。

 それでもサラの顔に笑顔は戻らない。リーシャが言っている事が、只の慰めに聞こえているのだろう。

 

「サラの成長を一番感じているのは、おそらくカミュだ。サラがカミュを救った。それはカミュもしっかりと受け止めている」

 

「……そうでしょうか……もしかしたら、要らぬお世話だったのでは……」

 

 その証拠に、リーシャの言葉を聞いた後に口を開いたサラの言葉は、リーシャの話す内容を全く信じていない物だった。もはや被害妄想と言っても良い程に自身を卑下している。

 そこに自信の欠片も見えず、リーシャは孤児であったサラの根底にある物を見た気がした。

 

「ふふふ。私と同じ疑問を持つのだな?……私もそう思って、カミュを問い質した。その時、カミュは、はっきりと『感謝している』と答えたぞ」

 

「えっ!?」

 

 リーシャの言葉に自信なさげに俯いたサラは、続けられた言葉に驚き、弾かれたように顔を上げる。

 そこに見えたのは、本当に暖かい笑顔。

 その顔を見た時、サラは自分の胸の中を蝕んでいる内容は、全てリーシャに気付かれている事を感じた。

 

「サラ?……私達は、何度もサラに助けられている。私も、メルエも、そしてカミュも。サラがこの旅に同道してくれていなければ、私達は疾うの昔に命を落としていただろう」

 

「……そんな……」

 

 『サラがいなければ』、『サラがいたからこそ』。

 この言葉を素直に受け入れる事が出来る程、サラは自分に自信を持っている訳ではない。それでも、先程よりも心が動いている事も確かであった。

 

「大袈裟ではないぞ。サラがいなければ、私が殴られた後、メルエは殺されていたとカミュから聞いている」

 

「!!」

 

 あのアッサラームへの道中、一行が遭遇した<暴れザル>によって齎された危機。それは、全滅の危機と言っても過言ではないものだった。

 そんな中、一行を救ったのは、サラが放った魔法<ラリホー>。その後、あのカミュが、サラに向かって丁寧に頭を下げた。

 それが今、サラの頭の中で鮮明に思い出される。

 

「確かに、攻撃魔法では、サラはメルエに遅れを取るかもしれない。だが、攻撃魔法があれば、補助魔法等はいらないのか?」

 

「……そ、それは……」

 

 サラは口籠ってしまう。何故なら、彼女の中では、自分が明確に役に立ったと思える場面が浮かんで来ないからだ。

 回復呪文でカミュの命を救った事はある。

 メルエを危機から救った事もある。

 しかし、メルエが唱える派手な攻撃呪文を見てしまうと、一発で形勢を変えてしまう程の呪文を自分が持っていない事を嫌でも感じてしまうのだ。

 

「違う。サラの回復呪文、そして補助呪文、それらがあって初めて、私は前線に出る事が出来る。『怪我をしても、サラが癒してくれる』、『硬い敵でも、サラが事前に何とかしてくれる』と思うからこそ、私は前に立てる。それは間違いか?」

 

「……リーシャさん……」

 

 自分でも気付かぬ内に、サラの瞳から何かが零れ落ちていた。

 サラの瞳から、止めどなく溢れる熱い水。

 それは嬉し涙なのか、それとも、リーシャにこのような事を話させてしまった事への悔し涙なのか。

 

「『焦るな』と言っても、サラは行動するのだろうな?……だが、無理はするな」

 

「……はい……」

 

「私達の傷を癒すのも、私達の闘いを楽にするのも、サラの仕事だ。私は、そんなサラを頼もしく思っている。おそらく、メルエも……そしてカミュもな」

 

 そう結ばれた言葉に、サラはゆっくりと頷く。そして、その後一向に上がらないサラの顔をリーシャが胸に抱いた。

 抑えるような嗚咽は、次第に大きさを増し、今まで溜めていた不安を吐き出すようにリーシャの胸を濡らして行く。表情にも、態度にも出した事のないサラの不安は、ようやく表に出る機会を与えられ、発散される事となった。

 

 

 

「落ち着いたか?」

 

「……はい……ぐずっ……」

 

 しばらくの間、リーシャの胸で泣いていたサラがようやく顔を上げる。

 腫れぼったく赤くなった瞳が、サラの溜まっていた不安の大きさを表していた。

 

「……リーシャさん……」

 

「ん?……なんだ?」

 

 サラの涙を拭ってやったリーシャは、何かを問うように上げられたサラの顔を見つめた。

 言い辛そうに、そして何かを考えるように歪んだサラの表情に、まだ不満が溜まっているのかもしれないと考える。しかし、そんなサラの口から発せられた言葉は、リーシャの予想を遥かに超えた物だった。

 

「……リーシャさんは、カミュ様を認めているのですね……」

 

「ん?……あ、ああ」

 

 自分の予想を超えた問いかけに、リーシャは戸惑いながら、ゆっくりと頷いた。

 サラは不思議そうにリーシャを眺め、その視線を受け止めてリーシャは口を開く。

 

「確かに……アリアハンを出た時よりも、カミュという存在を認めているのだろう。ここまで旅をして来て、私はカミュが『勇者』だと認める事にした」

 

「……それは、初めから……」

 

 開かれたリーシャの口から出た言葉に、サラは驚いた。

 カミュが『勇者』である事など、当初から解っていた事だ。

 リーシャが仕えるアリアハンという一国家が認めているのだから、当然であろう。

 

「いや。私は、アリアハンを出る時は、カミュを『勇者』とも『オルテガ様の息子』とも認めてはいなかった。あんな捻くれた人間がそんな筈はないとな」

 

「……」

 

 リーシャの激白。それは、サラを絶句させた。

 『勇者』でもなければ、『英雄の息子』でもない。それであるならば、彼女は誰と旅をして来たと言うのだろう。

 サラにしてみれば、カミュが『英雄オルテガ』の息子であり、その意思を継ぐ『勇者』であるからこそ、その考えや価値観に抵抗を感じても付いて来たのである。それを根本から覆すリーシャの言葉に、サラは驚いたのだ。

 

「だが、ここまでの旅で、カミュが成して来た事は、語り継がれている『勇者』と呼ばれる者達の残した偉業から見ても、遜色はない物だ。そして、それは何もカミュ一人の力ではない。周囲の人間や、そのタイミング。それは、カミュが『勇者』だからこそ掴む可能性なのではないかと思う」

 

「『勇者』ならではの……」

 

 サラにとっても、リーシャの語る内容は、予想の遥か斜めを行っている物だった。

 『勇者』という定義。

 それをサラは考えた事すらなかった。

 サラが教えられて来た『勇者像』。

 それがサラにとって全てだったのだ。

 

「ああ。カミュの考え方は、未だに理解出来ない部分が多い。理解したくもない物もある。ただ、ここまでのカミュの行動に、私は非を唱える事は出来ない。あの盗賊に関する処置を含めても……」

 

「……あ…あ……」

 

 サラは思い出す。

 自分の身体を固めた、あの恐怖を。

 『人』が成す行為だと思えない程に、冷酷で酷いもの。

 それをリーシャは容認すると言うのだ。

 

「確かに、あの行為は酷い。ただ、カミュの怒りは理解出来るんだ。そして、私やメルエが感じた物と同じ『怒り』を、カミュも感じていたという事で、『カミュも人なのだ』と感じた」

 

「……それは……」

 

「『人』の救世主とされる『勇者』ではあるが、その『勇者』もまた『人』なんだ、サラ」

 

 リーシャの言葉は、本当にここまでの旅でリーシャが肌で感じた内容。

 『勇者』という種族ではなく、『人』が選び出した人間の呼称だという事。

 それに対し、サラは言葉が出てこなかった。サラにしても、『勇者』が『人』ではないと考えていた訳ではない。だからこそ、<ピラミッド>内であれ程懸命になったのだ。

 しかし、カミュを自分と対等の存在だと思った事もなかった。リーシャは、生まれた家の格式こそ違うが、同じ人間である事は理解している。そして、最近では、王族に対してですら畏怖を感じなくなりつつあるサラにとって、唯一の畏怖の象徴。

 それが『勇者』であるカミュだったのだ。

 

「私は、カミュが魔王討伐に向かって歩く中で起こる事を見届ける義務がある。時にはそれを諌め、時に対立する事もあるだろう。それでも……私はあの年若い『勇者』の全てを否定する事は止めた」

 

「……リーシャさん……」

 

 サラとは違い、リーシャはカミュを自分と対等の『人』である事を認めたのだ。いや、アリアハンを出た時からの口調を考えれば、それは当然の事なのかもしれない。それでも、サラはその事実に驚いた。

 カミュに旅の仲間として見て欲しいと願っていたサラは、いつしか自分さえも、カミュを仲間とは見ていなかった。

 その事実を突き付けられたのだ。

 

「サラ。ああ見えて、カミュは少しずつサラを認め始めているぞ。サラがメルエと薪を拾いに行く時も、それにあの<ピラミッド>でも、サラを信じていた。カミュを全面的に認めてやれとは言わない。だが、そろそろ、カミュという人間を見ても良い頃だと、私は思う」

 

「……リーシャさん……」

 

 サラへと語るリーシャの顔は、慈愛に満ちていた。自分はこれから先に続く果てしない旅路の中で、一体どれ程、この女性に導かれるのだろう。

 人を導く事を生業とする僧侶が、一戦士に導かれるというのも奇妙な話。いや、『人』と言うものは、こうやって、年長者に導かれ成長して行くものなのかもしれない。

 

「……リーシャさんは、いつ頃からカミュ様の事を……」

 

「ん?……なんだ?」

 

 しばらく呆然とリーシャを見つめていたサラが、呟くように洩らした言葉が聞き取れず、リーシャは思わず聞き返す。

 そして、続く言葉を聞いて、身体を振るわせ始めた。

 

「や、やはり! レーベの村を出た頃から、カミュ様とそういうご関係になられていたのですね!」

 

「……サラ……」

 

 自分が以前考えていた事が、やはり正しかったのだという盛大な勘違いを始めたサラは、先程からは真逆の笑顔をリーシャに向けた。

 しかし、その言葉を聞いたリーシャは、そのまま顔を俯かせ、肩をふるわせ始める。

 

「……やはり、サラには攻撃面でも役に立って貰わなくてはいけないな……せっかく起きたんだ……夜明けまで時間もある。さあ、背中の槍を構えろ。朝まで稽古をつけてやろう」

 

「ふぇ!? な、なぜですかぁぁぁ!?」

 

 

 

 翌朝、ボロボロになったサラと、自分の汗を爽やかに拭くリーシャの姿が野営場所で確認される。追い打ちのように、途中で交代の為に起きたカミュに色々と小言を言われ、サラはその場で気を失ってしまった。

 その為、一行の出発は、昼を大幅に越えた頃となる。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ようやく東の大陸へ上陸です。
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戦闘⑤【バハラタ周辺】

 

 

 カミュ一行が野営地を出る頃には、陽は高く上っていた。

 あれから、野営地では、一つの事件が起こっている。それは、パーティーの中で最も遅い起床となった少女の目が開いた事から始まった。

 身体を起こしてから何度も目を擦り、覚醒を果たしたメルエは、周囲を見渡して自分の家族を探す。その姿は雛鳥が親を探すものに良く似ており、見ていてほほえましい気持ちになるものであった。

 通常であればの話だが……

 

 しかし、覚醒を終えたメルエの瞳に飛び込んで来た光景は、とてもほほえましい物ではなかったのだ。

 カミュの前で、跪く様に座り込んでいるメルエが慕う僧侶の姿はボロボロであり、その横に座っている、これもメルエが母の様に慕う女性戦士は、どこか不貞腐れたような顔でカミュを見上げていた。

 カミュが何かをリーシャとサラに何かを語りかけているが、少し離れた場所で眠っていたメルエにはその声は届いていない。故に、メルエの胸に不安が募って行った。

 そしてメルエの不安は現実のものとなった。

 身体を起こし、三人の下へと『とてとて』駆け出したメルエの瞳に、ゆっくりと横に倒れて行くサラの姿が映ったのだ。

 それは、メルエの胸に、驚きと共に絶望を感じさせる程のもの。

 

「サラ!?」

 

「!?」

 

 駆け寄ろうとするメルエの足が絶望で止まってしまった時、リーシャとカミュの叫び声が森の中に響いた。

 

「…………サラ…………サラ…………」

 

 リーシャとカミュの叫び声に、再び動き始めたメルエの足は、真っ直ぐ横になるように倒れ込んだサラへと向かう。メルエの登場に、カミュは少し驚いた表情を見せるが、リーシャはどこかバツの悪い顔を作った。

 

「少し気を失っただけだ。心配するな」

 

「…………ほんと…………?」

 

 メルエの中で、治療に関して最も信頼できるのはサラなのだ。

 例え絶対的強者であり、最高の保護者として見られているカミュであったとしても、事、治療に関しては、サラには敵わない。故に、メルエの口から出た言葉は、再確認のようなものだった。

 そして、メルエの言葉に『心外だ』とばかりに顔を顰めたカミュが、一つ溜息を吐いた後、倒れたサラの状態を細かく確認する。

 所々にある擦り傷や、切り傷に<ホイミ>をかけ、もう一度メルエの方を向いて『大丈夫だ』という言葉を発した事で、ようやくメルエは納得したように頷いた。

 

「…………ま……もの…………?」

 

 しかし、頷いた後に、顔を上げたメルエの瞳は怒りに燃えていた。

 自分の大事な姉であり、友にもなり得るサラをこのような姿にした者への純粋な『怒り』。

 それは、感情という『人』として当然の物をようやく持ち始めたメルエにとって、ようやく芽生えたもの。

 そのメルエの瞳を見て、カミュは柔らかく目を細めたが、傍で見ていたリーシャの表情は、大きな変化を見せる。それは、どこか『恐怖』にも似たものだった。

 

「……いや、この僧侶をこんな状態にしたのは魔物ではない……」

 

「カ、カミュ!!」

 

 怒りに燃えるメルエと視線を合わせるようにしゃがみ込んだカミュは、サラをこの状態にした者の正体を語り始めるが、それに慌てたのは、リーシャ。

 

「…………???…………」

 

 『魔物でなければ、誰なのだ?』

 そう言いたげに小首を傾げるメルエに、カミュは一つ大きな溜息を吐いた。

 カミュが溜息を吐いた事で、メルエの視線はリーシャへと移る。

 純粋な疑問を向けるメルエの視線を受け、リーシャは声に詰まった。

 

「この僧侶を、これ程に痛めつけたのは、そこにいる戦士だ」

 

「カ、カミュ!!」

 

 カミュが真実を告げる。その言葉に、ようやくリーシャは声を出すが、それは唯、名を呼ぶだけに留まる。

 それは、とある少女の視線を受けたため。

 カミュの言葉を聞くように視線を向けたメルエの瞳が、もう一度リーシャへと戻って来る。それはとても厳しいものであり、母親が子供を叱る時に見せるような瞳だった。

 

「…………リーシャ………だめ…………」

 

「うっ!?」

 

 厳しいメルエの視線にリーシャがたじろぐ。

 それはいつもとは逆の立場。

 初めて受けたメルエの厳しい瞳に、リーシャは泣きたくなって来た。

 

「…………だめ…………」

 

「そうだな。何があったかは知らないが、鍛錬にしては行き過ぎだ。アンタはこの僧侶を、ここで脱落させたいのか?」

 

 メルエの言葉に乗って相手を諌める。

 この方法もいつもならリーシャが行う筈のもの。

 それが、今は自分に向かっている。

 

「それは違う!!」

 

「ならば、完全に行き過ぎだ。忘れるな。コイツは『僧侶』だ。『戦士』でもなければ『武闘家』でもない。武器を持ち、振り回す身体能力をアンタや俺と一緒に考えるな。」

 

「…………ごめん……なさい………いう…………」

 

 カミュが口にする言葉は正論。

 しかし、リーシャは少し驚いていた。

 カミュの言葉は、サラをしっかりと仲間として見ている証拠であったのだ。

 以前、カミュには『自分達を仲間として扱え』と約束させた事はある。あれから、ほぼ毎朝、カミュと模擬戦を行って来たが、リーシャは一度たりとも負けた事はない。つまりは、あの時の約束は、継続されているという事。

 しかし、今のカミュの表情や態度を見る限り、そんな約束などの拘束もなしに言葉を発しているように感じた。

 それが、リーシャには嬉しかったのだ。

 

「…………ごめん……なさい………いう…………」

 

 しかし、そんなリーシャの小さな喜びの時間はすぐに弾け飛ぶ。再び口を開いたメルエの言葉は、珍しく強いものだった。

 そんな初めて受けるメルエの言葉に、リーシャは何か言いようのない物が込み上げて来た。

 

「わ、わかった。サラが起きたら謝っておく」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャが諦めたように答えると、ようやくメルエの瞳が柔らかな物へと変わって行った。

 最後には笑顔に変わったメルエの表情に、リーシャは安堵の溜息を吐き、サラの頭に水で濡らした布を載せたカミュもまた、その表情を優しい物へと変えて行く。

 

「しかし、これで出発は昼過ぎになるだろうな」

 

「ぐっ!? す、すまない」

 

 カミュが何気なく呟いた言葉はリーシャの胸を抉って行く。カミュの言葉は別段リーシャを責めるようなものではなかったが、淡々と現状を語るそれは、事実であるが故に、尚更リーシャの罪悪感を刺激するのだ。

 

「…………カミュ………だめ…………」

 

 表情を曇らすリーシャへの助け舟は、意外な場所から飛んで来た。

 立つ位置を変え、今度はリーシャを護るように立つ小さな背中は、先程までリーシャを糾弾していた幼い少女の物。

 

「……メルエ……」

 

「わかっている。別に責めている訳ではない」

 

 小さな背中を愛おしい者を見るように見つめるリーシャの呟きは、メルエに向かって溜息を吐きながら答えたカミュの言葉に掻き消された。

 

「ただ……この僧侶はアンタが診ていろ」

 

「わかった」

 

「…………メルエも…………」

 

 横になって寝息をたてているサラの看病は、リーシャの仕事となり、メルエはそれに付き合うように、サラの傍へと駆け寄って行く。ただ、当のメルエが、暫くはサラの頭に乗せる布を濡らしたりしてはいたが、その内にサラの胸の上で眠ってしまった事は、また別のお話。

 

 そのような小さな出来事があったのだが、昼近くになって目を覚ましたサラには、一連の流れを知る由もない。目を覚ました事に気が付いたリーシャが突然頭を下げた事に驚いたサラが『私が、まだ未熟である事がいけないのです』と返答してしまったため、この話は、そこで終わりを告げた。

 サラに遅れて目を覚ましたメルエが、サラに向かって可愛らしい笑顔を向けた理由が理解出来ないサラではあったが、その笑顔は自然に心を温めるようなものだった。

 

 

 

「カミュ様?」

 

 サラが起き、食事を取った後に一行は、再び森を出る為に歩き出した。

 森は深く、密集した木々は、人間の方向感覚さえも失わせる。そんな中でも迷いなく歩くカミュの背中を追って歩いて来ていたサラは、突然カミュが背中の剣を抜いた事に驚いた。

 『カミュが背中の剣に手をかける=魔物の襲来』

 この構図が成り立っている一行ではあるが、サラの感覚が間違っていなければ、今、周囲に魔物の気配は感じられない。

 

「……動くな……」

 

 剣を静かに構えたカミュは、呟くような小さな声を溢す。その声に圧されたように動きを止めたサラと、その手を握るメルエとは別にリーシャも<鉄の斧>を構えた。

 リーシャが武器を構えた事によって、サラも再び周囲への警戒を強める。しかし、サラが感じる物は、風を受けた木々のざわめきと小動物の鳴き声、そして虫達の羽音などだけであった。

 

「……羽音?」

 

 不自然ではないと思われていた森の音で、その中に一つ引っかかる物が存在する事に、サラは眉を顰めた。

 それもその筈。元来、虫の羽音などは、人間の耳元を飛んでいない限り、聞こえて来る事などあり得ない。

 つまり、それは『異常』なのだ。

 

「ふん!」

 

 その事にサラが気付いた瞬間、カミュの持つ<鋼鉄の剣>の剣先がサラとその手を握るメルエの目の前に振り下ろされた。

 驚いたメルエが目を丸くし、口を開けたまま固まってしまったサラの目の前に何かが落ちて来る。それが、巨大なハチの姿をした魔物である事に気がついた時には、一行は既に同じ姿の魔物の群れに囲まれていた。

 

<ハンターフライ>

アリアハン大陸に住む<さそり蜂>やカザーブの村の周辺に生息する<キラービー>の上位種に当たる魔物。上位種なだけに、そのすばやさは下位の二種を凌ぎ、巨大な羽を震わせて飛び回る。尾には巨大な毒針を所有し、人間の身体を麻痺させ、その後に体液を食すのだ。

 

 その数は三体。

 カミュ達を取り囲むように羽音を響かせている。

 

「カミュ! 針に気をつけろ!」

 

「……それは、こっちの台詞だ」

 

 飛び回る<ハンターフライ>に斧を振りながら、リーシャはカミュへと振り返って注意を促すが、カミュは周囲への警戒を怠らずに溜息を吐いた。

 

「!!」

 

「@#(9&)」

 

 そんなカミュの態度に何かを言い返そうと口を開きかけたリーシャの耳に奇妙な音が聞こえて来る。

 それは羽と羽を擦り合わせたような音。

 生来持つ人間の生理的な部分を刺激する不快な音だった。

 

「下がれ!」

 

 思わず耳を塞いでしまったサラやメルエに声を飛ばすカミュ。メルエに至っては、声と共に首根っこを掴まれ、宙を舞った。

 何かに受け止められたメルエは、そこがカミュの腕の中である事に安堵し、先程いた場所に目を向け、そしてその光景に驚いた。

 

「…………ギラ…………?」

 

「……ああ……」

 

 カミュの腕の中で呟いたメルエの言葉にカミュが一つ頷く。一行の頬に突き刺さるほどの熱風が周囲を支配し、その熱風を生み出している赤い海が広がっており、それは、メルエの放つ<ベギラマ>程の威力はないが、通常の人間なら丸焦げになりかねない程の灼熱であった。

 

「メルエ! 無事か!?」

 

 二人の下にリーシャとサラが駆け寄る。リーシャの立ち位置は<ギラ>の攻撃範囲からずれており、サラはメルエが宙に舞ったと同時に自身の身を後方に下げていた為に、手に火傷を負った程度のもので済んでいた。

 

「サラ。前に唱えた、『魔法を封じ込める呪文』は使えるか?」

 

「えっ!? あ、は、はい。しかし、あの魔法は、必ず効くとは限りません」

 

 自信の手に<ホイミ>をかけていたサラに、リーシャが問いかける。その内容にサラは答えるが、それはリーシャにとって期待通りの物ではなかった。

 ただ、サラの言っている事は事実。

 <マホトーン>は、必ずその効果を敵全てに及ぼす物ではない。生来魔法の効き難い種族もいれば、個体ベースでも差はある。更には運次第で効かないという事もあり得るのだ。

 

「それでも良い。もう一度<マホトーン>の詠唱を頼む」

 

「は、はい!」

 

 少し肩を落としたリーシャを余所に、カミュがサラへと声をかける。一瞬、その言葉の内容に、驚いたような表情を見せたサラであったが、すぐに表情を戻し、大きく頷いた。

 昨晩、リーシャがサラに語った内容。

 カミュがサラをしっかり見ており、認め始めているという事実。

 それが今、サラにもはっきりと分かった。

 サラの尚一層の成長が不可欠であるという事は当然ではあるが、ただ、それは順を追って行けば良い事なのである。

 

「炎が晴れるぞ!」

 

「はい! マホトーン!」

 

 目の前に広がっていた炎の海が、潮が引いて行くように消えて行く。それを見たリーシャの掛け声と共に、サラの詠唱が完成する。

 <ギラ>による炎によって、カミュ達の身も焼かれたと考えていたであろう<ハンターフライ>は、一箇所に集結していた。故に、三体の魔物は、サラの呪文行使の恰好の餌食となる。

 

「@#(9&)」

 

 一体の<ハンターフライ>が先程と同じ羽音を立てた事で、一行は一瞬身構えるが、その魔法が発現しない事が確認されてからの行動は速かった。

 

「やぁ!!」

 

 自分の身に起きた事を理解出来ていない<ハンターフライ>が再び羽を擦り合わせ、魔法の行使を試みるが、その結果は変わらない。それでも尚、羽を擦り合わせようとする<ハンターフライ>ではあったが、三度目の時間が与えられる事はなかった。

 リーシャが一閃した<鉄の斧>は寸分の狂いもなく<ハンターフライ>の胴体を斬り分ける。透明な羽と共に斬り裂かれた身体は、バラバラと地面に落ち、活動を停止させた。

 

「ふん!」

 

 斧を構え直して振り返ったリーシャの目に、<鋼鉄の剣>で<ハンターフライ>を突き刺すカミュの姿が映った。

 一息ついたリーシャは、再び自分の耳に飛び込んで来た羽音に、弾かれたように視線を向ける。

 そこにいたのは、羽を震わせる<ハンターフライ>。そして、徐々に纏わり付いて来るような、熱気を纏った空気が収束されて行く。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 だが、その熱風は、リーシャの後方から吹いて来た、もう一つの熱風によって押し戻される。リーシャの目の前で攻防を続ける二つの熱風は徐々にその位置を変えて行った。

 それは、リーシャ側へではなく、魔物側へと……

 

「キュイ―――――――!!」

 

 羽音とも叫びともつかない奇怪な音を立てて炎に飲み込まれて行く魔物を、カミュはいつものように、どこか哀しげな表情を浮かべて見ていた。

 <ギラ>と<ベギラマ>の威力には雲泥の差がある。しかし、本来の所有者であると云われている魔物が唱える物と、人間が唱える物とでは、その性能に違いが生じて来る事もまた事実。

 つまり、例え<ベギラマ>と<ギラ>であろうと、通常の魔法使いが使った<ベギラマ>であったのであれば、魔物が唱えた<ギラ>と拮抗する事はあっても、押し返す事は不可能と言っても過言ではないのだ。

 その事をカミュは知っていた。

 カミュが今見ている光景。それが、メルエの異常性を表しているという事実が、カミュを苦しめていたのだ。

 

「…………ん…………」

 

「あ、ああ。よくやった」

 

 炎の海が引き、丸焦げとなった<ハンターフライ>の死体だけとなったのを確認したメルエが、帽子を取って、カミュへと頭を向ける。しかし、いつもと同じようにメルエの頭を撫でるカミュの表情は優れない。

 今、カミュの手を受け、気持ち良さそうに目を細める少女に、この能力(ちから)を与えてしまったのはカミュ自身である。もし、カミュがあの時に、メルエを魔方陣に入れなければ、メルエが魔法を契約する事もなかった。

 それは、他の人間と同じように『普通』として暮らして行く可能性を奪ったのに等しい。

 魔法を知ってしまった為に、その異常性が表に出てしまったメルエには、もう二度と『普通』に暮らす機会は訪れないだろう。その事実がカミュを苦しめる。

 

「カミュ。迷うな。お前が迷えば、メルエが苦しむ」

 

「!?」

 

 メルエは、カミュの次にリーシャの下で頭を撫でてもらい、今は最後のサラの場所へと移動していた。

 無表情の中にも、何かに悩む雰囲気を察したのであろう。リーシャがカミュへと声をかける。

 何時になっても慣れぬ、自身の心の中を見抜かれるという感覚に、カミュは顔を勢い良く上げてしまう。そんなカミュの行動に苦笑したリーシャが話し出すが、その内容は、カミュを心から動揺させた。

 

「私は、以前にお前に言ったぞ? 『メルエが何者であろうと、あの娘は私の妹だ』と。お前は違うのか?」

 

「……いや……」

 

 自分の問いかけをカミュが否定した事に、満足そうに頷いたリーシャの顔は、とても優しい笑みが浮かんでいた。

 

「ならば、何を悩む? メルエが妹ならば、あの娘が私達の傍を離れる事はない。この先、どれ程の事実が明らかになろうと、私達がメルエを護ってやれば良い」

 

「……ああ……」

 

 自分の言葉に、驚きの表情を浮かべたままのカミュを見て、『本当に彼の頭の中に、自分の言葉は届いているのか?』という疑問を持ったリーシャではあったが、再び頷いたカミュにもう一度笑顔を向ける。

 

「さあ、行こう。私達の妹に『船』と大海原を見せてやる為にも『黒胡椒』を手に入れなければな」

 

「……アンタは変わり過ぎだ……」

 

「な、なんだそれは!?」

 

 メルエに海を渡る船を見せてやることを考えながら話をしていたリーシャに、カミュはようやくいつもの調子を取り戻す。そのカミュの言葉に、剥きになって反論しようとしたリーシャであったが、さっさと背を向け、メルエとサラの方向に歩き出すカミュが一言小さく呟いた声を聞いて、苦笑に近い表情を浮かべた。

 

『……ありがとう……』

 

 リーシャの耳には、確かにそう聞こえた。

 

「……お前も、相当変わったのだぞ……」

 

 そんなリーシャの呟きは、誰の耳にも届かない。

 森にはいつもの静けさが戻り、リーシャは一人微笑みを浮かべていた。

 

 

 

 歩き出した一行は、引き続き森の中を歩いて行く。

 その間、魔物との遭遇はかなりの数に及んだ。

 そのほとんどが<ヒートギズモ>や<ハンターフライ>であった。

 初見の時と同じような戦い方を行い、それらの魔物を駆逐していくのだが、メルエの魔法の行使に、もう、カミュの表情は動かなかった。

 カミュの中で、確固たる想いが固まったのだ。

 

「…………うみ………きらい…………」

 

 それは、リーシャがメルエに船の事を話した事から始まった。

 『船』という単語がいまいち理解出来ずにいたメルエは、その説明の中にあった『海』という単語に顔をあからさまに顰める。

 別段、船が手に入ると決まった訳ではない。ただ、『黒胡椒』が手に入れば、大きな資金が手に入る。なにせ、一国の国王が、手に入れた『黒胡椒』全てを買い取ると宣言したのだ。

 一粒が黄金一粒と同価値と謳われた代物だ。とすれば、一粒、二粒では話にならないが、有り金全てを投入すれば、それなりの数量の確保は間違いないだろう。

 リーシャは、その資金で『船』を買うつもりなのだ。ただ、彼女は、このパーティーの財布をカミュが握っている事を失念しているのだが……

 

「あはは。メルエは潮風が苦手なのか? しかし、船の上から見る海は、きっと素晴らしいと思うぞ」

 

「そうですね。陸地が全く見えず、見渡す限り全て海という景色は、どのようなものなのでしょう」

 

「…………うみ………いや…………」

 

 メルエの顰め顔を無視するような形で、リーシャとサラの会話は進んで行く。リーシャもサラも、船には乗った事がないのだ。故に、まだ見た事のない光景に夢を巡らす。

 

 

 

 そんな一行が森を抜けたのは、既に陽も完全に落ち、周囲が夕陽の名残りの明かりのみとなった頃だった。

 足を前に出す度に、周囲の明かりが薄れ、闇が広がって行く。後方の森が小さくなった頃には、辺りを完全に闇が包み込む夜と化していた。

 

「リ、リーシャさん。<たいまつ>を灯した方が良いのではないですか?」

 

「なんだ? 怖いのか、サラ?」

 

 一歩前を歩くカミュの背中さえも見辛くなった時、サラが意を決したように、後ろを歩くリーシャへと声をかける。そんなサラの声に、どこか意地悪い笑顔を浮かべ、リーシャはサラをからかうが、その一言に剥きになったサラは、メルエの手を引いて『ずんずん』と先へ歩き出した。

 その時、先頭を歩くカミュが、突然立ち止まる。

 

「カミュ様?」

 

「…………なに…………?」

 

 前を歩くカミュが立ち止まった事によって、必然的に止まらざるを得なくなったサラとメルエが、前を歩くカミュへと声をかける。しかし、カミュは、そんな二人の問いかけに答える事なく、警戒感とは違う何かを身体に纏い、周囲を見渡す。

 

「どうした?……ん!!」

 

 三人の動きが止まったことで駆け寄って来たリーシャもまた、カミュと同じように顔を顰めながら周囲を見渡し始める。

 

「カミュ……死臭だ」

 

「……ああ……」

 

 それは、カミュもリーシャも何度か嗅いだ事のある臭い。

 生物として、受け入れる事の出来ない臭い。

 生物が死に絶え、自然の摂理によって腐敗した後に漂う臭いに他ならなかった。

 それは、この近くに、死体が何の弔いもされずに放置されている可能性を示唆している。

 

「しかし、この近くには、魔物はいないのでしょうか?」

 

 カミュとリーシャが溢す言葉の指し示すものを感じ取ったサラは、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。

 それは、今の時代であれば、最もな疑問である。

 通常、このような平原で『人』が死ぬという事は、魔物に襲われたものが大半であり、魔物に襲われたという事は、その肉は全て食され、腐敗する部分が残らない事になる。つまり、それ以外の可能性としては、『人』が『人』によって殺され、魔物が寄り付かない場所に放置されたということ。

 

「…………なにか………くる…………」

 

 そんな疑問をカミュに投げかけたサラの手を握り、今まで小首を傾げていた筈のメルエが、ある一方に顔を向けたまま、小さく呟いた。

 それは、もはやサラでも認めざるを得ない通告。

 人外の者の来訪。

 

「構えろ!」

 

 カミュの言葉とともに、四人は陣形を立て直す。

 メルエが見ていた方角に向かって、前をカミュとリーシャが。

 その後ろにサラとメルエという、現状で最高の布陣。

 

 ズズズズ……

 

「うっ!」

 

 構えを取ったまま一点を見据える四人の耳に、何か重い物を引きずるような音が聞こえて来た時、先程まで微かにしていた死臭が、強さを増して行った。

 引き摺る音が大きくなればなる程に強まる死臭に、思わずサラは口元を押さえる。それ程に強烈な臭いだったのだ。

 

「ウゥゥゥゥゥ……アァァァァ」

 

 そして、一行の視界に、その姿がはっきりと映った時、カミュですらも、口元を押さえずにはいられない程の臭気が周囲を満たしていた。

 

<腐った死体>

その名の通り、死して尚、放置されていた人間の遺体に宿る怨念が魔王の力によって、その肉体とともに彷徨いだした魔物。脳まで腐敗が進み、もはや意識などはない。人の血肉を食し、腐敗の進行を緩める為だけに人間を襲う。ただ、死体なだけに、その動きは緩慢であり、集団に襲われない限り、逃げる事は可能である。

 

「ごほっ……カミュ!……どうする!?」

 

 目の前まで迫って来た<くさった死体>の放つ強力な死臭に、リーシャでさえむせ返る。

 <腐った死体>の数は三体。

 魔物とはいえ、元は唯の死体。焼き払う事や、斬り伏せる事は可能だろう。しかし、今のメルエに魔法を使わせる事は、不可能に近い。

 余りの臭いに、メルエはサラの背中に顔を埋めてしまっていた。当のカミュでさえ、辛うじて右手で剣は握ってはいるが、左手は鼻と口に当て、眉を顰めているのだ。

 

「ここから南へ行けば、<バハラタ>という町があるはずだ。ごほっ……俺が<ギラ>を放つ。アンタは後ろの二人を連れて、全速力で南へ走れ!」

 

「仕方ないな……サラ! 聞いた通りだ。カミュの詠唱の完成と共に、南に向かって走るぞ!」

 

 三体の<腐った死体>を見据えながら声を絞り出したカミュの言葉に、リーシャは後方の二人へ指示を出す。

 魔物から逃げるという事に一瞬抵抗感を感じたサラであったが、『相手は元は人間だった者』と考える事にし、頷いた。

 しかし、肝心のカミュの詠唱がなかなか完成しない。実際、自分達の周囲に立ちこめる死臭は、意識を遥か彼方に飛ばしてしまう程の強さなのだ。呪文の詠唱を始めても、その臭気によって、集中力が続かない。

 それは、あのカミュであっても苦しめられていた。

 

「…………リーシャ…………」

 

 一向に状況が好転しない中、突如、今まで顔を埋めていたメルエの声が周囲に響く。その声に、リーシャは、咄嗟に左手に装備している<鉄の盾>を掲げた。

 

「ぐはっ!」

 

 構えた盾に襲い掛かる、凄まじいまでの衝撃。それは、アッサラーム付近で遭遇した<暴れザル>の一撃に勝るとも劣らないもの。

 盾で完全に防いだとはいえ、リーシャの身体は宙に浮き、サラとメルエの位置まで弾き飛ばされた。

 通常、人間は、自分の持っている力を100%使用する事など不可能である。それは、強固な物に対して100%の力でぶつかれば、自分もまた多大なダメージを負うからであり、無意識の内にその力をセーブしているのだ。

 それを抑えない時、それは捨て身の時以外にあり得ない。

 しかし、<腐った死体>に痛覚はない。故に、自身の腕や身体が壊れようとも、お構いなしなのだ。

 常に100%の力での行動。それが、元は人間でありながらも、リーシャ程の『戦士』を吹き飛ばした所以である。

 

「ごほっ……カミュ!?」

 

「わかっている!……ギラ!」

 

 リーシャの問いかけに答えたカミュの声は、珍しく苛立っている。自分の力を思うように引き出せない事が、カミュの苛立ちとなっているのかもしれない。

 リーシャと違い、自分の意思で、後方に飛んだカミュは、着地と同時に呪文を行使した。

 一箇所に集まった<腐った死体>の前に着弾した灼熱呪文は、炎を立ち上らせ、カミュ達と<腐った死体>との間に、炎の壁を作り出す。

 

「走れ!」

 

「!!」

 

 カミュの言葉と同時に、他の三人が一斉に背中を向け、南へ向かって走り出す。もはや後方を振り返る余裕などはない。息が詰まる程の臭気は、炎によって遮断された。

 三人は口元から手を離し、懸命に駆けて行く。

 

「ギラ!」

 

 一歩遅れてスタートを切ったカミュは、振り向き様に、もう一度<ギラ>の呪文を行使し、炎の壁をもう一層作り出した後に、駆け出す。

 途中、サラの後方を懸命に走るメルエを抱き抱えたカミュは、夜の闇を走った。

 <ギラ>の炎が晴れた時、そこには、三体の<くさった死体>が放つ死臭と、腐った肉の焼けた異臭だけが残されていた。

 

 

 

 

 

 



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バハラタの町①

 

 

 

 魔物というよりも、『人』であった者達から逃げ切った一行の前方に、高い石壁に囲まれた町の佇まいが見えて来た。

 町の南には海が見え、東には海へと繋がる大きな川が流れている。その川から枝分かれしたように、町の中へと続く小さな川が見えた。

 

<自治都市バハラタ>

アッサラームと同じように、どこの国にも属さない都市。名産品である『黒胡椒』という巨大な資金源を持ち、国家との交渉も可能とする巨大都市である。

 

 しかし、今、カミュ達の目の前に見える町は、灯りも疎らで、華やかさの欠片もない。本来は、陽が落ちれば、町に住む多くの住民達の夜の営みが始まっている筈なのにも拘わらずだ。

 

「ずいぶん静かだな」

 

「そうですね」

 

 静まり返る町の様子にリーシャが声を漏らし、それにサラが神妙な表情で返答する。ただ、サラの傍に近寄って来たリーシャに対し、サラの手を握っていたメルエがあからさまに顔を顰めた。

 

「…………リーシャ…………いや…………」

 

「な、なにっ!? なぜだ!?」

 

 リーシャから逃げるようにカミュの下へと走り去るメルエに、心からの動揺を表すリーシャが叫ぶ。しかし、メルエは更に逃げるように身を隠した。

 カミュを盾にするように隠れてしまったメルエは、リーシャの呼びかけにも顔を出さない。

 

「……何か臭うな……」

 

「……リーシャさんからですね……」

 

「な、なに!?」

 

 自分が『臭い』と言われた事に驚いたリーシャは、自分の衣服の臭いを嗅ぐが、それ程の異臭を放っている訳ではない。だが、確かに、リーシャを基点として、先程カミュ達の意識を飛ばす程の威力を誇った死臭が漂っていた。

 

「…………リーシャ…………いや…………」

 

「くそっ! どこからだ?……カミュ! どこだ!?」

 

 カミュの背に隠れて自分の方へと呪詛を投げかけるメルエに、リーシャはパニックに陥っていた。

 理不尽としか言えない言葉をカミュにぶつけるリーシャを、サラは唖然として眺め、カミュは大きく溜息を吐き出す。

 

「……アンタの盾からではないのか?」

 

「なに!?」

 

「あっ!」

 

 カミュの呟きに、慌てて自らの左手にある<鉄の盾>を見るリーシャであったが、立ち位置的にリーシャより早く、その盾を見る事の出来たサラは驚きの表情を浮かべ、すぐに嫌な物を見たように顔を顰めた。

 また、カミュの後ろに隠れるメルエは、その盾を見た瞬間に、完全に身を隠してしまう。

 

「こ、これは!?」

 

 リーシャが自らの盾を見て、驚きの声を上げる。だが、他の三人は、誰一人口を開こうとしない。そればかりか、カミュですら、嫌そうに顔を顰め、微妙に距離を取り始めた。

 まるで、何かに怯えるように後ろに下がるメルエを見て、サラもリーシャから距離を取り始める。

 

「……お前達……」

 

 盾を見たリーシャは、その盾の惨状よりも他の三人の対応にショックを受けた。メルエに至っては、もはや顔すらも見せてくれない。

 リーシャの盾に付いていた物は『腐肉』。

 <腐った死体>の攻撃を盾で受けた際に付着したのだろう。腐りきった肉体は脆く、しかも自身の肉体が壊れる事に苦痛を感じない者の攻撃の為、盾で受け止めたその腕の肉がごっそりとこびり付いたのだ。

 

「リ、リーシャさん……私達は、さ、先に宿屋に行っていますね」

 

「ちょっ、ちょっと待て!」

 

 サラの言葉は、サラらしからぬ冷たい言葉。

 その表情は引き攣った笑顔を見せ、その身体は、今やメルエと並ぶ程後方へ下がっていた。

 リーシャの伸ばす腕を避けるように更に後ろへと後退して行くサラを見て、リーシャの瞳に絶望の色が浮かぶ。

 

「……宿屋に入る前に、その盾だけは洗った方が良さそうだな……」

 

 サラの言葉に焦りを見せるリーシャに、追い討ちをかけるカミュ。その言葉に、流石のリーシャも肩を落とした。

 もはや、メルエはカミュの後ろではなく、サラの後ろに移動し、リーシャから遠く離れてしまっている。

 

「……アンタは、メルエを連れて、宿屋で宿を取っておいてくれ」

 

「私がですか!?」

 

 軽く溜息を吐いたカミュは、腰に下げていた革袋をサラへと渡す。手に、ずっしりと重い革袋を受け取ったサラは、革袋とカミュを見比べながら驚きを表していた。

 

「…………いく…………」

 

「メ、メルエ~~~~~~」

 

 戸惑うサラに対し、一刻も早くこの場を去りたいメルエが、先を促すようにサラの衣服を引っ張った。

 灯りも疎らな夜の町の入り口に、リーシャの哀しみの声が響き渡る。

 

 

 

 サラがメルエを連れて宿屋の宿を取り、リーシャは近くの川で盾にこびりついた腐肉を洗い落としてから、護衛のように付いてきていたカミュと共に、宿へと入る事となる。

 その頃には、サラもメルエも湯浴みを済ませ、眠りに落ちていた。

 リーシャを待っていようと思っていたのだろう。寄り添うようにベッドの上で毛布も掛けずに横になっている二人を見て、リーシャは笑みを浮かべた。

 そんな二人の脱いだ衣服を自分の物と一緒に洗い、ついでとばかりに、着替え終えたばかりのカミュの衣服も奪う。それら全てを洗い、干し終えた後、ようやくリーシャも眠りに就いた。

 

 

 

 翌朝、昨晩洗った衣服が乾くのを待ち、着替えてから一行はバハラタの町を歩き始めた。

 町は、昨晩感じた物が偽りでない事を示すように、静まり返っている。大都市とはいえ、アッサラームとは違い、バハラタは夜の街ではない。故に、朝陽が昇ったこの時こそ、『黒胡椒』で賑わう商業都市の本領を発揮する筈なのだ。

 

「何か、考えていたものとずいぶん違いますね」

 

「何かあったのだろうか?」

 

 町の中を見渡したサラが、自分の頭の中にあったイメージとのギャップを口にし、同じ様に不思議に思っていたリーシャが、疑問を口にする。周囲を見渡すと、昨晩よりも人は多いが、相変わらず活気がない。

 重い腰を上げ、ようやく店を開くように活動を始めた人々の表情にあるものは、『戸惑い』と絶望にも似た『諦め』。それは、町の住民全ての表情に表れていた。

 

「……まずは、武器屋へ向かう……」

 

「えっ!? またですか!?」

 

 そんな町の住民の表情を見て、逆に戸惑いを見せるリーシャとサラの横を通り抜けるカミュの言葉に、サラは軽い抗議にも似た声を上げた。

 

「……メルエの顔を見てから、同じ事を言ってくれ」

 

「…………サラ………きらい…………」

 

 抗議にも似た声を上げるサラに対し、どこか情けない声を出すカミュの発した言葉を受けて、サラはカミュの足元へと視線を移す。 

 そこにいたのは、新しい町での買い物を楽しみにしていた一人の少女。

 ポルトガの城下町では何も買い与えられなかった事を、本当に残念に思っていたメルエは、不満を漏らすサラに対し、いつものような可愛らしい拒絶の言葉を溢した。

 

「い、いえ。メルエ?……私は、そのような意味で言った訳ではありませんよ?」

 

「…………」

 

「そ、そうですね。まずは、メルエの装備を整えないと!」

 

 自分の弁解の言葉に対しても疑惑の視線を向けて来るメルエに、サラは大いに慌てる。

 実際、メルエの装備は、現状を見る限り、最高の物を揃えている筈。それは、サラは勿論、リーシャやカミュに至るまで理解していた。

 それでも、この幼子の我儘を許してしまう辺りが、幼子と接する機会が極端に少ない生活をして来た三人の甘さなのかもしれない。

 

「ふふふ。サラのお許しも出た事だし、メルエの買い物へ向かおうか」

 

「…………ん…………」

 

 そんなサラとメルエのやり取りを優しい顔で見ていたリーシャの呼びかけに、表情を笑顔に戻したメルエが大きく頷く。ほっと胸を撫で下ろしたサラが最後尾となり、宿屋の向かいの位置にある『武器と防具』の絵が描かれた看板を掲げる店へと入って行った。

 

「いらっしゃい!」

 

 木戸を開けて中に入ると、店主らしき人間の威勢の良い声が聞こえて来るが、リーシャは入ってすぐの場所に立てかけられている、ある物に目を奪われた。

 

「お、おい……カミュ、これは……」

 

「お客さん! 目が高いね。それは<鋼鉄の鎧>と言って、うちにある物の中でも最高の鎧だ。鍛えてある分<鉄の鎧>よりも丈夫だし、その分軽くもなっている。間違いなく、お勧めの品だよ」

 

 立て掛けられていた鎧に釘付けになっているリーシャが、鎧から目を離さずに発した言葉に、店主が素早く反応を返す。その表情は、営業的な笑顔が張り付いているが、どこか妙な雰囲気を滲ませる物だった。

 

「カミュ、これは良いんじゃないか?」

 

「……メルエの表情を見てから、もう一度言ってみてくれ」

 

「…………むぅ…………」

 

 店主の言葉を聞き、カミュへと伺いを立てるリーシャに、カミュは溜息を交えて、先程サラに対して発した言葉を再び口にした。

 リーシャが、カミュの話の中に出て来る少女へと視線を移すと、そこには頬を膨らませ、上目遣いに睨むメルエがいる。

 今度は、リーシャが慌てる番となった。

 

「い、いや。これはな……わ、わたし達の装備も充実させなければ、メルエを護る事が出来ないだろう?」

 

「…………」

 

 しかし、リーシャの弁解に対し、メルエは『ぷいっ』と顔を背けてしまう。

 そんな様子に、カミュはもう一度、深く溜息を吐いた。

 

「親父、この鎧は、調整はきくのか?」

 

「お、おお。まぁ、鋼鉄(はがね)だから少し時間はもらうが……半日……いや、明日の朝までには調整しておくさ」

 

 カミュにしても、今着ている<みかわしの服>では、装備として心許なかったのも事実。故に、リーシャが熱望している鎧を購入する方向で話を進め始めた。

 その事に対し、先程以上に頬を膨らませたメルエには視線を向けないようにしてはいたのだが。

 

「では、俺とコイツの分を頼む。あとは、この()に合うものは何かないか?」

 

「ありがとう。じゃあ、試着してみてくれ。それと……その娘か?……う~ん、そうだなぁ。その娘は魔法使いなのかい?」

 

「…………ん…………」

 

 カミュが自分の事を話し始めた事を感じ、メルエは目を輝かせ、店主の問いかけに対して杖を掲げて大きく頷いた。

 そんなメルエの様子に、店主は柔らかな笑みを浮かべたものの、少しの間考える為に唸り出す。

 

「……!!……そうだ! この盾なんてどうだ?」

 

「……盾……?」

 

 カミュにとって、店主の答えは予想を大きく超えた物だった。

 それは、リーシャやサラも同じで、カミュと同じ様に、どこか間の抜けた声を出す。メルエに至っては、首を大きく傾けていた。

 

「ああ。まぁ、魔法使いが盾というのも変に感じるかもしれないが、この盾は特別でな。ほら、お嬢ちゃん。この盾を左手に嵌めてごらん?」

 

「お、おい!?」

 

 店主がメルエに盾を差し出すのを見て、リーシャが抗議の声を発する。店主が取り出した盾は、メルエには大きすぎたのだ。

 楕円形に近い形のそれは、中心より少し上に宝玉が嵌め込まれており、その大きさはメルエの身体の半分を覆い尽くしてしまう程の物であった。

 

「なに、大丈夫さ。支えておいてやるから、左腕に嵌めてみな」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの心配を軽くあしらって、店主はカウンターから出て、メルエへと近づいて行く。初めて身に着ける盾という物に、興味を示したメルエは、言われるがままに左腕を店主へと差し出した。

 店主が盾の裏側にある取っ手をメルエの左腕に嵌めて行く。その大きさと裏腹に、それ程重い物ではないのか、店主が軽く支えているにも拘わらず、メルエはしっかりと左腕で盾を装備し終えた。

 

「なっ、なに!?」

 

「えっ!? ど、どういう事ですか?」

 

 装備し終えたメルエの左腕にある盾を見て、リーシャとサラは驚きの声を上げた。

 メルエの左腕に嵌められた盾が、その瞬間に柔らかな光に包まれたのだ。

 驚きの声を上げるメルエの腕の中で、光に包まれた盾は、その形状を大きく変化させて行く。光と共に、収縮されて行くように縮んで行った盾は、やがてメルエの腕にしっかりと収まる程の大きさへと変化し終えた。

 

「……凄いな……」

 

「持ち主によって、その形状を変化させる。故に、<魔法の盾>。力のない魔法使いにも装備できるように術式が組み込まれているらしい。まぁ、その分、数も少ない貴重品ではあるがな。それに、この盾は、抗魔力もあるんだそうだ。魔法に対する防御力も、他の盾とは比べ物にならんぞ」

 

 感嘆の声を上げるカミュに対し、どこか得意気になって話す店主。しかし、その話の内容は、十分な物であった。

 自分の腕に装備された盾を見て、とても嬉しそうに微笑むメルエ。

 このパーティーの中で、盾を持っていなかったのは、メルエだけだったのだ。故に、皆と同じ様な物が持てた事が、メルエは嬉しかった。

 

「で、でも……貴重品であるならば、それなりのお値段では?」

 

「そ、そうだな。そんな余裕は私達にはないぞ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 そんなメルエの喜びも、店主の言葉を聞いていたサラの問いかけと、リーシャの答えによって急速に萎んでいってしまう。

 

「いや、貴重とは言っても、定期的に仕入れられるからな。2000ゴールドにはなるが、法外な値段ではない筈だ」

 

 その値段は安くはない。このバハラタという町の宿代が一人頭20ゴールド程度だとしても、三か月は宿で暮らせる程の金額である。

 国家の支援を固辞し続けて来たカミュ達一行にとっては、かなりの金額になる事は間違いがない。

 

「……先程の鎧は?」

 

「ん?……ああ、<鋼鉄の鎧>か? あれなら2400ゴールドで良いさ」

 

 しかし、比較の対象として<鋼鉄の鎧>の値段を聞いたカミュへの店主の答えは意外な物だった。あれだけ、神秘的な盾にも拘わらず、唯、鉄を鍛えただけの<鋼鉄の鎧>より安いのだ。

 それは、仕入れる物か、自分で作る物かの違いなのかもしれない。それでも、メルエの盾とリーシャとカミュの分の鎧で、合わせて6800ゴールドとなる。

 それは、やはり、旅を続けるカミュ達にとっては高価な物だった。

 

「……それなら、先程の話通り、鎧を二つとその盾を貰おう……」

 

「おう。ありがとうよ。じゃあ、寸法を見るから、一度試着してみてくれ」

 

 購入を決めたカミュに、精一杯の営業的な笑顔を向けた主人は、リーシャとカミュの試着具合を見るために、何やら道具を取り出していた。

 リーシャは、目を輝かせながら、その鎧を手に取る。買い与えられる事が決まった事にメルエは笑顔を浮かべ、自分の手にある盾をサラに見せる為に近づいて行った。

 一度寸法を合わせた後、カミュはここまでの道中で倒して来た魔物の部位を道具屋に売る為に出て行った。

 ゴールドを支払う為にはカミュの帰りを待つしかない。必然的に、リーシャとサラ、そしてメルエが武器屋の中に残る事となる。

 

「この町は、いつもこんな感じなのか?」

 

「ん?」

 

 カミュが戻るまでの間、寸法を見て貰っていたリーシャが、町に入ってからの疑問を何気なく店主へと尋ねる。リーシャの鎧の具合を見ていた店主が顔を上げるが、その表情がわずかに曇った。

 

「そうですね。この町は、商業都市と聞いていましたけれども」

 

「あ、あんた達、町長に雇われた人じゃないのか?」

 

「どういう事だ?」

 

 リーシャの問いかけに乗るように口を開いたサラに、店主は訝しげな視線を向け、若干失望に近い声を出した。

 そんな店主にリーシャの疑惑は強まる。

 

「おかしいと思ったんだ。 盗賊一味の討伐の為に雇った割には、女子供だけだし」

 

「な、なに!?」

 

 店主が口にした言葉は、リーシャの逆鱗に触れる物だった。

 『女』であるというだけで、騎士として蔑まれる事は、リーシャにとって我慢ならない物の一つ。それは、今も昔も変わりはない。

 

「リ、リーシャさん!」

 

「…………だめ…………」

 

 激昂しそうになるリーシャを、サラとメルエの二人掛りで止めに入る。

 そこでようやく、店主も自分の口にした事の意味を理解した。

 

「す、すまない。そ、そういう意味で言った訳じゃないんだ」

 

「ならば、どういう意味だ!」

 

 本来ならば、サラや幼いメルエの力で抑えられるリーシャではない。それが、語気を荒げるだけで済んでいるのは、リーシャが自ら感情を抑えているためであろう。

 

「こ、この町は、そちらのお嬢さんが言うように、商業都市として栄えた自治都市だった。それが私達、町民にとっての誇りでもあったんだ」

 

「……」

 

 リーシャの怒りから逃れる為に、店主は語り出す。このバハラタという、一国家にも負けぬ程の権勢を誇った町の現状を。

 それは、リーシャやサラにとって、身に詰まされる物であった。

 

「それが、数ヶ月前に突如現れた盗賊達にめちゃくちゃにされた。この町の基盤となる『黒胡椒』の売買で得た利益の大半の金を要求されている」

 

「……盗賊?」

 

 店主の話の中に出てきた一つの単語が、サラの頭のどこかに引っかかった。

 それは、サラの心の中の忌まわしき記憶を呼び起こさせる単語。

 

「そのようなもの、突っぱねれば良いではないか!?」

 

「断ったさ! 町長を中心に、町民全員で断固として拒否した。だが、その度に、町を荒らされる。その内、この町に旅人はおろか、『黒胡椒』を仕入れに来る商人まで寄り付かなくなった。資金源が減っても、要求は減らない。俺達に何をしろって言うんだ!」

 

 『理不尽な要求は断れ』というリーシャの言葉は、店主の悲痛な叫びによって遮られた。

 それは、力ある者が言える言葉だと。

 それは、余所者だから言える言葉だと。

 そんな店主の想いに、リーシャとサラの口は固く閉じられてしまった。

 

「町長が、周囲から傭兵等を雇って、盗賊討伐を依頼もした。それも、全て返り討ちだ。あいつ等のアジトは掴んだが、それも無駄だった。町の周りには、盗賊達に殺された傭兵どもの死体が転がり、夜な夜な歩き回るという噂が立ち始め、ますますこの町に足を運ぶ人間が少なくなる……」

 

「……そんな……あの魔物は……」

 

 昨晩サラ達が遭遇した<腐った死体>は、この数ヶ月で死んだ者達だと言う。それが、どれ程の無念を持って死んで行ったのかを考え、サラの気持ちは沈んで行った。

 町を護る為に雇われた者達の目的は、正義感からなのか、それともその報酬が目的なのかは解らない。

 何れにせよ、彼等が無念の内に死んで行った事だけは事実であろう。

 

「アンタ方が久々の客人だ。もう、この町も終わりかもしれない。町から人も消え、『黒胡椒』の生産も儘ならなくなるのも時間の問題だ」

 

「……その……盗賊の名は?」

 

 強い焦燥感を覚えながらも、力む身体を抑え、サラは疑問を口にする。

 それは、盗賊という単語を聞いたときからサラを襲っている不安。

 

「名?……その名前を聞いて、どうするんだ?……アンタ方がこの町を救ってくれるのか?」

 

 対する店主の言葉は、純粋な疑問というよりは『諦め』。

 唯一の男性であったカミュがいない今、店主の前にいるのは、戦士のような姿をしているとはいえ、若い女性と、見るからに子供と思われる二人。

 とてもではないが、何人もの傭兵を葬って来た盗賊達を討伐出来るとは思えなかったのだ。

 

「何が言いたい?……私達には出来ないとでも言うのか?……私達は……」

 

「……そこまでにしておけ……」

 

 店主の態度に、静かな怒りを燃え上がらせたリーシャの言葉は、後方の入り口から掛かった、勇者と呼ばれる青年の声に阻まれた。

 魔物の部位を売却し終えたカミュが、そのままリーシャの横を抜けて、カウンターの前に立つ。『先程までの会話を聞かれていたのでは?』と、店主は多少の怯えを見せるが、何も言わずにゴールドをカウンターに置いて行くカミュを見て、安堵の表情を見せた後にゴールドを数え始めた。

 

「……確かに……<鋼鉄の鎧>は明日の朝までに仕上げておくから、明日にでも取りに来てくれ」

 

「……行くぞ……」

 

 店主の言葉に対し、興味なさ気に頷いたカミュは、身を翻して店を出て行った。

 その後を、自分の左腕を掲げながらメルエが続き、どこか釈然としない思いを残したまま、リーシャとサラが歩き出す。

 

 

 

「くそっ! 何なのだ、あの店主は!」

 

「……リーシャさん……」

 

 店の外に出ても、リーシャの怒りは収まらない。実は、『女』として侮られた事よりも、サラやメルエの凄さを知りもせずに店主が馬鹿にした事を対して、リーシャは怒りを露にしていた。

 サラは既に、リーシャが見て来たどの僧侶よりも『人』を救って来た。

 どんな僧侶よりも、自分自身の事を悩み、現実と理想の歪みに苦しみながらも、必死に前を向き、そして歩いている。

 この若い僧侶をリーシャは誇りに思い始めているのだ。

 そしてメルエは、この町に住むどの人間よりも辛く苦しい過去を持ちながらも、今、様々な物を貪欲に吸収しようと動き始めている。

 それは、成長を続けるパーティーの中でも群を抜いており、例えそれが、『皆に置いて行かれないように』という理由であったとしても、自分自身で未来を掴む為に必死になっている証拠に他ならないのだ。

 そんな二人を、何も知らない人間が侮った事実。

 それは、肉親を嘲笑されたのに等しい程の怒りを、リーシャの中に生み出した。

 

「……傍から見れば、女と子供のいる旅人だ。それに、町の武器屋に認められる必要はないだろう?」

 

「くそっ! サラやメルエは唯の子供じゃない! 私や、それこそカミュ、お前よりも優れているんだ!」

 

「……リーシャさん……」

 

 溜息と共に吐き出されたカミュの言葉に反論するように、怒鳴り声を上げるリーシャを見て、サラは心底驚いた。

 てっきり、自分を『女』として侮られた事に怒りを覚えているのだと考えていたのだ。それは、カミュも同じだった。

 

「……アンタは……」

 

「な、なんだ!? カミュ、お前は腹立たしくなかったのか!?」

 

 どこか呆れたように、それでいて、いつもよりも優しい表情を浮かべるカミュを見て、リーシャは思わず噛み付いた。

 そんなリーシャの剣幕に、カミュは苦笑を浮かべ、一つ溜息を吐き出す。

 

「……メルエや、その僧侶の実力はアンタや俺が知っている。それ以上に何が必要だ?」

 

「カ、カミュ様……」

 

 再び盛大な溜息を吐いた後に呟いたカミュの言葉を聞き、サラはもう一度、驚愕の表情を浮かべる事となる。

 カミュの言葉、それはある意味でリーシャの言い分を全面的に肯定した事を示す。そして、サラを旅に必要な人間として認めたという事になるのだ。

 

「……それで?」

 

「な、なんだ?」

 

 会話を一段落させたカミュは、もう一度、リーシャへと視線を戻す。まるで、『まだ、何か言いたい事があるのだろう?』とでも言いた気に。

 しかし、その視線を受けたリーシャは、カミュの意図する事が理解出来ないでいた。心の機微に敏感なリーシャも、カミュの少ない言葉で全てを理解する事は出来なかったのだ。

 

「……盗賊とは、あの<シャンパーニの塔>にいた人達でしょうか?」

 

 戸惑うリーシャの代わりに、口を開いたのはサラ。武器屋の店主の話を聞いたその時から、自分の胸の中で渦巻いている不安を吐き出した。

 

「……さあな……」

 

「し、しかし……もし、あの盗賊であったのならば、この町の惨状に対する責任の一端は、私達にもあるという事になります!」

 

 サラの不安の一つはそれだった。あの塔で、カミュ達は盗賊団の頭を取り逃がしている。その結果、盗賊団は生き残り、再び悪事を重ねているのだとしたら、その責任はカミュ達にあると言っても過言ではないのだ。

 

「……言っておくが、俺はそこまで責任を負うつもりはない」

 

「……そんな……」

 

 いつの間にか、カミュの表情は、いつものような無表情に戻っていた。

 それは以前によく見た、冷たく突き放すような物。

 そんなカミュの表情に、サラの身体は自然と強張りを見せる。

 

「アンタがどう考えるのかは知らないが、俺は、この世の全ての凶事を背負える程の存在ではない」

 

「……それでも……それでも、町の人達は苦しんでいます!」

 

 無責任にも聞こえるカミュの言葉は、サラの中の何かに火を点けた。

 カミュとサラが醸し出す不穏な空気に、今まで自分の左腕を嬉しそうに眺めていたメルエも顔を上げる。

 

「それこそ、俺には関係のない話だ」

 

「カ、カミュ様!」

 

 サラを冷たく見下ろし、突き放すような言葉を放つカミュに、今度はサラが噛み付く。それは、アリアハンを出た頃ならば、日常茶飯事であったやり取り。

 しかし、最近はめっきり影を潜めていたものでもあった。

 

「カミュ様は『勇者様』です。私は……私は、そう信じています」

 

「……」

 

 ただ、サラは信じ始めていた。

 あの夜、リーシャがサラに語った内容を。

 それは、カミュが『勇者』であるが故に起こる『必然』というもの。

 

「カミュ様の最終目的は『魔王討伐』。私はその旅で、出来る限りのお手伝いをします。ただ、その旅の途中で苦しんでいる人達も救う事が出来るのならば、出来る限り救いたいのです」

 

「……」

 

「……カミュ……」

 

 いつもと同じだと思われていた二人のやり取りは、微妙な変化を見せ、違う方向へと動き出す。それでも、変わらぬ無表情なままでサラを見下ろすカミュの名を、リーシャが小さく呟いた。

 

「……誰に何を依頼された訳ではない。話はそれからだ……」

 

「カミュ様!」

 

 暫しの沈黙の後、カミュが呟いた言葉に、サラが喜びの声を上げた。

 決して、カミュは肯定した訳ではない。しかし、盗賊の討伐を依頼されれば、それを考慮する余地がある事を示唆したのだ。

 

「……だが……これだけは覚えておけ。今回は、メルエを救った時とは違う。アンタには相当な覚悟が必要になる筈だ」

 

「……覚悟?」

 

 しかし、最後に呟いたカミュの言葉の意味が、サラには理解出来ない。

 何故、自分に『覚悟』が必要なのか。

 何故、この町の人を救う事が、今までのものと違うのか。

 それが、サラには全く理解出来なかったのだ。

 

「……カミュ……」

 

 だが、リーシャは違った。サラの心に歩み寄ったようなカミュに対し、顔を緩めたのも束の間。

 何かを警告するように呟いたカミュの言葉に、思い当たる物があったのか、一瞬顔を顰めた後、何かを悟ったように、そして何かを思いつめたように、表情を引き締めた。

 

 再び町を歩き出した一向は、バハラタという町の姿を改めて見る事となる。

 町の大通りに人影は少なく、疎らに歩く人々の顔は、総じて生気を失っている。この町に漂う全てに絶望したような空気は、このバハラタという町を完全に変貌させていた。

 

「遂に、町長の孫娘が攫われたらしい」

 

「えっ!? いつ?」

 

「昨日らしい……陽が落ちる前だとよ」

 

「この町も、もう終わりか……出て行く準備をしたほうが良さそうだな」

 

 そんな物悲しい雰囲気が漂う町の片隅で、これまた不穏な臭いが漂う話が聞こえて来た。先頭を歩くカミュは気にも留めずに歩くが、後ろを歩くサラはその内容に顔を顰める。

 町人の話が真実だとすると、これまで、町を荒らされた事はあっても、人が攫われた事はなかったのかもしれない。しかし、盗賊達の要求している事に全面的に答えない町に業を煮やしたのだろう。

 そして、町の長である者の孫娘を攫ったというのだ。

 

「カミュ様!」

 

「……サラ……今の私達は、何もできない」

 

 焦る気持ちだけが先立つサラは、前を歩くカミュへと声を上げるが、それを止めたのは、サラが最も頼りとする女性だった。

 

「リ、リーシャさん……ですが!」

 

「サラ。私達には何の情報もない。盗賊達を討つにしても、そのアジトも分からない。今は情報を集めるのが先だ」

 

 リーシャの言う事は尤もな話だった。

 『何かをしなければ』という気持ちばかりが焦り、今のサラには現状が見えていない。それをリーシャは指摘したのだ。

 そして、サラは不承不承に頷くしかなかった。

 

「……はい……」

 

「……サラがどう考えているのかは分からないが、おそらくカミュは、その為に動いているんだろう」

 

 しかし、その後にリーシャが口にした言葉は、驚愕の事実であった。故に、サラは下げかけた頭を弾かれたように上げる。

 リーシャを見つめるその瞳は驚愕に彩られ、不自然に感じる程に揺れ動いていた。

 先程のカミュの言葉を聞けば、決して積極的ではない事が窺える。しかし、リーシャはそれを真っ向から否定したのだ。

 

「えっ!?」

 

「装備を整えた私達には、この町での用事は『黒胡椒』しかない筈だ。だが、カミュに店を探して歩いている様子はない」

 

 リーシャのその言葉に、ようやくサラもカミュが歩きながら周囲を意識している事に気がつく。

 基本的に、カミュは目的地へと迷わずに突き進む。それは、アリアハンを出た時から、町の中であろうと、広野であろうと変わりはなかった。

 だが、今のカミュは何かを探して歩いているというよりは、周囲の人間を観察しているようにすら思える様子なのだ。町人の会話を気にも留めていないように感じたのはサラだけであった。

 事実、カミュのマントの裾を握って歩いているメルエですら、いつもと違う様子のカミュを小首を傾げながら見上げている。

 

「……サラ……私からも一つ言っておく」

 

「は、はい」

 

 そんなカミュの後姿を呆然と見ていたサラの頭の上から、静かな声が響いた。

 慌てて顔を上げたサラが見た物は、いつもとは違う真剣な目をしたリーシャだった。

 リーシャが真剣な瞳をする事が初めてだと言う訳ではない。しかし、このような瞳をサラは一度見た事がある。

 

「今回に限っては、私はサラの行動に異議を唱える事もしないが、同時にカミュの行動や言動を止める気もない」

 

「えっ!?」

 

 サラは、目の前にいる姉のように慕う女性の発する言葉の意味が全く理解出来なかった。

 カミュの言葉は、いつも端的でその全てを推し量る事が難しい。しかし、サラがリーシャの語る内容を理解出来ないというのは、あの時以来だった。

 

 それは、メルエを救った時。

 

 『今のサラの言葉が、おそらくこれから先、サラを大いに苦しめる事になるだろう』というリーシャの言葉が、サラには理解できなかった。

 しかし、その後、リーシャの言っていた通り、サラは自分の発した言葉に苦しめられる事となる。いや、それは今も尚、サラを苦しめているのだ。そして、それはこれから先もサラを大いに苦しめる事になるだろう。

 リーシャが、敢えてサラに告げるという事は、おそらくそういう事なのだ。 

 今回の件で、サラがカミュの行動を止めなければならない場面が出て来る可能性があるという事。しかし、その時にリーシャは味方にならないと釘を刺されたのだ。

 

「さあ、行こう」

 

「……リ、リーシャさん……」

 

 リーシャはそれ以上何も話そうとはしなかった。それが、尚更にサラを不安にさせる。

 暫しの間、呆然とリーシャの背中を見ていたサラであったが、徐々に小さくなるリーシャの背に我に返り、その後を追って駆け出した。

 

 

 

「あら珍しい。貴方達は旅人なのね。ようこそバハラタへ」

 

 町を一周するように歩いていた一行の横をすれ違おうとした女性が、カミュ達の姿を見て、足を止めた。

 元来、この町の全ての住人が彼女のような者なのだろう。商業都市として栄えている町にとって、物を買いに来る人間は歓迎する者であり、全てはそのような旅人達のお陰で成り立っていると言っても過言ではない。

 故に、旅人を歓迎するのだ。

 

「この先には、『聖なる川』があります。そこで身を清めなさると、きっと良い事があるでしょう」

 

 そんな一言を残して、女性は軽く頭を下げた後、カミュ達の前から離れて行った。

 カミュ達が、町の外で見た、町に入り込んでいる細い川。それは、この町より遥か北東にあるから流れる川の分流であり、古来より、このバハラタでは<聖なる川>と呼ばれ、住民達を色々な意味で護って来た川である。

 飲み水になるだけでなく、その川の水には魔除けの効果もあると云われており、丈夫な子を授かるという逸話まで存在する。また、このバハラタの名産である『黒胡椒』の栽培も、この川の水なしでは成し得ない物であった。

 

「……」

 

 女性の言葉に一瞬顔を顰めたカミュではあったが、何も語ろうとはせずに、女性が指し示した<聖なる川>の方向へと歩を進めた。

 

 

 

「グプタ! 待つんじゃ!」

 

「タニアは私が助けます!」

 

 一行が<聖なる川>の畔へ近づくと、一人の老人と若者の言い争う声が聞こえて来た。

 若者の行動を諌める老人と、血気に逸る若者というような構図がピタリと嵌る。その二人の様子に、暫し呆然としてしまったリーシャとサラを余所に、カミュは無言で二人へと近づいて行く。

 リーシャ達と同じ様に、言い争う二人の剣幕に驚いていたメルエは、慌てたようにカミュのマントの裾を握り直し、遅れないように早足で歩き出した。

 

「今、人を雇う準備をしている。それまで待つのじゃ!」

 

「タニアは私の恋人です! そんな見ず知らずの傭兵崩れ等に頼るつもりはありません!」

 

 話を聞く限り、この老人がバハラタの町長なのだろう。

 そして、おそらくこの若者が、攫われた町長の孫娘の恋人。

 孫娘を救う為に傭兵を雇おうとする老人と、自ら、恋人を救おうとする若者。

 両者の言い分は平行線だった。

 

「……すみません……」

 

 そんな中、何に遠慮する事もなく、カミュが割り込んで行く。

 後方から慌てて近づいて来たサラは、そんなカミュに驚いた。

 

「はっ!? これは、旅のお方……お見苦しいところを見せてしまったようで」

 

「……いえ……」

 

 カミュの存在に気がついた老人は、町長としての体裁を繕い直す。それは、バハラタという巨大都市の長としてあるべき姿。

 例え、自分の孫が誘拐されたといえども、彼はこの巨大都市の住民を束ねる者。それは、一国の王に値するものであり、今のこの老人の姿は、それを凌駕する程に気高い。

 

「……どうかなされたのですか?」

 

 カミュが老人へと問いかけたときには、カミュの後ろには三人の仲間が立っていた。

 傍から見れば、女と子供。しかも、老人に問いかけているのは、先程老人と言い争いをしていた若者よりも更に年若い少年と言って良い程の男。

 しかし、長きに渡り、この巨大都市バハラタを纏め上げて来た老人には、一目でその者達の纏う空気が、一般の者達とは違う事が理解出来た。とても自分の何分の一程しか生きていない者が纏う空気ではない。

 

「貴方達は?」

 

「旅の者です。『黒胡椒』を求めてこの町に入ったのですが……」

 

「そうですか。申し訳ない。この町で、今『黒胡椒』を取り扱えるのは、私の店だけです。しかし、この状況では……」

 

 カミュ達の返答に、老人は申し訳なさそうに俯いた。

 彼が町長となり得た理由の一つ。

 それが『黒胡椒』である。

 若い頃に、『黒胡椒』の栽培に成功した彼は、その財力を生かし、国家との交渉などを行って来た。そして、一国家とも対等に渡り合える彼を町の住民は担ぎ上げたのだ。

 

「……旅のお方……このような事をお頼みするのは、筋違いだという事は重々承知した上でお頼み申す」

 

「……」

 

 突如、姿勢を正した老人をカミュの冷やかな瞳が見つめている。カミュは黙して何も語らない。返事も返さなければ、その頼みを聞く事を了承した訳でもない。唯、黙って老人を見つめているだけだった。

 

「私の孫娘が、盗賊共に攫われたのです。どうか……どうか救っては下さらぬか?」

 

 サラは、自分の望んでいたように依頼をする老人を見て、実際は驚いていた。

 ノアニールとは異なり、自分達は『勇者一行』だとは名乗っていない。それなのにも拘わらず、女と子供が混じる自分達に依頼をするという事は、冷静に考えてみると、明らかに異常なのである。

 サラは自分達がどれ程の苦難を歩いて来たのかという事実に気が付いてはいないのだ。

 『カミュやリーシャに護られているだけで、自分は足手纏いになっている』と感じているサラには、自分がどれ程成長しているのかが実感出来ていない。

 見る者が見れば、このパーティーの経験と決意は自然と察する事が出来る程のもの。もはや、カミュ達はその域に片足を踏み込んでいたのだった。

 

「そのような、見ず知らずの旅人に頼る必要はありません! 私が必ずタニアを救って見せます!」

 

「あっ! グプタ!」

 

 そんなサラの思考は、こちらを向いた老人の後方から掛かった若者の叫びによって弾けた。

 サラが顔を上げた時には、その若者は駆け出しており、一直線に町の出口へと向かって行く。その後姿を唯呆然と見つめる事しか出来ない老人。その背中は先程まであった、町長としての威厳の欠片もなく、サラにはとても小さな物に映った。

 

「ああ……グプタまで行ってしまうとは……どうすれば良いのじゃ……」

 

「……盗賊のアジトは、分かっているのですか?」

 

 そんな老人に救いの手を差し伸べたのは、サラの予想外の人物だった。

 この町の惨状を『関係のない事』として吐き捨てた人物。

 サラは、自分が望んだ事なのにも拘わらず、その不思議な光景を呆然と見つめていた。

 

「救いに行って下さるのか!? 盗賊達は、川を渡った先にある洞窟をアジトとしておる。そこに孫娘も捕らわれている筈です」

 

 既に盗賊達のアジトを知っている老人を見て、カミュは一つ頷いた。

 この老人が『人を雇う』と言った言葉は本当だったのだろう。そして、この老人の瞳に宿る強い光が、その時には自身も乗り込むつもりであった事が窺えた。

 

「……分かりました……ただ、私達の防具が明日の朝に仕上がる筈ですので、出発は明日の朝となるでしょう」

 

「そ、そんな……武器屋の主人には、私の方から話をしておきます。昼過ぎには出来上がるようにさせますので、どうか、出発を早めてくださらぬか?」

 

 そんなやり取りを見ながら、リーシャはサラとは違う事を感じていた。

 『勇者であるが故の必然』。

 それが、リーシャの頭から離れないのだ。

 このバハラタに入るのが、あと一日遅ければ、あの若者は死んでいたのかもしれない。

 昼過ぎにここを出れば、旅慣れた自分達であれば、あの若者に追いつく事も可能である。例え、追いつけなかったとしても、盗賊達に殺される前に救い出す可能性は高いだろう。

 もし、ポルトガから船が出ていたら、自分達はこの町を訪れてはいない。

 そんな偶然が重なった結果。

 それが、カミュが『勇者』である事の証明なのかもしれないという思いが、リーシャの中で、一段と強まっていった。

 

「……分かりました……装備が整い次第、出発致します」

 

「おお! ありがとうございます。では、私は早速、武器屋に掛け合って参ります」

 

 カミュの返事を聞き、泣き出しそうな程に喜びを表した老人は、そのまま武器屋へと早足で向かっていった。

 

「カミュ様! ありがとうございました」

 

 老人が見えなくなってから、サラは、カミュへと深く頭を下げた。

 その声に振り向いたカミュは、そんなサラの様子を冷たく見下ろし、リーシャは何処か哀しげに見ている。

 三人の様子を不思議そうに見ているメルエが、頻りに首を傾けている中、カミュが口を開いた。

 

「……覚悟は決めておけ……」

 

「は?」

 

 たった一言。

 カミュが発した、その一言に、サラは間の抜けた声を出す。

 未だに理解出来ない、カミュの言う『覚悟』が指す物。

 それは、この先でサラを大いに苦しめる事となる。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

ようやくバハラタです。
この章の佳境へと突入します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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アジトの洞窟(バハラタ東の洞窟)①

 

 

 

 グプタは走っていた。

 バハラタの町が掴んだ盗賊のアジトは、<聖なる川>を二度渡った先にある名も無き洞窟。グプタはそこを目指し、ひた走っていた。

 盗賊一味の名は<カンダタ一味>。

 地続きにあるロマリア大陸で大きく活動をしていた賊だ。

 近年、海を渡り、この大陸にも勢力を伸ばし始めていた賊ではあるが、その頭目となる『カンダタ』自身は、ロマリア大陸を住処としていた為、この東の大陸ではそれ程派手な活動をしてはいなかった。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 それが変化したのは、ここ最近。何故か、頭目である『カンダタ』が、この東の大陸へ移動して来た事から、一味の大きな動きが始まった。

 バハラタに来る商人達の荷台の強奪に始まり、ついにはバハラタの町への脅迫に至るまでのものとなって来る。

 

「クキャ――――――!!」

 

「くそっ! 来るな!」

 

 グプタは商人であり、魔物と戦う術など持ち合わせてはいない。稀に、行商人の中には、盗賊や魔物から売り物である商品を護る為に武器を手にして戦う商人もいるが、グプタは根っからの商人であった。

 ありくいの様な数匹の魔物に囲まれながら、グプタは逃げ道を探す。

 基本的に、力量に差がある者からの逃亡は不可能に等しい。それでも、わずかな隙を見逃さぬように、グプタは駆け出した。

 しかし、魔物は、その長い舌を巧みに使い、グプタの逃げ道を塞ぐように回り込む。回り込まれた際に傷ついたグプタの腕からは、赤い血が滴り落ちていた。

 

<アントベア>

アリアハン大陸に生息する<おおありくい>の上位種に当たる魔物である。<おおありくい>と同じように長い舌を持ち、その舌で相手を捕食する。しかも、上位種というだけあり、その体毛は<おおありくい>よりも硬く、その色素も異なっていた。

 

「魔物なんかに構っている暇は無いんだ!」

 

「―――!!―――」

 

 回り込んだ<アントベア>に体当たりをするように駆け出したグプタに対し、虚を突かれた形となった<アントベア>は、思わず、グプタに道を開けてしまった。

 目の前に開かれた道を、グプタは脇目も振らずに突き進む。それは、彼のような、魔物と対抗する力の無い人間が、魔物と相対した時に出来る唯一の方法が成功した事を意味していた。

 

 息が切れる事も構わずに、グプタは走り続ける。陽が真上に位置する頃に、彼は一度目の<聖なる川>を渡った。

 渡った先にあるのは森。

 この森の先にある離島に存在する、カンダタ一味のアジトに行くためには、もう一度、この<聖なる川>を渡る必要があった。

 グプタは、この<聖なる川>を重視してはいない。基本的に彼は、生まれも育ちもバハラタではないのだ。

 もし、<聖なる川>がバハラタに伝わる通りの物であるのならば、自分もタニアも今の状況に陥ってはいない筈だとグプタは考えていた。

 

 彼は、小さな村で、五人兄弟の末っ子として生を受けた。

 小さな村で自給自足の生活を続ける一家にとって、五人目の子供は、決して喜ばしい物ではなかった。

 グプタと名付けられた彼の着る物は、全て上の兄弟のお下がり。そして、食事に関しても、既に両親の手伝いをしていた兄弟達の残り物を食す毎日だった。

 それでも、口減らしの為に捨てられたり、奴隷として売られる事がなかっただけでも幸せだったのかもしれない。しかし、年が十二を過ぎた時、グプタは生まれた家を、夜逃げ同然に出て行った。

 

 『ゴールドさえあれば』

 『豊かでさえあれば』

 

 そんな夢を持って。

 そして、彼が目指した場所は、夜の町でも、大国の城下町でもなく、商業で成り立っている都市である<バハラタ>。

 そして、彼が志した職業は『商人』だった。

 

「わしの店で働きたい言うのか?」

 

「はい。これからの時代で生き残る事が出来るのは、商人だと思っています」

 

 グプタが門を叩いたのは、<バハラタ>という異質な町の中でも、一店舗しかない『黒胡椒』を販売している店。

 様々な商売が盛んなバハラタでも特化した商売を行っている場所であった。

 

「このような、魔物が横行する時代では、商いなどは衰退して行く一途であるのにか?」

 

「……私はそのように思いません。例え、魔物が蔓延ろうとも、人が生きている以上、物の需要は決して無くなる事はないと思います。そして、境遇が厳しく、貧しくなれば貧しくなる程、人は贅沢を求め、趣向に走る筈です」

 

 『黒胡椒』の店の店主であり、この商業都市の町長でもある初老の男は、目の前に跪く少年へ驚きの目を向けた。

 この店に奉公したいと言って来る者は、男の商売が大きくなる程に増えて来る。一人で商いをする事に限界を感じていた店主ではあったが、彼の商人としての眼鏡に適う人物は、一人として現れなかった。

 それが、このような年端も行かぬ少年によって崩されるとは思ってもみなかったのだ。

 彼の下に来た若者は皆、『いつか誰かが世界を救ってくれる。そうなれば、商人の時代だ』と言う者ばかりであった。

 しかし、『商人とは、そのような不確かな未来を見る者では駄目だ』と店主は考えていた。先を見なくては商売にはならない。そして、その『先』と呼ばれる未来は、他力本願である不確かな物であってはならないのだ。

 それを、この少年は、既にこの歳で理解している。その事に店主は驚いた。

 

「わかった。しかし、私の商売は農作業から始まる。ただ単に物を仕入れて売る商人ではないぞ。それでも良いのか?」

 

「はい。幼い頃より、農作業はしてきております」

 

 そして、このバハラタで、いや、この世界で唯一の『黒胡椒』を育てて売る店の跡取りとなる男が生まれる。

 それからのグプタは懸命に働いた。朝早くから畑に出て、夜は盗賊対策のために警備に出る。

 それもこれも、彼の夢の為。

 彼には、いつかこの店を出て、自分の店を持つという野望があった。それまでは、この新たな需要を掘り起こし、莫大な財産と地位を築いた男の下で学び、資金を貯める事に全てを費やすつもりだったのだ。

 

 しかし、そんな彼の野望をも打ち砕く者の出現が、グプタの描く未来図を大きく変えて行く事となる。

 それが、この『黒胡椒』屋の店主の孫娘に当たるタニアであった。

 幼い頃に両親を失ったタニアは、歳が近いという事もあり、グプタへ笑顔を向けるようになって行く。畑仕事をしているグプタに食事を持って来るのも、店番をしているグプタにお茶を入れてくれるのもタニアであった。

 奉公先の孫娘であるタニアに対し、懸想する事も出来なければ、邪険にする事など出来よう筈のないグプタは、大いに戸惑った。

 しかし、いつでも優しい笑顔を向けてくれるタニアに、淡い想いを持つなという方が無理な注文であろう。淡い想いは、日を追う毎に強まり、その想いはタニアへ届く。

 そしてその日は訪れた。

 

「私は、タニアを愛してしまいました。これ程のご恩を受けておきながら、本当に申し訳なく……」

 

「おじいちゃん。私はグプタを本当に愛しています」

 

 意を決して、グプタとタニアは主人と相対した。

 それこそ、この店から追い出される事も覚悟の上。

 そして、もしそうなったとしたら、『二人でこの町を出よう』とまで決意していた。

 

「くっ……あははは! そんな事で、何をそこまで思い詰めている?……このわしが、その事に気が付いていないとでも思っていたのか? あははははっ」

 

 しかし、歳を取ってから、一人娘であるタニアの母を授かり、既に年老いていた主人の反応は、決意を固くしていた二人の予想を大きく逸脱したものだった。

 

「……おじいちゃん?」

 

「グプタ! お前は既に、わしの孫も同然じゃ。それが誠の孫となるだけの話。だが、わしの大事なタニアの婿となるのだ。それはつまり、この店の跡取りという事。ならば、今まで以上に厳しい修行を覚悟しておけよ」

 

 不思議な物でも見るように目を見開くタニアを見ながら、主人はまじめな表情に戻した後、グプタへと語りかけた。

 『この町を出て、自分の店を開く』というグプタの野望は、この瞬間、完全に消え去った。

 しかし、それは悲しむべき事ではない。

 何故なら、それと同時に、生まれた家を出た時に持っていた、グプタの『幸せの定義』もまた、変化した瞬間だったのだから。

 

 

 

 そんな幸せへの道を歩み出した二人を襲った悲劇。

 厳しい修行の中、泥のように眠っていたグプタは、タニアの身に降りかかった事件に気が付く事はなかった。

 例え、気が付いていたとしても、『商人』であるグプタに何が出来た訳でもない。最悪、グプタの命はその時に失われていたかもしれない。それでも、『愛する人間の危機に何も出来なかった』という事が今、グプタを突き動かしていた。

 何度目かの魔物との遭遇を、逃亡という形で切り抜け、<聖なる川>に架かる二本目の橋を渡る頃には、グプタの身体は満身創痍といった状態であった。

 橋を渡った先に広がる大きな森。旅慣れた冒険者達であれば、その中を動き回る事も可能であろう。

 だが、グプタは『商人』。しかも、地図やコンパス等の道具は持って来てはいなかった。

 森の中に入ったグプタは、何度も方向を見失い、自分の立ち位置すらも分からなくなる。魔物と遭遇しては逃げ、方向を見失っては魔物とかち合った。

 それでも前に進むグプタの目に、岩肌の側面にぽっかりと空いた穴が飛び込んで来る。

 疲れ切っていたグプタではあるが、愛しい人間の身を案じ、陽が陰り始めた森から、陽の光が届かない洞窟へと足を踏み入れた。

 後になってみれば、森を彷徨ったこの時間が、グプタの明暗を分けるものだったのかもしれない。

 

 

 

「おいおい。このアジトに何の用だ?」

 

「ぎゃはははは! なんだ、このお坊ちゃんは?……よく見りゃ、傷だらけじゃねぇか」

 

 洞窟に入り、グプタはここでも大いに彷徨う事となった。至る所に、魔物達の姿があり、逃げる度にグプタの身体の傷は増えて行く。

 人の手が入れられた洞窟の壁は、石を積み重ねたものであり、見渡す限り同じ光景が広がる場所をグプタは彷徨い続けた。

 彷徨う中、ようやく発見した下のフロアへと続く階段を下りた先で、グプタは二人の人間と遭遇する。

 

「タニアを返せ!」

 

「タニア?……ああ……もしかして、昨日攫って来た、バハラタの町長の孫の事か?」

 

 その二人は、身なりから見て、盗賊である事は間違いない。

 ならば、それはカンダタの子分となる筈。

 そして、グプタはその二人に叫ぶ。

 『愛しい者を返せ』と。

 

 しかし、それは『自分達こそが強者』と考えている、このならず者達にいやらしい笑みを浮かべさせる程度の効果しかなかった。

 所詮、グプタの身なりは『商人』。どれだけ大声を上げようとも、どれ程に虚勢を張ろうと、彼はカンダタ一味に脅威を感じさせる存在ではないのだ。

 

「お前は、あの孫の男か?」

 

「ぎゃははは! 残念だったな。あの女は大事な人質だ」

 

「タ、タニアに何をした!?」

 

 いやらしい笑みを浮かべる男達の言葉に、グプタは最悪のイメージを思い浮かべてしまう。

 頭や腕、いや、身体中から血を流し続け、鬼のような形相で叫ぶグプタに、カンダタの子分たちは、先程とは違う、おぞましい表情を浮かべて口を開く。

 

「あぁ?」

 

「安心しな。まだ何もしてねぇよ。まぁ、これでもまだ、バハラタ側が俺達の要求を突っぱねるのなら、あの女がどうなるかは知らねぇけどよ」

 

 弱者であるはずのグプタの態度に、若干の苛立ちを見せた子分が凄む中、もう一人の子分がグプタの言葉に答えた。

 その内容に安堵したのも束の間。その後の事を考え、グプタの表情が凍り付く。

 

 グプタの主人であるバハラタの町長は、おそらく自分の愛する孫娘よりも、自分の町を優先させるだろう。

 彼が任された町に住む人間は、カンダタ一味の登場によってその数を大幅に減らしたとはいえ、そこは大都市。夜の町であるアッサラームや、ロマリア城下町にも引けを取らない程の人間が生活をしている。

 その数多くの住民の苦しみと引き換えに、自分の孫娘を救うとは到底思えない。

 それをグプタは理解していた。

 また、その決断をする、主人の苦しみも理解していたのだ。

 おそらく、グプタも立場が立場であれば、同じ様な選択をしていたであろう。故に今、グプタは、たった一人でここに立っているのである。

 だが、その事実が指し示す未来は一つ。

 愛するタニアの身に降りかかる不幸である。

 『死』という結末は、ほぼ確実であり、更には『死』に至る前に、『死』よりも辛く苦しい物が待っている事だろう。

 

「くそっ! そんな事をさせるものか!」

 

「ぎゃははは! じゃあ、どうするんだ?……まさか、俺達に挑んでくるつもりか? 只でさえ傷だらけの身体なのによ」

 

 いきり立つグプタを嘲笑うかのように、口元を歪ませる子分達は、自分の腰にある武器に手を掛けた。

 着の身着のままで出て来たグプタには、それに対抗する術はない。

 

「もう良いだろう?……こんな馬鹿、さっさと殺しちまうぜ。人質は、あの女一人で良い訳だし、俺は男には興味なんかねぇぞ」

 

「ぎゃははは! それは俺だって同じだ。じゃあ、悪いが死んでもらうとするか」

 

 グプタの態度に苛立っていた子分の一人が、武器を鞘から抜き放つ。それに追随するように、もう一人も武器を抜いた。

 グプタの命運も、今まさに尽きようとしていた。

 

「逃げるなよ。一思いに死んだほうが楽だぜ」

 

「くそっ!」

 

 言葉と共に振り下ろされる剣を紙一重で避けたグプタの腕が、ぱっくりと斬り裂かれた。滲み出るように流れる血液が、洞窟の床へと滴り落ちて行く。

 

「逃げるなと言ってるんだ!」

 

「!!」

 

 一度は辛うじて避けたグプタであったが、横合いから飛んで来るもう一人の剣を見て絶望した。『避けられない』と感じたグプタは、目を瞑る事もせず、自分に向かって来る剣先を呆然と見つめる。

 その時、諦めかけていたグプタの瞳に映る剣先の動きが止まった。

 『何事?』と思い、顔を上げたグプタが見た物は、先程自分に向かって剣を振るったであろう男が、首から上を失い、倒れて行く姿だった。

 

 

 

 

 

 グプタが目の前で起きた出来事に困惑する数刻前。

 カミュ達は、焦っていた。

 

 町長の計らいで、カミュ達の装備品は昼前までに仕上がっていた。

 武器屋にて、その装備を受け取る際に見た店主の表情に、再びリーシャは怒りを覚える。

 そこに表れていたのは『疑惑』と『侮り』。『このような奴等に何が出来るのか?』という疑念と、『何故、自分がこのような奴等のために無理をしなければいけないのか?』という侮り。

 それを正面から見たリーシャが、再び怒りを露にしたのは仕方がない事なのかもしれない。サラもまた、店主の表情を見て、顔を顰めた事がその証拠だろう。

 装備品を受け取った一行は、町長の見送りを受けてバハラタを後にする。幼いメルエがいる事から、歩く速度を速めはするが駆ける事はなく、町長から聞いた<アジトの洞窟>を目指していた。

 

「カミュ……もしかすると、あの男は走り続けているのではないか?」

 

「……ああ……急ぐぞ!」

 

 陽が高くなる頃に、ようやく<聖なる川>に架けられた一本目の橋に差し掛かったカミュ達は、途中で見えて来ると考えていたグプタの背中が一向に見えて来ない事に焦りを感じ始めていた。

 歩いて一日以上かかる距離を走り続ける事は、人間には到底不可能である。カミュ達は、その事を考慮に入れて、ここまで歩いて来たのだ。

 だが、幼いメルエがいるとはいえ、旅慣れたカミュ達の足で追いつけないとなれば、可能性は一つしかない。不可能だと思われていた行為を、グプタが行っているという事。そうであれば、差は縮まるばかりか、広がって行く可能性すらあるのだ。

 

「メルエ! 抱き上げるから、舌を噛むなよ!」

 

「行くぞ!」

 

 サラの手を握っていたメルエを、リーシャが抱き抱えるように持ち上げ、カミュの言葉と同時に、一行は駆け出した。

 『方角はカミュが示してくれる』。

 そんな、信用とも言える思いを持つリーシャとサラが、カミュの速度に置いて行かれぬように懸命に走った。

 

 

 

 一行が二度目の橋を渡り、その先の森を抜けた場所にある洞窟に辿り着いた時には、陽は落ち、辺りを闇が覆い始めた頃だった。

 

「カミュ、急ごう」

 

 洞窟の手前で、メルエを下ろしたリーシャは、息を切らせながらも、早々に中へ入る事をカミュへ進言する。それに一つ頷いたカミュが無言で中に入り、その後をメルエが続く。ここまでの道を走り、もはや疲労困憊に近いサラも、不満を口にする事なく洞窟へと入って行った。

 

「……どっちだ?」

 

「な、なに!?」

 

 洞窟内に入ったカミュが、後ろにいるリーシャへと問いかける。突然の問いかけに、リーシャは驚きを表すが、サラは何か得心が行ったのか、納得の表情を浮かべていた。

 

「や、やはり、このような場所では、リーシャさんが頼りですね」

 

「な、なに!? そ、そうか?……まずは、真っ直ぐだな」

 

 入ってすぐに三方向へと分かれる場所に出た事で、カミュは方向を探る為にリーシャに問いかけたのだ。

 カミュの意図を察したサラが、追従するようにリーシャに問いかけると、少し気を良くしたようなリーシャが得意気に方向を示した。

 

「……わかった……」

 

 言葉とは裏腹に、カミュは右へと進路を取った。

 その事に驚いたリーシャの表情は、怒りへと変化して行く。しかし、その後をサラとメルエが続いて歩いて行ったため、リーシャは口を開く事が出来なかった。

 カミュやサラの考えに反し、進んだ先は、先程と同じ様に三方へと続く道。

 『そら見ろ』とばかりにカミュを見るリーシャに対し、溜息を吐いたカミュは、再びリーシャへと道を尋ねる。

 

「ここは、左だな」

 

「……わかった……」

 

 『今度こそ』と得意げになって道を指し示すリーシャの言葉に、一つ頷いたカミュは、真っ直ぐ進んで行く。その事に、今度こそ怒りを露にしたリーシャがカミュへと怒鳴るが、当の本人は、涼しい顔で歩き出していた。

 

「……」

 

「ほら見ろ!」

 

 リーシャの指し示す方角ではない方向へ進路を取り続ける一行ではあったが、進む先進む先、全てが同じ様な場所であった。

 流石のサラも目の前に広がる光景に言葉を失い、自分の指し示した方角に行かない事を非難するようにリーシャが声を上げる。

 

「カミュ様……そろそろリーシャさんの言う方向へ進んでみてはどうですか?」

 

「そうだ!」

 

 サラの援護を受けて、リーシャは強気になりながらカミュへと訴えかける。後方からの言葉に、大きな溜息を吐いたカミュは、『わかった』と一言呟いた後、リーシャの指し示す方角へと足を向けた。

 同じ様な場所を歩きながら、逐一リーシャの意見を聞きながら進む一行であったが、不意にカミュの足が止まった事により、三人に緊張が走る。

 それが、魔物の襲来を意味する事は、全員が知っているからだ。

 

「カミュ!」

 

「……また、実体のない魔物か……」

 

 斧を手にしたリーシャが、カミュへと声をかける。

 カミュが呟いた言葉通り、気配はあるが、実体が見えない。

 バハラタ周辺で遭遇した<ヒートギズモ>のように、実体の掴めない魔物の可能性を考え、全員が各々の武器に手を掛ける。

 この洞窟は、盗賊のアジトであるが故に、回廊の至る所に火が灯され、周囲を明るく照らしている。カミュは、その灯りに照らされた壁に、奇妙な影を見た。

 

「!!」

 

「な、なんだ、あれは!?」

 

 灯りに照らし出された影は五つ。

 壁に映っている影は、本来カミュ達四人の物以外あり得ない。

 だが、壁には別の物がもう一体ある。

 明らかに異常であった。

 

「メルエ! サラの後ろに!」

 

 リーシャの声が響き、もはや定位置になりつつあるサラの後方へとメルエは下がった。その間に、カミュも背中から<鋼鉄の剣>を抜き、戦闘態勢に入る。

 壁に映し出されていた影は、そのまま壁から抜き出るように、一行の前にその姿を現した。

 

<怪しい影>

魔物の中でも特異中の特異な存在。様々な魔物の影を映し出して来た壁などに記憶されていた物が、魔王の影響を受けて、生命を得た物と云われている。その生態や構造は、全く解明されてはいない。

 

「ふん!」

 

 突如として、目の前に現れた魔物に、リーシャは反射的に斧を振るう。

 力任せに振るわれた斧は、影のような魔物を分断した。

 

「……やはり駄目か……」

 

「カミュ!? どうする!?」

 

 リーシャが斧で両断した影は、何事もなかったように、その形状を戻して行く。カミュはある程度予想していたようだが、リーシャは自分の攻撃が全く通用しなかった事に狼狽し、カミュへと声をかけた。

 

「くっ!」

 

「カミュ!」

 

 カミュへと視線を動かしたリーシャの瞳に、カミュの目の前に移動した<怪しい影>が映り込む。音もなく移動した<怪しい影>の振るった腕が、咄嗟に顔を庇ったカミュの右腕に食い込んだ。

 黒い影が流れるように払われたカミュの右腕に、四本の筋ができた瞬間、その筋から真っ赤な血液が噴出する。それを見て、リーシャは叫び、メルエは目に涙を溜めた。

 

「カミュ様! リーシャさん! 一度後ろへ!」

 

 後方でメルエを護るサラからの声に、リーシャとカミュが、一度態勢を整える為に後方へと下がる。カミュへと攻撃を繰り出した<怪しい影>は、様子を見るように漂っていた。

 

「カミュ様、こちらに。ホイミ!」

 

「……すまない……」

 

「カミュ!? どうする!?」

 

 カミュの腕に<ホイミ>をかけ、傷を癒すサラの横から、リーシャが先程の言葉を繰り返す。その時、小さな影が動いた。

 

「…………メルエ…………やる…………」

 

「なに!?」

 

 リーシャの腕を引くように、自分の存在を誇示するのは、パーティーが誇る『魔法使い』の少女。

 右手に<魔道士の杖>を持ち、上目遣いに見上げる瞳は自信に満ちていた。

 

「しかし、魔物の特徴も解らないのに……」

 

「…………あたらしい………おぼえた…………」

 

「なに!?」

 

 サラの苦言に対してメルエの発した言葉は、リーシャを軽く驚かせる。

 久しぶりに聞いたメルエの言葉。

 それは、新たな魔法との契約を済ませた証。

 

「……わかった……メルエ、頼む」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの言葉に、嬉しそうに頷いたメルエを見て、サラも軽く溜息を吐く。

 サラは自分では気付いていないが、カミュがこう言う以上、メルエの魔法が発動された後は必ずカミュがメルエを護ると考えている事を、信じているのだ。

 故に、それ以上の苦言を言う事はない。

 

「仕方ありません。ですが、呪文の行使のタイミングは私が計ります。カミュ様とリーシャさんは、その間、魔物の注意を逸らしてください」

 

「……わかった……」

 

「よし。サラ。メルエ。頼んだぞ!」

 

 魔物に視線を向けながら、カミュとリーシャに指示を出すサラを、リーシャは頼もしく見ていた。

 あのカミュでさえ、今のサラの言葉に反論を示さない。

 それは、サラを信用している証。

 戦闘において、自己の判断のみで動いていた筈のカミュが、他人の判断を受け入れているのだ。それがリーシャには、眩しく映った。

 

「では、メルエ、良いですね?」

 

「…………ん…………」

 

 カミュとリーシャが、再び<怪しい影>と対峙する為に、前線へと躍り出る。それを確認したサラが、メルエへ視線を送り、問いかけた。

 サラの瞳を真っ直ぐ見ながら頷くメルエに、サラは柔らかな笑顔を浮かべて頷き返す。

 

「やぁ!」

 

 そんな二人のやり取りの最中に、リーシャが<怪しい影>へと斧を振るう。しかし、先程と同じ様に、確かに分断した影は、再び形状を戻し、元の影へと戻って行った。

 

「下がれ!」

 

 斧を振り切ったリーシャに、カミュの檄が飛ぶ。リーシャを押しのけるように割り込んで来たカミュは、その左手に持つ<鉄の盾>を掲げ、今まさに振り抜かれようとする<怪しい影>の腕を受け止めた。

 盾に来る衝撃など、何一つない。ただ確かに<怪しい影>の攻撃は、カミュの盾を掠めたのだ。その証拠に、金属を擦るような音が洞窟内に響き渡る。

 音だけで、自分が攻撃を受け止めた事を確認したカミュは、そのまま、右手に持つ<鋼鉄の剣>を振り下ろした。

 それでも、やはり<怪しい影>にダメージを与えた様子はない。袈裟斬りに斬り裂かれた<怪しい影>の胴体が揺らぐ。その時、二人が待っていた声が響いた。

 

「メルエ!」

 

「…………ん…………メラミ…………」

 

「!!」

 

「くそっ!」

 

 サラの叫び声、そして、それに応じたメルエの詠唱。

 詠唱の完成と共に、<魔道士の杖>の先から発生した物は、リーシャの身体を硬直させた。

 横にいるリーシャの様子に、顔を歪めたカミュが、リーシャを抱えるように飛び、メルエの魔法の攻撃範囲から脱出する。

 

 メルエの杖の先から出たのは『火球』。

 しかし、それは信じられない程の大きさだった。

 メルエの『メラ』の形状は、カミュのそれよりも大きい。

 しかし、今、メルエが唱えた物はその比ではなかったのだ。

 

<メラミ>

火炎系魔法<メラ>の上位魔法に当たる。古の賢者が残した魔法以外では、『魔道書』に載っている火炎系魔法の最上位に当たる魔法だ。その威力は<メラ>を遥かに凌ぎ、通常の魔法使いであっても、ある程度の魔物を一撃で仕留める事が可能な程の威力を誇る。

 

「――――――」

 

 メルエの杖から放射された火球は、真っ直ぐ<怪しい影>へ向かい、直撃する。叫ぶ暇もなく、自身の身体以上の大きさの火球を受けた<怪しい影>は一瞬の内に消え失せた。

 そのまま、火球は壁に直撃し、凄まじい音を立てて弾け飛ぶ。

 

「くっ!」

 

「……な……な……」

 

 指示を出していた筈の、サラですら言葉が出て来ない。リーシャは呆然と、<怪しい影>がいた場所を眺め、カミュは苦々しく壁を見つめていた。

 火球が衝突した壁は、焦げた跡と共に、焼きついたような黒い影が張り付いている。それが、<怪しい影>だった物なのだろう。

 凄まじい程の高温で瞬時に焼かれた影は、そのまま壁へと焼き付いた。メルエの使った魔法は、それ程の威力があったのだ。

 

「…………ん…………」

 

「ああ、よくやった」

 

 いつものように、自ら帽子を取り、頭を差し出すメルエの頭をカミュが撫でる。

 その手を嬉しそうに受け入れるメルエを、リーシャは心配気に見つめていた。

 

「…………ん…………」

 

「ん?……ああ。その前に、メルエ、約束してくれ」

 

 自分の所へ駆け寄って来たメルエが頭を差し出す姿を見て、リーシャはメルエと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

 そんなリーシャの行動に、メルエは不思議そうに小首を傾げる。

 

「今の新しい魔法は、広い場所で使う事」

 

「…………ん…………」

 

 口を開いたリーシャが発した言葉が、魔法を禁ずる物ではなかった事に、メルエは即座に頷いた。

 そんなメルエに優しく頷いたリーシャは、もう一度口を開く。

 

「もう一つ。この魔法は、サラの指示の下で使用する事」

 

「…………」

 

 もう一つの注意は、メルエにとって理解が難しい物だった。

 故に、大きく首を傾げる。

 メルエの姿に苦笑したリーシャは、説明を付け加えた。

 

「あの魔法は、強大すぎる。あれを使った時に、私やカミュが巻き込まれてしまったら大変だろ?」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャが、優しい表情を浮かべて、メルエへ語る。その内容に、少し考える素振りを見せたメルエは、真剣な表情に戻り、大きく頷いた。

 メルエは、『自分が制御出来る』とは言わない。

 メルエにとって、カミュもサラも、そして今、自分に笑顔を向けるリーシャも、自分を導き護ってくれる、信用出来る人間だからだ。

 

「よし。メルエ、よくやった」

 

 もう一度メルエの頭を撫でるリーシャの考えは別のところにあった。

 今、メルエが唱えた<メラミ>という魔法は、余りにも強力すぎる。魔物相手でも、一瞬の内に焼き尽くしてしまう程に。

 もし、それを『人』に向けて唱えたのであれば、ひとたまりもないだろう。一歩間違えれば、メルエを『殺人者』としてしまう事になる。

 それは、リーシャにとって、どうしても避けたい事柄だった。

 

「……先を急ぐ……」

 

「そうですね。行きましょう、メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 そんなリーシャの考えは、メルエ以外の二人には届いていた。

 メルエの魔法の威力に一番驚いていたのはサラである。

 だが、サラは、既に心に決めているのだ。

 『メルエを護る』と。

 それは、メルエの素性が明らかになった時、どうなるか分からない。

 もし、メルエが『人』でなかったとしたら、おそらく悩むだろう、苦しむだろう。そして、泣く事になるかもしれない。

 それでも、自分はこの幼き少女を護る為に、全力を尽くすに違いない。サラは、そう考えていた。

 

 

 

 一行は、先へと進んで行った。リーシャの指し示す通りに進んで行くと、徐々に景色が変わって行く。三方に分かれる道が二方になり、やがて一方向となった。

 

「カミュ様、あれは扉ではないですか?」

 

「……メルエ……」

 

「…………ん…………」

 

 行き止まりかと思われた進行方向には、暗闇で見え辛いが、扉のような物が佇んでいる。それを確認したカミュは、後方でリーシャの手を握るメルエを呼んだ。

 カミュに呼ばれた事により、カミュの横へと移動したメルエが、肩から掛けられたポシェットに手を入れ、<魔法のカギ>を取り出した。

 

 カチャリ

 

 乾いた音を立て、一行の進行を妨げる扉の鍵が解かれた。

 扉を開けて潜った先には、再び同じ様な回廊が存在し、リーシャの出番となる。

 『左だ』と答えるリーシャの言う通りに歩を進めて行くと、一行の前に、遂に行き止まりが姿を現した。

 

「ここが最後のようですね」

 

 行き止まりである事を確認したサラが周囲を見渡すが、周囲を照らす灯りが弱く、隅々を確認出来る程ではない。

 カミュが袋に入れておいた<たいまつ>に火を移し、周囲に翳した事により、奥に下へと降りる階段が視界に入って来た。

 

「この下か」

 

「急ぎましょう」

 

 階段に近づき、下の様子を確認するリーシャをサラが急かす。サラの言葉に、リーシャはカミュへと視線を送るが、カミュは一つ頷き、階段を下り始めた。

 待ちきれないようにサラが続き、メルエとリーシャが最後に降りる。

 

 リーシャは、今見た、カミュが頷く時の表情が頭に残った。

 それは、以前<シャンパーニの塔>で見せたものと同じ表情。

 あの時は、メルエの瞳に浮かぶ『憎悪』の欠片に関して不安を覚えたリーシャに対して見せたものであるが、今回は、サラの焦りに対してのリーシャの不安だった。

 

 そして、カミュの表情が何を意味するのか。

 それをリーシャは理解していた。

 この後、サラは苦しみ、悩む。

 そして、その悩みはカミュへと矛先を変えるかもしれない。

 それでも、カミュはその感情を受け止めるだろう。

 己を犠牲にしても……

 リーシャは、それが哀しかった。

 

 

 

「逃げるなと言ってるんだ!」

 

 階下に降りたサラの耳に、何者かの叫びが入ってくる。視線を向けたサラは、息を呑んだ。

 一行が救おうとする対象であるグプタが、今まさに振り上げられた剣を、その身に受けようとしていたのだ。

 

「あっ!」

 

 サラは息を呑む。

 救おうとしていた者が、目の前で息絶える姿を想像して。

 

 肉を斬り裂くような音が洞窟内に響き、それと共に真っ赤な血液が噴出し、飛び散る。しかし、それはサラが予想していた血液ではなかった。

 サラの視界に入った物。それは、いやらしい笑みを浮かべながら地面に落ちて行く首と、首から上を失い、天井に向かって噴水のように血液を吹き上げる身体。

 

 そして、それを手に握る<鋼鉄の剣>で斬り落とした『勇者』の姿であった。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

サラの苦悩の始まりです。
この章は、彼女の為にあると言っても過言ではない章です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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アジトの洞窟(バハラタ東の洞窟)②

 

 

 

 血飛沫を上げて倒れて行く人であった物。

 その後ろで唖然とした表情を浮かべるもう一人の盗賊は、首を失くし倒れて行く同僚の姿から視線を外す余裕もなく、先程その同僚の首を斬り落とした<鋼鉄の剣>によって切り伏せられた。

 再び空中に迸る真っ赤な液体を、サラは何か別世界の物のように見ていた。

 グプタに武器を向けていた二人の人間は、もはや身動き一つしない。

 それが示すもの。

 それは『死』。

 

「……あ……あ……」

 

「何事だ!?」

 

 サラが呆然とその光景を見ている方向から、騒ぎを聞きつけた盗賊達が現れた。隣の部屋のような場所の扉を開け、出て来た三人の男達も、己の武器を抜く暇もなく、斬り捨てられて行く。

 

 世界を……そして『人』を救うと信じられている『勇者』の手によって……

 

 一人目は、素早く間を詰めたカミュの持つ<鋼鉄の剣>で首を突かれ、一瞬の内に絶命した。

 二人目は、倒れ行く同僚の陰から現れたカミュに対応する暇もなく、肩から腰に掛けて斬られ、数秒の痙攣の後、その命を落とす。

 最後の一人は、同僚が瞬時に死に絶えた事を確認し、腰の武器に掛けた腕をカミュに斬り捨てられた。

 空中に飛んで行く自らの腕と、傷口から噴き出す血液が、その男の見た最後の光景となる。首の後ろから侵入した<鋼鉄の剣>は振り抜かれ、胴と頭を分断したのだ。

 

「……」

 

 一瞬の内に、生きていた『人間』が、物言わぬ肉塊へと変わって行く。

 その光景に、サラだけではなく、リーシャも言葉を失っていた。

 魔物相手に何度も剣を振って来た。だが、魔王の出現により、人間同士の争いが無くなった頃に宮廷に入ったリーシャは、まだ人を斬った事がない。故に、自分の腕を『人』に対して試した事はなかった。

 しかし、ならず者とはいえ、人々を恐怖に陥れていた盗賊達を、カミュが次々と斬り伏せて行く姿を見て、リーシャは初めて自分たちの能力の高さを知る事になる。

 自分達は、もはや、余程の事がない限り、『人』に対して遅れを取る事がないのだと。

 

「……あ……あ……」

 

 何かを言葉にしたいのだが、声が出て来ないサラは、先程と同じように言葉にならない何かを口にするが、それはカミュへは届かない。サラの身体が完全に硬直し、動かないのだ。

 それは、自分が信じて来た物が崩れ去った瞬間を意味する。

 『カミュが『人』を殺したのでは?』と<シャンパーニの塔>でも考えた。しかし、あの時は、その後にカンダタ自ら、部下の首を斬り落していた事から、まだ息があったのだと無理やり思い込む事にしていたのだ。

 

 『人を殺す』

 

 その行動は、当然『忌み嫌われる』行為である。

 そして、『人』を至上としているルビス教では、最も罪深き行為に当たるのだ。

 それを『人の世界』を救うと伝えられる『勇者』が行った。

 サラの頭の中は、完全な混乱状態に陥っていた。

 

「…………カミュ………だ!!…………うぅぅ…………」

 

 そんな中、最後の一人を斬り捨てたカミュに向かって口を開いたのは、メルエだった。

 メルエは、<シャンパーニの塔>でリーシャから『人を殺す者は、忌み嫌われる』と教わった。故に、カミュを止めようとしたのだ。

 しかし、その言葉は、最後まで告げる事が許されなかった。

 後ろから伸びて来た手が、メルエの口を塞ぐ。少しの間、身を捩るようにしていたメルエであったが、その手がリーシャの物であると理解した後は、哀しそうにカミュの背中を見つめていた。

 

「……カミュ様……何故……?」

 

 サラがようやく絞り出した言葉は、メルエのような片言の言葉。それ程、サラは、今見た光景にショックを受けていたのだ。

 そして、何かを言おうと再度開いたサラの口は、振り向いたカミュの姿に閉じられてしまう。

 振り向いたカミュの顔には、真っ赤な血液が付着し、その血飛沫は、カミュの衣服にも飛んでいた。魔物との戦闘においても、その体液が付着しないように攻撃を行うカミュにしては珍しいもの。

 それが、カミュの『覚悟』を顕著に表わしていたのかもしれない。

 

「……何がだ?」

 

 一度、振り上げた<鋼鉄の剣>を一気に振り下ろし、剣についた血液を振り払う。床に飛び散った血液は、一直線に床を濡らす。

 それが、サラには、自分とカミュを隔てる境界線に見えた。

 

「……な、なぜ……なぜ……こ、殺したのですか……?」

 

 それでも、勇気を振り絞ってカミュへと問いかける。サラの身体は、硬直が解けた代わりに、小刻みに震え出していた。

 それは、『恐怖』。

 畏怖する者としてのカミュではなく、純粋な『恐怖』の対象としてサラはカミュを見ていたのだ。

 

「……サラ……」

 

「…………」

 

 小刻みに震えながらも、前に立つカミュへと問いかけるサラに、リーシャは心配そうな視線を向け、メルエは眉を下げながら、二人を見ていた。

 

「……逆に聞きたいのだが、アンタはここに何をしに来た?」

 

「え?」

 

 暫し無言でサラに視線を投げた後に呟いたカミュの言葉が、サラの思考を完全に止めてしまった。

 カミュが何を問いかけているのかがサラには理解出来ない。

 何故、問いかけていた筈の自分が、逆に問いかけられているのかが解らないのだ。

 

「……アンタは、そこで伸びている男と、町長の孫を救いに来たのか?」

 

「え?……な、なにを……」

 

 完全にサラの方に身体を向けたカミュの持つ<鋼鉄の剣>は、血液を振り払ったとはいえ、『人間』の血液と脂で気色悪い程の光沢を誇っていた。

 その剣の姿にサラの顔から血液が下がって行き、尚更カミュの質問の意味を考える事が出来なくなっていた。

 グプタは既に気を失っている。

 初太刀が迫る緊張感と、それから開放された脱力感で、意識を手放していたのだ。

 

「……カミュ……」

 

「……ふぅ……」

 

 サラが固まってしまった事で、リーシャが間に入ろうと声を発し、そのリーシャの声を聞いたカミュは、呆れ果てたように溜息を吐き出した。

 カミュのその行為が、サラを思考の淵から引き摺り出す。

 

「と、当然です。グプタさんとタニアさんを救う為に、私はここに来たのです」

 

「……」

 

 覚醒したサラの言葉に、再び視線を動かしたカミュの瞳は、背筋が凍ってしまうのではないかと思うほど冷たい物だった。

 その瞳にたじろぐサラは、隣のリーシャへと視線を動かすが、そこにあったのは『憐れみの視線』。リーシャがサラを見つめるその瞳には、サラを労わるような物が混じっていた。

 それにサラは混乱する。

 『何故?』と……

 

「……アンタは、俺に言った筈だ。『バハラタという町を盗賊から救いたい』と」

 

「え?」

 

 混乱に陥ったサラは、続いたカミュの言葉に、更なる混乱へと落ちて行く。

 『何が違うのか?』

 『その前に、それが何故人殺しに繋がるのか?』

 そんな疑問は、サラの口を吐いて出る事はなく、頭の中で渦巻いて行った。

 

「俺はアンタに言った筈だ。『今回は、メルエを救った時とは違う』と」

 

「な、なにが違うと言うのですか? そ、それと、『人』を殺す事がどう繋がると言うのですか!?」

 

 カミュの意味不明な言葉に、ついにサラは爆発した。

 叫ぶように口を開けて睨むサラを、カミュは未だに冷たい瞳で見つめている。

 メルエはもはや口を開かない。リーシャの陰に隠れるように身を隠し、サラとカミュを不安そうに見ていた。

 

「メルエの時は、あの奴隷商人さえ退ければ良かった」

 

「い、今だって、そうすれば良いではないですか!?」

 

 カミュの言葉に、サラは噛み付く。頭に血が上り、前後不覚に陥っているのだ。メルエは、こんなサラを初めて見たのだが、リーシャは一度見ている。

 それは、アリアハンを出て間もない時。あの森で、カミュがルビスの教えを真っ向から否定した時だった。

 

「アンタは、本当にあのバハラタという町一つを救う気はあるのか?」

 

「あ、当たり前です」

 

 冷たく、射るような視線を真っ向から受けながらも、サラはカミュの言葉にしっかりと頷いた。

 それを見るリーシャの顔が歪んで行く。彼女には、これからカミュが話す内容が見えているのだ。

 

「ここにいる盗賊が生き残った場合、その怒りはどこへ向かう?」

 

「は?」

 

「……カミュ……」

 

 遂に核心へと踏み込んだカミュの言葉に、リーシャは不安を口にする。ちらりと視線を動かしはしたが、カミュはリーシャの眼差しを無視し、話を続けた。

 

「メルエの時に、俺に斬られた者達の報復は、俺達に向かった筈だ。例え、奴隷として手に入れた筈のメルエへ向けられたとしても、俺達が護ってやれば良かった」

 

「……はっ!?」

 

 サラは決して愚者ではない。

 頭に血が上って、冷静な判断が出来ないだけなのである。

 順序立てて話すカミュの言葉に、サラの瞳は大きく見開かれた。

 

「……だが……ここで、俺達があの盗賊達を痛めつけるだけで逃がせば、報復は俺達を雇ったであろうバハラタの町へ向かう。俺達があの町に住むのなら何とかなるが、俺にそのような生活は許されてはいない」

 

「……そ、それは……」

 

 カミュが話す内容の大凡を察したサラは上手く言葉を繋ぐ事が出来ない。瞳は釘付けになったかのようにカミュから離せはしないが、その瞳は波打つように揺れ動いていた。

 

「であれば、俺達があの町を離れた後、あの町は地獄絵図になるだろう。男達は殺され、女達は犯される。報復である以上、あの町が存続する必要はない。金目の物は奪われ、人は絶えるだろう」

 

 カミュが話す事は、正直『極論』である。

 しかし、サラにはカミュの言葉を否定出来なかった。

 可能性はゼロではないのだ。

 いや、むしろそうなる事は必然であろう。

 

「俺は、アンタに言った筈だ。『覚悟を決めろ』と。町長の孫娘とその恋人を救うだけならば、この盗賊達を生かす事は出来る。だが……以前もアンタに問いかけたが、その後にこの盗賊達が犯す罪の責任をアンタはどう取るつもりだ?」

 

「……そ、そんな……」

 

 サラは救いを求めるようにリーシャに視線を送った時、この問題で孤立しているのは自分だけなのだという事を知る事になる。リーシャの瞳は、サラを心配している色を湛えつつも、厳しく強い光を宿していたのだ。

 そしてサラは思い出す。

 バハラタでリーシャが告げた、あの一言を……

 

 『今回に限っては、私はサラの行動に異議を唱える事もしないが、同時にカミュの行動や言動を止める気もない』

 

 それは、今、サラの目の前で起こっている出来事を予想しての物だったのだろう。

 リーシャも知っていたのだ。

 あの町を救う為には、『人』を殺めなければならないという事を。

 

「アンタに『人』を殺せとは言わない。これは俺の役目だ。だが、アンタはこの事実から目を背ける事は許されない。何故なら、アンタは、その先にある町の住民の平穏を望んでここにいるからだ」

 

「……し、しかし……」

 

 カミュの言葉はとても厳しい。その内容にリーシャの表情が更に歪んだ。

 カミュと対峙し、自身の中にある根本的な部分を揺り動かされているであろうサラを気遣って。

 

「アンタがどれほど否定しようと、それが事実だ。アンタが『人』を救う為に、魔物を根絶やしにしようと願うのと同じ様に、町一つを救うという事は、その脅威を根絶やしにする必要がある。その脅威が『魔物』だろうと『人』だろうと、行う事は同じだ。いや、思考がある分、『人』の方が厄介だろうな」

 

 サラは、もう何も口に出来ない。

 何を発すれば良いのかすら解らない。

 カミュの言い分は納得出来ない。

 しかし、否定も出来ないのだ。

 

「……カミュ……お客様だ……」

 

 そんな茫然自失なサラから視線を外したリーシャは、カミュの背後から現れた数人の盗賊を見て、カミュへと声をかける。その声は、哀しみに満ちていた。

 

 『サラは、もうここでは役に立たないだろう』

 

 リーシャはそう考えていた。

 いや、もしかすると、『もうこの旅を続ける事すら無理かもしれない』とさえ思っていたのかもしれない。それ程に、サラの衝撃が伝わって来たのだ。

 故に、呆然自失のサラを庇うように、リーシャはサラの目の前に立った。

 

「なんだ、てめぇら!?」

 

「おい! なんだこれは!? てめぇがやったのか!?」

 

 数人の盗賊達が姿を現し、その先頭にいた二人が目の前に広がる惨状を目にして、怒りを露にした。

 首がない死体が二つ倒れ、離れた場所に二つの首が転がっている。他の三体は、それぞれ斬り口は違うが、総じて呼吸を止め、『生』という鎖から解き放たれていた。

 五体の死体とその物言わぬ肉塊から溢れ出た血の海に立つ青年を見て、奇声を発し、数人の男達は武器を抜く。それは、怒りからなのか、それとも『恐怖』からのものだったのか。

 その疑問に対し、もはやこの数人の男達ですら考える時間はなかった。

 

「ベギラマ」

 

 右手を突き出したカミュが発した一言が、数人の男達の人生の幕を下ろす。

 カミュの右手から迸った熱風は、カミュへと一直線に向かってくる男達の前に着弾し、その場所を炎の海と化した。

 炎の大海原に成す術もなく飲み込まれて行く盗賊達。

 周囲に木霊する、『人間』が発するとは思えない悲鳴。

 それと共に周囲を満たす、肉を焼く異臭。

 その全てが、サラの脳を麻痺させて行く。

 もう既に、カミュが殺した『人』の数は十人に及んでいる。

 『人の世界』を救う『勇者』が起こす惨劇。サラの頭の許容範囲では理解する事が適わない程の出来事。

 サラは目の前が真っ暗な闇に覆われていくような感覚に陥る。

 

「て、てめぇら……誰に牙を剥いたのか解ってやがるのか!?」

 

「……お前達が誰であろうと、興味はない……」

 

 もはや、半分以上腰が引けた状態で、一人の男がカミュへと言葉を投げかけるが、それに対する返答は、冷たく、男達に避ける事が出来ない『死』への道を指し示す物だった。

 

「くそっ! 俺達がカンダタ一味と知って……」

 

「もう良い。俺様が相手をしてやる」

 

 『死』への恐怖に、再び叫び出す一人の盗賊の言葉を遮る者が一人、後方から大きな斧を持って現れた。

 その者が持つ斧は、カンダタが持っていたハルバードの様な物ではなく、どちらかといえば、リーシャが持っている<鉄の斧>に近い物だった。

 

「へっ……てめぇらも運がなかったな。兄貴が相手じゃ、死んだも同然だ」

 

「兄貴! こいつらの仇を討ってくれ!」

 

 斧を持った筋肉質の巨漢が前に出るのと反比例に、先程まで叫んでいた盗賊達は後ろに下がって行く。

 彼らは知っているのだ。

 この巨漢の男の戦いの傍に居れば、巻き込まれて命を失う事を。

 

<殺人鬼>

カンダタ一味には、様々な人間が集まって来る。食うに困って、集った者。用心棒崩れが、己の欲望を満たす為に身を寄せた者。そして、その中でも、純粋に『人を殺す』という事に愉悦を見出す者が稀に存在した。幼い頃から他者よりも力が強く、他者を虐げて育った者は、当然集団での生活は出来なくなって行く。そして、そんな中で自分を示す方法を知らぬ者達が行き着く場所は『殺人』。自分の力を誇示している内に人を殺し、人を殺した自分に対する他者の怯えの瞳に愉悦を感じた者の成れの果て。それが<殺人鬼>である。

 

「小僧! 構えな。ここまで派手にやらかしたんだ。当然、覚悟は出来ているんだろう? 俺様を退屈させるなよ」

 

「……覚悟? アンタのような木偶の坊を相手にするのに、『覚悟』など必要なのか?」

 

 斧を肩に乗せて挑発する<殺人鬼>に対し、返って来たのは明らかな『挑発』。そんなカミュらしくない言葉に、リーシャですら驚いた。

 <殺人鬼>は、カミュの挑発に対し、口元に厭らしい笑みを浮かべて、肩から斧を下ろす。覆面によって覆われている為、表情こそ見えないが、リーシャやサラが見れば、生理的な嫌悪を示す程の笑みだろう。

 

「そこまで啖呵を切ったんだ。殺されても文句はないんだろうな!!」

 

 言葉を言い終わると同時に、<殺人鬼>はその斧を大きく振り回すように、横殴りの一撃をカミュへと向ける。しかし、予想以上の速度を持ったその一撃は、カミュではない者が持つ<鉄の盾>によって防がれた。

 鉄と鉄とがぶつかり合う乾いた音が洞窟内に響き渡り、今までの張りつめていた緊迫の糸を断ち切って行く。

 

「……思っていた程の威力はないのだな……」

 

 左手に装備した<鉄の盾>で横殴りの斧を受け止めたのはリーシャ。巨漢の男の一撃を受け止めたにも拘らず、その身体は吹き飛ばされる事もなく、微動だにしない。

 『人』を超越し始めているのは、何もカミュ一人ではないのだ。

 

「なんだぁ? 今度は女か? 良いぜ……たっぷりと痛めつけた後に、楽しませてもらうさ」

 

「……おい……」

 

 自分の一撃を受け止めたのが、斧と盾を構えてはいるが、歳若い女である事を確認した<殺人鬼>は口元を醜く歪まし、涎すら垂らしそうな笑みを浮かべた。

 <殺人鬼>に対して、嫌悪感を露にするリーシャにカミュは声をかけるが、リーシャから返って来た言葉に驚かされる事となる。

 

「……カミュは下がっていろ……こいつのような者の相手は、本来、騎士である私の仕事だ。お前はそこで見ていろ」

 

「……アンタ……」

 

 カミュの方に視線を向けることなく<殺人鬼>を睨むリーシャの<鉄の斧>を持つ右手は小刻みに震えている。

 リーシャの言う通り、町を脅かすならず者の討伐は、本来国家に仕える騎士達の仕事の一つである。如何に自治都市であり、どこの国にも属さない町とはいえ、民の平穏な生活を護る事は騎士の誇り高き仕事の一つ。

 

 だが、リーシャは人を殺めた事はない。

 それでも彼女は、『覚悟』を決めたのだ。

 『この者を殺す』と。

 しかし、心と身体は一つではない。

 決意をしても、その行為を行う事に躊躇いはあるのだ。

 それでも、リーシャは前に出た。

 常に汚れ役を買って出る、哀しい青年の代わりに……

 

「へっへっへ。なんだ? 女、てめぇ、震えてるじゃねぇか? 怖がる事はねぇ。少し痛いかも知れねぇが、すぐに楽しくなるさ」

 

 下衆な笑いを零す<殺人鬼>の後ろから、これまた下衆な笑い声を上げる盗賊達の姿にも、リーシャは激昂する事はなかった。

 静かに、ゆっくりと気持ちを落ち着けて行く。

 

「……最後の言葉は言い終わったのか?」

 

 そして、再び瞳を開けたリーシャの瞳は、確かな輝きを宿していた。

 手の震えも、いつの間にか治まっている。

 リーシャが、只の『戦士』から、誇り高き『騎士』へと変化した証拠であった。

 

「ちっ! 気に食わねぇ。女は言いなりになってりゃ良いんだ!!」

 

 リーシャの態度に腹を立てたのか、<殺人鬼>は手に持つ斧を再び振り回す。大きく振るった斧が、唸りを上げてリーシャへと振り下ろされた。

 しかし、その斧は、リーシャには届かない。動きをしっかりと見ていたリーシャは、頭上に<鉄の盾>を掲げ、<殺人鬼>の一撃を防いだのだ。

 先程、リーシャの発した言葉が虚勢ではない証拠に、振り下ろされた斧を受けても、リーシャの身体は揺らぎもしなかった。

 

「やぁ!!」

 

 頭上に掲げた盾を払うように横へずらすと、その予想外の力強さに、<殺人鬼>の身体は斧と一緒に横へと流れる。それを見逃さずに、リーシャは<鉄の斧>を振り下ろした。

 浅く抉られた<殺人鬼>の肩口から鮮血が噴き出す。思ったより手応えがない事に、瞬間顔を顰めたリーシャではあったが、再び表情を引き締め、斧と盾を構え直した。

 

「くそっ! てめぇ! もう許さねぇ! 殺してやる!」

 

「!!」

 

 弱者だと見下していた女に傷つけられた事に激昂した<殺人鬼>が、斧を両手に持ち替え、矢継ぎ早にリーシャへと攻撃を繰り出す。リーシャは、その全ての攻撃を<鉄の盾>と<鉄の斧>で捌いて行った。

 盾で防御し、斧で弾く。それは、カミュにはない、対人の訓練をして来たリーシャならではの戦法。

 

 幼い頃から、人との訓練は欠かした事はない。それは決して『人』を葬る為の訓練ではなかった。

 『人』を護るための鍛錬が、今、護るべき『人』を殺す事に使われている。それをリーシャは苦々しく思っていた。

 しかし、リーシャの中でそれとは異なる想いもあり、それが今、リーシャを奮い立たせている。

 その想いこそが、リーシャが変化した原因なのかもしれない。

 

「死ねぇぇぇ!!」

 

 怒りに駆られた大きな叫び声をあげながら、振り抜かれた<殺人鬼>の斧は、リーシャの盾が滑り込む前に、リーシャの首目掛けて襲い掛かった。

 その光景にメルエは目を瞑ってしまう。

 大好きな姉が殺されてしまう。それは、メルエにとって絶望に近い物だった。

 

 しかし、首を刈られるような、肉を切り裂く音ではなく、洞窟内に響いたのは乾いた金属音だった。

 予想外の音に、再び目を開けたメルエが見た物は、首を曲げ、<殺人鬼>の斧を頭に被った<鉄兜>で防いでいたリーシャの姿だった。

 

「なっ、なんだと!?」

 

 渾身の一振りを頭で受け止められ、首の骨を折る事もなく、左右に首を曲げて構え直すリーシャを見て、ようやく<殺人鬼>は自分の中に芽生えつつある感情に気が付いた。

 それは、幼い頃から一度たりとも感じた事がない者。

 

 『恐怖』

 

 自分の力量では、到底及びも付かない者へ抱く感情。そして、それに駆られれば、自身の身体がまるで違う者に操られてしまったのではと感じる程に言う事を聞かなくなるもの。

 それを<殺人鬼>は生まれて初めて感じていた。

 

「うぉぉぉぉぉ!!」

 

 恐怖に駆られた<殺人鬼>は先程とは毛色の違う叫び声を上げて、リーシャへと斧を振り下ろす。しかし、リーシャという『戦士』に飲まれてしまった<殺人鬼>に、もはや勝ち目などあろう筈がない。

 凄まじい金属音を上げて<鉄の盾>で弾かれた<殺人鬼>の斧は、その右手と共に大きく横に振られ、自身の身体をがら空きにさせてしまう。その隙を見逃すリーシャではなかった。

 

「やぁ!」

 

 遠心力を利用するように、振り下ろされたリーシャの斧は、<殺人鬼>の左肩口から胸を通り、右足太腿までを大きく斬り裂いた。

 斧を振り抜いたリーシャの動きから一拍遅れるように、<殺人鬼>の肩口から胸に掛けて傷口が開く。それと同時に血飛沫が天井に向かって噴き出した。

 誰が見ても致命傷。

 もはやこの<殺人鬼>の命は残り数秒という程の物。

 それは、リーシャもまた、『忌むべき者』となった証。

 その青年が動くまでは……

 

「ふん!」

 

「なっ!?」

 

 突如自分の前に現れた影に、リーシャは驚きを表す。今まで、二人の戦いを静観していた青年が、抜き身の剣を構えたまま、自分と<殺人鬼>の間に入ったかと思うと、血飛沫を上げる<殺人鬼>の首を一閃したのだ。

 一瞬宙に浮いた<殺人鬼>の首は、リーシャの斧を受けた時の驚きの表情のまま、地へと落ちて行った。そして、先程以上の血液を首から天井へと噴出させる。

 その血液は、完全に<殺人鬼>の命を奪った証。それをリーシャは呆然と見つめていた。

 

「カ、カミュ! な、何をする!?」

 

 我に返ったリーシャが、カミュへと詰め寄った。

 それは、己の獲物を取られたというような馬鹿げた理由ではない。

 己の覚悟を汚されたという気高い怒り。

 しかし、振り向いたカミュの表情に、リーシャは二の句を繋げる事が出来なかった。

 

「……アンタが被る必要はない。これは、俺の役目だ……」

 

「……カミュ……お前は……」

 

 哀しく、そして儚く脆い表情。そして、カミュの口から出た言葉に、リーシャの胸は締め付けられる程、居た堪れない想いを抱いた。

 カミュは決してリーシャの『決意』と『覚悟』を愚弄した訳ではない。その気高い想いを理解して尚、その役目をリーシャが担う事を許さなかった。

 

「あ、兄貴が……ば、化け物!」

 

「ひぃぃぃ!」

 

 首から上を失くし、仰向けに倒れゆく<殺人鬼>の体躯を茫然と見ていた盗賊達は、一人の叫びを皮切りに、恐怖を張り付けた表情を浮かべ、我先にと逃げ出し始める。

 

「ふん!」

 

 しかし、力量に差があるものから逃げ出す事など出来ない。冷徹に、何の感情も見い出せないその青年は、逃げ出す盗賊達を背中から斬りつける。

 噴き出す血液。

 悲鳴と共に倒れ行くならず者。

 そこは、まさに地獄絵図であった。

 周囲に血の臭いが充満して行く中、一人のならず者を除き、全ての盗賊達が息絶えた。

 首と胴を分断された者。

 胸から盛大に血液を流す者。

 肩口から斬り裂かれ、身体がほぼ半分になっている者。

 その形態は様々であるが、皆総じて『死』という概念を受け入れた肉塊となった。

 

「……」

 

「ひぃぃぃ! た、たすけてくれ!」

 

 マントに返り血を付着させ、人間の血液と脂で妖しく光る剣を突き付けるカミュに、残った盗賊が許しを乞う。しかし、それを見下ろすカミュの瞳は、とても冷たく、何の感情も見出す事が出来ないものだった。

 

「……カミュ……」

 

 リーシャは、悔しそうに顔を歪める。

 カミュの胸に宿る哀しい考えは理解しているつもりだった。しかし、それは甘かったのだ。

 彼が自分の存在をどう感じているのか。それをリーシャは測り間違っていた。

 

「…………カミュ…………だめ…………」

 

 誰しもが茫然とカミュを見つめる中、一人の少女が行動に移る。リーシャが前に出てから、目の前で起こる惨劇の一部始終を瞬きせずに見続けたメルエが、カミュの腰に後ろからしがみ付いたのだ。

 

「……メルエ……」

 

 振り返るカミュの瞳は冷たく、一度たりともメルエに向けた事のないもの。それに対し、一瞬メルエの身体が硬直する。

 それでもメルエは、口を開いた。

 

「…………メルエ………やる…………」

 

「……」

 

 何かを決意したように、手に持つ<魔道士の杖>を掲げるメルエを見るカミュの目が変化を起こす。その目から冷たく突き放すような光が消えて行ったのだ。

 先程まで、カミュの本質を見るメルエの瞳にも恐怖を植え付けた瞳はない。一度瞳を閉じたカミュは、メルエの目をしっかり見つめ、口を開く。

 

「……大丈夫だ……メルエは、このような事をする必要はない……」

 

 盗賊に剣を突き付けながらカミュが呟くように言葉を漏らす。

 喉元に剣を突き付けられている男は身動きが出来ない。

 メルエは、その男を一瞥した後、もう一度カミュに向かって口を開いた。

 

「…………カミュ……だけ………だめ…………」

 

「メルエ……」

 

 その言葉に、リーシャはメルエの胸にある想いを理解した。

 メルエは、未だにリーシャが話した内容を信じている。

 『人殺し』は『忌み嫌われる者』。

 それをメルエは信じているのだ。

 故に、『人』を殺したカミュは、他人から忌み嫌われる事になる。それはメルエにとって、我慢出来ないものなのだろう。

 自分の大好きな人間が、他者から忌み嫌われ、遠ざけられる。それでも、自分だけはこの青年が大好きである事を伝えたい。自分を救い、自分に『楽しさ』と『喜び』と『幸せ』を教えてくれた、この不器用で優しい青年に。

 それが、メルエの言葉に表れていたのだ。

 

「……俺は、元々そういう存在だ……」

 

「…………むぅ…………」

 

「カミュ!」

 

 それでも、メルエのその想いはカミュに届かなかった。

 カミュの口から出る哀しい言葉。その言葉に、メルエは『むっ』としたようにむくれ、リーシャがカミュの名を叫ぶ。

 会話は終了したとでも言うように、視線を盗賊に戻したカミュの姿に、メルエはリーシャの腰に抱き付き、顔を埋めてしまった。

 メルエの幼い思考で懸命に考え、決意した言葉は、無碍に斬り捨てられたのだ。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「……メルエ……」

 

 リーシャの腰にしがみつき、嗚咽のような唸り声を上げるメルエの背をリーシャは優しく撫でた。

 メルエは、自分の想いを懸命にカミュへと伝えた。しかし、その想いは届かない。そうなれば、この自分の大好きな青年に、その想いをどのように伝えれば理解してもらえるのかが、今のメルエには解らないのだ。

 自分の大好きな青年が『忌み嫌われる者』になる事は嫌。それが、既にどうしようもないものであれば、自分だけでも味方である事、そして、例え誰が嫌おうとも自分だけは大好きである事を伝えたい。

 だが、その方法がメルエにはもう思い付かないのだ。その悔しさに、メルエは唸っていた。

 

「……バハラタの町長の孫娘はどこにいる……」

 

「ひぃぃ!」

 

 一度振るったカミュの<鋼鉄の剣>から、こびり付いた血痕が男の顔に飛び散る。自分の顔に、先程まで生きていた同僚の血液が付着し、男は悲鳴を上げた。

 その悲鳴がしばらく放心状態になっていたサラを覚醒させた。

 

「はっ!? こ、これは……」

 

 自分の目の前に広がる惨状。

 目を覆っても、その立ち込める臭気に吐き気をもよおしそうな空気の中で、佇むカミュとへたり込んでいる盗賊。そして、その後ろでリーシャにしがみつくメルエとその背を撫でるリーシャ。

 その光景にサラは絶句した。

 

「……話さないのなら、それでも良い。お前の死が早まるだけだ……」

 

「ひぃぃ! は、はなす。話すからたすけてくれ!」

 

 喉の皮を切り裂き、血液が流れる温かさを感じた男は、両手を挙げてカミュへと命乞いを繰り返す。男の言葉に剣を引いたカミュは、続く言葉を待つように、冷たい瞳で男を見下ろしていた。

 

「お、女は、あそこにある牢に入れてある。ま、まだ何もしてねぇ。本当だ」

 

 男が指さす方向には、男達が出て来るために開け放たれたままになっている扉があった。その部屋の中に牢があり、その中に閉じ込めているのだと言うのだ。

 男の焦りぶりから、その言葉が嘘偽りのない物である事が窺える。この状況で尚、カミュ達を陥れる算段を思い付く者達ならば、このような場所で徒党を組んではいないだろう。

 

「……案内しろ……」

 

「わ、わかった。こ、殺さないでくれ……」

 

 カミュの剣が引かれた事により、立ち上がった男は、震える足を懸命に前へと出しながら、部屋に向かって歩き出した。その後をカミュが続き、腰にしがみついたままのメルエを抱きかかえるようにリーシャも歩き出す。

 残されたのは、サラ一人。血溜まりに十人以上の死体が転がる中、サラは一人の青年の背中を眺める事しか出来なかった。

 

「……開けろ……」

 

「は、はい!」

 

 後ろに剣先の感触を感じながら、男は辿り着いた牢の端にあるレバーに手をかけた。レバーを下ろすと、轟音と共に鉄格子が上がって行く。

 中には、一人の女性。これが、バハラタ町長の孫娘なのであろう。自分の目の前の鉄格子が上がって行くのを不思議なものでも見るように茫然と眺めている。その姿は年相応で、十七、十八の歳の人間を最近カミュとサラしか見ていないリーシャにとって、とても幼く見えるものだった。

 

「あ、案内したんだ。た、たすけてくれ!」

 

「……」

 

 鉄格子を開け終えた男は、カミュへの命乞いを再開する。そんな男を冷たく見下ろしながらも、カミュは視線をリーシャへと動かした。

 カミュのその視線が意味する事を理解したリーシャは、メルエを連れたまま牢の中に入って行く。

 

「あ、貴女達は?」

 

「貴女の祖父から依頼を受けた。立てるか?……外では恋人も待っている」

 

 鉄格子を見ていたような不安気な瞳をリーシャに向けたタニアは、リーシャの口からグプタの存在を聞き、表情を驚きのものへと変化させる。

 祖父である町長が自分を救う為に、個人的に傭兵などを雇う可能性は考えていた。実際に救いに来た傭兵が、年若い男と年若い女性、そして年端も行かぬ少女である事に驚きはしたが、それ以上に『商人』であるグプタもまたこの洞窟に来ている事に驚いたのだ。

 

「グプタも……グプタが来ているのですか!?」

 

「ああ。多少怪我はしているが、命に別状はない筈だ」

 

 タニアの問いかけに対するリーシャの返答に、タニアは安堵の溜息を吐いた。溜息を吐き終えたタニアは、再び顔を上げ、周囲に視線を巡らす。そして、明らかな落胆の表情を浮かべた。

 

「グプタなら、外で気を失っている」

 

「ああ……グプタ……」

 

 リーシャの言葉を聞いたタニアは、そのまま立ち上がり、牢屋の外へ駆け出して行く。救いに来てくれたリーシャ達に感謝の意を表す事もなく、現状を推し量る事もなく、唯々愛しい人間に会いたいという想いを吐き出すように。

 リーシャの脇を抜け、外へと飛び出して行くタニアを見て、リーシャは複雑な表情を浮かべた。外に出た彼女がどのように反応し、自分達をどのように見るのか。

 リーシャにはそれがある程度予想出来ていたのだ。

 

「……今度はカンダタの場所に案内してもらおう……」

 

「そ、そんな事が出来る訳……!!」

 

 タニアが去った方向を見る事もなく、カミュはへたり込む男に次の指示を出した。その指示に拒絶を表そうとする男は、再び突き付けられた<鋼鉄の剣>の剣先に言葉を飲み込む。それ程に、今のカミュ醸し出す雰囲気は凄まじかった。

 『人』一人の抵抗する心をも飲み込んでしまう程の威圧感。それは、傍で見ていたリーシャさえも身震いする程の物だったのだ。

 男を先頭に、外へと出たリーシャは、意識を取り戻したグプタとその身体を支えているタニアの表情を見て、自分が考えていた予想が外れていない事を知る。

 二人の顔に張り付いているものは『恐怖』。周囲に散らばる『人』であった者達の残骸とその残骸から流れ出た赤黒い血液の中で、お互いの身体を抱き合う二人は、分かりやすい程の感情をカミュへと向けていた。

 

「……リーシャさん……」

 

 それは、ここまで共に旅して来た『精霊ルビス』に仕える僧侶も同じだった。

 『疑惑』と『混乱』。そしてそれ以上の恐怖という感情を、リーシャの横に立つ青年に向けていたのだ。

 全身に傷をつけていたグプタに回復呪文を掛けたのだろう。グプタの身体から傷は消えている。

 

「私達は、これからカンダタの下へ向かう。サラは二人をバハラタまで送ってやってくれ」

 

「えっ!?」

 

 サラの言葉に視線を向けたリーシャの口から出たものは、サラの思考を迷走させる。

 自分を二人の護衛とする事。それは、カミュ達三人でカンダタという、盗賊の頭目の場所へと向かう事を示している。

 即ち、自分が見限られた事を意味していると、サラの頭は理解した。

 

 『人を殺す』という罪を受け入れ、それを行う事を覚悟したリーシャ。

 他人から忌み嫌われる行為である事を信じているが、それでも自分の大好きな人間の為に自分もその罪を被る事を覚悟したメルエ。

 そんな中、サラは意識を飛ばしてしまうだけだった。その事で、カミュは見切りをつけたのかもしれない。

 『町一つを救う』という行為を軽く考え、それを『人の世界』を救う『勇者』に願った自分の覚悟の低さを見限って……

 

「……わ、わたしも……」

 

「いや。その二人だけでは、この洞窟からバハラタまでの道程は厳しいだろう?……町に無事送り届けてこそ、救った事になるんじゃないか?」

 

 言葉は柔らかい。しかし、リーシャの言葉は、サラには違うように聞こえた。

 『ここから先では、お前は役に立たないから、早々に帰れ』と。

 故に、サラは言葉を発する事が出来ない。カミュはもう、サラの方向を見ようともしない。メルエはリーシャの腰にしがみつき、サラの方に顔を向けない。そして、リーシャは『町へ帰れ』と言う。

 そんな自分の意識の中で、四面楚歌の状況を作ったサラを救い出したのは、意外な人間の言葉だった。

 

「い、いえ。わ、わたしたちは、自力で町まで帰ります」

 

「そ、そうです。ここまで来る事も出来たのです。タニアは私が命をかけて護ります」

 

 それは、カミュの方へ『恐怖』の視線を向けていた二人の男女。

 慌てたように立ち上がると、じりじりと後退するように、カミュ達から距離を空け、階段の方へ動いていた。

 常識的に考えれば、グプタのような戦う術のない者がこの場所まで来る事が出来た事が奇跡に近い。それなのにも拘わらず、更に戦う術のないタニアという女性が増え、それが成せる可能性は、往路よりも低くなる事は明白なのだ。

 

「……待て……」

 

「!!」

 

 グプタとタニアの行動を止める声は、彼らの恐怖の対象である青年から掛った。その声に身を固くした二人は、後退する足を止め、二人の下へ一歩一歩近づく足に息を飲む。

 恐怖によって二人の足は竦み、全身が小刻みに震え出していた。それでも、タニアを護るように前へと踏み出したグプタの覚悟は本物なのであろう。

 

「……どうしても行くと言うのなら、止めはしない。気休めにしかならないだろうが、身体にこれを振り掛けてから行け……」

 

 しかし、恐怖に身を強張らせる二人の前に差し出された手の上には、二つの瓶があった。

 それは、教会が販売している水であり、魔物をある程度寄せ付けないようにする<聖水>と呼ばれる品物であった。

 

「あ、あの……」

 

「……少なからず、魔物から身を隠す役には立つだろう……」

 

 恐怖の対象であった者から差し出された物をグプタは訝しげに見つめる。その視線を然して気にした様子もなく、むしろ当然の事のように受け止めたカミュは、再度声を掛けた後、グプタの手のひらに小瓶を置き、踵を返した。

 

「……行くぞ……」

 

「……ああ……」

 

「…………ん…………」

 

 カミュはリーシャの横を抜け、へたり込んでいる盗賊に剣を突き付けながら、声を出す。その声に、小さくリーシャが反応を返し、その足元でメルエも小さく頷いた。

 そして、三人は奥へと歩き出す。

 

「ま、待ってください! わ、わたしも行きます!」

 

 三人の後姿を暫く見ていたサラは、意を決したように前を歩くカミュへと声をかける。しかし、そのサラの声にカミュは振り返りも、言葉を返しもしない。それでもサラは三人に追いついた。

 

「サラ。無理をする必要はないぞ」

 

「い、いえ。行きます」

 

 隣に駆けて来たサラに対して心配そうな表情を向けるリーシャに、サラは力無く頷く。しかし、リーシャはサラの瞳の中に確かな物を見た。

 それが何なのかは解らないが、サラの中で何かが変化している事だけは、リーシャにも理解出来たのだ。

 

 

 

 先頭を歩く男が大きな扉の前に立ち、その扉に付いている金具を三回叩くと、中から二度叩く音が聞こえて来た。今度は、金具を一度叩くと、大きな音を立てながら扉が開き出す。

 扉が開ききり、中の様子が徐々に見えて来た。

 とても洞窟の中にある空間とは思えない調度品が並んではいるが、その中に居たのは十人にも満たない男達と、見た事のある筋肉質の大男だけだった。

 

「な、なんだてめぇら!?」

 

 扉を開けた男が、カミュたちの姿を見て、驚愕の声を発する。

 この扉は大きく厚い。

 故に、外での騒動が一切聞こえなかったのであろう。

 

「……カンダタに用がある……」

 

 ここまでの道を先導していた男を突き飛ばし、姿を露にしたカミュが、突き飛ばされて態勢を崩した男を斬り捨てる。

 衝撃的なカミュ達の登場に、後ろで笑い声を上げていた男達の視線が集まり、種類の違う喧騒が空間を支配し始めた。

 血飛沫を上げて倒れ込む男に、中に居た男達の瞳は鋭く尖り、カミュの後ろに控えているリーシャの表情は歪む。だが、そこに驚きはない。唯一人、最後尾から見ていたサラの瞳だけは、驚愕に開かれていた。

 

 そして、満を持したように、一人の大男が立ち上がる。

 

 再び対峙する、アリアハンの『勇者』とロマリアの『義賊』。

 この戦いが、一行に新たな変化を巻き起こす事となる。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

明日は更新できないと思います。
日曜日には必ず更新致します。

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~カンダタ~

 

 

 

 彼に親はいない。

 

 いや、人間として生を受けたからには、父親と母親は存在するのだろう。しかし、この男は、物心ついた頃にはスラム街でゴミを漁る生活をしていた。

 娼婦が客の子を身篭り、出産と共に捨てたのかもしれないし、魔物等に親を殺された孤児だったのかもしれない。ただ、彼が自我を持ち始めた時には、世界という枠組みは、彼にとってとても厳しい物だった。

 

 眠る場所もなく、廃屋や建物の影で眠り、昼間は町の人間が捨てたゴミを漁り食い繋いだ。

 その頃には、既に魔王の登場によって魔物が凶暴化しており、町には孤児があふれていた。

 国領にある町や村の孤児達へ手を差し伸べる国はなく、町の至る所で倒れ付す死体が転がり、空腹の為に身動きすらも出来ない子供達が壁に背をもたれて死んで行く有様。

 

 毎日毎日、その日を生きる為に、ゴミを漁り、物を盗んだ。

 町に出ては、人ごみに紛れて財布を盗み、店に並ぶ品物に手も掛けた。

 時には、同じ様に飢えに苦しむ子供と争い、叩きのめして食料を奪った事もある。

 そこまでの想いをして、彼は生き残って来たのだ。

 

 『俺は、何の為に生まれてきたのだろう?』

 

 そんな疑問を繰り返しながらも、空腹を訴える身体。幼い彼には、その訴えに応える為に、行動するしかなかったのだ。

 その内、碌な栄養も取っていないにも拘らず、彼の身体は年齢以上の成長を見せる。

 同年代の子供達から比べても、明らかな異質。

 身体は大きく、力も強い。

 そして、それは彼の食糧確保を容易にして行く。

 

 大人と争っても負ける事のない力。

 盗みを行い、捕まったとしても、それを振り払う事の出来る力。

 彼は、生まれながらの素養として、それを持っていたのだ。

 

「ほら、これを食えよ」

 

「えっ?」

 

 そして、彼は自分と同じ様に、スラム街で生きる子供達の分まで食料を調達するようになる。

 最初は、唯の気まぐれだった。たまたま、果物を売っている店から掴んだ物が一人で食すには多かっただけ。それを、寝床への帰り道の端で座り込んでいる子供に与えただけだった。

 

 それでも、与えられた側から見れば、彼は英雄となって行く。

 誰にも『優しさ』を受けた事のない孤児達が、初めて受けた『好意』。

 それは『感動』となり、『憧れ』に変わって行った。

 

「お兄ちゃん」

 

 次第に自分をそう呼び、ついて回る人間が増えて来る。

 そこで初めて、彼は自分に名がない事に気付くのだ。

 そして、彼は自ら己の名を名付けた。

 遥か昔に、貧しい者達の英雄となっていた義賊の名を。

 私腹を肥やす者達から私財を盗み、貧しい者達に分け与えたと云われる者の名を。

 

 その名は『カンダタ』

 

 

 

 

 

「また、おめぇらか……」

 

 椅子に座っていた大男が、ゆっくりと立ち上がり、カミュ達の方へと身体を向けた。

 カミュ達とカンダタとの間に、視界を遮る障害物はない。自然と、カミュとカンダタの二人の対峙という構図が出来上がって行く。

 

「……身代金目当ての誘拐か……アンタも落ちたな……」

 

「……」

 

 カンダタの目が細められる。カミュの顔に浮かぶのは、明らかな『失望』。それは、カミュがカンダタという人物を買っていた事を証明していた。

 しかし、カンダタの視線は、カミュの表情には向いていない。カミュ達と対峙した時、カンダタは驚きの余り、不覚にも声を上げそうになったのだ。

 それは、<シャンパーニの塔>で自分達を追い詰めた人間が現れたというようなものではない。いや、むしろそれは、カンダタ自身も何処かで予想していた事だった。

 彼が驚いた物は、そのようなものではなかったのだ。

 

 それは、カミュ達が纏う空気。

 先頭に立ち、自分をじっと見据える青年の顔は、あの塔で対峙した時とは比べ物にならない程に精悍な物に変わり、厳しく張り詰めた雰囲気を纏っている。そして、それなのにも拘わらず、何処か穏やかな印象すら受けるのだ。

 全てを否定し、刺々しい空気を纏っていた者ではない。とても強い意志を持つ男の顔。

 

 その後ろに控える女戦士の顔もまたカンダタを驚かせた。

 あの塔では、自身の誇りと何かに板ばさみになっているような、迷いが見えた瞳は、今は強い光を放っている。それは、単純な『怒り』という感情ではない。

 何かとても強く、そして深い信念に基づいた光。

 

 その足元にいる少女からは、長年『魔法使い』と対峙して来たカンダタでさえ、遭遇した事のないような魔力を感じる。

 本来、カンダタは魔法が使えない為、魔力を感じ得る事はない筈であるが、それでもこの身を刺すような危機感は、経験豊富なカンダタだからこそ理解出来る物なのかもしれない。

 

 最後に控えている僧侶。あの塔では、間違いなく一番足手まといになると考えた人間であった。

 それは今も変わりはない。ここで戦闘になれば、この僧侶が確実に足を引っ張るだろう。しかし、今はまだ揺らいでいる彼女の瞳の奥に、何かがある事はカンダタに見えていた。

 それが何なのかまでは理解出来なかったが。

 

「……悪いが、アンタ方にはここで死んでもらう……」

 

「……ほう……」

 

 先頭に立つ青年が持つ、抜き身の剣には、赤黒い血液が付着していた。

 自分の記憶にある一行との違いに驚きはしたが、瞬時に気持ちを切り替えたカンダタは、その剣に付着する物の意味を理解する。

 

「外の奴等を殺したのか?」

 

「……ああ……」

 

 カンダタの質問に、表情も変化させず返答するカミュ。

 その返答に、カンダタの目は、更に細められた。

 

「『人』を殺すなんて、僧侶様のする事とは思えねぇな?」

 

「!!」

 

 カンダタは、意図的に最後尾にいる人間に声をかける。

 予想通り、その少女は、カンダタの言葉に身を竦ませ、身体を強張らせた。

 一行の調和を崩すという目論見は成功したようだった。

 

「……外の連中を殺したのは、俺一人だが?」

 

「……そうか……」

 

 しかし、一人の青年の答えが、カンダタの目論見を粉砕する。

 そして、この時、カンダタは全てを悟った。

 この青年の『覚悟』を、そして『哀しみ』を。

 そして、この年若い青年に課せられた『使命』を。

 

 <シャンパーニの塔>で彼らを目撃した時、カンダタは彼らをロマリアからの討伐兵だと考えた。

 しかし、それにしてはパーティー編成が奇妙過ぎる。年若い、まだ少年と言って過言ではない青年が一人。その他は全て女。そして、その内一人は、明らかな幼子。

 そんな一行を不思議に思うよりも、カンダタは『ロマリアもここまで落ちたか』と考えた。

 しかし、剣を交えて、その考えは浅はかだった事を知る。

 彼らの実力は本物だった。

 青年の剣は、粗削りだが光る物があり、女性剣士の腕は、カンダタが相対したどの国の『騎士』よりも上だった。そして、幼子と思っていた子供が唱える魔法は、カンダタが見て来た『魔法使い』の中でも常軌を逸していたし、最も足手纏いだと思った僧侶の唱える補助魔法は気の抜けないものだった。

 

 故にカンダタは不思議に思ったのだ。

 『これ程の者達が、何故ロマリア等の下に付いているのか?』と。

 

「そうか……そういう事だったか」

 

 その謎が今解けた。

 彼らが再び自分の前に現れた事によって。

 ロマリアが雇った兵士だとすれば、この場に現れる訳がない。それを、海を渡ったのか、それとも山を登ったのかは知らないが、この東の大陸に姿を現したという事は、彼らは別の目的のために旅をし、その途中で依頼を受けたという事なのだろう。

 これ程の実力を備えた者達の旅。

 それは……

 

「……」

 

「まさか、お前みたいなガキがな……そりゃ、俺も歳を取る訳だ……」

 

 カンダタの自白のような言葉に、一同を取り巻く時間が止まる。彼の周りにいる部下までもが、カンダタが何を言い出したのか解らずに固まっていた。

 一度微かに笑ったカンダタは、再び顔を上げ、じりじりと立ち位置を動かして行く。明らかにカミュ達を警戒したようなその動きに、カミュ達もそれぞれの武器を構え、カンダタとある程度の距離を保ちながら、時計回りに立ち位置を動かして行った。

 カンダタの子分達は訳が分からないながらも、カンダタの大きな背中の後ろで同じように動いて行く。そして、その位置が最初の位置に比べ、180度変わった時、ようやくカンダタは動くのを止め、口を開いた。

 

「てめぇら……後ろの扉から逃げろ。」

 

「えっ!?」

 

 カンダタの言葉に後ろを移動していた子分達全員が呆気に取られた表情に変わる。天下の盗賊と言われ、数々の猛者を打ち破って来た自分達の棟梁が、突如として弱気な発言をしたのだ。

 カミュ達に警戒感を与えながら、移動したその先は、先程カミュ達が潜って来た扉。それは、この部屋の唯一の入り口であり出口でもある扉であった。

 カンダタはこの為だけに、ここまで移動を続けたのだ。

 

「……行け……」

 

「な、なんでだ? 俺達も一緒に戦う!」

 

 ハルバードを手に構えながら、振りかえる事なく指示を出すカンダタに、子分の一人が反論する。その声を切っ掛けに、子分達が次々と勇ましい言葉を口にした。

 しかし、子分達の頼もしい言葉にもカンダタは振り返らない。

 

「……今のコイツ達には、束になっても敵わねぇ。お前達はここから逃げ、盗賊家業から足を洗え。小さな農村にでも行けば、耕す土地ぐらい残っているだろうさ」

 

 今カンダタの後ろにいる部下は、全部で七人。それは、カンダタ一味の幹部であり、今では最後に残った一味。

 実際、<シャンパーニの塔>での出来事を切っ掛けに、カンダタ一味から離れる者が続出した。

 

 飛ぶ鳥を落とす勢いだったカンダタ一味は、一度の挫折もなく、国家を脅かす組織となったのだ。

 しかし、そんな一味がある一行に負けた。しかも、年若い女達と戦って負けたという噂が流れ始め、カンダタ一味はロマリア大陸でその権勢を著しく失ったのだ。

 そんな中、カンダタが根城としていたロマリアから、多くの兵団が討伐に出て来た。それは、昼も夜も関係なく、一味は次第に疲弊して行く。そうなれば、自分の欲の為に付いて来た者達、中でも『楽をして暮らして行きたい』と願っていた者達は、次々と一味を去って行った。

 

 夜逃げ同然に、朝にはいなくなっていた者。

 律儀にカンダタに話をして出て行った者。

 様々ではあったが、一味は全盛期の三分の一にも満たない数へと減って行った。

 残ったのは、カミュが殺したような、人を殺す事に快楽や愉悦を感じる者達。

 そして、今カンダタの後ろにいる幹部七人だけであった。

 

「今更、そりゃないだろ! 俺達は、ずっとアンタと一緒にやってきたんだ!」

 

「そうだ。罪を償う時は、一緒の筈だ」

 

 カンダタは、後ろから掛る言葉に、口元を緩めた。

 後ろにいる彼らこそ、彼が『カンダタ』という名を名乗る事になった原因。

 あのスラム街で自分の下に集まって来た最初の子分達。

 生きる為に物を盗み、生きる為に人を傷つけ、時には殺した事もある。

 それでも、皆でその罪を背負い、生きて行こうと決意した仲間だった。

 

「……お前らは、俺の子分だ。子分を護るのも、上にいる人間の務めだ。もう、俺達のような盗賊が生きて行ける時代は終わるんだ。これからは真っ当に生き、今までの罪を償って行きな」

 

「くっ!」

 

「俺達だって、あんたと同じだ。今更、真っ当に生きる事なんて出来やしない」

 

 カンダタの言葉の意味は理解出来ない。

 しかし、その『覚悟』は理解出来た。

 自分達が敬って来た男は、ここで死ぬつもりなのだと。

 

「!!」

 

「くっ!」

 

「……逃がすとでも思っているのか?」

 

 そんな主従の間に割って入って来る者。

 とても冷たく、抑揚のない瞳を持つ男。顔には血液が付着し、カンダタが手に持つハルバードで防いだその剣は、血と脂で異様な光を放っている。

 カンダタを斬りつけるというよりも、その後ろにいる子分達を標的としているような瞳に、子分達は言葉を失った。

 

「……逃がせないとでも思っているのか?」

 

「!!」

 

 カミュの剣を受けた態勢のまま、静かに言葉を紡いだカンダタは、そのハルバードを振り上げ、カミュの剣を上へと弾く。

 その力に剣と共に後ろへと弾かれたカミュの横から一陣の風が吹き抜ける。

 

 <鉄の斧>を構えたリーシャである。

 

 しかし、カミュを吹き飛ばしたカンダタは、その反動を利用し、ハルバードを大きく振り抜いた。

 回転と共に横合いに振り抜かれたハルバードは、駆け寄って来るリーシャの身体に向かって吸い込まれて行く。咄嗟の判断で、<鉄の盾>を構えたリーシャは、その盾でカンダタのハルバードを受け止めた。その威力で踏鞴を踏むが、吹き飛ばされも倒れもしないリーシャに、カンダタは若干の驚きの表情を見せる。

 

「やはり、腕を上げたみたいだな。お前ら! さっさと行け!」

 

 リーシャに少し微笑んだカンダタは、表情を戻した後に、後ろにいる子分達へと叫んだ。

 緊迫した空気に凍りついていた子分達は、その叫びに我に返り、眉尻を下げた表情のまま一度カンダタの背中を見つめた後、扉を抜けて駆けて行った。

 

「アイツ達は、汚れ仕事はしてねぇ。盗みはしたが、人は殺してねぇ」

 

「……そんな言い訳が通用すると思っている訳ではないだろう?」

 

 出て行く子分達を苦々しく見ていたカミュに、カンダタは言い訳のような言葉を発し、そんなカンダタをカミュは冷たく見下ろした。

 これ程に大きくなった組織の幹部が盗み以外をしていない訳がない。それが生きる為の自己防衛手段だとしても、人を傷つけ、人を殺める事があった筈なのだ。

 

「まぁな。だが、それは、お前達も同じだろうが」

 

「……俺だけだ……」

 

 例え、相手が盗賊であろうと『人殺し』は『人殺し』。

 そう言うカンダタに静かに答えたカミュの言葉に、カンダタは薄く微笑む。

 

 『こいつも同じ』

 

 罪を全て被ろうとする想い。

 それは、自分もこの年若い青年も同じなのだと。

 

「まさか、お前らのようなガキが、世界を救おうとする勇者様一行だとはな」

 

「……」

 

 カンダタは全てを察していた。

 カミュ達が『魔王討伐』という使命を受けて旅をしている事。それが『人』を救う為の旅である事。そして、その使命の『重み』にではなく、『意義』に対して苦しんでいるという事まで。

 

「お前が救う『人』の中には、俺達のような人間は入っていなかったという事か」

 

「何を言う! お前達のような人間が救われるか!」

 

 カミュの目を見ながら口を開いたカンダタに眉を顰めるカミュの代わりに、横合いからリーシャの言葉が飛んだ。

 カミュの想いを肌で感じ始めているリーシャにとって、カミュという若き『勇者』を盗賊等と同列に並べられる事は耐えられない屈辱であったのだ。しかし、当のリーシャ自身は、自身の怒りの根底にある想いには気付いていない。

 

「違いねぇ。だがな……国を担う人間達が救われるのも、俺からしてみりゃどうかと思うがな」

 

「なに!?」

 

 続いたカンダタの言葉に、リーシャは完全に頭に血が上った。

 宮廷に上がっていたリーシャにとって、決して良い思い出のない人間達ではあったが、それでも盗賊如きに名を辱められるという事が頭に血を上らせる。

 

 

 

 

 

 しかし、カンダタの言い分は的を射ていた。

 彼は、国に密やかな住処をも奪われた人間だからだ。

 

 その日の食料を盗み、奪って過ごした幼年時代を抜けたカンダタ達は、成長した後は、それぞれ些細ながらも仕事を始めた。それは、店番であったり、畑仕事の手伝いであったり、物運びだったりと様々であったが、日々の食料を手に入れるささやかな賃金を得ていたのだ。

 

 そんな穏やかな日々は、唐突に終わりを告げる。

 

「兄ちゃん! ここに兵士が入って来た!」

 

「ああ?」

 

 子分の一人が齎した情報。それは、このスラム街に国の兵士が入って来たという物だった。

 カンダタ達は、その日の食料を手に入れる為の金は日々の仕事で稼いではいたが、住処を調達するまでには至ってはいない。故に、彼らの住処はスラム街のままだった。

 身寄りのない子供達で固まって暮らす、数少ない屋根のある場所。そこは彼らにとって、唯一のオアシス。

 

 それが一瞬の内に消え去った。

 

 魔王登場により、国は疲弊して行く。

 疲弊すれば、その分割りを食うのは国民。

 そんな結末がこのスラム街であったのだが、国はそれを良しとはしなかった。

 

 国の象徴である城の麓である城下町では、スラム街の存在は他国に国の内情を晒す事になる。故に、まるでスラムに住む人間はロマリア国民ではないとでも言うように、排除に動き出したのだ。

 スラム街に入って来た兵士達は、スラム街にいる人間の性別は関係なく、城下町の外へと放り出す。その中で若い女がいれば『奴隷に』と引っ張って行き、抵抗する男がいれば、容赦なく刺し殺した。

 成長したとはいえ、まだ幼いカンダタ達になす術はなく、その行為を行う国の要人と兵士が魔物にさえ見えるものであったのだ。

 

 そして、ロマリア城下町にはスラム街が無くなった。

 

 町を追い出されたカンダタは、子分達を護る為に魔物と戦い、力をつけて行った。いつか来る復讐の時を待つように。

 その間に、『魔王討伐』という目標を掲げ、一人の青年がアリアハンを出立する。その噂を聞いたカンダタは、その青年が自分と変わらぬ歳である事を知り、鼻で笑っていた。

 

 『何の為に、誰の為に旅へ出るのか』と。

 

 国の要請で出立した英雄が護る物は、国の威信と要人達。

 そんな人間が世界を救ったところで、自分達のような人間に救いはない。

 案の定、その青年は途中で命を落とし、その援助の為に国庫からの財を吐き出した国は、更に国民を痛めつける。

 次第にカンダタの周りには、人が集まっていった。

 英雄では救えぬ、その手から零れた人間達が……

 

「仕方ねぇ。俺に付いてきな。俺らは『義賊』。弱い者の味方だ」

 

 自分を英雄とは思わない。

 英雄が救えない者を救おうと意気込む訳でもない。

 ただ、自分を頼りにして来る人間を切り捨てられなかった。

 

 そうして立ち上げた『カンダタ一味』。

 初めは、その意気込み通り、貴族や豪商を相手に盗みを行い、貧しい町で金を使い落して行く。だが、組織が膨れ上がって行く程、その想いは揺らぎ始め、見えなくなって行った。

 

 そして、ようやく晴らせた恨みの一つ。

 ロマリアの『金の冠』の強奪。

 それが、一味の衰退の始まりだった。

 

 肥大し、見えない隙間が生じていた組織が崩れるのは脆かった。

 カンダタが知らぬ商売を行う者達は多く、それを咎め粛清していった時、残ったのは最初から自分の傍にいる七人だけだったのだ。

 

 

 

 

 

「……アンタがどんな育ちで、どんな人間なのかに興味はない。ただ……全て、俺が背負おう……」

 

「……カミュ……」

 

「……カミュ様……」

 

 色々な想いを宿して発したカンダタの言葉は、彼の半分も生きていない青年が正面から受け止めた。

 その瞳に嘘はない。彼は、心からそう思っているのだろう。

 そして、カンダタは笑った。

 

「ふはははははっ! 俺達の命をお前が背負うのか!? その頼りない背でか?……お前の背に何が背負える?」

 

「……」

 

 カンダタは、問いかけるように、試すようにカミュを見つめる。

 カミュは黙して何も語らない。

 しかし、カンダタは解っていた。

 『既にこの青年は何かを背負い始めている』と。

 それは、おそらく彼の後ろにいる者達。

 そして、カンダタには見えない何か。

 それを背負い始めたこの青年は、これから先数多くの『無念』、『期待』、『希望』、『憎しみ』を背負って行くのだろう。

 その先にある自身の感情を押し込め、他人の感情を背負う。それがどれ程に哀しく、どれ程に苦しい物か。それをこの青年は既に知っているのかもしれない。

 何故かは解らないが、カンダタはそう感じた。

 

「……ありがとよ……じゃあ、始めようか」

 

「……ああ……」

 

 先程のカンダタの一撃で粉砕された机が無くなり、広々とした空間が広がった中で、カミュとカンダタが構えを取る。そこには、誰も入り込む事など出来はしなかった。

 例え、リーシャであろうと。

 

 英雄の手から零れた者達を必死で護り続けて来た『勇者』と、その英雄が救う事の出来なかった者達を救おうとする『勇者』の戦いが今始まる。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございます。

カンダタ一味の結末を描く前に、どうしてもこのカンダタという男を描きたかったんです。
「悪」として斬り捨てられる側の主張。
それは、決して許される事ではない。
それでも、立場によって善悪は異なる物。
そんな一幕を描きたく思いました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。



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アジトの洞窟(バハラタ東の洞窟)③

 

 

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 カンダタの振るうハルバードが、カミュの髪先を掠め、数本の髪の毛が宙を舞う。それでも、自分の渾身の一撃をかわされたカンダタは、驚きと共に盛大な舌打ちを鳴らした。

 リーシャの技量が上がっていると同様に、今カンダタと対峙しているカミュの技量もまた上がっているのだ。

 

「ふん!」

  

 力を込めた一撃をかわされ、身体が泳いだところをカミュの<鋼鉄の剣>が振り下ろされる。しかし、その剣は、ハルバードの柄によって防がれた。

 正に一進一退の攻防。

 カンダタは、この短い期間で自分の場所まで駆け上がって来た青年の成長の早さに驚く。対するカミュは、それでもまだ、この大男を超えられていない事に苦虫を噛み潰していた。

 

「そりゃ!」

 

 一瞬の隙を突いたカンダタの一撃が、<鋼鉄の剣>を持つカミュの右腕を切り裂く。

 飛び散る鮮血。

 それほど深くはない傷だが、その衝撃にカミュは剣を落としそうになる。そんなカミュの危機に動く一つの影。

 

「…………メ………!!………うぅぅ…………」

 

「……メルエ、駄目だ……」

 

 カミュの危機に、後ろで控えていた幼き少女が杖を振り翳した。しかし、詠唱を紡ぐその口は、その横に立つ女性戦士によって塞がれる事となる。

 これは、『勇者』同士の戦い。

 例え盗賊であろうと、仲間の命を護る為に戦うカンダタに、リーシャにも思うところがあったのだろう。今、この戦いに、割り込んではいけないと。

 自分の口を塞ぐリーシャに対して、メルエは疑問と若干の怒りを含めた瞳を向けるが、リーシャは静かに首を振る。この戦いは、見ているだけしか出来ないのだと。

 

「……ホイミ……」

 

「ちっ! そう言えば、回復魔法も使えるんだったな」

 

 カンダタと距離を取ったカミュが、右腕に左手を重ね詠唱を行う姿を見て、カンダタは忌々しげに舌打ちをした。

 淡い緑色の光がカミュの傷を癒して行く。血液が止まり、傷が塞がって行った。

 

「一撃で仕留めなければ駄目か」

 

「……易々とはさせないさ……」

 

 先程の表情とは全く違う笑みを浮かべたカンダタは、再びハルバードを高々と掲げた。

 カンダタの笑みを受け、カミュもまた薄い笑みを返す。

 

 『今日のカミュは良くしゃべる』

 

 そんな場違いの感想をサラは考えていた。

 まるで別世界のもののような『人』と『人』の殺し合い。その中で、笑みを浮かべ合う二人。そんな心情がサラには全く理解出来なかった。

 命のやり取りをしている中で、相手を気遣う余裕などサラにはない。

 『魔物を殺す事』

 唯、それだけを考えて、槍を振い、呪文を唱えて来た。

 そして、サラは硬直する。

 『カミュは、魔物を殺す時に、今の自分と同じ思いを抱いていたのではないのか?』と。

 抵抗感と拒絶感。それでいて、その行為を行う事を否定は出来ないという事実。そして、その行為を行わなければいけない立場に思い悩んだのではないか。

 

「余り時間をかけられねぇ。お前を()った後に、後ろの連中も()らなければいけないんでな」

 

「……」

 

 サラが思考に没頭している間に発したカンダタの一言は、周りの空気を凍らせた。その一言を耳にしたカミュの表情が変わったのだ。

 いや、変わったのではなく、失われたと言った方が正しいかもしれない。表情を失ったカミュが纏う空気もまた様変わりして行く。

 

「……良いねぇ……ようやく本気になったか? 迷うな! お前はもう既に決めている筈だ! 相手は俺だ……必死に護ってみろ!」

 

 カンダタのハルバードが再び振り抜かれる。その速度は常人ではかわせぬもの。

 しかし、もはやカミュとて常人の域からはみ出した存在。左腕に装備した<鉄の盾>によってその攻撃を受け止める。

 凄まじい衝撃を受けながらも、カミュの冷たい瞳がカンダタを射抜いた。

 

「……ギラ……」

 

 剣だけの勝負と考えていたリーシャ達は、カミュが詠唱を行った事に驚いた。

 唯一人、カンダタを除いて。

 

「おりゃぁぁぁぁ!」

 

 <ギラ>の熱風を身体に受けながらも、カンダタはハルバードを振り回す。本来ならば、対象の前に着弾し、炎の海を広げる<ギラ>という魔法を、自ら振るう武器によって吹き飛ばしたのだ。

 

「!!」

 

 余りの出来事に、カミュだけではなく、リーシャ達でさえ言葉を失っていた。

 カンダタの腕や顔には火傷こそあるが、死に至るような傷はない。魔法を使う者にとって、それが如何に尋常ではなく、如何に恐るべき事なのか、それをメルエもサラも感じていたのだ。

 

「さぁ、再開だ」

 

「!!」

 

 自分の前にあった熱風が霧散した事を確認したカンダタが、カミュに向かって突進して来た。その体格に似合わない速度に、カミュは虚を突かれた形となる。

 『武器を振われる』と<鉄の盾>を構えたカミュを嘲笑うかのように、カンダタは武器を振るわず、その肩を勢いそのままにカミュの腹部へとめり込ませた。

 

「ぐふっ!」

 

 一瞬、呼吸が出来なくなるような感覚に陥ったカミュは、そのまま後方の壁へ激突する。息を吸い込む事の出来ないカミュの目の前は火花が散ったような輝きを放ち、視界が奪われた。

 

「じゃあな、勇者様」

 

 視界の戻らないカミュの頭上に振り下ろされるハルバード。

 カミュが激突する瞬間に素早く駆け寄り、カンダタがその武器を振り上げていたのだ。

 対人の殺し合いに関しては、カンダタの方が経験は上。実戦という括りであれば、リーシャよりも上なのだろう。

 

「…………ヒャド…………」

 

「なに!?」

 

 確実に仕留めたと確信したカンダタは、周囲への意識を完全に飛ばしていた。

 先程から自分とこの青年の戦いに割り込んで来ないとは言え、彼らは仲間。その事を忘れる事はなかったのだ。しかし、勝ちを確信した時に、その注意が逸れてしまった。

 カミュの危機に、身体が動いてしまったリーシャの腕が自分の体から離れた事で、メルエは杖を振るったのだ。

 メルエにとってみれば、リーシャの考える矜持や、カミュとカンダタの誇り等、全く関係がないし、意味もない。自分の大切な人間が危機に陥っている。その理由だけで、自分が魔法を使う事に何の躊躇いもないのだ。

 

「くそっ」

 

 カンダタが振り下ろしたハルバードの刃の部分は凍り付き、冷気の衝撃を受けた軌道は横へとずれる。カミュの脳天に向かって振り下ろされたハルバードは、カミュの顔の横の壁に食い込まれた。

 目の前の火花が収まったカミュは、カンダタの腹を力一杯蹴り飛ばし、距離を取る。腹部に受けた衝撃で、壁から抜けたハルバードと共に後方へと下がるカンダタは、呼吸を整え、もう一度武器を構えた。

 

「……メルエ、ありがとう……だが、もう大丈夫だ」

 

「…………ん…………」

 

 未だに杖を構えるメルエの傍に近付いたカミュは、彼女を背に庇うように立ち、声をかける。それは、勝負の邪魔をした事への叱責ではなく、感謝の意を表す言葉。そのカミュの瞳はメルエには見えないが、感謝の言葉と共に吐き出したカミュの言葉が、これ以上のメルエの介入を認めない事を示唆している事にメルエも気がついた。

 それに、メルエも小さく頷いたのだ。

 

「ふははははっ! 参った、参った」

 

「……」

 

 そんな二人を遠くから見ていたカンダタは、盛大な笑い声を発する。それを見つめるカミュの瞳が再び変化した。

 しかし、それは先程のような凍りつく色ではなく、何かに燃えるような瞳。

 それが表すのは『決意』。

 先程の『怒り』とは異なる感情。

 

「よし、よし。それがお前の本気の目なんだな。別に全員でかかって来ても良いんだぞ?」

 

「……俺一人で十分だ……」

 

 カミュ達を侮るような言葉とは裏腹に、しっかりと構えを取るカンダタに向かってカミュは飛び出す。ハルバードによる迎撃に備えるように<鉄の盾>を構えながら突き出した剣は、カンダタの予想を遙かに超える速度だった。

 

「くっ!」

 

 カミュの剣がカンダタの頬を掠める。ぱっくりと切れた頬から流れ出る血液の色が、カミュやリーシャやサラと同じような人間である事を示していた。

 カミュの剣を辛うじて避けたカンダタは、カミュに向かってハルバードの柄を突き出す。

 振り回す時間はないと考えたのだろう。柄がカミュの顔面に直撃する前に、鈍い光沢を持つ盾がカミュの顔を覆い隠した。

 

「やぁぁぁぁぁ!」

 

 横薙ぎに震われる<鋼鉄の剣>。

 それをハルバードの刃で受け止めたカンダタは、今日何度目になるか分からない驚きの表情を浮かべた。

 

 『コイツは、戦いの中で成長している』

 

 カンダタがそう感じるのも無理はない。先程までのカミュであれば、カンダタは傷を受ける気はしなかった。

 後ろにいる三人が協力し、四対一の戦いであれば、カンダタに勝ち目は露ほどもないだろう。しかし、『カミュ一人であれば何とかなる』と考えていたカンダタの思惑は、今まさに崩れ去ろうとしていた。

 

「……カミュ……」

 

 それは、リーシャも同様だった。

 彼女は、カミュとカンダタでは、まだ実力が違うと思っていた。

 <シャンパーニの塔>でカンダタと戦ってから、自分達は様々な強敵と戦って来た。そして、その間も鍛錬を欠かした事などない。

 <ノアニール>の周辺では様々な魔物と戦い、<アッサラーム>周辺では巨大ざるとの戦闘で生き残り、<イシス>では護り人達との命のやり取りを切り抜けた。

 そして、カミュだけを見れば、再び<アッサラーム>に戻った時に、今まで見た事のない魔物も一振りで斬り倒した。

 それでも、対人という括りでは、カミュはまだカンダタに届かないと考えていたのだ。だが、それは間違いだったのかもしれない。

 カミュの成長の速度は凄まじい。それこそ、焦りを感じる程に。それは、リーシャの考えを大きく超える物だった。

 

「いやぁぁぁ!」

 

「くっ! くそっ!」

 

 珍しく声を張り上げて振るうカミュの剣は、その『覚悟』と『決意』と『想い』を乗せ、カンダタへと振るわれる。その剣の重さは、カンダタが今まで受けて来た攻撃の比ではなかった。

 それは、カンダタの気持ちの問題かもしれない。しかし、現にカミュの剣を受けているカンダタは、その攻撃を捌き切れなくなっていたのだ。

 剣を弾いて、ハルバードを振り上げた時には、カミュの次の剣が迫って来る。要するに、カンダタには攻撃に転じる時間がないのだ。

 矢継ぎ早に迫って来るカミュの突きを何度目かに弾いた後、自分の視界はカミュの手に覆われた。

 『しまった!』とカンダタが思う間もなく、手を広げたカミュの詠唱が完成する。

 

「ラリホー」

 

「!!」

 

 それは、以前メルエを救う為にサラが唱えた『経典』に記載されている魔法。

 相手の脳神経に作用し、強烈な睡魔に襲われる呪文。効果は相手によるが、不意打ちのように唱えられた魔法がカンダタの神経を蝕んで行く。

 カンダタは、以前カミュが唱えたような<メラ>や先程唱えた<ギラ>のような攻撃呪文だと思っていた。その思い込みがカンダタの運命を変えて行く。

 

「ふん!」

 

「ぐはっ!」

 

 <ラリホー>の効力によって、意識が朦朧とし始めたカンダタの肩に、<鋼鉄の剣>が突き刺さった。

 元来の筋肉質な身体によって、刃を途中で止めてはいるが、剣が深々と刺さっている限り、軽傷ではない。

 

「……終わりだ……」

 

 強烈な眠気と、怪我による意識の混濁の中、カンダタは膝を着いた自分目掛けて振り下ろされる血と脂で光る剣を見た。

 その瞬間、誰もがカンダタの最後を予測していた。

 顔を歪めるリーシャも、カミュのような感情の見えない瞳で見つめるメルエも。そして、カンダタ本人も。

 

 

 

 ギシィィ!

 

 しかし、それは、カミュの振り下ろす剣を受け止めた音によって破られた。

 カンダタを庇うように掲げられ盾。

 それは、以前はカミュの左腕に装着されていた物であり、カンダタの故郷である国の国王から賜った物。

 そして、その盾の現在の所有者は一人。

 

「……何をしている?」

 

「そ、それは……」

 

 カミュが冷たく見下ろす人物。

 それは、『人』を殺すという光景に言葉を失い、自分が望んだ未来が、その行為なくては成し得ない物である事に自分を見失っていた『僧侶』。

 そして、今までカミュとカンダタの戦いを茫然と見つめていたサラだった。

 

「ぐっ……な、なんだぁ?」

 

「う、動かないで下さい。それ以上は、死に至ります」

 

 朦朧とする意識の中、目の前に見える青色が何か分からずに声を出し、動こうとするカンダタをサラが押さえつける。それは、この盗賊の命を心配してのもの。

 

「……どけ……」

 

「ど、どきません! も、もう勝敗は決しました!」

 

 血と脂で光る剣を突き付け、冷やかに口を開くカミュの姿に、サラは気丈にも言葉を返す。その声は震えきっており、カミュという人物へ抱いている『恐怖』を如実に表していた。

 

「……サラ……」

 

「……」

 

 サラの気配にリーシャが気付いた時は、既にサラが駆け出した後だった。だが、初めから、リーシャはサラの行動を止める気はなかった。

 それは、バハラタの町で口にしている。

 今回の自分の役目は『見守る事』だけだと。

 

 メルエはよく解らない。

 カミュが剣を抜き、敵対している人物であれば、それは『悪い者』。

 カミュは自分に敵対する者にしか牙を剥かない。それは『魔物』であろうと『人』であろうと変わりはないのだ。

 故に、そんなカミュの敵を救おうとするサラの行動が解らない。

 

「……アンタは、何をしているのか理解しているのか?」

 

「そ、それは……」

 

 冷たく見下ろすカミュが持つ剣は、カンダタではなく、サラに向けられている。それが、サラの行為を糾弾している事を示していた。

 勝敗は決した、もはやカンダタはカミュへと反撃する力は残っていない。もし、カンダタがサラを人質に取ったとしても、カミュは容赦なく剣を振るうだろう。

 それ程の威圧感を放つカミュの瞳にサラは震えた。

 

「……ぐっ……嬢ちゃん、コイツの言う通りだ。退いてくれ」

 

「ど、どきません! もう良いではないですか!? そこまでして死ぬ事に意味があるのですか!?」

 

「……アンタが望んだ事だ……」

 

 ようやく戻って来た意識は、痛みをはっきりとカンダタの頭に届けて行く。痛みを堪えながらサラを押し退けようとするカンダタを、サラは再び抑え込んだ。

 そして、そんなサラの叫ぶような問いかけに、カミュの冷たい回答が響く。

 『目を背けるな』と。

 

「し、しかし、この人は部下に言いました。『真っ当に生きて、罪を償え』と。それならば、バハラタの町が襲われる可能性もない筈です!」

 

「……嬢ちゃん……」

 

「……アンタは、何も考えていないのだな……」

 

 サラの言葉に、驚いたように見上げるカンダタとは別に、カミュの瞳は変化して行った。

 それは、先程までの凍るような冷たい瞳ではなく、憐れむような瞳。

 哀しみを湛え、それでいてこの先に続く何かを見据えているような瞳だった。

 

「な、なにがですか!? 考えています。考えて、考えて、それでもこの人が死ぬ意味が見出せないから、ここにいるのです!」

 

「……サラ……」

 

 そんなカミュの変化が熱くなったサラには見えない。

 確かにサラは、カミュが『人』を殺した瞬間を目撃したその時から、自分が望んだ物や自分が想像していた未来に伴う『覚悟』と『リスク』を考えて、考えて、考え抜いた。

 しかし、それは、カミュから見ればまだ表面上で考えただけの物だった。

 

「……アンタは、それを背負う事が出来るのか?」

 

「は?」

 

 辛そうに歪めたカミュの顔を見て、サラは拍子の抜けた声を上げる。事実、カミュの言っている事が理解出来ない。それは、リーシャも同じだった。

 ここから先でカミュが語る内容は、リーシャにも解らないものだったのだ。それが理解出来ているのは、この場ではカミュと、そして当事者であるカンダタだけ。

 

「……おい……」

 

「……ああ……」

 

 カミュの視線を受け、カンダタは一つ頷いた。

 それが何を意味するのか。

 それがサラには解らない。

 

「バハラタの町長の娘を攫ったのは、前と同じように部下の独断なのか?」

 

「いや。あれは俺の命令だ」

 

「!!」

 

 サラは、もしかしたらとは思っていた。

 もしかして、またこの頭目は知らなかったのではないかと。

 

「……『義賊』が聞いて呆れるな……」

 

「違いねぇ。だが、今のこの一味には、その道しか残されていないのも事実だ」

 

 剣を突き出すカミュと、肩から血を流し続けるカンダタとの会話の先がサラには読めない。それが全て自分に向かってくる刃先になるとは思いもよらなかった。

 しかし、無情にもカミュの冷たい視線の矛先がサラへと移動する。身も竦むような瞳に、サラは再び息を飲んだ。

 

「……アンタは、こんな奴等を救ってどうするつもりだ?」

 

「そ、それでも……それでも殺す必要は……」

 

 カミュの目がもう一度サラへと向かう。

 その瞳には冷たい光はなく、もはや哀しみしか映し出されていなかった。

 

「……バハラタだけではない。コイツ達が犯して来た罪によって親を奪われた者や子を奪われた者もいただろう。自分の大事な者を殺された者も凌辱された者もいるだろう。アンタは、そういう人間に対して、どう申し開きをするつもりだ?」

 

「……そ、それは……」

 

 カミュが再び口を開いたその言葉は、サラの胸に大きな杭となって突き刺さった。

 考えた事もない事柄。

 『人』の命を救ってまで、受ける仕打ちにサラの頭は混乱して行く。

 ふと視線を向けると、リーシャまでもが唖然とした表情になっており、それを予想していなかったのは自分だけではない事を知るが、その足元で眉尻を下げてこちらを見つめるメルエの瞳を見て、サラは凄まじい衝撃を受けた。

 彼女もまた、カンダタ一味によって『酷い死』という未来へ進まなければならなかった一人なのである。

 

「……この男の首を俺達が持っていかなければ、カンダタという盗賊を逃がした事はすぐに広まるだろう。その後に待っているものは、『憎しみ』という対象を失った人間の視線だけだ」

 

「え?」

 

 そこで、カミュは一つ目を瞑った。

 カンダタという強敵も既に戦う力は残っていない為に出来る行動。

 そして、一つ溜息を吐いた後に呟くように出したカミュの言葉は、サラを奈落の底へと落して行った。

 

「……アンタが俺に向けていたような『憎しみ』だ……」

 

「!!」

 

「カ、カミュ!」

 

 自分の復讐の的である『魔物』という存在に慈悲をかけるカミュに、サラが感情的になっていた事は確かである。

 アリアハンを出てから、<シャンパーニの塔>辺りまで、『魔物』という諸悪の根源を見逃がすカミュに対し、サラは『憎悪』に近い感情を持った事もある。

 

 『これが勇者のする事か?』

 『何故、自分を苦しめた魔物に慈悲を与えるのか?』

 

 その想いは、『憎しみ』となってカミュへと向けられていた。

 その事実は、自分の中だけで消化していると思っていたサラは、その事実にカミュが気付いていた事に驚き、言葉を失う。

 そして、カミュが語る事実。

 『憎しみ』の対象になり得る物は、何も魔物だけではない。その対象が『人』である者もいるのだ。ならば、サラがその人間に対して行った慈悲の行為は、『憎しみ』を持つ者にとって許し難い事。

 それこそ、『憎悪』の念を抱く程に……

 

 サラの頭の中は、もはや混沌状態に陥っており、思考を止めざるを得なくなる。

 その結果、サラの口から出たのは感情論。

 

「そ、それでも……救いたいのです!」

 

「……その結果、アンタだけではなく、後ろの戦士やメルエまでもがその視線を受ける事になってまでもか?」

 

「!!」

 

 サラの思考が再開する。自分を糾弾しているだけに考えていたカミュの言葉は、後ろにいる二人の身まで気遣うものであった事に驚きよりも衝撃を受けたのだ。

 自分だけならまだしも、リーシャやメルエまでもが『憎しみ』の対象となる。その事実に、サラの胸は搔き乱された。

 

「……アンタにそれ程の『覚悟』があるのか?」

 

「……あ……あ……」

 

「嬢ちゃん、ありがとうよ。もう良い」

 

 最後の言葉と共に向けられたカミュの瞳に再び冷たい光が宿る。

 『覚悟』がないのなら出て来るなと。

 下がって見ていろと。

 

「……もう一度言う……今ならコイツを殺すだけで、全てが終わる。『殺人』という責を負うのも俺一人で足りる」

 

 カミュがもう一度剣を振り上げた。

 その剣を見上げたサラの目に光は失われている。

 そんなサラを哀しそうに見つめるリーシャ。

 そして、全てを受け入れるように右腕でサラをどかし、目を瞑るカンダタ。

 時間がゆっくりと流れて行った。

 

 

 

「待ってください!!」

 

 そんな緩やかに進む時間を破る叫び。

 それは、カンダタに再び覆い被さるように身を呈した僧侶から発せられた。

 

「サラ!」

 

「…………スカラ…………」

 

 もはや突き下ろされたカミュの剣は止まらない。

 叫ぶリーシャ。

 急遽、杖を掲げ呪文を唱えるメルエ。

 しかし、間に合わない。

 

「ぐっ!」

 

「はっ!」

 

 誰もが間に合わないと思った時、サラと剣の間に大男が割って入った。

 カミュの剣は、カンダタの肩を突き刺し、貫通する。致命傷ではないが、カミュの抉られた左肩の傷で朦朧とする意識を奪うには十分な物だった。

 

「あ、あ……ベ、ベホイミ……」

 

「……おい……」

 

 自分を庇うように肩に傷を受け、気を失ったカンダタに、サラは慌てたように<べホイミ>を唱える。サラの二の腕までも覆うような緑色の光は、以前にカミュを瀕死の状態から救い出したようにカンダタの傷を塞いで行った。

 そんなサラの後姿に、静かに剣を引いたカミュが声をかける。その声にびくりと身体を震わせたサラは、カミュの方を振り返らずにカンダタの治療に専念した。

 

「……何度も言わせるな……どけ……」

 

「……カミュ……サラ……」

 

 再度厳しい言葉を投げるカミュに、堪らず駆け寄ろうとしたリーシャの足が止まった。

 震える手でカンダタの傷を癒していた『僧侶』の瞳から溢れ出す物を見てしまったのだ。

 それは何を意味しているのかは解らない。それでも、リーシャは『今は自分が入る場面ではない』という事を理解した。

 

「……わかっています……わかっています!!」

 

「…………サラ…………」

 

 絞り出すように吐き出すサラの声。

 その声に、リーシャの足下からメルエが顔を出した。

 

「『人』も『エルフ』も……そして……そして、『魔物』も生きているという事も……その命が、掛け替えのない一つの命だという事も」

 

「……」

 

「……サラ……」

 

 淡い緑色の光に包まれながら絞り出すサラの声は、既に涙が混じった物だった。

 塞がって行くカンダタの傷口に、落ちて行く水滴。

 その背中をカミュは無言で見つめる。

 カミュの瞳からは先程までの威圧感は消えていた。しかし、何も感じていないような冷たさだけは未だに残っている。

 

「……私の信じて来た事が、この旅では全く通用しないという事も……」

 

「……」

 

 涙と共に吐き出されるサラの想い。

 それは、ここまでの旅で悩み続けた先で辿り着いた答え。

 認めたくはなく、認める事を拒み続けた答え。

 自分の全てを否定し、自分の存在意義となる根底までも揺るがす答え。

 サラはそこに到達していたのだ。

 

「それでも……それでも! 私は『人』を救いたい! 例え、その結果、『人』から恨まれる事になろうと……『人』から蔑まれようと……私は救える命を救いたいのです。『人』の可能性を信じたいのです」

 

 吐き出したサラの『決意』。

 それはとても尊く、とても儚い。

 そして、それはとても独善的でもある物。

 

「……アンタの独断で、メルエが同じように見られてもか?」

 

「……それは……」

 

 叫ぶサラの決意に、カミュが止めを刺す。

 それが一番サラの心を傷つけている事。

 自分の我儘で、幼いメルエを『憎しみ』の対象としてしまう事に。

 

「…………メルエ………大丈夫…………」

 

「……メルエ……」

 

 そんなサラの迷いは、サラの下へ歩み寄ったメルエの一言で、霧を払ったように晴れ渡った。

 メルエの顔に浮かぶのは『笑顔』。

 サラが何を心配しているのかを正確に理解している訳ではないだろう。それでも、メルエにとって、カミュとリーシャと、そしてこの悩める姉であるサラがいれば、それ以外はどうであっても良いのだ。

 

「……リーシャさん……」

 

「私も大丈夫だ。サラが考え抜いて出した答えだ。私はそれに従おう」

 

 そんなメルエの後方に移動して来たリーシャへ視線を送ると、この姉のように慕う女性戦士は強く厳しい瞳を向け、力強く頷いてくれた。

 残るは、最後の一人。

 今、自分に笑顔を向ける幼い少女を護るために、自分を糾弾した青年。

 

「……カミュ様……」

 

「……元々、俺はそういう存在だ……」

 

 見上げた青年の瞳に、もはや冷たい光は宿っていなかった。

 その光は、憐れみでも哀しみでもなく、強く優しい光。

 

「……カミュ様は、私に『思考がある分、人の方が厄介だ』とおっしゃいました。ですが、私は思考がある分、人は強いのだとも思うのです」

 

「……」

 

 カミュの瞳を真っ直ぐ見つめるサラの瞳はもう揺らがない。

 その瞳に宿る強い光。

 それは、『人を導く』という生業を持つ『僧侶』の光。

 本来、迷い、悩み、惑う人々を救い、そして道を指し示す者の宿す光。

 その光に、カミュは自然と微笑んだ。

 

「思考があるから、道を踏み外す事もありますが、やり直す事も出来ます。私は、そんな『人』の心を信じたい」

 

 それは、サラの素直な気持ち。

 そして、サラ自身の変化が齎した言葉だろう。

 『復讐』という念に駆られて動いていた自分自身を見つめ直した結果。

 もう、彼女の瞳は『憎悪』に燃えた炎を宿してはいない。

 

「……アンタが『覚悟』を決めたのなら、それで良い……」

 

「は、はい!」

 

 涙を振り払ったサラの瞳は、本来の慈しみを湛えていた。

 カミュの微笑みを受け、サラも精一杯の笑顔を見せる。

 これから待つ厳しい道を全て受け入れる慈愛の微笑みを。

 このパーティーを包み込む可能性を示す程の温かな微笑みを。

 それは、心を冷やしていた人間にも届いて行った。

 

「……ありがとうよ……精一杯、真っ当に生きて行くように努力する……」

 

「目が覚めたのですか!?」

 

 サラの腕から施される暖かな慈愛の光を受け、カンダタは目を覚ました。

 後半の言葉しか、彼は聞いてはいない。だが、自分はこの足手纏いと侮っていた少女に救われた事を知った。

 

「この! 『努力する』ではない! お前は、真っ当に生きなければならないんだ!」

 

 今まで、優しい瞳をサラに向けていたリーシャの目が吊り上がる。本当の優しさを持ったサラの心を受けて尚、真っ当に生きる事をしない可能性を口にするカンダタに怒りを覚えたのだ。

 

「サラの……私の妹の『決意』を無駄にするな!」

 

「……リーシャさん……」

 

「ふっ」

 

 リーシャの激昂に、サラは涙を流し、カミュは軽い微笑を浮かべる。

 メルエも『むっ』としたように頬を膨らませ、カンダタを睨んでいた。

 

「わ、わかった。必ず、アンタ方に後悔をさせないように、精一杯生き抜いてみるさ。俺が罪を償うのは、かなり後になってしまうようだな」

 

「……アンタへの『憎しみ』は、この僧侶が全て背負うそうだ……」

 

「ふぇ!?」

 

 貫かれた肩の傷も癒え、しっかりと動く手のひらを見つめながら、カンダタは呟いた。物を盗み、人を傷つけ、人を殺めて来たこの手で何が出来るのかと。

 そんなカンダタの自嘲の笑みは、剣に付く血糊を拭き終え、剣を背中に収め終わったカミュが口を開く事によって、驚きへと変わった。

 突然の言葉に、サラは素っ頓狂な声を上げ、リーシャは軽い笑みを浮かべる。メルエは、自分の肩から掛る水筒から出した水で濡らした布をカミュへと渡し、顔に付いた血痕を拭き取るように促していた。

 

「ふっ……ふははははっ! ありがとうよ。このカンダタ。死ぬ気で生き抜いて見せるさ」

 

「何だそれは。随分矛盾した話だな」

 

「……アンタがそれを言うのか?」

 

 今までこの男が犯した罪の全てが許される訳ではない。それでも、カンダタは救われた気がした。

 この『人間』達が救う世界ならば、きっと弱い者も救われる世の中なのかもしれない。現に彼らは、国家が殲滅できなかった、弱い者の脅威である『カンダタ一味』をたった四人で壊滅させたのだ。

 

 『生きて罪を償おう』

 

 カミュの呆れたような溜息を受けて、怒りを露にするリーシャを見ながら、カンダタの胸に新たな希望が宿る。

 『この者達の為にも、恥じぬ一生を終えよう』と。

 どれ程の困難にぶつかろうと、どれ程の苦難が待っていようと、今この時から、カンダタに『立ち止まる』という選択肢は残されてはいない。

 

「……アンタ達が歩む道に幸あらん事を……」

 

「……」

 

 立ち上がったカンダタは、一度カミュ達に深々と頭を下げた。

 そんなカンダタの様子に誰一人口を開く事なく、同じような視線を向ける。

 顔を上げたカンダタは、カミュ達の瞳を見て、もう一度微笑んだ。

 

「……もう会う事はないかもしれねぇ。それでも、俺はアンタ方の無事を祈り、どこかで必死に生きて行く事を誓う」

 

「……」

 

「が、頑張ってください!」

 

 カンダタの誓いに何も返さないカミュの代わりに口を開いたサラの言葉は、どこかずれた物であり、くすくすと笑うリーシャを一睨みするサラの表情に、この部屋に入って来た時のような迷いはない。

 『じゃあな』という軽い別れの言葉を残し、カンダタは部屋を出て行った。

 

 彼のこの先の人生は、決して平坦な道ではない。

 むしろ、今まで歩んできた道よりも険しく、過酷な道なのかもしれない。

 それでも、もう道を踏み外す事はないだろう。

 サラはそう信じて疑わなかった。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

これにてカンダタ編終了です。
第五章はあと一話あります。

ご意見、ご感想をありがとうございます。


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バハラタの町②

 

 

 

 一行が洞窟の外へと出た時には、既に陽も傾き、西の空へと沈みきる寸前であった。地平線に微かに顔を出している太陽が、周囲を一日の最後を告げる真っ赤な光で照らし出し、カミュ達が進む森の中をも燃えるような赤に染め上げている。

 リーシャの手を握りながら歩くメルエは、反対の手で何度も目を擦りながら眠気を必死に我慢していた。その様子に柔らかに微笑むリーシャ。そして、迷いが晴れたような、晴れやかな顔で見つめるサラ。

 そんな和やかで優しい空気が流れる中、先頭を歩くカミュの表情だけは、いつも通り厳しい物だった。

 それは、何も周囲を警戒しているというだけの物ではないのだろう。彼ら四人に待ち受けている物の厳しさ、そして辛さは、この寡黙な青年にしかわからない。

 十数年、その視線に耐え、そしてそれでも前を向いて歩いて来たこの青年にしか……

 

「あの二人は、無事にバハラタに辿り着けたでしょうか……」

 

「うん?……この辺りで姿を見ないんだ。陽が落ちる前に町へと辿り着けたのではないか?」

 

 森の中を歩き続けながら、ふと思いついたように口を開いたサラの言葉に、リーシャが周囲を見回しながら答えた。それは、酷く冷たいように感じる答えであったが、実際、当の本人達が『自力で帰る』といった以上、リーシャ達に今更どうする事が出来る訳でもない。

 

「……他人の心配をしている暇はないようだ……」

 

「!!」

 

 サラとリーシャの会話に割り込んできたカミュの呟きに、サラとリーシャは身構えた。例の如く、カミュが背中の剣に手を掛けた。戦闘の合図である。

 どれ程に悩んでいようと、何かを考えていようと、戦闘となれば、彼女達の目は勇者に同道する者へと変わって行くのだ。

 

「サラ! メルエを頼む!」

 

「は、はい!」

 

 眠そうに目を擦っているメルエの手をサラに委ねたリーシャも、背中に縛りつけてある<鉄の斧>の紐を解く。カミュが背中の剣を完全に抜き放った時、その魔物は現れた。

 その姿は見覚えのある物。

 特にリーシャにとっては、苦い思い出も付加された姿だった。

 

「ま、また<きのこ>か!?」

 

「……まだあれを食すつもりなのか?」

 

 出て来た魔物の姿に、リーシャは身構えていた身体の緊張を緩め、呆然とした声を上げるが、カミュの呆れた溜息交じりの言葉に、鋭く吊り上った瞳を向けた。

 リーシャの瞳は吊り目がちな瞳。

 それが更に細められれば、大抵の者は身を固くするのだが、このアリアハンの勇者には通用はしなかった。

 

<マージマタンゴ>

ノアニール西の洞窟で遭遇した<マタンゴ>の上位種であり、おばけきのこの最上位種に当たる魔物である。同じ様な<甘い息>という特性も持ちながら、それ以外の固有の技も使う魔物であり、この周辺では要注意の魔物として伝えられている。

 

 その<マージマタンゴ>が二体。

 そして、<おおありくい>のような姿をした<アントベア>が一体。

 魔物の群れとしてはそれ程多い訳ではないが、初めて遭遇する魔物に対し、緊迫した空気が流れた。

 

「はぁ!」

 

 先行したのはリーシャ。

 <鉄の斧>を構え、魔物に突進して行く中、何か突発的な事があっても良いように、左手にはしっかりと<鉄の盾>を構えていた。

 

「#%3“*」

 

 リーシャが自分に向かって来た事を確認した<マージマタンゴ>は人語ではない何かを発する。それは、奇声にも近い叫びであった。

 しかし、リーシャとて、ここまでの旅で数え切れない程の魔物と対峙し、淘汰して来た。故に、その奇声が何を示すのかを感じ取り、咄嗟に足を止めて盾を掲げる。

 

「くっ!」

 

「あ、あれは……」

 

 サラは、リーシャの掲げる<鉄の盾>を襲う現象に驚く。

 それは、メルエが得意とし、最も使用頻度が高い魔法。

 対象を強い冷気が襲い、凍らせてしまう魔法<ヒャド>だったのだ。

 冷気を受けた<鉄の盾>は、完全に凍結する事はなかったが、周辺の気温を一気に下げ、所々霜を下ろしたように白くなった盾を構えるリーシャの息をも白く変化させる。

 

「下がれ!」

 

「#%3“*」

 

 カミュの叫びと、残るもう一体の<マージマタンゴ>の奇声が同時に響いた。

 手に持つのも厳しい程に冷たく冷え切った盾を下げた所にもう一度の詠唱。

 リーシャの吐く息が凍り付き始める。

 

「メルエ!」

 

「…………ん…………メラミ…………」

 

 その時、後方に控えるサラの声が聞こえ、それに応えた幼い少女の杖が光る。サラという守役の許可を得たメルエの詠唱と共に、その杖から大岩程の火球が飛び出し、リーシャに向かって奇声を上げた<マージマタンゴ>を襲った。

 

「くっ!」

 

 凍りつく戦士の横を通り過ぎる火球の熱によって、盾を包む霜は溶け、リーシャの周りの空気も熱を戻し始める。

 しかし、それは『魔物』でなくとも脅威な程の熱量。自分の頬を掠めるほどの熱気に、リーシャはたまらず横へと転がった。

 

「ウキャ―――――――――――!!」

 

 耳障りな奇声を発し、<マージマタンゴ>は火球に飲み込まれ、瞬時にその身を焼かれて行く。残ったのは、地面に焼き付けられた<マージマタンゴ>であったであろう影。

 太陽が差さない夜にも拘らず、メルエの杖から飛び出した巨大な火球が発する光によって作られた影は高熱によって地面へと焼き付けられたのだ。

 

「――――――――――」

 

 余りの光景に呆然と立ち尽くす魔物達は、その光景を作り出した少女が手に持つ杖を自分達へ向けている事に気が付くと、我を忘れて逃げ出した。

 

「…………ん…………メ……」

 

「メルエ! もう大丈夫です。これ以上は魔法を唱える必要はありません」

 

 もう一度詠唱を始めたメルエを、その司令官であるサラが止めた。

 逃げ出す魔物と、自分の杖を手で下ろそうとするサラを見比べたメルエは、一度小首を傾げた後、静かに頷きを返す。

 魔物を故意的に逃がす事。それは、昔のサラでは考えられない事だった。

 

「……」

 

 魔物の姿が見えなくなるまで、見送ったサラの表情は厳しい。

 頭では解っているつもりだ。

 しかし、心がまだ付いては行っていない。

 

 『命』は『命』

 

 だが、もし、サラの目の前で『人』を食す魔物がいたら、彼女はそれも『生きるための食事』と割り切る事が出来るのか。

 答えは『否』。

 おそらくサラがこの世に生き続ける限り、そのような割り切りは出来ないだろう。

 

 『全ての人を護りたい』

 

 しかし、その願いを強く思えば思う程、『人』以外の種族へと目が向いてしまう。

 何も、生きているのが『人』だけではない事を、この旅でサラは嫌というほど知る事となった。故に、『ただ<人>だけが良ければ良いのか?』という疑問がサラの頭の中から離れないのだ。

 

「…………ん…………」

 

「あ、は、はい! 凄いですね、メルエは」

 

 考えに落ちていたサラを、帽子を取って頭を突き出して来るメルエが現実へと戻す。

 気持ち良さそうにサラの手を受けるこの幼い少女は、物の善悪にまだ疎い。おそらく、カミュ達が敵として認識したからこそ呪文を唱え、信頼しているサラが止めるから杖を下げたに過ぎないのだ。

 この小さな少女に物の善悪を教える時、どのように教えれば良いのかが今のサラには分からない。

 アリアハンを出た当初であれば、迷いなく妄信的に信じていた事を教えただろう。だが、今は自分ですら迷っている事柄を教える事に抵抗感があるのだ。

 

「メルエ、良くやった……だが……サラ! どういうつもりだ!」

 

 そんな悩みを抱えながらメルエの頭を撫でていたサラの方向へ、前線に向かっていた二人が戻って来る。しかも、その内の一人は、見るからな怒気を隠しもせずにサラへと向けていた。

 

「えっ!?」

 

「『えっ!?』ではない! 私を殺すつもりか!?」

 

 メルエの<メラミ>という魔法の行使するタイミングをサラに委ねたのはリーシャ。しかし、今の戦いにおいては、そのタイミングが極めて微妙であった事は明白だった。

 自分の頬を掠めて行った<メラミ>に心底肝を冷やしたリーシャは、その焦りを怒りへと変えてサラへとぶつけていたのだった。

 

「えっ!? あ、いえ。そんなつもりは……ただ……」

 

「ただ……なんだ!?」

 

 口籠るサラに掴みかからんばかりに近寄って来るリーシャに若干怯え、後ろへと後ずさりながらサラは口を開く。

 リーシャの後ろでカミュの表情も厳しい物であった事から、緊迫した場面である事が理解出来るにも拘らず、サラの口から出た言葉は一同を唖然とさせた。

 

「い、いえ……メルエの放つ<メラミ>の威力なら、凍り付いたリーシャさんの盾や身体も溶かしてくれるかなと……」

 

 サラがその言葉を発したときのカミュの表情は見物だった。

 『本気で言っているのか?』とでも言う様な唖然とした表情。

 

「……その前に……消えて無くなってしまうだろ!」

 

「はぅっ!」

 

 一瞬サラの言っている意味が理解出来なかったリーシャは、暫し呆然としていたが、ゆっくりと頭の中が明瞭になって行くと共に、小さく肩を震わし、そして叫んだ。

 リーシャの心からの叫びは、夜の森に木霊し、びくりと身体を震わせたメルエは、カミュの下へと大急ぎで逃げ出した。

 そして、静寂の戻った森に、リーシャの制裁を受けるサラの叫びが再び木霊する。

 

 

 

 一行が<バハラタ>の町に辿り着いた時には、もう周辺には月の光しかない夜中であった町の灯りも消え失せ、宿屋が灯す光だけが残っている。町へと入った一行は、そのまま宿屋へと向かった。

 

「ああ、いらっしゃい。昨日と同じ部屋で良いかい?」

 

 宿屋のカウンターで、うつらうつらと舟を漕いでいた主人から部屋のカギをもらい、適当に湯浴みなどをした後、サラとメルエは食事を取る事もなく眠りに付いた。

 二人にとって、この日は忘れられない物になるだろう。

 サラは当然としても、メルエもまた、『人』が死んで逝くのを目の当たりにしたのだ。

 自分の義母であるアンジェの死を目の前で見てはいるが、自分が慕う人間が犯した事項がその死とは違い、決して許されない事である事は既に学んでいる。幼く、色々な事を学んでいる途中のメルエにとっても、その心の中では色々な葛藤があるのだろう。

 二人の寝顔を見ながら、リーシャは考え続けた。

 窓からは綺麗な月明かりが入って来ている。

 月明かりに照らし出されたリーシャの表情はとても暗い。

 

 『自分達の進んでいる道は正しい道なのか?』

 

 そんな疑問がリーシャの頭に浮かんでは消えて行く。

 『魔王討伐』というまだ見果てぬ道程。そこへと向かって、ひたすらに歩んでいる筈が、自分達はかなりの回り道をしているようにも思える。

 盗賊に国王の証を盗まれた王の依頼によって盗賊と戦い、『エルフ』という異なった種族の手によって眠りに付いた村を救う為に、洞窟も彷徨った。

 世界の英雄である『オルテガ』という人物の軌跡を追うために砂漠の王国に入り、その国宝であるカギを取る為に歴史的建造物を探索し、その王国の過去のしがらみをも取り除いた。

 そして、盗賊の被害に苦しむ町一つを救う為に、再び盗賊と対峙もした。

 

「……これも、アイツが『勇者』であるが故か……」

 

 そんな独り言を呟きながら、リーシャは外へと出て行った。

 騒ぐ胸の中の焦燥感を取り払う為に。

 

 

 

 

 

「また月を見上げているのか?」

 

 そして、リーシャは再び出会うのだ。

 自分達が、『冷酷』で『無関心』だと考えていた人物の『悩み』と『苦しみ』に。

 

「……また、アンタか……」

 

「またとは何だ!? 失礼な奴だな」

 

 世界を救う『勇者』として、人間の希望として歩み出した青年は、一人月を見上げていた。

 星達が輝く中、大地を明るく照らす月を見上げるカミュを見た時、リーシャは何故か涙が溢れ出そうになってしまう。

 それが何故だかはわからない。

 ただ、カミュのその姿がとても哀しく、そして儚かったのだ。

 

「……後悔しているのか?」

 

 カミュの横へと立ち、同じ様に月を見上げたリーシャがぼそりと呟く。

 その言葉が示すのは、あの洞窟内での事。

 

「……いや……」

 

「!!」

 

 視線をカミュへと戻したリーシャは確かに見た。

 暫し返事に窮したカミュが、視線を落とし、自分の右手を眺めている姿を。

 その時、この心優しき女性戦士は全てを悟ったのだ。

 カミュの言葉を信じるのであれば、彼は今まで人を殺した事はない。

 <シャンパーニの塔>で、彼が殺したといって良い程の事はして来た。

 だが、それでも彼等はまだ生きていたのだ。

 

 そして、今回のケースと全く違う部分。

 それは、カミュの感情であろう。

 <シャンパーニ>の時のカミュにあったのは、明確な『怒り』。

 しかし、今回は覚悟の上の『殺意』だった。

 人を殺す事を自覚した上での物。

 

「なっ!」

 

「胸に何でも抱え込むな……この旅を歩むのは、何もお前だけではない」

 

 この年若い『勇者』の苦悩を悟った時、リーシャの身体は意識せずに動いていた。

 自分よりも年下のこの青年は、何もかもを抱え込む。

 まるで、それが自分の存在意義だというように。

 まるで、自分がその為だけに生かされているとでも言うように。

 故に、リーシャは青年を抱きしめた。

 

「既に、お前が歩む道は、私が歩む道だ。それはこの先も変わらない。お前が背負う物を共に背負おう」

 

「……」

 

 リーシャの頬を涙が伝う。

 この青年の背に圧し掛かっている大きな責任に。

 そして、それを誰にも背負わせまいとする、その大きな心に。

 

 『何故、自分は気付けなかったのだ』

 『何故、アリアハンは彼一人に背負わせたのだ』と。

 

 二人を照らしていた月が、流れてきた雲によって隠れた。

 暫しの間、お互いの姿さえ見えない暗闇が辺りを満たして行く。

 

 

 

「……そろそろ離して欲しいのだが……」

 

「はっ!? す、すまない……」

 

 雲が流れ、再び月が顔を出した頃、ようやくカミュが口を開いた。

 カミュの言葉に、今自分が強く抱いている存在に気が付き、改めて自分が何をしたのかを認識したリーシャは、慌てたようにカミュから腕を離し、目を泳がせる。そんなリーシャに対し、小さな微笑みを浮かべたカミュを見た時、リーシャの胸にある想いが浮かんだ。

 

 『この青年こそ<月>なのだ』

 

 人々が寝静まり、誰も見る事のない場所で輝く月のように、彼もまた人知れぬ場所で輝く者。

 そして、人が見ようとはしない場所で、苦しみ、悩み、それでも前へ進もうとする者の道を静かに照らし出す者。

 その光は、目を向ける事の出来ない程の眩しさではない。それでも、温かく、そしてとても静かに輝く光。

 それがカミュという『勇者』なのだろう。

 

 リーシャの憧れていたオルテガという人間は、『太陽』のような存在であった。

 眩いばかりに輝き、全ての人々にその熱を伝える程の光を放つ者。それは正に『英雄』の定義。

 『英雄』と『勇者』の違いが、リーシャには明確には解らない。それでも対極的な存在にも拘わらず、その存在の強さに変わりはない。

 太陽が必要であるのと同じように、月もまた必要なのだ。

 

「……」

 

 自分と同じ存在のような『月』を再び見上げるカミュの横顔をリーシャは見つめる。

 そして、心に誓うのだ。

 

 『私は太陽となろう』

 

 カミュは、オルテガでは照らし出す事の出来なかった者達の道を、静かな光で照らして行く。

 ならば、自分は、その『月』の帰り道を明るく照らし出してやろう。

 彼が背負う物によって凍えそうな時には、その心を溶かす光を降り注いでやろう。

 メルエという小さな太陽と共に、この青年に光と熱を届けようと。

 

「明日はどこへ向かうんだ?」

 

「……宿屋で話を聞いていた筈だが?」

 

 降り注ぐ月光ののように静かな時間が流れる中、淡い光を受けたカミュの横顔を見ながらリーシャは口を開いた。

 月から視線を外したカミュは、小さな溜息を吐き出しながらリーシャの問いかけに答える。

 

「ならば、<ダーマ>へ向かうのか?」

 

 実は、宿屋で部屋に向かう一行は、一人の旅人とすれ違った。その時の旅人の話の中にあったある名前を聞いた瞬間、疲れ切っていたサラの顔が上がったのだ。

 それは、彼女のような『僧侶』にとって、神聖な場所。

 

<ダーマの神殿>

『精霊ルビス』に最も近い場所として、ルビス教の聖地とされている神殿。長い年月の修行を終えた僧侶が最後に辿り着くと伝えられている場所。そこにいる『教皇』と呼ばれる人間が、ルビス教徒の頂点に位置する者と云われていた。別名『転職を司る者』と謳われるその人物は、人間の中に眠っている才能を掘り起こし、その人間に別の道をも示す事が出来る程の力を持っていると云われている。ただ、長い歴史の中で、<ダーマの神殿>の存在は知っていても、実際に辿り着ける者はおらず、半ば伝説となっていた。

 

 旅人の話によれば、このバハラタの遥か北にある山を登りきったその先に神殿があると言うのだ。

 実際、その旅人が辿り着いた訳ではない為、その信憑性は限りなく低い。それでも、その話を耳にしたサラの瞳は輝かんばかりに見開かれ、何かを期待するような眼差しでカミュを射抜いていた。

 それをリーシャは思い出したのだ。

 

「……実際に存在するかどうかは怪しい。だが、行かないと言う選択肢があるとは思えないが……」

 

「ふふふ。そうだな。あれだけサラが期待しているんだ。その真偽だけでも確かめなければな」

 

 カミュが行き先を決めるという事に対し、サラの意見を尊重した事が、リーシャには可笑しかった。それは、嫌な物ではなく、何処か微笑ましい物ではあったのだ。

 故に、リーシャは微笑む。いつの間にか『仲間』として起動し始めているこの一行の歩む道の先に希望を見出して。

 

「ならば、もう寝ろ。明日も早くから出立するのだろ?」

 

「……ああ……」

 

 リーシャの問いかけに、頷いたカミュの返事の歯切れが悪い。

 その事に、リーシャは少し嫌な空気を感じた。

 

「何かあるのか?」

 

「……いや……」

 

 歯切れ悪く否定するカミュを一睨みすると、溜息を一つ吐いたカミュが、重い口を開いた。

 それはとても厳しく、そしてとても優しい物。

 カミュの瞳を見たリーシャは、その表情を再び引き締め、次に続く言葉を待った。

 

「明日、アンタ方は、今まで受けた事のない物を目の当たりにするだろう……」

 

「……カミュ……」

 

 今、カミュの口から漏れたもの。それは、おそらくあの洞窟内で、カミュがサラへと警告したあの視線。

 『憎しみ』に近い『嫌悪』。

 それは、もはや『憎悪』と呼んでも差し支えない程の物。

 そして、この年若い『勇者』が十数年間受け続けて来た物である。

 

「心配するな。私も『負』の感情を受けて育って来たのだ」

 

「……」

 

 カミュの心を理解したリーシャが、重苦しい雰囲気を払うように、胸を張って答えるが、カミュは視線をリーシャに向けたまま何も語らない。

 その瞳にあるのは、『哀しみ』と『憐れみ』。

 その辛さとその厳しさの本当の意味を知らない者への視線であった。

 

「……わかっている……お前が受けて来た物に比べれば、私が感じて来た物など児戯に等しいだろう……」

 

「……」

 

 カミュの視線を受け、一度顔を伏せたリーシャは、再び視線をカミュと合わせるために顔を上げた。

 その瞳にある物は『決意』の炎。

 哀しみを宿すカミュの瞳を真っ向から受け止めて尚、前へと進む者の瞳。

 

「だがな……だが、お前が歩む道を私も歩む。お前が悩み、苦しむ時は、私も共に悩もう。そして、お前が辿り着くその先を私は見届ける。それが私の『使命』だ」

 

「……」

 

 再び顔を上げたリーシャが発した言葉に、カミュは一瞬目を見開いた。

 ここまでの十数年間、ここまで真っ直ぐにカミュという存在を見た者はいなかった。

 誰一人、カミュをカミュとして見た者もおらず、ましてやカミュの心に踏み入ろうとした者もいない。

 

「……くっくっ……」

 

「な、なんだ?」

 

 呆気に取られたような表情を浮かべていたカミュが、突如として笑い出す。何かを押し殺すような笑いに、リーシャは戸惑った。

 そして、それは次のカミュの言葉で焦りへと変わって行く。

 

「……くくっ……まるで、婚姻の誓いのようだな……」

 

「なっ!? な、なに!? ち、違うぞ!」

 

 今まで見た事のないような、心から楽しそうに笑うカミュに驚くよりも、先程自分の口から出た言葉を思い出した事による焦りが勝ってしまったリーシャは、夜中にも拘らず大声を上げて否定を繰り返す。

 暫し、笑い続けるカミュに、苛立って来たリーシャが掴みかかろうとした時、ようやくカミュは笑いを納め、踵を返し宿屋へと歩き出した。

 やり場のない怒りの矛先を失ったリーシャは、憮然とした表情を浮かべ、カミュの背に向かって声をかける。

 

「私は良い。サラも大丈夫だ。ただ、メルエだけは、お前が護るんだ」

 

「……わかっている……」

 

 リーシャの言葉に振り返ったカミュの表情は、いつものような無表情に戻っている。しっかりとリーシャの瞳を見つめ、大きく頷いたカミュは、振り返る事なく宿屋へと向かって行った。

 リーシャも、もう一度だけ、この世界の夜を照らす月を見上げてから宿屋へと戻って行く。

 優しく静かな月の光は、宿屋へと続く道を照らし、二人が宿屋に入った後に雲に隠れた。

 

 

 

 

 

 サラは上機嫌で身支度を整えていた。

 今朝、目を覚ましたサラに、リーシャが継げた言葉。

 

 『次の目的地は<ダーマ>だ』

 

 このバハラタで『黒胡椒』という物を手に入れる事が出来たのならば、もはやポルトガへ戻り、船を手に入れるべきである事は明白である。それでも、自分の願いを聞き入れ、<ダーマの神殿>へと進路を取ってくれた事に感謝すると共に、まだ見ぬ聖地への期待が胸に膨らんで来ていたのだ。

 未だに眠そうに目を擦っているメルエが顔を洗うのを手伝ってやり、服を着せてやる。

 『一刻も早く、<ダーマ>へ向かいたい』

 そんな気持ちが滲み出ているように動くサラを見て、メルエは頻りに小首を傾げていた。

 

「……あ……ありがとうございました……」

 

 しかし、そんなサラの弾んだ胸は、宿屋の主人の挨拶を見た瞬間に萎んで行った。

 身支度を整えたサラとメルエを見て、リーシャはそのまま宿屋を出る事をサラに告げる。

 今まで、朝食を取ってから出立するのが通常であったが、今朝は朝陽が昇る前という訳ではない。それでも、直ぐに宿屋を離れようとするカミュとリーシャに、サラは違和感を覚えたのだ。

 それも、宿屋の一階に下りた瞬間に分かった。

 サラの景色が一変していたのだ。

 

「……」

 

 宿屋に宿泊していた者達の視線。

 宿屋の主人の怯えたような作り笑い。

 全てが、サラの知らない景色。

 

「……メルエ……」

 

「…………ん…………」

 

 余りにも様変わりした町の風景に呆然としていたサラの耳に、メルエを呼ぶカミュの声が入って来る。慌てて視線を移すと、カミュがマントを広げてメルエを中へと誘っていた。

 それは、まるで何かからメルエという大切な者を護るような姿。

 サラの身体に嫌な空気が纏まり付き始めた。カミュが何からメルエを護っているのか。それが解らないサラではない。

 宿屋のラウンジの四方八方から突き刺さる視線を受けながら、サラは宿屋の外へと駆け出した。

 そこは『別世界』だった……

 

「……これが、アンタの選んだ道だ……」

 

「はっ!? カ、カミュ様」

 

 町に出たサラが見たもの。

 それは賑わいとは掛け離れた町の風景。

 まるで珍獣でも見るように寄り添いながら宿屋の出口を見ている女達。

 『怒り』とそれ以上の『恐怖』を瞳に宿らせながら、宿屋を囲むように散らばっている男達。その腰には、それぞれ種類は違うが、皆武器を携帯していた。

 おそらく、グプタとタニアがこの町に辿り着いた時に、一部始終を町の人間に話したのだろう。カミュが盗賊とはいえ、『人』を容赦なく切り刻み、死に至らしめた事。

 そして、その死体が流し続ける血液の中を平然と立ち、次の殺人を犯して行った事。

 もしかすると、グプタとタニアは、洞窟から出て森を歩いている途中で、洞窟から出て来る盗賊らしき人間を見たのかもしれない。

 自分達を苦しめた盗賊達は殺したい程に憎い。故に、それを見逃した人間達に強い疑念と怒りが湧いて来たのだろう。

 だが、自分達で抗い、その盗賊達を殺す事は出来ない。それは、自分達の心の中に、色々な抵抗感があるから故に。

 

 『人を殺しても良いのか?』

 『自分達を苦しめた盗賊であるが、この盗賊達にも家族がいるのでは?』

 『人が流す血液、死に至る傷口から溢れ出す様々な物を見たくはない』

 

 そんな人々の中に存在する迷いや恐怖。

 それは『人』であれば、当然の物。故に、その上で『人』を殺すという行為をする者を必然的に恐れる。

 そして、理解出来ない物として同じ様に括るのだ。

 今のカミュ達は、カンダタ一味のような盗賊と同類。

 『人』を殺す事を厭わず、ましてやその様な外道に情けを掛けた者。

 それが今、町の人間達の持つ、勇者一行の評価なのだ。

 

「……そ、そんな……」

 

 覚悟はしていた。

 カミュがあの洞窟で言っていた事を理解もしていた。

 だが、それはやはり現実感のない物だったのだ。

 今、自分に向けられている視線。

 それは、とても『人』が『人』に向けるような物ではない。

 孤児として、汚い物を見るような視線を受けた事は何度もある。

 それこそ、そのような視線の中で育ったと言っても過言ではない。

 だが、これは別格だった。

 

「サラ! これがサラの決意の先にある光景だ。だが、これが『人』の全てではない事をサラは知っている筈だ。サラの信じる『人の強さ』とは、それ程に脆い物なのか?」

 

「はっ!?」

 

 俯きそうになる顔を、強引に持ち上げられたようだった。

 サラの横に立ち、周囲の男共に警戒の瞳を向けるリーシャは、サラに厳しい言葉を投げかける。

 『人の弱さ』と『人の強さ』は別なのだと。

 

「い、いえ!」

 

 サラはこの旅で、数多くの『人の弱さ』を見て来た。しかし、それと同時に、数は少ないかもしれないが『人の強さ』も見て来たのだ。

 

 国敵・神敵となろうとも、誰も恨まず、世の行く末を案じた老人。

 死して尚、霊魂となっても自分の友を護る少女。

 そんな心優しい少女を失いながらも、真実を受け止め、前を向いて歩く男。

 例え、町で一人になろうとも、町を救う為に残った老人。

 祖母によって実の母を殺されたにも拘らず、最後には国の為に立ち上がり、王となった女性。

 そして、その罪を悔い、全てを受け入れた老婆。

 受けていた使命があるにも拘らず、他領である町の住民を救う為に立ち向かい勇敢に戦った兵士。

 そして、養女として引き取った娘を虐待し続けた事を悔い、苦しみ抜いた末、最後には身を挺して少女の命を救った女性。

 その全ては、サラの中に確かな柱となっている。

 

「さあ、前を向け! サラの決意した道が間違った物であるとは、ここにいる誰もが思っていはいない」

 

「…………」

 

 リーシャの言葉によって、再び顔を上げたサラの目に、カミュのマントの中から少し顔を出したメルエの笑顔が映る。

 『大丈夫』とでも言うように、優しい笑顔を向けるメルエの表情を見て、サラの瞳が涙で潤んだ。

 

「は、はい」

 

「よし。さあ、カミュ、行こう」

 

 涙で滲んだ瞳のまま、大きく頷いたサラを見て、リーシャがカミュへと出発の合図を送る。その言葉に一つ頷いたカミュは、周囲を警戒しながらも、この町で唯一つの『胡椒屋』へと足を進めた。

 小さなメルエを護るように歩くカミュ。その後をサラが続き、そして、サラを護るようにリーシャが歩く。それは、魔物への警戒と同じ程の慎重さであった。

 リーシャに向かって力強く頷いたサラではあったが、内心は複雑だった。

 『人』と『魔物』が同等の存在である事を認め始めている自分に対しての想い。それを頭では理解し始めている。心でも納得し始めてしまっている。

 だが、心の奥底に未だに棲み付いている、幼いサラの心がそれを拒んでもいるのだ。

 

「…………サラ…………?」

 

「はっ!? だ、大丈夫ですよ。さあ、行きましょう。」

 

 一人考え込むサラを心配そうに見つめるメルエの視線に気づき、サラは自分の気を奮い立たせるように、メルエへの決まり文句を口にする。

 サラは、メルエに対して『大丈夫』と口にすれば、『大丈夫』にしなければならない責任を負う。

 逆に、それを利用しなければ、再びサラは迷走し始める危険性もあったのだ。

 

 

 

「あ、貴方達は……」

 

 黒胡椒を販売している店の中に入ると、一行が救った男がカウンターに立っていた。

 グプタは、先頭で店に入って来たカミュの顔を見るや否や、引き攣った表情へと変わり、言葉を詰まらせる。それは、恐怖なのか、それとも何かに対する負い目なのか。

 

「……『黒胡椒』が欲しいのだが……」

 

「……」

 

 カミュの発言にも、口を開いたまま動かないグプタに、彼の中に残る大きな衝撃をサラは改めて思い知った。

 その瞳に浮かぶのは怯え。

 それはとても、自分達を救ってくれた『勇者』へ向けるものではない。

 

「ひっ!」

 

 そんなグプタの姿を茫然と見つめていたサラの耳に、陶器の割れる音と、女性の短い悲鳴が飛び込んで来る。そちらに目を向けると、予想通りの人物がカミュ達を見て立ち尽くしていた。

 サラ達が自分たちの立場を犠牲にしてまでも救った女性、タニアである。

 

「……」

 

 二人の姿を見て、カミュが吐いた溜息に、再び二人は身体をびくりと震わした。

 それが、もはや二人に話をしても無駄だという事を示していた。

 

「……悪いが、店主を呼んでくれないか?」

 

「て、店主は私です」

 

 カミュの言葉に、若干腹を立てたかのように、グプタは口籠りながら反論を返した。その態度に、サラは、グプタが決して自分達に良い感情を持っていない事を知る。

 サラの胸に広がる何とも言えない『哀しみ』。

 

「わ、私達は、お爺ちゃんからこの店を譲り受けたんです」

 

「……では、町長はどこだ?」

 

「ひっ!」

 

 グプタとタニアが向ける感情は、カミュにとって十数年間受け続けた物。リーシャやサラのように心に衝撃を受ける程の物ではない。

 しかし、カミュは何故か怒りを覚えた。それが何故なのかは、おそらく理解してはいないのだろう。ただ、感情を吐き出すように低い声で尋ねるカミュの迫力に、グプタとタニアは再び短い悲鳴を上げた。

 

「お、お爺ちゃんなら……せ、聖なる川の……方です……」

 

 カミュの冷たい瞳に呑まれてしまったように、操り人形の如く話すタニアの言葉を聞き、カミュは踵を返す。カミュが店外へと出て行く事で、若干空気を和らげた二人であったが、やはりその根本は変わってはいない。それはつまり、リーシャやサラに対しても程度は違うとしても、同様の感情を持っている事を示していた。

 

「行こう、サラ」

 

「は、はい」

 

 リーシャの促しに、釈然としない想いを持ったまま、サラは店を後にする。それが、自分が選んだ道であったとしても、やはり二人の瞳に映る物が受け入れ難かったのだ。

 

 

 

 カミュを追って、<聖なる川>と呼ばれる、この村の第二の象徴とも言える川へとリーシャ達が辿り着いた時、既にカミュはそこに立つ一人の老人と相対していた。

 

「すまない……本当にすまない……」

 

 リーシャとサラが近付いた時に聞こえて来たのは、繰り返される老人の謝罪。

 言葉と共に、深々とカミュへと頭を下げ、何度も何度も謝罪を繰り返す老人を見て、サラの頭は混乱し始める。

 

「……当然の事でしょう……」

 

「それでも……それでも……」

 

 冷たい瞳で老人を見下ろすカミュ。それでも、この町の長たるこの老人は、何かを言おうとして、涙に言葉を詰まらせる。 

 リーシャは、そのやり取りで、老人の心中を察した。

 

「……『黒胡椒』は、この革袋一杯に入れております。お代はいりません。孫娘を救ってくれた礼と、せめてもの罪滅ぼしに……」

 

 顔を上げた老人の瞳は涙で滲んでいた。

 しかし、その瞳にある光はとても強い。

 それは、このバハラタという巨大都市の長としての瞳。

 

「……」

 

「……どうぞ……」

 

 『勇者』と『自治都市の王』の瞳が交差する。

 一瞬の間の出来事ではあるが、その短い時間で、彼等の会話は終了した。

 

「……わかりました。有り難く頂き、早々に町を出ましょう……」

 

「……申し訳ない……」

 

 口を開いたカミュの言葉に、サラは言葉を失った。

 それは、カミュの言葉だけではなく、その言葉を否定せずに謝罪する老人に対しても驚きを隠せなかったのだ。

 彼は、タニアという娘の祖父である前に、この巨大商業都市<バハラタ>の長でもある。実際には、彼だけはカミュ達が行った事の本当の意味を理解しているのだろう。

 盗賊の根絶やしがこの町を救う唯一つの方法であったという事を。

 故に、グプタとタニアの話を聞いても、その行為を咎める事はなく、『殺人』という大罪まで犯しながらも町を救おうとした人間が、敢えて盗賊の棟梁を逃がした事の意味も理解したのだ。

 だが、彼のような経験豊富な人間は少ない。それをこの老人は知っていた。

 この<バハラタ>という町は、盗賊という脅威を無くし、再び動き出そうとしている。やっと落ち着きを取り戻そうとする町民の心を再び掻き乱す事が得策ではない事を考え、小を切り捨てる決意をしたに過ぎないのだ。

 

「……ただ、申し訳ないが、その『黒胡椒』は預かっていて欲しい……」

 

「は?」

 

 最善の道を模索し、それを受け入れられたことに胸を撫で下ろしていた老人は、カミュの申し出に引き攣った顔を上げた。

 カミュの申し出が、自分の思惑から大きく離れていく物だったのだ。

 

「……我々は、このままある場所に行き、そして戻って来ます。その時にそれを受け取らせて欲しい……」

 

「で、では、再びこの町に訪れるという事ですか?」

 

 老人の表情に焦りが浮かぶ。出来る事ならば、カミュ達には、二度とこの町に足を踏み入れて欲しくはない。

 それが、この町の長たる老人の願いなのだろう。

 

「……カミュ……」

 

「……」

 

 その老人の気持ちは、後ろに控える二人にも確かに伝わっていた。

 リーシャは、昨日カミュが月を見上げながら呟いた事の本当の意味を知り、サラは自分が選んだ道の本当の険しさを知った。

 確かに『人』は救われた。

 だが、それは受け入れられない。

 それが、サラが選び、三人が認めた道。

 

「……承知しました……ただ、これは店ではなく、私の家で預からせてもらいます。できますれば……」

 

「わかっています。再び訪れる際は、月が昇る頃にお伺い致します」

 

 カミュの変わらぬ視線を受け、老人は静かに頷く。そして、続けようとした言葉に、カミュが被せたものを聞き、安堵の溜息を吐いた。

 もう一度深々と頭を下げた老人は、革袋を持ち、町へと戻って行く。その後姿を見ながら、サラの気持ちは再び落ち込んで行った。

 『自分の選択は本当に正しかったのか』と。

 

「……カミュ様……」

 

 そして、彼女は問いかける。

 自分が信じ始めている『勇者』という存在に。

 

「……あれは、俺の行為に対する物だ。アンタが気にする物ではない……」

 

 だが、返って来たのは、たった一言。

 今の老人の対応は、『殺人』という罪を犯した自分が受ける物だと。

 それは、自分の役目だという一言。

 しかし、サラは気付いている。

 それだけではないという事を。

 

「……アンタは『覚悟』を決めた筈だ。この先の旅で、その『覚悟』が変わらない限り、この視線から逃れる事は出来ない。それでも……いや、いい」

 

「……カミュ……」

 

 何かを言いかけ、そしてカミュは言葉を飲み込んだ。

 そんなカミュを、リーシャは哀し気に見つめる。

 

「わたしは……」

 

 そして、カミュの問いかけの意味を理解したサラは、再び口籠もる。あれだけ心を決め、そしてカミュへと啖呵を切った筈なのに、いざその悪意と言っても過言ではない物を受けた途端に、その『決意』が萎んで行く。

 そんな自分の心が、醜く、情けないものに感じ、サラは何も言えなくなってしまった。

 

「……カミュ……」

 

「……俺が知っている『僧侶』という存在は、自分の枠内だけで考えるような人間ばかりだった」

 

「え?」

 

 再び俯いてしまったサラを見て、リーシャはカミュへと視線を送る。その視線を受けたカミュが、一つ溜息を吐いた後に語り始めた内容は、サラの理解が追いつけないものであった。

 

「……アンタの考えは甘い……」

 

「うっ……」

 

 カミュが何を言おうとしているのか解らないサラは、追い討ちのようなその言葉に、言葉を詰まらせ、再び俯いてしまう。しかし、カミュの言葉は、サラを糾弾する為の物ではなかった。

 リーシャには何故かそれが理解出来た。

 彼が口にしようとしている物は、サラを再び動かす程の言葉。

 そう感じていたのだ。

 

「だが、甘いからこそ救われた者も、俺達の手の中にいるはずだ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュが言葉と共に開いたマントの中から、顔を出したのはメルエ。

 救い出したのはカミュであるが、実質救おうとしたのはサラ。

 サラの想いがなければ、そのまま奴隷として命を落としたであろう少女。

 

「アンタは感謝をされる為に、メルエを救ったのか?」

 

「い、いえ!」

 

 カミュの突然の言葉に、サラは反射的に首を振った。

 メルエを救う時は無我夢中だった。それが、後に自分を苦しめる事になったが、あの時カミュに言った言葉は、サラの本心からの言葉。

 

「アンタの想いを誰一人理解しなくとも、そこの戦士とメルエが知っている」

 

「……カミュ様……」

 

 その言葉を最後に、カミュは歩き出した。

 その背中を呆然と見つめるサラの背中を、リーシャが優しく叩く。

 リーシャの顔を見上げ、一つ頷いたサラも歩き出した。

 

 

 

 彼等の歩く道は、険しく、そして果てしない。

 誰一人見定める事は叶わず、そして、誰一人理解する事の出来ない道。

 この『遥かなる旅路』の先にある物を誰も知る事は出来ない。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにて第五章は終了です。
この後、いつもの「勇者一行装備品一覧」と、ここまで出て来たサブキャラの注釈を入れようと思っています。

さぁ、ダーマです!

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行 装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

意図せずに出くわす場面の一つ一つが、この青年であるが故の『必然』という事実が、彼が『勇者』である事を証明し始めている。

 

【年齢】:16歳

既にアリアハンを出てから、一年の時が経過しようとしている。

 

【装備品】

頭):サークレット

 

胴):鋼鉄の鎧

 

盾):鉄の盾

 

武器):鋼鉄の剣

その剣の腕は、着実に進歩している。鍛錬の相手であるリーシャもまた、飛躍的にその力量を伸ばしている事から、本人は気付いてはいないが、既に『人』としての枠から外れ始めている。

 

所持魔法):メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

 

 

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

騎士としての誇りや、戦士としての矜持よりも大切な物を、その瞳に宿し始めている。戦士としての力量は、既に『人』としての枠を超えている事に気付いている。

 

【年齢】:不明

 

【装備】

頭):鉄兜

 

胴):鋼鉄の鎧

 

盾):鉄の盾

自分の身だけでなく、仲間の命も救った<青銅の盾>は原型を把握できない程に破損し、ポルトガの町で新調した。

 

武器):鉄の斧

通常、斬るというよりも叩き割るという使い方が正しい斧ではあるが、日々の手入れのためか、この刃先は鋭く、魔物の硬い皮膚や体毛なども容易く斬り裂く。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:僧侶

『人の業』に悩む心優しき僧侶。遂に、自己の中にある魔物への復讐という念を乗り越え始めた。この世界で生きている者が、人だけではない事を認め、それでも人を救いたいと願う。人の弱さを見せられ続けながらも、その中にある人の強さを信じ、前へと進んで行く。

 

【年齢】:18歳

 

【装備】

頭):鉄兜

鉄兜の上から、僧侶帽を被る形で装備している。

 

胴):みかわしの服

みかわしの服の上から法衣に付いている十字の刺繍がある前掛けを下げている。

 

盾):うろこの盾

鉄の盾へと装備を変えたカミュから譲り受けた物。本来は、ロマリア宝物庫に保管されていた貴重な品であり、カミュの鋼鉄の剣での一撃を防ぐ程の防御力を持つ。

 

武器):鉄の槍

 

所持魔法):ホイミ

      ニフラム

      ルカニ

      ルカナン

      マヌーサ

      キアリー

      ピオリム  

      バギ   

      ラリホー

      ベホイミ

      マホトーン

      

 

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

その魔法力は規格外であり、もはや普通の暮らしをする事が困難な程の異常性を持つ。

 

【年齢】:7,8歳

身長などは7,8歳にしては小さな方で、知識や行動も幼い事から、もしかするとそれ以下の年齢なのかもしれない。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):アンの服

みかわしの服と同じ素材で出来た服。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。

持ち主によって、その形状を変える盾。

また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

 

武器):魔道師の杖

    毒針

 

所持魔法):メラ

      ヒャド

      スカラ

      スクルト

      ルーラ

      リレミト

      ギラ

      イオ  

      ベギラマ

      メラミ

 

 

 



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※登場人物一覧(サブ)

 

 

※登場人物一覧(サブ)

 

 

【名前】オルテガ

 

【素性】アリアハンの英雄

 

アリアハン国宮廷騎士だった父を持ち、幼い頃から武術を習う。成長して行く中で、戦士以上の力を有し、剣の腕も並ぶ者なき程までに成長する。また、魔法力もその身体に宿しており、呪文も行使出来たと云われていた。アリアハン国の命を受け、幼さの残る妻と生まれたばかりの子供を置いて、単身『魔王討伐』の旅へと出立するが、その一年後に、魔物との戦闘に於いて、戦死したとされている。

 

 

 

【名前】ニーナ

 

【素性】オルテガの妻 カミュの母

 

『魔王討伐』に出る前に、修行のため諸国を旅していたオルテガと出会い恋に落ちる。まだ、二十歳にも満たない歳でオルテガへと嫁ぎ、その間にカミュを授かった。『魔王討伐』へと出る夫を止める事が出来なかった事を未だに悔やんではいるが、自分の仕事は子のカミュを立派な『勇者』に育て上げ、愛するオルテガの跡を継ぎ、『魔王討伐』を成し遂げさせる事だと考えている節がある。

 

 

 

【名前】オルテナ

 

【素性】オルテガの父 カミュの祖父

 

若い頃はアリアハン宮廷騎士として、その名を知らぬ者はいない程の実力を有していた。宮廷騎士隊長の打診を再三断り続け、一兵士であり続けた。その理由は『前線に立てなくなる』という物で、根っからの『戦士』の一面を持つ。英雄となったオルテガを誇りに思っており、その後、アリアハンからオルテガの功績を無にされた事に憤りを感じていた。跡継ぎとなるカミュに対して過剰なまでの過酷な修練を積ませ、その汚名を返上しようと考えている。

 

 

 

【名前】バコタ

 

【素性】盗賊

 

アリアハン随一の盗賊と謳われた者。元は、アリアハン国領にある<レーベの村>にある鍛冶屋の息子であった。自身の叔父に当たる職人が、大陸を結ぶ橋の土台を作成した事により、国敵とされた事で不遇の幼少時代を送る。その中で、偶然作成してしまった『盗賊のカギ』を持ち、アリアハン大陸の富裕層の家へと入り、窃盗を行い始めた。最後は、一度のヘマによってアジトを嗅ぎ付けられ、アリアハンからの討伐隊に捕縛される。その際に、妻と子をアリアハン兵士に虐殺され、その翌年、刑の執行と共に斬首され、短い人生の幕を下ろした。

 

 

 

【名前】トルド

 

【素性】カザーブの村の道具屋

 

カザーブの村で道具屋を営む夫婦の間に生を受ける。商売に関して非凡な才能を見せ始めた頃に、オルテガ急死の報を受けたロマリア国からの重税によって、商売のやり方に苦悩し始めた。ロマリア国領内に、カンダタ一味という盗賊が出没し始めた事により、その一味が落とす資金に目をつけ、一味を村へ入れる事を提言した。最初は渋っていた村の住民であったが、その恩恵が確かな物だという事が解ると、積極的に一味への商売を始め、村はある程度の潤いを見せ始める。だが、盗賊というならず者を信用しすぎ、自身の妻と子を失う事となった。

 

 

 

【名前】アン

 

【素性】トルドの娘

 

カザーブの村で道具屋を営むトルドと、村でも評判な美人との間に生まれる。両親に似て、とても頭がよく、明るく活発な少女であったが、教会からの帰宅途中に、母親と共にカンダタ一味に攫われ、目の前で母親が陵辱され、殺されるのを目の当たりにした後、狩りと証した一味の賭けの対象として殺される。無念を残し、殺された森の中で母と共に彷徨い続けていたが、自分を見る事の出来るメルエと出会い、最後はそのメルエに自分が見る事の叶わなかった未来を『花冠』と共に託す。

 

 

 

【名前】アン

 

【素性】エルフの女王の娘

 

人間よりも古い歴史を持つ一族であるエルフを纏める長の娘として生を受ける。隠れ里にひっそりと暮らす事に疑問を持ち続け、自分に対して母親としてではなく、女王として接する母親にも疑念を持っていた。それらへのささやかな抵抗でもあった、里の外へ出るという悪戯の延長で、人間であるギルバードと出会い恋に落ちる。それを咎められて監禁されるが、僅かな隙を縫い、エルフの秘宝である『夢見るルビー』を盗み出し、ギルバードと駆け落ち同然でノアニールへと逃げて行く事になった。だが、結婚を切り出す際にアンの素性を話した事がキッカケで、人間達から迫害を受け、村をも追い出される事となる。行き場を失った二人は、西にある洞窟内に逃げ込み、最後には母親から受けてきた愛情と、譲り受けて来た誇りを胸に静かに息を引き取った。

 

 

 

【名前】ギルバード

 

【素性】ノアニールの村に住む若者

 

ノアニールに住む普通の青年。エルフの隠れ里のある森に入っていた事から、アンと出会う。エルフという先入観を植え付けられていながらも、その本質を見る目を持っており、次第に女性としてのアンと恋に落ちて行った。種族の隔たりを気にする事もなく、生きる時間の違うアンと添い遂げる事を決意するが、それも叶わず、最後はアンと共に、西の洞窟で永遠の眠りに就く。

 

 

 

【名前】アンジェ

 

【素性】元踊り子 メルエの義母

 

元は、アッサラームにある劇場でNO.1を争う程の踊り子だった。自分のファンであった男と恋に落ちるが、その男との間に子が出来ない事に悩んでいる時に、偶然劇場前で捨てられていたメルエを拾う事になる。懸命にメルエの世話をし、その愛情は確かな物であったが、男の裏切りによってその人生は大きく狂って行った。毎日酒を煽り、その男を繋ぎとめる為に拾って来たメルエに対し虐待を行うようになる。そして、最終的に僅かな金の為にメルエを奴隷商人へと売り飛ばすが、その時に見せたメルエの瞳と叫びがアンジェの心に釘のように突き刺さった。日々、後悔と悲しみ、そしてそういう自分を許せない気持ちと戦い続けながら生きて来たが、諦めていたメルエと共に現れたカミュ達を見て、疾うの昔に訪れていた自分の幸せと、それを自ら手放した事を悟る。最後は魔物に襲われるメルエを身を呈して護り、自分が大切にしていた髪飾りを娘へと託して生涯を終えた。

 

 

 

【名前】アンリ

 

【素性】イシス国女王

 

女性の国であるイシスの正当後継者。母である先代女王の突然の死によって、急遽即位する形になるが、年が幼いという理由で、実権は祖母である老婆が握っていた。母の死に疑問を持っている中で、突然の出来事に戸惑い、悩み、最後には絶望する。ある夜に、突如目の前に現れた、正当後継者の証である『星降る腕輪』を手にした瞬間に、魂だけの存在となった母親と再会する事になる。そこで聞かされた事実に、アンリの絶望は色濃い物となって行った。そんな前へ進む事の出来なかった日々の中で訪れたカミュ達一行の姿が、彼女の中に宿る女王としての血脈を覚醒させる事となる。女性としての自分と女王としての自分の狭間に揺れながらも、最後には気丈に女王としての役目を果たし、名実共にイシス国女王として君臨する事となった。同じ様に、絶望と諦めを瞳に宿しながらも前へと進むカミュに複雑な想いを持っている。

 

 

 

【名前】ノルド

 

【素性】ホビット族の英雄であるバーンの末裔

 

ロマリア王国やイシス国、ポルトガ国等がある西の大陸とバハラタ等がある東の大陸を隔てる険しい山脈を抜ける抜け道を掘ったホビットであったバーンの末裔。そのホビット族としては異端な怪力に、ホビット族からも畏怖の念を持たれ孤立して行く。一人で祖先の残した抜け道を護る為に洞窟で暮していく内に、その洞窟を訪れた人間に見つかり、そこでも異種族の恐ろしい視線を受ける事になった。自分以外の生物を誰も信じる事が出来なくなった頃に、次期ポルトガ国王である青年と出会い、自身の中に生まれ始めていた価値観が大きく変貌して行く事となる。

 

 

 

【名前】グプタ

 

【素性】バハラタの町に一軒しかない『黒胡椒屋』の丁稚奉公

 

貧しい家庭に生まれ、一攫千金を夢見てバハラタを訪れ、その町で一軒しかない『黒胡椒』という特産を取り扱う店に修行に入る。いつか町を出て自分の店をという夢を追いかけ、懸命に修行を続けていく中、その店の店主の孫娘であるタニアと恋に落ちた。カンダタ一味の台頭に消極的な態度を取る町長に歯痒い想いを抱いていたが、タニア誘拐という事件によってそれが噴出し、単身カンダタ一味のアジトへ向かう。想いだけで、力が伴っていないグプタにカンダタ一味を駆逐出来る訳もなく、その命を散らす寸前でカミュ達に命を救われた。

 

 

 

【名前】タニア

 

【素性】バハラタの町にある『黒胡椒屋』の看板娘。

 

幼くして両親を失い、祖父であるバハラタ町長に育てられる。その後、修行に来ていたグプタと恋仲になり、結婚の許しも得ていたが、バハラタの利権を欲するカンダタ一味に交渉の切り札として誘拐された。カミュ一行の登場によって、グプタ共々救われる形となるが、その際のカミュの姿が脳裏に焼きつき、恐怖のトラウマを生んでしまう。

 

 

 

【名前】カンダタ

 

【素性】ロマリアの義賊 カンダタ一味の棟梁

 

ロマリアのスラム街で育ち、生きていくために盗賊に身を落とした者。自身の住処までも国に奪われ、自身と同様に住処を国に奪われた者や、生まれた時から住処のない者を匿い、護って来た。古来から貧民の間で伝えられている英雄『カンダタ』の名を自称し、国や国が掲げる英雄が目に入れる事のない者達を護る事に全精力を費やしていた。しかし、大きくなり過ぎた組織は、自身の持つ理想から大きく逸脱し始め、最後には完全に瓦解する。それでも自分を頼る者を護る為に、自身の思想をも曲げて行動するが、二度目となる『勇者』一行との対峙によって終わりを告げられる事となる。

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

サブキャラ一覧を記しました。
これもご要望があった為なのですが、オリジナルキャラが場面場面で出てくるため、定期的にそこまでで登場したサブキャラ達の紹介を入れて行こうかと思っています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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第六章
バハラタ東の森


 

 

 

 誰からも感謝される事はなく、誰に見送られる事もなく、カミュ達はバハラタを後にした。

 町の門を潜る時に、リーシャの制止も聞かずに振り返ったサラが見た物は、遠巻きに見つめる数多くの嫌悪の瞳。それは、町を救ってくれた者達への物ではなく、罪人に向けるような暗く、哀しい物だった。

 

「さあ、サラの夢見た<ダーマ神殿>へ出発だ!」

 

 俯きかけたサラの顔を強引に上げるようなリーシャの言葉。

 それは、とても優しい反面、とても厳しい。

 

 『目を背けるな』

 『選んだ道を振り返るな』

 

 サラにはそう聞こえた。そして、サラは顔を上げる。

 『後悔はないか?』と問われれば、即答は出来ない。

 『哀しいか?』と問われれば、迷いなく頷くだろう。

 だが、『ならば、カンダタを殺せば良かったのか?』、『この町の現状を無視して、先に進めば良かったか?』と問われれば、間違いなく首を横に振る。だからこそ、サラは顔を上げ、前を歩く青年の背を見た。

 自分がその在り方を疑っていた『勇者』と呼ばれる青年の背中を……

 

 今回の件で、サラは初めて理解した。

 何故リーシャが、カミュを『勇者だ』と言って笑ったのかを。

 この青年こそが『勇者』なのだという事を。

 

 カミュはおそらく否定するだろう。

 『何も成してはいない』と。

 だが、サラは見たのだ。

 確かな『覚悟』とそれ以上の『哀しみ』を持って、『人』に剣を振るうカミュを。

 

「…………サラ…………」

 

「あっ、は、はい。行きましょう、メルエ」

 

 ぼんやりとカミュの背を眺めるサラの足元から声がかかる。心配そうに眉を下げたメルエの表情を見て、サラは笑顔を作った。

 それは、まだ心からの笑顔ではないかもしれない。この先で、サラが心から笑える事があるのかどうかも分からない。それでも、サラはメルエに微笑んだ。

 

「…………ん…………」

 

 サラの微笑みを見て、メルエは花咲くように笑い、サラの手を取った。そして、サラに教えて貰った歌を口ずさむ。そんなメルエを見て、サラの顔が歪みそうになった。

 町一つの住民の全てを敵に回したとしても、その行為を認め、そして自分に笑顔を向けてくれる仲間達の存在を実感して。

 

「サラ、顔を下げるな」

 

「は、はい!」

 

 再び俯きそうになるサラの顔を、再びリーシャの声が持ち上げる。力強く返事を返すサラの瞳に光が宿った。

 それは、脆く儚い光かもしれない。だが、その小さな光は、同じ様に小さな三つの光に護られ、その輝きを増して行くのだろう。

 

 

 

 一行は、<アジトの洞窟>へ向かった時に渡った最初の橋を渡る。ここまでの道で、<ハンターフライ>や<アントベア>等の魔物と遭遇して来たが、もはやカミュ達を脅かす存在にはならなかった。

 特に、<ヒートギズモ>に遭遇した際はその力量差が明確に現れていた。

 奇声という詠唱を行った<ヒートギズモ>が、目の前に立つカミュやリーシャの後方で杖を掲げる幼い少女を確認し、詠唱を途中で止めて逃げ出したのだ。

 杖を掲げるメルエの纏う膨大な魔法力に恐れをなし、自ら敵わないと理解したのだろう。

 それ程に一行の成長は顕著であった。

 もはや『人』という枠組みを逸脱し始めているカミュとリーシャ。

 魔法力の制御の方法を知り、新たな魔法を習得して行くメルエ。

 そして、一つ殻を破ったサラ。

 この四人に、集団戦で敵う人間はいないのかもしれない。

 

「カミュ! 本当にこっちなのか?」

 

「……悪いが、方向に関してだけは、アンタに疑われたくはない」

 

「なんだと!」

 

 橋を渡りきり、一行の目の前に森が出現した頃に、リーシャとカミュのいつものやり取りが始まった。

 もはや慣れた物である為、メルエもサラの隣で楽しそうに笑顔を作りながら眺めている。サラもそんな優しい雰囲気に自然と微笑んだ。

 

「……あの男が言うには、この森を北へ進んだ先にある山脈の頂上付近に<ダーマ神殿>があるらしい……」

 

「そうなのか?」

 

 溜息を一つ吐き、片手に地図を持ったままのカミュが、いきり立つリーシャに昨日会った男の話を伝えた。

 実際は、リーシャもその場に居たのだから、説明する必要はない筈なのだが、それを彼女は覚えていなかったのだろう。

 

「……何度も言うが、俺はアンタと同じように旅をして来ている筈だ。『そうなのか?』と問われても、『そうらしい』としか答えられない」

 

「ぷっ!」

 

 カミュの何とも間の抜けた答えに、サラは噴き出してしまった。何故なら、その通りだからだ。

 何があろうと、カミュの指し示す方角に歩き続けて来た一行である為、進行方向をカミュへと尋ねるのだが、その相手も自分達と同じ様に初めての場所を歩いているのである。故に、リーシャの問いに対しても確かな答えは出来ないし、むしろカミュと同じ事を聞いていた筈のリーシャに対して答える事自体が奇妙な物なのだ。

 

「……サラ……何か面白い事でもあったのか?」

 

「い、いえ! 何も!」

 

 噴き出したサラに対し、不穏な空気を醸し出すリーシャが振り向く。その顔は柔らかい物ではあるが、口調と瞳が笑ってはいなかった。

 飛び上りそうな程の声を上げ、サラは大きく首を横に振り、その手を握っていたメルエは恐怖に引き攣った表情を浮かべながら固まってしまった。

 

「……メルエを怯えさすな」

 

「くっ! す、すまない……」

 

 何とも間の抜けたやり取りである。

 サラの手を握るメルエに軽く頭を下げたリーシャは、厳しい視線をサラに向けた。

 

「この森を北へ向かう」

 

 先頭を歩くカミュの声に、それぞれが頷いた後に、一行は森の中へと入って行った。その際に、先程まで表情を強張らせていたメルエが、サラの下からリーシャの横へと移動し、その手を握り、リーシャに柔らかく微笑む。

 それは、メルエの愛情表現の一つ。

 自分が相手を『好きだ』という意思を表現する為に、メルエは相手に微笑む。自分がされて嬉しい事を相手にする事で、自分の気持ちを伝えようというのだろう。

 そんなメルエの心を察したリーシャも、メルエに向かって暖かな微笑みを浮かべた。

 

 

 

 森へ入った一行の進行速度は、急速に落ちて行く。例の如く、メルエが立ち止まってしまうのだ。

 世界を知らない少女にとって、この世に生きる『人』以外の生物が全て珍しい。それは、何も動物とは限らない。森の木々の脇に咲く小さな花も、その花に集う色とりどりの虫達も、メルエにとって初めて見る物であり、心躍る物なのだ。

 

「……カミュ……」

 

「……仕方がないだろ……」

 

 リーシャの手を離し、地面にしゃがみ込んで花々を見つめるメルエに、リーシャは眉尻を下げてカミュへと言葉を漏らすが、その言葉を聞いたカミュもまた、溜息を吐いた後、その場に佇むのだ。

 もう一人、大きな溜息を吐く人間。

 この先にあると云われている<ダーマ神殿>に胸を躍らせていたサラである。

 一刻も早く<ダーマ>へ辿り着きたい。だが、今のメルエを咎める事は彼女にも出来ないのだ。

 幼い頃から自由な時などなく、自分の意志で何かを見つめた事のない少女が、今目を輝かせて色々な物に目を向けている姿を咎める事など、サラには出来ない。故に、やりきれない想いを、溜息として吐き出すしかなかった。

 

「メルエ、そろそろ行くぞ」

 

「…………ん…………」

 

 だが、いつまでも同じ場所に留まっている訳にはいかない為、リーシャは手を差し伸べる。その手を少し残念そうに握るメルエの表情を見て、サラは少し胸を痛めた。

 メルエは花を摘んだり、虫を捕まえたりという事をしない。アンが作ったような花冠を作る時は別だが、基本的に眺めているだけである。

 それは、その場所が彼らにとって生きる場所だという事を理解しているのかもしれない。

 

「!!」

 

 メルエの手を握り、軽く頭を撫でた後、前へ進もうとしたリーシャが即座に身構える。前を歩いている筈のカミュが立ち止まっていたのだ。そして、ゆっくりと背中の剣に手を掛けた。

 その仕草を見たサラもまた胸の前にある結び目を紐解いて<鉄の槍>を身構え、リーシャの手を離したメルエがその後ろに移動し、<魔道士の杖>を掲げる。

 戦闘準備は整った。

 

「ギニャ――――!」

 

「ま、また飛ぶ猫か!?」

 

「……アンタは、登場する魔物にいちいち驚かなくては、気が済まないのか?」

 

 一行の前に姿を現したのは、以前、アッサラームへの道中で遭遇したような翼のある猫。その姿に、再び驚きを表すリーシャに、カミュは溜息を吐き、サラはその場の雰囲気にそぐわないような笑顔を見せた。

 

<キャットバット>

その名の通り、蝙蝠のような翼を持つ猫である。以前にカミュ達が遭遇した<キャットフライ>の上位種と言われているが、その翼の特徴や体毛の違いから、その説は信憑性が低いともされている。深い青色をした体毛は、蝙蝠そのものであり、闇夜に紛れれば、その姿は人間に識別する事が困難となる。本来は洞窟内などに生息し、夜になってから森に食料を求めて飛び出す魔物である。

 

「やぁ!」

 

 <キャットバット>の数は四体。

 カミュの言葉を無視したように、リーシャが斧片手に飛び出す。リーシャが一閃した斧は、初めてみる攻撃的な人間に戸惑っていた<キャットバット>の胴体へと正確に吸い込まれ、その身体を空中で斬り分けた。

 

「くっ!」

 

 しかし、相手も魔物。素早く意識を戻し、攻撃をしきったリーシャに向かい、その鋭い爪を振り翳す。

 盾も間に合わない状態で、斧を持つ右手を上げたリーシャの前に、光沢のある鎧を身につけた背中が立ちはだかった。

 何かが軋むような音を立てたのは、カミュが持つ<鉄の盾>。咄嗟にリーシャと<キャットバット>の間に滑り込んだカミュは、その盾で鋭く光る爪を防いだのだ。

 

「……一度下がる……」

 

「わかった!」

 

 後ろを振り向く事なく呟くカミュに、大きく頷いたリーシャは、後方へと下がった。そこに待っているのは、魔法の使い手である二人の少女。

 

「メルエ、まだですよ。あの魔物は<マホトーン>を使うかもしれません」

 

「…………ん…………」

 

 二人が戻った先では、頼りになる術者二人が魔法の使い所を協議していた。

 初めて対する魔物の特性を知らない故に、リーシャのように無闇にに突っ込む事はしない。彼女達には、咄嗟の攻撃に備えるだけの体力はないのだ。

 

「私がとりあえず<マホトーン>を唱えてみます。その後で、メルエは<ベギラマ>を」

 

「…………ん…………」

 

 サラの目を見て、しっかりと頷いたメルエは、杖を構え、その時を待つ。カミュ達が下がりきった事を確認したサラは、メルエの前に立ち詠唱を開始した。

 その時だった。

 

「ニャニャニャ!」

 

「!!!」

 

 <キャットバット>の一体が、翼をバタつかせながら、奇妙な動きを始めたのだ。

 飛び方は、全くの出鱈目のようで、どこか法則に基づいているようなもの。

 その動きに目を奪われたサラは、掲げていた腕を下ろしそうになる。何故か、自分の身体から精神力なり、気力なりが吸い出されているような感覚に陥ったのだ。

 まるで宙に浮かんだかのような、浮遊感に襲われ、サラの身体から力が抜けて行く。

 

「うっ!」

 

「…………サラ…………」

 

 突如膝をついたサラに、メルエが心配そうに駆け寄る。眩暈のような感覚を味わい、ふらつきながらも立ち上がるサラが、気丈な笑顔をメルエへと見せた。

 

「ふふ。大丈夫です。あの魔物は何か奇妙な技を使うようですが、どうやら<マホトーン>は使わないようですね。メルエ、遠慮なく<ベギラマ>を。ただ、森は燃やさないように気をつけて下さいね。メルエの大好きな花や動物達が困ってしまいますから」

 

「…………ん…………」

 

 サラの笑顔に大きく頷いたメルエが杖を高々と掲げた。

 そのメルエの姿を確認し、カミュとリーシャも風上へと移動する。

 

「あっ! メルエ、逃げる魔物には追い打ちは不要ですよ」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの背中にかけるサラの言葉を聞いて、カミュとリーシャは、勢いよく振り返ってしまう。

 それは、無理もない事だろう。あのサラが、自分の言葉ではっきりと魔物を逃がしても良いと宣言したのだ。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 振り向いたカミュ達の横を、強烈な熱風が通り過ぎて行く。

 それは、『人』としては、規格外に位置する程の熱量。

 メルエが普通ではない証。

 

「ギニャ――――――!!」

 

 メルエの杖から発した熱風が<キャットバット>の目の前に着弾し、その内二体を炎が包み込んだ。

 大海原と化した炎の海は、周囲の木々を避けるように魔物だけを飲み込んで行く。その光景を茫然と見つめるリーシャとは別に、カミュの動きは速かった。

 

「ふん!」

 

「ギニャ――――――!!」

 

 炎を避けた一体の<キャットバット>が、仲間を包み込む炎を作り出した幼い少女に向かって突進していたのだ。

 それを視界の端に捕らえたカミュは、炎の海を横切り、メルエの前で<キャットバット>を斬り捨てた。

 

「……ふぅ……」

 

「…………カミュ…………」

 

 自分の目の前で、息を吐き、剣を背中に収めるカミュを見て、メルエは杖を下ろした。そのままカミュのマントの中に潜り込み、マントの主を見上げて微笑む。

 そんなメルエに、苦笑を浮かべながら、帽子を取った頭を優しく撫でるカミュを見て、サラはどこか感慨深い想いを抱いていた。

 『魔物』と『人』であれば、どちらが価値のある存在なのかを悩んでいた『勇者』の中にも、確かな優先順位が存在するのだと。

 メルエのという人物は、彼が何よりも優先して護るべき者なのだろう。その事実が嬉しく、そして複雑だった。

 以前、カミュは、自分がメルエと対峙する事になれば敵に回る事を宣言した。それは、例えメルエが全世界において『悪』となろうとも、カミュはメルエを護るために全世界と敵対するという事と同じだろう。

 極端な考えかもしれないが、サラは確信を持っていた。

 もし、『魔王』がメルエだとしたら、カミュは『魔王』側に付くだろうと。

 もし、そうなった時、果たして全世界を上げてこの二人を討伐できるのか……

 サラは、そんな馬鹿げた想像に頭を悩ませる。

 

「サラ、どうした? また、可笑しな事を考えているのか?」

 

「えっ!? 可笑しな事?……わ、私は可笑しな事を考えた事などありませんよ!?」

 

 リーシャの何もかもを見透かしたような笑みを見て、サラは慌てて首を振る事になる。

 確かにリーシャにとって見れば、サラは時々とんでもない思い違いから、とんでもない想像に行き着く事がある。そんな理由から、大慌てで首を振るサラをリーシャはしばらく訝しげな瞳で見つめていた。

 

 

 

 一行は森を抜ける事なく、日没を迎える。いつものように、サラとメルエが薪を拾い、リーシャとカミュが食料を調達して行った。

 

 食事が終わり、一息ついた頃には、陽も完全に落ち、木々の隙間から大きな月が見えていた。

 月明かりはいつものように優しく一行を照らし、中央で燃え盛る炎が暖かな空気を運んでいる。カミュが見張りをするという事になり、他の三人が眠りにつく頃、辺りは夜の闇と静けさに支配された。

 

 夜の森にフクロウの鳴き声が響き始めて、どのくらいの時が経った頃だろう。

 不意にカミュの傍にあるマントが動き始めた。

 それは、パーティー内最年少の少女が眠る時に包まる物。

 

「……どうした?」

 

「…………」

 

 むくりと起き出した少女は、カミュの問い掛けに答える事なく、カミュの下へと移動を始める。火の傍で胡坐をかくように座っていたカミュの足の間にすっぽりと納まるように座ったメルエは、眠そうに目を擦りながらも、目の前にある火を見つめていた。

 何も口を開かないメルエを不審に思いながらも、カミュは炎に薪を入れながら、メルエの包まっていたマントでもう一度メルエを包み込む。

 その時、不意に顔を上げたメルエの瞳を見て、カミュは驚いた。

 

「……どうした?」

 

「…………」

 

 再度カミュは同じ言葉を繰り返すが、メルエからの返答はない。

 ただ、その瞳に浮かぶ色は『怯え』。

 いや、正確には『不安』なのかもしれない。

 

「…………カミュ………だけ………だめ…………」

 

「……」

 

 そして、その想いを吐き出すように、遂にメルエの口は開かれた。

 それは、あの<バハラタ東の洞窟>でメルエが口にした物と同じ言葉。

 カミュが『人』を殺すという罪を一人で背負うように剣を振るうのを見て、メルエが口にした物だった。

 

「…………カミュ………すき…………」

 

「……ああ……」

 

 自分の気持ちを吐き出すように、呟くメルエの言葉。

 それは、妹が兄に対して口にするような愛情。

 娘が父親に告げるような親愛。

 

「…………メルエ………リーシャ………すき…………」

 

「……ああ……」

 

「…………サラ………も…………」

 

 自分をこの世界に生んでくれたのは、紛れもなくこの三人。

 物心ついた頃から、閉鎖された世界を彷徨い続けた少女を、広く果てなき世界へ連れ出してくれたのは、カミュであり、リーシャであり、サラなのだ。

 言葉という『人』の伝達手法を使う事がなかった少女が、その方法を使って何とか自分の想いを伝えたいと思う人間。それは、間違いなくこの三人だけ。

 だからこそ、必死に言葉を紡ぐ。

 この自分を救い出してくれた青年に想いを伝えようと……

 

「…………メルエ………カミュ………護る…………」

 

「……俺は大丈夫だ……」

 

 それでも、伝わらない。

 幼いメルエから見ても、この年若い『勇者』は大丈夫ではなかった。

 サラの口にする『大丈夫』はメルエにとって絶対なのだが、この青年が自分について口にする『大丈夫』は、全く『大丈夫』ではないのだ。

 それをメルエは心の奥底で感じ取っていたのかもしれない。

 

「…………メルエ………も…………」

 

 カミュの胸の辺りで、大きく首を振った後、メルエは小さく声を零す。

 それは、カミュの『決意』ともリーシャの『決意』とも、そしてサラの『決意』とも違う、メルエの『想い』。

 それはとても儚く、そしてとても哀しく、そしてとても尊い。

 幼い少女が胸に秘めた『想い』

 それこそが、このパーティーを導く礎になる程の『強さ』

 

 『一人ではない』

 『一人にはさせない』

 

 常に一人という過去を持ち、その恐怖を知らずに育った少女が、初めて知った自分の過去に対する恐怖。その恐怖を教えてくれ、そしてその恐怖から救い出してくれた者達だからこそ、その場所へは行かせたくはない。

 

「……メルエ……」

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

 どうすれば、この『勇者』と呼ばれる青年に、自分の『想い』を伝える事が出来るのか。それがメルエには解らない。

 必死に言葉を繋ぎ、語りかけるが、自分が期待している答えが返って来る事はなかった。

 

「……泣くな……」

 

「…………ぐずっ………うぅぅ…………」

 

 自分の思い通りに行かない状況に、どうしたら良いのか解らなくなったメルエは、大粒の涙を零しながら、嗚咽を繰り返す。

 そんな状況に、カミュは一つ溜息を吐き、メルエの頭に手を乗せながら、森の木々の隙間から顔を出す綺麗な月を見上げた。

 

「メルエには、もう何度も護ってもらっているさ」

 

「…………ぐずぅ…………」

 

 メルエの髪を撫でながら、カミュは独り言を呟くように口を開いた。

 何度もしゃくりあげながら、メルエは顔を上へと上げる。

 涙で濡れた瞳に、月を見上げるカミュの顔が映った。

 

「メルエが居るから、俺はまだ笑う事が出来る」

 

「…………???…………」

 

 それの何処が護っている事になるのかがメルエには解らない。だが、自分の頭の上に置かれているカミュの手がとても優しい事に、メルエの心は次第に落ち着きを取り戻し始めた。

 

「メルエが居るから、俺は……歩む道を見失わずにいられる」

 

「…………ぐずっ…………」

 

 その言葉を呟いたカミュは、見上げていた顔を下ろし、中央にある炎の方へと視線を移した。

 自然とメルエの視線も炎へと移り、奇妙な静けさが辺りを満たして行く。

 

「……ありがとう……」

 

 どれくらい時間が経っただろう。

 それは、長い時間だったかもしれないし、ほんの僅かな時かも知れない。

 不意に告げられた言葉は、メルエの心へと届いて行く。

 

「…………ん…………」

 

 涙を拭う事なく、メルエは小さく頷いた。

 そして、そのまま再びカミュに包まれながら静かに涙を流す。

 

 暫しの間、カミュはメルエの頭を撫でながら月を見上げていた。

 その内、泣き疲れたのか、メルエはカミュの腕の中で静かな寝息を立て始める。

 自身が歩む道を明るく照らす、小さな太陽の休息を、優しい微笑みを浮かべながら見つめたカミュは、そのままメルエの身体を近くに横たえ、その太陽が凍えぬように薪を炎にくべて行った。

 

 

 

 サラは嗚咽を抑えながら、泣いていた。

 メルエの『想い』を知り、そしてカミュの『苦悩』を知り。

 メルエの声が聞こえた気がして、ふと目を覚ましたサラは、小さいが激しいメルエの感情を含んだ声を聞く事になる。それは、自分が起こした物の結果。

 あの町を救いたいと自分が言う事さえしなければ、カミュが洞窟内で『人』を殺す事はなかった。

 そして、あの幼い少女をこれほど苦しめる事はなかった筈だ。

 

 『申し訳ない』

 

 そんな考えが頭を掠めた時に、冷酷だと考えていた『勇者』の言葉がサラの耳に入って来た。

 それは、今まで感じていたサラの考えを大きく覆すものであり、ある意味予想をしていた事。

 

 『メルエが居るから、まだ笑う事が出来る』

 『メルエが居るから、歩む道を見失わずにいられる』

 

 それは、この青年の本心なのだろう。彼もまた、自分の歩む道を模索しているのだ。そして、その道は自分を見失う可能性がある程に過酷な物である事を知っているのだろう。

 初めて知ったカミュの内心。

 それは、サラを大きく変えて行く事となる。

 何故なら、彼女もその道を既に歩み始めているのだから……

 

 

 

 太陽が昇り始め、朝日が森に届き始める頃には、一行は再び森の中を歩き始めていた。

 昨晩のやり取りがあった為か、メルエはリーシャの横で、物悲しい空気を纏いながら歩き、サラもまた考えに耽っているように押し黙ったように歩いている。

 

「二人とも、どうした?」

 

「えっ!? あ、はい。大丈夫です」

 

 そんな二人の様子の理由が分からないリーシャは、その理由を問いかけるが、メルエは黙ったまま何も答えず、サラは脈絡のない回答を返して来る。

 リーシャは首を傾げるしかなかった。

 

「……そろそろ、森を抜ける筈だ……」

 

 後方を歩く三人の様子を気にした様子もなく、カミュは地図を見ながら言葉を漏らした。

 カミュの言う通り、太陽が真上に上った頃から、周囲の木々の密度が薄くなっている。それは、森の出口が近い事を意味していた。

 森の木々に遮られていた日光が、突如目に飛び込んで来る事で、一瞬視界が奪われる。再び戻った視界の先には、地肌が剥き出しになった山肌が見えていた。

 

「この山を登るのか?」

 

「……この頂上付近にあるという事だからな……」

 

 リーシャの問いかけに、もう何度目になるか分からない答えを返すカミュ。

 そんないつものやり取りの中にも、笑顔は生まれなかった。

 

「!!」

 

 それは、何もパーティーの心情の変化だけが理由ではない。いち早く気付いたメルエが、杖を構えた事によって走った緊張が、望まれない来訪者を意味していたのだ。

 

「メルエ! 下がれ!」

 

「…………ん…………」

 

 素早くメルエの前に移動したカミュが、メルエを後方に誘導し、リーシャと共に前線に立って敵を確認する。カミュに遅れてサラとメルエの前に立ったリーシャが見た者の姿は、以前に一度見たそれであった。

 

「<バギ>を使う奴か?」

 

「……いや、同じ魔物ではないだろう……」

 

 一行の目の前に現れた魔物。それはポルトガ地方に足を踏み入れたばかりの時に一行が遭遇した魔物に似た姿をしていた。

 得体も知れない物の中央に人面が浮かび上がり、まるで顔に手足が生えているような姿。

 人里離れた森を住処として、今や絶滅したと云われる異教徒達。

 それが二体。

 

<幻術師>

ポルトガ地方に生息する<ドルイド>の上位種と云われている。『精霊ルビス』以外の神を信仰する異教徒である<ドルイド>の中でも高位に位置する役職を有していた者達の死肉が寄せ集まった物ではないかという推測も出ていた。その名の通り、人を惑わすとも伝えられてはいるが、その真意を見た者は皆等しく命を落としているために、推測の域を出ていない。

 

「サラ! あの魔法を封じる呪文を!」

 

「あっ! は、はい!」

 

 リーシャの言葉に頷いたサラが詠唱を始め、それを完成させる前に動いたのは<幻術師>の方だった。

 

「54‘’#0」

 

 人語ではない声が響いた途端、サラの前にいるリーシャの動きが止まった。

 不穏な空気が周囲を漂う。

 気のせいか、身体の中央に人面を浮かべる<幻術師>の表情が笑ったように見えた。

 

「……気のせいか、何かとてつもなく嫌な予感がするのだが……」

 

「き、気のせいではないかもしれません……」

 

 隣に立つリーシャの行動停止を見て、カミュは言葉を呟いた。それに対し、サラも同様の感覚を受けていたため、戸惑いながらも返答する。

 唯一人、メルエだけは状況が掴めず、動きが止まったリーシャを、小首を傾げながら眺めていた。

 そして、再び時は動き出す。

 

「うぉぉぉぉぉ!!」

 

 突如として、獣のような上げた女性騎士は、隣に立つカミュへと向かって、手にした斧を振り抜いた。

 その叫びに驚いたメルエは、サラの腰にしがみつき、サラの行動を止めてしまう。

 

「くっ! またか!?」

 

 リーシャの斧を<鉄の盾>で受け止めたカミュが苦悶の声を上げる。

 リーシャがカミュに攻撃を加えるのは、これで三度目。その内二度は、リーシャが正気であったが、今回は完全に様相が違う。

 

「……錯乱しているのですか?」

 

「…………サラ…………」

 

 リーシャの行動に唖然としていたサラの発した言葉は、その光景を明確に表わしていた。

 しかし、サラがそれを深く考える時間はなく、敵の接近に気付いたメルエの言葉で、手に持つ<うろこの盾>を顔の前に掲げた。

 リーシャに呪文を行使した魔物は後ろで静観しているが、もう一体の<幻術師>がサラ目掛けて手に持つ樫のような杖を振るったのだ。

 間一髪、それを盾で受け止めたサラは、もう一方の手で、<鉄の槍>を前へと突き出す。しかし、既に身を離した<幻術師>の身体を貫く事はなかった。

 

「メルエ! 一度離れて下さい!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 未だに腰にしがみつくメルエに指示を出すサラであったが、メルエは何故か首を振りながらサラから離れようとしない。

 その間にも、サラの視界の端では、カミュとリーシャの攻防が続いていた。

 

「メルエ! 今、この状況で、我儘は許しません!」

 

「!!」

 

 初めて聞く、自分に向けられたサラの怒気。

 それに驚いたメルエは、サラの腰から手を放してしまった。

 サラが怒った姿は見た事はある。

 しかし、それはどこかメルエを諭すような優しい物。

 『鬼』と称されても、メルエを想い、導くような物だった。

 サラが怒鳴った姿も見た事はある。

 その時のサラは、自分の心を叫ぶように、声を荒げていた。

 ただ、それは何れもメルエに向けられた物ではなかったのだ。

 

「メルエ。リーシャさんがあのようになってしまった以上、カミュ様は動けません。二人を護るのは、私達の仕事ですよ」

 

「…………」

 

 初めて叱られた子供のように、目を見開いていたメルエは、その目をしっかりと見て話すサラの言葉をぼんやりと聞いていた。

 何時でも自分に向けてくれていた優しい笑みは、今のサラの顔に浮かんではいない。

 

「メルエは……メルエはカミュ様を護るのでしょう?」

 

「!!…………ん…………」

 

 続いて繋がれたサラの言葉が、メルエの意識を現実に戻して行く。

 昨晩、メルエがカミュに向けて話した言葉。

 それは、メルエの『想い』。

 そして『決意』。

 メルエは、今度はサラに向かってしっかりと頷いた。

 

「私は、先程の魔物と戦います。メルエは、カミュ様達に向かって行く魔物を」

 

「…………ん…………」

 

「ふふ。頼みましたよ、メルエ」

 

 サラの指示に、厳しい表情で頷いたメルエを見て、サラは柔らかく微笑む。

 自分が頼りにする者に頼られる。その責任と、その喜びに、メルエは強く頷くのだった。

 

「くそっ! 何故、アンタはいつも俺だけを狙うんだ!」

 

「うりゃぁぁぁぁ!」

 

 サラとメルエの『決意』の儀式が済んだ頃、カミュは窮地に立たされていた。

 リーシャの振るう斧は、とてつもなく重い。何度も<鉄の盾>で受け止めては来たが、その左手は痺れて、もはや動かしようがないところまで来ていた。

 それでも、カミュは右手を支えにしながら、何度もリーシャの斧を受け止める。

 リーシャの瞳に生気はなく、それは何かによって意識を奪われている証拠。

 その原因となる者は、今も尚、カミュ達の傍で奇妙な笑みを浮かべていた。

 

<メダパニ>

それは、魔道書に記載されている呪文の一つ。対象の脳内に影響を及ぼし、対象の意識を錯乱させる。錯乱した者は、敵味方の区別がつかなくなるどころか、自分の意識すらも失い、ただ目の前の者を排除しようと動くのだ。それは、諸刃の剣で、自身の限界をもセーブ出来なくなる事から、攻撃を繰り出す度に自身の身体を傷つけて行く事にもなる。

 

「このっ!」

 

 遂に、カミュが剣を抜いた。今まで、鞘に剣を収めたまま、リーシャと対峙していたが、通常時でも剣を交えて敵う相手ではない以上、カミュが剣を抜かずに窮地を脱する事など不可能なのだ。

 カミュの突き出した剣がリーシャの頬を掠める。殺すつもりなどない。ただ、少しでも傷をつければ、正気に戻るかもしれないと考えた一撃であったが、カミュと同じように力量を上げているリーシャに対し、そのような甘い考えが通用する訳はなかった。

 

「うぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 紙一重で避けたカミュの剣先は、リーシャの頬を傷つける事なく、リーシャの装備している<鉄兜>を締める革の留め紐を切り裂いただけ。

 リーシャはそのまま斧を振りかぶり、カミュへと一直線に振り下ろす。その大きな動きに、留め紐を失った<鉄兜>が地面へと落ちて行った。

 

「くそっ!」

 

 もはや<鉄の盾>を上げる力も残っていないカミュは、リーシャの振り下ろした斧を<鋼鉄の剣>で受け止める。しかし、両手で斧を振り下ろすリーシャの力を片手で受け止める事など不可能だった。

 そのままリーシャに押し倒されるように仰向けに倒れ込むカミュの剣は、倒れる勢いで更に重くなった斧をぎりぎりの所で抑えていた。

 そのまま両者ともに動けない時が流れ、徐々にカミュが力で押されて行く中で、カミュの視界に一体の魔物が映り込む。今まで、リーシャの激しい攻撃の為に、付け入る隙のなかった<幻術師>がカミュへ近づきながら、樫のような木で出来た杖を振り翳していたのだ。

 そのまま、振り降ろされれば、如何にカミュといえども、無事には済まない。その威力は想像出来ないが、最悪、頭を潰される可能性がない訳でもない。

 

「くそっ!」

 

 目の前に振り下ろされる杖を見て、忌々しげに呟いたカミュの周囲の空気が急速に変化して行く。

 まるで、そこだけが氷の世界にいるような程の冷気が立ち込め、急速に一点に収束されて行った。

 

「…………ヒャド…………」

 

 このパーティー最強の攻撃魔法の使い手が、最も得意とする魔法。

 その詠唱が、カミュの耳へと届いた。

 その瞬間、振り下されようとしていた<幻術師>の杖が凍りつく。

 冷気の勢いに押された杖は、凍りついたまま吹き飛んで行った。

 

「ギャッ」

 

 自分の身に起きた事が即座に理解出来ない<幻術師>は、慌てて距離を取る。死肉に浮かんだ人面の瞳は、杖を掲げた小さな『魔法使い』へと向けられた。

 尖った三角の帽子を被り、マントを翻しながら、厳しい瞳を向けるその『魔法使い』が纏う空気は、魔物であり、古い異端の魔術師でもある<幻術師>から見ても異常な程の魔力。

 

 ボコン

 

「なっ!」

 

「あいたっ!」

 

 緊迫した状況の中、非力な力で何かを殴る音が響き渡り、それに驚いた声と、痛みに耐えるような声が響いた。

 そこに広がるのは、本当に奇妙な光景。

 驚きに見開かれたカミュの珍しい表情と、そして、斧から手を離し、頭を押さえるリーシャの姿。

 手から離れた斧は、カミュの顔のすぐ横の地面に突き刺さっていた。

 

「…………リーシャ………だめ…………」

 

 そして、先程、カミュに襲いかかる女性騎士の頭を強かに叩いた<魔道士の杖>を掲げて立つメルエ。

 

「メ、メルエ! な、何をする!?」

 

「…………ごめんな……さい………いう…………」

 

 先程意識が戻ったばかりのリーシャに状況を掴める訳がない。ただ、振り返った先で、杖を掲げて立つ少女を見て、自分の頭の痛みの理由を察したのだ。

 そして、自分の抗議の声を無視するように、謝罪を要求するメルエを見て、自分が何をしているのかを冷静に考える事となる。

 

「……どうでも良いが、良い加減退いてくれないか……」

 

「はっ!? 何故、お前がいるんだ!?」

 

 考えようとした矢先に、下から声がかかった事に驚いたリーシャが、周囲の人間から見れば、明らかに見当違いな疑問を口にする。それに対し、大きな溜息を吐きながら立ち上がったカミュは、痺れた左腕を振りながら、メルエへと近づいて行った。

 

「…………ごめんな……さい………いう…………」

 

「ど、どういう事だ?」

 

 未だにリーシャに鋭い瞳を向けるメルエに戸惑うリーシャは、その横に立つカミュへと再度疑問を投げかける。しかし、メルエの瞳が和らぐ事はない。その光景に状況がかなり悪い方向にある事を、流石のリーシャも理解する事となった。

 

「……アンタは、いつも通りに、魔物の唱える呪文の影響を受けて錯乱した為に、俺への攻撃を繰り返していた」

 

「なに!?」

 

 それは、リーシャの予想もしない言葉だった。

 仲間であるカミュへ斧を向け、振り回していたと言うのだ。勿論、そのような過去があった事をリーシャも忘れてはいない。しかし、リーシャの頭に残る記憶の中では、<幻術師>に向けて魔法を唱えるようにサラへ指示を出した所までしかないのだ。

 

「いつも思うが、何故、アンタは俺にしか攻撃をして来ない?」

 

「……すまない……」

 

 カミュの話を聞き、最初は信じられないといった表情をしていたリーシャであったが、続くカミュの言葉と、メルエの厳しい視線を受け、カミュの言葉に嘘がない事を悟る。

 

「……メルエ、助かった……あのままでは、この脳筋馬鹿に殺されるところだった」

 

「…………ん…………」

 

「ぐっ!」

 

 カミュの謝礼に、笑顔を取り戻すメルエ。

 しかし、リーシャは苦虫を噛み潰したような渋い表情を浮かべた。

 

「…………まだ………サラ…………」

 

「わかっている」

 

 メルエが呟いた一言に、カミュは静かに頷いた。

 まだ、魔物が去った訳ではない。カミュ達から離れた所で、<鉄の槍>を振るう僧侶の姿が見える。

 まだ、倒し切ってはいないが、それも時間の問題だろう。カミュやリーシャの力量が上がっているのと同じように、もはや、サラも並の僧侶では敵わない程の実力を有しているのだ。

 

「……私に……私に任せろ」

 

「!!」

 

 サラの方向に視線を向けたカミュの後ろから、地響きのような声が響いて来た。

 その声に驚いたメルエは、カミュの陰に隠れてしまう。

 はっきりと見せるリーシャの怒り。それは、傍にいたメルエすらも怯えさせ程に強力な物だった。

 

「……あの僧侶の方へは、俺とメルエで向かう。アンタは、杖を失くしたその魔物を頼む」

 

「……わかった……」

 

 静かな怒りを燃やすリーシャを置いて、カミュとメルエはサラの下へと向かった。

 再び拾い上げた<鉄の斧>を頭上で一回しした後、リーシャは猛然と<幻術師>に向かって突進して行く。

 

「54‘’#0」

 

 杖を失くしながらも、短い腕をリーシャに向けて広げ、先程と同じ詠唱を繰り広げた。再び、足を止めたリーシャに、サラの下へ走りながら振り向いたカミュは冷たい汗を流す。

 

「……何度も……」

 

「ギャ?」

 

 自分の魔法が効果を現したと思っていた<幻術師>は、肩を震わしながら近づいて来るリーシャに戸惑っていた。

 そして、次の瞬間、この魔物の生は終わりを告げる。

 『怒り』という人間の四大感情の一つに支配されているリーシャの頭の中を操作出来る程の魔力を、<幻術師>は持ち合わせてはいなかった。

 

「何度も、同じ手を食らうかぁ!」

 

 自分の攻撃範囲に入った時、叫びと共に振り抜かれた<鉄の斧>は、その刃先に何かを纏っているのではと疑いたくなる程の威力を誇る。

 正確に<幻術師>の胴体に入り込んだ斧は、まるでチーズでも切るように、何の抵抗感もなくその身体を寸断する。体液を噴き出す余裕もなく、両断された<幻術師>の身体は、地面へと崩れて行った。

 その最後を見届けたリーシャは、一つ鼻を鳴らした後、斧を背中へと戻し、カミュ達が向かったサラのいる方向へと視線を移す。

 

 そこでも、既に戦闘は終了していた。

 実際、カミュ達の応援は必要ではなかったかもしれない。しかし、孤軍奮闘していたサラにとって、カミュを連れて戻って来たメルエの姿は、安堵と共に、再び勇気を奮い立たせるものであったのも確かであろう。

 

「やぁぁぁ!」

 

 最後の突きは、見事に<幻術師>の眉間部分へと突き刺さり、その身体を貫通した。

 <鉄の槍>に串刺しにされた魔物は、そのまま数度痙攣を起こした後、全身の力を抜いたように崩れて行った。

 

「…………サラ…………」

 

「はぁ、はぁ。は、はい。メルエ、ありがとうございます」

 

「…………ん…………」

 

 心配そうに近づいたメルエに、サラは笑顔を返し、それを見たメルエもまた微笑みながら頷いた。彼女達の中には、確かな信頼が既に確立されていた。

 それを目の当たりにしたカミュもまた、表情こそ変えないが、優しげな瞳で二人を見つめる。

 三人がリーシャの下へ戻ると、リーシャが三人に向かって深々と頭を下げていた。その姿にサラは驚き、カミュは口端を上げる。

 

「すまなかった」

 

「い、いえ。リーシャさんの責任ではありません。あの魔法は、おそらく<メダパニ>と言って、誰にでも影響する可能性はある物です」

 

 『経典』を基礎とする僧侶であるサラも、『魔道書』に載っている呪文の名と効果だけは覚えている。それは、最近メルエから『魔道書』を借り、中の魔法を覚えようとしているからだった。

 サラの中には、このパーティー内で、魔法についての知識だけは誰にも負けないようになろうという思いがあるからだ。

 

「……もう、アンタの脳の弱さには慣れた……」

 

「な、なんだと!」

 

 サラの慰めと言える優しい言葉とは裏腹に、小馬鹿にしたようなカミュの発言に、抗議の声を上げるリーシャであるが、本来そのような資格は、この女性戦士にはない。それは、何も言わずに、リーシャを見つめているメルエの視線が物語っていた。

 

「……メルエ……すまない」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの視線を受け、カミュへ噛み付く事を止めたリーシャは、メルエへと頭を下げた。

 そんなリーシャの姿を見て、メルエの瞳が柔らかな物へと変わって行く。メルエの笑顔を受け、リーシャも微笑むが、その微笑みはすぐに驚きに変わった。

 

「……それに、もう、アンタ一人が錯乱したとしても、全滅する事などあり得ない筈だ」

 

「……カミュ様……」

 

 呆気にとられたように口を空けるリーシャ。

 不思議そうに首を傾げるメルエ。

 何か、奇妙な物を見るような視線を向けるサラ。

 一行を取り巻く空気が止まった。

 

「そ、それは、もう私など必要ないという事か!?」

 

「……リーシャさん……」

 

「……」

 

 再び時を動かしたのは、リーシャだった。しかし、それは、どこか呆れを含む視線を受けるような発言。

 サラは、どこか諦めたような言葉を吐き、カミュとメルエは、表情こそ違うが、黙り込んでしまった。

 

「……アンタは、何を言っている?」

 

「…………リーシャ………いない………だめ…………」

 

「リーシャさんがいらっしゃらなかったら、私達は洞窟などをどのように歩けば良いと言うのですか!?」

 

 それぞれがそれぞれの言葉で疑問を呈す。若干何かを履き違えたような事を言っている人物もいるが、総じて皆、リーシャがこのパーティーに必要な人物である事を明言していた。

 サラの言葉に若干の引っかかりを覚えるが、メルエの眉尻を下げたような瞳を受け、リーシャは『ほぅ』と息を吐き出す。

 彼女の中にも、信じられない速さで成長を続けるサラやメルエ、そしてカミュに対して焦りを感じていたのは事実。

 年齢という部分で、他の三人よりも先に進んでいた経験という優位性が失われて行く事への焦り。それは、気付かない程にゆっくりとリーシャを蝕んで来ていたのだ。

 

「…………リーシャ…………」

 

「メルエ、ありがとう」

 

 自分の傍へと寄って来るメルエを愛おしそうに抱きしめ、リーシャは顔を綻ばせた。

 その二人の様子を見ながら、サラもまた笑顔を浮かべる。だが、彼女には、彼女の発言を思い出したリーシャによる、詰問という地獄が待っているのだが、今の彼女に知る由はない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

第六章の始まりです。
第六章は、「ドラゴンクエストⅢ」というゲームの中でとても新鮮で、とても重要なあの場所の話となります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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~幕間~【ダーマ周辺】①

 

 

 

 もはや陽も大きく傾き、遠い西の空へと帰る頃、一行は険しい山肌を未だに上っていた。

 森を抜けた先にあった山は、今まで歩いて来たような、人が踏みならした山道はなく、岩肌が剥き出しになった部分を捩り登るような作業を行わなければならなかったのだ。

 

「……カミュ! 次に、どこか休めるような場所があれば、今日はここまでにしよう!」

 

「……わかった……」

 

 先を進むカミュと、その後ろをついている筈のサラとの距離が空き始めている。カミュは、所々で、振りかえり、足を止めているが、それでも山を登った事もなく、体力も乏しいサラやメルエにとって、この山はとても厳しい物だった。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

「…………」

 

 それでも、二人は不満を口にはしない。

 サラは、この場所へ向かう事を言い出したのが自分であるからという理由で。

 メルエは、置いて行かれない為にという理由で。

 それでも、その疲れは、もはや隠しようがない物になっていた。リーシャの声に振りかえったカミュは、一つ頷いた後、道なき道を進む。

 その後を最後の力を振り絞るように追うサラとメルエ。そんな二人を頼もしそうに見つめるリーシャは、微かな微笑を浮かべた。

 

 

 

 山肌の脇にぽっかりと空いた洞窟に辿り着き、一行は、そこで夜を明かす事になる。途中、岩ばかりの山肌に落ちている枯れ木等を拾い集め、火を熾した。

 その洞窟は、かなりの深さを誇っているようで、入り口付近で火を熾した一行は奥へと目を向けるが、暗い闇に覆われ、中を窺い知る事は出来ない。一行は奥への興味を失い、熾した火を中心に円を描くように座った。

 

「……ここでどの辺りまで、上ったんだ?」

 

「……何度も言うが、アンタと共に旅をしている俺が、この山の全貌を知っていると思うのか?」

 

 一息つき、自信の膝の上でうつらうつらと眠りに就き始めたメルエの髪を梳きながらリーシャはカミュへと尋ねるが、返って来た答えは、この山を登る前と同じ物だった。

 カミュの回答に噴き出しかけたサラを瞬時に睨み、その動きを石化させたリーシャは、もう一度カミュへと視線を向けた。

 

「お前の予測でも構わない。この先に<ダーマ神殿>はあると思うか?」

 

「……リーシャさん……」

 

 おそらく、リーシャは<ダーマ神殿>の話を、伝承程度にしか考えていないのかもしれない。

 サラやメルエにこの過酷な道を歩かせる意味があるのかを疑問視し始めているのだ。故にカミュへと問いかける。

 『この道を進む意味はあるのか?』と。

 

「あるかないかを問われれば、俺にはわからない」

 

「そうか」

 

 カミュは、少し考えた後、ゆっくりと口を開く。

 その言葉を聞いて、リーシャは目を閉じた。

 

「……メルエは俺が背負おう……」

 

「いや。それは私の仕事だ」

 

「えっ!? あ、あれ?」

 

 サラは、急に転換した二人の言動に戸惑う。

 先程まで、緊迫した空気が流れていた筈だ。

 サラが夢見た<ダーマ>へ向かうか否かで……

 それが、いつの間にか、この二人の間でメルエの取り合いが始まっていた。

 その二人の豹変ぶりにサラは口をぽかんと開けたまま固まってしまった。

 

「メルエがこの山を登る事が無理だという事は、お前には解っていた筈だ。それにも拘わらず、ここまで登らせたお前にメルエを任す事は出来ない」

 

「……」

 

 リーシャの言動に、反論できないかのように黙り込むカミュ。彼の中で、確かに配慮が足りなかったという事を理解しているのだろう。何処となく悔しそうな表情を浮かべるカミュを見て、サラの時間もまた動き出す。

 

「すみません。私の我儘で……」

 

 度重なる自分の我儘によって、大切な者達を傷つけている。

 そんな辛さに、サラは二人に向かって頭を下げた。

 

「別に、サラの責任ではない。行き先を決めたのは、カミュだ」

 

「……」

 

 リーシャの言葉に、カミュは大きな溜息を吐く。

 『ここで、自分の名が出て来るのか』と。

 リーシャとしては、サラの責任に目を背けている訳ではないのだろう。

 純粋に、カミュの責任だと思っているのかもしれない。

 

「この山すらも登れないようなら、始めから『魔王討伐』など無理な話だ」

 

「そうだぞ、サラ。これから先、もっと困難な道はある筈だ。その予行練習だと思えば良い」

 

 『ならば、何故話題に出した!?』とでも言いたそうに鋭い視線を向けるカミュを無視するかのように、リーシャは優しくメルエの髪を梳いている。

 カミュの鋭い視線は、アリアハンを出たばかりの時のようにサラを凍りつかせる物ではなかった。

 最近、リーシャはカミュの瞳を見て戸惑う事は少なくなっている。本当に呆れたような視線を向ける時は別なのだが……

 

「サラ。もう休め。明日も早くからこの山を登らなくてはならないんだ。体力を回復させておかなければ、厳しいぞ?」

 

「は、はい」

 

 メルエの頭を撫でながら、サラに向かって微笑むリーシャを見て、サラは素直に頷いた。それは、何か逆らう事の出来ない暖かさ。

 まるで、母親が子を寝かしつけるような優しさに満ちた声だった。

 

 

 

 眠りに就いてどのくらいの時が経った頃だろう。

 サラは、何かの叫び声を聞いて、目を開いた。

 

「カミュ!」

 

「わかっている。メルエを頼む」

 

 サラが開いた瞳に、強烈な朝陽が飛び込み、一瞬視界を真っ白に染めて行く。

 陽が出て間もないのだろう。未だに空に暗い部分は多く、大地から顔を出し始めた太陽の光が徐々に空を白く染め始めていた。

 

「ま、魔物ですか!?」

 

「サラ、起きたのか!? メルエを頼む!」

 

 後方から掛かったサラの声に、前方から視線を外さず、リーシャがサラへと指示を出した。

 既にカミュは剣を抜き放ち、リーシャも斧を構えている。二人が相対しているのは、大きな猿。

 洞窟内を目一杯使うように立ち上がった大猿だった。

 

<キラーエイプ>

アッサラーム周辺に住む<暴れザル>の上位種に当たるとされる魔物。その凶暴な腕力で人を打ち砕き、通常の人間であれば即死させる程の魔物である。ただ、<暴れザル>よりも腕力は強いが、その肌を護る体毛は<暴れザル>に比べ、柔らかく、剣や槍等を弾き返す程の強度はない。群れを成す事が多く、同種を呼び寄せる事も多い魔物でもある。

 

「メルエ、起きてください!」

 

「…………うぅぅん…………」

 

 未だに眠るメルエをサラは揺り起こそうと動いた。だが、眠そうに目を擦りながら、メルエは瞳を開けるが、その瞳は再び閉じられていく。

 『このような状況で何故再び眠れるのだ?』という疑問が浮かぶが、そんな余裕がある訳ではない。仕方なくサラは、横たわるメルエを護るように、その前方で槍を構えた。

 しかし、ここに来て、サラはこの状況の奇妙さに改めて気がついた。

 出現した魔物は、一体。本来、群れを成す習性のある魔物が、たった一体で人の前に現れるというのも既に奇妙な話だが、その魔物がじっと一行を睨みつけながら動かないというのは、今までサラは見た事がない。

 いや、正確に言うと、一度しか見た事がない。

 

「!!」

 

 斧を構えたリーシャが動き出そうとした時、そのサラの考えが正しい事を裏付ける者が出現する事となる。

 

「こ、こどもか!?」

 

 リーシャの叫び。立ち上がり、一行を睨みつける<キラーエイプ>の後ろから、メルエ並みの大きさしかない猿が現れたのだ。

 大きな<キラーエイプ>の足にしがみ付くようにこちらを窺う瞳には、魔物特有の悪しき憎悪は見られない。純粋に、初めて見る『人』という物に興味を示しているかのように輝いていた。

 

 サラは言葉を失った。

 こういう場面に出くわす事を予想していなかったと言えば嘘になる。<シャンパーニ>に向かう途中で遭遇した<軍隊がに>の親子の時とは状況が違う。

 何が違うと問われれば、それはサラの心。

 

「……すまない……お前達の住処とは知らなかった」

 

 後方に控えるサラの葛藤を余所に、前線にいるカミュは剣を背中の鞘へと納めた。

 戦闘の意思がない事の表れである。

 以前の<軍隊がに>の時と同じように、カミュは子供を護るように立つ<キラーエイプ>と戦わずに、この場を去る事を考えているのだろう。

 

「……カミュ……」

 

 そんなカミュの姿を見て、リーシャが斧を下ろした。

 『ふっ』と力を抜いてしまったその瞬間、目の前の<キラーエイプ>が動いた。

 

「グォォォォォォ!!」

 

 <キラーエイプ>の凄まじい雄叫びと共に、その太い幹のような腕が唸りを上げる。力を抜き、カミュへと視線を向けていたリーシャを横から襲う衝撃。

 身体の緊張を解いた所に衝撃を受けたリーシャは、轟音を残して、そのまま洞窟の壁へと吹き飛んで行く。

 

「リーシャさん!」

 

「うぅぅ」

 

 慌てて駆け寄ったサラが、蹲るリーシャの身体に手を翳した。呻き声を上げてはいるが、骨や内臓に異常はないと思われ、サラは安堵の溜息を漏らす。

 念の為、リーシャの身体全体に<ホイミ>を掛け始めた時、サラは自分の背筋が凍る程の何かを感じた。

 

「……住処を荒らした事は謝罪した。それでも向かって来るのなら、容赦はしない……」

 

 それは明確な怒気。

 再び剣を抜いたカミュからは、いつものような冷静さは全くと言っても良い程に感じる事が出来ない。それが何に対しての怒りなのかは解らないが、カミュが<シャンパーニ>で盗賊達に向けた怒りと同等の怒りを表面に出している事だけはサラにもはっきりと認識する事が出来た。

 

「グォォォォォ!」

 

 再び剣を抜いたカミュを睨んだ<キラーエイプ>は、大きな雄叫びを発した後、その両手で胸を数度叩いた。

 それは、威嚇の証。

 魔物の多くは人語を理解する事等出来ない。つまり、カミュの謝罪などは理解出来る方が可笑しいのだ。

 カミュの怒りは、身勝手な怒り。

 住処を荒らした事を魔物が怒り、我が子を護る為にカミュ達の前に出て来たとすれば、謝罪よりも早くに、この洞窟を出るべきだったのだ。

 

「カミュ様! 待って……」

 

「やぁぁぁ!」

 

 サラの声を掻き消すかのようなカミュの叫びが洞窟内に響いた。

 飛び掛って来たカミュに、振り下ろした<キラーエイプ>の腕は、虚しく地面を陥没させる。見失った相手を探すように首を動かした<キラーエイプ>には、決定的な隙が生じていた。

 

「グギャァァァァァ」

 

 <キラーエイプ>の腕を横に避けた後、懐に飛び込んでいたカミュの剣が、その胸板に吸い込まれていた。強烈な痛みと、不愉快な音を立てながら噴出す体液に、<キラーエイプ>は苦悶の叫びを上げる。

 

「ふん!」

 

 突き刺さった<鋼鉄の剣>をカミュが真上へと引き上げる。手入れを怠った事のない鋭い刃先が、<キラーエイプ>の肩口までを大きく斬り裂いた。

 天井に向けて体液を噴出しながら、<キラーエイプ>は仰向けに倒れて行く。このまま放置しておけば、助かる事はない程の傷。

 

「……あ……ああ……」

 

 その光景を見た時に、サラの中で自分でも解らない戸惑いが生まれた。

 魔物が死に逝く様等、ここまで何度も見て来た。

 『魔物は絶対悪』

 『魔物は滅ぼす物』

 『魔物に情け等無用』

 そう信じて生きて来た。

 そう憎んで生きて来た。

 その『憎悪』こそ、サラが前へ進む活力だと信じていた。

 

 だが、今、サラの瞳に映る光景を受け入れる事が出来ない。

 目の前で我が子を護り倒れて行く<キラーエイプ>。先程まで、好奇心に彩られた光を宿していた瞳が、驚愕に変わってしまった幼い魔物。

 親の元に走り寄ろうとするその幼い魔物も、カミュの振るう剣の餌食になろうとしている。

 

「カ、カミュ様! 待ってください!」

 

「なっ!?」

 

 サラは無意識に駆け出していた。突如前に出て来たサラに、驚き剣を止めるカミュ。そんなカミュの驚きに目もくれず、サラは呼吸も乱れ始めている<キラーエイプ>の前に膝を落とした。

 

「キィィィ!」

 

「……大丈夫です。大人しく待っていて下さい」

 

 跪き、<キラーエイプ>の傷口に手を翳すサラに向かって、幼い小猿が悲鳴にも似た叫びを上げながら拳を振るう。

 まだ成長もしていない幼い拳は、サラの背中をポカポカと情けない音を立てながら叩くが、サラは一度小猿へと視線を向けた後、自分の身近に居る幼い魔法使いに掛ける様な言葉を発した。

 

「べホイミ」

 

「……おい……」

 

 サラの二の腕までを覆う淡い緑色の光は、<キラーエイプ>の身体を包み込み、癒しの風を送り込んで行く。後方で剣を持ったままのカミュが、訝しげな視線をサラに向けていた。

 カミュは、相手が魔物であろうと、自分に襲い掛かって来ない魔物は見逃して来た。だが、一度自分に襲い掛かって来た者は容赦なく斬り捨てる。手加減をし、逃がす事等もあるが、回復呪文まで使ってその命を救った事はない。

 それを、目の前の、魔物を憎んでいた僧侶が行っている事に、カミュは困惑していたのかもしれない。その証拠にカミュの口から出た言葉は、問い掛けのものだけだった。

 

「キィィィ」

 

「もう少しです。もう少し待っていて下さい」

 

 傷が塞がって行くのを見て、先程とは違う弱々しい声を上げる小猿に、サラはもう一度言葉をかける。

 『必ず命を救って見せる』と。

 サラのその想いは、魔物と呼ばれ異種族の子供にもしっかりと伝わった。サラの顔を覗き込むように見た<キラーエイプ>の子供は、静かに座り込んだのだ。

 

「うぅぅ……サラ……?」

 

 その様子に困惑している者が、もう一人。先程、吹き飛ばされ、ようやく意識がはっきりしてきたリーシャである。

 はっきりして来た視界の中で、魔物に向けて回復呪文を唱えるサラと、その後ろで呆然と佇むカミュ。

 そんな奇妙な光景に、リーシャもまた困惑していたのだ。

 

「……さぁ、これでもう大丈夫です。しばらくすれば意識も戻りますよ」

 

「キィィィ」

 

 そんな二人の困惑を余所に、回復を終えたサラが、自分の横で大人しく座っていた小猿に笑顔を見せる。

 サラの言葉を理解したように、小猿は一つ叫び声を上げた後、<キラーエイプ>の傍に駆け寄って行った。

 

「メルエ、いい加減に起きて下さい」

 

「…………うぅぅん…………」

 

 小猿の姿を見て軽く微笑んだサラは、後方に移動し、メルエの身体を再び揺り動かす。気持ちの良いまどろみから強制的に引きずり出されたメルエは、不機嫌そうに唸りながらも、目を擦り立ち上がった。

 

「カミュ様、行きましょう」

 

「……ああ……」

 

 メルエの手を取ったサラが後ろを振り返り、カミュへと出発を促す言葉に、カミュは頷くしかなかった。

 未だに意識の戻らない<キラーエイプ>を置いて、一行は洞窟を離れる。

 既に太陽は完全に地面の上へと昇りきっており、山肌を明るく照らし出していた。

 

 

 

「サラ、先程の事だが……」

 

 再び山を登り始めた一行に会話はない。そんな中、意を決したように、最後尾を歩くリーシャがサラへと口を開くが、その事をリーシャは後悔してしまう。

 背中から掛かるその言葉に、びくりと肩を震わせ、振り向いたサラの瞳には色々な感情が宿り、今にも泣き出しそうな表情をしていたのだ。

 

「……はい……」

 

 観念したように、返事を返すサラの声は震えている。

 サラが振り返る事で、一行はその場で立ち止まり、先頭を歩くカミュもまた振り返っていた。

 

「……何故、魔物に回復呪文を掛けた?……いつかアンタが言ったように、あの魔物がこの先『人』を襲ったとしたら、どう責任を取るつもりだ?」

 

「カミュ! お前がそれを言うな!」

 

 サラの表情を見て、何も言えなくなってしまったリーシャの代わりに口を開いたのはカミュだった。

 ただ、その内容に、リーシャは怒りを表す。カミュが言う言葉は、カミュに向けられていた言葉だからだ。

 

「……私は、既にカンダタという人を逃がしました……」

 

「それとこれとは別の話だ」

 

 カミュの方へ振り返る事なく呟いたサラに、カミュが追い討ちをかける。そんなカミュを鋭い視線で睨むリーシャであったが、カミュの言葉に反論はしなかった。何故なら、カミュの言う事が正しいからである。

 不思議そうにカミュとサラを交互に見つめるメルエの眉尻が下がって行く。何故、カミュ達がお互いを攻撃しているのかが理解出来ないのだ。

 

「あの魔物を見ていたら……私達『人』と同じ様に、必死で生きているという事を感じずにはいられませんでした」

 

「……そんな事は、アリアハンを出た頃から見ている筈だ」

 

 カミュの言葉に容赦はない。サラはアリアハンを出た当初、そう話すカミュに憎しみすら感じる程の視線を向けていたのだ。

 ただ、カミュの言葉は、突如としてそのような事を言うサラに対し、憤りを感じたのではなく、その感情が弱気から来る物かどうかを探っているようだった。

 

「わかっています。私は、ルビス様を裏切ってしまいました。もう、僧侶として生きて行く事は出来ないのかもしれません」

 

「……サラ……」

 

 顔を俯け、言葉を漏らすサラの声は、涙で掠れていた。

 剥き出しになった山肌に落ちて行く小さな雫は、地面を濡らして行く。そんなサラに声をかける事も出来ず、ただ呆然と立ち尽くすリーシャ。

 それでも、カミュは言わなければならなかった。

 

「ルビスの事等どうでも良い。要はアンタの問題だ。アンタは後悔していないのだな?」

 

「……わ、わかりません。もし、あの魔物が『人』を襲っている姿を見てしまったら、私は後悔すると思います……」

 

 全世界の信仰の対象である精霊を呼び捨てにするだけでなく、『どうでも良い』と吐き捨てるカミュを、誰も咎めなかった。

 今、焦点になっているのは『精霊ルビス』ではないのだ。

 

「この先、俺達は数多くの魔物を殺して行く事になる。逃げる魔物を敢えて殺そうとは思わない。だが、俺達に向かって来る魔物は、例え子がいようと、妻がいようと殺さなければならないだろう。アンタにそれが出来るのか?」

 

「……カミュ……」

 

 カミュは、魔物を逃がす。だが、殺すとなれば、『魔物』だろうが『人』であろうが容赦はしない。それが、サラとカミュとの決定的な違いなのだ。

 カミュは『綺麗事』として、魔物を逃がしている訳ではない。要は『殺す必要がない』というだけ。子供を護っているから殺さないというのではなく、自分に向かって来ないから殺さないという物なのだ。

 

「……」

 

「アンタは俺達に『人を救いたい』と言った。あの魔物を救う事は人を危険に晒す事になるぞ?」

 

 だが、リーシャから見れば、カミュの言っている事は身勝手な物。

 自分は良いが、他の人間は認めないとすら感じずにはいられなかった。

 

「……ルビス様は、私をお許しにはならないかもしれません……」

 

「……またルビスか……」

 

 ようやく口を開いたサラの口から出た言葉に、カミュは再び溜息を漏らす。

 呆れたように、カミュは、もうこれ以上口を開く事なかった。

 

「それでも……それでも私は、これから先、もし同じ様な事があれば、同じ事をすると思います」

 

「……サラ……」

 

 口を閉じたカミュへ、サラは初めて視線を向ける。

 涙に濡れ、赤くなった瞳には、強い意志が宿っていた。

 

「カミュ様と旅をする中で、この世界に生きている物が『人』だけではない事を知りました」

 

 それは、比喩。

 サラとて、この世界で生物が『人』だけだとは思っていなかった筈。ただ、他の生物達にも意思があり、願いがあり、生活がある事を考えた事はなかったという事だろう。

 

「私が生まれる以前は、魔物も人もエルフもこれ程いがみ合ってはいなかったと云われています。勿論魔物に襲われる人は居たでしょうが、これ程魔物が凶暴化したのは『魔王』という存在が大きく影響している事は間違いないと思います」

 

 カミュは黙して何も語らない。

 ただ、厳しい瞳をサラに向けていた。

 

「……私は……私はルビス様のように全知全能ではありません……ただ、『魔王』がいる限り、『人』も『エルフ』も『魔物』も本来の生を全う出来ないのなら、私は『魔王討伐』へと向かいます」

 

「……全知全能であるなら、このような状況にも陥ってはいない筈だが……」

 

「カミュ!」

 

 この世界の信仰の対象である『精霊ルビス』を侮辱する言葉を発するカミュに、我慢出来ず叫んだのは、僧侶であるサラではなくリーシャだった。

 

「それに、エルフや魔物の脅威となる者は、『魔王』ではなく『人』だ」

 

「!!」

 

 サラは、カミュの言葉に目を見開くが、何も言い返す事はなかった。

 おそらく、サラもそれを感じてはいたのだろう。

 だが、敢えて目を背けていた。

 

「アンタが『人』を救おうと思えば、当然魔物を殺さなければならなくなる。だが、魔物を救おうと考えるのであれば、アンタの敵は『人』だ」

 

「し、しかし、『魔王』を倒せば、魔物の凶暴性もきっと今より治まります!」

 

 サラとカミュの言葉の応酬。

 それは、本当に久しぶりの光景。

 カンダタの時は、軍配はサラに上がった。

 しかし、今回は明らかにサラの旗色は悪いだろう。

 

「……それでも、魔物の食事を制限する事など出来ない。魔物が生きている以上、『人』は襲われ、食される」

 

「くっ……」

 

 傍観していただけのメルエの瞳にも涙が滲んでいた。

 自分の大好きな人間達が互いに言い争う姿は、見ていて哀しみを感じる物だったのだろう。幼いメルエにはそう感じたのかもしれないが、リーシャはただの言い争いとは見ていなかった。

 

 これは、自分達の成長の証。

 アリアハンを出た当初では考えられない内容。

 サラが、『人』を救うのではなく、『魔物』を救う事で悩んでいる。

 ただ、サラにしても、『全てを救おう』等とは考えていないのであろう。

 故に悩む。

 

「それこそ、アンタが魔王を倒した後に『王族』にでもなり、魔物と人の住み分けでもすれば、話は別だろうがな」

 

「!!」

 

 そして、意外な場所から道が示される。ただ、闇雲にサラの言葉を否定するのではなく、何かを暗示するような内容。

 しかし、それは一介の僧侶であるサラにはとても厳しい条件でもあったのだ。

 

「……そ、それは……」

 

「話が逸れた。俺が聞きたいのは、『魔王討伐』に向かう為にこれから数多くの魔物を殺す事になる。アンタにそれが出来るのかという事だけだ」

 

 確かに、この先、リーシャ達は数多くの魔物と遭遇し、そしてそれを倒して行かなければ『魔王』という存在に辿り着く事は出来ないだろう。

 『魔物を倒す』という事は、相手の命を奪う事。命の尊さに違いがないという事を悩み始めているサラにとって、それは余りにも酷な注文なのかもしれない。

 

「……それが出来ないのであれば、アンタとは<ダーマ>で別れる事になる……」

 

「!!」

 

「カミュ!」

 

「…………サラ………いない………だめ…………」

 

 一拍置いた後のカミュの言葉に、三者三様の答えが返って来る。サラは息を飲み、リーシャは叫ぶ。メルエは、まるでサラを手放さないとでも言うように、カミュの傍からサラの下へと駆け寄り、サラの身体にしっかりとしがみ付いた。

 

「……私の目指す物は『魔王討伐』です。それを成し遂げるまでは死ぬつもりはありません」

 

 サラの言葉の最後は、しっかりとした力が籠っていた。それは、どこか危うい雰囲気さえ持つ気迫。そして、サラの頭の中に『魔物』という種族を殺す事への確かな抵抗感が生まれた事を表すもの。

 

「……しかし、ルビス様は、私をもうお許しにはならないでしょう……」

 

 何かを思い切ったサラの顔が、再び地面へと下がって行く。それは、僧侶としての想いが強すぎるサラだからこそ感じる苦悩なのかもしれない。

 ルビス教を信じて歩んで来たサラにとって、そのルビス教の教えを根本から裏切ってしまった事は、想像以上の罪悪感だったのだろう。

 

「例え、ルビス様がお許しにならなくとも……」

 

「えっ!?」

 

 しかし、その顔を持ち上げる声が後方から掛る。

 それは、サラを何度も救い、強引に引き上げ、そして道へと戻して来た声。

 

「私は、今のサラを誇りに思う」

 

「……リ、リーシャさん……」

 

 リーシャの声はサラの心へと浸透して行く。

 その言葉は慰めの様でいて、実に厳しい。

 

「私達の手は、実に頼りない。世界中にいる『人』の為に『魔王討伐』に向かってはいるが、その『人』全てを救う事など出来はしない」

 

 そしてリーシャは語り出す。

 騎士としての誇りも、戦士としての誇りも、全てを捨てた赤裸々な心中。

 その言葉を、表情を歪める事なく、リーシャは口にしていた。

 

「だが、それでも自分の手が届く位置にある『命』を救おうと悩むサラの心を、私は何よりも尊いと思う。例え、ルビス様が許されなくとも、この先にある<ダーマ>が私達を拒んだとしても、私はサラを……サラの成長を誇りに思う」

 

「…………メルエ………も…………」

 

 『サラは間違ってはいない』

 そう告げるリーシャの言葉は、サラの涙腺を崩壊させてしまう。

 誰からも認められはしないと考えていた。

 むしろ糾弾されると思っていた。

 

「アンタ方がどう考えようと勝手だが、この先の道で魔物を救う事など出来はしない。立ち向かって来る魔物は排除しなければ死を迎えるだけ。俺は数え切れない程の魔物を殺す事になる」

 

 しかし、良い雰囲気に変わりかけた空気を再び張り詰める言葉が紡がれた。

 それは、何者も区別する事無く、本質を見極める目を持つ青年。

 『人』の希望とまで呼ばれ、世界を救う為の存在。

 

「……カミュ……」

 

「その時に、一々魔物を回復していたら、命がいくらあっても足りはしない」

 

 話が纏まりかけたにも拘らず、再び話を蒸し返すカミュをリーシャは不思議に思った。

 何故、今までのように、何故黙って歩き出さないのか。

 何故、そこまでサラをいたぶるのかと。

 

「『人』を救う事と、『魔物』を救う事は、絶対に相容れない物だ。俺は、自分に敵意持って向かって来る者は、『人』であろうが『魔物』であろうが、殺して行く」

 

「……」

 

 サラは厳しい視線をカミュへ向け、その言葉の真意を探ろうとする。

 この旅で解った事。それは、カミュが口を開く時は、その言葉に何らかの意味があるという事だった。

 それはとても些細な事から、サラの根底を揺るがしかねない物まで様々ではあったが、必ずと言って良い程に何かが含まれていた。

 

「……今度は、アンタの番だ……」

 

「……」

 

 しかし、それだけを言って、カミュは踵を返して歩き始めてしまう。結局、サラには、カミュが何を伝えようとしていたのかが、全く理解出来なかった。

 

 リーシャは、黙ってカミュの背中を見つめていた。

 この広く優しい青年の背中を。

 リーシャには、最後のカミュの一言で何を言いたいのかを悟ったのだ。

 

 『必死に護って見せろ』

 

 その一言をカミュは伝えたかったのかもしれない。

 アリアハンを出た当初から、カミュは魔物を逃がして来た。その時、それを咎め、逃げる魔物に追い討ちを掛けようとしたサラを止めていたのもカミュ。

 誰にも認められなくとも、『憎悪』に近い感情をぶつけられても、彼は魔物と余計な戦闘を行わなかった。

 

 それをサラにしろと言っているのだ。

 自分は、容赦なく魔物を、そして人を殺して行く。

 ならば、次はサラの番だと。

 『勇者』としての責務を全うする自分を止めて見せろと。

 

 最後に口端を軽く上げたカミュの表情がそれらを全て物語っていた。

 サラの考えや理想を否定はしない。

 ただ、その理想の先は険しく辛い道なのだと。

 

「……リーシャさん……」

 

「ん?……なんだ?」

 

 カミュが歩き出し、その後をメルエが追って行った。

 必然的に、立ち止まっているリーシャとサラだけとなる。

 その時、カミュの背を見つめていたサラが口を開いた。

 

「私は……私もこの先、数多くの魔物を殺して行くのだと思います。あのような事をカミュ様へ言いましたが、魔物と遭遇し戦う時、私は救う事など出来ずに殺して行くのでしょう。自分が生き残る。ただ、それだけの為に……」

 

「……サラ……」

 

 弱音を吐くような口調ではなく、しっかりと自分を見つめて話すサラの言葉は現実を見ている物だった。故に、リーシャは何も言わず続きを促す。

 サラの胸の内に生まれ始めている新たな『覚悟』を明確にさせる為に。

 

「私は……卑怯者です。カミュ様のしていた事を否定し、蔑んで来ました。その行為の苦悩も、辛さも、そして尊さも知らずに」

 

「……それで良いじゃないか……」

 

 思わぬリーシャの回答に、サラは弾かれたように振り向く。

 そこには、未だにカミュの背中を見つめるリーシャの表情があった。

 

「何事も真っ直ぐ受け止め、そしてそれについて悩み続ける。それがサラという僧侶だ。私は、知っての通り、考える事は苦手だ。何も考えずに魔物に武器を振るうだけ。サラのように悩み、考え、答えを見つける事は出来ない」

 

「……」

 

 視線をサラへと移したリーシャの瞳は慈愛に満ちていた。

 リーシャは知らない。

 この瞳こそ、サラが目標としている物だと。

 

「これから先も、サラは苦しみ、悩み、そして答えを見つけるのだろう。それも生きているからこそだ。サラには申し訳ないが、私はサラが魔物を救おうとしても、その魔物がメルエやサラに牙を向けるのであれば、叩き殺す。私は悩まない。そして迷わない。それは、サラの仕事だ」

 

「は、はい!」

 

 聞き方によれば、何とも無責任な言葉である。

 だが、それでもサラは大きく頷いた。

 自分を待ち受けている大きな苦悩を知りながらも。

 

「さあ、行こう。まずは<ダーマ>だ」

 

「はい!」

 

 そして一行は再び歩き始める。

 この岩が突き出した山肌よりも厳しく過酷な道へと。

 

 

 

 その日も結局山の頂上に辿り着く事は出来ず、再び途中で発見した洞穴で一行は一晩を明かす事となる。今回は、魔物の住処ではなく、一行は夜が明けるまで身体を休める事が出来た。

 

 夜が明け、再び山を登りだした一行の間に会話はない。それは昨日の出来事も大いに影響してはいたが、丸二日掛けながらも未だに見えぬ山頂に、全員が疲労感を漂わせていたのだ。

 既にメルエをカミュが背負う形となっており、疲労によって足が前に進まなくなっているサラの持つ<鉄の槍>の柄の部分をリーシャが引っ張りながら歩く姿は、旅慣れている筈の一行でさえも苦しむ過酷な山道である事を証明していた。

 

「サラ、大丈夫か?……もう少しだ」

 

「……はぁ…はぁ……は、はい」

 

 立ち止まりそうになるサラを叱咤し、リーシャはサラを引き上げる。既に普通に歩ける山道ではなく、突き出した岩を掴み、腕の力で登るといったものに変わって来ていた。

 先頭をメルエを背負ったカミュが進み、そのカミュが見つけた足場などを頼りにサラが進む。最後尾をサラが足を滑らせた時の事を考えながらリーシャが歩むという形で、一行は山を登って行った。

 

「…………カミュ…………」

 

「メルエ、しっかり首に掴まっていろ。落ちたら二度と会う事が出来なくなるぞ」

 

 自分だけが楽をしているように感じたメルエが、カミュへと小さな呟きを溢すが、カミュから返って来た答えを聞き、真面目な顔で頷く。

 メルエを背負う為に、カミュの剣は腰に括り付けられている。この状況で魔物と遭遇すれば、全滅は必至であろう。だが、幸いな事にこの険しい山道では魔物の存在もなかった。

 それは、この先に在ると云われている<ダーマ神殿>の加護なのか、それとも只単に魔物が生息していないのかは解らないが、魔物と遭遇する事は一度もなかった。

 

 

 

「サラ! 見てみろ! 頂上だ!」

 

 そして陽が西の空に沈み、真っ赤な光が大地を染め始め、カミュ達の周囲の気温も下がった頃、リーシャが一つの足場に足を止めてサラへと叫んだ。

 疲れきって、顔を上げるのも苦になっていたサラであったが、懸命に顔を上げた先に山の切れ目が見えた事に顔を輝かせる。

 

「カミュ! 頂上だな!?」

 

 自分達よりも先を登っているカミュへとリーシャは問いかけるが返事は返って来ない。それもその筈、カミュは今、その頂上へと向かって最後の岩に手を掛けている最中なのだ。

 それでも、返事を返さないカミュへ小さく不満顔を浮かべ、リーシャは再び山を登り始める。

 

「あ!?」

 

 そして、リーシャよりも一足先に登っていたサラの目の前に差し出される手。サラが足場に足を掛けた後に伸ばされたカミュの手が、そこが頂上である事を証明していた。

 

「……賭けは、アンタの勝ちだ……」

 

「!!」

 

 カミュの手を掴み、引き上げられた場所で掛けられた言葉。

 そして、今サラの目に映る光景。

 それが、サラが夢見た場所である事は、神々しく輝いた宮殿にも似た建物が物語っていた。

 

<ダーマ神殿>

その佇まいは、一国の王城と言っても遜色がない程に大きく、そして美しかった。山の頂上にあるにも拘らず、周囲には草花が育ち、水が湧き出す噴水がある。それは、まさしく神々に一番近い場所と謳われた名に恥じぬ物だった。

 

「カミュ! 私に手は貸さないのか!?」

 

 神殿の美しさに言葉もなく座り込むサラの後方から、怒気を露にしたリーシャの声が響く。先程、サラを引き上げた後、カミュもまたこの神殿に目を奪われていた。それはメルエも同様で、後に続くもう一人の仲間の事は頭からなくなっていたのだ。

 一人自力で上がって来たリーシャの怒りは当然の物のような気もするが、逆にどこか理不尽な怒りにも感じられる。

 

「……別段、アンタは自力でも十分だろ……」

 

「なんだと!?」

 

 目の前の神々しい神殿との感動的な出会いを無にするような掛け合いに、サラは怒りよりも笑いが込み上げて来る。

 正直、サラも半信半疑であったのだ。

 <ダーマ神殿>はあると思ってはいた。だが、半ば伝説にもなりつつあるこの神殿が本当にあるかと問われれば、自信はなかったのである。

 その神殿と出会えた感動と安堵が、笑いとなって一気に身体から溢れ出したのだ。

 

「はは……あははははは……」

 

「…………ふふふ…………」

 

 サラに釣られ、メルエまでもが笑い出す。

 『何がおかしい!?』と厳しい視線を向けたリーシャではあるが、サラの無邪気な笑みを見て、その表情を笑顔へと変えて行った。

 

「良かったな、サラ」

 

「あはははは……は、はい!」

 

 サラはそれでも笑い続けた。

 何かを吐き出すように。何かから解放されたように。

 そして何かの重みを噛みしめているように。

 山頂にある宮殿という不思議な光景が広がる中、一人の『僧侶』の笑い声だけが響き続ける。

 

 『サラのここまでの苦悩は、全てここへ来る為の試練だったのかもしれない』

 

 返事を返した後も、頬に涙を伝えながら笑い続けるサラを見て、リーシャはそう考えた。

 そして、ゆっくりサラを抱き締める。リーシャに抱きしめられた事に驚いたサラであったが、次第に笑い声は消え、すすり泣くような嗚咽へと変わって行った。

 不思議そうに二人を見つめるメルエの手を取り、カミュは神殿へと歩き始める。

 

 陽も沈み始め、周囲を闇の支配が手を伸ばし始めた山頂で、誰よりもその聖地を望み、そして、もはやその聖地を渇望する資格のない『僧侶』の嗚咽が響いていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ようやくダーマへ到着です。
この話のサラの考えには賛否両論があると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ダーマ神殿①

 

 

 

 カミュ達に遅れて、赤く腫れた目を下げて神殿の扉を開けたサラは、扉の先で、まるで来る者を吟味するように佇む分厚い扉を見た。

 建物に入る扉の向こうに、もう一つの扉が存在する事は、通常の王城では当然の設備である。

 だが、ここは神殿であり、敵からの攻撃に備える事など、必要ではない筈。

 

「ようこそ、ダーマ神殿へ」

 

 自分背丈の数倍もある大きな扉を見上げていたサラの横から突然掛った声に、勢いよく首を動かしたサラの視界に、一人の男性が入って来た。

 法衣に身を包む訳でもなく、どちらかと言えば一国の大臣のような姿。

 ダーマ神殿の主ではないが、管理者といったところだろうか。

 

「何時以来でしょう。この<ダーマ神殿>へ自力で辿り着いた僧侶は」

 

「……カミュと申します……」

 

 感慨深い瞳を一行に向ける男に、カミュが頭を下げた。

 あれだけ『精霊ルビス』を侮辱するような事を発言していたカミュであったが、いつものように仮面を被る。

 

「ふむ……もしかすると、この<ダーマ>は貴方方には必要のない場所かもしれませんな」

 

「えっ!?」

 

 カミュの挨拶に、頭を下げ返した後、男は一行をまじまじと見つめ、そして呟く。その小さな呟きをサラは聞き逃す事はなく、ここまでの道で自分が犯した罪を見抜かれたのではと焦燥に駆られた。

 

 『お前は、この場所に足を踏み入れる資格はない』

 『もはやルビス様の加護がお前に届く事はない』

 

 そう言われたように感じたのだ。それ程に、目の前に立つ男の瞳は鋭く、まるで全てを見通しているかのように透き通っていた。

 透き通ると言っても、メルエのような純真無垢な瞳ではなく、様々な経験を含み、その上で人の心を見通すような瞳。

 それにサラは怯えた。

 

「……それは、どういう事でしょうか?」

 

 固まってしまったサラの代わりに先頭に立っていたカミュが問いかける。

 リーシャもまた、この男の真意が分からずに、厳しい視線を向けていた。

 

「ああ、それは……いえ、私がお伝えする事ではないでしょう。本日はもう陽も落ちました。明日、神殿内で教皇様にお会いするのがよろしいかと」

 

「……」

 

 カミュの問いかけに答えようとした男は、一瞬何かを考えるように言葉を途切り、そしてその理由を口にする事はなかった。

 日時を変えて、この神殿内の主と言葉を交わす事をカミュ達へ勧めて来る。

 

「この廊下を右に真っ直ぐ進むと、宿があります。宿と言っても、簡易な物ですが。今夜はそちらでここまでの疲労を癒し、明日の朝、もう一度この場所でお会いしましょう。その時までに教皇様への謁見の準備はしておきます」

 

「……畏まりました……」

 

 ここで無理をする必要がない事を悟ったカミュは、素直に男の提案を受け入れる。第一に、もはや今日の疲労で、メルエは半分眠っていたし、サラは疲労困憊の状態だ。

 サラの状況を考えれば、今は何を言われても、それを考える事など出来はしないだろう。

 

「では、また明日」

 

「……失礼致します……」

 

 男にもう一度頭を下げたカミュは、男が指示した方角に歩いて行く。

 そのマントの裾を握り、メルエもまた歩いて行った。

 残されたサラは未だに固まったままだ。

 

「サラ、行こう」

 

「あっ! は、はい」

 

 男に一礼をした後にリーシャが歩き、その後を付いて行こうと、慌てて下げたサラの頭の上から、男の声がかかった。

 

「私がこの神殿に仕えてから、もう長い月日が流れます。しかし、その間にこの神殿に辿り着いた本当の『僧侶』は貴女だけです」

 

「!!」

 

 サラが勢いよく上げた視線の先に、人の良さそうな笑顔が写る。

 その表情を見て、サラは再び罪悪感に駆られるのだ。

 

「サラ!」

 

「は、はい!」

 

 サラの変化に気づき、先程よりも強い口調で呼ぶリーシャの言葉に、もう一度勢い良く頭を下げたサラは、そのまま駆け足でリーシャのもとへと急いだ。

 残った男は、そんな一行の様子に目を細め、柔らかく微笑んだ。

 

「……ここへは、本来であれば、貴女のような者しか来る事は出来ないのですよ……」

 

 そんな男の言葉が、暗闇に支配された廊下に響き、すぐに消えて行った。

 

 

 

 廊下を歩き、突き当たりまで行くと、上へと続く階段が見えて来る。カミュは、もはや完全に眠りに落ちそうなメルエを抱きかかえ、その階段を上って行った。

 階段を上るとすぐにカウンターがあり、そこに一人の店主が座っている。

 宿屋と言っても名ばかりの物で、この<ダーマ神殿>に辿り着く者がいない以上、店主に仕事はないのであろう。昼の間に清掃などを済ませてしまえば、今と同じようにカウンターに座り舟を漕ぐだけなのかもしれない。

 

「……すまない……一晩泊まりたいのだが」

 

「!?……はっ! こ、こりゃ、珍しい」

 

 カミュが小さな声と共に、その店主の肩を揺らすと、驚いた店主の顔が跳ね上がった。

 カミュとその腕で眠るメルエ。そして、後から階段を上って来た二人の女性を見て、店主は更に目を丸くする。

 

「できれば、二部屋か三部屋をお願いしたいのだが」

 

「あ、ああ。喜んで。見ての通り、部屋なら選び放題。二部屋だろうが三部屋だろうが、四人で8ゴールドだ」

 

「8ゴールド!!」

 

 カミュの依頼に、作り物ではない笑顔を満面に浮かべ、店主が提示した金額を聞いてサラは驚きの声を上げた。

 それ程に安い価格だったのだ。

 実際は、サラの故郷であるレーベの村と同等の価格体系である。

 

「はははっ。まぁ、ここは、基本的にダーマ神殿の所有する宿だ。支払って貰っている金額も食事代金だけだからな」

 

「食事は出るのか?」

 

 サラの驚いた顔を見て、店主は軽く笑い声を上げながら頷いた。

 リーシャもまた笑顔になり、そのリーシャの顔を見て、サラもまた笑顔を浮かべる。二人が笑い合うのを余所にカミュが溜息を吐いていた。

 

「サラ、食事の前にメルエを起こして湯浴みをさせてやってくれ」

 

「は、はい」

 

 部屋の鍵を店主から受け取った一行は、それぞれの部屋へと入って行く。未だに眠るメルエをカミュから引き剝がし、宝物でも抱くように抱きかかえるリーシャに苦笑しながら、カミュは自らの部屋に入って行った。

 

 

 

 皆が寝静まり、宿屋の明かりが消えた頃、サラは一人宿屋を出て行く。この宿屋へと入る前に、教会を目に留めていたのだ。

 実質、この<ダーマ神殿>自体が大規模な教会であるのだが、『神殿』という名が示すとおり、それは神域に近い物として考えられ、一般の礼拝が出来る場所ではない。

 故に、別に礼拝が出来る教会を設けていたのだ。

 もはや、神父もいないが、一日中迷える者の為に門が開け放たれている教会には、明かりが灯されており、サラは正面に見えるルビス像へと歩を進めた。

 明りに照らし出されたルビス像は、サラが幼い頃より毎日見て来た物と同様に、優しく慈愛に満ちた笑みを浮かべている。

 

「……ルビス様……」

 

 ルビス像の前に跪き、手を胸の前で合わせたサラは言葉を漏らす。

 その表情は、正しく迷える者。

 己の中に存在し始めた確かな想いを否定する事も、肯定する事も出来ない者の表情。

 それは、サラの心を顕著に表わしていた。

 

「私は……私はどこへ向かえば良いのでしょうか……」

 

 サラの呟きは闇に溶けて行く。

 その呟きに答えはなく、ただ静けさだけが広がっていた。

 

「もはや資格のない者が、こうしてルビス様の前でお祈りを捧げる事をお許し下さい」

 

 手を合せ跪くサラは顔を上げる事が出来ない。

 それはサラの胸の内にある罪悪感。

 ルビスの教えと称される物を裏切ったと考える心故の物。

 

「私は、ルビス様のご加護を頂いていたからこそ、ここまで生きて来る事が出来ました。両親を失い、ただ魔物に襲われるのを待つだけであった私をお救いして下さり、神父さまのような方との出会いまで頂きました」

 

 サラが語る言葉と共に、床に大粒の滴が零れて行く。

 サラ自身、己が涙を流している事に気が付いていないのかもしれない。

 

「それにも拘わらず……私は……私は……」

 

 カミュへ強い口調で主張したサラはここにはいない。

 リーシャに己の胸の内を吐き出したサラもここにはいない。

 ここにいるのは、未だ修行中の若い一人の僧侶。

 

「私には、もはや僧侶としての資格も、ルビス様の御前に出る資格もありません。それでも……それでも私は、ルビス様を……」

 

 それ以上の言葉を繋げる事は出来なかった。

 もはや、零れ落ちる涙は堰を切り、口からは嗚咽が溢れ出す。

 崩れるように頭を下げたサラは、その場で咽び泣いた。

 無情な笑みを浮かべたままのルビス像は、何も答えない。

 サラの心のように暗く静まり返った教会に、一人の僧侶であった者の嗚咽が響き続けた。

 

 

 

 翌朝、朝食を取り終えた一行が宿屋を出ると、階下で昨日の男が待っていた。男が待っていた事に驚いたカミュではあったが、それを表情には出さずに、一つ頭を下げる。

 

「お待ちしておりました。教皇様がお待ちです」

 

「何から何まで、恐れ入ります」

 

 人の良い笑顔を見せた男に、もう一度頭を下げるカミュを見て、マントの裾を握っていたメルエも小さく頭を下げる。

 そんな幼い付き人の姿に男は笑顔を濃くした。

 

「では、こちらに」

 

 そう言って先頭を歩き出す男の背中を追って、一行は廊下を歩き出す。昨日通った道を戻りながら、リーシャは前を歩くサラの背中を見ていた。

 

 今朝見たサラは笑顔だった。

 しかし、その笑顔は完全な作り物。

 おそらく、カミュも気がついているだろう。

 隠しようのない程にくっきりと残る涙の跡。

 赤く腫れた瞼。

 同じ様に真っ赤に充血した瞳。

 彼女は一晩中泣いていた筈だ。

 

 彼女の中の全てと言っても過言ではない『精霊ルビス』への信仰というものが崩れ去り、今のサラには支えとなる物がない。

 彼女は、両親を失ったその日から、どんなに辛くとも、どれ程哀しくとも、『精霊ルビス』の教えを支えに生きて来たのだ。

 

 『自分が生きているのも、<精霊ルビス>のご加護のお陰』

 

 そう信じて生きて来たのだろう。

 その教えを自ら破り、心の支えであったルビスからの加護を手放してしまう。

 昨日は気丈に前を見ていた。そして、今も自分達に笑顔を向けている。しかし、その内面はどれ程の苦悩が渦巻いているのだろう。

 どれ程の絶望と、どれ程の後悔が押し寄せているのだろう。それを考えると、リーシャの目頭が熱くなる。

 

 サラは確かに成長した。

 それは、リーシャが目を見張り、舌を巻く程に。

 だが、それ故にサラは無理をしている。

 それがリーシャには哀しかった。

 

「さあ、こちらです」

 

 リーシャが物思いに耽っている内に、一行は昨日見た大きな扉の前に辿り着いていた。先頭を歩いていた男は、扉の端に身体を移動し、手を門へ向けて、カミュを促している。

 サラは再び前にしたその扉を仰ぎ見ていた。

 

 そして扉は開かれる。

 全世界の全ての僧侶の目指す地であり、ルビス教の聖地へと続く扉が。

 サラが己の支えを失って尚、切望していた場所へ誘う扉が。

 

「……あ…あ……」

 

 そして、扉の向こうの景色をサラは見た。

 最も神々に近い場所と謳われるその聖地は、天井に張り巡らされたステンドグラスによって、空から降り注ぐ陽の光を様々な色へと変化させている。

 赤や青、中には黄色の光や淡いオレンジ色の光もある。それが『幻想の世界に迷い込んだのでは?』と錯覚させる程に神秘的な色合いを作り出し、聖地を染め上げていた。

 周囲には赤々と炎が灯され、カミュ達が進む道を照らし出しており、長い回廊には赤い絨毯が敷かれ、来客の行き先を指し示している。

 前方には、祭壇らしき物が見えるが、その祭壇にいる人物までは、離れているために判別が出来ない。

 

「……行くぞ……」 

 

 余りの光景に、呆然と声も出せないサラをカミュが促す。カミュの声を聞いても、その光景から目を離す事が出来ないサラの手を、移動して来たメルエが握り、サラの身体を少しずつ前へと進めて行く。

 カミュやサラに遅れ、最後に中へと入ったリーシャもその光景に暫し見とれていたが、先程の男に一言礼を言おうと振り返った時には、既にその扉の周辺に男の姿はなかった。

 その事を、不思議に思ったが、『仕事に戻ったのだろう』と差して気にも留めず、リーシャはサラの後を追う。

 全員が中に入り終わると、重く大きな扉は、まるで役目を終えたかのように、閉じられて行った。

 

 

 

「よくぞ参った」

 

 幻想的な世界に首を動かしながら、どれくらい進んだ頃だろう。とても広大な聖地を歩き、前を歩くカミュが跪いた事に気付くよりも前に、その声はサラの耳に届く。

 それはとても厳格で、それでいてとても優しく、そして何よりも暖かな声だった。

 

「……アリアハンから参りました、カミュと申します……」

 

 慌てて跪くサラは、顔を上げる事が出来ない。如何にルビス教を信仰している僧侶とはいえ、サラはカミュに付き従う者の一人でしかないのだ。

 

「うむ。面を上げよ。おお、供の者も良い」

 

 想像とは違い、何とも気さくな声がかかった。

 その言葉にカミュは顔を上げ、リーシャ達も恐る恐る顔を上げる。

 ただ、サラだけは、未だに赤い絨毯を見つめていた。

 

「ふむ……ここは転職を司る<ダーマ>。ここに立ち寄る事を認められた者は、実に久方ぶりじゃ」

 

 顔を上げた一行の前にある祭壇の上に座る老人が一人。この好々爺にしか見えない者が全世界のルビス教徒の頂点に立つ『教皇』なのだろう。

 そして、もう一人。年の頃は三十を超えた程の男が、その教皇の脇に立っていた。その瞳は優しく、教皇と同じように、久方ぶりの客人を心から歓迎している事を窺わせるものだった。

 

「……『認められる』とは?」

 

 教皇と、その従者の暖かな眼差しに気を取られていたリーシャとは違い、カミュは教皇の発した言葉の一つに引っかかりを感じた。

 まるで、自分達がここに来る間に選定され、許可を貰ってここにいるかの様な言葉に、疑問を感じたのだ。

 

「うむ。この神殿は通常の人間には見えぬ。いや、見ようとはしないのかもしれぬな」

 

「……」

 

 カミュの疑問に気分を害した様子もなく、教皇はその答えを話し出す。

 だが、それはとても抽象的な物で、カミュ達が理解するには難しいものだった。

 

「お主達は、あの扉を潜る前に、あるお方にお会いせなんだか?」

 

「……はい。ここまでのご案内をして頂きました」

 

 教皇が続けた問いかけに、その理由が分からないまま答えるカミュ。

 流石のカミュも、教皇の意図する事が全く見えて来なかった。

 リーシャは尚更である。

 

「そのお方は、この<ダーマ神殿>の初代教皇様じゃ」

 

「!!」

 

 現教皇が漏らした事実に、メルエ以外の三人が驚きを表す。余りの驚きに、今まで何かに耐えるように顔を上げる事をしなかったサラまでも、弾かれたように顔を上げ、驚きに目を見開いた。

 

「ふふふ。驚くのも無理はない。あのお方は死して尚、この神殿を目指す者達を選定しておる。悪しき者にこの神殿が有する能力を利用されぬようにの」

 

 カミュ達の驚きの表情に満足したように微笑む教皇の姿は、正しく好々爺。とても、ルビス教徒の頂点に君臨する者とは思えぬ雰囲気に、カミュ達が纏う緊張も和らいでいった。

 

「で、では、あのお方は……」

 

 だからであろう。後ろに控え、今まで顔を上げる事すら出来なかったサラが口を開いてしまう。

 自らが信仰し、その資格すら無くなったと涙したルビス教において、雲の上の存在である教皇の前で許しもなく発言するなど、通常時のサラでは考えられないのだ。

 驚愕に彩られた瞳は忙しなく動き、跪いている足は小刻みに震えている。

 それは、どこかで見た事のあるようなサラの姿だった。

 

「…………あわ………あわ…………」

 

「!! メ、メルエ!」

 

 そんなサラの姿を見て、何かを思い出したようにメルエが口にした物は、サラの忌まわしい記憶を呼び起させるものであり、思わず叫んでしまう。

 とても、厳粛な場所で発する物でもなければ、幼い頃から憧れていた場所で取る態度でもない。それ程に、このルビス教徒の頂点にいる教皇と呼ばれる老人と、その横に控える男の醸し出す空気は暖かい物だったのだ。

 次第に、顔を上げていたカミュの顔からも仮面が外れ、呆れた表情を浮かべている事がそれを証明していた。

 

「ふぉふぉふぉ。そなたはメルエと申すのか?」

 

「…………ん…………」

 

「メ、メルエ!」

 

 教皇の問いかけに、真っ直ぐ教皇を見つめ、不躾に返事を返すメルエに、サラは苦言を呈する。今更な感は拭えないが、ようやくサラは今自分が置かれている場所を改めて認識する事が出来たのかもしれない。

 

「そうか、そうか。ふむ。何やら懐かしき物を感じてはいたが、あのお方がここへ通したのも当然よの」

 

「…………???…………」

 

 教皇の言葉に、思わず首を傾げるメルエ。しかし、横にいるサラの厳しい視線を受け、メルエは顔を下げた。

 『…………おに…………』という一言を添えた事により、尚更厳しい物に変わってしまい、反対側にいるリーシャの手を握ってしまったのは愛嬌だろう。

 

「お主達には、本来この<ダーマ神殿>と呼ばれる場所は必要ない物であろう」

 

「それは……」

 

 メルエから視線をカミュへと移した教皇は、カミュ達の疑問を大きくする言葉を溢す。そして、それに反応を示したカミュへ、愉快そうな笑顔を浮かべ、再び口を開いた。

 

「ふむ。そもそも、この<ダーマ>は転職を司る場所。己の中に眠る可能性を引き出し、その者の職を変える事が出来る場所じゃ。しかし、見たところ、お主達は総じて現状の職に不満を持ってはおらん。故に不要だと申した」

 

 しっかりとした口調で告げる教皇の瞳に、サラの心は吸い込まれそうになる。それ程にルビス教の頂点に立つ老人が持つ空気は強い物だったのだ。

 だからであろう、普段ならば、あり得ないような言葉がカミュの口から零れていた。

 

「……私は……」

 

「たわけ! 『勇者』と呼ばれる職を辞する事はできん! その職はお主が決める物ではなく、お主という存在が起こす行動や、言動、そしてその心を指し示す呼称に過ぎん。厳密に言えば、それは職ではない」

 

 しかし、教皇の言葉に異論を挟もうとしたカミュの言葉は、その教皇によって遮られた。

 先程までの好々爺の表情は消え、厳しい目をカミュへと向けている。それは、正しく頂点に立つ者の威厳。

 

「それにの……『勇者』と呼ばれる者でここに来る事が出来たのは、お主が初めてじゃ。それが何を意味するのか、それは私には解らん。だが、古来より、『勇者』とは一時代に一人しか存在せん。この世界に生きる者の中で、お主が唯一の『勇者』なのかも知れん」

 

 何故、カミュが『勇者』である事が解ったのか。

 それを教皇は一言も示してはいない。

 しかし、カミュには、まるで全てを見透かされているように感じた。

 自分という人間も、その生い立ちも、胸に渦巻く苦悩も。

 

「お、畏れながら!」

 

 そんなカミュの胸中を余所に、その後ろから声が上がった。それは、このような謁見の場面で、今まで一言も口を開いた事のない女性の声。

 何か思うところによって上気した顔を挙げ、声を上ずらせながらリーシャが口を開いたのだ。

 

「申してみよ」

 

「はっ! 畏れながら、私のような魔法力のない者であろうと、魔法が使えるようになるのでしょうか?」

 

「……リ、リーシャさん……」

 

「……」

 

 教皇の許可が下り、口を開いたリーシャの言葉にサラは驚き、カミュは思わず溜息を吐いてしまう。

 彼女が魔法という物に憧れを持っている事は知っていた。しかし、カミュもサラも、リーシャの憧れがこれ程強い物だとは思っても見なかったのだ。

 

「ふむ。人は誰しも、その身体に魔法力を備えておる。要はそれを表に出す事が出来るかどうかじゃ」

 

「で、では!」

 

「うむ。生まれ持った魔法力の才を大きく逸脱する事は不可能じゃが、魔法を使えるようにする事は出来る」

 

 リーシャの問い掛けに対し、教皇が返した言葉は、リーシャの瞳を輝かせるのに十分な答えであった。

 その目は輝き、希望によって薄い唇が微かに震えている。

 その様子に、カミュはもう一度大きな溜息を吐いた。

 

「じゃが!」

 

「!!」

 

「魔法を使う職業に転職するという事は、お主が戦士ではなくなるという事。今のお主が持つ才能や特性を失うという事じゃ。つまりは、この先筋力の上昇は望めなくなる。通常の魔法使いよりは力は強いが、戦士や武闘家等よりも劣る事になる。そして、先程も申したが、生まれ持っての魔法力の才は変えられぬ。つまり、その者の才が乏しければ、魔法力が通常の魔法使いよりも劣る可能性もあるという事じゃ」

 

 目を輝かせていたリーシャに向けて、一際大きな声を発した教皇は、その転職による難点を語り出す。それは、決してリーシャにとって簡単に受け入れる事が出来るような、生易しい物ではなかった。

 

「……」

 

 愕然と頭を下げてしまったリーシャに、カミュはもう一度溜息を吐く。それは、リーシャの行動に呆れたというよりも、その考えに呆れたような物だった。

 カミュには、リーシャの考えや憧れが理解出来ないのかもしれない。生まれ持っての魔法力を持ち、筋力も戦士並の物を持っているカミュにとっては、『魔法』とは決して神秘ではないのだろう。

 

「ふむ。これ、そこの若い僧侶よ」

 

「は、はい!」

 

 一段落がついたリーシャから視線を外し、教皇は最後に残る、法衣を纏った少女に声をかける。突然掛かった声に驚いたサラは、周囲の者も驚く程の声量で返事を返した。

 

「ルビス様にお仕えする身の者がここを訪れたのは、この私の後継者となる者以来となる」

 

 教皇は傍に控える男に手を向け、紹介を受けた男は、にこやかな笑顔を向け、カミュ達へ軽く一礼をした。

 サラは、先程から暖かな視線を向けながらも、一言も発する事がなかった男性が次期教皇である事を知り、驚きを隠せないまま、慌てて顔を絨毯へと下げる。

 

「お主もまた、私の後を継げる者なのかも知れん」

 

 そして、続く教皇の言葉に、サラの顔は再び弾かれたように上げられた。

 予期していなかった言葉は、サラの脳を一瞬混乱に陥れるが、その熱は瞬時に冷まされて行く。

 サラの脳裏に再びあの罪悪感が襲い掛かったのだ。

 

「お主が望むのならば、『僧侶』として、この場所で更なる修行を積むが良い」

 

「い、いえ! 畏れ多いお言葉」

 

 慈愛に満ちた教皇の言葉。

 そして、ある意味、次期教皇として、自分の敵になりかねないサラに対し、変わらぬ笑顔を向けている男性。

 しかし、サラは即座に言葉を返す。その早さに、若干の驚きを浮かべた教皇は、もう一度サラの顔を見ようと視線を向けるが、サラの顔は、まるでそれから逃げるように下げられてしまった。

 

「ふむ。何か不満かの?」

 

「い、いえ! 有り難いお言葉なれど……私には、もはやそれをお受けする資格はございません」

 

 不思議そうに問いかける教皇に対して発したサラの答えに、リーシャは苦い顔を浮かべる。

 昨日から悩むサラの問題は、リーシャやカミュが考えているよりもずっと深いものなのかもしれない。

 その事にリーシャは眉を顰めた。

 

「……資格?」

 

「は、はい」

 

 サラが放った言葉に首を傾げた教皇の眉が顰められる。

 もし、次期教皇となる『資格』が必要であるとすれば、この<ダーマ神殿>に辿り着いた段階で、サラは資格を有した事になる筈。それにも拘らず、視線を背けるサラを訝しげに見た教皇は、ある一つの結論に達した。

 

「ならば、お主も転職を望むのか?」

 

「そ、それは……」

 

 他の三人を完全に置き去りにして交わされる教皇とサラの会話は、心地良い物ではなかった。

 サラの苦悩を知っているカミュやリーシャは、その想いを理解している分、身に詰まされるものなのだ。

 『転職』という言葉を聞き、もう一度顔を上げたサラは、教皇と視線がぶつかった。『畏れ多い』と視線を下げようとするが、その眼力というべき力に、サラは視線が外せない。

 まるで自分の中身を見透かされるような強い視線を受け、サラは暫し硬直してしまった。

 

「ふむ。そうか……私もまだまだ未熟じゃの。お主こそが、この<ダーマ>を見出した者であったか」

 

「……」

 

 暫し、サラの内心を見つめるように見ていた教皇が、柔らかく自嘲気味な笑みを浮かべ、独り言のような呟きを発する。その呟きはとても小さく、教皇に傍に控える次期教皇である男性にしか聞こえない物であった。

 

「本来、お主達に『転職』等という物は必要がない。だが、それでも何かを想うのであれば、この<ダーマ>より北へ進み<ガルナの塔>へと向かうが良い」

 

「……ガルナの塔でございますか?」

 

 一度カミュ達全員を見渡した後、教皇はカミュ達へと何かを含む言葉を掛ける。それに疑問を返したのは、カミュだった。

 自分達に、この場所を訪れる必要がなかったにも拘らず、次の指針を示す教皇に疑問を覚えたのだ。

 

「うむ。もし、お主が言う『資格』とやらをその目で見たいというのであれば、行ってみよ。お主が選ばれし者であれば、必ず『それ』の方からお主に呼びかけるじゃろう」

 

「……」

 

 教皇の言葉に、カミュ達三人は言葉が出ない。唯一人、メルエだけが何も解らず、不思議そうに三人の表情と教皇を見て首を傾げていた。

 

「お主達が<ガルナの塔>で何かを見つけた時、再び私の前に現れる事となるだろう。その時まで、暫しの別れじゃ」

 

「……はっ……」

 

 その言葉を最後に、教皇は傍に控えし次期教皇と共に祭壇を降りて、奥へと消えて行った。

 残された四人の間に何とも言えない空気が漂う。教皇が何を示唆し、何を自分達に伝えようとしているのかが、全く見えて来なかった。

 ただ、一つだけ言えるとしたら、自分達はこの<ダーマ神殿>の北にある<ガルナの塔>と呼ばれる場所へ行かなければならないという事だけ。

 教皇の最後の言葉は、自分達との再会は必然である事を示していた。

 それは、<ガルナの塔>で自分達が、いや、自分達の内の誰かが何かを得る事を意味している。そして、それはこの旅で重要になる出来事なのだろう。

 

「サラ、行こう」

 

 カミュが立ち、その後をメルエが付いて行った。

 リーシャも立ち上がるが、サラだけが未だに跪いたまま赤い絨毯を睨んでいる。

 

「サラ、今は考えるよりも行動だ。教皇様が何を私達にお伝え下さったのかは、私には解らない。だが、きっと教皇様は私やカミュにではなく……サラ、お前におっしゃられていたのだ」

 

「えっ!?」

 

 リーシャの声にも気付かない様子で下げていたサラの顔が、弾かれたように上がった。

 リーシャはそのサラの瞳を見て顔を顰める。

 自信の欠片もない瞳。

 自身が『僧侶』としての資格を失ったと悩み、それでも踏み入れた聖地に君臨する、ルビス教の最高位なる教皇の威厳に当てられたのだろう。

 

「サラの悩みは解る。いや、私には正確な意味では解らない。だが、今は悩み、塞ぎ込んでいる場合ではない。常に悩み、考え、答えへと進むサラはどこへ行った!? それとも、サラの旅はこの場所で終わるのか!?」

 

「い、いえ!」

 

 顔を上げたサラの目に映る、リーシャの真剣な瞳。

 そして、強い口調で叱咤する言葉に、サラは勢い良く立ち上がる。

 立ち上がり、自分の目を真っ直ぐ見つめるサラに、リーシャは頬を緩めた。

 

「よし。さぁ、行こう。外でカミュもメルエも待っている筈だ」

 

「はい!」

 

 サラはこの時、リーシャという騎士が自分の傍にいる事を深く感謝した。

 いつも、自分が奈落に落ちそうになる時に、その手を掴み、もう一度引き上げてくれる人間。

 そして、『もう歩けない』と弱音を吐きそうな時に、尻を叩いて立ち上がらせてくれる人間。

 サラにとって、それは『太陽』であった。

 力強く、そして暖かく、厳しく照りつける時もあれば、優しい光を注いでくれる時もある。暗闇に落ち、道を失いそうな時、全ての闇を薙ぎ払うように強い光を届けてくれる。

 それは、正に『太陽』。

 

 英雄ではない。

 勇者でもない。

 それでも、サラにとってリーシャとは、目標にすべき『太陽』であった。

 

 

 

「……陽が落ちる前に、この山の中腹までは下りたい……」

 

 リーシャを追って、サラは大きな扉を出る。城門のような重い門の前にカミュとメルエは立っていた。

 リーシャを確認すると、この後の方針をカミュが話し始める。行きは数日掛かった山道を、出来るだけ早く下りたいというカミュの言葉に、リーシャは一つ頷いた。

 

「しかし、残念だ。魔法が使えるようになると思ったのだが」

 

「……」

 

 門に向かって歩き出そうとした時に、後ろを振り返ったリーシャが漏らす言葉に、カミュは盛大な溜息を吐く。そして、振り返ったカミュの表情は無表情ではなく、真面目なものだった。

 

「な、なんだ?」

 

 そんなカミュの表情に怯んだリーシャは、言葉を詰まらせながら、カミュへと問いかける。サラも、カミュが何を言うつもりなのかが解らず、じっとカミュの表情を見つめていた。

 

「……魔法はメルエがいれば良い……」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの目を見て発せられたカミュの言葉に、マントの裾を握っていたメルエが大きく頷いた。

 自分の役割を取られる事に対しての抵抗なのかもしれない。

 

「し、しかし!」

 

「それに、アンタが魔法使いになったところで、何が出来る?」

 

 流石のリーシャも、このカミュの言葉に『むっ』と顔を顰める。

 自分が魔法を使いたいという願望がないとは言わないが、それでも、この仲間達の事を考えての物が大半なのであったのだ。

 

「私が魔法を使えるようになれば、その分戦闘が楽になるだろう!?」

 

「……いや。それはないな……」

 

「…………リーシャ………まほう………だめ…………」

 

「そ、そうですね。どちらかといえば、邪魔になる気が……」

 

 『仲間の為に』

 そんな思いを吐き出したリーシャに対する答えは、全て否定的な物だった。

 中でも、サラのは酷い。

 助けどころか邪魔になるとまで言うのだ。

 

「なんだと!?」

 

 当然リーシャは、怒り心頭と言った様子で激昂した。

 そんなリーシャに、カミュは溜息を一つ吐いた後に口を開く。

 それは、アリアハンを出た頃では考えられない一言。

 そして、その言葉に、リーシャは言葉を失った。

 

「アンタは、前線に俺一人で行けと言うのか? 魔法を使える人間は二人いれば十分だ。アンタが前線に出ているからこそ、メルエの魔法も効果を発揮する」

 

「……カミュ様……」

 

 『一人で旅をする』と言い張り、リーシャやサラは勝手について来る人間と考えていた筈のカミュの言葉に、サラは目を丸くした。

 

「魔法が効かない魔物が出て来たらどうする? それこそ、アンタのような人間が絶対的に必要になる筈だ」

 

「わ、わかった」

 

 ようやく搾り出されたリーシャの声。

 それは、どこか感動にも似た感情が織り込まれた声だった。

 『自分が必要とされている』

 それがカミュの言葉に表れている事への驚きと喜びが入り混じった声。

 

「まぁ、アンタが魔法使いに転職したとしても、メルエ以上の魔法力を持つ筈がない。二人の魔法使いが必要ない以上、メルエではなく、アンタと別れる事になるだろうな」

 

「ぐっ……」

 

 だが、そんなリーシャの感動は、瞬時に崩れ去る。

 教皇の言葉を信じるのであれば、カミュの言う通り、リーシャが転職したとしてもメルエの魔法力には敵わない事は確かだろう。

 だが、『魔法使いならメルエの方が上なのだから、魔法使いとして転職したリーシャはいらない』とはっきり言われると、それはそれで悲しい物があった。

 

「…………リーシャ………つよい…………」

 

 落胆したように顔を下げるリーシャの目に、カミュの足元から自分の下へと移動し、自分を見上げる件の少女が入って来る。まるで、『自分は知っている』とでも言うように、自信に満ちたメルエの瞳を見て、リーシャは笑みを溢した。

 

「ああ。剣の腕なら、カミュ等よりずっと強いぞ」

 

「…………ん…………」

 

 微笑を浮かべながら答えるリーシャに、メルエもまた、笑顔で頷く。

 メルエの頭を優しく撫でながら、彼女は誓うのだ。

 『自分が出来る事で、この者達を護りきるのだ』と。

 リーシャの瞳に、再び強い光が宿った事に、カミュも軽い笑みを浮かべる。

 

「……行くぞ……」

 

 踵を返したカミュは、ルビス教の聖地を後にする。その後を追ってリーシャが歩き、その手をメルエが握った。

 そんな三人を追うように歩き出そうとしたサラの視界に、メルエの奇妙な行動が入って来る。

 

「……メ、メルエ?……ま、まさか……」

 

「…………ん…………」

 

 今まで、進行方向とは逆を見ながら、もう片方の手を振っていたメルエが、サラの言葉に大きく頷いた。

 それは、サラに見えない者を見ていた証。

 おそらく昨夜いたあの男性。

 初代教皇であり、もはや魂だけとなった存在。

 

「……ああ……」

 

「…………あわ………あわ…………?」

 

 いくら、自分達の頂点に立つ偉大な人間といえど、霊は霊。

 サラの恐怖心を煽る存在である事には違いはない。

 メルエが手を振っていた場所に恐る恐る目を向けると、先程までは誰もいなかった筈の場所でこちらに向かってにこやかに手を振る一人の男性。

 その身体は、後ろの壁が見える程に透き通り、その者がこの世の存在ではない事を示していた。サラは呆然とその場を見るが、恐怖心から手を振り返す事もなく、ゆっくりと首を戻し、早足で門を潜ろうとする。

 

「ちょっと待て」

 

「ぐぇ!?」

 

 しかし、そんなサラの逃亡は、サラの『太陽』によって阻まれた。

 早足で通り過ぎようとする首の後ろを捕まれ、サラは潰れた蛙のような声を上げる。再び恐る恐る振り返るサラは、にこやかに微笑むリーシャの姿を見た。

 

「先程は、なかなか面白い事を言っていたな、サラ?」

 

「ふぇ!?」

 

 リーシャの顔は笑顔であるが、目が笑っていない。

 それは、静かな怒りを耐えている証拠。

 何度となく、その表情を見て来たサラには、それが理解できた。

 

「……私が魔法を覚えると、戦闘の邪魔になるのか?」

 

「えっ!? そ、それ……あっ! メ、メルエ!」

 

 ゆっくりと紡がれるリーシャの言葉に、サラは目を泳がせる。その視界の端に、リーシャの手を素早く離し、逃げるようにカミュのマントの中へと駆けて行くメルエの姿が入って来た。

 

「攻撃魔法の乏しいサラには、私のように戦闘の邪魔にならぬよう、今以上に武器での戦闘訓練をしていかないとな……」

 

「えっ!? い、いえ。わ、私は大丈夫です」

 

 反射的に断りを入れてしまうサラであったが、そのような断りが『魔王』の異名を持つ女性戦士を相手に通用しない事は、既にサラも理解している筈だった。

 これ以降、サラの鍛錬の厳しさは更に増し、何度かメルエの叱責をリーシャが受ける事になる。

 

 一行は、来た方向とは逆方向に山を下り始めた。

 天上の神々に最も近いとされる<ダーマ神殿>を有する山々の彼方から、暗い雲が動き始めている。

 それは、まるでサラの心のように厚い雲であり、一行の道を示すかのように暗く重いものであった。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ダーマ神殿でのイベントは、完全な独自解釈が多々あります。
この場所は「ドラゴンクエストⅢ」というゲームの中でもかなり重要度の高いイベントが起きる場所です。久慈川式のダーマ神殿を描いて行きたいと思っています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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~幕間~【ダーマ周辺】②

 

 

 

 山を下り始め、既に二回目の日の出を見た頃に、ようやく険しい山道が緩やかになって来た。

 急な下りを下り続けた事によって、サラの膝は笑っている。奇妙な動きをするサラを、既にリーシャに抱き抱えられているメルエが笑い、その事にサラが憤慨するという、何とも気が抜けるやり取りが続けられる中、カミュが背中の剣に手を掛けた。

 

「メルエ! 下ろすぞ!」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの行動を見たリーシャが、抱えているメルエを下ろし、背中に括り着けられた<鉄の斧>を手に取った。

 サラも笑う膝を抑えつけながら、<鉄の槍>を手に取る。しかし、緊張感を高める一行の前に現れたのは、それこそサラとメルエのやり取りのように気が抜けてしまいそうになる者だった。

 

「ス、スライムなのか?」

 

 目の前に現れた二体の魔物を見て、上げていた斧を下ろしながら、リーシャは驚きの声を上げた。

 何時もならば、魔物に対して驚きの声を上げるリーシャに溜息を吐くカミュも、その魔物の姿を見て、表情を驚きの物に変化させる。メルエは初めて見る魔物に興味を示し、そのぷるぷると震える身体を輝く目で見ていた。

 

「ふぅ」

 

「リーシャさん!」

 

 魔物の姿に気を緩め、一つ息を吐いたリーシャにサラが叫び声を上げる。スライム状の魔物に対して、気を緩める一行の中で、サラだけが冷静だった。

 ぷるぷると震え、厭らしい笑みを浮かべるスライム状の魔物の動きに注視していたサラは、その魔物が勢いを溜めるように一度後ろに飛んだのを目にする。

 

「ぐぼっ!」

 

 そして、リーシャ目掛けて突っ込んで来たのだ。

 飛びかかって来たスライムは、強烈な体当たりをリーシャの腹部に繰り出した。

 リーシャの身体は、バハラタの町で購入した<鋼鉄の鎧>によって護られている。本来ならば、スライム如きの攻撃ではびくともしない筈ではあるが、リーシャはその攻撃で、溜まっていた息を吐き出すような苦悶の声を上げた。

 

「リ、リーシャさん!」

 

 膝をついたリーシャに、サラが駆け寄って行く。スライムが攻撃を繰り出した、リーシャの腹部を覆う鎧を確認すると、鋼鉄で出来たそれが醜く窪んでいた。

 その状態にサラだけではなく、カミュさえも驚きに目を丸くする。

 

「油断するな! 構えろ!」

 

 早々に立ち直ったのはカミュ。

 驚きの表情を浮かべたままの二人に、剣を構えながら檄を飛ばす。

 

「あっ!?」

 

 しかし、カミュの言葉に意識を魔物に向けたサラであったが、信じられない光景に再び驚愕の声を上げた。

 それは、リーシャも同じで、腹部を押さえながら立ち上がった先の魔物に驚きの表情を浮かべる。

 

「も、もう一体は、どこへ行ったんだ?」

 

 一行の前に現れたのは、二体の魔物だった筈。

 それが、目の前にいるのは、リーシャに攻撃を繰り出した一体のスライムだけなのだ。

 

「……逃げたようだな……」

 

「えっ!?」

 

 カミュの呟きに、サラは言葉に詰まる。リーシャが攻撃された事に気を取られている間に、全員の目を搔い潜って逃げ遂せてしまったのだ。

 その素早さは、魔物の動きに目が慣れ始めていたと考えていたサラにとって驚愕に値する物であり、カミュやリーシャにとっても顔を顰めざるを得ない程の物だった。

 

「H&U4$」

 

 驚愕に身体を固めた三人に向かって、残った一体のスライムが奇声を発した。

 経験上、それが魔物による魔法の詠唱である事を察したカミュとリーシャが、サラとメルエの前に立ち、<鉄の盾>を掲げる。

 カミュとリーシャの予想通り、詠唱と共に一瞬光を纏ったスライムの口から、拳大の火球が飛び出し、護りに入ったリーシャの盾に直撃した。

 盾に弾かれ飛び散る火球を見て、サラは再び、驚きを表す。

 『これは断じてスライムではない』と

 

<メタルスライム>

世界各地に生息する亜種のスライム。アリアハン大陸に生息するスライムと同様、その身体はゲル状になっているが、色は透き通るような青ではなく、金属のような鋼鉄色をしている。そして、その色の通り、見た目の質感とは違い、鋼鉄よりも硬く、人が装備する金属の防具を容易く破壊する程の強度を誇る。また、その素早さは魔物の中でも群を抜いており、人が目で追う事の出来る物ではないのだ。更には、魔法までも使用し、スライムと侮った人間を翻弄しする。

 

「くっ! カミュ! どうする!?」

 

「……どうするもこうするも、アンタは心眼でも開眼しているのか?」

 

 初めて対峙する魔物への対策をカミュへと問いかけるリーシャへの答えは、溜息と共に吐き出された。

 カミュの言う通り、目で追えない魔物の動きを捉えるとすれば、それこそ『心眼』のような特殊な技能がなければ無理に等しい。

 

「ならば、勘に頼るしかない!」

 

 カミュの吐き捨てるような答えに、リーシャは手に持つ斧を高々と掲げ、<メタルスライム>のいる場所へと振り下ろす。しかし、リーシャがそこに斧を振り下ろした時には、既に魔物の姿は欠片もなかった。

 無常にも地面に突き刺さる<鉄の斧>を見て、忌々しげに舌打ちをしたリーシャは、再び周囲へ視線を動かした。

 

「そこか!」

 

 再び振るわれるリーシャの斧は、先程と同じ結果しか生み出さなかった。

 その間も、魔物の動きを注意深く見ていたカミュが素早く身を動かす。そして、<メタルスライム>との距離を一気に詰めたカミュは右手に持つ剣を振り抜いた。

 しかし、<メタルスライム>を捉えた筈のカミュの剣は、その特殊な金属のような魔物の身体に弾かれる。金属と金属が擦れるような音を発し、カミュの剣は軌道をずらされたのだ。

 リーシャと同じ様に舌打ちをするカミュとは正反対に、<メタルスライム>は奇妙な笑みを浮かべ、再びカミュ達を嘲笑うかのように動き出した。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 <メタルスライム>がカミュ達から離れた事を確認したサラが、<魔道士の杖>を掲げるメルエへと指示を出し、それに一つ頷いたメルエが、現在所有する最大の攻撃呪文を詠唱した。

 詠唱と同時に、メルエの持つ杖の先から、先程<メタルスライム>が発した物とは比べ物にならない程の火球が飛び出して行く。

 

「なっ!?」

 

「!!」

 

 しかし、確実に<メタルスライム>を捉えた筈のメルエの<メラミ>は、魔物の身体に触れた瞬間に、まるで何かによって弾かれるように霧散した。

 その事実にリーシャは声を上げ、カミュとサラは言葉を失った。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 そして、絶対の自信を持つ魔法を無効化されたメルエは、悔しそうに目に涙を溜めながら唸り始める。その光景は、それ程不可解な物であり、カミュ達にとって手段を全て奪われたに等しい物であった。

 

「……早速、魔法の効かない魔物の登場だ……待ちに待ったアンタの出番ではないのか?」

 

「な、なにっ!?」

 

 剣の攻撃も難しい。そして、頼みの綱であるメルエの魔法も効果がない。そんな絶望的な状況であるにも拘わらず、カミュの口端は上がっていた。

 リーシャは驚きの声を上げるが、そんなカミュの表情と、その言葉の内容に、何故か自分でも理由が解らないまま、笑顔を浮かべた。

 

「わかった。私に剣の腕で劣るカミュは、そこで黙って見ていろ!」

 

「リ、リーシャさん!?」

 

 口端を上げるカミュの顔を見ながら不敵な笑みを浮かべるリーシャが、再び斧を構える。現状を把握しているサラにとって、それは何とも不思議な光景だった。

 しかし、ここに、未だに納得していない人物が一人。

 その人物は、手にした杖を再び掲げた。

 

「…………ヒャド…………」

 

 火炎の呪文が効果を示さないのならば、冷気の呪文。

 それは、この旅に於いて、この少女が学んだ戦闘方法の一つ。

 しかし、幼い少女が学んだ物は、この規格外な魔物によって崩されてしまう。

 

「メルエ、私の後ろへ。ここは、カミュ様とリーシャさんに任せましょう」

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

 先程放った<メラミ>と同様、<メタルスライム>の身体に触れるか触れないかの所で霧散して行く冷気を見て、サラはメルエの手を引いた。

 今まで少なからず効力を発揮して来た筈の自分の魔法が全く役に立たない。それは、メルエにとって、自分という存在価値を否定された事に等しく、知らず知らずに涙が零れていた。

 そんなメルエを抱きしめるように自分の後ろへ移動させたサラは、カミュ達の戦いに注視する。もし、たった一体の魔物に翻弄されているところに、別の魔物が出現したとすれば、その魔物はサラとメルエの役目となる。

 それをサラは理解していたのだ。

 

「やぁぁぁ!」

 

 動き回る<メタルスライム>目掛け、力一杯<鉄の斧>を振るうリーシャであったが、その斧は魔物に掠りもせずに、土埃を上げるばかり。次第にリーシャの呼吸も乱れ始め、魔物を狙う集中力も散漫となって来る。

 

「H&U4$」

 

 そんな隙を突き、再び<メタルスライム>はリーシャに向かって<メラ>を唱えた。

 斧を振り下ろした直後であった為、咄嗟に防御出来ないリーシャは、多少の火傷を負う覚悟を決めた。

 しかし、その火球がリーシャに届く事はなく、リーシャの視界は一人の青年の背中によって塞がれる形となる。

 同時に響く火球が盾に当たる音と、周囲を瞬間的に温める熱気が広がった。

 

「……アンタの出番だとは言ったが、意地になり過ぎだ……」

 

「う、うるさい!」

 

 盾で<メラ>を防いだ後、振り返りもせずに呟くカミュに、リーシャは口篭りながらも反論を返そうとするが、うまく言葉は出て来なかった。

 確かにカミュの言う通り、意地になっていた感は拭えない。

 

 『自分にはこれしかない』

 

 そうリーシャが考えるのも無理はないだろう。

 魔法の才能はない。

 転職という形で魔法力を備えたとしても、共に歩む幼い少女にその魔法力は敵わない。

 剣を振い、敵を淘汰して行く事しか出来ないのだ。

 それは、『魔法』という神秘ではなく、努力次第では誰でも到達出来る物だとリーシャは考えていた。

 体を鍛え、剣を振い、それを重ねて行った結果。つまり、誰にでも可能な事。そこに才能の有無は関係ない。リーシャ自身、そう信じて剣を振って来ていた故に出た考えであった。

 

「……」

 

「カミュ、どけ!」

 

 溜息を吐くカミュを押し退け、前に出たリーシャの目の前には、ただただ広がる大地しか見えなかった。

 先程まで自分達の前を動き回っていた小さな魔物の姿はどこにもなく、それは戦闘の終了を意味している。

 

「くそっ! 逃げられたか!」

 

 心底悔しそうに舌打ちをするリーシャを、何時もならもう一度溜息を吐く筈のカミュが冷めた目で見ている。

 そんな二人を遠巻きで見つめるサラとメルエは、何故か二人に近づく事は出来なかった。

 

「……先程は、俺の言い方が悪かった……すまない」

 

「な、なに?」

 

 息の荒いリーシャに対し、突然呟かれたカミュの言葉は、リーシャに驚きと戸惑いをもたらす物だった。

 滅多に頭を下げる事のないカミュが、理由もなく謝罪をする訳がない。だが、リーシャには、その理由が思い浮かばなかったのだ。

 

「アンタは、本当に自分が戦闘で役に立っていないとでも思っているのか?」

 

「……カミュ様……」

 

「ど、どういう事だ?」

 

 顔を上げたカミュの真剣な瞳に、サラは声を漏らし、リーシャの戸惑いを強くする。二人の間に流れる不穏な空気を敏感に感じ取ったメルエが、リーシャの足元へ移動して来た。

 しかし、戸惑うリーシャはその事にすら気付かない。

 

「アンタは、ここにいる人間を何度護って来た?……この二人の命を何度救って来た?」

 

「……」

 

 カミュの問い掛けは、いつものようなリーシャをからかうような物ではなく、真剣そのもの。

 それは、サラの心に突き刺さり、メルエの心を大きく揺さぶった。

 そして、リーシャの心を大きく動かして行く。

 

「……確かに、俺はアンタに何度も殺されかけた……」

 

「ぐっ……」

 

 一つ溜息を吐いたカミュの呟きに、リーシャは再び言葉に詰まる。

 カミュへ危害を加えたのは、アリアハンを出て既に三度。

 細かい物を含めれば、更に多いのかもしれない。

 

「だが、少なくとも、メルエはアンタがいなければここにはいない。それは、そこの『僧侶』も同じ筈だ」

 

「!!」

 

「…………」

 

 カミュの言葉に言葉を失うリーシャとは別に、サラもまた言葉に詰まる。カミュの発した物の中にあった『僧侶』という言葉に反応したのだ。

 しかし、もしかすると、カミュにしてみれば、サラこそ本当の『僧侶』なのかもしれない。

 

「アンタがいるから、その二人は魔法を唱えられる。アンタがいるから、今アンタの足元にいるメルエは笑顔を作る。アンタがいるから、その僧侶は立ち上がり、アンタがいるから、旅を続けている筈だ」

 

「……カミュ様……」

 

「……」

 

 サラの心は正しくカミュが話す通りだった。

 リーシャがいなければ、サラは疾うの昔に潰れていた。

 人の心は弱い。その弱い心の中にある小さな強さは、自分一人では輝かせる事等出来ない。

 サラが悩み、考え続ける中、その先にある道へと歩き出す力をくれたのは、このアリアハンが誇る宮廷騎士。

 短慮で、短気で、そして誰よりも暖かな女性。

 サラにとって、第二の師であり、そして幼い頃から恋焦がれた『姉』のような存在。

 

「例え、魔法が使えなくとも……アンタがいなければ、魔物との戦闘など不可能だ」

 

「……カミュ……」

 

 何でもない事のように言葉を発し、カミュは再び山道を下り始めた。

 しかし、そのカミュの一言に、リーシャは時が止まってしまったように固まり、サラはこの世の最後を見たかのように目を見開いていた。唯一人、メルエだけは、リーシャの足元で不思議そうに二人を見上げ、カミュの後を追うように駆け出した。

 メルエだけが知るカミュの本質。

 一度たりとも、カミュを『勇者』として見た事のない少女だけが感じていたカミュの瞳。

 それは、常に周囲を見渡し、気を配る事の出来る者の瞳だった。

 

 リーシャが魔法を欲する心は、唯単に魔法に対する憧れだけではなかったのだ。

 常に後方に控える二人の妹のような存在を気にかけ、二人の負担になるような戦闘をしまいと動いていたリーシャであったが、サラとメルエの急速な成長速度は、そんなリーシャの心に焦りを生み出していた。

 

 急速な成長は、その戦闘での活躍に相反し、それ相応の危険を伴う。それをリーシャは経験から知っていたのだ。

 ましてやメルエは心も身体も成長しきってはいない。幼い少女には不釣り合いな程の魔法力を有し、強力な魔法を使用するメルエ。

 しかし、それは諸刃の剣であり、何時、以前のように魔法力が暴走し、メルエの身体を傷つけるか分からない。

 

 サラは直接戦闘の力量を大きく伸ばした。ある程度の魔物であれば、一対一で戦う事は出来るだろうし、相手が『人』であれば、幼い頃から戦闘訓練をしている歴戦の者達以外には遅れを取る事はないだろう。

 しかし、サラの心は今動き始めている。幼い頃から信じ続けていた物を自ら手放し、それでも前へ進もうともがいているのだ。

 それは、とても不安定で、とても儚い。

 

 そんな二人を傍で見ているリーシャにとって、ただ斧や剣を振るうだけしか出来ない自分と言う存在に焦りを感じていた。

 『自分も何か成長しているのだろうか?』

 まだ子供と言っても過言ではない二人の成長速度は、成人してからある程度の歳を重ねたリーシャと比べる事の出来ない物だった。

 自分の成長を肌で感じるよりも、身近にいる人間の成長を目の当たりにする機会が多く、自分の成長は霧がかかったように見えなくなって行く。

 そんな『恐怖』にも似た『焦り』がリーシャを蝕んでいた。

 

「…………いく…………」

 

 未だに茫然と佇む二人の下に、一度カミュの方へと駆け出したメルエが戻って来た。

 リーシャの手を握り、軽く引くように力を込めたメルエの手にリーシャは現実に引き戻される。

 茫然とカミュの背中を眺めていたリーシャの瞳に光が戻り、視線を自分の足下に移すと、柔らかな笑顔を浮かべたメルエの表情が映った。

 

「あ、ああ。行こう」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの手を引くリーシャの心は晴れた。

 完全に悩みや焦りが消えたかと言えば、そうではない。

 ただ、もはや自分という存在を見失う事などないだろう。

 

 たった一言。

 それは、とても素気なく、とても簡素な物。

 それでも、リーシャにはそれで充分だった。

 自分の立ち位置が確定した瞬間。

 彼女は再び前へと歩き出す。

 

「サラ! 置いて行くぞ!」

 

「えっ!? は、はい!」

 

 メルエの手を握ったリーシャが、未だに茫然と自分の世界から帰還しないサラに声をかける。まるで夢から覚めたばかりのように、瞬きを繰り返したサラは、リーシャの後ろを歩き出した。

 カミュの言葉。それは、サラの中でカミュの変化を明確にする物であると同時に、自分達が仲間として受け入れられた証拠でもあった。

 何度か、そのような場面がなかった訳ではない。ただ、これ程までに明確な言葉を投げて来たのは初めてであった。

 

 『リーシャがいなければ、魔物との戦闘は不可能』

 

 それは、一人で旅する事に固執し、リーシャやサラを拒絶していた者の言葉ではない。

 ここまでの旅の中で、サラはカミュが一人で旅に出る事に固執していた理由を朧気ではあるが理解し始めている。そんなカミュの変化は、サラにとって驚愕する物ではあったが、同時にとても心地良い物でもあった。

 そして、それは前を歩く女性戦士にとっても同じ事なのであろう。彼女のメルエに向ける柔らかな笑顔がそれを物語っていた。

 

 

 

 その後、一行は何事もなく山を下り終え、眼前に広がる森の前に辿り着く。リーシャの手を握るメルエが森の木々を見上げ、そわそわし始めるのを見て、リーシャの顔に苦笑が浮かんだ。

 再び、森の中に入り、様々な生き物を目にする事に期待と喜びが湧いて来ているのであろう。

 

「メルエ、今回は目的があるから、それ程ゆっくりはしていられないぞ」

 

「…………ん…………」

 

 メルエを見下ろし、優しく掛けるリーシャの言葉に、メルエは眉を下げながら頷いた。メルエの何処となく寂しそうな姿に、サラもまた苦笑を洩らす。ただ、リーシャはメルエに視線を向ける前に、一度空を見上げていた。

 山の中腹で一行が戦闘をしている辺りから、実は雲行きが悪くなって来ているのだ。

 

「そうですね。また雨となるのかもしれませんね」

 

 リーシャと同じ不安をサラも持っていた。

 『何故、塔を目の前にすると雲行きが怪しくなるのか?』という疑問と共に。

 だが、二人の不安が杞憂ではない証拠に、上空の雲と共に湿った空気が一行の頬を撫で始める。それと共に徐々に肌で感じる温度も低下して行った。

 そして、一行が森を抜けようかとする頃、日没と同時に天から滴が落ち始める。

 森を抜けて、見渡しの良い場所で野営を行おうと考えていたカミュではあったが、その雨脚が強まった事により、もう一度森の中へと戻って行った。

 

「カミュ、この辺りは良いんじゃないか?」

 

「……ああ……何とか湿っていない枯れ木を集められれば良いが……」

 

 再び森へと戻った一行は野営ができる場所を探し、その場で準備を始める。いつもはサラやメルエの仕事であった枯れ木集めに、カミュやリーシャも参加する。

 それというのも、<シャンパーニの塔>の事を考えると、余分な枯れ木を集めていた方が良い事は明白だからであった。

 

「…………ん…………」

 

「おっ!? たくさん集めたな。偉いぞ、メルエ」

 

 周辺に落ちている枯れ木を集め、両手に抱えるように持っていたメルエが、自分が取った獲物を誇らしげにリーシャへと見せ、それを褒めるリーシャに満足気な笑みを溢す。

 そんな二人に笑顔を見せながら、サラも木の根元等で湿気を帯びていない木々を拾い集めた。

 

 

 

 生い茂る木々の葉が雨を遮っている場所で火を熾し、食事を終えた後、山道の下山で疲れていた身体を横たえ、メルエとサラは眠りに就いた。

 見張りはカミュの筈なのだが、一向にリーシャが身体を横たえる様子もなく、その事を不思議に思いながらも、カミュは口を開く事なく、火に薪をくべて行く。

 

「今日は、お前の誕生日だな」

 

「はぁ?」

 

 カミュの方を見ようともせず、突然口を開いたリーシャに、カミュは間の抜けたような答えを返した。

 リーシャの言っている内容に咄嗟に思い当たる事がなく、呆けた顔をしているカミュの顔を見て、リーシャは薄く微笑む。

 

「アリアハンを出てから、ちょうど一年になる」

 

「……ああ……」

 

 言い方を変えたリーシャの言葉に、ようやく合点がいったようにカミュが頷いた。

 彼にとって、もはや自分が生まれた日などには興味はなく、むしろこの世に生を受けた忌まわしき日なのかもしれない。

 生まれたその日に『次代の勇者』となり、それから僅か一年もしない内に『当代の勇者』となった。

 それは、決して周りの人間が考えるような華やかな物ではなかったのだろう。

 

「お前は、随分変わったな」

 

「……」

 

 カミュの顔を見ながら、しみじみと話すリーシャから視線を外し、カミュは燃え盛る炎を見つめる。

 時間と共に強まって行く雨が、カミュ達を護る木々達を強く打ち付ける音だけが森に響いていた。

 

「ふっ。認めたくないならば、それでも良い」

 

 自分の話す内容を理解している筈なのに答えようとしないカミュに、リーシャは軽く微笑んだ後、カミュと同じ様に燃える炎を見ながら、まるで自分の胸の内を曝け出すように話し出す。

 

「今日は、すまなかった」

 

 何かを決意したように呟いたリーシャの言葉は、パチパチと水分を飛ばしながら燃え盛る火炎の中へと溶けて行く。

 この場にいるのはカミュとリーシャ。

 奇しくも、アリアハン城という『魔王討伐』の第一歩目から共に歩き出した者達だけであった。

 

「……」

 

「お前の言う通り、自分の中にある焦りに惑わされ、意地になっていた」

 

 カミュに向かって頭を下げるリーシャにちらりと視線を送り、直ぐにカミュは炎へと視線を戻す。もう一度炎に向かって小さな枯れ木を放り投げたカミュは、ゆっくりと口を開いた。

 

「……アンタが何かに惑わされるのは、いつもの事だ……」

 

「ぐっ……」

 

 素直に胸の内を話すリーシャを突き放すようなカミュの一言に、言葉が詰まるリーシャであったが、カミュを一睨みした後、気を取り直し、再び口を開く。

 

「お前の言う通りだ。私はサラのように考える力もなければ、メルエのように内に秘めた魔法力もない」

 

「まだ言っているのか?」

 

 リーシャの口から出た懺悔に近い物に、カミュは視線をリーシャに戻して大きな溜息を吐いた。

 カミュにしてみれば、リーシャという存在の必要性は当に説いた筈なのだ。それなのにも拘わらず、またそれを蒸し返すという事は、もはや何を言っても無駄という事になる。

 

「何度でも言う。私は剣を振るうしか能がない」

 

 <メタルスライム>との戦闘の前に話した内容と同じ物をリーシャは再び口にする。しかし、その口調は以前の物とは全く異なった物でもあった。

 自信なさげに、悔しそうに呟くのではなく、半ば開き直ったような口ぶり。それでも話す内容が同じ事に、カミュは再び視線をリーシャへと向けた。

 

「それは……」

 

「だが、お前は……サラは、メルエは、そんな私でも必要だと言ってくれた」

 

 もう一度溜息を吐きながら口を開いたカミュの言葉を遮って、リーシャは言葉を被せる。その内容とは裏腹に、瞳に宿る炎は、カミュの目の前で燃え盛る焚き火の炎よりも強かった。

 

「私は、サラに以前、『私は迷わず、悩まずに剣を振るうだけ』と言ったのだ。だが、私は焦り、迷い、悩んでしまった」

 

「……それが『人』だ……」

 

 独白を続けるリーシャの言葉に、カミュは持論を口にする。

 思い、悩み、迷う者こそ『人』なのだと。

 それは、幼い頃から『人』の様々な部分を見て来たカミュだからこそ口にする事が出来る物なのだろう。

 故に、以前のリーシャやサラはそれを当然の物として受け入れる事が出来なかった。

 

「そうだな……それが『人』だ。だが、私の迷いは晴れた。もう、自分の振るう剣に迷いはない。いや、今は斧だな……」

 

 だが、今のリーシャは違う。

 自らの迷いがあった事を認め、それを吐き出した事で心が軽くなったのであろう。リーシャは薄い笑みを浮かべながら、話し続ける。

 

「この一年で……カミュ、お前の剣の腕はかなり上達した。私を超える日も近いのかもしれない」

 

「……」

 

 カミュの眉間に皺が寄る。

 カミュにとって未だに超える事の出来ない壁が、目の前で口を開くアリアハンの騎士なのだ。

 カミュ自身、自分の力量がアリアハンを出た時とは比べ物にならない程に上達している事は理解していた。それでも、この単細胞の戦士に勝てると自惚れる程、カミュは馬鹿ではない。

 それを理解しているからこそ、カミュは顔を顰めたのだ。

 

「だが、私も負けてはいない。私は、お前より前に出て戦おう。それが私の役目だ。前線に出て、メルエが魔法を使う隙を作る。サラが唱えた魔法によって弱体化した敵を討つ。そして、サラやメルエが倒せない魔物は私が倒そう」

 

 一度自嘲気味に微笑み、カミュの成長を認めたリーシャは、再び顔を上げる。

 そして、自分の決意を語り出した。

 それは、メルエの手を握り、その微笑を見ながら誓った『想い』。

 自分の出来得る限りで、皆を護るという『誓い』。

 

「この一年で、サラも変わった。それは、本当の意味での成長なのかもしれない。そして、お前も……」

 

 カミュと視線がぶつかり、リーシャはその目を見つめる。

 アリアハンを出る時には、能面のように何の感情も見出せない表情に見えた物も、今ではその微かな変化で感情をある程度まで読み取れる程になった。

 アリアハンを出た時に、追い付いて来たサラを見ていた冷たい瞳の奥に、とても暖かく、とても優しい光を宿していた事も知った。

 それは、何もカミュの成長だけが原因ではないのだが、それにリーシャは気が付かない。

 

「……アンタは、変わり過ぎだ……」

 

 先に視線を外したのは、カミュだった。

 再び炎へと視線を戻す際にカミュが呟いた言葉に、リーシャは自然と微笑む。何度か言われた事のある言葉だが、今はそれが褒め言葉のように聞こえたのだ。

 

「カミュ。お前が何を想い、どのような考えでこの道を歩くのか、私にはまだ解らない。だが、私は、お前こそが『勇者』だと信じている」

 

「……」

 

 視線を外したカミュの横顔を見つめながら呟くリーシャの言葉は、激しい雨音に搔き消されて行く。それでも、赤々と燃える炎を見つめていたカミュの耳にだけはその声は届いていた。

 いや、『その心へ』なのかもしれない。

 

「……それだけだ」

 

 もう、自分の方へ視線を向けず、答えも返さないカミュに対し、『全ては話し終えた』とリーシャはカミュに背を向けるように身体を横たえた。

 雨脚は先程よりも強まり、吹き出した風に木々達が揺れる。

 雨が葉を打つ音が響く中、リーシャが意識を手放そうとした時、その声は届いた。

 

「……以前、アンタに言われた言葉をそのまま返す……『魔王討伐』という未来の先がアンタの死では意味がない」

 

「……ああ……わかっている……」

 

 横たえた身体をそのままに、リーシャはカミュの言葉を聞き、一瞬目を見開いた。まさか、カミュからこの言葉が出て来るとは思ってもみなかったのだ。

 そして、リーシャは、再び瞳を閉じ、薄く微笑みながら言葉を返す。

 

 カミュが新しい薪をくべたのだろう。湿気を帯びた枝が炎の中でパチパチと音を立てていた。

 『成長』という名の『変化』を起こし始めている四人の夜が、また一つ更けて行く。

 

 既にアリアハンを出て一年。

 『魔王』の影響力は弱まるどころか強まって行き、蔓延る魔物の凶暴さも増して来ていた。

 それでも、まだ『人』は生きている。

 いつか、この世界を『勇者』と呼ばれる者が救ってくれると信じて。

 

 

 

 

 

 翌朝、サラが目を覚ました時には、既にリーシャもカミュも出発の準備をしていた。

 昨晩よりも雨脚は弱まっており、<シャンパーニの塔>へ向かった時のような暴風雨ではない。ただ、『しとしと』と降る細かい雨ではあったが、止む気配は皆無であった。

 細かく降り続く雨は、派手ではないが、確実に歩く者の体温を奪い、体力を削って行く。暴風雨のようにそれが顕著でない分、旅の人間にとっては厄介な物であった。

 

「メルエ、起きて下さい」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 寒さの為か、カミュのマントに包まり、顔まですっぽりと入ったまま眠っていたメルエは唸り声を上げながら瞳を開いた。

 目を何度か擦った後も、暫し焦点の合わない瞳で呆けたような表情を浮かべているメルエに軽く微笑みながら、サラも身支度を始める。

 支度を整え終わった一行は、体温の低下を極力避けるために、マントや布で身体を覆い、森の外へと足を踏み出した。

 昨晩から降り続いている雨は大地を濡らし、気温自体を大幅に低下させて行く。

 

「……メルエ……」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの呼ぶ声に頷いたメルエが、カミュへと近づいて行く。以前と同じ様にメルエの体温を護るために、マントの中に導いたのだ。

 頷いたメルエは、駆ける事なく、ゆっくりとした歩調でカミュのマントへ潜り込んで行った。

 

「……行くぞ」

 

 メルエを収容したカミュは、後ろの二人に視線を送って出発の合図を出す。その言葉に返事は返さず、リーシャとサラはゆっくりと頷いた。

 空は黒い雲で覆われ、通常であれば、明るく大地を照らし、暖かな光を注いでくれる太陽の姿を見る事は出来ない。

 冷たい雨は容赦なく一行の体温を奪って行った。

 

 

 

 雨という影響もあってか、一行は魔物との遭遇もなく、平原の向こうに聳え立つ塔を発見する。

 暗い雲の影響からか、塔の上部は下からでは見えない。

 それでも距離のある場所からでもその塔の大きさだけは認識が出来た。

 

「メルエ、大丈夫か?」

 

「…………ん…………」

 

 雨よけの為にマントの中に入っていたメルエにカミュが声をかけるが、メルエはマントの中から顔を出す事なく、言葉を返して来る。その事を若干訝しげに思ったが、寒さのせいだろうと判断し、カミュは塔の入り口へと手を掛けた。

 リーシャが後に続き、雨に顔を打たれる事を気にせずに塔を見上げていたサラも、慌てたように塔の内部へと入って行く。

 一行を飲み込んだ塔の扉が重々しい音を立てて閉められた。

 

<ガルナの塔>

神々に最も近い場所と云われる<ダーマ神殿>と共に建てられたと伝えられるこの塔は、<ダーマ神殿>で洗礼を受け、神々の下へ向かう事の許された者が、天へと登るために建立されたと言い伝えられていた。

 

 だが、今やこの<ガルナの塔>が持つ『天へと続く階段』という異名を、もはや誰も知る者はいない。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

ガルナの塔です。
ゲーム中では色々なイベントがあった場所。
その辺りも含めて楽しんで頂ければ嬉しいです。

ご意見ご感想を心よりお待ちしています。


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ガルナの塔①

いつの間にか、この物語をお気に入り登録して下さっている方が、400人を超えていました。
本当に嬉しいです。
ありがとうございます。




 

 

 

 塔の内部に入った一行は、その内部の構造に驚いた。

 <シャンパーニの塔>のように吹き曝しの塔ではなく、そこはまるで居住区のような佇まい。周囲はしっかりとした壁に覆われ、風や雨が入って来る事はない。

 上部の方はどうなっているのかは解らないが、少なくとも、この一階部分には魔物の気配はなかった。

 

「す、すごいですね」

 

「こ、ここには、人が住んでいるのか?」

 

 感想を漏らすサラの横で、リーシャが疑問を溢す。リーシャの頭の中には、<ナジミの塔>にあった宿屋が思い浮かんでいるのかもしれない。

 

「……」

 

「……行くぞ……」

 

 

 門を入ってすぐの場所で立ち止まっていた一行を、カミュの一言が動かし出す。カミュが歩き出すのと同時に、その裾を握っていたメルエが言葉を返す事なく歩き出した。

 カミュのマントから全く顔を出さないメルエを不思議に思いながらも、リーシャはサラを促して先へと進む。

 

 

 

 塔の一階部分は、リーシャの助けを借りる事なく進める程に広々とした空間であり、また、風や雨を心配する必要がない分、自由に歩き回れそうに感じる。

 

「カミュ、左右に部屋のような物があるぞ?」

 

 歩き出してすぐの事だった。

 カミュやサラの感じた物とは違い、この女性戦士は、一行に道を指し示さずにはいられないらしい。左右に首を動かしたリーシャは、前を歩くカミュに声をかけた。

 その声にカミュは大きな溜息を吐き、サラはばつの悪そうな表情を浮かべる。

 

「……何故アンタは……いや、いい……」

 

 カミュは、何かを諦めたように言葉を途中で切り上げた。そして、リーシャの言葉を受け入れる形で、左へと進路を取る。

 満足気にカミュの後ろを歩くリーシャの横で、サラは苦笑を浮かべる他なかった。

 左へと進んだ一行は、リーシャが言った通りの、部屋のような空間に出ると、そこには篝火のような物が四隅に灯され、その中央に法衣を纏った男が立っていた。

 

「ほほぉ……新たな来訪者とは珍しい」

 

 男はカミュ達を目に留めると、目を見開いた後にどこか歓迎とは違う声で、言葉を溢す。男の言葉通り、この塔を訪れる人間は珍しいのだろうが、その言葉には何処となく他意が混じっているように感じた。

 

「ここで何をなさっているのですか?」

 

 そんな男に口を開いたのはサラ。

 この塔は、<ダーマ神殿>が認めし、神聖なる塔。

 その塔に『僧侶』がいる事は何ら不思議な事ではないが、もはやこの塔に居住しているようにさえ見えるこの男に、サラは疑問を感じたのだ。

 

「ふむ。失礼ですが、貴女方こそ、この塔へどのような用件で?」

 

 サラの疑問に対し、男は不躾に疑問で返して来る。その瞳は、人の良さそうな光を残しながらも、奥に妖しい物を秘めていた。

 カミュにはその光が何を意味しているのかを理解していたが、サラにはそんな『人』の影をまだ充分に理解してはいなかった。

 

「失礼致しました。私はアリアハン教会に所属していた者です。<ダーマ神殿>にて、教皇様より<ガルナの塔>へと指針を頂きました」

 

「……」

 

「サラ!」

 

 故に、サラは男の質問に対し、真面目に答えてしまう。カミュは、そんなサラに溜息を漏らし、リーシャは思わずサラの名を叫んでしまった。

 リーシャもまた、目の前に立つ男の瞳に宿る光を何度も見て来ている。故に、その相手に対してその感情を更に煽るような行為をするサラを諌めたのだ。

 しかし、カミュからしてみれば、リーシャの行為に対しても溜息を吐きたい所ではあったが、この場ではそれを押さえ、早急に立ち去ろうと考えていた。

 サラの失言に対して意識を向けていた二人は気付かない。ここにおいても、サラは自分を『僧侶』とはしていないのだ。

 そればかりか、アリアハン教会に属している『僧侶』である事を、まるで過去の出来事であるように話していた。

 

「ほほぉ……これは、これは。教皇様より直々にお言葉を頂いたのですか?……それでは貴女は<ダーマ神殿>に辿り着けたと?」

 

「えっ!? あ、は、はい」

 

 先程までの人の良さそうな瞳の色が一気に失われて行く。代わって表に出て来たのは、探るような『疑心』に満ちた瞳。

 サラとて、あの<ダーマ神殿>で聞いた言葉は覚えていた。しかし、この神聖な塔に出入りする『僧侶』であるのなら、既に聖地に辿り着いた者だろうと考えていたのだ。

 

「では、教皇様から『悟りの書』について、お聞きになったのですね?」

 

「えっ? さ、悟りの書ですか?」

 

 自分が考えていた流れを大きく逸脱し始めた会話に戸惑うサラは、男の口から発せられた初めて聞く単語に、思わず聞き返してしまう。そんなサラの様子を見て、男は明らかな落胆を表した。

 

「教皇様にお会いし、直にお言葉を頂いたのならば、この言い伝えの信憑性も増すと思ったのですが……」

 

「……言い伝え?」

 

 落胆の溜息と共に吐き出された言葉に反応したのはカミュだった。

 『悟りの書』という単語には対して興味はなかったが、男の言う『言い伝え』と呼ばれる物は、教皇が自分達に告げた理解出来ない事を解き明かす鍵になるのではないかと考えたのだ。

 

「貴女は、本当に<ダーマ神殿>に辿り着かれたのですか?……いくら他国の『僧侶』といえども、<ダーマ神殿>という聖地と、ルビス様に最も近き教皇様に対しての侮辱は許されざる行為ですぞ」

 

 戸惑うサラに対し、顔を上げた男は、まるで糾弾するように言葉を投げつける。それは、ルビス教の聖地と云われる<ダーマ神殿>と、絶対的な君臨者である教皇を侮辱したという事に対しての怒りではなく、何か別の物に対しての苛つきを吐き出しているようにも思えた。

 

「……申し訳ない……この者は、幼い頃に魔物に襲われ、心を病んでいるのです」

 

「ぶっ!」

 

「カ、カミュ様!」

 

 そんな怒りを向ける男に対し、代わりに前に出たカミュの言葉に、リーシャは思わず噴き出してしまった。

 それはいつもならサラの役目であるのだが、当のサラは瞬時に顔を真っ赤に染め、カミュへ抗議を口にする。

 

「……黙っていろ……」

 

 しかし、リーシャの持つ陽気な雰囲気とは真逆に、重苦しく口を開き、小声でサラに向けて呟いたカミュの迫力にサラは口を噤んだ。

 

「……供の者が失礼致しました。<ダーマ神殿>に向かわれる方々が、この塔に赴く事を噂で聞き、足を運んだのです」

 

「……そうでしたか。幼い頃に魔物に襲われるなど……さぞ、お辛い事でしたでしょうに……」

 

 サラやリーシャを押しのけるように前に出たカミュの言葉は、とても重苦しく、目を伏せるように男へと頭を下げた事で、男はその言葉を信じたようだ。

 リーシャが笑いを堪えて手で口を押さえた姿が、嗚咽を堪えるように見えたのも、一つの要因なのかもしれない。

 

「『心を病んだ者も受け入れて頂けるのでは?』と、<ダーマ神殿>を目指していたのですが……」

 

「……そうですか……」

 

 続くカミュの言葉に、男は沈痛の表情を浮かべる。もしかすると、最初に瞳の中にあった『人の良さそうな光』が彼の本質なのかもしれない。

 

「……大変恐縮なのですが、宜しければ、先程お話しにありました『言い伝え』と言う物を教えて頂けませんでしょうか? 初見の方にこのような事をお聞きするのは、大変失礼なのですが、私達は『藁にも縋りたい』程でして……」

 

「あっ!?」

 

 しかし、カミュが続いて漏らした言葉に、男はあからさまに表情を歪めた。

 それは、カミュ達の内情を良く知りもせず、自分が持っている情報を漏らしてしまった事への後悔なのか、それとも本心からカミュの言葉を信じてのものなのかは解らない。

 ただ、カミュの迫力ある呟きに暫く停止していたサラの活動は、再び覚醒した時には、先程とは比べ物にならない程荒れていた。

 そして、それを抑えるリーシャの顔は、何かを堪えるように歪んでおり、男にはそれが、気が触れた女性と涙ながらに抑える女性と映ったのかもしれない。

 

「……心中お察し致します……こちらこそ、失礼を致しました」

 

「いえ」

 

 未だに後ろで暴れるサラを必死で抑えるリーシャ。

 普段であれば全く逆の立場になっている構図は、メルエから見れば滑稽な物であったであろうが、そのメルエはカミュのマントの中で身動き一つしていない。顔を出す事もなく、口を開く事もなかったのだ。

 

「『言い伝え』とは、この塔のどこかに<悟りの書>と呼ばれる物が存在し、それを手にすれば『賢者』にもなれると云われている物です」

 

 カミュにもう一度頭を下げた男は、この<ガルナの塔>に纏わる言い伝えを話し始める。その内容は、カミュにとって別段興味を惹く物ではなかった。

 だが、この塔の一階部分に居住している人間の殆どが、その『悟りの書』という代物を欲しているのだという事だけは理解する。

 

「そうですか」

 

「貴方方には、余り役には立たないものかもしれませんね」

 

 どこか申し訳なさそうに呟く男の言葉に、その男の本質が垣間見えた。

 丁重に頭を下げたカミュは、そのまま踵を返し、元の通路へと戻って行く。何か叫びそうになっているサラを押さえて、その後をリーシャが続いて行った。

 

 

 

「カ、カミュ様、酷いではありませんか!?」

 

 男がいた空間から離れたのを確認し、サラが抗議の声を上げる。それは、自分を『心が病んでいる』と紹介したカミュへの抗議だった。

 リーシャは笑いを堪えながら、その二人の様子を見ていたが、振り返ったカミュの瞳を見て、その笑いも急速に冷めて行く。

 

「アンタ達は、揃いも揃って馬鹿なのか?」

 

「えっ!?」

 

「な、なに?」

 

 カミュが持つ予想外の雰囲気に、サラは威圧されたように言葉を詰まらせる。傍観者であると考えていた自分までもが、カミュの言葉の対象になっている事に、リーシャまでもが驚きの声を上げた。

 

「アンタ達は、<ダーマ>であの教皇の話を聞いていなかったのか?」

 

 振り返ったカミュの瞳は冷たく、表情は抜け落ちたような能面顔。

 その表情は、自分達が起こした失態を追求する物であり、気付かない内に何かをしてしまったのではと考えたリーシャは、続くカミュの言葉を待つしかなかった。

 

「ここ数十年間で<ダーマ>へ辿り着いた『僧侶』は、教皇の傍に控えていた男以外はアンタが久方ぶりだと言っていた筈だ。それが何を意味するのかも解らないのか?」

 

「……ど、どういう事だ?」

 

 カミュの放つ『僧侶』という単語に固まってしまったサラの代わりに、カミュの言葉を全く理解できないリーシャが問いかける。そんなリーシャの納得が行っていない表情を見て、カミュは盛大な溜息を吐いた。

 

「この塔にいる『僧侶』は、誰一人<ダーマ>には辿り着いていない。つまり、誰も教皇をその目にしていないという事だ」

 

「だから何なのだ!?」

 

 物分かりの悪いリーシャに、カミュは溜息を吐き、顔を下げる。

 そんなカミュの様子に、ようやくサラが戻って来た。

 

「つまり、誰もが<ダーマ神殿>という存在も、教皇様の存在も信じていないという事ですか?」

 

「そうは言わない。アンタ方『僧侶』は、ルビスという精霊の下、<ダーマ>の存在も教皇の存在も信じてはいるのだろう。だが、確かめる術はない。『そう云われている』、『そう教えられた』という存在を見た者はいない」

 

 カミュの言うとおり、教皇の言葉を信じるのであれば、今この世界で生きている人間の中で<ダーマ神殿>を見た者は皆無に等しいという事になる。それは、その存在自体が噂の域を出ていない事を意味していた。

 いや、神聖な場所という認識から、それこそ『言い伝え』なのかもしれない。

 

「そんな場所に行き、半ば伝説化した『教皇』という存在に会った等と話せば、まず信じないだろう。だが、その話が信憑性を増せば、信じざるを得なくなり、その結果どうなるのかはアンタ方でも分るだろう?」

 

「……」

 

「どうなるんだ?」

 

 カミュの言葉に、声を失くしたサラとは違い、リーシャは素直にカミュへと問いかける。カミュは再び溜息を吐き、そして顔を上げた。

 

「この僧侶は、祀り上げられる。本人の意思など関係なく、全ての人間の救世主としての行動を要求され、それは強制となって行く。『誰も辿り着けなかった<ダーマ神殿>へ赴き、教皇の言葉を聞いた者』として、全世界の人間の傀儡だ」

 

「!!」

 

 カミュの話す内容。それをリーシャもサラも否定が出来なかった。

 何故なら、その証拠が、今自分達の目の前に立ち、冷たい目をしながら話をしているのだから。

 

「し、しかし……もはや、会う事もないだろう……」

 

「ならば、名など叫ぶな!」

 

 弁解をするように言葉を絞り出したリーシャに、珍しく語気の荒いカミュの言葉がぶつけられる。そんなカミュの姿にリーシャは目を丸くした。

 

「この僧侶は、『自分はアリアハン教会に所属していた者』と名乗った。それだけでも充分に存在を明確にしたようなものだ。加えて、アンタが名を漏らした事によって、この僧侶の存在は断定された」

 

「うっ……」

 

 カミュの糾弾に対し、反論が出来ない。

 もし、あの男がその気になれば、アリアハン教会に行き、サラの帰りを待つだけでも可能であるが、名を漏らした事によって、この先の旅路で『サラという名の、アリアハン教会に属する僧侶』と聞けば、その足跡を辿る事が可能となるのだ。

 

「傀儡となった人間に自由はない。安息の生活もなければ、死の自由すらもない」

 

「……カミュ様……」

 

 悲痛の表情を浮かべ、カミュを見つめるサラが言葉を漏らす。それは、自分の未来の可能性を示唆された事への絶望か、それともカミュの生い立ちを垣間見た事への悲痛なのか。

 

「……サラ、すまない……」

 

「いえ!? わ、わたしもそのような事は考えてもいませんでした。リーシャさんに責任はありません」

 

「アンタも同じだ。あの男の瞳にあったのは明らかな『嫉妬』だ。そして、<悟りの書>と呼ばれる物を取られるのではないかという『恐れ』。それを理解せずに、自分の素姓と経緯を話す事の危険性を理解しろ」

 

 リーシャに対して、言葉をかけていたサラへと矛先は移動する。カミュの言葉は、見方を変えれば、サラという存在を心配しているのと同義。

 だが、それにこの二人は気付かない。それ程にカミュの話した考察は、リーシャやサラにとって青天の霹靂であったのだ。

 考えもせず、予想も出来ない程の『人』の心の裏側。そして、それが引き起こす事態の重大さが彼女達の思考を止めてしまう程の物だった。

 

「……はい……し、しかし……私はもう……」

 

 カミュの言葉に俯きながら答えるサラを、リーシャは顔を歪めて見ていた。

 おそらく、『自分にはそのような資格はない』とでも言いたいのだろう。そんなサラの苦悩を理解しているからこそ、リーシャは自分の失態に心を痛めていた。

 

「俺は、アンタ以外の『僧侶』を見た事はない」

 

「えっ!?」

 

「……カミュ……」

 

 しかし、下がって行ったサラの顔は、カミュの繋げた言葉に弾かれたように上がった。

 リーシャも同様に顔を上げ、目を見開いてカミュを見ている。そんな二人の様子を見る事もなく、再びカミュは歩き出した。

 

 カミュの言葉には、『サラ以外の人間を僧侶として認めてはいない』というような意味が混じっていた。

 その事にリーシャもサラも気が付いたのだ。

 教会の人間を心底嫌っているような素振りを見せていたカミュが、その教会の人間を認めている。

 そんな言葉に、リーシャもサラも固まってしまった。

 ただ、このようなやり取りの間も、カミュのマントの中から顔も出さず、一言も言葉を発していないメルエを気にする余裕は、この三人にはなかった。

 

 

 

「人生とは、『悟り』と『救い』を求める巡礼の旅です。<ガルナの塔>へようこそ」

 

 入口を入って右側の方向に進路を取った一行は、再び開けた空間に出る。そこには、先程の男と同じような法衣を纏った女性が、椅子に腰掛け、カミュ達の来訪に驚きの表情を見せていた。

 しかし、カミュの後ろに立つ、法衣を纏ったサラを見ると、顔に作られたような微笑を浮かべ、歓迎の言葉を述べる。そんな女性僧侶にカミュは冷ややかな瞳を向け、サラは丁寧に頭を下げた。

 

「貴女も<悟りの書>を?」

 

「い、いえ。ルビス教における聖地と名高い<ガルナの塔>へ巡礼に参りました」

 

 頭を下げ終え、顔を上げたサラに対して女性僧侶が発した言葉の中には、再びあの単語が入っていた。

 サラは、先程のカミュの言葉を思い出し、無難な答えを探し出す。どこか探るような瞳を向けていた女性僧侶は、もう一度顔に笑顔を浮かべた。

 

「そうですか。それは、ご苦労様です」

 

 そう言って胸で十字を切る女性僧侶に、サラは再び頭を下げた。

 言葉少なく、その場を後にした一行に会話はない。先頭を歩くカミュは黙して何も語らず、サラは何故自分がこの場所に来る必要があったのかを考え、リーシャは一連の出来事について頭を悩ませていた。

 

 

 

「しかし、また『悟り』か……」

 

 右へ曲がったところに居た男と同じ様に『悟り』という言葉を使った女性僧侶の言葉に、リーシャは呟きを漏らした。

 リーシャの呟きに意識を戻したサラは、少し考え込む。

 

「……<悟りの書>とは何なのでしょう?」

 

 リーシャと同じく、サラもその不思議な代物に対して疑問を持っていた。

 <ダーマ神殿>で教皇はこの塔にある物について一言も話はしなかった。ただ、『そこへ行ってみよ』という言葉を告げただけに過ぎない。

 

「何れにしても、あの僧侶達がそれを手にする事はないだろう」

 

 疑問を持つ二人とは別に、カミュは全く違う感想を抱いていた。

 『悟りの書』という物がどのような代物なのかは解らない。しかし、教皇の言葉を信じるのであれば、それは『資格』と言っても過言ではない物。

 つまり、教皇の言葉と、先程の男の言葉を繋ぎ合わせると、それは『賢者になる為の資格』なのかもしれない。

 

「どういう事だ?」

 

 例の通り、自分では理解出来ない事をカミュへと問いかけるリーシャの姿に、サラに笑顔が生まれ、カミュは大きな溜息を吐く。

 しかし、今度のカミュは、ちらりとサラに視線を向けただけで、リーシャに対して答えを与える事はなかった。

 再び塔の一階部分を歩き出してしまったカミュに、リーシャは一瞬顔を顰めるが、一度視線を向けられたサラは大いに戸惑った。

 『また、何か自分に落ち度があったのだろうか』と。

 

 

 

 前を見ながら、自分のマントの中で静かに歩いているメルエを気にかけて歩くカミュは、先程の僧侶達の言葉を思い出していた。

 彼等は総じて、『悟りの書』と呼ばれる物を求めてこの塔を訪れたのだろう。それは、ルビス教の僧侶としての出世欲なのか、それとも『賢者』と呼ばれる存在に対しての憧れなのか、はたまた、<ダーマ神殿>へ辿り着く為の手段と考えているのか。

 その何れであろうと、彼らにある物は全て『欲』である。

 彼らは、自分達が崇める『精霊ルビス』という存在に何の疑問も抱かず、妄信的にそれを信じている。いや、今のカミュは、そうではないと感じ始めていた。

 彼らは『精霊ルビス』を妄信的に信じているのではなく、『精霊ルビス』という高貴な存在を媒体として人間の都合の良いように作られた『教え』を妄信的に信じているのだ。

 

「……メルエ、大丈夫か?」

 

「…………ん…………」

 

 一度、メルエへと声をかけ、短い言葉が返って来た事で、再びカミュは思考に入る。

 彼らのような僧侶は、それ故に<ダーマ神殿>に足を踏み入れられないのかもしれない。

 あの場所は、己の欲の為に、その強大な力を使われないよう、初代教皇によって護られている。

 教皇は、『選ばれし者であれば、必ず『それ』の方から呼びかける』とサラに対して語っていた。それはつまり、その代物を手にする資格を有する者を、それ自体が選定するという事なのだろう。

 それこそ、来る者を選定する初代教皇のように。

 

「……カミュ様?」

 

 そこで、カミュはもう一度、後ろを歩く法衣を纏った少女を振り返る。その視線を受けたサラは、若干身を強張らせ、恐る恐るカミュの名を呼んだ。

 しかし、再び何も答えずに、歩き出したカミュに、サラは何とも言えない恐怖感を味わってしまう。

 

 『もし、本当にその代物が、それを有する資格のある人間を選ぶとしたら、あの僧侶だろう』

 

 カミュは密かにそう考えていたのだ。

 カミュが生を受けてから十数年間、カミュの前に現れたどの僧侶とも違う存在。

 初めは、『教会の人間』という認識に違わぬ存在だった。

 魔物を憎み、それを殲滅する事を良しとし、それに相反する者へも憎悪を向ける。自分に刷り込まれた知識と価値観だけで物事を判断し、それ以外を認めようとはしない。

 だが、何時の間にか、彼女は変わっていた。

 常に自分の中に存在する『教え』と、目の前で起こっている事象とで悩み、苦しんでいた。そして、その中での自分の存在自体に再び悩む。

 『精霊ルビス』という存在を疑う事は一度もなく、それでいながら『教え』に対して悩み続ける。

 

 『甘い』

 

 吐き捨てれば、たった一言。

 『人』が犯す様々な醜さを目の当たりにしながらも、『人を救いたい』と罪人をも許し、そして再び『人の弱さ』を目の当たりにする。それでも『人の強さ』を信じ、歩き始めたと思えば、あれだけ憎しみを向けていた魔物さえも救い出す。

 そして、そんな自分の変化を認めながらも、自己の存在を否定する。

 カミュが見て来た『僧侶』という存在の中で、誰よりも弱く、誰よりも脆い。そして、誰よりも甘く、誰よりも危うい。

 しかし、カミュが見て来た『人』という存在の中で、誰よりも強いのだ。

 それは、後ろを歩くリーシャのような強さではないし、カミュのマントの中にいるメルエのような強さでもない。

 自分と共に育って来た価値観が壊れて尚、前に進もうとする強さ。

 それをカミュは認めていた。

 

 

 

「カミュ! そこにも部屋のようなものがあるぞ!」

 

 先程自分が指示した場所で、余り心地良いとは言えないまでも、情報が手に入った事に自信を持ったリーシャが、再びカミュへと行き先を指し示す。もはや、カミュにその声を拒む気力はなかった。

 深い溜息を吐き、道をまっすぐに進む。

 

「!?」

 

「こ、これは……『旅の扉』ですか?」

 

 その道の先にある狭い空間に出た時、そこには人はいなかった。

 例の如く『行き止まり』ではあったが、その先にある泉のような渦を巻く物はメルエ以外の三人にとって見覚えがある物。

 

<旅の扉>

カミュ、リーシャ、サラの三人がアリアハンという生まれ故郷を出る際に使用した物。それは、泉のような形で、渦を巻く水が湛えられている。一度その泉に身を落とせば、その泉と繋がっている遥か遠くの泉へと移動する事が出来る物。故に『旅の扉』

 

「カミュ……入るのか?」

 

「……アンタがこの道を選んだのではないのか?」

 

 アリアハンを出る時に感じた、あの何とも言えない浮遊感を思い出し、問いかけるリーシャへの答えはとても冷たい物で、リーシャは言葉に詰まってしまう。

 確かに、この道を指し示したのはリーシャであるが、行くかどうかを決めるのは常にカミュであった事を考えると、リーシャが罪悪感を覚える必要性はそれ程ない筈であるのだが。

 

「……メルエ、しっかりつかまっていろ……」

 

「…………ん…………」

 

 一度足下にいるメルエを抱きかかえるように持ち上げたカミュは、自分の身体を掴むメルエの力が弱い事に気付き、メルエへと注意を投げかける。それに対し、メルエは小さく頷いた後、カミュの首に回す腕に力を入れた。

 メルエの腕がしっかり自分を掴んでいる事を確認したカミュが、泉の中へと飛び込んで行く。

 

「……やはり、行くのか……」

 

「そ、そうですね」

 

 先に行ってしまったカミュの姿が消えた後、リーシャが溜息を洩らし、同じようにサラの表情も浮かないものとなる。それと言うのも、サラはアリアハンから出る為に『旅の扉』を使用した際、半日近く気を失っていたのだ。

 だが、それは、大陸間を移動するような大規模の転移の副作用のためなのだが、サラやリーシャには、そこまでの知識はなかった。

 

「ええい! ままよ!」

 

「あっ!?」

 

 一つ大きく息を飲み込んだリーシャは、よく解らない掛け声を発した後、勢い良く泉へと飛び込んで行く。渦を巻く泉の中に徐々に解け込んで行くリーシャを見ながら、サラも心を決めた。

 

「いきます!」

 

 誰も聞いていないサラの決意表明が、狭い空間に響き、その反響が消えて行く頃には、その場所にサラの姿は無くなっていた。

 

 

 

「サラ! 気が付いたら槍を構えろ!」

 

 奇妙な浮遊感は、アリアハンの時程続かなかった。その為、自分の身体が冷たい床に投げ出されてすぐに、サラの意識は覚醒する。

 覚醒と共に掛けられたリーシャの言葉は、戦闘開始の合図だった。

 

「えっ!?」

 

 慌てて立ち上がり、背中にある<鉄の槍>を構えたサラは、前方に広がる光景に驚きの声を上げてしまった。

 異形な魔物が二体。

 そしてその魔物に取り囲まれている一人の老人。

 その老人はもはや命を諦めているのか、床に座り込み目を瞑っている。

 

「……メルエ、後ろへ……」

 

「…………ん…………」

 

 背中の剣を抜き放ったカミュは、マントを広げ、メルエをサラの方へと誘導する。そんなカミュを見上げる事なく、首を縦に振ったメルエは、ゆっくりした歩調でサラの下へと移動して行った。

 

「カミュ! 先に行くぞ!」

 

 あの夜、カミュに宣言した通り、斧を手にしたリーシャが最前線へと躍り出る。今の老人の姿を見れば、時間の猶予などあり得ないのだ。

 手にした斧を横に構え、瞬時に魔物の群れに肉薄したリーシャがそれを振り抜く。

 

「クキャ――――――!」

 

 迫り来る斧の刃先を、叫び声を上げながら横へと避けた魔物がリーシャを睨むように対峙する。その時に、魔物の隙間から辛うじて見えていた老人の姿がサラの目にはっきりと映った。

 その姿は満身創痍。

 頭や肩からは血を流し、身に着けた法衣の様な物はみすぼらしい程に破れ果てていた。

 おそらく、この二体の魔物にかなりの間襲われていたのだろう。戦う術を持たないのか、それとも術を全て行使し終えてしまったのかは解らない。

 だが、既に魔物を目の前にして座り込んでいる老人の命は風前の灯だった。

 

「クキャ――――――!」

 

 老人の方へと駆け寄ろうとするサラの前に異形の魔物が立塞がる。その姿は、今まで相対して来た獣に近い魔物達とは一線を介していた。

 まるで、鳥が持つ嘴に足が生えているような姿。

 それは、通常の人間であれば、恐怖すらも抱く程の姿だった。

 

<大くちばし>

鳥の頭のような巨大な頭部を持つが、それに繋がる胴体を持ち合わせておらず、まるで巨大な頭部から足が生えたような魔物。退化したのか、それとも進化したのかは解らないが、羽も身体もない鳥と言えば良いだろうか。その巨大な頭部にある、同じように巨大な嘴はとても鋭く、人間の皮膚などを容易く貫く。また、邪魔な胴体がない為か、その巨大さにも拘らず、とても敏捷な動きをする。

 

「!!」

 

 リーシャを敵と認めたのか、その鋭い嘴を向けて来る<大くちばし>の攻撃を、リーシャは辛うじて横へと避けた。しかし、それだけでは終わらない。

 横へと避けたリーシャの頭上からもう一度<大くちばし>の嘴が落ちて来た。

 

「リーシャさん!」

 

 サラの声に、リーシャは咄嗟に頭上へと<鉄の盾>を掲げた。同時にリーシャを襲う、かなりの圧力は、<バハラタ東の洞窟>で相対した<殺人鬼>の比ではない。

 地面にめり込むのではないかと思う程の力を受け、リーシャは苦悶の声を漏らした。

 

「クキャ――――――!」

 

 予想以上の力を受け、よろけるリーシャに次の攻撃が繰り出される。

 嘴による攻撃しか手段を持たない<大くちばし>の攻撃は、単調であるが故に素早かった。よろめくリーシャの横合いから繰り出される攻撃に、リーシャの盾は間に合わない。

 

「…………メラミ…………」

 

 しかし、その嘴がリーシャの横っ腹に突き刺さるよりも早く、リーシャの横に凄まじい程の火球が飛び込んで来た。

 <大くちばし>の巨大な頭部と同等の大きさを誇る火球は、その頭部を飲み込み、リーシャの横から文字通りに吹き飛ばした。

 

「くっ」

 

 しかし、その代償は余りにも大きい。

 元々、この魔法は、サラの指示を待って唱えるのがリーシャとメルエの約束であった。だが、リーシャの危機に際し、独断で呪文を詠唱した為、リーシャと魔物の距離が近過ぎたのだ。

 しかも、メルエの唱えた<メラミ>は魔物を確実に捕らえるが、リーシャが斧を持つ手をも巻き込んでいた。

 

「リ、リーシャさん!早く、こちらへ!」

 

 焼け爛れた右腕から、斧が滑り落ちる。その光景を見たサラが、<べホイミ>の詠唱の準備に入った。

 残る一体を、<鋼鉄の剣>を握るカミュに任せ、リーシャが一度後方へと下がる。その右腕を間近で確認したサラは息を呑んだ。

 

「べホイミ!」

 

 その右腕の状態に戸惑いを見せていたサラが、一際大きな声を上げ、自身が持つ最大の回復呪文を唱えた。

 サラの二の腕までをも包み込んだ淡い緑色の光が、リーシャの右腕を包み始める。それと共に、焼け爛れた皮膚が戻り始め、赤黒く変色していた肉が隠れ始めた。

 

「…………」

 

 そんな二人の姿を、眉を下げながら見ている少女。

 いつもよりも覇気のない瞳で、メルエはリーシャの腕が復元されていく姿を眺めていた。

 

「ホイミ!」

 

 リーシャの腕が元の形状に戻った事を確認したサラが、細かい傷等を修復するために、再度回復呪文を唱える。先程よりも小さな光がリーシャの腕を包み込み、この塔に入った頃の腕と同じ物へと戻して行った。

 

「……ふぅ……これで、大丈夫です。まだ、感覚はおかしいかも知れませんが、時間が経てば、完全に元に戻ると想います」

 

「ああ。充分だ。ありがとう、サラ」

 

 サラの顔の後方では、カミュが、残る<大くちばし>を追い詰めている姿が見えていた。もう、魔物の追撃をする必要はないだろう。

 そんな安心感からなのか、リーシャは柔らかな笑みを浮かべ、サラへと感謝を向けた。

 

「いえ、当然の事です。それは別として……メルエ!」

 

「…………」

 

 リーシャとは違い、感謝の意を受けても、サラの表情は厳しいままだった。そのままの表情で振り向き、そこに呆然と立つ幼い少女の名を口にする。

 対するメルエは、サラの怒気とも言って良い感情を受けても、どこか上の空のような瞳を向けていた。

 

「あの魔法は、メルエ一人で使ってはいけないとリーシャさんから言われていたでしょう?」

 

「いや、良いんだ。メルエは、私の危機を救おうとしてくれたんだ」

 

 メルエを叱責するサラの言葉を、リーシャが腕を上げて止める。

 自分を救うためにしてくれた行動を咎める必要はないと。

 しかし、そんなリーシャに振り返ったサラは、苦々しく表情を顰めた。

 

「駄目です。そうやって許してしまっては、メルエはまた同じ事を繰り返します。メルエの持つ魔法力は、リーシャさんが考えるよりも強大なのです。もし、使用時を間違えれば、メルエが『護りたい』と思っている者まで傷つけてしまいます。その時、一番傷つくのはメルエですよ!」

 

「……」

 

 サラの言葉に、今度はリーシャが言葉を失った。

 リーシャとて、メルエの異常さには気がついていた。

 ただ、サラほど深刻に捉えていなかったのかもしれない。

 

「…………ごめん………なさ……い…………」

 

「ん。大丈夫だ。次は気をつけような」

 

 そんなサラの想いが伝わったのか、いつもより更に小さな声で、メルエは頭を下げる。メルエの姿を見て、リーシャは柔らかく微笑んだ。

 ただ、いつもなら、そんなリーシャの笑みを見て微笑む筈のメルエの表情は変わらない。

 

「それと、私を護ってくれてありがとう」

 

「…………ん…………」

 

 それは、リーシャがメルエに感謝の意を示しても変わらなかった。

 出会った頃のカミュのように、感情が見えない虚ろな瞳で、一つ頷いただけ。

 メルエの心の中が見えないリーシャの表情も曇り出す。

 

「おい。あの老人に回復呪文をかけてやらなくても良いのか?」

 

「あっ!? は、はい!」

 

 そして、そんなメルエにもう一度声をかけようと、リーシャが口を開いた時、その後方から、<大くちばし>を倒し終えたカミュの声が掛かる。

 リーシャへの回復と、その状況を作り出したメルエへと意識が向かい、魔物に囲まれていた老人の事を忘れていたサラが、慌てて老人へと駆け寄って行った。

 

「……腕は大丈夫なのか?」

 

「あ、ああ。もう大丈夫だ」

 

 自分の身を案じるような言葉を掛けられ、多少の戸惑いを見せるリーシャは、カミュから言葉と共に手渡された<鉄の斧>を、先程回復したばかりの右手で受け取り、具合を確かめるように掲げてみせる。

 その様子を一瞥したカミュは、メルエの方へと視線を向けて、マントを広げた。

 

「……メルエ……」

 

「…………」

 

 カミュの呼び掛けに、メルエは無言でカミュのマントの中へと入って行く。メルエが何を考えているのかが見えて来ないリーシャは、メルエが入って行ったカミュのマントを暫し見つめていた。

 

「……行くぞ……」

 

「あ、ああ」

 

 じっとカミュのマントを睨むように見つめているリーシャに、カミュの声が掛かる。マントの裾から見える小さな足は、踵を返すカミュの足と同じ方向へと動いて行った。

 その足を見ながら、リーシャは曖昧な返事を返す。

 

 

 

「大丈夫ですか? 今、回復呪文を!」

 

 カミュ達がサラの下へと移動し始めた頃、サラは先程魔物に取り囲まれていた老人に駆け寄り、回復呪文の詠唱準備に入っていた。

 サラの問いかけにも、老人は目を瞑ったまま答えない。その様子に、サラは最悪な状況を考えてしまい、急ぎ、頭や肩に手を翳し、詠唱を開始した。

 

「ベホイミ」

 

 見た目は、先程のリーシャの焼け爛れた腕よりも酷い怪我ではない。

 しかし、最悪の状況も考え、サラは自身が持つ最上の回復呪文を唱えた。

 

「サラ、その御仁は大丈夫なのか?」

 

 サラの腕から移っていく淡く大きな緑色の光によって、老人の傷が塞がって行く。その頃になって、ようやくリーシャが到着した。

 老人の様子を窺うように、サラの横に立ったリーシャは、老人とサラに交互に視線を送る。

 

「わ、わかりません。お身体は大丈夫でしょうか?」

 

「おい。大丈夫か?」

 

 老人から全く反応がない事で、サラには老人の身体の具合がある程度にしか解らない。命に別状はないと思われるが、見た目が高齢な者の為、どこか不具合があるのかもしれないと考えていた。

 サラの答えに、リーシャも同じ感想を持ち、老人へと声をかけるが、やはり反応はない。

 

「……大丈夫だろう。ここには、この老人しかいないようだ。戻るぞ」

 

 そんな二人の後ろで、カミュの溜息が聞こえる。

 もはや、カミュにとって、この塔にいる人間については興味がないのだ。

 

「そ、そんな。このような場所に一人でいたら、いつ魔物に襲われてもおかしくはありません」

 

「そうだな。戻るなら、この老人も一緒の方が良いだろう」

 

 冷たく感じるカミュの言葉に、サラは猛然と抗議した。

 最近は、どちらかと言えば、カミュ側に付く事の多かったリーシャも、今回はサラと同意権であったようで、自分が指し示した先が『行き止まり』であったという事実に気がついていないように案を出している。

 

「……自分の意思でここにいる人間を連れて行く必要はない筈だ」

 

「ですが、何かの間違いで、この場所に転移してしまったのかもしれません」

 

「そうだ。『旅の扉』へ入るだけなんだ。連れて行くのは苦ではないだろう?」

 

 溜息混じりに吐き出されたカミュの言葉に、即座にサラが異議を呈す。

 それに同調するように、リーシャもまた抗議の声を上げた。

 しかし、そんな二人を見つめるカミュの視線は冷たかった。

 

 『彼らは彼らの意思でここにいるのだ』

 

 それが、カミュの意見だった。

 魔物に襲われたくなければ、神聖な塔といえど、このような魔物の住処になる場所に来なければ良い。どこかの町や村で平穏に暮らせば良いのだ。

 確かに、魔物の力が強まった昨今は、町や村といえども危険を伴うが、このような塔よりは遥かに安全である。そのような場所に好んで来ている者までも気にかける必要はないとカミュは考えていた。

 リーシャに『変わった』と言われたカミュであったが、根底にある物は、アリアハンを出た頃と少しも変わっていないのかもしれない。

 

「……」

 

 その考えは、カミュが再三吐き出す溜息となっていた。

 サラには、カミュの吐き出す溜息の意味が解らない。故に、サラはその溜息が自分の意見を渋々ながら取り入れてくれた物と勘違いをし、未だに座り込んだまま目を瞑っている老人へと近づいた。

 

「お身体に異常はありませんか? ここは危ないですので、ご一緒致します」

 

 少なくとも、この塔の入り口付近には魔物の気配はなかった。故に、先程通った『旅の扉』で戻った先は安全だと考えたのだ。

 しかし、実際は『旅の扉』という入り口しかないこの狭い空間に魔物が居た時点で、戻った先にも魔物が出現する可能性はあるのだが、そんなサラの優しさは、唐突に飛び出した予想外の言葉に破壊される。

 

「うるさいのぉ! 先程から、儂の瞑想を邪魔するでない!」

 

「ふえっ!?」

 

 唐突に瞳を開いた老人は、この狭い空間に木霊する程の音量で叫び出す。

 その突然の出来事に、サラは奇怪な声を上げて尻餅をついた。

 

「近頃の若い者は、瞑想すらも出来んのか!?」

 

「ちょ、ちょっと待て! 命を救われたにも拘わらず、その言い草は何だ!」

 

 瞳を開けた老人の言葉に、リーシャは憤りを感じる。

 自分達がいなければ、この老人はあの魔物どもに喰われていたのだ。

 それにも拘らず、このような事を言われる意味がリーシャには理解出来ない。

 

「瞑想中に、魔物の喰われるのであれば、それまでの事じゃ。儂にルビス様の加護がなかっただけの話」

 

「な、なんだと!?」

 

 激昂するリーシャに対して老人が語った言葉は、リーシャに容認できる物ではなかった。だが、それはリーシャ側の言い分。

 リーシャやカミュが魔物を倒し、サラが老人の傷を癒したのも、彼らの自己満足と言われれば、否定は出来ないのだ。

 

「……もう良いだろう……」

 

「……カミュ様……」

 

 そんな怒りに燃えるリーシャを一瞥し、カミュは踵を返す。

 あの魔物達がどうやってこの場所に辿り着いたのかはわからない。カミュ達と同じ様に『旅の扉』で移動したのかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、おそらくは、この狭い空間の奥にある、更に狭い部屋のような空間に元から居た魔物なのだろう。

 それを知らずに、この老人はここで瞑想を始めたのかもしれない。そして、それを覚悟の上で、このような場所で瞑想を続けると言うのであれば、それを止める権利をカミュ達は有していない。

 既に魔物も倒した。もう、この老人の瞑想を邪魔する者はいないだろう。

 

「一つ、ご質問をよろしいでしょうか?」

 

「何じゃ」

 

 『旅の扉』のある方向へ進むカミュを見た後、サラは老人へと声をかけた。

 そんなサラの言葉を鬱陶しそうに受けた老人であったが、その答えは、サラの質問を受け付けると言う物だった。

 

「このような場所で、瞑想をされるのは何故ですか?」

 

「ふん。お前さんも『僧侶』ならば、『悟り』を開く為にこの塔を訪れたのであろう? それ以外に理由等ないじゃろうが」

 

「ま、また『悟り』か?」

 

 サラの質問に対する老人の答えは、この塔に入ってから何度か聞いた単語であった。その単語にリーシャは驚き、若干眉を顰める。

 一度歩みを止めたカミュは、振り返った後、まるで鼻で笑うような仕草をして、すぐに歩き出した。

 

「……そうですか……お邪魔をしてしまい、申し訳ございませんでした」

 

 老人の答えを聞き、何かを考え込むように視線を落としたサラは、丁寧に頭を下げた後、カミュの後を追って歩き出す。未だに納得がいかないリーシャではあったが、ここで自分が喚いても仕方のない事である事は承知している為、苦々しく顔を顰めながらも、サラと共に『旅の扉』へと向かって行った。

 

 

 

「……本当に、『悟りの書』とは何なのでしょう?」

 

「そうだな。だが、この塔に入って、その名を聞いたのも三度目だ。何れもどこかの国や町で、ある程度名の通った『僧侶』なのだろうな」

 

 歩きながら疑問を漏らすサラと同じ疑問をリーシャも持っていた。

 ここまで来る途中で出会った人間は三人。そして、その全員が法衣を纏っていた。

 つまり、それは全員が『精霊ルビス』を崇めている教会に属する者である事の証明である。しかも、この聖地として名高い<ダーマ>周辺まで旅をし、この塔に辿り着いたのであれば、それぞれの教会で修行を終えた者達なのであろう。

 

「そうでしょうね。そのような高僧と言っても良い程の方々が、時間をかけても手に入れられない物……そのような物が、本当にあるのでしょうか?」

 

 リーシャの言葉に対するサラの呟きは、誰に対しての物でもない、独り言に近いものだった。

 サラはアリアハン教会に属していたといえども、まだまだ未熟な者。

 除霊をする事も出来なければ、アリアハンを出た時には、まともな魔法も行使する事も出来なかった。孤児として教会の神父に育てられただけの雑用係と言っても良い程の『僧侶』だったのである。

 故に、サラにとって雲の上の存在に近い、高僧と言っても過言ではない者達が探し続けても見つからない物が実在するのかと疑問に思ったのだ。

 ルビス教徒の頂点に立つ、教皇という雲よりもずっと上の存在から指針を受けて、この塔を訪れては見たが、実際この塔で自分が何をすべきなのかがサラには理解出来ていない。

 

「……この塔を隅から隅まで探索すれば、自ずと解るだろう……」

 

「カミュ様?」

 

 自分の考えに没頭するサラに一度視線を向けたカミュは、そんな呟きを残して、メルエと共に『旅の扉』へと飛び込んで行った。既にその姿がなくなってから、呆然と先に行った者の名を呟くサラを残して、リーシャも渦を巻く泉へと飛び込んで行く。

 残されたサラは、一度振り向き、再び瞑想に入った老人の姿を見た後に、『旅の扉』へと入って行った。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

ガルナの塔は、少し時間のかかる探索となります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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ガルナの塔②

 

 

 一階部分に戻った一行は、再び塔内部を彷徨い歩く。

 思っていたよりも広い塔内部を、カミュを先頭に歩き続けた。

 

「カミュ、こっちに階段が見えるぞ!」

 

 先程の『旅の扉』があった場所から正反対に位置するところで、再び最後尾を歩くリーシャがカミュへと声をかける。しかし、カミュは一度振り返っただけで、その言葉を無視するようにリーシャが指し示す道の反対側へと歩いて行った。

 

「お、おい! 階段はこっちだぞ!? そっちは外に出てしまうではないか!?」

 

「確かに、外ですね」

 

 カミュが歩いて行った方向にサラが目を向けると、リーシャの言う通り、そこは冷たい雨が降りしきる塔外部であった。

 『塔を探索するのに、何故外に出るのか?』という事が理解できないリーシャがカミュへと叫ぶが、その言葉への返答はない。仕方なく、カミュの後ろに付いて行くサラを見て、顔を顰めながらも、リーシャも後に続いて行った。

 

「……大丈夫か……?」

 

「…………ん…………」

 

 外は、しとしとと雨が降り注ぎ、<シャンパーニの塔>を登った時のような風を伴った物ではなかったが、それでも冷たい雨が周囲の気温と共に一行の体温も奪って行く。自身のマントの中にいるメルエに声をかけるが、当のメルエは、小さな返答を返すだけでマントの中から顔を見せる事はなかった。

 

「カミュ! 外に出てどうするんだ!?」

 

「……いい加減、自分の特技を認識してくれ……」

 

 自分の意見が採用されない怒りと、冷たい雨が降り注ぐ外へと出た疑問から、リーシャの語気は荒く、それに対するカミュの溜息は大きくなった。

 ただ、溜息と共に片手を挙げたカミュが指す方向には、塔と同じような石で作られた建物が見え、それを見たサラは、リーシャの特技を再認識したのだった。

 外部にある建物の内部に入ると、小さな空間の中に一つの階段が見え、上部へと進める事を意味している。リーシャは、どこか納得の行かない表情を浮かべながらも階段を上るカミュとサラの後ろをついて行った。

 そして、階段を上りきった時、目の前に広がる光景にリーシャは唖然とする事になる。

 

「も、もしかして……こ、これを渡るのですか?」

 

 言葉を失ったリーシャの代わりに、目の前に広がる光景に驚きと言うよりも恐怖に近い感情をサラが漏らした。

 そんなサラの呟きに、前を見ているカミュも答える事が出来ない。カミュにしても、目の前に広がる光景を見て、唖然としていたのだ。

 

「……カミュ……本当にここを渡るのか?」

 

 無言のカミュに対して、ようやく意識を取り戻したリーシャが声をかける。それは、確認と言うよりも、否定を願う懇願にすら聞こえる物だった。

 それもその筈、カミュ達の前に見える物は、自分達の踏みしめる床とはかなり離れた場所にある床。そして、その間には、人の片足分程の幅しかない通路が続いている。その距離は一歩二歩の距離ではない。

 

「わ、わたしには無理なような……」

 

 リーシャに続き、サラが口にした言葉は完全な弱気。

 かなりの距離に及ぶ綱渡りに近い行動を、この冷たい雨と風が吹く中で敢行しなければならない事に、サラは自信を持てないのだ。

 

「……渡るしかないだろうな……」

 

「……」

 

 リーシャとサラの問いかけに、カミュはさも当然のようにその細いというレベルではない物を渡る事を宣言する。それに対し、リーシャは無言で頷くが、サラの方は絶望に近い表情を浮かべた。

 

「……アンタは、教皇が言った事が何なのかを知りたくはないのか?」

 

「えっ!?」

 

 二の足を踏むサラに対してカミュが発した言葉に、サラは戸惑いを見せる。カミュやリーシャの共通認識として、この塔を訪れる事になったのは、この目の前で戸惑っている年若い僧侶が最大の理由なのである。

 つまり、このサラという僧侶が、『この先に進みたくない』と言うのならば、カミュとリーシャとしては、この塔を探索する理由は何一つないのだ。

 

「この塔に関しては、決めるのはアンタだ」

 

「……カミュ……」

 

 全ての決定権をサラへと譲渡したカミュは、視線を細い通路に移し、足を止めた。サラの言葉次第では、カミュはこのまま踵を返すだろう。

 そんなカミュの背中を見て、リーシャも心を決めた。サラの方へ視線を移し、その答えを待つ。

 

「わ、わたしは……」

 

 独り言のように呟くサラの顔が下へと下がって行った。

 『僧侶』としての資格は当に失われている。この塔で修業をしている僧侶達のように、『悟り』を啓ける程の長い修業をしている物でもなければ、もはや修業をするために『精霊ルビス』という高貴な存在の下に跪く事も許されはしない。

 

 そんな思いが、サラの頭を渦巻いていた。

 まるで『時の扉』と呼ばれる泉のように。

 ただ、その渦の先は決して開けた場所ではない。

 どこかに繋がっている訳でもない。

 その渦巻く考えの先は、やはりサラ自身なのであった。

 

「行きます!」

 

 それでも、強い光を瞳に宿し、サラの顔を上がった。

 まるで、その渦巻く考えの先を見据えるように。

 

「……わかった。俺が最初に行く」

 

 サラの瞳を見て、カミュは一つ頷く。

 そして、肩から掛けている袋に手を入れた。

 

「アンタは、これをその僧侶に巻き付けた後、俺の次に渡ってくれ」

 

「私は最後でなくてもいいのか?」

 

 カミュが袋から取り出し、サラの目を見つめていたリーシャに渡した物は、かなり太めのロープだった。

 一つに纏められたそれを受け取ったリーシャは、カミュとロープを見比べながら問いかける。

 

「アンタが渡りきった後、それがこの僧侶の<命綱>となる。例え、足を踏み外しても、アンタならば引き上げられるだろう?」

 

「そ、そうか。わかった。サラ、心配せずに渡れ、何かあっても私に任せろ」

 

 カミュの考えが理解出来たリーシャは、大きく頷いた。

 そして、そんなリーシャの力強い言葉に、サラも頷き返す。

 

「……メルエ……」

 

「…………ん…………」

 

 二人のやり取りを最後まで見る事なく、カミュはマントの中にいるメルエに声をかけ、ようやく出て来たメルエを背負うように抱え上げる。

 カミュの背に乗ったメルエは、その首に腕を回し、離れてしまわないように力を込めた。

 

「……先に行く……」

 

 その言葉と共に、カミュは細い通路に足を踏み出した。

 通路に出た途端、身体に雨の滴が落ちて来る。

 塔の外では、それ程風を感じはしなかったが、ここは塔の二階部分といっても差し支えのない高さ。吹いて来る風は横殴りではないが、地に足をつけていた頃よりも強く感じた。

 

「…………」

 

 カミュの背中には、何かに耐えるようにメルエがしっかりとしがみついていた。

 吹いて来る風が雨を運び、カミュの横顔が水滴に濡れて行く。

 メルエの顔にも冷たい雨が降り注ぎ、それを嫌がるように、メルエはカミュの背中に顔を埋めた。

 細い通路には、手摺ような掴める場所などない。何一つ頼りがないまま、自らの足と平衡感覚を信じてカミュは前へと進んだ。

 下を見ずに、ただ、前に見える対岸の陸地を目指し、慎重に歩を進める。そして、カミュの足が、不安定な通路ではない床についた。

 

「サラ、ロープを腰に巻き付け、しっかりと結べ」

 

「えっ!?」

 

 カミュが向こう側に着いた事を認めたリーシャが、先程渡されたロープをサラへと渡すが、対するサラは、決意したとはいえ、カミュの動きを見て再び気持ちが揺れ動いていた。

 

「私は先に進む。そのロープが、サラの命を繋ぐ物だ。しっかり結べよ」

 

「は、はい……」

 

 まるで縋るような瞳を向けて来るサラに、リーシャは厳しい瞳を返す。そんなリーシャの言葉に、どこか諦めたような返答を返したサラは、震える手でロープを腰に巻き付け始めた。

 しかし、小刻みに震える指では、ロープを結ぶ事が出来ない。何度も何度も、同じ場所でロープが解け、やり直すサラは、次第に歯すらも噛み合わなくなって行った。

 

「しっかりしろ! サラが行くと決めたんだ!」

 

「……リーシャさん……」

 

 そんなサラを見ていたリーシャが、力強い手で、サラの腰にロープを結びつけた。

 リーシャの顔を見上げるサラの瞳は、自信なさ気に揺れ動いている。ロープを結び終わったリーシャはサラの肩に手を置き、揺らぐ瞳を固定させるようにサラと視線を合わせた。

 

「大丈夫だ。例え、サラが足を滑らせたとしても、私が必ず引き上げてやる」

 

「……はい……」

 

 目を見て話すリーシャを見ているサラの瞳の揺らぎは、若干の落ち着きを見せ始めるが、帰って来た返答は、未だに自信なく頼りない。

 一度、息を吐き出したリーシャは、再びサラの瞳を見つめてその言葉を紡ぎ出した。

 

「自信を持て、サラ。サラは魔法を使う者だ。集中力や機会を伺う能力、そして距離感を測る能力等は持ち合わせている筈だろ?」

 

 腰にロープを巻き付けた後、リーシャはサラの肩に手を置き、その目をしっかりと見て、語り出す。それは、弱気なサラに何かを注入するような物だった。

 今のサラの中には自信の欠片もない。

 信じて来た『教え』への疑惑。

 それを感じてしまう自分に対しての憤りと、それを否定出来ない自分への戸惑い。

 それは『僧侶』としての資格を失ったと感じてしまう程に大きく、今のサラには何に対しても自信を持つ事は出来なかった。

 

「行くぞ、サラ。サラはこの先にある物を見なければならないんだ。こんな所で足を止めている暇はないぞ!」

 

「は、はい!」

 

 最後に、痛みすら覚える程の強烈な張り手を背中に受けたサラが、大きな声で答えを返す。そんなサラを見て、満足気に頷いたリーシャが、細い通路の方に歩き出した。

 サラから繋がるロープを片手に握りながら、下を見ずに歩くリーシャの足取りはしっかりとした物。時折吹きつける強い風に立ち止るが、風が止むと再び歩き出す。

 そして、先程のカミュよりも短い時間で、リーシャは対岸に辿り着いた。

 

「さあ。サラ、来い!」

 

 対岸で自分を見つめるカミュよりも後ろまで歩き、腰を落してロープを握るリーシャの掛け声に、サラはもう一度強く頷く。

 そして、恐る恐る一歩を踏み出した。

 

「ひゃぁ!」

 

「下を見るな! 私達だけを見ながら、足下を確認して進め!」

 

 足を細い通路に乗せるために下を見たサラは、その高さに目が眩み、思わず声を上げてしまった。

 そんなサラに前方から力強い声がかかる。その声に動かされるように、再びサラの足が前へと動き出した。

 

「うっ!」

 

 しかし、リーシャの言うような事が簡単に出来る訳がない。不安定で頼りない足場に目を向けずに歩く事が出来る程の経験をサラは積んで来ている訳ではないのだ。どうしても目を下に向けてしまうサラの足が止まってしまう。

 先程と違い、既に細い通路に足を乗せてしまったサラは、後ろへ下がる事は出来ず、風が吹く中で立ち竦んでしまった。

 

「サラ! 歩け! それとも一度落ちてから、私に引き上げられたいのか!?」

 

「うぅぅぅ」

 

 リーシャの容赦ない言葉に、目尻に涙を溜めながらもサラはゆっくりと足を前に出して行く。

 しかし、歩く事は出来ず、摺り足のように徐々に足を前に滑らせて行く進み方は、尚更不安定で、そよぐ風に身体が揺れる度に、サラの行動は停止した。

 カミュもリーシャも、前へと進み始めたサラを糾弾する事はなく、ゆっくりとした歩みに口を挟む事はなかった。

 しかし、サラが通路の中央まで歩みを進めた時、そんな緩やかな行動を妨げる存在が現れる。

 

「…………カミュ…………」

 

「!!」

 

 自分の足下からメルエの小さな呼びかけが聞こえ、カミュが周囲へと目を向ける。そこには、いつの間にいたのか、この塔に向かう途中で出会った魔物が一体、厭らしい笑みを浮かべながらカミュ達の行動を見ていた。

 カミュであっても、その気配に気づく事はなく、サラに注意を向けていなかったメルエだけがその存在の登場に気がついたのだ。

 

「ロープは放すな! あれは何とかする!」

 

「サラ! 出来るだけ急げ!」

 

 そこに居たのは、<メタルスライム>。

 この場面で一番会いたくはない魔物の一つだろう。

 素早く、一行を攪乱する魔物の登場は一番歓迎したくない物だった。

 

 リーシャのサラへの注文は、完全に無理な注文である。既に通路の中心にいるサラは、後ろへ下がる事も、前へ進む事も出来ないのだ。

 『できるだけ急げ』と言われても、混乱に陥り始めているサラの足は一向に前へ進まない。それが解っているからこそ、リーシャも顔を顰めながらもそれ以上の叱責をしなかった。

 

「……メルエ……」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの言葉に、メルエがマント内から出て行った。それと同時にカミュが背中から剣を抜き放つ。

 以前遭遇した時と同じように、<メタルスライム>は厭らしい笑みを浮かべながらも『ぷるぷる』とその特徴的な身体を揺らしていた。カミュは、不安定な足場を懸命になって前に進もうとするサラと、魔物の登場に意識を向けながらもその命綱をしっかりと握るリーシャを護るように立塞がる。

 以前の戦闘で<メタルスライム>が<メラ>を使う事は解っていた。故に、その魔法の軌道上に身体を入れて、警戒しているのだ。

 

「ピキュ―――――――!」

 

 スライム独特の奇声を上げながら、<メタルスライム>が飛び跳ね始めた。

 目に留らぬ程の速さで動くその魔物の、助走に当たる行動なのかもしれない。

 その行動を冷静に目で追いながら、カミュは<鋼鉄の剣>を構えた。

 

「やぁ!」

 

 一気に飛び込んで来た<メタルスライム>に瞬時に反応したカミュは、凄まじい速さで<鋼鉄の剣>を振るう。その剣の軌道は真っ直ぐ<メタルスライム>に向かって振り下ろされたが、<メタルスライム>の身体に当たった瞬間、乾いた金属音を上げて、弾き上げられた。

 

「プキュ―――――」

 

「くそっ」

 

 カミュの剣を受け、多少目を回したように床へと落ちた<メタルスライム>であったが、その身体に傷らしい傷はなかった。それを見たカミュが、忌々しげに舌打ちをする。

 再び、身体を揺らし始めた<メタルスライム>を冷静に目で追いながらも、カミュは手を出す事が出来なかった。自分から仕掛け、それが空振りに終わった時、カミュの後ろで未だに不安定な足場に四苦八苦しているサラが危険に晒されるからだ。

 

「H&U4$」

 

 しかし、そんなカミュの慎重さが仇となる。一向に自分に向かって来ないカミュに対して、<メタルスライム>は以前と同じ様な奇声を上げたのだ。

 それは正しく<メラ>の詠唱。

 その威力こそ脅威ではないが、この場面では何よりも脅威となる魔法の詠唱だった。

 

「くっ!」

 

 口を開いた<メタルスライム>から火球が飛んで来る。咄嗟に<鉄の盾>を身構えたカミュの視界から、<メタルスライム>の姿が消えた。

 盾にぶつかる火球の衝撃に耐えたカミュが盾を下げた先には、既に<メタルスライム>の姿はない。

 

「カミュ!」

 

 視線を巡らすカミュの耳に、自分の名を叫ぶ女性戦士の声が響く。

 勢い良く振り向いたカミュの視線に、命綱となるロープを握ったまま、リーシャがサラを見つめる姿が映った。

 

「くそっ!」

 

 カミュに向かって<メラ>を吐き出した<メタルスライム>は、既に自分の位置を大幅に移動し、リーシャとサラの間で飛び跳ねていた。

 命綱を放す訳にはいかないリーシャは、サラの危機に対しても行動する事が出来ない。先程よりも幾分か前に進んでいるサラも、眼前で飛び跳ねている<メタルスライム>を見て、絶望からなのか硬直してしまっていた。

 

 ここから駆けたところで間に合わない事はカミュも解っている。

 それでも、カミュは剣を構えて駆け出した。

 

「H&U……!!」

 

 カミュが走り出したのと同時に、<メタルスライム>が奇声を上げた。

 だが、魔法の詠唱である筈のその奇声は、途中で遮られる事となる。

 

「ピキュ!」

 

 詠唱を止めた<メタルスライム>の鋼鉄色の身体は力無い声を発して、崩れて行った。

 走り出していたカミュも、綱を握りしめていたリーシャも、そして絶望に顔を歪めていたサラも、その光景に目を丸くし、それを生み出した一人の少女を茫然と眺める。

 

「…………ん…………」

 

 今、カミュやリーシャですら倒す事の出来なかった魔物をたった一撃で葬り去った少女は、己の手にある小さな武器を腰に戻し、茫然と見つめているカミュのマントの中へと潜り込んで行く。

 

「……<毒針>か…」

 

 カミュのマントの中に入り、何の言葉も発しないメルエの持っていた武器。

 それは、<カザーブの村>でメルエの身を護る為と、道具屋の主人から譲り受けた物であり、メルエの唯一の友である『アン』と呼ばれた少女の形見に近い物であった。

 

「……今の内に渡れ……」

 

「は、はい」

 

 地面に広がる鋼鉄色の液体を見ながら、カミュは未だに不安定な通路の上で茫然としているサラへと声をかけた。

 その言葉に我に返ったサラは、再び立ち上がり、前へと歩を進め始める。

 

「……メルエ……?」

 

 リーシャは、メルエの行動にどこか不安を覚える。

 いつもならば、敵を倒した事に対し、リーシャやカミュに褒め言葉を要求する少女が、今回は既にカミュのマントの中に隠れるように入ってしまっているのだ。

 その事が、リーシャの胸の内に言いようのない不安として残って行った。

 

 

 

 無事、通路を渡りきり、大きな溜息を吐くサラの身体からロープを外した後、一行は前へと進み始めた。

 渡りきったフロアには、上へと続く階段があり、それ以外に道はない事から、一行は上へと歩を進める。

 

「ま、また『旅の扉』なのか!?」

 

「先程、渡り終えたばかりなのに……」

 

 そして、階段を上った先で見た光景に、リーシャは驚きの声を上げ、サラは諦めに近い溜息を吐いた。

 階段を上がった先は『行き止まり』。ただ、リーシャが選んだ道ではない証拠に、その『行き止まり』の奥に渦巻く泉が存在していた。

 

「……行くぞ……」

 

「ああ」

 

「……はぁ……」

 

 再びメルエを抱き上げたカミュは振り返らずに一言呟いた後、『旅の扉』と呼ばれている泉へと飛び込んで行った。その姿を見て、リーシャも間髪入れず飛び込んで行く。

 最後に残ったサラは、一度大きな溜息を吐き、息を吸い込んだ後に、目を瞑って泉の中に飛び込んで行った。

 

 

 

 今回も、アリアハンを出る時のような感覚を味わう事はなかった。それが、飛び込んだ場所と現在地が然程離れていない事を示している。

 すぐに意識を覚醒させたサラは、立ち上がるが、既に他の三人は前方を見据えていた。

 

「……どっちだ?」

 

「ん?……そうだな……右か……いや、左だな」

 

 一行の前方は三方向に分かれる通路が広がっており、まるで十字架のような形の通路になっていた。前方に真っ直ぐ続く通路の途中に左右に分かれる通路が存在している。

 サラがリーシャの後ろについたと同時に、前方を見ていたカミュがリーシャへと問いかけた。その言葉に、リーシャは周囲を見渡し、少し考えた後に口を開く。

 

「……わかった……」

 

 リーシャの顔を見ずに頷いたカミュは、先頭を歩き出す。その後ろをリーシャとサラが歩き出した。

 先程の細い通路を歩いた事により、四人の身体は雨によって濡れている。<シャンパーニの塔>のような壁の全くない塔ではないため、今現在は風も雨もないが、徐々に身体が冷えて行く事に変わりはなかった。

 

「お、おい!」

 

「なんだ?」

 

 長い通路の十字路を過ぎた場所で、リーシャがカミュへと抗議の声を上げる。

 リーシャは『左』だと言った。しかも、『右』かどうか逡巡した後に『左』と決めたのだ。しかし、カミュが取った進路は、そのどちらでもない『前』へと進む道だった。

 

「私は、左だと言ったぞ?」

 

「……何故、アンタは自分の指し示す道が正しいと思える?」

 

「ぐっ」

 

 カミュの切り返しにリーシャは言葉に詰まる。リーシャが指し示す道が正しかった事は、皆無に等しい。ただ、少し前の<バハラタ東の洞窟>では、リーシャの言葉が一行の道を指し示した事もまた事実なのだ。

 

「……わかった……」

 

 諦めたように一つ頷いたカミュは、右へと進路を取った。その後を満足気にリーシャが続き、不安そうに顔を歪めたサラが歩く。

 しかし、リーシャの指し示した方角に進んだ先にある階段を上った場所は、狭く閉ざされた空間。

 所謂『行き止まり』であった。

 

「……ふぅ……」

 

 

「た、たまたまだ。それに、あそこにあるものは、宝箱じゃないのか?」

 

 溜息を吐くカミュへと慌てて弁解するリーシャが指差す方向には、確かに<宝箱>のような箱があった。

 そこにある事がごく自然に見えるかの様に。

 

「もしかしたら、あれが『悟りの書』なんじゃないのか?」

 

「……アンタは、どこまで馬鹿だ……」

 

 リーシャの言葉にカミュは心底呆れたような溜息を吐く。その言葉にリーシャはいきり立つが、カミュは相手にせずに宝箱へと近づいて行った。

 実際にあのような場所に、誰も探し出す事の出来ない物がある訳がない。それ程見つかりやすいように落ちているのなら、既に誰かが手に入れているだろう。

 

「構えろ!」

 

 それは、近づいたカミュの叫びで証明された。急ぎ、各々の武器を身構えた一行が見た物は、以前カミュを瀕死に追い詰めた魔物。

 開いた箱の淵に鋭い牙が生え、カタカタという音を立てながら跳ねている。しかし、その箱は以前に遭遇した<人喰い箱>よりも年季が入っているように見えた。

 

<ミミック>

洞窟や塔などを住処にする魔物で、無造作に捨てられた箱などに命が宿った魔物と云われている。<人喰い箱>の上位種と云われており、<人喰い箱>よりも長く年月を有した箱が命を持った物とも云われている。その狂暴な牙は、<人喰い箱>の鋭さを凌ぎ、一度牙を受ければ、人の身体等は容易く食いちぎられるとされていた。

 

「メルエ! 後ろへ下がれ!」

 

「…………ん…………」

 

 メルエが小さく頷いた後に、『とてとて』とサラの後ろへと移動して行く。それを確認したカミュは、背中の剣を抜き放った。

 リーシャも斧を身構え、カミュの横へ並ぼうとした時、彼女の視界が暗転する。

 

「P¥5%*」

 

 カミュ達が駆け出す直前に、<ミミック>はその口のような箱の淵をカタカタと鳴らし、詠唱のような奇怪な音を発したのだ。

 その瞬間、カミュとリーシャの意識は、深い谷底へと突き落される。

 

 リーシャは突然自分の身に降りかかった現象に対し、大いに戸惑い、混乱した。

 自分の頭の中に響いてくる罪悪感のような『恐怖』。

 まるで、『自分が生きている事自体が罪』とでも言うような想いを抱いてしまう程に巨大な黒い闇。

 それは、リーシャの意識を飲み込み、その心を砕いて行った。

 『死ね』という言葉が直接脳に響いてくるように連呼される。

 

「くそっ! 私はまだ死ぬ事など出来ないのだ!」

 

 自分に押し寄せてくる黒い闇を振り払うように叫んだリーシャの意識が現実に引き戻された。

 雲が晴れるように、一気に明るくなった視界に目が眩むが、それでもリーシャは魔物に意識を向けようと必死に意識を戻して行く。そして、リーシャの焦点が合った時、そこに信じられない光景が広がっていた。

 笑うように自らの身体をカタカタと鳴らす<ミミック>と、その前で頭を抱えて蹲っている『勇者』の姿があったのだ。

 

「カミュ!」

 

 その時カミュは、大きな黒い闇に意識を飲み込まれていた。

 それは、何処までも果てしなく、どこまでも暗い闇。

 死を望まれ、生を罪とする闇。

 彼はその闇を拒絶する術を持っていなかった。

 

「カミュ! 気をしっかり持て!」

 

 突然、前線に出ていた二人が苦しみ始め、立ち直ったと思ったリーシャがカミュに向かって理解出来ない言葉を投げかけている。

 その事に、後方に居たサラとメルエは困惑していた。

 

<ザラキ>

教会が所有する『経典』に記載されている魔法の一つ。僧侶と言う『人』の生と死を見守る職業故に行使する事の出来る呪文。術者が唱える『死』の言霊によって力を得た言葉が、対象の意識を飲み込み、生への執着を奪って行く。心の弱っている者や、元々『生』への執着の薄い者はその闇にも近い呪いに落ちて行くのだ。

 

「キシャ――――――!」

 

「メルエ!」

 

「…………メラミ…………」

 

 カミュ達の姿に混乱はしていても、後方を任された二人は、己の仕事を全うする。

 魔物とは別の物に苦しみ始めたカミュに向かって飛び掛って来た<ミミック>に、メルエの放つ<メラミ>の大火球が襲い掛かった。

 メルエの放った<メラミ>を受けた<ミミック>は、その身体を瞬時に燃え上がらせ、床をのた打ち回る。しかし、塔に降り注いでいる雨によって、湿り気を帯びていた床を転げる内に魔物を包む炎は燻り始め、所々に焦げ跡こそ残るが、その命を奪うまではいかなかった。

 

「カミュ! 帰って来い! お前はまだ死ぬ訳にはいかない筈だ!」

 

 そんな後方での戦闘の余所に、リーシャはカミュを呼び戻すために声を張り上げていた。

 その声が届いていない証拠に、徐々にカミュの瞳から光が失われて行く。頭を抱えながら蹲るカミュの身体から力が抜け始め、生気が失われて行った。

 

 その時、カミュの頭にあるサークレットに嵌め込まれていた蒼い石が眩いばかりの光を放ったのだ。

 

 

 

 カミュは、意識を手放そうとしていた。

 『死ね』と言われれば、死のう。

 特段、生きて行く理由等ない。

 生きる事への執着等、生まれた時から持ち合わせて等ない。

 

 迫り来る暗い闇への恐怖を捨て、闇にその心を委ねて行く。心へと押し寄せるように入って来る闇は、カミュの全てを包み込み、その全てを奪って行った。

 徐々に冷たくなって行く心。それを自覚しながら、カミュは落ちて行った。

 

「!!」

 

 カミュは、自分の全てを失うその瞬間、闇に包まれた自分を強烈な光が照らし出すのを見た。

 その光は蒼く、とても暖かな物。

 闇に包まれ、冷え切ったカミュの心と身体を温め、その闇を消し去る程の強い光。

 

 

 

「カミュ!」

 

 強く暖かな光に導かれるように目を開いたカミュの瞳に、目に涙を溜めながら叫ぶ女性戦士の顔が映った。

 自分がどうなったのかを未だに理解していないカミュは、そんなリーシャをぼんやりと眺める。

 

「簡単に『死』を受け入れるな! お前は、メルエを残して死ぬつもりなのか!」

 

 カミュの意識が戻った事を確認したリーシャは、力一杯カミュの頬を張った。

 再び意識が飛びそうな程の強烈な張り手を受けたカミュは、そこでようやく自分が襲われた物を理解する。

 

「……死への呪文か……」

 

 床に落ちた<鋼鉄の剣>を拾い上げたカミュは、呟きを漏らしながら<ミミック>へと鋭い視線を向ける。メルエの魔法によって焦げ跡が残り、瀕死と言っても良い程ではあるが、まだ生きてはいた。

 

「カミュ! 返事をしろ!」

 

「……わかっている……すまなかった……」

 

 自分の問い掛けに答えを返さないカミュに、再びリーシャの声が響く。

 カミュは、リーシャへ視線を向けずに呟くように答えた。

 生気を失っていたカミュの顔は、未だに青白いが、それでも生きている。

 その事に、リーシャはようやく安堵した。

 

「今後、簡単に『生きるという事』を諦める事は許さんぞ!」

 

「……ああ……」

 

 もう一度念を押すように掛けられた言葉に短く答えたカミュの言葉に、リーシャは満足気に頷く。そして、自らも再び<鉄の斧>を握り、魔物へと視線を向けた。

 

「ならば、さっさとあの魔物を倒してしまうぞ」

 

「……ああ……」

 

 本来以上の力を取り戻した二人に、瀕死の<ミミック>が勝てる道理はない。逃げ惑うように飛び跳ねる<ミミック>の胴体をリーシャの斧が粉砕し、最後にカミュの剣が突き刺さったところで、その生命活動を停止させた。

 

「カミュ様! 大丈夫ですか!?」

 

「…………」

 

 魔物の活動が停止した事を確認し、後方にいたサラがカミュ達の傍へと駆け寄って来る。メルエもカミュの傍へとゆっくり近づき、まるで支えに掴まるように、カミュの腰へとしがみ付いた。

 

「こ、これは……」

 

 駆け寄って来たサラが、カミュの周囲に散りばめられている石の欠片を一つ掴み、目を見張る。それは、サラがアリアハンの教会にいた頃に読んだ書物に記載されていた物だった。

 

「カミュのサークレットに付いていた蒼い石が、突然輝き出し、そのまま砕け散ったんだ」

 

「こ、これは、『命の石』です」

 

「……命の石?」

 

 カミュの身に起こった事を説明するリーシャの言葉を聞きながら、散らばる蒼い石を拾い集めるサラが、その石の名を口にする。その名に聞き覚えがないのか、珍しくカミュがサラに聞き返していた。

 支えに掴まるようにカミュの足にしがみついていたメルエの瞳が床に散らばる蒼い石の欠片へと動く。

 

「はい。本来、教会に所属する者以外はその存在を知らないと思います。ルビス様のご加護を宿した石と云われ、所有者が『ルビス様のご加護を受ける資格を有した者』と石に認められた場合、突発的な死を身代わりとなって受け止め、砕け散ると伝えられています」

 

「それでは、カミュの代わりに、その石は砕け散ったという事か?」

 

 説明を受け、疑問を呈したリーシャに、サラは静かに頷いた。

 リーシャは、改めてサラの持つ石の欠片を見つめ、そして、怒りを瞳に宿してカミュを振り返った。

 

「カミュ! お前はやはり、『生』を完全に諦めたな!」

 

「……」

 

 その怒りは、先程リーシャが話した事。

 石が身代わりとなって砕け散ったという事は、カミュの命が一度は失われたという事と同意。それは、生を諦め、死を受け入れたという事なのだ。

 そんなリーシャの追及に対し、カミュは反論する言葉を持ち合わせてはいなかった。

 

「二度と……二度と自分の命を粗末に扱うな。二度と自分の存在を見失うな。お前は『勇者』であると同時に、『カミュ』という人間なんだ」

 

「……リーシャさん……」

 

「……」

 

 怒りを抑えるように呟くリーシャは、最後の言葉を口にする際に、カミュの腰にしがみついているメルエへと視線を移した。

 その視線を追って、カミュもメルエに目を向ける。そこには、何かに脅えるようにしがみつき、顔をカミュの腹部に押し当てている小さな少女がいた。

 

「……すまなかった……」

 

 誰に向けられた物でもない。

 足下にいるメルエへ向けられた物と捉える事も出来るし、この場にいる全員に向けて話した物とも考えられる。そんな謝罪を受けて、リーシャの瞳から怒りが消えて行った。

 

「その石は、もう効力を失うのか?」

 

「は、はい。一度身代わりとなった石は、このように細かく砕け、その価値を失います」

 

 メルエの頭を撫でているカミュを一瞥し、リーシャはサラの持つ石の欠片へと意識を移す。そんなリーシャの疑問に、我に返ったサラが答えるが、それは砕けた石の活用方法はないという物だった。

 

「……ならば、これも不要だな……」

 

「カミュ!」

 

 二人のやり取りを聞いていたカミュが、自分の頭に装備されているサークレットを外し、床へと落とした。

 乾いた音を立てながら数度跳ねた後、サークレットは役目を終えたように沈黙する。

 

「……行くぞ……」

 

 アリアハンを出た当初から、カミュが頭に着けていた物だけに、何らかの謂われがある物だと思っていたリーシャは、カミュの行動に苦言を呈すが、その言葉が聞こえないように、カミュは下に続く階段へと歩を進め始めた。

 そう言った事に関しては、カミュが絶対に譲らない事を理解し始めているリーシャは、一度溜息を吐き、その後を追う事にした。

 

 

 

「先程は右に進んだ。私は、お前に『左』と言った筈だぞ」

 

「……わかった。もし『行き止まり』だとしても、そこで一度休憩を取る」

 

「そうですね。身体を一度温めましょう」

 

 階段を降りてすぐに、『自分が言った方角でないから駄目だった』とでも言いたげに口を開くリーシャに、前を歩くカミュとサラの二人は、呆れたように振り向いた。

 リーシャの目を見つめ、一度溜息を吐いたカミュは、そのまま通路を真っ直ぐ進んで行く。その後を、カミュの提案に賛成したサラが続き、どこか納得いかない表情のリーシャが歩いて行った。

 

 

 

「……ふぅ……」

 

「あっ!? ま、薪の準備をしますね」

 

 左の通路を進み、先にあった上へと続く階段を上った先は、案の定、壁に覆われた狭い空間だった。

 その光景にカミュは溜息を吐き、肩を落とすリーシャを気遣うように、サラはカミュの持っていた革袋から、昨晩拾った薪を取り出し始める。

 火を熾した後、一行はそれを囲むように身体を乾かし始めた。

 暖かな炎に身体や髪の毛が乾いて行き、肌を熱し始める。

 カミュのマントから出たメルエも、リーシャに髪を拭いてもらいながら揺らめく炎に当たっていた。炎に近づいているためか、頬はほんのりと赤くなっており、温かさの為なのか、眠そうに瞳を細めている。

 

「ふふふ。メルエ、寝ては駄目だぞ」

 

「…………ん…………」

 

 注意にも、顔を向ける事なく頷くメルエに、リーシャは苦笑を浮かべながら、メルエの服も拭いて行く。持って来た薪の数はそれ程多くはない。この場所で焚き火を行った事で、この後、塔の探索中は火を熾す事は出来ないだろう。

 

「……行くぞ……」

 

 薪が無くなってしまったため、長居をする事の方が危険性を伴う。炎が小さくなり始め、もはや燃やす物もなく、炎が燻り始めた頃、カミュが立ち上がった。

 出発に際し、暖められたカミュのマントの中へと入って行くメルエの足取りはおぼつかなく、『眠いのだろうな』とリーシャは苦笑を浮かべていた。

 

 

 

 下の階に戻った一行は、カミュが最初に向かっていた通路へと歩を進めた。

 今度はリーシャも何も言わず、その後ろを歩いている。

 

 通路の先にある階段を上がった先は、先程と同様の狭い空間ではあったが、その先には更に上へと進む為の階段があった。

 既に、一行はこの塔の上部へと達しようとしている。ここまでに、何度か魔物の戦闘もあり、そのどれもが今まで相対した魔物の中でも強大な物であった。おそらく、この塔の一階部分にいた高僧達は、今カミュ達がいる場所までも上がって来る事は出来ていないのだろう。それ程に、この塔に住む魔物達は強力であった。

 この塔に『悟りの書』という物が存在するのだとしたら、それは只単に『探索が出来ない為に取得出来なかっただけではなかろうか?』とリーシャは思い始めていた。

 

「ま、またですか!?」

 

「……先程の物よりも長いな……」

 

 そんな思考に入っていたリーシャが階段を上り終えると、先に上り終えていた二人が、その先に広がる光景に絶句していた。慌てて二人の横へと移動し、前方を見たリーシャも言葉を失う。

 そこには、先程と同じように、細く不安定な通路があり、その遥か向こうに対岸の床が見えていたのだ。

 その通路の長さは先程の倍以上はあるだろう。そして、先程より階層も高いため、吹き付ける風は強く、雨も激しく降りつけていた。

 

「カ、カミュ……これは無理じゃないのか?」

 

「……アンタはどうする?」

 

 リーシャの言葉に対して返答をする事はせず、カミュは茫然と前を見詰めるサラへと問いかけた。

 この塔は、カミュにとってどうでも良いと言っても過言ではない存在であり、サラさえ諦めると言うのであれば、いつでも<リレミト>で脱出するつもりであったのだ。

 

「い、行きます!」

 

「……わかった……」

 

 故に、サラが目の前の通路を見ながら言葉を発した時、カミュは軽く溜息を吐き、リーシャへと視線を向ける。カミュの視線を受けて、リーシャは全てを察した。

 彼が何を考えているのか、そして自分が何をするべきなのか。

 

「サラ、こっちに来い」

 

「は、はい」

 

 サラを呼び付けたリーシャは、その身体に命綱を巻きつける。

 先程よりも短く身体に巻き、余分な部分を多く取った。

 その代りに、身体の結び目は固く結ぶ。

 

「……アンタとメルエは、ここで待っていてくれ……」

 

「わかった」

 

 自らのマントの中からメルエを出し、カミュはリーシャへと言葉をかける。既にカミュの言う事を理解していたリーシャは、即座に頷いた。

 ここから先は、カミュとサラの二人で探索すると言うのだ。既にこの塔の頂上付近までは上っている。ならば、この先にあるだろう階段が最後の物になる可能性が高い。

 

「サラ。サラの命は私がしっかりと握っている。恐れず進め」

 

「は、はい」

 

 命綱を結び終えたリーシャがサラへと声をかける。その声に一つ頷いたサラであったが、既にサラの後方に見える頼りない通路へと歩き出しているカミュを見て、目を見開いた。

 

「カ、カミュ様! カミュ様にも命綱を!」

 

「カミュは大丈夫だ」

 

 何も身体に付けず、既に半歩踏み出しているカミュを見て、サラはリーシャへと嘆願するが、そんなサラの慌てっぷりにリーシャは苦笑を浮かべて首を横に振った。

 既にリーシャの腰にしがみ付いているメルエも、何の感情も見えない瞳をカミュへと向けている。

 

「で、でも……」

 

「カミュの事は気にするな。サラは自分の事だけを考えれば良い」

 

 それでもカミュへと振り返るサラに、リーシャは優しく声をかける。

 実を言えば、ロープは一本しかないのだ。故にカミュの命綱はない。しかし、リーシャは『カミュであれば何とかなるだろう』とさえ思っていた。

 

「…………カミュ…………」

 

「……大丈夫だ……すぐに戻って来る」

 

 サラの不安顔を見て、何か思うところがあったのだろう。先程までリーシャの腰にしがみついていたメルエがカミュの下へと移動していた。

 不安そうに見上げるメルエに、軽い微笑みを浮かべたカミュは、そのまま細く不安定な通路へと足を踏み出す。

 メルエはそのカミュの背中をただ見つめる事しか出来なかった。

 

 何度か強い風が吹き、しゃがみ込んで安定を保ちながら、カミュは時間をかけて細い通路を歩いて行く。足を滑らせながら前へ進んでいるために時間がかかり、カミュの髪も濡れて行った。

 かなりの時間をかけ、向こう岸に辿り着いたカミュは、サラやリーシャの目には小さく映っている。それ程、距離があるのだ。

 だが、カミュが用意したロープの長さがかなりの物であった為、おそらくこの距離でもロープの長さが足りなくなる事はないだろう。

 

「サラ、大丈夫だ。私を信じろ」

 

「はい。お願いします」

 

 リーシャの目を見て頷いたサラは、そのまま通路へと足を踏み出した。

 先程歩いた物よりも、高度があるため、サラが感じる風の強さは想像以上で、正直立っている事すらも難しく、サラは半ば這うように前へと進んで行く。

 

 

 

 どれ程の時間を要しただろう。サラの衣服は、水が身体に染み入る程に濡れ、髪から落ちてくる水滴が視界を阻む程に顔を濡らしていた。

 それでも少しずつ足を前へと滑らせて行く。

 

「サラ! もう少しだ。頑張れ!」

 

 もはやかなり遠くなったリーシャの声に、言葉を返す余裕はサラにはなく、冷たい雨による体温低下から噛み合わなくなった歯を鳴らしながら、サラは懸命に前へと進んだ。

 

「……掴まれ……」

 

 そして、目の前にカミュの手が差し伸ばされ、その声が耳に響いた時、サラはここまでの緊張感を一気に手放し、安堵の溜息を吐く。

 カミュに支えられるように足を広い床につけたサラを確認し、リーシャは手に握ったロープを手放した。

 

「あ、ありがとうございます」

 

「……行くぞ……」

 

 息も絶え絶えに謝礼を述べるサラを一瞥し、カミュは奥へと進んで行く。

 『少しぐらい休憩を挟んでくれても』と考えるサラであったが、雨に濡れた身体を乾かす手段もなく、体温の低下を妨げる方法がない以上、早急に事を済ませるのが最善とも考え、カミュの後を追って歩いた。

 

 

 

 奥にある階段を上った先には、とても狭い空間。

 そこは、カミュやサラが想像していた場所ではなかった。

 本当に何もなく、ただ静けさが広がっているだけ。

 

「……」

 

「……無駄足か……」

 

 あれだけの覚悟と苦労をしてここまで辿り着いたにも拘わらず、そこに何もなかった事に驚いたサラは言葉を失うが、半ば何かを予想していたカミュは、小さく呟きを零した。

 

「……戻るぞ……」

 

 そう言って踵を返し、下へと続く階段を下り始めたカミュとは違い、サラは何もない空間を暫し見つめ続ける。サラは、その空間に何かを感じていたのだ。

 『無駄足』と吐き捨てたカミュとは違い、それが何と聞かれても答える事の出来ない物をサラは感じていた。

 

「……おい……」

 

「あっ! は、はい!」

 

 階段を下り始めていたカミュが振り返り、再度声を掛けた事によって、サラはようやく我に返った。

 もう一度その場所を眺めた後、振り返る事なくカミュの後を追った。

 

 

 

 それ程、時間が経っていないにも拘らずに戻って来た二人を遠目に見て、リーシャは少し驚いた。そして、何かを得たような雰囲気もなく、再びカミュが細い通路を渡り始めたのを確認し、その場所に何もなかった事を悟ったのだ。

 雨が弱まり始めた空は、既に陽が落ち始め、夜の闇が支配し始めている。周囲の気温は更に下がり始め、雨によって濡れているカミュとサラの体温は下がり続けていた。

 

「やはり、何もなかったのか?」

 

「……ああ……」

 

 細い通路を渡り終えたカミュから、サラの身体に巻きつけてあるロープを受け取ったリーシャの問いかけに、カミュは一つ頷いただけだった。

 

「サラは大丈夫か?」

 

「まだ探索を続けるそうだ」

 

 探していた物が見つからず、蓄積されている疲労が噴き出して来ている筈のサラを心配するリーシャに、カミュは薄い笑いを浮かべた。

 実は、ここを渡る際に、<リレミト>の使用を提案したカミュに、サラは『もう少し塔の内部を歩いてみたい』と異議を申し立てたのだ。

 そのサラの表情を思い出し、カミュは薄く笑う。リーシャもそんなサラの想いを知り、笑顔を浮かべた。

 

「サラ! いつでも良いぞ! 慎重に来い!」

 

 遠目に見えるサラに大きな声で呼びかけるリーシャの声が届いたのか、サラは大きく頷いた後、再び、這うように細い通路を渡り始めた。

 先程で要領を得たのか、心からリーシャを信じているのか、それともその両方の為か、サラの進む速度は行きよりもずっと速いものだった。

 しかし、今回もまた、サラが中央付近まで進んだ時に望まれぬ客が現れる。

 

「カ、カミュ!」

 

「くそっ!」

 

 それは、先刻に遭遇した<メタルスライム>のように、カミュ達のいる場所に登場したものではなく、今、通路を必死で渡っているサラの目の前に現れた。

 そこはサラが渡る細い通路しか足場はない。

 つまり、その魔物は空中を飛んでいるのだ。

 

 お伽話等に登場する生き物のようなその姿は、魔物というよりも神獣と言った方が良いのかもしれない。

 長い蛇のような身体を持ち、小さな前足には鋭い爪を持つ。強靭な頤を思わせる程の鋭い牙が、裂けたような大きな口にびっしりと生えていた。

 

<スカイドラゴン>

魔物の中でも、最高位に属する種族である『龍族』。その『龍族』の中では低格な存在であるが、その姿は神々しく、時代によってはその地を護る守護神として祀られた事もあるものである。魔王の登場により、その理性を大幅に奪われ、人を襲う事も多くなり、周辺の里では脅威となっていた。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 カミュの言葉に、小さく頷いたメルエが杖を振るう。

 詠唱と同時に巨大な火球が<スカイドラゴン>目掛けて飛び出した。

 

「グォォォォォォ」

 

 しかし、メルエが持つ最強の火炎呪文は、<スカイドラゴン>が吐き出す凄まじいまでの火炎に飲み込まれていった。

 余りの事に、リーシャだけでなく、カミュさえも目を見開く。それ程にこの龍は強大な存在に見えたのだ。

 自分へ攻撃を加えて来た事により、カミュ達を敵と認識した<スカイドラゴン>は再びその狂暴な口を開き、カミュ達目掛けて火炎を吐き出した。

 一瞬の内に目の前を真っ赤に染め上げる程の火炎に、カミュはメルエを抱いて飛退き、リーシャは盾を構える。しかし、その火炎はカミュ達には届かず、カミュ達とサラを遮るように炎の壁を作り出した。そして、その炎の壁によって、リーシャが持つサラへと繋がる命の綱は焼き切れてしまう。

 一瞬何が起きたのか解らないリーシャは茫然と自分の手から続くロープの先を眺めていたが、我に返った時、傍にいるカミュへと弱気な視線を向けた。

 

「ちっ!」

 

 リーシャの視線を受けたカミュは、炎の壁を前に舌打ちをするしかなかった。

 <スカイドラゴン>の吐き出した強大な炎は、カミュ達の前に巨大な壁を作り、前方への視界を完全に奪っている。今のカミュ達には、<スカイドラゴン>の姿どころか、サラの姿も全く見る事は出来ないのだ。

 

 

 

 サラは、自分の目の前に出現した魔物を見て、何か達観した想いを抱いていた。

 『この魔物が<悟りの書>を護っているのかもしれない』と。

 もはや、サラとカミュ達との間は大きな炎の壁で遮られ、自分の命を繋ぐロープは途切れていた。このような不安定な足場で、魔物と戦闘を行うほどの腕はサラにはない。

 

 『<精霊ルビス>という存在を裏切った自分に課せられた罰なのかもしれない』

 

 サラは、今の状況をそう考えていたのだ。

 再び<スカイドラゴン>の口が開くその方向はカミュ達ではなくサラ。足場である通路ごと焼き消す程の火炎を吐き出そうと開いた<スカイドラゴン>の口の中に、真っ赤に渦巻く炎を見た時、サラは不思議な手に首を持たれた。

 まるで導くように、誘うように、その手はサラの服の襟をつかみ、サラの身体を引いて行く。

 当然のように、支えのないサラの身体は、足場である通路から離れ、虚空へと投げ出された。

 風など一切吹いてはいない。

 サラが故意に飛び込んだ訳ではない。

 それでもサラの身体は空中に投げ出され、重力に従って下へと落ち始める。

 サラの身体が足場から完全に離れた時、<スカイドラゴン>が吐き出した火炎がその足場を焼くのと、カミュ達の前に立ち塞がっていた炎の壁が消滅するのは同時だった。

 

「サラ!」

 

「くそっ! アストロン!」

 

 炎の壁が消滅した先に見えたサラは、既に落下を始めていた。ロープが切れている以上、引き揚げる手段のないリーシャはその名を大きく叫び、カミュは咄嗟に以前サラの命を救った呪文を唱えた。

 サラの身体を眩い光が包み込み、鋼鉄色に変えて行く。身体が鉄に変わったサラの落下速度は増し、瞬時にカミュ達の視界から消えて行った。

 

「……カミュ……」

 

 

「アンタはメルエを連れて階段を降りた後、一度メルエの<リレミト>で塔の外へ出ろ! 俺はあの僧侶の方へ向かう。この塔の一階部分で待っていてくれ」

 

 いつもとは違う、何とも情けない声を出すリーシャに、カミュは続けざまに指示を出した。

 カミュの言葉に、リーシャは瞳にもう一度光を宿し、大きく頷きを返す。リーシャは既にカミュを『勇者』として信じ始めている。カミュが助け出すと言えば、必ずサラは無事に戻って来る筈。

 そう信じていた。

 

「わ、わかった。サラを頼む。メルエ、行くぞ!」

 

「…………」

 

 カミュに頷いたリーシャがメルエへと手を差し伸ばすが、メルエはどこか呆けたような表情をしたまま、カミュを見上げていた。

 メルエが何を言いたいのかが理解できないカミュであったが、そんな彼女に向かって優しく微笑んだ。

 

「メルエ、この脳筋戦士を頼んだぞ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュを見る瞳は生気を宿していないと思う程に力はないが、メルエは小さく頷く。未だにこちらを向いて空中を漂っている<スカイドラゴン>の方へと駆け出したカミュは、そのまま身を投げ出した。

 

「アストロン」

 

 虚空へ投げ出されたその身に呪文を唱え、性質を変えて行く。

 突如飛び出したカミュに向けて<スカイドラゴン>が吐き出した火炎がその身を包むのと、カミュの身体が完全に鉄へと変化したのはほぼ同時だった。

 

「メルエ、行こう」

 

「…………」

 

 メルエに声をかけ、リーシャはその手を握って階下へと下りる階段を駆ける。

 逃げ出す二人に気づき、その方向へと吐き出された<スカイドラゴン>の火炎は、階段の上部を炎に包む事しか出来なかった。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ガルナの塔の中編です。
この後、後編へと続きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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ガルナの塔③

 

 

 

 冷たい石質の床の上で横たわる鉄像の色がゆっくりと変化して行く。

 上層から落下して来た衝撃からか、その鉄像を中心に石で作られた床は窪み、その破片が周囲に飛び散っていた。

 

「……うぅぅ……」

 

 鋼鉄色をしていた鉄像が温もりを持った人肌の色へと変化し終えた頃、ようやくその鉄像であった者が動き始める。左腕の部分に火傷を負った人間が、自身の腕に向けて回復呪文を唱えた。

 

「……ここは……」

 

 『勇者』と呼ばれるその青年は、周囲を見渡し、意識を覚醒させる。

 上層から落下して来たそのフロアは、周囲に何もない狭いフロアだった。

 

「……あの僧侶は……ちっ!」

 

 カミュはそのフロアに自分が落下する原因となった人間を探す為に隅々まで視線を動かすが、サラの姿は何処にもない。そして、ある一点に視線が止まり、カミュは盛大な舌打ちをした。

 そこには、大きく裂けるように出来た溝があり、その溝はさらに下の階層へと繋がる穴となっている。一度、上部に視線を向け、再びその溝を見るカミュは、ゆっくりとその溝へと近づいて行った。

 溝から下を覗くと、それ程高さはない。おそらくこのフロアと下のフロアとの間に作られた中フロアなのかもしれない。

 

「……降りるしかないか……」

 

 諦めたように溜息を吐いたカミュは、溝に手を掛け、身体を滑り込ませた。サラが落下した場所がちょうど溝の部分となり、そのまま下の中フロアまで落ちて行ったとカミュは考えたのだ。

 その証拠に、溝の淵の部分が、何か重い物がぶつかったように砕けていた。

 

 

 

 中フロアへは、『アストロン』を唱える必要はなかった。多少、足に衝撃はあったが、カミュの足の骨に異常をきたす程ではない。そして、下のフロアに足をつけたカミュは、その場所にある何とも不思議な光景に驚愕した。

 そこは、『人』が生活するような扉がある空間があったのだ。

 周囲を壁で覆い、その入り口となる扉がある。まるで、そこに以前誰かが居住していたような、それでいて数十年も使われていなかったような、そんな場所であった。

 

「……ここは……」

 

 カミュは驚きながらも、注意深く周囲を見渡すが、その部屋のような空間以外そこには何もない。そして、その部屋への入り口となる扉は、カミュを誘うように開け放たれていた。

 慎重に歩を進め、その扉の中を覗いたカミュは、再び大きな溜息を吐く事となる。そこには、カミュがこの場所に来る原因となった女性僧侶が、呆然と立ち尽くしていたのだ。

 

「おい!」

 

「はっ! カ、カミュ様」

 

 溜息の音にも反応しないサラに、カミュは少し声を大きくして呼び掛けた。

 その声で、ようやく自分以外の存在に気がついたサラは、弾かれたように振り向き、そこに立っている人間の姿を見て、安堵の溜息を吐いた。

 

「……アンタも他人の部屋に無断で入る癖でもあるのか?」

 

「えっ!? あ、あれ? わ、わたしはここで何を……」

 

 カミュの頭の中に、常に自分の部屋に許可なく入って来る女性戦士が浮かんでいた。

 そんな溜息交じりのカミュの言葉に、サラは今やっと自分が何をしているのかを確認したような声を上げる。カミュから声を受け、改めて周囲を見渡すサラの姿にカミュは驚き、暫し考え込んだ。

 

「わ、わたしは……あの通路から落ちた筈……」

 

「……」

 

 自分が体験した出来事を振り返るように呟くサラを見ながら、カミュは<ダーマ神殿>にて教皇から告げられた言葉が思い浮かんだ。

 

 『選ばれし者であれば、それの方から呼び掛けるだろう』

 

 その言葉は、今のサラを表していた。

 おそらく、『アストロン』の効力が解けた後、サラは無意識にこの場所へと向かったのだろう。

 何かに導かれるように、そして誘われるように。

 それは、サラが特別な存在である事を明確に示していた。

 

「カ、カミュ様。ここは……?」

 

「……俺には解らない……」

 

 サラは、ここまでの旅で、何もかもを知り、何もかもを見通して来た『勇者』へと問いかけるが、答えは期待通りの物ではなかった。そして、まるでサラの疑問は、問いかけた相手であるカミュの瞳に映る自分だけが知り得るとでもいうような物であった。

 それがサラには理解できない。

 何故、カミュが知り得ない物を自分が知っていると言うのか。

 何故、カミュは周囲の光景ではなく、自分の瞳を見つめているのか。

 

「……カミュ様?」

 

「……ここは、アンタが見つけた場所だ……」

 

 何かに縋るように、再度カミュへと問いかけたサラの瞳を見つめた後、カミュは視線を外し、周囲をようやく観察し始めた。

 ようやく外された視線に安堵したサラは、カミュと同じ様に周辺を改めて観察し始める。

 そこは、『人』一人が何か作業をする為に設けられたような空間に見えた。

 簡素な本棚と、簡素な机。

 その机の傍に一つの椅子があり、机の傍には暖炉らしき物まである。

 だが、寝具のような物はなく、生活をするような場所ではない事が窺えた。

 

「……あれは……?」

 

 そんな簡素な空間で、サラはある一点に視線を止めた。

 それは机の上に無造作に置かれた一冊の書物。

 そして、その脇に小さな木箱が添えられていた。

 

「……」

 

 気付いたサラがカミュへと振り返るが、カミュはその場を一歩も動こうとはせず、そして言葉も発しようとはしない。そんなカミュの姿をサラは不審に思うが、カミュが何も言わずに一つ頷いた事で、サラはその机へと進んで行った。

 その書物は日記帳のような大きさであるが、その厚さはサラが持っている『経典』にも勝る程の物だった。

 恐る恐る手を伸ばしたサラは、その書物に手を触れようと伸ばす。しかし、触れるか触れないかの所で、再び手を戻してしまった。

 

「……カミュ様……」

 

 何かに怯えるように、もう一度振り返ったサラに対しても、カミュの態度は変わらない。何も語らず、動こうともしない。まるで『アンタの仕事だ』とでも言いたいのか、鋭い視線だけを向けていた。

 ただ、サラにもその瞳が宿す物が理解出来たのだ。それは、とても暖かな感情。おそらく、サラが起こした行動によって何か危険があれば即座に行動に移すだろう。そういった『見守っている』というような瞳であったのだ。

 

「!!」

 

 カミュの瞳を見て、再び意を決したように書物に手を掛けたサラは、書物に触れた途端に自分の腕ごと書物に吸い込まれてしまうような感覚に陥る。しかし、現実にはそのような事はなかった。

 書物はサラの手の中に納まっており、振り返れば先程と同じ様にカミュがこちらを見ている。自分の状況を確認した後、サラは恐る恐るその書物を開こうとして、その手を止めた。

 開き掛けた書物を閉じ、一度大きく深呼吸をしたサラは、静かに最初のページを開く。

 

「こ、これは……」

 

 そこにあったのは、人の手によって記された文字。

 そして、その文字の下には、精密に描かれた魔法陣。

 それは、サラの知りえない魔法の契約方法だった。

 サラが持つ『経典』にも記載されておらず、メルエの持つ『魔道書』にも記載されていない呪文。それは、カミュが使う『勇者』専用の魔法ではないとすれば、正しく古の賢者が残した呪文しかあり得ない物。

 最初のページの契約方法を見たサラは、次のページへと指を進める。

 

「えっ!?」

 

 しかし、そこには何も記載されてはいなかった。

 魔法陣どころか、インクの染みすらない真っ白なページ。

 再び最初のページに戻れば、そこには先程見た物がしっかりと記載されている。

 しかし、次のページはやはり空白であった。

 サラが手に持つ書物は、二ページ三ページの量ではない。かなりの厚みがある書物なのだ。

 それが最初の一ページしか記載されてはいない。その奇妙な光景に、サラは何度もページを捲ってみるが、最初のページ以外に何かが記載されている場所はなかった。

 

「……それが『悟りの書』か?」

 

「はっ!? い、いえ……最初のページしか記載されてはいないのです」

 

 突如後ろに現れたカミュであったが、サラへの問い掛けと相反し、サラが持つ書物へは視線を向けようともしなかった。それでも、サラは自分が見た光景をカミュへと伝えようと言葉を紡ぐ。

 そんなサラの言葉にもカミュは関心を示さず、『そうか』と一言漏らしただけであった。

 

「……そこの箱は?」

 

「えっ!? 開けても良いのでしょうか?」

 

 書物の横に添えられるように置かれていた木箱に視線を向けたカミュを見て、サラは書物を閉じ、もう一度机へと向かう。自分の問い掛けに返答がない事を肯定と受け取ったサラは木箱を引き寄せ、ゆっくりと蓋を開いて行った。

 

「……髪飾り……?」

 

 サラが開いた木箱には、以前アッサラームでメルエがアンジェから譲り受けた物と似た形の髪飾りが入っていた。

 錆などは微塵もなく、眩いばかりの輝きを示すそれは、『銀』で出来ているのだろう。その高価そうな装飾品をしばらく眺めていたサラであったが、我に返り、『銀の髪飾り』を木箱に戻そうとする手をカミュに止められた。

 

「……それも貰っておけ……」

 

「えっ? し、しかし……」

 

 カミュなりにこの空間に何かを感じたのかもしれない。戸惑いを見せるサラに対し、一度首を横に振った後、踵を返して部屋である空間を出て行こうと歩き出した。

 

「あっ……」

 

「……その書物は、アンタの物だ。遠慮なく貰っておけ……」

 

 背中に向かって声をかけたサラの声に、カミュは何かを思い出したように振り返り、サラが手に持つ一冊の書物を見て、小さく呟いた。

 その小さな呟きは、声量と反して、逆らう事の出来ない程の圧力が籠められている。盗賊の真似事をする事にサラは抵抗感を感じるが、自分の手の中にある書物から不思議な感覚を受けている事は事実。

 そしてそれは、もう片方の手に持つ『銀の髪飾り』に関しても同様だった。

 

「あっ! カ、カミュ様!」

 

 まるで『持って行ってくれ』とでも言うような雰囲気を放つ物に考えを巡らしている内に、カミュはその部屋のような空間から既に出ていた。

 もう一度手の中にある物に視線を落としたサラは、少し考えた後に、髪飾りをポケットに押し込み、書物を小脇に抱えてカミュの後を追って外へと飛び出す。

 

 

 

「グォォォォォォォォ!」

 

 サラが外に出た瞬間に、周囲に響き渡る雄叫び。

 既に、カミュは背中から剣を抜き放ち、構えを取っていた。

 瞬時に、気持ちを立て直したサラも槍をその手に構えた。

 

 カミュ達の前に姿を現したのは<スカイドラゴン>。

 魔物と言うよりも神獣に近い存在。

 おそらく、先程カミュ達に襲い掛かり、サラやカミュがこの場所へと辿り着く原因となった魔物に間違いがない。階段を下りたリーシャ達を追うことはせずに、下へと落ちて行ったカミュ達を追って、ここまで来たのだろう。

 いや、もしかすると、サラがあの時感じたように、この神獣こそが本当に『悟りの書』の護り手なのかもしれない。

 

「グォォォォォ!」

 

「くっ!」

 

 その凶暴な口を大きく開き、<スカイドラゴン>は燃え盛る火炎を放つ。咄嗟に<スカイドラゴン>とサラの間に身体を滑り込ませたカミュが、左手に持つ<鉄の盾>を構え、その火炎を受け止めた。

 

「カミュ様!」

 

 しかし、<スカイドラゴン>が放った燃え盛る火炎は、カミュの持つ<鉄の盾>を溶かしてしまうのではないかと思う程の威力を誇り、盾では防ぎきれないカミュの身体を焼いて行く。

 カミュの纏う<鋼鉄の鎧>も高熱により、赤く変色していた。

 

「……ホイミ……」

 

 <スカイドラゴン>からの火炎が収まった事を確認したカミュが、掲げていた盾を下ろし、自身の身体に回復呪文を唱えた。

 高熱によって焼け爛れた皮膚が再生し、盾を持っていた手の皮も蘇って行く。しかし、盾を下げたカミュには、決定的な隙が生じていた。

 火炎を吐き終えた<スカイドラゴン>は、空中でその長い身体を旋回させ、身体に比べて小さな前足にある鋭い爪をカミュ目掛けて振り下ろしたのだ。

 

「ぐっ!」

 

 金属同士がぶつかり合うような乾いた音と、肉を切り裂く音が、狭い空間に響き渡る。一拍置いて、液体が噴き出す音がサラの耳を襲った。

 <鋼鉄の鎧>で護られていた胴体部は無事ではあったが、肩口から袈裟斬りに振り下ろされた<スカイドラゴン>の爪は、カミュの首筋から太腿までを切り裂いていたのだ。

 <鋼鉄の鎧>には鋭い爪痕が残り、カミュの首筋や太腿は大きく裂け、真っ赤な血液を噴き出させる。

 

「……ホ、ホイミ……」

 

「カ、カミュ様! ホイミでは間に合いません!」

 

 尚も自身の身体に最弱の回復魔法を唱えるカミュに、サラが詠唱準備に入ったままで駆け寄って行く。サラの言う通り、カミュの唱えるホイミでは、流れ出る血を止める事は出来ても、一気に傷口まで塞ぎ切る効果はなかった。

 

「ベホイミ!」

 

「くそっ! 下がれ!」

 

 駆け寄ったサラの詠唱と、カミュがサラを突き飛ばしたのは同時だった。

 後方に突き飛ばされたサラの腕を通って開放された魔力が対象を失い、淡い緑色を放ったまま霧散して行く。

 

「グォォォォォォ!」

 

「くっ!」

 

 再び振り下ろされた<スカイドラゴン>の鋭い爪を<鉄の盾>で受け止めたカミュは、踏ん張りの利かない足で耐え、瞬時に右手に持つ<鋼鉄の剣>を突き出す。

 しかし、カミュの突き出した剣が<スカイドラゴン>の背中に突き刺さったと思った時、その背中を覆う硬い鱗にカミュの剣は弾かれた。

 態勢を崩したカミュの足は、既にその突発的な動きに耐える事は出来ず、尻餅を着くように後ろへ倒れ込んだ。倒れ込んだカミュへ、再び<スカイドラゴン>の鋭い爪が振り上げられる。

 

「マヌーサ!」

 

「グォォォォォ!」

 

 <スカイドラゴン>がその前足を振り下ろそうとする瞬間、カミュの後方から呪文の詠唱が飛ぶ。同時に、<スカイドラゴン>の身体全体を光が包み込み、その光が消えた時、<スカイドラゴン>は、先程までとは全く違う方向に向かって腕を振り下ろしていた。

 

「カミュ様! 大丈夫ですか!? 今すぐ<ベホイミ>を!」

 

「……」

 

 在らぬ方向に攻撃を繰り出している<スカイドラゴン>から身を離すように、カミュの身体を引き摺ったサラは、<ベホイミ>の詠唱を開始した。

 サラの両腕を包み込む淡い緑色の光がカミュの身体全体を優しく癒して行く。傷口は塞がり、熱された鎧によって負った火傷は皮膚等を再生して行った。

 

「……あの龍の鱗が硬すぎる……」

 

「はい。<ルカニ>を唱えます」

 

 回復を受けているカミュが呟く一言で、サラは全てを察した。

 足の傷も癒え、立ち上がったカミュは、未だに狂ったような攻撃を壁に向かって行っている<スカイドラゴン>へと視線を向けて<鋼鉄の剣>構える。

 

「……機会はアンタに任せる……」

 

「は、はい!」

 

 振り向かずにカミュが呟いた言葉に、サラの心は震えた。

 カミュと二人だけで戦闘をする事は、アリアハンを出てから初めてだろう。そして、そんな状況の中、自分を信じて行動するカミュの言葉に、サラの胸に緊張感と歓喜が湧き上がったのだ。

 サラの返事を待たずにカミュは<スカイドラゴン>に向かって駆け出していた。

 実際は、もはやカミュに魔法を行使する余裕がないのだ。

 この塔に入り、かなりの数の魔物と戦闘を行っている。そして、サラと自分に唱えた<アストロン>、自身の傷へと唱えた数回の<ホイミ>、既にカミュの魔法力は底を突きかけていた。

 

「やぁ!」

 

 カミュが<スカイドラゴン>が振るう腕を掻い潜り、その<鋼鉄の剣>を振るうが、またしても硬く覆われた鱗に弾かれる。

 サラの援護はまだない。

 まだ機会を窺っているのか、それとも今はカミュにとっても危険が伴うのか。

 

 カミュも機会を窺っていた。

 もはや魔法の詠唱は不可能。

 この魔物を倒した後、カミュ達がここを脱出するには、<リレミト>という魔法を使用する他ない。あの高所から落ちて来たため、登る事など不可能である以上、魔法による強制脱出以外はないのだ。

 

「グォォォォォォォ!」

 

 位置を固定させず、動きながら対峙するカミュに向かって、<スカイドラゴン>の口が再び大きく開かれた。そして、開かれた<スカイドラゴン>の口の中に渦巻く火炎を見た時に、カミュも動き出す。

 

「やぁぁぁ!」

 

 雄叫びと共に、カミュは火炎が吐き出される寸前に<スカイドラゴン>との距離を一気に詰めた。

 火炎を吐き出そうと口を開いたままの<スカイドラゴン>は一瞬目を見開く。彼の魔物が今まで対峙してきた者の中で、自分が火炎を吐き出す際に身構える者は数多く見て来たが、その火炎に向かって飛び出して来た者を見たのは初めての事だったのだ。

 

「グシュゥゥゥゥゥ!」

 

 突如飛び込んで来たカミュの動きに虚を突かれた形となった<スカイドラゴン>は、火炎を吐き出す機を失ってしまう。躊躇いを見せた<スカイドラゴン>の顎の下付近に移動したカミュは、そのまま右手に持つ<鋼鉄の剣>を上部に突き上げた。

 カミュの剣先は鱗の護りのない顎裏を一気に突き刺す。顎裏から突き刺さった剣が上顎まで突き通し、<スカイドラゴン>の口を強制的に閉じさせた。

 

「ルカニ!」

 

 その時、待っていた援護の声が木霊する。

 カミュが勢い良く剣を抜くと、体液と共に<スカイドラゴン>の頭部が落ちて来た。

 カミュは、サラの魔法によって発光している<スカイドラゴン>の頭部に向けて、一気にその剣を振り下ろす。

 

「やぁぁぁぁ!」

 

「ギヤォォォォォォ!」

 

 サラの<ルカニ>によって脆くなっている鱗を突き抜け、カミュの剣が<スカイドラゴン>の首を深々と抉って行く。

 自身の体内に入り込んで来る異物に、断末魔に似た叫び声を上げた<スカイドラゴン>の身体が床へと落ちた。床へと落ち、身体を捩っている<スカイドラゴン>を苦しみから救うように、カミュはその眉間に剣を突き刺す。

 もがくように動いていた<スカイドラゴン>の命はそこで潰えた。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 もはや肉塊と化した魔物を見下ろしているカミュは、珍しく息が上がっている。それ程の強敵であったのだ。

 正直に言えば、リーシャやメルエなしに勝利出来た事がカミュ自身も信じられないと考えるほどの相手だった。

 

「カミュ様! 大丈夫ですか? 援護が遅くなってしまい、申し訳ありません」

 

「……いや、充分だ……」

 

 駆け寄ったサラは、カミュの身体に回復呪文を唱えて行く。先程の<スカイドラゴン>から受けた火傷は完璧に治療はされてはいなかったのだ。

 自身の身体を癒して行くサラを一瞥し、カミュは軽く首を横へと振る。

 

「……一度外へ出る……」

 

「えっ!? あ、は、はい」

 

 治療が終わった事を確認したカミュは、他に魔物の気配がないかを確認するように周囲を見渡した後、サラへと方針を告げた。

 その言葉を聞いたサラは、発見した書物を抱えて、カミュの服の裾を握る。

 

「リレミト」

 

 サラが自分の服を掴んだ事を確認し、カミュは詠唱を完成させる。

 瞬時に光の粒となった二人の身体は、そのまま塔の外へと向かって飛んで行った。

 

 

 

 メルエの<リレミト>によって、先立って塔を脱出していたリーシャとメルエは、もう一度塔へと入り直し、一階部分の火が焚かれている場所で、その身体を温めていた。

 

「メルエ? もう少しでカミュ達が戻って来る筈だから、眠っては駄目だぞ」

 

「…………」

 

 目の前で揺らめく炎を見ながら、身体をリーシャに預けていたメルエが舟を漕ぎ始めている。雨に濡れた身体が乾いて行き、温もりに変わって行っているのだ。幼いメルエに眠るなと言う方が無理なのかもしれない。

 そんなメルエに苦笑を浮かべながらも、やはりリーシャの頭にはサラ達の事が気がかりになっていた。

 故に、メルエの様子が可笑しい事に気付けなかったのかもしれない。

 

「あっ!? リーシャさん!」

 

 メルエの身体を抱きながらも、入り口に視線を向けていたリーシャの視界に、見慣れた法衣が入って来たのはそんな時だった。

 リーシャの姿を見止め、こちらに手を振りながら歩いて来るサラの表情は、どこか晴れやかに見える。その後ろから歩いて来るカミュは疲労を隠し切れてはいないが、それでも歩く事が困難な程ではない。

 そんな二人の無事な姿を見て、リーシャの顔にも安堵の笑顔が浮かんだ。

 

「サラ! 無事でよかった」

 

「は、はい。カミュ様が居てくれましたから」

 

 自分の下へと辿り着いたサラの顔を見て、リーシャは柔らかく微笑んだ。

 そんなリーシャに向けて、晴れやかな笑顔を向けたサラの言葉に、リーシャは笑顔のままで、後ろから歩いてくるカミュへと視線を移す。

 

「よくサラを護ってくれた。ありがとう」

 

「……アンタに礼を言われる事ではない……」

 

 愛想なく呟くカミュに、リーシャは苦笑を浮かべる。カミュはこう言うが、アリアハンを出た頃のカミュを知っている者であれば、彼の行動に驚く事は間違いないだろう。

 実際、サラにしてもカミュが自分を救いに来てくれた事は本当に予想外の事だったのだ。

 

「それでもだ。サラが無事なのは、お前のお陰だ。ありがとう」

 

「……そのお陰で、俺の魔法力は空だがな」

 

 尚も謝礼を述べるリーシャに、カミュは大きな溜息を吐き、照れ隠しのように皮肉を述べる。そんなカミュにリーシャも苦笑を強くし、サラも笑顔を浮かべた。

 ただ一人、メルエだけはそんな二人のやり取りをぼんやりと見上げているのだった。

 

「さぁ、ダーマ神殿に戻ろう。メルエも眠そうだしな」

 

 傍で佇むメルエに苦笑しながらリーシャが、一行を促す。

 その言葉にサラもまたカミュへと近づいて行った。

 

「……俺の魔法力は空だと言った筈だが……」

 

「な、なに!? 冗談ではないのか!?」

 

 当然のようにカミュへと寄って行っていたリーシャが驚きの声を上げ、カミュが再び大きな溜息を吐く。

 リーシャは、カミュの『魔法力が空』という言葉を、照れ隠しの皮肉と考えていたのだ。しかし、この状況でもう一度口にするという事は、もはや<ルーラ>を使用する魔法力も残ってはいないという事なのだろう。

 

「で、では……再び歩いてあの山を……?」

 

 ダーマ神殿に続く山道を思い出し、サラの声は沈んで行く。それはリーシャも同じで、雨により気温の下がった夜道を歩く事は奨励したい事ではないのだ。

 

「……メルエ、<ルーラ>は使えるな?」

 

「…………」

 

 そんなリーシャとサラを無視するように、カミュはメルエへと声をかけ、その言葉に応じるようにメルエは小さく首を縦に振った。

 カミュはメルエの返事を当然の事として受け入れ、それに応えるように頷くが、リーシャとサラは驚きの表情を浮かべた。

 

「ちょ、ちょっと待て。メルエに<ルーラ>を使わせるつもりか!?」

 

「……アンタは既にメルエの<リレミト>を経験している筈だが……」

 

 リーシャの疑問に、今度はカミュが驚きの表情を見せる。

 カミュからしてみれば、<リレミト>よりも<ルーラ>の方が原理は簡単なのだ。故に、<リレミト>を行使する事の出来るメルエであれば、<ルーラ>を使用し、仲間を運ぶ事など容易い事だとも考えていた。

 

「わ、わかった。メルエは私が抱こう」

 

 カミュの表情に、自分が要らぬ心配をしていた事を悟らされ、未だに自分の足元で『ぼうっ』と見上げているメルエをリーシャは抱き上げた。

 そのリーシャの腰をサラが掴み、リーシャに抱かれたメルエの服をカミュが掴む。

 

「メルエ、頼む」

 

「…………ルーラ…………」

 

 全員が纏まった事を確認したカミュが、メルエに視線を向けて合図を出す。『ぼうっ』とカミュを見つめていたメルエは、一つ小さく頷くと、いつもよりも更に小さな声で囁くような詠唱を行った。

 詠唱と同時に、メルエの魔法力が一行を包み込み、上空へと浮き上がらせる。一度上空で静止した後、一行を包んだ光は夜空に光る流れ星のように東の空へと飛んで行った。

 

 

 

 

 

 一行を包み込んだ光は、東の空を飛び、大きな山脈を越えた辺りで急速に失速した。急に安定感を失くした光は、そのまま山を越えた先にあった平原へと落ちて行く。

 

「ぐっ!」

 

「きゃぁぁぁぁ!」

 

 凄まじい音を上げて、一行が平原へと墜落した。

 あれだけの高さから、墜落と言っても過言ではない落ち方をした一行ではあったが、地面と衝突するその瞬間までメルエの魔法力で覆われていた為、衝撃こそあったものの、傷一つなかった。

 

「あいつつ……カ、カミュ……やはり、メルエには無理だったんじゃないか?」

 

 メルエを護るように抱き抱えていたリーシャが、強かに打った臀部を摩りながらカミュへと声をかけ、その声に反応するように起き上ったカミュも軽く頭を振って意識の覚醒を図っていた。

 

「いたた……大丈夫ですか?」

 

 カミュやリーシャとは少し離れた場所に投げ出されたサラが、背中や腕を押さえながら歩み寄って来る。その視線は、カミュやリーシャにではなく、メルエへと向けられていた。

 サラにしても、カミュと同様にメルエの魔法の才に関して疑問を持った事などない。むしろその才能に恐れすらも抱く程の物であった。

 故に、メルエが唱えた<ルーラ>が、その本来の機能を発揮しなかった事が不思議だったのだ。

 

「リ、リーシャさん?……メ、メルエ!メルエ!?」

 

 そんなサラが見た物は、リーシャの腕の中でぐったりと首を落としている少女の姿だった。

 今まで見た事のないメルエの姿に、サラはリーシャへと駆け寄り、メルエに声をかけるが、それに対しても何の反応もない。

 

「メ、メルエ!? お、おい、サラ!?」

 

「!! す、すごい熱……」

 

 サラが駆け寄って来た事によって、初めてメルエの姿を認識したリーシャは、抱えている腕を軽く揺すっても反応を示さないメルエに困惑し、メルエの身体を触っているサラに視線を向けた。

 リーシャの視線にも気付かない様子で、サラはメルエの顔や身体を触診して行き、その小さな少女が抱えている熱の高さに驚きの声を上げる。

 

「何!? メ、メルエは熱があるのか!?」

 

「!! 何故、気付かなかった!?」

 

 自分の腕の中でぐったりと意識を失くしている少女に再度視線を向けたリーシャに、サラの後方から怒気を含んだ叱責が飛んで来た。

 周辺を見渡していたカミュが、メルエの様子が異常である事に気付き、駆け寄って来たのだ。

 

「今まで、メルエと共にいて、何故メルエの具合に気がつかなかった!?」

 

「な、なに!? そ、それは私の台詞だ! 塔の中では、常にお前のマントの中にメルエはいた筈だ! お前こそ、何故メルエの変調に気がつかないんだ!?」

 

 サラが今まで見た事もない程の怒気を含んだ叫び声をあげるカミュにリーシャも一瞬たじろぐが、それこそ自分感じている憤りである事を思い出し、カミュへと怒りの反論を繰り出す。

 

「今はそんな言い争いをしている場合ではありません! カミュ様、誰も<ルーラ>が使用出来ない以上、徒歩で<ダーマ神殿>へ戻る他ありません! ここが何処なのか、まず確認してください!」

 

「……ああ……」

 

 しかし、カミュやリーシャの怒りの叫びよりも、そんな二人に対するサラの怒りの方が上であった。

 彼女自身もメルエの体調を気遣う余裕が自分になかった事を悔いている。しかし今は、責任の追及や後悔をしている場合ではないのだ。

 それにも拘らず、その事を誰よりも理解している筈の二人がくだらない言い争いをしている事にサラは憤りを感じていた。

 

「最悪、<ダーマ神殿>に戻れないとしたら、この近くにある町や村を探してください! それと、カミュ様のマントを!」

 

 矢継ぎ早にカミュへと言葉を投げつけるサラは、カミュからマントを奪うように受け取ると、リーシャの抱いているメルエをそのマントで包み、自分の水筒の水で濡らした布をメルエの頭に巻き付けた。

 

「サ、サラ……メルエは……」

 

「今は何とも言えません。この場所が分かり次第、メルエを休ませる事の出来る場所へ向かいます。その時はリーシャさんにメルエを抱えて走って頂きます」

 

 迅速に処置をして行くサラに、眉尻を下げたリーシャが容態を問うが、それに対してもサラは表情を緩める事なく指示を出して行く。自分が成すべき事を告げられたリーシャは、再び眉を上げて力強く頷いた。

 

「カミュ様! まだですか!?」

 

 いつもなら、早急に道を指し示す筈のカミュの声が聞こえて来ない事に、サラは厳しい表情のままカミュに振り返り、愕然とする。

 そこでサラの瞳に映ったカミュの顔に浮かんでいた物。

 それは『焦り』『怯え』『恐怖』。

 そして、『後悔』。その全てが入り混じった物だった。

 

 メルエの現状を見ての『焦り』。

 そして、メルエの容態が悪くなって行く事の『怯え』に、その結果起こり得る『メルエを失う』という可能性に対する『恐怖』。

 更には、『何故、自分は気がつかなかったのだ』という物と、『何故、自分は<ルーラ>を行使するぐらいの魔法力を残さなかったのか』という『後悔』。

 そこには、もしかすると『何故、自分はサラの意思を尊重し、この塔を探索し続けたのか』という『後悔』もあるのかもしれない。

 

「カミュ様!」

 

「わかっている!」

 

 しかし、その何れにしても、カミュの表情を見た瞬間にサラは気付いてしまった。

 『事、メルエに関してだけは、この二人は駄目なのだ』と。

 それは、サラの急かすような言葉に苛立ちながら答えるカミュを見て、確信へと変わった。

 

 いつも、サラが迷う時に力強い言葉を掛けて、暗い道から引き上げてくれる女性戦士は、メルエを抱き抱えながら眉を下げておろおろとするばかり。

 常に一行の歩む道を冷静に見守り、その行為に対する代償等も考えて行動する『勇者』と呼ばれる青年に、いつものような冷静さは欠片も残ってはいない。

 

「たいまつを!」

 

「は、はい!」

 

 苛立ちながらカミュは灯りを要求し、雨に濡れないように革袋に入れてあった<たいまつ>をサラが取り出した。

 火を灯したそれをカミュへと手渡すと、カミュは何度も周囲と地図を照らし、自分達がいる場所を探り出そうとする。

 

「……」

 

 何度目かの視線の往復の後、カミュの視界の端に、木造の橋が入って来た。その橋を見たカミュは、もう一度地図を見て一つ頷く。

 

「あの橋を渡り、北へ進めば、その先に村がある筈だ!」

 

「村ですね!」

 

 地図を持ったままで、リーシャとサラの方へ視線を動かしたカミュの言葉を聞いたサラは、一度顔を伏せた後、何かを決意したように顔を上げた。

 その瞳は先程から見せていた厳しい光を宿し、カミュとリーシャを射抜く。サラの只ならぬ雰囲気にカミュとリーシャは声を出す事が出来なかった。

 

「リーシャさん。聞きましたね? あの先にある橋を渡って北へ進めば、村があります」

 

「……あ、ああ……」

 

 サラの雰囲気に呑まれたまま、リーシャは首を縦へと振る。

 そのリーシャの動きを確認したサラは、厳しい瞳のままに続きを口にした。

 

「カミュ様とリーシャさんは、メルエを抱えたまま、村まで脇目を振らずに駆けて下さい! 息が切れても、魔物が出て来ようと、村までは一気に駆けて下さい!」

 

「……」

 

 サラの言葉の強さは、カミュでさえ口を挟む事は許されない物。

 それ程に、サラの纏う空気は鬼気迫る物であったのだ。

 それは、カミュと同じ感情がサラの中にもあったのかもしれない。

 『焦り』と『恐怖』。

 そして『後悔』が……

 

「村に着きましたら、村の住民の迷惑など考えず、寝ている者は起こし、メルエの休む場所の確保。そして、薬師の手配をして下さい」

 

 どれ程高名な『僧侶』であろうと、病を治療する事は出来ない。

 サラが得意とする回復呪文である<ホイミ>や<ベホイミ>は、確かに瀕死に陥った者をも救う事は出来る。ただ、それは外傷に関してだけなのだ。

 例え、それが死に至る程の深い傷であろうと、回復呪文によって修復する事は可能である。しかし、身体の内から発症する病に関しては、この万能に見える回復呪文は効果がない。

 

 毒等の外部から進入したものの治療は、『経典』に記載されている魔法でも出来る。しかし、実際に現状では、何故『人』が病に伏すのかすら解明はされていないのだ。

 故に、大抵の町や村では、『僧侶』達が所属する教会とは別に、薬師達が一人は住んでいる。

 ただ、薬師も万能ではない。どんな病も治す者というのは、この世界に存在はしないのだ。

 

 それは、『人』だけではなく、『人』とは比べ物にならぬ程の寿命を有する『エルフ』であろうと変わりはない。長寿と言って良い『エルフ』達の中でも、病に勝てずに命を落とす者達がいる。

 それ程に『病』という物は、恐怖の対象となっているのだ。

 

「良いですね。何があっても、村まで駆け抜けてください!」

 

「……サ、サラ……」

 

 サラの言葉が何を示しているのか。

 それが理解できないカミュやリーシャではない。

 

「大丈夫です。私にはまだ魔法力がかなり残っています。この辺りの魔物から逃げ、村まで辿り着くぐらいの能力が、私にはあると信じています」

 

「……」

 

 カミュは、唯じっとサラを見つめている。

 その瞳に宿る強い光を感じ取るように。

 その心に宿る強い信念を信じるように。

 

「……わかった……」

 

 そして、リーシャも強く頷いた。

 サラの提案に諸手を挙げて賛成等出来ない。

 しかし、サラ程の『僧侶』がこれだけの決意を示したのだ。

 それは、それ程にメルエの状況が逼迫しているということ。

 故に、リーシャは頷いた。

 

「はい! 私も懸命に付いていきます」

 

「ああ! しっかり付いて来い!」

 

 ようやく笑顔を見せたサラの表情を見て、リーシャも軽い笑顔を見せた後、カミュのマントに包まれたメルエを大事そうに抱えたまま立ち上がった。

 それに続き、カミュも前方に小さく見える橋の方角へと視線を移す。

 

「さぁ、行きましょう!」

 

「……いくぞ……」

 

 最後尾にいるサラの掛け声を聞いてから発したカミュの呟きが消える前に、三人の足が地を蹴る。

 高々と放り上げられた<たいまつ>の炎が周囲を照らし出し、地面へと落ちた時、周囲には夜の闇が支配する静けさが広がっていた。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにてガルナの塔編は終了です。
次話はあの村です。
FC版ではさして重要ではなかったですが、SFC版ではかなりの重要度を誇るあの村。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ムオルの村①

 

 

 

「もう大丈夫じゃろう。後は目を覚ますのを待つだけじゃ」

 

「ありがとうございました」

 

 宿屋の一室では一つのベッドを四人の大人が囲むように佇んでいる。ベッドには幼い少女が今は安らかな表情で眠っていた。

 その顔の一番近くに立つ青年は、重苦しい表情のまま眠っている少女を見下ろしている。

 

「カミュ、お前も少し休め」

 

「……いや、いい……」

 

 薬師を送り出したリーシャが、メルエの傍から離れようとしないカミュに声をかけるが、それに対しても、首を横に振るだけで立ち上がる素振りも見せないカミュに大きな溜息を洩らした。

 彼はこの村に到着してから眠ってはいないのだ。

 既に、一行がこの村に到着してから丸一日が過ぎようとしている。メルエを担ぎ込むようにして宿屋に入った一行の宿泊の手続きや薬師の手配等をしたのはサラだった。

 サラが手続きをしている最中も、そして薬師を待つ間も、カミュはただじっとメルエの枕元に座り、今と同じようにメルエを見詰める事しか出来なかった。

 

 

 

 

 

「カミュ! 方角はこっちで良いのか!?」

 

 全速力で地図上にあった村へと目指す一行は、既に橋を渡りきり、前方に見える森へと突入しようとしていた。

 カミュのすぐ後ろを走っているリーシャが道を問う声が森の中に響くが、それは無言の肯定と言う形で返って来る。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 後ろを振り向く事なく、地図を片手に前方に向かって走るカミュの速度は、駆け出した当初から落ちる事はなく、むしろ上がっているかに見えた。

 そして、当然のように歴戦の二人の速度に付いて行けなくなったサラの呼吸は乱れ始める。

 

「サラ! もうすぐだ!」

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 徐々に自分達との距離が開き始めたサラに、リーシャは振り返りざまに声を投げるが、もはやサラには言葉を返す余裕はなかった。

 顔を上げ、前を走るカミュ達を視界に捉える事もままならず、それでも足だけは必死にその回転を止めようとしないのは、サラの意地なのか、それとも無意識な物なのか。

 

「……はぁ……はぁ……あっ!?」

 

「ちっ!」

 

 しかし、元の体力や身体能力の違いは、意地や努力で補える物ではない。カミュ達の速度に付いて行こうと無理に動かしていた足は、元々の身体能力の限界を超え、サラの頭の中で思い描いている動きとは掛け離れたものになって行った。

 その結果、自らの足がもう片方の足に引っかかるというお粗末な現象を生み出し、サラはそのままの勢いで前方へと倒れ込む。盛大な音を上げて倒れたサラを振り返ったカミュは大きな舌打ちを上げた後、その後ろを走っていたリーシャですら驚く行為に出る。

 

「森を出ても、今走っている方角へ行け!」

 

「カ、カミュ!」

 

 カミュが後方へと戻り始めたのだ。

 リーシャへ走る方角を指示した後、カミュは後ろへと振り返り、そのままリーシャの脇をすり抜けて行った。

 カミュが先程のサラの決意を聞いていない訳がない。それでもカミュは、躓き倒れたサラの下へと駆けたのだ。

 リーシャは一瞬、呆然とカミュの背中を見たが、瞬時に気持ちを切り替え、薄い笑みを浮かべた後、再び全速力でカミュの指し示した方角へと駆け出した。

 

「カ、カミュ様! な、なにをしているのです!? メ、メルエを……私ならば大丈夫です!」

 

「……少し黙っていろ……」

 

 自分の下へと駆けて来たカミュを見て、サラは瞳を厳しい物へと変える。サラの頭には、『自分は信用されていないのか?』という疑問が浮かんだのだ。

 先程、カミュとリーシャにあれ程強い言葉を投げた筈。サラは、その事を本当に覚悟していた。それにも拘らず、ここにカミュが来たと言う事は、そのサラの覚悟を無視する行為。

 サラはそれが悔しかった。

 

「えっ!? カ、カミュ様!」

 

 しかし、そんなサラの憤りを無視するかのように、カミュは倒れていたサラの腰周りに腕を入れ、一気に抱え込む。まるで木材でも担ぐようにサラの身体を肩へと担ぐと、カミュはもはや背中も見えなくなったリーシャの向かった方角へと向き直った。

 

「……不満ならば、後で聞く……」

 

「えっ!? きゃぁぁぁぁぁぁ!」

 

 サラを担いだカミュは一言呟くと、そのまま一歩足を踏み出し、再び全速力で駆け出す。不意を突かれたサラの木霊を残し、カミュは先程以上のスピードでリーシャの後姿を追って走った。

 

 カミュはサラの決意を侮辱した訳ではなかった。

 むしろ、サラの決意があったからこそ、その行動に出たのだ。

 『メルエを救いたい』

 その想いは、この『僧侶』も変わらない事を確信したのだから。

 

 前方に人の営みの灯りが見えて来た頃に、カミュはリーシャへと追いついた。

 別段、リーシャは速度を緩めた訳ではない。それどころか、カミュと別れてから更に速度を上げたと言っても過言ではない。それでもカミュは追いついた。

 まだまだ未発達な身体とはいえ、アリアハンの法では成人している女性を一人担いでいるのにだ。それは、カミュが必死であった事の象徴であろう。

 

「カミュ様! 宿屋を!」

 

 村を外敵から守る門の前に辿り着き、カミュの肩の後ろからサラが叫び声を上げた。

 『自分を下ろせ』と言う前に、『宿屋を探せ』と叫ぶサラにカミュが一つ頷く。門を力一杯叩いているリーシャの呼び掛けに、門の上から目を擦って出て来た男は、叫んでいる女性の腕の中でぐったりとしている少女を見て、慌てて門を開けてくれた。

 

「宿屋は!?」

 

「宿屋なら、すぐそこだ!? 熱があるのか? 薬師を呼んで来よう」

 

「お願いします!」

 

 カミュの問い掛けに門を守っていた男は、門のすぐ傍にある建物を指差しながら一行の状況を全て理解していた。

 男の提案に、既にカミュの肩から下ろされたサラは頭を下げた後、先頭を切って宿屋へと入って行く。

 

 その後、未だに意識を戻さないメルエを抱き抱えて眉を下げるリーシャと、そんなメルエを苦痛に歪んだような表情で見つめるカミュを置いて、サラが宿の手配を行った。

 門番の男が薬師を手配してくれている事も伝え、湯を沸かしてくれるように依頼したサラは、受け取った鍵の部屋へリーシャ達を連れて行く。

 メルエの服を脱がし、宿屋の主人が持って来た湯に浸した布で、メルエの身体を丁寧に拭き、同じく主人が用意した部屋着を着せたのもサラ。

 その間もカミュはただメルエを見下ろす事しか出来なかった。

 

 薬師に診察をしてもらった結果、疲労によって弱っていた身体が雨の影響で冷えた為に体調を崩したのだろうと言う物だった。

 命に別状もなく、暖かくして寝ていれば時機に熱も下がるという薬師の言葉にリーシャは胸を撫で下ろし、サラも表情を緩める。しかし、カミュだけは表情を失くしたまま、じっとメルエの寝顔を見ていた。

 

 

 

 

 

 そんな状況は、夜も明けて陽が昇りきった後も続いた。薬師に調合して貰った煎じた薬草をメルエに飲ませる為に、リーシャやサラは交互に眠っていたが、カミュが眠った形跡はない。

 メルエの熱も下がり、汗を拭く回数も少なくなり、後はメルエが目覚めるのを待つばかりとなっても、カミュはその場所を一歩も動こうとはしなかった。

 

「ふぅ……カミュ。メルエはそろそろ目を覚ます筈だ。メルエが目を覚ました時に、何か温かくて栄養のある物を食べさせてやりたい。材料を買って来てくれるか?」

 

「……わかった……」

 

 何かに諦めたように溜息を吐いたリーシャは、カミュへと何か釈然としない願いを投げかけた。

 そんなリーシャの言葉にサラは驚いてしまい、目を丸くしてリーシャの顔を見てしまう。しかし、不躾な願いに対し、リーシャの方へようやく視線を動かしたカミュが小さく頷き席を立った事で、サラはリーシャの顔を見た時以上に目を見開いてカミュを眺めてしまった。

 

「えっ?……えっ?」

 

 購入して来て欲しい物をリーシャが伝え、それに頷き出て行こうとするカミュの背中を見て、サラの困惑は尚更強い物へと変わって行った。

 まさかカミュが買い物を頼まれるとは思わなかったのだ。しかもそれを何の抵抗もなく受け入れた事が尚更サラを驚かせる。

 

「アイツも、ただメルエが心配なだけなんだ」

 

「……カミュ様……」

 

 そんなサラの表情を見て、リーシャが呟いた一言。それは、再びサラの心を揺さ振って行く。

 常に冷静に物事を見つめ、時には冷酷な判断も行う『勇者』と呼ばれる青年の心の内を垣間見たサラは、扉を出て行くカミュの背中をしばらく眺めていた。

 

 もしかすると、サラが『一番強い者』と考えていた青年が一番脆いのかもしれない。

 いや、アリアハンを出た当初であれば、サラの考えに間違いはなかっただろう。彼には、失う物等何もなく、護るべき者もなかったのだから。

 『人々を救う』とされている『勇者』である者としては奇妙な事ではあるが、実際カミュはそのように考えていただろう。

 しかし、今のカミュの中にはメルエという者が存在する。その存在は、時を重ねる程に大きさを増し、カミュの心の中の領域を広げて行った。

 サラの『事、メルエに関してだけは、駄目なのだ』という考えは、恐ろしく的を射ていたのかもしれない。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 カミュが出て行った後も、そんな考えに陥っていたサラの耳に小さな呻き声が入って来る。それと同時にベッドへとリーシャが近寄り、そこで寝ている少女の額に乗せてある布で汗を拭いた。

 

「メルエ……すまない。もっとお前に気をかけるべきだった。早く目覚めてくれ。お前がいなければ、私達は動けないぞ……」

 

「……リーシャさん……」

 

 優しく慈愛に満ちた表情でメルエの汗を拭くリーシャの姿は、正しく母そのものだった。

 そんな事を言えば、リーシャの怒りを買う事となる為、口には出さないが、サラはそんなリーシャの横顔を優しく眺める。

 

 

 

 そんな慈愛に満ちた空気の中、静かな時間が流れて行った。

 カミュはまだ帰らない。

 そして、待ちに待った瞬間がやって来た。

 

「…………うぅぅん…………」

 

「ん? メ、メルエ!?」

 

 少し身動ぎをしたメルエが、少しずつその双眸を開いて行く。メルエの額に乗せていた布を替えていたリーシャが、メルエの瞼が動いた事に気付き、持っていた布を水桶に落とし、メルエの顔を覗き込んだ。

 

「…………リーシャ…………?」

 

「ああ、そうだ! メルエ、良く戻って来た!」

 

 『ぼうっ』と自分を見上げるメルエに、飛び切りの笑顔を向けてリーシャが労いの言葉を投げかけるが、メルエはそんなリーシャを不思議そうに見上げるばかり。

 そんな二人のやり取りに、サラは目に涙を浮かべながら笑顔を向ける。

 

「皆さん心配したのですよ」

 

「…………サラ…………?」

 

「まだ無理をするな」

 

 自分に近づいて来るサラの方へ視線を動かしたメルエはそのまま身体を起こそうとするが、それを柔らかく制するようにリーシャがメルエの身体を支え、起き上がらせた。

 半身を起こしたメルエは、しばらく『ぼうっ』と部屋を見渡し、不思議そうに首を傾げる。その様子が何とも微笑ましく、リーシャとサラは薄い笑みを浮かべた。

 

「メルエは体調を崩して倒れてしまったのですよ」

 

「…………???…………」

 

 メルエの疑問に答えるようにサラが状況を話すが、メルエの首は再び反対方向へと傾げられる。サラはメルエを見ながら笑顔を浮かべるが、リーシャは先程の笑みを消し、真剣な表情でメルエを見つめていた。

 

「……メルエ。これからする私の質問に、真面目に答えてくれ……」

 

「…………???…………」

 

「リーシャさん?」

 

 そんなリーシャが真剣な瞳でメルエの目を見て言葉を零し始めた。その言葉に、メルエの首は曲がり、サラは何かを感じたのか一歩後ろへと下がった。

 

「メルエは何時ぐらいから具合が悪かったんだ?」

 

「…………???…………」

 

 リーシャの質問の意図が解らないメルエは、再び首を傾げるが、リーシャの真剣な瞳を見て、もう一度リーシャの言葉を考え始める。

 リーシャの雰囲気が『怒り』ではない事はメルエも理解していたが、自分への問いかけが真面目な物である事も理解したのだ。

 

「メルエは、頭が痛かったり、寒さを感じたり、『ぼうっ』としたりしていたのだろう?」

 

「…………ん…………」

 

 言葉を考え込むようなメルエに、もう一度、リーシャは別角度からの質問を告げる。そのリーシャの言葉に、メルエはしばらく考えた後、静かに頷きを返し、その答えが、少なくとも<ガルナの塔>の頃からメルエが体調を崩していた事を示していた。

 

「何時からだ?」

 

「…………あさ…………」

 

「!!」

 

 頷くメルエに同じ質問を繰り返したリーシャは、暫くした後に返って来た答えに絶句した。

 それはサラも同様で、小さく呟くようなメルエの声を聞き、自分の浅はかさを知る事となる。

 

 メルエは、朝から具合が悪かったと言っているのだ。それは、塔に入る前の森からという事になる。

 つまり、塔内部で行われた戦闘の最中も、あの細く頼りない通路を渡っている最中も、メルエの体調は最悪だった事を意味しているのだ。そして、メルエが意識を失うまで追い詰めた原因は、塔の探索に固執した自分と言う事になる事に、サラは言葉を失った。

 

「何故言わなかった?」

 

「…………???…………」

 

 ようやく落ち着いたリーシャが、絞り出すように言葉を零す。その言葉には、自分への後悔と、そして若干の怒りが籠っていた。

 それを敏感に感じ取ったメルエは、少しリーシャの顔を見た後、俯いてしまう。

 

「……メルエ……何故、身体の調子が悪い事を私やカミュに言わなかった?」

 

「リ、リーシャさん」

 

 もう一度同じ事を繰り返すリーシャの瞳は、哀しみと後悔、そして怒りが混ざった色を湛えている。それに気付いたサラが一歩リーシャに近づいた時、リーシャの真剣さを理解したメルエの口が開いた。

 

「…………メルエ………おいて…く…………」

 

「……メルエ……」

 

 小さく、そして弱々しく呟かれたその言葉は、サラの胸に突き刺さった。

 最近はリーシャだけにではなく、サラにも無邪気さを見せるメルエを見ていたサラは失念していたのだ。

 決して、メルエの生い立ちを忘れ去った訳ではない。しかし、最近のメルエと過去のメルエが結び付かなくなっていた。

 それは、悪い事ではない。それ程メルエが笑顔を見せるようになっている証拠なのだから。

 

「……ば…もの……」

 

「リーシャさん?」

 

 しかし、メルエの言葉に愕然とするサラとは違い、リーシャはメルエの言葉を聞いた後に再び俯き、何かを呟き始めた。

 その言葉は小さく、サラが思わず聞き返してしまう程の物。

 

「馬鹿者!」

 

「!!」

 

 しかし、顔を上げたリーシャは、尚も聞き返そうとして近づいたサラの鼓膜を破る程の大声を上げた。

 そして、言葉と共に振り上げられたリーシャの拳が、そのままメルエの頭へと落ち、『ゴツン』という目を覆いたくなる程の音を立てる。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「馬鹿者! 馬鹿者!」

 

 拳骨の落ちた頭を抱え、涙を浮かべるメルエに対して喚き散らすように言葉を発するリーシャの瞳にも涙が浮かんでいた。

 そんなリーシャを見て、サラはその心情を察し、再び距離を取る為に一歩後ろへと下がる。

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

「私達がメルエを置いて行く!? 何処からそんな発想が生まれるんだ!?」

 

 頭を押さえながら涙を流してリーシャを見上げるメルエに、リーシャも涙を頬に伝えながら叫ぶ。その間にサラが入り込む余地などない。それはリーシャが叱ってやる事なのだと、サラも知っているのだ。

 

「メルエ! お前をこれ程心配し、自己を犠牲にしてでもお前を救おうとしたサラや、お前が気を失った時に、我を忘れる程に混乱しながらも懸命に走り、一晩中お前の傍で眠りもせずに見守っていたカミュを侮辱するのか!?」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 リーシャは憤っていた。それは、メルエに向ける怒りとしては、身勝手なものかもしれない。しかし、カミュやサラがどれ程この幼い少女を大切に想っているのかが、この少女に全く伝わっていなかったという事実に、リーシャは怒りを覚えたのだ。

 

「…………ごめん………なさ……い…………」

 

 リーシャの瞳を見上げたまま、メルエが謝罪の言葉を口にする。しかし、メルエ自身は何故謝らなければいけないのかを理解していないのかもしれない。

 それが解っている故に、リーシャはメルエの身体を引きよせ、胸に抱きしめた。

 

「私も、サラも、勿論カミュも。私達はメルエが大好きだ。以前に私はメルエと約束をした筈だ。私はいつまでもメルエと一緒だと」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの胸の中ですすり泣きながらも、メルエは小さく頷く。

 メルエの頭を優しく撫でるリーシャの瞳から再び大粒の涙が零れ落ちた。

 

「約束してくれ。身体の調子が悪い時は、必ず私達に言う事。メルエの調子が悪いのなら、二・三日の間、町に留まる事を否定する者など、この中には一人もいない」

 

「…………ん…………」

 

 サラも思わず口を押さえた。

 おそらく、メルエはアッサラームで暮らしていた時も、何度か体調を崩した事があったのだろう。それでもそれを義母に伝える事をしなかった。

 いや、最初は伝えたのかもしれない。しかし、その頃の義母にはメルエに対する優しさが失われていた。故に、体調を崩し、熱があろうとも、頭痛がしようとも、毎日劇場での下働きに出ていたのだろう。

 そんな過去しかないメルエが、体調が悪い事を隠した事をサラは責める事が出来なかった。

 『もし、体調を崩した自分を<役立たず>として見られ、置いて行かれたら』と考えたメルエの思考は、サラが以前に考えていた物と大差がないからだ。

 勿論そこに付随する置いて行かれる理由や、その原因は全く違うが、自分の存在に対しての自信の無さは、サラもメルエも変わりはない。

 

「いいか、メルエ。大抵の怪我は、サラが必ず治してくれる。でもな、病だけは駄目だ。病はゆっくりと休まなければ、死んでしまうかもしれないんだ。私達はメルエを失いたくない。だから、必ず私達に伝える事を約束してくれ」

 

「…………ん…………」

 

 胸から引き剝がし、メルエの瞳を見て話すリーシャに、メルエはこくりと頷く。

 それを見て、ようやくサラが二人へと近づいて行った。

 

「メルエ。以前に私はメルエに『我慢しなければいけない』と教えました。ですが、生きていく上で、『我慢しなければいけない事』と『我慢してはいけない事』の二つがあるのです。それは、これからゆっくり学んで行きましょう」

 

「…………ん…………」

 

 近づいて来たサラの方へと視線を移したメルエが小さく頷く。そして安堵からなのか、それとも嬉しさからなのか、流れ落ちる涙を隠すようにメルエは再びリーシャの胸に顔を埋め、嗚咽を漏らし始めた。

 

 小さな嗚咽が響く部屋の扉の外で、カミュは一人佇んでいた。

 メルエという少女が意識を取り戻した事に安堵している自分の心に戸惑いながら。

 

 リーシャの言葉には否定したい部分がいくつかあった。

 カミュにしてみれば、我を忘れる程に混乱した記憶はない。だが、もしかすれば、あの時の絶望にも似た感情は、外から見れば我を忘れているように見えたのかもしれない。

 確かに、メルエがぐったりと項垂れている姿を見た時、カミュの頭の中にこれまで見て来た数多くの死体が浮かんでいた。

 

 魔物に襲われて命を落とした者。

 病に倒れ、そのまま息を引き取った者。

 自己の正当性を無視され、見せしめの様に殺された者。

 

 カミュは同年代の人間の中でも、誰よりも『人』の死を見て来ていた。そして、その中で次第に『人』の死に対しての感情が薄れて行く。

 しかし、メルエの姿が『死』というイメージに直結した時、カミュの心の中にこれまで感じた事のない『恐怖』が襲いかかって来たのだ。

 『恐怖』など、自分の人生を諦めたその日から感じた事は一度もなかった。どんな魔物と対峙しても、どんな人間と対峙しても。自分の命が失われる事に『恐怖』を感じた事などもない。

 それが、他人であるメルエの『死』に対して、心の底から湧き上がる『恐怖』に贖う事が出来なかった。

 

「……失いたくない……か……」

 

 独り言のように呟いたカミュの言葉は、宿屋の廊下に霧散して行く。カミュに死への『恐怖』を植え付けた少女のすすり泣きが消えて行くまで、カミュは扉の前に立ち尽くしていた。

 

 

 

「メルエ、熱いから気をつけろ」

 

 カミュの買って来た材料で作ったスープをスプーンで掬い、少し冷ますように息を吹きかけた物をリーシャがメルエの口へと運ぶ。リーシャの忠告を聞いていないかのように、メルエがスプーンに被りつき、そのスープの熱さに顔を顰めた。

 

「ふふふ。だから熱いと言っただろう? もう少し冷ました方が良かったな」

 

「…………ん…………」

 

 微笑むリーシャに、軽く頷いたメルエの表情も笑顔。

 そんな優しい空気の中、サラはカミュへと視線を向けた。

 

「そう言えば、この村は何と言う村なのですか?」

 

 そんなサラの質問に、リーシャもカミュへと視線を向けた。考えてみると、この村の宿屋に飛び込むように入ってから、リーシャやサラは宿屋を一歩も出ていないのだ。故に村の名前から、村の場所まで、何も知らなかった。

 

「……ここは、ダーマから北東にある<ムオル>という村だそうだ……」

 

「ムオル?」

 

 サラはその聞き覚えのない名前を復唱し、カミュを見た。

 サラとて、地図に載る全ての町や村の名を憶えている訳ではない。故に、知らない町や村があっても不思議ではないのだが、一度も聞いた事のない村の名前は珍しいのだ。

 

「……最果てにある小さな村だ……」

 

「なるほどな……どこの国にも所属しない、自給自足の村か……」

 

 サラの疑問に答えたカミュの言葉に、リーシャは納得が行ったように頷く。しかし、カミュ達の会話に興味を示さないメルエが、雛鳥のように口を開けて次のスープを待っている姿を見て、リーシャは慌ててスープを掬った。

 サラがカミュから視線を外し、くすくすと笑いを零す。

 

「メルエ、そんなに慌てなくても、誰も取りはしないぞ」

 

「…………」

 

 苦笑気味なリーシャの言葉を無視するように、メルエは再び口を開ける。メルエの姿は、お腹が空いているという理由もあるだろうが、それ以上に、リーシャに対して甘えている物であるという事をサラは理解していた。

 

「ところで、サラ? 『悟りの書』というのは見つかったのか?」

 

「えっ? あ、いえ……」

 

 メルエにスプーンを向けながら視線を動かしたリーシャの言葉に、サラは曖昧な返事を返す。

 その言葉を聞いたリーシャは、それを否定と判断し、軽く俯き加減になるが、それを見たサラが慌ててリーシャの考えを遮る素振りを見せた。

 

「あっ! い、いえ。これが『悟りの書』なのかどうかが解らないのです」

 

「解らない?」

 

 否定の言葉を口にするサラを不思議そうに見つめるリーシャに、サラは言葉に詰まる。実際、サラにも今自分が持っている書物が何であるのかが解らないのだ。

 表紙を捲った部分の一ページ目にしか何も書かれておらず、書かれている文字や描かれている魔方陣は『悟る』という行為に関係しているのかどうかすら解らない。

 

「……はい……一ページ目にしか、何も書かれていないのです」

 

「何? どういうことだ?」

 

 サラの言葉を全く理解出来ないリーシャがスプーンを置いてしまった事に、メルエは不満そうに頬を膨らませるが、そんなメルエに苦笑しながらスープの器をメルエへと手渡し、リーシャはサラが持つ一冊の書物を受け取った。

 

「???」

 

 サラから受け取った書物を慎重に開いたリーシャは、パラパラとページを捲りながら、何度も書物を凝視する。そのリーシャの様子を不安そうに見つめるサラを余所に、不満顔のメルエは黙々とスープを口に運んでいた。

 

「……どうでしょう……?」

 

「……サラ?……その書かれているページとは、どのページの事だ?」

 

 不安そうにリーシャへと尋ねるサラに返って来たのは、サラの予想を遙かに超える物だった。

 驚きの声を上げ、リーシャの覗き込んでいる書物に目を向けると、そこはサラが見た唯一文字が書かれているページだったのだ。

 それを見たサラが顔を上げるが、目に入ったリーシャの顔は、困惑と言うよりは疑問と言った方が良い表情を浮かべている。それは、サラが今見ている文字をリーシャは見ていない事の証明。

 

「リ、リーシャさんには、ここに書かれている文字や、描かれている魔方陣が見えないのですか?」

 

「どこだ? サラが差している『ここ』とはどこのことなんだ?」

 

 リーシャが検討違いの場所を見ている事に気づき、サラはリーシャが本当に『見えていない』事を理解する。つまり、サラにはその文字がはっきりと読めるが、リーシャにはその文字の存在も把握出来ていないのだ。

 

「……その書物はアンタの物だと言った筈だ……」

 

 そんなサラの後ろから、少し書物を覗くように見たカミュは、塔内部でサラへと告げた言葉を再び口にする。サラがカミュを振り返り、その言葉を理解しようとしている時、リーシャの持っている書物を、スープを飲み終わったメルエが横から覗き込んでいた。

 

「メルエも見てみるか?」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの問いかけに小さく頷いたメルエは、リーシャから自分の顔ほどもある書物を受け取り、重そうにその表紙を開く。

 リーシャとは異なり、表紙を開いた後は次のページへと進む事はなく、ましてやサラが指し示したページに目を向ける事もなく、ただ表紙裏をじっと眺めるメルエを見て、サラはメルエもリーシャと同じだと判断した。

 

「なるほど……この書物が読めるのはサラだけなのか……」

 

「そうなのですか?」

 

 リーシャの言葉に少し肩を落とすように落ち込むサラを見て、リーシャは薄く微笑む。

 この僧侶の少女にとって、『自分だけが見える書物』という物は特別な優越感を感じる物ではなかったのだ。それがリーシャには面白かった。

 

「ふふふ。何を落ち込む? あの塔にいた人間達の話からすると、『賢者』という存在になり得る者はサラだけだという事だろう?」

 

「……そんな……」

 

 リーシャが語る内容は、サラも既に理解していた。それでも、他者からこうもはっきりと告げられた事で、それを事実として認識しなければならなくなる。それは、サラにとって決して心地よい物ではなかった。

 

「それに、サラが『賢者』になるという事は、『魔道書』にある魔法をサラも使えるという事だろう? メルエと共に攻撃魔法を使えるようになれば、戦闘も大幅に楽になるだろう?」

 

「!!」

 

 『賢者』という言葉に対し、喜び等を一切表現しないサラが呆然とリーシャを眺める中、もう一度口を開いたリーシャの言葉に、今まで『悟りの書』の一点を凝視していたメルエの顔が弾かれたように上がった。

 

「…………メルエも…………」

 

「ん?……なに? メルエも読めるのか?」

 

 サラに向けて笑顔を見せるリーシャの袖を引いたメルエに視線を移したリーシャは、メルエの言葉を理解し、その真意を問うと、メルエはこくりと一つ頷いた。

 メルエの頷きに、リーシャは目を見開いて驚き、サラは何故か嬉しそうに笑顔を見せる。唯一人、カミュだけはメルエの頷きに眉根を顰めた。

 

「そ、そうか……メルエも『賢者』の才があるのか……」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャは、魔法に関して言えば、サラやメルエに絶対の信頼を置いている。メルエが見えると言えば、魔法力が皆無な自分が見えなくとも、魔法の才能溢れるメルエが見えても不思議はないと思っていた。

 

「では、見えないのは、私とカミュだけか」

 

「……いや……俺にも見えるが……?」

 

「な、なに!?」

 

 少しも残念そうに見えない溜息を吐いたリーシャに、先程まで一言も発しなかったカミュが口を開き、その内容に驚いたリーシャの顔が、先程までとは違った悔しそうな表情に変わって行く。

 

「……まぁ、メルエやその僧侶は別として、お世辞でもアンタを『賢者』とは呼ばないだろうな……」

 

「なんだと!?」

 

 更に追い打ちをかけるようなカミュの言葉に、今度こそリーシャの顔色があからさまに変化を起こす。それは、悔しさというよりは、純粋な『怒り』。

 いつものように、リーシャをからかうような口端を上げたカミュの顔を見て、リーシャの瞳が吊り上がる。

 

「……魔法に関しては諦めたのではなかったか?」

 

「ぐっ……」

 

 しかし、リーシャが怒りの声を上げるよりも先に、カミュが漏らした言葉によって、リーシャは口を噤んでしまった。

 ダーマを出た後の森でカミュに語った言葉を盾にされたのだ。

 『迷いは晴れた』と言った以上、リーシャがこれに反論する事は出来ない。ただ、遠回しに『頭が悪い』と言われた事に関しては、怒りの声を上げても良いのだが、リーシャはそれに気付かず、悔しそうに唇を噛んでいた。

 

「しかし、メルエも見えるのですね」

 

「…………ん…………」

 

 どこかしら『ほっ』としたような雰囲気を出すサラがメルエを見つめ、その言葉に応えるようにメルエが小さく頷く。サラもメルエの魔法の才に疑い等持った事はなく、むしろ『将来は大魔道士と呼ばれる存在になるのではないか?』とさえ考えていただけに、『賢者』として相応しい存在としてのメルエの参入は喜ばしい事であった。

 

「メルエも『賢者』としての才能を開花させたとしたら、これは凄い事だな」

 

 カミュとの対峙から話題を逸らすように、リーシャはメルエとサラを賛辞する。リーシャに優しく頭を撫でられ、気持ち良さそうに目を細めるメルエは、本当に幸せそうで、そんな様子を見ながらサラも笑顔を作った。

 

 数十年に一人しか存在しないと云われる『賢者』という存在。

 『経典』や『魔道書』に記載される呪文全てに精通し、『僧侶』と『魔法使い』という職業の垣根を越えた存在。

 そして、古より伝わる『賢者』達が残した高位呪文をも操る呪文のスペシャリストである。

 

 そんな存在が、一時代に二人。

 同じように『悟りの書』を見る事が出来たとはいえ、カミュは元々『経典』と『魔道書』の呪文行使が可能であるが、その呪文の数は限られている。故に、必然的にサラとメルエの二人。

 高僧が夢見る程に欲する『悟りの書』はおそらく、アリアハンで魔物への憎しみを糧に生きて来たこの少女を本来の主として認めたのだろう。そして、もはや人外と言っても過言ではない程の魔法力を持つ幼い少女をも主として認めた事になる。

 

「ふふふ。さぁ、メルエ。まだ病み上がりなのだから、身体を暖かくしてゆっくり休め」

 

「…………ん…………」

 

 頭を撫でていたリーシャが、その手元にある『悟りの書』をサラへ手渡し、メルエの身体をベッドへと入れる。優しく布団を掛けられたメルエは、小さく頷いた後、ゆっくりと目を閉じ、すぐに静かな寝息を立て始めた。

 

「明日は、ダーマへ戻るのだろう?」

 

「……ああ……」

 

 メルエの髪を柔らかく梳きながら、視線をカミュへと動かしたリーシャが明日の進路を問いかけ、それに対してカミュが頷きを返す。

 

「ならば、明日は大変だぞ。サラも早めに休んでおけ」

 

「あ、は、はい」

 

 柔らかな笑顔を向けるリーシャに、サラは慌てたように頷き、自分の部屋へと戻って行く。それに続くように部屋を出て行くカミュの背を確認し、リーシャは再びメルエの寝顔を見つめた。

 

 

 

 夜も更け、村の全ての明かりが消えた頃、リーシャの目が不意に開かれた。

 隣で眠るメルエの顔に、昨日までのような苦痛な色はなく、静かな寝息を立てながら眠っている。

 一昨日の雨が嘘のように晴れ渡った空には大きな月が輝き、カーテンの隙間からその光が差し込んでいた。

 

 ベッドから出たリーシャは、メルエの表情に苦悶がない事を確認した後、窓辺へと近づき、そっとカーテンに手をかける。広げられた隙間から見える眩いばかりの星達。そしてその星を護るように輝く大きな月が、静けさに満ちた村を優しく照らし出していた。

 そんな月明かりに照らされた宿屋の傍で、いつものように、空を見上げる人影を見つけ、リーシャは部屋を出て行く。

 

 

 

「眠れないのか?」

 

「……またアンタか」

 

 不意に後ろから掛けられた言葉に振りむいたカミュは、その存在を認め、軽い溜息を吐き出す。しかし、そんな失礼な態度にも、リーシャは苦笑を浮かべ、カミュの横へと並んだ。

 

「お前は、ここ二日間で碌な睡眠を取っていないんだ。早めに休め」

 

「……」

 

 カミュの体調を考え、休養を勧めるリーシャに対しても、全く関心を示さないカミュに、リーシャは軽く溜息を吐いた。

 この青年の胸の中に渦巻く想いを感じ取ったリーシャは静かに口を開く。

 

「今回のメルエの件は、お前だけの責任ではない」

 

「……アンタにとって……メルエとは何だ?」

 

「なに?」

 

 『メルエの病に関して責任を感じているのでは?』と考えたリーシャであったが、全く別方向から飛んで来たカミュの問いに、不意を突かれたように目を丸くした。

 相変わらず、リーシャの方へ視線を向ける事なく、空に浮かぶ月を見上げているカミュの横顔を見て、リーシャはもう一度溜息を吐き出した。

 

「私にとって、メルエはもはや掛け替えのない存在だ。妹のようであり……そんな歳でもないし、子を成した事もないが、娘のような想いもある。私の命に代えてでも護るべき存在だ」

 

「……そうか……」

 

 カミュと同じように月を見上げながら、自分の心を支配し始めているメルエという存在について語るリーシャの言葉は、とても強い物だった。

 だからだろうか、『娘のような想い』という部分も、カミュの心に素直に落ちて行った。

 

「お前は違うのか?」

 

「……いや……」

 

 視線をカミュへと戻したリーシャの問いに、カミュは少し時間をかけて答えた。何かに悩むように、何かに抵抗するように吐き出された言葉に、リーシャは眉根を顰める。

 

「護りたい者というのは、人それぞれだ。その優先順位も人によって違う。だが、それでも『護りたい者』に変わりはない」

 

「……」

 

 ようやく月から視線を外したカミュの瞳が、リーシャのそれと重なる。

 その瞳の奥にあるのは、明確な『戸惑い』だった。

 

「お前には、今までそういう者はいなかったのだな?」

 

「……」

 

 そして、そんなカミュの瞳を見て、リーシャは全てを察した。

 この年若い青年は、生まれてから一度も人に対して情を持った事がなかったのだろう。『勇者』として生まれ、『勇者』として育ち、人を護る事を強要されて来た青年は、自身の心で護る事を誓った者は誰一人いなかったのだ。

 

「メルエが、お前の心を動かしたのか……」

 

 故に、メルエの存在が大きくなり、その存在が消滅する事への『恐怖』という感情を初めて知ったカミュは戸惑い、そして困惑していた。

 『自分の命など、この旅の何処で失われようとも構わない』と考えていたカミュの中で、『自分が死ねば、メルエの身に危険が迫った時にどうすれば良いのか?』という想いが生まれている。

 

「お前が……お前が再び迷い、悩む時……メルエの瞳を見ろ。それが、お前の悩みの答えとなり、そしてお前を動かす活力となる」

 

「!!!」

 

 リーシャの言葉に、カミュの瞳が見開かれた。

 この言葉をカミュが聞くのは、これで三度目となる。

 一度目はエルフの女王から。

 二度目はイシスの女王から。

 そして、三度目はアリアハンから常に共に歩んで来た女性からだった。

 

「それに、私達がメルエを大切に思うように、お前を大切に思う人もいるのだ」

 

「……なんのことだ?」

 

 リーシャから告げられた、女王達と同じ言葉に驚きを表していたカミュに、続けて掛けられた物は、カミュにとって思い当たるものが何もない物だった。

 

「お前の付けていたサークレットは、ニーナ様から頂いた物なのだろう?」

 

「……」

 

 しかし、続くリーシャの問いかけを耳にしたカミュの表情が一変した。

 今まで『人』である事を証明するような、様々な感情を出していたカミュの顔から、一切の感情が消えて行く。

 アリアハンで出会った時のような能面のような顔は、とても冷たく、とても哀しい物。それでも、今のリーシャはそんなカミュの表情に『恐れ』を抱く事はなかった。

 

「サラの話を聞いた限りでは、おそらく、あの『命の石』はアリアハン教会にはなかった物だろう」

 

「……」

 

 カミュの無視するように語りかけるリーシャの言葉は、静けさを湛える村に響いて行く。カミュはその場を動こうとはしない。しかし、リーシャの言葉を聞いているという態度でもなかった。

 

「ならば、おそらく、オルテガ様が旅をされている時に、どこかで見つけ、手にされた物なのではないか? オルテガ様なら、その効力を知らぬ筈はない。それを妻であるニーナ様に伝えた事だろう」

 

 そこでリーシャは言葉を切る。

 能面と化したカミュの瞳を見つめ、暫しの時間が経過した。

 そして、リーシャの口は開かれる。

 

「ニーナ様はお前を送り出す時、お前の命を護る術を持たない自分の代わりに、あの『命の石』をお前のサークレットに埋め込み、お前の無事を祈ったのではないのか?」

 

「……」

 

 リーシャの口がその言葉を発し終えた時、カミュの能面の顔に変化が生まれる。今まで見た事のないような、『憎しみ』に似た感情を宿した瞳をリーシャに向けたのだ。

 まるで、『お前に何が分かる!?』とでも言いたげな瞳を受けても、リーシャが怯む事などなかった。

 

「お前は、確かに愛されていたのではないのか? お前にとっては、辛かったかもしれない。それこそ、親を他人として見る程の思い出しかないのかもしれない。それでも、あの『命の石』はお前の身を案ずるニーナ様の想いが込められているのではないのか?」

 

 その言葉を最後に、リーシャは口を閉じた。そして、未だに『怒り』と『憎しみ』の炎を宿したカミュの瞳を真っ直ぐに見つめ、リーシャはカミュの答えを待つ。

 しかし、その答えは遂に返って来る事はなかった。

 リーシャから視線を外したカミュは、視線と共に踵を返し、宿屋へと歩いて行く。

 

「お、おい!」

 

 それでも、諦めきれないリーシャは、カミュの後を追い、その肩に手を掛けた。しかし、振り向いたカミュの顔を見て、リーシャはこの青年を追いかけた事を後悔する事になる。

 その瞳に映っていた物は、久しく向けられる事のなかった、完全な『他人』に対する光。

 アリアハンを出た頃に、リーシャやサラに向けられていた物だった。

 

「……あの人間達が案ずるのは、『アリアハンの英雄の息子』の命だけだ……」

 

 最後にそれだけを呟いたカミュは、リーシャの手を振り払うように、宿屋へと歩を進める。もはや、リーシャにその歩みを止める手立ては残されてはいなかった。

 

 『アリアハンの英雄』

 

 これは間違いなく、カミュの父親であるオルテガを示している。ならば、その息子と言えば、今まさに宿屋の扉を開いて中へと入って行く青年以外の誰でもない。つまり、今彼が呟いた言葉は、リーシャの問いかけを肯定している物。

 しかし、リーシャの顔は曇っていた。彼女の耳には、それが肯定としては聞こえていなかったのだ。

 それは、カミュの中で、『アリアハンの英雄の息子』と『カミュという青年』は同一の存在ではないということ。

 

「……お前は、どれ程に両親を憎んでいるんだ……」

 

 もはや閉じられた宿屋の扉を眺めたままに呟かれたリーシャの言葉は、月が雲に隠れ、完全な闇に包まれた村の中に消えていった。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

年内は、明日か明後日で更新終了になると思います。
あと2話は更新したいと思っていますので……

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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ムオルの村②

 

 

 

 陽が昇り始め、目を覚ました一行は、メルエが自然に目を覚ますまで待ってから薬師を再度宿屋へ呼び寄せる。ベッドの上で薬師の診察を大人しく受けるメルエを見ながら、リーシャは昨夜のカミュとのやり取りを思い出していた。

 

 今朝メルエの部屋へと入って来たカミュは、昨夜の雰囲気を残した無表情であった。

 誰にも口を開く事はなく、メルエの寝顔を静かに見つめ、独特の空気を醸し出す。そんなカミュの姿に驚きを隠せないサラが、リーシャの顔に視線を送って来たが、それに対してリーシャは何も答える事が出来なかった。

 最近のカミュのメルエに対する態度が、カミュの変化を明確に表わしている。その事を感じていたリーシャは、昨晩カミュの心の中枢になる闇に手を伸ばしてしまった。

 十数年間、誰も触ろうとしなかった闇に手を入れた代償は、リーシャが考えていた物よりも大きく、それは、表に出始めていたカミュの変化を、再び闇の奥底へと落す程の物だったのだ。

 

「ふむ。もう大丈夫じゃろう。しかし、無理はいかんぞ? お主達も、幼子を連れて旅するのであれば、充分な注意を払ってやるのだな」

 

「わかっている。何度もすまなかった」

 

 メルエの診察を終えた薬師がカミュの目を見て言葉を紡ぐが、答えようとしないカミュの代わりにリーシャが薬師へと頭を下げた。

 そんなリーシャに一つ頷いた薬師は、暫しカミュの顔を見つめた後、何かを言おうと口を開くが、そこから言葉が出る事はなく、静かに部屋を後にする。

 

「よし! メルエも元気になった事だし。さぁ、出発だ!」

 

 カミュが醸し出す重苦しい空気を払うようにリーシャが声を上げ、その声に応えるようにメルエが笑顔で頷く。メルエの着替えの為に部屋を出て行こうとするカミュの背に、リーシャは口を開いた。

 

「カミュ? 一つ気になる事があるんだが……」

 

「……」

 

 昨晩と同じような、感情を見出せない表情で振り向いたカミュに対し、リーシャが発した言葉は、この場にいる全員を凍らせる程の威力を持った物だった。

 

「メルエの指に嵌められている指輪は、確か魔法力を回復する道具ではなかったか?」

 

「あっ!?」

 

 リーシャがカミュに向けて放った疑問に、サラが大声を上げる。そして、今まで能面のような表情だったカミュの顔が、何かから逃げるように歪んだ。

 それは、サラがその事を忘れていた事と、カミュがその事を知っていた事を意味していた。

 

「あの時、あの指輪をお前が嵌めて、ルビス様に祈りを奉げれば、お前の魔法力は回復し、<ルーラ>を詠唱する事が可能になったのではないのか?」

 

「!!」

 

 続けられたリーシャの言葉に、サラの首は弾かれたようにカミュの方へ移動する。不思議そうに首を傾げて見つめるメルエの瞳と共に、全員分の視線を受けたカミュの瞳が逸らされた。

 

「その様子だと、お前は知っていながら、故意にそれをしなかったのだな?」

 

「……」

 

 リーシャの声に『怒り』という感情が籠り始める。実際、昨晩のカミュの姿を見て、それでも尚糾弾しようとするリーシャの強さに、内心カミュは焦りを感じていた。

 どれ程に遠ざけようとしても、自分の中へと入り込んで来る人間を彼は知らないのだ。

 

「何故だ!? お前はメルエを護りたいと思っているのではないのか!?」

 

「……リーシャさん……」

 

 カミュの目の前まで移動したリーシャが、目を逸らすカミュの顔を覗き込むように言葉を投げかけ、そんな二人の雰囲気に、サラは言葉を失う。

 

「答えろ!」

 

「……俺は……ルビス等に祈った事はない……」

 

「!!」

 

 カミュの肩に掴みかかったリーシャの問いかけに、ようやくカミュが絞り出すような答えを吐き出した。

 それは、サラを更なる驚きに落とす程の答え。

 『精霊ルビス』への祈りは、この世界に生きている人間の大半が行う日課と言っても良い。現に、毎朝サラは怠った事はないし、リーシャであってもそれを行う。何も知らないメルエだけが、サラの行う行為を不思議そうに眺めながらも、真似を始めていた。

 

「……カミュ……お前は……」

 

「……ルビス等に祈りを捧げた事もなければ、救いを求めた事もない……そのような存在を見た事もなければ、信じた事もない……」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュの言葉に、サラは愕然とする。この世界の守護者と伝えられ、そして『人』の親とも伝えられている『精霊ルビス』という存在は、ある意味、絶対の存在なのだ。それを彼は信じてさえいないと公言した。

 それは、ルビス教の信者でもあるサラにとって、『怒り』という感情が湧く以前の問題である。

 

「……ルビス様のご加護によって、命を取り留めたお前がそれを言うのか?」

 

「……」

 

 しかし、リーシャの心には別の感情が去来していた。

 カミュの瞳を見て告げたリーシャの言葉に、カミュは再び視線を逸らす。

 それがリーシャの感じた物が正しい事を証明していた。

 

「……子供か……お前は……?」

 

「!!」

 

 溜息混じりに吐き出されたリーシャの言葉に、カミュの顔が上がった。

 その表情には『驚き』と『困惑』の色が湛えられている。

 そんな瞳を見て、リーシャがもう一度深い溜息を吐き出した。

 

「二度目は許さん! お前のその小さな意地が原因でメルエの命が危ぶまれた場合、私はお前を許しはしない! わかったな!」

 

「……ああ……」

 

「……リーシャさん……」

 

 溜息を吐き、顔を上げたリーシャの瞳は吊り上がっていた。

 明確な『怒り』を露にし、カミュへと怒鳴るように釘を刺す言葉に、カミュは不承不承に頷きを返す。しかし、サラは何よりもリーシャの言葉に驚いていた。

 リーシャは、『精霊ルビス』という存在を蔑にするカミュの言葉を了承したのだ。

 サラは、ルビス教の教えについて何度も悩んだ。しかし、『精霊ルビス』という存在に疑問を持った事などない。

 

 だが、それでもサラは、カミュの考えを飲み込む事にした。それは、ここまででサラが歩んで来た道がそうさせたのかもしれない。

 サラは、数多くの人間を見て来た。その中では、志半ばで命を失くした者や理不尽な権力によって生きる事を断念せざるを得なかった者。そして、更に理不尽な力によって命を奪われた者等、様々な人間が存在した。

 そして、サラはそんな人間全員を、ルビス教の教え通りに『前世の咎人』と括る事は出来なかったのだ。

 

「ですが、一つだけ言わせて下さい。ルビス様は常に私達と共にいらっしゃいます。カミュ様が信じようと信じまいと、それは変わりません。いつか……いつかきっと、カミュ様も、そのご加護の大きさに気づく時が来るでしょう」

 

「……」

 

「……サラ……」

 

 自身が信仰するものを侮辱されたにも拘らず、サラが口にした言葉は、それを受けたカミュだけではなく、傍で聞いていたリーシャにも衝撃をもたらした。

 『精霊ルビス』を巡るカミュとサラの攻防は、アリアハンを出てから続く物。何度となく衝突し、解り合う事なくここまで進んで来たのだ。

 それにも拘らず、サラはカミュの言い分を飲み込んだ。信仰の対象である神に近い存在の『精霊ルビス』を蔑にされても尚、サラはカミュの心を理解しようと踏み込み、そして導こうとしている。

 それが、リーシャには嬉しかった。

 

「あははは! カミュ! この中で、お前だけが子供の我儘を貫こうとしているんだ。それがどんな事なのか、理解出来ないお前ではないだろう?」

 

「……くそっ……」

 

 サラの顔をまじまじと見つめ、突如声を上げて笑い出したリーシャの言葉に、カミュは軽い舌打ちを放つ。その姿が尚更リーシャの笑いのつぼを刺激し、笑い声は高らかに部屋に響いた。

 今までの剣呑な雰囲気に戸惑っていたメルエも笑顔を見せる。そんなメルエを見て、リーシャは笑いながらメルエを抱き上げた。

 

「メルエも笑ってやれ。偉そうな事をいくら言っていても、カミュはまだまだ子供だ」

 

「…………ふふ…………」

 

 メルエと顔を合わせるように笑うリーシャを見て、それまで緊張に身を硬くしていたサラも力を抜き、自然と笑みが零れる。そして、そのサラの笑みを横目に入れたカミュは、忌々しげに舌打ちをして部屋を出て行った。

 

「さぁ、行こう。世話になった宿屋の主人にも挨拶をして、必要な物を購入したら、<ダーマ神殿>へ戻ろう」

 

「はい!」

 

 部屋を出て行ったカミュを見て、笑い声を収めたリーシャが、サラとメルエに再び笑顔を向け、出発の号令を発する。そして、そんなリーシャにメルエは一つ頷き、サラは笑顔で返事を返した。

 

 また一歩、彼らが前へと進んだ瞬間でもあった。

 

 

 

「おお! 元気になったか? よかった、よかった」

 

「ああ、ありがとう。この度は、何から何まで世話になった」

 

 宿屋のカウンターでは、主人が帳簿を付けており、降りて来たカミュ達を目に留めると、人の良さそうな笑みを向け、メルエの回復を喜んだ。そんな主人に、リーシャは真剣な表情で頭を下げ、それを見上げていたメルエも、主人に対して頭を下げる。

 四人全員が自分に向かって頭を下げるという光景に、戸惑いながら、主人は軽く手を振って、カウンターに部屋の鍵を置くカミュへと視線を移した。

 

「いやいや。何にせよ、これでポカパマズさんも一安心だな?」

 

「ポカパマズ?」

 

 カミュへと視線を向けて主人が発した聞きなれない名に、リーシャとサラが声を合わせた。

 カミュが、少し眉根を顰めても何も言葉を発しないところを見ると、その名を聞くのは今が初めてではないのだろう。

 

「……昨日も村の人間に問われたが、俺の名は『ポカパマズ』ではないのだが……」

 

「えっ!? そ、そうなのかい?」

 

 カミュの言葉に、主人は心底驚いたような表情を見せて、まじまじとカミュの顔を見つめた。

 カミュの言葉からだと、おそらく昨日買い物に出ている時に、村の住民からその名で呼ばれた事があったのだろう。

 

「しかし、良く似ているなぁ」

 

「主人? そのポカパマズという人物は何者なのだ?」

 

 カミュの顔を隅々まで見た主人が、顎に手を掛けて首を捻る姿を見て、リーシャが疑問を投げかけた。

 サラも同様で、リーシャの疑問に視線を動かした主人の顔を凝視し、そこから出て来るであろう次の言葉を待つ。

 

「あ、ああ。何年か前に、この村の近くで怪我をして倒れているところを偶然村の子供が見つけてね。暫くこの村で暮らしていた人さ。もうこの村を出て行って何年も経つがね」

 

「その人物は、そんなにカミュに似ているのか?」

 

 主人の説明を聞いたリーシャが、自分の横に立つカミュに向けて視線を送った後、再び主人に向けて疑問を呈した。

 『世界中には自分に似た人間が数人いる』とこの世界では云われている。故に、似た人物がいる事にそこまで疑問は湧かないのだが、自分の連れに酷似したという人間に興味を持ったのだ。

 

「ああ。まぁ……よくよく見ると違う部分もあるな。しかし、その黒々とした髪の毛といい。意思の強そうな黒目といい。物腰というか、雰囲気というか……」

 

 リーシャの問いに、主人から返って来たのは、何とも曖昧な物だった。物腰や雰囲気が似ているというのは、それで人を判断するには乏しい材料と言わざるを得ない。

 しかし、この世界において、カミュのような漆黒の黒髪というのは、とても珍しい。アリアハンでは、彼の父親であるオルテガとこの青年しかいなかったし、アリアハンを出た先の国々でも、サラと同じ様な黒味がかった髪の毛を持つ者はいたが、漆黒と言うほどの髪の毛を持つ者はいない。

 実際、世界のどこかにある国に住む人間は皆この黒髪を持って生まれて来るという話しではあるが、その場所に辿り着いた者はおらず、正確な話は解らないのだ。

 

「黒髪だと!? その人物の名は、本当にポカパマズというのか?」

 

「……もういい……行くぞ……」

 

 リーシャの力が入った問い掛けに、主人が戸惑っている間に、カミュは踵を返して、宿屋を後にする。リーシャ達の会話に興味を示していなかったメルエがその後を追い、サラも仕方なしに歩き出した。

 

「もし、ポカパマズさんの事を知りたいなら、ポポタっていう子供に聞いてみな。ポカパマズさんを見つけたのは、そいつだからよ」

 

「わかった」

 

 カミュ達が出て行く姿に溜息を吐くリーシャを見て、主人が助言を発した。それに対し、静かに頷いたリーシャも宿屋を後にする。

 

 

 

「カミュ様は、『ポカパマズ様』という人物に心当たりはあるのですか?」

 

「……ある訳がないだろう……」

 

 宿屋を出て、リーシャが追いついた時、カミュの横を歩いていたサラの問い掛けが聞こえて来た。そして、そんなサラに対し、大きな溜息を吐き出したカミュが、答えるのも面倒臭そうに言葉を吐き出した。

 

「しかし、その名を聞くのは、初めてではないのだろう?」

 

「……昨日、アンタに頼まれた物を購入している時に、何度か聞いた名だ……」

 

 カミュが答えた内容は、リーシャが予想していた物だった。おそらく、買い物途中で、何度もカミュは『ポカパマズ』という人物に間違えられたのであろう。

 

「まずは、ポポタという子供を捜そう。その子が『ポカパマズ』という人物を救ったのだそうだ」

 

「……何故だ?」

 

 リーシャにしてみれば、唯当然の事を口にしたに過ぎないのだが、それを聞いたカミュは心底不思議そうにリーシャの瞳を見つめ返した。

 

「な、なぜだと!? お前は、『ポカパマズ』という人物が何者なのかを知りたくはないのか!?」

 

「……知ったところで何がある?」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュと似ている人物。

 それが、リーシャの心に何故かひっかかりを生み出していた。

 そして、おそらくそれはカミュも同様だったのだろう。

 

「……カミュ……逃げるのか?」

 

「……」

 

 カミュの心を察したリーシャの吊り目気味の瞳が細められる。

 その瞳をカミュも負けじと睨み返した。

 

 カミュの言う通り、この村で話に出た『ポカパマズ』という人物が、ここからのカミュ達の旅に影響を及ぼす可能性は限りなく低い。別段、その正体を知らなくとも、既にカミュ達の進路は決まっているのだ。

 <ルーラ>を使って<ダーマ神殿>へ戻り、『悟りの書』の真意を問い質した後、<バハラタ>で『黒胡椒』を受け取り、<ポルトガ>で『船』を手に入れる。その先の進路については未定ではあるが、その間に目的地は定まるだろう。

 故に、この場所で、そのような不確かな人物に構っている余裕はないというのも事実なのだ。

 

「やはり、お前が一番子供だな。メルエよりも幼い」

 

「……」

 

 先に言葉を吐き出したのは、リーシャだった。

 呆れたような溜息を吐き、カミュの足元にいるメルエへと視線を送る。

 

「だが、この村の武器屋や防具屋に寄る時間ぐらいあるだろう? メルエ、おいで」

 

「…………ん…………」

 

 もはや、カミュを説得する事を諦めたように、リーシャは提案事項を変更した。これには、カミュも反対する事は出来ず、メルエと共に歩き出したリーシャの後を舌打ちをして歩き出す他なかった。

 そんなカミュとリーシャのやり取りを、首を交互に動かしながら見ていたサラは、不思議そうに首を傾げる。サラの目には、いつの間にかカミュとリーシャの力関係が逆転したように見えたのだ。

 

「この村にはどんな武器があるのだろうな?」

 

「…………メルエ……の…………?」

 

 村の武器屋の方向へ歩きながら、リーシャは自分の手を握るメルエに話しかける。そんなリーシャを見上げながら、自分の物を買って貰えるのかと、メルエの瞳が輝きを湛え始めていた。

 

「う~ん。メルエのはないかもしれないな。それに、現在のメルエの装備は最強装備だぞ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 リーシャの言葉にむくれるような表情を見せるメルエを見て、リーシャ達に追いついたサラが笑顔を浮かべた。

 そして、何かを思いついたように、自分のポケットに手を入れる。

 

「メルエ、これはあの塔で書物と一緒にあった髪飾りです。メルエが持っていてくれませんか?」

 

「…………メルエ……の…………?」

 

 サラが取り出した物は、ガルナの塔で『悟りの書』と共に置いてあった小さな木箱に入っていた物である、銀で出来ているであろう髪飾りだった。

 それをサラはメルエの前へと差し出すと、メルエの瞳が再び光を宿す。

 

 サラとしても、大事そうに木箱に入っていた物を盗むように持って来てしまい、そしてそれをメルエのような幼子に譲渡する事に抵抗感は感じていた。

 しかし、『何故?』と問われれば、サラ自身答える事が出来ないが、何故か『この髪飾りはメルエが持っているべきではないか?』という思いに駆られたのだ。

 

 嬉しそうに微笑むメルエの髪の毛にサラが髪飾りを差し込む。

 メルエの明るい茶色をした髪の毛に、銀色に輝く髪飾りは良く似合った。

 

「ん? メルエにはあの髪飾りがあるじゃないか?」

 

「…………あれ………いや…………」

 

 サラが付けてくれた髪飾りを嬉しそうに触っているメルエを見て、リーシャはある事を思い出す。

 メルエを庇って命を落とした女性から譲り受けた物。そして、それはメルエの義母の形見となる遺品。

 しかし、メルエは、リーシャの言葉に先程の笑顔を消し、首を横に激しく振る。その様子をリーシャは哀しく見つめていた。

 

「リーシャさん……まだ無理です。いずれ、メルエが自分からあれを髪に飾る日が来る筈ですので、それまでゆっくり待ちましょう」

 

「ああ、そうだな」

 

 首を振ったメルエは、まるでリーシャから逃げるように、カミュのマントの中に潜り込む。その様子を見てサラが呟いた言葉に、リーシャは頷く他なかった。

 

 

 

 この村の市場に着いた一行は、小さな村にも拘わらず、かなりの活気を有する市場の喧騒に驚きの表情を見せる。村の北側に位置する大きな建物の中にそれはあった。

 既に太陽が真上に上り、昼時を迎えた事によって、市場には買い物客が多く、自給自足の村とはいえ、その独自の文化が根付いている事が推察できる。

 

「この村には、結構な人が住んでいるんだな」

 

「そうですね。やはり、『人』は力強いです」

 

 周囲を賑わす人々を見ながら感心したように呟いたリーシャの言葉に、サラは嬉しそうに目を細め、辺鄙な土地でも力強く生きている人々を讃えた。

 そんなサラの表情に自然とリーシャの顔にも明るい笑顔が浮かび、周囲を満たす人々の表情に視線を巡らす。

 

「メルエ! 武器と防具の店があったぞ!」

 

「…………ん…………」

 

 そんな中でリーシャがある一点に視線を止め、先程カミュのマントに逃げ込んだメルエへと声をかける。少し顔を出したメルエが、リーシャの指し示す方角に視線を向けて目を輝かせた。

 再びカミュのマントから出て来たメルエの手を引きながらリーシャは武器と防具の店のカウンターへと近づいて行く。

 

「いらっしゃい! あ、あれ? ポカパマズさんじゃないか!? いつ戻って来たんだ?」

 

「……」

 

 リーシャの来店に気付いた店主が顔上げて、来店者への挨拶を返すが、同時にその後ろから歩いて来る黒髪の青年を見て、驚きの声を上げた。

 もはや聞き飽きた名を告げられたカミュは、呆れと諦めの溜息を吐き出す。

 

「もう、ポポタには会ったのかい? まだなら、この奥にいるから早く会って来てやってくれ!」

 

 カミュの溜息を無視するように、矢継ぎ早に言葉を繰り出す店主に、流石のリーシャも戸惑いを見せる。それは、サラも同様で、この村の全ての人間と言って良い程に、カミュと見間違える『ポカパマズ』という人物に興味を持ち始めた。

 

「いや、店主。こいつは、『ポカパマズ』という人物ではない」

 

「はぁ? どっからどう見ても、ポカパマズさんじゃ……いや、よく見れば違うか? 言われてみれば、歳が若いな……しかし、髪の色といい、瞳の色といい、良く似ているもんだ」

 

 そんな店主の言葉を聞き、サラの頭の中で、ある推測が成り立つ。

 おそらく、この村の人間は、漆黒に近い髪の毛を持つ人物に出会った事がないのだろう。故に、髪の色が黒という事が『ポカパマズ』という人物の第一心象なのかもしれない。

 

「それはそうと、この店では何を扱っているの……な、なんだあれは!?」

 

 話題を変えるように、リーシャが取扱商品を尋ねながら飾られている商品を横から見て行くと、その視線はある一つの商品で停止し、驚きの声を高らかに上げた。

 そんなリーシャの視線を追ったカミュの瞳も珍しく見開かれている。

 

「あ、ああ……これは<大ばさみ>という武器だよ」

 

「大ばさみ!?」

 

 そして、店主が返した答えにある、魔物の名前のような武器に、サラまでもが驚きの声を上げる。店主が棚から取り外したその武器は、店主一人で下ろす事も困難な程の重量のある物だった。

 形はその名の通り鋏。

 裁縫等で使用する物をとんでもない程の大きさに作られ、その材質は、カミュが持つ<鋼鉄の剣>と同じ物なのか、とても妖しい輝きを放っている。

 

「それで、魔物と戦うのか!?」

 

「当たり前だ! 見た目で判断するなよ。魔物の身体を挟んで捻じ切るんだ。それ相応の力は必要だが、切れ味は保障するぜ」

 

 カウンターに置かれたそれは、店主の言うように凄まじい程の重量感を持ち、このパーティーの中ではリーシャとカミュしか扱えない事は、容易に想像出来る。そして、鋏の刃の部分の見ると、自慢するだけあって、鋭く光り、その切れ味も<鋼鉄の剣>以上である事が解った。

 

「捻じ切るのか……」

 

「……アンタが使えば良いのではないか?」

 

 <大ばさみ>をまじまじと眺めながらリーシャは、呟くように言葉を漏らした。その言葉を聞いたカミュが、まるでからかうようにリーシャへとその武器を薦めて行く。

 

「いや。止めておこう。この武器は両手で使用する物のようだ。これでは盾を構える事も難しくなり、いざという時に身動きが出来なくなる」

 

「……」

 

「……リーシャさん……」

 

 カミュのからかい混じりの言葉に、何かしらの反応があると考えていたカミュとサラは、武器を見つめたままに真面目に答えたリーシャに驚き、言葉を失う。

 良くも悪くも、リーシャはやはり『戦士』であった。

 武器や防具の事となれば、その先の戦闘時の事へも考えを巡らし、自分がその武器を手に取った時の戦い方を考えているのだ。

 

「な、なんだ!? 私は何か可笑しな事を言ったか!?」

 

「……いや……至極当然のようで、誰でも彼でも気付ける事ではない事を言っていた」

 

 カミュ達の反応に、どこか自信無さ気に問いかけるリーシャに、カミュは正直な感想を返す。改めて、彼女がアリアハン屈指の『戦士』である事をカミュは悟ったのだ。

 そして、その横に佇むサラも同様だった。

 

「そ、そうです! 流石リーシャさんです! そ、それに、そんな武器はリーシャさんに必要ありません。そんな武器を構えたら、もう本当にリーシャさんが魔物のようになってしまいますよ!」

 

「……」

 

「……そうか……サラ、ありがとう。気持ちは良く解った……」

 

 何かを悟ったとしても、やはり彼女はサラだった。

 勢い良く笑顔で口にした言葉は、カミュに溜息を吐かせ、リーシャの傍で目を輝かせて武器を眺めていたメルエをカミュのマントへ逃げ込ませる。

 そして、言葉とは裏腹な雰囲気を醸し出し始めたリーシャの笑顔は目が笑ってはいなかった。

 

 人で溢れた市場の一角に、年若い僧侶の悲鳴が響き渡る。

 

 

 

「また次の町や村では、メルエの物も何か見つかるさ」

 

「…………ん…………」

 

 結局一行は、先程の店で何も購入する事はなかった。武器も目新しい物は<大ばさみ>しかなく、防具に至っては<アッサラーム>の品揃え以下だったのだ。

 <魔法の盾>を買って貰ったメルエは、『この村でも何か買って貰えるのでは?』という期待があっただけに、今はリーシャの手を握りながら残念そうに肩を落としている。

 

「それに、まだ奥には他の店があるかもしれないしな」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャは、肩を落とすメルエを慰めるように手を引いて、市場の奥へと歩いて行く。その後ろをサラが続き、最後尾をカミュが歩いていた。

 リーシャの考えが解らないカミュではない。おそらく、リーシャは武器屋の店主の言葉を確かめるために、ポポタという人物のいる奥へと進んでいるのだろう。しかし、それが解っていても、残念そうに肩を落とすメルエを見ていると、カミュは踵を返して市場を出て行く事が出来なかった。

 

「あれ? もうお店は、ここで終わりでしょうか?」

 

 しかし、そんなリーシャの目論見に気付かないサラは、徐々に静まって行く喧騒と共に人影も疎らになって来た事に感想を洩らした。

 サラの言葉に、カミュの表情は苦々しく歪み、リーシャはどこか落ち着かない雰囲気となる。

 その手を握るメルエは、不思議そうに二人を見上げていた。

 

「……戻るぞ……」

 

「あれ? あれはなんでしょう?」

 

 業を煮やしたカミュが、踵を返すのと同時に、前方を見据えたサラがある物を見つけて声を上げた。

 サラの言葉を幸いにと、リーシャはメルエの手を引き、サラの指差す方向に駆け出して行く。それに続いてサラも見つけた物へ駆け寄るのを見て、カミュは盛大な舌打ちを発した。

 

 リーシャが駆け寄った先には、一つの兜が置かれていた。

 その形状はリーシャやサラが被る<鉄兜>のような簡易的な物ではなく、しっかりとした造りの特注兜である事が解る程の物。

 そして、それは良く手入れが成されており、黄金色に輝いている。

 

「……兜か……?」

 

 手入れの行き届いた輝きを放つ兜へ手を伸ばしたリーシャは、何かに怯えるようにその手を戻した。何故か、リーシャはその兜に触れてはいけないという感覚を持ったのだ。

 何故だかは解らない。その兜が放つ奇麗な輝きの為か、それとも、その兜が自分の記憶の片隅にある物に似ているためなのか。

 

「その兜は売り物ではないんだ。悪いが、諦めてくれ」

 

「あっ。ああ、済まない」

 

 手を戻し、何かを考えるように黙り込んだリーシャに不意に声がかかる。その言葉と共に、兜が置いてあるカウンターの奥から歩み寄って来た男が、兜を見ながら考え込んでいたリーシャを申し訳なさそうに見つめていた。

 

「いや、私もこれを預かっている身だからな。この兜が欲しければ、ポポタという少年に聞いてくれ。まぁ、ちょっと難しいだろうがな」

 

「また、ポポタという少年か。ポカパマズという人物を追うには、どうしてもその少年に会ってみなければいけないようだな」

 

 男の話す言葉に、リーシャは今まで何とか誤魔化して来たつもりでいた本心を洩らしてしまい、気付いてはいても、はっきりと宣言されたカミュは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

 

「……戻るぞ……」

 

「えっ!? この兜の持ち主を訪ねてみないのですか?」

 

 リーシャの言葉を無視するように、戻ろうと足を出したカミュに、取り巻く空気を意識する事なくサラが問いかける。サラから見れば、この兜もまた『悟りの書』と同じ様に何か謂れがある物ではないかと感じたのだ。

 

「カミュ、私は行くぞ。メルエはどうする?」

 

「…………いく…………」

 

 背中を向けるカミュにリーシャが言葉を投げかけ、その後に問われたメルエは、カミュの背中とリーシャの顔を数回見比べた後、リーシャに付いて行く事を口にした。

 

「ちっ!」

 

 四人パーティーの内、三人が同意見となり、必然的に反対意見はカミュだけとなる。

 以前のカミュであれば、『勝手にしろ』と言葉を投げ捨て、一人村を出て行ったのだろうが、メルエが行く事を口にした以上、カミュがそれに逆らえる訳がない。

 盛大な舌打ちをしたカミュは、そのまま店主が指し示した指先に見える階段へと歩いて行った。

 

 

 

 階段を登りきった場所にあったのは、少し広めな部屋だった。

 そこは、託児所なのか、数人の子供達と、その子供達に何かを教えるように話しかける二人の大人が椅子に腰掛けていた。

 

「どの子がポポタ君なのでしょう?」

 

 数人の男女の子供達は、見たところメルエよりも若干年上のように見え、その子供達の姿を見たメルエは、何かに怯えるようにカミュのマントの中へと逃げ込んでしまう。

 自分以外の子供と接する事は<カザーブの村>の『アン』以外なかったメルエは、接し方が判らないのだろう。

 

「ああ! ポカパマズさんだ!」

 

「えっ!? ほ、ほんとうだ!」

 

 一人の少年が、自分達を見ているカミュ達を見つけ、この村に入ってから何度目になるか分からない名前を叫び、その声に反応した全員の視線がカミュへと向けられた。

 

「いつ帰ってきたの!? 僕、待ってたんだよ!?」

 

「ずるいよ、ポポタ! 私だってポカパマズさんと遊ぶ!」

 

 カミュの下へ真っ先に駆け寄ってきた少年は、カミュの右腕を取って何度も横に振るが、その後に駆け寄って来た女の子にその手を弾かれて顔を顰めた。

 どうやら、今顔を顰めている少年が、ポカパマズという人物を救った少年『ポポタ』なのだろう。

 

「これこれ、そのように一度に言われては、ポカパマズさんも困ってしまうだろう?」

 

「でも、僕、ずっと待ってたんだ!」

 

 見かねて間に入って来た年若い男性に、ポポタと呼ばれた少年が噛み付くが、そんなポポタの態度に慣れているのか、男性は柔和な笑顔を浮かべながら、優しく少年の頭を撫で、カミュ達に向かって視線を移した。

 

「ポカパマズさん、お久しぶりです。こんな所では何ですので、あちらでお茶でも如何ですか?」

 

「……いや……」

 

 そんな男の提案に首を振るカミュを余所に、カミュのマントの隙間から、メルエがポポタと呼ばれた少年に鋭い視線を向けていた。

 メルエにとってみれば、カミュもリーシャも、そしてサラも自分の物なのかもしれない。そんな子供ならではの嫉妬を含んだ視線を向けるメルエに気付いたリーシャは苦笑を浮かべる。

 

「すまないが、この男は『ポカパマズ』という者ではないんだ」

 

「えっ!?」

 

 断りの理由を話そうとしないカミュに代わって口を開いたリーシャの言葉に、カミュ達一行を除いた全員の表情が固まってしまった。

 

「嘘だ! 何でそんな嘘を付くのさ!?」

 

「……嘘ではない……俺は『ポカパマズ』という人間ではない」

 

 自分の糾弾に、初めて口を開いたカミュの声を聞いて、ポポタの顔が悲しみに歪んで行く。

 外見の特徴は、この村にいる人間達と同じ様に、黒い髪、黒い瞳、そしてその雰囲気で『ポカパマズ』と認識していたのだろう。しかし、声だけは違う。少なくとも、ポカパマズという人物がこの村を出て行くまで、毎日共にいたポポタはその声が頭に残っていたのだ。

 

「では……貴方方は、もしかするとアリアハンという国から?」

 

「な、なに!? アリアハンを知っているのか!?」

 

 悔しそうに俯いてしまったポポタの頭を優しく撫でる男性の言葉は、今度はカミュ達を驚愕させた。

 基本的に、アリアハンという国は辺境の国である。どれ程に祖国を誇りに思っていようと、その点はリーシャも認めていた。

 その辺境の国の名をこのような遠く離れた小さな村の住民が知っている事にまず驚いたのだ。

 

「やはりそうでしたか。ポカパマズさんも、アリアハンという国から来たと言っていました。確か、その国での名前は『オルテガ』とか……」

 

「な、なにっ!?」

 

「えぇぇぇぇ!?」

 

「……その国での名……?」

 

 続いて紡がれたリーシャ達が良く知る名前に、リーシャとサラは驚きの声を上げるが、カミュは男性が発した違う言葉に引っかかりを覚えた。

 

「ええ。このポポタという少年が、村の外で倒れていたポカパマズさんを見つけて来たのですが、その時はポポタもまだ小さく、ポカパマズさんの本当の名前を発音出来なかったのです。ですので、ポポタから聞いた『ポカパマズ』という名前がこの村での認識になってしまいまして」

 

「そ、そんな事はどうでもいい! オルテガ様はこの村に来たのか!? それは何時だ!?」

 

 驚きの声を上げた二人を余所に、疑問を呈したカミュの言葉に反応した男性は、その理由を細かく話そうとするが、それはリーシャによって遮られた。

 『オルテガ』という憧れの存在である名前を聞いた彼女は、胸倉を掴む勢いで、男性へと詰め寄って行く。

 

「あ、あなた方は……」

 

「貴方達が『ポカパマズ』さんと間違えられたのは、その『オルテガ様』のご子息なのです」

 

「!!」

 

「ちっ!」

 

 リーシャの剣幕に戸惑った男性が発した疑問に答えたのは、サラだった。

 サラによって素性を暴露されたカミュは、盛大な舌打ちをしてサラを睨みつけるが、その瞳にはいつものような迫力はなく、サラはカミュから視線を外す事で脅威を感じる事はなかった。

 

「な、なんと! ポカパマズさんのご子息だったとは!?」

 

 サラから事実を告げられた男性は、驚きの表情を浮かべ、まじまじとカミュの顔を見つめる。既にカミュ達を取り囲むように集まっていた子供達の顔にも驚きの色が浮かんでいた。

 

「少年がオルテガ様を助けたと言っていたが、それは何年前だ!? それこそ、少年は幾つなのだ!?」

 

「リ、リーシャさん!」

 

 矢継ぎ早に疑問をぶつけるリーシャを、流石にサラが止めに入った。好奇心の塊のような視線を容赦なく受けているカミュは苦々しく表情を歪め、マントの中にいるメルエは怯えるようにカミュの腰にしがみ付いている。

 

「ポポタがポカパマズさんを見つけたのは、八年ぐらい前の筈です」

 

「なんだと!?」

 

「!!」

 

 リーシャの剣幕に怯えるように搾り出した男性の言葉は、カミュすらをも驚かせるものだった。

 リーシャは身体の力を抜いて呆然と虚空を見つめ、力が抜けたリーシャの身体に手を掛けながらサラも驚きに口を開いたまま。カミュも目を見開き、男性を見つめていた。

 

 それもその筈。

 アリアハンの英雄『オルテガ』は、アリアハンを旅立って一年後に死去した事になっているのだ。それは、もはや十六年も前のこと。それがつい八年程前にこの村に居たと言うのだ。

 リーシャだけでなく、この全世界で『オルテガ』という名を知る者ならば誰しもが驚愕する事実である。

 

「カミュ! オルテガ様は生きているんだ!」

 

「……」

 

 勢い良く振り返ったリーシャの瞳から、カミュが視線を逸らした。しかし、それは何かに耐えるような痛々しい姿だった。

 強く握られた拳には爪が食い込み、引き締められた口の中では強く噛み締められた歯が軋みを上げている。

 

「そ、そうだ! ポポタ! オルテガ様はどんな様子……!!」

 

「あ、あれ?……ポポタ君は……?」

 

カミュのその姿に気付く事なく、リーシャは憧れの人物の生存に喜びを隠し切れずに、その人物が村を出て行くまで共にいた少年に、その時の事を尋ねようとその姿を探すが、少年は何処にもいなかった。

 

「えっ!? ま、まさか、また村の外へ!?」

 

「また? ポポタ君はいつも村の外に出て行くのですか?」

 

 リーシャ達の言葉に我に返った男性は、周囲に視線を巡らし、いつも元気一杯に駆け回っている少年の姿を探す。しかし、その姿が見えない事で、一つの懸念が男性の頭の中に浮かんで来た。

 

「え、ええ。彼は少し元気があり過ぎて、目を放した隙に村の外に出てしまうのです。そのお陰でポカパマズさんを見つけたのですが……」

 

「あの子は幾つなんだ!?」

 

「……まずいな……」

 

 男性の答えに、見当違いの疑問を口にするリーシャを無視するように、傍にある窓から外に視線を向けていたカミュが口を開いた。

 カミュの視線を追ったサラも、カミュが懸念する内容を察する。

 

「……陽が落ち始めている……」

 

「なに!?」

 

 窓から見える外の景色は、既に夕刻を迎えていた。思った以上に時間を使っていたらしく、太陽は西の空へと沈み始めていたのだ。

 建物は真っ赤に染まり始め、夕食の支度の為、立ち並ぶ家々の煙突からは煙が立ち上っている。

 

「カミュ!」

 

「……わかった……」

 

 リーシャの叫びに一つ頷いたカミュは、マントを広げてメルエを外に出した後、階下へと降りて行く。その後をサラが続き、リーシャはメルエを抱き抱えて階段を下りて行った。男性も子供達の世話をもう一人の女性に任せ、カミュ達の後を追って行く。

 

 

 

 市場は夕食の買い物客でごった返しており、その人の群れを掻き分けて外へ出るのにかなりの時間を要してしまったカミュ達は、建物の外に出て自分達の愚かさに後悔した。

 

「どちらに向かったのでしょう?」

 

「ちっ!」

 

 勢い良く出て来たが、ポポタの向かった場所が分からないのだ。

 後ろから付いて来た男性に尋ねるが、『ポポタはいつも一人で戻って来るので分からない』という言葉に探す手段を失くしてしまう。

 それでも村に一つしかない外界への門へ向かう一行の前で、おろおろと立ち尽くす一人の女性が見えて来た。妙齢の女性で、今まで食事の支度をしていたのか、エポロンをつけ、右手には木で出来たへらを持っている。

 

「ああ! ポポタが! ポポタが外に!」

 

 その女性は、カミュ達の後ろにいる男性を見つけると、縋りつくように咽び泣き、同じ言葉を繰り返し始める。女性を落ち着かせるように、肩に手を回した男性の温もりに次第に女性の心が定まって行った。

 彼女がおそらくポポタの母親なのだろう。

 

「ポポタは何処へ?」

 

「外に飛び出してしまって!」

 

 男性の問い掛けに、ポポタの母親は村の門の先を指差す。門には、門番が出入りするための小さな扉が付いており、その扉は開かれたままだった。

 

「……向かった場所に、心当たりは……?」

 

「あ、あなたは?」

 

「この方は、ポカパマズさんのご子息だそうだ」

 

 埒が明かない事にカミュが口を挟む。母親の問い掛けに答えた男性の言葉に、若干眉を顰めるが、もう一度母親に心当たりを尋ねると、母親は少し考えた後で口を開いた。

 

「おそらく、ポカパマズさんが倒れていた場所ではないかと……あの子は何時もそこへ行っていると言っていましたから」

 

 その場所の詳細を聞いたカミュ達は、『自分達も行く』と聞かない母親と男性を黙らせ、門の外へと駆け出した。

 実際、母親であれば、息子を救うために危険を問わないだろう。飛び出してしまった息子の姿に動揺していた当初であれば別だが、落ち着きを取り戻した母親の瞳には、親にしか持つ事の出来ない強い光が宿っていた。

 故にこそ、カミュ達は強い言葉で二人を黙らせ、村に置いて来たのだ。

 カミュ達が、この近辺の魔物に後れを取る事はない。しかし、その中に子供の為に我が身を犠牲にしかねない者がいれば、話は変わってくる。カミュ達は、その者に注意を向けざるを得なくなり、どうしても魔物への対処が一歩遅れてしまうのだ。

 そして、それとは別に、カミュもリーシャも、そしてサラも、もう二度と子供の為に犠牲になる者の姿を見たいとは思っていなかった。

 

 

 

 

 

 ポポタは、次第に自分を包み込んで行く闇に怯えていた。

 村の外に出たのは初めてではない。

 それこそ、彼が二歳か三歳になるかならないかの頃から、村の外へ抜け出していた。

 そんな折に、この海に近い平原で傷つき倒れる男性を見つけたのだ。

 

「うっうっ……ポカパマズさん……」

 

 ポポタという少年には、物心がついた頃から父親という存在がいなかった。母親の話では、ポポタが生まれてすぐに、病によって命を落としたという事だった。

 その折には、この村には薬師はおらず、どの町や国にも隣接していないこの村では病に対抗する手段がなかったのだ。

 故にその後、ポポタの祖父に当たる病で息子を失った父親が、老いを感じていた身体に鞭を打って薬学を習得し、この村で唯一の薬師となった。

 村の近くで倒れていたポカパマズの傷を癒し、その身体を蝕んでいた病を治したのは、そのポポタの祖父だったのだ。そして、余談ではあるが、ポカパマズの息子と名乗る青年が連れて来た幼い少女の病を診察したのも、その祖父であった。

 

「……暗くなってきちゃった……どうしよう……」

 

 ポポタの祖父の家で養生をしていた事や、ポポタが第一発見者であった事から、ポポタは傷つき倒れていた男性の下へ毎日通い、目が覚めるまでは、何度も額に乗る布を換え、目が覚めてからは包帯等の交換を手伝った。

 

 次第に男の傷は癒え、病からも驚異的な回復を見せる。名を聞くポポタに答えた男性の名は、ポポタが聞いた事のない発音の名前だった。故に何度も言い直すが、結局『ポカパマズ』というこの村独特の発音で落ち着いてしまったのだ。その事に、男性は怒る事などなく、笑いながらポポタの頭を撫でてくれた。

 

 『病は治りかけが肝心』という言葉に従い、傷も完全に癒えていない事から、ポカパマズと呼ばれ始めた男性は、村で暫く過ごす事になる。

 村のどんな男よりも逞しい腕で振り下ろす斧は、誰も倒す事が出来なかった太い木の幹を容易く折り、その逞しい身体は、誰も動かす事が出来なかった大岩を軽々と運び上げた。

 

 いつしか、ポポタはポカパマズと呼ぶ男性を父親のように慕い始めていた。

 

「クキャ――――――――!!」

 

「ひっ!」

 

 次第に視界を奪って行く闇に怯えていたポポタの後方から奇声が発せられた。慌てて振り向いたポポタの視界に、今まで見た事のない異形の生物達が立ち塞がる。

 蝙蝠のような羽を背中から生やした人型の魔物ではあるが、その口から生える牙は恐ろしく長く、ポポタの首筋に向けられた瞳は濁った赤色をした魔物が一体。

 そして、その横に浜辺に打ち付けられている貝殻を被った緑色をしたスライム状の生物が一体。

 

 夜の帳が降り、魔物達の瞳だけが怪しく光っている。

 それが尚更ポポタの恐怖心を掻き立てた。

 

「く、くるな! こないで!」

 

「キシャ―――――――――!」

 

 その場に尻餅を付くように倒れたポポタは、恐怖に震えた声を上げながら後方へと下がろうとするが、そんなポポタを嘲笑うかのように、魔物達はゆっくりとポポタとの距離を縮めてくる。

 羽を生やした人型の魔物がポポタとの距離を詰めるように空中を飛んでおり、その後ろを一体のスライム状の魔物がちょこちょこと飛び跳ねていた。

 

<スライムつむり>

沿岸部に生息する魔物で、硬い貝殻等を住処にするスライムの亜種である。その身を覆う貝殻のような物は非常に硬く、鋼鉄製の剣等でも割る事が出来ないほどの物。周辺にいる同じスライム系の魔物を呼び寄せ、人を襲う魔物である。

 

「……うぅぅ……助けて……助けて、ポカパマズさん……」

 

 ポポタは、自分が父親のように慕う者の名を溢す。

 ポポタの母は、あの村に住む一人の男性との再婚を考えているようだった。それは、幼いと言っても、十歳という年齢を超えたポポタでも察する事が出来る物。

 時には、ポポタの家に来て夕食を共にする事もある。しかし、ポポタはその男性をどうしても認める事が出来なかった。

 

 その男性は、とても頭が良く、毎日ポポタ達に学問等を教えてくれる人間。

 決して、嫌いではない。いや、むしろ『好き』か『嫌い』かを問われれば、間違いなく『好き』の部類に入る。

 優しく、時には厳しく、そして子供達に『愛情』を注いでくれるその男性を、村の中でも『嫌う』者など誰一人としていない。

 

 しかし、その男性にはたった一つ、本当に一つだけ、ポポタが父親に求める物が欠けていた。

 それは、『逞しさ』と『力強さ』。

 大木をも薙ぎ倒し、大岩も軽々と持ち上げ、そして一度剣を握れば、容易く魔物達を撃退する力だ。ポポタがポカパマズという人物によって魅せられ、彼の父親の理想像を作り上げる事になった能力。

 それを今、ポポタは求めていた。

 

「キュピ――――――――!」

 

 目に溜めた涙が零れ落ちる。もはや、目の前に迫る魔物達の姿もはっきりと認識する事は出来ない。

 空中を飛ぶ人型の魔物が周りを取り囲んでいる間に、<スライムつむり>がポポタへと飛び掛って来た。恐怖に身を固め、視界も定かでないポポタにその攻撃を避ける事など出来ない。

 必然的に、この少年の末路は決まったかに思われた。

 

「ふん!」

 

「ピキュ!」

 

 しかし、そんなポポタの確定されたかに見えた未来は、ポポタが心の底から望んだ『ポカパマズの息子』という地位を、生まれながらにして持っている青年によって打ち砕かれる。

 

「カミュ!」

 

「ポポタ君! 大丈夫ですか!?」

 

「…………」

 

 カミュが切り開いた道を突き進んで来た三人がそれぞれの言葉を捲くし立てる。唯一人、ポポタよりも幼く見える少女だけは、ポポタに厳しい視線を向けながら、カミュのマントを強く握り締めていた。

 

「……メルエ……あの僧侶の後ろに……」

 

「…………いや…………」

 

 魔物から視線を外す事なく、自身のマントを握る少女に指示を出すカミュの言葉は、はっきりとした否定に切り捨てられる。

 そんなメルエの姿に軽く溜息を吐いたカミュは、右手に持つ<鋼鉄の剣>を魔物に向けて、構えを取った。

 

「……その子供と、あのスライムもどきは任せた。メルエは俺とあの飛んでいる奴だ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの言葉に、やっと頷き返したメルエは、手にしっかりと<魔道士の杖>を握り、カミュが対峙する蝙蝠の羽を持つ魔物へと視線を向けた。

 その魔物は、メルエの心に恐怖心を植え付けた魔物と酷似した者であったが、メルエの前には、彼女が全幅の信頼を寄せる青年が立っている。それが、メルエの心を安定させ、恐怖を力へと変えて行った。

 

「ポポタ君、怪我はありませんか?」

 

「サラ! 少年は任せたぞ!」

 

 ポポタの傍に寄って来た法衣を着た女性がポポタの身体を隅々まで調べ、もう一人の屈強な女性は、背中につけた大きな斧を取り出し、魔物へと向かって構えを取った。

 

 ポポタは、自分の身体を気遣い、声をかけて来るサラの方へ視線を動かす事をせず、ただじっと、自分の前に立ちはだかる大きな背中を見つめていた。

 その背中は、彼が熱望した者の物より若干小さい。しかし、その背中はとても温かかった。とても力強く、そして自らの後ろにいる者に絶対の安心感を与えるような決意に満ちていた。

 

「……ポカパマズさん……」

 

 その背中を見て、ポポタは無意識に名を呼んでしまう。

 そして、嫌が応にも理解せざるを得なかった。

 今、ポポタの前に立つ者こそ、本当にポカパマズの息子なのだと。

 

 ポカパマズに息子がいる事は知っていた。

 村で療養中にポポタの頭を撫でるポカパマズは、まるでポポタの姿を通して誰かを見ているように優しい瞳をしていたのだ。

 一度、その理由を尋ねたポポタに、ポカパマズははっきりと自分の息子の存在を告げる。その時、ポポタは自分が慕う人物の愛情を注がれている存在に嫉妬したが、それ以上に優越感を覚えた。

 『今、この逞しい父親の傍に居るのは、自分なのだ』と。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 メルエが掲げた杖の先から大岩程の火球が飛び出し、空中を飛んでいる魔物に向かって飛んで行く。それと同時にカミュも<鋼鉄の剣>を構えて飛び出した。

 虚を突かれた魔物は、メルエの火球から辛うじて身を避けるが、そこをカミュの剣が襲い掛かる。

 

<バーナバス>

吸血性の魔族の頂点に立つ魔物である。人の生き血を好み、その眷属を増やして行く。実際<こうもり男>や<バンパイア>と呼ばれる下種の吸血族は、この<バーナバス>に血を吸われた人間ではないかという説もあるのだ。鋭い爪と牙以外にも、様々な呪文を使いこなすと云われているが、見た者は命を落としている為、その信憑性には疑問の声も上がっている。

 

「ギギャ――――――――!」

 

 カミュが振るった<鋼鉄の剣>が<バーナバス>の肩口に斬り込まれ、胸付近まで一気に斬り裂いた。

 凄まじい雄叫びと共に、人外の者を認識させる色の体液を噴き出し、<バーナバス>は弱々しく地面に足をつける。

 

「メルエ!」

 

「…………ん…………」

 

「&=%$」

 

 地面に足を着け、身動きが出来ないと考えたカミュが、メルエに呪文の詠唱を指示するが、頷いたメルエが詠唱に入る前に、<バーナバス>が自身の傷跡に手を当て、理解できない言葉を呟く。

 それと共に、<バーナバス>の傷口を淡い緑色の光が包み込み、体液の流出を止め、肉が傷口を塞いで行った。

 

「ちっ!」

 

「……あれは、ベホイミ……?」

 

 その様子を見たカミュは盛大な舌打ちをした後、再び<鋼鉄の剣>を構え、<バーナバス>へと突進して行く。ポポタの傍に居たサラは、その様子に絶句していた。

 もはや、魔物が『経典』に載る呪文を使える事は理解していたつもりだった。しかし、自分が使用できる最高の回復呪文まで魔物が使用する事を目の当たりにした事で、『人』と『魔物』の現実を再び突きつけられた気がしたのだ。

 

「サラ! 呆けるな! あのスライムもどきの殻が硬過ぎる!」

 

「あ、は、はい!」

 

 呆然と<バーナバス>を見つめるサラに、リーシャの檄が飛ぶ。<スライムつむり>に振るったリーシャの斧が、その身体を覆う硬い殻に弾かれたのだ。

 リーシャが何故自分にその事を告げたのかが理解できないサラではない。そこで、サラはようやく自身の立ち位置、そしてその役目を思い出す。

 『サラがいるから、私は前線に出る事ができる』というリーシャの言葉を。

 そして、自身の殻を破り、大空へと飛び立つ時を迎えようとしている一人の女性が、呪文の詠唱を完成させた。

 

「ルカニ!」

 

 ポポタは、自分の目の前で繰り広げられる戦闘を、不思議な気持ちで眺めていた。

 もはや、自分の身に危険が迫る事はないだろう。先程、自分に襲い掛かって来たスライム状の魔物は、自分の傍にいる僧侶が唱えた魔法によって淡く光った後、もう一人の女性の振るった斧によって真っ二つに斬り裂かれた。

 そして、鋭い牙を持ち、空中を飛んでいた魔物も、一度は傷を癒したものの、連携の取れた二人によって追い詰められている。

 巨大な火球を辛うじて避ければ、その先にはポカパマズの息子が振るう剣が待っている。傷を受けながらも何とかそれを回避したところに、今度は冷気が飛んで行った。

 追い詰められた<バーナバス>が牙を剥いた所に、剣を合わせ、その身を貫く。

 

「……」

 

 そんな光景を唖然として見ながらも、ポポタの心には、不思議と悔しさは湧いて来なかった。

 自分が憧れた地位にいる青年に対しても、自分より幼いながらも魔物と対等に戦う事の出来る少女にも。

 ポポタの心に残ったのは、たった一つの『想い』だった。

 『自身もいつの日か、あのように強くなるのだ』という『想い』。

 

 心が定まった為か、それとも自分の命が助かった事への安堵からなのか、ポポタは、<バーナバス>の胸に止めの一撃を突き刺すカミュの背中を見たのを最後に、意識を失った。

 

 

 

 

 

 ポポタが意識を取り戻した時、そこは、海岸近くにある夜の平原ではなく、自分の慣れ親しんだベッドの上だった。

 ポポタを覗き込むように目の前にある顔は二つ。自分の大好きな母親の泣き腫らした顔と、いつも優しい笑顔を向ける男性の顔。

 目を開けたポポタを見て、再び母親の目から大粒の涙が溢れ出し、ポポタの顔を濡らして行く。

 

「ポポタ! ポポタ!」

 

 自分に覆い被さるように抱きついてくる母親に目を白黒させながら、ポポタは昨日の事を思い出す。自分は、ポカパマズの息子に救われたのだろう。

 あの力強く、温かな背中に。

 

「……ポポタ……心配したんだぞ……」

 

 見慣れた笑顔を見せる男性の顔は、疲労が隠しきれていなかった。その言葉通り、意識の戻らないポポタを心から心配していたのだろう。

 ポカパマズやその息子のような力強さは、この男性にはない。それでも、ポポタを心から案じる優しさをこの男性は持っているのだ。

 

「……ごめんなさい……」

 

「!!」

 

 素直に謝罪の言葉を口にするポポタに、男性は一瞬目を見開くが、すぐにいつものような優しい笑顔を浮かべ、ポポタの頭を優しく撫でた。

 その手は、ポカパマズのように大きくはないが、それ以上の温かさを持っていた。

 

「……ぐずっ……ポポタ、お腹は空いてない?」

 

 ようやくポポタから身を離した母親が、涙を拭いながら尋ねた言葉に、ポポタは笑顔で頷いた。

 ポポタの笑顔に、もう一度涙を流し、母親は昨晩作ったスープを取りに部屋を出て行く。

 

「ポカパマズさんの息子は?」

 

「あ、ああ。彼らなら、今朝にはこの村を出て行くと言っていた。お礼をしたいと言ったのだが、聞き入れて貰えなくてね」

 

 自分の質問に答える男性の言葉を聞いて、ポポタは勢い良く身体を起こす。彼らもポカパマズと同様、一度この村を出て行けば、もう二度とこの村に立ち寄る事などないだろう。それはポポタにも理解できた。

 だが、その前に伝えるべき言葉がポポタにはあったのだ。

 

「ポ、ポポタ!」

 

 勢い良くベッドから降りたポポタに驚いた男性が発した制止の言葉を無視し、ポポタは家を出て行った。

 

 

 

 ポポタが村に出ると、朝日が眩しく輝いており、村に一日の始まりを告げていた。

 自分を照らし出す朝陽に構う事なく、ポポタは村に一軒しかない宿屋へと向かって懸命に足を動かす。

 

「お兄ちゃん!」

 

 ポポタの瞳に宿屋が映った頃、ちょうど昨日ポポタを救った四人が宿屋から出て来たところだった。

 自分に気付かない四人が歩き出してしまわないようにポポタは大きく手を挙げ、声を張り上げる。その声に気付いた四人は、それぞれ違う表情を浮かべた。

 昨晩、ポポタの身体を気遣ってくれた僧侶は嬉しそうに微笑み、魔物を一撃で仕留めた女性は、驚いたように目を見開く。

 その女性の手を握っていたポポタより幼い少女はあからさまな敵意を向けた視線をポポタに向け、ポカパマズの息子は何かに呆れるように大きな溜息を吐いた。

 

「ポポタ君。もう身体の方は大丈夫なのですか?」

 

「うん! 昨日はありがとう!」

 

 カミュ達の傍に辿り着いたポポタに、サラは優しく語りかけ、その言葉に応じるように、ポポタは深々と頭を下げた。

 

「それでね。お兄ちゃんに一緒に来て欲しいんだ」

 

 顔を上げたポポタは、カミュの手を握る。その行動に、メルエの視線が更に厳しい物になり、その手は背中にある<魔道士の杖>へと伸びて行った。

 そんなメルエの様子に気付いたリーシャは、苦笑を浮かべながらメルエを抱き上げる。不意を突かれたメルエは、不満そうにリーシャの顔を睨むが、『駄目だ』という言葉と共に軽く頭を小突かれ、リーシャの肩に顔を埋めてしまった。

 

「……どこへ……」

 

「いいから。とにかく一緒に来てよ!」

 

 迷惑そうに眉を顰めるカミュを無視し、ポポタはその手を引いて村を歩き始める。流石に子供に対して、拒絶の姿勢を見せる事の出来ないカミュは、仕方なくポポタに導かれるまま、歩き出した。

 

 

 

「ここは……」

 

 サラは、ポポタが連れて来た場所を見て首を傾げる。そこは、昨日カミュ達が訪れた市場だった。

 カミュの手を引いたまま、ポポタは市場の中にどんどん入って行く。リーシャに抱かれながら、その様子に厳しい視線を送るメルエは、今にも呪文を詠唱しそうな雰囲気を纏っているが、リーシャの視線とサラの笑顔によって、寸前のところで止められていた。

 

 そして、ようやくポポタが足を止めた場所は、昨日カミュ達が足を止めた場所だった。

 市場の最奥に当たり、市場の喧騒も微かにしか聞こえない場所。そして、全員の目を引き付けた防具が飾られていた場所である。

 

「これを……お兄ちゃんにあげるよ」

 

「……」

 

 カミュの手を離し、目の前に飾られている兜を指差して微笑むポポタを見ても、カミュの表情は優れなかった。

 むしろ、先程よりも眉尻の皺は濃くなったかのように見える。

 

「この村を出て行く時、ポカパマズさんが僕にくれたんだ」

 

「オルテガ様がか?」

 

 ポポタの言葉に、リーシャはようやく昨日の引っ掛かりの原因を理解した。

 リーシャは幼い頃に一度見ていたのだ。

 アリアハンから出て行くオルテガがこの兜を被っていたのを。

 

「うん! 本当は……本当はね……ポカパマズさんは、旅を終えた後に自分の子供にあげるつもりだったみたい……」

 

「そうだったのか……」

 

 ポポタの言葉に、リーシャは全てを察した。

 この少年は、何かを吹っ切ったのだと。

 そして、この少年の成長には、自分の横に立つ、『勇者』と呼ばれる青年が必要なのだと。

 

「……だからね……だから、お兄ちゃんにあげる! 僕はまだ、この兜を被る事は出来ないから……」

 

「……」

 

 何かを伝えようと必死で言葉を紡ぐポポタの瞳は濡れていた。

 彼にとって、この兜は、それこそ命の次に大事な物なのだろう。

 出来る事ならば、生涯手元に置いておきたい物なのかもしれない。

 

「その方が、この兜も、ポカパマズさんも喜ぶと思うから」

 

「……」

 

「……カミュ様?」

 

 必死に自身の心を伝えるポポタに対し、一向に返答を返さないカミュを窺うようにサラは言葉を掛けるが、それでもカミュはじっと兜を見つめたまま、何も口にはしなかった。

 

「……駄目……かな……?」

 

「……俺には、必要ない……」

 

「カミュ!」

 

 何も口にしないカミュに対し、不安を覚えたポポタがもう一度問い掛けるが、カミュから返って来た答えは、とても冷たい物だった。

 その言葉に顔を下げるポポタを見て、メルエを下に降ろしたリーシャがカミュへと詰め寄った。

 

「お前は! この兜がオルテガ様の物だから、ポポタの心を無碍にするのか!? お前のその小さな意地の為に、この少年の大きな決意を踏み躙るのか!?」

 

「……」

 

 こうなってしまったリーシャを止める事は、サラにもメルエにも出来はしない。唯一可能であるカミュも、何かから逃げるように視線を逸らしていた。

 

「お前は、私に言った事がある筈だ! 『どんな謂れがあろうと防具は防具。貧弱な装備のままで旅を続けるつもりはない』と。お前の頭部には、以前から装備していたサークレットはもうない筈だぞ!」

 

「ちっ!」

 

 リーシャの言葉に、カミュは盛大な舌打ちを返す。

 確かに、以前からカミュは、国王から拝領した装備品等を惜しげもなく替えて来た。そこにどんな謂れや伝承があろうと、それ以上の物があれば、それを装備する事こそ、自身の命を護る手段だとカミュは考えていたのだ。

 

「私やサラが装備している<鉄兜>よりも、このポポタがくれる兜の方が良い事は明白だ。お前は自分が吐いた言葉を撤回するのか?」

 

「……ならば、アンタが装備すれば良いだろう……?」

 

 珍しいリーシャの理詰めに対し、カミュは苦し紛れの返答しか出来なかった。

 そんなやり取りを見ていて、サラは驚く。この村に来てから、リーシャとカミュの力関係は完全に逆転していると。

 それは一時的な物かもしれない。それでも、それは不思議な光景であったのだ。

 

「私は、この<鉄兜>が気に入っている」

 

「へっ!? あっ! わ、わたしも気に入っています!」

 

 サラは強い者に付く事にした。

 この場面では、明らかにカミュよりもリーシャの方が強者である。

『では、私のを』等と言った暁には、地獄の扱きが待っている事だろう。

 

「あははっ! サラから<鉄兜>を貰っても、この兜をサラが装備する事は出来ないだろう?」

 

「あっ! そ、そうでした」

 

 しかし、サラの予想に反し、リーシャは柔らかな笑顔を向けて、至極当然の答えを返して来る。その言葉を聞き、サラは自分が要らぬ心配をしていた事に気がついた。

 

「どんな謂われがあろうと、兜は兜だ。それとも、お前は貧弱な装備のままで旅を続けて命を落とし、メルエの心まで壊すつもりか?」

 

「……」

 

 そして、リーシャは最後に伝家の宝刀を抜き放った。

 『お前が死んだら、誰がメルエを護るのだ?』と。

 実際にカミュが死んだとしても、メルエの命は、リーシャやサラによって護られるだろう。しかし、自分が慕う身近な者の死は、メルエの心を再び閉ざしてしまう可能性を否定する事は出来ない。

 

「……ちっ……」

 

「よし。ポポタ、ありがとう。その兜は、有り難く使わせてもらう」

 

「うん!」

 

 小さく舌打ちをして視線を外すカミュの姿を、リーシャは肯定と受け取った。

 不安そうにカミュを見上げていたポポタの頭に手を乗せ、柔らかく微笑むと、ポポタの顔にも笑顔が浮かんだ。

 反対に、リーシャの足下にいたメルエの瞳の鋭さは増して行く。それに気付いたサラが、メルエを後ろから柔らかく抱き締めた。

 子供特有の独占欲。それは、ポポタにも、そしてメルエにもあるものだったのだ。

 そしてその事は、村の出口付近まで見送りに来てくれたポポタの一家との別れの場面で明白となる。

 

 

 

「本当にありがとうございました」

 

 何度も何度も頭を下げるポポタの母親の横には、昨日に託児所のような広間からカミュ達と共に飛び出した男性が立っていた。

 ポポタの頭に手を置き、その手をポポタが嫌がらない事を見れば、彼の未来は明るい物なのかもしれない。

 

「お兄ちゃん! また来てくれる!?」

 

「…………こない…………」

 

 自分の憧れた人物が被っていた兜を頭に装備したカミュを眩しそうに見上げたポポタは、満面の笑みを浮かべながらカミュ達の再訪を問いかけるが、それに答えたのは、足下にいたポポタよりも幼い少女だった。

 

「むっ。じゃあ、君は来なくても良いよ」

 

「…………みんな………こない…………」

 

 子供の意地の張り合いに微笑む一同の中で、カミュだけは表情を消したままだった。隣に立つカミュの表情に気がついたリーシャが、メルエの頭を優しく撫でながら口を開く。

 

「メルエ。そんな事ばかり言っていると、カミュのようになってしまうぞ? いつまでも意地になっていると、見える物まで見えなくなってしまう」

 

「…………むぅ…………」

 

「ちっ!」

 

 リーシャの言葉に、暫しむくれていたメルエが、リーシャの後ろに隠れるように身を動かしたのと、カミュが舌打ちをしたのは同時だった。

 周囲は柔らかな笑い声で満たされ、それから逃げるようにカミュは村の外へと続く門を出て行く。それに気付いたメルエが素早くカミュを追って行った。

 

「ポポタ。村の外へ出て、母君に余り心配をかけるなよ?」

 

「うん!」

 

 はっきりと大きな声で頷くポポタに、リーシャは笑顔を返し、一度ポポタの母親に頭を軽く下げた後、サラを伴ってカミュ達の待つ門の外へと出て行く。

 そんな四人の姿が、不思議な光に包まれて上空へと浮かび上がり、南西の方角へと消えて行くまで、ポポタは手を振り続けていた。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにてムオルの村編終了です。
この村は、FC版では「みずでっぽう」というアイテムが手に入るだけでした。
しかし、SFC版ではこの「オルテガの兜」という重要アイテムが出て来ます。
この兜が示す事柄を、久慈川式独自解釈で物語の中に入れ込んだ形となります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ダーマ神殿②

 

 

 

 カミュの唱えた<ルーラ>によって、彼らが<ダーマ神殿>に辿り着いた頃には、陽も傾き始め、山頂に位置するその場所は、静かな闇と冷たい空気の支配が始まっていた。

 

「今日は、宿屋で一泊だな」

 

「……ああ……」

 

 メルエの手を引きながら、カミュへと問いかけるリーシャに一つ頷いたカミュは、自分達の後方で何かを思いつめ始めている一人の僧侶に視線を向ける。そこに立つサラは、暗闇の支配が及ぶ大きな神殿を見上げ、胸には言葉通りに『命を懸けて』手に入れた書物を抱えていた。

 力が籠っている証拠に、書物を握る手は微かに震え、眉は自信なさ気に下へと下がっている。それが、サラが何を考え、何に怯えているのかを如実に表していた。

 

「サラ。今夜はゆっくりと休め」

 

「えっ!? は、はい」

 

 リーシャの呼びかけに答えたサラは、まるでリーシャの言葉を理解していないような虚ろな表情で一つ頷くだけ。そのサラの様子に一度溜息を吐いたリーシャは、メルエをカミュの方へと移動させ、カミュへと目配せをする。リーシャの視線に軽く頷いたカミュは、メルエをマントの中に収め、神殿の門へと歩いて行った。

 

「サラ。少し話をしようか」

 

「えっ!?」

 

 何も考えず、ただ神殿へと歩くカミュの背中を茫然と眺めていたサラの肩にリーシャの手がかかり、その呼びかけに、サラは驚いたようにリーシャへと振り向いた。

 リーシャに向かってゆっくりと頷いたサラを促し、神殿へと足を踏み入れると、既にカミュ達の姿はなく、宿屋へと向かった後だった。

 リーシャは、再び俯き足が止まったサラを促し、宿屋の方角ではなく、本来のサラの居場所の一つである場所へと向かう。

 

 

 

「サラ。座ろう」

 

「……はい……」

 

 夜の闇によって、ステンドグラスの輝きは失われたその場所は、周囲に灯された明りによって柔らかな光に包まれていた。

 そこは、サラが信仰する精霊の像が祀られている場所。リーシャに導かれながら、その場所へと足を踏み入れたサラは、正面で優しい笑顔を浮かべて微笑む精霊の像を一目見ると、そこから足が一歩も動かなくなってしまった。

 

「……何に怯えている?」

 

「!!」

 

 傍にある長椅子に腰をかけてからも、俯いたまま両手を震わせるサラから視線を外してリーシャが呟いた言葉に、サラは弾かれたように顔を上げ、唇を細かく震わせながら目に涙を溜める。

 

「サラは、何に恐怖を抱いているんだ? 『僧侶』としての資格を失った事か?」

 

「……あ…あ……」

 

 リーシャの言葉に、サラは返す言葉を持ち合わせてはいなかった。

 <ガルナの塔>や<ムオル>を歩いていた時には、正直に言えば、サラに悩む余裕はなかったのだ。しかし、この神殿を見上げた時に、再びサラの心を襲った『恐怖』。

 

 『自分はここに足を踏み入れる資格はあるのか?』

 『自分はこの書物を持つ資格はあるのか?』

 

 それは、サラの心を急速に蝕み、壊して行く。この聖地に入る事への恐怖に変わり、自己の存在への恐怖へと変わって行った。その事をリーシャは突き出したのだ。

 リーシャは、サラに視線を合わせない。自分達の前で柔らかな微笑みを浮かべる『精霊ルビス』の像を真っ直ぐ見つめ、口を開いた。

 

「サラ。もし、サラが思うように、『僧侶』の資格を失っていたとしよう。それは、私やカミュが決める事ではない。サラが感じ、サラが自覚する事だ」

 

「……」

 

 リーシャの核心を突く言葉に、サラは息を飲む。

 既に、リーシャの中では決定事項なのではないかと。

 

「だが、それがどうした? サラがそんな自分を許せないのは、全てではないが理解は出来る。だが、何にそこまで怯えている?」

 

「……わ、わたしは……」

 

 リーシャの問いかけ。

 それにサラは答えられない。

 それが何故なのか。

 そして、自分の心は何に怯えいるのかがサラにも解らないのだ。

 

「その事によって、周囲の人間の視線が変わるからか?」

 

「!!」

 

 サラの心が、姉のように信頼する人間とは言え、他人によって暴かれる。

 それは、サラの頭に鈍器で殴られたような衝撃をもたらした。

 

「『ルビス様を崇め、その教えを護る『僧侶』にも拘わらず、罪人を救い、そればかりか魔物の命まで救った』と蔑まれ、疎まれ、排除される事への恐れからなのか?」

 

「ちっ、ちが……」

 

 反射的に反論しようとするサラに、リーシャはようやく視線を動かし、真っ直ぐサラへと視線を移す。その瞳は温かい優しさを湛えつつも、その奥には厳しさを備えている物であった。

 

「違うのか?」

 

「……あ……」

 

 リーシャの真剣な瞳を見て、サラの言葉は詰まってしまう。

 それが、サラの心を明確に表わしていた。

 

「ならば、私達を馬鹿にしているのか?」

 

「えっ!?」

 

 続くリーシャの予想外の言葉にサラは驚愕の声を上げる。余りにも突拍子のないその言葉は、サラの心を知っていながら出た、確認のようなものだった。

 

「私達が、サラを『僧侶』の資格もない者と見下すとでも言うのか?」

 

「い、いえ! そのような事はありません!」

 

 全力で否定の言葉を発するサラに向けられたリーシャの瞳はまだ和らがない。

 それが、まだ続きがある事を語っていた。

 

「ならば、サラ……」

 

「??」

 

 少し間を置くように、リーシャは一つ息を吐いた。

 重要な事を告げるように。

 それを言う事を躊躇うように。

 

「本当にサラには『僧侶』としての資格はないのかもしれないな」

 

「!! な、なぜですか!?」

 

 サラの目を見て、瞬きもせずに告げられた宣告は、サラの心を大きく抉って行く。

 容赦なく心を鷲掴みにされ、引き擦り出される。そんな感覚にサラは襲われていた。

 

「サラは、ルビス様を信じてはいないのだろう?」

 

「そ、そのような事はありません!」

 

 満を持して告げられたリーシャの言葉にサラは即座に反応を返した。

 それはとても許容出来る物ではない。

 『教え』に疑問を持った事はある。しかし、『精霊ルビス』という高貴な存在を疑った事など、サラは一度もなかったのだ。

 

「ならば何を悩む! ルビス様は、サラが悩み苦しむ事を見ても、何もお感じにはなられないとでも言うのか!? 罪人であろうと、魔物であろうと、その命を救う事に悩み、それでも一つの命を救う為に懸命に動いたサラを見捨てる程に、ルビス様のお心は狭いのか?」

 

 リーシャは、この心優しき女性を見捨てる事はできなかった。

 常にその優しさと現実の狭間で想い悩み、そして全てを自分の責任として被ってしまう女性を。

 アリアハンを出た当初は違っていた。いや、<シャンパーニの塔>を登るまでのサラは、その辺りの教会にいる『僧侶』と何一つ変わりはなく、広まっている『教え』を盲信的に信じ込み、それに反する者を罪人のように見ていた節がある。

 しかし、ここまでの旅は、そんなサラの心を大きく変化させていった。

 自分の頭では追いつけない程の現実を知り、その現実を許容外として弾き出す事もなく、全てを受け止める。だが、それは常識として『教え』を刷り込まれて来たサラにとっては、苦痛すら伴う程の物だった。

 何度も悩み、何度も苦しみ、そして何度も涙した。そんなサラはリーシャの誇りであり、そんな誇りを自ら傷つけるサラをリーシャは許せなかった。

 

「何度でも言おう。私はサラを心から尊敬し、誇りに思っている」

 

「リ、リーシャさん……」

 

 そう告げたリーシャの顔が下へと下がる。

 そして、再び上げられたリーシャの瞳には強い決意が宿っていた。

 

「……もし……もし万が一、ルビス様がサラをお許しにならないと言うのならば、私はルビス様にこの斧を向けよう。ルビス様がサラを裁くというのならば、私はルビス様であろうと許しはしない」

 

「……そんな……」

 

 サラは、決意と共に語られたリーシャの言葉に絶句した。

 カミュが言うのならば、納得も行く。彼は、元々『精霊ルビス』という存在を信じてはいないのだから。

 しかし、リーシャは違う。サラのような『僧侶』程ではないが、ルビス教を信仰している人間なのだ。『今日ある糧は、ルビス様のご加護の賜物』。そう信じて生きて来た人間の一人である。

 それが、畏れ多くも、神に等しいその存在に向かって武器を構えると宣言し、その神の行為を『許さない』という傲慢な態度を取ったのだ。

 

「私もカミュと同じだ」

 

「えっ!?」

 

「私も、サラ以外に『僧侶』という存在は知らない。『僧侶』とはサラの為にある言葉だと思っている」

 

 サラは茫然とリーシャを見上げていた。彼女は、<バハラタ>でカミュから言われた事も、<ガルナの塔>でカミュから言われた事も、全て違う意味に取っていた。

 しかし、今のリーシャの言葉をそのままに受け取ると、リーシャもカミュも、サラだけを『僧侶』と認めているという事になる。

 

「……ですが……ですが、わたしは……」

 

「それに、私達だけではなく、このサラのような僧侶達の聖地も、サラを『僧侶』として認めているのだろう? 私やカミュやメルエが、この場所に入る事が出来るのは、サラが共にいるからだ。その手の中にある『悟りの書』を手にする資格のあるサラが共にいるからだ」

 

「……えぐっ……うぅぅ……」

 

 誰に認めてもらいたかった訳ではない。

 『僧侶』であり続ける事は、サラが決める事。それが揺らいでいた。

 告げられたリーシャの言葉は、そんな揺らぐサラの心をしっかりと掴まえる物。

 

「サラ。私は『悩み、迷い、そして苦しみながらも答えを出して前に進むのがサラだ』と言ったな? だが、今のサラは苦しんでいるだけだ。もうそろそろ前へ進んでも良いんじゃないか?」

 

「……うぅぅ……ぐずっ……」

 

 サラの瞳から溢れ出した涙は、もはや止める事など出来よう筈がない。自分の心に土足で踏み込んで来るリーシャの言葉は不快感を覚えるどころか、サラの心に暖かな風を運んで来ている。

 それが、サラの心を覆っていた闇を払って行った。

 

「私はな……この旅に出た当初、正直に言うと、『魔王バラモス』を倒すという偉業を達成する事は無理だと考えていた」

 

「!!」

 

 涙を流すサラを見ながら、ゆっくりと口を開いたリーシャが洩らした衝撃の事実は、サラの嗚咽を一気に止めてしまう程の物だった。

 

「驚くだろうな……だがな、サラ。私は本当にそう感じていた。『人』に対して、冷たい瞳を向けるカミュ。魔物に対して憎しみを向け、『教え』に忠実なサラ。そして武器を振るうだけで、考える事が苦手な私だ。突き進めば、どこかで仲間割れを起こし、下手をすれば全滅だったろう」

 

「……えぐっ……」

 

 リーシャの言葉はとても重い。その話の通り、アリアハンを出た当初の三人は、纏まっているとは言えないものであったし、実際サラとカミュは何度も衝突を繰り返して来た。

 

「それでも、私達はここまで来た。今はメルエも加わり四人。可笑しなパーティーだ。歪んだ捻くれ者の『勇者』に、力だけが取り柄の『戦士』。いつも悩んでばかりで、教会に属するくせに『教え』からはみ出し始めた『僧侶』。そして、幼く、世界に出たばかりの雛鳥のようでありながら、並外れた魔法力を有する『魔法使い』」

 

「……はい……」

 

 少し自嘲気味な笑みを浮かべながら話すリーシャに、ようやくサラの顔に笑顔を見え始める。そんなサラの顔を優しく見つめながら、リーシャは再び口を開いた。

 

「私は……今は、この四人なら『魔王討伐』という目標を成し遂げる事が出来るのではないかとさえ思っている」

 

「……リーシャさん……」

 

 リーシャの言葉はとても優しい空気を纏っている。おそらく、今、彼女の頭の中には、ここにはいない残りの二人の顔が浮かんでいるのだろう。言葉と共にリーシャの表情もとても優しい物に変わっていた。

 

「いや、違うな……この四人でなければ、無理ではないだろうかとさえ考え始めているのかもしれない」

 

「……はい……」

 

 リーシャは言った。自分達以外の人間では『魔王討伐』は不可能だと。

 不思議とサラには、その言葉が『驕り』には聞こえなかった。彼女達は、ここまでの一年以上の期間で、様々な出来事にぶつかり、その都度それらを乗り越えて来ている。

 それは新たな悩みや迷いを生み出しもしたが、それ以上の自信も彼女達に刻み付けて来ていたのだ。

 

「話が逸れてしまったな……要は、サラ次第だ」

 

「……はい……」

 

 何が『要は』なのかがサラには理解できない。

 それでも、サラは心からの笑顔を浮かべた。

 

「それに、サラはこれから『賢者』となるのだろう? ならば、もう悩んでいる暇等ないぞ?」

 

「……そ、それは……」

 

 しかし、リーシャの言葉を聞いた途端に、サラの顔から再び笑顔が消えてしまった。

 そんなサラにリーシャは疑問を持つ。そして、疑問と共にサラの考えが良からぬ方向へ行っているのではないかという不安を覚えたのだ。

 

「サラ。また何か可笑しな事を考えているのか?」

 

「……いえ……もし、この書物が本当に『悟りの書』であるとしたら……」

 

 そこで、サラは再び顔を俯かせる。サラが何を考えているのか、リーシャには全く理解できなかった。

 魔法に対して憧れを持っているリーシャではあったが、この『悟りの書』の価値は正直なところ理解できていないのだ。

 世の『僧侶』達がどれ程この書物を求め、その希少性を敬っているのかを正確には把握できてはいない。それでも、この書物が『僧侶』という『精霊ルビス』に仕えし職業の者にとって、手に入れて喜ぶべき物である事だけは解っていた。

 故に、サラの表情の真意が掴めない。

 

「あるとしたら……どうなのだ?」

 

「……はい……『賢者』になるのは……私ではなく、メルエが相応しいと思うのです」

 

「な、なに!?」

 

 返って来た答えに、リーシャは絶句する。

 『賢者』になる資格をメルエに譲ると言うのだ。

 ムオルの村で、カミュはサラに『それはアンタの物だ』と言った。

 カミュと同様、リーシャもそう思っている。

 あの塔で、『悟りの書』という貴重な物を見つけたのはサラである。いや、見つけたというよりも、有する資格のある者として認められたと言った方が正しいのかもしれない。

 故に、『賢者』と呼ばれるに相応しいのはサラだと考えていた。

 

「ちょ、ちょっと待て、サラ。何がどうしてそうなった!?」

 

「リーシャさんには見えなかった『悟りの書』の文字を、メルエも見えると言っていました。であるならば、メルエも『賢者』となる素質を備えている事になります」

 

 俯けていた顔を上げ、サラは口を開いた。

 そこに見えたのは、しっかりとした意思。

 既に心は決まっているのだろう。

 

「魔法力の多さ。そして、魔法に関する素質。全てにおいてメルエは私よりも上です。これからの旅では、攻撃呪文の使い手が増えるよりも、怪我等を癒す回復呪文の使える人間が増えた方が利点は多いでしょう」

 

「そ、それはそうかもしれないが……」

 

 サラの根拠のある理論に、リーシャは口篭ってしまう。

 確かに、メルエはこの四人の中でおそらく最も魔法力が多いだろう。幼く小さな身体の何処に、それ程の魔法力を備えているのかと疑問に思う程に。

 そして、それはもはや『人外』と言っても過言ではない。

 

「この先の旅を考えるなら、私よりもメルエが『賢者』となり、神魔両方の呪文を使用出来るようになった方が良いと思うのです」

 

「……サラ……」

 

 もはや、リーシャにサラの言葉に反論できる考えは残っていなかった。しかし、彼女達は忘れている。『賢者』という者は、何も『経典』と『魔道書』の魔法を使う事の出来る者だけを指すのではないという事を。

 

 二人の会話が終わり、ルビス像の優しい笑顔だけが残る静かな教会に、小さな物音が響く。この教会に続く門がゆっくりと、本当にゆっくりと動いていた。

 

「…………んん………うぅぅん…………」

 

 声を洩らしながら全身の力を使い、扉を押し開けて顔を覗かせたのは、先程まで会話の中に登場していた幼い魔法使いであった。

 色々な所を探したのであろう。額にうっすらと汗を浮かべ、リーシャとサラの姿を見つけると、下げていた眉を上げて笑顔を浮かべていた。

 

「メルエ? どうした?」

 

「…………ごはん…………」

 

 傍に駆け寄って来たメルエに視線を向けたリーシャの問いに、顔を見上げながら呟くメルエの言葉を聞き、サラの顔にも再び笑顔が戻る。

 おそらく宿の食事が出来上がったのだろう。食事になっても戻らない二人を呼びに、広い神殿の中を探し回ってくれたのかもしれない。

 

「そうか。結構な時間が経ってしまったんだな。ありがとう、メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 頭に乗るリーシャの手を気持ち良さそうに受けるメルエを見て、サラの心は決まった。

 彼女こそ、このパーティーにいなければならない存在。魔法力も、その存在感も別格なのだ。

 

 『ならば、魔法に関してはメルエに任せよう』

 

 魔法の知識、世界の常識等は、これからサラが少しずつ教えていけば良い。

 呪文の行使はメルエに任せ、援護に回れば良いとサラは考えていた。

 

「ごめんなさい、メルエ。お腹が空きましたよね? さあ、行きましょう」

 

「…………ん…………」

 

 笑顔でメルエの手を取り、サラは教会の門へと歩いて行く。そんなサラの後姿を見ながら、リーシャはサラの考えを飲まざるを得ないのだと理解した。

 『悟りの書』を手にしたのはサラである。ならば、『その使用方法を決めるのもサラで良いのではないか?』と考えたのだ。

 

 その夜、食事を取り、眠りに就くまで、その話題に誰も触れる事はなかった。

 

 

 

「昨夜は、ゆっくりとお休みになれましたか?」

 

「……」

 

 翌朝、宿屋を出た一行が階段を下りると、そこには一人の男性が立っていた。

 その男性を確認すると、カミュは訝しげに視線を動かし、リーシャはメルエの手を引きながら軽く頭を下げる。唯一人、サラだけが硬直したように立ち尽くしていた。

 それは、魂だけの存在となった者への怯えなのか、それとも、自分の内にある全てを見透かされる事への怯えのためなのか。

 

「やはり、貴方でしたか……」

 

 男性は、カミュ達を一瞥した後、怯えたように縮こまっているサラに視線を止めた。

 眩しそうにサラを見つめ、にこやかな笑みを浮かべるその顔は、とても一度『生』を手放した者とは思えない程の温かみを有している。

 

「教皇様がお待ちです。こちらへ」

 

 初代教皇が、現教皇に敬称をつける事に違和感を覚えるが、その事を指摘する事なく、カミュ達は促されるまま、広間への門を潜って行った。

 リーシャの手を握りながらメルエは不思議そうに男性を見上げ、その顔に柔和な笑顔が浮かぶと、嬉しそうに頬を緩める。

 

「では、これで」

 

 門の中へとカミュ達を誘導し終わった初代教皇は、サラへと深々と頭を下げる。それは正に臣下の人間が君主に対して見せる物のような恭しい物であり、そしてその態度はカミュ一行に対してではなく、最後尾にいるサラだけに向けられた物だった。

 

「えっ!? あ、あの……」

 

 自分だけに向けられるその態度に、サラは戸惑い、何かを口にしようとするが、それは言葉にならず、顔を上げた初代教皇であった者は苦笑を浮かべながら、静かに消えて行った。

 

「えぇぇぇ!? あ、あれ?……えっ? えぇぇぇ!」

 

「…………あわ………あわ…………」

 

 目の前で消え去ってしまった者に、サラの戸惑いは増し、その現実を認識するに従い、身体が小刻みに震え出す。

 そんなサラの様子を見ながら、小さな笑みを溢したメルエがからかうような一言を発し、リーシャから叱責を受けていた。

 

「……いくぞ……」

 

 後方にいる三人に軽い溜息を吐いたカミュは、そのまま門を抜け、朝日によって輝くステンドグラスが張り巡らされた広間を進んで行く。

 張詰めていた空気はいつの間にか弛み、リーシャやメルエの顔にはいつの間にか軽い笑顔が浮かんでいた。

 

 広間に出ると、そこは以前に訪れた時と寸分も変わらない景色のまま、一行を迎え入れるように色とりどりの色彩が輝いていた。

 自分の顔を照らす様々な色合いの光を受け、メルエは柔らかな笑顔を浮かべ天井を見上げる。

 赤や黄色のステンドグラスによって空の色は確認できないが、今日は快晴である事だけはメルエにも理解できた。

 

「よくぞ戻った!」

 

「はっ」

 

 ステンドグラスによって彩られた通路を歩き、祭壇の前に辿り着いた一行を、既に祭壇に上がっていた現教皇が労いの言葉を発し迎える。その表情には若干の驚きと羨望、そしてそれ以上の喜びに満ち満ちていた。

 

「ふむ。先日お主達がここを訪れたのが、遠い昔の事のようじゃな」

 

「??」

 

 一行の姿を見渡し、しみじみと呟いた教皇の言葉に、サラは思わず顔を上げてしまった。なぜなら、教皇が感じているその感傷は、サラには理解できない物だったからだ。

 だが、サラとは違い、未だに顔を上げないカミュとリーシャは、教皇の語るその真意を理解していた。

 

「ふぉふぉふぉ。それ程、お主達の成長速度が著しいという事じゃ」

 

 驚きの表情を見せるサラに、教皇は笑みを浮かべる。

 その言葉は、誰に向けられたものなのか。

 カミュ達全員に向けられたものか。

 それとも……

 

「それで? 『資格』とやらは見つかったかの?」

 

「あ、い、いえ……」

 

「……『悟りの書』と呼ばれているであろう物はここに……」

 

 教皇の言葉に詰まってしまったサラの代わりに、カミュが教皇へと言葉を返した。

 その一行の様子に気を悪くした素振りもなく、一つ頷いた教皇は、片手をカミュ達に向け、重々しく口を開く。

 

「そうか。ならば、『悟りの書』に選ばれし者よ、こちらへ」

 

「サラ?」

 

 教皇の言葉に、当然前に進み出るだろうとカミュが思っていたサラは俯いたまま動かない。そんなサラの様子に眉尻を下げ、リーシャは哀しげにサラの名を口にした。

 

「ふむ。如何した?」

 

「……おい……」

 

 一向に動かないサラに疑問を投げかける教皇。

 振り向き、サラへと視線を向けるカミュ。

 不思議そうにサラを見上げるメルエ。

 そして、何もかもを理解し、哀しみを表すリーシャ。

 それぞれの視線がサラへと集中する。

 

「……私ではございません……」

 

「なんと!?」

 

 ようやく絞り出すように答えたサラの言葉は、教皇でさせ驚かせる物であった。

 『<悟りの書>に選ばれし者は自分ではない』。

 そう呟くサラは気付いてはいない。その言葉は、自分が信仰するルビス教に於いて頂点に立つ者であり、『人』を観る事に最も長けている『転職を司る者』の眼力を否定しているという事実を。

 

「この書物の中身は、私には最初の一ページしか読む事が出来ませんでした。そして、私以外にもこの書物を読む事の出来る人間がおります」

 

「ほう……」

 

 顔を上げ、話し始めたサラの瞳を真っ直ぐと見詰める教皇の表情は厳しい物へと変化して行く。その瞳を受けて尚、サラは語り続けた。

 『自分よりも相応しい者がいる』、『自分よりも資格のある者がいる』と。

 だが、サラは気付かない。この場所で、それに心から賛同している者は誰一人としていないのだという事を。

 

「メルエ? メルエもあの書物が読めるのですよね?」

 

「…………ん…………」

 

「それは誠か!?」

 

 一人走り始めたサラの問いかけに、メルエは自信を顔に浮かべて頷きを返す。唯一人、ここにサラの意見に賛同する者がいた。

 その者は、年齢にそぐわぬ程の魔法力を持ち、魔法力の流れをも認識せずに強大な呪文を操っていた才能の塊。

 自身の存在価値が魔法であると思い込み、何度仲間がその者の重要性を説いても、理解できない頑固者。

 サラが神魔両魔法を行使できるようになると知り、自分もその書物を読める事を告げた、小さく、幼い少女だった。

 

「そうか……お主はやはり……」

 

 サラの言葉と、メルエの頷きを見て、教皇の目は見開かれた。暫し、驚愕の表情でメルエを見つめた後、どこか納得の行った物へと表情を変化させる。それが何を意味するのかは、カミュ達には理解できない。しかし、今まで厳しく向けられていた教皇の瞳が和らいだ事だけは、この場にいる全員が感じ取っていた。

 

「では、メルエとやら、こちらへ」

 

 一度目を閉じた教皇が、再び片手を差し出し、メルエを祭壇の上へと誘う。教皇の行動を見て、首を傾げたメルエの背中をサラが軽く押し、前へと進めた。

 サラの瞳を一度見たメルエは、一つ頷くと祭壇の方へと歩いて行く。

 

「ふむ」

 

「…………???…………」

 

 祭壇を登りきったメルエの頭の帽子は既にこの広間に入った時から取られている。その頭の上に手を翳し、教皇は目を瞑った。

 再び首を傾げたメルエの頭に小さな光が灯る。

 

「偉大なる神よ。我らが守護者『精霊ルビス』よ。この者に新たな命を注ぎ込み、新たな道を指し示し給え!」

 

 メルエの頭から手を離し、天に向かって両手を掲げた教皇は、本来の仕事を全うする。カミュ達一行の視線も、自然と教皇が広げる両手の先にある天へと向けられた。

 

「…………???…………」

 

「……」

 

 しかし、暫し二人の姿を眺めていたカミュ達には何の変化も感じる事は出来なかった。

 そして、それは何もカミュ達が感じ得ない神秘の成せる事という訳ではない事は、未だに首を傾げるメルエと、唖然とした表情でメルエを見つめる教皇の表情が物語っていたのだ。

 

「……お主……」

 

「……メルエ……」

 

 教皇とカミュの口が同時に開かれる。

 どこか呆れたような、それでいて哀しみを帯びたような呟き。

 暫しメルエを見つめた教皇は、大きな溜息を吐き出した。

 

「……お主……『悟りの書』を読めてはおらぬな?」

 

「…………!!…………」

 

 教皇の吐き出した言葉に、メルエの身体が硬直する。しかし、教皇の瞳はメルエを責めるような物ではなかった。

 『人』の全てを見通すと云われている自身の能力の衰えを感じている訳でもない。涙を溜めているメルエの瞳を真っ直ぐ見つめ、優しく微笑んだ教皇は、再び表情を引き締めた。

 

「出直して来るが良い!」

 

「…………!!…………」

 

 教皇の強い言葉に、メルエの瞳から涙が噴き出した。

 そして、メルエは瞬時に踵を返し、祭壇を駆け下りる。

 

「メ、メルエ! おい!」

 

 メルエの身体は祭壇を降りると、先頭に跪くカミュの横を抜け、その後方にいるサラの横も抜け、最後尾に居たリーシャの横もすり抜けて行く。突然の行動にリーシャはメルエを止める事も出来ず、横をすり抜けるメルエの名を叫ぶ事しか出来なかった。

 大きな扉をなんとか開いたメルエは、そのまま外へと飛び出して行く。茫然とその姿を見つめていた三人がようやく我に返った。

 

「カミュ! 私はメルエを追う。お前はサラに付き添ってやってくれ」

 

「……いや、俺が……」

 

「私では、この先の話を理解する事はできない! お前がサラと共に話を聞き、私に教えてくれ!」

 

 自分がメルエを追う事を言い出そうとするカミュの言葉を遮り、リーシャはそのままメルエを追って行く。残されたカミュは、暫し呆けたような顔でリーシャの背中を見送った後、表情を引き締め、教皇の方へと向き直った。

 

「良いのか?」

 

「……ええ……」

 

「……カミュ様……」

 

 サラは、メルエに関する事をリーシャに託したカミュを不思議そうに見上げた。

 カミュとリーシャは、メルエの事となると我を失う恐れすらある。しかし、カミュは傷心のメルエをリーシャに託したのだ。

 

 『やはり、この二人の心は繋がっているのではないか?』

 

 そんな思いをサラが持ったのは、アリアハンから共に旅して来た者としては当然の物なのかもしれない。あとは、実際にそれを口にしてしまうかどうかなのだが、おそらく彼女は、それを尋ねてしまうのだろう。

 

「では、再び問おう。『悟りの書』に選ばれし者よ、新たな道を受け入れる覚悟はあるか?」

 

「あっ? え……」

 

 再び真剣な表情に戻った教皇の問いかけに、サラの身体もまた硬直状態へと戻って行く。そんなサラの態度に大きな溜息を吐いたカミュは、暫しの間は黙っていたが、一向に好転しない状況にようやく口を開いた。

 

「アンタ以外の人間は、その書物を手に入れる事も出来ず、未だにあの塔を彷徨っている。アンタのその悩みは、あの塔で必死になっている者達を嘲笑う行為だと気付かないのか?」

 

「そ、そんな……」

 

 カミュの発した内容は極論である。

 カミュ自身、今サラに語ったような事を考えた事もない。他人の事などに関心すら持った事もない。むしろ、嘲笑っているのはカミュなのかもしれないのだ。それでも、カミュはサラに向かって口を開いた。

 『必死に<悟りの書>を探している人間に申し訳ないと思わないのか?』と。

 そう言わなければ、サラが前に進めない事を、カミュも理解し始めていた。

 

「それ程、考え込む事でもあるまい。『悟りの書』がお主を導いた。それが何よりの証だ。<ガルナの塔>に『悟りの書』が置かれてから数十年間、誰一人その所在を知る事が出来なかった物が、今お主の手の中にある。ただそれだけの事……」

 

 カミュの言葉を引き継ぐように、祭壇の上にいる教皇が言葉を紡ぐ。その言葉をサラは黙って聞いていた。

 何かがサラの心を騒がせる。

 『自分で良いのか?』、『自分に何ができるというのか?』と。

 そんな考えが何度も頭の中を駆け巡っていた。

 

「……それに……アンタはメルエを傷つけた」

 

「!!」

 

 カミュの瞳は、怒りを宿している訳ではない。

 淡々と話す言葉であることが、逆にサラの心へと直接響いて行く。

 そして、それはサラの心で罪悪感へと変化して行った。

 

「アンタが逃げるのは勝手だ。だが、何も解らないメルエを犠牲にするな」

 

 『悟りの書』を見えると言ったのはメルエだ。カミュの言っている事は、何も知らない人間から見れば、唯の八つ当たりに過ぎないだろう。それでも、サラの心に現れた罪悪感は膨れ上がって行く。

 

「……わかりました……」

 

 どのくらいの時間が経っただろう。俯き、何かに耐えるように両手で自らの身体を抱き締めて立っていたサラの顔が上がった。

 その瞳に、もはや迷いはない。リーシャが常々口にしている『迷い、悩み、苦しんだ末、答えを見付け前へと進む』というサラの顔であった。

 

「心は決まったようだな。ならば、祭壇を上って来るが良い」

 

「はい」

 

 教皇が差し出す手に導かれ、サラは祭壇へと昇って行く。

 アリアハン教会に属する一介の『僧侶』に過ぎなかった一人の少女は、今、大空へと飛び立とうとしている。

 この一年、様々な物を見、様々な物を聞き、そして悩み苦しんで来た。

 信じて来た『教え』の前に立ちはだかったのは、彼女が『世界を救う者』として信じ続けて来た『勇者』であり、救われる立場にある筈の『人』そのものだった。

 それでも、前へ進もうと足掻く彼女を支えたのもまた、彼女と共に歩んで来た『勇者』と仲間達であり、旅路で出会った『人』である。

 

 常に悩み、考え、苦しんで来た一人の少女は、もはや籠の中で暮らす鳥ではない。

 小さく頼りなかったその羽は、『知識』と『覚悟』と『想い』によって、大きく変化して行った。

 そして、それを誰よりも知っている者は、彼女自身ではなく、一年という年月を共に歩んで来たリーシャであり、カミュである。故に、彼女が祭壇を上がって行く背中をカミュは眩しそうに見上げていた。

 

「うむ。よく参られた」

 

「ありがとうございます」

 

 サラは教皇の前で跪く。跪き、顔を伏せるサラに向かって口を開いた教皇の言葉が変化している事に気付いたのは、カミュだけであった。

 緊張で硬くなるサラは、教皇に返答するだけで精一杯だったのだ。

 

「心は、お決まりですな?」

 

「……はい……」

 

 再度の確認の言葉に、サラはゆっくりと頷いた。

 教皇は柔らかな笑みを浮かべた後、サラの頭の上に手を翳し、目を閉じる。

 

「偉大なる神よ。我らが守護者『精霊ルビス』よ。この者に新たな命を注ぎ込み、新たな道を指し示し給え!」

 

「!!」

 

 メルエの時と同じ文言を口にする教皇の姿を遠目に見ていたカミュは、その光景に驚愕の表情を浮かべる。

 教皇が文言を発し、両手を天へと広げた瞬間、祭壇を照らす陽の光とは違う、神々しい光がサラに向かって舞い降りて来たのだ。

 その光は跪くサラを包み込み、まるで光の衣を纏うようにサラの身体を覆って行く。その光景はとても神々しく、カミュは思わず見惚れてしまった。

 眩いばかりの光の衣を纏い、サラは『僧侶』という殻を脱ぎ捨てる。

 

 サラは自分の身体の中で巻き起こっている事に驚愕し、思わず立ち上がってしまう。教皇の言葉と共に、自分に降り注がれた光が、自分を覆うように輝きだした直後、サラの身体に変化が起こったのだ。

 それは、身体的な物ではない。むしろ、その奥に在るもの。その変化はサラの有する魔法力だった。

 サラの中にある魔法力は、基本的に『経典』に存在する呪文を行使するための魔法力である。つまり、サラが現在『魔道書』に記載されている呪文を行使できないのは、その魔法力の在り方にあったのだ。

 

 解りやすく言えば、『人』が生まれた時に有する魔法力は『無色透明』。

 しかし、その中で『僧侶』や『魔法使い』を目指す者が出てくる。そして、『人』が初めて使用した呪文の色へと、その者の魔法力は変化して行くのだ。

 故に、初めに『ホイミ』を契約した人間は『僧侶』へ、『メラ』を契約した人間は『魔法使い』へと成長して行く。

 

 その反面、一度その専用の物へと変化した魔法力は、生涯その形態を変化させる事はなくなってしまうのだ。故に、『賢者』と呼ばれる人間が貴重な存在となる。

 その内なる魔法力の色を唱える呪文によって変化させる事の出来る人間。魔法力に特化した者の中でも異質な者である。

 

「……あ……」

 

 そして、サラの体内の魔法力が弾けた。

 今まで体内に有していた魔法力とは異質な物。色が混じり合ったにも拘わらず、濁った感覚がする訳でもない。ただ、サラは自分が異質な者へと変化した事だけは理解できた。

 

 余談になるが、カミュのような『勇者』や『英雄』と呼ばれる人間の中には、神魔両方の呪文を行使できる者がいる。

 それは、そう呼ばれる人間の体内にある魔法力が元々異質な者であり、『ホイミ』や『メラ』の契約を済ませた後も、その色を変化させないからなのだが、それが理解できるのは、この世の中でも、今自分の変化を実感したサラだけなのかもしれない。

 

「よくぞ、我らの許へお越し下された。『賢者』様……」

 

「えっ!?」

 

 サラの周囲を取り巻いていた神々しい光が収束し、まるでサラの体内に吸い込まれるように消えたのを見届けた教皇が、サラの前に跪いた。

 ルビス教の頂点に立つ者が一介『僧侶』に向かって跪く異様な光景にサラは言葉を失う。そんな二人の立場の逆転を当然の事として受け入れていないのは、サラだけだったのだ。

 カミュは平然と眺め、疑問を口にはしない。教皇は何の躊躇いもなく自分の四分の一程しか生きていない女性に跪き、その傍に控える時期教皇を目される男性も、何の疑問もなくサラに向かって跪いていた。

 

「お、お顔をお上げください! 教皇様ともあろう方が、そのようなお姿を……」

 

「アンタこそ、いい加減に自分の立場を理解しろ!」

 

 跪き、顔を上げようとはしない教皇に、慌ててしゃがみ込むサラの後方から厳しい声が飛んで来る。それは、教会という枠をはみ出してしまったサラが唯一属しているパーティーのリーダーであり、この世界を包む闇を払う為に旅を続けている『勇者』と呼ばれる青年の声。

 

「『賢者』様。あの青年の言う通りです。今、神とルビス様から祝福を受け、『賢者』とお成りになった貴女様は、この地に暮らす『人』とルビス様の懸け橋となられるお方なのです」

 

「え?」

 

 カミュの怒声に振りかえったサラに、跪いたままの教皇が口を開いた。その内容は、再びサラの言葉を飲み込ませてしまう。

 ルビス教の頂点に立つ教皇でさえも跪くという事は、『賢者』という存在の価値はその上を行くという事と同義であるのだ。

 そして、その存在価値は、サラの予想の遙か斜めを行っていた。

 

「『ルビス様に最も近しい者』。それが我々教皇となる者に伝えられている『賢者』という存在です。『精霊ルビス』様のご尊顔を拝し、そのお言葉を直に賜る事の出来る者。それが貴女様なのです」

 

「……わたしが……?」

 

 『精霊ルビス』

 その存在は、教会に属する者だけではなく、この世界に生きる人間であれば知らぬ者は誰一人いない。

 しかし、知る者はいても、見た者はいない。信仰の対象として、その姿を木像や銅像で作成されてはいるが、その姿も古から残る物を見て作っているに過ぎないのだ。

 

「ルビス様のお言葉を賜り、我らの歩む道を指し示すお方。それが『賢者』様です」

 

「……わたしが……ルビス様に……?」

 

 突然の展開にサラの思考が付いていかない。

 一介の『僧侶』に過ぎず、『精霊ルビス』という存在が雲の上どころか、空の彼方であったサラにとって、自分がその尊い存在を目にする可能性のある人物だと告げられても、実感等湧く筈がなかった。

 

「先代の『賢者』様もそうでした。ルビス様のご尊顔を拝し、そして我らにそのお言葉をお聞かせ下さいました」

 

「……先代……?」

 

 いつの間にか、祭壇の下に移動してきたカミュが教皇の口から出た一人の存在に意識を向けた。まるで、その人物と出会い、親交があったかの様に話す教皇に疑問を覚えたのだ。

 

「そう……もう六十年以上前の話です。私がこの神殿で先代教皇から教皇の座を譲り受けた頃、あの方は姿を現しました」

 

 懐かしい者でも見るように、虚空に視線を漂わせ、教皇は口調を改めたまま、過去を語り始めた。

 

 

 

 

 

 その頃、メルエを探し、リーシャは神殿内を駆けずり回っていた。広間を出て行ったメルエは、リーシャの予想を超える程の動きを見せていたのだ。

 宿屋の方へ戻ったと考えていたリーシャは、真っ先に昨晩宿を取った場所へと向かうが、主人の返答は『否』であった。続いて昨晩メルエが迎えに来た教会へと足を向けるが、そこも違う。

 聖地と呼ばれたこの神殿の広さは、リーシャの想像を超える物であり、メルエの痕跡を辿るだけでも一苦労だった。

 

「……ふぅ……ようやく見つけたぞ、メルエ」

 

「…………!!…………」

 

 そして、リーシャが最後に向かった場所は、再三駆けずり回った神殿ではなく、外であった。神殿の大きな門は開け放たれており、その向こうに見える小さな泉の畔に、メルエは一人膝を抱くようにして座っていたのだ。

 リーシャの声に対し、何かに怯えるような瞳を向け、メルエは再び泉の方へと視線を戻す。その心は正確には理解できないが、『怯え』の感情である事だけは確か。

 ただ、『リーシャに怒られるのでは?』という物ではない事も理解できた。

 

「メルエ、勝手に出て行っては駄目だろ?」

 

「…………」

 

 それは、リーシャの苦言に対しても無言で泉を見つめるメルエの態度が証明していた。しかし、リーシャにはメルエの心の中に渦巻く『怯え』について思い当たる事がなかったのだ。

 

「メルエ! 私の話を聞いているのか!?」

 

「…………!!…………」

 

 故に、リーシャの語尾が必然的に強くなってしまう。だが、リーシャは自分が発した言葉に驚いたように顔を向けたメルエの瞳を見て、いつかのように後悔の念を抱く事になった。

 メルエの瞳は涙によって潤んでいたのだ。もはや、それは『怯え』という物ではなく、『哀しみ』と言っても過言ではない物を宿した瞳。

 それを見た時、リーシャの顔は瞬時に歪んで行った。

 

「メルエ……何故、『悟りの書』を読めるというような嘘をついたのだ?」

 

「…………」

 

 メルエの瞳を見ながら、優しく問いかけるリーシャの言葉。それは、過ちを犯した子供を叱るのではなく、冷静にその行為の理由を問いかける物だった。

 しかし、当のメルエは、リーシャの発したある一語を耳にした瞬間、瞳に今までとは違う感情を宿す。

 

「メルエ? 黙っていては解らないぞ」

 

「…………うそ………じゃない…………」

 

「なに?」

 

 再度問いかけるリーシャの言葉に、メルエは小さな呟きを洩らし、リーシャの瞳を見つめ返すが、すぐに顔を伏せてしまう。そんなメルエの姿に、リーシャは軽い溜息を吐いた。

 

「まだ、そんな嘘をつくのか?」

 

「…………」

 

 子供らしいと言えばそれまで。ここに来て、リーシャは『何故、メルエが嘘をついたのか』という疑問の答えを見つけた。

 それは、もう何度もリーシャやカミュがメルエへ伝えてある事に対しての怯え。

 魔法のみが自己の存在意義と考え続ける幼い少女の想い。

 

「メルエ……まだ、私達が信じられないのか? 流石に哀しいな……」

 

「…………!!…………ちがう…………」

 

 リーシャは、未だにメルエがある不安を抱えているのだと感じたのだ。

 『魔法』というメルエが特出した物を失くしてしまえば、リーシャ達がメルエを置いて行くのではないかという不安。

 『賢者』となり、サラが神魔両方の魔法を使用する事が可能となれば、攻撃呪文に特化しているメルエが不要になるのではという不安。

 それをメルエは抱えているのだと考えたのだ。

 

「メルエは、私の妹だ。危険な旅ではあるが、私はメルエと共に旅を続けたい。だが、そんな私の気持ちは、メルエには伝わっていないのだな」

 

「…………ちが……う…………」

 

 哀しそうに俯くリーシャに、慌てたように言葉を返すメルエ。

 基本的に、メルエは相手に自分の感情を伝える事が、まだ上手くできない。言葉という『人』が使用する伝達方法をカミュ達と出会うまで、メルエは使う機会がなかった。自分の感情を表に出し、そしてその気持ちを伝える必要もなければ、それを許されもしなかった。

 故に、メルエは自分の心を相手に上手く伝える方法を知らないのだ。

 

「ならば何故、あのような嘘をつくんだ?」

 

「…………『メルエ』………あった…………」

 

「なに?」

 

 もう一度、『何故』と問いかけるリーシャに返って来たのは、彼女がした質問の回答ではなかった。

 メルエが搾り出すようにして出した答えを、リーシャは理解する事が出来ず、メルエの瞳を見て、首を傾けてしまう。そのリーシャの姿に、メルエは再び顔を俯け、膝を抱え込んでしまった。

 

「どういうことだ?」

 

 それでもリーシャは諦めない。メルエの心が理解できるまで、何度も問い掛け、彼女の不安を取り除いてやりたいとリーシャは考えているのだ。

 故に、考える事が何より苦手にも拘らず、必死にメルエの言葉の意味を考えようと問いかける。

 

「…………本………『メルエ』………あった…………」

 

「ん?」

 

 リーシャの問い掛けに、メルエはもう一度だけ言葉を返す。

 しかし、それきり何も言うことはなく、哀しそうに泉を見つめるだけ。

 

「……メルエ、まだそんな嘘をつくのか?」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 メルエの言葉を理解したリーシャは大きな溜息を吐き出した。

 リーシャはメルエが『悟りの書』を読めたという事を、まだ言い張っているのだと理解したのだ。故に、メルエを窘める。

 『そんな嘘をつく必要は何処にもないのだ』と。

 それはリーシャの優しさなのだろう。しかし、リーシャの言葉を聞いたメルエは嗚咽を洩らし泣き出してしまった。

 

「例え、メルエが『悟りの書』を読めなくとも、『賢者』になれなくとも、私達はずっと一緒だと言っただろう? それが何故信じられない?」

 

「…………うぅぅ………リーシャ………きらい…………」

 

「な、なに!? 何故だ!?」

 

 メルエを慰めようと言葉を選びながら口を開いたリーシャは、それに対して返って来たメルエの拒絶に驚愕する。

 『メルエが大事だ』と伝えようとしている自分が何故嫌われるのだと。

 

「……それは、アンタが脳筋だからだろ……」

 

「なんだと!?」

 

 その答えは、後方から返って来る。あまりの言葉に、怒りの感情を剥き出して振り返ったリーシャが見たのは、溜息を吐きながら歩いてくるカミュと、その後ろから歩いてくる見た事のない女性だった。

 カミュの後ろを歩く女性を見た瞬間、リーシャの頭から怒りが消えて行く。

 

「……サラ……なのか?」

 

「えっ!? あっ、は、はい!」

 

 よくよく見れば、その女性はリーシャの良く知る人物。

 黒味掛った青く癖のない髪の毛はこの一年で随分と伸び、今は腰に掛かりそうになっている。髪と同じ青色をした瞳は、自分を見て驚くリーシャに真っ直ぐ向けられていた。

 今はアリアハンを出た時から片時も離さなかった法衣を思わす前掛けは取り去られ、頭に被っていた僧侶帽は、以前にカミュがつけていたようなサークレットへと変わっている。

 カミュの物と同じ様に、中央には青く光る石が嵌め込まれているが、その石の色はカミュの物とは違い、濃い青色をしていた。

 

「その姿は……サラ、『賢者』となったのだな?」

 

「はい!」

 

 リーシャの問い掛けに答えたサラの青い瞳の中には、強い信念が宿っている。少なくとも、リーシャにはそう感じた。

 神殿内で何が起きたのかは解らない。だが、あれ程『賢者』となる事に抵抗を感じていたサラが、この瞳をしている。それだけでリーシャは満足だった。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 そんな何かを振り切ったサラの姿を恨めしそうに見つめる小さな瞳。先程、リーシャによって窘められ、それに対して初めてと言って良い反抗を示したメルエだった。

 既に、カミュの足元へ移動したメルエは、カミュのマントの裾を握りながらサラを見つめていた。

 

「そうか……良かったな。それよりも、カミュ! メルエの発言の意味を言え! それが納得いかない物であったら、覚悟しておけよ!」

 

「……」

 

 眩しそうにサラを見つめていたリーシャの瞳が細められる。先程、自分を馬鹿にしたような発言をしたカミュへ視線を移し、怒鳴るように発した声にカミュは盛大な溜息を吐いた。

 そして、メルエの帽子をとり、メルエの頭を優しく撫でながら、カミュはようやく口を開く。

 

「……あの教皇は、『読めてはいない』と言っただけだ……」

 

「それが何だと言うんだ!?」

 

 いつものように回りくどいカミュの説明に、リーシャは牙を剥く。

 この場で、カミュの言葉の意味を理解できないのは、リーシャとメルエ。

 サラは、先程よりも強く優しい瞳でメルエを見ていた。

 

「……誰も、『見えない』とは言っていない……」

 

「なに!?」

 

 カミュの言葉をまだ理解できないリーシャの顔が怒りの表情から困惑へと変化して行く。理解はしていないが、自分の怒りが見当違いである可能性を否定できなくなったのだ。

 

「…………『メルエ』………あった…………」

 

 そんな二人のやり取りを暫し眺めていたメルエが、カミュのマントの裾を引き、カミュの顔を見上げながら口を開く。先程、リーシャによって退けられたからであろうか、その瞳は自信なさ気に潤み、眉は下に下がっていた。

 

「……そうか……」

 

「…………ん…………」

 

 しかし、優しく頭を撫でながら軽い笑みを浮かべたカミュを見て、自分の伝えたい事が伝わったと感じたメルエの顔にも笑顔が浮かぶ。

 そんなメルエの笑顔を見てから、再びカミュはリーシャへと視線を移した。

 

「……文字が読めない者を『賢者』とは呼ばないだろう?」

 

「なに? で、では、メルエは本当にあの書の文字が見えたというのか?」

 

 メルエはリーシャにもカミュにも、『悟りの書』の中に自分の名前が記されていたのだと言いたかったのだろう。

 メルエはこの旅に参加してから、サラの許で多くを学び始めている。しかし、それの多くは一般的な常識がほとんど。

 食事の挨拶から、眠る時の挨拶。起きた後の挨拶から、感謝や謝罪の伝え方。そんな生きて行く上で自然と学べる筈の事を学んで来なかったメルエの為に、サラは一つずつ丁寧に教えていた。

 故に、メルエは文字を読めない。ただ、自分の名前だけはと、サラはメルエに名前の文字の読み方と書き方を教えた。

 メルエと出会って、一年弱の間で、ようやくメルエは己の名前の読み書きが出来るようになったばかりだったのだ。

 

「…………『メルエ』………あった…………」

 

「……そうか、私はまた早とちりをしてしまったのだな……」

 

 カミュという味方を得た事によって、自信を取り戻したメルエが、リーシャに向かって再度同じ言葉を告げる。そのメルエを見て、リーシャは苦笑を浮かべながら先程メルエに向けて告げた言葉を後悔していた。

 

「気になさる必要はありませんよ。メルエも解っています。それに、私もメルエが広間を出て行った時は、リーシャさんと同じ様に考えていましたから」

 

「……サラ……」

 

「…………むぅ…………」

 

 サラの言葉に頬を膨らましてむくれるメルエの頭を撫でながら、カミュも苦笑を浮かべる。『賢者』となり、神魔両方の魔法が行使できるようになったといえども、サラの魔法力は圧倒的にメルエに劣る事に変わりはないとカミュは感じていた。

 故に、メルエが如何に心配しようとも攻撃魔法ではメルエが頼りである事に変わりはないのだ。

 

 実際、『賢者』となったサラが見た『悟りの書』の文字にも、カミュが微かに見た文字の中にも、『メルエ』という単語は記されていなかった。故に、メルエの言っている事が真実なのかどうかはカミュにもサラにも解らない。

 ただ、あのメルエが、声を荒げたリーシャに対しても一歩も引かない程に我を通したのだ。もし、メルエが嘘を吐いていたとすれば、リーシャの叱責を受けたと同時に、俯いて黙り込んでしまうだろう。

 しかし、メルエは言い張った。

 『あの書物の中に自分の名前があった』と。

 

 それが、何を意味するのかは解らない。ただ、カミュは知っていた。

 あのムオルの村の宿屋で、『悟りの書』を開いていたメルエの視線が止まっていた場所は、サラが見ていたページでも、カミュが見たページでもなく、書を開いてすぐの場所。

 所謂『表紙裏』と呼ばれる場所であった事を。

 

「メルエ、すまなかった。許してくれ」

 

「…………むぅ…………」

 

 考えに耽るカミュを余所に、リーシャがメルエの傍に駆け寄り、小さな魔法使いに向かって必死に頭を下げていた。

 リーシャの謝罪に、小さく頬を膨らまして睨んだメルエの顔は『ぷいっ』と横を向いてしまう。その様子を見ていたサラは思わず噴き出してしまうが、その音を聞いたメルエの厳しい視線を受けて、慌てて頭を下げた。

 

「わ、わたしは、メルエを信じていましたよ!」

 

「お、おい! サラも私と同じ様に考えていたと言っていただろ!?」

 

 今の形勢の強者は、間違いなくメルエだ。故にサラはメルエ側に付く事にするが、その行為はリーシャによって阻まれる。

 例の如く、少し前に自分が発言した言葉を覆す『賢者』となった筈の妹のような存在を、リーシャは必死に自分側へと引き戻した。

 

「……」

 

「…………ふふふ…………」

 

 そんな二人のやり取りに、カミュは盛大な溜息を吐き、メルエの頬は緩んで行く。最後には、メルエの口から笑みが零れ、それを見たリーシャの顔にも優しく暖かな微笑が浮かんだ。

 

「本当にすまなかった。だが、メルエ。これだけは信じてくれ。私はメルエが大事だ。例えメルエが私を嫌っても、私はメルエが大好きだ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの足元からメルエを抱き上げ、メルエを瞳を真っ直ぐ見つめながら話すリーシャの言葉に、メルエは嬉しそうに頷いた。

 未だに、自分の感情を『好き』と『嫌い』という言葉でしか表現できないメルエであるが、本当にリーシャやサラを嫌う事などあり得ない。母を慕うように、姉を慕うように、彼女達を慕うメルエにとって、この三人は初めて出来た家族なのだ。

 

「ふふふ。メルエ。私に今度『魔道書』の魔法を教えて下さいね?」

 

「…………いや…………」

 

「えぇぇぇぇ!?」

 

 和やかな空気を作り出すリーシャとメルエに近寄ったサラの問い掛けに、メルエは眉間に皺を寄せ、『ぷいっ』と顔を背けてしまう。

 まさか拒絶されるとは思っていなかったサラが、驚愕の声を上げるが、メルエを抱き抱えるリーシャは優しい笑顔を浮かべたままだった。

 

「こら。そんな意地悪を言うな。『魔道書』の魔法に関しては、メルエのほうが先生なんだ。いつも色々と教えてくれるサラにしっかり教えてやれ」

 

「…………むぅ…………」

 

 リーシャの窘めに、頬を膨らましむくれるメルエであったが、リーシャの笑顔と、哀しそうにこちらを見るサラの表情を見て、不承不承といった様子で頷いた。

 

「……いくぞ……」

 

 メルエの頷きに、嬉しそうに感謝の言葉を述べるサラを一瞥し、カミュが出発の号令をかける。その言葉と同時に、一同はカミュの纏っている物に手を掛けた。

 行き先は決まっている。

 バハラタに寄って、『黒胡椒』を受け取ってから、ポルトガ城へと戻るのだ。

 

「さぁ、メルエ。次は『船』だ」

 

「…………うみ………いや…………」

 

 『船』という単語に潮風を連想したメルエが顔を顰める様子に、リーシャとサラは笑顔を浮かべる。リーシャの肩に顔を埋めてしまったメルエを一瞥し、カミュは詠唱の準備に入った。

 

「ルーラ」

 

 瞬時に一行を包み込んだ光が、上空へと浮き上がる。

 上空で方向を定めるように滞空していた光は、南西の方角へと飛んで行った。

 

 

 

 

 




読んで頂いてありがとうございました。

本当ならば、これが今年最後の更新と考えていたのですが、この六章も残すところあと一話。
故に、あと一話と、勇者装備品一覧を更新し、本年を終えたいと思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ダーマ神殿③

 

 

 

「教皇様……」

 

「うむ。ふぉふぉふぉ。この時代に生まれた『賢者』様は実に厳しいお方じゃ。これから我々も忙しくなる。いや、『人』である者ばかりか、『エルフ』も『魔物』も、この世界に生きとし生ける者全てが忙しくなる」

 

 傍に寄って来た自分の後継者の声を受けた教皇は、一つ考えた後、盛大に笑い出した。その笑みは、何かを悟ったような笑い。自分が生きて来た数十年という歴史を破壊した音のような笑いは、この二人以外に誰もいなくなった広間に木霊する。

 

「世界は変わる。それも劇的な程にな」

 

「はい」

 

 広間の向こうに見える扉は、『賢者』となり、この世界に生きる人間に『精霊ルビス』の言葉を伝える事の出来る一人の女性によって閉められた。

 その扉を見つめながら、つい先程までこの広間で繰り広げられていた内容を思い出し、教皇は笑顔を浮かべる。

 彼女こそ、自分が待ち望んだ『賢者』なのかもしれない。

 彼等こそが、我々が待ち望んだ者達なのかもしれないと。

 

 

 

 

 

 遠くを見つめるように優しい瞳を浮かべる教皇に視線が集まる。サラは、自分の身体の中に渦巻き変化して行く魔法力に戸惑いながらも、教皇の言葉を待っていた。

 

「あのお方は、一人の幼子を連れてこの神殿を訪れました。『賢者』と呼ばれる存在がこの世界にはいるという事は先代の教皇様からお聞きしていましたが、そのお姿はどこにでもいる初老の男性でした」

 

 一つ息を吐き出した教皇が語る内容に、サラとカミュは静かな驚きを表す。先代の『賢者』と呼ばれる人間が男性であったこと。そして、その男性が数十年前に生きていた事。そして、幼子を連れていたという事実に関してだ。

 

「そ、その幼子とは?」

 

「ふむ。幼い女の子でな。『賢者』様のお嬢様であるという事でした」

 

 サラの質問に、気を悪くした様子もなく、教皇が答える。

 その答えに、サラとカミュは再び驚きを見せた。

 『賢者』と呼ばれる人間に血の繋がった人間がいるという事実に。

 

「『賢者』様は、ここにルビス様のお言葉をお伝え下された。そして……」

 

『賢者』と呼ばれる男性の行動を話し始めた教皇は、ふと言葉を止めて虚空を見上げる。まるで友を想うように優しい瞳に、サラは思わず見惚れてしまった。

 

「お嬢様をここにお預けになり、<ガルナ>の塔へと向かわれました」

 

「……ガルナの塔へ?」

 

「その娘さんは?」

 

 サラの質問に、ゆっくりと顔を上げた教皇の顔は厳しい物だった。

 それが、その娘の行く末を暗示していた。

 

「子の成された後、若くして亡くなられたそうです」

 

「!!」

 

 教皇の話では、その後十数年は生きた事になる。そして、自らの子の宿し、その子を産んだ後に、何らかの事情で死去したというのだ。

 

「『賢者』様とは違い、お嬢様の方には魔法力が宿ってはいませんでした。通常の『魔法使い』や『僧侶』以下の魔法力では、呪文を行使する事は出来なかったでしょう」

 

 先代の『賢者』の資質は、娘である子には受け継がれていなかったという。それは、その娘にとって悲劇となったのかもしれない。

 父親が偉大であればある程、その子への期待や羨望、そしてその反動の失望は大きくなる。

 それをカミュは知っていた。

 

「しかし、例え才能は受け継がれなくとも、血は消えません。歴大最高の『賢者』とも名高かったあのお方の血を受け継ぐ存在は……」

 

「ま、まさか……」

 

 途中で言葉を区切った教皇に、サラは自分の考えが暴走して行くのを感じる。ここまで悩んで来たサラを嘲笑うかのように、そして突き放すような言葉がこぼれる事を恐れ、サラは言葉に詰まった。

 

「『賢者』様から伝えられたルビス様のお言葉は、『これから先、世は乱れる』という物でした。そのお言葉通り、『魔王バラモス』の登場によって、魔物の凶暴化は進み、『人』の世ばかりか、生きとし生ける者の世界は暗い闇に覆われ始めました」

 

「……」

 

 サラの瞳を見上げた教皇は、哀しみに歪めた表情で言葉を続ける。

 サラもカミュも教皇に言葉をかける事は出来なかった。

 

「『人』の中でも特出した能力を有する『賢者』の血は、魔王にとっても脅威となる物だったのでしょう。何度も魔王軍と戦いながらも引かない『賢者』様の前に、その血筋を絶やそうと考えた魔王バラモスによって、お嬢様は夫となった者と共に命を落としたそうです」

 

「!!……そ、それで……」

 

 アリアハンという辺境の国の英雄ではなく、全世界のルビス教徒にとっての神に近い『賢者』と呼ばれる者の血は、サラやカミュが考えている程に軽い物ではなかった。

 カミュという存在もまた、英雄オルテガという魔王軍に戦いを挑んだ者の血を受け継ぎし者。しかし、彼はアリアハンで成人の歳を迎えるまで、魔王軍の強襲等といった物を受けた事はない。

 対して、『賢者』の血筋は、その痕跡を残したくないと魔王に思わせる程に強い物なのである。

 例え、その血筋の者に、先代のような魔法の才能がなかったとしても、いずれ再現される可能性のある血筋を残す事を良しとしない程の脅威があったのだ。

 

「『賢者』様は、三十年程前に、再びこの神殿を訪れられました。その手は以前と同じように幼い少女の手を握ってです」

 

「……それは……」

 

 もはや、カミュは口を挟まないというよりも、挟めないと言った方が正しかった。

 『賢者』の血を引く者達の末路。それが他人事には思えなかったのだ。

 何も、『自分だけが不幸だ』と思った事などない。それこそ、自分よりも恵まれない人間は多いと考えていた。

 しかし、未だに生きている自分。旅に出るまで、色々な屈辱や苦痛は受けて来たが、それでも旅に出てからの日々はカミュにとって掛け替えのない物になりつつある。そんな中、耳に入った特別な血を引く者達の末路は、何故かカミュの心に抜けない棘として残って行った。

 

「その通りです。その少女は、『賢者』様のお孫様でした。ただ、残念な事ですが、そのお孫様にも、魔法力は備わっておりませんでした」

 

「……では……」

 

 サラが言葉を紡ぐが、その呟きに近い程の小さな声は、広い神殿内に木霊とならずに消えて行く。それがサラの心を顕著に表わしていた。

 その者が辿る末路と、その哀しき結末を。

 

「はい。『賢者』様は、ご自分の編み出した魔法をその『悟りの書』に記すために<ガルナの塔>に赴かれました。そして、この神殿を旅立たれ、お孫様を安全に生きていけるような場所に預けた後、『賢者』様は魔王軍との死闘の末、命を落とされました」

 

 子と同じように、孫にも魔法の才能は受け継がれなかった。

 それは、『人』として、それ以外の種族に抗う術を持たない事と同義。

 『賢者』の血族としての危険を自らの能力で払い除ける事が出来ないという事は、死を意味しているのだ。

 

 そして、それを知っているからこそ、『賢者』と呼ばれる男性は、子と同じ道を歩まぬよう、孫を安全な場所に隠し、そしてその大本を断つために魔王討伐に向かったのだろう。

 しかし、その代償は大きかった。魔王という存在は、『人』の中の傑物でさえも退ける程に強大だったのである。それは、カミュやサラも知っていた。

 何故なら、十数年前に、同じような『人』の中の傑物である英雄が、その任務を全う出来なかったのだから。

 

「……そんな……」

 

「ですが、『賢者』様もご自分の未来は予想されていたのでしょう。最後に『自分の後継となる者は、大きく静かな光と共に必ず現れる』というお言葉を残されました」

 

 『賢者』と呼ばれた者の末路に言葉を失ったサラに、教皇は優しい瞳を向ける。その瞳が見るものは、サラであり、その後ろに控えるように立つ青年だった。

 教皇の耳にも下界の噂は絶えず入って来る。それは、宿屋の管理を任せている者が下界に降りた時などに持ち帰って来るためだ。

 先代の『賢者』が命を落としてから二十年程経過した頃、一人の青年が『魔王討伐』の為に旅に出たという話を耳にした時に、教皇は次代の『賢者』の登場を予感した。しかし、その人物の詳しい噂が耳に入ると、その予感は間違っているものだと悟ったのだ。

 何故なら、その者は『太陽のような青年』と云われていたからである。

 『賢者』は教皇に、『次代の賢者は、大きく静かな光と共に現れる』と告げていた。太陽の光は、大きくはあるが静かではない。それこそ、物陰に隠れなければ、誰しもが照らし出される程の強く荒々しい印象を受ける程の光。

 故に、教皇はその青年がこの神殿を訪れる事はないと感じたのだ。

 

「我々は、貴女様が現れるのを、心よりお待ち申し上げておりました」

 

「……わ、わたしは……」

 

 もう一度恭しく頭を下げる教皇に、サラははっきりとした返答が出来なかった。

 生まれてこの方、サラは『期待』という物を受けた事などない。孤児であり、神父の下で学んでいた者達の中でも決して優秀ではなかったサラは、そのような物には無縁であったのだ。

 

「後ろにおられる青年が、『賢者』様のおっしゃっていた、世界を等しく照らし出す、大きく静かな光なのでしょう」

 

「……カミュ様が……?」

 

 教皇は、初めて一行がこの神殿に入った時、次代の賢者となるであろう女性僧侶よりも、先頭を歩く青年に目を奪われていたのだ。

 その者の内から滲み出るような光は、眩いばかりの光ではない。それでも、瞳を奪われ、安堵する事の出来る優しい光。

 その証拠に、彼の後ろから歩いて来る三人の表情の中に安心感が見受けられていた。

 勿論、ルビス教の聖地であるダーマ神殿の中で、彼らのような者達に害意を向ける者等いる筈がない。しかし、先頭を歩く青年の表情には、若干の警戒感が残っていた。

 おそらく、彼はどこへ行っても同じなのだろう。

 後ろに控える者達を包み込み護る光。それがこの青年なのだ。

 教皇は、この青年を見て、次代の『賢者』の到来を確信した。

 

「その『悟りの書』は、古の『賢者』と称された方々の残された呪文の契約方法が記されていると聞きます。それに先代の『賢者』様が編み出された物を含めて編纂された物です」

 

「……」

 

 教皇の言葉に、サラは胸に抱える一冊の書物へと視線を落とす。

 サラには、様々な呪文の内の一つだけしか認識する事は出来なかった。

 

「先程、貴女様は『悟りの書』の一部分しか読む事は出来なかったとおっしゃられましたな。当然です。例え『賢者』様と成られたといえど、失礼ながら、貴女様はまだまだ未熟なのです」

 

「……申し訳ありません……」

 

 知らぬ間に、自分の心の中に『賢者』となった事への『驕り』が生まれていた事に気付いたサラが、頭を下げる。その様子に、柔らかな笑みを浮かべた教皇は、一つ頷いた後、もう一度口を開いた。

 

「いえ。差し出がましい事を申し上げました。これから先、貴女様の歩む道は果てなく、そして険しい。その道中で貴女様が真の『賢者』へと近づくにつれ、『悟りの書』の中に記されている契約方法も自然と見えて来る事でしょう」

 

「……それでは、この書物は……」

 

「それは、『賢者』である貴女様の物です。後世に伝えるにせよ、自らが編み出した呪文の契約方法を記すにせよ、貴女様が決めること」

 

 カミュの言葉通りだった。

 『悟りの書』と呼ばれる書物は、それを手にした瞬間、所有者はサラと決められていた。

 『悟りの書』を手にした者が『賢者』と転職できるのではなく、『賢者』と成るべく人間が手にするからこそ、その書物は『悟りの書』と呼ばれるのだ。

 

「『悟りの書』に記載されている呪文は、とても強力な物ばかりです。故に『賢者』様方は、それを書物の中へと封印し、世に出す事はありませんでした。古からの『賢者』様方が記された呪文は、魔族やエルフでさえも上級の者しか使用できない物も多い……」

 

「……」

 

「それは、世の均整を崩すとお考えになられたのでしょう。その呪文は『賢者』でなくとも、才能のある人間には契約が可能であるとおっしゃられていました。もし、貴女様が危険はないとお感じになられたのなら、先程の少女にも契約させてみるのも宜しかろうと」

 

 強大すぎる呪文を使う者は、その精神を問われる。

 強大な力は容易く『人』の心を闇へと落してしまうからだ。

 故に、古の『賢者』達は、その所有者を選別したのだろう。

 

 そして、何故か教皇は、その選ばれし者の中にメルエを加えた。

 そこで、サラは先程に教皇がメルエへと告げた『出直して来るが良い!』という言葉を思い出す。

 聞き様によっては拒絶にも聞こえなくはないが、出直す機会を与えたとも言えなくもない。メルエの心が成長し、その強大な力を制御する事が出来るようになった時には、彼女もまた『賢者』としての道を選択する事が可能なのかもしれない。

 

「……しかし……しかし、本当に私で良いのでしょうか? 私は、ルビス様の教えを破っています。この世界の有様を見て、恐れ多くもルビス教の教えに疑問を感じ、その教えに背いています」

 

「考え、悩み、そして答えを出す。それこそ『賢者』と呼ばれる所以です」

 

「……」

 

 今まで溜め込んでいた『恐怖』をここでサラは吐き出した。しかし、その『恐怖』はルビス教徒の頂点に立つ人間に容易く弾かれてしまう。

 それを見て、カミュは薄い笑顔を浮かべた。

 

「『賢者』とは賢き者と呼ばれておりますが、実際は賢くなるために考え、悩む者を言うのです。そして、様々な事象を見て、その考えに答えを導き出す。その者こそ『賢者』。貴女様もこれから先の旅路に様々な物を見て、考え、悩むでしょう」

 

「……わたしに何をお求めなのですか?」

 

 自分が『賢者』という枠に嵌めこまれてしまった事に、サラは喜びよりも恐怖を感じてしまう。それが、『期待』という感情を受けた事のない者の限界なのかもしれない。

 

「我々は、貴女様が拝聴したルビス様のお言葉を待つ身。どうぞ、この世界に暮らす生きとし生ける者を良き方向へとお導きください」

 

「生きとし生ける者?」

 

 もう一度、サラに向かって頭を下げた教皇の発した言葉の中の一語がサラの頭に引っかかりを生み出した。

 それは、サラがここまでの旅路で悩みに悩み抜いた事柄。故に、サラの瞳の中に先程宿っていた怯えがその姿を消した。

 

「はい。この世界で暮らす者ども、全てをです」

 

「それは……『エルフ』や『魔物』も含めてですか?」

 

 サラの質問に対する教皇の言葉に、サラは若干の怒りを含めて言葉を発した。その怒りの内容が理解できない教皇と、それを感じ取ったカミュは対照的な表情を浮かべる。

 

「はい。それ以外の生物も全てです」

 

「し、しかし! ルビス教では、『人』こそルビス様の子として教えられ、『魔物』や『エルフ』等は人外の者として忌み嫌われております。『魔物』に至っては、悪とさえ教えられているではありませんか!?」

 

 サラの叫びは、『慟哭』に近い物だった。

 実際、彼女は心の中で泣き叫んでいたのかもしれない。

 それ程、彼女にとって衝撃を受ける内容だったのだ。

 

「……それは、存じております。しかし、我々が崇める『精霊ルビス』様という存在は、生物に対し、格差をつけるようなお方ではありません。それは、貴女様もご存じの筈」

 

「な、ならば! 何故、『教え』は一方を悪としているのですか!?」

 

 跪いていた教皇は、サラの叫びにようやく腰を上げた。

 顔を上げたその顔は、『賢者』の誕生を喜ぶ好々爺ではなく、教皇のもの。

 それにサラは一瞬気圧された。

 

「……今の『人』の世界は大きくなりすぎました。その中には、熱心にルビス様を信仰する者もおりますが、そうでない者も多い。ルビス様にお仕えする『僧侶』という身でありながらも、本来のルビス様の教えを伝えない者も多くある。私も、この場所に辿り着くまでは、貴女様と同じ『教え』を信じておりました」

 

「そ、それは……」

 

 教皇の言葉に、サラは言葉に詰まった。

 本来のルビス教とは、遥か昔、まだ『人』という種族が『エルフ』に護られ、『精霊ルビス』との距離も近かった時、その光を信じる者達によって創設された物なのだ。

 全ての者に等しい慈悲を与え、その成長を見守る。そんなルビスの教えを信じ、自分達の守護者である『エルフ』に敬意を表し、畏怖に近い念を持ちながらも、『魔物』との生活圏の境界を設けた。

 それが始まりなのだ。

 

「今、下界で信仰されているルビス教は、もはや一人歩きを始めています。手を離れてしまった物を戻す事は不可能……」

 

「……そんな……」

 

 サラの胸に落ちて来たのは『絶望』に近い感情だった。

 ルビス教の頂点に立つ教皇が発した言葉は、『人』を見捨てるような物。間違った『教え』を信じ込み、猛進して行く『人』の行く末に光があろう筈がない。

 サラはそう感じたのだ。

 

「そ、それでも! それでも、人々にルビス様の本当のお心をお伝えするのが教皇様の使命ではないのですか!?」

 

 再び顔を上げたサラの瞳を見たカミュは、『またか』と溜息を吐きたくなった。

 今のサラの瞳は、感情によって理性を失った瞳。ここまでの旅路の中で何度か目にしたサラの瞳だった。

 このサラの特性とも言うべき性質は『賢者』となっても変わっていなかったのだ。

 

「……無茶を言うな……」

 

「カ、カミュ様!」

 

 そこで、ようやくカミュが口を開いた。ここまで、一切口を開く事のなかった、世界を救うと云われる『勇者』の登場に、サラの意識は方向転換する。

 

「……アリアハンを出た頃のアンタが、今の言葉を聞いて納得するのか?」

 

「……そ、それは……」

 

 勢い良くカミュに振り向いたサラの顔が、下へと落ちて行く。カミュの問いに、サラは即答できなかった。

 実際、あの頃のサラが、今のサラの意見を聞いたとしたら、その意見を発した者をも憎んでいただろう。それは、今自分に向かって言葉を発した青年が証明していた。

 思えば、サラが今発した物は、言葉こそ違えど、カミュが以前から洩らしていた物と意味は同じなのだ。それを『人』至上主義の教えを受けて育った人間に理解させる事は不可能に近い。

 

「『人』は弱いのです。『エルフ』のような魔法力もなく、『魔物』のような強靭さもない。我が身を護る為に、身を寄せるしかない。数が集まれば、それが強さとなる」

 

 言葉に窮する年若い『賢者』の表情を見て、教皇は静かに口を開く。

 それは、単体では動けない種族の哀しさを表していた。

 

「カミュ様も、そうお考えなのですか?」

 

「……それが『人』の生き方だ……」

 

 教皇の言葉に対し、悔しそうに唇を噛んだサラは、もう一度自分も強く信じ始めている『勇者』に向かって問いかける。しかし、その答えもサラの期待に応える物ではなかった。

 

「それでは……教皇様もカミュ様も、それが『人』の道だというのですか? 他種族への憎しみを抱いたまま間違った方向に進み、魔王の力に怯えて更にその憎しみを増長させながら滅んで行くのが『人』なのですか!?」

 

「それを神やルビス様が望むのならば……」

 

 サラの疑問に答えたのは、『人』の頂点と言っても過言ではない場所に立つ老人だった。

 もし、『人』を創りし神や、その保護を任された『精霊ルビス』がそれを望むのならば、致し方なしという答え。それにサラは目を剥いた。

 

「違います! 『人』はお二人が考えるよりも、強く、尊いものです! 『エルフ』や『魔物』に比べれば、歴史も浅く、魔法力も強靭な身体もありません。それでも、『エルフ』や『魔物』と同じ様にこの世界で生きて来たのです!」

 

「……アンタは……」

 

 強く、そして哀しく叫ぶサラの瞳は、先程と違い、しっかりとした炎を宿していた。そんなサラの瞳を見たカミュは、とても優しげな表情を浮かべ、薄く笑う。

 その変化を歓迎するように。

 そして、その強さに敬意を表するように。

 

「私は諦めません! この世界は……この世界は一つの種族の物だけではないのですから!」

 

「『賢者』様……」

 

 自分に言い聞かせるように、そして自分を奮い立たせるように、強く言葉を紡ぐサラを、教皇は眩しそうに見上げる。

 この『賢者』は先代とは違うのだと。

 もはや、『人』の世界に浸透した考えを正す事を諦めた自分とは違うのだと。

 

 先代の『賢者』も、『人』の行く末を憂いでいた。

 歴代の『賢者』も同じだろう。

 だからこそ、強力な呪文を封印したのだ。

 

「アンタは自分が何を言っているのか解っているのか?」

 

「……わかっています……」

 

 表情を少し緩めていたカミュの顔が真剣な物に変わって行く。

 そのカミュを見て、サラも冷静さを取り戻した。

 

「アンタが言っている事は、到底不可能な事だ。第一、『人』の繁栄を望むのなら、アンタの言っている『魔物』や『エルフ』といった他種族の繁栄は望めなくなる」

 

「始めから諦めていては何も出来ないではないですか!?」

 

 カミュが口にした一般論は、サラの感情論に掻き消された。

 『甘い』

 そう感じずにはいられない程の理想論。

 それでも、カミュの口元は知らずに緩んでいた。

 

「ならば、どうする?」

 

「か、考えます!」

 

 試すように問いかけるカミュに対する答えを聞いて、カミュはもはや笑顔を隠そうとはしなかった。

 おそらく、彼女はこれからも大いに悩み、苦しみ、考える事になるだろう。それは、ここまでの道程の比ではない。

 何せ、自分の心に悩んでいた今までとは違い、世界に生きる全ての者の為に悩むのだ。

 

 例え、彼女がルビス教の頂点と言っても良い『賢者』になったとしても、彼女の理想を実現する事は不可能だろう。

 一種族の専横を画策する『魔王バラモス』を打ち滅ぼしたとしても、彼女の理想の前に立ち塞がるのは、『人』が作りし国家であり、彼女が属していた教会である。

 いや、彼女が護ろうとする『人』全てかもしれない。

 

 おそらく、それはサラも理解しているのだろう。実現不可能であると知りながらも、前へ進もうとするこの女性が、カミュにはとても眩しく見えた。

 まず間違いなく、彼女の理想は砕け散るだろう。それでも、微かな望みは繋がれた。

 とてつもなく厳しい茨の道の先に、本当に小さな光が。

 

「……」

 

「私に出来る事など、些細な事かもしれません。それでも……」

 

「『賢者』様。我々に出来る事があれば、お命じ下さい」

 

 微笑を浮かべたカミュの視線を見て、サラは驚きと共に、自分に圧し掛かる重圧を再認識する。それは、再びサラの足元に跪いた教皇と、次期教皇の姿で更に強まった。

 そんなサラの表情の変化を見て、カミュの眉間にも皺が寄る。

 カミュの瞳は、先程の温かみを宿しながらも哀しみを感じさせる物になっていた。それは、サラの在り方に対するカミュの懸念の表れ。

 サラは、今の一言で、『人』である事を捨てたのだ。『人』を想い、それ以外の種族を想い、そして自分自身を捨てた。

 この時点で、彼女は本当の意味での『賢者』となる。偶像に近いそれは、『人』によっては都合の良い存在に成り下がる可能性も否定できない。

 それをカミュは憂いていた。

 

「まずは、ルビス様の下へ。この世界の各地に散らばる<オーブ>をお集めください」

 

「オーブ?」

 

 カミュの哀しみの瞳を見て、疑問を感じていたサラであったが、今後の方針を話し始めた教皇の言葉に、向き直る。聞いた事のない名を口にした教皇の意図が解らず、再度カミュへと視線を送るが、サラの視線を受けたカミュも静かに首を横に振った。

 

「はい。世界各地に散らばる六つのオーブがルビス様への懸け橋となります」

 

「……」

 

 カミュとサラは、言葉を発する事が出来なかった。ここまで教皇がはっきりと示唆するのであれば、それはルビス教には伝わっていない物。つまり、ルビス教の教皇となる者に受継がれている伝承なのだろう。

 

「『六つのオーブが集まりし時、その従者は甦る』と伝えられています。これはこの神殿で伝承されている物。下界の者は知らぬ事と思います」

 

「……ルビス様の従者……」

 

 カミュ達の予想通り、その話は<ダーマ神殿>にしか伝えられていない物だった。

 時代の『賢者』から教皇へ、そして教皇から次代の『賢者』へと受継がれて来た話なのだろう。ただ、誰一人、そのオーブという物を集め切った者はいないのかもしれない。

 ならば、歴代の『賢者』は如何にして『精霊ルビス』の下に辿り着いたのか。サラはその疑問を持ったのだ。

 この伝承を信じるのならば、『精霊ルビス』の従者を甦らせなければ、その下へ向かう事も出来ない事になる。ならば、何故今まで誰一人甦らせる事をしなかったのか。

 

「先代までの『賢者』様には、ルビス様の方からお声を掛けて下されたのだそうです。しかし、先代の『賢者』様に最後にお会いした時には、もはやルビス様のお声も届かぬようになってしまわれたとお話されておりました」

 

 サラの表情を見て、疑問の内容を感じ取ったのだろう。

 教皇は悲痛な表情を浮かべながら、『精霊ルビス』の現状を話し出す。

 

「……参上する他ないと言う事ですか……?」

 

「はい」

 

 教皇が苦しそうに吐き出した声を聞き、サラは全てを察する。口には出さぬが、『もしかすると、『精霊ルビス』様は<人>をお見捨てになられるのかもしれない』という想いが見え隠れしていた。

 ルビス教の頂点に立つ人間として、『精霊ルビス』という存在を疑う言葉を吐く事は許されない。故に、教皇は頭を下げて言葉少なに答えを返したのだ。

 その心を理解したからこそ、サラは無言で頷き返した。

 

「……行くぞ……」

 

 二人の会話が終止符を打った事を確認したカミュが踵を返す。

 それに返答を返したサラも祭壇を下りて行った。

 

「待たれよ」

 

 そんな二人の背中に声が掛かる。その声の主である教皇の言葉は、サラが『賢者』となる前の口調に戻っていた。それが、教皇が声を掛けた相手を示している。

 

「……何か?」

 

 ルビス教の頂点に立つ『賢者』ではない存在。

 それは、この場所ではカミュしかいない。

 それが解っているからこそ、カミュは振り返った。

 

「これを持って行くが良い」

 

「これは?」

 

 祭壇を下りてきた教皇の手には一冊の書物。いや、書物というよりは二枚程の紙を纏めた物と言ったほうが正しいかもしれない。

 瞬間的に何を差し出されたのか理解できなかったカミュは、教皇へと視線を向けた。

 

「これも、教皇から教皇へと受継がれてきた物。お主が誠の『勇者』なのならば、これが役に立つじゃろう」

 

「勇者のみ使用可能な魔法……」

 

 教皇の言葉を聞き、呟きを洩らしたのはサラ。ここまでの道程で、カミュはいくつかの特別な魔法を行使してきた。

 一つはロマリア城に保管されていた物。

 もう一つは、イシス城に保管されていた物。

 そして、今、この聖地ダーマに受継がれて来た物をカミュは受け取ったのだ。

 

「……有り難く頂戴いたします……」

 

「うむ。お主達の旅は、更に過酷になるじゃろう。気をつけて行かれよ」

 

 教皇から書物を受け取ったカミュは、一度頭を下げる。

 教皇はカミュの姿を見て頷いた後、その横にいるサラへ深々と頭を下げた。

 顔を上げた教皇と瞳を合わせたサラが頷き返す。

 

 長い謁見は終わった。

 

 

 

 世界を救うと云われる『勇者』

 『人』を救うと云われる『賢者』

 その二人が同じ道を歩み始めている。

 今はまだ、とても小さく頼りない光。

 しかし、それはいずれ世界を照らす光となるだろう。

 

 誰もいない広間で、教皇は一人祈りを奉げていた。

 世界の平和を願い。

 生きとし生けるものの幸せを願い。

 そして、その希望の安全を願い。

 

 陽も落ち、広間にも闇の支配が広がっていく中、跪き、祈りを奉げる教皇を、優しい月明かりだけが照らしていた。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

本年最後のお話となります。
この後に、勇者一行装備品一覧がありますが、このサイトに移動してきて丸二か月以上。
ここまで読んで頂き、温かなお言葉を頂けた事、本当に感謝しております。
本当にありがとうございました。
皆様、良いお年をお迎えください。

ご意見、ご感想を心からお待ち申し上げています。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

『勇者』である事を苦悩する年若い青年。『勇者』という言葉に付いて来る責任と業を他者に背負わせまいとする優しき心を持つが、それは彼の無表情という壁によって覆われている。

 

【年齢】:17歳

既にアリアハンを出てから、一年の時が経過し、その剣技や体力は大幅に成長をしている。しかし、同じ様に成長しているリーシャの存在によって、彼は自分の成長を肌で感じる事は出来ていない。

 

【装備品】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜。英雄オルテガという彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):鋼鉄の鎧

 

盾):鉄の盾

 

武器):鋼鉄の剣

カザーブの村で購入してから、一年近くの間装備し続けている剣。

数多くの魔物ばかりか、人をも殺めて来た剣の耐久は、既に限界に近づいている。

 

所持魔法):メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

 

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

戦士という職業に誇りを持っているが、未だに魔法への憧れは強い。自身の特性(考える事等の不得手)をしっかりと把握し、何とかそれを補おうと考えてはいるが、自身が考えるよりも他者に任せた方が良い場面もある事を理解している。

 

【年齢】:不明

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):鋼鉄の鎧

 

盾):鉄の盾

 

武器):鉄の斧

ムオルの村で『おおばさみ』という武器を見つけ、思案した結果、片手で振るう事の出来る斧を使い続ける事を選択する。戦士らしく、自分の武器に対する目は確かな物であり、自身の戦闘スタイルに合った武具を選択している。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

アリアハンを出てから、常に悩み続けた結果に辿り着く。彼女の本質を見抜いた、ルビス教教皇によって導かれ、古の賢者が残した『悟りの書』を手に入れ、その中身を見る。一度は、魔法に関する飛び抜けた才能を示すメルエにその役職を譲る事を考えるが、『悟りの書』によって選ばれた存在であるサラに逃れる術はなかった。『人』を救いし者としての責務を負ったサラは、現状のルビス教の教えに対し疑問を呈し、茨の道を歩み出す。

 

【年齢】:18歳

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』となった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれている。その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):みかわしの服

上から掛けていた十字の刺繍は取られ、青色で無地のみかわしの服となっている。

 

盾):うろこの盾

 

武器):鉄の槍

 

所持魔法):ホイミ

      ニフラム

      ルカニ

      ルカナン

      マヌーサ

      キアリー

      ピオリム  

      バギ   

      ラリホー

      ベホイミ

      マホトーン

      

 

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

その魔法力は規格外であり、『悟りの書』の一部を見る事が出来た形跡もあった。

『賢者』としての資質もある可能性も持つ、謎の多い少女。

 

【年齢】:7,8歳

未だに社会の一般常識を学んでいる途中であり、文字の読み書きは自分の名前以外はできない。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):アンの服

みかわしの服と同じ素材で出来た服。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。

持ち主によって、その形状を変える盾。

また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

 

武器):魔道師の杖

    毒針

 

所持魔法):メラ

      ヒャド

      スカラ

      スクルト

      ルーラ

      リレミト

      ギラ

      イオ  

      ベギラマ

      メラミ

 

 

 



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第七章
~幕間~【バハラタ周辺】


 

 

 

 一行がバハラタの町近くに降り立った時には、陽が傾き掛けていた。

 夕陽が差し照らす<聖なる川>がキラキラと赤く輝き、幻想的な光景を生み出す商業の町は、以前にカミュ達が訪れた時とは違う雰囲気を醸し出している。夜が近づいている町は、明かりが灯り、その明るさは昼をも思わせる程の物だった。

 

「サラ。先程から気になっているのだが、その頭につけている物はどうしたんだ?」

 

「えっ!? へ、変ですか?」

 

 バハラタから少し離れた森の入り口付近に移動する為に歩き始めた時、サラの後ろを歩いていたリーシャから声が掛かる。それに対するサラの素っ頓狂な声に、前を行くカミュとメルエも振り返った。

 

「いや。そうではない。サラがあれ程に執着していた僧侶帽を手放した事が不思議でな」

 

「……これは、教皇様に頂きました。先代の『賢者』様がお造りになられた物だそうです」

 

「…………サラ………ずるい…………」

 

 リーシャが口にした『執着心』という言葉はサラの胸に刺さり、重苦しく口を開くサラとは正反対に、何かに嫉妬を感じたメルエの呟きはどこか的外れな物だった。

 そんなメルエの呟きにリーシャは苦笑し、サラは慌ててしまう。

 

「えっ!? メ、メルエには『銀の髪飾り』があるじゃないですか?」

 

「…………サラ………ずるい…………」

 

「ふふふ」

 

 メルエの呟きに重苦しい雰囲気は吹き飛んで行く。ムオルの村でメルエへと譲渡した髪飾りの存在を慌てて伝えるサラの言葉を聞いても、メルエは納得する事はなかった。

 そんな二人のやり取りが自然とリーシャの顔に笑顔を浮かべさせる。

 

「しかし、前掛けも失ったのだな」

 

「あ……はい……『もはや僧侶ではない』というお言葉を頂きました。ルビス様を信仰する事を止めるつもりはありません。ですが、僧侶帽や前掛けを着け続ける事によって、『僧侶』である事に甘えてしまう事は許されませんので」

 

「……」

 

 僧侶帽と共に失った、十字の刺繍が入った前掛けの存在を指摘したリーシャに対して、サラの表情はあからさまに歪んだ。

 彼女にとって自分が『僧侶』であるという事は、ある意味で『誇り』でもあったのだろう。だが、それは『悟りの書』を手にした時点で許されないものとなったのだ。

 

 色々な想いを秘めているように口を開くサラを、リーシャは誇らしげに見ていた。

 そんなリーシャとは対照的に、常に無表情を貫くカミュの顔は哀しげに歪んでいる。

 それぞれの想いが、それぞれの表情に如実に表れていた。

 

「そうか。あのサラが随分立派になったものだ」

 

「……リーシャさん……」

 

 目を細めてサラを見るリーシャの頭には、この一年以上経過する旅の記憶が甦っていた。

 アリアハンを出た自分とカミュを追って、息を切らせながら走って来たサラ。

 魔物への憎しみを隠そうとはせず、その魔物へ慈悲を掛けるカミュへと噛み付くサラ。

 同じ様に両親を魔物に殺された少年を導くカミュに戸惑い、悩むサラ。

 剣の稽古をつけて欲しいと決意に燃え、懸命に槍を振るうサラ。

 様々なサラの表情が浮かんでは消え、何故か目の前に立つサラの顔が滲んで行く。

 

「……おっと……風が吹いて来たな」

 

 風から顔を護るように腕を掲げたリーシャは、妹のような少女の大きな成長に溢れて来た涙をそっと拭った。

 時間にしてみれば、たった一年強の付き合いである。しかし、その短い時間は、強い絆を生んでいたのだ。

 

「そ、それで、カミュ! ここまで来たが、あの町にはお前が行くのか?」

 

「……他に誰が行く?」

 

 どこか優しい雰囲気を纏って自分を見ているカミュに、リーシャは声を張り上げる。その声が微かに震えていた事は、おそらく声を向けられたカミュにしか解らない程のものだったろう。故に、カミュはその事を追求しなかった。

 それもまた、この一年強の旅の中で変化した物の一つなのかもしれない。

 

「そうか。だが、盗賊からの脅威が消えた町は、復興に向かって動いている筈だ。夜とはいえ、お前が再び町に入るのはまずいのではないか?」

 

「……では、アンタが行くのか?」

 

 リーシャにしては珍しいまともな意見に、一瞬驚いた表情を見せたカミュだが、逆に問い返してみれば、リーシャもまた顔を顰める。選択肢が残されてはいないのだ。

 リーシャも自分が交渉役に向いていない事は重々承知している。町に入り、約束どおり『黒胡椒』を渡してくれれば何の問題もないのだが、もし何かあった場合、リーシャではその対応策を見出す事が出来ない。

 

「……私が行きましょうか?」

 

「な、なに!?」

 

 俯いてしまったリーシャの顔が弾かれたように上がる。バハラタの町に入る事を志願したのは、この町に誰よりも苦い想いを抱いている筈のサラだったのだ。

 これにはカミュも驚きの表情を浮かべていた。

 

「……アンタに行く事が出来るのか?」

 

「そうだ! サラ、無理をする必要はないのだぞ!?」

 

 サラを気遣うリーシャの言葉に、サラは柔らかく微笑んだ。

 そんなサラの表情を見て、カミュは深い溜息を吐く。

 これで、バハラタの町で『黒胡椒』を受け取る人物は決まった。

 

「…………メルエも…………」

 

「ふふふ。メルエはカミュ様達とここで待っていて下さい」

 

 サラの表情に何か思うところがあったのだろう。メルエがサラに同行する事を提案するが、それも柔らかく断られた。

 『むぅ』とどこか不満そうな表情を浮かべ、リーシャの腰元にしがみ付いてしまったメルエに視線を合わすように屈んだサラが口を開く。

 

「メルエがいなくなってしまったら、カミュ様とリーシャさんは喧嘩を始めてしまいます。しっかり二人を見ていてくださいね」

 

「…………ん…………」

 

 サラの言葉に、カミュとリーシャの顔を見比べたメルエは、不承不承といった感じに頷きを返す。そんなメルエにサラは再び柔らかく微笑んだ。

 しかし、そんな微笑ましい光景も、当事者から見れば納得が行かない。すぐにリーシャが口を開いた。

 

「サラ! 何を言っているんだ!?」

 

「ふふふ。では行って来ます」

 

 そんなリーシャの反論を無視するように、サラはバハラタの町へと歩き出した。

 月明かりも霞む程の人工的な灯りで輝く町に吸い込まれるように、サラの姿は小さくなって行く。

 劇的な変化を遂げたサラはどこか脆く危うい。そんな感想を持っていたリーシャは、小さくなって行くサラの背中を暫し見つめていた。

 月明かりを受け、小さくなって行くサラの背中を不安そうに見つめるリーシャに、予想外の言葉が掛かる。

 それは、既にサラから視線を外し、野営の準備に入っている一人の青年からだった。

 

「心配するな……アンタが思うよりも、あれはずっと強い」

 

「……カミュ……」

 

 リーシャはサラが『賢者』となる場面を見る事が出来なかった。

 いや、実際その場面を見ていたとしても、リーシャは同じ不安を持っただろう。リーシャにとってサラは、まだまだ危うい存在なのだ。

 

「…………けん…か………だめ…………」

 

 そんな二人のやり取りを見ていたメルエがその間に入ってくる。サラから下された指令を忠実に護ろうとする幼い少女に、カミュとリーシャは苦笑を洩らした。

 

 

 

 町へと入ったサラの印象は、以前と全く違う物だった。

 町を満たす人々の顔は、何かを吹き飛ばすような活気に満ちており、額に滲む汗を嬉しそうに拭いている。以前訪れた際には見る事がなかった子供達の姿もあり、どの子供も笑顔を浮かべながら駆け回っていた。

 

「……これが本当のバハラタなのですね……」

 

 空に輝く月の光が届かない程に明るい町の中は、まるで未だに太陽が昇っている昼のような喧騒で満たされており、その姿を見たサラは、この姿こそ本来のバハラタという町だと感じていた。

 

「お嬢さん、観光かい? 宿屋なら向こうだよ!」

 

「えっ!? あ、は、はい。ありがとうございます」

 

 店仕舞いを始めていた道具屋の店主らしき人間が、周囲を見渡しながら歩くサラに目を止め、親切にも道を示してくれる。突然掛った声に戸惑いながらも、サラは丁重に頭を下げた。

 以前ここを訪れた時に比べ、サラの姿は変化している。それは体格とか女性らしさという物ではなく、サラという存在そのもの。身に付けている物に、以前のサラを特定出来るような物はない。

 『僧侶』として生きて来たサラが纏っていた衣服には、サラが『僧侶』である証が散りばめられていたが、今のサラの衣服にはそれがないのだ。

 『僧侶』である事を示す十字の刺繍の入った前掛けは取り払われ、サラの髪と同じような青い服になっており、特徴的な帽子も今やサークレットに変わっている。サラ個人を認識しているカミュ達あれば別であるが、『勇者一行に同道していた僧侶』としてしかサラを認識していなかった者にとっては、別人と見えてもおかしくはないのだ。

 

「……忘れている訳ではないのでしょうね……」

 

 自分をあの時の『僧侶』と認識していない事に疑問を持ったサラではあったが、町の住民の姿を見ていれば、あのカンダタ一味の事件を忘れている訳ではない事は理解出来た。

 あの苦しみを、そして身近な者を失った悲しみと悔しさを忘れた訳ではない。それでも力強く前へと歩み始めているこの町に、サラは感動を覚えていた。

 

 傍を歩く女性に町長の家の場所を尋ね、サラはそちらへと歩いて行く。店仕舞いを進めている人々を眺めながら、サラの頬は自然と緩んでいた。

 町に残る人々の心の傷は癒えてはいないだろう。それでも力強く歩き出す『人』の強さは、サラに勇気を与えていたのだ。

 

「ここですね……ふぅ……」

 

 ある一軒の家の前に辿り着いたサラは、一つ大きな深呼吸をした後、目の前にある扉に付いている金具で木戸を叩いた。

 少しして、中から声が聞こえた後、ゆっくりと木戸は開かれる。夜である事もあり、警戒からか少ししか開かれない扉の隙間から以前会った町長の顔が見えた。

 

「どなた様でしょう?」

 

「あ、あの……以前、この町を訪ねた者です。その時のお約束である『黒胡椒』を受け取りに参りました」

 

「!!」

 

 見覚えのない女性に素性を問いかけた町長に予想外の答えが返って来る。

 サラの発した『黒胡椒』という言葉は、町長の瞳に驚愕の感情を宿らせた。

 

「……貴女様は……」

 

「はい。あの時同道していた……『僧侶』です」

 

 サラは自分の素姓を語る際に、『僧侶』という言葉を発する事に戸惑った。

 それは、自分自身の中でその資格の有無に対するわだかまりが解けていない事と、この町で『人殺し』を容認した者を『僧侶』と呼べるのかという事からである。

 

「あの時の!?」

 

「は、はい」

 

 サラの返答を聞いた町長は更に驚愕の色を深め、半開きであった扉を全て開いて、そこに立つサラをまじまじと見つめ直す。そんな町長の視線にどこか居心地の悪い感覚を味わったサラは視線を落とした。

 

「はっ! この様な所では何ですので、どうぞ中へ」

 

 暫し放心したようにサラを見つめた町長は、どこか困ったようなサラの表情に気が付き、慌てて中へと招き入れる。その招きに一瞬の躊躇いを見せたサラではあったが、そのまま家の中へと入って行った。

 

「何もない所ですが、今お茶でも入れますので」

 

「いえ、お構いなく」

 

 町長に促されるままに席に着いたサラは、興味深そうに家の中を眺める。そんな失礼な態度に対しても町長は気を悪くした様子もなく、台所へと向かった。

 温かな湯気の立つカップを二つ持って戻って来た町長は、それをテーブルに置いた後、サラの対面に座り、口を開いた。

 

「他のお連れ様は……?」

 

「町の外にある森で待機しています。町に余計な混乱を与えたくはありませんから」

 

 恐る恐ると言った感じでサラに問いかけた町長は、サラの答えを聞くと、ほっとしたような、それでいて哀しそうな複雑な表情を浮かべ俯いてしまう。町長の気持ちを嬉しく思ったサラは、『気にしないでください』と一言言葉を投げ、カップを手に取った。

 

「本当に何から何までお気遣いを頂き、ありがとうございます」

 

 顔を上げた町長は、サラの瞳を見据え、深々と頭を下げる。

 その言葉には、『謝罪』と共に『後悔』の念も含まれているようでもあった。

 

「大変厚かましいのですが、『黒胡椒』を頂ければ、早々に町を立ち、余計な波風を立たせないように致しますので」

 

「そ、そのようなことは」

 

 サラの言い分は、聞き様によっては、『目的の物を頂ければ、何もしない』というような脅迫めいた物にも聞こえる。サラにその気はなく、むしろ町の住民の事を考えての事なのだが、町長にはそのように聞こえなかったかもしれない。

 

「もはや、あの事件から二月以上の時が流れました。町の者達もそれぞれの胸の内に色々な想いを抱きながらも前へと歩いています。今はまだ無理ではありますが、必ず貴女様方から受けたご恩を皆に伝えようと思っています」

 

「それは……」

 

 サラの瞳を見る事は出来ず、テーブルへと視線を落としたまま、町長は自分の想いを口にする。

 町は、まだ復興へと動き出したばかり。町の復興には『人』の想いと力が不可欠であるのだ。

 故に、今は何を話しても受け入れられない者達に真実を伝えるよりも、落ち付きを取り戻し、周囲を見渡せる程になってから、この町の救い主の真実を伝えると言う。

 

「必ず……必ず、貴女様方からのご恩を伝えます」

 

「……いえ……私達の事は良いのです。それよりも、『恨み』や『憎しみ』に駆られる人が出ない事を願っています」

 

 この町の人間が、サラ達の真実を受け入れる事が出来る日が何時来るのか。それは、想像する事も難しい。

 彼らの心にある見えない傷痕は、生涯消える事はないだろう。故に、サラは自分達の事よりも、彼ら自身の心の行く末を懸念する。

 願わくば、自分と同じ道を歩んでしまわないようにと。

 

「……ありがとうございます……」

 

 町長の瞳に涙が溜まり、それは重力に従ってテーブルへと落ちて行く。木で出来たテーブルに落ちた水滴を見つめながら、サラは何も返答が出来なかった。

 この町の住民には、それぞれの生活があり、その営みを護ろうとした町長を責める事など出来ない。しかし、それはサラの理想とは掛け離れた物でもあるのだ。

 

「では、こちらを……」

 

「えっ!?」

 

 暫しの静寂の後、町長は革袋を二つサラの前に差し出す。テーブルの上に置かれた革袋を見て、サラは驚きの声を上げた。

 このバハラタを出る時に、町長がカミュへ渡そうとしていた革袋は一つだった筈。

 

「いえ、良いのです。新しく収穫できた物も一袋お渡し致します」

 

「……」

 

 遠慮がちに上げられた町長の表情を見て、サラは全てを悟った。

 町長の瞳が全てを物語っている。

 この余分な革袋は、手切れ金なのだ。

 『二度と町には来ないで欲しい』

 そんな町長の心の声が聞こえたような気がした。

 

 それは、サラの勘違いかもしれない。だが、カンダタ一味にさえも決して弱みを見せず、実の孫娘が攫われても町を優先させようとしたこの翁が、何の見返りもなく貴重な『黒胡椒』を必要以上に差し出す訳はないのだ。

 そして、そんな過剰な程の謝礼に対し、サラ達が欲を出さない事も計算の上なのだろう。

 

「……ありがとうございます……」

 

 どこか釈然としない想いを胸に、サラは一つ頭を下げてから長老宅を後にする。扉の前まで見送りに出てこようとする長老を止めて、サラは外へと出た。

 外は、既に星空が輝き、月明かりが町を照らしていた。

 人工的な灯りも疎らになった町は、人の往来もなくなり、静けさに満ちている。一度空に輝く月を見上げたサラは、大きく息を吐いた後、しっかりと前を向いて、町の出口へと足を踏み出した。

 

 

 

 サラが小さな『決意』の炎を胸に宿した頃、外でその帰りを待っていた三人は、それぞれの武器を手にしていた。

 

「カミュ! そっちは頼む!」

 

「わかっている。メルエ! 下がれ!」

 

 斧を構えたリーシャは、カミュへと指示を出した後、目の前にいる魔物へと向かって行く。その声を受けたカミュが、後方で『魔道士の杖』を構えるメルエを更に後ろへと下げ、背中の剣を抜き放った。

 

 薪集めも終え、落日と共に下がって行く気温によっての体温の低下を防ぐ為に火を熾し始めた頃、森の内部から不穏の音が聞こえ、三人の前に魔物が姿を現したのだ。

 その魔物は、牛のようでありながら、山羊のようでもあるという何とも不思議な魔物であった。

 

「@#(9&)」

 

「下がれ!」

 

 カミュ達が構えを取ったのとほぼ同時に魔物は奇声を発した。それを聞いたカミュが、<鉄の斧>を握るリーシャへ指示を出す。

 リーシャが反応して後ろへ飛び退くと、先程までリーシャが居た場所に着弾した魔法が炎の壁を作り出した。

 

「カミュ! このままでは野営の場所まで焼かれてしまうぞ!」

 

「ちっ! 一度森から出る」

 

 カミュの決定に、リーシャは斧を一度背中に戻し、傍に居たメルエを抱き上げた。

 それを確認したカミュは、魔物へと剣を向けながらじりじりと後退を始める。呪文を唱えた魔物は、カミュの剣を警戒しながら、カミュを追い詰めるように歩を進めていた。

 やがて、一人で魔物と対峙していたカミュの足が森から出る。既にリーシャとメルエは平原へと出ており、それぞれの得物を構えていた。

 

「ブモォォォォォ」

 

 カミュが剣を下ろし、飛び退くのを確認した魔物は、その頭に生えた角をカミュへと向けて突進して来た。

 着地と同時に飛び込んで来た魔物の角を<鉄の盾>で弾いたカミュが、離れ際に剣を振り下ろす。

 

「@#(9&)」

 

 しかし、カミュに角を弾かれた魔物が再び呪文の詠唱を行う。振り下ろされた<鋼鉄の剣>に纏わり付く様に飛び出した熱気は、まるでカミュと魔物を隔てるように着弾し、炎の壁を作り出した。

 

<マッドオックス>

本来あり得ないバッファローと山羊の交配によって生まれた亜種が起源とされている魔物。それぞれの特徴を有した容貌をしており、身体は山羊の毛のような体毛に追われており、頭に生える角はバッファローの物に酷似している。気性はとても荒く、敵と見定めた相手に容赦なく鋭い角を向ける。また、亜種としての血が濃くなった為なのか、魔法も使用する事が可能となっていた。

 

「カミュ! 相手は一体だ。焦る必要はない」

 

「……わかっている……」

 

 一度後方に戻ったカミュに、リーシャは<鉄の斧>を身構えながら忠告を洩らす。それは、カミュにも充分理解出来る物だった。

 もし、この<マッドオックス>に遭遇したのが、バハラタ地方に入ったばかりの頃であれば、彼らは苦労したのかもしれない。

 しかし、今のカミュ達は様々な経験を積んでいるのだ。カミュに至っては、サラの補助があったとはいえ、ある地方では神獣とされる龍種すらも倒している。

 

「…………メルエ………の…………?」

 

「いや、まだメルエの魔法の出番ではない。後ろで待っていろ」

 

 高々と<魔道士の杖>を掲げたメルエが、自分の出番かとリーシャに問いかけるが、それは優しく拒まれた。

 『むぅ』と頬を膨らませるメルエに苦笑を浮かべながら、リーシャは軽くメルエの肩を叩く。そんなリーシャの笑顔に、メルエは一つ頷いた後、後方へと下がって行った。

 

「さあ、カミュ。行くぞ」

 

「……ああ……」

 

 メルエが離れた事を確認したリーシャが再び<鉄の斧>を構え直す。その声に、カミュもまた<鋼鉄の剣>を構えて<マッドオックス>へと視線を向けた。

 もはや、<マッドオックス>は彼らの敵ではない。

 再度<ギラ>を詠唱しようとした<マッドオックス>の頭部をリーシャが<鉄の盾>で横殴りに弾き、リーシャの後ろから跳躍したカミュの剣が、下がった<マッドオックス>の首に突き刺さった。そのまま重力を利用するように押し込まれた剣は<マッドオックス>の首をもぎ取る。

 

「――――――」

 

 声にならない断末魔を溢した<マッドオックス>はそのまま物言わぬ肉塊と化した。一つ息を吐いたカミュは、剣を振って血糊を落とす。危機が去った事を理解したメルエがリーシャの足元へと駆け寄って来た。

 だが、斧を背中に仕舞い、メルエを抱き上げたリーシャの表情が再び引き締まる。

 

「カミュ!」

 

「……ちっ……」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 リーシャの声に、カミュは盛大な舌打ちを返し、メルエはリーシャの肩に顔を埋めてしまった。リーシャが感じたのは、魔物の気配ではない。

 周囲を闇が完全に支配したこの場所に漂う死臭。それは、以前バハラタに入る前に嗅いだ覚えのある不快な臭いだった。

 

 ズズ……

 

 何かを引き摺るような音がカミュ達の耳に入って来た頃には、その死臭はもはや吐き気さえも覚える程に強まって来ていた。

 先程息絶えたばかりの<マッドオックス>の死臭に誘われて来たのだろう。身動きの取れないカミュ達の前に二体の<腐った死体>が現れた。

 

「うおぇ……カ、カミュ……」

 

 余りの腐敗臭に吐き気を抑えられないリーシャが口元を押さえながら、カミュへと指示を仰ぐが、こうなってしまった以上、この場所で野営をする事自体が無理に近い。森の中までも漂ってきそうな程の腐敗臭はどうあっても避ける事は出来ないのだ。

 しかし、野営の場所を変える訳にはいかない。何故なら、彼らの仲間がまだ戻っていないのだから。

 夜の闇の中を彼らの灯す炎と、自らの記憶によって戻ろうとする女性がまだバハラタから戻って来てはいないのだ。

 

「くそ! 焼き払うしかないか……」

 

「…………メドゥエ………やどぅ…………」

 

 捨て台詞を吐くカミュの足元から奇妙な声が聞こえる。視線を下に向けると、そこには涙目になりながらも器用に鼻を抓んだメルエがカミュを見上げていた。

 

「わかった。<ベギラマ>を頼む」

 

「…………」

 

 メルエに視線を向け、カミュはメルエに使用呪文の依頼をする。カミュとしては、メルエの呪文で足りない場合は、自分も被せるように<ベギラマ>を唱えるつもりだった。

 しかし、それは小さな『魔法使い』によって拒絶される。あろう事か、カミュの依頼をメルエは首を横に振り断ったのだ。

 その行動に、カミュだけではなくリーシャでさえ驚きを隠せなかった。

 

「…………あたらしい………おぼえた…………」

 

「なに!?」

 

 顔を顰めながらも、鼻を抓んでいた指を退けて口を開いたメルエの言葉は、この旅でもう何度も聞いた言葉。そしてその言葉に、リーシャは以前と同じ様に驚きを表す。

 正直に言えば、リーシャは、メルエが新しい魔法を覚える度に、その魔法力の桁違いさに驚いていた。

 

「……やれるのか……?」

 

「…………ん…………」

 

 迫り来る腐敗臭に全員の顔が歪む中、カミュの問い掛けにメルエはしっかりと頷く。そのメルエの行動に、カミュは軽く溜息を吐いた後、メルエの呪文行使の許可を出した。

 カミュが一歩下がり、メルエが一歩前に出る。

 メルエの後ろにはぴったりとリーシャが付き、その周囲をカミュが監視する。

 既に詠唱の準備は出来た。

 腐敗臭が強まり、二体の<腐った死体>の姿が大きくなる。そして、目に染みる程に腐敗臭が漂い始めた時、メルエの持つ杖が振り下ろされた。

 

「…………ヒャダルコ…………」

 

 メルエの言葉が発せられたのと同時に、周囲の空気が瞬時に凍りついた。

 それは、メルエの後ろに立つリーシャの周囲も、後方を警戒するカミュの周囲もだ。

 メルエが得意とする氷結系の呪文である<ヒャド>の冷気とは比べ物にならない程の冷気が周囲を支配し、一気に<腐った死体>へと降り注いで行く。

 

「ムゥゥゥゥ」

 

 もはや神経も腐りきり、痛覚等の感覚もなくなっている<腐った死体>は自分達の周囲の変化に気付きもしない。

 先程と同じ様にゆっくりと足を引き摺るように前へと進もうとするが、瞬時に凍りついた身体は思うように動きはしなかった。

 強引に前へと向けようとする足は凍りつき、乾いた音を立てて膝上からもげて行く。もげた足で地面を踏もうとするが、もう片方の足は完全に凍り付いているため動きはしない。そのまま腰の上から身体が折れ、地面へと倒れこんで行った。

 最後にはメルエの放った冷気によって二体の<腐った死体>は完全に凍結してしまったのだ。

 

<ヒャダルコ>

氷結系の<ヒャド>の上位魔法。その威力は<ヒャド>を大きく凌ぎ、その冷気は対象となった複数をも凍らせる程の冷気を有する。『魔道書』に記載される氷結系最強の魔法である。しかし、その契約は非常に難しく、熟練の『魔法使い』でも契約できるか解らない物である。この魔法を習得できた魔法使いは、宮廷魔道士の中でも最高幹部への道が約束される程の魔法であった。

 

「……カミュ……」

 

「……いつ見ても、慣れる事はないな……」

 

 メルエの放った魔法の威力。それを見つめていたリーシャは、魔物の脅威がなくなったにも拘らず、武器を下ろす事も忘れてカミュを見つめた。

 カミュもまた、一つ溜息を吐いた後、メルエの作り出した惨状を茫然と見つめている。

 

「…………ん…………」

 

「あ、ああ。凄いなメルエ。もう、あのような魔法を覚えたのだな」

 

 そんな二人の葛藤を余所に、お気に入りの帽子を取った頭をリーシャに突き出して来るメルエにリーシャは引き攣った笑顔を向ける。

 リーシャには魔法の事は解らない。だが、少なくとも彼女の故郷であるアリアハン国の宮廷には、これ程の魔法を使う者はいなかった。

 一国のお抱え魔法使いでさえも使用する事の出来ない魔法を行使する少女。

 その異常性だけはリーシャにも理解する事が出来た。

 

「……ふぅ……下がっていろ……」

 

 リーシャの温かな掌を受けて、気持ち良さそうに目を細めるメルエに視線を向けた後、カミュが徐に凍りついている<腐った死体>に近づいて行った。

 リーシャはカミュの様子を不思議に思いながらも、メルエを抱きかかえて後ろへと下がる。

 

「ふん!」

 

 魔物の前に移動したカミュは、持っていた<鋼鉄の剣>の柄で氷像と化した<腐った死体>を殴り付けた。

 中までも完全に凍りついていた<腐った死体>は乾いた音を立てながら、粉々に砕け散って行く。

 

「ベギラマ」

 

 二体の氷像を砕いたカミュは、散らばった破片に向けて手を翳し、彼が所有する最高の灼熱呪文を唱えた。

 カミュの詠唱と同時にメルエの<ヒャダルコ>のよって低下していた周囲の温度が上昇して行く。カミュの掌から発した熱気は、粉々に散りばめられた<腐った死体>であった欠片に着弾し、炎を燃え上がらせた。

 腐敗した肉塊を凍り付かせていた氷は溶け、まるでその者達を天へと還すように煙が立ち上って行く。

 

「……安らかな眠りを……」

 

 バハラタという商業都市を護るために戦い、そして命を落とした者達の冥福を祈るように、リーシャは静かに言葉を漏らし、胸の前で手を合わせて瞳を閉じる。その様子を不思議そうに見上げていたメルエもまた、リーシャの真似をするように、手を合わせて目を閉じた。

 

 魔物とはいえ、元は『人』。

 無念の死を遂げ、死して尚、苦しみにもがいていた者達。

 他に方法がなかったとはいえ、このような形でしか彼等を楽にする事が出来なかった事をリーシャは心苦しく感じていた。

 

「……戻るぞ……」

 

 手を合わせはしないが、黙祷を捧げていたカミュが剣を鞘に収め、森へと歩き出す。リーシャを促すように袖を引くメルエに苦笑を浮かべながらも、リーシャはその後を追った。

 

 

 

「はぁ……はぁ……お、遅くなりました」

 

 三人が野営地に戻り、夕食の準備をしている頃に、ようやくサラが戻って来た。

 バハラタの町から走って来たのだろう。息を切らしながらも、重そうに担いでいる袋を見て、リーシャは驚いた。

 

「おお、ご苦労様。ん?……『黒胡椒』は一袋ではなかったか?」

 

「あ、はい。新しく収穫出来た物も頂きました」

 

 リーシャの問いかけにサラは若干顔を曇らすが、リーシャはそれに気付かず、思わぬ貰い物を素直に喜び、革袋の中身をメルエと共に覗き込んでいた。

 しかし、そのような意味の含まれている物に対し、カミュが気付かない訳はない。サラの表情の変化と、倍に膨れた謝礼に対し、何の感情も見えない表情のまま黙々と野営の準備を進めていた。

 

「これだけあれば、『船』が買えるんじゃないか?」

 

「…………うみ………いや…………」

 

 革袋の中身を見て、リーシャはその量に驚く。『黄金一粒に匹敵する』と云われている物の量を見て、自分達が欲している物の価値と照らし合わせたのだ。

 そんなリーシャの呟きに、同じように覗き込んでいたメルエの頭の中に『船=海』という公式が浮かび、あからさまに顔を顰める。

 

「……ポルトガ国王次第だな……」

 

「それでも、不当に安く買い取られる事は無いのではないでしょうか?」

 

 溜息混じりに吐き出したカミュの言葉に、サラが疑問を呈する。

 しかし、そんなサラの疑問に対し、カミュは更に大きな溜息を吐き出した。

 

「これだけ色々な国や町を見て来て、まだそのような事を言えるアンタの頭を疑いたくなるな」

 

「な、なぜですか!?」

 

 呆れを交えた溜息を吐き、視線をサラへと向けたカミュの言葉に、サラは驚く。

 カミュがこのような言葉を吐き出す相手は、大抵はリーシャだった。ルビス教に関して以外は、カミュはサラの意見を否定する事は少なかったのである。

 

 『黒胡椒』はポルトガ国王の依頼で手にいれた物。そして、世界中でも『黄金一粒と同等の価値がある』と云われている程の物なのだ。

 それを不当に安く買い叩けば、それこそ国家の威信に拘わる事になる。そう考え、サラは言葉を発したのだ。

 

「相手は、俺達が欲している物を知っている。『黒胡椒』にどれだけ価値があろうと、それは買う人間が決める事だ。例え、俺達が他国に『黒胡椒』を売りつけたとしても、全て売り捌く事は不可能。そして、船を購入するにしても、船を手に入れる事が出来るのはあの国だけだ」

 

「……足下を見られるという事か?」

 

 カミュの言葉の意味を理解したリーシャが、『黒胡椒』の入った袋の口を閉じ、カミュに問いかける。カミュは、それに対して静かに一つ頷いた。

 

「し、しかし、相手は一国の国王様ですよ!?」

 

「……国王だからこそだ……」

 

 カミュから言わせれば、サラの考えはまだまだ甘いのだ。

 『人』を信じるのは勝手だ。だが、全ての『人』が自分の思い描いた枠に嵌まっている訳ではない。それは、サラも理解しているだろうが、サラの考えている【枠を飛び出ている『人』の数】と、カミュが考えている【枠に入っている『人』の数】では、そもそも雲泥の差があるのだ。

 

「まぁ、それはここで考えても仕方がない事だろう? それよりも、食事を終えたら、このまま<ルーラ>でポルトガへ向かうのか?」

 

 カミュとサラの考え方の相違は、一日や二日で解決できる物ではない。それ故に、リーシャは話題を変える事にした。

 食事の用意が出来ている以上、それを食した後に<ルーラ>を使用すれば、朝になる前にはポルトガに着けるかもしれないと考えたのだ。

 しかし、そんなリーシャの考えは、問いかけた相手ではなく、意外な所から否定される事となる。

 

「…………ノル……ド…………」

 

「ん?」

 

 自分の袖を引き、何かを期待するように見上げるメルエの言葉をリーシャは聞き返す。それは、この場所で再び聞く名前ではなかったからだ。

 それも、この幼き少女からは。

 しかし、メルエにとってその人物は、小さな身体にも拘らず、大岩で出来た壁を破壊するような、カミュやリーシャと同等の『強き者』であり、メルエに無償の笑顔を向けてくれる『心優しき者』だった。

 

「ふふふ。そうだな。ノルド殿にもう一度お礼を言いに行こうか?」

 

「…………ん…………」

 

 そんなメルエの気持ちを察したリーシャはにこやかに微笑み、帽子を取ってメルエの頭を優しく撫でる。その暖かな掌を受け、メルエは目を細めた。

 リーシャは、自分の手を受けて柔らかく笑みを作るメルエの心を嬉しく思った。それが何故なのかは解らない。ただ、何者にも先入観を持たない、この幼く純真な瞳を誇らしく思ったのだ。

 

「あの抜け道に行くという事は、ここから歩いた方が良さそうですね」

 

「……ああ……」

 

 二人のやり取りを優しく見守っていたサラは、目的地への行き方をカミュに問い掛け、その問いにカミュは頷きを返した。

 サラの言うように、カミュやメルエが行使する<ルーラ>という呪文は、目的地を描く明確なイメージが必要となる。故に、ノルドの暮らす<バーンの抜け道>のような森の中にある場所へ行く事は難しい。

 森は基本的に木々の集合体であり、その場所を特定する事が難しい為だ。

 

「よし。そうと決まれば、今日はゆっくり休め」

 

 方針が決まった事で、リーシャはメルエを寝かし付ける。背中を優しく撫でられながら、メルエはリーシャの膝の上で眠りに就いた。

 最初の見張りはリーシャという事になり、サラとカミュも身体を横たえる。

 

 夜の闇は濃くなり、月明かりと赤々と燃える焚き火が見守る中、一行はまた一つ夜を明かして行く。

 

 

 

 




新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

今年は、なんとかあの場所までは行きたいと思っています。
正直、この物語を描き始めて、2年以上の月日が流れました。
完結に向けて、これからも頑張って参ります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。



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過去~ノルド~

 

 

 

 エルフ族とは、一つの種族だけの集まりではない。『人』から見れば、異種族として『エルフ』を括ってはいるが、その中では多種の種族が生きている。純粋な『エルフ』と呼ばれる者達が過半数を占めてはいるが、他の半分は他種族になるのだ。

 

 彼もまた、その他種族の一人だった。

 ホビット族。

 

 エルフの中でも数多くいる小人族の一つ。ドワーフ族とは違い、力が強い訳でもなく、純粋なエルフのように魔力に秀でている訳でもない。彼らが特出していたのは、その手先の器用さであった。

 エルフ族の物作りの大半は、彼らホビット族が占めている。靴や洋服、陶器や小物等も、作り出すのは彼らであった。

 

「あれには出来るだけ近づくな」

 

 そんなホビット族の中にも異端児は存在する。

 彼はその一人だった。

 彼の祖先には、ホビット族の英雄が存在している。

 その名は『バーン』

 

 『人』とは異なり、海を渡る道具を作り出す事をして来なかったエルフ族の中でも、魔法を使用できない種族には、大陸を移動する手段がなかった。そんな小人族の大望を叶えたのが、その英雄である。

 高い山脈が隔てる東西の大陸を結ぶ抜け道を掘り進み、徒歩しか移動手段のない者達に新たな景色と新たな希望を示したのだ。

 それが『バーンの抜け道』と呼ばれ、今も尚語り継がれている物。その道を使い、かなりの小人族は新たな大陸で夢や希望を叶えて行った。

 

 しかし、堅い岩盤を割り、山々の固い土を掘り進めてその抜け道を切り開いたのは、手先が器用という事だけが取り柄のホビット族だったのだ。

 それは、他種族だけでなく同種のホビット族からも異端として受け取られる。多大な功績を残した故に、英雄は蔑まれる事もなく、彼の子供達にも彼の異能が遺伝する事はなかった為に、ホビット族から追われる事もなかった。

 

「あれの近くにいると、捻り潰されるぞ」

 

 しかし、数代後の子孫に彼の異能は受け継がれた。

 『隔世遺伝』

 バーンの血は脈々と受け継がれ、そして遂に花開いたのだ。

 

 その子は『ノルド』と名付けられ、成長と共に表に出て来た異端者としての片鱗により、同族であるホビット族からも孤立する事になる。英雄の子孫という事から、表だった迫害を受ける事はない。しかし、彼の持つ異常な能力を恐れ、彼の周りには誰も寄り付かなかった。

 そして彼は里を出る。

 

 彼は、もはや誰も使用する事のなくなった<バーンの抜け道>へと続く洞窟で一人生活をする事となった。

 近くの森で食物を耕し、狩りを行い、命を繋ぐ。もはや『生きる意味はあるのか?』という問いすらも浮かばぬ程に長い年月が経っていた。

 

 

 

 そんな彼の生活を一変し、『希望』という二文字を知ったのは、いつもと同じ朝だった。

 

「ん?今日は随分と森が騒がしいな」

 

 いつものように朝食に使う食物を採りに外へ出たノルドは、昨日とは違う森のざわめきに気が付く。

 木々は何かを排除するかの如く葉を揺らし、小動物達の小さな声がいつもと違い『恐怖』の感情を帯びていた。

 

「魔物でも暴れているのか?」

 

 近年、『魔王バラモス』という存在の台頭により、魔物達の様子がおかしくなって来ている。

 エルフ族と魔物は、基本的に不可侵であった。お互いがお互いの住処を護り、それは暗黙の了解によって成立していたのだが、魔王の台頭により凶暴性を増した魔物達がエルフの住処を侵略して来る事が多くなったのだ。

 それは、数を増やし続ける『人』のように。

 

 ここは、ノルドが暮らす森であると共に、小動物達や草木も生きる森である。魔物が暴れ回り、その生態系を崩す可能性がある以上、ノルドは手にした斧を握りしめ、森の中を警戒し始めた。

 

「なんだ?」

 

 警戒して進む中、森のざわめきは強くなり、何かに怯えるように身を寄せる動物達を目にする。そして、その先に見えた見慣れぬ物に視線を止めたノルドは、驚きの表情を浮かべた。

 

「……人……か?」

 

 ノルドが視線を向けた先には、何かが横たわっていた。前のめりに倒れるように寝ているそれは、ノルド達のようなエルフ族でもなく、ましてや獣のような姿の魔物でもない。魔族と考える事も出来るが、その割には魔法力の気配もないのだ。

 故に、ノルドは『人』ではないかという結論に達する。

 

「……放っておくか……」

 

 それを『人』だと認識したノルドは、手に持つ斧を下ろし、息を吐いた。

 ノルドは『人』を好いてはいない。決して『憎しみ』を持っている訳ではないが、『好意』を持っている訳でもない。

 考え、悩み、そして様々な物を作り出して世界を変えて行く『人』をホビットとして認めてはいるが、世界を我が物顔で生きる『人』という種族を嫌ってもいたのだ。

 

 ノルドはホビット族でも異端として、奇異の目で見られていた。それと同じように、エルフ族として『人』からも畏怖の目で見られている。

 基本的にこの森に入ろうとする『人』はいない。斧を手に持ち、森を歩くノルドの姿を人々は恐れた。

 何度か討伐を目的とした集団が森に入って来た事もいるが、その度に<バーンの抜け道>のある洞窟に隠れ、やり過ごして来た。そして、時が経過する毎に、ノルドの中での『人』への嫌悪が増して行っていたのだ。

 

「お前達も危ないぞ、住処に帰れ」

 

 一向に動く事のない『人』に興味を示したのか、小動物達が集まって来る。『人』であろう物の身体をつついたり、動かしたりする動物達を窘めるように言葉を掛けたノルドは、一つ大きな溜息を吐いた。

 ノルドとて動物達の肉を食す時もある。しかし、基本的に彼等は同じ森に暮らす仲間なのだ。出来るならば、安全に暮らして欲しいとも思っている。

 

「……仕方がないな」

 

 森の外に捨てて行こうとも考えたが、それもまた酷い話だと考えたノルドは、自分の暮らす洞窟へと『人』を運ぶ事にした。

 『人』の性別は男なのだろう。見た目よりも引き締まった身体は、ある程度鍛えている事を覗わせていた。

 

 

 

「……うぅぅん……」

 

 住処である洞窟まで男を担ぎ、枯れ葉を引いた場所に寝かせ、ノルドが朝食の準備も終えた頃、ようやく男は意識を取り戻した。

 ゆっくりと目を空け、目に飛び込んで来る薄暗い明りに目を細めた男は、何かに気付いたように勢い良く身体を起こした。

 

「気がついたか? それなら、早々に出て行ってくれ」

 

「アンタは?」

 

 その男は、周囲を見回した後、声の出所であるノルドに向かって視線を止める。ノルドの言葉を無視するような問いかけに、ノルドは顔を歪め、舌打ちをした。

 連れては来たが干渉するつもりはなく、そして自身に干渉もされたくもない。そんな想いがノルドの表情から滲み出している。

 

「お前が、森の中で倒れていたから、ここまで連れて来た」

 

「アンタは何者だ?」

 

 まるで主導権は自分にあるとでも言いたげな話し方に、ノルドは苛つき、盛大な舌打ちを繰り返す。他者との接触をここ数十年してこなかったノルドにとって、長く言葉を話す事も億劫なのだ。

 

「私はノルド。お前ら『人』が忌み嫌うエルフ族に属する者だ」

 

「エルフ!」

 

 男の反応はノルドの予想通りだった。

 驚いたように目を見開き、口も半開きになっている。

 しかし、その後の彼の動きはノルドの予想を大きく裏切った。

 

「それは凄い! あっ、申し遅れた。俺の名は『オルザ・ド・ポルトガ』と言う。助けてくれてありがとう!」

 

 その男の瞳に、侮蔑や怖れの感情は微塵もなかった。瞳は輝かんばかりの光を湛え、口元は友愛を示すように笑みを浮かべている。そればかりか、エルフ族の中でも侮られるホビット族に対し、名乗りを上げたのだ。

 

「……ポルトガ……?」

 

「あっ!? まぁ、その、なんだ……そういうことだ」

 

 男の反応にも驚いたノルドであったが、男が名乗った名に含まれていた単語に疑問を覚えた。

 そして、そんなノルドの態度に、男は失態を犯したような表情を見せ、頭を掻きながら苦笑を浮かべる。

 

「お前は、西にある<ポルトガ国>の王族なのか?」

 

「いや、まぁ……そんな感じだな」

 

 『人』の世界の王族。それは、『人』の間では、『精霊ルビス』から『人』の統治を任された一族であると伝えられている。『人』の出生を語り継がれているエルフ族にとっては笑い話のような話ではあるが、エルフや魔物よりも歴史の浅い『人』の中では、それこそが真実とされているのだ。

 

「『人』の王族が、こんな森の中で何故行き倒れていた?」

 

「ああ……王族とは言っても、まだ王位も継いでいないんだがな……」

 

「なに!?」

 

 ノルドの問いかけを無視するように呟いた男の言葉に、再びノルドは驚きを表す。

 『王位を継いでいない』と男は語った。それは、つまり『王位継承権』を有する王族であるという事。

 ノルドの頭の中には益々疑問が湧き上がって来た。

 

「次期国王が、このような場所で何をしていた?」

 

 ノルドの瞳が厳しさを増す。自分というホビット族の討伐の為に向けられた可能性も考えられた。

 一人でという事に疑問を持つが、住処を特定するための芝居とも考えられる。故に、ノルドの視線は厳しく、目の前の男が何か行動を起こせば、すぐに対処できるように若干腰を浮かせていた。

 

「いや……ああ……恥ずかしい話なんだが……空腹で倒れたらしい」

 

「はぁ!?」

 

 鋭いノルドの問いかけを意に介さないように、ポルトガ次期国王は恥ずかしそうに自分の状況を話し始める。その内容は、ノルドに間抜けな声を出させるような物。そして、オルザと名乗ったその男の視線は、テーブルの上に乗っているノルドの朝食に向けられていた。

 

「……食べるか……?」

 

「い、いや! すまない。そんなつもりで言った訳じゃないんだ」

 

 呆れたように呟くノルドの言葉に、オルザは慌てたように手を振る。

 その滑稽さがノルドの表情を柔らかい物にした。

 

「初めからそのつもりだったんだ。遠慮せずに食べたら良い」

 

 軽い笑みを浮かべたノルドの誘いに、苦笑を浮かべながらテーブルに近づくオルザという男は、ノルドがこれまで見て来た『人』という根底を覆すような柔らかな雰囲気を纏う者だった。

 

「それで、アンタのような次期国王が何故このような場所に?」

 

「うぐっ……ああ、すまない」

 

 テーブルに着くなり、物凄い勢いで食物を食べ始めたオルザにノルドが問いかける。突然掛った声に喉を詰まらせたオルザは、ノルドから水を受け取り、一息付けてから口を開いた。

 

「ポルトガ国といえ、今や寂れ始めた国。『魔王』の出現によって海の魔物も凶暴化した為に、あの国に来る船も少なくなった」

 

「……」

 

 オルザが語り始めた内容は、直接の原因の話ではない。

 しかし、ノルドはそれを拒む事なく、静かに聞いていた。

 

「ポルトガは貿易国だ。貿易船がなくなれば、寂れて行く一方となる。『魔王』の存在がいつまで続くか分からない。その間、ポルトガの収入は無くなり、国家としての立ち位置も危うくなるだろう」

 

「……なるほど……」

 

 オルザは自国の置かれた現状を正確に把握していた。その事に、ノルドは素直に感心する。 『人』の中でも更に驕り高ぶりやすい王族が、現状を正確に把握し、それを懸念しているのだ。

 それは、『人』の世界にとって、決して悪い話ではないだろう。

 

「俺が王位を継ぐのはまだ先だ。それまでの間に世界を見て回りたいと思っていた」

 

「それで、ここまで?」

 

 最後のスープを飲み乾したオルザは、ノルドを真っ直ぐ見て話していた。自分の腰程の身長しかなく、『人』の子供並の大きさのノルドに対しても、彼は真剣に自身を語っている。それがノルドの警戒心を解いて行った。

 

「西の大陸には、目新しい物はなかった。話に聞く東の大陸に行けば何かあるのではと考えたんだ。だが、今は船も出ていない。そんな時、東の大陸に抜ける道があるという噂を聞いた。それがこの辺りの筈なんだ」

 

「……」

 

 オルザの目的を聞き、ノルドは口を閉じた。そこに出てくる東の大陸への道とは、自分の祖先が掘り続けた<バーンの抜け道>に他ならないからだ。

 <バーンの抜け道>は『エルフ』の為にノルドの先祖が造り上げた道。それを『人』に知られる訳にはいかない。

 

「ノルドは、その抜け道の場所を知らないか?」

 

「……知らん……」

 

 オルザの問いかけにノルドは首を振る。明らかな落胆の色を見せてオルザは俯いた。そんなオルザの様子に若干の罪悪感にも似た感情を持ってしまったノルドは、問いかけてしまう。

 

「東の大陸に行こうが、国を立て直す程の何かがあるとは限らないだろう?」

 

「それはそうだ。だが、何かあるかもしれない。今のままでは、どちらにせよポルトガ国は衰退する。ならば、出来るだけの事はしたいんだ」

 

 オルザの瞳の中に赤々と燃える炎をノルドは見た。これが、『人』という種族をここまで大きくした原動力なのかもしれない。そんな場違いな感想がノルドの胸に湧き上がる。

 

「お前の言う通り、『魔王』の存在は大きい。おそらく『魔王』の力はこれから益々大きくなるだろうし、その存在が消える事もないだろう。お前がいくら努力しても、『人』の造りし国家はやがて全て消えて行くのではないか?」

 

「そんな事はない! 今は強大な力を誇っても、『魔王』は必ず倒される。その時までは何としても国家を維持しなければ、国で暮らす人々すらも路頭に迷わす」

 

 ノルドの辛辣な言葉に、オルザは初めて感情を露にした。

 だが、その怒りは、奇妙。

 通常、王族であれば、自国の存続を否定されれば、自分の存在意義を否定されたと同義と解し、その誇りを傷つけられた事に怒りを表す。だが、彼は違っていた。

 彼が全力で否定したのは、『魔王』の存在。『魔王』という強大な者も、いつかは倒されるという部分のみなのだ。

 そして、国家を維持する理由がまた、今の王族にあるまじき理由だった。

 彼は、その国に暮らす民の為の国家だと言う。その考えが、ノルドの知っている『人』という種族とは違っていた。

 

「誰が『魔王』を倒すんだ? 『人』では『魔王』は倒せない」

 

 それでもノルドは、まるで彼を挑発するように言葉を発する。

 『お前らには倒せない』

 『お前らでは未来を創る事など出来ない』と

 

「何故だ!? 今、アリアハンから一人の男が『魔王討伐』に向かっている。その男は世界に誇る英雄だ。力も強く、魔法だって使えると云う。」

 

 そんなノルドの挑発に、オルザは乗ってしまう。まだまだ年若いこの青年は、自国を出る際に父親である現国王から聞いた話を我が事のように話し始めた。

 オルザがここまで来る間に、月日は経過している。おそらく彼の英雄は、既にポルトガから船を使い大陸を渡っているだろう。

 貿易船は出ずとも、『魔王討伐』という使命を受けた英雄には、ポルトガも支援という形で船を貸し出す筈だ。

 

 しかし、そんなオルザの希望は、目の前に座る子供並の背丈しかない異種族によって打ち壊された。

 

「くくくっ……あはははは! だから、『人』では駄目なんだ! 『人』では『魔王』は倒せない。絶対にだ!」

 

「なにっ!? 何故だ!? その英雄の力をノルドは知っているのか!? そいつは、世界でも頂点に立つ程の強さを持ち、エルフや魔物にすら使えない魔法を習得していると云われているんだぞ!」

 

 突如笑い出したノルドに驚きの表情を浮かべたオルザだったが、徐々にそれが怒りの表情に変わって行く。

 自分達の『希望』を笑われた事への怒り。

 自分の事に対してはそれ程の怒りを現さなかったオルザが、他者への嘲笑に怒りを現した事がノルドの笑いに拍車をかけて行く。

 

「くそっ! そいつは、こんな世界の中で『魔王』に向かって行こうとしているんだ。そんな男が『魔王』に敗れる筈がない。『人』がエルフや魔物に劣っていようと、必ず『魔王』は倒される」

 

 いつまでも笑い続けるノルドに、オルザは剥きになって言葉を続ける。しかし、そんなオルザの熱は、次に発したノルドの言葉によって急激に冷やされた。

 

「……ならば、何故お前はこんなところにいる?」

 

「……なに……?」

 

 ぴたりと笑いを収めたノルドの言葉は、鋭利な刃物のように鋭く、冬の水のように冷たい。

 それこそ、オルザの喉元を突き刺すように出された言葉が、オルザに言語を失わせてしまう。

 

「何故お前はその者と共に旅立たない? 何故『人』は、その者一人に背負わせる?」

 

「そ、それは……」

 

 ノルドの声はとても低く、小さい物。しかし、オルザの頭に、胸に、そして心に直接突き刺さって来る程の威力を誇っていた。

 その言葉は鋭利な刃物よりも鋭く、冬に降り注ぐ雪よりも冷たい。

 オルザの身体は冷たく冷やされ、まるで悴んだように言葉も出なくなる。

 

「我々エルフ族は、多種族の集合体だ。しかし、もしエルフの長が『打倒魔王』を掲げたとしたら、我々は集結するだろう。そこに例外者はいない。全てのエルフ族が集い、魔物との戦闘を開始する」

 

 もはやオルザの口は、言葉を発する事が出来ない。完全にノルドに飲まれてしまっていた。いや、その言葉の意味を正確に理解しているからこそ、彼は口を開けないのだろう。

 『人』であるオルザだからこそ、ノルドの言葉に抵抗感を持つが、ポルトガ次期国王としてのオルザの頭は、その言葉の持つ重大な意味を理解したのだ。

 

「もし、エルフの長が『人』の殲滅を表明したのなら、我々エルフと『人』との戦いは拮抗などしない。瞬時に殲滅してやろう」

 

「……それは……」

 

 オルザも、遥か昔から続くエルフと人間の戦いの歴史は知っている。その戦いは一進一退だった。いや、むしろ『人』の方が圧していたのだ。

 それは、エルフが本気で『人』を倒そうと考えていないからだとノルドは言う。だが、オルザには、そのノルドの言葉が唯の負け惜しみには聞こえなかった。

 今、自分に向けられている強い視線。それが、嘘ではない事を示していたからだ。

 

「もう一度言おう。お前達『人』では『魔王』は倒せない」

 

「な、ならば、何故エルフは動かない! 『魔王』はこの世界に生きる全てを殲滅し、魔物達の世界を作るつもりなんだぞ!」

 

 幾分落ち着きを取り戻したノルドの言葉に、オルザは噛みついた。

 それが『人』の勝手な言い分である事は、オルザも十分に理解している。

 それでも言わずにはいられなかったのだ。

 

「……先程も言った通り、エルフの長が命じれば、我々は死を賭して戦う。だがそのような命は下りないだろうな」

 

「何故だ!?」

 

 反射的に怒鳴るように問いかけるオルザ。それは、その答えを聞く事への恐れが無意識の内に生み出した態度なのかもしれない。それ程、ノルドが語る世界は、オルザの心を騒がし、そして恐れさせた。

 それでも、ノルドはゆっくりと口を開く。

 

「我々エルフは、世界を見守る者であって、世界を変える者ではない」

 

 ノルドが言った言葉。

 それがオルザには理解できなかった。

 だが、自分が何かを考えなければならないという事だけは感じていた。

 

「……」

 

 黙り込むオルザを見て、ノルドは無意識に頬を緩めた。

 ここまで自種族を侮られたのにも拘わらず、目の前の青年は考え込んでいる。それも、一平民ではなく、王族である彼がだ。

 それが、ノルドの内にある『人』に対する考えを変え始めていた。

 

「『人』は今まで他種族の住処を侵して世界を広げて来た。それが自分達に回って来ているだけだ」

 

「……そうか……」

 

 ノルドの言葉をオルザは聞いていないように深く考え込んでいた。

 まるで、何か自分にできる事を模索するように。

 この先の『人』の未来を案じるように。

 

「それでも、お前は東の大陸へ行くつもりか?」

 

「ん?……ああ、それでも行く。ノルドの言うように、『人』の未来は暗いものかもしれない。それでも俺が生きている間は、ポルトガの民の生活を護りたい」

 

 ノルドは、オルザの答えに微笑んだ。

 基本的にノルドのようなエルフ族は遠い未来を見て行動する。今、オルザが語ったような事を言い出す者いないのだ。

 悪く言えば、『人』のように目先の事に目を奪われはしない。

 だが、それこそが『人』と『エルフ』の違いなのだろう。

 彼ら『人』は生が短い。だからこそ、その短い時間を懸命に生きる。そして、自分が生きている短い時間で、何かを成そうとするのだ。

 それが、その先に繋がる命に受継がれると信じて。

 それをノルドは今初めて『尊い』と感じた。

 

「ならば、付いて来い」

 

「へっ?」

 

 短い言葉を残して席を立ったノルドに、オルザは奇妙な声を上げる。

 オルザの答えも聞かず、彼は居住区を出て行った。

 

 

 

「ここが、お前の探していた<バーンの抜け道>だ」

 

「何故教えてくれるんだ?」

 

 木や石を積み上げて隠していた通路を開いたノルドは、その通路にオルザを誘う。

 突如として現れた希望の道を呆然と見上げていたオルザではあったが、疑いというよりは心からの疑問と言った感じでノルドへと問いかけた。

 

「さあな。お前達『人』の歩む道を見てみたくなったのかも知れん」

 

 『異端』として恐れられて来た一人のホビットは、同じ様な『人』としての『異端』を目にし、その異物が何を成すのかを見てみたくなった。

 おそらく彼一人では何も成し得はしないだろう。それでも『人』の数はエルフを遥かに超えている。

 ならば、同じ様な『異端』の数もエルフとは比べ物にならぬ筈。

 

 『人』の『異端』

 

 それは、ノルドの語った『世界を変えていく者達』なのかもしれない。

 故に、ノルドは祖先が切り開いた道を、彼らの第一歩としたのだ。

 彼のような『人』が育ってくれる事を願って。

 

「ノルド! ありがとう」

 

「さっさと行け」

 

 感謝の意を伝えるオルザに素っ気無い答えを返すノルド。

 そんなノルドの手をオルザは取った。

 小さなノルドの手を取ったオルザの手はとても温かい。

 

「お礼を何か……」

 

「そんな物は良い」

 

 無碍に断るノルドの言葉を無視し、オルザは自らの身体を探る。しかし、荷物といえば、小さなバッグを肩から下げるだけのオルザに相応の謝礼等なかった。

 

「あっ! これを!」

 

「な、なんだ?」

 

 しかし、オルザはそのバッグに手を掛け、何かを思い付いたようにバッグを開け始める。オルザの勢いにノルドは一瞬怯んでしまうが、そのバッグから出て来た物に目を奪われた。

 

「これは、『絹』という材質の布らしい。ポルトガに来た最後の貿易船に乗っていた物だ。何でも<テドン>という村で織られている物で、触り心地は最高級だぞ」

 

「……これは随分高級な物なんじゃないのか……?」

 

 オルザから手渡された布は、キラキラとした輝きに近い光沢を持ち、それとは反した滑らかな触り心地の物だった。エルフ族であるノルドでさえ、今まで見た事のない物である。

 その価値は、触っただけでも解ってしまう程であり、改めて物造りとしての『人』の技量の高さをノルドは知る事となった。

 

「まぁ、それなりの価値はあると思うが、<テドン>の名産らしいからな。また貿易船が来るようになれば、手に入るさ。少し汚れているかもしれないが、洗えば落ちる」

 

「そ、そうか……お前が良いのなら、有り難く頂いておこう」

 

 屈託のない笑顔を向けるオルザに、ノルドは断る事を諦めた。

 これ以上拒めば、この男の心を傷つけてしまうだろう。

 ならば、有り難く頂戴しよう。

 この『人』の『異端』と出会う事の出来た記念に。

 

「じゃあ。本当にありがとう。また会いに来るよ!」

 

「お前がこの抜け道を通った後、この道は完全に塞ぐ。帰りは船を使うか、魔法の使える者と共に帰るんだな」

 

 ノルドの言葉に、一瞬目を見開いたオルザだったが、すぐに笑顔に戻った。

 自分が通るこの道は、公には出来ない道なのだという事を悟ったのだ。

 故に、一度ノルドに向かって頷きを返す。

 

「わかった。本当にありがとう」

 

「さっさと行け」

 

 そして、彼らは別れた。

 互いに口にしてはいないが、それぞれの心に互いの存在が刻み付けられる。

 それは、『同志』として。

 そして『友』として。

 

 暗く細い道を歩いて行くオルザは、その姿が見えなくなるまでノルドに手を振っていた。そんなオルザの姿に苦笑を洩らしながらも、ノルドも手を振り返す。

 そして、オルザの背中が消えて行った。

 静けさの戻った洞窟で、大きな溜息を一つ吐いた後、ノルドは抜け道の入り口を岩や土で塞いで行く。オルザが戻って来る可能性を考え、それは何日かに分けての作業となった。

 

 しかし、その後、ノルドがオルザと出会う事はない。

 月日は流れ、抜け道を塞ぐ岩壁も頑強な物となり、ノルドでなければ開けない程になった頃、遠く西の国で新たな国王が誕生した噂を耳にした。

 

 

 

 

 

「…………ルド………ノ……ド…………」

 

「は!?」

 

 少し感傷に浸っていたノルドは、自分の袖を引く何者かに意識を戻された。意識を戻したノルドの目の前には、少し頬を膨らませた同じぐらいの背丈の少女。

 

「…………いっぱい………よん……だ…………」

 

「これは、すまん。どうした?」

 

 『むぅ』と頬を膨らませた少女の純真な瞳に、ノルドは苦笑を浮かべながら謝罪を返す。ノルドの謝罪に対して、暫しむくれていた少女であるが、表情を緩め、肩から下げていたポシェットに手を入れる。

 

「…………あげる…………」

 

「ん?」

 

 ポシェットの中から取り出した物は、青く透き通る石。

 少女の小さな掌に納まる程の大きさではあるが、その輝きは聖なる光を宿していた。

 

「あれ? メルエ、その石は……」

 

「それは、あの時の『命の石』か?」

 

 ノルドに何かを手渡すのを見て、その少女の連れが顔を覗かせる。

 そんな二人の女性に対し、少女はにこやかに微笑み、自慢げに大きく頷いた。

 

「……おい……」

 

 メルエと呼ばれた少女の満足気な頷きに、たった一人苦い表情を浮かべる青年。青年の苦虫を噛み潰したような表情に、二人の女性は苦笑を浮かべた。

 その様子がどこか暖かく、彼らの旅の一端を見た気がしたノルドは表情を緩める。

 

「あの時、具合が悪いのに、それを拾っていたのですか?」

 

「…………ん…………」

 

「そんな、縁起の悪い物を他人に渡すな」

 

 手渡された石の欠片よりも深い青色に輝く石を嵌め込んだサークレットを頭につける女性の問い掛けに、メルエは大きく頷き、その頷きを見て、再び青年は溜息を吐きながら愚痴のような言葉を漏らす。

 

「いや、良いんだ。ありがとう。この石にどんな謂れがあるのか知らないが、この石は聖なる輝きを宿している」

 

「そうなのか? おい、カミュ。この石にはまだ効力があるんじゃないか?」

 

 手渡された石を見たノルドは、メルエに対して礼を述べ、その石に微かに宿る神聖な物について述べる。その石を覗き込んでいた女性が、青年に確かめるように言葉を掛けるが、カミュと呼ばれた青年は顔を顰めるだけだった。

 

「それとは別なのですが、これも受け取って下さい」

 

「ん?……これは?」

 

 そんな客人達のやり取りに久しく浮かべていなかった笑みを洩らしたノルドの前に、一袋の革袋が置かれた。

 テーブルの上へと革袋を置いた女性以外の人間も何も言わない事から、それをノルドに渡す事は、この一行の総意なのだろう。

 自分を囲む四人の『人』を見回した後、ノルドはその革袋の紐を緩めた。そして、緩めた途端にテーブルに零れ出す小さな粒に驚きを表す。

 それは、ノルドも何度か見た事のある物だった。

 

 オルザと別れてから十数年。彼の下には、何度かこの粒が送られて来た事がある。

 それは人の手ではなく、ノルドの住む洞窟の入り口にひっそりと置かれていたのだ。

 ノルドはそれがオルザからの贈り物である事に気付いていた。王となり、簡単に国外に出る事が出来なくなった彼の精一杯の好意の証だったのだろう。

 

「『黒胡椒』か……これ程の量をどうやって手に入れたのかは知らないが、私一人で使用出来る量ではない。テーブルに零れた分だけ頂くとするよ」

 

 彼ら四人の表情を見れば、これを断る事が失礼になる事ぐらいは理解できる。故に、ノルドはテーブルに散らばった粒を集め、その分を有り難く受け取る事にした。

 

「これだけあれば、かなりの期間、食事が楽しくなるな」

 

「そ、そうなのか!? この粒はどうやって料理に使うんだ!?」

 

「リ、リーシャさん」

 

 『黒胡椒』の粒を見て嬉しそうに呟くノルドに、リーシャと呼ばれた女性が詰め寄って来る。その勢いに驚いたノルドは、思わず噴き出してしまった。

 笑うノルドに『むっ』と表情を変化させたリーシャは、軽く睨みを向ける。

 

「いや、すまん。アンタは料理をするのか?」

 

「ああ。私が料理をするのは変か?」

 

 どこか拗ねたような答を返すリーシャに、ノルドは再び噴き出した。いつの間にか、メルエもカミュと呼ばれた青年も、サラという女性も笑顔を浮かべている。

 ノルドは久しく味わった事のない、何とも言えない暖かな空気を感じていた。

 

「すまん、すまん。そうではないんだ。料理が出来るのであれば、ちょうど良い鶏肉もあるし、この『黒胡椒』の使い方を教えるよ」

 

「本当か!?」

 

「…………リーシャ………ごはん………おいしい…………」

 

 『黒胡椒』の使用方法を教えて貰えると聞き、リーシャは全身で喜びを表す。リーシャの笑顔を見て、メルエも微笑みながらノルドにリーシャの腕を伝えた。

 言葉の少ないメルエの話す内容をしっかりと理解したノルドは、メルエに向かって柔らかく微笑み、『黒胡椒』の粒を持って台所へと向かって行く。

 

「ありがとう、メルエ。今日も飛び切り美味しい物を作るからな!」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの頭を撫でた後、リーシャもノルドを追って台所へと消えて行き、サラとカミュはその場に残される形となった。

 

「ふふふ。これでは、ポルトガに向かえるのは明日になりそうですね」

 

「……はぁ……」

 

 サラは笑みを浮かべながらメルエの傍にある椅子に腰を下ろし、カミュは大きな溜息を吐きながら背中の剣を取り外す。今夜は、このホビット族の住居で宿を借りる事に決定した。

 メルエはその事に嬉しそうな笑みを浮かべ、リーシャの入って行った台所へと向かって行く。

 

 ノルドが見た『異端』の切り開いた道を、次代の『異端者』達が歩んで行く。

 その道の先が何処に繋がるのか。

 それは、まだ誰にも解らない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

この回も、完全な独自解釈です。
ゲームでは、ポルトガ王というのは嫌なイメージしかありませんでした。
ですが、そんな王が異種族と「友」になれる訳がないと思うのです。
そんな二人の過去を久慈川式に解釈した結果がこのお話となります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ポルトガ城②

 

 

 

「……まいったな……」

 

 ポルトガ王は、自身の座る玉座の前で跪く四人の若者と、その前に置かれる献上品に視線を向け、大きな溜息を吐き出した。

 その溜息は隣に立つ大臣にも聞こえ、大臣は苦笑を洩らしている。

 

 ポルトガ国王への献上品として四人が持ち帰った物。

 中身を取り出され、ポルトガ王の前で山のように積み上げられており、しかもそれが入っていた袋と同じ物がもう一袋隣に置かれている。それは、この黒く輝く小さな粒の山が、もう一つ出来上がる事を意味していた。

 

「国王様」

 

「ん?……ああ……」

 

 ポルトガ王の困惑顔を暫しの間、苦笑を浮かべながら見ていた大臣が声を発する。その声を受け、ポルトガ王はもう一度、頭を下げて跪く四人の若者へと視線を向けた。

 

「面を上げよ」

 

「はっ」

 

 国王の言葉に、四人の顔が上がる。その四人の表情を見て、ポルトガ王は再び驚きを露にした。数ヶ月前に自分の前に現れた者達の顔ではなかったのだ。

 いや、あの四人である事は間違いない。しかし、誰一人としてあの頃の面影を宿す者はいなかった。

 彼らが東の大陸で何を見て、何を成して来たのかは解らない。ただ、それはとても辛く、とても苦しく、そしてとても素晴らしい事だったのだろう。

 彼らの表情に刻まれている『経験』という名の旅路の跡は、彼らが纏う空気をも変えてしまっていた。

 

「東の大陸はどうであった?」

 

「……」

 

 ポルトガ国王の言葉に、カミュは返答を返さない。しかし、それは無礼を働いている訳ではなく、何をどう伝えれば良いのかを判断できないといった様子であるのを見て、国王は苦笑を浮かべた。

 

「よい。その様子では、一言で形容できぬ程の物であったのだろうな」

 

「はっ」

 

 一行の心を慮る国王の言葉に、若干の驚きを表したカミュは、再び頭を下げる。後ろの三人もそれぞれに表情を変化させながら、もう一度顔を下げた。

 そんなカミュ達の様子を満足そうに眺めたポルトガ王は、再び目の前に見える『黒胡椒』の山を見て溜息を吐き出した。

 

「しかし、参ったな……」

 

 溜息と共に吐き出された言葉は、既にポルトガ国王としての物ではなく、『オルザ・ド・ポルトガ』という名の一人の男としての物だった。

 頻りに鬚のない顎を触り、額に手を当てる。落ち着きのない様子を見せる国王に、大臣は思わず苦笑を洩らしていた。

 

「いくらなんでも、これは持ち帰り過ぎではないか? これでは、バハラタの町の『黒胡椒』屋も潰れてしまうだろ?」

 

「国王様」

 

 心底困り果てた表情をする国王に、大臣は窘めるというよりは呆れたといった言葉をかける。そんな大臣の言葉を聞いても尚、国王は片手で目の上を覆い、なにやら考え込んでしまった。

 

 大臣は知っていた。

 この『オルザ・ド・ポルトガ』という年若い国王が、どのような意図でこの四人を東に向かわせたのかを。

 『黒胡椒』等、副産物に過ぎないのだ。

 その昔、若かりし彼が向かった東の大陸は、彼の人生観を変えてしまうような出来事があったのだろう。その証拠に、再び戻って来たオルザは誰もが驚く程に変貌していた。

 城を出て行く前は、青臭い理想ばかりを公言する世間知らずであったが、戻って来た彼は、理想をそのままに、現実という物と向き合いながらも進む事の出来る立派な王族へと成長していたのだ。

 『黒胡椒』が販売されている<バハラタ>という商業都市で何かを学んだのかもしれない。それ以外の場所で彼は何かを見たのかもしれない。それはオルザ自身から語られる事はなく、想像の域を出ない物ではあるが、大臣は確信していた。

 

「恐れながら……国王様のご依頼は『黒胡椒』であったと……」

 

「ああ……まあ、それはそうなんだが……」

 

 自分達の持ち帰った『黒胡椒』を嬉々として受け取る訳でもなく、まるで厄介事のように頭を抱える国王にカミュは口を開く。それに対する国王の回答もまた、とても曖昧な物であった。

 

「まあ良いか。お前達の望みの『船』は与える」

 

「!!……有難き幸せ」

 

「!!!」

 

 『ふぅ』と一息吐いた後、国王が宣言した内容に、カミュはもう一度頭を下げる。後ろに控える三人にはそれぞれ異なった表情を浮かべていた。

 リーシャは喜びを、サラは困惑を、そしてメルエは不満を。

 

「しかし、参ったな……これだけの『黒胡椒』を持ってこられたら、予定が狂う」

 

「は?」

 

 国王の言葉に、カミュが謁見の間にあるまじき声を上げてしまう。カミュだけではなく、後ろに控える三人にもポルトガ国王の真意が掴めなかった。

 『黒胡椒』を持ち帰れという命を出したのは、他ならぬこのポルトガ国王なのである。確かにその『黒胡椒』の数は、カミュ達から見ても多い。多い事で困るとなれば、買取金額が足りず、カミュ達へ払う事が出来ないという理由だけの筈。

 しかし、既に国王は、カミュ達へ『船』という過大な褒美を与えている。カミュ達への褒美としては、『黒胡椒』の対価としてそれで充分の筈なのだ。

 

「国王様、皆も困惑しています。そろそろ正直にお話しになられた方がよろしいかと」

 

「……そうだな……」

 

 一行の困惑ぶりに、救いの手を差し伸べたのは、玉座の隣に立つ大臣だった。

 この国の大臣は他国とは違い、国王と二人三脚で国を盛り上げて来たのだろう。しっかりとした絆を結んでいるのが見て取れる。

 

「すまんな。お前達には、余計な混乱を与えてしまったかもしれない」

 

「……」

 

 突如として胸の内を語り始めた国王に、一行は再び頭を下げ、敷かれている赤い絨毯を睨む。頭の上から掛る言葉は、この国王に不満を持っていたサラだけではなく、何かがあるのではと考えていたカミュやリーシャも驚きを隠せなかった。

 

「俺は、このポルトガ国の王である。故に、お前達と共に旅をし、『魔王討伐』に向かう事は出来ない。お前達に全てを委ねてしまう事を許してくれ」

 

「!!」

 

 語り始めた国王の言葉に、顔を上げてしまったのはサラだった。

 その言葉は一国の王として相応しくはない言葉。

 『人』を統べる者として存在する王族が、『魔王』に立ち向かうとはいえ、一介の人間に頭を下げる等、この時代にあってはならない事なのだ。

 しかし、国王の横に立つ大臣も薄い微笑を浮かべながら沈黙を守っている事から、それがこのポルトガ国王の人柄である事が解る。

 

「ここを訪れた時のお前達は、まだ海に出るには早いと感じた。まだお前達の足で歩き、見て回れる場所には、お前達を変える様々な物がある筈。であればこそ、俺は東の大陸へと向かわせた」

 

「……」

 

 カミュ達は言葉を発する事は出来ない。気さくな口調ではあるが、一国の国王の話を遮るような無礼は許されないのだ。

 それはリーシャやサラにとっても同じ事。故に、この場で顔を上げる事は許されてはいなかった。

 

「お前達は、『黒胡椒』を欲しがる我儘な王だと感じただろうな」

 

「……そのような事は……」

 

 自嘲気味に笑う国王の言葉に、カミュが言葉を返す。

 サラに至っては、自分の浅はかさに深く頭を下げてしまっていた。

 

「まぁ、『黒胡椒』を欲していたのは事実だ。ここまで欲しいとは思っていなかったがな」

 

 自分の目の前に積まれている『黒胡椒』の粒の山を見て深い溜息を吐く国王に、サラは何か罪悪感のような物を感じてしまう。

 国王の言葉通り、サラはこのポルトガ国王を『浅ましい国王』という印象を持っていた。

 『魔王討伐』という大望を背中に背負ったカミュ達を『黒胡椒』という物を手に入れる為の使い走りとして扱ったと考えていたのだ。

 

「船は、既に港に着水している。進水式も済ませた。あとはお前達が乗り込むだけだ」

 

 溜息と共に吐き出された国王の言葉を聞き、大臣が笑顔を浮かべる。

 跪く彼ら四人が東の大陸へと旅立った直後から、ポルトガの造船所で全船大工総出の作業が開始された。

 その命はポルトガ国王から出され、費用等も全て国家の財から出される。それも国民の税ではなく、国王が持つ王族の財産からだった。

 

 王族の私的財産が、久しく造られる事のなかった『船』の為に使われる。それは、あまり良い話がなかったポルトガ国の国民の感情を湧き上がらせた。

 造船の為の木材などは全てポルトガ領内で伐採された木材。

 そして大工は全てポルトガの国民。その造船に携わる者達の飲食等も王の私財で振舞われる。

 全ての国民が王の私財で潤い、国境を塞いでいた扉も勇者一行によって開かれた為に、他国からもお祭り騒ぎのポルトガへ足を運んで来た。

 

 観光客の宿泊の為に宿屋は潤い、飲食物の手配から、飲食店の繁盛にまでそれは波及する。

 国家を挙げてのお祭り騒ぎは、王族が所有する物の中でも飛び抜けた出来栄えの『船』が完成するまで続き、完成後も進水式を見ようと人は集まった。

 カミュ達がこの国に戻った時も、ある程度の落ち着きは取り戻してはいたものの、城下町の喧騒は、以前訪れた時とは比べ物にならぬ程の物だったのだ。

 

「本当ならば、その船をお前達に貸し与え、世界各地を回るお前達を乗せながら貿易を行おうとしたのだが、これだけの『黒胡椒』を持って帰られると、そうもいかないな」

 

「……」

 

 ポルトガ王の考えを聞き、カミュは得心が行った。

 勇者一行を乗せた船であれば、魔物等脅威にはならない。しかも、世界各地を回るカミュ達であれば、船を降り、一つの大陸を探索する時間は数カ月に及ぶだろう。

 その間に船は一度、その地方の特産を積んでポルトガへと戻る事も可能な筈。帰り道の航路が不安であるならば、勇者一行と共に戻れば良いだけなのだ。

 慈善だけで勇者一行に船を与える訳はない。強かながらも、全てを丸く収めようと動く国王の思惑に、カミュは唯々感心するばかりであった。

 

「船の乗組員は全て揃えておる。ただ、乗員の給与は支払われん。お前達の船ではあるが、乗員が自分の生活の為、荷を乗せ運び、それを売買する事を許可してやってくれ」

 

「……仰せのままに……」

 

 最後に、船の乗員の事までも思案に入れているポルトガ国王に向けて、カミュは深々と頭を下げた。それに伴って、リーシャやメルエも頭を下げる。唯、サラだけはこのポルトガ国王の顔を茫然と見上げていた。

 本来であれば不敬罪に問われても申し開きが出来ない程の行為ではあるが、ポルトガ王は苦笑を浮かべてサラを眺める。

 

「俺の顔に何か付いているか?」

 

「はっ!? も、申し訳ありません!」

 

 慌てて頭を下げたサラの額に汗が滲む。だが、カミュは頭を下げながら頬を緩めるだけで、何の心配もしていなかった。

 ポルトガ王が自分達を傷つける事はあり得ないと見ていたのだ。

 

「まぁ、なんだ……全てをお前達に委ねてしまう事を心苦しくは思うが、道を決めるのはお前達だ。お前達の救う世界が『人』の為の物となるのか、それとも違う結論に達するのかはお前達次第だ」

 

「はっ」

 

 ポルトガ王の言葉は重い。

 正直に言えば、彼がカミュ達の『船』の為に散財した額は、カミュ達が持ち帰った『黒胡椒』では釣り合わない程になっているだろう。それでも、この王は『船』を貸し出すのではなく、譲渡した。

 それは、世界を脅かす『魔王』という強大な存在に向けて送り出す事しか出来ない事への贖罪なのか。

 その真意は、面を上げたカミュ達の前で、温かな笑顔を向ける『オルザ・ド・ポルトガ』その人にしか解らない。

 そして、ポルトガ国王の語った言葉の一端には何かが込められていた。それに気が付いたのは、パーティーの中でも二人だけ。

 

 世界を救う者と、『人』を救う者。

 その二人だけが、ポルトガ国王の言葉が胸に刺さったのだ。

 

「それと……お前達も少しこの『黒胡椒』を持って行け。全て置いて行かれたら、ポルトガに『黒胡椒』屋が一軒建ってしまう」

 

 最後にそんな軽口を叩いたポルトガ王に苦笑しながら、大臣が小さめの袋に『黒胡椒』の粒を入れ、カミュ達の前に置いて行く。

 一度深く頭を下げたカミュはその袋をリーシャへと渡し、立ち上がった。

 

「近くを立ち寄ったら、この城にも時々顔を見せろ。その時にはお前達が旅した場所の特産等の献上品を忘れるなよ」

 

「はっ。国王様の格別なるご配慮、心より御礼申し上げます」

 

 カミュ達全員が立ち上がった事を確認し、ポルトガ王は笑顔のまま口を開いた。

 カミュが深く一礼するのを見て、リーシャ達もそれに倣う。カミュ達が歩き出した後、最後まで残ったのはサラだった。

 彼女は自分の思い違いにより、国王を疑った事を恥じている。そして、先程国王が口にした言葉が頭に残り、暫し考えに耽ってしまったのだ。

 

「ふふ。若いお嬢さん。まだ俺に何か用か?」

 

「ふぇっ!? あっ、も、申し訳ございません!」

 

 カミュ達が立ち去ろうと歩き出しても動かないサラに、ポルトガ王は苦笑を浮かべながら、声をかける。

 基本的にサラのような勇者に従う者には王族に対しての直答は許されてはいない。だが、突如かかった声に、サラは混乱し、叫ぶように返答してしまった。

 

「あははは! いい、いい。何か疑問があるなら、聞いておけ。う~ん。『直答を許す』とでも言えば良いか?」

 

 笑い声と共に告げられた言葉に、サラは目を丸くし、身体を固くしてしまう。国王の笑い声に、歩き出していたカミュ達も振り向き立ち止まった。

 今、この謁見の間は、ポルトガ国王とサラだけの為に存在している。

 

「言ってみろ。何かを溜め込んで旅に出ても良い事なんてないぞ?」

 

 まるでそれを経験したかのように話す国王を見て、サラは何かを決意したように口を開いた。

 それは、彼女の心の中で葛藤のように渦巻く物を吐き出すようなものだった。

 

「お、畏れながら……国王様は……『人』だけではなく、『エルフ』や『魔物』も幸せに生きる世界を……どう思われますか?」

 

「なに?」

 

 サラの疑問を聞き、国王の笑いが止まった。

 何かを覗うようにサラを見つめる国王の瞳は、先程までの気さくな物ではなく、国家を統べる王の瞳になっていたのだ。

 その瞳を見て、サラの身体は完全に硬直する。調子に乗って国家の根底を否定するような問いかけをしてしまった事を後悔した。

 

「くくく……あはははは! な、何を当たり前の事を言っている!? この世界は『エルフ』や『魔物』や『人』だけではなく、この世界に生きる全ての者達の為に存在している筈だ。お前達が『魔王』を倒すのは、『人』を護るためか? それとも『世界』を護るためか?」

 

「!!」

 

 不意に目の力を緩めたポルトガ王の笑い声は謁見の間に響き渡り、余りの声量に驚いたメルエはカミュのマントの中に隠れてしまった。

 サラは目を見開き、茫然と玉座の肘掛けに腕を乗せて笑う王を眺めている。リーシャは状況を把握できずにカミュを見るが、そこでそれ以上の驚きを浮かべた。

 カミュが微笑んでいたのだ。

 とても優しく、とても暖かく。

 

「……カミュ……」

 

「……ああ……」

 

 そんなカミュにリーシャが声をかけると、その微笑みは瞬時に消えてしまう。

 『声を掛けなければ良かった』と自分でも何故だか解らない後悔を感じたリーシャであったが、カミュが振り返る事なく出口へと歩いて行くのを見て、一度サラを振り返った後、カミュの後ろを歩いて行った。

 

「良いじゃないか! 『人』も『魔物』も『エルフ』もその他の生き物達も、互いの生きる場所を維持し、住み分けをする。そりゃあ、生きる為に他者を食らう事もある。それは他者の領域に踏み込んだ者達の自己責任だ」

 

「……」

 

 

 

 

 

 カミュ達が謁見の間を去った後も、国王とサラの対談は続いた。

 何を話したのか、何を感じたのかはカミュ達には解らない。しかし、城門の前で待っていたカミュ達の前に姿を現したサラの表情は、何か迷いが晴れたような新たな決意に満ちていた。

 そんなサラの顔を見てリーシャは微笑む。

 

「よし! ようやくサラらしい顔に戻ったな!」

 

「えっ!?」

 

 リーシャの言葉の真意はサラには解らない。だが、呆気に取られるサラの顔を見上げるメルエの顔にも笑顔が浮かんでいる事に安堵する。

 そして自分の胸の中に新たに宿った『決意』を強く抱きしめた。

 

 

 

 

 

「……カミュ……このような物を賜っても良いのか……?」

 

「…………おおきい…………」

 

「す、すごいですね」

 

 城門から南に下った場所にある港に出た一行は、そこに広がる景色を見て驚愕した。

 『これ程この国に人はいたのか?』と疑問に思う程の人だかりにも拘らず、カミュ達の目的の物ははっきりと見る事が出来た。

 『船』。

 いや、もうそれは『客船』と言っても過言ではない大きさ。

 王族が使用する物だと仮定したとしても、大きすぎる。今までに例を見ない大きさであり、それがポルトガ国王の心を示していた。

 

「……参ったな……」

 

 先程謁見の間でポルトガ王がしきりに口にしていた言葉をカミュが洩らす。先程まで、『船』の大きさに唖然としていた三人は、そんなカミュの呟きに笑顔を戻した。

 カミュが溢した言葉。

 それは、自分達が賜った物の価値の方が大き過ぎる為の物だ。これ程の『船』を所有する者が世界中で何人いるか。

 帆は横に靡き、追い風を全力で捕まえ、相当な速度が出るだろう。その帆船が出港を今か今かと待ち構えている。

 

「私達はご期待にお応えしないといけませんね」

 

「そ、そうだな。このご恩は『魔王討伐』という使命を果たす事でお応えしよう」

 

 笑顔で帆船を見上げたサラは、胸の前で手を合わせる。その言葉を受け、リーシャもまた、力を込めて拳を握り締めた。

 海から吹く潮風の匂いを忘れてしまったかのように、メルエも嬉しそうに初めて見る帆船を見上げ、隣に立つカミュに笑顔を向けていた。

 

「おお! アンタ達が勇者様一行か?」

 

 笑顔で帆船を見上げる一行の前から、人だかりを搔き分けて一人の男が駆けて来る。おそらく、彼がこの船の乗員の頭目なのだろう。それを示すように、彼の後ろからぞろぞろと男達が人々を搔き分けて来た。

 それと共に人々の視線が一斉にカミュ達へと集まり、サラは身体を硬直させてしまう。

 

「一応、俺がこの船の乗員の頭をやらせてもらう」

 

「……よろしく頼む……」

 

 カミュの前に立った偉丈夫な男が丸太のような太い腕をカミュへと突き出して来る。その手を怯みもせずに握り返したカミュは、軽く頭を下げた。

 それを見たメルエも、大きな男を見上げ、ちょこんと頭を下げる。

 

「はははっ! お譲ちゃん、ご丁寧にありがとうよ。俺は乗員の頭だが、この船の船長はアンタだ。俺達はアンタの行く場所に船を進める。何でも言ってくれ!」

 

「……暫くは帰って来る事の出来ない旅になるが……」

 

 豪快に笑う男に、カミュは自分達の旅の目的を知っているのかを疑った。

 カミュ自体、自分達の旅が『死への旅』であると認識している。故に、一度港を離れれば、数か月単位ではなく、数年単位で旅を続け、最悪このポルトガに生涯戻って来ない事もあり得るのだ。

 

「あはははっ! 気にするな。こいつらは全員一人者だ。家族を魔物に殺された者、病気で亡くした者ばかりだ。まぁ、中には嫁さんを貰えない奴もいるがな!」

 

「……」

 

 カミュの心配を余所に、この大男は豪快に笑い続ける。

 男の軽口にサラは微笑み、リーシャも苦笑を洩らした。

 唯、カミュだけは眉を顰め、頭を下げる。

 

「……ありがとう……」

 

「だから、良いんだって! 俺達はまた海に出る事が出来るだけで嬉しいんだ! それに、アンタ方について行った先で気に入った場所があれば、そこに居着く人間も出て来るさ。そん時は悪いが、認めてやってくれ」

 

 感謝を表すカミュに、手を振りながら答えた男の言葉もまた豪快な物であった。

 途中下船をする人間を認めろとは、通常であれば許される話ではない。だが、そんな遠慮のない申し出を聞いて、ようやくカミュの口端に笑みが浮かぶ。

 

「……ああ……行く先々の特産を積んで、その先にある場所で売れば良い。その利益は全てアンタ方の物だ。行く先で住む事を決めたのなら、遠慮せずに言ってくれ。またその地で新たな乗員を入れれば良いさ」

 

「おお! 話の解る人間で良かったぜ。まずは、アンタ方が最優先だ。俺達の商売は二の次。アンタ方が望む場所なら、どこへでも連れて行ってやる」

 

 カミュの申し出を受け、嬉しそうに笑う男。男の言う通り、彼等は海無くしては生きていけない者達なのかもしれない。

 『魔王』の登場により、年々凶暴さを増す魔物達。最近では、魔物の被害が酷く、船を海に出す事も叶わない状況になっていた。

 

 そんな中、『魔王』にすら立ち向かう強者の出現。それは、彼らの海に対する憧れをもう一度焚きつける事になる。

 彼らとて、屈強な海の男達。それでも、魔物と戦いながら海原を旅する事は難しい。

 傭兵として魔法を使える人間等を雇えば、利益など消えてなくなってしまう。故に、カミュ達一行は渡りに船だったのだ。

 

「じゃあ、俺の下で働く船員を紹介して行く。皆、船に関しては長年携わっている人間だが、それだけでは人が足りなくてな……素人ではないが、未熟な新人が七人いる」

 

 そう言って、次々と船員達が紹介されて行く。男が一人一人名を呼び、呼ばれた人間が一人ずつ前に出て来てカミュ達と握手を交わして行く。誰一人例外なく、瞳を輝かせ、再び海へ出る事を心から喜んでいるようだった。

 小さなメルエの為に屈み込んで握手を交わす船員達は、皆屈強ではあるが、快活とした気持ちの良い人間達であるようだ。

 

「……お前達は……」

 

 一人一人に笑顔を向け、握手を交わしていたサラは、前に立つカミュの暗い呟きを聞き、表情を硬くする。それは、カミュが仮面をつけた合図だったからだ。

 それが理解できたリーシャもカミュの視線の先に目を向け、そして驚愕した。

 

「……俺達も、この船に乗せてくれ……」

 

「ん? なんだ、知り合いか?」

 

 それは、頭目である男が『新人七人だ』と紹介を始めたばかりの時だった。

 先頭に立っていた男の顔を見て、カミュは眉を顰める。それは、忘れもしない顔。

 サラを苦しめ、そしてサラを成長させる原因となった者達。

 

「貴様ら! よく私達の前に顔を出せたな!」

 

 それは、カミュだけではなく、リーシャもサラも、そして幼いメルエでさえ忘れる事の出来ない面々。

 その男達の存在に気がついたリーシャが憤りの声を上げた。

 

「申し訳ない。本来であれば、アンタ方に見つかる事のないようにひっそりと隠れるように暮らすべきだと思う」

 

 リーシャの叫び声に、七人の男達は一斉に下を向く。何を言われるのかも、どのような態度をされるのかも解っていたのだろう。

 それでも、先頭に立つ男は口を開いた。

 

「それでも、それでも俺達はアンタ方に命を救われたんだと思っている。罪は償わなければならない。色々考えたんだ……何が俺達に出来るのか……」

 

「……」

 

 カミュは黙して何も語らない。リーシャもまた口を閉じていた。

 周囲の船員は、急激に変化した雰囲気に戸惑っているようだが、割って入るつもりもなく、黙って状況を見ている。

 

「農村で畑を耕しても……罪を償っている事にはならないのでは……と」

 

「そ、そんなことは……」

 

 その男の言葉にサラが口を開く。

 彼らの命を救ったのは、正確に言えば、彼らの頭目であった者。

 『カンダタ』と呼ばれ、各地方でその名を轟かせた盗賊である。

 それでも、サラの声を聞いた男がサラへと視線を動かし、口を開いた。

 

「……アンタが、お頭を救ってくれた事は知っている。お頭がいない俺達は役には立たないかもしれない。それでも懸命に働く。アンタ方が目指す『魔王討伐』という大望を手助けする事こそが、少しでも罪を償う事になると信じて、命を賭して働く」

 

「……」

 

 カミュの瞳は冷たく冷え切っている。

 リーシャの瞳は先程の怒りを消し始めていた。

 メルエの瞳はカミュと変わらない程に冷たい。

 サラの瞳は涙で濡れていた。

 

「だから、この船に乗せてくれ。どんな事があっても、誰がこの船を降りようと、俺達はこの船の為に働く」

 

 そう言って、カミュに向かって七人の男が一斉に頭を下げた。しかし、カミュの表情に変化はない。

 隣に立つリーシャは、そんなカミュの表情を見て、以前に見た事があると感じ、すぐに思い出した。

 

 それは、アリアハンを出てすぐ。

 サラが追い付き、カミュに自分の同道を願った時。

 彼は今と同じように、相手を冷たく見下ろしていた。あの時、リーシャはカミュが冷たい人間だと感じた。

 だが、今は違う。彼の『苦悩』、『想い』、そして『優しさ』を知った今のリーシャは、無表情を貫くカミュに自然と笑顔が浮かべた。

 

「カミュ……心配するな。彼らが私達と共に魔物と戦う訳ではない。『魔王』に挑む訳でもない」

 

「……」

 

 カミュが握手を求める船員達に渋い表情を向けていたのも、船員の頭目に礼を述べたのも、彼らが同道する事によって、自分以外の人間の命を危機に晒す可能性がある事を危惧したのだとリーシャは考えていた。故に、おそらくこの元盗賊であり、人々を苦しめた過去を持つ者達の命も、カミュが危惧しているではと思ったのだ。

 リーシャの同道もサラの同道も拒み続けた彼の言葉の裏側には、いつでもリーシャ達の命への配慮があった。

 それをリーシャは今になって、肌で感じ始めている。

 

「カミュ様、彼らに生まれ変わる機会を……」

 

 リーシャが語った言葉の内容を正確には理解していないのだろう。

 サラは、カミュへと彼らの同道を嘆願する。

 

「……勝手にしろ……」

 

「ありがとう!」

 

 カミュが吐き捨てた言葉に、七人の男達は再び頭を下げる。

 『カンダタ』一味の幹部として、不自由のない生活をして来た者達は、今この時に生まれ変わる。

 彼らに被害を受けた者達からすれば、それは許されない事なのかもしれない。

 彼らとは違い、カミュ達との戦いで死んで行った者達は恨むかもしれない。

 故に、彼ら七人が背負う物は重く、それは確実に彼らの心を蝕み続けるだろう。

 それでも、彼等は懸命に働き、懸命に生きるという事をサラは確信していた。

 苦悩し、嘆き、投げ出したくなっても、彼らに『逃げ出す』という選択肢は残っていない。この場に出て、この船に乗る事を選択したこの時から、彼らが歩む道は決まったのだ。

 

 それは、カミュ達に劣らない程に険しい道。

 

「よし、船長の許しも得た事だし、お前達の過去を詮索するような奴は、海に生きる男の中にはいない。野郎ども! 出港だ!」

 

「オォォォォォォ!!」

 

 頭目の掛け声と共に、海の波が震える程の叫びが返って来る。それぞれの男が、それぞれの持ち場に散って行った。

 七人の新人もカミュ達へと一度深く頭を下げた後、持ち場へと散って行く。彼らは船乗りとしては駆け出しの存在。顎で使われ、叱咤されるだろうが、それでも心を決めた男達に心配は無用だろう。

 

「さあ、私達も行こう」

 

「はい!」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの声にサラが応え、もはや潮風など気にならないといったようにメルエが頷く。船へと向かって歩き出す三人の背中に苦笑を浮かべ、カミュもまた歩き出した。

 

『魔王討伐』という大望に向かって進む彼らが新たな世界を広げて行く。

 

「錨を上げろ! 帆を張れ!」

 

「オォォォォ」

 

 頭目の声が晴れ渡った空に高々と響き、船員の雄叫びが遥かに広がる海原に轟く。吹き抜ける潮風を全身に受け、彼らの旅は新たな旅立ちを迎えた。

 港に集まった人々の歓声を受けながら船は大海原に漕ぎ出して行く。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございます。

遂に「船」入手です。
ここまで読んで頂いた方々に感謝を。
ここから彼らの世界は広がりを見せます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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戦闘⑥【ポルトガ領海】

 

 

「ふふふ。メルエ、そんなに身を乗り出すと、海に落ちてしまうぞ」

 

「…………ん…………」

 

 風に飛ばされないように既に帽子を取っているメルエは、船の手摺りから身を乗り出し、髪を風に靡かせながら、目の前に広がる大海原に目を輝かせていた。

 彼女にとって何もかもが初めての事。それはリーシャもサラも、そしてカミュに関しても同じであるが、知識としてなかった分、メルエはその全てに感動を覚えていた。

 船員が用意してくれた木箱の上に乗り、手摺り越しに見える景色は、メルエの世界を一変させるものだったのだ。

 

「……うぅぅ……おぇ……」

 

「サラ! 吐くなら向こうでしろ!」

 

 そんな清々しい空気の横で、船の揺れによって平衡感覚を狂わせたサラが苦しそうに息をしていた。

 そんなサラの様子にリーシャは顔を顰め、まるで追い払うように手を払う。

 

「ははは。まぁ、最初だけだ。直に慣れるさ」

 

「……うぅぅぅ……」

 

 船員達に指示を出していた頭目が、サラの方へ視線を送り、笑いながら声をかける。頭目の言葉を聞いているのかいないのか、サラは余裕なく口元を押さえながら蹲っていた。

 そんなサラの様子にリーシャは苦笑を洩らし、視線を自分達のリーダーへと動かす。

 

「カミュ、まずはどこへ向かうんだ?」

 

「……」

 

 メルエの様子を気にしながらも、カミュへと問いかけたリーシャの言葉は、沈黙という形で返される。ここ最近は面倒そうではあるが、誰の問いかけに対してもしっかりと返答をしていた筈のカミュの態度を不思議に思ったリーシャは、立ったまま前方を見つめているカミュの視線を追った。

 

「塔?」

 

「……アンタにもそう見えるか……?」

 

 カミュの視線の先には、小さくはあるが何層かに建てられた塔が見えていた。

 ポルトガ港から真っ直ぐ南に進んだ場所に見える大陸の先端に位置する場所。そこに、ひっそりと建てられた塔があった。

 

「あれか? あれは、一応灯台の役割を担ってはいる塔だ」

 

「誰かいるのか?」

 

 二人の会話を聞いていた頭目の言葉に、カミュは疑問を持った。

 灯台としての役割を担うのであれば、夜に火を灯さなければならない。

 つまり、その為の人間が必要となる。

 

「ああ……どうだろうな……確かめた事はないからな」

 

「カミュ、どうする? 行ってみるか?」

 

 頭目の答えを聞いたリーシャがカミュへ伺いを立てるのを見て、カミュは軽く口端を上げた。

 本来であれば、寄る必要などない。それはリーシャも考えているのだろう。それでも、海へ出たばかりの自分達にとって、どこに行けば良いか、どこへ向かうべきなのかが定まっていないのも事実。

 目を輝かせて海という未知の物を眺めているメルエや、船酔いに苦しんでいるサラよりも、リーシャはその事に不安を覚えていたのだろう。メルエやサラを心配させないように表には出さずとも。

 

「あの大陸に船を付けられるか?」

 

「ん? ああ。陽が落ちてからにはなるが大丈夫だ」

 

 カミュの問いかけに答えた頭目の言葉で、彼らの第一目的地が確定した。

 『頼む』というカミュの返答に、満足そうに頷いた頭目は、船員に指示を出すために甲板を歩き出す。リーシャもまた、流石に放っておけなくなったサラの様子を見にカミュの傍を離れて行った。

 

 

 

 頭目の予測通り、船が大陸の傍に船をつけて錨を下したのは陽が落ち、辺りを闇が支配した頃だった。

 小舟を下ろし、乗り込んだ四人は、岸へと向かう。目の前に立つ小さな塔の頂上には炎による明かりが赤々と灯されていた。

 小舟を近くの木に結びつけ、歩き出した一行の速度はとても遅い。何故なら、歩く度にメルエが立ち止まってしまうのだ。

 打ち寄せる波、海水を含んだ砂浜。その砂浜に打ち上げられた海草や、砂浜を住処とする小動物達。

 その全てがメルエにとって初めて目にする物。

 

「……」

 

「メルエ、もうそろそろ行こう。そういう物はこれからたくさん見る事が出来る」

 

「…………ん…………」

 

 溜息を吐きながらも何も言わないカミュに代わって、手を引いていたリーシャがメルエを窘める。

 以前遭遇した<軍隊がに>とは違う、小さな蟹を見ていたメルエは、残念そうに眉を下げてリーシャの手を握った。そんなメルエにサラは苦笑を洩らす。

 

「メルエも色々と見たいでしょうし、今晩はこの辺りで野営を行いますか?」

 

「それは、まだ船酔いから回復しないサラの為ではないのか?」

 

「ふぇっ!?」

 

 野営を提案するサラは、リーシャから予想外の攻撃を受ける。それは予想外ではあったが、事実でもあった。

 実際、ようやく揺れない大地に足をつけ、『ほっ』と一息をつけたサラは、とてもではないが、歩き出せる程の体力は戻ってはいなかったのだ。

 

「そ、そんなことは……」

 

「カミュ、どうする?」

 

「……わかった」

 

 必死にリーシャの言葉を否定しようとするサラの言葉を無視し、リーシャはカミュへ伺いを立て、カミュは大きな溜息を吐き出した後に了承した。

 それを見て、サラは安堵の表情を浮かべ、メルエの瞳は輝き出す。

 

「…………ありが……とう…………」

 

「ふぇっ!? い、いえ。私も休みたかったですから」

 

 自分の為に提案してくれたと感じたメルエがサラに頭を下げるが、サラの胸には罪悪感しか浮かばなかった。

 リーシャの言葉通り、自分が休みたいが為にメルエを出しにしたのだ。そんなサラの言葉を聞いても笑顔を向けるメルエに、サラは苦笑を浮かべるしかなかった。

 

 一行が海の見える森の入り口で野営の準備を始めた頃、彼らの船の船員達も食事を取り始めたのだろう。海に浮かぶ大型の帆船から煙が立ち上り始めていた。

 波の音と靡く潮風。それを肌で感じながら、海で取れる貝や小魚を焼き、カミュ達も食事を取る。

 食事を取った後も海の近くに出て色々な物に目を輝かせるメルエも、完全に闇が辺りを支配した頃には眠そうに目を擦り始め、リーシャの誘いのまま眠りについてしまう。見張りをリーシャが請け負う事となり、カミュとサラも眠りについた。

 

 

 

「カミュ! 起きろ!」

 

 カミュはそんな切羽詰まった声によって強引に引き戻された。まだ見張りの交代の時間には早い。

 そして、もし魔物が現れていたとしたら、その気配に気がつかないカミュではない。

 

「……なんだ……?」

 

「サラがいない!」

 

 ゆっくりと身体を起こしたカミュに降り注がれる怒声。それは、リーシャの心の余裕のなさが窺える物だった。

 そんなリーシャに向けてカミュはもはや彼の代名詞ともなりつつある大きな溜息を吐いた。

 

「……またアンタは寝ていたのか?」

 

「ち、違うぞ! 少し席を外している間にサラがいなくなっていたんだ!」

 

 目を細めて責めるように問いかけるカミュの言葉に、リーシャは慌てて反論を返す。若干焦りが窺えるが、言葉に嘘はない。

 用を足して戻って来たらサラがいなかったといったところなのだろう。

 

「騒ぐな……メルエが起きる」

 

「あっ!? す、すまない」

 

 焦りから大きくなっているリーシャの声を窘め、カミュは周囲を見回した。

 正直に言えば、カミュから見て、『賢者』となった件の女性は、既に心配の対象からは外れている。リーシャの心配が過剰なのだ。

 もはや彼女の槍の腕は、生半可な魔物では太刀打ち出来ない物となっており、攻撃魔法までも使用可能となった存在に対し、何の心配をする必要があるのかをカミュはこの年長者に問いかけたいぐらいだった。

 

「……心配はないと思うが……アンタは聞かないだろうな」

 

 それでも、顔を青くしている心優しい『騎士』に苦笑を洩らし、カミュはゆっくりと立ち上がった。

 よくよく考えれば、カミュに告げる事なくサラを探しに行けば良いのだ。メルエが眠っている以上、カミュとリーシャの二人が探しに出る訳にはいかない。

 

「カミュ! 何か知っているのか?」

 

「……こういった時に行くとすれば、メルエと同じ理由だろう」

 

 カミュが立ち上がり、剣を背中に付けた事に、リーシャも顔を上げた。

 しかし、カミュの口にした理由には思い当たる事がなく、首を傾げる。

 

「サラも何か珍しい物を見つけたのか?」

 

「……アンタの頭は本当に特定の場面にしか回転しないのだな……」

 

「な、なんだと!?」

 

 全く見当違いの見解を口にするリーシャに、カミュは盛大な溜息を吐く。それは、リーシャの頭に血を登らせるのに十分な言葉だった。

 瞳に若干の怒りを滲ませるリーシャにもう一度溜息を吐いたカミュは、焚き火の火を移した<たいまつ>を手にする。

 

「アンタはここで待っていてくれ。メルエを一人にする事は出来ない」

 

「あ、ああ。わかった。サラを頼む」

 

 カミュを起こした以上、自分かカミュが探しに行く事になる事は理解していたのだろう。渋る様子もなく、リーシャはサラをカミュへと託した。カミュは一度頷くと<たいまつ>を手にしたまま森の奥へと入って行く。

 

 

 

 

 

「……やはり無理なのでしょうか……」

 

 その頃、森の中で若干開けた場所に座り込み、サラは大きな溜息を吐いていた。

 サラの手にはメルエから借りたカミュの持っていた『魔道書』。

 そして彼女の下には奇麗に描かれた魔方陣。

 それらが、彼女の行動を雄弁に物語っていた。

 

「……アンタはメルエか?」

 

「ひゃぁ!!」

 

 溜息を吐き、項垂れるサラの後ろから突然掛った声に、文字通りサラは飛び上った。飛び上った後に、腰でも抜かしたように座り込むサラに、カミュは大きな溜息を吐く。

 

「……霊魂が苦手ならば、夜中に一人で出歩くな……」

 

「カ、カミュ様!」

 

 <たいまつ>の明かりと共に現れた人物が特定できた事に、サラは安堵の溜息を吐く。そして、自分の状況を再確認し、居心地悪そうに下を向いてしまった。

 おそらくカミュには自分の状況が理解できているのだろう。

 

「……契約が出来ない訳ではないのだろう……?」

 

「ふぇっ!?」

 

 恥じるように下を向くサラに、カミュは問いかける。その声は、サラが想像していたような冷たい物ではなかった。

 相手を慮るような温かみを帯びている。そんなカミュの言葉が掛るとは考えていなかったサラは、素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「は、はい! で、ですが、行使ができま…せ……ん……」

 

 ようやくカミュの言葉を理解したサラの返答は消え入る程に小さく、夜の帳が降りる森の木々に溶けて行く。それに対して、もう一度溜息を吐いたカミュは、サラの描いた魔方陣を確かめた。

 

「……ヒャドか……」

 

「は、はい。ですが、<ヒャド>だけではありません。<メラ>も……<スカラ>も」

 

 魔方陣の中身を把握したカミュの呟きは、サラを苦しめる。

 そして、それはサラの返答に掌握されていた。

 しかし、それが全てではない。

 次のカミュの言葉に、サラは文字通り言葉を失った。

 

「アンタは今、『経典』に記載されている魔法は行使出来るのか?」

 

「!!」

 

 その言葉は、サラの胸に深々と突き刺さった。

 実は、バハラタの町から<バーンの抜け道>までの戦闘でもサラは魔法を行使していない。攻撃魔法はメルエに任せてあったし、回復魔法が必要な怪我などをカミュ達が負う筈もない程に魔物との力量差は離れていた。故に、サラが魔法を行使する場面はなかったのである。

 しかし、それは単純に『行使しなかった』のではない。正確には、『行使ができなかった』のだ。

 サラは未だに自分の中に渦巻く濁った魔法力に戸惑い、それを制御する事が出来ていなかった。

 

「……やはりか……」

 

「……」

 

 カミュは自分の予想通りの結果であったのか、サラの瞳を見た後、傍に落ちている『魔道書』を拾い上げ、土を払うように軽く叩いた。

 その様子にサラは何とも言えない罪悪感に苛まれ、俯いてしまう。

 

「カ、カミュ様は……カミュ様はどのように神魔両方の魔法を使い分けているのですか?」

 

「……アンタの場合は、使い分け以前の問題だ」

 

「うぐっ!」

 

 サラの意を決しての問いかけは、カミュにばっさりと斬り捨てられた。久々に味わうカミュの冷たい一言に、サラは言葉を飲み込んでしまう。カミュの言うとおり、サラは今、使い分けどころか、呪文の行使も出来ていない。

 いや、正確には呪文の詠唱は出来るが、魔法の発現が出来ていない。つまり、最初にカミュが掛けた言葉の通り、以前のメルエのような状況に陥っているのである。

 

「……アンタは何から何まで考え込み過ぎだ。アンタの中でどのような形で見えているのかは解らないが、それはどんな形であれ、アンタの魔法力だ」

 

「は?」

 

 言葉に詰まり、再び下を向いてしまったサラに対し、カミュは盛大な溜息を吐きながら助言のような言葉を洩らす。思ってもみなかったカミュの助言にサラは呆気にとられたような表情を浮かべ、<たいまつ>の炎に映し出されたカミュの顔を見上げた。

 

「アンタがどんな者になろうと、それはアンタが生まれ持っている魔法力だ。何をどのように歪めているのか知らないが、何もかもを深く考え込めば良いと言う訳ではない」

 

「ど、どういうことですか?」

 

 呆れたように言葉をつなげるカミュの発言の意味がサラには理解できない。

 カミュが話す内容を彼女が理解できないのも無理はない。今まで一つの系列の魔法しか行使して来なかったサラにはカミュの指し示す道が見えないのだ。

 

「アンタも俺も、魔法について教える事に向いていない事は、メルエで実証された筈だが?」

 

「うっ……」

 

 全く理解出来ないとカミュへと問いかけるサラに返って来たのは、再び冷たく突き放すような物だった。

 確かに、メルエの魔法行使が上手くいかない時に、カミュやサラの助言等は全く役に立たず、それを克服したのはメルエ自身である。それを思い出したサラは言葉に詰まってしまった。

 

「……私はどうすれば……」

 

「メルエにでも教えてもらえ」

 

「……うぅぅ……」

 

 カミュの冷たい返答にサラは泣きたくなった。しかし、サラは気付かない。既にカミュは自分なりの助言はしているのだ。

 カミュとて正確にサラの疑問に答える事など出来はしない。生まれた時から今のサラと同じような神魔両方の魔法力を有していたのだ。

 使い分けなどを意識した事もないし、それを一々思考しながら呪文を行使していた訳でもない。故に、教える事など出来はしないのだ。

 それでも、自分の感じている事を何とか伝えようとしているカミュの努力がサラには見えない。

 もし、これがメルエであれば、リーシャであれば。カミュの努力を感じ、その奥にある意味を何とか理解しようとしたのかもしれない。

 しかし、サラがこのカミュの努力を知るのは、まだ先の事となる。

 

「アンタの不在に血の気が引いている奴がいる。アンタが何をしようと勝手だが、一言告げてから行ってくれ」

 

「……うぅぅ……はい……」

 

 もはやサラの許から離れ、野営地へと戻ろうとするカミュを恨めしそうに睨んだ後、サラは立ち上がる。今夜はこれ以上の契約は無謀である事を悟っているのだろう。

 未だにカミュの背中を恨めしそうに睨んだまま、サラはカミュの後ろを歩き出した。

 

 だが、野営地に戻ったサラは、自分が起こした行動の重みを理解する。カミュの後ろにいるサラを視界に入れたリーシャが心底安堵した表情を見せたのだ。

 その表情に偽り等なく、言葉にこそ出さないが、サラの身を心配してくれていた物だという事が窺えた。

 そんなリーシャにサラは深々と頭を下げる。リーシャはサラに自分が心配していた事も、それに伴う怒りなどをぶつける事はなく、優しい笑顔を向けて微笑むだけであった。

 

 そして、彼らの夜がまた一つ更けて行く。

 

 

 

 翌朝、メルエが目を覚ますのを待って、一行は再び目の前に見える塔へ向かって歩き出す。塔までの距離は然程なく、陽が登りきる前に入り口である門に辿り着いた。

 周囲を吹く風は海の近くの為か、湿り気を帯びており、若干生温かなものだった。

 

「……用意は良いな……?」

 

「はい!」

 

「ああ」

 

「…………ん…………」

 

 入り口を背に振り返ったカミュの言葉に三人が頷きを返す。

 ここまでカミュ達が登って来た塔は三つ。

 <ナジミの塔>、<シャンパーニの塔>、<ガルナの塔>である。

 そのどれもが、今や魔物の住処と化しており、凶暴な魔物達がカミュ達へと襲い掛かって来た。だからこそ、カミュは後ろを歩く三人にもう一度確認したのだ。

 それを理解している三人もまたそれぞれの心を引き締め直し、門を潜る。

 

「カミュ? 気のせいか、私には魔物の気配を感じないのだが……」

 

「リ、リーシャさん。多分気のせいではないかと……私にも感じません」

 

 しかし、一行の予想とは違い、塔内部は邪悪な気配が一切なかった。周囲を覆う石の壁によって海から吹く風も防がれ、快適な温度を保ちながら、その塔は清浄な空気を維持している。

 

「……上の様子は解らないが、確かに魔物の気配は感じない……」

 

 カミュの言う通り、<ガルナの塔>でも一階部分には魔物の気配はなかった。故に、この塔全体が安全とは言い切れないが、それでも塔全体が纏う空気はカミュも感じていたのだ。

 

「とりあえず、上ってみましょう」

 

 サラの言葉にリーシャが頷き、メルエの手を取ってカミュの後を歩き出す。先頭を歩くカミュが上る階段の裏に、鉄格子の扉があった事は誰も気付きはしなかった。

 

 一行の警戒を無碍にするように、その塔に邪悪な気配は一切無く、カミュ達一行は何事も無いまま塔の頂上付近に到達する。そこは中心に大きな炎を灯す燈台が置かれ、昨晩の名残を示すように、炭と化した木材が散乱していた。

 

「ん?……なんだお前達は?」

 

 そしてその燈台の向こうに置かれている椅子に腰掛ける中年の男。海の男に相応しい立派な体躯を持ち、今まで今夜使う薪を割っていたのか、近くには斧と割れた木材が転がっていた。

 

「突然申し訳ありません。先日ポルトガ港から出航した者です」

 

「おお! ポルトガから久しぶりに船が出たのか? 俺の仕事も役立つってもんだ」

 

 面を被ったカミュの返答に、男は嬉しそうな声を上げ、カミュの下へと近寄って来る。余りの勢いにメルエはリーシャの後ろに隠れてしまい、サラは一歩後ろへと下がってしまった。

 

「そうか、そうか。これから海へと出るんだな? お前達は運が良い。まず最初に俺様の所へ来るなんて、運が良いとしか思えんな」

 

「……」

 

 カミュの手を取り、一度握手を交わした後、男はどこか偉そうに口を開く。そんな男の態度にリーシャは何やら不愉快な印象を受けるが、カミュとの約束がある以上、この場で口を開く事を自制した。

 

「いいか、良く聞いておけ。ここから南へ向かって陸に沿って船を漕げば、やがて<テドン>の岬を回るだろう。そして<テドン>の岬からずっと東に行けば<ランシール>。更にはアリアハン大陸が見えて来るだろう」

 

「アリアハン!」

 

 不愉快そうに顔を顰めていたリーシャとサラが、男の話の中にある聞き覚えのある国名に口を揃えて驚きの声を上げる。このような場所で、自分達の故郷の名が出て来るとは思ってもいなかったのだ。

 

「おお。アンタ方はアリアハンの出身か? 船を使わないでどうやってポルトガまで来たのかは知らないが、アリアハン大陸からずっと北へ船で行くと、そこには『黄金の国』と謳われた<ジパング>が見えてくる」

 

「……ジパング……?」

 

 リーシャ達が反応した国名には何の反応も示さなかったカミュだが、男の洩らした単語に反応を返した。

 だがそれは、何も『黄金』という言葉に反応したのではない。『ジパング』という言葉にカミュは聞き覚えがあったのだ。

 

「ああ、まぁ俺様も実際行ったわけじゃないから、『黄金』があるのかどうかは解らないがな。<ジパング>と同様に眉唾物ではあるが、世界のどっかにある六つのオーブを集めた者は、船を必要としなくなるって話だ」

 

「……オーブ……」

 

 カミュ達の疑問を取り合う事なく、男は話を先へと進める。

 どうやら元来、人の話を余り聞く事の無い男のようだった。

 そんな男の話の中に出て来る単語に、サラが再び反応を返す。

 それは、<ダーマ神殿>にて教皇から賜った言葉にあった物。

 

 『六つのオーブ』

 

 それは、伝承として<ダーマ神殿>で代々の教皇に伝えられて行く中、どこかで表に漏れたのだろう。噂というよりは半ば言伝えのようなお伽噺として世界に伝わっていた。

 

「まぁ、とにかく南へ向かって進んでみな」

 

「……貴重な情報をありがとう……」

 

 呆然とするサラを余所に、話を締め括った男にカミュが頭を下げる。カミュにとっても今後の船の進路を左右する貴重な情報と認識したのだ。

 頭を下げるカミュに軽く手を振った男は、散乱する丸太を拾い上げ、再び薪割りを始めた。

 話す事は話し、聞く事は聞いた。もはや、この場所にいる必要はない。

 カミュはそのまま階下へと下りて行く。その後をリーシャに促されたサラが続き、メルエやリーシャも塔を下り始めた。

 

 帰路も魔物との遭遇は無く、無事に塔の入り口に戻ったカミュ達は、そのまま船へと向かって歩き出す。朝に頬を撫でていた潮風は、幾分が強まっており、メルエは帽子を風に攫われないようにしっかりと掴んでいた。

 

 

 

「おい、カミュ! 何か変だぞ!?」

 

「……急ぐぞ……」

 

 海岸に出たカミュ達一行は、沖に錨を下ろしている船を見て何かを感じ取った。リーシャがカミュへ問いかけたように、船の内部が何か騒がしいのだ。

 小さく見える人々は慌しく動き回り、頭目の怒鳴り声のような叫びが遠く砂浜まで響いていた。

 急ぎ、小船を結ぶ紐を解き、海へと浮かべたカミュは、リーシャ達を乗せ沖へと漕ぎ出す。船へと近付く程その喧騒は大きくなり、カミュ達が船の下に着いた事を確認した船員の叫び声によって、カミュ達は急ぎ船へと上げられた。

 

「何かあったのか?」

 

「おお! 早めに戻ってくれて助かった。一度ポルトガへ戻ろう」

 

「なに!?」

 

 頭目に状況を確認しようと声を掛けたカミュに返した頭目の言葉は信じられない物だった。

 その内容にリーシャは思わず声を上げ、サラは目を見開く。メルエは何が何やら理解できず、リーシャ達を見上げて小首を傾げていた。

 

「……どういうことだ……?」

 

「何やら海がおかしい。昨日までは特に何でもなかったが、今朝方から潮風が湿り気を帯び過ぎている。案の定、風も強まって来た。こういう時は嵐が来る。この船なら嵐も乗り切れるとは思うが、まだ旅は始まったばかりだ。無理をする必要はないだろう」

 

 周囲の船員に指示を出しながらカミュに答える頭目の顔に焦りは見受けられない。彼の言葉通り、この船に対する心配はないのだろう。だが、最善を考え、港に一度戻る事を提案しているのだ。

 

「嵐となれば、最低二日は続く。そうすれば、進路を取るのも難しくなる」

 

「……わかった……アンタに任せる」

 

 『カミュ達の旅を最優先に考える』

 港を出る時の彼の言葉に嘘はなかった。

 彼なりに今後の船旅の事を考えての物なのだ。

 それが理解出来たからこそ、カミュは全てを頭目へと託す。

 そしてそれはリーシャ達も同様で、驚きはしたが反対をする事は無かった。

 

「ありがとうよ。よし、野郎共、出航だ!」

 

 頭目の掛け声と共に、船員が各々の仕事を始め出す。瞬く間に帆を張り終え、錨を上げた船は、強まった風を受け大海原へと進み出した。

 目指すは<ポルトガ港>。昨日出港した港へ戻る事にはなるが、その事に不満は無かった。

 実際、塔から出た頃よりも風は強くなっている。空を見上げれば、まだ陽が沈むには早い時間にも拘わらず、黒く厚い雲に空が覆われ始め、陽の光が海に届かなくなっていた。

 

「急げ! 雨が降り出したら間に合わなくなるぞ!」

 

 頭目の掛け声が甲板に響き渡る。慌しく動き回る船員達。

 そんな中でもカミュ達四人は何も出来ない。船に関しては全くの素人と言っていい彼らは、ただこの船の船員達を信じて委ねる事しか出来なかったのだ。

 船は行きの速度よりも速く大海原を駆ける。厚い雲により陽の光が届かなくなった前方に微かに大陸が見え始めた頃、それは現れた。

 

「くそっ! 何だってこんな時に!」

 

「下がれ! こいつらの相手は私達の仕事だ!」

 

 船の目の前に現れた物に悪態を付く頭目の言葉を遮って、<鉄の斧>を握り締めたリーシャが前へ躍り出た。それと共に、作業をしていた船員達が後方へと下がって行く。

 入れ替わりにカミュ達三人がリーシャの後ろに位置を取り、各々の武器を身構えた。

 

「グモォォ」

 

 風によって荒れ始めた海の波に乗り、甲板へと上がって来たのは二体の魔物。

 その姿はというと上半身は人型、下半身は魚という物。

 

<マーマン>

古来より海に生息する魔物であり、『半魚人』として海に生きる者達の脅威となって来た魔物である。海へと出て来る船を座礁させ、その乗員達を食す魔物で、力こそ強くはないが、集団で襲いかかって来る事が多い。

 

「カミュ! 右の奴は任せた!」

 

「……わかった……」

 

 二体の<マーマン>に対し、左右に分かれるようにカミュ達が飛び出して行く。後方ではメルエが<魔道士の杖>を掲げ、いつでも呪文を詠唱できるように待機している。だが、その横で、サラは落ち着きを失っていた。

 ここまで遭遇して来た魔物は、一度対峙した事のある魔物ばかり。故に、その対処方法もカミュ達は知っており、サラの補助呪文が必要になる事も無かったが、今の状況は全く違う。

 未知の魔物に、未知の場所。相手がどのような攻撃をして来るのかも分からず、相手がどのような身体能力を持っているのかも分からない。

 そのような状況でも、サラには呪文を完成させる自信がなかったのだ。

 

「やぁぁぁ!」

 

 リーシャが一体の<マーマン>に斬り掛かる。辛うじて避けた<マーマン>だったが、<鉄の斧>の鋭い刃先は、<マーマン>の片腕を深々と抉り、弾き飛ばした。

 リーシャの剣速は既にこの海の魔物でさえも対処出来ない程の物となっている。それは、彼女が『人』としての枠をはみ出し始めている証拠。

 

「グォォォ」

 

 空中を舞う自分の片腕を見て、<マーマン>が叫び声を上げる。その声は脳に直接響いて来る程に大きく、船員達は思わず両耳を塞いだ。

 それは、メルエも同様で、思わず耳を塞いでしまったメルエには決定的な隙が生じてしまったのだ。

 

「!!!」

 

 サラは自分の横で信じられない光景を目にする。声にならないような叫びを上げたメルエが、そのまま甲板へと倒れ込んだのだ。

 まるで、糸の切れた人形が崩れて行くように。

 

「メルエ!」

 

 名を叫び、倒れたメルエを見つめるサラは絶句した。

 甲板に横たわったメルエの瞳は白目を剥き、口からは泡を吹き出し始めていた。身体は小刻みに痙攣を繰り返し、その度に口から泡が零れ出す。

 慌てて周囲を見ると、何時の間にそこに居たのであろうか、メルエの立っていた船の手すりの傍に、白いスライム状の魔物がふよふよと浮いていたのだ。

 その姿は以前遭遇した<ホイミスライム>に酷似しており、白いスライム状の身体の下から無数の触手が飛び出している。

 

<しびれくらげ>

海を住処にするスライム状の魔物。くらげの一種が変異し魔物になったとも云われている。その身体から伸びる触手の先には猛毒が宿っており、それに刺された者は、全身の痛みを受け、身体を痙攣させながら麻痺に陥るのだ。それは、最悪『死』にも直結する程の物であり、教会が所有する『経典』の中の解毒呪文である<キアリー>でも解毒が難しい物であった。

 

「メルエ!」

 

 一体の<マーマン>を倒し終えたリーシャが、戻り際に空中に漂う<しびれくらげ>を一閃する。真っ二つに斬り裂かれた<しびれくらげ>はその湿った体躯を甲板へ落とし、何とも不快な音を立てた。

 

「サラ! メルエは!?」

 

 メルエの傍へと駆け寄ったリーシャはそこで言葉を失った。

 白目を剥き、泡を吹いて痙攣を繰り返すメルエに絶望を感じたのかもしれない。泣き出しそうな瞳を、縋るようにサラへ向けたリーシャの視線に、サラは思わず下を向いてしまった。

 今のサラに魔法を使う自信は欠片も残っていないのだ。

 

「サラ……お前は『賢者』ではないのか……?」

 

「!!」

 

 そして、哀しい瞳を向けるリーシャの言葉が、サラの心を深く抉る。それは、自分自身が最も聞きたくは無い言葉だった。

 神魔両魔法を行使できる存在であり、『経典』にも『魔道書』にも載らない呪文を行使できる存在。

 それが『賢者』。

 しかし、今のサラは、そのどちらの魔法も行使する事が出来ないのだ。

 

「……メルエは……?」

 

 そこにもう一体の<マーマン>を倒し終えたカミュが戻って来た。

 メルエの状況を見て、目を見開き、唇を噛み締める。

 そして、サラに向かって射抜くような視線を向けた。

 

「……カ、カミュ様……」

 

「アンタに行使出来ぬ呪文等ない! アンタ自身の問題だけだ! その魔法力はアンタが生まれ持った物であり、アンタが『賢者』となったから宿った物でもない。頼む、メルエを救ってくれ」

 

 縋るように向けたサラの視線。

 それに対し発したカミュの言葉は、決してサラを責める物ではなかった。

 

 そして、初めて自分に向けられたカミュの頼み。

 

 それが、サラの心に火を点けた。

 サラが開いた『悟りの書』の最初のページに載っていた魔法陣。

 その契約は既に済ませてある。

 後は、その詠唱を行い行使するだけ。

 

 サラは胸に手を合わせ、その呪文を紡ぎ始めた。

 印を結び、高らかに手を上げる。

 既に船の上を覆う黒い雲からは大粒の雨が降り始めていた。

 風は強く、船をも大きく揺らし始める。

 サラの心の中を投影したような荒れた天候の中、その詠唱は完成した。

 

「キアリク」

 

 詠唱と共に、サラの両手を暖かな光が包み、翳していたメルエの身体を包み込む。メルエの全身を光が覆った頃、メルエの身体の痙攣は治まり始め、白目を剥いていた瞳は優しく閉じられた。

 

 サラはそこで初めて知る事となる。あの夜、カミュが自分に伝えたかった意味を。

 サラは、自身の中に渦巻く濁った魔法力に戸惑っていた。

 『経典』の呪文を行使する事が出来るような、例えるなら白色の魔法力でもなく、『魔道書』の呪文を行使するような、サラのイメージであるならば黒色の魔法力でもない。故に、自分の呪文詠唱による魔法の発現が明確に想像できなかったのだ。

 しかし、それは大きな間違いだった。カミュがあの時言ったように、サラの中で渦巻く魔法力は、あの<ダーマ>で生まれた物ではない。

 

 それよりもずっと以前から。

 それは、サラが生れ落ちた時からサラの肉体に宿っていた魔法力。

 その性質が変化しただけの事。

 

 魔法力とは、成長によってその量を増やす事はあるが、外部から強制的に体内に入れ込む事は不可能なのである。それは生まれ持った才能であるが故。

 人それぞれ、量も質も、その色さえも違う魔法力が、変化する事があっても違う物を埋め込む事は出来ないのだ。

 

 それをあの時カミュは語っていた。

 今、渦巻いている魔法力は、元々サラの体内にあった物。

 サラが『経典』の呪文を行使しようとすれば、その色に変化し、『魔道書』の呪文を行使しようとすれば、それもまた変化する。

 今、目の前に横たわるメルエの呼吸が落ち着いて行くのを見て、サラはそれをはっきりと認識する事となる。自分の中にある魔法力が<キアリク>を唱え、メルエの身体に光を降り注ぐ時、サラの体内の魔法力の質が変化していた。

 

「……ありがとう……」

 

「……カミュ様……」

 

 自分が成した事に茫然とするサラに、カミュは頭を下げた。そんなカミュの姿にリーシャはようやく笑顔を見せ、涙を流す。

 自我を取り戻したサラの瞳から大粒の涙が溢れ出し、叩きつけるような物に変わった雨も混ざり、彼女の顔を濡らし続けた。

 

「うわぁぁぁ! な、なんだ、ありゃぁ!」

 

 メルエの呼吸も落ち着きを取り戻し、一行の間に安堵の空気が漂い始めた時、後方で突如声が上がる。風も強まり、船の揺れも酷くなって行く中、風だけの影響ではない大きな揺れが船を襲った。

 

「あ、あれは……」

 

 視線をカミュの後方に移したサラは、信じられない光景を目にする。

 今にも船全体を覆い尽くそうとする長く粘着性のある足を高々と掲げ、その瞳は船の甲板で動く乗員達の身体を強張らせるに十分な程の強い殺気を放っている巨大な魔物が出現していたのだ。

 

「カミュ!」

 

「……メルエを抱いて後ろに下がっていろ……」

 

 後方の魔物を振り返る事なく、カミュは一度優しくメルエの頭を撫で、リーシャに指示を出す。その指示はリーシャが納得できる物ではなかった。

 今見える魔物の巨大さは、決してカミュ一人で何とかできる物ではないのだ。

 

<大王イカ>

その名の通り、『いか』の化け物である。その体躯はある程度の大きさの船をも一握りで潰してしまう程の巨大さを誇り、航海に出た船を何隻も海の藻屑と変えて行った。特殊な能力等何もない。それでも、海の上という自由の利かない場所で遭遇した『人』には、その巨大な体躯から繰り出される暴力に抗う術はないのだ。

 

「カミュ! 私も出るぞ!」

 

 カミュ一人だけを行かせるつもりはない。それをリーシャは伝えようと叫ぶが、カミュはその叫びに対して静かに首を横に振った。それは有無も言わさぬ程の拒絶。

 しかし、それはアリアハン出た頃のような冷たい拒絶ではなく、むしろ何かを感じ取れるような優しい拒絶であった。

 

「アンタは船員達の全員を俺の後ろに移動させてくれ。決して俺の前に出て来るな」

 

「……わかった……」

 

 呟くようなカミュの呟きを聞いて、リーシャは了承するしかなかった。

 カミュの呟きに込められた想い。それは久しく見なかった、明確な『怒り』の感情だった。

 静かに燃える『怒り』を瞳に宿したカミュが、もう一度メルエの頭を撫でた後、立ち上がり、魔物へと振り返る。

 

「全員をカミュの後ろに移動させてくれ!」

 

「わ、わかった。野郎共! 下がれ!」

 

 リーシャの指示を受け、頭目が船員全てに退避勧告を出す。それに従い、腰が抜けた仲間を担ぎ、怯える仲間を叱咤し、皆が一斉に甲板の奥へと移動して行く。

 船員達が通り抜けて行く姿に視線を向ける事もせず、カミュはゆっくりと船首へ向かって歩いて行った。

 

「あ、あいつはどうするつもりなんだ?」

 

「わからない。だが心配するな。カミュがああ言う以上、私達が考える必要などない」

 

 一人で<大王イカ>へ向かうカミュの背中を眺めながら言葉を発した頭目の疑問に、リーシャは自信を持って答えた。

 そこにあるのは『信頼』。

 彼ら四人が、この一年半以上の期間を旅しながら築いて来た確かな『絆』。

 それを聞いた頭目の顔から不安が消えて行く。

 

 サラは巨大な<大王イカ>よりも大きく見える『勇者』の背中を眺めていた。

 サラにもリーシャと同じように、カミュのしようとする事が解らない。それでも、カミュがあのように言った以上、自分達が出来る事は何もない事を知っていた。

 それは、迫り来る<大王イカ>の前に立ち、背中の剣も抜こうとしないカミュの姿を見て確信に変わって行く。そして、先程カミュが自分に言った言葉を思い出していた。

 

 『アンタが行使できぬ魔法はない』

 

 それは嘘だ。

 『賢者』となったサラは、確かに『経典』と『魔道書』の呪文、そして古の賢者が編み出した魔法を行使できる才を持つ。

 だが、彼女にも使用できない呪文は存在するのだ。

 

 それは、古代の英雄が残した遺産。

 それは世界中に散りばめられ、一時代に一人しか行使できない物。

 『勇者』のみが行使できる英雄の呪文。

 

「全員が移動したぞ!」

 

「よし! カミュ! 移動が完了した!」

 

 頭目の言葉を受け、カミュに向かって叫ぶリーシャの声が甲板に木霊する。それに頷きを返す事もせず、カミュは天に向かって右腕を高々と掲げた。

 人差し指を突き出すように天へと向けたカミュの姿は、サラにはとても神々しい物に映る。

 

「グモォォォォ」

 

 <大王イカ>の足は既に甲板へと侵入を始めていた。まだカミュには届いていないが、それも時間の問題と思われた時、周囲の空気が変化する。

 その変化は周囲を満たし、リーシャやサラの身にも突き刺さる程の威圧感を与えていた。

 

「……す、すごい……」

 

「……カミュ……」

 

 カミュを取り巻く魔法力が放出され始める。それは、カミュが今まで行使して来た魔法の時とは比べ物にならない程の物だった。

 天を覆う真黒な雨雲の中を光が駆け巡り始める。

 それは、『天の怒り』。

 カミュの心と同じような静かな怒りを表明するように、その光は厚い雲を突き破り周囲を明るく照らし始めた。

 

 そして、全ての音と光が失われる。

 

「ライデイン!」

 

 詠唱の言葉と共にカミュの指が真っ直ぐ<大王イカ>へと振り下ろされる。それと同時に凄まじいまでの轟音を轟かせて、眩いばかりの光の矢が天から降り注いだ。

 

<ライデイン>

この世界の中にある唯一の電撃系魔法。古来より、神の怒りとして恐れられていた雷を自在に操る物。古代の英雄が、『精霊ルビス』を通して神との接触に成功し、その技を授かったと伝えられている。その威力は全ての物の命を根こそぎ奪い取ると言われる程で、英雄となった者の中でも限られた者にしか行使する事が出来ない物だった。

 

「グモォ……」

 

 天から降り注いだ神の槌は、<大王イカ>の身体を正確に貫き、その命を奪い取る。真黒に焦げきったその身体は、ずるずると海へと戻って行った。

 

「うぉぉぉぉ!」

 

 海の最大の脅威と恐れられた魔物が一瞬の内に撃墜された事に、船員達から天突く程の歓声が沸き上がる。

 未だに海は荒れ、船は大きく揺れながら進路を外していたが、それでも船員の心は震え、湧き上がっていた。

 

「……カミュ……」

 

「……これが『勇者』様の呪文……」

 

 今までカミュが行使して来た『勇者』特有の魔法は、正直地味な物が多かった。

<アストロン>や<トヘロス>など補助の呪文しかなかったと言っても過言ではない。故に 、その攻撃呪文の凄まじさに、リーシャは驚き、サラは恐怖した。

 

 世界を救う『勇者』

 その能力は、世界を手中にする事も可能なのではないかと。

 

「流石は『勇者』様だ! だが、もはやポルトガに戻る事は不可能だ。このまま波に任せるしかない」

 

 そんなリーシャとサラの思考は、頭目の言葉で現実へと引き戻された。

 唯一人、カミュの偉業に我を失う事なく、冷静な判断を行う事ができる。それが彼を頭目として立たせている要因でもあり、カミュが信頼を向けている理由でもあった。

 

「……どうする……?」

 

「なぁに、心配するな。あれだけの脅威から護ってもらったんだ。今度は海の男達の仕事さ。どんな事があろうと、この嵐を乗り切って見せるさ。アンタ方は船室で休んでいてくれ」

 

 戻って来たカミュに向けて笑顔を作って話す頭目の言葉は自信に満ちていた。そんな頭目に、カミュの口端も上がって行く。

 お互いに何かを理解しあったような微笑み。それだけで充分だった。

 

「さぁ、野郎共! こっからは俺達の仕事だ! 俺達の船を護りきるぞ! 帆を畳め! 舵を取れ!」

 

「オォォォォォ」

 

 頭目の言葉に応える声。

 それは、先程カミュが行使した魔法が轟かせた音にも負けぬ程の物。

 真っ暗に覆う雨雲を突き抜け、荒れ狂う波を切り開く。

 

 船は荒れ狂う海を超え、その猛威に向かって懸命に抗いながら進んで行く。

 穏やかな出航ではなかった。

 しかし、この新たな旅立ちが、船に乗る者達の心を強く結びつけたのだけは確か。

 そして、暴風雨の闇の中に船は消えて行った。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

「悟りの書」に記載されていた魔法の一番目はこの魔法でした。
本来は「僧侶」の魔法ですが、ゲーム中では教会で麻痺の治療が出来ない事から、一般の僧侶では唱えられないのではないかと考えた独自解釈です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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無名の土地①

 

 

 

「もう大丈夫だ。大分流され、ここが何処だかを確認しなければならないが、船に損傷はない。まぁ、魔物に少し手摺を傷つけられたぐらいだな」

 

 夜も明け、海全体を覆っていた黒く厚い雲も晴れた青空が見える甲板で、雨と汗で濡れ鼠のようになった頭目の顔にようやく笑顔が戻った。

 周囲に座り込んだ船員達の表情も、疲れこそあれ、どれも仕事をやり切った達成感に紅潮させている。そんな乗組員達の姿に、カミュは薄く微笑んだ。

 

「……ありがとう……アンタ達のお陰で、俺達はまだ生きる事ができる」

 

 甲板にいる全員に向かって頭を下げるカミュに向けられた物は、船員達全員からの満面の笑顔だった。

 カミュに倣い、傍で頭を下げるメルエ。

 その横で微笑みながら頭を下げるリーシャ。

 そして、船酔いによって顔を真っ白にしながらも無理やり笑顔を作るサラに皆が笑い声を上げた。

 

「お嬢さんも限界だろう。向こうに陸が見えるから、そこに一度上陸しよう」

 

 サラの顔色を見て笑みを浮かべていた頭目が、目の前に見える陸地を指差し、船の進路をカミュへと訪ねる。一度溜息を吐いたカミュが頷いた事によって、船は陸地へと向かって漕ぎ出した。

 

「じゃあ、俺達はここにいる。一応、船に損傷が無いか確かめなけりゃいけないんでな。アンタ方はこの辺りを探って、ここがどこなのかを確かめてくれ」

 

「……わかった……」

 

 錨を下ろし、小船を海へと着水させる際に頭目が告げた言葉を聞いたカミュ達は一つ頷き、陸地へと小船を走らせた。

 頭目としてもある程度の見当は付いているのだろうが、正確な情報があるに越した事は無いと考えたのだろう。小船は浅瀬を抜け、砂浜へと打ち上げられた。

 サラとメルエを乗せたまま、カミュとリーシャによって陸地へと引き上げられた小船は近くの太い木に結び付けられる。

 

「カミュ、どうするんだ?」

 

「……とりあえず、周辺を歩いてみるしかないだろう……」

 

 小船からメルエを抱き下ろしながら尋ねたリーシャに、カミュは素っ気無く答えを返す。ようやく揺れない陸地へと足を乗せたサラは、安堵からなのか、その場に座り込んでしまった。

 船酔いを知らないメルエは、そんなサラを不思議そうに眺めた後、心配そうにサラへと近づいて行く。

 

「…………サラ………いたい…………?」

 

「えっ!? あ、いえ、大丈夫ですよ」

 

 心配そうに自分を覗き込んで来るメルエに、サラは苦笑を浮かべる。このパーティーの中で船酔いを感じているのは自分だけ。

 それがとても情けなく、『また自分が足を引っ張っている』という想いを強くしてしまう。

 

「サラ、気にするな。船酔いはどうしようもない事だ。気分が良くなるまで少し休もう」

 

「……すみません……」

 

 幸い、まだ陽が昇ったばかりであり、休憩を取ったとしても探索の時間がなくなる訳でもない。笑みを浮かべながら告げるリーシャを見て、サラは俯きながら謝罪の言葉を吐き出した。

 

 

 

 休憩を終えた一行が歩き出したのは、太陽が真上に昇る少し前になった。

 昨晩から続いた嵐によって、サラの体力は予想以上に削り取られていたのだろう。身体を横にしたサラは、そのまま静かに眠りについてしまったのだ。そして、眠ってしまったサラの傍に近寄ったメルエもまた、サラの横で眠りに付いてしまう。

 そんな二人に苦笑を浮かべながらも、昼近くになるまでは、カミュもリーシャも二人を起こそうとはしなかった。

 

「……本当に申し訳ありません……」

 

「はははっ。良いんだ、サラ。疲れているのは仕方が無い」

 

 リーシャに揺り起こされたサラは、自分が犯した失態を恥じ、何度も頭を下げる。眠そうに目を擦りながら、メルエもまたサラと同じ様にリーシャに頭を下げていた。

 

「……どうでも良いが、もう行くぞ……」

 

 そんな二人のやり取りに溜息を吐き出したカミュは、そのまま歩き出す。陽は高く上り、昨晩の嵐が嘘のように空は晴れ渡っていた。

 暖かな日差しを浴び、眩しそうに目を細めながら、メルエがリーシャの手を取って歩き出す。その後ろをサラもようやく歩き出した。しかし、その歩みは、目の前に広がる森に踏み入れた途端に止まってしまう。

 先頭を歩くカミュが、背中の剣を抜き放ったのだ。

 

「サラ! 戦闘だ! メルエを頼む」

 

「は、はい!」

 

 リーシャの言葉と共に、その手を離したメルエがサラの後ろへと移動して来る。メルエの後ろに庇いながら、サラはカミュ達の前に現れた魔物の姿を視界に捉えた。

 

「グエェェェェェェ」

 

 それは、巨大な鳥。

 鷲のようでもあり、コンドルにも似ている鳥。しかし、その体躯は、通常の鳥とは一線を介していた。

 それが二体。

 森の中の木々を住処としているのだろう。カミュ達の頭上を旋回するように飛びながら、虎視眈々と獲物を狙っていた。

 

「カミュ! どうする? 上空では手が出せないぞ?」

 

「……俺達を襲う為に降下して来る筈だ……」

 

 斧を身構えながら上空を見上げるリーシャの問いに、同じく上空から目を離さずにカミュは答える。もし、カミュ達を得物として狙っているのだとしたら、自ら襲い掛かって来る筈。

 その瞬間を叩くしかないとカミュは言っているのだ。

 

 しかし、そんなカミュの目論見は珍しく外れる事となる。

 

「カミュ様!」

 

「2×@#(9&)」

 

 後方から全体を見ていたサラの叫びが響く。それとほぼ同時に、上空を旋回していた鳥が高度を下げた後に、奇妙な鳴き声を発した。

 それは、何度も魔物と対峙して来たカミュ達だからこそ理解出来る物。

 

 魔物の呪文の詠唱だった。

 

「下がれ!」

 

「くそ!」

 

 鳴き声を発した直後に鳥の身体が発光したのを見たカミュがリーシャへと声を荒げ、その声を受けたリーシャは、舌打ちを発しながらも後方へと勢い良く飛んだ。

 それは、正に間一髪。カミュ達が今まで居た場所に着弾した発光物は、その場で破裂し、炎の海を作り出す。森の木々達をも焼き払ってしまうような炎は、カミュやリーシャも何度も見て来た物。

 彼らに同道する、幼くも才能溢れる魔法使いが行使していた魔法。

 

「…………ベギラマ…………?」

 

「はっ!? あれが……魔物の使う<ベギラマ>……」

 

 炎の海を作り出した魔法を見て、首を傾げながら呟いたメルエの言葉に、サラはようやくその魔法が何なのかを理解する。

 『人』ではない種族が使う魔法の威力。

 それは、『賢者』となり、自らも攻撃魔法を行使する立場になって初めて正確に理解する事が出来たのだ。

 

 しかし、それ以上に、今見ている光景にそれ程脅威を感じていない自分にも驚いていた。

 魔物が使う桁違いの呪文の効果。

 『魔道書』に載る呪文の効果を正確に理解した今だからこそ、それを脅威として感じる筈。だが、既にサラはその呪文の脅威を見ていたのだ。

 

「…………メルエも…………」

 

 サラの横で、魔物に対抗意識を燃やして<魔道士の杖>を掲げる幼い少女の手によって。自分と共に歩む幼い『魔法使い』が唱える<ベギラマ>も、今、魔物が唱えた<ベギラマ>に遜色ない程の威力を誇る。

 それは異常であり、異質。

 本来、魔物と人の魔法の質には絶対的な差がある筈なのだ。

 それでも、『賢者』となったサラの目から見ても、メルエの唱える攻撃魔法は、魔物が唱える物に勝るとも劣らない物だった。

 

「メルエ、同じ呪文は駄目です。もしかすると、火炎呪文や灼熱呪文に耐性のある魔物かもしれません」

 

「…………むぅ…………」

 

 呪文の行使を阻止された事に頬を膨らませるメルエへ向けられたサラの表情は柔らかかった。

 今、魔物を目の前にしている人間の表情ではない。

 目の前の少女の脅威を再認識した人間の表情でもない。それでも、サラはメルエに微笑んだ。

 

「ふふふ。でも、メルエには氷結呪文もあるでしょう?」

 

「…………ん…………」

 

 笑みを浮かべながら告げるサラの言葉に、メルエは大きく頷いた。

 その頷きを受けて、サラはカミュとリーシャに指示を出す。

 

「カミュ様! リーシャさん! 私達の後ろに!」

 

 いつもとは逆の隊列。魔法を強みとする二人の後ろに直接攻撃を主とする二人が移動して行く。

 カミュもリーシャも、もはやサラの言葉を拒むつもり等ない。

 それは、もしかすると『信頼』という言葉になるのかもしれなかった。

 

「メルエ、私も<ヒャド>を使ってみます。もしかすると上手くいかないかもしれません。その時は、お願いしますね」

 

「…………むぅ…………」

 

 サラが<ヒャド>を行使するという事を聞いたメルエは、先程よりも更に頬を膨らましてサラを睨む。まるで『自分の仕事を取るな』とでも言うように視線を送って来るメルエにサラは苦笑するしかなかった。

 

「私はまだまだメルエのように上手く呪文を行使できませんよ。メルエから見て、何か変な所があれば教えてください」

 

「…………」

 

 サラの言葉に、相変わらず鋭い視線を送って来るメルエであったが、不承不承といった様子で頷きを返す。その頃に、ようやくカミュ達が敵を警戒しながら後退を完了させた。

 

<ガルーダ>

コンドルの化け物と認識されている魔物。そもそもコンドルとは、大型動物の死肉を啄み糧としている。古来に何らかの変異によって魔物化した動物の死肉を啄んだ事で、コンドルが魔物化し、その子孫が<ガルーダ>となったのだとも云われていた。人間の『魔法使い』が行使できる最強の灼熱呪文である『ベギラマ』を使い、焼け死んだ者や、炎によって身動きのできない者を嘴で襲い死肉を食す魔物である。

 

「サラ! どうするんだ?」

 

「はい。一度、私が牽制を兼ねて<ヒャド>を放ちます」

 

 リーシャはサラの表情を見て、満足気に頷く。

 そこには、もはや自分の実力を信じ切れない者はいなかった。

 今まで生きて来た二十年近い年月で培って来た物とは違う魔法力。

 それを受け止め、受け入れたサラの表情は、また一つ変貌を遂げていたのだ。

 

「グエェェェェ」

 

 一際大きな鳴き声を発し、<ガルーダ>が高度を下げ始める。自分達の唱えた<ベギラマ>をいとも容易く避け、未だに生きている人間に戸惑いながらも、直接襲いかかる事を選択したのだ。

 二体の<ガルーダ>が別々の方向からカミュ達へ襲いかかるのではなく、一点突破のように二体が重なり合いながら急降下して来る。

 

「サラ!」

 

「はい! ヒャド!」

 

 リーシャの掛け声と共に、サラは<ガルーダ>目掛けて指を突き出し、あの夜に契約を行った呪文の詠唱を叫ぶ。

 瞬時に温度を下げて行く大気。

 サラの指先から飛び出した冷気は寸分の狂いもなく<ガルーダ>に向かって飛んで行った。

 

「クエェェェェ」

 

 しかし、その冷気は魔物の身体に当たる事なく、上空で霧散してしまう。

 まるでサラが行使する事を予測していたかのように、二体の<ガルーダ>は身を捩って避けたのだ。

 余りの出来事に茫然としてしまったサラに隙が生じる。その隙は、魔物に詠唱という時間を与えるのに充分な物だった。

 

「2×@#(9&)」

 

 再び奇声を発した一体の<ガルーダ>の口からサラ目掛けて熱気が迸る。

 熱気は炎に変わり、茫然とするサラに着弾するかに思われた。

 しかし、それはこのパーティー最強の『魔法使い』が許しはしない。

 

「…………ヒャダルコ…………」

 

 メルエが振った杖の先から、先程サラが唱えた物とは比べ物にならない程の冷気が<ガルーダ>に向かって飛び出す。

 その冷気はサラの吐く息すらも白く凍り付かせ、<ガルーダ>の吐き出した熱風をも冷まして行く。

 

「えぇぇぇ!?」

 

 メルエの唱えた<ヒャダルコ>を初めて目の当たりにしたサラは、その威力に驚きの声を上げる。彼女がメルエに提案したのは、あくまで<ヒャド>という氷結呪文であって、その上級に位置する<ヒャダルコ>ではなかったのだ。

 

 本来、魔物の呪文効力と人間の呪文効力が拮抗する事はない。

 <ベギラマ>と<ヒャダルコ>ならば、魔物の唱えた<ベギラマ>が圧倒的に勝利を収める筈なのだ。しかし、メルエの放った<ヒャダルコ>は熱風に若干押し負けているとはいえ、その熱風を味方に届かせる事なく霧散させていた。

 

「…………ヒャダルコ…………」

 

「えっ!?」

 

 そして、サラは再び驚きの声を上げる事になる。自ら放った<ベギラマ>を搔き消された事に戸惑う<ガルーダ>を再度メルエの放った呪文が襲い掛かった。

 凍てつく大気。

 急速に下がって行く体温。上空を飛んでいた<ガルーダ>の羽の一枚一枚に霜が下り、それは次第に凍りつき、動きを低下させて行く。

 

「ク、クエェェェ」

 

 自らの状況を理解し始めた<ガルーダ>二体が術者であるメルエ目掛けて急降下を始めた。

 しかし、それはもはや遅すぎる。急降下を始めた<ガルーダ>の翼は途中で完全に凍りつき、その活動を停止せざるを得なくなった。

 そして、凍結は全身に及び、目や嘴、最後は彼らの命の源である心臓の動きをも停止させる。

 

「……カミュ……」

 

「……」

 

 完全に凍りついた二体の<ガルーダ>は自らの身体の重みによって、地面へと落下した。

 そして、その勢いをそのままに地面に激突し、粉々に弾け飛ぶ。

 散らばる『魔物』であった物。

 それを見ながらリーシャは眉間に皺を寄せて立つカミュへと声を掛けるが、返って来たのは沈黙だけだった。

 

「…………ん…………」

 

「あ、ああ。やはり凄いな、メルエは」

 

 魔物の活動が完全に停止したのを見届けたメルエが、帽子を取ってリーシャへと頭を突き出して来る。

 もはや恒例となりつつある儀式だ。

 そんなメルエの頭を優しく撫でながらも、リーシャの表情は晴れなかった。

 これだけの魔法を行使出来る『人』がどれだけいるのだろう。

 今や世界で唯一の『賢者』となったサラでさえ、ここまでの威力を持つ魔法を習得するのにどれ程の時間が必要なのか。それすらもリーシャには解らない。

 

「メ、メルエ……いつの間に<ヒャダルコ>を?」

 

「ああ。あの時、サラはいなかったのだな」

 

 気持ち良さそうにリーシャの手を頭に受けているメルエに近寄って来たサラの表情は、未だに驚きの感情が張り付いていた。

 そんなサラに回答したのは、メルエではなくリーシャだった。

 リーシャの言葉にサラは首を傾げ、次の言葉を待つ。

 

「サラがバハラタの町に行っている間に戦闘があってな。その時にはあの呪文を唱えていたから、それ以前なのだろうな」

 

「……まさかもう<ヒャダルコ>まで習得しているなんて」

 

 『賢者』となり、『魔道書』の中身を読み尽くすようになったサラは、『魔道書』の中で<ヒャダルコ>が位置する場所を正確に理解していた。

 それが『魔法使い』にとって、どれ程に困難であるのかも。

 故に、既にそれを習得しているメルエに驚きを浮かべていたのだ。

 

「まぁ、いくらサラが『賢者』となっても、攻撃魔法に関してはメルエに一日の長があるからな。まだ暫くはメルエに追いつく事は出来ないだろうさ」

 

「…………ずっと………メルエ…………」

 

 リーシャがサラを慰めるように口を開くが、その言葉に不満な表情を浮かべたメルエは頬を膨らませた。

 メルエにとって攻撃魔法は譲る事は出来ないのだ。

 例え、それが大好きなサラであったとしても。

 

「……だそうだ」

 

「はぅ……それは初めから解っていた事です。魔法に関してメルエに勝てるとは思っていませんから。メルエ、私にも攻撃魔法を教えて下さいね」

 

「…………いや…………」

 

 溜息を吐き出しながらも、サラはメルエに笑顔を向けて享受を願い出る。しかし、それは即座に拒絶された。

 『ぷいっ』と横を向いてしまったメルエの姿に、サラはがっくりと肩を落とし、リーシャは苦笑を浮かべるしかなかった。

 

「……砕けた魔物達は、アンタが燃やしてやれ……」

 

「えっ!? あ、は、はい!」

 

 そんな三人のやり取りを無視するように間に入って来たカミュの言葉に、サラは思わず大きな声で返事を返してしまう。これまでも何体もの魔物を葬って来た。

 斬り捨て、刺し殺し、その死骸を放置して来たのだ。

 それを悪い事と感じた事も無かったサラであったが、今は何故かカミュの言葉がすんなりと胸に落ちて行く。

 

「ギ、ギラ」

 

 粉々に飛び散った魔物の肉体であった氷を一箇所に集め、サラは覚えたての呪文を詠唱する。サラが翳した掌から熱風が巻き起こり、地面を炎が満たして行く。

 その炎によって<ヒャダルコ>によって凍りついた氷は溶け、魔物の肉体が燃えて行く。魔物であった者をも天へと誘うような煙を眺めながら、胸の前で手を合わせるサラを、リーシャは温かな瞳で見つめていた。

 

 『サラの変化』

 

 それは、リーシャには好ましい物に映っていた。

 今の彼女の中で『人』と『魔物』の境界線は曖昧になり始めているのかもしれない。それは、この世界に存在する『僧侶』としては完全に異端。

 この先、それに悩み、苦しみ、泣く事だろう。だが、きっと彼女は道を見つけ出し、前へと歩き始める。それは、リーシャの中で確信となっていた。

 だが、温かな瞳と温かな笑みでサラを見つめるリーシャを、別の瞳が見ている事に彼女は気が付いてはいない。サラの変化に対し、そのように考え、そしてそれを認める。それこそ、リーシャ自身の変化である事に彼女は気付いてはいないのだ。

 だが、そんな彼女の変化もまた、好ましい物として受け取られていた。

 

「……行くぞ……」

 

「あ、ああ」

 

「はい!」

 

「…………ん…………」

 

 そして一行は歩き出す。

 陽は既に頂上を越え、若干西へと傾き始めていた。

 時期に陽は沈み、夜の闇の支配が始まるだろう。

 

 

 

 一行がその場所に着いた時、陽は完全に西の大地に沈み、辺りは闇と静寂に満たされていた。

 森の木々を切り開き、大きく開かれた広場のような平原がぽっかりと広がっている。そして、一軒の家が建っていた。

 

「……カミュ……」

 

「ここが何処なのかを聞くしかないだろう。メルエを頼む」

 

 自分のマントの裾を握るメルエをリーシャへと任せ、カミュは木戸に掛けられた金具へと手を掛ける。乾いた音を響かせた木戸は、暫くの時間が経過した後、ゆっくりと開かれた。

 

「……誰……?」

 

 中から出て来たのは、白い髭を蓄えた老人だった。

 何かを話しているのだが、その言葉は田舎の訛りが強く、カミュ達が聞き取れたのはその一言だけだった。

 

「……夜分に申し訳ありません。この辺りに漂着し、ここがどの辺りなのかをお聞きしたく……」

 

「……」

 

 老人はカミュの言葉を最後まで聞く事なく、四人を家の中へと招き入れた。

 自分の言葉がカミュ達に上手く伝わっていない事を理解したのだろう。老人は必要以上の事を語る事なく、席に付いたカミュ達に温かな飲み物を出してくれた。

 

「……ありがとうございます……」

 

「…………ありが……とう…………」

 

 差し出されたカップを手に取り、軽く頭を下げたカミュに倣い、隣に腰掛けたメルエも小さく頭を下げる。

 その様子に老人は柔らかく微笑み、一つ頷いた。

 

「ここはどの辺りなのですか?」

 

「……ここ……ポルトガ……西……」

 

 優しく微笑む老人に尋ねたサラに対する返答は、これまた聞き取り難い言語で、何とか聞き取った単語が、この場所がポルトガの西に位置する大陸である事を示唆していた。

 どれくらい西なのか、ポルトガまでどのくらいの日数が掛かるのかは解らない。

 それを正確に聞き取る事も難しいだろう。故に、サラは質問を変える事にした。

 

「失礼ですが、このような場所にお一人でお住まいなのですか?」

 

「サラ」

 

 サラの質問は、初対面の人間に向けて良い物ではない。

 前置きはしているが、人それぞれの事情がある以上、それは事実『失礼』なのだ。故に、リーシャはサラを窘めようと口を開くが、それは当の本人に遮られた。

 軽く手を挙げ、柔らかく微笑む老人は、何とか意思を伝えようと言葉を選びながら話し出す。

 

「……わし……ここ…町作りたい……」

 

「えっ!?」

 

 聞き取れる単語を繋ぎ合わせた結果にサラは驚きの声を上げる。それは、サラばかりではなく、リーシャやカミュもまた少なからず驚きを表していた。

 唯一人、メルエだけは話の内容に付いて行く事が出来ず、温かな飲み物の入ったカップの中身を飲むのに苦心している。

 

「町を一から創り出すつもりか?」

 

「……町……つくる……商人…必要……」

 

 リーシャの問い掛けに、笑みを浮かべながら頷いた老人であったが、何かを思い出したかのように、表情を曇らせて俯き加減に言葉を漏らす。確かに、町を創る上で『商人』という職業の者は必ず必要となろう。

 

「……でも…商人……いない……」

 

 何かを必死にカミュ達に伝えようとする老人の田舎訛りの強い言葉を、カミュ達も懸命に理解しようと眉を顰めて聞き入る。

 『何かを伝えようとする者の言葉を無碍にしてはならない』。それは、この旅で彼ら三人が学んだ最初の事柄なのかもしれなかった。

 

「……誰でも…いい……才能…ある…商人……ほしい……」

 

「し、しかしな……」

 

 老人の言葉にリーシャは何かを言おうと口を開き掛けた。しかし、それはリーシャの前に出された腕に遮られた。

 その腕の持ち主であるカミュにリーシャは視線を移すが、こちらに顔を向けてはいないカミュの表情は窺い知れない。

 

「カミュ様、この場所がポルトガの西であるのならば、ここに町が出来れば船旅の危険も少なくなるのではないのですか?」

 

 口を開いたサラの言うとおり、この場所がポルトガからそれ程離れてはいない場所だとすれば、ポルトガを出た船がこの町に寄る事で、船旅の困難さは大幅に変化する。

 航路が短ければ短い程に、魔物との遭遇は減り、積む荷物も減るのだ。

 

「……『人』にとってはな……」

 

「はっ!?」

 

 しかし、それはこの世界に生き、船によって移動する『人』という種族に限った話である。この老人の切り開いた森の中には、様々な生物が生きていた。

 小動物から魔物まで。その生態系を『人』の手によって崩してしまうのだ。カミュの言いたい事を、そのたった一言で察したサラは言葉を失った。

 

「……カミュ……」

 

「……ふぅ……良い人材がおりましたら、この場所に来るように話しておきます」

 

 会話はそれで終了した。カミュに向かって哀願するように頭を下げる老人に一度視線を向けたカミュは、扉へと向かって歩き出す。

 飲み物を飲み終えたメルエがその後に続いて外へと出て行った。

 

「さあ、サラも行こう」

 

「は、はい……」

 

 リーシャの促しに力なく頷いたサラも、老人に一礼した後、開いたままの木戸を潜り外へと出て行く。最後に振り返ったサラの瞳に映った老人の表情がサラの頭にいつまでもこびり付いていた。

 

 

 

「カミュ、どうしても駄目なのか?」

 

「……」

 

 船の方角へと歩き続けるカミュの背中にリーシャは語りかけた。暫しの間、その声を無視するように歩いていたカミュであったが、諦めたように溜息を吐き、リーシャとサラに向かって振り返る。

 

「アンタは<ダーマ>で俺や教皇に向かって『考える』と言った。何について考えるつもりだ?」

 

 振り返ったカミュの瞳は、声を掛けたリーシャではなく、その後ろにいるサラを鋭く射抜いていた。カミュの真っ直ぐな視線を受け、サラは身体を硬直させる。

 カミュの言いたい事が理解できない訳ではない。しかし、サラの中でその答えは未だに出てはいないのだ。

 

 あの老人が何故、このような場所に町を創りたいのかは解らない。

 サラの言うように、航海をする人間の為に創るのか。

 それとも、それは只の欲なのか。

 

 だが、何れにせよ、カミュの言うように、あの場所で生きる『人』以外の生物の住処を奪う可能性を帯びている物。

 それは、サラが<ダーマ神殿>にて発した『この世に生きる全ての生物の幸せ』に繋がるとはとても言えない物である事は事実である。故にサラは口を開く事が出来なかった。

 

「まあ、商人一人居たところで町が生まれるとは思えないが」

 

 何も答えないサラから視線を外したカミュの言葉にリーシャは納得する。先程、老人に向かってリーシャが告げようとしたのはその事なのだ。

 基本的に『町』とは人々の集合体。木が生い茂る場所を森と言うのと同じ様に、人々が集まり、そこで生活を始めたから町となって行くのだ。

 

 あの老人が言い出した事は、その真逆の考え。

 『町を創るから人が集まる』という物。

 本来の順序が逆なのである。

 

「それは解る。カミュが言いたい事も解る。それでもあの老人の想いの中には何かあるように思うのだ。何故、あの場所に町を創りたいのかは私には解らない。だが、それはとても深い理由があるように思えてならない」

 

「……例え、どんな理由があろうと、『人』の我儘である事に変わりは無い……」

 

 カミュの言い分も認め、更にはカミュの懸念も理解し、それでもリーシャはあの老人から感じ取った物をカミュへと伝えようとしていた。

 しかし、それはカミュの冷酷な返しによって斬り捨てられる。どのような理由であろうと、それは一方側に立った理屈であると。

 その言葉にサラの表情は再び硬直してしまう。

 

「そうかもしれない。だが、そうやって『人』が世界を広げて来た事もまた事実だ」

 

 それでも、今回のリーシャは引き下がろうとはしなかった。

 彼女は彼女なりに、ここまでの旅の中で考える事があったのだろう。それは、カミュやサラとは違う物。

 もしかすると、元々『人』側にいないカミュとも、既に中立の位置へと変化したサラとも違う、『人』としての観点から物事を見つめているのは、彼女だけなのかもしれない。

 良くも悪くも、『それが人だ』と言い切るリーシャもまた『人』なのだ。

 

「……カミュ様……私は……私はもはや『人』としての立場から願いを口にしてはいけないのでしょうか?」

 

「……それを選んだのはアンタだ……」

 

 縋るようにカミュへと言葉を洩らしたサラは、冷たい瞳を向けるカミュの返答に息を呑む。

 『賢者』となり、<ダーマ神殿>で彼女が想いを吐き出したその時から、サラはもはや『人』ではないのだ。

 カミュの瞳はその事実と、その哀しみや苦しみを物語っていた。

 

「ならば、私が願おう! カミュ、お前には悪いが、私は『人』だ。私は『エルフ』よりも『魔物』よりも『人』を第一に考える。『魔物』に『人』が襲われていれば、そこにどんな理由があろうと、『人』を護るだろう。『エルフ』と『人』が戦う事になれば、例え『人』が仕掛けた理不尽な戦いであろうと、『人』側の騎士として『エルフ』に武器を向けよう」

 

「……リ、リーシャさん……」

 

 言葉を失い、俯いてしまったサラの顔を再び上げたのは、リーシャの声だった。

 リーシャの言葉に迷いはない。もし、彼女の言うような場面に遭遇したとしたら、彼女は悩み、苦しみ、泣き叫びながらも、言葉通り異種族に武器を向けるのだろう。それは、サラの胸に痛い程に伝わって来た。

 

「……わかった」

 

「……カミュ様……」

 

 暫しリーシャと睨み合う様に対峙していたカミュが盛大な溜息を吐き出す。しかし、そんな溜息とは裏腹に、カミュの口元に浮かんでいたのは苦笑に近いような優しい笑みだった。

 それをサラは見てしまう。カミュが今、何を想い、何を考えているのかは解らない。だが、カミュがリーシャの想いを受け止めた事だけは理解出来たのだ。

 

「ならば、商人を紹介してやるんだな?当てはあるのか?」

 

「……心当たりは、あると言えばある……」

 

 カミュの頷きに、表情を柔らかく変化させたリーシャはカミュへと『商人』について尋ねた。

 あれだけカミュに啖呵を切った筈なのだが、肝心の『商人』についてリーシャが何も考えていなかった事を窺わせるその言葉に、カミュは呆れたような溜息をもう一度吐き出した。

 

「そうか。今からそこに行くのか?」

 

「……まずは船に戻る……」

 

 そう言って歩き出そうとするカミュの前に、一人の少女が立ち塞がった。

 <魔道士の杖>を右手に持ち、カミュを見上げた少女の口元は厳しく引き締まっている。何かを告げるような鋭い視線に、カミュは一瞬目を見張った。

 

「…………けんか………だめ…………」

 

「は?」

 

 久しく見ていなかったカミュの『人』としての表情。何かに呆気に取られたような、どこか間の抜けた声を上げるカミュは、年相応の表情を生み出していた。

 その表情が一行を取巻く空気を変えてしまう。

 

「あははは! メルエ、大丈夫だ。私とカミュは喧嘩等していない」

 

「ふふふ」

 

 カミュへと告げたメルエの強い口調に、意表を突かれたリーシャではあったが、その内容を理解した時、心の底から可笑しさが込み上げて来た。

 大声を上げて笑うリーシャに、メルエは理由が解らず、『きょとん』とした表情で首を傾げる。そんなメルエの行動に、ようやくサラの顔の硬直も解けて行った。

 

「メルエ、おいで」

 

「…………ん…………」

 

 笑いを収めながら、リーシャはメルエを呼び、駆け寄って来たメルエの手を握ってカミュを見る。どこか納得のいかない瞳を向けるカミュに、リーシャは再び笑みを濃くした。

 

「さあ、行こう」

 

「……」

 

 リーシャの言葉を受けたカミュの溜息が合図となった。一行は再び浜辺で待つ船へと進路を取って歩き出す。

 先頭を歩くカミュ。その後ろをメルエの手を握ったリーシャが歩き、サラが付いて行った。

 

 

 

「おお! おかえり!」

 

 岸の木に結びつけた小船のロープを解き、船へと向かった一行を出迎えたのは、船員に指示を出していた頭目だった。

 小船を船へと上げ、小船からメルエを抱き下ろした後、カミュ達の帰還を歓迎する。

 

「……ここは、ポルトガの西に位置する場所のようだ……」

 

「やはりな。まあ、潮の流れや風向き、太陽の位置からしてそうだとは思っていたが。ならば、ポルトガまでは順調に行けば、一日程の距離だろう」

 

 小船を降りたカミュが話す内容に、頭目は頷きを返す。

 何度も海を渡って来た男なのだ。

 状況の判断は確かだろう。

 

「どうする? 目的地は決まっているのか?」

 

「……少し所用が出来た……」

 

 今後の進路を訪ねた頭目へのカミュの返答は、予想とは違った物だったのだろう。頭目は、一瞬カミュが何を言っているのか理解できないかのように、眉を顰めた。

 それは、周りで聞いていた船員達も同様のようで、作業の手を止めて二人の会話の内容に耳を澄ませている。

 

「どういうことだ?」

 

「悪いが、アンタ達は一度ポルトガへ戻ってくれないか? 俺達も所用を済ませたら、一度ポルトガへ戻る」

 

 もう一度聞き返す頭目へ、カミュは詳しい事情を話し出す。しかし、その内容も頭目には良く理解できないものであった。

 ポルトガの港を出港してから数日も経っていないにも拘わらず、彼らはポルトガへ戻ると言い出したのだ。

 

「それは良いが……」

 

「ポルトガに戻って船の細かい調整をしておいてくれ。俺達がポルトガへ戻ったら、再びこの場所に連れて来て欲しい。ここまでの航路も確認しておいて貰いたい」

 

 続くカミュの言葉で、ようやく頭目の顔から疑念が消えて行った。

 カミュの考えの全てを理解した訳ではない。

 だが、彼らがこの船と、船を動かす者として自分達を必要としている。

 それだけが解れば、彼らにその細かな内容を聞く必要はなかった。

 

「わかった。それで、アンタ方も船でポルトガに戻るのか?」

 

「……いや。悪いが、先に戻らせてもらう……」

 

 その問いに、どこか申し訳なさそうに話すカミュの姿は、頭目にとっても他の船員達にとっても笑みを浮かばせるのには充分だった。

 この年若い青年は、自分達が共にポルトガへ戻らない事を苦悩していたのだろう。

 魔物が横行する海を『勇者』達なしで渡る事は、大きな危険を伴う。それを危惧し、この青年は眉を顰めているのだ。

 

「わかった。野郎共! 出港だ!」

 

「おぉぉぉぉ!」

 

 故に、笑みを浮かべ、一度カミュに向かって頷いた頭目が船員達に号令をかける。それに呼応するように、船員達の声が海原へと響き渡った。

 確かに、カミュ達がいない状態で、<大王イカ>のような魔物と遭遇すれば、船は大破するかもしれない。

 しかし、そこは熟練の船乗り達。海が荒れてさえいなければ、比較的安全な航路を見つけ出し、渡って行く技能も持ち合わせてはいるのだ。

 

「……船を頼む……」

 

「まかせろ! ポルトガで待ってるぜ」

 

 頭目の答えに、カミュも笑みを浮かべながら頷いた。カミュの頷きを合図に、リーシャ達三人がカミュへと近づき、それぞれがカミュの衣服を手に掴んだ。

 

「ルーラ」

 

 詠唱と共に、カミュ達を淡い光が包み込み、上空へと浮かび上がらせる。船員達に暫しの別れを告げるように、少しの間上空に滞空していた光は遠く北東の方角へと飛び去って行った。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

本当は、この話と次話は二話同時に更新したかったのですが、ここのサイトの利用規約なども考え、時間を一日空ける事にしました。
二話程度では、負荷になるとは思いませんが……利用規約では20話以上ですし。
用心に越した事はないので。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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無名の土地②

 

 

 

「……ここは……」

 

 <ルーラ>の効力も切れ、地面へと足をつけたサラは、目の前に広がる光景に驚きを表す。

 それは余り思い出したくない場所であり、常に忘れた事も無い場所。

 サラにとっても、メルエにとっても、印象深く、そして哀しい思い出のある場所。

 

「……行くぞ……」

 

「は、はい」

 

 その場所を見た時、リーシャもまた驚いていた。

 しかし、それと共に妙な納得もしていたのだ。

 『カミュなら、ここを選ぶだろう』と。

 

 門を抜け、真っ直ぐ歩くカミュの後姿を追うように歩いていたメルエが、いつの間にかカミュを追い抜き、小走りに駆け出した。そんなメルエの様子にサラは驚き、リーシャは笑みを溢す。そして、メルエは一軒の家の木戸の前で足を止めた。

 追いついて来たカミュを見上げ、眉を下げるメルエが見る物は、木戸にかけられた金具。メルエの背丈では届かない金具を哀しそうに見上げる姿に苦笑を浮かべながら、カミュは金具で木戸を叩いた。

 

「……こんな夜中に誰だ……?」

 

 暫しの時間の後、警戒するように少し開かれた木戸の隙間から覗く顔は見覚えのある物より、若干焦燥しているようにも見えた。

 

「…………メルエ…………」

 

「えっ!?」

 

 家主の問い掛けに、開かれた隙間の前に立つ少女が自分の名を告げる。

 その名を聞いた家主は、驚きの声を上げて、木戸を勢い良く開いた。

 

「メルエちゃんなのかい!?」

 

「…………ん…………」

 

 木戸を開き、足元で自分を見上げる少女を見た家主は、驚きと共に喜びを顔全体に表した。

 以前より少し痩せたのだろうか。若干頬は扱け、目は窪み、覇気が感じられない顔に笑顔を作る家主に、カミュとリーシャは顔を歪ませる。

 

「良く来てくれたね。さあ、入った、入った」

 

「……すまない……」

 

 喜びを身体全体で表現する家主に、カミュは軽く頭を下げた後、誘いに応じて家の中へと入った。それに続き、リーシャとサラが入って行く。メルエは誰よりも先に家の中に入っていた。

 一行は、家主の言葉に従って席に着く。一度台所に戻った家主は、四人分の温かな飲み物を用意し、カミュの対面に腰掛けた。

 

「元気そうで何よりだ。しかし、暫く見ない内に随分と雰囲気が変わったな」

 

 家主は、何か眩しい物でも見るように四人に向かって順々に視線を送る。

 その視線を受け、サラはどこか恥ずかしそうに俯いた。

 

「トルドは、余り元気そうではないな?何かあったのか?」

 

「……随分とお痩せになったみたいですけれど……」

 

 その家主をリーシャは『トルド』と呼んだ。

 ここは、<カザーブの村>。

 今、カミュ達の前にいる男性は、この村で唯一の道具屋を営む者。

 そして、この町で起きた哀しい出来事の中心にいた男だった。

 

「……ご両親は……?」

 

「あ、ああ。親父とお袋は死んだよ」

 

「なに!?」

 

 リーシャとサラの言葉に苦笑を浮かべていたトルドは、カミュの問い掛けに対し苦しそうな表情を浮かべた後、衝撃の事実を口にした。

 その余りの衝撃に、リーシャは叫び、サラは絶句する。

 

「アンタ方がこの村を出てすぐに、お袋の方が体調を崩してね。気力も萎えていたんだろう。そのまま数日で天に還って行った。親父もお袋を亡くして、最後の糸が切れちまったんだろうな。後を追うように天へ昇って行っちまった」

 

「そ、そんな……」

 

 自嘲気味に、カミュ達が村を出てから起こった出来事を話すトルドの言葉に、サラは言葉を失ってしまった。

 確かに、カミュ達が持って来た事実は、トルド一家に多大な衝撃を与えたのだろう。それこそ、『人』の生きる気力を根こそぎ奪ってしまう程に。

 

「……すまない……」

 

「あ!? い、いや。アンタ方が責任を感じる必要はない。そういう意味で言った訳じゃないんだ。あれは、俺がアンタ方に依頼した。こうなる可能性は予測できたのに、俺は真実見たさにその可能性を見ないようにしていただけだ。悪いのは俺なんだよ」

 

 カミュがトルドに向かって頭を下げた理由。それは、トルドの母親の生きる気力を根こそぎ奪ってしまった事実にある。

 トルドの妻と娘の死に関する事実。それを知る事をトルドは望み、カミュ達に依頼した。いや、それはトルドだけではなく、彼の父親も母親も願っていたのだろう。

 一筋の希望に縋りながら。

 

 しかし、事実は過酷な物だった。

 それは、『人』一人の生きる気力をも奪い尽くしてしまう程に。

 

「…………これ…………」

 

「ん? なんだい?」

 

 そんな重苦しい空気が流れ始めた部屋の空気を破ったのは、いつの間にかトルドの足元に移動した幼い少女だった。

 そして、少女は目の前のトルドに向かって小さな手を差し出す。差し出された手を見て、不思議に思いながらもトルドはその小さな手を包むように片手を差し出した。

 

「あれ? メルエ、その石をまだ持っていたのですか?」

 

「…………ん…………」

 

「……おい……」

 

 メルエの小さな掌から、トルドの大きな手に落とされたのは、綺麗な蒼い石。

 異種族であるホビットにメルエが差し出した物と同じ、蒼く輝く石だった。

 

「これは? とても綺麗な石だが、貰っても良いのかい?」

 

「……メルエ……」

 

 トルドの問いに笑顔で頷くメルエを見て、リーシャはようやくメルエの心を知る事になる。

 その蒼く輝く石は、『賢者』への試練のための塔を探索している時に、『死の呪文』からカミュを護った石。

 その欠片をメルエは身体の具合が悪い中にも拘わらず、拾い集めていたのだ。

 

 そのメルエの心の中をリーシャは理解した。

 メルエにとって、カミュやリーシャやサラは掛け替えのない存在なのだ。そして、その存在を護ってくれた石もまた、彼女にとって何物にも換え難い宝物となっている。

 故に、彼女はそれを、自分に好意を向けてくれる人間に渡すのだ。

 自分の気持ちを好きな人物へ伝えるために、自分の大切な物を渡す。もしかすると、メルエはあの塔でサラが語った『石がカミュを護り砕けた』という言葉を聞き、再び自分の好きな人物を護ってくれるのではと考えているのかもしれない。

 

「ありがとう。大切に……大切にさせてもらうよ」

 

「…………ん…………」

 

 笑顔で頷くメルエに、トルドの瞳は潤んでいる。先程まで、どこか不満気な表情を浮かべていたカミュも、何かに諦めたように溜息を吐き出していた。

 

「……ぐすっ……そ、それで、今日はどういった用件だったんだ?」

 

「あ、ああ」

 

 鼻をすすりながら、一行に視線を移したトルドの言葉に、リーシャは言葉に詰まり、カミュの方へと瞳を泳がせる。サラも先程の土地での会話の流れから、カミュがトルドに何を要求するのかを感じ取っており、居心地悪そうに下を向いてしまった。

 

「……この村を出て、町を創ってみないか……?」

 

「はあ?」

 

 トルドの驚きは当然だろう。サラも、いつも通りのカミュの言葉の足りなさに驚き、思わず顔を上げてしまった。

 そんな言葉で全てを理解できる人間が、この世の何処にいると言うのか。

 

 『村を出て、町を創れ』

 

 全く持って意味が不明である。戸惑うトルドを気の毒に思うサラの横で、リーシャは苦笑を浮かべていた。

 『もしかしたら、足りないカミュの言葉を理解できるとすれば、リーシャだけなのかもしれない』等という、いつもの暴走を始めてしまうサラを余所に、カミュは足りない言葉を補って行く。

 

「ポルトガから西に位置する大陸で町を創ろうとしている者がいる。資金は充分にあるだろう。だが、町を創る為の知識がない」

 

「それで、俺に声が掛かったというのか?」

 

 カミュの言葉を聞き、トルドは先程の意味不明な内容を、頭の中で少しずつ整理し始めていた。

 そして、ある程度整理が付いた後に問いかけた言葉にカミュが一つ頷いた。

 

「俺達はアンタという商人を紹介するだけだ。町の設計などはアンタに任せる」

 

「……何故、俺なんだ……?」

 

 トルドの疑問もまた当然の物だろう。この世界には商人と呼ばれる職に就く者は星の数ほどに存在する。そして、その中には、商業都市と呼ばれる町で大きな商いをしている者もいるのだ。

 

「……俺は、アンタ以外に信用出来る商人を知らない……」

 

「……カミュ様……」

 

 カミュの独白に近い言葉を聞き、トルドは目を見張り、サラは言葉を詰まらせる。

 これまでの旅で数多くの商人に出会ってきた。その中には、カミュ一行に良くしてくれた者もいた筈。それでもカミュは、目の前で口を開けながら驚いている中年の男性を選んだのだ。

 最も信頼できる『人』として。

 

「ふふふ。カミュの心当たりがトルドであった事に驚きはしたが、今では私もトルドに頼みたいと思っている」

 

「……リーシャさん……」

 

 カミュへと驚きの視線を向けるトルドに笑みを浮かべながら、リーシャもまた己の心を語り出す。そして、サラは再び言葉を詰まらせた。

 

「…………メルエも………トルド………すき…………」

 

「……メルエちゃん……」

 

 二人に負けじと、メルエが幼い親愛表現を口にする。今度は、トルドが言葉を詰まらせる番だった。

 トルドの足元で、その瞳をしっかりと見上げて来るメルエの顔には満面の笑みが浮かんでいる。その表情が、今は亡き最愛の娘の物と重なり合う。

 トルドの瞳を無意識の涙が潤ませていった。

 

「……一晩考えさせてくれ……」

 

「急な話で済まない。断ってくれても良い。別段、どうしてもという話ではないからな」

 

 『考えたい』と視線を外したトルドに、余計な重荷を背負わせまいと口を開いたカミュに、トルドは静かに頷いた。

 サラはそんなトルドを見て、何かを感じずにはいられなかった。

 カミュが『人』を導くのは初めての事ではない。

 

 最愛の妻と娘を失い、その真実を究明する事に人生を奉げていた男性は、アリアハンから旅立った年若い『勇者』によって目標を奪われた。

 そればかりか、憎しみ持つ事も許されず、悲しみや喪失感しか残らない事実を告げられる。そして、唯一残っていた肉親すらも失い、彼には文字通り何もない人生しか残らなかった。

 結果論になってしまうのかもしれないが、カミュはそんな生きる目標を失った男性に新たな道を指し示したのだ。

 本当にカミュの言葉通り『信頼できる人間が彼しかいなかった』のか、敢えて彼を指名したのかはサラには解らない。それでも、カミュの持って来た話が、トルドという一人の商人に光明を齎した事だけは事実だろう。

 

「アンタ方が以前使った部屋を使ってくれ。もう夜も遅い。今日はゆっくり休んでいってくれ」

 

「ありがとう」

 

 何かを考え込むように、トルドはそのまま自室へと入って行った。カミュ達もまた、お互いに何も口にする事なく、それぞれの部屋へと向かう。

 そして、夜は更けて行った。

 

 

 

 

 

 この何もない森を切り開き、彼が一人で暮らし始めて二十年以上の月日が流れていた。

 彼がこの場所に辿り着いてから同年の月日が流れた事を意味している。

 

 彼は旅行者だった。

 彼には、一人の妻が居り、婚姻を結び数十年、彼らの間に子供こそ出来なかったが、とても幸せな家庭を築いていた。

 裕福ではないが、食に困窮して飢える事もない。

 そんな中、彼らは『魔王』の登場により変化を続ける世界を見て、『これ以上に悪化をする前に、一度ぐらい旅に出よう』と思い立つ。少しずつ蓄えて来た財産を吐き出し、一度たりとも休まる事のなかった心と身体を労うように、夫婦二人で定期船の出るポルトガへと旅立ったのだ。

 

 二十年以上前、『魔王』登場により、世の中が荒れ始めてはいたが、それでも定期船はポルトガから出港されていた。

 そんなポルトガからその日、一隻の船が出港した。

 巨大な客船ではないが、新たな土地を求めた数多くの若者と、多少裕りのある生活を送っている旅行者が乗る船は、ポルトガを出港し、南にあるテドンへと向かう。

 

 そんな夢と希望、そして人の数だけの人生を乗せた船は、テドンに辿り着く前に、凶暴化を始めていた魔物の襲撃を受けたのだ。

 船の警備隊等はまだ組織されておらず、船は船員達が守っている時代。大型の魔物の群れに襲われた船を守る手段等ありはしなかった。

 

 砕け散る船。

 折れるマスト。

 海へ投げ出される『人』

 魔物に引き千切られ、臓物を飛び散らせる『人』

 魔物の胃袋に入って行く『人』

 飛び交う悲鳴に、脳に直接響く断末魔。

 

 それは地獄絵図だった。

 魔物によって船底に穴を開けられた船は傾き、時間をかけて沈み始める。

 既に船に生存者は皆無に近い。

 そんな中、唯一の生き残りが彼と妻の二人だった。

 

 未だに玩具のように壊れた船を潰していく魔物達から逃げるように、彼は妻と共に荒れ狂う海へと身を投げ出した。

 隣で震える、髪の毛に白髪が目立ち始めた妻の手をしっかりと握って。

 

 

 

「……ここは……」

 

 目を覚ました彼は、周囲を見渡してみるが、そこは見覚えのない場所。浜辺に打ち上げられ、自分の身体に纏わり付く砂を払う事もせず、彼は立ち上がり、自分の身の違和感に気が付く。

 彼の左手に繋がっている筈の手がないのだ。

 慌てて周囲を見渡しても、彼の探している人物は見当たらない。

 

 何度も名を叫び、浜辺を歩き回った彼は、ようやく最愛の妻を見つけ出す。

 彼が打ち上げられた砂浜とは違い、大きな岩肌が露になった海岸に彼女はいた。

 

「おい! おい!」

 

 波と共に揺れ動く妻の身体を抱き上げ、最悪の状況が浮かぶ思考を振り払いながら、何度も大声で呼び掛ける。ぐったりとしている妻の身体は、長時間海水に浸かっていた為なのか、冷え切っていた。

 

「……うぅぅ……」

 

「わ、わかるか!? しっかりしろ!」

 

 呼び掛けに呻き声を上げた妻の意識を覚醒させようと、彼は更に大きな声を上げる。その声はしっかりと彼の妻に届き、ゆっくりと瞼が開かれて行った。

 安堵と共に吐き出された彼の溜息が白い大気へと変化して行く。空に消えて行く息の行方に視線を動かした彼は、自分が抱き抱えている妻の全身に初めて注意を向け、言葉を失った。

 

「……うぅぅ……ぐっ!」

 

「し、しっかりしろ!」

 

 妻の片足は、既に『人』の物ではなかったのだ。

 岩肌に何度も強く打ち付けられ、岩と岩の間に挟まれながらも強い波に動かされ、彼女の片足は無残にも磨り潰されていた。

 

「……ぐっ!……あ、あなた……」

 

「だ、だいじょうぶだ! 俺ならここにいる! まだ生きているぞ、しっかりしろ!」

 

 涙を滲ませながら叫ぶ夫に向かって、苦痛に顔を歪ませながらも必死に笑顔を作ろうとする妻の姿に、彼の瞳からは止め処なく涙が溢れ落ちた。

 彼は、意識を取り戻した妻を岸に上げ、雨風を凌ぐために森の入り口へと入って行く。妻に自らの足を見せぬように、自分の着ていた物を妻の腰に巻き、下半身を覆い隠して寝かしつけた。

 

 激痛によって高熱を出し、うなされながら眠る妻の汗を拭きながらも、彼は船の中で売っていた地図を広げ、場所の再確認をしようと周囲を見渡す。

 彼が打ち上げられた砂浜から見える海の方角から朝陽が昇っていた。ポルトガから出て、砂浜がある場所は少ない。彼が意識を失っていた時間を考えると、おそらく一日も経っていないだろう。

 そのぐらいの時間で辿り着く事の出来る場所で、東の方角に砂浜がある場所といえば、ポルトガから真っ直ぐ西に向かった場所にある大陸の一部と考えるのが妥当であった。

 

「くそ! この近くに町や村はないのか!?」

 

 地図を握り締めながら叫ぶ彼の手元は力が込められ、地図が破れそうなほどに織り曲がっていた。

 もし、町や村があれば、宿屋で妻を休ませる事が出来る。

 もし、町や村があれば、そこに教会があり、妻の傷も癒す事が出来る。

 そして薬師もいれば、妻の高熱も下げる事が出来る。

 しかし、彼の手元にある地図に記されている大陸には町の名など何処にもなかった。あるのは森を示す文字だけ。

 そこは『人』にとって未開の土地である事を示していた。

 それでも彼は諦める事など出来ない。

 

 翌朝、足の怪我と高熱によって意識を失っている妻を背負い、彼は周辺を歩き回って『人』の存在を探し回った。

 歩いては休み、妻の汗を拭き、足に巻いた布を水で洗っては巻き直し、そして再び歩き出す。陽が暮れるまで歩き回っても、彼が望む場所は見つける事が出来なかった。

 

 

 

「……あ、あなた……もう……いいですよ……」

 

「な、なにを言う! 駄目だ! 諦めては駄目だ!」

 

 次の日も朝から自分を背負って歩き回る夫に、一瞬意識を取り戻した妻が言葉を発した。

 その内容とは似つかわしくない優しい笑顔を浮かべて。そんな妻の表情を見た男の双眸から大粒の涙が溢れ出す。

 

「……ふふ……あなた…が……わたしの為に……そんなに必死になって…くれるなんて」

 

「当たり前だ! お前がいない世の中を、どうやって生きて行けば良いんだ! 頼む、そんな弱気な事を言わないでおくれ」

 

 若かりし頃を思い起こさせるような妻の輝くような笑みを見て、彼は再び涙する。彼と共に数十年の間、苦楽を共にして来たのだ。

 誰よりも自分の嫌なところを知り、誰よりも自分の良いところを知り、そして誰よりも自分を愛してくれた妻。

 その命の炎が今尽きようとしている。

 

「……わたしは……幸せでしたよ……最後にあなたと……楽しい旅も…できました」

 

「これからだろ! 私達の旅はまだ終わってはいないぞ! 私の旅にお前がいなくてどうするんだ!」

 

 霞む視界の先に見える夫の表情に、妻はもう一度笑顔を浮かべる。自分が愛したのと同じ様に、いや、それ以上に夫が自分を愛してくれていた事を知り、彼女は本当に幸せそうに微笑んだ。

 

「……ゆるして……ください…ね……」

 

「お、おい! 逝くな! まだ逝かないでおくれ!」

 

 最後にそっと夫の頬を撫でた手が滑り落ちて行く。力を失った妻の身体を抱き、何度も声をかけながら揺するが、もう二度と妻の身体は自ら動く事はなかった。

 沈み行く夕陽によって真っ赤に染められた大地の中、彼は天に向かって泣き叫んだ。

 彼の叫びは、森の木々を揺らし、そこに住む鳥達を羽ばたかせる。その叫びは、陽が完全に沈み、辺りを完全に闇が支配するまで続いていた。

 

 『もし、この場所に町があったら』

 『もし、この場所に人が住んでいたら』

 

 彼のその想いは、やがて変化して行く。

 

 『なければ創れば良い』

 『自分と同じ様な想いをさせたくはない』

 

 資金は充分にあった。彼が乗っていた船から、ゴールドの入った樽がいくつも海岸に打ち上げられていたのだ。町を興すための木材などの資材もある。

 後は町として動き出す未来を頭の中で構築する事の出来る商人だけだったのだ。

 

 彼のその想いは、妻を失って二十年以上の月日がたったある日に現れた四人の若者によって急速に実現へと近づいて行くのだった。

 

 

 

 

 

「ここが、そうか」

 

 今、年老いた彼の前に、待望の商人が立っていた。彼が切り開いた平地を眺めながら、その商人は笑みを浮かべて何度も頷いている。

 その表情から見ると、今、商人の頭の中には、この只の平地が町へと変化して行く過程が見えているのだろう。自分が何度も試みても浮かんでは来なかった未来の町の姿。それがこの商人には見えているのだ。

 それが彼にはとても嬉しかった。

 

「……本当に良いのか……?」

 

「ああ。考えて、考えて、考え抜いた。『町を創る』、それは俺の夢でもあるんだ。それに、余り落ち込んでいると、妻やアンに怒られちまうからな」

 

「…………アン………トルド………すき…………」

 

 商人の答えに、一つ頷いた青年の横から、少女が言葉を紡ぎ出す。

 その少女に、柔らかく微笑んだ商人は、『ありがとう』と小さく礼を洩らした。

 

 

 

 <カザーブの村>で、カミュ達は翌朝の朝食時に、トルドから返答を貰っている。それはとても簡素で、『その場所に連れて行ってくれ』という物だった。

 候補地を見てからでなければ決められないのも当然だと考えたカミュは、一行と共に<ルーラ>でポルトガへ戻り、トルドを船に乗せて、この場所まで連れて来た。

 船の存在に驚くトルドに、何故かメルエが胸を張り、その事にリーシャとサラは笑みを浮かべるといった穏やかな航海だった。

 

 何故、<ルーラ>でここへ直接来なかったのか。

 それは、カミュがこの場所を明確にイメージ出来なかったからだ。

 <ルーラ>とは、目的地へのイメージが最も重要となる。

 しかし、ここは未開の地。

 周囲の森の中を切り開いただけの場所に過ぎない。

 何処にでもある場所。

 それは<ルーラ>では移動できない場所でもあるのだ。

 

「……ほんと…いいのか……ここ……骨……埋める…しれない……」

 

「ああ。今や俺は天涯孤独だ。この場所を新天地にするのも悪くはないだろう」

 

 その決意を確かめるように口を開いた老人の問い掛けに、トルドは大きく頷いた。

 そして再び自分が創り出そうとする土地を眺める。その目は何か大きな決意を宿していた。

 その炎は、この老人と同じ色をした炎。

 それを見て取った老人は嬉しそうに微笑み、傍に立つ四人の恩人に向かって深く頭を下げる。

 

「……あり……がと……お礼…良い事…教える……」

 

「なんだ?」

 

 聞き取り辛い訛りに、耳を近づけたリーシャは、老人の言葉を聞き返した。

 サラもメルエも老人へと近づき、その言葉に耳を傾ける。

 

「……この……大陸…真ん中…<スーの村>ある……」

 

「……スーの村……?」

 

 単語しか聞き取れない老人の言葉の中に出て来た名をカミュは繰り返した。それは、まるで聞いた事のない村の名。

 カミュはこの旅に出る前に、世界地図を何度も見て来た。地図に載る町や村の名前は記憶している筈。しかし、老人が語った村の名前は、カミュの頭の中に記憶として残ってはいなかったのだ。

 

「……井戸の……周り…調べろ……」

 

「そこに何かあるのか?」

 

 老人はリーシャの問いかけに、ただ笑みを浮かべるだけだった。

 そこに何があるのか。

 <スーの村>とはどんな場所なのか。

 それをカミュ達に教える気はないようだ。

 

「アンタ達は、これからどこへ向かうんだ?」

 

 老人の意味深な笑みに疑念を持ったカミュ達だったが、自分が生きて行く土地から視線を外したトルドの問いかけに、視線を移した。

 トルドの顔は、これからへの希望とやる気に満ち満ちている。それが目に見えて解るだけに、リーシャとサラの顔にも笑みが浮かぶのだ。

 

「私達は、六つの『オーブ』を探しに参ります」

 

「オーブ?」

 

 トルドの問いに答えたのはサラだった。

 ダーマ神殿の教皇に指し示された道を答える。

 それは、経緯を知らないトルドには、理解しがたい内容だったろう。

 

「次の目的地は南の方角だな」

 

「……」

 

 南の方角に何があるのかも解らないにも拘らず、先日ポルトガの南に立つ灯台の中で聞いた方角へ進路を取る事を明言するリーシャに、カミュは盛大な溜息を吐き出す。

 おそらくリーシャに深い考えなどありはしないだろう。彼女は、基本的に進路などはカミュに任せている。『魔王』という目標に向かっているのでありさえすれば、カミュが考えた道が一番の近道であると信じているのだ。

 そして、その場所場所で遭遇する物が、カミュが『勇者』故の必然である事も承知していた。

 

「そうか。だったら、ここでお別れだな。こんな大事業を俺の所に持って来てくれた事を感謝するよ。精一杯やってみる。アンタ方も、たまには顔を出してくれ」

 

「…………メルエ………くる…………」

 

 トルドの申し出に、メルエは大きく頷き、笑顔を見せる。

 同じように、リーシャやサラもトルドに向かって頷きを返した。

 

「ありがとう」

 

 カミュ達へ深々と頭を下げたトルドの瞳に、もはやカザーブで燻っていたような陰りはない。これが本来のトルドの瞳なのかもしれない。

 意欲に燃え、未来に希望を馳せ、それを他人に委ねる事なく、自らの手で切り開いて行く。そんな強さを彼は元々持っていたのだ。

 

「……行くぞ……」

 

「ああ。メルエ、おいで」

 

 一度トルドの瞳と視線を合わせたカミュが、一つ頷きを返し、踵を返して歩き出す。

 最早、商人ではないカミュ達に、この場でする事はない。ここから先は、広い世界を一つ一つ切り開いて来た『人』の仕事。

 この場所が本当に町として成り立つのか。それは今のカミュ達には分からない。それでも動き出した歯車はより大きな歯車を動かし、何か大きな事を成し遂げるであろう事は感じていた。

 

 カミュ達が森へと続く道を歩いて行く。

 次にこの場所をカミュ達が歩く頃には、この場所に大きな門が出来ているのであろうか。

 この森との間を隔てるように、立派な外壁が出来ているのであろうか。

 家々が建ち並び、煙突から食事の支度の為の煙が立ち上るのであろうか。

 

 サラは、もう一度何もない平地を振り返る。

 ここに何が建つのか。

 ここにどのような町が出来上がるのか。

 果たして、それは町と呼べるほどの物となるのだろうか。

 それは、サラには分からない。

 この場所に広がる未来の光景を、今見る事が出来るのは、この世でトルド唯一人なのだ。

 

「さて、やる事は山ほどある。爺さん、手伝ってくれよ」

 

 出て行くカミュ達の背中を見届けたトルドは、目の前に広がる平地の前で腕を天高く伸ばし、老人に振り返った。トルドの言葉を受け、老人は満面の笑みを浮かべる。

 

 二十年以上掛って、自分の夢が叶えられる所まで来ている。

 妻に再び出会うその日に、誇らしく報告できる物。それを創り出す事に、何の躊躇いがいるだろう。

 満面の笑みを浮かべ、頷いた老人の顔はどこまでも晴れやかで、この土地の未来を示すかのようだった。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

あの町の商人は彼になりました。
これについても賛否両論があるかと思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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幕間~【テドン周辺】~

 

 

 

 一度ポルトガへ戻ったカミュ達は、一夜を明かした後、再び船に乗り込み、南へと下って行った。

 頭目の提案によって、南に見える大陸沿いに船を走らせ、常に陸地を見ながらの航海となる。

 

 大きな帆が全身に風を受け止め、船を前へと走らせて行く。流れる潮風を一杯に受けながら、もはや定位置となった木の箱の上からメルエが海を眺めていた。

 その顔にあるのは満面の笑み。未だに物珍しい船からの眺めもそうだが、再びトルドと出会い、トルドが町を創る事を決意した事もメルエの顔に笑顔を浮かべる要因となっているのだろう。

 

「メルエ、余り顔を出すなよ。落ちたら助けられないぞ」

 

「…………ん…………」

 

 隣に立つリーシャの忠告にも笑顔で頷くメルエに、リーシャもまた笑みを浮かべる。空は青く澄み、太陽は暖かな陽射しを降り注いでいる。何もかもが順風満帆の船出であった。

 

「トルドさんは、どのような町を創るのでしょうね?」

 

「そうだな。機会があったら覘いてみるか?」

 

 サラの疑問にリーシャは少し考えた後、カミュへと問いかける。

 しかし、カミュの顔には笑顔等浮かんではいなかった。

 

「……アンタは何を目的に旅をしているつもりだ?」

 

「なっ!? わ、わかっている! だが、近くに立ち寄った時にでも顔を出す事は可能な筈だ!」

 

 溜息と共に吐き出されたカミュの言葉に、リーシャは顔を赤らめた。

 この穏やかな空気に、旅の目的を忘れた訳ではない。だが、カミュの言う通り、多少浮かれた気分がなかった訳でもない。

 それをリーシャは恥じたのだ。

 

「俺達の旅は、あの場所と再び交差する事などない筈だ」

 

「ぐっ」

 

 カミュが言うように、『魔王討伐』という目的の中に、新興の町が交差する事はないだろう。それをリーシャも理解しているため、言葉に詰まるのだ。

 サラも同様にカミュへと反論する言葉を持ち合わせてはいなかった。

 

「…………メルエ………やくそく………した…………」

 

「……」

 

 しかし、たった一人、今まで目を輝かせて海を見ていた幼い少女だけは違った。話の内容を敏感に感じ取り、哀しそうに眉を下げてカミュへと振り返ったのだ。

 その幼い視線を受け、カミュは盛大な溜息を吐き出す。

 

「メルエもこう言っているんだ。区切りが付いた時にでも、顔を出してみよう」

 

「……この旅の何処で区切りが付くと……」

 

 カミュもリーシャも気がついてはいないが、メルエにとって『約束』とはとても重い物である。

 メルエが『約束』を交わした相手。それは、カミュ達三人以外では、『アン』、『アンリ』、そして『トルド』の三人しかいないのだ。

 今まで他人との接触が極端に少なかったメルエが交わした約束。それはとても重く、メルエの心にしっかりと刻まれている。

 

「……確かにそうですが、<ルーラ>で船を運べない以上、どちらにせよ一度ポルトガに戻らねばならないのですから、再びポルトガから出港する際にあの場所を訪れれば良いのではないですか?」

 

「そ、そうだな。サラの言う通りだ」

 

 思わぬ援護を貰ったリーシャは、勢い良くカミュへと視線を戻した。

 『三対一だ』とでも言うかのように、勝ち誇った瞳を向けるリーシャに、カミュは再び大きな溜息を吐き出す。

 

「……わかった……」

 

「よし! よかったな、メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 諦めと共に吐き出されたカミュの答えに、満足そうに頷いたリーシャは、隣で心配そうに見つめていたメルエの頭を撫でる。その温かな手を頭に受け、メルエは満面の笑みを浮かべた。

 カミュもリーシャも、そしてサラも気付いてはいない。

 メルエは確かにトルドと約束を交わしていた。しかし、その前にあのイシスの女王とも約束を交わしていたのだ。

 『魔王を倒した暁には、必ず顔を見せに行く』と。

 

「おおい! 何か建物が見えるぞぉ!」

 

 そんな四人のやり取りに、割り込んでくる一際大きな声。

 マストの上にある見張り台で大陸を監視していた船員の声だった。

 

「ん? カミュ、どうする?」

 

「……」

 

 リーシャは、船員の声を受け、即座にカミュへと指示を促す。カミュは何かを考えるように陸地を眺め、暫し言葉を発しはしなかった。

 不思議そうにカミュを見つめるメルエは、船員が指し示す方角とカミュを見比べている。

 

「うぉぇ……できれば、上陸したいと思うのですが……」

 

 先程、カミュに向かってまともな事を語っていたサラではあったが、既に名も無き土地を出港してから数日が経過している。船酔いも限界に近かった。

 顔を青ざめさせながらカミュへと視線を送るサラは、その言葉の途中で何度も空気を吐き出している。

 

「……あの場所へ近づけるか?」

 

「おお! 大丈夫だ。野郎共! 上陸の準備だ!」

 

 カミュの言葉を受け、頭目が船員達に指示を出す。

 大きな掛け声と共に、船の舵は陸地へと向けられた。

 

 

 

 船員の手によって錨が下ろされ、船は砂浜から少し離れた場所に停止する。もはや慣れた手つきでカミュとリーシャは小舟を下ろし、ロープを伝って小舟へと降りて行った。

 その際に、メルエを抱き上げたカミュに向かって、リーシャの『自分がメルエを抱いて降りる』という言葉は、カミュの溜息と船員達の笑い声に包まれたのは、また別の話。

 

「メルエ、まだ遠くに行くなよ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュと共に小舟を木の幹に結び付けてながら発したリーシャの忠告に、メルエは小さく頷き、砂浜を歩く小さな蟹を見つめていた。

 メルエの視線から逃れるようにちょこちょこと動き回った後、蟹は砂浜に掘られた穴に入り、姿を隠してしまう。残念そうに肩を落とすメルエを見て、サラが青白い顔をしながら笑みを溢した。

 

「これで良いな。カミュ、あの建物まではどのくらいだ?」

 

「……俺も実際に歩いた事はない筈だが……」

 

 小舟を結び終えたリーシャの問いかけに、カミュは呆れたように溜息を吐き出す。もはや、恒例になりつつあるリーシャの問いかけは、やはりカミュに一任する物だった。

 カミュの返答を聞き、渋い顔をするリーシャではあったが、それはどちらかと言えばカミュが浮かべる表情の筈。しかし、サラは何気なく、それが自然な流れに見えて、再び笑みを溢す。

 

「夜までには着くだろう? 少し休憩を取らなければ、サラが辛そうだ」

 

「……まだ陽は高い。前のように眠り扱ける事がなければ大丈夫だ」

 

「はぅ!」

 

 微笑むサラに視線を移したリーシャは、自分が何故カミュに問いかけたかの理由を述べ、それを理解したカミュが溜息混じりに背中の剣を結ぶ紐を解いた。

 そんなカミュの容赦ない言葉に、サラは言葉を詰まらせ、申し訳なさそうに俯いてしまう。

 

「そういう事だ。サラ、眠らないようにゆっくり休め」

 

「は、はい……申し訳ありません」

 

 リーシャの言葉にますます小さくなるサラを余所に、カミュは近場に水を汲みに行き、リーシャはメルエを眺めながら、横たわるサラの看病をする。

 メルエは砂浜に打ち上げられていた貝殻を拾い上げ、その綺麗さに目を輝かせていた。

 

 休憩を挟み、歩き出した一行は、陽が傾いて来た頃に一軒の家屋に辿り着く。

 

「……教会なのでしょうか……?」

 

 サラが洩らした言葉通り、その家屋の屋根の部分には、教会である事を示す十字が取り付けられていた。

 町にある教会のように、ステンドグラスが取り付けられていたりはしない。普通の家屋を改造しただけのようにも見えるそれを見上げ、サラは胸の前で手を合わせた。

 

 このような場所でも、ルビスの教えが広められている。

 そして、この教会に訪れる人もいたのだろう。

 それが、サラには、誇らしさすら感じる物であったのだ。

 

「入りましょう」

 

 教会である事で、木戸を開け、先頭を切って中に入る役はサラとなった。

 サラに続きメルエの手を引いたリーシャが入り、最後にカミュが中へ入る。

 

 中は外から見た物と変わるところはなく、本当に普通の家屋を教会のように改装しただけの物だった。

 中央に木造のルビス像が建てられ、その前に祭壇を設けている。祭壇も簡素な物で、上に掛けられた赤い布だけが上質な物であるのか、サラ達の目を引いた。

 

「あら、珍しい。貴女方はここまで船で来られたのですか?」

 

「あっ! ご苦労様です。先日ポルトガを出港したばかりです」

 

 目の前に佇むルビス像に向かって祈りを捧げていたサラの横から、柔らかな女性の声が掛った。

 慌てて視線を向けたサラの答えは、どこか見当違いな物で、法衣に身を包んだ女性は目を丸くした後、柔らく微笑む。

 

「ポルトガの港から出る貿易船は、必ずこの教会を訪れ、ルビス様に航海の無事を祈願して行ったものです。最近はその数もめっきりと減りはしましたが……」

 

 サラからルビス像へと視線を移したシスターは、何か遠くを見るように語り出す。その内容が、現状の『人』の社会を物語っていた。

 『魔王』の登場により、魔物の凶暴化が進み、海に出る船自体が皆無に等しい。故に、この教会を訪れる船乗りも同様に皆無となっているのである。

 

「それ程までに……」

 

「そうですね。ここを通る船乗りの目的地でもあった<テドンの村>があのような事になってからは尚更ですね」

 

「……テドン……?」

 

 言葉を失ったサラの呟きに、シスターは哀しく目を伏せながら言葉を綴る。その中に出て来た村の名前は、先日訪れた灯台の炎を灯していた男が語った物の中に入っていた。

 それにカミュは気付き、シスターへと疑問を向けたのだ。

 

 基本的に、教会内ではサラ以外が口を開く事はない。それは、今まで交渉事がなかったという事もあるが、それでも教会内でカミュやリーシャが口を開く事はないのだ。それは、この場所がサラの場所である事を知っているからなのかもしれない。

 

「ええ。その祭壇の上に敷かれている布も<テドン>の特産なのですよ。昔は<テドン>からここまでお見えになられる方も多かったのですが」

 

「その村で何があったのですか?」

 

 シスターの話しぶりから、その村に何かが起こった事は明白ではあるが、その内容が分からないサラは、シスターへと疑問を投げかける。

 何かを感じたカミュがメルエをマントの中へと誘い、リーシャはそんなカミュの横へと位置を動かした。

 

「ご存じないのですか?」

 

「申し訳ございません」

 

 シスターが、サラの疑問に対して眉を顰め、疑念を露にする。その態度を見て、それ程に大きく、凄惨な出来事であった事を悟ったサラは、素直に頭を下げた。

 この広い世界の中でも辺境と言っても過言ではないアリアハン大陸育ちにサラは、世界の情報を仕入れる術を持ち合わせてはいなかった。

 『オルテガ』のような世界的な英雄の話であれば、育ての親である神父から聞く事はあったが、世界情勢のような物は知る為の術がないのだ。

 

「……そうですか……貴女方の年齢であれば、知らないのも無理はないのかもしれませんね」

 

 頭を下げるサラを見て、深い溜息を吐いたシスターは、木造のルビス像を見てから胸の前に手を合わせる。そして、何かを吐き出すように、その重苦しい内容を話し始めた。

 

「もう、十年以上になるでしょうか……ここから南に進み、川を登って行った先にある<テドンの村>は、夥しい数の魔物の群れに襲われ、滅びました。生き残った者は誰もいません」

 

「!!」

 

「……」

 

 衝撃の事実。

 それは、鎖国に近い状態であったアリアハンには流れて来なかった情報。

 『魔王バラモス』の登場によって凶暴化した魔物に襲われた人間は数多い。だが、魔物の群れに襲われ、滅びた国や町などはなかったのだ。

 これ程に魔物の存在が脅威とされ、『人』の力では太刀打ち出来ない存在である『魔王』が登場して数十年。どこの国も疲弊こそすれ、滅びてはいなかったという現実の方が奇妙ではあったのだが、貧困に苦しむ『人』は、その事を深く考える事はしなかった。

 

「そ、その村は、今は……」

 

「今も村であった名残は残っています。しかし、もはや廃墟。泉は毒沼と化し、家屋は崩れ、『人』であった者達の亡骸は土へと還っています」

 

 解りきった質問をするサラの心は、自分の中にある微かな望みを繋げようとする物だった。

 彼女は決意し、努力すると誓った『人もエルフも魔物も幸せに暮らせる世界』という考え。それが根底から崩れて行きそうな感覚を味わっているのだ。

 

「サラ、見失うな!」

 

「はっ!?」

 

 しかし、再び自らの道を見失いそうになるサラを引き止め、強引に戻してくれたのは、姉のように慕う女性騎士だった。身体ごと強く引かれるように戻されたサラの心は、動揺を残したまま、再び事実と向き合う事を選択する。

 

「私も<テドン>へ赴いたのは、事後に一度だけ。その後の事は解りません」

 

「なぜ……何故、魔物の群れが……」

 

 再度問いかけるサラの声は震えていた。

 町や村には、その領有権を有する国の兵士や、自治都市の場合は自衛団等が駐在している。しかし、殆どが村や町に近づく数少ない魔物を追い払うのが役目であり、押し寄せて来る魔物の群れを撃退する為の物ではない。

 それは、決して『人』の怠慢ではなく、過去の歴史で、そのような事がないからなのだ。

 

「わかりません。あの夜、突如北東の空を数多の影が覆い尽くし、闇に包まれました。そのまま空を覆い尽くした影は南東の方角へと飛んで行き、北東にそびえる険しい山々からも雪崩のように黒い波が南へと下って行きました」

 

「……」

 

 シスターが見た影は、間違いなく魔物の群れ。

 何があったのか解らない。

 <テドン>という村に何かがあったのか。

 それとも、『人』への見せしめなのか。

 ただ、何者かの指示によって魔物達が動いた事だけは確かであろう。

 

「未だにルビス様の御許に還る事の出来ない者達が、夜な夜な彷徨い歩いている等という噂も絶えません。嘆かわしい事です」

 

「……カミュ様……」

 

「……このまま南に向かえば、必ず通る道だ」

 

 シスターの言葉を聞き終えたサラが、カミュへと視線を向ける。サラの視線を受けたカミュは、一度溜息を吐き出した後、<テドン>へと向かう事を了承した。

 これで、一行の次の目的地が決定する。

 

 滅びし村<テドン>

 何かと不気味な噂が多い<ネクロゴンド>と呼ばれる地。

 その麓に位置する場所で細々と営まれていた人々の息吹が宿る村。

 周囲は海から流れる数本の川に囲まれ、豊かな森と、豊かな土。

 長閑ながらも、食物や原料に恵まれ、特産となる『絹』を産み出した村。

 

「ありがとうございました」

 

「いえ。こちらこそ、辛い昔話をしてしまって。無事の航海をお祈りしています」

 

 カミュの返答を受け、笑みを浮かべたサラは、シスターに向かって頭を下げる。眉間に皺を寄せながら過去を語っていたシスターの表情も和らぎ、胸の前に手を合わせ、『精霊ルビス』へサラ達の航海の無事を祈った。

 

「……行くぞ……」

 

 興味を失ったようにカミュは出口へと歩き出す。元々サラ達の会話に興味がなかったメルエは、カミュが歩き出した事に気づき、その後を付いて出口へと向かった。

 もう一度、シスターに向かって手を合わせたサラもリーシャの後を付いて小さくも皆の拠り所となっていた教会を後にする。

 

 

 

 一行を乗せ終えた船は、夜の航海の危険性を考え、錨を下したまま夜を明かす事になる。それは、頭目の提案であった。

 灯台等がない場所を航海する際には、無理をしない事が一番重要な事だった。

 海の上でも方位磁針等を使用し、航海する事は可能である。そして、頭目を始め、多くの船員達はそれを経験して海を渡って来ていた。しかし、今は海の素人もまた何人か乗船しているのだ。

 

「メルエ、もう何も見えないだろう? こっちにおいで」

 

「…………ん…………」

 

 周囲を闇が包み込み、穏やかな風が頬を撫でるだけとなっても、メルエは船の手摺りに掴まり海を眺めていた。

 その様子に苦笑を洩らしたリーシャは、メルエを呼び寄せる。どこか寂しそうに頷いたメルエは、リーシャの許へ戻り、寒さを凌ぐために毛布を掛けられ、客室へと入って行った。

 

「アンタ方は、客室でゆっくり休んでくれ。海の見張りは俺達でするさ。まぁ、強い魔物が出た時には叩き起こさせてもらうがな」

 

「……すまない。魔物が出て来た時は遠慮なく起こしてくれ。一応<トヘロス>を唱えておいたが、海で効果があるのかは解らない……」

 

 船頭の言葉に頷いた言葉通り、カミュは船全体を包むように<トヘロス>という呪文を唱えていた。その効果を何度もサラ達は目にしてきたが、それは陸地での事。絶えず流れる海水の上でその魔法の効果が発揮されるのかどうかはとても怪しいのだ。

 

 <トヘロス>という呪文の効果自体を知らない船頭ではあったが、カミュの言葉に笑顔で頷くと、船員達に指示を出し始めた。

 おそらく彼は眠るつもりがないのだろう。それもまた船乗りの楽しみの一つなのかもしれない。

 船員達も嬉々として動き始める。実際、昼間は交替で眠りにつく者達も多く、全船員の半分は夜の航海に備えていたのだ。

 

「よろしくお願いします」

 

「ああ、任せな。錨を下しているから、揺れもそこまで酷くはならないと思う。ゆっくり休みな」

 

 青白い顔でお礼を言うサラに苦笑を浮かべた船頭は、そのまま船員達の中に消えて行った。サラもふらつく足を引きずり客室へと入って行く。

 先日の嵐など幻であったかのような穏やかな海は、天に輝く月の光を受けて輝き、船を揺り籠のように優しく揺らしていた。

 

 

 

「……眠れないのか……?」

 

「は、はい」

 

 客室のベッドに入り、暫しの時間が流れた。

 リーシャと同じベッドに入ったメルエは、リーシャの横で静かな寝息を立てている。隣のベッドに入っているサラから大きな溜息が吐き出された事で、リーシャは声を掛けた。

 身動きをしたサラは、隣のベッドのリーシャへと視線を動かした。サラが眠れない理由は、波の動きに合わせて揺れる船だけの物ではないだろう。それは、サラの瞳が物語っていた。

 それを理解したリーシャは、少し考えるように口を閉じた後、もう一度首を動かし、メルエを起こさないように話し始める。

 

「テドンの事か?」

 

「!!」

 

 リーシャが皮切りに口を開いた一言目で、サラが過剰な反応を返した。

 その反応はリーシャの考えが間違ってはいない事を明確に示している。

 

「何故、魔物が村を襲ったのか。何故、今まで魔物は町や村、そして国を襲わなかったのか。それは私には解らない」

 

「で、ですが! 何故、テドンなのですか!? 大きな町でもなく、大きな国でもない。『魔王』や魔物の脅威となる事はない筈です」

 

 『人が魔物の脅威となる』

 サラが無意識に口にした言葉。

 それにリーシャは驚きを隠せなかった。

 

 少なくとも、アリアハンを出た当初、彼女がこの言葉を口にする事はなかっただろう。

 『魔物』が『人』の脅威とはなっても、被害者である『人』が、加害者であり悪である『魔物』の脅威となるという考えは、どこをどう探しても出て来る物ではない。それをサラは平然と口にしたのだ。

 

「……そうだな……だがなサラ。私達『人』と、『人』を食糧とする『魔物』は基本的に相容れない存在なんだ。正直、今まで何もなかった方がおかしい事を理解しないといけない」

 

 だが、リーシャはサラのその変貌に嫌悪を覚える事はなかった。

 彼女の考えは、突然変化した訳ではない。様々な想いを抱え、悩み、考え、泣き、そしてこの考えに辿り着いた。

 それをリーシャは誇りにこそ思え、軽蔑をする事はなかった。

 

「……それでは、何故、今まで『魔王』は動きを見せなかったのですか?」

 

「さぁな。それは解らない。確かに私達『人』の数は『魔王』の出現によって減少の一途を辿っている。だが、絶滅している訳ではない」

 

 しかし、サラの問いに対する答えをリーシャは持ち合わせていなかった。

 確かに、人口は明らかに減少した。

 『魔物』に襲われ、命を落とした者も数多い。

 それでも、『人』は生きている。

 それは、サラの言うように、城下町や村が襲われた事がないからだ。いや、正確に言えば、襲われた事はある。だが、その魔物の数は人でも対処できる物であり、町や村を壊滅に追い込む程の脅威はなかったのだ。

 

「……カミュなら、解るかもしれないな……」

 

「えっ!?」

 

 ベッドの中に潜り込んでしまう程に顔を伏せたサラに向かって呟かれたリーシャの言葉は、サラに驚きの声を上げさせるのには充分な物であった。

 そして、その言葉を理解したサラは、無意識に笑みを溢してしまう。

 

「何がおかしい!?」

 

 サラが急に笑い始めた事に、リーシャは声を荒げる。しかし、リーシャの声にメルエが身動ぎした事によって、リーシャは口を慌てて閉じた。

 そんな様子にサラの忍び笑いは熱を帯びて行った。

 

「私は変な事を言ったのか?」

 

 部屋を包む闇の中でも、はっきりと視線が認識できる程の睨みを利かせるリーシャに、ようやくサラの笑いは終息を迎える。笑いを収め、沈黙を守るサラを相変わらず睨むリーシャ。

 そんな重苦しい雰囲気にサラはついに口を開いてしまった。

 

「あ、あの……リーシャさんは、本当にカミュ様を信用されているのだなと……」

 

「なに?……サラはまだカミュを信じてはいないのか?」

 

 サラの口から出た言葉に、リーシャは睨むのを止め、逆に問いかけてしまう。

 それは、リーシャからすれば、至極当然の疑問だったのかもしれない。しかし、サラにとってみれば、それはリーシャの変化以外何物でもなかった。

 

「えっ!?い、いえ。そういう訳ではありません」

 

「それなら、サラも同じだろう」

 

 闇で見えないが、リーシャは確かに表情を和らげた筈。

 何かに安堵したような、何かに納得したような。

 サラはそんなリーシャに再び笑みを浮かべる。

 

「そうですね。同じです」

 

 静かに溢したサラの言葉は、しっかりとした物だった。

 対立して来た『勇者』と『僧侶』それは、お互いの育って来た環境や刷り込まれて来た教育とは別に、それに対して育ってきた思考の違いが一番大きな要因となっていた。

 

 交わる事はないと思われた。

 理解し合う事はないと思われた。

 それでも、確実にカミュとサラは歩み寄っている。

 それをリーシャは感じたのだ。

 

「まずは、テドンに行ってみる。その先で考えるのはカミュとサラに任せる」

 

「ふぇ!? リ、リーシャさんは考えないのですか?」

 

 いつも通り、考えるということをカミュとサラへと一任するリーシャの言葉に、サラは素っ頓狂な声を上げ、思わず身体を起こしてしまった。

 

「……悔しいが、私が考えたところで、良い答えが出る訳ではない。今、話したように、私はサラの事もカミュの事も信じている。疑問を挟む事もあるだろうが、基本的に私は、お前達が決めた道を共に歩む」

 

「……リーシャさん……」

 

 リーシャの『覚悟』とも言える程の『想い』それは確かにサラの心に響いた。

 それと共に、サラの胸に責任が圧し掛かる。感情だけで道を決める事は、もうサラには許されない。

 あらゆる方向から物事を見て、あらゆる方向から物事を考え、偏った物ではない答えを出さなければならないのだ。

 

「サラ。私は、サラを信じている。サラとカミュが歩む道の先を私は見てみたい。間違った道だと気がつけば、全力で止める。だが、何故だろうな。私はそんな事にはならないと自信を持って言えるんだ」

 

「……は、はい……」

 

 リーシャの言葉はサラの胸に響き、ベッドのマットを濡らして行く。

 リーシャの信頼が重い。

 それでも、その信頼が心からの喜びになっているのだ。

 

「だが、本当に間違っていると思った時は、私はカミュやサラを全力で止めるぞ」

 

「……はい……おね…がい……します」

 

 もはや、サラは声を出す事すら出来なくなっていた。

 <テドン>の惨劇の理由は解らない。しかし、『魔物』が『人』の村を襲った理由を探そうとする事自体がサラの変化。

 その変化を認め、理由を知った後のサラの答えを後押ししてくれる人がいる。その事は、サラに何よりの勇気を与えた。

 

「眠ろう。明日は朝から再び船旅だ。船酔いに備えて、体力は蓄えておかないとな」

 

「……ぐずっ……」

 

 リーシャの冗談に、困ったような笑顔を浮かべたサラの表情はリーシャには見えない。それでもリーシャは笑顔を浮かべ、隣で眠るメルエの髪を一撫でして目を瞑った。

 サラもまた、次々と溢れて来る涙を拭い、瞳を閉じて深い眠りへと落ちて行く。

 

 

 

 翌朝、日の出と共に、船は再び南へと進路を取った。潮風をその全体で受け止めた帆が、船を大陸沿いに走らせる。

 ゆっくりと変わる景色に目を輝かせ、メルエは今日も手摺り越しに身を乗り出していた。

 

「テドンへ向かうのか? あそこには何もない筈だぞ」

 

「テ、テドンが何故襲われたのかご存知なのですか?」

 

 カミュから行き先を聞いた頭目は、その村の名が出た瞬間眉を顰める。

 それを見たサラが、昨晩の疑問をそのまま頭目へと投げかけた。

 しかし、サラの期待を裏切るように、頭目は首を静かに横に振る。

 

「解らない。見せしめという話だったが、見せしめにしては規模が小さすぎる」

 

 頭目の言葉通り、『人』に対しての見せしめであるならば、<テドンの村>は規模が小さすぎるのだ。

 国家の中心にある城や城下町であるならば、充分な効果があるだろう。しかし、<テドン>はネクロゴンドの麓にあるとはいえ、その名を知らない者も多い小さな村。

 そこを壊滅させたとしても、『人』の世界に多大な脅威を与えるとまではいかない筈なのだ。

 

「……そうですか……」

 

「サラ。昨晩も話したが、サラは自分の目で確かめ、その場所で直に感じなければならない。まずは、そこに行くしかないんだ」

 

 肩を落とすサラの後ろから掛ったリーシャの言葉。それは、とても厳しい。サラはもう、他人の考えや、他人の目から見た物で判断してはいけないのだ。

 それが『精霊ルビス』に最も近しい者と云われる『賢者』の努め。

 

「本当に行くのか? あそこはもう何もない廃墟だぞ?」

 

「それでも構いません」

 

 頭目の問いかけに答えたサラの瞳には、再び赤々とした炎が宿っていた。

 リーシャは満足そうに頷き、カミュは薄い笑みを浮かべる。

 しかし、頭目の次の言葉に、サラの瞳が揺らぎ出した。

 

「しかしなぁ……あそこは、夜な夜な無念を残した村の人間達の亡霊が彷徨い歩くと言われているしな……」

 

「……え……?」

 

 サラの顔色が瞬時に青ざめて行く。それが、決して船の揺れによる物ではない事は、カミュやリーシャには解っていた。そして、それはパーティー最年少の少女にも理解出来る物だったのだ。

 

「…………あわ………あわ…………」

 

「メ、メルエ!」

 

 いつの間にかカミュの足下に移動していたメルエが、会話の内容を聞き、いつものからかいを口にする。幼いメルエにとって、サラのその態度が面白いために繰り返すのだが、当のサラには解らないのだ。

 サラの叫びにカミュのマントの中に潜り込もうとするメルエはリーシャに捕まり、軽い拳骨を頭に受けた。

 

「……行くしかない以上、その近辺まで頼む……」

 

「わかった。この大陸沿いに進み、三つの川が交差する場所に<テドンの村>はある筈だ。この船の大きさでは川へ入る事は出来ないから、陸に上がってから暫く歩く事になるが構わないな?」

 

 何も答えられないサラの代わりにカミュが答える。

 それを聞いた頭目は、船の航路を説明し、その提案に一同は揃って頷いた。

 

 

 

 船は陽が傾き、闇の支配が進む中、ようやく目的の場所まで辿り着いた。小舟を下ろし、陸へと上がった一行は、カミュを先頭に歩き出した。

 気を張っていたためか、先日までのような酷い船酔いにはならなかったサラは、休憩を挟む事なく、カミュの後ろをメルエと共に歩き出す。船の上では、船員達に任せ、身体を休める事の多かったカミュ達は、夜が更けて行くのも構わず、先へと進んで行った。

 

 森を歩き続け、夜の闇が一層濃くなった頃、一行は森を抜ける。平原が広がり、周囲は高い山々に囲まれた場所。

 それは、ロマリア大陸でも過疎化が進んでいた村と同じような雰囲気を出していた。

 

「カミュ、ここからどっちに進むんだ?」

 

 周囲が遠く見渡せるにも拘らず、目的の村の気配がない事に、リーシャはカミュへと声をかけるが、いつも通りのカミュ任せの言葉にサラは苦笑し、カミュは溜息を吐き出した。

 溜息を吐きながらも、船の上で頭目に印を付けてもらった地図を眺め、カミュは方向を指し示す。夜の帳は完全に辺りを覆い尽くし、カミュとリーシャが手に持つ<たいまつ>の明かりしかない平原を、一行は北へ向かって歩き出した。

 

 カミュを先頭に夜の平原を歩く一行。どのくらい進んだ事だろう。雲に隠れていた月が顔を出し、カミュ達の歩く道を優しく照らし出した頃、不意にサラの手を握っていたメルエがあらぬ方向に首を動かし立ち止まった。

 

「メ、メルエ?……どうしたのですか?……ま、まさか……」

 

 メルエの行動に、頭目の話を思い出したサラは、声を震わせながら立ち止まったメルエに問いかける。後ろを歩くリーシャは、立ち止まった二人を奇妙に思い、慌てて近寄って来た。

 サラの声に振り向いたカミュも用心深く周囲に<たいまつ>を向け、警戒感を強くする。

 

「…………なにか………くる…………」

 

 正直、魔物の気配に敏感なのは、このパーティーの中でもメルエが群を抜いていた。

 カミュやリーシャは、経験から周囲の空気の変化を感じ取る事で魔物の襲来に気が付くのだが、それに対して、メルエは本能で魔物の襲来を感じている節がある。

 

「カミュ!」

 

「……構えろ……」

 

 既に、カミュやリーシャはメルエの言葉を疑うという選択肢を持ち合わせてはいない。

 すぐに臨戦態勢を取ったカミュ達が各々の武器を取る中、サラの身体は小刻みに震え出す。それを見たリーシャが珍しく溜息を吐いた。

 

「サラ。正直、お前のその感覚が私には解らない。腐乱死体は大丈夫で、何故霊魂を恐れるんだ?」

 

「こ、こわくはありません!」

 

 気の抜けたようなリーシャの問いかけに答えるサラの言葉に信憑性など皆無。明らかに声が上擦り、震えを帯びている。

 だが、いつもならそんなサラの様子にからかいの言葉を口にする筈のメルエは、サラの手を離した後、一方を凝視するように見詰めていた。

 

「……来るぞ……」

 

 メルエの視線の先を追ったカミュの言葉に、リーシャは再び<鉄の斧>を構え直した。そして、それと同時に周囲に響き渡って来る奇妙な音。

 まるで重い甲冑を擦り合わせるような乾いた金属音が徐々にカミュ達へと近付いていたのだ。

 

「メ、メルエ! 私の後ろに!」

 

「…………ん…………」

 

 魔物の姿を遠くに確認したサラは、それが以前出会った事のある魔物によく似た形状をしている事を見て、メルエを後方に下がらせた。

 <魔道士の杖>を手にしたままメルエはサラの後ろへと下がり、サラの背中越しに近づいてくる魔物へと視線を送る。

 

「来たぞ!」

 

 その魔物の姿がはっきりと確認できる程の距離になった時、リーシャはカミュへと言葉を掛けた。

 近付いて来たのは、発していた音の通り、甲冑を着込んだ者。いや、正確には甲冑そのものと言うべきなのだろう。

 <エルフの隠れ里>周辺で遭遇した魔物と酷似したそれは、おそらく中は空洞に違いない。

 

「やぁぁぁ!」

 

 先手を打ったのはリーシャだった。

 手にした<鉄の斧>を甲冑に向かって横薙ぎに振り抜く。凄まじい程の音を立て、リーシャの斧が何かにぶつかった。

 それは、甲冑の胴体ではなく、甲冑が持つ盾。軽々とリーシャの斧を受け止めた甲冑は、盾で斧を払い、反対の腕に持つ剣をリーシャに向かって振るう。

 

「ぐっ!」

 

 同じ様に左腕につけている<鉄の盾>で受け止めたリーシャが苦悶の声を上げた。そして小さくはないリーシャの身体が後方へと吹き飛ばされ、リーシャは地面へと倒れ込む。

 

「リ、リーシャさん!」

 

 サラはその光景が信じられなかった。

 確かに<エルフの隠れ里>周辺で遭遇した甲冑も強くはあった。

 しかし、あの頃よりもリーシャは数段腕を上げている。

 

 カンダタの子分であり、他人から『殺人鬼』と恐れられた者の一撃も軽々と受け止め、以前はその力量差が明白であったカンダタ自身が振るうハルバードの一撃をも受け止めたリーシャが、たった一振りの剣に吹き飛ばされたのだ。

 

<地獄の鎧>

その名の通り地獄からの生還者である。名のある騎士が無念を残したまま倒れ、その無念により黄泉を渡る事を拒んだ結果、『魔王』の魔力によって再び現世へと戻って来た者達。しかし、それは朽ち果てた肉体にではなく、生前に身に着けていた甲冑へと魂が宿ってしまったため、実体を持つ事はなかった。<さまよう鎧>が無念を残した兵士達の魂であるのならば、<地獄の鎧>はその上級に位置する騎士達の魂。しかも、『魔王』の魔力の補助もあり、生前の力量の数倍の力を誇る。

 

「ちっ!」

 

 後方へと吹き飛ばされたリーシャに視線を向けたカミュは、大きな舌打ちをした後、<地獄の鎧>に向かって剣を構えた。

 にじり寄る魔物にカミュが一筋の汗を流した時、ゆっくりと流れていた時間が急速に動き出す。

 

「ふん!」

 

 一気に間合いを詰めたカミュが、<地獄の鎧>の兜の付け根目掛けて突きを繰り出した。

 それは、<エルフの隠れ里>周辺で戦っていた頃とは比べ物にならぬ程の速度を誇り、真っ直ぐ<地獄の鎧>に突き刺さるかと思われた。

 

「なっ!?」

 

 しかし、それは再び大きな円形状の盾によって防がれた。

 サラはリーシャに続いてカミュの剣も防がれた事に驚愕の声を上げるが、カミュはそれを予想していたのか、盾で弾かれる前に剣を引き、再び大きく振り被る。

 そのまま振り下ろされた剣もやはり<地獄の鎧>の盾によって防がれた。

 

「カミュ!」

 

 盾によって防がれ、弾かれないように力を込めたカミュの後方から声が掛かった。

 その声を耳にした瞬間、カミュは腕の力を緩め、<地獄の鎧>が盾で押し返す力を利用して後方へ飛ぶ。態勢を崩された<地獄の鎧>に向かって振り抜かれたリーシャの斧は、確実に魔物の甲冑へと滑り込んだ。

 

 大きな音を立てて甲冑の胴体部分に突き刺さった斧は、<地獄の鎧>の胴体を抉る。

 しかし、予想通り、その中は何も見えない闇。傷つけられた事に怯む事もなく、再び剣を掲げた<地獄の鎧>を見て、リーシャは慌てて後方へと下がった。

 

「どけ!」

 

「…………ベギラマ…………」

 

 カミュが前へ出ようと声を発したのと、後方に控える小さな『魔法使い』が詠唱を口にしたのは、ほぼ同時だった。

 前へ出ようとしたカミュの腕はリーシャによって掴まれ、その二人の脇を熱風が通り過ぎる。カミュの髪の毛を数本焼いた熱風は<地獄の鎧>の前に着弾し、破裂音を発して炎の海を作り出した。

 炎に巻かれるように飲み込まれて行く<地獄の鎧>を見て、一瞬リーシャは気を抜いてしまう。しかし、それは戦闘のプロフェッショナルである『戦士』としてのリーシャにとってあるまじき行為であった。

 

「どけ!」

 

 掴まれていた腕を逆に引き戻し、カミュが盾を構えてリーシャの前へ出る。乾いた音を立ててカミュの盾が弾いたのは、<地獄の鎧>の剣だった。

 メルエが放った灼熱呪文による炎の海の中を掻き分けて来るように進んで来た<地獄の鎧>が繰り出した剣を間一髪で避け、カミュは再び剣を振るう。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「メルエが使う事の出来る物は、灼熱呪文だけではない筈ですよ!」

 

 自分の行使した呪文が効果を示さなかった事に、メルエは小さな唸り声を上げるが、それは隣に立つサラによって窘められた。

 むくれたまま頷いたメルエは、再び杖を掲げるが、その杖は先程メルエに違う方向性を示した『賢者』の手によって下げられてしまう。

 

「まだ駄目です。今、メルエが呪文を行使すれば、カミュ様を巻き込んでしまいますよ」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 メルエとサラの視線の先には、<地獄の鎧>と剣の攻防を続けるカミュの姿があった。

 息も吐かせぬ程の速度で両者は剣を繰り出している。剣を盾で受けては、己の剣を繰り出す。剣を盾で弾かれれば、繰り出される相手の剣を自らの剣で弾き返す。

 カミュは、自らの両手にある剣と盾で、確実に<地獄の鎧>の攻撃を裁きながら、隙を見つけては剣を繰り出していた。

 

「……カミュ……」

 

 カミュの攻防は、どこかで見た事のある戦い方。それをリーシャだけではなく、サラも気がついていた。

 それは、あの盗賊達のアジトで、『殺人鬼』と恐れられた者と戦ったリーシャの戦い方。

 『人』と戦うために編み出された戦闘方法である。

 

 この旅に出てから何度も繰り返されて来たリーシャとカミュの模擬戦。その中で、着実にカミュは腕を上げていたのだ。

 獣に近い魔物との戦い方だけでは、この先の成長が見込めない事を感じていたカミュは、何度となく繰り返されるリーシャとのせめぎ合いの中、その戦闘方法を取り込み、自分なりのスタイルを作り上げていた。

 

「やぁぁぁ!」

 

 一際大きな声を上げたカミュの剣が、<地獄の鎧>の左腕の篭手の隙間に滑り込む。そのまま剣を振り上げたカミュの剣は、<地獄の鎧>の篭手を砕き、篭手に装備されていた盾を無力化させる。

 剣の技能という点では、カミュは<地獄の鎧>を凌駕していた。

 

「!!」

 

「カミュ!」

 

 しかし、カミュは見てしまった。

 <地獄の鎧>の後方に数体の巨大な山羊の姿を。

 その僅かな隙を見逃す<地獄の鎧>ではなかった。

 一瞬気を取られたカミュに向かって、<地獄の鎧>は剣を突き出した。

 カミュの盾は間に合わない。

 リーシャの叫びが虚しく響き渡った。

 

「ぐっ!」

 

 <地獄の鎧>の剣は、カミュが着こんでいた<鋼鉄の鎧>に突き刺さる。

 カミュの苦悶の声と、リーシャの叫び。そして、メルエの声にならない悲鳴が響く。

 それは、生前の騎士としての意地なのか、それとも『魔王』の魔力によって強化された能力故の物なのか。カミュの胸部に突き刺さった剣は、<鋼鉄の鎧>を容易く貫き、その下にある肉体をも突き抜ける。

 鎧の背の部分までをも貫いた剣は、カミュの背から生えて来たかのようにその刀身を露にした。

 

「カミュ様!」

 

 サラの叫びと共に捩られた刀身に、カミュは苦悶の声を上げる。

 <地獄の鎧>はそのまま剣を上部に引き上げた。

 噴き出す血潮。

 倒れ込むカミュ。

 

 リーシャもサラも、そしてメルエにとっても信じられない光景だった。

 カミュは、あのカンダタにも勝利しているのだ。

 現に、先程まではカミュが<地獄の鎧>を圧倒していた。

 

「カミュ!」

 

「リーシャさん! 早くカミュ様をこちらに! メルエ、援護を!」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの下へと駆け寄ったリーシャがその身体を担ぐように抱え、サラの待つ後方へ下がる。追う素振りを見せる<地獄の鎧>へ、メルエの杖が降り降ろされた。

 横たわるカミュの肩口からは止めどなく赤黒い命の源が流れて落ちている。その量は一刻を争う程の物。

 

「サラ! カミュは大丈夫なのか!?」

 

「…………カミュ…………」

 

「大丈夫です! 一度の<ベホイミ>で駄目なら、何度も呪文を唱えるだけです!」

 

 それは、正に『痛恨の一撃』

 パーティーの頭脳であり、パーティーの要となる人間を襲う一撃。

 その一撃は、三人の強者を混乱に陥れる程の威力を誇った。

 

「べホイミ!」

 

 しかし、それは以前の話。

 もはや、その混乱を自力で立て直す力を彼女達は持ち合わせている。

 サラの回復呪文によって塞がって行くカミュの傷を見ながら、リーシャは一つ息を吐き、安堵の表情を浮かべ、もう一度表情を引き締め直す。その顔は間違いなく『戦士』。いや、正確に言えば『騎士』の物なのだろう。

 

「サラ、カミュは任せたぞ」

 

「えっ!? あっ、は、はい」

 

 カミュの傷が塞がり、苦悶の表情が安らかな物へと変わって行くのを確認したリーシャは立ち上がった。

 <地獄の鎧>に向かって立ち上がったリーシャの表情はサラには見えない。しかし、今リーシャがどんな顔をしているのかがサラには理解できた。

 

「メルエ、後ろにいる山羊の魔物は任せた」

 

「…………ん…………」

 

 アリアハンの宮廷に仕えていた頃のリーシャをサラもメルエも知らない。だが、もしあの頃のリーシャを知る者がここにいたのなら、このリーシャの言葉に驚きの表情を浮かべたに違いない。

 

 父親を失くし、爵位も剥奪され、リーシャには何も残っていなかったのだ。それでも、父の残した威信を取り戻そうと懸命に働いた。それは周囲から更なる蔑みの視線を受ける事となる。

 貪欲な程の向上心は、生まれた時からその地位を有する貴族の子供達には浅ましく映り、宮廷の上位貴族からは疎まれるようにもなって行く。それでもリーシャは積極的に魔物の討伐隊に加わり、戦績を上げて行った。

 だが、討伐隊に入ったリーシャは、出世欲の為なのか、目の前の魔物を一人で相手をしようとする事が多かったのだ。

 誰も信用せず、誰も必要とはしない。

 

 それが、宮廷におけるリーシャの評価だったのだ。故に、戦績があるにも拘らず、部隊長などに推挙される事はなかった。

 勿論、リーシャが女性であるという理由や下級貴族の出という理由だけで、その出世を阻もうという者が大半ではあったが、リーシャのそういう性質を見ていた者も確かにいたのだ。

 

「リーシャさん、気を……!!」

 

「やぁぁぁぁ!」

 

 サラがカミュの傷に再度<ベホイミ>を唱えながら促した忠告は、リーシャに届く事はなかった。

 サラが口を開いた時には、既にリーシャの姿は目の前になかったのだ。

 掛け声と共に繰り出された斧は、メルエの魔法から立ち直った<地獄の鎧>の剣に弾かれる。弾いた剣でリーシャを貫こうと突き出されるが、それをリーシャは<鉄の盾>で上へと弾いた。

 そんなリーシャの後方から近付く小さな影。

 

「…………ヒャダルコ…………」

 

 <地獄の鎧>の後方から迫る山羊の魔物に向かって振り翳したメルエの杖の先から迸る冷気。

 数体の山羊の魔物を飲み込んで行く冷気はその体躯を凍らせて行った。

 駆け出した魔物の足を凍らせ、叫びを上げる口を凍らせる。

 

<ゴートドン>

山羊とバッファローの魔物。<マッドオックス>の上位種に当たる魔物ではあるが、その特徴に大差はない。魔物同士の縄張り争いで<マッドオックス>に競り勝った程度の魔物である。

 

「…………イオ…………」

 

 思うように身体を動かせない程に凍りついた<ゴートドン>を襲う圧縮された空気。

 再び振り降ろされた杖が、<ゴートドン>が最後に見た光景だった。

 夜の闇に支配された平原に響き渡る爆発音。圧縮された大気の解放と共に、凍りついた<ゴートドン>の身体が粉々に弾け飛んだ。

 

「やぁぁぁぁ!」

 

 メルエの一人舞台を見る事なく、リーシャは斧を振っていた。

 もはや戦いも終盤。

 リーシャの斧を捌き切れなくなった<地獄の鎧>は踏鞴を踏み、後方へと一歩下がる。その隙を見逃さず、リーシャは大きく振り被った斧を下へと勢い良く落とした。

 

「おぉぉぉぉ!」

 

 乾いた音を立て、リーシャの斧を剣で受け止めた<地獄の鎧>はその斧を弾こうと力を込めるが、リーシャは構わず手に力を込める。徐々に押し込まれる斧は、<地獄の鎧>の持つ剣に食い込み、遂にはその刀身を真っ二つに圧し折った。

 剣を圧し折った斧は<地獄の鎧>の甲冑へ振り下ろされ、兜の部分から胸部までを突き破る。

 

 そして、戦いに終止符は打たれた。

 勢いをそのままに地面に突き刺さった斧から遅れて、<地獄の鎧>が二つに分かれ、地面に崩れて行く。

 <さまよう鎧>と同様、中身が空洞であった鎧は、その呪いが解かれ、沈黙した。

 

「……ふぅ……」

 

 動かなくなった鎧を見て、リーシャは一つ息を吐く。

 最後の一撃は、リーシャの持てる力を出し切った一撃だった。

 言うなれば、それは『会心の一撃』。

 

「…………ん…………」

 

「ん? ああ、よくやったメルエ。ありがとう」

 

 斧を背中に掛けたリーシャの足下に近寄って来たメルエは、帽子を取り、頭を突き出す。恒例となったその行為をリーシャは受け止め、メルエの頭を優しく撫でた。

 気持ち良さそうに目を細めるメルエに、ようやくリーシャも笑顔を見せる。

 

「サラ、カミュの容体はどうだ?」

 

「大丈夫です。傷は塞がりましたし、今は血液の補充の為に気を失っているだけだと思います」

 

 眠るように目を閉じているカミュを見て、リーシャは苦笑を浮かべた。

 サラはリーシャの笑みの理由が分からない。ただ、カミュの容体の安定を喜んでいるのだと考えた。

 しかし、リーシャの想いは別の所にあったのだ。

 

 カミュが血を流すのは初めてではない。そして、どんな時も彼は気丈に振舞い、弱みを見せる事はなかった。だが、今は全てを任せるように眠りについている。

 それ程に重い傷だったのかと問われれば、そうではない。以前のカミュであれば、リーシャに運ばれてサラの下へと移動する間に意識を手放す事などなかった筈。

 

 『誰も信じず、誰も必要とはしない』

 

 それは、この青年も同じだった筈なのだ。

 何時しかリーシャは、自分よりも年若い三人を心から信じ、頼りにしていた。もしかすると、この眠りについている青年も同じなのかもしれない。

 そう思うと、リーシャは無意識に笑みを浮かべてしまったのだった。

 

「今夜はここまでだ。あの大きな木の下で野営を張ろう」

 

「……そうですね……」

 

 眠るカミュを担ぎあげたリーシャは、後方で唖然とするサラを置いて、メルエと共に移動を開始する。

 カミュの青白い顔を心配そうに見上げるメルエに優しい笑顔を向けながら歩くリーシャに、サラは苦笑を浮かべながら腰を上げた。

 

 目的地はまだ見えない。

 だが、彼らの歩む道は確実に交差し始めていた。

 夜空に輝く大きな月に寄り添うように光を放つ星々のように。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回は少し長かったですね。
良い所で区切る事が出来れば良かったのですが、何とも……

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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テドンの村①

 

 

 

 カミュは腹部に掛る重みと、肌寒さを感じて目を覚ました。薄く目を空けると、周囲は日の出前なのか、薄暗い。身体を起こそうとするが、何かが腹部に引っかかっていて上手く身体を起こせなかった。

 

「気がついたか?」

 

「……」

 

 不意に掛った声の方向に視線を移すと、そこには斧を肩にかけて座り、こちらに視線を向けている女性が映る。

 見張りをしているのだろう。闇に包まれた平原は考えていたよりも肌寒く、女性は布で身体を覆っていた。

 

「……すまなかった……」

 

「まだ眠っていても良いんだぞ?」

 

 自分の腹部に頭を乗せ、毛布のような物で身体をすっぽりと覆っているメルエを起こさないように注意しながらカミュは起き上った。

 太腿を枕にさせるように座り直したカミュがリーシャに向かって頭を下げる。

 その様子に若干驚いた表情を見せたリーシャではあったが、すぐに柔らかな笑顔を見せた。

 

「……いや、もう大丈夫だ……見張りを交代する。アンタこそ眠ったほうが良い」

 

「ふふ。お前はまた、気を失う程の負傷をしたのだ。今晩の見張りは私がするから、身体をゆっくりと休めろ」

 

 相手を気遣うようなカミュの言葉の真意を理解したリーシャは苦笑を浮かべる。彼は、剣で魔物に敗れ、気まで失ってしまった事を恥じているのだ。

 故に気丈に振舞おうとする。その事が、まるで昔の自分を見ているように感じ、リーシャは苦笑した。

 

「お前の剣もまだまだだな。ダーマ近辺で、『私を超えるのも時間の問題』と話したが、あれは私の過剰評価だったかもしれない。まだまだ私にも遠く及ばないぞ」

 

「くっ」

 

 悔しそうに顔を歪めるカミュに、リーシャは笑いを噛み殺した。

 言葉とは裏腹に、リーシャはカミュの剣の上達の早さに驚いていた。だが、速度は桁違いでも、色々な物を飛ばして急に変化した訳ではない。自分達のこれまでの旅の中で、彼は着実に腕を上げて来たのだ。故に、リーシャの目測に誤りがある訳ではない。

 いつの日か、この悔しそうに顔を歪めている青年に剣の腕は抜かれるだろう。

 

「今回は、メルエの活躍で難を逃れた。後でメルエによく礼を言っておくんだな」

 

「……わかった……」

 

 リーシャの言葉にしっかりと頷いたカミュは、自分の足元で眠るメルエに優しい笑みを浮かべ、その髪を一撫でする。

 そして、もう一度リーシャを見上げ、一つ頭を下げた。

 

「本当に眠ってくれて構わない。随分と休み、俺はこれ以上眠る事はできそうにないからな」

 

「それは、サラに感謝しろ。重ね掛けのように何度も<ベホイミ>を唱えていたからな」

 

 リーシャの言葉に、視線をリーシャの横で丸くなって眠っている人影に向けたカミュは、頷きを返す。満足そうに笑みを浮かべたリーシャは、自分に掛けられていた布を被り、そのまま身体を横たえた。

 

「何かあったら、すぐに起こせ。まだ、お前は一人で無茶が出来る身体ではないんだからな」

 

「……わかった……」

 

 カミュの返答を聞いたリーシャはそのまま瞳を閉じた。

 雲一つない空は、大きな月と数多の星の輝きが満たしている。周囲が木々に囲まれた場所ではない為に、リーシャは火を熾す事をしなかったのだろう。

 

「……ふぅ……」

 

 カミュの吐く息が白くなる程に周囲の気温は低下している。寒そうに身を縮めて眠るメルエに、自分のマントも掛け、カミュは夜空に浮かぶ月を見上げる。

 その胸中にどんな想いが宿っているのか。それはカミュ本人にしか解らない。

 しかし、夜空から四人を照らす月だけは、何もかもを理解しているように優しい光を注いでいた。

 

 

 

 翌朝、メルエが起きるのを待ち、一行は再び北へと歩き出す。周辺は穏やかな平原が続き、空は突き抜けるような青空。

 胸一杯に空気を吸ったメルエが、微笑みながらサラの手を取る。周囲に魔物の気配がない事を確認したサラは、メルエの手を握り、共に歌を口ずさみ始めた。

 

「カミュ、ここからどのくらいの距離なんだ?」

 

「……何度も言うが、俺もアンタと同じように、この土地は初めてなんだが……」

 

「お、お前は地図を持っているだろう!?」

 

 前を歩くカミュへと問いかけるリーシャの言葉は、溜息と共に斬り捨てられる。カミュの手にある地図を指差し、声量を上げるリーシャに、カミュは再び溜息を吐いた。

 『喧嘩を始めた』と感じたメルエが間に入ろうとするが、自分の手を握るサラがくすくす笑っている事を確認し、メルエは首を傾げるのだった。

 

 道中で、何度か<ゴートドン>等の魔物との戦闘を行いながら進む一行は、周囲が完全に闇に包まれ始めた頃、ようやく朽ち果てた門を視界に捉えた。

 暗闇にそびえ立つ大きな門は、黄泉の道へと誘う口のように見え、サラの足は細かく震え出す。この中にサラが想像もできない程の惨劇が広がっている筈なのだ。

 

「カミュ、このまま中に入るのか?」

 

「……まさか、アンタまで霊魂に恐れを抱いているとでも言うのか?」

 

 サラの様子を見て、リーシャはカミュへ伺いを立てるが、それに対する回答は溜息を交えた冷たい回答であった。

 『霊魂』という存在を信じていない訳ではない。その存在を既にリーシャは見ているのだから。そして、それに恐怖を抱く事もない。

 いずれ自分もそうなる事を彼女は知っているのだ。

 

「馬鹿を言え。子供でもあるまいに」

 

「……申し訳ありません……」

 

 カミュの問いかけを、鼻で笑うように返したリーシャの言葉に、サラは申し訳なさそうに言葉を洩らす。ここで、この旅の中で初めてサラは、自分が『霊魂』という存在に恐怖心を抱いている事を口にした。

 

 基本的に彼女は一人だった。

 両親を失った後、神父の温かな愛情を受けて育った。それでも、神父の仕事柄、友人のいない彼女は一人で過ごす事が多かったのだ。

 それは、昼だけではなく、夜も。

 

 夜の闇は人の動物的本能を掻き立てる。それに高揚を覚える者もいるだろうが、基本的には恐怖を抱くのだ。

 何も見えない闇は、一人で過ごす者にとっては恐怖以外の何物でもない。

 もし、この場所に両親を襲った魔物達が現れたとしたら。

 もし、それを自分一人で対処しなければならなかったとしたら。

 そんな猜疑心は、自分の目に見えない物への恐怖に変わって行く。

 闇の中で動く物への恐怖。

 闇の中で響く物音への恐怖。

 そして、サラの中でその恐怖は、神父等の仕事の一つであり、『霊魂昇華』の対象である霊という物に結び付けられた。

 

「い、いや、サラが子供だという訳ではないぞ! カミュ! 変な事を言うな!」

 

「…………リーシャ………言った…………」

 

「……だ、そうだが?」

 

 落ち込むサラの様子を見て、リーシャは責任をカミュへ転嫁しようとするが、その目論見は幼い少女によって妨げられた。

 もしかすると、リーシャの言葉に落ち込んだサラを見て、『虐められた』とでも思ったのかもしれない。サラからすれば、未だにメルエが口にする言葉の方が胸に響いて来る物であるのだが。

 

「ぐっ! い、良いか、サラ。例え、霊魂だろうが、サラの<ニフラム>にかかれば何と言う事もない相手なんだ」

 

「……問答無用で、強制的に消し去るつもりか?」

 

 メルエの視線を受けて、慌てたリーシャの発した言葉に、カミュは大きな溜息を吐き出す。

 リーシャの言った言葉をそのままに受け止めると、カミュの言い分の方が正しい事は明白であった。故に、リーシャは言葉に詰まり、八つ当たり気味にカミュへと鋭い視線を向ける。

 

「う、うるさい! 例えばの話だ! サラには、そういう能力もあるのだと言っているだけだろう!」

 

「……元は僧侶だ……そのやり方は色々と問題があり過ぎると思うが……」

 

 リーシャの反論も、カミュは涼しい顔をして受け流す。その口端は上がり、いつの間にか、いつもの二人のやり取りになっていた。

 カミュの言葉に過剰に反応を返すリーシャ。

 それを軽く受け流すカミュ。

 

「…………ふふ…………」

 

「ふふふ。大丈夫です。行きましょう」

 

 そんな二人のやり取りをメルエは『喧嘩』と受け取らなかった。もはや、それ程にこの二人のやり取りは恒例化しているのだろう。

 いや、メルエにとって、カミュの表情がそれを測る物差しなのかもしれない。メルエの微笑みに、サラも笑顔を浮かべる。

 滅びし村を前にして行うやり取りではないのかもしれない。しかし、そんなやり取りが、色々な想いに張りつめたサラの胸を優しく包み込む。

 

「カミュ! 霊が出て来たら、お前が対処しろよ!」

 

 カミュへと捨て台詞を吐き捨てて、リーシャはテドンの村の門を潜って行く。その後ろを未だに笑みを浮かべるサラとメルエが続き、溜息を吐きながらカミュが最後尾を歩いた。

 

 

 

「え、ええと……これは……?」

 

「カミュ? これは全て霊なのか?」

 

 村の入口を潜った四人は、目の前に広がる光景に固まってしまった。

 先頭を歩いていたリーシャは自分の目の前を通り過ぎる女性。

 サラの耳に入って来る人々の喧騒。

 サラは、予想していた物と掛け離れている光景に口を開けたまま立ち竦む。

 

「……さあな。村を歩いてみれば解る」

 

 呆然と立ち尽くすサラを不思議そうに見上げていたメルエは、リーシャの脇を抜けて村へと歩き出すカミュの横へと駆けて行く。

 もう一度周囲を、目を見開いたまま眺め回したリーシャは、一度大きく息を吐いた後、カミュの後ろを歩き出した。

 

「あっ!? ま、待って下さい!」

 

 慌てて歩き出すサラ。彼ら四人は、滅びし村と呼ばれる小さな村で様々な物を見る。

 村を歩き回る数多くの人々はその序章に過ぎなかった。

 

 

 

「……すみませんが、ここは<テドンの村>でよろしかったでしょうか?」

 

「ええ。ようこそ、テドンへ」

 

 村の入り口付近で薪を割っていた人間にカミュは声をかける。リーシャは厳しい瞳でその人物を見つめ、リーシャの影に隠れるようにサラは顔を出していた。

 振り下ろされた斧によって真っ二つに割れた薪に目を輝かせていたメルエは、その男の答えに目を見開くリーシャ達を不思議そうに見上げる。

 

「……では、ネクロゴンドの麓にある<テドン>で間違いはないのですね?」

 

「??……ええ。『魔王バラモス』はネクロゴンドにいると噂されています。それが原因で、ここまで邪気が漂って来てはいますが、ここがテドンで間違いはありませんよ」

 

「な、なに!? 『魔王』はネクロゴンドにいるのか!?」

 

 再度確認するように口を開いたカミュの言葉の中にあった、<ネクロゴンド>という単語を聞いた男は、あからさまに顔を顰めるが、カミュの言葉を肯定し、一つ頷いた。

 しかし、男が発した内容は、カミュ達三人にとって『寝耳に水』と言っても過言ではない程の物。リーシャが真っ先に反応し、男に詰め寄る。

 

「え、ええ。あくまでも噂ではありますが、そう云われています」

 

「『魔王』の拠点の麓の村……」

 

 リーシャの剣幕に驚きながらも頷いた男は、手に斧をしっかりと握っている。リーシャの剣幕に恐怖に似た感情を抱いたのかもしれない。サラは、男の態度に気付かない程に驚き、この村が滅ぼされた理由を再び考え始める。

 

「麓とは行っても、ここからはネクロゴンドへは行けないぞ」

 

「えっ!?」

 

 薪を割っていた男に詰め寄っていたリーシャに、横から声がかかる。新たに出現した男性にサラは驚きの声を上げた。

 その男は、カミュやリーシャが着込んでいる<鋼鉄の鎧>に身を包み、手にはサラが背中に付けているような<鉄の槍>を握っている。

 おそらく、この村の自警団の一員なのだろう。

 

 <テドン>のような何処の国にも属さない小さな村は、基本的に自分達で村を護っていかなければならない。故に、村を囲む木で出来た囲いは人の背丈の倍近くの高さを誇り、要所要所には、自警団の一員が配備されている。

 自警団である故に、その人間達は他に職業を持ちながら交代制で村を警備していた。

 

「この<テドン>の岬を東に回り、陸沿いに川を登って行くと、左手に火山が見える筈。その火山こそがネクロゴンドへの鍵となると伝えられている。まぁ、余程の強者でもない限り、火口には近づかぬ方が身の為だろうな」

 

「……火山が……?」

 

 カミュですら、男の発言の中身が理解できない。

 火山の火口が鍵になると言われても、想像すらできないのだ。

 カミュ達の最終目的である『魔王』の拠点に目処が立った。

 しかし、その場所を目指す事はカミュ達には出来ない。

 

「……カミュ……」

 

「……なんだ?」

 

 自衛団の兵士に向かって疑問を口にするカミュの後方から小さな声が掛る。カミュが振り向くと、何か言い難そうに眉を顰めるリーシャの姿。

 リーシャらしからぬその姿に、カミュは咄嗟に言葉を返してしまった。

 

「……オルテガ様が……確か、オルテガ様が消息を絶った場所も、ネクロゴンド火山の火口付近ではなかったか?」

 

「!!」

 

 決して忘れていた訳ではない。それでも、カミュもサラもリーシャの言葉を聞いて、驚きの目を向ける。

 リーシャがその事を語ったという事に驚いた訳でもない。今の今まで、『魔王』と『オルテガ』が結び付かなかった自分にサラは驚いていた。

 

「オルテガ様は、どうやって火口へ……」

 

「……どうでも良い事だ……」

 

「何を言っている! オルテガ様は確かに『魔王』の許へと向かっていた証拠ではないか! その足跡を追えば、必然的に私達も『魔王』に近づく筈だ!」

 

 サラの疑問に対する、表情を失くしたままのカミュの返答に、リーシャは嚙付いた。

 彼女にとって、『オルテガ』という英雄は、幼き頃からの憧れの人物である。しかし、今彼女の表情に浮かぶものは、その憧れを侮辱された事への怒りではなかった。

 それは怒鳴るリーシャの表情に明確に表れ、サラだけではなく、メルエですらも理解できる程の物。

 

「お前が……お前が『オルテガ様』にどんな想いを持っているのか解らない……だが、忘れるな。私達の目的は『魔王バラモス』なのだぞ……」

 

「……リーシャさん……」

 

 誰よりも強く、誰よりも優しいこの女性騎士の顔に浮かんでいる物は『哀しみ』。

 アリアハンを出た頃では考えられない表情。

 自分の父親であり、世界の英雄である存在を蔑にするカミュに対して、常に苛立ち、抗議を唱えていたあの女性はここにはいない。

 

「……わかっている……」

 

「わかっていない! いい加減に認めろ! お前がどれ程に憎もうと、あの方はその場所に辿り着こうとしていたのだ! 世界を……いや、自分の妻と、お前という子供が生きる場所を護るために、着実に『魔王』へと向かっていたんだ!」

 

「……リーシャさん……」

 

 自警団の兵は、目の前で突然仲間割れを始めた一行を驚きながら眺めていた。

 それは、単純な仲間割れには見えない。互いを罵る事も、嘲笑う事もない。

 相手を認めているからこそ出る言葉。

 相手を認めているからこそ口を開く事が出来ない沈黙。

 それは、確かな『絆』に見えたのかもしれない。

 

「まぁ、そう興奮するな。『魔王』の城があると言っても、誰も見た者はいない。それに火口に近づいたとしても、その先にどうやって進むのかすら解っていないんだ」

 

 故に、男は微笑を浮かべながら仲裁に入る。そんな男の言葉に、ようやくサラも再起動を始め、カミュとリーシャの間に入ろうと足を出した時、彼女よりも早くに間に滑り込んだ小さな影があった。

 

「…………けんか………だめ…………」

 

「……メルエ……」

 

 バハラタへと黒胡椒を取りに行く前にサラがメルエに依頼した事。

 カミュとリーシャの二人が剣呑な空気にならぬように見張るという使命。それをこの幼き少女は覚えていたのだ。いや、正確には、メルエ自身がカミュとリーシャの争いを見たくはないのかもしれない。

 

「……大丈夫だ……」

 

「そうだぞ、メルエ。私達は喧嘩をしている訳ではない。私達が喧嘩をする時は、訓練でもないのに、互いが己の武器を抜いた時だ」

 

「…………ん…………」

 

 そんなメルエの想いを理解したのか、カミュはメルエの肩に手を置き、リーシャはメルエに優しく微笑んだ。

 リーシャの言葉の中に、何か不穏な物が混じってはいたが、その笑顔に納得したメルエは、小さく頷きを返す。

 

「しかし、アンタ方は、『魔王討伐』に向かっているのか……確かにここ数年、魔物達の邪気は日に日にその凶悪性を増して行っている。特に十年ほど前にアリアハンという国の英雄が命を落としてからは、世界を覆う黒い闇の広がりに拍車がかかったようだ」

 

「……十年前……?」

 

 メルエの様子に表情を緩めたサラは、男が始めた話の一部分に引っかかりを感じ、再度振り返る。それは、アリアハンの英雄と言われたオルテガという人物が命を落とした時系列。サラの中の時系列では、既にオルテガが命を落としてから二十年近くの月日が流れているのだ。

 

「……カミュ……この村は……」

 

「ありがとうございました」

 

 何かを訴えようとするリーシャの視線を無視して、カミュは男へ頭を下げた。リーシャやサラが胸に抱いている想いを理解して尚、カミュはそれを敢えて受け流す事に決めたのだ。

 

「お、おう。アンタ方も『魔王討伐』に向かうのならば、しっかりと装備を整えて行きな。この村は小さいが、なかなかの装備が揃っている筈だ」

 

「ありがとうございます」

 

 お礼を言うカミュに軽く手を振った男は、カミュの後方へと指を向け、武器と防具の看板を下げている建物を示す。その場所も、十年程前に滅びた筈の村にある建物には見えない程に立派な建物であり、もはや驚く事を忘れたように、リーシャとサラは呆然と男の指差す場所を眺めていた。

 

 

 

「いらっしゃい。ゆっくり見て行ってくれ」

 

「……」

 

 もはやリーシャとサラに言葉はない。何の変哲もない武器と防具の店。陳列されている売り物こそ違うが、どの町にも村にも存在する店だった。

 少し大きめの建物の一階部分の全てを店舗としているため、品揃えも豊富である。

 

「……何かこの村ならではの物は……?」

 

「お、おい! まさか、この村で武器や防具を買い揃えるのか!?」

 

 そんな店の佇まいと同様に、いつもと同じ調子で店にある物を物色し始めるカミュに、リーシャは流石に声を掛けざるを得なかった。

 何故なら、この村は<滅びし村>。

 この世界ににあってはならない村なのだ。

 

「……アンタは、この旅で何度も不可思議な現象を目の当たりにして来た筈だ」

 

「そ、それはそうだが……」

 

 しかし、カミュの答えを聞いて、リーシャも言葉に詰まった。

 確かにこの旅に出てから、リーシャやサラは何度も不可思議な現象を目の当たりにして来た。

 

 カザーブの村の墓地に現れる霊魂。

 カザーブの村出身の母娘の霊魂には、一行の命を救われてさえいる。

 エルフの至宝である『夢見るルビー』が一行に見せた光景は、過去の記憶だった。

 砂漠の真ん中にある古代遺跡の中では、地面から死体が蘇り、カミュ達に襲いかかって来た。そして、古代からの呪いとして、イシスの国宝に手を掛けた者は、魔物達を呼び寄せてしまう。

 

 カミュ達の旅は、そんな不可思議な物に日々包まれていた。そして、その不可思議な力がなければ、カミュ達がここまで来る事が出来なかったのもまた事実なのである。

 その証拠に、リーシャが信じて止まない『勇者が引き起こす必然』という物もまた、不可思議な現象の一部であり、リーシャが妹のように想うサラの『転職』という物も同様なのだ。

 

「しかし、この場所で購入した物は、この先も残っているのでしょうか?」

 

「そ、そうだぞ! 夜が明ければ、露のように消え失せてしまうのではないか?」

 

 サラの杞憂も間違いではない。この村に入ってから、その光景に目を奪われ、現実を忘れてはいたが、ここは既に朽ち果てた場所なのだ。その場所で販売している物など、夢幻の如く消えて行くのではないかと考えるのが当然だろう。

 

「おいおい。穏やかじゃないな。俺の売る商品にケチをつけるのかい? ここにある武器や防具が露のように消え失せるなんて、そんな阿呆な事がある訳ないだろう」

 

「あっ!? い、いえ……申し訳ありません」

 

 しかし、そんなサラ達の杞憂は、この村で生きている者達にとっては失礼極まりない話でもある。呆れたような、それでいて静かな怒りを宿す店主の言葉に、サラは申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「し、しかし……この村は、もう十年程前に滅んだのではないのか?」

 

「……おい……」

 

 ここでリーシャは、余りにも直接的な質問をぶつけてしまう。そんなリーシャの考えなしの発言にカミュは溜息と共に言葉を吐き出す。

 店主は、突拍子もないリーシャの問いかけに目を丸くし、手に持っていた武器の手入れ用の布を落としてしまった。

 

「ふぉふぉふぉ。若者よ、何を言っておる。この村が十年以上前に滅んだ? ふぉふぉ。ならば、今、この場所で生きている我々は何だというのじゃ?」

 

 呆然とする店主ではなく、店先にいた老人がリーシャの疑問に答える。歳の功なのか、老人はリーシャの失礼極まりない発言に怒りを見せる事なく、本当に愉快そうに笑いながら、リーシャを窘めた。

 先程から続くリーシャやサラの失礼な発言に、武器屋の店主が怒り出さない為の防止策として、間に入ってくれたのかもしれない。

 

「……供の者が失礼致しました……この者は、少し頭が弱いのです……」

 

「な、なに!? カ、カミュ!」

 

「ぷっ!?」

 

 これ以上、この話題を引っ張る必要性がない事を悟ったカミュが間に入り、老人と店主に頭を下げる。その際に、発した言葉の内容は、以前<ガルナの塔>で僧侶とサラの間に仲裁に入った時と同じような物だった事に、サラは思わず吹き出してしまう。

 しかし、すぐに向けられたリーシャの厳しい視線に、サラは即座に笑いを収めた。

 

「……そうか……それは気の毒にな……」

 

「ぷっ!?」

 

「…………リーシャ………たべる…………?」

 

 本当に気の毒そうに眉を顰める店主の表情を見て、一度収めた笑いが、再びサラを襲った。

 そして、止めの一撃とばかりに、メルエが肩から下げたポシェットの中から出した<かしこさの種>を見て、サラは笑い堪える事を放棄する。

 武器と防具の店内に響き渡る笑い声。それを止める事は何者も出来はしない。

 先程まで深刻な程に緊迫していた空気は、カミュの発した一言と、メルエが起こした行動によって、粉々に砕かれてしまった。

 

「もういい! 勝手にしろ!」

 

 メルエとサラの頭に拳骨を一つ落としたリーシャは捨て台詞を発し、怒りを宿した瞳のまま、店内を物色し始めた。

 拳骨を落とされ、強制的に笑いを止めざるを得なかったサラは、再び小さく苦笑を洩らす。

 

「これなんかどうだ? これは、『魔法の法衣』と言って、この村特産の『絹』を原料に特別な術式を組み込みながら編んだ物だそうだ。この村でも一人しか編めない物だぞ」

 

「……特別な術式……?」

 

 店主がカミュとサラの目の前に出して来た物は、サラが以前に着用していた法衣とは違い、十字を基調にはしているものの、それを前面に押し出してはいない。

 僧侶の特徴と言っても過言ではない青色でもなく、赤茶に近い不思議な色合いをしている法衣であった。

 

「ああ。何でも、魔法の攻撃による熱や冷気に耐性を持たせた物らしい。4400ゴールドだが、その分の価値はあると保証できる代物だよ」

 

 4400ゴールドはなかなかの値段である。バハラタで購入した<鋼鉄の鎧>が2400ゴールドであった事を考えれば、その倍近くの価格でありながら、どこか頼りない生地で出来た法衣は、法外の値段と言っても良い物なのかもしれない。

 

「……カミュ様……」

 

 しかし、サラには何か感じる物があったようだ。

 それは、『賢者』としてなのか、それとも、『僧侶』としてなのかは解らない。

 それでも、サラの瞳に映る光をカミュは敏感に感じ取った。

 

「……魔物の部位を買い取ってくれる所はあるか?」

 

「ん? おお! どんな物があるんだ? 良ければ、うちで買い取るぞ」

 

 溜息を吐き出したカミュがカウンターに置いた革袋の中身を物色し始めた店主の瞳が輝きを増して行く。その中身は、この村周辺に潜む魔物以外にも、トルドを置いて来た大陸周辺の魔物の部位なども多く収められていた。

 カミュに向かって買値を伝える店主の表情を確認するまでもなく、店主の言い値は市場並の物である事は理解できる。

 カミュは一つ頷くと、店主からゴールドを受け取り、その中から4400ゴールドという大金をカウンターへ戻した。

 

「カミュ! この鎧も良い物ではないか?」

 

 試着をするためにサラが中へと入って行った時、今まで不貞腐れたように店内を見渡していたリーシャが声を上げた。

 その瞳は、新しい玩具を与えられたように輝いており、その姿にカミュは盛大な溜息を吐き出す。

 

「それは<魔法の鎧>と呼ばれる鎧だ。まぁ、<魔法の法衣>程の抗魔力がある訳じゃないが、それでも十分だと思うぞ」

 

「カミュ!」

 

 店主の説明に、リーシャの瞳が輝きを増して行く。魔法に憧れを持つ女性だからこそ、その魔法に対抗できる物に興味を示したのかもしれない。

 実際、カミュやリーシャのように、前線に身を乗り出す者達にとって、魔物の使用する呪文は脅威ではあった。そんな二人にとって、抗魔力の高い鎧は喉から手が出る程の物。故に、カミュは溜息を吐きながらも、リーシャに一つ頷いた。

 

「あの鎧はいくらだ?」

 

「あれか? 素材が素材だから、法衣よりも高いぞ。一つ5800ゴールドだな」

 

「な、なに!?」

 

 店主が口にした値段に、リーシャは驚きの声を上げる。5800ゴールドと言えば、カミュとリーシャの着ているそれぞれの<鋼鉄の鎧>と、更には手にしているそれぞれの武器の買い値を合わせた金額よりも上なのだ。

 

「……高いな……」

 

「いくらなんでも、高すぎやしないか?」

 

 カミュが立てかけられている鎧に視線を送り呟いた言葉は、この武器屋の店主を責める物ではなく、正直な感想だったのだろう。それが見てとれたのか、店主は苦笑を浮かべながらリーシャの問いかけに答える為に口を開いた。

 

「まぁ、それなりの値はするさ。かなり希少な効果もあるし、素材自体が特殊な金属らしい。まぁ、うちにも、この鎧は二つしか置いていないからな」

 

「そうなのか……確かに魔法に対しての防御力がある鎧は珍しいからな」

 

 理に適った店主の答えに、リーシャは納得しながらも肩を落とした。

 もし、その鎧をカミュとリーシャの分として購入した場合、11600ゴールド。サラの為に今見立てている<魔法の法衣>を含めると16000ゴールドになる。

 その資金がカミュ達の懐にない訳ではない。しかし、それを吐き出てしまえば、彼らの旅路で予測外の出来事が起きた場合、対処ができなくなる恐れもある。

 しかも、この場所で購入した物が、この先、カミュ達の手元に残っているという保証はどこにもない。

 そんな恐れのある商品を、大金をかけて購入する事など今のカミュ達には難しい内容なのである。

 

「…………ずるい…………」

 

 そして、そんなカミュ達の買い物を許さない人物がもう一人存在した。

 むくれたように頬を膨らませたメルエがじっとカミュ達を睨んでいる。ここまでの旅路で買い物を誰よりも楽しみにしていた少女にとって、自分を置き去りにしたような話の進め方には納得がいかなかったのだ。

 

「い、いや、メルエ。これはな」

 

「…………ずるい…………」

 

 リーシャの言葉にも、鋭い視線を向けたままのメルエは、同じ言葉を繰り返す。そんなメルエに大きな溜息を吐いたカミュは、視線をメルエから店主へと移し、口を開いた。

 

「……この娘に合う物は何かないだろうか……?」

 

「ん?……そうだな……ああ、これなんかどうだ?」

 

 カミュが自分の物を尋ねていると理解したメルエがカミュの足元へと駆け寄って来る。その姿に苦笑を浮かべた店主は、後ろの戸棚から少し小さめな生地を出して来た。

 カウンターに置かれたそれは、とても小さな物で、装備品というよりは装飾品に近い形状をしていた。

 

「……それは……?」

 

「これは<マジカルスカート>というものだ。まぁ、スカートな訳だから、女性以外は身につけはしないが、これも<魔法の法衣>と同じ人間が編んだもので、特別な術式が組み込まれていて、身に付けた者の魔力を多少上げてくれる特性があるらしい」

 

 出された生地を見つめたカミュは、その特性を尋ねる。それに対して返って来た店主の答えに、メルエは目を輝かせるが、カミュとリーシャは眉を顰めた。

 『魔力を上げる』という一言が、彼らに渋い表情を作り出させていたのだ。

 

「これは……駄目じゃないのか……?」

 

「…………むぅ………ずるい…………」

 

 店主に断りを入れようとするリーシャに向かって、メルエは頬を膨らまし、抗議の視線を送る。

 『何故、自分は駄目なのだ?』という視線にリーシャは言葉に詰まり、困ったようにカミュへと視線を送った。

 カミュもリーシャも、今よりもメルエの魔力が上がる事は、パーティーの戦力強化に繋がる事だという事は理解してはいる。しかし、それ以上にメルエの将来を大事に考えている二人だからこそ、これを素直に受け入れる事は出来ないのだ。

 

「…………むぅ…………」

 

「……このスカートをくれ」

 

「おう! ありがとうよ。ここまで揃えてもらったら、サービスしない訳にはいかないな。いいぜ。このスカート込みで、本当は17500ゴールドだが、大サービスで14000ゴールドにするさ」

 

 カミュの言葉を聞いて、メルエは目を輝かせ、店主は喜びと共に自分の好意を示した。しかし、店主のその言葉は、カミュとリーシャに驚きの表情を浮かばせる事になる。

 店主の中では、既に<魔法の鎧>の購入は決定事項になっていたのだ。もし、この場に、カミュも認めたトルドという『商人』がいたのならば、この店主の言葉をそれなりの口実を作って断るなり、何か難癖をつけて値引くなりをしていただろう。

 しかし、カミュとリーシャは所詮『勇者』と『戦士』。そのような商売上の駆け引きが出来る訳がない。

 

「……わかった……それでいい」

 

「カミュ!」

 

 大きな溜息を吐いたカミュは、この大きな賭けに出るしかなかった。

 実際、どの程度の効果があるのか分からない防具を多額のゴールドで購入する。しかも、それは、明日の朝まで持つのかどうかも分かりはしない。

 

「ありがとうよ! じゃあ、全員試着してみてくれ。小さなお嬢ちゃんは、さっきの娘と一緒に中で試着してみてくれ。お!? アンタ方が着ている鎧は下取りさせてもらうぜ」

 

 商談が成立した店主は、てきぱきと事を進めて行く。メルエをサラと同じ試着室へと押し込み、カミュ達に新たな鎧を手渡していった。

 既に形状を保つ事がやっとな<鋼鉄の鎧>を脱いだカミュは、真新しい<魔法の鎧>を身に付ける。そこで、何故、カミュとリーシャが試着室に入れられなかったのかを悟った。

 その鎧は、以前バハラタでメルエが購入した<魔法の盾>と同じように、身に付けた途端、カミュ達の身体に合わせるようにその形状を変化させたのだ。

 

「ん? 問題はなさそうだな。後は、お嬢ちゃん達の寸法合わせだな」

 

 自分の身体に吸い付くように形状を変えた鎧を不思議そうに見つめるリーシャを余所に、店主は奥にある階段を上って、針等の裁縫道具を持って戻って来た。

 試着室を開けた店主は、<魔法の法衣>と<マジカルスカート>を身に付けたサラとメルエの身体を眺めた後、その寸法を詰めて行く。針を器用に使いながら、慣れた手つきで布を抑えた店主は、もう一度それらを脱ぐように指示を出した後、カミュがカウンターに置いたゴールドを数え始めた。

 

「確かに。すぐに出来上がるから、それまでは何もないところではあるが、村の中を散歩でもしていてくれよ」

 

「……ああ……」

 

 店主の提案を受け入れたカミュではあるが、それに納得した様子もない。まず、何もないという以前に、何かがあった方が可笑しな村なのだ。

 散歩をするという時間帯でもない。実際は草木も眠る時刻であることは確か。

 メルエも、今は新たに買い与えられた物に目を輝かせてはいるが、すぐに目を擦り始めるのは目に見えている。

 

「仕方ないだろう」

 

「そうですね。少し村の方々の話をお聞きしましょう」

 

 リーシャと試着室から出てきたばかりのサラの言葉にカミュは頷くしかなかった。

 新たに買い与えられた物に満面の笑みを浮かべるメルエの手を引き、カミュは出口へと歩き始める。

 

 

 

「メルエ、どうした?」

 

 色々な人物に話を聞いたカミュ達ではあるが、この村の自警団の兵から聞いたような目新しい情報はなかった。

 そろそろ武器屋に戻ろうと歩き始めたカミュ達は一軒の建物の前を通り過ぎようとしたが、今まで、リーシャの手を握りながら笑みを浮かべていたメルエが、その建物の木戸の前で立ち止まったのだ。

 

「……ここに何かあるのか……?」

 

「…………」

 

 立ち止まったメルエに近寄ったカミュがメルエに声をかけるが、暫し木戸を無表情で眺めていたメルエは、カミュに視線を移した後、不思議そうに小首を傾げた。そして、またどこか寂しそうに木戸のある部分を見上げる。

 その場所にあるのは、木戸を叩く為に付けられた金具。

 メルエは、閉じられた扉を開く為には木戸を叩かなければならない事をこの旅で学んでいたのかもしれない。

 

「……ふぅ……」

 

 メルエの様子に、一度息を吐き出したカミュは、木戸に取り付けられた金具を手に取った。数度に渡って乾いた音を響かせた木戸だったが、中からは何の反応もない。

 この家が留守なのか、それとも何か他の理由があるのかは分からない。ただ言える事実は、その扉が開かれる事はなかった。

 

「……いないようだな……いくぞ……」

 

「そうだな。武器屋に戻ろう。行こう、メルエ」

 

 戸を叩いて、暫く待ってみても一向に開かない扉に、カミュは踵を返す。それを見て、リーシャはメルエの手を取ろうと手を伸ばすが、いつもならすぐに握り返して来る小さな掌は、この時はなかなかその手を掴もうとはしなかった。

 

「メルエ? 何か気になるのですか?」

 

「…………」

 

 そんなメルエの様子に疑問を口にしたサラに対して返された反応は、先程と同じような物。

 不思議そうに首を傾げ、困ったように眉を顰めるメルエの姿だった。

 メルエにしても、『何故、この扉が気になるのか』、『何故、自分がこの扉を見つめているのか』が解ってはいないのだろう。だが、メルエの中で何かが反応しているのかもしれない。

 

 暫しの間、扉を見上げていたメルエは、何かを諦めたようにリーシャの手を取った。その手を握り返したリーシャは、メルエの感じている想いを理解する事ができず、曖昧な笑顔を返す。

 もう一度小首を傾げたメルエは、前を歩くカミュの後を追って歩き出した。

 

 

 

 武器屋でそれぞれの防具を受け取った一行は、再び村へと歩き出す。着替え終わった直後は、嬉々として喜びを全面に表わし、笑顔を浮かべていたメルエであったが、既に夜が更けている状態では、その笑みも長続きはしなかった。

 しきりに目を擦り始め、眠気を我慢しているメルエの様子に苦笑したリーシャがカミュへと掛けた言葉は、サラを驚愕の崖に突き落とすものだった。

 

「カミュ、もう夜も更けた。今夜はこの村の宿屋で宿をとろう」

 

「えっ!? リ、リーシャさん!? こ、この村がどんな村なのかを忘れてしまったのですか!?」

 

 滅びし村で宿を取る。それがどれ程に異常な事なのか。それをサラは必死にリーシャに伝えようとするが、それは徒労に終わる事となる。

 必死の形相で何かを喚いているサラを不思議そうに見つめているメルエの瞼が何度か落ちて来た。既にメルエは限界なのだろう。

 

「人々も生き生きとしている。防具も買えた。宿ぐらい取る事は可能だろう?」

 

「えぇぇぇ!? 生き生きと……? えっ!? リ、リーシャさんは、何を言っていらっしゃるのですか!?」

 

「……アンタの頭の構造を本気で確認したくなる時があるな」

 

 驚くサラを心底不思議そうに見るリーシャに、サラは本気の疑問をぶつけ、カミュは盛大な溜息と共に、失礼極まりない言葉をこぼした。しかし、そんな二人に返って来たのは、意外な程に冷静なリーシャの言葉だった。

 

「お前達が考えている事も解る。だがな、サラ。考えてもみろ。無念だけを残した人々の霊魂が、このような形で残っていると思うか?」

 

「えっ!?」

 

 リーシャの言葉に、サラだけではなく、カミュまでも呆然とリーシャの顔を見つめる形となる。訳も解らず目を擦りながら舟を漕ぎ出したメルエを抱き抱えたリーシャは、驚きを隠さない二人に言葉を繋げた。

 

「『無念』とは、年月を経る毎に『憎しみ』へと変化して行く。だが、この村はそうではない。自分達が命を落とした事に気が付かないのではなく、認められないのだろう。故に、私達のような旅人を温かく迎え入れる。生前と変わりなくな」

 

「……どういうことですか……?」

 

 リーシャが何気なく話し出した内容は、サラやカミュには辿り着けなかった物。故に、その言葉がサラの胸に残った。

 カミュにしても、まさかリーシャからこのような言葉が出て来ると思わなかったのか、呆然とリーシャの瞳を見つめている。

 

「『無念』が『憎しみ』に変化した霊魂は、魔物と同様に悪意を発するようになる。私達が相手をして来た一部の魔物達のようにな。『魔王』の影響が強ければ強いほど、それは顕著に表れる筈だ」

 

「……なるほどな……」

 

「えっ!? カミュ様は理解できたのですか?」

 

 リーシャの言葉では未だに納得できないサラは、何かを悟ったようなカミュへと視線を動かし、目を見開いた。そんなサラを心外そうに睨むリーシャは、少し咳払いをした後に自分の考えを話し続ける。

 

「つまりだ。『魔王』の城の麓にあると云われているこの村は、今感じる限り、邪気に包まれているという訳ではない。それが、何故なのかは私には解らない。何か特別な力に護られているのか。それとも、この村の住民の心が澄んでいるのか」

 

「……アンタにしては、至極まともな考えだな……」

 

 リーシャの考えを聞いたカミュは、口端を上げながら一つ頷きを返す。そんなカミュの言葉に『むっ』と表情を歪めたリーシャではあったが、サラの方を向き、もう一度口を開いた。

 

「だからな。この村で宿を取ったとしても、私達に害はないだろうと考えたんだ。この夜の間だけなのかもしれない。それでも、宿屋で湯浴みをし、身体を横たえる事が出来るのであれば、そうした方が私達にとって良いものだろう?」

 

「……はい……」

 

 リーシャの言葉は尤もな物。それはサラも理解できた。

 船を下りて、野営を何度か張った彼らの疲労は、目に見えはしないが、かなり蓄積されているのは事実。だからこそ、身体を休める重要性をリーシャは説いているのだ。

 これには、サラも反論はできなかった。既にメルエはリーシャの腕の中で寝息を立て始めている。もはや、一行はこの村を動く事はできない。

 どれ程サラが嫌がっても、どれ程恐怖を抱いていても。

 

「……うぅぅ……」

 

「諦めるんだな。文句なら、この村を訪れる事を決めた自分に言え」

 

 カミュの尤もな忠告に、サラは悔しそうに唇を噛んだ。そんなサラに笑みを浮かべたリーシャは、メルエを抱いたまま、カミュの前を歩き出す。目指すは宿屋。サラからすれば、既にこの世で生きてはいない者が経営する宿。

 

 

 

 宿屋はどこにでもある普通の宿屋だった。

 人の良さそうな主人がカウンターに立ち、旅人であるカミュ達に笑顔を向けている。カミュ達に二部屋を用意し、湯浴みの為に湯を張ってもくれた。

 夜が更けていた事から食事の用意こそなかったが、眠ってしまったメルエを起こし、リーシャがメルエを湯浴みに連れて行く。それを茫然と眺めていたサラであったが、後ろから掛った『アンタはこの後、一人で湯浴みに行くのか?』というカミュの言葉に、悲鳴を上げながらリーシャの後を追って行った。

 

 宿屋の入り口もそうだったが、部屋に入った一行は、驚きを浮かべた。

 部屋の中は、奇麗に整頓されており、ベッドも整えられている。部屋に飾られた花は瑞々しく咲き、壁に掛けられた絵も色鮮やかに部屋を彩っていた。

 どこか釈然としない思いを浮かべながらも、サラは早々にベッドに入り、恐怖によって高まっている鼓動を押さえつけるように目を瞑り眠りについた。

  既にメルエはリーシャの横で静かな寝息を立てている。サラの様子と、メルエの安らかな寝顔に笑みを浮かべたリーシャも瞳を閉じて疲れた身体の欲求に身を任せた。

 

 

 

 

 

「リ、リー……リー……シャ……さん!」

 

 翌朝、まだ太陽が地平線から顔を出したばかりの頃、リーシャは自身の身体を揺らす振動と、か細く震えながら自分の名を叫ぶ声に目を開いた。

 

「ん?……何だ、サラ……」

 

 まだ辺りは薄暗く、陽の光が宿屋にも掛ったばかりである。鍛錬の時間には早すぎるのだ。

 隣で眠るメルエを起こさないように、ゆっくりと身体を起こしたリーシャは、目の前で真っ青な顔で自分を見つめるサラを見つめる。

 

「あ、あの…あの……」

 

「落ち着け。何がどうした?」

 

 身体を起こし、目線をサラに合わせたリーシャの問いかけに答えるサラの言葉は要領を得ない。何度も唇を震わせながら、同じ言葉を繰り返す。サラの肩に手を掛けたリーシャは、サラの瞳を見つめ、落ち着きを取り戻させようとするが、サラの瞳は右に左にと揺れ動いていた。

 

「ふぅ……ああ、なるほどな……」

 

「これ…これ…これは……」

 

 要領を得ないサラを諦め、リーシャは周囲に視線を送り、サラの豹変の原因を理解した。

 リーシャの視線の先は、昨晩泊まった宿屋の一室には変わりはないのだが、その光景は一変していたのだ。

 リーシャのベッドの周囲は埃にまみれ、壁に掛けられていた絵画はズタズタに切り裂かれている。窓に掛けられたカーテンは朽ち果てて落ち、壁には蜘蛛が大きな巣を張っていた。

 

「サラは理解していた筈じゃなかったのか?」

 

「で、です…ですが……」

 

 歯と歯が噛み合わないサラを見つめ、リーシャは再び大きな溜息を吐き出す。

 この村は既に滅びているという事は理解していた筈。ならば、この光景に驚く要因など、リーシャにしてみれば何一つないのだ。

 

「昨晩のこの村がどうやって動いていたのかは解らない。それこそ、サラの領分の話だぞ?」

 

 リーシャは、サラに声をかけながら、ベッドを降りて身支度を始めた。

 未だに寝間着姿のサラは、そんなリーシャを目で追いながらわたわたと動き回るだけ。その内、周囲の喧騒にメルエが身動ぎを始めた。

 

「しかし、この鎧は消えなかったのだな……」

 

「えっ!? あ! わ、わたしの法衣もそのままです!」

 

 身支度をしていたリーシャが、昨晩この村で購入した鎧を掲げて発した言葉に、ようやくサラが通常起動を始める。リーシャの言葉通り、昨晩購入した<魔法の鎧>は、受け取った時のままの輝きを保っていた。

 

「メルエ、起きたら着替えよう。カミュを起こしに行くぞ」

 

「…………ん…………」

 

 鎧を装備し終えたリーシャは、眠そうに目を擦るメルエに声をかける。半分眠ったままのメルエは、小さく頷いた後、身体をゆっくりと起き上がらせた。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい! わ、わたしもすぐに着替えますから!」

 

「……メルエ、昨日購入したスカートを履くのを忘れるなよ」

 

「…………ん…………」

 

 慌てて自らの寝間着を脱ぎ始めるサラに溜息を吐き出したリーシャは、昨晩脱いだ服を、未だにぼうっとしているメルエの横に置いた。

 『昨晩購入した』という言葉に反応を返したメルエは、新しく買い与えられた物を思い出し、勢い良く瞼を開ける。

 

 そんな三人の喧騒が響く廃墟となった一室に突然ノックの音が響き渡った。

 咄嗟に武器を身構えるリーシャ。

 『ひぃ!』と奇妙な叫び声を上げ、脱いでいた寝間着を抱き締めるサラ。

 そんな二人を、スカートを履き終えたメルエは不思議そうに見つめていた。

 

「…………カミュ…………」

 

「……ああ……その様子だと起きているようだな。村を見て回る。着替えたら下に降りて来てくれ」

 

「わかった。すぐに行く」

 

 メルエの声をドア越しに聞いたカミュの声に、リーシャは声を返す。カミュの返答はなかったが、下へと続く階段を下りて行った音が響いた為、一階でリーシャ達の事を待つつもりなのだろう。

 既に着替えを終えたリーシャとメルエが立ち上がり、ドアに向かって歩き出すのを、涙目で必死に留め、慌てて着替えを続けるサラに、リーシャばかりか、メルエですら困惑の表情を浮かべていた。

 

 

 

「待たせたな。カミュ、どこへ向かうんだ?」

 

「とりあえずは、一通り回ってみる」

 

 サラの着替えを待ち、リーシャ達が下の降りた時、カミュは宿屋の隅々を注意深く観察していた。

 蜘蛛の巣があらゆる場所に張り巡らされ、食堂のテーブルには埃が溜まっている。

 壁の所々に穴が空き、一部分は完全に崩れ、外が丸見えになっている。

 窓のガラスは割れ、既に窓の役目を果してはいない。

 昨晩リーシャ達が湯浴みした場所は埃と泥に塗れ、昨晩の様相を微塵も感じられない物となっていた。

 

「これが……昨日の夜と同じ村なのか?」

 

「……あ……ああ……」

 

そして、外に出た一行は、そこに広がる光景に愕然とした。リーシャは唖然としたまま立ち尽くし、サラは既に言葉を発する余裕すらない。カミュは眉を顰めて周囲を見渡し、メルエはカミュのマントの中へと逃げ込んだ。

 

「……酷いな……」

 

 カミュですらそう呟いてしまう程に、この村の景色は様変わりしていたのだ。

 昨晩は何戸も立ち並んでいた家々は、形を残している物の数の方が少なかった。

 壁は崩れ、屋根は落ち、ほとんどの家屋は倒壊しているし、村の東にあった泉の水は濁り、異臭を放つ毒沼と化していた。

 

 一行は、それぞれ複雑な想いを抱きながら、昨晩の喧騒が嘘のように静まり返った<テドンの村>を歩き始める。

 昨晩には、斧を握って薪を切っていた男がいた場所は、倒壊した家屋の下敷きになり、無残な姿を晒していた。

 昨晩、自衛団の兵士と話した場所近くにあった教会は、ルビス像であったであろう木像が粉々になって散らばり、教会であった事を物語る十字の紋章が入った屋根が転がっている。

 

「メルエ?」

 

 吐き気すら感じる程の村の惨状に胸を痛めていたサラは、突然カミュのマントの中から飛び出したメルエを見て、声を掛けた。

 マントから出たメルエは、昨晩眺めていた木戸があった場所に再び立ち尽くし、崩れかけた家屋を眺める。その場所にあった家屋は、原型こそ留めている物の、木戸は既になく、外から見える中の様子は、中に入る気をも失う程の物だった。

 

「……カミュ……」

 

「ここにいてくれ」

 

 リーシャの視線に軽く頷いたカミュは、リーシャ達を残し、中へと入って行く。何かを言いたそうにカミュを見上げるメルエの頭に手を乗せて中へと入って行くカミュの背を、三人はただ見送る事しか出来なかった。

 

 中に入ったカミュは、その光景に眉を顰める。そこは、家屋であった事を想像する方が難しい程に荒れ果てていた。

 テーブルや椅子であった木材が散らばり、カーテン等の生地はズタズタに斬り裂かれ、まるでこの狭い場所で戦闘があったかの様な惨状である。

 それを証明するように、壁には既に黒ずんだ染みのような物が塗り付けられており、それが血液のような体液である事は容易に想像できる物だった。

 

「……これは……」

 

 隅々まで目を向けていたカミュは、壁のある一部に染み込んだ、黒ずんだ物へと目を向ける。それはこの世界に広まる文字に似たような物だったのだ。

 壁の殆どが崩れ、朝陽が四方八方から入り込んだ家屋の中では、それを読む事は容易な事だった。

 

「……」

 

 その文字を読んだカミュは、一度顔を歪めた後、もはや用はないとばかりに立ち上がる。

 そのまま表へと出たカミュは、自分を心配そうに見上げるメルエの頭をもう一度優しく撫でた。気持ち良さそうにカミュの手を頭に受けていたメルエは、手が離れると帽子を被り直し、再びカミュのマントの中へと潜り込む。

 

「カミュ、何かあったのか?」

 

「……いや、試したい事が出来ただけだ……」

 

「試したい事?」

 

 歩き出したカミュの答えに、サラは首を傾げる。カミュがリーシャの問いかけに対し、直接的な答えを返さない事は今に始まった事ではない。しかし、ここまで理解の難しい答えも珍しいのだ。

 

「とりあえず、一通り村を歩いてみる」

 

「あ、ああ」

 

 リーシャとサラの疑問に対し、カミュは答える気は無いようだった。メルエを伴ったまま歩き出すカミュに、リーシャは曖昧な返答をする以外なかった。

 

 

 

「ここも、酷いですね」

 

「ああ」

 

 最後に訪れた場所は、今、一行が身に付けている防具を購入した場所。ここも、武器と防具の店であった原型は留めている物の、既に壁は崩れ、天井は抜けていた。

 抜けた天井部分が、一階に落ちており、武器や防具が立ち並んでいた場所は瓦礫に埋もれていた。

 

「……上に上がるぞ……」

 

 表情を歪めて瓦礫を見ていたリーシャとサラに一声かけ、カミュはカウンターの向こう側にある階段を昇り始めた。

 そこは、この店の主人の居住区なのだろう。しかし、家主がいない以上、そこに入る者を咎める者はいない。

 

「……あ…あ……」

 

 階段を上り終え、二階部分を見たサラの視界は、無意識に滲んで行った。人が住んでいたという事さえ感じさせない程に荒らし尽くされ、血痕のような染みが壁中に飛び散っている。

 

「……何故、ここまで……」

 

 リーシャもその光景に口元を押さえた。そうしなければ、涙が零れてしまいそうだったのだ。

 壁の近くには、既に色も変わり果てた人骨のような物が散乱している。おそらく、それは、昨晩カミュ達に人の良い笑顔を向けながら防具を売ってくれた主人の物なのだろう。

 それ以外の場所にも人骨のような物が落ちている事から、店主の家族の物である事も想像できた。

 

「…………はこ…………」

 

「メルエ! 遺品に手を掛けては駄目だと教えただろう!」

 

 止めどなく溢れる感情を抑える事に必死だったリーシャは、カミュのマントから顔を出し、見付けた木箱に近寄ろうとするメルエに声を荒げてしまった。

 びくりと身体を震わせたメルエが涙目でリーシャを見つめ、再びカミュのマントの中に潜り込む。そのメルエの姿を見て、リーシャは激しく後悔するのだ。

 

「……開けてみるぞ……」

 

 メルエをマントの中に匿ったカミュは、木箱へと近づき、リーシャへと振り返った後、その木箱に手を掛けた。

 ゆっくりと開かれる小さな木箱の中身を見ようと、マントから首を出したメルエの頭を優しく撫で、リーシャもカミュの後ろから木箱を覗き込む。

 

「ラ、ランプですか?」

 

 同じように木箱を覗き込んだサラは、その木箱の中に入っていた予想外の物に驚きの声を上げた。

 サラの言葉通り、木箱の中に入っていたのは古ぼけた小さなランプ。しかし、カミュはそのランプにではなく、今開けた木箱に視線を落としていた。

 

「どうした?」

 

 ランプを取り出すのではなく、木箱を持ち上げ、その側面を見ていたカミュを、リーシャは不思議に思い、声を掛けた。

 リーシャの声を無視するかのように、カミュはその木箱を暫しの間眺めた後、木箱を持ち上げ、リーシャの目の前に突き出す。

 

「……これに見覚えはないか……?」

 

「ん?……なんだ?……何かの紋章か?」

 

「あっ!?」

 

 尋ねるカミュの意図を理解する事ができず、リーシャは首を傾げる。しかし、カミュが持ち上げた木箱に記された刻印を見て、サラは声を上げた。

 以前に見たことのある紋章。

 それは、ほんの数ヶ月前にサラが初めて目にし、そして今や自分達が世界を渡る為に乗る船の側面にも記された紋章。

 

「……ポルトガの国章……」

 

「ど、どういうことだ?」

 

「……日付と共に押されている。おそらく、貿易によって船出した物だろう……」

 

 国の紋章と共に日付が記されており、それはカミュの予想通り、船出の日付か、ポルトガの出国許可が下りた日付なのだろう。

 カミュの考えが正しいとすれば、この武器屋の主人は、この国の特産や武器や防具を乗せ、ポルトガへと向かい、そこで商売を行った後、ポルトガで見つけたこのランプを購入して来たのだろう。

 

「しかし、貿易で得たにしては、古ぼけたランプだな」

 

「私達には解りませんが、何か希少な骨董品なのかもしれませんね」

 

 ランプを手に取ったリーシャは、そのランプをまじまじと眺めた後、横で見ていたサラへと手渡した。

 何か伝承などがあるのかもしれないと隅々まで見ていたサラだが、結局、『商人』ではない彼女にはその物の価値を確かめる事はできなかった。

 

「…………でる…………」

 

「ん?……そうだな。下へ降りよう」

 

「えっ!? このランプも持って行くのですか?」

 

 何かに耐えられないように顔を歪ませていたメルエの言葉を聞き、リーシャはメルエを抱きかかえ、下へと続く階段を下りて行く。手に持ったランプを置いて行くかどうかを悩んでいたサラは、その答えを隣にいるカミュへと求めた。

 

「……ここに置いていても仕方がない……ランプがあるのなら、この先の旅にも役立つだろう」

 

「……そうですか……」

 

 サラからランプを受け取ったカミュは、そのまま木箱の中へと仕舞い、リーシャの後を追うように階段を下りて行く。どこか釈然としない想いを持ちながらも、一人になる事を恐れたサラは、慌ててカミュを追って駆け出した。

 

 

 

「しかし、カミュ。あのランプを持って行く事は良いが、あのような古ぼけたランプで大丈夫か?」

 

 外に出た一行は、村の探索を終え、出口付近に近付いていた。そこで、先頭を歩くカミュにリーシャが先程から感じていた疑問を口にする。確かに、かなりの年代物に見えるランプに火が灯るのかどうかはリーシャでなくとも不安に思う事。

 実際、ランプの中に油が入っていたとしても、この村が滅びて十年以上放置されてきた物なのだ。

 

「……火を入れる時にでも解るだろう……」

 

「いざ火を入れてみて、点かなかったでは、持って行くだけ無駄だろう」

 

 カミュの言葉に返したリーシャの言い分は尤もな物だった。サラは、死者の持ち物を勝手に持ち出すことに抵抗を感じていたため、一も二もなく、リーシャの提案に賛同した。

 

「……わかった」

 

 一度大きな溜息を吐いた後、周囲に落ちている枯れ木を拾い集め、火を熾し始める。太陽が真上に位置する場所にある時間帯に火を熾す事自体珍しい事なのだが、リーシャとサラは、カミュの行動をただじっと見つめていた。

 

「メルエ、危ないからこっちにおいで」

 

「…………ん…………」

 

 カミュのしている事を興味深そうに見ていたメルエを呼び寄せたリーシャは、煙が出始めた枯れ木の一本を取り上げたカミュの片方の手にあるランプを見つめる。

 赤々と燻る枯れ木を、蓋を開けたランプに差し込んだ時、一行は再び不可思議な現象を目の当たりにするのだ。

 

 火が灯る筈のランプの中身は、赤い炎ではなく、真黒な闇が広がり始める。驚き目を見開くサラの視界は瞬時の内に暗い闇に支配されて行った。

 ランプに灯った暗闇は、ランプを飛び出し、周囲に染み渡って行く。そして、辺りを夜に染めて行った。

 

「ようこそ、テドンの村へ」

 

「……カミュ……私は夢でも見ているのか……?」

 

 夜の闇に支配された<テドンの村>は、先程までの光景とは掛け離れた賑わいを見せていた。昨晩と同じように、人々は生き生きと動き回り、その表情には笑顔さえ浮かんでいる。

 それは、リーシャの言うように、夢でも見ているかのような不可思議な光景だった。

 

「……ふぅ……」

 

「……カミュ様……そのランプは……」

 

 目の前に広がる光景に、カミュも驚きを感じてはいたが、リーシャの驚愕ぶりを見て、逆に冷静になってしまっていた。

 正直、この村に関しては、今更何が起きようと、驚くに値する物などないのだ。

 

「……さぁな……いずれトルドにでも尋ねてみるさ」

 

 サラの問いかけに素気ない答えを返したカミュは、そのまま真っ直ぐ歩き出す。

 真上に昇っていた筈の太陽が消え失せ、夜の闇が支配する村に変わった事だけでも驚きなのにも拘わらず、歩き出したカミュに向かって声をかける村の人々の姿を見て、リーシャは言葉を失っていた。

 

 何故なら、この村の住民は、確かにカミュ達を覚えていたのだ。昨晩をこの村で過ごし、朝を迎えたカミュ達ではあるが、朝にはこの村は滅びた時の姿に戻っていた。それにも拘らず、再び夜に戻ると、昨晩の事を覚えている。

 それは、この村が夜の間だけ時間が経過している事を示しているのだ。

 

「……サラ……すまない。もう、私では理解する事など不可能なようだ」

 

「い、いえ……リーシャさんだけではありませんよ」

 

 匙を投げるように、考える事を放棄したリーシャを見て、サラは自分も同じ思いである事を伝える。茫然と村を眺める二人を置いて、カミュは既に目的地へと辿り着いていた。その事に気がついたサラは、未だに村を眺めているリーシャの手を引き、カミュの下へと駆け寄って行く。

 

「……メルエ……」

 

「…………ん…………」

 

 カミュが辿り着いた場所は、昨晩木戸が開く事はなかった場所。そして、朝はカミュ一人が中へと入って行った家屋だった。

 カミュから掛けられた声に、メルエは肩から下げたポシェットに手を入れ、小さな鍵を取り出した。それは、イシスの国宝とも謳われた物であり、『開かぬ扉はない』とまで云われた<魔法のカギ>。

 

「カミュ様、何を……」

 

 カミュの行動を咎めるようなサラの言葉を無視し、カミュは<魔法のカギ>を鍵穴へと差し込んだ。

 メルエはカミュの足下から木戸を見上げている。その瞳には、気付かない程の小さな『期待』と『不安』が入り混じっていた。

 

「……開きはしないか……」

 

「えっ!? <魔法のカギ>でも開かないのですか?」

 

 カミュの予想外の言葉に、先程までカミュの行動を咎めようとしていたサラでさえ、奇妙な事を口にしてしまう。今までの旅で、<魔法のカギ>が開けられない扉などなかった。

 開錠の術式が組み込まれ、魔法の力で扉を開くと云われているカギでも開かない扉。

 それは、サラの許容範囲を大きく超えていた。

 

「……扉自体に強力な力が掛けられているのか……それとも……」

 

「強力な力だと?……こんな辺鄙な村にか?」

 

 手に持つ<魔法のカギ>を見つめながら呟いたカミュの言葉に、リーシャは頭に浮かんだ疑問を口にしてしまう。リーシャの発した内容に、サラは慌てて周囲を見渡してしまった。

 

「さぁな。いずれにしろ、今の段階で、この木戸を開ける事は不可能だ。そうだとすれば、もう、この村に用はない」

 

「……カミュ様の試したい事とはこれだったのですか……?」

 

 サラの問いかけに、カミュは一つ頷きを返す。カミュが、昼間にこの建物内で何を見たかは語られる事はなかった。それでも、カミュが夜にこの建物の中に入る必要性を感じた事は事実。

 そして、それが現段階では不可能である事もまた事実なのだった。

 

「お主達が、『魔王討伐』に出ている者達か?」

 

「!!!」

 

 三人が、開かずの扉の前で佇んでいると、不意に後方から声が掛かる。慌てて振り向いた三人の視線の先には、年老いた一人の老人が杖を付いて立っていた。

 老人の表情はとても柔らかく、カミュ達を眺める瞳は優しさに満ちている。

 

「驚かせてしまったかな?」

 

「……いえ……申し訳ございません」

 

 老人の問いかけに仮面を被ったカミュは、丁寧に頭を下げる。『そうか』と一つ頷いた老人は、リーシャ達を眺めた後、再び口を開いた。

 まるで、この場所へカミュ達が来訪する事を待っていたかのようなその口ぶりは、彼らの旅の道標となる

 

「お主達のような若者こそ、これからの時代を作りし者。『勇者』殿、良いですかな? 『魔王』の下へ行くのならば、まずはどんな扉をも開く事が出来ると云われる<最後のカギ>を見つけられよ」

 

「……最後のカギ……?」

 

 カミュを『勇者』と認めて尚、忠告のように語る老人の言葉は、カミュ達の胸に刻み込まれる。その話の一部分に出て来た名前に、一行は首を傾げた。

 

「ふむ。<最後のカギ>とは、神が作りし物と伝えられておる。世界中のどんな鍵も開けてしまう程の力を有しておるとの事。その鍵の力を危惧したルビス様の手によって、封印されてしまったと語り継がれておる」

 

「そんな物が……」

 

 ルビスという名に反応を示したサラは、それ程強大な力を持つ物がこの世界に存在していた事に驚きを表した。リーシャも同様に、初めて聞く名と、その効力に驚き、ただ老人を眺めることしか出来ない。

 唯一人、カミュだけは老人を訝しげに眺めていた。

 

「バハラタの遥か南の島にある<ランシール>に向かいなされ。そこに<最後のカギ>に纏わる伝承が伝えられていると聞く」

 

「……分かりました……ありがとうございます」

 

 カミュが丁寧に頭を下げるのを見て、老人は満足そうに頷く。そして、『勇者殿の歩む道に幸あれ』という言葉を残し、老人は去って行った。

 残された一行は、お互いの顔を見て、同時に頷き合う。

 次の目的地は決まった。

 突如として舞い降りた情報。

 それが老人の好意であれ、何かの罠であれ、元々カミュ達に選択肢などない。

 

「……カミュ……」

 

「……ああ……いずれ、この村に再び戻る時が来る」

 

「えっ!? ま、またここを訪れるのですか?」

 

 リーシャとカミュの考えは噛み合っていたが、一人それを望まぬ人間がいる。それは、何も霊魂を恐れているという理由からだけではない。昼間の凄惨な姿を見たサラは、自身の中で渦巻く想いを抑える事に必死だったのだ。

 

 魔物に襲われた人の暮らす村。

 その姿は、サラの想像を遙かに超える程の惨状だった。

 『やはり、魔物と人が共存する事は不可能ではないか?』

 『やはり、魔物は悪なのではないか?』

 そんな想いがサラの頭の中に浮かんでは消えて行く。

 

「サラは、この村が滅びた理由を知らなければならない筈だ。その事から目を背ける事は、許されないのではないか?」

 

「……はい……」

 

 リーシャの言葉は厳しい。

 『何故、この村が襲われたのか?』

 『何故、このような小さな村でなくてはならなかったのか?』

 それを知らないことには、サラは答えを導き出す事は出来ない。

 いや、それを知らない以上、導き出してはいけないのだ。

 

「よし。さあ、行こう」

 

 弱々しい声ながらも、しっかりと頷いたサラに笑顔を向け、リーシャがその背中を押した。

 出口へと向かって歩き出した一行は、夜の闇に響く村の喧騒を振り返る事なく、村を後にする。

 

 今日もまた、滅びし村の時は進む。

 滅びた時のままに、村の時を凍らせながら。

 いつしか、時の呪いが解かれるその日を待ち望むように。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今までで最長の話です。
これも、区切りが難しく、このような形になりました。
読み辛く感じられたとしたら、申し訳ありません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

『勇者』として『必然』を引き起こしながら、自身の父では救う事が出来なかった者達を確実に救って行っている事にまだ自覚はない。だが、彼の後ろを護る仲間達の存在が彼の心に変化を及ぼしている事もまた事実。見えない小さな変化を繰り返し、一歩ずつ成長を続けている。

 

【年齢】:17歳

年齢に似合わない考え方は、彼の育ちが影響している。ただ、リーシャ曰く、彼の表情は、アリアハンを出た当初よりも変化する頻度が上がっているらしい。そして、その仮面の奥に潜む彼の本質もまた、『人』としてではなく、『生物』としての優しさを有している。

 

【装備品】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガという彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):魔法の鎧

滅びし村<テドン>で購入した鎧。抗魔力に優れ、魔法による攻撃を軽減させる効果を持つ。特別な金属によって制作され、赤紫色のような色彩をしている鎧。テドンでの夜が明けても尚、その輝きは失われず、身を守る防具としての役割を担っている。

 

盾):鉄の盾

 

武器):鋼鉄の剣

カザーブの村で購入してから、一年近くの間装備し続けている剣。数多くの魔物ばかりか、人をも殺めて来た剣の耐久は、既に限界に近づいている。

 

所持魔法):メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

ライデイン

 

 

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

『戦士』であると共に『騎士』としての誇りも有する女性。同じ騎士のなれの果てである<地獄の鎧>へ向けた瞳は、その騎士に対する敬意と共に、死して尚、剣を振るう事しか出来ない者への『哀しみ』を宿していた。

 

【年齢】:不明

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):魔法の鎧

滅びし村<テドン>で購入した鎧。抗魔力に優れ、魔法による攻撃を軽減させる効果を持つ。特別な金属によって制作され、赤紫色のような色彩をしている鎧。テドンでの夜が明けても尚、その輝きは失われず、身を守る防具としての役割を担っている。

 

盾):鉄の盾

 

武器):鉄の斧

ムオルの村で『おおばさみ』という武器を見つけ、思案した結果、片手で振るう事の出来る斧を使い続ける事を選択する。戦士らしく、自分の武器に対する目は確かな物であり、自身の戦闘スタイルに合った武具を選択している。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

『賢者』となって尚、悩み続ける彼女には、もはや自分の感情だけで物事を判断する事は許されはしない。それを一番理解しているのも彼女であった。故に、物事の理由を探り、自分の目で見て、自分の頭で考えようと行動を繰り返す。しかし、自分が一人ではない事も、彼女は知っている。

 

【年齢】:18歳

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇へ手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれている。その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

カミュとリーシャが着用する<魔法の鎧>と同様に、抗魔力に優れた法衣。テドンで暮らす職人が、テドン特産の『絹』という素材を特別な術式を込めて織った物。法衣の特徴である十字は、以前サラが着ていた法衣と違い、とても小さく刺繍されている。まるで、サラが着る為だけに存在するような法衣は、この村にもたった一つしかない物でもあった。

 

盾):うろこの盾

 

武器):鉄の槍

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

      

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       

      【悟りの書魔法】

       キアリク

 

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

魔法という物が自分を象徴する物と思い込み、それを奪われる事に恐怖を覚える。『魔法使い』としての誇りを有し始め、サラが使う『魔道書』の魔法に負けない威力の魔法を行使する事で、それを証明しようと考えている節がある。カミュ達が新たに手に入れた『船』の中では、船員達にも可愛がられ、幸せな日々を過ごしている。

 

【年齢】:7,8歳

未だに社会の一般常識を学んでいる途中であり、文字の読み書きは自分の名前以外はできない。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):アンの服

みかわしの服と同じ素材でできた服。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えた物。

持ち主によって、その形状を変える盾。

また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

 

武器):魔道師の杖

    毒針

 

所持魔法):メラ

      ヒャド

      スカラ

      スクルト

      ルーラ

      リレミト

      ギラ

      イオ  

      ベギラマ

      メラミ

      ヒャダルコ

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございます。

これにて、第七章は終了です。
この七章は多くの疑惑が残っています。
それは、またいつか……

次は第八章です。
この八章は、ここまで描いて来た中で、私が一番好きな章かもしれません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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第八章
~幕間~【テドン近郊海域】


 

 

 

 一行は夜の闇に紛れて<テドンの村>を出た。振り返ると、滅び去った村にも拘わらず、所々に明かりが漏れている。これでは、周囲の人間が恐れて近づかないのも理解できるというものだ。

 

 船までの道程を歩く中、四人は無言を貫いていた。お互いにかける言葉が見つからないのだ。

 先程の不可思議なランプが造り出した闇は、テドンの村だけではなく、世界全体を闇で覆っている。村を出てしばらく歩き続けても、空には大きな月が輝き、星々が煌いている事からそれが理解できた。

 いつもなら、目を擦りながら眠気を我慢している時間帯にも拘らず、メルエもリーシャの手を握りながら黙々と歩を進めている。あの村は、メルエの心にも何かを落としたのかもしれない。

 それが何なのか。そして、どのような影響を与える物なのかは解らない。ただ、それぞれの胸に、それぞれの想いを抱かせた事だけは確かであった。

 

「カミュ……魔物だ……」

 

「……ああ……」

 

 それでも、心を覆う複雑な想いと、鋭敏な感覚は別物である。メルエの手を離し、背中の<鉄の斧>を手に取ったリーシャが、前方のカミュへと声をかけた。

 既に魔物が生み出す空気の変化を感じていたカミュが立ち止まり、同じく背中から<鋼鉄の剣>を抜き放った。

 

「メルエ。こちらに」

 

「…………ん…………」

 

 自分の後方にメルエを呼び寄せたサラがいつでも行動できるように、背中へと手を伸ばしながら周囲を警戒し始める。メルエも<魔道士の杖>を握り、少し上空を見上げるように警戒感を露にした。

 

「えっ? メルエ、上ですか? カミュ様!」

 

「くそ!」

 

 メルエの視線に気付いたサラが、前方を警戒していたカミュへと声を投げかけたのと、カミュの目の前に何かが着弾するのは、ほぼ同時だった。

 

「呪文を使う魔物か!?」

 

「…………ベギラマ…………?」

 

 カミュの前に着弾した閃光は、派手な破裂音を響かせ、周囲を炎の海に変えて行く。間一髪で身を引いたカミュであるが、熱風の余波に巻き込まれ、剣を持つ腕と、顔の一部分に火傷を負っていた。

 急いでカミュを下がらせたリーシャは、サラにカミュの回復を指示し、上空を見上げる。木々が生い茂る森なども近くに無い為、視界は開けている。

 リーシャの視線の先には、人型の魔物が二体。しかも、翼などはどこにも備えていないにも拘らず、その魔物は空中を飛んでいた。

 

「何だあれは!?」

 

 人型である以上、魔物というよりは魔族に近い存在なのだろう。カミュ達の上空を飛び回り、ある一定の距離を置いている。

 部屋を掃除する竹箒のような物に跨り、一行を見下ろし、そして、虎視眈眈と先程カミュ目掛けて唱えた<ベギラマ>を行使する機会を伺っていた。

 

<魔女>

魔族の中でも、呪文を使う事を得意とする者。それは、老婆のような姿形をしてはいるが、『人』とは違い、年齢を重ねた為の姿形ではないのかもしれない。『人』の中にいる『魔法使い』と同様に、呪文に重きを置いているため、武器を取っての打撃などは然したる脅威ではない。しかし、魔族が使用する強力な魔法は健在であり、まるで、その威力を試すかのように、人々に襲いかかる。

 

「メルエ、魔法の準備だ!」

 

 リーシャの指示を受け、一つ頷いたメルエは、上空を旋回する<魔女>目掛けて杖を掲げた。しかし、その杖は、カミュの治療を終えた『賢者』によって下げられてしまう。

 

「待って下さい。この現状では、メルエの攻撃魔法も最大の効力を発揮する事は出来ません。何とかあの魔物達を近づけなければ」

 

「……どうするつもりだ……?」

 

 上空を見上げたまま口を開くサラの考えに、治癒を終えたカミュが声を掛ける。カミュにしても、リーシャにしてもサラの考える作戦に異を唱えるつもりはない。その作戦の中で自分達が出来る役目を全うするために問いかけているのだ。

 

「テドンで購入したスカートを履いたメルエならば、もしかすると魔族が唱える<ベギラマ>も<ヒャダルコ>で押し返せるかもしれません。私達も幸い魔法に耐性のある防具を購入しています」

 

「……ああ……それなら、アンタの出番だな」

 

「なに!? 私か!?」

 

 サラの話す内容に、カミュは何か思い当たったのか、リーシャの方へと視線を移した。

 突然自分に話を振られたリーシャは驚き戸惑う。彼女の中では、サラの作戦が全く理解できないのだ。

 

「一瞬で良いです。ほんの少しだけでも、あの魔物の高度を下げてください」

 

「……斧でも投げつけたらどうだ……?」

 

「なに!?」

 

 <魔女>の高度を下げた後、サラが何を考えているのか、リーシャには全く想像できない。しかも、口端を上げたまま洩らすカミュの言葉は、どう考えてもからかいの言葉に聞こえてしまうのだ。

 

「でも、それしか方法はないのかもしれません……方法はお任せします。何とかあの魔物の高度を下げてください」

 

「……わかった」

 

 カミュは別にしても、サラの言葉が真剣な想いを乗せていることに気付いたリーシャは、表情を引き締め、一つ頷きを返した。

 その時、再び上空を旋回する<魔女>から光弾が降り注いで来る。一行が固まっている事を確認した<魔女>が再び<ベギラマ>を放ったのだ。

 

「メルエ!」

 

「…………ヒャダルコ…………」

 

 サラの声に反応したメルエが、大きく杖を振るう。熱気を撒き散らしながら落ちて来る光弾がメルエの杖から発した冷気とぶつかり合い、大きな破裂音を響かせた。

 魔族の中でも『魔法』に重きを置く者の作り出す灼熱呪文は、『人』の中でも逸脱した『魔法使い』の生み出す氷結呪文と衝突し、上空で激しく優劣を争う。

 

「リーシャさん!」

 

「おう!」

 

 上空で激しくぶつかり合う、対立する魔法を見上げたサラは、自分の隣にいる女性戦士へと声をかける。サラの言葉に力強い答えを返したリーシャは、横にいるカミュへと目配せをし、頷き合った。

 カミュとリーシャの利き腕には、拳大ほどの大きな石。大きく振り被ったカミュとリーシャは、そのまま渾身の力を込めて、上空を旋回する二体の<魔女>に向かって石を投げつけた。

 

「!!」

 

 『人』である筈の者が行使した魔法によって、自身の唱えた<ベギラマ>が相殺され、今まさに圧し返されそうになっている事実に茫然としていた二体の<魔女>は、下から凄まじい速度で襲いかかって来る暴力に反応する事が一歩遅れてしまう。

 

 一体は箒を持つ腕に石が直撃し、一体は箒を跨る腰の部分に凄まじい衝撃を受けた。

 世界でも有数の力を有する『人』が全力で放った物である。その加速と共に大きな殺傷力も持ち合わせた石の直撃を受け、<魔女>の身体を形成する骨子に多大なダメージを与えた。

 

「サラ!」

 

「はい!」

 

 突然襲った衝撃に、<魔女>はバランスを崩し、高度を低下させた。カミュやリーシャが己の武器を振るうには、まだ距離がある。だが、パーティー内で最高の補助魔法の使い手にとっては守備範囲であった。

 

「マホトーン」

 

 右手を大きく上空に向けたサラの叫びが、闇に包まれた平原に響き渡る。メルエの<ヒャダルコ>等とは違い、周囲の空気に影響はないが、サラの唱えた呪文は確実に<魔女>の身体の内を蝕んで行った。

 

「カミュ!」

 

「……ああ……」

 

 何かが狂ってしまったように、<魔女>は平衡感覚を失い、高度を下げるというよりは、完全に落下という感覚で落ちて来る。落下して来る<魔女>に合わせるように、カミュとリーシャは駆け出した。

 しかし、それぞれの手に武器を握り、落下して来る<魔女>に向かってその武器を振るおうと振り被った時、カミュはその剣を止めてしまう。

 

「カミュ?」

 

「……」

 

 カミュに追いついたリーシャは、カミュの様子を見て、手にした斧を振り下ろす事なかった。剣を<魔女>に付き付けたまま、固まったように動かないカミュを不思議に思いながら、視線を向ける。

 <魔女>は突き付けられた刃先を怯えた目で見つめながら、小刻みに震えていた。

 サラの<マホトーン>により、魔力を封じ込められた<魔女>は、もはや飛ぶ事も出来ない。

 自身の魔力を利用し、竹箒という媒体で飛んでいたのだろう。地面に降り、行使する魔法も使えない<魔女>には、カミュ達一行に向かって抵抗する力は微塵もなかったのだ。

 

「……カミュ……逃がすのか?」

 

「……」

 

 カミュの心を察したリーシャが声をかけるが、カミュは無言のまま剣を下げる事はなかった。

 カミュ自身、心の中で複雑な葛藤があるのかもしれない。だが、目の前で怯えた瞳を向けながら、小刻みに震える二体の老婆に剣を振り下ろす事が出来ないのも事実。

 

「この魔族は、<テドン>を襲った者達の一部かもしれないぞ?」

 

 リーシャの瞳は、厳しさを浮かべながらも、優しい光を帯びている。脅威が失せた事を理解したメルエが、杖を背中にしまってカミュの下へ走り寄り、その腰にしがみ付いた。

 視線を落とすカミュに向かってメルエが向けた物は笑顔だった。それがカミュの心の方向を確立させる。

 

「……カミュ様……」

 

「……行け……」

 

 剣を下げたカミュは、その剣を背中の鞘に収める。カミュのマントの中に潜り込んだメルエを伴ってカミュは、その場を離れた。

 何か信じられぬ物を見るように目を見開いた二体の老婆は、暫しの間茫然とカミュの背中を眺めた後、近くに転がる箒を手に取り、脱兎の如く逃げ出して行く。

 

「……仕方がないな」

 

 そんな言葉を呟いて、斧を仕舞ったリーシャの顔にも笑顔が浮かぶ。

 唯一人、何かを思いつめるように、<魔女>が逃げて行った方角を見つめていた。

 

 <テドン>を滅ばした魔物達。

 それは、何より『人』にとっての『悪』以外何物でもない。

 『人もエルフも、そして魔物も平穏に暮らせる世界』を目指すサラにとって、それは受け入れがたい事実であり、許し難い出来事でもあった。

 

「サラ、全てを決めるのは、まだ先の事だろ?」

 

「……そうですが……」

 

 肩に置かれた手に顔を上げたサラは、リーシャの言葉に力無い呟きを残す。苦笑を浮かべたリーシャは、暫し周囲に視線を向けた後、表情を引き締めた。

 リーシャの表情の変化に気がついたサラは、無意識に身構える。こういう時に発するリーシャの言葉は聞き逃してはいけない事を知っているのだ。

 

「また、以前のサラに戻ってしまうのか? 『賢者』とは、そういう者なのか?」

 

「!!」

 

 リーシャの言葉がサラの胸に突き刺さる。それは、小さな棘ではなく、心を粉砕する程に大きな矢となってサラの胸を貫通した。

 再び殻を被ろうとしていたサラの心を粉砕し、新たな光を差し込む程の強い言葉。

 

 『<ダーマ>で志した思いは嘘なのか?』

 『一つの事象で全てを決めつけるのが賢者なのか?』

 『それ程に簡単な想いだったのか?』

 

 リーシャの言葉には、様々な問いかけが混入している。それをサラは痛い程に理解できた。

 誰よりも優しく、誰よりも厳しいこの姉のような女性は、道を逸れて歩き出そうとするサラを、再び正しい道へと引き戻してくれる。

 

「……戻りません……」

 

「ふふふ。自分が変わった事に気付いてはいるのだな」

 

 唇を噛みしめ、沈痛な面持ちで答えるサラに対し、リーシャは表情を緩めた。とても優しく、とても暖かな笑みを浮かべるリーシャを見上げ、サラは再び眉を落とす。

 

「ふふふ。悩め、サラ。サラが悩み、考えた先にある答えは、きっと素晴らしい物だ。私はそう信じている」

 

「……リーシャさんも考えて下さい……」

 

 聞き様によっては無責任なリーシャの言葉を聞いて、サラは恨めしそうにリーシャを見上げた。

 既に、カミュとメルエは、先へと歩き出している。その二人の背中に視線を向けたリーシャは、先程よりも更に優しい笑みを浮かべ、口を開いた。

 

「私達は、サラを信じているからな」

 

 その言葉が示す意味。それが、むくれたサラの心に響いた。

 リーシャだけではない。前を歩くメルエも、そして常に対立して来たカミュも、この悩める『賢者』の導く答えが、素晴らしい物である事を信じて疑わないと言っているのだ。

 

「……頑張ります……」

 

 釈然としない想いは残っている。

 それでも、サラは前を向いて歩き出す。

 自分を信じてくれる人の為にも。

 そして、自分が信じている事の実現の為に。

 

 

 

「おう! どうだった、テドンの村は?」

 

「……」

 

 船に戻って真っ先に掛けられた頭目の言葉に、三人は言葉を返す事はできなかった。

 無言で船に乗って来る一向に、何かを察したのだろう。頭目は、『今夜はゆっくり休みな』という言葉を伝えて、乗組員の下へ歩いて行った。

 

 <テドンの村>を出てから既に一日が過ぎた。

 再び訪れた夜の闇は、それぞれの想いも深く沈みこめ、深々と更けて行く。

 

 

 

 翌朝、カミュ達が甲板に出ると、既に船員は出航の準備を終えていた。後は、錨を上げ、進路に向かって帆を向けるのみ。

 船員達がそれぞれの持ち場に付き、船長であるカミュ達四人の指示を待っていた。

 

「次の目的地はどこだ?」

 

 彼ら乗組員の目的は、『貿易』の筈。しかし、ポルトガを出てから、既にかなりの月日が経つにも拘らず、彼等の目的は達成されてはいない。それでも、彼等はこの勇者一行の歩む道に異論を挟む事はなく、目的地を笑顔で尋ねている。

 

 『次はどこへ行けるのか?』

 

 そんな好奇心にも似た期待が、彼らの船乗りとしての喜びなのかもしれない。実際、彼等はポルトガの国で、出港に際して、ある程度の資金を国から手渡されている。故に、しばらくの間は飢えに苦しむような事はないのだ。

 

「……ランシールという場所へ行きたい……」

 

「ランシール?」

 

 カミュの言葉に、頭目は少し考えるように視線を外す。

 そして、何かを思いついたように、手を叩いた。

 

「ああ。ジパングの遥か南の島にある村か……」

 

「……ジパング……?」

 

 頭目の言葉に、今度はカミュがその名を聞き返す。後ろにいるリーシャやサラも聞き覚えのある名に視線を移した。

 それは、ポルトガを出てすぐに立ち寄った灯台にいた男が口にした名。

 『黄金の国』という異名を持つその国に、以前もカミュは妙な反応を返した。

 

「カミュ様は<ジパング>という国をご存知なのですか?」

 

「そうなのか?」

 

 以前のカミュの反応を思い出し、サラは奇妙な表情を浮かべているカミュへ問いかける。釣られて振り向いたリーシャの視線を避けるように顔を背けたカミュであったが、避けた方向にはカミュを見上げるメルエの瞳があった。

 

「……昔、聞いた事がある名だっただけだ……」

 

「どんな国なのか知っているのか?」

 

 メルエの視線を避ける事が出来なくなったカミュが呟いた言葉に、リーシャは追及の手を緩めない。それを苦々しく見つめたカミュは、軽く舌打ちをした後、沈黙を貫き通そうとした。

 

「…………いく…………?」

 

 しかし、カミュを見上げたメルエの一言に、カミュは観念せざるを得なかった。大きな溜息を吐いた後、頭目へと視線を移したカミュの瞳を見て、頭目は笑顔で一つ頷きを返す。

 目的地が決まった。

 この先は、この船の船乗り達の仕事である。

 

「よし! 野郎ども! 目的地は<ジパング>だ!」

 

「オォォォォォ」

 

 頭目の指示に返って来た声が、青く晴れ渡った空へと轟く。

 一行を乗せた船は、<テドン>近郊の海岸から東へと進路を取ったのだ。

 

 

 

 陽が傾き、海風が次第に冷たくなって行く。木箱に乗り、海を眺めていたメルエは、次第に見えなくなって行く景色に眉を落とし、残念そうにリーシャの下へと戻って来た。

 船酔いが酷くなったサラと共に船室へと入って行ったメルエの背中を見送った後、リーシャは甲板の先から進行方向を眺めているカミュの傍へと近寄って行く。

 

「先程は、聞きそびれた。<ジパング>という国に何かあるのか?」

 

「ちっ!」

 

 傍に寄って来たリーシャの言葉に、あからさまに表情を歪め、カミュは一つ舌打ちをする。それが、リーシャの質問を歓迎していない事を示しており、リーシャは深く溜息を吐いた。

 カミュが本気で話したくない事であれば、どれ程に追及しても答えが出て来る事はないだろう。それを理解しているからこそ、リーシャは次の言葉を綴ったのだ。

 

「言いたくないのなら、それで良い。だがな、カミュ。お前はこのパーティーの要なんだ。お前が揺らげば、サラの悩みは深くなる。お前が苦しめば、メルエが哀しむ」

 

 カミュから視線を外し、夜の甲板で忙しなく動き回る船員達を見ながら、リーシャは言葉を綴る。その言葉を聞いているのかいないのか、カミュは夜の海を眺めていた。

 船の上に暫しの沈黙が流れる。

 

「……要は、アンタだと思うが……」

 

「ん?」

 

 どれ程時間が経過しただろう。視線を動かさず、口を開いたカミュの言葉をリーシャは聞き逃してしまった。

 それ程小さく、夜風に乗って消え去って行くようなカミュの呟きは、リーシャの耳には届かなかったのだ。

 カミュへと再度視線を移したリーシャの瞳を見る事なく、カミュは大きな溜息を吐き、夜空を見上げる。陽が落ち、冷たくなった夜風を受けて靡く帆の隙間から、今宵も大きな月がカミュ達を照らしていた。

 

「……俺の祖母の故郷らしい……」

 

「なに?」

 

 夜空に浮かぶ大きな月を見上げながら、カミュは重たい口をゆっくりと開いた。

 カミュの口から出て来た言葉を、リーシャは思わず聞き返してしまう。それ程に衝撃の強い内容だったのだ。

 

<ジパング>

『黄金の国』という異名をとる国。しかし、その詳しい国情は世界に広まってはいない。ただ、その国は世界のどの国にも属す事はなく、交流も持つ事がない程に排他的である事だけは伝えられていた。独自の文化を持ち、独自の国家を形成している。その中には信仰の問題もあり、全世界の人間が信仰する『精霊ルビス』を信仰の対象とはしていない。その他の神を崇め、独自の信仰を貫いている。それが、全世界には異教徒として映り、<ジパング>自体の評価を貶め、その国の発展を拒んでいる可能性すらあるのだ。

 

「そうか。ニーナ様方のご祖母か?」

 

「……いや……」

 

 リーシャは、<ジパング>が異教徒の暮らす国である事を知りはしない。それでも、彼女が生まれた頃からアリアハンの国に住んでいたオルテガと他国が結び付かなかった為、オルテガが旅に出ていた時に連れて来た妻であるニーナ方の家系の事だと考えたのだ。

 だが、カミュは、そんなリーシャの言葉に対し、静かに首を横に振った。

 

「では、オルテガ様の母君という事か?」

 

 リーシャの問いかけに、カミュは黙して何も語らない。

 だが、それが雄弁に肯定を示していた。

 

「ふぅ……わかった」

 

「……」

 

 カミュが何も言葉を繋げようとしない事に、リーシャは溜息を洩らす。

 そして、一度目を瞑った後、カミュへともう一度視線を送った。

 

「それがどうしたと言うんだ? 何か不都合な事でもあるのか?」

 

 今度はカミュが溜息を吐く番だった。

 リーシャは<ジパング>の内情を知らない。故に、そのような事を口に出来るのだ。

 だが、例え<ジパング>に足を踏み入れ、その内情を目の当たりにしたとしても、リーシャは今と同じ問いかけをするのかもしれないとカミュは思ってもいた。

 

「……行けば解る……」

 

「そうか」

 

 カミュは<ジパング>の国情もある程度は知っている。それは、祖母から聞いた訳ではない。カミュが生まれた時には、祖母は他界していた。

 そして、その国情を知っているからこそ、そこに立ち寄る事を憂鬱に思うのだ。

 

 異教徒の暮らす国。それは、ルビス教を心から信仰するサラという『賢者』にとっては許し難い事であろう。

 とすれば、サラが拒絶反応を示す可能性が高い。昔のカミュなら、その事を懸念する事などなかっただろう。だが、それもカミュの変化の一つ。

 カミュが何を危惧し、何を恐れているのかは解らない。それでも、リーシャはカミュの言葉に納得し、一つ頷いた。

 

 リーシャは、目指す国が『黄金の国』という異名とは別に、『|日出(ひいず)る国』という名がある事は知らない。それは、ジパングという国で暮らす人々の中で伝えられている名であるのだから当然と言えば、当然の事である。

 しかし、彼らが乗る船は、奇しくも陽が昇る方角へと進んでいる。つまり、今、カミュもリーシャもその方角に向かって視線を送っているのだ。

 

 夜が明ければ、そこには新たな大陸が広がっている事だろう。

 そして、その大陸は、この一行にとって新たな難題を提示して来る筈。

 それに潰されるのも、乗り越えるのも、彼等次第。

 

 船はゆっくりと闇を搔き分けるように進んで行く。

 

 

 

 

 

 陸沿いに数日間船を走らせる中、カミュ達は数度の戦闘を行った。以前に遭遇した<マーマン>や<しびれくらげ>が大半であり、カミュは<しびれくらげ>の毒手から護るかの様にメルエの前に立ちはだかり、魔物達を駆逐して行く。リーシャもまた、カミュの護るメルエを気にかけながら斧を振っていた。

 それというのも、船上でメルエの魔法が使用できないためなのだ。

 木造の船の上で、メルエの放つ<ベギラマ>等は以ての外であり、氷結呪文もまた、船に損傷を与える可能性が高い以上、船上での戦闘でメルエの出番は限りなく無いに等しいのである。

 

「…………むぅ…………」

 

「そうむくれるな。陸に上がれば、またメルエに出番が回って来るさ」

 

 ほとんどの魔物をカミュとリーシャで倒し終わると、メルエはカミュの背中から顔を出し、不機嫌そうに頬を膨らませた。

 そんなメルエの頭を優しく撫でたリーシャは、宥めるように言葉をかける。リーシャを見上げ、頬を膨らませたままのメルエが小さく頷いた。

 

 何度かの戦闘を繰り返す中、カミュ達の船はゆっくりと東へと進む。陸沿いに走る船から見える景色は変わり、次第に以前見た事のある景色が広がり始めた。

 海から流れ込む川の近くに、町を護る壁が見えてくる。

 

「あれは、バハラタですか?」

 

「ああ。バハラタが見えたなら、ジパングまではもう数日で着くさ」

 

 メルエの横で景色を眺めていたサラの疑問に答えたのは、船員に指示を出しながら甲板を歩いていた頭目だった。

 陽が傾き始め、夕日が周囲を真っ赤に染める中、予定の目的地までの日数を聞き、サラはげんなりと溜息を吐き出す。

 

「…………サラ………いたい…………?」

 

「えっ!? だ、大丈夫ですよ……うっぷ……」

 

 サラの顔色を心配したメルエが声をかけるが、この先、数日間も船に乗って行く事を想像したサラは、先程まで落ち着いていた容態を悪化させ、込み上げて来る物を抑えるのに必死になっていた。

 

「サラ、船酔いは魔法で何とかならない物なのか? この前、メルエを救ってくれたあの魔法とか、何かあるだろう?」

 

「……うぉえ……あ、ありませんよ……あったら……うっぷ……既に唱えています」

 

 サラの容体に若干呆れ顔を浮かべるリーシャの問いかけに、サラは怒る気力もなく答える。船酔いに効果のある魔法など聞いた事もない。それはカミュも同様で、リーシャに視線を向け、軽く溜息を吐いていた。

 

「なんにせよ、まだ道程は長い。サラは船室で休んでいろ」

 

「……はい……」

 

 サラの抗議等どこ吹く風で、リーシャはサラに休むよう指示を出す。薄情なリーシャの言葉に反論する気力もないのか、サラは一つ頷くと、奥の船室へと歩いて行った。

 ここ数日、ずっと船の上で揺られているのだ。サラの状態は仕方がない事とはいえ、このままリーシャ達と共にいれば、いざ上陸した時に体力を消耗してしまっている可能性もある。そこまで考えてのリーシャの言葉だった。

 

「メルエも眠くなったら、船室に行っても良いんだぞ?」

 

「…………ここ………いる…………」

 

 夕陽が沈み切り、辺りを闇が支配し始めた船からは、もはや景色は見え辛くなっていた。残念そうに肩を落とすメルエにリーシャは声をかけるが、一度首を横に振ったメルエは、『とてとて』とリーシャの傍まで駆け寄って来る。

 

「よし。悪いが、俺も交代で休ませてもらう」

 

「……ああ……」

 

 日中に働きづくめであった頭目がカミュへと声をかけ、船室へ入って行く。それぞれの船員が船室へと入って行き、日中休んでいた人間達が入れ替わりで甲板に出て来た。

 夜の間の航海は、彼等にかかっているのだ。一人一人、カミュに挨拶のように声をかけて行く。

 カミュは一つ一つ頷きで答え、そんな船員達をリーシャも頼もしく迎えた。

 

 

 

 夜も更け、いつの間にかメルエは、甲板の上で座るリーシャの足元で寝息を立てていた。それに気付いた船員の一人がリーシャに温かな毛布を手渡し、リーシャはそれをメルエに掛けてやる。

 メルエを起こさないように座り込んだまま空を見上げると、今日もまた大きな月が輝いていた。

 

「カミュ、お前も眠ったらどうだ?」

 

「……ああ……」

 

 基本的に、カミュは何故か船上で眠る事が少ない。最初は、『何故だろう?』と考えていたリーシャであるが、最近になってその理由が朧でながら理解できるようになった。

 それは、リーシャがようやく理解し始めたカミュの心の中にある一つの想い。

 

「お前が起きていても、この船の上では、お前の仕事はないぞ?」

 

「……わかっている……」

 

 振り返りもせず、どこか不貞腐れたような声を出すカミュに、リーシャは軽い笑みを浮かべる。

 カミュが眠らない理由。

 リーシャが考えるそれは、『皆が働いているにも拘わらず、自分だけ眠っても良いのか?』という子供のような考えではないかという物だった。

 実際、リーシャの言うように、カミュが起きていたとしても、この船の上でカミュが出来る事は何もない。いや、魔物が出て来た時には仕事が回って来るだろう。

 そして、それこそがもう一つの理由。

 『眠っていたら、魔物が出て来た際、自分が行く前に誰かが魔物の犠牲になってしまうかもしれない』という想いなのかもしれない。

 リーシャはそんな事も考えていた。故に、カミュに付き合いながら甲板にいるのだ。

 

「……アンタこそ、メルエを連れて眠れ……」

 

「大丈夫だ。少し夜風を受けたい気分なんだ。メルエは毛布をしっかり掛けているし大丈夫だろう」

 

 実際、カミュとリーシャで交代制にし、夜の見張りをすれば良いのだが、今夜の海風は暖かな風を運び、とても過ごし易い夜になっていた。

 もしかすると、雨が近いのかもしれない。だが、今はこの暖かな心地よい風を受け、リーシャは軽く微笑む。

 

 船は、交代した船員達の手によって、暗い夜の闇の中を突き進む。

 リーシャの頬を撫でる風を、大きく広がった帆が掴み、船の速度を上げて行った。

 

 

 

「ジパングが見えたぞ!」

 

 どれぐらいの時間が経過しただろう。空がうっすらと白み始め、リーシャが『うとうと』と舟を漕ぎ始めた頃、マストの上にある見張り台に居た船員が大きな声で目的地の発見を告げた。

 その声に、落ちていたリーシャの頭が上がり、周囲を見渡すように動き出す。

 

「…………うぅぅん…………」

 

 自分の腰付近にしがみ付くように眠っているメルエが身動ぎするのを見て、リーシャは慌てて動きを止め、カミュへと視線を送った。

 視線を受けたカミュは、溜息を吐きながら、メルエを起こさないように抱き上げる。足下が軽くなったリーシャは立ち上がり、メルエを抱き上げたカミュの隣に立ち、視界に入って来る光景に驚き、目を見開いた。

 

「……美しい……」

 

「……」

 

 遠い先に広がる大地の向こうから、朝陽が昇って来る。

 白み始めた空を、光で包み込む太陽の出現に、アリアハンよりも小さな大陸が徐々に全貌を現して行った。

 その光景に、リーシャの瞳は理由の解らない水分で濡れて行く。

 何故だかは解らない。それでも、その光景がリーシャの胸に響き、込み上げる感情を抑える事が出来なかったのだ。

 

 不意に、リーシャは隣に立つ青年が気になり、瞳を向ける。そして、そこで目にした物に、理由の解らない涙はリーシャの頬を伝い甲板へと落ちて行く。

 リーシャの視線の先に立つカミュは泣いていた。

 リーシャのように涙を見せている訳ではない。瞳が潤んでいる訳でもない。それでも、リーシャにはカミュが泣いているように見えたのだ。

 何故そう見えたのかはリーシャにも解らない。

 

「……『日出る国』か……」

 

「ぐずっ……な、なんだ、それは?」

 

 カミュが呟いた言葉に、リーシャが鼻をすすりながら問いかける。

 <ジパング>が『黄金の国』と呼ばれている事は、リーシャも覚えていた。

 しかし、カミュが呟いた別名は聞いた事のない物だったのだ。

 

「『陽が昇る場所にある国』……ジパングで暮らす人間は自国をそう信じているそうだ」

 

「そんな自分勝手な……」

 

 カミュの言葉に、リーシャは言葉を失った。リーシャの洩らした言葉に、カミュは皮肉気に口元を歪ませる。まるで、自国が世界の中心にあるかのような考えは、リーシャとしても受け入れる事の出来ない物だったのだ。

 

「大抵の国は、自分勝手な物の筈だが?」

 

「ぐっ」

 

 カミュの口元は、いつの間にか口端を上げるような物に変化していた。リーシャを嘲笑するような、嫌味な笑みを見て、リーシャは口籠る。

 確かに、アリアハンを出た当初のリーシャは、そんな国の立場に立ち、何度もカミュへ理不尽で身勝手な理論をぶつけて来た。

 未だにカミュを『勇者』として、『魔王討伐』へ向かわせている事も、国の持つ身勝手さ故と言われれば、反論できる言葉はないのだ。

 

「まぁ、この国はアンタが考えている身勝手さではないだろうがな」

 

「どういうことだ?」

 

 リーシャから視線を外しながら呟いたカミュの言葉に、リーシャは反応を返す。

 メルエを抱き直したカミュは、一つ溜息を吐いた後、再び口を開いた。

 

「ただ、他国を知らないだけだろう」

 

「……他国を知らない……?」

 

 回りくどいカミュの言葉の内容がリーシャには理解できない。だが、この<ジパング>という国に住む人間の血を継いでいる筈の『勇者』の口は、それ以上開く事はなかった。

 もはや語る気はないのだろう。それだけは理解できたリーシャも、それ以上問いかける事なく、太陽の光で輝く大地を眺めていた。

 

 リーシャは、この後、カミュが洩らした言葉の意味を、否が応でも知る事となる。それは、サラとメルエが起き、大地に足を踏み入れ、その目的地に着いた時に明らかとなった。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

第八章の始まりです。
第八章は、この国の出来事となります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ジパング①

 

 

 

 船を岸に付け、上陸したカミュ達は、陸地を北へと進路を取る。充分な睡眠を取ったメルエは、元気一杯に浜辺の岩場で動き回る船虫を追いかけていたが、同じように睡眠を取っていた筈のサラの顔色は優れなかった。

 

「サラ、大丈夫か?」

 

「あっ! は、はい」

 

 顔色の優れないサラを心配して声を掛けたリーシャの脇をすり抜けて、メルエは岩場から近くの森へ向かって行く。そこは森というよりは山への入り口と言っても過言ではない。

 海岸は、これまで上陸した大陸とは違い、砂浜ではなく、ごつごつした岩が集まる岩場であった。

 

「メルエ! 勝手に行くな!」

 

 リーシャの叫びが虚空に舞うが、久しぶりの大地はメルエの気分を向上させていた。

 船の上から見えていた未知の土地。

 そこに上陸した事で初めて出会う小動物達。

 それらを見て、幼いメルエに気持ちを抑えろと言う方が無理な注文であろう。

 サラに肩を貸すように歩くリーシャは、素早く動くメルエを追う事は出来ない。カミュが溜息を吐き出し、メルエの後を追うように歩き出した頃には、メルエは既に森の入口に到達していた。

 

「…………」

 

 満面の笑顔を浮かべ、木の根下で動き回る虫達や、咲き誇る花々を座り込んで眺めるメルエに、周囲を気遣う余裕などない。

 メルエが覗き込んでいた花は、朝陽を受けて輝いていた筈だが、いつの間にか影が射し、花だけではなく、メルエの周囲を暗く染めて行った。

 

「…………???…………」

 

 不意に射した影に顔を上げたメルエの目の前には、メルエの数倍もある体躯を持つ大型の動物がメルエを見下ろすように立塞がっていた。

 見た事もない動物を、メルエは首を傾げて不思議そうに見上げる。これまで遭遇した魔物のようなおぞましい姿をしている訳ではない。本当に自然界に暮らす動物のような姿にメルエは警戒心を浮かべるよりも、逆に好奇心を持ってしまったのだ。

 

「メルエ!」

 

 不思議そうに見上げるメルエの後方から、カミュの普段出す事のない大声が轟いた。それとほぼ同時に、大型の動物の、メルエの顔より大きな掌が振り下ろされる。

 後方から駆け寄るカミュは間に合わない。何が起きているのかも理解できないメルエが、振り降ろされる腕を呆然と見上げてた。

 

「ラ、ラリホー!」

 

 鋭い爪の生えた掌がメルエの頭に振り下ろされる直前に、駆け寄るカミュの後方から聞き覚えのある魔法が発動した。

 的確に大型の動物を直撃した魔法は、その神経を狂わせる。メルエの頭上に落ちる筈だった腕は力無く地面へと落ち、メルエを掠めるように、その大型の体躯も地面へと崩れ落ちた。

 

「サラ!」

 

「……間に合いました……」

 

 リーシャの肩に身体を預けたまま、苦しそうに息を吐き出したサラは、無理やり笑顔を作り出した。そんなサラに、リーシャも柔らかな笑顔を向ける。一瞬立ち止まっていたカミュは、思い出したようにメルエへと駆け寄って行った。

 呆然と崩れ落ちた動物とカミュを見比べるメルエを抱き上げたカミュは、うつ伏せに倒れて眠る魔物を見下して眉を顰める。

 

<豪傑熊>

魔物というよりは、凶暴化した動物と呼んだ方が良いのかもしれない。元々、気性の荒い熊の中でも凶暴な熊が、魔王の魔力を受けてその血をたぎらせた結果に生まれ落ちた魔物。既に同様の熊とは一線を画し、冬眠等もせず山道を歩き回り、山に入って来た『人』を襲う。その力は、もはや熊の物ではなく、魔物の中でも上位に位置する程の物となっており、以前カミュ達は遭遇した<暴れザル>以上の凶暴性と暴力を有するまでになっている。

 

「メルエ! 勝手に動いては駄目だと、あれ程言っただろ!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 サラを座らせ、大慌てで駆け寄って来たリーシャの拳骨がメルエの頭に落ちる。『ゴチン』というカミュでさえ顔を顰める程の音を響かせ、メルエは頭を抱えて涙目になって唸ってしまった。

 

「メルエの身にもしもの事があったら、私達はどうすれば良いんだ!? 何を見ていたって良い。色々な物に興味を示す事は悪い事ではない。だが、絶対に私達の傍を離れるな」

 

「…………ごめ……ん…な……さい…………」

 

 涙を浮かべながら、リーシャの目を見て謝罪の言葉を漏らしたメルエは、カミュの首に顔を埋めてしまう。自分が真剣に怒られている事を悟ったのだろう。

 『ふぅ』と一つ息を洩らしたリーシャは、表情を緩め、帽子を取ったメルエの頭を優しく撫でる。

 

「だが、無事で本当に良かった。サラにはお礼を言っておけよ」

 

「…………ん………ぐずっ…………」

 

 顔を上げる事なく、こくりと頷いたメルエを見て、リーシャはサラの許へ戻って行く。もう一度メルエを抱き直したカミュは、眠り扱ける<豪傑熊>への警戒を緩めずにその場を離れて行った。

 

「サラ、大丈夫か?」

 

「は、はい。少し落ち着きました」

 

 座り込んでいたサラが、リーシャの言葉に立ち上がる。その顔色は、船を降りた頃に比べれば格段に良くなってはいた。

 揺れない大地に立ち、不安定だった足元は、しっかりと大地を踏みしめている。そんなサラを見て、リーシャは本当に柔らかく微笑んだ。

 

「よし! やはり、サラはサラだな!」

 

「は?」

 

 リーシャの意味不明な言葉に、サラは素っ頓狂な声を上げた。しかし、そんなサラの表情を見ても、リーシャは笑みを崩さず、『解らないのなら良い』とサラの頭を一撫でする。

 

 リーシャは誇りに思っていた。

 どんなに状態が悪い時でも、周囲に目を向けているサラを。

 そして、その状況を打破する事の出来るサラの強さを。

 

 サラという人物は、『誰かを護る』時にこそ、その真価を発揮する者だとリーシャは考える。

 自分の力で何が出来るのかを常に考え、そしてその時の最善の道を見つけ出す事の出来る目をも持っている。それは、世界を救うと云われている『勇者』としてのカミュの能力に匹敵する程の力。だからこそ、サラの足はしっかりと大地を踏みしめているのだ。

 それは、リーシャにとってとても誇らしい事だった。

 

「カミュ! この先はどこへ向かうんだ?」

 

「地図によれば、ここから若干東の方角に集落がある筈だ」

 

 地面に下ろされたメルエが、リーシャに怯えるようにサラの足下に移動し、その腰にしがみつく。不意を突かれたサラの身体がよろめくが、その背中は、リーシャの力強い腕に支えられた。

 

「メルエ、私はもう怒ってはいないぞ」

 

「…………まおう…………」

 

 サラの腰にしがみつくメルエに自分が怒ってはいない事を伝えたリーシャへ返って来たのは、以前サラがメルエに話したリーシャの印象の一つであった。

 リーシャの方にチラリと視線を向けたメルエが発した言葉に、サラは驚愕し、リーシャは一瞬何が起こったのか理解できなかった。

 

「ふふふ。そうか……まだサラは私の事をそう呼んでいるのか……?」

 

「ふぇ!? い、いえ! そう思った事はありますけど、も、もう呼んだ事はありませんよ!」

 

 顔を落としたリーシャの呟きに、サラは反射的に答えてしまう。しかも、最悪な方向へと。

 それを聞いて、カミュは大きな溜息を吐き、メルエはサラの腰からカミュのマントへと移動してしまった。

 

「……そうか……思ってはいるのか……」

 

「えっ!? あっ! い、いえ! 以前はですよ!」

 

 徐々に近づくリーシャの影に怯えるように後ずさり、サラは懸命に弁明をするが、何故か弁明をすればする程にサラの身が窮地に晒されて行く。そんな二人のやり取りを見ながら、もう一度溜息を大きく吐き出した。

 

「……行くぞ」

 

「あっ!? 待って下さい!」

 

「サラ! 待て!」

 

 カミュが身を翻し、山道へと入って行くのを見て、サラは慌ててその後を追いかける。そのサラを追いかけるリーシャ。リーシャが来た事にカミュのマントの中で慌てるメルエ。

 何ともこの一行らしい穏やかな時間が流れて行った。

 

 

 

 山道を歩き続ける中、カミュ達は何度かの戦闘を行った。しかし、意外な事に、この周辺を住処にする魔物は、テドン周辺などにいるような魔物程の実力がある物ではなく、以前イシスのピラミッドで遭遇したような<大王ガマ>や海岸で遭遇した<豪傑熊>等、カミュ達が苦労する程の魔物と遭遇する事はなかった。

 

 そして、船を下りて何度目かの夜が明ける頃、カミュ達はある場所へと辿り着く。

 

「ここか?」

 

「変わった雰囲気ですね」

 

 山道を下り、平原が広がる中で見つけた集落。それは、サラが口にしたように、他国とは一線を画したような、不思議な空気を纏った場所だった。

 国というよりは村に近く、国の象徴である筈の城はない。集落の周囲を深い堀が囲うように掘られ、その堀に掛け橋が掛けられている。

 木で出来た門は、人を拒むように閉ざされており、堀の上に巡らされている柵の中には桃色に輝く花を咲かせている木々が、集落を護るように植えられていた。

 

「……いくぞ……」

 

「あ、ああ」

 

 不思議な光景を見るように放心していたリーシャとサラに一声かけ、カミュは大きな木の門へと近付いて行く。

 門の前で声を上げると、奇妙な形で髪を結っている男が顔を出した。顔を出した男の髪の色を見て、サラは驚き、リーシャはどこか納得してしまう。

 

「……黒髪ですね……」

 

 奇妙な形で結っている髪の色は、艶のある黒。

 カミュと同じようにどこまでも深い『漆黒』と言っても過言ではない程の物。

 それは、この世界では珍しく、サラにしてみても、その色の髪を持っている人物はカミュ以外に見た事はなかった。

 イシスの女王であるアンリも黒に近い髪の色をしていたが、カミュや顔を出した男程、濃い色をした髪の毛ではなかった。

 

「……カミュと申します。旅の途中でこの大陸に流れ着きました。一晩の宿をお借りしたいのですが……」

 

「……」

 

 仮面を被ったカミュが語りかける言葉に、顔を出した男は無言を貫く。訝しげに細められた瞳がカミュ達四人を射抜き、何かを見定めるように眺め回していた。

 居心地の悪い視線に、メルエはカミュのマントの中に隠れ、サラは顔を俯けてしまう。ただ、カミュとリーシャだけは、その男の視線を真っ向から受け止め、毅然とした態度で返答を待った。

 

「そうか。ガイジンは招き入れる事は少ないが、一日二日であれば、ヒミコ様もお許し下されるだろう」

 

 『もしかしたら、言葉が通じないのかもしれない』と思う程の時間が流れた後、ようやく男は口を開いた。

 言葉はカミュ達が使う物と変わりはない。ただ、その中にいくつか意味不明な単語があった。

 

「ガイジン?」

 

 その単語に反応したのは、リーシャだった。

 今まで浮かべていた真剣な表情を崩し、その解らない単語自体を問いかけるように、カミュへと視線を送る。しかし、そんなリーシャの視線にカミュは大きな溜息を吐き出すのみであった。

 

「……俺はこの国で生まれた訳ではない……」

 

「いや……お前なら知っているかと思っただけだ」

 

 カミュとリーシャがやり取りを行っている間に、男が大きな門の(かんぬき)を抜いた音が響いた。その音が聞こえた後、重厚な音を立てた門が開いて行く。

 次第に見えて来る中の様子に、サラは声を失った。それはサラだけではなく、リーシャやカミュも同様で、メルエは感嘆に瞳を輝かせる。

 

「さあ、入りなさい。ようこそ、ジパングへ」

 

「……ありがとうございます……」

 

 門を開け終えた男が、先程とは違う優しい笑顔を浮かべてカミュ達を迎え入れる。優しい笑顔に対し、リーシャもサラも表情を和らげ、誘われるまま門を潜って行った。

 しかし、男に礼を述べるカミュだけは、その男の笑顔を裏にある影を見つける。

 何かに疲弊しきっているような影。

 どこか怯えたような瞳。

 それは、何もカミュ達一行に向けた物ではなく、それ以外の見えない何かに向けられた物のように感じたのだ。

 

「……美しいな……」

 

「はい。まるで別世界のようですね」

 

 カミュのそんな考えを余所に、先に門を潜ったリーシャとサラは、他国とは違うその光景を目にして感動を覚えていた。

 城下町という程の物ではない。まず、城等どこにもない。

 立ち並ぶ家々は、今までカミュ達が訪れて来た場所のように煉瓦等を使った物ではなく、全てが木造であった。

 屋根は藁を敷き詰めたような物で、高さはないが横に広がるような物。二階建ての家等は皆無で、全てが平屋のような高さの家屋が建ち並ぶ。

 歩いている人々は、先程、門を開けてくれた人物と同じように、奇妙な形で結ってはいるが、皆総じて艶のある黒髪を有している。衣服は似たような物が多く、麻のような生地で出来た物を身に付けていた。

 

「……暗いな……」

 

 リーシャとサラは、物珍しそうに歩く人々や立ち並ぶ家屋を眺めていたが、カミュは二人とは違う場所を見て、違う感想を持った。

 カミュが呟いた言葉を不審に思ったリーシャが、視点を切り替え、周囲を見渡してみる。そこで初めて周囲を満たす空気の重さに気がついた。

 

「何故だ、カミュ?」

 

「……アンタは俺を何だと思っているんだ?」

 

 空気の重さに気付きはしても、その理由が理解できないリーシャはカミュへと問いかけるが、それは大きな溜息と共に斬り捨てられた。

 

「ああ! ガイジンだ!」

 

 カミュの返答に怒気を向けるリーシャの横から、メルエと同じ年頃の男の子が指を指して大きな声を上げた。

 それを聞いたリーシャは驚いて視線を動かすと、何か奇妙な物を見つけたように目を輝かせていた少年が、『わぁ!』と声を上げて逃げて行く。

 

「な、なんなんだ?」

 

「リーシャさんが『ガイジン』という事でしょうか?」

 

 何が起きたのか解らないリーシャが、カミュ達に視線を戻すと、サラは自分の考察を披露する。だが、それが正しい解釈だとは、リーシャやカミュにはどうしても思えなかった。

 その間に、大声に驚いたメルエが、カミュのマントから顔を出す。

 

「…………リーシャ………ガイジン…………?」

 

「なに!? ち、ちがう……と思うぞ」

 

 『ガイジン』という言葉の意味を理解できないリーシャは、メルエの問いかけをはっきりと否定する事が出来ない。メルエと共に首を傾げるリーシャに、サラは自然と笑みを浮かべた。

 

「話しを聞いてみれば解る。とりあえずは、この国を治める人間に会うしかないだろう」

 

「そうですね。入国の許可も頂かなければいけないでしょうし」

 

 頭の上に疑問符を浮かべたリーシャを余所に、カミュは周囲に視線を送り始め、その言葉を聞いたサラも、カミュの意見に同意を示した。

 見た目は村でも、この<ジパング>は世界に認められた国でもあるのだ。

 『異教徒の国』という不名誉な物ではあるが。

 

 町とも村とも言えない集落を歩く内に、カミュは自分が感じた影の正体を見る事になる。そして、それは一人の母親らしき女性に泣きつく少年の姿を見て、決定的となった。

 

「え~ん。やだよ。やだよ。ヤヨイお姉ちゃんが生贄なんて嫌だよぉ!」

 

「坊や、お母さんだって嫌なのよ。でも、ヒミコ様のお告げなの」

 

 『生贄』

 その単語を聞いたカミュ達の首が一斉に少年へと向けられる。それは、日常生活で発せられる言葉ではないからだ。

 そして、古代よりも『人』の知識も文化も成長したこの時代に出て来る単語ではあり得ない物であった。

 

「……カミュ……」

 

「……カミュ様……」

 

 リーシャとサラの視線が少年からカミュへと移動する。まるで、何かを期待するように。

 カミュという『勇者』の起こす『必然』を信じ切っている二人だからこそ向けられる視線に、カミュは大きな溜息を吐き出した。

 

「……情報が足りない……」

 

「そ、そうだな! よし!行こう!」

 

 溜息と共に吐き出されたカミュの言葉は、通常の人間が聞けば、否定的な物である。だが、リーシャやサラにとって、その言葉は、『情報さえあれば、動く』という肯定に間違いないのだ。

 そして、この言葉を発したカミュが、情報を収集する為に動き出す事は確実。ならば、サラの役目はその情報をカミュと共に考える事であり、リーシャはその情報の先にあるであろう戦闘に備え、誰が敵であるのかを見定める事が仕事となるのだ。

 

 

 

「ヤマタノオロチは化け物じゃ!」

 

「ヤマタノオロチに生贄を差し出さないと、この国の人間は皆、喰われてしまうのです」

 

 周囲を歩き回るカミュ達は、他国との文化の違いに驚き、そして、この国で暮らす者達の発する悩みに愕然とした。

 立ち並ぶ家々は、入口から入ると、土間が広がり、そこから一段上がった部分が居住空間となっている。履物を脱がなければ居住空間には入れず、その部分は藁のような植物を編んだような敷物が敷き詰められていた。

 そんな場所で暮らす彼等の口から出る名は二つ。

 一つは<ヤマタノオロチ>と呼ばれる化け物。それは、生贄を要求し、その要求に応えられない場合は、国を滅ぼすと伝えられていた。

 

「生贄は、ヒミコ様がお聞きになるお告げによって決まります」

 

「オーブ? 何じゃそれは? よう解らぬが、宝の玉ならば、ヒミコ様がお持ちになっていたのう」

 

 そして、国の中で出るもう一つの名は『ヒミコ』。

 敬称を付けられて語られている事から、それがこの国<ジパング>の統治者であろう。『ヒミコ』の名を口にする者達の顔に浮かぶのは、総じて『誇り』であった。

 ただ、その中に微かに見える『怖れ』と『怯え』がある事をカミュは見逃さなかった。

 

 カミュ達のような、異国の者に対し、最初は警戒を示していた国民であったが、丁寧に話を聞くカミュの姿に、彼等はその二つの名を溢したのだ。

 彼等の内に何か渦巻く物があったのだろう。それが、<ヤマタノオロチ>に対してなのか、自国の王に対してなのかは解らないが、この国の国民の中に渦巻いている暗く重い空気が、彼等を饒舌にしていたのかもしれない。

 

「私は、この国に『精霊ルビス』様の教えを広めに来ました。でも、ここでは『ヒミコ』が神様。誰も私の話に耳を傾ける人間はいません」

 

 そして、広間の一角で見慣れた法衣を着用している男を見かけたサラが近寄り、声を掛けたところ、その男はこのジパングへ布教に来た宣教師であった。

 告げられた内容に驚いたサラは、そのままカミュへと勢い良く振り返る。

 その視線を受けたカミュは眉こそ顰めるが、強い光を宿した瞳をサラに向けるだけだった。

 

 それが意味する物。

 それは、この国が『精霊ルビス』を信じない、異教徒の国であると言う事実。

 そして、それをカミュは知っていたと言う事実。

 

「サラ、大丈夫か?」

 

 リーシャはサラを気遣って声をかける。何故なら、サラの反応はリーシャが考えていたよりも軽かったのだ。

 カミュがその事実を知っていた事を受けたサラは、『そうですか』と小さく呟いたきり、何も言わなくなってしまった。

 

「もう、慣れました。ルビス様を敬う事のない人を、ずっと見て来ましたから」

 

「……サラ……」

 

 暫しの時間の後、顔を上げたサラは笑顔だった。

 困ったような笑みを浮かべるサラは、先程振り返った青年にチラリと視線を向け、リーシャにもう一度微笑みを返す。その行動に今度はカミュが驚く番となった。

 あれ程、ルビスという信仰の対象を盲信し、その『教え』に背く者は『悪』とまで考えていた人物が、ルビスの存在を認めない国を受け入れる。その事実に、カミュもリーシャも言葉を失ったのだ。

 

「……まずは『ヒミコ』という者に会うしかないな……」

 

「そうだな。生贄とは、穏やかな話ではないからな」

 

「今の時代に『生贄』なんて、あってはならない物です……あれ?……メルエは?」

 

 カミュの言葉に力強く頷いたリーシャに同意するように、サラは拳を握り締めた。しかし、不意に自分の足下に居た筈のメルエがいない事に気が付き、慌てて周囲を見渡す。

 サラの言葉に、『またか!』とリーシャは視線を巡らし、カミュは最悪の事態に備え、背中の剣に手をかけた。

 しかし、メルエはすぐに見つかる事となる。カミュ達からそれ程離れていない場所で咲き誇る桃色の花をつける木々を嬉しそうに見上げていたのだ。

 

「メルエ……勝手に動いては駄目だと言っただろう……」

 

「…………ん…………」

 

 駆け寄るリーシャは、呆れたような溜息と共に、メルエに注意を促すが、振り返ったメルエの顔は満面の笑みを湛え、すぐに首を上げて、咲き誇る花を見つめ直す。

 そんなメルエを抱き上げたリーシャも、今まで見た事のない木々を見上げた。

 

「綺麗ですね」

 

「そうだな」

 

 その木々は、この<ジパング>を護るように立ち並び、その枝という枝に淡く輝く花を咲き誇らせていた。

 近寄って来たサラの洩らす感想に相槌を打ち、三人が桃色の花弁に見惚れていると、一人の老人が近付いて来る。

 

「ほっほっほ。ガイジンさんは、この花を見るのは初めてかな?」

 

 三者三様の笑顔で花を見つめるリーシャ達に声をかけた老人の顔にも優しい笑顔が浮かんでいる。

 『ガイジン』という聞きなれない単語に首を向けたリーシャが頷くと、老人は笑顔を濃くして、その花の名を口にした。

 

「これは、『サクラ』と呼ばれる花じゃ。ジパングの象徴とも云える花。我らジパングの国民の『誇り』の花じゃ」

 

「…………サク………ラ…………」

 

 老人が口にする花の名を聞き、メルエは小さな声でそれを復唱する。そして、再び笑顔で『サクラ』と呼ばれる淡く桃色に輝く花を見上げた。

 <ジパング>は、この『サクラ』と呼ばれる木に囲まれている。風が吹く度に、その花弁を散らす木々によって、まるで吹雪のように舞い散る花弁は、集落を淡い桃色に染め上げ、他国とは違う自然な美しさを醸し出していた。

 

「…………ん…………」

 

「ん? ああ、ありがとう、メルエ」

 

 舞い散る花弁を掌に乗せたメルエは、一枚の花びらをリーシャへと手渡した。自分の分を大事そうにポシェットに仕舞い込んだメルエに笑顔を向け、リーシャはその花びらを受け取る。

 

「僅かな時に咲き誇り、その美しさで我々を魅了し、そして儚く散って行く。それが何とも潔い。一年でこの時期だけじゃ。ガイジンさんも良い時に<ジパング>を訪れられた」

 

「すぐに散ってしまうのですか? それが良いのですか?」

 

 同じように『サクラ』の木々を見上げた老人が口にする内容がサラには理解できなかった。

 確かに、これだけの数の木々が桃色の花弁を咲かせると、淡くはあるがそれなりの色合いを持つ。しかし、サラが今まで見て来た花々の中には、もっと色鮮やかで季節の間は咲き続ける花が多くある。美しさの度合いであれば、そちらの方が良いのではないかと考えたのだ。

 

「サラ、それが良いんだ。我ら『人』と同じだろう? 『エルフ』や『魔物』とは違い、短い生を全うし、その中のどこかで自分という才を咲き誇らせ、そして次代に受け継いだ後は潔く消える。『人』の理想のような花だ」

 

「おお! お若いのに、よう解っていなさる」

 

 サラに語るリーシャの言葉に、老人は嬉しそうに微笑む。しかし、その横に立つカミュは、唖然とした表情でリーシャを見つめていた。その表情が面白かったのか、リーシャの腕の中で『サクラ』を見上げていたメルエが笑みを濃くする。

 

「な、なんだ!? 私は、変な事を言ったか?」

 

「……いや……すまない」

 

 珍しく、素直に頭を下げるカミュに、サラは驚いた。頭を上げたカミュも、『サクラ』を見上げ、柔らかな笑顔を浮かべる。もう一枚降り注いで来た『サクラ』の花びらをメルエから受け取り、カミュは何かを口にした。

 

「……本当に……変わり過ぎだ」

 

「ん? 何か言ったか?」

 

 カミュが呟くように洩らした言葉はリーシャには届かない。聞き直すリーシャに対し、無言を貫いたカミュに、リーシャは少し眉を潜めたが、舞い散る花びらに再び表情を緩め、暫しの間『サクラ』を見つめていた。

 一行の様子に笑顔を向けていた老人であったが、花を見ている間に表情を強張らせて行く。何かを憂うように、深い溜息を吐いた老人に視線を移したリーシャが、一度カミュを見た後に問いかけた。

 

「ご老体……何か心配事でもあるのか?」

 

「はっ!? いやいや、お気になさらずに」

 

 問いかけるリーシャの声に、自分の気持ちが沈んでいた事に気付いた老人は、慌てて手を振って答えるが、そのような態度を取られて、このパーティーの中にいる女性陣が放っておく訳がない。

 

「そう言われましても……私達は外部の者ですが、何かお力になれる事がありましたら、言ってください」

 

「いえ。本当にお気になさらずに」

 

 やり取りを聞いていたサラが老人に声をかけるが、再び柔らかな断りを受け、顔を強張らせる。サラの言う通り、所詮カミュ達は、この<ジパング>では外部の者なのだ。

 そのような者達に己の悩みを打ち明ける訳がない。

 

「……それは、<ヤマタノオロチ>と呼ばれる化け物に関する事ですか?」

 

「!! そ、それをどこで……」

 

 しかし、カミュが洩らした一言は、そんな頑なな心に一石を投じるのに充分な威力を誇った。

 <ヤマタノオロチ>という名を聞いた瞬間、老人の表情は固まり、恐怖と怯え、そして理不尽な物に対する怒りの感情が徐々に浮かんで来たのだ。

 

「<ヤマタノオロチ>とは?」

 

「……ふぅ……」

 

 カミュの言葉に続いて質問を続けるサラに、老人はもう一度深い溜息を吐いた。何かを躊躇うように泳ぐ瞳が固定されて行き、恐怖に震えていた口元はしっかりと結ばれて行く。

 そして、老人はゆっくりと、この異国からの訪問者に<ジパング>の内情を語り始めた。

 

「<ヤマタノオロチ>とは、我が<ジパング>を護る神です」

 

「えっ!? 神が化け物なのですか?」

 

 老人の口から出て来た『神』という単語に、サラは素っ頓狂な声を上げる。

 サラにとって『神』とは、『精霊ルビス』の更に上の存在。

 その姿が化け物だと言う事は、サラにとって全く結び付かない物だったのだ。

 

「遥か昔から、この<ジパング>の大陸に住む産土神であったそうです」

 

「……ウブ…スナ……??」

 

「……あったそうです……?」

 

 老人の語る単語は、聞きなれない物で、カミュ達は理解が出来ない物だった。サラが復唱しようとするが、全てを正確に口にする事は出来なかった。

 サラやリーシャとは異なり、カミュは老人の語尾に引っかかりを覚える。

 

「産土神とは、我々の生まれ育った土地を護る神という意味です」

 

「……なるほど……それが何故化け物に?」

 

 そこに来て、ようやくカミュが一歩前に踏み出した。それが、ここからの会話はカミュが行う事の意思表示である事を認識したリーシャとサラは少し後ろに下がり、カミュと老人の会話に耳を欹てた。

 

「我々は、そのお姿を見た事はありません。ただ、ヒミコ様の予言で告げられた生娘は生贄となって東の洞窟に連れて行かれ、その後戻って来た事はありません。皆、娘達は<ヤマタノオロチ>に喰われたのだと口にしています」

 

 老人の話す内容は、この<ジパング>の民達の不満その物だった。

 『ヒミコ』という絶対的統治者を信じ切っている事は言葉の節々に窺える。だが、その取り決めにより命を落としている者達がいる事も、また事実。

 それが不満や疑惑となって、国民達の中で消化しきれなくなって来ているのだろう。

 

「……その生贄の儀式もまた、遥か昔から……?」

 

「いえ、ここ十年程です。大地が大きく揺れ、山が怒りを吐き出した時、<ヤマタノオロチ>が現れました。我々は神の怒りと恐れ、ヒミコ様が<ヤマタノオロチ>の怒りを収めるため、単身東の洞窟へと向かわれました」

 

 老人の話の内容を聞く限り、<ヤマタノオロチ>という神が現れたのも、生贄を必要とし始めたのも、数年程前からという事になる。では何故、そのような怪しい存在を神と認めてしまったのか。

 

「……それで……」

 

「ヒミコ様が戻られた際に、<ヤマタノオロチ>は古くからこの土地を護る産土神とおっしゃられ、毎年、生娘を生贄として差し出せば、怒りを収める事ができ、<ジパング>に再び平和が訪れると」

 

「……そんな……」

 

 老人が繋げた話の内容は、サラにはとても納得ができる物ではなかった。『生贄』によって怒りを収めるなど、とても世界の創造主である神の所業とは思えない。

 

「そして、今年の生贄は、ヤヨイとお告げがありました。私の孫娘です」

 

「カミュ! ヒミコという人物に会いに行くぞ!」

 

 老人の最後の言葉を聞いたリーシャが、カミュへと振り返り、歩き出そうと足を踏み出す。その肩をカミュはがっしりと掴み、静かに首を横に振った。

 『熱くなるな』と諌めるように。

 リーシャにとって、『ヒミコ』という存在は、異国の王である前に、異教徒の王なのだ。文化も風習も全く違う暮らしを見て、リーシャはその王に畏敬を持つ事はなかった。

 

「……勘違いするな……どれ程、アンタの考えと隔離していようと、その人物は一国の王だ」

 

「しかし!」

 

 肩を掴まれたリーシャは動けない。かなりの力で掴まれてはいるが、振り切れない程ではない。だが、カミュがこう言う以上、自分が身勝手に動けば、事が良い方向に転じる事がない事をリーシャも学んでいたのだ。

 

「……何度も言わせるな……アンタ方の考えが全てではない。アンタ方の考え全てが正しい訳でもない」

 

「ですが、『人』を生贄になんて!」

 

 カミュの瞳は、久しく見ていなかった冷たさを宿していた。

 冷たく射抜くカミュの瞳に、急速に冷えた汗を掻くリーシャの横からサラが口を開く。しかし、カミュは冷たい瞳を移動するだけだった。

 

「……俺には、さも当然の事のように、『生贄』を否定するアンタ方の神経が理解できないが……」

 

「!!」

 

 そこまで言われて、リーシャとサラは、カミュの冷たい瞳の理由(わけ)を知る。

 目の前で冷たい瞳を向ける彼もまた『生贄』の一人なのだ。

 世界中の『人』が恐れる『魔王』という存在の討伐の為に、たった一人で立ち向かわされている『生贄』。

 

 『魔王を倒せば平和になる』

 『勇者であれば魔王を倒せる』

 『自分達が平和に暮らすために』

 そんな想いの結晶である『生贄』がカミュなのだ。

 

「すまない。君達を争わせる為にこのような事を口にした訳ではないのじゃ。その青年が言うように、我々の平和は、ここまでで命を捧げて来た数多くの娘の犠牲の上に成り立っている。それを忘れた事は一度たりともない」

 

「……ですが……」

 

 言い争いを始めたと感じた老人は、三人の間に入り自分の失言を詫びた。自分達が過ごす仮初の平和は、その犠牲となって来た若い娘達によって作られた物であり、その犠牲の対象が自分の縁者になった事に取り乱した事を恥じる。

 

「ヒミコ様がお認めになった以上、<ヤマタノオロチ>は産土神なのじゃ。それを疑う事も、否定する事も我らには許されておらん。ガイジンさんよ、つまらない話をしてしもうた。忘れて下され」

 

「……」

 

 もはや語る事はないとでも言うように、一度深々と頭を下げた老人は、肩を落としながら去って行った。

 その寂しそうな背中を見て、サラは声をかける事が出来ない。ただ、呆然と見守る事しか出来ないのだ。

 

「カミュ! あの言い方はないだろう!? お前の境遇も解っている! だが……」

 

「アンタこそ忘れているのか? この国の問題は、この国で解決する事案だ。『ガイジン』とは、おそらく異国の者の総称なのだろう。外部から来た者が国の案件に口を出す事の危険性をまだ理解出来ないのか?」

 

 リーシャの叫びに被せるように、静かに語り始めたカミュの言葉に、リーシャは言葉を詰まらせる。今まで、この旅の中でカミュ達は数多くの村や町、そして国を訪れて来た。

 その中では問題が噴出している国もあったことは事実。そして、カミュ達が、その意志で介入して来た物もあれば、なし崩しに介入せざるを得なかった物もある。

 

「……もう二度と、この<ジパング>に足を踏み入れられない可能性もある……」

 

「……カミュ……」

 

 カミュ達が介入した事によって、幸せになった者もいれば、そうでない者もいる。それは立場の違いだけではなく、カミュが起こす『必然』によって、暗い闇から引き上げられる者もいれば、逆に闇へと落される者もいるのだ。

 そして、その行為が必ずしも万人に受け入れられる物ではない事は、既にバハラタで証明されていた。

 

「……それでも……それでも、このまま見過ごす事は、私には出来ません」

 

「……サラ……」

 

 暫しの静寂の後、口を開いたのは、常に悩み続ける者。

 そして、答えを探し続ける者。

 

「……俺は、今回の件で責任は持てない。この国が行う『生贄』の儀式によって、本当に国が救われているとしたら、どうする?……アンタ達のような教会側が常々口にする『尊い犠牲』によって、一つの国で暮らす大勢の人間の命が救われていたとしたら、アンタはどうするつもりだ?」

 

「……そ、それは……」

 

 しかし、何時になく真剣に、サラの目を見ながら語るカミュの言葉に、サラは即座に反応が出来なかった。

 確かに『生贄』を神に捧げる事によって、雨乞い等を行って来た歴史はアリアハンにもある。しかし、それは大昔の事であり、現代ではそのような馬鹿げた儀式はないのだ。

 

 ただ、もし、万が一にも、その儀式が効力を発揮していたとしたら。

 この<ジパング>という国は、実際に異教徒の暮らす国。

 『精霊ルビス』も、その上にいる神も信じはしない国。

 つまり、サラが聞いて来た『教え』という枠に当て嵌らないのだ。

 

「……実際、<ヤマタノオロチ>が神かどうかは別にしても、『生贄』を捧げる事によって、この国で暮らす人間が襲われる事がないのも事実だ」

 

「カ、カミュ……<ヤマタノオロチ>が神でないとしたら、何なんだ?」

 

 俯き始めたサラに代わって、リーシャが口を開く。

 その問いかけに、一度息を吐き出したカミュは、静かに言葉を繋いだ。

 

「……魔物だろうな……」

 

「や、やはり!」

 

 カミュの回答に顔を上げたサラは、自分の予想通りの答えに、眉を顰めた。

 テドンに続き、この<ジパング>でも露になった魔物の所業。

 それがサラの心を大きくぐらつかせる。

 

「……それも、知識の備わった魔物だろうな……」

 

「知識?」

 

 リーシャはカミュの続けた言葉に首を傾げた。

 魔物と知識が結び付かない。

 魔族であれば、それなりの知識を有する者もいるだろう。

 だが、魔物となれば、話は別なのだ。

 

「もし、可能性として魔物であったとしても、この国では『神』だ。この国の儀式である『生贄』を否定し、<ヤマタノオロチ>に手を出したとすれば、俺達は『神に逆らいし者』となり、最悪『神殺し』の烙印を押される事になる」

 

 そこでカミュは一つ言葉を区切った。

 もう一度、サラの方に視線を向けたカミュは、瞳を細め、口を開く。

 

「もう一度聞く。アンタはその烙印をメルエにまで背負わすつもりなのか?」

 

「!!」

 

 サラの顔が弾かれたように上へと上がる。

 そこには、自分を厳しく見つめる『勇者』の瞳。

 全てを背負うと決めた強い瞳であり、他者を護ると決めた強い瞳でもあった。

 

「しかし、カミュ! ここは、お前の祖母の故郷なのだろう? 何とかしようとは思わないのか?」

 

「……アンタは俺に何を求めている?……俺が家族愛を持ち合わせているようにでも見えているのか?」

 

「カミュ様は、この国の血を継いでいるのですか!?」

 

 感情のままに口走ったリーシャの言葉は、カミュの顔から表情を奪い取る。『愛国心を持たない人間に、今度は家族愛を求めるのか?』と。それは、リーシャの甘えだった。

 メルエと出会ってから、カミュは確かに変化した。それは、肉体的な強さも然る事ながら、心の変化という成長が大きかった。リーシャやサラを仲間として見ているのだ。

 毎朝の鍛錬で、リーシャはカミュにまだ負けた事はない。だが、もし負けたとしても、もう彼は『一人で行く』とは言わないだろう。そんなカミュの変化に、リーシャは甘えていたのかもしれない。

 

 故に、彼が憎しみすらも覚えている『家族』という物を出してしまった。それは、冷たく返される。

 何も、秘密にしていた訳ではないだろう。彼の祖母がジパング出身という事を隠す必要もなく、そして、今のカミュを見る限り、リーシャがそれを溢してしまった事に怒りを覚えている様子もない。

 

「そうですか……カミュ様のお婆様は……」

 

 愕然とするリーシャの横でサラが何やら唸っている。

 カミュの信仰心の奥には、祖母からの教えがあったのではないかとでも考えているのかもしれない。しかし、それは全くの的外れであった。

 

「……悪いが、俺は祖母に一度も会った事はない。俺が生まれた時には既に他界していたからな……」

 

「えっ!? そ、そうなのですか……申し訳ございませんでした」

 

 サラの考えている事が分かったカミュは、その思考に抑制を掛ける為に言葉を繋ぐ。暴走しかけたサラの思考は急速に停止し、カミュに向かって軽く頭を下げた。

 それは何に対しての謝罪なのか。亡くなったカミュの祖母を辱めた事への謝罪なのか。それとも、カミュを異教徒として括った事への謝罪なのか。

 

「……何をするにも、この国の内情と『ヒミコ』という人物の情報が不可欠だ……」

 

「カミュ!」

 

 止まった一行の時間を再び動化したのはカミュだった。そのカミュの言葉にリーシャの顔は輝きを取り戻す。

 このパーティーに所属する、リーシャ、サラ、メルエの三人に共通する認識。それは、このパーティーの指針を定めるのはカミュだという事。

 カミュが、やると決めたのなら、それはパーティー全員の意思となる。

 

「よし! では、目的地はあそこだな」

 

 カミュがこう言う以上、情報次第では動く事を示唆しているのだ。

 リーシャには、確かな想いがあった。

 カミュが起こす『必然』という名の確信が。

 

 リーシャが指差す位置には、見た事もない建造物が建てられている。二本の丸い柱のような物の上に、並行に二本の柱が横たわっていた。

 この<ジパング>では、これを『鳥居』と呼ぶ。

 由来の起源は解ってはいない。ただ、この起源の一つに『精霊の門』という物も存在する事から、もしかすると、『精霊ルビス』という存在と関係が全くない訳ではないのかもしれない。

 

 カミュの後をメルエが続き、その後ろをサラとリーシャが歩く。

 見た事のない文化に、交わした事のない会話。

 感じた事のない心地良さに、感じた事のない不快感。

 それを肌に感じながら、四人は見た事もない建造物を潜って行った。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

あの中盤最強のボスの登場です。
この章は少し力が入っていますので、楽しんで頂ければ嬉しいです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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ジパング②

 

 

 奇妙な建造物が等間隔で続き、その下に敷かれる石畳の通路を歩いて行く。それは、かなりの距離があり、目の前に見えている建物の全貌が近づく程大きくなってきた。

 

「すごいですね」

 

「そうだな。この様な建物を私は見た事がない」

 

 通路の終点にあった家屋と呼ぶべきなのかどうかを悩む程に大きな建物を見上げ、サラは感嘆の言葉を洩らした。

 サラの足元でその建物を見上げるメルエの首は、『サクラ』の木を見上げていた時よりも直角に曲がっている。

 

 高床式に造られたその建物は、横にも縦にも大きい。何本も建てられた柱が横に広がった屋根を支え、入口の門の上には、藁で作った太い縄が掛けられていた。それが、どこか神々しい雰囲気を醸し出しており、その建物がこの国でも特別な場所である事を示している。

 

「ガイジン! ここに何の用だ!?」

 

「……旅の者です……入国のご許可と、一晩の宿泊の許可を頂くために、『ヒミコ』様への謁見をお願い致したく……」

 

 物珍しげに建物を見上げる一行に厳しい言葉が飛んで来る。ジパング特有の結い方で黒髪を結っている男が、開け放たれた扉の前に武器と防具を装備して立っていた。

 その容赦のない言葉に、リーシャは顔を顰めるが、そんなリーシャの行動を抑えるように前に出たカミュが仮面を被り、丁寧に門番へ国王への謁見を願い出た。メルエは門番の剣幕に驚き、カミュのマントへ逃げ込んで行く。

 

「ヒミコ様はお忙しい。お前達のようなガイジンとお会いする時間などない!」

 

「な、なに!?」

 

 四人を訝しげに眺めた後、門番は拒絶を告げた。その余りな物言いに、リーシャは驚き、怒りを露にする。

 通常の国への訪問であれば、リーシャも感情を抑えたかもしれない。リーシャとて、国家に所属していた騎士なのである。その国家の王への謁見が簡単に叶う事がない事ぐらい承知しているが、この<ジパング>に関しては、リーシャの中で国として認識できていなかったのかもしれない。

 

「……黙っていろ……」

 

「カミュ!」

 

 しかし、口を開いたリーシャに厳しい視線を向けたカミュは、門番に頭を下げる。その行為に抗議を示すリーシャに、再び向けたカミュの瞳は、とても厳しく、冷たい物であった為、リーシャは口を閉ざすしかなかった。

 

「供の者が失礼を致しました。異国の者故、この国の作法を知りません。『ヒミコ』様へのお取次ぎをお願い出来ませんでしょうか。この美しい国を治められる方に拝謁を許されれば、大変栄誉な事として、我々も胸を張って旅をする事が出来ます」

 

「……」

 

 リーシャを黙らせ、謙るような態度で話すカミュを見て、サラは目を丸くする。仮面を被ったカミュの言動や態度は何度も見て来たが、これ程に相手を持ち上げるような言動は聞いた事がなかったのだ。

 それが示す物。それは、カミュもまた、『どんな事があっても、<ヒミコ>という人物に会わなければならない』という事を考えているという事実。

 口では否定をしていても、カミュ自身もまた、『生贄』という儀式に抵抗感を感じている事に他ならない。

 

「……ふむ……しかし、ヒミコ様は相当な『ガイジン』嫌いだ。取り次ぐだけはしてみるが、あまり期待するな」

 

「ありがとうございます」

 

 門番も、自分の言動が攻撃的過ぎた事を自覚していたのだろう。丁寧に頭を下げるカミュを見て、表情を渋い物に変えた後、一言断りを入れて、中へと消えて行った。

 

「……アンタは交渉の場に出ない事を約束した筈だ……」

 

「し、しかし……すまない」

 

 カミュの言葉を受けて、反論を返そうとしたリーシャであったが、カミュの厳しい瞳に言葉を飲み込み、頭を下げる。サラも、そんなリーシャを見て、喉まで出かかっていたカミュへの抗議の言葉を飲み込んだ。

 

 その国の要人と会話が出来るのは、この中ではカミュのみ。しかも、『生贄』という物に対する抵抗感で感情的になっていたリーシャやサラが口を開く事が、この先の謁見が良い方向に向かわない事は、サラも理解していた。

 リーシャもサラも、ただ前に立つカミュの背中を見ている事しかできない。不思議そうに後ろを振り返るメルエに応える事も出来ず、只々、中に入った門番の帰りを待つ。

 暫しの時間が流れ、中に入った門番が浮かぬ表情を浮かべて戻って来た。

 

「取り次ぎはした。だが、悪いが、お前達をヒミコ様の前に案内する事は出来ない」

 

「……そうですか……」

 

 門番の表情から、本当に『ヒミコ』と呼ばれる国主に取り次ぎはしてくれたのだろう。しかし、中に入る時に溢した言葉通り、このジパングの国主の『ガイジン嫌い』は相当な物であった。

 

 カミュが一つ言葉を洩らした事を聞き、リーシャとサラが何かを言いたげに口を開くが、そこで声を発する事は出来なかった。

 ここは異国の地。その国主への謁見はカミュ達の義務ではあるが、国主側にとっては、それを受ける義務は生じないのだ。

 

「元々、『ヒミコ』様がガイジンの謁見に応じる謂れはないのだ。早々に立ち去れ」

 

「……わかりました……」

 

 門番の物言いに、再び口を開きかけたリーシャを押し留めるように、カミュが軽く頭を下げる。門番は、口調とは裏腹に、表情を硬くしている事にカミュは気付いていたのだ。

 柔らかく断れば、諦めずに懇願する者もいるのだろう。そうなれば、国主の機嫌を損ね、最悪の場合、旅人を処断しなければならなくなる。その役目もまた、彼のような国の兵士なのだ。

 

「待て!」

 

 カミュが踵を返し、リーシャとサラもその後を渋々歩き出そうとした時、先程門番が入って行った屋敷の中から、カミュ達の行動を制する声が発せられた。

 その声は少し高く、外にいるカミュ達にも良く響く物。

 振り向いたカミュ達は、その声の主の姿を見て、驚きを表した。

 

「この者達のような旅の者を粗略に扱ったとなれば、我がジパングの名折れ。そなたにはそれが解らぬのか!?」

 

 先程、顔を顰めながらカミュ達へ辛辣な言葉を発した門番を叱責している人間は、その高い声の通り、女性というよりは、女子に近い人物であった。

 年の頃はカミュやサラよりも幼く、メルエよりも上だろう。おそらく十四・五といったところだろうか。

 室内から出て来た彼女の髪は、太陽が差す光によって黒く輝きながら、風に靡いている。腰まで届きそうなその髪を、頭の上で結わえていた。

 

「申し訳ありません。しかし、ヒミコ様が……」

 

「ふむ……よい! (わらわ)が許可する」

 

 その少女と言っても良い者に、門番は恭しく頭を下げ、申し開きをしようと口を開くが、その言葉は、途中で少女に遮られる。しかも、門番が話す『ヒミコ』という国主の判断を覆し、自らカミュ達の参内の許可を出す少女に、サラは目を丸くした。

 

「し、しかし、イヨ様……」

 

「妾も母上に話がある。これ、そなた達も妾について参れ」

 

 未だに食い下がる門番の言葉を無視し、その『イヨ』と呼ばれた少女は、カミュ達へと視線を移した。しかし、余りの出来事と、『イヨ』と呼ばれた少女が『ヒミコ』を母と呼んだ事の衝撃が大きく、カミュでさえも素早く反応を返す事が出来なかった。

 

「イヨ様!」

 

「母上には妾から申しておく。お主に責任はない。これ、早う来い」

 

 追いすがる門番に、責任の所在を告げ、少女はカミュ達を呼び寄せ、中へと入って行った。

 門番に一礼を返した後、カミュもその後に続き、リーシャやサラも慌てて後を追って行く。大きな屋敷の入り口には、大きな溜息を吐く門番だけが残された。

 

 

 

 屋敷の中は、やはり、カミュ達が見た事もない物ばかりだった。

 入口を入ってすぐに、履物を脱ぐ場所があり、イヨが自らの履物を脱ぐのを見て、カミュ達もそれぞれの履物を脱いで行く。不思議そうにカミュ達が履物を脱ぐのを見ていたメルエに苦笑を浮かべたイヨが、メルエの履物を脱がすのを手伝い、そんなイヨにメルエは『ありがとう』と言葉を掛けた。

 

「そなた達は、どこぞの国の者だ?」

 

「……アリアハンから参りました……」

 

 カミュの前を歩くイヨと呼ばれていた少女が、カミュ達に振り返る事なく問いかける。屋敷の中もサラやリーシャの目を惹く物が多く、海を眺めるメルエのように瞳を輝かせながら周囲を見渡していた。

 

「アリアハン? うむ……聞いた事のない国じゃな?」

 

「……」

 

 どちらかと言えば、この<ジパング>という国の方が世界的には無名に近いだろう。だが、この国で生まれ育った人間にとっては、この国こそ世界の中心であり、自分の中心なのである。つまり、この<ジパング>という国は、それ程に他国との交流をしては来なかったのだろう。

 カミュからしてみれば、『知っている他国の名はあるのか?』と逆に聞いてみたい程の物だった。

 

「しかし、そなた達も物好きじゃの? この時期にこの<ジパング>に訪れるとは」

 

「そ、それは<ヤマタノオロチ>の事ですか!?」

 

「サ、サラ!」

 

 イヨという少女の姿に気を緩めてしまったのか、サラは無礼にも問いかけてしまった。それに対し、リーシャは注意を投げかける。しかし、声を発してしまったサラは、もう後戻りする事はできず、突如の言葉に振り返ったイヨの瞳を見つめるしかなかった。

 

「そなたら……それをどこで?」

 

 振り返ったイヨの瞳は、十四・五の少女が宿すには余りにも重く、暗い光を宿していた。その瞳にサラの足は竦み、声が出せない。

 それは、国の内情を知った者に対する当然の警戒心である事に、サラ自体気がついてはいないのだ。

 

「供の者が失礼致しました。<ヤマタノオロチ>と呼ばれる産土神様の事は、この国の人々から伺いました」

 

「……」

 

 動けなくなったサラの代わりに、カミュが一歩前に出る。サラをイヨの視線から護るように立ったカミュの言葉に、イヨは警戒の瞳を緩めずに、カミュを射抜いていた。

 それに対し、カミュも譲らず、自分よりも背丈の低い少女の瞳から視線を外さない。

 

 先に折れたのは、イヨと呼ばれるこの国の皇女だった。

 

「……そうか。民の心は、そこまで離れてしまっているのか……」

 

 溜息と共に洩らした言葉。それは、『ガイジン』と呼ばれる異国の者に、自国の内情を話す程に、ジパングの国民の胸の中に不平不満が溜まっている事を再認識したような物だった。

 そこに、自国の民を糾弾するような様子はなく、只々、その民の心の有り様に肩を落としている。

 

「いえ。我々がしつこく問い質したに過ぎません。皆、国主様の統治に不満がある訳ではなく、<ヤマタノオロチ>という未知の物への恐れを抱いているのでしょう」

 

「同じ事じゃ。<ヤマタノオロチ>を神と認め、差し出す『生贄』を決めるのも国主じゃ。大事な国民を護る事も出来ず、それ程の恐怖と疑惑を感じさせてしまっている事が、我々国を治める者としての恥となる」

 

 カミュと対等に話をする自分より幼い少女を見たサラは、驚きで足の竦みが溶けて行った。

 『この少女は本物』という想いがサラの胸に残る。

 以前、イシスで出会った女王である『アンリ』が持っていた女王としての威厳。そして、その威厳を放たせる程の知力。それを兼ね備えている者と感じたのだ。

 

「……余計な事を申しました……」

 

「よい! 妾が母上に申し上げようとしていたのも、その話じゃ。ちょうど良い。そなたらも付いて来い!」

 

 頭を下げるカミュに興味を示さず、イヨは踵を返して奥へと歩いて行った。そのまま無言で歩き続けるイヨの後を付いて行く一行。

 サラは、その道中で会う数多くの人間が、皆、優しい顔でイヨに頭を下げるのを見て、先程自分が感じた物が間違いではなかった事を確信した。

 

「イヨ様、その者達は?」

 

「客人じゃ。母上は奥に居られるのか?」

 

 一際大きな部屋への扉を潜ると、一人の兵士がイヨの傍に駆け寄って来た。その者に、目当ての人物の所在を聞いたイヨは、再び真っ直ぐ前に歩いて行く。兵士はイヨの行動を制しようとするが、その手をすり抜けて行くイヨに諦め顔を浮かべ、その後ろを歩くカミュ達に訝しげな瞳を向けた。

 兵士に対し、軽く頭を下げたカミュは、大した興味を向ける事なくイヨの後ろを歩いて行く。リーシャも同様で、サラだけが恐縮によっておろおろとしながら、カミュ達の後を追って行った。

 兵士が浮かべる表情を見ると、この<ジパング>でのイヨの立ち位置を窺え、それが決して国民にとって不快な物ではない事が解る。

 

「なんじゃ、イヨ!? 私は、許可を出した覚えはないぞよ」

 

 前を歩くイヨが立ち止まり、藁のような物を奇麗に編んだ敷物の上に座り込む。そのまま前方に向けて頭を下げたのを見て、カミュ達も慌てて跪き、頭を下げた。

 そんな一行の頭の上に掛る言葉は、明らかな拒絶。

 

「妾が許可致しました。異国の旅の者を粗略に扱えば、我が<ジパング>の名を落とします故」

 

「イヨ! そちは、この私に意見する気かえ?」

 

 とても十四・五の娘の言葉とも思えない程にしっかりとした物言いに驚いたサラであったが、カミュやリーシャは今回の謁見は全てをこの娘に託した方が良い事を理解し、そのまま頭を下げ続ける。

 驚きで顔を上げてしまったサラが見た物は、自分達が跪く植物の敷物よりも一段高くなっている場所に悠然と座る女性であった。

 この国の住民達と比べても更に異様な形で髪を結い、着ている物は、単純な一重の物ではなく、何枚もの布を重ねられている。それはまるで自らの内から発する物を抑え込むように厳重な物だった。

 唇は、何か病気のような色になる程に紅を塗り、外見では年齢を探る事などは出来ない。イヨが本当の娘であれば、当に三十路を越えている事は想像出来るが、リーシャと同年、もしくはサラと変わらぬ歳であると言われても納得してしまう程の見た目であった。

 

「いえ。母上に意見など……しかし、この国を想う気持ちは母上と同じだと自負しております」

 

「くっくっく」

 

 再び頭を下げたイヨが発した『国を想う気持ち』という部分に反応するように、『ヒミコ』と思しきその女性は、忍び笑いを洩らした。

 

「まぁ、良い。そちが想う『国』の為、『生贄』も決まった。それで、そちの要件は、ガイジン達の案内か?」

 

「いえ。母上にお話が……」

 

 然も可笑しそうに笑う『ヒミコ』は、外部の者の前でも平然と『生贄』という言葉を発した。それに一度眉を顰めたイヨは、顔を上げてしっかりと『ヒミコ』を見返す。イヨの言葉に今度は『ヒミコ』が眉を顰め、鬱陶しそうに視線を逸らした。

 

「……イヨ様、我々は席を外した方が……」

 

「よい! もはや、そなたら『ガイジン』に隠しても仕方がない事じゃ。そのままこの場に居れ」

 

 内々の話だと感じたカミュが、イヨに対し退席の意を示すが、それは静かに制された。

 もはや、カミュ達がその気になれば、すぐに知れる事だと言うのだろう。この場にいようが、退席しようが大差はないと言うのだ。

 

「それで、何じゃ!?」

 

 鬱陶しそうに、イヨに視線を向けることなく先を促す『ヒミコ』にイヨは再び口を開いた。その口から出た内容に、カミュ達は総じて驚く事になる。

 

「……ヤヨイの『生贄』の件、ご再考をお願い致します……」

 

「なんじゃと!?」

 

 それは、正しく『生贄』に関する抗議だった。

 カミュ達と同じように驚きの声を上げた『ヒミコ』の表情が、怒りを宿した物へと変化して行く。真っ赤に染まった唇を震わせながら、俯いた『ヒミコ』が顔を上げ、怒りに燃えた瞳でイヨを射抜いた。

 

「何を言っておるのか解っておるのか!? 『生贄』は神のお告げ。そのお告げに逆らうと言うのか!?」

 

「いえ。母上が、神通力を宿しておられる事は存じております。ですが、ヤヨイはつい先日に結納を済ませたばかり。『生贄』になるには、余りにも不憫」

 

 逆上した母に対し、落着き払った対応をする娘。

 その光景に、サラは見入ってしまう。

 自分が持ち合わせていない『落着き』と『強さ』。

 それに羨望の念を抱いてしまっていた。

 

「何が不憫じゃ。これまで、何人もの娘達が『生贄』となって来た。その者達は不憫ではないと申すのか? それに、結納を済ませたとはいえ、婚儀はまだ先。あの娘が『生娘』でいられるのも今の内じゃろう?」

 

「!!」

 

 イヨの言葉を聞き、逆上していた『ヒミコ』が一変する。見た目とは裏腹の醜い薄ら笑いを浮かべ、その厭らしい笑みと同じように、不愉快な言葉を発した。

 イヨは表情を歪ませながらも、一度言葉を詰まらせ、悔しそうに唇を噛みしめる。

 

「……存じております……我々は、何人もの娘のお陰でこうして生きております」

 

「そうじゃ。理解したのなら、下がるが良い」

 

 顔を俯け、肩を震わせるイヨに、『ヒミコ』は退席を命じる。しかし、一向にイヨは立ち上がる気配はなく、再び上げた瞳を真っ直ぐ『ヒミコ』に向け、その口を開いた。

 

「妾が参ります」

 

「なに!?」

 

 短く告げた言葉に、『ヒミコ』が驚きの声を上げる。

 後ろに控えていたカミュでさえも顔を上げてしまう程の言葉。

 言葉は短いが、イヨの内にある考えは、その場にいる全員が理解した。

 

「『生贄』の祭壇には、妾が参ります」

 

 静まり返った部屋に、もう一度言い直したイヨの言葉が響く。

 暫しの静寂の後、口を開いたのは『ヒミコ』だった。

 

「何を申しておる! 『生贄』は既にお告げで……」

 

「お告げは信じております! しかし、このままでは民の心が国から離れてしまいます! 『民の心が離れた国など、もはや国には非ず』。これをお教え下さったのは、母上ですぞ!」

 

 しかし、『ヒミコ』の言葉は、先程までとは打って変わったイヨの強い声に遮られた。声と同様に『ヒミコ』に向けたイヨの強い視線を受け、『ヒミコ』は一瞬たじろぎを見せる。その隙を突いて、イヨは言葉を続けた。

 

「この<ジパング>の国主たる『ヒミコ』の娘も『生贄』となったとなれば、民の不満も幾分か和らぎます。既に、民の不満は限界まで来ており、今回の『生贄』をヤヨイという事で強行すれば、その不満が母上に向かう事は必至です」

 

「くっくっく」

 

 続けたイヨの言葉を聞いている内に、『ヒミコ』の表情に余裕が戻り、イヨが話し終わる頃には、肩を揺らして笑いを忍ばせている状態となっていた。

 命を賭す程に覚悟を決めた諫言を笑われ、呆然とするイヨに、サラが見て来た物の中で最も醜い笑みを浮かべた『ヒミコ』が口を開いた。

 

「くっくっ……あはははは! 何を申すかと思えば、そのような事か!? それが、如何したと言うのじゃ。たかが民。妾に牙を向けたとしても、それが何程の物か?」

 

「……母上……」

 

 高笑いを発し、諫言を歯牙にもかけない『ヒミコ』をイヨは愕然と見つめる。イヨにとってみれば、『民こそ国』という事を教えてくれた人物と、今、その理を鼻で笑う人物が同一人物である事が信じられなかったのかもしれない。

 

「『生贄』はヤヨイという娘じゃ。儀式は今宵。理解したのなら下がれ!」

 

「……」

 

「下がれと申しておる!」

 

 口を開く事の出来なくなったイヨに厳しい言葉が飛ぶ。再度の退席の指示を受け、イヨは立ち上がった。

 目の前に座る母親に頭を一つ下げ、イヨは振り返って出口へと歩いて行った。

 

「妾はガイジンを好まぬ!」

 

 去って行くイヨの後を追うために立ち上がり頭を下げたカミュ達に、『ヒミコ』は鋭い視線を向け、口を開いた。

 

「良いな! くれぐれも、要らぬ事をせぬが身の為じゃぞ」

 

 顔を上げたカミュの瞳を射抜き、『ヒミコ』が忠告のような言葉を残す。まるで、カミュ達が何かに介入する事を見透かしたような言葉に、リーシャとサラは驚きを見せるが、カミュは毅然とその瞳を見返していた。

 ただ、何故か、この部屋に入ってから一度もメルエはカミュのマントから出て来る事はなく、そればかりか、立ち上がったカミュの腰に強くしがみ付き、何かに怯えるような様子を表していた。

 

 

 

 謁見の間を出たカミュ達は、そのまま屋敷の出口に向かう訳ではなく、イヨの姿を探した。

 先に謁見の間を出ていたイヨの姿は既になく、左右を見渡してもあるのは物珍しい<ジパング>特有の物だけ。

 

「……アンタはどっちに行ったと思う?」

 

「ん?……イヨ殿か? 私に解る訳がないだろう」

 

 迷路のように大きな屋敷の中で、方向を探るカミュは、隣に立つリーシャへと問いかける。しかし、リーシャにしてみれば、この屋敷に入るのは初めての事であり、何故自分にそのような事を聞くのかが解らなかった。

 

「え!? リーシャさんでも解らないのですか?」

 

「なに!? 何故、私が知っているんだ? 私もこの屋敷に入るのは初めてだぞ」

 

 それでも、何故か期待を宿した瞳を向けていたサラの驚きに、リーシャの疑問は強くなって行く。正直、リーシャが感じる疑問は、常日頃にカミュがリーシャにぶつけている疑問と同様の物なのだが、それに気が付くリーシャではなかった。

 

「……先程の会話を聞いた限り、行き先は『生贄』を監禁している部屋だろう……」

 

「それこそ、私に解る訳がないだろう!?」

 

 カミュが言う目的地の名を聞き、リーシャには益々理解できない。いつの間にかカミュのマントから出て来たメルエと同じように、首を傾げるしかできなかった。

 

「……わかった。ならば、出口はどっちだ?」

 

「なに!? カミュが覚えているのではないのか?」

 

 諦めたように溜息を吐いたカミュの次の質問に、リーシャは再び驚きの声を上げる。この広い屋敷の入り口からの順路など、リーシャは覚えていなかった。てっきりカミュが覚えているだろうと考えていただけに、目の前で自分の問いかけに対し、静かに首を横に振るカミュを見て、更に驚いた。

 

「……う~ん……そうだな……そこの通路を右ではなかったか?」

 

「右だな?」

 

 リーシャは、自信のない記憶を掘り起こし、道を指し示す。それに対し、自分が憶えている物と違う事を確認したカミュは、一つ頷きを返し、リーシャの指し示す道を目指して歩いて行った。

 先程『ヒミコ』から感じていた不可思議な威圧感から解放されたサラは、ようやく笑みを浮かべ、カミュの後を続いて通路を右に曲がる。どこか釈然としない想いを胸に、リーシャもその後を続いて歩いて行った。

 

 

 

 何度目かのリーシャの指示で曲がった通路の先に、物置のようなみすぼらしい部屋が見えた。何の躊躇いもなく、カミュはその部屋へと近付き、その木戸を横に引く。

 

「だ、だれじゃ!?」

 

 突如開けられた木戸に、中にいた人物の警戒した声が響いた。その声は、先程聞いていた幼くも良く通る声。この国の皇女であり、女王『ヒミコ』に唯一意見が言える存在が持つ声であった。

 

「……申し訳ありません……道に迷ってしまいました」

 

「……そなた達か……」

 

 静かに頭を下げるカミュに、一つ息を吐きだしたイヨは、再び厳しい視線をカミュに向けた。その視線の強さに、メルエは再びマントの中へと隠れ、リーシャとサラは思わず身構えてしまう。

 

「……まぁ、良い」

 

 暫し厳しい視線を向けていたイヨだが、ふと視線を外し、溜息を吐き出した。そして、まるでカミュ達を無視するかのように、自分の目の前に座る女性へと視線を移し、その手に持った小刀で、女性を縛っている縄を切り始めた。

 木で出来た柱に括りつけられるように縛られたこの女性こそが『生贄』として告げられたヤヨイという女性なのだろう。泣き腫らしたであろう瞼は赤く腫れ上がり、頬は涙の痕をくっきりと残していた。

 

「これで良い。ヤヨイ、そなたは逃げ、此度の生贄の儀式が済むまで、どこかに隠れておれ。そして、儀式が済んだ後、早急に婚儀を済ませてしまうのじゃ。良いな?」

 

「……しかし、イヨ様……『生贄』のお告げは私です。私がいなければ、儀式は終わりません」

 

 縄を切ったイヨは、自分よりも年上の女性に対し、諭すように声をかける。対するヤヨイと呼ばれた女性は、まるで子供のように、涙声で訴えていた。その涙を見たイヨの顔が一瞬の曇りを見せるが、すぐに笑顔に戻し口を開く。

 

「ヤヨイは何も心配せんで良い。儀式は終わる。終わるまでは、どんな事があっても隠れておるのじゃぞ?」

 

「……イヨ様……」

 

 イヨの言葉に、再び涙を流したヤヨイは、不意に上げた視線の先に居たカミュ達を見て、身体を強張らせる。

 例え、今ここから逃げ出したとしても『ガイジン』と称される異国の者に見られては、隠れている事も出来なくなるのだ。

 

「大丈夫じゃ。後ろの者達には、何も話させん。安心せよ」

 

「……はい……」

 

 幼子をあやすように言葉を紡ぐイヨの瞳を見て、ヤヨイは一つ頷きを返す。それを見たイヨは、ヤヨイに布を被せ、顔を見られぬように立ち上がらせた。

 

「出口までは送る。しっかりと隠れておるのじゃぞ」

 

 イヨの言葉に頷きを返したヤヨイを連れ、歩きだしたイヨを追ってカミュ達も出口へと歩き出した。そのまま屋敷内を歩き、最初に入って来た門へ来た時、イヨは門番に用を命じ中へと入らせる。

 

「そなた達には申し訳ないが、ヤヨイを連れて隠してやってはもらえないか? そして、早急にこの国から去れ。この国には、旅の者にとって有益な物など、今は何一つない」

 

「……」

 

 イヨの最後の言葉は、年相応の表情を浮かべた哀しい物だった。

 自国を心から愛し、誇りに想っている者だからこその、哀しき言葉。それが持つ意味を理解したからこそ、カミュは、自分よりも幼い娘に、深く頭を下げた。

 

「……ヤヨイ……幸せにな……」

 

「……イヨ様……」

 

 カミュからヤヨイに視線を移したイヨは、一言発した後、素早く踵を返し、中へと消えて行った。

 暫しの間、呆然と中を見ていたヤヨイの背中を押したリーシャがカミュへと視線を向ける。一つ頷いたカミュがサラへと視線を送り、それに応じたサラがヤヨイの隣へと移動した。

 

 ヤヨイを取り囲むように配置されたカミュ達。メルエが立つ方角に布を被り、後方は背の高いリーシャが立つ。傍から見れば、奇妙な格好をした『ガイジン』が奇妙な行動をしているぐらいにしか見えないだろう。

 元々は、排他的な国でもある<ジパング>。不満により、カミュ達に情報を漏らしはしたが、好意的に見ている訳ではない。奇妙な行動をする異国の者の姿を見ても、目を合わせぬように道を空け、近寄らないように離れて行った。

 

 ヤヨイの言葉通りの場所へと歩くカミュ達は、一軒の建物に辿り着く。そこは物置小屋と呼べる程に小さく、中に入っても下へと続く階段しかなかった。

 ヤヨイの指示で階段を降りると、そこは本当に物置きであり、いたるところに埃を被った物が転がっている。もはや使っていないだろう水瓶のような大きな瓶も何個も置かれていた。

 

「旅の方、ここまでありがとうございました。私はイヨ様のお云い付け通り、この場所に隠れます。くれぐれも……くれぐれもこの事は……」

 

「解っています。この場所の事は他言致しません。我々は、ここから出た足で、この国を出ますので」

 

 カミュの瞳を涙目で見つめ、その返答を受けた後、ヤヨイは奥に転がる大きな水瓶の中へと入って行った。

 カミュの返答に抗議の瞳を向けるリーシャとサラを無視し、カミュは階段を昇って外へ出て行く。

 

「カ、カミュ! このまま……このまま この国を後にするのか!?」

 

「カミュ様! 何とかなりませんか!?」

 

 外に出ると、既に太陽は傾き始め、夕刻を知らせる赤い光を降り注いでいた。空を見上げ、少し眉を顰めたカミュの後ろから、矢継ぎ早に言葉が飛んで来る。

 リーシャもサラも、言いたい事は一つ。

 『この国を、イヨという皇女を救えないのか?』という物だった。

 

「……儀式は今夜だ……」

 

「ですから、何とかイヨ様を救う方法はないのですか!?」

 

 ただ、空を見上げたまま呟いたカミュの言葉に対する反応は、リーシャとサラでは異なった物だった。

 サラは先程と同じように、カミュを動かそうと声を上げていたが、リーシャはカミュの表情を一目見た後、瞼を閉じたのだ。

 

「……カミュ……今夜、動くんだな?」

 

「えっ!?」

 

 瞼を開けたリーシャは、未だに空を見上げるカミュの横顔を見て、表情を引き締めた。

 それは正しく『戦士』の表情。

 戦いに向けて心を決めた『騎士』の表情。

 その表情と言葉を聞き、サラは驚きの声を上げる。サラには、先程のカミュの言葉とリーシャの言葉が繋がらなかったのだ。

 

「……イヨという娘は、『生贄』の身代わりになり、気付かれぬように『生贄の祭壇』まで行くだろう……」

 

「そ、そこで、<ヤマタノオロチ>を倒すのですね?」

 

 リーシャと視線を合わせたカミュの言葉に、ようやくサラが理解する。しかし、その理解は仮初の物で、カミュが首を横に振った事によって否定された。

 サラの考えは何処までも甘い。それが露呈した瞬間でもある。

 

「<ヤマタノオロチ>が、この国の『神』である事に変わりはない以上、外部の者が『神』を討伐する事は許されない。それを成すのも、命じるのも、この国の者でなければならない」

 

 首を横に振ったカミュが視線を向ける事なく、口を開く。

 その内容は、サラが期待した物ではなく、むしろ否定的な物であった。

 

「ならば、イヨ殿を救うだけなのか?」

 

「そ、そんな……『生贄』の身代わりを買って出た方ですよ? 自分だけが生き延びる事を良しとする訳がありません!」

 

 リーシャの問いかけ。

 サラの抗議。

 二人の異なる発言を受けたカミュの瞳の色が、冷たい物へと変わって行く。

 

「もし、この国の皇女を救う為とはいえ、<ヤマタノオロチ>を外部の者である俺達が討伐したとなれば、あのヤヨイという娘も、イヨという皇女も、『神に背いた者』となる。それは、この国で生きる権利を奪うどころか、処断の対象にさえなり得る筈だ」

 

「……そ、そんな……」

 

 珍しく、言葉を多く紡ぐカミュの話を、聞き洩らさぬように聞いていたサラは、呆然とカミュを見つめる事しか出来ない。しかし、反対に、リーシャは先程と同様に、瞼を閉じて、カミュの言葉を聞いていた。

 

「私達の旅に同道させるのか?」

 

「えぇぇぇ!? で、ですが、この国を放って逃げ出す訳ありませんよ!」

 

 予想もしなかったリーシャの言葉に、サラは大いに驚いた。

 しかし、サラの言うように、イヨのジパングを想う心は疑いようもない。故に、この国の現状を放って、自分だけが逃げ出すとは思えなかったのだ。

 

「この『死の旅』に連れて行ってもどうしようもない。だが……逃げると言う事に関してはあり得るだろうな」

 

「何故ですか!? カミュ様も、イヨ様のお心を聞かれた筈ではありませんか!?」

 

「…………サラ………うるさい…………」

 

 カミュの言い分に反論しようと、自然とサラの声が大きくなって行った。

 カミュのマントの中にいたメルエが顔を顰めて抗議を発する。夕刻という事もあり、周囲を忙しなく動いていた人々の視線もカミュ達に集まっていた。

 

「とりあえず、外で夜になるのを待つ」

 

「……わかった……サラ、行くぞ」

 

 周囲の視線が集まって来た事に気付き、カミュは表情を失くして踵を返した。

 国の外へ出ようとするカミュのマントに再び潜り込んだメルエを見て、リーシャもその後を追う。カミュが意図する事、リーシャが考えている事が解らず、サラはその場で暫し呆然としていた。

 

 

 

「カミュ。しかし、どうするつもりだ?」

 

 閉まり行くジパングへの門を眺めながら、リーシャはカミュに問いかける。しかし、カミュは口を閉ざしたまま、入口を背にして歩き出していた。仕方なく、リーシャもその後を追って歩き出す。

 木々が生い茂る場所の中で少し開けた場所でカミュ達は野営を準備し始めた。その場所からはジパングの入り口の門がしっかりと見えている。船から持って来ていた干し肉を火で炙った物を口にしながら、四人は焚き火を囲むように座った。

 

「メルエ、寝ても良いが、私が起こしたらすぐに出発だぞ」

 

「…………ん…………」

 

 眠そうに目を擦るメルエに微笑みながら、リーシャは自分の膝の上にメルエを抱きかかえた。一つ頷いたメルエは、リーシャの膝の上で丸くなり、そのまま瞼を閉じる。暫くすると、静かな寝息を立て始めた。

 

「カミュ様……先程、『逃げる事はあり得る』とおっしゃいましたが……」

 

 メルエに笑顔を向けた後、表情を引き締めたサラが、火に薪をくべるカミュに先程の件を問いかける。暫し、サラの言葉を無視するように、焚き火を弄っていたカミュだったが、一つ息を吐いた後に重い口を開いた。

 

「……そのままの意味だが……」

 

「何故ですか? 私には、イヨ様がそのような方には思えません」

 

 カミュの返す言葉に、サラは疑問に持っていた事を口にする。

 それはリーシャも同様だったのだろう。

 メルエの髪を梳きながら、視線をカミュへと移した。

 

「生贄の祭壇へ行けば解るさ」

 

「??」

 

 リーシャも、そして疑問を口にしたサラも、カミュの返して来た答えの真意が掴めない。再び疑問を口にしようと開きかけたサラの口は、カミュの言葉に閉じられる事になる。

 

「……あのイヨという皇女を説き伏せるのは、アンタ方の仕事だ……アンタ方が望んだ事の筈。救った後の事まで、考えてはいない」

 

「……カミュ様……」

 

 サラとリーシャの顔を交互に見ながら、カミュは口を開く。

 その言葉は、サラの胸に重く圧し掛かった。

 『自らが口にした望みならば、自らで何とかしろ』と言うのだ。

 

 再び、サラの悩みが増えて行く。リーシャはカミュの言葉に疑問を持っているも、今は寝息を立てるメルエの髪を優しく梳いている。

 まるで、『考えるのは自分の仕事ではない』とでも言うように。

 

「……リーシャさんも考えて下さい……」

 

「ん?……ああ。しかしな、サラ。カミュも言っていたように、『生贄の祭壇』に行き、イヨ殿にもう一度お会いしない事には、何も出来ないのも事実だろう?」

 

 恨み事のように言葉を溢すサラに視線を送ったリーシャは、然も当然の事のように話をし始めた。その内容に、サラも答えを返す事が出来ない。

 今、この場で出る答えなど、いざその場に立てば変わってしまう可能性があるからだ。それを、この『戦士』である女性は、本能なのか、経験なのかは解らないが、知っているのだ。

 

「サラも少し寝ておけ。おそらく『生贄』は夜更けに運ばれる筈だ」

 

「眠る事なんてできませんよ!」

 

 サラを落ち着かせようと掛けたリーシャの言葉に、サラは抗議を口にする。

 考える事が多すぎて、眠る事などできないと。

 そんなサラにリーシャは苦笑を洩らす。

 

「それでも、寝ておけ。この先の旅では、どんなに辛い事があった時も、どんなに苦しい事があった時も、しっかりと眠る事が必要な時が出て来る筈だ」

 

「……ソレの言う通りだ。眠れる時に眠っておけ……」

 

「……はい……」

 

 リーシャの言葉を肯定するように続いたカミュの言葉に、サラは渋々と頷きを返した。横たわるサラに笑顔を向けたリーシャは、メルエの髪を梳きながら武器の手入れを始める。

 太陽はジパングとは真逆の西の空へと沈んで行き、既に地平線の影に隠れようとしていた。

 『日出る国』の陽が落ちて行く。

 その国の行く末を示すかのように。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

明日は更新できないと思いますので、今日中にもう一話更新致しました。
この「イヨ」という人物。
史実では「壱与」とか「台与(とよ)」と云われています。
漢字はもっと難しい物ですが、卑弥呼の後継者として記されている者です。
後継者といえども、その存在は実子という訳ではなく、卑弥呼の親族であったとも、弟子であったとも云われており、その人物像は謎に包まれています。
また、倭国の王は、卑弥呼ではなくこの壱与であったとも考えられており、歴史上、かなり面白い人物でもあります。

この物語では、少し久慈川式解釈と妄想が入っていますので、ヒミコの実子として登場して頂きました。また、名前の読み方に関しても、私が学校で習った時の読み方が「イヨ」であった事から、「トヨ」ではなく「イヨ」とさせて頂きました。
賛否両論がおありかと思いますが、ご理解頂ければ幸いです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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オロチの洞窟(ジパング東の洞窟)①

 

 

 

 太陽が完全に沈み切り、夜の闇がジパング周辺を完全に支配してから、かなりの時間が流れた。

 カミュ達が野営を張る森の中にフクロウの鳴き声が響き、月の明かりだけが周囲を照らす中、カミュとリーシャの瞳は、静まりきったジパングの門へと向けられている。

 

「カミュ。そろそろか?」

 

「……ああ……」

 

 既に薪をくべる事を停止させていた焚き火の火は燻り始め、寒さを訴えるように膝の上で丸くなるメルエを、リーシャは軽く揺すって起こした。振動で目を覚ましたメルエは、眠そうに目を擦りながらも、しっかりと起き上がり、既に立ち上がっているカミュのマントの中へと潜り込む。

 

「サラ、起きろ。出発だ」

 

「……あ……は、はい」

 

 浅い眠りに落ちていたサラもまた、すぐに状況を把握し、身支度を整える。三人の視線が集中するジパングの門が、ゆっくりと開かれたのはその時だった。

 

「カミュ!」

 

「……」

 

 リーシャの言葉に視線だけで返答したカミュは、門から出て来る奇妙な箱型の物へ再び視線を向けた。

 篝火を灯した物を持った人間を先頭に、何人かの人間がその奇妙な箱を担ぐように歩いて行く。駕籠のような箱型の物には、奇麗な宝飾が施されており、月の明かりと篝火の明かりに照らされ、遠目に見ても美しく輝いていた。

 

「……残酷な物だな……」

 

 その輝きを目にしたリーシャは、その儚さを嘆く。

 『生贄』とは、その名の通り、『生きたままの供え物』なのである。

 しかも、対象となるのは、まだ男を知らない『生娘』。

 この世の最後に、その年若い娘を着飾らせる。

 それが、この国に暮らす者達のせめてもの贖罪。

 リーシャには、その光景がとても残酷な物に映ったのだ。

 

「このジパングという国でも、誰一人、この『生贄の儀式』に納得している者はいないという事……アンタ方が考えているよりも、この国の人間達は罪を感じてはいる筈だ」

 

「……カミュ様……」

 

 ゆっくりと動いて行く駕籠のような物から視線を外さずに語るカミュの言葉の内容に、サラは顔をカミュに向けて驚きを表す。正直、サラは『生贄』という古びた儀式に目を奪われ、『生贄』を差し出す側のジパングの民の感情に目を向けてはいなかった。

 ただ闇雲に『生贄』に対して感情を剥き出しにするリーシャやサラとは違い、カミュはその『生贄』を自分達の平和との交換条件として呑まざるを得ない民達の心情を考慮に入れていたのだ。

 

 『何故、罪の意識を感じてまで大事な娘達を生贄として差し出すのか?』

 『何故、生贄を要求する者を神として崇めるのか?』

 『何故、そのような決断を下した者を国主として認めているのか?』

 

 その答えは、全て『平和』の為なのだ。

 彼等にとって、『ヒミコ』という国主は、とても慈悲を持った素晴らしい王だったのだろう。彼女の残した功績を考えれば、自分達のような国民の為を想った最善の策が、『生贄の儀式』だったのだと自分達に言い聞かせているのだ。

 それでも、罪の意識は消えない。

 自分達だけが、若い娘の命という物を犠牲にして生き延びている。それは、この国を訪れたばかりの、彼等の言葉を借りれば『ガイジン』には決して解らない苦しみの筈なのだ。

 

「……行くぞ……」

 

 サラの悩みは、時間を追う毎に膨れ上がって行く。カミュが感じていた民の苦しみを理解しようとせずに、自分の知識と感情だけで、『生贄』という物を否定し、更には、ジパングの国民の心を疑った。

 『生贄に対し、疑問にも思わず、立ち向かいもしない』と。

 

「サラ! 遅れるな!」

 

「は、はい!」

 

 声を押し殺したリーシャの呼びかけに応じて、サラもゆっくりと東の方角へと移動する駕籠を追って歩き出す。表情を硬くし、再び心の中で葛藤を始めたサラを見て、リーシャは苦笑を浮かべながら、その背中を軽く叩いた。

 

「サラ、悩むのは後だ。今はまず、イヨ殿を救わなければ」

 

「……はい……」

 

 リーシャの言葉に、サラは納得が行かないように首を縦に振る。もう一度苦笑を浮かべたリーシャは、既に先に行っているカミュの後を追って歩いて行った。

 イヨが乗っているであろう駕籠を先導する篝火は、ゆっくりと東へと抜ける山道へと入って行く。気付かれないように、付かず離れずの距離を保ちながら、カミュ達は駕籠を追って行った。

 駕籠の速度は、とても緩やかで、とても今宵の内に目的地に辿り着けるとは思えない程の物。それは、まるで駕籠の中にいる人物との別れを惜しんでいるようにも見えた。

 

「カミュ!」

 

「……黙っていろ……」

 

 東の空が白みはじめ、先導する篝火の明かりがなくとも駕籠の全貌が見えて来た。そして、その駕籠を担いでいる人物達も。

 その人物達を見て、カミュ達は驚きを表す。何故なら、その担ぎ手は、ジパングにいる若い男達ではなかったのだ。

 

「……何故、担ぎ手が……」

 

「『生贄』となる娘達と付き合いが深いのも若い者だからだろう。それに、おそらくその担ぎ手は、『生贄』となる娘の縁者となるのが慣わしなのかもしれない」

 

 担ぎ手を見て驚くサラに向けて発せられたカミュの言葉を肯定するように、その担ぎ手の中には、『サクラ』を見ていた時に話した老人も加えられていた。他にも、おそらく齢四十を超えているであろう男達が駕籠を担いでいたのだ。

 

「カミュ。あの洞窟に入って行くようだ」

 

「……ああ……」

 

 驚き、固まってしまったサラを置き去りに、カミュはリーシャへと頷きを返し、駕籠が入って行く洞窟へと近付いて行く。もう一度サラの背中を叩いたリーシャも、その後を続いた。

 白み始めた空は、サラの心の中と真逆のように雲一つない。遠ざかるカミュ達の背中に我に返ったサラは、急ぎその後を追って駆け出した。

 

 

 

「なんだ、この洞窟は!?」

 

 洞窟の入り口で立ち止まったカミュの横に立ったリーシャは、洞窟の奥から流れて来る異様な熱気に戸惑い、口を開いた。

 真っ暗な洞窟の先からは、じっとりと汗が滲み出る程の熱風が吹いている。まるで燃え盛る炎に近づいているような暑さに、カミュの頬にも一筋の汗が流れ落ちた。

 

「早く、中に入りましょう」

 

「……いや、暫く待つ……」

 

 中に入ろうとするサラを制止するカミュの言葉に、サラは抗議の表情を浮かべる。

 『生贄』として中に入れられたのだ。もたもたしていたら、<ヤマタノオロチ>に喰われてしまうかもしれない。そんな考えがサラを焦らせていた。

 

「ア、アンタ達!」

 

「!!」

 

 しかし、身を隠そうと移動を開始したカミュの背中に、驚くべく人物から声が掛かる。それは、先程まで駕籠を担いでいた筈の、ヤヨイの祖父だった。

 これにはカミュも驚きの表情を浮かべて振り返る。『生贄の祭壇』まで運んだというにしては、余りにも早すぎるのだ。

 

「な、なんだ!? この『ガイジン』は知り合いなのか!?」

 

 担ぎ手の一人が、ヤヨイの祖父へと叫ぶ。異国の者と親しげに会話をしているようにでも見えたのだろうか。『生贄』を置いて来たという負い目もあるのか、自然と語気は荒くなり、まるで攻め立てるような口ぶりになっていた。

 

「今日、ジパングに来た者達だ」

 

「な、なに!? お前らか!? お前らが更なる厄災をこの国に持ち込んだのか!?」

 

「ま、まて!」

 

 ヤヨイの祖父の答えに、一人の中年男性がカミュに掴みかからんばかりに足を踏み出し、もう一人の中年男性がそれを押さえた。

 カミュ達には、彼等の怒りの意図が解らない。<ヤマタノオロチ>という脅威は、もう何年も前から続く<ジパング>の厄災の筈。それを今更、他国から来たカミュ達に背負わせる筈がないからだ。

 

「ど、どういう事ですか?」

 

「……そうか……」

 

 男達の剣幕にサラは、思わずカミュに問いかけてしまう。サラの言葉と共に、リーシャの視線もカミュへと移って行く。しかし、カミュはそんな二人を無視するように、一人何かを考え、納得したように言葉を洩らした。

 そんなカミュの言葉にリーシャやサラが首を捻る。彼女達にはカミュが何に納得し、何を考えているのかが全く解らないのだった。

 

「くそぉ……何故こんな目にばかり……」

 

「言うな……我々は、生かされているんだ……」

 

 カミュ達一行の葛藤を余所に、中年の男達は悔しさを表に出し、もう一人の男が釘を差す。そのやり取りがサラには不思議な物に映った。

 誰かに憤りをぶつけたい気持ちはよく解るが、彼等はそうやって『生贄』を捧げて来たのだ。

 

「……カミュ……?」

 

「『生贄』が誰であったのか、気付いているのですね?」

 

「なっ!? ア、アンタ方は知っていたのか!?」

 

 もう一度リーシャが口を開いた時、カミュはヤヨイの祖父に向かって、問いかけを口にした。その内容に、ヤヨイの祖父は大いに驚き、残る中年男性達も言葉を失う。

 それは、リーシャやサラも同様で、カミュと男達の顔を見比べながら、言葉を発する事は出来なかった。

 

「えっ!? ど、どういう事ですか?」

 

「何故、止めてくれなかったのだ!? 何故、イヨ様を……」

 

 『おろおろ』とするサラの言葉を押し退けるように、ヤヨイの祖父がカミュへとにじり寄る。その表情は鬼気迫るものであり、周囲の男達の口をも閉じさせた。

 カミュは近づいて来る老人をじっと見下ろし、口を開かない。周囲の男達の様子からしても、イヨが『生贄』としてヤヨイの代わりに運ばれていた事を知っている様子だった。

 

「イヨ様がお亡くなりになれば、もう、この<ジパング>は終わりだ。何故……何故、止めて下さらなかった」

 

 まるで、『自分の孫娘ならば仕方がなかった』とでも言うような老人の言葉に、サラは息を飲む。

 サラとしてもイヨという皇女を救いたいと思っているのは事実。しかし、その代わりにヤヨイを『生贄』にするという事は、許容できる物ではなかった。

 

「何故ですか? ヤヨイ様は、貴方のお孫さんではないのですか!?」

 

「サラ!」

 

 サラの叫びのような問いかけは、リーシャによって制される。それは、他人であるサラが口にして良い内容ではないのだ。

 この老人とて、好きで孫を『生贄』にしている訳ではない筈。それでも、『生贄』を捧げなければ、国自体が滅びるのだ。

 

「リ、リーシャさん! イヨ様でなければ、誰が『生贄』になっても良いというのですか!?」

 

「サラ、落ち着け。そうは言っていない」

 

「いや、その通りじゃ。イヨ様さえ残っていてくだされば、私共は孫でも娘でも差し出す。イヨ様さえおれば、この国は再び立ち直る事が出来る」

 

 睨むように叫ぶサラと、その腕を掴んで制止していたリーシャも、ヤヨイの祖父の言葉に言葉を失い、口を開けたまま固まってしまった。それ程に衝撃的で、自分の耳を疑いたくなる程の強烈な内容であったのだ。

 

「……実のお孫さんを……」

 

「それ以上、口を開くな」

 

 それでも口を開きかけたサラに厳しい視線と言葉が飛んで来る。

 言葉と共に一歩前に出た者は、この一行のリーダーであり、一行の道を指し示す者。

 過去の英雄の所有物である兜を被り、過去の英雄では成しえなかった偉業を成そうとする者。

 

「……お嬢さん……アンタには解るまい。この国は、ほんの十年程前までは、美しい自然と温かな笑みに満たされておった。この国は、ヒミコ様という太陽があったのじゃ。ヒミコ様の慈しみは深く、この国を愛し、そして、それ以上にこの国の民を愛されておった」

 

「……」

 

 カミュの陰に隠れてしまったサラに向かって口を開いた老人の言葉を、周囲の男達も止めようとはしない。何かを懐かしむように、何かを悔いるように、そして懺悔をするように沈黙を守っていた。

 

「イヨ様は、その血を、そしてそのお心を継がれておる。イヨ様がこの国を、この国の民を愛して下さっているのと同じく、我らもイヨ様を我が子、我が孫のように愛しておる。我らの国を導く事が出来る者は……ヒミコ様と……イヨ様だけじゃ」

 

 老人の言葉に、サラは何も言葉を発する事が出来なかった。何故なら、ヤヨイの祖父は、その言葉と共に涙を流し、周囲の男達からも嗚咽が漏れていたからだ。

 それ程に、重く、強い想いを胸に抱き、彼等は『生贄』を捧げて来たのだ。

 

「し、しかし……もはや、我らの願いはイヨ様には届かなかった……イヨ様のご意志はお固く、我らにはどうする事も出来なかったのじゃ!」

 

「た、頼む! ガイジンさんよ、イヨ様を救ってくだされ! 我らの太陽をお守りくだされ!」

 

 ヤヨイの祖父の後ろに立つ中年男性は悔しそうに唇を噛み、その隣に立っていたもう一人の男性が、カミュに縋るように願いを発する。その願いに、リーシャは目を見張り、カミュへと視線を向けた。

 

 『神を倒す事を成すのも、命じるのも、この国の者だけ』

 

 カミュがジパングで発したその言葉が意味していた事を、リーシャはようやく理解できたと思ったのだ。

 国で『神』として崇められている物を害するのは、その国の者でなければならない。それをカミュは言いたかったのだと、リーシャは理解したと考えた。

 しかし、自分を囲むように願いを口にする中年男性達を見るカミュの瞳は、とても冷たく、まるでアリアハンを出た当初にリーシャやサラに向けていた物と同じ色を宿している。横目にカミュの瞳を見たサラは背筋が凍る程の恐怖を感じ、リーシャは開きかけた口を閉じるしかなかった。

 

「……」

 

 もう一度、ヤヨイの祖父達に冷ややかな視線を向けた後、カミュは無言で洞窟へと足を踏み入れた。

 カミュ達が行っていたやり取りの大部分が理解できなかったメルエが、マントから少し顔を出しながらその後に続いて行く。

 

「……頼む……頼む……」

 

「任せて下さい」

 

 カミュの背中を拝むように願いを口にする男達に、サラは頼もしく答えた。しかし、リーシャにはそんなサラの答えが何故か頼りなく見える。

 それは、先程のカミュの瞳の影響なのか、それともどこか震えているサラの声のせいなのか。

 

 

 

「くっ!」

 

 洞窟内に入ったリーシャは、その熱気に一瞬怯んだ。入口から緩やかな下りになっている道を降りると、大きく開けた場所に出る。そこには、地の底から湧き上がるように噴き出す溶岩が川のように流れる場所であった。

 その熱気は想像を絶する程で、リーシャやカミュの頬を、塩分を含んだ水が流れ落ちる。

 

「…………あつい…………」

 

「メルエ、マントだけでも脱いでおきましょう。盾は着けていないと駄目ですよ」

 

 首に縛ってあるマントの紐に手を掛けたメルエを見て、サラがそのマントを脱がし、畳んで袋に入れるが、左手に装備していた<魔法の盾>さえも取ろうとするメルエを窘めた。

 『むぅ』と頬を膨らませるメルエの額には大粒の汗が噴き出している。それ程の暑さを感じているのだろう。

 

「メルエ、凄い汗だな。も、もしかして、また具合が悪いのか!?」

 

 リーシャの汗の量が、自分達三人よりも多い事に、リーシャは<ガルナの塔>の帰りを思い出し、心配そうに近寄るが、それは、首を横に振って小さく『あつい』と溢すメルエによって否定された。

 

「もしかすると、メルエは私達以上に暑さを感じているのでしょうか?」

 

「私達が装備している物がメルエと……!! テドンで購入したこれか!?」

 

 メルエの様子に首を傾げたサラを見て、リーシャが少し考えた後、自分達が身に着けている物に手を掛けた。

 そこにあるのは、『滅びし村』で購入した<魔法の鎧>。そして、リーシャの言葉に振り向いたサラが身に着けている物もまた、その村で購入した<魔法の法衣>。

 

「……だろうな……まさか、魔法に対してだけではなく、こういう物にも耐性があるとは思わなかったが」

 

「…………ずるい…………」

 

 カミュが肯定した事により、それは一行の中で決定事項となった。自分達が身に着けている物を触れる二人を見て、大粒の汗を流しながらメルエは頬を膨らませる。

 

「メルエは、魔法を使えば良いんじゃないか?」

 

「……アンタはメルエを氷漬けにするつもりなのか?」

 

 氷結の魔法を得意とするメルエの特技を思い出し、良い提案だとでも言いたげに話すリーシャに、カミュは呆れたように溜息を吐いた。

 魔法力の制御を覚えたとはいえ、自分の身の回りだけを冷やすような高等な技術をメルエが出来る訳がない。いや、『賢者』となったサラであっても、そのような芸当は出来よう筈もなかった。

 

「…………リーシャ………きらい…………」

 

 自分の状況を真剣に考えてくれているようには映らなかったのだろう。汗を流しながら、軽くリーシャを睨んだメルエは『ぷいっ』と顔を背けてしまった。

 それに慌てたのは、リーシャである。

 

「ち、違うぞ! 私はメルエならばその位の事が出来るのではと思ったんだぞ!」

 

「ふふふ。ですが、布か何かに<ヒャド>を掛けて、それをメルエの首に巻くぐらいしかできませんね」

 

 慌ててメルエに言い訳をするリーシャと、そんなリーシャから逃げるように顔を背けるメルエに微笑むサラは、持っていた袋から手拭いのような布を出し、自身で<ヒャド>をかけた。<ヒャド>の冷気によって凍りついた布であったが、それは瞬く間に溶け出し、メルエの首に巻こうとした時には、湯を潜らせた程の物に変わっていた。

 

「…………むぅ…………」

 

 余りの熱気にメルエは頬を膨らませながらも、弱々しくカミュを見上げる事しか出来ない。そんなメルエの額の汗を拭きながら、何か良い策がないものかと考えを巡らすが、何も思い浮かぶ事はなく、何度か<ヒャド>を布にかけながら先に進むしかなかった。

 

 

 

「あれは!?」

 

 メルエの汗を拭きながら進む一行は、入口からそう遠くない場所に置かれた物を見て、駆け寄って行く。それは、ヤヨイの祖父達が担いでいた駕籠のような物だった。

 洞窟に入ってすぐの場所に置かれている事から、彼等が中に入って時間を空けずに出て来た事も理解できる。

 

「カミュ! 中には誰も入ってはいないぞ!」

 

 駕籠の中を覗き込むように見たリーシャの叫びが、溶岩によってむせ返る程の熱気の中に響き渡った。一つ頷いたカミュは、汗を大量に流すメルエに水筒の水を与えながら周囲を見渡す。駕籠から降りた人間は既に近くに居らず、溶岩の川を避けるように出来た道を沿って歩いて行った事が窺えた。

 

「……奥へ進む……」

 

 メルエを気遣いながらも、カミュは奥へと進路を取り、歩き出す。サラは、再び凍らせた布をメルエに当て、自らの水筒の水を凍らせた氷をメルエの口に含ませて、カミュの後を歩き出した。

 最後尾には、熱気によって熱くなった柄を握りしめたリーシャが続く。

 

 

 

「おい! 私は右だと言っただろう!」

 

「リ、リーシャさん、落ち着いてください」

 

 いつものように、リーシャに道を尋ねては、その逆に向かって歩き出すカミュに、リーシャの我慢も限界となり、前へ向かって叫ぶが、隣を歩くサラに宥められ、暑さに苛立ちを浮かべるメルエの視線に黙り込むしかなかった。

 

「……メルエ……後ろに下がれ」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの叫びを無視していたカミュが、前方に広がる溶岩の川を凝視しながら背中の剣を抜き放った。同時にリーシャ達にも緊張が走る。

 メルエがサラの後ろへと移動を完了させた時、溶岩の川が妙な動きを始めた。

 

「カミュ! 下がれ!」

 

「!!」

 

 溶岩の川の動きを注視していたリーシャから声が響く。もはや聞きなれたその声に、カミュの身体は無意識に反応を返した。

 カミュが後ろへと飛び退くと同時に、今までカミュの立っていた場所に溶岩が降り注ぎ、土を溶かして行くような煙を立ち昇らせる。

 

「ヒャド!」

 

 突如立ち上った煙に視界を奪われたサラが、自身の唱える事の出来る氷結系魔法を詠唱した。

 前方に飛んで行った冷気は、周囲の溶岩が発する熱気に負け、虚しく霧散してしまう。それでも視界を遮る煙は消え、カミュ達の前に現れた者の姿を浮き上がらせた。

 

「……あれは……魔物なのか?」

 

「…………あつい…………」

 

 その姿を見たリーシャは、目の前に佇む不思議な存在に声を失い、リーシャの蔭に隠れていたメルエは、暑さを増した周囲の気温に不満を漏らす。

 それもその筈、リーシャが目にした物は溶岩そのもの。

 溶岩の川から手のような形をした物を突き出し、固められた溶岩の塊からは、こちらを覗うような怪しい光を放つ瞳が向けられていた。

 

<溶岩魔人>

その名の通り、地下を流れる溶岩に、『魔王バラモス』の魔力によって命が吹き込まれた物。魔人という名に偽りはなく、溶岩が人型に変化して襲いかかって来る。炎をも溶かす程の温度を誇る溶岩で構成されているため、その攻撃は脅威であり、一度触れてしまうだけで人の身体は溶解して行くのだ。人型に固まった溶岩は、それでも尚、凄まじいまでの炎を纏っており、隙を見せたその時に、『燃え盛る火炎』を振り撒く事もある。

 

「カミュ! これ程の熱を放たれると、迂闊に近づく事は出来ないぞ!?」

 

 炎を纏った溶岩の塊が、自分達の隙を窺っているのを見て、リーシャは隣のカミュへと視線を送る。闇雲に武器を振るうだけが戦闘ではない。それを、この旅でリーシャは学んでいるのだ。

 

「……残念ながら、私の氷結魔法では歯が立ちません……」

 

 カミュの後方に移動したサラが、申し訳なさそうに口を開く。

 その言葉に、一行の視線が同じ場所へと移って行った。

 

「…………むぅ…………」

 

 急速に上がって行く体感温度に、不機嫌そうな表情を浮かべる少女。

 このパーティー内で最年少でありながら、最高の魔法の使い手。

 

「カミュ! メルエに頼るべきではない。私達で倒すしかないだろう」

 

「……相手は溶岩の中から現れた魔物だぞ? 攻撃を繰り出した俺達の武器の方が溶解する事は目に見えている……」

 

 正直、リーシャとしてみれば、メルエに魔法を使わせる事には反対なのである。

 それは、嫉妬のような浅はかな物ではない。メルエの行使する魔法は、魔法に疎いリーシャであっても理解できる程に異常であった。故に、リーシャから見れば、メルエの身体のどこかに多大なる負担が掛っているのではないかと考えていたのだ。

 しかし、そんなリーシャの提案は、カミュによって冷静に斬り捨てられる事となる。

 相手は溶岩。ならば、それの纏う炎もかなりの温度となる。それこそ、カミュ達が手にする、『鉄』で構成された武器をも溶かしてしまう程の。

 

「メルエ、なんとか……危ない!」

 

「くっ!」

 

 カミュの答えを聞き、サラはメルエへと視線を移す途中、<溶岩魔人>の腕が振り下ろされ、大きな火炎が自分達に向かって来るのを見て、咄嗟にメルエを庇うように抱きしめた。しかし、覚悟していた熱気は、メルエを庇うサラをも庇うように立塞がった二人の人間の持つ盾によって防がれる。

 

「カミュ! 盾がもたないぞ!」

 

 『燃え盛る火炎』を受けたリーシャとカミュの<鉄の盾>の表面が、熱によって溶け出し始めた。

 リーシャに頷いたカミュは、後方に視線を送り、サラとメルエに移動を指示する。カミュの指示の内容を目線だけで理解したサラが、不機嫌そうに眉を顰めるメルエを立ち上がらせ、真横へと移動を完了させた。

 

「いやぁぁぁ!」

 

 サラ達の移動を確認したカミュが、高熱を宿し始めた<鉄の盾>を下げて、<溶岩魔人>へと突進して行った。

 収まり掛けていた火炎の勢いを割って突入したカミュの肌が高温と化した大気によって焼かれて行く。刺すような痛みを頬に感じながら、カミュは構えていた<鋼鉄の剣>を溶岩の塊に向かって振り下ろした。

 

「おぉぉぉぉ!」

 

 乾いた音を立てながら弾き返されたカミュの<鋼鉄の剣>は、溶岩に触れた事によって、真っ赤に変色している。その横をカミュに遅れて駆け出したリーシャがすり抜け、手にした<鉄の斧>を横薙ぎに振るった。しかし、リーシャの渾身の一撃も、カミュと同じ結果を生み出すだけだった。

 洞窟内に、二度目の乾いた音を響かせたリーシャの斧も、やはり真っ赤に変色している。それは、少なくともこの色が元に戻るまでは武器として使う事が出来ない事を意味していた。

 

「くそ! どうする、カミュ!?」

 

「……」

 

 一歩後ろに飛び退いたリーシャの問いかけに、カミュも黙り込む。今、目の前で奇妙な動きを見せる溶岩の塊にどう対処するのかが思い浮かばないのだ。

 

「カミュ様! リーシャさん! 下がって!」

 

 じりじりと迫り来る<溶岩魔人>に赤く染まった武器を構え少しずつ後退するカミュ達に頼もしい声が掛る。振り返ると、そこには声を出すサラと、その横で杖を掲げるメルエ。それが何を意味するのかをカミュとリーシャは、この旅の中で学んでいる。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ヒャダイン…………」

 

 <溶岩魔人>を警戒しながら後ろに下がったカミュ達を確認したサラが、メルエに声をかける。サラの言葉に小さく頷いたメルエは、杖を掲げて、それを真っ直ぐに振り下ろした。

 その詠唱はカミュやリーシャだけではなく、サラでさえ聞いた事のない物。その証拠に、杖を振り下ろしたメルエを、サラは驚愕の表情で見ている。

 

「ちっ!」

 

「なっ!?」

 

 振り下ろしたメルエの杖から飛び出したのは、膨大な冷気。灼熱の溶岩が流れる洞窟内でもその猛威は健在で、真っ直ぐに<溶岩魔人>へと向かって行った。

 その範囲も広大で、サラ達の下へ戻ろうとしたカミュとリーシャをも飲み込みかねない物。盛大な舌打ちをしたカミュは、迫り来る冷気を呆然と眺めるリーシャを抱き、横へと身体を投げ出した。

 微かに掠めた冷気は、融解しかけていたカミュの盾を凍り付かせ、それを持つ腕までも氷で覆い尽くそうとして行く。倒れ込んだカミュは、未だに赤々と熱を発する<鋼鉄の剣>を左腕に押し当て、凍結しそうになる腕を遮った。

 

「……カミュ……」

 

 カミュの苦労を余所に、リーシャは未だに茫然としたまま、前方にいた筈の<溶岩魔人>へと視線を送っていた。

 腕の凍結が収まったカミュは、<ホイミ>を自身の腕にかけ、リーシャが向けている視線の方向へと目を向ける。

 

「……とんでもないな……」

 

「……メルエは、大丈夫なのか……?」

 

 前方へと目を向けたカミュも、その余りの光景に言葉を失う。

 <溶岩魔人>であった物は、確かに炎をも焼く程の熱を持っていた筈。それが、疑いようもない程に凍りついていたのだ。

 何も、<溶岩魔人>だけではない。周辺の岩や土、そればかりか、あろう事か<溶岩魔人>が出て来た、溶岩で出来た川すらも凍りついていたのだ。

 

 その魔法の凄まじさに、リーシャは詠唱者であるメルエの身体を心配する。

 これ程の威力の魔法をリーシャは見た事がない。それはカミュも同様ではあるのだが、魔法に対する知識が乏しいリーシャにとっては、それは何かを代償にしなければならない程の物に見えたのだろう。

 

「!! 氷が溶け出す前に叩き壊す」

 

 メルエの放った氷結呪文の冷気も霧散し、周囲の温度が戻って行く中、<溶岩魔人>を固める氷も汗を掻き始めている。それに気付いたカミュは、元の色に戻った<鋼鉄の剣>を構え、<溶岩魔人>へと近付いて行った。

 カミュとリーシャの手によって粉々に砕け散った<溶岩魔人>であった物を辺りにばら撒き、復活する事がないかを確認した後、二人は後方で待つ魔法の使い手の下へと移動する。

 

「…………あつい…………」

 

 いつもなら、自分の功績を褒めてもらうために頭を突き出して来るメルエだったが、戻って来た周囲の温度に汗を流し、眉を下げながらカミュの顔を見上げていた。

 

「……メルエ……いつの間に<ヒャダイン>を習得したのですか?」

 

「あの魔法は<ヒャダイン>というのか?」

 

 『むぅ』と唸りながら、周囲の温度にぐったりとしているメルエにサラが尋ね、溢した魔法名にリーシャが反応を返す。そんな二人のやり取りにも、メルエはこくりと一つ頷くだけだった。

 

<ヒャダイン>

『魔法使い』の指導書でもある『魔道書』には記載されていない魔法。氷結系の魔法である<ヒャド>や<ヒャダルコ>を威力に於いて遙かに凌ぐ。その冷気は溶岩をも凍らせる程の物で、古の賢者でしか使う事の出来なかった物。故に現在、この<ヒャダルコ>の上位に位置する<ヒャダイン>という魔法を行使できる人間は誰もいないのだ。

 

「もしかして、この前ですか?」

 

「…………ん…………」

 

 実は、サラはメルエにせがまれて『悟りの書』を共に見た事が何度かあった。文字の読めないメルエは、そこに記載されている一つ一つをサラへと尋ね、回復魔法や補助魔法以外の魔法の魔方陣等を自分の持つ『魔道書』の表紙裏などの空白の部分に描いてもらっていたのだ。

 実際サラは、現在では『悟りの書』の数ページを読む事が出来るようになっている。未だに白紙の部分の方が何倍も多いが、開く度に読めるページが増える事は、サラにとっても嬉しい事の一つだった。

 

 『悟りの書』の中で最初に出て来た攻撃魔法。

 それが、この<ヒャダイン>であったのだ。

 ここ最近、メルエが何時魔方陣を敷いて契約をしているのかが解らない。

 サラはその事に、何か途方もない恐怖を感じた。

 

 それは、『置いて行かれる』とか『何時の間にか強力な物を使えるようになっている』といった劣等感や嫉妬等ではない。むしろメルエの成長を頼もしく思う反面、何故か『この少女には自分がしっかりと付いていないといけない』という義務感が生まれたのだ。

 

「メルエは本当に凄いですね」

 

「…………ん…………」

 

 サラの表裏のない褒め言葉に、ようやくメルエが笑顔を見せる。しかし、笑顔だったサラの表情が真面目な物に変わった事で、メルエも表情を硬くした。

 

「でも、メルエ。今度からは『悟りの書』に記載されている魔法に関しては、私と一緒に契約しましょう」

 

「…………???…………」

 

 屈んで、メルエと視線を合わせるように話すサラの言葉に、メルエは小首を傾げた。今まで自分が新しい魔法を覚える時に、サラがこのような事を言った事はないからだ。

 魔法の契約は常にメルエ一人で行って来た。人目を忍ぶように、カミュやリーシャにも見つからないように行って来たのだ。

 それがメルエなりの拘りだったのかもしれない。『覚えたばかりの新しい魔法を行使し、皆を驚かせる』。そんな小さな喜びがメルエにはあったのだろう。

 しかし、サラとしては当然の事。この世界に今、この魔法を行使できるのは、目の前で不思議そうに小首を傾げ、自分を見上げている幼い少女しかいないのだ。

 

「メルエ、そいつの言う通りにしろ。何もメルエの魔法を禁止する訳ではない。強力な魔法には、それなりの危険を伴う。そいつはそれを心配しているだけだ」

 

「……カミュ様……」

 

 予想外の人物からの助け船に、サラは心底驚いた。

 自身の中にある、気付かない感情を明確に表現され、サラも初めて自分の中に渦巻く『恐怖』の内容に気付く。

 古の賢者しか使えないという事は、それ相応の何かが必要だという事。『賢者』となったサラも何時の日か行使出来るようになるだろう。

 それでも、それは今ではない。読めるようになったとしても契約出来るか出来ないかはサラの内にある物次第なのだ。

 それは単純な魔法力だけではなく、それこそ気力や心力、そしてサラ自身の器の成長が絶対不可欠な条件。

 だからこそ、サラよりも幼いメルエが契約を完了させた事が『恐怖』だったのだ。

 メルエがサラよりも知識があるとは考えられない。魔法力の多さは桁違いではあるが、心の成長に関しては、サラよりも大人だとも考え辛い。

 『何か別の物を犠牲にしているのではないか?』とサラは考えたのだった。

 

「…………ん…………」

 

「しかし、本当に凄かったぞ! ありがとう、メルエ」

 

 カミュとサラの顔を交互に見たメルエは、しっかりと首を縦に振った。それを見たリーシャがメルエの汗ばんだ髪を撫で、笑顔で礼を行う。暑さに参っていたメルエも、リーシャの笑顔と優しい手を受けて、顔を綻ばせた。

 

「本当ですね。私なんて、まだ<ヒャド>しか使えないのに……」

 

「ふふふ。サラはこれからだ。それに、サラの強みである補助魔法は、例え『魔道書』の物でもメルエより上かもしれないぞ」

 

「…………むぅ…………」

 

 自嘲気味に言葉を洩らすサラに笑顔で告げたリーシャの発言は、メルエの笑顔を膨れ面に変えてしまう物だった。頬を膨らませたメルエの表情を見て、リーシャは柔らかな笑顔を作る。

 周囲の温度は相変わらず上がる一方だが、それを感じさせない程、心地よい空気が四人を満たしていた。

 

「……先を急ぐ……」

 

「あ、ああ。そうだな。イヨ殿を救わねば」

 

 軽く笑みを浮かべたカミュが進行方向へと向き直り、歩き出す。その後をリーシャが続き、先程とは違い、汗を大量に流しながらも、軽い笑顔を浮かべるメルエの手をサラが握って歩き出した。

 

 

 

 溶岩の川を避けるように進む一行は、リーシャという最強の道標によって、何度かの戦闘を行いながらも順調に歩を進めた。

 そこに<溶岩魔人>の姿がなかったのは、彼らの持つ運なのかもしれない。

 

「カミュ様……あれは……?」

 

 行き着いた先は完全な行き止まり。しかし、それは過去に行き止まりであったとされる場所であった。

 何かを取り囲むように、人の手で造られた石の囲いは無残に破壊され、その傍には燃えカスのように転がる藁の残骸。

 おそらく、<ジパング>にあったヒミコの屋敷に掛けられていた藁で出来た縄であろうと思われる。何か強い力で護られていたのだろう。これ程の熱気を放つ洞窟内でもその原型を留めてはいた。

 

「…………ん…………」

 

「メルエ、何か拾ったのか?」

 

 破壊されたような囲いに目を向けていたリーシャに向かって、メルエが何かを突き出して来た。リーシャの問いに『こくり』と頷いたメルエの手にある物を見て、リーシャもサラもその正体が全く解らなかった。

 

「……仮面……でしょうか?」

 

 メルエの小さな手に握られた物は、人の顔程度の大きさの物。しかし、その顔の表情はとてもではないが『人』の物ではない。

 『怒り』『哀しみ』『憎しみ』等の様々な感情の入り混じったような顔。

 憤怒に燃えているとも見えるし、憎悪に歪んでいるとも見える。そして、哀しみに涙しているようにもサラには見えていた。

 

「だが、壊れているな」

 

 サラと同じような感想を持ったリーシャであったが、その面には真中から二つに割れるようなひびが入り、少し触れただけでも乾いた音を立てて割れてしまいそうな物と化していた。

 

「…………」

 

「メルエ、その面は俺が持とう」

 

 首を傾げるメルエから、その仮面を受け取ったカミュは、もう一度その仮面の表情見て、自身の顔からも表情を失くした。

 周辺を見渡した後、カミュは奥へと歩き出す。カミュの表情と雰囲気が変わった事を悟ったリーシャは、背中から<鉄の斧>を取り、右手に構えたままメルエやサラを先に行かせ、警戒しながら歩き出した。

 サラやメルエには、何故カミュの表情が変化したのかは解らない。だが、この<ジパング>という国を襲う脅威に、あの仮面が何か関係している事だけは理解出来た。

 そして、それは後に解る事となる。

 

 

 

 壊れた石の囲いを抜けた先は、緩やかではあるが、下方へと下る坂道が続いていた。下へと進むと、上部よりも若干温度が下がったような感覚を受ける。まるで地下の溶岩がどこか一点に集中しているかのように。

 

「……またか……」

 

 少し開けた場所に出た時に、カミュが溜息を吐きながら背中の剣を抜く。それは戦闘の合図に他ならない。

 後ろを歩いていた三人もそれぞれの武器を構え、前方から現れた物体に目を向けた。そして、その物体の全貌を視界に収めた時、サラはカミュが吐いた溜息の理由を知った。

 

「…………リーシャ………だめ…………」

 

「なにっ!? 私とて、何度も同じ手を喰らわないぞ!」

 

 近付いて来る魔物と思しき物体を見たメルエは、視線を上にあげ、リーシャへと言葉を洩らす。そんなメルエの呟きに、リーシャは慌てたように反応した。

 

<鬼面道士>

堕ちた異教徒。<ドルイド>や<幻術師>よりも上の高官の成れの果てとされる物。特徴的には<幻術師>と大差はないが、その内に宿した魔法力の量が<幻術師>よりも多く、行使する魔法の回数も多い。その身体を形成する腐肉は、既に淀んだ色に変色し、まるで顔に手足が付いたような姿は、『人』を恐怖させるのだ。

 

「リ、リーシャさん。気をつけて下さいね。今のリーシャさんが錯乱すれば、私達は全滅しかねません」

 

「な、なにっ!? サ、サラまで私を馬鹿にするのか!?」

 

 <鬼面道士>から視線を外す事なく注意を投げかけるサラに、リーシャの怒声が轟く。しかし、サラからしてみれば、それは馬鹿にした物等ではなく、ただ単純な事実に他ならない。

 現状、リーシャの剣を受け止められる人間はカミュしかいないのだ。サラやメルエが襲いかかられたりしたら、本当に一刀の下に斬り捨てられるだろう。そこに魔法を詠唱する暇などあろう筈がない。

 サラやメルエのような魔法を使う人間は、カミュやリーシャのような武器を扱う人間がいてこそ、その能力を発揮できるのだ。

 一対一の戦いとなった時、同じ性質を持つ者に対してであればそれなりに戦えるが、そうでない場合は、誰かが注意を逸らしている間に詠唱を完成させ、その魔法を行使するしかない。

 それをサラは痛い程に感じていた。

 

「……馬鹿にされても仕方がない事をして来た筈だが……」

 

「ぐっ!」

 

 しかし、サラとは違い、カミュも半分はリーシャを馬鹿にしていたのかもしれない。その証拠に、魔物を目の前にしたカミュの口端が上がっていたのだ。それに気付いたリーシャの額に青筋が浮かび上がる。

 

「くそ! 見ていろ! あんな魔物は私一人で十分だ!」

 

「あっ! リ、リーシャさん!」

 

 サラの制止の声を聞かずに、リーシャは<鬼面道士>へと駆け出した。まさか、単独で突っ込むとは考えていなかったのだろう。そのリーシャの姿にカミュでさえ目を見開き、信じられない物を見るように呆然と佇むしかなかった。

 

「マホト……」

 

「54‘’#0」

 

 リーシャの暴挙に、サラが慌てて詠唱を開始するが、それに被せるように、<鬼面道士>は持っていた杖を振りかざし、詠唱を完成させた。

 流れる不穏な空気。

 止まってしまった時。

 周囲を不思議な空間が支配する。

 

「……まさかとは思うが……」

 

「……いえ……おそらく、そのまさかだと……」

 

「…………リーシャ………だめ…………」

 

 <鬼面道士>に向かって斧を振り上げたまま固まってしまって動かないリーシャを見て、カミュの額から大粒の汗が流れ落ちる。それは、何も周囲の温度のせいばかりではないだろう。

 そして、そんなカミュの最悪の予想は、詠唱を失敗し、呆然と前方を見るサラの言葉と、ぼんやりとリーシャの背中を見つめるメルエの一言で肯定されてしまった。

 

「うおぉぉぉぉぉぉ!!」

 

「くそ! メルエを連れて下がっていろ!」

 

 叫び声と共に、手に握る斧を掲げるリーシャを見て、カミュはサラへと指示を出し、自らも<鋼鉄の剣>を構えた。

 自分の失言を悔やむかのように歪んだ表情を戦闘時のそれへと変化させ、カミュはこれから襲いかかって来るであろう脅威に身構える。以前に相対した時は、リーシャを傷つけないようにという遠慮があったのか、全く歯が立たなかった。

 実際、後ろにいるサラやメルエを護る事を最優先として考えるならば、相手を殺すぐらいの気迫で相対さなければならないという事をカミュは覚悟する。

 

「……カミュ様……」

 

 そんなカミュの覚悟を感じ取ったのだろう。サラは予想外の形で噴出したパーティーの危機に、顔を青ざめさせた。しかし、そんな二人の悲痛な覚悟は、リーシャの振る<鉄の斧>が切る風の音と、肉を斬り裂く不快な音、そして、空中に舞った木で出来た杖によって打ち砕かれる。

 

「えっ?」

 

「……」

 

 重苦しい程の音と共に、<鬼面道士>であった物の胴体部分が、厭らしい笑みを浮かべたまま地面へと落ちて行く。その余りにも予想外な光景に、サラは間の抜けた声を上げ、カミュは声も出せず、メルエは不思議な物でも見るように小首を傾げた。

 

 <鬼面道士>の唱えた魔法は、十中八九<メダパニ>であった事は間違いない。そして、<鬼面道士>の唱えた魔法は、確実にリーシャの脳神経を狂わせ、効果を発揮していたのだろう。

 それは、今、地面に横たわる<鬼面道士>の胴体が浮かべる表情が物語っていた。

 

「……錯乱状態だったという事か……」

 

「えっ? ど、どういうことですか?」

 

 斧を振り終わり、術者の死によって、魔法の効果も切れたリーシャは、静かにその場に倒れ込んだ。

 その様子を見て呟いたカミュの一言は、サラを更なる混乱へと陥れる。全く意味が解らないメルエは、汗を掻きながらカミュを見上げていた。

 

「……敵も味方も区別できない程に錯乱していたという事だろう……」

 

「……そ、そんな……」

 

「…………???…………」

 

 カミュが洩らした答えを聞き、サラの顔は益々青ざめる。敵も味方も区別が出来ない程に錯乱したリーシャの斧は、もはや『武器』ではなく『凶器』。

 可能性として、その凶器が自分やメルエに向けられたかもしれないのだ。それを考えると、他人事として受け取る事など出来よう筈がない。

 

「……しかし、あの頭はどうにかならないのか……?」

 

「そ、それ……!! 今回はカミュ様が悪いのですよ! こうなる事が予想できたにも拘らず、リーシャさんを嗾けたのはカミュ様です!」

 

 危うく、カミュの言葉に同意しかけたサラは、その原因になった人間の発言を思い出し、抗議の声を上げる。

 以前ならば、考えられないやり取り。サラにとってカミュは『恐怖』の対象でもあった。アリアハンを出て初めて対立した時は、カミュの中にある『狂気』にも似た物を見て、身体が硬直した事もある。無表情で『人』を殺して行くカミュに足が竦み、身体が震えた事もあった。

 それでも、カミュと真っ直ぐ向き合い、自分の中にある物をぶつけ合って来たサラだからこそ、今、カミュもサラと目を合わせて言葉を発するのだろう。だからこそ、サラもカミュに対して軽口を叩けるのだ。

 

 それが、彼女が築いて来た『絆』

 

「…………リーシャ…………」

 

 カミュとサラのやり取りの中、糸が切れたように崩れ落ちたリーシャの下にメルエが駆けて行く。

 メルエにとって、カミュ達三人は何物にも代えがたい人物。リーシャがどのように変貌しようと、それに恐れを抱く事なく、リーシャという本質を見る。

 例え、カミュが他人からどう呼ばれようと、その冷たい仮面で内にある物を隠そうとも、サラが悩み、苦しみ、その価値観を変貌させようとも、メルエの想いは変わらない。

 メルエにとって、彼ら三人は既に家族にも等しいのだ。

 

 それが、彼女が築いて来た『絆』

 

「……あの種類の魔物は、あの脳筋戦士に任せた方が良いのかもしれないな……」

 

「そ、そんな……罷り間違えば、全滅してしまいますよ!」

 

 駆け寄って行くメルエを見ながら溜息を吐いたカミュの言葉に、サラは抗議の声を発する。それは、先程のリーシャの攻撃の凄まじさを見た為だろう。

 

 『あの一撃が、もし自分に振り抜かれたら』

 

 そう考えると、サラの背筋に冷たい汗が流れ落ちて行く。

 しかし、抗議を受けたカミュの口端はいつものように上がっていた。

 それは、これから先に語られる言葉が多少の冗談を含んでいる証。

 そんなカミュの姿に、サラも落ち着きを取り戻しかけた。

 

「あれに魔物を押し付けて、先に進めば良いだろう。周囲に味方がいなければ、必然的に相手は敵だけになる」

 

「リ、リーシャさんを置いて行くのですか!?」

 

 しかし、そんな落ち着きかけたサラを、カミュの言葉は再び驚きの谷底に落として行った。

 サラの驚きに、軽い笑みを浮かべたカミュは、倒れているリーシャの身体の態勢を変えようと苦労しているメルエの許へと歩き出す。カミュの笑みの理由が解らないサラは、どこか釈然としない思いを抱きながら、その後を追った。

 

「…………リーシャ…………」

 

「大丈夫だ。気を失っているだけだろう」

 

 苦心しているメルエを退かし、うつ伏せに倒れ込んでいるリーシャの身体を仰向けに直したカミュを見上げ、心配そうに眉を下げるメルエ。カミュはその頭を優しく撫でた。

 カミュの言葉を聞いて尚、心配そうにリーシャを見つめるメルエに、カミュは苦笑する。

 

「メルエ、大丈夫ですよ。それより、メルエの汗を拭かないと」

 

「…………サラ…………」

 

 そこへ、メルエにとって、身体の状態に関しては最も信頼できる人間から声が掛る。<ヒャド>によって冷たく凍らせた布をメルエの額に当てた後、熱くなっている首筋を拭き取るように当てて行った。

 ひんやりと心地良い感覚に目を細めながら、安心できる声を聞いて、メルエの表情も和らいで行く。

 

「……メルエ……この寝ている奴にも、<ヒャド>を掛けて冷やしてやれ……」

 

「…………ん…………」

 

「カ、カミュ様! メルエの<ヒャド>では、リーシャさん自体が凍りついてしまいます! メ、メルエも、杖を上げては駄目です!」

 

 カミュの言葉に、『リーシャも熱いのだろう』と思ったメルエが杖を掲げるのを見て、サラが大慌てでその杖を下げさせる。

 不思議そうに小首を傾げるメルエに『そんな事をしたら、リーシャさんが死んでしまいますよ!』とサラが叫ぶと、勢い良く首を横に振ったメルエは、カミュを睨むように見上げた。

 

「うぅぅん」

 

 そんな三人のやり取りが進む中、ようやくリーシャが目を覚ます。カミュへ向けていた視線をリーシャへと移したメルエの表情が笑顔に変わって行った。

 目を覚ました直後、目の前にメルエの顔がある事に驚いたリーシャであったが、その花咲くような笑顔に、自然と顔が綻んで行く。

 

「メルエ、大丈夫か?」

 

「…………ん…………」

 

 身体を起こし、メルエの頭を撫でながら問いかけるリーシャの言葉に、メルエは軽く頷く。そんな二人に、カミュは盛大な溜息を吐き出した。

 とてもではないが、魔物の魔法に罹り、その理性を失っていた者の言葉ではない。

 

「それを尋ねたいのは俺達の筈だが?」

 

「ん?」

 

 目を細めてリーシャを見下ろすカミュの言葉の意味が、リーシャは理解できない。錯乱していた時の記憶がないのだろう。本当に何も思い浮かばないかのように首を傾げるリーシャが面白かったか、同じように首を傾げたメルエの顔は笑顔だった。

 

「再び魔物の魔法に惑わされ、錯乱していた人間が取る態度ではないな」

 

「カミュ様!」

 

 容赦のないカミュの言葉に、隣に立っていたサラが叫ぶ。

 それこそ、『魔法に耐性のない人間と知っていて嗾けた者の発する言葉ではない』と。

 そんなサラの心の叫びは届かず、カミュの厳しい視線を受け止めたリーシャの顔が歪んで行く。

 

「……私は、またお前達に武器を向けてしまったのか……?」

 

「い、いえ……」

 

「アンタは、あの魔物が唱えた<メダパニ>であろう魔法に惑わされて武器を振っていた」

 

 自分が犯してしまった罪を感じるリーシャに、それは違う事を伝えようと口を開いたサラを遮って、カミュは更なる追い打ちをかける。再び下を向いてしまったリーシャを見て、サラはどう声をかけようか悩む中、一人の少女が立ち上がる。

 

「…………カミュ………だめ…………」

 

 『むぅ』と頬を膨らまし、カミュを責めるように立ち上がったメルエに、カミュは怯んだ。そんなカミュの姿にサラは大いに驚く。

 おそらくこの世にカミュを怯ませる事が出来る者など、この幼い『魔法使い』しかいないだろう。どれ程恐ろしい魔物であろうと、どれ程地位の高い人間であろうと、それこそこの世の全ての物の『恐怖』の対象である『魔王』であろうと、カミュは怯む事はないだろう。

 そう信じているからこそ、リーシャもサラも、そしてメルエもこの青年の後ろを歩いて行けるのだ。

 そんな『勇者』を怯ませる事の出来る存在。

 自分達の心を変える一石となった少女を見るサラの目が柔らかい物へと変化して行く。

 

「いや、メルエ。良いんだ。カミュの怒りは尤もだ。カミュはメルエやサラの命をも預かっている。だからこそ、私の行動を許す訳にはいかないんだ」

 

「……リーシャさん……」

 

「……アンタ方の命を預かった覚えは微塵もないのだが……」

 

 カミュとリーシャの間に立つメルエの肩を抱きながら発したリーシャの言葉に、サラは何かを感じ、カミュは呆れたように溜息を吐いた。そんなカミュの言葉を無視するように、立ち上がったリーシャは、カミュ達三人に深々と頭を下げる。

 

「すまなかった。イヨ殿を救わなければならない場所で、軽率な行動だった」

 

 リーシャは知っているのだ。カミュが何を言おうと、それこそ自分の命よりもリーシャ達三人の命を優先している事を。

 アリアハンを出た当初は解らなかった。だが、今はそうだと胸を張って言う事が出来るとリーシャは思っている。

 

 それこそが、彼女が築いて来た『絆』

 

「で、でも、あの魔物はリーシャさんが倒して下さったのですよ?」

 

「…………ん………リーシャ…………」

 

 サラの言葉に同調するようにメルエが頷く。

 そんな二人の言葉を、自分を慰める為だと受け取ったのだろう。

 リーシャは柔らかく微笑み、二人の頭を撫でつける。

 

「ありがとう。私は、サラやメルエを護る盾であり、剣でありたい。その役目を担えなかったのだ。カミュの怒りを甘んじて受けるさ」

 

「……リーシャさん……」

 

 空気が変わり、矛先が変化して行く。その証拠に、メルエの厳しい瞳は、リーシャではなくカミュへと向けられた。

 そんなメルエの視線を受け、カミュは盛大な溜息を吐き出す。

 

「……先に進むぞ」

 

 溜息と共に吐き出されたカミュの合図に、全員が頷きを返す。メルエの瞳は緩み、周囲の温度を感じさせない程の笑みを浮かべた。

 その笑顔を受けて、リーシャもまた笑顔でメルエの手を握る。二人の笑顔を見て、サラの顔も綻び、カミュの背中へと視線を向けた。

 

 ここは、<ジパング>という国を滅亡の危機へと落す程の物が住まう洞窟。

 周囲は溶岩が湧き出し、固まった溶岩が転がる。

 幾人もの生贄が、己の不遇を嘆き、恐怖を押し込め、生まれ故郷の平和の為に歩いて来た道を、彼女達は歩いていた。

 

 それでも、彼女達の心は揺るがない。

 『怖れ』がない訳ではない。

 『自信』がある訳でもない。

 前を歩く一人の青年の歩む先に、必ず光が待っている事を信じているのだ。

 

 それが、彼女達三人が築いて来た『絆』

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

遂にあの洞窟です。
正直、この先の話は、ここまで以上に力が入っています。
ここまでの話が手抜きという訳ではありませんが、何故かこのジパング編は力が入りました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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オロチの洞窟(ジパング東の洞窟)②

 

 

 

 遥か昔、この小さな島国は、動物達の住処だった。

 数多くの動植物が育ち、命を散らす場所。

 居住を移動させる事のない『エルフ』が近付く事はなく、強力な魔物達が上陸する事もない。

 そんな穏やかな島。

 何十年も何百年もの時間を経過させ、その島は生きて来たのだ。

 

 そんな島に、未知の生物が誕生した。何時、生まれたのか、何時、この島に来たのか。それは、今になってみると解らない。

 海を渡ってこの島に辿り着いたのか、それとも初めからこの島で生きていたのかも、今ではもう解らない。

 ただ確かな事は、その生物が、驚異的な繁殖能力を誇り、時間の経過と共に数を増やして行ったという事だけ。土を掘り返し作物を植え、石を加工し獣を捕らえ、その生物はこの島での活動範囲を広げて行った。

 

 それは『人』と呼ばれる種族。

 

 そして時間は流れる。

 自らこの島を<ジパング>と名付けた『人』は、数を増やして行く中で、自分達を束ねる王を選出する。初代の国主は女性であった。

 不思議な能力を持ち、未来を読み、天候すらも操る事が出来たと云われる。そして、その後も、初代女王の血縁の者達が、この<ジパング>を束ねて来た。

 

「女王様、今年の作物はとても良い出来です」

 

「そうかえ? それもこれも、そなた達の一所懸命な気持ちが天に通じたのじゃろう」

 

 数代目となるその女王もまた、先代達と同様に不思議な能力を有していた。

 先を読む能力でもなく、天候を操る能力でもない。それは、<ジパング>の王として不必要な物でありながら、国主としては最も必要な能力。

 

 『人』の心を掴むという物。

 人望とでも呼べば良いのだろうか。

 それをこの女王は持っていた。

 彼女は、この国と、そして国に生きる民を愛していた。

 そして、民もまた、自分達を愛する彼女を愛していたのだ。

 

 民と共に自然の恵みを喜び、それによって豊かになる国を祝福する。時には民と共に畑に出て、時には民と共に狩りの収穫を喜ぶ。そんな国主を慕い、自然と彼女の下には『人』が集まって来ていた。

 自然に恵まれ、大地に恵まれ、周囲を囲む海に恵まれた島。そこで暮らす『人』は、常に温かな笑顔を浮かべていた。

 自らの糧となる食物に感謝し、格闘の末に倒した獣に感謝する。自分達が生きて行く為に犠牲になって行く物への感謝を忘れず、彼等はこの島の中央部分に町を作り、その場所の周辺以外には足を踏み入れなかった。

 『そこは、自分達の住処ではない』という事を知っていたのだ。

 

「女王様、お話が……」

 

「なんじゃ?」

 

 しかし、そんな平和な<ジパング>に暗雲が掛った。

 それは、ここ数年のこと。

 

「昨晩、また一人……」

 

「……ヤマタノオロチか……?」

 

 問いかけに頷く側近を見て、女王は静かに目を瞑り、大きな溜息を吐き出す。傍に控えていた衛兵達の目も、先程までの柔和な物ではなく、厳しい光を宿し始めた。

 女王が口にしたその名こそが、この<ジパング>を覆い尽くそうとしている闇。

 

 『ヤマタノオロチ』

 

 それは、近年に<ジパング>の若者が見付けた洞窟が発端。

 ジパングの東に存在した洞窟は、山に囲まれていて、これまでその存在を知られてはいなかった。たまたま狩りに出ていた若者が偶然発見し、興味本位で入ってしまったのだ。

 活火山の吐き出す溶岩によって空洞化したのだろう。中は、未だに燃え盛る溶岩が溢れ出し、尋常ではない温度を誇っている。

 岩壁にある鉱石は溶岩の力でも溶解する事ない強度を誇り、若者は、流れる汗を気にも留めず、嬉々として鉱石を集め出した。

 しかし、奥へと入り込んでしまった若者は、下り坂に差し掛かった場所で、それを見てしまう。

 眠るように身体を横たえていたそれは、若者が今まで見たどんな物よりも異質で、どんな物よりも醜悪。

 八つの頭と八つの尾を持ち、若者の進路を塞ぐかのような巨大な体躯を横たえていた。

 

 その姿を見た若者は、思わず声を上げてしまう。その声と、嗅いだ事のない匂いに目を覚ました化け物の一つの首が、若者を不思議そうに眺めている間に、若者は震える足を叱咤し、来た道を全速力で駆け出した。

 後ろから響く唸り声に怯えながらも、振り向く事なく走った若者は、命からがら<ジパング>の町へと戻って来たのだ。

 そして、自分が見て来たその光景を、誇張しながら国民に話す。その話は平和という湯に浸かっていた国民の感情に影を落とした。

 恐怖に変わり、それが憎しみに変わって行く。

 『人』の心は脆い。

 悪感情への変化は容易く、そして、その感情は驚くべき程の原動力となった。

 

「もうこれで、八人目です。民達も焦燥しております」

 

 <ヤマタノオロチ>という未知の怪物が現れた頃を思い出していた女王に、側近の一人が声をかける。その声に引き戻された女王は、大きな溜息を吐いた。

 

「解っておる。だが、妾は東の洞窟へ近づく事を禁じた筈じゃ。何故、民達はその場所へ行こうとする? 鉱石等なくとも、狩りは不自由しておらぬ筈じゃ」

 

「そ、それは……」

 

 溜息を吐くように洩らす女王に、側近は言葉を詰まらせる。確かに、女王は、民達によって<ヤマタノオロチ>と名付けられた怪物の出現の報を聞くと、直ちに東の洞窟へ近づく事を禁じたのだ。

 

「……何度も申すが、おそらくあれは、我々『人』よりも遥か昔からこの地に住まう物。言うなれば、産土神のような物じゃ。遥か昔からこの地を護り、この地を見て来た物。我々のような者達が如何こう出来る物ではない」

 

「し、しかし、このままでは、この<ジパング>が滅びてしまいます!」

 

 女王の言葉に反論を返す側近。本来、国主に対し抗議をするという事自体、この<ジパング>では罪深い物とされていたが、この側近は、『諫言も臣下の務め』とでも考えていたのだろう。真っ直ぐ女王の目を見ながら言葉を発した。

 彼自身、女王の言う通り、『禁止された場所に赴く者が悪い』という感情もある。しかし、それでも民は民。国の要人として守らなければならないと感じていたのだ。

 

「……まだ、この集落を襲って来る訳ではない。東の洞窟にさえ向かわなければ、<ヤマタノオロチ>に襲われる事はないのじゃ。民達が東の洞窟へ近づかぬよう徹底させよ」

 

「……ここを襲って来るまで待っていては、手遅れになってしまいますぞ……?」

 

 側近の言葉は真実だった。事実、<ヤマタノオロチ>の活動範囲は、徐々に集落へと近付いていた。

 最初の頃は、『我こそが怪物を倒してやる』と意気込んだ若者が洞窟へと向かい、返討ちに合うだけの物であったが、今では洞窟近くの山で山菜を採りに行った者までも襲われ始めている。

 

「……その時は、妾が出る……」

 

「……」

 

 暫し目を合わせた二人であったが、側近が頭を下げて退出したことで、会見は打ち切られた。緊迫した空気が緩み、周りを囲む衛兵達も息を静かに吐き出した。

 実は、この<ジパング>で女王に対してあのような意見を発する事が出来るのは、あの側近だけなのである。それもその筈、あの側近である男は、この<ジパング>という国の要人であると共に、この女王の夫でもあるのだ。

 女王が幼少の頃から側近く仕え、女王へ心からの忠誠を尽くして来た。その表れがあの諫言なのである。

 

 そして、先日、女王との間に一女を授かったばかりであった。

 

「……ふぅ……」

 

 女王は一人息を吐く。実際、この国の民達の血が流れている。国主として、この事を良しとしている訳ではない。

 しかし、元来、この<ジパング>は色々な生物と共に生きて来た。草木から岩に至るまで、そこに神が宿り、我々の生活を見守っている。そう信じて来た。

 様々な生物が暮らすこの小さな島で、それぞれの住処を分けて生きて来たのだ。

 勿論、生きて行くために他生物を食す事もある。しかし、必要以上にそれを狩る事などなく、時には獣に襲われ『人』が食される事もあった。

 そのように、この<ジパング>では時を重ねて来たのだ。

 

 今回、先に<ヤマタノオロチ>の住処を荒らしたのは、この島に暮らす『人』。故に、罪は『人』にある。

 初めて見る『人』という生物に興味を示したとしても、その『人』が敵意を持ち、武器を向けて来たとなれば、<ヤマタノオロチ>とて『人』を敵と看做すだろう。

 

「……心を捨てねばなるまいな……」

 

 溜息と共に吐き出された女王の言葉は、一人残された謁見の間に霧散して行く。

 

 

 

「女王様!」

 

 そして、女王の呟きが現実になる時が来る。

 それは、国の収穫も終え、感謝の祭りが行われる前日の事だった。

 

「集落近くで民が襲われました! しかも、年端も行かぬ娘です!」

 

「……」

 

 側近によって齎された内容に、女王は目を瞑り、天を仰ぐ。

 <ヤマタノオロチ>は住処を離れ、『人』を襲い始めたのだ。それは、国の滅亡を意味する。

 『人』の力では太刀打ちが出来ない程に強力な暴力。それに抗う力は、この<ジパング>で暮らす『人』にはない。

 

「女王様! もはや、迷っている時ではありません! 罪は我々にあります。しかし、我々とて生きて行かねばなりません! そして……我々は民を護るために存在する者の筈。それは、貴女が私に教えてくれた事……」

 

「!!」

 

 女王の目が見開かれる。夫であるこの側近が、自分の内にある迷いを正確に理解している事に驚いたのだ。

 目の前で跪く男の瞳は、確固たる決意が宿っている。

 『私に命じろ』と。

 

「ならぬ! そなたには、あの子を護って貰わねば……」

 

「貴女が生きていれば、この国は立ち直れる。私だけではありません。この国の民全てが貴女を愛しています」

 

 女王の言葉を遮って発せられた夫の言葉に、女王は再び目を瞑る。その姿を、夫である側近は、『迷っている』と感じた。

 しかし、そうではなかった事が、再び目を開いた女王の瞳を見て理解できたのだ。

 

「……妾が参ります……そなたには、あの子の後見を命じます」

 

「女王様!」

 

 燃えるように赤く変化した瞳を見て、夫は怯んだ。

 幼い頃から今まで一度たりとも見た事のない瞳。

 恐怖すらも感じ、生き物の本能が拒絶反応を起こす中、何とか声を絞り出した。

 

「……話は終わりじゃ……」

 

「お、お待ちください!」

 

 一度、哀しげに夫を見た後、女王は自室へと下がって行く。夫といえど、この国では女王と共に生活する事は出来ない。

 自らの妻と娘がいるその部屋の戸が閉まって行くのを、呆然と眺める事しか、夫には出来なかった。

 

 

 

 陽が落ち、夜の闇が周囲の支配を完了させた頃、雲一つない空には、大きな月だけが浮かび、いつもなら様々な光を放つ星々は欠片も見えない。

 動物達の鳴き声もなく、静けさに支配された集落は、皆が寝静まった訳ではなかった。

 皆、恐怖に身体を震わせ、身を寄せ合うように過ごしているのだ。

 

「女王様、行かれるのですか?」

 

「……そなたか……」

 

 大きな屋敷の中の一室から出て来た女王の前には、幼い頃から見て来た男が跪いていた。顔を上げずに跪く夫に、女王は一言小さな声を洩らす。その声は聞こえるか聞こえないかの物で、聞き返そうと顔を上げようとした時、その声ははっきりと耳に届いた。

 

「顔を上げるでない! 顔を上げれば、そなたを殺すぞ!」

 

「!!」

 

 あまりの怒声に男は再び顔を下げてしまう。しかし、ぶつけられたその声は、今まで男が聞いていた声ではなかった。

 今まで聞いていた、あの透き通るような声ではない。

 人の心の奥に響き、その心を掴んで離さない声ではない。

 潰れ果て、擦れた老婆のような声であったのだ。

 

 そして、男は顔を上げてしまう。

 自らが愛した女性の顔を見る為に。

 

「上げるなと申したであろう!」

 

「ぐっ!」

 

 その瞬間に、男は自分の身体が宙に浮いた事を感じた。信じられない程の速さで喉を掴まれ、宙に持ち上げられる。同様に信じられない強さで掴まれた喉は、潰されるのではないかと感じる程に握られ、呼吸を止められた。

 そこで、ようやく男は、妻であり、自分の君主である女性の顔をはっきりと見る事となる。屋敷に差し込む月明かりに照らされた妻の顔を見て、男は驚愕した。

 その顔は、自分が愛した妻の物でもなく、この国の民が愛した女王の顔でもなかったのだ。

 

「……そ……その……か…お……」

 

 締め付けられた喉から絞り出した声は、近くにいても聞き取れぬ物。

 しかし、その声に女王であった物の表情が少し変化する。

 

 男が見た物は、『鬼』。

 この<ジパング>で語り継がれる地獄の番人であり、最も恐れられる者。

 その力は魔物を遥かに凌ぎ、その不可思議な能力は森を焼き、大地を割る。

 『邪しき神』とまで称される程の存在である。

 

 女王の顔は、伝えられている『鬼』その物であった。憤怒に燃えるように猛々しく、憎悪に歪むようにおぞましく、哀しみに暮れるかのように涙していた。

 その顔に男は恐怖するよりも、胸を締め付けられるような哀しみを感じ、一筋の涙を流す。その涙を見て、女王の手は男の喉から離れた。そこで初めて、男は女王の姿が、顔だけではなく、手も体つきも変化してしまっている事に気がつくのだ。

 そして、自分の喉を掴んでいた手の反対側に持たれた一振りの剣を目にする。

 

「……妾は……心を捨てた……」

 

 男の顔を見ずに語る女王の言葉を、男は聞き洩らさぬように耳を傾ける。

 『この言葉は聞き逃してはいけない』

 そう感じたのだろう。

 涙で歪む視界の中、男は女王を見上げた。

 

「もはや、『人』には戻れぬ。あの子を……この国を頼んだぞえ」

 

 その言葉を最後に屋敷を出て行く女王の背中をただ見送る事しか出来ない事に、男は涙した。

 『何故、自分は何も出来ないのだ』、『何故、女王をあそこまで追い込んでしまったのだ』と。

 

 

 

 その夜、女王は帰らぬ者となった。

 『鬼』となった女王との激闘の末、<ヤマタノオロチ>は東の洞窟奥深くに封印される。『鬼』といえども、<ヤマタノオロチ>を滅する事は出来なかったのだ。

 封印された地下深くには、女王の自室に置かれていた遺言書に記されていた術式を編み込んだ石の囲いを作成し、不可思議な力を持つ縄を掛けた。そして、夫であり、次代女王の後見人となった男によって作成された面を護符として付けられるのだった。

 

 憤怒に燃えるようで、憎悪に歪み、哀しみに暮れて涙する面。

 『人』の心を捨ててまで、愛する自国の民を護った女性の面。

 

 その面の名は『般若の面』

 

 そして、時は流れる。<ジパング>で暮らす『人』の中で伝える者がいなくなり、<ヤマタノオロチ>という存在が人々の記憶から消え去る程の時間が……

 

 

 

 

 

「メルエ、どうした?」

 

 再び歩き始めた一行は、この洞窟を住処にしているのであろう<豪傑熊>との戦闘などをこなしながら前へと進む。すると、不意に四方へと別れる十字路に出たのだが、その場所に着くなり、一点を凝視するように、メルエは身体を強張らせたのだ。

 メルエの手を握るリーシャがその変化に気付き尋ねるが、メルエはびくりと身体を震わせ、リーシャの腰に顔を埋めてしまう。

 

「どうしたのですか?」

 

「……こっちに何かあるのか……?」

 

「…………だめ…………」

 

 近寄って来たサラがメルエの肩に手を置いた時、戻って来たカミュがメルエの怯える方角へと確認の為に足を踏み出そうとした。しかし、そのカミュの行動を制したのは、先程、顔を埋めてしまったメルエだった。

 いつもよりも少し大きく、震えているような声に、カミュの目が鋭く細まる。

 メルエがここまで拒絶反応を示す事は珍しい。アッサラームの町に入る時も嫌がってはいたが、そこに入るカミュを見ると、諦めにも似た感情を出して付いて来た。

 そのメルエが、この十字路を右に行く事だけは、何があっても認めないというように強固な態度を取っていたのだ。

 

「……わかった……」

 

「…………ん…………」

 

 腰元にしがみ付くメルエの頭に手を乗せたカミュが溜息を吐く。その返答に小さく頷いたメルエであったが、未だに信用していないのか、カミュの傍から離れようとしない。そんなメルエに、カミュはもう一度溜息を吐いた。

 

「……どっちだ……?」

 

「ん? そうだな……右には行けないのだから、左だな」

 

 カミュが指示を仰いだのは、メルエの怯え方に驚いていたリーシャだった。カミュの質問に、暫し考える素振りをし、リーシャは道を指し示す。

 当然の事ではあるが、一つ頷いたカミュは、進路を真っ直ぐ前へと取った。

 

「さ、さあ。リーシャさんも行きましょう?」

 

「ぐぐぐ」

 

 相変わらず、聞いておきながらその言葉を信用しないカミュの態度に歯嚙みするリーシャを、サラは前へと促す。渋々その後を続くリーシャに、サラは苦笑するしかなかった。

 そして、カミュを先頭に歩き出した一行は、十字路の先に広がる少し開けた場所でこの世の末路のような場所を見る事になる。

 

「……カミュ……」

 

「……これは、骨ですか……?」

 

 散乱する木の破片。いや、木のような色に変わったそれは、サラが口にしたように、人の骨であった。

 所狭しと散乱する人骨。それが、<ジパング>が送り出して来た生娘達の成れの果てである事は明白。

 そして、これこそが<ジパング>の民達が苦しむ罪の形。

 

 前へ進むためには、その遺骨を踏みしめ、砕いて行かねばならない。それ程に、この場所は人骨で埋め尽くされていた。

 全てが<ヤマタノオロチ>によって作られた物ではないかもしれない。それでも、これだけの数の『人』が犠牲になっている事だけは事実。

 

「……イヨ様……?」

 

 カミュが踏み砕き、横に払う事で出来た道をリーシャ達三人が歩いて行く。そして、その先に見える一段高くなっている祭壇の上に座り込む人物をサラは見つけた。

 その人物は、恐怖に震えるでもなく、絶望に打ちひしがれる事もなく、ただ静かに<生贄の祭壇>に座り瞳を閉じていた。その人物こそ、<ジパング>の次期太陽であり、民達の希望。

 

「……なんじゃ……そなた達か……」

 

 近寄って来る気配と、その声を聞き、イヨは静かに目を開く。

 <ジパング>の太陽は、陽の届かない洞窟内でその輝きを失っていた。

 近寄るカミュ達の表情を変える事なく見つめ、口を開く事もない。

 

「イヨ様! 帰りましょう!」

 

「サラ!」

 

 祭壇へ真っ先に上ったサラが、座り込んでいるイヨの腕を掴む。

 そんなサラの行動を諌めるように、リーシャはサラの身体を押さえた。

 振り向いたサラの表情を見て、リーシャは息を飲む。

 

「サラ、何をそんなに焦っている?」

 

「焦ってなど……」

 

 サラの表情に見えるのは、焦燥感。

 何かに駆られるように、何かを恐れるように、顔は歪んでいた。

 反論するサラの言葉は頼りなく、リーシャは首を傾げる。

 

「……そうか……そなたには解るのじゃな……この場所に渦巻く空気が」

 

 そんなサラへと視線を移したイヨの言葉は、リーシャを更なる混乱に陥れる物だった。

 静かに口を開いたイヨは、ゆっくりと周囲に視線を動かし、深い溜息を吐く。それがリーシャを益々混乱させた。

 

「カミュ! どういう事だ!?」

 

「……何故、俺に聞く?」

 

 そんなリーシャの矛先は、同じように周囲を見渡していた青年へと向けられた。イヨと同じように深い溜息を吐いたカミュは、視線をサラとイヨへと動かす。

 

「この地は、多くの娘達の『想い』が籠っておる。『恨み』、『哀しみ』、『怒り』、『絶望』。 そして、なによりも強い『恐怖』。それを、そなたは感じたのじゃろう?」

 

「サラ、そうなのか?」

 

「……は、はい……」

 

 イヨの言葉は、リーシャには解らない。

 魔法力もなく、僧侶のように特別な修行をしている訳でもない。

 リーシャのそれらを感じる能力はないのだ。

 しかし、リーシャの問いかけに、サラは小さく頷いた。

 

「ふむ。本来であれば、そなたのような者が<ジパング>の国主となるべきなのであろうな」

 

「それは違います!」

 

 自嘲気味に口を開いたイヨの言葉を聞いた時、先程まで何かに怯えていたサラは、もうどこにも存在しなかった。

 強く想いの込められた言葉。それを発するサラの瞳に宿る物。

 それにイヨは怯んだ。

 

「イヨ様こそ……イヨ様だからこそ、<ジパング>の人々は愛するのです。イヨ様が民を愛するからこそ、その愛を受けた人々もまた、イヨ様を愛するのです」

 

「……サラ……」

 

 強いサラの言葉は、リーシャの胸に響く。しかし、それを見つめるイヨの瞳は静かさを取り戻し、会話の内容に興味を示さないように、カミュの瞳は冷めて行った。

 

「この洞窟に入る際に、イヨ様をここに運んで来た人達にお会いしました。私達は、その方々にイヨ様を連れ戻すようにと頼まれ、ここにいます。皆さん、イヨ様を失うぐらいならば、『神』とされる<ヤマタノオロチ>を打ち倒す事を望んでいるのです!」

 

 一気に捲くし立てたサラの言葉が、祭壇の間に霧散して行く。

 相変わらずの熱気が周囲を取り囲む中、奇妙な静けさが祭壇の間を支配した。

 その静けさを破ったのは、予想に反した人物。

 

「……それは違うな……」

 

「カミュ?」

 

「カミュ様!?」

 

 今まで一言も話す事なく、サラ達の会話を聞いていたカミュが口を開いたのだ。それは、サラの言葉を真っ向から否定する物。

 予想外の人物からの予想外の言葉に、リーシャとサラはほぼ同時にその者の名を洩らした。

 

「……あの者達に、それ程の覚悟がある訳ではない……」

 

「何故ですか!? イヨ様を救うという事は、<ヤマタノオロチ>を討伐する事ではないのですか!?」

 

 久しく見ていなかったカミュとサラの衝突。リーシャは、その二人の言葉を理解する事に必死になり、メルエは不快な暑さと、サラの怒鳴り声に眉を顰める。

 ただ、イヨだけは静かにカミュを見上げていた。

 

「……討伐するのは、俺達だ。<神殺し>の悪名を受けるのも、儀式を汚した事の罪に問われるのも『ガイジン』である俺達だ……」

 

「!!」

 

「ど、どういう事だ?」

 

 サラは、カミュの言葉で全てを理解した。

 あの時、カミュが返答しなかった理由も、そして頑なに<ヤマタノオロチ>を討伐する事を拒んだ理由も。

 全ては、あの<バハラタ>での二の舞になる事を危惧していたのだ。だがそれは、カミュ一人だけならば、気にはしなかった物だろう。

 

「俺達は、この地に留まる事はない。二度と訪れぬ『ガイジン』に罪を擦り付け、国の希望を救えるのであれば、それに越した事はない筈だ」

 

「……それは、いくらなんでも……」

 

 サラの反論の声は震えていた。

 バハラタという自治都市でサラはその可能性を見ている。『人』が『人』であるが故の性質。それを糾弾する事は出来ない。

 何故なら、サラもその『人』であるのだから。故に、それがこの<ジパング>で起こる可能性も否定は出来ないのだ。

 

「ならば、何故、<ジパング>の民全てで立ち上がらない? 『生贄』という犠牲で生きて来た者達が、新たな犠牲を求めただけだ。もし、俺達が失敗したとしても、『ガイジン』が勝手にやった事として、再び<ヤマタノオロチ>の怒りを鎮める為に『生贄』を奉げれば良い」

 

 カミュの物言いに対するサラの反論は力無く、徐々に顔を俯かせて行く。

 気付いていない訳ではなかった。サラとて、ここまで『人』の弱い部分を数多く見て来たのだ。

 それでも、認めたくはなかった。

 『人』の強さを信じたかった。

 

「……もう、良い……」

 

 反論する事の出来なくなったサラの代わりに口を開いたのは、<ジパング>の民達の希望である少女であった。

 サラよりも、カミュよりも幼いこの少女の瞳に宿るのは、『哀しみ』と『喜び』。

 自分が確かに民達に愛されていた事を知った『喜び』と、それを成す為に民達が犯した罪を知った『哀しみ』。

 

「……妾はもう疲れた……」

 

「イヨ様!?」

 

 深い溜息を吐いたイヨの言葉に、サラの顔が弾かれたように上がる。そんなサラから視線を外すように背けられたイヨの顔に、今までなかった疲労が浮かび上がった。

 

「……オロチが現れてから、母上は変わってしまわれた。民を愛していた母上はもういない。日に日にオロチの『生贄』要求は数を増して来る。今まで何とか抑えて来たが、それも限界じゃ……妾は、もう民達が死んで行くのを見とうはない」

 

「……イヨ殿……」

 

 深い溜息と共に吐き出されたイヨの言葉。それは、幼い頃に慕っていた母の変貌と、愛すべき民達の涙に疲れ切った少女の苦悩だった。

 毎年毎年繰り返される『生贄の儀式』。その度に、『生贄』とされた娘の親族は涙に暮れ、周囲の人間は同情よりも、次回の『生贄』を考え恐怖する。

 ここ数年の間、『日出る国』と呼ばれたこの国には、太陽の差す光は届かなかったのだ。

 

 祭壇の間に静けさが戻る。何かを耐え忍ぶように唇をかむイヨを、静かに見守る事しかリーシャには出来なかった。

 しかし、ここでも、静けさを破り、事態を前へと進めようとする者がいた。

 それは、常に悩み、考え、答えを導き出そうとする者。

 

「逃げるのですか!?」

 

「なにっ!?」

 

 俯くイヨの頭の上から、サラは言葉を振り下ろす。

 サラらしくない程に傲慢な言葉。

 その傲慢で、身勝手な言葉に、イヨの顔は上げられた。

 その瞳には、明らかな『怒り』を宿して。

 

「<ジパング>の人々は、確かに私達に罪を被せようとしているのかもしれません! それでも、『イヨ様ならば、<ジパング>を立て直してくださる』、『<ジパング>を再び導いて下さるのはイヨ様しかいらっしゃらない』、そう信じているのです! それこそ、自分達の親族を『生贄』として出す事も厭わずに。それなのに、イヨ様はそんな人々を置いて一人逃げ出すのですか!?」

 

「そ、そなたに……そなたに何が解る!?」

 

 イヨの怒りの表情を見ても怯まないサラの言葉に、イヨの怒りが爆発した。静かに座りこんでいたイヨが立ち上がる。

 しかし、真っ向から怒りの瞳を向けるイヨに対しても、サラは怯まなかった。真っ直ぐと、イヨの瞳を見返し、口を開く。

 

「解りません! 私はイヨ様のように、責任ある立場にはいません!」

 

「ならば、この国の事……妾の事に口を挟むな!」

 

 今まで見た事のないような両者の姿に、リーシャだけでなく、カミュも口を挟む事は出来なかった。メルエは二人の剣幕に驚き、カミュの腰元にしがみつく。溶岩の流れる洞窟内で、それよりも熱い応酬が続いた。

 

「ですが、このままではイヨ様の愛する<ジパング>という国は、この世界から消えてしまいますよ!」

 

「そのような事、そなたに言われんでも解っておるわ!」

 

 怒鳴り合う両者。

 サラは理解したのだ。何故あの時、カミュが『イヨを逃がすだけなら出来る』と言ったのか。内容こそ違えど、『逃げる』という事実は変わらない。

 『生贄』から逃げるのか、それとも国の存亡から目を逸らし逃げるのかの違いだけである。

 

「解っていません! イヨ様は、結局、<ジパング>を見捨てるのではありませんか!」

 

「そなたに何が解る! 暗く覆われた民の心……泣き咽ぶ民の声……その全てを作り出したのは、民を護るべき国主なのだぞ! それでも、民は母上を信じておる。妾を責める事もない……それがどれ程に妾の心を蝕むのかが、そなたに解るのか!?」

 

 吐き出されたイヨの心。それは、幼い心を痛め、それでも民へと笑顔を向けていた者の本心。

 『何時か、<ジパング>にも陽は差す』と民に言い続けながらも、それが本当に来るのかと自問自答を繰り返して来た者の本音。

 

「<ヤマタノオロチ>は、産土神……我らにとって神なのじゃ! どうしようもない……どうしようもないのじゃ!」

 

 いつの間にか零れ落ちた雫は、イヨの瞳から溢れ出していた。

 悔しくない訳がない。

 怒りを覚えない訳はない。

 それでも、自国にとってのその存在の大きさは、皇女といえど、一介の少女にどうする事も出来ない程の存在なのだ。

 

「始まりは何であるのかは解りません。もしかすると、<ヤマタノオロチ>の住処を先に荒らしたのは『人』なのかもしれません。それでも、今、抗わなければ、この島で『人』は生きて行けなくなりますよ!」

 

「……な…なに……?」

 

 しかし、言葉の応酬は長くは続かなかった。

 サラの発した何かが、イヨの時を止めてしまう。

 驚きに目を見開き、唇は微かに震えている。

 

 サラは、確かに<ヤマタノオロチ>の住処と言った。彼女にとって、<ヤマタノオロチ>は神でも何でもないのだ。

 ただそれだけの事ならば、『ガイジンだから』という一言で片づけられるだろう。しかし、サラは、『その住処を侵したのは<人>』という一言を発した。

 それがイヨを硬直させる。

 

「カミュ様……あの面を……」

 

「……ああ……」

 

 サラの要求を聞き、カミュは全てを理解した。

 先程、メルエが拾った面を壊れないように取り出し、サラへと渡す。

 その面を、サラはイヨの前に静かに置いた。

 

「これに、見覚えはありませんか?」

 

「……これは……」

 

 自分の前に置かれた面を見る為に、再び座り込んだイヨは、そのおぞましい程の表情を浮かべる面を暫し見つめた。そして、深い溜息を吐き、表情を変化させる。

 

「……これはどこにあったのじゃ……?」

 

「この洞窟の奥へと続く部分に落ちていました」

 

 見上げるイヨの顔を見て、サラは落ちていた場所を告げる。

 サラの答えを聞き、イヨは静かに瞳を閉じた。

 

「……そうか……これは、おそらく『般若の面』じゃ……」

 

「『般若の面』?」

 

 その名を聞いたサラが、もう一度その名を復唱する。カミュやリーシャもその後の話を聞くためにイヨに近づき、メルエはしゃがみ込んで、その面を興味深そうに眺めていた。

 

「詳しくは知らぬ。我が<ジパング>の国主の家系にだけ伝わる古い話じゃ」

 

 そこで語られる<ジパング>の歴史に、リーシャは驚き、サラはどこか納得し、カミュは静かに表情を失くす。メルエだけが、興味を示さず、面の表情を見つめていた。

 

 

 

 

 

 女王を失った<ジパング>は、忘れ形見となった幼子を次代女王とし、その父親である側近を後見役とした。後見役となった男は、生来の性格のまま、真っ直ぐに国の為に奔走する。

 <ヤマタノオロチ>によって疲弊した国を立て直すために、自ら畑に出たり、狩りに出たりした。

 その中でたった一つ、民全員に命を出す。

 

 『<ヤマタノオロチ>の事を語り継ぐ事の禁令』

 

 忌まわしき過去に捉われる事なく、民が前へと進めるように、男は子や孫に<ヤマタノオロチ>という存在を伝える事を禁止した。自らを『鬼』に変貌させてまで、民を護った女王の意思を受け継いだのだ。

 故に、この<ジパング>で<ヤマタノオロチ>を知る者は誰もいなくなった。

 伝承とは、親から子、子から孫へと語り継がれる事によって成立する。長い年月の中、語り継ぐ者がいなくなり、それは言い伝えにもならず、風化して行ったのだ。

 

 唯一、王家と呼ぶ国主の家系だけを除いて。

 

 代々、国主となる者達にはその話が受け継がれていた。

 <ヤマタノオロチ>という怪物と、それを封印するために『鬼』となった女王。それは、国主としての心構え。己を犠牲にしてでも、民を護るという気概を教えるという目的の為に。

 イヨは、国主の娘。次期女王と言われる直系の娘なのだ。故に、幼い頃から子守唄代わりに、母親であるヒミコから聞かされて来た。だが、それが唯の言い伝えでない事を知ったのは、今の今であったのだが。

 故に、イヨが『般若の面』を見たのも、これが初めてであった。

 

 しかし、この<ジパング>には、直系の王家に伝わる伝承以外に、もう一つの言い伝えがある。

 

 

 

 

 

「……カミュ……お客様だ……」

 

 伝承を聞き終えたリーシャが、背中から<鉄の斧>を取り出した。振り向き、皆を護るように立つリーシャの向こう側にある暗闇から、それは姿を現した。

 同じように背中から剣を抜き放ったカミュが一歩前へ出る。

 

「……キサマラハ……?」

 

 中に伸ばされた首の部分についている口からはっきりと解る人語が語られた。その事実にサラは驚き、イヨは初めて見る<ヤマタノオロチ>の姿に驚愕する。

 

 祭壇の間に入って来たそれは、完全なる怪物。

 八つの頭を持ち、八つ尾を持つ。

 一つ一つの頭に付く目は、この洞窟に流れる溶岩のように真っ赤に染まり、背中には溶岩が張り付き、腹は、今まで食した者達の怨念のように血で赤く爛れている。

 その体躯は、この祭壇の間を覆い尽くすかのように巨大で、八つの頭がカミュ達五人を見下ろしていた。

 

 これが、<ジパング>が産土神と崇める物の姿。

 そして、<ジパング>という国を滅びへと誘う物の姿。

 

 数百年前から止まっていた時が、今、動き出す。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

ようやく、あの暴力との対面です。
ドラクエⅢというゲームをプレイした人ならば、一度は全滅した経験をお持ちでしょう。
圧倒的な暴力。
それを次話では描けていればと思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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オロチの洞窟(ジパング東の洞窟)③

 

 

 

 周囲の空気が一変した。

 たった一体の生物が、この祭壇の間に入って来ただけで、瘴気に似た空気が漂い始め、カミュ達の身体に纏わりつき始める。

 

「……キサマラハ……何故…ココニイル……」

 

 低く、地の底から響くような声。人型の生物以外が人語を話す事に驚き、サラの身体は硬直した。それは、イヨもリーシャも同じ。メルエに至っては、サラの腰にしがみつき、顔すらも上げない。

 

「……ヤマタノオロチか……?」

 

 唯一人。世界を救うと云われる『勇者』だけが、この不穏な空気の中、一歩前へと踏み出した。

 サラが考えた通り、彼はこの場に及んでも、一切の怯みを見せる事はない。それがカミュの強さであるのだが、そのカミュの姿を見たリーシャの顔が瞬間の歪みを見せる。

 

「……イカニモ……」

 

「きさまが……貴様のような物が神だと!」

 

 カミュの行動に、時が再び動き出す。<ヤマタノオロチ>の返答に、堪らず口を開いたのはイヨだった。現れたその姿を見て、自分が信じていたような神の姿ではなかった事を悟ったのだ。

 『この化け物と、<生贄>となった娘達は相対して来たのか?』という、怒りにも似た感情まで浮かび上がって来た。

 

「……イヨ……何故……ココニイル……?」

 

「な、なぜ、妾の名を!?」

 

 憤怒の表情を浮かべていたイヨの表情が凍りつく。

 初めて遭遇する化け物に自分の名を呼ばれたのだ。

 驚かない訳はない。

 しかし、オロチはイヨの質問に答える事はなかった。

 興味を失ったように、イヨから視線を外した一つの頭が方向を変える。

 

「……フム……キサマラハ…我ニ牙ヲ剥クツモリカ?」

 

 武器を構えたリーシャとカミュを、<ヤマタノオロチ>の一つの首が見下ろした。一口で呑み込まれてしまいそうな程の巨大で裂けた口から、生臭い息を発するオロチに、リーシャは顔を顰める。

 しかし、サラはそんなリーシャを不思議に思っていた。何時もなら、真っ先に武器を振るうリーシャが、武器を構えてはいるものの、<ヤマタノオロチ>に向かう素振りを見せないのだ。

 メルエは今でもサラの腰にしがみついている。

 

「<ジパング>は貴様のような物の為に滅びるのか……」

 

 見下ろすオロチの真っ赤な眼光に、イヨの声が力を失くす。その威圧感は、魔物達を相手して来たサラ達でさえ怯む程の物。現に、メルエは顔を上げようともせず、サラの足も小刻みに震えている。

 今まで対峙して来た魔物とは、完全に格が違う。発する威圧感も、纏う禍々しい魔力も。

 

「……元ヲ辿レバ……我ノ眠リヲ妨ゲタノハ……キサマラ『人』ダ……」

 

「……そ、それは……」

 

 油断なく武器を構えるカミュやリーシャを鼻で笑うように、別の首がサラに向かって告げる。『人が先に侵したのだ』と。

 サラはそれを予測していたとはいえ、実際に告げられた事で、言葉に詰まってしまう。

 

「……身ノ程モ知ラズ、我ニ牙ヲ剥イタ……牙ヲ剥イタ物ニ対シ、報復スルノハ当然ノ事……」

 

「し、しかし! 遥か昔に封印された筈!」

 

 <ヤマタノオロチ>に関する伝承が真実であったと確信したサラが、疑問に思っていた事をオロチへと投げかける。『何故、再び目覚めたのか?』と。

 その問いに答えたのは、また別の首だった。

 

「……忌々シイ……『人』ノ分際デ、我ヲ封ジ込メヨウ等、愚カナ事ヲ……」

 

「……」

 

 もしかすると、<ヤマタノオロチ>にとって、カミュ達四人等、意にも介さない程の物なのかもしれない。まるで相手にもしていないように、悠然と言葉を発していた。

 実際、サラの身体は小刻みに震えているし、メルエもまた、サラの腰に顔を埋め身体を震わせている。リーシャも斧を持つ自身の手が小さく震えている事に気付いていた。

 

「……ダガ、ソレヲ怠ッタノモ、キサマラ『人』ダ……」

 

「えっ!?」

 

 <ヤマタノオロチ>の言葉に、サラは驚きの声を上げ、イヨは顔を上げる。カミュやリーシャも、武器を構えつつも、<ヤマタノオロチ>の言葉に聞き入っていた。メルエだけは、小刻みに震える身体をサラの腰に押し付けるように、未だに顔を上げる様子はない。

 

 

 

 <ジパング>に伝わる、もう一つの伝承。

 それは、国主の直系に伝えられる物とは違う。

 

 それは、分家に伝わる伝承。

 『鬼』と化した女王には娘が一人いた。

 その娘が女王となり、そして、子を成す。

 その子供は、双子だった。

 

 『双子は忌み子』と云われる時代。しかし、先に生まれた子の方を後継とした女王は、後に生まれた男児に分家を立ち上げさせた。

 そもそも、国主の家系に双子は珍しい。故に、その異例は、まるで何かを暗示するように、そして何者かに導かれたように感じずにはいられなかった。

 既に後見役を辞していた当代女王の父親は、分家を立ち上げさせる際に、孫にある一つの使命を与えた。

 

 『護符の交換』

 

 それは、<ヤマタノオロチ>を封じた東の洞窟に護符として掛けられた面の定期的な交換。

 その時代を生きる分家の者が、毎年収穫を祝う祭りの前日に、その恵みへの感謝と、これからの平和の願いを込めて『般若の面』を作成し、それを封印の場所まで交換に出向く事を使命として課したのだ。

 

 それが、<ジパング>に伝わるもう一つの伝承。

 

 分家となった男性は、『般若の面』を作成し、それを毎年替えて行った。そして、自分の子にそれを伝え、その事は、他の民には洩らさないように厳守させる。

 民の生活を無闇に波立たせないために。

 そして、本家である国主の政事を狂わせないために。

 

 その伝承は、脈々と受け継がれて行く。感謝と願いの込められた『般若の面』には、<ジパング>の民全ての想いが込められ、それが、東の洞窟に残る、『鬼』と化してまで民を護った女王の思念に呼応した。

 不可思議な力を生み出した『般若の面』は強力な力を誇り、何度か眠りから覚めた<ヤマタノオロチ>を弾き、再び眠りへと落して行ったのだ。

 

 しかし、それも途切れる。

 それは、イヨの祖母の時代であり、ヒミコの母が女王として君臨していた時代。

 その頃になると、既に分家は分家として認識されず、民の一つとして生活をしていた。分家であった者も自分達に国主と同じ血が流れているという事実も知らず、一国民として過ごしていたのだ。

 それでも、先祖から受け継がれて来た伝承だけは健在で、その時代に分家に生まれた女児にも、当然のように語り継がれる。

 

 その娘は十五になる時に、父母を流行病で亡くし、たった一人で暮らす事になる。しかし、それでも子守唄代わりに聞かされていた伝承は確かに残り、毎年、収穫祭の前日には一人、『般若の面』を作成し、東の洞窟へと足を運んでいた。

 

 それは、その娘が十七の時に起こった。

 昨年と同じように、木を削り、日々笑顔を浮かべて生活する民達の幸せを願い、一つ一つ丁寧に彫り進めて行く。自身の幸せを願い、日々の生活への感謝を込め。

 出来上がった『般若の面』は、自身が作成した中でも最高の出来栄えだった。『これならば、厳しかった父母も認めてくれるだろう』と胸を張れる程の出来栄え。

 

 それを、収穫祭の前夜に東の洞窟へと運ぶ。洞窟に入り、昨年と同じ場所まで歩いて行った。

 溶岩が噴き出す洞窟内はとても暑く、汗を滲ませながらも目的地に着いた女は、昨年に取り付けた『般若の面』を外し、先程作り終えた新しい物へと付け替える。一瞬、眩いばかりの光を放った面を見て、汗ばむ顔に笑顔を見せた女は、出口へと歩き始めた。

 あと少しで熱気とも別れられるという、その時。

 彼女の前に二体の魔物が現れたのだ。

 

 通常、分家の者は、面を交換する際に分家の男が同行する事になっていた。

 それは、父であったり、夫であったり。

 時代によっては、分家の後継者が男であった場合もある。

 しかし、彼女には、縁者が一人もいなかった。

 

 戦う術のない彼女は、迫り来る魔物から逃げ出そうと駆け出すが、その背中に向かって、魔物はある魔法を唱える。

 それは、『人』の脳神経を狂わせ、錯乱させてしまう魔法。背中からその魔法を浴びた彼女は、薄れゆく意識の中、生存願望だけが剥き出しとなった。

 半狂乱になりながらも、出口へと駆け出した彼女は、何度か魔物の攻撃を受け、体中から血を流しながらも、洞窟を抜け出す事に成功する。

 

 しかし、そこまでだった。

 洞窟を抜け、森を抜け、海の近くに出た彼女は、出血の為かそこで気を失う。

 そして、その夜、彼女の消息は途絶えた。

 

 護符に関する伝承を受け継ぐ者の消滅。

 しかも、彼女は若く、誰にもそれを伝える事なく消息を絶ったのだ。

 故に、護符はそれ以後、替えられる事はなかった。

 

 

 

「知らぬ! そのような話、妾は知らぬぞ!」

 

 オロチの話す護符の話。

 忌々しそうに、おぞましい顔を更に歪めて語る内容に、イヨは叫んだ。

 オロチを封印するために必要だった物。

 それが、直系に伝えられる話の中にある『般若の面』だったのだ。

 

「……目ガ覚メタ、アル日……我ヲ邪魔スル力ガ弱マッテイル事ニ気ガツイタ……キサマラ『人』ガ、我ヲ呼ビ戻シタノダ!」

 

「そ、そのようなこと……」

 

 叫んだ筈のイヨの覇気が失われて行く。オロチの住処を荒らし、怒りを買ったのも『人』であるならば、封印した筈のオロチを再び呼び覚ましたのもまた『人』だと言うのだ。

 『人』が自ら呼び込んだ災い。

 それを『人』である者が排除する事など可能なのか。

 いや、それ以前に、抗う事が正しい事なのか。

 そんな考えが、イヨの胸を搔き立てる。

 

 実際の年齢よりもイヨは達観している部分があった。

 しかし、あくまでも十四・五の娘なのだ。

 本来であれば、傍にいる親に助けられ、自身の道を見つけて行く歳。

 故に、迷い、悩む。

 

「クハハハハ……神デアル我ニ、オ前モ牙ヲ剥クノカ?」

 

「……そ、それは……」

 

 『牙を剥くのなら、国ごと葬ってやろう』。言外に含みを持つ<ヤマタノオロチ>の言葉に、イヨは再び言葉に詰まる。

 その姿を目の前にし、イヨには、それがとても神だとは思えなかった。しかし、直ぐにでも<ジパング>という国を消し去る事が出来る程の能力を持ち合わせている事だけは、理解してしまう。

 

 とても敵う相手ではない。

 とても対峙できる相手ではない。

 それは、イヨの震える足が物語っていた。

 

「……カミュ様……」

 

 震えるイヨの肩に手をかけるサラの腰には、同じように震えるメルエがしがみついている。<ヤマタノオロチ>との対話の中で心が折れてしまったイヨの姿に、サラは先程から全く物を言わない『勇者』へと視線を送った。

 しかし、頼みの『勇者』は、ただ冷たい瞳をオロチに向かって向けるのみ。そこに、何の感情も有してはいなかった。

 オロチに向かって剣を構えてはいるものの、それを振るう為に駆け出す訳でもなく、ましてや以前唱えた『勇者』特有の強力な呪文を唱える様子もない。戦う素振りが微塵も感じられないのだ。

 

「我ト争ウツモリカ? ソナタノ母親ト同ジヨウニ」

 

「!!」

 

 俯いてしまったイヨの顔が弾かれたように上に上がる。まるで笑みを浮かべるかのように歪んだオロチの口元を見て、イヨの顔も歪んで行った。

 

「母上に……母上に何をした!?」

 

 唇を噛みしめ、叫ぶイヨを見て、オロチの八つの頭の口元が一斉に歪んで行く。ヒミコを嘲笑うかのように、そして、イヨを嘲笑うかのように。そして、衝撃的事実が明らかとなる。

 

「クッハハハハ……ヒミコナラバ、オ国ノ為トヤラデ、最初ノ生贄トナッタワ!」

 

「母上を……母上を喰らったのか!?」

 

 オロチの言葉で母親の末路を悟ったイヨの顔が沈む。

 しかし、それを理解した時、それ以上の衝撃がイヨを襲った。

 

「で、では、あの母上は誰じゃ!?」

 

 イヨの母であるヒミコがこの洞窟に足を運んだのは、イヨがまだ幼い頃、再び<ヤマタノオロチ>の脅威が<ジパング>を襲った時だけである。つまり、その時にヒミコがオロチと戦い、そして敗れたとするならば、それ以降の数年間、イヨの前で母親として存在していたヒミコは別人と言う事になるのだ。

 確かに、そう考えれば、全てが納得できる。

 人が変わったように、民達を生贄として差し出す事や、民に向ける愛情の欠片もない瞳。その全てが別人であるヒミコの行動と考えれば、辻褄が合ってしまうのだ。

 

「ソレヲ、キサマラガ知ル必要ハナイ……スグニ母親ト同ジ場所ニ送ッテヤロウ」

 

 通常の人間ならば、縮み上がりそうな言葉を洩らしたオロチは、周囲の岩壁が震える程の雄叫びを発した。周囲の空気が雄叫びによって震え、カミュ達の頬に突き刺さる。小刻みに震えていたメルエが尚一層にサラの腰にしがみ付いた。

 <ヤマタノオロチ>という名で呼ばれてはいるが、目の前にいる化け物は、完全なる『龍種』。

 八つの頭と八つの尾を持つ異形ではあるが、それは正しく、この世界の最高種族と言っても過言ではない『龍種』であった。間違っても、オロチという名の蛇の化け物等ではない。

 

「カミュ!」

 

 八つの内の一つの首がイヨに向かって牙を剥くのを確認したリーシャは、カミュへと叫び、盾を持ってイヨの前に立ち塞がる。鋭い牙が<鉄の盾>にぶつかり、乾いた音を立て、リーシャの身体が一瞬で宙に浮いた。

 

「カミュ様!」

 

「……」

 

 それでも、カミュは動こうとしない。

 何かを待っているのか。

 それとも最初から動く気など微塵もないのか。

 

 それでもサラは、そんなカミュを責める事が出来なかった。何故なら、いつもならそんなカミュに抗議を向けるリーシャが、何も語らずに、再び盾を構えてイヨの前に立ったからだ。

 そんな奇妙な空気が洞窟内を支配する。一度目の攻撃を邪魔された<ヤマタノオロチ>は、再び大きな雄叫びを上げ、別の首を動かし、牙を向けて来た。

 

「メ、メルエ! 離れて下さい!」

 

「…………いや………いや…………」

 

 腰にしがみつくメルエを引き剝がそうと力を込めるが、メルエは力強くサラの腰に腕を巻き付け、離れないように必死に首を振っていた。

 確かに、目の前にいる<ヤマタノオロチ>が発する威圧感は尋常な物ではない。それでも、メルエがこれ程の怯えを見せる理由がサラには理解できなかった。

 

「メルエは、カミュ様を護るのでしょう!?」

 

「…………むぅ…………」

 

 サラが発したのは、以前にメルエを奮起させた言葉。

 それは、メルエの『想い』。

 それでも、メルエを動かす事はできなかった。

 唸り声を上げながら、サラの腰にしがみついて離れないメルエ。

 

「メルエ! 危ない!」

 

 オロチの牙が、今度はサラとメルエの場所に振り下ろされる。しがみ付くメルエが原因で、身動きの取れないサラは、<うろこの盾>を掲げるが、自分の力では、その牙を真っ向から受け止める事が出来ない事は解りきった事であった。

 

「ちっ!」

 

 乾いた音が洞窟内に響き渡る。しかし、サラの盾には何の衝撃もなかった。

 メルエを護るように掲げた盾の隙間から覗き見たサラは、前方で姿勢を低くして盾を構えるカミュの背中を見る。オロチの顔の半分もない程のカミュの背中がとても大きく映った。

 カミュが前にいる事の安心感がこれ程の物とは知らなかったのだ。それを知っている者は、おそらくサラが後ろに庇っている小さな『魔法使い』のみ。

 

「…………カミュ…………」

 

「メルエ! 今は、前に出ては駄目です!」

 

 そんな少女が、自分が一番安心できる場所へ駆け寄ろうとするのを必死に止め、サラは前方で大きな唸り声を上げる八又の龍を見上げた。

 カミュもリーシャも相手の攻撃を受けるだけで、攻撃に転じようとはしない。それを不思議に思うサラの耳に、あってはならない声が響いた。

 

「イヨ様! ご無事ですか!?」

 

「イヨ様!」

 

 <ヤマタノオロチ>の後方。つまり、この祭壇の間へ続く通路の方から響く声。それは、サラの耳に残っている声。

 <ジパング>に入って、サクラと呼ばれる木々を見上げていた時に聞いた物。

 この洞窟に入る前にサラと対峙した人間達の物。

 

「そなた達! 来るでない!」

 

 その者達の登場に、祭壇の間にいる人間の視線がそちらに移動する。それはオロチも例外ではなく、八つある内の半分以上の首が後方へと移動し、その動きに合わせるように、身体全体も出口付近の方へ少しずらされた。

 

 振り返ったオロチの姿を見て、入口付近に辿り着いた者達の身体が一瞬凍りつく。自分達が神と考えていた物の本当の姿を見て、恐怖に駆られたのだ。

 ここまで辿り着いた者達の大半は、イヨの乗る駕籠を担いでいたような中年以上の男達。その中に若者はおらず、皆、武器は手にしているものの、手入れ等を行っていた様子もない。

 狩りに出る事もなくなり、己の武器を磨く事もなくなった年齢の者達がこの場所へと自国の希望を救いに来たのだ。

 

「く、くそ! 化け物め! イヨ様を渡すものか!」

 

「グォォォォォォォ!!」

 

 恐怖に凍りつく足を動かし、一人の男が武器を構えて前に出る。

 その瞬間、オロチの咆哮が轟いた。

 武器を構えた男に向けて、オロチの一つの口が開かれる。

 

「……あ…ああ……」

 

 それは、一瞬だった。

 オロチの口から発した大量の火炎が、男を包み込み、まるで始めからそこに何もなかったかのように、何もかもを消し去ったのだ。

 残るのは、焦げたような地面と、肉が焼け焦げたような不快な臭い。

 

 自分が護るべき民が目の前で消え失せた。

 それを見たイヨの視界が赤く染まり始める。

 それこそ、イヨが国主を継ぐべき者である事を証明する物。

 

「ば、ばけもの!」

 

 隣にいた男が一瞬の内に消え去った事に、恐怖が倍増した男が、手にしていた槍をオロチに向かって投擲した。しかし、その槍は、無情にもオロチの皮膚を貫く事はなく、乾いた音を立てて地面へと落下して行く。

 そして、先程火炎を吐いた物とは別の首が、男へと襲いかかった。

 

「ぎゃぁぁぁぁ!」

 

「!!」

 

 その裂けたような口を開いたオロチは、地面に立つ小さな人間を攫って行く。鋭い牙により肉を喰い破られ、血潮が噴き出した。形容しがたい不快な音が祭壇の間に響き渡る。

 本当に一瞬の内に<ジパング>の民が二人、この世を去った。自国を救える者はイヨしかいないと考え、敵わぬと知りながらも、それぞれに武器を持ち、この場所まで駆け付けた『勇者』達が死んで行く。

 それに抗う術はなかった。

 カミュの持つ絶対防御の呪文を唱える隙もない程の一瞬の出来事。

 

「……ククク……愚カナ。大人シク、生贄ヲ捧ゲテオレバ良イ物ヲ……」

 

 そんな『勇者』達を嘲笑うかのように、別の首が言葉を発する。

 先程喰われた者は、もはやオロチの胃の中に入ってしまっていた。

 

「ぐぐぐ」

 

 そんなオロチの言葉に、イヨの視界が真っ赤に染まって行く。

 先程までとは比べ物にならない。もはや、瞳自体が赤いのではないかと思える程に、見える物全てが赤く染まっている。

 身体の内から湧き上がるような『力』。

 鈍器で殴れたような頭痛が襲う中、イヨの意識が混濁して行った。

 

 『怒り』、『憎しみ』、『哀しみ』がイヨの心を支配して行く。

 もはや、周囲の音さえも聞こえない。

 見えるのは、憎き化け物だけ。

 大切な民を焼き殺し、喰い殺し、そしてあろう事か嘲笑った。

 イヨの心が消えて行く。

 

「駄目です!」

 

「!!」

 

 そんなイヨの意識が、肩と共に強く引き戻された。

 先程、自分と言い争った者の声。

 目も耳も失いそうになったイヨの脳に響くような声。

 

「心を失ってはいけません! 『憎しみ』に駆られ、心を捨ててはいけません!」

 

「な、なんじゃと?」

 

 両肩に置かれた手を揺すられ、イヨの意識は戻された。自分を見つめる瞳は、大きな『哀しみ』を宿している。それをイヨは感じ取ったのだ。

 涙を流している訳ではない。それでも、その瞳が深い哀しみと、深い後悔、そして大きな決意を宿している事を知ったのだ。

 

「イヨ様まで『鬼』になってはいけません! それでは、あの方達がここへ来た意味まで奪ってしまいますよ!」

 

「……」

 

 瞳を強く見つめるサラの言葉に、イヨは完全に自我を取り戻す。

 そして、何も出来ない自分の無力さに、唇を強く噛んだ。

 噛み切った唇から滲み出した血は、地面に落ちると共に蒸発して行く。

 気付かぬ内に、この祭壇の間の温度は上昇の一途を辿っていたのだ。

 

「……カミュ……もう良いだろう?」

 

「……ああ……」

 

 サラの言葉を聞き、オロチから視線を外したリーシャがカミュを見て問いかけた。そして、返答するカミュを見て、リーシャは微笑む。頷いたカミュの口元が綻んでいたのだ。

 とても笑みを浮かべるような場面ではない。人が目の前で二人も死んでいるのだ。それなのにも拘わらず、彼等は微笑んだ。

 

 『憎しみ』に駆られ、心を失っていた者。

 心を捨て、『復讐』という物を胸に抱いていた者。

 その者が今、同じように『憎しみ』や『怒り』に駆られ、心を捨てようとした者を引き戻した。その行為が、どれ程に驚くべき行為であり、どれ程に喜ぶべき出来事であるかを知る者は、この二人しかいないのだ。

 

「メルエ! 怯えるな! メルエの前には、常に私達がいる!」

 

「!!」

 

 カミュから視線を外したリーシャが、オロチに向かって武器を構えながら、後方で震えるメルエへと言葉を投げる。びくりと身体を跳ねさせたメルエが、恐る恐る開けた瞳に映るのは、先程まで恐怖を感じていた龍の化け物と、それに対峙するように武器を構える二人の背中。

 

 常に自分を護ってくれる大きな背中。

 メルエの瞳には、その二人の背中がオロチよりも大きく見えた。

 それが、メルエの心から恐怖を取り払って行く。

 『必ず、彼等が自分を護ってくれる』。

 『そして、自分も彼等を護るのだ』と。

 

 メルエの心にある小さな『想い』に、再び火が灯った。

 赤く燻っていた炎は、リーシャの言葉という酸素を受け、真っ赤に燃え上がる。炎はメルエの心に巣食った『恐怖』を焼き尽くし、身体の震えを止めた。

 

「アストロン」

 

 武器を手にした民達に、再び襲いかかろうとするオロチの首よりも早く、カミュの詠唱が完成した。

 その魔法と共に、光輝いた民達の身体は、瞬時にその形態を変化させて行く。それに遅れて、オロチの口が吐き出した火炎が民達を包み込んだ。

 

「……あ……あ……」

 

「大丈夫です! カミュ様が、あの魔法を唱えた以上、あの方達は間違いなく無事です!」

 

 炎に包まれる民達を見て、絶望に包まれるイヨを、サラは叱咤する。

 『まだ、心を壊す場面ではない』、『まだ、諦める場面ではない』と。

 

 サラの言葉に、落ちかけた瞳を上げ、民達を見つめるイヨは驚愕する。その身体の色を完全に変化させた民達が、まるで石化したように固まっていた。

 恐怖に怯える表情を浮かべる者、猛々しく叫ぶように口を開ける者、武器を掲げ、今にも走り出しそうな者、総じて皆が鉄のように固まっていたのだ。

 

「心配はいりませんよ。皆さんは、暫しの間、鉄になっているだけですから」

 

「……鉄に……?」

 

「…………サラ………なった…………」

 

 状況を説明するサラを、不可思議な物でも見るように振り向くイヨに対してメルエが微笑んだ。もはや、メルエを縛りつけていた『恐怖』は露と消えている。

 言葉が足りない発言に首を捻るイヨに、サラは一つ頷いた。その頷きが、民達の安全を保証する物だと理解したイヨも静かに頷きを返す。

 

「イヨ様は、後ろへ! メルエ、行きますよ!」

 

「…………ん…………」

 

 イヨを後ろへ下がらせたサラがメルエに声をかけ、メルエは力強く頷いた。

 杖を掲げた希代の『魔法使い』と、槍を手にした当代の『賢者』が動き出す。

 

「カミュ様!」

 

「カミュ!」

 

 サラとリーシャの叫びに、カミュは別の方向に振り向いた。その瞳を向ける場所は、サラが下がらせた次代の<ジパング>女王のいる場所。

 自分に向けられた視線に、驚きを浮かべたイヨの瞳が変化する。

 それは、民を愛し、民を慈しみ、そして強く民を護る者の瞳。

 <ジパング>の国主が語り継いだ、国主としての心構えを備えた者の瞳。

 暖かく、そして優しく、何よりとても強い王の眼差し。

 

「良い! あれは、神ではない! 妾が許す! あれを……あの化け物を討伐してくれ!」

 

 振り切るように、何かを捨てるようにイヨは叫んだ。

 人間の落ち度は認める。それでも、民を護るという意思に変わりはない。ならば、人間の身勝手であろうと、何であろうと、オロチという存在と戦うしかないのだ。

 

「……畏まりました……」

 

 暫しの間、イヨの瞳を見詰めたカミュは、静かに頷きを返した。その顔に、先程のような小さな笑みは浮かんではいない。

 カミュが何を想うのかは、リーシャにもサラにも、そしてイヨにも解らない。だが、オロチに向かって剣を構えたカミュが放つ威圧感は、目の前で咆哮を上げる化け物に負けてはいなかった。

 

 これこそ、真の『勇者』が持ちし物。

 『無謀』でも『蛮勇』でもない、本当の『勇気』が放つ物。

 

 もう一度口元を緩めたリーシャが、ゆっくりと斧を構えた。サラがメルエを庇いながらも、強い瞳をオロチへと向ける。メルエは怯えの消えた瞳をカミュの背中に向け、杖を振るうその時を示す、サラの言葉を待っていた。

 

「……良イダロウ……我ト争ウ事ノ愚カサヲ、ソノ身ニ刻ンデクレヨウ」

 

 身体全体をカミュ達に向けたオロチの八つの頭が、カミュ達四人を見下ろす。今にも、凄まじい火炎を吐き出しそうな口を見ても、サラやメルエは恐れない。

 彼女達の前には、彼がいるのだから。

 

「……カミュ……」

 

「……行くぞ……」

 

 斧を構えたリーシャが、視線をオロチから外す事無くカミュへと声をかけた。

 静かなカミュの呟きは、三人の脳へと響いて行く。

 それは、戦闘の合図。

 

 人類が送り出した現存する『人』の最高戦力と、この世界に生息する最強の種族である『龍種』の戦いの火蓋が切って落とされた。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

次話はようやく、オロチ戦です。
長々と引っ張ってしまい、申し訳ございません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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オロチの洞窟(ジパング東の洞窟)④

 

 

 

 祭壇の間を包む温度が上昇する。それは何も、この洞窟内に流れる溶岩の川だけが原因ではない。祭壇の間を覆い尽くす程の巨体を揺らすオロチが放つ威圧感と、八つの頭が持つ口から零れ出る炎の欠片が、周囲を熱気で包み込んでいるのだ。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………スクルト…………」

 

 後方に控えるサラの言葉に頷いたメルエが、杖を振り下ろして詠唱を行う。前方で武器を構えるカミュとリーシャの身体が淡い光に包まれた。メルエの放つ魔法力の鎧が、一行を包み、その防御力を上げて行く。

 

「グォォォォォォ!」

 

 先程までの人語とは違う、オロチの咆哮が岩壁を震わせた。

 それが、戦闘開始の合図であった。

 

「カミュ!」

 

「ちっ!」

 

 リーシャの呼び掛けがカミュに届くよりも前に、カミュの身体が横へと弾かれる。オロチの尾の一つが、カミュの身体を薙ぎ払ったのだ。

 咄嗟に構えた<鉄の盾>で防いだカミュであったが、その威力は強力で、身体ごと岩壁に叩き付けられる。崩れる岩壁の一部を盾で防ぎながら、カミュは立ち上がった。

 

「グオォォォォォォ!」

 

「させるか!」

 

 よろけながら立ち上がるカミュに向かって一つの首が口を開いた。口の中に真っ赤に燃え盛る火炎を見たリーシャが、疾風の速さで斧を振るう。炎を吐き出すために下げられていた首に、リーシャの斧が吸い込まれた。

 しかし、鉄で出来た斧は、堅く覆われたオロチの鱗によって弾かれる。乾いた音を響かせて弾かれた斧で態勢を崩したリーシャの横合いから、別の首が大口を開けて襲いかかった。

 

「…………メラミ…………」

 

 大口を開けたオロチの牙が、リーシャの胴体に突き刺さる一瞬前に、オロチの顔程の火球がその顔面に直撃した。

 凄まじい叫び声を上げて首を振るオロチによって、岩で出来た天井が崩れて行く。

 

「メルエ! あの魔法はもう行使できますか?」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの危機を救ったメルエに向かって、サラが何事かを問いかけた。そのサラの質問の意図を正確に認識したメルエが、小さく頷きを返す。満足そうに笑みを溢したサラが、態勢を立て直したリーシャを指差し、メルエへと指示を出した。

 

「メルエ! リーシャさんに!」

 

「…………ん………バイキルト…………」

 

 リーシャに向けて振られたメルエの杖先から、不思議な光が放たれる。それは、リーシャの手に持つ<鉄の斧>を包み込むと、一瞬の内に、その刃先へと集約された。

 

<バイキルト>

『魔道書』に記載される、数少ない補助魔法の一つ。<スカラ>や<スクルト>とは対極に位置する魔法で、術者の魔法力を、対象となる武器に纏わせる事によって、その武器の威力を高める魔法。魔法力で包まれた武器の刃先は鋭く、堅い甲羅や鱗等をも破る程の威力を誇るようになる。

 

「カミュ!」

 

 メルエの<メラミ>を受けたオロチの頭が暴れる中、立ち上がったカミュ目掛けて他の首が口を開いた。魔法力を纏った<鉄の斧>を掲げたリーシャが駆け寄るが、それはオロチの尾によって防がれる。

 

「グオォォォォ!」

 

 大きく口を開けたオロチの口から真っ赤に燃え盛る火炎が見える。舌打ちと共に盾を掲げたカミュ目掛け、オロチはそのまま火炎を吐き出した。その名の通り<燃え盛る火炎>は、カミュに降り注ぎ、<鉄の盾>の表面を融解させて行く。その火炎の威力は、ここまでの道で遭遇した<溶岩魔人>が放った物以上であった。

 体内から吐き出される火炎は、終わりが見えず、カミュの盾を真っ赤に染め上げ、盾を握る皮膚をも焦がして行く。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ヒャダイン…………」

 

 サラの指示で振るったメルエの杖先から冷気が迸る。溶岩の川をも凍り付かせる程の冷気が、カミュに襲いかかる火炎とぶつかり合った。瞬時に凍りつく大気。それは、あれ程に燃え盛っていた炎をも凍り付かせて行く。

 ぶつかり合い、蒸発するように大気に還って行く冷気ではあったが、それは火炎も同様。最後には、火炎を吐き出していたオロチの口元も凍り付かせて行った。

 

「あっ!?」

 

 メルエの魔法の威力に改めて驚きを表したサラは、迫り来るオロチの別の首に気がつかなかった。唸る空気の音に気が付いた時には、もはや盾を掲げる時間もない程の距離となる。

 魔法を行使する時間もない。避ける時間など有ろう筈がない。故に、サラは降りかかる衝撃に備えて身構えるしかなかった。

 

「いやぁぁぁぁ!」

 

 しかし、サラの耳に飛び込んで来たのは、聞きなれた叫び声と、肉を切り裂く不快な音。目の前には、先程弾き返した筈の斧によって、片目を傷つけられ、体液を振り撒くオロチの顔があった。

 

「ギャァァァァオ!」

 

 メルエの<バイキルト>によって、その攻撃力を増した<鉄の斧>は、オロチの鱗を切り裂き、頭部から目の下の部分を大きく抉り取る。凄まじい痛みに、オロチは苦悶の声を上げ、首を引き戻した。

 

「…………リーシャ!…………」

 

「メルエ、大丈夫か? サラ、カミュの回復を!」

 

「は、はい!」

 

 足下で喜びの声を上げるメルエを振り返る事なく、リーシャはサラへと指示を出す。先程の火炎によって、かなりの火傷を負ったカミュの回復をするために、サラはリーシャの下を離れて行った。

 

「……許サヌ……許サヌゾ!」

 

 オロチの別の頭がリーシャを睨みつけ、再び人語を話す。

 その瞳は憤怒の色に燃え、自らの身体を傷つけた者を見下ろしていた。

 

 

 

「カミュ様! 今、回復を!」

 

 カミュの傍に駆け付けたサラが、<ベホイミ>を詠唱する。優しい緑色の光に包まれ、カミュの身体の火傷が癒されて行った。

 傷も癒え、立ち上がったカミュの腕をサラが押える。『まだ、やる事があるのだ』と。

 不思議に思い、振り返るカミュの手にある<鋼鉄の剣>へ向かって、サラは詠唱を開始する。

 

「バイキルト」

 

「??」

 

 自分の身体ではなく、武器に纏わりつく魔法力を不思議そうに見つめるカミュに、サラは苦笑を浮かべた。まるで剣をコーティングするように包み込んだ魔法力は、カミュの剣を鋭く光らせる。

 

「ふふ。これでも、補助魔法に関しては、メルエよりも上なのですよ?」

 

「……そうか……」

 

 リーシャの斧は、強大なメルエの魔法力を纏ってはいるが、サラには、それが少し雑に感じていた。対するカミュの剣が纏うサラの魔法力は、量こそ少ないが、きめ細かく剣の刀身を包み込み、鋭く尖らせている。

 魔法力の細かな操作が必要となる補助魔法は、サラの言う通り、メルエよりサラの方が上なのであろう。

 

「それは、魔法力を纏わせる事によって、武器自体の威力を上げる効力があります。これで、オロチの鱗を傷つける事も可能だと思います。<ルカニ>がオロチに対して効果があるかどうか分かりませんので」

 

「……わかった……」

 

 サラの説明を静かに聞いていたカミュが、魔法力を纏った剣を一振りし、感触を確かめる。まるで一体となっているように、纏った魔法力はぶれる事なく、剣を包み込んでいた。

 一度、小さく頷いたカミュが、怒りの全てをリーシャに向けようとしているオロチに視線を移し、行動を開始する。

 

「ピオリム」

 

 オロチに向かって駆け出したカミュの後方から、再びサラの詠唱が響いた。駆ける足が、羽のように軽くなる。周囲の時間がゆっくり流れ、まるで自分だけが世界を動いているような感覚の中、カミュは剣を高々と振り被った。

 

 

 

「メルエ、少し下がっていろ!」

 

「…………ん…………」

 

 怒りに燃える十五の瞳が、リーシャを射抜く。

 先程以上の威圧感が、リーシャの肌に突き刺さって来た。

 それでも、両者は動かない。

 いや、リーシャに至っては、正確には動けないのだ。

 

「グオォォォォォ!」

 

 オロチの咆哮が、再び祭壇の間に響き渡る。その叫びに、竦んでしまいそうになる足を叱咤し、リーシャは横に飛んだ。

 間一髪の間合いで、オロチの牙が、先程リーシャがいた場所に突き刺さる。その光景を見たリーシャの頬を一筋の汗が流れ落ちた。

 オロチの牙が突き刺さった地面は、まるで巨大な岩でも落ちて来たかのように割れ、大きな窪みさえ出来ている。もし、あの場所にリーシャがいたとしたら、それこそ原型を留めない程に粉砕されていた事は明白だった。

 

「…………リーシャ…………」

 

「メルエ、下がれ!」

 

 不安そうにリーシャを見つめるメルエを下がらせ、再び斧を構える。しかし、メルエからオロチへと視線を移したリーシャの瞳に、大口を開けたオロチの頭が映り込んだ。

 『まずい』と感じた瞬間、無意識にリーシャの身体は動いた。

 再度、横へと身体を飛ばすリーシャに向かって、オロチの口から<燃え盛る火炎>が吐き出される。人間を跡形もなく消し去る程の火炎が、リーシャの横を掠めて行った。いや、正確にはリーシャの左腕を飲み込んで行ったのだ。

 

「……ぐぅぅ……」

 

 盾を持つリーシャの左腕が、火炎によって焼け爛れ、だらりと垂れさがる。飲み込まれたと言っても、瞬時に離脱したため、リーシャの左肩から下が無くなるという事はなかった。

 もしかすると、それは、<テドン>で購入した鎧が少なからず影響しているのかもしれない。

 しかし、片腕を失ったリーシャが危機に瀕している事だけは事実。防御の要である盾を掲げる左腕を失ったリーシャに、オロチの別の首が襲いかかる。

 苦し紛れに、右腕で持つ<鉄の斧>を掲げるが、それは間に合わない。オロチの大きな口が開き、中にある鋭い牙がリーシャに迫る。

 

「おおぉぉぉぉ!」

 

 今にもリーシャの身体を喰い破ろうとしたその時、オロチの頭に横合いから剣が突き刺さった。突き出した目の下辺りに突き刺さった小さな剣は、その刀身を深々とオロチの体内へと沈めて行く。

 

「カ、カミュ!」

 

「リーシャさん! 今の内に腕を出してください!」

 

 オロチの頭に剣を突き刺し、その軌道を変えたのはカミュ。<ピオリム>によって、その身体能力を上げたカミュが駆けつけ、<バイキルト>によって、その攻撃力を上げた<鋼鉄の剣>を突き刺したのだ。

 激痛に暴れるオロチから無理やり剣を抜いたカミュが、再びオロチの首と対峙する。その隙に駆け寄って来たサラが、リーシャの焼け爛れた左腕に<ベホイミ>を唱えた。

 淡い緑色の光に包まれて癒されて行く腕を見る事なく、リーシャはカミュとオロチの攻防を突き刺すような視線で見る。どれ程にカミュの剣の腕が上がっていようと、数の上ではオロチの方が圧倒的に有利なのだ。

 四方八方から襲いかかるオロチの首と尾。それを避けながら剣を振るうのには限界がある。次第にその形勢はオロチに傾き、カミュがオロチの攻撃を避けきれなくなって行く。

 

「サラ! まだか!?」

 

「も、もう少しです! 今のままリーシャさんが向かっても、足手まといになりますよ!」

 

 癒しの光によって、徐々に感覚が戻って来た左腕を、サラから戻そうとしたリーシャに厳しい言葉が飛んだ。

 考えていたよりも強い力で腕を引き戻され、まさかサラに告げられるとは思わなかった言葉を聞いたリーシャは、悔しそうに顔を歪めながら、左腕が完全に回復するその時を待つ事になる。

 

「クハハハハ……人間ヨ、自ラノ愚カサガ理解デキタカ?」

 

 必死に避け続けるカミュを嘲笑うかのように、一体の首が上方へと移動し、カミュを見下ろす。その間も残る七体の首が絶えずカミュに襲いかかり、中でもリーシャに片目を潰された物は、憎しみを吐き出すようにカミュに牙を剥いていた。

 

「ちっ!?」

 

 カミュの大きな舌打ちは、最後まで空気を震わせる事なく、その身体と共に横へと吹き飛ばされる。首に集中し過ぎたカミュの死角から尾が飛び出して来たのだ。

 盾を出す暇もなく、カミュの脇腹に食い込んだ尾から、鎧越しに凄まじいばかりの衝撃を受け、カミュは岩壁に激突する。メルエが唱えた<スクルト>のお陰で、身体に異常は見られないが、もしその恩恵がなければ、何本かの骨を砕かれていた事だろう。

 舞い散る砂ぼこりの中、再び立ち上がるカミュに向かって、オロチの口が開かれる。その中には、先程から何度も見た<燃え盛る火炎>が渦巻いていた。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

 盾を掲げようとカミュが動く前に、後方から稀代の『魔法使い』の詠唱が聞こえた。

 灼熱の洞窟内を動き回り、火照ったカミュの体温が急速に冷まされて行く。吐く息は瞬時に凍り、真っ白な大気へと変わって行った。

 

「グオォォォォォ!」

 

 自身が吐き出した火炎と拮抗する冷気に驚きの叫びを上げ、杖を振り下ろしたメルエへとオロチが視線を動かした。真っ赤に染まる巨大な瞳に睨まれたメルエの胸を、再び恐怖が支配して行く。

 硬直する身体。

 噛み合わない歯。

 徐々に迫り来るオロチの首に、メルエは成す術がなかった。

 

「メルエ!」

 

 自分を救う魔法を唱えたメルエの危機に、身体能力が上がった身体を無理やり動かすが、それでもカミュの剣は間に合わない。しかし、カミュは途中で何かを見つけ、自身が進む方角を変更し、剣を構え直す。

 

「うおりゃぁぁぁ!」

 

「ルカニ!」

 

 そう。

 彼には、信じる事の出来る者達がいる。

 自身一人では、何も成し得ない事を彼は知っている。

 アリアハンを出る時、自身は旅の途中で死す物だと覚悟していた。

 だが、今は、死ぬ事を許容できない理由もある。

 そして、何よりも、自分が一人ではない事を学んでいた。

 

 それが、彼がこの長い旅で築いて来た『絆』

 

 

 

「グギャァァァァァ!」

 

 オロチの苦悶の叫びが、祭壇の間に響き渡る。飛び散る体液。狂ったように上げられたオロチの首は、斧で切り裂かれ、深々と抉られていた。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………イオ…………」

 

 リーシャの背中に護られ、勇気を取り戻したメルエが、サラの叫びに杖を振るう。狂ったように動き回るオロチの首を取り巻く空気が瞬時に収束し、欝憤を晴らすかのように弾けた。

 凄まじい爆発音を響かせ、オロチの首に刻まれた傷口を中心に眩いばかりの光が弾け、先程以上の体液が飛び散る。

 

「よし! カミュ! 一つ一つ倒して行くぞ!」

 

 落ちて来たオロチの首を見て、リーシャがカミュへと指針を伝える。大きな音と振動を立てて地面に落ちたオロチの一体の首には、巨大な瞳と裂けた口がある顔は付いていなかった。

 首から先を失った蛇のような巨体は、数度動き回った後、その動きを停止させる。

 

「メルエ! イオは駄目です! この洞窟自体が壊れてしまいますよ!」

 

「…………むぅ…………」

 

 せっかく効果があった魔法をサラに窘められ、メルエは頬を膨らます。強大な敵を目の前にしても尚、いつも通りの対話を成す仲間達に、カミュは無意識に頬を緩めた。

 

「……そなたらは……何者なのじゃ……」

 

 しかし、それを微笑ましく見る事の出来ない者が一人。後ろに下がらされた、次期女王である。

 予想以上に強大なオロチの力。しかし、それに対し、何度倒されても立ち上がる四人の姿。それは、争いとは縁遠い<ジパング>の皇女にとって、信じられない域の物だった。

 

 実際、近年は<ジパング>に訪れる旅人の数は皆無に等しい。海に住む魔物達の凶暴さも増し、魚介の狩猟も難しくなっていた。そんな時代にも拘わらず、この辺境の島国を訪れる旅人が凡庸な者達な訳がない。

 それを理解していたからこそ、イヨは彼等に託したのだ。

 

 だが、彼等の能力は、イヨの考えを遙かに超えていた。

 それは、イヨの胸に新たな感情を呼び起こす。

 オロチを倒してくれるという『期待感』ではない。

 オロチへ向けられた最初の感情と同じ『恐怖』

 未知の物へと向けられる、生命体としての当たり前の感情。

 

「わ、わたしたちは……」

 

 振り向いたサラは、イヨの表情を見て全てを悟った。

 そして、サラの頭に浮かんだもの。それは、盗賊の被害を受けていた商業都市に住む人間達の顔。『やはり』という思いが、サラの頭を駆け巡る。

 もはや、あの時のように、人外の能力を持つ者は、何もカミュだけではない。

 

 『戦士』として、『騎士』として成長を続けるリーシャ。

 年端も行かぬ少女でありながら、この世界に生きるどの魔法使いよりも高度な呪文を使いこなす事の出来るメルエ。

 そして、『賢者』となり、神魔両方の魔法を行使する自分。

 彼ら四人は、既に『人』としての枠組みを大きく超えてしまっていた。それこそ、『人』では対抗する事の出来ない魔物達や、その上に君臨する『魔王バラモス』と対峙する事を可能にしようとする何かに導かれたように。

 

「……わ、わたしたちは……『魔王』を倒す為に旅をしています」

 

 サラやイヨの視線の外では、カミュとリーシャが懸命にオロチの首達と格闘を演じていた。

 オロチの強烈な牙を盾で防ぎ、魔法力を纏った武器を突き出す。別の首に付いた口から吐き出される<燃え盛る火炎>を避け、その下顎に向けて武器を振るっているのだ。

 メルエだけは、いつ魔法を行使するべきなのかを迷い、サラとカミュ達を見比べ、眉を下げている。

 

「……魔王……?」

 

 そんな中、イヨとサラの会話は続けられる。聞き慣れぬ単語に、イヨの瞳に浮かんでいた『恐怖』が『疑問』に変化して行った。

 

 これが、辺境の島国の限界。

 近年の魔物の凶暴化による旅人の減少が原因の一つではあるが、それ以上に、<ジパング>特有の排他的な国民性が一番の原因なのかもしれない。

 『ガイジン』と呼ばれる者達の話を信じる者等、誰一人としていなかった。ましてや、見た事も聞いた事もない『魔王バラモス』という存在が世界を破滅に追い込むなど信じよう筈がない。

 <ジパング>にとって、世界とはこの島のみ。それは小さな視野しか持つ事のなかった国民達の知識の少なさから来た物でもあった。

 

「……」

 

 サラは、驚きと疑惑を浮かべるイヨの瞳に、絶望に近い感情を持ってしまっていた。再び告げられる拒絶を予想し、サラの瞳の中に灯り始めていた『自信』が揺らいで行く。

 俯きかけたサラに、メルエが何かを告げようと口を開きかけた時、イヨとサラの間で止まっていた時間が動き出した。

 

「……ふっ……そうじゃったか……そなたらは、妾が知らぬ高みへと昇ろうとする者達なのじゃな……」

 

 サラの不安。

 それは、この小さくも強く美しい島国の次期女王の資質を侮る物。

 強く折れない魂を持つ民が住む、<ジパング>という国を疑う行為。

 そんなサラの悩みは、まるで、小さく無意味な物のように、次期女王によって一蹴された。

 

 『魔王』等という存在は知らない。この<ジパング>において、もし『魔王』という存在がいるとすれば、それは目の前で咆哮を上げている<ヤマタノオロチ>に他ならない。しかし、それと戦う者達は、『そんな一国にとっての厄災は、通過点に過ぎない』と言うのだ。

 『自分達は、その先に存在する、それ以上の物と戦う為にいるのだ』と。

 イヨは、その言葉を聞いた時に、彼ら四人に対する『恐怖』を捨て去った。『自分のような者が、理解しようとして出来る者達ではないのだ』と。

 

「済まぬ。この国を……我が<ジパング>を救ってくれ」

 

「……イヨ様……」

 

 『自分にはオロチに対抗する能力はない』

 それを理解して尚、『この者達に縋って良いのか?』という疑問も消えない。

 それでも、イヨの瞳は決意に満ちていた。

 

「はい! オロチを倒した後は、イヨ様に……」

 

「わかっておる! 委細承知じゃ。そなたらに、我が国の存亡を託す」

 

 サラの言葉を途中で遮ったイヨに、サラが大きく頷く。サラの不安が全面的に消えた訳ではない。それでも、この自分よりも年下の王に、サラは敬意を払わずにはいられなかった。

 

「…………サラ…………」

 

 そんなサラの後ろから、どこか自信の無さげな声が届く。振り向くと、眉を下げたまま、おろおろとするメルエの姿。

 自分が魔法を唱える時に、制止するサラには不満顔をするメルエであったが、実際カミュやリーシャが苦戦している中、カミュとリーシャに被害を出さぬように呪文を行使する場面が解らず、サラへと助けを請うていたのである。

 

「はい! ごめんなさい、メルエ。さあ、行きましょう!」

 

「…………ん…………」

 

 再びサラとメルエは、前へと足を踏み出す。

 後ろで待つ者が大切にする<ジパング>という国を救う為に。

 その国に生きる、数多くの民達の為に。

 そして、何より、自分達と旅する『仲間』達を援護する為に。

 

「カミュ!」

 

「ちっ!」

 

 カミュ達は、明らかに苦戦していた。

 一体の首を失ったといえども、オロチの首は七体。

 そして、尾は八つのまま。

 その尾の一つが、横合いからカミュに襲いかかる。リーシャの声に反応し、咄嗟に横に避けたカミュの背中を別の尾が襲った。強い衝撃を受け、カミュが吹き飛ばされる。

 岩壁に直撃し、倒れたカミュは、その場で真っ赤な血を吐き出した。それは、明らかに体内を傷つけられた証拠。

 

「サラ!」

 

「はい!」

 

 後方に近づいてくる『賢者』に激を飛ばし、リーシャは追い打ちをかけるように襲いかかるオロチの首に斧を振るう。

 オロチの体液が飛ぶが、その傷は浅い。巨大な瞳がリーシャを捉え、その口が大きく開かれた。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 カミュへと駆け寄り、<ベホイミ>を唱えるサラの指示を聞き、メルエが杖を振るう。杖の先から飛び出した大きな火球は、口を開きかけたオロチの鼻先に直撃した。

 火球の影響で鼻先の空気を失ったオロチがもがき苦しむ。

 

「ルカニ!」

 

「うおぉぉぉぉ!」

 

 カミュの回復を終えたサラの詠唱が響き、それと同時にリーシャが斧を振り被り跳躍する。ちょうど下に落ちて来たオロチの顔面に向かって振り下ろしたリーシャの斧は、眉間へと吸い込まれ、<ルカニ>によって低下した鱗を突き破った。

 

「グギャァァァァ!」

 

「やあぁぁぁぁ!」

 

 凄まじい叫び声を上げたオロチが首を上げる直前に、駆け込んで来たカミュが、リーシャの作った傷跡に<鋼鉄の剣>を突き入れる。脆くなった鱗を突き破り、深々と刺さった剣を握ったまま、カミュは上空へと投げ出された。

 

「…………スカラ…………」

 

 上空から落下するカミュに向かってメルエが杖を振い、カミュの身体がメルエの魔法力に強く包まれて行く。魔法力に護られ落下したカミュは、立ち上がり際に襲いかかる<燃え盛る火炎>を避ける為に盾を掲げた。

 

「ヒャダルコ!」

 

 それは、幼い魔法使いではなく、補助の呪文を得意とする『賢者』の左腕から放たれた冷気。

 オロチの<燃え盛る火炎>と拮抗する程の力はなく、ましてや押し戻す力もない。それでも、カミュがその場から離脱するだけの時間は与える事が出来た。

 

「…………むぅ…………」

 

「……はぁ…はぁ……いつまでも、メルエに負けてばかりではいけませんからね」

 

 サラの発した魔法を正確に理解したメルエが頬を膨らますのを見て、傍に戻って来たサラが息を乱しながら軽く微笑む。『ぷいっ』と顔を背けたメルエではあるが、杖を握り締めたまま、サラの次なる指示を待っていた。

 これで残るオロチの首は六体。最強の種族である『龍種』であろうと、サラの補助呪文は効果を示し、メルエの攻撃魔法は確かにオロチを弱体化させている。

 

「行くぞ、カミュ!」

 

「……」

 

 リーシャの呼びかけに、カミュは一つ頷いた。駆け出すリーシャの腕には、掠めた牙で出来た傷跡があり、今も鮮血を滴らせている。カミュの顔や首や腕には、先程の火炎を受けた火傷で爛れた部分が残っている。

 決して楽な戦いではない。サラの回復呪文がなければ、カミュもリーシャも疾うの昔に命を落としていた。

 彼等もまた、満身創痍で戦っているのだ。

 

「……許サヌ……『人』如キが!」

 

 カミュとリーシャの脳に直接響くかのようなオロチの叫びが轟く。

 同時に動き出した数本の尾が、様々な方向からカミュ達に襲いかかった。

 

「ルカナン!」

 

 後方の『賢者』が唱えた補助魔法が、数本の尾を輝かせる。強度を失った鱗に覆われた尾にリーシャは斧を振り下ろし、別角度からリーシャを襲う尾をカミュが盾で受け止めた。

 メルエの魔法力に護られたカミュは、凄まじい衝撃を受けながらも、必死に足を踏みしめ、尾を受け止める。リーシャの斧は正確にオロチの尾の一本を切り裂いた。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

 動きの止まった数本の尾に向かって、希代の魔法使いが氷結呪文を詠唱する。リーシャの首筋を掴んだカミュが真横へと飛ぶと、それを掠めるように周囲の空気が凍りついて行った。

 空気が凍り、それは冷気の刃となってオロチの尾に襲いかかる。

 

「ギャォォォォォォ」

 

 氷の刃が突き刺さった三本の尾が、その刃を中心に凍りついた。地面へと落ちる巨大な氷の塊。その重力に従い、地面に落ちたと同時に、大きなひびが走って行く。

 

「うぉぉぉぉぉ!」

 

「やぁぁぁぁぁ!」

 

 その隙を見逃さず、カミュとリーシャが同時に武器を振り落す。乾いた音を立て、尾を凍らせた氷のひびが広がり、粉々になって砕け散った。

 返す刀で、もう一つの尾も砕いたカミュは、『怒り』に燃えたオロチの真っ赤な瞳を見る。

 

「グオォォォォォォ!」

 

 オロチの叫びよりも一瞬早くカミュとリーシャは動き出した。叫びと共に、三体の首がメルエに向かって、その狂暴な口を開いたのだ。

 三体の体内から吐き出される凄まじいまでの火炎。それは、メルエだけではなく、サラまでをも飲み込む程に強大だった。

 

「ぐぐぐ……」

 

「くっ……」

 

 しかし、その火炎は幼い魔法使いには届かない。全身を焼かれるような熱に包まれながらも、その大きな背中が彼女を護っていた。真っ赤に変色した<鉄の盾>を掲げ、カミュとリーシャがメルエの前に立ち塞がったのだ。

 既に盾の表面は融解している。何度も火炎を受け、何度も牙を受けた盾は、その役目を終えようとしているのかもしれない。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ヒャダイン…………」

 

「ヒャダルコ!」

 

 炎により、真っ赤に染まる視界を目にしながら、サラはメルエへと叫ぶ。その声に呼応するように、メルエは再び氷結呪文を唱えた。同時にサラもまた、自身が習得している最強の氷結呪文を唱える。

 <魔法の鎧>に護られていない部分全てが焼け爛れ始めたカミュ達の後方から、それらを冷やす冷気が吹き抜ける。未だに吐き出される火炎とぶつかり合う形となった冷気が、カミュ達の盾から火炎を引き離した。

 

「……」

 

 もはや、カミュ達に合図はいらない。

 『自分達の前には、必ず彼等がいてくれる』とサラとメルエは信じている。

 『自分達の後には、必ず彼女達がいてくれる』とカミュとリーシャは信じている。

 

 それは、彼ら四人が築き、そしてこれから更に強めて行く『絆』

 

「おりゃぁぁぁぁ!」

 

「いやぁぁぁぁぁ!」

 

 カミュとリーシャの叫びが木霊する。

 既に火傷によって、武器を持つ腕に感覚などありはしない。

 熱気にやられた、腫れた瞼によって、視界も朧気である。

 それでも、二人は手に持つ武器を力の限りに突き出した。

 

「グギャァァァァァ」

 

 火炎を強く吐こうと下していたオロチの頭部に、カミュの剣が突き刺さる。急に飛び出して来た二人に戸惑うオロチの頭部に、リーシャの斧が振り下ろされる。正確に急所を突いた二人の武器が、オロチの二体の頭部から生気を奪って行った。

 力無く地面へと落ちた二体の首。

 カミュ達に油断はない。もはや、赤く腫れ上がった腕からは膿のような物が噴き出し、焼け爛れた皮膚からは真っ赤な血液が滲み出している。それでも、カミュとリーシャは武器を振るった。

 迫り来る尾に斧を合わせたリーシャは、その尾を分断する。余計な力が抜けたリーシャの攻撃は、まさに<会心の一撃>。

 丸太のように太い尾を、小さなリーシャの斧が切り裂いて行く。地面へと落ちた尾は、数度跳ねた後、ぴくりとも動かなくなった。

 

「リーシャさん、下がって!」

 

 サラの声を聞き、下がろうとしたリーシャの視界に、カミュが剣を振り下ろすのが見えた。カミュへと襲いかかったもう一つの尾を切り裂くために振り下ろされた<鋼鉄の剣>は、真っ直ぐにオロチの尾に吸い込まれて行く。

 

 パキ―――――ン!

 

 しかし、その剣は、尾を最後まで分断する前に、祭壇の間に響き渡る程の音を立て、あらぬ方向へと飛んで行った。

 カミュの腕には、柄の部分だけが残っている。

 折れたのだ。

 ここまで、何度も魔物を斬り、人をも斬って来た剣。

 サラの魔法力が解けた訳ではない。魔法力に覆われ、その攻撃力と耐久力を上げて尚、それは寿命だった。

 

「カミュ! 一度下がれ!」

 

 既に、カミュもリーシャも限界である。

 視界は歪み、吐く息も荒い。

 痛む身体に鞭打ちながらも、二人はサラの元まで戻った。

 四つの頭部と、五つの尾を失ったオロチは、狂ったのように首を動かし、何度も天井や岩壁に首や尾をぶつけていた。それは『痛み』の為なのか、それとも抑えきれない『怒り』の為なのかは解らない。ただ、幸いにも、サラがカミュ達二人に回復呪文を唱える時間が与えられた事だけは事実。

 

「べホイミ!」

 

 既に何度目かすらわからない回復呪文を唱え、カミュ達の身体に刻まれた痛々しい程の傷を癒して行く。その間も、暴れ続けるオロチの姿を見ながら、カミュは状況を正確に分析していた。

 いくつかの頭部と尾を倒したといえども、オロチにはまだ半分の頭部が残っている。回復呪文で傷は修復されたといえども、カミュもリーシャも体力的には限界が近い。更には、サラもメルエも、ここまで呪文を行使し過ぎている。これまでの経験上、彼女達の魔法力の限界も近いだろう。

 

「カミュ、どうする?」

 

「……」

 

 カミュの表情を見て、それがリーシャには伝わったのだろう。彼女の瞳に諦めは見えないが、瞳の中に微かに宿る不安は隠し切れていなかった。そして、自分の問いに黙して語らないカミュを見て、それは大きくなって行く。

 

「…………あたらしい………おぼえた…………」

 

「えっ?」

 

「なに?」

 

 しかし、その不安は、予想もしない方向から払拭される。痛々しいカミュ達の傷跡が癒されて行く事に安堵した幼い『魔法使い』が、もはや聞き慣れた言葉を口にしたのだ。

 聞き慣れたとはいえ、場面が場面なだけに、サラとリーシャは素っ頓狂な声を上げてしまう。カミュでさえ、驚いたように、笑顔を向けるメルエに視線を動かした。

 

「……やれるのか……?」

 

「…………ん…………」

 

 聞き返すカミュに、メルエは大きく頷きを返す。メルエの頷きを見たカミュは、その視線をサラへと向けた。

 メルエの魔法が何かはわからない。それでも、サラはメルエがこう言う以上、この状況を打破できる物だと理解した。

 

「わかりました。隙を見つけます」

 

「頼むぞ、サラ。では、カミュ。私達はもう一度、あの地獄の釜の中へでも入りに行くか?」

 

「……」

 

 カミュの視線に力強く頷いたサラを見て、リーシャは微笑みを返す。そして、どこか楽しい場所にでも行くかのように誘うリーシャに、カミュは大きな溜息を吐き出した。

 

「グゥォォォォォ!」

 

 時を同じくして、暴れるのを止めたオロチがカミュ達に向かって咆哮を上げる。真っ赤な瞳は、怒りを隠そうともせずにカミュ達を射抜いていた。

 もはや、その『憤怒』は限界を超えたのだろう。既に人語を話す事はなく、魔物のような咆哮だけを叫び続けている。

 

「……行くぞ……」

 

「ああ!」

 

 サラから槍を借りたカミュは、再びオロチと向き合う。

 行動開始の合図に応えるリーシャの声と同時に、カミュ達は駆け出した。

 

「メルエ、まだですよ」

 

「…………ん…………」

 

 オロチの首も尾も、怒りの為か視界が狭くなっている。自分の近くへ駈け出して来たカミュとリーシャのみに意識を集中し、サラとメルエの存在を忘れているようだった。

 それは、またとない機会。前衛の二人が敵を引き付けている間に、後衛の二人が詠唱の準備をする。それは、このパーティーの最強布陣。

 

 オロチの口は火炎を吐き出すが、それは先程までのような正確性はない。怒りの為なのか、魔物としての本能のみで動いているためなのか、カミュとリーシャの動きを追うのみで、その行動を先読みする事はなかった。

 尾の方も、先程カミュが傷つけた物は何度かの動きに耐えきれず、ほぼ千切れかけている。残る尾は三つ。

 

「カミュ! お前しか使えない魔法は駄目なのか!?」

 

「……あれは、空が見えなければ使えない……」

 

 尾の攻撃を弾き返したリーシャが、背中合わせでカミュへと問いかけるが、その答えは期待通りの物ではなかった。

 確かに『天の怒り』と呼びし雷を支配下に置くのだ。それの住まいし空が見えなければ、呼び出す事すらも出来ない。

 

「……あれ以上の物ならば……わからないが……」

 

「なに!?」

 

 オロチの吐き出した火炎に、カミュの呟きは搔き消される。再度問いかけるリーシャであったが、それに答える余裕はカミュにはなかった。

 冷静さを取り戻しつつあるオロチの攻撃が的を射て来たのだ。

 

「くっ!」

 

 牙の攻撃を避けた所に、尾が唸り声を上げる。横っ腹に尾の衝撃を受けたカミュが吹き飛ばされた。吹き飛ばされたカミュに意識を移したリーシャもまた、オロチの頭部が持つ鋭い牙に、腕を切り裂かれる。

 

 飛び散る鮮血。

 真っ赤な液体を見て、愉悦に歪んだオロチの口元が大きく開かれた。

 その時、心待ちにしていた者の叫びが、祭壇の間に響き渡る。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………イオラ…………」

 

 大きく開いたオロチの口の中の空気が真空と化す。瞬時に収束され、空気は圧縮されて行った。

 吐き出そうとしていた火炎が萎んで行き、変わりに圧縮された空気の塊が膨らんで行く。

 

「くっ!」

 

「うわっ!」

 

 それは、一瞬だった。

 カミュとリーシャの視界が奪われ、祭壇の間の光と音が完全に失われる。

 遅れて轟く、凄まじいまでの爆発音。

 目の前が真っ白になった後に弾け飛ぶ光。

 それは、先程メルエが唱えた<イオ>の比ではなかった。

 

<イオラ>

イオの上位に位置する爆発魔法の一つ。それは、『魔道書』の最後のページに記載されている『魔道書』最強の攻撃呪文。『魔法使い』と呼ばれる職業の者が習得できる最後の呪文であるが、未だ曽て誰一人として習得した者はいないと云われている。その爆発は、光と音を失わせ、全ての物を破壊するとまで云われていた。

 

「……カミュ……」

 

「……」

 

 視界が戻り、目の前に広がる光景に、カミュとリーシャは言葉を失った。そこには、根元から失われたオロチの一体の首と、吹き飛んだ頭部の一部であろう肉片が散らばっている。残った三体の首も無事ではなく、一つの頭部は、半分の鱗を吹き飛ばされ、焼け爛れたように肉を露にしていた。

 

「……グググ……コノヨウナ……コノヨウナ事ガ……」

 

 頭部と尾を半分以上失った<ヤマタノオロチ>は、人語で何かを呟きながら、身体を引きずるように祭壇の間の出口へと向かって行く。

 我に返ったリーシャが後を追うように立ち上がるが、思うように身体が動かない。不思議に思い、足下を見ると、先程の爆発の余波で、足が焼け爛れていた。

 出て行くオロチを見ながら、カミュに肩を借りて立ち上がったリーシャの許にサラが近寄り、回復呪文を唱える。徐々に癒されて行くリーシャから視線を外したカミュは、足下に転がっている一つの尾に目を留めた。

 

「……なんだ……?」

 

 それは、カミュが剣を折りながらも斬り裂いた尾。

 その尾の内部から何かが突き破り、眩い光沢を放っていたのだ。

 近寄り、その光沢を目にしたカミュは驚きに目を見開く。

 

「それは……剣か?」

 

 治療を終えたリーシャが、カミュの手にした物に視線を向け、問いかける。カミュはそれには何も答えず、引き出した剣の柄を持ち、感触を確かめるように数回振るった。

 何とも言えぬ感触は、まるで剣自らカミュを主として認めたように、手に吸い付くような物だった。

 

「メルエ! イオは駄目だと言ったではありませんか!?」

 

「…………イオ………じゃない…………」

 

 そんなカミュとリーシャを余所に、サラがメルエを窘める声が響く。そんなサラから顔を背けたメルエが、小さく反論した。

 その魔法は、おそらく<ヒャダイン>と共に契約を済ませていたのだろう。それでも、メルエは今までその魔法を行使しなかった。メルエにとって、新しい魔法はサラの指示なくしては唱えられない物と認識されているのかもしれない。バハラタ東の洞窟にて、<メラミ>を唱えた時に、リーシャに言われた言葉をメルエは憶えているのだろう。

 

「もう!……カミュ様、とりあえずこの場所から出ましょう。先程の<イオラ>によって、洞窟の岩壁が脆くなってしまっている可能性もあります」

 

「……わかった……」

 

「カミュ! オロチを追うぞ!」

 

 サラの言い分を理解したカミュは一つ頷くが、リーシャの言葉に視線を動かした。その先には、ここまでの戦いに茫然としていた次期女王。まるで、信じられない物でも見るように見開かれていたその瞳に生気が戻って行く。

 

「わ、妾も行くぞ!」

 

 カミュの視線に我に返ったイヨは、気丈にも立ち上がり、自力で歩き出した。先頭に立ったイヨは、その足で未だに固まっている民達の傍に歩み寄る。その後ろをカミュ達四人が続いた。

 

「……そろそろ、魔法の効力も切れる筈だ……」

 

 後方から掛るカミュの言葉に、イヨが安堵の溜息を吐くと同時に、民達の身体の色が変化し始めた。

 無機質な鉄色をしていた身体に血の気が戻って行く。徐々に肌に色が戻った民達は、数度の瞬きの後、息を吹き返し周囲を見渡していた。

 

「……よかった……よかった……」

 

「……イヨ様……?」

 

「我々は?」

 

 民達の身体に触れ、何度も安堵の言葉を洩らすイヨを不思議そうに見つめ、民達は自分の身に起こった事を理解できずにいる。その光景にサラは微笑み、リーシャも頬を緩めた。

 マントの中に隠れたメルエを連れ、カミュは祭壇の間の出口へと向かって歩き出す。

 

「待て、カミュ!」

 

「イヨ様、行きましょう!」

 

「……ぐずっ……うむ……」

 

 カミュを追って歩き出すリーシャ。

 イヨに声をかけ、自身もリーシャを追うサラ。

 目元を軽く拭った後に、その後をイヨも追って行く。

 状況が認識できない数名の民は、イヨの後ろに付いて歩き出すしかなかった。

 

 <ヤマタノオロチ>は未だに生きている。

 倒さぬ事には、<ジパング>に平和が訪れる事はない。

 再び、彼等は『死闘』への道のりを歩み始める。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

私の勝手な想いですが、今回の話と次話は、ドラゴンクエストⅡのラスボス戦の音楽である「死を賭して」をイメージして描いていました。
死闘という意味では、今のカミュ達の力では、オロチはとてつもない強敵だと思うのです。
皆様の頭の中にも、「死を賭して」が流れていたら、これ程嬉しい事はありません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ジパング③

 

 

 

 祭壇の間を出た一行は、再び十字路まで足を進める。先に出て行ったオロチは、相当なダメージを受けていたのだろう。巨大な身体を引き摺るように動いていたのか、地面に大きな溝を作り、体液の跡を残したまま十字路を左に曲がっていた。

 

「カミュ! ここは右ではないか?」

 

「えぇぇ!?」

 

「……少し黙っていろ」

 

 明らかな痕跡が目の前にあるにも拘らず、在らぬ方向へと導こうとするリーシャにサラは驚きの声を上げた。

 イヨを護るように最後尾に移動していたリーシャからは、オロチの痕跡が見えなかったのかもしれない。それでも、振り返る事もなく呟いたカミュの言葉は、メルエの唱える氷結呪文のように冷たく冷え切っていた。

 

「……メルエ、大丈夫か……?」

 

「…………ん…………」

 

 先程、その方角へ心の底から怯えを表していたメルエを気遣い、カミュが声をかける。マントの中から顔を出したメルエが、それに対して力強く頷いた。

 一度メルエに優しい表情を浮かべたカミュが瞬時に表情を引き締め、オロチの痕跡が続く左の通路へと歩き出す。

 

 そこは、<ジパング>に伝わる、『地獄』そのものだった。

 所狭しと噴き出す溶岩は、後続の溶岩の力で固まる事はなく、まるで大海のように波打っている。それは、正しく『溶岩の海』。

 その溶岩の影響で、周囲の温度は信じられない程に高まり、<魔法の鎧>や<魔法の法衣>を装備しているカミュ達の額にも汗が噴き出し始めた。マントに包まっていたメルエは、余りの暑さに、呼吸が難しくなり、マントの外へと顔を出す。

 

「カミュ様! あ、あれは!?」

 

 周囲の景色に怯む一行に、常に思考を止めない『賢者』の声が響く。

 サラが指差す方角は、溶岩の海の上を渡るための橋が掛っている。人的な物なのか、それとも自然が造り出した神秘なのかは解らない。だが、その橋の先の空間に歪みが生じている事だけは、誰の目にも明らかだった。

 

「……どうするのじゃ……?」

 

「……カミュ……」

 

 先頭に立つ青年は、その歪んだ空間を見つめている。その様子に不安になったイヨが問いかけるが、それに対して答える事もない。しかし、最後尾から移動して来たリーシャの問いかけに、カミュはようやく口を開いた。

 

「……行くしかないだろう……」

 

 その言葉と共に、カミュは溶岩の海の上に掛る橋を渡り始める。リーシャに向かって頷いたサラが続き、イヨやジパングの民を先に行かせた後をリーシャが続いた。

 噴き出す溶岩が信じられない程の高温を発している。カミュ達とは違い、着のみ着のままでこの洞窟へと入って来た民達の身体から滝のような汗が流れ始め、その疲労は一歩歩く毎に増して行った。

 

 

 

「……これは……」

 

 ようやく目的の場所に辿り着いたカミュは、歪んだ空間の先に見える景色に言葉を失う。その言葉を聞き、覗き込んだサラも言葉に詰まった。

 唯一人、その空間の先にある場所で生を受け、これまでを過ごして来た者だけは、『驚き』と『怒り』を露にした。

 

「こ、これは!? 我が屋敷ではないか!? どういうことだ!?」

 

 歪んだ空間の先に見えた光景。

 それは、カミュ達が<ジパング>を治める女王に謁見した場所。

 独特な佇まいの屋敷の中でも、更に独特な雰囲気を持つ広間だった。

 

「……そういう事か……」

 

「……カミュ様……」

 

 その光景を見た瞬間、カミュは何かを理解し、言葉を洩らした。

 それは、サラも同じ。

 顔をカミュへと向けたサラの表情がそれを物語っている。

 

「怪我などの回復は良いな?」

 

「ああ」

 

「…………ん…………」

 

 サラの視線を無視し、カミュは後方にいる戦士に向かって声をかける。その声に呼応するように、リーシャは頷きを返し、マントから顔を出しているメルエも頷いた。

 メルエに至っては、身体に怪我らしい怪我を付けてはいない。しかし、リーシャはカミュの表情を見て、戦いが近い事を理解した。

 

「……行くぞ……」

 

「わ、妾も参るぞ!」

 

 カミュは、呟きと共に、歪んだ空間へと踏み出して行く。弾かれるように、顔を上げたイヨが、その後を追って駆け出し、おろおろとする民達を中へと誘い、サラとリーシャも空間へと吸い込まれて行った。

 最後のリーシャの足が吸い込まれたのを確認したように、灼熱の洞窟内に出来た空間の歪みは集束し、何もなかったかのように消えて行く。

 

 

 

「イ、イヨ様、どちらにいらしたのですか!?」

 

「な、なんじゃ!?」

 

 カミュ達が出た場所は、空間の歪みの外から見た通り、<ジパング>の国主が住まう巨大な屋敷の中だった。

 不可思議な現象に目を奪われ、目を丸くしたまま周囲を見渡していたイヨの横から侍女の声が響く。急に我に返ったイヨは裏返った声を上げるが、そんなイヨの状態を気にかけている余裕もない程に、慌てた様子を見せる侍女は口を開いた。

 

「ヒミコ様が……ヒミコ様が酷い大怪我を負われて、戻られたのです!」

 

「なに?」

 

 この国の皇女は愚か者ではない。本日自分が見て来た物の大半は、ここまで生きて来た中で培った知識が及ばない程の不可思議な物が多かった。それでも、彼女は確かにその不可思議な物が生み出す力を見たのだ。

 

 <ヤマタノオロチ>という、産土神として崇めていた物の本当の姿。

 そして、その化け物の持つ、強大な力。

 また、それに対抗する者達が行使していた摩訶不思議な能力。

 

 <ジパング>には、『魔法』という概念はない。

 外からの旅人が集落の中で行使する事などあり得ず、『精霊ルビス』という存在を知らない民達が、『魔法』という不可思議な能力を知り得る訳がないのだ。

 

「……そういう事なのか……?」

 

「……おそらくは……」

 

 だが、それでもイヨは、この者達の行使する能力を見たままに理解した。

 『そういう物なのだ』と。

 『自分の知らない事が、この広い世界には多くあるのだ』と。

 故に、侍女の言葉も、イヨの胸に奇妙な形ではあるが、すんなりと落ちて行く。そして、尋ねるように向けた視線に頷きを返したカミュを見て、イヨは全てを理解した。

 

「許さぬ……」

 

 一言発した後、イヨは黙り込んだ。

 まるで、己の中にある何かと葛藤しているように。

 

「イヨさ……」

 

「サラ、大丈夫だ」

 

 その場で立ち尽くし、瞳を閉じたイヨに対し、言い表せぬ不安を抱いたサラが駆け寄ろうとするが、それはリーシャの腕に制止された。リーシャもサラの不安の原因は理解している。それでも、この次期女王がその葛藤に打ち勝つ事を信じていた。

 

「……妾は、先に行く……」

 

「あっ!? お待ちください!」

 

 小さな呟きを発し、イヨは駆け出した。それを見たサラは、言いようのない恐怖に駆られる。『この<ジパング>国主の家系に伝わる『鬼』になってしまうのではないか?』と。

 そして、サラの不安はそこにあった。

 

 伝承に残る女王は、オロチへの『憎しみ』に駆られた訳ではない。『民を護る』という純粋な想いによって、自らを『鬼』に変えた。

 しかし、今のイヨは『憎しみ』と『怒り』に駆られ、『鬼』へと堕ちてしまいそうに感じたのだ。

 

 サラは、それが不安だった。堕ちた『鬼』がどうなるのかは解らない。

 だが、もし、その『怒り』と『憎しみ』がオロチを倒した後も続いていたら。

 その矛先が、この国に生きる者達に向けられてしまったとしたら。

 両親を殺した魔物に、強い怒りと憎しみを感じ、『復讐』という鎖に縛られていたサラだからこそ感じる不安なのかもしれない。強い憎しみは、矛先を失えば暴走する可能性もある。

 サラがこの世の全ての魔物に向けていたように。

 

「カミュ様! 早くイヨ様を追いましょう!」

 

「……」

 

 サラの叫びに、無言の了承を返したカミュが走り出す。その後ろをサラが駆け出し、置いて行かれた事に眉を下げたメルエをリーシャが抱き上げて走り出した。

 

 

 

 カミュ達が、謁見の間に入った時、その場は異様な空気に包まれていた。

 床と言っても過言ではない藁を敷いた部分に、綿を入れ込んだ布を敷き、その上にヒミコと呼ばれていた物が横たえられている。先程の侍女の言葉通り、その物体の身体からは止めどなく液体が流れており、体中が傷を帯びていた。

 そして、妖艶に見えた顔にある片方の瞳は、まるで何かで斬り抉られたような傷跡を残している。

 

「イ、イヨ様! 先程、ヒミコ様が戻られまして……このような……」

 

「……離れて居れ……」

 

 取り乱す侍女の一人が、イヨへと縋るように近づくが、イヨの顔には影がかかり、その表情を推し量る事は出来ない。呟くように告げられた言葉に侍女が反論する前に、カミュ達一行がその場所へと駆け寄った。

 

「……イヨ……ごふっ…近う寄れ……」

 

「……汚らわしい口で、母上の声を発するな……」

 

 イヨを近くに呼ぼうとするその物体に、イヨは冷え切った声を絞り出す。

 その声を聞き、サラは胸を撫で下ろした。

 『まだ、イヨの声だ』と。

 

 『鬼』となる境界線をサラは知らない。しかし、それでも、未だにイヨが理性を失ってはいない事だけは理解できた。

 何が彼女を抑えているのか、何が彼女を『人』に留めているのかは解らない。ただ、それも、限界がとても近い事だけは見えて来ていた。

 

「イヨ殿、お下がりください」

 

「……」

 

 冷たく見下ろすイヨの前にリーシャが歩み出る。その横にはカミュ。しかし、イヨは無言のまま、何年もの間、自分の母親と偽って来た物体を見下ろし続けていた。

 

「イヨ様……心を奪われては駄目ですよ……イヨ様はこの国に必要な方なのです」

 

「……わかっておる……」

 

 そっと近付いて来たサラの一言に、イヨは小さく言葉を返す。

 それでもイヨは、カミュ達の間を割り、その物体の前へと進み出た。

 その瞳には『怒り』よりも『憎しみ』よりも先立つ物が燃えている。

 それは、『決意』という炎。

 

「……ガイジン達よ……ごほっ…黙っておれば、そなた達をこれ以上追う事はせぬ。このままこの国から立ち去るが良い」

 

 イヨの瞳に宿った炎は、その物体の言葉を聞いた瞬間に燃え上がる。それは、カミュやリーシャでさえ、怯みそうになる程の威圧感を生み出していた。

 それこそ、この国を想い、愛し、護りし者の本当の瞳。

 強く、厳しく、そして何よりも暖かな『太陽』の瞳。

 

「黙れ! 例え……例え、この者達がこの国を出たとしても、貴様だけは我々が滅ぼしてくれる! 住処を荒らした非礼は詫びよう……だが、貴様が言ったように、大切な物を奪われれば、それに対する報復は当然の事……」

 

「……イヨ様……」

 

 燃え上がったイヨの炎は、確固たる想いを秘めていた。

 民を殺された『怒り』でもなく、母親を殺された『憎しみ』でもない。それは、この国で暮らし、この国で死んで行く民達を護るという、国主としての『決意』。

 

「我が<ジパング>の民達を侮るでない!」

 

 『決意』と共に吐き出された言葉。

 それは、民を愛し、民を慈しみ、民を信じる王の言葉。

 民と共に暮らし、民と共に全てを分かち合って来たイヨだからこそ、発する資格を有する言葉だった。

 

「……ナラバ、コノ場デ貴様達ヲ葬リ去ッテクレヨウ!」

 

 イヨの宣言が引鉄だった。横たわる物体の声が様変わりする。それは、ヒミコという、この国を統治する女王の声ではなく、先程まで死闘を演じて来た、<ヤマタノオロチ>という太古の龍の声色。

 

「ひぃぃぃ!」

 

 そして、その叫びと共に、ヒミコの姿をしていた物体が変化して行く。

 被っていた『人』の皮を破り出て来た姿。

 それは、正しく<ヤマタノオロチ>その物。

 しかし、その姿は、満身創痍に近い。

 首の半数が落ち、残る首は三体。

 その内の一体は、片目が醜く抉れていた。

 

「くっ!」

 

 逃げ遅れた侍女に向かって振り抜かれた一つの尾が見えた瞬間、イヨの身体は動いてしまう。敵わぬ物とは知っていても、これ以上、民を犠牲にする事を容認する訳にはいかなかったのだ。

 侍女を押し退け、無防備となったイヨに、オロチの尾が唸りを上げる。

 

「くそっ!」

 

 イヨの身体へと尾が吸い込まれる一歩前に、イヨの身体は何者かに抱えられた。

 それは、当代の『勇者』。

 世界を救う為だけに存在する哀しき者。

 それを理解しながらも、その道しかない事を理解し旅する者。

 

「カミュ!」

 

「カミュ様!」

 

「!!」

 

 唸りを上げる尾の直撃を受け、カミュはイヨと共に弾き飛ばされた。ここは、屋敷内。周囲には硬い岩壁がある訳でもない。カミュの身体は、木で造られた壁を突き破り、屋敷の外へと投げ出された。

 慌ててカミュの下へと駆け出そうとする三人を阻むように、オロチの首が睨みを利かす。屋敷の壁に大きな穴を空けて吹き飛ばされたカミュとイヨは、背丈程の草が生い茂る庭で数度跳ねた後、動きを止めた。

 

「愚カナ人間達ヨ! 消エ去ルガ良イ!」

 

 その言葉と共に、オロチの頭部の一つが大きな口を開き、表に飛び出したカミュ達へと<燃え盛る火炎>を吐き出した。

 一体の頭部に邪魔され、リーシャ達には、それを止める事が出来ない。頼みの綱のメルエも、オロチの巨体に邪魔され、首の位置が確認できない為に、魔法を行使する事が出来なかったのだ。

 吐き出された<燃え盛る火炎>は、屋敷の壁に空いた大きな穴を更に削り取り、カミュ達が吹き飛んだ場所目掛けて放射される。長い草が生い茂った庭は、真っ赤な炎に包まれ、その炎を更に燃え上がらせた。

 

「……あ…あ……」

 

「……カミュ……」

 

 ようやく、一体の頭部の攻撃を避けて前へと出たリーシャとサラが見た物は、屋敷の屋根よりも高くに燃え上がった炎の柱。その柱は、徐々に横へと広がり、信じられない程の速度で屋敷の庭を覆い尽くした。

 草に覆われた場所へと吹き飛ばされたカミュ達に逃げ場はない。燃え上がる炎の勢いで、その場所を強行突破する事も出来ないだろう。

 もし、カミュが一人であったのなら、その危険も犯すだろうが、今はイヨが共にいるのだ。国主といえども、通常の『人』とそう変わる事のない身体能力のイヨを連れ、この炎の海と化した庭を突き破る事など不可能。

 しかも、カミュには氷結魔法という手段がない。神魔両方を行使できるカミュであるが、何故か氷結系統だけは契約が出来ないのだ。故に、周囲の草と共に焼き尽くされる選択肢しか残っていなかった。

 

「クハハハハ……身ノ程モ知ラズニ、我ニ逆ラッタ末路ダ……」

 

 オロチの頭部が、脳の芯に響くような笑い声を上げ、<燃え盛る火炎>を再び吐き出した。草は更に燃え上がり、周囲を真っ赤に染め上げて行く。

 

「……リ、リーシャさん……」

 

 『世界を救う』と信じていた者の死。それが、明確な未来となった事に、サラは声を震わせ、隣に立つ『騎士』へと視線を動かした。

 声は震え、瞳には涙が滲んでいる。それ程の『絶望』を彼女は感じているのだ。

 

「心配するな……カミュがあれぐらいで死ぬ訳がない。アリアハンを出た頃のカミュならいざ知らず」

 

 『このパーティーは変わった』

 

 そんな場違いな想いが、サラの表情を見ていたリーシャの頭に浮かぶ。

 昔のサラであれば、これ程の絶望を感じる事はなかったであろう。世界の希望となる『勇者』の死を悼む想いはあれど、自身が進む道全てが闇に包まれたかのような想いを持つ事はなかった筈だ。それ程、『勇者』としてのカミュを信じ始めているのだろう。

 それは、カミュも同じ。昔のカミュであれば、イヨを捨ててでも炎を抜けて来ただろう。『この国の未来等、興味がない』とでも言葉を吐いたかもしれない。アリアハンを出た頃のリーシャは、そんなカミュに『怒り』しか持たなかった。

 だが、今は違う。

 何故か、リーシャは『カミュは生きている』という自信があった。炎に包まれ、焼け焦げて行く草達を見ても、リーシャの胸には『期待感』しか浮かんでは来ない。

 

「サラ! 諦めるには早すぎるぞ!」

 

「えっ!? あ、は、はい!」

 

 リーシャの瞳の中に『絶望』など欠片もない。

 それを見たサラの胸にも、強い勇気が戻って来る。

 

「バイキルト」

 

「サラも行使できるのだな?」

 

 メルエの魔法力が薄れていたリーシャの斧に、再び魔法力を纏わせるサラを見て、リーシャは感心したように頷いた。そして、リーシャ達の動きに気付き、急速に襲いかかるオロチの首に、その斧を合わせる。

 オロチの牙と真っ向からぶつかった斧は弾かれる事なく、その牙を圧し折った。太いオロチの牙が宙に飛び、それに驚くオロチの隙を突いて、三人は庭へと駆け出して行く。

 そして、庭へと降り立った三人は、その光景を目にした。

 

 リーシャは薄く笑い、サラは驚きと喜びで目に涙を浮かべ、メルエは花咲くように笑う。ただ、オロチだけはその光景に目を見開き、そして忌々しそうに口元を歪めた。

 それは、彼女達三人が信じる『勇者』の生還。

 そして、オロチに対して、死を賭して戦う『女王』の生還。

 

「……キサマラ……何故…ソ、ソレハ!」

 

 オロチの視線の先は、真黒に焦げきった草達の中に立つ二人の『人』。

 その一人の手には、眩いばかりの輝きを放つ一本の剣。

 そして、二人が立つその場所は、まるでその部分だけ刳り抜かれたかのように大きく円状に草が刈り取られていた。

 

 

 

「く、くそっ!」

 

 吹き飛ばされた場所は、草が無造作に伸びる庭。

 態勢を立て直したカミュが目にしたのは、こちらに向かって口を開き始めたオロチの姿だった。即座に、背中の鞘に納めていた剣を取り出す。

 

「その剣は!」

 

 カミュが抜き放った剣を見て、カミュによって傷一つなく立ち上がったイヨが声を上げる。そんなイヨを無視して、カミュは周囲の草を剣を振い薙ぎ払う。根元から薙ぎ払われた草が周囲に飛び散り、カミュが振るう度に、円形上に刈り取られて行った。

 

「そ、その剣はどうしたのじゃ!?」

 

「オロチの尾から出て来た!」

 

 懸命に草を薙ぎ払うカミュは、珍しく語気を荒げる。生きるか死ぬかの瀬戸際に、剣について問いかけるイヨに苛立ちを覚えたのかもしれない。

 その時、一心不乱に周囲の草を円形上に薙ぎ払うカミュの視界の隅に、真っ赤に燃え盛る火炎が映り込んだ。

 

「……尾から?……そうか……」

 

「そんな事はどうでもいい! 死にたくなければ、刈った草を放り投げろ!」

 

 既に、草は円形上に薙ぎ払われ、カミュは刈った草を周囲に放り投げ始めていた。カミュの鋭い指示に、我に返ったイヨも、自分の周りに飛び散った草を放り投げる。

 半分以上の草を放り投げた頃、突然イヨは、強い力で抱き寄せられた。

 

「……ここまでか……」

 

「……そなた……」

 

 諦めのような言葉を口にするカミュに、イヨは強い不安感を覚えた。灼熱の洞窟であれ程の戦いを見せた男が、このような事を口にするとは思えなかったのだ。

 しかしそれは、イヨの視界を真っ赤に染める炎の放射によって現実となる。

 

「アストロン」

 

 視界を真っ赤に染めた物が、オロチの吐き出した炎だと理解できる熱気を感じた瞬間、イヨの意識は急速に薄れて行った。

 カミュの腕に護られるように、イヨの身体がその色を変化させて行く。放射された炎が周りの草を焼き払って行く中、二人の身体は、何物も受け付ける事のない鉄へと変化した。

 <アストロン>とて、万能ではない。その効力がいつ切れるかなど、術者であるカミュも正確には解らないのだ。

 

 『もし、万が一、周囲が完全に炎で包まれている時に効力が解けてしまったら』

 『周囲の空気が熱気で失われている最中に効力が解けてしまったら』

 

 その懸念がある以上、効力が解けた時の事も考える必要があった。

 故に、カミュは周囲の草を薙ぎ払ったのだ。

 

 

 

「カミュ様!」

 

「よし! サラ、戦闘再開だ!」

 

 庭の真ん中で、軽い火傷の痕は見えるものの、五体満足で立つ二人を見て、サラは喜びの声を上げ、リーシャは笑みを浮かべて武器を構える。メルエも再び杖を構え、サラの指示を待っていた。

 

「……アンタは後ろに下がっていろ……」

 

 先程の一件から、カミュの口調が変化した。

 もはや仮面を被る必要性を感じなくなったのか、それとも既に戦闘態勢に入っている為なのかは解らない。だが、カミュの力強い口調にイヨは頷きを返し、後方へと下がるしかなかった。

 イヨが後方へ下がり、庭の一角から出て行った事を確認したカミュが剣を構え直す。戦闘場所は灼熱の洞窟から草木の生い茂る庭へと変化した。先程の洞窟内よりもカミュ達にとっては動きやすい場所。

 

「やぁぁぁぁぁ!」

 

 それでも、カミュ達とオロチの間に絶対的な差が生じていた。

 それは、『疲労』。

 如何に、サラの回復呪文で傷を癒しているとはいえ、体力は別の話。灼熱の洞窟内で激しい戦闘を繰り広げ、カミュ達は確実にその体力を失っていた。

 乾いた音を立ててオロチの鱗に弾かれたリーシャの斧には、既にサラの『バイキルト』が掛けられている。それでも尚、リーシャの攻撃はオロチの頭部に小さな切り傷を作る事しか出来なかったのだ。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

 そして、それは何も前線で戦っていたカミュ達ばかりではない。後方でカミュ達を護り、オロチを弱体化させて来た稀代の『魔法使い』をも蝕んでいた。

 斧を弾かれ、態勢を崩したリーシャを襲う<燃え盛る火炎>を防ぐ為に唱えられたメルエの魔法は、既に現時点での最高氷結魔法とは言えない物になっていた。オロチの火炎を押し戻す力は既になく、辛うじてその火炎を押し留める事しかできない。

 

「クハハハハ……ドウシタ、人間! ソレデハ、我ヲ滅ボス事ナドデキハセヌゾ!」

 

 そんな一行を嘲笑うかのように、オロチの三体の首が縦横無尽に動き回り、カミュ達に襲いかかる。

 オロチの牙を防ぐ盾は、もはやその機能の大半を失っていた。カミュやリーシャを護る術の半分以上が失われているに等しい。

 

「カミュ様! こちらに!」

 

 一度剣を振るう間に、牙によって数度傷つけられるカミュを呼び戻し、サラが回復魔法を唱え続ける。

 そのサラにしても、ここまで回復魔法と補助魔法以外にも、メルエと同様の『魔道書』にある魔法を駆使していた。元々、メルエよりも魔法力の量が絶対的に少ないサラにとって、ここまでの魔法行使が負担になっていない訳がない。

 

「バイキルト」

 

 それでも、サラはカミュの持つ、新しい剣に向かって魔法を行使する。

 このパーティーの中で最も強い心を持つ者。先程はカミュという『勇者』の死を考え、絶望に伏していた。しかし、何度絶望を味わおうと、何度心が挫けようと立ち上がって来た『賢者』の瞳に諦めなど見えない。

 

「カミュ様……この後の回復呪文を考えると、これが最後の補助魔法になると思います」

 

「……わかった……メルエを頼む」

 

 絶望的な言葉を口にしているにも拘らず、サラの瞳はしっかりとした光を宿していた。そこに『諦め』など欠片も見えない。そのサラの瞳を見て、カミュは深く頷きを返し、サラのきめ細かな魔法力を纏った剣を構え、オロチへと向かって駆け出した。

 

「ふふふ。カミュ、遂に握力すらも無くなって来たぞ」

 

「……それの何が面白い?」

 

 オロチの三体の頭部と格闘しながら、リーシャは、近づいて来たカミュに向かって笑みを溢す。その身体の到る所から、真っ赤な血液が流れ出し、その血液は既にどす黒く固まり始めていた。

 そんなリーシャの笑みに深い溜息を吐き出したカミュの口端もまた上がっている。これ程の状況に落ちて尚、彼等の胸中にある物は『絶望』ではなかった。

 

「ふふふ、そうだな。何故だろうな? 全く負ける気がしない。私達が倒れる未来等、私には見えないんだ」

 

「……遂に、脳までが完全に筋肉にでもなったか……?」

 

 オロチの頭部の脅威を感じながらも、彼等は不敵に笑い合う。

 それぞれの武器を持つ手には力が入らない。<バイキルト>という補助魔法によって、武器自体の威力が増していたとはいえ、彼等が斬り落として来たのは、世界最強の種族と云われる『龍種』の硬い鱗に護られた首や尾。その負荷は当然、彼等の身体を蝕んでいた。

 

「グオォォォォォ」

 

 オロチの雄叫びが響き渡り、同時に二体の頭部がカミュ達に襲いかかって来る。まるで二人を挟み込むように迫るオロチの頭部を見て、カミュとリーシャは視線を合わせて頷いた。そのまま、お互いの背中をぴたりと合わせ、迫り来る頭部を待ち構える。

 オロチの頭部は、同時にではなく、まずリーシャの方へ襲いかかった。牙を剥き出しにして迫る頭部に向かってリーシャは、心許無い盾を両手で押さえるように構える。

 

「ぐっ!」

 

 凄まじい衝撃と共に、リーシャの身体が後方へと押し出された。そこにいるのは、背中合わせで剣を構えたカミュ。剣を地面と水平に構えたカミュは、リーシャの身体ごと前へと押し出され、前方から迫るもう一体の頭部へと向かって行く。

 

「ギャオォォォォォ」

 

 轟く凄まじいまでの叫び。それは、カミュの物でもリーシャの物でもなく、巨体を揺らすオロチの物だった。

 剣を水平に構えたカミュの身体は、大きく開いたオロチの口の上を行き、その眉間へと吸い込まれる。握力も失い、既に剣を持っているのがやっとになっていたカミュであったが、オロチによって作り出された押し出す力を得て、ただ持っているだけの剣が世界最高の強度を持つ鱗を突き破ったのだ。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………イオラ…………」

 

 眉間へと突き刺さった剣を引き抜いたカミュを抱えて、リーシャが後ろへと飛ぶ。その瞬間、痛みと共に上げられたオロチの頭部を中心に、光と音が弾け飛んだ。

 周囲を巻き込む程の爆音が轟き、体液の雨が降り注ぐ。灼熱の洞窟で行使した時程の威力はない。それでも、オロチの一体の頭部を吹き飛ばし、洞窟内で余波を受けていたもう一体の頭部を行動不能にするだけの威力は健在だった。

 

「……キサマラ……」

 

 つい先程まで、完全に自分の勝利を疑わなかったオロチが、一度に二つもの首を失った事に行動を止めた。

 頭部を吹き飛ばされた首と、頭部の大半の鱗を失い、焼け爛れて眼すらも失った首が力無く地面へと落ちて行く。凄まじい轟音と共に首が地面に落ちた瞬間、周囲から大きな歓声が湧き上がった。

 

 何時の間にか、武器を携えた<ジパング>の者達が集まっている。

 己の国の主を護る為に集結した者達。それは、イヨが『侮るな!』と叫んだ<ジパング>の民達の心。

 遠巻きに見ているのは、カミュ達の戦いに踏み出す事が出来なかった為。それは、オロチに対しての『恐怖』ではない。自分達が入る事によって、足枷になってしまう事への『恐れ』。

 

「カミュ、まだ行けるか?」

 

「……行くしかないだろ……」

 

 爆風の余波から身を避けたリーシャが、隣で倒れているカミュへと声をかける。その問いかけに対し、呆れたような声を出すカミュに、リーシャは軽く微笑んだ。

 カミュの言う通り、『行くしかない』のだ。今、この場面でカミュとリーシャに退く道などありはしない。

 

「うおぉぉぉぉぉ!」

 

「いやぁぁぁぁぁ!」

 

 立ち上がった二人は、力が入りきらない手で、それぞれの武器を握り込む。既に、片手では無理であるため、両手で握りしめた武器を高々と掲げ、最後の頭部へと武器を振り下ろした。

 未だに呆然とカミュ達が跳躍するのを見ていた首に、二人の武器が吸い込まれようとした瞬間、二人の身体が死角から現れた何物かによって、吹き飛ばされた。

 

「リーシャさん!」

 

「!!」

 

 サラの叫び声と、メルエの声にならない叫びが響く。横へと弾き飛ばされた二人の身体は、そのまま地面へと叩きつけられた。

 既に、メルエの唱えた<スクルト>の効力は切れかかっている。地面に叩きつけられたカミュの頭部から、赤い液体が一筋流れ落ちた。

 

 二人を襲った物は、三つ残っていた尾。

 最後に残った頭部が呆然としている事に、カミュ達はその存在を失念していたのだ。それは、オロチの生物としての本能なのだろうか。

 我に返ったオロチは、残った最後の頭部の口を大きく開き、倒れ伏したカミュ達に向けて<燃え盛る火炎>を吐き出した。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ヒャダイン…………」

 

 振り返ったサラの指示に頷いたメルエが杖を振るう。カミュ達に向かう火炎に向けて振られた杖先から迸る冷気。それは、オロチの炎とぶつかり合い、消滅し合った。

 その隙を見て、カミュ達がその場を後にした時、それは起こった。

 

「メ、メルエ!?」

 

 響き渡るサラの叫び。

 途切れる冷気。

 ぶつかり合う対象を失くした火炎は、先程までカミュ達がいた場所の草を燃やし尽くした。

 サラの視線の先には、杖を落とし、その場に倒れ込む小さな身体が映る。それは、ここまでの戦闘で、常に前線に向かう二人をオロチの脅威から守り、最終的な止めを刺して来た、幼いながらも強大な魔力を持つ少女。

 その少女が攻撃の媒体である杖を取り落とし、前のめりに倒れ込んでいたのだ。

 

 『魔法力切れ』

 

 それを、彼女は一度経験していた。<シャンパーニ>と呼ばれる塔の内部での戦闘によって。

 あの時よりも、メルエの魔法力の量は数段上がってはいる。それは、ここまでの戦いで唱えて来た魔法の格と回数で明らかであった。

 上位魔法を覚え、それを何度も唱え続けたメルエの魔法力は、既に枯渇しかけていたのだ。魔法力とは、その人間の気力でもある。それが枯渇したという事は、体力の少ないメルエをここまで支えて来た物を失った事に等しい。故に、彼女は立っている事も出来なくなり、その場に倒れ伏したのだ。

 

「クハハハハ……人間ヨ、ココマデノヨウダ」

 

 自身の火炎を防いで来た者の戦線離脱。

 それが意味する事を、オロチは正確に理解していた。

 オロチの残った一体の頭部が、醜く歪んで行く。

 

「……まだ、俺達が倒れる未来は見えないか?」

 

「ふっ、当たり前の事を聞くな」

 

 獲物を狙うように巨大な目玉を動かしたオロチを見て、カミュは隣に立つ女性に問いかける。その問いは、武器を構える『戦士』によって一蹴された。

 絶体絶命と言っても過言ではない状況。もはや、自分達を護ってくれる『魔法使い』はいない。炎を受け、身体が焼け爛れた時に回復してくれる『賢者』とて、いつまで保つか解らない。

 

 それでも彼等は笑った。

 その理由も解らない。

 武器を構え、前へと踊り出す『勇者』を護るように『戦士』が隣に立つ。

 本当の意味での『死闘』が始まった。

 

 

 

「メ、メルエ、大丈夫ですか!?」

 

「…………サ……サラ…………?」

 

 抱き起こされたメルエは、すぐ傍にある顔を見て、その女性の名を口にする。問いかけに頷いたサラを見たメルエは、何かを思い出したように周囲に視線を走らせる。不思議に思ったサラではあったが、メルエの瞳がある場所に固定されたのを見て、メルエを抱きしめた。

 

「…………つえ…………」

 

 抱きしめるサラを振り払うように、自身が取り落とした物に手を伸ばす。

 それは、彼女が初めて買い与えられた武器。

 当初は、魔法の媒体としての使用方法が解らずに何度も投げ捨てた。思うように行かずに癇癪を起した事は何度もある。

 それでも、リーシャを護ったあの時から、それはメルエにとって宝物となっていた。

 

「メルエ、もう良いのです。もう、メルエに魔法の行使はできません!」

 

 何度も自分の『想い』を乗せて、魔法という神秘を体現してくれた杖。

 それは、カミュを、リーシャを、そしてサラを護るというメルエの『想い』。

 自分を、この広い世界に連れ出してくれた三人と共に旅を続けたいというメルエの『想い』。

 

「…………いや…………」

 

 サラの拘束から逃れるように身を捩り、杖に向かって手を伸ばすメルエを見て、サラの頬を熱い想いが流れ落ちる。

 メルエが魔法に執着している事は知っていた。だが、その中に秘めた『想い』をサラは軽視していたのかもしれない。

 

「……メ、メルエ……もう…もう……メルエには無理なのですよ……」

 

 後方では、カミュとリーシャが激闘を繰り広げている。何とか火炎だけは受けないように避けてはいるが、死角から飛び出す尾の攻撃を避ける事が出来ず、何度も地面に叩きつけられ、その身体は腫れ上がり、口端からは赤い命の源を流れ落としていた。

 

 サラの拘束を引き剝がしたメルエは、杖へと手を伸ばす。手を伸ばしても届かないため、歩こうと足を踏み出すが、力が入らず、立ち上がる事も出来ない。それでも、身体を地面に這わせながら杖へと向かうメルエを見て、サラは立ち上がった。

 

 『自分は何を弱気になっているのだ』と。

 『自分の魔法力は、まだ残っているではないか』と。

 サラの瞳に、再び宿った炎は、赤々と燃えあがる。

 

 

 

「ぐっ!」

 

 振り抜かれた尾に脇腹を打たれ、カミュは地面へと叩きつけられた。

 既に、カミュの体力も限界が近付いている。

 その証拠に、立ち上がる為に、剣を杖のように使っていた。

 

「べホイミ」

 

 そのカミュの傍に駆け寄ったサラの手が淡い緑色に包まれ、カミュの傷を癒して行く。傷は消えるが、体力が戻る訳ではない。サラが来た事を感じたリーシャも再び戻り、三人が集結した。

 リーシャにも回復呪文を唱えたサラが、真っ直ぐオロチを見つめる。

 

 既に、周囲を取り巻く<ジパング>の民達の声は聞こえない。次元の違う戦いに、足どころか、口も動かないのだ。

 この時点で、ようやく『魔法』という神秘に対する『恐怖』が湧き上がっていたのかもしれない。そして、<ヤマタノオロチ>という強大な存在への『恐怖』も。

 そんな中、イヨもまた足を止め、戦いを見つめている。ただ、彼女の足は動かないのではなく、動かそうとはしていないのだ。

 彼女は全てをカミュ達へと託した。それは、都合の良い存在としてカミュ達を見ている物ではない。どちらにせよ、カミュ達が敗れた場合、この<ジパング>の歴史は幕を閉じる事をイヨは理解しているのだ。

 故に、足掻く事なく、真っ直ぐにカミュ達の背中を見つめる。己と、己の国の命運を委ねて。

 最後には、己の心を棄ててでも民を護る決意を胸に抱いていた。

 

「……カミュ様、リーシャさん……私には、これ以上回復呪文を唱える魔法力はありません。オロチの尾は、私が請け負います。カミュ様達は首の方を!」

 

「サ、サラ! どうするつもりだ!?」

 

 リーシャに<ベホイミ>を掛け終えたサラは、真っ直ぐにオロチを見つめ、現状を正確に話し出す。その最後の言葉に、リーシャは何か不穏な空気を感じ、サラへと問い詰めの声を上げた。

 しかし、もう一人。ゆっくりと立ち上がり、剣を構えた青年の瞳は異なっている。

 

「……わかった……」

 

「カミュ!」

 

 サラの瞳を見る事なく、小さく頷いたカミュが剣を一振りした。その様子を見ても納得がいかないリーシャが叫ぶが、それに答えたのは、未だにオロチから視線を外そうとしないサラだった。

 

「……最後の頭部を失えば、おそらくオロチも息絶えるでしょう。私には、そこまでの能力はありません。リーシャさん達が頭部を倒してさえくれれば、私の仕事はありません。リーシャさんとカミュ様が頼りです」

 

「……サラ……」

 

 サラは、最後に柔らかな笑みをリーシャへと向けた。

 それは、『決意』の表れである笑み。

 リーシャがそれを理解できない訳がない。

 表情を笑顔に変えたリーシャが、大きく頷いた。

 

「……行くぞ……」

 

 カミュの一言で、それぞれがそれぞれの持ち場へと移動して行く。カミュとリーシャは己の武器を構え、今にも火炎を吐き出しそうな頭部に向かった。

 もはや、尾を警戒する必要はない。サラは、口にした以上、それをやり遂げるという事をリーシャは知っているのだ。

 

「いやぁぁぁぁぁぁ!」

 

 リーシャの斧が頭部へと振り抜かれる。鼻先を掠める凶器に、怒りを剥き出しにしたオロチの首が、そのままリーシャへと襲いかかった。

 それを待っていたかのように、横合いからカミュの剣が飛び出し、魔法力を纏った刀身がオロチの下顎へ深々と突き刺さる。

 

「ギャオォォォォォ」

 

 怒りと痛みに叫びを上げるオロチの体液が降り注いで来る。しかし、まだ致命傷ではない。上空に上げられたオロチの真っ赤な瞳が、怒りの炎に彩られた。

 大きく口を開けたオロチの口の中に渦巻く火炎。カミュ達を見下ろすように口を開いたオロチを見て、カミュはリーシャを抱き寄せる。

 

「な、なんだ!?」

 

「アストロン」

 

 カミュの詠唱と共に、リーシャとカミュの身体が鉄色へと変化して行く。もはや成り振りを構っている場合ではなかった。

 もし、アストロンが解けた時に未だ火炎が吐き出されていようと、今、この瞬間を逃れる術はこの方法しかなかったのだ。

 

「グオォォォォォ」

 

 しかし、カミュの不安は杞憂に終わる。オロチは、何度か見たこの魔法に火炎が無駄という事を悟ったのだろう。火炎放射を停止させたオロチは、三本の尾を振り上げ、カミュ達を叩き潰す方法へと変更した。

 火炎放射の停止と共に、鉄化が解けたカミュ達は、急に目の前に出現した尾に反応できない。二本の尾が同方向から時間差で襲いかかる。一本を避けたとしても、もう一本の尾を避ける術はないのだ。

 しかし、それこそがこのパーティーの頭脳である女性の待っていた場面だった。

 

「バギマ!」

 

 唸る尾が巻き起こす疾風に変化が起こる。まるで、その風の主が変わったかのように尾から空気が離れて行き、瞬時に真空を造り出した。

 巻き起こる真空の刃は、勢いを殺せない尾を切り刻み続ける。真空の中をオロチの体液が飛び散り、肉片をばら撒いて行った。

 

<バギマ>

『経典』に記載される、数少ない攻撃魔法の一つ。術者の魔法力によって風を操り、真空の刃となって対象へと襲いかかる魔法。その攻撃威力は<バギ>を遙かに凌ぎ、真空と化す範囲も広げる事によって刃の数を増すのだ。『経典』の最後のページに記載されており、その魔法を習得できる者は、ここ数十年現れた事はない。どれ程の高僧であろうと、教会の各支部を任せられている司祭であろうと、この『僧侶』最強の攻撃魔法を行使できる者はいなかった。

 

「サラ!」

 

 二本の尾が切り刻まれ、最後には根元からその全てを肉片と化す。散らばる肉片と体液が周囲を染めた事に、カミュとリーシャは安堵の息を吐き出すが、それは瞬時に恐怖へと変化して行った。

 呪文を行使し終えたサラが、肩膝をついたのだ。それが意味する事を、既にカミュもリーシャも知っている。

 

 『魔法力切れ』

 

 契約したての魔法だったのだろう。まだ行使した事もなく、行使できるかどうかも定かではない。いや、もしかすれば、実際は行使する事が出来ない魔法だったのかもしれない。

 それでも、サラの『想い』がその魔法を発現させた。どれ程の魔法力が必要なのかは計算してはいたのだろう。しかし、全魔法力を絞り取られたサラの魔法力は枯渇した。

 

「ちっ!」

 

 カミュの大きな舌打ちと共に、リーシャはサラの後方から迫る巨大な尾の存在を認識した。尾が二本切り刻まれた事から立ち直り、先程以上の怒りを込めた尾が振り抜かれたのだ。

 サラはそれに気付かず、例え気付いたとしてもそれを避ける術はない。

 

 駆け出そうとするカミュの前に、先程の傷を色濃く残したオロチの首が塞がった。リーシャがその間を抜けようとするが、間に合わないのは明白。

 サラを護る装備は、特殊な術式を編み込んでいるとはいえ、絹という生地である事に変わりはない。今のサラが尾の攻撃をまともに受ければ、全身の骨が砕け、身体の内部が破壊される可能性が高いのだ。

 

「サラ!」

 

「くそっ!」

 

 カミュとリーシャの叫びが虚しく響き渡る。唸りを上げるオロチの尾を避ける術はない。迫り来る尾の存在に気付いたサラがそちらに視線を向けたその時、彼ら三人の楔が発する、呟きのような声が、三人の耳に確かに届いた。

 

 

 

 

 サラがカミュ達の下へ駆けて行き、その場にメルエだけが取り残された。しかし、メルエの心に『孤独』が歩み寄る事はない。

 それよりも、彼女の胸にあったのは『使命感』。

 自分の役割であり、誇りでもある『魔法』。

 それを行使できなければ、自分が何も役に立たない事を彼女は知っていた。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 這うように杖へと伸ばすメルエの手は届かない。思うように動かない身体に、メルエの瞳から雫が零れ落ちる。

 『何故、身体が動かないのか』という事がメルエには理解できない。『杖さえ手にすれば』という想いがメルエを突き動かしているのだ。

 

「…………つえ…………」

 

 ようやく伸ばした指先に、堅い木の感触が触れる。もう一度身体を這わせ、しっかりとそれを握ったメルエは、それを支えに身体を起こそうとするが、杖で支えようとする身体に力が全く入らないのだ。

 再び倒れ伏すメルエの瞳から零れ落ちた雫が、地面を濡らす。

 

 既に陽は上り、明るい光が差し込み始めている。それ程の長い時間をカミュ達は闘い続けているのだ。

 基本的に『魔物』と『人』の間には絶対的な体力の差がある。七つの首と七つの尾を失い、もはや瀕死の状態になってはいるが、<ヤマタノオロチ>は未だにカミュ達を襲う絶対的な力を有していた。

 そこが明確な種族の差。その差があるからこそ、『人』は、魔法を『経典』と『魔道書』に分けた。魔法という神秘を二つに分ける事により、その力を分散させ、その力を専門で研究する者達を作ったのだ。

 

 回復魔法や補助魔法は、『経典』を所有させた『教会』という組織に。

 魔物と対抗できる攻撃魔法は、『魔道書』を管理する『国家』に。

 それは遥か昔から流れる『人』の歴史の一部。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

 オロチの吐き出す<燃え盛る火炎>を視界に入れたメルエが、身体を這わせたまま杖をカミュに向け、詠唱を唱えた。しかし、杖は何の反応を示さない。

 メルエの呟くような詠唱は、虚空に溶けて行き、虚しく霧散した。

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

 自分の身に降りかかった状況。その悔しさに、涙が滲み、杖を持った手で、何度も力無く地面を叩く。幼いメルエは、自分の思い通りに行かない事に癇癪を上げる事しかできないのだ。

 

「…………メラ…………」

 

 『一番最初に行使できた魔法ならば』と杖先に魔法力を流し込もうとするが、メルエの身体から湧き上がる筈の力は、動き出す事はない。まるで当然の事のように沈黙を続ける杖先に、メルエの瞳から止めど無く涙が流れ落ちた。

 『魔法が使いたい』というメルエの想いは、この世界に生きる『魔法使い』の物と理由が異なる。メルエの我欲と言えば、『リーシャやカミュ、そしてサラに褒められたい』という子供ならではの単純な物。

 そして、その理由も、今のメルエが欲している物ではないのだ。

 

 『カミュ達を護る事の出来る力が欲しい』

 

 メルエの中にある『想い』は唯一つ。

 自身が初めて交わした『約束』。

 メルエという何の縁もない孤児を、我が親族のように愛してくれる三人に告げた唯一つの『約束』であり、最も大事な『約束』。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 涙に濡れ、視界がぼやける中、メルエの瞳にサラが魔法を行使したのが見えた。悔しさが込み上げたのも束の間、サラが肩膝を付くのが見え、メルエの瞳から涙が飛び散って行く。

 大好きな者達が倒れ行く姿。それは、メルエの心に燻る小さな火を燃え上がらせる。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 先程とは異なる唸り声を上げ、メルエが再び身体を起こそうとした時だった。

 メルエの『想い』を受け、イシスの女王によって嵌められた小さな指輪からじわりと光が溢れ出す。その神々しい光は一瞬の内にメルエの身体全体を包み込み、眩いばかりに周囲を照らした。

 

 その光を、カミュとサラは知っている。

 それは、あの<ダーマ神殿>にて、サラが包まれた光。

 神と『精霊ルビス』の祝福を受けた者のみが包まれる光。

 神々しく強いその光は、メルエの身体に変化を及ぼして行く。

 

 光が収まったメルエの身体は、しっかりと地面に足をつけて立っていた。

 杖を手に持ち、それの支えがなくとも、地面を踏みしめて立つメルエの瞳は、『決意』と『想い』に燃えていた。

 既に、オロチの最後の一本の尾は、サラ目掛けて唸りを上げている。しっかりと杖を握り込み、静かに魔法力の流れを確認したメルエは、そのまま言葉を紡いだ。

 世界最高の『魔法使い』の想いの籠った詠唱が響き渡る。

 

「…………スカラ…………」

 

 

 

 

 後方から聞こえた詠唱と共に、サラの身体が魔法力に包まれる。『魔道書』の魔法を網羅したメルエは、既にこの世界の『魔法使い』の頂点に立っている。その地位に君臨する者の膨大な魔法力がサラを護り、オロチの尾からの凄まじい衝撃を緩和させて行った。

 

「メルエ!」

 

「……行くぞ……」

 

 頼りになる最愛の妹の復活を喜ぶリーシャを制するように、カミュが剣を構える。その言葉に表情を引き締めたリーシャが、先頭を切って駆け出した。

 『仕留めた』と思った人間が、地面に叩き付けられて尚、立ち上がる姿を見て、オロチは怯んだ。

 立ち上がった者からは力を感じる事はない。既に魔法力を失ったサラに、オロチに対抗する力は残ってはいないのだ。それでも、オロチの中に奇妙な感情が渦巻き始める。

 それは、『怒り』や『憎しみ』ではない。

 

「……何ナノダ……キサマラハ……」

 

 イヨの母であるヒミコと対した時に感じた感情は『侮り』。

 その昔、自らの命と引き換えにオロチを封じ込めた女王と相対した時の感情は、『怒り』と『憎しみ』。

 そして、今、オロチの胸中にある物。

 それは、『恐怖』。

 生まれて初めて感じる物に、オロチは戸惑ったのだ。

 それが何なのかさえ理解する事は出来ない。

 

「グオォォォォォ!」

 

 錯乱状態に陥ったオロチは、駆け寄るリーシャに向かって大きく口を開き、全てを焼き尽くす程の火炎を吐き出した。その火炎を見ても、リーシャは進路を変える事はない。魔法力を纏った斧を高々と掲げ、まっすぐオロチの頭部へと駆けて行く。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

 リーシャの考えていた通り、オロチの動きを察したメルエが杖を振う。それと同時に、リーシャの身体を後押しするような冷気が吹き抜けて行った。

 ぶつかり合う火炎と冷気。メルエに魔法力が戻ったといえども完全ではない。灼熱の洞窟で行使した程の威力はなく、火炎を押し戻す力はないのだ。

 

「うおぉぉぉぉぉぉ!」

 

 それでも、リーシャは前へと突き進む。冷気によって凍りつき始めた己の身体が、オロチの火炎によって溶け、皮膚を焦がして行っても、リーシャはその斧を振り下ろした。

 

「ギャオォォォォォォォ」

 

 リーシャの振り下ろした斧は、オロチの突き出た鼻先から巨大な口を真っ二つに切り裂いて行く。飛び散る体液と共に火炎の放射が止まり、激痛に暴れるオロチの頭部を見て、リーシャはその場に倒れ込んだ。

 

「いやぁぁぁぁぁ!」

 

 もはや、剣を握り込む握力も残っていないカミュが、剣を両手で掴み、落ちて来たオロチの頭部に突き出した。

 オロチの下顎に突き刺さった剣は、顎を突き抜け、口内へと侵入する。そのまま全体重をかけて引き抜いたカミュの剣は、下顎から首下までを切り裂いた。

 

「ギシャァァァァァァァ」

 

 断末魔の叫びに似た雄叫びを上げたオロチの瞳が虚ろになって行く。真っ赤に染まった瞳から、力が失われるその瞬間、太古から生きて来たその生物は最後の光景を見る事となる。

 

「…………イオラ…………」

 

 瞬時に収束し、歪んで行く景色。

 耳鳴りのような音を聞いたのが最後だった。

 圧縮された空気が解放され、全てを弾き飛ばす。

 <ヤマタノオロチ>と呼ばれる、太古から生きる『龍』を。

 <ジパング>という国を覆っていた暗雲を。

 この国の民の心に巣食っていた『絶望』を。

 

 光と音が戻ったその場所に、<ヤマタノオロチ>の最後の首が落ちる音が響く。もはや、オロチの命の炎は消えていた。尾も力無く横たわり、巨大な身体は微動だにしない。

 暫しの静寂が周囲を支配した後、先程オロチが上げていた咆哮よりも大きな歓声がカミュ達を包み込む。

 

「……無茶をするな……」

 

「……ぐっ……あ…あ……」

 

 オロチという強敵を倒す扉を押し開けた女性に近寄ったカミュは、溜息と共に言葉をかけるが、火炎によって焼け爛れ、思うように言葉を発する事が出来ない事を理解し、顔を歪める。

 

「……べホイミ……」

 

 リーシャに翳す手から、カミュの中にある最後の魔法力が溢れ出す。淡く緑色の光が、リーシャを包み込み、痛々しい火傷の痕を消して行った。

 自身の身体が癒えて行くのを感じ、リーシャは静かに瞳を閉じる。ここまでの戦いの疲れを癒すように寝息を立てるリーシャに、カミュは口元を緩めた。

 

「カミュ様……いつの間に<ベホイミ>を……?」

 

 鉄の槍を杖にしながら近づいて来るサラの問いかけに振り向いたカミュの身体から力が抜けて行く。カミュもまた、『魔法力切れ』を起こしたのだ。リーシャに向けた魔法力が最後の物だったのだろう。

 

「……契約は出来たが……行使は出来なかった……」

 

「……そうですか……」

 

 カミュの言葉を聞き、サラは柔らかく微笑みを浮かべる。

 『カミュの心がまた、この戦いで一つ成長したのだ』と。

 そんな考えを持ち、サラは笑みを浮かべたまま倒れ込む。

 そして、そのまま意識を手放した。

 

「…………カミュ…………」

 

「……ありがとう……メルエには、何度も救われた……」

 

 重い身体を引き摺るように胸に飛び込んで来たメルエの頭を優しく撫でるカミュの手を受け、メルエは花咲くように微笑む。その頬にくっきりと残る涙の痕が、メルエの戦いを物語っていた。

 優しく撫でるカミュの手を受け、メルエはそのまま深い眠りへと落ちて行く。その顔を見つめ、カミュは柔らかく微笑んだ。

 

「大丈夫か!?」

 

 真っ先に駆け寄って来たイヨの姿を見たカミュの顔から笑みが消える。

 メルエを胸に抱いたまま、カミュは傍に立ったイヨを見上げた。

 

「……少し、休ませて頂きます……」

 

「あっ!? こ、これ!?」

 

 その言葉を最後に、カミュの意識は途絶えた。

 地面へと倒れ込むカミュの腕の中にはメルエ。

 そして、彼を取り囲むように眠りに付く者達。

 その全員が、安らかな寝顔を浮かべている。

 

 四人の姿を見たイヨは、大きな溜息を吐き出すと共に満面の笑みを浮かべた。

 この数年間で浮かべた事など一度もない心からの笑みを。

 <ジパング>の太陽と民から慕われる者に相応しい、柔らかく暖かな微笑みを。

 

「誰ぞ! 我が国の救い主を、屋敷の中へお連れする手伝いを!」

 

「はっ!」

 

 イヨの声に呼応するかのように、数人の男達が動き出す。それは、奇しくもイヨを救う為に灼熱の洞窟へと飛び込んで来た者達。

 その者達に共通するのは、全てを終えた者が浮かべる笑みだった。

 

 数百年の間に渡る<ジパング>の闇は晴れた。

 『鬼』となった女王とよく似た能力を持つ皇女の『決意』と、まるで必然的であるかの様に訪れた『ガイジン』達の手によって。

 

 『日出る国』と呼ばれる程に力強く、『黄金の国』と呼ばれる程に美しい国の時間が再び動き出す。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにてオロチ戦は終了です。
どうでしょうか?
「死を賭して」に合うような戦いが描けたでしょうか?
読んで下さった皆様の心に残る思い出を穢す事のない戦闘が描けていたら嬉しいです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ジパング④

 

 

 ジパングに伝わる伝承には、少し補足があった。

 

 それは、分家の末裔となった一人の女性の末路。最後の護符となった『般若の面』を彫り、その帰路で魔物と遭遇し、錯乱状態に陥った女性の辿った道のり。

 

 彼女は、錯乱状態に陥りながらも灼熱の洞窟を抜け、外へと踏み出した。

 術者である魔物が存命であった為に、その錯乱魔法は効力を失わず、彼女の脳を蝕み続ける。そのまま、海岸付近へと出た彼女は、たまたま海岸に打ち付けた高波に、その身を攫われてしまった。

 荒れ狂う波に呑まれ、意識を手放した彼女は、偶然にも通りかかった貿易船に救助される。この時代は、まだ『魔王』の影響も少なく、ポルトガを起点として様々な貿易船が旅客船を兼ねて渡航していた。その一つの船に、彼女は救い出された。

 

 救助されて数日、ようやく意識を取り戻した彼女は、周囲を見つめて困惑する。見る物全てが彼女の理解を超えていたのだ。そればかりか、自分が何故ここにいるのかも解らない。いや、まず、自分が何者なのかさえ、彼女には理解できなかったのだ。

 生まれて初めて味わった『恐怖』。術者存命によって、長引く魔法の影響が及ぼした脳への障害。大量の海水を飲んだ事による、一時の心肺停止。それらの要因が全て合わさった事により、彼女は『記憶』という大事な物を失っていた。

 

「……わ、わたしは……」

 

 救助され、意識を取り戻した彼女を襲った『記憶障害』という物は、珍しい物ではなかった。この時代、魔物に襲われ、目の前で人が死んで行くのを見た者などは、自身の心を護るために記憶を封じ込めてしまう事が多く見られたのだ。故に、船に乗る乗員達の多くも、彼女を同情の眼差しで見る事はあっても、奇異の目で見る事はなかった。

 貿易船に救助された彼女は運が良かったのだろう。もし、万が一、客船等を襲う海賊船に拾われていたら、彼女の貞操どころか、命すらも危うい物であったかも知れない。

 

「そう考え込む必要はないよ。色々と手伝ってくれれば、この船が次の国に着くまでの衣食住はこちらで用意するから」

 

「……ありがとうございます……」

 

 船長の言葉に頭を下げたが、彼女の心は不安で揺れていた。貿易船といえども、人命救助によって引き上げた人間をいつまでも船に乗せておく訳にはいかない。必然的に、次の目的地となる場所で彼女は降ろされる事になる。

 自分の住んでいた場所が何処なのかを伝える事ができ、その場所が通り道であるならば、送り届けてくれる事も可能だったのかもしれない。しかし、彼女の『記憶』はないのだ。

 解る事は、彼女の髪の色が、この船に乗るどこの誰とも違うという事だけだった。

 

 そして、船は長い航路と時間を要して、ある国へと辿り着く。それは、皮肉にも彼女の『記憶』の奥底に眠ってしまった生国と同じ、辺境にある島国。

 

 その国の名は『アリアハン』

 

 彼女は、その国の港に着いた時に、積み荷や乗客と共に降ろされた。

 アリアハン側からは、彼女の身柄を保護するために、一人の近衛兵が立ち会う事となる。船長との話で彼女の事情を聞いた近衛兵は、快く身柄を引き受け、アリアハンで暮らす許可を取り付ける。何も憶えていない彼女を気遣って、その近衛兵は、住居の手配から衣食の手配までを行った。

 全てが初めてみる物ばかりだった彼女は、必然的にその近衛兵を頼らざるを得なくなり、近衛兵の方も嫌な顔一つせずに彼女の世話を焼く。

 

 そして、彼女がアリアハンに来て一年が経つ頃には、彼女もようやく笑顔を浮かべるだけの余裕を持つ事が出来るようになった。

 心の余裕は、彼女の心を動かし、近衛兵へ違う感情を持たせて行く。もとより、その近衛兵にはその感情があったのだろう。二人の仲は急速に発展し、彼女がこの島国に辿り着いてから三年も経つ頃には、婚姻の誓いを『精霊ルビス』へ捧げていた。

 アリアハン宮廷で働く学者の中には、彼女の髪の色からその出生地を導き出し、婚姻に反対の意見を出す者もいたが、近衛兵は頑として譲らず、彼女を妻とする。

 

 そして、彼女は近衛兵との間に子を成した。

 珠のように輝く男子。

 記憶を失くした彼女の名は、近衛兵と二人で考えた。そして、その間に生まれた男の子の名は、彼女と近衛兵の名に肖って名付けられる。

 

 その子供は、彼女の出生地である<ジパング>特有の髪色を持ち、父親である近衛兵の剣の才能も受け継いでいた。また、正義感は強く、内に秘めた物が漏れ出しているのではないかと思う程に、人を惹き付ける輝きを持っている。

 それは、『ジパングの太陽』とまで呼ばれた彼女の遥か祖先を彷彿とさせる物だった。

 

 その子の名は『オルテガ』。

 後に、世界中の人間達の希望とまでなる人物である。

 

 

 

 

 

「……ぐっ……」

 

「あっ!? リーシャさん、目が覚めましたか?」

 

 瞼の向こう側から差し込んでくる陽の光に目を開けたリーシャは、身体を起こそうとするが、軋むように重い身体に思わず声を上げてしまう。その声に気付いたサラが、リーシャの枕元に移動し、顔を覗き込んで来た。

 

「……こ、ここは……」

 

「ここは、イヨ様のお屋敷の部屋の一つです」

 

 周囲を見渡すリーシャに苦笑しながら、サラは布の水気を絞り、それをリーシャへと渡す。渡された布で、顔を軽く拭いた後、リーシャはその場にサラしかいない事を不思議に思った。

 

「カミュ様とメルエは食事を取っています。そろそろ戻って来ると思いますよ」

 

「そうか。私は随分眠っていたのか?」

 

 リーシャの問いかけにサラは苦笑を浮かべ、小さく頷いた。

 そして、笑みを浮かべたままに口を開く。

 

「私とメルエは、丸一日だそうです。カミュ様とリーシャさんは、更に一日でした。実は、カミュ様もつい先程、目を覚ましたばかりなのですよ」

 

「ま、丸二日もか!?」

 

 サラの言葉にリーシャは驚きを表す。

 しかし、それも無理はないだろう。サラやメルエは、身体的な怪我などは皆無に等しい。だが、カミュとリーシャ、特にリーシャに至っては、その身を何度も焦がし、何度も傷つけられている。いくらベホイミ等の回復呪文で修復したとしても、身体的な疲労はサラやメルエの比ではない。むしろ、二日の眠りで目を覚ました事の方が驚きに値する事だった。

 

「仕方がありません。それ程に、今回の戦いは厳しい物でしたから……」

 

 目を伏せるように俯いたサラの顔を見て、リーシャも一つ溜息を吐き出す。ヤマタノオロチとの戦いは、まさに『死闘』であった。この四人の中で、誰がいつ死んでもおかしくはない程の戦いだったと言っても過言ではないだろう。

 

「……そうだな……だが、私達の最終目的は『魔王バラモス』。<ヤマタノオロチ>は強敵であったが、『魔王バラモス』はその比ではないのだろうな。まだまだ強くならねばな」

 

「……そうですね……」

 

 未だに力が入りきらない拳を胸で握り、リーシャが言葉を溢す。<ヤマタノオロチ>という強敵を葬って尚、それは自身の未熟さを浮き彫りにさせる物だった。

 

 『自分達の現在の力では、魔王と対峙する事などできない』

 

 それは、リーシャだけでなくサラもまた感じた事だった。そして、それはおそらくカミュも同様だろう。

 確かにヤマタノオロチは、今までの敵とは比べ物にならぬ程の強敵であった。しかしそれでも、世界全土を恐怖に陥れる程の力を有している訳ではない。それもまたカミュ達四人の成長が成せる事だと言う事も理解している。己の力が上がり、それを自覚しているからこそ、相手の力も見えて来るのだ。

 ただ闇雲に『魔王討伐』を叫ぶ者は、もう誰一人いない。

 

 それぞれの想いを胸に押し黙った二人の耳に、襖と呼ばれる部屋の仕切りが引かれる音が聞こえた。そして、引かれた襖の隙間から見えた顔を見て、サラは笑みを溢す。

 

「…………リーシャ!…………」

 

 身体を起こしているリーシャの姿を視界に入れた小さな影は、いつもでは考えられない声量でリーシャの名を叫び、駆け寄って来る。

 藁を編んだ物の敷かれた床に、『蒲団』と呼ばれる綿を入れ込んだ布を敷いて寝ていたリーシャの胸に飛び込んで来た小さな身体をリーシャが受け止めた。

 

「ふぅ……メ、メルエ、急に飛び込んで来ると危ないだろう?」

 

「…………ごめん……な…さい…………」

 

 窘めるようなリーシャの口調に、顔を上げたメルエが眉を下げた。

 そんなメルエに苦笑を浮かべたリーシャが、メルエの髪を優しく梳いて行く。

 気持ち良さそうに目を細めるメルエの姿に、サラは柔らかく微笑んだ。

 

「……起きたのか……」

 

 そんな三人のやり取りを眺めながら、カミュは部屋へと入って来た。リーシャの具合を確かめるように言葉を発するカミュの顔にも、未だに疲労は残っている。その様子を見て、リーシャは不安になると同時に、どこかで安堵した。

 

「カミュ。お前もまだ疲れているんじゃないのか?」

 

「……そうも言っていられないだろう……」

 

 リーシャの問いかけをカミュが否定する事はなく、それを事実と受け止めながらも、このジパングに留まる事を否定した。それを不思議に思ったサラは、カミュにそのままの意味を込めた視線を送る。サラの視線を受け、カミュは一度大きな溜息を吐いた。

 

「アンタは、もう一度バハラタの時のような視線を受けたいのか?」

 

「えっ!? い、いえ! で、ですが、この<ジパング>では、そのような事はないと思いますよ」

 

 カミュの言葉をサラが強く否定するが、カミュは静かに首を横に振る。まるで、『未だに幻想を抱いているのか?』とでも言いたげな瞳に、サラは喉を詰まらせた。

 メルエはそんな二人のやり取りを不思議そうに眺め、リーシャは何か思案するように黙り込む。

 

「そうだぞ、カミュ。もし、バハラタのような事になるとすれば、私達を二日もの間、このような場所で休ませてはくれないだろう?」

 

「……それも、外に出てみればわかるさ」

 

 カミュはそれ以上に話すつもりがないように口を噤んだ。

 意味深なカミュの言葉を聞き、リーシャとサラの表情に影が差す。

 

 『この国の新女王となるイヨに限って、そのような事をする訳がない』

 

 そう考えていたリーシャとサラであったが、カミュの言葉の本当の意味を理解する事はできなかったのだ。だが、カミュが案じているその事柄は、リーシャやサラが考えていた物よりも重く、根強い物であった事を彼女達が知るのは少し後の事だった。

 

 

 

「おお! 皆、意識を戻したのじゃな?」

 

 カミュの言葉の真意を考えるサラの耳に、その新女王となる者の声が届く。メルエが引いた襖は開け放たれたままであり、ちょうどその前を通ったイヨが中の様子を確認して入って来たのだ。

 

「此度は、過分なご配慮を賜り……」

 

 イヨの来訪に気付いたカミュが仮面を被る。

 そのカミュの態度に気分を害したかのようにイヨは顔を顰めた。

 

「よい! そのような仰々しい挨拶はいらぬ。そなた、身体は大事ないか?」

 

「有難きお言葉。未だ多少の感覚のずれはございますが、なんとか」

 

 カミュの言葉を遮るように発したイヨの言葉は、思いのほか厳しい物で、蒲団から身体を起こしているリーシャへと別の言葉をかける。しかし、そのリーシャからも重々しい空気を感じ、イヨはどこかむくれた様に眉間に皺を寄せた。

 

「まぁ、良い。そなた達の仲間という者達も、ジパングに来ておる。後で会うが良かろう」

 

「仲間ですか?」

 

 気を取り直したイヨが発した言葉に疑問を感じたサラが首を傾げる。その様子が可笑しかったのか、メルエも真似をするように、笑顔で小首を傾げた。

 自分よりも幼い少女の姿に微笑みを浮かべたイヨは、もう一度口を開く。

 

「ジパング近郊に停泊していた船があった。不審に思った者がここへと連れて参ったのじゃ。着いたのは昨日じゃが、話を聞いてみると、その船はそなたらの物じゃと言う。相違はないか?」

 

「はい。おそらく、その者達は、私どもの船の乗員かと」

 

 カミュの言葉に満足そうな笑みを浮かべたイヨは、表情を引き締めてカミュの瞳を射抜き、『少し話がある』とその場に腰を落とした。

 そんなイヨの姿に、カミュも仮面をかぶり直し、藁で出来た敷物の上へと座り込む。サラもまた、身を正し、イヨの瞳をしっかりと見据えた。

 

「まずは礼を申させてくれ。この<ジパング>をお救い下された事への感謝、我ら<ジパング>の民一同、生涯忘れません」

 

 カミュの瞳を見据え、イヨは言葉を告げた後、深々と頭を床へと付けた。カミュの瞳が珍しく驚きに見開かれている。イヨの取った行為は、とても一国の女王のとって良い物ではないのだ。しかし、それはイヨの偽らざる本心なのだろう。

 

「イ、イヨ様! いけません。この国の主たるイヨ様が、そのように軽々しく頭を下げてはいけません」

 

「軽々しくなどない! 妾にとって、この<ジパング>は命そのもの。それをお救い下された方々に頭を下げて何が悪い!」

 

 イヨを窘めようとしたサラは、その心を聞き、言葉を失ってしまう。軽々しく考えていたのはサラの方だったのだ。

 『王』という者にサラが抱いていた幻想。それは、根底から崩れて行く。しかし、それは決して悪い方へではなかった。

 

「イヨ殿、お顔を上げて下さい。『当然の事をした』とは言いません。我々も必死でしたから……しかし、イヨ殿の想いを聞き、今は『良かった』と感じています」

 

「……リーシャさん……」

 

 そんなイヨに声を掛けたのは、メルエを胸に抱いたリーシャだった。柔らかく慈愛に満ちた笑みを浮かべ、まっすぐにイヨの瞳を見つめている。その視線を受け、イヨはもう一度頭を下げた。

 

「な、なんだ、カミュ!? わ、わたしは何か変な事でも言ったか?」

 

「……いや……すまない」

 

 余程驚いたのだろう。先程イヨへ向けた瞳以上に、『驚愕』という二文字に彩られた表情を浮かべていたカミュを見てリーシャはどこか不安げに尋ねたが、我に返ったカミュは、そんなリーシャに軽く頭を下げた。その様子に、サラも表情を変化させ、笑みを溢す。

 

「そなた達に何か礼をと思ったのじゃが、今のジパングには、何もありはせぬ。何の役にも立たぬかもしれぬが、これを受け取っておくれ」

 

「……これは……?」

 

 カミュ達の前に差し出された物。

 それは、敷物に包まれた球状の物だった。

 メルエの拳の中にもすっぽりと収まりそうな程の大きさの珠。

 神秘的な輝きを放ち、淡い紫色の光沢を持っていた。

 

「遥か昔から、ジパングの国主の家系に受け継がれていると云われている物じゃ。謂れなどはもはや解りはせぬ。だが、妾が持つよりも、そなたらが持っていた方が良いような気がするのじゃ。それにの……今、そなたが手にした時、その珠の輝きが増したように見えた」

 

「……カミュ様、これはもしや……」

 

 サラの言いたい事は理解できていた。カミュは自分の手の中にある、紫色の輝きを放つ球を見つめる。吸い込まれそうな程の深い輝きを放つこの球が、おそらく『オーブ』と呼ばれる物に違いはあるまい。

 ダーマ神殿にて教皇が口にした言葉。

 『精霊ルビスの従者を蘇らせる』と言い伝えられている物。

 

「…………きれい…………」

 

「こら、メルエ!」

 

 いつの間にかカミュの手の中を覗き込んでいたメルエをリーシャが窘める。それでもメルエはカミュの手の中にある球を嬉しそうに見つめていた。

 そんなメルエの表情に苦笑を浮かべたカミュは、紫色に輝くオーブをメルエへと手渡す。

 

「メルエのポシェットの中に入れておいてくれ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュから『オーブ』を受け取ったメルエは、満面の笑顔を浮かべ、ポシェットの中へと仕舞い込む。そして、代わりに取り出した物を持って、イヨの前に歩み出た。

 

「ん?……何じゃ?」

 

「…………ん…………」

 

 急に近付いて来たメルエに戸惑うイヨの前に差し出された掌の上には、先程イヨが譲渡した珠よりも小さな青い石の欠片が乗っていた。

 それを目にしたサラは微笑み、リーシャは苦笑を浮かべ、カミュはあからさまに顔を歪める。

 

「これはまた、何やら神秘的な輝きを持っておるの?」

 

「それは、『命の石』の欠片です。メルエが、自分にとって『大事な人』に手渡す物なのですよ」

 

 メルエから手渡された石を不思議そうに見つめるイヨに、サラは言葉を掛けた。それは、ここまでメルエがその石の欠片を渡した相手を考えると、自然に出て来る答えだった。

 サラの言葉を聞き、イヨは自分の前で微笑む少女に暖かな笑みを浮かべる。

 

「そうか……有り難く頂戴する」

 

「…………ん…………」

 

 軽く頭を下げるイヨに、メルエは小さく頷いた。リーシャの下へと戻って行くメルエに向けられていたイヨの優しい瞳が、再び引き締められる。そのままカミュへと向き直ったイヨは、何かを決意したように、重い口を開いた。

 

「そなたは………そなたは妾と同じ国主の血を継いでいる者なのじゃな?」

 

「……は?」

 

「えっ!?」

 

「なにっ!?」

 

 意を決したように口を開いたイヨの言葉に、カミュは意表を突かれたように言葉を失い、サラとリーシャは衝撃の告白に驚きの声を上げた。しかし、イヨの瞳は真剣そのもので、とても冗談を言っている様子など欠片もない。

 

「それは、どういう事なのでしょうか?」

 

 言葉を失っているカミュに代わってサラがイヨへと問いかける。サラの問いかけに賛同するように、リーシャも少し身を寄せて来た。

 一度瞳を閉じたイヨは、天井を眺めた後に、視線をカミュの傍らに置いてある物へと動かした。

 

「その剣じゃ」

 

「えっ!?」

 

 その場にいた全員の視線が、カミュの横へと置かれた剣へと向けられる。

 それは、カミュが斬り落としたヤマタノオロチの尾から出て来た剣。

 ここまで装備していた<鋼鉄の剣>を失ったカミュが、灼熱の洞窟から運び、オロチとの再戦の際に握っていた剣だった。

 

「……この剣が、何か?」

 

「妾も実物を見た事がない故に、真偽を確かめる事は出来ないが、おそらく、その剣の名は『天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)』であろう。我がジパング創世の際に、初代国主が神より賜った宝剣と伝えられておる」

 

「えっ!? そ、そのような凄い剣なのですか!?」

 

 神から賜った宝剣。それは、サラにとってみれば、雲の上の武具であった。

 『精霊ルビス』の更に上に存在する創世の神。

 『もしかすると、この異教の国の神も、元を辿れば一つなのではないか?』という疑問がサラの中には生まれていた。

 

「……見た事はない?」

 

「うむ。その宝剣はな……遥か昔に失われた物なのじゃ」

 

 イヨの言葉の一部が気にかかったカミュの問いかけに、イヨは一つ頷いた後、静かに口を開く。その間、誰も口を挟む者はいなかった。

 

「洞窟の中で話したが、我がジパングに伝わる『鬼』の話がある。その『鬼』がその時代の国主であった事も話したな?」

 

 静かに語るイヨの言葉に、カミュ達全員が頷きを返す。

 それを確認したイヨは、再び口を開いた。

 

「その国主である女性は『鬼』となり、単身であの洞窟へと向かった。その宝剣は、その時に手にしていた物じゃと伝えられておる。言い伝え故に、その剣が宝剣なのかどうかは定かではないが、言い伝えの一部に『鬼となった女王は、神から賜った天叢雲剣でヤマタノオロチを封じた』とある」

 

「……だから、尾の中に?」

 

 イヨの話を聞き終わったサラは、頭の片隅にあった『何故、あの剣がオロチの体内にあったのか?』という疑問が氷解した。

 オロチを封じる楔であったのが、今、カミュが手にしている剣だとすれば、その体内から出て来た事も、『般若の面』と共鳴しオロチの身体を弾き返した事も理解が出来る。

 

「……では、この剣はお返し致します」

 

「いや、良い。そなたが持っておれ」

 

 手元にあった剣を引き寄せ、イヨの前へと差し出したカミュを制する言葉が掛る。

 『神から賜った宝剣』となれば、国宝と言っても過言ではないだろう。それをカミュが持っている事に関し、了承を出すイヨの考えがカミュ達には解らなかった。

 

「ですが……」

 

「良いのじゃ。妾は言った筈じゃぞ? 『見た事はない』と。妾が見た事がないと言う事は、この国の人間全員が見た事はないという事。言い伝えには、オロチを封じた『天叢雲剣』という物が存在するが、そなたが手にしている物がそれだとは誰にも断定は出来ぬ」

 

 イヨの顔には、年相応の無邪気な笑みが浮かんでいた。悪戯を思いついたような、それに驚く相手を見て喜ぶような無邪気な笑み。それは、カミュとリーシャの表情を驚きに変え、メルエに笑みを浮かべさせるには充分な物だった。

 

「それでも、これがジパングの国宝の可能性がある以上、イヨ殿がお持ちになっておくべきでは?」

 

 静けさが広がる一室で、口を開いたのはリーシャだった。国に仕えていた者から見れば、『言い伝え』と呼ばれる王族の系譜はとても重要な物であり、他国の者が侵してはいけない禁忌であるのだ。

 故に、リーシャは口にした。しかし、そんなリーシャの言葉にも軽い笑みを浮かべたイヨは、少し考えるような素振りを見せた後、口を開いた。

 

「ふむ。そうじゃな……ならば、これならどうじゃ? その剣の名は、『天叢雲剣』という物ではなく、そなたが手にした別の剣。そうじゃな……そなたが妾を護るために、庭の草を薙ぎ払った剣故に……『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』というのはどうじゃ!?」

 

「いえ……どうじゃと言われましても……」

 

 珍しくカミュが戸惑っている。その様子と、面白い事を見つけたように輝くイヨの瞳を見て、リーシャとサラは忍び笑いを溢し始めた。

 メルエはそんな和やかな雰囲気に笑みを浮かべ続け、カミュだけはすぐに表情を隠すように消して行く。

 

「もはや決めた事じゃ。お主の持つ剣の名は『草薙剣』。それはそなたが手にした剣。もし、その剣よりも優れた物を手にした時にでも、妾の許へ返しておくれ」

 

「……お気持ち、有り難く」

 

 恭しく剣を頭上に掲げたカミュは、座ったままイヨに向かって頭を下げた。

 アリアハンを出る時に国王から支度金を下賜された時にも、ロマリア国王からうろこの盾を下賜された時にも、カミュはここまで恭しく礼を述べた事はない。それ程の、イヨの心を重く受け止めたのだろう。サラは、そう考えた。

 

「しかし、本当に国主様しか扱う事は出来ないのでしょうか?」

 

「ふむ。妾も初めて見た物であるからの……真偽は解らん」

 

 そんなカミュ達のやり取りを余所に、リーシャはイヨが口にした言葉の中身が気になっていた。リーシャが何に疑問を持っているのかが理解できないメルエは、リーシャとイヨを見比べて小首を傾げている。

 

「カミュ、その剣を少し貸してくれ」

 

「……リーシャさん……」

 

 今までの話で、国宝級の宝剣である事を聞いていた筈のリーシャが軽々しく手を伸ばす姿を見て、サラはその図太い精神に感動すら覚えてしまった。カミュも同様だったのか、軽い溜息を吐き出した後、剣の柄を握り、リーシャへと手渡そうとする。

 

「!! 痛っ!」

 

 しかし、その剣は、リーシャの手には渡らなかった。リーシャの手に触れるか触れないかの場所で、それを拒むかのように床へと落ちたのだ。

 

「リ、リーシャさん! どうしたのですか!?」

 

 まるで自らの腕を護るように抱えたリーシャの姿に、サラが慌てて問いかける。唯触れただけにも拘らず、リーシャの手は暫しの間、意思が通じない物と化していた。

 

「……わからない……しかし、私は、その剣に拒まれたようだ……」

 

 自身の手は、痺れたように全く言う事を聞かない。触れただけでこうなのだ。もし、無理やり握り込んでいたら、リーシャの手は生涯動かなくなっていたのかもしれない。

 リーシャは、脂汗が滲む自分の顔を心配そうに見つめるメルエの頭に、正常な手を乗せて笑顔を作った。

 

「ふむ。やはり、国主の血筋が影響するのか……」

 

「カミュ様のお婆様は、ジパングの国主様の血筋の方なのですね……!! そ、そういう事は、カミュ様とイヨ様はご親戚になるのですか!?」

 

 剣を眺めながら呟いたサラの言葉に、イヨは驚いたように振り向き、そのイヨの顔を見て、サラはもう一度驚きの声を上げた。

 二人の驚きの意味合いはかなりかけ離れているように思えるが、視線はカミュへと向けられていた。

 

「そなたの祖母はジパングの者じゃったのか!?」

 

「……ええ……」

 

 カミュの頷きにイヨは目を見開き、そして何かを思案するように瞳を閉じた。サラは、親戚筋となる二人を交互に見比べながら、事の成り行きを見守る。メルエはリーシャの腕の中で首を傾げ、未だに手の痺れが抜けないリーシャは、静かに話に聞き入っていた。

 

「しかし、妾の祖母に姉妹がいたという事は聞いた事がないの……」

 

 イヨの呟きに誰も答える事はできず、カミュが何故、ジパング国主の血を引くのかという事は結局結論が出る事はなかった。

 

 その後、イヨの命を受けた侍女が、リーシャの分の食事を部屋まで運び、それを食し終えたリーシャが立ち上がった事により、一行は屋敷を出る事になる。だが、歩き出そうとしたカミュの足を、リーシャの言葉が止めた。

 

「カミュ。私も、少し聞きたい事があるのだが?」

 

「……なんだ?」

 

 リーシャの言葉に振り返ったカミュは、その表情を見て瞳を細める。カミュを見つめるリーシャの瞳は真剣な色を宿しており、これから話す内容は、誤魔化す事を許さない物である事を物語っていた。

 

「オロチとの再戦の際、何故、あの魔法を使わなかったんだ?」

 

「……リーシャさん?」

 

 リーシャの纏う不穏な空気を感じたサラも振り返る。怒気を含んだような言葉は、『誤魔化しは許さない』という事を告げていた。

 サラは、何故リーシャが怒りを露にしているのかが理解できない。

 

「あの時、空は見えていた筈だ。洞窟内でお前が言った言葉は理解できた。だが、その空の下で魔法を行使しなかったのは、お前の小さな意地のせいか?」

 

 しかし、次に繋がれたリーシャの言葉に、内に秘めた想いを理解する。

 それは以前、ムオルの村でカミュに向けられた怒りの瞳。カミュの中の意地に近い物を優先させ、仲間の命を危険に晒したのではないかと憤るリーシャの心。

 

「リ、リーシャさん」

 

 サラはその言葉の奥底に、リーシャの期待も含まれている事を察した。

 リーシャが憤る理由は『仲間』。そして、リーシャはそれを押し付けではなく、カミュの心の中にも存在している事を『期待』しているのだろう。

 

 『お前は、メルエやサラを仲間として思っていないのか?』

 

 そんな言葉が、リーシャの言葉の内に潜んでいるのではないかとサラは考えていた。そして、それが決して見当違いな物ではないという事は、リーシャの瞳の中に宿る『怒り』の感情以外の物が雄弁に物語っている。

 

「カミュ!」

 

「……あの魔法は、『雷』を使役する物であって、支配する物ではない」

 

 もう一度カミュの名を叫んだリーシャに向かって深い溜息を吐き出した後、カミュは何やら意味の深い言葉を呟いた。その言葉の意味をリーシャは理解する事が出来ない。

 『なに!?』という言葉と共に、疑問符が浮かんでいそうな表情を浮かべ、その真意を探ろうとするが、それ以上口を開こうとしないカミュを見て、メルエのように『むぅ』と唸ってしまった。

 

「それは、あの魔法は、そこに雷が存在しなければ行使できないと言う事ですか?」

 

「……ああ……」

 

 むくれてしまったリーシャの代わりに、サラがカミュへと真意を問い質す。カミュの短い言葉の中にある物を拾い集め、それを提示した。そんなサラの推測に、カミュは静かに頷きを返す。

 

「どういうことだ、サラ!?」

 

「えっ!? あ、はい。つまり、あの魔法は、カミュ様の上に雷雲が存在する事が条件で、そこにある雷をカミュ様の魔法力によって操るという物だという事です」

 

 サラの説明にもどこか納得がいかない様子のリーシャは、難しく眉を顰め、カミュとサラを交互に見比べる。イヨは、先程までの緊迫感を急速に失ったやり取りに頬を緩め、リーシャの傍から離れたメルエと共に微笑み合った。

 

「むぅ……良く解らないが、本当に行使出来なかったのだな?」

 

「……ああ……」

 

 静かに頷くカミュの瞳を、暫くの間、睨むように見ていたリーシャは、ようやくその瞳を緩める。

 カミュが嘘を言っていない事を理解したのだろう。満足そうに一つ頷くと、リーシャはメルエの手を取り、部屋を出て行った。

 

「あれ? リ、リーシャさんを先頭にしては駄目ではないですか?」

 

「…………」

 

 真っ先に出て行ったリーシャの背中を見ていたサラが今気付いたかのように声を上げ、振り向いたカミュは、眉間に皺を寄せながら溜息を吐き出す。その二人の様子が可笑しく、イヨは噴き出してしまった。

 

 

 

 前を歩いていたリーシャの姿を確認した時は、既に屋敷の奥へと行ってしまった後だった。

 手を繋ぐメルエの顔が不安で歪んでいるのが見え、サラも溜息を吐き出す。イヨの案内により、ようやく玄関に出た頃には、メルエはカミュのマントの中へと移動していた。

 

 外に出た瞬間、サラは驚きに目を見開く。

 後ろから現れたリーシャも同様に目の前に広がる光景に驚いていた。

 唯一人、カミュだけは、その光景を目にしても表情を変えない。

 いや、むしろ表情を失くして行った。

 

「民達にそなたらが目を覚ました事を告げておったのじゃ」

 

 最後に出て来たイヨの言葉通り、屋敷の外にはジパング中の民達が押し寄せていた。

 自国を救った英雄を見る為なのか、それとも自国の新女王となったイヨを祝う為なのか。もしくは、それとは全く違う理由なのか。

 

 民達の表情には様々な物が見えていた。その中にはサラが恐れるあの表情を浮かべる者も確かにいる。大半の者はカミュ達に眩しそうな笑顔を浮かべているが、中には何かを思いつめているような表情を浮かべる者もいるのだ。

 

「これが、そなた達は救ってくれたジパングという国の姿だ」

 

 しかし、民達の笑顔に隠れたその暗い影がイヨには見えてはいない。

 この国を覆っていた闇が晴れた喜びと、民達の心に落ちていた影が晴れた喜びに、イヨは晴れやかな笑顔を浮かべていた。

 

 民達は喜びの笑顔を浮かべるが、誰一人としてカミュ達へ歓声を上げる者はいない。何かに遠慮するように言葉を飲み込んでいた。

 静けさが広がる屋敷の前に、イヨは少し首を傾げるが、その静けさはどこからともなく聞こえて来た、たった一言によって脆くも崩れ去る。

 

 『ヒミコ様がオロチだったと言う事は、イヨ様も化け物じゃないのか?』

 『最初からオロチと組んでいたんではないのか?』

 『イヨ様も、いつか<ヤマタノオロチ>になるのではないか?』

 

 イヨの耳の横を一陣の風と共に運ばれて来た会話。それは、イヨという人間の時を止め、その太陽のような笑みを消して行く。

 耳を疑うような小さな囁きは、静寂が広がる広間の中を駆け巡った。

 

「……まずいな」

 

「なに? どういうことだ、カミュ?」

 

 先程とは打って変わって騒々しくなり始めた広間を見て、カミュの顔が歪む。その言葉に反応を返したリーシャの声にも、カミュは眉間に皺を寄せるばかりで何も言葉を発しない。まるで何かに身構えるように立つカミュを見て、サラも不安を募らせた。

 

「痛っ!」

 

「あっ! イヨ様!」

 

 その瞬間、何処からともなく飛んで来た小ぶりの石が、イヨの額に命中した。軽い音を立てて地面に落ちた小石には、赤い血液が付着している。声を上げたサラがイヨを見ると、その額から赤い血液の筋を作ったイヨが、色々な感情を混ぜたような哀しい表情を浮かべていた。

 

「あの()を返せ!」

 

「化け物!」

 

 群衆の中から飛び出した小さな狂気は、笑顔を見せていた民の心の奥に今も残る負の感情を揺さぶる。飛び出した感情を抑制する事など出来る訳もなく、周囲の負を巻き込み、次第に雪崩のように襲いかかって来た。

 イヨやカミュ達に目掛けて投げつけられる石はその数を増し、叫ばれる言葉はその辛辣さを増して行く。怒号となった言葉は、カミュ達がオロチを倒した時の歓声を上回り、年老いた者達の抑制の言葉は搔き消されてしまった。

 カミュ達が目覚めるまでに二日以上の時が経過していた。その時間は、オロチの恐怖から解放された喜びを民達に与えると共に、皮肉にも考える時をも与えてしまったのだ。

 喜びを感じる反面、オロチの犠牲になった者達がいない事を嘆く時間も出来てしまう。

 

 『何故、あの娘が生きている内にガイジンは助けてくれなかったのだ?』

 『何故、ヒミコがオロチだったのだ?』

 『何故、イヨが生贄となった時にオロチは倒されたのだ?』

 

 そんな疑問は、彼等の中にある暗い影を大きくしてしまう。

 自分達が国主として信じていた者への疑惑。

 それは、時間と共に大きくなり、たった一つの小石によって爆発した。

 

「カ、カミュ!」

 

「カミュ様!」

 

 しかし、民達の爆発した感情は、彼等が今まで見た事もない程に強靭な青年の、凍てつくような瞳によって急停止する。

 イヨを飛び交う石から護るように掲げられた盾は、オロチとの戦いの凄まじさを色濃く残し、その隙間から見える瞳は、民達が『化け物』と罵るオロチを前にした時のように冷たい。

 

「……良いのじゃ……これも、妾と母上の不甲斐無さが招いた物。民達の怒りは尤もな事なのじゃ」

 

「……イヨ様……」

 

 カミュの背中に護られたイヨは、顔を落とす。

 自分に言い聞かせるように呟く言葉に、サラは表情を歪めた。

 『何故、これ程に国を想っている者が辱められなければいけないのか?』

 それは、サラの心に憤りを感じさせる程の物だった。

 

「……それは違うな……」

 

「!!」

 

 しかし、そんなイヨの言葉は、未だに民達に冷たい視線を向けたままの青年によって全面的に否定される。

 イヨの顔が跳ね上げられ、自身の前に立つ背中を見つめた。カミュの視線に圧された民達の喧騒は消え、先程以上の静けさが広間を支配している。呟くようなカミュの言葉が、広間に木霊した。

 

「アンタの母親がいたからこそ、この国の民は生きていられる」

 

「な、なんじゃと……?」

 

 盾を下げたカミュの口から飛び出す言葉に、全員の瞳が集中する。民達の視線を無視するように、カミュはその中にある推測と呼べない確信を話し出した。

 

「何も、『鬼』となったのは伝承に残る女王だけではない。アンタの母親である『ヒミコ』もまた、この国に生きる者達の為に『鬼』となり、あの洞窟へと向かった筈だ」

 

「母上が!?」

 

 カミュの顔には、既に仮面などない。口調もリーシャ達と話すような口調に戻っている。それは、大事な話をする価値のある相手と認めた証なのかもしれない。

 そして、それを理解しているからこそ、リーシャもサラも、カミュの話を止めようとは思わなかった。

 

「ジパングという国を護る為に、何よりもアンタという娘の為に、アンタの母親は『鬼』となってオロチと対峙した筈だ。この国の行く末をアンタに託して」

 

「…………」

 

 サラは、カミュの話す内容に、この国の『王』の強さと優しさを見た。

 しかし、その隣に立つリーシャの表情は、話が進むにつれ厳しい物へと変わって行く。まるで睨みつけるようにカミュを見つめるリーシャの瞳は細く、何かを言いたげに口を開きかけては閉じると言う行為を繰り返していた。

 

「じゃが、オロチは生きていた。例え、『鬼』となっても、民を護れてはおらぬではないか!?」

 

 カミュに護られるように後ろにいたイヨが、カミュの前に回り、その瞳を見上げ、感情を吐き出す。それは、民と同じようにイヨの中に溜まっていた負の感情。

 『鬼』となったとはいえ、民達を傷つけた事に変わりはない。それでは国主としての責務を全うした事にはならないのだ。

 

「アンタは、あのオロチの姿を見て、何故この国が瞬時に滅びなかったのかと疑問には思わなかったのか?」

 

「な、なに!?」

 

「はっ!」

 

 冷たい視線を民達から外し、イヨの瞳を見下ろしたカミュが、憤るイヨに対して疑問を呈す。それに対し、意表を突かれたイヨは目を丸くし、サラは何かに思い当たった。

 サラの考えている通りの物だとすれば、カミュがこれから語る内容は、このジパングを揺らす程の事実。

 

「オロチが何故、喰らった女王の姿に化け、生贄を一人ずつ要求して来たのか。何故、あれ程の力を持った生物が、この国に生きる人間を滅ぼさなかったのか。その答えは、アンタの母親にある」

 

「ど、どういう事じゃ!?」

 

 カミュの話している内容が解らないリーシャの瞳は、先程と同じように細く研ぎ澄まされ、サラは次の言葉を待つように息を飲む。

 周囲の喧騒が消え、怖い程の静けさが広がっている事に怯えたメルエが、サラの腰に手を回していた。

 

「『鬼』となったアンタの母親との戦いで、オロチはそこまで弱っていたのだろう。それこそ、自身の力だけでこの国の民達を喰らい尽くす自信が持てない程にな」

 

「!!」

 

 一つ息を吐き出したカミュは、もう一度イヨの瞳を見つめ、自身の考えを語り続ける。その言葉は、不思議な力を持ち、狂気に満ちていた民達の顔からそれらを吸い取って行った。

 

「女王との戦いにより、オロチは瀕死の状態にまで追い詰められた筈だ。俺達の時とは違い、首や尾は健在だったのだろうが……だが、オロチを封じ込めた伝承に残る女王と、アンタの母親には決定的な違いがある」

 

「……な、なんじゃ……」

 

 イヨの顔からも『憤怒』という感情は消え、静かにカミュの話に問いかけを投げる。それに応えるかのように、カミュは背中の剣を抜き放った。

 民達が息を飲む音が周囲に響き渡り、緊迫した空気が流れる中、イヨだけはその剣に目を奪われる。

 それは、初代国主の時代に神から賜った宝剣。

 この地に暮らす民達を護る為に与えられた武器。

 『天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)』と伝えられる、国主の『覚悟』の証であった。

 

「最後に放つべき、オロチを封じる一撃の為の武器がない。それは致命的な物だった筈だ。だが、確かにすぐには癒えない傷を与えていた。その傷を癒し、自身の復活の為に、オロチは生贄を要求し、力を取り戻していたのだろう」

 

「……はは…うえ……」

 

 剣を鞘に納めたカミュは、一度後ろに控える三人の仲間達へと視線を移し、再びイヨを見つめる。既に、イヨにはそのカミュの瞳を受け止める力は残されていなかった。

 それでも瞳はカミュから離す事が出来ない。カミュの瞳に映り込む自身の姿が、愛して止まない母親の姿へと変化して行く。

 

「もし、先代女王様のお力がなく、ヤマタノオロチが完全な状態であったのなら、我々にオロチを倒す事が出来たかどうか解りません。我々が成した事は、弱ったオロチに止めを刺しただけです。この国を護ったのは我々ではなく、貴女の母君であられる『ヒミコ』様なのでしょう」

 

「……あ…あ……」

 

 イヨの瞳から、ここ数年間溜め込んでいた物が流れ落ちる。どれ程に哀しくとも、どれ程に悔しくとも、決して人前で見せないと誓った少女の想いが、心に巣食う全ての物を溶かし出したかのように止めどなく流れ落ちた。

 

 最後にイヨに向けられたカミュの言葉は、仮面を被った物ではない。敬意を払うべき相手に向けられた言葉。

 この国を想い、心を捨ててまで立ち向かった女王への敬意。

 決して勝てる相手ではない事を知りながらも、最後まで諦める事なく立ち向かった、本当の『勇者』に向けられた敬意。

 

 それは、イヨだけではなく、狂気に歪み始めた民の心にも響き渡る。息が詰まるような静寂が支配する中、お互いの顔を見比べながら、民達の顔から迷いが消えて行った。

 

「その者の言う通りじゃ! お前達は、イヨ様のお心を疑うのか!? 自らを生贄として捧げ、助けに向かった我ら民の死に、心を捨てて『鬼』となろうとさえしたイヨ様のお心を!」

 

 静けさを破ったのは、一人の老人の声。それは、カミュ達がこの国に入った時の生贄であった『ヤヨイ』と呼ばれる娘の祖父であり、イヨを救う為に灼熱の洞窟内にまで入って来た者達の一人。

 先程までの狂気に搔き消されていた老人の声は、カミュという一人の青年によって作り出された瞬間的な隙間に入り込む。それは、民達の心に残る、誇り高きジパングの魂に火を灯した。

 

「イヨ様はヒミコ様のお心を継がれるお方。イヨ様という太陽がある限りジパングは沈まぬ。そして、その太陽を支えるのが我ら民の使命ぞ!」

 

 老人の言葉に反応を返したのもまた、年老いた男性。ヒミコという女王と共にこの国を盛り立てて来た者達。

 身近にいた女性を失った若者達の心は直ぐには癒えないだろう。それでも、彼らには前へと進める力がある。色々な犠牲の上に立ち、イヨと共に国を造って行くのは、彼らのような若者なのだ。

 

「さぁ、イヨ様」

 

 民の皆が戸惑いの表情を浮かべる中、サラがイヨの背中を押した。

 今、ここで必要なのは、老人達の言葉ではない。

 この国の新たな国主として立つ、イヨという太陽の言葉なのだ。

 

 一歩下がったカミュの横にリーシャが立つ。

 その表情は未だに厳しさを残し、カミュを細めた瞳で射抜いていた。

 

「皆の者……済まぬ」

 

 サラや老人達の期待と反し、イヨは民に向かって深々と頭を下げた。

 老人達の顔にも、落胆に近い感情が浮かび始める。

 しかしそれは、顔を上げたイヨの表情を見て消えて行った。

 

「ヤマタノオロチはもうおらぬが、犠牲となった者達は帰りはしない。だが、妾は生きておる! ならば、妾は犠牲となった者達の為にも、どれ程の困難があろうとこの国で生きるしかない!」

 

 誰もがイヨの言葉に聞き入っていた。

 カミュのような『勇者』の言葉ではない。

 それでも、不思議と心に染み渡る言葉。

 それこそが、『王』の能力なのかもしれない。

 

「妾は、母上のような力を持ち合わせてはいない。妾には皆が必要なのじゃ。妾と共に、この国で生きてはくれぬか?」 

 

「……イヨ様……」

 

 言葉を区切り、民を見渡すイヨの瞳には懇願のような色はない。それは、民の心を確信している訳ではなく、例え賛同を得る事が出来なくともこの国で生きて行く『決意』に漲っていた。

 

「このジパングを導く事の出来るお方はイヨ様以外おられません」

 

「そうですぞ。我らは常にイヨ様と共に」

 

 一人、また一人と民達がイヨの下へと跪く。

 その表情の裏には、様々な想いがあるだろう。

 それでも、全ての民達の顔には『希望』の色が見える。

 この国の行く末への『希望』。

 自身の未来への『希望』。

 

 『哀しみ』は決して消える事はない。

 それでも、彼等の前には未来への道が続いている。

 決して、平坦な道ではないだろう。

 様々な困難が待ち構えているだろう。

 

 彼等の中に残る負の感情はどこかで暴発する可能性もある。

 しかし、それでも彼等は前へと進むのだろう。

 イヨという、太陽の指し示す未来へと。

 

「……良かったですね……」

 

 その光景を見て、サラは涙ぐむ。バハラタの悪夢が過ったサラの思考は、良い意味で裏切られた。それは、大きな商業都市と、小さな島国の違いなのかもしれない。

 この小さな島国で寄り添うように生きて来た民だからこそ、相手の心情を慮り、それを察する事によって円滑な関係を築いて来たのだ。

 不満がない者などいる訳がない。それでも、同じように母親を失ったイヨの心を知り、自身の哀しみを閉じ込める。

 それがジパングの美徳であり、誇りでもあった。

 

「……何かあるのか?」

 

 民達とイヨの姿に目を奪われていたサラの後方で、新たな火種が燃え上がっていた。いつまでも自分を睨んでいるリーシャに、カミュが視線を向けたのだ。

 それが開戦の合図だった。

 

「カミュ……お前は……あれ程にヒミコ殿のお心を察していて尚、オルテガ様を憎むのか?」

 

「!!」

 

 静かに開いたリーシャの口調は、カミュを問い詰めている。その言葉を聞いたカミュの瞳を細められ、表情が能面のように失われて行った。

 サラの傍を離れていたメルエが心配そうに二人を見上げる中、リーシャの口が再び開く。

 

「この国と娘を案ずるヒミコ殿の心と、この世界と息子を案じるオルテガ様の心の何が違うと言うんだ!?」

 

「……アンタに何が解る……」

 

 もはや、カミュの凍りつくような瞳に怯むリーシャではない。

 彼女にとってカミュは、『仲間』であっても、『恐怖』の対象ではないのだ。

 故に、彼女は引き下がらない。

 

「お前こそ、ヒミコ殿の何が解っていると言うのだ!? ヒミコ殿のお心とイヨ殿のお心の全てや、それを取り巻く過去が解っているとでも言うつもりか!?」

 

「……」

 

 カミュがオルテガという名の父親に持つ感情はリーシャには解らない。その感情の裏に潜む、カミュの苦悩や憎悪を知る事も出来ない。

 しかし、それはカミュも同じ。ヒミコとイヨの間にあった事や、このジパングの過去等を彼が知る事は出来ないのだ。

 それでも彼は、イヨに向かってヒミコの想いを語った。それは今、リーシャがカミュに向かってオルテガについて語る事とどれ程の差があると言うのか。それをリーシャはカミュに問いかけていた。

 

「えっ!? あ、あれ? お二人とも、何をなさっているのですか!?」

 

 リーシャの剣幕に驚いたメルエに袖を引かれたサラが、ようやく自分の後ろで繰り広げられている攻防に気がついた。

 リーシャは激昂しているように見えてはいるが、それ程の声を発していなかったのだ。それは、一つに纏まり始めたジパングを考慮したのだろう。それでもメルエを怯えさせ、唯一の味方であるサラを呼びに行かせる程の怒気を孕んでいた事に変わりはない。

 

「カミュ。お前も、もう解っている筈だ」

 

「……ちっ……」

 

 サラが駆け寄った時にもう一度開いたリーシャの言葉を聞き、カミュは舌打ちをして背中を向けた。

 この問題になった時、カミュは以前のように踏み込んで来る足を払う事が出来なくなって来ている。カミュはその事を忌々しく思っていた。彼にも、リーシャの言葉に強く反論できない理由が解らないのだ。

 

「もう、お前がそれを認めるだけなのだぞ?」

 

 背中にかけられる言葉は、先程とは違い、優しく暖かな物だった。

 それがまた、カミュの心を苛立たせる。

 全てを理解し、全てを包み込むような空気を持つ人間を彼は知らない。

 

「おお!」

 

 そんな異様な雰囲気を纏った四人に駆け寄って来る者達がいた。大きく手を上げ、笑みを浮かべながら近づいて来る者達の顔は、数日ぶりに見る船の乗員達だった。

 屋敷の中でイヨが話した通り、彼らもまた、この国を訪れていたのだ。

 

「あれ? 船の方は大丈夫なのですか?」

 

「おお! 必要最低限の人間は残して来たからな」

 

 サラの問いに応える頭目の後ろに何人かの乗員達が駆け寄って来る。その面々は両手に持ちきれない程の荷物を持ち、ふらふらと頼りない足取りで歩いていた。

 

「それは何だ?」

 

「ん? おお。珍しい国に上陸できたからな。色々と仕入れようと思ってよ。しかし、この国は<ゴールド>の貨幣が使えないんだな? 物々交換という方法になっちまったから、大した量は仕入れられなかったけどよ」

 

 カミュ達の下に辿り着いた男達の抱える荷物に興味を示したメルエが、持ち物を覗き込み、苦笑を浮かべた乗員達が荷物を地面に下ろした。その中には、<ジパング>特有の食料や反物などが入っている。

 この<ジパング>に武器屋などはない。基本的に自給自足の国なのであろう。故に、貨幣の感覚もなかった。

 

「結構、良い値で売れると思うぞ。アンタ達にも分け前はあるからな」

 

「えっ!?」

 

 頭目の言葉に、先程までの攻防を忘れたかのように、カミュ達は揃って驚きの表情を浮かべる。実際、頭目が何を言っているのかが理解できなかったのかもしれない。

 思わず声を上げてしまったサラに視線を移した頭目が、笑顔を浮かべながら口を開いた。

 

「ははは。何を驚いているんだ? アンタ方がこの場所に連れて来てくれたんだ。分け前を手に入れるのは当然だろう? それに、俺達だけでは航海すらも危ういしな」

 

「しかし、良いのか?」

 

 笑顔を浮かべているのは頭目だけではない。後ろに控える乗員達も、カミュ達の顔を見て笑顔を見せている。つまりは、そういう事なのだろう。

 それは、あの船に乗る船員の総意という事になるのだ。

 

「まぁ、分け前はそれほど多くはないだろうが、受け取ってくれ」

 

「……有り難く……」

 

 些細な断りを入れる頭目に、カミュは頭を下げた。

 カミュ達の旅には、ゴールドがあって困る事はない。町などでの宿泊費や食費。更には、新たな武器や防具など、使う場所はいたるところに存在するのだ。

 

「さて……名残惜しいが、行くとしよう」

 

「…………ん…………」

 

 先程までのカミュへの怒りを忘れてしまったかのように、リーシャはメルエの手を取ってカミュへと視線を向けた。後方では、未だに民達に囲まれながら泣き笑いのような笑みを溢しているイヨが見える。

 

「そうですね。ここからは、イヨ様のお仕事です」

 

「……ああ……」

 

 振り返ったサラの言葉にカミュも一つ頷き、船員達と共に集落の出口へと歩き出す。この国に訪れる事は今後ないかもしれない。

 いや、カミュの持つ剣の必要性がなくなった時、それを返上する為に訪問する事はあるだろう。その時に、この国はどのような国へと変化を遂げているのか。

 サラは、それがとても楽しみだった。

 

 

 

 民と共に生き、民と共に死す。

 そんな女王が統べる国。

 世界中を探しても、このジパングのような国は存在しない。

 強い魂と、輝く誇りを持つ民が住まう国。

 異教徒の国と蔑まれながらも、人はその国を『日出る国』と称す。

 

 先代女王が楔を打ち込み、勇者一行によって倒されたヤマタノオロチの遺骸は、灼熱の洞窟の入り口付近に埋葬され、そこには小さな祠が建てられる。

 その後、ジパングでは、当代女王によって他種族の住処を無闇に荒らす事は禁じられ、『人』の領分をはみ出さぬように文化を進化させて行く。

 

 時は流れ、ヤマタノオロチを埋葬した場所に立つ祠は、『産土神』の住まう場所として語り継がれて行った。

 ジパングという小さな島国を護る、強き者が眠る場所。

 長きに渡り語り継がれて行く祠には、毎年、鬼となった女性の面が捧げられていた。

 

 それは、また、別のお話。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにて第八章は終了となります。
次話は、勇者一行装備品一覧を更新し、遂に第九章です。
頑張って参ります!

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

ジパングという一国を救う程の偉業を成し遂げる。それは、彼の起こす「必然」の一つかもしれないが、決して彼一人で成し得た物ではない。彼は、父親である英雄とは違った形の「勇者」としての道を歩み始めた。

 

【年齢】:17歳

その存在感は、年齢を思わせない程のものであり、どのような人物に対しても怯む事はない。それは、魔物に対しても同様で、彼の後ろに控える三人に絶大な安心感を与えると共に、絶対の信頼感を生み出し始めている。

 

【装備品】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガという彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):魔法の鎧

滅びし村<テドン>で購入した鎧。抗魔力に優れ、魔法による攻撃を軽減させる効果を持つ。特別な金属によって制作され、赤紫色のような色彩をしている鎧。テドンでの夜が明けても尚、その輝きは失われず、身を守る防具としての役割を担っている。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):鉄の盾

ジパングにてヤマタノオロチの吐き出す<燃え盛る火炎>を何度となく受けたため、その表面は融解しかけ、既に盾としての機能は失われつつある。

 

武器):草薙剣(くさなぎのつるぎ)

真名は、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。遥か昔、ジパング創世の頃の初代国主が、民を護る為に神より賜った神剣と伝えられる剣。その切れ味は鋭く、天にかかる雲をも切り裂くという伝承があるが、現在には伝わってはいない。ジパング当代国主であるイヨから、別名と共に下賜される。

 

所持魔法):メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

『戦士』という職業故か、それとも生来の性質の為なのか、考えるという事に関しては些か不得手であり、本人もそれを自覚している。しかし、その反面、他人の心の機微に関しては、驚く程の洞察力を持ち合わせている。心の変化を鋭く見抜き、その本質を突く場面も度々見受けられる。本人に自覚はないが、この一行のリーダー的存在であるカミュからは、「要」としての評価を受けている。

 

【年齢】:不明

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):魔法の鎧

滅びし村<テドン>で購入した鎧。抗魔力に優れ、魔法による攻撃を軽減させる効果を持つ。特別な金属によって制作され、赤紫色のような色彩をしている鎧。テドンでの夜が明けても尚、その輝きは失われず、身を守る防具としての役割を担っている。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):鉄の盾

カミュ同様、ヤマタノオロチとの戦闘によって、その耐久力は著しく失われ、盾としての機能を危ぶまれる物となっている。

 

武器):鉄の斧

ムオルの村で『おおばさみ』という武器を見つけ、思案した結果、片手で振るうことのできる斧を使い続けることを選択する。戦士らしく、自分の武器に対する目は確かな物であり、自身の戦闘スタイルに合った武具を選択している。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

数十年ぶりに、この世界に降り立った「賢き者」。あらゆる物から知識を吸収し、心を成長させている。神魔両方の魔法を行使する事ができ、その行使できる魔法の数も日に日に増していた。魔法力の量は年下のメルエには叶わないが、その緻密な制御は数段上で、補助魔法に関してはメルエも遠く及ばない。

 

【年齢】:18歳

既にアリアハンを出てから二年近くの月日が経過しようとしている。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれている。その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

カミュとリーシャが着用する<魔法の鎧>と同様に、抗魔力に優れた法衣。テドンで暮らす職人が、テドン特産の『絹』という素材を特別な術式を込めて織った物。法衣の特徴である十字は、以前サラが着ていた法衣と違い、とても小さく刺繍されている。まるで、サラが着る為だけに存在するような法衣は、この村にもたった一つしかない物でもあった。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):うろこの盾

 

武器):鉄の槍

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ(無理やり行使した節があり、再度の行使には疑問)

      

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       

      【悟りの書魔法】

       キアリク

 

 

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

その魔法力の量は規格外で、年齢に不相応な程の魔法を行使する事ができる。ただ、幼さ故か、その魔法の行使する場面などの判断をする事ができず、サラという指揮官の元でなければ、行使する事も危うい(大事な人間を傷つける可能性がある事を学び始めている)。『魔道書』に載る全ての魔法を網羅し、『悟りの書』の載る魔法までも行使できる存在となり、現代の世界では、世界最高の『魔法使い』という地位に君臨していると言っても過言ではない。

 

【年齢】:7,8歳

未だに社会の一般常識を学んでいる途中であり、文字の読み書きは自分の名前以外はできない。幼さ故の我儘や反抗を見せる程にカミュ達一行を信頼し、甘えを見せる事も多くなって来ている。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):アンの服

みかわしの服と同じ素材でできた服。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

 

武器):魔道師の杖

    毒針

 

所持魔法):メラ

      ヒャド

      スカラ

      スクルト

      ルーラ

      リレミト

      ギラ

      イオ  

      ベギラマ

      メラミ

      ヒャダルコ

      ヒャダイン

      バイキルト

      イオラ

 

 

 




これにて、第八章は終了です。

新章も頑張って描いて行きます。
宜しくお願い致します。


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第九章
~幕間~【ランシール近郊海域】


 

 

 

 <ジパング>の地を離れ数日が経過したが、メルエの瞳に映る景色は、未だに波打つ海原だけであった。

 目指す場所は<ランシール>。

 滅びし村にて、『最後のカギ』という物の手掛かりとして告げられた場所である。

 

「…………」

 

「メルエ、いくら見ていても海しか見えないぞ?」

 

 船が出港してから数日、リーシャの目も海しか捉える事は出来なかった。それでも、毎日メルエは木の箱の上へ登り、海原を眺めている。

 何がそれ程に楽しいのか、メルエの顔に浮かんでいるのは満面の笑み。現に今、リーシャの言葉に振り返ったメルエの顔もまた、花咲くような笑顔であった。

 

「天気も少し悪くなって来た。メルエはサラと共に船室に入っていろ」

 

「…………いや…………」

 

 リーシャの言葉通り、先程まで暖かな光を落としていた太陽は厚い雲によって隠れ、船の上に影が差し始めていた。しかし、そのようなリーシャの忠告にも、メルエは不満そうに首を横に振る。

 こうなってしまっては、メルエが言う事を聞かない事を知っているリーシャは、軽い溜息を吐き出した。

 

「……うっ……おぇ……」

 

 再び海を眺め始めたメルエから視線を移したリーシャは、すぐ横で座り込んでしまっているサラを見て、もう一度大きな溜息を吐き出す。<ジパング>を離れて、既に数日が経過しており、常に揺れ動く船上で生活をする事は、サラの体力を着実に蝕んでいたのだ。

 

「……サラも具合が悪いのであれば、船室に移動したらどうだ?」

 

「……うっ……い、いえ……魔物が出て来た時に、回復呪文が……ひ、必要だと思いますので……おぇ……」

 

 『そのような状況では、例え居たとしても役には立たないだろう?』という言葉を、リーシャはどうにか飲み込んだ。

 彼女にとっては、自身の使命にも近い役割と考えているのだろう。故に、目が回るような状況の中、なんとかこの場所に留まっているのだ。

 

「……カミュからも何とか言ってやってくれ」

 

「……諦めろ……」

 

 強情を張る二人に溜息を吐いたリーシャは、カミュへと救いを求めるが、返って来た答えは、とても簡素な物だった。そんなカミュの素っ気ない態度に、リーシャは怒りよりも呆れを感じ、再び大きな溜息を吐き出すのであった。

 

 その内、太陽だけではなく、空全体を厚い雲が覆い始め、暗い闇が周囲を支配して行った。

 空が黒く変わると同時に、大粒の滴が地へと降り注いで来る。その勢いは増し、甲板を瞬時に濡らして行った。

 

「降り始めたぞ! メルエ、いい加減にこちらへ来い!」

 

「…………ん…………」

 

 自分の顔に当たり始めた雨に、ようやくメルエが動き始めた。

 雨と同時に吹き出した風は、波を高くうねらせ、帆に激しく衝突してマストを大きく撓らせる。船の上は一気に慌ただしくなって行った。

 

「一度、帆をたため! マストが折れちまうぞ!」

 

 頭目の声が響き、それに応える船員達の叫びが響き渡る。船の甲板では船員達が右往左往を繰り返し、その雰囲気に怯え始めたメルエは、リーシャの腰にしがみ付いてしまった。

 海には、先程までメルエが笑顔で見つめていた優しさは欠片もない。激しく船へとぶつかる波音が、メルエを一層怯えさせていた。

 

 

 

 <ジパング>を出港し、未だに陸地が見える場所で次の目的地の確認をする頭目の言葉が、ある騒動を引き起こした。それは<ランシール>へ向かうつもりだと語ったカミュへと告げられたリーシャの言葉から始まる。

 リーシャが告げた村の名は、カミュやサラも聞き覚えのある村の名前。

 

「<スー>? <スー>と言えば、遙か東にある大陸へ向かわなければならないぞ?……そこまで行くのであれば、最低でも数ヶ月はかかる」

 

「……数ヶ月……」

 

 カミュ達の旅は、急げばどうなるというような物ではない。しかし、世界中が『魔物』の脅威に怯え、何時この世界が『魔王』の力によって消え去るか解らない現状では、のんびりと旅をする事が出来ないのも事実なのだ。

 

「……それ程の時間を費やす訳にはいかないな……」

 

「しかし、あの老人は<スー>へ行ってみろと言ったぞ?」

 

 軽い溜息を吐き出したカミュへ、即座にリーシャが反論を向けた。本来であれば、目的地を決めるのはカミュの役目である。その事に関しては、リーシャもサラも疑問に感じた事はなく、ましてや異論を唱える事もなかった。

 

「……『<スー>へ行ってみろ』ではなく、『<スー>へ立ち寄ったならば』という言葉だった筈だ……」

 

「そうか?……もしかすると、<スー>には重要な物があるのかもしれないだろう?」

 

 あの場所に居た老人が話した言葉は、かなり訛りが酷く、聞き取り難い物であった。故に、それぞれの感じ方によって、受けた印象も変わって来るのだ。

 だが、それが理解できたとしても、リーシャの提案は簡単に受け入れる事が出来る物ではなかった。

 

「しかし、リーシャさん……数ヶ月も掛かるのであれば……」

 

「確かに、私達の旅は時間が限られている……しかし、『急がば回れ』という言葉もあるだろう?」

 

 時間を気にするサラの忠告は、アリアハンに古くから伝わる格言によって斬り捨てられた。驚きの表情を浮かべるサラの胸中は、リーシャがその格言を知っていた事への驚きと、それをこの場面で告げるリーシャへの驚きに彩られている。

 

「……数ヶ月の時間を無駄には出来ない。まずは近場にある<ランシール>へ向かう……」

 

「うっ……そうか」

 

 カミュの強い否定に、リーシャも自分の主張を取り下げざるを得なかった。リーシャにしても、無駄な時間がない事は理解しているのだ。

 それでも、リーシャの中の何かが<スー>という村に引っ掛かりを覚えていた。

 

 

 

 そのような経緯もあり、ようやく定まった一行の進路は、今まさに大荒れの様相を見せ始めていた。振り出した雨の滴は大粒に変わり、甲板を叩きつけるような大きな音を立てている。

 

「メルエ! 船室へ戻っていろ!」

 

 もはや防ぎようもなくなった雨をまともに受けている小さな身体は、リーシャという傘の保護を求めて、その腰に力強くしがみ付いている。未だに風がそこまで強くなっていない事から、船が大きく揺れる事はないが、船員へと次々と指示を出す船頭の姿を見れば、それも時間の問題だと思われた。

 

「…………いや…………」

 

 リーシャの指示に、メルエは小さく首を横に振る。いつもならば、素直に指示に従い、サラと共に船室へ入って行くメルエが強情に首を振る姿に、リーシャは驚きの瞳を向ける。

 しかし、リーシャは心の何処かで、そのメルエの行動の原理に気付いていたのかもしれない。

 

「風が出て来たぞ! 帆をたため!」

 

 メルエを宥めようと口を開きかけたリーシャの耳に船員達の声が響く。その言葉通り、先程まで真っ直ぐに甲板へと降り注いでいた雨の滴が、横殴りの者へと変化している。厚い雲が広がり、太陽の光を遮断し、空を真黒に染め上げていた。

 

「メルエ、私と一緒にお部屋に戻りましょう?」

 

「……いや……」

 

 サラがメルエへと近付き促すが、そのサラの言葉にもメルエは首を横へ振ったのだ。サラは首を振っているメルエの眉が下がっている事に気が付き、その姿に何かを感じ取る。

 最近、幼い我儘を覚えたメルエは、カミュ達三人に甘える事は多くなった。しかし、心の奥底で、未だに自分が置いて行かれる事への恐怖を持つ為なのか、三人を本当に困らせる事はしない。故に、今のメルエの状況は、三人を困らせたい為の物でも、単なる我儘でもないのだろう。

 そこで初めて、サラは周囲を確認するように見渡した。

 

「……メルエ……何かあるのですか?」

 

「…………ん…………」

 

 確認するようなサラの言葉を聞き、メルエの首が縦に振られる。それはサラの懸念を現実の物へと変えて行った。

 メルエは不思議な感覚を持っている。魔物の襲来に気が付くのは、大抵の場合、先頭を歩くカミュであるが、四人が固まって行動している時だけは、魔物の気配を真っ先に感じるのはメルエなのだ。

 

「カミュ様!」

 

 サラはメルエが感じている物が魔物の襲来である事を悟り、周囲の者達へ視線を巡らせているカミュへ声を上げた。しかし、風と雨が強まって来ている甲板の上では、サラの叫び自体が無情にも搔き消されてしまう。

 

「うわぁぁぁぁぁ!」

 

 その時、雨と風をも切り裂くような声が甲板に響き渡った。声の主は、甲板の先頭で作業していた船員達。その中の一人は既に甲板へと腰を落としている。腰が抜けてしまったのか、海の中から現れた物を見つめながら必死に手を動かしているが、移動する事は出来てはいない。

 

「メルエ! 腕を離してくれ!」

 

 船首の先の海から出現したそれを見たリーシャは、未だに腰にしがみついているメルエを引き剝がそうとする。現状を把握したサラも、メルエを促すようにその手を取った。

 メルエは、サラに素直に従い、リーシャの手を離す。もしかすると、以前に目の前の魔物と共に出現した物への軽いトラウマが残っていたのかもしれない。

 船の進路を遮るように出現した魔物。それは、船出の際に一度遭遇した事のある魔物だった。

 カミュ達が乗る巨大な船をも飲み込んでしまうような程の巨体。

 船に撒き付き、握り潰してしまいそうな程に長く、粘着性のある足。

 

「<大王イカ>だぁ!」

 

 近海を制する魔物であり、幾つもの船を沈めて来た<大王イカ>が二体。その巨体から伸びる足が船を覆い、甲板に降り注ぐ雨をも遮っていた。

 この巨大な<いか>は、船乗り達の間では最大の脅威となっている。船員達でも戦闘が可能な<マーマン>や<しびれくらげ>とは違い、出会ったが最後、海の藻屑となる事が決定事項となってしまうのだ。

 『魔王バラモス』の出現と共に現れたこの巨大な魔物が、航海を不可能にさせたと言っても過言ではない。

 

「カミュ!」

 

「……わかっている……下がっていろ」

 

 一度空を見上げたリーシャは、何かを期待するようにカミュへと視線を送り、その視線を受けたカミュは大きく一つ頷いた。

 カミュが一歩前に踏み出した事を確認した船員達が、腰を抜かしている船員を担ぎ、大慌てでカミュの後ろへと駆け込んで来る。彼らもまた、これから何が起こるのかを理解しているのだ。

 サラもまた、カミュの背中を見て、何かを感じたように顔を上空へと上げる。見上げた空は、厚く黒い雲が広がり、その中には、微かな光が見え隠れしていた。

 この状況も以前と同じ。

 『英雄』と、後の世に名を残す者だけが唱える事の出来る呪文の行使に適した環境なのだ。

 

 メルエを胸に抱きながら思考の渦へと落ち始めたサラの耳に、凄まじいまでの雷鳴の轟きが飛び込んで来た。その轟音が、カミュという『勇者』が特有の呪文である<ライデイン>を唱えた事を示している。

 光によって視界が奪われ、雷鳴によって音が失われた。

 

「グモォォォォ……」

 

 カミュの唱えた<ライデイン>は、上空の厚い雲から二本の光の矢を使役する。カミュの呼び掛けに応えた『天の怒り』は、真っ直ぐに<大王イカ>の巨体を貫き、その生命を根こそぎ奪って行った。

 

 『あの魔法は、雷を使役する物であって、支配する物ではない』

 

 黒焦げになり、海へと沈んで行く二体の<大王イカ>を呆然と眺めながら、サラは先日のカミュの言葉を思い出していた。

 黒い雲が空を覆い、雷がその中を駆け巡る時、<ライデイン>は詠唱が可能だとカミュは告げている。しかし、サラはこの光景を見ている内に、カミュが言う『支配する』呪文も、この世の何処かに存在するのではないかと考え始めていた。

 空に雲がなくとも雷雲を呼び出し、強制的に『天の怒り』を落とす魔法。それはもはや、神や精霊に近い能力を有している事になる。

 もし、古の『英雄』がそれ程の魔法を習得していたとすれば、その者は世界を制していても可笑しくはない。

 

「よし! 魔物の脅威も消えた。野郎ども、一気に抜けるぞ!」

 

「おぉぉぉぉぉ!」

 

 <大王イカ>二体が海へと沈み切った事を確認した頭目が船員達に指示を出し、その指示に船員達が応じる。荒れ始めた海の波を切り裂くような雄叫びが響き渡った。

 船員達が慌ただしく動き始め、船は荒れた大海原を切り進んで行く。

 

「…………カミュ…………」

 

 リーシャの横で雨に濡れながらも成り行きを見ていたメルエが、カミュの腰に纏わり付く。雨が滴り落ちているメルエの髪を一撫でしたカミュは、視線をリーシャへと向けた。

 

「メルエを中に。良く拭いてやってくれ」

 

「わかった。メルエ、おいで」

 

「…………ん…………」

 

 先程とは違い、素直に頷いたメルエが、リーシャに手を引かれて船室へと入って行く、魔物という脅威は消えたが、海という脅威は依然健在。しかし、この脅威に対しては、カミュ達に出来る事は何もないのだ。

 視線を船員達へ移したカミュは、雨に濡れる事も構わずに船員達の作業を眺めている。その後姿を見ていたサラが、不意にカミュへと近付いて行った。

 

「カミュ様……あの<ライデイン>の上位魔法という物は、本当に存在する物なのでしょうか?」

 

 サラは、自身の中に芽生え始めている『不安』の正体に気が付いてはいない。それが、その力を有するカミュの行動に対する『不安』ではなく、その力を有してしまったカミュへの『人』の行動へ向けられた物だという事を。

 

「……わからない……」

 

「そ、そうですか……」

 

 端的な回答を受け、サラは顔を俯かせる。実際のところ、カミュでさえその存在自体に確証はないのだ。

 『(いかづち)』を使役する魔法があれば、支配する魔法があってもおかしくないのではと考えただけなのである。つまりは、サラの考えと同様の物をカミュも持っていたに過ぎないのだ。

 

「……例え存在していたとしても、それ程に強力な物が『書物』として残っている可能性はないだろうな……」

 

「そ、そうですね。もし、万が一邪悪な心を持った者が習得してしまえば、恐ろしい事になると思います」

 

 カミュの言葉通り、もし<ライデイン>の上位魔法が存在していたとしたら、古の『英雄』と云われる者が、その魔法を『書物』という方法で残すだろうか。

 選ばれた者だけが契約を果たし、行使を可能とする物ではあるが、世界を制する程の力は必ず災いの元となる。それを予測出来ない者を『英雄』とは呼ばないだろう。

 実際、過去数百年、数千年の『人』の歴史の中で、『英雄』や『勇者』と謳われる者は数多く存在してはいたが、その中で世界を手中に収める程の能力を有していた者は、記録には残っていなかった。

 

 それは、サラの言うように、『邪悪な心』を持った者が有する可能性を考え、取得した『英雄』がその強大な力を隠蔽した為なのか、それとも、只単純にその能力を有する資格を持つ『英雄』が存在しなかったからなのかは解らない。

 ただ、今までの『英雄』と呼ばれる人間の中で、その能力を持って世界を制するという願望を持った者が存在しなかった事は確かであろう。

 そして、サラの中でカミュという『勇者』もまた、そのような『邪悪な心』を有さない者の一人であったのだ。

 

「ランシールまでは、まだ数週間はかかるぞ。お嬢さんも、具合が悪くなる前に船室へ戻っていな」

 

「ふぇ!? あ……おうぇ」

 

 戦闘からその後の思考までの流れの中、緊張感を維持して来たサラであったが、立ち尽くす二人を気遣う頭目の言葉に船が揺れ動いている事を思い出し、途端に口元を押さえた。

 甲板には、未だに大粒の雨が降り注ぎ、海原は大きくうねっている。その波の上に浮かんでいる船もまた、右へ左へと傾きを繰り返していた。

 

「船はまだまだ揺れるぞ。早く船室に戻って、大人しく寝ているこった」

 

「う……うぇ……は、はい」

 

 サラの姿を見て苦笑を浮かべた頭目は船室への移動を命じ、サラはその指示に大人しく従う他なかった。

 『ふらふら』と船室へ向かって歩くサラの後姿に、先程までの強さは微塵もない。『賢者』と謳われる者の思考の続きは、後日へと回される事となる。

 

 

 

 ジパングから真っ直ぐ南へ向かって船を進めて更に数日が経過した。甲板の淵に置いてある木の箱の上に立つメルエの視界にも、未だに海以外の光景は見えては来ない。それでもメルエはいつものように目を輝かせながら海を眺めていた。

 

「メルエ……よく飽きないな……」

 

「……アンタに飽きる暇はない筈だが……」

 

 目を輝かせて海を見つめるメルエを溜息混じりに眺めていたリーシャの言葉は、カミュによって遮られた。

 カミュの言うとおり、この世界の海は平和な航海が出来る程に穏やかな海ではない。ここまでの航海で、カミュ達は数え切れない程の戦闘を行っているのだ。

 

「わかっている。だが、船の上にでも現れない限り、私が斧を振るう事は出来ない」

 

 だが、リーシャの言う事も事実。

 彼女のような『戦士』は遠隔的な攻撃を持ち合わせていない。弓などを使用する事は出来るであろうが、魔法力を有していないリーシャには海の中の魔物を倒す術はないのだ。そして、魔法を使うと言っても、サラやメルエの持つ灼熱呪文や火炎呪文では船に損害を与えてしまう事を否定できない。

 カミュの持つ<ライデイン>や、なんとか範囲を調節できるようになったメルエの<ヒャダルコ>が唯一の有効手段となっていた。

 

「……大型の魔物が出て来ていない事が、唯一の救いだな……」

 

「ああ。サラではないが、ルビス様のご加護による物なのかもしれないな」

 

 ここまでの航海で、<大王イカ>のような大型の魔物が出現したのは二度。しかもその時は必ず天候と海が荒れていた。故に、カミュの有する<ライデイン>が行使出来る状況だったのだ。

 リーシャの口にした『精霊ルビスの加護』という物には同意する事はないが、カミュもこの航海が幸運に包まれている事だけは理解していた。

 

「私達がアリアハンを出発して、もう二年近くになる……私達は……いや、なんでもない」

 

 不意に海を眺めるメルエの後姿を遠く見つめていたリーシャが口を開いた。既に一行がアリアハンを出発して一年半が過ぎている。<ランシール>へ着き、そこで情報を集め、次の目的地に着く頃には、二年の月日を超えるだろう。

 ここまでの旅路を少し思い返したリーシャは、何かを口にしようとし、それを途中で止めた。

 

「……進むしかない……」

 

「!!……そうだな……」

 

 リーシャの心の内にある不安を察したかのように、カミュが呟きを返す。リーシャと同じようにメルエの背中を見つめるカミュの瞳はとても強く、温かな光を宿していた。

 それを見たリーシャの顔にゆっくりと表情が戻って行く。

 

 『私達は、本当に<魔王>へ近付いているのだろうか?』

 

 それが、先程リーシャが口にしかけた言葉。

 ここまでの旅路で、彼等は様々な事に遭遇し、それに立ち向かって来た。だが、どれも『魔王バラモス』との繋がりを見い出せる物ではなかった。

 <ジパング>で遭遇した知識を有した魔物である<ヤマタノオロチ>も、太古から<ジパング>に生息していた魔物であり、『魔王バラモス』と関係を持った物であった訳ではない。故に、リーシャは不安に思ってしまったのだ。

 

「ん? 二年近くになると言う事は、サラの歳は十九になったのではないか?」

 

「……」

 

 リーシャの一抹の不安は、カミュという静かな光に照らされる事によって搔き消されて行った。

 自分の胸の内にあった不安が簡単な物ではない事をリーシャは理解している。それでも、リーシャの不安は小さくなるだけではなく、跡形もなく消え去った。

 その理由は、リーシャにも理解出来ていないだろう。

 不安が無くなったリーシャは、自分の言葉の中にあった時間の経過を思い出し、仲間の誕生日に思い至っていた。

 その仲間はここにはいない。船酔いと、疲労によって船室で倒れているのだ。サラの船酔いは一向に慣れる様子はなく、陸地も見えずに走り続ける船の揺れに完全に参ってしまっていた。

 

「それに……メルエと出会ってからも一年以上経っているしな。メルエの誕生日は何時なんだ?」

 

「……何故、俺がそれを知っていると思う?」

 

 リーシャの問いかけに、カミュは盛大な溜息を吐き出す。確かに、あのロマリア城付近の森でメルエと出会ってから一年は経過している。

 彼等三人を結びつける楔のような存在。もし、彼等があの場所でメルエと出会わなければ、彼等がここまで旅を続ける事が出来なかった可能性の方が高いだろう。途中でいがみ合い、お互いを罵り、最悪の場合は殺し合っていたかもしれない。

 それ程にあの頃の三人の関係は脆く、儚い物であった。

 

「よし! 今日は、サラとメルエの誕生祝いをしよう。メルエの誕生日は、私達と出会ったあの日だ。そうと決まれば、私は食事の用意だな」

 

「お、おい」

 

 自己完結をしたように立ち上がったリーシャに、カミュは驚きの瞳を向ける。まさか、こんな海の上でそのような事を実施するとは思わなかったのだ。

 カミュにしても、メルエの誕生祝いをする事に否定的である訳ではない。だが、別段<ランシール>に着いてからでも良い筈なのだ。

 

「<ジパング>で手に入れた食材を少し譲って貰おう。船の上だからな……豪勢な物は出来ないか……う~ん」

 

 献立を考えているのか、起ち上がったまま少し考える素振りを見せるリーシャを見て、カミュは諦めに近い溜息を吐き出した。

 こうなっては、カミュが幾ら何を言っても、リーシャは聞く耳を持たないだろう。それが、彼女の欠点であると共に、長所でもある。それをカミュも理解しているのだ。

 

「……残りの航海日数を頭目と相談し、食料を使い切るような馬鹿な真似だけはしないでくれ」

 

「あ、当たり前だ! その位の事は、私も考えている!」

 

 何か不安を煽るようなリーシャの姿を見て、カミュは自分が忠告した事が正しかった事を知る。

 彼女は良くも悪くも『真っ直ぐ』な人間なのだ。故に直情的であり、悪く言えば『猪突猛進』の部分も否めない。だが、その分理解し易い。

 

「私は、厨房に入るからな! 何かあったら、すぐに呼びに来い!」

 

 カミュの疑いの視線を受けたリーシャは、慌てて厨房の方へと歩いて行った。盛大な溜息を吐き出したカミュは、心地良い風を受けて靡く帆へと視線を向ける。

 先日の荒れた天候が嘘のように空は晴れ渡り、上空では海鳥が群れを成して飛んでいた。

 

 

 

「サラ、メルエ、おめでとう!」

 

「おめでとう」

 

 その夜は、海も静かで風も穏やかであった。故に、波は少なく、船の揺れも少ない。サラの表情にも僅かばかりの余裕が生まれ、笑顔を見せている。

 船の甲板に大勢が円を囲み、訳が分からないメルエがリーシャの隣に座って、困ったように周囲を見渡していた。

 円の中心には、大皿に乗った数多くの料理。リーシャがメルエとサラの為にと腕を振るった物であり、船の上で作ったとも思えない豪勢な料理に、カミュ一行だけではなく、船乗り達も目を輝かせている。

 

「……この後の航海で、食料がないという事はないのだろうな?」

 

「ああ、その辺りは心配するな。これだけ大きな船だ。それ相応の食料は入れてあるし、ジパングという場所でも食料を調達した。特に柑橘類は欠かせないからな」

 

 料理を見たカミュが溜息を吐く中、カミュの隣に座っている頭目がその懸念に応えた。

 確かに、食料は保存が効く物から、新鮮な物まで様々だ。特に船乗り達は、海が穏やかで手が空いている時に釣りを行ったりして食料を調達していた。一週間、二週間の航海どころか、一月程の航海にも耐えられる積み荷を運ぶ事が出来る船でもあるのだ。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 そんなカミュの懸念の中、ひたすら恐縮したようにサラは頭を下げ続けていた。これ程の人間に祝福された事など、彼女の人生で一度たりともないのだろう。

 幼い頃に両親を失い、孤児として教会で暮らしていた。友など出来ず、遊ぶ相手もいない。そんな中、憶えていた自身の誕生日は、いつも一人で祝っていた。

 神父は仕事が忙しく、他に祝ってくれる者もいない。いつも、一人ベッドの上で、自身を生んでくれた両親と、自身を護ってくれた『精霊ルビス』へ祈りを捧げる事が彼女の誕生日の風景であったのだ。

 

「…………???…………」

 

「メルエは、自分の生まれた日を知らないだろう? だから、私達と出会ったあの日をメルエの誕生日にしようとカミュと話し合ったんだ。メルエがこの世界に生まれてくれた事への感謝と、私達がメルエに出会えた事への感謝を!」

 

 皆が嬉しそうに微笑む姿に自然と笑みを浮かべるメルエではあったが、内容が解らないため、小首を傾げながらリーシャへと視線を向けていた。

 その視線を受けたリーシャは柔らかく微笑み、手に持ったグラスを高々と掲げる。それに呼応するように船乗り達がグラスを掲げ、涙を潤ませたサラもまた、メルエに笑顔を向けながらグラスを掲げた。

 

「……メルエ、おめでとう……」

 

「…………ん…………」

 

 最後にカミュがグラスを掲げ、メルエへ優しい笑みを浮かべた事で、彼女は自身の幸せに気が付いた。

 自分が存在する事を喜んでくれる者達。

 カミュ達と出会えた事に感謝しているのは、他でもないメルエ。だが、メルエが感じていた以上に、カミュ達はメルエを愛していた。

 その事を理解したメルエは、花咲くような笑顔を浮かべ、小さな手でグラスを掲げた。

 

「よし! 海も穏やかで、魔物が出て来る気配もない。私がこの船で出来る限りの料理を作ったつもりだ。皆も、大いに食べ、飲み、そしてメルエとサラを祝ってくれ!」

 

「おお!」

 

 船乗り達の大きな声に、リーシャは笑みを浮かべる。

 <ジパング>という土地で死闘を演じた者達の僅かな休息。

 笑みを浮かべながら果物を頬張るメルエに、涙を流しながらグラスを傾けるサラ。二人の姿を見ながらリーシャは視線をカミュへと移し、そして今までで一番の微笑みを浮かべる。

 そこには優しく微笑む青年の顔。

 『勇者』として存在する事を義務付けられた者の人間としての表情があったのだ。

 

 その日は、陽が暮れるまで甲板に笑い声が響いていた。

 

 

 

「カミュ、寝ないのか?」

 

「……またアンタか……」

 

 昼の喧騒が嘘のように静まり返った甲板は、月光によって照らし出されていた。

 その甲板に立つ一人の青年。いつものように空に浮かぶ月を見上げ、静かに佇んでいる。一瞬その姿に見入ってしまったリーシャであったが、意を決して声をかけた。

 

「眠っておいた方が良いぞ。<ランシール>まではまだ遠い」

 

 船に乗っている時に、カミュは極力眠る事はない。魔物の襲来に備えているという事もそうであろうが、船の上で働く船乗り達を眺めている事が多いのだ。

 しかし、今宵は甲板に人影はない。皆、昼の祝いで騒ぎ疲れ眠りに落ちている。唯一、方位磁針を見つめて船の進路を確認している者が見張り台にいるだけである。

 

「お前は、このパーティーの(かなめ)なんだ。体調には十分気をつけろ」

 

「……何度も言うが、(かなめ)はアンタだ」

 

 相変わらず月を見上げ続けるカミュに、リーシャは大きな溜息を洩らす。しかし、返事を期待していなかったリーシャは、カミュから予想外の言葉に驚く事となった。

 カミュは『何度も言うが』という言葉を発してはいたが、その言葉はリーシャに届いた事は一度もない。初めて聞くカミュの言葉に、リーシャは一瞬言葉を失った。

 

「な、なに?」

 

「……俺は、あれ程の笑みを浮かべるメルエを初めて見た。あの僧侶……今は賢者だな……あれが、涙を流しながら微笑んでいたのも、メルエが幸せそうに微笑んでいたのも、原因はアンタだ」

 

 月を見上げていた筈のカミュの瞳は、今はリーシャをしっかりと見つめている。

 真っ直ぐなカミュの瞳を受け、リーシャは戸惑ってしまう。これ程に、真っ直ぐなカミュの言葉を受けたのは、ダーマ周辺で自身の在り方に迷っていた時以来であった。

 

「以前にも話したが、メルエが微笑むのも、あの頭の固い賢者が前へと進むのも、アンタがいればこそだ。(かなめ)は……アンタだ……」

 

「そ、それは……」

 

 『それはカミュがいたからこそだ』と言おうと口を開けたリーシャは、思わず口を噤んでしまう。目の前に広がる光景に息を飲んでしまったのだ。

 それは、彼女にとって信じられない光景。

 この二年近くの旅で初めて見る光景だった。

 

「……ありがとう……」

 

「カ、カミュ……」

 

 リーシャの目の前には、綺麗に頭を下げるカミュの姿。

 カミュから軽い謝礼の言葉を受けた事はある。だが、ここまで素直な感謝を受けたのは初めての事だった。

 それが何についての感謝なのかは、正確には解らない。だが、<ジパング>にて、カミュの心に踏み込んでしまっているリーシャに向かって頭を下げる事が意味する物を、リーシャは朧気ながらも理解した。

 

「……このパーティーは、敵の魔法に惑わされたアンタに全滅させられる恐れもある。そういう意味でも、(かなめ)はアンタだろうな」

 

「な、なに!?」

 

 しかし、胸の奥が熱くなっていたリーシャは、その熱を瞬時に冷まされてしまう。顔を上げたカミュの口端は、何かを楽しむように上がっていたのだ。

 別の熱が徐々に頭へと昇って行くのを感じたリーシャの顔が赤く染まって行く。

 

 静かな夜の海を漂う船の甲板に、闇を切り裂く怒声が響き渡った。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

本当の意味での新章スタートです。
約半年ぶりの更新となるでしょうか……
できるだけ、1週間に1度の更新を心掛けて行きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ランシール大陸①

 

 

 

 更に数週間の間、カミュ達は海を南下して行く。

 相変わらず、メルエは木箱の上から海を眺め、海鳥の鳴き声に空を見上げていた。魔物の襲来も相変わらずで、多い時には日に数度の頻度。その度に動くのはカミュとリーシャである。

 最初はその事に不満顔であったメルエであるが、最近は魔物が出て来ても杖を構える事さえせず、海を眺めている事もある程だった。

 

「<ランシール>の陸地が見えたぞぉ!」

 

 見張り台から船の先を見ていた男が甲板に向かって叫び声を上げた。その声に、甲板に居た者達の視線が一斉に船の進路先へと向けられる。カミュ達も船首へと移動し、ようやく辿り着いた新たな大陸を目にした。

 

「陽が沈む前には港に着くだろう。アンタ達は下船の準備を進めてくれ」

 

「……わかった……」

 

 頭目の言葉に頷きを返したカミュは、荷物を取りに船室へと向かって行く。それを見たリーシャもまた、目を輝かせて陸地を眺めるメルエの手を引いて準備を急いだ。

 唯一人、サラだけは、小さく見える陸地に何かを感じたのか、暫しの間、船首に残って徐々に見えて来る陸地を眺めていた。

 

 

 

 船を降りたカミュ達は、近場の宿場で身体を休める事にする。宿場と言っても、既に昔の面影はなく、宿屋のように設備が整っている訳ではない。屋根と壁があるだけの馬小屋に似た場所で身体を横たえるだけである。ゴールドを支払う必要はなく、カミュ達の他にも数人の男達が身体を横たえていた。

 

「メルエ、こっちにおいで」

 

「…………ん…………」

 

 宿場の壁付近で動き回る舟虫に興味を示していたメルエを呼び寄せたリーシャは、傍で身体を横にしているサラを一瞥し、苦笑を洩らした。船酔いの経験がないリーシャには解らないが、サラがここまで疲労を露にしている事から、その苦労が理解出来る。

 サラは、基本的に自分の状態を隠す傾向がある。戦いの時も、メルエとは違い、自身の魔法力の残量には見当が付いているのにも拘わらず、それを隠しながら倒れるまで行使していた。倒れるという事実は、メルエもカミュもサラも変わらないのだが、口にしない分、その時の衝撃は大きい。

 静かに眠るサラを見て、リーシャはその辺りも注意して行かなければならない事を自覚するのだった。

 

「カミュ、ここから<ランシール>の村までどのくらいかかりそうなんだ?」

 

「……おそらく、二日程だろう……」

 

 膝の上で丸くなったメルエの髪を梳きながら、リーシャがカミュへと問いかける。その問いに応えたカミュは、<ジパング>の宝剣を横に置き、周囲を注意深く観察していた。

 基本的にこの場所は、人間達が雑魚寝している。その中に女性は一人も見受けられない。若い女性などの旅は、魔物以外にも色々と脅威があるのだろう。リーシャやサラでは、その脅威に屈する事はないといえども、注意をして置く事に越した事はない。特に、彼らの中には幼い少女もいるのだ。

 

「そうか……ん? カミュも眠って良いぞ? お前は船の上では碌に眠っていないからな。見張りなら、私が承ろう」

 

「いや、アンタでは不安だ」

 

「な、何だと!」

 

 一向に眠る様子のないカミュを見て、その胸の内にある警戒感を察したリーシャが気を遣うが、その心遣いは無碍に斬り捨てられる。

 確かに、カミュの言う事も尤もな事であった。リーシャは何度か野営の見張りで眠りに落ちた事がある。例え眠っていたとしても不穏な気配に気付くのであろうが、一抹の不安がある事も事実。特に、今のカミュであれば、一度眠りに落ちれば、深い眠りに落ちる可能性を否定は出来なかったのだ。

 

「……気にする程ではないだろうがな……」

 

「そうだな。だが、サラのような若い女性や、メルエのような幼い子供がいる以上仕方がないだろうな」

 

 先程のカミュの失礼な一言も、その胸の内にある警戒感から来た物であると納得したリーシャは、湧き上がった怒りを抑え、カミュへと答えを返す。その答えを聞いたカミュは、何故か不思議そうな表情を浮かべ、リーシャへと視線を動かした。

 実際のところ、カミュの表情はほとんど変化していない。だが、リーシャには僅かな表情の変化が、何となくではあるが読み取ることが出来ていた。

 

「な、なんだ? 私は変な事を言ったか?」

 

「いや……アンタは若い女性に含まれる事はないのか?」

 

 カミュの疑問。それは、リーシャには衝撃的だった。

 『戦士』として、『騎士』としての誇りを持つリーシャは、戦いの場では女性である事を捨てていたと言っても過言ではない。しかし、日常生活の中では、自身が女性である事を意識しているし、その事実に嫌悪した事もなかった。ただ、カミュ自体がリーシャを女性として見ていたという事に純粋な驚きを見せたのだ。

 少し考えてみれば、過去にそのような小さな配慮がなかった事もない。だが、メルエに対する程の配慮があったとも言えなかった。先程の『アンタでは不安だ』という言葉は、女性であるリーシャを残す事への不安を含んでいたとリーシャは考えたのだ。

 

「な……た、確かに私も女だが……」

 

「まぁ、アンタを女性として考えた者の末路は考えたくもないがな」

 

 少し慌てたリーシャの視界に、口端を上げたカミュの顔が映る。『からかわれた!』という想いと共に、リーシャの頭に血が昇って行った。

 色恋とは無縁でここまで生きて来たリーシャは、男女の駆け引きなどは全く理解出来ない。しかし、それは目の前で口端を上げているカミュも同様であろう。

 アリアハンを出た頃では考えられない会話。それは、彼等がここまで歩んで来た旅路で培って来た物。

 相手の心を見ようともしなかったリーシャではない問いかけに、それに対して斬り捨てるだけであったカミュの対応でもない。それは、彼等二人だけの話ではないだろうが、この二人の心の距離が縮まっている事もまた事実であった。

 

「……アンタは休め。ここから<ランシール>までの道中では、アンタに見張りを頼む」

 

「ぐっ……わかった」

 

 口元を戻したカミュの表情を見て、リーシャはしぶしぶ頷きを返した。既に外は闇の支配が進み、カミュの顔をはっきりと認識する事は出来ない。その瞳の鋭い光が、リーシャに向けられた後、警戒するように動いて行く。

 メルエを抱き抱えるように横になったリーシャは静かに瞳を閉じて行った。

 

 

 

 翌朝、船から数人の船乗りが降りて来るのを待ち、カミュ達一行は船着き場を出て、平原を南西へと向かって歩き出す。いつも通り地図を持ったカミュを先頭に、メルエの手を握ったサラ。その後ろを、物資を持った船員達。そして、最後尾にはリーシャが歩いていた。

 

「メルエちゃんも普通に歩くのだね」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの後ろを歩く船員達の一人が、それ程遅くはない速度で歩くメルエに感嘆の声を上げ、それに対して誇らしげに胸を張るメルエを見たサラが優しく微笑む。もしかすると、船員達の中では、メルエは戦闘などが出来ないと考えられているのかもしれない。自分達と同じように、カミュ達にとってもマスコット的な存在として同道していると思っている者もいるのだろう。

 

「あまりメルエを軽視していると、度肝を抜かれるぞ」

 

「えっ?」

 

 そんな船員達の心を察したのだろう。リーシャが苦笑を浮かべながら船員達に忠告を施す。カミュの有する<ライデイン>という魔法を間近で見ている彼らであれば、メルエの魔法を見ても恐怖に駆られる事はないだろうが、メルエに対する態度が小さくとも変化してしまう事をリーシャは恐れたのだ。

 

「……下がっていろ……」

 

 メルエの真価が発揮される場面は意外に早く到来した。立ち止まったカミュが船員達に声をかけ、背中に差している<草薙剣>へと手を伸ばしたのだ。

 それが示すものをリーシャとサラは素早く理解する。緊迫した空気にメルエも杖を手に持ち身構えた。その姿を見た船員達は、若干の驚きを表すが、すぐに指示通り後ろへと下がる。

 

「四体か……カミュ、どうする?」

 

「……初めて遭遇した魔物でもない筈だ」

 

 遭遇した魔物は<ゴートドン>。バッファローと山羊の亜種である。カミュの言うとおり、以前、<テドン>周辺で遭遇した事がある魔物。

 <マッドオックス>の上位種である魔物であるが、それ程の差はない。今のカミュ達から見れば、苦労をする相手でもないのだ。

 

「…………メルエ………やる…………」

 

 カミュの言葉に頷いたリーシャが斧を構えた時、前回<ゴートドン>を撃退した少女が口を開いた。杖を持ち、見上げるようにカミュへと向けられた瞳には強い光が宿っている。

 それは、自分の力を誇示する為のような物ではない。それがカミュにも理解は出来た。

 

「……いや……メルエは俺達が獲り逃がした魔物から彼等を護ってくれ」

 

「…………むぅ…………」

 

 しかし、カミュは何かを訴えているメルエの瞳から視線を外し、静かに首を横に振る。それがメルエには不満で仕方がない。

 頬を膨らませるメルエを無視するように、カミュはサラへと視線を送った。その瞳の持つ意味を理解したサラは、カミュへ向けて一つ頷きを返す。

 

 メルエであれば、<ゴートドン>を一掃できる事は知っている。それはカミュだけではなく、リーシャもサラも同様。

 ならば何故、メルエに魔法を行使させないのか。それは、先程リーシャの胸に湧き上がった小さな不安が示していた。

 メルエは、基本的に船の上では魔法を行使しない。時折行使する<ヒャド>系の魔法も、サラの指示通りに威力を調整した物であった。それは、船という移動手段を傷つけない為という理由の他に、もう一つの理由があるのだ。

 

 『尋常ではないメルエの魔法力の漏洩』

 

 それをカミュ達三人は恐れていたのだ。

 カミュならば良い。どれ程に強力な魔法を行使しようと、彼は『勇者』であるのだ。

 『勇者ならば、このくらいは当然』、『<人>の救世主である勇者なのだから、敵になる事はない』。そういう先入観がある以上、多少の恐怖が残っても、船員達が離れて行く事はないだろう。

 サラは『賢者』であり、神魔両方の魔法を行使しても『魔道書』の魔法に関しては、未だに修行中である。その種類は多くとも、威力に関しては『人』の枠を超える事はなかった。

 

「メルエ、カミュ様達に任せましょう? ここから二日間も歩くのです。メルエの体力や魔法力は残しておかないと。いざという時にカミュ様やリーシャさんを護れませんよ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 しかし、今むくれている幼い少女は別である。彼女の正確な歳はカミュ達にも解らない。出会ってから一年を経過してはいるが、生まれてからそれまでに何年を過ごして来たのかを知らないのだ。

 それでもメルエの姿を見る限り、彼女の歳が二桁に届いていない事は間違いないだろう。そんな幼い少女があの威力の魔法を唱えた時、通常の者であれば、声を失う。そして、未知の者として恐れる筈。

 <ジパング>での戦闘では、民達の心はカミュ達への恐れよりも、<ヤマタノオロチ>が倒れた事への歓喜と、その事による国主への疑惑が勝っていた。

 皇女であるイヨに関しては、既に心は決めていた為、カミュ達への恐れを抱く事はなかっただけなのだ。

 もし、ここでメルエが『悟りの書』に記載されている魔法を行使した場合、船員達がメルエに向けている視線が変化する可能性を捨て切れない。それは、カミュやリーシャにとって耐えられない事だった。

 他人からの好意を知ったメルエは、その視線の変化をどう感じるだろう。哀しみ、苦しみ、涙するかもしれない。

 そんな可能性を幼いメルエは気付かないのだ。むしろ、『皆に褒めて貰う為に魔法を行使する』と意気込んでいるのかもしれない。故に、その可能性を考慮に入れる事は、保護者であるカミュやリーシャの仕事であった。

 

「カミュ、来るぞ」

 

 リーシャの呟きと共に、バッファローの角を前面に押し出した<ゴートドン>が駆け出して来る。<ゴートドン>の数は四体。その全てが一斉にカミュ達へと向かって来たのだ。

 <鉄の斧>を構えたリーシャが待ち構えるようにサラの前に立つ。その姿を確認したカミュは、<草薙剣>を掲げ、猛然と<ゴートドン>へと突進して行った。

 

「ブモォォォォォ」

 

 先頭で駆けて来た<ゴートドン>の角を<鉄の盾>で受け流したカミュは、そのまま<草薙剣>を振り下ろした。

 カミュの手と一体化したように抵抗なく滑る<草薙剣>は、決して細くはない<ゴートドン>の首に吸い込まれ、一瞬の内に胴体から斬り離してしまう。その光景を見た後続の魔物達は驚きで足を止めてしまった。

 

「いやぁぁぁぁ!」

 

 <草薙剣>の斬れ味に若干の驚きを見せたリーシャであったが、そこは『戦士』。一瞬の内に意識を切り替え、足を止めてしまった<ゴートドン>目掛けて斧を振り下した。

 鋭い角と角の間にある眉間に突き刺さった<鉄の斧>は、深々と脳を抉り、魔物を地へと沈める。

 

「ラリホー」

 

 人々が恐れる魔物といえども、<ゴートドン>程度では、世界最強の種族である『龍種』を打倒したカミュ達の敵にはならなかった。

 瞬きをする間に斬り伏せられた同族を見て固まってしまっている<ゴートドン>に向かって詠唱されたカミュの呪文は、魔物達の脳神経を確実に蝕み、その意識を刈り取って行く。

 

「Zzzzzz」

 

 大きな音を立てて、地面へと崩れて行った二体の<ゴートドン>は、そのまま眠りについてしまった。

 血糊を振り払い、剣を鞘へと納めたカミュは、後ろで唖然としている船員達へ視線を送り、再び歩き出す。未だに頬を膨らませていたメルエは、カミュの許へと駆け寄り、そのマントの中へと潜り込んでしまった。

 

「さあ、行きましょう」

 

「あ、ああ」

 

 カミュ達の圧倒的な強さを目の当たりにした船員達は、サラの促しに小刻みに首を縦に振る。彼等も船上での戦いを目撃はしていた。しかし、船上では剣を振るう回数の少なかったカミュやリーシャの動きに改めて驚いていたのだ。

 

「リーシャさんも行きましょう」

 

「そうだな」

 

 斧を背中にかけたリーシャへサラの促しが響く。その声に軽く頷いたリーシャであったが、何かを思い、小さな微笑みを浮かべた。

 微笑みを浮かべながら向けたリーシャの視線の先には、横たわる<ゴートドン>。眠りに落ちているだけで、決して命を失っている訳ではない魔物。

 船員達の中の数人の心にも、同じような疑問があるのかもしれない。

 

 『何故、魔物をそのままで放置しておくのか?』

 

 それは、以前のサラであれば許す事の出来ない行為。そして、リーシャもまた、そんなカミュの行為を糾弾した事があったのだ。

 しかし、今のサラは、魔物を起こさないように歩いている。

 まるで、その命を尊ぶように。

 

「変われば、変わるものだな……」

 

 既に魔物の脇を通り過ぎたサラの背中を見つめながら、リーシャは独り言のような呟きを洩らした。その呟きは誰の耳にも届かず、吹き抜ける風に乗って霧散して行く。

 空を見上げると、太陽は真上を過ぎ、前を歩くカミュの方角へと傾きかけていた。リーシャの目に映るその光景は、まるでカミュが太陽へ向かって歩いて行くように見える。太陽に吸い込まれて行くように。

 

 

 

 一行は、その後何度かの戦闘を繰り返しながら、真っ直ぐ西へと歩み続ける。その間の戦闘でもメルエの魔法の出番はなく、メルエの頬は常に小さく膨らんでいた。

 夜の帳が下り始めた頃に、近場の森の入口で野営を行い、陽が昇ると同時に再び歩き始める。そして、船着き場を出てから二日目の太陽も陰りを見せ始めていた。

 

「カミュ、今日はここまでにしよう」

 

「……わかった……」

 

 進行方向の大地に太陽の半分が入り込んでしまった頃、最後尾を歩いていたリーシャがカミュへと声をかける。一度地図へと視線を落としたカミュではあったが、後方を歩く船員達の表情を見て、首を縦に振った。

 慣れない徒歩での移動で、船員達の顔には疲労が浮き出している。眠そうに目を擦っているメルエの姿も決断の要因の一つであろう。

 

「では、その木々の根元で火を熾そう」

 

「メルエ、行きましょう?」

 

「…………ん…………」

 

 サラの伸ばす手を握ったメルエが歩き出すのを見て、船員達に安堵の表情が漏れる。小さな溜息を吐き出したカミュが船員達の後ろを歩き始めた時、カミュの視界の端に奇妙な影が映り込んだ。

 それは、リーシャが入って行った森の木々の隙間。瞬時に警戒感を露にしたカミュが背中の剣を抜き放つ。

 

「魔物か!?」

 

 剣を抜き放つ音を聞いたリーシャがメルエを庇うように前に立ち、背中にある<鉄の斧>を手に取った。

 ようやく落ち着けると安堵していた船員達の身体が固くなるのを見て、サラがそれを落ち着かせるように前に出る。先程まで眠そうに目を擦っていたメルエも杖を手に取り、カミュが剣を構える方向へと身体を動かした。

 

「キィィィィ」

 

「え!?」

 

 警戒感を露にした一行の前に奇声を上げて出て来たのは、一体の魔物。いや、見た目であれば魔物ではなく『人』に限りなく近い。

 顔の部分に奇妙な仮面を着け、手を大きく空へと掲げている。身体は藁のような物を纏っており、周囲の人間を煽るように身体を揺らしている。その奇妙な姿にサラは驚き、素っ頓狂な声を上げた。

 

「サラ、油断するな! 何をして来るか解らないぞ!」

 

「は、はい!」

 

 気を緩めてしまいそうになるサラに向けてリーシャの檄が飛ぶ。瞬時に心を立て直したサラが相手の出方を探るように鋭い視線を魔物へと向けた。

 手を天に翳すように掲げる姿は、何かに祈りを捧げているようにも、カミュ達を威嚇しているようにも見える。言語を話さず、次第に距離を詰めて来る辺り、『人』ではないのかもしれない。それでも、万が一にも『人』であったらと、サラは動けずにいた。

 

「それ以上近寄るな!」

 

「キィィィィ」

 

 リーシャも同じ思いだったのだろう。

 アリアハン大陸で遭遇した<魔法使い>ならば、魔物討伐で何度か遭遇した事がある。アッサラームで戦った<ベビーサタン>は見るからに魔族である事が理解出来た。しかし、目の前にいる魔物は、一見すれば奇妙な姿の『人』なのだ。

 故に、リーシャは威嚇の為に<鉄の斧>を振い、もう一度距離を取る。しかし、言葉を理解出来ないのか、魔物は奇声を上げながら、また一歩足を踏み出した。

 

「ふん!」

 

 その踏み出した一歩は、このパーティーのリーダーである青年の胸の内にある安全圏を越えてしまっていたのだ。

 手にした剣を袈裟斬りに振り下ろし、カミュは目の前に迫る魔物を斬りつける。<草薙剣>という、ある土地での宝剣は、痛みすら感じない内に目の前の魔物の肩から胸にかけてを浅く抉った。

 

「キィィィィィ!」

 

 魔物の叫び声と共に、斬り口から体液が噴き出す。カミュの動きを見て、踏み出しを躊躇した為、魔物の傷は死に至る物ではなかった。

 それでも重症である事に変わりはない。蹲るように膝を折る魔物の姿に、サラは追い打ちの魔法を唱える事を躊躇した。躊躇するサラの後ろに控えていたメルエは、その攻防が見えてはいない。

 

「&=%$」

 

 追い討ちをかけて来ないカミュ達を嘲笑うかのように、その魔物は傷口に手を当て、何かを唱える。その奇声は先程の物とは違い、明らかな呪文の詠唱だった。

 翳した二の腕までを淡い緑色の光が包み込み、噴き出していた体液を止め、傷口を塞いで行く。

 

「ベ、ベホイミですか?」

 

「ちっ!」

 

 魔物が『経典』に記載されている呪文を行使する姿は何度も見て来た。しかし、サラはその光景が何度見ても慣れない。ただ、その驚きの内にある内容は、以前とは異なっているのだが、サラ自体はそれに気が付いていなかった。

 

「キキィィィィ!」

 

 舌打ちと共に再度駆け出したカミュの剣先が届く前に、その魔物は呪文の行使とは異なる奇声を上げる。一瞬、状態異常を来す魔法かと身構えたカミュであったが、カミュやリーシャ等に変化は見られない。

 その短い空白の時間が、形勢を大きく変化させた。

 

「うっ!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 呆然としていたリーシャの鼻に突き刺さる異臭。それは、何度か嗅いだ事のある臭い。その悪臭を憶えていたメルエは、サラの背中に顔を埋めてしまう。何かから逃れるようにしがみ付くメルエを見たサラは、周囲を警戒し始めた。

 

ズズッ

 

ボコッ

 

 一度後ろに飛び下がったカミュは口元を押さえながら前方に視線を送っていたが、それは予想外の場所から現れた。

 カミュ達が野営を始めようとしていた森の奥から響く何かを引き摺る音と腐敗臭。それは、これから何がカミュ達の目の前に現れるのかを明確に示していた。

 

「カミュ!」

 

 リーシャの叫びと共にもう一度後方へ飛んだカミュの元居た場所から湧き出して来た腕は、肉が腐り落ち、骨が見え隠れしている。

 バハラタ地方で何度か遭遇した<腐った死体>。

 それが地面の中と森の中から一体ずつ現れたのだ。

 

<シャーマン>

下級から中級に位置する魔族の一つ。古くは異端者が魔に落ちたとも云われているが、真相は定かではない。

『人』がこの世界に生まれた頃、まだ国という概念はなかった。ただ、『人』が集まれば、その方向性を示す人間が必要である事に変わりはない。その頃に神の言葉を聞き、天候すらも動かす事の出来る者が<シャーマン>と呼ばれ、『人』の行動の指針を示していた。

だが、次第に『人』は数を増やし、世界を広げ、そしてそれを纏める国が出来上がる。教会ができ、エルフ等から教えられた『精霊ルビス』という存在が世界に広まると、神や『精霊ルビス』から『人』の守護という命を受けた者は王族となり、<シャーマン>という存在は薄れて行く事となったのだ。

 

「キィィィ」

 

 <シャーマン>の合図と共に、二体の<くさった死体>はカミュ達へと近付いて来る。まるで<腐った死体>を盾にするように後ろへと下がった<シャーマン>には剣が届かない。魔法による一掃をするにしても、メルエはサラの背中に顔を埋めたまま。

 徐々に近づく<腐った死体>の腐敗臭と死臭が、カミュやリーシャの意識を奪って行った。

 

「うおぇ」

 

 漂う悪臭に嗚咽を漏らしたのは、カミュ達の後ろに控えている船員達。初めて見る動く腐乱死体は、船員達の精神を崩壊させるだけの威力を誇っていた。

 腐り落ちている肉や、こぼれ落ちそうな眼球。言語を失ったような呻き声。その全てが夜の闇と相まって『恐怖』へとすり替わって行くのだ。

 

「カミュ、燃やす事は出来ないのか!?」

 

「……俺の持つ<ベギラマ>程度では、足止めにしかならない……」

 

 近付く<腐った死体>牽制しながら叫ぶリーシャに返って来た答えは、期待していた物とは異なった。

 確かに、カミュは<ギラ>の上位魔法である<ベギラマ>を習得している。おそらく『賢者』となったサラも既に習得しているだろう。しかし、カミュの言うとおり、カミュやサラの<ベギラマ>では、『人』を燃やす事は出来ても、元『人』である魔物を燃やし尽くす事は出来ないのだ。それが出来るのは、このパーティーで唯一人。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「駄目だ。ここでメルエに頼る訳にはいかない。何とかならないのか?」

 

 リーシャの視線の先には、サラの背中に顔を埋めながら唸る幼い少女。

 既に世界最高の『魔法使い』となった彼女であれば、<くさった死体>どころか、その後ろで奇妙な動きを繰り返す<シャーマン>すらも消滅させる事が出来るだろう。だが、リーシャはそれを容認出来ない。

 メルエに無理をさせたくないと言う想いとは別に、哀しい想いもさせたくはないのだ。

 

「……わかっている……だが、あの腐乱死体だけを葬った所で、何度も呼び出されては堪らない」

 

「くそ!」

 

 手を伸ばして来た<くさった死体>の腕をリーシャは<鉄の斧>で斬り落とした。瞬時に広がる腐敗臭。既に血液ではなくなった腐った体液が飛び散り、その悪臭を撒き散らす。

 口元を押さえ、目が涙で潤んで行く事を抑えきれない一行は、また一歩と後ろへと下がってしまう。それは、<シャーマン>との距離が広がってしまっている事を意味していた。

 

「わ、わたしが<ニフラム>を唱えてみます。『人』であったとは言え、生を失った者。二体同時には厳しいかもしれませんが、何とかしてみます。その隙にカミュ様達は、あの魔物を!」

 

「……わかった……」

 

 <ニフラム>という魔法の本来の使用方法は、彷徨う死者の強制昇天。問答無用で天へ還す手段なのである。その魔法が、教会の僧侶を僧侶とする物でもあるのだ。

 『人』として苦痛の中で死を迎え、本意ではなく魔物となったであろう<腐った死体>をそのような形で葬る事に抵抗があるのだろう。サラの表情は若干の陰りを見せていた。

 その微かな変化を見逃さないカミュが小さく頷きを返し、リーシャへと視線を送る。そして、リーシャも頷きを返した。

 

「行くぞ、カミュ!」

 

 カミュとリーシャが同時に<シャーマン>へ駆け出した。動きが緩慢な<腐った死体>の横をすり抜け、リーシャとカミュが<シャーマン>へと肉薄する。その瞬間、カミュ達の後方で聖なる光が夜の闇を明るく照らし出した。

 

「ニフラム」

 

 片手を天に掲げたサラの詠唱が響き、二体の<腐った死体>の周囲を円で囲むように光が浮き上がる。緩慢な動きしか出来ない<腐った死体>はその光から逃れる事は出来ず、徐々に光が天に昇るのと共に、身体の一部も粒子となって天へ還って行った。

 既に腕が粉のように消え、頭の半分も消え始めているが、二体同時に昇天させる負担は大きいのであろう。サラの顔は苦痛を感じているように歪んでいた。

 

「やぁぁぁぁ」

 

「キィィィ」

 

 後方の光を感じたリーシャは、<鉄の斧>を振り抜く。予想以上に素早い<シャーマン>は、その斧を辛うじて避ける事に成功した。

 しかし、攻撃はそれだけではない。避けた方向には既にカミュの<草薙剣>が斬り込まれていた。

 

「キィィィィ!」

 

 苦悶の声を上げた<シャーマン>の二の腕から下が宙に舞う。脇腹にも大きな切り傷を作り、体液が周囲に飛び散った。

 息も吐かせぬ攻撃は尚も続く。リーシャの斧は腕を押さえる<シャーマン>の胴を横薙ぎに斬りつけた。しかし、その完璧な間合いは、予想外の<シャーマン>の動きで空を斬る事となる。

 腕を失い、後方へ下がろうとした<シャーマン>が足をもつらせて転倒したのだ。

 突然消えた敵にリーシャの斧は空を斬り、相手を確認する為の空白の時間が生まれる。その僅かな時間は、<シャーマン>に回復と召喚の時間を与えてしまった。

 

「キキィィィ!」

 

 既にサラの唱える<ニフラム>によって二体の<腐った死体>は天に召された。周囲の瘴気すらも浄化するような聖なる光によって、悪寒を覚える程の悪臭も共に消え失せている。

 そこに再び叫ばれた奇声。

 再び漂い始める不穏な空気と悪臭。

 それは、カミュとリーシャの顔を後悔で歪ませ、サラの顔を苦悶で歪ませるには充分な物であった。

 

「くそっ! カミュ、あの魔物を先に倒さなければ、永久的に呼ばれ続けるぞ」

 

「わかっている……ちっ!」

 

 リーシャの声に頷いたカミュの足下から飛び出してくる腕。それは、『人』の成れの果てである魔物の再登場を意味していた。

 この時代、『人』はあらゆる所で生を終えている。魔物に襲われ命を落とした者。食料がなく行き倒れ、そのまま餓死してしまった者。中には、盗賊等と争い命を落とした者もいただろう。

 そういう無念を持った死体を再び現世に呼び戻す術を<シャーマン>は持っているのだ。

 

「カミュ様、もう一度ニフラムをとなえ………リーシャさん、下がって!」

 

 <シャーマン>とカミュ達の間に割って入って来た二体の<腐った死体>は、カミュ達へとゆっくりと近付いて来る。

 再び<シャーマン>との距離を離されたカミュは盛大な舌打ちをし、リーシャは斧を構え直した。後方では、先程行使したばかりの強制昇天呪文の再行使を提案するサラの声が聞こえていたが、その言葉は途中で焦燥感に駆られた忠告に変化する。

 不思議に思い振り返ろうとしたリーシャの腕は強い力で引かれ、そのまま横倒しで押し倒された。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 リーシャを押し倒した青年の背中を熱風が吹き抜ける。リーシャの髪の毛を焦がす程の熱量。リーシャの顔のすぐ傍にある端正な顔は苦痛に歪み、その身に纏っている鎧に触れる事が出来ない程の高熱を宿して行った。

 

「うぁうぅぅ」

 

「キィィィィィ」

 

 カミュ達の上を吹き抜けた熱風は<腐った死体>の身体に衝突した瞬間に弾け、周囲を炎の海へと変えて行く。

 瞬く間に二体の腐乱死体を飲み込んだ炎の波は、後方で唖然としていた<シャーマン>をも飲み込み、その身体を焼き尽くして行った。

 メルエは、テドンで<マジカルスカート>を購入してから、灼熱呪文を行使した事はなく、<ヒャド>系の氷結呪文や<メラ>系の火球呪文のみを行使して来ていたのだ。

 船という移動手段を持ったカミュ達にとって、メルエの誇る灼熱呪文は脅威に値する程の威力。例えメルエが氷結呪文の方を得意としていたとしても、サラやカミュの魔法では足元にも及ばない事は事実であるが故に、船上で行使する機会はなかった。

 ジパングに於いても、相手が溶岩の洞窟にいた以上、<ベギラマ>等の呪文に効果が出るかも怪しかった為、サラはメルエに指示を出さなかったのだ。

 

「おお……」

 

「凄い……」

 

 暫くの間、森には炎が燃える明かりが闇を退け、生きている者が燃える不快な臭いが漂う。静けさが支配する森の入口で、燃え盛る炎の音だけが響く中、カミュ達の戦いを呆然と見ていた船員達が各々の感想を小さく口にした。

 彼等の顔に浮かんでいるのは様々な感情。それは、カミュやリーシャ、そしてサラが恐れていた感情も隠れていたのかもしれない。だが、それをサラが確認する時間は与えられなかった。

 

「サラ! 早くカミュの治療を!」

 

「は、はい!」

 

 前方で上に乗るカミュを動かし、身体を出したリーシャが、カミュの容体を見てサラを呼んだのだ。

 メルエの放つ灼熱呪文をまともに受けた訳ではない。だが、規格外の『魔法使い』が放つ魔法は、その余波だけでも『人』を死に至らしめる力を有していた。

 カミュの背中は、未だに赤く変色した鎧で焼け爛れているだろう。これが、魔法にも耐性を持つ<魔法の鎧>でなかったとしたら、彼の背中を護る鎧は溶け、そのまま熱風を地肌に浴びていたのかもしれない。

 

「…………カミュ…………」

 

 倒れ伏すカミュと、それを治療するサラを見たメルエは、倒れている青年の名前を口にしながら、『とてとて』と駆け出した。メルエが近付くと、サラはカミュの鎧に<ヒャド>を唱え、その熱を冷やしている。

 冷やし終えてから鎧を取り、背中を見てサラは息を飲んだ。

 カミュの背には、大きな一筋の傷があった。それは何かで斬りつけられたような物であり、その塞がり具合を見れば、近年で出来た物ではないだろう。かなり昔に付けられた傷。

 傷が深かった為なのか、それとも治癒魔法が未熟だった為なのか、その傷跡は青年の背中に色濃く残っていた。

 

「ベホイミ」

 

 既に治っている傷跡を消す事は出来ない。サラの唱える淡い緑色の光は、カミュの背中を包み込み、火傷によって爛れた皮膚を再生して行く。だが、大きな一筋の傷跡だけは修復されなかった。

 暫し、その傷跡を見ていたリーシャとサラであったが、近くに寄って来たメルエに気付いたサラは、表情を引き締め、メルエに厳しい視線を送った。

 

「メルエ! 何故、私の指示を待てなかったのですか!?」

 

「!!!」

 

 突如ぶつけられたサラの激昂。それは、メルエにとって初めての物。

 以前、リーシャが<メダパニ>に罹ったダーマ周辺でも、サラの厳しい叱責を受けた事があるが、あれは怒りではなく、注意であった。

 今のサラの顔に浮かぶのは、明確な『怒り』。

 これ程の怒りをカミュ以外にぶつけるサラをリーシャも未だに見た事はないのだ。

 

「サ、サラ……」

 

「リーシャさんは黙っていて下さい! メルエ、答えなさい! 何故、あの時に<ベギラマ>を唱えたのですか!?」

 

 サラを止めるように口を開いたリーシャの言葉は、最後まで紡がれる事無く、サラによって押し込められてしまう。

 メルエに向かって告げられた言葉は命令形。それは、この旅に出てから初めて聞いたサラの口調。どれ程にカミュへ憤りを感じていても、どれ程の罵声を浴びせられても、サラは一度たりとも口調を崩した事はない。

 それが、サラの怒りの度合いを示していた。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 感情的になっているサラを止める事は、リーシャにも難しい。そして、サラが感じている怒りの内容にも気が付いているだけに、リーシャは止める事が出来なかった。

 初めて見るサラの剣幕にメルエは怯え、俯きながら唸り声を溢す。手には既に<魔道士の杖>はなく、その両手は<テドン>で購入した<マジカルスカート>が皺になる程に握り締められていた。

 

「メルエ!」

 

「…………くさ………かった…………」

 

 再度上げられたサラの声に、既に涙声になってしまったメルエの小さな呟きが零れた。その言葉を何とか聞き取ったサラとリーシャは、呆れたように顔を歪ませ、そして再び表情を引き締める。

 臭いに我慢出来なかったメルエは、サラの<ニフラム>によって臭気までも浄化されたあの短い時間で詠唱を始めていたのだろう。そこで再び悪臭の原因が登場した事によって、その詠唱を完成させてしまった。

 しかし、それはサラにとって許してはいけない行為だった。

 

「わかりました。ここから先、メルエの魔法を禁止します。カミュ様には、私の方から話しておきます」

 

「サ、サラ」

 

「!!…………いや…………」

 

 リーシャは驚いた。まさか、サラがこのような言葉を発するとは思わなかったのだ。

 カミュがメルエに通告する事はあった。しかし、サラがここまで傲慢な物言いをした事はこの旅の中で一度もない。

 メルエの魔法を禁止する資格があるかどうかという問題ではなく、メルエという幼い少女への愛情がサラの物腰を柔らかくしていたからだ。

 

「メルエ……メルエの魔法は、魔物だけではなく、大事な人の命さえも奪ってしまう可能性がある事を知ってください。それを理解出来まで魔法を行使する事は禁止します」

 

「…………いや…………」

 

 真っ直ぐ見つめるサラを見たメルエは、『ぷいっ』と顔を背けてしまう。

 カミュやリーシャに言われたのならば、メルエは自分の行為の中にある非を感じ、素直に頭を下げたのかもしれない。だが、良くも悪くもサラはメルエにとって一番近い位置にいる姉なのである。故に、顔を背け、反抗の意思を示した。

 

「……メルエ……メルエは今、カミュ様を殺してしまうところだったのですよ? メルエはカミュ様が死んでしまっても良かったと言うつもりですか?」

 

「…………いや…………」

 

 諭すような口調に変わったサラの方へ視線を戻したメルエは、小さく否定の言葉を溢して俯いてしまう。そんなメルエの傍に近寄ろうとしたリーシャは、再び足を止めてしまった。

 実は、何度かリーシャは仲裁に入ろうとしていたのである。しかし、その度にサラの強い視線を受け、その足を止めるしかなかったのだ。

 

「メルエには、何度も話した筈です。<ヤマタノオロチ>と戦っていた時も、メルエは自分の行使する魔法の強さを見ていたではありませんか? メルエが持つ魔法の才能を疑った事はありません。船の上では魔法力を調整して船に被害が出ないように<ヒャダルコ>を唱えていた筈でしょう?」

 

「…………むぅ…………」

 

 魔物を倒した筈なのに責められている事にメルエが頬を膨らませる。メルエも心の中では理解しているのだろう。後方からのメルエの魔法に関しては、何度かサラの注意を受けた事がある。それは少しずつではあるが、メルエの心の中でしっかりとした形を作り始め、理解をし始めているところだった。

 だが、如何せんメルエは幼い。ようやく心を開く事ができ、我儘も言い始めたこの少女は、サラの叱責を素直に受け入れる事が出来なかった。

 

「メルエは今後、ますます強力な魔法を覚えて行く筈です。今のままでは、カミュ様だけではなく、リーシャさんや私までを巻き込んでしまう可能性だってあるのです。以前のように、魔法でメルエの身体が傷つくのなら私が癒します。ですが、メルエの魔法でカミュ様やリーシャさんの命が危ぶまれたり、メルエ自身の命が危機に晒されるのだとすれば、メルエと一緒に旅する事は出来ません」

 

「!!」

 

「サ、サラ……」

 

 明確な言葉を発したサラをリーシャとメルエは驚いた顔で見つめていた。サラの瞳は真っ直ぐにメルエに向けられている。その視線を受けたメルエは、一瞬眉を下げたのだが、すぐに頬を膨らませた。そして、再び『ぷいっ』と顔を背けてしまう。

 まるで『サラに言われる筋合いなどない』とでも言うように顔を背けたメルエを見て、サラは大きな溜息を吐き出した。

 

「……そうですか……メルエには解って貰えないのですね。その様子では、カミュ様やリーシャさんが何故メルエを戦いに参加させなかったのかという理由も分からないのでしょうね……」

 

「サラ、それは……」

 

 ここでようやくリーシャは口を開いた。カミュやリーシャの考えていた事をサラが理解していた事にも驚いていたのだが、『賢者』と呼ばれるサラが気付いていない訳がない。だが、それをメルエに求めるのは余りにも酷であろう。

 『それはメルエに解る訳がない』

 その言葉を発しようとしたリーシャの口は半ば強制的に閉じられる形となる。

 

「マホトーン」

 

 メルエの頭に翳された手から発したサラの魔法力が、メルエの身体を包み込む。その魔法の名前と効力は、リーシャだけではなくメルエも知っていた。

 魔法を封じる魔法。その魔法に彼等は何度も苦しまされた。

 敵の使う<マホトーン>によって魔法を封じられたメルエは戦闘では何も出来ず、ただ戦闘を行うカミュ達三人を眺めている事しか出来なかった。行使出来るのにカミュの指示で出来ないのではなく、物理的に行使する事が出来ないようになるのだ。

 それを理解したメルエの顔が『恐怖』で青ざめて行く。

 

「…………いや………いや…………」

 

「メルエは、今回の事を少し考えて下さい」

 

 サラの纏う<魔法の法衣>を掴んだメルエは、懇願するようにサラを見上げる。しかし、サラの口から返って来た言葉はとても冷たく、メルエを突き放すような物だった。

 いつもと違うサラの態度は、メルエが持っていた余裕を全て奪い取って行く。

 

『むくれていれば、許してくれる』

『リーシャがきっと助け舟を出してくれる』

『嫌いと言えば、サラは慌てる』

 

 そんなメルエの考えは跡形もなく砕け散った。

 何がこれ程サラを強硬にしたのかは解らない。だが、メルエの瞳を見つめるサラの瞳の中に『怒り』や『憎しみ』等の負の感情は見えて来ない。それを感じたリーシャは、このやり取りを仲裁する事が不可能である事を知り、会話の方向を変えて行く事にした。

 

「ここで野営が出来ない以上、場所を変えよう。もう完全に陽は落ちた。気温が落ちる前に火を熾そう」

 

「そうですね」

 

 リーシャの提案を受け入れたサラは、メルエの手を優しく解き、未だに意識を失っているカミュの状態を確認する為に座り込んだ。掴む対象を失ったメルエの手は虚空を掴み、その瞳には大粒の涙が溢れ出す。

 実際、<マホトーン>の効力はそれ程長くは続かない。行使した魔物が滅すれば、その効果も薄れる。だが、サラを殺す訳にはいかない以上、メルエは永遠に効力が続くのではないかという不安を感じていたのだった。

 

「ほら、メルエも行くぞ。カミュは私が運ぼう」

 

 促されたメルエが、救いを求めるようにリーシャを見上げるが、その視線から逃げるようにカミュの許へと歩いて行ったリーシャを見て、メルエの瞳には『絶望』が深く刻まれた。

 味方がいない状況など、カミュ達と出会ってからメルエは味わった事がない。アッサラームの町で生活していた頃は、逆に味方など誰一人としていなかった。しかし、皆がメルエを可愛がり、誕生日まで祝ってくれた事にメルエは甘えていたのかもしれない。

 初めて覚えた甘えと我儘。それは、何時でも笑顔を向けてくれていた優しい姉によって打ち砕かれ、母のように慕う女性によって投げ捨てられてしまった。

 

「メ、メルエちゃん。さぁ、行こう」

 

「…………ぐずっ…………」

 

 だが一方で、この問題が勃発した事によって、良い方向に転がった事柄もあった。

 船員達はしょんぼりと俯くメルエを見て、『恐怖』のような感情を抱く事はなく、むしろ『憐れみ』に近い感情を有していたのだ。可愛いマスコット的な存在であるメルエが、強く叱られ涙を流している姿は彼等の父性に火を点けたのかもしれない。

 

 ランシール大陸は完全に闇に支配された。

 彼等の目指す<ランシール>という村は、まだ見えない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

ようやく新章も第二話です。
やはり、どうしても目的地に着くまで二話程かかってしまいますね。
これが冗長的とご指摘を受ける部分なのでしょうね(苦笑)

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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~幕間~【ランシール周辺】

 

 

 

 周囲を闇が支配し、木々を揺らす風の音だけが響く中、枯れ木を燃やした焚き火を囲むように座った一行は、リーシャの取って来た野うさぎを捌いた物を食していた。カミュは未だに意識を取り戻していない。いや、意識を取り戻していないのではなく、只単純に眠っているのだろう。

 

「カミュは、船の上や降りた後も眠っていないからな。今はゆっくり休ませてやろう」

 

 カミュの寝顔を見て軽く笑うリーシャにサラも頷きを返した。その様子を見て、船員達も表情を崩す。仲間の身を案じた優しさを感じ、自らも優しい気持ちになったのだろう。

 ただ、その中で一人だけは異なっていた。

 

「…………」

 

 食事も碌に取らず、ちらちらとサラの方へ視線を動かしては俯く者。小動物のように怯えたその姿は、船員達の庇護欲を煽るような物だった。だが、サラは何故かその少女の方へ視線を向ける事はない。リーシャでさえ、何かを言いたくてうずうずしているのにも拘わらず、サラはメルエに対して何の反応も示さなかった。

 手に取った果物を半分も食べずに置いてしまったメルエは、俯きながら涙を堪えている。潤んだ瞳は、焚火の炎に照らされ光を放っていた。船員達も何かを言いたそうにサラの方へ視線を送るが、サラはその視線に気付いていないように関心を示さない。焚き火に薪をくべながら、炎だけを見つめているのだ。

 それは、メルエの心に更なる不安と哀しみを運んで来る。何かを言いたげに顔を上げては、再び俯くの繰り返し。メルエは、自分から相手に何かを伝えるという行為をして来た事がない。常にリーシャやサラが何かに気付き、問いかけられた事に答えて来ただけなのだ。

 メルエは常に受け身であった。故に、今も誰かがサラに何かを言ってくれるのを待っている。リーシャが『どうした?』と聞いてくれる事を待っている。

 だが、そのメルエの小さな期待に応えてくれる者は誰もいなかった。

 

「夜も更けて来たな。もう休め。ランシールの村まではもう少しだとは思うが、明日も朝から歩くだろうからな」

 

 リーシャは、緊迫した空気を振り払うように船員達へと声をかける。船着場から二日間歩き続けた彼らの疲労はかなりの物だろう。屈強な海の男達とは言え、歩いて旅をする事に慣れている訳ではない。その事を示すように、リーシャの言葉に頷いた彼等はすぐに寝息を立て始めた。

 

「…………」

 

 皆が眠りにつき、起きているのはリーシャとサラとメルエの三人となった。暫し俯いていたメルエは不意に立ち上がり、カミュから取り外してあったマントを両手に抱えてサラの隣へと歩いて来る。何かを言いたそうに少しサラへ視線を向けるが、サラと視線が合わない事に肩を落とし、その傍でカミュのマントを被って横になった。

 

「…………ぐずっ…………」

 

 頭まで被ったマントの中で鼻を啜る音を響かせているメルエにリーシャは眉を顰める。メルエがサラに何を言いたいか等、リーシャに解らない訳がない。故に、リーシャはサラへと訴えるような視線を送った。それでも、サラと視線が合う事はない。

 リーシャでもメルエの気持ちに気付いているのだ。サラが『何故、メルエが態々サラの傍で眠ろうとしているのか』という答えに気が付いていない訳がない。

 

 

 

 暫しの間、沈黙が続いた。焚き火の中の薪が燃え、『パチパチ』という音が響く中、リーシャとサラは眠りもせずにその炎を見つめている。先程まで何度か鼻を啜る音を立てていたメルエは静かな寝息を立て始めていた。

 ようやくサラが傍で眠るメルエの頭を持ち上げ、その下に革袋を敷く。メルエの目元に残る涙の跡を手で拭ったサラは、小さな溜息を吐き出した。

 

「サラ……今日はどうしたんだ? 確かにあれはメルエの落ち度だ。だが、あそこまでする必要はあったのか?」

 

 サラの行為を見て、メルエを想う気持ちに変化はないのだと確信したリーシャは、思い切って今日の事を切り出した。

 メルエの行動に非がある事は明らかである。だが、それは今に始まった事ではない。故に、リーシャにはサラが激昂した理由が思いつかないのだ。

 

「それに、カミュは傷を負ったが命に別条はない。メルエが不憫でな……」

 

「……それでは駄目なのです」

 

 ようやく口を開いたサラは、上空に輝く星々を見上げる。その言葉にリーシャはサラを見つめた。カミュはまだ起きる様子はない。ここは、サラの考えを聞くべきだろうと、リーシャは先を促すように目で訴えた。

 

「メルエは『恐れ』を知りません。他者を傷つける可能性への『恐れ』も、他者から向けられる感情への『恐れ』も」

 

 皆から可愛がられ、甘えや我儘を知ったメルエにとって、この三人に対しては怖い物知らずと言っても過言ではないだろう。悪い事をすれば叱られる。それが子供の成長には不可欠であるのだ。そうでなければ、善悪の境界線も理解出来ず、他者の痛みも理解出来ない。

 だが、サラが言っている事はどこか違う物を意味しているようにもリーシャは感じていた。

 

「私がメルエであったのなら、私は自分自身の力を恐れます。自分の力によって生じる様々な事への『恐怖』……リーシャさんは、自分自身の力を正確に認識していますか? どれ程の力が自分に宿っているのかを把握できていますか?」

 

「ど、どういう事だ?」

 

 リーシャはサラの問いかけの真意が解らない。メルエの話であった筈が、矛先がいつの間にか自分へ向けられていたのだ。自分自身の能力はリーシャも把握しているつもりだ。だが、どれ程の潜在能力を有しているかとなれば、明確な返答は出来ない。

 

「私は、『賢者』となった自分の中にどれ程の力が宿っているのか解りません。その点に関しては、メルエと同じでしょう。私もメルエも未知の力を持っていると思います。それは、おそらくリーシャさんもカミュ様も同じではないかと思うのです」

 

 『賢者』となったサラの魔法力の質は変化している。そして、凡人である者が『賢者』になる事はあり得ない筈。それならば、サラの中に『賢者』となるだけの資質が眠っているという事にもなる筈だ。

 そのような未知の力は、サラだけでなくリーシャやカミュにも宿っているとサラは言う。だが、リーシャにはそれがメルエの話にどう繋がるのかという事が理解出来ない。

 

「サラ、すまない。もう少し解り易く話してくれないか?」

 

「自分の力が正確に分からない以上、私達は何処かでその力を恐れます。『恐れ』は周囲への配慮を生み、視野をも広げます。自分の力を制御する方法を模索し、その場所場所で的確な力を発揮するように動くでしょう。ですが、メルエは違います」

 

 確かに、リーシャは鍛錬の中で自身の力を把握して行った。故に、子供の頃に自分を馬鹿にした者と対峙した時、相手を殺してしまう程の力を持っていてもそれを行使する事はなかったのだ。

 

「だ、だが、この旅は力を抑制して進める程、簡単な旅ではないぞ」

 

 リーシャの言う事も尤もである。魔物は行く土地ごとに強くなっているようにすら感じる。その魔物達を倒す為には、持てる力の全てを出さなければならない。その上に立つ『魔王バラモス』と戦うのならば尚更である。

 

「だからこそ、私達は自身を鍛えているのではないのですか?」

 

「なに?」

 

 リーシャの顔が呆けたような表情を生み出す。サラの言葉の整合性が見えなかった。力を鍛えれば、その力は次第に強くなって行く。それではサラの言っている事が矛盾しているようにリーシャには感じたのだ。

 

「私がアリアハンにいた頃に今のメルエの力を見たとしたら、その魔法の威力に驚き、恐れたと思います。そんな私がする事は、おそらく教会への報告でしょう。報告を受けた教会は事実確認をし、その力が教会で守護出来る範囲ではない事が解れば、国家に報告されます。後は、リーシャさんの方が詳しいかと……」

 

 リーシャはそこまで聞いた後、思考の中へと入り込んだ。もし、メルエのように強大な力を有した『魔法使い』の少女が城下にいたらと。

 サラの言うとおり、教会では手に余る存在であろう。もし、国家にその事実が知れれば、国家への反逆を企てていると疑われても弁解は難しい。ならば、速やかに報告がなされる筈であり、その報告を聞いた国家の魔法省などは、国王に判断を仰ぎながら巡視を派遣する筈。

 そこで、いくら規格外とは言え、メルエの力が『人』の範疇であれば問題は小さい。メルエを国家に取り込み、国家の戦力とすれば良いのだ。しかし、もしそれが『人』という枠を大きくはみ出していた物であったら。

 それは、国家にとっても脅威となり、解剖も含めての研究対象となる可能性は大きい。幼い内にと薬や魔法で自我を奪い、命令を聞く人形として造り変えるかもしれない。

 どちらにしても幸福とは程遠い結末を迎えるだろう。

 

「その為の鍛錬だと思うのです。鍛錬や修練を行う事で、私達は自身の力の幅を知り、その力の使い所や制御を覚えます」

 

「……そうだな……」

 

 確かにサラの言う通りだ。修練とは、己の力を高める目的の他に、己の力を知るという目的もある。己の力を知り、相手の力を探れば、勝敗を決する程の結果を生み出す。己の力を知らず過信する者や、逆に自身の力を過小評価する者は、戦いの中で命を落とす確率は跳ね上がるのだ。

 

「自分の力を制御出来るようになれば、余計な場所で余計な力を使う事もなくなります。ですが……今のメルエにはそれが出来ません。メルエが新しい魔法を覚える度に褒め続けていた私達にも責任はあると思いますが……」

 

「……そうかもしれないな」

 

 続くサラの言葉にリーシャは言葉を詰まらせた。メルエは新しい魔法を覚え、それを唱えて皆を驚かせる事に喜びを感じている節がある。『メルエは凄い』と褒められ、頭を撫でられる事を目的としているように。

 それはカミュやリーシャにも責任があるのだろう。だが、その弊害として、メルエは魔法を行使する時の制御を余り考えている様子は見られないのだ。いつでも、自身の持っている強い魔法を行使する。<ヒャド>で倒す事の出来る相手に<ヒャダイン>を行使するような行為は、メルエの魔法力の無駄遣いであると共に、周囲にも要らぬ被害を与える可能性があるのだ。

 常にではないのが救いではあるが、その事をメルエが深く考えていない事は事実であろう。

 

「新たな力、強い力を手に入れる事だけが魔法の練習ではない事をメルエに教える事を失念していました。メルエの想いを理解しているからと、その力を甘く見ていたのかもしれません」

 

「サラ……」

 

 メルエの『想い』。

 それを、リーシャやサラは知っている。

 『自分を護ってくれる者達を護りたい』。

 メルエはその『想い』だけで動いていると言っても過言ではない。

 

 故に、その護りたい対象を自分の力で傷つける訳はないと考えていたのだ。だが、メルエの強大な力は、リーシャやサラの考えを大きく超える程の力だった。

 メルエが何も考えず、魔法を行使した場合、周辺への被害は無視できない物となって来る。勿論、サラは的確に指示を出す事を怠るつもりはない。だが、例えサラが指示したとしても、メルエが何の制御もせずに行使すれば、同じ事なのである。

 

「それに……」

 

「な、なんだ? まだあるのか?」

 

 眉間に皺を寄せながら表情を歪めているリーシャに、サラはまだ言葉を続けようとする。しかし、その言葉は途中で飲み込まれてしまう。言い難そうにリーシャを見つめるサラの瞳は、今までとは異なる物だった。

 自信の無い、以前のサラが常に浮かべていた瞳。

 怯えるように、そして悩むような瞳。

 それを見たリーシャは、問いかけても良いかどうかを悩んだが、意を決して言葉を紡いだ。

 

「……はい……もし……もしもの話ですが、メルエの力が漏洩し、その力が脅威に値する物として認識される事となれば、国家が動き出すでしょう。その時……その時、リーシャさんはどうしますか?……いえ、申し訳ありません。カミュ様がどうすると思いますか?」

 

「!!」

 

 そこまで聞いて、リーシャはようやくサラの懸念の元を理解した。リーシャは国家に属する『騎士』である。『魔王討伐』という使命を受けて祖国を離れているとはいえ、宮廷騎士という職を辞した訳ではない。

 故に、考えたくはないが、そのような事が起これば国家側に立たざるを得ないかもしれないのだ。

 しかし、カミュは違う。

 リーシャはカミュの心の変化をここまで見て来たと自負している。故に、その時のカミュの対応が容易に想像できるのだ。

 カミュは十中八九の確率で、メルエを護る為に『人』の敵となるだろう。元から『人』に対して、『憎しみ』とは言えずとも、良い感情を持ってはいないのだ。メルエに害を成す可能性があると判断すれば、カミュの持つ牙は、確実にその対象を変更するだろう。

 そして、そうなった時、カミュを止められる者は誰一人としていない。

 

「先に言っておきますが、私にはメルエに対抗出来る程の力はありません。メルエが相手となれば、私に勝てる要素は何一つありませんよ。リーシャさんには申し訳ありませんが、正直言えば、国家の騎士の方達が軍を率いても、メルエの魔法で簡単に飲まれてしまうと思います」

 

「……否定は出来ない……」

 

 メルエが人類の敵になってしまったとしたら、誰が相手を出来るというのだろうか。サラの言うとおり、国家が軍隊を率いて来たとしても、メルエ一人に勝てるかどうか解らない。

 勝てるとすれば、先程サラがメルエへ唱えた魔封じの呪文が効いた場合に限るだろう。だが、この世界でサラ以外の誰が、今のメルエの魔法を封じる事が出来るというのだろうか。

 もはや、世界最高の『魔法使い』という地位を確立したメルエの魔法を封じる力を有する『人』はいないと言っても過言ではないのだ。

 

「私は、最近になって、ようやくリーシャさんの話して下さった事が理解出来ました。カミュ様ならば、きっと『魔王バラモス』を倒す力を有する事になるでしょう。そんな人物が『人』の敵となってしまえば、人類は間違いなく滅びます」

 

「……」

 

 サラがカミュを信じ始めている事を喜ぶ余裕など、今のリーシャにはない。カミュが人類の敵となったとしても、彼ならば率先して人類を滅ぼそうとはしないだろう。だが、国家がそれを許さない。次々とカミュの許へと軍隊や暗殺部隊を派遣する可能性は高いのだ。

 行き着く先は、その国家の滅亡だろう。そうなれば、『人』の敵となったカミュに『魔王討伐』の義務はなくなる。

 それこそ、『魔王バラモス』の狙いがメルエでない限りは。

 

「カミュ様やメルエだけではなく、私やリーシャさんも、既にそれ程までの力を有している事を自覚すべきなのかもしれません」

 

 顔を伏せたサラの中にある想いがどんな物なのかは、リーシャには想像する事さえ出来ない。『人』の未来を護る為に旅立った者達は、この先の旅で護るべき対象である『人』を滅ぼす程の力を有するようになるというのだ。

 そして、それは絵空事ではなく、必然的な程に現実に近い物。生きとし生ける物の頂点に立つ『賢者』となったサラの苦悩は、深く哀しい物であろう。

 

「だからこそ、私はメルエに自分の力の恐ろしさを知って欲しい。メルエは聡い子です。己の力を知り、その力を制御する事など容易く出来る筈。それが、メルエ自身と、そして彼女が大切に想っている人達を護る事になる事を知って欲しいのです」

 

「サラ……」

 

 サラの顔を見つめたリーシャの瞳から、一筋の滴が流れ落ちた。

 メルエに対して激昂したサラを見た時、リーシャは『そこまでしなくとも』という想いを持ってしまっている。それは間違いであった。サラが考えていた事は、リーシャだけではなく、おそらくカミュが考えていた事よりもずっと先の事であったのだ。

 それをリーシャは大いに恥じる。自分の浅はかさと、サラの抱く大きな慈愛を感じ、無意識に視界が歪んで行くのを感じた。

 

「私達の目指す敵は『魔王バラモス』である事は変わりません。ですが、<ヤマタノオロチ>と対峙した時のメルエを見て、私はそう感じました。不用意に周囲に誇る力ではないと……」

 

「だが、今のままではメルエも気付きはしないぞ?」

 

 瞳から零れる涙を拭ったリーシャの問いかけに、サラは苦痛な表情を浮かべる。確かに、今のメルエは、その事に気付かない。サラの隣で眠るメルエは、サラに怒られた事を気にしているに過ぎないからだ。

 何故怒られたのかを正確に理解はせず、只々サラの機嫌を伺っているだけ。故に、サラはメルエの行動を無視していた。

 

「メルエには善悪を教えてくれる者はいなかった。いや、正確にいえば、メルエの行動全てが悪として教え込まれて来た節がある。サラ……メルエには、しっかりと言葉で伝えなければ伝わらないぞ?」

 

「……わかっています……ランシールに着いたら、私にメルエと話し合う時間を下さい」

 

 サラの苦痛な表情が、メルエに伝える事の困難さを明確に示していた。メルエには常識という物が足りないのだ。基礎となる物がない故に、その上に乗せる事が出来ない。何かを伝えようとしても、根底にある善悪が曖昧なため、伝えようとしている物への理解が薄いのだ。

 サラはここまでの旅でメルエに自分の考えを押し付けるような教え方はしなかった。それこそ、挨拶のような些細な物は世界の常識を教えていたのだが、教会の『教え』自体に疑問を持ち始めていたサラにとって、自身が信じ切れていない物を他者に押し付ける事が出来なくなっていたからだ。

 

「カミュが起きたら、私から話しておこう」

 

「えっ!? い、いえ、私が話しておきます」

 

 サラの答えに満足そうに頷いたリーシャの提案は、サラにとって歓迎出来ない物だった。リーシャの事を疑っている訳ではない。ただ、リーシャでは、サラの伝えたい事の半分もカミュに伝わらないのではないかという懸念が湧き上がったからだ。

 

「ん、そうか? ならば、サラの方からカミュへ話しておいてくれ」

 

「はい」

 

 安堵したように息を吐き出すサラを不思議そうに見つめていたリーシャであったが、すぐに柔らかな笑みを浮かべ、サラの隣で眠るメルエの髪を優しく梳き始めた。

 その顔はサラにも負けない慈愛に満ちている。これ程皆に愛されているメルエを若干羨ましく思いながらも、サラは優しく微笑んでいた。

 

「……サラ……一つだけ聞いて良いか?」

 

「え?……は、はい」

 

 メルエへ視線を向けたまま呟かれたリーシャの言葉を聞いたサラは、その後に続く問いかけが何かを予想していた。故に、一度俯きかけた顔を上げたサラの表情は真剣そのもの。リーシャの問いかけを真っ向から受け止め、真剣に答える準備を整えた事を意味していたのだ。それを見たリーシャも何かを決めたように口を開く。

 

「もし……もしもの話だが、サラの考えが現実となり、メルエが『人』の敵と看做されたとしたら、サラはどうするんだ?」

 

「わかりません」

 

 決意を決めた表情をしていた筈のサラの答えを聞いたリーシャは呆けた顔を浮かべる。まさか、そのような答えが返って来るとは思わなかったのだ。

 間髪入れずに返って来た言葉は、リーシャの希望とは異なり、とても曖昧な言葉だった。

 

「わかりません……メルエは大事な大事な人です。ですが、私は『賢者』となりました。カミュ様の言うとおり、私は己の感情だけで動いて良い者ではありません……」

 

 何かを諦めてしまったような答えを吐くサラを見て、リーシャの表情は徐々に変化を見える。それが『怒り』であるのか『失望』であるのかは解らない。ただ、先程までのサラとは違う何かを見たリーシャは、その言葉を飲み込む事は出来なかった。

 

「私は、メルエと共に行く。例え……それが国家に刃向う事になってもだ」

 

 サラの顔が上がる。サラは、リーシャも自分と同じように悩むだろうと考えていた。

 しかし、リーシャは即答したのだ。『メルエと共に行く』と。それは、『人』に仇する者となるという事と同意。

 

「まぁ、そのような可能性はないと思うがな。ただ、これだけは覚えておいてくれ」

 

「リーシャさん?」

 

 一度伏せた顔を上げたリーシャの顔は笑顔だった。そのとても優しい笑みにサラは問いかける。この後に続く言葉はサラも予想が出来ない。リーシャの笑みが優しければ優しい程、サラの身体は凍る程に固くなって行く。

 

「サラがメルエを大事に想っているように、私もサラとメルエを大事に想っている。そして、私は誰よりもサラを信じている」

 

「……うっ……」

 

 サラの双眸から滴が零れ落ちる。実は、サラはかなり前からメルエの事で悩んではいたのだ。それこそ、メルエが初めて魔法を使ったあの日から。

 サラもメルエの歳と同じ頃に<ホイミ>の契約を済ませてはいた。いや、正確には契約だけは済ませていたと言った方が良いだろう。孤児として教会に入ったその時から、サラは『僧侶』としての道を歩み始めていたのだ。

 そして、サラの養父である神父は、『僧侶』となる為の儀式に近い<ホイミ>の契約を半ば強制的にサラに行わせた。

 しかし、サラは契約をしても行使は出来ない。その事を神父は責める事はなかった。何故なら、それが至極当然の事であったからだ。

 基本的に、幼い頃に魔法の契約を済ませ、その子供の体内にある魔法力の色を確定する。『魔法使い』を望むのならば<メラ>を、『僧侶』を目指すのならば<ホイミ>を。

 魔法力の有無は、契約が出来るかどうかで判別が出来る。<メラ>や<ホイミ>の初期魔法の二つに限り、魔法力の才があれば契約だけは可能であるのだ。そして、魔法力の色が確定した者は、その色に身体が馴染むまではその魔法を行使する事は出来ない。故に、サラが契約だけで行使が出来ない事は当然であったのだ。

 ならば、メルエはどうか。メルエはカミュの契約の場に立ち会い、カミュの軽率な行動によって魔法の契約を済ませてしまった。そして、その場でその魔法を行使したのだ。故に、あの時カミュは表情を崩す程に驚いた。つまり、メルエの身体の中にある魔法力は既に確定し、出来上がっていた事になる。

 サラは初めてメルエの魔法を見た時に、『メルエは魔法が使えたのですね?』と問いかけた。それは、以前から既に魔法を行使して来たのならば、魔法の才能が飛び抜けた存在として理解する事も可能であるからだ。

 だが、実際はそれとは異なっていた。メルエは魔法という存在も知らず、魔法力の放出の仕方も知らない。何も理解せずに、才能だけで魔法を行使するメルエを、サラは畏怖の念すらも持って見ていた。

 次々と新たな魔法との契約を済ませて行くメルエ。その速度は、尋常ではなかった。宮廷等で国家専属の『魔法使い』であっても、十数年かけて済ませる魔法の契約を、メルエは僅か一年やそこらで終え、今や世界中の『魔法使い』でも行使する事の出来ない魔法の契約までも済ませてしまっている。 

 そして、その魔法の威力は、『賢者』と呼ばれる人類の頂点に立ったサラでも足下に及ばない。魔物が唱える魔法と拮抗する程の力を持ち、仲間すらも飲み込む程の範囲を誇った。

 『メルエを護る』とアッサラームの町でサラは月夜に誓っている。しかし、それは何からの守護なのか。その問いかけが最近のサラの胸の中で渦巻き始めていた。

 その答えは未だに出ては来ない。メルエがサラにとって大事な妹のような存在である事に変わりはない。それが変化する事など、生涯あり得ないだろう。

 だが、サラは『賢者』。

 『精霊ルビス』と『人』を結びつける掛け橋のような存在。

 この世の生きとし生ける物全ての幸福を願い、その為に考え、悩み、進む道を示す者。

 故に、苦しんでいたのだ。

 

「船員達がメルエを恐れる事はなさそうだが、やはりこの先の旅では色々と考えて行かねばな」

 

「はい」

 

 サラの悩みは未だ解決はされていない。もしサラの考え通り、最悪な事態がカミュ達を襲ったとすれば、サラがどのように行動するか、サラ自身にも答えは出ていなかった。

 だが、悩み、苦しみ、涙しながらも前へ進もうとするサラの答えをリーシャは信じている。それは必ずしもメルエと共に行く答えとは限らない。それでも、サラの導き出す答えが、必ずメルエを含め、皆が幸せになる答えだと信じていた。

 

「明日はランシールの村だな。明日の夜はメルエと話すのだろう? 今の内にゆっくりと休んで置け」

 

「……頑張ります……」

 

 緊張した面持ちで神妙に頷くサラを見て、リーシャは軽く微笑んだ。メルエの事に関しては、何もかもをサラに任せてしまっている事をリーシャは心苦しく感じてしまっていたが、現実的に考えても、カミュやリーシャではメルエに対してどうしても甘さが残ってしまう事も事実。

 リーシャは何度かメルエを叱った事もある。ピラミッドの中やムオルの村では、メルエの考えを改める為に怒鳴りもした。だが、今回に限ってはメルエの内に宿る魔法力とその力の使い方についてである事がリーシャに二の足を踏ませていたのだ。

 リーシャに魔法力は無い。いや、無いのではなく、その微かな魔法力を表に出す才能が皆無に近いのだ。故に、魔法に関しては何も知らない事となる。

 メルエの宿す力が強大であり、その力があらゆる意味で危険である事は理解してはいるが、それをどのように伝えれば良いのか、そしてそれをどのように変えさせなければならないのかが全く解らない。それは、ある意味でメルエと同じように、己の才能だけで魔法を行使している節があるカミュも同様であろう。

 以前、メルエが媒体を通して魔法を使用する練習をしていた時は、サラも教える事は出来なかったが、今はあの時のサラとは違う。己の魔法力の変化を通じて、様々な事を考えて来ているのだ。

 おそらく、今のメルエに己の能力への『恐れ』を教える事が出来るは、このパーティーの中でサラだけであろう。

 

「……サラ……メルエを頼むぞ……」

 

 既にメルエを包み込むように眠りに付いたサラの寝顔を見つめながらリーシャは小さな呟きを洩らした。カミュはこの後も起きる様子はない。それが自分達への信頼による物であると感じているリーシャは、もう一度小さな笑みを浮かべて、夜空に浮かぶ月を見上げた。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

まさか、三話経過してもランシールに到着できないとは思いませんでした。
今回は、リーシャ&サラのツーショットのみとなってしまいました。
旅の中には色々な事があるとご理解頂けると嬉しいです。
次話は間違いなく、ランシールです。

ご意見ご感想をお待ちしています。


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ランシールの村①

 

 

 

 夜が明けると、メルエの起床を待って一行は再び西へ向かって歩き出す。

 

 昨夜、夜中に目を覚ましたカミュへリーシャが軽く出来事を説明していた。詳しい事はサラが話すと言っていたので、本当に軽い説明に過ぎなかったが、カミュは『そうか』と一つ頷いただけ。また、サラの起床後、詳しく内容を聞いても、カミュは『わかった』と一言呟いただけであった。カミュにも何か考えがあるのだろうとリーシャは強引に納得する事にする。

 起床した後も、何かにつけてサラの傍へ寄って来るメルエを無視するように物事を行うサラは、カミュのように表情に乏しく、そのサラを見て肩を落とすメルエの姿は、一行の空気を重くして行った。

 

 太陽が東の空から顔を出し、辺りを暖かな光で覆った頃には、森を出てから二度目の戦闘を一行は行う事となる。その間も、カミュやリーシャを前線に向け、後方から魔法での支援を行うサラの隣で、メルエは<魔道士の杖>を握りしめながら眉を下げていた。

 サラの隣に出ては俯きながら後ろへと戻るという行為を繰り返すメルエに、遂にリーシャはサラの耳元で囁くように言葉を紡いだ。

 

「サラ、メルエに罹けた<マホトーン>の効力を消す事は出来ないのか?」

 

 戦闘を終えた後、メルエはカミュのマントを握りながら、『とぼとぼ』と前を歩いている。リーシャとサラの会話はおそらく聞こえない。眉を下げて問いかけるリーシャの言葉に、サラは一つ溜息を吐き出した。

 

「<マホトーン>の効力はそれ程長くは続きません。夜明け頃には切れている筈です。それは、メルエも自分の魔法力の流れで理解しているでしょう」

 

「そ、そうなのか?」

 

 予想外の言葉に、リーシャは驚きを表した。魔法の効力云々の話であれば、リーシャはこれ程の驚きを見せたりはしない。しかし、サラは<マホトーン>の効力は既に切れており、その事をメルエも知っていると答えた。それはつまり、メルエは魔法の行使が出来るにも拘わらず、行っていないという事である。

 昨日、『サラには関係ない』とばかりに顔を背けたメルエであったが、サラの怒りが本物である事を悟り、その許しがなければ魔法を行使してはいけない事を理解しているのだろう。

 短いやり取りを終え、サラはそのまま歩き出した。いつまでも呆然としている訳にはいかないリーシャもその後ろに続いて歩き出す。カミュのマントの裾を握りながら前を歩いているメルエは度々サラの方へと視線を向けて来ていた。何かを期待するように振り向いては、落胆したように肩を落とす。今までにない何とも言えない空気を纏いながら、一行はランシールに向かって歩いて行った。

 

 太陽が西に傾き、周囲を赤く染め上げ始めた頃、カミュ達の前に小さな集落が見えてきた。周辺を高い山脈に囲まれた集落が<ランシールの村>なのだろう。高い山々の隙間から大きな建物が垣間見えるが、それが何なのかは解らない。

 ようやく辿り着いた集落を視界に入れた船員達は、安堵の息を吐き出し、身体の力を抜いて行った。

 

「陽も暮れたな……カミュ、今日は宿で一泊するのだろう?」

 

「……ああ……」

 

 集落の門に差し掛かった辺りでリーシャが口を開く。陽が暮れて来たとはいえ、夕暮れ時。買い物や情報収集であれば十分に行う事が出来る筈。だが、疲れ切った表情を見せる船員達を一瞥したカミュは、リーシャの提案に一つ頷いた。

 門番のような男に身分を話し、村の中へと入った一行は、早々に宿屋を探して歩き出す。先程まで疲れを表情に出していた船員達も、初めて見る村の内部に目を輝かせていた。もしかすると、自分が担いでいる物品を何処で売却し、代わりの特産を何処で仕入れるかを考えているのかもしれない。

 

「いらっしゃいませ。旅の宿屋へようこそ」

 

 宿屋は村から入って中央の広場の傍に佇んでいた。それ程大きな宿屋ではないが、店主がしっかりしているのか、綺麗に整頓され、心地良い雰囲気を醸し出している。小さく息を吐いた船員達は、その場で軽く腰を落としていた。

 船員の一人がカミュの傍まで歩み出て、財布のような革袋を取り出す。自分達の宿代ぐらいは出そうと考えているのだろう。

 

「四部屋頼みたい。一部屋は大部屋で。他は、一人部屋が二つと、二人部屋が一つ」

 

「はいはい。今時、お客さんなど珍しいですから、充分部屋は空いております。全部で120ゴールドになりますが、宜しいですか?」

 

「!!」

 

 カミュの依頼に、にこやかな笑みを浮かべて返答する店主の言葉は、船員達を驚かせる物だった。一晩の宿が120ゴールドとは結構な額なのだ。単純に一人頭で割ったとしても、一人一晩15ゴールドの計算となる。

 だが、驚く船員達とは異なり、カミュ達四人は平然としていた。旅を続けて来た彼等にしてみれば、その地域によって物価も異なり、宿代も異なる事は当然の事。時代が時代なだけに、武器や防具の相場は比較的守られているだけでも御の字であろう。

 腰に付けた革袋からゴールドを取り出したカミュは、鍵を受け取り各人へと渡して行く。大部屋の鍵を受け取った船員は、慌ててカミュへゴールドを支払おうとするが、『後で良い』というカミュの言葉に、軽く頭を下げ、部屋へと上がって行った。

 

「くそ! 神殿など、何処にもないではないか!」

 

 その時、宿屋の入り口から入って来た男の怒声が宿屋内に響き渡った。突然の大声にメルエは驚き、サラの手を握ってしまう。自分が握った手がサラの手であると気付いたメルエが、恐る恐る見上げると、サラは男へ視線を向けたまま、メルエを庇うように立っていた。

 しっかりと握られた手に、メルエの表情はようやく緩み、その後ろに隠れるように移動して男を窺う。だが、男はカミュ達を一瞥もせず、そのまま自分の借りている部屋へと入って行った。

 

「申し訳ございませんね。この村には神殿があり、昔はかなりの方が巡礼などにいらっしゃったのですが……」

 

「神殿ですか?」

 

 暫し固まっていた一行を見て、溜息を吐き出したのは宿屋の店主。その話の内容に興味を持ったサラが、思わず問いかけてしまう。

 『神殿』と呼ばれる物を、サラは<ダーマ神殿>しか知らない。それも、半ば伝説化していた物である。元『僧侶』であるサラが知りえない神殿となれば、それはサラが生まれる前に滅んだ神殿である可能性が高いのだ。

 

「ええ。私も行った事はないのですが、何でも『地球のへそ』と呼ばれる場所へ行く事が出来るそうです。それが修行の一つとして伝わっていたのですが……」

 

「何かあったのか?」

 

 言い難そうに話す店主の言葉を訝しげに聞いていたリーシャが問いかける。サラも興味深そうに店主を見つめ、何も理解出来ないメルエだけは、何か嬉しそうにサラの手を握っていた。サラの手を握っていた手を離し、今度はサラの腰にしがみ付く。メルエにとって、店主の話などよりも、サラが自分を受け入れてくれた事の方が、何倍も嬉しい出来事だったのだろう。

 

「まぁ……いつの間にか『地球のへそ』と呼ばれる洞窟には、何か秘宝があるという噂が流れましてね。この宿も随分潤ったのだが、その内、訪れる人間の数も多くなり過ぎて、神殿はその門を閉ざしてしまったという訳です」

 

「……門を閉ざす……」

 

 神殿と呼ばれるのならば、それは『精霊ルビス』に何らかの関連を持つ物なのだろう。それが門を閉ざすという行為をするというのは、相当な物なのであった。教会は、何時如何なる時にでも、その門は誰にでも開かれる。例え罪人にであろうと、奴隷であろうと、建前上は拒む事はない。あくまでも建前上ではあるが。

 

「もう、三十年近くになるでしょうか。それ以来、人の往来も疎らになってしまいましてね。ただ、時々いるのです。ああいう人間が……」

 

「……そうですか……」

 

 門を閉ざした神殿に押し入る事の出来る人間はいないのだろう。門を閉ざしたとしても、そこは神殿。どんな無法者でも、『精霊ルビス』という存在を否定する事は出来ない。盲信的に信じている訳ではないが、『エルフ』や『魔物』が存在する世界にいる以上、『精霊』という存在を否定する事は出来ず、その力に恐れを抱くのだ。だが、それでも神殿を目指す人間もいる。いや正確には神殿への巡礼ではなく、秘宝の噂のある洞窟へ行く事が目的なのかもしれない。

 

「お客様方は、そうではないのですね。神殿が目的でないとすれば、このような辺鄙な村にどのような目的が……あっ、申し訳ございません」

 

この宿屋の店主は、昔ながらの商人なのであろう。客の素姓や事情を詮索する事を恥じ、顔を赤らめながら深々と頭を下げた。その行為に他意はなく、心からの謝罪として受け取ったカミュは、店主を糾弾する事なく口を開く。

 

「いえ。我々は、船で商品を貿易している。先日、<ジパング>という国に立ち寄った際に色々と物品を仕入れたので、何処かで売却が出来ればと思い、立ち寄っただけ」

 

「なんと!この時代に船で旅するなど……この村には特産と呼べる物は少ないですが、昔から道具屋を営んでいる者がおります。そこにはこの土地でなければ手に入らない食物もありますので、立ち寄られてみるのも如何でしょう?」

 

神殿への巡礼が滞った理由はもう一つある。それは、船旅の危険性が増した事による、巡回船の廃止。貿易船や遊覧船などもない今、海を超えて他国に入る事が不可能に近いのだ。ましてや、このランシール大陸は、どこの国にも属さない土地。強いて言えば、その神殿がこの土地の管理者であるのだ。故に他国との交流も少なく、ごく稀に訪れる者は、<ルーラ>を行使出来る者と共に訪れた者が多いのだ。

 

<ルーラ>を行使出来る『魔法使い』には、宮廷に入る以外にも、このような移動に伴う仕事もある。自身が訪れた場所であれば、数人の人間を運ぶ事は出来る。その相場は、一定ではなく、行使する者次第で変わって行く。『魔王バラモス』の登場後、世界を移動する手段は限られ、<ルーラ>を行使出来る人間は重宝されるようになった。ただ、<ルーラ>では、余程の使い手でない限り、馬車や荷台などを共に運ぶ事は出来ない。それこそ、メルエのような才能の塊と呼べる程の魔法力を有しているならば別ではあるが、それ程の魔法力を有している『魔法使い』が移動屋のような下賤な仕事をしている筈がない。故に、商人が商品を持って移動する手段は、今の時代には皆無に等しいのだ。

 

「湯の用意などもさせて頂きます。食事は食堂でお願い致します」

 

店主の言葉に頷いたカミュは、傍にある階段を上り、部屋へと向かう。残されるのは、リーシャとサラ。そして、未だにサラの腰に纏わり付くメルエであった。サラは柔らかくメルエを引き剝がすが、引き剝されたメルエは哀しそうに眉を落とす。そして、リーシャの手を取って俯きながら歩き出そうとしていた。

 

「メルエ、今日は私とではなく、サラと二人部屋だぞ?」

 

「…………!!…………」

 

しかし、不意に告げられたリーシャの言葉は、メルエにとって最後通告のように残酷な物だった。瞬時に強張りを見せるメルエの表情。そして、眉を下げて、懇願するような瞳をリーシャへと向ける。それでもリーシャは静かに首を横に振った。今夜はサラとメルエで話さなければならない事があるのだ。それは、リーシャに入る事が出来ない話。理解出来る出来ないの話ではなく、サラがメルエに教えてあげなければならない事なのだ。

 

「メルエ、行きましょう。まずは湯浴みを済ませ、食事をとりましょう」

 

「…………ん…………」

 

俯いていたメルエの顔が跳ね上がる。先程まで涙で潤んでいた瞳は、驚きと喜びに満ちていた。昨日からここまでの間で、初めて自分に向けられたサラの声。それは怒りや呆れを含まないサラの言葉。メルエはそれが嬉しかった。カミュやリーシャがメルエという存在なくしては冷静でいられないのと同様に、メルエもまた、彼等三人がいなければ笑う事は出来ない。我儘で困らせる相手は、大抵の場合はサラが相手だ。それは、メルエにとってサラという存在が一番自分に近しい者である事の証明。故に、メルエはサラの顔色を窺う。いつも共にいる姉を気遣うように。また、いつもと同じような関係に戻れれば、我儘も言い、不貞腐れもするだろう。それでもメルエはサラと共にいるのだ。

 

 

 

湯浴みも食事も終えた一行は、それぞれの部屋へと戻って行く。村に辿り着いた頃よりも若干明るさの戻ったメルエは、サラの後ろに付いて部屋へと入って行った。食堂に残ったのはカミュとリーシャ。

 

部屋へと入ったサラは、メルエをベッドの上に座らせ、その隣に自分も腰掛ける。『また叱られるかもしれない』という恐怖と、『また手を握ってくれるかもしれない』という期待が混ざり、メルエは微妙な瞳をサラへと向けていた。そんなメルエに向けられたサラの瞳は、メルエの期待を裏切るように厳しい瞳をしていた。それは昨日メルエへと向けられていた瞳と同じ物であると共に、昨晩リーシャと話をしていた時と同じ物。故に、メルエは怯え、顔を俯かせてしまう。それでもメルエは震える声で大好きな姉へと問いかける。

 

「…………サラ………メルエ………きらい…………?」

 

その言葉をサラは以前に聞いた事がある。それはもう一年近く前の話。<シャンパーニの塔>へと向かう途中でカミュと対立したサラが、メルエに向けて八つ当たりをぶつけてしまった時。あの時も、メルエは自身がサラに嫌われたのではないのかと心を痛め、怯えていた。今のメルエはあの時とは違うだろう。いや、正確にいえば、あの時よりも怯えが強いようにも見える。それ程に、メルエの中でのサラの存在が大きくなっている証拠でもあった。ならば、サラが最初に伝えなければならない事は唯一つ。あの時メルエに伝えた言葉をサラは再び口にした。

 

「私がメルエを嫌いになる事はありません。例えメルエが私を嫌ったとしても、私がメルエを嫌う事は絶対にあり得ません。私はメルエが大好きです」

 

サラの言葉には強い力が宿っていた。それは、人の心を動かす程の力。心を包み込み、暖め、そして勇気を与える力。奇しくも先日出立した<ジパング>で『言霊』とも呼ばれるその力が、今のサラの言葉には宿っていたのだ。故に、メルエの瞳は輝きを取り戻す。『好き』と『嫌い』しか知らないメルエにとって、サラの言葉は何物にも代え難い程の魅力を誇る物だった。

 

「だからこそ……メルエが大好きだからこそ……これから私が話す話を、メルエも真剣に聞いて下さい」

 

「…………ん…………」

 

嬉しそうに微笑んでいたメルエの顔が引き締まる。『これからサラの話す事は、自分を大事に想っているが故の物』という事を感じ取ったメルエがサラの瞳を真っ直ぐ見つめ、静かに首を縦に振った。それが二人の長い夜の始まりを告げる合図となる。まだ、陽が落ち切って間もない。二人の話は、メルエが眠気に耐え切れず、ベッドに倒れてしまうまで続くのだった。

 

 

 

サラとメルエが部屋に入って行った頃、残されたカミュとリーシャは、食後の茶を飲みながら話を始めていた。サラがメルエに伝える事がある以上、明日の行動を考えるのは、自然とこの二人となる。<最後のカギ>というどんな扉も開けてしまう道具を求めて、彼等はこの村へと辿り着いた。しかし、本日得た情報は、『神殿』という単語だけ。『神殿』がその門を閉じ、訪問者を拒んでいるという事実だけ。それは、<最後のカギ>という神秘の道具に結びつく情報ではない。故に、リーシャはカミュへ明日の指針を尋ねる為にここに残っていた。

 

「明日はどうする?」

 

「まずは船員達の持ってきた物を売る為に、宿屋の主人が言っていた道具屋に向かう。その後は、情報収集と共に武器屋にでも寄ろうと考えている」

 

単刀直入に聞いたリーシャの問いかけに、カミュは間髪入れず答えを返す。リーシャは何度か頷いた後、以前から疑問に思っていた事をカミュに向けて発した。それはカミュでも予想出来ない問いかけであり、おそらくサラが聞いていたとしても疑問に思った事であろう。

 

「カミュ……あの<テドン>に於いて、<最後のカギ>についての情報を口にした老人は本当に人間だったのだろうか?」

 

予想外の問いかけに、カミュは暫し呆然とリーシャを見つめてしまった。あの<テドン>という村が滅びし村である事は、リーシャも理解している筈。故に、カミュはリーシャの問いかけに驚いたのだ。『人間だったのか?』と問われれば、答えは否である事は決まっている。『何を言っているのだ?』とでも言うような表情を見せるカミュに、リーシャは弁解を始めた。

 

「い、いや……そういう意味で言っている訳ではない。あの老人が生者でない事ぐらいは私も理解している。ただ、あの者が生前に人間であるとは思えないのだ」

 

「……どういう事だ……?」

 

リーシャの言葉は、カミュには理解が出来ない。逆の立場であれば、この旅の中で何度もあった。だが、カミュがリーシャに問いかける事など、真剣な話であればある程、皆無に等しい。それが理解出来るからこそ、リーシャは少し戸惑い、どう伝えて良いのか解らないかのように口籠っていた。

 

「あの老人の登場の仕方も謎であったが、あの話はまるでカミュが何者であるかを知っているような口ぶりだった。その前に村の人間に『魔王討伐』に関して話してはいたが、どうにも不自然でな……」

 

「であれば、あれは何だというつもりだ?」

 

確かにリーシャの言うとおり、あの老人の登場は極めて不自然であった。カミュ達が辿り着いた日には老人は出て来ていない。一晩を明かし、<闇のランプ>という不可思議な道具によって再び闇に包まれた村で遭遇したのだ。『何故、最初の夜には出て来なかったのか』という疑問が湧いて来ても不思議ではない。カミュ達はあの村を隈なく歩いた。しかし、あの老人を見かけはしなかったのだ。

 

「もしかするとだが、あの老人は<闇のランプ>の精霊なのではないか?」

 

「はあ?……アンタは本物の馬鹿なのか?」

 

突拍子もない事を言い出したリーシャに、カミュの表情は困惑を極めた。『精霊』という言葉は、この世界で神の次に位置する者への敬称。『精霊ルビス』は創造の神より世界を託された者として言い伝えられており、基本的にそれ以外の『精霊』は存在しない。ただ、不思議な存在に対し、畏怖の念を込めて『精霊』と呼ぶ事は稀にあった。しかし、『精霊』や『神』の存在を信じてはいないカミュにとっては、リーシャの口にした事は只の馬鹿げた話にしか聞こえなかったのだ。

 

「うるさい!……自分でもどうかと思うが、そのように考えるしかないだろう?……何故、あの老人が<ランシール>という名前を出したのか。何故、<最後のカギ>という道具についての知識を有していたのか。あの老人以外に<最後のカギ>という道具の有無を知っている者がこの世界に存在するのだろうか?」

 

「……いや……」

 

流石のカミュも言葉が出て来なかった。リーシャの言うとおり、あの老人の言葉に従って<ランシール>に来ては見たが、<最後のカギ>に纏わる言い伝えなど村人が知っているようには見えない。もしかすると、噂の『神殿』にいる人間が伝承を受け継いでいるのかもしれないが、門を閉ざしている以上、その者も既にこの土地にいるという確証はない。そして、そのような伝承を、何故あの滅びし村で暮らしていた一老人が知り得たのかが最も大きな謎であった。

 

「アンタの疑念は理解出来る。だが、俺達に選択肢がない事も事実だ。<最後のカギ>という物がない限り、この先に進めないのだとすれば、僅かな情報にでも縋るしかない」

 

「……そうだな……すまなかった」

 

軽く頭を下げるリーシャに、カミュは静かに首を横に振った。リーシャの疑念は不安に基いている。得体も知れない者の告げた言葉を信じて辿り着いた村に、その情報が何もなければ、彼等の旅は手詰まりとなるのだ。『魔王討伐』という大望を抱いて歩み続けている旅ではあるが、一向に『魔王バラモス』に近づいている実感はない。その想いが、リーシを焦らせ、疑念を抱かせていた。

 

「アンタも夜通し見張りをしていた筈。もう休め」

 

それでも、このパーティーの歩む道を最終的に決定するのは、目の前にいる年若い青年である。そして、その決断が出来るだけの頭脳をこの青年が持っている事も事実。リーシャは疑念に想った事を口にするが、それについて考えるのはこの青年であり、現在幼い『魔法使い』に何かを教えている女性の役目である。カミュの答えを聞いて、一度下げた頭を持ち上げたリーシャの顔は、先程のような不安に彩られた物ではなかった。『彼等と共に歩むだけ』。その想いは今も変わらない。

 

「わかった。ゆっくり休ませてもらう」

 

先に席を立ったリーシャの後姿を見送ったカミュは、一つ大きな溜息を吐き出した。リーシャの不安は理解出来る。だが、彼にはそれを明確に沈める方法がない。『魔王討伐』という命を厳守つもりは、アリアハンを出た頃のカミュには微塵もなかった。勝手について来たリーシャやサラと<レーベの村>辺りで別れた後、旅を続ける中で魔物に襲われ死ぬ事しか考えてはいなかったのだ。

 

それが、いつの間にか船までもを手に入れ、未だに『魔王討伐』の旅をしている。もし、カミュ一人で旅をしていたのであれば、<シャンパーニの塔>でカンダタに殺されていただろう。カミュが未だに生きている理由。それは、リーシャでありサラであり、そしてメルエの存在であるのだ。リーシャの感じている焦りや不安を理解する事は出来る。だが、カミュは別の感想を持ち合わせてもいた。カミュの中では、着実に『魔王討伐』の目的に近づいてはいるという実感がある。

 

リーシャやサラの中では、暗中模索の状態が続いているのかもしれない。細く頼りない糸を手繰るような旅は、目に見えない疲労を蓄積させているのだろう。カミュとは違い、明確に『魔王討伐』という目標を掲げて旅立った彼女達は、その目標が霧に包まれたように見え辛くなった状態では不安にもなるだろう。実際、メルエの能力に対する『恐れ』を感じたサラの感情の中にも『焦り』や『不安』が隠されていた事も事実である。それにサラ自身は気付いていないだろうが。

 

カミュも今の自分の心に巣食う物が何なのかを理解できてはいない。正直に言えば、未だに『魔王討伐』という命に重きを置く気持ちは微塵もなく、その為の旅だと意気込む気持もなかった。流されるようにここまで旅をしてしまっている事を、自分でも不思議に思い始めている。何度も何度もリーシャやサラと対立し、不快な想いも抱いた。それでもカミュは歩んで来たのだ。メルエという存在が大きい事は確かであろう。だが、それだけでない事もまた事実。

 

先程よりも大きな溜息を吐き出した後、カミュは席を立った。

 

 

 

翌朝、カミュ一行は宿屋を出て、村の中央広場に向かう。宿屋で聞いた道具屋を探して周囲を見渡していたカミュの視界に、一人の年若い女性が入って来た。その女性もカミュ達に気が付いたのか、満面の笑みを浮かべて駆け寄って来る。突如として駆け寄って来る女性に、少し警戒感を持ったリーシャとサラであったが、カミュに近寄って来た女性の言葉にその警戒感を解く事となった。

 

「旅の方ですか?私は、この村の道具屋の娘です。この村の特産である<消え去り草>はもうお買いになられましたか?」

 

「……消え去り草……」

 

近寄って来た女性は、満面の笑みを浮かべてカミュへ言葉を繋ぐ。完璧な程の営業的な笑顔と言葉に、リーシャは呆然と女性が口にした名前を反芻した。それは、アリアハンという片田舎で生活していたカミュ達には初めての単語であり、それが何を指す物なのかも理解出来ない。故に、リーシャだけではなく、カミュやサラも呆然と女性を見つめ、そんなサラの手を握っているメルエは、小首を傾げながら一行を見上げていた。

 

「はい!<消え去り草>はこの村の特産で、とても美味なんですよ。火を通しても、茹でてもとても美味しく食べる事が出来ます。口の中でとろけるように消えて行く事から、<消え去り草>と呼ばれています」

 

「食べ物なのか?」

 

名前を聞く限り、草なのであろうが、それが口に入れるととろけるように消えて行くという感覚がカミュ達には理解出来ない。柔らかな肉を食した時に、そのような表現を用いる事はあっても、野菜などの草類にその表現を使う事はないのだ。故に、カミュは思わず問いかけてしまった。食物である事を聞いたリーシャは目を輝かせ、そんなリーシャを見てメルエが微笑む。

 

「そうですよ。希少価値のある物なのでお値段はしますが、一度道具屋を覗いてみてください」

 

最後まで可愛らしい笑顔を見せる女性にカミュは一つ頷くが、後ろで見ていた船員達は頬を赤く染めていた。元々、船員達の持っている物を売却する為に道具屋へ寄るつもりだったのだ。渡りに船ではないが、カミュが女性に案内を頼むと、女性は快諾し、先頭に立ってカミュ達を導き歩き出す。

 

「こちらが、私の父が経営する道具屋です。ゆっくり見て行って下さい」

 

「ありがとう」

 

営業的な笑顔を浮かべながら手を広げる女性にリーシャが頭を下げる。一度カミュ達全員に向けて頭を下げた女性は、そのまま再び広場へと戻って行った。女性に見とれるように背中を目で追う船員達にサラは苦笑し、店へと入って行ったカミュを追う。

 

「いらっしゃい」

 

カウンターには、先程の女性と似ても似つかない小太りの男性が、これまた営業的な笑顔を顔一杯に作ってカミュ達を迎えた。いつまでも先程の女性の後姿を追っている船員達に向かって咳払いをしたリーシャは、船員達から物品の入った袋を受け取り、カウンターの上に置く。

 

「……これらの内で、買い取れる物があったら買い取って貰いたい……それと、<消え去り草>という物を見せてくれるか?」

 

「はいはい……こりゃ珍しい!……これは、ジパング辺りの物ですかね……」

 

『なんだ、買取か』という感情を示しそうになった店主であったが、袋の中から取り出した反物や工芸品を見て、驚きの声を上げた。おそらく、ここは『魔王バラモス』の台頭以前から道具屋を営んでいるのだろう。以前に運ばれた事のあるジパングの特産を見た事があるような口ぶりだった。

 

「ふむふむ。状態も良さそうだね……ある程度の量もある……これぐらいでどうかね?」

 

商品を見るように鑑定を行っていた店主が指で金額を示すようにカミュへと向ける。だが、カミュにはそれが高いのか安いのかが解らない。それはリーシャやサラも同様で、カミュの反応を見るように後ろに控えていた。解らない以上、そのままの値段で頷くしかないカミュが、了承を伝えようと口を開きかけた時、後方から声が届いた。

 

「それは余りにも安いな。今の時代、ジパングの物を持って来る商人がいるのかい?あまりにも暴利を取ると、客を失くすぞ?」

 

「えっ!?い、いや……しかし、この時代ですからね……買い手もなかなか……」

 

突如掛けられた言葉に、店主は戸惑いを見せる。その反応を見る限り、かなり安く買い叩こうとしていたのだろう。カミュ達の姿を見れば、商人などいない事は明らかである。商品価値や相場なども知らないだろうと考え、少し欲を掻いたのだ。

 

しかし、そんな店主の些細な企みよりも、カミュ達はその言葉の発信源に驚きを覚えていた。リーシャに至っては口を半開きのまま、後方を振り返り、何かを口にしようと開閉を繰り返している。サラも同様で、この旅の道中で一度も口を開く事のなかった船員の一人を凝視し、その人物がサラ達の横を通り、カウンターの前まで移動するのを呆然と見送っていた。

 

「そりゃないだろう?この村は確かに小さな村みたいだが、村で暮らす人間を見ればある程度の余裕を持っているようにも見える。『神殿』の巡礼者等で結構儲けたんだろう?」

 

カウンターへ近付き、脂汗を流す店主に余裕の笑みを浮かべるその船員は、ポルトガ出港の際に新たに加わった七人の船員の一人。船員としては駆け出しであるその男は、ある地方では恐れられた巨大盗賊組織の幹部だった男。罪を償い、新たな人生を歩むために、『勇者』であるカミュと共に旅に出る事を決意した男達の一人だったのだ。

 

「そ、そんな事ありませんよ」

 

「それに、<消え去り草>という物は、アンタが育てて摘んで来るのか?……この地方の特産と言うからには、それを購入する得意先もある筈。結構、良い値段みたいだが?」

 

この道具屋の店主も長年商いを続けてきた百戦錬磨の商人の一人。だが、予想外の出来事に戸惑った僅かな隙を突かれ、その精神を立て直す暇を与えない矢継ぎ早の攻撃に後手に回ってしまっていた。何かを諦めたように俯いた店主は、再度計算を行い、金額を提示する。しかし、再び首を横に振られ、『他の店を当たってみる』と言われた事で、もう一度計算を始めた。他の店に行かれれば、もしかすると正規の値段を提示される可能性も捨てきれない。そうなれば、自身の店の評判は落ち、客足も遠のく。それ程、店の数が多い訳ではない以上、その悪評は命取りになりかねないのだ。ただ、それもこの主人の精神が落ち着いていたのなら、いくらでも対処の仕方があったであろうが。

 

「良いだろう。それで頼むよ……それと、<消え去り草>を所望らしい。見せてくれるか?」

 

「……ふぅ……解りましたよ。ただ、これは正規の値段ですよ……」

 

諦めの溜息を吐く店主の精神は、まだ立て直し切れていなかった。『ならば、先程のは正規の値段ではなかったのか!?』と怒鳴りそうなリーシャをサラが必死に抑え、それを面白そうに見ていたメルエもリーシャの腰元にしがみ付く。元盗賊の男が振り向くと同時に、カミュが一歩前に出て店主が出してくる<消え去り草>を手に取った。

 

「それは、このランシールでしか生息しない物で、非常に希少な植物です。口の中でとろけるような柔らかさ、まるで極上の肉の様。味は言葉では言い尽くせぬ程の物で、それは食した者だけが味わえる至上の幸福ですよ」

 

ようやく商人としての余裕を見せた店主は、<消え去り草>を手に取るカミュに営業的な笑顔を向ける。店主から買い取り分の代金を受け取った船員は、そのまま最後尾へと戻って行った。横を通り過ぎて行く男を眺めながら、サラは落ち着きを取り戻したリーシャから手を離す。

 

「……いくらだ……」

 

「はい、300ゴールドになります」

 

「「さ、300ゴールド!!」」

 

しかし、リーシャとサラは、カミュの問いかけに応えた店主の言葉に驚きを露にする。300ゴールドと言えば、この村の宿屋でカミュ達四人であれば五泊出来る。アリアハンで売っていた<銅の剣>や<革の鎧>であれば、三人分は購入できる。それ程の値段なのだ。それは、この<消え去り草>という食物が、以前バハラタの町で手に入れた<黒胡椒>と同様の高級な趣向品である事を示していた。

 

「こ、これは仕方がありません。数多く収穫できる物ではありませんし、このランシールでのみ生息する植物ですので、希少価値も高い。それに、このランシールを支える物でもありますから」

 

慌てて弁解する商人。それは、驚きと先程の怒りで背中の斧に手を掛けそうになっているリーシャを横目で見てしまったからだ。しかし、この商人の言う事も尤もである。この村の収入を支えているのも、この<消え去り草>という存在が大きいのだろう。おそらく、この村にあるどの店に行ったとしても、その値段は変わらないのかもしれない。

 

「300ゴールドとは、結構な値だな。しかし、それも仕方がないだろうな。私達はこの<消え去り草>を買おう。店主、纏まった数量を買うから、少し勉強してくれ」

 

そこまで来て、再び先程の元盗賊が前に出て来た。カミュもこの男に任せる事にしたのか、それ以上は口を開こうとしない。再び始まった店主との交渉を脇で眺めながら、カミュ達は成り行きを見守るしかなかった。暫くの交渉の後、契約が成立し、店主に保存方法などを尋ねた後、他の船員が先程の買い取り金額から代金を支払い、<消え去り草>の束の入った箱を受け取った。

 

「ありがとうございました」

 

どこか諦めたような口調の店主を置いて、一行は表へと出る。受け取った数箱の商品を担いだ船員達の最後尾にいる元盗賊の男に、カミュ達全員の視線が集まった。余程鈍感な人間でも気付くであろうその視線を受け、男は苦笑を浮かべながらカミュ達へと振り返った。

 

「私は、一味の中で財政を担当していました。盗賊とはいえ、食料や衣服全てを盗む事は出来ません。富豪の貴族などから盗んで来た宝飾品や金品をゴールドに替え、そして食料や衣類を購入するのが私の役目でしたので……」

 

男の言葉は、カンダタ一味の実情を物語っていた。確かに、カンダタ一味の始まりは、暴利を貪る商人や、民を蔑にする貴族から盗み、貧しい人間へと還元する義賊。しかし、義賊とはいえ生き物である以上、何かを食さなければならない。それは、常に町や村の食堂等ではないのだ。剣を振るうような強さが絶対的に必要であると共に、計算などが出来る頭脳も必要となる。彼は、そんなカンダタ一味の頭脳の一人だったのだろう。

 

「商人と渡り合うには、脅しなどは余り役には立ちません。商人と対等に交渉が出来る人間である事を相手に解らせる事が必要。まぁ、そうなるまでに何度も騙されましたけどね」

 

苦笑のような表情を見せる男を見て、カミュ達は言葉を発する事が出来なかった。サラではないが、彼等もこの時代を必死に生きて来たのだ。その為に行って来た行為は決して許される物ではない。だが、彼等の過去の一部を知っている以上、カミュ達は何とも言えない気持ちを胸に残さずにはいられなかった。

 

「アンタ達は、まだ何処かに寄るのだろう?俺達は、その広場辺りで待っているよ」

 

「……ああ……」

 

カミュに向かって告げた男は、他の船員達の許へと戻って行く。一つ頷いたカミュは、マントの裾を握るメルエを連れて、武器と防具の看板が下がっている店へと向かって歩き出した。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

実は今回の話は、この倍の文字数がありました。
描きたい事を描いている内に、いつの間にか30000文字に。
「これはいくらなんでも長すぎだ」と思い、二話に分けました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ランシールの村②

 

 

 

「いらっしゃい」

 

 カミュが入って行った武器屋は、ここまでの道中の武器屋とは少し様相が異なっていた。

 建物とは言え、中に入るのではなく、外での買い物となる。カウンター越しに店主と話すのは変わらないが、カウンター自体が外にあり、カウンターの上には雨よけの屋根がある程度。武器や防具は奥の倉庫にしまってあるのか、言うなれば屋台のような武器屋だった。

 

「この村での武器で何か魅力ある物はあるか?」

 

「武器かい?……そうだな、結構良い武器を持っているように見えるが……これなんかはどうだい? <大鉄鎚(おおかなづち)>っていう武器だ」

 

 カミュの問いかけに対して店主が奥から持って来た物は、とても巨大なハンマーだった。

 『ごとり』という重い音を響かせてカウンターに置かれた物を一行は興味深く見つめる。長さはリーシャの持つ<鉄の斧>とそう変わりはしない。しかし、先端に付いている物は、鋭い刃ではなく、大きな鉄鎚。相手を切り裂くというよりも、叩き潰す事が目的のような武器にサラは息を飲んだ。

 

「……かなりの重量があるな……アンタ向けの武器だ」

 

「な、なに!?」

 

 カウンターに置かれた武器を軽く持ったカミュは、かなりの重みのあるその武器にリーシャへと声をかける。突然話題を向けられたリーシャは素っ頓狂な声を上げるが、手渡された鉄鎚を軽々と振い、感触を確かめるように何度か握り直した。

 その様子に驚いたのは店主だった。目の前に立っている青年も、筋肉隆々という男ではない。引き締まった体つきをしてはいるが、鎧越しに見れば、華奢な体つきと言っても過言ではないだろう。その青年が片手で<大鉄鎚>を持ち、手渡した相手は女性だったのだ。

 この女性も鎧を着込んでいる事から見れば、おそらく『戦士』という職業なのだろう。それでも女性は女性。屈強な男でも、選りすぐりの者にしか扱えない筈のこの鉄鎚を軽々と振う女性に戦慄を覚えていた。

 

「ふむ。確かに悪くないが……店主、これは魔物を叩き潰す武器なのか?」

 

「へっ!?……あ、ああ……それ以外の戦い方はおそらく無いと思うが……」

 

 呆然とリーシャを眺めていた店主は、咄嗟に反応が出来なかった。故に、リーシャの問いかけを復唱するだけ。間抜けな反応に苦笑を浮かべたリーシャは、もう一度<大鉄鎚>を振り、それをカウンターへ戻した。

 その時、サラはリーシャの振るう<大鉄鎚>の巻き起こす風を受け、何故か足が小刻みに震え始める。故に、彼女の手を握っていた小さな少女の変化に気が付かなかった。

 

「いや、止めておこう。確かにこの鉄鎚は威力がありそうだが、叩き潰す事しか出来ないというのなら、戦い方に制限が出来てしまう」

 

「……そうか……だが、アンタのその斧も限界が近い筈だ。アッサラームで購入してからここまで、酷使し過ぎと言っても過言ではない」

 

 リーシャにはリーシャの武器の選び方がある。だが、カミュの言い分には一理も二理もあった。カミュの持っていた<鋼鉄の剣>は、リーシャの斧よりも前に購入した物。その間に数々の敵を斬り捨て、強硬な魔物の身体を斬り裂いて来た。

 だが、その剣も<ヤマタノオロチ>との戦いの最中にその役目を終えたのだ。リーシャの斧は、最後まで『龍種』と呼ばれる世界最強種族の鱗を斬り裂き、その牙をも折った。何時、その限界が訪れても不思議ではない筈。

 

「確かに、そろそろこの斧とも別れを告げる時が来ているのかもしれない。だが、それは今ではない。カミュやサラの想いが籠ったこの斧は、これまで私だけではなく、何度も皆を護ってくれた。なかなか手放し辛くてな……」

 

「い、いえ……リーシャさん、それは……」

 

 感傷に浸るように呟かれたリーシャの言葉は、サラを大いに慌てさせる。リーシャはおそらく<アッサラーム>での出来事を言っているのだろう。あの町で購入した<鉄の斧>は2500ゴールド。しかし、その翌日に入ったぼったくりの武器屋で最後に告げられた値段は5000ゴールドだったのだ。

 5000ゴールドの武器となれば、今パーティーが装備している防具を含めても、一番の装備品となる。故に、リーシャはそれ程の物を自分に贈ってくれたカミュやサラに感謝し、その期待に応えようとしているのかもしれない。

 だが、事実は異なる。

 

「……!!……メルエはどうした?」

 

 リーシャの勘違いを正す事無く、溜息を吐き出したカミュは、店のカウンターで話し始めた頃にサラの許へ移動していたメルエの姿が見えない事に気が付き、問いかける。しかし、その問いかけに辺りを見回すリーシャとサラを見て、誰もメルエが傍を離れる時を見ていなかった事を悟った。

 慌てて店の軒先を飛び出すカミュとリーシャ。その後に続いてサラも周囲を確認し始める。

 

「カミュ、あれはメルエじゃないのか!?」

 

「追うぞ!」

 

 リーシャが指し示した方角に顔を向けたカミュが見た物は、建物の影に入って行くメルエの姿。それは、何かを追っているような姿に見え、『誰かに連れ去られたのではないか?』という恐怖を感じていた三人の胸に小さな安堵を生んだ。

 しかし、すぐに我に返ったカミュの言葉に返事を返す事無く、三人はメルエが消えて行った建物の方へ駆け出した。

 

 

 

 

 メルエは、武器屋の軒先でつまらなそうにリーシャを見上げていた。昨晩遅くまでサラの話を聞いていた事もあり、眠気が強い。何度も瞼が落ちそうになっているメルエはサラの手をしがみ付くように掴んでいた。

 この武器屋は、ここまで見て来た店とは違い、背の低いメルエには売り物が見えない。『何かを買って貰えるかもしれない』という想いが浮かぶ程、品物が見えないのだ。故に、退屈であり、眠くなる。

 そんな時だった。舟を漕ぎそうになり、慌てて顔を上げたメルエの視界の端に青い物体が横切ったのだ。それは、武器屋から少し離れた場所にある民家の周辺。飛び跳ねるような、それでいて這うような動きを見せる青い物体を、メルエは初めて目にした。

 明らかに『人』ではない。かと言って、メルエが今まで見て来た『魔物』でもなければ『エルフ』でもない。不思議な物を見つけたメルエの瞳は眠気を吹き飛ばし、輝き出す。握っていたサラの手を離すが、何かに怯えている様子のサラはその事に気付きそうにもなかった。

 メルエは、未だに見える青い小さな物体に向かって歩み出した。その物体の周囲に『人』の姿はない。何も気にする事などないように跳ねている青い物体を見て、その輝きを増したメルエの瞳は真っ直ぐ青い物体を射抜き、その口元は嬉しそうに緩んで行く。

 そろそろと近付くメルエは、ようやく青い物体との距離を当初の半分にまで縮める事に成功した。だが、そこまで近付いて、ようやくその青い物体はメルエの存在に気が付く。驚きを表した青い物体は、戸惑うように周囲を確認した後、近くの民家の塀沿いにある小さな細道に入って行った。

 好奇心に駆られたメルエに自制心は利かない。昨晩あれ程サラと話し合った筈であるが、『それはそれ、これはこれ』とでも言うように、青い物体を追ってその民家の隙間に入って行った。

 

 

 

「メルエはどこだ?」

 

 民家の傍まで駆けて来たリーシャはメルエを完全に見失った。メルエが消えた民家の脇には道などない。細い隙間はあるが、道ではない以上、探索の範疇ではなかったのだ。

 だが、メルエとの付き合いも長くなって来ている一行は、その隙間を凝視し、何かに思い至る。

 

「カミュ様?」

 

「ああ。行くぞ」

 

 サラの問いかけに頷いたカミュは、その細い隙間に身体を滑り込ませ、中を歩いて行く。細いとはいえども、人一人が通れる程の隙間である。肥満体の人間でなければ、屈強な男でも楽に通れる程の隙間。一人ずつではあるが、カミュ、サラ、リーシャの順にその隙間を通って行く。

 細い隙間を通り抜けた先は、芝生の広がる心地よい広場だった。周囲に木々が立ち並び、長閑な小鳥の囀りが聞こえる。まだ真上まで昇っていない太陽の光が、優しく降り注ぎ、芝生を青々と輝かせていた。

 それはまさに楽園。『魔王バラモス』の登場により世界を覆い始めていた瘴気すらも届かぬ地上の楽園を思わせるような光景だった。

 

「こ、ここは……?」

 

 その余りにも神秘に近しい光景にサラは息を飲む。それはカミュやリーシャも同様で、突然広がった美しい芝生の広場に暫し呆然と佇んでいた。

 だが、周囲の美しく広がる芝生の中にもメルエの姿はない。我に返った三人が周囲を見渡すが、彼等の視界に入って来たのは、追っていた幼い少女ではなく、屈強な一人の男性。その男は、カミュ達の存在に気が付くと、カミュ達の方へとゆっくりと近づいて来た。

 

「珍しいな……神殿の扉は固く閉じられているぞ?」

 

 カミュ達の近くまで歩いて来た男は、カミュ達三人を一通り確認した後、どこか困った表情をしながら口を開いた。

 リーシャとサラは立ち止まり、男の様子を見るように窺う、カミュは男に全く関心を示さず、周囲に目を向けている。

 

「昔は、この神殿から<地球のへそ>の洞窟に行けたんだがな……」

 

 一つ息を吐き出した男は、上空に輝く太陽を見上げながら呟いた。その呟きは何かを懐かしむようでいて、何かを悔やむような物。それを不思議に思ったサラは、全く関心を示さず男の脇をすり抜けて行ったカミュを視線で追った後、宿屋でも聞いたその名前について問いかけてみた。

 

「<地球のへそ>とは何ですか?」

 

「ん?……ああ、あれは所謂試練だな。<地球のへそ>へは一人でしか行く事は出来ない。あの中では己との戦いだけが続く」

 

 苦笑を浮かべるように話す男の言葉にリーシャとサラは耳を傾ける。もはやカミュの背中は小さくなっていた。

 リーシャはカミュを追いかけるかどうかを迷うが、サラはそんなリーシャに『メルエは大丈夫です』と一言声をかけた後、もう一度男の方へと視線を向けた。

 

「まぁ、偉そうな事を言ったが、俺は逃げ出した口でね。一人きりで<地球のへそ>に入ったが、入口を入ってすぐで怖くなって引き返しちまった。そんな未練があるからなのか、時々この神殿を見に来てしまうんだ」

 

「神殿が与える試練……」

 

 サラの呟きに男は苦い表情を浮かべる。それがサラの呟きを否定している事を示していた。サラは何かを考えるように俯いていた為、男のその表情を見逃してはいたが、リーシャははっきりとその表情の変化を認識する。ただ、その理由まではリーシャにも解らない。故に、男が言葉を紡ぐのを待っていた。

 

「いや、あれはアンタが考えるような『ルビス教』に属する神殿が与える試練ではない。何と表現すれば良いか……生物としての試練と言うか、『精霊ルビス』様直々の試練と言うか……まぁ、行った事のある人間にしか理解出来ないだろうな」

 

 溜息を吐き出しながら呟く男の声に、リーシャは何かを感じ、口を閉じた。サラは男が言いたい事を理解出来ず、その言葉の中に含まれていた『精霊ルビス』という名に反応し、何かを話したいように口を何度も開閉している。

 

「それよりも、アンタ方は誰かを探しているのか?……そう言えば、アンタ方が来る少し前に小さな女の子が神殿の方へ駆けて行ったが……」

 

「なに!? サラ、先に行くぞ!」

 

「えっ!? あっ、待って下さい!」

 

 何かを言いたそうにしているサラであったが、男の続く言葉に素早く反応したリーシャは男が来た方角へ向かって駆け出した。

 驚いたのはサラ。リーシャが駆けて行くの見て、慌てて男に頭を一つ下げた後、その後を追う。一人残された男は、小さく苦笑を洩らし、村の方角へと歩いて行った。

 

 

 

 青い生物のような物を追っていたメルエは、不思議な場所に辿り着いていた。そこにあったのは、とても巨大な建物。その大きさは、メルエがこれまで見て来た建物の中でもひときわ大きな物であり、以前訪れた<ダーマ神殿>よりも大きく見える。周囲を見回すように眺めていたメルエは、改めて大きな建物を見上げ、感嘆の溜息を吐き出した。

 そんなメルエの視界に再び姿を現す青色の影。それは、建物と建物の隙間に入り込んで行った。

 

「…………むぅ…………」

 

 逃げるように消えて行く青い影に少し頬を膨らませたメルエが、その影を追って建物の間にある小道を入って行く。陽の光が差し込む小道にも芝生が生い茂り、暖かな草の匂いに満ちていた。

 暫し小道を行くと、青い影の姿が見えて来る。どうやらこの先は行き止まりらしく、青い影はこちらに視線を向けたまま怯えたようにその身体を震わせていた。

 

「…………なに…………?」

 

「ぴきゅ!」

 

 その青い影の全貌が見え、メルエはその影の前でしゃがみ込む。その青い物体は、メルエの膝程の大きさしかなく、メルエがしゃがみ込んでようやく目が合う程の大きさだった。

 その物体は、世界広しといえども、アリアハン大陸にしか生息しない世界最古の魔物。青くゼリー状の身体を震わせ、体当たり等で『人』を襲い、『人』を溶かす事で食す魔物。その名を<スライム>という。

 初めて見る生物に興味を向けたメルエは、『貴方は何?』とでも言うように言葉を発するが、メルエが傍に来た事に驚いた<スライム>は、奇妙な叫び声を上げて飛び上った。しかし、メルエを襲う様子はなく、只々怯えるように『ぷるぷる』と身体を震わせている。その様子を見たメルエの好奇心は更に増して行った。『ぷるぷる』と震える青い身体に恐る恐る指を伸ばしたメルエは、<スライム>を突き出す。

 

「ぴきゅ!」

 

「…………ふふ…………」

 

 初めての感触にメルエの頬は緩み、笑みを浮かべる。しかし、突かれる側にとっては堪った物ではない。徐々に突く間隔が短くなるメルエの指を受け、悲鳴に近い声を上げた<スライム>は逃げ出そうと身体を動かすが、目の前にはメルエがおり、後ろは行き止まり。どうあっても逃げる事が出来ず、その身体を更に震わせる事しか出来なかった。

 

「メルエ!」

 

「ぴきゅ!」

 

 そんな泣きたくなるような状況で、自分を突く少女の後方から掛った別の人間の声に、<スライム>は絶望した。

 『何故、今日は村の方まで出てしまったのか』と。

 

 

 

 天気が良く、気持ち良い日光が降り注ぐ中、神殿の周りにある芝生でうたた寝をしていた<スライム>は、気分の良さのついでに村の方まで足を伸ばした。

 以前、この場所を訪れた『賢者』と名乗る男の言葉通り、『人』に見つからないように村へと出た<スライム>は、喧騒賑わう村を微笑みながら眺めていたのだ。その時、何やら懐かしい視線を感じ、その方角へ目を向けると、一人の少女と目が合ってしまう。

 目が合ったと感じたのは<スライム>だけなのかもしれない。だが、通常の『人』等よりも、何倍も視力が強い魔物である<スライム>は、何故かその少女と目が合ってしまったように感じたのだ。

 そして、<スライム>は逃げ出した。

 

 何故、自分のような<スライム>族がこのランシールにいるのかは、もう覚えてはいない。だが、昔訪れた『賢者』と名乗る男が語った言葉を思い出したのだ。

 『お前のような魔物は、ある程度の力量がある人間ならば殺す事は出来る。だから見つからないように神殿の傍にいろ』という言葉。その忠告を護り、何十年もこの神殿の傍で暮らしていた<スライム>が初めて遭遇した危機。

 そして、彼の生涯はここで潰えたかに思われた。

 

 

 

「カミュ! メルエは大丈夫か!?」

 

「リ、リーシャさん、待って下さい」

 

 続々と増える人間。何故か、先程まで笑顔で自分を突いていた少女の身体も微かに震えているように見えるが、<スライム>にはそれを気にする余裕はなかった。

 刻一刻と迫る命の刻限。迫り来る『死』への恐怖に、その青く半透明の身体は大きく震え始めた。

 

「メルエ! 勝手に行っては駄目だとあれ程言っただろう!……なんだ……?」

 

 一番最初に到着した男の後ろから凄まじい速さで近付いて来る女性を見た少女の身体が跳ね上がる。だが、その女性の視線は、少女へ向けられた直後、その後ろにいる青い生物へと注がれた。

 そして、一瞬の内に眉が上がり、背中へと手が伸ばされる。

 

「スライムか! メルエ、そこをどけ!」

 

「待て!」

 

 背中の<鉄の斧>を手にした女性が構えを取る前に、その行動は最初に辿り着いた青年によって制止された。その後ろから歩み寄る別の女性の目も驚きに見開かれ、まじまじと<スライム>に視線を向けている。<スライム>にとって生きた心地のしない時間が経過して行った。

 

「……邪気を感じませんね……襲いかかって来る様子もありませんし……この神殿の影響なのでしょうか?」

 

「…………ぷるぷる…………」

 

 傍に近づいて来るサラの言葉を聞いて、一つ頷いたメルエが、<スライム>の触り心地を伝えるようにサラへと言葉を向ける。一度微笑んだサラであったが、何かを思い出したかのように、瞳を細め、メルエの頭に軽く拳骨を落とした。

 『リーシャさんの言うとおり、駄目ではないですか』という言葉を受けたメルエは、三人に謝罪の言葉を伝え、再び<スライム>へと視線を向ける。

 

「お、おい。危ないから下がれ」

 

「……大丈夫だろう……」

 

 近付くサラと、再び<スライム>に触れようと手を伸ばすメルエを見て、リーシャは大いに慌てた。最古の魔物であると共に、最弱の魔物と言われる<スライム>であったとしても、魔物は魔物。危険が無い訳がない。故にリーシャはサラとメルエに声をかけるが、その言葉もカミュによって柔らかく否定された。

 カミュの方へ視線を動かしたリーシャは、穏やかなカミュの表情を見て驚き、そして再びサラとメルエに視線を向けて胸の奥から湧き上がる感情を抑えきれなくなった。

 

「不思議ですね……魔物も邪気がなければ、害はないのでしょうか?」

 

「…………ぷるぷる…………」

 

「あはっ……あはははははっ!」

 

 不思議そうに<スライム>を見るサラと、楽しそうに<スライム>を突くメルエ。その姿を見たリーシャは、堪らず笑い出してしまった。突然笑い出したリーシャの声に驚いたサラとメルエは振り返り、<スライム>は怯えたように縮こまる。

 

「あははは……す、すまない……そ、そうだな。サラがそうであれば、大丈夫だな。あはははは!」

 

 魔物を『憎しみ』の対象と考えていた未熟な『僧侶』は、様々な困難に立ち向かい『賢者』となった。その女性は今、以前『憎しみ』を抱いていた相手を不思議そうに眺め考えている。問答無用で全ての魔物を滅ぼそうと考えていた『僧侶』が、邪気のない魔物を見て、害がないと判断している。これが笑わずにいられようか。笑いながらカミュを見ると、彼も小さな苦笑を洩らしていた。それがリーシャの収まりかけた笑いを戻してしまう。暫しの間、その小道にリーシャの笑い声が響き渡った。

 

 

 

「しかし、何故このような場所に<スライム>がいるんだ?」

 

「わかりませんね……何故でしょう?」

 

 笑いが収まったリーシャの疑問には、サラも答える事が出来ない。アリアハンにしか生息しないと云われる<スライム>が他の大陸にいる事自体が不思議な事なのだ。

 邪気がある云々ではなく、その場所で生きている事自体が謎であった。

 

「頭目に聞いたが、このランシール大陸の東にアリアハン大陸がある。遥か昔は、このランシールにも<スライム>が生息していたとしても何も不思議ではないだろう」

 

「ここからアリアハンは近いのか!?」

 

 初めて知った情報に、リーシャの顔が輝き出す。既にアリアハンを出てから二年近く経っている。生まれてから二年前まで過ごして来たアリアハンという故郷を懐かしまない訳はない。それはサラも同様で、カミュの言葉を聞いて、表情を緩めた。しかし、そんな二人の感情を無視するように繋がれたカミュの言葉は、二人を落胆させる。

 

「先に行っておくが、アリアハンに戻る気はない。アンタも『魔王討伐』という使命を果たしていないにも拘らず、アリアハン城へ戻る事は出来るのか?」

 

「うっ……」

 

 確かにカミュの言うとおり、カミュ達は『魔王討伐』どころか、『魔王』への足がかりすら掴めてはいない。このような状況でアリアハンに戻ったとしても、故郷に錦を飾る事は出来ず、最悪の場合は勅命を果たせずに逃げ帰って来た者としての烙印を押されかねなだろう。それは、アリアハン大陸を出る時に見たアリアハン国の対応から容易に想像できる物だった。

 そんなカミュ達の会話を余所に、メルエは未だに『ぷるぷる』と震える<スライム>に夢中だった。目の前にしゃがみこみ、その独特の感触を楽しんでいる。何度も指を突き出しては<スライム>の身体に触れ、揺れる<スライム>を見て微笑む。しかし、それも何度目かも数え切れないメルエの突き出した指で終わりを告げた。

 

「いじめないで!……僕は悪いスライムじゃないんだ!」

 

「…………!!…………」

 

「ふぇ!?」

 

 突然発せられた言葉に、出しかけたメルエの指が止まり、サラは驚きで目を見開く。リーシャは再び斧に手をかけ、カミュでさえも驚きで呆然とした表情を見せていた。

 最古であり最弱の魔物。つまり最も知能が低いと考えられている<スライム>が人語を話したのだ。しかも、その言葉は、同じように人語を話していた<ヤマタノオロチ>よりも流暢な物。四人は驚きで完全に固まってしまった。

 

「良い事を教えてあげるから、いじめないでよ」

 

「…………なに…………?」

 

 そんな中、真っ先に立ち直ったのは、やはりメルエであった。

 懇願するような瞳を向ける<スライム>と視線を合わせて問いかける。実際、問いかけた所で幼いメルエに理解出来るとは到底思えない。だが、メルエが理解出来る言葉を不思議な生き物が話した事で、その好奇心が再び湧き上がったのだろう。

 

「<消え去り草>は持っている?」

 

「……ああ……」

 

 次に立ち直ったのはカミュ。しかし、流暢に人語を話す<スライム>に戸惑いながら、返事を返す。そんなカミュの返事を聞き、満足そうに震えた<スライム>は、更に一行を驚かせる言葉を紡いで行った。

 それは、カミュ達だけではなく、この<ランシール>の村で暮らす全ての人間を驚かせる程の内容だった。

 

「その<消え去り草>はね、人間の間では食べ物となっているけど、実際は違うんだ。<消え去り草>を乾燥させてから粉にして身体に振りかけると、暫くの間は身体を透明にする事が出来るんだよ」

 

「え!? ど、どういう事ですか?」

 

 先程とは異なる驚きを受けた一行は、戸惑い慌てる。そんな中、リーシャだけは立て続けの驚きの連続によって、未だに言葉を失っていた。それでもサラはこの最弱の魔物に問いかける。その言葉は、いつの間にか『人』に対する物と変わりがない物へと変化している事にサラは気が付いていない。

 <スライム>は話を聞いてくれる態勢になっているカミュ達を見て安堵するが、話に興味を示さないメルエの動きを警戒していた。

 

「う~ん。僕にもよく解らない。でも、<消え去り草>を乾燥させた粉を振りかければ、身体が透明になって、姿が見えなくなるのは本当だよ。それと……<消え去り草>を持っているんだったら、<エジンベア>に行ってみると良いよ」

 

「……エジンベア……」

 

 そして<スライム>が続けて口にした言葉の中にあった国名。再び、カミュ達の前に新たな行き先が示された。まるで何かに導かれているように繋がって行く道筋。それは、まるで決められた道を辿るように現れる。カミュが『勇者』であるが故なのか、それともそれが彼等四人の宿命なのか。

 

「よく解らないけど、『賢者』っていう人が言っていたんだ。<最後のカギ>っていう物を手に入れるには『壺』が必要なんだって。何で壺なんだろうね?……壺の中にあるのかな?……でも、その為にも<エジンベア>に行く必要があるんだって」

 

「……」

 

 もはやカミュ達に言葉はない。いや、正確には言葉を発する事が出来ないのだ。何故『賢者』という言葉が<スライム>から出て来たのか解らない。そもそも、この<スライム>が言う『賢者』とは誰なのか。サラではない事だけは確かであろう。

 そして、次々と明かされる情報。誰もが口にする事のなかった<最後のカギ>という単語が、よりにもよって魔物から発せられる。それがどれ程に驚くべき事か。そして、その神秘の道具を手に入れる為に必要な物までが明らかとなる。

 

「…………ぷるぷる………も………いく…………」

 

「ぴきゅ!? ぼ、僕は行かないよ。ここから離れちゃ駄目だって言われてるし」

 

 驚きと困惑で呆然としている三人を余所に、メルエは満面の笑みで<スライム>を勧誘し始める。メルエにとって初めて出会った生物である<スライム>に邪気はなかった。まるで友を勧誘するように語りかける。戸惑ったのは魔物である<スライム>だった。

 目の前で笑顔を向ける少女の姿に困惑しながらも、なんとかそれに断りを入れる。だが、『むぅ』と頬を膨らませる少女に、<スライム>の困惑は度合いを増して行った。

 

「メ、メルエ……駄目ですよ。<スライム>さんはこの神殿の傍から離れられないのです。もし、離れてしまえば……おそらく死んでしまいます……」

 

「…………だめ…………」

 

 ようやく『死』という意味を理解し始めたメルエは、サラの発する言葉に首を横に振る。ただ、メルエが考える『死』の理由と、サラが語る『死』の理由には多少の食い違いがあった。

 メルエは、神殿を離れるとすぐに<スライム>が自然に死んでしまうと考えている。それに対し、サラは、現在は邪気を発していなくとも、神殿を離れれば『魔王』の瘴気に当てられ邪気を取り戻すであろう<スライム>を自分達が殺さなければならなくなる事を語っていたのだ。故に、メルエの考えている物とは異なっているのだが、それをサラは明確に伝える事はしなかった。

 

「カミュ、そろそろ村へ戻ろう。この分だと、宿屋にもう一泊しなければならなくなるぞ」

 

「……ああ……」

 

 サラの想いを察したリーシャは、場を離れる事をカミュに提案し、その提案をカミュも受け入れた。名残惜しそうに<スライム>に手を振るメルエの手を握り、サラはカミュ達の後ろをついて歩き出す。いつまでも手を振るメルエを見つめながら、<スライム>は遠い昔の出来事を思い返していた。

 

 

 

 『魔王バラモス』が世界に登場するまでは、この神殿の周辺に数匹の<スライム>が生活をしていた。

 だが、『魔王』の誕生による影響が世界を包み始めると、一匹また一匹と<スライム>達が村の外へと出て行き始める。元々<スライム>の中でも臆病であった彼は、どうしても神殿から離れる事が出来ず、他の<スライム>達の帰りを只々待つ事しか出来なかった。

 しかし、何年たっても、誰もこの神殿へ帰って来る者はいなかった。その内、神殿へ多数の人間達が訪れるようになり、彼は神殿の片隅で隠れるように過ごす事が多くなる。

 そんなある日、一人の男が彼の許へと訪れた。その男は杖のような物を持っており、<スライム>である彼を見て、何やら困ったような表情を作り出す。『人』を恐れていた彼は、身体を震わせながら何とか逃げ出そうとするが、そんな彼の行動は男によって遮られた。

 

「そっちに行っては駄目だ。邪気は感じないが、君が<スライム>である事に変わりはない。出来る限り『人』に見つからないようにしなさい。この神殿に『人』が訪れないようにしてみよう。君はこの神殿の傍から離れてはいけないよ」

 

 そう言った男は、暫くの間この神殿に居座った。初めは怯えていたが、毎日のように顔を出す男に、彼の心は次第に溶け始める。初めて出会った時には何を言っているのか理解出来なかった男の言葉も、少しずつ理解出来るようになって行く。意思の疎通の為に言葉を使う事が出来るようになる程、彼は男の言葉を聞いていた。

 どれ程の時間が経っただろう。その内、神殿を訪れる『人』の数は減り、いつしか誰も神殿に近寄らなくなる。神殿の周辺で『人』の声が全く聞こえなくなった頃、彼の前に現れた男は、彼に別れを告げた。手に小さな何かを持ち、それを彼に見せるように腰を落とした後、彼に最後の言葉を残す。

 

「この神殿は、この鍵で鍵を掛けた。もう誰も神殿に入る事は出来ない。『人』もここへ来る事はなくなるだろうね。もし、この神殿に来て、君と話をする事の出来る『人』がいたとしたら、この鍵を手にする者かもしれない」

 

 なんの事を言っているのか解らない彼は、男を見上げ、不思議そうな瞳を向ける。そんな視線を感じた男は苦笑し、彼の青く透き通った身体を撫で、優しげに微笑んだ。そして一度上空に視線を向けた後、彼はもう一度口を開く。

 

「この鍵は、私が『賢者』の名に懸けて封印しようと思う。隠し場所は秘密だ。そうだな……あそこにしよう。あそこであれば、誰であろうと手に入れる事は出来ない。あの壺を手に入れなければ、無理だろうね」

 

 まるで、彼に聞かせるように語る男の言葉を不思議に思いながらも、彼はその言葉を忘れてしまわないように刻みつける。何故だか解らないが、彼はもう二度とこの男に会えないような気がしたのだ。

 只の<スライム>であった彼に、知識と心を与えてくれたこの男の最後の言葉を彼は真剣に聞いていた。呟くように話す男の話の中に出て来た<消え去り草>という名前や<エジンベア>という名前。その一つ一つを心に刻みつける。

 

「じゃあ、私はもう行くよ。忘れないでくれ。君はこの神殿の傍を離れてはいけない。退屈かもしれないが、それが君にとって一番良い事だから」

 

 最後にそう言った男は、もう一度優しげな笑顔を浮かべると、何やら呪文のような物を唱えた後、上空へと浮かび上がり、北の空へと消えて行った。

 何やら不思議な感覚に襲われた彼は、それから暫くの間、神殿の傍にある木の根下で身動き一つせず過ごして行く。

 

 あれからどれくらいの月日が流れた事だろう。

 再び彼の前に現れた『人』は四人。怯える彼を目にして、笑顔を向けてくれた。故に、彼は男が残した言葉を彼等四人に伝えたのだ。この神殿の扉をもう一度開く事の出来る者達として。

 

 

 

「カミュ、あの<スライム>の言う事は信じても良いのか?」

 

 民家の脇道を抜け、村へと戻って来た時、ようやく口を開いたのはリーシャだった。立ち止まったリーシャは、民家の脇道を振り返る。残念な事であるが、怒涛のように押し寄せた情報の嵐を治め、それを処理する能力をリーシャは持ち合わせてはいない。

 只々翻弄され、戸惑い、迷う。その情報が、国家の王や教皇などから与えられた物であれば、彼女はここまで迷わなかっただろう。しかし、その情報源はリーシャ達が討伐する相手でもある魔物だったのだ。

 

「私は信じるべきだと思います。あの<スライム>が嘘を話しているとは思えません。それに……私はそれを確かめたい」

 

 そんなリーシャの迷いを払ったのはサラだった。<スライム>が語った過去の存在ではなく、現代に生きる『賢者』であるサラ。『古の賢者が示した道を歩み、その先にある光景を見てみたい』という想いがサラの胸に去来している。

 <スライム>が語った人間が本当に『賢者』であったのかは解らない。だが、<最後のカギ>という名が出て来ている以上、その者が只者ではない事だけは確かである。故に彼女は歩き出す。まだ見ぬ果ての世界へと。

 

「どちらにせよ、俺達に選択肢などない。罠であろうが何であろうが、数少ない情報で行動するだけだ。アンタの目的は『魔王討伐』。誰一人として『魔王』の城へ辿り着いた者がいない以上、細い糸でも手繰って行くしかない」

 

「……そうだな……」

 

 最終的に道を決める者が口を開いた事で、リーシャは頷きを返した。カミュの言うとおり、『魔王バラモス』の許に辿り着いた者は未だにいない。

 あのアリアハンの英雄であるオルテガでさえも志半ばで力尽いたと云われている。ならば、前人未到の場所へ向かう彼等にとって情報を選り好みする事など出来はしないのだ。

 

「…………ぷるぷる…………」

 

「さぁ、行きましょう。メルエ、ほら」

 

 名残惜しそうに神殿の方角を眺めながら、<スライム>に想いを馳せるメルエに手を伸ばしたサラは、そのまま村の中央広場へと移動する。残念そうに肩を落としたメルエもサラの手を握り、歩き出した。

 残るはカミュとリーシャ。一つ溜息を吐き出したカミュは、リーシャに視線を送ると、足を前へと踏み出す。

 

 彼等の旅は、また一歩前へと踏み出した。

 それは、何かに導かれるように。

 そして、何かに誘われるかのように。

 古の賢者の導きなのか。

 それとも『精霊ルビス』の誘いなのか。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

今回の事で自分自身の事が良く解りました。
何処かで抑えなければ、止め処なく描き続けるという事。
本当に気付いたら二話分になってました(苦笑)

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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~幕間~【ポルトガ近郊】

 

 

 

 中央広場にて船員達と合流したカミュ達は、そのまま<ランシールの村>を出て、東へと歩を進める。ここから船がある船着き場まで約三日の道のり、先頭をカミュが歩き、後方では<消え去り草>の入った木箱を抱えた船員達が続いた。

 メルエは<ランシールの村>からサラの手を離さない。嬉しそうにサラの手を握り、サラと共に歌を口遊んでいた。

 

「悪いが、アンタ方が購入した<消え去り草>を少し分けてくれないか?……その分のゴールドは支払う」

 

「ん?……いや、それは構わないですよ。そう言えば、大量購入のお礼として、数束のおまけをくれましたから、それでも良いですか?」

 

 陽が傾き始め、野営の準備を始めた頃に、カミュが船員達の一人に声をかける。<スライム>から聞いた情報の中にあった<消え去り草>の使用方法を考え、その為の入手を図ったのだ。

 <消え去り草>の入った木箱は、船から持って来た<ジパング>の品と同様に荷台に乗せられている。内容を知らない船員達は、木箱とは別途に持っていた数束の<消え去り草>をカミュへと手渡した。どれ程の量の<消え去り草>を乾燥させ粉にし、どの程度の量を振りかければ姿が消えるのが解らない以上、カミュは少し考え込んだ。

 

「結構必要なのですか?」

 

「……いや、エジンベアへ向かうのだが、エジンベアという国はどの方角にあるのか解るか?」

 

 <消え去り草>の量を尋ねた筈が、全く異なる問いかけが返って来た事に船員は一瞬戸惑いを見せる。しかし、エジンベアという国名を頭の中で消化し終えた後、元盗賊の男以外の船員が総じて顔を顰めるような仕草をした。

 それは、エジンベアという国に対して船員達が良い印象を持っていない事を示している。その事をサラは不思議に思った。船員達は貴族ではない。故に、国の内部に入り込んでいる筈がない以上、その好き嫌いの感情を表に出す意味が理解出来なかったのだ。

 

「エジンベアへ向かうのですか?……エジンベア自体は、ポルトガから大陸沿いに北へ向かった場所にある島国です。しかし、余りお勧めは出来ないですよ……」

 

「何かあるのですか?」

 

 苦い顔をしたまま言葉を綴る船員を見て、益々サラの疑問は膨らんで行く。行く事を進められない理由に思い至らない。『勇者』を毛嫌いしていたり、それこそロマリアのように『英雄オルテガ』に対して良くない感情を持ち合わせている国だとでも言うのだろうか。それとも、かなり険しい道が続き、そこへ辿り着く事が非常に難しい為なのか。

 そんな様々な疑問が浮かんでは消え、サラの頭は混乱して行った。

 

「ポルトガを通るのならば、一度寄る事になるだろうな……ポルトガ王に、船の謝礼も含め、<消え去り草>を献上したいと思うのだが、一箱ほど譲って欲しい」

 

「……なるほど……そうですね。国王様には何か献上しなければならないでしょうね。解りました」

 

 エジンベアという国に関しての話を途中で中断させたカミュの答えは、船員達を納得させるだけの物だった。ポルトガを素通りする訳にも行かず、ポルトガの港に入るのであれば、王との謁見は避けて通れないだろう。王と謁見せず、そのまま再び航海に出たとすれば、『勇者一行は恩知らず』という噂がポルトガ国内に瞬時に広がるだろう。

 旅を続けて行く以上、その噂は遠い将来で思わぬ障害になるかもしれない。ならば、形式的な物だとしても、国王と謁見し、献上品を持参した方が良いのだろう。

 

「エジンベアとはどのような国なのですか?」

 

 しかし、考える事が仕事である『賢者』は納得しない。熾し終わった焚き火に新たな薪を入れながら、サラは船員達に再度問いかけた。

 その頃になって、ようやく森の中から野ウサギなどを数羽手に持ったリーシャが戻って来る。最近になって『死』という物を覚え、野ウサギなどの死体を見ると哀しそうに眉を下げるメルエに見えないように、リーシャが捌いて行った。

 

「あ、ああ。エジンベアでしたね。あの国は……何と言うか……行ってみれば解るとは思いますが、とにかくとても不愉快な国だという事は確かです」

 

 リーシャの姿に驚いていた船員が、サラの問いかけを思い出し、再び口を開く。しかし、その答えは明確な物ではなく、サラの疑問を更に強くする物であった。

 サラの傍にいるメルエは、会話の中身にも興味を示さず、地面に咲く小さな花を見つめている。この野営の準備中も、メルエはサラの傍を離れない。まるで、ランシールへ入るまでの一日弱の時間を取り戻すかのように、サラにべったりとくっついていた。

 

「まずは一度ポルトガへ戻る。そこからエジンベアに入るとしたら、どのくらいの日数が掛る?」

 

「う~ん。頭目に聞いてみなければ、正確にはお答え出来ませんが、おそらく一月程で到着すると思います」

 

 サラの疑問を無視するように話しを進めて行くカミュは、船での航海によって掛る日数を尋ねる。ルーラで船を運ぶ事が出来ない以上、ここからの船旅を、船員達だけに任せる訳にはいかない。例え、時間がかかろうとも、共にポルトガまでの航海を行った方が、船自体の安全や、船員達の安全を考えれば、カミュ達が共に行く事が最善という結論に達するのだ。

 

「一度、ポルトガに戻るのか?……ならば、トルドの所にも寄れるのではないか?」

 

「!!…………トルド…………」

 

 捌いた肉を木に刺した物を持って火の傍へと歩いて来たリーシャの発した名前を聞いて、メルエの首が跳ね上がる。何かを期待するように向けられたメルエの瞳を見たカミュは、一度大きな溜息を吐き出した。

 素知らぬ顔で作業を続けるリーシャ。

 サラの傍からカミュの傍へと場所を移し、眉を下げてカミュを見上げるメルエ。

 火の周辺に肉を刺した木の枝を差して行くリーシャを恨めしげに睨んだカミュは、メルエの願いを了承する事しか出来なかった。

 

 

 

 翌朝も太陽が昇ってすぐにカミュ達は歩き出す。エジンベアまで一か月の航海が必要だと言われれば、出来るだけ早くに船を出向させるべきだという事を理解しているからだ。

 だが、今のカミュ達には船員達がいる。幼いとはいえ、メルエは紛れもなくカミュ達と旅を続けて来た一人。カミュ達は歩く速度をロマリア大陸の時ほど緩める事はない。言ってしまえば、船員達の方が歩く旅に慣れていない以上、メルエよりも足枷になってしまっているのだ。

 

「メルエちゃんは凄いな」

 

 休憩の際に口を開いた船員の言葉が、その事を明確に示していた。

 陽が昇ってから、真上に輝くまでの間を歩き続け、疲労困憊に近い状況の船員達が木の根下に座り込んだのとは裏腹に、メルエは咲いている花や、その傍で飛び回る虫達を眺めて動き回っている。そんなメルエの姿に船員達は苦笑を洩らした。

 

「メルエのような『魔法使い』は体力よりも魔法力の方が上の人間も多いですから。体力がない分、魔法力でそれを補っている節もある為、いざ魔法力がなくなってしまえば、起き上がる事さえも出来なくなってしまいます」

 

「へぇ~」

 

 動き回るメルエを眺めながら、船員達の疑問に答えたのはサラだった。サラの言うとおり、『魔法使い』という職業は、体力よりも魔法力の向上を目的とする。良くも悪くも、『魔法』という神秘に比重を置いているのだ。

 サラのような『僧侶』は、回復呪文の要請を受け、旅団等に同行する事も多く、体力も鍛えて行かなければその役目を果たす事は出来ない。その分、大抵の『魔法使い』は『僧侶』に比べて、体力に於いて劣ってしまうのだ。

 ならば、その差を何で補うのかというと、それは『魔法使い』の中にある魔法力となる。魔法力は簡単にいえば、その人間が有する気力。気力によって体力を補っているというのも可笑しな話ではあるが、魔法力に優れている『魔法使い』はそのような形で自身を護っているのだ。

 それが意識的なのか、それとも無意識なのかは別として。

 実際に、ジパングに於いて<ヤマタノオロチ>と対戦した際にも、魔法力切れを起こしたメルエは、その場で完全に倒れ伏してしまった。

 未だ成長過程という幼さを考えれば、カミュ達と共に強大な敵と夜を通して戦う事が出来たのは、メルエの中に眠る膨大な魔法力による物が大きい。通常の『魔法使い』であれば、世界最高の『魔法使い』であるメルエが唱える呪文を行使出来ないばかりか、カミュやリーシャのような世界屈指の強者達と肩を並べて戦う事など出来はしないのだ。

 またその事が、メルエの異常性を浮き彫りにしている事をサラは危惧してもいた。

 

「メルエもこちらで水を飲んで休みましょう?」

 

「…………ん…………」

 

 サラに呼ばれた事で振り返ったメルエは、笑顔でサラの許へと歩いて来る。サラの横に座ったメルエは、手にした水筒の水で喉を潤し、輝くような笑顔をサラへと向けた。

 花を眺めている時に土をいじり、その手で顔を拭いたのだろう。サラはメルエの頬に付いた土と手に付いた土を布で拭いてやりながら、『メルエを護る』という誓いを改めて胸に刻むのだった。

 

 

 

 その後、何度かの戦闘を行いながらカミュ達は歩を進めるが、遭遇する魔物は、<豪傑熊>や<ゴートドン>といった何度か戦闘を行った魔物である為、戦闘に於いてメルエの出番はなかった。

 魔法を行使する為にはサラの許可と指示が必要となったメルエは、余程の事がない限り、勝手に魔法を行使する事はないだろう。それこそ、カミュやリーシャが危機に瀕した時や、司令官であるサラが傍にいない時以外は。

 

 ランシールの村を出て三日目の昼に、カミュ達は船着き場に到着した。数日前と変わらず、活気はほとんどない。ランシールの村にある神殿の扉が閉じられてから数十年。日々増して行く魔物の脅威によって、渡来する船も皆無に近い状態になった船着き場は、同じように船の行き来が無くなったポルトガの港よりも寂れていた。

 それが、どこの国にも属さないランシールという地方の限界なのかもしれない。

 

「確かにエジンベアへ行くのなら、ポルトガやあの土地は通り道だ。ポルトガまで数週間かかるが、他に食料や水も購入したみたいだから、まぁ大丈夫だろう」

 

 船に乗り込んだカミュが口にした次の目的地を聞いた頭目は、暫し考えた後、乗り込んで来る船員達が抱える物資に視線を送りながら口にする。どうやら、カミュ達が武器屋と神殿へ行っている間に、船員達は食料や水などの物資の購入をしていたようだった。

 荷台の中には、<消え去り草>以外の木箱があった事に今更ながら気付いたサラは、驚きの表情を浮かべて船員達を眺める。カミュ達四人は旅慣れたとはいえ、船に関しては素人。その準備等に関しての思考については、船員達の足元にも及ばない。数多くの船員達がいるからこそ自分達が旅を続けられる事を、リーシャとサラは改めて感じていた。

 

「よし! 錨を上げろ! 出港だ!」

 

 頭目の声に船員達が一斉に雄叫びを上げる。船に帆が下され、錨が重々しい音を立てながら上げられて行った。帆一杯に風邪を受け止めた船がゆっくりと海原へと進み出す。

 久方ぶりの船の出港を見ようと、船着き場には人が集まって来ていた。中には船に向かって大きく手を振っている人間も見える。そんな光景を船の最後尾で目にしたメルエは、笑顔を向けて手を振り返していた。メルエのその姿は、船に乗る全員の心を癒して行く。

 

「ポルトガまで数週間か……サラ、もう部屋で休んでいた方が良いんじゃないか?」

 

「ふぇ!? あ、あ……い、言わないでください。忘れていたのに……」

 

 船酔いという悪夢を頭の片隅へと無意識に追いやり、自己防衛に努めていたサラの努力をリーシャが打ち砕いた。リーシャとしては、本当にサラを心配していたのだろが、サラにとってみれば、それは大きなお世話以外何物でもない。無意識の内に忘れていた為、思い出すまでの数日は何とか耐える事が出来たかもしれないが、ここまで明確に思い出さされては仕方がない。徐々に青白くなって行くサラの顔色。その顔色を見て、ようやくリーシャも自分の失言に気が付いた。

 

「サ、サラ。ゆっくり休んでいろ。いざとなれば、カミュもベホイミを行使出来るようだし、<毒消し草>も持っている。以前のような麻痺する事があれば呼びに行くから、船室で横になっていろ」

 

「……うぅぅ……」

 

 まだ、船が船着き場を出港してからそれ程の時間が経過した訳ではない。比較的強い海風を受け、順調に船は進んでいるものの、ランシール大陸はまだ視界に小さく映っている。それにも拘らず、僅かな時間でサラは戦力から除外されてしまった。

 リーシャに悪気はない。それは皆解っている。だが、『とぼとぼ』と船室へ戻って行くサラの背中を見つめていた彼等の視線が一斉にリーシャへと集まった。船員達の目は責めるような物ではなかったが、カミュの目はどこか呆れを含み、メルエに至っては明らかな叱責を含んだ厳しい瞳をリーシャへと向けている。そんな視線の集中砲火にリーシャは顔を俯かせてしまった。

 

 

 

 航海は順調に進んで行く。時折、天候が崩れる事はあったが、嵐等になる事はなく、船が進路を見失う事もなかった。<マーマン>や<しびれくらげ>、そしてムオルで遭遇した<スライムつむり>などの魔物達が船を襲う事はあったが、それらは全てカミュの持つ剣と、リーシャの持つ斧の錆となって行った。

 後ろに控えるメルエは、この船旅の間、戦闘中に自分の出番が来ない事にむくれる仕草をする事はなく、むしろ出番がない事に胸を撫で下ろしているようにも見える。

 

「メルエ、お願いしますね」

 

「…………ん…………」

 

 そんなメルエに船の上で一つの仕事が出来た。

 常に甲板の木箱の上から海を眺めているだけだったメルエの瞳が厳しく細まり、声をかけて来たサラへ向かって大きく頷きを返す。そのまま甲板に敷かれた網の上に乗せられた数枚の葉束の傍に腰を下ろし、手に持った杖を抱いて上空を見上げた。

 

 メルエの仕事。それは、乾燥させる為に天日に晒された<消え去り草>を狙う海鳥達からそれらを護る事。

 海風に飛ばされないように網を重ねてはあるが、その隙間から啄まれれば、すぐに消え去ってしまうだろう。その責任は重大であり、それを理解しているからこそ、メルエは上空に目を光らせているのだ。

 海風がメルエの髪を撫で、今では好ましい匂いに変化した潮風がメルエの鼻をくすぐる。思わず海の方角に目を向けそうになる自分を律するように頭を振り、もう一度上空へと視線を戻した。

 そんなメルエの様子を見ていたリーシャが苦笑を浮かべながら視線を向けると、そこにも苦笑を浮かべる『賢者』の姿がある。実は、この<消え去り草>の警備という仕事は、メルエの鍛錬の一つでもあったのだ。

 <消え去り草>を乾燥させて粉にしなければならない為、甲板で天日に晒すという方法を取る事をカミュが口にした時、ある提案をサラがする事となる。それが、メルエの魔法による警備。

 基本的にメルエはカミュ達が敵対しない限り、魔物であろうと攻撃をする事はない。<くさった死体>のような不快な臭いを放つ者は別だろうが、動植物に対して好意的な想いが初めからあるのだ。

 そんなメルエが<消え去り草>を護る為とはいえ、海鳥に対して攻撃を繰り出す。それには、魔法力の制御が必要となるだろう。メルエの強大な魔法力であれば、<メラ>であろうが<ヒャド>であろうが、海鳥そのものを殺してしまう。その事をメルエも理解していた。

 故に、海鳥達を傷つけないように気を付けながらも威嚇しなければならない。それがメルエの鍛錬になるというサラの提案に、リーシャは不安を覚えたが、カミュが頷いた事から、警備はメルエの仕事となる。初めて任される自分だけの任務にメルエは大いに張り切った。

 

「クワァァァ」

 

 メルエの警備が開始されてから数刻が経過した頃、一羽の海鳥が上空から舞い降りて来る。無防備に敷き広げられた<消え去り草>を発見し、周囲に人影がない事を確認した海鳥は、船の縁に足をかけ、機会を狙っていたのだ。

 初仕事として警備を任されていた幼い少女の姿は、網の近辺に見当たらない。船員達もそれぞれの仕事に忙しく、<消え去り草>が敷き詰められている場所に意識を向けてはいなかった。

 

「クエッ」

 

 周囲に意識を向けていた海鳥が、瞬時に瞳を切り替える。それは獲物を狙う獰猛な瞳。狙われた獲物は海鳥が目にした事もない輝くような植物だった。

 船の甲板に広げられた青々とした葉は、海鳥の食欲を誘うような怪しい輝きを放っている。その周囲に人影がない事は確認済み。故にその海鳥は、足を力強く蹴り出し、目に映る獲物に向かって飛び出した。

 

「…………ヒャド…………」

 

 しかし、獲物まであと少しの所までという寸での所で、海鳥の周囲を異様なまでの冷気が包み込み始める。一瞬の内に凍りつく空気。しかし、その空気は海鳥そのものを包み込む事はなく、その余波によって嘴が凍りつくだけであった。

 嘴が凍り付き、鳴き声さえも上げる事が出来なくなった海鳥は、冷気の出所に恨めしげな視線を送る。その先に居たのは杖を海鳥に向けて立つ幼い『魔法使い』。その者が厳しい瞳を海鳥に向け、杖を向けて威嚇していた。

 

「…………だめ…………」

 

 実は、メルエは誘惑に負けていた。

 船が風を受けて順調に航海する中、動く景色は幼いメルエの心を沸き立たせる。『そわそわ』と視線を海へと向けるメルエの身体が、<消え去り草>から離れてしまうのも時間の問題だった。カミュとサラが今後の進路について話す為に船室に戻り、メルエの護衛をしていたリーシャが船員の仕事を手伝う為にその場を離れた事を確認したメルエは船の縁へと移動してしまう。そして、船が動く度に聞こえる波の音に頬を緩ませている時に耳に入った鳥の鳴き声で我に返ったメルエは、即座に杖から魔法を放ったのだ。

 

「…………だめ…………」

 

 再度睨むような瞳を向けて口を開いたメルエを見た海鳥は、忌々しそうな瞳をメルエへと向け、威嚇するように顔を上げるが、凍りついた嘴は開かず声が出ない。メルエは力を最小限に抑えて<ヒャド>を唱えた。しかし、未だに制御が上手く出来ないメルエは、海鳥を殺してしまう事を恐れ、その魔法の対象をかなりずらした場所に設定していたのだ。

 もし、サラであれば<ヒャド>という魔法を制御しきり、海鳥の嘴だけを凍らせる事が可能だったかもしれない。だが、それを今のメルエに要求するのは酷な事だろう。

 

「…………むぅ…………」

 

 睨み合う両者。痺れを切らしたメルエがもう一度杖を振るおうと掲げた時、ようやく海鳥は空へと飛び立った。恨みに近い程の強い瞳をメルエへと向けた海鳥は翼を大きく広げ大空を飛び回る。未練でもあるかのようにメルエの真上を旋回するように飛び回る海鳥を見上げながら、メルエは初仕事を達成した喜びを噛み締めていた。

 

「メルエ! 良く……!!」

 

「…………!!…………」

 

 船員達の仕事を手伝う振りをして、メルエの仕事振りを見ていたリーシャの言葉は途中で遮られた。そして、リーシャと同じようにこっそり隠れて見ていたカミュとサラの二人の歩み寄る足も止まってしまう。微笑ましく見ていた船員達も、まるでメルエの放つ氷結呪文を受けたかのように固まってしまった。

 時は凍り付き、船の上の世界は色を失う。

 

「…………うぅぅ………ぐずっ………うぇぇぇん…………」

 

 そんな凍りついた時を動かせたのは、やはり幼い少女だった。しかし、その声は既に泣き声。天を仰ぎ見るように空に向けられていたメルエの顔がゆっくりとサラとリーシャの方向へと向けられる。

 動き始めていた時が再び凍りついた。先程のそれとは異なる凍り付き方をしたそれは、徐々に溶け出し、激しさを持って溢れ出す。

 

「ぷっ!」

 

「くっ……メ、メルエ……ふふ……こ、こっちに来い。顔を拭こう」

 

 リーシャ達に向けられたメルエの頬の部分には、所々に茶色い物が交る白い液体。頬から垂れ落ちるようなその液体を見たサラは噴き出してしまう。何とか笑いを堪えるように顔を引き締めようとするリーシャであったが、それは失敗に終わった。

 その液体は、見上げるメルエの上空を旋回していた海鳥の糞。メルエによって食事を邪魔された事への腹いせにメルエの顔面へと糞を落としたのだ。

 見上げるメルエの頬に目掛けて糞を落とすなど、海鳥の中でもなかなかの技能者なのかもしれない。

 

「…………うぇぇぇん…………」

 

 メルエにしては珍しい泣き声を発し、リーシャの許へと駆けて行く。最早、笑いを堪える事を放棄したサラは何度も咳き込み、涙を流していた。メルエが辿り着いた先にいたリーシャも同じ。顔は笑いを堪えて引き攣り、布を取り出した手は小刻みに震えている。布を濡らすために船員が差し出した桶の中の水は、海原のように波打っている。

 泣き声を上げるメルエの頬を拭き取っているリーシャの姿を微笑ましく見つめる船員達の顔は皆笑顔だった。絶え間なく襲いかかって来る魔物達が蔓延る海の上で、場違いのような和やかな空気が流れる。ポルトガの港までまだ一週間以上の日数が掛るだろう。それでも、この船は悲壮感とは無縁の航路を走り続けるのだ。

 

 

 

 魔物達から船を護りながら北上し、バハラタ付近の大陸が見えた頃から船は大陸沿いに走る。西へと進路をとり、再び北へと進路を取る頃には、メルエの仕事も完遂を迎えていた。<消え去り草>は潮風を受け枯れ果て、更に太陽の日差しによって水分を完全に奪われている。その葉を一枚一枚磨り潰し、粉上にした物を小さな布の袋の中へと入れて行く。その際に、周囲に飛び散らない為の配慮から、作業は船室で行われ、また手などに触れてしまわないように袋へと入れられて行った。

 注意深く作業を行うカミュを、リーシャとサラが固唾を飲んで見守り、その隙間から興味に目を輝かせたメルエが見つめる。無事に袋へと移動させたカミュは、一つ息を吐き出した。

 

「それは、本当に身体が透明になるのか?……見たところ、袋は透明になっていないが」

 

「そう言われれば、そうですね……」

 

 カミュが掲げる布製の袋を見つめていたリーシャが洩らした疑問は、至極尤もな物であった。今初めて気付いたかのように袋を見つめるサラをメルエが不思議そうに見上げている。

 確かに、リーシャの言うとおり、<消え去り草>を乾燥させた粉によって身体が透明になるのであれば、それを入れる袋なども透明となり見えなくなっていても不思議ではない。

 

「もしかすると、生物にしか効果がないのかもしれませんね……」

 

「この<消え去り草>の粉を使用する機会があるかも解らない。使用する事があるか解らない物に悩む必要もない筈だ」

 

 少し考えてから自分なりの答えを見つけたサラの言葉をカミュは一蹴した。事実、どのような仕組みになっているのかも解らず、第一に本当に姿が消えるのかどうかも曖昧なのだ。

 あの<スライム>の言葉を疑う訳ではないが、<スライム>も使用した事がない以上、話の信憑性に欠けるというのも事実。この船の上でカミュ達が論じたところで何が変わる訳でもない。その事をカミュは指摘したのだ。

 

「ポルトガが見えて来たぞ!」

 

 カミュの言葉に不承不承という感じで頷きを返したリーシャとサラの耳に船員達の声が入って来る。<ランシール>を出て二週間以上の時間が経過していた。

 この船旅の中で、サラの船酔いもある程度緩和されて来たようにも感じる。船旅という未知の方法にも徐々に慣れて来たのだろう。人間であれば誰しも適応力という物を備えている。要はそれが早いか遅いかの違いでしかない。既に船を手に入れてから数か月の月日が流れようとしている。これで少しも慣れないのであれば、サラ自体が船旅に向かない事になってしまうのだ。

 <消え去り草>の粉が入った袋を革袋の中に仕舞い、表に出たカミュ達は久しぶりに見るポルトガの大陸を目にする。

 船員達の目も心なしか輝いているようにも見えた。久しぶりの故郷に心湧かせ、皆が甲板へと出て来ている。船はゆっくりと港へと近付き、誘導に従い、無事着艦した。

 

「俺達は必要な積み荷を船に運んでいる。それに仕入れた物も売らないといけないしな」

 

「……わかった……」

 

 頭目の言葉に頷き、カミュ達は港へと足を下ろす。積み荷を入れ込むとすれば今日中の出港は不可能だろう。積み込みをカミュ達が手伝う訳にも行かず、国王との謁見が終われば、一度この城下町で一泊をする以外にないという事になる。

 サラの状況やメルエの状況を考えれば、この城下町で一夜休息を取る事は悪くはない。そう考えたカミュは一つ頷きを返した後、<消え去り草>の入った木箱を一つ荷台に載せ、城への街道を歩き出した。

 ポルトガの城下町は、カミュ達が初めて来た時に比べると、賑わいを見せている。カミュ達の乗る船の製造に伴うお祭り騒ぎの余韻が未だに残っているのだろう。また、カミュ達の開いたロマリア大陸へと続く地下道によって、多くの人間がポルトガへ訪れる事になった。

 移住目的の者などは少なく、ほとんどが観光目的の貴族や商売目的の商人。故に、町は活性化し、金が落ちて行く。あの扉が閉じられて十数年。ようやく開かれた商いの道は、ポルトガ、ロマリアの両国に恩恵を与えていたのだ。

 

「よくぞ戻った。面を上げよ」

 

 謁見の間に通されたカミュ達は、玉座の椅子の前に跪き、王の言葉を拝する。数か月ぶりとなるカミュ達の謁見をポルトガ王は快く迎え入れ、労いの言葉をカミュ達へと向けていた。

 王とカミュ達の間には、<消え去り草>の入った木箱とその中身。献上品として臣下の人間へ手渡した物が王の前に並べられている。

 

「ほぉ……良き旅を続けているようだな……」

 

 遠慮がちに上げられたカミュの顔を見たポルトガ王は、深く息を吐き出した。

 彼等がこのポルトガの港を出て数か月。その間も魔物の横行は収まらず、『魔王バラモス』の脅威は増している。それでも、カミュの顔を見た瞬間に、この王は全てを悟った。彼等は着実に前へと進んでいる事を。

 

「共の者も面を上げよ」

 

 続けて発した言葉に顔を上げた面々の表情を見て、その想いは確信へと変わる。彼等の表情一つをとっても、船出の頃とは全く違う。東の大陸へと旅立つ為にノルドへの手紙を手渡した時などに比べれば、雲泥の差であったのだ。

 『人はここまで成長する物なのか?』。

 そんな疑問が湧いて来る程に、カミュ達の雰囲気は一変していた。

 

「これが約束の献上品か?……只の草にしか見えないが?」

 

 そんな内心を悟られぬように口を開く姿は、流石に一国の王たる物である。良い旅を続けている事は理解した。だが、彼等が何を考え、どこへ向かうのかまではこの賢王にも推察は出来ない。

 故に、目の前に並べられた献上品へと話題を移したのである。

 

「そちらは、<消え去り草>と呼ばれるランシール地方の特産物であります。煮て良し、焼いても良しの絶品という話でありました」

 

「ランシール?……お前達は、ランシールへ向かったのか?」

 

 献上品の説明を語るカミュの言葉を聞き、ポルトガ王は一瞬眉を顰めた。その仕草が、国王がランシールという地名を知っている事を裏付けている。巨大な神殿があったと言えども、僧侶であるサラがその存在を知らなかったのだ。一般の人間がその存在を知らない可能性は高いだろう。

 だが、それはあくまで一般人の間の話。国家の頂点に立つ人間であれば、その村の存在も、そこにあった巨大な神殿の存在も、知識として持ち合わせている事に何らおかしな事はない。

 

「そうか、ランシールへ行ったか……あそこの神殿の門は、もう何十年も開かれていないという。俺が生まれる更に前の話だ。お前達も徒労に終わっただろう?」

 

 だが、『神殿』という存在は知っていても、その真相までは広まっていなかった。それは、ポルトガ王だけではなく、この世界に生きている全ての『人間』が知り得ない物なのかもしれない。

 <スライム>の話を信じるのであれば、その真相を知る者は、あの<スライム>と古の『賢者』だけという事になる。<スライム>がこの数十年の間で、カミュ達以外にあの話をしていれば別であるが、その可能性は極めて低いだろう。それを考えたからこそ、カミュは<消え去り草>という特産物の説明を、現地の道具屋が話した内容のまま口にしたのだ。

 

「それで次は何処へ向かう?」

 

 問いかけに答えを返さないカミュ達を見て、ポルトガ王はカミュ達の心の内にある落胆を想像した。何も収穫がなくポルトガへ戻って来たとは考えていない。だが、考えていたよりも収穫は少なかったのかもしれないと考えたのだ。

 故に、その後の進路について新たに問いかけを発する。

 

「思う所がありまして、エジンベアへ向かおうと思っています」

 

「エジンベアだと!?」

 

「!!」

 

 ポルトガ王の問いかけに間髪入れず答えたカミュの言葉は、予想以上に大きな王の声に掻き消えた。驚きの声を上げるポルトガ王だけではなく、常に柔らかな笑みを崩す事のなかった大臣の顔にも驚きの色が浮かんでいる事から、エジンベアという国に何か問題がある事を想像させる。

 カミュに目的地を聞いた船員は、『行く事を勧められない』とまで云わしめた国であるが、一国の王からも同じ様な反応をされてしまうと、リーシャやサラだけではなく、カミュでさえ一抹の不安を抱いてしまった。

 

「……エジンベアに何か問題でもおありでしょうか?」

 

 故に問いかけてしまう。それが国王に対しての不敬である事を承知しながらも、カミュはその疑問を抑える事が出来なかった。

 いや、もしここがアリアハンという国であったり、ロマリアという国であれば、カミュは無言を通したのかもしれない。だが、このポルトガ国王に対しては、カミュは他国の王とは異なる感情を持っていた。それはカミュにしてはとても珍しい感情であり、それがこの旅の中で変化して行ったカミュの心を表しているのかもしれない。

 

「いや……少しな……ふむ。一筆書いてやろう。エジンベア王へ渡るかどうか解らぬが、ないよりかは幾分かは良いだろう」

 

 カミュの問いかけに曖昧な答えしか返さない王は、傍の大臣に目配せをして、エジンベア王への証文を代筆させる。基本的に、王への謁見という物は、他国の推薦状がなければ不可能に近い。故に、カミュはロマリアへ入る際にはアリアハン国からの書状を提出し、イシス国へ入る際には、ロマリア国からの書状も付随した。このポルトガ城へ入場する際も同様であった。

 

「それを持って行け。あの国は、無駄に誇りだけは高い国だ。色々と腹に据えかねる事もあるかもしれんが、気をつけろ」

 

「……はっ……」

 

 大臣より、ポルトガ国印が押された書状を受け取ったカミュは、国王の真意が掴めず、どこか曖昧な返答をせざるを得なかった。

 まず第一に何について気を付ければ良いのかが全く解らない。エジンベアという国の存在自体も知らなかったカミュ達には、どのような国なのかが想像すらも出来ないのだ。

 

「まぁ、何時でもこの港へ戻って来い。献上品さえあれば、この国はお前達を歓迎するぞ」

 

 そんなカミュ達の心の不安を察したのか、国王は悪戯っぽい笑みを浮かべる。その内容は、隣の大臣の余裕を取り戻させる事に充分な威力を持っていた。

 エジンベアの国勢などを語らない理由を理解したカミュも、再び静かに頭を下げる。カミュ達が頭を下げる事を確認した国王は、傍に立つ大臣に一つ目配せをした。一つ頷いた大臣が小さな袋をカミュの前へと置く。予期せぬ出来事にカミュは少し顔を上げ、国王の足下を見つめる事となった。

 

「流石に、胡椒料理も食い飽きた。お前達の持って行った『黒胡椒』もそろそろ切れる頃だろう。少し持って行け」

 

「……はっ、有り難き幸せ」

 

 聞き様によっては、不要な物を下賜するようにも聞こえるが、カミュは国王の真意を知り、深々と頭を下げる。

 カミュ達に以前与えられた『黒胡椒』はまだ残っている。『黒胡椒』は所詮調味料であり、その物を食す訳ではない。故に、数か月の旅を続けたとしても毎日食さない以上、それ程消費速度は速くはないのだ。

 つまり、この小さな袋に入っている『黒胡椒』は、『黄金一粒と同価値』と云われたほどの物という側面だけを残す事となる。明らかな援助金を国として出せない以上、高価で売却が可能な『黒胡椒』を下賜する事によってカミュ達一行を支援する方法を取ったのだ。

 

「お前達がどのような答えを出し、どのような結果を出すのかを楽しみにしている」

 

 柔らかく微笑んだ『オルザ・ド・ポルトガ』という人物の言葉は、カミュ達の胸に何かを残した。

 カミュ達の目的は『魔王討伐』。だが、この国王はその目的をカミュ達の答えとは考えていない。いや、最終的には『魔王討伐』に達する事は理解しているのだろうが、その過程をカミュ達に委ねているのだ。

 カミュ達が何を感じ、どのように行動し、どのような答えに辿り着いたとしても、彼ならばそれを受け入れるのだろう。それは諦めでも、傍観でもない。それは確かな『信頼』。

 

「また会える日を楽しみに待っている……大義であった!」

 

 カミュ達と『オルザ・ド・ポルトガ』の付き合いは短い。とても『信頼』という重い物を築ける程の時間を共有してはいないのだ。それでも、この国王はカミュ達を信じていた。彼と、彼が最も信頼する友であるノルドというホビットと同じ想いを持つ彼等を。

 だが、その想いを全面的にカミュ達へ向ける事は、彼の立場では難しい。一国の王として、『勇者』とはいえ、年若い彼等に資金などを優遇する事は、活気に満ちて来た国民を敵に回す事になりかねないからだ。

 実は、カミュ達の乗っている船も、国民には譲渡した事を説明してはいない。王が造った貿易船に、『勇者』と名乗る一行を乗せているだけという認識しか国民は持っていないだろう。故に、カミュ達がポルトガへ帰港すれば、国民達は貿易の成功を喜び、沸き立つのだ。

 それ程に、この世界は病んでいる。『魔王バラモス』が台頭して数十年。『希望』という物を持てなくなる程に、生きている者達の心は疲弊していた。

 

 

 

「…………おなか………すいた…………」

 

「ん?……そうだな。今日は、前にメルエが食べたがっていた魚料理を作ろう。宿屋に台所を借りられるように交渉しないとな」

 

 城を出た一行は町へと続く街道を歩く。そんな中、夕食の準備をしている家々から漂う匂いに、メルエが口を開いた。

 何とも和む口ぶりに、リーシャとサラは苦笑を浮かべ、夕方の市場に並んでいる魚へと視線を移す。漁の為に遠出は出来ないが、近海の魚であれば市場にも出回っているのだろう。未だに生きている物から、綺麗に血抜きされている物まで、様々な魚が並んでいる。メルエの手を引いて市場を回るリーシャの後ろで、カミュは大きな溜息を一つ吐いていた。

 

 目的地はエジンベアと呼ばれる国。

 誇り高く、他人への評価が厳しい国。

 

 太陽が沈み始め、光が届かなくなり始めた東の空のように、カミュ達の進む先に静かな闇が広がっていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

大変遅くなりました。
決算時期って……なかなか難しいです。
しかし、なかなか進まない旅路。
次話も、もしかするとエジンベアまで辿り着けないかもしれません。
頑張って描いて行きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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無名の土地③

大変遅くなりました


 

 

 

 ポルトガで一泊をした一行は、大勢の人間に見送られながらポルトガ港を後にする。魔物の脅威が増して行く中、唯一と言っても過言ではない貿易船の船出。それは、港町ポルトガの民にとって希望の光となっていた。

 船の最後尾で手を振り返すメルエの笑顔は、船員達の表情にも明るさをもたらせている。

 

「メルエ、次はトルドのところだ」

 

「…………ん…………」

 

 そんなメルエの肩に手を置いたリーシャの言葉に、メルエは花咲くような笑顔を向ける。トルドがメルエを引き取ろうと口にした時、それを拒絶したのはメルエ本人である。だが、再び会ったトルドから感じた物は、決して娘であったアンの代替として物ではなかった。

 最愛の娘の唯一の友人に対しての愛情。それを感じ取ったメルエは、彼を慕うのだろう。

 

「ここからなら二、三日で着けるだろう。天候も荒れそうにはないから、ゆっくりしていてくれ」

 

 カミュ達を見た頭目から出た言葉に、カミュは一つ頷いた。リーシャはそんなカミュを見て苦笑を洩らす。

 彼が、船の上でゆっくりと休める訳がない。ほとんど眠る事もせず、いつ何が起きても良いように身構えているに違いないのだ。他人に理解され難い『優しさ』を持つカミュを見て、リーシャは一人頬を緩めていた。

 

「メルエ、この木の枝だけを凍らせてみてください」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 この日もメルエの鍛錬は続いていた。太い枯れ木の枝を紐で結び、その糸を手に持ったサラがメルエに指示を出す。しかし、それを見たメルエの眉が目に見えて大きく下がった。

 自信なさげに杖を胸に抱くメルエは、何かを懇願するようにサラの方向へ視線を送るが、それを無視するようにサラはメルエの方へ紐にぶら下がった木の枝を押し出す。

 

「大丈夫です。今のメルエならば出来る筈ですよ。自信を持って」

 

 サラの姿を見て、逃れられないと理解したメルエは恐る恐る杖を掲げた。受けるサラは自分の胸の中にある不安を隠すように、毅然と立ち、メルエを見据える。カミュやリーシャもその二人を緊張した面持ちで眺め、船員達も仕事の手を休めてサラに注目していた。

 緊迫した空気が流れる中、メルエの杖が振り下ろされる。

 

「…………ヒャド…………」

 

「ふぇ!?」

 

 メルエが紡ぎ出す詠唱と共に、杖から冷気が迸る。船上の大気中にある水分が凍り付き、そのままサラの持っていた糸の先にある木の枝に襲いかかる。

 瞬時に木の枝は氷に包まれ、それを結んでいた糸をも凍り付かせて行く。その威力は『魔法使い』としては異質な程の物。糸をも凍り付かせた冷気は収まりきらず、それを持つサラの腕までも凍らせて行った。

 指先の感覚がなくなったと感じた時には、肘の上までも凍りついてしまったサラは素っ頓狂な声を上げる。

 

「桶か何かに水を汲んで来い!」

 

「わ、わかった!!」

 

 状況を把握したカミュがリーシャへと指示を出す。いまいち状況を把握出来ないリーシャであるが、カミュの声を聞き、状況が芳しくはない事を知った。そのまま船室の方へと急ぎ、巨大な甕を抱えて戻って来る。その素早さと、尋常ではない甕の大きさにカミュは目を丸くした。

 

「サラ! この中に手を突っ込め!」

 

「待て! それは飲み水の筈だ!」

 

 大きな甕をサラの前に置き、その手を掴んで入れようとするリーシャをカミュが辛うじて押し止めた。

 船員を呼び、甕の中から桶で水を掬い、その中にサラの腕を入れる。凍りついた腕の氷は、徐々に溶け出し、肌に血が通い始める。迅速な対応により、サラの腕は壊死する事はなく、元通りに動かせるようになるまでに回復したが、その間メルエは泣きそうに顔を歪め、サラの傍で俯いていた。

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

 手の指が動く事を確認するサラの横で、メルエがぼそりと呟く。その声を小ささは、まるで消え去りそうな程であり、リーシャやカミュの耳にも物悲しく聞こえて来た。

 一度メルエの言葉に驚いた表情を見せたサラが、優しい笑みを浮かべながらメルエに向き直る。俯くメルエはサラと目を合わせる事が出来ない。そんなメルエにサラは小さな溜息を吐き出し、もう一度笑みを浮かべた。

 

「私は大丈夫ですよ。今回は失敗してしまいましたが、少し前のメルエが唱える<ヒャド>であれば、私は完全に凍りついていたかもしれません。少しずつメルエも魔法力の制御が出来ている証です。メルエなら、きっと出来ますよ。何と言っても、メルエは世界最高の『魔法使い』なのですから」

 

 『世界最高の魔法使い』という言葉は、決して大げさな物ではない。船員達には失敗したメルエを慰める姿に見えたのかもしれない。しかし、サラだけではなくリーシャやカミュも知っているのだ。この幼い少女が、全世界の『魔法使い』の中で頂点に立っている存在だという事を。

 サラが言うように、以前のメルエが全力で<ヒャド>を唱えれば、一般的に小柄なサラ等は、全身が凍りついてしまったかもしれない。それ程にメルエの魔法の威力は凄まじいのだ。

 ただ、自身の思い通りに調節が出来ない。だが、今のメルエは、数週間前のメルエとは違う。その証拠に、サラが魔法の行使を指示した際に、それを拒むような仕草を見せた。それまでは、自身の行使する魔法を誇り、それを見せつける事を喜びとしていた節のあるメルエとは根本的に異なっていたのだ。

 そのメルエの変化は、自身の唱える魔法が及ぼす脅威を理解し始めた事を示している。それがサラには嬉しかった。

 

「…………メルエ………できる…………?」

 

「はい! 私がメルエに嘘を言った事はありませんよ」

 

 不安げに瞳を向けるメルエにサラは苦笑した。自分がこの小さな『魔法使い』の自信を根こそぎ奪ってしまっているのだ。それを理解しているからこそ、未だに水桶の中に腕を浸しながらも、サラは満面の笑みをメルエへと向けた。

 俯き加減であったメルエの顔が少しずつ上がり、その瞳に向けてサラはもう一度笑顔で頷きを返す。カミュやリーシャの出番はない。メルエはカミュやリーシャの顔に視線を向ける事はなく、サラの瞳だけを見つめ、そしてようやく頬を緩めた。

 

「しかし、次からは方法を変える事だな。<ヒャド>であったから良いものの、あれが<メラミ>や<イオ>であれば、アンタはこの世にいない筈だ」

 

「……」

 

 和やかな空気が流れる中、カミュが口にした言葉で凍りついた。

 サラとリーシャの背中に冷たい汗が流れる。

 先程まで笑顔を浮かべていた船員達の表情が固まる。

 

 確かに、<ヒャド>であったからこそ、腕が凍りついたが手早い処置で難を逃れたが、<メラミ>等では、火傷どころではない。

 <スカイドラゴン>の吐き出した炎に搔き消されたとはいえ、世界最強種である『龍種』の吐き出す炎と相対する事の出来る程のメルエの<メラミ>であれば、かすっただけでもサラの腕は跡形もなく消え失せていただろう。

 特に、メルエは火炎系や灼熱系よりも氷結系を得意としている。魔法力の制御も<ヒャド>等の氷結系の方が上の筈だ。制御の効かない<イオ>を受けたとしたら、サラの身体は弾け飛んでいたに違いない。

 そう考えた時、サラやリーシャの肝は冷え切っていた。

 

「…………メルエ………だめ…………?」

 

「そ、そんなことありませんよ……ただ、少し鍛錬の内容を変えましょう……」

 

 只ならぬ雰囲気を察したメルエの眉が再び下がる。それに対してのサラの言葉は、先程のような力強い物ではなかった。サラの言葉を聞いたメルエの瞳に涙が溜まる。ここで慌てたのはサラではなく、カミュだった。

 自分の言葉がメルエの気持ちを落とさせたという事によってカミュは視線をリーシャへと向けてしまう。視線を移されたリーシャは激しく動揺を示し、メルエに向かって口を開いた。

 

「メ、メルエ……た、鍛錬は一先ず終了だ。一緒に海を見に行こう」

 

 しかし、その言葉は全く慰めにはなっていない。とりあえず蓋をしただけ。メルエもそれを理解しているのだろう。哀しそうに目を伏せた後、小さく頷き、リーシャの手を取った。

 物悲しい空気が船の上に流れ、船員達は見て見ぬふりをする事を決めたのだろう。何も言わず、それぞれの仕事へと戻って行った。

 

「メルエ、もう少しでトルドのいる場所だ。楽しみだな?」

 

 海を眺めながら語りかけるリーシャの言葉にもメルエは薄い反応を返すのみだった。サラの教えを理解しようと必死になっているメルエにとって、それが出来ない事は心の傷となり得る物だったのだ。

 今までであれば、全力で魔法を唱えるだけで良かった。唱えるメルエではなく、周囲にいるカミュ達がそれを配慮していれば良い。メルエの魔法の余波で傷つかないように配慮出来るだけの余裕があったのだ。

 しかし、この先、<ヤマタノオロチ>のような強敵と再び相対した時、その余裕がカミュ達にあるかと問われれば、カミュやリーシャであっても即答は出来ない。それ程、<ヤマタノオロチ>との戦いは苛烈を極めていたのだ。

 

「メルエ、そう落ち込むな。前にも言ったろ?……私もカミュも、初めは何も出来なかったと。それこそ、メルエの歳の頃の私は、魔物と戦う力などありはしなかった。メルエのように自分の力を制御する必要もなく、そんな事を考える余裕もなかった」

 

「…………」

 

 メルエの正確な歳は解らない。だが、カミュであっても、魔物との戦闘を経験したのは、二桁の歳になってからと語っていた。カミュやリーシャという人類の頂点に立とうとする戦士達と共にいるとはいえ、魔物と戦うだけの力をメルエが有している事だけでも異常なのだ。

 リーシャはそれを純粋に褒め称えた。

 『メルエが自身の力を制御しようと考えるだけでも凄い事なのだ』と。

 

「焦らなくても良い。私はいつまでもメルエと一緒だ。メルエが自分の力を上手く使えるまでは私がメルエを護るし、メルエの力で傷つきそうになる者も護る。だが、上手く使えるようになったら、メルエは私達だけではなく、たくさんの人達を護ってくれ」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャを見上げるメルエの眉は未だに下がったまま。それでもリーシャの言葉にメルエはしっかりと頷いた。

 リーシャの手はメルエの手を握り締めている。その手はこれから先も離れる事はないだろう。メルエの身に何があっても、メルエという存在がどのような立場になったとしても、この大きな手は、震える小さな手を離す事はない。

 

「リーシャさんには敵いませんね……」

 

 そんな二人を見つめる二つの視線。その内の一つであるサラは、その背中に向かって呟きを洩らした。

 幼く、物事を知らないメルエを導く事は自分の仕事だとサラは考えている。ただ、メルエの心を癒し、そして再び前へと踏み出させる事が出来るとは考えていなかった。

 それが出来るのは、このパーティーの中で唯一人。

 今や『賢者』となったサラではあるが、ここまでの道程の中で何度も挫折し、苦汁を舐めて来た。そんな中、彼女を何度も叱咤激励し、立ち上がらせたのはアリアハンが誇る女性騎士だったのだ。

 リーシャという存在がいなければ、サラは旅の序盤で心を折られ、前後不覚に陥った挙句に旅を放棄していたかもしれない。時に厳しく、時に暖かく、そして優しく包み込むように支えてくれていたのは、何時でも姉のように慕う『戦士』だった。

 

「……あれがなければ、只の重荷なだけだ……」

 

「え!? そ、それはいくらなんでも……」

 

 感慨に浸っていたサラの横で呟かれた言葉にサラは言葉を濁す。『その言い方は余りに酷い』と伝えようと視線を動かすと、そこには柔らかな笑みを浮かべたカミュが立っていた。

 言葉とは裏腹な態度を示すカミュを見たサラは、苦笑を洩らしながらもう一度視線をメルエ達へと向ける。

 

 彼等四人は確かに前へと進んでいる。

 小さくとも、一歩一歩踏み出して。

 その変化は他人には解らないかもしれない。

 いや、他人だからこそ解らない程の変化。

 それを繰り返し、彼等は進んでいるのだ。

 

 

 

 

 

「陸地が見えたぞ!」

 

 ポルトガを出て三日目の夕暮れ時、一行を乗せた船はようやく名も無き大陸を視界に納めた。既に三度目となる上陸。船の錨は降ろされ、小舟を使ってカミュ達は大地へと足を下ろした。

 慣れて来たとはいえ、全く船酔いをしない訳ではないサラを気遣い、カミュ達は浜辺で野営を行う事にする。その際に、火を熾す為に集めた薪に向けてメルエの<メラ>を使用する事となり、調節をしながら唱えたメルエの<メラ>の勢いで薪が吹き飛んでしまったのは、また別のお話。

 

 一泊した後に歩き出したカミュ達は、太陽が沈む頃にあの場所へと辿り着いた。

 そこはある老人の願いによって開拓が始まり、カミュ達の助力によって町への第一歩を歩み始めた場所。

 カミュが最も信頼する『商人』が移住し、その『商人』が描く未来へと進み始めた場所。

 

「す、凄いですね……」

 

「短時間でこれ程変わる物なのか?」

 

 その場所に辿り着いた時、サラはその変貌を素直に驚き、リーシャは驚愕が疑問へと変わった。

 以前はただ木を切り倒し更地にしただけの場所であった筈のその場所は、周囲を木の柵で覆い、村としての容貌へと変化している。門も立派ではないが、しっかりとした木の大手門を作っており、魔物等の侵入を拒むように閉じられていた。

 外から見ただけでは完全に一つの村のような姿をしている事に、カミュでさえ驚きを隠せなかった。

 暫し呆然と門を見上げていたカミュは、マントの裾を引くメルエに気付き、門に掛けられている金具を叩く。門の場所からして、以前訪れた際に見た老人の家の近くに門を作ったのだろう。人が移住して来ていない場所である為、門番をする人間もいないのかもしれない。

 

「……おお……よく…きた……」

 

 門の横にある通用口のような場所から出て来た老人は、カミュ達へ視線を上げ、その顔を綻ばせた。カミュ達を誘うように門の中へと入れた老人は、微笑んだまま、誇らしげに村の様相を見せ始める内部に手を翳す。だが、その内部はカミュ達の想像とは違い、未だ町とは程遠い物であった。

 

「……店……ひとつ…できた……」

 

 立ち止まったカミュ達へ誇らしげな笑みを向ける老人に、カミュ達は微妙な表情を返す事しか出来なかった。

 外から見れば、そこは村の様相を呈していた。しかし、一度中へ入れば、そこはまだまだ開発途中の場所。老人が喜んでいる物も、たった一軒の店。店を建てたとしても、そこに来る買い物客は見たところ一人もいない。店があっても起動していないのが現状なのである。

 

「店にはトルドがいるのか?」

 

「……トルド…いる……」

 

 訛りが酷く聞き取れない中、トルドの名前を確認したメルエの顔に久方ぶりの笑顔が浮かぶ。リーシャの手を引っ張るように歩き出したメルエに苦笑を浮かべながら、更地に『ぽつん』と佇む一軒の建物へと向かってカミュ達は歩き出した。

 

「お! いらっしゃい。メルエちゃんも元気そうだね」

 

「…………ん…………」

 

 小さな扉を開け、中に入った一行は、見かけよりもしっかりとした造りの店構えに少しの驚きを表す。未だに商品自体は少ないが、これから先を見据えているのだろう。商品を陳列するべき棚は、一級の店から見ても見劣りしない物であった。

 カウンターの奥で何やら作業をしていたトルドは、届かないカウンターの前で何度か飛び跳ねる茶色の髪を見て、ようやく店の中にカミュ達が入って来た事に気が付く。苦笑を浮かべるリーシャに抱き抱えられたメルエを見て、トルドの顔にも笑顔が浮かび、その笑顔を受けてメルエも微笑んだ。

 

「進行具合はどうだ?」

 

 口を開いたのは、メルエを抱いたリーシャ。経済や商売に疎いリーシャから見ても、順風満帆には見えない町の発展具合ではあるが、トルドの顔が悲観に暮れていない事を悟り、その問いかけを発したのだ。

 それを察したのか、トルドは軽く笑みを浮かべる。そこに自嘲的な物はなく、純粋に面白がっているようにも見えた。

 

「まずまずだな。この場所の特産は、今の所は木材しかないからな。それを売却する為の伝手を手繰っている最中なんだが……少し、人を集める方法も考える必要がありそうだ」

 

 辺境の村の出身であるトルドではあるが、彼の商才は疑う余地もない。彼ほどの『商人』であれば、それなりの結びつきはあるのだろう。だが、伝手を手繰ると言っても、この時代で船は滅多に通らない。また、カミュ達が<ルーラ>で辿り着く事が出来ない以上、この世界の『魔法使い』が辿り着ける訳もない。

 故に、その伝手を手繰る方法がないのも事実なのだ。

 

「その辺りは、ポルトガ国王にお願いして来ました。ここからポルトガの距離は二日程です。海が荒れさえしなければ、強力な魔物も出ませんし、航路も比較的安全です」

 

「本当かい!? それは、助かる。ありがとう」

 

 カミュ達が一度ポルトガへ立ち寄った理由の一つがこれであった。トルドの許へ向かう事を決めた時に、サラがカミュへと相談を持ち掛けていたのだ。

 村や町は、所詮は『人』の集合体。『人』がいない事には何も出来ないのが事実である。故に、航路の比較的な安全性とこの場所へ来る事の利益を伝える為に、献上品を携えてポルトガ王へと謁見したのだった。

 ポルトガ王は、サラの進言を快く受け入れた。カミュ達の旅立ちの後、世界平和の希望を持ったポルトガの商人達は、挙って自身の商船を造船し始めていたのだ。

 今までは只々怯えるばかりであった海が、希望に満ちた光を放ち始める。魔物という脅威に対し、なにも出来ずに震えていた者達が、希望という光を受けて前を向き始めていたのだった。

 航路が比較的安全とはいえ、それはカミュ達だからこそという部分も多々ある。しかし、『魔王』登場後、数十年の間止まってしまった時は、文化の衰退と共に、物流の衰退も加速させていた。造船に使う為の木材もポルトガ国内だけで産出し続ければ、木材の価格も跳ね上がる。更に言えば、閉じられていたロマリア大陸へと続く扉が開かれた今は、移住者達が家屋を建てる為にも木材の需要自体が跳ね上がっていたのだ。

 そのような商売の種を見落とす『商人』ならば、既に『商人』としての職を投げ捨てているだろう。そして、その『商人』達の心を後押しするだけの活気が、今のポルトガには存在していた。

 

「商売の方は、色々とやって行くとして……人を集め、滞在して貰い、最終的には移住して貰う為には何かが必要だな……」

 

 サラへ感謝を示した後、トルドは再び考え込む。『商人』が来訪するのであれば、トルドなりの商売の仕方があるのだろう。

 だが、商売は商売。結局、『人』が暮らす場所になる訳ではない。トルドの最終目標は『町』なのだ。故に、『人』が集まり、ここで暮らしたいと感じる場所を作らなければならない。木材の売買は、所詮は商売。胴元はあくまでトルドであり、他の『商人』達は二次的な儲けを得る事しか出来ないのだ。

 ならば、この場所で利益を上げる事の出来る物を作り出さなければならないという事になる。

 

「まぁ、それは追々考えるとしよう。それよりも、旅は順調なのか?……以前に話していた<オーブ>という物は手に入ったのか?」

 

 思考を一旦中断し、カミュ達へと視線を移したトルドは、以前にサラが口にした物について問いかける。それに答えたのは、リーシャの腕の中にいたメルエだった。

 肩に掛かったポシェットの中から掌に収まる程の小さな珠を取り出し、誇らしげにトルドへと突き出す。目の前に突き付けられた、不思議な紫色の珠を受け取ったトルドは、それをまじまじと眺め、視線をカミュへと向けた。

 

「これが<オーブ>というものか?」

 

「……ああ……そうらしい」

 

 何とも曖昧な返答を受け、トルドは困ったような表情を作る。実際、<オーブ>ではないかと思われる物であって、<オーブ>だとは誰にも断言は出来ないのだ。

 カミュの言葉にある程度の内容を察したトルドは、もう一度<オーブ>を見つめた後、それをメルエへと返す。受け取ったメルエはそれを大事そうに再びポシェットへと仕舞い込んだ。

 

「それで、今度は何処へ向かうつもりなんだ?」

 

「エジンベアだ」

 

 話題を変えたトルドへ即座に答えたのはリーシャ。しかし、その国名を聞いたトルドは、船員達と同様に眉を顰める。その変化を見逃さなかったサラは、誰にも問いかける事が出来なかった疑問をトルドへと投げかける事にした。

 

「エジンベアとはどういう国なのですか?……誇り高い国とは聞いていますが、トルドさんは行かれた事があるのですか?」

 

 リーシャやカミュも同様の疑問を持っていたのだろう。彼等の瞳もトルドへと移った。皆の視線が集まり、少し身体を固くしたトルドだが、溜息を一つ吐き出し、嫌な事でも思い出すように口を開き始めた。

 既にメルエは会話に興味を失くし、出来上がったばかりの店舗の様子を『とてとて』と歩きながら眺めている。

 

「あの国に行ったのは、もう二十年以上前だな。まだ俺も一人身で、『商人』として駆け出しの頃で、商売の為だったら命の危険も厭わないと勘違いしていた頃だ」

 

「その頃は船も出ていたのですか?」

 

 二十年以上前となれば、このパーティーの誰もが生まれてはいない時代。いや、もしかすると一人だけは、この世に生を受けていたかもしれない。だが、『魔王』の脅威が日増しに増していた時とはいえ、今現在のように、明日にでも世界が滅びてしまうかもしれないという危機感があった訳ではない。徐々に押し込まれる『人』の世界の中で、それでももがき、前へ進もうとする者は存在していたのだ。

 それこそが『人』の強さであり、ここまで繁栄を続けて来た理由であった。

 

「まぁ、数は少なく、一年に一度ぐらいの物だったがな。それでも、新たな希望を持って乗り込んだ船は、ポルトガで色々な物を詰め込んだ後、資金を持っている裕福な貴族の多いエジンベアへ向かったんだ」

 

 思い出すように目を閉じたトルドの雰囲気を見て、リーシャとカミュは眉を顰める。それ程にトルドの雰囲気は良い物ではなかったのだ。

 国家という物に良い感情を持ち合わせてはいないカミュであっても、ここまであからさまな態度を出す事はない。それが、その名を聞く者全てが良い感情を抱いていないとなれば、今まで見て来た国の中でも飛び抜けている程の国家という事になる。

 

「正直、どんな国なのか俺にも解らない」

 

「ふぇ!?」

 

 しかし、身構えていたカミュ達へ向けて告げられたトルドの言葉は、想像とは違い、気の抜けてしまうような物だった。サラは素っ頓狂な声を上げ、リーシャは目を丸くする。その様子が面白かったのか、メルエは二人を笑顔で見上げていた。

 だが、これ程の悪感情を抱くにはそれなりの理由がある筈であり、その謎が解けない以上、カミュが納得する事もない。カミュは、もう一度問いかけるようにトルドへと視線を向け、先を促した。

 

「結果から言えば、俺はあの国の城内どころか、城下町にすら入る事は出来なかった。所謂、門前払いというやつだな。運んで来た品々は、城下町の外でやり取りされ、その場で納得の行かない金額を渡された後、追い払われるように海へ出されたよ」

 

「なんだそれは!?」

 

 心底意味が解らないといった表情を浮かべるリーシャであったが、それはサラも同様であった。城内に入れないというのは、一介の『商人』では当たり前のことだろう。しかし、貿易に来た『商人』を町の中にも入れず、まともな取引にすら応じない。それでは、完全に『商人』を敵に回す事になる。

 それだけの国力と、対外的な強みがなければ成り立たない程の行為なのである。

 

「傲慢だよ。自国に誇りを持つ事は良い事だ。だが、誇りを持つ事と、他国を見下す事は違う。他国を尊重し、健全な関係を築きながらも自国の誇りを護り、対等な関係を保つのが外交だと思うのだが……あの国はそれが出来ない。国王や側近だけではなく、その意識が町を歩く国民にまで浸透しているのだからな……」

 

「……無駄に誇りだけは高い国……ですか」

 

 トルドの言葉を聞いたサラは、ポルトガにて国王が語った内容を口にした。あの言葉はカミュ達を更なる謎で包んだ。その答えが一介の『商人』から出て来た事自体驚きなのだが、その内容自体にも驚きを表していた。

 リーシャのような宮廷騎士であっても、町の発展に『商人』が必要である事ぐらいは知っている。だからこそ、この場所にトルドがいるのであって、その『商人』を蔑にすれば、発展が望めないばかりか、国家自体が衰退する可能性すらあるのだ。

 

「あの国に行くという事は、それなりの理由があるのだろうが、気を付けてな。特に、アンタは髪の色からして他国の人間である事が解るだけに、アンタ方の望みが叶うかどうかは賭けに近い」

 

「……わかった……」

 

 トルドの言葉にカミュは一つ頷き、先へ続く困難な道を思い浮かべる。トルドとの再会は一先ず終了を迎えた。『必ずまた来る』と約束を交わすメルエに溜息を吐き出しながらも、カミュもまたトルドへ視線を送る。この場所は、何処へ向かう時もカミュ達の中継地点になるのかもしれない。

 

 勇者一行が訪れる町。

 それは、『人』を集めるには絶好の謳い文句なのかもしれない。

 しかし、トルドはそれをしないだろう。

 彼が目指す町の未来に、カミュ達はいないのだから。

 

 

 

 通用口から出たカミュ達は、再び船が留まっている浜辺へと向かって歩き出す。トルドに会えた事で、メルエの機嫌も上向きに変化し、サラの手を握りながら鼻歌を口ずさんでいた。

 そんな一行の歩みは、やはり不躾な来訪者によって止められる事となる。先頭を歩くカミュが背中の剣に手を掛けたのだ。

 

「クエ―――――」

 

 カミュ達の行く先を塞ぐように飛び出て来た魔物は、鳥の足と鳥の頭を持つ魔物。正確に言えば、足と頭しかないと言っても過言ではない。ガルナの塔で遭遇した事のある魔物に酷似しているその魔物は、カミュ達に向かって大きな叫び声を上げる。メルエを後ろに下がらせたサラは、斧を手にしたリーシャへ視線を向け、頷きを返した。

 

「カミュ、一体を頼む!」

 

「ああ」

 

 声を掛け来たリーシャの想いを理解したカミュは、大きく頷きを返す。サラの想いも同じ。『未だに魔法力を制御しきれていないメルエに魔法を唱えさせない』という想い。それは、メルエを信じていない訳ではなく、メルエを案じている物。

 この三人は何よりもメルエの心を大切にする。三人の内の誰かを傷つけ、死に至らしめれば、必ずメルエの心は崩壊してしまうだろう。それが解っているからこそ、メルエが真の『魔法使い』となるまでは、彼等三人が動くのだ。

 

「クエ―――――」

 

 だが、リーシャの振るった斧を素早い動きで避け、魔物は鋭い嘴を女性戦士の喉元へと向ける。必殺の間合いで振り抜いた斧を避けられたリーシャは、その嘴への反応が一歩遅れてしまった。

 魔物の嘴は鋭く、喉元に突き刺されば、待っているのは確実なる『死』のみである。せめて致命傷だけは避けようと身を捩るリーシャの視界に一つの影が通り過ぎた。

 

「……呆け過ぎだ……」

 

「ぐっ……すまない」

 

 乾いた音を立て、嘴を弾いたのはカミュの持つ<鉄の盾>。<ヤマタノオロチ>との戦闘の中で何度も<燃え盛る火炎>を受けて、盾としての役割を充分に全う出来なくなっていた代物ではあるが、魔物の嘴を弾くだけの能力はまだ備えていた。

 

「一体ずつ片づける方が良いのかもしれないな」

 

 態勢を立て直したリーシャは斧を構え直し、目の前で嘴を向ける魔物を凝視した。カミュと二手に分けれて殲滅しようと考えてはいたが、ランシール大陸で遭遇した魔物達とは力量が違うようである。素早い動きは勿論、得体も知れない何かを予想させる動きがリーシャを慎重にしてしまったのだ。それがカミュ達の悪手だったのかもしれない。

 

「クケェ―――――」

 

 先程とは異なる鳴き声を魔物が発した際、それが魔物の詠唱である事をカミュとリーシャは悟った。だが、それは既に遅すぎたのだ。

 一歩前に出ていたリーシャの周囲を覆うように集まり始めた風は、その鋭さを増し、真空状態となってリーシャへと襲いかかる。状況を察したリーシャは頭を護る為に盾を掲げるが、その周囲を覆い尽くした真空の刃は、鎧から出ているリーシャの肌を問答無用で切り刻んで行った。

 

「バギですか!?」

 

 リーシャが受けた魔法の正体を理解したサラが驚きの声を上げる。<バギ>とは教会が管理する『経典』の中に記載されている、『僧侶』唯一の攻撃魔法。<ドルイド>等の異教徒の成れの果てと云われている存在が行使するのであれば、釈然としないまでも納得は出来る。だが、目の前で行使した者の姿は明らかに魔物なのだ。

 それにサラは一瞬戸惑いを見せる。魔物が『経典』の魔法を行使する姿は、何度見ても慣れる事はない。『賢者』となり、目指す物が変わったと言えども、サラはやはり『僧侶』であった者なのだ。

 

<アカイライ> 

ガルナの塔などに生息する<大くちばし>の上位種とされている魔物である。<大くちばし>同様に動きが素早く、『人』が一度攻撃する間に二度の攻撃が可能な程。目で追う事は出来るが、通常の『人』では反応が難しいという程の動きなのだ。しかも、『経典』に記載されている<バギ>という集団魔法を行使する強力な魔物の一つである。

 

「ホイミ」

 

「すまない」

 

 真空の刃を何とか凌ぎ切ったリーシャに駆け寄ったカミュは、その身体に手を向けて回復呪文の詠唱を開始する。淡い緑色の光を受け、リーシャの身体に刻まれた切り傷が修復して行った。

 不意をつかれた形となり、真空の刃の中心に入ってしまったリーシャは、盾だけではその刃を防ぐ事が出来なかったのだ。

 

「マホトーンを行使します!」

 

 再び剣と斧を構えた二人の後方から補助魔法の使い手の声が轟く。その声と共に手を掲げ、<アカイライ>へ向かって詠唱を開始した。サラの手から発せられた魔法力の渦は、<アカイライ>を包み込む。

 そのまま弾けた魔法力は、その効果を発揮したのかどうかを判別する事が出来ない。メルエのように自分の中にある魔法力の流れが狂った事を感じ取り、それを表情に出してくれれば、サラにも明確に魔法の効果を実感出来るだろう。しかし、それを魔物に期待する事自体が無謀と言わざるを得ない。

 カミュとリーシャは、サラの魔法力が消えた事を確認し、<アカイライ>へ向かって駆け出した。そのまま一体の目の前に潜り込んだリーシャが斧を全力で振り下ろす。それを辛うじて避けた<アカイライ>ではあったが、二本の脚を支える発達した筋肉の一部を削り取られ、その素早い機動力をもぎ取られた。

 素早さを奪われてしまえば、<アカイライ>などカミュ達の敵ではない。

 

「カミュ!」

 

「やぁ!」

 

 振り向きざまに名前を叫んだリーシャに応える事無く、カミュは<草薙剣>を振り下ろす。<アカイライ>の巨大な頭部に突き刺さった剣は、そのまま全身を真っ二つに切り裂いて行く。

 ジパングという国に伝わる神剣は、<鋼鉄の剣>や<鉄の斧>の切れ味とは比べ物にならない。まるで焼き斬られたような跡を残し、<アカイライ>の身体が左右に分断され、地面へと崩れて行った。

 

「クケェ―――――」

 

 一体の<アカイライ>を倒したカミュとリーシャは、もう一体の方へと身体を向け、今まさに駆け出そうとした時だった。

 先程聞いた奇妙な鳴き声を上げた<アカイライ>から風が巻き起こり、視認出来る程の刃となって二人に襲いかかる。咄嗟に盾を掲げる二人ではあったが、やはりその行動は遅かった。

 既に目前まで迫った真空の刃から顔面や頭部を護る事しか出来ず、装備している<魔法の鎧>を傷つけながら肌を切り刻んで行く。飛び散る赤い血液と皮膚や肉。それは、この一体に関してはサラの<マホトーン>の効力が及ばなかったという事実を示していた。

 

「ぐっ……」

 

「……突っ込む……」

 

 ようやく収まりを見せた真空の刃から盾を下げたリーシャが苦悶の表情を浮かべる横で、一言呟いたカミュは、盾を前面に押し出しながら一気に駆け出した。

 <アカイライ>との距離は、カミュであっても少しの時間が必要な程の物。それは、<アカイライ>が<バギ>という攻撃手段を行使するのに充分な間を有する程の距離でもある。

 駆け出したカミュを嘲笑うかのように<アカイライ>が嘴を上げた。カミュに続いて走り出していたリーシャも慌てたように盾を掲げる。

 

 掲げられる盾。

 巻き起こる風という名の刃。

 凍り付く時。

 

 その時、凍りついた時間という名の壁を突き破り、粉々に砕く声が響く。

 それは、世界で唯一の『賢者』となった者の声。

 そして、カミュやリーシャが予想もしなかった名を叫ぶ声。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………マホカンタ…………」

 

 いつの間にかサラの前に出ていたメルエが杖を前に向けて詠唱を完成させる。その魔法名はカミュやリーシャが聞き覚えのない物。

 瞬時に飛び出すメルエの魔法力。目の前の魔物が唱える魔法に対して身構えていていたカミュとリーシャには、後ろから迫り来るメルエの魔法力を避ける余裕などはなく、それをまともに受ける事となった。

 

「クケェ―――――」

 

 カミュ達がメルエの魔法力を受けたと同時に響く<アカイライ>の鳴き声。それは<バギ>の詠唱を示す合図。再び巻き起こる真空の刃。真っ直ぐにカミュ達へと向かって走る風の刃がカミュ達に迫った時、カミュとリーシャは不可思議な現象を目の当たりにする。

 

「なっ!?」

 

 余りの光景にリーシャは声を上げてしまう。目の前に迫って来た風の刃が、リーシャ達の肌に接近したその時、メルエが放った魔法力がリーシャとカミュを包み込み輝き出したのだ。

 光輝く壁のようにカミュとリーシャの前に展開されたメルエの魔法力は、<アカイライ>の唱えた<バギ>によって生み出された風の刃を弾き返す。それと同時に、カミュ達へ襲いかかって来ていた風自体が、まるで主を変えたように詠唱主である<アカイライ>目掛けて走り出したのだ。

 

「クキャ―――――――!!」

 

 予想だにしない反撃を受けた<アカイライ>は、自分の許へと舞い戻って来た風の刃を受け、その身体を切り刻まれる。無数の刃は、<アカイライ>の頭部や瞳を傷つけ、肉や羽を辺りに撒き散らした。

 飛び散る体液の量はそれ程ではないが、瞳や脚などを傷つけられた<アカイライ>には、もはやカミュ達へ抵抗する力は残っていない。

 

「いやぁぁぁぁ!」

 

 状況を瞬時に把握したリーシャは、斧を掲げて駆け出し、そのまま<アカイライ>目掛けて振り下ろした。

 もはや視界も機動力も失った<アカイライ>にそれを避ける術はない。側頭部に斬り込まれた斧は、両断する事は出来ずとも、<アカイライ>の命の灯火を吹き消す威力は充分にあった。斧を抜き去ったリーシャの力に反比例するように、大きな<アカイライ>の身体は崩れ落ちて行く。

 

「…………メルエ………できた…………?」

 

「ええ! やはりメルエは凄いですね。私はまだあの魔法を契約出来ていませんから、メルエにしか出来ない事ですよ!」

 

 魔物を討伐し終えたカミュ達が戻って来ると、手に持つ<魔道士の杖>を胸に抱いたメルエが不安そうにサラを見上げている最中であった。

 そんなメルエに満面の笑みを向けて、手放しで褒めるサラ。サラの言葉を聞く限りでは、先程メルエが行使した魔法は、『悟りの書』に記載されている魔法の一つなのだろう。しかも、サラがまだ契約出来ていないという事であれば、高位の魔法であるという事になる。

 

「サラ、先程の魔法は何なんだ?」

 

 自分が経験した摩訶不思議な現象をリーシャは問いかける事しか出来ない。カミュ自身も初めて見る魔法に関し、リーシャと同様の疑問を持っていたのだろう。

 『悟りの書』に記載されている物は、基本的にこの世に広まっていない魔法である事は理解している。先程の魔法が火炎系や氷結系の上位魔法であれば、カミュやリーシャもこれ程の疑問は感じなかったに違いない。だが、先程の魔法は、メルエが放った魔法力が他者の魔法を弾き返したように見えたのだ。

 

「あれは、<マホカンタ>と云われる魔法だそうです。術者の魔法力によって光の壁を作り、その光の壁が魔法を反射するという物です」

 

「そ、それは凄いな」

 

 サラの答えを聞いたリーシャは目を剥いて驚きを表す。魔法自体を反射してしまう程の魔法。それは、使い所さえ間違う事がなければ、最強の魔法と言っても過言ではない。魔法の知識を持っていないリーシャでさえもその恐ろしさを理解出来る程の物だった。

 しかし、純粋に驚きを示すリーシャとは違い、カミュとサラの表情は優れない。不安に感じたメルエが杖を握りしめてサラを見上げていた。

 

「ただ、この魔法は効力が続く限り、どんな魔法でも反射してしまうのです。魔法に対しての選別はなく、回復魔法や補助魔法なども全て弾き返すため、迂闊な行使は出来ません。それに……」

 

 説明を続けるサラの言葉が途切れた。何かを危惧するように閉じられた口は、言うべきなのかを悩んでいるようにも受け取れる。

 ここまでの話を聞く限りでは、その効力も長くは続かないようであり、それ程に危惧する場所がリーシャには理解出来ない。助けを求めるようにリーシャが視線を向けた先には、同じように何かを考えるカミュの姿があり、その口が静かに開かれた。

 

「魔物が行使した場合の事か……確かに、魔物が反射の壁を展開した時は、全滅の危機に陥るかもしれない。だが、それ程危惧する必要はないだろう」

 

「で、ですが……『悟りの書』の魔法とはいえ、魔法は魔法。魔物が行使出来ないという根拠にはなりません」

 

 そこまで聞いたリーシャは、視線を自分の足下に落とした。そこには自信なさげに杖を抱き締める小さな『魔法使い』。カミュとサラが危惧しているのは、この少女の身の安全なのだ。

 魔法を反射するという魔法は確かに最強に近いだろう。だが、逆を言えば、どんな魔法も跳ね返す光の壁は、『魔法使い』にとっても最大の脅威と成り得るのだ。

 しかも、反射する方向は、その魔法を唱えた術者。つまりこのパーティー唯一の『魔法使い』であり、世界最高の魔法力を誇る『魔法使い』でもあるメルエなのだ。

 メルエの魔法の威力は、その余波でさえ命を奪いかねない程の物である。それが術者であるメルエに跳ね返って来たとすれば、幼いメルエなど瞬時に命を散らしてしまう可能性さえあった。

 

「大丈夫だ、サラ。メルエの傍には必ず私達がいる。もし、魔物が反射する壁を作っても、私が盾になれば良い。後でサラに回復して貰えば済む筈だ。それに、対処方法もサラがいずれ見つけてくれるのだろう?」

 

「そ、それは……」

 

 そんな中、やはり折れない者がいる。『何を心配する必要がある?』とでも言いたげにメルエの頭を撫でている女性騎士。メルエという妹のような存在を護る為ならば、身を呈する事も厭わない彼女は、当然の事のように言い放ち、更にはとんでもない要求を突き付けて来る。

 それに口籠ったのはサラ。

 対処方法など有る訳がない。跳ね返された魔法を相殺する術があろう筈がない。それがメルエのような才能の塊から発生した魔法であるならば尚更である。

 

「まぁ、何にせよ、良くやったメルエ! 私達を護ってくれてありがとう!」

 

「…………ん…………」

 

 ようやく向けられたリーシャの笑みに、メルエの顔が綻んで行く。不安そうに下げられた眉が上がり、嬉しそうに微笑んだ後、大きな頷きを返した。

 カミュやサラの不安を理解出来ない訳ではない。だが、リーシャにとってそれは大きな問題ではないのだ。実際、難しく考えているカミュやサラも同じ筈なのである。だが、彼等は未知なる力を認識し、その想いを別の事へと摩り替えてしまっているだけ。

 

 リーシャの『想い』。

 『メルエを護る剣であり、盾でありたい』。

 それは、口にした時から一度もぶれる事はなかった。

 今もその『想い』に変わりはない。

 ならば、これから先もその『想い』を貫くだけなのだ。

 

「行こう。陽が暮れてしまうぞ」

 

 微笑むメルエの手を引いたリーシャは、カミュを促し、歩き出す。カミュは一つ苦笑を浮かべ、その後を追って歩き始めた。残されたサラの脳裏に、先程感じた不安はこびり付いて離れない。

 世界で唯一の『賢者』となった彼女から見て、『悟りの書』に記載されている魔法の異質性は飛び抜けた物であった。カミュが唱える<ライデイン>のように世界を制する事の出来る程の物はまだ見えない。だが、この先、サラやメルエの成長と共に読む事が出来るようになった『悟りの書』のページに記載されている魔法が、強大な力を有している可能性を否定する事が出来ないのだ。

 『悟りの書』は<マホカンタ>について、『魔法の種類、威力、属性を問わず、全ての魔法を反射する光の壁を造り出す魔法』と記していた。どんな魔法も反射する光の壁を造り出す魔法力。そんな物を有している『人』は、メルエ以外は存在しないだろう。

 何れはサラも契約が可能となるかもしれない。だが、それが何時になるかという事は、サラにも解らないのだ。そして、『人』として行使出来る者がメルエ以外に存在しないとなれば、『人』が造り出した魔法である可能性の方が低くなる。

 古の『賢者』が編み出した魔法を伝え続ける為に残された物が『悟りの書』だとサラは考えていた。だが、最近は、その考えが正しいのかどうかが分からなくなって来ている。魔物が『経典』の魔法を行使出来る以上、魔法自体を『人』が編み出したとは考えていない。『エルフ』の女王からは、魔法を『人』に教えたのは『エルフ』だというような事を聞いていた。ならば、この『悟りの書』に記載されている魔法も、元を辿れば、『人』ではない者へと繋がるのではないかと考えたのだ。

 つまりは、魔物。

 魔物が『経典』の魔法を行使する事は、違和感はあれど、疑問に思う事はなくなった。故にこそ、全ての魔法の元は魔物に戻るのではないかという考えがサラを縛り付けているのだ。

 だからこそ、サラは恐怖する。『人』よりも強い魔法力を持つ魔物が、『悟りの書』に記載されている魔法を行使した時の危険を。

 

「ふぇ!? あっ、ま、待って下さいよ!」

 

 思考の渦に落ちてしまっていたサラは、完全に置いて行かれてしまっていた。もはや小さくなりつつあるカミュ達の背を追いかけるように駆け出したサラの横を、一陣の風が通り過ぎて行く。

 

 『人』の世界に根付いた一つの神秘。

 それを解明した者は誰もいない。

 解明しようと考えた者さえいない。

 神と魔が持ち得る神秘の力。

 それは、『人』の世を救う術となるのか。

 それとも、滅ぼす為の術となるのか。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

少し長くなってしまいました。
次話は必ずエジンベアです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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エジンベア大陸①

 

 

 

 一行を乗せた船は、名も無き大陸を離れた後にポルトガ大陸へ戻り、そのまま北上する。ポルトガの大陸を抜けた一行の船からは、巨大なロマリア大陸が見えて来た。既に名も無き大陸を出てから一週間が過ぎている。船酔いが軽くなり始めているサラは、甲板に出て太陽の光を浴びる機会が増えて来ていた。

 

「あれは<シャンパーニの塔>か?」

 

「地理上では、そうなりますね……」

 

 大陸沿いに北上を続ける船の上から塔が見えて来る。周囲に森などもない場所である為に、高く聳え立つ塔は、異様な威圧感を放っていた。

 今の天候は晴れ。塔がはっきりと見え、その異様さが際立っているのだ。あれが<シャンパーニの塔>だとすれば、あの塔を登ったのは、もう二年近く前の事となる。

 

「そうか……私達も長い旅をしているのだな……」

 

 塔を見つめながら呟いたリーシャの言葉は、とても重い意味を持っているようにサラは感じていた。アリアハンという辺境国を出てから二年。世界から見れば、小さな小さな島国。他国との関係も断ち、文化も他国から遅れている。そんな弱小の国を飛び出し、彼等が歩んできた道は、決して平坦な道ではなかった。

 常に命の危機と隣り合わせの旅。

 相容れない価値観の衝突を繰り返す旅。

 自身の根底を揺らされ、自分を見失う旅。

 見失った自分を探し出し、見つめ直す旅。

 長く険しい道を歩み続けて来た彼らならではの感傷。それは、彼等四人の成長を示しており、アリアハンを出たばかりの頃の彼等では感じる事さえあり得なかった物であろう。だからこそ、サラの瞳に映る塔は輝いている。過去というには余りにも短い時間ではあるが、彼女にとってこの二年は、生まれてからの十数年間よりも濃い物だったのだ。

 共に歩む者達を『仲間』とは認めない『勇者』。

 頭に血が昇りやすく、『勇者』を『勇者』として認めない『戦士』。

 教えに縛られ、それ以外の価値観を認めない『僧侶』。

 絶対に相容れない者達三人が歩み始めた旅は、楔となる幼い少女の加入を機に大きく変化した。そして、今、サラは胸を張って言う事が出来る。『カミュやリーシャ、そしてメルエは自分と共に歩む仲間である』と。

 いや、それは家族に近い物なのかもしれない。リーシャは絶対に自分達を見捨てないと断言できる。メルエも必ず自分達と共に歩むと断言できる。カミュは自分達三人を『仲間』として認めてくれていると、今は信じる事が出来る。

 徐々に視界の右側へと移動して行く塔は、サラにそんな考えを運んでくれた。彼女が歩んできた道は、決して無駄な道ではない。一歩歩む毎に、一つ絆を深めて行った。一歩歩む毎に、また一つ自分を見つけて来た。

 『魔王バラモス』までの道程のどの辺りまで歩んで来たのかは解らない。それでも、確実に近付いている事だけは信じる事が出来る。それを認める事が出来るのもまた、サラの成長なのかもしれない。

 

 

 

 北上を続ける船は<シャンパーニの塔>を超え、更に一週間以上の航海を続けた。その間、雨が降る事はあったが、海が荒れる事はなく、強力な魔物と遭遇する事もなかった。船は順調に進路を進み、陽が昇る時刻には前方に大陸の影が見えて来る。

 世界地図上で北西の端に位置する場所にある小さな大陸。その大きさは、カミュ、リーシャ、サラの三人の出生国であるアリアハンよりも小さい。だが、世界有数の国力と軍事力を誇り、その発言力や影響力はかなり大きい国として知られていた。

 

「エジンベアの公式港へは着港出来ないかもしれない」

 

「えっ!?」

 

 前を見ているカミュの横で口を開いた頭目の言葉にサラは驚きを表す。それもその筈。ランシールのような国の形態を取っていない場所であれば、国家が統治する港がなくとも不思議ではない。港とは国家にとっての収入源の一つである。それと共に海からの入出国を管理する場所でもあるのだ。

 アリアハンという片田舎の小国でさえ、旅の扉を封じる前には多数の貿易船が来訪していた。それを城下町近くにある公式の港で管理し、その収入も掌握している。

 つまり、港を国家が掌握するのは、その港へ運ばれる物の売買を管理し正確な税収を徴収する目的と、自国の安全を守る為に入国物や入国者を管理する目的があ筈なのだ。だが、エジンベアはそうではないと言う。公式の港に着港出来ないという事は、離れた場所に錨を下ろし、不法な形で入国しなければならない。そうなれば、城はおろか城下町にすら入る事は出来ないという事にもなるのだ。

 

「基本的にあの国は他国の船を着港させない。行ってはみるが、あまり期待しない方が良いだろうな」

 

「……わかった……」

 

 サラの表情を傍目に見た頭目は、視線をカミュへ向ける。その視線と言葉を受け取ったカミュが一つ頷いた事により、船の進路は決まった。

 表情が変わった三人を見上げるメルエの眉が不安そうに下がる。最近のメルエは、カミュ達の醸し出す空気に敏感になっている。それに気付いたリーシャがメルエの頭に手を置き、優しい笑顔を向けた。

 

「メルエが心配する必要はないぞ。難しい事は、カミュとサラに任せておけば良い」

 

「…………ん…………」

 

「えっ!? た、たまにはリーシャさんも考えて下さいよ」

 

 他人に丸投げをするようなリーシャの発言に頷くメルエを見て、サラは抗議の声を上げる。難しい事はカミュとサラへという考え自体は間違った物ではない。メルエが考えたとしても答えが出る訳ではなく、結局はこのパーティーの代表者であるカミュが折衝する事になるのだ。

 故に、リーシャの気持も解らない訳ではないが、何時でもサラやカミュへ難題を放り投げるリーシャに恨み事を呟いてしまった。

 

「とりあえずは上陸してからだ。港に入れないのならば、その時に考える」

 

 和やかなやり取りは、予想以上に厳しいカミュの呟きに終わりを告げる。冷静なカミュの判断に頷きを返した頭目は、エジンベアの公式港へ向かうように船員達に指示を出す。指示を受けた船員達は大きな声を上げた後、それぞれの仕事へと戻って行った。

 海風は心地よい程に帆に力を与え、船は徐々に大陸へと近付いて行く。

 

 

 

「田舎者の船は着港出来ぬ! 取引証を提示できないのであれば、即刻退去せよ!」

 

 結果から言えば、港を監視する役人の言葉は上陸拒否であった。船を港に寄せると同時に取り囲むように湧いて来た役人達は、船の頭目へ貿易許可証と、商人との取引証明書の提示を求めて来たのだ。

 当然の事ではあるが、カミュ達はそのような物を所有してはいない。ポルトガ国王からの書状は持っているが、港の役人にそれを見せた所で何の価値もないかもしれない。それでもそれを見せる事ぐらいしかカミュ達に方法はなかった。

 

「他国の国王様方からの書状はございます。エジンベア国王への献上品も持参致しました。謁見のご許可を頂きたく、上陸をお許し願いたい」

 

 役人の高圧的な物言いに青筋を立てていた頭目を下がらせて前に出たのはカミュ。商売などの取引では『商人』に劣るカミュではあるが、国との折衝や役人への対応などは、この場にいる誰よりも上である。突然出て来た年若い青年に驚いた役人ではあったが、カミュの若さを理解し、嘲笑うような表情を作った。

 

「他国の紹介状?……お前のような若造がか? 馬鹿にするなよ、田舎者」

 

 何かにつけて『田舎者』と罵る役人に船員達は怒りの表情を浮かべている。対して、カミュ達四人は全く異なった表情をしていた。カミュは完全な無表情。そこに何の感情も窺う事は出来ない。メルエは眉を下げて不安そうにカミュを見上げ、怯えるようにリーシャの影に隠れてしまった。

 サラは、役人の態度は勿論、初対面の人間に対する高圧的な物言いに目を白黒させている。最も怒りを露にすると考えられていたリーシャですら、何か憐れむような表情で役人達を見ていた。

 

「こちらが、アリアハン国王からの書状です。そして、これがポルトガ国王からの書状。献上品はこちらに」

 

 馬鹿にしたような態度を示し、カミュ達を嘲笑っていた役人も、カミュが取り出す何通もの書状と、小袋に入っている中身を見て、その顔色を変化させずにはいられなかった。

 エジンベアでは国民一人一人が、『自国が一番』という感情を有している。知識も資産も、資源も威厳も、エジンベアという国が最高の位置に立っていると自負しているのだ。故に、その精神は、下級の役人達にも脈々と受け継がれ、他国の人間達へ高圧的な態度を取る。

 しかし、他国と言えども王族となれば話は違う。エジンベアでも通説に漏れず、『ルビス教』が信仰されており、『王族とは精霊ルビスに認められし者』という教えを信じているのだ。故に、その王族の書状を持つ者となれば、下級の役人が無碍に追い払える者ではなくなる。上の人間に伺いを立てる必要性が出て来た。

 

「偽物ではないだろうな! お前のような若造が、何故このような書状を持っている!?」

 

 書状の封の部分に押された印と、表に浮かぶ国章は、間違いなくカミュの言う通りの国も物。それが本物であった場合、彼等のような下級の役人達が開封出来る訳がない。資源を他国に売却し資金を得ているエジンベアだからこそ、様々な国の国章を目にする機会も多く、彼等のような下級役人でさえ、その程度の知識を有しているという部分もある。

 

「それに関しては、国王様への謁見でお話し申し上げます」

 

「ぐっ……お前のような田舎者が国王様への返答が許されるとでも思っているのか!?」

 

 今まで、このような事態に遭遇した事はなかったのだろう。下級役人は、嫌味を意にも介さないカミュの態度に苛立ちを募らせていた。それは、言葉は丁寧であるが、『お前程度の役人に言う必要はない』という意味の言葉をカミュが発した事によって爆発する。突如激昂した役人の声に、周囲にいた人間達の視線が一気に集まった。

 

「私のような田舎者相手にそのように声を荒げれば、在らぬ噂が立ちます。ここは、お気を静められて……」

 

「く、くそ!……仕方ない、通れ! だが、船は着港させぬ。近辺の入り江にでも停泊しろ」

 

 カミュの言葉を聞いて、自分に視線が集まっている事を自覚した役人は、不承不承にカミュ達の通行の許可を出す。しかし、自分の沽券を護る為なのか、カミュ達の船が港に入る事までは許可を出さなかった。

 一つ溜息を吐き出したカミュは、後ろに立つ頭目へ視線を送り、それに頷いた頭目を確認した後、役人の横を通り過ぎる。成り行きを見守っていたリーシャ達三人もカミュの後を追い、港を出て行った。

 

 

 

 

「しかし、とんでもない態度だったな。皆の評価も納得できるという物だ」

 

 港を囲う門を出て、暫く平原を歩いていたが、ふと振り返ったリーシャは、先程の役人達の態度について感想を口にする。その呟きにも似た言葉を聞いたサラもまた、頷きを返し、同意を示した。

 先程の役人の態度が、エジンベア国民の総意だとするのならば、この国は他国民にとって不愉快極まりない国となるだろう。どれ程の資源と資金を有している国なのかは、アリアハンという片田舎の国が出生地であるリーシャやサラには解らないが、貿易相手にもあのような態度を取り続けている以上、その利用価値がなくなれば、見向きもされなくなるのは必然であろう。

 

「でも、よく怒りませんでしたね」

 

「ん?……私がか?……前々から聞きたかったのだが、サラは私をどういう風に見ているんだ?」

 

 印象の強かった先程の役人の事を思い出していたサラは、自分の口から吐いた素朴な疑問の危険性を考慮に入れる事を忘れていた。一瞬、誰の事を言っているのかが解らなかったリーシャであったが、視線の先にいるのが自分しかいない事を知り、サラに向けて素敵な笑顔を浮かべる。その笑顔を見たサラは、自分が発した明らかな失言に気付き、身を固くした。

 既に、メルエはリーシャの手を離し、カミュの許へと駆けて行ってしまっている。危険察知能力は、メルエの方がサラよりも数段上の物を持っているのだ。

 

「あっ、い、いえ……わ、私でさえも、あの役人の方の物言いには、苛立ちを覚えましたので……ア、アリアハン国家の騎士であるリーシャさんの方が、い、怒りを感じたのではないかと……」

 

 だが、サラもまたこの二年の旅で少なからず成長を遂げていた。その言い訳にも近い弁明は、もしカミュが傍で聞いていたとしても感心する程に納得が行く物であったのだ。

 その証拠に、先程まで嫌な汗を噴き出させる程の笑みを浮かべていたリーシャも、その笑みを消し、何かを考えるような思案顔へと変化させている。

 

「そうだな……確かに、以前の私であれば、あの役人ごと叩き斬ってやろうかと思う程に怒りを感じたかもしれないな」

 

 自分の感情を上手く説明出来ないかのように話すリーシャの姿を見たサラは、安堵の溜息を吐き出しかけた。ふと、前を見ると、メルエが来た事で振り返ったカミュが立ち止まっている。その事に気付いたリーシャは、再び歩き出した。それでも、考え続けるようなリーシャの仕草をサラは不思議そうに見つめながら後を続く。

 

「この旅を通じて、色々な国を見て来た事が原因かもしれない。何か喚いている役人を見ていると憐れに思えてな……」

 

「同属を憐れむか……」

 

 カミュ達に追い付いた後に、サラの疑問に答えたリーシャであったが、その殊勝な言葉は、一人の青年によって斬り捨てられる事となる。確かに頭に血を昇らせ、喚き散らすのはリーシャの得意技の一つ。

 だが、そこに侮蔑が込められているかどうかの大きな違いがあるからこそ、カミュがからかう理由なのだろう。

 

「なんだと! わ、私があの役人達と同類だとでも言うのか!?」

 

「……俺もアンタが憐れに思えて来たよ……」

 

「ぷっ!」

 

 カミュの言葉を聞いたリーシャは、瞬間的に頭に血を巡らせる。しかし、先程リーシャの口から出た言葉をそのまま返され、声を詰まらせてしまった。

 そんな二人の姿にサラは噴き出し、そのサラの様子を見てメルエも微笑む。この状況になってしまった以上、リーシャは声を荒げて怒鳴り散らす訳にはいかない。『ぐっ』と腹の下に力を入れ、怒りを噛み殺すリーシャを見上げたメルエは小首を傾げた。

 

「…………リーシャ………おこる…………?」

 

「怒らない!」

 

 出会ったばかりの頃のようなメルエの幼い質問に、リーシャは即答する。余りの声量に身体を跳ねさせたメルエは、サラの後ろに隠れるように『とてとて』と移動を始めた。

 エジンベアの役人への怒りなど何処へやら。『自分達は、そのような些細な事に構う余裕はないのかもしれない』。そんな事を、彼等は考えていたのだろう。この時までは。

 

 

 

 港からエジンベアの城下町までの距離は、カミュ達が想像しているよりも長く、日没までに辿り着く事が出来なかった。

 陽が陰り始めると、周囲の平原にも不穏な空気が満ちて来る。本来、港から城下町までは、馬車などで移動する事が大半であるし、陽が暮れてから入港する者は、港で一泊してから移動をするのだ。だが、カミュ達は徒歩。しかも、港を出たのは、陽も昇り切った頃だった。

 陽が沈めば、活発に活動する魔物も増えて来る。このエジンベアの大陸では、そのような魔物が蔓延っていた。以前、ムオルの村周辺で遭遇した事のある魔物。ポポタを襲い、カミュとメルエによって討伐された魔物が、このエジンベア周辺では多数生息していたのだ。昼間はどこか洞窟などに隠れているのか、それとも館でも構えているのかは解らないが、彼等は夜の闇に紛れて『人』を襲い、その血液を主食としている。

 

「やぁ!」

 

 飛び回るように襲いかかる魔物をリーシャが斬り捨てる。蝙蝠のような羽を持ったその魔物は、リーシャの斧での一撃を受け、地面へと落下した。

 <バーナバス>と呼ばれるその魔物は、夜の森で野営を行う準備を始めていたカミュ達に襲いかかって来たのだ。メルエを護るように立ったサラに向かって来た<バーナバス>の横合いからリーシャの斧が襲い、一体の<バーナバス>はその命を終わらせた。

 

「メルエ、右手にいる魔物へ<メラミ>を放てますか?」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 サラの問いかけに頷いたメルエは、杖を掲げ振り下ろす。メルエもサラが何故問いかけたのかを理解している。飛んでいる<バーナバス>の周辺は木で覆われた森。メルエの放つ<メラミ>の火球が大き過ぎれば、それは木々へと燃え移り、大惨事へと発展してしまうのだ。

 故にこそ、問いかけた。『メルエは調節して放てますよね?』と。

 振り下ろした杖の先から出た火球は、以前メルエが放った<メラミ>よりも大きさは小さい。しかし、その威力が以前より弱い訳ではない事を、<メラミ>の通り道にいたカミュは肌で感じていた。

 何故なら、カミュから距離のある場所を通過して行った筈の<メラミ>の熱気で、カミュの髪の数本が焦げて落ちているのだ。その大きさは小さくとも、魔法力の密度が濃くなっているのだろう。それがメルエの成長を如実に表しているのかもしれない。

 

「ギョエェェェ」

 

 広範囲に広がらない代わりに、高密度な高温を保つ火球を受けた<バーナバス>は堪らない。断末魔の叫びも一瞬。火球に呑み込まれた身体は一瞬の内に蒸発するように溶け、火球と共に消え失せた。

 その光景に唖然としたのは、カミュ達三人。メルエの魔法の才能を疑った事はなく、行使する魔法の威力も身を持って感じてはいた。だが、魔物を一瞬で溶かし、何もなかったかのように消し去る<メラミ>を見た時、指示を出したサラでさえ、声を失い、暗闇が戻った木々を見つめる事しか出来ない状況に陥っている。

 そして、それは何もカミュ達だけではない。カミュ達が魔物の存在も忘れ、<バーナバス>の一体が消え失せた場所を眺めている間に、真っ先に我に返った残りの<バーナバス>達は、我先にと暗闇が支配する森の中へと消えて行った。

 逃げ去った魔物にも注意を向けずに、静けさだけが広がる空間の中、メルエが自信なさげに眉を落とし、杖を胸に抱きながらサラを見上げている。

 

「…………メルエ………できた…………?」

 

「はっ!?」

 

 メルエの呟きによって、ようやく動き出した時間は、まずサラの行動を可能にさせた。リーシャも慌てたように後に続き、カミュは何事もなかったかのように野営の準備を始める。メルエに視線を合わせるようにしゃがみ込んだサラは、しっかりとメルエの瞳を見つめ、大きく頷きを返した。

 

「はい! メルエは凄いです! こんなに早く出来るなんて」

 

 魔法力の調節という点に於いては、メルエはまだサラの足元にも及ばないだろう。しかし、それを行う事をしっかりと意識し、呪文を詠唱している事だけは、この場にいる全員が理解している。そして、少なからず結果が出始めているのも事実なのだ。

 ただ、今の<メラミ>の威力は、通常の『魔法使い』には行使出来ない程の物であり、それを見た者がカミュ達以外の者であれば、その威力を恐れる物である事には変わりはない。それでも、サラはメルエの意識の変化を喜んだ。

 

「…………ん…………」

 

 サラが心から喜んでくれている事を理解したメルエは、笑みを浮かべて首を縦に振る。メルエは本当に少しずつではあるが成長していた。初めは自分の内に眠る才能だけで行使していた魔法も、媒体を通して使用する事を可能にするため、その魔法力の流れを理解している。言葉で言えば簡単な事ではあるが、魔法という神秘の存在自体を理解していなかったメルエにとって、それはサラやカミュの想像以上に困難な事であったろう。

 そして今、同じく才能という物だけで何も考えずに行使していた魔法の威力や範囲を己の意思通りに行使する方法を模索し、少しずつ結果を出し始めている。本来、通常の『魔法使い』であれば、生涯を賭けて手にする物を、メルエは僅か数年で手にしようとしているのだ。

 

「しかし、今のを見ると、船の上での鍛錬の時に行使したのが<ヒャド>で良かったと心から思うな」

 

「ひぐっ!?」

 

 しかし、サラとメルエの微笑ましいやり取りも、同じように笑顔で近付いて来たリーシャの何気ない呟きで終焉を迎える。船の上でサラの腕が凍った時、確かにカミュは『<メラミ>や<イオ>でなくて良かった』という言葉を残していた。

 その言葉が正しかった事は、もはや跡形も無く消え失せた<バーナバス>が如実に物語っている。あの時、メルエがサラの持つ木の枝に向けて<メラミ>を唱えていたら、サラは瞬時に溶け、この世から消え失せていただろう。リーシャの言葉を正確に理解したサラは奇妙な声を上げ、笑顔を引き攣らせた。その表情の変化に反応したのはメルエ。

 

「…………メルエ………だめ…………?」

 

「そ、そんな事はないぞ。私の言い方が悪かったな。あの時、メルエはこうなる事を考えて、サラに向けて<ヒャド>しか唱えなかったんだ。それはメルエがしっかりと考えている証拠だろう?」

 

 もしかすると、メルエはカミュの背中を<ベギラマ>で焼いてしまった時にサラから言われた言葉を気にしているのかもしれない。『魔法の威力の調節という物が出来なければ、メルエと旅する事は出来ない』という言葉を。

 故に、これ程までに怯える。それは子供特有の怯えなのかもしれない。大人の顔色を伺いながら、物事の善悪を理解し、行動する。そんな子供から一歩前へと進み出す機会を、メルエはこれまで与えられてはいなかったのだろう。

 しかし、リーシャの言葉は余りにも取ってつけた感が拭えない物だった。あの時の鍛錬では、サラが『凍らせてみろ』とメルエに指示を出したからこそ、メルエは<ヒャド>を唱えたのだ。

 もし、サラが『燃やしてみろ』という指示を出していたら、メルエは<メラ>か<メラミ>を詠唱していたかもしれない。ただ、『凍らせてみろ』という指示に対し、<ヒャダルコ>や<ヒャダイン>を行使しなかった事自体が、メルエの成長であると言われれば、それは正しい事であろう。

 

「そこまで考える必要はない。この先の旅で、メルエの魔法が必要なのは紛れもない事実だ。俺達は、メルエの魔法を頼みにしている」

 

「…………ん…………」

 

 薪を組み、火を熾し終えたカミュがメルエの頭を優しく撫でる。その手を気持ちよさそうに目を細めて受けるメルエの姿に、リーシャやサラの表情にも再び笑顔が戻った。カミュの言う事も一理ある。だが、それはサラが懸念した通りの道を歩む事を確定させる一言でもあった。

 カミュは何がどうあっても、メルエの味方なのだろう。例え、メルエが他人から恐れられようと、例え『人』の害と認識されようと。

 サラのように、メルエの身を案じてメルエの行動を縛る事がメルエにとって幸せなのか。それともカミュのように、メルエの自由を保証する代わりに、メルエの存在自体を孤立させてしまう可能性をも残す事が幸せにつながる事なのかは、今のところ誰にも解らない。だが、今はまだ、このメルエの笑顔があれば良いという事だけは、三人の共通認識なのかもしれない。

 

 

 

 

 夜が明け、メルエの起床を待ってから一行は再び北へと歩き出す。平原が広がる中、カミュが先頭を歩き、サラがメルエの手を引いて、最後尾をリーシャが歩く隊列は、ロマリア大陸の頃と変わりはない。サラと共に歩くメルエは鼻歌を口ずさみ、周囲に広がる景色を嬉しそうに眺めている。そんな二人を後方から微笑ましく見つめ、リーシャは前方に見え始めている城に目を細めていた。

 

「なんだ、田舎者。このエジンベアに何の用だ!?」

 

 城下町と平原を隔てる門の前に立つ一人の兵士が、カミュ達の姿を認めると大きな声で怒鳴りつけて来る。その声はとても初対面の者へ向けられる大きさでもなく、そして内容でもなかった。

 驚いたメルエは、リーシャの後ろに隠れてしまい、港で役人の姿を見ていた三人も改めてエジンベアの選民意識を目の当たりとする事となる。

 

「アリアハンから参りましたカミュと申します。エジンベア国王様への書状と献上品を持参しておりますので、国王様への謁見のご許可を頂きたく、お伺い致しました」

 

「はっ!? お前のような田舎者が国王様のご尊顔を拝せるとでも思っているのか?……馬鹿も休み休み言え。お取次ぎする必要も無い。帰れ、帰れ!」

 

 丁重に頭を下げ、懐から書状を取り出そうとしたカミュの行動を制するように、門番の兵士は口を開いた。その内容は、流石のカミュも顔を顰める程の物であり、サラは驚きに目を見開く。リーシャに至っては、怒りに血が上り始める始末。

 ここに来て、ようやくエジンベアに対する自分達の認識の甘さを三人は理解する事となった。

 

「ポルトガ国王様の書状もございます。こちらが……」

 

「しつこい! ポルトガなど、片田舎の国。そのような国の書状を我がエジンベア国王様がお目を通さなければならない謂れはない。お前達のような田舎者の若造などを相手にする時間も惜しい。早々に立ち去れ!」

 

 再度カミュの言葉を遮った門兵の態度は、とても他国の者へ取る態度ではない。それも、ポルトガという一国の王からの書状を侮辱するなど、一介の兵士が行って良い行為でもないのだ。故に、カミュ達は怒りと共に戸惑った。彼等の母国であるエジンベアという国の根本が解らなくなってしまう。

 

『この国は根底的な価値観が違うのでは?』

 

 そんな疑問がサラの頭に浮かんでは消えて行く。彼等エジンベア国民にとって、頂点にいるのはエジンベア国王であり、その存在は他国の王と同格ではないのだろう。そしてエジンベア国王の下にいるのは自分達であり、それが他国の王族達と同格と考えているのかもしれない。

 

「……ふぅ……話にならないな……」

 

 ここまで来て、カミュの口から出た言葉は、仮面を剥ぎ取った物だった。既にカミュの中ではこの門兵は会話するに値しない人間として括られたのだろう。一度大きく溜息を吐き出したカミュは、そのまま門兵に背を向け、来た道を戻り始めた。

 それを見て驚いたのはサラ。この国に何かがある以上、カミュは何としてでも中に入る為に交渉を続けるだろうと考えていたのだ。しかし、カミュは振り返る様子はない。カミュの背中を勝ち誇ったような顔で見つめる門兵を今にも殴り倒しそうなリーシャを抑え、サラもカミュの後ろを続く事しか出来なかった。

 

 

 

「何なんだ、あの兵士は!? たかだか門兵如きに、何故あのような態度をとられなければならない!?」

 

 少し離れた場所へ移動したリーシャは真っ先にカミュへと嚙付いた。流石に同じように国に仕える者として、あの門兵の態度は腹に据えかねていたのだろう。今にも爆発しそうな感情を抑え込んでいただけでも、彼女の成長が窺える。しかし、その剣幕はメルエを怯えさせるには充分な威力を持ち、メルエはカミュのマントの中へと逃げ込んでしまった。

 

「……ああいう類の人間を憐れむ事が出来る程になったのではなかったのか?」

 

「流石にあれは無理だ!? 憐れむという次元の問題ではない!」

 

 カミュの言葉に尚更激昂したリーシャは、唾を飛ばして怒鳴りつける。カミュを怒鳴りつけても何もならないのだが、リーシャの言う通り、あの門兵の態度は余りにも酷い。それを理解しているからこそ、カミュは溜息を一つ吐いただけで何も言わなかった。メルエは顔を見せず、サラは途方に暮れたようにカミュを見上げている。

 ランシールの<スライム>の言葉にあったエジンベアという国は、彼等の想像を遙かに超える国であり、城下町の中にさえ入る事が叶わない程の国だった。そしてそれは、『エジンベアという国に来る必要性がある』という漠然とした物以外に何もないカミュ達にとっては致命的な事。エジンベアに来る明確な目的が定まっていれば、門兵が何をしようと、その目的の為に動けば良いのだが、その目的さえも曖昧なままでは、カミュ達に選択肢など残されてはいないのだ。

 

「あれを何とかするのは無理だろうな。ならば、方法は一つしかないだろう」

 

「どうする?……気絶させるのか?」

 

「リ、リーシャさん……それでは、国家問題になってしまいますよ……」

 

 何か考えがありそうなカミュの言葉に対し、リーシャは恐ろしいまでに物騒な事を口にする。おそらく、あの門兵程度であれば、カミュとリーシャで昏倒させる事は可能であろう。だが、それが発覚した場合、カミュ達は『勇者一行』ではなく『暴漢一行』になってしまう事は間違いがない。

 

「…………リーシャ………だめ…………」

 

「うっ……な、ならば、どうするつもりだ!」

 

 カミュのマントから顔を出したメルエにまで諌められたリーシャは、言葉を詰まらせ、その怒りをカミュへと向ける。完全な八つ当たりを受けたカミュは、もう一度大きな溜息を吐き出し、腰に下げた一つの袋を手に取った。

 その袋は、ここにいる四人全員が知っている袋であり、不確定要素が詰まった物である。

 『消え去り草の粉』

 ランシールにいた<スライム>の口から出た摩訶不思議な内容。ランシールで販売している<消え去り草>と呼ばれる食料を乾燥させた物を身体に振りかければ、たちまち身体は透明となり、姿を隠してしまうという物であった。それは、まだ実証はされていない。袋に粉を入れたのみで、それを試した事も無いのだ。

 

「<消え去り草>を使ってみるのですか?……しかし、本当に姿が消えるかどうか……」

 

「それこそ、やってみなければわからない。方法が他にない以上、試してみるしかない」

 

 サラの疑問と恐れは当然の物であろう。未知なる物を試す時は、誰しも恐怖を感じる物であり、それが常識とかけ離れていればいる程、その恐怖の度合いは高くなって行く。姿を認識出来ぬ程の物となれば、それは神秘という次元ではない。まさしく神の所業と言っても過言ではないのだ。

 

「カ、カミュから試せよ。わ、私は嫌だからな」

 

「……まぁ、そう言うな……」

 

 一瞬、自分の方へと視線を向けたカミュを見て、リーシャは後ろへと後ずさる。先程までの剣幕は何処へやら、じりじりと後退するリーシャは、袋の中に入れたカミュの手が出て来るのを見て、その身体を硬化させてしまった。袋の中から取り出される筈の<消え去り草>の粉末。

 

「カ、カミュ様……そ、その……手は何処へ行ったのですか?」

 

 その粉末は袋の中へと入れたカミュの手と共に現れる筈だった。しかし、袋から取り出されたカミュの手は、手首より先が消え失せている。空中に浮かぶ粉末状の<消え去り草>。それを見たリーシャは驚きに口を開き、サラは理解の追い付かない頭を懸命に回転させていた。唯一人、メルエだけは消え失せたカミュの手首より先を見て、目を輝かせている。

 

「消える事は証明されたな……まずはアンタだ」

 

「ま、待て!」

 

 リーシャの抗議の声を聞く事無く、カミュは<消え去り草>の粉を頭からリーシャへと振り掛けて行く。泣きそうな表情のリーシャの姿が、粉を振りかけた場所を中心に徐々に消えて行く。<スライム>の話の内容が本物であれば、姿が消えたのではなく、只透明になってしまったという事なのだろうが、傍で見ていたサラには、リーシャという女性の存在自体がこの世から消えて行くように見えてしまった。

 楽しい事でも見るようなメルエは、『おぅ』と感嘆の声を上げ、何かを期待するようにカミュを見上げている。

 

「…………メルエも…………」

 

「ま、待て! わ、私はどうなったんだ? 私自体が私を見る事が出来ないぞ!? メルエを消す前に、私にメルエの手を握らせてくれ!」

 

 カミュを見上げ、『次は自分』と主張するメルエに頷きかけたカミュへ抗議の声が届く。しかし、何も無い場所から発せられる声は、先程まで楽しそうだったメルエであっても驚く程の威力を持っていた。

 『びくり』と身体を震わせ、声を方角に顔を向けたメルエは、少し首を傾げた後、その方角へ手を伸ばす。伸ばされた手を、親しみ慣れた暖かな手が掴んだのを感じたメルエは笑みを浮かべ、再びカミュへと視線を戻した。

 

「……行くぞ……」

 

「…………ん…………」

 

 メルエが頷いた事を確認したカミュは、メルエの頭から粉を落として行く。メルエの被る<とんがり帽子>から徐々に消えて行き、ちょこちょこと動いていた小さな足が消え失せるまでそう時間は掛らなかった。

 先程のリーシャと同じように、メルエへサラの手を握るように指示を出し、サラは見えない手に自分の手が握られる感触に驚き、不安げな表情をカミュへと向ける。だが、そのサラの表情を無視するように降りかかる粉末の雨は、サラの表情と共に姿までをもこの世界から消滅させた。

 

「……俺のマントを握れ……」

 

「は、はい」

 

 先程までサラが居た場所へ向けて発せられたカミュの声への返答は、カミュのすぐ横から発せられ、流石のカミュも若干ではあるが表情を変化させた。今までの経過から、行うべき事を理解していたサラは、見えているカミュのマントを握る為に既に行動を起こしていたのだ。

 瞬時に表情を戻したカミュは一つ溜息を吐いた後に、袋を腰へと戻し、その袋から一掴みの粉を取り出す。そのまま自分の頭から粉を掛けて行き、カミュの姿も完全に消え失せた。

 城下町に入っていないカミュ達の周辺に人の姿はない。誰かに見られていたとしたら、これは大きな問題へと発展していただろうが、エジンベアという異常な程に排他的な国であったからこそ、そのような問題へ発展する事はなかった。

 

「カミュ様、先程の門の脇に通用口のような小さな扉がありました。あの扉ならば、閂などは掛けられてはいないと思います」

 

「……わかった……」

 

 前を歩いている筈のカミュを認識できるのは、サラが握っているであろうマントの感触だけ。前方へと考えを伝え、それに答えが返って来た事に、サラは一つ安堵の溜息を吐き出した。

 カミュはカミュで、あの不愉快な門兵とのやり取りの間で、通用口にまで目を向けていたサラに感心しており、僅かに表情に出ていたのだが、それは誰にも見る事は出来ない。

 先程、門兵が立っていた場所が近付くにつれ、リーシャやサラが息を飲む音が響いた。息をする事も忘れてしまったかのように、物音一つ立てず、門兵の横をすり抜けて行く。カミュが抜け、サラが抜ける。サラの手を握っていたメルエが抜ける際に、門兵が姿勢を変える為に身体を動かした。

 息を飲み、動きを止める一行。声を押し殺し、物音を立てないように、完全に身体を固める。

 

「ふぁぁぁ」

 

 しかし、カミュ達の心配は杞憂に終わり、門兵はだらしなく欠伸を一つしただけであった。欠伸と共に上へと伸ばされた手が戻る際に、メルエの顔の横を掠めて行くが、触れる事はなく元の位置へと戻って行く。安堵の溜息を吐き出しそうになるのを堪え、サラはメルエの手を引いて再び歩き始め、メルエが無事に抜け、リーシャが抜けきった時、先頭のカミュは通用口らしき場所へと辿り着いていた。

 微かに軋む音を立てて、木で出来た通用口が開いて行く。幸い、眠そうに欠伸を繰り返す門兵には、聞こえてはいなかったようだ。

 後ろを振り返り、門兵の姿が変わらない事を確認したカミュ達は、通用口を潜り、本当の意味でエジンベアという国に入国する。最後のリーシャが潜り終わり、通用口の木の戸が静かにしまった後も、門兵は相変わらず欠伸を繰り返していた。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

ようやくエジンベアです。
あの国の状態と、あのアイテムの不可思議具合が上手く伝えられたかどうか不安ではありますが、ようやくエジンベア編突入です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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エジンベア城①

 

 

 

 通用口を潜り抜けたカミュ達一行は、そのまま城下町の街道を通り過ぎ、城門も潜り抜ける。城門前にも門兵はいたが、カミュ達の姿を認識する事無く、彼等の通行を許可してしまっていた。

 エジンベア城内に入り込んだカミュ達は、この後にどのように行動するべきか考えが定まっている訳ではない。故に、身を隠すように壁の影に身を潜める事となる。

 

「カ、カミュ様……マントが見え始めていますが……」

 

 影に隠れた事を確認したサラは、自分が握っていたと思われるカミュのマントらしき物が見え隠れしている事に気が付く。良く見ると、カミュのマントの色が所々現れ始めており、それはサラやメルエも同様であった。

 布などについた粉の効力が切れたのか、粉が舞ってしまい、付着していた部分が剝がれたのかは解らない。兎に角、カミュ達の姿が見え始めている事だけは確かであった。

 

「払えば落ちる物なのでしょうか?」

 

 サラの疑問は直ぐに溶ける事になる。『バサバサ』という衣服を叩く音と共に、カミュの衣服の色が世界に戻って来た。その内に払っている手も認識できる程に現れ、暫く後には、カミュの姿全体が再び視認出来る程となる。それを見たサラは自分の身体を手で叩き、己の姿も世界へと戻して行く。

 

「…………いや…………」

 

 姿が現れたサラの視線を感じた様子のメルエは、逃げるようにサラの手を離す。

 メルエにとって、自分の姿が消えるという事は楽しい事に他ならないのだ。リーシャやサラのように、その不可思議な現象に対する恐怖など微塵もない。そこにあるのは、興味と好奇心のみ。故に、サラの視線を受けたメルエは、自分の姿も再び現れてしまう事を逆に怖れたのだ。

 

「ふふふ。メルエ、姿が見えないままだと、私達もメルエを見つける事が出来ないぞ。となれば、メルエを置いて進むしか出来ないな」

 

「そうですね。メルエは何処に行ってしまったのですか?」

 

 自分の身体を叩き終わったリーシャが柔らかな笑みを溢しながら、何処にいるのか認識出来ないメルエに向かって言葉をかける。実際、メルエの付けているマントの一部が色を戻しているのだが、リーシャもサラもその事に気付かないようにメルエとは別の方角へ視線を向けていた。

 

「…………むぅ…………」

 

「私はメルエがいてくれた方が嬉しいですよ。メルエが見えないままでは哀しいです」

 

 むくれるような唸り声を発するメルエに向かって、サラは優しい笑みを浮かべる。この粉の効果が永遠ではない事を知ったサラには余裕が生まれていた。未知の道具を使った事により、生涯身体に色が戻らなかったとしたら、『人』としての生涯に終止符を打ってしまうような物である。

 姿を捉えられないところからの攻撃を繰り出せるのだとすれば、もしかすれば『魔王バラモス』とも互角に戦えるかもしれない。しかし、誰からも認識されないという事は、『人』の温もりを知っているサラにとっては、耐えられない物なのだろう。

 

「それより、リーシャさんは粉を落とさなくても良いのですか?」

 

「な、なに!?」

 

 捕まえたメルエを軽く叩いて粉を落とすサラは、膨れた頬を突き出すメルエに苦笑しながら、リーシャの立つ場所へ向かって視線を向けた。

 確かに、リーシャの身体は叩き方が不十分だったのか、完全に色が戻っているようには見えない。しかし、そんなサラの言葉をリーシャは完全に誤解してしまった。つまり、叩いたにも拘らず、自分の身体は未だに透けている状態だと。

 

「……粉を掛け過ぎたか……?」

 

「…………リーシャ………いない…………」

 

 そして、その勘違いに気が付き、悪乗りする者が二人。最初に掛けた事で適量が解らなかったとでも言うように、あらぬ方向へ向けて考え込むカミュ。先程までの膨れ面は何処へやら、笑顔できょろきょろと首を巡らすメルエ。そんな二人に、リーシャは大いに慌てる事となる。

 仕舞いには、口に手を当てて視線を逸らすサラだ。それは笑いを堪える物だったのかもしれないが、リーシャにはそうは見えなかった。

 

「ま、待て! カ、カミュ、掛け過ぎたとはどういう事だ!? わ、わたしの姿はまだ見えないのか!?……先程までとは違い、私には自分の手が見えているぞ!?」

 

「…………リーシャ………どこ…………?」

 

 楽しい事を見つけたようにはしゃぐメルエの姿に、リーシャは顔を青くさせる。自分が自分の姿を認識出来ているにも拘らず、それを仲間達が認識出来ていないのだ。まるで、この世界から自分という存在が消え失せてしまったかのような絶望を感じてしまう。

 焦ったように身体を叩き、兜を脱いで髪も手で搔き毟る。そんなリーシャの姿にサラは涙目になりながら笑いを堪え、メルエは花咲くような笑顔を向けた。

 

「…………リーシャ………いた…………」

 

 リーシャが叩き過ぎた事により、先程まで不十分だった色が完全に戻って行く。ようやくいつものリーシャの姿に戻った事で、メルエはリーシャの腰へと抱きついた。

 笑顔で自分を見上げるメルエを見て、心底安堵したリーシャは、瞳を若干潤ませながらメルエの身体をしっかりと抱き締める。カミュやメルエにとってみれば、些細な悪戯だったのかもしれないが、当のリーシャにとっては絶望に近い感情を持ってしまう程に威力のある物だったのだろう。その事にサラは胸を痛めた。

 

「リーシャさんの色も完全に戻りましたね。カミュ様、これからどうするおつもりですか?」

 

 しかし、ここで真実をリーシャに伝え、謝罪をする事は、自分の身を滅ぼす行為である事を知っているサラは、敢えて謝罪をせずに柔らかな笑みを浮かべながらカミュへと問いかけた。

 皮肉気に上がっていたカミュの口端が戻り、少し思案顔を浮かべる。エジンベアの城内に侵入したところまでは良い。ただ、このままでは不法侵入者という事となり、極刑は免れない。

 

「城内を少し歩く」

 

「大丈夫なのか?」

 

 全員に視線を向けたカミュに向けて、珍しくリーシャがその考えに懸念を示した。許可を貰っていない人間が城内を歩き回れば、必ず目につき、その素姓を疑われるだろう。その者達が帯剣をしている者達であれば、余計な危機感を煽り、カミュ達の立場を悪い方向へと追い込んでしまう可能性が高くなる。リーシャはそう言った部分を懸念しているのだ。

 しかし、カミュはリーシャの問いかけに応える事無く、城内を歩き始める。こうなっては、リーシャもサラもついて行く事しか出来ない。メルエの手を握り、サラがカミュの後を続き、その後ろを警戒感を強めてリーシャが歩き始めた。

 城内は様々な人間が歩いている。兵士は勿論の事、包囲に身を包んだ僧侶や身なりの良い服装をしている者。しかし、カミュ達へ向ける視線は皆同じだった。あの門兵程は酷くはないが、カミュ達一行を『田舎者』と蔑む視線。誰一人カミュ達に気を止めるような仕草をしないにも拘らず、見下したような視線を向ける。そんな姿にサラは困惑を極めて行った。

 

「畏れ入ります。門兵の方に、国王様との謁見には、城内でお取次ぎを申請する必要があるとお聞きしたのですが、どなたにお取次ぎをお願いすればよろしいでしょうか?」

 

「ん?……お主達のような田舎者を門兵が通したのか?」

 

 カミュは、城内を歩く人間の中でも一際身なりの良い人間へと声を掛けた。カミュの問いかけに一瞬眉を顰めたその男は、カミュ達一行を不躾に見渡し、何やら汚い物でも見たような表情を浮かべる。

 カミュの後ろに控えていたリーシャの額に青筋が浮かぶが、ここで騒いだ場合の危険度合いを考え、喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んでいた。

 

「こちらがアリアハン国王様の書状。こちらが、ポルトガ国王様よりの書状となります。また、エジンベア国王様のご尊顔を拝せればと、献上の品もご用意致しました」

 

「……ふむ……」

 

 カミュが声を掛けた男は、高官ではないかもしれないが、エジンベアの国政に係わる官僚だったのだろう。カミュが手にする書状の国印を目にし、若干ではあるが視線を変化させた。ポルトガ国の国章は貿易などで何度か見て来ているのだろう。しかし、アリアハン国の書状は一瞥しただけで、再び目を向ける事はなかった。

 

「献上品はこれか? アリアハンなど聞いた事もない国だが、ポルトガ国の国章と国印は本物のようだな。暫しここで待っておれ」

 

 献上品としてカミュが手渡した袋の中身を確認した男は、少し驚いた表情を浮かべるがそれを手にしたままカミュから書状も受け取った。その際に発した男の言葉がリーシャの青筋を増やしたのだが、メルエとサラがリーシャの両手を握っていた事により、リーシャが口を開く事はなく、男は広間の左手にある大きな階段を昇って行った。

 

「遠くまでご苦労様ですね、田舎の人」

 

 広間で官僚の男を待つ間に、先程のやり取りを見ていた者達がカミュ達に声を掛けて来る。だが、全てに共通する事は、カミュ達を『田舎者』として認識し、それを蔑み、憐れんでいるという事実だった。

 『精霊ルビス』という全ての『人』の親である者を崇めている筈の僧侶でさえ、カミュ達へ向ける言葉は上から見ている物。『僧侶』という存在に対し、別段期待をしていないカミュの表情に変化はないが、その僧侶に頭を下げたサラの表情はとても曇っていた。

 

「田舎者! このエジンベアの恩恵を受けて来た者が恩を返しに来るとは殊勝な心がけだな」

 

 中には完全に侮り、カミュ達へ辛辣な言葉を掛ける者までいる。そんな言葉の一つにあった『恩を返しに来る』という部分に疑問を抱いたサラが、その男へ問い返してしまった。

 田舎者と侮っていた者からの突如の問いかけに、一瞬眉を顰めた男であったが、サラの問いかけの言葉が謙った物であった事に気を良くして、その問いに応え始める。

 

「我がエジンベアは『人』の原点。海洋国家であるこのエジンベアから『人』は生まれ、船を造り、旅立った。お前達田舎者の祖先は、全てこのエジンベアの民へと行き着くのだ」

 

 男が胸を張って答えた主張に、サラは驚き言葉を失う。つまり、この国では、『人はエジンベアから世界へと広がった種族』という説を謳っているのだ。『ルビス教』を信じている国である以上、『人』の出生は同じであろうが、その過程が他国とは異なっている。

 エジンベアで暮らしていた『人』は造船し、新天地を求めて海へと出た。そして、その新天地で根を下ろし、国を創り、世界を広げて行ったという事を伝え続けているのだろう。ならば、他国の王と言えども、それはエジンベアの全国民よりも偉いという事はない。全世界にいる『人』の頂点に立つのは、エジンベア国王だけであり、その下に身分はあるが、他国の王と肩を並べる存在ばかりという事になる。

 そう考えるのであれば、ここまでのエジンベア兵の態度も理解は出来る。田舎の平民となれば、最下級の身分と認識されても不思議ではないのだ。

 『人』が船を造り、海を渡り出したのは遥か昔。今となっては何処の国が最初なのかは解らない。という事は、『人』が最初に生まれた場所がどこであるかも解らないのだ。実際、エジンベアの造船技術は世界でも高く、また鉄を加工する製鉄の技術を開発したのも、このエジンベアが始まりだという説もある。また、農業に於いても先進国の一つであり、『魔王バラモス』台頭以前に他国はその恩恵を受けていた。

 

「解ったか、田舎者。全ての『人』と全ての宝物は、このエジンベアへと行き着くのだ。このエジンベアには多くの宝物が集まって来る。中には海の水を干上がらせる道具まであるというからな」

 

 エジンベアという国への自信と誇りに胸を張る男の言葉を、カミュ達は呆然と聞き入る事しか出来なかった。

 歪んでいるとはいえ、これ程までの自国への想いを持っている人間には何を言っても仕方がない事は、サラも理解している。何せ、自分がそうであったのだから。

 『精霊ルビス』を信じ、ルビス教の教えを盲信していたサラには、カミュの言葉は全く届かなかったという過去がある。それを自覚しているが故に、サラは男の話に口を挟む事はなかったのだ。

 

「おい、田舎者。有難くも、国王様が謁見に応じて下さるそうだ。さっさと来い!」

 

 先程、階段を昇って行った官僚らしき男が戻って来た。カミュ達の許へは戻って来ず、階段の手摺を掴みながら、カミュ達へ指示を出している。その不遜とも言える態度は、このエジンベアという国を如実に表しており、これから謁見する国王の姿も予想させる物ではあったが、カミュ達は身なりの良い男へ一礼した後、階段の方へと移動した。

 階段を登り切った場所は、文字通りの謁見の間が広がっていた。真っ赤な絨毯が敷かれ、その先には玉座がある。玉座には初老の男性が座っている。冠を頭に載せ、白い鬚を蓄えているその男性が、『人』の原点を謳っているエジンベアという国の王なのであろう。官僚に案内されながら絨毯の上で跪くカミュ達へ向けている視線は、侮蔑や厳しさというよりは、どこか憐みに近い視線であった。

 

「よく、このエジンベアへ戻った」

 

 頭の上から掛る国王の言葉は、先程聞いた話が間違っていない事を意味し、国王自体が『エジンベアこそ人の原点』という伝承を信じている事を表していた。

 玉座の脇には、国務大臣らしき男性が立っており、その大臣はカミュ達へ視線を送った後、部下から手渡された献上品を国王の前へと持って行く。

 

「表を上げよ。余は心の広い王じゃ。お主達を『田舎者』と蔑む事はない」

 

 献上品に目を向けた国王は、カミュ達へ言葉をかける。しかし、その言葉の内容は酷い物だった。町の人間や兵士のように、カミュ達に向けて『田舎者』と吐き捨てるような言葉ではないが、『田舎者』と認識しながらも、そのようには扱わないと宣言する国王の神経に、カミュは聞こえないように嘆息する事しか出来なかったのだ。

 

「ほお……これは『黒胡椒』か……田舎者が作り出した物としては良い物の一つじゃな。それもこれ程の量となれば……」

 

 カミュ達がエジンベア国王への献上品として持参した物とは、ポルトガを再度出港した際に、ポルトガ国王から下賜された『黒胡椒』であった。

 ロマリアやイシス、そしてジパングを訪れた際には、謁見の際に献上品を持参する事はなかった。それは、カミュ達の考えがそこまで及んでいなかった事も一つではあるが、必要もなかったというのも原因である。

 『勇者一行』として旅をするカミュ達は、アリアハンの権威が地に落ちたとはいえ、世界を救う為に旅をする者達である事に変わりはない。各国の王族達は、その事実を無碍に否定する事は出来ず、援助を認めなくとも、彼等の旅の邪魔をする事は許されないのだ。

 ロマリア国のように余計な依頼を与える事はあっても、謁見を断る事は事実上出来はしない。リーシャやサラは気付いてはいないかもしれないが、国王が彼等の謁見を許さなかった場合、万が一にもカミュ達が『魔王バラモス』の討伐に成功した暁には、謁見を許さなかった国名は世界中に広がり、その国は世界的に地位を剥奪される可能性すらあるのだ。

 だが、様々な噂を耳にする中で、このエジンベアという国には、その常識が通用しない可能性が出て来る。カミュは、ポルトガ国王が『黒胡椒』を下賜した理由を船上で考え、結論を出した。

 それは、先進国として名を馳せているエジンベアであっても栽培や収穫が出来ない物である『黒胡椒』を献上品として持参し、謁見だけでも可能にさせる計らいではないかという物。ただ、献上品を見せる事も出来ずに、門兵によって遮られる事になってはしまっていたが。

 

「ふむ。これ程の品……大義である。田舎者と言えども、このような物を持ち帰ったとなれば、何か褒美を考えてやらねばな」

 

 『何が良いか』と考え始めた国王は、肘を玉座に掛けながら目の前で黒光りする胡椒の山を見つめている。エジンベアを訪れたのも、何か目的があった訳ではない故に、カミュ達も要望を口にする事は出来ない。元々、国王という人間に向かって願望を口にする資格を有する程に、カミュ達の地位が高い訳ではない。『勇者一行』という肩書があるが故に、ポルトガ国王やイシス女王への謁見を許されていただけであって、それもエジンベアという特殊な国で許されるかどうかなど、賭けであったのだ。

 

「大臣! 何か良い物はないか?」

 

「はっ。畏れながら、あの壺などは如何でしょうか?」

 

 国王から持ち掛けられた問いに答えた大臣の言葉の中にある『壺』という単語に、カミュ達四人は思わず顔を上げてしまいそうになる。それは、ランシールで出会った<スライム>が口にしていた重要そうな単語の一つだったのだ。

 

『<最後のカギ>っていう物を手に入れるには<壺>が必要なんだって』

 

 あの<スライム>は確かにそう言った。何故、壺が必要なのか、壺を何に使うのかは解らない。だが、カミュ達が目指す『最後のカギ』という道具を手にするためには、壺が必要である事だけは確かであり、その先の旅へと続く、本当の意味での鍵となるのだ。故に、カミュ達は固唾を飲んで、国王の次の言葉を待っていた。

 

「……スーの村から運んで来たというあれか?」

 

「はい。我がエジンベアの植民地とした際に、駐在の者が献上して来たあれです」

 

 緊迫した空気を纏っていたカミュ達は、国王の言葉に再度顔を上げそうになる。<スーの村>という名称は、四人にも聞き覚えがあった。

 町を作る事を熱望していた老人が、トルドを紹介した事への礼として口にした名前なのである。しかも、その村は、このエジンベアという国の植民地となっているという。

 

「植民地としたは良いが、結局このエジンベアから移住した者は奴一人であったと言うからの」

 

 植民地となれば、民を移住させ、支配下に置く事を意味するのだが、これ程に自国への誇りを有するエジンベア人が『田舎』と罵られる場所へ移住する筈もない。植民地政策は、このエジンベアに限っては愚策だったのだろう。移住が進まなかった植民地は放置に近い形となり、献上された宝物である壺も忘れ去られた存在に落とされたのかもしれない。

 

「ふむ。その方ら、褒美に『渇きの壺』を与える!」

 

「……有り難き幸せ……」

 

 少し考えていた国王であったが、再びカミュ達に視線を戻し、声高々に褒美の品の内容を宣言した。カミュは一度深く頭を下げ、それに倣うようにリーシャ達三人も絨毯を見つめるように頭を下げる。だが、待てど暮らせど、褒美の品がカミュ達の前に運ばれてくる事はなかった。

 奇妙な空気が流れる中、その答えは国王ではなく、傍に立つ大臣の方から発せられる。

 

「『渇きの壺』は、この城の地下に安置されている。珍しい物ではあるが、同時に危険性も孕んでいるとお考えになられた先々代の大臣によって宝物庫には仕掛けが成されており、我々ではその仕掛けを解く事は出来ない」

 

 顔を上げたカミュは視線を大臣に向け、無表情を貫いているが、顔を上げていないリーシャやサラの表情は困惑を極めていた。

 『褒美を与える』と言われても、その褒美を持って来る事が出来ないのであれば、受け取る事さえ出来ない。となれば、ここまでの国王との謁見は只の茶番劇に過ぎない事になってしまうのだ。

 

「よって、その方らに仕掛けを解き、『渇きの壺』を手に入れる許可を与え、それを褒美とする。以上である!」

 

 困惑を極めるリーシャやサラを置き去りにしたまま、エジンベア国王との謁見は終了した。国王と大臣は会話を始め、カミュ達は先程の官僚らしき男に促され、退席する事となる。

 既に窓から見える太陽は西に傾き始め、空は赤く染まり始めている。予想以上に謁見に時間を要していた事に驚きながらも、サラはカミュの後について階段を下り始めた。

 階下に降りたカミュ達は、先導する官僚の後ろに続き、城内を歩く。兵士達の詰所の前を通り、廊下を抜け、中庭のような場所を通る際に、カミュ達の視界に煌びやかな衣服に身を包んだ若い女性が入って来た。その女性もカミュ達の存在に気が付いたのだろう。スカートの裾を摘み、足を速めてカミュ達の許へと近付いて来た。

 

「あなた方が田舎から来た者達ですね。田舎とはどのような所なのでしょう。今度、田舎のお話しを聞かせて頂けますか?」

 

 駆け寄って来た女性の放つ言葉は、純粋そのもの。カミュ達を『田舎者』と蔑む事はなく、ただ、『田舎と呼ばれる場所から来た者達』という事実だけを受け止め、自分の知識にはないその場所への純粋な興味のみで動いているに過ぎない。故に、リーシャやサラも何故か不快感を覚えず、むしろこの女性に好感を持ってしまった。

 ここまでの間に出会ったエジンベア国民の態度が酷過ぎたのが原因ではあるが、この女性の好奇心に輝く瞳が、彼女達の良く知る幼い少女に良く似ていた事も要因の一つであろう。

 

「王女様、このような田舎者にお言葉をお掛けになる必要はございません。貴女様は、高貴なるエジンベア王族の血を受け継ぎしお方。お前達も頭が高い!」

 

「……」

 

 目の前で好奇心に瞳を輝かせている女性が、このエジンベアの王女と知り、カミュ達はその場で跪いた。官僚の言葉には刺があるが、実際に王族を前にしているのであるから、カミュ達が膝を折る事は当然の事である。リーシャも貴族とはいえ、下級貴族。しかも他国の貴族となれば、エジンベアでは平民よりも下の階級になる可能性もあるのだ。一斉に膝を折った三人を不思議そうに見ていたメルエも、訳も分からずにサラの隣で跪く。

 

「あ、良いのです。私は、お話しを聞かせて頂きたかっただけですので……」

 

「このような田舎者の話など、お聞きになる必要はございません。王女様にとって害となるだけです。さあ、お部屋にお戻りなさいませ」

 

 この官僚は、カミュ達が考えていたよりも高位の者なのかもしれない。一国の王女に対し、意見を言える立場にいるという事実がそれを示していた。

 要望が聞き入れられなかった王女は、何処か名残惜しそうにカミュ達に視線を送っていたが、顔を俯かせたまま中庭を出て行く。満足そうに王女の背中を見つめていた官僚は、振り向きざまに厳しい視線でカミュ達を睨みつけ、鼻を鳴らした後で再び歩き出した。

 

「この下が『渇きの壺』が安置されている宝物庫となる」

 

 城門付近を右に曲がり、更に奥へと進んだ場所は陽の光も届かない程の場所であった。細い一本道を行った突き当たりにあった扉に手を翳し、官僚はカミュ達を見ずに手にした鍵を鍵穴へと差し込む。小さな音が響き、その扉の解錠が済んだ事を示した。解錠をするだけで、ドアノブを回す気はないのだろう。官僚の男は、そのまま踵を返し、カミュ達の方へ視線を移す事無く元来た道を戻り始めた。

 

「おい、カミュ。あの官史は仕掛けの仕組みについて、何も話して行かなかったぞ!?」

 

「……仕掛けとはどのような物なのでしょう。命に係わるような物なのでしょうか?」

 

 何も言わずに消えて行った官僚を見送った後、リーシャはカミュを振り返る。この国の先代の大臣は、『渇きの壺』を危険性のある物として、ある意味で封印に近い形で安置したと言っていた。

 その際に施された仕掛けは、今や国王も大臣も解く事は出来ないと言う以上、それ相応の危険を伴うと考えるのが普通であろう。

 

「俺達に残されている選択肢は、『渇きの壺』を取りに行くか、諦めるかの二つしかない筈だ」

 

 仕掛けという言葉に不安を感じているリーシャとサラではあったが、カミュの言っている事が的を得た正論である以上、その言葉に頷き合い、解錠された扉を開けたカミュの後に続き中へと入って行く。手を握ってはいるメルエの瞳は好奇心に満ち満ちており、暗闇が支配するその先へと向けられていた。

 

 このエジンベアという国の民も知らぬ世界へ、『田舎者』と揶揄された者達が足を踏み入れて行った。

 そこは、数十年もの間、エジンベア王族でさえ足を踏み入れる事のなかった場所。国政を担う大臣程の人間が、

 危険性を訴えた程の物が眠る場所。

 世界を救う『勇者一行』が手にした、先代の『賢者』が残した僅かな情報が眠る場所。

 

 重々しい音を響かせ、扉はゆっくりと空間を遮断する。

 日常を残す城内と、非日常を常とする『勇者』達を。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回は、かなり短めになってしまいました。
実は、この先にある話を描いている最中に、余りに長くなってしまう事と、キリが悪い事に気が付き、二話に分ける事にしました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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エジンベア城②

 

 

 

「カミュ、灯りを点けなければ進めない」

 

 後ろ手に扉が閉まる音が響くと、中は何一つ見えない世界だった。リーシャの言葉に頷きを返したように見えたカミュが、手探りで袋の中から<たいまつ>を取り出し、<メラ>の詠唱を行って火を灯す。途端に明るさが広がり、闇に包まれていた世界に色が付き始めた。

 前方へと<たいまつ>を向けると、その先は緩やかな階段が見える。それ以外には何もない空間である為、彼等の道としては、それを下るしか方法はなかった。

 

「なんだ、この場所は?」

 

 階段を降り切った場所に広がる光景を見たリーシャは、思わず疑問の声を上げてしまう。周囲を照らす<たいまつ>の炎が映し出す景色に、ただ呆然とするだけであったサラも同様に、驚きの表情を浮かべた。

 カミュが周囲の立ち並ぶ灯篭に火を移し、その空間全体を灯りが照らし出した時、その驚きは最高潮に達する。

 

「このような場所に宝物を安置しているのでしょうか?」

 

 サラが言う事も尤もな事だった。

 その場所は何もない空間。

 いや、正確にはそうではない。

 あるのは、地下から湧き出して出来た湧水の泉。

 そしてそれを縫って続く道のような陸地と、岩で出た壁。

 

「しかし、なんなのだ。あの二つの大岩は……?」

 

 そして最大の違和感。それは、前方に見える壁の両脇にある二つの大岩だった。大岩と言っても、前が見えなくなる程の岩ではない。ちょうどメルエの背丈より少し大きい程の岩である。

 

「リ、リーシャさん、無闇に触っては駄目ですよ。どんな仕掛けがあるか解りません」

 

「そ、そうだな」

 

 悲痛な叫びに近いサラの声を受けたリーシャは、岩に触れようと伸ばした手を素早く戻した。エジンベア大臣は、『仕掛けが解けない』と言っていたが、その仕掛けの内容が何なのかと言う事をカミュ達に伝えてはいない。故に、この場所にどのような仕掛けがあるのか、それが命に係わる程の物なのかまでは解らないのだ。

 

「とりあえずは歩いてみる」

 

 二人の様子を無視するように、カミュは灯篭に火を灯しながら奥へと歩いて行く。自分の背丈よりも大きな岩を見ていたメルエもその後に続いて歩き出した。

 何かを思案するように黙り込んだサラとは違い、『考える事は自分の範疇外』とでも言うようなリーシャは、興味深げに周囲を見渡しながら奥へと進んで行く。

 

「あっ! ま、待って下さい!」

 

 一人取り残されたサラが、自分が置いて行かれた事に気が付いたのは、カミュ達の姿が先の曲がり角を曲がる為に消えて行く頃だった。最後尾を歩いていたリーシャの姿が完全に消えてしまった事で、サラは慌てて駆け出す。大岩に視界を奪われながらも駆け抜けて角を曲がった先で、サラはもう一度驚愕の表情を浮かべる事となった。

 

「カミュ、これで三つ目だぞ?」

 

「しかも、三つともほぼ同じ大きさの物だ」

 

 先程見た大岩と同形等のメルエの背丈よりも大きな岩がカミュ達の前方を塞いでいたのだ。大岩の為に進めない訳ではない。乗り越える事は不可能だが、少しずれれば、岩の隙間を縫って奥へと進む事は出来る。だが、目の前にある三つ目の大岩の衝撃の方が大きく、それは些細な事であったのだ。

 カミュ達四人は、大岩の前で暫く間動けずにいた。しかし、その胸の内は二通り。それは全く同じのようで、決定的な違いのある物。

 リーシャとメルエに関しては、『何故、このような大岩がこの場所にあるのか?』という疑問。それに比べ、カミュとサラの胸の中には、『この大岩は、何に使う物なのか?』という想いが湧き上がっていた。

 それは、全く同じ意味のようで、全く違う意味を持つ。リーシャやメルエは、岩があるという事実を疑問に思うが、その使用目的にまでは意識は行かず、『何の為にあるのか?』という疑問にまでは行かないのだ。

 

「カミュ様、奥へ進んでみましょう」

 

「……ああ……」

 

 思考を中断し、先へ進む事を提案したサラに頷いたカミュは、そのまま奥へと進んで行く。岩を見る事にも飽きたメルエは、傍に湧いている泉に顔を映し、中を覗き込むように眺めていた。

 見たところ、その泉は相当な深さを誇り、今リーシャが驚いている岩程度であれば、そのまま全てを沈めてしまえる程であろう。何か生き物はいないかと覗き込んでいるメルエの肩を叩き、手を繋いで歩き出すリーシャの後ろを、眉を顰めたサラが続いて奥へと進んで行った。

 

「今度は何もないのか?」

 

「妙な印が地面に記されていますね」

 

 奥へ進むと、そこは完全な行き止まりであった。前後左右を見渡しても、見えるのは岩で出来た壁。無機質な岩の壁に<たいまつ>を掛けられる場所が何箇所かに分かれて付けられており、そこには何本かの枯れ木が突き刺さっていた。

 カミュは<たいまつ>から枯れ木へ火を移し、周辺の明かりを灯して行く。そして現れたのが、サラの口にした奇妙な地面であった。閉鎖的な空間の奥にある地面がここまでの物とは明らかに異なっているのだ。ここまでの地面は、土で出来た物であったのに対し、その部分だけは、人工的な物である。まるで何かを乗せる為に作られたような石で出来た床と言っても良い地面に、青く何かが記されている。

 

「カミュ、解るのか?」

 

「……アンタに考える気はないのか?」

 

 サラの発言を受けたリーシャは、即座にカミュへと問いかける。その問いかけにいつも通り溜息を吐き出したカミュは、呆れたような視線をリーシャへと送った。もはや、リーシャは考える事を諦めている節がある。勿論、パーティーの中で誰かが困り、苦しみ、悩んでいるのだとしたら、この心優しき戦士は、我が胸を痛めても考え続けるだろう。

 しかし、今は違う。

 

「私には考えても解らない。余計な事を言って、カミュやサラを混乱させるぐらいなら、何も言わない方が良い筈だ」

 

「そこまで考えているにも拘わらず、何故、行く道を示そうとするのかが、俺には解らないが……」

 

 至極真っ当な答えを返すリーシャに、カミュの溜息は大きくなって行く。洞窟や塔などを探索する際、リーシャは意地になったかのように道を示そうとしていた。カミュはその事を揶揄しているのだ。ほぼ確実に行き止まりへと進む事が確定している道を、懲りもせずに指し示そうとするリーシャを皮肉ったのだ。

 

「…………リーシャ………だめ…………?」

 

「そ、そんな事はないぞ。駄目なのはカミュだ。私は悪くないぞ」

 

 カミュの皮肉に青筋を立てるリーシャであったが、メルエの純粋な問いかけを聞いて、慌てたように弁明を開始する。しかし、その弁明は全く説得力も無く、そして何の根拠もない物だった。

 そんなリーシャの姿に首を傾げるメルエを見て、リーシャは尚更慌て、必死に何かを発しようと口を開くが、言葉が出て来ない。リーシャにとってカミュの嫌味などは慣れたものではあるが、それを純粋に問いかけられると、自分でも非を認めている部分があるだけに答えに窮してしまうのだ。しかも、それが本当に純粋な疑問であれば、尚更の事であろう。

 

「カミュ様、ここに来るまで、三つの岩がありました。そして、あの石で出来ている床も、おそらく岩三つ分程の広さを有しています」

 

「……つまり、あの床の場所まで岩を動かして来るという事か?」

 

 そんなリーシャとメルエの掛け合いに興味を示す事無く、思考の渦へと落ちていた『賢者』が満を持して口を開いた。『賢者』と呼ばれてはいても、サラが世界で一番賢い訳ではない。

 だが、考え、悩み、答えを見つけて前へ進む事に関してだけは、サラがこの世界の頂点に立つ事をカミュ達三人は知っている。彼女が考えて出した答えであれば、それが誤りであったとしても試してみる必要がある事も知っている。

 

「……アンタの出番だ……」

 

「なに!? わ、わたしか!?」

 

 やる事は決まった。

 ならば、それを誰がやるかという事になる。

 そして、その人選は満場一致で決定した。

 それは、考える事を放棄していた者。

 『戦士』と呼ばれ、力での戦いに特化した職業の者だった。

 

「わかった。先程見た大岩をここまで運んで来れば良いのだな!?」

 

「あっ! リーシャさん少し待って下さい!」

 

 不承不承に引き受けたリーシャであったが、それを制止する声が掛る。それは、リーシャが動く原因となった考えを口にした筈のサラ本人であった。『動かす』と言った張本人からの否定の言葉をリーシャは理解が出来ない。立ち止まったリーシャに向かって再び考え込むような表情を見せサラに、必然的な視線が集まった。

 

「無計画に岩を動かしてしまっては、おそらく手詰まりになってしまいます」

 

「は? 何故だ?」

 

 尚更リーシャを混乱に陥れるような事を口にするサラへ視線を送り、リーシャは疑問を口にする。しかし、サラはその問いかけを無視するようにその場に屈みこんだ。

 突如として屈み込んだサラは、土の地面に何やら描きながら『ぶつぶつ』と呟きを洩らし始める。興味を持ったメルエがサラの隣に屈みこみ、サラが描いている物を覗き込むが、理解が出来ないのか、困ったように首を傾げていた。

 

「お、おい、サラ……」

 

「もう一度、全体を見て来ます」

 

 不安になったリーシャが恐る恐る声をかけると、その声に反応したように、サラは突如として立ち上がり、そのまま歩き出してしまった。救いを求めるようにリーシャはカミュへと視線を送るが、そこで見たのもまた、何かを考えるようなカミュの姿だった。

 既にメルエはサラの後ろに付いて歩き出している。取り残されたような気分に陥ったリーシャは、サラの背中とカミュの顔を交互に見比べる事しか出来なかった。

 

「アンタの出番は必ず来る。今は大人しく待っていろ」

 

「そ、そうか……わかった」

 

 そんなリーシャの様子に気が付いたカミュは、溜息混じりに言葉を放ち、どこか納得いかないリーシャは、それに頷く事しか出来ない。だが、カミュがこう言う以上、リーシャが岩を動かす時が必ず来るのだろう。そしてその時は、サラの指示通りに動かせば良いのだ。ようやく心が決まったリーシャは、腕を組んでサラが何かを得るのを待つ事にした。

 

「この場所の見取り図は、大凡このような形です」

 

 戻って来たサラは、再び屈み込み、地面に図面を描き始めた。面白そうに屈み込んだメルエの両隣にカミュとリーシャも屈み込み、三人がサラの描く図面を注視する。皆の視線を気にしていないのか、それとも気付いていないのかは解らないが、サラはそのまま図面に小さな三つの円を描いた。

 

「これらの場所にそれぞれ岩があります。見た限り、横一列に等間隔で岩が配列されていますね」

 

「ならば、一番近い岩から石の床へ運べば良いのではないか?」

 

「アンタは黙っていろ」

 

 岩の状況を描き込んだ地面を眺めていたリーシャが、奥の空間へ入る通路の手前に置いてある岩の部分を指差し、サラへ問いかけた。しかし、その問いかけは、このパーティーのリーダーである青年が洩らした溜息と、呆れを含む言葉に遮られる。リーシャが鋭い視線をカミュへ送るが、そこで怒鳴り声を上げる程、リーシャも愚かではなかった。

 

「おそらく、この岩を最初にあの場所に持って行く事は不可能です。この岩は、この空間に向かって右か左の方角にしか動かせません。壁に接している為、この空間に向かっては動かせないからです」

 

 確かにサラの言う通り、石の床のある空間にいるカミュ達の目の前に見える岩は、石で出来た壁に接しており、こちら側に押し出す事は不可能であるように見える。つまり、リーシャが提案した物は、完膚無きまでに否定された事になった。言葉に詰まってしまったリーシャを余所に、カミュは真剣に地面の図面を見つめている。同じように見つめているメルエと違う所は、その頭の中で様々な思考を巡らせている事だろう。

 

「ならば、この岩から動かすのか?」

 

「そうですね。まずはこの岩をこっちに動かして、それから目の前の岩を左に動かします」

 

「ん?……最初に動かした岩をここまで持って来ないのか?」

 

 もはやカミュとサラの語り合いのような状況になっている事が悔しいのか、所々でリーシャが疑問を挟んで来る。その度にカミュが溜息を吐き出し、呆れたように首を横に振った。悔しそうに唇を噛むリーシャに苦笑を浮かべたサラは、リーシャに仕事を与える為に、その口を開く。

 

「では、リーシャさん。申し訳ありませんが、あの岩をあそこまで押してもらえますか?」

 

「よし! 任せろ!」

 

 カミュへ勝ち誇ったような視線を送ったリーシャは、力強い言葉を残し、石の床のある空間から向かって右手にある岩へと向かって行く。入口から見て左手にあるその岩は、先程メルエが覗き込んでいた泉のすぐ傍にあった岩であった。リーシャは、その岩を右手ではなく、石の床のある方角へと押し出す。リーシャが岩に両手をかけ、力を入れ始めると、地面を擦る音を立てながら、徐々にその位置を移動させて行った。

 

「改めて見ると、本当に凄いものですね」

 

「まさか、本当に一人で動かせるとは……」

 

「…………リーシャ………つよい…………」

 

 たった一人でメルエの背丈ほどある岩を動かすリーシャの姿に、カミュ達三人は正直驚いていた。

 『戦士』としての実力は、既に世界の頂点に達しているかもしれないが、リーシャは女性である。力自慢の巨体を持つ大男ではない。女性らしさを失わないその姿からは想像出来ない程の怪力を発揮するリーシャをメルエは輝く瞳で見つめていた。

 

「サラ、言われた場所まで動かしたぞ!」

 

「あっ、はい! では、次は……申し訳ありませんが裏側からこちらに来て頂けませんか!?」

 

 動く岩を呆然と見つめていたサラへ達成報告が響く。我に返ったサラは、自身が描いた図面に目を戻し、指示を待っているリーシャへ声を張り上げる。その指示は今動かした岩を放置して別の場所へ移動する物だった。

 サラの思考が理解出来ないリーシャは一瞬首を傾げるが、もう一度入口の方向へ戻り、反対側にある岩の場所まで移動する。

 

「移動したぞ!」

 

「では、その岩を入口の方向へ少し動かしてください! 少しで良いです。人が通れるぐらいの隙間があれば良いので!」

 

 相変わらず、全くサラの思考が理解出来ないリーシャであったが、それに対して不満を漏らす訳でもなく、嫌な顔をする訳でもない。大きく頷きを返した後、先程と同様に両手を岩に掛けて力を込める。再び大きく擦るような音を立てて岩が動き始めた。

 それを見ていたメルエは再び目を輝かせ、岩が動き、隙間から見えたリーシャへと近付いて行く。

 

「…………リーシャ………すごい…………」

 

「ん? メルエ、こっちに来ては危ないぞ」

 

 岩を動かし、息を大きく吐き出したリーシャは近付いて来たメルエに笑顔を向け、その肩に手を乗せる。『危ない』と窘められたにも拘わらず、メルエは相変わらず笑顔を作っていた。何がそれ程に嬉しいのか、何がそれ程に楽しいのかが全く解らないリーシャは少し困ったように苦笑を浮かべる。

 

「では、カミュ様。目の前にある岩を、最初にリーシャさんが動かした岩の方向へ動かしてください」

 

「……一人でか?」

 

「なんだ? 私は一人で動かしたぞ? カミュは出来ないのか?」

 

 突然自分に向けられた指示に驚いたカミュは、サラへ疑問をぶつけた。しかし、その小さな呟きは、何かに勝ち誇ったような笑みを浮かべる女性騎士によって遮られる。幼いメルエの肩に手を置き、カミュへ向けられているのは、会心の笑み。その表情を見たカミュは、大きな舌打ちをして、岩へと向かって歩き出した。

 岩に両手をつき、力を込める。しかし、その岩は、カミュが考えていたよりも重い物であった。手加減をしたつもりはないが、目一杯の力を込めてもいない。そんなカミュの行動を嘲笑うかのように、岩は全く動く様子を見せなかった。

 

「…………カミュ………だめ…………?」

 

「だらしないな。メルエに笑われているぞ!」

 

「……ちっ……」

 

 全く動かない岩を見ていたメルエの呟きは、カミュの自尊心を大いに傷つける物であり、それを遠目で確認したリーシャは、ここぞとばかりに責め立てる。再び舌打ちを発したカミュは、先程よりも力を込めて岩に相対した。

 そんな三人の様子を『くすくす』と笑みを漏らして見ていたサラは、徐々に動き始める岩を見て、リーシャとカミュの常人離れした筋力に改めて驚いていた。指示は出したものの、一人で動かす事は難しいと考えていたのも事実。しかし、この二人はそれを難なくこなしてしまったのだ。

 

「……動かしたぞ……」

 

「ふぇ!? あ、はい。それでは、リーシャさんはもう一度先程の岩に戻って、こちら側に押して来て下さい」

 

 カミュの完了報告を聞いたサラが続けて指示を出す。指示を受けたリーシャは、カミュが押した岩の隙間を抜けて先程自分が押し出した岩の裏手へと回った。先程と異なるのは、リーシャの後ろをメルエが付いて歩いている事だろう。再び岩に手を掛けたリーシャの横で、メルエも岩に手をかける。『危ない』という注意にも首を横に振って聞かないメルエの様子に溜息を吐き出し、リーシャは岩を動かし始めた。そのまま真っ直ぐ押し出された岩は、石の床が敷かれている空間の入口の前まで進める。

 

「では、この岩をそのまま床の上まで移動してしまいましょう」

 

「わかった」

 

 サラの指示を受け、リーシャは方向を変えて岩を押し出す。重い音を立てて動き始めた岩は、そのまま壁際にある岩の床まで到達した。

 石で出来た床の中央に置かれた岩を端の方へと動かし、まず一つ目の岩の移動は終了した。岩の移動を見届けたサラは、再び地面に描かれた図面に視線を落とし、考えを纏めている。

 

「では、カミュ様の動かされた岩を先程の岩と同じようにこちらへ持って来て下さい」

 

「……わかった……」

 

 サラの指示に頷いたカミュは、リーシャが石の床へと移動させた岩と同じ軌道で岩を動かし始める。一度泉の近くまで動かした岩を、方向を変えて動かす。壁に密着するまで動かした岩を今度は、石の床がある空間に向けて動かした。

 リーシャを見ていると、軽々と動かしているように見えていたが、実際には相当な重量があるのであろう。カミュの額には珠のような汗が光っていた。

 

「これで二つ終わりましたね。では、先程のように裏手から回って頂き、先程ずらした岩を元の場所に戻して貰えますか?」

 

「任せろ!」

 

 先程、人が通れる程の隙間を作る為に動かした岩を元に戻し、それをカミュが動かした岩と同様の軌道を辿って動かして行く。今度も隣にはメルエが付いており、『うんうん』と唸りながらも岩を押していた。

 メルエの力など、岩を動かす事に貢献してはいないのだが、メルエなりに力を込めているのだろう、岩が動く度に嬉しそうに微笑み、再び唸り声を上げて力を込めている。そんな微笑ましい姿に笑みを浮かべながら、サラは最後の岩の到着を見守っていた。

 

「これで最後だな」

 

「そうですね。では、その岩をこの床の上に」

 

 石で出来た床がある空間へと運ばれた最後の岩が、一番中央へと乗せられる。最後は本当に危ないからと離されたメルエは頬を膨らませてはいたが、リーシャが押す岩が床の上に乗った瞬間に響き渡った轟音に驚き、カミュのマントの中へと逃げ込んでしまった。

 それは何かが崩れ落ちるような轟音。まるで岩で出来た壁が上から落ちて来たような振動が響き、地面が大きく揺れ動く。立っていられない程の衝撃に、リーシャはサラを護るように抱え込み、カミュもまたマントの中にいるメルエに覆い被さるように姿勢を低く取った。

 轟音と震動はしばらく続いたが、ゆっくりと収まりを見せ、周囲に再び静けさが戻って来る。土煙と砂埃が舞う中、咳き込みながらも四人は立ち上がった。音と揺れは収まったが、視界は未だに戻らない。それぞれが離れてしまわないように相手の身体を掴み、視界が戻るのを待つしかなかった。

 

「な、なんだ今のは……」

 

 土煙が収まり、前方が微かに見える頃になって、ようやくリーシャは口を開いた。だが、リーシャの問いかけに答えられる者は誰もいない。三つの岩を石で出来た床へ移動するという行為自体、状況から予想した方法なのである。もし、万が一それが罠だったとすれば、彼等四人の命はないかもしれないのだ。

 ただ、カミュもリーシャもその危険性を理解してはいた。それでも敢えて、サラが考えた方法に乗ったのだ。

 

「けほ、けほっ……皆さん、大丈夫ですか?」

 

「……どうやら、間違いではなかったようだな……」

 

 周囲の砂埃で咳き込んでいるサラを追い抜き、前方へと歩いて行ったカミュが、サラの方法が正しかった事を確認していた。前へと進み出たリーシャもまた、その光景を目にして仲間の知恵を心の中で称賛する。

 もし、彼女がこのパーティーにいなければ、この光景を見る事は出来なかったかもしれない。いや、絶対に出来なかったとリーシャは確信している。カミュであっても、岩を石の床へ移動させるという所までは気付いただろう。だが、その岩の動かす順番や動かす方向までもを考え出せたかと言えば、リーシャの答えは『否』であった。

 前方に広がっているのは、先程まで岩を乗せた床の向こうに開いている、奥へと続く通路であった。その通路の入口は岩の壁で先程まで完全に塞がっており、周囲の岩壁と同様に見えていたそれは、隠し通路の入り口などとは夢にも思わない程に完璧に偽装されていたのだ。

 砂埃も消え、澄んだ空気が戻って来た空間の中で異様な雰囲気を持つ隠し通路は、カミュ達を誘うように暗い闇で覆われていた。

 

「……いくぞ……」

 

 壁に掛けておいた<たいまつ>を手に取り、カミュは先を歩いて行った。そのマントの裾を握りしめたメルエが続き、未だに咳き込むサラの背を摩りながら、リーシャが続く。

 静けさを取り戻したそこは、長年誰も通る事がなかったのだろう。粛々とした空気が流れ、<たいまつ>の灯りにも負けない程の闇を誇っている。真っ直ぐ長い通路は、果てしなく続くように伸び、<たいまつ>の燃える音と、カミュ達の足音だけが響いていた。

 

「…………はこ…………」

 

「少し待っていろ」

 

 ようやく開けた場所に出た事で、カミュは<たいまつ>を高々と掲げ、周囲を照らし出す。それ程広くはないその場所は、祭壇のような物が置かれており、その上にはある程度の大きさの箱が置かれていた。

 宝箱と言っても過言ではない見栄えの箱を見たメルエは、何かを望むようにカミュを見上げる。以前、ピラミッドの探索中に、散々言い聞かせられていた為、宝箱に向かって駆け出す事はなかったが、『箱を開けたい』という欲求は健在であるようだ。

 

「良いぞ」

 

「…………ん…………」

 

 宝箱へ近付いたカミュは、足で数回小突き、手で触った後、メルエに許可を出す。許可が下りたメルエは、嬉しそうに頷きを返し、宝箱へと走り寄った。

 メルエの後を追うようにリーシャとサラが続き、メルエが宝箱を開けた時に何が起きても対処出来るように、メルエの周りを三人で固める。一度振り返ったメルエに向けて、三人が同時に頷いたのを見届けたメルエが宝箱に手を掛けた。

 

「…………???………なに…………?」

 

「壺だな」

 

「壺ですね」

 

 開けた箱の中身を見たメルエは、期待していた物と違ったのか、何処か不服そうに首を傾げて振り返る。後ろから覗き込んでいたリーシャが中身を確認して、その名称を呟くと、同じように覗き込んでいたサラが同意の言葉を発した。

 中に入っていた物は、姿形は何処か異様な雰囲気を持って入るが、『壺』である事は確かであるようだ。国王や大臣の話通りであるのならば、この奇妙な姿形をしている物が『渇きの壺』と呼ばれる物なのであろう。

 

「カミュ、その中に<最後のカギ>が入っているのではないか?」

 

「……いや、何も入っていないようだ……」

 

 ランシールの村で出会った<スライム>の話では、『最後のカギを手に入れるには<壺>が必要』という事であった筈。<スライム>本人にも、その謎掛けの答えは解らず、唯一の手掛かりとなる物が、この『渇きの壺』だったのだ。

 しかし、その壺の中にはカミュ達が求めている道具はなかった。

 

「では、この壺も<最後のカギ>を手に入れる為に使用する道具と考えるべきなのでしょうね」

 

 壺の中に求めている物がないとなれば、サラの言う通り、この壺もまた、<最後のカギ>を手に入れる為の道具という事になる。しかし、その使い所も、使う方法も解らない。カミュ達が現在持っている情報の最後がこの壺であったのだ。

 <スライム>が話した、<消え去り草>、エジンベア、壺という三つの手がかり。それが、この場所で潰えた事を示していた。

 

「そうか……また振り出しという事だな」

 

「そ、それでも『渇きの壺』は手に入れました。後は、この壺を何処で、どのように使うかという情報だけですよ」

 

 落胆を見せるリーシャの顔は、サラの言葉で強制的に上げられる。それは、ここまでの旅で初めての出来事だったのかもしれない。常に落ち込み、悩み、迷い、苦しんでいたサラの顔を上げさせ、再び前へと進ませていたのは、紛れもなくリーシャであった。

 だが今は、落ち込むリーシャを励ますように、サラが前向きな発言をしている。その事実に、リーシャは一瞬驚きの表情を見せるが、即座に笑みへと変化させた。

 

「そうだな。このパーティーには、何と言っても『賢者』様がいるからな」

 

「ふぇ!? リ、リーシャさんも考えて下さいよ!」

 

 場違いな程のおどけたやり取り。慌てるサラに苦笑を溢すリーシャと共に、メルエも柔らかな笑みを浮かべている。彼等の旅は、一歩一歩前へと進んでいる事だけは確か。それは、本当に些細な一歩かもしれない。そして、次に踏み出す足を何処に着けば良いのかはまだ解らない。それでも、着実に前へと進んではいるのだ。

 

「……戻るぞ……」

 

 『渇きの壺』を持っていた革袋の中に押し込んだカミュは、二人のやり取りを一瞥し、そのまま入口へと戻る為に歩き出した。

 目的の壺さえ手に入れば、この場所に用はない。そして、このエジンベアという国にも用はないのだ。振り返りもせずに歩いて行くカミュを追って、メルエが走り出す。苦笑した顔を見合せながら、リーシャとサラも出口へと向かって歩き出した。

 

 

 

 

 階段を登り切り、再びエジンベア城内へとカミュ達が戻る頃には、エジンベア城内は闇に閉ざされていた。中で岩を動かす為に相当の時間を使ってしまったのであろう。既に陽は落ち、城内には微かな明かりだけが灯されていた。陽が落ちてから結構な時間が経過しているのであろう。城内を出歩いている人間は誰もおらず、静けさだけが広がっていた。

 

「結構な時間を使ってしまったのですね」

 

「そうだな。まさか夜になってしまっているとは……」

 

 周辺を確認しているサラとリーシャの横をカミュがすり抜けて行く。予想以上に時間がかかってしまった事に驚いていた二人は、カミュが何処へ向かって歩いているのかを瞬時に理解する事が出来なかった。

 『とてとて』と続くメルエの後姿を見ながら、その方角にある場所に思い至り、慌ててカミュを追って走り出す。

 

「カミュ様、謁見の間に向かわれるおつもりですか?」

 

「『渇きの壺』は手に入れた。その報告ぐらいはしておいた方が良い筈だ」

 

「しかし、既に陽は落ちている。そのような時刻に謁見の間に行く事は失礼ではないか?」

 

 カミュの言う事も尤もである。だが、サラの疑問やリーシャの疑問もまた、尤もな事あった。既に陽が落ちて、城内は夜の闇が広がっている。そのような時刻に謁見の間に通して貰える訳はないだろうし、国王がいる筈もない。故に、行ったとしても近衛兵に行く手を阻まれるのが目に見えており、行くだけ無駄であると考えるのが普通であろう。

 

「近衛兵などに壺を手に入れた事実だけでも伝えられればそれで良い」

 

 リーシャやサラにしても、このエジンベアという国に長居するつもりは毛頭ない。故に、このまま城を出てしまえば、エジンベアの町も出て、外で野営をする事になるだろう。だが、壺を手に入れる許可を与えられたという事は、その仕掛けを解き、手にした事を報告しなければならない義務も生じて来る。だからこそ、カミュはその事実を告げに、謁見の間へと向かっているのだ。

 それを告げる相手は誰でも良い。それが国王や大臣でなくとも、兵士であろうと、近衛兵であっても良いのだ。

 

「…………ねてる…………」

 

 しかし、カミュの目論見は、謁見の間へと続く階段の下で眠りこけている兵士を指差すメルエの一言で崩れ去った。

 まさか、衛兵が夜半の見張り中に眠りこけているとは考えていなかったのだろう。カミュは大きな溜息を吐き、リーシャは呆れたように、その兵士を見下ろしている。『どうするべきか』とカミュへ視線を送るサラを無視して、カミュは階段を上って行った。

 階段を上り切った場所にある謁見の間も、既に灯りは落とされ、差し込む月明かりだけがその厳粛な場所を照らし出している。その時、謁見の間を一通り眺めていたカミュの動きが突然止まった。

 ゆっくりと背中に回されたカミュの手を見て、後ろの三人もそれぞれの武器に手をかける。まさか、城内で魔物と遭遇するとは考えていなかったリーシャやサラは、困惑に近い表情を浮かべながら、周囲を警戒した。

 カミュの視線は、一点を見つめたまま動かない。その視線の先へと目を向けると、そこにあるのは玉座。通常はその国の王しか座る事の出来ない高貴な椅子。その場所で影が揺らめいていたのだ。

 国王が、この時間まで玉座で職務をこなしているとは考えられない。ましてや、ここはエジンベア国。昼間に謁見した国王からは、そのような事は皆目見当もつかなかった。

 

「……行ってみる」

 

 小声で呟かれたカミュの言葉が闇に溶けて行くのと同時に、ゆっくりとカミュは玉座の方角へと進んで行く。気付かれないように、気配を悟られないように近付くカミュの少し後ろをリーシャ達が続いて行った。

 月明かりは、優しく謁見の間を照らし、玉座付近に出来た闇を際立たせている。近付くにつれて明確になる影。それは玉座にしっかりと腰かけた人影であり、魔物ではない影の形にリーシャとサラの気が若干緩んだ。

 

「……大臣様ですか?」

 

「!!」

 

 玉座の後ろに回り込んだカミュは、その人影をはっきりと認識し、そして背中にまわしていた手を元に戻す。不意に掛けられた声に心底驚いたのか、玉座に腰掛けていた影は、言葉通り飛び跳ね、玉座から転げ落ちてしまった。

 玉座から転げ落ち、驚きの余り声も出ないその影は、リーシャやサラもあった事のある人物であった。昼間にこの謁見の間にいた人物であり、この玉座の傍らに立っていた人物。

 このエジンベア国の大臣その人である。

 

「このような時刻に何を……」

 

「ひゃ! や、や……な、なにもしておらぬ」

 

 カミュの問いかけを聞き、ようやく声をかけて来た人間が、昼間に謁見を申し込んで来た田舎者だと気が付いた大臣は、体裁を取り繕うように、立ち上がって衣服を整えた。

 だが、そんな大臣の言葉を素直に聞き入れる程、カミュ達は愚かではなかった。このような時刻に謁見の間に入って来ているカミュ達ではあるが、このような時刻に一人残っている大臣もまた、異質であるのだ。

 

「くっ……まずい所を見られてしまったな……」

 

 このような時刻に一人残っている事も異常ではあるのだが、それ以上の問題点があった。サラやメルエは気が付いていないようだが、宮廷騎士であったリーシャの大臣を見据える瞳は厳しく冷たい。その細く鋭い瞳が視界に入った大臣は、後悔するように顔を歪め、顔を俯かせてしまった。

 本来、玉座とは王が座る物であり、そこは何人たりとも犯してはならない聖域と言っても過言ではない場所なのだ。一国の王とは、『精霊ルビス』からその土地で暮らす『人』の守護を託された高貴な人物と伝えられている。そのような高貴な人物が政務を行う為に着座する場所が玉座である。その場所に許可なく座るという事は、現国王に成り変わって国権を握ると宣言している事と同義なのだ。

 

「この事は、見なかった事にして欲しい。その代り、お前達の問いかけに一つだけ答えてやる」

 

 カミュは、身嗜みを整えた大臣の言い草に心底呆れ、溜息を一つ吐いた。この期に及んでもまだ、カミュ達を『田舎者』として見下しているのだ。

 常識的考えて、この状況では大臣側が条件を出せる立場にない事は、幼子でも理解できる。それでも優位に立とうとするこの大臣にリーシャやサラも呆れを通り越し、憐れにすら感じてしまった。

 

「では一つ。このエジンベア国の植民地となっている<スーの村>の場所を教えて頂けませんか?」

 

「なに?」

 

 大臣としては、カミュの言葉は意外だったのであろう。今までの出来事を無視するようなその問いかけは、大臣の理解の範疇を大きく超えていた。故に、間抜けな声を出し、カミュへと呆けた顔を向けてしまったのだ。

 それでも直ぐに気持を立て直し、咳払いをした後の表情は一国の大臣と呼ぶに相応しい物であった。

 

「<スー>とは、遥か昔、我がエジンベアが船を出して発見した大陸にある村だ。このエジンベアより南西に船を進めれば、数週間ほどで辿り着ける。原住民であるインディアンが暮らしており、訛りが酷く聞き取りにくいが、それ以外は普通の村だ」

 

「このエジンベア国は、西の果てにある国ではないのですか?」

 

 世界地図を広げると、エジンベアは北西の端にある島国である。一番西に表記されており、そこより西は海しかないと記されてあった。故に、サラは思わず問い返してしまったのだ。

 実際は、トルドが町を作っている場所も、ポルトガから西へ行った場所であり、ポルトガ自体が世界地図の西の端に描かれている事から、海の向こうに大陸がある事は立証済みではある。世界地図は一つではない。それは、どこを中心に描かれているかが焦点となる。ポルトガを中心として描かれた世界地図であれば、エジンベアは北西の端にある国ではないのだ。

 

「だから、我らエジンベアが発見した大陸だと言うておる。南西に進めば、何れその大陸が見えて来る。その中央部分にある村だ」

 

 サラの問いかけを不愉快そうに払いのけた大臣は、そそくさと片付けを始めていた。彼の中では、既に一つの質問に答えた事になっているのだろう。カミュ的には、聞きたい事は聞けたのだが、サラはどこか釈然としない面持ちで考え込んでいた。

 トルドがいるあの場所に流れ着いた時、船員達は何も言わなかった。故に、ポルトガの西にある小さな島か何かだと、サラは考えていたのだ。大陸だという考えに結びつかなかったのは、サラが常に船酔いに悩まされ続け、周囲を見る余裕がなかった事も原因の一つではあったのだが。

 

「もう遅い。外の宿屋に宿を取ってやる。そこで休んで、明朝には出国しろ。その分だと、『渇きの壺』は手に入ったのだろう? 国王様にはご報告申し上げておく」

 

「……ありがとうございます……」

 

 軽く頭を下げるカミュに鼻を鳴らして、大臣は夜の闇へと溶けて行った。カミュにとって、彼がこの国で何を成そうとしているのかに興味はない。この国がどうなろうと、何も感じはしない。万が一、この国の王族が絶え、新たな王族が誕生しようとも、カミュにとって大きな問題ではないのだ。

 それはリーシャも同じなのだろう。国家に仕える人間として、先程の大臣の行動が許せない物であったとしても、ここはあくまでも他国。リーシャが口を挟める問題でもなく、挟んで良い物でもない。故に、リーシャは大臣が消えて行った闇を暫くの間睨んでいる事しか出来なかった。

 

「…………メルエ………ねむい…………」

 

「ん? そうだな。カミュ、宿へ向かおう」

 

 今までの会話に対し、別の意味で全く興味を示していなかった少女は、目を擦りながら、自身の身体の限界を訴え出た。緊迫した空気は一気に緩和され、月明かりのように優しい空気が流れ始める。サラも思考を中断し、柔らかな笑みを浮かべてメルエの手を取った。

 

 次の目的地は<スー>。

 あの場所に町を作りたいと考えた老人が口にした村。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

第九章はもう一話あります。
そちらの方は、手書きで描き終わっていますので、早めに更新できると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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エジンベア大陸②

 

 

 

 エジンベアの町にある宿屋で一泊をしたカミュ達は、改めてエジンベアという町を見る。実際に、他国の者を見下している国で営業する宿屋は閑散とした物であろうと考えていたカミュ達は、客質の高さに驚きを隠せなかった。利用者のほとんどは貿易を行っているであろう商人達であったのだ。

 魔物が横行する中で、貿易船などはほとんど出ていない筈。だが、蛇の道は蛇なのだろう。何かしらの方法を取って、危険を冒してまでも利益という甘い誘惑を手にしようとしているのだ。

 世界の中でも技術や政策が進んでいるエジンベアには大きな資金が眠っている。それは未来永劫に続く物ではないだろうが、『魔王バラモス』の台頭によって疲弊し切った今の世界では、これ以上ない程の魅力を持つ物なのだろう。

 商人達の国籍は様々。色々な国の商人達が協合し、貿易を行っていた。だが、それは非公認。何故なら、商人達が危険を冒してまで求めているのは大きな利益なのであるからだ。国の認可があれば、利益の何割かを国へ納めなければならない。この時代では国の認可があろうとも、国から支援を受けられる訳ではなかった。船を用意してくれる訳でもなく、警護団を雇ってくれる訳でもない。全ては商人達の自己責任であり、国は許認可状を与える事によって、利益だけを手に入れるのだ。

 それが通常の世の中であれば良い。船にとっての敵は、荒れる海と天候のみであり、海賊程度であれば、国の軍でも討伐は可能である。しかし、今は魔物が横行する世であり、それによって『人』の心も荒んで来ている。故に、商人達は闇貿易を行うのだ。

 

「意外と活気があるのだな」

 

「しかし、武器や防具のお店は見当たりませんね」

 

 町を一通り眺めたリーシャは、その活気に若干の驚きを示す。初見の貿易者は、『田舎者』として入国の許可は下りないが、それでも懲りずに何度も貿易の為に来訪する者は、『田舎者』としての立場は変わらないまでも、商いをする権利を与えられるのかもしれない。

 そして、このエジンベア国の異色な点はもう一つあった。それが、サラの言葉にあった、武器と防具の店がない事である。魔物が横行するこの時代に、自衛に必要な武器や防具の店がない事は異常と言っても過言ではないのだ。

 このエジンベアでは民が外へ出る事はない。そして、旅人が来訪する事も少ない。訪れる者は貿易をする商人であり、その者達も武器や防具ではなく、宝飾品や衣服と言った趣向品を売る為に来訪していた。他国で売れる武具が売れず、他国で全く必要とされない物が高値で売れるのだ。そこに、危険を冒してまでも、彼等がこの国へ貿易で訪れる理由と意味があるのだろう。

 

「活気があり、これだけの食材もあるのに、宿の食事は雑だったな……」

 

「また食事か……」

 

「…………おいしく………なかった…………」

 

 エジンベアには様々な食材が売り出されており、そこにはリーシャでも見た事のない物も存在していた。料理を得意とするリーシャは、その珍しい食材をみて、色々な想像を膨らませていたのだが、その期待は、宿屋の食堂で出て来た食事を見て、落胆へと変わる事となる。それはメルエも同様であったようで、出て来た料理を口に入れた瞬間、眉を顰め、それ以降は手を付ける速度が明らかに落ちて行った。ただ、以前にカミュから言われた事を憶えているのか、料理を残す事はなかったのだが。

 

「少し食材も買って行こう。この国での食材補充は、私達しか出来ないだろうからな」

 

「そうですね。大量には買えないでしょうけれど、そうしましょう」

 

 リーシャの言葉に頷いたサラは、メルエの手を引いて立ち並ぶ店へと歩き始めた。溜息を吐き出しながらも、カミュはその後を続き、そんなカミュの姿に微笑みを浮かべたリーシャは、店に並ぶ食材の品定めを始める。

 目を輝かせて色々な食材を指差すメルエへ、その食材の使い方を答えるリーシャ。所々で初見の物は店の人間へ問いかけるサラ。買い物は和やかな雰囲気で進む。朝市とも言える店は、屋根の付いた店構えではなく、茣蓙のような物の上に商品を並べているだけの簡易的な店。だからであろうか、売り手には、兵士や官僚のような高圧的な態度はない。

 

「なんだ、田舎の人か? なら、これなんて珍しいのじゃないか?」

 

 だが、認識はやはり『田舎者』である事に変わりはなかった。嘲笑のような物はないが、気分が良い物でもない。顔を顰めて商品へと視線を移したリーシャは、その食材を見ると、思考を始めた。おそらく、調理の方法を考えているのであろう。彼女の頭の中には、笑顔で料理を口に運ぶメルエの顔が浮かんでいるのかもしれない。

 

「アンタ方の船は港かい? 港行きの馬車がそろそろ出るから、良ければそれに乗せて貰う事も出来るぞ」

 

「……魔物はどうするつもりだ?」

 

 品定めをしているリーシャに向けて放った売り手の言葉に、カミュは引っ掛かりを覚える。馬車であれば、魔物との遭遇確率は低くなるだろうが、それは決して皆無ではない。カミュ達が対応出来る魔物であっても、一般の兵士が対応出来るかと言えば、それは不可能である。

 カミュ達は現在、『人』が誇る最高戦力であり、その人間達と比べられる事自体が無謀に近い物なのだ。

 

「この国に来る田舎の商人達が物を運ぶ馬車に、一緒に載せて貰うんだ。運賃はそこそこ掛るが、傭兵みたいな者達を雇っているみたいだからな。まぁ、魔物に襲われたら、諦めるしかないだろう」

 

 売り手が笑いながら話す言葉は、容易に受け入れる事が出来る物ではない。もし、馬車が魔物に襲われでもしたら、購入した物も、支払った運賃も、全てが無駄になってしまう。それは、賭けにも近い物。それならば、カミュ達が運んだ方が遙かに良いだろう。だが、それには、必要な物が多々ある。

 

「荷台や馬車を借りられるような場所はあるのか?」

 

「いや、田舎者に貸すような酔狂な人間はいないだろうな」

 

 ある程度の量を買うつもりのカミュ達にとって、絶望的な回答が返って来た。今回は船員を伴っていない為、運び手はいない。運び手がいない以上、カミュ達が運ぶしかないのだが、その為に必要な道具も無い。となれば、荷を諦めるか、荷を失う危険を冒してまでも馬車で運んでもらうかの二択しかないのだ。

 

「船の人間達には世話になっている。食料は出来るだけ多く持って行ってやりたいな。カミュ、多少の危険と出費には目を瞑ろう」

 

 考える素振りを見せるカミュへ発したリーシャの言葉で、一行の方向性は決まった。リーシャが品物を次々と選んで行き、カミュがゴールドを支払う。流石はエジンベアと言えるのか、値引いてくれる事はなかったが、購入した物はそのまま荷台へと積まれて行った。

 

「これは、教えてもらった人間へ届くように手配しておく」

 

 買い物を終えたカミュは、港にいるであろう頭目の名を告げ、荷を任せる事にした。運ばれて行く荷へ少し目を向けた後、カミュ達は市場を出て行く。陽が昇り、朝市も店仕舞いの様子を見せる町の中を、カミュ達四人は門へと向かって歩いて行った。

 

「カミュ様、このまま門へ向かえば、あの門兵に見つかってしまいますよ」

 

 門が近付き、視界に入る程になった頃、サラが徐に口を開く。城門の際は、夜間であった事もあり、城から出て来る者に関して、それ程強い警戒をしてはいなかった。元々、入る際にカミュ達の顔を見ていない事もあり、『交代前の人間が通したのだろう』と考えたのかもしれない。

 だが、この先の門にいるであろう門兵は違う。カミュ達を一度完全に拒絶していた。運良く門兵が交代していれば良いが、そうでなければ問題になる事は明白。エジンベアは、カミュ達が持参したポルトガ国王の書に目を通してはいない。故に、『勇者一行』ではなく、不法入国の犯罪者と看做される可能性まで出て来るのだ。

 

「カミュ、あの粉はまだ残っているのか?」

 

「残ってはいるが、量は少ない。一人分が限度だな」

 

 リーシャの言葉に、カミュは腰に下げた袋を手に取った。その中に入っているのは、<消え去り草>を乾燥させた粉末。入る時と同じように身体を透明にして門を抜けようと考えていたリーシャの目論見は、瞬時に崩れ去る。一人分しかないとなれば、抜けられたとしても一人だけという事になり、全員が抜けられない以上、エジンベアの門で立ち往生になってしまうのだ。

 

「どうしましょうか……」

 

「カミュ、私に粉を掛けてくれ」

 

 縋るような瞳を向けるサラの横から、リーシャの力強い声が響いた。あれ程、自分の身体が消えてしまう事を恐れていたリーシャからの言葉に、サラは驚きの表情を浮かべる。カミュも同様で、何かを行う為の解決策に於いて、有効策を出した事のない女性が自信に満ちた瞳を自分へ向けている事に、純粋に驚いていた。

 

「何か策があるのか?」

 

「ああ。私に任せろ!」

 

 リーシャは、カミュの問いかけにも力強く頷きを返す。何時にない自信を見せるリーシャに、カミュは『どんな策だ?』と聞く事を諦めた。

 サラやメルエの場合は、カミュは詳しく方法を問わない。それだけ相手を信じているという事になるのだが、カミュ自体がそれを認識しているかどうかは疑問ではある。

 

「……わかった……」

 

 リーシャに向かって頷いたカミュは、腰に下がっている袋から粉を取り出し、リーシャへ振りかけ始めた。例の如く、カミュの右手首から先も消えてしまってはいるが、払えば落ちると解っている以上、サラやリーシャに慌てる様子はない。

 頭から粉が掛ったリーシャの姿が、三人の前から徐々に消えて行き、袋の中の粉が無くなる事には、リーシャの色は完全に消え失せた。

 

「…………メルエも…………」

 

「……もう、粉がない……」

 

 先程の会話を聞いていなかったかのようにせがむメルエを見たカミュは、軽い溜息を吐き、<消え去り草>の粉が入っていた袋を逆さにして、軽く振ってみせる。頬を膨らませたメルエは、リーシャが居た方向へ視線を向け、『ずるい』という言葉を発するのだ。

 

「メ、メルエ、少し待っていてくれ。すぐに戻るから」

 

「…………むぅ…………」

 

 何もない場所から聞こえて来るリーシャの声に、メルエは更にむくれてしまう。それっきりリーシャの声が聞こえなくなった所を見ると、彼女はメルエの不機嫌さから逃げ出したのであろう。

 自分達の目の前からリーシャが消えた事を悟ったカミュとサラは、門に付けられている通用口へと視線を移す。予想通り、静かに開く通用口の扉を確認し、三人は素早く通用口へと移動した。

 

「えっ!?」

 

「なっ!?」

 

 しかし、カミュとサラが通用口の隙間から見た物は、言葉を失わせるのに充分な威力を誇っていた。あのカミュでさえ、驚きの余り声を上げてしまった程である。カミュとサラの身体の間に割り込むように顔を出したメルエは、訳が解らないように首を小さく傾けた。

 メルエが見た物は、前のめりに倒れている門兵の姿。それも、うつ伏せに寝るような姿ではなく、膝と顔を地面に付け、臀部だけを突き上げているような奇妙な姿。その姿を見たメルエは何が起きたのかを想像する事しか出来ない。そして、メルエは一つの結論に到達した。

 

「…………リーシャ………ぶった…………?」

 

 メルエの出した結論は、カミュとサラが目にした光景をそのまま示した物。リーシャの姿が見えない以上、正確に何が起きたのかを結論付ける事は出来ない。だが、カミュとサラが通用口から顔を出したと同時に、門兵の顔が真横に大きく振られ、まるで糸の切れた人形のように崩れ落ちた事を見る限り、メルエの考え通り、リーシャの拳が門兵の顎を捉えたと考えるのが普通だろう。

 

「……策とは、あれの事なのか?」

 

「そ、そのようですね……」

 

 呆れたように言葉を発するカミュへ、サラも溜息混じりに言葉を洩らす。門兵を殴り倒してしまうなど、国家問題に発展しかねない物だが、門兵自体が誰に殴られたのかも解らず、他の人間も見ていない以上、彼自身が昨日追い返したと考えているカミュ達に火の粉が飛んで来る事は、まずないだろう。

 

「……今後は、アンタに何かを託す事はない……」

 

「な、なぜだ!?」

 

 身体を叩き、色彩を取り戻したリーシャに向かって告げられたカミュの言葉は、当の本人にとっては、甚だ不服な物だったようだ。

 別段、リーシャとしても、考えなしで行動したつもりはない。姿を消し、相手を一撃で沈める事が出来るのは自分だと自負していた。カミュであってもその力はあるかもしれないが、魔物ばかりを相手にして来たカミュが人体の急所を的確に突けるとは思えない。人間を相手に訓練を重ねて来たリーシャだからこそ、門兵の顎を正確に貫き、一撃で昏倒させる事が出来たのだ。

 

「と、とりあえず、早めに出てしまいましょう。人が来てからでは、大変な事になってしまいます」

 

「そ、そうだな」

 

 慌てて出て来たサラの言葉に、リーシャも状況を正確に把握し、頷きを返す。もし、この場で他の人間が来たとしたら、カミュ達は問答無用で犯罪者の烙印を押されてしまうだろう。それでは、結局同じ事になってしまう。カミュは溜息を吐きながらエジンベアへの入口から離れ、平原へと足を踏み入れた。

 

 

 

 エジンベアという特殊な国を出たカミュ達は、エジンベアの公式港を目指して歩き出す。公式の港に着港出来ずに、近場の入り江へ停泊している船であるが、カミュ達がその入り江の場所を知らない以上、頭目若しくは、船員の誰かがカミュ達の戻りを港で待っている可能性は高い。

 

「…………ん…………」

 

 陽が昇り始めたエジンベア大陸は、雲の少ない晴天。心地よい風が頬を凪ぎ、温かな太陽の光は、カミュ達四人に降り注いでいる。

 そんな気持ちの良い天候に目を細め、軽く伸びをしたメルエは、にこやかな笑みを浮かべてリーシャに手を伸ばす。門兵を殴り倒した事に対して、若干の怯えを見せていたメルエの手を、リーシャは喜びに満ちた笑みを浮かべて握り返した。

 

「良い天気ですね。風も強くありませんし、空気も澄んでいます」

 

「そうだな。ほら、メルエ。海の向こうの山々まで見えるぞ」

 

 サラの言う通り、周囲の空気が澄んでいるのか、エジンベア大陸の西に見える小さな大陸の山々が微かに見えている。正確に言えば、リーシャの目に映っている半島もエジンベア領であるのだが、その景色にメルエは目を輝かせていた。

 

「……陽が落ちる前に港に着きたい」

 

「そうですね。メルエ、行きましょう」

 

 三人が立ち止まって半島の山々に見入っている横を、呟きを洩らしたカミュがすり抜けて行く。カミュの言葉に頷いたサラは、メルエの手を握り、カミュの後ろに続いて歩き出した。

 離れてしまったメルエの手の温もりを名残惜しむリーシャであったが、ここで置いて行かれる訳にはいかない。まるで、メルエという彼等三人の心の支えを取り合うような行為を繰り返しているように感じたリーシャは苦笑を浮かべて、サラの背中を追った。

 

 

 

 歩き続けるカミュ達の鼻に潮の香りが漂い始めたのは、エジンベアの城を出て、丸一日近く歩いた頃だった。

 陽が落ちた頃に野営をした為、正確に言えば相違があるのだが、再び陽が昇った頃である事が事実である以上、丸一日という解釈は当然であろう。天候は昨日と同様の雲が少ない晴天。空気は澄んでおり、風も穏やかな物であった。

 

「メルエ、海が近いぞ」

 

「…………ん…………」

 

 既に、メルエにとって芳しい匂いに変化している潮の香りは、メルエの表情をも笑みへと変化させて行く。駆け出して行きそうな程に『そわそわ』し始めたメルエにサラは苦笑を洩らし、リーシャは柔らかな笑みを浮かべる。先頭を歩くカミュだけは、後方での会話を聞いていない為、警戒感を持ちながら周囲を見渡していた。

 天候が良いからなのか、ここまでの道中で魔物と遭遇する機会は多い。何度か戦闘を繰り返して来たために、時間が予想以上にかかってしまったのだ。

 カミュ達が苦労する程の魔物と遭遇する事はなかったが、それでも一太刀で倒す事が出来る程の物でもない。メルエの魔法の出番も多くあり、何度もサラへ確認を繰り返すメルエに、リーシャも苦笑を浮かべる出番も多かった。

 

「……ちっ……」

 

 潮風が強くなり、青く輝く海が視界に入って来た時にカミュの大きな舌打ちがリーシャ達の耳に聞こえて来る。背中の剣に手を掛けたカミュの姿が魔物の襲来を示し、リーシャ達もそれぞれの武器を手に取った。

 戦闘の開始の合図である。一気に走る緊張がリーシャ達三人を包み込む。

 

「カミュ、上だ!」

 

 周囲への警戒を強めているカミュへ向かって、上空を見上げたリーシャの声が届く。全員がリーシャの視線を追うように空へ目を向けると、晴れ渡った空に見えて来る巨大な鳥が視界に入って来た。海の方角から飛んで来るその鳥は、明らかに目標をカミュ達へと定めており、以前に遭遇した事のある魔物に酷似している姿をしている。

 

<ヘルコンドル>

トルドが残り、町を作り始めたあの場所で遭遇した<ガルーダ>の上位種とされている魔物。死肉を貪る際に魔物へと変化したコンドルの亜種とも伝えられている。海岸の険しい崖や洞窟に棲みつく魔物であり、海辺で漁をする人間や、陸地へ近付く船を襲う。攻撃方法などは、他の鳥類と変わりはないが、その鋭い嘴と足爪は、人の肉を容易く貫き、命を奪う程の威力を誇っていた。

 

「降下して来たところを狙う」

 

「わかった」

 

 上空を見上げて剣を構えたカミュの言葉に、リーシャは大きく頷いた。空を飛ぶ魔物と対峙する際、カミュ達の攻撃方法は限られている。最も効果的なのは、メルエの放つ魔法であるのだが、今はそれを頼みにする事をカミュもリーシャも躊躇っていた。故に、杖を掲げるメルエを下がらせ、上空から近付いて来る<ヘルコンドル>を身動きせずに待つ事となる。

 

「クェェ―――」

 

 徐々に近づいて来る<ヘルコンドル>は三体。一番最初にカミュ達の許へ到達した一体は、カミュの予想通りに急降下を開始する。狙いは先頭にいるカミュ。一気に距離を詰めて来た<ヘルコンドル>を見据え、カミュは<草薙剣>を振り抜いた。

 それは本当に一瞬。鋭い嘴がかすめて行ったカミュの腕から血が噴き出す。それと同時に、<ヘルコンドル>の身体が真っ二つに斬り裂かれた。

 

「クェェ―――」

 

 襲いかかった一体が一瞬の内に斬り殺されたのを見た残りの二体は、上空に滞空し、カミュ達の様子を窺うように旋回を繰り返している。

 降下して来なければ、手を出す事の出来ないカミュ達は睨み合う事しか出来ない。暫しの間、旋回していた<ヘルコンドル>であったが、カミュ達が手を出して来ない事を理解し、ある程度に高度を下げて来た。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ヒャダルコ…………」

 

 しかし、それこそがこのパーティーの頭脳が待っていた瞬間。魔物との距離が遠い程、魔法の効力も薄れて行く。高度を下げた二体の<ヘルコンドル>との距離は、サラの魔法では微妙な距離であっても、メルエの魔法であれば充分に威力を発揮できる程度の物であったのだ。

 吹き荒れる冷気。

 凍りついて行く大気。

 それは、少し前へと出ていた<ヘルコンドル>の一体を簡単に飲み込んで行く。一瞬の内に凍りついた一体の翼はその性能を発揮する事が出来ず、時間を置かずに全身が凍りついて行き、そのまま落下を始めた。加速と共に地面へと叩き付けられた氷像は、粉々に砕け散り、周囲へ飛散する。

 

「まだだ!」

 

 二体は殲滅した。しかし、残る一体は、辛うじて難を逃れている。翼の一部が凍りついている為、高度を維持する事は出来ず、手が届く場所を飛んではいるが、しっかりと生きてはいたのだ。

 ここで、サラが推し進めて来た、メルエの魔法力制御の弊害が出たのだ。メルエはサラの話の全てを理解している訳ではない。『調節』という言葉を正確に理解し、実践している訳でもないのだ。

 未熟で不完全なメルエは、毎回同じ様に魔法を制御する事は出来ない。今回は完全な威力不足であった。

 

「任せろ!」

 

 斧を構え、駆け出したリーシャは、真っ直ぐ<ヘルコンドル>へと向かって行く。その行動は当然の行為であり、誰一人としてそれを止める者はなく、駆け抜けて行くリーシャの背中を見つめていた。しかし、カミュはそれを後悔する事となる。

 

「クケケェ――――」

 

 <ヘルコンドル>に肉薄し、手にした斧を振り被ったリーシャの耳に、特殊な鳴き声が響いた。それは、カミュ達が何度も見て来た魔物の特別な行動。魔法の行使に他ならない。

 その事は、四人全員が気付くのだが、それは余りにも遅すぎた。既に、何かしらの魔法の詠唱を完成させ、それの発動を待つばかりとなった状態では、対抗する時間も術もない。振り下ろそうと掲げられたリーシャの腕は、振り下ろす事も無く、魔法の餌食となって行った。

 

「うおっ!」

 

 斧を振り被っていたリーシャは、<ヘルコンドル>の鳴き声と同時に凄まじいまでの突風を全身に受けた感覚に陥った。

 前方から押し込まれるような抵抗。それは、強い拒絶。まるでそこから先へ進む事は許されない領域へ入ってしまったかのような抵抗感を受けたリーシャの身体は、宙へと浮き上がる。浮き上がったリーシャの身体は、更に強い力を受けて後方へと押し出されて行った。

 

「…………リーシャ…………」

 

「あ! メ、メルエ!」

 

 自らで抵抗出来ない程の強い力で後方へと飛ばされるリーシャの腕に、メルエが間一髪でしがみ付く。しかし、幼いメルエの力では、リーシャを引き戻す事など出来る訳はなく、メルエの小さな身体もまた、宙へと投げ出された。

 メルエの傍で見ていたサラは、宙へと投げ出されたメルエの足を両手で抱えるように掴むが、サラの身体も同様に空中へと浮かび上がる。

 

「きゃあ!」

 

 そして、サラの合流を待っていたかのように、リーシャの身体は強大な力を受けて、一気に後方へと飛んで行く事となる。最後に、サラの叫び声を残し、三人の身体は南西の方角へと消えて行った。

 それは、まるで<ルーラ>を唱えた時のような光景。魔法力の念の残しながら消えて行った三人を、信じられないといった表情で見ていたカミュであったが、勝ち誇ったような泣き声を上げた<ヘルコンドル>に意識を戻し、剣を構え直す。

 

「やぁぁ!」

 

 素早く距離を詰めたカミュの剣が<ヘルコンドル>の身体を真っ二つに斬り裂いた。断末魔の叫びを残して地面に落ちた<ヘルコンドル>を一瞥したカミュは、視線を南西の空へと向ける。

 それは、彼が『仲間』だと認め始めた者達が消え去った空。眩しく輝く太陽の光が指し示しているように青く澄んだ空。

 

「……」

 

 何も言葉は出て来ない。

 彼の心の内は解らない。

 南西の空を無言で見つめていたカミュであったが、マントを翻し、港へと足を進め出す。暖かな太陽の光が降り注ぐ中、一陣の風がカミュのマントを靡かせた。

 いつもならば、マントが風に靡き、邪魔になる事などありはしない。そのマントは、常に彼が連れて行くと決めた幼い少女が握っていた。しっかりと握られたマントは、彼女が微笑むと揺らぎ、怯えれば突っ張る。そんな些細な動きが今はない。

 

 そして、彼の一人旅は始まった。

 旅立った時から望んでいた旅。

 誰にも咎められる事のない旅。

 誰とも衝突をしない旅。

 

 しかしそれは、誰も頼る事の出来ない旅。

 

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ちょっと短めになってしましました。
私的には、少し物足りないですが、これ以上詰め込むのも物語が変になるので。
とりあえず、これにて第九章は終了となります。
次話は、いつも通り、勇者一行装備品一覧を記します(あまり変化はありませんが)

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

英雄であり、父親でもあるオルテガが成し得なかった程の偉業を成し遂げてはいるが、その全てが人の目に触れる事は少なく、世界に広められる事はない。故に、彼の名は世界的に認知される事はなく、名声や地位を手に入れる事もなかった。

 

【年齢】:17歳

幼い頃から一人で生きて来たという自負がある為か、他者との間に見えない壁を作っていた。しかし、魔王討伐出立時に共に旅立った者と、その道中で出会った様々な者達と触れる事によって、胸の内にある想いもまた、少しずつ変化を見せて来ている。そんな彼が歩んで来た二年の月日は、魔物の唱えた魔法によって、唐突な別れを迎えた。

 

【装備品】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガという彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):魔法の鎧

滅びし村<テドン>で購入した鎧。抗魔力に優れ、魔法による攻撃を軽減させる効果を持つ。特別な金属によって制作され、赤紫色のような色彩をしている鎧。テドンでの夜が明けても尚、その輝きは失われず、身を守る防具としての役割を担っている。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):鉄の盾

ジパングにてヤマタノオロチの吐き出す<燃え盛る火炎>を何度となく受けたため、その表面は融解しかけ、既に盾としての機能は失われつつある。

 

武器): 草薙剣(くさなぎのつるぎ)

真名は、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。遥か昔、ジパング創世の頃の初代国主が、民を護る為に神より賜った神剣と伝えられる剣。その切れ味は鋭く、天にかかる雲をも切り裂くという伝承があるが、現在には伝わってはいない。ジパング当代国主であるイヨから、別名と共に下賜される。

 

所持魔法):メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

『戦士』という職業柄なのか、それとも個人の性格上の問題なのか、考える事を非常に不得意としており、謎を解くなどの問題に関しては、考える事を放棄している節もある。しかし、心の機微にはとても敏感で、仲間内での悩みや苦しみに関しては非常に細やかな配慮を持って接するという一面も持つ。

 

【年齢】:不明

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):魔法の鎧

滅びし村<テドン>で購入した鎧。抗魔力に優れ、魔法による攻撃を軽減させる効果を持つ。特別な金属によって制作され、赤紫色のような色彩をしている鎧。テドンでの夜が明けても尚、その輝きは失われず、身を守る防具としての役割を担っている。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):鉄の盾

カミュ同様、ヤマタノオロチとの戦闘によって、その耐久力は著しく失われ、盾としての機能を危ぶまれる物となっている。

 

武器):鉄の斧

ムオルの村で売っていた『おおばさみ』という武器や、ランシールの村にあった『大鉄鎚』などの武器に関しては、自身の戦闘スタイルに合わせる事が困難であるという結論から購入には至っていない。新しい武具等には目がない者も多い『戦士』には珍しく、周囲にいる仲間たちとの連携も考える事が出来る柔軟性も併せ持っている証拠であろう。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

数十年ぶりに、この世界に降り立った「賢き者」。あらゆる物から知識を吸収し、心を成長させている。神魔両方の魔法を行使する事ができ、その行使できる魔法の数も日に日に増していた。魔法力の量は年下のメルエには叶わないが、その緻密な制御は数段上で、補助魔法に関してはメルエも遠く及ばない。

 

【年齢】:19歳

アリアハンを出てから二年という月日の中で、一番変貌を遂げたのは彼女であろう。世界観と共に自身の価値観も変化させ、大局を見る目も養われて来た。魔法という神秘に対しても独特の観点を持ち、自身よりも大きな力を有する幼いメルエも身を案じる。それが、『人』としての立場からの観点ではなく、『賢者』としての観点に立っている事には、まだ気付いてはいない。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれている。その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

カミュとリーシャが着用する<魔法の鎧>と同様に、抗魔力に優れた法衣。テドンで暮らす職人が、テドン特産の『絹』という素材を特別な術式を込めて織った物。法衣の特徴である十字は、以前サラが着ていた法衣と違い、とても小さく刺繍されている。まるで、サラが着る為だけに存在するような法衣は、この村にもたった一つしかない物でもあった。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):うろこの盾

 

武器):鉄の槍

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ(無理やり行使した節があり、再度の行使には疑問)

      

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       

      【悟りの書魔法】

       キアリク

 

 

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

『魔道書』に載る全ての魔法を網羅し、『悟りの書』の載る魔法までも行使できる存在となり、現代の世界では、世界最高の『魔法使い』という地位に君臨していると言っても過言ではない。その膨大な魔法力の影響で及ぼされる危険性をサラと共に話し合い、朧気ながらも理解し始めている。

 

【年齢】:7,8歳

カミュ達と出会った日を誕生日として定めて貰い、誕生を祝って貰うという事を生まれて初めて知った。自身の存在を祝福され、存在を認めてくれる者達を慕い、その者達を護る事を誓っている。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):アンの服

みかわしの服と同じ素材でできた服。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

 

武器):魔道師の杖

    毒針

 

所持魔法):メラ

      ヒャド

      スカラ

      スクルト

      ルーラ

      リレミト

      ギラ

      イオ  

      ベギラマ

      メラミ

      ヒャダルコ

      ヒャダイン

      バイキルト

      イオラ

      マホカンタ

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

これにて第九章は終了となります。
第十章からは、怒涛の展開になる可能性があります。

ここまでのお話に対するご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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第十章
エジンベア領海【カミュ】


 

 

 

 先程と何も変わらず、青く抜けるような空。数少ない雲は、心地良い風を受け、ゆっくりとその体躯を流して行く。太陽は暖かな恵みを大地へと降り注ぎ、草木は嬉しそうに葉を伸ばす。世の中がこの天候の恵みに喜び、幸せを感じているようであった。

 

「ギョエ――――」

 

 そんな太陽の恵みを受けて輝く大地に、どす黒い体液が降り注いだ。剣によって、斬り裂かれた傷口から体液が噴き出し、大地に沁み込んで行く。一体が一刀の下に斬り捨てられた事を見て、残っていた魔物達の動きが止まった。

 港の外壁が視界に入る中、剣を持った青年の瞳が鋭く魔物を睨みつける。その青年の腕にも細かな傷があり、そこからは今も赤い血液が流れ出ていた。その姿が、決して楽ではない戦闘である事を物語っている。

 カミュは、リーシャ達三人を見失った後、真っ直ぐに港へ向かって歩いた。既に潮風が頬を凪ぎ、潮の香りが鼻を衝く事から、港は近い事は明白であったが、カミュはなかなか港へ辿り着く事は出来なかった。歩く度に、感じた事のない魔物の視線を感じ、戦闘へと突入せざるを得なかったからである。

 基本的に魔物は徒党を組む事はない。しかし、相手が襲い易い者だと判断すれば、複数で出現する事が多くなるのだ。同じ種族で寄り集まって生活している魔物もおり、そういう魔物は、単独ではなく、集団で『人』を襲う。今、カミュの目の前で嘴を広げ、威嚇の声を上げている魔物もその内の一種であった。

 

「クエェェ―――――」

 

<デッドペッカー>

ガルナの塔で遭遇した大くちばしや、以前戦ったアカイライと同じように鳥頭に足が生えたような魔物。分類的には、大くちばしの上位種であり、アカイライよりも下位種となる。基本的に種族の特性であるのか、その俊敏性は優れているのだが、アカイライが行使して来たような攻撃呪文を持ち合わせているという情報はない。ただ、世間では、種族の中で頭脳が最も発達している魔物と云われていた。

 

「クケケェ――――」

 

 一体が、先程とは違う鳴き声を発する。それが示す事に感づいたカミュは、一瞬身を強張らせ、即座に対応出来るように盾を掲げた。カミュの予想通り、デッドペッカーの発した鳴き声は、魔法の詠唱であり、一瞬の内に、カミュを魔法力が包み込む。何の効力があるのか解らないカミュは、盾を掲げたまま後方へと飛退いた。

 しかし、それがカミュを窮地に追い込む事となる。

 

「クエェ―――――」

 

 カミュが飛退いた場所には、残っていた一体が待ち構えており、その鋭い嘴をカミュ目掛けて素早く突き出して来たのだ。反応に遅れたカミュは、必死に盾を掲げ、辛うじて間にあった鉄の盾がデッドペッカーの嘴を防いだかに思われた。

 

「ぐっ……」

 

 しかし、予想に反し、デッドぺッカーの嘴は、カミュの掲げた盾を容易く突き破り、その盾を装備していた左腕に深々と突き刺さった。

 苦痛に歪むカミュの顔。盾に空けられた鋭い穴から、真っ赤な血液が噴き出して行く。カミュの命の源である液体が大地を赤く染める中、デッドペッカーの攻撃も苛烈して行った。

 先程、デッドペッカーが唱えた魔法は、おそらくルカナンだったのだろう。故に、カミュの鉄の盾は容易く突き破られたのだ。

 それには、この盾の寿命も影響しているのかもしれない。ヤマタノオロチとの戦闘によって、その機能を大幅に減少させた盾は、表面は融解に近い状態であり、盾の厚みも脆くはなっていた。その盾はルカナンという防御力低下の魔法の効力も相まって、遂にその寿命を全うしたのだ。

 

「クエェ――――」

 

「くそっ」

 

 既に役に立たなくなった盾を放り捨て、自身の腕にホイミを掛けた後、カミュは再び剣を構え直す。しかし、そのような隙を見逃すデッドペッカーではなかった。

 剣を構え直したカミュの横合いから鋭い嘴が襲いかかる。盾を投げ捨てたカミュの左腕が掻き切られ、血潮が再び噴き出した。カミュは、デッドペッカー目掛けて草薙剣を振り下ろすが、それは素早く避けられる。舌打ちをする暇も無く、もう一体のデッドペッカーの嘴がカミュの太腿を貫いた。

 

「クエェェ―――――」

 

 突き刺さった嘴が抜かれると、待っていたかのようにカミュの血液が宙を舞う。今まで味わった事のないような苦戦。一体を攻撃すれば、もう一体がカミュへ襲いかかる。これ程に追い詰められた事は、ヤマタノオロチ戦以来であった。

 しかし、あの時は、多対一の関係で『多』であったのはカミュ達の方。アリアハン時代には何体も魔物を相手して来たカミュ達ではあるが、このエジンベアに生息する魔物の強さはアリアハンとは比べ物にはならない。

 再びホイミをかけようと手を翳すカミュにデッドペッカーの嘴が襲いかかる。後退しようと身体を動かした先にもデッドペッカー。そこで、ようやくカミュは右手の剣を鞘へと納めた。己の武器を納めてしまったカミュを見たデッドペッカーは、少し動きを止める。先程まで、生きようともがいていた人間が唯一の攻撃手段を失った事が理解出来なかったのだろう。

 

「……ベギラマ……」

 

 呟くような詠唱の後、前へと出した掌から熱風が巻き起こる。一体に向けて放たれた熱風は、地面への着弾と同時に破裂したような炎を生み出した。波打つ灼熱の海がデットペッカー一体を飲み込もうとする瞬間、その魔物は瞬時に横へ飛び出す。その瞬間に合わせるように、剣を抜いたカミュは、流れ落ちる左腕からの赤い血液と痛みを無視して、デッドペッカーへそれを振り下ろした。

 

「クケェ―――――」

 

 横合いから繰り出された鋭い一刀は、正確にデッドペッカーの足を斬り飛ばし、その活動能力を奪い取る。身動きの出来なくなった一体に止めを刺す暇も無く、左腕にホイミを掛けたカミュは残る一体に照準を合わせたが、カミュが視線を向けたその場所には、既にもう一体のデッドペッカーの姿はなく、慌てて首を動かしたカミュの目の前に鋭い嘴が迫っていた。

 

 肉を抉る嘴。

 噴き出す血潮。

 苦悶に近い唸り声と、怒声に近い鳴き声。

 

 もう何度目になるか解らないカミュの流血。それは、ここまでの旅の中では考えられない戦闘だった。苦戦に陥った事も、その際に傷付いた事もある。しかし、これ程に魔物に翻弄され、カミュの身体が斬り刻まれた事はなかった。

 その理由は明白。

 居る筈の人間が傍にいない。

 カミュの横で油断なく他の魔物へ注意を向ける『戦士』がいない。魔物の行使する魔法を分析し、その対処を考える『賢者』がいない。どれ程に追い込まれていても、たった一つの魔法で覆す『魔法使い』がいない。

 

 今、カミュは一人なのだ。

 

「くそっ!」

 

 何かに苛立つように振り上げた剣の柄を、鎧から出ている肩口に突き刺さる嘴を抜こうとしているデッドペッカーの頭部に振り下ろした。カミュも、珍しく冷静な判断が出来なくなっているのだろう。未だ抜け切れていない嘴ごと叩き落とされた頭部は、カミュの傷口を広げながら嘴を抜いた。傷口が大きく広がる事の苦痛に表情を歪めたカミュは、そのまま右手をデッドペッカーに向けて、その言葉を唱える。

 

「ラリホー」

 

 傷口の修復よりも優先させたカミュの詠唱は、デッドペッカーの脳を確実に蝕み、その意識を刈り取って行く。朦朧とする意識の中、眠りに落ちようとするデッドペッカーの脳天に向かって、カミュは右手に持つ剣を振り下ろした。

 骨を砕く音と、肉を斬り裂く音が響き、乾いた大地に再びデッドペッカーの体液が降り注ぐ。頭部を二つに分けられた魔物は、そのまま苦悶の声も上げずに絶命した。

 

「くっ……ベホイミ……」

 

 激痛に顔を歪ませながら、カミュは肩口に手を当て、ジパングでの激闘の際に覚えた回復呪文の詠唱を行った。淡く大きな緑色の光がカミュの上半身を包み込み、その傷跡を癒して行く。

 本職と言っても過言ではないサラ程の効果はなく、傷口が塞がって行く速度は、明らかに遅かった。それでも、綺麗に修復された部分を一撫でしたカミュは、破壊された盾をそのまま放置し、再び港へ向かって歩き出す。

 

 彼の一人旅は、まだ始まったばかりである。

 

 

 

「おお、お帰り。エジンベアでは国王様にはお会い出来たのか?」

 

 港に入ったカミュは、そのまま船着場に向かって歩き、その場所で貿易船などを見上げていた頭目を発見した。カミュに気が付いた頭目は、右手を上げて到着を喜び、そのまま近寄って来る。カミュの傍まで近付いた頭目は、カミュ達の目的であった国王との謁見の成否を問い、その後にカミュの周囲に人がいない事に首を傾げた。

 

「そう言えば、品物は受け取ったぞ。何やら沢山買い込んでくれたみたいだが、運搬の費用として、少し商人達に持っていかれてしまった」

 

「なに?……運搬料金は正式に支払った筈だが……」

 

 カミュが一人である事を不思議に思った頭目であったが、他の面々は港を見ているのだろうと結論付け、先程届いたばかりの品物へと話題を移す。しかし、その頭目の言葉は、カミュの眉を顰めさせるには充分な物であった。

 高いと言っても過言ではない程の料金を既に取っておいて、更には成功報酬まで取って行く商人達の逞しさに感心するよりも、カミュの胸に怒りが湧き上がって来たのだ。

 

「そうなのか? まぁ、仕方がないわな。それだけ、魔物の中を無事に運んで来る事が難しいんだろうよ」

 

「……そいつらは、何処に行った?」

 

 カミュの雰囲気の変化を敏感に感じ取った頭目が、宥めるような言葉を発するが、今のカミュにはその言葉に頷くだけの余裕は残されてはいなかった。

 周囲を見渡すように細められたカミュの瞳には、明らかな怒りの炎が宿っており、幾度となく修羅場を潜って来た頭目でさえも、その雰囲気に飲まれ、足が竦みそうになる程の威圧感を有している。

 

「いや、既に船で出港してしまったよ。大量に取られた訳ではないさ。食料に掛かった費用であれば、俺達がある程度は出す」

 

 怒りを見せるカミュではあったが、頭目がそこまで言う以上、この事についてカミュがこれ以上拘る事は出来ない。小さく『わかった』と呟きを洩らしたカミュは、視線を頭目と合わせる事をせずに、周囲へ視線を送り始める。まるで何かを探すように視線を巡らすカミュを見た頭目は、一息吐いた後、口を開いた。

 

「船なら、ここから少し歩いた場所にある入江に停めてある。それよりも、他の三人はどうしたんだ?」

 

 船の場所を探していると考えた頭目は、カミュの目当ての物が停泊している場所を示すように指を向け、にこやかな笑みを作って見せた。しかし、その笑みもすぐに消え、先程から疑問に思っていた事を口にする事となる。

 いつもなら、常に彼のマントの裾を握って自分を見上げて来る幼い少女がいない。いつもなら、先程の商人達の行為に真っ先に怒りを表す女性戦士の姿も無い。そして、そんな女性戦士の怒りを鎮めようと奮闘する、柔らかな空気を持つ女性も彼の近くにはいないのだ。

 

「……」

 

「お、おい」

 

 頭目の問いかけに答える事無く、船が停泊している場所に向かって歩き始めたカミュを頭目が慌てて追って行く。一人先を歩くカミュの背は、頭目が見たどの背中よりも尖った雰囲気を醸し出していた。

 それが彼の心境を明確に物語っているのかもしれない。故に、頭目の胸に最悪の答えが浮かび上がって来ていた。

 

『死』

 

 魔物との戦闘を当然の事として行う彼等の強さに忘れてはいたが、魔物との戦闘には必ず、その代償が伴う。それは、生物としての最後。死という概念を受け入れた者は、物言わぬ肉塊と成り果て、動かなくなる。カミュ達四人も例外ではない。彼等も人外の強さを誇っているとはいえ、紛れもない人間であり、死という結末を持っている生物であるのだ。

 

「ま、まさか……アンタ以外の人達は、魔物によって殺されてしまったのか?」

 

 魔物との戦闘によって、その命を散らしたのであれば、その死体を置き捨てて行く事は、半ば常識の範疇である。遺体を運びながらでは、道中での魔物との戦闘で足枷と成り、天候が良い今のような状況であれば、一日二日で遺体は腐乱する。

 故に、カミュが三人の遺体を運んで来なかった事は不思議ではないのだが、彼等四人の持つ空気を知っている頭目としては、そんな冷たさがとても哀しく感じていた。

 

「……死んではいない筈だ……」

 

「なに?……どういうことだ?」

 

 立ち止まり、ある方角の空へ視線を移したカミュが呟く言葉が、頭目の思考を再び止めてしまう。『死んではいない』という説明だけでは、他の三人の状況が全く掴めないのだ。『死んでいなければ、何故共にいないのか?』という疑問が湧き上がった頭目は、再びカミュへと詰め寄るが、その問いかけは、またしても無視されてしまう。空を見つめていたカミュは、その視線を戻し、無言のまま船の場所まで歩き出したのだ。

 

「お、おい!」

 

「……とりあえず、一度ポルトガへ戻る……」

 

 尚も説明を求める頭目の言葉を遮るように、カミュは目的地を告げた。それは、完全なる拒絶であり、これ以上の踏み込みを許さない程の威圧感を持った言葉。それを受けた頭目は、口を閉じざるを得なくなる。

 何故なら、彼等の船の船長はカミュであり、彼等は船員であるのだから。頭目は、所詮は船員達を取り纏める長であり、この船の針路を決める決定権はないのだ。故に、胸に残る釈然としない想いを封じ込め、彼は黙り込む事となる。

 

 

 

 船に乗り込んだカミュは、そのまま船室へと戻り、暫しの間出て来る事はなかった。カミュ一人だけの帰還について、疑問を持つ船員達ではあったが、頭目の表情と厳しい指示を受けて、出港の準備を始める。

 しかし、その中でもカミュの仲間の一人に命を救われたと考えている七人の人間達は、カミュの入って行った船室への扉を見つめていた。

 

「お前らもキリキリ動け! 目的地はポルトガだ!」

 

 そんな七人に対しても、頭目の厳しい指示が飛ぶ。少し前までは、一般人から恐怖の視線を受けていた彼等も、今やこの船に乗る未熟な船員の一部。過去を問われない代わりに、他の人間と差別もしない。カミュに対しての不信感が募る胸の内を抑えて、彼らもまた、出港の準備に取り掛かった。

 

 

 

「ポルトガに着いたら、暫くの間は好きに過ごしてくれ……」

 

「なに!? 旅を止めるのか!?」

 

 ようやく船室から出て来たカミュの表情を見た頭目は、話しかけるのを躊躇っていたのだが、幸いにもカミュの方から言葉を掛けて来た。しかし、それは頭目を驚愕させる内容。ポルトガ着港後は、暫く航海をしないという内容であった。それ故に、頭目は『カミュが旅を止めるのではないか?』と考えてしまったのだ。

 仲間を失った心の傷によって、世界を救うと云われる『勇者』が旅を終えてしまう事など、何時の時代にもあった事。特に、オルテガという英雄が志半ばで倒れるまでは、全世界に『魔王討伐』へ向かう勇者達は溢れ返っていた。その中には、完全な力量不足の者達も多数おり、魔物との戦闘によっての仲間の喪失という大きな傷を心に受けた者は、そのまま旅を断念する事も多く見受けられた。いや、そのような者達が全てと言っても過言ではない。故に、未だに『魔王バラモス』は健在なのだ。

 

「……そうか……アンタもか……」

 

 大王イカを一撃で倒す程の魔法を唱え、船に上がって来た魔物を一刀両断する程の力量も持ち、そして何よりも、後方に控える者達から絶対的な信頼を受けているように見えたこの勇者もまた、過去に多く存在した『勇者もどき』と同じであったのだと、頭目は落胆した。

 それと同時に、自分の胸の中で、彼等四人の存在感が知らぬ内に大きくなって来ていた事実を知る。

 

 『彼らならば、この悪しき世を終わらせられるのではないか?』

 『彼らならば、魔物に怯えず暮らす世が作れるのではないか?』

 『彼らこそが、自分達が熱望していた本当の勇者達なのではないか?』

 

 そんな知らぬ内に大きくなっていた期待は、頭目だけではなく、この船に乗る船員達にも浸透していたのだろう。何故なら、カミュの言葉を聞いた途端、船員達の顔に失意の色が広がっていたからだ。カミュ達の強さを目の当たりにし、リーシャやサラの優しさに触れ、メルエの愛くるしさに微笑む回数が増える程、彼等の期待は大きく膨らんで行く。

 カミュが船を手に入れてからでも一年近くの月日が経つ。彼等はその間、カミュ達四人と共に戦い、共に笑い、共に汗を掻いて来たのだ。

 

「リーシャ様や、サラ様は亡くなられたのですか!?」

 

「メルエちゃんは!?」

 

 そんな期待は、落胆へと変わり、そしてカミュへの攻撃的な言葉へと変化する。彼等の中で、カミュだけではなく、他の三人がそろってこその『勇者一行』なのだろう。故に、自分達に何も告げずに針路を告げるカミュに苛立ちを覚えたのだ。

 しかし、それは船員達の勝手な感情である事も否定は出来ない。カミュには、自分達が陥った状況を説明する義務はなく、如何に船員達がいなければ船は動かないとはいえ、この船自体はカミュがポルトガ国王から下賜された物。つまりはカミュの所有物という事になる。

 

「……メルエやあの賢者はルーラを行使出来る。ポルトガへ行っていなければ、以前に回った場所に戻っている可能性もある筈だ」

 

「つまり、アンタはポルトガへ戻った後、その魔法を使って、他の町や村へ行くというのだな?」

 

 しかし、カミュは『お前らに関係ない』とも『納得出来ないのなら、船を降りろ』とも言わなかった。それは、彼の明確な変化なのかもしれない。アリアハンを出たばかりの頃、『人』として心に触れようともしなかった彼はもういない。様々な人間と出会い、心に触れ、それを感じる事で、彼の中の価値観は確実に変化して来た。彼が出会い、心に触れた者達の中に、この船員達も含まれている。

 船員達がカミュへ詰め寄っているのは、リーシャ達三人への心配があるからなのだろう。これが、逆にリーシャ一人であっても、サラ一人であっても、彼は残された者に詰め寄るだろうと、カミュは感じていた。いや、まずリーシャ達であれば、ここまで船員達を不安にさせる前に事情を説明していた筈。

 

「わかった。野郎ども、全速力でポルトガへ戻るぞ!」

 

 カミュの頷きを見た頭目は、大声を張り上げて指示を出す。先程とは異なり、船員達の応えは海を震わせる程の声量を誇った。

 即座に持ち場に着き始めた船員達が船に帆を張り、舵を取る。心地良い海風は、帆に目一杯の活力を与え、船はゆっくりと入江を離れて行く。頭目の言葉通り、船員達は現在出来得る最大の力を発揮し、船を一刻でも早くポルトガへという想いで動かしている事は、カミュでも理解出来た。

 

「アンタは、あの人達と一緒にいた方が良い。今のアンタでは何処の国にも入る事は出来ないぞ」

 

 厳しい瞳で船の進む先を見ていたカミュの横を頭目がすり抜けて行く。その表情は、先程までとは違い、若干の余裕と笑みが浮かんでいた。

 カミュの放つ威圧感に気圧されそうになっていた頭目だからこその言葉なのかもしれない。刺々しい空気を醸し出していては、他国に入り、国王と謁見する事など出来はしないだろう。

 アリアハンを出た頃のカミュであれば、このような空気を醸し出す事はなかったかもしれない。『死への旅』と割り切っていたカミュには『人』としての感情は皆無だった。リーシャを見る瞳に感情を宿してはおらず、サラを見る瞳には軽蔑の色さえも浮かべていた。

 そんなカミュの心に一石を投じたのは、彼の半分程しか生きていない幼い少女であったのだろう。その少女が投じた一石は、固く閉ざされたカミュの心に小さな小さな隙間を作った。空いた隙間に強引に身体を入れ、割り込んで来たのは直情的で短絡的な戦士。そしてこじ開けられた心に怒涛のように流れ込んで来る『人の心』。それらが彼を動かして来たのだ。

 

「だが、あの人達が向かった場所に心当たりはないのか?」

 

「……ああ……方角しか分からない」

 

 カミュの言葉に、再び落胆の表情を浮かべた頭目であったが、それでも顔を上げ、船員達に指示を出す。『とりあえずはポルトガへ向かう』という言葉は、カミュでさえもリーシャ達の安否に確信がない事を示していた。

 頭目の頭には、可愛らしく小首を傾げながら海にいる生き物に目を輝かせているメルエの姿が浮かび、そんなメルエの仕草に優しく微笑むリーシャが浮かぶ。そして、メルエに字や物事を教えようと四苦八苦しているサラの表情も同時に浮かぶのだった。

 そんな頭目の表情を無視するように、カミュは前方へ視線を送る。頭目の考えとは異なり、カミュがポルトガを目的地に選択した理由には確かな根拠があった。まず、三人が何処へ飛ばされたとしても、魔法力に優れたメルエと、元から持つ知識に経験という付加も持ったサラがいれば、無事に着地できるだろう。また、冷静に状況を分析し、対応する事も出来るだろう。そして、その過程で魔物と遭遇したとしても、リーシャという存在がいる限り、窮地に陥る事はない筈。そこまで分析し、カミュはその後の行動を考えたのだ。

 自分達のいる場所が、これまで訪れた事のない場所であれば、カミュが向かう筈がないとサラは考えるだろう。故に、メルエかサラが行使出来るルーラという移動魔法を使い、以前に訪れた場所へと向かうとカミュは結論付けたのだ。となれば、残るは『向かう場所が何処か?』という事になる。ここまでで、カミュの頭には幾つかの候補が挙げられていた。それは、この旅で訪れた場所の中から消去法で絞られて行く。

 

 まずはアリアハン。

 

 この場所はまず最初にカミュの頭から消去された。カミュだけではなく、リーシャやサラにとっても故郷となる場所ではあるが、リーシャはカミュの内情をある程度認識している。『カミュならば、あの国に戻る事はないだろう』とリーシャがサラへ告げれば、敢えてアリアハン城下町へ向かう事はないだろう。

 そして、それはレーベも同様。アリアハン大陸にあるあの村へ戻る理由がない。サラにとってみれば、バコタの父のいるあの村へ行きたいとは考えないだろう。

 

 では、ロマリアはどうか。

 

 ここにも特別な理由は存在しない。行く事を拒む理由もなければ、行かなければならない理由もないのだ。また、ルーラを行使出来るメルエにとって、イメージを構築出来る程の印象も無い場所なのかもしれない。特に、あの王女とカミュの対峙を見ているリーシャやサラからすれば、カミュがロマリアを選択するとは考えないだろう。

 ロマリア大陸にある、ノアニールは論外と言っても良い。ある意味で、このパーティーの在り方を根底から揺らしたあの村を選択する事はあり得ない。カザーブの村に関しては、トルドがそこに居たのなら、第一候補として挙げられるかもしれないが、今のカザーブにトルドはいない。故に、メルエが声を上げる筈も無く、この場所も消去される。

 メルエが拒むという理由であれば、アッサラームやダーマ、そしてムオルも含まれるだろう。アッサラームはメルエにとって忌まわしき場所。様々な想いの残るこの場所を、選択する事はないと断言できた。

 ムオルにはポポタという少年がいる。幼い嫉妬心を持つメルエがあの場所へ行く事を了承するとは思えない。そしてダーマだが、メルエがカミュ達と出会ってから初めて、他人より厳しい言葉を受けた場所であり、サラが『賢者』と成った場所となるダーマをメルエが選び出すとも思えなかった。

 その他となると、サラが拒むであろう、バハラタも除外される。『殺人者』として凶器の視線を受ける可能性の大きな商業自治都市は、サラにとっても、リーシャにとっても訪れたい場所ではないだろう。

 サラが拒むという理由であれば、テドンも同様ではないだろうか。『滅びし村』という異名を持つ村は、夜にしか活動しない。まず、夜にしか姿を現さない村へ、ルーラの魔法で行けるかどうかが問題であるのだが、行けたとしても選択される事はないと断言できた。

 

 故に、ここまで考えた結果で、候補は三つにまで絞られる。

 一つ目は、出発の場所であるポルトガ。

 二つ目は、若き女王が治める砂漠の国イシス。

 そして三つ目が、若き国主が統べる国ジパング。

 

 その内で最も可能性が高いのが、ポルトガとなるのだ。船での移動が今は主である事から、港がある出発点に戻る事が、効率的に考えても最善であるとカミュは考えた。

 カミュがいない以上、リーシャ達には登城する資格がない。ポルトガ国王に謁見出来ないのであれば、町の宿屋に戻っている筈である。そこまで自分が考えた以上、『賢者』であるサラも同様の結論に達するだろうという思いがカミュにはあったのだ。

 しかし、このカミュの考えは、思わぬ結果を生む事となる。

 

「そんな所に突っ立ってられたら邪魔だな。船室に戻っていな」

 

 目的地へ向かう船の先頭を見つめるカミュの横から声が掛かった。船員達へ指示を出していた頭目が、カミュの横を通る際に声をかけたのだ。本気でそう思っている訳ではないのだろう。カミュが眉を顰めた様子を見て、頭目は小さく苦笑を洩らした。

 船は風を受けて、その速度を上げて行く。海風が強くなって行く中、頭目の言葉を無視するように、カミュは視線を船頭へと戻した。

 

「今は、アンタ一人しかいないんだ。魔物が出て来たら、アンタ一人に頼るしかない。心配してくれるのは有難いが、今はゆっくり身体を休めてくれ」

 

 カミュの態度に腹を立てる訳でもなく、一つ溜息を吐き出した頭目は柔らかな笑みを浮かべて、カミュへ休養を勧める。確かに、現在はカミュ以外の人間がいない以上、魔物との戦闘となれば、カミュが一人で対応せざるを得ない。勿論、船員達も各々の武器を持ち、魔物との戦闘に参加する事だろうが、やはり力不足は否めない。その為にもカミュには万全の状態でいて貰わなければ、船員達としても困るのだ。

 

「……わかった……」

 

 不承不承に頷いたカミュは、一度船員達の様子を見回した後、ゆっくりと船室へと戻って行った。カミュの性質上、熟睡は出来ないだろう。それでも、見えない疲労と精神的な傷は、少しでも癒えるかもしれない。たった三人の人間がいないというだけで、船上の雰囲気は一変した。

 幼い少女の作り出す、和やかな空気は何処にもない。感情的になり易い女性戦士が生み出す、笑いを含む緊迫感もない。ここにあるのは、本当に命の危機すらも感じる程の緊張感。魔物が出現すれば、今までのように船員達は後ろに下がっていれば良い訳ではなく、皆が命を賭して戦わなければならないのだ。その事実を船員全員が理解していた。

 

「作業している者も、近くに武器を置いておけ!」

 

 頭目の言葉に全員が大きく頷きを返す。『勇者一行』を乗せているとはいえ、常に乗っている訳ではない。その際に戦闘を行う事もあるのだ。大王イカのような巨大な魔物であれば、逃げる事以外に方法はないのだが、船上に上がって来るような魔物とは、全船員総出で対応しなければならない。その時は必ず命の危機が伴って来る。カミュ達が何度か離れた事のあるこの船の乗組員が、誰一人として欠けていない事が、ある意味で奇跡に近いのだ。

 

 

 

 船は昼も夜も走り続けた。交代で任務を全うし、船員達も働き尽くめである。カミュは、昼間に起き、夜間には眠るという、通常の生活を送っていた。幸いにも、二日程は海も穏やかであり、魔物と遭遇する事も無く、順調な航海を続けていたのだが、この時代の海が容易に渡れる訳がない。

 

「魔物だ!」

 

 船員の一人の叫びが呼び水となり、船上へ魔物が続々と昇って来た。瞬時にカミュは背中の剣を抜き、左方から出現したしびれくらげを斬り捨てる。しびれくらげの持つ毒は、以前メルエが侵されていた。『麻痺』の症状に陥る毒に対しての対抗策は、現在はサラの持つキアリクという魔法しかない。『麻痺』を治す道具も、この世界には存在するのだろうが、カミュはその存在を知らないのだ。

 故に、船上に上がって来た魔物の中にしびれくらげを発見したカミュは、真っ先にそれを斬り捨てた。

 

「うおりゃゃぁ!」

 

 船上に浮いているもう一体のしびれくらげを倒したカミュが振り返ると、一人の船員がマーマンに襲われる直前であった。慌てて剣を片手に駆け出したカミュは、マーマンの横合いから飛んで来る斧を視界に捉える。その斧は、正確にマーマンの首を捉え、胴体から首を斬り離した。まさか、不意打ちとはいえ、魔物を一撃で倒す者がいた事実にカミュは驚く事となる。

 これが、カミュ達が不在であっても、船員が誰一人欠ける事のなかった理由。この船には、ポルトガ国出身の海の男以外に七人の新人が乗船していた。その七人は、国が派遣した兵士達と戦い、そして魔物の蔓延る場所を住処としていた者達。それは、戦いの勝利によって確立して来た地位であると共に、その力も有している証明でもあった。

 カンダタという大きな支柱の周囲を護って来た者達が、各々の武器を振っていたからこそ、この船は今も健在なのだ。

 

「おし!」

 

「それ程に数は多くないぞ!」

 

 カンダタ一味を名乗っていた一人の呼びかけに、全ての船員達が応える。一斉に魔物へ向かって武器を向ける船員達を、カミュは呆然として見ている事しか出来なかった。傷を受けながらも魔物を倒して行く船員達によって、魔物の数は次々と減って行く。ようやく我に返ったカミュは、下がって来た怪我人にホイミを唱え、最後の魔物の首を飛ばした。

 

「申し訳ない。この人にも回復呪文を」

 

「……ああ……」

 

 カンダタ一味の幹部であった一人が、マーマンの爪によって腕を傷つけられた船員を連れて来た。それ程、深い傷ではない。肉が切られ、血が大量に出てはいるが、骨が見える程ではない。カミュ達が常に受けて来た物に比べれば、軽傷に近い物ではあるのだが、大袈裟に声を上げている船員を見たカミュは、小さな笑みを浮かべながらホイミを唱えて行く。

 

「皆、船を動かせば一流のようだが、戦闘に関しては素人なんだ」

 

「まぁ、だからこそ、船に関して素人である俺達が役に立てるんだがな」

 

 次々と運ばれて来る怪我人に回復呪文を行使しているカミュに向かって、船員達を見回しながら男は口を開いた。その横から先程斧でマーマンの首を刈り取った男も笑みを溢す。その笑みが、生きがいを見つけた者のような、爽やかな物であった事に、カミュはその目を細めた。

 

「い、いや……罪を償う事を忘れた訳ではないんだ。ただ、血と罪で汚れた俺達の手でも、人を救えるという事が嬉しくて……」

 

「そ、そうなんだ……それで俺達の罪が消える訳ではない事は解っているんだ」

 

 カミュが目を細めた理由について、彼等は勘違いをしてしまったのだろう。『自分達が犯した罪を忘れたのか?』という糾弾として感じたのかもしれない。しかし、カミュの内心は、彼等が考えていたような物とは大きく異なっていた。

 リーシャであれば、このカミュの表情の小さな変化を見逃す事無く、正確にその胸の内を把握していた事であろう。しかし、今はその『心の探究者』はいない。

 

「……わかっている……」

 

 故に、カミュは己の想いを、自ら相手へ伝えなければならない。彼が自我に目覚めてから今までの人生で、全く必要のなかった『人』としての行為。『魔王バラモス』の討伐命を王城にて拝命した彼が、旅に出る際にも不要だと考えていた行為。それが今、予期せぬ形で重要な行為となり、カミュへと迫って来ていた。

 

「そ、そうか……船の仕事も、早く一人前になれるように頑張るよ」

 

 だが、相手に自分の想いを伝えるという行為に関しては、カミュはメルエと同等。いや、相手の心を和ませる笑みを浮かべる事が出来ない分、カミュの方が下なのかもしれない。カンダタ一味の幹部であった者達は、少し強張った表情を浮かべて、船の仕事へと戻って行った。残ったカミュは、何についての物なのか分からない溜息を吐く事となる。

 

 既に太陽は傾き、西の空へと帰り始めている。

 アリアハンを出てから二年。

 この船上で、カミュは十八回目の誕生日を迎える。

 彼にとっては、忌まわしき日。

 苦痛とも言える『生』を強要される始まりとなった日。

 

 しかし、今はその『生』にも、小さな変化が見え始めている。

 その変化を齎した者達は、今は彼の傍にはいない。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

新章の幕開けと成ります。
カミュの一人旅。
ここから先は、皆様の頭の中に「遥かなる旅路」が流れるような物語を描きたいと思っています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ポルトガ領海【カミュ】

 

 

 

 船は順調にポルトガへと進む。天候は優れ、所々で雨が降る事はあっても、海が荒れる事はない。船員達の心の奥にある小さな不安とは裏腹に晴れた空は、カミュ達が渡る海をも青く染め上げていた。

 

「そろそろポルトガ領海に入る。ここまで来れば、もう一日二日でポルトガの港に着くさ。海も荒れてはいないし、魔物が出る事もないだろう。港に着くまで船室で休んでいてくれ」

 

 既に船がエジンベアの港を出てから数週間の時間が経過していた。その間で船が遭遇した魔物はかなりの数に上っており、リーシャ達三人がいない船での戦闘は、カミュが考えていたよりも困難を極めた。

 如何に元カンダタ一味の人間の戦闘能力が優れていたとしても、それは通常の『人』の枠内での話。カミュと共に旅を続けて来た三人のように『人外』という枠の物ではない。

 カミュとの連携など取れる訳も無く、軽傷、重傷を問わず、船員の中に怪我人が続出していた。擦り傷、切り傷などの軽傷は、<薬草>などで治療が可能であるが、深い切り傷や重傷と見られる者には、カミュが回復呪文を唱える以外に治療の方法がない。その数は、一度の戦闘で十数人に及び、その度に回復呪文を行使していたカミュの顔には、明らかな疲労が見え隠れしていた。

 基本的に、カミュの魔法力は底が浅い。

 『魔法使い』であるメルエと比べる物でもない事は当然の事ながら、メルエの足下に及ばない筈のサラにさえ届かない。

 そのような人間が最下級の呪文とはいえ、回復呪文を立て続けに行使した場合どうなるか。

 簡単な事である。

 『魔法力切れ』を起こすのだ。

 つまり、休みも取らずに船上にて魔物と戦い、傷ついた船員達を治療し続けた現在のカミュは、『魔法力切れ』に限りなく近い状態であるという事になる。

 

「……わかった……」

 

 それを一番理解しているのは、カミュ本人であろう。

 一対一であるならば、何も問題はなかった。単体でカミュを凌駕する魔物等、この近辺には生息していない。

 だが、今の彼は一人であり、対する魔物は常に徒党を組む。それは、カミュが考えていた以上に困難な事であり、彼の死角から飛び込んで来る魔物を牽制する役をカンダタ一味が担えない以上、彼自身も傷付いて行った。

 疲労と共に衰える動きは、カミュに自身の無力感と、一人旅の無謀さを改めて感じさせて行く。

 

「野郎ども、魔物には気をつけろ。無理に戦闘に入る事はない。船上に上がって来た魔物だけを相手しながら、全速力でポルトガ港へ向かうぞ!」

 

 カミュが船室へ入って行った事を確認した頭目は、船員達へ声をかける。その声に大きく反応した船員達は、それぞれの仕事に戻り、船の速度を上げて行った。

 ポルトガ領海には、それ程強力な魔物は出現しない。<大王イカ>のような巨大な魔物も生息はしているが、その遭遇率は、実際はかなり低いのだ。

 それは<大王イカ>という種族の希少性も関係していた。

 一回の航海で遭遇する方が稀であり、既に二度も遭遇し、その内一度は複数の<大王イカ>と遭遇したこの船が珍しいのだ。実際に、一度でも<大王イカ>と遭遇した船は、跡形もなく大破し、海の藻屑と消えてしまう事から、二度目の遭遇は有り得ない物というだけの事でもあるのだが。

 

 

 

 船はポルトガ領海を順調に進み、エジンベアの港を出てから二週間程でポルトガの港に着港する。数度の魔物との遭遇は、船を壊されないように逃げる事を優先し、カミュの出番を極力制限した物になっていたのだが、僅かな時間の休憩を取るだけで、何度も船室から出て来るカミュを見た船員達は、苦笑を浮かべる事となった。

 何度も『しっかり休んでくれ』と伝えても、暫くすると甲板に立っているカミュに、頭目も呆れを含んだ溜息を吐くしかなく、そこからは何も言う事が出来なくなる。

 それでも、どこか遠慮がちな視線を向ける船員達の瞳を受け、カミュは何度も船室との往復を繰り返すのだった。

 

「港が見えたぞ」

 

 陽が西の空へと傾きかけた頃、見張りをしていた船員の声が甲板に響き渡る。見張りの男の言葉通り、前方に見える陸地に石造りの港が姿を現し始めていた。

 この港を出港した時にカミュの傍で海を見つめていた三人はいない。カミュ一人での帰港となってしまってはいたが、徐々にはっきりと姿が見え始めた港の活気は、カミュ達が出港した時よりも上がっているようにすら感じる物だった。

 

 港に入った船は、荒縄を陸地にいる人間へ下ろし、船員達が錨を海へと沈める。港へ板が降ろされ、船員達が積み荷を降ろして行く中、カミュもまた板へ足を掛けた。

 未だに疲労が色濃く残っているカミュが、若干のふらつきを感じながらも前へと歩を進めると、笑みを浮かべた頭目がカミュへと口を開いた。

 

「今日ぐらいは宿屋でゆっくり休むんだな。アンタの仲間は、必ず無事だよ。だが、アンタが無事でなければ、あの小さな女の子は哀しむぞ」

 

 カミュの身体を気遣った言葉を投げかける頭目の顔には笑みが浮かんでいる。それが、彼が口にした言葉が本心から出ている事を示していた。

 当初は、一人で戻って来たカミュを見て、頭目や船員達も動揺を隠せなかったが、数週間の船旅の中で、再びカミュの能力の高さを確認し、そして安堵する事となる。

 

 『彼と肩を並べて歩む事の出来る者達が、簡単に倒れる訳がない』

 

 自分の疲労を隠しながらも船上で戦い、自身の魔法力を枯渇させても回復呪文を唱えるカミュを見ていた船員達は、皆、考える事は同じであった。

 彼等が感じていた小さな希望は、今、大きな確信へと変わっている。『勇者』と呼ばれる青年が持つ、『勇気』という名の輝きを肌で感じた事によって。

 

「俺達は、この港で待っている。何時でも出港できるように準備をしておくからな」

 

「……頼む……」

 

 最後に掛けられた言葉に、カミュは微かに微笑んだ。軽く頭を下げたカミュが、夕暮れ時の港を包む喧騒の中へと消えて行く。

 カミュの背中が、人波に飲まれて完全に見えなくなると、一つ大きな溜息を吐き出した頭目は、同じようにカミュの背中を眺めていた船員達へと指示を出した。

 港全体に響くような大きな指示は、どこか物悲しさを含んだ船上の空気を一変させる。

 

 まだ彼等の旅が終わった訳ではない。

 それを、誰もが信じて疑わなかった。

 

 

 

「いらっしゃい。旅の宿屋へようこそ。お一人様ですか?」

 

 カミュは港から真っ直ぐ宿屋へと向かっていた。

 もし、リーシャ達がポルトガへと戻っていたら、登城が出来ない以上、宿屋に泊る事しか方法はない筈である。

 宿賃が足りなかったとしても、ポルトガ近郊に生息する魔物達の部位を刈り取り、道具屋へ売り捌けば、数週間分程であれば、容易に手に入るだろう。最悪の場合であれば、手持ちの武具等を売り、その資金に充てても良いのだ。

 

「この宿に、女性三人の客が最近来なかったか?」

 

「はて?……最近はお客も多くなって、細かな所までは覚えていませんが、女性だけのお客は来ていなかった筈ですね」

 

 宿屋の店主にゴールドを支払いながら口にしたカミュの問いかけは、暫しの思考の後、無情な返答を貰う事となった。

 カミュ達が、ロマリア大陸とポルトガ大陸とを結ぶ連絡通路の扉を開けてから、このポルトガへは多くの人間が入って来ている。移民という形でなければ、当然の事のように宿を利用するであろうし、その数は数週間でも相当な物となるであろう。

 

「……そうか……」

 

 カミュがリーシャ達と別れてから、既に数週間の時間が経過している。それは船での移動であるからなのだが、ここでカミュとリーシャ達との時間の経過の差異が出て来るのだ。

 <ヘルコンドル>の呪文の影響で遙か南西の空へと消えて行ったリーシャ達が、何処かに不時着したとすれば、その場所から<ルーラ>を行使するだろう。

 カミュが船でポルトガまで移動するのに有したのと同じ時間、リーシャ達が空を飛んでいたとは考え難い。

 魔物の魔法の効果が強いとはいえ、その効力が数週間も続くとは考えられない以上、リーシャ達はカミュよりも早くポルトガへ到着していると考える方が自然であるのだ。

 

 確かに<ルーラ>は、距離を飛び越える事は出来るが、時間を飛び越える事は出来ない。だが、魔法力に包まれて高速で移動する事は事実であり、その速度は船とは比べ物にもならない筈である。

 そうなると、リーシャ達は、カミュよりも早くにポルトガへ着いていて、何泊かした後に他の場所へと移動したか、それともポルトガに来てはいないかのどちらかとなる。

 前者の可能性は限りなく薄いだろう。何故なら、三人の中には『賢者』であるサラがいる。

 サラが船の移動時間と、<ルーラ>での移動時間の差異に気付かない訳がないのだ。

 ポルトガからエジンベアまでの船の速度は把握している筈。ならば、宿屋で日時を尋ね、エジンベアを出た頃の日数と差し引けば、カミュの到着予測は出来る。

 故に、僅か数週間で宿を離れる訳がない。だが、カミュを待っているとすれば、宿屋に何泊もしなければならず、長い期間の滞在をする人間を宿屋の店主が覚えていない筈はないのだ。

 そうであるならば、残るのは必然的に後者となる。

 

「鍵はこれです。部屋は別棟になりますので」

 

 鍵を店主から受け取ったカミュは、そのまま集合店舗を出て行った。

 別棟の部屋へと上がる階段を上り、指定された部屋の前まで来たカミュは奇妙な既視感に襲われ、軽く溜息を吐き出す。その手に持つ鍵を鍵穴に入れると、予想通りに鍵は掛かっていなかった。

 鍵を引き出したカミュは、そのままドアの取っ手を回す。何の抵抗も無く取っ手をそのまま押し、部屋の中へと入って行った。

 

「……悪いが、今夜は他で休んでくれ……」

 

「あっ……申し訳ございません。すぐに出て行きます」

 

 部屋の中へと入ったカミュの瞳に、予想通りの人物が映り込む。カミュが通された部屋は、以前にポルトガで宿を取った際と同じ部屋だったのだ。

 その部屋にいる人物と言えば、一人だけであろう。

 

 陽が昇っている間だけの『人』の生活を送る者。

 魔物の呪いによってその姿を変えざるを得ない者。

 昼は『人』、夜は『猫』という哀しい呪いを宿し者。

 恋人と共に呪いを宿し、その仲を割かれてしまった者。

 

 ベッドの脇にある小さな椅子に座り、哀しい瞳で沈み行く太陽を見つめていた『サブリナ』という名の女性は、入って来たカミュの言葉に立ち上がり、そのまま部屋を出て行った。

 通常、宿に人が入って来るのは、陽が落ち切った夜なのだろう。夜になれば、彼女の姿は猫となり、ドアが開くと同時にその身を影に隠す事も出来る。陽が昇る頃に部屋を出て行くなりすれば、気付かれる事もないのだ。

 それが、カミュのように気配などにも敏感な者であれば無理であろうが、そのような強者は、そう多く存在しない。

 

 ドアが閉まる事を確認したカミュは、大きな溜息を吐き出し、背中の剣を外した。そのままマントも取り外し、部屋着へと着替えた後、ベッドへ座り込み、もう一度溜息を吐き出す。

 瞳を閉じ、頭を垂れているカミュの想いは如何ほどの物なのかは、誰にも解らない。ただ、エジンベアからこの宿までで感じたカミュの疲労は、アリアハンを出てから最大の物なのかもしれない。

 

 強大な敵と戦い、深い傷を負った事はあった。

 深手を負い、そのまま数日もの間、目が覚めない事もあった。

 しかし、目を覚まさない時の方が、彼自身には楽であったのかもしれない。

 今の彼には、眠る余裕もないのだ。

 

 カミュという『勇者』の存在がなければ、船は全滅に陥る可能性もある。その前に、魔物との戦闘中であれば、途中で気を失うなど、自分の命を散らす事に直結してしまうだろう。

 アリアハンを出た頃のカミュであれば、『それならば、それで良い』と考えたのかもしれない。しかし、今の彼の背には、様々な物が圧し掛かっていた。

 

 出会って来た人々の『想い』、『願い』。

 共に歩むの者達の『生命』。

 

 容易く振り払えると考えていた物が、今の彼には振り払えない。振り払えない以上、それを背負うしかないのだが、エジンベアを出るまでは、彼は一人でそれを背負っていると考えていたのかもしれない。

 しかし、それは間違っていた。

 彼の背負って来た物は、彼一人で背負える程に軽い物ではなかったのだ。

 彼が今、意識を飛ばしてしまう程に感じている疲労は、戦闘で受けた傷による物などではない。何時如何なる時も、気を許す事が出来ない程の緊張感を続けている事への疲労。

 それを彼は初めて理解したのかもしれない。

 

「……ふぅ……」

 

 もう一度溜息を吐き出したカミュは、そのままベッドへと入り、即座に眠りへと落ちて行った。

 数週間ぶりの就寝と言っても過言ではないカミュは、ようやくしっかりとした睡眠を取る事が出来るのだ。深い眠りへと落ちて行ったカミュは身動き一つしない。

 未だに差し込む西日は、ゆっくりと西の大地へと落ちて行き、夜の帳を下ろして行く。

 

 

 

 

 

 翌朝、早めに目が覚めたカミュは、明るみ始めたポルトガの町の中で一人洗濯を始める。いつもならば、リーシャと共に笑顔でカミュの衣服を洗っているメルエの姿があるのだが、今はカミュ自ら自分の衣服を洗っていた。

 いつもよりも衣服に付着している血液が多く、洗っても落ちない事に苛立ちを募らせながら、カミュは手を動かして行く。

 カミュは、この宿で五日ほどの滞在を決めた。

 何らかの原因から、他の場所へ行っているのかもしれない三人がポルトガへ来た時に行き違いにならない為の物ではあったが、それ以外の理由がカミュの中に存在しているのかもしれない。

 洗濯を終えた衣服を干し、食事を済ませた後、乾いた衣服を身に纏ったカミュは、そのまま武器と防具の店へと足を向けた。

 

「……鉄の盾をくれ……」

 

 以前訪れた武器と防具の店で、再び同じ装備品を注文する。カミュの事を覚えていた様子の店主は、手入れの行き届いている<鉄の盾>を奥から取り出し、カミュの手に合わせて行った。

 新品の盾を手に装備したカミュは装着具合を確かめ、ゴールドを支払って行く。そして、お礼の言葉を背中に受け、店を後にした。

 

 

 

 結果的に言えば、五日間は無駄に終わった。

 何事も無く過ぎて行く日数は、徐々にカミュの心に変化を及ぼす。

 『焦燥感』に似た感情。

 それは、カミュを行動に移させるには充分な物だった。

 

 ポルトガ王への謁見も行わずに、カミュはポルトガ国を後にする。

 行き先の候補は、あと二つ。

 <イシス>と<ジパング>という、奇しくも女性が統治する国である。だが、カミュの頭には不安が募っていた。

 第一候補をポルトガと考えていた理由は、まず港があるという事。港があるが故に、合流すれば直ぐに出港する事が出来る。

 それに対し、<ジパング>は海に囲まれた島国ではあるが港はなく、再びポルトガへ戻るには数週間の時間を要するし、<イシス>に至っては港等ある筈もない砂漠の中心にある国なのだ。

 

「ルーラ」

 

 呪文の詠唱を終えたカミュの身体は、魔法力を纏ったまま上空へと浮き上がる。そしてそのまま南南東の方角へと飛んで行った。

 

 

 

 イシスの町に着いたカミュは、その喧騒に驚き、目を丸くした。

 以前訪れた際に感じた印象を改めさせる程の活気に、町全体が輝いて見えたのだ。

 町を歩く人々の瞳は希望に満ち、暗い影等を背負っているようには見えない。それがこのイシス国の治世が変化した事を明確に示していた。

 国を牛耳っていた文官から、真の女王となった者への政権交代が上手く起動し、国としての形態を確固たる物へと変化させたのだ。

 カミュ達がこの国を出発して既に一年以上の月日が経過している。

 カミュと同じ歳の女王であるが故の苦労は並々ならぬ物であったであろう。頂点に立っていた文官である老婆の失脚によって、その地位に新たに納まろうとする者は、未だに傀儡としての役割を若い女王に要求した事もあるだろう。

 それでもそれらを跳ね退け、彼女が一国の王としての地位に立ち、自らが執政を行っている事は、今のイシスが物語っていた。

 

「いらっしゃい。旅の宿屋にようこそ。お早いお着きですね」

 

「いや、宿泊ではない。ここ最近、若い女性三人での宿泊客は来なかったか?」

 

 町の喧騒に若干魅せられていたカミュであったが、我に返ると、真っ直ぐ宿屋へと向かう。

 宿屋の扉を潜ったカミュは、ロビーと呼ぶには小さな広間を掃除している店主らしき人物に声をかけた。

 振り向いた店主は、営業的な笑みを浮かべながらも、柔らか断りを口にする。店主の言う通り、まだ太陽は真上に上ったばかりであり、宿へ入るには早過ぎる時間であったのだ。

 

「女性三人?……どうでしたか……」

 

 店主の答えを聞いたカミュは、現状のイシスの状況をも把握する事となる。

 このイシスもまた、ポルトガと同様に活気に満ちており、その影響でこの国へ訪れる者も増えているのだろう。それ程大きくはない宿屋では、捌き切れない人数が押し寄せて来ていたのかもしれない。その為、この宿へ来た人間の全てを記憶しておく事は難しいのだろう。

 それが理解出来たカミュは、一度大きな溜息を吐き出した。

 

「その内一人は、幼い少女なのだが……記憶にはないか?」

 

「う~ん……小さな女の子であれば、珍しいですからね。当店にいらっしゃれば、憶えていると思います」

 

 カミュは再度、その三人の中で一番特徴的な少女の姿を口にするが、店主の答えはカミュの望む物ではなかった。

 メルエのような幼い少女が旅をする事自体が珍しい時代である。『魔王バラモス』の登場直後から数十年間は、安全を求めて新たな大陸へ家族で移動する者達もいたのだが、それも『英雄オルテガ』の死によって皆無となった。

 旅人こそなくなりはしないが、子供連れの者は皆無に等しい。故に、宿屋を訪れれば、それだけ珍しく、記憶にも残る筈なのだ。

 リーシャ達三人がイシスを訪れたとすれば、ポルトガ国と同様に城へ上がる事は有り得ない。彼女達三人では、謁見の資格がないのだ。

 イシス国現女王である『アンリ』であれば、抵抗なく、メルエとの謁見の許可を出すだろうが、他国の王からの書状などの全てをカミュが持っている以上、彼女達には門番へ説明する術がない。

 取り次いで貰う事さえ出来ないのであるのだから、彼女達三人の来訪が女王の耳に届く事も無いだろう。故に、宿屋にいない以上、この国には訪れていない事を示していた。

 

 残る候補は一つ。

 カミュ達が死闘によって解放した国。

 誇り高く、美しい国。

 そして、カミュの中に流れる血の元となる国。

 

「ルーラ」

 

 宿屋を出て、町の門を出たカミュは、西の空へ視線を動かした後、再び移動呪文の詠唱を行った。

 <ルーラ>という名の移動呪文は、他の攻撃呪文よりも魔法力の消費が激しい。実際に身体を魔法力で包み込み、移動中は常に魔法力を放出しなければならないのだ。

 元々魔法力の量に関しては、『魔法使い』や『僧侶』に及ばないカミュでは、一日で行使出来る回数は限られていた。

 

 魔法力に包まれたカミュは、空高く舞い上がり、そのまま東の空へと飛んで行った。

 太陽は真上に輝き、大地を暖かく照らしている。

 『日出る国』の方角から昇った太陽は、リーシャ達が飛んで行った方角へと沈んで行っていた。

 

 

 

 カミュがジパングへと辿り着いた頃には、太陽は完全に隠れ、周囲は夜の闇に支配されていた。夜の帳が落ちたジパングの村は静まり返り、門は固く閉ざされている。

 門を叩く事が出来ないカミュは、近場の木の根下で野営を行う事にした。木々を拾い、火を熾す。赤々と燃える炎から立ち上る煙が、夜空に輝く星々へと吸い込まれて行った。

 

 ジパングには宿屋がなかった筈。

 基本的に自給自足の国であるジパングに旅人が立ち寄る事は少なく、その為の宿を経営する必要性も余裕も有りはしないのだ。

 旅の宿屋がない以上、リーシャ達が宿泊する場所はない。国主であるイヨに謁見出来れば、寝泊まりする場所程度であれば借り受ける事は出来るだろうが、まず謁見出来るかどうかが定かではない。

 既に、カミュ達がジパングを出発してから数か月の月日が経っており、カミュ達の事を忘れる者はいないだろうが、『ヒミコ』という国主の姿に化けた魔物の脅威に曝されていた国である為、警備が厳しくなっている可能性もあった。

 門番が奥へ取り次がなければ、イヨとの謁見の機会は与えられない。リーシャ達の選択肢は限られているのであった。

 

 そこまで考えて、カミュは瞳を軽く閉じた。

 リーシャ達がいない以上、野営時にカミュは熟睡など出来ない。常に警戒心を持ったまま、剣を抱え、木に背中を預けたまま浅い眠りに就くのである。

 

 

 

 ジパングの朝は早い。まだ陽が昇りきらぬ内から、村の中から煙が立ち上り始める。

 朝餉を作る準備をしているのだろう。それを食し終われば、民達はそれぞれの仕事に出て行く。穀物等を育てる者は、畑や田へ出て行き、獣を狩る者達は、各々の武器を手にして森へと入るのだ。

 そんな一日の始まりの時、珍妙な来訪者が大手門を叩いた。

 

「ガイジンか? ん?……貴方はあの時の!」

 

 門番をしていた若者は、カミュの顔を見て、『ガイジン』という表現を使用した。

 ジパングの血を継いでいると考えられるカミュの髪の色は、ジパングで生きる民と同様に漆黒と言って良い程の色合いを持っている。

 しかし、小さな国であり村であるジパングでは、生きる全ての者は顔馴染みであり、それ以外の者は『ガイジン』という括りで括られるのであった。

 

「な、なんの用ですか?」

 

 門を開いた若者の顔には、若干の怯えが見える。サラやリーシャであれば、哀しみを宿した表情を作るのかもしれないが、カミュとしては、その若者の態度に何の感情も抱く事はなかった。

 むしろ当然の事とでも考えているように、軽く頭を下げた後に門を潜って行く。

 

 例え、<ヤマタノオロチ>というジパングを滅亡に追い詰める魔物を倒した『英雄』とはいえ、カミュ達が示した力は強大。

 彼等が歯も立たなかった相手を追い詰め、倒してしまった力は、ジパングの民からすれば、未知の物であり、恐怖を抱く程の物であったのだ。それは、致し方ない事なのかもしれない。

 カミュ達の力が自分達の敵に向かっている間は安全であろうが、その力が自分達に向かってくれば、対抗する術を彼等は持ち合わせていないのだ。

 唯一の頼みの綱は、彼等が自国の主である『イヨ』という国主と友好的な関係を持っている事ぐらいだろう。

 

「いえ、以前ここを訪れた際に私と共にいた人間が、こちらにお伺いしてはいないかと思いまして」

 

「え?……ご一緒ではないのですか?」

 

 この若者の脳には、カミュ達一行が鮮明に残っているのであろう。カミュの問いかけに対し、心底不思議そうに首を傾げた。

 若者の姿を一瞥したカミュは、そのまま村の中を見渡す。早朝と言っても過言ではない時間帯にも拘らず、人々は忙しなく動き回っている。誰も入口から入って来たカミュに意識を向ける事はなく、狩りへ出る者などはカミュの脇を抜けて外へと出て行っていた。

 

「失礼ですが、この門を常に見ておられるのですか?」

 

「あ、はい。私がこの門を管理しています。交代制ではなく、夜はこの家で休んでいますので……」

 

 若者へと視線を戻したカミュの問いかけに、若者は反射的に頷きを返す。若者の言葉通り、門の近くには、一軒の平屋が建てられていた。

 おそらくそこで寝泊りをし、この門の開閉を任されている国主所属の兵士なのだろう。

 他国国家のように、夜間の来訪者がないジパングでは、夜にまで門を開閉する事は有り得ない。魔物の侵入の恐れを考えて配置されているのかもしれない。

 

「そうですか……ありがとうございました」

 

「え?……もうお帰りですか?」

 

 仮面を被ったままのカミュは、そのまま門を出て歩き始める。

 中に入る事も無く、国主への謁見も行わずに立ち去ろうとするカミュを見た若者は、驚きを表すが、それに関心を向ける事も無く、カミュの姿は森の中へと消えて行った。

 

 若者がカミュと同道していた人間を憶えていた以上、ここにリーシャ達が立ち寄った事実はない。

 彼が門番として四六時中この門を護っているのだ。この門を通過する人間の中に、リーシャ達がいなかった事は明白であり、それは、カミュがこのジパングに滞在する理由がない事を示していた。

 既にカミュがリーシャ達と別れてから一か月近くの月日が経過しようとしている。これ程の時間が経過しているのにも拘わらず、ジパングへ到達していないのであれば、リーシャ達がこのジパングを訪れる可能性は皆無と言っても良い筈なのだ。

 

「ルーラ」

 

 完全に森へ入った事を確認したカミュは、再び詠唱を行い、その身体を上空へと浮かび上がらせた。

 おそらく最後になるであろう移動呪文の効果により、カミュを包む魔法力は、一気に北西の方角へ飛んで行く。

 その場所は巨大な港のある国ポルトガ。

 

 

 

「一人なのか?……見つからなかったか……」

 

 ポルトガの港へ入ったカミュを待っていたのは、頭目だった。

 カミュ一人の帰還に対して、明らかな落胆を示した頭目を無視するように、カミュはその脇を抜けて船へと向かう。

 自分を一瞥する事さえないカミュを頭目は慌てて追いかけるが、無言で歩き続けるカミュの表情の奥を窺う事は出来なかった。

 

「どうするんだ? おい!」

 

「……船を出してくれ……」

 

 何も語ろうとしないカミュに苛立ちを覚えた頭目が声を荒げる。頭目としても、カミュがリーシャ達と共に戻って来る事を期待していたのだろう。

 それが叶わなかった事への八つ当たりも少なからず含まれてはいるが、初めて見ると言っても過言ではない、刺を前面に出しているカミュを見て、恐怖を感じたのかもしれない。

 

「船を出すって!? 何処へだ?」

 

 故に、声が荒くなる。

 頭目はカミュを信じている。

 紛れもない『勇者』として。

 

 しかし、カミュ個人を『勇者』として信じている反面、そのカミュと共に歩む者達が居てこそ、『勇者一行』であるとも感じている。それは、彼が一人で戻って来た時に確信に変わった。

 今のカミュは『人』を感じさせない。

 言葉も少なく、感情も見えない。それは、相対する者に恐怖すらも感じさせる程に冷たいのだ。

 共に歩む者達がいた時、彼には小さくとも感情の起伏があった。

 小さな微笑み、優しく細められた瞳、困惑の表情、明確な怒り。そんな『人』として当たり前の感情の表現を、解り辛い程に小さくではあるが表に出させていたのは、共に歩む三人の女性であったのだ。

 

「アンタが言えば、俺達は何処へだって向かう! まだ諦めてはいないのだろう!?」

 

 その事に気が付いた頭目は、必死にこの青年の感情を探ろうと声をかける。前を行くカミュの前に立ち塞がり、その瞳を射抜くように見つめた頭目の姿がカミュの足を止めた。

 暫く睨むように対峙していた二人ではあったが、先に折れたのはカミュ。

 一度瞳を閉じ、息を吐き出したカミュは、目的地を告げる為、開いた瞳を頭目へと向けた。

 

 イシス、ジパングと移動し、その場所でリーシャ達と再会する事が出来なかったカミュは、頭の隅に残っていたもう一つの候補先を引き摺り出していた。

 その場所は、カミュが考え出した三つの候補先をも凌ぐ程の可能性を持つ候補。本来であれば、真っ先に確かめる必要性のある場所だった。

 

「ポルトガから西にある、あの未開拓の地へ行ってくれ」

 

 その場所には、カミュ達四人が絶対の信頼を置く『商人』がいる。

 その場所には、メルエのたった一人の友人である『アン』の父親がいる。

 それだけを見ても、最有力候補として充分な理由が存在した。

 ならば、何故カミュはその場所を候補に入れなかったのか。

 

 それは<ルーラ>という魔法の特性が関係していた。

 一度訪れた場所のイメージを頭に浮かべる事により、その場所へ魔法力によって移動する事が可能なのが<ルーラ>という魔法であるのだが、それは術者の頭の中に残っている物と、現実の場所が一致しなければならない。

 大凡の方角が解っていたとしても、明確な地点を示せない以上、記憶を辿り、その場所へ移動する以外に方法はないのだ。

 故に、トルドの作る町へは<ルーラ>で移動する事は出来ない。何故なら、日々変化して行く町の姿は、カミュの記憶どころか、予想や想像をも超えてしまう程の変貌を遂げているからである。

 その事を考慮に入れ、カミュはあの場所を候補地から外していたのだ。だが、それはカミュが明確にイメージ出来ないだけであり、カミュの<ルーラ>では辿り着けないという事実が元になっている。

 もし、カミュ以外の人間であれば、あの場所を明確にイメージする事が出来たとしたら。

 サラはカミュ以上に頭で考える人間である為、確実に無理であろうが、魔法の才能の塊と言っても過言ではないメルエは解らない。

 メルエの<ルーラ>がその土地ではなく、そこにいる人間をイメージして移動するものだとしたら、カミュの考えは根底から覆されてしまうのだ。

 

「よし! 野郎ども出港だ!」

 

 カミュが乗船した事を確認した頭目は、作業をしていた船員達に指示を出す。頭目と同様にリーシャ達三人がいない事に落胆していた船員達ではあったが、頭目の指示を受け、再び船乗りとしての瞳へ変化して行った。

 錨が上げられ、帆が張られる。

 暖かな陽の光と、心地よい風を包み込んだ帆が、巨大な客船を海原へと運び始めた。

 

 予期していなかった一人旅は、今も尚続いて行く。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

大変お待たせいたしました。
今回のお話は、幕間としても良かったのですが、敢えてこのまま投稿致しました。
かなり助長的になってしまっているかもしれませんが、カミュの一人旅を表現する事が、この後の展開に必要である為、この形となりました。
おそらく、彼の旅はもう少し続きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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無名の土地【カミュ】

 

 

 

「その『くらげ』から倒して行け!」

 

 ポルトガ領海を抜けようとしている船上では、聞いた事のないような怒鳴り声を発する青年が剣を振っていた。青年の指示を受けた船員達が各々の武器を手に、船上でふわふわと浮いている白い物体に襲いかかって行く。次々と倒されて行く<しびれくらげ>の山が船上に出来上がって行った。<しびれくらげ>の針を避け切れないと諦めかけた船員の前には、いつの間にか移動していた青年の盾が掲げられる。

 ポルトガ港を出港してから既に一日が過ぎている。その僅か一日の間でも、この船の上では何度かの戦闘が行われていた。

 如何に比較的安全なポルトガ領海といえども、海は海。他の地域の海よりも穏やかであり、魔物の出現率も低いというだけで、魔物が生息する事には変わりはない。出現する魔物は下位種の部類に入る物ではあるが、ここまでの船旅とは違い、カミュは更に広い視野を持たなければならず、悪戦苦闘と言っても過言ではない戦闘を行っていた。

 

「危ない!」

 

「ぐっ……」

 

 <しびれくらげ>の針を、ポルトガで新調した<鉄の盾>で防ぎ、そのまま剣を振って<しびれくらげ>を両断したカミュが、傍で船員に腕を振り上げている<マーマン>へと向かって駆け出そうとしたその時だった。

 救われたばかりの船員の声がカミュの耳へと届き、反射的にカミュは身を捩る。カミュの後方から飛び出して来たのは、新たに船上へと上がって来た<しびれくらげ>の針だった。常人離れした反射神経で避けたかに思われたカミュの腕を、<しびれくらげ>の針が掠めて行く。

 

「大丈夫か!?」

 

 カミュを襲った<しびれくらげ>を横合いから斬り伏せた男が、カミュの傍へと近寄って来るが、その男を払い退け、最後の一体となった<マーマン>をカミュが斬り伏せた。 船上には魔物達の死骸が散乱しており、戦闘終了を理解した船員達が、魔物の死骸を海へと沈め、怪我人の治療を始める。

 

「大丈夫か? 毒にやられてはいないか?」

 

「……大丈夫だ……」

 

 船員達に指示を出し終えた頭目が、腕を抑えるカミュの許へと歩み寄り、その傷を覗き込んだ。<しびれくらげ>の毒に関しては、以前にメルエの症状を見ている為、遠巻きで船員達も心配そうにカミュへ視線を送っている。カミュは無表情を貫き、腕に<ホイミ>を掛けた後、何事もなかったように立ち上がった。

 既に対岸の陸地は微かに視界に納まっている。陸地の入江に停泊出来れば、余程の事がない限り、魔物に襲われる心配もないだろう。

 浅瀬であれば、<マーマン>のような半魚人は上がっては来れず、<しびれくらげ>のようなくらげ類もいない。故に、カミュは陸地へ近付ける事を速めるように頭目へ指示を出した。

 

 

 

 入江に停泊した船から小舟を出し、カミュは単身で陸地へと上がって行く。カミュが一人である事を危惧した頭目が、元カンダタ一味である人間の内、何人かを同道させようかと提案するが、『足手まといだ』というカミュの言葉を受け、不承不承に頷きを返した。カミュの真意が言葉通りの物ではない事を頭目は理解している。それでも、納得出来なかったのだ。

 陽が傾いて来ている為、カミュは浜辺で一夜を明かし、明朝にトルドが作っている町へと向かって歩き出した。

 東の大地から顔を出した太陽の強烈な光がカミュの背を押して行く。朝陽を背中に受けた彼は大地を踏みしめ、西にある森の中へと入って行った。森の中には陽の光は届かず、未だに眠りについている木々が侵入者に対してざわつきを示している。

 

「!!」

 

 森を歩く最中、カミュは森の木々の喧騒以外の音を耳にした。何かが羽ばたくような微かな音を感じ、カミュは足を止めて背中の剣を抜き放つ。動物達が寝静まる森の中で動き回る可能性があるとすれば、それは魔物以外の何物でもない。カミュは静かにそれが来るのを待っていた。

 

「シャ――――」

 

 そして、カミュの予想を裏切らない物体がカミュの左手から登場する。その数は二体。正確には二匹、いや二頭と言うべきなのだろうか。カミュの左手の森の中から登場したそれは、小さくはない羽をばたつかせ、空中を漂っている。鳥のような高度を保っている訳ではないが、カミュの目線の場所を漂うそれは、厭らしい笑みをカミュへと向けていた。

 その姿は、かなり昔にカミュ達が遭遇した物に酷似している。それは、メルエが加入するよりも以前。カミュ達が未だにアリアハン大陸を彷徨っていた頃の話である。

 

<しびれあげは>

その姿は、アリアハン大陸にある<ナジミの塔>に生息していた<人面蝶>に酷似している事から、その上位種ではないかと推測されていた。ただ、本来は、海を渡る事が難しい昆虫類の姿をしている事から、完全に別の種類という説もある。<人面蝶>のように身体に持つ羽を動かして空中を漂い、その腹に浮かぶ人面の口に生えた牙によって人を襲う。その牙には<人面蝶>とは異なり、その名の通り、<しびれくらげ>と同様の毒が含まれていると云われていた。

 

 襲いかかって来る<しびれあげは>の攻撃を避けたカミュは、右手に持つ剣を振るおうと手を掲げるが、それはもう一体の<しびれあげは>によって妨げられた。

 右側から襲いかかる魔物の動きは<人面蝶>よりも遙かに素早い。連携するように左側から牙を剥く<しびれあげは>の攻撃がカミュの頬を掠めた。

 傷口から血が滲み出て来てはいるが、カミュの身体を違和感が襲う事はない。牙からの毒の進行は防げたようであった。

 

「ちっ!」

 

 しかし、カミュは大きな舌打ちを発し、一度後方へと大きく下がる。魔法を詠唱する素振りを見せないカミュにしては、とても珍しい行動であった。

 大きく距離が空いた事により、<しびれあげは>達は、カミュへの視線をそのままに警戒するように飛び回っている。カミュは息を吸い込み、小さく吐き出す。自身の身体に問いかけるようなその行動は、実は前日の船上まで遡る。

 <鉄の盾>が装備されていたカミュの左腕は、船を降りる辺りから上手く稼働してはいないのだ。まるでカミュの指示が腕に伝わらないかのように、垂れ下ってしまった腕には、<鉄の盾>の重量は厳しく、出発する際に、背中の剣の鞘の上に被せるように結びつけてあった。

 今もカミュの左腕は硬直したように動く事はなく、<しびれあげは>の攻撃を弾く盾を持つ事さえ叶わない。メルエのように首筋を打たれた訳でもなく、身体が小さい訳でもないカミュは、針で刺されたというよりも、針が掠めただけであった為、左腕の麻痺というだけの障害で抑えられたのかもしれない。ただ、それも単身での戦闘の弊害となる事には変わりはない。

 

「シャ――――」

 

 <人面蝶>のように魔法の詠唱を行う様子のない<しびれあげは>は、本来であればカミュの敵ではない。しかし、今のカミュは一人である上に、手負いの状態。本来の動きが出来ないカミュにとっては、<しびれあげは>程度の魔物でも苦戦を強いられるのだ。

 動かない左手を庇いながら、剣を振るう。カミュが魔法を詠唱する為には、媒体となる手を使用しなければならないのだが、右手は<草薙剣>を握っており、左手は動かない。剣を鞘へと納める余裕もない以上、呪文の行使は不可能と言わざるを得ないのだ。

 

「くそ!」

 

 <しびれあげは>の牙を、辛うじて剣で弾き返したカミュは、横合いから飛び込んで来るもう一体に向かって蹴りを放った。高く飛び上がり、真上へ蹴り上げた足は、<しびれあげは>の腹に命中し、不快な感触を残す。

 自身の身体の中央を強烈に蹴り上げられた<しびれあげは>は、内部を傷つけられたのか、大きく開かれた口から大量の体液を吐き出して絶命した。

 

「キシャ――――」

 

 着地した所を狙い撃ちして来た残る一体を剣で払い退け、距離を保ったままカミュは<草薙剣>を振り下ろす。体制を崩して飛んでいた<しびれあげは>は、カミュの剣筋を避ける事が出来ず、羽を斬り飛ばされた。

 生命線である片羽を斬り飛ばされた<しびれあげは>は、飛ぶ事が出来ずに、地面へと落下する。もはや朽ちて行くだけしかない魔物を一瞥したカミュは、静かに止めを刺す為に、剣を突き刺した。

 

「ちっ」

 

 たった二体の魔物、それも魔物の中でも力が強くはない魔物に苦戦する自分に苛立ちを覚えるカミュであったが、今も尚稼働しない左腕に視線を向け、大きな舌打ちを発する。

 『麻痺』という症状は簡単に治る物ではない。前回のメルエは、全身に毒が回り、激しい痙攣を起こした後、白目を剥いて倒れてしまった。今回のカミュはそれ程に酷い症状ではないが、生涯残る物かもしれないという可能性は捨て切れないのだ。

 陽は、既に真上に上ろうとしている。トルドのいる町へ辿り着くには、それ程時間を要しないだろう。苛立つ心を押さえながら、カミュは剣を鞘へと納め、そのまま森を抜けて行った。

 

 

 

「………よく……きた………」

 

 以前見た時とあまり変化のない門を叩き、中から出て来た老人に会釈を返す。以前来た時よりも綺麗に整えられた更地は、大きく広がり、トルドが造った店舗はそのままに、町としての様相を変貌させていた。

 その変貌に驚く余裕は、今のカミュにはない。垂れ下がる左腕を押さえながら、カミュはトルドらしき男が立っている場所へ向かって行く。

 

「ん?……あれ? アンタ一人なのか?」

 

 後方から近付いて来る気配に気付いたトルドは、振り向いた先にいた人間に頬を緩めるが、その後方から近付いて来る筈の少女がいない事に眉を顰めた。

 トルドの問いかけを聞いて、カミュは表情を固める。トルドの問いかけが、カミュがここへ訪れた意味を失わせてしまったからだ。カミュを見て、メルエの存在がない事を不思議に思ったという事は、この場所にリーシャ達三人が訪れていない事を明確に示している。

 つまり、カミュの予測は全てが間違いだった事を証明したのだ。

 

「何故アンタ一人なんだ? 他の三人はどうした?」

 

 カミュの表情の変化は、トルドが把握できる程に顕著な物であった。普段はリーシャやメルエでなければ、カミュの乏しい表情の変化を把握は出来ない。それをトルドも理解しているからこそ、カミュの表情の大きな変化は、彼の胸に嫌な想像を浮かび上がらせた。

 船の頭目や船員達が想像したような、最悪な結末。それは、トルドにとって何よりも受け入れる事の出来ない結末だった。

 

「おい! 何とか言ってくれ! 三人は……メルエちゃんはどうしたんだ!?」

 

 もはや、トルドの声に余裕はない。カミュの肩に掴みかかったトルドはその肩を大きく揺らし、声を張り上げる。しかし、何かに放心してしまったようなカミュは、トルドの強い問いかけに答える事が出来なかった。それが、トルドの心に迫り来る不安を大きくしてしまう。

 暫しの間、揺らされ続けたカミュが、その右手をトルドの腕に掛けた事で、トルドはようやく我に返った。

 

「アンタ……その腕はどうしたんだ? 魔物か? その魔物にメルエちゃん達は……」

 

「……メルエ達は無事な筈だ。それを確認する為に俺はここに来た……」

 

 カミュの動かない左腕を確認したトルドは、それが魔物との戦闘によって受けた物である事を察し、自分の頭の中に膨らみ続ける最悪の想像に絶望する。しかし、その想像は、即座に否定された。

 気休めのような言葉を発するカミュに強い視線を向けたトルドは、カミュの瞳に映る強い炎を見て、心を落ち着かせて行く。カミュの瞳には『絶望』や『諦め』は見えない。それが、カミュが発した言葉が真実であると信じさせた。

 

「ならば、どういう事だ?」

 

 落ち着きを取り戻したトルドは、カミュの肩から手を離し、まっすぐカミュの瞳を見つめて問いかけた。

 何がどうあろうと、カミュの口から真実を聞き出すつもりなのだろう。真実を歪めて伝える事など出来る訳がない。カミュは、一度呼吸を整え、彼が三人と別れる事になった経緯を話し始める。陽はリーシャ達が消えて行った西の空へと沈み始め、トルドの影が地面に長く伸び始めていた。

 

 

 

「……そうか……とりあえず、陽も落ちてしまったし、家の中へ入ろう」

 

 カミュが経緯を話し終えた時には、太陽は西の大地へ半分ほど身体を隠し、空を真っ赤に染め尽くしていた。

 トルドは一つ息を吐き出し、カミュを誘って一軒だけある店の中へと入って行く。既に陽も落ちた以上、カミュもこの町を出る気も無く、また次の目的地も定まっていない事から、トルドの後ろに続いて建物の中へと入って行った。

 

「……人を弾き飛ばす魔法ね……とんでもない物があるのだな……」

 

 建物の中に入ったトルドは、カミュを椅子に座らせた後、店の倉庫から<かぶ>のような作物を持って出て来た。それを摩り下ろし、湯と混ぜ、カップに入れた物をカミュの前へと差し出す。目の前に出された物が何であるのかが解らないカミュは、窺うようにトルドを見つめた。

 只の飲み物ではない事は理解出来る。だが、何故それを飲まなければならないのかがカミュには理解出来ないのだ。

 

「アンタの左腕は、『麻痺』状態になっているのだろう? <しびれくらげ>や<しびれあげは>と戦う時は、この<満月草>は必須だぞ?」

 

「『麻痺』を治療する道具があるのか?」

 

 先程トルドが取って来た物は、<満月草>と呼ばれる道具であった。<薬草>や<毒消し草>のように摩り下ろし、その成分を体内に入れる事で治療する事の出来る道具。

 『賢者』と呼ばれる者しか行使出来ない<キアリク>という魔法以外には治療方法がないと考えていたカミュは、その存在に純粋な驚きを示す。もし、この存在を知っていたら、船上での戦いは飛躍的に楽になっていた事だろう。<しびれくらげ>の存在に気を遣う必要はなく、戦闘の際にカミュの行動の制限がある程度緩和されていた筈だ。

 

「存在自体を知らなかったのか? 『麻痺』に罹ったのは初めてなのか?」

 

「いや……『麻痺』を治療する呪文を、あの『僧侶』が行使できた」

 

 今度はトルドが驚く番だった。トルドは細かな情報をも仕入れているという自負はある。商売には情報が必需品であり、それ無くして大きな商売は成り立たない。俗に『商人』と呼ばれ続ける者には、必ず独自の情報収集力があるのだ。そんなトルドであっても、『麻痺』という症状を治療する魔法という存在を示す情報は持っていなかった。

 教会で治療出来る物は、単純な『毒』であり、『麻痺』を治療する事の出来る僧侶の存在など、トルドの記憶が正しければ、この世には存在しない筈。それは、この世界の常識であるのだ。

 

「『僧侶』ではないな……今は『賢者』か……」

 

「姿が変わったと思っていたが、凄い人になっていたんだな、あの人は」

 

 何かを思い出したように話すカミュを見て、トルドは笑いを洩らした。

 確かにトルドが初めて見たサラは、法衣を纏い、僧侶帽を頭に被っていた。しかし、この場所へとトルドを誘う為に再び訪れた彼女は、既に法衣を纏ってはおらず、『僧侶』と認識する事の出来る物は、その身に纏った異なった法衣のような衣服に、申し訳程度に刺繍された十字架だけであったのだ。

 そんな事を思い出したトルドの優しげな笑みを見て、カミュは口を閉じる。

 

「まぁ、気に病むなとは言わないが、おそらくメルエちゃん達は無事だろうな。何と言っても、あの『戦士』さんが、俺と約束してくれたしな」

 

「……その『戦士』が問題の原因なのだがな……」

 

 メルエを大事に想っているトルドだからこそ、今回の事への追及があるかもしれないと考えていたカミュは、予想とは異なり、力強い言葉をかけて来るトルドにようやく薄い笑みを浮かべた。

 事実、カミュの言う通り、彼女達三人が飛ばされたのは、魔法の影響を受けたリーシャを抑える為に飛びついたメルエとサラも一緒に飛ばされたからなのだ。だが、今となっては、このような形になって良かったさえ、カミュは考えていた。

 何故なら、リーシャ一人で飛ばされていたとすれば、魔法を使えない以上、自分の身体の治療方法も無く、移動する術もない。必然的にそれは『死』へと直結し、メルエを悲しませる事になっていたからかもしれないからだ。

 

「その飲み物を飲んで、今日はここでゆっくりと休んで行けば良い。明日には『麻痺』も取れているさ。何なら、<満月草>も幾つか持って行くか?」

 

「いや、売ってくれ。船で移動する以上、必ず必要になる筈だ」

 

 カミュは、資金と在庫が許す限りの数をトルドから購入する事にした。カミュの言葉通り、今後も船で海を渡る旅は続いて行くだろう。その中で<しびれくらげ>と遭遇する機会は多くあるだろうし、サラがいない以上、それに対する対応策は必須となる。

 カミュの言葉に若干の驚きを示したトルドであったが、暫し笑った後、『商人』としての顔に戻っていた。

 

「よし。ならば、大量購入って事で少し割引してやろう。明日の朝に店のカウンターに在庫を出しておくよ」

 

 トルドの言葉に頷いたカミュは、客室へと通され、ポルトガ帰港時以来の睡眠を取る事になる。ゆっくりとベッドへ入ったカミュは、未だに痺れたように動かない左腕を抱くように瞳を閉じた。

 彼の考えていた候補地は全て空振りに終わった。リーシャ達が行く場所など、カミュにはもう浮かんでは来ない。振り出しに戻るどころか、完全な闇の中へと落とされたような物である。

 

 それでも、彼は前へと進まなければならない。

 例え、一人での旅の限界を痛烈に感じていたとしても。

 彼が『勇者』である限り、彼に生き方の選択肢は与えられてはいない。

 

 

 

 

 

 翌朝、カミュが目を覚ました時には、既に建物の中にトルドの姿はなく、店のカウンターには、昨日見た<満月草>が所狭しと置かれていた。

 外へ出ると、既に陽は完全に大地から顔を出し、明るく世界を照らし出している。ここまでの一人旅による肉体的、精神的の疲労がカミュへと襲いかかり、珍しいまでの眠りに落としていたのだろう。

 外へ出たカミュは、周囲を見渡し、昨日同じ場所に立っているトルドを発見した。広く更地にされた場所には、数多くの材木と石、そして煉瓦のような物が積まれている。それは、何かを建設する予定である事を窺わせているが、当のトルドは、腕組をしたままその場所を眺めているだけであり、思い出したかのように手を広げたり、数歩だけ歩いたりしている姿は、カミュには奇妙な物に映っていた。

 

「何をしているんだ?」

 

「おお、おはよう。実は、この場所に劇場を建てようと思っているんだが、なかなかその建物の構図が出来上がらなくてな」

 

 カミュが近付いて来た事に気付いたトルドは、朝の挨拶を返すが、すぐに腕を組み直し、再び難しい顔を始める。カミュは、トルドの答えを聞いて若干の驚きを見せた。

 基本的にトルドは『商人』であっても『建築家』等ではない。町は『商人』がいなければ成り立たないが、『商人』がいれば出来上がる訳でもない。人の住む家屋等の建築は、この時代であれば個人でも行う事は出来る。自分の住む家を隣人の協力を仰ぎながら建てる事などは日常茶飯事であり、そこに専門職の出番はない。だが、劇場や城などとなれば、そこにデザインや趣向、そして防備に関しての知識や才能もなければならなくなる。とても一介の『商人』が行える範疇ではないのだ。

 

「アンタが建てるのか?」

 

「他に人がいない以上、そうする他ないだろう。人が集まる所には、何かしら華やかな物がなければいけないからな。まぁ、見ていてくれ。立派な劇場を建てて見せるさ」

 

 カミュの疑問を、さも当たり前の事のように答えるトルドに、カミュは目を丸くする。それと同時に、トルドの笑みの裏にある影にも気が付いた。何か危惧している事があるのか、更地を見つめるトルドの瞳が、出来上がった劇場の姿を見ていないようにも感じたのだ。

 そして、その胸の内を表すように、トルドは落ち着きなく周囲を歩き回っていた。

 

「それにしては、何か不安があるようだが……」

 

 既にカミュの左腕の『麻痺』は取れている。完全な状態ではないが、腕に命令は確実に通り、指の先までを動かせるようになっていた。その左腕を動かしながら、トルドの背中に向かって告げられたカミュの言葉は、トルドを驚かせるのには充分な威力を誇る物となる。

 弾かれたように振り向いたトルドは、自分を見つめるカミュの瞳を見て、諦めたように大きな息を吐き出した。

 

「アンタに言う事ではないから、聞き流してくれると助かるのだが」

 

 そう前置きを呟いたトルドは、ぽつりぽつりとこの町の現状について語り出した。それは、確かにカミュにはどうする事も出来ない事ではあったが、この場所にトルドを連れて来たのがカミュである以上、全くの無関係ではない事であった。

 

「アンタ方のお陰で、この場所の特産である材木は、ポルトガとの貿易を可能にした。比較的安全な航路である為か、多くの『商人』がこの町を訪ねて来るのだが、その船の多さが災いして、面倒な連中に目を付けられちまってな」

 

「……面倒な連中……?」

 

 トルドの言葉をそのまま返すカミュであったが、その存在に関して大凡の予想は出来ていた。

 『商人』等の人間にとって面倒な人間と言えば、その商売を邪魔する者以外には有り得ない。それが魔物でない以上、残る可能性は一つか二つだろう。それを示すように、トルドは軽く頷きを返した後、カミュの予想を裏切らない答えを口にした。

 

「ああ。この大陸の南部に居を構える海賊らしいんだが。その連中に襲われる『商人』達が相次いでな。貿易にも支障が出始めている」

 

 カンダタのような『盗賊』がいる以上、その活動場所を海や山に移している『海賊』や『山賊』がいても何ら不思議ではない。カンダタ達は、町等の拠点を襲うのに対し、『山賊』は山を渡る者達を、『海賊』は海を渡る者達に襲いかかる。荷やゴールドを奪い、最悪の状況であれば船に乗る者達をも襲い、殺して行く。そういう賊に襲われた者達の噂が広まれば、危険を冒す者は少なくなり、必然的に商いの道は閉ざされてしまう。

 この時代で商売が衰退して行った理由である『魔物による被害』という物が、『賊による被害』と名を変えただけの事である。

 

「しかし、この時代で船を使って渡る人間は多くない。根こそぎ奪っていては、その内に船も海に出なくなり、海賊の収入源も枯渇するのではないか?」

 

「ああ。アンタの言う通りだ。だからこそ、奴等はここへ来た。自分達の収入を確保する為にな」

 

 カミュの言う通り、海で生きる『海賊』にとって、貿易船は何物にも代え難い程の収入源であり、それ無くしては成り立たない物。故に、余りにも狼藉が激しければ、その収入源自体が無くなり、『海賊』としての生活も成り立たなくなるのだ。

 だが、カミュの疑問は、トルドが発した言葉によって、意外な方向へと向かって行った。

 

「奴等が来たのは、もう一ヶ月程前の事だな。この場所に町を作っている事を知らなかったのだろうが、襲った貿易船の人間が口を滑らせたのだろう。貿易船がこの場所へ来なければ、商売は成り立たないし、この町の発展も望めない」

 

 カミュは、頷きを返す。この町はまだ単体で活動できる程の規模を有してはいない。他の場所へ物を売り、他の場所にある物を買う。そして交流を続けている内に、この場所へ住み着く人間が出来る事を待っている段階なのだ。

 人が集まらなければ、この場所が町として成り立つ事はない。故に、トルドの考えは正しいと言って良いだろう。

 

「……それで……?」

 

「奴等は交換条件を出して来た。貿易船を襲わず、魔物等から護る為に護衛をする代わりに、利益の分け前を寄こせという物だ」

 

 続きを促したカミュに向かって発したトルドの答えは、どこか納得の行く物であった。『海賊』としての要望としては、至極真っ当な物であろう。この時代の海は、魔物の被害によって商いの衰退へと進む程に危険に満ちている。その護衛代金として利益の分け前を要求するのであれば、随分と良心的な『賊』と言っても過言ではない。

 

「……随分とまともな海賊なのだな……」

 

「何でも、最近になって代替わりをしたらしい。だがな、その要求されている分け前の率が難しい。それに……」

 

 要求されている割合が、『商人』としてのトルドは納得が行かないのだろう。それとは別に、何かを口籠るように下を向いたトルドを見て、カミュはその胸の内を悟った。

 彼は、『賊』と名乗る者達の明確な被害者でもあり、加害者でもあるのだ。

 彼がとある村の活性化の為に引き入れた盗賊一味は、思惑通りに資金を村へと落として行った。しかし、その後に一味の一部が独断で行った行為は、トルドを立ち直れない程の後悔の谷底へと落として行く。カミュ達の前では気丈に振る舞っている彼ではあるが、その後悔の念は、彼の胸に刻み込まれ、生涯消える事はないのだろう。

 

「その回答を出すのは何時だ?」

 

「後二週間ちょっとだな。もう一度その海賊の首領を伴ってここを訪れると言っていた」

 

 おそらくここを最初に訪れた時、海賊達は首領を乗せてはいなかったのだろう。偵察を兼ねて上陸したのか、それとも首領からそういう指示を受けていたのかは解らない。ただ、その要求内容を考えると、後者の方が可能性は高いだろう。その代替わりをした首領が優秀なのかもしれない。

 

「……二週間……」

 

「ん?……あっ! 済まない、アンタに考えさせるつもりはなかった。アンタにはアンタの旅がある。この町は俺がアンタから託されたんだ。相談するような事を言っておいて申し訳ないが、この件は俺に任せてくれ。それよりも、アンタはメルエちゃんを見つけてくれよ。四人でここを訪れてくれるのを待っているよ」

 

 何かを考えるように俯いたカミュに気付いたトルドは、慌てて言葉を紡ぐ。矢継ぎ早に発する言葉は、カミュの反論を認めないという意思表示にも見えた。

 トルドは基本的に頑固な男である。それを理解しているカミュは、ここでトルドの意志を覆す事の難しさを悟り、一度大きく息を吐き出した。

 

「ここは、アンタの造る町だ。こう言ってはあれだが、アンタの思うようにすれば良い。だが、それ程心配をする必要性も感じない。要求内容を聞く限り、海賊の首領も只の馬鹿ではないのだろう。多少の無理はあるかもしれないが、交渉の余地は残されている筈。アンタを殺す事の利がない以上、こちら側の要求もある程度は通る筈だ」

 

「……そうだな……よく考えてみる」

 

 真っ直ぐトルドを見つめるカミュの瞳は、彼の内心を正確に物語っている。事実、その海賊と会っていない以上、無責任な事は言えないのだが、カミュはトルドの身をそれ程心配してはいなかった。

 海賊側の要求内容を考えると、それは『交渉』というテーブルを用意する事も可能であり、カミュの言う通り、海賊側にはこの町を造り出そうとするトルドの存在を消す利が何もない。むしろ、如何にお互いが納得の上で自分の要求を押し通すのかという、至極真っ当な方法を選んでいると言えるのかもしれないのだ。

 

「あの<満月草>という物には、どれぐらいのゴールドを支払えば良い?」

 

「おう! 割り引くと言ってしまったからな。本来であれば600ゴールドは貰うが、半額の300ゴールドで良い」

 

 話題を変えたカミュの言葉に、トルドも先程までの張りつめた表情を崩した。トルドの中で不安と葛藤があったのだろう。それが和らいだ事で、トルドの中にもある程度の余裕が生まれていた。この分であれば、海賊との交渉も上手く行くのかもしれない。後は、相手がならず者でない事を祈るばかりである。

 支払う金額を尋ねたカミュは、トルドの言った金額をそのまま支払った。カミュからすれば、初めて見る道具の標準価格は解らない。半額と言われても、実際の売値が解らない以上、安くなったのかも解らないのだが、相手がトルドという事で全面的な信頼を寄せているのだろう。

 事実、トルドの言う通り、<満月草>を置いている店では、一つ30ゴールドで販売している。それが20個ほどであるのだから、600ゴールドとなるのだ。故に、半額というのは、トルドの誠心誠意の心尽くしなのだろう。

 

「危なくなったら、迷わずに引け。その後の事は、俺達も間に入る」

 

「ふっ、そうだな。その時は、迷わずにアンタ達を頼る事にするよ」

 

 町の出口まで見送りに出たトルドに向かって、カミュが最後に口にした物は、リーシャやサラがいたら、驚きで目を丸くしてしまう程の物だった。彼が他人の心配をするという事自体が驚きであるのだが、更にはその他人の問題に干渉する事を宣言したのだ。

 アリアハンを出た頃では全く考えられない事である。それが、この二年以上の長い旅の中で、彼が少しずつ変化して行った結果なのかもしれない。

 しかし、トルドは昔のカミュをそこまで知らない。故に、カミュが口にした『俺達』という言葉に嬉しさを込み上げていた。

 彼は、リーシャ達三人を見つけ出す事を諦めてはいない。それを明確に感じ取ったのだ。故に、トルドは満面の笑みを浮かべて大きく頷きを返した。彼等四人の再会と、彼等の旅の無事を確信して。

 

 

 

 向かうべき場所は全て潰された。

 次に向かう目的地はない。

 それでもカミュは歩き出す。

 その先に、彼を待つ者達がいる事を信じて。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今週は、今日以外は更新は難しそうですので、昨日までに描いた物を区切りの良い所まで描き終えての更新となりました。次話は来週になると思われます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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~幕間~【???海域】

 

 

 

「本当にありがとうございました」

 

「助かった。礼を言わせてくれ」

 

「…………ありが………とう…………」

 

船と陸地を繋ぐ板橋を渡り終えた三人は、最後に降りて来た女性に頭を下げた。女性の背丈は、リーシャと同じ程の物。体つきも女性らしさを残す、丸みを帯びた物ではあるが、腕や足には細くしなやかな筋肉が無駄なく付き、並の男では敵わない程の力を有しているだろう。髪の毛は、リーシャとは異なり、腰の近くまで伸びた奇麗な癖のない物で、メルエのように明るい茶色をしている。太陽の光に輝くような光沢を持つ髪の毛は、潮風を受けて靡いている。瞳は細く鋭いが、リーシャとは違い、吊り上がってはいない。何処か優しさを持つ瞳の光が、彼女の魅力を最大限に引き出し、その求心力を示していた。

 

「まぁ、通り道だからな、気にするな。それよりも、俺との約束を忘れるなよ」

 

「はい! メアリさんも私との約束を必ず護って下さい。私は何があっても、メアリさんとの約束を護るように全力を尽くします」

 

腰に手を当てながら、快活な笑みを浮かべた女性の名は、メアリと言う。そのメアリに向かい、強い決意と想いを胸に頷いた女性の頭には、濃い蒼の石が埋め込まれたサークレットが着けられていた。強い想いは、必ず相手の胸にも届いて行く。尚一層の爽やかな笑みを浮かべたメアリは、大きく頷いた後、その横にいる幼い少女の頭を柔らかく撫でた。

 

「わかっているさ。俺とアンタ、女同士の約束だ、必ず護る。それに、メルエに嫌われたくはないからな。メルエも元気でな。約束を果たしたその時には、俺に会いに来いよ」

 

「…………ん…………」

 

柔らかく撫でる手に、気持ちよさそうに目を細めていたメルエと呼ばれた少女は、満面の笑みでその女性に頷きを返す。少女は大事そうに抱えていた帽子を被り、肩から掛けていたポシェットに手を入れ、その中から青く輝く小さな石の欠片を取り出した。その欠片の色は、サラがサークレットに嵌め込められている石よりも色は淡いが、神々しく輝く色彩は、目にする者の心を惹き付けて行く。

 

「ん? なんだ、これは?」

 

「それは、メルエが大事に想う相手に対して贈る物だ。有難く貰うんだな」

 

メルエの小さな手から石の欠片を受け取ったメアリは、その欠片を上空に掲げ、陽の光を透かしてその輝きに笑みを溢す。メアリと同じ背丈の女性戦士であるリーシャは、何処か悔しげにその様子を眺めていたが、その想いを口にせずにはいられなかったのだろう。皮肉めいた言葉をメアリへと溢した。

 

「はっ! お前は貰えていないのだな。何だ? お前はメルエに嫌われているのか!?」

 

「なんだと!」

 

皮肉めいたリーシャの言葉を聞いたメアリは、厭らしい笑みを浮かべて、この導火線の短い女性にからかいの言葉を投げかける。予想通りの食い付きを見せたリーシャは、背中の斧に手をかけようと伸ばすが、同時にメアリも腰の剣に手をかける。決して相容れない者同士。別の言い方をすれば、似た者同士と言うべきなのかもしれない。しかし、その二人の行動は、彼女達の足元までしか背丈がない、幼い少女によって止められた。

 

「…………メルエ………リーシャ………すき…………」

 

「うっ……」

 

「ど、どうだ! 私はメルエとずっと一緒だ。羨ましいか?」

 

『むっ』と頬を膨らませたメルエは、メアリを見上げて強く言い放つ。メルエの強い言葉を受けたメアリは言葉を詰まらせ、そんな表情を見たリーシャは、『それ見ろ!』とばかりに声を上げた。傍にいるサラから言わせれば、『何を張り合っているのだ?』と呆れるような内容ではあるが、二人としては譲れない物でもあるのだろう。

 

「ふん! 頭の悪いお前は、『賢者』の嬢ちゃんとメルエの言う事を聞いて、足を引っ張らないようにするんだな。俺と白黒をはっきり付けるつもりなら、何時でも来い!」

 

「なんだと! お前など一撃で仕留めてみせる。お前こそ、腕を磨いておけ!」

 

隣で小さく溜息を吐くサラとは異なり、二人を見上げるメルエの顔には笑顔が浮かんでいる。かなり険悪な雰囲気を持つ言葉の応酬ではあるが、彼女達を包む空気は優しさに満ちている。それを敏感に感じ取ったメルエは、二人を交互に見つめて微笑んでいた。

 

「じゃあ、俺は行く。お前らの旅は、辛く長い物となるだろう。そこには、お前達の大望を嘲笑い、罵る者達もいる筈だ。だが、お前達を信じる者もここにいる事を忘れるな」

 

「はい……ありがとうございました……」

 

船へと戻る前に振り向いたメアリは、サラの瞳を真っ直ぐと見つめて口を開く。その言葉は、先程まで呆れたような表情を浮かべていたサラの瞳を潤ませた。そんなサラに満足げな笑みを浮かべたメアリは、肩掛けにしている上着を翻し、船へと上がって行く。メアリの乗船と共に上げられた板橋は、船の中へと仕舞われ、船員によって錨が上げられる。船着場から徐々に離れて行く船を見上げ、メルエは大きく手を振り、船員達もそんなメルエに手を振り返していた。

 

リーシャ達三人が何故、船で移動していたのか。

船の乗組員をも従わせる女性と何故出会えたのか。

そもそも、メアリと呼ばれた女性は何者なのか。

 

それは、一ヶ月程前に遡る。

 

 

 

 

 

「メルエ、サラ! 私の身体から手を離すなよ!」

 

<ヘルコンドル>の魔法によって弾き飛ばされたリーシャ達は、魔法力に包まれたまま南西へと向かって上空を飛んでいた。腕にしがみついているメルエの身体を強引に引き上げ、自分の胸に抱いたリーシャは、メルエの腰を掴んでいたサラを反対の手で抱き上げる。一向に衰える事のない魔法の効力は、三人の身体を何処とも解らない場所へと運んで行った。

 

「サ、サラ、どうにかならないのか?」

 

「うぅぅ……<ルーラ>を行使してみます……」

 

<ヘルコンドル>の魔法力に包まれてはいるが、強力な圧力にサラの口は上手く開かない。何とか絞り出した言葉の後、サラは詠唱の準備に入った。しかし、口から呪文が紡ぎ出されはしない。高速で移動する中、他者の魔法力に包まれたままで、自身の魔法力を放出するのは難しいのだろう。苦しそうに眉を顰めたサラは、リーシャの腕に爪を喰い込ませる程に力を込めた。

 

「ル、ルーラ」

 

力を込めて呪文を詠唱したサラの言霊は、<ヘルコンドル>の魔法力の内から異なった力の広がりを作り出す。まるでリーシャやメルエを護るように包み込んだ魔法力は、<ヘルコンドル>の魔法力に抗うようにその支配範囲を広げて行った。しかし、如何にサラが『賢者』と言われている人間であっても、相手は魔物の魔法力。サラが人間である以上、それを凌駕する程の力を生み出す事は難しい。一進一退を繰り返しながらも、徐々にその勢いは失われ始めた。

 

「サラ、頑張れ!」

 

「…………サラ…………」

 

サラの魔法力に護られるように包まれたリーシャとメルエには、口を開くだけの余裕が生まれている。サラに掴まれたリーシャの腕は、サラの爪が食い込み、血が滲んでいた。それでもリーシャは、痛みを訴える事はない。サラがそれ以上の苦しみを感じながら、自身の魔法力を絞り出している事を感じているからだ。心配そうにサラを見つめるメルエの瞳の中には、絶対的信頼が窺える。その瞳を見たサラは、一度無理やり笑顔を作り、大きく頷いた。

 

「ルーラ!」

 

再び口から発せられた詠唱。もう一度明確に自身の中で目的地のイメージを描き、その場所へ向かう為の呪文を紡ぐ。サラが<ルーラ>を詠唱する事はこれが初めての事であり、カミュやメルエのように慣れた呪文ではない。『賢者』となってから一年近くの時間が経過しているとはいえ、元は『僧侶』。『魔道書』に記載されている魔法の行使に関しては、メルエの足元にも及ばず、その自信もない。それでもサラは呪文を詠唱した。

 

力強いサラの声と共に、萎み始めていたサラの魔法力は再び力を取り戻す。自身の身体の中から全ての魔法力を絞り出すように、きつく目を瞑ったサラを中心に溢れ出した魔法力は、リーシャとメルエを優しく包み込み、そして<ヘルコンドル>の魔法力を圧迫し始める。

 

「うぅぅぅ」

 

唸り声を上げるサラから視線を外し、自分達が飛んでいる真下に視線を向けたリーシャは、そこが太陽の光を反射し、青々と輝く海原である事に気が付く。『もし、ここでサラの魔法力が切れてしまえば』という最悪の状況を考え、リーシャはもう一度メルエとサラの身体を抱き締めるように胸に抱いた。その時、一進一退を見せていた魔法力同士の戦いは終結を迎えていた。

 

「あっ……」

 

サラが力無く洩らした言葉が、彼女の内に宿る魔法力の枯渇を示している。通常の<ルーラ>であれば、『賢者』となったサラの魔法力を枯渇させる事など有り得はしない。何度行使しようと、サラの魔法力の底は、そこまで浅くはないのだ。アリアハンを出た頃のサラの魔法力ならば別だが、彼女は二年の旅の中で、心も身体も成長を続けて来た。特に魔法力の源である精神的成長は、このパーティーの中でも別格である。そのサラの魔法力が枯渇する程の戦いが、その壮絶さを物語っていた。

 

「…………リーシャ…………」

 

「はっ!?」

 

リーシャの腕を握り締めていたサラの手から力が失せて行った事に呆然としていたリーシャは、メルエの呟きで我に返る。魔法に関しては、異常なまでの才能を持つメルエは、自身を取り巻く魔法力の変化に逸早く気付いていたのだ。サラの魔法力の消滅によって再び移動する筈だったリーシャ達の身体は、空中で静止を続けていたのだが、突如、リーシャ達を留めていた力もまた消え失せて行く。空中に留める為の力の消滅は、翼のないリーシャ達の落下を意味していた。

 

「メルエ、しっかりつかまっていろ!」

 

リーシャ達の高度は、鳥達が飛んでいる場所よりも更に高い。故に、その場所から落ちた先が海であったとしても、三人の身体は衝撃で砕け散るだろう。それを理解していたとしても、リーシャには、二人を強く抱きしめる事しか出来ない。何も出来ない事に唇を噛み締めたリーシャが、その瞳を閉じた時、このパーティーの頭脳が再起動を果たした。

 

「メルエ! 下に見える船へ<ルーラ>で移動できますか!?」

 

「…………ん…………」

 

リーシャの腕の中から真下にある海原を見たサラは、米粒のように小さな存在を認める。加速度的に増して行く落下速度の中、徐々に大きさを増すその存在が、海原を航海する船である事を理解したサラは、リーシャの腕に包まれたもう一人の少女に指示を出した。その指示は、魔法を誇りとする少女の心の炎を燃え上がらせる。

 

「…………ルーラ…………」

 

落下速度は、口を開く事も出来ない程に加速していたが、それでもメルエを護るリーシャの腕の中で、海を渡る船を見つめたメルエは、その口を開き、呪文の詠唱を紡いだ。メルエの膨大な魔法力が溢れ出し、リーシャ達全員を包み込むと同時に、落下が止まる。暫しの間、その方向を探るように滞空していた三人は、再び速度を上げて落下を始めた。しかし、その落下の種類は先程とは大きく異なり、速度は一定の物を保ちながら、真っ直ぐに目的地へ向かう物。世界最高峰の『魔法使い』が唱えた呪文は、世界最高峰の魔法力を生み出し、彼女の大切な者達を運ぶ。

 

 

 

「おい、何かが落ちて来やがる!」

 

「何だあれは!?」

 

航海の目的を達し、悠々と海を渡っていた船の船員達は、突如として輝き出した上空へ一斉に視線を向けた。そこにあったのは、輝く球体。まるで太陽が落ちて来たかと錯覚してしまうような光景に、船上は慌ただしく騒ぎ出す。一定の速度で落下してくる球体は、確実に船員達の許へと落下している。このままでは船に衝突してしまうかと考えた頃に、船員達の全員がその大きさを把握する。太陽かと思われたそれの大きさは、輝きに目を眩ませていなければ、それ程の大きさではない事に気が付いたのだ。

 

「甲板にいる奴等は退避しろ!」

 

自分達では受け止める事の出来ない光弾を見た船頭のような男が、作業をしている男達へと声を荒げる。慌ただしく移動する船員達は、目の前に迫って来た光弾に恐怖し、倒れ込むようにその場を離れて行った。迫り来る光弾は、真っ直ぐ船に向かい、その速度を緩める事も無く甲板へと降り立つ。船員達が予想していた大きな衝撃はなく、微かな船の揺れを残し、船は静けさを取り戻した。

 

「何だったんだ? 何が起きたんだ?」

 

「解らねぇ。何かが落ちて来た事だけは確かなんだが」

 

埃が舞い、何かが落下して来た地点をはっきりと確認できない船員達は、各々の顔を見比べ、何かが落ちてきた場所へ目を凝らした。船にいる全員の視線の集まった、その場所の輪郭がはっきりと見え始めた頃には、恐怖と怯えに彩られていた船員達の瞳の色に変化を齎して行く。

 

「メルエ、大丈夫だったか?」

 

「…………ん…………」

 

「やはり、メルエは凄いですね。こんなにしっかりと制御が出来るなんて」

 

抱き抱えていたメルエの様子を覗き込んだリーシャは、その身体の到る所を触り、メルエの無事を確認している。そのリーシャの姿にメルエは笑顔で頷き、リーシャへと抱き着いた。メルエの可愛らしさを見たサラは、彼女の誇りである魔法を褒め、その能力の高さを称える。しかし、そんな『ほのぼの』とした雰囲気は、彼女たちを取り巻く空気にはそぐわない物だった。

 

「おい! てめぇらは何者だ!? 誰の許しを得て、この船に乗っていやがる!」

 

「全員女じゃねぇか……乗船賃として、たっぷりと働いて貰おうや」

 

下衆な笑みを浮かべた船員達が彼女達へ近付き、逃げ場を消すように囲い込む。不穏な空気を感じ取ったメルエは、サラを不安げに見上げるが、いつもなら動揺を見せるサラの瞳は、真っ直ぐ船員達へ向けられていた。そんなサラを護るようにリーシャが近くにあったモップを手に取り、サラの後ろに立つ。

 

「申し訳ありませんが、ここは何処でしょうか?」

 

「はぁ!?」

 

全く怯えを見せず、取り囲む船員達へ現在地を尋ねるサラの姿は、船員達に恐怖さえも感じさせた。彼らとて、荒くれ者として自負がある。そんな屈強な男達に取り囲まれても様相を崩さない女性に、船員達の方が怯んでしまった。後方に控えるリーシャの顔には余裕さえ見える。この状況自体が船員達にも理解が出来なくなった頃、再び彼等の耳に先程と同じ声が響いた。

 

「この海域は、何処の国の領海ですか? この船は何処へ向かっているのですか?」

 

「あぁ!? てめぇらは俺達が誰か解って言っているのか? この海の支配者たるリード海賊団の船の上だって事を理解して言ってやがるのか!?」

 

この時代には、海賊はほとんど残っていない。何故なら、魔物の活動が活発化して来たからだ。海に生息する魔物は、『魔王バラモス』の台頭後、日増しに凶暴化が進んでいる。その為、年々、貿易船などはその数を減らし、それらを収入源としていた海賊達は離散し、より大きな海賊団へ吸収されて行った。それらはまだ良い方で、魔物との戦いに敗れて海の藻屑と化した海賊船も多い。その中で唯一、このサラ達の目の前にいる海賊団だけは、全ての戦いに勝利し、この海を支配していたのだ。

 

「ほぉ……海賊なのか……」

 

勝ち誇ったように名乗りを上げる船員へ返答したのは、サラの後方で余裕の笑みを浮かべ、モップを持ったリーシャであった。掃除用具である筈のモップを手元で回すリーシャは、何処か滑稽ではあったが、醸し出される空気は、笑みを誘うような物ではない。むしろ見つめている船員達の背に冷たい汗が流れ落ちる程の威圧感を誇っていた。

 

「海には魔物以外にも人々の妨げとなる物が存在していたのですね……それで、ここは何処なのでしょうか?」

 

一歩前に出ようとしていたリーシャは、何かを考えるように俯いていた顔を上げたサラの表情を見て、笑顔を作り再度後ろへと下がった。サラの成長は著しい。一昔前のサラであれば、彼等のような荒くれ者を前にし、足が竦んでいただろう。『海賊』という存在に絶望し、それを許し難い者達として括り、憎悪をも抱いていたかもしれない。だが、『盗賊』という者達と相対し、『人』の死と直面し、信じていた物とは異なる『勇者』に導かれた彼女は、今や世界の『人』の頂点に立つ『賢者』へと成長した。

 

「ちっ! 構う事はねぇ、相手は女だ!」

 

「でもよぉ……お頭の例もあるしよ……」

 

サラの態度に怯んだ海賊であったが、一人の男の掛け声を発端とし、一斉に各々の武器を抜き放つ。しかし、そこでも別の男の一言が海賊達の虚勢を挫いてしまった。男の呟きを聞いた海賊達は、お互いの顔を見合わせ、何やら自信を失ったように足を踏み出せずにいる。状況は膠着してしまった。サラの質問には答えない。だが、そんなサラ達への攻撃も始まりはしないのだ。

 

「サラ、質問は後のようだ。ここは私に任せてくれるか?」

 

「えっ!?」

 

膠着状態を終わらせる為に、リーシャはモップを掲げて一歩前へと出る。海賊達が手にしている物は明確な凶器。人の身体など容易く斬り裂く鋭い刃先が、太陽の光を受けて輝きを放っている。『海賊』という名乗り通り、彼等の武器は手入れを怠ってはいない。例えリーシャであっても、その刃先で斬られれば、腕の一本は斬り落とされてしまうだろう。しかし、サラの肩に手を掛けたリーシャの顔には余裕が見える。

 

「リ、リーシャさん、手加減して下さいね」

 

「……当たり前だ……まったく、サラは私をどのように見ているんだ?」

 

それは当然の事なのかもしれない。彼女達は、世界を救う『勇者』と共に旅する者。『勇者』本人がそれを望んでいなくとも、彼は着実にそれへと歩を踏み出している。そして、何よりも、共に歩む彼女達が『彼こそが勇者である』と認めているのだ。そして、その『勇者』と共に歩むために、彼女達もまた成長を続けて来た。既に人類最高戦力と成りつつある彼女達にとって、『海賊』と名乗ってはいても、『人』を相手に後れを取る訳がない。それをリーシャも、そしてサラも知っているのだ。

 

「何をやっている! こんな女達に怯んだとあっては、それこそお頭に怒鳴り散らされるぞ!」

 

リーシャが一歩前へ出た事で、恐怖が爆発したように叫んだ男が、おそらく臨時の船頭なのであろう。海賊の棟梁が不在の船の上で指揮を執る男は、決してその力量が無い訳ではない。魔物や、それこそ『人』が相手であれば、明確かつ的確な指示を下し、船員達を動かして来たのだろう。事実、彼女達三人が現れる前に、彼はある場所へ赴き、棟梁からの指令を達成して来たばかりであった。

 

「おりゃぁぁ!」

 

しかし、今度ばかりは相手が悪すぎた。身も竦むような声を発したリーシャは、手に持っているモップを真横に薙ぎ払う。その速度、その鋭さ、そして何よりもその衝撃は、彼等が味わった事のない程の物であったのだ。モップの柄の一撃を受けた数名の海賊達は、甲板を転がるように吹き飛ばされ、危うく海へと落ちる手前まで転がって行く。一度に数名もの荒くれ者を吹き飛ばす光景など、見た事はない。足が縮こまるような感覚に陥った海賊達は、一歩また一歩と後ろへと下がって行く。

 

「下がるな! 俺も出る! 相手は一人だぞ! 全員で掛かれば、何とかなる!」

 

船頭を任された男は、指示だけを出す臆病者や卑怯者ではないのだろう。己の武器を手にし、先頭に立って仲間達を鼓舞する。その姿は一味の頭としての器を充分に感じさせる物であり、リーシャはモップを一度払いながらも、頬を緩めるように笑みを作った。しかし、そのリーシャの笑みは、荒くれ者共の誇りを傷つける。『侮られた』と感じた男達の目に炎が宿り、その手に持つ武器に力が籠って行った。

 

「行くぞ!」

 

船頭の掛け声と共に、海賊達全員が武器を掲げて駆け出す。その数は十数人。人外の力を誇るリーシャといえども、一度に相手が出来る人数は限られている。四方八方から来る相手を一気に薙ぎ倒す事が出来ない以上、攻撃を避けながら、方角毎に叩きのめして行く以外に方法はないのだ。リーシャは始めに前方から迫る海賊を一刀の許に叩き伏せる。モップの一撃を受けた男は、潰れた蛙のような声を発して甲板に倒れ伏した。左方から迫る剣先を左腕に着けている<鉄の盾>で防ぎ、右から迫る男達を、槍を使うように横薙ぎに振い弾き飛ばす。一気に数を減らして行く海賊達を見て、サラは大きな溜息を吐き出した。

 

「……手加減すると言ったのに……」

 

既にリーシャの頭に手加減などという文字は残っていないのかもしれない。いや、それを問えば、『魔物の時よりも力を込めていない』等と答えるのだろう。それでも弾き飛ばされ、蹲る海賊達を見ると、明らかに怪我をしている事が解る。ただ、『死』に至る程の物ではない事が、リーシャが手加減をしている事の証明であると言えば、その通りではあった。

 

「メルエ、海賊さん達の武器だけに<ヒャド>をかける事は出来ますか? 私は皆さんに<薬草>などを渡して来ます」

 

「…………ん………メルエ………できる…………」

 

周囲に転がり、呻き声を上げる海賊達を見回したサラは、足下で杖を抱き締めて状況を見ているメルエに語りかける。サラやリーシャが『勇者』と共に歩む者としての成長を続けているのと同様に、出会った当初から魔法の才能の塊であった少女もまた、その才能に磨きを掛け、成長を続けているのだ。自信を持って頷くメルエを見て、サラもまた笑顔で頷きを返した。メルエの手にはしっかりと<魔道士の杖>が握られている。メルエの宝物となったその杖も、ここまでの旅の中で何度もメルエの魔法力を放出し、限界を迎えているのかもしれない。通常の『魔法使い』と異なり、膨大な魔法力を有するメルエの攻撃魔法は、確実に杖の内部を痛めているだろう。そんな事を感じながらも、サラは周囲に転げ回る海賊達へと足を向けた。

 

「怯むな! 相手の武器はモップだぞ! 死ぬ事はない!」

 

リーシャのモップを剣で防ぎ、後方へと弾き飛ばされた船頭の掛け声で、未だに動ける者達は再びリーシャ目掛けて武器を掲げる。一段落した事に一息吐き出したリーシャは、再びモップの具合を確かめるように回転させ、甲板を勢い良く突いた。『ゴン』という大きな音は、海賊達の足を鈍らせ、再び膠着状態に入ったかに思われたが、それは海賊達の予期せぬ者の小さな声で終止符を打たれる。

 

「…………ヒャド…………」

 

小さく呟かれた言霊は、海賊船の甲板に静かに響き渡り、周囲の温度を急速に変化させて行く。吹き抜ける冷気は、モップを持って仁王立ちをしているリーシャの脇を抜け、先頭で掲げられている船頭の武器へと直撃した。弾かれたように後ろに吹き飛ばされる武器は、瞬時に凍り付き、乾いた音を立てて甲板へと落ち、粉々に砕け散る。一瞬の内に武器を失い、その武器も見るも無残な姿へと変化してしまった事で、甲板の上の音は失われた。

 

「あ……あ……」

 

「どうだ! まだやるか? 私はこのモップしか使わないが、この娘の魔法はもっと凄いぞ!」

 

恐怖に彩られた瞳をリーシャの後ろで杖を持つ少女に向けていた海賊達は、リーシャの言葉を聞き、武器を持つ手に力が入らなくなっている。実際、彼等も魔法と呼ばれる神秘を何度か見た事はあるだろう。だが、『魔法使い』と呼ばれる職業が行使出来る初期の氷結魔法である<ヒャド>の威力がここまでの物は知らない。弾き飛ばされるように後方へ飛んだ剣が、甲板に落ちた衝撃だけで粉々に砕かれたのだ。それは、あの幼い少女の唱えた<ヒャド>によって瞬時に凍らされ、剣の内部も完全に凍りついた事を示していた。通常の『魔法使い』が行使する<ヒャド>であれば、こうはいかない。

 

剣の周りは凍りつくだろう。いや、正確に言えば冷気によって氷が付着すると言っても過言ではないのかもしれない。故に、一度凍らされた剣は、再び溶け出した時に以前と同様の使用が可能であるのだ。だが、メルエの唱えた<ヒャド>によって凍らされた剣は、二度と使用する事は出来ないだろう。溶け出したとしても、剣自体が既に機能を失ってしまうからだ。もし、それが『人』に対しての物であるならば、彼等は二度と再生しないという事になる。凍らされ、突き崩されれば、粉々に砕け散り、意識を失ったまま『死』を迎えるしかないのだ。

 

余談ではあるが、以前にメルエはサラの腕を凍らせた事がある。あれは、サラだったが故に無事であったと言えるのだろう。サラは神と『精霊ルビス』に祝福された『賢者』であり、魔法の才能の塊であるメルエに及ばないまでも、世界最高峰の魔法力を有している。その魔法力は他者からの魔法力の影響を防ぐ為に重要であり、<マヌーサ>や<ラリホー>等の神経系魔法の影響をサラやメルエが受け難い事もその魔法力あっての物であるのだ。故に、手を凍りつかせ、内部さえも凍結させようとするメルエの<ヒャド>を彼女の魔法力が食い止めていたのである。実は、メルエの魔法の脅威から、カミュがリーシャを再三庇っている事もそれが原因である。魔法力を有していないリーシャは、メルエの氷結呪文を受ければ、即座に暖めて溶かさない限り、身体が崩壊する可能性があるのだ。

 

「大丈夫ですか? 一通りの手当てはしましたが、何か身体に違和感があれば言って下さいね」

 

「え? あ、ああ……ありがとう」

 

船頭は、戦う気力を失くした船員達の姿に愕然とし、周囲へと視線を巡らせる。そこで見た物もまた、彼に驚愕を齎せた。目の前で海賊達へ鋭い瞳を向ける女性に、先程モップで吹き飛ばされた者達へ<薬草>などを渡し、傷口へ当てている者を見たのだ。その者は、一人一人に対し丁寧な程の治療を行い、身体の無事を確認するように声をかけている。その女性の姿に戸惑いながらも謝礼をする船員達を見て、船頭は己の敗北を理解した。女性だと侮っていた者達は、彼の崇拝するある人物と同じように、性別を超えた力を有した者達なのだ。それを感じ、そして理解した彼は、静かに武器を鞘に仕舞い、未だに武器を持つ仲間達へ声を発する。

 

「武器を納めろ! 俺達の負けだ!」

 

彼ら全てを統べる者の優しさも苛烈さも、最も知る筈の船頭が、己の敗北を明確に口にした事は、船員達に先程よりも大きな動揺をもたらした。確かにこれ以上の戦闘は無意味だろう。目の前にいる女性達には『殺意』はない。故に、船員達の中に死人が出る事はないだろうが、彼等が勝てる事は永遠にないだろう。それを理解していても、彼等の中に『海賊』としての誇りも残っている。この荒れた時代の海で生き残って来た自信もある。

 

「負けだ、負けだ!」

 

そんな船員達の葛藤が解る船頭は、己の腰に掛けてある武器を鞘ごと甲板へ放り投げ、両手を上げて両目を瞑った。その行為は、全てを諦めているようにも見えるが、歴戦を潜り抜けて来た船員達は、船頭が最後の賭けに出ている事も理解する。隙をついて殺せる相手ではない。ならば、命を賭してでも仲間達の命を救おうと無防備を装っているのだ。

 

「随分と潔いな」

 

「勝てない以上、負ける他ないだろう……それで、お前らの望みは何だ?」

 

甲板の様子が様変わりした事で、リーシャも手に持っていたモップを下した。溜息を吐き出したリーシャを見た船頭は本題へと入って行く。この船が自分達の物ではなく、彼等の上に立つ者の所有物であり、それを預かっている責任も持っている。故に、彼は慎重に相手の出方を見ていた。

 

「それについてはだな……サラ! 手当てを終えたなら、こっちに来てくれ!」

 

「もう! リーシャさんが手加減をして下さらないのがいけないのですよ!」

 

降伏を示す船頭の態度に戸惑いを見せるリーシャは、困ったように周囲を見回し、近くで治療に当たっているサラを呼ぶ。呼ばれたサラは、怪我人に最後の<薬草>を渡しながら、少し眉を上げた瞳をリーシャへ向け、その行動を非難した。サラは、先程の<ルーラ>の行使で魔法力が枯渇に近い状態に陥っている。<ホイミ>のような最下級の回復呪文であっても行使は難しいのだ。幸い、カミュは万が一の時に備え、全員の持ち物の中にある程度の<薬草>や<毒消し草>を分けていた。自分の持ち物から<薬草>を取り出し、一枚一枚丁寧に対応するサラは、リーシャを非難するように何度も鋭い視線をリーシャへと向けている。思わず笑みさえも浮かんでしまいそうなやり取りに、剣呑としていた船上の雰囲気は幾分か和らぎ、命のやり取りをしていたとは思えない程の空間へと変化を遂げた。

 

「…………メルエ………できた…………?」

 

「メルエは凄いです。ありがとうございます。メルエのお陰で怪我をする人も減りましたよ」

 

「手加減はしたぞ。こいつらが弱過ぎるだけだ」

 

回復を終えて近付いて来たサラを不安げに見つめるメルエに、サラは満面の笑みで答える。サラの言う通り、あの場でメルエの<ヒャド>が行使されなければ、再びリーシャと海賊達の争いは始まり、今よりも多くの怪我人が出た事だろう。それは、リーシャ達にではなく、主に海賊達ではあるのだが。

 

「リーシャさんも、もっとご自身の力を知るべきです。メルエは自分の力を知り、それを制御しようと頑張っていますよ」

 

「…………リーシャ………だめ…………?」

 

「ぐっ……しかし、打ちのめさなければ、サラやメルエが傷つく可能性もある。私は、サラとメルエの剣であり盾だ。二人が傷つく事は許さない」

 

リーシャを諭すように見上げたサラの言葉に、メルエの首が可愛らしく傾く。そんな二人の糾弾を受けたリーシャは言葉に詰まるが、それでも尚、自身の中にある『想い』を口にする。『人』を相手に殺意を抱いて攻撃する事はないが、サラやメルエが傷つく可能性があるのならば、それも厭わないという程の『決意』。それがリーシャの誇りであり、自信でもあるのだ。そのようなリーシャの優しさを知っているサラは、諦めたように溜息を吐いた後、柔らかな笑みを浮かべリーシャを見上げた。

 

「ありがとうございます。リーシャさんが居て下さったお陰で、私もメルエも無事でした」

 

「…………ありが………とう…………」

 

リーシャに向かって頭を下げるサラを見たメルエは、もう一度満面の笑みを浮かべてリーシャへ頭を下げる。頭を下げた後、我慢できないかのようにリーシャの足下へしがみついた。満足気に二人の謝礼を受け取ったリーシャは、足下にしがみ付くメルエを抱き上げ、その身体を抱き締める。海賊達の存在を忘れたかのような三人の行動に、甲板にいる海賊達は唖然と見守る事しか出来なかった。

 

「私達の要望は、お話しした通りです。ここは何処ですか? この船は何処へ向かっているのですか?」

 

「あ、ああ。ここは何処の国の領海でもない。敢えて言うとすれば、スーの村から南南東にある海の上だ。この船は、これから俺達のアジトへ向かっている」

 

頭を上げたサラは、再び海賊の船頭へと対峙を始めた。唖然としていた船頭は、突然掛った声に戸惑いを見せるが、落ち着きを取り戻し、サラの疑問に答えて行った。メルエを抱き抱えたリーシャもサラの後ろに立ち、船頭の話を聞いている。怪我の治療が終わった海賊達は、船頭の後ろに陣取り、お互いの交渉を見守る形となった。

 

「スーの村ですか?……私達をそこまで運んで貰う訳にはいかないでしょうか?」

 

「おい、サラ。カミュと逸れたままだぞ?」

 

船頭の言葉の中に出て来た唯一の地名は、サラだけではなく、リーシャやメルエも聞き覚えがある名であった。エジンベアという大国の植民地とされた村。そして、エジンベアを出た彼等が次に目指す場所であった村。その名を聞いたサラは、その場所への移動を口にし、それを海賊へ依頼するのだが、傍で聞いていたリーシャは驚きを口にする。リーシャの言う通り、カミュとは完全に逸れてしまった。リーシャ達からはカミュの場所は解るが、カミュからはリーシャ達の場所を特定する事は出来ない。故に、まずはカミュとの合流を優先しようとするリーシャは口を開いたのだが、そこにリーシャとサラの考えの差異が出て来る事となる。

 

「ええ。ですから、次の目的地である<スーの村>へ向かいたいのです」

 

「いや待て、サラ。カミュは私達を探そうとするぞ? その時に明確な出発点であるポルトガに居た方が、都合が良い筈だ。カミュは船でポルトガへ戻るだろう。私達にはサラやメルエの<ルーラ>がある。先に戻っていた方が良いだろう」

 

リーシャの疑問を受けたサラは、自身を持ってリーシャへと答えを返す。しかし、その答えは、リーシャの求めていた物ではなかった。サラの言葉を途中で遮るように話し始めたリーシャであったが、リーシャの話が進むにつれて、サラの表情が困惑の色に彩られて行く。まるで、『言っている意味が解らない』とでもいうような表情を見ながらも、リーシャは最後まで話し切った。そして、サラの口が開くのを待つのだが、開かれた口から出た言葉は、リーシャを驚愕の淵へと落として行く。

 

「え?……え!?……カミュ様が私達を探す?……リーシャさんは本気で言っていらっしゃるのですか?」

 

「なに!? サラこそ本気で言っているのか?」

 

驚きの度合いは、両者共に違いはなかったのかもしれない。サラは『自分達を探すカミュ』という想像もできない姿に対して。リーシャは、『そんな当たり前の事をカミュが行わない』と考えるサラに対して。だが、二人の考え方の相違は、致命的な程の距離があり、決して埋まる事はないだろう。

 

サラとて、カミュを信じていない訳ではない。最近では、自分達を仲間として見ているようにも感じてはいた。だが、今や『盗賊』も『海賊』も恐れないサラの中で唯一と言っても良い、畏怖の念を抱く存在が、カミュその人なのである。カミュに関しての印象は大幅に変わった。だが、アリアハンという狭い井戸の中から出たサラが、最初に出会った予想外がカミュなのである。故に最初の印象は彼女の頭の何処かにこびり付いて離れない。

 

カミュという青年が希望した旅は、一人での旅。

切望していた自由な旅。

生きる事も、死する事も自らの裁量によって決められる旅。

 

故に、サラはそう考えたのだ。

しかし、リーシャは逆だった。

 

彼女が見て来たカミュという青年は、サラやリーシャよりも大きな変貌を遂げていた。いや、元から彼はそういう人間だったのかもしれない。リーシャはこの長い旅で、『勇者』であるカミュをそう分析していた。彼が辿って来た道は、リーシャやサラが考えるよりも厳しい道程だったのだろう。故に、彼は世の中を曲がった形で認識しているのだ。彼にとって、生まれてからアリアハンを出るまでの間で『味方』と呼べる人間は存在しなかったに違いない。祖父や母に厳しく育てられ、次代の『勇者』であり『英雄』である事を強要され、彼が望む望まないに拘わらず、彼は『魔王討伐』という使命を負わされた。だからこそ、彼は世の中全てを常識に縛られた人間とは異なった角度から見ている。だが、『人』という生物の内面は、何があろうと変わらない。

 

サラは劇的な成長を遂げた。彼女の中に存在する価値観を根底から覆され、絶望の底へと落とされた時、彼女は新たな道を見つけ出した。それは、彼女の心の中に本来ある『慈愛』があったればこそなのだろう。彼女の根本は、アリアハンを出た頃から今まで何一つ変わってはいないのだ。傍から見ていれば、サラ自体が別人になったように感じるのかもしれない。だが、この二年以上の月日を共にしたリーシャからすれば、それは『成長』であって『変身』でも『変心』でもない。憎悪という物がなくなり、魔物もエルフも人も公平に見るサラは確かに変わった。だが、それでもサラはサラなのだ。

 

それは、カミュにも当て嵌まる。彼は当初からリーシャ達の同道に反対していた。それは、彼の中でこの旅が『死』へと直結する物であったからなのだろう。見方を変えれば、彼はリーシャ達の身を案じていたと言えなくもない。皮肉めいた事を言い、リーシャやサラを激昂させた事もある。それでも、彼が彼女達を見捨てた事は一度たりともないのだ。『人の根本は変わらない』という考えが、サラを見ていて確信に変わったリーシャは、カミュの根本も何一つ変わっていなかった事に気付き始めている。世の中に絶望し、何もかもを諦めていたような彼の中には、何よりも大きな『優しさ』が存在していた。メルエという小さな一石によって浮き彫りになった彼の本質は、リーシャの中で確固たる自信に繋がっている。

 

「サラがどう考えているか知らないが、カミュは間違いなく私達を探す。ならば、私達はカミュが探すであろう場所へ戻っている事が最善だと私は思う」

 

「……そうでしょうか……カミュ様の目的が『魔王討伐』である事は変わらないと思いますが、まずは<スーの村>へ向かうのではないでしょうか……」

 

そんな二人の考えの差異は決して埋まらない。

メルエだけはそんな二人の争いの意味が解らず、首を傾げていた。

 

「話の途中だが、お前らの要望に応える事は出来ない。この船は棟梁の物だ。俺の独断で動かせる物ではない」

 

リーシャとサラとのやり取りは、横から掛った船頭の声に阻まれた。三人の視線が一斉に船頭の方へと向けられるが、その視線に怯む事はなく、彼は彼女達の要望を拒絶する。確固たる信念の許で発した言葉なのだろう。彼の後方に控える船員達全員がしっかりとリーシャ達を見据えていた。

 

「……そうですか……仕方ありませんね」

 

「それに、俺達は棟梁の命を受けて航海している。その報告をする為にアジトへ向かっている以上、その進路を変える事は出来ない」

 

海賊達の言い分も尤もである。彼等は棟梁と名乗る者の下に属する者達であり、この船の持ち主ではない。彼等が独断で行動し、略奪などを行っているのであれば、彼等の考えによってその行動範囲も自由に決める事は出来るだろうが、棟梁の命を受けて行動しているとなれば、独断での行動は許されざる物となり、処罰の対象となる。彼等のような『賊』と呼ばれる者達の処罰とは過酷な物も多く、その中には命さえ失う物もあるのだろう。しかし、そんな海賊達の内情を理解しようとするサラとは別に、リーシャは一つ疑問に思う事があった。

 

「一つ聞くが、お前達の受けた命とは何だ? この海域を渡る船の略奪か?」

 

それは、彼等の受けた仕事の内容である。船頭は、今いる場所を<スーの村>の南南東に位置する海域と答えた。つまりそれは、エジンベアの大臣の言葉を信じると、ポルトガの国に程近い場所となる。実際にはポルトガよりも更に南にある場所だとしても、彼等がアジトへ帰る途中である以上、既に仕事を終えた事を意味する。仕事を終えて、南へ帰ろうとしているのならば、その主命先は北の海域となるのだ。そうなれば、必然的にポルトガ近辺であり、リーシャの一番の懸念は、自分の腕の中にいる少女の大切な者が造る町がある場所。

 

「それをお前達に答えなければならない謂れはない」

 

この者達がどれ程に強力な海賊であろうと、ポルトガ国に対して牙を剥く事はないだろう。それが、危機感の薄い国王が統べる国であれば別だが、あの国には他国に引けを取らない『王』がいる。弱肉強食の世界を生き抜いた海賊であろうと、この苦しい時代に国の水準を上げる事の出来る『王』に敵う訳がない。ならば、彼等の仕事がその近辺であるとすれば、あの者が必死になっている場所だけであろう。あの場所はおそらくポルトガとの貿易を開始している頃に違いない。その貿易船を襲うのならば、海賊達にとって充分な収入となるだろう。

 

「……勘違いするな……私はお前達に問いかけている訳ではない。『お前達がここに来るまでに行って来た仕事内容を話せ』と命令しているんだ」

 

故に、リーシャの瞳が変わった。抱き抱えていたメルエを甲板に下ろし、背中に着けていた<鉄の斧>を取り外す。雰囲気が一変した事に船頭を始めとする海賊達の身が強張った。先程とは違う明確な『殺意』。手にした武器がモップではなく、様々な血を吸って来た斧に変わった事が、それを示していた。歴戦の海賊達といえども、これ程の者と対峙した事などない。焦りは恐怖へと変わり、船員達の中には腰を抜かし、座り込む者まで出ている。

 

「こ、殺す気か? 俺達を殺して、お前達はどうやって海を渡るつもりだ?」

 

「全員を殺す必要はない。お前だけを殺し、見せしめにするだけで十分だろう?」

 

「リ、リーシャさん……」

 

虚勢に近い船頭の言葉は、即座に斬り捨てられる。リーシャの纏う空気は変わらず、その手にある斧は、太陽の光を反射し、船頭の顔を明るく照らし出していた。そんな二人のやり取りを見ていたサラは、ようやくリーシャの危惧している内容が見えて来てはいたが、それ以上にリーシャの変貌ぶりに驚いている。リーシャが発した言葉は、本来であれば彼女達と共に旅をする一人の青年が発する筈の言葉だったのだ。相手に対する慈悲の欠片も無く、それを実行する事を確信させるような強さを持つ。そんな恐怖がリーシャから溢れ出していた。現に、メルエは既にサラの腰元に移動し、その腰にしがみ付いている。それ程の物なのだ。

 

「抵抗しても構わない。だが、お前達が話さない限り、最後の一人になるまで、この斧の錆と成れ」

 

「わ、わかった……話す。だが、こいつらの命だけは助けてくれ。こいつらは棟梁から預かった大事な人間達なんだ」

 

最後に一振りした斧の風切り音が、船頭の口を開かせた。一振りで数人の船員達はこの世を去るだろう。それを明確に理解させるだけの威力を、リーシャの斧は誇っていた。彼はあくまで代理の頭。本来の棟梁がいる以上、その者から預かった人間達を無事に帰す事も、代理である彼の大事な仕事となるのだ。故に、彼は決断した。棟梁の命を洩らしたとしても、それは既に遂行済みの物。ならば、この者達に話したとしても何が出来る訳でもなく、彼等の功績が変わる訳でもない。彼は、この航路を進む前に行って来た一つの仕事を少しずつ話し始めた。

 

だが、彼の予想とは大きく異なり、その話は、目の前の三人の女性達の顔から表情を奪って行く事となる。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

描いている内に、いつの間にかこの量になってしまいました。
読み辛く感じられたとすれば、大変申し訳ございません。
ようやく、彼女達の登場です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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海賊のアジト①

 

 

 

「……スーの村へは行かなくても良い。その代り、お前達の棟梁の場所へ私達を連れて行け……」

 

「メ、メルエ、落ち着いて。杖は背中にしまいましょう……」

 

「…………むぅ…………」

 

船頭は、自分の考えの浅はかさを恨んだ。彼は、その仕事内容を洩らしたとしても、彼女達三人には何も出来ないと高を括っていた。しかし、彼の想像とは正反対の光景が目の前に広がっている。先程、斧に手を掛けた女性戦士は、その瞳に憤怒を宿したまま船員達を射抜き、身も凍る程の魔法を行使した少女は、今にも再び魔法を行使しそうな程に杖を握りしめていたのだ。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。そんな事をしたら……」

 

「何度も言わせるな! 私は、お前に依頼しているのではない! これは命令だ……それとも、この場で斧の錆になりたいのか?」

 

女性戦士の怒気は天を衝く程に激しく、船頭の言葉は、最後まで発する事も出来なかった。少女の手から杖は離されたが、あれ程の魔法を行使した者が杖を持たずに魔法を行使出来ない訳がない。他の二人を抑えるような動きを見せている女性も、抑えはしているが、最終的に船員達の味方になるかと問われれば、否としか答えようがないだろう。たった三人の、それも女性に対し、この海で敵無しと自負する荒くれ者達は、足が竦み、身を強張らせている。通常では考えられない程の光景に、船頭の頭は混乱を極めて行った。

 

「呆けている時間はない! 早急にお前らのアジトまで船を進めろ!」

 

「言う事を聞いて下さい。貴方達が向かった先の人は、私達にとってとても大事な人なのです。今は私が抑えてはいますが、あの人に何かがあった場合、この二人を止める事は私にも出来ません」

 

<鉄の斧>の柄を再び船の甲板に突いた女性戦士が怒鳴り声を上げる。船の隅々まで響き渡るような音と声は、身を竦めていた船員達の身体を跳ね上げさせた。彼等には既に選択肢など存在はしなかったのだろう。それは、一番冷静だと思われた女性の一言で現実味を帯びる。彼女が上げた顔に光る瞳にも、明確な怒りが含まれている事が理解出来たのだ。その怒りの度合いは、怒鳴っている女性戦士や、きつく睨む少女と遜色はなく、彼女が語る内容が事実である事を示していた。

 

「わ、わかった。だが、最低でもここから一週間近くかかるが良いか?」

 

故に、船頭は頷く他ない。彼が如何にこの船を纏める者として抜擢されていたとしても、この三人の女性に逆らう事など出来ない。彼等の棟梁である人物にも軽口などを叩ける程に腕には自信を持ってはいたが、彼女達は次元が違い過ぎたのだ。もしかすると、彼の敬愛する棟梁でさえ、この女性達には成す術がないかもしれない。背中に冷たい汗を掻きながら、彼は三人の女性達を眺めていた。

 

「……あの場所に居た人達には、危害を加えていないのですよね……?」

 

「あ、ああ。それだけは間違いない。危害どころか、指一本触れてはいない。それが棟梁の命でもあった」

 

掛かる日数を聞いた女性は、静かに問いかけを口にする。その言葉の丁寧さと異なり、内に秘められた圧力は、斧を持つ女性戦士と比べても遜色はない。船頭は即座に首を縦に振った。実際、彼等は棟梁である者の命を遂行したに過ぎず、その命の中には、『乱暴狼藉を禁止する』という物があった。その命を違えた場合、棟梁の怒りは全て自分達へ向けられる事を彼等は知っている。彼等の棟梁は、能ある者には惜しみない賛辞を贈るが、自分の命に従わない者には厳罰を処するのだ。

 

「さっさとしろ! お前達の船は、船員がいなくとも勝手に進む船なのか!?」

 

「…………むぅ…………」

 

再び上げられた怒声に、文字通り身体を跳ね上がらせた船員達は、今度こそ自分達の持ち場へと散って行く。その横では、杖を取り上げられた少女が、唸り声を上げながら散って行く船員達を睨み、その視線を呆然と立ち尽くす船頭へと向けていた。その視線を受けた船頭は、生まれて初めてと言っても良い程の罪悪感を受ける。自分が行った事が悪い事のように感じ始めた彼は、逃げるように視線を逸らし、船を動かす為に散って行った船員達へ指示を出す為に移動を開始する。

 

「大丈夫ですよ。トルドさんは無事のようです。海賊さんの家に着いたら、棟梁の方と話をしますので、私に任せて下さい」

 

「…………サラ…………」

 

未だに唸り声を上げて厳しい視線を向けるメルエの前に屈み込んだサラは、メルエの瞳をしっかりと見据え、自信を持って言葉を紡ぐ。瞬時に瞳を不安気な物へと変化させたメルエは、サラの名を呟き、その胸に飛び込んで行く。魔法を行使し、相手を倒す事しかメルエには出来ない。自分の『想い』や『気持ち』を正確に把握してくれるのは、この二人の女性の他に、今はいない青年しかいないのだ。相手に自分の気持ちを伝える事の出来ないメルエに、交渉などが出来ない以上、トルドの身の安全は、サラへ託すしか方法がない。故に、そんなメルエの不安を感じ取ったサラは、『大丈夫』という言葉を口にした。

 

メルエに向けて発するサラの『大丈夫』という言葉には、大きな責任が付随する。彼女はその言葉を口にした以上、どのような事であっても『大丈夫』にしなければならない責任が生じてしまうのだ。『サラが大丈夫と言えば、大丈夫』とメルエに思われる事がサラの誇りであり、自信なのだ。そして、そんなサラの願いは、メルエの中で真実となっている。サラは『大丈夫』という言葉を軽々しく発する事はない。メルエが本当の不安に陥っている時に、サラはその言葉を口にする。不可能でありそうな事であっても、可能としようとするサラの『決意』の表れであり、不退転の『想い』。それは、確実にメルエの胸へと響き、そして、その小さな胸に『希望』の光を燃え上がらせる。そんな存在に、サラはなっていた。

 

「話はサラに任せる。実力行使に出て来るのであれば、その時は私に任せろ」

 

「今度は、本当に手加減をして下さいね」

 

「…………リーシャ………だめ…………?」

 

サラという存在は、メルエの『勇気』を奮い立たせるだけではなく、先程までの緊迫を緩める事も出来る者へと成長を遂げていた。本人はその事に気付かないだろう。だが、彼女と共に歩む者は、その存在の変化をしっかりと理解している。軽口を叩かれたリーシャは、その内容にも拘らず、笑顔を浮かべ、斧を背中に納めた。サラに抱き付きながら小首を傾げるメルエを抱き上げ、額を小突きながら浮かべる優しい笑みは、メルエの心に残る最後の不安を霧散させて行く。

 

彼女達三人の前には、常に絶対的な存在がいた。

それは、どんな事にも揺るぎなく、どんな相手にも臆さない。

常に前を向き、道を示す者。

生い立ちがどうであれ、今はそうであると彼女達は思う。

彼女達にとって、それは真の『勇者』の姿。

 

そんな青年の後ろで常に護られていた三人は、己の成長に気付かない。彼の背を見て歩んで来た彼女達が、この船に乗ってから取った行動の全てが、カミュという一人の青年の影を追っていたという事実に。既に、彼女達一人一人が『勇者』であり、カミュという『月』を護るように輝く『星』なのだ。

 

「しかし、海賊のアジトへ行けば、カミュと合流するのが遅れてしまうな」

 

「…………カミュ…………」

 

再び寂しそうな表情を浮かべたメルエを見たリーシャは、困ったように眉を下げ、メルエに掛ける言葉を探そうとする。自分が発した言葉がメルエの元気を奪ってしまったと感じたのだろう。何気なく口にした言葉は、メルエにとっては胸に刺さる程の物だった。如何にサラがメルエの『勇気』を奮い立たせようと、リーシャが『安らぎ』を与えようと、彼女の心の主柱は、カミュという一人の青年なのかもしれない。

 

「まずは、メルエの大事なトルドさんを助けましょう。大丈夫、必ずカミュ様に会えますよ」

 

「…………ん…………」

 

再び発せられたサラの『大丈夫』を聞いたメルエは、眉を下げながらも、しっかりと首を縦に振った。リーシャも微笑み、サラも微笑む。そんな暖かい空気に包まれながら、メルエの顔にもようやく柔らかな笑みが浮かんだ。周囲の海賊達は冷や汗を掻きながらも必死に駆け回っているが、その光景を傍目に、彼女達の前の海路は開けて行く。初めて味わう『勇者』なしの旅。

 

国という相手の場合も、矢面に立っていたのはカミュ。

盗賊という相手に対しても、前面にはカミュが立っていた。

太古からの怪物と相対する時も、彼女達の前には絶対的な壁があった。

 

そんな絶対的強者がいない旅。

彼女達は、彼女達の責任で動き、彼女達だけで対処しなければならない。

それは、想像以上に厳しく、予想していたよりも更に難しい。

 

 

 

 

 

海を渡る船は、順調に南へと進んで行く。いつもなら、木箱の上に立ち海を眺めているメルエだが、今回はリーシャの傍から片時も離れない。まるで何かに怯えるように、リーシャの胸へ顔を埋めたメルエを心配そうに見守るリーシャとサラを乗せ、船は魔物との遭遇も無く海原を渡っていた。しかし、どの船であろうと、海を行く以上、魔物という存在を避けては通れない。

 

「…………リーシャ…………」

 

「ん?」

 

「魔物ですか?」

 

不意に顔を上げたメルエの様子を確認するように覗き込んだリーシャの瞳に、眉を下げたメルエの瞳が映り込む。その瞳で、リーシャとサラは全てを理解した。各々の武器を構え、立ち上がる。船の甲板の全てを見渡せる場所に立った三人は、迫り来る脅威に対し、万全の態勢で身構えた。

 

「魔物だぁ!」

 

海賊一味の一人が発した叫び声で、一気に船の上は慌ただしくなる。船頭は己の武器を持ち、声を上げた船員を後方へと下げ、甲板に上がって来た<マーマン>を一刀の下に斬り捨てた。しかし、魔物は群れを成す。まるで、斬り捨てられた魔物の屍を踏み越えるように甲板へと姿を現す魔物の数は、彼等が対処して来た魔物達の中でも上位に位置する程の物。武器を手にした海賊達が奮戦するが、魔物達の数と勢いに圧され、次第に後ろへと下がり始めた。船員達の後退によって、自分への圧力が増した船頭もまた、一歩また一歩と後ろへと下がり始める。

 

「魔物の相手は任せろ。お前達は、一刻も早くアジトへ戻れるように船を動かせ」

 

何歩後ろに下がった頃だろう。船頭の背中が何かに当たりそれ以上の後退を不可能にさせた。慌てて振り向いた彼の瞳に映ったのは、前方から迫り来る魔物達へ視線を向けた一人の女性だった。背中に手をかけ、斧を取り出すその腕は、細くはあるが、しなやかな筋肉を備えており、船頭を退けて前へと踏み出す足は、真っ直ぐ魔物へと向かっている。

 

「メルエ、魔法の準備を!」

 

「…………ん…………」

 

自分の脇を抜けて行く女性戦士に呆然としていた船頭の後ろから聞こえた声は、戦い慣れた者達の声。何度も何度も対応を繰り返して来た経験の許に裏付けられた自信が窺える程のやり取りに、船頭は無意識の内に後ろへと下がった。『自分は邪魔になる』と感じたのかもしれない。それ程、彼女達三人が纏った空気は、尋常の物ではなかった。長く荒くれ者の中で育った彼でさえ、そう感じたのだ。周囲にいた海賊達は、その雰囲気に呑まれ、後方で見守る事しか出来なかった。

 

「やあぁぁぁぁ!」

 

斧の一振りで、船上に上がって来ていた数体の<マーマン>の身体が斬り裂かれる。防ぐために上げた腕諸共斬り飛ばす程の斬撃。船員達は息を飲み、魔物達でさえその足を止めた。付着した体液を振り払うかのように、一回転させた斧を構え直したリーシャは、そのまま浮かび上がる<しびれくらげ>を両断する。素早い動きで次々と魔物を淘汰して行くその姿は、恐怖を増大させる事はなく、むしろ輝いてさえ見える程の物だった。

 

「メルエ、調節を忘れずに!」

 

「…………ん………ヒャダルコ…………」

 

リーシャが端に飛んだ事を確認したサラは、杖を構えるメルエに指示を出す。しっかりと頷いたメルエは、自身の宝である杖を高々と掲げ、その詠唱を紡ぎ出した。天に突き出された<魔道士の杖>の先に嵌め込まれている赤く輝く石が、メルエの魔法力を受け取って更に輝き出す。何度もメルエという稀代の『魔法使い』の魔法力を放出して来た赤い石は、その魔法力を魔法へと変換して行った。

 

一気に下がる船上の気温。

空に輝く太陽が齎す暖かな光を打ち消す程の冷気。

船上に立つ者の息を凍らせ、その肌に霜を落とす程の魔法。

杖を向けた先にいる魔物達の未来を根こそぎ奪う程の才能。

 

「……二度とあの人達には逆らうな……」

 

自分の目の前に広がった光景を見た船頭は、後方で腰を抜かし座り込む船員達に向かって呟きを洩らした。船員達の中には、失禁をしている者までいる。それ程の光景だったのだ。彼等がこの海で生きて来た中で見た事も無い光景。魔物と遭遇したにも拘わらず、その魔物に成す術はなかった。魔物の爪はその者達の肌に触れる事さえ出来ず、魔物の牙はその者達へ向ける暇さえも与えられない。そのような光景を誰が信じるというのか。

 

確かに、この広い世界には<マーマン>や<しびれくらげ>よりも強力な魔物は多くいるだろう。しかし、この大海原では、<大王イカ>にでも出会わない限り、この二種の魔物が主流なのだ。故に、海賊達は主にこれらの魔物と戦闘を繰り返して来た。その中で死んで行った仲間達もいる。深手を負い、二度と海に出る事が出来なくなった者もいる。彼等にとって、魔物との遭遇はそのような危険を含んでいる物なのだ。

 

だが、目の前に広がる光景は、船上に上がって来た魔物達全てが凍結し、その活動を止めている姿。既に魔物達の命の灯火は消え失せているだろう。身体の芯までをも凍りつかせ、生物としての機能も全て壊されている筈。魔法の余波は、船首の一部も若干凍りついているぐらいであり、それは航海に大した影響を残す事はないだろう。皆が凍りついたように固まってしまった状況で、そこまで考えが及ぶ船頭もまた、並の男ではなかった。だが、彼の目の前で、戦闘の後始末をする者達は、彼の理解の範疇を大きく超えてしまった者達だったのだ。

 

「可哀想ですが、このまま海へ入れましょう」

 

「そうだな。ここで砕いてしまっては、後始末が大変だな」

 

多数の氷像を見回したサラは、その処理をリーシャと共に話し出した。リーシャに至っては、淡々と魔物の氷像を海へと落として行く。今まで彼女達の船上での戦闘は、主にカミュとリーシャが剣や斧を振る物だった。細切れになった魔物達を海に落とすよりも、氷像になった魔物を落とす方が楽な事は確かである。それもこれも、彼女達の後ろにいる幼い少女の成長が影響していた。何度も魔法を行使して行く中で、仲間や大事な者達が傷つかぬように魔法を調節する術を学んでいるメルエは、少しずつその術を心得始めている。今回は余波の影響こそあった物の、その被害は少なく、船の航海に支障はない。今までを考えれば、驚く程の結果であるのだが、リーシャやサラは驚く素振りもない。何故なら、彼女達は、自分達の半分程も生きてはいないこの幼い少女を、心の底から信じているからだ。

 

しかし、その幼い少女の成長は予想外の結果を生む事となる……

 

ピシリ!

 

「…………???…………」

 

決して静寂ではない船上に響き渡る音。耳に届くというよりも、頭に直接流れ込むような音に、メルエは小首を傾げる。その音は、メルエだけではなく、リーシャやサラにも聞こえた。亀裂が入ったような、何かが割れてしまったような軋むような音。初めて聞くその音は、サラの胸に残っていた不安を刺激し、それを現実の物へと変化させる。サラの表情が一変した事に気が付いたリーシャも、慌てて音の発信源へと向けて駆け出した。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「メルエ!」

 

音の発資源。

それは、小首を傾げていた少女の腕の中。

少女の憎しみの対象でもあり、誇りの象徴でもある物。

何度も投げ捨て、何度も拾い、何度も少女を救って来た物。

 

リーシャとサラがメルエの許へ辿り着いた時、杖を掻き抱くメルエの瞳に大粒の涙が溢れ出していた。少女の腕の中にある<魔道士の杖>の先に嵌め込まれていた赤い石には、一筋の大きな亀裂が入っている。何かを訴えかけるようなその亀裂は、リーシャとサラの胸にも哀しみを齎した。唸り声を上げながら涙を溢すメルエの希望を捨てさせるように、先程と同じような音を発しながら、赤く輝く石はその輝きを失い、亀裂を広げて行く。

 

「…………だめ…………」

 

「……メルエ……」

 

赤い石に走る亀裂を止めるように手を翳すメルエを、リーシャは哀しみを浮かべた瞳で見つめる事しか出来ない。救いを求めるように見上げるメルエの瞳から逃れるように目を逸らすサラに成す術など有ろう筈がない。軋む音を大きくしながら石全体に広がった亀裂は、隙間もない程に石を包み込み、そして弾けた。

 

「……あ……」

 

乾いた音を立てて弾けた石の欠片は、粉のように細かく宙を舞う。太陽の光を浴びて輝くような細かな粒子は、空へと舞い上がり、メルエの上に降りかかって行った。その幻想的な光景は、船の上にいる全ての人間の心を魅了する。手で掴む事が出来ない程に細かく砕けた石の欠片は、石を失った杖を抱くメルエの上だけに舞い降りて行った。

 

少女の成長を祝福するかのように。

今までの感謝を示すかのように。

共に歩んだ苦しみを労うかのように。

そして、自分の役目を終えるかのように。

 

「…………うぅぅ………うぇぇん…………」

 

「メルエ、おいで」

 

全ての粒子が舞い落ちた後、堰を切ったかのようにメルエはその涙を地へと落とし、大きな声で泣き出した。彼女にとって、何にも代え難い程の宝物。生まれて初めて買い与えられた武器に喜んだのも束の間、媒体としての使用方法が理解出来ず、憎しみを抱いた事もある。だが、メルエの中に確固たる『想い』を築いたのも、この杖である事は事実。『自分も仲間を護る』という儚い『想い』を実現する為に、何度も杖を振り、何度も投げ捨てた。それでも、自分の『想い』を受け止め、最後にはその『想い』を魔法という神秘へと変えてくれた大事な杖。メルエという孤児にとって、常に共にある戦友であった。

 

「その石の寿命だったんだろうな。魔法を使う人間と接する機会はなかったが、アジトにある書物に載っていた。それは、<魔道士の杖>なのだろう? <魔道士の杖>の先にある石は、魔法を行使する『魔法使い』の魔法力を常に受け止める。だからこそ、その石に限界が来れば、砕け散るのだそうだ。だが、通常の『魔法使い』であれば、生涯掛けても、砕け散る事は稀だとも記されてあったが……」

 

メルエを抱き、その背中を撫でるリーシャの横から声が掛った。それは、この船を纏める臨時の頭目。戦闘の際に感じた恐怖は、先程目にした不思議で美しい光景に消え去っていた。凄まじいまでの魔法を行使した少女は、己の武器の喪失に涙し、今も顔を埋めたままである。その少女にかける言葉が見つからない女性達は、困惑と哀しみを露にし、何とも優しい空気を作り出している。船頭は、そんな三人を見て、遠い昔に感じた事のあるような優しい気持ちに包まれていた。

 

「……メルエの魔法力に、ここまで耐えてくれていたのですね。本来であれば、もっと以前に砕けても不思議ではなかったのかもしれません。調節を知らないメルエの魔法力を受け止め続け、そしてそれを学んだメルエを見届けてくれたのですよ」

 

「そうだな。変かもしれないが、この杖もメルエが大好きだったのだろうな。メルエ、ちゃんとお礼を言うんだぞ?」

 

「…………ぐずっ………あり……がと……う…………」

 

頭を撫でられ、リーシャの胸から顔を出したメルエは、未だに抱き締めている杖に向かって小さく感謝の言葉を溢す。その姿は、海と同じように荒れ狂う海賊達の心にも何かを運んで来た。静かに船の帆を撫でる風が吹く中、少女の嗚咽が鳴り止む事はなく、周囲の者達の瞳にも静かに想いを溢させる。

 

「魔物は去った。アジトへ向かうぞ!」

 

止まっていた時を動かす船頭の声が船上に響き、船員達は頬を流れる想いを拭い、各々の持ち場へと散って行く。この時、全ての海賊達は、この三人の存在を認めたのかもしれない。アジトへ向かう事に躊躇する事も無く、三人の存在に怯える事も無い。靡く風を帆に受けて、船は速度を上げて海原を進んで行った。

 

 

 

 

その後、何度か魔物との戦闘はあったが、杖を失ったメルエは、以前よりも更に元気をなくし、後方で戦闘を見守る事しかしなくなった。リーシャが斧を振い、サラが魔法を行使する。メルエよりも魔法力の少ないサラの攻撃魔法であったが、その威力は世にいる『魔法使い』と比べれば別格。ここまで威勢だけで何も行動を起こしていなかった女性の行使する魔法の威力に、船員達の心は『逆らう事はしまい』というように固まって行く。

 

船は順調に南へと進路を進め、一週間を過ぎた頃の昼には、一つの大陸へと船を寄せる事になった。船が針路を西に取り、陸が徐々に近づいて行く事で、リーシャ達は海賊達のアジトが近付いた事を知る。ポルトガよりも遙か南。以前訪れた事のある<テドン>よりも南西にある大陸。そこを目指して船は進んで行く。

 

「帆を畳め! 舵を間違えるなよ!」

 

船頭の声が船上に響き渡り、船が入港を開始する。港と呼べる代物ではないが、彼等のアジトである入江は、岩を潜った先に存在していた。岩で出来た自然の要塞を抜けた先には、多くの家々が立ち並び、その全てが高い岩の壁を背にしている。戦闘が起きても要塞としての機能を持っているようで、高く聳えた見晴らし台は、全て入り江の入口に向かって立っていた。

 

「ほぉ……なかなかの構えだな」

 

船の上からアジトを眺めていたリーシャは感心したように、その佇まいを見つめている。彼女は宮廷騎士であり、下級とはいえ貴族である。戦争となれば、他国からの侵略に備える事もあるし、他国の城を攻める事もある。騎士としての教育を施されて来た彼女から見ても、この海賊の要塞は、攻め難く、護り易いという利点を備えているように映ったのだろう。

 

「棟梁は?」

 

「棟梁は、まだお戻りになられません。おそらく、本日の夜にはお戻りになられるかと思いますが」

 

船を入江に着けて錨を下した後、船頭は縄を船へと渡して来た男に問いかけた。この船頭は、アジトの中でも上位に位置する人間なのだろう。縄を渡して来た男は、船頭の顔を見ると、姿勢を正し、簡潔に応えを述べた。その答えを聞いた船頭は、船の中からアジトを見つめている三人へ近付いて行く。

 

「棟梁はまだ戻らない。歓迎する事は出来ないが、客室で待っていてくれ」

 

「は、はい。ありがとうございます」

 

『歓迎する事は出来ない』という言葉に、船頭の想いは乗せられていたのだろう。歓迎は出来ないが拒絶はしない。一週間という短い船旅ではあったが、魔物の横行する海を渡る以上、一度の航海で数人の犠牲は付き物である。だが、今回の復路に関しては、船員達は誰一人欠ける事はなかった。それは、この三人の女性がいてくれたからに他ならない。その事を船頭は素直に感謝してもいた。大事な船員達を棟梁から預かっている以上、その犠牲は少ない方が良いに決まっているのだ。

 

「メルエ、行こう」

 

「…………ん…………」

 

あれから片時も、石を失った杖を離さないメルエを抱き上げたリーシャが、先頭に立って船を下りて行く。その後ろをサラが歩き、船頭がリーシャを追い越して道案内を行う為に歩き出した。戦利品にしては堂々と歩き、船頭が気遣っている節もある女性達をアジトにいた海賊達は不思議そうに見つめている。道行く人間達の好奇な視線を受けても、リーシャは堂々と船頭の後ろを歩いて行った。そんなリーシャを頼もしく感じているサラは、不安そうに眉を下げているメルエの頭を一撫でし、真っ直ぐ前を向き直す。

 

「おっ、戻ったのか? 首尾の方はどうだ? お嬢の方も、もうそろそろこっちに戻って来る筈だ。ゆっくり休みな……ん?……なんだ、そいつらは?」

 

「客人だ」

 

先頭を歩く船頭の前に一人の男が現れる。歳の頃は四十を超えた程であろうか。髪に白い物が見え隠れしているところを見ると、この海賊一団でも古い人間となるのだろう。船頭として棟梁の代理を務めていた人間に対しての言葉もそれを明確に示している。そんな男は、自分の問いかけに答えた船頭に向けて、一瞬眉を顰めたが、何か得心が行ったのか、頷いてからリーシャ達へ視線を向けた。

 

「なるほどな……アンタ方なのか……色々と噂は七つの海にも届いているよ。ならば、お嬢にも会わせないとな」

 

「……ああ……」

 

笑みを浮かべる男に、船頭は苦笑を浮かべながら頷きを返した。リーシャ達は、男が口にした『お嬢』という言葉に違和感を覚える。『お嬢』と呼ばれる以上、女性なのだろう。だが、それが誰を示すのかが解らない。しかも、この男は、リーシャ達の事を知っているような口ぶりを示した。そして、それに頷きを返した船頭もまた、リーシャ達に何かを感じている事を示唆していたのだ。

 

『七つの海』

 

この世界は、七つの海で出来ていると言われている。海の水は何処へも続いているのだが、各大陸の名前を取った海が七つあるのだ。現在、この大海原の中で生きている海賊は、このリード海賊団のみ。故に、この海賊団は、魔物の脅威を排除する事が出来れば、全ての海を渡る事は可能なのだ。海はどの大陸にも繋がっている。世界の大陸へ行く事が可能である以上、世界に流れる噂等の情報も入って来る事となる。

 

「…………リーシャ…………」

 

微妙な空気が流れる中、リーシャに抱かれていたメルエが、杖を抱きながら言葉を洩らす。メルエはいつもの元気がない。カミュというメルエの精神的支柱の欠如が、心に大きな穴を空けている事もあるが、メルエの腕の中に残る木だけになった杖が原因の一つでもあろう。

 

それでも彼女はここにいる。

それは、大事な人の為。

一人の老人の願いを聞き、ある場所で懸命になっている人間。

彼女の大切な友人の親である男性。

 

「そうだったな……私達は、ここの棟梁に用がある」

 

「はい。厳しい話になると思いますが……」

 

元気のないメルエは、それでも瞳でリーシャに訴えかける。『彼等の思惑がなんであろうと、自分達には自分達の目的がある』のだと。その瞳は、リーシャとサラの心に新たな炎を燃え上がらせた。強い視線を受けた男は、一瞬の戸惑いを見せるが、船頭と目を合わせた後、一つの部屋へと入って行く。一つ溜息を吐き出し、船頭はリーシャ達へ視線を戻すと、再び目の前に立つ一際大きな屋敷へと向かって歩き出した。

 

サラの言う通り、この先の戦いは本当に厳しい物となるだろう。ここまでの旅の中で、彼女達三人は、基本的に交渉事の矢面に立った事はない。常に、絶対的な存在によって護られる中、己の感情や思考をぶつけた事しかないのだ。国王との謁見では、口を開く事すら出来ず、盗賊等の相手は、カミュという『勇者』の背中越しに相対していた。だが、今回は、彼女達を護るように立つ大きな壁はない。相手の空気を読み取り、駆け引きをしなければならないのは、おそらくサラであろう。しかし、サラには強気の交渉を支える事の出来る程の裏付けがない。それは、話を進めて行く中で、力関係を示す上で何よりも重要な物であり、弱気になれば、相手側に突け入る隙を与えてしまう事になるのだ。

 

「大丈夫だ。サラの後ろには、私もメルエもいる」

 

「…………ん…………」

 

そんなサラの不安が伝わったのだろう。メルエを抱き抱えていたリーシャは、サラの肩に手を掛けた。リーシャの腕の中ではメルエがしっかりと頷いている。今の三人には、絶対的に大きな存在が欠如している。だが、それでも彼女達は運が良いのだろう。何故なら、三人が揃っているからだ。

 

『頭脳』のサラ。

『力』のリーシャ。

『才能』のメルエ。

 

この三人が揃っている以上、隙を突かれたとしても巻き返しは可能なのだ。この三人を打ち負かす事が出来るとすれば、ここにはいない、『勇者』と呼ばれる青年だけであろう。いや、彼であっても、三人が力を合わせたとすれば不可能であるかもしれない。彼女達は二年という月日の中で個々の成長と共に、団結力という、旅には欠かせない『力』を手に入れていたのだ。

 

「……棟梁は夜には帰って来るだろう。それまでは、この部屋で休んでいてくれ」

 

ある一室の前まで来た船頭は、そのドアを開け、リーシャ達を中へと促す。望まぬ来客であるのにも拘わらず、別室まで用意し、棟梁の帰りを待たせる事を不思議に思ったリーシャ達は、部屋にそのまま入る事はせず、暫し船頭と視線を交わし続けた。リーシャの強い視線を受けた船頭は、視線を外す事も出来ず、一度溜息を吐き出す。

 

「疑っているのか?……アンタ方に敵うと考える程、俺達も馬鹿ではない」

 

「ならば何故だ?」

 

リーシャの顔に怒りや侮りはない。まるで、何処かにいる『勇者』のような、心の中が読めない表情。そのリーシャを横目で見ていたサラは、メルエの手を握りしめ、船頭へと視線を移す。リーシャだけではなく、サラも不思議に思っていた。『彼等のような荒くれ者達が、何故に態度を一変させたのか』という事が。

 

彼等の態度が変わったのは、船をアジトへと進めて行く中で遭遇した魔物達との戦闘以降である。今、メルエが大事そうに抱えている杖の先に嵌め込まれていた赤い石が砕けた戦闘。無力な人間が、魔物という脅威に対し、己の無力感に打ちひしがれる筈だった場面は、たった三人の女性によって覆された。あの場所にリーシャ達三人がいなければ、この海賊達は、全滅とは言わなくとも、その数を半数以下に減らしていたかもしれない。そんな小さな奇跡を境に、彼等のリーシャ達を見る目が変化していた。

 

「アンタ方の噂は良く耳にする。噂通りの人物なのであれば、棟梁に会わせる事が俺達の役目だ」

 

「……噂……?」

 

無表情を貫くリーシャの代わりに、サラが言葉を洩らした。『噂』という物は、人々の口から耳へ伝わり、その数を増やし蔓延して行く物。それがリーシャ達三人に繋がるとは、サラには考えられなかった。自分達とは全く無縁の物が、彼女達の前に現れている。それはサラの心に動揺を運んで来ていた。揺らぐ心と、揺らぐ瞳。

 

「サラ!」

 

「はっ」

 

予期せぬ言葉に揺らいだ心は、即座に引き戻される。今は、動揺が命取りになるような場面ではない。それでも、この先の対決の矢面に立つのは、サラ以外にはいない筈。それをリーシャは知っていた。ならば、小さな事で動揺しているようでは、何も成し得る事は出来ず、サラの目的も達成する事など出来はしない。故に、リーシャはその名を叫んだ。

 

今のリーシャ達は、三人でカミュが行って来た事の全てを担わなければならない。リーシャは遅れを取らぬように、感情を読み取らせない無表情を貫き、サラが頭脳を回転させて、主導権を握りながらも物事を進める。そして、いざという時には、メルエの魔法という神秘を持って対峙するのだ。

 

「『世界を救おう等と考える馬鹿共と会ってみたい』というのが、棟梁の願いだ」

 

「なに?」

 

そんなリーシャの眉も堪らず動き出す。しかし、そんなリーシャの変化を見る事無く、船頭は踵を返して、元来た道を戻って行った。馬鹿扱いされた事に一瞬血が上りそうになっていたリーシャも、離れて行く船頭の背中を見て、大きく息を吐き出す。それが、リーシャ達の第一戦の終了を意味していた。

 

 

 

 

『噂』という物が何かは解らない。だが、船頭が最後に口にした言葉が、その『噂』の一端を示していた。カミュ達は、国から国へと旅している。基本的に同じ場所には戻らない。故に、その場所で語られる物語を知る術はないのだ。『噂』とは人から人へと繋がって行く。だが、見も知らぬ人間に対し、噂を伝える事はない。知り合いから知り合いへと、親から子へと物語は綴られ、そして遠い世までをも超えて行く。故に、『噂』は当事者へと伝わる事はない。

 

一人歩きを始めた『噂』は、いずれ時を超えるのだろう。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

少し中途半端ですかね?
この先を全て一つにしようと思っていたのですが、思っていたよりも文字が増えてしまい、二話に分ける事にしました。
次話は少し早めに更新したいとは思っています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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海賊のアジト②

 

 

 

 静かに時は流れて行く。船頭に案内された一室で窓の外を見ていたメルエは、陽が傾き、西の空を真っ赤に染まって行くのを見ていた。

 海賊のアジトに立ち並ぶ家々からは、夕食の準備の為か、煙が立ち、真っ赤に染まる空を優雅に泳いでいる。静かな波の音が時を刻み、メルエの瞼も静かに幕を下ろそうとした頃、窓の外の時が急激に動き出した。

 

「帰って来たようだな」

 

「そうですね。メルエ、寝ては駄目ですよ。これからは、メルエの言葉も必要になります」

 

 ベッドに横になってしまったメルエの身体をサラが起こし、軽く揺さぶっただけで、メルエはその瞳を開けた。幼いメルエにも、この後で成すべき事を理解しているのだ。

 傍に置いてあった木だけになった杖を抱き寄せ、立ち上がったメルエは、リーシャの足下に移動する。取り上げられる事も無かったそれぞれの武器を装着した三人が準備を終えると同時に、部屋の扉が音を発した。

 

「棟梁のお戻りだ。案内する」

 

 先程、三人をこの場所へ案内した船頭の声を聞いたサラがリーシャへと視線を移した。サラの視線を受けたリーシャは再び表情を失くし、サラに向かってしっかりと頷きを返す。

 それは、明確な『決意』。今まで行った事のない『交渉』という場に立つ事に対してのリーシャなりの覚悟であったのだろう。それを受けたサラは、静かに扉の取っ手に手をかけてそれを引き開いた。

 

「……棟梁には、アンタ方の事は簡単に話してある……」

 

「わかりました。お願いします」

 

 船頭は、出て来た人物の表情を見て、一瞬だが言葉に詰まった。後ろに立つ女性戦士の表情は、先程見たのと同様に無表情。その足下にしがみ付く少女の眉は不安そうに下げられている。だが、先頭に立っている女性の表情は、ここまでの航路では見た事のない物だった。

 何かの覚悟を決めたような重苦しい空気を纏ってはいるが、それでいて相手を威圧するような空気ではない。

 彼女の何が変化したのかは、船頭には解らない。

 だが、彼女の中にある『想い』が固まった事だけは事実であろう。

 それが、海賊にとって良い物となるかは甚だ疑問ではある。

 それでも、船頭に選択肢は残されていない。

 棟梁が望んでいる以上、それを拒むという選択肢はないのだ。

 

「では、付いて来てくれ」

 

 船頭を先頭に歩き出す。アジトの中央に位置するこの屋敷には、数多くの人間が働いていた。女性から子供までが、何かしらの仕事を持ち、屋敷内を歩いている。棟梁が何かを成して来たのだろう。酒宴を開く予定でもあったのか、屋敷の廊下にまで料理の香りが漂っている。

 食事の匂いを嗅ぎ、周囲を見るメルエの手を引いたリーシャは、それでも表情を変える事はなかった。何故なら、前を歩くサラの頭が微動だにしていなかったからだ。

 カミュのいない今の彼女達には、縋る物がない。互いを信じ、己の役割をこなして行くだけなのだ。

 その中でもサラが担っている役割が一番重いだろう。彼女は、数多くの荒くれ者を束ねる人間と真正面から対峙しなければならず、その際には、周囲を荒くれ者達が必ず囲んでいる筈だからである。

 魔物であれば良い。集団で現れようと、メルエの魔法がある以上、リーシャ達の命が危ぶまれる事はないからだ。

 だが、相手が荒くれ者であろうと『人』である以上、メルエの魔法は行使出来ない。『人殺し』という烙印をメルエに押される事を許さないのは、リーシャもサラも同じ。ならば、サラの発言に海賊達が激昂したとすれば、その相手はリーシャ一人となる事となる。その時こそ、リーシャの仕事なのだ。

 

「少し待っていろ」

 

 一つの大きな扉の前に辿り着いた一行に、船頭は静かに声をかけ、中へと入って行く。その間に、前で身体を固くしているサラの肩に手を置いた。

 突然、置かれた手に、サラは弾かれたように振り向き、リーシャの目と視線を合わせる。その瞳は『決意』と共に、大きな『不安』に彩られていた。

 サラとて怖いのだ。以前、バハラタへ『黒胡椒』を取りに行った時とは違う。相手は、自分の利を押し通そうとするだろう。それを防ぎ、押し返す事が出来なければならない。

 

「サラ、そう固くなるな。あのカミュが出来る事をサラが出来ない訳がない。私は、サラを信じている。そして、サラも私とメルエを信じろ」

 

「…………ん…………」

 

 振り向いた先には、リーシャの笑顔があった。ここまでの道では、カミュのように表情を失くしていた者の久しぶりの笑顔。その下では、眉を下げながらも笑顔を見せる幼い少女。サラはそんな二人の笑顔を見て、初めて自分の肩に力が入っていた事に気が付いた。気負い過ぎていたのだ。

 リーシャの言葉通りに受け入れる事は出来ない。サラにとって、カミュとはそれ程の存在なのだ。だが、カミュとは異なり、サラは一人でそれを行う訳ではない。その当たり前の事実を今初めてサラは自覚する事となった。

 

「入れ。棟梁が会う事になる」

 

 中から出て来た船頭が扉を大きく開いた。急に開けたリーシャ達の視界。大きな広間には、大勢の男達が座っていた。地べたに腰を下ろした屈強な男達の瞳が一斉に先頭に立つサラへと集中する。

 一瞬身を強張らせたサラではあったが、もう迷いはしない。真っ直ぐ見つめたサラの瞳の先に、一段高くなった場所に置かれたソファーのような物が入って来る。その肘掛に肘を乗せ、掌に顎を乗せてこちらを見ている女性。この人物が棟梁に間違いはないだろう。

 サラは周囲の男達へは目もくれず、真っ直ぐに女性を射抜き、歩を進めた。

 

「ふん! 世界を救おうとする人間だというから、どんな奴らかと思えば、餓鬼ばかりじゃないか」

 

 足を進め、屈強な男達に囲まれながらサラが膝を下ろそうとする前に、棟梁と思わしき女性が鼻を鳴らす。顔を上げたサラの瞳には、先程まで興味に満ちていた女性の瞳が、落胆と蔑みの色へと変化するのが映った。

 だが、同様に気付いている筈のリーシャは、いつもとは違い、何も発言する事無く、そして膝を着く素振りも見せない。そこで初めて、サラは膝を着こうとした自分の過ちに気付く。

 彼女達は、王ではない。海を支配する『王』であると言えばその通りなのかもしれないが、彼等は奪うだけで、何を生み出す事も無い。多種族の『王』であったエルフ女王とも、異教徒と言われながらも国と共に歩む国主とも違う。目の前の棟梁らしき人物が、サラ達を『女子供』と侮るのならば、サラ達も『女棟梁か』と溜息を洩らしても良い立場なのだ。

 リーシャは何処かでそれを感じていたのだろう。カミュとは違い、サラは対等な立場として立たなければ、有利な交渉が出来ないという事を。

 サラは、カミュに立ち向かって勝利を勝ち取った事が一度だけある。バハラタ近くでの盗賊のアジトの一件。あの時、カンダタを救おうとしたサラは、カミュの冷たい一言に感情ではなく、思考の末で立ち向かった。

 初めは感情論だけであったろう。それでもサラは考え、悩み、そして全てを受け入れて尚、カミュと同じ場所まで駆け上がって行ったのだ。初めて自分と同じ目線に立ったサラを見て、あの時、カミュは一歩退いた。全てを他人に委ね、幸運も不運も『精霊ルビス』という名を使う事で逃げていたサラではなく、己の力で何かを成そうとする人間へと変化をしたサラを、あの時、カミュもリーシャも見届けている。

 サラは対等でなければならない。相手と同じ目線に立ち、相手の言い分も、自分の要求も全てを飲み込み、考え、悩むサラでなければならない。リーシャはそう考えていた。

 

「…………だめ…………」

 

 だが、そんなリーシャの考えも、サラの変化した覚悟も、たった一人の少女によって打ち消された。

 今までリーシャの横に立って眉を下げていたメルエが、突如サラよりも前に進み出て、頬杖を突く女棟梁に向かって言葉を発したのだ。それは、いつもよりも少し大きな声。まるで、相手を叱りつけるような言葉に、周囲の時が一瞬固まりを見せる。

 前に出て来た幼い少女は、威圧感を発している訳ではない。だが、それでも何かしらを相手に伝える空気を纏っている事だけは事実であった。

 

「なんだ? 餓鬼は引っ込んでいろ!」

 

「全員が餓鬼みたいなもんだがな」

 

 止まった時は、荒くれ者らしい粗野な言葉で動き出す。おそらく、彼等は今回の船に乗船していなかったのだろう。リーシャ達の活躍も知らず、メルエの恐ろしさも知らない。故に、そのような言葉が出てくるのだ。

 それを示すかのように、女棟梁の言葉にも、この仲間達の言葉にも顔を顰めている海賊達が数名いた。彼等はリーシャ達にも見覚えのある顔触れ。つまりは、リーシャ達と共にこのアジトまでの航海をして来た者達なのだろう。

 そして、そんな彼等の不安は、即座に現実の物となった。

 

「それ以上、近づくな。メルエに指一本でも触れてみろ。お前達がこの世に残っていられると思うな」

 

「な、なんだと!?」

 

 周囲の荒くれ者達には目もくれず、女棟梁の瞳を厳しく睨みつけ続けるメルエに痺れを切らし始めた海賊達の数名が、メルエを下げようと立ち上がったのだ。

 しかし、その男達が一歩前に足を踏み出すと同時に、周囲を感じた事のない程の殺気が支配した。先程から無表情を貫いていたリーシャが、いつの間にかサラを越え、メルエの後ろへと移動をしている。足を踏み出し、メルエに手を伸ばそうとしていた海賊達の身体が凍りついたように動かない。それ程の威圧感を感じていたのだ。

 

「リ、リーシャさん、メルエ、一度下がって下さい」

 

 慌てたのはサラである。状況は、正に一触即発。海賊達が一歩でも動けば、言葉通りにリーシャは斧を抜くだろう。そうなってしまえば、交渉どころの話ではない。このアジト全ての海賊達との争いが勃発し、それこそ、流石のサラ達も無事では済まないだろう。サラは交渉に来たのであって、海賊達の殲滅に来た訳ではない。しかし、そんなサラの願いも、決してこの場の空気の好転には至らなかった。

 

「へぇ……近付いたら、どうなるって?……その餓鬼に触れれば、どうするつもりだって?」

 

 今まで興味の失せたような態度をしていた者の瞳が、爛々と輝き、幼子の後ろに立つ女性戦士を射抜いていた。そのまま徐に立ち上がった女棟梁は、面白い物でも見つけた子供のような笑みを浮かべながら、メルエの許へと近付いて来る。

 慌てたのは、リーシャ達と共に航海をして来た海賊達だ。リーシャの実力を知っているだけに、注意を促そうとするが、笑みを浮かべながら歩く女棟梁が纏う空気に声が出ない。リーシャの発する威圧感に負けない程の空気を纏ったそれが、海賊達の目の前を通り過ぎて行く。

 

「あ……あ……リ、リーシャさん、駄目ですよ!」

 

 徐々に近づいて来る女棟梁に対して、リーシャは再度注意を呼び掛ける事はない。先程同様に無表情を貫いたリーシャからは、威圧感は消えていた。静かに近付いて来る者を見つめ、メルエの肩に手を置いている。

 サラには、それが尚一層に不気味に見えた。感情をはっきりと示す事が、リーシャの取り柄の一つと言っても過言ではないのだが、ここ数週間、サラはリーシャの感情を確認してはいない。今のサラには、リーシャの行動が読めないのだ。

 サラが困惑している間に、女棟梁は尚も歩を進め、遂にメルエに手が届く位置まで近付いていた。女棟梁の顔には、未だに余裕の笑みが張り付いている。殺気や威圧感を消してしまったリーシャを見て、怖気づいたとでも感じているのかもしれない。そう考える事の出来る人生を彼女も歩んで来ていたのだ。

 年齢を重ね、背丈が大人と同等になるのも早く、その頃には力で彼女に敵う者はいなくなっていた。武器の扱いは完全な我流。それでも、彼女の前に全ての男達が平伏し、それを統べるだけの力も有している。挑まれた戦いには全て勝利し、配下を増やし、そしてそれらを手足のように使っても来た。故に、彼女は慢心していたのだ。『自分に勝てる女など居はしない』と。

 

「ぐっ……」

 

 故に、彼女は幼い少女の前に立って腰の剣に手を乗せた瞬間に襲いかかって来た巨大な力を防ぐ事しか出来なかった。身に降りかかる脅威に対し瞬時に反応出来たのは、数多くの荒くれ者を束ねる事が出来る彼女だからこそであろう。

 だが、振り下ろされた力は、彼女が抜き放った剣を圧し折れそうな程に強く、彼女は苦悶の声を上げた。

 

「リ、リーシャさん!」

 

「剣を抜いたという事は、それなりの覚悟がある筈。私とメルエに向けて剣を抜いたのだ。辞世の言葉は用意してあるのか?」

 

 まるでメルエに屈するかのように、少女の前で膝を折る女性を見下ろしているリーシャの片手には<鉄の斧>。片手で振り下ろした斧は、女棟梁の持つ剣で辛うじて動きを止めているが、彼女がもう少し力を込めたり、両手に持ちかえたりすれば、その剣も根元から折れてしまう事は、傍で見ている者達にも理解が出来た。

 慌てるサラへ一度振り向いたリーシャの表情は、先程までと同様の無表情。何も感じ取る事の出来ないその顔は、サラの胸にカミュへ感じている物と同等の畏怖を生んだ。

 リーシャは先程の女棟梁の言葉に苛立ちを覚えていたのだ。『女』として侮られる事は、今も昔もリーシャの嫌う物。それを軽々しく発した棟梁に対しての怒りと、メルエという大事な少女に刃を向けた事への怒りが今のリーシャを動かしているのだろう。

 

「……リーシャさん、斧を納めて下さい。話し合いになりません……」

 

 それを感じたサラの瞳が再び変化する。メルエの発言、リーシャの行動に驚いていたサラはもういない。ここに居るのは、二人から全幅の信頼を受け取る『頭脳』としてのサラ。

 瞳の色を変えたサラは、厳しい瞳をリーシャに向けて反論を許さない。その言葉を受けたリーシャは腕の力を抜き、メルエを庇うように武器を納めた。

 

「ふん! やるねぇ。不意打ちといえ、力で圧されたのは初めてだ」

 

 圧力が無くなった剣を腰に戻した女棟梁は、自分の立場を護るように一度鼻を鳴らし、立ち上がってリーシャと瞳を交差させる。背丈はリーシャとほぼ同程度。同じ視線の位置でぶつかり合った瞳は、暫しの間、誰の介入も許さなかった。

 息を飲むような緊迫が続き、周囲を囲む海賊達が額から汗を一筋流す頃、ようやくその時間は終わりを告げた。

 

「…………トルド………いじめる………だめ…………」

 

「あん?」

 

 再び女棟梁の前に進み出た幼い少女は、自分の倍近くある人間を見上げ、先程と同じような厳しい視線を向けて口を開いたのだ。不意に下から受けた言葉に、女棟梁は間の抜けた声を上げる。

 視線を下へと向けると、胸に太い木の枝を抱いた少女が自分を睨んでいる。それは女棟梁にとっては、異様な光景だっただろう。海賊の棟梁として、彼女は恐怖の対象でもある。同じアジトで暮らす子供達からも、慕われるというよりは、畏れられていると言った方が正しかった。

 幼い頃から力も強く、同年代の友人などもいない彼女にとって、物怖じをする事無く自分へ瞳を向けて口を開く少女が単純に珍しかったのだ。

 

「なんだ? 何が言いたいんだい?」

 

「…………」

 

「私が代わりにお話しいたします。メルエ、リーシャさん、こちらへ」

 

 先程までの好戦的な空気を納めた女棟梁は、厳しい瞳を向ける少女へ視線を合わせる為にしゃがみ込み、とても穏やかな声で問いかける。しかし、いざ問いかけてみると、その少女は瞬時に困ったように眉を下げ、後方にいる女性へと振り返った。

 その態度の変化を見た女棟梁は、『怖がらせてしまったか?』という懸念を抱くが、少女から視線を受け取った女性が口を開いた事で、それが間違いである事を悟る。

 

「何か言いたい事がありそうじゃないか? ふん! 良いだろう、聞いてやる」

 

 暫し、声の発信源であるサラを射抜いた女棟梁は、サラの瞳が全く揺るがない事を確認した後、鼻を鳴らして、元の場所へと戻って行った。

 先程腰かけていたソファーのような物に座り、再び頬杖をついた女棟梁は、一度周囲を見回した後、サラへと視線を戻す。既にリーシャとメルエはサラの後方へ移動し終えており、先頭に立つサラがその視線の矢面に立っている構図が出来上がっていた。

 

「お伺いしますが、貴女がこの海賊団の棟梁様ですか?」

 

「ああ。俺がこのリード海賊団の船長であり、棟梁であるメアリだ」

 

 既に解っていた事とはいえ、改めて名乗られると、女性の海賊棟梁という存在にサラは内心で驚きを見せる。時代が時代故に、荒くれ者達の存在は数が多い。貧困によっ食がなく食詰めた者や、親が死に孤児となった者。中には、メルエのように奴隷として売られ逃げ出した者などもいるだろう。そのような者達が頼みとするのは、頭脳ではなく、己の腕力のみ。そんな無法者に近い荒くれ者達を束ね、そして的確な指示を出す人間が女性という事への驚きである。

 国家中枢などは、基本的に男社会である。そんな中で生きて来たリーシャやサラは、何処かでその考えを捨て切れないのだろう。リーシャという『戦士』やサラのような『賢者』がいる以上、その程度の常識など疾うの昔に崩れ去っているのだが、それは彼女達の生まれと育ちの影響だった。

 

「それで?……お前達は噂通りの、世界を救うという『勇者一行』様なのか?」

 

「……現在は、『勇者一行』ではありません……」

 

 『今度はこちらの番だ』とばかりに言葉を発するメアリの問いかけは、サラ達にとって苦しい問いかけである。サラ達の目的は、今も昔も『魔王討伐』である事に変わりはない。メルエという少女は違うかもしれないが、彼女に『リーシャ達と離れる』という選択肢がない以上、目的は同じと考えても差し支えはないだろう。

 故に、世界の脅威である『魔王討伐』を掲げる限り、彼女達の目的は世界を救う事となる。しかし、『勇者一行』かと問われれば、彼女達の答えは『否』なのだ。彼女達一人一人が、行いによっては『勇者』と成り得る存在であるのだが、彼女達にとって、『勇者』とは唯一人を示す言葉。

 

「どういう事だ?」

 

「私達は、現在『勇者』と呼ばれる人と共に歩んではいません。予期せぬ出来事で別々に行動をしています」

 

 サラの言葉を疑問に思ったメアリは、訝しげに問いかけるが、先程とは違い、今度のサラは、真っ直ぐメアリを見据えて言葉を繋いだ。サラ達には今、『勇者』と共に旅する者であると証明できる物はない。だが、リーシャもメルエも、そしてサラも、カミュという『勇者』と共に『魔王討伐』へ向かって歩いているという自信があった。

 誰に与えられた物ではない。誰に告げられた訳でもない。それでも彼女達にとってその事実は、この二年以上の旅で培って来た物なのである。

 

「それで? その『勇者』様の同道者が、俺のような海賊なんかに何の用だ?」

 

 サラの瞳に揺らぎが見えない事に口元を緩めたメアリは、リーシャとメルエに視線を送った後、再びサラへ瞳を向ける。口元に表した笑みとは裏腹に、メアリの瞳に笑みはない。『勇者一行』といえども、譲れぬ物は譲れないという意志の証。

 それを宣言するかのようなメアリの瞳を見たサラは、一つ息を吐き出した後、真っ直ぐメアリを見据えて、ゆっくりと口を開いた。

 

「ポルトガの西にある、開発中の町に関しての事です」

 

 口火を切ったサラは、自分達とトルドの関係を含め、海賊達の理解の具合を確かめながら、ゆっくりと話し始めた。

 途中で口を挟むメアリの言葉は退ける事はないが、傍で控える海賊達の罵倒などは、鋭い瞳を向けるだけで歯牙にもかけない。『矢面に立つ』と決めたサラにとって、荒くれ者達の罵倒など、恐怖の対象ではないのだ。

 

 

 

 

 

 そして、サラが自分達の要求の全てを話し終えた頃、西の大地へ沈み始めていた太陽は完全に沈み切り、部屋に暗闇の支配が進んでいた。

 闇が支配した部屋の中で、暫しの沈黙が流れる。口を開き続けたサラの口が閉じてしまった事によって、部屋は急激な静寂を広げたのだ。それが、この空間をサラが一人で支配していた事を意味していた。

 

「誰か灯りを!」

 

 そんな静寂の支配が完成するかに思われた頃、ようやく本来の主である女性の声が部屋に音を戻す。その言葉が部屋に響き渡ると同時に、<たいまつ>を持った数人の使用人らしき人間が、部屋のあちこちに付けられている灯台へ火を灯して行った。

 徐々に明るさを取り戻す部屋で、サラの瞳に海賊達の表情が映って行く。誰も彼もが何かに怯えるような、それでいて苦しむような表情をしていた。ある意味で予想していた通りの反応に、サラは真っ直ぐ視線を戻す。最後に、メアリの後方に付けられていた灯台へ火が灯され、メアリの表情が映し出された。

 そこにあったのは、笑みを浮かべている物でもなく、何かに虚勢を張っている物でもない。それは正しく、海賊の棟梁たる表情であった。

 

「それで?……お前らは、俺達の仕事の邪魔をしに来たという事か?」

 

 静かな静かな声。

 それでいて、とても低く、頭に響く声。

 身体の芯へと響き、そこに巣食う恐怖心を刺激する声。

 その声に、周囲を囲む海賊達の身体が跳ねたような気がした。それ程に、周囲の空気が変化したのだ。

 サラが視線を動かすと、海賊達の全員が顔を下げている。これから起こり得る惨劇を予想してそれを見る事を拒んでいるのかもしれない。サラの心の奥へも、メアリの声はしっかりと届いていた。元々、怒鳴り声や威圧する声に弱いサラの心が乱れ始める。

 

「……サラ……」

 

 しかし、彼女は一人ではない。

 たった一言の呟き。

 それが、何よりも頼れる暖かさを運んで来た。

 サラを襲っていた、威圧するような空気が霧散して行く。

 

「いえ、貴女の考えは正しい。この時代に、略奪を主とする賊としての活動には限界があります。その為に、航路の護衛を含む行為により、利権を欲する事は当然の考えだと思います」

 

「!?……誰から聞いた……?」

 

 自分を護るような空気に包まれたサラは、船上で考えていた物を口にする。海賊のアジトへ行く事を決めた時から、その海賊の目的を考え続けていたのだ。船頭は、航海の目的地と、そこで会った人物と、その行動しか語らなかった。いや、それ以外は語れなかったのだ。

 メアリという棟梁の考えは、海賊達の中でも優秀な部類に入る船頭であっても理解出来る物ではなかったのだ。故に、リーシャもメルエも、『海賊達がトルドを脅し、金銭を要求した』としか考えてはいなかった。

 

「貴女は誰にも語ってはいない筈です。その利権を手にする人間が増える事を恐れて。あの場所は、商人でもない限り、それ程魅力的な場所には映らないのでしょう。だけれども、貴女から見れば利益の宝庫だった」

 

「ふん! お前から見ても、そうだったのではないのか?」

 

 サラの考えは、メアリの欲望を正確に突いていたのだろう。先程とは異なった、恐ろしい笑みを浮かべたメアリは、試すようにサラへ問いかける。『お前も利権に群がる連中か?』と。

 それは、問いかけではなく、脅しに近い言葉。メアリにとって、同じ目的の人間が増えれば、自分達の得る物が少なくなる。故に、彼女はサラを探るように睨みつけるのだ。

 

「私には興味がありません。ただ、あの場所で懸命になっている人は、先程言ったように私達の大事な人です。その人の夢を傷つける事だけは許しません。貴女が誰であろうと、どんな目的があろうと、どのような事情があろうとも」

 

 リーシャは、ここに来て、ようやく表情を崩した。

 既に、彼女が無表情を装い、相手を威圧する必要はない。サラは相手と同等の場所まで駆け上がり、そしてそこで真っ直ぐと立ち向かう事に成功したのだ。決して、自分達が上ではない。だが、ここまで来れば、自分達が下になる事も無いだろう。その場所へ昇り、海賊という荒くれ者達の頂点に立つ人間と対峙するサラを見て、リーシャは改めてサラを頼もしく思っていた。

 最早、感情を優先して周りが見えなくなる『僧侶』はここにはいない。狭い視野の下、自分の価値観以外を『悪』と決め付ける『僧侶』もいない。

 

「であれば、どうする? 俺達にその利権から手を引けというのか? 俺達から言わせれば、お前らの事情や関係など興味も考慮する余地も無い。俺達は、俺達の利益の為に動くだけだ」

 

「……わかっています……」

 

 試すような物から、再びメアリの瞳が変化した。リーシャが感じたようにメアリもまた、サラを対等の立場として見るように変化したのだ。

 頬杖をついていた手を外し、両手を膝の上で組むような前屈みの態勢に変えたメアリは、鋭い視線をそのままに、サラへ自分の考えを口にする。

 確かに、メアリの言う通り、サラ達にサラ達の事情があるように、メアリにも事情があるのだろう。サラがメアリ達の事情を考慮に入れないと言うのであれば、メアリ達にもそれを考慮に入れない権利が生じて来る。それを理解出来ないサラではない。故に、サラは静かに首を縦に振った。

 メアリ達の言い分を理解している事を態度で示したのだ。いや。正確に言えば、それはメアリ『達』ではないだろう。メアリにしか、その目的も内情も理解出来ない以上、これは完全にメアリとサラの二人の話となる。

 

「現状では、貴女達の今後は厳しいものになるでしょう。ですから貴女は考えた。そこで新しく造られる町の噂を聞いた事によって、貴女の考えは現実味を帯びて来る」

 

 『自分達の未来は暗い』と言われて喜ぶ人間などいない。サラを見つめる視線が一斉に厳しい物へと変化した。海賊達の瞳はサラを射抜き、全ての人間は、サラの口から発せられる言葉の続きを待つ事となる。それは、彼等を束ねる女棟梁も同様であった。

 射抜くような視線は、サラの身体に穴を空けそうな程の威力を誇り、メルエはリーシャの影に完全に隠れてしまう。

 

「それで?」

 

「貿易での護衛は今の時代だけではなく、今後の時代でも必ず必要となるでしょう。元々、海の旅は、船の自警団等が護っていたと聞いています。それを職とし、代金を要求する事は至極当然であり、需用もある物だと思っています」

 

「ふん! そこまで理解しているのなら、俺達に何が言いたい?」

 

 サラが言う事に興味を失ったかのように、鼻を鳴らしたメアリは、視線を戻し、再び頬杖を付き始めた。彼女が考えている事と寸分も変わらない考えを発表されたところで、メアリの興味を引く事はないのだ。

 しかし、サラはそれでも真っ直ぐにメアリを見つめ、口を開き続けた。

 

「ですが、それは正規の料金であるならばの話です。貴女方は、おそらく多額の料金をトルドさんに持ちかけたのでしょう。トルドさんならば、貴女の考えに気付かない訳がない。もし、正規の料金であるならば、トルドさんは必ず了承した筈です」

 

「…………トルド………いじめる………だめ…………」

 

 まるでサラを援護するように、リーシャの影からメルエが再び口を開いた。周囲を囲む海賊達の中で口を開ける者など誰もいない。まず、サラが口にしている内容を正確に理解している人間さえもいないのだ。

 理解し、考える事の出来ている人間は、唯一人。先程と同じように頬杖を突きながら、サラを見つめているメアリだけである。

 

「お前は、俺達を義賊か何かと間違っているのか? どんな思惑があれ、俺達は海賊だ。賊である以上、相手の利益などを考える必要があるとでも思うのか?」

 

「貴女は、目先の利益を求めている訳ではない筈です。増え続けた海賊の人間達を養う為の財源を欲している。だからこそ、ポルトガとあの開拓地の間の貿易船を襲う事を止め、護衛費を請求しようと考えたのではないですか? 暴利を貪ろうとすれば、あの場所に町など出来ず、貴女の計画は始まりをも見ずに霧散しますよ?」

 

 既に、リーシャにも理解が出来ない会話となりつつある。サラとメアリが何に関して対抗しているのかも、何が利益となり、何が損益となるかも怪しい。だが、サラの目的がトルドの幸せである事を知っているリーシャは、何の心配もせずに、そのやり取りを見つめていた。

 サラが最後の言葉を発した後に流れる静寂は、完全に部屋全体を支配し、全ての人間をも飲み込んで行く。そんな中、一つの溜息が場の時を再び動かし始めた。

 

「お前達にはお前達の言い分があり、俺達には俺達の考えがある。双方退けないとなれば、決着を着けるには、方法は一つしかないだろうな」

 

 溜息を吐き出し、立ち上がったメアリは、真っ直ぐにサラを見つめている。そこで再びサラの心が騒ぎ始めた。彼女が対峙していた人間は、辛うじてとはいえ、リーシャの一撃を完全に防いで見せた強者なのだ。その人間が『決着を着ける』と言えば、指し示す事は一つしかないだろう。

 もし、そうであれば、サラには勝ち目が難しい。魔法を行使すれば、何とかなるかもしれないが、それでは完全に相手に『死』という未来を叩き付けてしまう事となり、それはサラの望む所ではない。

 

「その勝負は、私が受けよう」

 

 サラの瞳が揺れ動き始めた時、サラの前を大きな壁が覆った。

 常にサラを護り、引き上げてくれた人物。

 サラが前を向き歩いて来る事の出来た原動力となった女性。

 そして、サラの目標とする『導く者』としての原点となる者。

 

「…………メルエも…………」

 

 そんな姉に続くかのように、小さな妹もサラを護るように前へと歩を進める。二人の背中に護られるように下げられたサラは、動揺を鎮め、静かに笑みを作った。

 『何を怯えていたのだ』と。

 彼女は常に、皆に護られていたのだ。矢面に立とうとも、彼女の後ろには常に二人がいた。そんな頼もしさに心を奮い立たせたサラは、再びリーシャとメルエの間を抜けて前へと踏み出した。

 

「大丈夫です。これは、私がメアリさんとお話しする事です」

 

 前へ出て来たサラを見てリーシャは目を見開くが、すぐに柔らかな笑みを浮かべて、メルエを伴って後ろへと下がった。リーシャは何も心配はしていない。勿論、メアリと対峙したリーシャには、剣の腕でサラがメアリに敵わない事ぐらいは理解している。だが、サラは『賢者』と呼ばれる人間であり、魔法力の制御に関しては、魔法の才能の塊であるメルエでさえ、足下に及ばない。

 何を心配する必要があるだろう。再び表情を失くしたリーシャは、腕を組みながらメアリの出方を待った。

 

「へぇ、良い覚悟だね。俺とやろうって言うのかい?」

 

「貿易船を護るという職を全世界に広め、それを貴女が指揮すれば、貴女が考えている以上の利益が生まれて来る筈です。それを貴女が理解出来ない筈はないと思いますが、それでも決着を望むのであれば、それを提示した私が相手になる事は当然の事です」

 

 挑発するようなメアリの言葉にも、サラは揺るがない。サラが示す未来がメアリに見えていない筈がない。そう信じているからこそ、サラはメアリを真っ直ぐと見つめ、一歩前へと進み、その挑戦を受けた。

 リーシャはサラを信じ、後方で腕を組んで見守っているが、もう一人の幼い妹は少し様子が異なる。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「ふふふ。大丈夫ですよ、メルエ。私を信じて下さい」

 

 何かを感じ取ったのか、メルエはサラの腰にしがみ付き、唸り声を上げている。そんなメルエの背中を優しく撫でたサラは、見上げるメルエに対して、『大丈夫』という言葉を発した。その言葉は、メルエにとって何よりも安心する言葉であると共に、メルエの介入を拒む言葉。その言葉を聞いた以上、この場でメルエにできる事はない。サラを信じ、見守る事しか出来ないのだ。故に、メルエは哀しそうに眉を下げながら、リーシャの待つ後方へと下がって行った。

 

「よし。お前達、準備を始めな!」

 

「おおぉぉぉぉ!」

 

 サラの覚悟を確認したメアリは、視線をそのままに片手を大きく上げ、周囲を囲む海賊達へと指示を出す。その指示を受けた海賊達は、先程までの緊迫感を捨て、皆が笑顔で一斉に立ち上がった。

 彼等の恐怖の対象であるメアリからは、いつの間にか威圧感は消えている。代わりに纏う空気は、楽しみを見つけたような、心弾む陽気な空気。それを感じ取ったからこそ、海賊達の声は部屋に轟いたのだ。

 

「おい。全員が相手なら、私も入るぞ」

 

「まぁ、そんなに焦るな。海賊の戦いは、何も腕力だけでの決着ではないのさ」

 

 一斉に立ち上がる海賊達を見たリーシャは、己の武器に手をかけ、メアリを厳しい瞳で射抜く。しかし、当のメアリは、そんなリーシャの視線から簡単に瞳を外し、鬱陶しそうに手を振って応えた。

 リーシャの中で決着を着ける方法は一つしかないのだろうが、メアリの中ではそうではないようである。それを示すように、立ち上がった海賊達は、全て部屋を出て行き、メアリはソファーに座り直してしまった。

 

「お前達も、準備が出来るまで、その辺りに座って待っていな」

 

「は、はぁ……」

 

 拍子が抜けてしまったサラは、気のない返事をメアリへと返し、リーシャに目配せした後、その場に腰を落とした。何があるのかが解らないリーシャであったが、サラへ託した以上、彼女に出来る事は何もない。一息吐き出した後、傍にいたメルエを抱き上げ、そのままサラの横へと腰を落とした。

 

 

 

 無言でメアリと見つめ合う時間が過ぎて行く。もはや、両者が言葉を交わす事はない。全ての胸の内を語りあったのだから、この場で相手に掛ける言葉はないのだろう。

 メアリは真っ直ぐサラを見つめ、サラはその視線を受け止めている。リーシャの足の上に座っているメルエは、そんな二人の様子を不思議そうに、小首を傾げながら見守っていた。

 

「入ります!」

 

 どれ程の時間が経った頃だろう。部屋へと続く扉から、海賊連中の声が次々と聞こえたと同時に、サラ達の目の前に数多くの料理が並んで行く。

 海賊らしく、それらの料理は海の幸が多い。魚の煮付けや、魚を焼いた物。中には、リーシャやサラが見た事も無い生の魚の切り身などもある。サラは、突然並べられた料理の数々に驚いていたが、リーシャは物珍しい料理に驚いていた。そんなリーシャの膝の上で、メルエは目を輝かせて料理を眺めている。場にそぐわない雰囲気に戸惑いを見せる三人を、メアリは口元をゆるめて見ていた。

 そして、全ての料理が出揃った頃に出て来たのが、屈強な海賊が五人程で運んで来た巨大な甕のような物。中に何かが並々と入っているのか、海賊達の顔はその重さに歪み、液体が揺れるような音が部屋に響いている。ゆっくりと進んで来る甕は、メアリとサラのど真ん中に静かに下ろされた。

 

「これが、海賊式の決着のつけ方だ。どちらかが潰れるまで飲み明かす。『飲み比べ』と言う奴だな。どうだい? 本当にやるかい?」

 

 目の前に出現した巨大な甕に目を奪われていたサラを挑発するように、メアリは笑みを浮かべながら言葉を発する。運ばれて来た甕からは、確かに強いアルコールの匂いが漂っていた。

 メアリが取った方法は、腕力ではなく胆力の勝負。それは、サラ達にとって予想外の方法であり、呆気に取られたサラは、暫し呆然として答える事が出来なかった。

 実際の所、メアリは理解していたのだ。腕力の勝負となれば、自分に勝ち目がない事を。それは、彼女に斧を振るった女性戦士の力を受けて感じていた。

 あの力は、メアリが受けた物の中でも別格である。あの力に相当する物を持っているからこそ、女性戦士は、今目の前で目を見開いている女性が前に出る事を許したのだろう。女性という存在が見た目ではない事をメアリは肌で知っている。故に、メアリは決着方法を選択したのだ。そこに、別の思惑も存在してはいるのだが。

 

「わかりました」

 

「お、おい、サラ。サラは酒を飲んだ事はあるのか?」

 

 戸惑いを見せていたサラの瞳が固定された。それは、メアリの挑発を受け取った事を意味している。そんなサラの姿に、リーシャは咄嗟に疑問を呈してしまった。今まで何とか無表情を貫いていた彼女であったが、予想外の提案と、それを受け入れるサラを見て、言葉が出て来てしまう。

 それは、相手に弱みを見せてしまう程の物であるが、リーシャの不安も当然の物であろう。リーシャは、アリアハンを出発する頃には、成人を迎えて既に数年が経過していた。魔物の討伐隊にも参加した事はあるし、酒も何度も飲んだ事はある。だが、アリアハンを旅立つ頃に成人を迎えたばかりのサラが飲酒をしていたとは思えない。

 ましてや、サラは『僧侶』であった。『僧侶』であるサラが、祝い事など以外で飲酒をする事はまず考えられない。それ故のリーシャの疑問であった。

 

「いえ。まだお酒は飲んだ事はありません」

 

「なに!?」

 

 不安に思い、疑問に思っていたが、何処かで希望も持っていたリーシャは、振り向いたサラの回答に驚きを露にした。驚き、言葉を発したリーシャは、サラの許へと近付き、その真意を確かめるが、当のサラは涼しい顔でリーシャを見ている。そこで、リーシャはサラが本当に飲酒をした事がないのだと理解した。

 彼女は、酒の楽しさも苦しさも、そして恐ろしさも知らないのだ。だからこそ、楽観視できる。いや、どちらかと言えば、その瞳の奥に興味という感情さえも見えるのだ。

 

「アンタも酒か?」

 

「いや、私が酔う訳にはいかない」

 

 そんなリーシャの不安を余所に、海賊の一人がリーシャの前に盃を置こうとするが、一瞥したリーシャは厳しい表情でそれを拒んだ。

 飲酒が初めてのサラは、自分の限界を知らない。その場合、すぐに酔い潰れるか、それとも意識を失くして倒れるまで飲み続けるのかのどちらかである。そんな未来が待っている可能性がある以上、リーシャが酒に酔う訳にはいかない。

 

「そうか……お嬢ちゃんは、この飲み物を飲みな。この近辺で採れる木の実を絞った果実汁だ」

 

「…………ん…………」

 

 飲まないと言うリーシャから目を逸らした海賊は、その傍に移動していたメルエの手に小さな器を手渡した。その中身は濃い黄色をした液体であり、その上に果肉が浮いている。香しい柑橘系の匂いに顔を綻ばせたメルエは、両手で器を持ち、口へ運んで行った。

 その様子に慌てて手を出すリーシャであったが、飲み込んだメルエの顔が満面の笑みを浮かべている事を見て、安堵の溜息を吐き出した。メルエは出会った頃から果物を好んでいた。何でも好き嫌いなく食べるが、朝食等で果物が出れば、真っ先に手を出す程。故に、そんなメルエにとって果物を絞った飲料を嫌う訳がない。

 

「準備は良いか? 料理は好きに食うが良い。さぁ、お前達、宴だ!!」

 

「おおおぉぉぉぉ!」

 

 皆に飲み物が行き渡った事を確認したメアリは、盃を掲げ、皆を見回して号令をかける。その声を待っていたかのように、海賊全員が盃を天高く掲げ、大声を上げて喜びを叫んだ。

 リーシャは気が気ではない。サラはどこか高揚した面持ちで、手にした盃を口へと傾けている。久しぶりに笑顔を浮かべたメルエは、美味しそうに器を傾け、果実汁を飲んでいる。目の前の料理は、空腹を誘うような香しい匂いを運び、楽しげな雰囲気がリーシャの頭脳を麻痺させて行く。

 

「おお、良い飲みっぷりじゃないか? こりゃあ、負けてられないね」

 

 初めて飲む酒の味を確かめるように口に含んでいたサラの杯は、既に空になっている。それを見たメアリは、一気に盃を飲み乾し、配下の者へ盃を突き出した。配下の人間は、巨大な甕に柄杓のような物を入れ、メアリの杯とサラの杯を並々と満たして行く。注がれた盃を口に運ぶサラは、初めて味わう酒の味がお気に召したようで、そのまま二口三口で飲み乾して行った。笑顔で見つめるメアリも、再び一気に盃を飲み乾し、それを突き出す。

 

「…………リーシャ………たべない…………?」

 

「メ、メルエ、もう食べているのか!?」

 

 サラとメアリの飲み比べを唖然として見ていたリーシャは、メルエが食べ物を差したフォークのような物をリーシャに差し出すのを見て、驚きの声を上げた。

 考えてみれば、ここ数日は碌な物を食してはいない。船の上での食事である為に贅沢は言えないのだが、幼いメルエにとってみれば、我慢をしていたのだろう。だからこそ、目の前に出て来た暖かな料理に目を輝かせたメルエは、すぐに手を出してしまったのだ。

 

「…………おいしい…………」

 

「……メルエ、ゆっくり食べろよ……」

 

 久方ぶりの笑顔を浮かべて食べ物を口に運ぶメルエを見ていたリーシャは、溜息を吐き出しながら声をかけ、近くに置いてあった水を口に運ぶ。何の味もしない水がとても美味しく感じる程、リーシャの喉は渇いていたのだろう。一気に飲み乾したリーシャは、サラを見て、より一層の驚きと絶望感に叩きこまれた。

 

「そんな勢いで飲んでいれば、すぐに潰れちまうぞ? 夜は長いんだ、ゆっくりと飲み比べを楽しもうじゃないか」

 

「はい!」

 

 既に数杯の杯を飲み乾しているサラは、メアリの忠告に対し、元気に返事をしてはいるが、その瞳に映る光はどうも怪しい雰囲気を出している。リーシャの不安が現実味を帯びて来た瞬間であった。

 しかし、それでもリーシャにこの『飲み比べ』を止める事は出来ない。これは、サラが相当の決意を持って受けた勝負である。誇りを最も重く考えるリーシャにとって、この勝負に介入する事は、サラの決意を無にし、その誇りを傷つける物だと考えてしまうのだ。

 一息、溜息を吐き出したリーシャは、その様子を見守る事を選択するしかなかった。

 

 

 

 

 

 それからどれ程の時間が経っただろう。既にメルエは、リーシャの膝の上で丸くなりながら寝息を立てている。周囲を囲んでいた海賊達の中でも、盃を持ったまま眠りに落ちている者もいた。

 それでも、中央にいる二人は、未だに手に持つ盃を口へと運んでいる。いや、その内の一人は、既に意識を飛ばしているのかもしれない。手にした盃に注がれた酒を口に運ぶ途中で、何度も溢し、注ぎ直されているのだ。身体は波を打ったように頼りなく揺れ動き、今にも倒れ伏しそうな身体を何とか繋ぎとめているようにも見える。

 リーシャは、既に限界を超えていると判断した。絶えず揺れ動き、盃を口へ運ぶ前にその大半を床に溢しているのは、サラである。これ以上の飲酒は、サラの身体を酷使するだけでなく、その命すらも奪う行為であると判断したリーシャは、誇りを捨ててでもサラを護る為に腰を上げようとメルエを床に寝かしつけた。

 しかし、その時、予期せぬ声が部屋に響き渡った。

 

「ふぅ……流石に少し酔ったか」

 

「ふぇ!? わた、私の勝ちれすか?」

 

 一度盃を床に置いたメアリが、身体を伸ばす仕草をした後、その顔を手で撫でたのだ。絶えず身体を揺らしていたサラは、メアリの言葉に反応し、もはや呂律も回らぬ口調で自らの勝利を確認する。そんなサラに向かって、メアリはまるでカミュのように口端を上げ、厳しい視線を向けた。

 

「いや、まだ飲めるが、少しお前に聞いておきたい事がある」

 

 再び盃を持ち直したメアリは、その盃をサラへ向けて口を開いた。もはや、意識も朦朧とし始めているサラは、小首を傾げながらメアリへ瞳を向ける。しかし、その瞳は既に焦点を合わせる事も難しく、何度か軽く頭を振っては瞬きを繰り返すサラを見たメアリが苦笑を洩らした。

 出る機会を逸したリーシャは、再び腰を下ろし、何かあれば即座に対応できる身構えだけを取る事とする。

 

「お前は、何故俺との勝負を受けた? 見たところ、腕力に自信があるようには見えない。後ろにいる女戦士ならば解るが……お前は、俺やそこの戦士のようになりたいのか?」

 

 真っ直ぐ見つめられたメアリの瞳が、この問いかけが本心である事を示している。メアリとすれば、サラと相対してみて、その実力が腕力に裏付けられた物ではない事を察していたのだ。

 『飲み比べ』だという事を告げていなかった以上、純粋な剣の勝負である可能性があった筈。それにも拘らず、リーシャを押し退けて勝負を受けたサラに疑問を抱いていたのだ。それが、先程のような質問へと繋がった。

 しかし、『戦士のような力を欲しているのかもしれない』というメアリの疑問は、言葉の意味を考えるように首を傾けていたサラによって斬り捨てられた。

 

「リーシャさんに憧れてはいますが……それは、わたしの役目ではありません」

 

「そうか……ま、まさか、お前は色気で勝負を挑むつもりだったのか?」

 

 サラの答えを聞いたメアリは、想像通りの答えを聞き、何かを考えるように視線を外した。しかし、即座にとんでもない想像へと行き着いてしまう。驚愕の事実に気が付いたとばかりにサラを睨む瞳は真剣そのもの。その素っ頓狂な思い込みに、思わずリーシャは、後方で噴き出しそうになってしまった。それ程に、突拍子もない投げかけだったのだ。

 メアリ自身からすれば、女としての魅力を自分が有していないと考えていた。アジトの外には、数多くの女達が存在する。その者達は、女らしく着飾り、化粧をし、華やかに男達と語り合っている。しかし、生まれた頃から海賊という荒くれ者どもと共に生活をして来たメアリは、そのような女としての生き方を知らない。

 女性ならではの楽しみも、喜びも、哀しみも知らないのだ。故に、色気と言う部分で勝負を挑まれていたのならば、目の前のサラに大敗北を喫していた未来を想像してしまった。しかし、そんなメアリの恐れも、杞憂に終わる事となる。

 

「ふぇ!? わ、わたしには、その辺りは無理だと……以前に言われた憶えがあります」

 

「ぶっ!」

 

 驚きを示したサラは、その後に哀しそうに顔を俯かせ、小さな呟きを洩らす。サラはおそらくアッサラームでの出来事を話しているのだろう。あの時、遊女のような女性に、その身体の成長具合を馬鹿にされ、サラは激昂した事があるのだ。しかし、そんな出来事を知らないリーシャは、サラの口から発せられた呟きに、完全に噴き出してしまった。

 確かにサラの体つきは、同年代の女性から見ても、少し成長が遅いように見える。乳房の膨らみも小さく、身体の丸みも未だに幼い。だが、それをサラがそこまで気にしていた事をリーシャは初めて知ったのだ。

 

「そ、そうか……ならば、お前は何を目指し、何を望んでいるんだ?」

 

 リーシャの噴き出しは、中央で酒の入った二人には聞こえなかったらしい。メアリは、気の毒そうにサラを一瞥した後、その在り方についての問いかけを口にした。

 いつの間にか、周囲の海賊達は全て眠りに落ちており、そんなサラとメアリのやり取りを聞いている者はリーシャ一人となっている。メアリとサラの言葉は、彼女達だけの会話。それは、お互いの胸の内を確かめ合う儀式だったのかもしれない。

 

「わら、わらしは! 私は『賢者』れす。私は、この世界に生きる全ての命ある者達が、平和に暮らせる世界を創りたい。皆が、当たり前の事で喜び、当たり前の事で哀しむ。それは、『人』だけではなく、『魔物』も、『エルフ』も。皆が、それぞれの生きる場所を護り、天命を全う出来る世界を創りたいのです」

 

「……サラ……」

 

 顔を上げたサラは、呂律の回らない口を何度か叩きながら、自分の胸の内にある本当の願いを始めて口にした。その瞳は、先程のような焦点も合わない虚ろな物ではない。しっかりと前を向いた、炎を宿し瞳。何度も挫折し、何度も悩み、何度も苦しんで涙したサラだからこそ、口にする事を許される言葉。

 様々な想いを乗せたその言葉に、リーシャは胸が熱くなった。対するメアリは、そんなサラの顔を呆然と見つめている。

 

「矛盾している事は、自分でも解っています。命を奪う事でしか生きる事の出来ない生物は、この世界に多くいます。『人』も『魔物』も他者を食す事で命を繋いでいる。全ての生物が天命を全うする事は無理な事も解っています。それでも、それでも! 私はそんな世界を創りたい……」

 

 最後に一際力を込めて叫んだサラは、そのまま手にした盃を取り落とし、身体を横へと倒して行った。まるで糸が切れた人形のように倒れてしまったサラは、そのまま静かな寝息を立て始める。慌てて駆け寄ったリーシャは、幸せそうに眠るサラを見て、安堵の溜息を吐き出した。

 全ての者が眠りに就いてしまった部屋の中で、リーシャとメアリだけが存在している。何も口にせず、静かに座るメアリに視線を移したリーシャは、メアリが盃を置き、天井を見つめながら腕を組んでいる姿を目撃した。

 

「……その『賢者』様とやらの名前は?」

 

「サラだ」

 

 暫しの静寂の後、リーシャへ視線を移したメアリは、静かにその者の名を問いかける。メアリが問いたかった物とは、次元の異なる答えを発した者の名。

 リーシャは、サラの身体を楽な態勢に変えながら、笑みを浮かべてその名を告げる。

 自身の誇りとなる妹の名を。

 この世の誇りとなる『賢者』の名を。

 

「あははは! 負けだ、負けだ! この勝負は、俺の負けだ!」

 

 静かに告げられた名に、一つ頷きを返したメアリは、後方へ仰向けで倒れ込み、大声で笑い声を発した。その笑い声は、部屋に響き渡り、海賊達の数人は、驚きで目を覚ます。何人かの海賊達が目を擦り起き上がる中、メアリは大の字で寝転がりながら、大声で笑い続けた。

 その姿を見たリーシャも、何故か『サラの誇りを笑われた』とは感じずに、自然と笑いが零れて行く。

 

「そんな大望を抱く者に、利権を漁ろうとする小さき者が勝てる訳などない! 初めて心の底から負けた!」

 

「ふふふ……あははは。サラの願いを理解してくれた事、礼を言わせてくれ」

 

 起き上ったメアリが、リーシャに向けて言い放つ。そんなリーシャが静かにメアリに向けて頭を下げた。その瞳には、一筋の光る物が見える。

 誰にも理解されるとは思えないサラの『願い』。そんな無謀とも言える『夢』を理解してくれる人間がいた事を、リーシャは心から喜んだ。

 実は、サラがあの『願い』を口にした時、リーシャの胸には誇らしく思う想いとは別に、一抹の不安もあった。

 通常の者であれば、サラの想いは、気が振れた者が発するような世迷言に近い物。蔑みの対象と成り得、そして憎しみの対象とも成り得る危険な思想であるのだ。故に、リーシャは周囲の海賊達が眠りについている事に安堵すると共に、メアリの出方に不安も抱いていた。それが、杞憂に終わった事が、何よりも嬉しい。

 

「お前達! 全員今すぐ起きやがれ!」

 

 頭を上げる事が出来ないリーシャに笑みを向けたメアリは、周囲へと視線を移し、眠り扱ける手下達へ号令を掛けた。先程の大きな笑い声で目を覚ました者達以外の海賊は、棟梁の響き渡るような号令に、飛び上がって起床を開始する。

 全員が起床し、メアリへ視線を固定するのに、それ程の時間は要さなかった。

 

「良く聞け! 俺は、『賢者』であるサラに負けた! サラの望み通り、俺達は海賊ではなく、貿易船の護衛などを職とする。今後、略奪、狼藉は禁ずる。俺達は七つの海を全て支配する護衛団として名乗りを上げるんだ!」

 

「おおぉぉぉぉ!」

 

 寝起きに突然の宣言を聞き、海賊達の頭脳が追い付いてはいない。しかし、彼等の崇拝する棟梁が決定した事であるのならば、自分達の暮らしが悪くはならない事を彼等は知っていた。故に、一も二も無く、皆が声を張り上げ、手を高々と掲げる。自分達の行く末が幸多き事を信じて。棟梁の判断が英断である事を信じて。

 

「約束だ。俺はお前達の願いを聞き遂げる。だから、お前達もサラの大望を遂げさせてやってくれ」

 

「無論だ。私達の目的は『魔王バラモス』の討伐だが、その先の未来はサラの夢見る物である事が、私達の願いでもある」

 

 しっかりとリーシャの瞳を見据えたメアリは、『約束』という言葉を口にした。彼女のような海賊の方から『約束』という言葉が出て来たのだ。それは、余程の事に違いない。

 相手が切り出した『約束』に頷きを返すだけであれば、それは賊と名乗る者達にとって、何の制約もない。だが、それが逆であった場合、それは血の盟約程の意味合いを持つのだろう。故に、リーシャは大きく頷きを返した。

 

「ふふふ。初めは、只の筋肉馬鹿かと思ったが、意外に色々と考えてはいるのだな」

 

「な、なんだと!?」

 

 しかし、そんなリーシャの笑みは、含み笑いを浮かべたメアリの一言によって、瞬時に消え失せる事となる。リーシャの身体は、確かにサラよりも筋肉質ではあるが、筋肉隆々という訳でもなく、目の前のメアリとそう大差はない体つきをしている。

 女性の中では力強い物ではあるが、メアリもリーシャも女性らしさを失わない物である事は確かであるのだ。そして、何よりも、カミュ以外の人間に直接『馬鹿』と言う言葉を投げかけられた事が、リーシャの導火線に火を付けてしまう。

 

「おっと。まさか、酒の入った人間に武器を向ける事はしないだろうな?」

 

「ぐっ……」

 

 怒りで背中の武器に手を回そうとしたリーシャを牽制する言葉がメアリから発せられ、気勢を削がれたリーシャは、悔しそうに再び座り込む。小さく笑みを溢したメアリは、一度大きく伸びをした後に立ち上がり、周囲の海賊達へ片付けの指示を出した。

 この酒宴もお開きとなるのだろう。唇を噛み締めリーシャは、眠るメルエを抱き上げる。

 

「その様子だと、サラは、明日一日は役に立たないだろう。部屋のベッドで寝かせてやれ」

 

 メアリの言う通り、初めての飲酒が深酒となったサラは、明日一日は二日酔いに苦しみ、起き上がる事も出来ないだろう。倒れ込むように眠りに就いたサラを見たリーシャは、深い溜息を吐き出し、メルエを再び寝かせた後、先にサラをベッドへと運んで行った。

 

 

 

 アリアハンを出た頃は、狭い視野の中、自分の行動すらも変える事の出来なかった『僧侶』は、長き旅の中で己を省み、己を探し、己を知って『賢者』となった。

 そんな『賢者』は、その想いを育み、遂には人の心をも変えてしまう。『導く者』としての道を歩み始めた『賢者』は、その大望を認める者を増やし、小さな一歩を踏み出した。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ちょっと長くなりすぎたかもしれません。
まだまだ、この場所では描きたい事がたくさんあるのです。
次話も、リーシャ達のお話になると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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海賊のアジト③

 

 

 翌朝、最も早くに目が覚めたのは、いつも一番遅くまで眠っているメルエだった。ゆっくりと開かれた瞳の先には、見慣れぬ天井があり、不思議に思ったメルエは、その瞳を数度擦り、身体を持ち上げる。周囲を見渡すように首を回したメルエは、ベッドの上で静かに眠るサラと、メルエの傍で横になっているリーシャを見つけた。

 安堵の表情を浮かべたメルエであったが、部屋を満たす異様な臭いに即座に顔を顰める。くさった死体の時のような吐き気を齎す物ではないが、不快な臭いである事だけは確か。特にメルエは、幼い頃、常にこの臭いと共にあったと言っても過言ではないのだ。

 

「…………いや…………」

 

 彼女の育ての親は、ある時を境に、アルコールに依存する生活を送る事となった。それは、メルエが物心をつける以前の話であり、メルエにとっては、それが全てである。故に、メルエはその臭いが不快な物以外何物でもなかった。

 昨晩は、数多くの料理と、美味しい果実汁の匂いがメルエの鼻を満たし、この不快な臭いを気にする事はなかったのだが、密閉された狭い部屋の中に充満した臭いは、メルエの中にある忌まわしき記憶を蘇らせるような物。必然的に、メルエはその場所を逃げ出す事にした。

 隣で眠るリーシャを起こさないようにベッドから降りたメルエは、そのまま扉の取っ手へ手を伸ばすが、届かない。暫しの間、頬を膨らませ、取っ手を睨みつけていたメルエではあったが、近くにあった小物入れのような箱を扉の前まで動かし、その上に乗って取っ手を握った。

 すんなりと回った取っ手は、押し戸であった為、メルエの体重の移動と共に、前へと開いて行く。箱から飛び降りたメルエは、そのまま扉の外へと出て行った。

 

「…………むぅ…………」

 

 基本的に、メルエが一人で行動する事など有り得はしない。彼女にとって、今では『一人』という事が何よりも恐怖に繋がる物だからだ。だが、今メルエは、一人で誰もいない廊下を歩いている。

 陽の光も未だに大地へ充分に届かない程に朝が早い。薄暗い廊下は、メルエの心に後悔と恐怖を運んで来るのだが、不快な臭いの充満する部屋へ戻る気にもなれないメルエは、『とぼとぼ』と一本道の廊下を進んで行った。

 

「うん? どうした? 随分朝が早いな?」

 

「…………!!…………」

 

 胸の前で手を握りしめたメルエが、周囲を何度も確認しながら前へ進んでいると、突如横から人影が現れた。驚いたメルエは身体を跳ねらせるが、その手にいつもある杖はない。対抗する術を持たないメルエは、その人影に怯えるように後ろへ下がり始めた時、差し込んで来た陽の光で、その姿の全貌が露になった。

 それは、昨晩、サラと対峙していた人間。メルエの大事な人を虐める者達を束ねる者。メルエに向けられた言葉は、とても柔らかく暖かな物であったが、メルエは眉を顰め、その人物を睨みつける。

 

「そんなに怖がらなくても良いぞ。俺は、お前に何もしはしない」

 

「…………トルド………いじめる………だめ…………」

 

 警戒心を露にするメルエに苦笑を浮かべた大柄な女性は、胸の前で手を振って、敵意がない事を示そうとするが、もう一歩後ろへと下がったメルエは、昨晩口にした言葉を再度その女性に向かって口にする。

 メルエは、昨晩の宴会と言っても過言ではない勝負の決着を見ていない。途中で眠ってしまったメルエにとって、このメアリと呼ばれる女性は、未だにトルドの夢を邪魔する者なのだ。

 

「ああ、そうか……お前は眠ってしまったのだったな。安心しろ、俺はサラと約束した。お前の大事な人間に危害は加えない。それは、お前とも約束しよう。名前を教えてくれるか?」

 

「…………メルエ…………」

 

 メルエの言葉を聞いたメアリは、最後には幼い少女が眠っていた事を思い出す。そして、もう一度昨晩口にした言葉をメルエに向けて発した。そして、自身が血の盟約よりも堅い約束を交わす相手の名を問いかける。

 暫しの間、メアリを睨みつけていたメルエであったが、小さく、呟くように自分の名前を口にした。それは、メルエがメアリの話す内容の半分程は理解した事を示している。

 

「メルエか……良い名だ。ではメルエ、俺の名はメアリだ。俺は、メルエの大事な人間の夢を邪魔しない事を、今ここでメルエに誓おう。これは、サラとではなく、俺とメルエの約束だ」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの短い人生の中で、数が限られている『約束』が今交わされる。メアリは気付いていないだろうが、メルエにとっての『約束』とは、メアリが考えている物以上に重く、固い物を意味するのだ。

 それは『絆』と言っても過言ではない物なのかもしれない。大きく頷いたメルエの瞳が真剣な物である事を感じたメアリも大きく頷きを返す。

 

「それにしても、朝が早いのだな。ちょうど俺も目が覚めてしまったところだ。一緒に、朝食でも食べに行くか?」

 

「…………ん…………」

 

 メルエは、メアリの言葉に頷きを返すが、その手を取る事はなかった。表情にも未だに笑顔を浮かべはせず、何処か警戒を持っている事を示唆している。メルエに取って、『約束』とはとても重い事は前述で述べている。しかし、それをメアリも同様に考えているとは思っていないのかもしれない。

 メルエが約束を交わす人間は、メルエが信用をした人間達ばかりであった。カミュやリーシャ、そしてサラは当然。他に言えば、メルエの唯一の友人であるアンとその父親であるトルド。そして、一国の王として変貌を遂げたアンリである。その全てがメルエとの信頼を構築してから約束を交わした。

 だが、メアリは違う。信頼を構築する為の『約束』であった為に、メルエの中では他の人間達とは少し異なっていたのだ。

 

 

 

 昨晩宴会を開いた場所は、綺麗に整頓され、その隣にある幾分か小さな部屋には、テーブルと椅子が設置されていた。

 メアリは、その内の一つの椅子にメルエを座らせ、手を叩いて従者を呼び寄せる。間髪入れずに入って来た従者へ食事の用意をするように告げると、従者は頭を下げて、部屋を後にして行った。

 

「ん? メルエ、何か気になる物でもあるのか?」

 

 出て行った従者を見送り、メアリがメルエへと視線を戻すと、椅子に座ったまま、メルエはある場所へ視線を向けていた。

 メルエの座高ではテーブルから顔が出るぐらいで食事が出来るような態勢ではない。その事実に頬を緩めたメアリであったが、一点を見つめるメルエの瞳に疑問を感じ、メルエの視線の先へと目を向けた。

 

「ああ、あれか。あれは、かなり前の戦利品でな。最後に残った海賊団との決戦の際に頂いたお宝だ。大した価値はなさそうだが、あれ程に綺麗な球体は珍しい」

 

 メアリはメルエの視線の先にあった物を見て、一人昔を思い出していた。

 魔物の横行が激しくなる中、海賊達の縄張り争いや利権争いは苛烈を極めて行った。規模の大きな海賊団は小さな海賊団を吸収し、その規模を更に大きくして行き、勧告を受け入れない海賊団は戦いによって淘汰され、その数を大幅に減らして行く。そんな中、最後に残ったのが、メアリ率いる海賊団と、もう一つの海賊団が残ったのだ。

 最後の争いを行ったのが、十年近く前。既に棟梁という地位に立っていたメアリは、部下を動かし、己も武器を振って、その海賊団を海の藻屑へと変えて行った。その時に相手方の船にあった宝の内の一つなのだ。

 

「…………」

 

「おいおい」

 

 宝の話をメルエへ話したメアリは、視線を戻すが、その視線と合わないようにメルエは『ぷいっ』と顔を背けてしまった。明らかな拒絶を示すメルエの態度に、メアリは溜息を吐き出す。先程は、笑顔をこそ見せないまでも、自分の瞳を見てしっかりと頷いてくれたにも拘らず、『それとこれとは別』とでも言うように、拒絶を示すメルエの姿は、向かうところ敵なしのメアリでも困惑してしまう程の物だった。

 

「メルエ、ここにいたのか……良かった。探したぞ」

 

「…………リーシャ…………」

 

 そんなメアリへ救いの手を差し伸べる声が部屋に響く。部屋の入口から堂々と入って来たのは、昨日メアリを力で捩じ伏せた女性戦士だった。

 メアリを一瞥したリーシャは、そのままメルエへと近付き、椅子から降りたメルエを抱き上げる。嬉しそうにリーシャへ抱き付くメルエを見て、メアリはその信頼関係を羨ましく思った。

 メアリにも多数の部下がいる。その中には、メアリを信頼し、絶対的な忠誠を誓っている者もいるだろう。しかし、これ程までの親愛を持って接する人間がいるかと問われれば、答えは『否』である。

 どれ程信頼関係を積み重ねても、メアリと海賊達は、棟梁と部下という関係を崩す事はない。それが当然の事であり、疑問に思った事も不満に思った事も無い。だが、目の前で無条件の笑みを浮かべるメルエを見ていたメアリは、自分でも理解出来ない『淋しさ』に襲われていた。

 

「一人でいなくなっては駄目だろ? 何かあったら、私を起こせ」

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

 抱き上げている反対の手で、メルエの頭を軽く叩いたリーシャの顔に浮かんでいるのも笑顔。それに謝罪の言葉を述べているメルエの顔も笑顔。そんな二人の姿を見ていたメアリは、自分の口元にも自然と笑みが浮かんでいる事に気が付いた。

 自分の奇妙な変化を楽しむように一度口元を触ったメアリは、二人の間に割って入り込む。

 

「随分早く起きていたんでな。朝飯でも一緒にどうだと俺が誘ったんだ」

 

「昨晩あれだけ食べて、もうお腹が減ったのか?」

 

 横から掛けられた言葉を聞いたリーシャは、驚きに目を丸くして抱き上げているメルエへ視線を戻した。当のメルエは、悪びれる様子も無く、首を縦に振っている。昨夜の宴会の中で、出された料理を黙々と食べていたメルエは、相当な量を口にしていた。

 そして満腹感と睡魔に負けて、リーシャの膝の上で眠ってしまったのだ。そんなメルエが、起きて間もない時間にお腹が減るという事がリーシャには信じられなかった。

 

「まぁ良いじゃないか。もうそろそろ食事の用意もできる。それよりも、お前からもメルエに言ってやってくれないか……俺がいくら言っても、メルエが俺の言う事を信じてくれないんだよ」

 

「それだけの事をして来たんだ、当たり前ではないのか? メルエが許す筈がない」

 

 困ったような表情を浮かべるメアリを、リーシャは好意的な笑みで迎えた。『彼女は、海賊の棟梁という枠で収まる人物ではない』というのが、昨晩感じたリーシャの感想である。

 これまでの海賊行為が無になる訳ではない。何人もの人間を殺め、数多くの物資を略奪して来たのだろう。それでも、彼女の人と成りは、リーシャが未来を見てしまう程の魅力を有していた。

 

「それよりも、私の方も聞きたい事がある。食事の席で聞かせて貰いたい」

 

「聞きたい事? ああ、まぁ良いが……」

 

 先程までの笑みを消し、真剣な表情に戻ったリーシャの姿にメアリは首を傾げる。メアリには、リーシャの疑問という物が想像できなかった。

 だが、抱き上げていたメルエを椅子に下ろし、自分も一つの席に腰を下ろしたリーシャを呆然と見つめていたメアリは、何かに諦めたように溜息を吐き出し、リーシャ達の対面に腰を下ろす事となる。

 

 

 

 食事はすぐに揃えられた。昨晩のような豪勢な物ではないが、メルエの瞳を輝かせるには充分な威力を誇る。香ばしい香りを放つ焼き立てのパン。産み立ての卵を焼いた物。魚のすり身を丸めた物を入れたスープ。

 そのどれもが暖かな湯気を立ち昇らせてメルエの前に並べられている。目を輝かせていたメルエは、まるで許可を貰うようにリーシャへと視線を向け、それに対してリーシャが頷いた事で、フォークのような物を料理へと伸ばして行った。

 

「ふふふ。ゆっくり食べるんだぞ」

 

「……それで、俺に何が聞きたいんだ……?」

 

 料理を口に運ぶメルエを穏やかな笑顔で見つめていたリーシャは、静かにカップを傾けながら問いかけるメアリへと視線を動かす。湯気の立ったカップを傾けるメアリの瞳は、まるでリーシャを窺うような光を放っていた。

 その瞳を見たリーシャは、佇まいを正し、一口スープを口へ運んだ後、その口を言葉を発する為に開き始める。

 

「昨晩の事は、改めて礼を言わせて貰う」

 

「礼を言われる憶えはないな。あれは、俺がサラに負けたんだ。『賢者』と名乗る一人の人間が掲げる大望に、俺は白旗を上げたに過ぎない」

 

 頭を下げるリーシャに対し、メアリは表情を崩さずに口を開いた。リーシャの礼に照れている訳でもなく、謙遜をしている訳でもない。心からメアリがそう考えている事がリーシャにも理解出来た。

 だが、それがリーシャの表情を更に固くする。表情を引き締めたリーシャにメアリの首は再度傾いた。

 

「その事だが、サラが『賢者』である事や、昨晩サラが語った思想を口外しないで欲しい」

 

「ん?……理由を聞いても良いか?」

 

 リーシャの口から出た言葉の意味がメアリには理解出来ない。彼女は海を渡り、数多くの大陸に上陸して来た。その中で、情報を収集し、自分達の行動の指針として来たのだ。故に、『人の口に戸は立てられない』という事を肌で感じ、理解もしている。だからこそ、メアリはリーシャの要望に疑問を持ったのだ。

 

「あの思想は、お前だからこそ受け入れる事が出来たのだろう。通常の『人』であれば、その思想に恐怖を抱き、憎しみを抱く。『人』にとって悪である『魔物』に慈悲を向ける存在としてな……そして、私はサラを傀儡にはしたくない……」

 

「なに?」

 

 メアリは、リーシャの言葉を半分程しか理解出来ない。『傀儡』という言葉に秘められた意味は、彼女達が共に歩む『勇者』と呼ばれる青年が口にした物。世界中の『人』という生物に祭り上げられ、自身の意思を無視されて旅を続ける青年。それは今も変わらないのかもしれない。だが、時折見せるようになった表情の変化や感情の起伏が、彼の心の変化を物語っているようにリーシャは感じていた。

 

 そんな青年がアリアハンという出生地を旅立つ頃に纏っていた物。

 それは、『孤独』と『諦め』。

 そして、何よりも強い『怒り』と『哀しみ』。

 

 それら全てをサラが背負う事になってしまえば、おそらくサラは持たないとリーシャは考えている。あれはカミュという人間だからこそ、耐え得る事が出来た物なのかもしれない。彼は、幼い頃からの生活の中で、完全に人生を諦めていた。

 何もかもに絶望し、全てを諦めというフィルターを通して見ていたのだ。だが、サラは違う。育ての親からとはいえ、確かな愛情を受けて育ち、周囲の人間から孤児として疎まれていたとはいえ、『人』の中で彼女は過ごした。

 そんな彼女は、『賢者』として、『人』の傀儡となる事実に押しつぶされてしまう危険がある。だが、サラの成長がその危険性に勝るとはリーシャも思っているが、それは今ではない。今はまだ無理なのだ。

 

「酔っていたとはいえ、サラは初めて自分を『賢者』と名乗った。サラの中でその覚悟を確立している事の証拠だとは思う。だが、まだ駄目なんだ……まだ……」

 

「ふぅん……良く解らないが、サラが『賢者』だと言う事を吹聴しなければ良いんだな? わかった、部下達にも厳しく言っておく」

 

 メアリは、何処か納得がいかない様子ではあったが、リーシャの願いを快諾する。リーシャがここまでの表情を浮かべている姿を見た以上、メアリにとって理由はどうでも良かったのかもしれない。もう一度カップに入った飲料を口に運んだメアリは、一息ついた後、顔を上げたリーシャに視線を戻した。

 

「俺はサラに負けたんだ。そのくらいの事なら聞くよ。それで……お前の聞きたい事というのはそれの事なのか?」

 

「いや、そうではない。今、お前が言った事なんだが……昨晩から不思議に思っていたのだが……『サラに負けた』と言うが、随分と潔いのだなと思ってな」

 

 リーシャの疑問はそれだった。メアリ程の人物を棟梁とする組織である。一筋縄ではいかない者達の集合体であろう。更に言えば、メアリは女性。リーシャにとっては悔しい事であるが、現代は男社会と言っても過言ではない。

 女性が要職に就く事は皆無に等しく、例え上官に任命されたとしても、部下達が命令を聞かず、任務を全う出来ずに解任される事が多い。そんな時代の中、メアリという女性は、数多くの荒くれ者を束ね、組織として成り立たせている。その魅力と、それに伴う実力は、リーシャ達には及ばずとも、世界でも有数の物であろう。あの大盗賊であるカンダタにも劣らない物なのかもしれない。

 それ程の力を有するメアリが、『賢者』と名乗りはしても、只の若い女性に膝を折る事を良しとするだろうか。リーシャからすれば、答えは『否』であった。故に、リーシャは昨晩から疑問に思っていたのだ。しかし、そんな疑問を発したリーシャは、メアリの顔が笑みを浮かべているのを見て驚きを示す事となる。

 

「あははは。そうだろうな。お前がそう思うのも無理はない。どこから語れば良いか……まず、お前達が世界を救う『勇者一行』であったと言う事からか……」

 

 笑みを浮かべていたメアリは、快活な笑い声を発した。突然の笑い声に、口に物を運んでいたメルエは、驚いてフォークを取り落としてしまう。喉を詰まらせてはいないらしいが、傍にあった果実汁を口に運び、『ほぅ』と一つ息を吐き出す姿に、メアリの笑みが柔らかい物へと変わって行く。そして、そんなメルエから視線を戻したメアリの言葉は、リーシャの予想とは違った物であった。

 

「世界を救う等と馬鹿げた事を言う人間達だ。一度会ってみたいと思っていたが、出て来たのは女だらけ。その内一人はメルエのような幼い少女。初めは馬鹿にしているのか、それとも偽物なのかと思った」

 

 メアリの抱いた感想は、決して間違った物ではないだろう。カミュという『勇者』がいなければ、リーシャ達三人は只の旅行者と違いはない。各々の胸に秘めし想いはあれども、それを示す方法がない。そして、世界屈指の力を有しているとはいえ、リーシャ達の見た目は『勇者一行』とは思えない物。屈託なくそれを語るメアリに対し、リーシャは怒りを表す事はなかった。

 

「だが……癪ではあるが、お前の斧を受けた時にそれが真実である事を理解した。ならば、次の疑問が湧いて来る。何故、そのような者達がここへ来る事になったのか。しかも、肝心の『勇者』様を放ってだ」

 

「そ、それは……」

 

 次に発したメアリの言葉の前半部分に笑みを浮かべていたリーシャであったが、真顔に戻ったメアリの言葉に息を飲んだ。

 確かにリーシャ達は『勇者』であるカミュとの合流を後回しにした。リーシャは、当初はカミュとの合流を最優先に考え、ロマリアへ戻る事を提案していたが、海賊達の話を聞いた後、船の進路を真っ先に指示したのもまた、リーシャである。

 

「だからこそ、疑問に思った。お前達が『勇者一行』であるのならば、それは国家の狗ではないかとな。国家の命を受けて『魔王討伐』という物へ旅立つ者ならば、その可能性は高い。そういう者達から見れば、俺達のような海賊は害としかならぬ故、殲滅の対象となろう。もし、そうであるならば、敵わないまでも命続く限り抗おうと考えていた」

 

「うっ」

 

 もはや、リーシャに声は出せない。一つ一つが尤もな疑問であり、尤もな言い分なのだ。

 リーシャはアリアハン国の宮廷騎士という誇りを捨ててはいない。未だにアリアハン国王の命を名誉な物と考えているし、その命を遂行する為に旅を続けてもいる。だが、国家の狗と罵られれば、憤りを感じもするのだ。

 アリアハンで宮廷騎士として生きていた頃に『狗』と呼ばれようとも、それに対して怒りは覚えても反論する事はなかっただろう。だが、今は反論したい想いを抑えるのに必死だった。それが、リーシャの変化でもあるのかもしれない。

 

「だが、サラは俺の描く未来を理解するだけではなく、それを認めもした。初めは、口だけの同意かとも思ったが、サラは俺よりも更に先の未来を見せてくれた。それがどれ程の事なのかは、お前には解らないだろうな……」

 

「なに!?」

 

 言葉を詰まらせていたリーシャは、メアリの最後の言葉に何かが含まれていた事を敏感に感じ取り、目を怒らせて顔を上げる。そこには、何処かで見た事のあるような、口端を上げてリーシャを見つめる顔があった。

 しかし、その視線は不意にリーシャの隣にいるメルエの方へと動き、そしてもう一度、リーシャへと戻った時には、先程と同じような真剣な物へと変化する。

 

「俺は驚いたよ。俺達のような海賊が、全ての海の真の支配者となる。そんな夢を見られるとは思わなかった。だが、驚いた反面、疑問と不安は強くなる。何故、世界を救うと謳われる者達が俺達にそんな話を持ちかけるのか。罠ではないかとな」

 

「そんな訳がない!」

 

 サラの『想い』を知り、サラの『願い』を知り、サラの人間性を知るリーシャにとって、メアリの疑問は尤もな事であると同時に、許せぬ物でもあった。サラがどれ程に悩み、苦しみ、泣いて来たかを知るリーシャは、真剣なサラの想いを否定される事が許せない。

 サラという人物がどれ程の覚悟を持って、メアリと対峙していたのかをリーシャは知っている。故にこそ、リーシャは声を荒げたのだ。隣で話に興味を示していなかったメルエは、不思議そうに小首を傾げていた。

 

「わかっている……今はわかっているさ。だが、あの時は突如として持ち掛けられた甘い話だ。だからこそ、真意を確かめようと思った」

 

「それが……飲み比べだと言うのか?」

 

 激昂しかけるリーシャを手で制したメアリは、空になったカップを近くにいた女性従者に手渡し、新たに注ぎ込まれる暖かな飲み物を眺めながら、リーシャに向かって一つ頷いた。そして、注がれた物を軽く口へ流し込み、もう一度口を開く。

 

「人は酒が入れば、本音を話す。胸に秘めた物であっても、酒という魔力に取りつかれ、自身が気付かない想いまでも口にするものさ。だからこそ、酒を飲ませた。俺が酒の飲み比べで負ける訳がないという前提の物だが、お前達が純粋な『国家の狗』なのか、それとも不本意ながらも旅を続けている者達なのか知る為にな」

 

 メアリとサラは、船の護衛に関わる利権について話していた。国家の為に動く者達であれば、それを餌に海賊を根絶やしにする算段があるのかもしれない。逆に、国家に不満を持つ物であるのならば、その提示と引き換えに、利権の一部を要求し、メアリの仲間として生きる事を選ぶつもりかもしれない。そのようにメアリは考えていたのだ。故に、提案をして来たサラを飲み比べの相手として指名した。

 

「だがな……参ったよ。本当に、心の底から参った。自分の考えの浅はかさと、自分の器の底を感じたよ。俺の質問の意図をサラは理解していたのだろうな……それでも尚、あの答えを口にした。ならば、サラの提案も、そのまま受け入れるべき物だと感じたし、そうなるべきだという事も理解したんだ」

 

「そうか……」

 

 もう一度、カップの飲み物を口にしたメアリは、苦笑のような笑みを浮かべて、数回首を横に振る。その姿を見たリーシャも、同じような笑みを浮かべ、溜息を一つ吐き出した。

 『メアリは勘違いをしているかもしれない』とリーシャは考える。あの時のサラは完全に酒に飲まれていた。まともな思考が出来る状態ではなく、メアリの質問の意図を探る余裕などもなかっただろう。それ程までに考えが巡るのならば、あの場で『賢者』である事を口にする事は、逆になかったのかもしれない。

 

「まぁ、あの様子だと、昨晩の事は憶えていないかもしれないがな」

 

「……おそらくな……」

 

 だが、溜息と共に吐き出されたメアリの言葉が、リーシャの考えが杞憂であった事を示していた。メアリも昨晩のサラの状態を正確に把握してはいたのだ。

 それでも尚、サラの言葉は、サラの心の中にある本心であると信じたのだろう。それは、サラだけの言葉ではなかったからかもしれない。

 

「しかし、嫌でも思い出してもらわなければ、俺が困る。あの提案を受け入れる以上、知りませんでしたでは困るからな」

 

「まぁ、それは大丈夫だろう」

 

 もう一度上げられたメアリの顔は、晴れやかな笑顔だった。そんな表情につられて、リーシャも柔らかい笑顔を浮かべる。しかし、そんな二人の柔らかい空気は、先程まで首を傾げながら二人を見ていた者によって打ち砕かれる事となった。

 

「…………サラ………いじめる………だめ…………」

 

「な、なに!? そんな事はしないぞ。俺は、ただな……メ、メルエ、少し待ってくれ!」

 

 頻りに出て来るサラの名前を聞いていたメルエは、リーシャとメアリの会話内容が全く理解できていない。だが、笑みを浮かべながらサラの名を口にするメアリを見て、何か不穏な空気を感じ取ったのだろう。『むぅ』と頬を膨らませて自分を睨むメルエの姿を見たメアリは、慌ててカップを置き、両手を軽く振りながら弁解を始めるが、メルエの瞳が和らぐ事はなく、困ったように眉を下げてしまった。

 

「ふぅ……まるでアンを相手にしているようだな」

 

「アン?」

 

「…………アン…………」

 

 メルエの厳しい視線を受けたメアリは、溜息と共に興味深い名を口にした。その名はメルエもリーシャも何度も聞いた事のある物。メルエがこの世界に生まれ落ちて初めてまともに接する事が出来た同年代の少女の名。そして、メルエが解放した哀しい『エルフ』の子の名。故に、疑問のように聞き返すリーシャとは違い、メルエの瞳は哀しみと懐かしさの色を湛えていた。

 

「うん? お前達もアンを知っているのか?」

 

「いや。おそらく、お前が知っている『アン』という人物と、私達が思い浮かべている『アン』は同名の別人だ」

 

 リーシャとメルエの反応に首を傾げたメアリは、その人物を知っているかどうかを問いかけるが、それに答えたリーシャの言葉に、視線をメルエへと移す。メルエの瞳は、何とも言えない色を宿しており、その瞳を見たメアリは、哀しそうな笑みを浮かべた。

 メルエの心にある『アン』と自分の心にある『アン』が同じ結末を辿っている事を理解したのだ。

 

「そうか……メルエの知っている『アン』も、もうこの世にはいないのだな……」

 

「…………アンと………メルエ………おともだち…………」

 

 メルエの心を察したメアリは、少し目を伏せ、小さく呟きを洩らす。その呟きを聞いたメルエが小さな笑みを浮かべながら、はっきりと宣言する言葉は、静かな部屋に響き渡った。

 目を伏せていたメアリは、顔を上げてメルエに向かって微笑みを返す。何かを思い出すような笑みは、リーシャの心に何処か哀しい風を運んで来ていた。

 

「私もアンとは友だな。メルエとは少し違い、『戦友』となるのかな。いや、『好敵手』という奴だろうか。何度も争い、何度も酒を酌み交わした。俺と同じように女のくせに海賊などをやっていてな。力も強く、団を率いる統率力もあった。海賊団の棟梁となったアンとは、何度も戦ったよ」

 

 メルエの言葉は、メアリの心に何かを運んで来たのだろう。懐かしむように虚空を見上げたメアリの瞳は、在りし日のアンという海賊の姿を捉えているのだろう。先を促す事も出来ず、リーシャとメルエは、メアリの姿を見つめる事しか出来なかった。

 

「『ボニー海賊団』を率いたアンは、その後も刃向う海賊どもを蹴散らし、大きくなって行く。俺がこの『リード海賊団』を引き継ぎ、海で戦闘を繰り返した先にあったのは、大きくなった二つの海賊団の未来という難題があった」

 

「最後に残ったのが、女性が率いる二つの海賊だったのか」

 

 この世界には、海賊という者達は数多くいた。それこそ、リーシャが生まれた頃には、魔物よりも海賊の脅威の方が強かったのだ。海を渡る貿易船は、各々に傭兵を雇い、裕福な国家では、国の護衛団を付けて貿易を行ってもいた。

 それ程の海賊団が、魔物の脅威が高まって行く中、数を大幅に減らして行く。強者が弱者を喰らい、更に肥大して行った。そして、行き着いたのが二つの海賊団の対峙だったのだろう。

 

「ああ。俺とアンは、その辺りの男連中に負けるような者ではなかったからな。だが、それが仇となった……お互い、自分の力を誇る者同士の対立だ。どちらかがどちらかの下に就く事を良しとせず、お互いの理想を貫く為に何度も戦った。知り尽くした相手との戦いは数年にも及んだが、俺は何とか競り勝ったんだ」

 

「…………アン………は…………?」

 

 昔語りをしていたメアリは、間髪入れずに入ったメルエの問いかけに言葉を詰まらせる。苦しそうに顔を歪めたメアリは、重苦しい溜息を吐き出し、もう一度注がれた飲み物を一気に飲み乾した。リーシャはメアリが纏う雰囲気に口を閉ざし、メルエはその空気を物ともせず、メアリを見つめる。静かな時間が流れる中、メアリはもう一度口を開いた。

 

「……俺が、この手で殺したよ……」

 

「…………!!…………」

 

「そうか」

 

 重苦しい空気が支配する部屋に響いた言葉も更に重い。既にメアリの傍にいた従者は後方へと下がり、部屋の空気はメアリ達三人が支配していた。メアリの独白が響いた時、メルエの瞳が見開かれる。メルエに取って、『人殺し』という行為は、未だに禁忌とされていた。

 サラという心の師から教わり、リーシャという保護者に護られていたメルエは、その教えを信じているのだ。故に、カミュが盗賊達を殺した時に、あれ程の悩みを抱える事となった。

 カミュだけが禁忌を破り、その存在を否定される事をメルエは認めない。故に、メルエはその覚悟を胸に宿したのだ。『自分が禁忌を破る事があっても、カミュ達を護る』という尊い想いは、今もメルエの胸の中に宿っている。だが、それを目の前で優しげな笑みを浮かべていたメアリが行っていた事に衝撃を受けたのだ。

 メルエは、海賊という団体の知識がない。彼等が何をして生活をしているかなど興味も無く、知る必要もないのだろう。

 

「最後の最後、アンを殺す時に、奴と話をした。俺には俺の理想もあったが、アンにもアンの理想があったよ。サラが言っていた俺の描く未来は、アンと俺の理想の掛け合わせなんだ。俺達は、お互いに今のままの海賊では成り立って行けないと言う事を理解していた。だからこそ、違う道を辿る為に海賊を一つにしようとしたんだがな……良くも悪くも、俺とアンは似ていたのかもしれない……」

 

 その言葉を最後に、メアリは小さな苦笑を浮かべ、机の上でカップを弄り始めた。彼女の中に残る罪悪感は、誰にも癒す事は出来ない。只の敵ではなく、『好敵手』とも『戦友』とも言える人間を殺してでも、彼女は前へと踏み出した。

 意見が食い違っていた訳でもない。見ている先が異なっていた訳でもない。それでも、お互いに譲れない物があったのだろう。

 一際大きな溜息を吐き出したメアリは、『じっ』と自分を見つめるメルエの視線を避けるように立ち上がる。リーシャがメアリへ掛ける言葉など見つかる訳がない。重い沈黙の中、メアリは机を離れ、部屋の壁際へと歩いて行った。

 

「これは、アンの形見だ。アンを殺す直前に、アンの理想と共に俺が受け取った物。それを俺はメルエへ託そう。メルエとの約束の証として。そして、俺がアンと交わした約束を成し遂げるという誓いとして」

 

「そ、それは……」

 

 壁際で立ち止まったメアリは、先程メルエがじっと見つめていた物へと歩み寄り、それを掴み取った後、メルエの掌へと落す。それは、メルエの掌に収まる程の大きさをした球体。燃えるように赤く輝くその球体は、以前リーシャも見た事のある物に酷似している。色こそ違えど、それは、メルエのポシェットに入っている物と同じ物である事は、リーシャでも理解出来た。

 

「俺はメルエとの約束を守る。だから、メルエも俺と約束してくれ。『サラを支える』と」

 

「…………ん………やくそく…………」

 

 メルエと視線を合わせるように屈み込んだメアリは、その瞳を真っ直ぐと見つめ、メルエと約束を交わす。また一つ、メルエにとって重い約束が交わされた。

 相手が真剣である以上、メルエもその約束を真剣に受け止め、受け入れる。掌に入った赤く輝く球体を握り締め、メルエはもう一度、強く頷きを返した。

 その様子を見たメアリは、表情を笑顔に変え、メルエの頭を優しく撫でつける。先程までなら、触れさせてもくれなかったメルエが、気持ち良さそうに目を細めてその手を受け入れる姿は、メアリの心に暖かな風を運んで来た。

 

「しかし、流石は『勇者一行』様だな。サラも然り、メルエも相当な物だ」

 

「そうだろう? 私の自慢の妹達だ」

 

 メアリの感想を聞いたリーシャは、まるで我が事のように胸を張り、誇らしげに言葉を発した。『妹達』という言葉を発しているが、誰がどう見ても血が繋がっているようには見えない。リーシャという人物と僅かな時間しか共にしていないメアリでさえも、血が繋がっている姉妹を『魔王討伐』の旅へ駆り出すような人物には見えなかった。となれば、旅の途中で出会った者同士が、『魔王討伐』へ向かう事になったのだろうとメアリは考えていたのだ。

 

「そうだな。肝心の長姉は、頭の方は少し残念なようだがな」

 

「な、なんだと!?」

 

 先程の重苦しい空気を捨てたメアリの口端は、何処かで見た形になっている。それを敏感に感じ取ったリーシャは、先程受け取った誓いの証をポシェットに仕舞い込んだメルエが、小さな種を取り出そうとしているのを見咎め、厳しい視線をメルエへと送った。

 種を取り出し、リーシャへ視線を向けたメルエは、ぶつかったリーシャの瞳を見て、『いそいそ』と種をポシャットへ戻して行く。その様子がとても可愛らしく、メアリもリーシャも思わず笑みが零れてしまう。微笑ましい雰囲気にも拘わらず、メルエは頬を膨らまし、『ぷいっ』と顔を背けてしまった。

 

「利口であれば、あそこで俺に斧を振るう事はないだろう。サラがいなければ、あの場で戦いが始まっていた事は明らかだぞ。お前は、本当に俺達を殺す気があったのか?」

 

「ああ。そのつもりだった」

 

 冗談めかして問いかけるメアリの言葉に、リーシャは真面目な顔を作って頷いた。その顔に偽りはなく、その瞳は『決意』と『覚悟』という炎を宿している。それを見たメアリは、一瞬驚いた顔を見せるが、呆れたように溜息を吐き出した。

 メアリも、リーシャの心は理解しているつもりだった。リーシャにとって、サラやメルエという人物は何よりも大切な者達なのだろう。それを理解していて尚、メアリの考えが甘かった事が証明された瞬間でもあった。

 

「……そうか……やはり、お前は交渉事などで前に出る事は止めた方が良い。それでは、サラの考えや、『勇者』と呼ばれる者の考えなどを崩壊させる事になる」

 

「うっ……」

 

 自信に満ちて答えたリーシャであったが、思い当たる節がある分、言葉に詰まる。カミュという『勇者』は、リーシャが交渉事に出張る事を禁止し、つい数週間前には、物事を託す事を諦めたばかりなのだ。

 メアリの言っている事は的を射た物ではあるが、それでも何とか反論しようと上げたリーシャの瞳に、少し表情を固くしたメアリが映った。

 

「それとも、お前達と共に旅する『勇者』とやらも、只の筋肉馬鹿なのか?」

 

 だが、次に発したメアリの一言が、何故かリーシャの心に燻る怒りに火をつけた。火が点った怒りは、そのまま一気に燃え上がり、リーシャの表情を真っ赤に染め上げる。急に表情を変えたリーシャを見たメアリは、何が起こったのかを理解出来ず、慌てて身構える事となった。

 

「馬鹿にするな! サラがあの理想を掲げるまでにどれ程の苦しみや悩みを抱えたと思っている!? そのサラを導いたのは誰だと思っている!? カミュがいなければ、サラはあの理想に辿り着くどころか、『賢者』になる事も出来ず、この旅を続ける事さえもなかったかもしれない。お前が馬鹿に出来る者ではない!」

 

「い、いや、少し待て……」

 

 突如叫ばれた怒声に、メアリは驚きよりも戸惑いよりも、恐怖に近い感情を抱いてしまった。それ程に、リーシャの剣幕は激しかったのだ。リーシャと剣を交え、その力量を理解したとしても、メアリは堂々とリーシャ達と対峙していた。そんな彼女が恐怖を抱く程の剣幕。それが如何程の物かが理解出来るだろう。

 

「私達三人は例外なく、あの『勇者』に導かれている。カミュにその気はないかもしれないが、私達はカミュの背を見て歩いて来た。お前達と相対してみて、私達三人が如何にカミュによって護られて来たのかを実感したさ。『私達の前にはカミュがいる』。それが知らず知らずの内に、当たり前の事になり、絶対の安心となっていた」

 

 先程までの怒りを消したリーシャは、静かに独白を始める。『酒でも飲ませてしまったか?』と考えたメアリであったが、『怒りで冷静さを失ったリーシャが思わず漏らしてしまった本心なのかもしれない』という考えに到達する。その予想が間違っていない事の証明に、リーシャの言葉は後ろに行けば行く程に小さくなって行った。

 

「『勇者』の名はカミュと言うのか。そうか……お前の想い人か?」

 

「な、なに!? ば、馬鹿な事を言うな!」

 

 先程感じた恐怖が消え去ったメアリの心には、リーシャをからかうだけの余裕が見受けられる。それは、言葉が表わしており、受けたリーシャの慌てぶりもそれを証明していた。

 先程とは異なった剣幕で怒鳴るリーシャには、メアリも恐怖は抱かない。むしろ笑いが込み上げて来るような慌てぶりに、メアリの口端はその角度を上げて行った。

 

「あはははは。図星か? そうか、お前のような筋肉馬鹿でも、恋心という物は持っているのだな。一度会ってみたいな、そのカミュという『勇者』に」

 

「違うと言っているだろう! 何故、サラもお前も、他人の話を聞かないんだ!? 色恋など、考えた事もない! 私は騎士であり、『魔王』を倒す為に旅する戦士だ。そのような事は世界が平和になってから考える」

 

 散々怒鳴り散らしたリーシャであったが、最後には疲れ切ったように椅子の背もたれに背を預けた。リーシャとしては、本心でそのような事を考えた事はないのだろう。彼女自身が色恋などを経験した事も無く、その感情を理解も出来ない。

 故にこそ、そう答えているのだが、実は対しているメアリに関しても、色恋を経験した事はなかった。そのような二人がその事に関して話していたところで、何の答も出て来る訳がない。

 

「ほぉ……ならば、世界が平和になった時には考慮の余地があると言う事か。よし、お前達が『魔王討伐』を果たした暁には、カミュとやらを俺の前に連れて来い! 祝言を挙げてやる!」

 

「だから、違うと言っているだろうが!」

 

 もはや、部屋の中は混迷を極めている。先程までの重苦しく、難しい空気は疾うの昔に消え去っていた。新たに部屋を満たして行くのは、何とも不思議な空気。それを敏感に感じ取ったメルエは、メアリとリーシャのやり取りを微笑みを浮かべて眺めていた。

 メルエは交互に首を動かしていたが、そんな二人に割って入るように口を開く。その言葉が、リーシャとメアリのくだらないやり取りを停止させてしまう。

 

「…………メルエ………カミュ………すき…………」

 

 自分の想いを告げるように、二人を見上げていたメルエは、笑顔のままで衝撃的な一言を口にする。ただ、リーシャにとっては解り切った事であり、メルエが抱く想いが、色恋とは関係のない物である事も理解していた。

 だが、メアリは違う。突然告げられた告白に、今度はメアリが戸惑う番だった。

 

「な、なに!? メ、メルエもなのか?」

 

「ふふふ。メルエの『好き』は、お前が考えている物とは違うぞ」

 

「…………メルエ………リーシャも……サラも……すき…………」

 

 戸惑うメアリの姿に、リーシャは微笑みを溢し、そんな二人を笑顔で見つめていたメルエは、自分の胸にある想いを誇らしげに告げる。その告白は、どこか暖かな空気を運ぶ物で、メアリの頬も自然と緩んで行った。

 メルエの無邪気な好意は、聞く者達の心を癒して行く。それは幼い子供が持つ特有の力なのかもしれない。

 

「そうか……メルエは好きな者達と一緒で良いな。俺の事はどうだ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 微笑みを浮かべたメアリは、ついつい余計な質問をしてしまう。『このような幼い少女に無邪気な好意を向けられたら、どれ程に幸せだろう』という想いが、メアリの口を開かせてしまった。

 だが、メアリの期待とは裏腹に、メルエは困ったように眉を顰め、その首を傾げてしまう。本気で悩んでいる事が解る為、尚更メアリの心を傷つける。既に嫌われてはいないのだろう。だが、『好きか?』と問われれば、答えられない。まだメアリはその程度の存在なのだ。

 

「あははは。土台無理な話だ。私達とは違い、お前はメルエと共にした時間も短く、トルドというメルエの大事な者を困らせたのだからな」

 

「そうだな。だが、俺はメルエとの約束は守るぞ。その時は、メルエの心の中に俺も入れてくれるだろう?」

 

「…………ん…………」

 

 困った表情のメルエと、哀しそうに目を伏せるメアリの姿をリーシャは微笑ましく見ていた。笑い声と共に、刺々しい物ではない言葉を発し、そんなリーシャの想いを理解したメアリは、メルエと目を合わせて、先程の誓いを再度口にする。暫しの間、考え込んでいたメルエは、眉を戻し、小さな笑みを浮かべながら頷きを返した。

 

「さて、飯も食ったし、そろそろ出港の準備でも始めるか。まぁ、おそらくサラは、今日一日はベッドと厠の行き来で陽が落ちるだろうから、出港は明日になるな」

 

 大きく伸びをしたメアリが口にした通り、今日一日のサラは酷い頭痛と吐き気に襲われ、動く事もままならないだろう。そんなサラの様子を思い浮かべたリーシャは、苦笑を浮かべ、『何か消化に良い物を持って行ってやろう』と考える。メアリが何について言っているのか解らないメルエは、小首を傾げながらリーシャを見上げていた。

 

「…………サラ………だめ…………?」

 

 そんな可愛らしい問いかけに、目を合わせたリーシャとメアリは、部屋に響くような笑い声を上げ、メルエの瞳を白黒させる。昨夜とは異なった空気で満たされた部屋では、メルエ以外の人間全てが、柔らかな笑みを浮かべていたのだった。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

実は今回の話は、二通りの構想がありました。
皆さまお気づきかもしれませんが、それは『アン』という人物についてです。
途中までは、もう一つの方を描いていたのですが、それを描き終わった際に、こちらの方が私の描く世界観にあっているような気がして、変更いたしました。
皆様がどうお感じになられたか気になりますが、もう一つの方は、いずれ何処かでご披露が出来たらと思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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スーの村①

 

 

 

 遠ざかる船を見ていたリーシャ達三人は、船着き場を離れ、この場所から唯一辿り着ける集落へと歩き始めた。

 ある大国が植民地化を考えていた場所だけに、船の出着を行える船着き場は整理されてはいたが、その場所に人は誰もいない。閑散としたその場所は長らく使われる事もなかったのであろう。草木は伸び放題になっており、虫達や小動物の住処と化していた。見え隠れする小さな生き物達に目を輝かせたメルエは、リーシャの手を離し、色々な場所で屈み込んでいる。そんなメルエを窘めながら、一行は北へと歩き始めた。

 

 

 

 実は、深酒をしたサラの具合が思ったよりも悪く、海賊のアジトを出港するのに数日の時間を要していた。出港の際に、メアリと交わした約束と、自身が発言した内容を聞いたサラは、メアリやリーシャの予想通り、大半の記憶を失っていたが、それでも自身の発言の重みを理解し、メアリに向かってしっかりと頷いた後、深々と頭を下げる事となる。メアリの考えや気遣い、そしてその度量の大きさに、サラは改めて感謝したのだ。

 出港した船は、真っ直ぐ北へと向かい進み始めたが、その際に、メアリと共にトルドの町へと向かう事を主張する三人を、メアリは片手で制する事となる。メルエは単純にトルドと出会える事を喜んでいただけであるが、リーシャやサラはメアリとトルドのやり取りに想いを馳せていたのだ。だが、そんな二人をメアリは優しく制した。

 

「俺を信じてくれ。俺は、お前達と交わした約束を破らない」

 

 そのメアリの言葉を聞いたサラは、羞恥に顔を赤らめた。メアリの言う通り、ここで尚、リーシャ達三人が同席する事を主張すると言う事は、メアリという人物を疑っている事と同意であり、それはあれ程の器量を示したメアリを侮辱している事に等しい。それに気付いたリーシャは、メアリに向かって軽く頭を下げ、謝罪の意を示した。

 リーシャとサラの謝罪を笑いながら受け止めたメアリは、トルドに会えないという事実に肩を落とすメルエの頭を撫でながら笑みを濃くする。

 メルエとメアリは、サラとは別に、固い約束を交わしていた。それは、メルエ側だけではなく、メアリ側から見ても重く、固い約束。破る事は出来ず、自身の心を偽る事は許されない程の深い絆。それをメルエはメアリと結んでいるのだ。

 トルドとの交渉は正規の物である事を誓ったメアリに頷いたリーシャ達は、自分達の目的地を告げる。それは、海賊船に不時着した際にサラが告げた場所であった。

 エジンベアという大国が植民地化する政策を打ち立てたが移民が進まなかった村。そして、トルドが赴いたきっかけとなった老人の言葉にあった村。何よりも、カミュと共に歩んでいた際に、次の目的地として名前が挙がっていた村。

 

スーの村

 

 サラの記憶にある世界地図は、アリアハンにあった物。行く場所行く場所で、目新しい地図があった場合、カミュはその地図を購入していたが、リーシャやサラへ広げる事はなかった。

 故に、サラの中での世界地図は、アリアハンという辺境の小国に存在していた物で止まっているのだ。その中にスーという村があったかどうかは記憶にない。だが、その場所はエジンベアで聞いている。故にサラは、カミュもまたその場所へと向かっていると考えていたのだ。

 

「そうか、スーならば、近場に船着き場もある。そこまでは行こう。俺達はその後で、開拓地へ向かう事にする」

 

 目的地をメアリに告げると、メアリはその場所を知っており、その近くの船着き場までリーシャ達三人を送り届けた後、トルドの許へ行く事を口にした。もはや、リーシャ達三人が同席する事は叶わない以上、そこで頷く以外にない。メアリという人物は信用に足る人間である事をリーシャも理解している故の判断であった。

 

「お前達は、ルザミという場所へ行った事はあるか? 俺達のアジトよりも更に南に船を進めた場所にある小さな孤島にある村だが、忘れ去られたような場所でな。あの場所は俺達以外に知っている者は、もういないかもしれないな。機会があれば、一度行ってみれば良い」

 

 目的地を船員達へ告げたメアリは、ふと思い出したかのように、リーシャ達が聞いた事のない村の名前を口にした。

 その名もサラの見ていた世界地図にはなかった筈。もしかすると、カミュの持っている最新の世界地図にも記載はされていないのかもしれない。いや、それは最新だからこそ記載がない可能性も出て来た。『忘れ去られた場所』となれば、かなり過去の地図にしか載っていないと言う事もあるからだ。

 

 

 

 そんな船旅の中での会話もサラの胸には残っていた。サラにとって、メアリという海賊との出会い、そしてそのアジトで遭遇した出来事は、その心の成長に多大な影響を及ぼしている。サラという『賢者』が、この先でどのような者へと変化して行くのかは、このアジトが重要な分岐点となったのかもしれない。

 サラはまた一歩前へと踏み出している。彼女の場合、自身一人で前へと進める事は少ない。誰からの後押しが必要であったり、誰かとの出会いが必要であったりと、必ず他者が大きく影響を及ぼしている。前へと足を踏み出すのは彼女であるが、その足を動かしているのは、多くの『人』の想い。いや、『人』だけではないだろう。この世に生きとし生ける者達の見えない想いが、サラという『賢者』を成長させ、成り立たせていた。

 

「サラ、この方角で良いのか?」

 

「はい。大丈夫です。太陽があそこにありますから、こちらが北の方角である事は間違いないと思いますので」

 

 メルエの手を取って歩いていたリーシャが振り返り、思考に落ちていたサラの意識を現実へと引き戻した。意識を戻したサラは、上空で輝き、西の空へと移動を始めている太陽を見て、自身の歩む方角を導き出す。メアリが告げた『北へと歩いて行けば、スーの村まで辿り着く』という情報に基づいて、彼女達は真っ直ぐ北へと歩いているのだ。

 

「…………なにか………くる…………」

 

 そんな時、リーシャの手を握っていたメルエが、在らぬ方角へ視線を向け、口を開いた。その言葉が魔物の襲来を示す物である事を知っている二人は、それぞれの武器に手をかけ、メルエの視線を追う。その方角は静けさを纏い、魔物の姿など見えはしない。しかし、それでも、メルエが感じた気配は正確である事も二人は知っている。故に、警戒感を強めて、メルエを後ろに下がらせ、目を細めた。

 

「サラ、来るぞ」

 

「はい」

 

 やはりメルエの感覚は正しかった。次第にリーシャ達の立っている大地が小刻みな震動を始め、視線の先に土煙りが上がって来る。大きくなる土煙りと共に、大地の揺れは激しくなり、三人の耳には蹄が大地を叩く音が入って来た。

 近付いて来るのは、羊なのかバッファローなのかが解らない姿の魔物。何度もリーシャ達が相対して来た魔物達と変わらぬ姿をする魔物が四体。興奮状態をそのままに、口からは涎を垂らし、鼻息を荒げて、リーシャ達を囲むように布陣を完了させた。

 

「リーシャさん、一体ずつ相手をして行きます。他の魔物は私が引き付けますので、一体を確実に」

 

「わかった。任せたぞ」

 

<ビッグホーン>

マッドオックスやゴートドンといった、山羊とバッファローの交配によって生まれた亜種が魔物化した物。住処の違いや、その性質の違いから、縄張りを異なる場所に持ち、その能力などにも違いが生じている。集団での行動を主とし、『人』を襲い、食す。元は草食動物である事を忘れてしまったかのように、貪欲に『人』を襲う姿に、多くの者は恐れを抱いた。マッドオックスやゴートドンの上位種となる為に、その力は両者を凌ぎ、集団に遭遇した者は、辞世の言葉を考えざるを得ない存在である。

 

 リーシャは、サラの言葉通りに、先頭で到着したビッグホーンに向かって、その斧を振るった。斧の軌跡は、真っ直ぐビッグホーンの頭部に落ち、迫り来るビッグホーンの速度と相まって、その命を確実に奪い取る。

 あっさりと倒れた魔物に注意を向けていたリーシャは、内部を撒き散らして倒れ込む一体のビッグホーンの影から出て来たもう一体が大きく口を開けている事に気が付いた瞬間、咄嗟に後方へと飛んだ。

 

「バギ」

 

 サラの詠唱と、ビッグホーンが口内から息を吐き出したのは、ほぼ同時であった。サラの詠唱が風を味方につけ、ビッグホーンの周囲の風を真空へと変えて行く。巻き起こる真空の刃は、ビッグホーンの身体に無数の傷をつけ、その体液を撒き散らした。

 だが、その攻撃は、若干遅い。ビッグホーンの吐き出した息を避ける為に方へ飛んだリーシャであったが、多少は吸い込んでしまっている。

 

「くっ……」

 

 目が眩むような睡魔に襲われ始めたリーシャは、後方で斧を地面に着けてしまった。リーシャの神経は蝕まれ、抗えない程の誘惑が脳を痺れさせる。以前におばけきのこから受けたような甘い感覚に痺れ始めた脳を無理やり活動させたリーシャは、斧の柄を足の甲へ突き落した。

 目を覆いたくなるような音を立てたリーシャの足であるが、骨が砕けたような音ではない。顔を歪ませたリーシャは、バギによって傷を受けていたビッグホーンへ斧を振り抜いた。

 

「グモォォォォ」

 

 リーシャの斧は、ビッグホーンの肩口から胸部までを斬り裂き、その骨を砕く。堪らず倒れ込んだビッグホーンは、数度の痙攣の後、その命の灯火を消して行った。

 残る魔物は二体。瞬く間に絶命した同種の姿に、唖然としたように佇んでいた魔物達は、我に返ったように怒りに燃えた瞳をリーシャへと向ける。真っ赤に燃え上がった瞳は、その鼻息を更に荒くさせ、嘶きを響かせた。

 

「メルエ!」

 

「…………むぅ…………」

 

 満を持して、その二体へ攻撃呪文をぶつけようと考えていたサラは、その名を叫んで振り向くのだが、そこにいた幼い少女の表情を見て、全てを悟った。

 サラの後方に立っていたメルエは、その胸に木の棒と成り果てた杖を抱いて、眉を下げていたのだ。

 その腕の中にある杖は、嘗ては魔道士の杖と呼ばれ、世界最高位に立つメルエの魔法力を受け止めていた物。規格外と言っても過言ではないメルエの魔法力を、神秘へと変換して来たその杖は、今は赤く輝く宝玉も無く、その能力を半分も発揮できない状態になっていた。

 

「リーシャさん! 私がヒャダルコを放ちますので、間髪入れずに攻撃を!」

 

「承った!」

 

 メルエの自信は、あの魔道士の杖が元となっていたのだ。

 彼女にとって、魔法とは『誇り』でもある。初めて魔法を行使した時は、子供の無邪気な遊びであった。それが、あの杖を買い与えられた時から、変化を見せる。メルエにとって何の思考も無く発現出来た物が出来なくなり、様々な想いの中で育った『決意』と『覚悟』が、あの杖の存在を宝物へと高めて行った。

 あの時から、メルエにとって『魔法使い』としての旅が始まったのだ。『魔法』という神秘を武器に戦う者の総称を『魔法使い』という。そして、メルエはその才能を武器に、世界最高の『魔法使い』という地位に昇り詰めた。その称号は、メルエと魔道士の杖によって勝ち取った物なのだ。

 故に、今のメルエは、魔法に対する自信が湧かない。自信の源となる杖が起動しないのだ。だからこそ、メルエは杖を抱えたまま動けずにいる。『何かをしたい』、『リーシャやサラの助けとなりたい』、『自分も役に立ちたい』という想いは、おそらくこのパーティーの中でも格別に強い筈のメルエが動けない。それは、恐怖にも似た感情がメルエの中で育ってしまっているのだ。

 メルエの身体を心配し、与えた魔道士の杖という媒体は、幼いメルエに『依存』という感情を教えてしまっていた。そんな小さくはあるが、着実に積み上げられて行った感情に、リーシャもサラも、そしてこの場にはいないカミュも気付きはしなかったのだ。

 

「ヒャダルコ」

 

 手を前へと翳し、サラは自身が持つ最高の氷結呪文を詠唱する。後方に控えるメルエが唱えるヒャダルコとは比べ物にならない程の威力。特に氷結呪文に関しては、メルエの右に出る者は、この世はおろか、魔物の中にもいないのかもしれない。

 それでも、サラも世界で唯一となる『賢者』である。その威力は『人』の中では別格。一気に下がった周囲の気温は、空気中に漂う水分を凍らせ、冷気を迸らせる。

 

「グモォォ……」

 

 前へ出ていたビッグホーンの唸り声は、凍りつく口元によって、途中で消えるように小さくなって行った。真っ赤に燃え上がっていた瞳は、凍りついて行く中でその色を失い、前へ出る足は、凍りつくように固定される。メルエのように身体の芯まで凍らせ、その細胞までをも死滅させる程の威力はないのかもしれないが、リーシャがその手にある斧を振り下ろす時間は、充分に稼ぐ事が出来た。

 

「やあ!」

 

 振り下ろされた斧は、凍り付き始めたビッグホーンの首へ突き刺さり、氷を砕くような乾いた音を響かせる。砕け散るように体内へと入って行った斧は、そのままビッグホーンの首を地面へと落として行った。

 絶命したビッグホーンの身体が地面へと沈むよりも早く、リーシャは痛む足を酷使し、最後の一体へと飛び出す。目の前に迫るリーシャへ、大きく口を開いたビッグホーンであったが、横合いから襲いかかる魔法力によって、その意識を断ち切られる事となった。

 

「ラリホー」

 

 補助魔法に関しては、世界最高位に立つであろう者の呪文の行使。それは獣の延長線上にある魔物にとっては、抗う事が出来ない程の威力を誇る。一瞬にして意識を刈り取られたビッグホーンは、襲いかかるリーシャの斧によって、命を失う瞬間まで苦痛を感じる事無く、この世を去って行った。体液を撒き散らして倒れる巨体を視界に納めたリーシャは、一度斧を振い、体液を振り払う。

 

「リーシャさん、こちらへ。足にホイミを掛けておきましょう」

 

 甘い息によって朦朧とする意識を、強引に引き戻したリーシャの姿を見ていたのだろう。戦闘が終了した事を見届けたサラは、リーシャに向かって回復呪文を唱える為の準備を始める。サラがリーシャの許へ来るのではなく、メルエの傍へ移動した事を見たリーシャは小さく微笑み、『じんじん』と痛む足を引き摺りながら、メルエの許へと移動を開始した。

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

 二人が自分の傍へ来た事を見たメルエは、泣きそうな程に眉を下げ、小さく謝罪の言葉を呟く。それは、自分へ魔法の行使を指示したサラの言葉を無視してしまったような形になってしまった事への謝罪なのか、それとも、魔法を行使する事の出来なくなった自分を見捨てられないようにする為の予防策の一つなのか。何れにしても、メルエが心を痛めている事だけは確かである。故に、リーシャもサラも、メルエを不安にさせないように優しい笑みを浮かべた。

 

「ふふふ。本当は、もう杖などメルエには必要ない物なのですよ。メルエが大事に抱えているその杖は、メルエを本当の『魔法使い』へと成長させてくれました。メルエこそ、世界で最高の『魔法使い』なのです。すぐに、それが解ります」

 

「そうだぞ、メルエは私の自慢の妹だからな。メルエならば、杖がなくても大丈夫だ」

 

 メルエを気遣うリーシャとサラの言葉にも、メルエは眉尻を下げたまま。自分達が考えているよりも、メルエの持つ『依存』という感情が強い事に、二人は驚きを浮かべた。

 しかし、それが一般の幼少時代と呼ばれる物を過ごした事も無く、幼い子供と接する事も無かった者達の限界なのかもしれない。それにリーシャとサラが気付くのは、もう少し後の事であった。

 

 

 

 三人は、何度かの戦闘を行いながらも、順調に歩を北へと進め、二日間の野営を経て、一つの村へと辿り着いた。そこは、村落という言葉がぴたりと当て嵌まる程の物。植民地化を計画した際に、エジンベアが修築したであろう村と外を隔てる壁は中途半端な形で途切れており、途中からは木で出来た柵で造られている。何処か物悲しい雰囲気を持つ村に、リーシャ達は言葉を発する事は出来ず、小さな門を潜って中へと入って行った。

 

「何と言うか……村だな……」

 

「そうですね。本当に『村』らしい村ですね」

 

 中へ入ったリーシャは、その集落の佇まいを見て、正直な感想を漏らす。そんなリーシャの呟きに、サラも同意を示した。

 二人の言葉通り、その集落は人も疎らで、建物もそれ程多くはない。集落の中で、家畜などは放牧されており、馬や牛、そして鶏などが村のあちこちを自由に歩き回っている。人と家畜が自由に行き来する光景は、サラの知識の中にある遥か昔の『村』という形態そのものであった。

 

「まずは、宿屋に行こう。宿屋に着いたら、私はこれを売却して来る」

 

 カミュと別れたリーシャ達は、無一文と言っても過言ではない。アリアハンを出た時に、サラは多少の資金を持ってはいたが、それは三人分の宿代を何日も支払える程の物ではない。パーティーの財布はカミュが握っており、彼女達はその財布から出る資金で、宿に泊まり、武器や防具を購入していたのだ。

 故に、リーシャはここまでの道程で倒した魔物の部位などを、メアリに貰った袋に入れて運んで来ていたのだ。ビッグホーンの毛皮や角などであれば、それなりの金額で買い取ってくれるのではないかと考えていた。

 

「宿屋は、あれではないでしょうか?」

 

 村の内部を見回したサラは、左手にある建物の看板を見て、そちらの方角へと歩いて行く。未だに眉を下げたままのメルエは、大事そうに杖を胸に抱えながらも、サラの後を『とてとて』と歩いて行った。リーシャは、そんなメルエの姿を痛々しそうに見つめ、小さく溜息を吐き出す。

 メルエは、船を降りた頃から笑わない。メアリという新たな出会いによって浮き立っていたメルエの心は、船着き場を降りた頃から現実へと引き戻されていた。

 手には、既に役目を終えた魔道士の杖があり、その存在の消滅と共に、メルエの自信も萎んで行ってしまったのだ。それと共に、メルエの中で必死に抑え込んでいた『恐怖』と『不安』が溢れ出し始める。

 

 『勇者』の不在

 

 メルエにとって、カミュという存在は、『勇者』ではなくカミュなのだ。故に、上記の不安とは少し異なるかもしれない。だが、メルエの心の中に存在するカミュという人物は、間違いなく『勇者』であろう。絶対的強者であり、絶対的な保護者であるカミュという人物は、メルエの心の支えであると共に、常に安心感をくれる存在なのだ。

 杖に関してサラやリーシャが何度話をしても、メルエの自信が戻る事はなく、媒体を使用せずに魔法を行使する事はなかった。それは、魔法という神秘をメルエに与えた人物がカミュという保護者であったからなのかもしれない。メルエに魔法についての細かな部分を教えているのはサラであるのだが、魔法というメルエの誇りを教えたのは、紛れも無くカミュなのだ。

 故に、メルエは笑わない。自身の誇りと自信が消え失せてしまった彼女は、今、とても深い絶望の底へと落ちているのかもしれない。

 

「メルエ、おいで。一緒に行こう」

 

「…………ん…………」

 

 寂しい雰囲気を醸し出すメルエの背中を見ていたリーシャは、片手をメルエへと差し出した。眉を下げたまま小さく頷いたメルエは、その手をしっかりと握り、宿屋への道を歩き出す。いつもならば、どんな『恐怖』をも打ち払ってくれるリーシャの暖かな手も、今のメルエの心を癒す事は出来ない。それが、リーシャは少し哀しかった。

 

「……いら……しゃ…い……」

 

 宿屋らしき建物の扉を開けると、カウンター越しにこちらに気付いた店主が笑顔と共に言葉を発する。しかし、その言葉は、訛りがとても強く、聞き取り辛い。まるでトルドのいる開拓地に住んでいる老人と同じような発音に、サラは必死にその言葉を聞き取ろうと耳を傾けた。

 何とか宿泊人数と宿泊日数を伝え終えたサラは、疲れたように肩を落とす。そんなサラへ苦笑を向けながら、リーシャは店主に魔物の部位を売却出来る場所を聞くが、聞き取れないし、伝えきれない。サラの苦労の一部を垣間見たリーシャは、身振り手振りと、袋に入っている現品を見せ、何とか目的の場所を聞き出す事に成功した。

 そのまま宿屋を出て行ったリーシャを見送り、サラとメルエは宿屋のカウンターの傍にある椅子に座って、帰りを持つ事にする。

 

「メルエ、その杖はどうするのですか? 大変言い難いのですが、その杖はもう役には立ちません。通常の『魔法使い』であるならば、媒体として使えるかもしれませんが、メルエの魔法力には耐えられませんよ。売却も出来ないでしょうし……何処かで捨てないと」

 

「…………いや…………」

 

 自分に向かって口を開くサラを虚ろな瞳で見上げていたメルエは、最後にサラが発した言葉に瞬時に反応した。首を横に振り、必死な抵抗を見せるメルエへ、サラは哀しげな瞳を向けるしかない。

 メルエにも解ってはいるのだ。だからこそ、メルエは赤い石を失った杖を使って魔法を行使する事はない。今の杖ではメルエの魔法力に耐えられない事は、サラから自身の魔法力の脅威を教わったメルエも理解していた。

 だが、それでもこの杖は、メルエの宝物の一つなのだ。

 

 どれ程に、この杖を憎んだ事だろう。

 どれ程に、この杖に憤りを感じた事だろう。

 どれ程にこの杖を頼りとし、どれ程にこの杖を誇りとした事だろう。

 

「メルエの気持ちもわかります。この杖は、メルエの宝物ですものね。ごめんなさい……『捨てる』など言ってはいけませんでした。何処かに、その魔道士の杖のお墓を作りましょう。今までメルエを助けてくれた感謝を込めて」

 

「…………」

 

 メルエの気持ちを察したサラは、無神経な自分の言葉を謝罪する。誰がどう考えようと、この杖はメルエの宝物なのだ。それを『捨てる』等、許せる事ではない。そんな当然の事に気付かなかった自分を恥じ、サラは深く頭を下げた後、メルエに先程とは異なった提案を示した。

 しかし、その提案も杖を手放す事に変わりはなく、メルエも容易に首を縦には振らない。『じっ』と自分を見つめるメルエの瞳を見て、サラは困ったように眉を下げてしまった。

 

「カミュ様も、そろそろこの村へ来られるでしょう。その時に、メルエの口から、その魔道士の杖の最後を教えてあげて下さい。きっと、カミュ様もその杖にお礼を言いたいでしょうから」

 

「…………ん…………」

 

 言葉に困ったサラは、話題を少し変える事にした。メルエの心の中にいる絶対的な保護者の名を口にしたのだ。その名を聞いたメルエは、尚一層に眉を下げ、小さく頷きを返す。そのまま、杖を胸に抱いたメルエは、宿屋の床に届かない足を動かす事無く、虚ろな視線を扉の外へと向けてしまった。

 

 

 

 

 

 宿屋に入ってから、一週間の時が経った。

 未だに、彼女達の待ち人はこの村を訪れてはいない。

 毎日、同じ様な時間が流れ、同じように陽が沈んで行く。

 そして、今日も昨日と変わらぬ陽が昇っていた。

 

「メルエ、中に入って待っていましょう?」

 

 あれから、メルエは一度たりとも笑顔を見せはしない。リーシャが笑いかけようと、サラが話しかけようと、その手を握ろうが、その身体を抱き締めようが、メルエは笑わない。何かを押し殺したようなメルエは、元々少ない口数を更に減らし、今は言葉を発する事が皆無になったと言っても過言ではなかった。

 ただ、陽が昇り、陽が落ちるまでの間、宿屋の扉の外にある花壇の淵に座り、村の入口を眺めているだけなのだ。その胸に石を失った杖を抱いたまま。

 そんなメルエを心配し、声を掛けに来たサラの言葉にも、視線さえ動かさず、口を開く事も無い。この数日、メルエは碌に食べ物も口にしていないのだ。心配したリーシャが作った料理にも、手を伸ばしはするが、口に入れた後、吐き出してしまう。メルエの心の奥には、カミュとの会話がある。故に、出された食べ物を残す事はないのだが、無理をして食べても吐き出してしまうメルエの姿は、リーシャとサラの心に哀しみを落として行った。

 

「カミュ様は必ず来ますよ。その時に、今のメルエをカミュ様が見たら、きっと悲しんでしまいます。ゆっくりとご飯を食べて、ゆっくり眠って待ちましょう?」

 

 カミュが現れない事は、リーシャとサラで散々話し合った。『やはり、一度ポルトガへ戻るべきではないのか?』と主張するリーシャの言葉をサラは否定する。初めに考えたサラの考えが間違っていた事を認めはするが、今、サラ達がポルトガへ戻ったところで、すれ違いになってしまう可能性が高かった。

 既に、カミュと別れてから二か月近くの月日が流れている。例え、カミュが当初はポルトガへ戻り、その場所で数週間待っていたとしても、リーシャが言うようにサラ達を探しているのであれば、他の場所へ移動している事は確実なのだ。

 だが、そんなやり取りをメルエは知らない。サラが『カミュはここへ来る』と言えば、それは絶対であり、メルエがそれを疑う事はない。『それが何時か?』という疑問が浮かぶ程、メルエの心は成長していないのだ。故に、メルエは只々待つのである。目が覚め、眠気に負けるまで、この場所で待ち続ける。

 カミュと逸れた当初の頃が嘘のようなメルエの変貌に、リーシャとサラは戸惑っていた。海賊のアジトで、メアリの気迫に負けないような視線を向けるメルエはいない。頭に置かれた手を、目を細めて受け入れるメルエもいない。何より、誰の心も和ますような花咲く笑顔を浮かべるメルエがいないのだ。

 

「……メルエ……」

 

 振り返りもせず、言葉も口にしないメルエを見るのは、もう何日目になるだろう。そんな哀しい姿を見たサラは、小さくその名を呟く以外なかった。

 おそらく、今回逸れたのがカミュではなく、リーシャであろうとサラであろうと、メルエはこのような状態に陥ったかもしれない。断定は出来ないが推測は出来る。メルエはリーシャとサラだけでは笑ってくれないが、それがカミュとサラだけであっても、カミュとリーシャだけであっても変わらないだろう。メルエは誰一人欠けても、その花咲くような笑顔を向けてはくれないのだ。それが解っているだけに、サラは言葉を失ってしまう。

 カミュだけに向けられた感情であったのならば、サラは『嫉妬』という感情を持ってしまったかもしれない。だが、そうでない以上、メルエの心の苦しみを取り除いてあげたいと考えているのだが、それが出来ないのだ。

 

「リーシャさんに何か作って貰って来ますね。何かをパンで挟んだ物であれば、ここでカミュ様を待ちながらでも口に出来ますよ。果実汁の飲み物も探して来ますね」

 

 既に陽は高く昇り、昼時を過ぎている。朝食も口にしていないメルエを心配したサラは、この場所でメルエと共にゆっくり食事を取ろうと考えた。

 この一週間、メルエはこの場所を眠る時以外に動いた事はない。だからこそ、サラは何の心配もせずに、メルエを一人にして奥へと消えて行った。『すぐに吐き出してしまうメルエの身体にも優しいスープなども、リーシャに作って貰おう』等と考えながら、サラはメルエから目を離してしまったのだ。

 

 

 

 サラが宿屋の中に入ってどれ程の時間が経っただろう。村の中を歩く人の姿や、メルエの大好きな動物達の姿にも目を向けず、メルエは村の入口唯一点を見つめていた。

 村は昼時の喧騒を見せ、放牧されている動物達は生えている草を無心に食している。そんな和やかな空気が流れる村の中で、メルエは身動き一つしない。一週間前までは、まるで置き人形のように動かないメルエを、村の人間達は奇異の目で見ていたが、今では当たり前の事のように気にも留めなくなった。

 

「…………!!…………」

 

 そんな宿屋の入り口近くの花壇にある置き人形に見向きもせずに通り過ぎようとしていた村の住民の一人は、突如動き出したメルエに驚き、身体を仰け反らせた。

 何かを感じ取ったように突如として立ち上がったメルエは、胸に杖を抱いたまま、周囲へ首を巡らす。四方八方へ動かしていたメルエの首は、ある一点で停止し、暫しの間、その方角の空へと視線を固定する。

 

 そして、少女は駆け出した。

 

 

 

 

「メルエ、美味しそうですよ……あれ? メルエ?」

 

 両手に飲み物とスープ、そして温かなパンを抱えたサラが宿屋の入口から出て来たのは、既にメルエが村の門から外へと飛び出して行った後だった。

 暖かく、食欲を誘うような湯気を立てているスープについての感想を述べていたサラは、視線を向けた花壇の淵にある筈の姿がない事に気付くが、それを理解するまでに暫しの時間を要する。料理を抱えたまま、花壇を見つめていたサラが、状況を理解した瞬間、湯気の立っていた料理は、冷たい地面へと落下して行った。

 

「リ、リーシャさん! リーシャさん!」

 

 料理を全て落としてしまったサラは、大声を上げながら宿屋の中へと入って行く。サラには、状況が正確には掴めていない。メルエがいない理由が理解出来ないのだ。誰かに攫われたのか、それとも自ら出て行ったのかさえ解らない。だが、『メルエがいない』という事だけは、紛れもない事実であった。

 サラは『賢者』である。しかし、このような状況には一番弱い者の一人でもある。突発的な出来事に対する順応性は、未だに遅いのだ。戦闘中ならばいざ知らず、混乱に近い状況に落とされたサラには、自身の考えを纏める力はない。助けを求めるように入って行った宿屋は、近年稀に見る騒がしさを見せていた。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

少し短めとなりましたが、第十章も残りわずかです。
一週間で更新はしたいと思っていますので、楽しみにして頂ければ嬉しいです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。



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~幕間~【スーの村周辺】

 

 

 少女は脇目も振らずに駆けて行く。

 門を抜け、目の前に広がる平原を南に向かって走り行く。

 小さな足は思うように動かず、何度か絡まり、前へと倒れ込んだ。

 転がる木だけになった杖を拾い上げ、それでも彼女は走った。

 

 どれ程走っただろう。幼い彼女の足で全力の走りをしたとしても、それ程の距離を移動出来た訳ではないだろう。それでも彼女の目の前には木々が立ち並ぶ森が出現していた。

 陽は西の空へと移動を始め、もう数刻もすれば、大地へと落ち始める頃である。彼女は周囲を確認するように視線を向け、恐る恐る森の中へと入って行った。

 

 

 

 

「サラ、メルエは、どちらに向かった!?」

 

 装備を整えたリーシャが宿屋の外に出て叫び声を上げる。こちらも装備品などを整えたサラが、魔法の法衣の裾を翻して宿の外へと飛び出して来た。二人は、宿屋の外に出て、周囲を見渡すが、既にメルエの姿があろう筈がない。故にこそ、リーシャはサラへその行方を問いかけたのだが、それが解らないから、サラもリーシャを呼びに戻ったのだ。

 

「解りません」

 

「しかし、闇雲に探す訳にも行かないだろう!? メルエの行く先は見当が付かないのか?」

 

 目を伏せて言葉を返すサラを振り返ったリーシャは、尚更声を荒げる。リーシャにもそれが無意味な行為である事は解っていた。サラの責任ではない。だが、それ程までにリーシャの心を搔き乱すような出来事が起きているのだ。

 リーシャの心に余裕はなく、既にその手には鉄の斧を握り締めている。万が一、メルエを誘拐した人間などがいた日には、その人間はこの世での生を手放してしまう事は間違いないだろう。

 

「闇雲に探すしかないのです! 今回はカミュ様の時とは違います。カミュ様は、リーシャさんの言う通り、私達を探してくれている筈。だからこそ、私達が一か所で待っていれば、必ず私達を見つけてくれます。しかし、メルエは……メルエは私達が見つけてあげなければ!」

 

 完全に我を失っているリーシャを冷静に戻す程の声量でサラが言葉を発した。驚いた表情を浮かべるリーシャへ、サラは先程以上に厳しい表情を作り、村の出口に向かって駆け出す。

 これ程広大な大地の中で、メルエという幼い少女を探し出す事の難しさをサラが理解していない訳がない。リーシャは、改めて現状の厳しさを痛感する事になった。

 

「まず何処から行くつもりだ!」

 

「これ程に小さな村です。メルエのような幼子が村の中を歩いていれば、必ず目に入る筈。それが、首を傾げる者ばかりとなれば、村の外に出たのは間違いありません。メルエがこの村から船着き場までの道しか知らない以上、その道を辿るしか方法はないでしょう」

 

 サラの言う通り、村の人間に軽く話を聞いてみたのだが、ほとんどの人間がメルエの姿を見てはいなかった。皆一様に首を傾げるだけであったのだ。故に、サラは『メルエは村の中を歩いていない』という結論に達する。そして、最後に話を聞いた村人の聞き取り辛い言葉の中にあった『走って行った』という言葉で、メルエが村の外に出て行った事を確信したのだ。

 

「今のメルエは魔法を行使出来ません。いえ……本当は行使出来るのですが、メルエの心がそれを拒んでいます。どちらにせよ、今のメルエには魔物に対応出来る力がない事に変わりありません。私達が見つけてあげなければ……」

 

「くっ……急ぐぞ、サラ!」

 

 村の門を飛び出したサラの言葉は、最後の部分を濁された物だった。その先の言葉は言わなくても理解出来る。今のメルエでは魔物と戦う事は出来ない。魔物と対峙するよりも前に、あの幼い『魔法使い』の心は折れてしまっているのだ。心が折れると言う事は、戦う者達にとって最大の足枷となる。特にメルエのような『魔法使い』にとっては、最重要と言っても過言ではない。

 村を出た二人は、一度遠くを見るように視線を彷徨わせた後、猛然の南西へと走り出した。事態は刻一刻を争う程の状況。それを二人とも理解しているからこそ、表情を険しく変化させ、力の限り走り始めたのだ。

 太陽は真上を過ぎ、西の大地へと帰宅を始めている。もう数刻すれば、この大地は闇の支配が進み、魔物達の活動も活発化して来るだろう。暗闇の中、メルエには道を照らす灯りを灯す手段はない。そのような者を探し出す事が不可能に近い事を知ってはいても、二人は闇雲に探すしか方法はないのだ。

 

「サラの魔法で、メルエの居場所が解る物はないのか?」

 

「そのような都合の良い魔法はありません!」

 

 走りながら、藁をも掴む思いで口にしたリーシャの言葉は、サラの激しい怒声に斬り捨てられた。第一、そのような魔法があれば、自分達がこれ程の期間、カミュと離れている訳がない。すぐにでもカミュの居場所を確定し、自身のいる場所からそこへ向かって飛べば良いのだ。そして、そのような事はリーシャも理解はしているし、自分が発した言葉が不可能な事である事も察してはいる。それでも、何か言わなくては、リーシャ自体の心まで折れてしまいそうなのだ。

 

「手分けをするか!?」

 

「このような場所で手分けをすれば、問題が大きくなるだけです。二人でメルエを探します。私は<ルーラ>で戻れますが、リーシャさんは無理でしょう!?」

 

 闇雲に探すとはいえ、広大な大地。二人で別れて探した方が良いのではないかというリーシャの提案に、サラは即座に首を横に振った。サラの言う通り、リーシャは魔法が行使出来ない。キメラの翼のような道具があれば別だが、あの道具は、今のこの世界では希少価値の高い物であり、リーシャ達は所有しておらず、村で販売もしていない。

 この状況で、メルエをリーシャが発見し、メルエの魔法で帰る事が出来ればまだ良いが、それでもどちらが発見したのかが解らず、もう一方は夜の大地を彷徨う事になるだろう。故に、サラは別れて捜索する事を拒否したのだ。

 船着き場までの間は、ほぼ平原が広がっていた筈。平原をメルエが歩いているのならば、メルエの足で走る距離とリーシャ達の走る距離が違う以上、その姿がいずれ見えて来る筈ともサラは考えていた。だが、万が一、平原の脇に点在する森の中に入ってしまったとしたら、メルエを見つける事が更に難しくなる。要は、その見極め時なのだ。

 メルエが船着き場まで真っ直ぐ向かったと信じ、船着き場を目指して走り続けるか、何処かでその予測も間違っていたと認め、点在する森の中へと入って行くか。サラは再びその決断を迫られていたのだった。

 

 それでも、二人は走るしかない。

 二人が妹として愛する、幼い少女の為に。

 いつも心を和ます笑みをくれる少女の心を救う為に。

 

 

 

 

 

 森の中は、太陽の光も届き難く、薄暗い。そんな薄暗い木々の間を、一人の少女が進んでいた。いつもならば、目を輝かせて聞き入る木々のざわめきや、動物達の鳴き声が、今は恐ろしく聞こえて来る。物音に恐れを抱きながら、彼女は森の奥へと進んで行った。

 踏みしめる大地は、乾いた落ち葉が敷き詰められ、歩く度に乾いた音を立てている。鳥達の羽ばたきに身を竦め、動物達の鳴き声に足が止まる。一人での行動は、幼い少女に『恐怖』を植え付けて行った。

 

「…………カミュ…………」

 

 それでも彼女が村を出た理由。それは、呟いた名を持つ一人の青年の気配を感じたからに他ならない。何を感じたのか、何故感じたのかは、おそらく彼女にも説明出来ないだろう。だが、何故か倒される魔物の断末魔と、その魔物を倒した者の持つ剣の風切り音が聞こえた気がしたのだ。説明は出来ない。ただ、それは彼女にしか感じる事が出来ない物なのかもしれない。

 森を彷徨い歩く幼い少女は、自身の心の中に存在する絶対的な強者を探し続ける。衝動的に村を出たメルエではあったが、そこに確信はないのだ。『そのような気がした』というだけの事であり、本当にカミュという存在を感じた訳ではない。そのような不確かな物であっても、村を飛び出してしまったと言う事実が、メルエの心に余裕がなくなっている事を明確に示していた。

 メルエの心は、限界まで追い詰められているのかもしれない。彼女の傍には母のように姉のように慕うリーシャがおり、姉のように友のように慕うサラがいるにも拘わらずだ。

 今にして思えば、この幼い少女が不安な時、怯えている時、哀しい時は、いつもあの青年のマントの中に隠れていた。青年が魔物と対峙している時は、他の者の腰にしがみ付く事はあったが、必ず青年の背中が見えていたのだ。

 メルエという哀しい生い立ちのある少女に、未来という光を指し示したのは、サラではなくカミュである。メルエを救う事を決めた要因はサラであるが、実際にメルエを救いに来てくれたのはカミュであった。全てを諦め、絶望すらも感じなくなった幼い少女の心を、温かく優しい光で照らし出してくれたのは、カミュなのだ。暗く、前すらも見えない夜道を『とぼとぼ』と歩き続けて来たメルエの未来を静かに照らし出す『月』のように。

 

「…………カミュ…………」

 

 だからこそ、メルエはカミュを探し求める。今のメルエの心は不安によって押し潰されそうになっていた。それは、怪我や病気の為ではない。ましてや、魔物の脅威の為でもない。メルエという少女の存在意義に係わる程に重大な、彼女自身への不安である。

 暗闇が支配する絶望の底へ落とされたメルエは、静かで優しい光を探し求める。太陽のように激しい光ではない。誰しもが照らし出され、逃げる場所も無い程の眩しい光でもない。静かで、自分だけを照らしてくれているような優しい光。その光を求め、メルエは歩き続ける。

 一心不乱に彷徨い続けるメルエの瞳には、『怯え』の色が濃く刻まれていた。甘えと我儘を知った幼き少女は、その感情を吐き出せる相手を知り、そして依存する。まるで、自分の居場所はそこにしかないかのように。その場所でしか生きられないとでも言うように。

 だが、それは仕方のない事なのかもしれない。彼女を照らし出してくれた光は、常に暖かく、優しかった。どんな時も、どのような状況であろうとも、必ず彼女を救い出してくれる。叱られた事もあった。突き放された事もあった。それでも、最後には優しく小さな笑みを彼女に向けてくれたのだ。

 リーシャやサラの浮かべる笑みとは異なるそれは、メルエの心を解放し、広い世界へと羽ばたかせてくれる。それは、カミュという『勇者』が持つ力なのかもしれない。それは、カミュという男性が持つ父性なのかもしれない。いずれにしても、喜びを知らずに育った幼い少女に、歓喜という感情を蘇らせた事だけは事実である。

 喜びを知った人形は、愛情という肥料を与えられ、心という花を咲かせる。心を持った人形は、既に人形ではなく、『人』となって行った。

 

「クエェェェ!」

 

「…………!!…………」

 

 森を彷徨う内に、いつの間にか陽は陰っていた。元々陽の光が届き難い森の中は、先程までよりも更にその薄暗さを増し、メルエの瞳に映る物影も濃くなって行く。それでも歩き続けていたメルエの目の前に、二体の魔物が現れた。以前にトルドが開拓する町からの帰り道で遭遇した事のある魔物。大きな頭部が細長い脚の上に乗っているような魔物がメルエの行く手を塞ぐように、巨大な嘴を広げていた。

 

「クェ! クエェェ!」

 

 アカイライと呼ばれる鳥頭の魔物は、逃げようと横へ移動したメルエに合わせて身体を動かし、再び雄叫びのような鳴き声を上げる。その雄叫びは、不安と恐怖に圧し潰されそうになっているメルエの心を折るのに充分な脅威を誇っていた。

 木だけとなった杖を胸に抱き締めたメルエは、雄叫びに身体を跳ね上げ、眉を下げて瞳に涙を溜め始める。既に、この幼い『魔法使い』の戦意は、露と共に消えていた。

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

 以前に遭遇した際は、この幼い『魔法使い』が行使するマホカンタによって、魔物が行使する魔法から仲間達は護られた。だが、今の少女には、その面影は微塵も無い。瞳に溜めた涙を地面に落とさないように鼻を啜る事しか出来ない。救いを求めるように周囲に視線を送るが、一人で飛び出して来てしまった彼女の周りを護る者など誰もいなかった。

 今のメルエには、魔法自体が行使出来ないのだ。いや、正確に言えば、メルエの心が行使出来る状態にないのだった。

 魔法とは神秘であり、その行使が出来る者は、魔法力という者を有している者だけである。魔法力とは、『精神力』とも言い換える事が出来る。この世に生まれ落ちた時からその者が持ち得る力。それは、その者の精神に宿る力であるが故に、その心が乱れれば、統制が利かなくなるのだ。

 『魔法使い』や『僧侶』にとって、心の成長という物は、自身の成長の中でも極めて重要な部類に入る。勿論、魔法を行使する事の出来ない『戦士』や『武闘家』などに精神力がないとは言わない。要は、それを表に出す事が出来るかどうかの違い。『武闘家』などは、『魔法使い』や『僧侶』が魔法の行使に使う魔法力の原型を拳に宿し、魔物と戦っている者もいるだろう。それは『戦士』も同様である。

 全ての生命の源である精神力という物を制御する筈の心が、今のメルエは起動していないのだ。それは、メルエのような『魔法使い』にとって、致命的な欠陥を持ってしまった事に他ならない。魔法が行使出来ない『魔法使い』は戦闘で役には立たない。成人した男性魔法使いであれば、軽めの武器を装備し、自身が逃げる時間ぐらいは稼げるかもしれないが、幼いメルエにそれを期待する方が無理であろう。

 そして、今のメルエが手にしている物は、只の木の棒と言っても過言ではない。ひのきの棒という攻撃用に作られた武器でもない木の棒。それで、魔物を退ける事など出来はしないのだ。

 

「クエェェェェ!」

 

「…………!!…………」

 

 打つ手無しのメルエは、二体のアカイライの間を動き回る事しか出来ない。そして、遂にアカイライの鋭い嘴がメルエに襲いかかった。左に移動しようとするメルエに襲いかかった嘴は、メルエの宝物の一つであるとんがり帽子を弾き、地面へと落としてしまう。

 抉るように突き出された嘴に引っかけられた帽子は、回転しながら花弁を散らして行く。それは、メルエの唯一の友が作ってくれた花冠の花弁。数枚の花弁がメルエの手元に落ちて来た。帽子に装着された花冠は未だに顕在ではあるが、大事な友との約束の証を傷つけられたメルエの瞳に怒りの炎が宿る。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 しかし、メルエは唸り声を上げてアカイライを睨みつける事しか出来ない。それ程に、今のメルエの心は病んでいるのだ。杖を振り上げる事は出来ない。自身の指から魔法を行使する自信も無い。怒りは覚えるが、それを超える程の不安と恐怖が胸を支配している。もはや、メルエに成す術はないのだ。

 

「クェ!」

 

 再び襲いかかるアカイライの嘴。

 引き裂かれる布と、飛び散る鮮血。

 苦痛の叫びと、歓喜の雄叫び。

 

 メルエの左腕を護っていた服の一部は切り裂かれ、肉を切り裂き、赤い血が噴き出す。痛みに堪えられず、苦悶の叫びを上げたメルエは、その場に倒れ伏した。勝ち誇ったような叫び声を上げた二体のアカイライは、倒れたメルエの小さな身体を取り囲むように覗き込む。ゆっくりと、その柔らかな肉を啄むように下げられた嘴が、メルエの着ている衣服を引っ張り上げた。

 メルエの着用しているアンの服は、みかわしの服と同じ生地で出来ている。だからこそ、アカイライの攻撃から致命傷を避ける事が出来たのだ。だが、この状況になってしまえば、その効力など皆無。

 メルエが旅を続けて来た中で、彼女が怪我を負った事など、一度たりともない。自身の行使した魔法の余波で火傷を負った事はあるが、魔物から受けた傷など一つも無いのだ。それは、常に彼女を護っていた三人の保護者の存在があったからこそ。メルエが傷つく事を許さず、メルエの命を最優先に考えていた者。メルエに光を教えた『勇者』。メルエに愛を教えた『戦士』。そして、メルエに心を教えた『僧侶』。

 いや、もう一人だけ存在した。メルエを傷つけ、メルエを疎み、メルエを売り払った者。そして、メルエを見つけ、メルエを想い、メルエを庇った者。

 そんなメルエだけを見て来た者達は、今はいない。アカイライの巨大な鋭い嘴が何度もメルエの身体を突く中、『不安』が『恐怖』と『絶望』に変わったメルエの瞳を涙が満ちて行く。生まれて初めて味わった『幸せ』は、生まれて初めて味わった『絶望』によって打ち砕かれる。『諦め』でも『達観』でもない、胸を締め付けるような感情は、メルエの心を更に壊して行った。

 

「…………ぐずっ………カミュ…………」

 

 少女の呼びかけに応える者はいない。溢れ出した涙は地面を濡らし、抱き締めた杖をも濡らして行く。もはや抵抗する事はないと理解したのか、アカイライがその嘴を勢い良く振り上げ、地面に横たわる少女の身体に突き刺すように振り下ろされた。

 鋭い嘴は幼い少女の肉など容易く突き破り、その命をも奪ってしまうだろう。止まったように緩やかに流れる時。自身へ向かって落ちて来る嘴を見たメルエは、恐怖と絶望の中、その瞳をゆっくりと閉じて行く。

 

 まるで、全てを諦めてしまったかのように。

 まるで、自身の命が尽きる事を受け入れるかのように。

 その胸に襲いかかる恐怖と絶望から解放される事を願うかのように。

 

 だが、この少女は確かに愛されていた。それは、『精霊ルビス』という全世界の信仰の対象となる者にではなく、その上に立つ全知全能の神からでもない。それは、彼女に光と愛と心を教えてくれた者達。彼女の幸せと笑みを護ろうとする者達。そんな、常にこの幼き少女を見守って来た者に愛されていたのだ。

 

「アストロン」

 

 絶望に壊れかけたメルエの心に、懐かしい声が響き渡る。杖を抱き締め、瞳を瞑ってしまっていたメルエは、その発信源を見ようと瞳を開けた。

 その声は、明確な呪文の詠唱を紡ぎ出している。その呪文は、この世界でたった一人しか唱える事の出来ない魔法。後の世に英雄と称される程の器量を有した者しか契約は出来ず、人々が『勇者』と称する者しか行使出来ない魔法。それを紡ぎ出した人物は、メルエが心より願い、心より欲した者。

 顔を動かそうとしたメルエの身体が徐々に、その色を変化させ、意識を刈り取って行く。何とか視界の端にその人物をメルエが捉えた時、メルエの意識は途絶えた。

 

「……誰に向けて牙を剥いているつもりだ?」

 

 鉄となったメルエにアカイライ如きの嘴は意味を成さない。乾いた音を立て、アカイライの嘴がひび割れた。痛みを叫ぶように顔を上げ、雄叫びを上げるが、その雄叫びは突如として現れた青年の振るった剣撃によって、強制的に遮られた。『ごとり』という重い音を立てて地面へと落ちたアカイライの頭部に驚愕の表情がこびりついている。それ程に意外な一撃だったのであろう。

 

「クエェェェ」

 

 一体の同朋が一瞬で斬り伏せられた事に動揺する事無く、生き残ったアカイライが青年の胴目掛けて嘴を突き出す。青年は不意を突かれた様子も無く、その嘴を左腕に装着している鉄製の盾で弾き飛ばし、無造作に右腕の剣を振るった。

 振るわれた両刃の剣は、まるで吸い込まれるようにアカイライの足を刈り取り、体液と雄叫びを噴き上げ、アカイライの鳥足が宙を舞う。地面に倒れたアカイライは激痛に叫び声を上げ、憎しみを込めた視線を青年へと向けるが、そこで目に映った青年の瞳を見て、瞬時に怯えの色を瞳に宿した。

 

「獲物と勘違いをした自らを恨むのだな……」

 

「クケェ―――――――」

 

 冷たい瞳を向けたまま、言葉を発した青年は、その手に持った剣を振り上げる。その時、『恐怖』という感情に支配されたアカイライは、自身が行使出来る唯一の魔法を行使した。

 先程までの鳴き声とは違う雄叫びを上げたアカイライの周囲の風が、魔物の支配下に置かれる。巻き起こる風は、剣を振り上げていた青年目掛けて、真空の刃となって襲いかかった……筈だった。

 

「ふん!」

 

 しかし、アカイライが行使したバギという魔法が造り出す真空の刃は、青年が振り下ろした剣によって、逆に斬り裂かれる事となる。斬り裂かれたと同時に霧散して行く風。それは、アカイライという魔物の未来を示していた。

 最早足を失い、動く事の出来ないアカイライに成す術はない。真空を斬り裂いた勢いをそのままに、青年は魔物の生命の元を断つ一撃を放つ。深々と刺し込まれた剣は、魔物から体液という命の源を奪い、その灯火を吹き消して行った。

 

「……ふぅ……」

 

 軽く一息を吐き出した青年は、剣を一度大きく振い、体液を地面へと飛ばして行く。そのまま背中の鞘に納め、地面に横たわる鉄像に近寄って行った。

 鉄色に変わり果てた幼い少女の髪の部分を優しく撫でた青年は、小さな笑みを浮かべた後、周囲を見渡すように視線を送る。しかし、彼が求める者達がいないのか、怪訝な表情な浮かべた後、少女の傍に座り込んだ。

 

 

 

 

 

 太陽が完全に西の空へと沈んでしまった頃、メルエが入り込んだ森の中は完全な闇に閉ざされていた。その中で一際目立つ灯りが一つ。赤々と燃える焚き火が、真っ黒く染まった空へ、白い煙を悠々と流している。その焚き火へ薪をくべる人影とその人影の傍で横になる小さな影だけが映っていた。

 メルエは、極度の緊張と、極度の不安、そして初めて感じた絶望感の疲労で、今は眠りについている。その寝顔は、村の宿屋の花壇に座り込んでいた時のような物ではなく、安心しきった安らかな物。その原因は、彼女が意識を断つその瞬間に見た、待ち望んでいた者の顔なのだろう。

 故に、メルエは何の心配もしていないのだ。魔物からの脅威の不安も無く、自身が道に迷う心配も無い。ただ、その者の纏うマントの裾を握り、笑顔を作っていれば良い。そうメルエに思わせる程の絶対的な何かを、火に薪を入れ続ける青年は有していた。

 

「……あの馬鹿達は、何をしている」

 

 そんな青年は、燃え盛る炎を眺めながら、一人小さく呟きを洩らし始める。幼い少女が常に共にいる筈の者達が傍にいない事への苛立ちなのだろう。だが、そこまで洩らした青年は、少し考えるような素振りを見せた後、横で眠る幼い少女の衣服や髪の毛を触り、何かを確認するように安堵の溜息を洩らした。

 少女の髪は油と埃にまみれている訳ではない。出会った頃のように色が変わる程に汚れが付着している訳でもない。その顔はどこかやつれてはいるが、垢や泥で汚れている物でもない。それは、少女の傍で共に旅する者がいた事を示していた。

 そんな安堵の溜息が虚空へと消え、夜空に輝く大きな月が木々の隙間を縫って少女を照らし出した時、青年の耳に懐かしい声が聞こえて来る。

 

「………エ………メル………」

 

 何処か遠くから響くような声は、青年の傍で眠る少女の名を叫んでいるようにも聞こえた。既に森の中に入っているのだろう。叫ぶ声は、徐々にその声量を増し、着実にこちらへ近付いて来ている事が解る。青年は、一つ大きな溜息を吐き出し、再び火に薪をくべた。

 

 夜風は優しく炎を揺らしている。

 雲一つない空からは、大きな月が優しい光を注いでいた。

 安らかに眠る少女を二つの『月』が優しい光で照らし出す。

 少女のささやかな幸せを見守るように。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回はかなり短めになってしまいました。
もう少し、この出会いは劇的な物にした方が良かったかなとも思うのですが、この方が彼ららしいかなとも思いまして。
次話からは、ようやく四人が再度終結し、新たな旅立ちとなります。
第十章はもう数話あると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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スーの村②

 

 

 

 瞼を閉じていても感じる程の眩い光を受け、メルエは重い瞼をゆっくりと開く。差し込んで来る眩しい光から逃れるように、もう一度うつ伏せに倒れ込んだメルエは、何かを思いついたかのように勢い良く起き上った。

 周囲を見渡す瞳はどこか不安の色に満ちており、落ち着きなく動かされている首は、何かを探し求めるように狭い空間を網羅する。

 メルエの身体は、柔らかなベッドの上にあった。メルエの身体をすっぽりと包み、それでもかなりの余裕がある程の大きさのあるベッドは、本来は二人で眠る物なのかもしれない。しかし、いつもメルエの横に眠っていてくれる母のような女性戦士の姿はない。ベッドの大きさに比べ、少し手狭に感じる部屋にも人の気配はなく、メルエが探し求めている人物の姿もなかった。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 『全てが夢であった』ような感覚に陥ったメルエは、自分に掛かっていた物を顔付近まで上げ、嗚咽に近いような唸り声を上げる。自分の中にある最も信頼できる強者を探し求めて走り、ようやく出会えたと感じた筈なのにも拘わらず、目が覚めれば昨日と同じ宿屋の部屋であった事が、メルエの心に絶望を運び込んだ。

 昨夜感じたと思った安心感は急速に萎んで行き、本当に昨夜の出来事であったのか、それとも只の夢であったのかが判断出来ないメルエは、唸り声を上げて涙を出す事しか出来ない。それでも、再び彼女は立ち上がる。自分が探し求める者を見つける為に。

 メルエが部屋を出て、階段を下り、そして宿屋の外へと飛び出した時、すぐ傍で金属がぶつかり合う音を耳にする。部屋を出る時に持った魔道士の杖であった物を胸に抱き、聞き慣れたその音に目を見開いたメルエは、起きたばかりの姿のまま、その音が聞こえてくる場所へと駆け出した。

 

 

 

 

「くっ!」

 

 リーシャは自分の斧を弾く剣に苦悶の声を上げる。ほんの数か月前にその剣を受けた事を思い出しても、これ程の力強さを感じる事はなかった筈。だが、今目の前で振り抜かれた剣は、リーシャの身体を傷つける事はないが、リーシャの髪を数本斬り裂く程の風圧を持っている。

 今までもリーシャ自体が手を抜いた記憶はない。だが、今対峙している者に対し、殺意を持つ程に本気で対峙した事もなかった。その均衡が崩れようとしているのは事実であろう。

 

「調子に乗るな!」

 

 傍で見ているサラでさえ、リーシャの旗色が悪くなっているのではないかと感じた時、後方へ一歩足を下げたリーシャがその足を踏ん張り、前方へと身体ごと踏み出した。踏み出す足を軸に回転させた腰は、リーシャの持つ鉄の斧を対峙している者の腹部へと導いて行く。

 凄まじい速度で放たれた一撃は、剣を振っていた者の攻撃を中断させ、防御に徹しなければならない程の威力を誇った。咄嗟に掲げられた鉄製の盾にぶつかった斧は、自身も弾かれるのと引き換えに、盾を掲げた者の身体をも弾き飛ばす。

 

「くっ……殺す気か?」

 

「お、お前が悪いのだぞ! 先に私を殺しにかかって来たのはお前だろ!?」

 

 態勢を立て直した剣の使い手は、眉を顰め、凄まじい勢いで斧を振るったリーシャへ苦言を発した。リーシャも、自身の放った一撃の重さを理解していたのだろう。慌てたような素振りで弁解を始める。しかし、その弁明は、傍で見ていたサラに呆れの溜息を吐かせてしまう物であった。

 確かに凄まじいと感じる程の攻防であったが、剣の使い手に殺意は感じなかった。だが、最後のリーシャの一撃だけは、殺意ではないだろうが、これまでのような鍛錬とは一線異なった物を感じてしまう物であったのだ。

 鍛錬という名の二人の戦いを見て来たサラは、その違いに気付いていた。どことなく余裕を持っていたリーシャの余裕が崩されていた。それは、剣の使い手である青年の力量がリーシャに近付いている事の証拠。

 元からかけ離れた実力の差はなかった。だが、僅かな差であれ、実力の差は実力の差。その明確な差が、この青年とリーシャの攻防に表れていたのだが、今回の戦いに於いて、サラでさえもその勝敗の行方が解らなかったのだ。

 先程のリーシャの一撃で勝敗は決した。態勢を崩した青年は、その後にリーシャの斧が迫れば回避出来ない。つまり、リーシャの勝利で幕を下ろした事になる。だが、リーシャの表情は、勝者のそれとは掛け離れた物だった。

 悔しそうに結ばれた口と、伏せられた瞳。追い詰められたとはいえ、本気の一撃を青年へ放ってしまった事への後悔もあるのだろう。先程の弁解以降、口を閉ざしてしまったリーシャは、身体全体で敗者の空気を醸し出していたのだ。

 

「…………カミュ…………」

 

 そんな異様な空気の中、聞こえて来る小さいが良く響く声。呟くようなその声は、その場にいた三人の耳に確かに届いた。声の場所へ顔を向けると、寝巻のまま呆然とこちらを見つめる幼き少女。息を切らせながらも、その待ちに待った瞬間の到来に魂を抜かれてしまったような表情を見せるメルエが佇んでいた。

 

「起きたのか?」

 

「メルエ、身体の具合は……」

 

「…………カミュ!…………」

 

 その姿を確認した青年の呟きの後に発したサラの言葉は、幼き少女の心からの叫びによって遮られた。先程以上の速度で駆け出した少女は、真っ直ぐに青年の胸へと飛び込んで行く。宙を飛ぶように胸へと飛び込んで来たメルエを抱き締めた青年は、少し驚いた後、小さな微笑みを浮かべた。その微笑みは、リーシャやサラが今まで見た中でも格別に柔らかく、温かな物。二か月以上も離れ離れになっていた娘を抱くようなその優しさは、リーシャとサラの心をも柔らかく溶かして行く。

 

「よし。カミュ、朝食前にもう一度勝負だ!」

 

「……わかった」

 

 メルエによって空気を変えられた事で、リーシャもいつも通りの雰囲気を取り戻した。斧を突き出して、再戦を挑む姿に軽い溜息を吐き出したカミュは、未だに胸に抱き着いているメルエを引き剥がし、構えを取る。

 引き剝されたメルエは、不満そうに頬を膨らませてリーシャを睨むが、笑みを浮かべたサラに手を引かれ、少し離れた場所へと移動を開始した。

 

「あれ? メルエはまだ寝巻のままなのですね。一緒に宿屋に戻って着替えましょう?」

 

「…………いや…………」

 

 メルエの姿を確認したサラが、その手を引いて宿屋へ戻る事を提案するが、その提案は即座に拒絶される。『ここから一歩も動かない』とでも言うように、首を振って動かないメルエにサラは軽い溜息を吐き出した。

 強情さだけで言えば、このパーティーの中でメルエの右に出る者はいないかもしれない。カミュという青年も、リーシャという女性も、強情さだけで言えば、世界の頂きを見る程の者である。しかし、この少女には敵わない。一度首を横に振ったが最後、自分の気持ちが変わらない限り、誰が何を言ってもそれを受け入れる事はないのだ。

 

「もう……仕方がありませんね。こちらに座って見ていましょう?」

 

 動こうとしないメルエの後頭部を見ながら溜息を吐いたサラは、傍にある石の上に腰を下ろし、メルエをその隣に座らせる。今度はすんなりと言う事を聞き、石へ腰かけたメルエは、胸に杖を抱いたまま、再び剣と斧をぶつけ合わせたカミュとリーシャの戦いを観戦し始めた。金属がぶつかり合う音が響く中、二人の強者の戦いは熱を増し、朝食までの時間が経過して行く。その間も、メルエは身動き一つする事無く、二人の戦いを見つめていた。

 

 

 

「まぁ、少し本気を出せば、まだまだカミュに負ける事はないな」

 

「……ふぅ……」

 

 誇らしげに汗を拭うリーシャの息は、いつも以上に上がっている。それは、言葉通り『本気』に近い状態でカミュと対峙していた事が窺えた。その横で息を吐き出すカミュも汗を流し、息も切れている。二人の鍛錬という名の戦いが拮抗していた事の証明であろう。それでも、僅かにリーシャの方が上であった。

 リーシャの斧を受けるカミュも真剣そのものであり、サラは二人のどちらかが大怪我をするのではないかと『ひやひや』していたのだ。

 この世界の中で、リーシャが本気で対する事の出来る『人間』はカミュを置いて他にはいない。既に世界最高峰の力と技を手にしているこの二人とまともに戦う事の出来る者は『魔物』以外にはいないと言っても過言ではないのだ。

 このスーの村を訪れる前に出会った女海賊であっても、今のリーシャの全力を受け止める事など出来はしないだろう。故にこそ、リーシャはこれ程までの晴れやかな表情を見せるのだ。自身と対等に立てる人間との鍛錬は、『戦士』という職業に就くリーシャにとって、何物にも代え難い存在なのかもしれない。

 

「お疲れ様でした。それでは食事にしましょう?」

 

 二人へ手拭いを渡しながら、サラが二人に声をかける。清々しく笑みを浮かべるリーシャは、その提案に一も二も無く頷きを返し、カミュも小さく頷いた。しかし、先程まで何かを待っているかのように二人の戦いを見守っていた幼い少女は、その提案を良しとはしない。胸に抱いた杖を片手で握り、汗を拭いているカミュの腰にしがみついた。

 

「…………ん…………」

 

「なんだ?」

 

 カミュの腰に回した腕とは別の手を上に掲げ、メルエが杖をカミュへと差し出す。その行動が何を意味するのかが解らないカミュは眉を下げて問いかけるが、メルエは不満そうに頬を膨らませ、再び手に持つ杖を高々と掲げるばかり。よくよくカミュがメルエの手にある杖に目を向けると、そこにある筈の物がなくなっていた。

 

「宝玉が無くなっているな……壊したのか?」

 

「…………むぅ…………」

 

 壊れた杖を向けられたと思い、それを問いかけたカミュは、更に頬を膨らませたメルエの鋭い視線を受けて戸惑いを見せる。自分が待ち焦がれていた青年との再会。そして、胸を締め付けるかのような不安の軽減。その二つが、メルエの我儘と甘えを復活させていた。

 自分が伝えたい事が伝えられない事のもどかしさに頬を膨らませ、『何故、解ってくれないのか!?』という理不尽な想いを投げかける。困惑するカミュへ鋭い視線を向けるメルエとは異なり、周囲にいるリーシャとサラは柔らかな微笑みを浮かべていた。

 

「それは、メルエが壊した訳ではないのです。メルエの魔法力を受け止め続けて来た魔道士の杖は、その限界を迎えてしまいました。メルエの成長を見届けて下さり、宝玉は砕けてしまったのです」

 

「メルエは、その杖に並々ならぬ想いがある。メルエや私達を護ってくれたその杖に、カミュにもお礼を言って欲しいのだろう」

 

「…………ん…………」

 

 これまでの経緯を知らないカミュの為に、サラとリーシャがメルエの想いを口にする。魔道士の杖をメルエに買い与えてから二年近くの月日が経過している。そんな長い時間は、それ程珍しくはない杖を特別な物へと変化させていた。

 それこそ、魔道士の杖という物を象徴する宝玉を失ったとしても、大事に抱え、誇らしげに見せようとする程に。そんなメルエの姿を見たカミュは、小さく頷き、メルエの目線に合わせるように屈み込んだ。

 

「ありがとう」

 

 そして、メルエの掲げる杖に向かって丁寧に頭を下げる。深々と下げられたカミュの頭は、メルエでもリーシャ達でもなく、宝玉を失った杖だけに向けられた物であった。それを見たメルエは満足そうに微笑み、再び杖を胸に抱く。だが、その行為は、彼女が最も頼りとする保護者によって咎められる事となる。

 

「メルエ、その杖はトルドの所へ置いて行こう。メルエには他の武器を用意する」

 

「…………!!…………」

 

 カミュのその言葉は、メルエの心に衝撃を与えた。大事な宝物との明確な別れを意味する言葉が発せられたのだ。

 サラは『捨てて行く』と言った。リーシャは何も言わないが、サラと同様の考えである素振りを見せている。それでも、メルエの心を汲んで、その言葉を飲み込み、強硬な行動を取る事はなかったが、カミュの言葉はメルエの中で絶対的な力を持っていた。カミュがこう言う以上、メルエに逆らう事は出来ず、それを受け入れる以外に方法はないのだ。

 

「メルエの魔法は、俺達を何度も救ってくれた。その魔法を行使する為に、その杖も頑張ってくれたのだろう。もうそろそろ、その杖も休ませてやろう」

 

「…………まほう………でない…………」

 

 だが、カミュもメルエの心を蔑にしている訳ではない。メルエがその杖に『依存』している事を理解し、その心を考えて尚、それを口にしたのだ。故に、カミュの言葉からは、メルエが抱く魔道士の杖だった物への労りが見えている。

 メルエは、その杖への労りを感じ取り、反論が出来ない。『杖を休ませてやろう』と言う言葉は、リーシャやサラからは出て来ず、メルエも考える事はなかった。『離れたくない』、『手放したくない』という自分の想いが先走っていたのだ。杖の気持ちと言う事自体が奇妙な物ではあるが、幼いメルエにとって、カミュの言葉はとても胸に響く事になる。

 

「それは、メルエの心次第ですよ。しっかりと成長したメルエの姿を見たからこそ、その杖は役目を終えたのです。ここで、メルエが心を閉ざしてしまっては、その杖も哀しんでしまいますよ」

 

「そうだな。メルエが凄い事を私達は知っているが、成長したメルエが凄ければ凄い程、そんなメルエの成長を見守った杖も凄いという事になるぞ」

 

 眉を下げ、自信なさげに俯くメルエを見て、サラとリーシャもカミュに倣う事にした。メルエが誇りに思う物を持ち上げ、メルエが自信を失くしてしまえば、その誇り自体が傷付いてしまうと伝える。

 理路整然と述べるサラとは正反対に、リーシャの話はどこか漠然とした物であったが、実はリーシャの言葉の方が、メルエの心に素直に響いていたのかもしれない。

 

「…………つえ………すごい…………?」

 

「ああ。メルエがここまでの『魔法使い』になれたのは、その杖のお陰だ。勿論メルエ自身の能力も凄いぞ。だが、その杖はメルエの誇りであると共に、私達の誇りでもある」

 

 簡素な言葉ほど、幼い者の心には響くのかもしれない。リーシャを見上げるように見つめていたメルエの瞳が、その言葉を受けて輝き出す。自身の誇りを理解してくれた事への喜びと、自分の力を誇ってくれる事への喜び。嬉しそうに微笑んだメルエの表情を見たリーシャとサラは、心からの喜びを満面の笑顔と言う形で表現した。

 ここ数週間、これ程に美しメルエの笑顔を彼女達は見た事がない。カミュという精神的主柱との再会と、自身の胸の内に棲みつく不安の解消。それが、メルエに笑みを運んで来た。メルエの笑みは、全てを和ませる。カミュ達の心も、この旅の雰囲気も。

 

「よし! その杖は、トルドに大事に保管して貰おう。メルエの新しい武器探しを兼ねて、朝食が終わったら、村散策だな!」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの悩みの全てが氷解した訳ではない。実際に新たな武器を手にしても、メルエが今までと同様の魔法を行使出来るかどうか解らない。だが、メルエの心を満たしていた『不安』という闇は晴れた。視界が開けたメルエの瞳には、村の中で歩く人々も動物達も、輝いているように見えている事だろう。

 小さく頷いたメルエの顔は笑顔が浮かんでいる。それがリーシャ達には何よりも嬉しい。もしかすると、リーシャやサラの視界も開け、この小さな村の情景が昨日までとは異なって見えているのかもしれない。

 

「村の散策ですか? 情報などもしっかりと集めませんと……」

 

「何を言っても無駄だ」

 

 晴れやかな笑顔を浮かべてメルエの手を引くリーシャは、そのまま宿屋の方へ歩き始める。そんなリーシャを見たサラは苦言を述べるが、ゆっくりと歩き始めたカミュは小さな溜息を吐き出した。

 カミュの呟きにサラは何故か笑いをこらえられず、笑みを溢す。常に無表情であるカミュでさえも、小さな笑みを浮かべ、リーシャとメルエの後を続いて歩き始めた。

 

 ようやく戻った四人の掛け合い。

 二か月という長い別離であった。

 しかし、今にして思えば、僅か二か月なのかもしれない。

 各々の心と身体の成長を加速させた二か月。

 それは、この先の旅に多大な影響を及ぼす時間となるだろう。

 

 

 

 

「まずは武器屋だな。カミュ、武器屋は何処だ?」

 

「……久しぶりに聞いたが、相変わらず理解に苦しむ。アンタ達の方が、俺よりも長くこの村に滞在している筈だが……」

 

 食事を済ませた一行は、宿屋に長期滞在の礼を言い、表へと出た。しかし、表に出た直後に発したリーシャの言葉は、カミュに溜息を吐かせる物。隣に立っていたサラは、そんな二人のやり取りに笑みを浮かべ、同じように笑みを浮かべるメルエと共に笑い合う。

 カミュの言う通り、リーシャ達は数週間の間、このスーの村に滞在していた。しかし、彼女達の言い分としては、村の中を観察する余裕などはなかったのだ。

 

 『メルエが笑わない』

 

 そのたった一点だけで、パーティーは崩壊へ歩み始める程に余裕を失っていた。サラは改めてメルエと言う少女の重要性を知る事となる。

 メルエという楔があったからこそ、カミュ達は真っ直ぐに道を歩けていたのかもしれない。もし、メルエと出会う事がなければ、カミュはここまで心を砕く事はなかっただろう。カミュが心を覆う氷を溶かし、リーシャやサラを見るようにならなければ、サラは『賢者』となるばかりか、この旅を途中で放棄していたかもしれない。メルエという幼い少女と出会う事がなければ、リーシャの母性も表には出ず、カミュに対しての見方も変化しなかったのかもしれない。仮定の話ではあるが、三人の心の成長はたった一人の少女が起因している事だけは事実であろう。

 

「メルエ、少し離れてくれ……」

 

「…………むぅ…………」

 

 その少女は、やっと巡り合えた青年の足にしがみ付き、そのマントに包まりながら笑顔を浮かべていたが、歩く事も困難な程に纏わり付く少女に困惑した青年の言葉に頬を膨らませている。それでも離れる様子のないメルエは再び笑顔に戻り、カミュのマントの中を出たり入ったりを繰り返しながら笑みを浮かべ始めた。

 そんなメルエとカミュの様子は、リーシャとサラに先程以上の笑みを浮かべさせる空気を作り出す。和やかな空気をそのままに、一行は村の一角にある武器と防具の看板を掲げる店へと移動を始めた。

 

「この店の武器を見せてくれ」

 

「……わか……った……」

 

 店の中に入ったカミュは、返って来た店主の言葉に眉を顰めた。トルドのいる開拓地にいた老人と同じように、訛りが酷く聞き取り辛いのだ。ジパングという特殊な国であっても、その発音の仕方や言葉尻に異なる部分はあったが、聞き取れない程ではない。それがこの村は、別の言葉を話しているのではないかと思う程に聞き取り辛いのだ。

 

「そ、それは!」

 

「これはアンタ向けの武器だな。その斧も相当の場数を踏んで限界に近い筈だ。この辺りで新調しておくのも良いだろう」

 

 店主がカウンターに出して来た武器の中の一つに声を上げたリーシャは、その武器を手に取り目を輝かせている。その様子を見たカミュは、溜息などを吐く事も無く、冷静にリーシャの現在の武器と比べての評価を口にした。

 確かに、リーシャの持つ鉄の斧を購入してからも一年半以上の月日が経ち、その間も数多くの魔物を斬って来た。魔物だけではなく人を斬った事さえあり、ジパングでは古来からの龍種の鱗をも斬り裂き、その牙を両断した事もある。

 『戦士』として、そして『騎士』として、己の武器の手入れを怠らないリーシャではあったが、武器としての寿命が近い事は誰もが認めている事だった。

 

「リーシャさんにピッタリの武器ですね」

 

「…………リーシャ………つよい…………」

 

 久方ぶりに目を輝かせるリーシャを見たサラは、これまた久しぶりに失言を洩らしてしまう。しかし、幸いその失言は、その後に続いたメルエの言葉が搔き消してくれていた。

 新しい武器を持つリーシャへ輝いた瞳を向けるメルエの羨望の眼差しは、リーシャの自尊心を大いに盛り立て、その誇りを輝かせる。若干胸を張ったように見えるリーシャは、手に持つ武器を一振りし、一度カウンターへ戻した。

 

「……それ……バトル……アックス……」

 

 リーシャの手にした武器は、名をバトルアックスという。その名の通り、戦う為に作られた斧。つまりは戦斧である。鉄の斧とは異なり、両刃の斧であった。

 装飾も手が凝っており、これに比べると、カンダタが所有していたハルバードが霞む程だ。ずっしりとした重量感と、刃先の鋭さ。どれをとっても戦う為だけに作られた『斧』である。

 『戦斧』の名に相応しいその姿は、『戦士』であり『騎士』であるリーシャの心を鷲掴みして離さない。リーシャが剣を持たなくなって長い時間が経過している。彼女の手に馴染む物は、既に『斧』という武器に変化しているのかもしれない。

 

「いくらだ?」

 

「……8700……ゴール……ド……」

 

「!!」

 

 目を輝かせているリーシャの横からカミュが価格を問い質す。それに対しての店主の答えに、リーシャとサラはそれぞれの驚きを示した。

 リーシャはその価格の高さについてであり、このバトルアックスという斧は、リーシャの持つ鉄の斧の四倍近くの価格がする。いや、鉄の斧の価格が5000ゴールドだと思っているリーシャから見れば二倍なのかもしれない。その価格は、ここまでの武器や防具の中でも破格の値段であった。

 対するサラは、このスーの村という遠隔地で、世界共通の貨幣が意味を成す事に驚いていたのだ。ジパングでは自給自足の為、貨幣いう物が存在しなかった。このスーの村も村の規模としては、異教徒達の暮らす集落と大差はない。しかも、言葉の訛りが酷く聞き取る事すら困難な程に田舎である。貨幣と言う価値を知っていたとしても、それによっての交易があるとも思えない。故に、サラは驚いたのだ。

 

「盾も何かあるか?」

 

 しかし、全く動じない者が一人。いや、正確に言えば二人となるが、もう一人は全く興味を示さず、『自分の物は?』という期待に満ちた瞳でカウンターを見上げている。そんな少女の頭を撫でながら、青年が防具に関しても店主へ問いかけた。

 それは自らの防具ではないのだろう。先程までバトルアックスを手に取っていたリーシャへ視線を向けた後での問いかけである事がそれを示していた。

 

「……まほう……たて……」

 

「魔法の盾がこの村にもあるのか?」

 

 カミュからの視線を受け、リーシャは自分の左腕に装着されている鉄の盾に視線を送った。彼女の装備している盾は、既にその機能の大半を失っている。様々な暴力から身を護り、太古の龍が吐き出す火炎から仲間達をも護り通した。その代償に盾の表面は融解し、新品であった時のような形式を保ててはいない。故にこそ、店主が口にした盾の名前にリーシャは過剰なまでに反応を示したのだ。

 

「カミュ、申し訳ないが盾の方を優先してくれ。お前も盾を変えておいた方が良い。見たところ、お前は鉄の盾を買い替えたようだが、この先の旅に鉄の盾では心許無い」

 

「解っている。だが、このバトルアックスも買っておく。アンタの武器こそ、この先の旅に鉄の斧では心許無い」

 

 リーシャ達の持っている資金は、この村での長期滞在の為にほぼ消え失せている。武器等の購入資金に関しては、カミュの持つゴールドを頼らざるを得ないのだ。だが、不思議とその事に対してリーシャ達も違和感を覚えなくなって来ている。それが至極当然の事のようにさえ感じてもいるのだ。

 だが、このバトルアックスという武器がこれまでの武器の中でも別格の価格である事もまた事実。カミュの持つ草薙剣は、価格を付ける事の出来ない程の代物である事を除けば、パーティー内で最高値である。その事に戸惑いを見せるリーシャであったが、振り向いた先にいたサラは柔らかい笑みを浮かべて、一つ頷きを返した。

 

「わかった。有難く頂く事にする」

 

「全てで14700ゴールドだな。ここに置くぞ」

 

 リーシャが真剣な顔で頷いた事を見たカミュは、腰に着けていた袋からバトルアックス一つと魔法の盾三つ分のゴールドを取り出し、カウンターへ置いて行く。かなりの額ではあるが、カミュはその額を所持していた。

 実は、朝食が終わり、一行が宿屋を出る前に、カミュは魔物の部位を売却する為に一度村の中を歩いていたのだ。故に、宿屋を出た直後にリーシャが発した問いかけは、奇しくも間違いではなかった。既にカミュは武器屋の場所を把握しており、宿屋から一直線にこの場所まで歩いて来ていたのだ。

 

「しかし、カミュ。私が言うのも可笑しいが、ゴールドの方に余裕はあるのか?」

 

「……二か月以上の時間を一人で旅していれば、消費よりも収入の方が多くなる」

 

 何も躊躇する事無くゴールドを取り出すカミュに向かって発したリーシャの問いかけも、カミュが発した呟きによって搔き消された。その呟きは、リーシャの顔を歪ませ、サラは何かを思いついたように驚きを表す。メルエは、眉を下げてその足下にしがみついた。

 彼は、この二か月の間、本当の意味での『一人旅』をして来たのだろう。そこにあった苦労は計り知れない。それぞれの特技を活かせるリーシャ達三人の旅とは違う。

 リーシャ達は、物理攻撃のリーシャ、間接攻撃のメルエ、補助回復のサラと各々の役割を担えるが、カミュはそれを全て一人でこなさなければならなかったのだ。

 

 船での移動であれば、その進路を決めるのも彼。

 戦闘であれば、その魔物全てを打ち倒すのも彼。

 何事も彼一人で考え、彼一人で決定して行かなければならない。

 

 彼一人で町や村の宿屋に泊るのであれば、一人分の宿代となる。その金額は、そこまでの道中で彼が打倒して来た魔物の部位を売却した金額に比べれば微々たる物であろう。現在のカミュを見れば、装備品で新しく購入した物は鉄の盾のみである事は明白。武器や防具を購入しなければ、彼が使用するゴールドは僅かな物であり、使用しないゴールドは必然的に貯まって行ったのだ。

 そして、それが可能であったと言う事は、それ程の数の魔物を彼一人で打ち倒して来たという事の証明でもある。故にこそ、彼は飛躍的にその力量を上げて来たのであろう。『戦士』であるリーシャの力量に肉薄する程の成長は、彼が初めて経験した強い魔物との一人での戦闘が影響しているのだ。

 一人で戦う以上、視野を広く持たねばならず、その攻撃も的確に、尚且つ鋭く、そして素早く行わなければならない。それは、常人には解らない程のカミュの剣の軌道の隙を更に小さくして行く事となった。人外となった者達の成長は、そんな僅かな差が大きな要因となる事も多いのだ。

 

「お前の急成長の原因を垣間見たような気がするよ……よし! ゴールドの心配はないな。サラも欲しい物があれば選んでおけ」

 

「あ、は、はい。しかし、これ以上の私の装備は、この村には無いようですので」

 

 何処か遠くを見るような暖かい瞳でカミュを見ていたリーシャは、気持ちを切り替え、サラへと装備品の選別を指示するが、武器屋に置かれている品を眺めていたサラは、自身に合う武器が無い事を確認し、首を横に振った。

 カミュが購入した魔法の盾は三つ。メルエが既に装備している以上、それはカミュとリーシャ、そしてサラの分に他ならない。何かを期待するような瞳をカミュへと向けているメルエには、武器屋にあるもの全てを見通す事が出来ない。リーシャの武器の購入は決定された為、次は自分の番かもしれないという期待をカミュへと向けているのだ。

 

「これなんかどうだ?」

 

「な、なんですかそれは!? そんな派手な服は私には似合いませんよ。しかも、そんな物を着て、魔物と遭遇したらどうするのですか!?」

 

 しかし、メルエの期待と裏腹に、リーシャは傍に掛けてあった異様な服をサラへ見立てる。それは、女性用と言うよりは、むしろ男性用の服。それこそ貴族の人間が舞踏会などに出向く時に着用するような派手な服であった。

 しかも色は黒ではなく、赤とも紫とも言えるような煌びやかに光を放つ色。何故、このような辺鄙な村にこのような服があるのか解らないが、どう考えても場違いな雰囲気を醸し出している。

 

「……それ……エジンベア……の……」

 

「エジンベアの貴族が着ていた物を買い取ったのか?」

 

 嫌がるサラに無理やり合わせようとするリーシャを見ていた店主が口を開くが、その内容にカミュは小さな驚きを示した。

 元来、貴族という物は平民を見下している風潮がある。それは何時の時代も、何処の国でも同じ。そんな無駄な誇りの高い貴族の中でも、更に別格な程に無駄な誇りの高いエジンベアの貴族が、使い古しとはいえ、このような辺鄙な村で自分の衣服を売却した事にカミュは驚いたのだ。その驚きは、店主が首を縦に振った事で更に大きな物へと変化する。

 

「…………メルエ………も…………」

 

 しかし、そんな一同の動きに興味を示さない幼い少女は、杖であった物を胸に抱きながら、遂に口を開いた。

 彼女の中で、胸に抱いた杖との別れの覚悟は決まっている。カミュの言う『杖の休息』を受け入れる事に決めたメルエは、一年半以上もの間を共にした武器に変わる物との出会いに期待を膨らませているのだ。

 眉を下げながらも、懇願するような瞳を向けるメルエに、カミュは小さな溜息を吐き出す。メルエの魔法の才能は頭抜けている。そんなメルエの魔法力は、やはり媒体となる物がなければ、その身体を傷つける可能性を考慮に入れなければならないだろう。

 

「『魔法使い』が使えるような杖は置いていないのか?」

 

「……つえ……ない……」

 

 しかし、メルエの希望は、聞き取り辛い店主の言葉によって打ち切られた。この村には、『杖』と呼べるような物は存在していないというのだ。

 元来、『魔法使い』という職業の者は、自身の魔法力の媒体となる物を、生涯を通して使用する。一度購入した杖が何らかの外的要因があって折れてしまう事がない限り、買い換える事などないのだ。メルエの持っていた魔道士の杖などは良い例で、『魔法使い』が持つ初期的装備であるが、それは通常の『魔法使い』にとって人生の伴侶となる物でもある。

 故に、この世界に量産される『杖』は、この魔道士の杖以外にないと言っても過言ではない。何故なら、必要がないからである。世の『魔法使い』の中で、媒体を使用している者の持つ杖は、例外なく魔道士の杖である事が多い。だが、その魔道士の杖も製造している場所が限られている為、アリアハン等の辺境の国では、宮廷魔道士の中でも上位に入る者しか手にする事は出来ないのだ。

 

「メルエ程の『魔法使い』ならば、なかなか杖などは見つからないぞ。それ程にメルエは凄いのだからな」

 

「そうですね。メルエには、きっとこの世に一つしかないような『杖』が待っていてくれますよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 哀しそうに眉を下げたメルエを見たリーシャとサラは、馬鹿騒ぎを止め、メルエに慰めの言葉をかける。それは、慰めの言葉ではあるが、彼女達二人が心から思っている事柄でもあった。

 彼女達は、メルエという『魔法使い』が稀代の者である事を信じているし、認めてもいる。そんなメルエが持つ杖は、有り触れた物ではないとも考えてもおり、カミュの持つ剣のように、『メルエにしか使えない物が出て来るかもしれない』とも考えていた。

 

 

 

 一行は武器屋を後にし、村の中を歩き始める。相変わらず、メルエはカミュの足下にしがみ付きながら、マントの中で出たり入ったりを繰り返している。自身の武器が見つからなかった事など然して気にしていないかのように、困惑するカミュの顔を笑顔で見上げていた。

 その様子は、長く人形のようになっていたメルエを見て来たリーシャやサラにとっては、涙が出る程に嬉しい事であり、リーシャなどは実際に瞳を潤ませ、何度も瞳を擦っている。周囲に解らないように涙を隠すリーシャを、サラは優しい頬笑みで見つめ、再びメルエへと視線を戻した。

 

「カミュ様、どちらに向かわれるのですか?」

 

「……この村には、井戸がある筈だ」

 

 メルエの動きに困惑しながらも、周囲に視線を向けるカミュの姿に気が付いたサラは、その行動を不思議に思い、目的地があるのかどうかを問いかける。それに対して返って来た答えは、サラの首を傾ける物であり、理解が及ばない物であった。

 『井戸』とは、大抵の町や村には存在する。川の近くなどにある集落ならば、井戸を掘る必要はないのだが、この村のように海に近い川であれば、塩分も強く、飲み水には出来ない。だが、その井戸を何故カミュが探しているのかがサラには解らないのだ。

 

「あの老人の言葉だな!? 確か……『井戸の周りを調べろ』だったか?」

 

「あっ! そう言えば、そのような事をおっしゃっていましたね」

 

 サラの疑問に答えたのは、カミュではなくリーシャだった。トルドが勤しむ開拓地にいた老人が、トルドを紹介した事に対する礼として告げた言葉の中に、この村の井戸が出て来ていたのだ。

 確かに、リーシャの言う通り、『井戸の周りを調べてみろ』というような事を言っていた筈。カミュはその言葉を思い出し、この村の井戸を探していたのだった。

 

「メルエ、少し離れてくれないか?」

 

「…………いや…………」

 

 井戸を探す為に周囲を見渡し、歩き出そうとしたカミュの足には、メルエがしがみ付いている。軽い溜息を吐き出したカミュは、メルエに離れて歩く事を願い出るが、その願いは即座に棄却された。

 首を横に振って頬を膨らませるメルエの姿に困り果てるカミュの姿は、リーシャやサラにとっても面白い物ではあったが、これでは先に進めない事は明白である以上、何とかしなければならないのも事実。故に、カミュの足下へリーシャが歩み寄る事になった。

 

「メルエも井戸を見つけてくれ。ほら、見えるか?」

 

 カミュの足下にいたメルエを抱き上げたリーシャは、そのまま周囲を見渡すようにメルエの視線を動かす。カミュから引き剝がされた事に膨れていたメルエであったが、周囲を見渡し、見た事のある場所を指差した。その方向へ三人も視線を動かすと、確かにそこには井戸と呼ばれる村の水資源が存在していた。

 メルエはアッサラームという町の劇場で下働きをしていた。その劇場で働く踊り子達の衣服を洗濯し、劇場の床を磨く仕事。その仕事を遂行する為には、彼女はまず井戸に行かなければならない。アッサラームのような大都市では、大きな施設にはその施設専用の井戸が存在する。おそらく、あの劇場にも劇場専用の井戸が存在していたのだろう。故に、メルエは瞬時に井戸を見つけ出した。毎日毎日、この幼い身体で水を汲み上げ、寒い日などは冷たい水に手の感覚を失くしながらも通った場所だったのだろう。

 

「よし! 凄いな、メルエは」

 

「では、行ってみましょう」

 

 即座に見つけ出したメルエを大げさに褒め称えたリーシャは、メルエの頭を優しく撫で、カミュとサラへ視線を送る。その視線に頷きを返したカミュを見て、サラが先頭になって井戸へと歩み出した。

 何がそこにあるのかは解らない。ただ、あの老人がわざわざこの場所を指定したのだ。ならば、それにはそれなりの理由がある筈。一行はそれを解き明かす為にゆっくりと井戸へと近付いて行く。

 リーシャの腕から降ろされたメルエは、再びカミュの足へ纏わり付き、その行動に困惑するカミュを見て、リーシャとサラは柔らかな笑みを浮かべる。再び訪れた幼い少女の幸せは、『魔王討伐』という過酷な使命を持つ者達の短い安らぎを齎した。

 

 彼等の旅は過酷な旅。

 一人では決して叶わぬ旅。

 いや、一人でも欠ければ叶わぬ旅。

 

 だが、彼等は再び集った。

 まるで何かに導かれているように。

 まるで各々が強く惹き合っているかのように。

 それは、彼等が選ばれし者達である事の証明なのかもしれない。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

大変遅くなりました。
描いている内にとても長くなってしまいそうで、途中で切る形となりました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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過去~スーの村~

 

 

 

 井戸の周囲には既に人はおらず、水桶から水が滴り落ちていた。既に朝の日課である炊事や洗濯は終わっており、水場に集まる女性は皆無。カミュ達はそんな井戸の周囲を歩き、何か不可思議な部分はないかを確認して回る。その間もメルエはカミュの足下から離れようとはせず、マントの裾を握り締めながら、カミュと共に足下を注意深く見て回っていた。

 

「カミュ様、これって……」

 

 暫しの間、井戸の周囲を手分けして見ていた一行であったが、井戸の南側を見ていたサラの声に、全員がその場所へと移動を開始する。座り込んでいたサラは、集まって来た面々へ視線を向けた後、自身の足下の土を掻き分け始めた。

 井戸の周囲というよりは、井戸から少し離れた場所の土は、他の部分と若干色が異なっている。乾いた土の色ではなく、若干の湿り気を帯びたような色。井戸の水が零れる場所ではない以上、それは後から人為的に掛けられた土である事は間違いがない。

 

「これは、蓋か?」

 

「動かすぞ」

 

 サラが掻き分けた土の下から出て来たのは、以前ナジミの塔への入り口や、ナジミの塔にあった宿屋への入口のような金属製の板。それは、リーシャの言葉通り、何かを隠すように覆う蓋のような物だった。

 リーシャの疑問に答えるように頷いたカミュは、その金属製の板を少しずつ動かして行く。共に手を掛けたリーシャの力も合わさり、その蓋は徐々に隠している物を明らかにして行った。

 

「……階段……ですね……」

 

 動かし終えた蓋の下から現れた物を最初に確認したのはサラであった。それは、文字通りの階段。下へと続く階段が、かなり深く続いている。その下に生命体がいる事の証明に、その階段はかなり下までその姿を晒していた。つまり、明かりが見えるのだ。

 地下となれば、人工的な光がない限り、暗闇に覆われてしまう事は当然である。溶岩の洞窟でもあれば、流れ出る溶岩によって、洞窟内が明るく照らされる事もあるだろうが、この場所がそうである可能性がない以上、奥まで見えると言う事実が人工的な明かりである可能性が高いのだ。

 

「…………いく…………?」

 

「ああ。行くぞ」

 

 小首を傾げるメルエに頷きを返したカミュを先頭に階段を下へと降りて行く。カミュの後ろをメルエ、サラの順番に降り、最後に降り始めたリーシャが金属製の蓋を閉めて行く。重い音を響かせて締められた蓋が太陽の光を遮るが、下層から届く淡い光がカミュ達の足下を照らし続けていた。

 

 

 

 かなりの段数を降り続けたカミュは、ようやくその足を地面へと下した。そこは、地下とは思えない程に横に広がった空間。周囲には、燭台があり、蝋燭などによって明かりが灯されている。壁には幾つかの穴があり、それが地上まで伸びているのか、風が通り抜けていた。

 明らかに人工的に作られた空間に驚きを見せるサラとリーシャを余所に、カミュは周囲を注意深く見渡し、奥へと足を進めて行った。

 

「だれだ!?」

 

 カミュが数歩ほど足を進めた時、奥の方から厳しい声が響く。その激しい声色に、カミュの足下にいたメルエは、マントの中へと逃げ込んで行った。足を止めたカミュは声の発信源へと視線を移し、背中の剣に手をかける。それに倣うように、後方から歩いて来たリーシャも、購入したばかりの武器に手を乗せた。

 人間の言葉をはっきりと発している事から、魔物である可能性は低いのだが、これまでの旅で人語を話す魔物がいる事は経験済み。故に、カミュ達は警戒感を露にしたのだ。

 だが、カミュ達の警戒は杞憂に終わる。奥から姿を現したのは、一人の男。手に武器を所持してはいるが、その物腰は歴戦の者でない事を示していた。瞳は厳しくカミュ達へと向けられてはいるが、その瞳の奥に見える感情は、『恐れ』と『怯え』。突如の来訪者に対し、過剰な反応と言わざるを得ない程の『怯え』を見せる男性に、リーシャとサラは逆に疑問を持ってしまった。

 

「貴方は、ここで暮らしておられるのですか?」

 

「お前達こそ、誰だ!?」

 

 警戒心を解くように、静かに問いかけるカミュの言葉にも答えない。逆に疑問で返す辺り、彼の恐怖心を物語っていた。一度小さく溜息を吐き出したカミュは、背中に回していた手を戻し、リーシャ達へも警戒心を解くように視線で指示を出す。サラは一つ息を吐き出した後、その緊張感を解き、怯える男性をカミュ越しに見つめた。そんなサラの姿を見たリーシャは、サラの吐き出した物が、安堵の溜息である事を悟る。

 カミュという存在の大きさ。それを彼女達はここ二か月で嫌という程に味わった。どんな時も先頭に立ち、どんな事も受け止める懐を持つ者。この怯える男性がどんな素姓の持ち主なのかは解らない。だが、それを問い質す事も、それによって生じる問題の対処も、カミュという存在がいる限り、サラ一人で抱える問題ではないのだ。彼女にとって、この二か月は神経を擦り減らす程の時間だったのだろう。

 

「カミュと申します。エジンベアでこの村の名をお聞きし、訪れました」

 

「エジンベア! エジンベアから来たのか!? し、しかし何故この場所を……このような場所に来る必要がない筈だ」

 

 『エジンベア』の国の名を聞いた男は、先程までの警戒感を解きかけるが、それでもこの地下へ顔を出したという事実に再び思い至る。警戒感を露にしたままの男の視線を受け続けるカミュではあったが、その表情に変化はない。いつものように仮面を被ったまま男と対峙するカミュの横で見守るリーシャとサラ。

 しかし、先程までカミュのマントを握っていた小さな手はそこにはなかった。

 

「知り合いの人間に、この村の井戸の周囲を調べるようにと言われました。その結果、この場所へと続く階段を見つけた次第です。勿論、階段を隠す蓋は覆い隠しましたので」

 

「ここを知っている人間?……そうか……あの人に出会ったのか?」

 

 カミュの言葉に暫し考え込んだ男は、何かに思い至ったかのように呟きを洩らす。それは、この場所は、元々彼が作り住んだ物ではない事を示していた。

 このような地下に人が暮らす事の出来る空間を作り出し、それを放置していたのがあの老人であると言っているのだろう。あの老人の素性をカミュ達が知る事はないが、あの老人がこのスーの村の出身である事は窺える。

 

「あの人は元気だったか? 奥さんは息災か?」

 

 先程までの警戒感は欠片も無く、男はカミュ達が考えている老人の足跡を訪ねる。その問いかけを聞いたカミュ達の想像している老人と男が考えている人間が同一人物なのかが解らない以上、カミュには答えられる言葉がないのだ。故に、四人は答えに窮する。そんな四人の表情を読み取った男は苦笑を浮かべた。

 

「名前は知らないのか?」

 

 そんな問いかけに四人は首を振るばかり。男は遂に笑みを浮かべてしまう。名前も聞いていない人間の言葉を信じ、井戸の周囲を調べる人間という物を見た事に対してなのかもしれない。確かに、カミュ達は名も知らぬ老人の頼みを聞き、トルドという信頼できる商人を委ねた。それは、常識的に考えて可笑しな事なのだろう。

 リーシャやサラに言わせれば、『あの老人の心の中に邪悪な物はなかった』と答えるのかもしれないが、それは通常の人間では理解出来ない物。いや、人の心など誰も見えないのだから、それを信じるカミュ達を底抜けのお人好しだと思ったのかもしれない。

 

「旅行に行くと言って出て行ってから、もう二十年以上だ。帰って来ないところを見ると、何処かで命を落としてしまったかと思っていたが……」

 

「私達がお会いした方が、貴方のおっしゃっている方と同一人物であれば、ご健勝です。ただ、奥様とはお会いした事はございません」

 

 懐かしむように天井を見上げた男性の言葉に、ようやくカミュが口を開いた。同一人物と仮定して話を進めて行く事にしたのだ。カミュ達はあの場所で老人以外の人間に会ってはいない。ともすれば、男の言う『奥さん』という人物は既に亡くなっているか、もしくは最初から別人物なのかという事になる。

 だが、男の言葉を聞く限り、二十年以上前にこの村を出て行ったきり戻って来ていないという。それはあの老人があの場所に辿り着いた時期と同じ可能性が高いのだ。

 

「そうか……それで、あの人は何処で何をしているんだ?」

 

 その問いかけに、カミュは『同一人物である事を前提に』という前置きを伝えた後、自分達が遭遇した人物の願いと、それを遂行しようとする商人の話を始めた。

 このスーの村に辿り着いてから初めて、何の障害も無く意思疎通が出来る人間との出会いが、カミュ達の心を軽くしていたのかもしれない。広い空間に移動し、その場所にある椅子に腰かけた男は、カミュ達の話を聞き入っていた。

 

 

 

 男は、エジンベアで暮らす一貴族だった。宮廷にて国王の傍で仕える事が出来ない下級の貴族ではあったが、誇りの高い国の貴族らしく、田舎を見下し、自分達こそが最も優れた人間だと考えていた。

 

「そなたに植民地開発の陣頭指揮を取ってもらう事になった」

 

 そんな彼の人生が大きく狂ったのは、三十年程前に上級貴族から下された一つの命令。その頃のエジンベアは、技術や思想の先進国として、国としての肥大を加速している頃だった。

 『魔王』という世界の脅威の登場も、この国にとって些細な事と考える程に、エジンベアという国は驕り高ぶっていたのだ。その国には数多くの者達が流れ込み、元からのエジンベア人という者が認識出来ない程に人が溢れ返って行く。自国だけでの生産性や資源の分割などに不安を抱いた国王によって、世界探索の船が出され、魔物の凶暴化が進む中で遂に見つけた新大陸。

 その大陸にあった集落の名はスー。

 

「既に制圧は終わっている。そなたが現地に出向き、このエジンベアの常識を広めて参れ。その進行具合によって、こちらからも移住を進めよう」

 

 予想だにしない命令に呆然としていた男に向かって、上級貴族は続けざまに命令を下して行く。船の出港時間、必要経費や必要な食料などの数を話す上級貴族の言葉は、男の脳へは届かない。まるで何処か違う世界の言葉が話されているかのように聞こえて来る言語を男は只々耳の中を通過させて行く事しか出来なかった。

 伝えられた時間に港へ行った男は、着のみ着のままの一人。上級貴族から伝えられた命を妻に伝えた途端、彼は即座に離縁状を突き付けられた。自国への誇りが己の誇りとなるこの国では、例え勅命とはいえ、田舎へ赴く事自体が屈辱であり、それは明確な左遷を意味しているのだ。しかも、それが他国の城下ではなく、見た事も聞いた事も無い辺鄙な村の開拓及び植民地化という仕事となれば、エジンベアで生まれ育った者としては堪える事の出来ない程の物だったのだろう。故に、彼は呆然と一人で船に乗り込んだ。

 辿り着いた先は、彼の予想以上の『田舎』であった。まず、人の話す言葉が理解出来ない。おそらく同じ言語を話しているのだろうが、独特の訛りがその言語を別世界の物に替えていた。

 その村の入り口で呆然と佇む男に近寄って来たエジンベアの兵士達は、貴族である彼に敬礼を示すが、彼にはそれに応える余裕も無い。それ程に衝撃的であり、絶望的な光景だったのだ。

 そして、この村では自給自足の生活をしているのか、基本的に物々交換が主流であった。貨幣という価値はなく、各々が収穫した物によって必要な物との交換を行っている。狩猟が得意な者は、獲った獲物と作物を交換し、畑を耕す者は、収穫物と肉を交換する。その為、宿屋と呼ばれる宿泊施設なども、店と呼ばれる物もない。彼は目の前に広がる現実と、自分が帯びた使命の困難さに気を失いそうになる程だった。

 

「……まずは、エジンベアから食糧や装飾品などを運ぶ。そしてそれを手に入れる為には、我々が使用する『ゴールド』という貨幣が必要である事を教え込むしかない」

 

 兵士の官舎で数日寝込んだ彼は、まず最初に自国からの物資の運搬の必要性を説いた。その話を受け、エジンベアは大量の物資をこの小さな村へと運び込む。その物資は、決してこの村では手に入らない物ばかり。実用的ではない宝飾品などは後回しにし、実用性のある食糧や家具。そして、エジンベアが他国から仕入れた武具等が運び込まれた。

 侵略者達が持ち込む物資に対し、最初は警戒していた村の人間も、その利便性や豊富さから、次第に興味を示し始める。手に取った者が、自分の獲物を差し出すのを見た彼は、その村人に首を振って拒絶を伝える。『そのような物では交換できない』と伝える為にした行為ではあるが、村人には上手く伝わらなかった。

 それも当然であろう。生来、そのような物々交換しかした事のない人間は、自分の欲しい物を手に入れる為にそれと同等程度の大事な物を差し出す以外に方法を知らないのだ。

 彼は、自分の懐から『ゴールド』と呼ばれる貨幣を取り出し、それを相手に見せ、『これとならば交換に応じる』という言葉を伝える。しかし、村人は初めて見る貨幣という物に首を捻り、そして否定する為に首を横に振った。

 『そのような物は持っていない』という意思表示をする村人を当然の物として見た彼であったが、頑として交換には応じなかった。

 彼の考えは、『ゴールド』が必要だと思った村人達は、その必要性を理解し、今度は村の中にある物と『ゴールド』の交換に応じるだろうという物。だが、現実はそこまで甘くはなかった。

 自分達の持っていない物でしか交換出来ないと理解した村人達は、この侵略者達から更に距離を置く事になる。それは、彼にとって予想外の動きであり、侵略を受けた者達の態度としては有るまじき物にさえ映った。まるで、そこにいない物として彼を扱う村人達の態度に激昂した兵士が村人に制裁を加えたとしても、それは更なる強硬な態度を生むだけであったのだ。

 

「……そうか……ここの村人達は、我々に降伏した訳ではなかったのだな……」

 

 ここまで来て、彼はようやく事の真相に辿り着いた。この村は、彼等エジンベアの人間を侵略者として見てはいなかったのだ。村に訪れた者達としか見てはいない。彼等にとって来る者を拒む理由はなかったのであろう。故に反抗もせず、エジンベアの兵士達を受け入れた。

 時には食物を差し出し、時には物々交換にも応じる。それは新たな移民として受け入れたのか、それとも共に生きる者として受け入れたのかは解らない。だが、この村に生きる者達は、エジンベアの人間を好意的に受け入れた事だけは確かなのだ。それを彼は、この時になって初めて理解した。

 好意的に接し、見た事も無い物に警戒をしながらも、自分達の大事な物との交換を提案して来た者を、彼は無碍も無く断ったのだ。ならば、村人達の方でも譲歩する理由は何もない。別段、今の生活に不満がある者もおらず、第一に今の生活以外の物を知らぬ者達ばかり。ならば、今まで通りに過せば良く、そこに移民達を入れる必要はないのだ。

 

「私は勘違いをしていたのだな……」

 

 下級とはいえ、貴族であった彼には、エジンベア人としての誇りがある。だが、彼自身が受けたと思っていた勅命は、その内容に大幅な食い違いがある事を認めざるを得なかった。

 それは、彼が呆けている時に命じられていたのか、それとも最初から伝えられていなかったのかは解らない。その答えは、これより数年後に判明する事となった。

 

 

 

 彼の戦いはここから数か月に及ぶ事となった。既に彼に見向きもしない者達が村人の大半を占め、駆け回る子供達や、草を貪る動物達以外に、彼等に視線を向ける者さえいなくなった。

 エジンベアから運び込まれた食料は、彼や兵士の腹の中へと消えて行き、彼等の前には運び込まれた家具や宝飾品だけが残されて行く。彼の仕事の進捗具合を聞いているエジンベア国は、定期船の数も減らし、運びこむ物資の数も減らして行った。既に、この村に駐在していた兵士の半数は、定期船に乗って帰国してしまっている。エジンベア国自体が見切りをつけ始めている事を示していた。

 

「……これ……食え……」

 

 もはや、定期船とは呼べない程に不定期な船しか来なくなり、彼の周りにいた兵士達の全てが帰国した頃、彼は食糧難に陥っていた。貴族故に、自身で作物を育てた事も無く、狩猟などを行った事も無い。そんな彼が食料を手にする方法はなく、残るは餓死を待つのみとなる。それでも、彼が帰国しなかったのは、勅命を受けた事への使命感なのか、それとも自分に見切りをつけた妻や国への意地なのかは解らない。だが、着実に消えて行く食料は彼の体力を蝕み、その命すらも奪って行こうとしていた。

 そんな彼に手を伸ばした一人の村人がいた。その男は、村の一角で作物を育てている者。収穫した作物を食し、時には狩りにも出かける事もある。村の中では希少な部類に入る者であったのだが、何故かその男が彼に食物を手渡して来たのだ。

 男の年齢は三十台後半。言葉は聞き取り辛いが、それでも倒れ行く彼を見捨てる事は出来なかったのだろう。手渡された食物を貪り喰う彼を優しげな瞳で見つめた後、男は去って行った。

 

「私には、恩に報いる物はこれしかない」

 

 翌日も食物を持って来てくれた男に対し、彼は自身の手元に残る『ゴールド』という貨幣を全て男に手渡す。彼は貴族である。いや、貴族であった者なのかもしれない。彼が持つ自身への歪んだ誇りは、この数か月の滞在によって尽く打ち壊されていた。

 昔の彼ならば、『恩』等の考えは到底浮かばなかっただろう。下々の平民が貴族に対し奉仕するのが当然、しかもそれが田舎者であれば、義務であるとさえ考えていたかもしれない。だが、彼はそんな自分に見向きもしない人々の中で、死に至る寸前まで追い込まれた。彼を形成していた物が根本から覆されたのだ。

 必死に彼が手渡した『ゴールド』を受け取った男は、一瞬困った表情を浮かべながらも、笑顔で頷きを返した。それが彼の精一杯の誠意である事を理解していたのだろう。それでも全ての貨幣を受け取らず、その中の一枚を受け取って家へと戻って行った。

 

「……これ……くれ……」

 

 それから数日、彼が生命力を取り戻すまで、男は彼に食料を与え続けた。その際に彼が手渡す『ゴールド』は、いつも一枚しか受け取らない。貨幣の価値が解らないからこそ、仕方がない事だろう。だが、その『ゴールド』は着実に貯まり、そして彼が立ち上がる事が出来るようになった頃、男は彼がエジンベアから持って来た家具を欲した。

 男の手には、彼が手渡していた何枚かの『ゴールド』。男は、彼が持つ家具を彼の持っていた貨幣で買うという行為をしようとしていたのだ。

 

「買ってくれるのか?」

 

「……かう……?」

 

 『購入する』という概念のない男は首を捻るが、彼は満面の笑顔を浮かべて男の持っていた『ゴールド』を受け取った。男の真意がどこにあるのかは解らない。初めから、この家具を欲していて、恩を売る為に彼に近づいたのかもしれない。『ゴールド』を貰えるから食料を手渡していたのかもしれない。だが、彼にとってそのような事は些細な事だった。『自身が考えていた事を理解してくれる者が現れた』。ただ、それだけで十分だったのだ。

 エジンベアから運び込んだ食料は消え失せた。しかし、家具や宝飾品は残っている。彼は男から食料を購入し、その対価として『ゴールド』を支払う。そして、『ゴールド』が貯まれば、男が彼の持つ何かを購入するという日々が数か月続いた。

 男にとってみれば、食料は森に行けば狩る事ができ、季節が来れば食物は刈り取れる。それらと交換出来る物が『ゴールド』であり、『ゴールド』と交換できる物が男の生活を楽にする道具であったのだ。

 次第に便利になって行く男の自宅を見ていた村人達は、徐々に食料を『ゴールド』へと替えて行き、その『ゴールド』を使って、家具や宝飾品、そして器具などを手に入れ始める。その頃には、エジンベアからの船も本数が増えていた。

 本数の少なくなった船の乗組員に彼が村の現状を話し、流通させるべき『ゴールド』の追加と、食料やその他の物の流通を再開したのだ。そこからは、この小さな辺境の村の変革は急速に進んで行った。

 

 

 

「ディアンさん、調子はどうだい?」

 

「……もの……売れる……」

 

 それから十年強の月日が流れる。その頃には、村に幾つかの店が立ち、旅行者や貿易者を受け入れる宿屋も出来た。彼の窮地を救った男もまた、村に一軒となる食料屋を営み始める。いや、正確に言えば、商売を始めたという程の物でもない。『ゴールド』の価値と、自身の育てた作物の価値が正確には解らない。それでも、自身の育てた食料を渡す見返りに『ゴールド』を手に入れる事が出来ていた。

 男の名は『ディアン』と言う。ディアンには一人の妻がいるが、その間に子はいない。二人きりの生活では育てた作物が余ってしまう。その余った分を『ゴールド』を受け取る事によって、他者へと手渡していたのだ。

 故に、ディアンは『商人』ではない。この村に時々訪れる外部の人間と折衝し、その品々を売買する事は出来なかった。栽培した作物の取引しか出来ないディアンであったが、それは月日と共に貯えを成して行く。ディアンが『ゴールド』という物を知ってから十年と月日が経つ頃には、ディアンの心の中に外の世界への興味までをも生み出していた。

 

「旅行? 今の時期ならまだ船が出ているかもしれないな。だが、エジンベアは駄目だな……今度この辺りを通る貿易船に乗せて貰って、ポルトガまで行くのが良いだろう」

 

「……ポルトガ……わかった……」

 

 『妻と二人で世界を見てみたい』というディアンの願いを聞いたエジンベアの元貴族は、小さな微笑みを作りながら、その方法を答える。既に、彼に貴族としての凝り固まった驕りは消えていた。

 十年以上もこの村の者達と暮らして来たのだ。実際に植民地としての開拓を託された彼であったが、この村の文化が進んだにも拘らず、エジンベアからの移民は一向に進んでいなかった。いや、進むどころか、後退に向かっているのかもしれない。『魔王バラモス』台頭後、徐々に広がる魔物の脅威は、誇り高いエジンベアにも及んでいたのだ。

 寿命を待たずに生を終える者達が増えて行く中、エジンベアが危惧していた資源不足等の危険性も薄れを見せる。最近では、エジンベアからこの村に物資が運ばれる事さえも皆無となり始めていていた。

 そんな中、この小さな村に事件が起きる。

 

 

 

「……壺……なく……なった」

 

「それは、この村に保管されていた渇きの壺か?」

 

 ディアンからその事件を聞いた彼は、胸に一抹の不安が過った。渇きの壺とは、この小さな村にある不可思議な言い伝えのある宝物。『海の水さえも飲み干す』と云われる程の神秘を持つ物。それを彼はディアンから聞いていたのだ。

 それだけならば、彼がここまで不安を感じる事ではない。聞いていたとしても、その壺が無くなった事を不思議に思うだけだからだ。

 だが、彼はその話を別の人間に語っていた。実は、一ヶ月ほど前にエジンベアから彼に対し、追加の勅命が届いていたのだ。

 それは『植民地として、属国である証を献上しろ』という物であった。エジンベア国王は、この村の現状を理解していないのかもしれない。軍部の者や大臣からの報告だけを受け、既に制圧を終え、村が恭順を示していると考えているのだろう。故に、このような勅命が下りて来たのだ。その勅命を持って来た上級貴族の人間にこの村の宝物について、彼は話してしまっている。それが彼の心に大きな不安となって圧し掛かって来ているのだった。

 

「……それ……よくない……」

 

 彼からその話を聞いたディアンは、眉を顰め、難しく考え込んでしまう。真相は解らない。だが、この村でその壺の在り処を知っている外部の者は彼しかいない。とすれば、彼から話を聞いた者か彼以外に壺を持ち出す人間はいないという事である。この村の住人は、渇きの壺という宝物が村の宝である事を知っていると同時に、その逸話の持つ恐ろしさも知っている。故にこそ、手を出す訳はなく、必然的に伝承を知らぬ外部の者の犯行である事が推察出来るのだ。

 それを村の住人達の大半は理解している。渇きの壺という宝物が紛失してしまっている事実は、まだ限られた者しか知り得ない。村の幹部の者達の中で、他には口外しないという取り決めを設けてはいる。しかし、その幹部達の疑いは、間違いなく彼に及ぶだろう。どれ程、彼がこの村の文化水準を上げる事に尽力していたとしても、村の宝物を奪ったという事になれば、話は別である。彼はこの村を追われるだろう。いや、最悪の場合、その命すら危ぶまれる。

 そこまで考えたディアンは、彼を夜の間にある場所へと連れて行った。それは、村の生活の基盤となっている井戸の傍。今まで何度もあるいた場所である事を不思議に思った彼ではあったが、通常の生活の中では気付きもしなかった鉄蓋を外すディアンを見て、それも純粋な驚きへと変化する。鉄蓋を除いた先には、下部へ続く階段。彼に視線を向けたディアンは、そのまま階段を降りて行った。

 慌てた彼は、その後ろを付いて階段を降りる。その先で見た物は、彼の予想を遙かに超える物だった。

 

「……ここ……つかう……」

 

 ディアンによって灯りを灯されたその空間は、彼が想像していたよりも遙かに広く、そして生活館に満ちた場所だった。

 『何故、このような場所に』という疑問が彼の頭に浮かぶが、ディアンはその旨を伝えると、『近々、世界を見る為に旅行に出掛ける』と告げる。それは、彼との別れを示唆していた。

 この場所への疑問よりも、彼の中ではディアンとの別れの方が哀しく辛い物。彼の身を案じ、この場所へと誘ってくれたディアンに、涙ながらに感謝を示し、別れの言葉を紡ぐ。それが、彼とディアンの最後に交わした言葉であった。

 

 

 

 実際には、この場所はディアンの作った空間でなかった。エジンベアがこの村に目星をつける以前に訪れた一人の男が作った空間。この村に何を見たのか、この村で何を成したのかは解らない。ただ、この村に伝わる言い伝えの内の一つ。『偉大な魔法使い』という者が暮らしていたと伝えられる場所であった。だが、それも伝承に過ぎず、『その場所が何処にあるのか』という事は、誰も知りはしなかったのだ。

 村に伝わる言い伝えは他の形で伝わっているのだが、それはまた別のお話。当のディアンでさえ、この場所が何の為の物で、誰が使っていたのかを知りはしなかった。若かりし頃に偶然見付けた場所を、秘密基地として誰にも告げていなかっただけの話。

 

 そんな空間に、『勇者一行』は辿り着いていたのだ。

 地図にさえ載らぬ辺鄙な村の一角。

 小さな小さな集落の中の、とても大きな伝承の内側。

 それは、とても細く、とても頼りない糸を手繰って来た結果。

 彼等の旅は、そんな細い糸で繋がっているのだ。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

このスーの村ですが、意外にかかりそうです。
前話で30000文字ぐらいと言いましたが、あと一話はありますので、40000文字は超えてしまうかもしれません。
長くなってしまい、間延びしてしまっているようにも感じますが、今回は、この村の過去を描きました。少し、短めに抑えたつもりです。
あの開拓地にいる老人の名前も登場させています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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スーの村③

 

 

 

「そうか……町をな……」

 

 男は、椅子に座り天井を見つめながら、恩人でもあるディアンのその後について想いを馳せていた。その瞳には在りし日のディアンとその妻が映っているのかもしれない。彼という人物の狂い始めた人生を必死に留めてくれた人物。そんなディアンの無事を祈らなかった日はないのだろう。その瞳に安堵の色を浮かべていた。

 

「ディアンさんが、貴方達にこの場所を教えたという事は、何か理由があるのかもしれないな。見ての通り、この場所には様々な物がある。ディアンさんが見つけた時には、既にこの状態だったらしいから、この空間を作った者が集めた物なのだろうな」

 

 一息吐き出した男は、カミュ達へ視線を戻し、自分が二十年以上も暮らしている空間を紹介する。男の言葉通り、地下に出来た不思議な場所には、いくつもの本棚があり、その本棚にはぎっしりと書物が仕舞い込まれている。

 これ程の書物の数を収集するという事は、困難な事だろう。内容自体は解らないが、かなり貴重な書物なのかもしれない。本棚の傍には机や椅子があり、その風景はカミュ達四人の中の二人には見覚えのある景色であった。

 

「ディアンさんの友人だ。ここにある物は好きにしなさい。私も時間だけはあったから、ほとんどの書物は読ませてもらったが、さっぱり理解出来ない物ばかりでね。中には、『精霊ルビス』様の従者を蘇らせる方法などという夢物語もあったな」

 

「カ、カミュ様、ここは……」

 

「ああ、アンタの考えている通りだろう」

 

 周囲を見渡している一行の姿に苦笑を洩らした男は、この場所にある全ての物を委ねるような事を提案する。元々、彼の物でもディアンの物でもない物である。信じる事に値する者へと委ねる事に何の躊躇いも無いのだろう。

 だが、そんな彼がここ二十年の間に読んだ書物の中身を聞くと、その内容に驚いた物が二人。本棚と机という風景に覚えがある者がこの場所が誰の作った物なのかを確信した瞬間だった。

 

「ん? どういう事だ……そ、それよりも、メルエは何処へ行った!?」

 

 パーティーの頭脳である二人が驚愕の表情を浮かべる事に首を傾げたリーシャは、今更ながらカミュのマントを握っていた筈の小さな手がない事に気が付く。再び犯してしまった失態に焦るリーシャであったが、広い空間といっても、ここは全てを見渡せるような場所。数回首を回しただけで、彼女が探し求める者の姿を認識する事が出来た。

 

「メルエ! また勝手に動かないでくれ……どうした?」

 

 メルエは、本棚や机がある場所とは正反対の壁を見上げていた。慌ててメルエの許へ駆け、その行動を窘めたリーシャであったが、リーシャの声にも反応せず、壁を凝視しているメルエの姿にリーシャは再び首を傾げる事になった。リーシャの後を追うように傍に寄ったカミュとサラは、メルエが見上げている物へと視線を移す。

 

「これは……杖か?」

 

「どうなのでしょう……ですが、不思議な力を感じますね」

 

 カミュが発した言葉通り、それの見た目は『杖』である。しかし、その全長はメルエの背丈などを軽く超えている程の長さ。そして何よりも、その容貌がおぞましい。

 杖の先に巨大な目を思わせるような物があり、そしてその目を踏みつけているようなオブジェが装飾されている。そのオブジェが、また禍々しく、それはこの世界に生きる動物ではなく、完全なる魔物の姿。蝙蝠のような羽ではあるがその大きさは身体を覆う程に大きく、その羽を広げた顔には鳥のような大きな嘴が付いており、目は細く鋭く、体躯は鋼のような筋肉が彫られている。

 彫刻のようでありながら、まるで今にも動き出しそうな程に精密なオブジェ。それが見る者の心を魅了すると共に恐怖という観念も生み出す程の物であった。だが、そんなオブジェも長い月日の間放置されていた為か、色はくすみ、杖全体に輝きを失っていた。

 

「それは、ディアンさんがこの場所を見つけた時からあった物だそうだ。もう数十年も放ってある物だから、気に入ったのなら持って行くと良い」

 

 壁に掛けられたその杖を見上げていたメルエは、未だに吸い込まれるようにその杖を見つめ、身動き一つしない。サラはその杖の禍々しい見た目から、何か悪い思念によってメルエの魂が吸い込まれてしまったのではないかと心配するが、それはカミュとリーシャの手によって杖が降ろされた事で霧散して行った。

 

「お、重いな……」

 

 壁に掛けられてあった杖を下ろそうと手を伸ばしたリーシャであったが、その重量は想像以上にあり、とてもリーシャ一人では持てない程の物。カミュが手を貸す事によって下へと降ろされた杖であったが、その重量からこの中の誰も使用出来ない物である事は明白であった。

 しかし、呆然と降ろされた杖を見つめるカミュ達の中で、ようやく動き始めた幼い少女が、そんな事実を覆してしまう。

 

「メ、メルエ?」

 

「お、おい」

 

 下へ降ろされた杖に近寄ったメルエは、その杖に手を伸ばす。その重量を肌で感じているリーシャとカミュは、その行動を制しようと声を掛けるが、伸ばされた小さな手は、その杖をしっかりと握り込んだ。そして、カミュ達三人は、信じられない光景を目の当たりにする。

 軽々と持ち上げられたその杖は、メルエよりも頭一つ分長い全長をしているのだが、そんな重みも感じられない程に真っ直ぐと立っていたのだ。カミュとリーシャの二人がかりで何とか降ろす事が出来た物を、力など全く有していないメルエが片手で持ち上げ、その感触を確かめるように持ち直している。その事実にカミュは息を飲み、リーシャとサラは目を見開いた。

 まるで、その場所へ帰る事を待っていたかのように、メルエの手の中に納まった杖は、その身体を輝き出す。杖の先にある魔物のようなオブジェの口元に笑みが浮かんだかのような輝きは、杖全体を包み込み、そしてその全貌を変化させて行った。

 

「こ、これは……」

 

 この二年以上の旅の中で、不可思議な現象を何度となく見つめて来たカミュ達でさえ、言葉を失う程に驚いていたのだ。現実の世界を生き続けて来た元貴族の男にとっては、天地がひっくり返る程の衝撃だったのだろう。目を見開いた男は、その不思議な光景を呆然と見つめる他なかった。

 メルエの身体ごと包み込むような光は、収束するように杖へと戻って行く。全ての光が杖の中へと戻った時、その杖の姿は、先程までの物とは大きな異なりを見せていた。

 姿が変化したのではない。相変わらず、杖の先には禍々しい魔物のようなオブジェが付いてはいるが、それが纏う雰囲気は一変していた。まるで主を護る騎士のように、そしてメルエという主へと続く門を護る門番のような、そんな忠誠すらも感じる程。

 そして長年の埃やくすみは全て取り払われ、彫られたばかりのように美しく、眩いばかりの輝きを放っていたのだ。

 

「これは……古の『賢者』様の持ち物なのでしょうか?」

 

「否定は出来ない。それ以外に考えられない事は、アンタも良く解っている筈だ」

 

 サラの呟きは、カミュに静かに肯定される。カミュとサラが感じた物。それは、以前にガルナの塔で辿り着いた場所で感じた物と同じ物だった。ガルナの塔にあった不思議な空間にも本棚と机があり、何か言いようのない雰囲気があったのだ。

 『精霊ルビス』の従者という言葉が男の口から出て来た事で、それがカミュとサラの中で確信に変わっている。そして、メルエの手に納まったこの不可思議な杖が、『古の賢者』という伝承となっている者に完全に結びついた。

 

「アンタ達は何者だ?」

 

「この少女は、『魔法使い』なのです」

 

 メルエの持つ不思議な杖の巻き起こした現象を目の当たりにした男は、『畏怖』の念を持ってカミュ達を見始める。彼にとってみれば、初めて見る非現実的な物なのかもしれない。『魔法』という神秘の存在は知っているだろうが、古ぼけた杖さえも変化させる事の出来る超常現象までは見た事はない。だが、だからこそ、男はカミュの返しにある程度の納得を示した。『魔法使いという者は、ここまでの事が出来るか』と。

 『魔法使い』という職業は、一国にそれ程多くいる訳ではない。国の兵器といっても過言ではないその戦力は、国家の中枢に位置する宮廷に存在する事が多い。流れの魔法使いなどは本当に稀であり、その実力も『魔道書』に記載されている初期魔法を行使出来る程度である。故に、男は納得するところはしたが、未だに厳しい瞳をカミュ達へと向けていた。

 

「私達は、『魔王討伐』の命を受けて旅をしている者です」

 

「魔王討伐!? 正気か?」

 

 男の視線の意味を理解したサラが、その答えを告げる。その答えを聞いた男は、本気で驚きを示した。当初は、魔王の台頭など歯牙にもかけなかったエジンベアではあったが、近年の魔王の影響が無視できない状況にまで追い込まれている事をこの男も知っていた。

 エジンベアとの交流船が皆無となった事も、エジンベア自体がスーに対し興味を失った他にも、魔物の横行という理由が存在している事も承知していたのだ。故に、その元凶であり、誰も敵わないと云われている『魔王』という存在に、未だ向かって行こうとする者達がいる事に驚きを隠せなかったのだ。

 

「……そうか……」

 

 静かに頷きを返すサラを見た男は、力を失ったように椅子に座りこむ。予想もしなかった答えを聞き、脱力してしまったのかもしれない。だが、その口端には小さな笑みが浮かんでいた。邪悪な物でもなく、嘲笑のようでもない。その笑みは、自分では計り知れない物を見た時の、思わず出てしまったというような笑み。それが男の胸を満たしている感情を明確に示していた。

 

「その杖は、そのお嬢さんの物だな。魔法力のない私から見ても、その杖がお嬢さんを待っていたようにさえ見える。この部屋にある物を好きなだけ見て、何か気に入るような物があれば、持って行くと良い。ディアンさんもそのつもりでアンタ方をここへ招いたのかもしれないな」

 

 一つ溜息を吐き出した男は、カミュ達の方へ視線を戻し、柔らかな笑みを浮かべた。とても、無駄な誇りばかりが高い国の貴族であったとは思えない笑みを浮かべた男は、そのまま奥にある自室へと向かって行った。

 もう、彼の中でカミュ達と話す事はないのかもしれない。カミュ達の素性を知った彼は、自身の存在を村の人々に触れて回る者達ではない事を確信したのだろう。

 

「メルエ、それは重くないのか?」

 

「…………ん…………」

 

 男が自室へと消えて行ったのを確認したリーシャは、未だに自分よりも背の高い大きな杖を片手で持つメルエに問いかけるが、それはあっさりと肯定された。

 確かに、メルエの手に納まっている杖に重量感は見受けられない。まるでその手に吸いついているかのように鎮座する杖が不気味な程、メルエと同化していた。男の言うように、まるでメルエの到来を待っていたかのようにさえ感じるその杖は、禍々しさよりも不思議な魅力に包まれている。

 

「それは、メルエだけの杖ですね。しかし、どのような杖なのでしょう。そのような杖、見た事もありませんし、普通の物でもありませんよね」

 

「そうだな……流石に、このようなオブジェが彫られている杖など、見た事も聞いた事も無いな。一度トルドに見て貰おうか」

 

 メルエが自慢気に持っている杖を見つめていたサラの言葉通り、このような禍々しい姿をした杖は、世界に出回ってはいない。この二年の間で、彼等は様々な場所を見て来たが、このような杖の噂も聞いた事がなければ、実際に見た事も無いのだ。それは、本当の意味でのメルエだけの杖なのかもしれない。

 世界中でたった一本しかない杖。それは、規格外の魔法力を有するメルエの為にある杖とまで考えてしまう程の存在感を示している。その感想はリーシャも同じ様に感じており、彼等が一番信用する『商人』であるトルドに鑑識を頼もうと考える程の物であった。

 

「……メルエの杖も定まった。書物を見て回る」

 

「そ、そうですね」

 

「では、私はメルエと共に座って待っていよう」

 

 誇らしげな笑みを浮かべるメルエを見て溜息を吐き出したカミュは、本棚へ向かって歩き出し、それを追ってサラが動き出そうとした時に発せられたリーシャの言葉は、カミュとサラを勢い良く振り返らせた。

 当のリーシャは、驚いた顔で振り向く二人に首を傾げ、それを見ていたメルエも笑顔で小首を傾げる。リーシャ自体は、自分が発した言葉が当然の事と思っているのだろう。だが、カミュとサラから見れば、それは異質な主張であったのだ。

 

「リ、リーシャさんは、書物を見ないのですか?」

 

「ん? 私が見ても解らないだろ? 文字は読めるが、『古の賢者』様が残した物など理解する事は出来ないぞ」

 

 振り向いたサラが発した問いかけに対するリーシャの答えは、カミュとサラの二人に更なる驚きを齎した。もはや、リーシャは自身を良く見せようとする虚栄心を持ち合わせてはいなかった。アリアハンを出立した頃ならば、自身の考えがカミュやサラに及ばない事を恥じ、それを隠そうと見栄を張っていただろう。だが、既にそのような時期は遠い昔に過ぎ去っていたのだ。今は、前にいる二人の頭脳を心から信頼している。だからこそ、リーシャは自分の役周りではない事を悟り、後方に控える事を口にしたのだ。

 これが、戦闘に於いての物であれば、彼女の反応は全く異なっていたであろう。魔物との対峙であれば、彼女は誰が何を言おうと、誰よりも前に立ち、そして後ろにいる者達を護り切る筈なのである。

 

「俺は、こちらから見て行く」

 

「えっ! あ、は、はい!」

 

 呆然とリーシャを見ていたサラは、溜息を吐き出した後に発したカミュの言葉に我に返った。既に本棚から書物を抜き、開き始めているカミュは、一つ一つその内容を吟味して行く。サラもカミュとは反対の本棚から一冊の書物を抜き、その内容に目を走らせ始めた。

 その様子を見たリーシャは軽く笑みを漏らし、椅子に座り直す。その横の椅子にメルエを座らせる為に持ち上げたリーシャは少し驚きの表情を浮かべた。メルエの手には杖が握られたまま。つまり、カミュと二人がかりで壁から降ろした程の重量を持つ杖とメルエを同時に持ち上げた筈なのだが、リーシャの手には、メルエの重みしか感じる事はなかったのだ。

 

「本当にその杖は重くないのだな……」

 

「…………ん…………」

 

 再度問いかけたリーシャの言葉にメルエは大きく頷いた。足の届かない椅子に座ったメルエは、その太腿に先程手に入れた杖を横たえ、魔道士の杖であった物を胸に抱く。一見奇妙に見えるメルエの姿であるが、メルエの心を理解しているリーシャは、優しい笑顔を作ってメルエの頭を撫でた。

 メルエにとって、自分を育ててくれた杖も、今自分を認めてくれた杖も、同じように大事な物なのであろう。気持ち良さそうに目を細めてリーシャの手を受け入れたメルエは、書物を漁るカミュとサラの背中に視線を戻した。

 

「カミュ様、これを!」

 

 何冊目の書物になったであろう。反対方向から進んでいたカミュとサラの距離がかなり縮まった頃、ようやくサラが開いた書物を指差して、カミュを呼んだ。

 二冊の書物を小脇に抱えたまま別の書物を読んでいたカミュは、読んでいた書物を棚に戻し、小脇に二冊の書物を抱えたままサラの許へと近寄る。サラが示した書物に目を落としたカミュは、一度頷いた後、リーシャ達が待つ机の方へと戻って行った。

 

「何か見つかったのか?」

 

「はい。これを見て下さい。ここに、『オーブ』という言葉がはっきりと記されています。『六つ全てのオーブを手にしたのなら、レイアムランドの祭壇に捧げるべし』とあります」

 

 リーシャの横に座ったサラは、自分が見つけた書物を開き、その部分を指差しながら、声を出して読み上げる。リーシャは横から書物を覗き込み、そのリーシャの肩越しからメルエが顔を出している。しかし、サラの読み上げた地名には、ここにいる全ての人間に覚えがなかった。聞いた事も無い地名に、『祭壇』という物から結びつく物。

 

「どこかに神殿のような物があるのか?」

 

「おそらくは……ですが、問題はそこではないのです。それは、オーブを全て集めてから考えれば良い事なのですが、これには続きがありまして……『オーブを欲する者は、山彦の笛を手にすべし。オーブありし場所には、必ず山彦あり』と記されています」

 

 シャの疑問は当然の物ではあるが、サラの中では今すぐに考えなければならない事ではなかったのだろう。それよりも気になる部分があるサラは、続けてその部分も読み上げた。

 しかし、その言葉の意味を理解出来る物は、このパーティーの中に誰もいない。『オーブ』という物を探すには、山彦の笛という物が必要であるという事は、朧気ながらも理解は出来る。だが、その次の文が理解出来ないのだ。

 

「何だそれは? 笛というからには、吹いてみれば良いのか? 『オーブ』がある場所では、笛の音が返って来るという事か?」

 

「!!」

 

 書物を読み上げ終えたサラと、それを聞いていたカミュが考え込み、再び書物へと目を落とした時、メルエと共に首を傾げていたリーシャが口を開いた。その言葉は、カミュとサラの脳に電撃のように落ち、全てを理解させる起因となる。

 カミュとサラは難しく考え過ぎていたのだ。山彦の笛という物をそのまま捉える事をせず、何かの抽象であると考えてしまっていた。だが、リーシャの言うように、只の笛だと考えれば、吹くのは当然であり、『山彦』という以上、その笛の音は戻って来る事を象徴している事を示しているのだろう。

 

「カミュ様……」

 

「おそらくその通りだろうな……問題は、何処にあるかだが……」

 

 重大な言葉を発した事に気付いてはいないリーシャは、再び考え込んだカミュとサラを見て、メルエと共に首を傾げる。考える役目は、この二人なのだ。リーシャとメルエは、彼ら二人が決めた道を共に歩めば良い。それが明らかに誤った道でない限り、リーシャがその歩みを遮る事など有り得ない。それ程に、彼女はこの二人を信じていた。

 

「最後の一文に『山彦は、高き場所に眠る』とあります。これから考えるに、山の上か……」

 

「……塔か……」

 

 最後の一文を聞いたカミュが呟いた予想が間違っていない事の証明に、サラは小さく頷きを返した。『高き場所』となれば、この世界に存在する物として、自然が造り出した『山』か、人工的に作り出された『塔』しか有り得はしない。

 そして、『古の賢者』と呼ばれる程の者が残した書物であると仮定した場合、その者が自然物の中に隠すとは思えない。自然物の中に隠されたとすれば、発見する事はほぼ不可能であるからだ。そして、もし発見される事を恐れたのであれば、このような書物にその在り処を示すような一文を残す筈がない。そこまで考えてのカミュとサラの言葉であった。

 

「よし! 次の目的地は『塔』だな。早速、村の人間に近くに塔がないかを聞いてみよう」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの呟きに頷いたサラを見たリーシャは、自身達の歩む道が確定した事を理解し、即座に行動しようと立ち上がる。話の内容が理解出来ず、退屈を持て余していたメルエは、リーシャの言葉に一も二も無く頷き、椅子から飛び降りた。

 その手には新しい彼女の戦友となる杖。彼女よりも背丈の高いそれは、世界最高の『魔法使い』であるメルエにその威厳を持たせるに充分な威圧感を持っていた。

 

「少し待て。メルエ、その杖を少し見せてくれ」

 

「…………???…………」

 

 しかし、動き始めたリーシャを止めるカミュの言葉に、一行の行動が再び停滞する。リーシャの後ろにいたメルエに声を掛け、その手にある杖を覗き込んだカミュは、小脇に抱えていた二冊の書物の内、一冊を開き、その中に描かれている杖の絵とメルエの持つ杖を見比べた。

 その書物には、色々な武器や防具、そして道具などが図入りで記載されていた。その種類はそこまで多くはないが、カミュ達が見た事も無い物ばかりであり、この世界の中でも希少価値のある物である事は推察出来る。

 

「雷の杖ですか……?」

 

 その書物には、その武具の名称が記載されていた。しかし、その物の絵柄と名称しか記載されてはおらず、武具が持つ特性などは記されていない。故に、サラはその名を呟き、首を傾げた。

 雷の杖という名は、サラもカミュも聞いた事はない。世界中の武具に精通している訳ではない為、普通に武器屋で販売している武具にも知らない物が多い彼等が、世界でも希少価値の高い物の名を知り得る訳はないのだ。

 

「雷の杖というのであれば、カミュが行使するあの雷の呪文が出て来るのか?」

 

 雷の杖というからには、それ相応の付加価値がある可能性が高い。メルエが所持していた魔道士の杖には、魔法力がなくともメラを行使する事が出来るという付加価値があった。ならば、リーシャの言うように、文字通りの『雷』が落ちて来ても可笑しくはない。

 それを問いかけるリーシャの瞳が、先程よりも輝いて見える事実をカミュとサラは無視する事に決め、暫しの間考え込んだ。

 

「いえ。おそらくそれは無理でしょう。あれは、カミュ様という『勇者』様が行使出来る呪文。それは、選ばれた者にしか行使が出来ない事と同義です。希少価値の高い武器といえども、それは無理でしょう」

 

 少し考えたサラは、そう結論付けた。後の世に『英雄』と成り得る者にしか行使出来ない呪文。それは、世界中を探しても、同時期に一人しかいないと云われている。それは、魔法に対する才能という話ではない。魔法力の量や、その才能が規格外であるメルエであっても、あのライデインという呪文の契約は不可能なのだ。

 ならば、その魔法を付加価値として武具に備える事の出来る者もいないという事になる。それこそ、神が造りし神器と呼ばれる物でもなければ、有り得ないだろう。

 

「……そうか……」

 

「ですが、リーシャさんの言う通り、何らかの付加価値はあると思われます。メルエの安全を考えれば、何処かで試してみる必要はありそうですね」

 

「…………メルエ………の…………」

 

 残念そうに肩を落としたリーシャであったが、再び開かれたサラの口から出た言葉に、笑みを戻す。だが、その持ち主となったメルエの拒絶反応を見て、結局肩を落とすのであった。

 久しぶりに自分に与えられた武器。しかも、その出会いは衝撃的な物であり、メルエの心にも特別な想いを齎した。それは、幼い心に再び独占欲を生み出す。『ぷいっ』と背を向けたメルエの背中が、『誰にも貸さない』という意思を明確に示していた。

 

「……魔法に関しては、諦めたのではなかったか?」

 

「ぐっ……わかっている。ただ、試し打ちというのであれば、誰が行っても良いのではないかと考えただけだ!」

 

 肩を落とすリーシャを見たカミュは、深い溜息を吐き出し、遠い昔に行った記憶のあるやり取りを再度口にする。メルエが魔道士の杖を手にした際に、魔法が発現せずに投げ捨てられた魔道士の杖を手にしたリーシャは、魔法を誤発動させてしまっている。その影響で、カミュは被害を被る危機に陥り、それに対しての罰則をリーシャに課そうとする程に追及していた。

 その際に、リーシャはメルエに対して『二度と魔法を使おうとは思わない』と告げているのだ。それを持ち出したカミュの言葉に、リーシャは言葉を詰まらせ、喚くような言い訳を口にするしかなかった。

 

「外へ出る前に、挨拶をして来る」

 

 リーシャの言い訳を鼻で笑ったカミュは、先程男が消えて行った自室の方へと歩いて行った。悔しそうに唇を噛み締めたリーシャは、そんなカミュの背中を睨みつけながら後ろを付いて歩き始める。苦笑を浮かべたサラは、自分の持っていた山彦の笛に関する書物を本棚へ戻した後、訳が解らずに首を傾げるメルエと共に、二人の後を追って行った。

 

「ありがとうございました。申し訳ありませんが、この二冊の書物と、あの杖は頂いて行きます」

 

「ああ。大丈夫だ。アンタ方の行く道に『精霊ルビス』様のご加護を……そうだ。村に出たら、長老の家に寄ると良い。この村の長は、話の解る人だ。外部からの人間も、エジンベア人でなければ、快く受け入れてくれるだろう。間違ってもエジンベアから来たなどと言わない事だな」

 

 自室の扉を叩くと、すぐに男が顔を出した。丁寧にお礼を言い、頭を下げるカミュを見て、男は優しい笑みを浮かべる。開拓地にいた老人とまでは行かないが、それ相応の年輪を重ねた顔に皺を大量に寄せて微笑む男の顔は、その人間の内面を表していた。

 そんな男が、善意からカミュ達へと助言を洩らす。『塔』に関しての情報を求めていたカミュ達にとって、男からの助言は渡りに船であった。再度男へ頭を下げたカミュは、後方へ振り返り、そのまま出口へと歩を進める。サラやリーシャも男へと頭を下げ、メルエはリーシャの手を握る反対の手を男へと振って歩き始めた。

 

 

 

 外へ出ると、既に陽は頂上を越え、西の空へと進路を取り始めていた。夕暮れには少し時間があるが、村は昼時の喧騒を過ぎている。地下へと続く階段を覆った鉄製の蓋を動かし、完全に階段を隠した後に、その上から丁寧に土をかけて行く。

 人目に付きにくい場所にはあるのだが、念には念を入れ、カミュ達はそれを隠して行った。メルエも土を手に取り、カミュ達が均している上から土をかけて行く。

 その場所を丁寧に均し終えたカミュ達は、近場を歩く村人に聞いた長老の家へと向かって歩き出した。長老の家は、村の最北にある一際大きな家屋。暖かな日光を浴びて輝く芝生が広がる庭のような場所には、馬が一頭飼われている。庭に柵などはなく、完全な放牧となっており、馬は自由に歩き回りながら、緑色に輝く芝生を口に入れていた。

 そんな馬の姿に目を輝かせたのはメルエ。何かを問いかけるように手を繋いでいるリーシャに瞳を向け、嬉しそうに微笑んでいた。

 

「あれは、馬だ。ポルトガで見た事があるだろう?」

 

「お馬さんですね」

 

「…………おう……ま…………?」

 

 リーシャとサラの答えが少し違う事に首を傾げたメルエであったが、その言葉を紡いだ後、花咲くような笑みを浮かべ、リーシャの手を離してしまう。そのまま馬の近くへ駆け寄り、芝生を食む馬の様子をしゃがみ込んで見始めた。

 メルエがこうなってしまっては、なかなか動こうとしない事を知っている三人は、揃って溜息を吐き出し、そして笑みを作る。この村には、リーシャ達が訪れた二か月前から動物達は放し飼いにされていた。しかし、カミュが戻るまでは、それらの動物達へ興味を向ける余裕がメルエにはなかったのだ。そんなメルエが、今はとても嬉しそうに微笑みながら馬の食事を見つめている。それが、三人にはとても喜ばしい事だった。

 

「食事を見つめるとは、趣味が悪いですよ。私は話す馬、エド。お嬢さんのお名前は?」

 

「…………!!…………メルエ…………」

 

 そんな和やかで優しい雰囲気は、突如一変した。自身の食事を見つめるメルエを窘めるように、馬が言葉を発したのだ。この言葉は、後ろにいたカミュ達には聞こえない。だが、驚いたようなメルエの姿は感じ取れた為、カミュ達三人は急いでメルエの許へと向かった。

 そんな三人とは裏腹に、若干の驚きを示したメルエではあったが、すぐに表情を笑顔に変える。メルエにとって、言葉を話す生き物は驚く事に値しないのだろう。ただ、突然話し掛けられた事と、自分の行動を窘められた事への驚きだったのかもしれない。

 意思の疎通が出来るという事だけで見れば、ランシールで出会ったスライムも、この村で生きる人々も、そしてこの馬も、メルエにとってはそう大差はないのだ。それがカミュ達に向けられているような『好き』という感情がない限り、彼女にとって、この世界に生きる者達への区別は存在しないのかもしれない。

 

「はじめまして、メルエ。食事を見つめては駄目ですよ」

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

 丁寧な挨拶の後、再び窘められた事に、メルエは眉を下げながら謝罪を口にする。メルエの謝罪を受け、馬の瞳は優しさを取り戻し、メルエにはそれが笑ってくれたように感じた。しかし、そんな微笑ましいやり取りは、直前に駆け寄って来たカミュ達の驚きの声で阻まれる事となる。メルエを窘める声はメルエの前にいる馬から発せられており、それを受けたメルエも、馬に向かって頭を下げていた。その事実が、リーシャとサラという常識の中で育った者達の顔に驚愕を浮かばせたのだ。

 

「う、うまが話すのか!?」

 

「お、お、お馬さんが……え、え、えぇぇぇ!?」

 

 驚く二人の横で、カミュは盛大な溜息を吐き出した。カミュからしてみれば、この程度の出来事は、今更驚くに値する事ではない。彼等は、この二年以上の旅の中で様々な不可思議を目の当たりにして来た筈。その中に人語を話す異種族など、数多くいた筈である。

 エルフ族などは、人と同じ容貌をしているが故に驚かないとはいえ、人語を話す魔物は何度も見て来た。それならば、人語を話す動物がいても何の不思議もないというのが、カミュの正直な感想であったのだ。

 

「…………サラ………うるさい…………」

 

「しゃべる馬は珍しいですか? 私の名はエド。貴女のお名前はサラさんと言うのですね……ん? 貴方達は、『渇きの壺』を持っているのですか?」

 

 サラの発した大声に耳を塞いだメルエは、不満そうに頬を膨らませサラを睨むように視線を向けるが、そんなメルエを余所に、『エド』と名乗った馬は、サラへ言葉を投げかける。自分に向けて発せられた言葉を理解したサラは、再び目を見開き、驚きを身体全体で表現するように仰け反った。しかし、その後に続けられた言葉でようやく冷静さを取り戻した。

 それは、カミュも同様で、馬が発した渇きの壺という名に、瞳を厳しく細め、何かを探るように『エド』と名乗った馬へ視線を向ける。実は、この場所に渇きの壺はない。カミュは、リーシャ達と逸れてからは彼女達を探す事に専念していた。例えその途中で渇きの壺が必要な場所に辿り着こうとも、それを使用するのはメルエ達と合流を果たしてからでも遅くはないと考えていたのだ。故に、渇きの壺は近くの浅瀬に錨を下ろしている船の上に置いて来てある。つまり、カミュ達は所持してはいないのだ。

 しかし、今、この馬はカミュ達が持っていると断定した。いや、尋ねているのであるが、それは確定している事を問いかけているような雰囲気を持っている。その事がカミュの中に疑惑を生んでいた。

 

「ああ、警戒する必要はありません。元々、渇きの壺はこの村にあった物です。不思議な雰囲気を持つ物ですので、貴方にそれが残っているような気がして……」

 

 『不思議』というのであれば、今目の前で人語を流暢に話している馬自体が『不思議』な存在なのであるが、誰もその事を口にする事はなかった。カミュやサラは、渇きの壺が元々はこの小さな村にあったという事実に驚く事となる。そしてその壺が何故エジンベアにあったのか、そして何故男が『長老がエジンベアを嫌う』という助言をしたのかを理解した。

 どんな経緯があったのかは解らないが、村の想いを無視し、エジンベアへと運ばれたのだろう。それに気が付いたサラは、若干の動揺を見せ、カミュは厳しい瞳を更に厳しく細めた。

 

「ですから、警戒する必要はありませんよ。私が話せる事を知っている人間は、この村にはおりません。私が誰かにその事を話す事など有り得ません。信じる信じないは貴方達次第ではありますが……それと、もし渇きの壺をお持ちであるならば、それは西の海にある浅瀬の傍で使うのですよ。きっと、貴方達が求めている物へ導いてくれる筈です」

 

 厳しく睨むカミュを柔らかく制し、『エド』と名乗る馬は、何か重要な事を口にした。全く突然告げられた情報に、サラは多いに戸惑い、カミュは事の真偽を見出すかのように再び瞳を細くする。だが、当の馬は、話す事はもう終わりだというように、芝生の草へ鼻を伸ばし、青々と茂る芝生の香りを楽しみ始めた。

 

「…………エド………おうま…………?」

 

 カミュやサラも告げられた情報の処理に忙しく、リーシャに至っては、未だに人語を話す馬の登場の衝撃から立ち直れない中、会話に全く興味を示していなかった幼い少女は、もう一度馬の顔を覗き込み、笑顔で質問を口した。

 その質問は、常識に生きて来た者達から見れば、話にならない程のくだらない質問であろう。どこから見ても馬である者に対し、『貴方は馬ですか?』等という質問が口に出るなど、この世にメルエ以外はいないのかもしれない。だが、近くで初めて見た馬という動物が、メルエと意思疎通が出来るのだ。その事実は、メルエに新たな好奇心を芽生えさせていた。

 

「ええ。私は正真正銘の馬ですよ。貴女は馬を見るのは初めてですか?」

 

「…………まえ……みた………でも……ヒヒーン……いう…………」

 

 馬と語り合う少女。それは誰がどう見ても奇妙な風景であったろう。リーシャなどは未だに口を開けたままその光景に見入っている。メルエの言うように、以前ポルトガで見た馬は、夜の間は人に戻るが、昼の間は正真正銘の馬となっている。人語などは話す事は出来ず、哀しげに嘶きを上げるだけであった。

 人としての記憶が残ってはいても、馬の姿では人語を話す事が出来ないにも拘らず、この『エド』という馬は、生まれた時から馬であっても人語を話す程の知能と機能が備わっているのだ。メルエでなくとも疑問に思うだろう。

 

「ふふふ、そうですか。この世界は広いですから、私のような動物がまだいるかもしれませんよ。もし出会う事があれば、お話ししてみて下さいね」

 

「…………ん…………」

 

 少しの間、一行はメルエと馬のエドとの会話を上の空で聞く事となる。最後には、エドが顔をメルエの顔に寄せ、メルエがそれを笑顔で受け止めるという、何とも心温まる動物との触れ合いの光景となるのだが、カミュ達三人からすれば、やはり心に残る奇妙な感覚が拭えなかった。

 笑みを浮かべて嬉しそうに動物と戯れるメルエの姿は、昨日までのメルエの姿を見ているリーシャやサラにとっては、本当に心が救われた気分にはなる。だが、その相手の動物は常識外の生物でもあるのだ。

 

「貴重な情報を頂いた。感謝する」

 

 奇妙な感覚を抱きながらも、カミュは素直に『馬』に対して頭を下げる。その姿に、再びリーシャとサラの時間は膠着してしまった。カミュが頭を下げる姿は、もう何度も見るようになっている。だが、その数は決して多くはない。そのカミュが、動物に向かって頭を下げているのだ。

 良く考えれば、『人』であろうと『魔物』であろうと、そして『エルフ』であろうと、それこそ『動物』であっても、この『勇者』と呼ばれる青年は区別をしない。その事を一番理解しているのも、リーシャやサラであるのだが、やはり彼女達の頭に残る常識という枠の中では、動物に頭を下げる人間というのがなかなか理解出来ないのだろう。

 そんな固まってしまった二人を置いて、カミュは目の前にある大きな家屋の扉に向かって歩き出した。メルエもまた、何度も『エド』と名乗る馬に向かって手を振りつつ、カミュのマントの裾を握り締め、歩き出す。置いて行かれた二人は、エドの『行かなくて良いのですか?』という問いかけに我に返り、慌ててカミュの許へと駆け寄って行った。

 余りに慌てたのか、サラは『ありがとうございます』と言って、馬に対して頭を下げるのだが、それは余談である。

 

 

 

「……だれ……だ」

 

 扉に付いている金具を叩いた後、暫く待つと、真っ白な髭を蓄えた一人の老人が扉を開けた。訛りが強い言葉ではあるが、カミュ達を見た老人は、外部の者と理解してくれたのか、言葉をゆっくりと紡ぎ、言葉を伝えようとしてくれている。聞き取る事に成功したカミュもまた、自分の話す言葉を出来るだけ丁寧に、そして時間をかけて紡ぎ、自分と後ろにいる三人の自己紹介を伝えた。

 

「……中……入れ……」

 

 カミュ達の自己紹介を聞きながら四人を見ていた老人であったが、最後に目が合ったメルエの不思議そうな瞳を見て、柔らかな笑みを浮かべる。笑い掛けられたメルエは、嬉しそうに微笑み、その場の空気は一気に和やかな方向へと動いて行った。

 半分ほど開かれていた扉を大きく開けた老人は、そのまま中へとカミュ達を誘い、自分は暖炉のような場所に吊るされている薬缶を取る。そのまま机の上に人数分のカップを用意し、薬缶から暖かい飲み物を注いだ。この老人が、スーの村の長であり、長老なのだろう。

 

「突然お伺いし、申し訳ありません。少しお聞きしたい事がありまして」

 

 全員が机の周りにあった椅子に腰掛けた後、カミュが口を開く。既にメルエは出された飲み物を冷ましながら口へと運んでいた。

 メルエは、基本的にカミュ達の会話に興味を示さない。自分の名前が出たり、自分の知っている名前が出ない限り、その耳を会話に向ける事はないのだ。リーシャはそんなメルエの姿に苦笑を浮かべながら、視線を長老へと戻す。サラも飲み物には手をつけず、カミュと長老の会話に耳を(そばだ)てていた。

 

「この近くに何処か『塔』などあるのでしょうか?」

 

「……塔……ある……アープの塔……」

 

 カップの飲み物を口に含んだ後に発せられた問いかけは、少し考えた老人の口から即座に答えが出される。その塔の名は、アープの塔。長老の話を根気良く聞いて行くと、このスーの村がある大陸の西側にある、内海を望む塔だという。今はこの世界にあるほとんどの塔と変わりなく、廃墟同様になっており、魔物が棲みついてはいるが、その建造物は健在であるという事だった。

 

「ありがとうございました」

 

「あ、あの……この村に『古の賢者』様がいらっしゃったというお話は……」

 

 塔の在り処の情報を与えてくれた長老にカミュが頭を下げるが、長老との会話はそこでは終わらなかった。会話を打ち切ろうとしたカミュの横から、満を持してサラが口を開いたのだ。

 サラは、この村の井戸の近くにあった地下室が、『古の賢者』の作成した空間であると確信している。あの場所がディアン以外の誰にも見つからなかった事、あの場所にある書物の数や種類、そしてメルエの持つ雷の杖という存在。全ては『古の賢者』という存在がなければ、有り得ないと考えるのが当然であろう。

 故に、サラは問いかけた。この長老自体は出会った事がなくとも、長老から長老へと語り継がれる伝承の中に『古の賢者』という存在があるのではないかと考えたのだ。

 

「……」

 

「そうですか……」

 

 無言で首を横に振る長老の姿にサラは肩を落とす。『古の賢者』という存在の伝承がない事を示す態度に、サラは道標を失った感覚に陥った。

 現代の世で唯一の『賢者』となった彼女にとって、先代以前の『賢者』という存在は、自身の歩むべき道を考える事に於いて、何よりの道標になると考えていた。実は、その考え自体が、カミュやリーシャから見れば、完全な思い違いなのだ。カミュやリーシャは、サラ以外の『賢者』を知らない。『僧侶』という存在も『賢者』という存在も、サラ以外は認めていないのだ。

 サラという『賢者』が考え、悩み、そして決意した物。それは信じるに値する物と心から信じている。故に、余程道を誤らない限り、彼等はサラの歩む道を共に歩むだろう。

 

「……北……グリンラッド…ある……氷…覆われた島……その島の……草原…偉大な…魔法使い……いる……」

 

「えっ!?」

 

「……偉大な魔法使い?」

 

 肩を落としたサラに予想していなかった光が射す。長老は、何とか自分の言葉を伝えようと、懸命にゆっくりと話し始めた。スーの村の人間は、自分達の言葉が外部の人間に伝わり辛い事を理解しているのだろう。だからこそ、この村の人間達は、必要以上の事は言葉にしない。それは、余計な事で恥を搔きたくないという想いもあるだろう。だが、それ以上に、外部の人間を混乱させたくないという想いがあったのかもしれない。

 それはこの長老も例外ではなく、先程までは、どのような問いかけにも簡潔に答えて来た。だが、サラのこの質問だけは、必死に伝えようという想いまでもサラの胸に届いて来ている。驚きを表したサラではあったが、長老の想いを受け取るように、その言葉の一つ一つを真剣に聞き取って行った。

 

「本当にありがとうございました」

 

 『偉大な魔法使い』という者は、このスーの村に伝わる伝承。だが、その『偉大な魔法使い』という者がどのような者なのか、そして何を成した者なのかまでは、この長老には伝わっていなかった。

 その事をサラは残念に思うが、それを確かめたければ、その場所に行ってみれば良いのだ。幸い、サラ達には船がある。危険な海を渡る事の出来る仲間がいる。今の彼女に出来ない事の方が数少ないのだ。故に、彼女は柔らかな笑みを浮かべ、心からの謝礼を長老へと向けた。

 

 

 

 長老へ礼を述べ、家屋を後にした一行は、陽が傾き始め、空が赤く燃え始めた中、村の外へと歩き出す。安全を考えれば、もう一泊この村で宿を取り、朝陽が昇ると同時に船に向かって歩き出せば良いのだ。

 だが、それを口にする者は誰もいなかった。何故なら、彼等には目的地が出来たからだ。アリアハンという小さな島国を出てから二年以上の月日が流れた。その間、彼等の向かう目的地の情報がこれ程存在した事はない。目的地を選別し、その場所へ向かう事になどなった事も無い。いや、選別する程に情報がなかったのだ。だが、今は違う。

 

 山彦の笛があると考えられるアープの塔。

 『偉大な魔法使い』が住むと云われるグリンラッド。

 渇きの壺を使用する場所と聞かされた西の海の浅瀬。

 

「カミュ、まずは何処へ行く?」

 

「……北へ向かう……」

 

 メルエの手を引いて歩くリーシャが、前を歩くカミュへ声を掛ける。その表情も柔らかな笑みであった。彼女にとっても、自分達の歩む道が一気に開けたように感じたのだろう。信じる『勇者』との再会と、妹のように感じている『魔法使い』の復活。それが、彼女の胸の中に自信を蘇らせている。自身の役割を全う出来る環境は整ったのだ。

 それは、その後ろで微笑む『賢者』も同様であった。カミュが口にした目的地は『偉大な魔法使い』という者が暮らすと伝わっている島。ダーマ神殿の教皇の言葉通りであれば、先代の賢者は、既に魔王との戦いで命を落としている筈。だが、伝承が残っている以上、その場所に何らかの情報が残っている可能性があるのだ。

 彼女の役割はこのパーティーの『頭脳』の補助。行き先を決めるのも、その場所で出会う者と対峙するのも、先頭を歩く青年。その青年に、自分の考えやパーティーの想いを伝えるのが、自分の役割であると、彼女は考えていた。

 何よりも、リーシャの手を握っていたメルエの顔には笑みが浮かんでいる。待ちに待った全員の集結。自分の大好きな人間に囲まれた旅は、彼女の心に余裕と自由を取り戻させていた。

 リーシャの手を離したメルエは、そのまま先頭を歩くカミュの足下にしがみ付く。困ったような表情を浮かべる青年に、花咲くような笑みを浮かべたメルエは、そのままマントの裾を握りしめ、今度こそ離れないようにと歩き始めた。

 魔道士の杖を失ったメルエは、魔法をここまで行使していない。だが、雷の杖という新たな戦友を手にし、心に余裕を取り戻した彼女であれば、カミュと別れる前と変わらない魔法を行使する事が出来るだろう。いや、カミュのいない間に味わった寂しさの分、今まで以上の強さを身につけたのかもしれない。

 

 彼等の旅は、長く険しい旅。

 果ての見えない、遙かなる旅路。

 果てしなき世界を渡り行く、遠く長い旅。

 

 彼等は再び、その旅路を歩み始めた。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

これにて、スーの村編及び、第十章は終了となります。
次は、勇者一行の装備品一覧を更新します。
少し、今回の話には情報を詰め込み過ぎたかな?とも感じているのですが、読み難くはなかったでしょうか?

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

『月』に例えられる程に静かで優しい光を持つ者。その光は世界にいる全ての者達を照らし出すような眩い光ではない。だが、彼を知る者からすれば、その光はまるで自分だけを照らし、その道を明るく示してくれるような暖かな物として映る。彼を知れば知る程に、その内面を見れば見る程に、その想いは強くなって行くのだろう。

 

【年齢】:18歳

魔物の唱えた<バシルーラ>という魔法によって、予想だにしていなかった一人旅をしていた彼は、その道中でアリアハンから旅立って二回目の誕生日を迎えていた。忌々しい日と考えている彼にとって、自分の生まれた日などはどうでも良い事ではあるが、その二年という月日は、彼の胸の中にある別の想いを着実に変化させて行っている。

 

【装備】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガという彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):魔法の鎧

滅びし村<テドン>で購入した鎧。抗魔力に優れ、魔法による攻撃を軽減させる効果を持つ。特別な金属によって制作され、赤紫色のような色彩をしている鎧。テドンでの夜が明けても尚、その輝きは失われず、身を守る防具としての役割を担っている。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):魔法の盾

一人旅が始まった時に、ポルトガにて鉄の盾を新調していたが、スーの村にて販売していた魔法の盾を見たリーシャの忠告も受け、買い換える事にする。メルエの時と同様に、その者の身に合った形へと変化する為、同じように購入したリーシャの物とは若干大きさに違いがある。

武器):草薙剣(くさなぎのつるぎ)

 

真名は、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。遥か昔、ジパング創世の頃の初代国主が、民を護る為に神より賜った神剣と伝えられる剣。その切れ味は鋭く、天にかかる雲をも切り裂くという伝承があるが、現在には伝わってはいない。ジパング当代国主であるイヨから、別名と共に下賜される。

 

所持魔法):メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

アリアハンと旅立った頃は、その胸にある誇りと、他者に負けないという意地で凝り固まっていたが、今ではパーティーの三人に対しては、自分を良く見せようとする虚栄心を見せる場面はなくなっている。それは、カミュ、サラ、メルエという仲間達を心から信じ、自身の役割を明確に理解しているからに他ならない。

 

【年齢】:不明

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):魔法の鎧

滅びし村<テドン>で購入した鎧。抗魔力に優れ、魔法による攻撃を軽減させる効果を持つ。特別な金属によって制作され、赤紫色のような色彩をしている鎧。テドンでの夜が明けても尚、その輝きは失われず、身を守る防具としての役割を担っている。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):魔法の盾

ジパングでのヤマタノオロチ戦にて、その機能の大半を失っていた鉄の盾の代わりにスーの村で購入する。バトルアックスという魅力的な武器よりも優先させる程、彼女の装備していた鉄の盾は限界を迎えていたのだろう。

 

武器):バトルアックス

鉄の斧とは異なり、両刃の斧。ハルバードよりも戦闘用に改良されている物であり、戦斧という名に相応しい程の機能を備えている。重量感も鉄の斧よりも数段上であり、圧し斬るというような攻撃方法も可能な程の全長も有している。装飾も凝った物が成されており、スーの村の装飾技術も窺える逸品。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

『賢き者』としての道を歩み始め、その実力を発揮し始めている。カミュという精神的主柱となる『勇者』の不在時には、交渉相手との矢面に立ち、自分達の主張を伝え、相手の主張を飲み込みながらも、それを押し通す程に成長を果たしている。ただ、未だに詰めの甘さは残っており、『賢者』としてだけではなく、『導く者』としての成長の必要性も露になった。

 

【年齢】:19歳

二年という月日は彼女を『導く者』としてのスタート地点へと押し上げた。『賢者』となった者として、『生きとし生ける者達の平穏』という目標を掲げ、実現が困難な道を歩み始めている。だが、二年の月日が流れ、女性として成熟の時期に向かってはいるが、身体的な成長は少し遅れているようである。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれている。その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

カミュとリーシャが着用する<魔法の鎧>と同様に、抗魔力に優れた法衣。テドンで暮らす職人が、テドン特産の『絹』という素材を特別な術式を込めて織った物。法衣の特徴である十字は、以前サラが着ていた法衣と違い、とても小さく刺繍されている。まるで、サラが着る為だけに存在するような法衣は、この村にもたった一つしかない物でもあった。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):魔法の盾

カミュやリーシャと同様、スーの村で買い揃えた盾。サラの身体に合ったサイズに変化した盾は、その左腕に納まっている。以前まで使用していた<うろこの盾>に関しては、ロマリア国王から下賜された宝物である為、店で売却はせず、大事に保管されている。『意味のない行為』とカミュに小言を言われるが、リーシャの後押しもあり、その後は船の船員達が使う事になる。

 

武器):鉄の槍

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ(無理やり行使した節があり、再度の行使には疑問)

      

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       

      【悟りの書魔法】

       キアリク

 

 

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

通常の『魔法使い』とは規格外の魔法力を有し、その呪文行使での威力も桁違いの物を持つ少女。その出自などには多くの謎が隠されているが、その事を気にも留めない保護者に囲まれ、幸せな笑顔を作っていた。だが、その幸せは、いつの間にか、彼女の心に『依存心』を生み出し、自分を囲む者達を一人でも失うと、心のバランスを崩してしまう程になって行く。カミュという精神的主柱を失った彼女は、自身に対する不安が募り、その自信を失い、何よりも寂しさに押し潰されそうになるが、心が壊れる一歩手前に再会を果たし、無事その笑顔を取り戻した。

 

【年齢】:7,8歳

メルエの外見は、カミュ達と出会った頃からほとんど変化がない。既に成長を果たしたリーシャやサラであれば、その外見や背丈に変化がない事に驚きはしないが、彼女の歳であれば、変化があって当然と言える。魔法力の質や量と同様、彼女の異質さを際立たせる物なのかもしれない。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):アンの服

みかわしの服と同じ素材でできた服。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えていると推察できるが、それがどのような物なのかまでは書物に記されてはおらず、未だ不明であった。

   :毒針

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

     

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       マホカンタ

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

これで第十章も終了となります。
第十一章、第十二章と描きたい事が盛り沢山なので、楽しみにして頂けると嬉しいです。

宜しくお願い致します。


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※登場人物一覧(サブ)

 

 

※登場人物一覧(サブ)

 

 

【名前】ポポタ

 

【素性】ムオルの村の少年

 

数年前に村の外で大怪我をして倒れているオルテガを見つけ、村にて保護する事になる。死んだ筈のオルテガという『英雄』と出会っていたという事自体が信じられない事であった。実際、ポポタ自身は幼かった事もあり、オルテガの発する名前を正確に聞き取る事は出来ず、「ポカパマズ」という名前が村の中では浸透していたのだが、教養を身につけていた村の教育者には、その出生地と名前を告げていた為、カミュ達の耳に入る事となる。世界を救う為に旅立った『英雄』の背中を見たポポタは、その力強さと絶対的な安心感に憧れを抱く事となる。オルテガの姿に理想の父を重ね、血の繋がった息子であるカミュに対して敵愾心を抱くのだが、外へ飛び出した際に自分を護るように立ちはだかるカミュの背中を見て、その大きさと力強さを目の当たりにする事となった。旅立つカミュへ、自身の決意と共に大事に保管していた『オルテガの兜』を預ける事となる。

 

 

 

【名前】教皇

 

【素性】ルビス教の最高位に立つダーマ神殿教皇

 

ルビス教の総本山である『ダーマ神殿』を護りし者。全てのルビス教信者の頂点に立ち、その存在自体が神秘となっている者でもある。全ての信者が『ダーマ神殿』を目指し、『賢者』となる事を夢見る中、数十年に一度、地上に蔓延する捻じ曲がったルビス教に疑念を抱いた者だけが辿り着けると云われ、その者は『ダーマ』が護りし、人が内包する資質をも変化させる力を有すると云われていた。ただ、地上の教えに疑念を抱きはしても、それを変化させようと行動する事はなく、また魔物やエルフ等に手を伸ばす事も無い。全ては傍観。滅び行く定めであれば、それを神や『精霊ルビス』の考えとして受け入れようと考えている。だが、数十年ぶりに降り立った、新たな『賢者』の想いを理解し、この世界を変化させる為に自身が動く事を決意した。

 

 

 

【名前】船頭

 

【素性】ポルトガ生まれの船乗り

 

十数年ぶりに建造された大がかりな船は、ポルトガ国王の命であった。そのポルトガ国王の勅命を受け、その船の船頭を仰せつかる。その際に、『船の進路、行動の有無を決めるのは、勇者一行である』という厳命も受けていた。その命を忠実に守るつもりは当初はなかったのだが、初めて出会ったカミュ達一行の空気を感じ取り、その在り方を見ていく。常に船員達を気遣うカミュ達の心に触れ、その若さには大き過ぎる程の大望を抱く彼等に徐々に惹かれて行く。今では、彼自身が彼等四人に対しての一番の信者となりつつあり、そんな彼を慕う船員達も、カミュ達四人を『希望の光』とまで考え始めている。

 

 

 

【名前】新人船乗り達

 

【素性】元カンダタ一味の幹部

 

カミュ達がポルトガ国王から下賜された船は、カミュ達が動かせるような小さな船ではなく、乗組員と、それに指示を出す人間が必要となる物だった。ポルトガ国王は、それに伴いポルトガ国民の中で魔物の脅威によって海に出る事が出来なくなった者達の中で、一人者や家族を亡くした者達を集めた。だが、それだけでは人数は足りず、船頭に人選を任せた訳だが、その際の募集で集まった者達がこの七人の男であった。カンダタが一味を立ち上げる切欠となった初めての子分達。カンダタと言う兄貴分を慕い、その罪をカンダタと共に背負う事を決意した者達。罪を償う機会を失った彼等は、その場所をカミュ達『勇者一行』の許と定めたのだ。腕っ節だけの者達と言うイメージがあるが、この幹部七人にはそれぞれの役割が存在しており、その中に財務担当等もある。それでも、全員が荒れ狂う時代を乗り越えてきただけあり、それ相応の実力を有し、ある程度の魔物であれば、自力で対処する事も可能である。カミュ達の船が未だに魔物の被害も無く無事であるのは、彼等の存在が大きい事は否定できない。

 

 

 

【名前】ディアン

 

【素性】スーの村出身の老人

 

スーの村にて作物を育て、狩りをする事で生活を営んで来た者。妻と共に長年自給自足の生活をして来たが、エジンベアからの来訪者によって、その人生は大きく変化して行く事になる。通貨と言う概念を知り、貨幣と作物や肉を交換するという文化を学ぶ事によって、自身の蓄えと共に、スーの村の外へ興味を持ち始める。募る想いは日を追う毎に強くなり、エジンベアから来た元貴族を匿った後、出生地であるスーの村を出て世界を見て回る旅へと妻と共に旅立った。しかし、その時代は魔物の凶暴性が増し始めた頃。ディアンと妻の乗った船は、ポルトガ港を出港した直後、大型の魔物達の襲撃を受け、多くの人々の夢や希望諸共に海の藻屑と消えて行く。沈没前に何とか妻と共に海へ飛び込んだディアンであったが、荒れる海に流され、辿り着いた場所は、故郷のスーの村から南へ下った場所にある未開の地であった。妻は、その際に足を失い、それが元でこの世を去ってしまう。『もし、近くに町があれば』、『もし、人々が集う場所に医療施設や教会があれば』という想いが彼の半生を変えて行く。長年願い続けた町の作成は、カミュと言う『勇者』が奇しくも彼と同じような漂流の末に辿り着いた事によって、急速に実現へと向かって行った。

 

 

 

【名前】ヒミコ

 

【素性】ジパングの国の先代国主

 

ジパングというこの世界では珍しい程に、世間との隔たりがある国の先代国主。世界が崇拝する『精霊ルビス』という存在を知らず、自国独自の信仰を持つ異端の国を治めていた。その治世は善政であり、多くの国民から全幅の信頼と、愛情を受けていたが、それは、太古からジパングの地に住む龍種の復活によって幕を閉じる。自身が愛するジパングの国と、そこで暮らす民達を護る為に、古から伝わる国主の血を持って『鬼』となり、復活した<ヤマタノオロチ>に立ち向かうが、彼女の先祖が<ヤマタノオロチ>を封印した際に使用した『天叢雲剣』を持たぬ為に、最後の一手が打てず、満身創痍の<ヤマタノオロチ>に喰われ、その生涯に幕を下ろした。

 

 

 

【名前】イヨ

 

【素性】元ジパング国皇女、現ジパング国国主

 

ジパングと言う国と、そこで生きる民達を心から愛す少女。ジパングでは、既に国主の家系のみに伝わると言っても過言ではない『鬼』となり<ヤマタノオロチ>を封印したと云われる女性国主に良く似た性質を持つ。その笑みはジパングと言う小さな島国を照らす太陽のように、その言葉は、木々や動物達をも震わせる言霊のように。天候を読む力も、先を読む力も無いが、『人望』という何にも代え難い力を有する才を持つ若き国主。母であるヒミコがある日を境に人が変わったように民達を見る事に心を痛めながらも、『何時しか陽が昇る日が来る』と信じ、<ヤマタノオロチ>への生贄として消えゆく命を見送って来たが、遂にその心も折れる日が来た。奇しくも、それは『魔王バラモス』というジパングには届いていない悪の元凶を討つ為に旅立った『勇者』が彼女の愛する国へ来訪した時。諦めと長年の疲労によって絶望していた彼女の心を引き戻したのは、その勇者が連れていた一人の『賢者』の声。産土神として触れる事も叶わないと云われている<ヤマタノオロチ>を敵と見做し、自国の民を護る為にその討伐を決意する。<ヤマタノオロチ>の最大の敗因は、ヒミコと戦った事でも、勇者一行と戦った事でもなく、この若き後継者の命を奪っていなかった事かもしれない。

 

 

 

【名前】メアリ

 

【素性】世界最大であり、世界唯一の海賊『リード海賊団』の船長であり棟梁

 

この世界に残る唯一の海賊を束ねる女海賊。女でありながら、その腕力は男を遙かに凌ぎ、その求心力は先代の父をも超える。屈強な海の男達からも恐れられる程の威圧感持ち、海賊団棟梁として絶対の地位を確立していた。自身と同じように女でありながら海賊として生きていた『ボニー海賊団』船長であるアンと最後の決戦の末、全ての海賊を纏める事となるが、肥大して行く一味の行く末を案じるなど、腕力だけではなく、その知性も統べる者として充分な資質を要している。魔物の脅威が増す中、海賊として襲う客船や貿易船の減少を深刻に考え、別の道を模索している最中に、貿易を再開している開拓地の存在に目を付ける。護衛を行う報酬として金銭を要求しようとするが、その額は常識の範疇ではなく、その開拓者を斡旋した者達との遭遇によって、計画は霧散する事となった。彼女の前に登場した三人の女性は、それこそ常識の範疇の人間達ではなく、腕力では誰にも負けないと自負していたメアリを軽く捻じ伏せる程の実力を有す『戦士』に、その者達を連れて来た海賊達から恐れられる程の呪文を行使する幼い『魔法使い』、そして、最後まで彼女の前に立ち塞がった『賢者』と自称する女性といった強者ばかりであった。真意を確かめる為に提案した飲み比べの席での『賢者』の想いを知り、メアリは自身の思慮の浅はかさと、器の違いを思い知る事となる。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これで、本当に十章は終了となります。
十一章は今週末か来週には更新できるように描いて行きます。



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第十一章
戦闘⑦【スーの村周辺】


 

 

 

 目的地も決定し、村を後にした一行は、船の停泊している浅瀬に向かって歩き出した。カミュが船を降りた場所は、リーシャ達がメアリの船を降りた船着き場とは異なり、かなり遠方のようで、そこまでの道を彼等は日数を掛けて歩く事となる。

 村を出て、一度の野営を行い、そして再び歩き出す。その間、天に輝く太陽は暖かな光を大地に注ぎ、地上には穏やかな風が靡いていた。天気の良い平原を歩くカミュのマントの裾は小さな手にしっかりと握られ、その後ろを、笑顔を浮かべた二人の女性が続く。

 

「メルエ、少し歩き難いのだが……」

 

「…………いや…………」

 

 スーの村を出てからも、メルエがカミュの傍から離れる事はなく、マントの裾を握っていたかと思えば、マントの中に入りカミュの足にしがみつく。そんなメルエの行動に、カミュは困り果てていた。

 何度か注意を促すが、その言葉を聞き入れて貰える事はなく、頬を膨らませたメルエに溜息を吐く事を繰り返す。それがリーシャ達にはとても楽しく、今まで以上の和やかな旅路となっていた。

 

「メルエ、離れろ!」

 

「…………!!…………」

 

 しかし、そんな和やかな雰囲気が続く中、突如カミュが声を張り上げる。今までの我儘を叱られたと感じたメルエは眉を下げてカミュを見上げるが、当のカミュの瞳はメルエではなく、遥か前方へと向けられている。それを感じたリーシャは素早くカミュの許へと駆け寄り、メルエをサラへ引き渡した。

 全てを察したメルエも手に入れたばかりの雷の杖を手にし、サラの後方からカミュの見ている方角へ厳しい視線を向ける。

 

「メルエ、何時でも呪文を行使出来る準備を」

 

「…………ん…………」

 

 サラの指示に頷いたメルエの顔には『自信』が漲っている。その顔を見たサラは笑顔で頷きを返した。

 自信を失い、魔法力の制御どころか、魔法の発現も呪文の行使すらも出来なくなったメルエはもういない。ここにいるのは、この世界が生んだ稀代の『魔法使い』であり、世界最高の魔法力と才能を持つ『魔法使い』。サラが最も信頼する神秘の体現者である。

 

「カミュ、あの魔物は眠りの息を吐き出すぞ!」

 

「……またアンタは、眠りに落ちたのか?」

 

 前方から出現した魔物を見たリーシャは、カミュに注意を促すが、それは溜息と共に斬り捨てられる。とても魔物の目の前で繰り広げられるやり取りではない。カミュの呆れを見たリーシャが顔を赤くし、『眠ってはいない!』と叫ぶ声は、魔物が発する雄叫びを搔き消して行く。それ程に、彼らには余裕があるのだ。

 カミュは、ここまでの一人旅の中で培って来た自信が。リーシャやサラは、この呆れた溜息を吐き出す青年との合流による自信の蘇りが。そして、幼い『魔法使い』に関しては、絶対的保護者との再会による安心感と、新たに手にした強力な杖への信頼感が。それぞれの胸の中に蘇った想いが、彼等の心に余裕と強さを取り戻させたのだ。

 

「お前こそ、あの息を被って寝てしまえ!」

 

 そんな心の余裕は、戦闘中にも拘わらず、笑みを浮かべてしまう程の物だった。リーシャが悔し紛れに発した言葉にサラは噴き出し、先程まで厳しい視線を送っていたメルエも頬を緩める。カミュだけは盛大な溜息を吐き出しながら、前方から迫る魔物に向かって駆け出した。

 カミュの手に握られた草薙剣の閃光が迸る。真っ直ぐ突進して来た魔物を避ける素振りも見せずに振り抜かれた剣は、魔物の眉間に吸い込まれ、その頭部を両断して行った。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ヒャダルコ…………」

 

 断末魔の叫びを上げて倒れ込む一体のビッグホーンの後方から見える数体の魔物へ向かって、メルエの杖が振り下ろされた。

 メルエの身長以上にあるその長身の先にあるオブジェの瞳が光った瞬間、その嘴から魔法力の渦が迸る。瞬間的に冷気によって空気は凍り付き、凍り付いた大気は、数体のビッグホーンを飲み込み、その活動を容赦無く停止させて行った。

 活動を停止させた体躯の内にある内臓をも凍らせて行くメルエの魔法の威力は、そのまま魔物の生命も奪い尽くして行く。

 

「砕くぞ」

 

 カミュへ視線を送ったリーシャは、そのまま手に持つバトルアックスを振り下ろし、氷像と成り果てた魔物を粉々に粉砕する。一体ずつ壊して行くリーシャと共にカミュも剣を振り下ろすが、サラだけは、今見た光景に身体を硬直させていた。

 メルエの魔法の威力を初めて見た訳ではない。それこそ、メルエの氷結呪文の威力は嫌という程に理解をしてはいるし、その恐ろしさも知ってはいる。だが、今見た魔法の光景はそれでも尚、異質と言っても過言ではなかったのだ。

 メルエの新たな友となる杖から放たれた魔法力は、瞬時にその形態を神秘へと変化させ、魔物に襲いかかった。それは何も氷結呪文に限った事ではないだろう。火炎呪文だろうと灼熱呪文であろうと、その杖はメルエの魔法力を抵抗なく神秘へと変化させて行くに違いない。まるで、この幼い『魔法使い』の手足となったかのように、その想いを具現化させて行くのだ。

 魔道士の杖と呼ばれる杖は、世界には有り触れた存在。ただ、メルエの魔法力を受け続けて来たあの杖だけは、その存在を変化させ、メルエの膨大な魔法力を神秘へと変化せて行く事が出来た。

 だが、先程目にした光景を見てしまうと、魔道士の杖という存在がメルエにとって如何に頼りない物であったかを理解してしまうのだ。結論から言えば、魔道士の杖を持っていたメルエに対し、『魔法力の調整をしろ』と言う事自体が無謀な事であったという事になる。

 その膨大な魔法力を受け止めて神秘へと変化させる事だけでも魔道士の杖としては奇跡に近い物だったのだ。雷の杖を媒体にして呪文を行使したメルエを見たサラは、それを痛感してしまっていた。

 

「ふぅ……カミュ、船の場所へはまだ掛るのか? そろそろ陽も傾いて来た。まだ歩くのであれば、もう一度、何処かで野営をする必要があるぞ」

 

「そうだな。少し歩き、陽が陰り始めた頃に野営地を決める」

 

 魔物であった氷像を砕き終わったリーシャは、砕かれた魔物の残骸にベギラマを唱え、手を合わせるサラを横目に、カミュへと声を掛けた。確かにリーシャの言う通り、空を見上げると、先程まで暖かな光を注いでいた太陽は、西の空へと移動を始めている。魔物との戦闘は、人間の体力を奪うと同時に時間も奪って行く。メルエの魔法によって瞬時に魔物を駆逐したようにも感じるが、魔物到来から、カミュが間合いを測り、剣を振り下ろすまで、そしてカミュやリーシャを下がらせ、それを確認したサラが間合いを測りながらメルエに呪文行使の指示を出す時間を考えると、それなりの時間を要しているのだ。

 乗り物のないカミュ達の旅は自分の足で歩くしかなく、旅慣れて来たとはいえ、サラやメルエの足を酷使する訳にも行かず、リーシャはその辺りも考慮に入れての提案を行っているのだった。

 

 

 

 一行は、陽が沈み切り、暗闇が支配する中、近くに川の流れる音が聞こえる森の入口で野営の準備を始めた。この川の下流は海へと続いているのだろう。それは、野営を行う事を決めた際にカミュが口にした『船はすぐそこだ』という言葉が示している。船に戻れば、カミュが決めた進路である北へと向かうのだろうが、リーシャはその進路に関して若干の疑問を持っていた。

 

「メルエ、どうしたのですか?」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 感じている疑問をカミュへ問いかけようとリーシャが口を開いた時、傍にいるメルエの様子がおかしい事に気が付いたサラが火に薪をくべながら声をかけていた。

 サラの傍で先程収穫した果物を頬張っていたメルエであったが、何かを嫌がるように顔を顰め、救いを求めるようにサラを見上げている。口にしていた果物はメルエの手の中にあるが、それ以上口にしない様子を見せる事自体、果物好きのメルエにとっては珍しい事であった。

 

「おい、カミュ! お前は腐った果物をメルエに与えたのか!?」

 

「いや……メルエに与える果物は、アンタが厳選していた筈だが」

 

 果物を口にしないメルエの様子を見たリーシャは、その果物の味が悪く、腐ってしまっているのではないかと考えた。だが、カミュの言う通り、果物を収穫して来たのはカミュであるが、その中でメルエに与える物を選んだのはリーシャである。その証拠に、カミュが持っている果物は、メルエの持っている物に比べ、二回りほど小さい物。熟し切れておらず、味も酸味が強い物であった。

 

「メルエ、大丈夫か? その果物が嫌ならば、吐き出しても良いんだぞ?」

 

「そうですよ。『ぺっ』ってしましょう。『ぺっ』って」

 

 メルエ一人が顔を顰めただけで、とんでもない騒ぎである。カミュは一つ溜息を吐き出すが、リーシャやサラにとっては再び襲う不安感を拭えなかったのだろう。カミュは、人形のようになってしまったメルエを知らない。体調を崩したメルエをムオルの村で見た事はあるが、カミュは自分が持って来た果物が腐ってはいなかった事を知っているだけに、『味が気に入らなかったのだろう』程度にしか考えてはいなかったのだ。

 故に、大慌てでメルエに近付く二人を見て、溜息を吐く。二人がメルエを大事に想っている事は知ってはいるが、これ程過保護だとは思っていなかった。

 

「メルエ、水を飲め。水を飲んで、指を喉の中に入れて吐き出せ」

 

 サラが持っていた水を引っ手繰るように奪ったリーシャは、それをメルエの口に向けて指示を出す。だが、嫌がるように顔を背けるメルエを見て、困惑した。どうしたものかとサラへ視線を送るが、サラも同じ様に訳が解らず、首を捻るばかり。顔を背けたメルエは、そのままある一点を見つめ、先程と同じように唸り声を上げ始める。それは、カミュに何かを感じさせるのに充分な行動だった。

 

「魔物か!?」

 

「…………くさ……い…………」

 

 このパーティーの中で魔物の気配に一番敏感なのがメルエである事は、誰一人として疑わない。何度もこのメルエの不思議な感覚によって、彼等は窮地に陥る事無くやり過ごしているのだ。故にこそ、カミュは背中の剣を抜き放ち、メルエの視線の先に厳しい瞳を向けて身構えた。

 カミュの素早い動きに、リーシャとサラもようやく自分達の考えが勘違いであった事を悟る。各々の武器を手にし、暗闇の支配する森の奥へと視線を動かした。

 

「カミュ様、メルエの言葉からして……まさか、あの……」

 

「……腐乱死体だろうな」

 

 カミュの問いかけに答えたメルエの言葉は、以前に聞いた事のある物であった。それは、カミュが瀕死になる程の火傷を負い、そしてサラが初めて本気でメルエを叱ったあの時。ランシールへと向かう途中の野営中に遭遇したシャーマンという魔族が召喚した腐った死体との戦闘中にメルエが発した言葉なのだ。

 それが意味する事は唯一つ。再びこの夜の森を、あの腐乱死体が彷徨っているという事だろう。

 魔物は近年、その狂暴さを増してはいる。その為、『人』は生活の基盤である集落を離れる事が出来なくなっていた。だが、数十年も昔となれば、話は別である。この未開の地に等しい大陸は、自然が溢れている。自然が溢れているという事は、その中で暮らす動物達の数も多いという事。何も『人』を食すのは、『魔物』だけではない。魔物となっていない、自然界の動物達も肉食の者達は存在するし、そういう動物達は元来臆病である。自分達の住処に近付く未知なる者を排除しようと威嚇し、それでも立ち去らなければ襲いかかる。森の中で倒れる者は、何も『魔物』に襲われた者達ばかりではないのだ。

 毒蜘蛛に刺され命を落とした者もいるだろう。毒を持つ蛇に噛まれて死んだ者もいるだろう。蛭などに血を吸われ動けなくなった者もいただろう。そんな形で命を落とした者は、その後、世界を覆う『魔王バラモス』の魔力の影響を受け、再び彷徨い始めるのだ。

 

「うっ!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

「カミュ、ごほっ……来るぞ!」

 

 漂い始めた死臭は、森の奥から一行の鼻を衝く。サラは口元を押さえ、メルエはサラの腰元にしがみついた。バトルアックスを構えたリーシャは、咽るような腐敗臭に口元を押さえながらも、カミュへと激を飛ばす。

 しかし、相手が腐乱死体である以上、カミュやリーシャの直接攻撃は通用しない。いや、通用するしないの問題ではなく、只々腐敗臭を撒き散らすだけの意味のない行為となってしまうのだ。

 

「ベギラマ」

 

 前へ踏み出す事を躊躇するリーシャの腕は、突然逞しい腕に引かれる。その腕の持ち主よりも後方へ下がらされた後、その持ち主は別の手を掲げ、詠唱を紡いだ。

 呟くような詠唱の後、その掌から熱風が迸る。周囲の木々に燃え移らないようにと配慮した灼熱の炎は、カミュ達と腐乱死体を遮るように炎の壁を造り、微かに見え始めていた異形を覆い隠して行った。

 

「一度、森の外へ出る」

 

「わかった」

 

 炎の壁といえども、カミュの放つベギラマでは、時間稼ぎ程度にしかならない。それは、以前に経験済みである。いずれは超えられる壁の前で待つよりも、森の外という広い場所へ出て迎え撃った方が良い事は明白であり、それを理解したリーシャは斧を手にしたままカミュの後を続き、サラは腰にしがみ付くメルエを促し、森の外へと飛び出した。

 

「ふぅ」

 

 森という、所謂閉鎖された空間ではなく、満面の星空が広がる解放された平原で思い切り息を吸い込んだリーシャは、再び斧を構え直し、森の入口へと視線を戻す。新鮮な空気を吸い込んだメルエは、安堵の息を吐き出し、その視線を森の入口にではなく、傍に立つサラへと向けた。

 一か所に固まる一行は、皆森の入口を見てはいるが、互いの声が聞こえない訳ではない。故に、この後に発するメルエの言葉に、驚愕の表情を浮かべる事となる。

 

「…………あたらしい………おぼえた…………」

 

「ふぇっ!?」

 

「なに!?」

 

 メルエが魔法を行使する上で、独断で行使出来る場面というのは限られている。メルエの能力の高さを危惧しているサラによって、その力の恐ろしさを教えられたメルエは、以前とは違う意味で、その言葉をサラへ向けて発していたのだ。

 だからこそ、サラは一行の中でも最も驚愕しているのだろう。あれから、メルエの魔法契約の際にはサラが同席するようにしている。ただ、メルエの精神の成長が未熟で契約出来なかった物に関しては、すぐに再契約の場を設けてはいない。だが、メルエは『賢き者』となる才能も有している者であり、一度見た魔法陣を再度描く事など造作もない。故に、一人で契約の儀式を行う事も可能ではあるのだ。

 

「メ、メルエ? まさかとは思いますが、あの呪文の契約を済ませてしまったのですか?」

 

「…………ん…………」

 

 恐ろしい物でも見たように目を見開くサラの問いに、メルエは満面の笑みで頷いた。本来であれば、この行為自体がサラとメルエの約束を破った物ではあるのだが、サラはメルエが契約を済ませてしまった呪文の目星がついている為、心底驚き、そしてその才能に慄いた。

 サラが思い至った呪文は、メルエの歳を考えれば、決して手に入れる事が出来ない程の高度な物。『悟りの書』という古の賢者が残した遺産の中に記載されている魔法の一つである。

 

「だ、駄目です! あ、あの呪文をこんな場所で行使してはいけません。ここで行使すれば、森に住む動物達や花々、そしてその花々に集う虫達の住処を奪ってしまいますよ。メルエの大好きな、あの動植物達を哀しい目に合わせるつもりですか?」

 

「…………だめ…………」

 

 我に返ったサラは、嬉しそうに自分を見上げるメルエを窘める。サラの予想通りの呪文だとすれば、カミュやリーシャが考えるよりも更に恐ろしい結果になることが考えられた。

 魔道士の杖を媒体としていたメルエの魔法でも規格外だったのだ。それにも拘らず、新たな杖は、まるでメルエの魔法力を知っていたかのように、その力を如何なく発揮させ、神秘へと変化させて行った。そこに無駄な物は何もなく、メルエの規格外の魔法力は全て、魔法という神秘へと変換されて行くのだろう。そうなれば、メルエの放った魔法は、この場所を変えてしまう程の威力を誇る筈。それをサラは心から畏れたのだ。

 

「サラ、もう来るぞ」

 

 サラとメルエのやり取りを聞いていたリーシャは、漂い始めた腐敗臭と死臭に顔を顰めながらも注意を促す。リーシャの言葉通り、月明かりに照らされた森の入口から数体の蠢く影が現れた。

 瞬時に濃くなる不快な臭いは、メルエの表情から笑顔を消し、一行の間に緊迫した空気を醸し出す。重い荷物を引き摺るような、地面を擦る音が周囲に響く毎に、その腐敗臭は濃くなって行き、メルエは杖を持ったままサラの腰に顔を埋めてしまった。

 

「私が呪文を行使してみます。初めて行使する魔法ですので、メルエのような威力は期待できません」

 

「……わかった」

 

「後は任せろ!」

 

 腰にメルエをつけたまま、サラはその手を森の入口へと向ける。サラの言葉を聞く限り、それは『魔法使い』であるメルエが既に何処かで行使している魔法なのだろう。だが、魔法の才能の塊であるメルエに比べれば、その威力は数段落ちる筈。しかも、初めて行使する魔法であれば、当然であろう。

 故に、カミュとリーシャは、呪文の行使が成功した後の行動を考えて頷きを返した。

 

「ヒャダイン!」

 

 腐敗臭が鼻を突き、吐き気を抑えきれなくなった頃、サラの呪文の詠唱がようやく完成した。それは、メルエの得意とする氷結呪文の中でも『悟りの書』に記載されている魔法の一つ。世の中の『魔法使い』と呼ばれる者達が持つ『魔道書』に記載されたヒャダルコという氷結系最強の魔法よりも一段上の呪文である。

 いつの間にか『魔道書』の呪文の契約を飛び越え、サラは『悟りの書』の呪文の契約を済ませていたのだ。

 サラの手から迸る冷気は、森の入口から出て来た影に襲いかかる。大気を凍らせる程の魔法力は、先頭を切って森を出て来た腐乱死体の身体を凍らせて行く。纏わりつく冷気は、腐敗しきった肉を凍らせ、氷の中へと閉じ込め、そして、それでも前へ進もうと足掻く腐乱死体の活動を停止させた。

 

「カミュ! 先に行く!」

 

 カミュの名を叫んで走り出したリーシャは、息を止め、凍りついた腐乱死体に一撃を加える。表面の氷を突き破ったバトルアックスは、そのまま腐乱死体の身体を両断した。メルエの行使するヒャダインよりも数段落ちる威力ではある為、腐乱死体の芯までをも凍らせる程の威力はない。

 いや、この呪文自体は芯まで凍らせる程に威力を誇る物なのであるが、メルエの物に比べると、サラが行使した場合、どうしてもその速度が劣ってしまうのだ。故に、魔法の効力が表れてすぐに振われたリーシャの戦斧は、凍り始めた腐乱死体を斬り刻む形となった。

 

「くそっ! どけ!」

 

 二体の腐乱死体を斬り飛ばしたリーシャは、横合いからの体当たりによって吹き飛ばされた。余程の者の力でなければ、リーシャの身体が揺らぐ事はない。不意を突かれた為か、それともその者の力量が同等の物であった為か、リーシャの身体はある程度の距離を飛び、倒れ込んだ。

 そして響く苦悶の声。それは、先日合流したばかりの『勇者』と呼ばれる青年の声だった。急いで声の方角に視線を向けると、そこには数体の腐乱死体に囲まれたカミュの姿が映る。攻撃を受けた為か、右腕を抑え、持っていた剣を取り落としている。そして、立ち上がったリーシャの目に、再度の攻撃を受けていないにも拘らずに膝を着くカミュの姿が飛び込んで来た。

 

「リーシャさん! カミュ様を下がらせて下さい! メルエ、呪文の準備を!」

 

「…………ん…………」

 

 僅かな空白な時間を作ってしまったリーシャは、珍しく張り上げたサラの声に我に返る。理由は解らないが、カミュが何らかの不具合に陥った事だけは確かであろう。このままでは、腐乱死体に囲まれたカミュがその餌食になってしまう事は明白。リーシャはバトルアックスを握り締め、腐敗臭を吸い込まないように息を止めて駆け出した。

 サラの後方では雷の杖を握ったメルエが、サラの指示を待っている。この分では先程サラが制した呪文を行使する可能性もあるだろう。そうであれば、あれ程にサラが怖れた威力を誇る物である以上、カミュやリーシャが巻き込まれる恐れさえも出て来る。

 

「やぁぁぁぁ!」

 

 リーシャは、大きく斧を振り抜き、カミュに一番近い腐乱死体を斬り飛ばした。腐敗した肉と、腐り切った体液が周囲に飛び散る。しかし、それがリーシャの身体に届く前に、彼女は膝をついていたカミュの腕を掴み、強引に立ち上がらせた。

 立ち上がったカミュを抱えたリーシャは、近寄る腐乱死体の一体をバトルアックスで突き飛ばし、一気に後方へと下がる。

 

「カミュ様をこちらに! 腕を見せて下さい!」

 

「どうだ!?」

 

 引き摺られるようにサラとメルエの場所へ戻されたカミュの腕を見るなり、サラの表情は曇った。その表情を見たリーシャは、カミュの状態を問いかける。その際に鼻に入る不快な腐敗臭など、今起こった不測の事態に比べれば、気にする程の事ではないのだろう。じりじりと近付いて来る腐乱死体達へ視線を向けたまま、リーシャは再度バトルアックスを構え直した。

 

「これは……一度キアリーを唱えます。リーシャさん! 相手は毒を持っているようです。メルエ、覚えた呪文ではなく、ヒャダインの詠唱準備に入って下さい!」

 

 カミュの腕の状態を見たサラが、その後の対応の指示を出す。立て続けに出された指示は、それぞれの役割を考え、それぞれの能力を発揮させる為に必要な物であった。それを感じたリーシャとメルエは、嘔吐感を抑えながらも、しっかりと頷きを返す。

 カミュの腕は、只の切り傷とは異なり、変色した形で腫れ上がっていた。余計な成分が体内に入り込み、カミュの身体が拒絶反応を示している事は確かである。紫色に変色した右腕は、既にその機能を失い、だらしなく垂れ下がっていた。

 

「キアリー」

 

 それを毒性分の影響と判断したサラは、『経典』に記載されている解毒呪文の詠唱を始める。『僧侶』として駆け出しの者がホイミ等の次に覚える回復呪文の一つ。初期の魔法ではあるが、『僧侶』として成長して行く為には必ず通らなければならない呪文である。教会の主として『司祭』や『神父』となる者は、この呪文の確実な詠唱が出来なければならず、若手の登竜門的な物であった。

 柔らかくカミュの腕を包み込んだ光は、カミュの身体に巡り始めている毒性分を体外へと弾き出す。紫色に変色していた腕は、その色を取り戻し、腫れも引いて行った。

 毒が抜けて行った事を確認したサラは、ベホイミの詠唱を行い、カミュの傷口を塞いで行く。その間も、迫り来る腐乱死体との距離を広げる為に、一行は徐々に後退を余儀なくされていた。

 

「アレに近付く事も危険だ。あの腐乱死体の吐き出す息にも毒が混じっている可能性が高い」

 

 身体から毒性分が抜けたカミュには、状況を把握し、それを警告する余裕が生まれている。カミュの言葉によって、直接戦闘が主流であるリーシャに出来る事は限られて来た。

 もしかすると、腕を傷つけられたカミュは、その時点では毒を受けていなかったのかもしれない。腐乱死体が息を吐き出すというのも可笑しな話ではあるが、実際に腐乱死体の口から毒の籠った空気が吐き出されているのも事実なのだろう。

 

【毒毒ゾンビ】

毒を受けた事によって死に至った人の成れの果てと云われている。その身体に毒を宿し、打撃によって付けた傷口から大量の毒を流し込み、その者を死に至らしめる。また、その体内に入った毒は、身体全体からも外へ放出されており、近くにいる者にも徐々に毒が回って行く事もある。<くさった死体>と同様に、死者が魔王の魔力を受けて、この世を彷徨うようになった物であり、その身体は朽ち果て、腐りきっている。その為、辺りに死臭と腐敗臭を撒き散らしながら新鮮な肉を求めて彷徨い歩いているのだ。

 

「良いですか、メルエ? 今のメルエは、以前のメルエと違います。自分の力と、その雷の杖を信じて。ヒャダインはメルエの身体が覚えているでしょう? あの魔物達だけを凍らせるように放つのですよ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの治療を終えたサラは、杖を握って立つメルエの傍に近寄りその後ろから指示を出す。メルエと杖の関係について理解したサラの指示は、メルエならば必ず出来るという信頼の言葉だった。

 大きく頷いたメルエを見て、カミュとリーシャは道を開ける。目の前の景色が開けたメルエは、一歩足を前に踏み出し、不快な臭いに顔を顰めながらも、自分の背よりも高い杖を前に突き出した。

 腐乱死体がその身体を引き摺る音も、その身体から発する不快な死臭も消え失せる。全ては幼い少女が発する膨大な魔法力によって虚空の彼方へと消え失せた。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

「!!」

 

 雷の杖の先にあるオブジェの瞳が光り、桁違いの魔法力が神秘へと変化されて行き、そして周囲の温度を消滅させた。毒毒ゾンビを飲み込むように吹き荒れた冷気は、巨大な氷の牢獄を作り出す。太古の龍種が吐き出す火炎をも防いでいた冷気がその力を強めて吹き荒れたのだ。

 既に命無き者といえども毒毒ゾンビからすれば堪った物ではない。氷の牢獄は一体残らず飲み込み、腐りきった肉体を壊して行く。壊死と表現するのが妥当なのだろうか。凍りついた毒毒ゾンビの身体は、カミュやリーシャが砕きに行く前に自壊して行った。

 余りにも凄まじい光景。氷像と化した物が自然に砕けて行った。それ程までに強力な呪文の威力を見せられたカミュ達は、一同呆気に取られる事となる。

 確かにメルエは、魔法を調節していた。冷気の影響を受けたのは、毒毒ゾンビのみ。あれ程の威力を見せるのであれば、冷気の通り道にいたカミュやリーシャの身体にも影響があって然るべきなのだが、彼等の身体に違和感など何もない。冷たい空気が通り過ぎたかと思えば、目の前にこの光景が広がったのだ。彼等は、改めてこの幼い『魔法使い』の規格外な力を認識する事となった。

 

「ベギラマ」

 

 真っ先に立ち直ったのは、この幼い『魔法使い』に魔法という神秘を与えた青年であった。砕け散った肉片を燃やし尽くす為に、周辺を灼熱呪文の詠唱によって焼き払う。

 意に反して現世を彷徨い歩いていた肉体と魂が煙となって天へと還って行き、夜の闇が支配する天への道は、優しく輝く月の光が照らし出し、『人』であった無数の残骸から立ち上る煙は、一筋の光の道を天へ向かって昇って行った。その道を無意識に眺めながら、リーシャとサラは我に返って行く。

 

「…………メルエ………できた…………?」

 

「はい。良く出来ました」

 

 上目遣いで自分を見上げて来るメルエの頭を優しく撫でたサラは、優しい笑みを浮かべながら、天へと視線を戻した。頭に乗る柔らかな手に目を細めていたメルエは、暫くその感触を楽しんだ後に、別の人間の足下へと移動する。バトルアックスを背中に納めたリーシャは、足下で期待に満ちた瞳を向ける少女に苦笑し、既に帽子を脱いでいる頭を優しく撫でつけた。

 サラもリーシャも、メルエと言う幼い『魔法使い』の行使する呪文の威力を目の当たりにする。だが、それでも彼女達の想いは変わらない。メルエがどれ程の者であろうと、自分達に向かって『褒めて欲しい』と頭を突き出す姿が、メルエの本質である事を彼女達は知っているからだ。

 メルエは見た目同様に子供なのである。その性質は凶悪な物でもなく、残酷な物でもない。まだ、世界と言う未知の物に興味を示しているだけの幼子なのだ。時に『純真』という物は残酷になるのだが、それも彼女の傍にサラやリーシャがいれば問題にはならない。ただ、それだけの事である。

 

「野営地に戻るぞ。腐敗臭が残っているだろうから、場所を変える必要がある」

 

 それは、剣を鞘に納め、森へと向かって歩き出した青年も同様であろう。彼にとって、メルエは護るべき者であって、恐れる者ではないのだ。彼女がどれ程の魔法を行使しようと、どれ程の威力を示そうと、それに対して恐れを抱く事はない。以前のように、その力を与えてしまった事への罪悪感を覚える事はあるだろうが、それを悔やむ時期は疾うに過ぎ去っていた。

 

「しかし、メルエのヒャダインを見てしまうと、私が行使したヒャダインは別物ですね。本当に私はヒャダインを行使したのでしょうか?」

 

「ふふふ。それは、サラの目がメルエの魔法に慣れてしまっただけだぞ」

 

 いつもと変わらぬやり取りが、彼女達の心に余裕を取り戻させる。立ち上る煙に向かって手を合わせていたサラが、先程メルエが行使した魔法を思い出し、一人悩むように顔を顰めた。

 しかし、そんなサラの疑問は、メルエの手を引いて歩き始めたリーシャによって一蹴される。魔法力を放出する事が出来ないリーシャから見れば、サラの疑問は馬鹿げた物だった。

 メルエに比べてしまうと、サラの攻撃魔法は見劣りしてしまうが、決してサラの魔法力が少ない訳でも、質が悪い訳でもない。むしろ、この世界の中で考えれば、既にサラは世界で二番目の魔法力を所持していると言っても過言ではない。世界で唯一の『賢者』となったサラの魔法力は、カミュと同様異質な物。『魔道書』の呪文も『教典』の呪文も契約が可能であり、更に『悟りの書』に記載された呪文まで行使出来る。どれ程にメルエが優れた『魔法使い』であろうと、その点で言えば、サラの方が上なのである。

 メルエも『悟りの書』に記載されている呪文の幾つかは契約が出来た。だが、『悟りの書』の残りの呪文や『教典』に記載される呪文などは、行使はおろか契約すら出来てはいないのだ。

 

「攻撃呪文では、メルエに分がある。だが、サラの唱えたヒャダインも、私から見れば充分に脅威だぞ? ヤマタノオロチとの戦いの時に、サラのヒャダインがあれば、私もカミュも火傷を負う事など皆無だったかもしれない」

 

「す、すみません」

 

 世界中を探しても、『魔道書』に記載された呪文の全ての契約を済ませた者など皆無に等しい。つまり、このパーティーにいる二人が頂点に君臨する者達なのである。まず第一に、ヒャダインを行使出来る者はいない。そして、リーシャの言葉通り、サラの行使したヒャダインは、ヤマタノオロチ戦でメルエが行使した物とそれ程大きな差は見受けられなかった。

 つまり、今のサラならば、溶岩が流れ出る灼熱の洞窟の中で、溶岩魔人を溶岩ごと凍らせる威力を発揮出来るという事になる。雷の杖という新たな杖を手に入れたメルエの魔法の威力によって、目が曇ってしまっているが、サラの成長も著しいという事だろう。

 才能という点では、サラはメルエの足元にも及ばない。だが、その魔法力の性質に関しては引けを取る事はないのだ。魔法という神秘に対して疑問を感じ、その在り方さえも考える。それがサラと言う『賢者』であった。

 故に、感覚で呪文を行使している節の強いメルエよりも、同じ呪文であれ、サラの方が高度なのだ。ただ、高度な完成度を誇る魔法が必ずしも威力ある物ではない。サラが雷の杖を持ったとしても、先程メルエが行使したようなヒャダインを行使出来るかというと話は別である。サラの呪文一つ一つは契約をした段階で完成され、それを行使しているに過ぎない。故に、媒体が何であれ、その呪文の効力も威力も変化はないのだ。

 

「…………あたらしい………の…………」

 

「メルエの新たな呪文は、必ず行使する時が来ますよ。ただ、あの魔法は少し……いえ大分威力が強すぎますので、時と場所を考えましょうね」

 

 先程まで満足そうに目を細めていたメルエであるが、リーシャの手を握って歩き出す頃には、新たな呪文の行使が出来なかった事に肩を落としていた。そんなメルエに苦笑を洩らしたサラは、その呪文が及ぼす影響を考え、その行使する時期を考え始める。だが、どれ程に考えても適した場所などないのではないかと言う結論に達してしまうのだが、それを隠してメルエに笑い掛けた。メルエは不承不承に頷きを返し、リーシャと共にカミュの後を追って歩き出す。

 カミュの想定通り、戻った野営地には、所々に腐肉の破片が散らばり、腐敗臭と死臭に満ちていた。メルエは火の傍に近寄ろうともせず、サラの腰元に顔を埋めて、サラさえも近づけさせない。仕方なくカミュとリーシャで荷物を運び、野営地の場所を移動させた。

 移動した場所で火を熾すとすぐに、メルエはサラの傍で丸くなって寝息を立て始める。暫くぶりの徒歩での旅と呪文の行使が、メルエの小さな身体に疲労を残していたのだろう。カミュのマントを剥ぎ取ったリーシャは、それをメルエに掛け、その髪を柔らかく梳いて行く。月明かりが木々の隙間から覗く中、薪が燃える音と、三人の柔らかな笑みが零れていた。

 

 

 

 翌朝、いつもより早起きしたメルエの食事を済ませた一行は、朝陽が顔を出したと同時に船が見える浅瀬へと歩き始めた。陽が昇る程に気温は上昇して行くが、メルエはカミュの傍で笑顔を作っている。カミュ達と旅が出来る事、再び魔法が発現した事、自分の唱えた呪文が誰も傷つけなかった事、それら全てが嬉しく、世界が輝いて見えているのかもしれない。そんな穏やかな旅路は、船に辿り着くまで続けられた。

 

「おお! お帰り! 会えたのだな。メルエちゃんもお帰り! 皆、三人の帰りを待っていたんだぞ!」

 

 船に上がったと同時に頭目に抱き上げられたメルエは、困ったような表情を浮かべた後、船員達の顔を見て笑顔に変える。頭目の言葉が真実である事の証明に、船員達の顔には、例外なく笑みと満足感が滲み出ていた。

 カミュと共に旅を続けていた彼等は、心底三人の身を案じていたのだろう。実は、船が大きく見え始めた頃から、その歓声はリーシャ達の耳にも届いていたのだ。何処か気恥ずかしく、それでいてこれ以上ない程の喜びを感じる歓声は、サラの瞳に涙を滲ませる程の物。まるで、そこが自分達の帰る場所であるかのような感覚に陥る事が、リーシャやサラには何故か嬉しかった。

 

「お帰りなさい」

 

「元気そうで何よりだ」

 

 次々とリーシャ達三人へ近付いて来た船員達が、口々に言葉を掛けて来る。その言葉は、飾りでも社交辞令でもない。心底、彼女達の身を案じ、その無事を喜んでいる事が解る程の物。故に、リーシャ達は一人一人の手を取り、その言葉に感謝を示す。サラなどは、もはや涙を拭う事さえ諦めていた。

 これ程までに自分を心配してくれる仲間達がいると言う事実が、この『賢者』を更なる高みへと連れて行くだろう。泣きながら微笑むサラの顔は、リーシャにそう思わせる程に美しく、そして晴れやかであった。

 

「北へ行くのか?」

 

「ああ。この大陸の北に『グリンラッド』という島があるらしい」

 

 落ち着きを取り戻した船の上で、カミュ達は頭目と今後の方針を話し始める。陽も傾いて来ている為、出港は明日に回し、その行動方針を先に決める事にしたのだ。リーシャ達と逸れたカミュは、その間、このような形で船の進路を決めて来た。

 カミュと頭目で地図を広げ、その場所場所の情報を考えながら、リーシャ達が行きそうな場所に目星をつけて移動する。その繰り返しの末、最後に向かったのが、このスーの村であったのだ。

 

「本当は、アープの塔という塔へ行きたい。この大陸の西側にあると言われているが、険しい山が多く、北へ行ってからの方が良いだろう?」

 

「塔?……塔なら、ここからでも見えているぞ?」

 

 カミュの考える方針を聞いていた頭目に、リーシャが言葉の補足をする。カミュの言葉だけでは、その場所へ向かう理由などは全く解らない。故に、リーシャが内容を補足したのだが、それはカミュ達四人の予想外な答えとなって返って来た。

 頭目の指差す方角へ首を動かすと、沈み行く太陽の光を受けて、真っ赤にそびえ立つ建造物が微かに見える。スーの村からでは険しい山脈に邪魔され、影も形も見えなかった塔ではあったが、この船の停泊している浅瀬からであれば、山脈も途切れ、平原の向こうに高い建造物が微かに見えていたのだ。

 

「カミュ、どうする?」

 

「ここからでも見えると言う事は、それなりの高さを持っているという事でしょうね」

 

 塔であると思われる物を視界に納めたリーシャは、方針の変更があるのかどうかをカミュへ問いかけ、サラはその容貌から、塔の内部の構造の予想を口にする。皆が西の大地を眺める中、メルエは甲板の縁に木箱を置き、その上に立って西の大陸へ目を凝らした。

 それぞれがそれぞれの方法で眺める西の大地は、平原と森が広がる有り触れた大地でありながらも、燃えるような夕陽の輝きを受け、神秘的な色を演出している。

 

「塔へ向かう」

 

「解りました」

 

「そうか。よし! ならば、今日は湯浴みをして、ゆっくり休む事にしよう」

 

「…………ん…………」

 

 暫しの間、夕陽が沈み行く姿を見ていたカミュは、振り返ってリーシャ達三人に視線を送り、方針の変更を告げた。その答えに大きく頷いたサラは、再び塔へと視線を戻し、リーシャはメルエの傍によってその髪を優しく梳く。気持ち良さそうに目を細めたメルエは小さく頷きを返し、笑みを溢した。

 方針は決まった。次の目的地はグリンラッドと呼ばれる北の大地ではなく、スーの村でアープの塔という名で伝わる内海を望む場所にそびえる塔となる。

 『古の賢者』が残したと考えられる書物の中にあった山彦の笛という宝物が眠る可能性のある塔。カミュ達が探し求める『オーブ』を手にする為に必要な物でありながらも、全てが謎に包まれている山彦の笛という物を求めて、彼等は小さく見える塔を目指す。

 

「スーの村という場所には、何か特産品があったか?」

 

 目的地が決まったカミュ達に頭目が唐突な質問をぶつけた。彼等とて、カミュ達がいない間に船で呆けている訳ではない。今は、この船の中に元カンダタ一味幹部の者達もおり、特産品や食料を調達して船に戻る事も、余程距離がない限りは可能である。ポルトガ等で仕入れた物を売却し、新たな物を仕入れる事も彼等の重要な仕事の一つなのだ。

 『目立った物はないが、食料などは充実していた』というリーシャの言葉に笑顔を作った頭目は、明日からの仕入部隊の選別を始めた。道中を心配するカミュの解り辛い言葉に苦笑しながらも、元カンダタ一味を中心とした部隊を作成し始める。何を言っても聞かない事を察したカミュは、スーの村では言葉が伝わり辛い事と、エジンベアの物は持って行かない事などの注意点を告げるに留まった。

 陽が完全に落ち切り、暗闇が支配する頃には、メルエとサラは自室で眠りにつき、明日の仕入部隊もまた、充分な休息を取る為に合同の仮眠室へと消えていた。今日も優しく輝く月明かりの下、西の大地を見つめるカミュは、一人、小さな達成感を胸に抱きながら、新たな目標に向かって目を細める。

 

 『古の賢者』が世間から隠した笛。

 その笛を手に入れる事によって、収集を容易にすると云われている『オーブ』。

 世界に六つある『オーブ』を捧げる祭壇。

 その祭壇へ『オーブ』を捧げる事によって、蘇る従者。

 

 それらが全て、彼等が歩む旅路に影響を及ぼす物となる。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回は予約投稿となりますが、今週の木金はお盆休みを頂きますので、物語を進めて行きたいと思っています。なるべく早く更新できるように描いて行きますが、よろしくお願い致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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アープの塔①

 

 

 

一行は、船員達の声援を受けて西へと向かって歩き出した。リーシャの手を握る反対の手を船に向かって振っているメルエの顔には笑顔が浮かぶ。ここ数日、メルエは笑ってばかりだ。世の中は、彼女にとってとても優しい物へと変化して行ったのだろう。物心付いた頃には、共に暮らす育ての親から虐待を受け、顔を赤く腫らせずにいた日はなかった。毎日、下働きの為に通った劇場でも彼女の居場所はなく、劇場にいる踊り子はおろか、その練習生からも扱き使われる日々。そしてそんな毎日を文句も言わずに勤め上げて来た結果が奴隷としての売却であった。全てを諦めたメルエの前に突如開かれた未来への扉。そこからの日々は、新鮮な事、驚く事、嬉しい事、楽しい事に満ちていた。そんな中で訪れた突如の別れ。それが彼女の心に唐突な不安を生んだのだが、その哀しみも取り払われた今、再び世界は彼女の為に輝きを取り戻していたのだ。

 

「メルエ、しっかり歩かないとカミュに置いて行かれるぞ」

 

「…………カミュ………はやい…………」

 

朝陽を受けた平原の草花は、朝露を身に纏い、光を放つように輝いている。近くの森からは鳥達の囀りが聞こえ、空を流れる雲達が風を運んで来る。そんな嬉しくて仕方がない景色に笑みを溢しながら視線を巡らせていたメルエは、リーシャの言葉に軽く頬を膨らませる。前を歩くカミュが速度を上げている訳ではない。だが、頬を膨らませたメルエは、地図を持ちながら前を歩くカミュを恨めしげに見つめて不満を漏らした。

 

「ふふふ。駄目ですよ。カミュ様は別に急いで歩いている訳ではありません。目的が決まっている以上、メルエがしっかり歩かなければ駄目です」

 

「…………むぅ…………」

 

そんな幼い我儘は、隣を歩いていた姉のような存在に窘められた。笑顔を浮かべているが、メルエの行動について窘めている事は事実である。その証拠に誰一人として立ち止まる素振りは見せず、カミュへ声を掛ける者もいない。それを理解したメルエは、不満そうに頬を膨らませ、唸り声を上げる事しか出来なかった。

 

 

 

一行は数度の戦闘を繰り返しながら西に広がる海を目指す。船を出て歩き始めてから、既に二日が経過していた。この地方特有の物なのか、気温が高いようで、日中に太陽の陽射しを受ける身体は、じっとりと汗を掻いている。メルエなどは、天に輝く太陽を恨めしげに睨みつけているが、その太陽からの熱気に即座に眉を下げる事となっていた。風は生暖かく、東から西へと吹き抜けており、まるでカミュ達の背を押すかのように、その歩みを急かしている。東の空へと視線を向けると、巨大な入道雲が広がり、真っ青な空に彩りを加えていた。

 

「船からでも見えていたのに、なかなか近付く事が出来ないな」

 

「それだけ、高さのある塔なのかもしれませんね」

 

未だに前方に見えている塔は、船から見ていた物よりも大きくなってはいるのだ。それが徐々に近づいている証拠ではあるのだが、歩いても歩いても塔の根元が見えて来ない事に、流石のリーシャも溜息を洩らす。リーシャの顔から再び前方へと視線を戻したサラは、実際に<アープの塔>という塔は、これまで昇って来た<ナジミの塔>、<シャンパーニの塔>、<ガルナの塔>の三つの塔よりも高さのある物ではないかと見ていた。

 

「しかし、心配なのは空だな。風が生暖かく、何処となく湿っている気がする」

 

「えっ!? また雨ですか?」

 

塔へ向けていた視線を空へと向けたリーシャは、不安そうな表情を見せながら言葉を洩らす。それは、何かを暗示するような物であり、サラはすぐにその事に思い至った。彼女達が『塔』という場所を登る時は、大抵雨が降っている。最初の<ナジミの塔>では晴れていた筈であるが、<シャンパーニの塔>や<ガルナの塔>に至っては、小雨程度の話ではなく、嵐に近い形での暴風雨。故に、塔を登る事でもかなりの疲労を感じるにも拘わらず、それ以外で体温と体力が奪われる事となった。それが原因で、メルエは体調を崩したのだ。

 

「一度、船に戻った方が良いのかもしれないな」

 

「そうですね。何時止むかどうか解らない雨を凌ぐよりも、出直した方が良いのかもしれません」

 

リーシャの提案に一つ頷いたサラは、前を歩くカミュへ声をかけ、その足取りを停止させる。振り向いたカミュの許へ走り寄ったメルエは、暑さに対する不快感を身体全体で表すが、それに苦笑を浮かべるカミュを見て、すぐさま笑顔に変えた。メルエの纏う<アンの服>は、<みかわしの服>と同じ素材で出来てはいるが、外気に対しての備えにはなっていない。カミュは袋に入っていた布を取り出し、メルエの額や首筋を丁寧に拭き取ってやり、近寄って来たリーシャ達へ視線を向けた。

 

「この布に<ヒャド>でも掛けてやってくれ」

 

「あっ!? は、はい。メルエ、気がつかなくてごめんなさい」

 

「…………ん…………」

 

カミュに汗を拭いて貰ったメルエは、サラの謝罪に笑顔で頷きを返した。サラは、カミュから布を受け取り、<ヒャド>を唱えて、布を軽く凍らせる。凍らせた布を手で揉み解し、もう一度メルエの顔や首筋の汗を拭うように拭き取って行った。気持ち良さそうに目を細めるメルエに笑みを溢したリーシャは、同じように優しい顔を作るカミュに向かって、先程サラと話していた内容を口にする。

 

「アンタの言う事は尤もだが、今までの旅を思い返すと、塔を登り切るまで雨は止まない気がするのだが……もし、船に戻っても、あの塔へ向かおうとすれば、雲行きが怪しくなるような気がする」

 

「……」

 

「確かに……そう言われれば、そのような気もしますね」

 

この旅の中で登った塔は三つ。一つは、彼等の故郷であるアリアハンの傍の小島に立つ<ナジミの塔>。一つは、彼等が遭遇した最初の強敵であるカンダタと対峙した<シャンパーニの塔>。最後の一つが、サラという『賢者』を生み出す事となった<ガルナの塔>。この三つの内、二つは雨が降りしきる中で昇っている。それは、まるで塔に纏わる何かが泣き暮れるかのような雨。カミュ達の到来に対して、喜びなのか、哀しみなのかは解らない涙を流しているかのような雫が、天から降り注いでいた。

 

カミュが言う事は、何の根拠も無い話。通常であれば、『何を馬鹿な事を』と一蹴出来る程度の物言いである。だが、リーシャもサラも、何故かカミュの予想を鼻で笑う事は出来ず、考え込んでしまった。雨の降りしきる中、塔という足場の不安定な場所を探索する事は危険が伴う。体力と共に、濡れた身体の体温までもが急速に奪われて行く中、塔を住処とする魔物達との戦闘も行って行かなければならない。それは、今、冷たい布の感触に目を細めている幼い少女が最も影響を受けてしまう物である。

 

「雨が降った場合、<シャンパーニの塔>の時と同様に、メルエをマントの中に入れて歩く。もし、<ガルナの塔>のような吹き曝しの場所を渡らなければならない場合は、メルエとアンタを待機させ、俺が行く事にする」

 

「わかった。サラ、メルエの汗は小忠実(こまめ)に拭いてやってくれ」

 

「はい。わかりました」

 

カミュが何も考えずに塔へ向かっている訳ではない事を悟ったリーシャは、一つ頷いた後、サラへ細かな指示を出す。サラはメルエの汗を拭きながらそれに頷きを返す。空模様はまだ安定しているが、先程見かけた入道雲が更に大きくなっているようにも見え、時間が経てば、空に雲が広がって来る事も予測出来た。一過性の雨であったとしても、その量が多い事は想像できる。一行は、降り出す前に塔へ辿り着く為に足を速める事となった。

 

その日の陽が沈み込む頃には、ようやく塔の根元がはっきりと見え、夕陽を受けて眩いばかりの輝きを放ち始めていた。数刻歩けば辿り着ける事を確認したリーシャが、野営の提案を行うが、雨の事も考慮に入れ、出来るだけ近くへ行ってから野営を行う事を主張するカミュの言葉を飲む形となる。完全に陽が落ち、周囲が闇の静けさと、月の明かりだけが支配する頃に、カミュ達は塔のすぐ傍にある森の入口へと辿り着いた。

 

「間違いなく、明日の朝には雨が降るな」

 

「そうですね。枯れ木などは、今日の内に出来るだけ集めておきましょう」

 

リーシャが見上げた夜空には、星一つ見えない。空全体を覆うような雲が広がっており、湿った風が流れている。リーシャの言う通り、この分では明日の明け方付近から雨が降り出す事となるだろう。それに同意を示したサラは、本日の内に枯れ木などの薪となる物を集め、革袋に入れて置く事を提案した。この場所から見える塔は、<ナジミの塔>とは異なり、吹き曝しの雨風が入って来るような造りではない事が窺われるが、それでもここから塔までの間で濡れた衣服が一行の体温を下げてしまう事は明白である。故に、塔の内部で火を熾し、衣服を乾かす必要があるのだ。

 

木々が密集し、雨の滴が落ちて来ないような場所で火を熾し始めた一行は、枯れ木と共に収穫した木の実などを口にし、見張りのカミュを残して眠りに就く。全員が寝静まり、カミュが火を絶やさぬように薪をくべ直す頃には、平原を吹き抜ける風は成りを潜め、周囲を更なる闇が包み込み始めた。ぽつりぽつりと大地へと舞い降りる雫は、次第にその勢力を強め、森を形成する木々が広げた葉を鳴らす。予想通りの状況に溜息を吐き出したカミュは、再び枯れ木を焚き火へと放り込んだ。

 

 

 

目が覚めた時、見事なまでの降雨の景色に、サラは驚きよりも溜息を吐き出す。太陽は昇って来ている筈にも拘らず、その顔は分厚い雲に隠されていた。周囲は薄暗く、空気は湿っている。豪雨という程でもなく、それでいて小雨でもない。唯、そこには雨が降っていた。眩いばかりの明るさではない朝を迎え、メルエなどはまだ夢の中で彷徨っている。既に出発の準備を終えているカミュやリーシャを見たサラは、慌てて準備を進め、あとはメルエの起床を待つ形となる頃になっても、雨の勢いは衰える事も無く、逆に激しくなる事もなかった。

 

「……出るぞ……」

 

「メルエ、マントを着け終わったら、カミュのマントの中に入れ」

 

全ての準備を終え、火に土を掛けて消したカミュは、森を出る為にリーシャ達へと声を掛ける。サラにマントを結びつけて貰っているメルエは、リーシャの言葉に頷きを返し、嬉々としてカミュのマントの中へと潜り込んだ。それを見届けたリーシャとサラはお互いに頷き合い、一度泣き暮れる天を見上げた後、カミュを追って森の外へと飛び出す。

 

天の流す涙は、一行の身体を湿らせて行った。体温が徐々に失われて行く感覚を味わいながらも、目の前に見える塔へと一歩一歩近付くように足を踏みしめ、四人は歩いて行く。その足は、確実に塔との距離を詰め、サラの髪の毛が雨によって濡れ切る頃には、高くそびえる塔の入口に辿り着いていた。

 

「メルエ、先に中へ」

 

「…………ん…………」

 

マントの中にいるメルエを塔内部へ導いたカミュは、そのままリーシャやサラも中へと入れて行く。カミュが最後に扉を閉じた後には、雨が大地を濡らし続けていた。

 

 

 

塔の内部へはいると、そこは<ナジミの塔>のような吹き曝しの雨風が入って来るような場所ではなく、しっかりとした壁が保護している場所であった。その分、太陽の光が届き難く、薄暗い。カミュが持っていた<たいまつ>へ<メラ>を放ち、明かりで内部を照らすと、そこは大きな広間が広がっている。注意深く全体に明かりが行き渡るようにカミュは先頭を歩き、前方へと進んで行った。

 

「カミュ様、あそこに燭台がありますよ」

 

「あれは……扉か?」

 

カミュの後ろを歩くサラが前方の壁に燭台が付けられている事を伝えると、その後ろにいたリーシャは、燭台と燭台の間に壁ではない何かを確認する。カミュはリーシャの問いかけには答えずに、燭台へと火を移し、扉らしき物へ<たいまつ>を向けた。燭台に灯った明かりと、カミュの持つ<たいまつ>によって浮かび上がった物は、間違いなく扉その物。

 

「鍵がかかっているな……メルエ?」

 

「…………ん…………」

 

扉へと近付いたカミュは、その扉を押して見るが動かない。良く見ると、扉の前方部分にパドロックが掛けられている。誰が何の為にこの塔の入口に鍵を掛けたのか。サラはその疑問を頭に浮かべてすぐに、その答えは導き出された。それは、サラとカミュが考えた<山彦の笛>の在り処が、この場所で間違ってはいなかった事が証明された瞬間でもある。この場所に鍵を掛けたのは、『古の賢者』であろう。そして、その答えが導き出されたと同時に、ある不安がサラの胸に湧き上がる。

 

カミュが振り向いた事で、メルエは自分の肩から掛ったポシェットの中へ手を入れた。その中に入っている物は、イシスという砂漠の国にある文化遺産<ピラミッド>に隠されていた宝物。この世にある鍵を開ける事の出来る『開錠の魔法』が掛けられた鍵。それは<魔法のカギ>と呼ばれている。だが、サラはここで不安に思うのだ。『古の賢者』が掛けた鍵は、ここだけではない。以前に訪れたランシールの村にあった神殿へと続く扉の鍵も『古の賢者』が掛けたと云われている。だが、あの扉を開ける<最後のカギ>と呼ばれる物を求めてカミュ達は旅をしているのだ。『ならば、この扉も開かないかもしれない』というサラの疑問は、次の瞬間に杞憂であった事が確定する。

 

「…………あいた…………?」

 

「ああ。ありがとう」

 

『かちゃり』という乾いた金属音を響かせた事によって、メルエが小首を傾げながらカミュへと問いかけた。それに頷いたカミュは、お礼の言葉と共に、持っていた<魔法のカギ>を手渡す。それを笑顔で受け取ったメルエは、再び大事そうにポシェットへと仕舞い込んだ。その一連の行動が、サラの心配が杞憂に終わった事を示唆している。背中を押すリーシャの顔を見たサラは我に返り、先に入って行ったカミュ達を追って歩き出した。

 

「どっちだ?」

 

扉を越えた先で、カミュとメルエはリーシャ達を待っていた。カミュが問いかけたのは、サラの前にいるリーシャ。つまり、入ってすぐに壁にぶつかり、道が二手に分かれていたのである。分かれ道と言えばリーシャ。この公式はカミュだけではなく、既にサラの頭にも、それこそメルエの頭にも刻まれている。故に、カミュの言葉を聞いたサラとメルエは、思わずリーシャの顔を見上げてしまった。

 

「な、なに? わ、私か?……う~ん、どちらでも同じではないか?」

 

「ふぇっ!?」

 

しかし、暫し考えた後に発したリーシャの言葉に、サラは素っ頓狂な声を上げてしまう。何度も自分の考えた道を指し示して来たリーシャがこのような発言をする時は、カミュがリーシャの言葉を無視し続けた後と相場は決まっている。だが、この塔に入ってから、カミュが尋ねたのは初めてである。故に、サラは驚いた。それはカミュも同様だったのだろう。

 

「……わかった……」

 

若干目を見開いていたカミュであるが、リーシャの瞳の中に投げやりな感情が見受けられない事で、カミュはその言葉が真実である事を悟った。しっかりと考えた結果、リーシャの中でどちらへ行っても同じ結果になるような気がしたのだろう。それはそれで類稀なる才能であるのだが、当のリーシャはその事に気付きもせず、頷いたカミュを満足気に見つめ、自分を見上げているメルエの手を優しく握り込んだ。

 

カミュが選んだのは左手の道。そのまま進むと、道は右手へと折れ、再び真っ直ぐな道へと出た。塔の外側に位置する通路のようで、壁際から微かに雨音が聞こえて来ている。その音を聞いたリーシャはメルエの手が若干冷たい事に気付き、開けた場所へ出た際にでも、一度火を熾す必要があると考え始めていた。

 

「また扉ですね」

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

先へ進むと、再び現れた扉を見て、サラが口を開く。先程開けた扉と同じような物がカミュ達の前に立ち塞がったのだ。その扉にもパドロックが掛けられており、それを見たカミュは、メルエへと手を伸ばす。自分の名前を呼ばれた事により、カミュが求める物を察したメルエは、ポシェットに手を入れ、再び<魔法のカギ>を取り出した。受け取った鍵を錠前に差し込む。乾いた金属音を響かせた錠前を取り外し、カミュは扉を押し開く。その時だった。

 

「カミュ!」

 

扉を押し開き、その中へと一歩踏み出したカミュの横から煌く光を見たリーシャは、叫びと同時に駆け出した。メルエの脇を抜けて飛び出したリーシャは、一気にカミュの横へと立ち、左手に装備した<魔法の盾>を掲げた。リーシャの叫び声で振り向いたカミュは対処する事が出来ない。そんなカミュの代わりに掲げられた盾に激しい衝撃と、乾いた金属音が響いた。

 

「メルエ、下がって!」

 

その音が敵の襲来を告げる警告である事を察したサラは、呆然と立ち尽くすメルエの腕を引き、自分の後ろへと移動させる。その間も、扉の向こう側では既に戦闘は開始していた。咄嗟の行動で盾を掲げたリーシャは、すぐに<バトルアックス>を右手に持ち、それを前方へと振り抜く。しかし、その斧の一撃は、同じように盾のような物で防がれ、乾いた音を響かせた。

 

「一度、態勢を立て直す」

 

「わかった!」

 

周囲を敵に囲まれた気配を感じたカミュは、一度扉を戻り、態勢を立て直す事を伝える。それに応じたリーシャは、もう一度<バトルアックス>を横合いに振り抜き、後方へと飛んだ。メルエを後ろに庇ったサラは、下がって来るカミュ達を追うように、開かれた扉を潜って来る魔物の姿を見て、息を飲む。サラの後方からその姿を見たメルエも、眉を下げ、唸り声を上げた。

 

「また、こいつらか!?」

 

燭台に灯された炎に照らされて浮かび上がったその姿は、カミュ達が何度か遭遇した事のある者。いや、正確に言えば異なるのだが、大まかな部分に何一つ変わりはない。右手に剣を持ち、左腕には盾を装備している。そして、その全身は強固な鎧によって覆われていた。それは、ノアニール周辺にいた魔物。または、テドンの村周辺でカミュの身体を鎧越しに突き刺した魔物。

 

<キラーアーマー>

その名の通り、殺す事に特化した鎧の化け物。<さまよう鎧>や<地獄の鎧>と同様、その鎧の下に肉体を有してはいない魔物。無念を残した者達の鎧が『魔王バラモス』の魔力の影響を受けて現世を彷徨う事になった魔物。生前の者の潜在意識を根底に持っている為か、自身よりも強い者を求めて彷徨っている為、同じような境遇に陥った鎧と日々剣を交えていたりする。だが、生者を認識すると、その者に襲いかかり、自身の力を誇示するように剣を振るう事がある。日々剣を振っている為、その力量は<さまよう鎧>や<地獄の鎧>よりも上となる。

 

「カミュ、二体いるぞ」

 

「ああ。解っている。この魔物に魔法の効力は期待できない。一人一体だ」

 

扉を潜って来たのは、鎧が二体。もしかすると、カミュが扉を開ける前に互いに剣を交えていたのかもしれない。そこに飛び込んで来たカミュへ偶然剣が振り下ろされ、それを防いだリーシャの一撃によって、敵と看做したのだろう。ゆっくりと近寄って来る<キラーアーマー>の鎧は赤黒い色をしていた。長い年月をこの塔の内部で過ごしているのだろう。その鎧は錆が浮き上がり、付着している染みは何処かの人間の血液なのかもしれない。

 

「メルエ、<バイキルト>の準備を」

 

「…………ん…………」

 

カミュとリーシャが魔物へと向かって駆け出したのを見届けたサラは、メルエに補助呪文の準備を促した。カミュの言う通り、この中身のない鎧の魔物には、メルエの放つ攻撃魔法が基本的に通じない。氷結系の魔法ならば効力があるかもしれないが、それも所詮は動きを止める事しか出来ないだろう。メルエの氷結系呪文は強力である。その者の身体の芯までをも凍らせ、生命としての活動を停止させる。だが、中身のない鎧では、メルエの魔法でその魂を駆除する事は出来ないのだ。故に、打撃系でその鎧ごと魂を昇華させる以外に方法がない。

 

「やぁぁぁ!」

 

突き刺してくるように出された<キラーアーマー>の剣を盾で弾き返したリーシャは、そのまま力任せに<バトルアックス>を振り下ろす。元々、相当な重量のある戦斧である。それは振り下ろす力も加わり、中身のない鎧へと襲いかかった。だが、その一撃は、地面に足を固定させた<キラーアーマー>の盾によって防がれる。その後は、拮抗する攻防が続いた。重量のある武器を装備しているリーシャは、剣を持っていた時のような小刻みな攻撃を繰り出す事は出来ない。それでも剣を持っている<キラーアーマー>の攻撃を凌ぎながら、その鎧に傷をつけて行っているのは、リーシャの実力の方が数段上であるからなのだろう。

 

「ふん!」

 

それは、カミュも同様であった。二か月に渡る一人旅の結果、カミュはその実力を大幅に上げている。それは、剣を振るう事もその一つではあるが、それ以上に視野が広がった事の影響が強いのかもしれない。リーシャの一撃でよろめいた<キラーアーマー>の背中から突き出された剣は、先程までもう一体の相手をしていたカミュの持つ<草薙剣>であった。錆付いた鎧は、神代の剣によって容易く貫かれ、中に入っている魂を除去して行く。その一瞬の隙を突いたもう一体の<キラーアーマー>がカミュの背中越しに剣を振り下ろそうとしていた。

 

「どけ、カミュ!」

 

しかし、<キラーアーマー>のその行動を、彼の相棒は許さない。カミュの剣を受けて膝を着いた<キラーアーマー>の背中を蹴って飛び上がったリーシャは、その重力と武器の重量を利用して<バトルアックス>を力一杯振り下ろした。咄嗟の攻撃に対し、剣を戻して盾を掲げた<キラーアーマー>であったが、その盾は、重量感のある<バトルアックス>を防ぐには脆過ぎた。

 

「やぁぁぁ!」

 

盾を真っ二つに圧し折ったリーシャは、着地と同時に斧を横薙ぎに振り抜く。既に身を守る盾を失った<キラーアーマー>は何とか剣を掲げるが、錆の浮いた剣は一瞬の内に弾け折れ、その身を<バトルアックス>によって斬り裂かれて行った。下腹部辺りに突き刺さった斧が、そのまま両足部分を弾き飛ばす。態勢を崩した<キラーアーマー>の脳天に止めの一撃が振り下ろされた。

 

「メルエ、もう大丈夫です」

 

「…………ん…………」

 

鎧を動かしていた呪いに近い魂魄は浄化された。沈黙する鎧を見たサラは、隣で<雷の杖>を握っているメルエへと声を掛ける。何時でも呪文を詠唱出来るように準備していたメルエは、何処か『ほっ』としたように頷きを返した。もしかすると、メルエの中には、魔法に対する小さな不安が未だに隠されているのかもしれない。そんな気がしたサラであったが、それはこれから先、メルエ自身が乗り越えていかなければならない物。故に、サラは笑顔をメルエに向けて、その心を和ませる事だけに留めた。

 

「しかし、この<バトルアックス>は良い武器だな。ありがとう、大事に使う事にする」

 

「そうしてくれ」

 

サラがメルエの笑みを見ている頃、自身の武器を一振りしたリーシャは、その武器の感触を味わいながら、カミュへ頭を下げた。基本的に、パーティーの武器や防具を買う為の資金は、カミュの持っているゴールドから支払われている。だが、元を辿れば、そのゴールドはパーティーが倒して来た魔物の部位などを売却した資金なのだ。故に、リーシャが感謝する必要はないとも言えるのだが、それが彼女の気質なのだろう。彼女が自身の扱う武器に愛着を持ち、手入れなども念入りに行っている事を知っているカミュは、リーシャの謝礼を受け、軽く頷きを返した。

 

「やはり、この塔も魔物が棲み付いているのですね。しかし……この鎧を装備していた方々も、<山彦の笛>を求めてこの塔へ訪れたのでしょうか?」

 

「どうだろうな。だが、この者達がここで命を落としたのは扉に鍵が掛けられる以前なのだろうな」

 

サラの疑問に対して、リーシャは感じた事を口にする。『古の賢者』という存在がこの塔の鍵を掛けたのだとすれば、それは数十年も前の話となるだろう。故に、この塔に魔物が棲み付いているのならば、その魔物達は共食いをして行かなければ生きて行けない事を示している。もしくは、既にこの世の生命ではない者ばかりという事になるのだ。その事実に辿り着いているからこそ、カミュとサラの瞳は厳しい。カミュに至っては、剣を鞘に納める事をせずに右手に握ったまま。

 

「……行くぞ……」

 

カミュは、そのまま扉の奥へと入って行った。リーシャもまた、サラとメルエを先に行かせ、手に斧を構えたまま先へと進む。塔の中は静けさに満ちていた。同時に、籠った不快な空気が支配している。そんな数十年ぶりに解放された塔内部へ、外部から新鮮な空気が流れて行った。

 

扉の先は一本道であり、暫く歩くと再び道は右方向へ折れて行く。壁伝いに曲がった先を確認したカミュは、後ろに控えるリーシャへ一つ頷きを返し、そのまま道の中央へ出て行った。カミュが通路に出た事で、魔物等の脅威がない事を悟ったメルエがカミュのマントの裾を握りに駆け出す。危険な気配も無い事から、リーシャとサラは、そんなメルエの行動に苦笑も洩らすだけで、制止する事はなかった。

 

「リーシャさんの言う通り、あの別れ道で出来た二つの道は繋がっていたみたいですね」

 

「だろ? 私の言った通りだ」

 

「……そうだな……」

 

カミュが掲げた<たいまつ>の明かりが指し示す先の道は、奥に繋がっているが突き当たりは右へと折れている。それが示す事は、二つの道が今サラ達のいる場所で交差しているという事に他ならない。塔としての構造上、その道の途中で他へ向かう道があったとは考えられない為、リーシャの言葉通り、どちらへ行っても同じ事だったという事なのだろう。サラの言葉を受けたリーシャは、誇らしげに胸を張り、カミュに向かって得意気に鼻を鳴らした。カミュは軽く溜息を吐き出し、リーシャの言葉を肯定する。そんな二人にサラとメルエは微笑み合った。

 

「また扉ですね」

 

「ということは、先程の鎧は、こんな狭い空間の中で数十年いたという事か?」

 

道は合流した地点で右に折れている。その方向へと進んですぐ、カミュ達の前にもう一度扉がそびえ立っていた。その事実は、サラの後に口を開いたリーシャの言葉に集約されている。先程遭遇した<キラーアーマー>はこの短い空間で数十年の間、剣を振り続けて来たのだろう。初めは他にも魔物がいたのかもしれない。だが、時間の経過と共に、既に生命体ではない<キラーアーマー>だけが残ってしまった。そう考えるしかないだろう。

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

「メルエ、扉を開ける時は、私の傍にいろ」

 

メルエがポシェットから<魔法のカギ>を取り出すのを見たリーシャは、鍵穴に差し込むカミュを見上げているメルエを自分の後ろへと下がらせた。先程、扉を開けた瞬間に<キラーアーマー>と遭遇した事を考えたのだ。『むぅ』と頬を膨らませるメルエの肩を軽く叩き、リーシャは<バトルアックス>を手に握る。それは臨戦態勢に近い恰好であったが、それは無駄に終わった。

 

「……階段……ですか?」

 

カミュが扉を潜った事を見届け、三人が中へと入って行くと、そこは少し広めの空間と四方向へ分かれた階段らしき物が見える。サラが言った通りの情景ではあるのだが、問題はその階段が四方向へ分かれている事。階段の登った先はどうなるのかは解らないが、だからこその不安があるのだ。そして、そんな不安を抱いた者達の視線が向かう場所は、たった一つ。

 

「な、なんだ? 何故、私を見るんだ?」

 

前を歩いていたカミュが振り返ったのと同時に、サラとメルエの瞳も、彼女達が姉と慕う女性へと注がれた。驚いたのは、そのリーシャ。『自分は何か失態を犯したのか?』という疑問が真っ先に頭に浮かんだ彼女は、動揺を隠す事無く、三人の顔を見渡した。しかし、サラやメルエの顔の上に浮かんでいたのは笑み。そして、彼は静かに口を開く。

 

「……どれだ……?」

 

「な、なに? この階段か?……私が解る筈がないだろう」

 

「いえ。おそらく、リーシャさんならば解りますよ」

 

「…………ん…………」

 

問いかけたカミュの言葉は、リーシャにとって予想外の事だったのかもしれない。あれだけ自ら道を示そうとし、それの結果を散々見て来ているにも拘わらず、それに思い至らない彼女は、やはりリーシャという女性なのだろう。だが、その女性の性質を知るサラとメルエは、笑顔で頷きを返す。『リーシャでなければ無理だ』と。そんな信頼を向けられたリーシャが黙っている筈がない。

 

「心得た! う~ん……右手前の階段ではないな……」

 

「……わかった……」

 

だが、意気揚々と道を指し示そうとするリーシャの最初の一言でカミュは動き始める。リーシャとすれば、真っ先に消去した方角へ向かって行くカミュを見て、憤慨するしかなかった。彼女の口からはまだ正解の道順は発せられていないのだ。それにも拘らず歩き出すという事は、最初から聞く気がなかったという事と映ったのであろう。

 

「カミュ! まだ私は言っていないぞ! 左奥だ!」

 

「……了解した……」

 

肩を怒らせて自分に迫って来るリーシャに軽い溜息を吐き出したカミュは、最後のリーシャの指示を受けて左奥の階段へと向かって行った。驚いたのはサラとメルエ。サラは純粋にリーシャの指示に従ったカミュに驚き、メルエは自分に迫って来るようなリーシャの姿に驚いて、カミュのマントの中へと隠れてしまう。だが、カミュはそんな二人の心の動きを気にする事無く、階段を上って行った。

 

 

 

「……これは……」

 

先頭のカミュとメルエが上り切り、その後を続いたサラが見た景色は、異様と言う他なかった。確かに、階段を上がる最中、他の階段の姿も見えたままであったが、ここまでの物だとはサラも予想していなかったのだ。それは、カミュもリーシャも同様であったのだろう。二人とも、上り切った場所にある踊り場のような場所で、広がる塔内部の景色に見入ってしまっていた。

 

上った先は四方向へ分かれた道。完全に塔を四分割したような形で道が形成されている。カミュ達が上った四つの階段を中心に据えた通路は、十字にクロスしていた。その四つの階段はそれぞれが進める通路を限定している。カミュ達が選択した左奥の階段は、南の方角へ伸びる通路と、東へ伸びる通路のみ進む事が可能であり、他の通路へ向かいたいのであれば、一度階段を降りて上り直さなければならない。

 

「カミュ様、どうしますか?」

 

「南へ進もうと、東へ進もうと、行き着く先は同じだろう。そこで一度火を熾す」

 

見える光景に呆然としていたサラであったが、我に返るとすぐに、カミュへ行き先を問いかける。それに対して、カミュは溜息混じりに方針を口にした。リーシャにとっては不満の声を叫びたい内容であろうが、過去の実績が物語っている以上、サラはその言葉を否定するつもりもなかった。この塔に入るまでに雨に打たれた身体は未だに濡れたままである。メルエは、カミュのマントという全体防壁に守られてはいたが、体温が低下している事は間違いないだろう。故に、唇を噛み締めているリーシャもその後を続いたのだ。

 

塔内部は、静けさに満ちている。

外側から何重にも鍵を掛けられ、閉鎖された空間。

その場所は、静けさだけではなく、死臭さえも広がっていた。

数十年ぶりに訪れた生者。

生者を迎え入れた『死の塔』は、再び時を刻み始める。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

少し短くなってしまいましたが、アープの塔は二つに分ける事にしました。
この塔の解釈も、完全な久慈川式独自解釈が入っています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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アープの塔②

 

 

四方向へ伸びた通路を階段によって遮っているのは四本の柱のような太い壁。それは上の階層へ繋がっているように伸びている。そんな不思議な建築構造を眺めながら、カミュ達は東の通路に進路を取った。壁伝いに真っ直ぐ伸びていた道に魔物の姿はない。いや、何かの成れの果てである物が辺りに散らばってはいるが、それが『人』の物なのか、それとも『魔物』の物なのかが区別できない程に劣化している。骸骨というよりも、砕け散った骨のような物と言った方が正しいだろう。サラはその光景に眉を顰めるが、以前に歩いた<ピラミッド>の地下程でもない事から、その事を口に出す事はなかった。

 

「……火を熾すぞ……」

 

「あ、は、はい」

 

サラが思考の海に潜っている間に、一行は道を右に折れ、その先にある空間へ辿り着いていた。そこは、案の定の行き止まり。カミュは予想していた場所である為、何の感情も見せずに薪の入った革袋をサラへ要求する。今回、森で薪を集め、それを入れた革袋を運んでいたのはサラだったのだ。前衛で武器を振るう回数が多いカミュやリーシャよりも、後衛での指揮官であるサラが持ち運んだ方が効率が良い。長い時間火を熾す訳ではない為、その薪の量も限定されており、サラでも持ち運ぶ事の出来る重さでもあった。

 

「メルエ、マントを脱ぎましょう?」

 

薪をカミュに渡したサラは、濡れたメルエのマントを取ろうと近寄る。カミュは革袋の紐を緩めている時だった。メルエのマントの紐に手を掛けたサラの表情が厳しい物へと変化する。それを見たリーシャは、<バトルアックス>を片手にこの行き止まりの空間の入口へ視線を送った。メルエの眉が下がっている。只それだけ。それだけの事でサラとリーシャは、警戒感を露にしたのだ。この塔に入ってから、メルエの態度は変わらない。体調が不調という訳ではないメルエが眉を下げる理由は唯一つ。

 

「うっ! カミュ、この場所で戦う事は危険だぞ!」

 

「正面から来るのであれば、戦わざるを得ないだろう!」

 

革袋の口紐を再び結び直したカミュは、背中の鞘から剣を抜き放ち、前方へと踊り出た。珍しく語気の荒いカミュの言葉が、この後に遭遇する魔物の種類を物語っている。漂い始める死臭と、咽返るような腐敗臭。それが意味する物は、この世の者ではない魔物の登場。何度か戦った事のある、動く死体との再会である。

 

「カミュ、入口は一つだ。魔法は使えない。突っ込むぞ」

 

リーシャの言う通り、この行き止まりに向かって来る道はたった一つ。故に、その入口から入って来ようとする魔物に向かって魔法を放てば、自分達の行動が制限されてしまう。<ベギラマ>等の灼熱呪文を唱えてしまったとしたら、この狭い空間の中で蒸し焼きになってしまう可能性すらある。カミュもその事を承知しており、リーシャに向かって頷いた後、一つしかない入り口付近へと移動したのだが、これがいけなかった。

 

「キャァァ!」

 

カミュとリーシャが入り口付近に移動し、逆に後方へと移動した筈のサラとメルエ。そのサラの悲鳴が途轍もない轟音と共に狭い空間に響き渡った。入口が一つしかないという常識に縛られていたカミュ達にとっては、寝耳に水の如く、予想だにしなかった光景が広がる。壁際にいたサラは、後方から襲いかかった突然の攻撃を受け、前のめりに倒れ伏した。サラの後方は土と煉瓦で作った壁があったのだが、それが無残にも破壊されている。土埃と煉瓦の欠片を身に受けたサラは頭を抱えた事によって、完全な無防備となってしまったのは、サラに匿われていた幼い『魔法使い』。

 

「うっ! メ、メルエ!」

 

瞬時に立ちこめる死臭と腐敗臭。それが示す事は、逆側から壁を破壊して腐乱死体がこの空間に入って来たという事実。完全に目測を誤ったカミュやリーシャは、慌てて後方を振り返るが、その行動は遅すぎた。壁を突き破って来た魔物達は四体。この塔へ向かう途中に遭遇した<毒毒ゾンビ>と呼ばれる腐乱死体である。この塔には既に生物はいないと考えられていた。その過程が正しい事が証明されたのである。

 

リーシャは叫び声をあげるが、吐き気を抑えきれない程の腐敗臭が回りを支配し、声が届かない。カミュは剣を握ったまま駆け出した。しかしサラは、崩壊した壁に吹き飛ばされ、その残骸に埋もれてしまっている。必然的に、<毒毒ゾンビ>と相対しているのはメルエ唯一人となってしまった。メルエは魔物が迫り来る恐怖と、息も出来ない程の腐敗臭によって動くことさえ出来ない。緩慢な動きをする<毒毒ゾンビ>ではあるが、その腕は確実にメルエへと伸びて来る。カミュとリーシャはすぐさま駆け出したが、それでも間に合わない。

 

「…………うぅぅ…………」

 

余りの不快な臭いに、メルエはそのまま尻餅を突いてしまう。迫り来る腐敗した腕。彼女が頼りとする者達はこの場所にはいない。幼い『魔法使い』を救おうと掛けて来る二人の姿も、メルエの瞳にはもう映らない。その小さな身体と心に襲いかかる恐怖によって、メルエは瞼を閉じてしまったのだ。心の底から『助けて』という願いを発しながら。

 

「なっ!?」

 

「!!」

 

『間に合わない』とリーシャもカミュも感じた瞬間、瞳を閉じてしまったメルエの手が握っている杖が輝き出した。尻餅を突き、床に座り込んでしまったメルエではあったが、その手に握る<雷の杖>は、しっかりと立っている。そして迫り来る<毒毒ゾンビ>を睨むように向けられていた禍々しいオブジェの瞳が炎を宿した。それは、この幼い少女の心の扉を護る門番。『古の賢者』の持ち物であったと思われるその杖は、今はこの幼い少女を主と定めている。主を護る事が杖の定め。そして、その使命は具現化される。

 

「グモォォォォ」

 

オブジェの嘴から突如発生した光弾は、メルエに腕を伸ばしていた<毒毒ゾンビ>の胸部に直撃した。光弾の直撃を受けた<毒毒ゾンビ>は、後方へ弾き飛ばされる。魔物を弾き飛ばした光弾は、その場で瞬時に破裂し、炎の海を作り出した。燃え盛る火炎は、四体の<毒毒ゾンビ>を飲み込んで行く。破壊された壁が炎によって閉じられて行き、突入して来た魔物達の姿は見えなくなった。

 

「……ベギラマか……」

 

「サラ! 大丈夫か?」

 

<雷の杖>から発せられた光弾は、カミュやメルエが行使する事の出来る呪文に酷似している。それは、何度も唱えて来た灼熱呪文。<ベギラマ>と呼ばれるそれは、魔法力の制御の出来ないメルエの身体を蝕み、この『魔道書』に記載されている中で最高の灼熱呪文を機に、メルエは真の『魔法使い』としてこの世界に誕生したのだ。全世界の『魔法使い』が高位の者となる為に修練を重ね、ごく一握りの者しか手にする事の出来ない神秘を、今、只の杖が自ら発した。それが、どれ程驚くべき事であるのかは、小さく言葉を洩らしたカミュと、瓦礫の中からその光景を見ていたサラにしか解らない。リーシャの助けを借りて脱出したサラは、足を引き摺りながらも、座り込んでいるメルエの許へと向かった。そのメルエの手にはしっかりと<雷の杖>が握り込まれている。まるで、何かに耐えるかのように。

 

「メルエ、無事で良かった」

 

「…………うぅぅ…………」

 

<雷の杖>が自ら起こした神秘は、メルエが行使する<ベギラマ>よりも威力は劣るが、カミュの放つ物よりは上であった。『勇者』と呼ばれるカミュは、魔法に特化した者ではない。だが、それでも世界中の『魔法使い』の中でも限られた者しか行使出来ない<ベギラマ>という神秘を体現できる者である事には変わりはなく、それ以上の威力を杖自身の力のみで発現させる事自体が驚異なのだ。

 

自分の足の治療を後回しにして、メルエの身体に異常がないかを確認するサラの姿は、もはや肉親と言っても過言ではない物。味わった恐怖を訴えるようにサラにしがみ付くメルエの姿もまた、それ程までにサラを頼みにしている事の証。それは、リーシャにとって、喜び以外の何物でもなかった。しかし、その喜びを表情に出す事はなく、座り込んでいる二人を強引に立たせ、サラ自身の身体の回復をさせる。そして、すぐに後方へと引かせ、カミュと共に再び姿を現す腐乱死体を警戒するように<バトルアックス>を握り締めた。

 

「ベギラマ」

 

炎の中から身体の大部分が焼け、皮膚や骨までもが融解しかけている腐乱死体の腕が見えた瞬間、リーシャが前へ出るよりも先にカミュが呪文の詠唱を完成させた。炎の中から出かかった腕は、カミュの掌から発生した光弾に弾かれ、再び炎の海へと消えて行く。カミュが放った<ベギラマ>の炎は、燃える物も無く消え去ろうとしていた炎を再び燃え上がらせた。元々命を宿していない身体は、その炎の中で自身の身体が消滅するまで、足掻くように動き回る。全ての炎が消え失せた時、そこには燃え尽きた肉片しか残されてはいなかった。

 

「一度戻る」

 

冷たい瞳を<毒毒ゾンビ>へ向けていたカミュは、振り向き様に指示を出し、先頭を歩き始める。未だにサラへしがみついているメルエも、サラが歩き出すと同時に、カミュを追って歩を進めた。もはや、彼等の衣服は乾き始めている。改めて火を熾す必要などは既にないのかもしれない。だが、疲労を考えると、何処かで休息した方が良いのだろう。リーシャは、未だにサラの腕をしっかり握っているメルエを促し、カミュの後ろを付いて歩き出した。

 

「一度下へ向かって、上り直すのか?」

 

「ああ。右手前にあった階段を上り直す」

 

四つの階段の踊り場が繋がっていない為、隣の階段へ移る訳にはいかない。いや、カミュやリーシャだけであればそれも可能なのだろうが、サラやメルエがいる以上、わざわざ危険を冒してまで行う行為ではない。故に、全員がカミュの言葉に頷き、ゆっくりと階段を下りて行った。冷たい汗が流れて来る程に嫌な静けさに包まれている階層へ彼等は再び戻って来る事となる。

 

 

 

「メ、メルエ、<メラ>を使う時は、杖を使わないで、指だけで行使して下さい」

 

「…………むぅ…………」

 

階段を上り直し、北方面の通路を歩き、右手へ折れた場所に先程と同様の行き止まりの空間が広がっていた。注意深く周囲を確認したカミュが、ようやく革袋から枯れ木を床へと広げる。本来、いつものようにカミュがメラを唱えて火を熾すのだが、今回はメルエが前に出たため、その役目をメルエが担う事となった。だが、そのメルエが組まれた薪に向かって杖を掲げた事で、慌てたのはサラ。目を白黒させながらメルエの杖を下げ、早口で捲くし立てる。そんなサラの姿を見たメルエは、先程までの姿とは正反対に頬を膨らませ、不満そうに顔を背けた。

 

「メルエ! ちゃんとこっちを見て! メルエの力は強いのです。使い方を間違えたら、カミュ様もリーシャさんも哀しむ事は教えた筈ですよ!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

『ぷいっ』と顔を背けたメルエを見たサラは、一息吐き出した後、厳しい瞳を向け、メルエの肩を掴む。メルエなりの我儘でもあったのだが、メルエが新たな杖を得た事によって心が高揚していたのも事実。しかも、先程恐怖に陥っていた自分を救ってくれたのは、新たな戦友となった<雷の杖>なのだ。メルエの中でも、<雷の杖>を媒体に行使した魔法の方が、<魔道士の杖>を媒体にして行使した魔法よりも威力があった事は理解しているのだろう。故にこそ、メルエの心は高ぶっていたのかもしれない。その心は、メルエの能力を理解しようと誰よりも考えてくれている姉のような存在に諌められた。先程まで膨れていた頬は萎み、眉を下げて俯くメルエの姿を見て、サラの瞳は和らいだ。

 

「メルエはもう解っている筈ですよ。だからこそ、あの時新しい呪文を唱えなかったのでしょう?」

 

「…………」

 

俯いていたメルエの顔が上がった。サラの言葉がメルエの心を見透かしている事の証明である。メルエは先程の<毒毒ゾンビ>との戦闘で、呪文を唱えようとはしなかった。それは、恐怖を感じ、身を固くしていた事も原因の一つであったろう。だが、メルエも『勇者』と呼ばれる者とここまで旅をして来た者である。一時の恐怖で身体を固める事はあっても、それを克服できるだけの経験を積んで来ているのだ。

 

それでもメルエは、あの時に杖から発せられた<ベギラマ>の追い打ちをカミュへ任せた。実は、サラが壁の下敷きになり、メルエが怯えていた時、一度サラはメルエと目が合っていた。その時は既に<雷の杖>から<ベギラマ>は発現した後。そして、サラがメルエの瞳に見た感情は『怒り』に近い物だった。サラという大事な姉に怪我を負わせた者への純粋な『怒り』。その感情を持ったメルエは、杖を握り締めたのだ。

 

「私はあの時、メルエが呪文を行使しなかった事が嬉しかった。メルエは、あの時に自分が呪文を行使した場合の被害を考えたのでしょう? あの狭い空間でメルエが灼熱系の呪文を唱えた時、前に出ようとしているカミュ様や、その隣にいたリーシャさんが大怪我をするかもしれないと考えたのでしょう?」

 

メルエは肯定も否定もしない。ただ、サラの顔を見上げるだけ。だが、サラは確信していた。あの時、メルエの身体の具合を確認しに来たサラにしがみついたメルエの手には、<雷の杖>がしっかりと握られていた。そして、しがみ付くメルエは、何かに耐えるように、そしてサラの無事を喜ぶように、サラを離そうとはしなかったのだ。『自分の言葉は、メルエにしっかりと届いていた』という喜びが、サラの胸に湧き上がり、そして心を満たして行った。

 

「メルエは、世界最高の『魔法使い』です。私がここで宣言しますよ。私達の事を考えてくれて、ありがとうございます」

 

「…………ぐずっ…………」

 

嬉しそうに微笑み、そしてメルエに頭を下げるサラを見たメルエの瞳から大粒の雫が溢れ出した。誰に認めて貰いたかった訳ではないのだろう。だが、メルエには『ちゃんと考えている』という自負もあったに違いない。それを伝える手段をメルエは持っていなかった。言葉という伝達方法を思うように使用できないメルエは、自分の考えや想いを明確に伝える事が出来ない。カミュ達三人は、メルエを誤解し、強く叱ったり、暴力を振るったりはしないが、それでもメルエが思っている事全てを理解する事も出来ないのだ。その筈のサラが、今、メルエの心をしっかりと受け止め、そして理解し、感謝すらしてくれた。それが、メルエには何よりも嬉しかったのだろう。

 

「そうだったのか。ありがとう、メルエ。私もメルエの成長が嬉しい」

 

カミュやリーシャは、今初めてメルエの想いを理解した。サラの口から出て初めて、あの時メルエが呪文を行使しようとしていた事を知ったのだ。自身の呪文の威力を知り、その効力を理解したからこそ、あの時メルエは魔法を行使しなかった。それがどれ程の成長なのか。カミュやリーシャはその事に驚き、そして心から喜んだ。リーシャに頭を撫でられたメルエは、はにかむように微笑み、そして涙する。しかし、そんな心温まる時間は、幼い『魔法使い』の導き手である『賢者』が再び打ち壊した。

 

「ですから、今の行為は駄目です。メルエが杖を使って薪に<メラ>を放てば、火が点くどころか、薪自体が消えて無くなってしまいますよ」

 

「…………むぅ…………」

 

せっかく褒められたにも拘らず、再び叱られた事で、メルエは頬を膨らませた。だが、今はメルエの心を理解した者達に囲まれている。故に、暫しの間むくれていたメルエは、小さく『ごめんなさい』という謝罪の言葉を口にした。その言葉を受け、サラは再び笑みを浮かべ、リーシャやカミュも瞳を優しく変化させる。『死』を感じさせる寂しい塔の一角に広がった優しい空間。それは、メルエが<メラ>による点火を成功させた事で更に大きくなり、全員の衣服が乾き切るまで続いた。

 

 

 

服が乾いた一行は、そのまま通路を戻り、今度は西の方角へ伸びている通路を歩き始める。死臭が漂う通路は、所々に生き物であった残骸が散らばっており、それに眉を顰めながらサラは歩いていた。手入れのされていない通路のあちこちには、雑草のような物が生えていたりするのだが、それらも何かに根元から引き抜かれていたり、千切られていたりする。

 

「カミュ……言いたくはないが……」

 

「ああ。わかっている」

 

通路に脇に目を向けていたリーシャは、苦々しく表情を歪め、前を歩くカミュに向かって言葉を投げかけた。その理解不能と思われる言葉に、カミュはしっかりと頷きを返した。リーシャが何を言いたいのか、そして何に不安を抱いているのかをカミュはしっかりと理解しているのだろう。重々しい空気を纏って進む三人の姿を見たメルエは、首を傾げながらも、杖を握る手に力を込めていた。

 

西へ向かう通路もまた、途中で右へと折れ、その先にあった行き止まりの空間には、上の階層へ繋がる階段が見える。この階段を上った先は三階層となる筈。外観から見る限り、<ナジミの塔>よりは高い事は明白であったこの塔は、少なくとも五階層まではあると考えても良いだろう。まだ先のある塔内部を考えながら、カミュ達は階段を上り始めた。

 

「うわぁ」

 

「…………はぅ…………」

 

階段を上り切った場所から広がる視界に、サラは驚きの声を上げ、メルエは感嘆の溜息を吐き出した。階段を上った先は、何も無い階層が広がっていたのだ。何も無いというのは決して比喩ではなく、言葉そのもの。カミュ達が上って来た階段のすぐ近くに、更に上へと続く階段があるが、それ以外には何も無い。中心部分がすっぽりと抜け落ちているような吹き抜けになっているのだ。塔の四隅にカミュ達がいる場所のような踊り場があるだけ。そんな不思議な光景にサラとメルエは驚いたのだ。

 

「カミュ、中央に踊り場があるぞ?」

 

「ああ。だが、そこへ向かう手段がない」

 

感嘆と驚愕で景色に見入っている二人を余所に、リーシャは塔の中央に『ぽつん』と浮かぶ不思議な浮島を発見する。吹き抜けとなった中央部分に浮かぶような不思議な踊り場は、幻想的な空間を作り出している要因の一つであった。下の階層の階段から繋がる通路同士を隔てていた太い柱は、この浮島を支える物なのだろう。だが、カミュの言う通り、完全な孤島と化した踊り場へ向かう手段がない。カミュ達側から見る限り、踊り場へ繋がる通路はない。対角線上にある踊り場から通路が伸びているようにも見えず、ましてや下の階層に対角線上の踊り場へ繋がる階段はなかった。

 

「今は考えても仕方がない。あの場所に何かがあるのだとしたら、行く方法も何かあるだろう」

 

「そうだな」

 

未だに幻想的な景色に見入っている三人に短い言葉を掛けたカミュは、そのまま近くにある階段へと向かう。カミュの言う通り、今考えても仕方がない事である為、リーシャは一度頷いた後、未だに中央部分を眺めているサラとメルエを促して、上へと向かう階段を上り始めた。吹き抜けを一陣の風が吹き抜けて行く。それは、何処か哀しみを覚えるような泣き声に聞こえた。

 

 

 

第四階層は、第三階層と同様に中央は吹き抜けがある。異なるのは、その中心に浮島が存在しない事と、吹き抜けを囲むように階層が存在している事の二点。四角形の形をしている塔の内周を回るように作られた足場をカミュ達は歩き出した。

 

「カミュ様、ここまで上って来ましたが、本当にここに<山彦の笛>はあるのでしょうか?」

 

「確かに、この塔は嫌な感じがするだけだな。こう、何か『人』の無念というか、憎悪というか……」

 

塔の吹き抜けが、構造上の物なのか、それとも老朽化による自然物の物なのかが解らない以上、吹き抜けの近くには寄れない。故に、サラはメルエの手をしっかりと握りながら、壁沿いに歩いていた。そんなサラの問いかけに答えたのは、問いかけた先のカミュではなく、サラの後方を歩いていたリーシャであった。リーシャが感じている何かは明確な物でもなければ、常識的な物でもない。『僧侶』ではないリーシャは、本来そう言った物を感じる事など出来ないのだが、ここまでの旅の中で培って来た彼女の経験と、そして尋常ではない程の大きな負の念が、リーシャにそう感じさせているのだろう。

 

「今から考えれば、入口の扉は、『古の賢者』様が掛けられた物ではないのかもしれませんね」

 

「……ああ……」

 

リーシャが感じているという事は、他の三人もまたその念を感じているという事。メルエなどは、三階層から四階層に上がる途中から、サラの手を握り締めて離そうとはしない。カミュも口を閉じ、警戒するように周囲へ視線を巡らせている。そんな中で再び口を開いたサラの言葉は、カミュの持っていた疑念を明確にする物だった。

 

サラは、この塔の入口の扉に掛けられた鍵に疑問を抱いていた。あの扉の鍵は、メルエのポシェットに入っている<魔法のカギ>で開錠する事が来たのだ。いや、もしかすると、アリアハン大陸で手に入れた<盗賊のカギ>でも開錠出来たのかもしれない。つまり、極単純なパドロックだったのである。ランシールにある神殿の入口を<最後のカギ>と呼ばれる物で施錠したと云われる『古の賢者』が、わざわざ簡単な鍵で施錠する理由が解らなかったのだ。そして、最も疑問を感じていたのが、魔物とはいえ、生命がいた筈の塔を、『古の賢者』が閉じ込めるように施錠したのかという物。サラであれば、間違いなくしない。塔を棲み処にしているとしても生命に変わりはない。ランシールの神殿には既に人などいなかったのであろう。だからこそ、あのスライムは生きていられた。しかし、この塔には、多くの生命がいた事が想像できる。それが一番の疑問であったのだ。

 

「カミュ、下へ続く階段があるぞ?」

 

「アンタは何処へ行くつもりだ?」

 

内周を歩く内に幾つかの階段が視界に入って来た。階段を上ってまず南へ向かったのが失敗だったのか、見えて来る階段は下層へ向かう物ばかり。それを見たリーシャがカミュに問いかけるが、カミュは溜息混じりにリーシャへと答えを返す。『むっ』と顔を顰めたリーシャであるが、それでも彼女は彼女らしく、もう一度カミュへ向かって口を開いた。

 

「だが、一度下に降りてみるのも手かもしれないぞ? あの中央にあった浮島に行く道があるかもしれない」

 

「……わかった……上への階段を探す」

 

だが、リーシャの進言は即座に斬り捨てられる。いや、正確に言えば、彼女の進言をしっかりと受け止め、それを理解して尚、カミュは下へ向かう事を却下したのだ。一連の会話を聞いていたサラには、カミュの考えている事が理解できているが、リーシャからしてみれば、馬鹿にされたとしか思えなかったのだろう。先程よりも眉と瞳を吊り上げ、唇を噛みしめながらカミュを睨みつけている。そんなリーシャの様子にサラは苦笑を浮かべる事しか出来なかった。

 

「カミュ様、向こうに見えるのは上の階層への階段ではないですか?」

 

南へ進んでいた内周は、既に南側の壁沿いを東へ向かい、更に壁沿いに北へと向かっている頃、ようやく一行の目の前に上の階層への階段が登場する。サラが声を出した時、既に全員の視界に入っていた為、お互いの顔を見て頷きを返した。傍に下の階層へ向かう階段もあったのだが、それには見向きもせず、先頭のカミュは、足を階段の一段目に掛ける。

 

「ん? カミュ、どうした?」

 

「……気をつけろ……何かいるぞ」

 

「え!? また魔物ですか?」

 

一歩足を掛けたカミュが、暫しの間動かない事を不審に感じたリーシャは、その行動を問いかけるが、返って来たカミュの言葉に驚いたのはサラであった。腐敗臭はこの場所まで漂っていたりはしない。鎧が擦れ合うような金属音がする訳でもない。それでも、階段の上部を睨みつけているカミュの瞳が、その上に敵がいる事を明確に示していた。サラは確認するように自分の手を握っているメルエを見るが、幼い『魔法使い』もまた、厳しい瞳を階段の上部へ向けている。メルエが何かを感じている以上、それはこちらに敵意を向けている者に他ならない。故に、サラはリーシャに視線を向けて、一つ頷きを返した。

 

「カミュ、何時でも良いぞ。サラ、メルエと共に私の後ろから上って来い」

 

「はい」

 

リーシャは<バトルアックス>を右手に持ち、準備が整った事をカミュへ告げる。常に最後尾を歩き、後方からの襲撃に備えていたリーシャがカミュと共に前衛に出る事が示すのは、前方の敵が強敵である可能性。後方の階段からの襲撃は、サラとメルエに委ね、彼女は上階層にいる敵へ意識を向けたのだ。その覚悟と緊張感を理解したからこそ、サラとメルエは大きく頷きを返す。肉弾戦を得意としない二人は、突如魔物に襲いかかられれば、対処する事が出来ない。サラは、己の武器を持ってはいるが、この塔にいた<キラーアーマー>のような魔物と一対一で戦闘が出来る程の技量はないのだ。

 

ゆっくりと階段を上がり、上部の階層にカミュが頭を出すのが最後尾にいるサラにも確認できた。だが、カミュはそれ以上進まない。カミュが進まない以上、後ろにいるリーシャもまた進む事など出来ない故に、サラもメルエも足を止めるしかないのだ。先頭ではカミュが首を動かし、周囲を確認しているのが解る。そして、首が後方へ向けられるその瞬間、カミュは左腕を顔の前に動かした。響き渡る金属音。金属と金属がぶつかり合ったその音が、敵の襲来を物語っていた。

 

「カミュ、早く出ろ!」

 

「メルエ、行きますよ!」

 

「…………ん…………」

 

<魔法の盾>で攻撃を防いだカミュを押しのけるように上の階層に足を踏み入れたリーシャは、即座に盾を構える。飛び出して来たリーシャに気付いたのか、瞬時に攻撃がなされた。構えた盾にぶつかる衝撃は、<キラーアーマー>の一撃よりも上。リーシャの身体が若干よろめく様に傾いた。既に世界最高峰の実力を誇る筈のリーシャの態勢をここまで崩す事の出来る者の存在に、サラは驚きを表す。リーシャが態勢を立て直すのを見て、サラとメルエはその後方へ急ぎ移動した。

 

「カミュ、気を抜くなよ」

 

「……アンタに言われる台詞ではないな……」

 

<バトルアックス>を構え直し、正面へ視線を向けたリーシャは、横にいるカミュの気を引き締める為に言葉を発するが、その言葉は溜息と共に流される。強敵と解る相手を前にしてもいつもと変わらぬやり取りを繰り広げる二人の姿は、後方にいたサラとメルエの心にも余裕を生み出した。足を踏み入れた五階層もまた、中央が吹き抜けのような形になってはいるが、四階層とは異なっている。カミュ達がいる北側にある足場と、対面にある足場が無数の縄のような物で結ばれており、対面に渡る為には綱渡りを行う他ないという奇妙な場所。

 

「グオォォォォォォ!」

 

「ひ、『人』なのでしょうか?」

 

そして、その奇妙な場所にいた者がまた異質。それ程広くない足場に立つその者は、姿形は『人』その物。着ていた衣服は既に朽ち果て、上半身の筋肉が露になっている。とても閉鎖された空間にいたと思えない程にしっかりとした筋肉は鋼鉄を思わせる程の物。右手にしっかりと握られている物は、つい先日までリーシャが持っていた<鉄の斧>だろう。顔が覆面のような物で覆われている為、素顔は解らないが、屈強な男である事は間違いがない。だが、サラが疑問として投げかけた様に、姿形は『人』であるのだが、纏う雰囲気の中に『人』を感じる物は何もなかった。

 

言語を知らぬかの様に叫ばれた雄叫び。

覆面から覗く瞳に黒目は存在していない。

血走った白目に浮き出た血管が瞳を赤く映らせる。

開かれた口から見える黄色い歯は、獣の牙のように鋭い。

振り上げられた斧には、血がこびり付き、錆が浮いている。

 

人外と言っても過言ではないその姿に、四人全員が息を飲む。

『死の塔』の主ともいうべき存在との戦いが、ここに始まった。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

二話程で終了するべき筈だったアープの塔ですが、結局三話に分ける事になりました。
この先を描いたとしても20000文字ちょっとで終わるとは思うのですが、少し話がだれてしまう気がしたので、ここで区切りました。少し短い気持ちもしますが、よろしくお願い致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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アープの塔③

 

 

 

 十数年前、この大陸には<スーの村>以外にも小さな集落が幾つか存在していた。

 魔物の脅威が高まって行く中、『人』は寄り添い、自分達の生活を護る為に団結して行く。集落を襲ってくる魔物達をそこに生きる者達が力を合わせて撃退した。狩りをし、作物を育て、細々と生きて行く『人』の群れ。

 これは、そんな小さな集落の一つの話。

 

 彼は、この村とも呼べぬ小さな集落に『精霊ルビス』の教えを広めに来た修道士の一人だった。世界各地を渡る為に乗船した船が魔物に襲われ、命辛々漂流した先で辿り着いた大陸の浜辺に打ち上げられたところを近くの小さな集落で暮らす者達に救い出されたのだ。

 救い出された彼は、海辺の近くにそびえ立つ高い塔を視界に納めながら、近くの集落へ運ばれて行った。

 

 

 

「……教…会……そこ……」

 

 数日の時間を経て、意識を取り戻した男は、集落を見て回れる程に回復して行った。

 男が運ばれた集落で暮らす住民達が話す言葉は、訛りが酷く聞き取り辛い物。男は四苦八苦しながらも何とか自分の身分を伝え、その身分の者が集う場所を聞くが、村人は顔を俯けながら村の一角を指差した。

 『教会』という言葉を知っている以上、この地方にも『精霊ルビス』の教えは伝わっている事に安堵した男であったが、その場所へ行って愕然とする事となる。それは、教会という姿形はしておらず、既に朽ち果て掛けた物置小屋のような物であったのだ。

 

 何とか話を聞いてみると、この集落にいた修道士は高齢の為に亡くなったという。そこで初めて、男はこの集落で暮らす者達が高齢者ばかりである事に気が付いた。

 若者など、もう十数年この場所に近寄る事もない。今いる老人たちの子供達は色々な理由で村の外へと出て行った。

 ある者は夢を掴むため。

 ある者は一向に良くならぬ暮らしに嫌気が差したため。

 そして最も多かったのが、魔物に襲われて命を落としたため。

 村を出て行った者達の中にも、船での渡航中に魔物に襲われた者もいただろう、森で魔物に喰われた者もいただろう。ただ、言える事は、この集落の未来へと繋げる若い命は皆無であるという事。

 

「……これはルビス様が与えて下された試練なのかもしれない……」

 

漂流して来たこの男は、『人』としても『修道士』としても真面目な男であった。故に、この未来が見えない者達が集う集落に自分が来た事も、神や精霊が与えし試練と考え、この村に留まる事を決意する。廃屋のような教会を修理し、その場所で暮らす事に決めたのだ。幸い、それを喜んだ老人達は、食料や機材を男へと提供し、とても親切に対応してくれた。その修道士の男も、一人で世界を渡ろうと考えるだけの身体を持っていた為、自身で木材を運び、廃屋を教会へと変えて行く事となる。

 

 

 

「ま、魔物じゃ!」

 

修道士の男が自身の住む教会の修理を終えてすぐ、その事件は起こった。集落は小さく、魔物の襲撃を抑える為の柵なども不十分。故に、夜の闇の支配が及ぶと、魔物が集落の人間や家畜を襲う事があったのだ。この魔物の襲撃を撃退する為に散った命も数多い。この集落の中にも集落に残ると考えた若者はいた筈である。だが、そんな若者達も、度重なる魔物の襲撃で命を落として行った。

 

修道士の男は、逃げ惑う老人達を教会へと誘い、教会の修理の木材を調達する為に使っていた<鉄の斧>を手にして魔物の前へと踊り出した。彼は修道士といえども、ルビス教の布教を目的として世界を旅する程の者。旅した場所に教会がなければ、その場所で教会を設立し、神父となる許可を貰っている。つまり、司祭となる事の出来る者なのだ。『教典』の中の魔法も、ある程度は行使する事が出来たし、武器を振るう事も出来る。一般的に神父となる者は、魔物討伐の為の回復役として同道する事も多いため、己で武器を振るう事も必要となるのだ。

 

「皆さん、教会に入って。武器を持てる方は、私の後ろに」

 

修道士の力強い言葉を受け、逃げ惑うばかりであった老人達の心も振い立つ。襲撃して来る魔物も、莫大な数ではない。魔物が大軍となって襲いかかって来たのであれば、攻撃魔法の行使出来ない『僧侶』が何をしても無駄なのだが、一度の襲撃で出て来るのは多くても三体か、四体。<バギ>の行使が出来れば、何とか撃退できる程度の物ばかりであった。<バギ>で怯んだところを<鉄の斧>で一閃する。木を切り倒し続けた修道士の腕は丸太のように太くなっており、魔物の皮膚へ斧を喰い込ませる事も可能だったのだ。

 

魔物の撃退を成功させた修道士に、集落の老人達は歓喜する。魔物が襲って来た時は、家に閉じこもり、自らの家が襲われない事を祈る事しか出来なかった老人達が見た光明。その後も毎日ではないが、何度か現れた魔物は、彼の力と、集落の老人達の結束によって退けられた。先頭を切って魔物へ向かい、様々な呪文を駆使しながら斧を振るう修道士の姿は、老い先の短い老人達の目には『英雄』のように映った事であろう。

 

そして、一年が過ぎる頃には、修道士に称号が与えられた。

この地方の言葉で、『除去する者』という意味を持つ名。

<エリミネーター>と。

 

 

 

 

 

「……下がっていろ……」

 

雄叫びを上げ、斧を高々と掲げる狂人を前にして、カミュは一歩前へと進み出た。それは、サラにとって予想外の行動だったのだろう。驚きの表情を浮かべたサラは、思わずリーシャへ視線を送ってしまった。リーシャは、狂ったように斧を振り回す『人』のような物を見て、悔しそうに唇を噛んでいる。そこで、ようやくサラは気が付いた。先程、サラがカミュへと質問した内容は、無言で肯定されたという事を。今、目の前で白目を血走らせて雄叫びを上げている者は、『人』であった物であるという事。いや、事実は解らない。ただ、カミュも、そしてリーシャも、間違いなくそう考えているのだろう。故に、カミュは前に足を踏み出し、その行為を止める事の出来ないリーシャは唇を噛んでいるのだ。

 

「カミュ、私が……」

 

「……こういう事は、俺の役目だ……」

 

そんなサラの考えは、直後に交わされた二人の会話で肯定される。リーシャもサラも、そしてメルエも、この旅の中で『人』を殺めた事はない。<くさった死体>や<ミイラ男>などのような、既にこの世に命を持っていない物を倒した事はある。だが、目の前で斧を振って、覆面の切れ端から見える口から涎のような物を垂らしている者は、明らかに命を持った生者。魔族と思えるような禍々しい魔法力を感じる訳でもないが、『人』のような温かみも欠片すらない。『人為らざる者』という言葉が最も当て嵌まるのかもしれない。

 

「グオォォォォ!」

 

前に出たカミュに向かって振り抜かれる斧は、空を斬る。瞬時に横へ飛んだカミュは、盾で防ぐ訳でもなく、駆け抜け様に剣を振り抜く。脇腹を掠めた剣が一筋の液体を飛ばした後、けたたましい雄叫びをあげた『人為らざる者』の脇腹から夥しい量の血液が飛び出した。その血液を見たサラは、息を飲む。魔物のような体液ではなく、真っ赤な液体。カミュやリーシャ、そしてサラとも同じ色をした命の源。それは、目の前で雄叫びを上げる者が『人』であった者の証。

 

「ラリ……」

 

「グモォォォォ」

 

態勢を崩した『人為らざる者』へ片手を向けて詠唱を開始したカミュであったが、それは、対象となる者の叫びによって遮られた。まるでカミュの行使する呪文を跳ね返すかのように掲げられた『人為らざる者』の左手を見たカミュは、一つ舌打ちをして横へと飛ぶ。横へ跳びはしたが、カミュがいた場所に変化はない。呪文の行使ではないかと考えていたカミュは、自身の身体の変化を確認した。

 

「ま、まさか……マホトーンですか?」

 

カミュの感じた疑問は、別の人間によって答えが齎される。それは、カミュの後方に位置する場所へ移動していたサラであった。メルエはリーシャの後ろに控えている。だが、サラはいざという時に戦局を把握しておくために全体が見渡せる場所へと移動していた。それが仇となり、サラはカミュと同様に呪文の効力を受けてしまったのだ。自身の中に存在する魔法力の流れに感じる違和感。それは、以前に受けた事のある物と同様の物であった。

 

「ちっ! 呆けるな!」

 

「えっ!?」

 

思考の渦に飲み込まれていたサラは、カミュの声で我に返る。既に目の前には錆びて刃毀れしている<鉄の斧>。間一髪で左腕を上げたサラであったが、態勢は不十分。その威力によって後方へと弾き飛ばされた。それでも、彼女は『勇者一行』として旅をする者。一撃で気を失う程に脆い旅はして来ていない。すぐさま立ち上がったサラは、リーシャの傍へと移動した。

 

「カミュもサラも魔法が行使出来ないのであれば、回復手段がないのと同じだ。一つの怪我が命取りになる可能性もある。気を引き締めろ」

 

「……わかっています……」

 

リーシャの言葉に頷いたサラであったが、どうしても頭の隅から消えて行かない物が存在していた。心配そうにこちらに向けて眉を下げているメルエの肩に手を置きながらも、サラはカミュと剣戟を繰り広げている『人為らざる者』へと視線を向ける。肉弾戦は、確実にカミュが圧していた。『人為らざる者』の攻撃はカミュによって防がれ、避けられる。逆に、カミュの攻撃は確実に『人為らざる者』の身体を傷つけ、その生命を刈り取り始めていた。だが、その姿を見て、サラは思う。『それもその筈だ』と。何故なら、今カミュと相対している者は、本来ならばカミュのような『勇者』と剣を交える事など出来ない者なのだから。そう考えながら、サラは悔しそうに下唇を噛みしめる。

 

『人為らざる者』とはいえ、『人』であった事は間違いないだろう。そして、それはこの者が呪文を行使した事によって、更なる事実を浮き上がらせたのだ。サラは、ここまでの旅で魔物が『教典』の呪文を行使する姿は何度も見て来た。その度に悩んでは来たが、今ではそれが当たり前の事として受け入れ始めている。だが、カミュに向かって斧を振り回しているあの者が、『人』であった者となれば、話は変わって来るのだ。本来、『人』は『教典』と『魔道書』に記載されている魔法の内、片方としか契約する事は出来ない。そして、『教典』とは、教会という特殊な場所に保管されている為、外へ流出する事は殆どない。カミュのような、特殊な存在となれば、国家や教会が後ろ盾となる為、『教典』の閲覧も可能となるだろう。だが、本来は『僧侶』と呼ばれる者達でなければ、閲覧は不可能となっているのだ。

 

「……何故……何故、そのような姿に……」

 

それらの事実が示す事は唯一つ。

それは、目の前で斧を振るう狂人の過去。

それは、『人為らざる者』の『人』の部分。

そして、『僧侶』として歩んでいた者の変わり果てた姿だった。

 

 

 

 

 

小さな集落で魔物の撃退を繰り返す内に、修道士の男の身体は『僧侶』らしからぬ程に鍛え上げられて行った。本来、斧や剣を振るう職業である『戦士』には遠く及ばないが、この村周辺に生息する魔物とならば、引けは取らない程の技術と力を有する程に至る。それは、『導く者』としての修道士の本質を微妙に変化させて行く事となった。

 

「貴方方は間違っている!」

 

修道士の男が目指していた物は、本当の意味での『導く者』。『精霊ルビス』という絶対的な存在の教えを広める事を目的としているが、それはそこにいる者の考えを捻じ曲げ、押し付ける物ではない。そこにはそこの生活環境があり、信じる物がある。『精霊ルビス』を信仰していても、ルビスの下に位置する場所に立つ精霊達に感謝を奉げる者達もいる。それらを尊重し、認め、その上で『精霊ルビス』の偉大さを説く事こそが自分の役割だと男は考えていた。だが、日を追うごとに増えて行く魔物の襲来。そしてそれを撃退しているのが自分唯一人だという自負が、修道士の心に暗い闇を落とし始めて行く。

 

そして、その修道士は集落の老人から与えられた称号通りの道を歩み始めた。日増しにその言動に強制力を含ませる修道士を、集落の老人達は疎み始めたのだ。魔物を退ける程の力を恐れたとも言えよう。魔物を撃退する程の力は、意に従わぬ者達を力尽くで服従させる事も可能な程の物である。集落の老人達が『英雄』のように崇めた修道士は、彼等にとっての恐怖の対象に変わり始めていたのだ。

 

そして、<エリミネーター>としての称号を与えられていた修道士は、魔物を『除去する者』から、集落から『除去する者』へと変貌を遂げる事となる。修道士が暮らす教会に立ち寄る者は数を減らし、遂には誰一人いなくなって行った。食料などの寄与も少なくなり、細々とした生活を送る事となる。老人達の余所余所しい態度を不審に思った修道士ではあったが、彼自身が自分の変化に気付く事はなく、月日は流れて行った。

 

そして、運命の日はやって来る。

 

「魔物の拠点?」

 

久方ぶりに集落の老人の半分程の人数が教会を訪れた事を喜んでいた修道士であったが、老人達の話を聞く内に、表情を厳しい物へと変化させた。既に老人達の訛りにも慣れた修道士は、その内容を聞き取り、口を開く。老人達の話では、この村を襲う魔物達の棲み処を特定したという物であった。不定期で襲来する魔物達がこの集落の傍にある塔から現れるのを目撃したという物。たまたま集落が魔物に襲われた日に船で漁をしていた老人の帰りが遅くなり、塔から集落へ向かう魔物達を目撃したという事だった。

 

老人達の真剣な話を信じた修道士は、魔物の駆逐の為に塔を目指す事を了承した。彼一人に何もかもを任せるのではなく、村の老人達も手に武器を携え、共に行く決意をしていた事も修道士の背を後押しさせたのだろう。明朝に塔へ向かって出発する事を伝えると、老人達は各々の家屋へと帰って行った。修道士の男は、老人達の背中を見つめながら、少し表情を緩める。『これで、前のように戻れるかもしれない』、『彼等も自らの過ちを認め、自分の説く教えを受け入れるかもしれない』と。だが、修道士の男の根本的な考えが歪み、元へ戻らないのと同様に、一度宿った不信感と不快感は消え去る事はなかった。

 

「私が先頭を行きます。皆さんは後ろからついて来て下さい」

 

塔へ辿り着いた一行は、入口にいる魔物達を一体ずつ倒して行き、奥へと進んで行く。傷を受けても、修道士が<ホイミ>を唱え、その傷を癒した。老人達を庇いながら<ラリホー>や<マヌーサ>を唱え、魔物が惑わされている内に勝負を決める。次第に疲労が蓄積されて行く修道士ではあったが、老人達を庇うように前へ進み、周囲に散乱している鎧などに目を向けながらも、ようやく階段を見つけた。入口を入ってからここまでの通路には、鉄で出来たような扉が存在していた事を修道士は見ている。その金属製の扉は、この階段のある空間へ繋がる場所にも存在していた。人工的な建造物である為、扉がある事を不思議に思いはしなかったが、修道士の頭の片隅に何故か錆も浮かんでいない金属製の扉が残る事となる。

 

「まずは私が階段を上り、魔物がいないかを確認して来ます。私が合図を送ったら、皆さんも上って来て下さい」

 

正直、入口からこの階段までの間で出て来た魔物は、手強い物ではなかった。修道士一人でも何とかなる物も多く、老人達でも五、六人いれば一体は倒せる物。ならば、塔の上階層へ登って行く程、強い魔物が登場して来る物だと考えていた。故に、彼はゆっくりと上へ続く階段を上って行く。その時、修道士の背中を見る老人達の瞳に宿る不穏な光に気付かないまま。

 

「大丈夫のようだな……皆さん、上がって来て下さい……皆さん?」

 

上の階層に顔を出し、ゆっくりと周囲を見渡した修道士は、魔物の姿がない事を確認し、その階層へ足を踏み入れる。完全に安全だと把握した修道士は、下の階層で待っている筈の老人達へ声をかけるが、応答はなかった。代わりに響いた大きな金属音。まるで重い扉を閉じたような音を聞いた修道士は、胸に湧き上がる不安を抑えながら、下の階層を覗き込んだ。だが、老人達が持っていた<たいまつ>による明かりなどはなく、暗闇が広がっているのみ。胸に湧き上がる不安が現実へと変わって行く恐怖を感じた修道士は、勢い良く階段を下りて行く。

 

「み、皆さん!」

 

暗闇に支配された空間が、先程まで開けていた通路へ続く場所にある扉が閉じられた事を意味していた。あの時見た金属製の扉が閉じてしまった以上、この場所から出る方法がなくなったに等しい。木製の扉であれば、修道士の持つ<鉄の斧>でも破壊する事は可能であろう。だが、金属で出来た扉に外から鍵を掛けられれば、二度と出る事は不可能。それを理解した修道士は、力の限り扉を叩き、そして叫んだ。

 

「何のつもりですか!? 冗談にしても酷すぎますよ! 早く開けて下さい! 今ならば、ルビス様もお許し下さる筈です!」

 

しかし、何度扉を叩こうと、どれ程大きな声で叫ぼうと、重く冷たい扉が再び開かれる事はなかった。一度声を発する事を止めた修道士の耳に、金属音が小さく響く。その音が意味する事を理解した修道士は、その場に座り込んでしまった。この扉の先の通路の扉も閉められ、彼は何重にも念を入れられて幽閉されてしまったのだ。修道士の頭には『何故?』という疑問しか浮かばない。

 

『何故、自分はここにいるのか?』

『何故、彼等は帰ってしまったのか?』

『彼等にはルビス様のお言葉は届かなかったのか?』

『自分にはルビス様の御加護は届かないのか?』

 

頭の中を駆け回る疑問は、彼の自我を崩壊させて行く。修道士の男は、数日の間、その扉の前で座り込み、何度も何度も自問自答を繰り返す。浮かんでは消え、消えては浮かぶ疑問は、彼の心を蝕み、崩壊させて行った。自らの半生を省み、自らの行いを省み、そして、彼はある想いへと到達するのだ。

 

それは『哀しみ』。

それは『憤怒』。

そして何よりも強い『憎悪』。

 

「うわぁぁぁぁぁ!」

 

そこへ到達した修道士は、天に向かって叫び声を上げる。

自分をこのような場所へ閉じ込めた老人達への『憎悪』。

自分に加護を与えない『精霊ルビス』への『憎悪』。

そして、このような境遇に陥れた神への『憎悪』。

 

修道士は、狂ったように叫び、<鉄の斧>で扉を何度も殴り、そして階段を上って行った。その後、彼は生きる為に塔の道脇に生える雑草を食す。だが、『人』であった彼は、雑草だけでは生きていけない。故に、塔を棲み処とする魔物を殺し、それも食した。その頃から、彼が行使出来る呪文は数を減らし、<バギ>のような攻撃魔法はおろか、自身を回復する為の<ホイミ>さえも行使不可能となって行く。唯一つ、この塔で全く役にも立たない<マホトーン>だけを、彼の身体が覚えていたのは奇跡に近い事であろう。まるで言葉を失ったかのように叫び声しか上げない修道士に、呪文の詠唱など出来る筈もなかったのだ。いや、『精霊ルビス』への想いを失くした時点で、彼は『僧侶』としての能力を失ってしまったのかもしれない。

 

そして、その修道士は『人為らざる者』となった。

 

 

 

「グオォォォ」

 

カミュと『人為らざる者』との戦いも既に終盤を迎えていた。如何に『人為らざる者』となった人間でも、所詮は『僧侶』であった者。ある程度の魔物を駆逐する事は出来ても、『勇者』を倒す力を有している訳ではない。苦し紛れに振るった<鉄の斧>は、カミュの持つ<魔法の盾>によって弾き返され、肩口を深々と斬られた。噴き出す血飛沫が塔の床を濡らし、真っ赤に染め上げる。もはや力も速度も無い斧を避けたカミュは、一つ息を吐き出し、そして剣を構えた。

 

「アンタにどれ程の無念と憎悪があるのかは解らない。だが、それを俺達に向けるのならば、容赦はしない」

 

呟くようにカミュが言葉を発した時、白目を剥いていた『人為らざる者』に瞳が戻ったようにサラは見えた。まるで泣くように、そして苦しむように歪められた口からは、叫び声ではなく、無念の呻きが漏れているようにも聞こえる。だが、それも一瞬の事だった。カミュを捉えた白目は真っ赤に血走り、雄叫びを上げて、両手に持ち替えた<鉄の斧>を振り上げる。もはや、その身体は満身創痍。夥しい程の血液が流れ落ち、それと共に命の炎も徐々に弱まりを見せていた。

 

「……その無念、その憎しみ、俺が忘れない……」

 

振り上げられた斧が動き始めた瞬間、カミュが動いた。本当に一瞬の出来事、リーシャ以外、カミュの動きの全てを捉えられた者はいなかったのかもしれない。サラが気付いた時には、カミュと『人為らざる者』は擦れ違い、そして全ては終わっていた。振り下ろされた斧は静かにその手から離れ、乾いた音を立てて床に転がる。最後に、『人為らざる者』の首が床に落ち、そして中央の吹き抜けへと転がり落ちた。

 

噴き上がる血液が天井からゆっくりと後方へと移動して行く。身体を支える命の灯火が消え失せ、『人為らざる者』の身体は、その魂とは逆に、吹き抜けを通って下の階層へと落ちて行った。十数年の間閉じ込められていた無念と憎悪は、彼の信じていた『精霊ルビス』の加護を受けし『勇者』によって解放される。全てから解き放たれた肉体は、まるで糸の切れた人形のように、吹き抜けを落下し、暗闇へと消えて行った。

 

彼をこの塔に幽閉した老人達と、自身の力に酔って心を変えてしまった修道士のどちらが悪いと言う訳でもないのだろう。強いて言うならば、どちらにも言い分はあり、どちらにも罪はある。余談ではあるが、十数年前に彼を幽閉した老人達の暮らす集落は、彼を幽閉した直後、魔物の襲撃を受け、草一つ残らずに滅びた。魔物の拠点はこの塔ではなく、この大陸全てであったのだろう。その時、あの老人達が何を想ったのか、それはもはや誰にも解りはしない。

 

 

 

「カミュ……それで、この縄を渡るのか?」

 

「それ以外、何処へ行くつもりだ?」

 

『人為らざる者』の血液が色濃く残る塔の最上階で心を落ち着かせる事は至難の業である。だが、一息吐き出したリーシャは、この後の行動をカミュへと問いかけた。未だに後方にいるサラは、思考の海へと潜ったまま。何を考えているのか、リーシャには解らないが、その瞳に絶望の色が宿っていない事は見て取れる。故に、リーシャは再びカミュへ視線を戻すが、返って来た答えは、リーシャを挑発するような物が含まれていた。

 

「だが、あの先に何かがあるようには見えないが……メ、メルエ、危ないから出て来ては駄目だ」

 

「…………はこ…………?」

 

カミュの挑発を必死で受け流したリーシャであったが、その足下から顔を出した人物を見て、平静に戻した心が再び騒ぎ出す。リーシャの足に手を掛けて吹き抜けを覗き込むのは、先程まで一切の言葉を口にして来なかった幼い少女。リーシャの窘めも気にする様子はなく、覗き込んでいた視線を上げ、カミュに向かって小首を傾げた。視線を向けられたカミュは、不思議そうに小首を傾げるメルエを見て、一度吹き抜けの奥へと目を凝らす。覗き込んだ、暗闇が支配する吹き抜けの奥に、微かに何かの色が見えた。

 

「メラ」

 

カミュは、吹き抜けの対岸へと掛けられている縄に燃え移らないように、その隙間から火球を放つ。下層に向かって放たれた火球は、一瞬周囲を明るく照らし出し、そこにある物を映し出した。吹き抜けの中央に見える床、そしてその床の中央に置かれた木箱。それをカミュもリーシャも確認する。おそらく、三階層にあった浮島であろう。その浮島の上に木箱が置かれていたのだ。だが、一瞬ではあるが照らし出した浮島へ渡る通路などは見えなかった。つまり完全な離島となっているという事になる。

 

「この場所から下へ落ちるか、それとも縄を伝って下りる以外に方法はないようですね」

 

浮島の存在と、その場所にある木箱の入手方法をカミュとリーシャが考え始めた頃、ようやくこのパーティーの頭脳が返って来た。血液の残る床を避けるように吹き抜けを覗き込んだサラは、暫し考えた後、実質二つの方法しかない事を口にする。確かに、下層から浮島に渡る方法がない以上、この場所から飛び降りるか、それとも何かを伝って下りる以外には方法などないだろう。

 

「カミュ、お前が<アストロン>を使って落ちれば良いんじゃないか?」

 

「いえ、確実性に欠けます。意識ごと刈り取られるあの呪文では、カミュ様が浮島の真ん中にでも落ちない限り、二階層まで落ちてしまいます」

 

リーシャの一言は、当の本人ではなく、隣にいたサラによって却下された。確かに、<アストロン>という呪文で鉄になった者は、その間の意識を刈り取られてしまう。自分の意志で身体を動かす事も出来ず、目覚める時を指定する事も出来ない。故に魔法を行使する事は愚策となる。必然的に残るは何かを伝って下へ降りて行く事なのだが、その伝う物がないのだ。

 

「……この縄しかないか……」

 

カミュは対岸とを結び付けている縄を見下ろし、背中から剣を抜き放った。一番左手にある縄を根元から斬り、その端を握る。そして、対岸の縄の根元に向かって<メラ>を放った。寸分の狂いもなく燃え上がった縄は、根元から焼け落ち、即座に回収される。回収した縄の燃えている部分を踏みつけ、火を消したカミュは、その隣にある縄も同様の形で回収しようとするが、それは中央の縄と結ばれている横に繋がる縄によって邪魔される事となった。

 

「ちっ! あの場所へ行くしかないな……あの場所へは俺が行く。アンタ達は、先に<リレミト>で塔の外で待っていてくれ」

 

「いや。お前が行くというのなら止めははしないが、お前があの場所へ辿り着くまで何があるか解らない以上、私達はここで待っている」

 

カミュの言葉を即座に否定したリーシャの足元では、メルエも首を横に振って、カミュの言葉を拒絶している。カミュが無事戻って来る事を確認しなければ、この少女は決してこの場を動こうとはしないだろう。それをリーシャとサラは理解していた。もう二度と離れる事を了承するつもりはないメルエの瞳は強く、カミュは溜息を吐き出し、一つ頷きを返す。

 

「腰にその縄を結びつけろ。私が端を握っておく」

 

「わかった」

 

使用するつもりの縄ではあるが、中央に移動し、もう一本の縄を斬らない限り、手に握っていても邪魔になるだけと考えたカミュは、リーシャの言葉を受け入れた。腰にきつく結びつけた縄の端をリーシャが握り、それを確認したカミュは中央を結ぶ縄に足を掛ける。以前、<ガルナの塔>にあった細い通路とは異なり、不安定な縄の上を歩く事は流石のカミュにも至難な事であった。何度もよろめき、その度にサラとメルエが声を上げる。手に力が入るリーシャであるが、余計な力を縄に伝えれば、それだけでカミュのバランスが崩れる事となる為、意識的に綱が張りつめないように握り直していた。

 

「……一度戻る……」

 

中央の縄とを結び付けている横へ伸びる縄を斬り、その手に縄を握ったカミュは、一度三人が待つ場所へと戻って来る。相当な時間をかけて戻って来たカミュは、安定した床に足を着けた瞬間、深い溜息を吐き出した。そんな様子を不安そうに見上げるメルエを見たカミュは、小さな苦笑を浮かべ、メルエの被っている<とんがり帽子>のつばを撫でる。その間にリーシャとサラは、カミュが持って来た二つの縄を固く結び付け、更には横へ伸びていた縄も結びつけた。出来上がった縄は、相当な長さを誇り、下層に見える浮島付近までは問題なく降りられると考えられる程の物。

 

「カミュ、次に命綱はない。もし落下したら、すぐに<アストロン>を唱えろ。私達も二階層まで降りる」

 

「……ああ……」

 

縄へと近付くカミュに向けられた真剣な瞳は、カミュの胸に何かを落とした。三人の心を代弁するように告げられたリーシャの言葉が、彼等の歩んだ旅の縮図なのかもしれない。<ナジミの塔>でこのような場面があっても、この言葉は出なかっただろう。<シャンパーニの塔>で、カミュが一人で行動すると告げたならば、リーシャは許可する事はなかったかもしれない。<ガルナの塔>では、自分の事で精一杯だったサラに、カミュの身を案じる余裕はなかった。一歩ずつ歩んで来た四人だからこそ、今、この行動が可能なのだろう。

 

ゆっくりと、そして慎重に歩を進めるカミュが縄の中央部分に辿り着いた時、リーシャの手にはじっとりとした汗が溜まっていた。中央部分で自分が立っている縄に先程の縄をカミュが結び終えると、サラは小さく息を吐き出す。無意識の内に、サラはカミュが歩いている最中、息を止めていたのだ。結びつけた縄の具合を確かめながら、下へと降りて行くカミュを見ていたメルエは、眉を下げながら吹き抜けを覗き込むように座り込む。

 

「メルエ、危ないですよ」

 

「…………うぅぅ……………」

 

「大丈夫だ。心配するな。カミュは必ず戻って来るさ」

 

心配そうに覗き込むメルエの瞳から、カミュの姿が消えて行った。闇に飲み込まれるようにその姿を消して行ったカミュを何とか見ようと、更に身を乗り出したメルエをサラが窘めるのだが、眉を下げたメルエは不安な瞳をサラへと向ける。そんなメルエの顔を覗き込んだリーシャは、柔らかな笑みを浮かべて、強く断言した。この幼い少女の心に忍び寄る不安を吹き飛ばすような笑みは、サラの表情も笑みに変えて行く。

 

暫しの間、暗闇を見続けていた不安に揺れるメルエの瞳が、小さな灯りを捉えた。カミュは降りる前に、口に一本の小さな枝を咥えていたのだ。それに小さな火を灯し、周囲を照らしている。その小さな灯火が上空に向かって数度振られた。ゆっくりと揺れる灯火を見たメルエの頬は喜びを湛えている。笑みを浮かべてリーシャを見上げたメルエの瞳は、喜びの雫で潤んでいた。

 

「だから大丈夫だと言っただろう?」

 

「…………ん…………」

 

メルエの濡れた瞳を拭ってやりながら、リーシャはとても優しい笑みを浮かべる。サラも何故か解らないが瞳を潤ませ、メルエの笑みに応えるように笑顔を作った。喜びに満ちていた三人は、先程まで振られていた小さな灯りが突如消えたのに気が付く。その代りに大きな光が中央で膨れ上がり、収束したと同時に一瞬で消え去った。それは、カミュが<リレミト>という脱出呪文を行使した事を示している。

 

「メルエ、<リレミト>の準備を。さあ、カミュ様の所へ戻りましょう」

 

「…………ん…………」

 

涙を拭ったサラの言葉にメルエは大きく、そして力強く頷きを返した。その顔にあるのは笑顔。もう一度大きく頷いたメルエは、しっかりと立ち上がり、リーシャとサラの間に移動する。メルエの身体を抱き上げたリーシャは、サラに視線を送り、それを受けたサラは、リーシャの腰元にしがみ付き、メルエと手を繋いだ。準備は完了した。後は、世界最高の『魔法使い』による詠唱を待つだけ。

 

「…………リレミト…………」

 

詠唱の完成と共に輝き出したメルエの身体は、その身体を抱くリーシャと手を繋ぐサラの身体を共に光となって収束して行く。収束した光は、瞬時に塔の外を目指し飛び出した。光を失った塔の五階層は闇に包まれる。暗闇の戻った<アープの塔>は、再び静けさを取り戻した。

 

 

 

閉鎖された死臭の漂う塔に渦巻く『無念』と『憎悪』は、勇者一行によって十数年ぶりに開けられた扉と共に解き放たれた。自分達の保身の為に閉じられた門は、その中へ幽閉された修道士の心と共に塔の時間を止め、塔で生きる様々な生命の時も止めてしまったが、幽閉された修道士の心の解放によって、古代の建造物は再び時を刻み始める。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにてアープの塔は終了となります。
三話もかかるとは思いませんでした。
戦闘シーンをもう少し長く描くつもりではあったのですが、考えてみれば、たかだか「エリミネーター」です。この辺りを旅する勇者一行の内、「勇者」と「戦士」であれば、一撃で倒せる可能性もある魔物。故に、このような形になりました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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~幕間~【北の海海域】

 

 

 

外は既に夕暮れ時。陽は西の海の先へと沈み始めており、世界を真っ赤に染め上げていた。赤く輝く海が幻想的に塔を照らし出す。十数年に渡る負の螺旋を紡いでいた塔の解放を祝うかのように、塔へ入る時に降っていた雨は止み、晴れ渡る空には赤く輝く雲が優雅に流れていた。

 

「…………カミュ…………?」

 

「ふふふ。大丈夫です。ほら、あの入り口付近に見えているのが、カミュ様ですよ」

 

メルエが<リレミト>を行使し、塔の外へと脱出したリーシャ達三人は、塔の西側に出ている。目の前には輝く赤い海が広がっており、海鳥達が一鳴きした後、巣へ帰る為に飛び交っていた。表に出てすぐにリーシャに抱き上げられていたメルエは、絶対的保護者を探す為に首を回すが、その姿は見えず、不安そうに声を洩らす。そんなメルエに苦笑を浮かべたサラが、塔の南側にある入り口付近に見える影を指差した事で、メルエの表情に花が咲き誇った。リーシャの腕から降り、入口へ向かって駆け出すメルエの姿に苦笑し、リーシャとサラはゆっくりと歩き出す。

 

「カミュ、<山彦の笛>とやらは手に入ったのか?」

 

「……ああ……」

 

足下にしがみ付くメルエに困惑しながらも、リーシャの問いかけに頷きを返したカミュは、懐から小さな道具を取り出した。それは、笛というよりは、ある地方で造られていた『オカリナ』と呼ぶに相応しい外見をしている。細長い笛ではなく、角型というか、丸みを帯びた丸型というか、とても表現し難い形をしており、そこに幾つもの穴が掘られている。おそらく、その穴を指で押さえる事によって、音を紡ぎ出すのであろう。

 

「しかし、私は楽器を吹く事は出来ません。リーシャさんは出来ますか?」

 

「いや、私も出来ない」

 

笛を手に入れたは良いが、その演奏が出来ない事を懸念したサラは、隣にいるリーシャへ尋ねるが、その答えは素早く返って来た。尋ねはしたが、その解り切った答えに動じる事無く、サラはカミュへ視線を移す。サラもリーシャの答えは予想出来ていたのだろう。剣一筋と言っても過言ではないリーシャの人生の中で、楽器を演奏する事などなかった筈なのだ。しかし、それは今サラが視線を送っている人間も同様であろう。

 

「楽器など触った事も無い」

 

ここでサラは困り果てる。当然と言えば当然の結果なのだが、カミュもやはり楽器を演奏するどころか、触れた事もないと言う。『オーブ』という『精霊ルビス』と自分達を繋ぐ貴重な物との接点となる<山彦の笛>を見つけたは良いが、それを使用出来る者が誰もいないのであれば、宝の持ち腐れになってしまうのだ。そうなれば、ここまでして入手した意味さえも失ってしまう。サラは、深い息を静かに吐き出した。

 

「…………メルエ………できる…………」

 

「ふぇ!?」

 

「なに!?」

 

しかし、そんなサラの溜息を聞いていた幼い少女が、落胆する三人の顔を見上げながら、驚くべき発言をしたのだ。その言葉を聞いた三人は例外なく驚きの声を上げる。サラなど奇妙な声を発し、目を丸くしてメルエを見つめてしまっている。それ程に突然告げられた言葉が衝撃的な物であったのだ。最近は少しずつ表情の変化が分かるようになったカミュだったが、この時ばかりは、リーシャやサラであっても一目で分かる程の驚きを示していた。

 

「メルエ、笛が吹けるのか?」

 

「え? 劇場で誰かに教わったのですか?」

 

「…………ん…………」

 

リーシャの言葉を切っ掛けに、サラが自分の頭に浮かんだ可能性を口にした。そして、メルエはその問いかけに対して即座に頷きを返したのだ。確かに、メルエは劇場の踊り子の養子として育った筈。そして、幼いながらも、劇場の下働きとして、少なくとも数年の間は働いていたという事実がある。だが、それは将来踊り子になる上での下積みをしていた訳ではなく、単純に扱き使われていたと言った方が正しいのだろう。そんなメルエに楽器の練習をする時間など有ったとは考え難いのだ。

 

「カミュ様、メルエに<山彦の笛>を貸してあげて貰えますか?」

 

「……ああ……」

 

カミュから<山彦の笛>を受け取ったメルエは、嬉しそうに微笑みながら三人を見渡した。皆がメルエの言葉を信じ切れていないのか、全員の表情には張り付いたような笑みが浮かんでいる。引き攣った笑みを浮かべる三人に少し首を傾げたメルエではあったが、そっと歌口へと口を宛がった。夕暮れ時の赤い光を浴びながら、メルエは静かに息を吐き出す。同時に響き渡る透き通った音。何の曲なのかは解らない。本当に簡単なメロディーであり、とても短い曲。

 

あの劇場で、毎日洗濯や床拭きを行っていたメルエには、食事だけはしっかりと与えられていた。踊り子達と共に食事が出来る訳ではない。下積みの少女達と共に出来る訳でもない。下働きの合間を縫って、劇場の女将がメルエに簡単な食事を持って来てくれていたのだ。その時、たった一度だけ教えて貰った曲。それが、メルエが吹いている曲だった。単調で短い曲。笛は劇場の物であった為、それ以降メルエが吹いた事はないのだが、人形のように人生を送っていたメルエにとって、初めて外から受けた刺激は、身体に沁みついていたのだろう。

 

「凄いです! 凄いですよ、メルエ!」

 

「ああ。良い曲だな」

 

吹き終わったメルエが歌口から口を離すのを待ち切れないかのように、サラは手放しで褒め千切った。メルエが笛を吹くという事自体が想像出来なかったのだろう。見事に吹き切ったメルエに向けて、最大の笑みを浮かべたサラは、メルエを抱き締めるように腕を伸ばす。音楽とは無縁であったリーシャも、メルエが吹いた笛の音色と、一生懸命に吹き切ったメルエを讃える言葉を告げた。二人の賞賛を受けたメルエは、唯一人、口を開かない青年に視線を向ける。

 

「凄いな……メルエは、何でも出来るのだな」

 

それが、『勇者』として、たった一つの道だけを歩いて来た青年の正直な感想だったのだろう。自分が『苦しみ』と『怒り』と『絶望』を感じながらもようやく手に入れた魔法という神秘を、この幼い少女は、魔法陣に入っただけで契約する事が出来た。自分と同じように『絶望』を感じ、親さえも他人として見ていた筈のこの幼い少女は、カミュ達との出会いにより『愛』を知り、『心』を手に入れる。カミュから見れば、この二年程の短い時間で、次々と色々な物を手に入れ、成長を続けて行くメルエが眩しく映ったのかもしれない。

 

「よし! その笛はメルエが持っていろ。そうだな……船に着いたら、メルエの首から下げられるように紐のような物をつけてみよう」

 

「…………ん…………」

 

リーシャの提案にメルエは笑顔で頷きを返す。<山彦の笛>の持ち主は、メルエと決まった。演奏者がメルエしかいないのだ。そうなるのが必然なのだが、そのメルエが吹く事の出来る曲も一つしかない。それも、とても単調で簡単な物。それによって山彦が発生するのかどうかが懸念されるが、その事を気に掛ける者は誰もいなかった。そこに思い至らない者などいない。それでも不安はない。彼等が歩んで来た道の険しさに比べれば、何と言う事も無い些細な事だと考えているのかもしれない。

 

 

 

「おお! お帰り」

 

その後、二日程掛けて、一行は船へと辿り着く。そこまでの道中で何度か魔物との戦闘を行って来たが、カミュ達が苦戦する事はなく、メルエの魔法の機会もほとんどなかった。サラがメルエを抑制している事もあるが、メルエが呪文の行使を強行する事も無く、魔物達はカミュの剣とリーシャの斧の錆と化して行く。リーシャは、意気揚々と船に乗り込むメルエとサラの背を見ながら、ここまでの道中を思い出していた。メルエの成長は、やはり群を抜いている。だが、その影に隠れて、サラの分析力やその戦闘力も大きく成長を果たしていた。

 

メルエを護るように後方に控えている事が多いサラではあるが、魔物がサラ達の方へ行かないとは限らない。その際、メルエの呪文が行使出来るような状況であれば問題はないが、今のメルエが行使する魔法の威力を考えると、状況をしっかり把握する必要性も生じ、前線にいるカミュ達への被害を考慮しなければならないのだ。そして、その際はサラがその手に<鉄の槍>を持ち、魔物と対峙する必要があるのだが、サラはその役目をしっかりと担っていた。魔物を一撃で仕留める事は出来ない。それでも、自身の持つ魔法と技術を駆使し、魔物を駆逐している。それは、明確なサラの成長であろう。

 

「カミュ、私達は『魔王バラモス』を討伐する為に歩んでいるのだな……」

 

「……何を今更……」

 

リーシャの横を抜けて船に乗ろうとしていたカミュは、リーシャの呟きに首を傾げる。カミュにとって、その問いかけは愚問であった。カミュ自身、自分がその為だけに生かされていると考えている節がある。それ以外に目的はなく、それ以外の生き方は許されない。『魔王バラモス』を討伐出来るか出来ないかという事は、カミュにとって然して重要な事ではなかったのだ。途中で魔物によって殺されようと、平原で倒れ伏そうと、それこそ『人』によって殺されようとも、彼はそれを受け入れるだけ。

 

「サラにも新しい武器が必要だな。何時までも<鉄の槍>では心許無い」

 

「ああ。武器に関しては、アンタに任せる」

 

だが、そんなカミュの心も徐々に変化している。今のカミュは、自身の死は許容出来ても、その他の三人の死は許す事が出来ないだろう。自分の身を呈してでも、彼は彼女達を護ろうとするかもしれない。ただ、カミュのその行為は、リーシャも許す筈がないのだ。彼女は、自分を含め、誰一人欠ける事を許しはしない。それこそ、『魔王バラモス』という諸悪の根源との決戦に挑む時も、一人も死なせないように動く事だろう。そんな彼ら二人の心の変化もまた、成長の一つなのかもしれない。

 

「目的の物は手に入ったのか? ならば、今度は北へ進むんだな?」

 

「頼む」

 

カミュが乗り込んで来た事で、頭目との会話が始まった。目的の品の入手に関して頷いたカミュを見て、頭目は次の目的地を問いかける。次の目的地は塔へ行く前に目指すつもりだった<グリンラッド>という北にある島。万年氷に覆われていると言われる島を目指す。カミュの言葉に大きく頷いた頭目は、久しぶりの出港に心躍らせる船員達へ大声を張り上げた。

 

「出港だ!」

 

頭目の言葉に割れるような雄叫びを上げた船員達は、それぞれの配置へつき、船を動かし始める。晴れ渡る空からは、心地よい風が吹き、船の帆に力を与えていた。スーの村の南側から海に出た船は、そのまま陸地を離れ、西側に大陸を見ながら、北へと進路を取る。波は天候と同様に穏やか。久方ぶりの潮風を満面の笑みで受けているメルエは、いつも通り木箱の上に立ち、海鳥達の声を聞いていた。

 

 

 

船は順調に北へ進む中、気候は少しずつ変化して行く。船が出港して二週間が経つ頃には、左手に見えていた大陸がその姿を南へと移動させていた。地図上で見れば、既にエジンベアの西方に位置する海上を走っている事になる。汗を掻く程に暖かい気候であった大陸を離れた船上は、空気自体が冷たくなって行き、身体に触れる風も肌寒くなって行った。今まで笑顔で海を見つめていたメルエは、どこか不思議そうに空を見上げ、肌で感じ始めている気温に首を傾げる。

 

「随分気温が下がって来たな……メルエ、こっちにおいで」

 

船の上で前方を見ていたリーシャは、身体を一瞬震わせた後、空を見上げながら小首を傾げているメルエを手元へと呼んだ。傍にいるサラも若干の肌寒さを感じているのか、マントを引き寄せ、体温を保温するように包まる。首を傾げていたメルエだけは、何故か寒さを感じてはいないように、不思議そうに海を見つめ、暫くしてからリーシャの許へと歩み始めた。

 

「あれ? これは?」

 

「ん? 雪を見た事がないのか?」

 

メルエがリーシャの許に辿り着き、その腕に包まれたと同時に、上空から白く輝く粉が舞い降りて来る。自分の肌に落ちた白い粉が持つ冷気を感じたサラは、次々と降り注ぐ結晶へ手を翳し、それを不思議そうに見つめ、口を開いた。リーシャに抱かれたメルエも、舞い落ちて来る小さな結晶達に目を輝かせ、リーシャの腕から抜け出し、笑みを浮かべて天を見上げる。そんな一行の様子に、頭目は若干の驚きを示しながら口を開いた。

 

元々、サラはアリアハン大陸にあるレーベの村で生まれ、アリアハン城下町にある教会で育った。リーシャは、カミュと出会うまでアリアハン大陸を出た事はない。カミュも同様である。メルエに至っては生まれた土地は解らないが、物心付いた頃には、アッサラームと言う砂漠に程近い、暖かな土地で暮らしていた。アリアハンは、地図上でも南に位置する大陸。気温は比較的穏やかで、急激な温度変化など有りはしない。故に、彼等は、上空から降り注ぐ天使からの送り物を見た事はなかったのだ。

 

「…………ゆ……き…………?」

 

「ああ。こういう寒い地方では、偶にこんな天気になる。溶ければ水になるから、船上では結構貴重な資源って訳だ」

 

「これは冷たいのですね……でも綺麗ですね」

 

上空を見上げながら両手を広げるメルエの顔にも、翳した手に舞い落ちる結晶の温度を確かめるサラの顔にも笑みが浮かんでいる。初めて見る物に興味を示しているメルエは、自分の手に触れた雪をリーシャへ見せようと手を伸ばすが、リーシャの許へ行く頃にはメルエの体温で溶けてしまう。『むぅ』と頬を膨らませ、再び上空に手を翳すメルエの姿は、カミュやリーシャだけではなく、船員達の心も温めて行った。

 

「しかし、随分北へ来てしまったようだ。この先は何も無いかもしれないぞ? それこそ、世界の端だからな」

 

「スーの村のある大陸の北と言う事だったからな。もう少し先じゃないのか?」

 

はしゃぐメルエやサラに頬を緩めていた頭目だが、北へと進む船の進路について苦言を呈する。しかし、それに答えたのは、船の進路を話し合って来たカミュではなく、隣で上空を見上げていたリーシャであった。確かにリーシャの言う通り、情報の中ではスーの村があった大陸の北に島があるという。だが、その島は、二週間経過した今もまだ見えはしない。故に、リーシャはもう少し北へと進む事を告げたのだ。スーの村の村長が話していた『氷に覆われた島』という言葉もリーシャの頭に残っていたのかもしれない。

 

だが、サラはリーシャの提案にではなく、頭目の言葉に意識を奪われていた。地図上に記載されている世界の端。それは平面に記された世界の縮図である地図にはしっかりと記載されている。いや、厳密に言えば何も記載されていないのだ。羊皮紙で出来ている地図では、東西南北に記載できる物に限度があるのだが、この世界ではそれが世界の果てと考えられていた。東西南北に広がる海は、端へ行けば奈落へと落ちると考えれ、船は世界の端に行く前に戻らなければ、その奈落へ引き摺り込まれるとさえ考えられていた。実際には、世界の端と考えられていた西の海の先には、スーの村がある大陸があったのだが、常識と言う鎖に縛られている頭目や船員達は、自分達の知っている<スーの村>とは別の村が西の大陸にも存在しているとでも考えているのかもしれない。

 

「しかし、これ以上行けば危険が大きい。ある程度進んだら西に向かうぞ?」

 

「……わかった……」

 

この世界の常識とも言える説を信じている海の男達は、世界の端へ向かう事を恐れる。その先に何があるか解らないからだ。通説通り、滝壺のような形で奈落へ引き摺り込まれる可能性もある。この世界に、『世界の端』を見た者は誰もいない。何故なら、世界の端へ行った者は皆、奈落へ吸い込まれ、帰って来る事はないと信じられているからだ。それを理解しているからこそ、カミュは静かに頷きを返す。リーシャも頷きを返すのだが、サラだけは、神妙な面持ちで船の先頭を見つめていた。

 

「メルエ、寒くはないですか?」

 

「…………ん…………」

 

空から舞い降りる小さな結晶は、船員達の指の感覚を失わせて行く。寒さに悴んだ手に息を吐きかける船員達を見たサラは、未だに笑顔で天を見上げる幼い少女を気遣った。頬を赤くしながら、白い息を吐き出したメルエは、サラの問いかけに大きく頷きを返す。初めて見る物に対する好奇心は、メルエの心を高揚させ、体感する温度をも気にかけない物へと変化させていた。

 

 

 

船は、更に一週間の間、北へと向かって進路を取る。その間も雪は船上に降り積もり、船員達と共にカミュとリーシャは雪搔きに追われる事となった。一人メルエだけは、降り積もった雪を笑顔で触り、頬も掌も真っ赤にしながら、サラと共に何かしら遊びを考え駆け回る。

 

それも、次第に止み始めた雪によって終わりを告げた。雪を降らしていた厚い雲が消え、顔を出した太陽からは、暖かな光が降り注ぐ。それに応じて船上の気温も上がって行き、メルエが作った雪の人形なども溶けてしまう。徐々に溶けて行く制作物に眉を下げ、リーシャとサラに懇願の視線を送るが、二人にはどうする事も出来なかった。

 

「暖かくなって来てしまいましたね……やはり……」

 

「そろそろ良いだろう? この空気の変化は世界の端に来た変調かもしれない。そろそろ西へ向かおう」

 

気温の変化に対し、何かを考え込むサラを余所に、頭目を始めとする船員達が『そわそわ』とし始める。既にスーの村の大陸を出港してから一ヶ月ほどの時間が経過しており、周囲が海ばかりの為に確認は出来ないが、地図上の端に辿り着く可能性も出て来ていた。故に、その未確認の場所へ行く事への恐怖が海の男達の心を蝕んでいたのだ。船員達を代表して口を開いた頭目の言葉に、カミュもリーシャも頷く他はなく、船は旋回。舵を動かし西へと進路を取る事となった。

 

「魔物だ!」

 

西へ進路を取り始めてすぐに、船の行く手を遮るように魔物が現れた。船を覆う程の体躯がある訳でもない魔物達は、船上へと上って来る。何度も遭遇した事もあるその姿に、船員達も心なしか安堵の表情を浮かべていた。船上に上がって来たのは、下半身に尾びれを残した人型の魔物。海を渡る船を何隻も沈めて来た<マーマン>と呼ばれる物だった。

 

「メルエ、下がれ!」

 

傍にいたメルエをサラと共に後ろへ下がらせ、リーシャは<バトルアックス>を握って前線へと躍り出る。背中から剣を抜いたカミュもまた、一体の<マーマン>の首を跳ねて、前線へと向かった。既に元カンダタ一味の船員を中心に、船員達も武器を取って魔物との対峙を始めている。しかし、その光景は、いつもの物とは異なりを見せていた。

 

「なんだこいつら! くそ!」

 

以前に遭遇した時は、数体の魔物が出現していても一体ずつ対応して行けば、<マーマン>程度に後れを取る船員達ではなかった。だが、今回遭遇した<マーマン>達は、連携と言っても過言ではない程に纏まりを見せている。個別に動くのではなく、『人』一人に向かって数体で動くなど、まるで何かの指示を受けて動いているようにも見えるのだ。

 

「気を抜くな! こちらも三人以上で固まり、魔物と対峙しろ!」

 

直観的な何か、いや、本能的な何かでそれを感じ取ったリーシャが、苦戦している船員達へ指示を飛ばす。『勇者一行』という絶対的強者達の存在を思い出した船員達は、心の動揺を鎮めて行った。指示通りに元カンダタの部下達がリーダーとなった隊を形成し、魔物と対峙し始める。魔物の攻撃を避け、一人が攻撃する時には、他の者が防御に徹する。これによって、魔物を倒せなくとも、大きな損害を受ける事もなくなった。

 

「…………メラ…………」

 

その時である。先頭で剣を振っていたカミュの横を、小さく圧縮された火球が通り過ぎ、カミュの前で弾け飛んだのだ。サラと共に後方で控えていたメルエの放った最下級の火炎呪文である。<雷の杖>という自分の能力を発揮するのに適した杖を持ったメルエの呪文は正確無比。カミュの周囲の温度を瞬時に下げる程の威力を持つ冷気を射抜き、霧散させた。霧散した冷気は圧縮された火球によって霧状の水となり、船上を霧となって覆って行く。

 

「皆、一度下がれ」

 

即座に出されたカミュの指示により、船員達は対峙していた魔物と距離を取り、船上の後方へと一端下がり始めた。<マーマン>達も動こうとはせず、数体の魔物の死体を挟み、両者が睨み合う形となる。徐々に霧が晴れ始め、視界が戻る事には、船員達の避難も終わり、『勇者一行』という最強戦力が前線で魔物と対峙する構図が出来上がっていた。

 

「あれが司令塔か?」

 

「そのようです。明らかに他の<マーマン>達とは雰囲気が異なっています」

 

斧を眼前に向けながら問いかけるリーシャの言葉に、サラは同意の言葉を返す。霧が晴れた先には、数体の<マーマン>が横一列に並び、その後ろに一体の<マーマン>が不気味に佇んでいた。後方にいる<マーマン>は、その姿形から通常の<マーマン>達とは異なりを見せ、身体は一回り以上大きく、その身を覆う鱗の色素も鮮やかな緑色をしている。数体の<マーマン>を盾のように配置し、手下を扱うように、カミュ達へ攻撃の姿勢を見せていた。それはリーシャの言う通り、司令塔と言う呼び名に相応しい姿。

 

<マーマンダイン>

海に生息する魔物である<マーマン>の上位種とされる魔物。<マーマン>同様に、その姿は半魚人としか表現できない物。ただ、<マーマン>よりも体躯は一回り大きく、その体躯が<マーマン>との力関係を如実に示している。普段は北の海のような海水の冷たい海域に生息する魔物で、その住処に相応しく、氷結呪文を行使する事もあった。ただ、基本的性能は、<マーマン>とそれ程大差はなく、一番厄介なのは、その知能。呪文の行使が出来る程度の知能を持っている為なのか、自分が束ねている<マーマン>達を使って『人』を襲わせる事が多い。

 

「メルエ、先程のは仕方ありませんが、灼熱呪文などは絶対に駄目ですよ」

 

「…………ん…………」

 

杖を握って立っているメルエにサラは注意を促す。いつもならば多少なりとも頬を膨らませるメルエであったが、今回は神妙に頷きを返し、司令官であるサラの指示を待つ態度を示した。満足そうに頷いたサラは、<鉄の槍>を手にし、周囲を囲むように動く<マーマン>達の行動を注意深く見渡し始める。そして、パーティーの頭脳は、戦略を立て終え、その指示を口にするのだ。

 

「カミュ様とリーシャさんは、あの大きな<マーマン>だけを目指して下さい。途中にいる<マーマン>は、私が何とかしますので」

 

「……わかった……」

 

「ふふふ。頼もしくなったな、サラは……」

 

サラの指示を受けたカミュは無表情で頷き、リーシャは笑みを溢して斧を掲げる。一歩一歩前に向かって歩いて来た者達だけが、リーシャの言葉を理解する事が出来るだろう。もし、旅を始めたばかりの頃であれば、このような統制の取れた魔物達の出現に驚き、咄嗟の行動など出来なかったかもしれない。だが、様々な事を乗り越えて来た彼らには、信じる事の出来る者達がいる。自分の役割をこなす。その単純ではあるが難しい事を達成した先には、必ず道が開けて来たのだ。故に、カミュとリーシャは走り出す。パーティー内の頭脳が考えた未来を実現する為に。

 

「キシャ―――――」

 

駆け出したカミュ達が一直線に向かうのは、<マーマン>達の司令塔となっている<マーマンダイン>唯一体。だが、魔物達もそれを黙って見ている訳がない。囲むように動いていた<マーマン>が、まるで鶴が羽を閉じるようにカミュとリーシャを挟み込んで行った。それでもカミュとリーシャは脇目も振らず、前方で牙を剥いている<マーマンダイン>を目指す。彼等二人にとって、サラが『気にするな』と言った魔物等、気にする必要などない物なのだ。

 

「バシルーラ!」

 

カミュ達に覆い被さるように殺到する<マーマン>達は、その身に一陣の風を受けた感触を味わった後、虚空へと投げ出される。後方ではカミュ達の方へ手を翳す『賢者』の姿。以前、自分達が離れ離れという危機に陥れられた忌まわしき呪文。それを彼女が満を持して行使したのだ。まるで弾き飛ばされるかのように、船の外へと飛び出した<マーマン>達は、そのまま西の空へと消えて行く。一度に数体の同朋が戦線を離脱してしまった事に驚いた数体の<マーマン>は、行動に移す前にカミュとリーシャによって斬り捨てられた。

 

『悟りの書』と呼ばれる『古の賢者』が残した遺産に記されていた呪文の契約を、サラは既に済ませていたのだ。この呪文によって始まった苦難は、彼等四人を著しく成長させる。その呪文の存在をサラは既に『悟りの書』で見ていた。新たに浮かび上がった文字や魔法陣は読み取れても、契約が出来なかった呪文の契約が完了してしまう程に、彼女は『賢者』としての成長を遂げていたのかもしれない。メルエとの呪文の修練の中、彼女はその契約を済ませており、適切な場面と場所で行使するだけとなっていたのだ。

 

「魔物達が飛んで行く姿が、こんなにも爽快だとは知らなかったな」

 

自分達を覆っていた魔物達が次々と空へ投げ出され、そのまま遙か彼方へ飛んで行く姿は、笑いが浮かんでしまう程に滑稽であり、リーシャは頬を緩ませる。元来、リーシャはその武器で魔物を殺害する事に愉悦を覚えるような者ではない。『魔物=悪』という考えを植え付けられてはいたが、それを討伐する事が自分の責務であると考えても、それが楽しい行為だと考えてはいなかったのだ。故に、命を奪う訳でもなく、驚きの表情を浮かべたままに空へと飛んで行く魔物の姿に笑みを溢す。

 

「…………メラ…………」

 

しかし、そんなリーシャの横を火球が通り過ぎ、前面で弾けて霧を作り出した事によって、その表情も厳しさを取り戻した。再び<マーマンダイン>が氷結呪文を唱えたのだろう。距離を詰めているリーシャでも気付かなかった事を、後方で見ていたメルエが気付いた。それはメルエという幼い『魔法使い』の成長を物語っているのかもしれない。<雷の杖>という強力な杖を手にした事が、暴走していたと思われていたメルエの魔法力の本質を浮き彫りにした。カミュ達が考えていた物とは異なり、実際のメルエは、無意識の内にその体内にある魔法力を制御していたのかもしれない。強大な魔法力を無意識に恐れ、それを抑えつけていて尚、彼女の身体から漏れる魔法力は強大であったのだ。しかし、カミュとの再会によって取り戻した心は、大事な戦友との別れを受け入れ、新たな友となり得る杖との出会いによって強くなる。そして、この幼い少女は真の『魔法使い』となった。

 

「呆けるな!」

 

「わかっている! 突っ込むぞ!」

 

カミュの怒声に返答したリーシャは、霧の中へと突入する。一見、無謀にも見えるこの行動ではあるが、それをカミュが止める事はなかった。何故なら、彼等二人は、<マーマン>の上位種程度の魔物に後れを取る程の者ではない。彼等の剣や斧は、更に強大な魔物の命を散らして来た。それは自信と言う名の経験を積み上げ、彼等の強さを高みへと押し上げて行く。だからこそ、彼等はお互いを信じ合う。自らと共に歩んで来た者が積み上げて行った経験と自信を。

 

「やぁぁぁぁ!」

 

<マーマンダイン>への止めはリーシャが刺した。<マーマンダイン>を護ろうとする<マーマン>達をカミュが斬り捨て、その脇を抜けたリーシャの<バトルアックス>が一閃。その巨体を生かす暇も与えられずに喰い込んだ斧の刃先が、<マーマンダイン>の命の灯火を刈り取って行く。脇下から喰い込んだ斧は、胸を貫き、反対側の脇を抜けて行った。真っ二つとなった<マーマンダイン>は断末魔の叫びを上げる事もなく、肉塊に変化し、それを見た<マーマン>の生き残り達は、我先にと海へ逃げ込んで行く。

 

「ふぅ……なんとかなったな」

 

「先走り過ぎだ。相手があの程度であったから良かったが、少しは危険性を考えろ」

 

斧を一振りし、背中に納めたリーシャは一息吐こうとするが、同じように剣を鞘へ納めたカミュの苦言に言葉を詰まらせる。カミュにしてもリーシャを信じてはいるのだ。ただ、それでも未知の敵に対しての軽率な行動は、一人の『死』だけではなく、パーティーの全滅という最悪な状況へ誘う可能性もある以上、カミュは苦言を呈すしかなかったのかもしれない。カミュの表情を見たリーシャが、己の行動を省み、素直に頭を下げたのだから、リーシャもそれを理解しているのだろう。

 

「し、しかし、あれは私達が受けた魔法だな? サラはあの呪文も行使出来るのだな」

 

「……魔法を受けたのは、アンタだけだ……」

 

未だに睨みつけるカミュから視線を逸らし、リーシャは話題を変える事にした。しかし、話題を変えようと口から出た物は、再びカミュに斬って落とされる。確かに、以前<ヘルコンドル>が行使する<バシルーラ>を受けた者は、リーシャ唯一人。弾き飛ばされそうなリーシャに掴みかかったのが、メルエとサラである以上、リーシャの言うような『私達』という言葉が当て嵌まるとは思えない。再び言葉を詰まらせたリーシャの余所に、カミュは<マーマンダイン>の死骸を海へと投げ入れた。

 

「<バシルーラ>は、カミュ様が来る前に、スーの村で契約が出来ました。行使する事は余りないとは思っていたのですが、上手く発動してくれて良かったです」

 

「…………メルエ……も…………」

 

悔しそうに唇を噛むリーシャの横に移動したサラは、呪文の行使場面が適切であった事に胸を撫で下ろす。そんなサラの表情を見て、ようやく表情を緩めたリーシャであったが、足下で自分を見上げながら頬を膨らませるメルエを見て、苦笑へと変えて行った。どれ程にサラから魔法について学ぼうとも、メルエの中では譲れない何かがあるのだろう。『魔法に関してだけは、誰にも負けたくない』という気持ちが表情に表れている。それは、メルエが『魔法使い』である事を示しているのかもしれない。

 

「ありがとう、メルエ。メルエのお陰で、冷気によって凍り付く事もなかった」

 

「…………ん…………」

 

帽子を取り、ゆっくりと頭を撫でつけるリーシャの手を、目を細めて受け入れたメルエは、柔らかく微笑んだ。彼女がどれ程の強力な魔法を行使しようとも、どれ程に心が成長しようとも、その胸にあるたった一つの願いに変わりはない。『カミュやリーシャ、そしてサラに褒められたい』、『メルエは凄いと頭を撫でられたい』というささやかな幸せを望む。それがメルエの願い。広い世界へ飛び出し、様々な物を見て来た彼女ではあるが、まだ己の翼だけで大空を飛べる程、その翼は強くはないのだ。

 

「魔物の脅威も去った事だし、このまま西へ進むぞ?」

 

「……ああ、頼む……」

 

四人のやり取りを見ていた頭目の言葉で、停滞していた船は再び速度を上げて海を走り出した。数週間前とは逆に、汗ばむ程に暖かな陽射しを受け、船員達は各々の持ち場へと散って行く。一週間程前には雪が降っていたとは思えない程に、体感温度は高く、北へ向かっていたとは思えない程の気候に、サラは先程までの笑みを消して、一人眉を顰めるのであった。

 

 

 

「陸が見えたぞ!」

 

そして、更に数日の航海を経て、彼等はようやく待望の島を視界に納める事となる。スーの村の村長の話通りに北へ向かって船を走らせた結果辿り着いた場所は、小さな島。村長の言葉の中にあった『氷に覆われた島』という言葉とは程遠く、暖かな陽射し降り注ぎ、湿り気を帯びた風が吹き抜ける場所。

 

<グリンラッド>と呼ばれる場所には、『偉大な魔法使い』がいると云われる。

その島は常に氷で覆われ、草花が生える場所は唯一つ。

 

その場所にいると云われる『偉大な魔法使い』を求めて旅をして来た者達は、似ても似つかない小さな島へと辿り着いた。地図では世界の端に近い場所と考えられる場所。地図にも載らぬ小さな島は、まるで『勇者一行』が来る事を待ち望んでいたかのように、晴れ渡る空の下、静かな波と共に、彼等の船を誘っていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

更新が遅くなりました。
本当は、次の目的地も含めて一話としようとしたのですが、また目測を誤りました。
一端ここで区切り、次話へ繋げたいと思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ルザミ

 

 

 

 船はゆっくりと浅瀬に入って行き、錨を下ろした。しっかりと岩場に錨が入った事を確認した船員の合図と共に、小舟が海に降ろされ、カミュ達四人は陸地を目指して櫂を動かす。次第に近づいて来る陸地に目を輝かせて立ち上がろうとするメルエをサラが必死に抑え、リーシャはその光景に苦笑を浮かべていた。

 

「サラ、メルエを見ていてくれ」

 

「はい」

 

「…………むぅ…………」

 

 小舟を陸地に上げ、近場にある木へ結びつけながら、リーシャはサラに指示を出す。浜辺で動き回る小動物達を見ようと動き回るメルエは、サラによって行動範囲を制限され、頬を膨らませていた。しかし、そんなメルエの傍を横切る貝を背負った小さな蟹を見つけ、彼女は目を輝かせてしゃがみ込む。決してそれに手を触れようとはしないが、その小動物の後を付いて行くように動くメルエの姿に、サラは小さな溜息を吐き出して苦笑を洩らすのだった。

 

「カミュ、何処へ向かうんだ?」

 

「この場所は地図には記載されていない。見た所、スーの村で聞いた<グリンラッド>ではなさそうだが、少し歩いてみる」

 

 小舟を固定し終えたリーシャは、地図を開いているカミュに向けて問いかけるが、その答えは求めていた物とは異なった物だった。

 リーシャは、カミュならばここが何処で、何処へ向かえば良いのかという事を理解していると考えていたのかもしれない。だが、実際にはカミュが持っている地図にこの場所は記載されておらず、しかもここはグリンラッドではないという。氷に覆われた場所ではない為、その可能性を考えていたリーシャであったが、明確に宣言されると、それはそれで衝撃的な物であった。

 

「メルエ、行きますよ。しかし、闇雲に歩き回る訳にも行きませんね……見た所、小さな島でしょうから、数日で歩き切れるとは思いますが……」

 

 小動物達を眺めているメルエを呼び寄せたサラは、カミュとリーシャの会話に入って来る。陸に上がる前に船上で見た島は、全貌が見渡せる程に小さく、サラの言葉通り、数日で全てを見る事は可能であろう。だだ、その結果、彼等に必要となる物が見つかるとは限らない。徒労に終わる可能性の方が高いと言っても過言ではない筈なのだ。

 

「ここは、見通しが悪い。少し開けた場所へ出てみる」

 

「そうですね。それが良いと思います。メルエ、行きましょう」

 

「…………ん…………」

 

 周囲を見渡したカミュは、木々が生い茂る場所を離れ、全体を見渡せるような場所を探す提案をし、それに頷いたサラは、先程拾った貝殻を眺めているメルエの手を取った。

 東側から小島に上陸したカミュ達は、外周を西へ向かって歩き始める。太陽は昇ったばかりであり、時間にはまだ余裕がある。明るい内に開けた場所へ出る事も可能であろう。

 

 

 

 四人が歩き回る中、ほとんど魔物の姿を見る事はなかった。このような小さな島には、元々魔物が暮らしてはいなかったのか、それとも死滅したのかは解らない。だが、もし死滅していたとすれば、この場所に『人』も存在しないという事になるだろう。だとすれば、やはり元々の魔物の数が少ないと考える事が妥当と言う事になる。

 

「カミュ様、あれは……」

 

 太陽も西の方角へ沈み始めているが、まだ周囲を視認する事が出来る程の明るさを維持している。海辺を歩いていた一行の右手に見えていた木々が姿を消し、島の内側を望めるようになった頃、何気なく島の内側を眺めていたサラが口を開いた。

 サラの言葉に、全員の視線が集まる。サラが指を差した方角へ視線を移したカミュは、少しも驚いた様子はなかったが、リーシャは予想していなかった為なのか驚きの表情を浮かべていた。

 

「煙……集落でもあるのか?」

 

 皆の視線が集まった先に見えたのは、天へ向かって立ち上る数本の煙。陽が沈み始めた頃に煙が上がるというのは、山火事でない限り、知恵のある者が食事などを作る為に火を熾している事を示している。そんな可能性を目の当たりにしたリーシャは、誰に問いかける訳でもない呟きを洩らした。

 夕陽の光を浴び、橙色に輝く煙は、穏やかな風に靡きながら、天へと昇って行く。暫し、その様子を眺めていた一行ではあるが、カミュが島の内側へと歩き始めた事から、皆がその後をついて歩き始めた。

 

「カミュ、ここからだと、陽が沈む前には着かないぞ? 何処か適当な場所で一夜を明かそう」

 

「わかった」

 

 中央へと進むカミュの後ろから掛かったリーシャの提案は、即座に了承される。陽が暮れてしまえば、如何に魔物が少ない島といえども、魔物の動きが活発となり、遭遇する危険性も高まって来る。余計な戦闘を行う意味がない以上、その危険を冒す理由もない。故に、カミュは周囲に広がり始めた闇の支配を考えながら、野営の場所も考慮に入れて歩いていたのだ。

 陽も完全に大地へ隠れ、周囲を闇が満たした頃、木々が立ち並ぶ場所でカミュ達は野営を始める。簡素な食事となり、ほとんどが木に生っている実などが主であり、獣の肉などはない。それでもメルエは嬉々として木の実を頬張り、美味しそうに笑顔を漏らしていた。

 

「しかし、この小島は何処なのでしょう?」

 

「地図にも記載されてはいないのだろう? 北へ向かい過ぎてしまったのかもしれないな」

 

 メルエの口元を拭っていたサラは、周囲を見渡しながら、疑問を洩らす。それに同意するように、リーシャは口を開いた。二人とも、正確な場所が解らないのだろう。この世界での常識として、世界の端には、奈落へと通じる崖が存在するという物がある。リーシャやサラに至っても、その説を例外なく信じていた。いや、リーシャは今も信じているのかもしれない。

 ただ、リーシャという人物は、この旅を通じて、己の目で見た物を信じるというように心が変化しつつある。故に、そこまで意固地になっている訳ではなかった。そして、もう一人、『賢き者』となった者は、自分が信じて来た物について再考するという考えに変化している。それは、現在も進行中なのだろう。

 

「ここが最北を越えてしまったとしたら……」

 

「それは無いだろう。まぁ、最北の果てが本当に奈落の底へ続く崖になっているのだとしたら、私達も無事では済まないだろうしな」

 

 だが、それでも二人が見ている物は同じではない。リーシャはその目で見るまで、自分の中にある常識を信じるが、サラは既に自分の中にある常識を疑い始めているのだ。それが、『戦士』と『賢者』の違いなのかもしれない。

 そして、その二人とも異なるのが、もう一人いる。世界の常識に縛られないというよりも、常識自体に興味を示していない者。

 

「ここが北の果てなのかどうかは、この際どうでも良い。それよりも、問題はグリンラッドへ向かうには、どの方角に行けば良いのかと言う事の方が重要だ」

 

「…………たべて………いい…………?」

 

 そして、何よりも、目の前にある果物以外に興味を示していない者が一人。考え込むサラの前に置いてあった果物に目を移し、三人の顔を恐る恐る見上げながら許しを請う姿を見たリーシャとサラは、苦笑に近い笑みを浮かべ、静かに頷いた。

 ここが地図上で何処を示しているのか等、この幼い少女にとって、本当に些細な事なのであろう。自分の周りに笑顔を向けてくれる三人がいる。それだけで、彼女は生きる意味を持てるのだ。

 嬉しそうに微笑んだメルエは、果物を口へ運び、果汁を溢しながら頬張り始める。

 

「そんなに焦らなくても、誰もメルエの果物を取らないぞ。ほら、口を拭いてやるから、こっちを向け」

 

「…………ん…………」

 

 隣に座っていたリーシャは、今までサラと話していた会話を終わらせ、布を持ってメルエの口周りを拭ってやる。手に果物を持ったまま横を向くメルエに苦笑を浮かべたサラもまた、その思考を一端停止させた。

 カミュの言う通り、今考えるべき事は、この世界の常識についてではない。彼等の目的地であるグリンラッドではないと考えられる小島から、どのような手段でグリンラッドへ向かうのかと言う事だろう。

 メルエに渡した果物とは別の木の実を口に入れながら、サラは明日からの行動について思考を巡らし始める。

 

「何にしても、あの集落のような場所へ行ってみてからだな」

 

 メルエの口を拭き終わったリーシャの言葉にサラは静かに頷き、カミュは無言で薪を火へくべて行く。果物を食し終わったメルエの手をサラの持っている水で洗い流し、もう一度リーシャがその手を拭いてやる。

 メルエはリーシャの傍で燃える焚き火を眺めていたが、その内、瞼を何度も下ろし始め、サラが果物を食べ終わる頃には、船を漕ぎ出していた。

 メルエを寝かしつけ、見張りのカミュを残して皆が眠りに就く事となる。静かな月の光が降り注ぐ中、風に揺れる木々のざわめきと、燃える炎の音だけが周囲を支配して行った。

 

 

 

 翌朝、太陽が昇ると同時に目覚めたカミュ達は、すぐに野営地を発ち、小島の中央を目指して歩き始める。昨日同様に、周囲に魔物の気配などはなく、一行は順調に歩を進めて行った。

 ここまでの旅の中で、これ程に順調に旅が進む事はなかったかもしれない。暖かいと言うよりも、暑いと言っても過言ではない陽射し。その暑さを冷ましてくれるように吹き抜ける海風。漂う潮の香りは、島の内側から漂う木々の香りと合わさり、清々しい程の高揚感を煽って行く。

 

「メルエ、のんびりしていては、また陽が暮れてしまいますよ」

 

 湧き立つ高揚感を抑え切れないメルエは、繋いでいた手を離し、木々の登る動物達や、地面に咲く花々へ意識を向け、何度も立ち止まってしまうのだ。何度目かになるメルエの行動に、流石のサラも苦言を呈した。

 このままでは、陽が落ちる前に目的地に辿り着けなくなってしまう。注意を受けたメルエは、『むぅ』っと頬を膨らませながらも、サラの手を握り、再び歩き出した。そんな二人のやり取りに苦笑を浮かべながらも、リーシャは最後尾を歩いて行く。

 眩しく輝く太陽の光を浴びながらも歩き、太陽が陰り始めた頃にようやく一行の前に集落と外界とを隔てる門が見えて来た。それは何とも不思議な情景のある場所。森の中でもなく、平原にある訳でもない。門の周囲にあるのは池というよりも湖というような物が広がっている。湖の中を転々とする浮島のような場所に家々が立ち並び、知能のある者達が暮らしている事を明確に示していた。

 

「何とも幻想的な場所だな」

 

「そうですね。何と言うか、とても美しい場所ですが、とても寂しい場所……」

 

 周囲を見ていたリーシャは、その何処か浮世離れした景色に嘆息を洩らす。それに対して半ば同意を示したサラであったが、集落全体を覆う寂しげな雰囲気を感じ、何やら思考へと落ちて行った。

 サラの言う通り、その集落は『人』の営みという空気が、今まで訪れた事のある町や村と比べて、とても薄いように感じる。三者三様の感じ方をしている横で、メルエは首を傾げ、近場にある湖に映る自分の顔と、中で泳いでいる小魚達に目を向けていた。

 カミュが木で出来た門に付属している金具を叩き、集落への来訪を告げると、暫しの時間の後、閂が外される音が響き、ゆっくりと門が開かれて行く。中から出て来たのは、中年の男性。その男性の後ろには、笑顔を浮かべた若い女性が立っていた。この集落で暮らす者なのだろう。男性が門番で、女性はたまたま近くにいた者といったところであろうか。

 

「このような所へ旅人が訪れるとは珍しい」

 

「ようこそ、忘れられし島ルザミへ」

 

 カミュ達が旅人だと分かると、中年男性はとても晴れやかな笑顔を向け、後ろに立つ女性もにこやかな笑みを浮かべて歓迎を示した。中年男性と女性の言葉と表情が、この集落に訪れる人間が皆無に近い事を物語っている。それは、女性が口にした単語が強く影響しているだろう。

 

『忘れられし島』

 

 その言葉通り、かつてはこの集落が栄えていた証拠が集落内部のあちこちに散りばめられている。門を潜ってすぐに目を引くのが、目の前に並べられた数本の石柱。神殿でも建っていたのではないかと思う程に立派な石柱が天に向かって伸びている。その石柱が、この場所に建っていたであろう建物の大きさを想像させていた。

 湖の上に浮かぶ小島同士を結ぶように掛けられている橋等も木造の物ではなく、石を切り、組み合わせた物。石を正確な形で切り取り、それを組み合わせる技術が、この集落の文化水準の高さをも物語っている。

 

「忘れられし島か……」

 

「サラが感じた想いも、間違いではなかったのかもしれないな」

 

 カミュ達全員が集落の中へ入った事で再び門は閉じられ、閂が掛けられた。集落は全体が見渡せる程の広さ。高い物は、目の前にある石柱と右手に見える三階層まである家屋だけある。人々に活気がないと言うよりも、集落が纏う雰囲気自体が儚い。それを感じたカミュが、先程の女性の言葉に納得し、リーシャはサラの感じた想いが正しかった事を口にする。唯一人、その想いを感じていた『賢者』だけは、途方もない程の衝撃を受けたような表情を浮かべた後、いつものように思考の海へと潜り込んでしまった。

 

「……ルザミ……やはり、ここは……」

 

 考え込んでしまったサラを見たリーシャは、不思議そうに首を傾げ、答えを求めるようにカミュへと視線を送る。しかし、カミュにもサラの疑問が理解出来ないのか、静かに首を横に振るのだった。

 そんな中でも、メルエだけは湖の中を泳いでいる魚に興味を奪われ、湖の縁でしゃがみ込んでいる。

 

「小さな村だが、ゆっくりして行ってくれ」

 

 歓迎を示していた中年男性がカミュ達の傍を離れた事を見て、ようやく一行は集落を見て回る事にした。考え込んでしまっているサラでは、メルエの手を握る事が出来ない為、リーシャがメルエと共に歩く。先頭を歩くカミュを見失う程に住民の数が多い訳ではない為、一行はゆっくりと周囲を眺めながら歩を進めて行った。

 魚が見られなくなった事に眉を下げていたメルエであったが、所々に咲く花々とそれに集う虫達に目を輝かせ、首を左右に動かしている。そんなメルエに苦笑を浮かべるリーシャの後ろで、サラは未だに考え込み、顔を上げる事はなかった。

 

「サラ、置いて行くぞ!」

 

「は、はい!」

 

 ようやく顔を上げたサラであったが、その表情は優れない。ここまでの経験上、その表情を見ただけで、リーシャは今のサラの状況を察した。今のサラは、悩んでいる訳ではない。己の中で行き着いた事実を受け入れる為に、それを消化する為に苦心しているのだろう。それが理解出来たからこそ、リーシャは小さな笑みを浮かべ、先を歩く事にした。

 サラの行き着いた事実が何であるのかは、リーシャには解らない。だが、サラが受け入れる為に消化する必要のある物であるならば、それはリーシャが考える事ではないと感じたのだ。もし、受け入れる事の出来ない物であれば、サラはそれを口にするに違いない。それをしない以上、心配する必要がない物なのだろう。

 

「カミュ、店があるぞ?」

 

 先頭を歩くカミュの前に、看板を下げている家屋が見えた。それは、今まで見て来た店舗とそう大差ない。ただ、看板が武器と防具を示していない為、おそらく道具屋であるのだろう。見た所、この集落に店がない為、食品から道具や武器までを取り揃える『何でも屋』なのかもしれない。カミュ達は、そのまま店の戸を開き、中へと入って行った。

 

「あれ? お客さんですか?」

 

とを開けて中へ入った一行を待っていたのは、予想外の言葉。通常の店であれば、客の来訪を歓迎する言葉が響く筈なのだが、カウンターの中にいた人間が発した言葉は、カミュ達の存在を問いかけるような疑問であった。店内部もかなり異様であり、商品棚と思われる棚には、商品が一つも陳列されてはいない。武器や防具は勿論、道具や食料、衣服などもないのだ。つまり、商品が皆無であるという事。

 

「……申し訳ありません。外に看板が出ていた物ですから、道具などを置いているお店かと思いまして……」

 

予想外の光景と言葉に、カミュは軽く頭を下げた。店だと思っていた筈の場所に商品がないのであれば、他人の家屋に無断で入ってしまったという事になる。店ではなく、単純な個人宅だったとすれば、それは大変無礼な事であろう。故に、カミュは素直に頭を下げたのだ。しかし、カミュが頭を下げた事に驚いた店主は、慌てたように手を振り、そんなカミュの謝罪に恐縮してしまう。

 

「いやいや、良いのです。貴方方は旅の方ですか? この場所に旅の方が来るなんて珍しい。もう何年もこのような事がないもので……この店も既に機能はしていないのです」

 

「お店ではないのですか?」

 

まるで、己の境遇を恥じるように頭を掻いた男は、この場所の現状を話し始めた。長い間、旅人等が訪れないという状況は、この場所を自給自足の集落へと変化させて行った。通貨自体が役に立たず、己の必要な作物や肉類などをお互いで遣り繰りしながら生きて行く。そのような場所に店は必要なくなって行くのだ。獣を狩る為の武器などは、以前から使っていた物を修繕したりしているのだろう。元々魔物の数も少ないこの小島は、『人』も『動物』も己の力で生きて行くには適した場所だったのかもしれない。

 

「ええ。お売り出来る物は何も無いですが……それでは、商人として生きて来た私の恥となりますね……そうですね、代わりに情報を差し上げましょう」

 

「……情報……?」

 

ここまでの旅の中で、『情報』という物が何よりも重要である事を、リーシャでさえも理解していた。アリアハンという小さな大陸を出て、様々な国や町や村を歩き、船を手に入れ、大海原に出ても、彼等の旅に目的地という物があったのは、『情報』という何にも代え難い物があったればこそ。細い糸のように頼りない『情報』を手繰って来た結果が、彼等の今を示していると言っても過言ではないのだ。故に、彼等は、男性が口にする言葉の一言一句を聞き逃さぬように神経を研ぎ澄ませる。

 

「もう十数年以上前に聞いた話なのですがね……<ガイアの剣>という剣は、サイモンという男が持っているそうです。いや、もう昔の話ですから……今の持ち主は変わってしまっているかもしれませんが」

 

「……ガイアの剣……?」

 

「サイモン?……う~ん……」

 

男の話は、かなり昔の話であった。十数年前という事は、オルテガが旅を始めたころであり、カミュが生まれた頃の話である。その頃の持ち主など、この時代では生きているかどうかも解らない。困窮に仰ぎ、売却してしまっているかもしれない。根本的な部分の話をすれば、<ガイアの剣>という物が何なのかさえもわからない。その知識がカミュ達にはなかったのだ。だが、唯一人、男の語った<ガイアの剣>の持ち主の名前に首を捻った者がいた。

 

「サイモン……サイモン……う~ん、何処かで聞いた事があるような気がするが」

 

「リーシャさんはご存知なのですか?」

 

微かに聞き覚えがあったのだろう。リーシャは、その名前を何度か口にし、再度首を捻る。カミュもサラも聞いた事のない名前だっただけに、そんなリーシャへ問いかけるのだが、首を捻るばかりのリーシャは、答えを絞り出す事が出来ない。そんなリーシャの姿が面白かったのか、見上げていたメルエもまた、小さな笑みを浮かべてリーシャと同じように小首を傾げて見せていた。

 

「貴重な情報をありがとうございました。お礼はゴールドでよろしいですか?」

 

「代金などいりません。これは、何もお売りする物がない事のお詫びなのですから」

 

情報代金として、カミュは腰に着けている革袋へ手を伸ばすが、男はそれを遮る。商人としての誇りを大事にした結果であって、見返りを求めた訳ではないと。『忘れられし島』という不名誉な名を持つ島で暮らす者の意地なのかもしれない。まず、ゴールドという通貨はこの場所では役に立たない事も原因の一つであろうが、にこやかに微笑む男の表情を見て、カミュは軽く頭を下げて、建物を退出した。

 

外へ出たカミュ達は、集落の北東へと足を進める。先程の店のような家屋から東へ進むだけではあるが、その間に二つの橋を渡る事となった。二つの橋はどちらも石で出来ており、そのしっかりとした造りは、カミュ達一行を驚かせ、メルエは軋む事のない橋を興味深そうに渡って行く。橋を渡った先には、この集落で一番大きな家屋が存在し、煙突から立ち上る煙が、住人がいる事を示していた。

 

「どなたですかな?」

 

「突然申し訳ありません。旅の者ですが……」

 

戸の金具を叩いた後、暫くして出て来た老人の問いかけに頭を下げて答えたカミュであったが、その言葉は、驚愕の顔を浮かべた老人の行動によって遮られる事となる。顔を上げたカミュの顔を見た老人は、突然カミュの腕を掴んだのだ。カミュであれば、その老人の手を避ける事も可能ではあったが、害意の欠片も無い手を避ける必要はなく、何かを問いかけるように老人を見つめた。

 

「そなたを待っておった。さぁ、早く中へ入りなされ」

 

カミュの視線に応えるように口を開いた老人の言葉は、更なる疑問を呼ぶ。カミュ自体、意味が全く解らないのだ。後ろに控えるリーシャやサラに理解出来る訳がない。ましてや、当初から全く興味がないメルエが理解出来る筈もなかった。先に中へと消えて行った老人の背中を見送ったカミュは、暫く動かず、戸の前に立ち尽くす。

 

「カミュ、知り合いなのか?」

 

「いや、全くの初見だ」

 

行動を起こさなかったカミュではあったが、リーシャの問いかけで我に返ったのか、首を数度横へ振った後、家屋の中へと入って行った。カミュの答えを聞いても納得できないリーシャとサラは、お互いの瞳を見つめて首を傾げる。カミュが初見と言う以上、この老人と会うのは初めてなのだろう。であるならば、後は老人の話を聞く以外に選択肢はない。あの老人がカミュという個人を待っていたという理由や、何故カミュを知っているのかという疑問は、直接本人から聞くしかないのだ。

 

「まぁ、掛けなされ。白湯しかないが……」

 

「いえ。ありがとうございます」

 

丁重に頭を下げるカミュの横に座ったメルエは、出されたカップに既に口を付けていた。冷ましたお湯をゆっくりと飲み、『ほぅ』と息を吐き出すメルエの頭に乗っている帽子をリーシャが取ってやる。そんな様子にやわらかな笑みを浮かべていた老人であったが、再びカミュの瞳を見ると、雰囲気を一変させた。それは、どこか厳しく、まるでカミュの内面を覗き込むような鋭い瞳。カミュも老人の瞳を見つめ、その後に語られる内容を待つ。

 

「わしは、近い未来を見る事が出来る。昔は『預言者』と呼ばれた事もあった」

 

しかし、老人の語り出しは、カミュだけではなく、リーシャやサラの予想とも異なっていた。間接的に語り出した内容は、老人の過去の素性を示す物。『預言者』と云われる者は、相手の未来を見る事が出来る者。自身の見た未来を残す事で、それは『予言』となり、後の世に強い影響力を残す事となる。その『預言者』の残した言葉が現実になる程、その『予言』は信憑性を増して行き、信憑性を増す程に、それは人々の間で『恐怖』へと変わって行くのだ。

 

「そなた達がここへ来る日を待っておった。そなた達が歩む道、その経路は見る事が出来ない。だが、そなた達が目指す『魔王バラモス』はネクロゴンドの山奥にいる」

 

「!!」

 

世界には、自称『預言者』という存在は数多くいる。その大半が当たり前の事実を大げさに叫び、当たれば良し、外れれば『予言した事によって未来が変わった』と言う。『預言者』と名乗る者の中で、己の言動に責任を持てる者など、本当に数少ないのだ。故に、大半の『預言者』という者は、誰もが知り得る事しか口にしないか、誰も確認する事が出来ない程に遠い未来しか口にしない。だが、目の前の老人は、そんな紛い物の『預言者』とは根本的に異なっていた。

 

「その道の最中、やがてそなた達は、火山の火口に<ガイアの剣>を投げ入れ、自らの道を開くであろう」

 

「……ガイアの剣……」

 

そこまで話し終えた老人は、一つ息を吐き出した後、ゆっくりと瞳を閉じた。カミュ達へ伝える言葉は口にし終えたのだろう。再び瞳を開き、白湯を口に運ぶ。その一連の動作を見つめながら、カミュは先程聞いたばかりの剣の名前を呟いた。<ガイアの剣>と呼ばれる剣は、先程訪れた店のような家屋にいた男性が口にした物。サイモンという者の所有する剣だと伝えられている。その剣を火山火口に投げ入れる事によって道が切り開かれるという言葉は、何か運命めいた物を感じずにはいられなかった。

 

「ふぅ……わしからそなた達に伝えられる事はこれだけじゃ」

 

「……貴重な情報をありがとうございました……」

 

誰も口を開かない重苦しい雰囲気を破ったのは、老人の方であった。老人から手に入れた情報を消化し切れていないまま、カミュは丁寧に頭を下げた。本当に『貴重』な情報であった。先程の家屋にいた男性から手に入れた<ガイアの剣>という情報と、老人から手に入れた使用方法の情報が一つに繋がったのだ。『最後のカギ』という重要な物を手に入れる為に行動していたカミュ達ではあったが、肝心の『魔王』へ繋がる情報は皆無であった。だがこれで、『魔王バラモス』という最終目的に近付く為には、<ガイアの剣>という剣を持つ『サイモン』という人間に会う必要性が出て来た事になる。カミュの言う通り、それは貴重な情報となるだろう。

 

カミュが席を立った事によって、横に座っていたメルエも椅子から飛び降りた。リーシャはそんなメルエの手を握り、老人へ軽く頭を下げる。老人はにこやかに微笑みを返すが、最後に席を立ったサラへ視線を向け、そこで暫しの間、視線を固定させた。自分に向けられた視線に、サラは少し首を傾げる。

 

「ふむ。そなたの悩みはすぐに晴れる。ここより南にある建物の最上階へ行ってみると良い」

 

「えっ!?」

 

突如掛った言葉に驚きの声を上げたサラであったが、老人はそれ以上の言葉を口にする事はなかった。カミュやリーシャには、老人が口にした言葉に思い当たる事などなく、興味を引くような物もなかったが、サラが何かを考え続けていた事だけは知っていた為、歩みを止め、サラの動向を注視する。全員からの視線が集まる中、サラは静かに頭を下げ、そして後ろを振り向く事無く、カミュ達の脇を抜けて外へと出て行った。

 

 

 

「サイモンか……思い出せないな……」

 

表に出ると、太陽は真上に昇っていた。昼時が近付いている事を示す太陽の位置を見ながら、リーシャは眉を顰めて言葉を洩らす。老人が示した『勇者一行』の歩む道には、<ガイアの剣>という剣が絶対不可欠な物となっていた。そして、その<ガイアの剣>の持ち主は、サイモンという人物であるという情報も既に入手している。だが、サイモンという人物が誰であり、そして何処にいるのかという事を示す情報は皆無。それは、この先の旅路の中で集めて行かなければならない情報であり、手繰って行かなければならない糸となった事を意味していた。

 

「カミュ様、あの建物に向かってもよろしいですか?」

 

「ああ」

 

悩むリーシャを余所に、集落の南東に位置する場所に建てられた建物を指差し、サラが許可を求めて来る。集落の中でも一際高さを誇るその建物は、老人がサラの悩みを解消する為に訪れる場所として口にした場所。カミュとしてもそれに異を唱える必要性を感じておらず、即座に頷きを返した。リーシャの手からカミュのマントへと手を移したメルエは、前を歩くサラという、いつもとは違う光景に首を傾げている。思い出す為に考える事を諦めたリーシャは、歩き始めたカミュ達を追って、南へと足を踏み出した。

 

「おや? 旅の方ですか?」

 

南東に位置する場所に建っている建物に近付くと、その建物の前で何やら作業をしている人物がカミュ達の来訪に気が付き、声を掛けて来る。先頭を歩いていたサラは、その人物に向かって丁寧に頭を下げ、目的を告げる為に口を開いた。久しく訪れる事のなかった旅人を歓迎するように笑顔を向けた男性は、サラの言葉を聞いて、快く建物の中へ一行を誘う。

 

「三階部分に見える大きな望遠鏡を見たのでしょう? あの人は少し変わった人でね。十年ぐらい前にエジンベアという所から、ルザミに来たんですよ。何やら一日中望遠鏡を覗いていますけど、同じ景色しか見えないでしょうにね」

 

「ありがとうございます」

 

サラが尋ねた言葉は、『この家に住んでいる方は、どのような方なのですか?』という簡単な問いであった。だが、そんな簡素な問いかけで、この男はその家屋の三階部分で暮らす人間の持つ物に興味を持ったのだと勝手に考えたのだ。確かに、改めて家屋を見ると、一番上の階層の窓からは大きな望遠鏡が飛び出している。それは、カミュ達が乗る船にあるような小さな物ではなく、小さくはない窓全体を覆う程の大きさを誇っていた。

 

建物の外側に上に続く階段があり、それは直接三階へと続いている。おそらく三階部分は借家のような物なのだろう。貸している部屋に、あのような望遠鏡を持ちこまれても尚、『変わった人』で済ます事が出来る程、この集落で暮らす人々は大らかなのかもしれない。そんな男の笑顔を背中に受け、カミュ達は三階部分へ向かう階段を上って行った。

 

「あ、あの……こんにちは」

 

先頭で三階部分の部屋へ入って行ったサラが挨拶の言葉を口にした時、その部屋の住人は設置されている望遠鏡を必死に覗き込んでいた。余りの真剣な様子に、声をかけようとしていたサラは、思わず口籠ってしまう。小さく呟くような挨拶であったが、望遠鏡を覗き込んでいる人間が来訪者に気付くには充分であったのだろう。望遠鏡から目を離し、後方を振り返った男は、サラを見付けてから不思議そうに首を傾げた。

 

「おや。このような所まで……どちら様ですかな?」

 

「カミュと申します」

 

男が発した問いかけに答えたのはカミュ。サラの横を抜け、男の目の前に立つ。基本的に対人の折衝はカミュが行う。そういう決まりではないが、パーティーの中では暗黙の了解となっていた。故に、サラもカミュの後方へと移動する。相手が国王等ではない以上、カミュとこの男の会話にサラやリーシャが口を挟んだとしても、

大きな問題になる事はない。サラは後方に下がりながらも、男へと質問を投げかけた。

 

「私はサラと申します。ここで何をされていらっしゃるのですか?」

 

「これはご丁寧に。私は……いえ、申し訳ありませんが、私の名をお伝えできない無礼をお許し下さい……ああ、見ていた物でしたね? 私はこの望遠鏡で大地を見ています」

 

サラの名乗りに対して、自分の名を告げようとしていた男であったが、何かを思い出したように口を噤み、名を明かせない非礼を詫びた。丁寧な物腰の言葉である事を考えると、かなり重い理由が存在するのであろう。サラは男の謝礼に首を振って答え、視線を望遠鏡へと移した。サラの視線の移動を見た男は、先程のサラの質問を思い出し、自分がしていた事を明かす。だが、その答えは、サラだけではなく、この場所にいる誰もが理解出来ない事であった。

 

「ふふふ。『何を変な事を』と思っていらっしゃるのでしょうね。では、『この地面が本当は丸く、時間と共に回っている』としたら、貴女方はどう思われますか?」

 

「……地面が丸い……?」

 

この段階で、カミュは男とサラの間から身体を動かし、傍観者の位置に立った。この男が語る内容が理解出来ない訳ではない。常識に捉われる事がないカミュだからこそ、そこに反発心も湧いて来ないのだが、逆に興味も湧いて来ない。故に、カミュは、男の言葉に喰い付いたサラに場所を譲ったのだ。カミュの横では、カミュとは異なり、興味を示しているが、全く理解出来ないという表情をしているリーシャが立っている。そして、その手を握っているメルエは、男との会話よりも、男が覗いていた望遠鏡に興味があるのか、物珍しそうに眺めていた。

 

「ええ。誰も信じてはくれませんが、東から太陽が昇り、西へ太陽が沈むのも、太陽が動いているのではなく、この地面が動いているからそう見えるのです。夜の星々もそう。この望遠鏡で見てみれば、遙か先に見える海の向こうからやって来る船などは、太陽と同じように水平線の向こう側から浮かび上がってくるように見えます」

 

「では、この地図が丸くなっているという事ですか?」

 

男の話は全く理解不能の物となって行った。リーシャなど既に話について行けず、困ったようにカミュへ視線を送る。しかし、カミュにしてみても、別段に興味を持てる内容でもなく、理解しようとも思わない物である以上、リーシャに向かって首を横へ振る事しか出来なかった。そして、先程までリーシャの手を握っていた幼い少女は、既にいない。

 

「ふむ。単純に地図を丸めた形ではありませんが……貴女の考えている通りで間違いはありません。しかし、私のこの考えを笑いもせず、そして怒りもせず……そのような方がいらっしゃるとは……」

 

サラの問いかけに少し考えた後、男は笑顔で口を開いた。基本的に、世界は平面であるという考えが常識である。それを唱えている団体がある訳でもない。ルビス教がその説を後押ししている訳でもない。国がそれを常識として公表している訳でもない。だが、この世界が生まれてから長い年月、この世界にある地面に対し、疑問を持った者など、誰一人としていないだけ。常識とは当たり前の知識。誰もが知っていて、誰もがそう思っている事。故に、それ以外の考えを持つ者というのは、異端とされる事が多い。この男もそんな扱いを受けて来たのだろう。

 

「私は、エジンベアという国で学者をしておりました。魔物の被害などそれ程ない時代。あの国は、世界でも頂点に立つ程に知識と文化を持っており、数多くの学者がいたのですが、やはり皆、先程私がお話しした事を信じてはくれませんでした。最後には……いや、結局、私はこのルザミに追放されてしまった訳です」

 

「エジンベアから……」

 

異端という扱いを受けた者の末路など、どの国でも同じである。

自分達とは異なる者は排除される。

それが『人』が歩んで来た歴史。

 

「しかし、私を追放しようと、私が死のうと、この地面は丸いのです。そして、回っているのです」

 

語っている内に、昔の熱が戻って来てしまったのだろう。拳を握り締めて語る男に驚いたメルエは、望遠鏡を覗いていた身体を跳ねらせ、慌ててカミュのマントへと逃げ戻ってしまう。男の過去は予想通り、順風満帆な物ではなく、哀しみと悔しさに彩られた物だった。声を張り上げて、自分が辿り着いた結論を吐き出す男を見るサラの目は、意味ありげな光を宿す。もしかするとサラは、世界の常識という考えを覆す結論に達したが故に不遇な余生を送る事になったこの男と自分を重ね合わせてしまったのかもしれない。

 

「あ、いや……すみません。我を忘れてしまいました。ただ、その証明に、このルザミから南に下れば、北端にある筈の<グリンラッド>という島に辿り着く筈です」

 

「……そうですか……やはり……」

 

「グ、グリンラッドだと!?」

 

首を振り、自分を取り戻した男であったが、自分の唱える説に理解を示してくれたサラに、何とかそれを証明できる物はと考え、言葉にする。そして、男の発した単語は、それぞれの胸に様々な想いを齎した。自分達が目指していた場所の名前が出た事に驚いたリーシャは思わず声を張り上げ、目的地の方角を思わぬ形で聞く事が出来た事にカミュは静かに頷く。ただ、サラだけは、まるでその事実を知っていたかのように、一人呟きを洩らしていた。

 

「私がこのルザミに来る途中で立ち寄った島でした。一面を氷で覆われた島ではありますが、その島の南西の位置に、草花が咲く草原があります。そこだけは陽が射すのか、氷はなく、穏やかな気温なのです。そこに、変わった老人が住んでいました。あの人も行くあてのない人ですから、まだ居るのではないでしょうかね」

 

スーの村で聞いた『偉大な魔法使い』という人物が住むと云われている島。その場所は氷で覆われていると伝えられていたが、確かに一年中氷で閉ざされていれば、とてもではないが、人間が生きていけるとは思えない。それもたった一人でとなれば、尚更である。だが、その疑問は、この男の言葉で溶けて行った。草花が咲く程に暖かい場所であれば、食料となる食物も育つだろうし、その他の動物達も生きて行く事が出来るだろう。

 

「ありがとうございました」

 

丁寧に頭を下げたサラは、これ以上聞く事はないとでも言うように、男の前を辞した。いつもとは異なり、先頭を歩くサラを見て、慌てて頭を下げたリーシャは、その後を追い、一つ溜息を吐き出したカミュは、マントの中にメルエを匿ったまま、下へと続く階段を降り始める。三人が出て行った事を確認した男は、再び望遠鏡に目を移し、いつもと変わらぬ光景を見始めた。

 

 

 

「サラ! サラは知っていたのか?」

 

「何をですか?」

 

既にこのルザミで知り得る情報は全て入手した。もはや、ルザミでする事がない以上、ここに留まる理由もない為、一行は出口へと向かう。その道中で、一言も口を開かないサラへリーシャが意を決して問いかけた。リーシャの問いかけに首を捻ったサラは、本当にリーシャが何を尋ねているのかが解らない様子。だが、リーシャにしても、どのように尋ねれば良いのかが解らず、救いを求めるようにカミュへと視線を送った。

 

「この馬鹿は、『地面が丸い事』、『地面が回っている事』、『グリンラッドがこのルザミよりも南にある事』をアンタが知っていたのかと聞きたいらしい」

 

「くっ」

 

助けを求められたカミュは、盛大な溜息を吐き出した後、リーシャを顎で指しながら、代弁するようにサラへ問いかける。その言い様に、顔を歪めるリーシャであったが、聞きたい内容が正しいだけに反論する事も出来ず、サラへ視線を戻した。対するサラは、ようやく理解出来たのか、一つ頷きを返したが、即座に首を横へと振り直した。

 

「いえ、そのような事は、ここで初めて聞きました」

 

「そうなのか? だが、それにしては驚いていないようだが? 私は話の半分も理解出来なかったが、地面が丸いなど信じられないぞ?」

 

首を横へ振ったサラは、そんなサラの様子に信じられない物でも見るような瞳を向けるリーシャへ優しく微笑む。サラという人物が、リーシャの中では別者に変わってしまっているのではないかとさえ思いながら。サラという『僧侶』はアリアハン大陸のレーベという村で生まれ、両親と共に城下町を目指す途中で魔物に襲われた。そして、両親を失ったサラは、アリアハン教会の神父を義理の父親とし、成長したのだ。故に、この旅に出るまで、アリアハン城下町を出た事がないと言っても過言ではない。そんな彼女が、地面が回っているという突拍子もない説を耳に入れる機会など有る筈がないのだ。だが、アリアハンを出た頃のサラであれば、このような説を鼻で笑い、相手にさえしなかった事も事実ではある。

 

「ですが、リーシャさんも聞いていた筈ですよ。メアリさんに<スーの村>付近まで送って頂いた時、メアリさんは、『海賊のアジトよりも更に南へ進むと、ルザミがある』と言っていました」

 

「あっ!?」

 

確かにサラの言う通り、メアリの船で送って貰った際に、メアリは『機会があれば、一度行ってみろ』という言葉を残していた。それは、海賊のアジトよりも南に位置する場所にある小島。その場所に<ルザミ>という集落があると。メアリが言っていた<ルザミ>と、今リーシャ達がいるこの場所が同一の物であれば、この地面や海が丸いという事の証明にもなるのだ。

 

「この村に入った際、『忘れられし島』と女性が言っていました。メアリさんも『忘れ去られたような場所』と言っていましたから、おそらくこの場所で間違いないでしょう。それに、<スーの村>自体も、以前に船上で話題になっていましたよね?」

 

「ん? ああ、私が提案した時か……」

 

メアリの言葉と、この場所の雰囲気から、それが同一の物である事は疑いようがない。いや、常識に縛られてしまえば、疑うよりも前に否定出来るのだが、リーシャとて、この旅の中で様々な物を見て来た者。目で見た物を信じると決めたこの女性にとって、今目の前に広がる光景こそが真実であり、否定する理由が自分の中にある古い常識だけであるのならば、その事実を受け入れる以外にないと考えていた。

 

「はい。あの時、頭目さんは、『遙か東にある大陸に<スーの村>がある』とおっしゃいました。ですが、私達は西へ向かって<スーの村>へ辿り着いています。その頃から少し疑問ではあったのですが、今回、北にある<グリンラッド>を目指していた筈なのに、南にある筈の<ルザミ>へ出た事で疑問は大きくなり、あの方のお話で納得が行きました」

 

「丸ければ、反対側へ出るという事か……」

 

既に理解不能の部分へまで話が飛躍した事で、リーシャの思考回路は停止寸前にまで追い込まれて来ている。その為、サラの言葉を噛み砕き、それを簡単に翻訳した言葉をカミュが小さく溢した。その言葉に、リーシャの顔が晴れやかになるのだが、唯一の回答者であるサラは、静かに首を横へと振った。そのサラの姿に、リーシャだけではなく、カミュも驚きの表情を浮かべる。

 

「いえ。正直、あの方の説が正しいかどうかはわかりません。確かに、丸ければ反対側に出られるでしょうが、東西南北が繋がる事はありません。違いますね……あの方の説で言えば、東西南北が全て交わる場所というのがなければならないという事です」

 

「なに? どういう事だ?」

 

「いや、もうアンタは解らなくて良いという範囲の話だ」

 

自分の頭の中で結論が出ているのだろう。サラはその説明をしようとするが、困ったように苦笑を洩らす。全く理解出来ないリーシャであったが、その問いかけは、溜息と共に斬って捨てられた。その言葉に怒りを露にするリーシャであったが、カミュの顔を見て、その怒りを納めた。カミュの表情を見ると、彼にも理解できていない事は明白であったのだ。そして、既に興味を失っている事も明白。

 

「この世界は、創造の神と『精霊ルビス』様によって造られたと云われています。我々『人』では、計り知れない物も数多くあるのでしょう」

 

「世界の理を考えるのは、俺達の仕事ではない筈だ」

 

最後のカミュの言葉に、リーシャは納得が行かないまでも、考える事を止めた。確かに、地面が丸いかどうかなどは、自分達が考えるべき事ではない。サラが目指す『生きる全ての物が幸せに暮らせる世界』という物に直結する事柄であれば、サラもまた、深く考えていただろう。だが、この問題はそうではないのだ。故に、サラも諦めの笑みを浮かべて、あのような形で締めくくったのであろう。彼等はここまでの旅で、様々な神秘に遭遇して来た。これもその一つと言われれば、そう納得せざるを得ないのだ。

 

一息吐き出したカミュは、ルザミを護る大きな門を潜って外へと出て行った。門番の男に頭を下げ、サラも外へと出て行く。そんな二人の背中を見ながら、リーシャは一息吐き出し、一度空を見上げた後、『道中気を付けて』と声を掛けてくれる門番に礼を言って、再び長い旅路へと足を踏み出した。

 

 

 

『人』がこの世界に誕生してから、長い年月が経とうとしている。『エルフ』や『魔物』よりも歴史の短くはあるが、『人』には、他の種族とは違い、何かを変化させようとする想いが宿っていた。それは自分達が劣っている部分を補う為の物であったり、自分達の生活を良くする為の物である事が大半である。だが、そんな過程の中、他の者からすれば『どうでも良い』と思われる事に疑問を持つ者も出て来るのだ。本来、そう言う者達が、世界を変えて行くのかもしれない。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

思ったよりも長くなってしましました。
今回のお話には……いや、この辺りは別の場所で……

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております


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グリンラッド

 

 

 

ルザミを出たカミュ達は、戦闘を行う事も無く、一夜を明かした後、船へと戻った。頭目へ目的地への方角を伝え、船は進路を南へと取る事となる。朝陽が昇り、心地良い風が帆に力を与え、真っ直ぐ南へと進み出した船の上では、再び訪れるであろう寒波への対策を取っていた。寒さを防ぐために、船員達の手には手袋が嵌められ、薄手の上着を羽織る準備を始める。

 

「寒波に襲われるまで、数週間程掛かると思われます。肌寒く感じたら、皆さん上着を羽織って下さい」

 

サラの指示を受け、船員達は頷きを返した。海の上に関しては船員達の方が詳しくはあるのだが、この世界の果てに近い部分に恐れを抱いている船員達は、サラの指示を素直に受け入れる。上空を見上げれば、穏やかで暖かな風が吹いているのだが、ここまでの航路を考えると、この先で『雪』が降る程の寒さになる可能性を誰もが否定できないのだ。

 

「カミュ!」

 

「わかっている」

 

船員達がそれぞれの持ち場で懸命に動き回っている最中、リーシャが突然声を発した。その言葉に頷いたカミュは、背中の鞘から剣を抜き放つ。リーシャの視界の先に船に這い上がろうとしている貝がいくつも映ったのだ。徐々に甲板へと上がって来る貝は、十匹前後。炎を使って焼き殺す訳にも行かない為、貝が甲板へ上がり切るまで待つ以外に方法はなかった。

 

「メルエ、上がって来る貝に<ヒャド>を放てますか?」

 

「…………ん…………」

 

だが、じっと待つ事を選択したカミュやリーシャとは異なり、サラは甲板へ上がって来る貝の数を減らすという選択肢を取る。メルエと共に左右へ分かれたサラは、船の側面に貼り付く貝へ<ヒャド>の行使を始めた。的確に行使された冷気の塊は、貝を直撃するが、まるでその貝の部分に防がれたように霧散して行く。驚きを表すサラであったが、メルエの方へ視線を向けると、護衛の為に付き添ったカミュの横で<ヒャド>を行使しているメルエは、幾つかの貝を凍りつかせ、海へと落としていた。

 

「あの貝殻は、魔法への耐性もあるようですね」

 

「そうか。無理をせず、甲板へ上げろ。後は私達の役目だ」

 

自分の護衛の為に傍にいたリーシャへ状況を告げると、リーシャは<バトルアックス>を持ち、サラを後方へと下げる。呪文が効かない可能性がある以上、ぎりぎりまで魔法を行使する必要性はない。よくよく見れば、一度遭遇した事のある魔物である事が解る。一年以上前にムオルという小さな村で遭遇した事のある貝を被ったスライムのような魔物。<スライムつむり>と呼ばれる、海岸などに生息する魔物だ。もしかすると、ルザミの海岸を出る際に、船底に着いていたのかもしれない。

 

「メルエも下がれ」

 

「…………ん…………」

 

数体の<スライムつむり>を撃退していたメルエであるが、自分の魔法が効かない相手がいる事で『むぅ』と頬を膨らませていた。そんなメルエの腕を引き、後方へ移動させたカミュは、手に持った<草薙剣>を軽く一振りし、船上に顔を出した<スライムつむり>を弾き飛ばす。カミュの一振りで貝を割られた<スライムつむり>は、中身の胴体ごと真っ二つに切り飛ばされ、海へと落ちて行った。

 

「苦労する程の硬さではないようだな」

 

カミュの行動を見たリーシャは、以前ムオルで対戦した時に感じた硬さを感じない事で斧を構えて駆け出した。以前は、サラの<ルカニ>という呪文の助けを借りて倒した相手ではあったが、あの頃とは武器も、それを使いこなす技量も格段に上がっている。それを理解したからこそ、リーシャは真横に斧を薙いだのだ。一閃する<バトルアックス>は貝を粉々に粉砕し、スライムのような身体を海へと叩き落とす。瞬く間に数を減らして行く<スライムつむり>を見た船員達は、再びそれぞれの持ち場に戻り、船の進路の確保を始めた。

 

「これで最後だな」

 

飛び込んで来た<スライムつむり>を遙か彼方の海まで弾き飛ばしたリーシャは、一息吐き出す。船員達も普段の業務に戻っているし、そこに焦りなどは全く感じられない。この船の船員達も、既に数え切れない程の戦闘をこなして来ているのだ。自分達が苦戦するような魔物達であっても、カミュ達『勇者一行』がいれば、苦戦などする筈がないという安心感を持ち始めている。海の魔物達は限られている為、<大王イカ>などと遭遇しない限り、それ程脅威とは感じないのかもしれない。

 

船はその後も、何度かの魔物との遭遇を経て、数週間の旅を続けた。徐々に下がる気温の中、メルエだけはそのままの姿で船から見える景色を眺めている。いつもと同じ服装で、いつもと同じ木箱の上に立ち、いつもと同じ波打つ海を眺めているのだ。何がそれ程に楽しいのかをリーシャやサラには理解出来ないが、海を眺め、その上空を飛び回る海鳥達を眺めているメルエの表情は常に笑顔であった。

 

「メルエ、もうそろそろ寒くなり始めましたから、こちらに来て何かを羽織りましょう?」

 

「…………いや…………」

 

冷たい風が吹き抜けて行くのを感じ、風で髪が靡いているメルエを呼んだサラは、返って来た拒絶の言葉に驚いてしまう。『むぅ』と頬を膨らませ、首を横に振るメルエに驚きながらも苦笑を浮かべたサラは、メルエが立っている木箱へと近付いて行った。海風が冷たく、空を飛んでいた海鳥達の姿も疎らになっている。そんな中でも、海を眺める事に固執するメルエは、近付いて来た事サラを眉を下げて見上げるのだった。

 

「メルエは寒くないのですか? ほら、こんなに風が冷たくなって来て。メルエの頬も手も冷たくなってしまっていますよ」

 

「…………さむく………ない…………」

 

メルエの頬に手を当てると、やはり長時間の間冷たい風に晒された事によって冷え切っている。それでも眉を下げながら海を眺めるメルエを見て、サラは首を傾げた。おそらく、メルエは上着を着たくないと言っている訳ではないのだろう。実際に身体は冷え切っているが、寒さを感じていないのかもしれない。別段、身体が雨で濡れている訳でもなく、衣服が波飛沫で濡れている訳でもない。単純な気温の低下と、風の冷たさを『寒い』とは感じていないのかもしれないとサラは考え、そこまで思考が進み、初めて目を見開いた。

 

「メルエ、おでこを出して! 頭が痛くなってはいないですか!? 身体がだるくはないですか!?」

 

「…………むぅ…………」

 

周囲の気温の変化を感じない程に身体が火照り、熱を持っているのだとしたら、以前と同じように病気を患っているのかもしれない。故に、サラは大慌てでメルエの身体を確認して行く。おでこに手を当て、身体の不調を感じていないかを問いかける。そんな二人のやり取りを聞いていたリーシャもまた、慌ててメルエの傍へと駆け寄って来ていた。だが、身体中を触られ、状態を確かめられている事に、メルエは軽く頬を膨らませる。

 

『体調が悪いと感じたら、必ず告げる事』

 

リーシャと交わしたその約束は、メルエの頭にしっかりと刻まれており、その約束を破る事などするつもりのないメルエにとっては、サラの行動が自分を疑っているように感じてしまったのだろう。頬を膨らませたメルエは、リーシャが慌てて近付いて来るのを見ると、尚一層厳しい瞳をサラへと向けた。サラとして見れば、純粋にメルエを心配しているのであって、メルエを疑っている訳ではないのだが、メルエの身体が無事である事を単純に喜び、そしてメルエへ軽く謝罪を告げる。

 

「メルエは大丈夫なのか?」

 

「はい。熱なども無いようですし、メルエも体調は悪くないと言っています。もしかすると、メルエは寒さに強いのかもしれませんね。身体が濡れでもしない限りは、上着を羽織る必要はないかもしれませんが、万が一を考えて、厚着をしておきましょう?」

 

「…………ん…………」

 

サラの答えに安堵の溜息を吐き出したリーシャは、小さく頷くメルエを見て、その頭を優しく撫でつけた。リーシャの言葉を聞き、純粋に心配してくれている事を理解したのだろう。木箱の上から降りたメルエは、サラとリーシャと共に甲板の中央へ移動し、毛布のような物に包まって、リーシャの膝の上に腰かける。船がゆっくりと揺れながら南へと進み、張詰めた冷気によって空気が澄み始めた頃には、メルエは小さな寝息を立てていた。

 

 

 

「陸地が見えたぞ!」

 

船は更に一週間程の航海を経て、大きな島へ辿り着いた。その島は、船の上から全体を見渡せる程小さくはない。カミュはルザミで聞いた内容を思い出し、出来るだけ西側へ上陸できるように頭目へ言葉をかけた。船は島沿いに西へと進み、上陸が出来そうな場所を見つけ、停泊させる為に錨を下ろす。陽が落ち始めている事から、船で一泊してから上陸する事となり、冷たい風と、空を覆う厚い雲の中、一夜を明かした。

 

「メルエ、勝手に動き回っては駄目ですよ」

 

翌日、島へ上陸したカミュ達であったが、一面が雪と氷に覆われた大地を見て、改めてこの島の異様さを感じていた。そんな三人とは異なり、メルエだけは『雪』の存在に目を輝かせ、手袋を嵌めた手を雪深くに入れ、雪を掬っては上空へ放り投げている。雲の隙間から見える太陽の光を受けて輝く結晶は、メルエの上から舞い降り、メルエ自体を輝かせているようにも見えた。そんな無邪気なメルエの姿に一行の心は和らぎ、島を南へと歩き始める。

 

「しかし、本当に氷に覆われた島なのだな……これでは陽が暮れた際に休む場所などないのかもしれないぞ?」

 

「薪はいくらか持って来ている。三日以内に辿り着ければ、問題はない筈だ」

 

カミュを先頭に歩き出した一行であったが、見渡す限り雪原という光景に圧倒されていた。風が吹く度に、粉のような結晶が飛び、太陽の光を受けて輝く大地が神秘的に見えはするが、身体に感じる寒さは、今まで感じた事のない程の物。カミュ達は念の為に、鎧や法衣の上に毛布を掛けてはいるが、それでも身体の芯へ響く程の風に身を縮める他はない。唯一人、幼い少女だけは、まるで遊び場を見つけたかのように『雪』を触り、頬を赤くしながらも笑顔を浮かべていた。

 

カミュは、ルザミにいた学者に地図上へ印を付けて貰っており、その場所を目指して歩いているのだが、今までと異なり、周囲が完全に見渡せる程の平原という事もあってか、進行速度が上がらない。太陽も雲に隠れている時間が長く、方角を特定するのは容易な事ではなかった。休む場所も見付けられないまま歩き続けた一行は、太陽の輝きが西の空へ移動した頃、ようやく洞穴のような横穴を発見する。

 

「カミュ、一度この辺りで休もう。正直、そろそろ寒さも限界だ」

 

「わかった」

 

リーシャの提案を受け、カミュは洞穴へ入って行く。魔物や凶暴な動物の棲み処ではない事を確認し、他の三人が入って来た時には、既に薪が敷かれ、火が熾されていた。メルエの濡れた手袋を乾かしながら、その身体を温めて行く。船から持って来ていた干し肉などを炙り、口に入れていた一行の目に外の景色が映り込む。

 

「随分暗くなって来たな」

 

「そうですね……あれ? 『雪』が降って来たのでしょうか?」

 

リーシャの言葉に頷いたサラは、暗い空からひらひらと舞い散る白い粉を見つけ、横穴の外へと顔を出した。サラの予想通り、それは船上で体験した『雪』と呼ばれる物。雨のように地面を叩きつけるような音がする訳ではない。だが、とても静かに舞い落ちる雪は、確実に雪原へと降り積もり、その嵩を増して行った。

 

「メルエ、眠っても良いですが、火の傍でですよ?」

 

「…………ん…………」

 

自分の傍で船を漕ぎ始めたメルエを見て、サラは苦笑を浮かべる。小さく頷いたメルエは、持っていた毛布を被り、サラの傍で眠りに就いた。静かに舞い落ちる雪は、とても小さく、神秘的な音を立てて、地面に降り積もって行く。何年も、何十年も、いや何百年もの間、この土地にはこのように雪が降り積もって来たのであろう。真っ白な雪原に静寂が広がり、天から舞い落ちる小さな結晶達だけが、この場所も、その音も支配して行く。小さく、静かな音を聴きながら、サラも静かに瞳を閉じた。

 

 

 

翌朝、サラが目を覚ますと、そこは別世界だった。昨夜から降り出した『雪』は、未だに天から止め処なく舞い落ちて来る。そして、昨夜とは異なり、それは静かな音ではなく、轟音となって雪原を吹き荒れていた。横穴から外の景色を確認する事は出来ない。横殴りに吹きつける風は、空から舞い散る雪も、雪原に積もっている雪も区別が出来ない程に舞い上がらせ、叩きつけるように吹き飛ばしていた。

 

「カミュ、今日は動けないのではないか?」

 

「ああ。だが、薪にも限りがある。視界が良くなったら、南へ向かって歩くぞ」

 

横穴の入り口では、外の様子を見ていたカミュとリーシャが今日の行動を話し合っている。リーシャは、この吹雪で視界も限られた中を歩く事が逆に危険になると考えていた。だが、カミュの言い分も尤もで、火を熾す為の薪の数量が限られている以上、ここで立ち往生をしていれば、それこそ凍死を待つだけなのである。故に、リーシャはしっかりと頷きを返した。

 

「サラ、メルエは起こすな。出発するまで体力を温存させ、この風が落ち着いたら、一気に南へ進む」

 

「はい」

 

振り返ったリーシャは、サラが目を覚ましている事に気が付き、未だに眠りに就いているメルエについて指示を出した。幼いメルエの体力は、その身に宿る魔法力によって支えられていると言っても過言ではない。つまり、元々の体力は皆無に等しいのだ。膨大で強力な魔法力を有している代わりに、メルエは年相応の体力しか持ち合わせてはいない。如何に寒さに強かろうと、この横殴りの吹雪の中を歩くのは、かなり厳しい事である事は明白であった。

 

「少し治まって来たか?」

 

「そうですね。前方が見えて来ました」

 

「メルエを起こしてくれ。メルエを背負って出るぞ」

 

暫しの間、洞窟内で様子を見ていた一行であったが、風が静まり、雲の切れ間から太陽の陽射しが差し込み始めるのを見て、『勇者』が動き出す。洞窟の入口に積もる雪を焚き火へ放り込み、鎮火させた後、既に準備済みの道具を抱え、洞窟の入口に立った。歩む速度を考え、幼いメルエはリーシャが背負う事となり、毛布で包むようにメルエを背負ったリーシャは、右手で<バトルアックス>を握り、それを自身を支える杖のように使って歩き始める。メルエが持つ<雷の杖>は、そのままメルエの身体に括りつけてある。メルエの身体に括りつけていれば、その重みも感じないだろうという理由であったが、既に主を定めた<雷の杖>が、その仲間達の手を拒絶するかどうかは定かではない。

 

「行くぞ」

 

カミュの呟きに似た指示を受け、リーシャとサラはしっかりと頷きを返す。メルエだけは、未だに夢の中を彷徨っているのか、一度頷きを返した後、リーシャの背中で再び瞳を閉じてしまった。昨夜の寒さから、メルエの体調を心配したサラが熱などの状況を確認はしたが、その心配はなく、一行はそのまま雪が舞う雪原へと足を踏み出す。風は穏やかになったとはいえ、横殴りである事に変わりはない。真横から吹きつける風は空から舞う雪と、降り積もった雪を舞い上がらせ、カミュ達の側面に容赦無く当てて行った。

 

「カミュ、方角は解るか?」

 

「微かに見える光があの辺りですので、今は南西に向かっている事は間違いないとは思いますが……」

 

「大丈夫だ。毛布を被り、手や身体を濡らすな。メルエの身体も気を付けてやってくれ」

 

先頭を歩くカミュへ問いかける声は、かなりの声量を誇る。横殴りの風と、視界を奪う雪が、全ての音源を奪ってしまうのだ。リーシャの問いかけに空を見上げたサラは、雲の隙間から見える微かな太陽の光を確認し、現状歩いている方角を導き出す。まるで、『アンタに心配されるとは心外だ』とでも言うように溜息を吐き出したカミュは、リーシャの背中で『うとうと』しているメルエを見て、毛布をかけ直すように指示を出した。雪は水分を多く含んでいるようには見えない程の粉のような物であるが、身体に降り積もれば、体温によって溶け、身体を濡らして行く事は明白であり、それによって体温を奪われて行く事を恐れたのだ。

 

「視界が悪いですので、出来るだけ纏まって歩きましょう」

 

「そうだな」

 

振り向いてリーシャに声を掛けるサラの睫毛には、既に粉雪が付着し始めている。僅か一か月前には、この『雪』という存在自体を知らなかった者達が、『雪』の恐ろしさを肌で感じ始めている。今は常に前へと進んではいるが、この場所に留まり、腰を下ろしなどしてしまえば、数刻の内に雪に埋もれてしまうのではないかと思う程に、舞い落ちる雪の量は多いのだ。それは、『人』では太刀打ちの出来ない『魔物』という物と戦いを続けて来た歴戦の者達さえも恐怖に陥れる程の脅威。自然という名の暴力をその身に受け始めた彼等の心は、知らず知らずの内に焦りを生み出していた。

 

「待て! それ以上進むな!」

 

「ふぇ!?」

 

その焦りはサラという頭脳の心をも蝕んでいた。地図を見ながら、そして後方の仲間達を気にしながら進んでいたカミュを、いつの間にかサラは追い越していた。固まって歩いていた筈なのだが、叩きつけるように顔に当たる雪を避けるように、俯きながら歩いていたサラは、カミュより二歩程前に出てしまったのだ。そして、その数歩が、カミュの叱責を受ける理由となる。カミュの怒鳴り声に顔を上げたサラの目の前に巨大な氷の腕のような物が立ち塞がっていた。

 

「サラ!」

 

「ちっ!」

 

メルエを背負っている為に走り出せないリーシャは、サラの名前を叫ぶ。大きな舌打ちをしたカミュがその目の前を疾走して行ったのは同時だった。サラの目の前に出現した太い腕のような氷の塊は、そのまま正面からサラを殴りつける。横殴りの風を切り裂くような唸り音が響き、その巨大な氷の拳は、サラの身体に直撃したように見えた。

 

「ぐっ」

 

しかし、その拳はサラの身体の目の前に立った者を弾き飛した。拳が迫ったその瞬間、サラの身体は大きな力で後ろへと引かれ、今までサラがいた場所には、先程彼女を叱責した青年が躍り出たのだ。前に出たカミュは、盾を掲げる暇もなく、<魔法の鎧>を装備した胴体にその拳を受ける。自分の胴体と同じ程の太さを持つ腕を受けたカミュの身体は、後方へ弾き飛ばされ、数度跳ねた後、リーシャの足下へ転がって行った。

 

「サラ! 早く戻れ!」

 

「は、はい!」

 

自分の身に降りかかった出来事に呆然としていたサラは、リーシャの声で我に返り、<鉄の槍>を一振りし、リーシャ達の許へ戻る。即座にカミュの容体を見ようと屈むが、その手を払いのけるように立ち上がるカミュを見て、サラの心は完全に立ち直った。再び前方へ視線を送ると、まるで雪原から身体が生えたような物が三体。片腕を雪原から伸ばし、顔のような部分には怪しく光る二つの光源が見える。吹雪で視界が悪い中でも視認できる程に、その怪物達の身体は氷の輝きを放っていた。

 

<氷河魔人>

以前に遭遇した<溶岩魔人>と同様、本来命が宿っていない物が『魔王バラモス』の魔力によって命が吹き込まれた魔物。大地を覆う分厚い氷が命を持ち、人型の身体を形成する。全てを凍らせる程の冷気を有した拳は、触れた者の身体を凍りつかせる程の威力を誇り、周囲を満たす雪を纏い、吹雪を起こして対象の身体を凍りつかせる。

 

「カミュ、鎧が凍っているぞ!?」

 

「鎧だけだ。身体に異常はない」

 

リーシャはメルエを下ろし、起き上がったカミュの身体を見て声を上げた。<氷河魔人>の拳を受けたカミュの胴は、氷を付着させていた。吹きつける雪が凍った訳ではない。拳を受けた部分から弾けるように氷が付着しているのだ。それは、首筋の方まで広がってはいるが、カミュの言葉通り、それは首を捻る事で砕け落ちる程の物だった。剣と斧を構えたカミュとリーシャではあったが、この<氷河魔人>という魔物に物理攻撃の効果があるのかどうかは怪しい。故に、無暗に踏み出す事が出来ず、<氷河魔人>の方も、様子を窺うように、行動を起こす事はなかった。

 

「カミュ様、申し訳ありませんが、一度あの魔物へ剣を振って下さい。出来る事ならば、あの魔物達を一か所に集めて貰いたいのです。その後はすぐに、この場所へ戻って下さい」

 

「……どうするつもりだ……」

 

先程の失態があった為か、珍しくサラの指示にカミュが疑問を発した。最近はサラの指示を拒むような事をして来なかったカミュではあったが、剣を振るうだけで、相手を叩けという物ではない事が疑問を持たせたのかもしれない。<氷河魔人>の拳の恐ろしさを理解出来ないサラではない以上、そこに何らかの思惑があると考えたカミュは、視線を<氷河魔人>から離す事無く、サラへ問いかけたのだ。リーシャもまた、サラへ視線を送る。雪が降りしきるこの雪原で<バトルアックス>を握る手も、手袋を嵌めているとはいえども悴みを見せている。何度も振るえる程の余力はないだろう。リーシャとしても、その事実を把握しているだけに、サラへ視線を送る以外になかったのだ。

 

「メルエ、起きていますか? メルエの新しい魔法、行けますね?」

 

「…………ん…………」

 

心外だと言わんばかりに頬を膨らませたメルエは、しっかりと頷きを返す。リーシャの背中から降ろされたメルエは、目を擦りながら『ぼぅ』としていたが、カミュが弾き飛ばされた瞬間、その目は覚醒された。しっかりと開かれた瞳は『怒り』と『想い』の炎を宿している。握られた<雷の杖>にもメルエの感情が乗り移ったかのように熱が籠り、舞い落ちる雪を溶かしていた。

 

「頼むぞ、メルエ。行こう、カミュ!」

 

「……ああ……」

 

サラの言葉とメルエの瞳を見たリーシャは、吹雪を吹き飛ばす程の笑みを浮かべた。まるでパーティー全員を照らし出す太陽のような微笑みは、サラとメルエの自信と誇りを後押しし、その行動を支えて行く。一つ頷いたカミュと息を合わせたかのように駆け出したリーシャは、近づいて来る邪魔者を排除するように振られた<氷河魔人>の腕を避け、<バトルアックス>を振り下した。

 

「盾を掲げろ!」

 

「くっ!」

 

乾いた音を立てて<氷河魔人>の頭部に弾かれた斧は、リーシャの身体を泳がせる。態勢を崩しかけたリーシャに後方から駆けて来たカミュの檄が飛び、慌てて盾を掲げた。間一髪のタイミングで掲げられた<魔法の盾>に、もう一体の<氷河魔人>の腕が襲いかかる。態勢を崩していたとはいえ、彼女は『戦士』。魔物の渾身の一撃であろうと、不意を突かれない限りは吹き飛ぶ事はない。踏鞴を踏むように数歩下がったリーシャであるが、追い打ちをかけるように近付いて来た<氷河魔人>の腕を<バトルアックス>を振るう事で押し返した。

 

「どけ!」

 

リーシャの斧によって、<氷河魔人>の身体の一部であった氷が周囲に飛び散る中、横合いから飛び出して来たカミュが<草薙剣>を振り下ろす。神代から存在する神剣と伝えられるその剣は、リーシャの斧によってひび割れた氷の身体に止めを刺した。カミュの剣を受けた<氷河魔人>の腕は、瞬時にひびが広がり、腕の付け根の部分から砕け散る。腕を失った<氷河魔人>は、言葉にもならない奇声のような音を発し、雪原へと崩れ落ちた。

 

「一体はやったか?」

 

「……いや……」

 

雪原へ崩れ落ちた<氷河魔人>を見て、一体を仕留めたと考えたリーシャは、傍にいるカミュへ言葉をかけるが、視線を動かそうとしないカミュによって、その希望は打ち砕かれる。残りの二体がカミュ達を襲う為に近付いて来る中、先程<氷河魔人>が崩れ落ちた雪原の氷に変化が見えたのだ。再び盛り上がった氷は、徐々に腕の形を形成し、他の二体が集った頃には、完全に元の形を形成し終えてしまった。

 

「カミュ、これは私達では相手が出来ないぞ」

 

「そんな事は初めから解っていた筈だ」

 

じりじりと距離を縮めて来る<氷河魔人>達を見て、リーシャが<バトルアックス>を握る手に汗が滲み出る。以前に遭遇した<溶岩魔人>などと同様、『魔王バラモス』の魔力を受けて命を宿した核のような物を破壊しない限り、この魔物を滅ぼす事は出来ないのかもしれない。それを感じたリーシャは、珍しく弱気の発言を洩らした。初めて見る魔物の形態ではない。だが、彼女の中にも旅の中で数多くの魔物を打ち滅ぼして来た自信がある。それが揺らいだ瞬間だった。そんなリーシャの悲哀は、旅立つその瞬間から共に歩んで来た『勇者』によって一蹴される。『俺達だけで旅を続けて来た訳ではないだろう?』と。

 

「カミュ様、リーシャさん! 下がって!」

 

カミュの言葉を裏付けるような指示が、彼等の後方から響いたのは、リーシャが不敵な笑みを浮かべたその時であった。全ての<氷河魔人>はカミュとリーシャの正面に位置している。それは、このパーティーの頭脳が考えていた構図と寸分も違わない。牽制の為にそれぞれの武器を振るった二人は、彼等が愛し、最も頼りとする『魔法使い』が待つ場所へと駆け出した。

 

「メルエ、良いですね。カミュ様達が左右に分かれたら、あの呪文を!」

 

「…………ん…………」

 

カミュとリーシャが自分達の許へ向かって来るのを見たサラは、隣で自分の背丈よりも大きな杖を握る少女に声をかける。自分の魔法の威力と脅威を学んだ幼い少女は、その被害が大事な人間に及ばないように、カミュとリーシャが魔法の道を開いてくれるまで、静かにその身の内に宿る魔法力を溜めて行った。指示を出したサラでさえも驚きの表情を向けてしまう程、その小さな身の内で渦巻く魔法力は強大な物。これから唱える呪文の脅威が滲み出たのではないかと思う程、それは静かで、不気味な物だった。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ベギラゴン…………」

 

カミュとリーシャが左右に分かれ、<氷河魔人>とメルエを結ぶ直線の道が開ける。それを確認したサラが、最後の指令を与えた時、世界最高の『魔法使い』が宿す魔法力が、一気に解放へ向かった。杖の先にある不気味なオブジェを真っ直ぐ<氷河魔人>へ向け、メルエの小さな口から呟きのような詠唱が響き渡る。詠唱と同時にオブジェの瞳が怪しい輝きを放ち、オブジェの前に大きな魔法陣が浮かび上がった。

 

今までの呪文行使でこのような現象が起きた事はない。メルエが唱えた呪文でも、サラが唱えた呪文でも、そしてカミュが『勇者』にしか行使出来ない呪文を行使した時でもだ。だが、今、メルエの杖の先に浮かび上がった魔法陣は、サラが『悟りの書』の中で見た物と寸分も違わない。メルエと共に契約をしようと描いた魔法陣。『悟りの書』にしか記載されていない、『古の賢者』が残した遺産。

 

<ベギラゴン>

その名の通り、灼熱系呪文である<ギラ>系の最強呪文。その灼熱の炎は全てを飲み込み、全てを燃やし尽くす。炎の海を作り出すというよりは、もはやそれは炎の壁に近い。『古の賢者』と呼ばれし者達の中で、その呪文との契約を成功させた者は、その威力を恐れ、『悟りの書』へ封印した。長い年月の間、『賢者』と成った者だけに伝えられ、表の世界に出て来る事はない。だが、例えそれが流出したとしても、この呪文を契約出来る者は皆無に近い物であっただろう。

 

「このような呪文が存在するのか……」

 

「……」

 

杖の先の魔法陣から発せられた物は、<ベギラマ>の時のような光弾ではない。メルエの杖の先から出た物は既に燃え盛る火炎であった。もはや、リーシャやカミュの瞳には燃え盛る炎しか見えない。彼等の横顔を叩きつけていた雪も風もない。吹雪など疾うの昔に消え失せた。そこにあるのは炎の壁。以前に死闘を繰り広げた<ヤマタノオロチ>の吐き出していた火炎も霞んでしまう程の炎が視界を支配していた。炎の壁は消える事がないのではないかと感じる程、長期に渡って燃え盛っている。その間、パーティーの誰もが言語を失ってしまったかのように、呆然と波打つ炎を眺めている事しか出来なかった。

 

「……これが……ベギラゴン……」

 

どれ程の時間が経ったであろう。炎の壁が終息して行き、周囲の雪すらも溶かしていた温度が下がり始めた頃、メルエの隣に立っていたサラは震える声を溢した。サラの両手は小刻みに震えている。圧倒的な力を目の当たりにし、その驚愕が恐怖へと摩り替ったのだろう。炎が消え、再び周囲を風と雪が満たした時、サラの視界に映る前方の景色は一変していた。

 

「大地が見えるぞ」

 

「万年氷さえも溶かすのか……」

 

氷が無いのである。カミュ達が<氷河魔人>と戦闘を行っていた場所を覆っていた氷が全て溶けていた。常に降り続ける雪が凍り、本来の大地を分厚い氷が覆っていたのだが、それが溶け、黒い土が見えている。氷が溶けた事によって見えた地面は、カミュ達が立っている場所と比べ、数段下に位置している。それ程の氷を解かす程の威力を誇る呪文をカミュもリーシャも見た事はなかった。

 

「…………ん…………」

 

「えっ!? あ、は、はい……」

 

呆然と佇むサラの横から声が掛り、目の前に小さな頭が飛び出て来る。いわずと知れたメルエの頭である。『褒めて欲しい』という感情を剝き出しにして差し出された頭であるが、現状を飲み込み切れていないサラは、返答に窮した。そんなサラの様子を見て、メルエは『むぅ』と頬を膨らませる。メルエからしてみれば、『サラの指示通りに呪文を行使した』と言いたいのだろう。味方に被害を与えた訳でもなく、魔物だけを完璧に打倒したにも拘らず、褒め言葉を発しないサラを見て、メルエはむくれたのだ。

 

「メルエ、大丈夫か?」

 

頬を膨らませるメルエに近付いて来た手が、メルエの身体を確認するように触れ、そしてその小さな身体ごと持ち上げる。強力な魔法を行使したメルエの身を案じたリーシャが、その身体に被害が出ていないかを確認していたのだ。抱えられたメルエは、リーシャの第一声も褒め言葉でなかった事に、尚一層と頬を膨らませる。そんなメルエの幼い行動に、リーシャは苦笑を浮かべ、その頭に掛かる雪を払いのけながら、優しく撫でつけた。

 

「そんな顔をするな。良くやった、メルエ」

 

「…………ん…………」

 

ようやく聞く事の出来たお褒めの言葉に、メルエは笑みを浮かべる。二人のやり取りを見ていたサラも自我を取り戻し、メルエの傍に寄って労いの言葉をかけた事で、メルエの機嫌も持ち直した。だが、メルエの放った<ベギラゴン>は、<氷河魔人>がいた場所の氷を溶かし、地面を剝き出しにしてしまった為、再び歩き出す事になったカミュ達は、迂回せざるを得ない事となる。灼熱系最強の魔法の威力の爪痕を横目に眺め、サラは自分の背中を流れる冷たい汗に気付かないふりをするのが精一杯だった。

 

風が穏やかになる事はなく、雪は飽きもせずに降り続く。横殴りの風が吹雪を呼び、雲に隠れていた太陽が西へ傾いた事によって、体感温度は更に下がって行った。これ以上の強行的な進行は不利である事を感じた一行は、昨日のような洞穴を探しながら歩き、周囲が完全に闇の支配下に置かれる頃にようやく昨日よりも小さな横穴を発見する。自然が造り出した雪の洞穴は、四人も人が入れば窮屈になる程小さく、火を熾す訳にも行かない。仕方なく、メルエとサラは毛布に包まり身体を横たえ、カミュとリーシャは毛布を被って、交代で見張りを行う事となった。

 

「カミュ……メルエはどこまで強力な呪文を行使出来るようになるんだ?」

 

「さぁな……メルエの魔法の才能に関しては、既に俺の理解の範疇を超えている。あの雪原でメルエが行使した灼熱呪文の契約方法など、俺には読めない」

 

メルエとサラの寝息が聞こえて来た事を確認したリーシャは、剣を抱えたまま横穴の外を見ているカミュへ問いかける。だが、そのリーシャの問いかけは、明確な答えを受け取る事は出来なかった。カミュの理解が及ばない程の才能。確かに、『悟りの書』に記載されている呪文は、サラとメルエ以外にカミュも見る事が出来た。だが、『魔法使い』でも『賢者』でもないカミュが見える契約方法は数が限られており、その数も決して多い訳ではない。いや、ほんの一部しか見えないと言っても過言ではないのだ。故に、先程メルエが行使した<ベギラゴン>という灼熱系最強呪文は存在自体を知らなかったのだろう。

 

「だが、心配する必要はないだろうな」

 

「何故だ?」

 

カミュの答えを聞いたリーシャは眉を顰め、その表情を苦痛に歪めた。それは、自身の身体の痛みが原因ではない。メルエという大事な妹の将来を憂いた為に出た表情。それが理解出来たカミュは、小さな笑みを浮かべ、本当に小さな呟きを溢す。風の音が届かない洞穴の中では、そんな小さな呟きもリーシャの耳にしっかりと届いた。呟きを聞き取ったリーシャは、その真意を問う。だが、それは言葉ではなく、静かに動かされた視線によって答えを示される事となる。

 

「サラか?」

 

「呪文に関して、メルエが最も信頼しているのはこの『賢者』だ。コイツがいる限り、俺達が呪文に関してメルエを心配する必要はない」

 

メルエの隣で眠るサラへ視線を送ったカミュは、リーシャの問いかけに静かに頷き、その考えを言葉にする。その言葉を聞き終わったリーシャは、自分でも何故か解らない程の笑みを浮かべていた。自分で自分の感情を把握できないというのも可笑しな話ではあるが、リーシャは自分の胸に湧き上がる喜びが大きい事に驚いたのだ。抑え切れない笑みを隠すように、リーシャは神妙な口調で言葉を繋げる。

 

「しかし、強力な呪文を使えば使う程……メルエから普通の暮らしは遠ざかって行くぞ?」

 

「アンタは、ずっとメルエと一緒にいるのではなかったのか?」

 

しかし、そんなリーシャの照れ隠しは、即座に壊された。メルエが落ち込む度に告げていた言葉をカミュが発したのだ。その言葉は、何故か、リーシャの心に悔しさよりも嬉しさを湧き上がらせる。メルエと共に生きて行く事は、既にリーシャの中で重荷になる物ではない。本当の妹のように、そして娘のように、あの少女を愛し始めているリーシャにとって、その言葉は、これから長く続く幼い少女の歩む道の傍らに自分がいるという未来を確定させる物。それをカミュという人物から問われた事が、リーシャは嬉しかった。

 

「そうだな……うん、そうだったな。私は常にメルエと一緒だ。メルエが成長し、自分の力で生きていけるその時まで、私はメルエと離れるつもりはない」

 

「わかっている」

 

リーシャの宣言に対し、静かに目を瞑ったカミュは、一つ頷きを返す。その反応がリーシャの心を更に熱くし、自然と瞳から雫が零れ落ちた。それを隠すように慌てて顔を下げたリーシャは、カミュに背を向けて目元を拭う。この時点でも、リーシャには自分が何故泣けて来たかは理解できていないだろう。自分の宣言を聞き、それが然も当然の事とであると言うように頷きを返すカミュを見て、自分を理解してくれる者の存在に感極まったのかもしれない。それ程の長い時間を彼女達は共に歩いて来たのだ。

 

「カミュ、先に休め。最初の見張りは私がしよう」

 

「交代まで起きていてくれよ」

 

目元を潤ませている事を隠すように顔を背けていたリーシャは、そのままの姿で見張りを買って出る。苦笑を浮かべながら皮肉を返して来るカミュの声を聞いても、リーシャは笑みを浮かべてしまった。毛布に包まり、膝を抱えるようにして眠りに就いたカミュを確認し、リーシャは洞穴の外へと視線を移す。先程まで激しく吹き荒れていた風は収まりを見せ始め、空から舞い落ちる雪だけが静かに大地を白く染めていた。

 

 

 

翌朝、天井から滴り落ちた滴を顔面に受けたメルエが、驚いて目を覚ました時、他の三人の準備は既に終わっていた。洞穴の入口から見える外の景色は、昨日とはまた一変しており、風も無く、舞い落ちる雪も無く、眩いばかりの太陽の光が大地に積もった雪に反射し、世界を輝かせている。初めて見た輝く世界に、メルエも瞳を輝かせ、毛布を持ったまま入口へと駆け出した。

 

「起きたか? カミュ、メルエも起きた。出発だ」

 

「わかった」

 

自分の隣に来たメルエに気付いたリーシャが、輝く雪原に向けて声をかける。真っ白な雪の大地の上で地図を広げていたカミュは、一度顔を上げた後、大きく頷き、洞穴へ戻って来た。それぞれの荷物を持ち、リーシャが再びメルエを背負うように屈むが、そんなリーシャを無視するようにメルエは白く輝く大地へと足を踏み出してしまう。カミュよりも前へ出てしまったメルエを見て、リーシャとサラは苦笑を浮かべ、カミュは静かにメルエの傍へ近付いて行く。大地と比べても遜色ない程に輝く笑みを浮かべているメルエが、カミュのマントの裾を握った事で、一行の出発準備は全て整った。

 

穏やかな陽の光を受けた雪原は、昨日まで降り積もった雪を少しずつ溶かして行き、幼いメルエの足を何度も掬い上げる。何度も雪の上に転がる自分の姿も、メルエにとっては楽しくて仕方がないのだろう。その度にマントを引っ張られ、体勢を崩しかけるカミュにはいい迷惑であろうが、顔やマントに雪を付けて微笑むメルエの姿は、戦闘などで荒む一行の心を和ませるのに充分な物であった。

 

 

 

「カミュ様、雪の量が少なくなって来ています」

 

「そうだな……少し払うと、土が見えるぞ」

 

陽が真上を過ぎた頃、一行の足下に微妙な変化が見えて来る。足下を覆っていた分厚い氷は徐々に薄くなって行き、次第に雪の下に土の色が混じるようになって行った。茶色く変質した雪は、見た目が汚く、それを見たメルエは哀しそうに眉を下げている。更に歩いて行くと、足下の雪は太陽の陽射しを受け続けていた事によって溶け、前方には土色の大地と、緑色の木々、そして淡く輝く芝が見えて来た。

 

「ここがグリンラッドにある、草花が咲く草原なのか?」

 

「おそらく……しかし、今朝見ていた景色とここまで違う場所が広がっているとは、見てみなければ信じる事など出来ないでしょうね」

 

草原と言っても過言ではない場所を見たリーシャは感嘆の声を上げ、サラも信じられない物を見たように驚きを露にする。その場所には木々の葉も青々と茂っており、小さな花々も太陽の光を受け、輝くように咲き誇っている。後方を見れば、遙か遠くに深い雪原が広がり、前方を見れば見渡す限りの緑が広がる。そのような景色を彼等は一度も見た事がなかった。平原の先には森があり、草花に集う虫達は、花々の香りを一行へと運んで来ている。鳥の鳴き声まで聞こえるその平原に、先程まで眉を下げていたメルエの瞳に輝きが戻って行った。

 

「メルエ、一人で行っては駄目ですよ!」

 

虫達に誘われるように駆け出すメルエを見て、サラは慌ててその後を追って行く。苦笑を浮かべたリーシャとカミュは、ゆっくりと平原へと足を踏み入れた。澄み切った空気や、肌を刺すような寒さも無く、香しい程の草の香りと、生き物達の生命の息吹が感じられる平原。その前方に広がる小さな森の中に、話に聞いていた『偉大な魔法使い』の住処があるのだろう。見渡す限りの平原には、人が住むような住居はなく、それ以外には考えられない景色だった。

 

森に入った一行は、小さな森であった為、ゆっくりと探索を続けた。森がある以上、薪の心配も無く、食料の心配もない。例え陽が暮れてしまったとしても、この場所で野営を行えば良いのだから、時間を気にする必要もないのだ。だが、そんな考えも杞憂に終わる。森を探索始めて数刻が立ち、太陽が西の大地へと傾き始めた頃、彼等の視界に、一軒の家屋が見えて来た。その家屋の煙突からゆっくりと空へ煙が立ち上っている事から、住人がいる事は確かである。玄関先まで移動したカミュは、小さな金具を叩いた。

 

「どなたじゃ?」

 

暫しの後、ゆっくりと開かれた扉は、僅かな隙間しか作らない。警戒するように開かれた扉の隙間から、年老いた男の声が掛った。隙間から覗く瞳へ軽く頭を下げたカミュは、自分達の素性を話し、この場所を訪れた経緯を話し始める。カミュが話し終わるまで、扉をそれ以上開こうとはしなかった男であったが、全てを話を聞き終わると、ゆっくりと扉を開いた。

 

「入るが良い。この場所に『人』が尋ねて来るなど、何年振りかの……」

 

中へとカミュ達四人を誘いながら、男は懐かしそうに言葉を洩らす。男の容姿は、声を聞いた事で予想していた通りの年齢相応の物。齢六十を過ぎていると思われる長命の老人であった。だが、その姿は何処にでも存在するような、年齢相応の姿であり、とても『偉大な魔法使い』と語り継がれるような雰囲気など有してはいない。サラは建物の中に視線を巡らせながらも、少し首を傾げた。

 

「ふむ。何時の頃か、この辺りで海賊同士の争いがあった頃以来じゃな」

 

「海賊同士の争い……メアリ達の事か?」

 

「おそらくは……」

 

カミュ達へ椅子を勧めた老人が洩らした言葉にリーシャが反応する。海賊同士の争いと聞き、リーシャが思い当たるとすれば、以前出会ったメアリと、その親友であるアンとの最終決戦であったのだ。問いかけるリーシャに向かって頷いたサラは、建物の中にある本棚などへ視線を巡らせていた。サラは海賊の話よりも、この場所が気になっていたのだ。サラは、『偉大な魔法使い』は『古の賢者』だと考えている。だが、目の前に座る老人からは魔法力を感じる事はなく、とてもではないが『古の賢者』だとは思えない。だが、言伝えがある以上、この場所が『古の賢者』の暮らしていた家である可能性は捨て切れなかった。故に、スーの村にあった隠れ家のように、何か特別な書物等がないかと考えていたのだ。

 

「貴方は、ここで暮らしているのですか?」

 

「ん? 十数年前からここで暮らしてはおるが?」

 

各人がそれぞれの考えに陥っている間に、カミュは老人へと問いかけを発した。カミュから見ても、この老人に異常性は見受けられなかったのだろう。故に、この場所で長く暮らしているのかと問いかけたのだ。だが、その問いかけに老人は迷いなく答えを発した。十年以上も前から、この極寒の地にある不思議な場所で暮らしていると言うのだ。ならば、スーの村に伝わる『偉大な魔法使い』というのも、この老人である可能性が出て来る。

 

「まぁ、それ以前はエジンベアで暮らしてはいたがの。この場所に来てからは、わし一人じゃ」

 

「エジンベアから?……この家は、貴方が建てられたのですか?」

 

老人の口から出た思わぬ国名に、カミュは思わず問い質してしまった。ルザミにいた者も、異端の者としてあの場所へ追放されてしまっている。ならば、このような氷に閉ざされた島へ一人で来た老人も、何らかの理由でエジンベアから追放されてしまった可能性が高い。もしそうであるならば、この場所へ一人で辿り着き、このような家屋を建てるには、それなりの技能と力が必要となるのだが、この老人にそのような力があるとは思えなかった。

 

「いや、わしがここへ来た時、既にこの家屋はあっての。中には何もなかったのじゃが、わし一人が住むには充分な物じゃった」

 

「何もなかった……ですか」

 

老人の回答に、サラは思わず肩を落とした。サラが追っていた『古の賢者』と伝えられる者の情報はこのグリンラッドで途切れている。つまり、この場所で新たな情報が手に入らなければ、『古の賢者』の足跡が途絶える事となってしまうのだ。既に『悟りの書』を手にしているサラにとって、『賢者』として手に入れる物などないと言っても差し支えはないのだが、サラは新米の『賢者』として、歩き始めたばかりである。先代の『賢者』から学ぶべき事は多くあり、尋ねたい事、相談したい事は星の数ほど存在しているのだ。故に、彼女は肩を落とす。自分の道標を見失ってしまったかのように。

 

「サラ、落ち込む事ではないだろう? サラはサラなりの『賢者』を目指せば良い。私が信じている『賢者』は、サラだけだ」

 

「リーシャさん……」

 

肩を落とし、落胆を明確に示すサラの肩に温かな手が添えられた。それは、『賢者』としてではなく、『人』としてのサラを導く大きな手。何度も支えられ、何度も突き放され、そして何度も包まれた事のある、大きく暖かで厳しい手。顔を上げたサラは、自分が着用している法衣の裾を握る小さな手にも気が付いた。自分の心を、そして自分の価値観を変えて行く一石となった小さな手を持つ少女は、心配そうな瞳をサラへと向けている。『どこか痛いのか?』、『具合が悪いのか?』と問いかけるような瞳は、サラの胸を熱くさせる。何度も迷い、悩み、苦しむサラの心を、それでも前へ向かせてくれるのは、紛れもなく彼女達の心であろう。サラは滲んで来る視界を振り払うように、顔を上げた。

 

「お主達は、『変化の杖』という物を知っておるか?」

 

「変化の杖……いえ、存じ上げておりません」

 

後方の三人のやり取りを見ていなかったかのように、老人はカミュへと問いかける。その内容は唐突な物ではあったが、老人の表情を見る限り、老人の中では先程の話とこの問いかけは繋がっているのだろう。老人の問いかけの中にあった杖の名を復唱したカミュは、静かに首を横へ振り、否定を表した。完全な否定を受けても、老人に落胆の表情はなく、小さな笑みを浮かべ、再びカミュへと視線を戻す。

 

「そうか……『変化の杖』という物は、何にでも化けられると伝えられる杖じゃよ。噂によれば、サマンオサ王が所有しておると言われてはおるがな」

 

「そのような物があるのですか?」

 

伝承とはいえ、老人の話す『変化の杖』という物の効果は、本当に常識を逸脱している。杖が齎す効果というのである以上、それは衣服が変わる程度の物ではないのだろう。その使用者の根底から他の物へ変化させるのであれば、それはダーマ神殿の教皇が持つ能力に近い物なのかもしれない。そんな事を考えながら、驚きを口にするサラの横で、カミュもまた、驚きを露にしていた。だが、二人の様子とは異なり、何やら思い悩む者が一人。

 

「サマンオサ?……サマンオサ! 思い出したぞ!」

 

突如として声を上げたのは、一人何かを考えていたリーシャ。自分の頭の中に仕舞い込まれていた情報を引き出した事が嬉しかったのだろう。その歓喜の声は大きく、サラの足下にいたメルエの身体を軽く跳ねらせる程の威力を持っていた。一気に自分へと集まる視線を感じ、流石のリーシャも恥じたのか、顔を赤くして口を閉ざす。その様子を見たカミュは、彼女が思い出した事をこの場で聞く事が得策ではない事を悟り、無視するように老人へ視線を戻した。

 

「サマンオサへは、ここから南へ向かった先の祠近くにある<旅の扉>で行く事が出来るらしい。ただ、その<旅の扉>は、鍵を掛けられた場所にあるとも云われておってな……」

 

「……鍵……」

 

カミュの視線を受けた老人は、サマンオサという場所へ行く為の情報を口にするが、ここで再び出て来た『鍵』という単語にカミュとサラは眉を顰めた。その鍵が<魔法のカギ>で開ける事の出来る物であれば問題はないが、<最後のカギ>が必要な物であれば、今のカミュ達はサマンオサへ行く方法がないという事になる。<最後のカギ>という物を『古の賢者』が所有していたという事は事実であるが、その鍵でなければ開けられない錠を『古の賢者』しか作る事が出来ないかと言えば、そうではない。どんな目的があるのかは解らないが、サマンオサは、外からの来訪も、中からの脱出も許さなかったという事になる。

 

「貴重な情報をありがとうございました」

 

「いや、良い。ただ、お主達がもし『変化の杖』を手に入れたのなら、一度で良いからわしにも見せておくれ」

 

会話を終了する為に頭を下げたカミュに向かって、老人は軽く手を振る。そんな老人の別れの言葉に、サラは苦笑を浮かべるしかなかった。老人の過去に何があったのかは知らないが、この老人は心の底から『変化の杖』という物を欲しているのかもしれない。柔らかな笑みを浮かべて手を振る老人に向かって、自分の足下で手を振るメルエを見ながら、サラはそう考えていた。

 

老人の家から出た一行は、陽の陰りを見て、森の中で一晩を明かす事にする。穏やかな太陽の陽射しが隠れた事で、多少の気温低下はあるが、枯れ木も充分にあり、凍えるような心配はなかった。薪を敷き詰め、火を熾し、木々の実や小動物を焼いた物を食した後、一行は眠りに就く。静かな風が木々を揺らす音と、夜行性の鳥達の鳴き声が響く中、夜は更けて行った。

 

 

 

『偉大な魔法使い』が住むと云われていた場所には、エジンベアから流れ着いた、常人である老人が住んでいた。『古の賢者』に関する情報は途切れてしまったが、新たな場所を示す情報を得た一行は、再び長い旅路を歩み出す。

 

 

 




読んで頂きありがとうございます。

今回もかなり長い物になってしまいました。
というか、戦闘が長過ぎましたね。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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幕間~【ムオル北方大陸】

 

 

 

グリンラッドの雪原の帰り道は、行きの時とは異なり、天候が荒れる事はなかった。雲こそ多く、何度か粉雪が舞い降りては来たが、風が強まる事はなく、吹雪く事もない。相も変わらず、空から舞い落ちる雪と、降り積もった雪に目を輝かせているメルエは、駆け回りながら雪を触り、丸めては投げていた。幼いメルエの投げる距離など些細な物で、本当に目と鼻の先に落ちてしまう雪玉ではあったのだが、それでも嬉しそうに微笑み、次の雪玉を作るメルエの姿は、リーシャ達を苦笑させる。雪原の天候が荒れなかった為なのか、<氷河魔人>などの魔物と遭遇する事もなく、老人の住む家屋を出てから三日目には、船の上から手を振る船員達に手を振り返す事が出来た。

 

「目的は達成できたのか?」

 

「いや」

 

カミュ達全員が船へ上がって来た事を確認した頭目が問いかけたが、最後に乗船したカミュが首を横へ振るのを見て苦笑を浮かべる。頭目や船員達も彼等の旅が順風満帆な物でない事は十分に知っていた。だが、それと同時に、彼らであればどんな困難にぶつかっても、それを乗り越え、再び自分達に未知なる世界を見せてくれるとも信じている。故に、船員達の顔が沈む事はないのだ。

 

「ならば、次は何処へ向かう?」

 

「海面に浮かぶ浅瀬を探している。ここから更に西へ向かう事は出来るか?」

 

目的地を尋ねた頭目は、カミュの答えを聞いて顔を軽く歪めた。頭目を始めとする船員達は、この世界が平面であると信じている。カミュ達としても、先日出会った学者のような人間が語る『地面が丸い』という説を鵜呑みにした訳ではない。だが、西へ行けば東の端に出て、北へ行けば南の端に出るという事実は既に変えようがないのだ。それを頭目達へ説明が出来ない為、カミュは問いかけという方法で頭目へぶつけてみたという事になる。

 

「私が大丈夫と言っても信じて貰えないかもしれませんが、このまま西へ進んでも、ムオルの北へ出る筈です。カミュ様、地図を……つまり、今この船は、この島にいる事になります」

 

「……ここは北東にある島だと言うのか……?」

 

しかし、カミュ達が明確な説明が出来ない以上、頭目達がその不確かな事を信じる訳がない。それでも、サラは何とか地図を甲板に広げ、現在位置を指し示した。サラが指し示した場所は、世界地図の北東にある細長い島。<グリンラッド>という島の名は、現地の者が呼んでいるだけで、世界的な知名度はない。だが、北西に進んでいた筈の船が地図上で最北と言っても過言ではない東の島へ辿り着いていたという事実に船員達の全員が信じられないといった表情を浮かべた。

 

「この世界がどのような構造なのかは解りません。ですが、私達が今、この場所にいる事だけは事実です。世界の端にある断崖絶壁の場所は、この世界には存在しないと考えるだけの根拠を、私達は進んで来ました」

 

「……そんな馬鹿な……」

 

驚く頭目へ向けて続けるサラの言葉に、この船に乗る船員全員が絶句する。信じて来た物の崩壊という現象が、その者の心にどれだけの傷を残すかという事を、サラは身を持って知っていた。彼女こそが、この旅の中で何度も味わって来た苦痛なのだ。自身を形成すると言っても過言ではない程の価値観が崩壊し、目の前に広がる世界が一変した時、その価値観を崩壊させた人間に対して持つ感情も知っている。それでも尚、彼女は船員達へその事実を公表した。それは、この船員達がいなければ、自分達の旅も不可能であるという事を、サラ自身が知っているからであろう。

 

「今は、『信じて下さい』としか言えません。私は皆さんに嘘は言いません。そして、私は皆さんを心から信じています」

 

最後に洩らしたサラの言葉は卑怯な物だった。サラ自身に自覚はないだろうが、この『賢者』を名乗る女性の誠実さを船員達は知っている。仲間内でのじゃれ合いの中で、強い方へ付く事もあるが、真剣な話の中で彼女が不誠実な態度を取った事は一度たりともないのだ。それを知っている船員達に、心からの信頼を向けた。その信頼を裏切るような行為が出来る者は、この海の男達の中で誰一人としていない。特に、彼女によって命を救われ、生きる目的を与えられた七人の男達は尚更であった。

 

「俺達は、嬢ちゃんを信じる。元々、アンタ方の旅の為に賭けると決めた命だ。誰が降りようと、俺達は共に行く」

 

カンダタ一味とした名を馳せていた男達。カンダタと共に多くの罪を犯し、その罪を償う方法を模索した結果、乗船を決めた者達。その者達は、カミュ達『勇者一行』の旅を支える事によって、世界とそこに生きる人々へ罪を償う事を選択した。故に、その命は、既に世界へ捧げた事と同意。ならば、このまま西へ進み、世界の端にあると云われる断崖絶壁へ落ちたとしても、それは結果の話なのだ。彼等はその過程こそを重視する。この船の船員達が誰もいなくなったとしても、彼等はカミュ達と共に歩むのだ。

 

「ふっ……新人にそこまで喧嘩を売られちゃ、買わない訳にはいかないな。この船は、ポルトガ国王様と、アンタ方に託された船だ。俺が降りる訳にはいかないだろう?」

 

既にポルトガ港から船を出向させてから一年以上になる。それでも、この船員達の中では、彼等『元カンダタ一味』の面々は新人なのだ。その新人が真っ先にサラの言葉を肯定し、共に行く事を宣言した。サラからの信頼に応える方向へと心を動かしていた船員達からすれば、生意気な物言いに映ったのかもしれない。口端を上げた頭目は、新人七人の先頭に立つ男の胸を拳で軽く小突き、宣言と共に船員達の顔を見渡した。

 

「あ、ありがとうございます!」

 

船員達の表情は皆同じ。苦笑に近い柔らかな笑顔を浮かべ、一斉に頷きを返したのだ。それを見た瞬間、サラは勢い良く頭を真下へ下げる。その際に小さな水滴が幾つか甲板へ落ちた事は、そこにいる誰もが見て見ぬふりをした。サラ自身も、これ程あっさりと解決する問題とは思っていなかったのだろう。暫しの間顔を上げる事が出来ず、震わせたサラの肩に手を置いたリーシャは、小さく呟きを洩らす。その呟きを聞いたサラは、堪らず座り込み、顔を覆ってしまった。

 

「さて、目的地は決まった。野郎ども、出港だ!」

 

座り込んだサラへ優しい瞳を向けた頭目が、船員達へ出港の指示を出す。その指示に応えた船員達の雄叫びが、冷たい空気を切り裂き、海面を轟いて行く。澄み切った風を目一杯帆に受けた船は、永久凍土の島を離れ、ゆっくりと西へ向かって進み始めた。動き出した船に目を輝かせたメルエは、いつも通り木箱の上に陣取り、次第に離れて行く島の雪を眺め、笑みを浮かべる。

 

既に、この船に乗る船員達も合わせての『勇者一行』なのかもしれない。カミュとリーシャというたった二人から始まった旅は、サラという盲信的な『僧侶』の加入と、メルエという特出した才能を持つ『魔法使い』の加入を経て、大きな集団となって行った。彼等と共に旅をしていない者達の中でも、彼等と心を通わせる者を含めると、それは更に膨れ上がる。彼等の旅は小さな一歩を繰り返す事で、世界に大きなうねりを生んでいるのかもしれない。

 

 

 

船は<グリンラッド>を出た後、真っ直ぐ西へと帆を進める。冷たかった風は、徐々に南風に変わり、船を南西へと導き始めた。当初は、船の進路を立て直そうと奮闘していた船員達であったが、それ程大きくずれていない事から、そのまま進路を南西へと切り替える事となる。次第に空を覆っていた厚い雲は無くなり、晴れ渡る青空が広がり始めると、空気はやんわりと暖かくなって行った。心地よい風を受け、メルエは笑顔で海鳥達を眺めている。魔物の襲来もない航路は、一行に一時の休息を与えていた。

 

「そう言えば、あの島でリーシャさんは何を思い出したのですか?」

 

そんな穏やかな雰囲気の中、<グリンラッド>で声を張り上げていたリーシャへ抱いていた疑問を口にする。<グリンラッド>に居た老人の言葉の中にあった『サマンオサ』という地名を耳にしたリーシャは、暫し考えた後、何かを思いついたように大声を張り上げていたのだ。カミュもその事を思い出したのであろう。サラとリーシャの傍により、それに気付いたメルエも木箱から飛び降りた。

 

「ん? ああ、<ガイアの剣>という剣の所有者は、『サイモン』という人物である事はルザミで聞いただろう? そのサイモンという人物は、サマンオサ国の人間だった事を思い出したんだ」

 

「サマンオサ国ですか?」

 

腕を組んで前方を見ていたリーシャは、サラの問いかけに一つ頷き、自分の記憶の中にあった物を引っ張り出す。『サマンオサ』という国は、サラにとっては初耳であった。アリアハンという辺境国にある教会で育ったサラには、世界各国の知識など存在はしない。昔のサラの知識の全ては、教会にあった数少ない書物の中の物だけであったのだ。その国の名を聞き返すサラの足下で、会話に付いて行けないメルエが小首を傾げて見上げていた。

 

「ああ。アリアハン宮廷ではこんな噂があってな……『この世界には二人の英雄が存在する』と……一人はサラも知っている通り、アリアハンの英雄である『オルテガ』様だ」

 

「ちっ」

 

話を進める横で、カミュの舌打ちが聞こえる。そんなカミュを軽く睨み返したリーシャは、再び口を開いた。既にカミュには話を聞こうという態度はなく、前方の海を眺めている。話自体が解らず、興味も湧かないメルエもまた、先程までいた木箱の方へと戻って行った。

 

「もう一人の英雄が、サマンオサの英雄である『サイモン』と呼ばれる人物。詳しい人柄などは知らぬが、英雄とまで称される人物だ。予言に残されるような剣を所有していても不思議ではないだろう」

 

「オルテガ様以外の『英雄』ですか……ならば、その方も『魔王討伐』へ赴かれたのでしょうか?」

 

『英雄』とまで称される者であるならば、それなりの功績を残していた事になる。魔物を相手にしても引けを取る事はなく、多くの人を救って来たのだろう。『英雄』とは、多くの者を救う為に、多くの何かを倒して来た者でなくてはならない。そして、人間同士の争いが少ないこの時代では、その対象は魔物かエルフという事になる。そのような者であれば、当然『オルテガ』と同様に、諸悪の根源である『魔王バラモス』の討伐に向かったのではないかとサラは考えたのだ。

 

「いや、そのような話は聞いた事がない。まぁ、私はアリアハンから出た事はなかったし、私が子供の頃に他国からの情報は少なくなったから定かではないが、アリアハンにまで轟く程の『英雄』だ。もし、『魔王討伐』へ赴いたとなれば、世界的な話題になっていただろう……それに……」

 

「もし、サイモンという名の英雄が、『魔王バラモス』の討伐の旅の途中で死んだのならば、アリアハンだけが糾弾される事はなかったと言いたいのか?」

 

「あっ!」

 

最後は言葉を濁すように口を開いていたリーシャの続きを、関心を持っていないように海を見ていたカミュが紡いで行く。サラは、その意味を正確に理解した。確かに、二大英雄とまで称された二人が旅に出て、志半ばで倒れたとすれば、世界中の人々の落胆と怒りもまた二分される筈である。それは、この目の前にいる青年の人生さえも変わっていた可能性がある程の話であった。

 

「アリアハンの英雄である『オルテガ』様の名は、世界各国の色々な人々の耳にまで届いている。だが、サマンオサの英雄である『サイモン』殿は、宮廷の一部で噂がされている程度。実際アリアハン宮廷では、『サマンオサ国が自国の力を誇示する為に作りだした者かもしれない』という噂までもあった程だ」

 

「ですが、<ガイアの剣>の情報があった以上、実在する人物である事は間違いないでしょうね。ただ、英雄とまで云われている人物にも拘わらず、情報が余りにも少ない……」

 

世界に散らばる国々は、それぞれの軍事力を持って均衡を保っている。広大な国土を有する国は、その数で。小さな国は、その質で。アリアハンという辺境の島国は、後者の典型であった。『オルテガ』という若き英雄がいる事で、他国への発言権も持つ程の国家を維持していたのだ。それは、数を有する大国を脅かす程の存在。そんな時に名が挙がったのが、地図上で東南に位置するサマンオサという国家に所属する『サイモン』という人物だった。未だ『魔王バラモス』という存在の認知はなく、魔物も今よりも凶暴性を持たない時代。そんな時代にサマンオサという国家に現れた英雄の名は、様々な憶測を呼んだのだ。

 

だが、サラが考えた通り、その人物が所有する武器の情報と共に、その人物の名が挙がる以上、実在の人物と考えても良いだろう。勿論、<ガイアの剣>という名の武器自体が存在しない可能性もあるが、カミュ達はルザミで出会った『預言者』の言葉を否定できなかった。『魔王バラモス』という諸悪の根源を討伐する為に旅する者達だと見抜き、その行く道までも指し示した人物。故に、サラは『サイモン』という人物も<ガイアの剣>という武器も存在するという前提の下に話を続けたのだ。だが、その情報は余りにも少ない。仮にも『英雄』とまで称される人物の足跡にも拘わらず、世の中に出ている情報が少な過ぎた。

 

「グリンラッドに居た老人の話によれば、現在のサマンオサは閉ざされた国なのだろう。それが影響しているのかもしれない」

 

「行ってみなければ解らないという事か……」

 

「その為には<最後のカギ>が必要なのかもしれませんね。<魔法のカギ>で開ける事が出来る可能性もありますが、南にある祠へ行ってみますか?」

 

情報が表に出て来ない理由の一つは、グリンラッドで聞いた話の中にあった物だろう。外から入れないという事は、内からも出られないという事。それは『人』だけではなく、情報にも言える事である。国を閉ざした理由は解らないが、『サイモン』という人物がその国家状況に絡んでいる可能性は高いだろう。国にとっての英雄とは、それだけの影響力があるのだ。

 

リーシャの言葉に頷いたカミュだったが、その後に続いたサラの問いかけには、静かに首を横へ振った。確かに、サマンオサへ向かう方法は、『旅の扉』へ飛び込むしか方法はないという事。だが、その『旅の扉』もまた閉ざされているという話である。鍵が掛けられた場所にあるという情報がある以上、それを開錠する物が必要となるのだが、カミュ達は現在二つの鍵を有している。『盗賊のカギ』と『魔法のカギ』。簡単な鍵であれば、この二つがあれば充分なのだが、これでは開けられない鍵がある事は、既にカミュ達も理解している。そうなれば、必要となるのは、どんな鍵も開ける事が出来ると云われる、古の賢者が残した『最後のカギ』となるのだ。

 

「俺達は、手に入れた情報を一つ一つ手繰って行くしかない。まずは、『渇きの壺』を使用する浅瀬を探す」

 

「わかりました」

 

だが、カミュはその進言を良しとはしなかった。彼等の旅は、細い糸を手繰って行くような旅。故に、余分な情報は足枷ともなり得るのだ。情報量が多くなり、彼等が迷えば迷う程、時間は消費されて行く。明らかな近道となれば話は別であるが、今回のように多くの情報が重なる時は、先に得た情報を優先する事が重要となる事が多い。カミュはそれを言葉にしたのだ。サラ自身もそれを理解出来ぬ程愚かではない。しっかりと頷きを返し、そして一行の進路は再決定した。

 

 

 

「陸地が見えたぞ!」

 

<グリンラッド>という島を出てから一か月近く経過した頃、見張りをしていた船員の声に、カミュ達は前方へ視線を移す。ここまでの航路で海上にある浅瀬等は存在しなかった。スーの村に居たエドという馬は、カミュ達に『渇きの壺を西に海にある浅瀬で使え』と言っていた。だが、<グリンラッド>を出てから南西に進んではみたが、そのような浅瀬らしき物を発見するには至らなかったのだ。

 

「もしかすると、スーの村から見て西の海なのかもしれませんね。そうなると、もう少し南だったのかも……」

 

前方に見える陸地を見ながら、眉を顰めているカミュの心情を察したのか、その横でサラも独り言のように言葉を溢す。全く同じ事を考えていたカミュは、一度サラの方へ視線を動かすと、そのまま小さく頷きを返した。動物である馬が話した内容など、本来であれば信じるに値しない程の情報ではあるのだが、カミュもサラもあの馬の話した内容を否定する事は出来なかったのだ。彼等四人は、細い糸のような情報によってここまでの旅を紡いで来た。それはこの先も変わらないだろう。真偽を確かめるというよりも、そこに必ずあるだろうと信じている自分達に苦笑しながらも、前へと進んで行く。それが、彼等の旅なのだ。

 

「カミュ、どうする? この場所に降りる必要が必ずしもあるとは思えないが?」

 

「いや、一度降りてみる。見た所、巨大な森が広がっているようだ。船にある柑橘類も乏しい。その収穫の為に降りても無駄にはならないだろう」

 

確かにカミュの言葉通り、既にスーの村を出てから、食料などの補給はしていない。干し肉のような物はあるし、海では魚も取れる。だが、船の上で最も重要だと云われる柑橘類の数が少なくなっている事も事実なのだ。故に、船を停め、船員達も含めての果物収穫という事は、理に適っている。それを理解したリーシャは、一つ頷きを返し、その旨を頭目へ伝えた。頭目にとっても理解できる内容であった事から、船を下りて収穫する人間を選別し、カミュ達とは違う小舟を降ろし、陸地へと向かわせる事となる。

 

海面に浮かんだ小舟に乗ったカミュ達が陸地に着くまで、船員達の乗る小舟は船を離れない。危険があるかもしれないという配慮による物なのだが、カミュとリーシャが漕ぐ船の上では、久しぶりに触る海水に、メルエは顔を綻ばせていた。最北という訳ではないが、世界地図の上では北方に位置するこの場所の海水は冷たく、手を入れたメルエは、小さな声を上げて慌てて手を引き抜く。何が面白かったのか、予想外に冷たい海水にもう一度手を入れ、それを掬った後、隣に座るサラの手の上に溢した。

 

「ひゃあ! メ、メルエ、冷たいですよ!」

 

「…………ふふ…………」

 

サラの驚きようが楽しいのか、メルエは小さな声を洩らして、もう一度海水を掬い上げる。それを自分の手に溢されないように防ぐサラと、笑みを浮かべながら何度も海水に手を入れるメルエの戦いは、小舟が陸地に着くまで続いた。最終的には、二人ともリーシャの拳骨を頭に受け、大人しく小舟を降りる事になるのだが、その時のサラの不満そうな顔は、頭を押さえていたメルエに笑みを浮かばせる物となる。

 

「メルエ、こちらに来て下さい。そんな所にいると、足まで海水で濡れてしまいますよ」

 

小舟をカミュ達が木に結び付けている間も、メルエは何故か海の方へ近付いて行った。海水を触る為なのかと考えていたサラであったが、手を入れる為にしゃがみ込む訳でもなく、海を呆然と眺めているメルエを不思議に思い、自分の許へと呼び寄せようとする。メルエが見ている方角は、サラ達が乗っていた船の方ではない。そこよりも若干南の方角を眺めているメルエの視線が、徐々に下がって行く事に、サラの胸に不安が迫り始めた。

 

「カミュ様!」

 

メルエが無言である方角を見つめる時。

それが示す事は唯一つ。

魔物の『襲来』。

故に、サラは後方にいるカミュとリーシャに呼び掛けた。

 

「カミュ、先に行く!」

 

サラの切羽詰った声を聞いたリーシャは、紐の結びの最終段階を行っているカミュへ声をかけ、<バトルアックス>を構えながら海岸を目指す。サラがメルエを回収しようと近付いた時には、メルエの視線はすぐ先の海面へと注がれていた。岩場の海岸を走り、メルエの身体をサラが掬い上げたのと、その場所に巨大なハサミが飛び出して来たのはほぼ同時。空を切った巨大な甲殻は背筋も凍るような音を立て、メルエがいた場所にある岩を挟み込んだ。挟み込まれた岩は、瞬時にひびが入り、それを中心に砕け散る。その光景を見たサラは冷や汗を掻きながら、メルエと共に後方へと下がった。

 

「サラ、大丈夫か?」

 

「は、はい」

 

サラとメルエを護るように前へ出たリーシャは、斧を構えながら、前方に姿を現した魔物を見据える。サラはメルエを岩場に下ろし、ゆっくりと息を吐き出した後、リーシャと同じように前方の魔物へ視線を送った。魔物の数は全部で三体。それらがゆっくりと海面から姿を現し、リーシャ達へと近付いて来る。その頃に、ようやくカミュも合流を果たした。船員達の乗っている小舟に魔物の驚異は及んでいないのだろう。遠く船の上では、混乱に飲み込まれている様子はない。

 

「また……カニか……」

 

「この場所で大がかりな呪文を行使するのは控えた方が良いですね。あの甲羅の防御力は私が何とかします。リーシャさんとカミュ様は一体ずつお願いします」

 

海面から最初に上がって来たのは、飛び出た目であった。その後大きなハサミと共に胴体も陸へ上がると、その魔物の全貌が現れる。身体の色素が変わっているのか、その甲羅の色は、空や海の色と同じような青。本来、生き物の中で、通常の身体の色が青という生物は少ない。いや、皆無に近いのだが、魔物であるこの生物には常識が通じないらしい。

 

<ガニラス>

<軍隊がに>や<地獄のハサミ>のように陸地で暮らす蟹ではなく、本来の住処である海に生息する魔物。前記の二種と同様に、その体格は通常の蟹と比較にならぬ程に大きく、巨大なハサミの強さは、他の二種を遙かに凌ぐ。『魔王バラモス』の魔法力の影響からなのか、その甲羅を含める身体全体は濃い青色をしており、陸から見た海面と同様の色の為、保護色のような役割を果たす。海岸等にいる動物に近付き、海面からハサミを出して捕食する魔物である。甲羅もかなりの強度を誇り、生半可の力では、その甲羅に弾き返されてしまう。

 

「メルエは少し下がっていろ」

 

「…………ん…………」

 

自分の出番がない事に少しむくれるメルエではあったが、カミュとリーシャがそれぞれの武器を構え、前方を見据えた事によって、サラの後ろへと身を隠した。全ての<ガニラス>が陸へと上がって来た事を確認した二人は、瞬時に間合いを詰め、魔物へと肉薄する。待っていたかのように繰り出されたハサミを横へ避けたカミュは、もう一体のハサミを<魔法の盾>を掲げる事によって防いだ。乾いた金属音を響かせながら、そのハサミに挟み込まれないように盾を滑らせ、カミュは<ガニラス>のハサミの根元へ剣を振るった。

 

「ルカナン!」

 

カミュの剣が振り下ろされると同時に後方から紡ぎ出された詠唱は、三体の<ガニラス>の身体を包み込み、その甲羅の強度を奪って行く。強度を奪われた<ガニラス>の身体は脆く、カミュの振り下ろした剣を受け入れ、そして斬り飛ばされた。片方のハサミを奪われた<ガニラス>は体液と共に雄叫びを噴き出し、もう片方のハサミを無暗にカミュへと振るう。しかし、そのような攻撃がカミュに当たる訳もなく、軽々と避けられた後、横から滑り込んで来たリーシャの斧が甲羅の中心部分に突き刺さった。

 

「カミュ、一体ずつ倒して行くぞ」

 

「わかった」

 

既にこの二人には、<ガニラス>程度の魔物であれば、一撃の元で打倒す程の実力は有している。だが、それでも確実に息の根を止める事を優先するならば、二人で一体を相手した方が遙かに効率が良かった。<ガニラス>の体躯は、カミュやリーシャの身体の数倍の大きさを誇る。もし、何か不足な事態があった時、例え世界最高戦力である二人であろうと、命を落とす危険性は皆無ではないのだ。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

だが、それは後方で控えていた二人も同じである。一人よりも二人、二人よりも四人。カミュ達が一体を倒し、残る二体と距離が空いた事を見たサラが、メルエに指示を出した。小さく頷いたメルエの口から発せられた詠唱と同時に、禍々しいオブジェの嘴から巨大な火球が発生する。<魔道士の杖>を有していた頃に行使した圧縮された火球とは比較にならない程の高密度な火球。それは<ガニラス>を一瞬の内に飲み込み、消化して行く。火球を防ぐように前に出された巨大な二つのハサミを削り取るように侵食して行った火球は、<ガニラス>から唯一の攻撃手段を奪い取り、命をも奪って行った。

 

「メラミ!」

 

畳み込むように告げられたサラの詠唱は、もう一体の<ガニラス>に向かって発現する。メルエと比べれば、どうしても見劣りしてしまうが、現存する『魔法使い』と呼ばれる者達の中でも行使出来る者が少ない呪文。それを元『僧侶』であるサラが行使している事自体が奇跡に近いのだ。しかも、その火球の威力は、メルエを除けば、おそらく世界でも頂点に立つ程の物。最後の一体となった<ガニラス>の脆くなった甲羅を容赦なく焼き、その命を削り取って行く。

 

「うおりゃぁぁぁ!」

 

最後の止めは、世界でも自由に扱う事が出来る者が限られている武器。<バトルアックス>という重量や破壊力が飛び抜けた斧。焼け爛れた<ガニラス>の甲羅を叩き割り、その内にある体液を飛び散らせる。深々と入った斧は、<ガニラス>に残っていた命の最後の灯火を消し飛ばした。光を失って行く魔物の目を見たリーシャは、斧を抜き取り、一振りする事で体液を飛ばす。これで戦闘は完全に終結を迎えた。

 

「何とかなりましたね。船に残る船員の方々にも来て貰いましょう」

 

「だが、この場所は大丈夫か? 私達と別行動をしている最中に魔物に襲われたら、かなりの危険があるぞ?」

 

カミュ達が合流した事を確認したサラは、船に向かって大きく手を振る。それを見た船員達の乗る小舟が、ゆっくりと陸に向かって移動を始めた。だが、先程の魔物との戦闘でリーシャの感じた不安は、強ち見当外れの物ではない。大陸を渡る度に魔物は狂暴さを増している。カミュ達がアリアハン大陸で戦闘を行っていた<スライム>や<大ガラス>等とは既に比べ物にならない程に強力な魔物と遭遇して来たのだ。例え、元カンダタ一味の人間がいるとはいえ、彼等は戦闘を主としている訳ではない。常人よりも戦闘経験も多く、その攻撃力や回避力は優れているが、カミュ達四人の足元にも及ばないのだ。

 

「だが、誰かがここに残る訳にもいかないだろう」

 

「私達と共に行くというのは?」

 

「それだと、更に危険が増すような気がします」

 

この海岸付近の森入口で果物などを採取するのならば、多少の危険はあるかもしれないが、回避できない程でもないだろう。だが、カミュ達と共に森の奥へ入るとなれば、その危険性は跳ね上がる。この大陸にどんな魔物が生息しているのかが解らない以上、その魔物を相手にカミュ達が常に優勢でいられるとは限らないのだ。予想以上に強力な魔物が現れた場合、カミュ達は船員達の命を庇いながら戦闘を行わなければならない。それは、船員達はおろか、カミュ達全員の危機に直結する恐れがあった。

 

「この近辺であれば、それ程強力な魔物と遭遇する事もないでしょう。この近辺で果物などを採取して頂き、私達が戻るまで待っていてもらうか、早急に船に戻って貰った方が良いかもしれませんね」

 

「食料の調達にはそれ程時間は掛からない筈だ。食料の調達だけ俺達と共に済ませ、その後は船に戻らせる」

 

サラの提案は、カミュによって修正され、船員達の行動は全て確定した。彼等の到着を待ち、カミュ達は共に食料調達を行う事となる。幸い魔物との遭遇はなく、数多くの果実と、肉類となる獣を収穫する事に成功し、陽が暮れる前には、船員達を船へ送り返す事が出来た。陽が暮れてしまった為に、カミュ達は森の入口で野営を行い、翌日太陽が昇ると同時に森の奥へと移動を始める。

 

 

 

森を奥へ進むにつれ、太陽の光が届き難くなり、周囲が薄暗くなって行った。リーシャの手を握っていたメルエは、薄暗くなって来た事で少し前を歩くサラの許へ移動する。近付いて来たメルエに気付いたサラは、その小さな手を笑顔で握り、落ち葉や枯れ木が敷き詰められている地面を歩いて行った。動植物の多い森は、メルエに取っては宝庫のようで、何度か立ち止まる事はあったが、一行は順調に森を西へと進んで行く。

 

「カミュ、あれは魔物か?」

 

メルエが森の木にしがみ付いている黒光りする虫を発見し、それを見上げている時、最後尾で周囲を警戒していたリーシャは、先頭で同じように周囲を見ているカミュへ声を掛けた。リーシャの視線は、彼等が通って来た道から若干南へ外れた方角。生い茂る木々の隙間から射す太陽の光が照らす場所に、こちらを見ている巨体が見え隠れしていたのだ。

 

「熊でしょうか?」

 

「…………く……ま…………?」

 

リーシャの視線の先へ顔を動かしたサラは、自分の知識を総動員して、その姿に当て嵌まる動物の名を口にする。サラが呟いた言葉に、今まで木を見上げていたメルエも、不思議そうに小首を傾げ、視線をリーシャやサラと同じ方角へ向けた。サラは、その名を口にしたが、その動物を見た事はない。アリアハン教会にあった書物にある絵を見ただけなのだ。だが、彼女達は『動物』は見た事がないが、その姿をした『魔物』は見た事があった。

 

「メルエを後方へ下げろ!」

 

「魔物だな!?」

 

以前、ジパングという島国に上陸した際に遭遇した魔物。勝手に動き回り、花々を見ていたメルエを襲った物に酷似している。それは、サラの発した名を持つ動物にも酷似している魔物であり、その区別は判断する事が難しい物。いや、本来、それは区別する物ではないのかもしれない。その魔物もカミュ達の存在に気が付いたのか、傍にある木の幹を両前足で掴み、立ち上がったまま、咆哮を上げてカミュ達へと近付いて来た。

 

「サラ、眠らせる魔法は使えないのか?」

 

「行使は出来ますが、効果があるかどうかは解りません」

 

<グリズリー>

<豪傑熊>同様、魔物と言うよりも『凶暴化した熊』と言った方が正しいのだろう。実際に、熊の中でも異質である事は明白であり、それが『魔王バラモス』の影響を受けているとも言えるだろう。<豪傑熊>とは種類の異なる物であり、その腕力は遙かに凌ぐ。その腕力によって生み出される一撃は、鋭い爪という武器も合わさり、受けた相手の肉を抉り取り、簡単に命を奪う程の物。特殊な攻撃方法は持たないが、『森の王』と呼ぶに相応しい存在感と、力を有している。

 

リーシャは、その魔物の容貌から、殺す事を躊躇ったのかもしれない。サラやカミュが行使する神経を麻痺させる呪文の行使を口にするが、確実性がない事を告げられた。一度遭遇した事のある魔物に似てはいるが、以前に見た時も興味を抱いていたメルエは、<グリズリー>の咆哮に目を見開きながらも、どこか楽しそうにしている。先頭に立っているカミュは、静かに剣を抜き放ち、近づいて来る<グリズリー>を待ち構えた。

 

「来るぞ!」

 

両者共の射程範囲に入った事を確認したカミュは、パーティーに激を飛ばすと同時に横へ跳ぶ。その場所を凄まじい轟音を轟かせて振り抜かれた<グリズリー>の腕は、太い木の幹を薙ぎ倒した。大きな爪痕を残して根元から圧し折られた木を見たリーシャは、その腕力に驚きを表す。魔物とはいえ、その容貌から何処か侮っていたのかもしれない。それはサラも同様であったようで、暫し身体を硬直させていた。メルエだけは純粋に驚き、そしてその凄まじさに感動すら覚えている様子を見せている。

 

「見かけよりも速い!」

 

「任せろ!」

 

後方へ下がったカミュの言葉に頷いたリーシャは、<バトルアックス>を握り締め、前方へ躍り出る。しかし、その武器を振るう前に、左腕に装備している盾を掲げる事となった。カミュの言葉を信じていなかった訳ではない。だが、やはり何処かでその速度を甘く見ていたのだ。先程とは逆の右腕を大きく振るった<グリズリー>は、まるで一撃で葬ろうかという程の一撃をリーシャへ見舞う。受け止めた<魔法の盾>は、歪んでしまうかと思う程の音を立て、リーシャの身体から瞬間的に離れてしまった。

 

「リーシャさん!」

 

何とか態勢を立て直したリーシャであったが、もう一度振われた<グリズリー>の左腕を避ける事は出来ない。必死に<バトルアックス>で弾こうと動くが、元々の腕力が違う。『人』であるリーシャと、『魔物』である<グリズリー>では基本的な身体能力も異なるのだ。その差を埋める為にカミュ達はパーティーを組んでいると言っても過言ではない。だが、自分達の最近の力量上昇の幅が、彼等の心に小さな隙を生んでしまっていたのだろう。

 

ここ最近、彼等は魔物の打倒に関して、苦戦した記憶がない。カミュやリーシャの力量が大きく上がった事もその一つだが、メルエという世界最高の『魔法使い』が唱える魔法もその理由の一つであろう。カミュは一人旅を経験した事によって、その力量を大幅に上げ、<雷の杖>を手にしたメルエは、彼女本来の魔法力の発現を可能にした。その証拠に、最近ではサラが唱える回復呪文を必要とする戦闘を行った記憶がないのだ。決して慢心していた訳ではない。だが、本当に小さな心の隙間ができていた事は否めない。それが表に出てしまったのだ。

 

「ぐっ!」

 

斧で弾き切れなかった<グリズリー>の腕は、リーシャの右腕を弾き飛ばす。それと同時に噴き上がる真っ赤な命の源。しっかりと握っていた筈の<バトルアックス>はリーシャの手を離れ、後方へと飛んで行った。倒れ込むリーシャに再び振り抜かれた魔物の腕は、間に入ったカミュの盾によって防がれる。防ぐと同時に突き出した<草薙剣>は、横合いから襲いかかる<グリズリー>の左腕に深々と突き刺さった。

 

「コイツを後ろへ下げろ! 腕が付いているのなら回復出来る筈だ!」

 

「は、はい!」

 

「…………リー……シャ…………」

 

状況は一変した。当初はその容貌に和みさえしていた一行の空気は、緊迫した物へと変貌している。危機感を煽るようなカミュの叫びを聞いたサラは、即座に行動に移した。傍にいるメルエは倒れているリーシャの周囲を染めて行く真っ赤な泉を呆然と見つめている。事態は最悪の方向へと動き出していた。ここまでの旅の中でも上位に入る程の危機。

 

呻くリーシャの傍に寄ったサラは、その状況を見て息を飲んだ後、一つ息を吐き出した。リーシャの腕は間違いなく繋がっている。だが、右腕を動かす事が出来ないのだろう。腕の肉は、<グリズリー>の爪痕のように、骨が見える程に抉られていた。溢れ出す血液が真っ白な骨を赤く染め上げ、止まる事を知らない。即座に詠唱に入ったサラは、リーシャの右腕に<ベホイミ>を掛けて行った。徐々に肉が塞がり、血液が止まって行く。深い傷とはいえ、毒でもない限り、命に別条がない傷であった事が幸いした。

 

「リーシャさん、動かないでください。回復呪文とはいえ、何もかもが即座に修復される訳ではありません」

 

「くっ」

 

前方で<グリズリー>に剣を振っているカミュの許へ向かおうとするリーシャを止めたのは回復呪文の行使を終えたサラであった。悔しそうに顔を歪めたリーシャであったが、その右腕の傷は癒えたとはいえ、未だに感覚は戻っていない。サラの言う通り、上位の回復呪文でさえも、その内部の修復に関しては時間を要するのだ。傷が塞がった事に安堵したメルエは、その目に涙を溜め、心配そうにリーシャを見上げている。その視線がリーシャにはとても痛い。自分の満身によって負った傷を心配してくれるメルエの純粋な瞳が、更にリーシャを焦らせていた。

 

「よし! 指も動くな。カミュの所へ行って来る」

 

「ですが、既にその必要はないかもしれませんね」

 

今か今かと待ち侘びた瞬間がリーシャに訪れた頃、カミュと<グリズリー>の戦いも終盤を迎えていた。確かにカミュやリーシャに比べて腕力が強く、その身体に似つかわしくない程の素早さをを有していたとしても、それを生かす土台が本能だけでは、結局カミュの敵ではない。徐々に押し込まれて行った<グリズリー>は、苦し紛れに放った腕を避けられ、返しの剣を顔面に受けた事で、体液を撒き散らしながら崩れ落ちた。

 

「決着は着いたようです」

 

未だに息のある<グリズリー>を悼むように、カミュは止めの剣をゆっくりとその眉間へと突き入れる。最後の命の源を吐き出し終えた巨体は、静かに土へと還って行った。おそらく、リーシャ単独であっても、<グリズリー>を倒す事が出来ただろう。彼等は、また一つ重要な事を学んで行く。魔物という人類最大の敵よりも、己の中に無自覚で育って行く慢心の方が何倍も危険であるという事を。

 

 

 

思っていた以上に時間を要した森探索は、翌日の昼に終了を迎えた。森を歩き続ける中、ちょうど真南に木の高さを超える大岩が見えるその場所に、ひっそりと佇む家屋を見つけたのだ。その家屋の大きさは、一家族が暮らすには小さく、一人で住むには大きいといった物。周囲には何も無く、本当に森の中にぽつりとあるその家屋は、森と一体化しているように静かに佇んでいた。

 

「…………ねこ…………」

 

「本当ですね……森の中に猫なんて……ここで暮らす人の飼い猫でしょうか?」

 

家屋の周囲には何匹かの猫があるいており、それを見つけたメルエは、目を輝かせて屈み込む。メルエに寄って来た一匹の猫が可愛らしい鳴き声を上げ、傍で座り込んだサラは、不思議そうに猫を見下ろした。そんなサラを猫は小首を傾げながら見上げ、それを見たメルエもまた、小首を傾げてサラの方へ視線を送る。そんな様子を見ていたリーシャは、二人の姿を優しく見つめていた。

 

「……いくぞ……」

 

その間に家屋の入口を見ていたカミュが三人を促す。家屋と入っても、入口は開け放たれており、中に人がいるかどうかを窺うのは、実際に入ってみるしか方法はなかった。座り込んでいたメルエを抱き上げたリーシャがカミュの後を続き、最後にサラが中へと入って行く。入る際に中を窺う声を発するが、それに返って来る声はない。そのまま奥の闇へと四人が消えて行った後、家屋の周辺に居た猫達が一つ鳴き声を上げた。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

しかし、本当に進行して行きませんね。
出したい魔物を二体登場させたら、一話が終わってしまいました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。



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ホビットの祠

 

 

 

「どなたかいませんか?」

 

先頭を歩くカミュが口にした言葉は、周囲を覆う岩壁に反響し、空しく響き渡る。木造の家屋ではなく、石を積み上げて造られた家屋は珍しい。興味深そうに周囲を見ていたリーシャは、腕の中のメルエが身動ぎをした事でその身体を床へと下した。下されたメルエは、周囲の雰囲気を気にもせず、一人で奥へと歩き出してしまう。それに慌てたのは、リーシャとサラである。何度言っても、興味のある物への好奇心を抑える事が出来ないメルエを窘める為にその後を追った。

 

「メルエ、勝手に行くなといつも言っているだろう!?」

 

「…………ねこ…………」

 

追いついたリーシャから叱られたメルエは、眉を下げ、哀しそうに目を伏せるが、自分が感じた物を指差しで伝えようとする。メルエの指先を辿って行くと、可愛らしい猫が二匹、床でじゃれ合っているのが見えた。家屋内部の構造に興味を奪われていたカミュ達は、その存在に気付きもしなかったが、建物の構造等に全く興味を示していなかったメルエは、その小さな命の息吹を感じ取っていたのだろう。

 

「なんだ、お前達は?」

 

メルエが猫の傍に屈み込み、リーシャとサラが苦笑しながら近付いた時、後方から声が掛った。気配が感じられない程の小さな息吹に振り返ったカミュは、その声の持ち主の姿を見て、既視感を覚える。その背丈はカミュの腰程しかなく、メルエと同程度の物。癖のある髪の毛は無造作に伸び、背丈に似合わぬ厳つい顔には立派な髭が蓄えられていた。全員の視線が集まっても、それを意に介さぬ姿が以前に出会った小さき者を彷彿とさせる。

 

「…………ノルド…………?」

 

そんな四人の想いをメルエが代弁した。『バーン』と呼ばれる異端の英雄を祖先に持つホビットの名を口にしたメルエは、不思議そうに小首を傾げる。メルエが不思議に思うのも無理はないだろう。この場所は、ノルドが暮らしていた『バーンの抜け道』へと続く洞窟とは似ても似つかない物。船という移動手段で海を渡った場所にいる筈のない者がいた事に驚きを隠せなかったのだ。それはカミュ達も同様で、その姿を凝視するように見つめていた。

 

「ほぉ……お前さん達は、あの異端児を知っているのか?」

 

基本的に異種族側から見た場合、その種族の個体の違いは見分けが付き難い。エルフの中でも『人』の女性に近い容姿をしている者達に関しては、その容貌の違いから個体の区別は付くのかもしれないが、『魔物』や『ホビット』のような完全な異種族の容姿を『人』が区別出来ないのだ。故に、違うとは理解していても、目の前のホビット族らしき者の言葉を聞くまでは、『もしかしたら』という想いは抜け切れていなかった。

 

「ノルドさんをご存知なのですか?」

 

「アイツは、我々ホビット族の中でも異質な存在だ。あれが同じホビット族である事も信じられないが」

 

サラは、異なる存在である事を理解したと共に、ノルドという存在を知っているのかを問いかけるが、その答えの中には僅かな侮蔑と小さな恐れが含まれていた事に顔を顰める。それはカミュやリーシャも同様に感じたようで、リーシャは明らかな不快感を示していた。しかし、最もその感情を剝き出しにしたのは、目の前にいるホビットと同程度の背丈しかない幼い少女だった。『むぅ』と頬を膨らませ、相手を睨みつけるメルエは、その言葉の中に自分の大切な者を傷つけるような物を感じたのだろう。

 

「いや、すまん。あれを蔑むつもりはなかった。それ程に特殊な能力を持っていた者と言いたかっただけなのだが、不快にさせてしまったようだ」

 

そんな四人の想いを理解したのか、目の前にいるホビットは軽く頭を下げた。カミュ達が感じたような感情が多少なりとも籠っていた事を示すように、そのホビットの表情には羞恥が見え隠れしている。相手を侮蔑する事を羞恥と感じる事が出来る神経を持っている事が、このホビットの人となりを証明しているのかもしれない。その謝罪を受け取ったメルエは、小さく首を縦に振った後、再び猫の前に屈み込んだ。

 

「しかし、旅の者か……何やら若い頃を思い出す。儂も、昔は『オルテガ』殿のお伴をして旅したものだ」

 

「オルテガ様!?」

 

無造作に伸びた髪の毛を掻きながら口にしたホビットの言葉は、傍で聞いていたリーシャとサラを驚かせ、カミュから表情を奪う。何度も聞いて来た『オルテガ』という英雄の軌跡。その伴をした者が出て来た事と、それが『人』ではない異種族である事に驚きを感じたのだ。目の前にいるホビットの腕は、四人が知るノルドというホビットには劣るが、それでも充分な逞しさを誇っている。手先が器用なだけのホビットの中でも腕力が強い部類に入る者なのだろう。もしかすると、彼はホビットではなく、ドワーフの血を継いでいる物なのかもしれない。

 

「風の噂で、オルテガ殿は火山の火口に落ちて亡くなったそうじゃが、儂は未だに信じられん」

 

このホビットは、オルテガの『魔王討伐』への旅に同道していた訳ではないのだろう。もし、同道していたのだとすれば、共に火山火口で命を散らせていた可能性は高く、もし生きていたとしても、オルテガの死に直面していた筈なのだ。ならば、それ以前の旅に同道していたのだろう。それは、おそらくカミュの父と母が出会う頃の旅。

 

「この方は……」

 

「言わなくて良い」

 

カミュの素性を話そうとするサラを厳しい口調で止めたカミュは、興味を失ったようにメルエの傍へと近付いた。言葉を制されたサラは、何かを求めるように視線を動かすが、溜息と共に首を横へ振ったリーシャを見て、その言葉を飲み込む事しか出来ない事を悟る。確かに、ここでカミュが名乗り出たとしても、これ以上の情報が出て来るとは思えない。このホビットが未だに認めていないとはいえ、世間ではオルテガは死んだ事になっている。ホビットがオルテガは生きているという証拠を持たぬ以上、問答は不要なのだ。

 

「この辺りの魔物も、日増しに凶暴になって行く。気を付けて旅を続けなされ」

 

「ありがとうございました」

 

ホビットの対面は、当然始まり、呆気なく終わった。頭を下げたリーシャとサラは、カミュの後を続いてメルエの傍へと向かう。ホビットもまた、その名を告げる事も無く、奥へと消えて行った。旅の中には深い出会いもあれば、袖が触れ合うだけのような些細な物もある。小さな出会いも何処かの世界で何らかの縁があった物なのかもしれないが、その縁は今生の物ではない。

 

「メルエ、行くぞ」

 

「…………むぅ…………」

 

可愛らしい猫を眺めながら笑みを浮かべていたメルエは、先を促すカミュの言葉に不満を漏らす。実は、いつも眺めているだけのメルエであったが、つい先程この猫に触れたばかりであったのだ。伸ばしたメルエの手を引っ掻く事も無く受け入れた猫は、背を撫でるメルエの手を気持ち良さそうに受け入れ目を細めている。初めて触れる猫の温かみを感じたメルエは、自分がリーシャ等にされるように優しくその背を撫でていた。

 

「ふふ。メルエはその猫と仲良しになったのだな」

 

「…………ん…………」

 

メルエの隣に屈み込んだリーシャは、猫の背を撫でるメルエの頭を優しく撫でる。猫と同じように目を細めたメルエは、嬉しそうに微笑み、小さく頷きを返した。自分以外の他者との交流という喜びを学び始めたメルエにとって、それが『人』であろうと、『動物』であろうと、それこそ『魔物』であろうと区別はないのだ。自分に敵意を向けない者、カミュ達が敵と看做さない者に関しては、そこに種族の区別はない。後は好意の問題だけなのだ。

 

「にゃ~ん」

 

「…………にゃ~……ん…………?」

 

嬉しそうに微笑むメルエに向かって一鳴きした猫を見たメルエは、猫の鳴き声を真似て、小首を傾げながら声を発する。その行為はとても微笑ましく、リーシャとは反対側のメルエの隣に座り込んだサラの表情も笑みへと変えて行った。リーシャも優しい笑みを浮かべるのだが、その二人の笑みは、瞬時に凍り付く事となる。

 

「では、この場所から南へ向かった森の中で、東西南北に聳える大岩があります。その大岩が交わる場所に行ってみなさい」

 

「!!」

 

先程まで可愛らしく鳴き声を上げていた猫が、突如として人語を話し始めたのだ。人語を話す異種族は何度か見て来た。その中でも、スーの村では人語を話す馬さえも見て来ている。だが、やはり獣と言っても過言ではない者が流暢に人語を話す姿は、常識という観念を持つリーシャとサラには慣れない物であった。カミュだけは、人語を話す猫に対し、逆に興味を持ったのか、目線を合わせるように屈み込む。そして先程まで小首を傾げていたメルエは、真剣な表情で猫を見つめていた。

 

『もし、人語を話す動物を見たら、話して上げて下さい』という言葉を覚えていたメルエは、真剣にその言葉を聞いている。馬のエドとの約束を護る為に一生懸命聞いているのだが、その内容はメルエには理解出来ない。次第に眉を下げ、困ったように見上げるメルエの瞳を見たカミュは、小さな苦笑を浮かべた。メルエの考えている『お話』と、猫が話す内容は掛け離れていたのだ。自分が猫の話を理解出来ない事が哀しく、メルエはカミュの横で涙を浮かべている。

 

「貴重な情報をありがとう」

 

「…………ありが……とう…………」

 

それでも、猫に向かって頭を下げるカミュの横で、メルエは小さな頭を下げた。意味は理解出来ないが、カミュが礼を言う以上、それは貴重な物だったという事が解ったメルエだが、上げた顔は哀しみに満ちている。基本的にメルエは、他者と話が出来る程の伝達能力がある訳ではない。それでも、その想いは持っているのだ。『自分の想いを伝えたい』、『相手の想いを理解したい』という彼女の想いは、この個性的な面々を繋ぐ楔となっている。メルエの横に居たサラは、その願いを理解し、優しい瞳を向けた。

 

「メルエ、まだお話をしたい事はありますか?」

 

「…………ん…………」

 

サラの問いかけに頷いたメルエは、小首を傾げる猫に対し、言葉足らずではあるが、一生懸命語りかける。そんな想いは、『人』ではない者の心へも届いた。暫しの間、メルエの問いに猫が答え、猫の問いにメルエが答えるというやり取りが続き、最後には笑みを戻したメルエが、優しく猫の背を撫でる事で小さな会話は終了する。満足そうに笑みを浮かべたメルエとの別れを惜しむように鳴く猫に向けて小さく手を振ったメルエは、傍にいるリーシャの手を握り、その場を後にした。

 

「カミュ、あの猫の話にあった場所へ向かうのか?」

 

「何があるか解らないが、何かがある事だけは確かだろう」

 

家屋の外へと出た一行の進路は、カミュの言葉で決定する。しゃべる猫という奇妙な存在が語る場所へ目指す事に奇妙な想いを持ったリーシャであったが、既にしゃべる馬の情報に基づいた場所を目指している最中である以上、そのような事を考える事自体が無意味である事に気付き、笑みを溢した。再び森の中へ入っており、遠目に見える大岩を目指して南下を始めている。虫や花に興味を示して立ち止まるメルエを動かす為に苦心するサラは、助けを求めるようにリーシャを見つめていた。

 

「メルエ、サラを余り困らせるな。ゆっくりしていると陽が暮れてしまう。ほら、私と手を繋いで歩こう」

 

「…………むぅ…………」

 

魔法等の技術的な面は、サラの言う事に逆らう事はないが、日常生活の事となればどこか甘えを見せてしまうメルエも、リーシャの言葉に逆らう事は出来ない。むくれたように頬を膨らませはするが、大人しくリーシャの手を握り、ゆっくりと歩き出した。その様子を見て、疲れたような溜息を吐き出したサラは、苦笑を浮かべ、カミュの横へと移動する。

 

「カミュ様、あの大岩を目指すのですか? しかし、東西南北にあると云われる大岩となれば、最低でも四つあります」

 

「東西南北にある大岩の中心へ行けという話だった。この場所を考えると、見えている大岩は北の部分に位置する物だろう。そう考えれば、あの大岩の裏へ回ると南方にまた大岩が見えて来る筈だ。その大岩に向かって真っ直ぐ南へ下ると、必然的に東西南北の中心に出る事になる」

 

「よく解らないが、このまま真っ直ぐ進めば良いのだな?」

 

サラの問いかけに答えたカミュの言葉は、地図を見ながらの物であり、サラを納得させるのに充分な物だった。だが、カミュの話を理解出来たのは、サラ一人であり、聞いていたのか聞いていなかったのか解らないメルエは、二人を見上げながら小首を傾げ、リーシャに至っては、カミュの言葉の一部分のみを復唱する事で今後の進路へと歩き出す。手を引かれたメルエは若干の困り顔を浮かべ、サラへ助けを求めるような視線を向けている事を感じたサラは、苦笑を浮かべてカミュを促し、それを受けたカミュは、リーシャを追い抜いて歩き出した。

 

大きく見えている大岩への距離は、カミュ達が考えていたよりも遠く、大岩が近付いて来る感覚もないまま歩き続け、陽が落ちた頃になっても、大岩の姿が視覚的に変化する事はなかった。森の中で火を熾し、食事の支度をしている最中、メルエは近くの木にいた<りす>に何やら話しかけていた。スーの村に居たエドという馬や、先程別れたばかりの猫のように人語を話す動物がいるかもしれないと考えているのだろう。だが、『話が出来るのならば、エドの言葉通りお話がしたい』というメルエの願いは、その<りす>には届かなかった。

 

「メルエ、こっちにおいで」

 

言葉に答える事無く森の奥へと逃げてしまった<りす>に肩を落としたメルエは、リーシャの呼びかけに頷き、『とぼとぼ』と火の傍へと歩いて行く。メルエの到着後に食事を始め、完全に闇の支配が及ぶ頃には、見張りのリーシャ以外は眠りに付く事となる。

 

 

 

翌朝、再び歩き始めた一行は、メルエの好奇心を上手く抑えながら南へ下り、太陽が真上に昇る直前に、大岩に辿り着いた。それは、カミュ達が考えていた物よりも遙かに大きく、真下からでは頂上が見えない程の岩。地面に接している部分の外周も大きく、左右を見ても岩の果てが見えない程。その雄大さに目を奪われていた四人は、感嘆の息を吐き出し、再び歩き始める。

 

「カミュ様、ここからなら大岩が三つ見えますよ」

 

「なるほど……東西南北とはこういう事だったのか」

 

「アンタは、どういう物を想像していたのか聞きたいぐらいだが」

 

大岩の裏側へ回り、進行方向からみて完全に真裏まで来た時、そこから見える景色にサラは声を上げた。そこは、高い木々が聳える森の中。それでも遙か前方と、左右に巨大な岩が見えていたのだ。その大きさは、カミュ達が背にしている大岩と大差はないだろう。自然の産物なのか、それとも何らかの意図があって人工的に置かれたのかは解らない。だが、その壮観な光景は、見る者の心を掴んで離しはしない。何かに納得するように頷いたリーシャをカミュが窘め、それに苦笑を浮かべるサラを見て、メルエも笑みを浮かべていた。

 

「では、ここから前方に見える大岩を目指して歩けば良いのですね」

 

「森の中ではあるが、幸い全ての岩は見えている。常に自分達の位置から見える岩の位置を確認しながら進めば間違いはない筈だ」

 

サラは確認を込めてカミュへ問いかけ、その答えを聞き、頷きを返す。このまま進んでも陽が暮れる前へ辿り着くのは難しいだろう。陽が落ちれば、岩を確認する事が出来なくなり、その場で野営を行うしかなくなる。故に、行動は早い方が良く、リーシャやメルエの返事を待つ事無くカミュは歩き出した。この場所では地図など役に立たず、目印となるのは東西南北に見える大岩だけ。カミュ達の後を付いて歩くだけのリーシャやメルエとは違い、常に岩の位置を確認する事がサラの仕事となるだろう。それを自覚したサラは、リーシャとメルエに前を歩かせ、自分が最後尾になる事を名乗り出た。

 

 

 

「カミュ様、陽が陰り始めて来ました。進行方向は間違いありませんが、これ以上の強行は危険を伴います」

 

南へ下っていた一行の背に見える大岩の根元が見えなくなった頃、太陽は西の空へと傾き始め、周囲を赤く染めて行く。最後尾を歩いていたサラの言葉に頷いたカミュは、リーシャに視線を送り、野営の準備を始めた。例の如く、メルエは傍にいる虫や花を見る為に屈み込み、笑みを溢している。彼女にとって、何処に行こうと関係ないのだろう。誰と行くのかが問題であり、そこに何があるのかも関係はない。それをその表情が物語っていた。

 

「…………ヒャダルコ…………」

 

そんな和やかな時間は、突如として詠唱を開始したメルエの呟きによって斬り裂かれた。詠唱と共に木々を凍らせる程の冷気がメルエの杖から発現し、何かとぶつかり蒸発して行く。異変に気付いたカミュ達がメルエの方向へ視線を移すと、木々の隙間から降り注ぐ炎と、メルエの杖から発した冷気が拮抗を続けていた。慌ててメルエの傍へと駆け寄るカミュ達の後方に着弾したもう一つの光弾は、炎の壁を造り出し、退路を断つ。

 

「ベギラマですね」

 

「魔物か!?」

 

冷静に状況を把握したサラの横で、メルエの傍へ辿り着いたリーシャが上空を見上げた。闇が浸食を始めているとはいえ、太陽の持つ力強い光は、まだ森を赤く染め上げている。上空を舞う影は、以前に遭遇した事のある魔物と似通った部分が多々あった。カミュ達が上空へ視線を送っている間に、メルエは後方で立ち上る炎に向かって、再び<ヒャダルコ>を詠唱する。冷気によって炎は鎮火し、森の温度も正常な物へと戻って行った。

 

「敵の姿が見えなければ、どうする事も出来ないぞ?」

 

「呪文を行使出来る存在であれば、降りて来る必要もなさそうですね」

 

上空へ視線を送りながら、呟いたリーシャの言葉をサラは肯定する。確かに、上空から魔法を唱える事が出来るのならば、わざわざ地面へ降りて来る必要性はない。空を飛んでいる以上、カミュ達の攻撃が届く事はなく、対処方法がないに等しい事となるのだ。上空を舞う影は、カミュ達を諦める様子は見えない。臨戦態勢は続いており、気を緩める事も出来ない。

 

「カミュ、来るぞ!」

 

「ちっ」

 

上空を見上げていたリーシャが、その影の動きを見て注意を促す。その声に反応したカミュが一歩後ろへと飛ぶと、元居た場所を影が吹き抜けて行った。カミュ達の頭より上を悠然と飛び続ける魔物の姿は、やはりカミュ達の予想通り、以前遭遇した魔物と同じ物。箒に跨り、メルエが被っているような先の尖った帽子を被った老婆の姿。テドンからの帰り道で遭遇した魔物と言うよりも魔族に近い物であったのだ。

 

<魔法おばば>

その見た目と、魔法を唱える姿から『人』の中で名付けられた魔族の女性。<魔女>よりも長い年月を過ごし、その体内に眠る魔法力を鍛えて来た者である。唱える呪文に大差はないが、その威力はその過ごして来た年月に比例し、強力になっている。物理攻撃は<魔女>同様に低く、主に魔法での攻撃に偏る傾向があった。

 

「サラ、魔封じの呪文を!」

 

「はい! マホトーン」

 

リーシャの指示が最後まで言い終わらぬ内に、サラの詠唱は完成する。高度を下げた<魔法おばば>の姿を確認したサラは、既に詠唱の準備を始めていたのだ。その結果、リーシャが振り返るよりも前にサラは右腕を突き出している。<魔法おばば>の数は二体。降りて来た二体へ行使された魔法は、その内一体の魔法力の流れを狂わせ、地面へと落として行った。魔族とはいえ、その姿は『人』の老婆のような物。魔法力を失った<魔法おばば>など、『人』の老婆と見た目も攻撃力も変わりはない。斧を振るう事を躊躇ったリーシャには、一瞬の隙が出来てしまっていた。

 

「どけ!」

 

そんなリーシャの横合いから飛び出して来たカミュの一閃が、闇の支配がひろがって来た森に煌く。素早い一閃は、魔法力を狂わされ、地面に尻餅をついていた<魔法おばば>の首を根元から刈り取った。噴き出す体液と、地面へ落ちた老婆の首。それに気を向ける事もなく、カミュはもう一体の<魔法おばば>へと向き直る。しかし、即座に左手にある<魔法の盾>を掲げた。

 

「…………ヒャダルコ…………」

 

カミュの盾に衝撃がぶつかった瞬間、凄まじい熱量が彼を包み込む。魔法の盾を持つ左腕の肌を焼き、カミュの髪の毛を焦がして行った。しかし、この青年が傷付く事を容認する程、このパーティーの『魔法使い』は大らかではない。先程、<魔法おばば>の唱える灼熱呪文を相殺し、着弾して壁を作っている炎を鎮火させた氷結呪文がカミュの後ろから牙を向く。カミュの熱し切った身体を急激に冷やして行く冷気は、<魔法おばば>の<ベギラマ>の炎を押し返し、霧散させて行った。

 

「よし!」

 

カミュの目の前の炎が鎮火した事を見て、覚悟を決めたリーシャが駆け出す。手には<バトルアックス>を握り締め、<魔法おばば>との距離を詰めて行くのだが、カミュの横を通り過ぎようとした時、上空を漂う<魔法おばば>の手が挙がった。それが呪文の行使である事を理解し、リーシャは身構えるが、紡ぎ出された言葉に愕然としてしまう。それは、彼女達が最も恐れる呪文。

 

「……バシ……ルーラ……」

 

明らかに人語と解る言葉を紡ぎ出した<魔法おばば>の呟きを聞いた時、リーシャの身体はその場で固まってしまう。彼女達をカミュと逸れさせ、メルエの心を奪ってしまう可能性もあった凶悪な呪文。それを上空に居る魔族が唱えた事を明確に示す詠唱だったのだ。リーシャは固まり、サラは目を見開く。その呪文に対して成す術はない。命中率の低いその呪文が、リーシャの脇を通り抜けてくれる事を祈る事しか出来なかった。

 

「…………マホカンタ…………」

 

その中で一人、冷静さを失っていない者が存在する。呆然と佇むリーシャに<雷の杖>を向け、神秘とも言える魔法を行使する幼い少女。本来であれば、<雷の杖>を手にした彼女であれば、サラの指示を待たなくとも、的確な魔法の行使は可能なのだ。その利発性は、サラという『賢者』にも勝るとも劣らない。その心の幼さ故に、姉のようなサラの補助を必要としているだけ。自分の頭で考え、その場面場面で適した魔法を行使する。そんな『魔法使い』としての基本は既に出来上がっていた。

 

「キエェェ――――――」

 

メルエの発した魔法力は、呆然と佇むリーシャを包み込み、その身体を光の壁で覆って行く。リーシャへ襲い掛かった圧力は、輝く壁に弾き返され、対象を変化させた。上空に向かって弾かれた圧力は、箒に跨っていた<魔法おばば>の身体に衝突し、一瞬の内に遙か彼方へと弾き飛ばす。奇妙な雄叫びを残したまま、<魔法おばば>はカミュ達の視界から瞬時に消え去った。残ったのは、木々の隙間から見える空を呆然と見上げるカミュ達三人と、仕事を遣り遂げた事の達成感を胸に湧き上がらせる幼い少女。

 

「メルエ! 絶妙の行使でした! 凄いです、やはりメルエは凄いです!」

 

そんな中、真っ先に自我を取り戻したのは、メルエの一番近くに居たサラであった。手放しで喜び、腰を屈めてメルエを抱き締めるサラの表情は、本当に優しく慈愛に満ちた笑みだった。大好きな姉に抱き締められ、何度も誉め讃えられる事で、メルエの顔にも満面の笑みが浮かぶ。若干胸を張るようにサラを見つめていたメルエの頭に乗る帽子が取られ、癖のない茶色の髪が優しく梳かれた。メルエが見上げると、そこに居たのは優しく微笑むリーシャの姿。自分の周りへ集まって来る者達の表情が笑顔である事が、メルエは嬉しくて仕方がない。

 

「メルエ、ありがとう。私はメルエに救われてばかりだな」

 

「今度飛ばされる時は、アンタが一人旅をしてくれ」

 

「ぷっ」

 

笑顔でメルエへ礼を述べるリーシャの横から、かなり辛辣な皮肉が飛んで来た。その皮肉を聞いたサラは思わず吹き出してしまう。実際に、もしあの時一人残ったのがカミュではなくリーシャであったのならば、この四人が再会する事は不可能に近かったであろう。武器も使え、魔法も行使出来るカミュであったからこそ、サラ達三人と合流する事が出来たのだ。回復呪文も移動呪文も行使出来ず、更には方向感覚が致命的なリーシャだけでは、森から出る事も出来ずに、彷徨い続ける事になっていたのかもしれない。それが自分でも解っているのだろう。リーシャは苦々しく顔を歪め、カミュとサラを睨みつける事しか出来なかった。

 

「で、ですが、やはりメルエは世界最高の『魔法使い』です。私も負けないように頑張らないと」

 

「…………ん…………」

 

話題を変えるようにメルエに視線を合わせたサラの顔を見て、メルエも笑顔で頷きを返す。魔法に関しての絶対的な指揮者であるサラからの褒め言葉は、メルエの中で大きな自信と成り、そして誇りとなって行く。『世界最高』という言葉の意味をメルエは理解していない。それでも、自分の事を認めてくれているという一点だけは、肌と心で感じているのだろう。その後、場所を変えて野営の準備を進め、火を囲んで眠りに就くまで、メルエの顔から笑みが消える事はなかった。

 

 

 

陽が昇ると同時に再び歩き始めた一行は、魔物と遭遇する事もなく順調に歩を進め、森を南へと下って行く。昨日の喜びの余韻を残しているメルエは、この日も笑顔で歩き続けていた。休憩回数も少なく歩き続けた結果、太陽が真上に上る頃、カミュ達は幻想的な世界へと迷い込む。今まで所狭しと生い茂っていた木々を抜けた先には、平原とも言える草原が広がり、森の中にぽっかりと空いた空間には、太陽からの輝く光が降り注いでいた。

 

「うわぁ」

 

「…………はぅ…………」

 

サラとメルエが同時に感嘆の声を上げる程に幻想的な景色は、まるで自分達がお伽話の世界に入り込んでしまったような感覚さえ持ってしまう程。鳥達の鳴き声が遠く聞こえ、優しく吹き抜けて行く風がその鳴き声を運んで来ており、暖かな陽差しは全ての草花に降り注ぎ、競い合う事もなくその光を受け取った花々は狂おしい程に美しく咲き誇っている。しかし、何よりも一行の目を釘付けにして離さないのが、その草原の中央にそびえる大木であった。

 

「この木はどれ程に大きいのだ?」

 

その木の根下へ歩いて行く中で発したリーシャの問いかけに、答える事が出来る者は誰も存在しなかった。見上げても大きく広がった枝に生い茂る葉によって視界が遮られている。森の中から見えた障害物は、大岩だけと思っていた彼等にとって、これ程の大木が見えなかった事自体が不思議でならないのだ。悠然と聳える大木には、様々な命が宿っており、そこを住処にする鳥達や虫達が生きている事を主張するように声を発していた。

 

「この木は……」

 

四人が木を見上げている最中、その木の余りの大きさに、メルエが反り過ぎて後ろへ倒れてしまい、それを介抱するリーシャが苦笑を浮かべる。そんな微笑ましいやり取りの中、サラだけは何かを考え込むように黙り込んだ。木を見上げ、自分の頭の中にある記憶を辿って行くように深い思考の渦へと落ちて行ったサラが帰って来たのは、メルエがリーシャに抱き上げられながら、もう一度木を見上げた時だった。

 

「『世界樹』……」

 

「せ……かいじゅ?」

 

サラの呟きは、大木を見上げていたリーシャの耳に入り、腕の中にいるメルエと共に、仲良く首を傾げる事となる。リーシャやメルエだけではなく、カミュもその名を聞く事が初めてなのだろう。視線をサラへと移したカミュは、サラが語る続きを待っていた。サラは再び頂上の見えない大木を見上げ、その葉の隙間から降り注ぐ陽光を眩しそうに浴びる。そして、自分に集まる視線に気付き、恥ずかしそうに顔を俯かせた。

 

「昔、アリアハン教会にあった書物の中に記されていた木です。この世界に生きる人々が『世界の端』という伝承を信じる源と言っても良い木……この世界を支え、他の世界へも繋がると云われている伝説の木と記されていました」

 

「世界を支える?」

 

カミュは訝しげにサラを見つめ、リーシャは既に理解不能に陥っていた。それ程にサラの話は突然の物であり、即座に受け入れる事など出来る物ではなかったのだ。メルエは既に興味を失っており、大木の幹に集う虫達に夢中になっている。そんな中、全員の顔を見たサラは、苦笑を浮かべながら口を開いた。

 

「はい。元々は、様々な世界を内包している木と伝えられて来たそうですが、何時しか、世界を覆う程に大きな木という物が、世界を支える木という物に変わり、今の伝承へとなったのではないかと考えられています。おそらく、それは『人』の間だけの話ではないでしょう。そして、世界樹の根は、こことは異なる世界へと繋がり、その世界では別の幹となって、その世界を支えているとも云われています」

 

「世界樹か……」

 

もう一度、その木を見上げたカミュは、その名を復唱する。小さく呟かれた言葉の裏にどのような感情があるのかを推測する事は出来ないが、隣に立っていたリーシャには、とても哀しい呟きに聞こえた。サラの話す内容は、伝承であって事実ではない。もし事実であるならば、この場所でカミュ達が目にする事など出来ない筈。だが、ここに来るまでにその存在を視認する事も出来ず、その気配すら感じる事が出来なかったというのも事実であり、それが一行に奇妙な空気を運んで来ていた。

 

「そして、もう一つ伝承があります。それは……きゃあ!」

 

世界樹と呼んだ大木へ視線を移したサラが、再び何かを語ろうと口を開いた時、カミュ達と大木に向かって一陣の突風が吹き抜け、サラは可愛らしい悲鳴を上げる。突風はカミュ達の胸元から吹き上げるように大木を揺らし、その風に帽子を攫われそうになったメルエは、慌てて帽子のつばを握り締めた。揺らされた大木は葉を擦り合わせて音を発し、揺らめきながら枝を躍らせる。その時に、木々に居た鳥達の鳴き声が全く聞こえて来なくなっていた事にようやく一行は気付いた。

 

「…………は……っぱ…………?」

 

旋風のような物が過ぎ去り、カミュ達三人が態勢を立て直した時、リーシャに抱かれていたメルエが上空を見上げながら口を開く。その言葉に全員の視線が大木へ戻り、その大木の一つの枝から舞い落ちる影を目にした。それは、メルエの言葉通り、一片の葉。まるで風の中を泳ぐように舞い落ちるそれは、落ちる先を以前から定めていたように、一人の青年の掌へと降り立つ。掌を覆い隠してしまう程の大きさを持つ葉は、『世界樹』と謳われる大木に相応しい姿。

 

「『世界樹の葉』です」

 

「これにも何か言い伝えがあるのか?」

 

カミュの手に降り立った世界の奇跡へ視線を移したサラが、その名を重々しく口にする。そのサラの口ぶりに、リーシャは何かがあるのではないかと考え問いかけるが、サラは困ったような表情を見せて、容易に口を開こうとはしない。枝から離れてしまっているにも拘らず、まるで今も枝から茂っているかのように瑞々しく輝く葉は、カミュの手の上で全員を照らし出していた。

 

「いえ……その葉を使用する事など無い方が良いのです」

 

「何か引っ掛かるが、サラがそう言うのならば、敢えて聞く必要はないのだな?」

 

意味深な言葉を呟き、再び口を閉ざしてしまったサラを見たリーシャは、心に引っ掛かりを覚えるが、敢えて追及する事をせず、一枚の葉を落したきり沈黙を続ける大木へと視線を戻す。そんなリーシャに小さく頷きを返したサラも、自分の記憶にある神秘を片隅に追いやるように、上空を見上げていた。リーシャの腕から身を乗り出すようにしてカミュの手の中にある葉を見ていたメルエもまた、只の葉である事に興味を失くし、つまらなそうに周囲へ目を向けている。

 

「カミュ様、その葉は大事に保管していて下さい。伝承通りであるならば、その葉はどれ程の時間が経過しても瑞々しさを失わない筈です」

 

「……わかった……」

 

暫しの間、自分の手の中で佇む葉を見ていたカミュではあったが、サラの言葉に頷きを返し、懐に入っていた布で葉を包んだ。そのまま、メルエのポシェットには入れず、自分の腰に下げてある革袋の中へ丁寧に仕舞い込む。カミュ自身も、何故自分の許に舞い落ちて来たのかを理解出来てはいなかっただろう。この大木が、サラの言う通り『世界樹』と呼ばれる伝説の樹木であるならば、その存在自体が不可思議な物であり、その葉もまた神秘に彩られた物である事は間違いない。どのような効力があるのかは定かではないが、サラの口ぶりから推測すると、その使用方法も効果も伝承として残っているのだろう。故に、カミュもその事でサラを問い詰めるような真似はしなかったのだ。

 

「あの猫が言っていたのは、この『世界樹』という樹木の事なのか?」

 

「おそらくは……よく見れば、この場所から東西南北の大岩の姿を正面に確認出来ます。ここが中心である以上、あの猫が話していたのは、『世界樹』の事だと考えて間違いないでしょうね」

 

「ならば、戻るぞ」

 

リーシャの問い掛けへのサラの答えから、この場所を訪れた目的は達成された事になる。そうであるならば、これ以上の探索は無意味であり、カミュ達には他に向かわなければならない場所がある以上、早急に船へと戻る必要があった。リーシャの腕から降ろされたメルエが先を歩くカミュのマントを掴んだ事で、一行の出発準備は整い、草原の中心に聳える大木に背を向ける。

 

世界の神秘と言っても過言ではない存在である『世界樹』。伝承でしか残されていないその樹木を見た者は誰もいない。遙か昔にその姿を見た者はいるのかもしれないが、今は自らの姿を隠すように佇み、只のお伽話となっていた。何故、カミュ達がこの場所へ来る事が出来たのか。何故、カミュの掌に神秘は舞い降りて来たのか。それを知る者は、同じくお伽話のような伝説の存在だけなのかもしれない。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ドラクエⅢで登場のあのアイテムです。
やはり、この存在は物語にも登場させなければならないと思っていました。
再登場するのは、かなり後になるかもしれませんが……

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております


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幕間~【ムオル北方海域】~

 

 

 

後方に見えていた『世界樹』と呼ばれる太古からの伝説の姿は、カミュ達が森の中へと入った頃から視認する事が出来なくなっていた。カミュのマントの裾を握りながら振り向いたメルエは、その事に対して頻りに首を傾げてはいたが、カミュ達はある意味で納得していた。このような開拓されていない森を歩く人間等は皆無に等しい。この森で生活している動物しか辿り着けないのだろう。以前、<エルフの隠れ里>にカミュ達が辿り着けたように、何か特別な条件が重なった結果、『世界樹』という伝説を目にする事が出来たとしか考えられなかったのだ。

 

「メルエ、後ろを気にし過ぎていると転んでしまいますよ」

 

「…………ん…………」

 

カミュの後ろを歩くサラに注意されたメルエは、素直に頷きを返した後、カミュの歩幅に追いつくように、少し歩く速度を速めた。この森で暮らす魔物達も、『世界樹』に辿り着く事は出来ないのかもしれない。その証拠に、『世界樹』の周辺の森には、不思議と邪気はなく、澄んだ空気が満ちている。魔物の気配も無く、動物達の楽しげな鳴き声が響き、それを喜ぶような木々の囀りが心地良く流れていた。

 

「カミュ、道は解るのか?」

 

「アンタ以外の人間は皆解っている筈だが……」

 

木々が生い茂る森の中で、迷いなく歩むカミュを見ていたリーシャが口を開くが、その心配は簡単に一蹴されてしまう。慌てて前方にいるサラを見るが、サラは困ったような笑みを浮かべるばかり。それは、カミュが正しいとも、リーシャが正しいとも取れるような曖昧な笑みだった。故に、リーシャは釈然としない想いを抱き、その想いをサラへと問いかけてしまう。

 

「サラは道を憶えているのか? こんな同じような木々しかない森の中で、何処をどう進んで来たのかが解るのか?」

 

「いえ、そんな事までは憶えていません。ただ、方角はあの大岩が示してくれていますので、カミュ様が間違っていない事だけは確かです」

 

リーシャの問いかけに答えたサラの言葉は、やはりとても曖昧な物だった。だが、サラの言う通り、『世界樹』の姿は見えなくなっても、四方に見える大岩だけは健在である。森の木々よりも高く聳える大岩は、一行の方向感覚を狂わせる事無く、その場に悠然と聳えていた。その大岩を眺めたリーシャは、『なるほど』と大きく頷き、小さな笑みを浮かべた。自分に方向感覚がないという事を認める事はないリーシャではあるが、周りを見渡せる注意力が足りなかった事は認めたのだ。しかし、心に余裕が出来たリーシャは、余計な一言を溢してしまう。

 

「しかし、毎度思うが、お前は帰巣本能が通常の人間より優れているのではないか? よく、このような森の中を迷いなく進めるものだな」

 

「アンタの方向感覚が壊滅的なだけだ……」

 

そんなリーシャの軽口は、予想以上の痛手を負う事となった。カミュの言っている事も正しくはある。この女性戦士は、ある特殊な方向感覚が備わってはいたが、正常な方向感覚が完璧に欠如していた。その事は、この三年近くの旅で証明されている。それを知らないのは、自覚のない本人だけなのである。故に、リーシャは瞬時に眉を上げ、目を細めるが、カミュの後ろに居たサラは苦笑に近い笑みを浮かべていた。

 

「ですが、リーシャさんの言う事も一理あると思います。いくら目印があるとはいえ、カミュ様の方向感覚は正確無比ですよね。地図もなく歩く事もありますし、地図と言っても大きな物ばかりですから」

 

サラは苦笑を浮かべたまま、リーシャの援護に回る。確かに、カミュの歩行は迷いがない。それが『勇者』の特性なのかもしれないが、旅立った頃から、塔や洞窟など以外では迷った事はないのだ。基本的にリーシャやサラは、カミュの歩む道の後ろを歩いて来た。メルエに至っては論じる必要はないだろう。彼等の道は全てカミュが切り開いて来たと言っても過言ではないのだ。それは、本当に何かに導かれているように。

 

「そうしなければ、生きて行く事が出来なかっただけの事だ」

 

『それは、精霊ルビス様のお導きなのかも』と淡い考えを持っていたサラの思考は、小さく呟いたカミュの言葉で打ち壊された。カミュの生い立ちをサラは詳しく知らない。だが、ここまでの旅の中で、彼が真っ当な幼年期を過して来てはいない事を察する程度の関係を築いては来た。故に、その小さな呟きの中に、自分では想像すらも出来ない過去がある事を理解してしまうのだ。それは、後方にいたリーシャの苦い表情を見て、確信へと変わって行く。何も言わなくなった二人を無視するように、カミュは再び森の中へと入って行った。

 

 

 

一晩を森で明かし、再び北方に位置する場所に聳える大岩に辿り着いた時、一行は一度休憩を入れる事とした。大岩を背に全員が座り込み、メルエが小さな口で水筒の水を飲む。木々が伸ばす枝に茂る葉が直射日光を防ぎ、森の中は比較的気温が低めであった。一つ息を吐き出したリーシャは、メルエの傍に座り込み周囲へ視線を向ける。その時、何故か気になる物を視界に入れてしまった。一か所に視線を固定するリーシャを不思議に思ったメルエは、リーシャの前へと回り込み、その方角へと目を凝らす。

 

「…………いし…………?」

 

「ああ、只の岩だよな?」

 

リーシャが視線を送る西の方角に大岩とまでは行かないが、メルエの背丈よりも大きな岩が数個転がっていた。何故、それが気になるかがリーシャにも解らない。その岩が以前ここを通った時に存在していたかも解らない。そのような岩があったような気もするし、全く無かったような気もする。唯一つ言える事とすれば、小首を傾げていたメルエの興味も失せる事無く、その岩を未だに眺めているという異様な空気が流れている事だけ。

 

「…………うご……いた…………?」

 

「なに!?」

 

カミュとサラは二人のそんな行動を気にもしていなかったが、メルエの呟きに反応したリーシャの叫びを聞き、視線を動かす。そこには、三つの岩が見えるだけ。距離的に言えば、決して近い訳でもないが、目を凝らして見る程遠くもない。そんな変哲もない光景を不思議に思ったカミュとサラは、立ち上がったリーシャが抱き抱えるメルエへと視線を移した。

 

「サラ……岩が勝手に動くという事は有り得るのか?」

 

「えっ!? どういう事ですか?」

 

メルエと共に前方に見える岩から視線を外さずに声を出すリーシャの言葉がサラには理解出来ない。突然言い出した素っ頓狂な物事を理解出来る程、サラの頭は常に柔軟な訳ではないのだ。どれ程の不可思議を目の当たりにし、どれ程の神秘を体感しようとも、彼女の基礎となるのは、幼い頃から培って来た『常識』である。生物ではない岩が勝手に動くなど、彼女の人生で一度たりとも見た事もないし、聞いた事もなかった。

 

「…………また………うごいた…………」

 

「カ、カミュ、生きている岩というのは存在するのか?」

 

「生きている溶岩や、生きている氷も存在した。生きている岩があっても不思議ではない」

 

混乱するリーシャとサラを余所に、再び告げられたメルエの言葉は、カミュに臨戦態勢を取らせるに足りる言葉であった。リーシャの問いかけに答えたカミュの言葉通り、彼等は溶岩の洞窟で動く溶岩を見た事もある。永久凍土が広がる島で動く氷を見た事もある。だが、それは全て生物の中でも凶悪な部類に入る存在ばかりであった。その分類は『魔物』。故に、カミュは背中から剣を抜き放ち、メルエを抱くリーシャの前へと踏み出した。

 

「えっ!? ほ、本当に動いていますよ! こっちに来ます!」

 

カミュが戦闘の意思を示した事を察したのか、微かな動きしか見せなかった三つの岩は、一気にカミュ達との距離を詰め始める。『ごろごろ』と重々しい音を立てながら迫り来る岩を目の当たりにしたサラは、恐怖に引き攣らせた表情を浮かべ、数歩後ろへと下がった。メルエは興味深そうに岩を眺めていたが、カミュの行動で我に返ったリーシャが地面へと下した事で、その岩を見る事が出来なくなり、軽く頬を膨らませている。

 

「カミュ、あれは魔物なのか?」

 

「『人』ではない事だけは確かだ」

 

カミュ達との距離を一定距離まで縮めた三つの岩は、再び沈黙した。目の前に整然と並ぶ岩を見たリーシャは、その存在を理解出来ず、問いかけを口にするのだが、リーシャ同様にその存在を理解出来ていないカミュの答えは、至極当然の物しか返っては来なかったのだ。攻撃しようにも、何であるのかさえも解らず、動く事は出来ない。三つの岩もカミュ達へ何を仕掛けて来る事も無く、只そこに佇んでいるだけ。奇妙な空気が流れて行く中、両者は全く動く事はない。

 

「ひっ!?」

 

そんな時間が流れて行く中、岩を凝視していたサラは、突如回転をした岩に声を発し、そしてそこに浮き出した物を見て、息を飲んだ。前へも後ろへも動く事無く、その場で回転した岩の中心に浮き出た物は、間違いなく目と口。逆三角の目は凶悪的な光を宿しながら、カミュ達を嘲笑うかのように歪み、笑みを浮かべるように開かれた口からは、何を食す為にあるのか歯が並んでいる。とても、生物とは思えない程の凶悪的な表情は、生理的に拒絶を示してしまう程に醜く、サラだけではなくメルエも表情を歪めていた。

 

「カミュ、行くか?」

 

「……いや……少し様子を見る」

 

<バトルアックス>を握り、何時でも攻撃に移れる態勢を整えたリーシャは、横にいるカミュが動かない事を感じ取り、促すように問いかける。しかし、返って来た答えは、リーシャの予想とは大きく外れた物であった。予想外の答えにカミュを凝視していたリーシャであったが、一歩下がったカミュを追うように自分も後方へと下がり始める。パーティー全体が少しずつ下がる中、岩達は動きを見せる事はない。まるでカミュ達の様子を見ているように、凶悪な笑みを浮かべたまま反応を示す事はなかった。

 

「……走るぞ……」

 

「に、逃げるのか?」

 

「得体が知れませんね……その方が賢明かと」

 

岩との距離は徐々に広がるが、岩の方は一向に動きを見せない。ある程度の距離が空いた事を確認したカミュは剣を鞘に納め、メルエを背負うように抱き上げた。カミュの言葉を聞いたリーシャは、疑問に思う。カミュが魔物を見逃した事は何度もある。だが、逆に逃げ出した事は皆無に等しいのだ。以前に<くさった死体>という凶悪な臭気を撒き散らす魔物と遭遇した時に逃げ出した事はあるが、あの時とは状況が異なっている。それでも、『賢者』であるサラがカミュの意見に同意した事で、リーシャもそれを受け入れる事にした。

 

「行け!」

 

頷いたサラとリーシャを見たカミュは、少し強めの指示を出す。カミュの声と同時に振り返りもせずにリーシャとサラは北東へ向かって駆け出した。それから遅れる事無く、カミュもまたメルエを背負ったまま同じ方角へと駆け出す。森の木々を縫うように走り出した背中には、岩と岩が擦れ合う笑い声のような音が響き渡っていた。

 

 

 

「追っては来ていませんね」

 

森を北東に向かって駆ける中、後方を振り返ったサラは、溜息と共に動かしていた足を緩めて行く。その言葉通り、最後尾を走っていたカミュの後方に魔物らしき姿は見えない。下り坂にでもなっていない限り、あれ程の大きさを持つ岩が転がる速度を速められるとも思えない以上、危険は過ぎ去ったと考えて差し支えはないだろう。故に、サラに続きリーシャも速度を緩め、最後尾のカミュは後方を警戒しながらもゆっくりとメルエの身体を地面へと下した。

 

「…………むぅ…………」

 

しかし、地面へと下されたメルエは、『まだ背負われていたい』と意思表示するように頬を膨らませる。何かにつけてメルエを抱き上げてくれるリーシャとは異なり、カミュがメルエを抱いたり背負ったりする事は少ない。久しく味わっていなかったカミュの背中を堪能していたメルエとしては名残惜しいのだろう。自分の傍から離れようとしないメルエに困惑するカミュを見たリーシャとサラは小さな苦笑を浮かべた。

 

「ほら、行こう」

 

「船ももうすぐですよ」

 

差し伸ばされたリーシャの手を握ったメルエは、サラの言葉に頷きを返す。一息吐いたカミュは、再び先頭に立ち、船を停泊させた北東へと歩き始めた。陽は西の空へと移動を始めており、船に辿り着く前に陽が暮れてしまう可能性は高い。それを考慮に入れ、メルエの手をサラへと譲ったリーシャは、枯れ木を集めながら歩いていた。

 

案の定、船に辿り着く前に陽は落ち、森の中で一晩を明かしたカミュ達は、陽が昇ると同時に歩き出し、すぐに潮風の香りを嗅ぐ事となった。海へと出たカミュ達の視界に停泊している船が見える。空には太陽を覆い隠す程の雲が広がり始め、周囲を黒く染め始めている。小舟にメルエとサラを乗せ、カミュとリーシャが海へと押し入れた。空模様と同様に波も荒く、大きく揺れる船の上でサラは口元を押さえる。久しく気にする事が無くなっていた『船酔い』の症状が現れ始めたのであろう。顔を青く変化させるサラを、メルエが心配そうに見つめる中、一行は船へと乗り込んだ。

 

「少し荒れそうだ。このまま出港するか?」

 

「どうした方が良い? 船の事に関しては指示に従う」

 

乗り込んだカミュの傍に近付いて来た頭目は、上空に広がる黒雲を見つめながら口を開く。それに対し、カミュは敢えて逆に問いかけた。この大海原に浮かぶ一隻の船の上では、誰が最も頼りになるのかを彼は知っているのだ。魔物と遭遇すればカミュ達一行で対処が出来る。だが、天候による時化等の場合、カミュ達がこの船の中で最も役には立たない人間となる。故に、全ての指示に従うという意思表示をしたのだ。

 

「今夜は陸地に近い入り江で錨を下ろし、夜を明かそう。明日になれば、海も落ち着きを見せる筈だ」

 

「わかった。よろしく頼む」

 

今にも雨が降り出しそうな空を見上げながら方針を打ち出す頭目に、カミュは静かに頷きを返した。カミュ達の旅が急ぎの旅である事は間違いがない。だが、今船を出せば、船に乗る全ての人間の命が危ぶまれる。一度陸地に程近く、波も比較的緩やかな入江で船を泊める事となった。予想通り、太陽は完全に雲に覆い隠され、周囲を暗闇が包み込む。船が錨を下ろした頃には、細かな雨が甲板に降り注ぎ始めていた。

 

「今夜は動けない。皆、船室で休んでいると良い」

 

「何かあったら、すぐに私達を呼んでくれ」

 

「メルエ、行きましょう?」

 

「…………ん…………」

 

雨が降り出した事によって、頭目はカミュ達に船室へ移動するように指示を出す。船を停泊している以上、この場所で魔物が出て来なければ、カミュ達に出来る事など何も無い。疲れを取る為に横になっておく方が良いという事を誰しもが理解していた。故に、カミュはその提案を受け入れ、リーシャやサラも大人しく船室へ入る事を承諾したのだ。暗闇に覆われ、周囲の景色が見えなくなった事で、メルエも素直にサラの手を握り、船室へと入って行く。全員が船室へ消えて行った事を確認した頭目は、この先の状況などを予測し、船の損傷を防ぐために様々な指示を船員達へ飛ばして行った。

 

 

 

船室のベッドの中に入り、どれ程の時間が経っただろう。サラは、自分の身体を襲う不快感に目を覚ました。停泊している船の揺れは、それ程の物ではない。だが、目を覚ましたサラが感じている揺れは、ベッドにしがみ付いていなければ落ちてしまいそうな程の物。サラの横で眠っているメルエは、目を覚ます気配はないが、隣のベッドで眠っていた筈のリーシャの姿は既になかった。サラは、メルエを起こしてしまわないようにベッドを抜け出し、甲板へ出る為に船室を後にした。

 

「帆を外せ! 風で開いてしまったら、支柱ごと折れちまうぞ!」

 

「舵が利かねぇ!」

 

船の大きな揺れで何度も身体を打ちながらも甲板へ出たサラは、自分の顔に打ち付けられる大粒の雨と、身体ごと吹き飛ばされそうな風の中で、大声を張り上げながら駆け回る船員達の姿を見る。その中には、カミュやリーシャの姿もあり、船員達の指示を受け、物を運んだりしていた。周囲は夜の闇に閉ざされており、何も見えない。だが、サラの胸に襲いかかる違和感だけは、それが間違っていない事を示していた。

 

「船が流されている……」

 

サラの呟きは、激しい雨によって即座に搔き消される。怒号が飛び交う甲板では、大きく揺れる船の進路を安定させようと、全員が必死になっているのを察する事が出来た。それが示す事は、この船が錨を下していた場所ではない海原を漂流しているという事。夜半から強まりを見せ始めた雨と風は、頭目の予想をも遙かに超えた物だったのだ。

 

「サラ、起きたのか!? メルエはどうした!?」

 

「まだ眠っています。それよりも、これはどういう事ですか?」

 

「雨と風によって荒れ狂った海の影響で、錨が外れた」

 

サラの存在を確認し近寄って来たリーシャの問いかけに対して手短に答えたサラは、現状を問いかける。その問いは、サラの横を駆け抜けようとしていた船員の一人が答えを出してくれた。昨夜、この船を停泊させた場所は、陸地に程近い場所にある入江。整備された船着き場や、国家の港のように設備が整っている訳ではない。錨を下ろしてはいたものの、荒れ狂う海の動きで、その錨が海底で外れてしまったのだ。錨を下ろしたままでは船も危ういと判断した頭目は、錨を上げ、荒れ狂う海原へと船を出す。そして、現在の状況という訳なのだ。

 

「私に出来る事は!?」

 

「何も無い! 邪魔にならないように船室に入っていてくれ!」

 

状況を把握したサラは船員に問いかけるが、サラの投げかけを聞く事も無く、船員は持ち場へと戻って行く。代わりに答えたのは、帆を外し終えた頭目であった。冷たいようにも聞こえる言葉ではあったが、それが事実である事も否定はできない。自分の不甲斐無さに唇を噛み締めるサラであったが、同じようにカミュやリーシャも何も出来る事はないのだ。

 

「しかし、メルエはよくこんな揺れの中で熟睡出来るな……揺り籠でも思い出しているのか?」

 

「メルエは、揺り籠など憶えていない筈だが」

 

緊迫した甲板に、何処か間の抜けた会話が流れる。サラの傍に移動していたリーシャの呟きにカミュが答えたのだ。世間一般で、赤子を揺り籠に入れ、軽く揺らしながら母親が家事をする事などがある。首の据わった赤子をあやすのに、適度な揺れは適していた。故に、アリアハンでもそれは当然の物であり、メルエのような幼子の体内にその記憶があるのではとリーシャは考えたのだ。しかし、赤子などを傍で見た事のないカミュは、至極当然の事を口にする。

 

「当たり前だ! 私だって揺り籠で揺られた記憶などない! 潜在的に残っている記憶があるのではないかと言っているだけだ!」

 

リーシャとて、メルエがはっきりと記憶している等思ってはいない。ただ、体内に残る記憶が安心感を与えているのではないかと考えているのだった。それがカミュには解らない。大粒の雨が顔面を強打する甲板の上で、カミュは訝しげな表情を見せていた。そんな二人のやり取りは、サラに笑みと心の余裕を取り戻させる。雨は勢いを増し、船の揺れは立っているのが厳しい程。座り込みそうになる程に大きく揺れる甲板の上で、暗闇を吹き飛ばすような笑みをサラが浮かべ、それを見た船員達の心にも余裕が生まれた。

 

「ふふふ。メルエも揺り籠で揺られた事はあったのでしょうかね?」

 

微笑むサラを見たリーシャも、釣られたように笑みを浮かべる。この場所に居なくとも、彼女達の心を和ませるのは、あの幼い少女なのだろう。今も尚、ベッドの中で熟睡しているであろうメルエの寝顔を想像した二人は微笑み合い、再び荒れ狂う海原と向き合う。風は横殴りの雨を運び、目を開いている事さえ辛い程まで強まっている。それでも、余裕を取り戻した歴戦の者達の心を折る事など出来ない。各々の持ち場で奮闘する船員達の口元にも小さな笑みが浮かんでいる事がそれを証明していた。

 

「こんな程度の時化は、何度も経験している。この船ならば、苦も無く乗り切って見せるさ!」

 

雨によって濡れ切った顔に満面の笑みを浮かべた頭目は、頼もしい言葉を大きく発した。その声に呼応するように、船員達からも声が轟き、船員達の一人一人が各々の持ち場で、その力を如何なく発揮し、難局を乗り切る為に奮闘する。そして、船は真っ黒な海へと吸い込まれて行った。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回はかなり短めです。
次話は少し長くなりそうでしたので、キリの良い所で区切りました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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浅瀬の祠

 

 

荒れ続ける海原を渡り続けた船は、夜が明けると共に収まり始めた雨と風によって静まりを見せる海を漂う事となる。夜通しの作業に疲れ果てた船員達は、甲板の到る所で眠りに就いている。雨雲は西の空へと移動したようだが、厚い雲は健在で、東の空から昇っているであろう太陽の顔は見えない。船の上は火でも熾さない限り、夕暮れ時と変わらぬ程の明るさしかなかった。

 

「…………むぅ…………」

 

「メルエ、起きたのか? 皆疲れているから、静かにな」

 

そんな中、目を擦りながら船室から出て来たメルエは、頬を膨らませながらリーシャへと近付いて来る。眠そうに目を擦っているメルエが不満そうに頬を膨らませている事に首を傾げたリーシャは、泥のように眠る船員達を気遣うが、その行動がメルエの幼い心に火を点けてしまった。嫉妬に近い炎を宿した瞳をリーシャに向け、更に頬を膨らませたメルエは、『ぷいっ』と顔を背けてしまう。

 

「どうした? 何かあったのか?」

 

「…………みんな……いなかった…………」

 

何に不満を持っているのかが解らないリーシャが、顔を背けたメルエに目を合わせるように屈みこんで尋ねると、頬を膨らませていたメルエは、不満そうに小さな呟きを洩らす。昨夜早めに就寝したメルエは、揺れの収まった明け方に目を覚ましたのだが、隣で寝ていた筈のサラもおらず、周囲を見回してもリーシャの姿もない事で不安になったのだろう。この様子では、隣にあるカミュの部屋も訪れたに違いない。全員がおらず、いつもならば声が聞こえる筈の船内が静まりかえっている事に相当怯えてしまったのだ。

 

「…………メルエ……ひとり……いや…………」

 

「そうか……すまなかったな。夜は少し大変だったんだ。おいで、メルエ」

 

その怯えは、すぐに表情に出る。先程まで不満そうに膨らませていた頬を萎ませ、不安そうに眉を下げたメルエは、震える声で懇願を溢した。それは、幼い怯えと共に、少女の切実な願いが込められていた。もはやこの幼い少女にとって、リーシャ達三人と離れる事は耐え難い物なのだろう。カミュと一度逸れてしまった事のあるメルエにとって、今度は自分が皆と逸れてしまうのではないかという恐れは、常に心の中にあったのかもしれない。それを理解したリーシャは、メルエの我儘だと叱る事をせず、謝罪の言葉を述べた後、メルエを呼んで強く抱き締めた。

 

「私達はメルエを一人にはしない。だが、それは甲板で眠っている彼等も同じ想いなんだ。メルエと私達が離れ離れにならない為に、昨夜の嵐を必死に乗り切ってくれた。だから、今はゆっくりと休ませてやってくれ。そして、彼等が目を覚ましたら、メルエからもお礼を言うのだぞ」

 

「…………ん…………」

 

メルエを抱き締めたリーシャは、表情を和らげたメルエの瞳を真っ直ぐと見つめ、昨夜遭遇した難所を話し出す。メルエが知らないという事で、船員達の努力が無になる訳ではない。だが、彼等が必死の想いで戦い続けた心の中に、自分自身の命の他に、他者への想いがあった事も事実であろう。故に、リーシャはその想いをメルエに伝えたのだ。孤独という恐怖から解放されたメルエの瞳は、様々な物を映し出し始めている。甲板で眠っている人間達の表情は、濃い疲労の中にも達成感が溢れていた。満足そうに眠る彼等の表情が、メルエには眩しく映った事だろう。小さく頷きを返したメルエは、もう一度リーシャにしがみついた。

 

「風は収まって来たが、まだ強いな……帆を張るのは危険だろう」

 

「今、どの辺りの海なのかは把握できますか?」

 

一人目を覚ましていた頭目が風の具合を見ながら、空を見上げている。その横に居たサラは、現状の場所を把握する為、問いかけるが、頭目は表情を顰め、小さく首を横へ振った。大まかな位置は解るようだが、それも大凡の範疇であり、詳しい場所までは解らないと言うのだ。風が弱まり始めた頃に帆を張り、方角を定めて進むしかないのだろう。幸い、上陸した大陸で食料は多分に補給してある為、長い航海も可能である。故に、サラは雨で濡れた身体を拭いているカミュへ視線を移した。

 

「風が収まり次第、南の方角へ向かってもらう」

 

「わかった。船員達が目を覚ます頃には風も収まっているだろう。それまで舵だけで南へ進路を取っておく。暫くはゆっくりしていてくれ」

 

視線を受けたカミュは進路を口にし、それに頭目が答える。カミュやリーシャも夜通し船員達の手伝いをしていたのだ。疲れは溜まっている事は間違いない。だが、それはこの頭目も同様であろう。いや、手伝いしかしていなかったカミュ達とは、その疲労度合は別格の筈だ。サラは心配そうに頭目の瞳を見つめるが、そんなサラの表情を見た頭目は、豪快に笑い声を発した。

 

「大丈夫だよ。俺達のような海の男は、こんな事には慣れている。新人以外の船員達も、すぐに目を覚ますさ」

 

一晩徹夜をした程度で参る程、海の男は軟ではない。今は疲労と達成感で脱力している船員達ではあるが、船が動きを始める頃には、再び全員が一丸となって動き出すのだろう。それは、頭目の笑みと声に表れていた。その豪快な笑い声はとても頼もしく、サラも思わず笑みを浮かべてしまう。一つ伸びをした頭目は、舵のある方へ歩き出し、その背をカミュ達全員が見つめていた。

 

「本当に頼もしい仲間に恵まれたな」

 

「そうですね」

 

リーシャが呟いた一言は本心の物であろう。彼等は船を手に入れるまで四人だけで旅を続けて来た。いや、メルエと出会うまでは、個々人で旅をして来たと言っても過言ではないのかもしれない。旅を重ねる毎にその絆を深め、ようやくパーティーとして機能するようになった頃に、彼等は船という移動手段を手に入れたのだが、彼等四人では満足な船旅は出来なかったであろう。元カンダタ一味の船員も含め、この船に乗る全員の力がなければ、彼等の船旅は出港直後に終わっていたかもしれない。

 

それを理解しているのは、リーシャやサラだけではない。舵の方へと歩いていた頭目の後を追うように歩き出した小さな影がそれを証明していた。揺れる船上を『とてとて』という覚束ない足取りで歩いて行く幼い少女は、舵を握った頭目を見上げて、花咲くような笑顔を向ける。そんな幼い少女の視線に気付いた頭目が下を見ると、メルエは肩から掛けているポシェットへと手を入れていた。

 

「…………ん…………」

 

「なんだい?」

 

笑みと共に差し出された小さな手から受け取った物は、青く輝く石の小さな欠片。雲の隙間から僅かに差し込む陽光に輝く石は、頭目の手を青く染め上げている。掌が見える程に透き通っているようで、何か吸い込まれるような神秘的な曇りも見せるその石に魅入られた頭目は、暫しの間、その石を凝視してしまった。何かを護るように輝き、何かを決意するように燃える石。その輝きは、『人』である己が矮小な存在であるかのように錯覚してしまう程に神秘的な物であった。

 

「…………ありが……とう…………」

 

手に置かれた石に魅入られていた頭目は、自分の目の前で可愛らしく頭を下げるメルエの姿に驚きを表す。この船が無事なのは、自分達だけの尽力だと言うつもりはない。だが、船の素人がいる中で、ここまで無事故で船を航海させる事が出来ているという自負もあった。礼を求めるつもりは全くないが、それを言われても当然という想いがあったのも事実。しかし、いざ目の前で幼い少女にそれを言われてしまうと、誇らしいというよりも戸惑いの方が勝っていた。

 

「いやいや、メルエちゃんが礼を言う必要はねぇ。こちらこそ、こんな綺麗な石をありがとう」

 

「…………メルエも……護る…………」

 

自分の顔の前で大袈裟に手を振って、メルエの礼を固辞する頭目は、次に飛び出したメルエの言葉を聞いて更に驚く事となる。メルエの言葉を正当に解釈すると、メルエは頭目を始めとする船員達に護られたと考えている事が解る。その礼として、感謝の言葉と共に石を渡し、自分の想いを伝えているのだ。そんな幼い誓いは、荒くれ共の多い海の男達の心に直接響いて行く。何時の間にか目を覚まし始めていた船員達の表情は、何か複雑な物。嬉しいような、恥ずかしいような、それでいて誇らしいような、哀しいような想い。

 

「ありがとう。俺達もメルエちゃん達を必ず目的地に送り届ける。俺達を信頼してくれてありがとう」

 

逆に感謝の言葉を述べる頭目の瞳には、雲の隙間から差し込む陽光によって光る物が見えていた。起き上がり、甲板に座っている船員達の顔も笑みに変化して行き、皆の笑顔を見たメルエも花咲くような笑みを浮かべる。太陽の光が乏しく、雲が空を覆う海の上で、この甲板だけは幼く小さな太陽の頬笑みで照らし出されていた。

 

メルエが送った『命の石』の欠片は、その後、この船の護り石として代々受け継がれて行き、この船がその役目を終えるその時まで、船と共に大海原を駆け抜けて行くのだが、それはまた別のお話である。

 

 

 

風は、太陽が真上を越えて西の空へ移動を始めた頃になっても弱まる事はなかった。雨は本降りになる事はなかったが、波は高く、帆を張る事が出来ない。暫しの間、舵を切る事だけで方向を変えていた船ではあるが、西に傾く太陽が放つ最後の輝きで雲が真っ赤に染まる頃になって、ようやく風と波が弱まり始めた。畳んでいた帆を広げ、大きな風を受けた船は、先程までとは異なる速度で海原を走り始める。雲は未だに多くはあるが、雨は降っていない為、メルエはいつもの木箱の上に立って、波打つ海原を眺めていた。そんな時、メルエが不意に小さな呟きを洩らす。隣にいたサラがその呟きを聞き逃さず、遙か海の先を見つめるメルエの横顔を見つめた。

 

「メルエ? 何か見えるのですか?」

 

「…………うた…………?」

 

メルエの視界の先には海しか見えない。しかも、陽も陰りはじめ、雲によって光も遮られている為に尚更である。だが、南東の方角を凝視して目を離さないメルエを不審に思ったサラは小さく尋ねるだが、それに対して返って来た答えは、サラの予想とは掛け離れた答えであった。視線を海から離さないまま、メルエは小さな呟きを洩らす。それは、サラがメルエと出会って一年も経たない頃に教えた一つの言葉。ノアニールの村で、外を駆け回る子供達を寂しそうに見つめていたメルエを見たサラが、自分が幼い頃に寂しさを紛らわせる為に行っていた行為。そして、それを教わったメルエは、海を眺めている時や、森を歩いている時に常に口ずさむようになっていた。

 

「歌ですか? 風の音しか……あれ?」

 

「…………うた…………?」

 

メルエの言葉を聞いたサラは耳に意識を集中する。当初は海を吹き抜けて行く風の音しか入って来なかったのだが、集中して行くにつれ、その風に乗って、聞いた事もない歌声のような物が聞こえて来た。不思議に思って表情を変えたサラの方へ視線を動かしたメルエは、確認するように小首を傾げる。自分に『歌』という存在を教えてくれたサラならば、その真偽が解るのではないかと考えたのだろう。

 

「どうした?」

 

「風に乗って、何か歌声のような物が聞こえて来るのです」

 

「…………メルエ……きいた…………」

 

二人のやり取りが何処か可笑しい事に気が付いたリーシャが近寄り、サラはメルエとの会話にあった事をそのまま告げる。メルエも『自分が見つけたのだ』とでも言うように、どこか誇らしげにリーシャへと告白していた。そんなメルエの頭に一度手を置いたリーシャは、甲板中央で頭目と会話をしているカミュへと視線を移す。リーシャの耳にはサラやメルエの言っているような歌声が聞こえる訳ではないが、二人が嘘を吐く訳がない以上、このパーティーの先導者である青年の意見を聞く必要があると考えたのだ。

 

「サラとメルエは、歌声が聞こえると言っている」

 

「……歌声……?」

 

「はい。はっきりとした物ではないですが、そのような物が南南東の方角から聞こえて来ます」

 

リーシャに呼ばれたカミュは、その内容を聞いて首を傾げる。この広い海原に響き渡るような歌声があるとしたら、それは直接脳に響いて来るような神秘的な物か、それとも直接神経を侵して来る悪意的な物のどちらかだろう。故に、カミュは顔を顰めた。確証がない以上、その場所へ近付く事の危険性を考えると、無暗に動く必要はないと考えていたのだ。

 

「おい! 波が無いのに流されているぞ!」

 

そんな四人の会話に割り込んで来るような叫びが、突如甲板に響き渡った。振り返った先では、舵を握る船員が慌てふためいている。風を受けている筈の帆はしっかりと南へ向かって広がっているのだが、横波が無いにも拘らず、船は東の方角へとまるで引き摺り込まれるように流され始めていた。船体に揺れはなく、船自体が自我を持っているかのように南南東の方角へと動き始め、北からの風を帆に受けている事もあり、その速度は加速して行く。

 

「何かに呼ばれているのでしょうか?」

 

「性質の悪い物でなければ良いのだがな」

 

先程の歌声と船の異変にサラは何かを感じていた。だが、生来の気質という部分なのか、それはとても善意的な物。それに対して、カミュが持った物は悪寒に近い物だったのかもしれない。船の進路先である南南東へ視線を送りながらも、その言葉はとても厳しく、サラやリーシャの気持ちをも引き締めて行く。唯一人、聞こえて来る音に耳を澄ませているメルエだけは、何処か期待を込めた瞳を大海原へと向けていた。

 

 

 

船は真っ直ぐ南南東へと進み、一晩が明け始める頃には、誰の耳にも歌声とは言えない奇妙な音を聞き取れるようになる。それは、歌声とは程遠い、奇怪な音。まるで悲鳴のようにも聞こえる。遠く離れた場所では魅力的に聞こえた音が、近づく程に不快な音へと変化した事にメルエは眉を顰めていた。相変わらず船の舵は利かず、真っ直ぐ音源へと向かっている。

 

「あれは、陸か?」

 

「何かいますよ……えっ!? 人魚!?」

 

前方に見え始めた陸地のような黒々とした場所に、人影のような物が見えた事に気が付いたサラは驚きの声を上げた。この世界では伝説の一つとされている『人魚』という存在。魔物が蔓延る海の中にいる癒しのような存在であり、その姿は美しい女性の物だと云われていた。上半身は美しい女性の姿で下半身は魚の尾びれがあり、鱗に覆われた姿。陸地や岩場で身体を休めながら、美しい歌声で謳うと伝えられていたその存在をサラは書物で読んでいたのだ。

 

「あれは陸地ではない! おい、あれは浅瀬だ! 錨を下せ! 座礁するぞ!」

 

「野郎ども! 帆を畳め! 錨だ、錨を下せ!」

 

人影の見える陸地を眺めていたリーシャとサラの目を覚ますような声が後方から聞こえた。リーシャ達の後ろから前方を見ていたカミュが、その陸地と思われる黒い部分が何なのかを把握し、大声で頭目へと指示を出す。それを聞いた頭目の行動は早かった。急ぎ帆を畳み、畳み終えると同時に錨を海へと落とす。海底の岩に引っ掛かった錨は、船の速度を急速に下げ、そのまま急停止させた。人影がはっきりと見える程に近付いていなかった事も幸いし、船は浅瀬に乗り上げる前に停止し、難を逃れる事になる。

 

「あれは、貝なのか?」

 

目の前に見える物は、浅瀬の岩場にびっしりと張り付いた貝の群れ。黒々としたその貝は、遠目からはまるで大地のように見えていたのだ。そして、サラが人魚と考えていた者の姿も浮き彫りになる。それは、美しい女性とは程遠い醜い姿。下半身は伝説の人魚と同じ鱗を持った尾びれが付いてはいるが、上半身は化け物に近い。人魚という美しい物ではなく、半魚人と表現した方が良いだろう。一度遭遇した事のある魔物は、彼等を誘うように奇怪な音を発しながら船を誘導していたのだ。

 

「船を旋回できるか?」

 

「いや、風向きからして急旋回は無理だ」

 

状況を変化させようとしたカミュではあるが、頭目の言葉に覚悟を決めた。背中の鞘から<草薙剣>を抜き放ち、前方の岩場から船に移り始めている貝達へ視線を向ける。黒々とした貝を背負ったそれは、明らかに魔物。以前に遭遇した事のある<スライムつむり>に酷似してはいるが、その体躯の色が異なる事から別種である事が解る。リーシャも<バトルアックス>を手に取り、前方に構えを向けた。

 

<マリンスライム>

その名の通り、海に生息するスライム種である。<スライムつむり>のように貝を背負って身を守っているが、上位種とも言っても過言ではなく、その強固さは<スライムつむり>の比ではない。また、自己防衛本能が強く、強固である貝を更に硬くする事もあり、通常の武器では破壊できない事もあると云う。岩場などに張り付き、船底から甲板に浸入して『人』を襲う事がある魔物である。

 

「ピィ―――――」

 

甲板に上がって来た<マリンスライム>が奇声を発した後、甲板にいる全ての<マリンスライム>の身体が輝き出す。その輝きが<マリンスライム>が背負う貝を包み込むように護り、その守備力を大幅に上げて行った。既に振り抜かれていたリーシャの<バトルアックス>は、一体の<マリンスライム>の貝に弾かれ、身体ごと後方へと下がる。渾身の一撃ではないが、<スライムつむり>を一撃で真っ二つに出来るリーシャの攻撃を弾くとなれば、それ相応の強度を誇るのだろう。だが、そんな魔物の思惑を許し続ける程、このパーティーは甘くはない。

 

「ルカナン」

 

後方に下がっていたサラの詠唱と同時に、再び<マリンスライム>達が背負う貝が輝き出した。この旅で何度もこの『賢者』が行使して来た呪文。相手の装備品を脆くさせる事の出来る『教典』に記載された呪文である。おそらく<スクルト>だと思われる呪文によって大幅に強度を上げていた<マリンスライム>の貝は、再びその強度を下げ、元の強度へと戻って行った。

 

「カミュ!」

 

「わかっている」

 

魔物の身に何が起きたかを瞬時に判断したリーシャが声を発した時には、既にその横をカミュが駆け抜けていた。距離を詰めたカミュは<草薙剣>を振り抜き、背負う貝ごと魔物の身体を斬り捨てる。戻す剣で、横に居た<マリンスライム>をも斬り、瞬時に二体の魔物を液体へと還して行った。甲板に上がって来ていた<マリンスライム>の数は多くはなく、次々とカミュとリーシャの武器の錆へと変わって行く。その状況に驚いた数体の魔物は、海の中へと帰って行く物まで出て来ていた。

 

「あの岩に張り付いている数が船に上がって来ては対処が出来ません。メルエ、あの岩場に向けて<ベギラゴン>を放てますか?」

 

「…………メルエ………できる…………」

 

甲板に上がって来ていた魔物を駆逐した事に息を吐き出したカミュやリーシャとは異なり、このパーティーの頭脳は一つ先の危険性を考慮に入れていたのだ。浅瀬の岩場に張り付いている貝の数に脅威を感じたサラは、未だに岩場の上からこちらの様子を窺っている<マーマンダイン>に注意を向けながらも、その貝を一掃する方法を考えていた。今のメルエであれば、船に被害を出す事無く灼熱系呪文を行使出来るだろうとサラは考えている。それに加えて、<グリンラッド>の永久凍土を溶かす程の熱量を誇る<ベギラゴン>であれば、岩場に居る魔物全てを一掃出来ると考えたのだ。そして、そのサラの考えは、自信を持って頷きを返したメルエの表情で確信に変わった。

 

「皆さん、後方へ下がって下さい。メルエ、船首へ移動しますよ」

 

「おい、二人だけでは危険だ。私も行くぞ」

 

船員達を後方へ下がらせたサラは、<鉄の槍>を構えながら船首へと移動しようとする。だが、『賢者』となり、並の戦士よりも力量を上げているサラとはいえ、装備している武器は一般兵士と変わらぬ<鉄の槍>。防御力に優れる<マリンスライム>の貝を突き破る事など不可能に近い。故に、リーシャはサラを追って船首へと駆け出した。カミュは船底から昇って来ようとする少数の<マリンスライム>を駆逐する役目を引き受け、船員達を庇いながらも剣を振っている。彼は、もはや『勇者』として担がれるだけの存在ではない。仲間を認め、仲間を信じる事で旅を続けて来た真の『勇者』としての変化を始めているのかもしれない。

 

「サラは、メルエを護れ! あの半魚人が動き出したら注意しろ!」

 

「はい。メルエ、良いですね? もし、船に被害が出そうになっても、私が氷結呪文を唱えます」

 

「…………むぅ………メルエ……できる…………」

 

先頭に立って進むリーシャは、何体かの<マリンスライム>を斧で弾き飛ばし、斬り捨てて行く。リーシャに護られるように進むサラは、槍を構えながらもメルエに指示を繰り返すのだが、その言葉は稀代の『魔法使い』の自尊心を大いに傷つける物であった。まるでメルエが失敗する事が前提のように話すサラへ鋭い瞳を向けたメルエは、頬を膨らませ、相棒である<雷の杖>を高々と掲げる。そんなメルエの姿に苦笑を浮かべたサラは、小さく謝罪をしながらも、以前見た<ベギラゴン>の威力を思い出し、密かに氷結系呪文の準備を始めていた。

 

「サラ! ここからなら可能か!?」

 

「はい! メルエ、行きますよ!」

 

近付く程に脳へと響く奇妙な音は大きくなり、リーシャとサラも叫び合うように会話を繰り返す。そして、船首に居た<マリンスライム>を海へと還したリーシャが発した言葉を合図に、サラとメルエが前面に躍り出た。サラの指示にしっかりと頷きを返したメルエの杖が前方に見える岩場に向けられる。自分の内にある魔法力へと意識を沈め、必要な魔法力を自ら引き出すように放出し始める。メルエを包み込むように漏れ出した魔法力は、同じく魔法に重きを置くサラでなくとも視認できる程に凄まじい。だが、他者を護る事を目的とした魔法力は、とても暖かく、優しい物にも感じた。それが、この幼い『魔法使い』の成長を示しているのだろう。

 

「メルエ!……あっ!?」

 

「キエェェェェ」

 

魔法力の準備を完了させたメルエに指示を出そうとしたサラは、前方にある岩場の変化に気が付く。岩場の頂点に居た<マーマンダイン>が奇声を上げたのだ。その奇声と同時に岩場に張り付いていた貝達が一斉に船に向かって跳びかかって来る。メルエの膨大な魔法力に反応したのか、それとも単純に身の危険を感じたのかは解らない。だが、メルエが呪文を行使する前に魔物達は行動を起こそうとしていた。だが、それは全てにおいて遅過ぎる。人類最高の『魔法使い』を前にした只の悪足掻きに過ぎなかったのだ。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

跳びかかって来る貝達目掛けて振われた<雷の杖>の先に魔法陣が現れ、そして膨大な魔法力が神秘へと変換される。全てを飲み込む程の火炎が、まるでオブジェの嘴から吐き出されるように吹き出し、大海原を火の海へと変えて行った。跳び出した貝は全て炎に飲み込まれ、影すらも残らぬ程に燃え尽き、岩場に張り付いていた残った貝もまた、炎に巻かれて行く。海水を浴びても消えぬ火炎は、岩場の生命全てを飲み込み、その狂暴な牙を司令塔である<マーマンダイン>へと伸ばした。海へと逃げようとする<マーマンダイン>の行く手を塞ぐように回り込んだ火炎は、魔物を追い詰めるように触手を伸ばし、やがてその身体をも喰らって行く。

 

「何度見ても……恐れの感情しか湧かないな」

 

「この火炎を魔物が行使する時、私達は生きていられるのか?」

 

岩場の全てが燃え尽き、その脅威が消えて行く頃に、ようやくカミュが口を開いた。リーシャも自分の身体が細かく震えている事に気付き、その胸の内にある不安を吐き出す。確かに、メルエが行使出来る呪文を魔物が行使出来ないとは限らない。いや、むしろ本来は魔物が持つ力ではないかとさえ考えてしまう。メルエが稀代の『魔法使い』である事は、カミュもリーシャも理解している。そして、この呪文が『悟りの書』に記載されており、サラもそれを見ている以上、何時しかサラも行使出来るようになるのだろう。だが、その力は異常なまでに強力である。

 

そして、それはカミュ達だけではない。歴戦の者達であるカミュやリーシャでさえ恐れを抱くのだ。カミュ達のような異質な存在と旅をしているとはいえ、通常の『人』である船員達は、尚の事であろう。カミュ達の後方に控える船員達の中には、腰が抜けてしまったように座り込んでいる者までいた。それ程に衝撃的な光景であったのだ。歳が二桁になるか否かの少女が、全てを飲み込む程の炎を生み出す光景は、生物としての潜在的な恐怖を浮き彫りにさせる。

 

「…………ん…………」

 

しかし、そんな周囲の視線に気付く事が出来る程、メルエは経験を積んではいない。好意的に見てくれていた者の視線が異なる物へ変化したという経験をした事がないのだ。彼女の周りには、全て敵意に満ちた視線しかなかった。まるで存在する事を否定するような冷たい眼差し。それは、彼女の心を凍らせ、失わせて行く。だが、そんな少女の全てを照らし出してくれる優しい光を受け、愛情を受け、喜びを知り、心を取り戻した彼女にとって、笑顔をくれる者は、永遠に笑顔をくれる者となって行った。『護ってくれる者を自分も護る』という彼女の誓いは、そんな想いが根底にあったのだ。

 

「メルエ、流石です。船には傷一つ付いていません。この船に居る全ての人は、メルエが護ってくれたのですよ。頭目さんとの約束は守れましたね」

 

そして、そんな幼い少女の誓いは、少女を導く一人の『賢者』によって護られる。恐怖を感じる程の力は、決して『暴力』ではない事を声高々に宣言したのだ。志のない力でない。メルエが力を振るう時、それは彼女の誓いを遂行する時だけ。彼女が大切に思う者達を護る為だけに振われる力は、襲いかかる『暴力』に対抗する為の力。『人』はそれを『英雄』と称した。

 

「ありがとう、メルエちゃん。メルエちゃんが俺達を信頼してくれているように、俺達もメルエちゃん達を信じているよ」

 

「…………ん…………」

 

サラの思惑は、頭目の一言によって完成する。強大な力に対する恐れが無いとは言わない。メルエの頭を撫でようとする頭目の手は、小刻みに震えている事からもそれが解った。だが、自分の身体を蝕む『恐怖』は、カミュ達に向けて持っている『信頼』の強さに比べると、小さな事であったのだ。ポルトガ港を出港して一年以上の月日が流れている。たかが一年と他人は言うかもしれない。だが、この一年は、彼等のような海の男達でさえ、今までの人生にも勝るとも劣らない程に濃密な時間であった。

 

「やはり、『魔王バラモス』を討伐出来るのは、アンタ達しかいない。最後の最後まで、俺達は付き合うぞ」

 

カミュ達一行の力の一部を船員達よりも先に見た事のある七人の決意が揺らぐ事はない。元カンダタ一味であった彼等は、今になって、何故カンダタが自分達を逃がす時にあのような事を口にしたのかを理解する。カンダタは『俺達のような盗賊が生きていける時代は終わる』と言った。それは、単に盗賊が討伐される事だと考えていたのだが、違っていたのだ。カミュ達の成長を見たカンダタは、この世の根本的な変化の未来を見ていたのだろう。

 

「ふふふ。カミュ、私達が震えている場合ではないようだ」

 

「……そうだな……」

 

船員達の表情や声は、無理やり繕っている物ではない。『恐怖』という感情を抑え込んでいるのかもしれないが、それは、この場を取り繕うだけの物でない事ぐらい、リーシャやカミュにも理解出来た。彼等はメルエを、そしてカミュ達三人を心から信じてくれている。それを理解したリーシャは微笑み、カミュもまた小さな笑みを浮かべた。

 

「カミュ様、もしかするとここが……」

 

「ああ、そうだろうな」

 

船員達からのお褒めの言葉を嬉しそうに受けているメルエを優しく見つめていたカミュの傍に近付いて来たサラは、前方に見える岩場を眺めて口を開く。表情を戻したカミュは、サラと同様に岩場へ視線を移し、その考えに同意を示した。リーシャは何の事を言っているのかが解らず首を傾げるが、カミュは船室へと一人戻って行く。

 

「船を少し後方へ動かせますか? あの岩場から少し離れた場所で停泊していて欲しいのですが……」

 

「あの浅瀬に降りるのか? 見た所岩場しかないようだが……」

 

カミュが船室へ消えた事を確認したサラは、船を動かすように頭目へ言葉を投げかける。頭目や船員達からすれば、この小さな岩場に何があるとも思えない。船が座礁しないように、すぐに離れて欲しいと言うのならば解るが、この近くに停泊して欲しいという事が不可解なのだ。上陸できるような陸地がある訳ではない。カミュ達の考えが解らない頭目は、釈然としない想いを抱く事となる。

 

「私達は小舟で浅瀬に近付きます。私やカミュ様の考えが正しければ、このままでは船が陸地に乗り上げてしまう可能性が出て来ます。錨が下せる限界付近で待機して頂く方が安全だと思います」

 

「陸地?……まぁ、嬢ちゃんがそう言うのなら……」

 

釈然としないままであるが、頭目はサラの言葉に頷きを返した。カミュが戻って来る前に錨を上げ、帆を張らずに注意深く浅瀬から離れて行く。錨が海底に掛る限界の場所でもう一度錨を下ろし、小舟を海に浮かべた。船室から戻って来たカミュは革袋を担いでおり、カミュに気付いたメルエを裾に付けながら、小舟へと乗り込んで行く。サラの引き続きリーシャも小舟に乗りこみ、四人は岩場の見える浅瀬へと近付いて行った。

 

「カミュ、ここで何をするつもりだ?」

 

「リーシャさん、<スーの村>で話す馬を憶えていますか?」

 

「…………エド…………」

 

浅瀬に近付き、漕ぐのを中断したカミュは、後方に置いていた革袋を手に取った。何をするのか疑問に思っていたリーシャではあるが、当初の目的地がこの浅瀬であった事を思い出し、すぐに納得する。カミュが再三目的地を告げていたにも拘らず、いざその場所に着けば、目的を忘れてしまう事自体リーシャらしいと言えばリーシャらしいのだが、納得顔をしているリーシャにカミュは軽く溜息を吐き出した。

 

「カミュ様、岩場近くに<渇きの壺>を入れた方が良いかもしれませんね。この小舟であれば、陸に乗り上げたとしても、海まで運ぶ事は可能ですから」

 

「わかった」

 

カミュが袋から取り出した物は、<エジンベア>という大国で入手した<スーの村>の至宝。『海の水を干上がらせる』とまで云われる神秘の宝物である。それを取り出し、海面に入れようとしたカミュであったが、サラの忠告を受け、再び船を漕ぎ始めた。先程までびっしりと貝が張り付いていた岩場は、焦げ付いた色を残しながらもその場に存在している。岩場の南側に回り込んだカミュは、そのまま岩場近くの海水に<渇きの壺>を沈めて行った。

 

「ふぇっ!?」

 

「メ、メルエ、しっかり掴まれ!」

 

カミュの手から<渇きの壺>が離れ、その姿が海の中へと消えた瞬間、地響きのような音と共に海面は大きく波打ち始める。慌てて小舟の淵にサラはしがみ付き、リーシャは傍にいたメルエを抱き抱えた。海水が大きく引き始め、岩場の下の大地が顔を出し始める。草も木も生えておらず、海藻が波打っていた大地が見えた時、カミュ達の乗っていた小舟は海に浮かんではいなかった。カミュ達の周りを満たしていた海水は何処かに吸い込まれてしまったかのように消え失せ、代わりに土色をした地面の上に船は鎮座していたのだ。

 

「こ、これは……」

 

カミュ達四人は、この旅の中で数多くの神秘を見て来た。だが、何度見ても神秘という物は、『人』の頭では理解が追い付く事はない。目の前で起こった奇跡に誰一人声を出す者はいなかった。まるで浮かび上がって来たかのように表れた大地は、いつの間にか顔を出した太陽の恵みを受けて輝いている。そして、その小さな島と言っても過言ではない大地の中央にぽっかりと空いた空洞から、夥しい海水が溢れ出していた。

 

「カミュ、ここに<最後のカギ>があると言うのか?」

 

「あるとすれば、あの空洞しかないだろうな」

 

溢れてくれる海水の勢いが弱まって行く中、空洞の入口を見つめながら呟いたリーシャの疑問は、即座に肯定される。確かにカミュの言う通り、この小さな島には、空洞以外に何も無い。海水に浸かっていた大地に木々が生えている訳はなく、島の端など動かなくとも見渡せる。しかし、<渇きの壺>という道具を使う場所がこの浅瀬で正解であったとすれば、<最後のカギ>という物がここにあると言う事になるのだ。細い情報の糸を手繰って来た結果、辿り着いた場所はこの浅瀬なのである。

 

「海水が出終わったら、行ってみましょう」

 

「全ての海水が吐き出されるとは思えないな。カミュ、小舟を持って行くか?」

 

「いや、大丈夫だろう」

 

噴き出す海水の量が減り、今や流れ出ているような物に変わっている。それを見たサラが真っ先に小舟から降り、大地へと足を下ろした。海水に浸かっていた大地は多分に水分を含んでいたが、柔らかいというだけで踏み締める事が出来ない訳ではない。サラに続いてカミュも小舟を下り、メルエを抱き抱えて降りたリーシャは、小舟を木などに結ぶ為の縄を持ちながら船ごと移動する事を提案するが、それはカミュによって却下された。

 

「メルエ、離れては駄目ですよ」

 

「…………ん…………」

 

大地に下されたメルエは、海藻の隙間から出て来た小さな蟹を見つけ、その後を追って行こうとするが、それはサラによって止められる。眉を下げて頷くメルエの手を引いて、サラは空洞の方へと歩き始めた。カミュは小舟の近くに落ちていた<渇きの壺>を拾い上げ、小舟の中へ戻した後に空洞へ歩く一行の先頭へと立って歩き始める。空には太陽が顔を出し、今までの鬱憤を晴らすかのような眩い光を大地へと降り注いでいた。

 

 

 

「メルエ、滑るぞ」

 

「気を付けて下さいね」

 

「…………ん…………」

 

空洞の中へ入ると、緩やかな下り坂になっており、岩で出来た床は海水と藻のような物で滑りやすい物となっていた。手を握りながら進むメルエも、注意深く足を進め、一行と共に奥へと進んで行く。今まで海水が満ちていた為に、奥へ進めば進む程潮の匂いが強くなっている。床には何匹かの魚が住処を奪われ、その身体を跳ねさせていた。その様子を見たメルエの眉が哀しそうに下がり、救いを求めるようにサラを見上げるのだが、魚を救う事が出来ない事を理解しているサラは、静かに首を横に振るのである。

 

「カミュ、ここは何だ?」

 

魚や海藻達の住処であった通路を暫し歩くと、その先には広い空間が広がっていた。端が見えない程の広さではないが、王宮の謁見の間と同程度に広い空間は、未だに海水が満ちており、カミュやリーシャの腰よりも高い位置で波打っている。吐き出し切れていない海水が満ちたその場所は、不思議な雰囲気を漂わせており、それは神聖な物に似た厳粛な物であった。

 

「魔物等の気配はありませんね。あの先に階段のような物が見えますが……」

 

「カミュ、メルエは私が担ごう。あの場所へ行ってみるのだろう?」

 

「ああ」

 

サラの言葉通り、この空洞には魔物の気配など微塵もない。もしかすると、海水に浸かっている時も、この空洞は何かに護られていたのかもしれない。だからこそ、この空洞に近づけない魔物達が、空洞のある大地に残る岩場に集っていたのだろう。海水で満ちた空間の先に、上へと向かう階段のような上り坂が見えていた。手を握っていたメルエを担ぎ上げたリーシャは、そのまま肩車のようにメルエを担ぎ、カミュへ先を促す。頷きを返したカミュは、そのまま海水の中へと入って行った。

 

「ひゃあ!」

 

「サラ、歩けないのならば、泳いでも良いんだぞ」

 

カミュに続いて入って行ったサラの背丈は、リーシャやカミュよりも低い。自分の胸近くまである海水が、先頭のカミュが歩く度に波打つ事で、顔面に海水を被ってしまうのだ。冷たい海水が顔にかかる事で悲鳴を上げたサラをからかうように声を発するリーシャを軽く睨んだサラは、その言葉を無視して先へと足を踏み出す。踏み出した足に、海水の中を泳ぐ魚達が触れ、再び声を上げるサラを見たメルエもまた、笑みを溢していた。

 

「ほら、見えるか? メルエの好きな魚が泳いでいるぞ?」

 

「…………おさ……かな…………」

 

魔物の気配が一切無い事が、リーシャやサラの心に余裕を持たせる。カミュが先頭を歩いている以上、何か異変があればすぐに対応できるという絶対的な安心感も原因の一つなのかもしれない。少し屈んだリーシャの頭を両手で掴むメルエは、透き通った海水の中で元気に泳ぎ回る魚達を見て、笑みを浮かべていた。サラとは異なり、腰の上程までの海水しか感じていないリーシャには、身体にも余裕があるのだ。顔面に押し寄せて来る海水を、胸の所で防ぐ為の防波堤を持たないサラは、前へ進むだけで精一杯なのであった。

 

空洞の入口から繋がる通路と直線上に見えていた上り坂のような階段へは、一人を除いて苦労する事無く辿り着く。水の抵抗を受けながらも階段へ上がったカミュは、サラの腕を取って階段へと上げ、最後にリーシャの腕を取る為に手を伸ばす。驚いたような笑みを浮かべながら見たリーシャは、海水が上がっていない階段部分へメルエを下ろした後、しっかりとその手を握り返した。

 

「この先に<最後のカギ>があるのでしょうか?」

 

「何にせよ、行く以外に選択肢はない筈だ」

 

不思議な空間を改めて振り返ったサラが口にした言葉は、カミュによって即座に修正される。何があるのかは解らないが、確かに行く以外に選択肢はない。彼等がえて来た情報を紡ぎ合わせると、この場所に<最後のカギ>という神秘が眠っているとしか考える事は出来ない。そして、それが確信出来る程の情報を積み上げて来たという自信もある。彼等の旅は、そのような何本もの細い糸を繋げながら手繰って来た結果なのだ。

 

「行くぞ」

 

革袋から取り出した<たいまつ>に火を点けたカミュの声にリーシャとサラが頷きを返し、四人は階段を上って行く。太陽の光が届かない空洞の中で、<たいまつ>に灯された小さな光が徐々に上へと移動して行った。階段は長い物ではなく、すぐに開けた場所へと出てしまう。拍子抜けする程に身近な階段の先へ<たいまつ>を向けたカミュの後ろから、驚きの声が上がった。

 

「……玉座……ですか?」

 

「いや、それ程高貴なものではない。だが、かなり高価な物だろうな」

 

カミュが灯りを向けた場所には、一つの椅子が置かれていたのだ。いや、実際には置かれていたのではなく、岩のような床に施工されていると言った方が正しいのかもしれない。床と一体になっている椅子は、サラが勘違いしてしまったように、国王が座す為に作られた玉座と呼ばれる物に良く似ていた。だが、宮廷騎士であったリーシャが言うように、一国の国王が座る物としては、少し物足りない。長い間海水に浸かっていた事によって、装飾や色が剝がれてしまった事を差し引いても、そこまでの高貴性を感じなかった。

 

「お前達は……何者だ?」

 

「ひゃあ!」

 

その時であった。突如として椅子に座るような姿をした人間が浮かび上がり、声を発したのだ。椅子の背が透けて見える程に淡い身体を持ったその人物は、この世の者ではない事が推測できる。人物が突然現れた事と、その者の生命が既にない事を理解したサラは、大きな叫び声を上げて飛び上がり、即座にリーシャの後ろへと隠れてしまう。リーシャの隣にいたメルエは、サラの行動を面白がり、いつもの口癖を呟くのだった。

 

「私は……古を語り伝える者……イシス砂漠の南……ネクロゴンドの山奥にギアガの大穴ありき……全ての災いは、その大穴よりも(いづる)ものなり……」

 

「……ギアガ……」

 

カミュ達が素性を答える前に、椅子に腰かけるように映る人物は、一行を見回した後、再び口を開いた。自らを『古を語り伝える者』と称するその人物は、カミュ達には理解出来ない内容を語り出す。ネクロゴンドという単語はカミュもサラも憶えてはいる。『魔王バラモス』と呼ばれる諸悪の根源が城を構える場所として伝えられている場所。彼等はテドンの村でも、ルザミでもその名を聞いていた。

 

「この座の下を……調べてみるが……良い」

 

一行へ視線を送っていたにも拘らず、一行の存在を無視するかのように話を進めて行った人物は、最後にその言葉を残し、虚空へと消えて行った。話の内容をしっかり聞き取ったカミュ。内容の半分ほども理解出来ないリーシャ。真っ青な顔色をして上の空のサラ。話自体に興味も示さず、その存在にしか興味を示していないメルエ。四者四様の表情と感情を浮かべ、不思議な時間は過ぎ去って行った。

 

「はっ!? な、なぜ、このような場所に……ここは海に沈んでいた筈なのに」

 

「…………あわ……あわ…………」

 

暫しの間、誰もいなくなった椅子に視線を向けていた一行であったが、我に返ったサラが震えた声を上げた事によって、メルエも起動を開始する。もはや、しつこさを感じる程に口にして来た言葉を口にするメルエの表情は笑顔。幼いメルエにとって、どれ程叱られても、それは面白い物として認識されており、強く叱られなくなった今となっては、口にする事を躊躇う必要もなくなっていたのだ。しかし、そんな幼い油断は、帽子を取られた頭の上に落ちて来た拳骨によって粉砕する。

 

「メルエ、それは口にしては駄目な事だと教えた筈だぞ!」

 

「…………うぅぅ…………」

 

何時もなら苦笑を浮かべながらも注意するリーシャであったが、今回はサラの動揺を鎮める為に敢えてメルエを叱りつけた。拳骨を頭に受けて叱られたメルエは、涙目で唸り声を上げる。だが、上目遣いで見上げたリーシャの瞳が厳しい事を確認したメルエは、逃げるようにカミュのマントの中へと隠れてしまった。そんなやり取りがサラの心を正常な物へと戻して行く。動揺を抑え込むように深呼吸をしたサラの表情は、青褪めたままではあるものの、『賢者』の物へと戻っていた。

 

「もしかすると、大昔はここまで大陸が繋がっていたのかもしれない。そして、この場所はこの近辺の領主が暮らしていた可能性もある」

 

「では、今の方は領主であった方だと……?」

 

メルエをマントに匿ったカミュは、一つの仮説を口にする。カミュ達が生まれるよりも遙か以前は、この場所が大陸の一部であったという物だった。それが長い年月を経過する中で海面が上がって行き、海の底へと沈んだと言うのだ。それはかなり強引な仮説ではあったが、海の底へ沈んでいた大地に人工の物がある以上、即座に否定出来る物ではない。故に、サラはその仮説を前提に自分の考えを口にした。

 

「それはないだろう。もし、カミュの言うようにこの場所を領する者がいたとすれば、その者はここが海に沈む前に脱出しただろうからな」

 

「では……あの人は……」

 

「あれが誰であるのかは問題ではない筈。あの霊魂が語った内容の方が重要だ」

 

サラの疑問を否定したのはリーシャ。だが、そんな二人の疑問は、カミュにとって些細な事であった。重要なのは、先程伝えられた情報。多くの謎が散りばめられた内容の中で、今試す事の出来る物は一つ。カミュは、二人を振り返る事無く、目の前にある椅子の下部へと近付いて行く。探るような手つきで床と一体になった椅子を調べて行き、ある一点に目を止めたカミュは、マントの中に隠れたままの少女へと声を掛けた。

 

「…………ん…………」

 

カミュから声を掛けられたメルエは、肩から掛っているポシェットへ手を入れ、金色に輝く小さな鍵を取り出す。<魔法のカギ>と呼ばれるそれを受け取ったカミュは、椅子と床を繋ぐ台座にある小さな鍵穴に差し込んだ。小さく乾いた音が響き、台座に装飾されていた小さな引き出しが開かれる。その中へと手を入れたカミュは、とても小さな何かを取り出した。

 

「それは……」

 

「<最後のカギ>なのか?」

 

カミュが取り出した物は、鍵とはとても思えない姿をしていた。鍵穴に差し込む部分は奇妙な曲線を描いているが、その先は直線。<魔法のカギ>の形も奇妙な物ではあったが、この鍵と比べると、まだ鍵としての様相を持っていたと感じる程に異質な物。そして何よりも一行を驚かせた物が、その鍵の取っ手の部分に成されている装飾であった。

 

「…………これ…………」

 

それは、カミュのマントから出て来たメルエが突き出した杖にも施されている物。眼球を模ったようなオブジェであった。それがこの鍵の取っ手部分に存在していたのだ。<雷の杖>に施された装飾と同様の物がある。奇しくもその事実が、この鍵が<最後のカギ>と呼ばれる物である事を明確に示していた。『古の賢者』が過ごしていたと考えられる場所にあった杖と、『古の賢者』が封印した物と考えられる鍵に共通した装飾。それは、驚きを表わしていたサラの頭に一つの答えを導き出させた。

 

<最後のカギ>

古代より伝わる道具であり、どのような鍵も難なく開錠してしまうと云われている。その起源は不明で、この世が創造された時より存在するとも考えられており、神が創ったとも、精霊ルビスが創ったとも考えられる神秘であった。その姿はとても鍵とは思えない物であるが、この世界には存在しない特殊な金属で出来ており、差し込んだ鍵穴に合わせて変形をし、瞬く間に開錠してしまう神秘に相応しい物である。

 

「では……あの方が『古の賢者』様……」

 

「さあな。それを確認する方法がない以上、考えるだけ無駄だ」

 

先程まで確かに見えていた人物が、自分の探し求めていた者である可能性に気付いたサラは、改めて身体を震わせた。先程とは異なる震えはなかなか治まる事はなく、青白かった顔は気持ちの高揚によって赤みを帯びて来る。カミュの言葉は正論ではあるが、その言葉はサラには届かない。熱を持った瞳を再び椅子へと向けたサラは、胸の前で手を合わせ、深い祈りを始めた。

 

「出るぞ」

 

祈り続けるサラから視線を外したカミュは、振り返る事無く下の広間へと歩き始める。再びメルエを肩車の形式で担いだリーシャは、サラの肩に手を置き、先を促した。瞳を開けたサラは立ち上がり、一度椅子に向かって深々と頭を下げ、リーシャの前を歩き出す。カミュやリーシャは、先程の人物が『古の賢者』であるかどうかが解らないが、サラは小さな確信を持っていた。先代の『精霊ルビスと人間を繋ぐ者』が、自分達を精霊ルビスへと導いてくれているのだと。

 

 

 

行きと同じ道を辿ったカミュ達は、魔物の気配など皆無である空洞を抜け、外へと足を踏み出した。既に太陽が真上を越え、西の空へと移動を始めており、雲の晴れた空からは太陽の強い光が降り注いでいる。小舟へと戻ったカミュ達は、サラとメルエを小舟に乗せ、リーシャとカミュで岸近くへ運び出した。海水に船を浮かべ、カミュとリーシャも乗り込む際に、再び彼等の前に神秘が姿を現す。

 

「なんだ!?」

 

自分の座る場所を確保しようと、カミュが<渇きの壺>を持ち上げると同時に、壺の口から大量の海水が噴出し始めたのだ。まるで、吐き出す機会を待っていたかのように空高くに噴き上げた海水は、暖かな日光を受けていた大地に降り注ぐ。噴出する海水の力で大地から離れて行く小舟。噴出する海水によって姿を隠して行く大地。それは、『人』の思考では消化する事が出来ない程の摩訶不思議な現象であった。

 

見る見る内に、大地は海水に覆い隠され、海の底へと沈んで行く。カミュ達が乗る小舟が頭目達の待つ船の傍まで流された頃には、<渇きの壺>を投げ入れる前と同じような岩場しか見る事が出来なくなっていた。神秘としか表現できない光景に、誰しもが口を開く事が出来ない。<渇きの壺>を持っていたカミュでさえ、その壺の口から海水が噴出し終わっても尚、呆然と岩場を見詰める事しか出来なかった。

 

「…………なく……なった…………」

 

そんな中、最初に口を開いたのは、不思議な現象に目を輝かせていたメルエであった。彼女にとって、不可思議な現象は驚きや恐怖よりも、単純な興味しか湧かないのかもしれない。感動とも言って良い感情を顔全体で表すメルエが、岩場を見ながら笑みを浮かべる。そんなメルエの言葉に、ようやく他の三人が再起動を果たした。

 

「驚く事ばかりで、思考が追い付きません」

 

「私も同様だ。しかし、これで<最後のカギ>は手に入った。カミュ、まず何処へ向かうつもりだ?」

 

未だに驚愕を顔に張り付けていたサラは、岩場を眺めながら口を開く。リーシャはそんなサラに同意しながらも、強引に思考の方向を転換させた。<最後のカギ>を入手すると言う事が、優先順位として一番高かったのだ。それが果たされた今となっては、その後に入手した数多くの情報が仇となる。どれから手を付けるべきなのかがリーシャには判断出来なかった。故に、この旅の指針を決めて来た青年に問いかける。『自分達は何処へ向かえば良いのか?』と。

 

「……テドンへ向かう……」

 

そして、その答えは少しの思案の後、明確な言葉を持って告げられる。しかし、その目的地は、リーシャにとってもサラにとっても予想外の場所であった。<滅びし村>と称される村。魔物によって滅ぼされ、今尚その事に気付いていない者達が暮らす村。<最後のカギ>という情報を最初に聞いた場所でもある。だが、リーシャもサラも、何故その場所に再び向かう必要があるのかが理解出来ない。それでも、カミュがこう言う以上、そこに目的があり、それを変更するつもりがない事は理解出来た。一度頷きを返したリーシャは、顔を青くしているサラへ視線を送り、サラが小さく頷きを返したのを見て、もう一度カミュに向けて頷きを返した。

 

 

 

『古の賢者』が残した<最後のカギ>は、当代の『賢者』が属するパーティーの手に渡された。数十年ぶりに地上へと現れた神代の道具が、彼等を何処へ導き、何を成させるのか。それは、今はまだ誰も知らない。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

前回の活動報告で長くなるとは掻きましたが、ここまで長くなってしまうとは思いませんでした。
もし、長過ぎるとお感じになられたとしたら、大変申し訳ございません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

思わぬ形での一人旅を経験し、その技量と経験を大きく伸ばしている。リーシャでさえ、焦りを感じる程の速度で成長を続ける彼は、魔物の魔法すらも一刀両断する程の技量を手にし、更に成長を続けて行く。

 

【年齢】:18歳

彼の十六回目の誕生日から始まった旅は、既に二年半の月日を経過させている。少年から青年へと成長して行った時間は、彼の心に大きな変化を生み出していた。当初は一人旅を邪魔するだけの存在でしかなかった女性騎士と女性僧侶は、今では最も信頼できる仲間へと変わっている。彼の中でも、幼かった心が持っていた感情を見直す時が近付いているのかもしれない。

 

【装備】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガという彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):魔法の鎧

滅びし村<テドン>で購入した鎧。抗魔力に優れ、魔法による攻撃を軽減させる効果を持つ。特別な金属によって制作され、赤紫色のような色彩をしている鎧。テドンでの夜が明けても尚、その輝きは失われず、身を守る防具としての役割を担っている。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):魔法の盾

一人旅が始まった時に、ポルトガにて鉄の盾を新調していたが、スーの村にて販売していた魔法の盾を見たリーシャの忠告も受け、買い換える事にする。メルエの時と同様に、その者の身に合った形へと変化する為、同じように購入したリーシャの物とは若干大きさに違いがある。

 

武器):草薙剣(くさなぎのつるぎ)

 

真名は、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。遥か昔、ジパング創世の頃の初代国主が、民を護る為に神より賜った神剣と伝えられる剣。その切れ味は鋭く、天にかかる雲をも切り裂くという伝承があるが、現在には伝わってはいない。ジパング当代国主であるイヨから、別名と共に下賜される。

 

所持魔法): メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

戦士としての力量は、既に世界最高峰。どの国であっても「最強」の名を授けられる程の力を有している。だが、彼女はそれを誇りとしてはいない。アリアハン宮廷騎士としての誇りは胸の中に残ってはいるものの、彼女の誇りの対象が変化しているのだ。自身の力への誇りよりも、自身の周囲に居る者達を誇りに思う。彼女が妹のように可愛がる二人の女性を何よりも誇っていた。それは、彼女の変化なのだろう。

 

【年齢】:不明

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):魔法の鎧

滅びし村<テドン>で購入した鎧。抗魔力に優れ、魔法による攻撃を軽減させる効果を持つ。特別な金属によって制作され、赤紫色のような色彩をしている鎧。テドンでの夜が明けても尚、その輝きは失われず、身を守る防具としての役割を担っている。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):魔法の盾

ジパングでのヤマタノオロチ戦にて、その機能の大半を失っていた鉄の盾の代わりにスーの村で購入する。バトルアックスという魅力的な武器よりも優先させる程、彼女の装備していた鉄の盾は限界を迎えていたのだろう。

 

武器):バトルアックス

鉄の斧とは異なり、両刃の斧。ハルバードよりも戦闘用に改良されている物であり、戦斧という名に相応しい程の機能を備えている。重量感も鉄の斧よりも数段上であり、圧し斬るというような攻撃方法も可能な程の全長も有している。装飾も凝った物が成されており、スーの村の装飾技術も窺える逸品。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

『賢き者』としての道を歩む彼女は、その視野を大幅に広げている。自身の持つ古い常識に縛られる事無く、新たに入って来る情報を自分の中で消化し、世界の謎とも言える物にさえ理解を示す場面もあった。また、メルエの持つ能力の高さを危惧しながらも、その力の重要性を把握し、幼い少女を導いて行く。それは、カミュも認める程の物であった。

 

【年齢】:19歳

既にアリアハンを出てから二年半程の時間が経過しており、十代という時間も残り僅かとなっている。この世界での結婚適齢期へと入るサラではあったが、『賢き者』となった彼女に、恋愛という物をする事が許されるのかどうかは解らない。また、そのような感情を彼女が持つ事が出来るのかも、今はまだ本人にも解らない。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれている。その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

カミュとリーシャが着用する<魔法の鎧>と同様に、抗魔力に優れた法衣。テドンで暮らす職人が、テドン特産の『絹』という素材を特別な術式を込めて織った物。法衣の特徴である十字は、以前サラが着ていた法衣と違い、とても小さく刺繍されている。まるで、サラが着る為だけに存在するような法衣は、この村にもたった一つしかない物でもあった。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):魔法の盾

カミュやリーシャと同様、スーの村で買い揃えた盾。サラの身体に合ったサイズに変化した盾は、その左腕に納まっている。以前まで使用していた<うろこの盾>に関しては、ロマリア国王から下賜された宝物である為、店で売却はせず、大事に保管されている。『意味のない行為』とカミュに小言を言われるが、リーシャの後押しもあり、その後は船の船員達が使う事になる。

 

武器):鉄の槍

既に、サラの力量は並の戦士を超えている。アリアハンを出た当初のリーシャとならば凌いでしまう程の実力を有していた。だが、その手に持つ武器は、旅に出たばかりの頃、ロマリア城下町で購入した<鉄の槍>。彼女の力量からすれば、余りにも頼りない武器と言っても過言ではない。それは、カミュやリーシャも危惧しており、武器を改める事が急務でであった。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ(無理やり行使した節があり、再度の行使には疑問)

      

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

 

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

カミュとの合流によって、再び笑顔を取り戻した彼女は、『魔法使い』としての成長を加速して行く。『悟りの書』に記載れている魔法をも次々と習得して行き、その威力は、歴戦の者であるカミュやリーシャでさえも恐れを抱く程の物。だが、その根幹にある想いは『自分の好きな者を護りたい』という純粋な想い。それは、彼女の根幹であり、出発地点。その想いは、彼女が最も信頼する姉のような存在によって護られていた。また、カミュと逸れた経験が彼女の心に新たな傷を植え付けていた。一人になる事を極端に恐れるようになっていたのだ。

 

【年齢】:7,8歳

彼女の生い立ちの影響から、見た目以上に心は幼い。感情を受け入れてくれる者達の登場によって、ようやく感情を表に出す事が許され、その幼い感情を目一杯表に出している最中である。喜怒哀楽の他に嫉妬等の特別な感情をも表に出すメルエを、頭ごなしに叱り付ける者は誰もいない。我儘を許す訳ではなく、その感情を受け入れながらも正しい方へ導こうとする者達の中で、今日も彼女は力一杯怒り、心から微笑むのだ。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):アンの服

みかわしの服と同じ素材でできた服。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えていると推察できるが、それがどのような物なのかまでは書物に記されてはおらず、未だ不明であった。

   :毒針

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

     

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       マホカンタ

       ベギラゴン

 

 

 




これにて第十一章も終幕となります。
次話からは次章となりますが、次章は私の中でも一杯一杯になる可能性があります。
頑張って描いて行きますので、よろしくお願い致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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第十二章
閑話~【不思議な泉】~


 

 

 

 船に戻ったカミュ達は、何度も見る神秘に口を開けたまま驚きを表す船員達の姿を見る事となった。

 小舟で近付いたカミュ達が何かをしているという事は確認できたが、その後に起こった現象は、彼等の常識を覆す程の物。突如として現れた大地に降り立ち、空洞へと入って行ったカミュ達が戻って来た時、再び神秘を目の当たりにし、彼等は言葉を失くしてしまったのだ。

 

「テドンへ向かってくれ」

 

「はっ! テ、テドンだな!……いや、少し待ってくれ。この場所が、お嬢ちゃんの言うようにこの辺りだとするならば……少なくとも、テドンまでは二か月近くかかるぞ。食料をもう少し補給しておきたいな……」

 

 カミュの指示で我に返った頭目は、現状の位置から渡航期間を割り出し、現在の船の備蓄などを擦り合わせる。この場所からテドンへ向かうのであれば、南に下りムオルやジパングを通って行く事になるのだが、一度も町や村へ寄らずに行くとなれば、食料などが足りないと考えていた。

 カミュの表情を見ると、ゆっくりと移動するつもりはないように見える。故に、頭目はその提案を行ったのだ。

 

「おそらく、この浅瀬がこの辺りだと思いますので、少し東へ行けばスーの村があった大陸に出ますね。ちょうどアープの塔の北辺りでしょうか?」

 

「そうだな……悪いが、一度食糧調達を行っても良いか? 実は、先日の嵐で積み荷の大半を海に落としてしまっているんだ」

 

 地図を覗き込んだサラが船の航路を割り出すと、それに同意した頭目は、カミュに許可を申請する。先日、嵐に巻き込まれ、船員が一丸となって対処した際に、船の重みを減らす目的で積み荷を海に落としていたのだ。

 その事に気が付いていなかったのはカミュ達だけであり、船員達は皆、食料を節約しながら行動していた。

 カミュは一度溜息を吐き出し、頭目の目を見て口を開く。

 

「アンタ方は、共に旅をする者達だ。食料がないのなら、そう言ってくれ。アンタ達が空腹に耐える必要は何処にもない」

 

 カミュ達へ食料を回し、自分達は何処かによる際に調達しようとでも考えていたのだろうが、それに対し、カミュは怒った。

 その時口にした言葉にサラは驚き、リーシャは暖かな笑みを浮かべる。カミュは明確に船員達を『仲間』として認めていた。

 それが何故かとても嬉しく、リーシャは隣にいるメルエと共に笑みを強くする。そして、確定された進路は、彼等の進むべき道となった。

 

「帆を張れ! 東へ向かうぞ!」

 

 頭目の指示に動き出した船員達は、一斉に掛け声を上げ、各々の持ち場へと散って行く。船は輝き続ける陽光を浴び、帆一杯に風を受けて、大海原を西へと掛けて行った。

 再び動き出した船に喜んだメルエは、いつものように木箱の上に乗り、踊る風を頬に受けて微笑む。海鳥達の鳴き声に耳を澄ませて目を瞑り、輝く波飛沫を被っては笑みを溢していた。

 

「ふふふ。どんなに強力な魔法を使おうと、メルエちゃんはメルエちゃんだな」

 

「ああ。あの姿を見ると、死んだ娘を思い出すよ」

 

 メルエの姿を見た船員達の呟きを聞いたリーシャとサラは、お互いに微笑み合い、喜びを分かち合う。メルエを強力な『魔法使い』としてではなく、メルエ個人として見てくれているという事実に、リーシャとサラは安堵の想いを吐き出したのだ。

 彼女達の懸念はメルエの能力の高さ、その力の強さにあった。だが、二人の心の中で僅かに残っていた不安を、船員達は明るい声で吹き飛ばしてしまう。

 

「メルエの魔法に関しては、サラに任せたぞ。カミュもそう考えている」

 

「えっ!? は、はい! 頑張ります!」

 

 グリンラッドの横穴の中で、吹雪を見ながらカミュと語り合った事をリーシャはここで口にした。

 抱えた不安を払拭するような一言を放ったカミュの表情を、リーシャは今でも鮮明に憶えている。

 幼いながらも人類最高の『魔法使い』となったメルエの隣で眠るサラへ視線を動かし、信頼を表すように呟かれた言葉。その時の胸に湧き上がる歓喜の感情は、今でもリーシャの胸を震わせるのだ。

 サラという『賢者』ではなく、サラという人物に向けられた信頼を、リーシャはどうしても伝えたかった。

 

「陽が暮れる頃には大陸も見えて来るだろう。食料の調達などは夜が明けてからになるだろうから、アンタ方も今日はゆっくり休むと良い」

 

「俺達よりも皆の方が休息は必要な筈だ」

 

 空を眺めた頭目は、カミュ達へ休息を促すが、カミュはそれを柔らかく断った。

 確かに、船員達の全員が嵐の時から碌な休息を取ってはいない。あの嵐を乗り越えた後、この浅瀬へと向かう中、交代制で休みを取っていたようではあるが、それでも睡眠時間は短い筈だ。

 それを知っているカミュは、船員達の休息の方を優先させるべきだと考えていた。

 

「そうだな……私達は陽が暮れる頃まで休ませて貰おう。大陸が近付いたら、錨を下せるような場所まで行った後、夜の見張りなどは私とカミュに任せて、皆は身体を横にした方が良いだろうな」

 

「ありがとうよ。今回は好意に甘えさせて貰うとするよ」

 

 カミュの言葉に同意を示したリーシャの提案を頭目は素直に受け入れる。明るい表情をしている船員達も、見え隠れする疲労の色を出し、どこか安堵の表情を見せていた。

 方向性が決定した船は、真っ直ぐ東へと進み、順調に波を割って行く。相変わらずメルエは笑顔で海を眺めており、それにサラが付き合う事にして、カミュとリーシャは船室へと入って行った。

 頭目の言葉通り、船は陽が沈み切る前に大陸の影を捕捉する。計画通り、錨を下ろした後、カミュとリーシャが夜の見張りを行い、船の全ての人員が眠りに就いた。

 鎮まる船の上で星空を見上げながら潮風を受けていたリーシャは、少し思考の海へと落ちて行く。

 それは、先程に目的地を告げたカミュの事。

 そして、その目的地の事であった。

 

「カミュ、一つ聞いても良いか?」

 

 そして、前方を見ていたカミュの背中に問いかける。

 振り返ったカミュの顔は、闇に隠れて見えない。表情が見えなくとも、その表情が出会った頃のような冷たい物ではない事をリーシャは知っていた。

 彼もまた、この旅で大きく成長をしている。いや、それはリーシャやサラから見た『成長』であって、本来であれば『変化』と言った方が良いのかもしれない。

 

「何故テドンへ向かうんだ? 私にはテドンへ向かう意味が解らないのだが……」

 

「アンタが解る事は、これまでに有ったのか?」

 

 純粋な疑問として口にしたリーシャの言葉は、カミュの純粋な疑問を持って返された。

 本当に不思議そうにリーシャを見つめるカミュの視線は、リーシャの怒りの熱を抑えてしまう。『馬鹿にされている』と感じずにはいられないが、カミュとしては『そんな部分も含めてリーシャ』という想いもある事が解ってしまうのだ。

 自分を侮っていると怒る事も出来るが、何故か自分を認めてくれているという喜びもある。

 自分でも消化しきれない思いが交差する中、リーシャは鋭い視線をカミュへと向ける事しか出来なかった。

 

「テドンには、気になる所がある。それだけが理由だ」

 

「……気になる事?」

 

 鋭い視線を受けていたカミュは、一つ溜息を吐き出し、そこへ向かう理由を呟いた。

 だが、それはとても簡潔である代わりに、疑問を解消してくれる物でもない。全く解らない答えを受けたリーシャは、首を捻る事しか出来ず、その先を語ろうとしないカミュを見て、問い質す事を諦めた。

 カミュの中で確定していない疑問がテドンに残っているのだろう。それが自分の中で推測が出来ない程に曖昧である為、簡単には口に出来ないのだ。

 

「まぁ、いい。お前がそう言う以上、あの場所に何かがあるのだろう」

 

 カミュの姿に無理やり納得したリーシャは、そこに何かがあるのだろうと考える。

 カミュは基本的に無意味な場所へ向かう事はない。その判別は、アリアハンを出た当初から比べれば、とても柔軟な物になってはいるが、それでも彼が必要性を感じない場所へ向かう事はないだろう。

 だとすれば、テドンに何かがある事はほぼ間違いはない。リーシャのような『戦士』は、その道が誤りでない限り、彼等と共に歩むだけなのだ。

 

「テドン次第ではあるが、その後はランシールへ向かう」

 

「あの神殿か?」

 

 テドンの内容を語る事をしなかったカミュではあるが、その後の目的地に関して問うリーシャの言葉には素直に頷きを返した。

 『古の賢者』と謳われる者が封じた神殿への扉は、彼等が手にした<最後のカギ>でなければ開錠する事は出来ない。それは、その場所に何かがある事を示している事と同意なのだ。

 彼等の歩む道筋は、<最後のカギ>と呼ばれる神代の道具によって、何通りにも分かれて行った。

 今までは、細い糸が繋がる一本の道を歩んで来た彼らであるが、これからはいくつもの情報を合わせ、最適な場所へと向かう必要がある。カミュの中では、<サマンオサ>という名の国を訪れるよりも、それらの方が優先順位は高いと事なのだろう。

 

「わかった。まずは明日の食糧調達だな」

 

 しっかりと頷きを返したリーシャは、再び視線を真っ黒な海へ向けた。

 風も穏やかであり、波も高くはない海の静かな音が心地良く耳へと響く。小さな波に揺れる船は、この船に乗っていた全船員とサラやメルエを揺り籠のように包み込み、優しく揺らし続けるのだった。

 

 

 

 翌朝、メルエが起床するのを待って、船員達と共に陸地へと上がって行ったカミュ達は、果物や木の実を取る船員達とは別に獣などを狩る。狩られた獣は、船員達の手によって燻され、燻製にされて保存された。

 ある程度の食料を取った船員達はそのまま船へと戻り、カミュ達は暫しその場所を探索する事にする。森の中へと入ったカミュ達は、生き物を見ては立ち止まるメルエを促し、奥へと進んで行った。

 

「カミュ、そろそろ一度休憩を取らないか?」

 

 陽が真上を過ぎる頃、後方から掛った言葉にカミュは頷きを返す。

 そこは、木々が生い茂る森を抜けた場所。目の前には大きな湖が広がり、湖畔を流れる風が心地良い涼しさを運んで来ていた。

 湖の周囲には草花が咲き誇り、甘い匂いを虫達へ向けて放ち、誘われた虫達は、甘い蜜という恩恵を受ける代わりに彼等の子孫を運んでいた。

 その景色に誰よりも魅了されたのはメルエ。

 穏やかな生命の営みは、彼女にとって魅力的に映り、目を輝かせて駆け回る。

 

「あっ!? メルエ、勝手に行っては駄目ですといつも言っているでしょう!」

 

 嬉しそうに駆け回るメルエに苦笑を浮かべながらも注意を忘れないサラは、その後を追いかけるように駆け出した。

 魔物の気配を感じない事を確認したカミュとリーシャも二人の後を追って歩き出す。メルエは、自分を追って来るサラを見て、湧き上がる楽しさを抑える事が出来ず、まるでサラから逃げるように草花の間を縫って駆けていた。

 

「もう! メルエ、待ちなさい!」

 

 サラとメルエの足の長さはかなりの差がある。それはそのまま駆ける速度に比例する筈なのだが、小さな身体を駆使して草花の間を縫って走るメルエをなかなか捕まえる事が出来ない。

 少し声を荒くしたサラの声を聞いても、振り返ったメルエの顔は満面の笑顔。

 しかし、そんなメルエの逃避行も、彼女が逃げる道を誤った事で終止符を打つのだった。

 

「カミュ、魔物の気配はないが……何かに見られているような気がしないか?」

 

 メルエが向かったのは、湖の中心へと伸びる大地。その湖は綺麗な円形をした物であったが、まるで中央へ向かう必要があるかのように、一本の道が作られていた。

 いや、正確に言えば道と言うよりも只の大地ではある。獣も通らないのか、草花は何に邪魔される事無く太陽に向けてその葉を伸ばし、足の踏み場もない程に咲いていた。

 メルエは、そんな花々を折らないように慎重に足を伸ばしていた為、後ろから来たサラに捕まってしまう。捕まってしまったにも拘わらず、笑みを崩さないメルエに溜息を吐き出したサラは、自分が立っている位置を確認する為に顔を上げた。

 

「綺麗ですね……」

 

「美しい湖だな。それよりも、サラを困らせては駄目だぞ」

 

 メルエを下ろしたサラは、目の前に広がる湖の幻想的な美しさに感動してしまう。

 陽光を受けて輝く湖は、穏やかな風を受けて波打ち、その輝きの色を何度も変化させていた。

 到着したリーシャもその美しさに同意した後、サラの傍に立つメルエの額を軽く叩く。目を瞑ったメルエだったが、衝撃が軽かった事で、再び笑みを浮かべた。

 四人は、湖の中心付近の大地に座り、休憩を始め、先程作ったばかりの燻製された肉を頬張りながら水を飲み、軽い談笑を繰り広げた。

 

「メルエ、何を見ているのですか?」

 

「…………これ…………」

 

 休憩に飽き始めたメルエは、座り込んでいた大地へ視線を送り、ある地点を『じっ』と見つめている。それに気が付いたサラは、メルエの横から同じ場所を覗き込み、何を見ているのかを問いかけると、メルエは地面を指差し、自分の見ていた物を逆にサラへと問いかけた。

 その様子から、メルエが初めて見る物だという事が解り、改めてメルエの指差す場所へ視線を送ったサラは、地面の中から顔を出す物を見て、表情を変えてしまう。

 

「こ、これはですね……み、『ミミズ』という……ああ、にょろにょろと……」

 

「なんだ? サラは『ミミズ』が苦手なのか?」

 

「…………サラ………だめ…………?」

 

 表情を引き攣らせたサラは、メルエの傍から徐々に離れて行く。その様子を見たリーシャは、サラの意外な弱点に笑みを溢し、メルエは小首を傾げた。

 地面から顔を出した『ミミズ』は、その奇妙な身体を動かし、再度地面へと戻ろうとするが、その目論見は幼く小さな手によって遮られる事となる。メルエは地面から出て来た物体に興味を示し、その身体を指で摘み上げたのだ。

 『うねうね』と動く生物を興味深そうに見つめ、笑みを浮かべた後、それをサラの方へ持ち上げる。

 

「に、苦手ではありませんよ。ひゃあ! メ、メルエ、こっちに持って来ないでください!」

 

 全ての生物の幸せを願う『賢者』が、特定の生物に苦手意識を持つという事も可笑しな事ではあるのだが、『人』である以上、生理的に苦手な物がいても仕方がないだろう。メルエが摘み上げた生物が顔面に近付いている事に気付いたサラは大きく仰け反り、そのまま距離を取ろうとする。

 だが、そんなサラの行動を面白い物と認識したメルエのしつこさをリーシャは気付いていた。

 小さく笑みを作ったメルエは、立ち上がって距離を取ったサラを追いかけるように『ミミズ』を摘んだまま歩き出す。

 

「メルエ、怒りますよ! もう、止めて下さい!」

 

「…………ふふ…………」

 

 逃げ出すサラに、それを追いかけるメルエ。 

 その幼い指先には、『うねうね』と動き続ける生物。

 それは、カミュやリーシャにも笑みを浮かべさせる程の和みを運んで来た。追われるサラからすれば、堪った物ではないのであろうが、リーシャの笑い声が響く中、メルエは追い続ける。

 様々な色に輝く湖は、そんな二人を優しく見つめていた。

 

「あっ!?」

 

「…………ぶっ…………」

 

 そんな和やかな時間が流れていた湖畔に、奇妙な声が響く。いつの間にか、湖の中央に伸びる大地の先端に辿り着いていたサラが足を止めた事によって、追っていたメルエがサラにぶつかってしまったのだ。

 メルエを制止しようと振り向いたサラの腹部にぶつかったメルエは奇妙な声を上げ、摘んでいた『ミミズ』を地面へ落とす。地面に辿り着いた『ミミズ』は、この機会を逃すまいと、必死に土を掻き分けて土中へと戻って行った。

 

「ああ……」

 

 メルエの手から離れた『ミミズ』と同様に、メルエがぶつかった衝撃で、サラの背に括りつけていた<鉄の槍>もサラの背を離れて落下してしまった。

 しかし、その落下場所は『ミミズ』とは異なり、地面ではなく湖。

 水音を立てて湖中へと消えて行く<鉄の槍>を見たサラは、何処か間の抜けた声を上げる。同じように、落下して行く槍を見ていたメルエは眉を下げ、怯えた表情をサラへと向けていた。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 自分が悪い事を理解しているのだろう。メルエは小さく頭を下げ、上目遣いでサラを見上げる。メルエの表情を見たサラは、溜息を一つ吐き出し、もう一度湖へと視線を戻した。

 既に<鉄の槍>が消えた場所の波紋は消え、湖は静けさを取り戻し始めている。サラの横にはいつの間にかリーシャが来ており、カミュもまたこちらへと歩み寄って来ていた。

 

「仕方ありません。私の持っている<鉄の槍>で良かったです。これがカミュ様の<草薙剣>であったのなら、イヨ様に顔向けできなくなってしまいますから」

 

「サラ、済まない。私もメルエへ注意をしておくべきだった」

 

 サラの諦めにも似た笑みを見たリーシャは、はしゃぐメルエを注意しなかった自分にも落ち度があると謝罪を口にする。それにもサラは首を横へと振った。

 確かに、サラの言う通り、湖に落ちたのが<鉄の槍>であった事は不幸中の幸いだったと言えるだろう。

 カミュの持つ<草薙剣>は、ジパング国の至宝と言っても過言ではない程の剣。

 現国主であるイヨの好意により借り受けている物であり、何時かは返上しなければならぬ物でもある。それを湖の底へと落としてしまえば、イヨという大器の顔を潰してしまう事にもなり、それはカミュ達全員の願う物ではない。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

「大丈夫ですよ、メルエ。でも、『ミミズ』を持って追いかけて来るのは、もう止めて下さいね」

 

 事の重大さを理解したメルエは、再度小さく頭を下げ、涙を浮かべた瞳を伏せた。

 そんなメルエの帽子を取って屈み込んだサラは、あの魔法の言葉を口にする。メルエに取って、誰のどんな言葉よりも信用度の高い言葉。サラの口にする『大丈夫』という暖かな言葉を受け、メルエはサラの胸に飛び込んだ。

 飛び込んで来たメルエに注意する事を忘れなかったサラの言葉に、胸の中で頷いたメルエは、小さな啜り泣きを始める。先程までの和やかな空気とは毛色は異なるが、穏やかな空気が流れる中、再び時は動き出した。

 

「お、おい、カミュ……」

 

 それは、湖の中央付近に現れた。

 突如湖上に浮かび上ったそれは、徐々にカミュ達へと近付き、大地と湖の境まで来た後、カミュ達と同じ場所まで浮上する。

 その姿は、女性としか認識できない姿。

 人型の陽炎のように揺らめく姿は、それが肉体を持っていない事を示している。

 魔物とも精霊とも言えるそれに、カミュは思わず剣へと手を伸ばすが、それは見えない何かによって止められた。

 力強い圧力のような物に止められたカミュの手は、背中の剣に届く事無く、下へと落ちる。

 

「心配する事はありません。私はこの湖の精。貴方達に危害を加えるつもりはありません」

 

「……湖の精霊様ですか?」

 

 揺らめく女性は口を開く事無く、言葉を放った。

 それは、耳で聞くというよりも直接的に脳が理解すると言った方が良い物。通常ならば、畏怖さえも感じる程の力ではあるが、ここまでの旅で何度も不可思議な現象を目の当たりにし、神や精霊の力の助力を得て来たカミュ達は、何処か素直に納得できる物であった。

 その証拠に、サラは湖の上に浮かび上がった揺らめく人影に、その正体を問いかける。『精霊』という物は、ルビス教の中で最も高位に立つと云われている存在。

 その中でも最も高位にいるのが、『精霊ルビス』となるのだ。

 

「この湖は私自身。貴方達は、先程何かを落とされましたか?」

 

「も、申し訳ありません。精霊様とは存じず、誠に失礼な事を……」

 

「…………おとした…………」

 

 サラの問いかけに微笑みを浮かべるように答えた精霊と名乗る者は、異なる問いかけをカミュ達へと投げかける。サラはその問いかけを聞いていないように、自分の非礼を謝罪する為に屈み込んだ。

 胸の前で手を合わせ、顔を上げないように精霊へと言葉を発している最中、それは遮られた。

 サラの隣に立っていたメルエは、先程の自分の罪を告げるように口を開く。ルビス教も、精霊も知らないメルエだからこそ、その不思議な人影に声を発する事が出来たのだろう。事実、リーシャとカミュは、揺らめく女性を唖然と見つめる事しか出来ていなかった。

 

「メ、メルエ、いけません。こちらに座って!」

 

「…………むぅ…………おとした…………」

 

 精霊という高位に位置する者に対する度重なる非礼をサラは恐れている。元々は熱心な『僧侶』であるサラにとって、精霊という存在は、敬うに値する存在であった。

 それは、一国の王など足下にも及ばない者であり、絶対の存在と言っても過言ではない者。

 だが、その価値観は幼い『魔法使い』には通用しない。

 先程の自分の罪は認めてはいるものの、それを正直に口にしたにも拘わらず、サラに叱られた事がメルエは納得がいかないのだろう。頬を軽く膨らませ、もう一度湖の精霊を見上げたメルエは、同じ言葉を口にした。

 

「良いのですよ。少し、お待ちなさい」

 

「ふぇ!?」

 

 頬を膨らませるメルエの姿に微笑んだように見えた精霊は、脳に響く言葉を残した後、そのまま湖中へ消えて行く。突如消えた人影にサラは驚き、奇妙な声を上げて、周囲を見回していた。

 メルエは、湖中へ消えた人影を追うように、湖を覗き込み、小さく首を傾げる。その頃、ようやく我に返ったリーシャもサラと同じように膝を折ったが、カミュは相変わらず立ったままであった。

 

「貴方達が落とした物は、これですか?」

 

 それ程時間を掛けずに戻った精霊は、カミュ達に向けて両腕を突き出す。その腕には、一本の硬い木で出来た棒が乗っていた。

 それは、この世界では<ひのきの棒>と呼ばれる武器。いや、正確には武器とは呼べない程の代物である。只、檜の木を削って棒状にした物であり、子供などの力のない者が持つ遊び道具のような物であった。

 それを差し出された一行は、暫しの間何を言われたのか理解が追い付かない。そこでも、真っ先に動いたのは幼い少女であった。

 

「…………ちがう…………」

 

「……そうですか……では、少しお待ちなさい」

 

 首を横へと振って否定を示すメルエを見た精霊は、再び湖へと帰って行く。そこは、カミュやリーシャの入り込む隙のない空間であった。

 メルエの横で跪いていたサラも、消えては浮かび、浮かんでは消える精霊の姿を呆然と眺める事しか出来ないでいる。だが、メルエだけは再び湖へ入って行った精霊を待つように、その場でしっかりと立っていた。

 

「では、貴方達が落とした物は、これですか?」

 

 再び戻って来た精霊は、もう一度メルエの前に腕を差し出す。

 次に腕の中にあったのは、とても立派な斧。いや、斧と呼ぶには余りにも恐ろしい程の物であった。

 その装飾は禍々しく、<バトルアックス>とは異なり、両刃の斧であるが片刃は小さく、大きな刃の部分は相手を一刀の元に切り捨てる事が出来る程に鋭く輝いている。刃と刃の間にある柄の部分の頂点には、牛のような角と顔を持つが、牙がその口から飛び出ているオブジェが装飾されていた。

 メルエの持つ<雷の杖>の先端に付けられているオブジェと並び称する事が出来る程の禍々しさ。まさしく『魔人』の首と言っても過言ではない物が装飾された斧は、現世の者が作成した物ではない事を証明していた。

 

「そ、その斧は……」

 

「…………ちがう…………」

 

 精霊の腕の中にある斧の素晴らしさを理解したリーシャが、思わず手を伸ばしかけた時、一歩前に立っていたメルエが再び口を開く。その声によって我に返ったリーシャは恥ずかしそうに手を下げ、その手をメルエの肩に置いた。

 武器としての様相と威圧感は、今のリーシャの手には余る程の物。

 その素晴らしさを理解するリーシャの心にあるのは、只の憧れに近い物であり、決してそれを自在に操れる自信に裏付けられた物ではなかったのだ。

 

「そうですか。ならば、そこでもう暫くお待ちなさい」

 

 首を横に振って、真剣な瞳で自分を見つめるメルエの視線を受けた精霊は、先程までとは全く異なる笑みを浮かべた。

 それは、カミュ達全員が視認できる程の暖かな微笑み。

 今まで揺らいでいた人影は、肉体を認識出来るのではという程にしっかりと色を成し、精霊の微笑みは湖を更に輝かせ、周囲の花の蕾を開花させる。

 輝くような笑みを浮かべた精霊は、メルエに一度大きく頷いた後、再び湖中へと消えて行った。

 

「では、貴方達の落した物は、この<鉄の槍>ですね?」

 

「…………あった…………」

 

 最後に微笑みと共に差し出された物は、メルエの探し求めていた物であり、サラの武器であった<鉄の槍>。

 精霊の笑みにも負けぬ程の満面の笑みを浮かべたメルエは、<鉄の槍>を受け取ってそれを抱き締めた。

 そして、その槍をサラへと持って行く為に駆け出し、すぐ傍にいるサラへと差し出す。どれ程に強力な武器よりも、一般兵士が持つような槍が、メルエが一番欲していた物だった。

 それ程に、メルエは罪の意識を持っていたのだろう。

 

「良かった。私は、貴方達が嘘を吐くのではないかと心配していました。『人』の心も、まだまだ大丈夫ですね」

 

「せ、精霊様、ありがとうございました」

 

 メルエの差し出した槍を手に取ったサラは、再び深々と頭を下げる。その頭上から掛る精霊の言葉に、サラはもう一度感謝の意を表した。

 言葉は悪いが、精霊はサラ達を試していたのだ。

 何度も往復するように、異なる物を持って来ては、その心を問う。

 初めは、誰しも持つ事の出来る物。二度目は、誰もが見た事のない神代の武器と思われる物。

 欲の強い人間であれば、二度目の物を自分の物だと訴える人間もいただろう。だが、メルエは即座に首を横へ振った。

 その行為を精霊は褒め讃えたのだ。

 

「貴方達のその心を讃え、この<ひのきの棒>も差し上げましょう」

 

 そして、その恩賞として、一度目に差し出した物を与えようとする。

 その腕の中には硬い木で出来た一本の棒。<ひのきの棒>と呼ばれるアリアハンでさえ販売している武器であった。

 雲の上の存在である精霊から差し出された物を見上げたサラは、その身体を畏怖と感動によって震わせ、腕を動かす事が出来ない。リーシャもそれと同様であったが、カミュは自分に与えられた物ではない為、微動だにしない。

 そして、そんな不思議な空気を破ったのは、やはり幼い少女であった。

 

「…………いらない…………」

 

「ふぇ!? メ、メルエ!?」

 

 創造の神の下に居る者として、とても高位な存在である精霊から差し出された物を断る少女。

 その図式は、傍に居たサラだけではなく、リーシャとカミュの身体も凍らせた。

 時が止まってしまったかのように固まった空気は、差し出されたままになっている<ひのきの棒>を眺めていたその少女がもう一度口を開いた事によって動き出す。

 

「…………メルエ………いらない…………」

 

「ふふふ、そうですね。貴女には既に必要のない物でしょう。解りました。では、旅路の安全を祈っています」

 

 もう一度首を横へ振ったメルエを見た精霊は、柔らかく包み込むような微笑みを浮かべ、メルエの頭を撫でるように触れて行った。

 湖の精という存在とは思えない程にその手は暖かく、メルエは気持ち良さそうにその手を受け入れて微笑む。メルエの頬からその手が離れると同時に、目の前にいた精霊の姿が湖中へと消えて行った。

 まるで溶けるように消えて行く姿を、サラは複雑な想いを持って見送る事となる。

 

「私達『人』は、八百万の神々に見守られているのですね」

 

「湖にも、この木々にも神や精霊が宿っている。この世界は素晴らしいな」

 

 再び静けさを取り戻した湖畔で呟いたサラの一言は、ルビス教の教えというよりは、ジパングに伝わるような神教に近い物であった。

 その考えにリーシャは同意を示す。

 森の木々や花々、大きな岩や流れる川、そして目の前に広がる湖や船を浮かべる海原にも宿る神や精霊。それはこの世界を優しく見守り、そこで暮らす者達を導いて行く。

 その導きを受ける事が出来る者は少ないかもしれない。それでも、そこに神や精霊は確かに宿っているのだ。

 それを実感したサラは、リーシャの言葉に満面の笑みを持って頷きを返した。

 

「戻るぞ」

 

 湖を見つめる二人の後ろから冷静な言葉が掛かる。その声を聞き、メルエが真っ先にその者の許へと歩み寄った。

 その青年は、この全世界で生きる者達の中でも最も神や精霊の導きを受ける者なのかもしれない。二人は振り向き様に頷きを返し、カミュの後を追って船への道を歩き始めた。

 

 

 

「おお、お帰り。さあ、テドンへ向けて出港だ!」

 

 船に戻った彼等を待っていた頭目が、船員達へと大きく指示を出す。雄叫びのような声を発する船員達が錨を上げて帆を張って行った。

 海面を流れる大きな風は帆に集まり、巨大な船体を突き動かして行く。ゆっくりと海原を進み始めた船は、南西へと進路を取り、既に滅びて失われた村へと向かって行った。

 

 神や精霊の導きと加護を受ける者達は、その加護が届かずに滅びた村へと向かう為に歩み出す。

 その場所に何があるのかを朧気ながらも理解しているのは、カミュ唯一人。

 『賢者』となったサラにも、昨夜にカミュと語ったリーシャにも解らない。

 それでも<滅びし村>へと彼等を導いたのは、神なのか精霊なのか、それとも、その他の見えない力なのか。

 各々の胸に色々な想いを抱きながら、彼等は海を渡って行った。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

次話は少し暗く重い話になると思いますので、息抜きという訳ではありませんが、閑話を挟ませて頂きました。正直、登場させる必要のない場面でもあると思いましたので、幕間ではなく、閑話とさせて頂きました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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過去~テドンの村~

 

 

 

 そこはとても穏やかな空気が流れる集落であった。

 草花は優しく咲き、近くにある山から吹く風と呼び込まれる雨雲、そして暖かな陽光などの恵みを受けた作物は、傍を流れる多くの河川の影響もあり、実りがとても良かった。

 次第にその場所には数多くの『人』が集まり、集落は『村』としての形態を成して行く。作物を育てる者がいるのと同時に、傍の河川で魚を釣る者達や森で獣を狩る者達も増え、人々は寄り集まる事で生活の水準を上げて行った。

 

 文化と呼ばれる物が浸透して行き、この村が<テドン>という名で認識されるようになる頃には、村の中には幾つかの店も立ち始め、村の様相は加速的に変化して行く。更には移住する人間も増え、村の人口は急速に膨れ上がった。

 村のあちこちで人々の喧騒が聞こえ、子供達の泣き声や笑い声が響き渡り、古い命は土に還り、新しい命が産声を上げる。そんな生物として当たり前の営みが繰り返されて行った。

 

「また魔物に襲われた!」

 

 そんな平和な日々は突如として終幕を迎える。

 『魔王バラモス』の台頭である。

 世界を覆う程に強大な魔王の魔力は、世界の各地で暮らしていた魔物達の凶暴性を呼び覚ました。

 それが生来の性質であったのか、本来の本能であるのかは解らない。だが、『人』にとって脅威である事に変わりはないのだ。

 村の外に出て狩りや釣りを行っていた者の中で魔物に襲われて命を落とす者達が増えて行く。村自体の存続を脅かす程ではないが、本来の天命を全う出来ずに土へ還る者達が多く、働き手の数は急速に減って行った。

 

 

 

「お前達はここで暮らしなさい。ここであれば、安全に生きて行けるだろう」

 

 <テドンの村>と呼ばれる場所に、若い一組の夫婦が訪れたのはそんな時であった。

 老人と呼ぶには余りにも若い男性に連れられた二十歳になるかならないかの男女は、新たな土地に目を輝かせ、二人で微笑み合う。元々多くの移民によって大きくなった村であった為、その若い夫婦は村人達から歓迎を受けた。

 働き手である若い人間の数が減って行く中で訪れた幼い夫婦は、村の年長者達に可愛がられ、村の一角にあった空き家を譲られる事となる。

 

「では、私はそろそろ行こう。ある程度は大丈夫であろうが、余り目立つような事はするな」

 

「はい、お爺様」

 

 住居も決まり、若く幼い二人が新たな生活の始まりに胸を躍らせている様子を見ていた初老の男性は、苦笑に近い表情を浮かべながらも口を開いた。

 若い夫婦の女性の方が、この男性の孫に当たるのだろう。男性の注意を何処まで真剣に聞いているのか解らない程の笑顔で頷く孫娘に、男性の苦笑は強い物となって行く。

 最後に孫娘の夫となる青年の掌に収まる程の緑色に輝く小さな珠を手渡した男性は、テドンから去って行った。

 

 若く幼い夫婦がテドンに居を構えたその日から、この村の状況は一変した。

 村の裏手にある、魔王の城があると噂されていたネクロゴンドの山々から降りて来ていた瘴気は、まるで村を避けるように流れ、新鮮で済んだ空気が村を満たして行く。村に程近い場所であれば、魔物に襲われる事も少なくなり、人々の生活に再び安寧が訪れたのだ。

 

「アンタ方がこの村に来てくれてから、村もまた昔に戻ったようだよ。アンタ方二人は、ルビス様がこの村へ遣わされた守り神なのかもしれないね」

 

「あはは。そんなに褒めて貰っても何も出て来ませんよ」

 

 村で暮らす者達の心に余裕が生まれ、笑顔が戻って行く。村を訪れる貿易船なども再開され、村に活気も戻った。

 それは、とても強い力を生み出し、『人』の営みは成長を重ねて行く。元々恵まれた土地であった<テドンの村>に植えられた作物が、この村の名産となって行く事もあった。

 

「この生糸で織物を作ろうと思うんだ」

 

「良いと思うわよ。私も何か手伝うわ」

 

 そんな新たな事業の一つに、昆虫の作り出す物を製糸する技術という物があった。

 それは、この村に移住して来た若く幼い夫婦が編み出した物。誰も考え着かなかったその技法は、この夫婦が他者へ伝える事に抵抗が無かった為、瞬く間に村全体へと広がって行く。更にこの夫婦は、作り出した生糸を使って、新たな生地を作り出そうとしていた。

 そして、その思惑は成功を果たす。

 

「へぇ……これは良い物だ。今度ポルトガへ行く時に持って行ってあげるよ。うちの店にも置かせて貰いたいぐらいだ」

 

「ありがとうございます! 是非お願いします」

 

 出来上がった生地は輝くような光沢を持ち、非常に軽い物であった。

 肌触りは今までのどの生地よりも滑らかであり、まるで天の衣にでも触れているのではないかと思ってしまう程の物。それは、長年このテドンで店を営んで来た店主の心をも魅了してしまう。

 店主の言葉に嬉しそうな笑みを浮かべた青年は、深々と頭を下げ、妻の待つ家へと帰って行った。

 

 夫婦はその生地を『絹』と名付け、寝る間も惜しんで生地を織って行く。また、妻の方はその生地を使い、一つの法衣を作り出した。

 この妻は幼い頃から不思議な能力を持っており、魔法力を持ち合わせていないにも拘らず、作り出す物に術式を組む事が出来るのだ。

 その恩恵を受けた法衣は<魔法の法衣>として、テドンの店頭に並ぶ事となる。夫婦が織成す反物は好評を博し、テドンの村内だけではなく、村を訪れる商人や旅人にも購入されて行った。

 

「ポルトガで僕達の織物が高く売却出来たらしいよ」

 

 武器屋の店主に織物を見せてから数か月後、一つの便りがテドンで暮らす若い夫婦の元へと届けられる。ポルトガという貿易大国へ品物を運び入れた武器屋の店主が、個人的な人脈を辿りながら、ポルトガの商人達に『絹』の織物を売却したのだ。

 そして、その商人はポルトガ王室のお抱え商人であり、後々は王宮からも注文が来るかもしれないという嬉しい情報まで付けられている。そんな情報に、若い夫婦は心から喜んだ。

 

「良かったわね。あなたが頑張ってくれたお陰よ」

 

「これで、生活に不自由はなくなるね」

 

 しかし、そんな幸せな時間は長くは続かなかった。

 それは、その身体を流れる血に掛けられた呪いのように。

 平和な世であれば、誰しもが手にする当たり前の幸せ。

 それは、儚く散って行く事となる。

 

 

 

「見てくれ。こんなにゴールドが入って来たよ。しかも、追加の注文もこんなに貰った」

 

「凄いわね」

 

 初めてポルトガへの貿易が成功してから数年後。

 再びポルトガから戻って来た武器屋の店主から渡されたゴールドは、夫婦の予想を遙かに超えた物であった。

 お抱え商人が少しずつ王室へ入れていたのだが、王室の人間が大層気に入ったと言う事で、その商人は『絹』の経路を独占しようと考えたのだ。

 その為、多額の金額を払い、注文を出して来る。武器屋の店主に仲介手数料を支払ったとしても、残った額はとても多く、数年は遊んで暮らせる程の物だった。

 横領などをする事もなく、誠実に対応してくれた武器屋の店主に感謝しながらも、夫は新たな意欲に燃えて行く事となる。

 

「お前は、生まれたその時からお嬢様かもしれないぞ?」

 

「ふふふ、駄目よ。この子は普通に暮らすの。私とは違って、普通の子供達と同じような幼少時代を過ごして、私と同じように幸せな結婚をする。ずっと幸せに生きて行くのよ」

 

 その意欲の元は、妻の膨らみを見せ始めた腹部にあった。

 彼等がこの村で暮らし始めて数年の月日が流れている。幼い夫婦であった二人は、既に壮年という年代に足を掛け始めていた。

 彼女達が待ち望んだ子宝は、今順調に育っている。愛おしそうに自分の腹部を撫でる夫の言葉に、妻は思わず噴き出してしまい、一通り笑った後、少し厳しい瞳を夫に向け、その言動を窘めた。子供の幸せを願わない親はいない。

 愛する者との間にようやく授かった子宝であれば尚更であろう。しかし、妻の考える子供の幸せは、通常の家庭で暮らす夫婦の物とは異なりを見せていた。

 

「そう言えば、武器屋のおやじさんは、変わった物を購入したようだったよ。それが本当に奇妙な物でね……只の古ぼけたランプなのだけど、とても高価な物らしい」

 

「ポルトガの王室で使われていたランプなのかしらね?」

 

 微笑ましい夫婦のやり取りの後、妻の腹部に耳を当てながら口にした夫の言葉は、何故か頭に残る物だった。

 何が気になるのかなど解りはしない。だが、そんな小さな話題は、何故か妻の頭の隅に張り付いて離れる事はなかった。

 そして更に月日は流れて行く。幸せの時間を削り取って行くように流れる季節は巡り、諸悪の根源の伸ばす黒い影は、音も立てずに忍び寄っていた。

 

 

 

「う~ん……今日もだね……」

 

「そうね……外はもう暗くなっているのに、何故か眠くないわ。まるで、今起きたばかりのよう」

 

 月日は流れ、若い夫婦の間には無事に元気な赤子が誕生していた。

 珠のように輝く女の子。まるで春の陽射しのように暖かな微笑みを浮かべる子で、泣いて両親を困らせる事も少ない。何かを掴むように伸ばされた手を何度も動かし、可愛らしい声を上げていた。

 

「あらあら、貴女も元気ね」

 

 夫婦の間に子供が産まれた頃から、テドンの村では不思議な現象が続いて起き始める。夫婦の会話の内容のように、外が暗くなっているにも拘わらず、身体が眠りを欲していないのだ。

 まるで、朝起きたばかりの状態のまま、一気に夜まで時間だけが過ぎ去ってしまったかのような物。置き去りにされた身体は、その不可思議な現象に警告を発しているようにさえ思えた。

 抱き上げた赤子も、夜とは思えない程元気に身体を動かしている。伸ばされた掌を口に入れる母親を見て、可愛らしく笑い声を上げていた。

 

「しかし、ここ数年、お爺さんは来て下さらないね。この子を見て欲しいのに」

 

「ふふふ。そろそろ何気ない顔をしてドアを開けるわよ。それに、この子の名前は、ずっと昔にお爺様には伝えてあるから」

 

 妻に抱き上げられて微笑む我が娘を見ていた夫は、黒い雲が広がる空へ視線を移す。彼等をこの場所へ連れて来てくれた妻の祖父は、あの時から一切顔を出す事はなかった。

 数年間の間、会う事もない祖父の顔を思い浮べた妻は、柔らかい笑みを浮かべながら、夫の言葉に答えを告げる。それは、夫にとっては良く解らない物であり、首を傾げた夫の姿を見た妻は、再び可笑しそうに笑いを溢した。

 

「私が小さい頃、お爺様に連れられて色々な所へ行ったの。最後にあなたが暮らしていた村に辿り着くのだけど、その中で、色々な事をお爺様とお話したわ。その時に、私が何時か女の子を産んだら付けようと考えていた名前もお爺様に教えてあるの」

 

「そうだったのか……お前の名前は、お母さんが小さい頃から考えていたらしいよ」

 

 妻の話で疑問が解けた夫は、可愛らしく笑う頬を突きながら、それを我が子へと伝える。元気に腕を振りながら笑う娘の姿に、妻も柔らかく微笑みを返すが、窓の外に広がる黒い雲が、ネクロゴンドの山から下りて来ているように見え、何処か言いようのない不安が胸に広がり始めていた。

 

 そして、事態は最悪の方へと動き出す。

 

 

 

「魔物だぁ!」

 

 それは予告もなく訪れ、村の全てを蹂躙して行く。太陽が沈み始めた頃に突如として北の山から現れた魔物の大群は、村の人々を次々と喰らい、殺して行った。

 その勢いは凄まじく、瞬く間に人々は地へと伏して行く。村の到る所に食い千切られた『人』の身体の一部が転がり、大地の全てを染め上げる程の真っ赤な血液が飛び散っていた。

 空は真っ黒な雲に覆われ、太陽の光も神の威光も届かない。『精霊ルビス』へと捧げる村人達のささやかな祈りは、次々と村に降り立つ魔物達によって遮られる事となる。

 

「な、なんだ……一体、何が起きているんだ?」

 

 外から響く悲鳴を聞いた武器屋の店主は、慌てて外へと飛び出した。

 そこで目にした物は、阿鼻叫喚の地獄絵図。救いを求めるように伸ばされる人々の手は、天に届く事無く地面へと落ちて行く。年老いた者達の叫び声や、我が子を護る親の悲鳴。子供達は泣き叫び、その叫びは苦悶の呻きと共に途絶えていた。

 自分の瞳に映り込む現状を理解する事が出来ない店主は、呆然とその光景を眺めながら、身体を震わせる。その時、自分の顔面に生臭い液体が掛り、片目の視界が真っ赤に染まった。

 

「クケケ。ソウカ……オ前ガ、コノ場所ヲ知ラセテクレタノカ……ナラバ、セメテモノ礼ニ、コノ俺様ガ殺シテヤロウ」

 

 店主の赤く染まった視界の中に現れたのは、巨大なフォークのような武器を持った小さな魔物。いや、聞き取り辛くはあるが、しっかりとした人語を話す姿は、魔物と言うよりも『魔族』なのだろう。

 闇が広がり始めた村の中でも一際目立つ緑色の小さな身体を揺らしながら近付いて来たそれは、店主を見つけると意味深な言葉を発した。

 その魔族の言う通りであれば、この多数の魔物を村へ呼び込んだのは、店主自身だというのだ。全く理解出来ない店主は魔族を唖然と見つめるが、次に告げられた言葉は店主の身体を突き動かす程の物だった。

 

「ケケケ。逃ゲルノカ? 逃ゲテミロ。ユックリト、ジックリト殺シテヤロウ」

 

 身を翻すように自宅へと戻る店主を見た魔物は、それが滑稽な事とでも言うように笑い声を上げる。後方から響く、身も竦むような不快な笑い声を聞きながら、店主は自分の店へ駆け、そして扉を閉めた後に厳重な鍵を掛けた。

 それが魔物に対してであれば、何の救いにもならない事を彼は知っていたが、それでも縋るしかなかったのだ。

 震える手で何とか鍵を掛けた店主は、二階へと続く階段を駆け上がる。外から聞こえて来る叫び声や悲鳴は、時間と共に少なくなっているようだった。

 

「これを……私がこれを使ったからなのか? これさえ手にしなければ、魔物がここに来る事はなかったのか?」

 

 二階へと駆け上がった店主は、ベッドの傍に置いてあった木箱を取り出した。

 その木箱の中に入っているのは、ポルトガとの貿易で先日手に入れたばかりの品。

 誰が見ても無駄金を払ったと考えるような古ぼけたランプであり、それを嬉々として持ち帰った彼を家族でさえ罵倒した程だった。

 しかし、この古ぼけたランプには、ある伝承があったのだ。それを彼は、この村に戻った後、何度か試している。

 最初の頃はその伝承への疑念と恐怖から使用する事はなかったのだが、自身の中に湧き上がって来る好奇心を抑えきれず、ここ最近では使用頻度を上げていた。

 

「あなた、何があったのですか!?」

 

「うぅぅん」

 

 店主が木箱を取り上げた時、奥の部屋から彼の妻が飛び出して来た。

 外の騒ぎを聞き、店主が外から戻るのを待っていたのだろう。眠たそうに目を擦る幼い子供を抱えながら血相を変えて夫である店主へと詰め寄って来た。

 既に何かを察しているのかもしれない。目は血走り、唇や手が小刻みに震えている。そして、その血走った目は、店主の手の中にある木箱で止まり、鋭く釣り上がった。

 

「こんな時でもそれが大事なのですか!? そんな小汚いランプの方が、私達よりも大事なのですか!?」

 

「いや、違う!」

 

 店主の妻は、自分や子供の無事を確認する前に木箱へと手を伸ばした店主を許せなかったのだ。

 外の状況は店主の妻には解らない。だが、窓から見た限り、何か恐ろしい物が村を襲っている事だけは理解出来た。

 そんな恐ろしい状況の中、震えながら待っていた自分が見た物は、何の役にも立たない古ぼけたランプの入った木箱を大事そうに抱える夫。それは、店主の妻の精神を繋ぎ止めていた最後の糸を容易く切り落としてしまった。

 

「何が襲って来たのですか!?……私達はどうなるのですか!? そうね……私達は死んでしまうのよ! 皆、死んでしまうの!?」

 

「おい!」

 

 半狂乱になった店主の妻の発する言葉で理解出来るのは、最初の問い掛けだけ。精神の糸が切れてしまった彼の妻は、眠たそうに目を擦っていた子供から手を離し、床へと落としてしまう。

 突如自分を襲った衝撃に子供は泣き出し、半狂乱になった店主の妻は、虚ろな瞳で彼の横を通り過ぎて行った。

 人の心は脆い。

 特に追い詰められた時、その人間を形成して来た物が表に出て来てしまうのだ。

 彼女は、今まで何不自由なく暮らして来たのだろう。突如襲った言いようのない恐怖が彼女の心を不安にさせ、縋ろうとした夫に裏切られた事によって、その精神を崩壊させてしまった。

 それは、この状況では命取りになる程の行為。

 

「クケケ。ソウダ、オ前達ハ死ヌノダ」

 

「ごふっ!」

 

 突如響き渡った崩壊音。店主が一代で築き上げて来た武器屋の二階の壁が破壊され、飛び込んで来た鋭い武器によって、彼の妻は串刺しにされた。

 胸から入ったフォーク型の武器は、そのまま背中から突き出し、真っ赤な血液を天井へと噴き上がらせる。奇妙な声を発した店主の妻は、そのまま壁に叩きつけられ、無残に身体を弾けさせた。

 それを行った者は、店主の胸程しかない身長ながらも、『魔族』と呼ぶに相応しい力を見せつける。

 

「子供モイルジャナイカ……美味ソウダナ。ソイツハ俺ガ喰ッテヤロウ」

 

「待ってくれ! 子供だけは……」

 

 魔族の言葉に木箱を落とした店主は、泣き叫ぶ子供の前に立ち塞がろうと動くが、只の人間が魔族に適う訳はない。フォーク型の武器の一振りによって吹き飛ばされた店主は、壁に叩きつけられ、大量の血を吐き出す事となる。痛む身体を動かしながら、真っ赤に染まる瞳を開いた店主が見た物は、泣き叫ぶ我が子を頭から喰らう魔物の姿。

 飛び散る血液と共に子供の叫びは途絶え、店主の心を絶望が満たして行く。

 

「あんなランプを手に入れなければ……」

 

「クケケ。ソウダ、全テハオ前ガ原因。<闇ノランプ>ヲ使用シテクレタオ陰デ、コノ村ヲ見ツケル事ガ出来タ。ココハ、何カガ邪魔シテイテ、俺達ノ目ヲ避ケテイタカラナ」

 

 崩れ落ちる店主の傍に、真っ赤な血液を口から滴り落とす魔族が歩み寄って来た。

 店主が呟いた言葉に答えるように告げられた事実に、店主の瞳から涙が零れる。自分が好奇心に負けた事によって、この村は魔族の襲撃対象となったと言うのだ。

 それがどれ程に罪深い事か。この村で暮らす全ての人間の命を、彼が奪ってしまったと言う事と同意なのである。

 その罪は、『人』である以上、万死に値する程に重い。

 

「ぐはっ!」

 

 そして、店主はその罪を身体に受ける事となった。

 深々と突き刺されたフォーク型の武器は、店主の身体の内部を破壊し、その生命活動を停止させる。瞳から色を失くす手前に店主が最後に見た物は、自分の妻であった物と子供であった物の残骸。失くそうと思っても消えない記憶を刻みつけられ、彼の魂は冥府へと旅立って行った。

 

「<闇ノランプ>等、既ニ必要デハナイ」

 

 店主が落とした木箱へ視線を送った『魔族』は、そのまま二階の床を突き破り、外へと躍り出る。既に村の中には人間の肉片と血液が飛び散り、人間としての原型を留めたままの物は存在しない。

 元々、人間の細かな区別が出来ない魔物や魔族からすれば、どれが目当ての人物かなど、見分ける事も出来ないだろう。全てを喰らい尽くし、全てを破壊し続ける魔物達と共に、その魔族も村の中を縦横無尽に駆け回って行った。

 

 

 

「君は、これを持って逃げるんだ」

 

 武器屋の店主が魔族に襲われていたその頃、村の一角にある小さな家屋の中でも、一つの夫婦のやり取りが行われていた。

 その妻の腕の中にも、同じように子供の姿。だが、その子供は武器屋の子供とは異なり、生まれて間もない赤子である。その赤子を抱いた妻に、夫である男は一枚の翼を差し出していた。

 その夫婦は、数年前にこの村に来た者達。

 『絹』という名産を作り出し、ポルトガ国を相手にようやく軌道に乗り出した事業を進めていたあの夫婦であった。

 外の騒ぎを聞いた夫が扉を少し開けて外の様子を確認し、即座に家の中へと戻って来ていたのだ。

 

「これは、<キメラの翼>?」

 

「ああ、あの珠と共にお爺さんから貰っていたんだ。このような事態があったのなら、これを使うようにと言われていた」

 

 夫が妻へ手渡したのは、動物の翼の姿をしている物。既に、この世界では希少種となっている<キメラ>と呼ばれる魔物の翼であり、目的地を思い浮かべながらそれを空高く放り投げると、未だに宿っている魔法力がその場所まで運んでくれると言う道具であった。

 既に何処の国家の宝庫にも少なくなり始め、一般の人間の手に入る事などない物。しかし、夫はそれを託されたと言うのだ。

 

「で、でも、それならばあなたも一緒に」

 

「駄目だ。こうなってしまったら、君が逃げる時間だけでも誰かが作らないといけない」

 

 抱いている赤子は、気持ち良さそうに眠りについており、外の喧騒などお構いなしに寝息を立てている。そんな赤子の顔を愛おしそうに眺めながら、夫は妻の肩を抱いた。

 震える妻の声を包み込むように、そして何よりも強く諭すように告げられた言葉には、それ以上の反論を許さない程の厳しさが備わっている。その覚悟と想いを理解した妻の瞳に涙が溢れ始め、それは即座に床へと落ちて行った。

 

「でも……でも……」

 

「良いかい? 君は、村の外へ出たらすぐに、これを空高くに放り投げるんだ。その時に思い浮かべる場所は解っているね? 僕と君が出会ったあの村ではないよ。君がお爺さんと旅した時に一番安全だと思った場所へ行くんだ」

 

 この夫婦が出会った村とも呼べない集落は、既にこの世界には存在しない。祖父と共にその集落を訪れた彼女は、その村で過ごし、育った。

 その時に共に時間を過ごした彼と恋に落ち、そして共に生涯を生きる事を『精霊ルビス』へ誓ったのだ。

 だが、その集落は、今のこの村と同様に、魔物の襲撃を受けて一晩で滅びる事となる。

 突如襲って来た魔物の大群に蹂躙されて行く集落の中、彼女達夫婦は、彼女の祖父によって救い出され、このテドンへと逃げ延びていたのだ。

 

「いや! いやよ! 三人で行きましょう? あなたがいない世界をどうやって生きて行けと言うの?」

 

「ごめんよ……だけど、君は死んではいけない。この子と……僕と君の愛すべき娘と共に生き延びておくれ」

 

 最後に娘ごと妻の身体を抱き締めた夫は、小さな呟きを妻の耳へと告げる。

 それは、妻の言い分への完全な拒絶。

 三人で逃げ延びる事が出来ない事は、外の状況を見る限り理解出来る。それを夫だけではなく、妻も理解している筈。

 それを理解していても尚、その希望を捨て切る事が出来ない妻に、夫は優しく事実を告げたのだ。

 それはとても優しい別れの言葉であり、とても残酷な拒絶。

 妻の目に溢れていた涙は、次々と夫の衣服を濡らして行く。

 

「さあ、この家まで魔物達が来るのも時間の問題だろう。僕が家の前にいる魔物達の注意を引くから、その間に村の外へ。外で出たらすぐに<キメラの翼>を使うのだよ」

 

 <キメラの翼>という道具といえども、その原動力は翼に残る魔法力の残骸である事に変わりはない。村の中でそれを使用すれば、魔法力自体が村の外へと飛び出してしまう為、魔物に発見され、追尾される恐れがあった。

 故に、夫は村の外へ出てからだという事を強く伝えているのだ。そんな夫の言葉を聞いても、未だに衣服の裾を掴んで離さない妻の手を優しく握り、夫はもう一度大きく頷いて見せる。

 『大丈夫』、『心配いらない』と。

 

「うぅぅ……あなたと一緒に生きたいわ。どうしても駄目なの?」

 

「これは僕の我儘で、自己満足かもしれない。でもね、僕は君と愛する娘を護る。それは、僕の誇りなんだ。勝手なお願いだけど、僕の事は引き摺らないで。僕は君とこの子の幸せを常に願うから」

 

 妻の瞳の中に溢れる涙とは別の光を見た夫は、もう一度その決意を語る。彼は妻の強さを知っているのだ。

 その身に流れる尊い血によって、この世のあらゆる苦を背負いながらも常に前を向いて歩いて来た彼女の強さを。

 だからこそ、心からその幸せを願う。

 『自分自身の手で幸せにしたかった』という想いを捨ててでも、彼女とその娘の為に自己を犠牲にする事を厭わないのだ。

 それは、彼の言う通り、我儘なのかもしれないし、只の自己満足なのかもしれない。彼の大事な妻の心に、また一つ重みを与えてしまう行為なのかもしれない。

 だからこそ、彼は恐怖による脂汗が滲む中、精一杯の笑顔を作った。

 

「ありがとう。でも、私は生涯をあなたと共にと誓ったわ。身体は離れても、心は常にあなたと共に……うぅぅ」

 

 最後の最後に泣き崩れてしまったが、妻の言葉を聞いた夫の顔に、虚勢ではない笑顔が浮かぶ。静かに眠る我が娘の頬を軽く突いた彼の顔が再び変化し、表へと出る扉へ視線を送った。

 それは正しく父の顔であり、愛する妻を護る夫の顔。

 『人』の中でも最高位に位置する程の強さを持つ『男』の顔であった。

 最後に妻と口づけを交わし、一気に扉のノブに手をかける。外に出た夫の顔は、その凄惨な光景を見ても何一つ変わる事はなかった。

 

「さあ、行くんだ。僕と君の大事な宝を頼んだよ」

 

「いつか……いつか再びあなたと巡り合うわ。その時も私はあなたを見つけるから、またお嫁さんにしてね」

 

 妻の言葉を聞き、その場にそぐわぬ程の喜びを感じた夫の心に、更なる勇気が生まれて来る。

 来世など、本当にあるのかどうかも分からない。だが、彼女がこう言う以上、きっと自分を見つけてくれるだろう。そんな想いを感じた夫は、大きく頷きを返した。

 幼い赤子を抱いた妻も、頬を伝う涙を拭いもせずに満面の笑みを浮かべる。その微笑みは、太陽のように輝きながら彼の背を後押ししてくれて来た。

 そんな短くとも幸せな日々を想いながら、その夫婦は永遠の別れを迎える。

 

「行くんだ!」

 

 夫の言葉に対し、妻はもはや振り返る事はない。村の出口へ向かって一気に駆け出した。

 下を見れば、真っ赤に染まった肉塊が転がり、周囲は血生臭い不快な臭いが満たしている。闇に身を隠しながら懸命に走る妻の背中を見た夫は、自分の目の前に迫る魔物から妻の姿を隠すように立ち塞がった。

 しかし、近づいて来た魔物は、彼の数倍以上もある体躯を誇る化け物。

 だらしなく垂れ下がった舌からは涎が垂れ、獣の皮のような物で辛うじて隠された肉体もまた、肉がだらしなく垂れている。その魔物の姿を見た彼は、自身の命を完全に諦めた。

 

「グモォォォ!」

 

 魔物が振り被った拳だけでも、自分の身体程の大きさがあるのではないかと感じてしまう程の圧倒的な暴力。

 そのまま横殴りに飛んで来た拳は、彼には見えない程の速度で、彼の身体を粉砕した。

 当たった瞬間、身体中の骨が砕けてしまったのではないかと思う程の衝撃を受けた彼は、そのまま自宅の壁を突き破って吹き飛ばされ、反対側の壁に直撃した彼の身体の到る所から血液が噴き出し、そのまま彼は崩れ落ちた。

 

「グモォォォ!」

 

 家の外では、勝利の雄叫びのような物が響き渡っているが、既に彼の耳には届かない。身体の内部から破壊された彼の命はもはや幾許も残されてはいないのだ。

 辛うじて見える片目の端に、緑色に輝く珠が映り込む。先程の衝撃で彼の懐から零れ落ちたのだろう。

 それは、彼の妻の祖父から託された一つの珠。

 彼女が持つのではなく、自分が持つように言い聞かせられたその珠は、この村の惨状とは反比例するように美しく輝いていた。

 

「ごぼっ……はぁ……はぁ……」

 

 真っ赤に染まる命の源を大量に吐き出した彼は、震える指を傍にあった壁に向ける。

 指先を満たす自身の血液を利用して壁に書いた文字は、彼の娘の名。

 彼の妻が幼い頃から考えていたと語ったその名を、彼もとても気に入っていた。

 太陽のような暖かな光を持ちながらも、照り付けるような激しさを持たない妻に似たとても優しい名。満足そうに愛する娘の名を書き終えた彼は、小さな微笑みを浮かべ、小さくその名を呟いた。

 その名を持つ者の無事を願って。

 そして、その名を持つ者を待つ人生の幸せを願って。

 

 そして、彼は息絶えた。

 その名が書かれた壁の傍には、緑色に輝く珠。

 彼の死を看取った珠は、その輝きを変化させて行った。

 彼の娘の名を聞き取った珠は、その名を刻み込む。

 そして、呪いは掛けられた。

 

 

 

 夫が息絶える頃、彼の妻は懸命に走っていた。

 村の門を越えた彼女は、その手に握り締めた<キメラの翼>を使用する場所を探していたのだ。

 テドンは基本的に森に囲まれている。川沿いまで出れば、森の木々を抜ける事が出来るのだが、彼女の周りには生い茂る木々が満たしていた。

 <キメラの翼>という道具を使用した事が彼女にはない。それと同じ効力を持つ呪文を行使した際に、それを行使した人間の傍にいた事はあるが、その時は全て見晴らしの良い場所であったと記憶していた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 身体能力は通常の人間と何一つ変わりがない彼女にとって、生まれたばかりの赤子とはいえ、それを抱き抱えて走り続ける事には限界があった。

 村を出て、森に入った事で多少の余裕が生まれた事もあり、その速度を緩めて行く。あれ程の騒動の中、相変わらず熟睡している娘の顔を見た彼女は苦笑を浮かべ、傍にあった木に背を預けた。

 

「ここを抜けたら、<キメラの翼>を使いましょうね。あなたは私と彼の宝なのよ。必ず護ってあげるからね」

 

 どんな夢を見ているのか、口元を動かす娘を見ながら語る彼女の顔も、テドンの村で見た夫と同様の物に変わっていた。

 それは、我が子を護る母の顔。

 『人』の中でも頂点に君臨する程の強さを持つ『女』の顔。

 強い決意を持った彼女は、痙攣するように震えている足を叩き、再び森の出口へと歩き始めた。

 後もう少し、もう数本の木々を抜ければというその時、彼女の命運は尽きてしまう。

 

「クケケ。逃ガスト思ウノカ? オ前ヲ殺ス為ニ、俺達ハコノヨウナ村ニ出向イタノダ」

 

 彼女の後方から掛った言葉は、聞き取り辛くはあるが確かな人語。慌てて振り向いた彼女の瞳に映り込んだのは、彼女よりも小さな緑色の身体を持つ魔物であった。

 片手には巨大なフォーク型の武器を持ち、背中には蝙蝠のような羽を生やしている。子供のような瞳は悪意に満ち満ちており、その口から生えた牙からは、新鮮な血液が滴り落ちていた。

 

「ちっ!」

 

 夫の前で見せていた物とは比べ物にならない程に険しい表情を浮かべた彼女は、これまた夫の前で見せた事もない舌打ちを鳴らし、森の出口へと向かって駆け出す。

 その姿に若干の驚きを見せたのは魔物であった。

 『魔族』と呼ばれるその魔物が今まで見て来た人間は、彼の姿を見ると愚かに命乞いをするか、怯えた表情を浮かべながら覚束ない足取りで逃げる者達がほとんどであったのだ。だが、目の前の女は何もかもが異なった。

 逃げるという選択肢は、他の人間と何一つ変わりはない。だが、彼女が向けた視線は、『魔族』である自分と対等の者であるかのような敵意を含んでいた。

 そして、恐怖を感じている筈なのにも拘わらず、彼女の足はしっかりと大地を蹴り、真っ直ぐ走って行ったのだ。

 

「待テ! 逃ゲ切レルトデモ思ッテイルノカ!?」

 

 そんな経験のない物を見た『魔族』の反応が少し遅れてしまう。背中に生やした羽を羽ばたかせた『魔族』は、片手に持ったフォーク型の武器を女性に向けて飛び立った。

 既に『魔族』の標的となった女性は森を抜ける直前まで走り抜けている。森を抜けた所で、その女性に逃げる手段などないと理解はしていても、『魔族』は全力でその背中に向かって武器を突き出した。

 

「ごぶっ……」

 

 森を抜けた彼女の背中に鋭い刃先が突き刺さる。噴き出した血液は闇に覆われた平原の草にかかり、大地を真っ赤に染めて行った。

 しかし、それでも彼女は身体を強制的に動かし、突き刺さった武器を抜いて右手に握りしめていた<キメラの翼>を天高く放り投げる。眩く輝き出す一枚の翼は、その内に残る魔法力を放出し、彼女の身体を包み込んだ。

 

「何!? マ、マテ!」

 

 彼女の思い浮かべる場所は唯一つ。

 幼い頃に祖父に連れられて行った神殿。

 高い山の頂上に聳え立つ絶対不可侵の聖域。

 

 魔法力に包まれながらも、込み上げる血液を大量に吐き出した彼女は、天高く舞い上がり、北東の方角へと飛んで行く。呆然とその光景を見るしかなかった魔族は、大きな舌打ちを鳴らすが、血液まみれとなっている口元を厭らしく歪めた。

 彼女の傷は致命傷である事は間違いない。どこへ行こうと、その命を繋ぎ止める方法などありはしないのだ。

 何かを抱えていたようではあったが、それが何であるのかをこの魔族は理解していなかった。

 

「魔王様ニハ、死ンダト報告シテオケバ良イ。呪文モ行使出来ナイ人間等、恐レル必要ナドナイノダ。マァ、後デ部下ニデモアノ方角ヲ探サセヨウ」

 

 まるで自分を納得させるかのような独り言を呟いた魔族は、魔物達の咆哮が轟く村の方角へ飛んで行く。既にテドンと呼ばれた村で暮らす人間は誰一人生きてはいないだろう。全ての生き物が魔物の餌食となり、その身体も命も散らして行った。

 小さな集落だった村は、ある夫婦の移住を機に大きな変革を迎え、その変革が齎した富が与えた古代より伝わる『闇の道具』によって滅びたのだ。

 

<闇のランプ>

古代より闇を支配すると云われた魔族に伝わる道具。陽光を嫌う魔族達が己の時間を取り戻す為に作られ、何度も世界を闇に覆った物。何時しか、その道具は魔族達の手を離れ、『人』の世に流出していた。長い時間を経て『人』の世を渡り歩いたそのランプは、魔族達でも行方を把握できない程の物となり、その存在を知る者も限られて行く。そのランプは色々な曰くがあり、『人』の中でも使用する者はおらず、長い間行方不明となっていた。だが、テドンの村の武器屋が購入する事となり、持ち帰った店主は、好奇心に負けて使用してしまう。元々、魔族の所有していた『闇の道具』である為、瞬時に闇が支配した世界を確認した魔を束ねる者が、その場所を特定させた。しかし、その際に、その王は予想もしていなかった幸運を手にする事となる。

 

 

 

 テドンの村から北東の方角へ飛び続けていた魔法力の塊は、その力を失い、徐々に速度を失って行った。最終的には、飛行する力も失い、森の近くにある平原へと落ちる事となる。

 赤子を抱いた彼女の精神力にも限界が来ていたのだ。

 <ルーラ>という移動呪文を行使する際も同様であるが、術者の力を失えば、その効力もまた消え失せる。致命傷と言っても過言ではない程の傷を背中に受けた彼女の意識は朦朧とし始め、思い浮べた目的地の情景も虚ろになっていた。

 

「ごふっ……はぁ……はぁ……まだ、まだ……着いていないのに」

 

 再び地面に吐き出した血液は、既に鮮血とは言えぬ程にどす黒く変色しており、その身体が限界を迎えている事を示していた。いや、実際には既に肉体は死滅しているのかもしれない。

 ただ、彼女の中にある譲れない想いだけが、その魂を肉体に繋ぎ止めているのだろう。

 彼女の腕の中には、小さな手を何度も動かしながら眠る可愛い我が子。

 彼女が吐き出した血液が多少付いてしまっているが、震える手でそれを拭った彼女は、這うように森の方へと移動を始めた。

 

 もはや、彼女の身体は言う事を利かなくなっている。

 立ち上がろうにも足に力は入らず、背中は焼けるような痛みを齎す。腹部まで貫かれた穴からは血液と共に、彼女を形成する臓物をも外へと吐き出していた。

 それでも彼女はもがく。

 夫との約束を果たす為に。

 そして、愛する我が子の幸せを願う親としての責務の為に。

 そんな死を間近に控えた女性の前に、導きは訪れた。

 

「この森に何の用だ? お前のような『人』が来る場所ではない」

 

 掠れて行く視界の中に見えた足。

 彼女は、懸命になって顔を上げた。

 そこに見えたのは、彼女の半分程しかない背丈を持つ生物。人語を明確に話している事と、『人』に似た姿を持つ事から、それが魔物の類ではない事を理解する。

 遙か昔、祖父から聞いた事のある種族であり、『エルフ』族と呼ばれる太古からの先住者達。小さな身体に似つかわしくない程に太い腕と足を持ち、顔が隠れてしまう程の鬚を蓄えていた。

 

「おねがい……します……この子を……この子を……」

 

「魔物に襲われたのか? 『人』の業とはいえ、惨い深手だな……」

 

 藁をも掴む思いで必死に我が子を託そうとする姿に、そのエルフ族の瞳が厳しさを解いて行く。既に身体を動かす事も難しいにも拘らず、腕の中で眠る我が子を掲げ、何度も懇願する彼女から、そのエルフ族は赤子を受け取った。

 静かに眠る子供の顔は、母親の血が付着しており、拭おうとしたのか横へと広がりを見せている。そこから想像できる情景に顔を顰めたエルフ族は、涙目で見上げる彼女に見えるように、しっかりと頷きを返した。

 

「その子……名は……」

 

 最後に愛しい娘の名前を呟きながら、血で濡れた手で我が子の頬を撫でた彼女は、静かに息を引き取った。

 その名は、彼女が子供の頃から我が子にと考えて来た名前。

 自分の敬愛する祖父にも伝え、その名を呼ぶ事を心待ちにしていた名前。

 その名を愛おしそうに呼び終えた彼女の表情は、とても優しげな笑みを浮かべる。それは、愛する我が子の幸せを確信したかのような幸せな笑みだった。

 

「『人』は好きではないが、弔ってやらねばなるまい」

 

 彼女を看取ったエルフ族は、その小さな身体とは考えもつかない力でその遺骸を担ぎ上げ、森の中へ入って行く。森の入り口付近の切り株に赤子を置き、その近くの土を掘り返した。

 遺骸を埋め、土を被せはしたが、墓標のような物は建てる事をせず、一度黙祷を捧げた後、眠っていた赤子へと近付いて行く。

 

「あぁ……あぁ」

 

「起こしてしまったか?」

 

 切り株の上で眠っていた筈の赤子は目を覚ましており、小さな手を虚空へ向け、まるで母親との別れに手を振っているかのように見えた。

 元気良く手を動かす赤子は泣く事も無く、何やら難しい顔をすると、一つ可愛らしいくしゃみをする。良く見ると、赤子の服は家屋の中で眠っていたままの姿であった。

 肌着のような薄い衣服のみを着用しており、肌寒さを感じているのだろう。もう一度くしゃみをする姿を見て、エルフ族の小さな男は苦笑のような笑みを浮かべた。

 

「どれ、何か包む事の出来る物があったかな……おお、これならば暖かろう」

 

 エルフ族の小人は、持っていた袋に入っていた上等な布を取り出す。

 肌触りこそ劣化はしているものの、陽の光もない場所でさえ輝きを感じる程の光沢を持った布。それを赤子へと掛け、その身体を包み込んだ。

 包み込まれた赤子は、その肌触りを気に入ったのか、先程の難しい顔を消し、花咲くような笑みを浮かべた。

 

「これは、私の友がくれた物で、テドンという村の特産らしい。特別に、お前にやる事にする。暖かいか?」

 

 喜ぶように微笑む赤子に表情を緩めたエルフ族の小人は、珍しく言葉を紡ぐ。その布に纏わる事情を話し、微笑む赤子の肌が出ないようにもう一度布で包み込んだ。

 テドンの特産と言えば、ここ数年で立ち上がった事業である『絹』である事は間違いない。

 それは奇しくも、微笑む赤子の親であり、先程息を引き取った女性とその夫が生み出した物。そんな布に包まれた赤子は、声を上げながら微笑みを浮かべていた。

 

 

 

「お前の母親にはああ言ったが、私のようなホビットが『人』の子を育てる事は出来ない。私が育てたとなれば、お前は二度と『人』の世に戻れなくなってしまうからな」

 

 先程まではしゃぐように微笑んでいた赤子は、その疲れの為に眠りに就いている。そんな赤子の頬を濡れた布で拭ったエルフ族の小人は、小さな懺悔を洩らした。

 彼はエルフ族の中での少数であるホビット族。更には、その中でも異質の存在と言っても過言ではない者である。

 故に、彼は赤子を手元で育てる事の危険性を考え、闇が支配する中、彼の住処の傍にある<アッサラーム>へと歩を進めた。

 

 木の皮で作成した駕籠に『絹』で包んだ赤子を入れ、町に入ってすぐの場所にある大きな建物の裏口の傍に置く。人間の暮らす場所の知識がないホビットは、その大きな建物を見て、裕福な家だと認識したのだ。

 裕福な家であれば、不自由なく暮らす事が出来るのではないかという安易な考えではあるが、それがホビットの限界であるのだろう。静かに眠る赤子の顔を覗き込みながら、ホビットは眉を下げ、その傍に文を添えた。

 

「すまないな……だが、これがきっとお前にとって一番良い筈だ。お前の母親のように強く生きろ。お前という小さな存在を心から愛した母親を強く誇れ。そして、幸せに暮らすのだぞ」

 

 最後に薄い髪の毛を軽く触れたホビットは、夜の闇へと消えて行く。夜の闇と砂漠から吹く冷たい風が満たす中、両親の生み出した布に包まれた赤子は、とても幸せな笑みを浮かべながら眠っていた。

 東の大地から太陽が顔を出し始めるまで後僅か。『夜の街』と云われるアッサラームの町にも人影が無くなっていたそんな小さな時間に、その赤子はこの場所へと舞い降りた。

 それは運命に導かれた物なのか、それとも世界を見守る精霊の導きなのか。

 

 

 

「なんだい、これは!」

 

 そして、運命の歯車は動き出す。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

この回の詳しい事は活動報告で語らせて頂きます。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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テドンの村②

 

 

 

 船は真っ直ぐ南へ下り、中央の大陸と東の大陸の境となる半島の間を抜け、右手にムオルの村を見ながら更に南下する。既に、精霊の宿る湖を出てから一ヶ月半が経過する頃、ジパングの町のある小さな島まで船は進んでいた。

 船の位置から見えるジパングの森の葉は青々と茂り、太陽の陽射しを受けて、その輝きを増している。それはまるで、ジパングの町の在り方を示すような輝きであり、リーシャやサラは新たな国主となった自分達よりも年下の少女を思い出していた。

 

「何時か、お前のその剣を返上する為にお伺いしなくてはな」

 

「イヨ様ならば、ジパングの国をより良い国に成さる事でしょう。その時にお伺いするのが楽しみですね」

 

 ゆっくりと過ぎて行くジパングの島を眺めながら呟いたリーシャの言葉は、カミュ達の総意であり、サラもまた同意を示す。

 カミュの持つ<草薙剣>を返上する事が出来る時が何時になるのかは解らない。何年も先になるかもしれない以上、あの時の少女が国主としての威厳を持つ女性へと変貌を遂げた後である可能性は高い。

 それを我が事のように嬉しそうに語るサラを見たリーシャは、優しい微笑みを浮かべ、そんな二人を見ていたメルエも花咲くような笑みを浮かべた。

 

「寄らなくて良いのか?」

 

「大丈夫だ。このままテドンへ向かってくれ」

 

 頭目の問いかけに答えたのはカミュ。

 ジパングの大地を一瞥したカミュの瞳は、船の進行方向である西の海だった。

 彼の胸の内に何があるか解らない。だが、西の海に視線を向ける前に、目を輝かせて大地を見ているメルエの背中で一瞬の間ではあるが止まった事を誰も知らなかった。

 木箱の上に立つ幼い少女の心は今浮き立っている。カミュとの再会を経て、笑顔を取り戻し、新たな呪文を得て、その力をも取り戻した。

 彼女の前に開ける道は、輝いて見える事だろう。だが、その背中に忍び寄る影に気が付いていたのはカミュだけだったのかもしれない。

 

 

 

「陸が見えて来たぞ!」

 

 ジパングを出てから半月。船はようやく『滅びし村』のある大陸を視界に収めた。陽が陰り始めている夕刻ではあったが、カミュ達は小舟に乗り込み、陸地へと向かって行く。陸地に上がったカミュ達は、その場で休憩を入れる事無く、そのままテドンへの道程を歩き始めた。

 普段であれば、サラやメルエの身体を気遣って休憩を取るカミュが、先を急ぐように前を歩く姿を見たリーシャはその事を不思議に思う。だが、あの夜のカミュの口調を知っているだけに、何も言わずその後を歩いた。

 

「カミュ、またあの鎧のお出ましのようだぞ」

 

「メルエ、下がっていましょう」

 

 森を抜け、平原に出る頃には、陽が完全に落ちていた。

 野営地を探す為に歩いていたカミュ達の周囲を悪意が包み込で行く。そして響き始める音は、一行が何度も聞いて来た音。

 金属が擦れ合い、ぶつかり合うような乾いた音を立てて近付いて来る魔物を見たリーシャは、背中の<バトルアックス>を手に取り、戦闘態勢に入った。

 魔法が効かない相手だという事もあり、サラはメルエを後ろへ下がらせる。

 

「慢心するつもりはないが、この敵程度であれば、私かお前の一人で十分だぞ?」

 

「俺が行く」

 

 姿を表した<地獄の鎧>は一体。鎧の中は空洞であり、現世に残る魂だけがその身を動かしているのだが、その本能はとても攻撃的である。

 現世に残った無念を剣によって晴らそうとでも言うように、標的となった者に向かって剣を振るう。元々魂だけであり、肉体への負荷を考える必要がない分、その力は強大であるのだが、リーシャはその相手は一人で十分だと考えていた。

 そして、それはカミュも同様。

 

「メルエ、大丈夫ですよ。カミュ様に任せましょう」

 

「…………ん…………」

 

 <草薙剣>を抜き放ったカミュは、一気に<地獄の鎧>との間合いを詰めた。

 向かって来るとは考えていなかったのか、<地獄の鎧>の反応は遅い。振り下ろしたカミュの剣を盾で受ける暇はなく、肩口を貫き、左半身に亀裂を生じさせた。

 盾を持ち上げる為の左腕を失った<地獄の鎧>など、カミュの剣を捌く事は不可能。次々と繰り出される剣筋を読む事が出来ず、その鎧の傷を増やして行った。

 

「やぁぁ!」

 

 <地獄の鎧>の剣によって弾かれた<草薙剣>を瞬時に戻したカミュは、そのまま<地獄の鎧>の脳天へと剣を振り下ろす。傷ついていた鎧の綻びに入り込んだカミュの剣は、そのまま<地獄の鎧>の被る兜を斬り裂いて行った。

 二つに分かれた兜の下は、予想通りの闇が広がる空洞であり、現世に魂を繋ぎ止める鎧の崩壊と共に溢れ出した魂は、胸を貫くカミュの剣によって、一気に解放された。

 

「よし!」

 

 カミュが一人で<地獄の鎧>を倒した事を我が事のように喜んだのはリーシャ。

 小さく拳を握り締めたリーシャは、傍で不安そうに見つめていたメルエの肩にその手を落とした。

 その手を受けた事によって、カミュが勝利した事を理解したメルエの顔に笑顔が戻る。カミュの許へと駆け出すメルエに苦笑を浮かべたサラも、その後ろに付いて歩き出した。

 

 彼等の力量は確実に上昇している。

 前回の戦いであっても、<地獄の鎧>に負ける事はなかったであろうが、ここまでの圧倒的勝利は有り得なかった筈。それでもカミュは、それを成し遂げた。

 既に人類最高戦力となった彼等は、以前に遭遇した魔物相手に苦戦をする事はないのかもしれない。それ程の力を彼等は有し始めているが、それは、魔物にとっても、そしてそれ以外の生物にとっても脅威となる物なのかもしれない。

 

 

 

 一夜を明かした一行は、再びテドンへの道を歩き出した。

 途中で草花に集う虫達を眺め、目のあった小動物を見つめるメルエを動かす事は容易ではない。その度にサラが苦心し、リーシャが苦笑を浮かべながら窘めるという行為が繰り返された。

 他者との触れ合いを覚え、その楽しさを知ったメルエは、この世界の何もかもが輝いて見えるのかもしれない。だが、そんなメルエの幼い行動に苦笑するリーシャとサラとは異なり、カミュの顔は余り優れなかった。

 

「カミュ、テドンの村は夜にしか活動していない筈だぞ? このまま行けば、夜になる前に辿り着く事になるが?」

 

「あのランプを使うつもりですか?」

 

 陽が真上に昇る頃、サラが見覚えのある景色が広がり始め、その事をリーシャに告げた事で、リーシャはカミュへと問いかける。

 夕暮れ時に辿り着いても、テドンは<滅びし村>の姿のままであろう。カミュの目的は理解出来ないまでも、それが崩壊された村で可能である物ならば、その時に行う事が出来た筈。

 故に、サラは夜にしか行う事の出来ない事をしようとしていると考え、その手段としてあのランプの名を口にしたのだ。

 

「別段、強制的に夜にする必要はない。村の傍で夜になるまで休んでいれば良い」

 

「まぁ、そうだな……」

 

 だが、カミュの返答は極めて当然の物だった。確かに無理に夜にする必要などどこにもない。夕暮れ時であれば、僅か数刻もすれば陽も完全に落ちてしまう。歩き続けている一行が休む時間を作り、陽が落ちるまで待てば良いだけなのだ。

 拍子抜けしたように頷きを返したリーシャの表情が面白かったのだろう。手を繋いでいたメルエは、小さな声を出して笑っていた。

 

 やがて一行は、崩れた木の門が立つ村の入口に辿り着く。陽が落ち始めている事により、薄暗くなり始めたその場所は、全てが血痕ではないかと思う程に真っ赤に染まっていた。

 住処にする事も出来ないカラス達が恨めしそうに鳴き声を上げる中、カミュ達は傍にある木の根元に座り込み、<滅びし村>が活動を始めるその時を待つ事にする。眠そうに目を擦るメルエを横にし、自分の太腿を貸し出したリーシャは、その明るい茶の髪の毛を優しく梳いていた。

 

「カミュ様、この村に何があるのですか?」

 

「カミュ、言いたくはないが、今日のお前は少しおかしいぞ?」

 

 メルエの寝息が聞こえて来る頃、太陽の尻尾は大地へと消え、周囲を闇の支配が進み始める。その時、サラがようやくこの場所を訪れた目的をカミュへと問いかけた。

 彼女なりに色々と考えていたのだろう。最近のサラは、まず自分で考えるという行為をするようになった。

 以前に、カミュに指摘された事があるのだが、『解らない事はカミュへ』という考えを未だに捨てないリーシャとは異なり、サラは自分で考え、それでも回答が出ない時にカミュを頼るという事に変化していた。

 

「アンタにだけは、その言葉を言われたくはないな……」

 

「ぶっ!」

 

「サラ……そういえば、最近はしっかりとした鍛錬が出来ていなかったな……」

 

 だが、そんなサラの真剣な問いかけは、彼女が敬愛する姉のような存在と、信じる『勇者』という存在のやり取りによって霧散してしまう。何処となくカミュを案じるような優しさを滲ませたリーシャの言葉は、カミュの溜息混じりの返答よって滑稽な物になってしまったのだ。

 思わず噴き出すサラを一睨みしたリーシャの発言が、サラの時間を止めてしまう。最近では、その力量の上昇から、リーシャと行う鍛錬に付いて行けるようになっていたサラではあるのだが、過去の苦い経験は抜けてはいないのだ。

 

「わ、私は大丈夫です! そ、それよりも、ここへ訪れた理由です。カ、カミュ様、何故テドンに来る必要があったのですか!?」

 

 もはや、先程までの余裕などない。声を荒げて問いかけるサラの姿に、カミュは一歩身体を後ろへと引いた。

 カミュを怯ませる程の迫力を持つサラに、リーシャも怒りの鉾を納める。身動ぎするメルエの背中を優しく撫でながら、リーシャは先日聞けなかったカミュの本音が聞けるのではないかと耳を傾けた。

 雰囲気が和らいだ事に汗を拭いたサラもまた、静かにカミュを見つめ、一つ溜息を吐き出したカミュは、小さな呟きを洩らした。

 

「……はっきりとは言えない……だが……」

 

「……メルエか?」

 

 言い難そうに口を開いたカミュの視線の先には、静かな寝息を立てる幼い少女。

 その視線を見たリーシャは、ようやくカミュの心が見えた気がした。 

 だが、そんな二人のやり取りはサラへは届かない。全く理解出来ないと言っても過言ではないやり取りに首を傾げる事しか出来なかったのだ。

 それでも、リーシャが納得した以上、それ以上追及する事はサラの本意ではない。後は、自分でもう一度考えてみる事なのだから。

 

「わかった。サラ、行けば解るさ」

 

 サラへ向けられたリーシャの顔は笑顔。

 不思議な想いを抱きながらも、サラはリーシャの笑顔に曖昧な笑みを浮かべる事しか出来なかった。

 リーシャには解っているのだ。

 カミュがあのような表情をする時は、何かを恐れている時である事を。

 それでも、彼の大切にしている少女の為にも、その場所へ行かなければならないという事を理解しているからこそ、この場所まで来たのだろう。明確な答えが出て来ていないのも真実と考えて間違いない。

 只々、妹のような少女の為に、彼は既に滅びてしまった村へと向かうのだ。

 

「もうすぐ、陽が暮れますね」

 

「そうだな。おい、メルエ。そろそろ起きよう」

 

 三人が話している間に、太陽の半分以上が大地へと沈んで行っていた。

 リーシャの膝の上で眠っていたメルエは、軽く揺り動かすと目を覚ます。未だに眠そうに目を擦っているが、見上げた場所にあるリーシャの笑顔を見て、小さく微笑んだ。

 目の前に見えていた崩れた木の門が、闇に溶けるように消えて行き、強固な門へと変貌して行く。何度見ても慣れぬ神秘に驚きながらも、リーシャとサラは次々と灯り始める村の明かりに目を細めていた。

 

「……行くぞ……」

 

 完全に村の姿を現したテドンを確認したカミュは、剣の鞘を背中に背負い直し、振り返りもせずに立ち上がる。サラがその後を続き、その手をメルエが握った。

 カミュの不安が何かを理解できていないリーシャは、何があっても動じないと心に決め、<滅びし村>の門を潜って行く。

過去の扉を開くように。

 そして、未来へ続く懸け橋を渡るように。

 

「ようこそ、テドンへ」

 

 村の門を潜るとすぐに、近くに居た村人から声を掛けられた。

 時間が繰り返されている村ではあるが、夜の間だけ時間は進んでいる。歓迎の言葉を掛けた人間は、カミュ達の容姿を覚えていたのだろう。久しぶりに出会った友人への挨拶のような言葉を交わし、そのまま村の奥へと歩いて行った。

 リーシャもサラもこの神秘を目の当たりにするのは初めてではないが、何度見ても慣れぬ光景に唖然とした表情を浮かべる。その様子が可笑しかったのか、メルエは柔らかな笑みを浮かべ、サラの腰に抱き付いた。

 

「カミュ、何処へ向かうんだ?」

 

「あっ!? メ、メルエ、行きましょう」

 

 時が動き出したリーシャが、テドンの村の何処へ向かうのかを問いかけるが、何も語らずに歩き出したカミュを見て、サラは慌ててメルエの手を取る。カミュは何処へ視線を動かす事無く、唯一点を見つめて歩を進めていた。

 その場所をここにいる誰もが知っている。特にメルエにとっては、不思議な感情を持って見上げていた建物であった。

 何故自分が気になるのかが解らない程に曖昧な物ではあったが、その建物は、何故かメルエの心を縛りつけていたのだ。

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 その建物の戸の前に辿り着いたカミュは、その戸に掛けられている金具を叩く事無く、メルエの名を呼ぶ。通常であれば、他人の家屋へ訪れた際には必ず金具を叩き、仮面を被るカミュにしては珍しい行為。だが、リーシャもサラも、そんなカミュの行動を咎める事はなかった。

 ここに来て、ようやく彼女達はカミュの目的を理解する事となる。

カミュはこの建物を訪れる為だけにテドンへ来たのだ。

 以前に<闇のランプ>を使い闇に覆われたテドンを『試したい事がある』という言葉と共に歩いたカミュは、この建物の戸に<魔法のカギ>を差し込んだ事がある。

だが、あの時、どんな鍵をも開けてしまうと信じていた<魔法のカギ>では開かない扉を見て、カミュは『いずれ、この村に再び訪れる時が来る』という言葉を残した。

 それが、<最後のカギ>を手にした直後に、最優先事項としてカミュが考えていた事なのだろう。

 

「入るぞ」

 

「えっ!? 勝手にですか!?」

 

 乾いた音を立てて開場された扉のノブに手を掛けたカミュの言葉に、サラは我に返った。

 <最後のカギ>と呼ばれる神秘的な道具の力に驚愕していたサラにとって、他人の家屋へ勝手に入ろうとするカミュもまた、驚愕の対象であったのだ。

 だが、その言葉を無視するようにノブを回したカミュは、そのまま建物の中へと入って行く。サラの手を離したメルエがその後を続き、そしてリーシャも中へと入って行った。

 取り残されたサラは、自分の中にある罪の意識を抑え込み、三人の後を追う事となる。

 

 

 

「ようこそ。待っていたよ」

 

 建物の中に入ってすぐ、広い居間が広がっていた。

 暖炉には暖かな火が熾されており、蝋燭などによって、部屋の明かりも灯されている。そんな居間の中心にある机は、数人の家族が共に食事をする事が出来るような大きさを持っていた。

 そして、その机の傍にある椅子は三つ。大きな大人用の椅子が二つに、子供用のような小さな椅子が一つ。小さな椅子は、最近作られた物なのか、他の二つよりも新しく、綺麗な木目を晒している。

 そんな三つある椅子の内の一つ、大人用の椅子に座ってカミュ達の方へ視線を向けていた男性が徐に口を開いた。

 

「……待っていた?」

 

「あ、あの、申し訳ございません。住まわれている方がいらっしゃるとは知らず、勝手に入ってしまいました」

 

 そんな男の言葉にカミュは訝しげに眼を細めるが、最後に入って来たサラは、人が住んでいた事に驚き、反射的に頭を下げてしまう。確かに、この状況ではカミュ達が悪であろう。他人の住処に許可なく立ち入ったのである。しかも、施錠してあった扉を無断で開錠してとなれば、言い逃れなど出来る筈がない。

 だが、そんなサラの謝罪を聞いた男性は、柔らかな笑みを浮かべて、首を横へ振った。

 

「僕は、君達を待っていた。いや、正確に言うのならば違うのかな……」

 

 男性は、カミュ達を待っていたと口にした後、少し困ったような表情を浮かべ、小さく溜息を洩らす。その言葉の意味をリーシャもサラも理解出来ない。何が『違う』のかが解らないのだ。

 それが『待っていた』という事に対してか、それとも『君達』という部分に対してなのか。

 首を捻るリーシャの横で、カミュだけは真っ直ぐ男性の瞳を見つめていた。

 

「……おかえり……メルエ」

 

 暫しの空白の時間の後、男性は意を決したように口を開く。その言葉にリーシャとサラは目を見開き、突如名を呼ばれたメルエは、カミュのマントの中へと隠れてしまうが、唯一人、カミュだけは静かな瞳を浮かべ、男性を見つめていた。

 男性の言葉の中に出て来た名は、彼等がロマリアの森で出会い、共に旅をし、誰よりも大事に思う者の名。この村で知る者などいる筈のない名であり、同じ名を持つ者がこの世界に居るとは思えない珍しい名でもあった。

 

「メルエ」

 

「…………」

 

 カミュのマントの中へ隠れてしまった幼い少女を見た男性は、苦笑に似た哀しい笑みを浮かべる。その顔を見たカミュはマントを開き、中にいるメルエを促した。

 それに驚いたのはメルエであろう。絶対的な保護者であるカミュが、安全な場所へと逃げ込んだ自分を晒すとは思わなかったのだ。だが、不安そうに眉を下げたメルエに向かってカミュが向けたのは、優しげな笑みだった。

 その笑みは、この三年近くの旅の中でもリーシャやサラでさえ見た事のないような物。心からの安心感を与えてくれるような、正に『月』が照らすような優しい光であった。

 

「カミュ、どういう事だ……?」

 

 堪らず問いかけるリーシャの言葉に応えずに、カミュはメルエの小さな背中を軽く押し出す。カミュの笑みを見たメルエは、先程まで下げていた眉を上げ、真っ直ぐ男性へと視線を移した。そして、そこで不思議な光景を目にする。その男性が浮かべている物も、メルエがこれまで見た事のない優しい笑みであったのだ。

 それは、この幼い少女が依存するカミュやリーシャ、そしてサラとも異なる笑み。それが何かをメルエは理解出来ないのだが、それでも何故か無条件で自分を包んでくれるようなその笑みに、心が温かくなって行く。

 そして、怯えるように進めていた歩は、小さな変化を起こした。

 

「おかえり……おかえり、メルエ。本当に、よく……よく生きていてくれたね」

 

「…………むぅ…………」

 

 自分の近くへ寄って来る小さな身体を、男性は待ち切る事が出来なかった。

 椅子を蹴るように立ち上がった男性は、そのままメルエを抱き締める。強く、優しく、そして暖かく包まれたメルエは、何が何やら理解出来ず、唸るような声を上げるが、その男性のすすり泣く声を聞き、唸り声を止めた。

 不思議と嫌ではないその温もりに、メルエは瞳を閉じる。瞳を閉じた瞬間に吸い込まれてしまうような感覚を覚えたメルエは、何故か込み上げて来る喜びに戸惑っていた。

 

「カミュ、説明してくれ」

 

「……おそらく、メルエの本当の父親だ」

 

「えっ!? ど、どういう事ですか?」

 

 もはや、懇願にも近いリーシャの問いかけに、カミュは静かに答えを口にする。それを聞いていたサラでさえも驚愕するその事実に、リーシャは驚きの表情と、声にならない喜びに震える事となった。

 このテドンにいる以上、目の前の男性は死人である。夜が明けて、太陽が昇れば、この場所は只の廃屋となる事をリーシャもサラも知っていた。

 故に、メルエの本当の父親がここにいる神秘よりも、その哀しみが彼女達の胸を襲っていたのだ。

 

「昼にこの場所を訪れた時を憶えているか?」

 

「ああ、お前がすぐに出て来た時の事か?」

 

 長年の募る想いを吐き出すようにメルエを抱き締め続ける男性を見つめながら、カミュは静かに語り出す。リーシャは、カミュの言葉を聞き逃さぬように耳を傾け、既に涙腺が崩壊し始めたサラは、霞む視界を何度も擦り、カミュへと視線を移した。

 一度目にテドンを訪れた時、カミュは廃屋となったこの場所を一人で入っている。その時の事を言っているのだろうと考えたリーシャは、小さく頷きを返した。

 

「あの時、壁に血文字が残されていた。それがこの家の住人が書いた物なのだとしたら、ここへ夜の内に来るべきだと考えた」

 

「それが、メルエの事だったと言うのか?」

 

 リーシャの問いかけは、小さな頷きによって返された。 

 その内容こそ、カミュは口にしない。それを口にしても仕方がないと思ったのか、それとも口にするのも憚る程に凄惨な物だったのかは解らない。だが、それをカミュが口にしない以上、リーシャ達が知る必要がない物であるのだろう。

 だからこそ、リーシャとサラは何も言わず、抱き合う二人を静かな優しい瞳で見つめるのだった。

 

「君達にもお礼を。メルエを護ってくれてありがとう」

 

「いえ。私達がメルエと出会ったのは、二年程前です。それまでは、アッサラームの町で暮らしていたようです」

 

 ようやく顔を上げた男性の謝礼に対して口を開いたカミュの言葉は、リーシャとサラを再び驚愕の淵に落として行く。

 アッサラームの町でメルエが受けた物は、虐待と言っても過言ではない。いや、虐待としか言いようがない物である。最後には奴隷として売り飛ばされたメルエからしてみれば、本当にカミュ達こそが保護者であり、あの義母には恨み以外を持っていないかもしれない。

 それでも、カミュは何の躊躇いも無く、アッサラームにいた事を口にしたのだ。

 

「アッサラームに……? そうか、彼女は辿り着けなかったのか……だとすれば、彼女もまたあの時に……。アッサラームでメルエを育ててくれた人にも感謝をしないとな」

 

「…………」

 

 カミュの言葉で、男性は自分の妻の最後を悟ったのであろう。とても哀しい瞳を見せ、呟くように懺悔を洩らす。しかし、すぐに抱き締めていたメルエの瞳を見て、優しげな笑みを浮かべた。

 最愛の娘を育ててくれた人間に対して感謝する事は当然の事なのだろう。だが、その言葉を聞いたメルエの表情は、氷のように冷たい物へと変わっていた。

 この男性は、決して思考が遅い方ではない。この小さな村で新たな事業を立ち上げ、それによって富を築く事が出来た可能性を持つ者。

 故に、メルエのその瞳を見て、大方の事は察したのかもしれない。

 

「メルエ、そこでどんな事があったのかは解らない。だが、こうして私達が出会えたのは、メルエが生きていてくれたからだ。僕は、僕と彼女の宝とまた出会える事が出来る機会を作ってくれた物全てに感謝しているよ」

 

 先程まで冷たかったメルエの瞳は、困惑の色に変化して行く。メルエはまだ、この男性が自分にとって、何であるのかを理解していない。いや、例え理解していたとしても、愛情と言う物を知らないメルエに父と母という概念はないだろう。

 そこに見える物は、自分に対しての好意のみ。自身に笑みを向けてくれる者を無条件で信じ込む幼い心だからこそ、この男性をまずは受け入れたに過ぎないのかもしれない。

 

「そうだ! メルエの誕生日を祝っていませんでした」

 

「ん? お、そうだな。確かに、私達とメルエが出会って二年が過ぎたな。よし、私が料理を作ろう。今日は盛大に祝おう」

 

 二人の対話を聞いていたサラは、話題を変えるかのように、一際大きな声で提案を口にする。それを聞いたリーシャは、サラの思惑を理解し、優しい笑みを浮かべながら腕を捲った。

 ジパングからランシールへと向かう船の中でサラとメルエの誕生日を祝ってから既に一年が過ぎようとしている。ランシールからエジンベアへ向かい、そこでカミュ達は予想だにしなかった危機を迎えた。

 その危機を乗り越え、ようやく<最後のカギ>を手にする頃には、時間もまた進み、アリアハンを出発してから三年近くの月日を経過させていたのだ。

 

「お父様も一緒にメルエを祝ってあげて下さい」

 

「…………???…………」

 

 サラの提案と招待を受けた男性は、一瞬顔を歪める。その様子と、サラの言葉の意味が理解出来ないメルエは、小さく首を傾げていた。

 愛する娘の誕生日を祝う事が出来なかった自分を悔やんでいるのか、それとも成長した愛娘の姿を実感したための感動の為なのかは解らない。だが、顔を上げた男性の目には涙が溢れ、満面の笑みを浮かべながら、サラとリーシャへ向けて大きく頷きを返したのだった。

 

「よし、では私は村で食材を買ってこよう」

 

「えっ!? この村の食材で調理するつもりですか?」

 

 『父』という言葉を理解出来ないかのように、不思議そうに首を傾げるメルエを見ながら、リーシャは荷物を置いて外へ出ようとする。それに驚いたのはサラだった。

 確かに、このテドンは<滅びし村>。

 朝になれば、全ての建物は崩壊し、泉は毒沼と化すような村の中で売っている食材を調理して食す事が、果たして安全なのかと問われれば、サラは否としか答える事が出来ない。

 『誕生日を祝おう』と提案したのはサラであるが、その食材や料理にまで気が回らないのは、料理をした事のないサラならではの事であろう。

 

「今更何を言っている? 以前にこの村を訪れた際に、サラだって宿屋で食事をし、湯浴みもして眠っている筈だぞ。それに、今サラが着用している<魔法の法衣>とて、この村で購入した物だろ?」

 

「そ、それはそうですが……」

 

「ああ、やはりそれは<魔法の法衣>なのか……懐かしいな」

 

 リーシャとサラのやり取りに笑みを浮かべるメルエの頭を優しく撫でていた男性は、サラの着用している法衣を見て、懐かしそうに目を細める。

 この法衣は、彼の妻であり、メルエの母親である女性が作成した物。

 それを男性の口から聞いたカミュ達は、その数奇な結びつきに素直に驚いた。彼等が出会った全ての人が彼等の旅と繋がっている。そう信じてしまうような事実に、サラの胸の中に湧き上がったのは喜びであった。

 

「メルエのお母様は凄い方なのですね。このような特殊な法衣を編む事が出来る方など滅多にいませんよ」

 

「…………???…………」

 

 だが、サラが発した賞賛の言葉も、メルエには届かない。いや、届かないのではなく、理解出来ないのだ。

 こう考えると、メルエはあの義母の事も母親として認識していなかったのかもしれない。ただ、同じ家で暮らす者。絶対的な権力者であり、逆らう事が出来ない者。そういう認識でしか、あの義母を見ていなかったのだ。

 哀しい事ではあるが、それが事実なのだろう。

 

「しかし、料理の方は大丈夫なのかな?」

 

「私は料理が得意なんだ」

 

「調理という得意分野を取ったら、只の乱暴者にしかならないだろうな」

 

「ぶっ!」

 

「…………リーシャ………ごはん……おいしい…………」

 

 哀しそうに眉を下げたサラを見たメルエの父親は、話題の方向を変える。その言葉を聞いた各々が、それぞれに勝手に言葉を発した。

 自分の特技を誇るリーシャに対し、本心とは思えないカミュの皮肉。

 それに対して噴き出してしまったサラに、我関せずと自分の想いを口にするメルエ。

 それは、先程までの微妙な空気を瞬時に変化させて行く。まるで昔からの知り合い同士であるかのような和やかな空気に父親の顔にも笑顔が浮かんだ。

 

「そうか、メルエは彼女と同じだね。彼女も料理が好きと言うよりも、美味しい物を食べるのが好きだったから」

 

「…………ん………リーシャ………おいしい…………」

 

「メルエ、その言葉だとリーシャさんを食べてしまったようですよ」

 

「メルエは私を食べるのか!?」

 

 何とも言えない不思議な空気が流れる中、リーシャとサラはテドンの村へと買い物に出かけ、必然的に家屋の中には、カミュと父親とメルエの三人となった。

 カミュから口を開く事はない。父親の膝の上に乗ったメルエは、満面の笑みを浮かべながらカミュを見ている。カミュがここを訪れた理由は、情報収集のためではなく、メルエのこの笑顔が見たかっただけなのかもしれない。

 静かに過ぎて行く時間の中で、メルエの髪を優しく梳いていた父親が口を開いた。

 

「君達は、旅をしているのかい?」

 

「……はい……」

 

 カミュの方へ視線を向ける事無く呟かれた父親の問いに、カミュは少し間を空けてから口を開く。

 カミュ達の旅は『魔王討伐』の旅。

 カミュの言葉を借りるならば、それは『死』への旅。

 『魔王バラモス』の討伐を目的にしてはいるが、過去の歴史を顧みると、それが現実的ではない事は、この世界の誰もが知っている筈なのだ。

 そのような旅にカミュ達は幼い少女を同道させている。それを知った時、父親としては何を想うのかをカミュは危惧したのかもしれない。

 

「もう僕達はメルエを護ってあげる事は出来ない……本当に悔しい事だけどね。僕に出来る事は、君達を信じて、メルエを託す事だけだ。僕と、僕の妻の宝物を護って貰う事をお願いしても良いかな?」

 

 その言葉通り、愛娘を宝物のように大事に抱いていた父親の言葉に、カミュは少し間を空けた。

 自身の身体が滅び、どのような神秘なのかは解らないが、奇跡的に娘の身体を抱いているだけの人物の心の中を満たす想い。それはカミュには計り知れない物であったのだ。

 悔しそうに顔を歪め、それでも娘の幸せを願う父親。そんな家族の愛を彼は知らない。

 カミュという個人の幸せを願われた事など、彼には経験がないのだ。どんな時も、誰と接した時も、彼個人を見ていた者はいなかった。

 『世界の平和』、『英雄の遺志を継ぐ事』、『英雄の忘れ形見としての責務』、そんな見えない重圧を生まれた時から背負わされた彼は、生まれたその日から個人ではなかったのかもしれない。

 『人』ではなく、只の『象徴』としての日々。

 それは、彼の心を氷のように凍らせ、鉄のように固めてしまった。

 

「……私達と旅を続けると言う事は、命の危険があると言う事でもあります。ですが、例え私の命が死を迎えたとしても、メルエだけは護る事をお約束します」

 

 だが、その頑なな心も、この三年近い旅の中で変化している。彼をカミュという個人として見る者の登場。それが彼を本当に少しずつ変化させて行った。

 その一石となったのが、父親に抱かれて幸せそうな笑みを浮かべる少女。彼女がカミュを『象徴』として見た事はなかった。

 一人の人間として相対し、まるで兄や父のような愛情を向ける。彼を失いそうになった時は声を上げて泣き、彼と逸れてしまった時は心を壊してしまう程に思い悩んだ。

 そんな少女に誘われるように、彼の周りにいた者達も、只の同道者から、必要不可欠な『仲間』へと変化して行く。その全てが、『人』として生きて来なかった者を、本当の『人』へと変貌させたのだ。

 

「ありがとう。だが、『命に代えても』は駄目だよ。それでは、メルエは幸せになれない。困難な願いだと言う事も解っているが、君もあの子達もメルエと共に生きてくれなければね」

 

 今度こそ、カミュは言葉を失ってしまった。

 父親の願いは実現困難な物と言っても過言ではない。彼等の目標は、『人』では敵わない程の圧倒的な力なのだ。

 彼らよりも経験を持った者達が数多く挑み、それでも志半ばで散って行った程の大望。誰しもが願い、誰しもが夢見る世界は、カミュ達にだけは訪れる事がないのかもしれない。それ程の旅の中でも『生きろ』という言葉に、カミュは答える事が出来なかった。

 

「大丈夫。君達ならば、大丈夫だ。君達は、色々な想いに護られているのだから」

 

「…………メルエ………だいじょうぶ…………」

 

 父親の口から出た魔法の言葉を、メルエは笑顔で繰り返す。サラがメルエに告げる魔法の言葉は、メルエの中にある不安と恐怖をいつも払拭してくれた。だからこそ、不安そうに顔を俯かせたカミュに対し、メルエは口を開いたのだ。

 『不安になる必要はない』、『恐怖を感じる事はない』と。

 カミュからすれば、何が『大丈夫』であるのかが全く理解出来ないだろう。だが、父親の言葉の中にあった一言は、この長い旅の中でカミュが何度も経験している物でもあった。

 認めたくはない、認める訳にはいかないが、それでもそれを否定する事が出来ない現象。それを彼は何度も経験して来た。

 

「……命ある限り、努力してみます……」

 

 それがカミュの精一杯の答えだったのかもしれない。父親の願いは、それを受け入れ、全面的に約束できる物ではない。だが、それでも前を向き、それに向かって歩む事を誓ったのだ。

 それは、カミュの心の明確な変化だった。

 今までは、どれ程仲間達を頼もしく思っても、どれ程にメルエを大事に想っても、彼の中では何れ訪れる『死』と言う物は、避けられない物であったのだろう。だが、それは今この時から、抵抗なく受け入れる事の出来る物ではなくなった。

 

「良い鶏肉があったぞ。結構な量を買って来たから、色々と料理ができそうだ」

 

「メルエの好きな果実も沢山買いましたよ。果実汁も作りましょう」

 

 カミュの返答に対して満足そうに父親が頷いた時、カミュの後方にあった扉が勢い良く開いた。

 両手に抱えた食材を誇るように見せる二人に父親は微笑み、カミュは溜息を吐き出す。サラが抱き上げた果物を見たメルエの瞳は輝き、父親の膝の上から降りてサラの持つ果物の一つを両手で受け取り、嬉しそうに微笑んだ。

 食材の調理を始めたリーシャの足下で果物を齧りながら動き回るメルエを優しげな瞳で見守る父親の姿は、サラにとっては何処か懐かしく、そして何処か寂しい物であった。

 

「そうだ。食事が始まる前に、これを君達へ渡しておこう」

 

「……これは……」

 

「緑色のオーブですか?」

 

 部屋の中を鶏肉が焼ける良い香りが広がって行く中、父親は不意に思いついたように、懐から小さな珠を取り出した。

 机の上に置かれた球は、メルエの小さな掌にも納まる程の大きさ。淡い緑色に輝くその珠は、カミュ達が見て来た色違いの物と同様の物だった。

 それを手にしたカミュは、暫しその珠を見つめ、再び父親へと顔を戻す。

 

「それは、僕の妻の祖父から預かった物。もしかすると、君達に必要な物ではないかと思ってね」

 

「メルエのお母様のお爺様?」

 

 父親の言葉に返したサラの言葉は、どこか間の抜けた物だった。

 つまりは、メルエの母方の曾祖父と言う事なのだろうが、それを疑問に思うサラの気持ちは、特別可笑しな物ではない。ここまでの話しで、メルエの母親の事に触れたような会話はあった。

 だが、その祖父という話が出たのは初めてである。更に、この時代となれば、祖父という存在が生存している者というのは、数が少なくなっている。

 『人』の寿命というのは、多種族に比べて本当に短い。ましてや、このような時代ともなれば、成人を迎える事も無く命を終える者も多く、天寿を全うする者の方が少ないのだ。

 

「ああ。僕もよく解らないのだが、彼女はとても高貴な血を継いでいるらしい。そのお爺さんも不思議な空気を纏っている人でね。でも、お爺さんは『呪われた血』とも言っていたな……もしかすると、没落した王家の出だったかのかもしれないね」

 

「メルエは、王族だったのですか!?」

 

「…………メルエ………おう……ぞく……ちがう…………」

 

 メルエの母親やその祖父について語る父親の言葉に、サラは驚きの声を上げてしまった。しかし、その言葉を聞いたメルエは、『むぅ』と頬を膨らませ、否定の言葉を口にした後、『ぷいっ』と顔を背けてしまう。

 幼いメルエには王族という言葉の意味が理解できていないのだろう。何か、自分を別の物に変えてしまうようなサラの口ぶりが気に入らなかったのかもしれない。

 そんなメルエの姿に、台所から料理の皿を持って来たリーシャは苦笑を洩らした。

 

「そうだな。メルエはメルエだ」

 

「…………ん…………」

 

 再び父親の膝の上に乗ったメルエは、リーシャに向けて微笑んだ後、手にしていた果物を頬張る。いつもならば、他者の傍にいるよりもカミュやリーシャの傍にいたがるメルエが、この時は父親の傍を離れなかった。

 言葉の示す意味を理解せずとも、彼女はこの男性を保護者として認識したのだろう。絶対的な保護者であり、無償の愛を与えてくれる人間として。

 

「何にしても、これで二つ目のオーブか……」

 

「えっ!? 三つ目ですよ」

 

「…………みっつ…………」

 

 メルエの母親とその祖父についての話が一段落したところで、カミュは<グリーンオーブ>を手にしたまま、言葉を洩らす。しかし、カミュの認識とサラ達の認識は異なっていた。数が一つ異なっているのだ。

 不思議な事を言い出したとでも言いたいようなサラの表情に、メルエも同調する。自分の肩から掛けられたポシェットの中に入っている二つのオーブを机の上に出すメルエの行動を見たカミュは、若干の驚きを表情に出した。

 

「私達がお前と逸れた際に、その<レッドオーブ>を手に入れたんだ」

 

 台所から何品目目になるか解らない料理の皿を持って来たリーシャは、机の上に置かれたオーブを除けるように皿を置く。良い香りが立ち上る料理の数々に、先程までオーブを見ていたメルエの視線が固定された。

 嬉しそうに微笑むメルエの頭に手を置いていた父親も、その表情を見て笑顔を浮かべる。カミュの持っていた黒胡椒の粒を使った鶏肉料理は、香ばしい香りを発し、そこにいる全員の食欲を刺激していた。

 

「その辺りの詳しい話は後だな」

 

「そうですね。メルエの曾お爺さんが、何故オーブを持っていたかを考えても、今の私達には解らないでしょうから」

 

 メルエの誕生を祝う席で、しかもこれ程の豪勢な料理が並ぶこの時間に、そのような堅苦しい話をする事は無粋である。それは、ここにいる全員の総意であった。

 三つのオーブをメルエのポシェットへ入れさせ、全員が席に着く。子供用の席にメルエを座らせようとしたが、それを嫌がるメルエを見て、全員が笑い声を上げた。

 足りない椅子は、傍にあった物で代用し、全員が揃ったのを確認したリーシャが、開会の言葉を口にする。

 

「今日の料理は自信作だ。では、メルエをこの世に生んでくれたご両親へ感謝を。そして、メルエと父君との再会を祝して!」

 

「おめでとう、メルエ!」

 

 リーシャの掛け声を機に、全員が杯を天へ掲げる。

 この世にメルエという少女を送り出してくれた神と精霊への感謝の為。

 そして、優しく強い、この少女を誕生させてくれた両親への感謝の為。

 何より、ここまでメルエが生きて来るために護ってくれた様々な出会いへの感謝の為に。

 杯がぶつかる乾いた音が、広くはない部屋に響き渡る。皆の笑顔に囲まれたメルエは、心からの喜びを示すように、花咲くような笑顔を浮かべていた。

 祝宴はたくさんの笑顔を生み出す。中心にいる少女の笑みが伝わったかのように、皆が笑い、皆が喜ぶ。カミュでさえも優しい笑みを浮かべ、料理を口にしながら、皆の話に耳を傾けていた。

 メルエと出会ってからの様々な出来事は、サラの口から、時にはリーシャの口から語られ、それを聞いている父親は、涙を浮かべながらも笑みを作り、笑っては泣き、泣いては笑う。

 そんな楽しい一時は、永遠に続くかのようだった。

 

 

 

 しかし、楽しい時は、やがて終わる。

 食卓に並んだ数多くの料理が無くなる頃、父親の膝の上で笑っていたメルエは、ゆっくりと舟を漕ぎ出す。

 既に意識はこの場所にはないのだろう。大きく揺れ、意識的に頭を戻しても、すぐにまた頭を揺らし始めていた。

 幸せな時程早く終わるのかもしれない。メルエが眠ってしまった事によって、明るく楽しい祝宴は終わりを告げた。

 

「君達には本当に感謝しているよ。あの珠は、私の願いを聞き遂げてくれた。もう一度メルエに会わせてくれた。あの珠と君達には、何度感謝の言葉を言っても限がない」

 

「オーブが願いを叶えてくれたのですか?」

 

 メルエを抱き締めながら、父親は深々とカミュ達へ頭を下げる。だが、父親の言葉に、サラは疑問を投げかけた。

 『精霊ルビスの従者』を蘇らせると云い伝えられているオーブが、個人の願いを聞き入れるという事を不思議に思ったのだろう。だが、サラの隣にいたリーシャは、その言葉に納得したように何処か感激したような表情を見せていた。

 『人』の願いを聞き入れるオーブとその恩恵を受けてこの場に存在する死人。それは神や精霊と『人』を結びつける。それが、人類最高峰の実力を有する者達ばかりが集まったパーティーの中で、一際『人』としての部分を残すリーシャだからこその想いなのかもしれない。

 

「僕は、確かにこの場所で死を迎えた筈。その時に考えていた事は……メルエの事だけだった。メルエの母親である彼女の事でも、自分の事でもなく、『メルエの幸せ』と『もう一度メルエと会いたい』という事だけだったと思う。そして目が覚めた時、またこの場所にいた……」

 

 父親の独白にリーシャは声を詰まらせた。

 亡き父親の面影を見たのかもしれない。

 リーシャの母親は、彼女が物心の付く前にこの世を去っている。彼女が憶えているのは、父親の顔だけなのだ。

 厳しくはあったが、自分を愛してくれていたと自信を持って誇る事の出来る父親もまた、『もう一度リーシャに会いたい』と考えてくれたのだろうかと感じ、熱い想いが胸を襲ったのだろう。

 

「……『呪い』に近いな……」

 

「カ、カミュ様!」

 

 しかし、リーシャとは異なった感想をカミュは持っていた。それは、個人の願いを聞き届けるというよりも、ある意味で呪詛に近いというのだ。

 確かに、この父親の想いに反応したオーブがこの村を夜の間だけ蘇らせていたとすれば、この村で生きて来た人間は、あの凄惨な記憶を失う事が出来る代わりに、永遠とこの村に縛りつけられ、その魂を昇華する事が許されない物となった。

 更にその呪いは生者にも及ぶ。

 この父親の願いによって蘇った村は、ある特定の出来事が起きない限り、その呪いを解く事が無くなったのだ。

 それは、彼が望んだ事の一つである『メルエともう一度会いたい』と言う物。それによって、この世界で生きる『メルエ』という少女の人生にも影響を与えてしまったのかもしれない。

 名はその身体を縛る物。

 その名を持つ者は、その名によって縛られる。名によって、この世界で生きる為の存在を確定させるのだとすれば、その存在はその名前のみによって認識される事になるのだ。

 それは何も他者からの認識だけではなく、自己の認識においても変わりはない。

 

 つまり、今眠りについているメルエがこの場所に辿り着いたのは、只の偶然などではなく、<グリーンオーブ>によって導かれたという事になる可能性が高いのだ。

 それは、幼い少女が辿って来た苦しみも哀しみも、そして何よりカミュ達との出会いもまた、偶然ではなく必然であったという事になる。

 もし、この父親がそのような事を願わなければ、このオーブがそれを受け入れなければ、メルエには今とは異なった人生が待っていたのかもしれない。

 それを『呪い』と言わずして、何と言えば良いのか。

 

「そうだね。この村の人々も、そしてメルエも、僕の勝手な想いによって辛い思いをさせてしまったのかもしれない。君達があの珠を持ってこの村を出れば、この村に掛けられた呪いも解けるだろう。そして、皆も天に還る。もう二度と、この村が夜に灯りを灯す事はないだろうね」

 

 寂しそうに、そして何かを後悔するように目を伏せ、優しくメルエの頭を撫でる父親の姿は、カミュの名を叫んだサラの胸を痛めた。

 何故、魔物がこの村を襲ったのかは未だに解らない。この父親の言うように、メルエの母親が高貴な存在であったとしても、この世界に数多くの国家が存在し続けている以上、この村だけが襲われる理由はないのだ。

 それ以外に何かの理由がある筈。サラの胸に、再び疑問が湧き上がるが、その疑問は小さく消えて行く。サラの中で、その謎は既に謎ではないのかもしれない。

 

「カミュ、私はメルエとの出会いを『呪い』とは思わない。だが、もし私とメルエとの出会いを、あの<グリーンオーブ>が導いてくれたのだとしたら、私はその事を心から感謝する」

 

「わ、わたしもです」

 

 幸せそうに眠るメルエを見ていたリーシャは、誇らしげに胸を張り、晴れやかな宣言を告げる。そんなリーシャの言葉を聞いたサラは、頼もしさを感じながら優しい笑みを浮かべて同意を示した。

 例え、この村の住人達の安寧を邪魔する『呪い』だとしても、『メルエ』という名で縛られた少女との出会いを悲劇とは思わない。例え、幼い少女の人生が今よりも幸せな物だったとしても、今この時にメルエと共にいられる事を幸福と感じている。

 そう、彼女達は胸を張って宣言したのだ。

 

「ありがとう。君達と共にメルエが歩める事を、僕も嬉しく思うよ」

 

 二人の宣言を胸の奥へ納めた父親は、代わりに溢れ出す涙を抑える事が出来なかった。

 止め処なく零れ落ちる涙は、嗚咽を呼び込み、父親はメルエの髪に顔を埋めてしまう。カミュはそれ以上、何も言う事無く、天井へと顔を向けた。

 優しい笑みを浮かべたままのリーシャは、机の上に並べられていた空の皿を手に取り、台所へと向かって行く。目に浮かぶ涙を拭っていたサラもまた、リーシャを手伝う為に何枚かの皿を手にとって台所へと消えて行った。

 

 

 

「すっかり遅くなってしまったね。まだ宿屋には入れると思うから、君達は宿屋へ向かうと良い」

 

 この家屋は陽が昇れば崩壊してしまう。屋根は落ち、壁は崩れ、人一人が中に入る程度の隙間しかない。

 その家で眠ってしまえば、次の日の朝、カミュ達の身体が無事であるかどうかも分からない。以前にこのテドンを訪れた時のカミュ達は、そのような事を深く考えもせず宿屋に宿泊したのだが、この村の昼間の惨状を見た今では、あの宿屋以外で眠る事など出来はしなかったのだ。

 

 リーシャ達の後片付けも終り、皆が居間に集まるのを見た父親が別れの言葉を口にした。

 眠るメルエを抱き上げ、その寝顔を愛おしそうに眺めた後、メルエの身体をリーシャへと託す。まるで娘の全てを託すかのような儀式を受けたリーシャは、厳しく顔を引き締め、大きく頷きを返した。

 父親はカミュ達三人に深々と頭を下げ、感謝を示し、再び上げた表情には、哀しみや後悔は見えない。

 そこにあるのは喜びと希望。

 娘に出会う事が出来た喜びと、娘の未来への希望を見た父親の顔は、雲一つない青空のように晴れ渡っていた。

 

「さあ、行きなさい。君達が歩む先には、希望に満ちた世界が広がる筈だ。メルエを……メルエをよろしく」

 

「はい!」

 

 未練を失くした父親の存在は、先程までとは異なり、とても希薄になっている。大きく返答を返したサラが深く頭を下げる頃、軽く頭を下げたカミュは既に外へと出ていた。

 カミュを追うようにサラが走り去った後、リーシャに抱かれたメルエの髪へと伸びた父親の手は、もうその髪を梳く事は出来なかった。

 歪む顔を見せぬように顔を俯かせた父親に頭を下げたリーシャは、メルエを強く抱きしめながら、扉の外へと出て行く。ゆっくりと閉じられて行く扉の向こうで、満面の笑みを浮かべた父親が手を振り、そして溶けて行った。

 

 

 

 

 テドンの村に朝陽が差し込むと共に、村は<滅びし村>として真の姿を見せ始める。人々の姿は村の大地に溶けて行くように消え、建物は時間を超過したかのように瞬時に倒壊して行った。

 倒壊し果てた宿屋で目を覚ましたリーシャは、砕けた壁の穴から入る陽光を眩しそうに手で遮る。埃っぽい部屋に眉を顰めながら、身に掛かっていたボロボロの毛布を取り、立ち上がったリーシャは一つ伸びをした。

 そして、視界の端に入ったベッドを見て、深く吸い込んでいた息を更に飲み込んでしまう。咳き込むように息を吐き出したリーシャは、そのまま隣のベッドで寝ていたサラを文字通り叩き起こし、宿屋を飛び出して行った。

 

「カミュ様、メルエがいなくなってしまいました!」

 

 宿屋の出口へ向かったリーシャとは逆に、サラは隣の部屋の扉を叩く。中にいる人物は既に目を覚ましていたのだろう。旅支度を整え終えていた姿で出て来たカミュは、サラの言葉を聞いて宿屋の出口へと駆けて行く。その後を追うように、サラも寝間着から着替え外へと飛び出した。

 

 彼らには、一つの『恐怖』があった。

 昨日の父親の話の通りだとすれば、<グリーンオーブ>がこの村の現象を作り出していたとしたら、その『呪い』の中心であるメルエも共に連れて行ってしまうのではないかという『恐怖』。

 アリアハンを出たばかりのカミュ達ならば、そのような恐怖は笑い飛ばす事が出来ただろう。だが、彼等はこの三年に及ぶ旅の中で、多くの不可思議な現象を目の当たりにして来た。

 それらは全て、カミュだけではなく、『賢者』となったサラでさえも理解出来ない物ばかり。故に、彼等はその不可思議な現象へ『畏れ』を抱いてもいたのだ。

 

「メルエ!」

 

 カミュとサラが宿屋の表に出ると、決して広くはない村であった場所に、リーシャの悲痛な叫びが響き渡っていた。

 カミュ達もリーシャと合流し、村の全てを歩き回る。だが、時間を掛けてカミュ達三人が辿り着いた場所は、当たり前の場所であり、まず真っ先にそこへ行かなくてはならない場所であった。

 倒壊した壁には大きな穴が空き、扉は破壊されて中の様子がよく見える。崩れた屋根が床へと落ち、陽光が四方八方から入り込んでいる。

 そんな場所にメルエは立っていた。

 

「メルエ、心配したのだぞ!?」

 

 リーシャが真っ先に駆け寄り、その小さな背中を抱き締める。しかし、自分を後ろから抱き締めるリーシャの存在に気付かないかのように、メルエは唯一点を見つめていた。

 その場所は、昨夜メルエの誕生日を祝った場所であり、メルエにとって新たな保護者が現れた場所。

 理由は解らなくとも、心が温まり、安心感に満たされて行く胸がメルエを突き動かしていたのかもしれない。改めてその場所が何処なのかを理解したリーシャとサラは、何かに耐えるように顔を歪めた。

 

「メルエ、行きましょう。お別れを言って……メルエ?」

 

 メルエの傍に屈み込んだサラは、メルエに向かって言葉をかける。既にあの父親はここにはいない。陽が昇ってしまったこの村には、生き物達の息吹は皆無なのだ。

 永遠の別れとなるメルエとその父親の事を想い、絞り出すように出した言葉にもメルエは反応を返さない。そして、メルエはその手に握っていた自分の背丈以上もある杖を天に掲げた。

 行動を起こしたメルエを見たサラは、一瞬首を傾げるが、何かに気付いたように目を見開き、メルエの行動を止めようと動く。

 だが、それは既に遅かった。

 

「メ、メルエ、その呪文は駄目……」

 

「…………ラナルータ…………」

 

 止めに入ったサラを遮るようなメルエの詠唱が太陽の輝きを奪って行く。メルエが天の支配者である太陽に向けて掲げた<雷の杖>のオブジェの嘴から闇が吐き出されて行った。

 <闇のランプ>が灯した闇のように濃い闇が空を覆って行く。輝いていた筈の太陽はその支配権を失い、瞬時に世界を染め上げた闇は空に巨大な月を浮かび上がらせた。

 目の前に広がった不可思議な現象にリーシャが唖然と空を見上げる。

 

「こ、これは夜なのか……」

 

「……はい……『悟りの書』に記されていた呪文で、<ラナルータ>と言います。私には契約さえ出来ない物でしたが……」

 

 リーシャの呟きにサラが答える。既に周囲は夜の闇が支配していた。

 村の建物は全て昔のままに戻り、家屋の全てに生活の灯りが灯っている。全てが元通りに復元された村の中で笑みを溢しているのは、杖を掲げていた少女だけなのかもしれない。

 悲痛の表情を浮かべたサラの言葉の意味が理解出来ないリーシャは呆然と周囲を見回し、その言葉の意味を理解したカミュは、苦しそうに眉を顰めた。

 

<ラナルータ>

魔族が生み出した闇の道具と同じような効果を生み出す呪文。いや、正確に言えば、その認識は間違っている。魔族が己の時間を取り戻す為に作り出した<闇のランプ>。それに対抗する物として存在したのがこの呪文であるのだ。今となっては誰が編み出したのかは解らない。それが『人』なのか、『エルフ』なのか、それとも『魔物』なのかは誰にも解らない。解っているのは、その契約方法が『悟りの書』と呼ばれる『古の賢者』の遺産に記載されているという事だけ。その呪文は、太陽が輝く昼間を瞬時に闇で包み、闇が支配する夜を瞬時に太陽の輝きで満たすという相反する効果を兼ね備えていた。

 

「あっ! メルエ!」

 

 カミュ達三人が現状を飲み込めないまま立ち竦む中、笑みを浮かべていた少女は、再び復元された建物の扉へと駆けて行く。サラの制止する声に見向きもせず、扉の前に辿り着いたメルエは、肩から下げているポシェットの中へと手を入れ、小さな鍵を取り出した。

 それは、この世界のどんな鍵をも開けてしまうと云われている神代からの道具。懸命に背伸びをしたメルエは、<最後のカギ>と呼ばれる世界に一つしかない鍵を鍵穴に差し込み、その手を軽く回す。乾いた音を立てて開場された扉のノブに手を伸ばし、懸命に引っ張ろうとするが、どれ程懸命になろうとも、メルエの背丈が届かなかった。

 

「…………!!…………」

 

「……行ってみろ……」

 

 メルエの行動に顔を俯かせていたリーシャとサラを余所に、そのノブを握るメルエの手に乗せられたのは、無骨で大きな手。

 幼い少女をここまで護り、少女の心の中で絶対の強者として君臨して来た者の手。

 合わせられた手がノブを回し、扉を開く。開け放たれた扉の奥を見つめながら、カミュは自分を見上げているメルエを中へと誘い、それを見て『ぱっ』と輝くような笑みを浮かべたメルエは、家屋の中へと駆けて行った。

 

「……カミュ……」

 

「メルエには酷だが、もうあの父親はここにはいないだろう。例え世界を闇が支配したとしても、あの父親はこの場所に蘇る事はない。呪いの解けたこの村に……蘇る者達がいないようにな」

 

 心配そうに近寄って来たリーシャにカミュは小さな呟きを返す。

 カミュの言う通り、闇が支配し始めた村に建物は蘇っていたが、昨夜までいた村人達は一人も姿を現してはいなかったのだ。

 メルエの父親の願いを聞き入れたオーブの呪いは、この村で生きていた者達の無念をも汲み取り、この村を再生していた筈。

 だが、呪いの元となる父親以外の村人達の記憶は、村で生活していた頃までの物であり、魂にまで刻まれた筈の無念は表に出ていなかった。

 地上に残る無念は、オーブによる呪いによって吸い取られ、呪いが切れたのと同時に天へと還ったのかもしれない。

 

「メルエは大丈夫でしょうか……ようやく出会えたお父様なのに……」

 

 家屋の中へと入ったメルエはまだ出て来ない。中にいる筈の父親を捜し回っているのかもしれない。

 村の状況を見る以上、カミュの言う通り、村の住民達は誰一人として蘇る事はないのだろう。しかし、あの幼い少女は、生まれて初めて味わった本当の肉親の暖かさを求めて駆け回っている。

 何故、これ程に心が温まるのかをメルエは理解していない筈。それでも、メルエは初めて味わった心地良い感覚を求めるのだ。

 

「……私達は、メルエの家族にはなれないのか……」

 

「……リーシャさん……」

 

 メルエと出会ってから二年以上の時間は、確かに心の絆を作ったとリーシャは考えていた。

 リーシャはメルエを妹のように愛していたし、メルエも自分を慕ってくれていたと思っていたのだ。だが、そんなリーシャ達が築いて来た時間は、初めて出会った父親の温もりに負けた。

 亡くなった父親を愛するリーシャは、メルエのその気持ちが痛い程に解る。だが、それでも哀しみとも悔しさとも言えない想いは拭えない。それは、ここまで常に全員の心の主柱となって来た強き女性の心の叫びだった。

 

「アンタが弱音を吐くとは珍しいな。メルエはアンタの娘ではなかったのか?」

 

「えっ!?」

 

「む、むすめではなく、妹だ! 私はメルエのような歳の子供がいる年齢ではない!」

 

 しかし、そんな女性戦士の心が弱る事を許す程、この世界の『勇者』は優しくはない。口端を上げたカミュの言葉に、先程まで意気消沈の面持ちをしていたサラまでもが顔を上げた。

 リーシャもまた、顔を赤く上気させ、咄嗟に反論を口にしてしまう。その反論が面白かったのか、カミュは再び口端を上げた。

 このようなやり取りも久しぶりであり、二人の様子を見たサラの心にも余裕が生まれる。

 

「そうなのか? アリアハンを出てから三年近くなる。アンタも歳を取った筈だ。そろそろメルエの母親でも遜色ないのではないか?」

 

「なに!? 私が歳を取るのと同じように、メルエも歳を取るだろう! それに、まだ三年しかたっていない!」

 

「ふふふ」

 

 もはや先程までの憂鬱な雰囲気は払拭されていた。そして、雰囲気が一変した三人の許へ、こちらも雰囲気が一変した少女が舞い戻る。先程まで満面の笑みを浮かべていたその顔は、哀しみと困惑に彩られていた。

 家屋の中の全てを探し回ったのだろう。それでも昨夜見たあの優しい顔をした男性は見つからなかった。

 『もう一度頭を撫でて貰いたい』、『もう一度膝の上に乗せて貰いたい』、『もう一度暖かな腕で抱き締めて貰いたい』と、メルエは一人きりで探し続けたのだ。

 だが、奇跡は一度しかないから奇跡なのである。

 

「メルエ、おいで」

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

 手を広げるリーシャをすり抜けて、メルエはカミュの腰に抱き付いた。

 行き場を失った腕を下ろしたリーシャは、恨みが多分に込められた視線をカミュへと送る。先程までリーシャをからかうように口端を上げていたカミュも、メルエの突然の行動によって困惑していた。

 それがリーシャの怒りの炎を多少なりとも鎮めるが、それでも、先程までの掛け合いの怒りがまだ残っている。

 

「カミュはメルエにとって叔父になるのかもしれないな」

 

「ぶっ!」

 

 意趣返しのように言葉をぶつけるリーシャに、サラが思わず噴き出した。

 サラはその言葉の内容に噴き出した訳ではないのだろう。メルエが腰にしがみ付く事で困惑顔をしたカミュを見て抑えていた物が、その緊張感のない言葉で溢れてしまったのだ。

 今度はカミュがリーシャを睨む事になるのだが、それは自分を馬鹿にされた事への怒りではない。今も尚、腰へしがみつくメルエの事を考えずに言葉を洩らしたリーシャへの怒り。

 

「メルエ……メルエの父君は天に還られた。何度も言うが、私はこの先も常にメルエと一緒だ。今は辛いだろう。哀しいだろう。私では父君の代わりにはなれないかもしれない。だが、私もメルエを自分の家族のように愛すると誓う」

 

「メルエは、私にとっても妹同然ですよ。私はいつも一人でしたから……メルエのような妹が出来た事が本当に嬉しかった。私もメルエとずっと一緒です」

 

 カミュの腰にしがみ付いていたメルエが涙で満たされた瞳を上げ、自分を優しく見下ろすリーシャを見た。

 その横には、同じように優しい瞳でメルエを見るサラの顔。二人が話す言葉は、メルエ心を暖かく包み込むような物であり、その瞳もまた、メルエの全てを包み込むような暖かさを有している。

 二人を見上げたメルエの身体は、リーシャの暖かな腕によって抱き上げられた。

 

「私もメルエより少し小さな時に父を失った。いや……メルエの方が私よりもずっと辛いだろうな。だがな、メルエは父君と母君の愛によって護られている。今までも、これからもだ。メルエは、あの強く優しい父君と、同じように強く優しい母君を誇りに思え」

 

「…………ぐずっ…………」

 

 自分の瞳を真っ直ぐ見つめるリーシャの瞳を見ていたメルエは、そのままリーシャの肩に顔を埋める。そのまま、すすり泣くような呻き声を発し、静かな涙を溢した。

 リーシャの手が優しくメルエの背中を叩く。

 『とんとん』と緩やかなリズムで叩かれ、背中から沁み込んで来る暖かさがメルエの心を落ち着かせて行く。溢れる涙は未だに止まる事はなく、それでもメルエの心は温かみで満ちて行った。

 

「メルエがご両親といつかまた出会えるその日まで、メルエの笑顔は私が護ろう。メルエは私の家族だ」

 

 リーシャの肩の上で小さく首を縦に振ったメルエは、もう一度リーシャに抱き付き、そしてそのまま眠りについてしまった。

 心に沁み込む温もりは、メルエを優しい眠りへと誘って行ったのだ。

 メルエの小さな寝息が聞こえても、リーシャはメルエの背中を優しく叩き続ける。

 その心から哀しみや苦しみを追い出すように。

 そして、その心に愛を注ぎ込むかのように。

 

「そうしていると、本当にメルエのお母様のようですね」

 

「サラまでもか!?」

 

 メルエの横顔を眺めながら、優しく背を叩くリーシャの姿は、サラの中に残る母親の姿そのものであった。

 それを思わず口にしてしまうのだが、それを言われた本人はその言葉を許す事はない。メルエを起こさぬように、そして背中を叩く手を止めず、サラへ厳しい視線を送った。

 その視線に身体を跳ねさせ、サラは嫌な汗を掻く。逃げるように後ずさるサラを、メルエを抱いたリーシャが一歩一歩追って行った。

 

「……行くぞ……」

 

「は、はい!」

 

 二人のやり取りに関心を示さず、カミュは踵を返して闇の支配するテドンの出口へと向かって歩き出す。救いの手を差しのべられたかのように、サラはその言葉に反応し、カミュの後を追った。

 眉を吊り上げていたリーシャも、苦笑と共に溜息を吐き出し、メルエを抱いたまま歩き出す。そして、全員がテドンの村の門を潜り終えると、村はその役目を終え、静かに崩れ始めた。

 

 <滅びし村>と呼ばれながらも、夜に蘇る村に掛かっていた呪いは解かれる。

 有りし姿へと戻り、暗く淀んだ空気が村を支配して行った。

 だが、この村に生きていた者達の魂は、その淀んだ瘴気によって彷徨う事はないだろう。

 全ての無念を吸い込まれ、天へと還った魂は、この地に留まる事はない。

 止まっていた時間は正常に動き出し、テドンの村は静かに闇へと溶けて行った。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

描き終わってから気付きましたが、とんでもなく長くなってしまいました。
テドンはいつも長くなってしまいます。
区切る所を考えると、どうしてもこれを二話に分けるのは難しかったので、こうなってしまいました。
読み辛く感じてしまったとしたら、申し訳ありません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ランシールの村③

 

 

 

 テドンの村を出発した一行は、闇夜の中、船に向かって歩を進めていた。

 メルエの唱えた<ラナルータ>という神秘によって、朝を夜に変化させられてしまった一行の身体は眠りを欲してはおらず、火を点した<たいまつ>を片手に先頭を歩くカミュを三人が追いかける形となる。最後尾を歩いていたリーシャであったが、一言も口を開く事無く俯いて歩くメルエの傍に寄り、自然と一行が固まって歩く形となって行った。

 明らかな落胆と失望を身体全体で表すメルエの姿に、カミュは何度も立ち止まり、振り向きながら歩いていたのだが、そんなカミュに告げたリーシャの一言が、彼を再び先頭へと向かわせる。

 

『お前と逸れた時の方が酷かった』

 

 リーシャのその言葉には、カミュでは想像が出来ない程の重みがあり、横に居たサラも悲痛な表情を浮かべた。

 その事が、彼女達二人が感じたメルエの状況を明確に示している。あの時のメルエの心は沈み込むどころではなく、完全に壊れてしまっていた。

 何に対しても反応する事無く、食事を取ろうとしても受け付ける事さえ出来ない。今リーシャの手を握るこの小さな身体も、『心』という視認できない曖昧な物の崩壊によって、跡形もなく崩れてしまう所まで追い詰められていたのだ。

 その事をカミュは知らない。いや、その事実を聞いてはいたが、実感は出来ていなかった。

 だが、今のメルエの状況を見て、それでも『大丈夫だ』と答える事の出来る二人を見て、カミュは初めてその時の苦労を知ったのだろう。

 

「おかえり、目的の物は手に入ったのか?」

 

 それから、一夜を明かしたカミュ達は、ようやく船に辿り着く事となる。カミュ達を迎える船員達の笑顔を見たメルエの表情にも若干の明るさは戻るが、それでも笑みを浮かべる事はなかった。

 目的が達成出来たのかを問う頭目の言葉に頷いたカミュは、次の目的地を告げ、それを聞いた船員達はそれぞれの持ち場へと戻って行く。だが、船に乗ってからも笑みを見せず、哀しそうに俯くメルエの姿は、船全体の空気を重く沈ませて行った。

 

「出港だ!」

 

 頭目の声に合わせる掛け声が響き、帆が張られ、錨が上げられる。ゆっくりと浅瀬を離れ始めた船は、テドンの村があった大陸を背に南へと進路を取った。

 いつもの木箱をいつもとは異なる船尾へと置いたメルエは、その上に立ち、離れて行く大陸を眺める。その瞳に浮かぶ物は、やはり『哀しみ』という感情がとても強かった。

 幼い心に刻まれた傷は、とても深いのかもしれない。カミュ達と出会い、感情を持つようになった少女の心は、喜びと楽しみに溢れていた。

 哀しみを哀しみとして感じる事のなかった人形のような心に色を取り戻させたのは、カミュであり、リーシャであり、サラである。それは、何も感じなくなっていた心に、喜怒哀楽という感情を覚えさせた。

 それは、決して喜びや楽しみだけではなく、哀しみさえも運んで来る物でもあるのだ。

 

「メルエ」

 

 一人大陸を眺める小さな身体は、不意に大きく暖かな腕で抱き締められた。

 メルエの姿に一歩も動く事の出来なかったカミュではない。メルエの苦しみと悲しみを理解して、何を言えば良いのか迷っていたサラでもない。顔を上げたメルエの瞳に映ったのは、メルエを母のように愛する女性戦士であった。

 その顔に浮かんでいたのは、優しい笑み。メルエの心も体も全てを包み込むような暖かな笑みだった。

 

「私もメルエぐらいの歳の頃に、父を亡くした。私もメルエのように、父が大好きでな。本当に辛かった……毎日毎日泣いて、父がくれた剣を振ったよ」

 

 リーシャの瞳は、真っ直ぐ大陸へと向けられている。決してメルエと目を合わす事はないにも拘らず、見上げていたメルエの心に、その言葉は真っ直ぐ向かって行った。

 先程までは、誰の言葉にも虚ろであったメルエの瞳はリーシャの顔から離れる事はない。その一言一言を聞き逃さぬように、小さな耳は心地良く響く声を聞き取って行った。

 

「でも……でもな、メルエ。私の父は、この空の上から私を常に見守ってくれていると思うんだ。だからこそ、父に恥じぬように生きて行こうと考え、剣の腕を研き、そして今も旅を続けている。メルエの父君も母君も、同じ様にこの広い空の上から、愛するメルエの事を見守って下さっている筈だ」

 

 リーシャの言葉はメルエの幼い心へもしっかりと届いて行く。リーシャに釣られるように空を見上げたメルエは、流れる雲の上を見通すかのように、透き通った瞳を見せていた。

 昨夜に見た温かな笑みを、そして未だに見た事のない温かな微笑みを見つめるかのようなメルエの瞳を見下ろしたリーシャは、その小さな身体をもう一度抱き締め直す。

 柔らかく、そして優しく、何よりも強く抱き締められたメルエは視線をリーシャの方へ動かそうとするが、それはリーシャによって遮られる事となる。

 

「私はメルエが大好きだ!」

 

 メルエの柔らかな頬に押し当てられたリーシャの頬は、海風に当たっていても尚温かく、メルエの心へと浸透して行った。

 言葉の脈絡はない。

 先程までリーシャが語っていた話と、今高らかに宣言した言葉に繋がりなど見えない。それでも、リーシャの告げた言葉は、この世に普及しているどんな言葉よりも、この幼い少女の心へ響いて行く。

 

「…………メルエも……リーシャ……すき…………」

 

 呟くように告げられた幼い告白は、その心が動いた事を明確に表していた。

 この言葉を引き出す事は、後ろで見ているカミュにも、サラにも出来なかった事なのかもしれない。『人』として生きる事を許されず、『象徴』としての生き方を刻み込められて来た青年は、親の愛という物を実感した事はない。

 リーシャが語る父親への想いも、メルエが塞ぎ込む原因となった想いも、この哀しい青年には理解が出来ない。

 いや、頭では理解しているのかもしれない。だが、それを心で消化する事が出来ないのだ。

 

 それは、程度の差こそあれ、サラも同様であろう。

 メルエよりも幼い頃に親の犠牲によって生き延びた彼女は、その愛を肌で実感した記憶が乏しい。彼女が両親と過ごした時間は、記憶に残る程の長さはない。

 育ての親であるアリアハン教会の神父に引き取られ、実の親のように愛されては来た彼女は、産みの親を恋しく思う気持ちを理解する事が出来ても、実感する事は出来なかった。

 世界を救う『勇者』として、人類を救う『賢者』として、『人』ではなく『象徴』としての道を歩む二人には、今のメルエの気持ちを動かす事は出来なかっただろう。それは、人類最高の戦力となりつつあるパーティーの中で、最も『人』としての色を残すリーシャだからこその『力』なのかもしれない。

 

「ありがとう。だが、私だけではなく、メルエは多くの人に愛されているんだぞ。父君と母君に愛され、今も見守られている事を、メルエは誇りに思え。そして、いつかメルエがご両親と再び出会える時に、胸を張って笑えるように一生懸命頑張ろうな」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの頬に顔を埋めるように頷いたメルエの呟きは、船を取り巻く風に負けずに、船に乗る全員の耳へと届いて行く。 

 事情を知らないまでも、何かを察して涙ぐむ者、ようやく聞こえた幼い少女の声に笑みを漏らす者、皆様々ではあったが、一様に安堵の空気が船を満たして行った。

 それは、後方で見ていた『象徴』として生きる道を歩んでいる二人も同様である。サラは瞳から次々と零れ落ちる雫を拭いながら、心からの笑みを浮かべ、カミュもまた、小さくあるが、優しい笑みを浮かべていた。

 

「やはり、リーシャさんですね……」

 

「……ああ……」

 

 瞳を拭いながら微笑むサラが溢した言葉は、途中で途切れてしまう。だが、隣に立っていたカミュは、その言葉の続きも理解し、頷きを返した。

 サラが言いたい事は、既にカミュの中でも同様の認識をしていた物。このパーティーの『核』となる者は、あの女性戦士だという事だろう。

 本人は否定するかもしれない。だが、以前ランシールへと向かう船の中でカミュが語ったように、サラもまた、この歪な四人のパーティーの『核』となるのは彼女しかいないと考えていたのだ。

 

 歪な四人を繋ぎ止めたのは、運命なのか偶然なのか解らない出会いをした幼い少女という『楔』なのだろう。

 だが、その後の旅の中で、何度か壊れそうになったパーティーの心を引き戻し、纏めて来たのは、パーティーの中で最も短絡的と思われる女性であった。

 世界を救うと云われる『勇者』ではなく、人類を救うと云われる『賢者』でもなく、皆の心を和ます稀代の『魔法使い』でもない、武器を振るう事しか出来ない『戦士』が、この『人』の集まりを支えている。人類に脅威を齎す『魔王バラモス』にも匹敵する程の戦力を有し始めている者達を、『人』として繋ぎ止めているのは、『人』としての心を残すリーシャなのだろう。

 

「カミュ、少し聞きたい事があるのだが……」

 

 二人が自分の思考に入っている間に、先程までメルエを抱き締めていたリーシャが戻って来た。

 船尾に置いてある木箱の上には、未だにメルエが立っている。小さくなって行く大陸を眺め、時折空へと視線を動かしている姿を見る限り、リーシャの言葉は胸に届いているのだろう。

 昨夜に見た温かな笑みを想い浮かべ、その笑みの行方に視線を向けるメルエの姿は、サラの顔を歪ませる程の哀愁を漂わせていた。

 

「……」

 

「メルエの父親の話を聞く限り、メルエの母親は生まれたばかりのメルエを抱いて逃げている時に魔物に襲われたと考えるのが妥当だろう? 逃げる途中で襲われたのか、逃げた先で襲われたのかは解らないが、それがアッサラーム近郊の森近くだとすれば……」

 

 無言で視線を動かしたカミュの姿に、許可を得たと考えたリーシャは、己の中に湧き上がった疑問をそのまま口にする。

 最後の方は、自信が持てない為なのか、明確に口にしなかったが、メルエがアッサラームで引き取られている以上、あの近くの場所まで母親が逃げた事は正しいと考えるべきである。そして、義母の話の中にあった、劇場前にメルエを置いた者へメルエを託したと考えるのが妥当ではあった。

 もし、母親が劇場前にメルエを置いたとすれば、その傍にメルエの母親の遺体がある筈だからである。

 

「もし……もし、アッサラーム近郊の森付近にメルエの母親が埋葬されていたとしたら……」

 

「そうですね。アッサラーム近郊の森付近で、メルエが『魔法使い』として開花した事も、メルエのお母様のお力があったからかもしれません」

 

 言い難そうに言葉を続けるリーシャを冷たく見ていたカミュの横から、その続きを言葉が紡がれた。

 メルエは、アッサラーム近郊の森から出て来た<暴れザル>という魔物との戦いによって『魔法使い』としての道を歩み始めている。あの時のカミュ達の能力から見れば、圧倒的な暴力と言っても過言ではない程の力の前に、リーシャは気を失い、パーティーは全滅の危機に陥っていた。

 その時に目覚めたメルエの『魔法使い』としての才能は、その近くで眠りに就いていた母親の愛情が支えていたのではないかと、リーシャとサラは考えたのだ。

 

「何もかもを死んだ人間の手柄にされては、本人の努力が無駄になる。アンタは、あの時のメルエの必死な姿を見ている筈だ」

 

 しかし、リーシャ達の考えは、目の前に立つ青年によって、冷たく斬って捨てられる。確かに、あの時のメルエは必死に杖を振っていた。

 皆が寝静まるのを待って、森の奥へ一人で赴き、大木に向かって何度も何度も杖を振るう。それこそ、自分の中にある魔法力が尽き、意識を失うまでの間、杖を投げては拾いを繰り返していたのだ。

 その姿をリーシャもしっかり目撃している。いや、最初から最後まで見守っていたと言った方が正しいだろう。

 

「いや……すまない。確かにあの時のメルエは努力していた。だがな、カミュ……それでも私は、メルエが多くの愛情に護られていたのだと信じたい。そうでなければ、メルエが余りにも不憫だ……」

 

「リーシャさん……」

 

 謝罪の為に下げられたリーシャの頭が上がる事はなかった。

 呟くように告げられた言葉と共に、数滴の雫が甲板へと落ちて行く。乾いた甲板に沁み込んで行く雫は、リーシャの『人』としての感情。自分の身に起きた事を正確に理解出来ず、それでもその温もりを忘れる事が出来ないメルエの頬に触れた時、リーシャは感極まっていた。

 健気に空を見上げるメルエの前で涙を見せる事は出来る訳もなく、その感情を抑えに抑え、ここまで持たせていたのだ。

 その感情が堰を切ったように溢れ出す。吐き出された言葉は、サラの胸に突き刺さり、先程まで凍り付くような瞳を向けていたカミュの表情にも変化を及ばせた。

 

「メルエがこれまで生きて来た時間は、とても苦しく辛い物だったと思う。だが、それでもメルエが生きて来れ、私達と出会う事が出来た事、そしてこの辛く厳しい旅の中でもメルエが笑えている事は、多くの出会いと、大きな愛情があったからこそだと信じたい。メルエは、様々な人達の想いに包まれて生きて来たのだと誇らせてやりたいんだ……」

 

 顔を上げたリーシャの瞳からは、涙が溢れている。この三年近い長い旅の間で、これ程感情を露にするリーシャを、カミュもサラも初めて目にした。

 元々感情豊かな人物ではあったが、他人の前で涙を見せるような事は一度たりともなかった筈。そんな人物が初めてカミュ達に見せた涙が、自分が妹のように愛する少女の為である事は、本当にリーシャらしいとサラは思っていた。

 

「……すまない……言葉が過ぎた」

 

「カミュ様……」

 

 そんなサラの想いも、横にいる青年が素直に謝罪を口にした事で、溢れ出してしまう。視界が一気にぼやけて行き、目の前に立つリーシャの姿が歪んで行く。慌てて目元を拭うが、一度溢れ出した感情は、サラの意志とは関係なく、次から次へと溢れては零れ、甲板を濡らして行った。

 言葉を紡ごうと口を開くが、何故か声にならず、最後は口元さえも抑えなければ、嗚咽が漏れてしまう程になる。それでもサラは顔を上げ、未だに空を見上げては大陸を眺めるメルエの背中へと視線を向けた。

 

「そ、そうですね……メルエは沢山の人達に見守られて生きて来たのですね。私達は、メルエを大事に想って来た人達から、その『想い』を託されたのかもしれません」

 

「……私もそう思う」

 

 必死に紡ぎ出した言葉にリーシャが同調する。静かな風が流れる甲板に、温かな空気を運んで来る。それは、メルエの生還を喜ぶ『想い』の欠片なのかもしれない。数多くの『想い』に導かれた少女は、今は自分を何よりも大事に考えてくれる三人の傍にいる。

 今自分の頬を撫でる風は、次代へと繋がる『想い』の受け渡しなのかもしれないと感じたサラは、不意に口を開いた。

 

「もしかすると、メルエをお母様から託されたのは……いえ、これは推測ですね」

 

「ん? 何だ、サラ? 最近のサラは、大事な事を言い淀む癖があるな」

 

 不意に口を吐いた言葉は、理性を取り戻したサラ自身によって留められる。『賢者』となり、以前よりも自身で考える事を優先するようになったサラは、リーシャの言う通り、自分の中で納得してしまうようになっていた。

 自分の中で消化し、自分の中で解決してしまう。一人で答えを出せる事を安直に口にしないようになったと言った方が良いだろうか。その為、失言は減ったが、周囲には釈然としない想いを残してしまう結果となってしまっていたのだ。

 

「い、いえ……これは、本当に推測での話ですし、安易に話して良い物でもないと思いますので……」

 

「そうか? まぁ、サラがそう言うのならば、深くは聞かない事にしておこう。だが、何時かは話してくれるのだろう?」

 

 先程まで涙で濡れていた瞳は既に乾き、訝しげに見つめるリーシャの視線を避けるように首を背けたサラは、言い訳のような言葉を発する。

 それは、他人が聞けば、とても納得が行かない程の苦しい物ではあったが、リーシャは深く追求する事も無く、サラが自分の中で結論が出た時にでも話してくれるのだろうと受け入れた。

 その問いかけに頷きを返したサラを見て、リーシャは優しく微笑み返す。

 

「……話したところで、アンタに理解できるかどうかは解らないがな……」

 

「なに!? ど、どういう意味だ!」

 

「ぷっ!」

 

 しかし、そんな和やかな空気は、口端を上げた一人の青年の呟きに吹き飛ばされる。どう考えても、カミュの言葉が本心ではない事を理解しているサラは思わず噴き出し、瞬時に血を登らせたリーシャが噛みつくように声を荒げた。

 『人』の心の機微だけは、卓越した理解力を示すリーシャだが、この青年のからかいだけは、その言葉自体を鵜呑みにし、激昂する。それがサラには可笑しくて仕方がなかった。

 カミュへと詰め寄るリーシャの背中を見ながら、消え行く大陸を船尾から見つめるメルエの許へサラは移動して行った。

 

 

 

 船はテドンのあった大陸が見なくなる頃から、進路を南東へと変更し、約半月の時間を掛けてランシール大陸へ到着した。

 以前に船を下りていた船員達の言葉を受け、大凡の村の場所を把握した頭目は、村から最短距離となる場所へ船を停める。船着き場ではないその場所からは、小舟を使って上陸するしかなく、数度の往復を経て、今回も船員達の数人をランシールへ連れて行く事となった。

 

「カミュ、速度に気をつけろよ」

 

「わかっている」

 

 以前訪れた時とは別の船員達を連れたカミュ達一行は、通常の半分ほどの速度で南へ歩を進め、ランシールの町を目指す。船員達は、基本的に上陸する事はない。食料の調達や物資の売却などで、近場の集落へ行く時は常にカミュ達と同道していた。

 海の男達とはいえ、彼等も人間である以上、揺れぬ大地は心地良く、カミュ達と共に上陸する事を楽しみにしている者達も多いのだ。

 その順番は、頭目が決める事が常ではあるが、その競争率は高く、船員達の中でその為の駆け引きが行われる程の物だった。

 

「メルエ、行きますよ」

 

「…………ん…………」

 

 海岸の砂浜の上で動き回る小動物を見ていたメルエは、サラの呼びかけに応じ、その手を握って歩き始める。メルエの表情は、テドンの村を出た頃のように沈んだ物ではなくなっている。

 だが、それでも、誰の心をも和ます花咲くような笑みは、未だに鳴りを顰めていた。

 笑顔を浮かべないメルエの手をしっかり握ったサラは、精一杯の笑顔を見せる。その笑みを見たメルエもまた、サラの手を握る力を強めた。

 

「カミュ!」

 

「ああ」

 

 船員達を挟みながら縦に繋がった一行は、順調に南へと歩を進める。その途中に東側に見えた森が近付いて来た時、最後尾を歩くリーシャが先頭のカミュへと声を上げた。

 既に気が付いていたのだろう。カミュは背中の剣に手を掛ける。森の中から見えた影は、以前に遭遇した事のある魔物。山羊とバッファローの間の姿をしている<ゴートドン>と呼ばれる魔物であった。

 見える影は四体。四体の魔物が、森の影からカミュ達を注視ながら身を顰めている。

 一行の間に緊張が走るが、それは前に出たカミュが背中の剣から手を離した事によって霧散して行く事となった。

 

「カミュ、どうする?」

 

「別段、相手をする必要はない」

 

 背中の剣から手を離したカミュを見たリーシャは、行動自体を問いかけるが、それに対する答えは、とても魔物を倒す『勇者』とは思えない程の物。だが、もう一度森へ視線を向けたリーシャは武器から手を離し、船員達を促して南へと移動して行く。サラもメルエの手を引いたまま、カミュの横を通って歩を進めて行った。

 森の中からカミュ達を見ていた<ゴートドン>達は、何処か怯えた雰囲気を出している。四体が固まっているのは、攻撃する為ではなく、自分達の身を守る為のようであり、何時でも逃げ出せるようにしているようにさえ見えた。

 

 全員が自分の横を過ぎた事を確認したカミュは、森の方角から視線を外す事無く、少しずつ後ろへと後退して行く。その間も<ゴートドン>は動きを見せる事はなく、カミュ達の方角を見つめたまま、森の影でその身を寄り添っていた。

 以前であれば、この行動は考えられなかったのかもしれない。カミュ自体は、以前と同様の行動をしただろう。いや、カミュの行動も変化している筈。以前のカミュであれば、他人の身を護るように行動をしていたかどうかは定かではない。それに加え、リーシャやサラがその行動を許す事もなかった。

 それにも拘わらず、全員が同じ意志の下、同じ行動を取っているという事を不思議に感じている人間が誰もいないという現状がとても奇妙な物なのかもしれない。

 

 

 

 そのまま南へ進んで行った一行は、陽が暮れた事を機に野営を行う事にした。

 近場の森の入口で焚き火を熾し、その周囲に座り込んで食事を始める。船から持って来た干し肉を炙り、森の木々から採取した果物を並べる。真っ先に果物へ手を伸ばしたメルエの姿に全員が微笑みを浮かべ、小さな笑みを浮かべたメルエは、果物を口へと放り込んだ。

 この辺りまで歩いたメルエは、ようやく小さな笑顔を取り戻して来ている。

 大きな空の下、広い平原を歩く内に、心の中に溜め込んでいた感情は、少しずつ外へと出て行ったのかもしれない。

 懸命に生きる小さな命へ目を向け、短い生涯を彩るように咲き誇る花々の香りを嗅ぎ、再び感情を取り戻したメルエは、嬉しそうに果物を頬張りながら、ふと視線をカミュの後方へと向けた後、再び果物に口を付けた。

 

「カミュ、何処へ行くんだ?」

 

 メルエの口周りに付着した果汁を布で拭き取っていたリーシャは、不意に立ち上がったカミュに視線を向けて問いかける。その言葉に明確な返事をせず、サラへ一度視線を向けたカミュは、そのまま森の外へと出て行った。

 視線を向けられたサラも、カミュに向かって頷きを返した後、その後を追って森の外へと出て行く。残されたリーシャは、メルエや船員達をこの場所に残す事は出来ない為、この場を立つ事は出来ない。不機嫌そうに厳しく目を細めたリーシャは、二人が消えて行った森の出口を睨みつけていた。

 

「カミュ様、魔物ですか?」

 

「ああ」

 

 森の外へ出たサラは、月明かりの下で剣を抜き放ったカミュを見て、周囲を警戒し始めた。

 あのパーティーの中で自分を選んだという事がサラの中で魔物の襲来を決定付けていたのだ。

 カミュが何かを話すとしたら、相手はリーシャだろう。だが、魔物と戦うとなれば、前線で剣を振るう二人で戦うよりも、前線のカミュと後衛のサラである方が都合が良い。

 カミュがメルエを戦場へ連れ出す事は考えられない為、何時でも呪文が詠唱出来るようにサラも身構えていたのだ。

 

「キキィィィ」

 

 身構えたサラの前方に奇妙な人影が出現した。月明かりに照らされたその顔には、奇妙な仮面が着けられており、踊りを踊るかのように身体を揺らすそれもまた、以前に遭遇した事のある者。死者に祈りを掲げ、その死体を蘇らせる事の出来る『魔族』。

 <シャーマン>と呼ばれるその魔族は、戦闘意志がなかったかのようにカミュ達の前で様子を窺っていた。

 逃げる隙を窺うように見ている<シャーマン>に向かってカミュが駆け出す。既に抜かれている<草薙剣>の剣速は、ランシール大陸でも上位に位置する魔族の想像を超えていた。

 

「キキィィィ」

 

 人語を話す事の出来ない魔族の悲鳴が月夜の平原に木霊する。カミュの剣を完全に避ける事の出来なかった<シャーマン>の片腕が宙に飛び、体液が激しく噴き出した。

 尚も追い打ちを掛けようと剣を振り被ったカミュの耳に、先程とは異なる<シャーマン>の叫びが轟く。それは、以前にも聞いた事のある叫び。安寧を求めて地の底で眠る者達を呼び覚まし、再び現世を彷徨わせる呪いにも近い雄叫びが轟いた途端、カミュの足を掴むかのように地面から腕が飛び出した。

 

「ちっ!」

 

 盛大な舌打ちをしたカミュは、地面から飛び出した腕を避けるように後方へ飛び、口元を押さえるように手を翳す。瞬時に周囲を支配する程の腐敗臭が平原に広がり、暗闇の中で次々と死者が目を覚まして行く。地面から現れる死者の来訪を防ぐ方法はなく、目に染みる程の腐敗臭が完全に周囲を支配するまで、カミュは身動きをする事が出来なかった。

 その間に魔物達の布陣は完成し、カミュは腐敗臭によって溢れ始めた涙で視界がぼやけ始める。

 

「カミュ様、私が呪文を行使します。長引かせれば、こちらが不利です」

 

 しかし、後方から轟いた指示は、とても的確で、とても頼もしい物だった。

 声を出す事の出来ないカミュは、一度横へ逸れた後、腐敗する肉の塊に向かって猛然と駆け出す。不意を突かれた<くさった死体>は、カミュの方へ手を伸ばすが届きはしなかった。

 一瞬の隙を突いたカミュの突進を後押しするように、後方からこの世界で唯一の『賢者』がその力を解放させる。

 

「ヒャダイン!」

 

 吐き気を抑え切れない程の腐敗臭ごと包み込むように、周囲の気温が一気に下がって行った。

 凍り付く空気は冷気となり、カミュを追うように移動を始めていた<くさった死体>の傍を吹き抜けて行く。吹き抜ける際にその身体をも凍りつかせて行く程の冷気は、腐乱死体全てを包み込み、神経さえも腐り果てた体内をも凍り付かせて行った。

 腕を伸ばした姿のまま固まるように凍り付いた腐乱死体を抜けたカミュは、余波を受けて冷たくなった剣を真横に振り切る。冷気を纏った剣は、予想外の出来事に呆然としていた<シャーマン>の胴を斬り裂き、その体躯を真っ二つに分けた。

 

「ベギラマ」

 

 何が起きたのかも理解しないままに絶命し、大量の体液を出す魔族の死体に向けて翳したカミュの掌から熱風が巻き起こる。地面に着弾した熱弾は炎の海を作り出し、魔族の身体を焼いて行った。

 戦闘の終了を迎え、自分の放った<ベギラマ>による熱で身体を覆う氷を溶かしたカミュは、後方に聳える氷像を一体ずつ壊して行く。崩れ行く腐乱死体であった物は、芯まで凍り付いてはいないが、砕く事の出来る程の物になっていた。

 

 それは、サラの成長の証なのかもしれない。

 メルエのように、媒体となる武器で変化する程の魔法力を有している訳ではないが、彼女は世界で唯一の『賢者』である。メルエさえいなければ、この世界で最高の呪文使いと語り継がれる程の実力を有しているのだ。

 魔法力の成長は、その保有者の心の成長に直結している。契約した時に、その魔法の威力は決定してはいるが、自信の成長と共にその力は変化する。<ヒャダイン>という魔法の立ち位置は変わらない。<ヒャダルコ>よりも上位の魔法ではあるが、メルエのように溶岩さえも凍り付かせる程の威力をサラが発現出来る事はないだろう。

 それでもその凍結速度などは変化していた。それは、補助呪文に特化したサラだからこその成長なのかもしれない。

 その精度を高め、緻密性を増して行く。

 見た目の激しさを持つメルエとは違う、サラの特色。

 それが、今回の戦闘で色濃く表れていた。

 

「ベギラマ」

 

 全ての氷像を砕き終えた後、サラが詠唱した灼熱呪文によって、現世を彷徨っていた魂は煙と共に天へと還って行く。胸の前で手を合わせ、祈りを捧げるサラの行為を邪魔する事も無く、カミュもまた、立ち上る一筋の煙を見上げていた。

 

 

 

「カミュ、サラと何処へ行っていたんだ!?」

 

 戦闘を終え、二人が野営地へ戻った頃には、焚き火の周りに居た船員達は既に就寝していた。眠りに就く船員達が寒さに凍えないように火をくべていたリーシャの膝の上では、メルエが眠そうに目を擦っている。

 二人の様子を見る以上、眠らずにカミュ達を待っていたのだろう。二人の帰還に気付いたリーシャが叫び、その叫び声を聞いたメルエが目を見開き、小さな笑みを漏らした。

 

「何か言え! 何処へ行っていたんだ!?」

 

 メルエの小さな笑みに心が和んだのも束の間、再び轟くリーシャの叫びに、カミュは大きな溜息を吐き出し、サラは苦笑を浮かべる。カミュは焚き火を挟んだリーシャの対面に座り、背中から剣の鞘を外し、サラはそのままリーシャの傍によって、微笑むメルエに笑みを向けた。

 だが、先程まで笑みを浮かべていた筈のメルエは、サラが近付いた事によって、眉を顰め、身体を逃がすように仰け反り始める。不思議に思ったサラであったが、次に発したメルエの一言が時を凍らせた。

 

「…………サラ………くさい…………」

 

「ふぇ!?」

 

「何!? お、おい、カミュ、お前はサラに何をしたんだ!?」

 

 嫌そうに顔を顰めたメルエが発した言葉にサラは驚き、リーシャは動揺を示す。逃げるようにリーシャの膝元から降りたメルエは、助けを求めるように、対角線に座るカミュの許へと掛けて行った。

 メルエが離れてしまった事で我に返ったリーシャは、何かを恐れるかのように疑問を口にし、その顔にも徐々に怒りが漲って行く。再び深い溜息を吐き出したカミュではあったが、自分の許へと駆け寄って来たメルエの表情を見て、何度目になるか解らない溜息を吐き出した。

 

「…………カミュ………くさい…………」

 

「カミュ!」

 

 カミュの目の前で顔を顰めて立ち尽くすメルエの言葉が、リーシャの怒りの鎖を引き千切る。

 抑えていた感情は月夜の下で爆発し、周囲で眠っていた船員達をも叩き起こす程の炎を吐き出した。

 リーシャを宥め、事情を説明する為に奮闘する役目を押し付けられたサラはの悲痛な叫びは、死者さえも呼び起こす程の物だったのかもしれない。

 

 

 

 

 翌朝、再びランシールへ向かって歩き出した一行は、陽が暮れる頃にはランシールの村の門をくぐる事が出来た。

 宿屋で一夜を明かし、久々に暖かなベッドで眠る事の出来た一行は、陽が昇ると同時に町の外へと出る事となり、同道して来た船員達は、物資の補給と交易をする為に村の中を歩く事となり、カミュ達とは別行動となった。

 

 船員達と別れたカミュ達は、そのまま村の入口の門付近にある民家の横を抜け、村の北側にある開けた場所へと出る。以前に訪れた時と同じように暖かな陽射しが差し込み、青々と芝生が広がる場所。

 村の喧騒は遠のき、小鳥達の囀りが聞こえ、咲き誇る花々には色とりどりの虫達が飛び交っている。今まで押し殺していた笑みを開放するかのよう笑顔を浮かべたメルエが、その芝生を駆け出した。

 

「ふふふ。メルエ、そんなに走ると転んでしまいますよ」

 

 駆け出したメルエは、芝生に降り注ぐ暖かな陽射しを目一杯受け取るように手を広げ、くるくると回りながら楽しそうに笑っている。久しぶりに見たメルエの笑みに、サラも笑顔を見せ、楽しそうにその行動を窘めていた。

 リーシャは、自分の隣に立つ青年の表情を確認し、そして優しい笑みを浮かべてメルエを見つめる。サラの窘めにも笑顔で頷いたメルエは、芝生に影を作る神殿の傍に立つ大きな木の付近で飛び跳ねる生物を目にした。

 

「…………ぷるぷる…………」

 

 芝生を飛び跳ねる生命体を見つけたメルエは、そのまま一目散にその場所へ駆け寄り、生物と目を合わせるように屈み込む。飛び跳ねていた小さな生物は、その透き通るような青い身体を震わせ、恐る恐るという様子でメルエへ視線を向けた。

 そこで目にした笑みを浮かべるメルエの姿に安堵したのか、解り難い程に些細な表情の変化をさせ、青く透き通る身体を嬉しそうに震わせる。震えるその身体を触るように指を伸ばしたメルエも笑顔を向け、久しぶりの対面を果たした。

 

「あれ? 戻って来たの? <最後のカギ>は見つかったの?」

 

「…………ん…………」

 

 身体を触るように伸ばされたメルエの指を受け入れながら、太古の生物である<スライム>は、メルエに続いて近付いて来た三人に向かって問いかける。

 神代の道具と考えられる程の力を持つ<最後のカギ>という物の情報をカミュ達に与えたのは、この太古の生物であり、最弱の魔物でもあったのだ。

 <スライム>の問いかけに答えたのは、先程まで青く透き通る身体を触っていたメルエであった。

 肩から下がったポシェットに手を入れ、誇らしげに取り出した物は、小さな銀色に光る鍵。

 正確には、鍵とは言えない形をした物ではあったが、メルエの表情を見た<スライム>は、それが<最後のカギ>であると確信した。

 

「よかった……やっぱり、君達は『賢者』の言う通りの人間だったんだね」

 

 身体を震わせた<スライム>は、遠い昔に聞いた名称を口にした。

 その敬称は現代の物ではない。現代に残る唯一の『賢者』であるサラを指す言葉ではなく、『古の賢者』と呼ばれる先代の者を指す事をこの場所に居る誰もが知っていた。

 <スライム>の言葉の中に自分が興味を示す言葉がなかったメルエは、相変わらず<スライム>の身体を突くように触れている。別段嫌がる素振りを見せない<スライム>は、眩しそうに四人の姿を見上げていた。

 

「そうだな。何と言っても、サラは『賢者』の名を継ぐ者だからな」

 

「えっ!? 君も『賢者』なの?」

 

「…………むぅ………メルエも…………」

 

 そんなやり取りの中、まるで自分の事を誇るように、リーシャがサラの肩に手を置く。『賢者』となったサラを誇りに思っている事は事実なのだろう。その事を<スライム>相手であれば口にしても構わないとも思ったのかもしれない。

 だが、そんな紹介の仕方をされては、黙っていない者がいる事をリーシャは失念していた。

 照れくさそうに微笑むサラの姿を恨めしそうに見上げた少女は、<スライム>の身体から手を離し、<スライム>とサラの間に割り込むように立ち上がる。まるで、『サラではなく、自分を見ろ』とでも言うように、<スライム>の視界を遮るメルエの姿に一行は苦笑を浮かべるしかなかった。

 

「メルエは、まだ『賢者』ではないだろ?」

 

「…………むぅ………リーシャ………きらい…………」

 

 メルエを窘めるように口を開いたリーシャを恨みがましく見上げたメルエは、そのまま『ぷいっ』と顔を背けてしまった。

 顔を背けると同時に、メルエの首から下がっている小さなオカリナが乾いた音を響かせる。しかし、顔を背けた先に居たサラの姿を見て、再び顔を背けるメルエの姿が、全員の顔に久しぶりになる心からの笑みを浮かばせた。

 

「それは何?」

 

 一行が笑みを作る中、自分の目の前で乾いた音を立てた物に興味を示した<スライム>がその口を開く。<スライム>の視線は、目の前に立つメルエの首元から下がる物に固定されている。

 『カラカラ』と鳴りながら揺れるそれは、カミュ達が旅の途中で手に入れ、それを使う事が出来る者の首に下げた物。

 <スライム>が自分へ視線を戻した事で笑顔を戻したメルエは、首から下がるそれを手に持って、もう一度屈み込んだ。

 

「…………ふえ………メルエ……ふく…………」

 

「ふえ?」

 

 それを<スライム>に見せるように突き出したメルエは、無い首を傾げるような表情を浮かべる<スライム>に笑顔を向け、それを口元に添える。幾つもの穴に小さな指を当て、息を吸い込んだメルエが『山彦の笛』と呼ばれる楽器を演奏し始めた。

 <スライム>の身体のように透き通った音が神殿の傍にある芝生に響き渡り、曲を奏でて行く。

 その曲はとても短く、とても単純な物。

 だが、それでも心に沁み入るような物であり、先程まで聞こえていた小鳥の囀りさえも、曲の邪魔をしないように鳴りを顰めていた。

 メルエという哀しい過去を持つ少女を想う者の一人が、彼女に唯一教えた曲。

 公に贔屓を出来ない状態にあった劇場の中で、それでも何かしらの事をと考え、与えた技術。それは、まるでその者の想いを乗せているかのように暖かく、そして優しい。

 リーシャの言う、メルエを見守って来た者達の想いが込められた曲は、聞く者達の心に静かに沁み渡り、そして消えて行った。

 

「す、すごいね!」

 

「…………ん…………」

 

 <山彦の笛>を吹き終わったメルエの口が歌口から離れる前に、<スライム>は感動を身体全体で表現する。嬉しそうに飛び跳ねる<スライム>を見たメルエは、満足そうな笑顔を浮かべて大きく頷いた。

 メルエの奏でる曲に聞き入っていたカミュ達も、そんなメルエ達のやり取りを微笑ましく見つめる。だが、そんな幸せな時間の中に居た為か、メルエの曲が終わっても小鳥達の囀りが戻らない事に誰一人気付く事はなかった。

 

「えっ!?」

 

「こ、これは?」

 

 不意に耳に聞こえた音に、サラは弾かれるように顔を上げる。その音は、サラの耳だけではなく、この場に居る全員の耳に届いていた。

 リーシャはその音の発信源を確かめるように首を巡らし、カミュはその音が何であるのかを確かめるように目を閉じる。

 

 それは、先程メルエが奏でた曲。

 <山彦の笛>から全員の心に届いた曲。

 メルエを想う者達の『想い』の込められた曲。

 

 メルエが<山彦の笛>から口を離している事から、発信源がメルエである筈がない。しかも、聞こえて来る音は、カミュ達がいる場所よりもかなり遠い場所から発せられているように微かな響きを持っていた。

 音が鳴り終わった事を確認したカミュが静かに目を開く。

 見つめる先にあるのは、芝生に影を作るように聳える神殿。

 カミュと同じように、この場所に居る全員の瞳が、神殿の入口にある巨大な門へと向けられていた。

 

「この先にオーブがあるのですね」

 

「……行くぞ……」

 

 神殿の奥から曲が戻って来たという事が示す物は唯一つ。

 『精霊ルビス』の従者を復活させると伝えられる六つの珠の内の一つが、この場所に眠っているという事。

 <山彦の笛>という道具の効力を初めて体験した一行ではあったが、これ程明確に同じ曲が返って来たという状況で、その伝承を疑う事はない。

 歩き始めたカミュの後ろをメルエが歩き、神殿を見上げていたサラが続く。興味深そうに飛び跳ねていた<スライム>までもが加わった一行は、神殿への入口を塞ぐ巨大な門の前に移動した。

 

 巨大な門の横にある勝手口のような小さな扉の前へ歩いて行ったカミュがメルエを呼び寄せ、<最後のカギ>を受け取る。鍵穴に差し込んだと同時に乾いた音が響き、数十年閉じられていた扉は呆気なく開錠された。

 長年閉じられていた扉は、カミュが力を込める事によって重苦しい音を立て始める。ゆっくりと押し開かれて行く鉄扉の隙間からカビ臭い臭いが吹き抜け、興味深そうに覗き込んでいたメルエは顔を顰めた。

 完全に開かれた扉の中へとカミュが入って行き、後方で飛び跳ねている<スライム>に別れを告げたメルエ達三人が後に続いて中へと入って行く。

 

「うわぁぁぁ」

 

 カミュ達が中へと入ると、そこは別世界であった。

 <ダーマ神殿>を彷彿とさせるようなステンドグラスを経由した、色とりどりの陽光が床へと降り注いでいる。ステンドグラスに描かれた絵画が影を成し、床の上を闊歩しているかのように映し出され、神殿全体を神秘的な色に染め上げていた。

 サラが感嘆の声を上げ、メルエが息を吐き出していると、神殿の中央から奥へと伸びるように敷かれた真っ赤な絨毯の横にある燭台に火が灯る。

 まるでカミュ達の来訪を待っていたように、歩くカミュ達の先を照らすように順々に灯されて行く燭台を見たリーシャとサラは、その不可思議な現象に驚きを表した。

 

「よく来たカミュよ!」

 

 赤い絨毯の上を真っ直ぐ歩き、神殿の奥へと向かっていたカミュ達は、神殿全体に響き渡る声に足を止める。急な声に驚いたメルエは、最も安全な場所へと潜り込み、カミュ達三人は声のした方を凝視した。

 徐々に灯って行く燭台の火が周囲を明るく照らし出し、ステンドグラスから舞い降りる陽光も加わり、神殿の奥に立つ影を浮かび上がらせる。その者の姿が見えて来るに従って、カミュは瞳を細め、サラは言葉を失ったように立ち尽くした。

 

「カミュと共に歩む者達も御苦労であった」

 

「あ、貴方は……」

 

 神殿の奥へと続く通路を護るかのように立つ者は、人間の姿をした一人の男性。

 カミュ以外の三人に視線を巡らせたその男性は、リーシャの姿に微笑み、サラの表情を見て微笑み、そして最後にカミュのマントの隙間から覗いている幼い少女の瞳を見て、柔らかく微笑んだ。

 サラは、その男性の姿を見た事があった。いや、サラだけではなく、この場に居る全員が、その姿を目にした事がある。今よりももっと朧気に揺れる陽炎のような物であったが、確かに目の前に立つ男性の顔と同じ人物であったのだ。

 だが、それを問いかけるサラの言葉は、男性によって遮られた。

 

「この先の道は、『勇気』と『決意』が試される道。この先へは一人でしか行く事は出来ない。カミュ、覚悟は良いか?」

 

 男性が横へと移動した事によって、奥へと続く通路が露になる。暗い闇に包まれた通路の奥を見る事は出来ず、奥から吹いて来る冷たい風が、人間の心の中にある不安を増長させて行くかのようだった。

 言葉を遮られたサラも、まるで吸い込まれてしまいそうな通路の奥に視線を奪われている。

 

「カミュ」

 

「行くしかないだろうな」

 

 『一人で行かなければならない』というのであれば、それが出来るのはこのパーティーの中で彼以外にはいない。

 リーシャでは、呪文を行使出来ない以上、怪我の回復などの方法はなく、命の危険が高い。例えメルエが膨大な魔法力を有していたとしても、回復呪文は行使出来ず、更には魔法の効力が無い魔物に対しては無力になってしまう。

 最後にサラであるが、呪文に関しては回復と攻撃の両方を行使する事が出来るし、その呪文の数もパーティー内で最も多い。武器を扱う事も出来はするのだが、その武器が頼りなく、その力量もカミュやリーシャには遠く及ばない。魔法が効かない複数の魔物と対峙した際、サラではその魔物達を武器だけで駆逐する事はまず不可能であろう。故に、必然的にカミュが残るのだ。

 

 それ以外にも理由はあろう。

 目の前に立つ男性は、カミュの名前しか口にしていない。

 世界的な『勇者』として旅するカミュではあるが、数十年の間も閉鎖されていた神殿の中に居る男性が知っている筈はないのだ。

 それでも、カミュだけの名を呼び、リーシャ達に語りかける事無く、この奥へ行くかどうかをカミュのみに尋ねている。それは、この場所へ行く事が『勇者』としての使命であるかのように感じる物でもあった。

 男性とカミュとの間だけに流れる空気は他の誰も介入する事は出来ない。リーシャはそう感じていた。

 

「ならば、こちらへ」

 

 カミュの答えを聞いた男性は、カミュを誘うように通路の奥へと歩いて行く。男性の姿が闇に溶けて行った事を確認したカミュは、マントの中でしがみ付くメルエを優しく離し、リーシャへと託した。

 もはや、リーシャやサラには口にする言葉はない。しっかりとカミュの瞳を見つめ返したリーシャが一つ頷くき、カミュもまた、小さく頷きを返した。

 

「…………カミュ…………」

 

「心配するな……すぐに戻って来る。鍵の掛かった扉があった時の為に、<最後のカギ>を貸しておいてほしい」

 

 不安そうに見上げるメルエの頭に手を置いたカミュは、メルエと目線を合わせるように屈み込み、小さな微笑みを浮かべる。月のように優しい笑みは、不安に圧し潰されそうになるメルエの心に柔らかな光を降り注いだ。

 小さく頷いたメルエは、ポシェットの中に手を入れ、先程仕舞ったばかりの鍵を取り出し、カミュの掌の上に置く。優しく撫でるように動かされた手を、目を細めて受け入れたメルエを残し、カミュは通路の奥へと消えて行った。

 

 カミュの姿が完全に闇へと溶けて行ったと同時に、リーシャ達の周囲が暗くなる。いや、実際に陽光は今も尚、眩いばかりの光を神殿内に注ぎ、燭台に灯された炎は赤々と燃えていた。

 それでも、たった一人の青年が消えたという事実が、光を一つ奪ってしまったのかもしれない。

 

「…………カミュ…………」

 

 音と光が消えた神殿の中で、幼い少女の呟きだけが虚空へと消えて行った。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

遅くなってしまいましたが、更新させて頂きました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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地球のへそ①

 

 

 

 月のような輝きを持つ青年が闇の奥へと消えた神殿内は、ひっそりと静まり返っており、その中で立ち尽くしていた三人の女性は、誰一人として口を開こうとはしなかった。

 いや、開こうとしなかったのではなく、開く事が出来なかったのかもしれない。それ程に、彼女達三人の中でのカミュという人間の存在感は大きくなっていたのだろう。

 エジンベア付近に生息する魔物の呪文の影響で逸れてからも既に一年近くの時間が経過している。その時間は、各々の存在の重要性を刻みつける物としては充分な物であったのだ。

 

「どのくらいの日数が掛るか解らないな……先程の男性も戻って来ないし、私達もその辺りに座らせて貰おう」

 

「そうですね。夜になっても戻らないのであれば、一度宿屋へ戻りましょうか?」

 

 まず口火を切ったのはリーシャであった。

 何時までも三人で通路を眺めていても仕方がない。神殿内を見渡し、中央とは離れた場所に設置してある机と椅子の方へ足を向け、その後を続くように視線を向けたサラが口にした事は尤もな事でもあった。

 カミュが向かった先の試練というのが何なのかは解らない。それでも、一筋縄ではいかない事は明白であり、長ければ数日の時間を要するのではないかとさえ、サラは考えていた。

 しかし、そんな二人の行動を認めない者がこのパーティーの中に居る事をリーシャもサラも失念している。

 

「…………カミュ…………」

 

 一人通路の奥へと続く闇を見つめたまま動かないのは、その青年を絶対の保護者と考えている一人の少女。その青年と逸れた事で心を痛め、最終的にはその心を壊してしまった経緯を持つ少女だけは、その場を一歩も動こうとはしなかった。

 まるで、リーシャ達の動きも言葉も届いていないように、闇から視線を外そうともしないメルエは、自分の背丈以上もある<雷の杖>を胸に抱き、不安と恐怖に身体を震わせている。自分に付いて来ないメルエを不審に思い振り返ったリーシャは、一度溜息を吐き出し、苦笑を浮かべた。

 

「メルエ……メルエがそんな顔をしていたら、カミュは安心して行く事は出来ないぞ」

 

「…………カミュ…………」

 

 戻って来たリーシャがメルエを後ろから包み込むと、再びメルエは不安そうな声を上げる。

 幼いメルエの中で、『勇者』としてではなく、カミュ個人としての存在感が大きい事を理解していたリーシャではあったが、再びスーの村の状況に陥ってしまう恐れを改めて感じた。

 もう、この三人は、メルエの傍から離れては駄目なのかもしれない。甘やかせるとか我儘を許すとかの問題ではなく、ようやく感情という物を理解し始めたメルエの心は、赤子と変わりがない事に気が付いたのだ。

 

「カミュはメルエに対して嘘を言った事はない筈だぞ。私達も同じだ……私達もメルエに嘘は言った事が無い。カミュが『すぐ戻って来る』と言った以上、メルエが二晩程眠ったら、カミュは戻って来るさ」

 

「そうですよ、メルエ。カミュ様は大丈夫です。私が約束します。それとも……メルエはカミュ様を信じていないのですか?」

 

 リーシャがメルエに小さく告げる言葉にサラが追い打ちをかける。メルエにとっての魔法の言葉である『大丈夫』という言葉は、何やら心外な言葉と共にメルエへ投げかけられた。

 不安そうに見上げていた瞳は、サラの言葉を消化する内に鋭い物へと変化し、そのまま『ぷっくり』と頬を膨らませたメルエは、唸り声のような音を発する。

 メルエの変化が現れた事にリーシャの表情が緩み、厳しい瞳が自分に向けられているにも拘らず、サラは苦笑を浮かべた。

 

「…………メルエ………カミュ……しんじる…………」

 

 『ぷいっ』と顔を背けたメルエは、呟くように言葉を洩らす。その言葉にリーシャとサラは笑みを溢し、そのままリーシャが小さな身体を抱き上げた。

 未だに『むぅ』と頬を膨らませてサラを睨むメルエに、先程のような危うさは見えない。幼さ故の物なのだろう。強がりにも見えるその姿にサラは苦笑し、メルエの頭を優しく撫でた。

 三人は、机の傍にある椅子に腰かけ、これから始まる長い時間を暗闇へと続く通路を眺めながら過ごす事となる。

 

 

 

「カミュ……行く前に、そなたに礼を言っておかなければならないな」

 

 暗闇が支配していた通路の壁に掛けられていた燭台に火が灯り、カミュが歩む道は明るく照らし出されて行く。その道を真っ直ぐ進み、左右に分かれる道がある突き当りまで進むと、右側への通路を塞ぐように、先程の男性がカミュを待っていた。

 右側への通路を塞いでいるという事は、目的地へは左の通路を歩いて行くのだろう。軽く会釈を済ませたカミュは、そのまま歩き出そうと男性に背を向けるが、その足は後ろから掛った言葉に止められる事となる。振り返ったカミュは、深々と頭を下げる男性の姿を目にした。

 

「……おっしゃっている意味が解りませんが……」

 

「ふむ……今は解らずとも、そなたの旅路の中で解る時が来るであろう」

 

 男性が頭を下げている理由が解らないカミュは、その理由を問いかけるが、それは何とも曖昧な言葉で返される。

 『礼を言いたい』と頭を下げているにも拘らず、その理由を語らないとは、何とも身勝手な話であるのだが、数十年の間施錠されていた神殿にいる不可思議な存在である為、カミュはそれ以上に追及する事を諦めた。

 

「では行け、カミュよ!」

 

 それ以上に話はないとでも言うように宣告されたカミュは、再び男性に背を向け、西へと続く通路を歩き始める。徐々に明るさを取り戻して来た通路は、燭台に灯る火の灯りの物だけでもないようだ。

 前方から差し込む明かりは太陽という巨大な光源の物と思われ、一度外へと出る事にカミュは疑問を持つ。神殿の内部から外へ出る事自体が不思議ではあるのだが、このランシールの村の周囲は険しい山で囲まれていたのが最大の原因であろう。

 

「!!」

 

 案の定、カミュが目指した先で通路は途切れ、開け放たれた扉からは陽の光が差し込んでいた。

 扉は外の世界を満たす砂によって閉じる事が不可能となっており、通路の内部へも大量の砂が入り込んでいる。陽の光が強く射すその場所は、以前に訪れた事のあるイシス国周辺のような砂漠になっていた。

 目の前を砂塵が視界を遮るように吹き荒れ、砂漠に注がれる直射日光は、強烈な照り返しを放っている。もし、今カミュが装備している鎧が、周囲の気温などにも対応出来る<魔法の鎧>でなければ、その肌さえも焼き切ってしまう物であっただろう。

 

 マントを風上に向け、舞う砂を避けながら、カミュは真っ直ぐ西へと歩き始める。イシス砂漠とは異なり、行く場所を把握している訳ではないが、周囲を囲む険しい岩山が見える程の広さである為、カミュは西に向かって歩き始めたのだ。

 夜は昼とは正反対に気温が急落する砂漠ではあるが、広さを見る限り、一日中歩き続ける心配はないだろう。方角は太陽の位置から推測でき、ここまで旅を続けて来たカミュであれば、方角を誤る事はない。

 視界が悪いながらも、カミュはしっかりと歩を進めて行った。

 

 

 

 陽が傾き始め、周囲を赤い陽光が満たす頃、カミュは一つのオアシスに辿り着く。

 イシス国の町や城がある場所のような巨大な湖がある訳ではないが、水を満たす泉が点々とする場所には、木々が生え、緑で覆われていた。

 森というよりは林と言った方が正しいのだろう。少ない水場を競うように密集した木々の中を歩き続けたカミュは、陽が完全に落ち込む頃に、大きな岩場を発見した。

 山のように盛り上がった岩は、天然の物なのだろう。木々達が匿っていたかのようにひっそりと佇む大岩は、大きく口をあけて暗闇を作り出している。

 

「……ここが<地球のへそ>なのか?」

 

 岩場に手を掛けて中を覗き込んだカミュではあるが、暗闇が支配するその先を窺う事は出来ない。以前ランシールへ訪れた際に、神殿の傍で出会った男性が口にしていた<地球のへそ>と呼ばれる洞窟の名を覚えていたカミュは、その名を口にしただけなのだ。

 試練と呼ばれる程に過酷な洞窟とは思えない外見をしている横穴であるのだが、この周囲にそのような物が他にあるかどうかも怪しく、カミュは<たいまつ>を取り出し、<メラ>によって火を灯した後、洞窟の中へと入って行った。

 

「……一人でこのような場所に入れば、あの騎士の必要性を否が応でも思い知らされるな……」

 

 洞窟に入るとすぐに、中の構造が広がりを見せる。<たいまつ>を掲げると、通路の壁には幾つかの燭台が残されており、そこにある枯れ木へと炎を移したカミュは、一つ大きな溜息を吐き出した。

 真っ直ぐと伸びた通路の先に、十字路が既に見えている。この場所の詳しい状況等が解らない以上、その十字路をどちらに進めば良いのかなど、カミュに理解出来る訳が無いのだ。

 それこそ、カミュの呟きの中にある、アリアハンの女性騎士でもない限り、正しい方角を導き出す事は難しいだろう。

 

「とりあえず、右に折れてみるか……」

 

 <たいまつ>を右の通路に向けたカミュは、目の前に広がる闇に向けて進んで行く。この洞窟は何処かしら他の洞窟と雰囲気は異なっているが、特に神聖さを感じる訳ではない。魔物が蔓延る場所とまでは行かなくとも、魔物が生息している事は明らかであろう。

 故に、カミュは注意深く周囲を窺い、一歩一歩慎重に歩を進めて行った。

 しかし、歩けど歩けど、その直線に終わりは見えず、<たいまつ>の灯りだけが周囲をぼんやりと照らし出している。

 

「何処かで見たような雰囲気だな……」

 

 慎重に歩を進めていたカミュは、再び少し開けた場所へと出た。

 <たいまつ>を掲げると、再び現れた十字路。何処にでもあるような物ではあったが、カミュは記憶の奥底にある雰囲気を感じ取っていた。

 先程とほぼ変わらない道なりは、カミュの中にある少し前の記憶と変わりはない。細部までは覚えてはいないが、洞窟の壁から生える草などにも見覚えがある。それは、以前にバハラタ近くの洞窟に入った時の感覚と酷似していた。

 あの時は、何処まで行っても同じ様な十字路が続き、リーシャがいなければ、カミュ達は永遠に彷徨っていたかもしれない。

 

「アイツがいない以上、用心に越した事はないだろうな」

 

 壁に手を当てながら独り言を呟いたカミュは、背中から剣を抜き、その柄で岩壁に印を刻み始める。印を刻み込んだカミュは、その下に自分の名前のサインを残し、剣を鞘へと納めた。

 岩壁に立てかけていた<たいまつ>を手に取り、再び真っ直ぐ前方へと歩みを進めて行く。入口から入って来た後に出現した十字路を右に曲がり、そのまま真っ直ぐ歩いた先にあった十字路を更に真っ直ぐに歩んだ。

 通常であれば、入口からかなり離れた場所へと出る筈であり、その先が行き止まりとなる可能性も大いにある物だった。

 

「どんな仕掛けになっているのか解らないが、無限に歩み続けるだけか……」

 

 だが、そんな常識的な考えは、再び出現した十字路の壁に記されたカミュの名が否定する事になる。壁に<たいまつ>を近づけ、刻んである文字を確認したカミュは、軽く溜息を吐き出した。

 どのような仕組みになっているのかを理解する事は不可能でも、カミュが同じ場所を回ってしまっている事だけは確かであろう。カミュは十字路の真ん中に立ち、左右前後に<たいまつ>を向けて目を凝らす。すると、入口から考えて正面の通路の奥に微かに燭台のような物が見えていた。

 

「燭台があるという事は、この先は人工的な物という事か?」

 

 奥へと<たいまつ>を掲げ、歩を進めて行くと、岩壁の左右に燭台が等間隔で配置されている。一つ一つの燭台に残る枯れ木に炎を移しながら慎重に歩を進めて行くと、再び開けた通路へと出た。

 先程までとは異なり、壁に燭台が掛けている訳ではなく、燭台が立てられている。近場の燭台に炎を灯すと、ぼんやりではあるが全体像が浮かび上がって来た。

 真っ直ぐ伸びた通路の脇に、机のような物が幾つも置かれており、その上には宝箱というには煤け過ぎた箱が置いてある。周囲を警戒しながらカミュは前へと進み、一つの目の箱を剣で叩いた。

 

「盗み出された残りという感じだな」

 

 何の反応も見せない箱を開けたカミュは、その箱の底辺に辛うじて残るゴールドの数を数え、呆れたように溜息を吐き出す。

 その数は、僅か248ゴールド。

 以前神殿の前で出会った男性は、入口を入ってすぐに逃げ出したと語っていた事から、この宝箱を見た事はないだろう。

 だが、数十年前から開け放たれていた場所である限り、この辺りに残されている物はないと考えるのが妥当なのかもしれない。

 

「これは……」

 

 この場所にある机は見る限り四つ。そして、その机全ての上に宝箱のような箱が置かれていた。

 この全てが中身が空である可能性が高いと考えていたカミュではあるが、先程ゴールドが入っていた箱のあった机の隣に鎮座する机に目を向け、少し考える素振りを見せる。

 その机の上にある宝箱の下に、何かの骨らしき物が落ちていたのだ。

 数は少なく、数本程度の物であるが、近づいてみると、それは確かに何らかの骨であった。そして、その骨が示す事にカミュが思い当たったその時、静けさに満ちていた洞窟内の時が急速に動き出す。

 

「キシャァァァ」

 

「ちっ!」

 

 不穏な空気を感じ取っていたカミュは、即座に<魔法の盾>を掲げ、自分に襲いかかる鋭い牙を防いだ。

 それは、カミュの目の前にあった宝箱のような箱であった。

 年季が入り、煤けたその箱は、開いた淵の部分に鋭い牙を無数に持ち、カミュに襲いかかって来る。それは、長い年月と共に命が宿り、魔王の魔力によって凶暴化した宝箱。

 以前、<ガルナの塔>でカミュを死の淵へと落とし、一度はその命を奪った<ミミック>と呼ばれる魔物であった。

 

「やあぁ!」

 

 盾で弾いた<ミミック>に向かって振り下ろされた剣は、年季の入った木箱に突き刺さる。だが、それを叩き割る事は出来ず、身を捩って離れた<ミミック>の身体に多少の傷を付けたに留まった。

 鋭い牙をカタカタと鳴らし、獣のようにカミュを狙う<ミミック>に注意を払うカミュは、内心では焦燥感に駆られている。以前に遭遇した時のような死への呪文に抗う事に対し、カミュは自分に自信を持ててはいなかったのだ。

 

「キシャァァ!」

 

 再び飛びかかって来る<ミミック>の牙がカミュの装備する<魔法の鎧>に当たり、乾いた金属音を残す。脇腹の部分に傷跡を残しているのを見る限り、<ミミック>の牙の威力は、その者の肉ごと命を奪う程の脅威と考えて差し支えはないだろう。

 攻撃を終えた<ミミック>の着地時を狙って振われた<草薙剣>が、<ミミック>の身体を形成する宝箱の蝶番に傷を付けた。

 蝶番は、箱の命と言っても過言ではない。それは<ミミック>と呼ばれる魔物にも言える事であり、この魔物の身体を形成している箱も二つの蝶番で繋がれていた。

 その一つを傷つけられた事によって、<ミミック>の動きが先程までに比べて奇妙な物に変わって行く。しかし、止めを刺そうと動いたカミュの耳に、恐れていた音が響き渡った。

 

「P¥5%*」

 

 以前に聞いた物と寸分も違わないその奇声は、カミュの耳に届いた途端、脳内を巡る呪いへと変化する。死へと誘うその言霊は、カミュの生を罪とし、一刻も早くその生を手放す事を促して行った。

 立っている事も叶わない程の闇にカミュは膝を着き、脳を破壊するかのように響き渡る怨念の声に頭を抱える。数多の手に引き摺り込まれるように掴まれたカミュの魂は、生への執着を切り離して行った。

 

 

 

 

「陽が落ち切ってしまいましたね」

 

 静まり返った神殿の中で、外から差し込む物が月明かりだけになった事を確認したサラがステンドグラスを見上げながら呟きを洩らす。

 カミュが通路の奥へと消えてから既に半日以上が経過していた。

 リーシャとサラは椅子に腰かけ、メルエはリーシャの膝の上に乗っている。<雷の杖>を胸に抱いたメルエは、身動き一つせず、通路の奥へと続く闇を凝視していた。

 

「この分だと、今夜中には戻らないだろうな。私達も宿屋で休む事にしよう」

 

「そうですね。メルエ、行きましょう?」

 

 二人の言動を聞く限り、カミュを心配している様子はない。それは全面的な信頼を表していた。

 『カミュならば心配ない』と考えているのだろう。よくよく考えると、カミュと逸れた際にも、二人はあの青年の身を案じてはいなかった。

 今のリーシャやサラにとって、カミュという存在は、世界で信じられている『勇者』という存在よりも更に上の存在となっているのだ。

 だが、それはリーシャとサラという成熟した大人の考えである事は否定できない。

 

「…………いや………メルエ……ここ……いる…………」

 

 リーシャから隣の椅子に移動させられたメルエは、通路の暗闇から目を離さず、小さく首を横へと振った。リーシャとサラは、そんなメルエの姿に顔を見合せて溜息を吐き出す。

 メルエがこうなってしまっては、何があってもここを動かない事は明白であり、無理やり動かす事も出来ない以上、他の方法を考えなくてはならないからだ。

 カミュもまた、試練の場所の何処かで一晩を明かすだろう。ならば、今夜中にカミュが戻って来るという可能性も低くなる。

 

「……仕方ないな……私は宿屋から毛布などを借りて来る。ついでに何か食料も買って来よう」

 

「あっ! それならば、このゴールドを使って下さい。カミュ様から預かっている物です」

 

 強情なメルエの姿に溜息を吐き出したリーシャは、ゆっくりと立ち上がり、そんなリーシャにサラは、腰に下げていた革袋を手渡す。

 実は、以前にカミュと逸れ、再会を果たした際に、あの時のような予期せぬ出来事があった場合を想定して、所持金をカミュとサラで分割して持っていたのだ。

 比率的には、七対三の割合でカミュが多いのではあるが、魔物の部位などを売却し、ある程度のゴールドを所持しているカミュ達の総額からすれば、サラが持たされた額もそれなりの物となる。

 

「メルエを頼むぞ……身体が温まる物を作らせてもらえれば良いのだけどな」

 

 何か思案めいた言葉を呟きながらリーシャが神殿の出口へ向かって歩き出そうとしたその時、まるで人形のように一点を凝視していた幼い少女が突然動き出した。

 椅子から飛び降りたメルエは、<雷の杖>を胸に抱いたまま、カミュが消えて行った通路の入口へと駆けて行く。突然の行動にリーシャの足は止まり、サラは椅子を蹴って立ち上がった。

 

「メ、メルエ、駄目ですよ!」

 

 メルエを追うように駆け出したサラは、通路の入り口付近で立ち止まったメルエに追いつく。通路の中までメルエが入って行ってしまうと考えていたサラは、何かを不安がるように眉を下げて佇むメルエを見て、自身も通路の奥に広がる暗闇へと視線を向けた。

 メルエは一言も言葉を口にしない。まるで祈りを捧げるかのように<雷の杖>を握り締め、暗闇の先を見つめている。

 サラに遅れて近付いて来たリーシャも、メルエを後ろから抱き締めるように屈み込み、メルエの肩に顎を乗せたまま、同じように通路の先へと目を向けた。

 

「メルエ、余り不安がるな。カミュを信じてやってくれ。そして、メルエの『想い』をカミュへ届けてやってくれ」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの耳元で静かに語られた言葉に、メルエも小さく頷きを返した。

 絶対の保護者である者を信じ、その青年の帰りを願い、再び笑顔を向けて貰える事を望む。

 そんなメルエの『想い』を運ぶように、神殿内から一陣の風が通路の奥へと吹き抜けて行った。

 

 

 

 

「!!」

 

 全てを諦め、深い闇へと落ちて行くカミュの意識が切れるその時、カミュの腕を取る者が現れる。意識の中の闇へと落ちて行くカミュの腕は小さな手に握られ、強い力で引き上げられた。

 生きる目的も、生きる活力も失いかけたカミュの心に再び炎を灯す程の力を持つ腕は、眩いばかりの光へとカミュを誘って行く。

 

 それは、命を懸けてでも護ると誓った幼い少女の腕。

 『勇者』ではなく、カミュという人物を信じる少女の腕。

 純粋な瞳で物事を見て、純粋な心で受け入れる暖かな腕。

 

 カミュは無意識でその腕を握り返していた。

 誰よりも『人』に絶望し、誰よりも己の生を諦めていた者が、自分を生へと引き上げるその腕を何よりも強く握り返す。

 闇と呪いの言葉に満たされた真っ暗な世界から、一気に引き上げられるような浮遊感を覚えながらも、カミュはその心地良い暖かさに笑みを漏らした。

 周囲を覆う空気とは相反するような表情を浮かべたカミュは、そのまま上空に見える光の先へと浮上して行く。

 

 カミュを『人』に留まらせている小さくとも強い腕が、カミュの意識を引き上げたのだ。

 開けて行く視界は、眩いばかりの光に満ちていた。

 暗く寂しい洞窟であるにも拘らず、カミュの瞳に映る世界は、先程までとは色どりが異なっている。何もかもが輝いて見える程、彼の世界は、様変わりをしていた。

 それは、自身の生きる目的を見つけた者の視界なのかもしれない。

 もう一度力強く握り締めた<草薙剣>を構えたカミュは、不敵に口端を上げる。

 

「……悪いな……俺はまだ、死ぬ訳にはいかない」

 

 生まれ変わった『勇者』の動きを止められる程の実力を<ミミック>は有していない。ましてや蝶番が外れかけた箱であれば、尚更である。

 それは、もはや魔物ではなく、只の箱。そのような物に、心を決めた『勇者』と相対する能力が有ろう筈がないのだ。

 瞬時に間を詰められた事に驚いた<ミミック>は、先程唱えた<ザラキ>とは異なる呪文を詠唱しようとするが、時既に遅し。目の前に迫る剣を避ける事も出来ず、その身体を岩壁へと吹き飛ばされた。

 

「ベギラマ」

 

 壁に叩きつけられて尚、呪文を詠唱しようと蓋を開いた<ミミック>へ向け、カミュが即座に詠唱を行う。開かれた口に飛び込んだ光弾は中で弾け、<ミミック>の体内を炎の海と化し、苦しむように転げ回る箱に、カミュの止めの一撃が振り下ろされた。

 渾身の力を込めて振り下ろされた剣は、燃え盛る木箱を容赦なく粉砕し、只の木片へと変えて行く。飛び散らばる木片は、<ベギラマ>の炎に巻かれ、炭のように黒く朽ち果てて行った。

 

 剣を一振りして鞘へと納めたカミュは、一つ息を吐き出した後、自分が歩んで来た道を振り返る。入口から続く通路は、燭台に灯る淡い灯りによって照らし出されてはいるが、奥がはっきり見える程の物ではない。

 だが、その先で待つ者達が見えたような気がしたカミュは、小さく笑みを溢し、再び歩き出した。

 

「ここまで明確だと、近寄る気にもならないな」

 

 このフロアにあった机は四つ。

 その上に乗っていた宝箱も四つ。

 その内の二つをカミュは開けた事になる。

 残る宝箱も二つ。

 入口から見て右手にある二つの宝箱を開けたカミュは、一応反対側にある二つの宝箱に目を向けた。

 しかし、入口に近い方にある宝箱を乗せている机の脚の周りには、先程の<ミミック>の傍にあった以上の骨が転がっている。それが示す物は、入口近くにある宝箱もまた、宝箱の擬態した魔物であるという事実。

 それを理解したカミュは、その机に近付く事無く、隣の綺麗な机へと近付いて行った。

 

「……これは……種か?」

 

 人骨などのない綺麗な箱を小突いた後、その箱を開けて中を覗き込んだカミュは、何も無い箱の中に残る小さな物を指で摘む。それは、以前に何処かで見た事のあるような小さな種のような物。

 近づけてみている内に、それは先程カミュを闇から引き上げてくれた少女のポシェットに入っていた物と同質の物である事に気が付いた。

 <かしこさの種>と呼ばれるその神聖な種は、食した者の『かしこさ』を僅かに上げるという物。実際の効力は定かではないが、そのような伝承が残っている以上、何らかの効力はあるのだろう。

 

「持ち帰っても仕方がないな」

 

 独り言のように呟きを洩らしたカミュは、その種の徐に口へと放り込み、奥歯で噛み砕き、一気に飲む込んだ。

 得体の知れない物であれば別ではあるのだが、この青年の中で、この種の伝承を口にした者への信頼は大きいのかもしれない。メルエが持っていた物と同じ形をした物であれば、<かしこさの種>に間違いはないと考え、その効力を確かめようと思ったのだろう。

 

「然して、大きな変化はないような気もするが……」

 

 種を飲み込んだ際に、若干頭が冴えたような気もしなくはないが、それも気持ちの問題程度の物。本来、自身の『かしこさ』等は自覚できない物であり、その高低は他人からの視点でなければ、図る事は不可能なの物なのだ。

 故に、その者自身の目覚ましい向上などを実感する事なども無く、元々理解力等が劣っている訳ではないカミュなどには、効果すらもあるかどうか疑わしい物であった。

 

 全ての箱を確認し終えたカミュは、そのまま真っ直ぐに伸びた通路を進んで行く。<たいまつ>の炎を燭台へと移しながら歩んで行くと、左側に進む為の通路しか存在しない空間へと出た。

 魔物等に警戒しながら、周囲へ<たいまつ>を向け、左手に見える通路へと進んで行く。道なりに進んで行くと、暗い通路の奥に下の階層へと続く階段が見えて来た。

 しかし、カミュはその階段へ向かう事をせず、近くの燭台に<たいまつ>を置き、背中の剣を抜き放つ。

 

「一対一であれば、負ける事はないか……」

 

 背中の剣を抜き放ったカミュは、直前に訪れているテドンへと向かう途中でリーシャが口にした言葉を復唱した。

 カミュが目指すべき階段を護るように佇むのは二体の鎧。

 闇の溶けるような色をした甲冑を着込んだ魂が二体、刃毀れした剣をカミュに向けて立っていたのだ。

 <地獄の鎧>と呼ばれる死者の魂は、先に進む為の試練とばかりに、カミュの前に立ち塞がっている。一対一であれば、カミュの言葉通り、負ける事はないだろう。

 だが、他に仲間がいない中で、カミュがこの二体を駆逐出来るかと言われれば、それは不確定な物となる。

 

「やぁぁ!」

 

 瞬時に間を詰めたカミュは、そのまま横薙ぎに<草薙剣>を振るう。その剣速に反応が遅れた一体の鎧に傷をつけた剣は、その鎧から闇の魂を吐き出させた。

 鎧から漏れるように染み出す闇に追い打ちを掛けようと駆け出そうとしたカミュの横合いから、刃毀れした剣が突き出される。駆ける速度を緩めず、カミュが掲げた<魔法の盾>は乾いた音を発して、<地獄の鎧>の剣を弾き返した。

 無言で詰め寄って来る無傷の<地獄の鎧>を差したカミュの指先に魔法力が集中する。

 

「メラ」

 

 詠唱と共に、今では小さく思える火球が<地獄の鎧>に向かって飛び出した。

 <地獄の鎧>相手に、この最下級に位置する火球呪文は効果が無い事はカミュも理解している。だが、目くらましにも似た形で行使した<メラ>は、<地獄の鎧>の兜部分に命中し、それに怯んだ隙を突いて、カミュは先程傷を負ったもう一体の<地獄の鎧>に再び剣を振るった。

 一度目は、魔物が手にする剣によって防がれた<草薙剣>ではあったが、返す剣でその喉元を狙って突き入れられる。

 

「グモォォォ」

 

 突き入れられた剣は、<地獄の鎧>の兜と鎧の隙間に滑り込み、そのまま下へと降ろされた。

 生物の声ではない奇妙な音を立てて倒れ込む鎧の正面は、喉元から真っ直ぐ斬り裂かれている。

 最早、闇の魂が溢れ出す事を止める事は出来ず、静かな洞窟内に溶けて行くように消えて行った。

 

「……これで一対一だ……」

 

 一体を倒したカミュの前には、未だ無傷の<地獄の鎧>が態勢を立て直している。しかし、それでも一対一という状況になっている以上、カミュがここで倒れる事はない筈である。

 全てリーシャの言葉を鵜呑みにすればの話ではあるのだが、その言葉を自分の実力以上に信じる心をこの青年は既に持ち得ていた。

 アリアハンを旅立った頃から、三年近くの間傍で見て来た屈指の騎士が、『一対一ならば、カミュは負けない』と語ったのだ。

 それは、絶対的な信頼感を持つ言葉となる。

 

「たぁぁ!」

 

 一気に距離を詰め、剣を突き出したカミュは、それを防ぐ為に出された<地獄の鎧>の剣を盾で妨害し、それを岩壁に押し付ける。激しい音を立てて岩壁に直撃した<地獄の鎧>の右腕から、刃毀れした剣が床へと落ちた。

 岩壁との衝突の瞬間には、カミュの突き出した<草薙剣>は深々と鎧の胴体に突き刺さっており、それを引き抜き飛び退く際に、カミュは真っ直ぐ脳天から剣を振り下ろす。防ぐ手段を奪われた<地獄の鎧>は動く左腕を掲げるが、その足掻きは無駄に終わり、腕諸共に脳天から斬り込まれた。

 

「ぐうぅぅ」

 

 腕を切り捨てられて尚、<草薙剣>に抗うように動く<地獄の鎧>を鎧ごと切り捨てようと力を込めたカミュは、そのまま真っ直ぐ剣を叩き付ける。脳天から斬り込まれた剣は、そのまま胸から下腹部までを斬り裂き、<地獄の鎧>を縛りつけている呪いを解いて行った。

 硬い金属製の鎧を力任せに斬って尚、カミュの持つ<草薙剣>は刃毀れ一つせずに、燭台の炎に照らされて輝いている。遠い昔、祖国ジパングの国で神代の剣と崇められ、天孫降臨と共にこの世に降り立った剣は、眩いばかりの輝きを放っていた。

 

 魔物であった鎧の残骸を見下ろしながら、剣を一振りしたカミュは、その剣を掲げるようにして眺め、何やら考え込み始める。それは、この剣を手にしてから、常日頃を通じてカミュが疑問に思っていた事であった。

 例え、神代の剣といえども、現代に残っている金属で出来た剣である事に変わりはない。それにも拘わらず、どのような敵であっても斬る事に苦労する事はなく、そして、どのような硬い物を斬っても刃毀れする事もなかった。

 

「この剣には、<ルカニ>か<ルカナン>のような防御力低下の付加があるのか?」

 

 <ヤマタノオロチ>という龍種と戦闘を行った時も、この剣は刃毀れ一つしていない。

 如何にサラやメルエの<バイキルト>という呪文の効力があったとはいえ、世界最高の種族である龍種の鱗を斬り裂くには、武器自体にもかなりの負荷が掛かる筈なのだ。

 実際に、リーシャの持っていた<鉄の斧>は、ジパングでの戦闘後には限界を迎えていたし、そんな戦闘の中でも鱗を突き破り、尾を切り裂き、最後には<ヤマタノオロチ>の顎下から首までを斬り裂いた<草薙剣>には、カミュの言うような付加が備わっていたとしても不思議ではない。

 しかし、考えても答えは出ない物でもあり、カミュは暫く剣を見つめた後、静かに背中の鞘へと納めた。

 既に下の階に降りる階段を塞ぐ者達はいない。先程の戦闘で朽ち果てた鎧を乗り越え、カミュは下層へと続く階段を下りて行った。

 

 

 

 色々な者達の『想い』によって護られているのは、何も幼い少女だけではない。

 世界を救うという目的を掲げながらも、その目的を達成する考えを微塵も持っていなかった青年は、その目的へ向かう旅路の中で、様々な出会いを重ね、様々な想いを見る事となる。

 『人』の醜い部分を多く見て来たその者は、それが『人』だと悟り、全てを諦めて生きる中で、『人』の本当の心を知った。

 知り得た『心』という物が自分にも存在する事を知り、その者は『人』となって行く。

 

 全ての始まりは、あのアリアハンから。

 彼が望んでいた一人での行動は、今は異なる意味を持つ道となる。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

久しぶりのカミュの一人旅です。
ここもまた、『遙かなる旅路』が聞こえて来る雰囲気に仕上がっていれば嬉しいです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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地球のへそ②

 

 

 

 神殿の外は既に陽が落ち切り、周囲を闇が支配している。神殿内も、灯された篝火以外の明かりはなく、気温も落ちていた。

 冷気が漂い始めた神殿の中で、宿屋から借りて来た毛布に包まったメルエを膝の上に抱いたリーシャは苦笑を浮かべている。先程までカミュが消えて行った通路をじっと見つめていた瞳は、瞼を落とし始めていた。

 うつらうつらと舟を漕ぎ出してはいるが、首が落ちると再び通路へ視線を戻す。しかし、眠気に勝てないのか、再びこくりこくりと首を落とし出す姿は、リーシャやサラの顔に苦笑をもたらしていた。

 

「メルエ、眠いのだろう? 少し横になろう?」

 

「…………うぅぅん…………」

 

 眠気には勝てないが、それを認めてしまう事を嫌い、メルエは愚図り出す。リーシャの優しい手を嫌がるように首を横に振ったメルエは、目を擦りながら、再び浅い眠りへと落ちて行った。

 溜息を吐き出したリーシャは、サラへ目配せを送る。サラは長椅子を繋げ、その上に毛布を敷いて簡易的なベッドを作り上げた。再び舟を漕ぎ出したメルエをその上に寝かせ、上から毛布で包んでやる。暫く唸り声のような物を発していたメルエであったが、すぐにそれは寝息へと変わって行った。

 

「ふふふ。メルエは、本当にカミュ様が心配なのですね」

 

「サラは心配していないのか?」

 

 メルエの寝顔を見つめながら呟いたサラの言葉は、同じようにメルエの寝顔を見ていたリーシャによって遮られる。心から不思議そうに自分を見つめるリーシャの視線に、何故かサラの方が驚いてしまった。

 カミュが試練へと出て行ってから既に半日以上の時間が経過している。夜も更け、ランシールの村にも静けさが広がっていた。だが、その時間の間、不安そうな姿をしていたのは、メルエ唯一人であった筈。

 そんなメルエを気遣っていたリーシャの問いかけは、サラにとっては青天の霹靂であったのだ。

 

「えっ? あ、あの……リーシャさんは心配されているのですか?」

 

「当たり前だ。カミュの事を信じてはいるが、『試練』という名が付いている以上、不測の事態という物が起こっても不思議ではないだろう?」

 

 何処か落ち着かない気持ちになりながらもリーシャへと問いかけたサラは、今度こそ、心底驚く事となる。

 リーシャがカミュを信じている事は、既にサラも知っているし、それについてはサラも同様にカミュを信じている。だがサラは、信じているからこそ、カミュが戻って来る事を心配してはいなかった。

 サラは、ここで初めて、自分がカミュを信じている『想い』と、リーシャがカミュを信じている『想い』が異なっている事を知るのだ。

 

「そ、そうですね……あはは……」

 

「なんだ? 私は何か変な事を言ったか?」

 

 自分の発言を笑われた事で『むっ』と眉を顰めるリーシャの顔を、サラは何処か乾いた笑みを浮かべて眺める事しか出来なかった。

 おそらくリーシャは、サラと自分の『想い』の違いに気が付いてはいないだろう。いや、もしかするとこの心優しい女性騎士は、生涯気が付く事はないのかもしれない。

 サラがリーシャという人間を、正確に女性として認識した瞬間でもあった。

 

「カミュ様も、一度休まれている筈です。私達も少し休みましょう」

 

「……どこか釈然としないが……久しぶりに魔物を警戒せずに休む事が出来るんだ。ゆっくり休むとしよう」

 

 『人』の心は、色々な形で成長を続けている。

 今のサラには、リーシャの厳しい瞳を受け流す技術さえも備わった。

 様々な者達の『想い』を受けて旅する彼女等の『想い』もまた、変化を続ける。

 その『想い』の先にある物を、彼女達はまだ知らない。

 

 

 

 自分の事を心配している人間がいる事など、生来考えた事もない青年は、階段を降りた場所から北にある階段登った場所にあった手狭な空間で瞳を閉じていた。

 <地獄の鎧>が護っていた階段を降りた場所は、想像以上に広い空間であり、その場所でカミュは溜息を吐く。洞窟などで道を指し示してくれる者がいない以上、カミュに残されている選択肢は、隅々まで歩くという方法だけであった。

 階段付近は闇が広がり、カミュの持っている<たいまつ>だけが頼みの灯りとなっており、周囲を警戒しながらも<たいまつ>を掲げて真っ直ぐ進んだカミュは、かなりの距離を歩いた後に上へと続く階段を発見する。

 その道が行き止まりである事を示唆する者がいない今、それを上るしか選択肢はないのだが、上った先は、見事な程の行き止まりが待ち構えていた。

 溜息を一つ吐き出したカミュは、一時の休憩も含め、ここで身体を休める事にしたのだ。

 

 燭台に残されていた枯れ木などを一纏めにし、焚き火を起こしたカミュは、その傍で剣を抱えながら身体を休める。神殿を出る頃に昇ったばかりだった太陽は、おそらく完全に地の底へと沈みきっているだろう。

 一人で洞窟を探索するという事による疲労は、彼が考えていた以上の物であった。

 一人旅は初めてではない。

 エジンベア付近で受けた<ヘルコンドル>の呪文によって、リーシャ達三人と逸れたカミュは、その後二か月近くの時間を一人で旅して来た。

 しかし、その間で探索の必要な場所を訪れた事はない。平原を歩き、森を歩き、山を越え、海を越えて来た。

 その全てを考えても、この洞窟程の疲労を感じた事はなかった。

 常に警戒感を怠らず、何時でも戦闘へ入れるようにしておかなければならない。また、自然に作られた物なのか、人工的な物なのか解らない通路は、迷う事無く平原を歩くカミュの方向感覚を微妙に狂わせていた。

 

「……眠る暇もない訳か……」

 

 焚き火の炎に照らし出されていたカミュは、静かに目を開く。浅い眠りに入ったばかりにも拘わらず、侵入して来た無粋な来客に対して、不機嫌そうに立ち上がったカミュは、背中の剣を抜き放った。

 カミュの耳に届いたのは、不快な羽音。

 虫が発するような羽を擦り合わせる音が狭い空間に入り込んで来る。焚き火の炎によって、その全貌が映し出される瞬間に、カミュは地面を蹴っていた。

 

「キシャ――」

 

 来訪した魔物は、バハラタ付近に生息していた<ハンターフライ>と呼ばれる巨大な蜂の魔物。その尾には毒を持ち、魔物特有の呪文までをも行使する事の出来る。

 カミュの周りに三人の仲間がいれば、脅威にも値しない程の魔物ではあるが、今のカミュは一人。それに対して、<ハンターフライ>は四体で周囲を取り囲み始めていた。

 故に、カミュは先制を取る為に駆け出し、一体の<ハンターフライ>の羽を斬り飛ばす。飛ぶ事が出来なくなった魔物は床へと落ち、もがく様に羽を動かしていたが、自身の腹部へと突き刺さる剣によって、その生命を絶たれた。

 

「@#(9&)」

 

「ちっ!」

 

 地面で肉塊となった魔物から剣を抜き取ったカミュの耳に、別の<ハンターフライ>が発する奇声が轟く。その奇声も聞き覚えのある物であり、<ギラ>と呼ばれる最下位の灼熱系呪文の行使。

 カミュは即座に<魔法の盾>を掲げて後方へと飛んだ。

 <魔法の盾>に弾かれた光弾は、床で炸裂し真っ赤な炎の海を作り出し、生み出された炎の海がカミュと魔物を隔て、視界を遮った。

 

「いやぁ!」

 

 視界を遮られたカミュではあったが、既にこの程度の魔物に苦労する程の力量ではない。炎の隙間から飛び出して来た<ハンターフライ>一体を下から斬り捨て、胴を斜めに斬り裂かれた魔物は、断末魔の叫びを上げて床へと落ちて行った。

 床へと落ちた死骸は、<ギラ>の生み出した炎に巻かれ、全てを消し炭へと変えて行く。それと共に、カミュと魔物達を遮る炎の壁もまた、消滅して行った。

 

「マホトーン」

 

 目の前に再び現れた<ハンターフライ>二体に向けて、カミュは掌を突き出す。唱えられた呪文は、同道している『賢者』が得意とする補助呪文。

 彼女達と逸れた数か月の間、カミュは闇雲に剣を振っていただけではない。一人で行動する際に必要な物は、攻撃魔法や回復魔法だけではないのだ。

 魔法に重きを置く魔物等と対峙した際には、力押しだけでは自身の身体を傷つけるばかりであり、それを軽減する為にも、補助魔法の存在は重要となる。

 軽視しているという程ではないにせよ、攻撃魔法や回復魔法に比べて優先順位が低かった補助魔法の重要性を、カミュはあの一人旅で嫌という程に実感したのだ。

 

「@#(9&)」

 

 カミュが再び剣を持って駆け出した時、<ハンターフライ>の奇声が轟く。しかし、カミュが必要性に駆られてその精度を高めていた魔封じの呪文は、的確に<ハンターフライ>の魔法力を狂わせていた。

 詠唱を行ったにも拘わらず、何の現象も起きない事に戸惑う魔物達をカミュの剣が斬り刻んで行く。羽を傷つけられ、胴を斬り捨てられ、床へと落ちて行った<ハンターフライ>は、暫しの痙攣後に絶命した。

 

 魔物の死骸と体液が落ちている空間で眠る気になれないカミュは、そのまま焚き火を消し、<たいまつ>を持って、再び階段を下りて行く。暗闇に支配された広々とした空間にもようやく目が慣れて来たのか、<たいまつ>を掲げる先の空間が朧気ながらも見えて来ていた。

 迷う可能性を考えたカミュは、もう一度最初の階段へ戻る為、階段から真っ直ぐ南へと歩を進めて行く。

 目が慣れたとはいえ、闇の中での戦闘は、闇を本来の棲み処とする魔物相手には圧倒的に不利となる。故に、カミュは物音を立てないように静かに歩きながら、慎重に周囲へ<たいまつ>を掲げていた。

 

「……ふぅ……」

 

 何とか元の階段を見つけたカミュは、一つ息を吐き出す。この短い時間でもかなりの疲労を感じていた。

 常に警戒心を解く事は出来ず、行動さえも慎重に行わなければならない事が精神を蝕んでいるのだ。

 他人を気に掛けながらよりも、自分自身の身だけを案じている方が楽だと考えていた節のあるカミュは、その認識の誤りを肌で感じている。他人を気にするリスクを負ってでも、その他人によって護られているメリットが大きい事を改めて感じているのかもしれない。

 いや、それもリーシャという世界の頂点に立つ『戦士』と、今や世界に唯一人しかいない『賢者』となったサラ、そして幼いながらも人類最高の『魔法使い』となったメルエという、異質な仲間達であるが故の物であり、そして、彼等が歩んで来た、決して楽ではない道のりがあったからこその物。

 アリアハンを出発した時からは、想像も出来ない程に成長を続けて来た仲間達の存在は、閉ざされ凍り付いたカミュの心の中でも成長を続けて来たのだ。

 

「……進むしかないな……」

 

 再び周囲へと<たいまつ>を向けたカミュは、東へ向けて歩き出す。これも、最初にこの階段から西へ向かって歩いた時に、壁にぶつかり、その場所で<アントベア>という魔物と遭遇した経験があったからなのだ。

 要は、カミュの選択肢が南と東という二択しか残っていなかっただけの話。

 この洞窟には、バハラタ近郊で生息する魔物が多いようで、階段前で遭遇した<地獄の鎧>などは珍しいのかもしれない。

 

「……また上か……」

 

 真っ直ぐ東へと歩き続けるカミュの前に、再び階段が見えて来た。

 それは、やはり上層階へと続く物。しかし、道標はなく、カミュはその階段を上る事しか許されてはいないのだ。

 溜息と共に足を前へと出したカミュは、そのまま階段を上り、周囲へ<たいまつ>を向ける。先程<ハンターフライ>と遭遇した場所のような、階段を上ったその場で行き止まりだと解る物ではない事に安堵したカミュは、上層階へと踏み入れ、通路の壁に備え付けられている燭台へと炎を移して行った。

 道なりに歩を進めて行くと、洞窟の壁はゆっくりと左方向へと曲がり、そのままもう一度左方向へと折れている。燭台に灯った炎が通路全体を照らしている為、先程よりも警戒感を緩めていたカミュではあったが、二度目の左へと折れる道を曲がった時には厳しく目を細め、背中の剣へ手を伸ばしていた。

 

「ちっ!」

 

 大きな舌打ちをしたカミュの脇腹へと飛び込んで来た物を何とか盾で防ぎ、カミュは剣を抜き放つ。即座に<たいまつ>を燭台へと掛け、炎に照らされた剣を目の前に掲げた。

 その場でカミュを見つめる魔物も、以前に遭遇した事のある者達である。銀色に輝く身体を震わせている小さな魔物が二体。

 <メタルスライム>と呼ばれるスライム系魔物の希少種がカミュの事を嘲笑うかのように身体を震わせていたのだ。

 

「ふん!」

 

 目で追う事がやっとの魔物の動きを落ち着いて見ていたカミュは、射程圏内に入った事でその剣を振るった。

 だが、その剣は、大きな風切り音を残して空を斬る。カミュとて、尋常ではない速度で剣を振っているのだ。それでも、この<メタルスライム>の移動速度には追い付く事が出来なかった。

 それは、人類では届かない高みなのかもしれない。

 

「ぐっ……」

 

 態勢を崩したカミュの背中をもう一体の<メタルスライム>が襲う。装備している<魔法の鎧>が歪むのではないかと思う程の衝撃を受けて、カミュは息を詰まらせた。

 振り返り様に剣を振るうが、その場所には既に魔物の姿はない。これまで、どんな魔物相手でも、苦戦はしても手が出ない等という事はなかったカミュが、たかが二体の魔物に翻弄されていた。

 もし、この場にサラがいたのならば、目を丸くしていたかもしれない。

 

「ちっ! 次から次へと……」

 

 銀色の身体を震わせて動き回る二体の<メタルスライム>を忌々しく睨みつけていたカミュであったが、その後方の影から滲み出るように現れた者に対して、盛大な舌打ちを鳴らす。

 まるで登場する機会を窺っていたように現れた魔物。手には巨大なフォーク型の武器を握り、背丈はメルエ程しかない。

 この魔物もまた、初めて遭遇する魔物ではなく、メルエの育ったアッサラームを恐怖に陥れた魔物。

 

「イオナズン」

 

 突如として現れた<ベビーサタン>へ視線を動かしたカミュは、杖を掲げるように武器を高々と上げた魔物の動きに身体を硬直させた。

 呪文の詠唱だという事は解っている。そして、その呪文の名を聞く限り、メルエが持つ爆発系呪文の物だというのも想像が出来る。

 だが、その実物を見た事のないカミュは、身構える隙も与えられぬまま、その脅威を身に受ける筈であった。

 

「???」

 

 しかし、一向にカミュの身体はおろか、周囲にも変化が見えない。

 呪文の詠唱が可能であり、更には身近に強力な『魔法使い』を持つカミュは、この状況が呪文の不発である事を悟る。自身の武器から魔法が発現しない事に首を捻る<ベビーサタン>に向け、カミュは即座に駆け出した。

 呪文の発動に向けて力を向けていた<ベビーサタン>は、カミュの行動に反応出来ず、登場して早々にご退場頂く事になる。

 

「H&U4$」

 

「ちっ!」

 

 だが、そんなカミュの予定も周囲を飛び回っていた希少種によって遮られた。

 カミュの鼻先を掠めるように通り過ぎた火球は岩壁にぶつかり、炸裂するように弾ける。カミュが足を止め、少し躊躇した事で<ベビーサタン>も余裕を取り戻し、態勢を立て直した。未だに周囲を飛び回る<メタルスライム>を合わせて魔物が三体。

 <ベビーサタン>などは、カミュが苦戦する相手でもないのだが、目で追う事が精一杯の速度で動き回る希少種が合わさると話は別である。

 

「やぁぁ!」

 

 まずは目の前を飛び回る魔物を片付けようとしたカミュが剣を振るうが、それも空を斬り、再びもう一体がカミュ目掛けて飛び込んで来る。何とか<魔法の盾>で防いだカミュであったが、反対側から突き出されたフォーク型の武器によって、頬の肉が削り落とされた。

 噴き出す血液は、カミュの首筋までをも真っ赤に染め上げる。一旦後方に下がって回復呪文を詠唱しようとするカミュだったが、視界の片隅に<メタルスライム>が口を開けた姿を入れ、即座に盾を掲げた。

 

「くそ!」

 

 回復呪文も唱える暇も与えられず、カミュは悪態を吐き出す。それでも魔物達の攻撃が止む事はなく、一進一退の攻防が続けられた。

 何度目かの<メタルスライム>の攻撃を盾で防いだカミュの頬は、どす黒い血液が固まっている。盾に弾かれた<メタルスライム>の着地時を狙って振われたカミュの剣が、乾いた金属音を立てた。

 金属に当たり、弾き上げられたカミュの剣とは正反対に、<メタルスライム>は壁際まで吹き飛び、床を転がる。

 

「H&U4$」

 

 追撃をしようとしたカミュの横を火球が通り過ぎ、それに気を取られている隙に、先程目を回していた<メタルスライム>は、通路の先へと消えて行った。

 散々カミュを撹乱して行った<メタルスライム>が逃げ出した事に、状況を掴めないカミュではあったが、そんな短い時間は、先程まで状況を傍観していた<ベビーサタン>に搔き消される。

 

「ちっ!」

 

 カミュに向けて大きく口を開いた<ベビーサタン>は、大きく息を吸い込んだ後、一気に息を吐き出した。

 睡魔に襲われるような神経系の物と予想したカミュは、息を止めようとするが、自分の周囲を満たして行く冷気に気が付き、慌てて後ろへと飛んだ。

 冷たく凍り付くような冷気は、メルエの行使する<ヒャダルコ>程の威力はないものの、剣を持つ手を悴ませる力は有している。鎧やマントには霜が降り、カミュの吐き出す息も白く濁り始めた。

 

「ピキュ――――」

 

 悴む手に力を込めて剣を握ろうとするカミュに向かって、未だに残っていた<メタルスライム>の一体が飛び込んで来る。カミュは、その魔物に対して剣を向け、合わせるように剣を突き出した。

 手に余計な力が入らない状況であった事が功を奏したのか、カミュの突き出した剣は、何の抵抗も無く<メタルスライム>の身体へと突き刺さり、その不思議な身体を破壊する。

 カミュは、自身の持っている<草薙剣>には、防御力低下の付加があると考えていた。だが、その効果は、実際に魔法の効力がある相手にしか発揮されず、<メタルスライム>や<ミミック>のような抗魔法力の強い魔物の防御力が低下した節はない。

 故に、今、<メタルスライム>を貫いたのは、純粋にカミュの実力なのだろう。同じ事をもう一度行えと言われても、即座に実行できる事はないだろうが、カミュの剣技の幅が広がった事だけは確かであった。

 

「P¥5%*」

 

 残る一体となった<ベビーサタン>は、地面に落ちて銀色の液体と化す<メタルスライム>の姿と、振り向くカミュの瞳を交互に見た後、まるで怯えるように奇声を発する。その奇声は、この洞窟で聞くのは二度目となる物。

 人語が操れる魔族である<ベビーサタン>の余裕が失われている事を示す奇声は、この洞窟に入った頃に遭遇した<ミミック>の唱えた恐るべき魔法の一つであった。

 それを理解したカミュは、あの不快な感覚を想定して身構える。

 

「???」

 

 だが、またしてもその呪文は不発に終わった。何も起こらない事に慌てて武器を見る<ベビーサタン>ではあるが、それを見たカミュの行動は素早い。即座に間を詰め、<ベビーサタン>へと突き出された剣が、魔族の腹部を抉り、その刀身が背中から顔を出した。

 背中から吹き出る体液が岩壁に飛び散り、カミュが剣を抜き去った事によって、止め処なく流れ落ちる。命の源である体液が噴き出した<ベビーサタン>は、その場に立っている事も出来ずに倒れ込み、そのまま痙攣を繰り返した後に絶命した。

 <ベビーサタン>という魔物は、本来の魔法力の量が少ないのかもしれない。いや、見た目通り、この世に生を受けてから間もない魔物なのだろう。

 故に、呪文の契約が済んでいないのか、それとも契約は出来ていてもそれを行使する程の力量を有していないのかは解らないが、呪文を行使出来ないのだ。<イオナズン>という魔法や死の呪文にどれ程の魔法力が必要なのかはカミュには理解出来ないが、少なくとも、床に倒れ伏して絶命している魔族に扱える物ではなかったという事。

 

 通路で倒れ伏す魔族の死骸を乗り越え、カミュは更に通路を進んで行く。その場所は、やはりカミュの想定通りの行き止まりではあったが、少し開けた空間であった為、カミュはその場所で休む事を決めた。

 周囲の燭台に残された枯れ木を集め、<たいまつ>から炎を移す。長い間、放置されていた為か、暫く燻りを見せていた後、ようやく炎が灯り出した。

 そして、その時になって、ようやくこの狭い空間の全貌が明らかになる。

 

「……これは、鎧なのか……?」

 

 照らし出された空間の奥には、誰の手にも触れさせないかのような光沢を持つ鎧が鎮座していた。

 人の手で置かれた事が明白である証拠に、それは武器と防具の店で展示されているように、人型を模した物に掛けられた形で存在している。

 胸に十字のマークがある事から『精霊ルビス』を信仰する者の手で作られた物なのだろう。いや、その存在感と漂う雰囲気を考えると、『精霊ルビス』を崇めているのではなく、この世界その物を奉っているようにも感じた。

 

「……大地の鎧……」

 

 吸い込まれるように引き寄せられたカミュは、その鎧の傍の壁に刻まれた文字に気が付く。ここにこの鎧を安置した者が刻みつけたのだろう。

 <地球のへそ>と呼ばれる、この世界の中心に位置する場所にある洞窟内に存在するに相応しいその名をカミュが呟くと、まるでそれを待っていたかのように、鎧を囲む岩壁が淡い光を放った。

 

 この世界の大地が祝福するその鎧は、新たな主人を待っていたかのように輝きを放つ。だが、カミュがその鎧に触れようと手を伸ばし、肩当てに施された角のような物に触れると、その光は瞬時にして鎧に中へと吸い込まれてしまった。

 メルエの持つ<雷の杖>との出会いの時と似ているようで、全く異なったそれは、周囲の空気や雰囲気さえも変化した事が明確に物語っている。先程まで洞窟内の大地全てが鎧を祝福するように輝きを放っていたのだが、それも全て瞬時に消え失せ、鎧自体もその辺りの武器屋で販売している物と然程変わらない空気を纏っていた。

 

「……俺を主人としては認めない、という事か……」

 

 唖然として見上げていたカミュは、小さな呟きと共に柔らかな笑みを浮かべる。不思議な雰囲気を持った物が、まるで生きているように主を定める姿を、カミュはこの旅で何度か見て来ていた。

 メルエを待っていた<雷の杖>、サラを待っていた<悟りの書>、カミュを待っていた<草薙剣>、その何れもが、主と定める者以外の手に渡る事を嫌っている。ならば、何故、先程まで輝きを放っていたのか。

 この暗い洞窟という場所から離れる事を喜ぶように輝いた鎧は、何を主として見ていたのか。それを考えてカミュは笑みを浮かべたのだった。

 

「お前を装備出来る人間は、もう一人いると言うのだな?」

 

 物云わぬ鎧に問いかけるように発せられた呟きは、静かな沈黙によって返される。もう一度笑みを浮かべたカミュは、鎧に背を向け、この空間の入口を向くように座り込んだ。

 そのまま、剣を肩に掛けたまま、静かに瞳を閉じ、浅い眠りへと落ちて行く。

 静かに佇む鎧は、赤々と燃える炎に照らされ、不思議な輝きを放ち始めていた。

 

 

 

 

 篝火の炎が揺らめく神殿内は、闇と静寂に満ちていた。

 既にメルエは完全に眠りに落ち、静かな寝息を立てながら身動き一つしない。その横に長椅子で簡易ベッドを二つ作り、メルエを挟むようにサラとリーシャが身体を横たえていた筈だった。

 しかし、ふと目を覚ましたサラは、メルエの向こう側で寝ている筈の女性の身体が起き上がっている事に気が付く。身体を起こし、長椅子に座るような形で背を向けている女性は、先程までメルエが凝視していた通路へと視線を向けていた。

 

「リーシャさん? 眠れないのですか?」

 

「ん?……ああ、起こしてしまったか?」

 

 後方から掛った声に振り向いたリーシャは、自分の身動き等でサラを起こしてしまった事を謝罪する為に頭を軽く下げるが、すぐに視線を元へと戻す。ゆっくりと起き上ったサラも、そのまま毛布に包まりながら、リーシャが見ている方向へと視線を動かした。

 吸い込まれるような闇しか見えない通路の先は、『勇者』と呼ばれる青年を飲み込んだ直後と何一つ変わりはない。

 

「リーシャさんがメルエへ話したように、カミュ様が戻られた時にリーシャさんの調子が悪くては元も子もありませんよ?」

 

「ああ……解ってはいるのだがな……カミュが試練と戦い、無事に戻って来た時に、私達が寝ているというのもな……」

 

 サラの言葉に苦笑を浮かべたリーシャは、何やら居心地が悪そうに頬を指で掻いていた。

 確かに、カミュが夜通しで試練に挑んでいる可能性は否定出来ない。だがサラは、今回のような切羽詰まった状況ではない場面ではカミュは無理をしないと考えていた。

 それに対しリーシャは、カミュの性質上、無理な行動はしないとは思ってはいるが、必要となれば、多少の苦を無視する傾向がある事も知っているだけに、その辺りに不安を感じていたのだ。

 

「カミュ様がメルエへ『すぐ戻る』と言った以上、無理はしないでしょう。『急いて事を仕損じる』という可能性は、カミュ様に限っては無いと思いますよ? お一人では、満足に休む事は出来ないかもしれませんが、<聖水>も持っているでしょうし、<トヘロス>という呪文もありますから」

 

「そうだな……サラの言う通りだ」

 

 通路から視線を外したリーシャの顔に浮かぶ笑みを見て、サラは小さく微笑んだ。

 リーシャは、<聖水>という道具や<トヘロス>という魔法が、洞窟内のような場所で効力を持つかどうかを知ってはいない。だが、サラがこう言う以上、その効力があるのだと考えたのだ。

 それは、詭弁かもしれないし、方便かもしれない。だが、それを信じる事が出来るだけの『絆』をリーシャとサラも、リーシャとカミュも、そしてカミュとサラも築いて来ている。

 

「サラは先に休め。私は、もう少しの間、起きている事にするよ」

 

「わかりました……無理せずに眠ってくださいね」

 

 リーシャの表情を見たサラは、自分の伝えたかった事は伝わっている事を理解し、それ以上は強く言う事無く、再び身体を横たえた。

 閑散とした神殿の中は、夜の闇と冷気によって支配されており、毛布に包まったサラは、メルエを抱くように眠りへと落ちて行く。

 

「サラに窘められるとはな……」

 

 静かな寝息を立て始めたサラを振り返ったリーシャは、苦笑のような笑みを浮かべ、妹のように想う二人の頭を優しく撫でた。

 神殿内に漂う冷気によって冷たく冷え切った髪の毛が、リーシャの心をも静めて行く。一つ息を吐き出し、もう一度通路の方へ視線を動かしたリーシャは、ようやく身体を横たえ、瞳を閉じた。

 

 

 

 距離の離れた心は、培って来た『絆』によって結ばれている。

 導かれて来た者は、時間の経過と共に導く者へと変貌していた。

 導いて来た者は、周囲の者達の成長を喜び、そして戸惑う。

 誰も必要としなかった者は、己の周りに集う者達を心より信じ始めていた。

 それぞれの胸に宿る『想い』を抱き、それぞれの夜は更けて行く。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

少し短くなってしまいました。
本来であれば、二話で終わらす予定だったのですが……
すみません、いつもの事だと許して下さい。
地球のへそ編は、全三話になると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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地球のへそ③

 

 

 

 神殿内に色とりどりの光が差し込み始める。上空に嵌められたステンドグラスを通った光は、赤や緑に彩られ、サラの顔を照らし出していた。

 目の裏に強い光を感じたサラは、静かに目を開き、朝陽に映し出された神殿内を見渡す。暖かな光に包み込まれ、寒々とした冷気に満たされていた神殿内の気温は僅かに上昇していた。

 身体を起こし、包まっていた毛布を退けたサラは、横で眠っていた筈の二人がいない事に気が付く。

 

「サラ、起きたのか?」

 

 周囲を見ていたサラの後方から声が掛った。

 振り向いた先には、トレイにスープを三つ乗せて微笑むリーシャが立っており、その足下には物欲しそうにトレイの物を見上げるメルエが付いて来ている。おそらく宿屋の厨房を借りて作って来たのだろう。スープと一緒にトレイの上に乗っている果物に目を奪われているメルエを見たサラは、小さな笑みを浮かべた。

 

「メルエが先に起きていてな。お腹が空いているようだったので、宿屋で食材を買って、厨房を借りて来た」

 

「…………むぅ…………」

 

 宿屋の厨房でもリーシャに窘められたのだろう。大好きな果物を食べる事が出来ない事に頬を膨らませるメルエは、まるで『サラが早く起きないからだ』とでも言うように鋭い視線を向けていた。

 苦笑を浮かべたサラは、急いで神殿の外の泉で顔を洗い、再び神殿内へと戻って来る。眠っていた簡易ベッドを既に長椅子へと戻し、机の上にはスープと果物が並べられていた。

 湯気と共に良い香りを放つスープは、寝起きの胃を目覚めさせるには充分な威力を誇っている。

 

「では、食べよう……メルエ、まずはお祈りだ」

 

 サラが着席した事で、リーシャが号令をかけた。

 食事の前の祈りを始めたサラとリーシャを余所に、早速果物へと手を伸ばしたメルエは、そのまま口へと頬張り始める。『精霊ルビス』への感謝を示す為の祈りを捧げない事を、リーシャやサラは窘めた。

 カミュという特殊な考えを持つ人間とは異なり、メルエは単純に『精霊ルビス』という存在を知らないのだ。

 幼い頃からそのような教育を受けていない為、食事の時の祈り等を行う事を知らない。朝、教会での祈りを捧げる事などは、『僧侶』でない限り日課とはならない。だが、今日の糧への感謝の祈りは、万国共通であり、『人』の義務とも考えられていた。

 

「…………むぅ…………」

 

「ほら、手を拭いて」

 

 果物を取り上げられたメルエは、先程よりも頬を膨らます。そんなメルエの手を拭いたサラは、再び机の上で手を合わせた。

 カミュがいる時にも、何度かメルエに食事の前の祈りについて話した事がある。その時も、カミュは何も言わなかった。

 彼にしてみれば、メルエには普通の暮らしをして欲しいという想いがあるのだろう。故に、この世界で当然の行為を知っておく事に対し、否定的な事を言う事はない。

 だが、そのカミュが食事前に祈りを捧げる事はない為、メルエからすると、『何故、する必要があるのか?』と問いたい行為であるのかもしれない。

 

「今日中には、カミュ様も戻って来ると思いますよ」

 

「…………ん…………」

 

 祈りを終え、皆が食事に手を伸ばし始めた頃には、既にメルエの前にあった果物は、その胃袋の中へと消えていた。

 スープにスプーンを入れながら、メルエは昨夜に見つめていた通路へと視線を送る。その視線先に気が付いたサラは、苦笑を浮かべながらメルエの前に自分の果物を半分にした物を置き、その心の負担を軽減させる為の言葉を洩らした。

 サラの顔と自分の前に置かれた果物を交互に見比べたメルエは、小さな笑みを浮かべてその果物を頬張る。

 

「また、長い一日になりそうだな……」

 

 メルエの髪の毛を撫でながら、リーシャは通路へと視線を向け、溜息と共に言葉を吐き出した。ただ待つだけ、という行為がこれ程苦しい物になるとは、リーシャも思っていなかったのだろう。

 実際に、職業柄からも、彼女自身の性格からも、『待つ』という行為が得意ではない。この三年の期間でも、パーティーの危機には彼女がその手に持つ武器を振り、切り抜けて来た事も多く、彼女の行動によって救われて来た命も多いのだ。

 その反面、彼女の行動力によってパーティーが危機に陥った場面もあるのだが、そこは彼女の名誉の為にも割愛しよう。

 

 父親を失った時、自分自身の無力さを痛感し、何も出来なかった自分自身を恨む事によってリーシャは成長して来た。

 父が危機に瀕した時に、傍に自分がいれば助けられたと思える力を持つ為に剣を振り、二度と父のような犠牲を出すまいとして身体を鍛えて来たのだ。

 実は、彼女が討伐隊などで他者を押し退けてでも前へ出ていたのは、貪欲な程の出世欲ではなく、異常なまでの恐怖心から来る物であった。爵位を失い、それを取り戻そうという想いがなかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に彼女を突き動かしていたのは、共に行動をしていた隊員達の死によって泣く家族の涙への恐怖だった。

 自身が受けた哀しみと、自身が流した涙、そして自身が生きて来た苦しみの道を他者に歩ませる事への恐怖が、彼女の足を前へと出していたのだ。

 

「大丈夫ですよ。夕食はきっとカミュ様と一緒に食べる事が出来ます。その時には、料理のお手伝いを私もしますよ」

 

「…………むぅ………サラ………だめ…………」

 

「そ、そうだな。それは、気持ちだけ頂いておく事にしよう」

 

 不安そうに通路を見つめる二人を元気付けようと掛けたサラの言葉は、予想外の方向から、とても不服な形で返って来る事となる。果物を食し終えたメルエは、眉を下げてサラの申し出を拒絶し、そのメルエの反応を見たリーシャも、その申し出を柔らかく固辞した。

 自分が考えていた物とは全く異なる返答に驚いたのはサラ。暫しの間、リーシャ達が何を言ったのかが理解出来ずに呆然としていたが、その真意を理解すると、顔を赤く染め、肩を震わせ始めた。

 

「な、何故ですか!? わ、私は料理を作った事はありませんが、味覚が異常な訳ではありませんよ! 手先が不器用な訳でもありませんし、お手伝いなら出来ます!」

 

「…………サラ………だめ…………」

 

「い、いや、サラを疑っている訳ではないぞ……そうだな、メルエと一緒に野菜を洗ってもらおう」

 

 椅子を蹴って立ち上がったサラの主張は、スープを口に入れながら見上げているメルエの呟きによって遮られ、リーシャの妥協案によって萎んで行く。サラにしても、まさかメルエのような幼子と同じ手伝いを申し付けられるとは思ってもみなかったのだろう。

 確かに、サラは包丁などを握った事もないし、鍋を火に掛けた事もない。彼女の育ての親である神父が、心に傷を負ったサラを過保護という程に接していた為、彼女に火の扱いをさせなかったのだ。

 その代りに、サラは掃除や洗濯といった物を率先してやるようになり、そちらの能力は高いのであるが、料理自体は未知の世界と言っても過言ではなかった。

 

「うぅぅ……酷いですよ……」

 

 泣きそうに眉を下げ、恨みがましい呻き声を上げるサラの姿にリーシャとメルエは微笑みを浮かべる。先程までの重苦しい空気は霧散しており、リーシャやメルエの心にも余裕が生まれていた。

 サラが意気消沈の姿でスープを啜る音と、リーシャとメルエの忍び笑いが、明るさを取り戻した神殿内に響き渡る。

 

 

 

 肌寒さを感じたカミュは、瞳を薄く開けた。

 何時の間にか眠りに落ちていたのか、既に焚火の炎は燻り始めている。カミュの背に鎮座する<大地の鎧>の影響なのか、カミュが目を閉じてから魔物が現れる事はなかった。

 思っていたよりも深い眠りに落ちていたようで、カミュの身体からは幾分か疲労が抜けている。立ち上がったカミュは、洞窟内の土を燻る焚き火へと掛け、後方にある<大地の鎧>へと目を向けた。

 

「この洞窟を探索し終えた後、もう一度戻って来る」

 

 生きている者に告げるように呟く言葉に、<大地の鎧>は沈黙によって返答する。カミュが座っていた地面や岩壁が一瞬暖かな光を放ったような気もするが、極僅かな物であった為、カミュはそれに気付かず、そのまま来た道を戻り始める。

 カミュが持つ<たいまつ>の灯りが遠退く中、暗闇に鎮座する鎧だけは、先程と変わらぬ方向だけを見つめて行た。

 

「この場所の構造的に考えれば、向かう方角は一つしかない訳か」

 

 昨夜に歩き回った下層階へと降りたカミュは、東へ向かって歩いて来た場所にあった階段という事から、フロア全体の大まかな構造を推測する。西側にあった階段を更に西に進むと壁へとぶつかった。

 その階段から北へ向かった先にあった階段を更に北へ向かうと再び壁にぶつかっている。それを考えると、今カミュの傍にある階段を更に東へ進んだり、南へ進んだりすれば壁にぶつかる可能性は高い。

 つまり、このフロアは正方形に似た形をしているという事になるのだ。その四隅に程近い場所に階段があると考えるのが妥当となり、カミュは北へと向かう事にした。

 

 カミュの想像通り、北へ向かって歩いた先には壁は見えず、<たいまつ>に照らされた床は更に奥へと続いている。周囲に注意を払いながら進んだカミュは、目の前に現れた闇に足を止めた。

 ぽっかりと空いた穴のような場所へ<たいまつ>を向けると、下へと続く階段が見えて来る。下の階層は真っ黒な闇に包まれており、<たいまつ>の炎を翳しても、その奥までを見る事は出来ない。

 一つ息を吐き出したカミュは、そのまま一歩足を踏み入れた。

 

「人工的な物だな……」

 

 階段を下りて行ったカミュは、下の階層に降りてすぐにあった燭台へ炎を灯しながら、周囲を見渡す。燭台の炎によって照らされた階段も、しっかりとした造りになっており、知恵のある者が作成した事が解る。燭台は、通路の岩壁に等間隔で配置されており、そこには枯れ木が残されていた。

 明らかに何者かの手が入れられた洞窟の中を一通り見渡したカミュは、燭台一つ一つに炎を灯しながら、奥へと進んで行く。

 

「……またか……」

 

 通路を真っ直ぐ進んだカミュは、目の前に広がった光景を見て、大きな溜息を吐き出した。

 この洞窟へ入ってから何度目になるか解らない選択肢。そこは左右に分かれる通路が見えている。闇に包まれた洞窟内は、左右共に奥を見通す事は出来ず、この段階では、どちらが正解なのかを判断する事は出来なかった。

 しかし、この場所で佇んでいる訳にはいかないカミュは、左右の通路へ<たいまつ>を向け、最終的に左の道を選び出す。左へ折れ、通路に設置されている燭台へと炎を移しながら、再び歩き始めた。

 

「ちっ!」

 

 左へと進んだカミュは、その通路を真っ直ぐに進み、突き当たりで右に折れているのを確認した時、横合いから突き出された鋭い刃物によって、頬を削り取られる。

 通路の見えない部分から突如として出された物は、刃毀れをしていながらも殺傷能力を残す剣。

 瞬時に<たいまつ>を傍にある燭台に掛けたカミュは、後方へ飛びながら<ホイミ>を詠唱し、背中の剣を抜き放った。

 

「一体、この洞窟には何人の犠牲者が眠っている?」

 

 炎によって照らし出された通路に現れたのは、剣を振い、相手を倒すという思念だけが残っている古い鎧。甲冑の兜の隙間からは吸い込まれるような闇しか見えず、ゆっくりとカミュの前へと歩み出て来た。

 照らし出された鎧は、上の階層で遭遇した<地獄の鎧>よりも下位に位置する<さまよう鎧>であろう。鎧の年季から考え、まだ新しい物であるように見受けられる。年数と共にその魔性を強くする系統であり、その年季によって力も上下して行くのだ。

 

「通すつもりはないか……ならば、押し通ろう」

 

 剣を構えたカミュが前方へと駆け出す。

 <地獄の鎧>でさえ、一対一ではカミュに歯が立たないのだ。ましてや、<さまよう鎧>などは、相手になる筈がない。

 カミュの剣を受ける為に盾を掲げるが、その盾は、防御力低下の付加がある<草薙剣>によって斬り捨てられた。

 本来であれば、新しい鎧の方が古い物よりも強固であるのだが、『魔王バラモス』の魔力によって強化される鎧は、その年数が長い程に強固になって行く。故に、<さまよう鎧>の纏う鎧は、同じ系統の魔物の中でも最も脆い物であるのだ。

 

「グモォォォォ」

 

 人ではない物が発する雄叫びを残し、喉元に剣を受けた<さまよう鎧>は崩れ落ちる。カミュは、崩れ落ちる<さまよう鎧>に合わせ、<草薙剣>を引き抜き、その鎧を両断した。

 鎧の中に閉じ込められていた魂の無念は、洞窟内へと溢れ出し、この世界との縛りを解き放って行く。鉄で出来た鎧を両断する程の剣の力は、カミュの考えを裏付ける物でもあった。

 この剣に付随する特殊な効果は、<さまよう鎧>にも十分に通用する物だったのだ。

 

「強力な魔物はいないようだが……」

 

 物云わぬ金属になった<さまよう鎧>を見下ろしたカミュは独り言を呟くが、その言葉は溜息と共に途中で止められる。カミュが何を言おうとしたのかは彼にしか解らないが、彼は剣を一度振るった後に、再び<たいまつ>を手に取り歩き始めた。

 

 

 

 燭台は通路の壁に続いており、それに一つ一つ炎を灯しながら進むカミュは、通路を右へと折れて行く。

 洞窟も地下三階層まで降りると、周囲の気温も大分下がっており、肌寒さを感じる程。周囲を照らす燭台の炎が通路を温める前に先へと進むカミュの吐く息は、白く濁り始めていた。

 そして、何個目かになるか解らない燭台へ炎を移したカミュは、その燭台の下にある物を見て、瞬時に後方へと飛退く。着地と同時に剣を抜いたカミュは、もう一度<たいまつ>を岩壁へと向けた。

 

「……引き返せ……」

 

「!!」

 

 <たいまつ>を向けた先には、岩で造られた人面。

 通常の人間の数倍の大きさはある顔面に彫られている瞳が怪しく光り、開かれている口から言葉が漏れ出す。突如響き渡った人語を聞いたカミュは、呪文の行使に備えるように身構えた。

 しかし、周囲に何の変化も無く、再び先程と同じ言葉が呟かれた為、カミュは警戒心を解かないまま、岩面を見つめる。

 

「……引き返せ……」

 

「どのような仕掛けなのかは解らないが、脅しなのか?」

 

 言葉を呟くばかりで、それ以外の行動を起こさない岩で出来た人面から視線を外さずに、カミュは独り言を呟いた。

 岩で出来た物が人語を話すという行為自体が驚くべき物なのだが、数多くの不可思議な現象を見て来たカミュは、それに対し取り乱す事はない。それでもその言葉の意味を理解する為、その場に留まった。

 いくら考えても答えの出ない物であり、同じ言葉が響く通路内へ<たいまつ>を向けると、先へと続く通路の右側の壁には、岩で出来た人面が等間隔で並んでいる事に気付く。

 

「先へ進むしかないか……」

 

 溜息と共にカミュは前へ足を踏み出した。

 『引き返せ』と告げられても、その先に何があるか解らない以上、カミュには進む事しか選択肢はない。リーシャという正確無比な方向指示機がない今では、この先の場所の予想を立てる事は出来なかった。

 それは、ここまでの旅で初めての出来事。洞窟や塔内部で常に歩む道を指し示していたのは、アリアハンから同道して来た宮廷騎士である女性だったのだ。

 カミュは、改めて彼女の言葉に甘えていた自分を痛感する事になる。

 

「……引き返した方が良いぞ……」

 

 次に見えた人面が言葉を洩らす。それでもカミュは前方を見据えながら、<たいまつ>を掲げた。

 もはや、彼を止める事が出来るのは、神殿内で彼の帰りを待っている者達だけであろう。

 基本的に、人と好意的に接する事のなかった『勇者』は、他人の意見を聞き入れるという考えを持った事が無い。常に自身で考え、自身のみで行動して来た彼だからこそ、その結果も自分の責任として受け入れて来たのだ。

 そんな彼が唯一聞き入れる意見というのは、三年という月日を共にして来た者達の発する物だけ。

 故に、彼は岩の人面の言葉に耳を貸さず、通路を道なりに歩いて行った。

 

 真っ直ぐ進むと、通路は右に折れ、岩壁の人面はカミュの行く手の左側に位置するようになる。

 再び発せられた言葉も、先程と同様の物。

 何一つ変わらない言葉に溜息を洩らしたカミュは、再び真っ直ぐ通路を歩き出した。

 しかし、左側に見えていた岩の人面が三つ目に差し掛かった時、カミュは前方から漂う禍々しい空気を悟り、背中の剣を抜いた。

 

「ふぁっ、ふぁっ、ふぁっ……お前の意志の強さだけは認めよう。だが……向こう見ずなだけでは『勇気』があるとは言えぬ。時には他人の言葉に従う『勇気』もまた、必要なのじゃ」

 

 前方へ<たいまつ>を向けようとするカミュの左側から掛けられた言葉は、ここまでのカミュの行動を嘲笑うかのような物。

 先程までの岩の人面とは異なる言葉を発し、まるで嘲笑するような笑みを浮かべる最後の人面を睨みつけたカミュは、ゆっくりと<たいまつ>を前方へと向けた。

 ここまでの旅で、カミュは他人の意見を考慮に入れた事など数度しかない。だが、その数少ない諫言は、カミュの凝り固まっていた心を時間をかけて溶かしていた。

 

「ちっ!」

 

 そんな彼の心を解き放つ事が出来る者達は傍にはいない。もし、本当に彼が『勇者』であるとすれば、それは彼一人で成り得る物ではないのかもしれない。彼と共に旅立ち、彼と出会い、彼の人間性を知って尚、彼と共に歩む者達がいてこそ、彼は世界に誇る『勇者』として存在するのだろう。

 カミュという青年を『勇者』としてしか見ていなかった者も、今はカミュ個人として接し始めている。

 カミュという存在を信じる者の中には、その身を案じる者も生まれている。

 そして、カミュを絶対的保護者として慕う者は、この無愛想な青年に家族へ向ける物と同等の愛情を持っていた。

 

 そんな仲間達の存在が、彼を『勇者』として押し上げている。

 世界を救うという目標を掲げてはいるものの、それを実行する気迫はなく、『魔王討伐』の旅を続けているものの、そこへ辿り着く事が出来るとは考えて来なかった一人の青年は、この三年という旅の中で、真の『勇者』として変貌を遂げ始めていた。

 まだ彼が自身の力と役割を確信するまでには時間が掛かるだろう。それでも、彼は自身の意志で、その道を歩み始めているのだ。

 

「グオォォォォ」

 

 剣を抜いたカミュは、舌打ちと共に後方へと飛退く。そして、カミュの居た場所には、真っ赤な火炎が渦巻いた。カミュの目の前に居る存在が、その巨大な口から吐き出したのだ。

 <燃え盛る火炎>はカミュとの間を遮るように燃え上がり、視界を奪う。既に<たいまつ>を放り投げたカミュは、左腕に装備された<魔法の盾>を掲げ、炎の海から飛び出した物を防いだ。

 

「……今は一人で戦うしかない、という事か……」

 

 沈静化する炎の向こうに見えた姿は、以前にも遭遇した事のある魔物。いや、正確には魔物というべきではないのだろう。

 ある地方では、神格を有する程に崇められる存在。

 この世界の種族の頂点に立つと考えている種族。

 何故、このような洞窟に生息しているのかは理解出来ないが、宙を浮く様に長い身体をうねらせ、鋭い牙と鋭い爪をカミュへと向けているのは、紛れもない『龍種』であった。

 最下位に位置する者ではあるが、カミュがここまで戦って来た魔物達とは一線を画す存在である事は間違いはない。<スカイドラゴン>と名を付けられた『龍』は、カミュの行動を妨げるように立ち塞がっていた。

 

「やぁぁ!」

 

 火炎を納めた<スカイドラゴン>に向かって駆け出したカミュは、勢い良く飛び上がり、宙に浮く尾に向かって剣を振り下ろす。自分へと襲いかかって来たカミュの行動に反応が遅れた<スカイドラゴン>は、身体を捩るが間に合わず、その尾に剣を受けた。

 尾を斬り落とすまでは行かなくとも、その尾を傷つける事には成功した剣が、派手に体液を撒き散らした<スカイドラゴン>の瞳を変化させる。怒りに燃えた瞳をカミュへと向けた<スカイドラゴン>は、再び大きな口を開け、渦巻く炎をカミュへと放射した。

 

「くそっ!」

 

 現在のカミュの周囲には、氷結呪文を最も得意とする『魔法使い』はいない。カミュへと迫る火炎を横から妨げてくれる後押しはないのだ。

 『龍種』の吐き出す火炎は、それこそその『魔法使い』が放つ最高位の灼熱呪文に匹敵する程の脅威。それでも、今のカミュにはそれを防ぐ方法が、左腕に装備している<魔法の盾>しかない。それがどれ程に頼りない事だろう。

 『自分一人で旅を続けて来た』というつもりはない。だが、いつの間にか、そんな援護が当たり前の事になっていた事実に気が付く。

 

 『自分が前に出れば、共に出る者がいる』

 『防御力の高い敵ならば、指示を出す前に対処してくれる者がいる』

 『脅威となる呪文を相殺し、止めを打ってくれる者がいる』

 

 そんな彼の無意識の想いが、ここまでの旅で彼を生かして来ていた。

 無意識に自分の後ろに居る者達を信じて来ていた心に、カミュは盛大に悪態を吐く。だが、それは不快な物ではなかった。

 自分が弱くなったとも感じない。むしろ、その想いこそが自身をここまで押し上げてくれたのではないかとさえ、カミュは思っていたのだ。

 悪態を吐き、舌打ちを鳴らすカミュの表情には、小さな笑みさえ浮かぶ。口端を上げただけの物ではあるが、それは彼の大きな変化なのかもしれない。

 

「悪いが……押し通るぞ!」

 

 火炎放射が弱まり始めたのを見計らい、カミュは未だに残る火炎の中へと飛び込んで行った。

 肌が焼け、髪の毛が焼けて行くのを感じながらも、<燃え盛る火炎>を抜けたカミュは、そのまま<草薙剣>を振り下ろす。炎を吐き出す為に下げられていた<スカイドラゴン>の口は、振り下ろされた剣によって、二つに斬り裂かれた。

 噴き出す体液と、轟く雄叫び。

 

「ぐっ……ベ、ベホイミ……」

 

 身体を蝕む火傷に倒れ込みそうになりながらも、カミュは即座に自身の持つ高位の回復呪文を唱えた。

 カミュの左腕が発した淡い緑色の光が、火傷による痛みと、意識を回復させて行く。朦朧としていた意識を覚醒させたカミュは、完全に治癒していない身体で、荒れ狂う<スカイドラゴン>に向けて再び剣を構えた。

 防御力低下の付加を持つ<草薙剣>は、『龍種』の鱗をも斬り裂く程の能力を持っている。それを肌で感じたカミュは、落ちて来る<スカイドラゴン>の首に合わせて、剣を突き上げた。

 

「グギャァァァ」

 

 凄まじい程の雄叫びが響く中、突き入れた剣を払うように振り抜いたカミュは、即座にその場を脱出する。自身の身体に再度回復呪文を掛け、剣を構え直した時には、宙で暴れ回る<スカイドラゴン>の身体から力が抜けていた。

 体液を大量に噴き出しながら地面へと落ち、それでも『龍種』としての強靭な生命力で命を繋いでいる<スカイドラゴン>の巨大な目と瞳を合わせ、カミュはその眉間に<草薙剣>を突き入れる。既に叫び声を上げる気もないのか、突き入れられる剣を受け入れた<スカイドラゴン>は、静かにその生命に終止符を打った。

 世界最高位に立つ『龍種』に恥じぬその気高き姿に、カミュは冥福を祈るかのように瞳を閉じる。

 

「ふん!」

 

 そして、再び瞳を開けたカミュは、一度剣を振って体液を飛ばした後、その剣を後方の岩壁に向かって振り抜いた。

 乾いた音を立てながらも、弾かれる事無く振り抜かれた剣は、その場にあった岩の人面を真っ二つに斬り裂く。既に物言わぬ岩となっていた人面を斬り裂いたところで何もならない事はカミュも理解しているだろう。

 それでも、この気高き『龍』の場所へ誘い、それを嘲笑うかのような言葉を発した人面をカミュは許せなかったのだ。

 

「しかし、何故このような場所に『龍』が……」

 

 <スカイドラゴン>が眠る向こうは、岩壁が塞ぐ行き止まり。つまり、あの岩の人面が話していた通り、この場所には何も無く、引き返す事が賢明であったという事になる。だが、このような場所に『龍種』がいる事自体にカミュは疑問を持った。

 思えば、<スカイドラゴン>と遭遇したのは、『悟りの書』を求めて入ったガルナの塔が初めてである。世界最高位の生物である『龍種』という存在は、その強大な力の為か、希少種とまでは行かなくとも、数が多い訳ではない。

 そのような希少種が、『悟りの書』を隠されていたガルナの塔に引き続き、この試練の洞窟である<地球のへそ>と呼ばれる場所にも存在したという事が、この場所にある何かを守っていたのではないかという想像へ向かわせるには充分な物であったのだ。

 

「戻るしかないな。あの分かれ道は右だったか……」

 

 床へ落ちた<たいまつ>を拾い上げたカミュは、再び道を戻り始める。物言わぬ肉塊となった<スカイドラゴン>の遺骸が、カミュの背を静かに見つめていた。

 

 

 

 先程の別れ道まで戻ったカミュは、その道を真っ直ぐに進み、周囲の燭台に炎を移して行く。<スカイドラゴン>との戦闘による負傷は既に癒えており、進む足はしっかりと大地を踏みしめていた。

 先程進んだ道とは逆に通路は左に折れ、カミュも<たいまつ>の炎を翳しながら慎重に歩を進める。そして、通路の中央にある燭台に炎を灯した時、再び現れたその姿にカミュは眉を顰めた。

 

「……引き返せ……」

 

「ちっ! またか……」

 

 そこには、先程と同じような岩で出来た人面があり、先程と同様の言葉を発していたのだ。燭台の炎に浮かび上がる巨大な人面は不気味で、この場にサラがいれば、声を上げていたかもしれない。そんな人面に向かって大きな舌打ちを鳴らしたカミュは、溜息を吐き出した後に、その言葉を無視して通路を歩き出した。

 実際に、この階に下りてから歩ける場所は先程の行き止まりへの通路と、現在歩いている通路しかない。ここもまた岩の人面の言う通りに行き止まりへの道だとすれば、この階層へ降りた事自体が誤りという事になってしまう。だからこそ、カミュは敢えて無視して歩き続ける事を選択したのだ。

 

「……引き返した方が良いぞ……」

 

 その後も並ぶ岩人面の言葉は同じ物だった。カミュの行く手を阻むように告げられる言葉であるが、妨害される程の実害は何も無い。ただ、カミュがその前を通ろうとすると、怪しく目を光らせて同じ様な言葉を繰り返すだけなのだ。

 鬱陶しく感じないと言えば嘘になるが、先程のような魔物が出現しないのであれば、何も問題のない物。警戒を怠らず、慎重に歩を進めるカミュは、その通路が再び左に折れるのを確認し、そちらへと<たいまつ>を向ける。

 

「こちら側の通路には、魔物は生息していないのか?」

 

 <たいまつ>を向けた先にも、魔物の姿はなかった。そればかりか、何かに護られているかのように神聖な空気が漂い、魔物の気配すらない。

 左に折れてすぐ、再び左へ折れるように通路は続き、カミュは道なりに歩を進めて行く。相変わらず左の岩壁には等間隔で岩人面があり、同じ言葉をカミュへと投げかけるが、既に通路の先から漂う神聖な空気がこの通路が正しい事を物語っていた。

 

「……これは……」

 

 辿り着いた場所の光景に、カミュは<たいまつ>の炎を燭台に移す事も忘れて、呆然と魅入ってしまう。

 赤々と燃える炎に映し出されたその場所の姿は、信仰心の薄いカミュでさえも吸い込まれてしまう程の神聖さに満ちており、そこに置かれた石像は、その存在感を否が応でも認めざるを得ない程の物であった。

 暫しの間、魅入っていたカミュは、我に返るのと同時に傍に立てられた燭台に火を灯し、その場所を隅々まで照らし出すように設置して行く。

 

 その場所は、今までの通路の床とは異なり、青く塗られた石板が敷き詰められ、土の色などは何処にも見えない。先程の通路のように行き止まりではあるが、少し開けた空間になっており、その突き当たりにはカミュにも見覚えのある石像が立てられていた。

 カミュに同道する若き『賢者』が崇拝する対象。

 町や村の教会にも置かれるその石像は、瞳を瞑り、左腕の胸の前に置き、右腕を前へと伸ばしている。全体に人の手が入っている洞窟である事は解ってはいたが、この場所に辿り着いたカミュは、手を入れた者が並の者ではない事を改めて実感する事となった。

 

「この石像はルビスか……ならば、これは……」

 

 世界で生きる者達の信仰の対象を呼び捨てにしたカミュではあったが、既にその視線は『精霊ルビス』の石像にはなく、その前にあるもう一体の石像へと移っている。

 ルビス像の目の前には跪く一人の男の石像があった。

 正確には性別などは特定できないが、彫り込まれた髪の長さやその体格から男性である事はまず間違いないだろう。

 跪く男性の石像は、恭しく頭を下げ、両腕を『精霊ルビス』の前へ差し出している。

 

「……ブルーオーブ……」

 

 そして、その差し出された男性の両手の掌の上には、青く輝く小さな珠が置かれていた。

 神秘的な輝きを放ち、まるでこの二体の石像を護るように周囲を照らす光は、魔物のみならず、望まれない者全てを排除する程の神聖さに満ちている。その男性の石像が『精霊ルビス』へ<ブルーオーブ>を捧げているようにも見えるが、逆に『精霊ルビス』が男性に<ブルーオーブ>を下賜しているようにも見える。

 手にする事を躊躇する程の神々しさを持つ<ブルーオーブ>ではあったが、二体の石像の間に入ったカミュは、その小さな珠を手中に納めた。

 これがサラであったのならば、こうは行かなかっただろう。神聖な空気をも作り出している二体の石像に近付く事も、このオーブを手にする事も畏れ多いとして、一歩も足を踏み出せなかったに違いない。

 カミュは何を畏れる事も無く、その珠を手に取り、腰に付けた革袋の中へと落とした。だが、その時に男性の石像を正面から見たカミュは、驚きに目を見開いた後、何か納得したように静かに瞳を閉じる。

 

「これで、四つ目か……」

 

 目を開け、二体の石像から離れたカミュは、再び来た道を戻り始めた。

 燭台に灯された炎は消され、二体の石像を照らしていた明かりは闇へと消えて行く。『精霊ルビス』へ頭を下げる石像の頭にはサークレットが彫られており、そのサークレットに嵌め込まれていたであろう物は、既に抜き取られていた。

 その嵌め込まれていたであろう物は何なのか。

 そして、それは誰の手に渡り、何処へ行ったのか。

 何故、この場所に<ブルーオーブ>だけが残されていたのか。

 それは、既にこの場所から離れた青年の胸に封印される事になるのかもしれない。

 

 

 

 来た道を戻ったカミュは、<大地の鎧>が静かに鎮座する場所へと戻って来る。途中で何度かの戦闘を行っては来たが、全ての魔物もカミュを脅かすような存在ではなかった。

 <スカイドラゴン>が再び現れる事はなく、カミュの力量に届く魔物はいない。一人旅を経験し、自分が生きる目的を理解したカミュにとって、この試練の洞窟は、彼をまた一歩『勇者』へと近付ける布石となった。

 自身の存在を認め、その存在を願う者達を認め、そして彼は自分の生きる道を見出して行く。

 

「待たせたな……お前の主の許へ向かおう……」

 

 カミュの言葉に対しても沈黙を続ける<大地の鎧>に柔らかな笑みを向けたカミュは、台座のような物から鎧を外し、それを手に取った。

 手にしていた<たいまつ>は燭台に掛け、<大地の鎧>を両手で抱えるように持つ。ずっしりとした重量を持つ<大地の鎧>は、サラやメルエでは装備など出来ないだろう。このパーティーの中でカミュを主として認めないのであれば、可能性があるとすれば唯一人。

 その者の顔を思い浮かべたカミュは、苦笑のような笑みを浮かべ、詠唱の準備に入って行った。

 

 これだけの鎧を手で持ったまま移動する事は困難に近い。魔物と遭遇する度に地面に置き、剣を振るうのであれば、瞬時の判断に遅れる可能性もあるだろう。鎧を着込む訳にも行かない以上、それは足枷となり得るのだ。

 だが、移動するだけであれば、何の問題もない。カミュには移動呪文という手段があり、それはこのような洞窟や塔などから自身の身体を粒子に変えて脱出する呪文。

 『魔道書』に記載されている中級の移動呪文は、その詠唱者とその詠唱者の身体に触れている者達をも運ぶ能力がある。詠唱者の身体に触れた『人』をも同時に運ぶことが可能であるのだ、装備品を運ぶ事が不可能である筈が無い。

 

「リレミト」

 

 静寂に満ちた洞窟内に、『勇者』の詠唱が響き渡る。

 試練の洞窟を制覇したカミュは、『勇者』と呼ばれる事だろう。

 小さな一歩を繰り返し、彼は偉大な者へと変貌を遂げて行く。

 この洞窟での彼の成長も、そんな小さな一歩の一つであるのだろう。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ようやく地球のへそ編も終了しました。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ランシールの村④

 

 

 

 洞窟の外にあるオアシスへと出たカミュは、頬に湿気のある風を受けながら空を見上げた。

 太陽は既に西の大地へ尾を掛け始めており、数刻もすれば、その半身を大地の中へ埋めてしまうだろう。<大地の鎧>を両腕で抱えたまま、カミュは歩き始め、砂漠の中で僅かに茂る林を出て行った。

 

「ルーラ」

 

 既に目的地が決まっている以上、カミュが再び砂漠を歩く必要はない。彼の帰りを待っているであろう者達の居る神殿を想い浮かべ、カミュは詠唱を紡いだ。 

 瞬時に身体が魔法力を纏い、空中へと浮かび上がる。目的地の方角を定めるように、真っ赤に染まった空を滞空した後、東の方角へと移動を始めた。

 

 

 

「今日も帰らないかもしれないな」

 

「…………カミュ…………」

 

 陽が落ち始め、真っ赤に染まった神殿内部で、未だに闇に染まる通路を見ていたリーシャが小さな呟きを洩らした。

 リーシャの声色が落胆の色を帯びていた事で、メルエの眉は下がってしまう。この一日、やはりメルエは通路から目を離す事はなかった。

 朝食の準備の為にリーシャと共に宿屋の厨房へと移動したきり、昼食を取る事無く、椅子に腰かけたままで彼女にとっての『勇者』を待ち続けていたのだ。

 

「かなり困難な試練なのかもしれませんね」

 

 不安そうに見つめるリーシャとメルエとは対照的に、頭にサークレットを着けたサラは、客観的に物事を見ていた。

 彼女の中では、カミュという『勇者』が帰還する事は当然の事であり、その帰りが多少遅れたとしても、不測の事態に結びつく事はない。常に冷静沈着な青年でさえも、二日という日数を掛けなければ越えられない試練なのだと考えはしても、その青年が帰って来れない状況に陥っているという考えには至らない。

 

「もしや、何かあったのか?」

 

「…………うぅぅ………カミュ…………」

 

 対するリーシャは、時間が経過するに従って、その胸に押し寄せる不安に戸惑っていた。

 カミュという人物を信じ、彼が『勇者』である事を信じてはいる。だが、それと同時に、彼が『人』である事を明確に認識しているのだ。

 『人』である以上、傷つき、倒れる事もあり得る。『人』である以上、その胸の中に『心』を持ち、それが齎す不安や恐怖、そして迷いという物が、進む足を鈍らせる事も経験から知っていた。

 故に彼女は、『人』であり、『勇者』である青年を案じるのだ。

 

 メルエという少女の心の中で、『勇者』である青年が支配する領域は、この場に居る他の二人の女性よりも広範囲に及ぶ。

 自分を照らし出す優しい光は、世界の広さと厳しさ、そして何よりも暖かさと優しさを教えてくれた。絶望も感じない闇の底から彼女を引き上げ、優しく暖かな光が差す大地へと下してくれたのは、カミュという青年である。

 一度、予想していなかった出来事によって逸れてしまった時に味わった『不安』と『恐怖』は、メルエという幼い少女の心に、未だに『傷』として残っているのだ。故に彼女は、絶対的な強者であり、絶対的な保護者である青年の帰りを待ち望む。

 

「もう……まるで旦那様を待つお嫁さんと、娘さんみたいですよ?」

 

「な、なに!?」

 

「…………むぅ……メルエ……むすめ……ちがう…………」

 

 心底の不安を表情に出すリーシャとメルエを見ていたサラは、苦笑と共に爆弾のような言葉を発した。

 それは、以前までのサラならば、考えなしに発言していたような内容ではあるが、今回は色々と自身の頭で思考を重ねてからの発言なのだろう。しっかりとリーシャとメルエの瞳を見ながら、声を発していた。

 カミュという青年は、何時の間にか、このパーティーの太い幹のような主柱となっていたのだ。

 カミュという幹の元に集った者達を繋ぎ止めたのは、メルエという幼い楔であり、楔を打ち付けた者達を繋ぎ合わせて来たのは、リーシャという鎖。

 『ならば、自分はこの四人の中でどんな役割があるのだろう』と、サラは感じていた。

 絶対的に必要な三人。その中でも自身の役割が見えないサラの言葉は、リーシャやメルエをからかう物ではなく、若干の寂しさを帯びている。

 

「ふふふ。そのように見えますよ、という話です。大丈夫、カミュ様は戻って来ます。それよりも夕食の準備をしましょう? カミュ様の分も作らなくては」

 

「そ、そうだな……昨日よりも少し豪勢な物を作ろう」

 

「…………メルエ………あらう…………」

 

 瞬間的に寂しさを押し隠したサラは、笑みを溢しながら話題を変えた。

 既にサラの中ではカミュが戻って来る事は決定事項であり、それは時間の問題だとも考えている。故に、この夕食にはカミュも同席すると考え、提案したのだが、その話題の転換にリーシャもメルエも乗っかって来た。

 リーシャは腕を振るう事を宣言し、メルエは今朝頼まれた事を実行する事を宣言する。先程に比べ、かなり冷静な空気へと戻った神殿から彼女達が出ようと動き出した時、彼女達が待ちに待った時間は訪れた。

 

「…………!!…………」

 

「あっ! メ、メルエ!」

 

 リーシャの手を取って宿屋へと移動をしようとしていたメルエは、突如として振り返り、その手を離して通路の方へと駆け出したのだ。

 昨日と違うメルエの様子にリーシャとサラも通路へと走り出す。メルエの表情には、昨日のような不安は見えない。

 歓喜に満ち溢れたメルエの表情が、何を示しているのかを解らないリーシャとサラではない。

 今の今まで進む事を躊躇っていた通路の奥へと入り込んだメルエを強引に止める事をせず、そのまま闇に包まれた通路へと続いて入って行った。

 

 

 

 <ルーラ>という移動呪文によってランシールへ戻ろうと考えていたカミュであったが、魔法力の効力も薄れ始め、辿り着いた場所は予想とは異なる場所であった。

 カミュが降り立った場所は、神殿内にいた男性に導かれて向かった通路の出口。砂漠の砂が入り込み、扉さえも閉じる事が不可能になった場所。そこにカミュは立っていた。

 カミュは明確に<ランシールの村>を浮かべて呪文を行使した筈なのだが、村の入り口ではなく、神殿からの裏口へと辿り着いていたのだ。

 

「何かに妨害されているのか?」

 

 実際に、<ルーラ>という呪文は、詠唱者の思い浮かべた場所へとその身を運んでくれる。思い浮かべた情景が鮮明であればある程、その精度は高まり、思い浮べた場所への入口へ運ぶのだ。

 カミュが思い浮かべたのは、神殿の入り口であり、ランシールという村。だが、辿り着いたのは、ランシールにある神殿の入り口である事には間違いないが、勝手口とも裏口とも言える場所であった。

 それが、意味する事を考えると、カミュの意志とは無関係に、何者かによって呪文自体が妨害されていた可能性もある。不思議に思いながらも、<大地の鎧>を抱えたカミュは、神殿内へと入って行った。

 

 

 

 メルエに追いついてもそれを追い越す事はなく、リーシャとサラはメルエの後ろを早足で歩き続ける。メルエは歓喜の表情を浮かべながら、脇目も振らずに真っ直ぐ通路を駆けていた。

 闇に包まれていた筈の通路の脇にある燭台には、メルエが進むのと同じ速度で火が灯り、前方の通路を照らし出す。視界が開けた通路を進む三人の前に分かれ道が現れたのは、メルエの息が切れ始めた頃だった。

 

「おや? ここまで来てしまったのですか?」

 

 突き当たりの別れ道には、神殿に入った時に出会った男性が立っており、突然現れたメルエ達三人を見ても、然して驚きもせずに口を開く。その顔をサラは思い出してはいたが、問いかけたとしても返答はないだろうという考えもあり、何も言わずに軽く頭を下げた。

 <雷の杖>を抱き締めて、不安そうに見上げるメルエの顔を見て微笑んだ男性は、リーシャ達から見て左手にある通路へと視線を移す。等間隔に設置された燭台に灯された炎が照らし出す通路は、先が見えないほど長く、吸い込まれるような空気を纏っていた。

 

「ここでお待ちなさい」

 

 その通路へと駆け出そうとするメルエの身体は、男性の静かな声に止められる。不満そうに顔を上げたメルエであるが、その男性の柔らかな笑みを見て、視線を通路の奥へと戻した。

 静かな時は流れ、幾度かの風が吹き抜ける。何か神聖な者の前に居るかのような緊張でリーシャが唾を飲み込んだ時、全員が見つめる通路の奥から、小さな音が響いて来た。

 石畳の床を踏みしめるような規則正しい音は、静寂に満ちていた通路に乾いた音を響き渡らせる。徐々に大きくなるその音に比例し、メルエの表情の明るさも強くなって行った。

 

「戻って来たようですね」

 

「…………カミュ!…………」

 

 暗い通路に差す燭台の灯りにその姿が照らし出された瞬間、先頭に立っていた幼い少女の身体は弾かれたように動き出す。神殿の男性が口を開いた時には、青年に駆け寄った幼い身体はその腰にしっかりとしがみ付いていた。

 『もう離れない』とでも言うように、その身体にしがみ付いたメルエを見たリーシャとサラは、安堵と共に苦笑を浮かべる。だが、ゆっくりと近付いて来る青年の姿は、そんなリーシャの表情を驚きの物へと変化させる程の物だった。

 

「メルエ、少し離れてくれ」

 

「…………いや…………」

 

 歩く事も困難になる程しがみ付くメルエを窘めるカミュは、完全拒絶を示す答えと共に首を横に振るメルエを見て、小さな苦笑を洩らす。彼自身、ここまで我が身を案じてくれる存在を初めて経験し、あの試練の洞窟内では、この幼い少女に救われた経緯もあった。

 故に、手に持っていた<大地の鎧>を下ろし、その手を小さな頭に乗せる。気持ち良さそうにその手を受け入れるメルエを見て、優しく微笑むカミュは、『幸せ』という物を生まれて初めて実感しているのかもしれない。

 

「カミュ、お帰り」

 

「お帰りなさい、カミュ様」

 

 そして、そんな青年の小さな微笑みもまた、先程まで驚きを表していた女性の言葉によって、驚愕と言っても過言ではない表情へと移り変わって行った。

 その言葉を聞く事は初めてではないだろう。だが、心から自身の帰りを喜んでいる事を示すように告げられた事は初めてではないだろうか。

 以前の彼ならば、その言葉の裏にある『想い』に気付かなかったかもしれない。いや、気付いたとしても、何も思わなかった筈。

 だが、今の彼は、三年前の冷たく冷え切った心を持つ者とは違う。一人旅を経て、一人での探索を経て、自身の目的を見つけ、自身の立ち位置を理解した彼は、その言葉の中にある温かみを感じる事の出来る『心』を得ていた。

 

「ああ……ただいま」

 

 故に、彼は口にする。

 自身の『想い』も乗せたその言葉を。

 一度として、何かを想って発した事のない言葉を。

 

「これこれ、仲間内で騒がぬよう」

 

 そんな微笑ましいやり取りを見ていた男性は、事の成り行きが収まったのを見計らい、言葉を発する。騒がしい程に浮かれていた物ではなかったが、何処か気恥ずかしくなってしまったリーシャは、慌てて男性へと視線を移した。

 それと同時に他の三人も視線を移し、自然と男性の言葉を待つように、周囲の音が消え失せて行く。

 

「まずは、よくぞ無事で戻った」

 

 全員の視線が集まった事を確認した男性は、カミュに顔を向け、最大限の賛辞を口にした。

 それは、純粋にカミュという青年の帰還を喜ぶというよりも、世界的に重要となる『勇者』の帰還を讃えるような色を含んでいる。メルエを優しく離したカミュは、一歩前に出て、静かに頭を下げた。

 もしかすると、彼の中でこの男性が誰であるのか、何故ここに居るのかを理解できているのかもしれない。

 

「一人の行動はどうであった? 寂しくはなかったか?」

 

「……いえ、一度経験しておりますので……」

 

 顔を上げたカミュの瞳を見た男性は、一度息を吐き出した後、静かに問いかける。その内容は、カミュという青年とは無縁と考えられる程の物。リーシャやサラは思わず笑ってしまいそうになるが、それは続くカミュの言葉によって驚きに変わる。

 カミュの言葉は聞きようによっては、男性の問いかけを否定しているようにも聞こえるが、男性の問いかける『寂しさ』という感情を一度は経験しているとも取る事が出来る。そのような感情を持っていると思っていなかった二人であるが、カミュの言葉の内に後者の想いがあるのではないかと感じたのだ。

 

「では、そなたは勇敢であったか?……いや……それは、そなたが一番良く知っているだろう」

 

 小さな笑みを漏らしたまま、男性は続く問いかけを発する。だが、その問いかけは、男性によって完結された。

 試練の洞窟と呼ばれる場所に何があるかという事は、リーシャ達三人には解らない。理解出来るとすれば、実際に赴いた青年と、この何でも見通していそうな男性だけであろう。故に、その自己完結の言葉にも、カミュ達は何も口にしなかった。

 

「メルエ、これを……」

 

「…………ん…………」

 

 男性の口から続く言葉が無い事を確認したカミュは、腰に下げた革袋から<ブルーオーブ>を取り出し、足下で首を傾げているメルエへと手渡した。

 両手でオーブを受け取ったメルエは、頬笑みを浮かべながら青く輝く珠を眺め、しっかりと頷きを返した後、それをポシェットへと仕舞い込む。

 既にメルエのポシェットの中には、三つのオーブが入っているが、そのどれもがメルエの拳よりも小さな物であり、重量を感じている様子もなかった。

 

「四つ目のオーブですか……残るは二つですね」

 

「そなた達が探す残りのオーブは、黄と銀である。<イエローオーブ>は、人から人へと世界中を巡っている。例え、<山彦の笛>であっても、それを探し出す事は難しいだろう」

 

「!!」

 

 メルエが仕舞い込む<ブルーオーブ>へと視線を移していたサラの呟きは、傍で見ていた男性の言葉に遮られる。その内容は、何かを感じずにはいられない程の物であり、カミュ達三人は、この場所に来て何度目になるか解らない驚愕の表情へと変化させた。

 自分達の『オーブの収集』という目的を見透かし、自分達でさえ知り得ない残るオーブの色さえも断定したのだ。

 それは、とても聞き流せる物ではない。だが、何かを問いかけようと口を開きかけたサラの言葉は、続く男性の言葉に遮られた。

 

「私には見える。もし、旅先で別の土地へと移った者がいるとすれば、その者がそなた達に希望を齎すであろう」

 

 口を開いたまま、男性の言葉を飲み込んだサラは、自身の思考を限界まで稼働させる。しかし、いくら考えてもサラの疑問は堂々巡りを繰り返し、一向に答えに辿り着く事は出来ない。

 一つの疑問を保留して次の疑問に向かっても、結局最初の疑問が先へ向かう事を拒むように、サラの思考を停止させてしまうのだ。

 

 『何故、自分達の目的を知っているのだろう?』

 『何故、伝承となっているオーブの色さえも把握しているのだろう?』

 『何故、現在自分達の持っているオーブの色が断定出来るのだろう?』

 『何故、自分達の行く先が見通せるのだろう?』

 

 様々な疑問は、サラの中で最も大きな『この男性は誰なのだろう?』という初期の疑問に戻ってしまう。どんな自問も、必ずこの疑問へ辿り着き、答えも霧中へと放り込んでしまうのだ。

 リーシャやメルエは、最初から疑問を解決しようとは考えていない。いや、メルエに至っては、疑問にすら思っていないのかもしれない。

 再びカミュの腰にしがみ付き、嬉しそうに微笑むメルエへと視線を向けたサラは、緩みそうになる頬を引き締め、男性に向かった口を開いた。

 

「……失礼ですが、貴方は……」

 

 紡がれた言葉は最後まで口に出来ない。サラは顔を上げ、口を開いた時にカミュと目が合ってしまったのだ。

 カミュの瞳を見たサラは、何故だか解らないが、それは今口にしても仕方が無いという事を理解してしまった。

 サラへ視線を向けていたカミュも、それを正確に理解している訳ではないのだろう。だが、何か思い当たる物が存在するのかもしれない。それは、テドンの村でサラが感じていた物を再び呼び起こす物だった。

 

「いずれ、再びそなた達と出会う事もあろう」

 

 サラがもう一度男性へと視線を移した時、そんな短い言葉と共に、男性の姿は虚空へと消えて行った。

 一瞬の出来事に唖然と見つめていたサラは、同じように唖然として見ているリーシャを見て我に返る。彼女には、考える事が山のように積まれていた。

 一つ一つは無関係に見えてる。だが、その答えを何時か必ず彼女は見つけるのだろう。その時、当代の『賢者』が何を想うのか、それはこの時点では誰にも解りはしない。

 

「…………あわ………あわ…………」

 

 物云わぬサラを見ていたメルエは、カミュの腰から顔を上げ、可愛らしい笑みを浮かべながら再びあの言葉を口にする。メルエにとっては、カミュ達三人がここに居れば、先程の男性が霧のように消え去っても興味はないのだろう。

 勢い良く振り返ったサラの顔を見て、笑顔を浮かべていたメルエは、同じように振り返ったリーシャへ視線を移すと、即座にカミュのマントの中へと逃げ込んだ。

 

「待て、メルエ! 何度言ったら、解るんだ!」

 

 リーシャとしても本気で叱っている訳ではない。だが、メルエのその言葉が、サラの中に眠る忌々しい記憶を呼び起こす物だと理解している以上、それを窘めなければならないのだ。

 故に、苦笑のような笑みを見せながらも、カミュのマントからメルエを引き摺り出し、その頭に拳骨を落とす。『ゴツン』という痛々しい音を立てる拳骨を受けたメルエの瞳に涙が溜まり、再びカミュのマントの中へと逃げ込んで行った。

 

「あのお方は、恐れるような方ではありません。それこそ、メルエにとっては……いえ、これも推測の話ですね」

 

 カミュのマントへと潜り込んだメルエは、その隙間からサラを見上げる。からかうメルエに対して本気で怒った事のないサラではあるが、拳骨を受けたばかりのメルエからすると、若干の不安があったのだろう。

 だが、マントの隙間から覗くメルエの視線に合わせるように屈んだサラは、何か理解出来ない言葉を独り言のように呟き、思考の中へと入って行った。

 

「しかし、試練の場という所は厳しい場所だったのだな……僅か二日程ではあるが、正直見違えた」

 

 メルエから視線を上げたリーシャは、小さく微笑むカミュの顔を見つめて、自分の胸に湧く喜びを表に出す。カミュという青年が戻って来た事も嬉しい事ではあるのだが、それ以上に見間違える程の成長の色を見せる彼が眩しく見えたのだ。

 僅か二日の間で、『人』が劇的に変化する事など有り得ない。カミュの髪の毛が伸びた訳でも、色が変わった訳でもない。顔の形や背丈が変わった訳でもない。

 だが、彼の成長という変化は、三年間を共にして来た者達からすると、とても大きな物だったのだ。

 

「そうですか? いつものカミュ様に見えますけど……」

 

 訂正しよう。

 その青年の内部から滲み出す変化は、『賢者』と呼ばれる『人』の頂点に立つ者でさえ見えぬ程の物だったのかもしれない。先程までの思考から離れたサラは、首を傾げながらカミュの上から下までを眺め、反対側へと首を傾げた。

 それを見ていたメルエは、楽しそうに微笑みながらマントから出て来て、サラと一緒に首を傾げて見せる。

 

「俺の事はどうでも良い。それよりも……この鎧に触れてみてくれないか」

 

「私がか? この鎧は……何なのだ?」

 

 自分に視線が集まっている事に居心地の悪さを感じたカミュは、それから逃れるように傍に置いた<大地の鎧>を掴もうと屈み込んだ。

 だが、先程まで、重量はあっても持てない程ではなかった鎧は、まるでカミュの手を拒むようにその重量を変化させていた。

 メルエの持つ<雷の杖>という神秘な物を見た経緯のあるカミュは、大きな溜息を吐き出した後、リーシャへと視線を移す。

 

「それは、大地の鎧という物らしい。試練の洞窟内に保管されていたようだが、どこか<雷の杖>に似た雰囲気を持っているみたいだな」

 

「どういう事ですか?」

 

 鎧に近付き、その手を伸ばすリーシャを見ながら発したカミュの言葉は、サラによって問い返された。

 <雷の杖>という物の特殊性をサラも理解している。持ち主となる者を自ら選び、その者を守護するかのように存在する杖。その特性故に、メルエという、幼いながらも世界最高位の『魔法使い』しか持つ事が許されない。 

 それと似た空気を持つとカミュが言うのだとすれば、この鎧もまた、自身の主を選ぶという事になる。そして、それはカミュという『勇者』ではないという事。

 

「この鎧は……生きているのか?」

 

「えっ!?」

 

「生きているとは言えないな。鎧は……鎧でしかない」

 

 そんなサラの疑問は、鎧を手に取ったリーシャの呟きによって遮られた。

 カミュは自身の予想が正しかった事に一息吐き出し、その呟きを否定する。確かに、鎧という物が金属である以上、生物である筈が無い。その物に意志があるとしても、それを生きているとは言わないだろう。

 だが、リーシャは、その<大地の鎧>と呼ばれる鎧に確かな息吹を感じていた。

 それは、懐かしくも暖かい息吹。

 幼い頃から……いや、リーシャがこの世に生を受けてからの人生の中で常に感じて来た優しさ。

 それはおそらく、鎧を手に取っているリーシャにしか解らない物であろう。まるで手に吸い付くような感覚、重みなども感じない程、そんな何とも言いようのない不思議な物をその鎧は宿していた。

 

「やはりか……その鎧は、アンタを主と定めたようだ」

 

「リーシャさんの為だけの鎧……」

 

 カミュはある程度予想していたのだろう。自分がある程度の重量を感じて運んで来た鎧を軽々と持ち上げるリーシャを見て、納得したように一つ頷いた。

 カミュの言葉に、サラはリーシャの持つ鎧へと視線を動かす。『羨ましい』という感情や、『悔しい』という感情がサラの中にある訳ではない。ただ、良い意味でも悪い意味でも『人』であるリーシャと、その不思議な現象が結びつかないのだ。

 メルエの時のような不思議な光景を見た訳ではない。だが、カミュが口にする以上、<大地の鎧>という物は、リーシャ以外に装備する事が出来ないのだろう。

 特別な力は何一つ有してはおらず、ただ愚直なまでに剣を振って来た『戦士』が、伝承に残るような防具に選ばれるという事実を、サラはとても不思議な思いを持って見上げていた。

 

「私を主にか? この鎧は……」

 

「わからない。試練の洞窟という場所に安置されていた。放り捨てられていた訳でもなく、店に陳列されているかのように置かれ、その近くに銘が打たれていた」

 

 サラが感じた想いは、リーシャも感じていたのだろう。

 メルエが<雷の杖>に選ばれたという事実は、メルエの特出した魔法の才能を考えれば、何ら不思議な事ではない。

 サラが『悟りの書』に選ばれた事も、それまで歩んだ道の中で彼女が悩み抜いた事実を知っていれば、納得も出来る。

 また、カミュが<草薙剣>によって選ばれた事も、彼がジパング王家の血筋を継ぐ者であり、世界的な英雄であるオルテガの息子というだけでも、何一つ疑問を挟む必要が無い物だった。

 

 だが、彼等三人に対して卑屈になるつもりはないが、リーシャ自身、自分を特別な存在であると思った事は一度たりともない。『人』としての枠を飛び出してしまっているかもしれないが、それでも鍛錬の末の結果であり、不可思議な力を手に入れる事が出来る存在ではないと考えていた。

 自身の父を誇りに思っていても、その父はアリアハン宮廷騎士隊長という地位の者であり、決して英雄として崇められる者でもなく、その娘として生まれたリーシャもまた、『精霊ルビス』や神の祝福を受ける事が出来るような稀有な者ではないのだ。

 

「大地の鎧……というのか。本当に、大地そのものに触れているようだな」

 

「そうか……アンタは、そう感じるのだな」

 

 だが、それはリーシャの思い違いなのかもしれない。何故なら、カミュが<大地の鎧>を手にした時、今リーシャが感じているような事を感じた記憶が無いのだ。

 大地に触れているような感触。

 それは、この世界を作る『土』に触れているのと同意。

 そのような感覚をカミュは味わった事が無い。いや、正確には『土』に触れる事に対して特別な『想い』を持った事はないのだ。

 

「母なる大地……『人』は皆、『精霊ルビス』様の下、大地に根差して生きて来ましたからね。暖かく、時に厳しく、そして何よりも深い優しさを持ち……植物や動物を育て、そして死と共に還る場所。魂はルビス様の許へ、肉体は母なる大地の許へ……まるでリーシャさんそのもののような鎧です……」

 

「…………リーシャ………おこる…………」

 

 カミュ達の会話を聞いていたサラは、その鎧と外へと繋がる通路を見て、静かに口を開く。それは、『精霊ルビス』を崇める者であれば、誰しもが知っている事。だが、リーシャからしてみれば、その言葉には何かが引っ掛かるのだが、サラの顔を見る限り、何かを揶揄しているようには見えず、また馬鹿にしているようにも見えない為、褒め言葉として受け取る事にした。

 そんなリーシャの顔を見上げ、眉を下げて呟くメルエの言葉は、一行に笑顔を戻す物となる。

 

 リーシャ自身、アリアハン貴族である。没落したとは言え、貴族は貴族。畑仕事をした事もなければ、家畜を飼った事もない。毎日欠かさずに土を弄って来た者達に対して、恥を知っていれば、土の有難みを知っている等と口が裂けても言えない立場であった。

 だが、平民を侮蔑したり、平民に権力を翳した事のないこの下級貴族は、その者達の苦労と生甲斐を知っている。自身の家に届けられた野菜に付着する土の香りを知っている。大地と共に生きる者達と共に歩んで来た彼女は、この大地に根差す『人』である事を誇りにさえ思っていた。

 

「あれは、メルエが悪いのだ。サラが怒らないからと言って、何時までもあのような事を口にするのであれば、私はもうメルエと話をしないぞ」

 

「…………いや…………」

 

 頬を軽く膨らませていたメルエは、リーシャの言葉に驚いたように顔を上げ、自分の意思を告げるようにリーシャへと駆け寄って行く。規格外の魔法力を有し、稀代の『魔法使い』となったとはいえ、この幼い少女の帰る場所もまた、母のようなリーシャという存在なのかもしれない。

 『離れない』とでもいうようにしっかりと自分にしがみ付くメルエの頭を撫でたリーシャは、<大地の鎧>を軽々と持ち上げた。

 

「さあ、カミュも戻った。今日の夕食は、宿屋で厨房を借りて私が作ろう。祝いの料理なのだから、少しくらい贅沢をしても良いだろう。そう言えば……この村の特産である<消え去り草>を食した事はなかったな……メルエ、手伝ってくれるのだろう?」

 

「…………ん…………」

 

 一度カミュへと視線を送ったリーシャは、その鎧が自分の装備品として貰って良いかを目で尋ね、それに頷きが返って来た事をみて笑みを浮かべる。そして、先程まで三人で語り合っていた物を思い出し、鎧を抱えたまま、提案を口にした。

 彼女の頭の中では、既に色々な料理の構想が出来上がっているのだろう。この村の不思議な特産である<消え去り草>もその中に入れたリーシャは、足下で不安そうに見上げるメルエの頭から手を離し、今朝話していた事を確認する。

 その言葉に、メルエは花咲くような笑みを浮かべ、大きく頷きを返した。

 

「ま、待って下さい! 私も手伝いますよ!」

 

「アンタがか? いや……悪いが遠慮して貰いたい」

 

「…………サラ………だめ…………」

 

 既に歩き始めたリーシャを追いかけ、サラは声高々に宣言するが、それは先程までの三人のやり取りを知りもしない筈の青年に拒絶され、リーシャの足下から振り返った幼い少女によって止めを刺される事となる。横から掛った拒絶の言葉に時が止まってしまったサラは、唖然とした表情でカミュを見つめ、その後厳しい視線をカミュとメルエに送った。

 

「そうだな……サラには買い物を頼もうか……」

 

「何故ですか!? 私だって、料理を作るお手伝いは出来ます!」

 

 そして、最後に発せられたリーシャの妥協案が、サラの心に燻っていた怒りに最後の炎を灯してしまう。両手を突き上げるように怒りを露にし、走り出したサラに怯えたメルエは、リーシャの手を取って神殿の入口に向かって逃げ出した。

 慌てるメルエに笑みを浮かべたリーシャも、満面の笑みを浮かべて走り出す。

 

 その腕には、『人』を象徴するような鎧。

 大地のような暖かさを持つその鎧は、優しく微笑むように輝く。

 主との出会いを喜ぶように。

 自身の出番を誇るように。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今年最後の更新になると思います。
この話で、この章を終えようかどうかを少し考え、終えるのであれば、装備品一覧を更新するかもしれません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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~閑話~【ランシールの村】

 

 

 

 

 ランシールと呼ばれる村に陽光が射し、朝の始まりを告げる頃、カミュ達四人は宿屋の前で出立の準備を終えていた。

 未だにカミュとの再会が嬉しいのか、メルエはカミュの腰元にがっちりとしがみ付き、そのマントの中に潜り込んでいる。昨晩から続く、そんなメルエの行動を誰一人として咎める事など出来はしない。

 彼女がどれ程に不安を感じ、どれ程に恐怖を感じていたかを知っている者達は、その喜びさえも共有してしまったかのように、メルエの行動を微笑ましく見ていた。

 

「さあ、出発だ。カミュ、一度船に戻った後は何処へ向かう?」

 

「サマンオサだろうな」

 

「そうですね……ですが、その前にトルドさんの所へ行きませんか?」

 

 同道して来た船員達が全員揃った事を見届けたリーシャは、高らかに宣言を発する。その声は、朝陽の影響で明るくなり始めた村の中へと響き渡った。

 既に村の人々も行動を始めており、村にある共同の井戸などへ向かう女性陣がリーシャの大声に苦笑のような笑みを漏らして通り過ぎて行く。気恥ずかしさを感じながらも、サラは目的地を口にしたカミュに向かって、次に向かう場所の変更を提案した。

 サラの言葉の中に知った名が出た事で、マントの中から顔を出したメルエが笑顔でカミュを見上げる。それで目的地は決定したと言っても過言ではないだろう。この『勇者』と呼ばれる青年が、幼い少女の笑みを断れる訳がないのだから。

 

「よし。ならば、まずはトルドのところだな。ポルトガにも一度寄るか?」

 

「献上する物がないが、顔は出しておいた方が良いだろうな」

 

「そうですね。その前に、リーシャさんの<魔法の鎧>を武器と防具のお店に引き取って貰いに行きましょう」

 

 最後のサラの言葉で、一行の進行は定まった。

 リーシャの身体には、既に<大地の鎧>という神秘が装備されている。その輝きは、昨夜に見た時とは異なる物。リーシャという主の身に装備された事によって、鎧は飾り物ではなく、本来の役割を思い出したかのようにその身を変化させていた。

 既にその役割を終えた<魔法の鎧>は、サラでは装備する事が出来ない。言う必要もないかもしれないが、メルエも同様である。

 装備する人間がいない以上、その鎧は荷物にしかならず、傷などもあるが、武器と防具の店であれば、引き取ってくれるだろうと考えたのだ。

 

「言うべき事ではないのかもしれないが、昨晩と同一人物だとは思えないな」

 

「言うな、カミュ。あれでも無理をしているんだ」

 

「…………サラ………だめ…………」

 

 先頭を切って歩き出そうとするサラの姿を見たカミュは、何か意味ありげな言葉と共に大きな溜息を吐き出した。そんなカミュを窘めるように小声を発するリーシャと、マントから顔を出したメルエの追い打ちが響く。

 空元気のような無理のあるサラの声は急激に萎み、肩を震わせた。それは、哀しみの為なのか、それとも怒りの為なのかは解らない。だが、振り向いたサラの顔を見たメルエが、即座にカミュのマントの中へ隠れてしまった事で、その心は推して測るべきだろう。

 

「もう! 初めてなのですから、仕方ないではないですか!」

 

 そんなサラの叫びは、明け始めたランシールの村に響き渡り、それを聞いていた船員達の顔にも総じて笑顔が浮かんでいた。

 この一連の出来事は、本来であればサラの名誉の為に伏せておくべき物であろうが、カミュのマントの中から未だに『だめ』という言葉を発しているメルエに向かって肩を落とすサラの姿は、船員達の間で後世まで語り継がれる事だろう。

 それは、昨夜、カミュ達が宿屋へ戻る頃にまで遡る。

 

 

 

 

 一行が村まで戻ったのは、太陽が西の空へ沈んでしまう直前だった。

 陽が沈み、店仕舞いを始めている商人達を押し止め、リーシャ達四人は買い物を済ませて行く。宿屋の厨房などを借りる事が出来るとは決まっていないのだから、気が早いと言えばその通りであるのだが、食材も宿屋で借りる訳にはいかない以上、店が空いている内に購入する必要があったのだ。

 食材を売っている店は固まっており、その店に残っている肉や魚などを吟味しながら、手を引いたメルエに希望の物を尋ねるリーシャの姿は、日暮れ時に子供と買い物をする母親そのものである。

 それを口にしたサラは、厳しい視線を頂戴した後、荷物持ちになってしまうのだが、それは当然の報いであろう。

 

「良い鳥肉が残っているんだ。明日には出せなくなってしまうから、安くしておくよ」

 

「ん?……確かに良さそうな肉だな……メルエ、鳥肉のソテーでも良いか?」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの帰還祝いである筈なのだが、リーシャが献立を聞くのはメルエ唯一人。色々な物に目移りしているメルエは、未だに生きている魚や、大きなカボチャなどを見て目を輝かせていた。

 メルエが見ている一つ一つの食材を説明しながら、その調理方法を口にするリーシャの言葉は、カミュやサラであっても、その出来上がりを想像できる程に詳細な物であり、空腹の身体を充分に刺激させる。

 閉店作業を行っていた筈の店主達も、リーシャの調理方法を聞きながら他の調理方法を口にしたりと、とても楽しい雰囲気の買い物の時間は流れて行った。

 

「……買いすぎではないのか?」

 

「船員達も食べるだろう? 他の宿泊者もいなかったからな」

 

 膨れ上がる荷物は、カミュの両手だけでは足りず、サラの両腕にも乗せられる。その量は、とてもではないが四人で食し切れる物ではなかった。

 食後の為の果物をメルエと共に見ているリーシャに問いかけたカミュは、その返答に諦めに似た溜息を吐き出す。その後ろをふらふらと歩くサラは、既に口を開ける状態ではなかった。

 片腕で<大地の鎧>を抱えているリーシャに荷物が持てない以上、カミュとサラで持たなければならないのだが、加えて果物まで購入すれば、その袋をカミュが口で咥えなければならないだろう。

 だが、そんなカミュの心配は、このパーティーで一番の頑固者によって杞憂に終わった。

 

「メルエ、無理をする必要はないんだぞ?」

 

「…………メルエ………だいじょうぶ…………」

 

 果物の入った革袋は、頑として聞かないメルエが持つ事となったのだ。

 それ程の重量がある訳ではないが、両手で抱えるように革袋を持ったメルエは、顎の付近まである物を溢さぬように必死に支え、リーシャの後ろを歩く。その姿は、親鳥の後を追いかける雛鳥のようで、カミュは小さな笑みを溢した。

 サラが発する魔法の言葉を口にしたメルエは、その言葉を発した以上、『大丈夫』にする責任があると考えているのか、宿屋に着くまで一言も弱音を吐かず、支えようとするリーシャの腕も振り切って歩く事となる。

 

 

 

「厨房で夕食を作るのですか?……まぁ、今日は他の客もいないから良いですが……本来は、食事を付ける際は、私達が作った物と区別を付けられると困るのですよ」

 

「すまない……そこまで考えが及ばなかった」

 

 意気揚々と宿屋に帰還した一行であったが、事の顛末を宿屋の主人に話すと、思いがけない難色を示される事となった。

 確かに、カミュ達以外の宿泊者がいた場合、リーシャの作る料理が自前の食材を使っているとはいえども、他の宿泊者達とは明らかに料理が異なっていた場合、それが問題となる可能性がある。

 ここまでの旅の中で、宿屋に泊った際にリーシャが料理を作った事は何度かあるが、他の宿泊者がいた場合は常に一品ないし二品程度の物であった。だが、今回は、明らかにその食材の数が異常である。流石に人の良い宿屋の主人であっても、顔を歪めざるを得なかったのだろう。

 

「いや、言った通り、今日は他のお客もいないから問題はありませんよ。お手伝いの必要はないのですよね?」

 

「ありがとう。全てこちらでやるので、調理器具だけお借りしたい。勿論、ご主人の家族にも振舞えるだけの量は作るつもりだ」

 

「…………メルエ……てつだう…………」

 

 恐縮するリーシャを見た宿屋の主人は、苦笑を浮かべながら手を振り、只の苦言である事を示唆するが、リーシャはそんな主人に深く頭を下げた。

 このような場合の交渉に関しては、カミュが前面に出て来る事はなく、常に後方で成り行きを見守るのだが、後ろから入って来たサラが衝突して来た事によって、自然と前へと押し出される事となる。大量の荷物は、サラの視界を奪ってしまっていたのだ。

 カミュだけではなく、サラも大量の荷物を抱えている事に気が付いた主人の表情は、呆れたような物から、心からの笑みへと変化する。

 

「厨房は好きに使って下さい。後片付けさえして下されば、問題はないですから」

 

 笑顔を浮かべる主人に対して頭を下げた面々は、そのまま食材を持ったまま厨房へと入って行く。手を伸ばすカミュを振り切るように果物を抱えたメルエを見た宿屋の主人は、先程までの笑みを強い物へと変化させ、厨房へと消えて行く四人を見送るのだった。

 

 厨房へと入ったサラとメルエは、買って来た食材を調理場に広げ、リーシャの指示を待つのだが、厨房の調理器具を一つ一つ確かめているリーシャは、なかなか口を開こうとしない。

 耐えられなくなったサラが、何かを問いかけようと口を開いた時、ようやく口を開いたリーシャが指示した相手は、サラでもメルエでもなく、所在無げに立ち尽くしていたカミュだった。

 

「カミュ、船員達に食事に行かないように言って来てくれ。着替えた後にサラとメルエで料理をするから、お前は部屋でゆっくり身体を休めておけ」

 

 振り返ったリーシャの顔は優しい笑顔。

 本心から、相手の身体を案じているような言葉に、指示を待っていたサラもメルエも笑みを浮かべた。

 全てを包み込むような慈愛は、周囲に居る者達にも優しさを運び、その場の空気をも変えて行く。

 小さな笑みを浮かべたカミュは、一つ頷きを返した後、厨房を出て行った。

 

「よし、一度部屋に戻って着替えよう」

 

「はい」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの背中を見送ったリーシャの言葉に頷きを返したサラは、メルエの手を引いて部屋へと戻って行く。

 この後に、世にも恐ろしい出来事が待っている事を誰一人として予想できなかっただろう。

 それは、最後に厨房を後にしたリーシャでさえも同様であった。

 

 

 

 着替え終わり、厨房へと戻って来たサラとメルエは、リーシャから指示を受け、野菜を洗う為に外の井戸へと向かって行く。

 既に太陽は尻尾しか見えない。暗闇が支配し始めた村の中を野菜を抱えたサラとメルエが歩き、井戸へ着いた頃には、周辺には既に誰一人として人はいなかった。

 井戸の中に落とされた桶を二人で引き上げ、汲み上がった水に触れては、『冷たい』と叫びながら笑い合う。まるで姉妹のように楽しげな声を上げて、二人は水桶に野菜を入れて行った。

 

「メルエ、駄目ですよ。それでは野菜が台無しになってしまいます」

 

「…………むぅ……メルエ……やる…………」

 

 水桶の中で乱暴に野菜の葉を洗うメルエを注意するサラは、メルエの手から野菜を受け取ろうと手を伸ばすが、その手は空を切ってしまう。

 サラの手から逃れるように背を向けたメルエは、そのまま水桶ごと移動し、再び野菜を洗い始めた。その姿を見たサラは、溜息と共に笑みを溢し、自分の分の野菜を丁寧に洗って行くのだった。

 店頭で売られている野菜のほとんどは、その身に大量の土を付着させている。太陽の恵みを受け取り、大地の栄養を吸った野菜達は、その恩恵の名残を色濃く残しているのだ。

 

「こっちは、これで終わりですね。メルエの方はどうですか?」

 

「…………メルエ………できた…………」

 

 洗い終わった野菜を駕籠に戻したサラは、泥で茶色く濁った水桶の水を捨て、一度大きく伸びをした後、隣で奮闘していたメルエへと視線を送る。サラよりも数の少ない野菜を一生懸命洗っていたメルエの頬は、その水桶の水と同様に、茶色く汚れていた。

 誇らしげに胸を張り、汚れの落ちた野菜をサラへ突き出すメルエを見て、サラも優しい微笑みを浮かべる。

 野菜を洗う事に集中していた為、太陽が完全に大地に隠れてしまっていた事に初めて気付いたサラは、メルエの水桶の水を捨て、その中に野菜を入れた後、それをメルエへと手渡して宿屋へと戻り始めた。

 

「リーシャさん、洗って来ましたよ」

 

「…………メルエ………できた…………」

 

 宿屋の厨房に入ると、リーシャは肉類の下ごしらえの最中であった。

 購入して来た鶏肉や魚に塩を振り、カミュから預かっていた『黒胡椒』を少々馴染ませる。船員達を含めた全員分の食事なだけあって、その量は厨房の机一杯に広がっていた。

 サラ達が戻って来た事に気が付いたリーシャは、誇らしげに野菜を掲げるメルエの頭を撫でた後、受け取った野菜を包丁で切り分けて行く。既に鍋が火に掛けられており、スープを作るのか、少々の肉類も入っていた。

 

「あの……リーシャさん、次は何をすればよろしいですか?」

 

「ん?……そうだな……別に無理して手伝ってもらう物はないから、部屋で休んでいても良いぞ?」

 

 鼻歌交じりに野菜を刻み、それを大きな鍋の中へと入れて行くリーシャの姿を見ながらサラは小さく問いかけた。

 何かをしたいと思っているサラとは異なり、良い香りを発し始めた鍋に目を輝かせていたメルエは、リーシャの後ろにくっ付いて調理を眺めている。その瞳は、初めて見るリーシャの調理の手際の良さに爛々と輝いていた。

 サラの願いも虚しく、メルエに微笑みながら作業をしていたリーシャは、サラとメルエに戦力外通告を言い渡す。しかし、そんなリーシャの言葉は、やる気十分になっている『賢者』には届かない。

 『賢き者』として、何事にも探究心を持つこの女性は、今回の料理に対して強い執着を持っていたのだ。

 

「お手伝いします! 何でも言って下さい!」

 

「…………メルエも…………」

 

 胸の前で拳を握り締めたサラを不思議そうに見上げていたメルエまでもが、リーシャへ視線を戻し、眉を上げて意気込み始める。リーシャは軽く溜息を吐き出した後、小さな笑みを作り、作業工程を考え始めた。

 メルエに包丁などの刃物を使わせる事は難しいだろう。そうかと言って、サラに包丁を握らせれば、メルエが黙っている筈がない。『自分もやる』と言い出す事は確実であろう。

 色々と考えあぐねた結果、リーシャはようやく口を開いた。

 

「わかった。ならば、このスープが噴きこぼれないように見ていてくれ。火の調子を見ながら、時には灰汁を取ってくれると助かる」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの言葉に、その足下に居たメルエは大きく頷きを返した。自分に役割を与えられた事が嬉しいのだろう。傍にあった木箱を鍋の傍に寄せ、その上に立って鍋に掛かる火をじっと眺め始める。

 しかし、もう一人の女性は、先程までのやる気はどこへやら、何故か固まったように動かない。

 

「サラは手伝ってくれないのか?」

 

「い、いえ! お手伝いはしますが、包丁を握らせては貰えませんでしょうか?」

 

 動かないサラへ視線を移したリーシャは、返って来たその言葉に顔を歪めた。それは、先程までリーシャが危惧していた内容なだけあって、敬遠したい物でもあったのだ。

 だが、目の前のサラの瞳を見る限り、それを避ける事は難しいのだろう。リーシャの指示に戦闘時以外で逆らった事のないサラが、ここまで感情を露にしている以上、それを拒む事が如何に難しいかをリーシャは悟っていた。

 

「わかった。メルエは、そのまま鍋を頼むぞ」

 

「…………ん…………」

 

 一つ溜息を吐き出したリーシャは、火を見つめているメルエに灰汁の取り方を教えた後、サラをまな板の傍へ招き入れる。

 宿屋の厨房にある包丁としては、かなり手入れが行き届いている物を手に取り、そのまま傍にあった芋の皮を綺麗に剥き始めた。

 芋の実を削る事無く、皮だけを綺麗に剥いて行く手際の良さに、サラは感嘆の溜息を吐き出し、それを我が物にしようと、真剣に見つめる事となる。

 

「このような感じで、ここにある皮を剥いてくれ。多少は実の部分を削ってもいいから、手を切らないように気をつけろよ。まぁ、サラの場合は回復呪文があるから大丈夫なのかもしれないがな」

 

「はい! 任せて下さい」

 

 包丁と共に、皮で覆われた芋を渡されたサラは、勢い良く首を縦に振り、真剣に芋と向き合い始めた。

 人生初となる包丁を握ったサラではあるが、よくよく考えれば、<聖なるナイフ>を手にして魔物と相対した回数も乏しい。その後は、<銅の剣>という斬るというよりも叩くという武器を手にし、今の武器の<鉄の槍>へと移った。

 つまり、サラには、手元にある刃物で、何かを切るという作業自体の経験が薄いのだ。

 

「おっ! メルエは灰汁取りが上手いな」

 

「…………ん…………」

 

 サラから目を離し、自分の作業へ戻ろうとしたリーシャは、一生懸命に灰汁を取っているメルエの姿を見て、微笑みと共に賞賛の言葉を送る。

 始めての作業に対して褒められた事が余程嬉しかったのだろう。花咲くような笑みを作ったメルエは、一つ頷いた後、再び灰汁取りに専念し始めた。

 その後、魚の白身の下ごしらえを終わらせたリーシャは、再びサラの許へと様子を見に行くのだが、その場所で見た光景に、後悔の念しか浮かばなかったと言う。

 

「サラ……実の部分を多少削っても良いとは言ったが、それでは食べる部分が少な過ぎるだろう……」

 

「えっ!? あ、すみません……」

 

 真剣に皮剥きを繰り返していたサラであったが、その速度はリーシャに比べると余りにも遅い。料理の初心者である故に仕方のない事ではあるのだが、今回はその速度の遅さが救いだったのかもしれない。

 二個三個、剥き終わった芋がサラの前にある容れ物に入っているのだが、その姿は見るも無残な物。皮が付いていた頃に比べ、半分以下の大きさへと成り下がっていた。

 剥き終わった皮は、実の部分を多く付着させ、厚く切り落とされている。それを見たリーシャは、溜息を吐き出すしかなかった。

 

「皮剥きはもう良い。今度は、野菜を切ってくれ」

 

「は、はい……」

 

 一生懸命やっている事を知っているだけに叱る事は出来ず、リーシャは皮剥きを交代する事で、サラに他の作業を指示する。

 皮を剥いていた包丁を洗い、別の野菜類をサラの前へと取り出した。

 手本を見せるように、それを切って行くリーシャの姿を真剣に見ていたサラは、再び大きく頷きを返し、野菜へと包丁を入れて行く。

 先程の皮剥きに比べて、横になった野菜を刻んで行く作業であった為、時間はかかるだろうが、心配はないと思ったのか、リーシャはその場を離れる事にした。

 

 しかし、その判断は、またも誤りであった。

 再び戻って来たリーシャは、先程渡しておいた野菜を切り終えたサラが、違う物に包丁を宛がっているのを目撃する。

 小さく丸いその野菜は、黄色い皮を切る事は難しくない筈なのだが、何より包丁の角度が危うい。片手で野菜を抑えなければならないにも拘わらず、サラは両手で包丁を扱っており、野菜が動くにつれて、包丁を入れている角度がずれて行っているのだ。

 

「サ、サラ、そのままでは……」

 

「…………!!…………」

 

 慌てて近寄り、リーシャはそれを制しようと声を発するが、既に時遅し。

 サラの包丁の下にあった小さな野菜は、そのまま横へと転がり、サラが込めていた力を利用して、真横へと吹き飛んだ。

 サラの横では、木箱に乗ったメルエが、真剣に鍋と睨めっこをしながら灰汁を取っている。そのメルエの側頭部に小さく丸い野菜が直撃した。

 声にもならない叫びを上げて横へと倒れる際に、メルエの腕は熱く煮えた鍋に当たり、火に掛かっていた鍋も大きく揺れ動く。

 

「メルエ!」

 

 倒れ込むメルエの上に、鍋に入ったスープが零れて来たとしたら大惨事である。今までのどんな戦闘の時よりも素早く、リーシャはメルエへと駆け寄った。

 メルエが床に倒れるよりも早くに、その身体を抱き上げ、瞬きをする間もなく、その場を離脱する。まるでリーシャが離れるのを待っていたかのように、鍋はその内包される液体の重さに耐え切れず、身体を傾かせた。

 先程まで、メルエが一生懸命に灰汁を取り、澄んだ色をしていたスープは、全て厨房の床に撒き散らされ、それから遅れて、金物の鍋が落ちる音が響き渡る。

 

「メルエ、腕は大丈夫か!? サ、サラ! 早く<ホイミ>を!」

 

「は、はい!」

 

 リーシャに呼ばれたサラは、ようやく我に返り、倒れ込んだメルエの許へと駆け出す。自分が齎した災難による結果を目の当たりにし、心の中は混乱を極めていた。

 先程まで持っていた包丁は打ち捨て、零れたスープを踏み締めて駆け寄った先では、腫れ上がった腕をしたメルエが倒れている。リーシャに抱かれながらも、苦悶の表情を浮かべ、今にも泣き出しそうな程に眉を下げていた。

 メルエと同年の幼子であれば、声の限りに泣き叫ぶところなのだろうが、この少女は、常識という枠組みには嵌らない。特に自身の苦痛などで涙を見せる事は有り得ないと言っても過言ではない。その辺り、甘える部分と、そうではない部分の理解を間違っているとも言えた。

 

「メ、メルエ……ごめんなさい……今すぐ、痛くないようにしますからね」

 

 駆け寄ったサラは、即座に<ベホイミ>を詠唱する。ここで、<ホイミ>ではなく、自身の持つ最上級の回復呪文を詠唱したサラは、完全に我を失っていたのだろう。

 淡い緑色の光は、瞬時にメルエの腕に残る火傷を消し、その腫れも引かせて行く。メルエの瞳に浮かんでいた涙は消え、代わりにサラの瞳を涙が満たして行った。

 

「…………サラ………だめ…………」

 

「そうだな……やはりサラは駄目だな」

 

 腕の痛みがなくなったメルエは、自身を見下ろしながら涙を浮かべるサラの顔を見て、追い打ちをかけるように口を開く。それに呼応するように、リーシャまでもがサラを追い込んで行った。

 面を食らったのはサラである。

 浮かべていた涙も引っ込み、先程までの悲哀も消えて行く。

 

「スープは作り直さないと駄目だな……」

 

「…………サラ………だめ…………」

 

「うぅぅ……申し訳ございません」

 

 代わりに湧き上がった憤りだったが、それは、巻き散らかされたスープの残骸を見ながら溢したリーシャの言葉で萎んで行った。

 鍋の中には、旨味を全て吸い尽くされた肉の残骸以外は何も残っていない。

 メルエが根気良く灰汁を取って来た物は、全て厨房の床の土に吸い込まれていた。

 全く同じ言葉を呟くメルエにも反論する事は出来ず、リーシャの悲しそうな呟きに掛ける言葉も見つからない。だが、それでもやはり、サラはサラだった。

 

「もう一度頑張ります! 私に出来る事は何でもやります!」

 

 十七という歳にアリアハンを出てから、常に悩み、常に苦しみ、そして涙して来たこの『賢者』は、一度や二度の躓きで心を折ったりはしないのだ。

 それは正に、洞窟内で間違った道順を指し示しても、何度も自分の感じた事を口にする女性戦士に似通った物であるのだが、それを口にする事は控えておこう。

 そんな意欲的な『賢者』なのだが、やはり人の根本は変わる事はない。それを彼女は即座に証明して見せた。

 

「で、では、私はもう一度野菜を切りますね……きゃあ!」

 

 この世界の宿屋の厨房は、基本的に土の上に石を敷き詰め、石畳のようにしている。王宮などとは異なり、その敷き詰め方も大雑把であり、歪な部分が多かった。

 そして、やる気を出せば出す程に空回るサラという人物は、その歪な隙間に見事に捕まってしまう。

 スープが零れて濡れた石に足を滑らせたサラは、様々な物を巻き込んで行った。

 転ばぬと伸ばされた手は、机の上に乗せられていた、下ごしらえを終えた肉や魚を掴み、床へと落として行く。反対側の手は、傍で見上げていたメルエの額を強かに打ち、振り上がった足は、先程床に落とした鍋を蹴り上げてしまった。

 

「…………うぅぅ……うぇぇん…………」

 

 腕に火傷を負っても泣かなかったメルエが、サラに額を叩かれた事でリーシャの胸に泣き付く。

 大きな泣き声を発して胸に縋り付くメルエを抱き締めたリーシャであったが、再び巻き起こったサラによる大惨事に、顔を伏せてしまった。

 床に散らばった肉や魚。

 跳ね上げられた鍋は、大きな音を立てて再び床に転がる。

 その全てが、リーシャにとって、考えたくもない光景であった。

 

「あいたた……も、申し訳ありません」

 

 メルエの泣き声が響く厨房の中で、強かに腰を打ったサラは、腰を擦りながら起き上り、そしてその惨状を目にする。それは、サラでさえも考えたくもない光景だった事だろう。

 あのリーシャが、何も言わず、肩を震わせる事無く、ただ俯いている。その腕の中には、身体を振るわせながら涙するメルエの姿。それは、サラにとって地獄絵図にも等しい物だったのかもしれない。

 

「……サラ……」

 

「は、はひぃ!」

 

 呟くように口を開いたリーシャの声が、地獄から鳴り響く地鳴りのように聞こえたのはサラだけだろう。その心境を示すように、サラは裏返った声で何とか返答を返した。

 サラの返事の余韻が残る厨房に静けさが戻る。

 既にリーシャの胸の中で、泣き声を止めていたメルエが鼻を啜る音だけが、何故か耳に良く響いていた。

 

「もう良い……メルエを連れて、部屋で大人しく待っていろ」

 

「で、ですが……」

 

 リーシャは顔を上げない。

 それが尚更、サラの胸に恐怖を運んで来る。

 この惨状を生んだ事を自覚して尚、リーシャの言葉に反論しようとしたのは、サラの強さなのだろうか。

 だが、仏の顔も、既に鬼へと変わっている。

 そのような我儘が許される刻限は、既に過ぎ去っていたのだ。

 

「……もう一度言わなければ駄目か?」

 

「い、いえ! 申し訳ありませんでした!」

 

 静かに、本当に静かに響き渡るリーシャの声。

 それは、明確な最後通告だった。

 『これ以上、自分が言葉を発しては駄目だ』と感じたサラは、勢い良く立ち上がり、リーシャの胸で眠りそうになっているメルエを連れて、大急ぎで部屋へと戻って行く。

 台風のように過ぎ去った災難は、厨房に料理人の溜息を残して行った。

 

 

 

 

 そのような一連の出来事があった事は、昨晩の食事時にリーシャによってカミュへ語られた。

 船員達も揃っての大所帯の食事は、リーシャの作った料理に彩られ、楽しい物となったのだが、食事の時間が遅れた理由として、リーシャはそれを語ってみせたのだ。

 その頃には、リーシャも笑顔で語っていた事から、既に笑い話へと昇華している事は明白であり、船員達もその話を聞いて大声で笑い合う事となる。

 残るは顔を真っ赤に染め上げたサラだけ。

 サラの被害を、その身体で受けたのはメルエだけであったのだが、そんなメルエもリーシャの料理を笑顔で食しており、サラが気後れする理由もなかったのだろう。最後の方では開き直り、『初めてなのだから、仕方がない』という理由を全員に叫ぶ事となった。

 

「まぁ、昨日の事はもう良いだろう? メルエ、久しぶりにトルドと会えるぞ。あのメアリという暴力女が、しっかり約束を守ったのかも確かめないといけないからな」

 

「…………ん…………」

 

 振り向いて強がりを言うサラに溜息を吐き出したリーシャは、その話を打ち切り、次の目的地の話題を持ち出す。

 その言葉の中にある内容を汲み取ったメルエは、笑みを消し、真剣な表情で頷きを返した。

 それは、リーシャとメルエの中の共通認識なのかもしれない。

 

「その呼び名を、アンタから告げられる人間がこの世に居るのか?」

 

「なんだと!」

 

 リーシャの発言の中にあった単語を聞き、カミュは心底不思議そうに首を捻る。彼からしてみれば、その呼び名を欲しい儘にしているのは、この女性戦士なのかもしれない。

 嫌味でもなく、馬鹿にしている様子もないカミュの姿に、リーシャは血相を変えた。

 そんな二人のやり取りに噴き出すサラとメルエ。

 久しく見ていなかった、四人のやり取りが、朝早いランシールの村で繰り広げられていた。

 

 

 

 試練を終え、再び歩み始めた一行。

 次の目的地は、サマンオサ。

 『変化の杖』と呼ばれる宝物がある国。

 そして、アリアハンの英雄オルテガと並び称される『勇者』が居る国。

 

 そこへ向かう前に、彼等は昔の縁を辿る事となる。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとございます。

本来であれば、必要のない回なのかもしれませんが、詳しくは活動報告で記させて頂きます。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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無名の土地④

 

 

 

 ランシールの村を出た一行は、二日という時間を掛けて船までの道程を歩く。

 その内の一日は、天候を崩して雨となり、体温が下がらぬようにメルエをマントに包んだカミュを先頭に歩みを続けた。

 船に辿り着く頃には、空を覆っていた分厚い黒雲も去り、晴れ渡る青空の広がる絶好の出港日和となる。

 

「野郎ども、出港だ!」

 

 カミュ達を迎え入れ、船は錨を上げて行く。

 帆に風を受けて、ゆっくりとその船体を動かし始めた船は、北西の方角へと向かって海を渡って行った。

 目指すは、開拓の町。

 彼等がこの世界で最も信頼する商人が作る町を目指し、船は進んで行った。

 

 

 

 船の上では、相変わらず、海の魔物達との戦闘が行われる。晴れ渡る穏やかな海であっても、魔物達もまた生きているのだ。

 食料を欲するように襲いかかって来る魔物達を撃退して行くカミュを後方から見ていたリーシャは、その力量の飛躍を改めて実感する。

 カミュの剣技やその腕力等が成長している事は知っていた。

 毎朝のように鍛錬を重ねて行く中で、自分へ振るわれる剣の鋭さと強さは、アリアハン大陸に居た頃と比べ物にならない。

 突き出される剣が、何時自分の頬の肉を抉り、腹を突き刺すかと冷や汗を掻く事もある。その剣と合わせた斧が弾かれないように力を込める事もある。

 それは、明確な力量の上昇なのだろう。

 

「カミュ、また腕を上げたな。試練の洞窟というのは、それ程の場所なのか……」

 

 船上の魔物を全て駆逐し終わったのを見計らって、リーシャはカミュへと声を掛けた。

 その言葉は、リーシャの本心なのだろう。

 試練の洞窟という場所へ向かう前から、カミュの力量が上がっている事は解っていたのだが、あの洞窟から帰って来たカミュを見た時、その『強さ』が更に一段上がったのだと感じていたのだ。

 だが、そんなリーシャの純粋な褒め言葉に、カミュは顔を顰める。

 明らかに不愉快そうな表情を見せるカミュを見て、不思議に思いながらもリーシャは苦笑を浮かべてしまった。

 この『勇者』と呼ばれる青年が、人目を憚らずに表情を作るようになったのは何時のころであったろう。アリアハンを出た頃には、能面のような無表情を貫き通す冷血漢であったのだが、何時しか彼は、リーシャ達三人の前では、喜怒哀楽を見せるようになっていた。

 それは、とても小さく、儚い物でもあった。

 だが、今のカミュの表情は、誰が見てもそれと解る物。

 それが何故か、リーシャには嬉しく感じたのだ。

 

「……だが、アンタにはまだ届かない……」

 

「ん?……あはははっ! 当たり前だ! まだまだカミュ如きに後れを取る物か!」

 

 そして、そんなリーシャの小さな喜びは、カミュの洩らした発言によって噴き出してしまう。

 カミュの力量の上昇は理解している。だが、それでもまだ自分には及ばない事もリーシャは理解していた。

 毎日カミュと鍛錬を重ねる中で、冷や汗を掻く事はあっても、自分の力が劣っていると感じた事は未だに一度たりともない。カミュの成長は何時の日か自分を追い抜く事を感じてはいるが、それが今ではない事も彼女は知っているのだ。

 

 「…………リーシャ………つよい…………」

 

 「ああ、私はメルエを護る為にもっと強くなるぞ!」

 

 戦闘の終了と共にサラの傍からリーシャの傍へと移動したメルエは、微笑みながらリーシャを見上げ、その誇りを誉め讃える。

 リーシャの中にある約束の一つである、『メルエとサラの剣となり盾となる』という物は、彼女にとって最も重要度の高い物なのかもしれない。メルエの頭を優しく撫でるリーシャを見ながら、サラはそのように考えていた。

 サラ自身、メルエを護るという約束は、何よりも大切な物へと変化している。そしてリーシャは、そんな自分とメルエを纏めて護る事を自身の使命と考えているのだろう。それが、サラにはとても嬉しかった。

 

「そろそろ例の大陸が見えて来る筈だが……」

 

 船は既にポルトガを超え、進路を北西から西へと変化させている。

 船の前方を注視している頭目の言葉通り、トルドが暮らす場所が見えて来る筈だった。

 頭目の言葉に、メルエは船首の方へ駆けて行き、何度も上陸した陸地を探すように目を凝らす。微笑みを浮かべたリーシャとサラがその後ろを続き、最後に頭目との会話を終えたカミュが近寄って行った。

 しかし、彼等はそこで、予想すらしていなかった光景を目の当たりにする事となる。

 

「何だ、あれは!?」

 

 まず口を開いたのはリーシャ。

 パーティーの中でも背丈のあるリーシャの視線からは、既に大陸の一部が見え始めていた。カミュにも見えているのであろう。その顔は、リーシャと同様、驚きの色に満ちている。

 続いたサラも見えて来た光景に驚いていたが、何かに納得が出来たように、優しい笑みを浮かべた。

 

「メルエ、良かったですね。メアリさんは、しっかりと約束を守ってくれましたよ」

 

「…………ん…………」

 

 メルエと視線を合わせるように屈んだサラは、木箱の上から眺めているメルエの肩に手を掛ける。その手を受けたメルエは、瞳に映る光景に目を輝かせ、そんなサラに向かって花咲くような笑みを浮かべた。

 彼女達の旅は、様々な者達との出会いによって成り立っている。

 その出会い一つ一つが、良い方向に回るとは限らない。

 だが、今回に限って言えば、サラ達三人が初めて経験した大冒険が、最高の結果を生んだ事になるのだろう。

 それは、大陸に近付くにつれて、船上に居る者達全ての顔が、驚愕の物へと変化して行く事が物語っていた。

 

「何故、これ程までに船が……」

 

「あれは、船着き場だぞ?」

 

 近づく大陸を船上で見ていた船員の一人が呟いた言葉が切っ掛けとなり、各々が自分の目に映る不思議な光景を語り出す。舵を取っていた頭目でさえ、部下に任せて大陸を凝視していた。

 一年近く前になるが、この場所を訪れた時には、船など一隻もなかった筈。そればかりか、船が近づこうにも、近場の浅瀬に船を止め、そこから小舟を使って上陸する事しか出来ない場所であったのだ。

 だが、徐々に大きくなる大陸には、立派とは言えないまでも、しっかりとした造りの船着き場が整備されており、そこに小さくはあるが数隻の船が着港していた。

 客船のようには見えないが、幾人もの商人を乗せた商船なのだろう。小さいながらも荷をしっかりと船に乗せ、着港している。

 

「トルドの町に、これ程の人々が訪れているのだな……あの暴力女、しっかりと約束は守っているという事か……ならば、こちらも必死に約束を遂行するために踏ん張らなければな」

 

「はい。頑張ります」

 

 船着き場に停泊している船達を眺めながら、リーシャは笑顔で言葉を紡ぐ。その言葉を聞いたサラは、同じように笑みを浮かべながら、逞しくも美しい女性を思い出す。そして、その時に交わした誓いも思い出し、決意の込められた瞳で頷いた。

 船がこの場所に停泊しているという事は、その船に乗っている人間の目的は決まり切っている。

 この場所の近くには、町や村がある訳ではない。あの、トルドという商人が創り上げようとしている場所以外には。

 これ程の船が訪れているという事は、それが只の商いの為という事は考え難く、その中に移住してくる移民達も含まれている可能性を示唆していた。

 つまり、あの場所が『町』となる一歩を歩み出した事になるのだ。

 

「そうか……アンタ方の話にあった女海賊と、トルドの話していた海賊は同一人物なのか」

 

 実は、リーシャ達三人の旅を詳しくカミュへ話してはいなかった。

 彼女達がカミュと逸れてから立ち寄った場所は、あの女海賊が拠点とするアジトのみ。その場所から真っ直ぐスーの村へと向かっている。

 そして、その唯一の立ち寄り場所で起こった出来事は、サラという『賢者』の立ち位置を明確な物にした物であったのだが、カミュはサラが傀儡となる事を恐れている節がある為、リーシャは多くを語らなかったのだ。

 故に、カミュはその女海賊との詳しい出来事を把握していない。逸れた先で出会い、メルエが<レッドオーブ>を譲り受けたという事しか知らなかった。

 

「やはり、トルドさんは気付いていたのですね」

 

「そうだな……サラの考え通りだ。トルドは、その恩恵を知っていたのだろうな。だからこそ、法外な要求でさえなかったら、それを受け入れる事にしたという事か」

 

「賊に対しての想いを断ち切る事は、相当な物があっただろうな……」

 

 喜び合うように笑っていたリーシャとサラは、カミュの言葉に凍り付くように

顔を固める。

 サラは、トルドの頭脳を信じていた。

 リーシャは、トルドの人柄とサラの頭脳を信じていた。

 だが、カミュだけは、その信頼と共に、その心情を案じていたのだ。

 トルドという商人は、その人生の全てを賊によって壊されていると言っても過言ではない。彼の愛した妻と娘は、賊違いではあるが、盗賊の一味の手によって、無残にもこの世を去る事となった。

 それは、決して消える事のない傷。

 そして、決して癒える事のない傷。

 だが、それでも彼は前へと踏み出した。

 

「船着き場へ着けてくれ」

 

「わかった」

 

 言葉を失ったリーシャとサラを余所に、カミュは頭目へと指示を出す。

 自身達の思慮の浅さを悔いながらも、サラの策が紙一重であった事を知り、リーシャ達は、トルドの英断と決意に感謝した。

 消える事のない傷を持ち、癒える事のない痛みを持ちながらも、彼は海賊と名乗っていた者達と手を組んだのだ。

 そこにどれだけの苦しみがあった事だろう。

 どれだけの痛みがあった事だろう。

 そして、どれ程の決意を胸に抱いた事だろう。

 それを考えると、リーシャやサラは胸に突き刺すような痛みを覚える。

 

「初めての船だな……この大きさじゃ、こっちじゃ無理だ! 向こう側の船着き場に着けてくれ。巨大な船の為に作った船着き場があるから!」

 

 悲痛の表情をサラが浮かべている間に、船は船着き場へ辿り着いていた。

 船着き場で船の誘導をしていた男が、カミュ達の船を見て、大きな声で呼びかけて来る。

 この船着き場に着けている船は、カミュ達の船に比べるとかなり小さな物が多い。ポルトガ国王の威信に懸けて造られた船は、世界でも有数の大きさを誇っていた。

 縄を投げようと身構えていた船員は、急遽進路を変えるように舵取りへ声を掛け、それを受けた舵取りは、船着き場の男が指し示した方角へと進路を取る。船はゆっくりと進路を変え、商船が一隻も停泊していない大きな船着き場へ辿り着いた。

 

「なんだ、ここは? 何故、この船着き場には船が無いんだ?」

 

「トルドだろうな……」

 

 大きな船着き場には一つの小屋があり、近づいて来る船を見て、驚いたように男が一人出て来る。暇そうにしていた男を見れば、この船着き場に船が停泊する事が皆無に等しい事は一目瞭然であった。

 つまり、この場所へ船を着ける者は誰もいないという事になる。

 そうなると、次には『何故?』という疑問が浮かんで来る。

 それに答えたのは、カミュであった。

 

「この場所に来る事になる船が本当にあるとは思わなかった。この船着き場は、この船の為だけに作られたような物だな」

 

 そして、そんなカミュの考えは、船員から縄を受け取った男に肯定される事となる。船着き場にある鉄柱に船員から受け取った縄を結びつけながら語った男の言葉は、この船着き場が特別に作られた場所である事を示唆していたのだ。

 それは、カミュ達が乗る船の為だけに作られた場所と考えても考え過ぎではないだろう。そして、カミュ達が乗る船の大きさ等を知っている人間と言えば、あの開拓地には一人しかいない。

 あの開拓地へ行く途中、ポルトガの港から共に出発したトルドだけである。

 

「トルドは、何時でもメルエがここに来る事が出来るように、船着き場を作っていてくれたのだな」

 

「トルドさんは、私の浅慮など及びもつかない程の思慮をお持ちでした」

 

 船着き場へ着けられる船は、ゆっくりとその動きを停止させた。

 それぞれの胸に、それぞれの想いを抱きながら、四人は船着き場へと降り、そこから見える景色を瞼に焼き付ける。

 以前に訪れた時とは全く異なるその眺めは、『人』が歩んで来た道を見るかのような感傷を抱かせる程の物。茂っていた森の木々は伐採され、開拓地へ真っ直ぐ伸びる道が整備されている。森の中を通るように切り開かれた道の脇には、魔物防止の為に高い木の柵が設置され、商人達の行き来を容易にさせていた。

 

「……行くぞ……」

 

「は、はい」

 

 例の如く、船員達の数名を船から下ろし、物資を購入する為に行動を共にする。船着き場から見える景色に呆然としていたリーシャとサラは、慌ててカミュの後を追って歩き始めた。

 しかし、そんなサラとリーシャの動きを止める者がいた。

 

「…………ん…………」

 

「え?……どうしました、メルエ?」

 

 いつもならば、真っ先にカミュのマントの中へと潜り込む少女が、サラを見上げながら、左腕を突き上げていたのだ。

 メルエの行動が理解出来なかったサラであったが、突き出された左手に握られていた物を見て、全てを理解する。

 メルエの右手には、<雷の杖>と呼ばれる神秘の杖が握られている。そして、突き出された左手が握っていた物は、古ぼけた木の棒。

 既に役目を終え、その先端に嵌め込まれた石も砕け散り、只の木の棒と化した<魔道士の杖>であった。

 

「そうでしたね。それをトルドさんに預けないといけませんでした。メルエの背中に結んであげます」

 

「…………ん…………」

 

 捨てる事を良しとしなかったメルエは、只の棒と化した<魔道士の杖>を、船室で大事に保管していたのだ。

 以前にカミュが話していた事を憶えていたメルエは、トルドの許へ行く事を知り、古き戦友を預ける為に持って来ていた。

 メルエから<魔道士の杖>を受け取ったサラは、優しい笑みを浮かべ、その杖をメルエの背へと結びつける。<雷の杖>は、メルエの背丈よりも高いため、背中に結ぶ事は出来ず、常に手に持っているのだが、<魔道士の杖>は昔からメルエの背中が居場所であった。

 余談ではあるが、最近メルエがカミュのマントに入る時、<雷の杖>はマントの外に出ており、その為にカミュが歩き辛そうにしている姿を見たリーシャとサラは、常に笑いを噛み殺していたのだった。

 

 

 

 四人と他の船員達は、整備された道を歩いて行く。

 カミュ達の横を、荷を積んだ馬車や荷台を引く者達が通り過ぎ、町の方角から歩いて来る商人達とすれ違う。それは、以前に訪れた際には考えられなかった光景であり、その者達の顔に浮かぶ笑みもまた、この時代の商人達としては珍しい程の会心の笑みだった。

 

「どうした、サラ?」

 

「えっ!? いえ、何でもありません……」

 

 行き交う人々を見る為に、頻りに首を動かしていたサラの表情は浮かない。サラの隣を歩いていたリーシャは、そんなサラを不思議に思い、声を掛ける。だが、それに対しての返答は、最近のサラが良く行う物であり、リーシャはあからさまに眉を顰めた。

 

「それは、最近のサラの悪い癖だぞ……サラの胸の内で消化し、答えが出る物ならば、それで良い。だが、それならば表情に出すな、言葉に出すな。私達はサラと共に歩んでいると思っている。サラのそんな表情を見れば、気になるのは当然だろう?」

 

「あ……申し訳ありません」

 

 厳しい一言で、サラは視線をリーシャへと移す。そこには、厳しく眉を顰め、サラを見つめる女性戦士の瞳があった。

 何時でも、どんな時でも、サラという個人を見つめ、温かく見守ってくれて来た瞳。それは、サラにとって何時でも『勇気』となり、『自信』となって来た物でもあった。

 故に、サラは小さく笑みを浮かべた後、自分の胸にあった物を吐き出し始める。

 

「このようにして、『人』は世界を広げて来たのだと感じていました。そして……このように自分達の世界を広げる為に、他者の世界を侵して来たのでしょう。あの時、カミュ様の言っていた意味が、ようやく私にも解りました」

 

「そうか……そうだな……私達『人』は、木を切り倒し、道を作り、町を作って来た。船を造り、新たな場所へ移動し、そこでも同じ事を繰り返す。確かにその行為は、他の生物の住処を侵しているのだろうな」

 

 サラの言葉を肯定するように、リーシャは道の脇に建てられた柵の向こう側へと視線を動かした。

 柵の向こうは、伐採されずに残る多くの木々が茂っている。小鳥達の囀りが聞こえて来る事から、その森の中には、多くの動植物達が生きているのだろう。森の真ん中に通された道によって、森は分断され、それによって離れ離れになった動物達もいるのかもしれない。

 突如として割って入って来た、『人』が造り出した道が、他の生物の生態系に変化を齎してしまう可能性は否定出来ない。森で暮らす魔物達も同様であろう。

 

「魔物が本気になれば、この程度の柵は問題ではないだろう。魔物が『人』を襲う理由の中には、『人』の増長を抑えるという物もあるのかもしれないな」

 

「えっ!?」

 

 リーシャは木で出来た柵を眺めながら、何気なく、本当に何も考えずに口にしたのだろう。だが、その言葉は、サラにとっては寝耳に水と言っても良い程の物だった。

 そのような考え方は一度たりともした事はない。『賢者』という中立の立場に立った時からを考えても、『人間の増長を抑えるために、人間を襲っている』等という考えに辿り着いた事はなかった。

 世界というは、多くの種族によって成り立っている。『人』や『エルフ』、そして『魔物』や『動植物』達。その中でも細かく分類すれば、数百、数千、数万という種類の生き物が生息しているのだ。

 そして、この世界は、その多くの種族のどれの物でもない。

 『魔物』の物でも、『エルフ』の物でもなく、ましてや『人』の物でもない。

 

「ん?……何か私は可笑しな事を言ったか?」

 

「い、いえ……おっしゃる通りなのかもしれません」

 

 唖然とした顔を向けるサラの視線に気づいたリーシャは、自身の発言に自信を持てなくなり、困ったように顔を歪めた。

 しかし、予期せぬ形で、新たな考えに導かれたサラは、リーシャの考えを認め、再び思考の海へと落ちて行く。

 自分の手を引きながら思考へ落ちて行ったサラを見上げていたメルエは、全く理解が出来ないのか、頻りに首を傾げながらも、柵の向こうに見える花々へと視線を戻して行った。

 

「アンタの考えは、自分自身が考えている以上に変化しているんだ。可笑しな事ではないが、その事は軽々しく口にするべきではない」

 

「そうなのか?」

 

「……カミュ様……」

 

 リーシャとサラの会話は、少し前を歩いていたカミュにも聞こえていた。

 多くの馬車や商人達が行き交うこの道であれば、魔物との戦闘について、警戒感をある程度は緩める事が出来る。故に、カミュ達四人が先頭を歩き、ランシールで購入した荷を乗せた荷台を引く船員達が後ろに続いていた。

 振り返ったカミュの瞳を見たリーシャは、その言葉の意味を正確に理解していないのかもしれない。だが、サラは、そんなカミュの真意を読み取っていた。

 先程リーシャが語った内容は、この世界の『人』にとって受け入れる事の出来ない物であろう。教会の唱える教えに背く考えと言っても過言ではない。そうなれば、リーシャは異端者と成り得る可能性もあり、大きく吹聴する危険性も伴って来る。

 カミュは、それを危惧しているのだ。

 

「お前がそう言うのならば、以後は口にしないようにしよう」

 

「その方が良いかもしれません。私達の間だけの話にしましょう」

 

 カミュの表情の真剣さが伝わったのか、神妙な顔つきになったリーシャは、大きく頷きを返す。サラもそれに同意し、小さく頷いた。

 

 彼等の目標は変わらない。

 『魔王討伐』という大望を果たす為に、彼等は歩んでいるのだ。

 だが、その旅の中で、彼等は確実に変化していた。

 それは、大望の先にある未来を変えて行く程の物なのかもしれない。

 

 

 

 森の中には、船着き場から徒歩で向かう者達の為に、簡素ではあるが、宿泊小屋が建てられていた。小さな宿泊小屋は、個人商人などで一杯になっており、カミュ達は、船員達と共に森の入り口付近で野宿する事となる。

 翌朝、再び歩き始めた柵で囲まれた道を歩み、森を抜けた先で、四人は再び驚く事となった。

 平原が広がる先に見えた景色は、以前と比べて全く異なる物であったのだ。

 森の中の道を護っていた柵とは比べ物にならない程に立派で、魔物の侵入を阻む事も出来る程に頑丈な壁に覆われたその場所は、魔王台頭以前に、各国が競って建てていた支城や砦を思わせる程の物だった。

 集落を囲むように堀を作り、山から流れる川の水を利用し、そのまま海へと繋がっている。堀を渡るように作られた門への道は、馬車が行き交う程度の幅しかない。

 自治都市と言っても過言ではないその姿に、カミュ達は感嘆の溜息を吐き出した。

 

「僅か一年で、ここまで変わる物なのか?」

 

「…………トルド………すごい…………」

 

 堀を渡り、門の前まで来た一行は、それを見上げたままで立ち尽くしてしまう。門の上に付けられたアーチ型の木の看板には、この場所の名前を彫るつもりなのだろう。未だにその名は彫られてはいないが、トルドが構想する町の規模の大きさに、改めて驚かされていた。

 木の看板を見上げたメルエは、まるで自身の誇りのように、嬉しそうに呟きを洩らす。そんなメルエの言葉に我に返った一行は、商人達が並ぶ門の検問場所へ並んだ。

 

「初めての方ですか? 荷を調べさせて頂いてもよろしいですか?」

 

「……ああ……」

 

 順番が回って来ると、商人風の人間が先頭に居るカミュへと声をかけて来た。

 その商人風の男の後ろには、二人の武装した男が立っており、その姿を見る限り、この門を護る門番のような者なのであろう。慣れた手つきで、船員達が引いている荷台の荷物を調べて行く。

 調べが終わり、もう一度カミュの前に戻って来た男は、荷物が問題ではない事を伝え、中へと誘導した。

 

 「人がこんなに……」

 

 「あの暴力女の恩恵がこれ程とは……」

 

 「会った事はないが、アンタに言われる事は、向こう側も心外だろうな」

 

 中へと入った一行は、その先に広がる光景を見て、再び驚愕する事となる。そこは、まだ町とは言えない程の物ではあるが、村だと言われれば、納得してしまう様相をしていた。

 以前に訪れた際には、スーの村出身の老人とトルドの二人しか生活をしていなかったのに対し、今では幾つもの家屋が建て並んでいる。煉瓦造りの立派な建物ではないが、人が暮らすには充分な佇まいをしており、それがこの場所へ移住して来た者がいる事を明確に示していた。

 集落の真ん中には、泉と呼べる程の大きさのある場所があり、湧き出る水は、別の場所で汲めるようになっている。水場には、女性達が桶を持って集まっており、それぞれの会話に夢中になっていた。

 何軒かの店が立ち並び、中には宿屋らしき場所も作られ始めている。商人達が並び、店では順調に商いがされているようだった。

 

「俺達は、店に行っているよ」

 

「わかった」

 

 カミュ達の後ろに付いていた船員達は、荷台を引いて店へと向かって行く。

 ランシールで、今回も<消え去り草>をある程度入手していた船員達は、それを売却し、この場所での特産を仕入れようとしているのだろう。心なしか、楽しんでいるような無邪気な笑みを浮かべる船員達を見たカミュは、小さな苦笑を浮かべた。

 未だに呆然と集落の中を見ているリーシャとサラを余所に、目的の人物を逸早く見つけたメルエは、カミュ達を置いて、その場所へと駆けて行く。

 このような集落の中では、メルエの勝手な行動が悲劇を生む事は無い為、カミュもリーシャも優しい笑みを浮かべたまま、その後を付いて歩き出した。

 

「…………トルド…………」

 

「ん? おお! メルエちゃんじゃないか!?」

 

 集落の入口から南の方角で建築が進められている建物の傍に立つ男性に駆け寄ったメルエは、小さいながらも嬉しそうに声を掛け、トルドと呼びかけられた男性もまた、メルエの姿を認識すると、大袈裟にも見える程に喜びを表す。

 メルエの身体を抱き上げんばかりに伸ばされた手が、帽子を取ったメルエの頭へと下された。

 目を細めてそれを受け入れたメルエは、頬笑みを浮かべたまま、背中に結ばれた木の棒を取り、それを掲げる。

 

「…………ん…………」

 

「何だい? この木の棒に何かあるか?」

 

 既に宝玉を失った<魔道士の杖>は、傍から見れば、小汚い木の棒にしか見えない。

 メルエが誇らしげにそれを自分へと掲げる事自体が理解できないトルドは、膝を折って、その棒を見つめる。しかし、そんなトルドの問いかけは、幼い『魔法使い』にとっては大いに不満な質問だったのだろう。瞬時に頬を膨らませたメルエは、『むぅ』と唸り声を上げて、トルドへ木の棒を再度突き出した。

 ますます混乱を極めて行くトルドの思考は、この幼い少女を探し出す事を約束した青年を探し始める。

 

「メルエ、それではトルドも解らないだろう」

 

「…………むぅ…………」

 

 声がした方へと視線を動かした先には、こちらへゆっくりと歩いて来る三人の人間が見えた。

 柔らかな笑みを浮かべながら近寄って来る女性は、背中に巨大な斧を担ぎ、何処か神秘的な色合いを持つ鎧を身に纏っている。一瞬、その姿を見たトルドは、その女性が誰であるのかが解らなかった。

 それは、その後ろから歩いて来る青年を見ても同様で、その顔を知っているにも拘わらず、纏っている雰囲気が以前とは全く異なる物であった為に、トルドは言葉に詰まってしまう。

 

「この杖は、メルエの成長を見届け、その役目を終えました。どうしても、メルエが手放したくないというので、トルドさんに預かって頂ければと思いまして」

 

 そして、最後に現れた女性を見て、トルドは何故か溢れて来る感情を抑える事が出来なくなっていた。

 トルドがその女性を初めて見た時に感じた印象は、決して良い物ではなかった。

 僧侶が被る帽子や、その身に纏う法衣を見ても、ある出来事から信仰心が薄れていたトルドには何も感じる事はなく、『勇者』と呼ばれるカミュや、屈強なリーシャから比べると、『頼りない』という印象しか浮かばなかったのだ。

 それが、今、目の前に居る女性の纏う雰囲気はどうだろう。

 これ程までに力強く、温かい雰囲気を纏っている者が、この世に何人いる事だろう。

 

「そうか……わかったよ。それよりも、まずは礼を言わせて欲しい。サラさんのお蔭で、ここまでこの場所は発展出来た」

 

「えっ!? い、いえ、私は何も……」

 

 メルエから<魔道士の杖>であった物を受け取ったトルドは、目の前に居る女性に深々と頭を下げた。

 それは、サラとリーシャにしか解らない謝礼だろう。簡単な部分しか事情を把握していないカミュは、少し離れた所でそのやり取りを見ているし、メルエに至っては、『何故、自分の杖よりもサラの方を優先するのか』と頬を膨らませていた。

 なかなか頭を上げないトルドに、慌ててしまったのはサラ。わたわたと手を振り、何とか頭を上げさせようとするのだが、そんなサラを無視するように、何時までもトルドは頭を下げていた。

 

「そのくらいにしてやってくれ。サラが困っている」

 

「そうか……どれ程に礼を述べても気が済まないのだが……あの海賊の棟梁自らこの場所に来た時には、この命も覚悟していた……」

 

 リーシャの助け舟によって、トルドはようやく顔を上げる。

 トルドの言葉通り、本当に心から感謝しているのだろう。顔を上げたトルドの瞳は、涙によって、若干潤みを帯びていた。

 サラやリーシャではなく、カミュに視線を向けているところを見ると、海賊の棟梁という存在の来訪は、トルド自身は信じていなかったのだろう。カミュへは、『首領を伴って二か月後に来るらしい』というように話をしてはいたが、その真実味を薄いと考えていた節があったのだ。

 実際、トルドが招き入れたカンダタ一味にしても、首領であるカンダタ自身がカザーブの村を訪れた回数は限られていた。

 腕力や暴力に訴える者達は、その後ろに控える者の威光を笠に権力を振るう事が多く、その威光自身が訪れる事は、最終手段であるのだ。最高権力者が前へ出てくれば、その下で動く者達が功名を得る機会が失われる。それ故に、実質、下の者が実際に動く事の方が多い事をトルドは理解していた。

 

「やはり、真っ当な人間だったか……」

 

「う~ん……真っ当な賊というのも可笑しな話だが、棟梁と名乗る女海賊が口にした報酬は、法外な物ではなかった。少し高い気もしたが、それも航路によって交渉する事も出来たしな」

 

 自分に向けられた視線に気付いていたカミュは、以前にここを訪れた際に話した会話を思い出し、それを口にするが、トルドはそれを全面的には肯定しない。そこに、やはりトルドなりの想いがあるのだろう。

 賊と名乗る以上、今は真っ当でも、自分の意を押し通す為に無茶をして来た経歴がある筈であり、それによって失われた命は数多くある筈である。その中身は、敵対勢力のような物ばかりではないだろう。それこそ、生まれてから死ぬまで、真っ当に生きて来た者達も多かった筈であり、それを行って来た者達を、真っ当な者と称する事は、トルドの中で出来なかったのかもしれない。

 

「それでも、あの女海賊の部下達が来た時の金額とは雲泥の差があった。それ程、初回に提示された報酬金額が馬鹿げていたという事なのだが……最初に値を吊り上げ、そこから落として行く事で相手の感覚を麻痺させる、商人の常套手段かとも思ったのだが、サラさんの名前が出た事で、全面的に信用したよ」

 

「メアリなどに、そんな事を考える事が出来る頭はないな」

 

「いや……アンタがそれを言う時点で間違っているように聞こえるが……」

 

「ぶっ!」

 

 リード海賊団改め、リード護衛団となった者達の襲来を思い出すかのように語るトルドの言葉に逸早く反応を返したのはリーシャ。

 しかし、そんなリーシャの言葉は、カミュの冷たい切り返しに会い、サラの抑え切れない笑いで吹き飛ばされた。

 先程までむくれたように頬を膨らませていたメルエも、その場の和やかな雰囲気に頬を緩め、笑顔を見せる。憤るリーシャをあしらい続けるカミュを見ながら、トルドは空を見上げてから、視線を戻した。

 

「積もる話もある。一度、家に戻ろう。アンタ方四人ぐらいならば、泊って行ける筈だ」

 

 太陽は西の空へと傾き始め、集落を赤く染め始めている。

 建築現場の人間達も、本日の計画を終えているのだろう。皆それぞれに、資材や道具の片づけを始めていた。

 トルドの提案を断る理由もない為、カミュ達はその提案に頷きを返す。

 

「私達の船の人達もいるのですが……」

 

「ああ、それなら、簡易的な宿は出来上がっている筈だから、そこに泊って貰えば良い。まだ、しっかりした物ではないから、料金も安いと思う」

 

 共に訪れた船員達の宿泊場所に対して尋ねるサラに対しても、トルドは集落の一部を指差し、宿泊施設がある事を告げた。

 店で売買をしているであろう船員達へ、カミュがその旨を告げる事にし、一行はトルドの自宅へと向かう事となる。

 

 

 

「何も無いが、とりあえずこれでも飲んでくれ」

 

 トルドの自宅は、以前にカミュ達が訪れた場所とは異なり、集落の一番奥に位置する場所に建てられていた。

 以前に訪れた店舗と同化した物は、この集落で店を構えたいと考えている者に、格安で売り渡したという事だった。移住して来る者を歓迎する為、その価格は本当に破格であり、<薬草>一つと変わらない程の価格だったという事を聞いたカミュ達は素直に驚く。

 出された飲み物に口を付けたメルエは、温かな飲み物に頬を緩め、そんな嬉しそうに微笑むメルエを見て、トルドもまた、優しく微笑み返した。

 

「まぁ、あの海賊達が、この場所に来る商船等を護衛してくれている為、ここまで人が増えた訳だ。今のところ、ポルトガ港からの護衛が主だが、エジンベア付近からの護衛も考えているという事だから、その内に世界各国の貿易は再開されるかもしれないな」

 

「もし実現できれば、本当に凄い事ですね」

 

 椅子に腰かけたトルドが、先程の話の続きを口にし、その内容の壮大さに、サラは感嘆の声を上げる。リーシャも流石に女海賊を貶す事は出来ないらしく、何処か不満そうな表情で黙り込んでいた。

 世界的な貿易が復活する事は、それ程簡単な話ではないだろう。

 実際には、日に日に魔物達の凶暴性は増している。まるで、この世界を覆う『魔王』の魔力が増して来ているかのように。

 今まで、人を滅ぼそうと直接的な行動に出て来なかった『魔王バラモス』であったが、その力は、日増しに大きくなっているのかもしれない。

 そんな海上で護衛を続けるのであれば、魔物との戦闘は避けられない物であり、戦闘を行う以上、それによる被害も必ず出て来る。護衛団の団員達は戦闘によって傷つき、最悪の場合は死に至る。死と隣り合わせの仕事である以上は給金を高く設定しなければならないだろうし、団員の補充も考えなければならないだろう。

 どれを取っても、『魔王バラモス』という存在がいる限り、護衛団の未来は暗い物になる可能性が高いのだ。

 

「それだけ、アンタを信じているという事だろう」

 

「えっ!? は、はい!」

 

 無邪気に喜ぶサラの横から、このパーティーの柱となる青年が口を開く。

 リーシャやメルエには、その言葉の真意に気付く事は出来なかっただろう。しかし、『賢者』とさえ呼ばれるサラは、その少ない言葉で、カミュの語る真意を全て理解した。

 サラが一瞬驚いたのは、その言葉がカミュから出て来るとは思っていなかったからだ。他人との繋がりを煩わしい物と考えていた『勇者』は、サラとメアリの強い想いを受け入れ、それを認めたに等しい発言をした。

 それがサラには何よりも嬉しい。

 

「それで、メルエちゃんの杖だったというこれに関してだが……」

 

 笑顔で大きく頷くサラを見ていたトルドは、その話を終了させ、手元に残る只の木の棒へ視線を移した。

 先程は、とりあえず受け取った形になってしまっていはいたが、商人である以上、それが何であるのかを把握しておきたいと思うのは、トルドの性なのかもしれない。

 <魔道士の杖>の顛末に関しては、リーシャとサラしか見ていなかった物であり、それを正確に語れる人間はサラしかいないため、詳細をトルドへと話し始めた。

 

「なるほどな……メルエちゃんは、やはり通常の『魔法使い』ではなかったのだな。こんなに幼いのに、アンタ方が頼みにする程の『魔法使い』なのだから、当然と言えば、当然か」

 

 事の顛末を聞き終えたトルドは、改めてメルエへ視線を送り、納得したように何度も頷く。トルドは、あの海賊が知っていた話を知識として持っていた。通常の『魔法使い』であれば、<魔道士の杖>の先端に嵌め込まれた宝玉が破損する事など有り得ない。トルドが見ていた限り、メルエがあの杖を乱暴に扱っていたとは思えない為、その破損が物理的な物ではないと考えたのだ。

 そして、その言葉にあるように、トルドはカミュ達の中にある想いをそのようにも理解していた。

 カミュ達の人柄をトルドなりに分析して行った結果、彼等が愛しさだけで、メルエのような幼子を旅に連れて行くとは思えなかったのだ。

 つまり、そこには、愛しく大事な幼子でも、連れて行く事の出来るだけの力を、その幼子が有しているのだと、トルドは考えていたという事になる。故に、トルドは、全てを理解し、全てを納得した。

 

「既に、メルエちゃんには新しい杖があるみたいだから、これは預かるよ……そうだ! この杖を、この場所の町章にしても良いかい?」

 

「町章ですか?」

 

 只の木の棒となった杖を受け取ったトルドは、椅子に座っているメルエの横に新たな相棒が鎮座している事を確認し、少し思案に耽った後、予想外の提案を口にする。

 それは、サラだけではなく、カミュやリーシャも予想していなかった物で、三人とも、トルドが何を言っているのかを理解出来なかった。メルエは当然首を傾げ、自分の宝であった木の棒を見つめる。

 町章という事は、この開拓地の象徴となる物。

 それを只の木の棒に焦点を当てるなど、考える事自体が無理であろう。

 

「町章にするというのは、どうなんだ? カミュ、どうなんだ?」

 

「……俺に聞くな……」

 

 国の宮廷騎士として生きて来たリーシャにとって、国を象徴する物である国章という物は、そこで働き生きる者達にとっての誇りと考えている。故に、町を象徴する証である町章という物も同じと考えていたのだ。

 その大事な象徴を、如何に世界最高の『魔法使い』であるメルエが使っていたとはいえ、今や只の木の棒になってしまった物を宛がうという事には違和感しか覚えないのも当然であろう。

 一度トルドに問いかけた後、同じ問いかけをカミュへとするその姿が、リーシャの混乱具合を如実に表していた。

 

「アンタ方は、必ず『魔王』を倒し、この世界に平和を齎すと信じている。そして、この場所は、そんな世界を救う者達が起こした町となるんだ。そんな『勇者』達と共に歩み、その力となるメルエちゃんが使っていた杖となれば、これ以上の町章はない」

 

 カミュやサラも、トルドの提案が無茶な物であると感じていたのだが、強い意志を持つ目をしたトルドの言葉を聞いて、納得せざるを得なかった。

 カミュ達の目標は、『魔王討伐』である事は、アリアハンを出た時から変わりはない。だが、彼等が『魔王バラモス』を倒す事を期待している人間ではなく、信じている人間がどれだけ居ただろう。

 暗く閉ざされかけた世界の闇を払ってくれると期待し、希望し、それを託した者達は数多くいる。そんな人々の身勝手な願いの為に、カミュという青年は『勇者』に祭り上げられたのだ。

 しかし、そんな期待や希望を掛けていた人々の中で、カミュという個人を信じた者は誰もいない。リーシャやサラでさえ、アリアハンを出た頃であれば、カミュ個人を信じてはいなかった筈だ。

 

 三年という月日が流れる程に長い旅を続け、彼等は信頼を育んで来た。

 今ならば、リーシャやサラは口を揃えて言うだろう。

 『この世界を救う勇者は、カミュしかいない』と。

 そして、同じ事を想う『人』が、この場所にも誕生していたのだ。

 

「…………つえ………すごい…………」

 

「そうだね……メルエちゃんが持っていた杖だ。凄い物でない筈がない。魔道士の杖という物は世界中に多く存在するが、メルエちゃんという魔法使いの為だけに存在した魔道士の杖は、この杖だけだよ」

 

 トルドの言葉に二の句を繋げる事が出来なくなったカミュ達の横から、誇らしげに胸を張ったメルエが口を開く。

 リーシャがメルエに伝えたその言葉は、幼い彼女の中で誇りとなっているのだ。

 自分自身という存在が許される為に必要だと考えていた魔法という神秘は、彼女の中で確固たる重みを得て、それを見守って来た武器は、長きに渡る戦友となっている。

 それをトルドにも理解してもらえた事に、メルエは歓喜し、花咲くような笑みを浮かべた。

 

「明日にでも、あの門の看板に取り付けよう」

 

「…………ん…………」

 

 柔らかくメルエの頭を撫でたトルドも、優しい笑みを浮かべ、この集落の象徴は確定された。

 この先、どのような事があっても、この町章だけは、この集落を見守っていく事だろう。例え、この場に居る者達がどのような事になっても。

 

「それで、メルエちゃん達と合流出来たという事は、オーブは全て集まったのかい?」

 

「いえ、まだ四つです。残りは黄色と銀色の物だというのですが……<シルバーオーブ>は何処にあるのか全く解りませんし、<イエローオーブ>の方は世界中の人々の手を渡っているそうで、こちらも見つけ出すのは難しそうです」

 

 話題を変えたトルドは、以前に聞いたオーブの事をカミュへと問いかけるが、それに答えたのは、メルエの隣に座っていた『賢者』であった。

 ランシールの神殿で聞いた話をするサラの表情は悲痛な物。物事を深く考えるサラだからこそ、残りのオーブの情報が絶望的な物に感じてしまったのだろう。

 残りの色を伝え、その入手方法が全く見当もつかない事を伝えると、それを聞いたトルドは、少し考えに耽って行った。

 

「サラ、何とかなるだろう? 私達の旅は、ずっとそうして来た筈だ。なぁ、カミュ?」

 

「……アンタ程に楽観的な考えをした事はないが、俺達には選択肢など無い事は確かだ。今ある情報を元に、見える道を辿って行くしか方法はない」

 

 悲観的なサラに比べ、カミュの言うように楽観的過ぎる言葉を発するリーシャ。そんな対称的な二人の姿に、トルドは笑みを浮かべる。カミュの鋭い指摘に憤慨するリーシャを見ていたメルエも笑みを溢し、先程まで沈んだ表情を見せていたサラもまた、胸の重みを払い、笑顔を作った。

 

「明日は、少しここを案内するよ。疲れているだろうから、ゆっくりと休んだら良い」

 

 それ以上の話をする必要はなかったのだろう。会話を切り上げたトルドは、何か食料を持って来ようと台所へ行くが、それはリーシャに止められた。

 まだ、陽が完全に落ち切っていない時間である。外の店も数件は開いているだろう。

 未だ未完成な集落である為、店頭の食料もそれ程充実はしていないだろうが、高望みをしなければ、カミュ達が腹を満たす事は十分に可能である。故に、リーシャはサラとメルエを伴って、買い物へと出て行った。

 

 食料を買って戻って来たリーシャであったが、トルドの家にある小さな厨房には、サラもメルエも入れさせなかった事だけは付け加えておこう。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

描きたい事が多すぎて、少し間延びしてしまったかもしれません。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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戦闘⑧【北西海域】

 

 

 

 翌朝、最も早く目を覚ましたのは、メルエだった。

 実際には、この家の主であるトルドが既にいなかったのだから、メルエという訳ではないだろう。

 目を覚ましたメルエは、隣で眠るリーシャの腕の中から這い出て、ベッドから降りる。この家屋は、客間のような物が設けられており、客人の為に二つのベッドが用意されていた。

 その一室にリーシャ達三人が入り、カミュはカザーブの時と同様に広間で眠る事になっていたのだ。

 部屋のドアを台に乗って開けたメルエは、そのままカミュの眠る広間を抜け、外へと出て行く。陽が昇り始めたばかりの集落は薄暗く、それでいて日の出という美しい光が、集落の中央に位置する場所に湧き出る泉を輝かせていた。

 

「…………ほぅ…………」

 

 目の前に広がる神秘的な輝きに、メルエは一つ息を吐き出し、笑みを浮かべる。

朝露が輝く草花は、陽の光と共に目覚め始め、メルエという幼い少女を歓迎しているかのように、美しい音色を奏でていた。

 自身の吐き出す息が白く濁っている事が楽しいのか、メルエは笑みを浮かべながら、手に息を吐き出す。この場所の気温が低いという訳ではないが、朝が早い為に、夜の気温が残っているのだ。

 徐々に明るく照らし出される集落を眺めていたメルエは、昨日と同じ場所で同じ人物を見つけ、楽しげに駆け出した。

 

「メ、メルエちゃん、もう起きたのかい? 早起きだな……アンと一緒だ」

 

「…………アン…………」

 

 近寄って来たメルエに気がついたその男性は、遠い昔に失った最愛の娘の名を呟く。彼の頭の中には、元気に駆け回り、常に笑顔を振り撒く幼い娘の姿が映っていたのだろう。

 アンという少女もまた、好奇心旺盛な子供であった。

 カザーブの村という集落から出る事はなかったが、その村の隅々まで、朝早くから探検していた物だった。

 村で暮らす人々と笑みを交わし、そこで生きる動物達と会話を交わし、土に根付く草花を愛で、草花と共に生きる虫達に挨拶する。それが、彼の娘の日課であったのだ。

 

「アンも早起きでね……朝食に戻らない事は度々あったんだよ」

 

 娘を思い出すように優しく微笑むトルドに対し、メルエもまた微笑みを返す。

 在りし日のアンを思い浮かべたトルドの顔はとても優しく、メルエの心もまた、とても和やかな風が吹いていた。

 トルドから視線を外したメルエは、先程までトルドが見ていた工事現場を見上げ、小さく首を傾げる。一般的な知識の薄いメルエは、出来上がって行く大きな物が何であるのか想像できないのだ。

 

「ここには、劇場を建てようと思っているんだ」

 

「…………!!…………」

 

 小首を傾げるメルエを見たトルドは、先程まで自分が細かな設計部分を考えていた建物について語り始める。しかし、その中の単語を聞いたメルエは、明らかに怯えに近い感情を顔一杯で表現し、眉を下げてしまった。

 トルドはメルエの生い立ちを何一つ知らない。

 彼がメルエと出会った時は、カミュ達三人でさえも、メルエについて何一つ解ってはいなかったからだ。

 あれから時間が経過し、カミュ達の旅も大きく進んで行った。その過程で、メルエの生い立ちも、少しずつそのベールを脱いで行ったのだが、トルドはその一連を何一つ聞こうともしないし、知ろうともしていない。唯、単純に、メルエの生い立ちについての事実の一部が明らかになっている事を知らないだけなのか、敢えてその辺りを追求しないのかは解らないが、トルドはメルエの素性を何も知らないのだ。

 

「メルエちゃんは劇場が嫌いなのかい? 大きくて人の集まる場所には、大きな劇場があるんだよ。ここも、そんな夢と希望に満ちた場所になって欲しいと思ってね」

 

「…………メルエ………きらい…………」

 

 メルエの劇場という物を教えようと口を開いたトルドは何も悪くはないだろう。だが、その相手を間違えてしまったのだ。

 不機嫌そうに『ぷぃっ』と顔を背けてしまったメルエに、トルドは困り果ててしまう。先程まで花咲くような笑みを向けていた筈の少女の機嫌が突如として最悪な方へと振れてしまった事に見当がつかなかった。

 思えば、彼の娘であるアンもそうであった。

 自分が悪いと自覚している時にトルドが怒れば、意気消沈した顔で神妙に話を聞くが、自分に非が無い事等の場合、トルドに背を向け、完全に機嫌を損ねてしまう。そうなってしまうと、もはや妻に頼るしか道はなかった。

 何も口を開こうとしない娘の姿には、怒りよりも哀しみが湧いて来る。現時点のメルエのように、何に対して機嫌を損ねたのか解らない物に対しては、トルドに出来る事など何も無いのだ。

 

「メルエ、勝手に出て行くなとあれ程言っているだろう?」

 

 どうしたら良いか解らずに、おろおろとしていたトルドの元へ救いの手が差し伸べられる。朝陽を背に、こちらへゆっくりと歩いて来たのは、既に身支度を整えた三人だった。

 先頭を、斧を背中に備えた女性戦士が歩き、その後ろからは、サークレットを被った髪の毛が不自然に跳ねた『賢者』が続く。最後に、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来る青年の顔は、若干の疲れを感じさせていた。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

「でも、無事で良かったです」

 

「メルエの身よりも、自分の寝癖を気にした方が良いのではないか?」

 

 リーシャに向かって頭を下げるメルエには、三人が自分を心配していたという事が理解出来たのだろう。神妙に眉を下げて頭を下げる姿に、全員が苦笑を浮かべた。

 安堵の溜息を吐いたサラが、メルエの傍に屈み込み、その身体を抱き締めたのを見て、カミュは大きな溜息を吐き出す。実際、カミュとサラは、リーシャによって文字通り叩き起こされていた。

 起きた時にメルエがいないという事は、既に何度か体験しているリーシャではあるが、家屋の中に居ない事で、それは焦りに変わる。居間で眠っていたカミュを叩き起こし、部屋で眠り扱けるサラの毛布も剥ぎ取った。

 突如として毛布が無くなった事で、サラは驚愕のまま飛び起き、リーシャの剣幕に急かされてトルド宅を飛び出して来たのだ。つまり、彼女は、服こそ旅立ちの支度を整えているが、その他は寝起きのままという事になる。

 

「サラ、女性がそのような姿で人前に出るなと言ってあるだろう」

 

「えぇぇ!? リ、リーシャさんが無理やり急かしたのではないですか!?」

 

 カミュの言葉に乗っかったリーシャに対し、サラは非難の声を上げて髪の毛に手を当てる。癖の少ないサラの髪の毛は、寝ている時の形に固まってしまい、所々が跳ね、所々が窪んでいたりしていた。

 そんな一行のやり取りを黙って見ていたトルドであったが、サラが大慌てて髪の毛を直す姿を見て、我慢していた笑いが込み上げて来る。噴き出した笑いは、簡単には収まる事はなく、暫しの間、誰もいない早朝の集落に笑い声が響き渡っていた。

 

「劇場を建てる計画は、そのまま進めるのか?」

 

「ん? ああ、海賊との交渉などで一向に進んでいなかったが、ようやく落ち着いて取り掛かれるようになったし、何より、この場所に人が増えた。人が集まる所には、娯楽が必要だしな」

 

「…………メルエ………きらい…………」

 

 一通り笑い終えたトルドが落ち着くのを見計らって、順調に土台が出来上がっている劇場予定地を見ていたカミュが口を開く。以前に訪れた時に、カミュはこの場所に何を立てようとしているのかを、トルドから聞いていた。

 その時は、この場所に居る人間は、トルドとあの老人だけであった。

 だが、今は、移住をして来た人間が多数生活をしており、人が生活する以上、様々な店舗が必要となって来る。食料を購入する為の店舗や、衣服を購入する為の店舗、そして、人が多くなれば、トルドの言うように娯楽施設なども必要になって来るだろう。

 

「ここは、アンタが造る町だ……アンタが思うようにすれば良い……」

 

 むくれるように頬を膨らませたメルエをリーシャが宥めている中、カミュはトルドの瞳を真っ直ぐに見つめ、何かを飲み込むように言葉を発した。

 『勇者』と呼ばれる青年は、『商人』ではない。

 だが、そんな彼も、ここまでの旅の中で、様々な集落を見て来た。

 城下町や自治都市、寂れた村や華やかな町。

 数多くの場所を旅し、見て来た彼だからこそ、そんなトルドに思うと事があったのだろう。だが、リーシャやサラには、そんなカミュの様子が不思議な物に映っていた。

 何かを言い淀むようなカミュの姿は、正直珍しかったのだ。

 

「まぁ、次にアンタ方がこの場所を訪れる頃には、名実共に『町』にして見せるさ」

 

「楽しみにしています!」

 

 カミュの様子に気付かないトルドは、どこか誇らしげに宣言する。

 彼がこの場所に根を張って、既に一年以上の月日が流れている。通常、一年やそこらで集落を作り出す事は不可能だろう。だが、彼には培って来た人脈と、何より、彼の目の前に立つ四人の『勇者』達が付いている。遠く離れて旅する四人の噂は、彼の耳に入って来る事もあり、そんな勇者達の行動が、彼の目指す『町』へ結びつく事もあった。

 だが、そんな結びつきも一つの要因にしか過ぎず、ここまでの土台を築いて来たのは、トルドという商人なのだろう。

 

「もう出発するのか? それなら、町章を門の看板に取り付けるのを見届けて行ってくれよ」

 

 笑みを絶やさないトルドは、昨夜メルエから預かった<魔道士の杖>の残骸を取りに家へと戻って行く。

 昨夜の町章に関する話が、本気であった事に若干の驚きを表したカミュ達であったが、戻って来たトルドの手にしっかりと木の棒が握られており、それを打ち付ける為の釘や添木、更には金属で出来た紐のような物まで手にしているのを見て、何処か諦めにも近い苦笑を浮かべた。

 

 五人が集落の門へ向かう頃には、太陽も完全に大地から顔を出し、住民達も少しずつ家屋から顔を出し始める。この場所の発起人であるトルドが、何やら腕に抱え、笑顔で門に向かう事を不思議に思った住民達は、カミュ達の後ろをついて歩き出し、門を見上げる場所に辿り着いた時には、住民の殆どが門の周りに集結していた。

 高い梯子を看板に向かって立て掛けたトルドは、カミュ達の事は暈しながらも、住民達に町章の事を語り、添え木に木の棒を打ち付けて行く。

 奇妙な曲線を描く<魔道士の杖>であった棒は、三か所に釘を打たれ、その周囲を金属の紐で結び付けられた。頑丈に付けられた木の棒は、在りし日の<魔道士の杖>としての姿を彷彿とさせる。

 

「えっ!? あ、あれ? メルエ、見て下さい」

 

「…………赤い……いし…………」

 

 梯子を上り、添え木を看板に打ち付けたトルドは、懐から取り出した物を町章となる木の棒の先端部分に嵌め込んだ。

 元々、宝玉が嵌め込まれていた場所は、砕け散った石が無くなった事によって空になっていたが、嵌め込む事の出来る構造は健在である。多少ずれる事はあっても、再度嵌め込まれた石は、落ちる事はないだろう。

 <魔道士の杖>として販売されている物に嵌め込まれているような特別な力を宿した宝玉ではない筈。その証拠に、以前に嵌め込まれていた石よりも色に深みが無い。だが、遠目から見れば、在りし日の姿そのままであり、メルエはその瞳を潤ませた。

 

「メルエちゃんに貰った青い石を嵌め込もうとも思ったんだが、あれは少し小さかったし、何より俺の宝物だからな」

 

「…………ん…………」

 

 傍に寄って来たトルドに、看板を見上げていたメルエは笑顔で頷いた。

 トルドが貰ったというのは、『命の石』の欠片であろう。己が大事に思っている相手に対して、メルエが手渡す物ではあるのだが、カミュの命を護る為に砕け散った欠片は、掌で包み隠せる程に小さな欠片である。杖の先端に嵌め込むには小さ過ぎるという物だ。

 それに、最愛の娘の唯一の友であるメルエから貰った大事な宝物は、例え彼が命を懸けて作る町の町章とはいえ、嵌め込む事は出来なかったのだろう。それは、最愛の娘に貰い、既に枯れ果てた花冠と同様に、彼の部屋の引き出しの中に大事に仕舞われる事になる筈だ。

 

「では、私達は行く事にしよう」

 

「ああ」

 

 トルドが、メルエの<とんがり帽子>に着けられた花冠をそっと撫でるのを見たリーシャは、出立をカミュへ進言する。その提案を受け入れたカミュは、そのまま一度トルドに目配せをし、集落の外へと出て行った。

 小さく手を振るメルエの反対側の手を握ったサラが、トルドに頭を下げてカミュの後を続き、リーシャは笑顔でトルドに別れを告げ、最後に歩き出した。

 看板に杖が掲げられている間に、準備を済ませて集合し終えていた船員達もカミュ達に続いて集落を出て行く。

 残されたトルドは、カミュ達の姿が森の方へと消え、見えなくなるまで手を振り続けていた。

 

 

 

「あの分では、次に訪れる時には、人で溢れ返っているかもしれないな」

 

「そうですね。劇場まで建てられたら、賑やかな町になるでしょうね」

 

「…………メルエ………きらい…………」

 

 集落を離れ、森の中へと足を踏み入れた頃に、リーシャが一度振り向いて、言葉を洩らす。その言葉に同意するようにサラが予想を口にし、メルエが眉を顰めた。

 それは、このパーティー内で頻繁に行われる会話の一つであり、そこに特別な何かが存在する事はない。だが、唯一人、何も語らず、黙々と歩く者がいた。

 それ自体は、いつもの事であり、先頭を歩く青年を交える事無く、女性三人で会話をする事は珍しい事ではないのだが、劇場工事現場に居た時のカミュの表情を見ていたリーシャは、その姿に引っ掛かりを覚える。

 

「カミュ、何か思う事でもあるのか?」

 

 そんなリーシャのある種の勘が言葉を紡がせた。

 驚いたのはカミュだろう。静かに振り向いたカミュの表情は、予期せぬ問いかけだった事を示しており、その顔を見たサラもまた、足を止めてしまう。

 森の中に入ったとはいえ、早朝であった為、商人などの通りは全くない。

 陽の光もまだそれ程ない森の中は、若干の薄暗さを保ち、気温も高くなってはいない。振り向いたカミュが口を開くまでの間、誰一人動く事無く、森の木々が騒ぐ音だけが聞こえていた。

 

「正直、今の段階で劇場が必要なのかどうかが、俺には解らない。トルドは何か焦り過ぎているのではないかと思っただけだ」

 

「トルドが焦っている?」

 

 ゆっくりと時間を掛けて口を開いたカミュの言葉は、リーシャやサラにとって予想外の物だった。

 町造りにトルドが必死になっている事は知っている。その証拠を今ままで見て来たのだから、その懸命さに疑う余地はないだろう。

 だが、カミュはそこに懸命さではなく、焦りを感じているというのだ。

 確かに、一年程で町の形態を作り始めている場所というのは異例だろう。ましてや、『魔王バラモス』という存在の台頭によって、世界各地の魔物達の凶暴化が進むこの時代である。

 それに、トルドの商人としての器量や才能が寄与している事は否定できないが、それを加味しても尚、その進行速度は異常なのだ。

 

「風が湿って来たな……二、三日で雨になるぞ」

 

「……急いだ方が良さそうだな……」

 

 カミュの発言に訝しげな表情を浮かべていたリーシャとサラであったが、その思考は、後ろからついて来ていた船員の一人によって遮断される。その船員は、頭目と同様に長い航海歴を持っている者。ポルトガ国出身の海の男であり、頭目の次の年長者であった。

 空を見上げたその船員は、吹き抜ける風に湿りを感じ、長い経験から、その後に雨が来る事を告げていた。

 カミュ達も空を見上げてみるが、いつもとの違いが解らない。雲は多くもなく、少なくもない。雲の流れが多少早いぐらいにしか感じる事が出来なかった。

 それでも、この船員達と共に数々の試練を潜り抜けて来たカミュは、その船員の言葉を信じ、船への道を急ぐ事を告げる。リーシャやサラもその想いは同様であり、先程までの思考を中断し、歩む足を速めた。

 船に早めに戻る事が出来れば、一度ポルトガへ戻り、船を休めて雨風が収まるのを待つという選択肢が残される。それが最も安全な物であると考えているカミュは、メルエを背負う事にして、先頭を早足で歩き始め、他の者達も遅れないようにと懸命に歩き出した。

 

 

 

「おお、お帰り……風が湿って来た。海が荒れる可能性がある」

 

「……先程聞かされた……ポルトガへ戻るか?」

 

 休憩を碌に挟まずに歩き続けたカミュ達は、太陽が大地へと沈み、周囲を完全に闇が支配した頃に船へと辿り着く。

 カミュの顔を見た頭目は、開口一番に、先程の船員と同様の事を口にする。

 確かに、集落を出た頃よりも風は強まっており、船を浮かべる海原の波は高くなっていた。

 大きく揺れ始めた船上に入ったサラは、久しく感じていなかった、胃の中が揺れ動く感覚に顔を顰め、それを見上げていたメルエが、心配そうに眉を下げる。

 

「いや、今からポルトガへ戻っても遅いかもしれないな……航路の途中で雨が降り出すだろう」

 

「この船着き場でやり過ごすか?」

 

 カミュの言葉に静かに首を振った頭目の視線は、星の輝きが見えなくなって来た夜空。徐々に空を覆って行く雲は、星ばかりか、月さえも隠してしまっていた。

 ポルトガまでは、ここから三日近く掛かる。その間に雨が降り出すと考えた頭目は、他の方法を思案しているのだろう。しかし、その考えは、カミュが考えている物とは大きく異なっていた。

 

「いや、その必要もないだろう。多少の風や雨はあるだろうが、ここまでの航路で何度も経験して来た程度の物だ。嵐という程の物ではない」

 

「出港するのか!?」

 

 空を見上げながら腕を組んでいる頭目の言葉に驚きを現したのはリーシャだった。

 カミュとの話を聞いていたリーシャは、何処かに停泊し、二日程の時間をやり過ごすと考えていたのだろう。強行的に出港すると考えていなかったサラもまた、リーシャと同様に驚きの顔を浮かべる。

 だが、カミュは頭目と目を合わせて、小さく頷きを返した。

 目的地以外の決定権は、カミュではなくこの頭目にある。頭目が出港できると言えば、例えカミュ達に疑問があったとしても、それが正当な道であるのだ。

 それだけの信頼関係をカミュと頭目は築いて来た。

 

「カミュ、行くのか?」

 

「サマンオサへ向かいたい。もう一度、この大陸沿いに北へ向かってくれ」

 

「サマンオサか……あの国は、高い山脈の内にある。船では行けないぞ?」

 

 その信頼関係は、リーシャ達三人が不在であった二か月の間で築いている。彼女達が不在の際、この船の行く先を決めて来たのはカミュであるが、その経路や日時を決めて来たのは頭目なのだ。

 船の事、海の事を知らないカミュは、頭目の指示に従い、焦る心を抑えて海を渡って来た。

 魔物との戦闘だけではなく、雨風に荒れる海原をも、船員達と力を合わせて乗り越えて来た経験が、リーシャ達よりもあるのだ。

 故に、カミュは頷く。

 頭目という立場に立っている彼が、自分達に危害が及ぶ決定をする筈がないという事を信じて。

 

「船を下りて歩いても駄目なのですか?」

 

「あの山脈は越えられないだろうな。あの国が国交を閉ざす前は、『旅の扉』で移動していたらしい」

 

「旅の扉でか?」

 

 船は出港する事に決定した。

 ならば、次は目的地。

 しかし、その目的地へも船では行けないという情報が入り、サラはそれを確認する為に口を開く。そのサラの疑問へも、即座に回答が返って来た。

 リーシャは不思議そうに首を傾げているが、サラはその言葉で全て思い出す。何故、カミュがこの場所から北へと向かおうとしているのかを思い出したサラは、北の地にあるグリンラッドと呼ばれる永久凍土で暮らす老人との会話をも思い出したのだ。

 

「出港だ!」

 

 サラの表情を見た頭目が、船員達に指示を飛ばす。船上で出港の準備を整えていた船員達は、その指示に大きく声を上げ、それぞれの持ち場へと散って行った。

 ゆっくりと船着き場を離れる船は、雲行きの怪しくなった海へと漕ぎ出し、この空と共に暗雲立ち込める場所へ向かって進んで行った。

 

 

 

 船が開拓地のある大陸を離れて二日目には、大粒の雨が空から降り始める。風も時間と共に強くなって行き、それに伴って波も高くなって行った。

 海上を飛ぶ海鳥の姿もなくなり、陽の光も弱まった頃、大きく船体を揺らしながら進む船上に戦慄が走る。

 荒れる海原は、黒く濁ったように海中を覆い隠しており、海の中で蠢く影に気付く者は誰もいなかった。

 それは誰の声だっただろうか。不意に上げられた声は、大きく震えながらも、その存在を皆に伝えようとする必死さが伝わって来る物だった。

 

「イ、イカだ!」

 

 この海で『イカ』と言えば、数多くの船を海の藻屑と変えて行った<大王イカ>しかいない。この船に乗る誰しもがそう思った。

 そして、その解釈は、船員達に何処か安堵の心情を生み出して行く。この船は、通常の商船等とは異なる。更に言えば、数日前まで停泊していた開拓地へ向かう為の護衛団が率いる船とも異なっていた。

 この船に乗る者は、世界を救う為に旅立つ『勇者』。

 そして、その『勇者』を支える仲間達。

 数々の船を沈め、海の者であれば誰しもが恐れる<大王イカ>も、彼等の前では、二度も海に沈められている。しかも、それは『勇者』が唱える、たった一撃での事だ。

 

『恐るるに足りず』

 

 この船に乗る半数以上の船員達は、そう考えただろう。

 事実、船の前方に出現した巨大なイカを見たカミュは、一度空を見上げ、一人船首に向かって歩き出していた。

 空に雷雲があるのであれば、<大王イカ>など、物の数ではない。

 粘着性の強いその足がマストへと伸ばされた時、その一撃が振り下ろされた。

 

「ライデイン」

 

 力が込められた詠唱ではない。

 逆に肩の力を抜いているような、ごく自然な詠唱。

 当たり前のように、空に広がる黒雲の中で光り始めた雷は、振り下ろされた指先に居るイカに向かって、その怒りを落として行った。

 眩いばかりの光と、劈くような音を発して走った雷光は、正確にイカの身体を貫き、その身体の内部を焦がして行く。イカを焼いたような焦げた臭いを発した身体を見た誰もが、自分達の勝利を確信していた。

 

「なっ!?」

 

「うわぁぁぁ!」

 

 しかし、それは彼等の慢心であった。

 この海に生きる巨大なイカは、<大王イカ>であるという先入観。それが、彼等の判断力を狂わせてしまったのだ。

 <大王イカ>と直面した者達が一人残らず死んでいる訳ではない。それは、<大王イカ>という存在を、『人』という種族が知っている事が明確に証明している。生き残った者がその存在を他者に伝え、それを聞いた者が、更に誰かに伝えて行った。

 故に、その恐ろしさと共に、その存在も海を渡る者達の間で周知の事実となっているのだ。

 

<テンタクルス>

今では、誰が名付けたのかさえ解りはしない。その名となる言葉の意味は、この世界のある地方では、『触手』や『触腕』という物であるという説もあるが、それら全ては確証の無い物である。誰もその姿を見た者はおらず、万が一見た者は、全て海の底へと散って行く為、話題に上る事さえもない。<大王イカ>にやられたのだと思う他、考える余地はないのだ。

その身体能力、強靭さは、<大王イカ>を遙かに凌ぎ、正にこの海原の支配者という名に相応しい。伸ばされた触腕は、正確に船上の者達を掴み、船全てを沈めるのではなく、その人間を全て喰らい、証拠隠滅を図るように、船も沈めて行く。故に、誰一人として、生き残りはいないのだ。

 

「うわぁぁぁ! 助けてくれぇ!」

 

 一人の船員が、焦げ臭さの残る触腕に身体を巻かれ、上空へと掴み上げられる。今までの戦闘で、泣き事や弱音を吐いた事のない船員達の心を、『勇者』の放った最強の一撃を受けて尚、自由に動き続ける魔物が、恐怖で支配し始めていた。

 次々と触腕を伸ばし、数人の船員が掴み上げられる。そのまま、海中にある口へと運ぼうとする<テンタクルス>を許す程、この船に乗る世界の希望は甘くはない。

 

「バギマ!」

 

 上空に向けて手を翳し、唱えられた声は、この世界の『人』を救う『賢者』の物。

 翳した手の周囲の風は一気にその勢力を広げ、吹き荒れる上空の風も味方につけて真空へと変化する。真空となった風の刃は、船員を海中へと引き摺り込もうとする触腕を切り裂いて行った。

 切り裂かれた触腕に掴まれていた船員が上空から落下し、それを慌てて船員達が受け止め、後方へと下がって行く。追おうとする触腕をリーシャの斧が切り落とし、他の船員を抱える触腕をも斬り飛ばした。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 落下してくる船員を片腕で受け止めたリーシャを見たサラは、後方で背丈よりも高い杖を掲げる『魔法使い』へと指示を飛ばす。

 神妙な表情で頷いたメルエは、高々と掲げた<雷の杖>を<テンタクルス>の顔面に向けて詠唱を行う。メルエの言霊と魔力を受け取った杖は、その先端に彫られたオブジェへと伝え、それに応えたオブジェが幼い『魔法使い』の力を具現化して行った。

 制御された魔法力は、その密度を高め、灼熱の火球となって<テンタクルス>へ向かって吐き出される。巨体を持つ大イカの顔面へ直撃した火球は、その目を焼き、その身体を溶かして行った。

 

「カミュ!」

 

「わかっている!」

 

 怯んだ<テンタクルス>を見たリーシャが、カミュへ声を飛ばし、それを受け取った青年は、最後の船員に巻き付いている触腕を斬り飛ばす。触腕と共に落下して来た船員は、残った船員達で受け止め、再び後方へと引き摺られて行った。

 目を焼かれて暴れ狂う<テンタクルス>が伸ばした触腕は、メルエが放った<イオ>によって弾き飛ばされる。大きな爆発音と共に吹き飛ばされた触腕が甲板の上に粉々になって落ちて来た。

 とても凄惨な光景ではあるが、これが魔物との本来の戦闘なのだ。

 この船が海へ出てから、ここまでの苦戦を強いられた事は皆無に等しい。一番の脅威であった<大王イカ>でさえ、カミュが放つ一撃によって葬り去られた。

 圧倒的な力を持つ『魔物』という存在を、この船の船員達は忘れていたのかもしれない。あれ程の攻撃を受けて尚、暴れ続ける生命力を前にして、船員達は身動き一つ出来なくなっていた。

 

「早く下がれ!」

 

「リーシャさん、危ない!」

 

 魔物とカミュ達の間には、何人かの船員が退避出来ずに留まっている。

 いや、留まっているのではなく、腰を抜かして動けないのだ。

 それを理解したリーシャが、その船員達の腕を掴み、強引に後方へと引き摺るのだが、腰が抜けてしまった者達は容易に動く事が出来ない。

 その時、斧を一度背中に戻し、両腕で船員を抱え上げようとしたリーシャに、暴れ狂う<テンタクルス>の触腕が襲いかかった。

 

「ぐっ!」

 

 横殴りに飛び込んで来た触腕は、リーシャの腹部を薙ぎ払い、その体躯を吹き飛ばす。苦悶の言葉と同時に、赤く濁った唾を吐き出しながら、リーシャは船の側面の壁に直撃した。

 凄まじい力で吹き飛ばされたリーシャは、木造の船の側面を突き破り、荒れ狂う海へと吸い込まれて行く。

 

「リーシャさん!」

 

 雨と風で荒れる海へ落ちてしまえば、それを見つけ出す事は不可能に近い。ましてや、重い鎧を纏ったリーシャは、泳ぐ事も出来ずに、海の底へと消えて行ってしまうだろう。

 叫び声を上げる事しか出来ないサラは、砕け散る木片とそれを突き破って行くリーシャの姿が、コマ送りのようにゆっくりと見えていた。

 それを受け入れられないサラの心を受け取った時間が、急に停止するかのように緩やかに流れる。

 

「戦闘中に気を抜くな……」

 

「……カミュ……」

 

 そして、そんなサラの願いを聞き届けてくれたのは、時間でも神でもなく、彼女達が信じる『勇者』であった。

 海へと吸い込まれるリーシャの腕をしっかりと握りしめた青年は、残る船の側面に足を掛け、その身体を甲板へと引き上げる。

 リーシャ自身、己の最後を覚悟していたのかもしれない。引き上げたカミュの嫌味のような一言に何も返す事が出来ず、ただ呆然と、青年の顔を見上げていた。

 しかし、そんな二人のやり取りもまた、戦闘中に行ってはいけない行為である。暴れ狂う<テンタクルス>は、再び海へと叩き落とすかのように、その触腕を振り抜いていたのだ。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………イオ…………」

 

 サラの指示を受けたメルエが、再びその杖を振るう。

 カミュ達へ向かって振り抜かれた触腕は、圧縮された空気の解放と共にその存在を消し飛ばされた。

 爆風で吹き飛ばされないように身を丸くしていたカミュとリーシャは、落ちて来る触腕の残骸を身体に受けながらも、ゆっくりと立ち上がる。

 既に触腕の半数は失われているにも拘らず、命の灯火を絶やす事無く暴れ続ける<テンタクルス>の姿は、立ち上がった二人から見ても圧巻の物であったろう。それは、幼い『魔法使い』も同様であり、自身の呪文を何度も受けても生きていた物は、ジパングで遭遇した龍種以外に見た事がなかった。

 

「カミュ、どうする……このままではまずいぞ」

 

「もう一度、ライデインを唱えてみる」

 

 立ち上がり、傍で腰を抜かしている船員達を後方へ引き摺り終えたリーシャは、カミュに向かって対策を問いかけるが、それに対する答えも不確かな物であり、彼女は眉を顰める。

 カミュの放つ電撃呪文は、この世で唯一、彼だけが行使出来る呪文ではある。だが、その呪文は、先程唱えており、この巨大なイカの化け物には通じなかった。

 いや、魔物の身体も焦げているのだから、全く効果がなかった訳ではないだろう。しかし、その攻撃によって命を奪い尽くせるかどうかとなれば、その確実性は不明なのだ。故に、リーシャは眉を顰めた。

 そんな二人のやり取りは、傍に立っていた、このパーティーの頭脳によって遮られる事となる。

 

「……私に任せてもらえますか……」

 

「……サラ……?」

 

 カミュを遮るように一歩前に出たサラは、暴れ狂う<テンタクルス>の触腕を避け、もう一歩前へと踏み出した。

 カミュの唱える電撃呪文でさえも一撃で倒しきれない物にも拘わらず、補助魔法を得意とするサラが一人で前へ出た事に、リーシャだけでなく、カミュさえも目を見開いてしまう。

 基本的に、サラが唱える事の出来る攻撃呪文は、メルエが既に唱える事の出来る物ばかりである。それは『賢者』となった彼女と共に、『悟りの書』に記載している呪文の契約をメルエも行っているからに他ならない。

 そうであるならば、サラだけが唱える事の出来る攻撃呪文は、先程行使した<バギマ>と呼ばれる真空上位呪文だけとなるのだが、その効果は先程も見たとおり、触腕を斬り刻む程度の物。とても巨大なイカの命を奪う事が出来る物ではなかった。

 時間がかかる程、この船と船員への被害が大きくなるだけに、サラのその行動を止めようとリーシャが動いた時、前へ出たまま伏せていた、サラの顔が上がる。

 真っ直ぐ<テンタクルス>を射抜いたその瞳を、横から見たリーシャは、何故か身体を硬直させてしまった。

 

「……許して下さい……ですが、このまま船を破壊される訳にも、仲間の命を奪われる訳にも行きません」

 

「サラ?」

 

 小さな洩らされた呟きは、リーシャの耳には届かない。

 増して行く雨と風に搔き消されたサラの呟きは霧散し、誰の耳にも入らぬまま、その存在を消して行った。

 その瞬間、暴れ狂っていた<テンタクルス>が触腕を振り上げ、サラを潰そうとそれを振り下ろす。それを見た誰かの悲鳴が上がり、誰かがサラの名を叫んだ。

 荒れ狂う風の音も、降りしきる雨の音も、ざわめく波の音も、叫ぶ人の声も、全ての音が船上から消え失せる。

 

「ザキ」

 

 音を失った甲板の上で、真っ直ぐに手を伸ばしたサラの口が開いた。

 傍に寄ったリーシャの耳にも、カミュの耳にもその詠唱は聞こえない。

 ただ、サラの口が、たった一つの単語を紡ぎ出すように動いていた。

 

 それは、この甲板の上に居る誰にも届かない言葉。

 それは、詠唱者が向けた対象にしか届かない言霊。

 その命が消え去る事を願う『死』の言葉。

 

 

<ザキ>

対象となる物の命を根こそぎ奪い尽くす『死』の呪文。複数を対象とする<ザラキ>と共に、『経典』という教会が所持する書物に記された最終奥義と言っても過言ではない呪文である。実際に契約の出来る者は、ここ数十年間誰一人としておらず、『死』と『生』を見つめ続けて来た高位の僧侶だけが契約出来る呪文とされて来た。複数対象の<ザラキ>とは異なり、唯一の死を願うこの呪文は、その効力の強力性を高める。この『死』の呪文を受けた者の魂は、天に還る事を許されず、永遠にこの世を彷徨い続けるか、闇に引き摺り込まれるかの何れかであると伝えられていた。

 

 

「カミュ……」

 

「……」

 

 今まであれ程に暴れ続けていた<テンタクルス>の身体の動きが完全に止まる。振り上げられていた触腕が、支えを失ったように、海へと落ちて行った。

 怪しく光っていた瞳は消え失せ、生気を失った目は、静かに閉じられる。そのまま<テンタクルス>が、身体ごと海の中へと静かに消えて行くのを、甲板に居る全員が言葉もなく見守っていた。

 唯一人、沈み行く<テンタクルス>の身体を見ないように顔を伏せ、肩を震わせている人物がそこには居たのだ。

 

「サラ……今のは……」

 

「あれが、『死の呪文』の本当の威力なのか?」

 

「!!」

 

 肩を震わせて立ち尽くす『賢者』に近づいたリーシャは、その肩に手を乗せて声を掛ける。

 リーシャの手を受けても、身動き一つしなかったサラだったが、傍に居たカミュが問いかけた疑問に、弾かれたように顔を上げた。

 その表情を見た瞬間、リーシャだけではなく、カミュでさえも、己の失言に気付いてしまう。今にも泣き出しそうな、全てを後悔するような顔をしたサラは、何かを言おうと口を開き、それでも言葉にならずに、再び顔を伏せてしまったのだ。

 沈黙が続く中、何がどうしたのか解らないメルエが、カミュのマントを握り、小首を傾げていた。

 

「お前達、魔物の脅威は去った! 荒れた海を乗り切るぞ!」

 

 サラの様子が変である事に気付いた船員達の意識を逸らすように、頭目の指示が鳴り響く。雨と風が支配する海は、嵐という程ではないが、船員達の働きがなければ、舵を失い、何処かへ流れ着くか、何処かに座礁してしまうだろう。

 一斉に動き出した船員達は、腰の抜けた者達以外は持ち場に戻り、慌ただしくも迅速に作業を始める。

 船が通常の状態へと戻っても、サラの周囲に居る三人は動こうとはしなかった。いや、正確には、動く事が出来なかったのかもしれない。

 

「サラ……うまくは言えないが……」

 

「申し訳ありません……少し一人にさせて下さい」

 

 意を決して声を掛けたリーシャの言葉は、顔を伏せたままのサラによって遮られた。

 肩に乗ったリーシャの手を静かに払い、サラは船室に向かって歩き始める。その行動を止める事が出来る者など、誰一人としていなかった。彼女が何を悩み、何に苦しんでいるのかを知る者達は、彼女の歩みを止める事など出来よう筈がない。

 メルエだけが理解出来ず、首を頻りに傾げた後、心配そうにサラの背中を見つめ、眉を下げていた。

 

 初めて遭遇した強靭な魔物の脅威は去った。

 しかし、その討伐には、新たな苦悩が生まれてしまう。

 全ての種族の幸せを願い、全ての種族の天寿を願う者の手によって葬り去られた魔物の命は、葬り去った者の心に新たな刺を埋め込んだ。

 アリアハンを出たばかりの頃なら思い悩む事のなかった事で、今の彼女は声さえも出せない程に思い悩む。それは、彼女の成長なのか、それとも停滞なのかは解らない。

 だが、彼女は、悩み、迷い、苦しみ、泣いた先で、再び前を向いて歩き始める事だろう。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

「またか!?」と思われる方もいるかもしれません。
ただ、この辺りは外せない物だと思いましたので…

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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~幕間~【北西大陸近辺海域】

 

 

 

 二日程で船は雨雲を抜け、穏やかになった波に乗り、北へと向かっていた。

 海鳥達の鳴き声や、輝く陽光の下で、同じように目を輝かせたメルエが木箱に乗って海を眺めている。穏やかに揺れる船が波を割って進む姿は、何時までもメルエにとっては楽しい事なのだろう。

 メルエの傍にはリーシャが立ち、同じように移り行く景色を眺め、その後方では、頭目と共に地図を見ながら、カミュが方角を確認している。

 だが、その場に居る筈の者がいない。

 

「…………サラ…………」

 

「ん? そうだな、少し具合が悪いのだろうな?」

 

 先程まで輝く瞳で海を見ていた筈のメルエが、思い出したかのようにリーシャへ振り返る。心配そうに眉を下げ、窺うように自分を見上げるその瞳に、リーシャは答えに詰まってしまった。

 救いを求めるように彷徨わせた視線の先には、頭目との話を終えたカミュがおり、リーシャはその青年の名を高らかに叫ぶ。名前を呼ばれたカミュは、不審な表情を浮かべながらも、リーシャとメルエの許へと近付いて行った。

 

「…………サラ…………」

 

「こんな感じでメルエが心配してしまっていてな……」

 

 近づいて来たカミュを見上げて眉を下げるメルエは、小さくサラの名を口にする。先程までの輝く瞳は海の藻屑と消え、何かを不安がるように肩を落とすメルエに、カミュは大きな溜息を吐き出した。

 リーシャにしても、それをこの青年に言う事は間違いである事を理解しているのだろう。だが、サラのここまでの道程を知っているだけに、あの生真面目な『賢者』に掛ける言葉が見つからなかったのだ。

 

「……正直に言えば、俺には、アレが何に対して抵抗を感じているのかが解らない。俺達は、旅の途中で数え切れない程の魔物達の命を奪って来た筈だ。その方法が、剣や斧であるか、攻撃呪文であるか、精神呪文であるかの違いだけにしか感じない」

 

「……確かに、私達は数多くの魔物達の命を奪って来たな……それは、カミュや私の振るう武器だけではなく、メルエや、そしてサラの放つ呪文によっても……」

 

 懇願するようなリーシャの視線を受けたカミュは、静かに口を開く。その言葉は、相手を突き放すような物ではなく、心の底から理解出来ないという事を示す物だった。

 故に、リーシャもカミュを責めるような発言をする事無く、その事実を事実として受け止め、己の行って来た事を省みる。その行為自体が、アリアハンを出立した頃とは比べ物にならない物なのだが、それでも悩む彼女自身が変化した証拠なのだろう。

 

「確かに、あの『死の呪文』の効力は凄まじい。あの時は、その威力に声を失った。だが、あれがなければ、待っていたのは俺達の『死』だ」

 

「そうだな……おそらく、サラは己の力を恐れているのだろう。この世の全ての生物へ『死』という物を否応無く与える事の出来る、その力を……」

 

「…………サラ…………」

 

 リーシャの言葉が、サラの持つ巨大な力を明確に表していた。

 カミュやリーシャという人間は、確かに世界最高峰に立つ強さを持っている。数多くの魔物を打ち倒す事の出来るその力は、多くの生物の命を奪う事の出来る力でもある。それは、メルエも同様であり、その内に宿す強大な魔法力からなる神秘によって、数多くの魔物を葬って来た。

 メルエの場合、その善悪を理解しているという事自体が怪しくはあるが、自分に敵意を持って挑んで来た者や、自分の大事な者を傷つけた者に対してしかその神秘を行使する事もなく、あのランシールでの一件からは、その力の制御さえも学んでいる。

 

「今、あの『賢者』に声を掛ける事が出来るのは、俺でもアンタでもなく、メルエだけなのかもしれないな」

 

「…………メルエ…………?」

 

 視線を動かしたカミュが見るのは、自分を見上げていた少女。

 可愛らしく小首を傾げる少女は、何故、自分の名前が出て来たのかが理解出来ずに、不思議そうにカミュを見つめる。今のサラが、何故か元気のない事を知ってはいるが、その理由をメルエは理解出来ていない。だが、彼女が最も頼みにする青年は、そんなサラを元気付ける事が出来るのは、メルエしかいないと思っているのだ。

 カミュの言葉を聞いていたリーシャは、一瞬、メルエと同様に首を傾げたが、その真意を理解し、納得したように一つ頷く。

 

「そうだな……己の力の強大さをサラから学んだメルエだからこそ、今のサラを救ってやれるのかもしれないな」

 

「…………???…………」

 

 柔らかな笑みを浮かべ、目線を合わせて来たリーシャの言葉も、メルエは理解する事が出来なかった。

 全てを理解出来ず、首を頻りに傾げるメルエの姿がとても可愛らしい。リーシャとカミュがその姿に小さく微笑み、もう一度メルエと目線を合わせて口を開く。

 吹き抜ける潮風は、徐々に冷たさを増し、海鳥の数も少なくなっていた。靡く自分の髪の毛をそのままに、メルエは自分に向けられる二人の瞳を真っ直ぐに見つめ、その言葉を聞き入れる。

 

「メルエ、サラを元気付けてやってくれ。ランシールで、メルエがサラに教えて貰った事を、今度はあの生真面目な『賢者』に教えてやってくれ」

 

「頼んだぞ、メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 両肩に乗ったリーシャの手はとても暖かい。それは、まるで自分の『想い』をもメルエへと託しているかのように、幼い心へと沁み渡って行く。その隣で、小さな微笑みを浮かべながら言葉を掛ける青年の言葉は、この旅の中でも聞いた事のない程の優しさに満ちていた。

 大事な役割を託された事を理解したのだろう。メルエは、大きく頷きを返し、先程まで下げられていた眉をしっかりと上げる。

 木箱から飛び降り、真っ直ぐに船室へと歩むメルエの背中に迷いはない。微笑ましい物でも見るかのようにその背中を見守る二人の視線が、幼い少女の背中を強く押していた。

 

 

 

「はい?」

 

 突如として叩かれた自室の扉の音に、サラは一瞬身体を跳ねらせた。

 彼女が、<テンタクルス>と呼ばれる強靭な魔物に対して、『死の呪文』という最終手段を行使してから、既に三日近くが経過している。その間、彼女は生理的な所用以外では、この部屋を一歩も出る事がなかった。

 心配したリーシャがこの部屋を訪ねて来たのも、既に二日程前が最後になる。その後は、軽い食事等を持って来る事はあっても、扉を開けないサラに溜息を吐き出し、扉の前に食事を置くだけであった。

 自身を心配してくれているリーシャの作った料理に手を付けないという行為が、あの優しい女性戦士の心をどれ程に苦しめるかという事を理解していて尚、サラは食事を口にする気にはなれなかった。

 

「…………メルエ…………」

 

「えっ!? す、少し待っていて下さい」

 

 人の気配も感じず、足音さえも聞こえずに、突如として叩かれたドアに驚いたサラは、無意識に返事をしてしまっていたのだ。ここ二日間は、声を出す気にもなれず、リーシャの問いかけにも答える事もしていない。それ程に、彼女の心は何かに蝕まれ、崩壊の一途を辿っていた。

 そんなサラであったが、ドアの向こうでノックをした者が、予想もしていなかった人物である事で、逆に我に返ってしまう。今まで、その少女の笑顔で救われて来た事は何度もある。だが、この少女が自ら人の心へ赴く事は今まで一度もなかったのだ。

 それは、冷たいとか無関心という物ではなく、理解出来ない事に対して、自分が何も出来ない事を、この聡い少女は理解しているからに他ならない。もしかすると、誰かの不安や恐怖を拭える程、相手の心を理解出来ない自分に彼女はもどかしさを感じていたのかもしれない。それでも、このように単独で訪れる事は珍しいを通り越して、奇跡に近い行為でもあった。

 

「メルエ、どうしたのですか?」

 

「…………サラ………メルエと………おはなし……する…………」

 

 扉を開けた先には、ドアノブにも届かない背丈の少女が、サラの顔を見上げて立っている。常に持っている<雷の杖>は、今はその手にない。甲板で海を眺めている時は、戦闘を考えて、甲板の所定の場所に立てかけているのだが、その杖を持って来なかった事で、船上で戦闘が始まった訳ではない事を示していた。

 サラの問いかけに対するメルエの答えが、全てを物語っている。リーシャでも話す事が出来ない相手となってしまったサラの様子を見に来ただけではなく、それを相手に話をしに来たというメルエの瞳は、まるで戦闘を開始する時のように、真剣な色を宿していたのだ。

 

「お話ですか? でも、今は……」

 

「…………だめ………おはなし……する…………」

 

 今の自分では、メルエとまともな話が出来ないと考えていた。それは、気分の問題なのだが、正直に言えば、『メルエと話している余裕はない』と考えていた事は事実である。要は、メルエという純粋な瞳と心を持つ者と相対したくはなかったのだ。

 だが、そんなサラの我儘は、幼い少女によって斬り捨てられた。

 真っ直ぐに射抜くような瞳を向けたメルエは、首を横へ振り、頑としてサラの言葉を受け付けない。そればかりか、何も言わずに、そのままサラの部屋へと入って来てしまった。

 男性であるカミュの部屋に勝手に入ってはいけないという事をサラに教わっていたメルエであるが、ここはサラという女性の部屋であり、時々は自身も共に眠る部屋である以上、メルエに遠慮という物を感じる必要はなかったのだ。

 

「仕方ないですね……その椅子に座ってください」

 

「…………ん…………」

 

 入って来てしまったメルエを追い出すような事はサラには出来ない。いや、正確に言えば、メルエという少女が、この部屋に一人で来たという事で、サラの退路は全て断たれたと言った方が良いのかもしれない。

 勧められた椅子によじ登るようにして座ったメルエは、サラが座るのを待つように、足をぶらぶらと揺らしていた。

 温かい飲み物を入れ、それをメルエへと渡したサラは、何処か何かを恐れるようにして、メルエの対面に座る。実際に、飲み物を入れたカップを持つその手は、小刻みに震えていた。

 

「それで、お話とは……」

 

「…………メルエ………サラ……すき…………」

 

 何も話さず、『じっ』と見つめるメルエの視線に耐えきれなくなったサラは、意を決したようにメルエへと声を掛ける。しかし、その言葉は途中で遮られ、被せるような言葉によって消えて行った。

 いつものように途切れ途切れではあるが、しっかりとした強さを含むその言葉は、サラの心へと直接打ち込まれる。もしかすると、サラがメルエからその言葉を直接受け取る事は、出会ってから二年という月日の間で初めてかもしれない。

 リーシャが言われる事は聞いた事がある。自分が眠っている横で、その言葉をカミュへ伝えている事も聞いた事がある。だが、このように瞳を合わせて、真っ直ぐに伝えられた事は初めての物だった。

 その言葉は、今のサラの心に何よりも響き、溜め込んでいた『想い』が瞳を伝って溢れ出す。目の前に座る幼い少女の姿が滲んでしまう頃、真っ直ぐに見詰めていた少女の口が再び開かれる。

 

「…………サラの……まほう……つよい…………」

 

「えっ!?」

 

 ゆっくりと開かれたメルエの言葉は、感動に呆けていたサラの心に突き刺さる。深々と突き刺さった心から血が流れる事はないが、その痛みと苦しみは、瞬時の内にサラの身体を蝕んで行った。

 メルエが言っている魔法という物は、数日前にサラが行使した<ザキ>と呼ばれる『死の呪文』の事であろう。それを理解したサラは、恐怖と不安の為に、メルエから視線を外そうとするのだが、真っ直ぐに自分を見つめるその瞳から逃げる事は出来なかった。

 もし、今、このメルエから目を逸らしてしまえば、自分は二度とメルエと向き合う事が出来ないと思ったのだ。いや、それだけではなく、二度とメルエが自分と瞳を合わせてくれないとさえ感じてしまった。

 

「…………サラの……まほう……怖い……ちから…………」

 

 瞳を逸らさないサラを見ていたメルエが言葉を続ける。ゆっくりと、それでいてしっかりと紡がれる言葉は、いつもの幼い少女の物とは比べようがない程に強い物だった。

 その言葉を受けたサラの身体が小さく跳ねる。

 『怖い』という言葉が、サラの中の恐怖と不安を煽り立てたのだ。

 それでも、サラが逃げる事をこの幼い少女は許さない。射抜くような純粋な瞳は、サラの身体を硬直させ、その心を縛り付ける。サラには、この幼い少女の言葉を聞き続ける以外に選択肢は残されていなかった。

 

「…………みんな………サラ……きらい……なる…………」

 

「!!」

 

 それは、最後通告に近い物だったのかもしれない。

 サラ自身、<ザキ>という呪文を行使した際、その呪文の効力の強さと、恐ろしさを実感していた。

 実は、この呪文の契約を済ませたのは、かなり以前の事である。

 『経典』という教会が保持していた物の中に記載されていた契約方法によって、彼女がこの呪文を習得したのは、<ヤマタノオロチ>という強敵と戦い、自身の力の無さを痛感した後であった。つまり、カミュと逸れる頃には、この呪文との契約は済んでいたのだ。

 だが、『経典』に記載されている、『死の呪文』としての効力と、彼女が目にしたあのカミュの光景が、その呪文を行使する事を躊躇わせていた。何度も、その呪文を行使する場面はあった筈であり、その呪文の行使によって救われる窮地はあった筈。それでも、彼女はそれを行使する事が出来なかった。

 数多くの魔物を、自身の魔法の発現によって葬り、メルエの魔法を指示する事で葬って来た彼女が、今更、魔物を葬る事に罪悪感を覚える事自体が可笑しな事であり、実際に彼女は自身の歩む道の中で、他者の命を奪うという行為に対してその決意を飲み込んでいる。

 そのようなサラという『賢者』が恐れる物は、唯一つ。

 

『自身が持つ力の強大さ』

 

 <ザキ>という呪文は、問答無用の『死の呪文』であり、その効力が発動し、それを跳ね除ける力の無い物に確実な『死』を与える魔法である。

 そこに、強靭な身体や体力などは無力。

 どれ程に強い鋼の鎧を纏っていようと、鋼の筋肉を纏っていようと、どれ程の生命力を持っていようとも、その呪文を受け入れてしまった時点で、その命は闇に吸い込まれてしまう。それは、サラの考えでは、『人』の範疇を大きく超えてしまう程の力であった。

 『生』と『死』という物は、教会の教えでは、本来は『精霊ルビス』や神によって与えられる物であり、『死』を迎えた生物は、『精霊ルビス』の御許へ迎えられるという物であった。それを『人』の身で自由に行う我が身を、サラは恐れたのだ。

 加えて、<ザキ>などの『死の呪文』によって強制的に『死』を迎えた者の魂は、『精霊ルビス』の御許へ行く事は許されず、闇へ落ち、永遠に彷徨い続けるとさえ云われていた。

 

「メ、メルエ……」

 

 今のサラの瞳は、頼りない程に弱い。

 その心の有り様を示すように脆く、そして儚い。

 縋りつくように向けられたサラの瞳。

 それと対照的に厳しいメルエの瞳は、真っ直ぐサラを射抜く。

 

「…………だいじょうぶ……メルエ……サラ……すき…………」

 

 そんなサラの縋る瞳を真っ直ぐ見つめたメルエは、常に自分を励まし、奮い立たせて来た魔法の言葉を紡いだ。

 それは、目の前で不安に押し潰されそうになっている女性が口にする魔法の言葉。どれ程に強力な攻撃魔法よりも、どれ程に強力な回復魔法よりも、神秘に限りなく近い言葉。

 それをメルエは知っている。

 立ち止まった心を前へ踏み出させる『勇気』を与え、壊れかけた心を再び奮い立たせる『決意』の炎を灯す言葉を、メルエは姉のように慕う女性へと分け与えた。

 

「あ…あ……」

 

「…………サラの……まほう……護る……ちから…………」

 

 ここまでのメルエの言葉を聞いたサラの瞳からは、全てが流れ落ちてしまうのでないかと思う程に、涙が溢れ出していた。

 ようやく彼女は気付いたのだ。

 ここまでのメルエの言葉は、あのランシールの村で自分が、この幼い少女へ伝えた物でもある事を。

 何があろうと、メルエがどのような存在になろうと、自分はメルエが大好きだという事を伝えたあの時、サラはメルエのその力の恐ろしさ、そして尊さを語っていた。

 

『敵を殲滅する為の力ではなく、大切な物を護る為の力』

 

 それを伝える為に、サラは様々な話をメルエと交わしていた。

 メルエの強大な力は、周りの人間に恐怖を与え、怯えさせる事もある。だが、それでも、メルエの想いをサラ達は理解しているし、そんなメルエを護る。だからこそ、メルエもまた、その強大な力を無闇に使うのではなく、大事な物を護る為に使うのだという事を、彼女は細かく語り聞かせた。

 力を制御し、自身の力の恐ろしさを知り、必要な時に、必要な形で行使する。それを幼い少女は、理解し、飲み込み、自分の中で消化して見せている。

 今、サラの目の前で厳しい瞳を向ける少女は、もうあの頃の少女ではない。一つの殻を破り、自身の中に眠る強大な力を理解した少女は、本当の意味での『勇者一行』に同道する『魔法使い』へと成長していたのだ。

 

「メ、メルエ……」

 

「…………いつも……つかう……だめ…………」

 

 涙に濡れる瞳を自分へ向けたサラを見ているメルエの瞳は、厳しさの中に、とても大きく優しい光を宿している。純粋に、その者の真意を汲み取るその瞳は、サラの中で渦巻いていた不安や恐怖を少しずつ取り除いて行った。

 強大な力には、それに相当する程の大きな責任を伴う。自身を見失わず、他者を見下さず、その力を制御しなければならない。それが他者を踏み躙る程の力を有した者の義務。

 故に、それを当り前の力だと思ってはいけない。

 常にある力だとは思ってはいけない。

 

「…………サラ……考える………練習……する…………」

 

「はい……はい!」

 

 涙は止まらない。

 闇に閉ざされ、前も後ろも見えなかったサラの心の壁に、拙い言葉を懸命に繋いだ幼い少女の努力によって、小さな穴が開けられる。次々と想いが溢れ出すその小さな穴は、彼女の歩む道に一筋の光を差し込む光道となった。

 何度も頷きを返すサラを見ていたメルエの瞳が、ようやく緩んだ。

 彼女の心も頭脳も大きく成長している。だが、幼い頃に植えつけられた物は容易に取り去る事は出来ない。その為、幼い頃から自分の想いを相手へ伝えるという行為をして来なかったこの少女は、相手の言葉を理解出来ても、自分の中にある物を相手に伝える為の言葉を探す事が不得手なのだ。

 伝えようとしても伝わらないのではなく、伝えようとしても聞いて貰えないという生活を続けて来たメルエに取って、自分の想いを伝える必要は皆無となり、細かな想いを伝える方法を失った。

 そして、初めて出会った、自分へ愛情を向けてくれる者達は、自分が想いを言葉にしなくとも、自分の想いを理解してくれる者達であり、同じようにそれを言葉にする必要性がなかったのだ。

 このサラとの会話が、彼女が自分の想いを伝えようと、懸命に言葉を探し、口にした二度目の出来事。

 

「…………サラ……だいじょうぶ………メルエ……しんじる…………」

 

「……はい…はい……」

 

 メルエの最後の言葉は、もう聞こえない。

 何度も何度も頷きを返し、目の前の少女の胸に顔を埋めてしまったサラは、声を圧し殺し、泣き続けた。

 そんなサラの姿を見ても、メルエがからかう事はない。

 優しくその背に手を置き、自分がリーシャにいつもして貰っているように、その背を一定のリズムで叩き続ける。

 サラの不安と恐怖が去るように。

 自分が彼女を好きだという気持ちを注ぎ込むように。

 

 

 

「…………!!…………」

 

 どれ程の時間が流れただろう。

 泣き続けていたサラが眠りに就いてしまうのではないかと思う程の時間が流れた頃、部屋の外の喧騒に、メルエは首を動かした。

 多くの者達が甲板へ走る音が響き、船体が先程まで以上に大きく揺れる。

 船室に付けられた窓の外は、夕陽によって赤く染まってはいるが、雨が降っているようには見えない。その事が示すのは、一つしかないだろう。

 

「魔物だぁ!」

 

 船室で休んでいる船員達に向けられた声が、廊下に響き渡る。

 甲板の上に魔物が出現したのだろう。サラの部屋の近くにある船員達の部屋から、外へ飛び出して行く音が聞こえて来た。

 魔法という神秘を体現する者達は、今はカミュ一人しかいない。故に、数多くの魔物達が甲板へ上がって来てしまえば、船員達も武器を取って戦う必要が出て来るのだろう。

 

「…………!!…………」

 

 その音がメルエの耳にも明確に聞こえた時、メルエの胸に顔を埋めていた『賢者』の顔が上がった。

 ここ数日のサラの状況を知っているメルエは、若干の不安を残してサラへ視線を送るが、その表情とその瞳を見て、花咲くような笑みを浮かべる。

 顔を上げた『賢者』の顔は、メルエが大好きな姉の顔。

 いつでも自分を勇気付け、自分を奮い立たせてくれる姉の顔。

 

「さあ、メルエ、行きましょう。私達の大切な人達を護る為に」

 

「…………ん…………」

 

 涙の筋の残る頬を緩め、優しい笑みを向ける大好きな姉に、メルエもまた満面の笑みを持って頷きを返した。

 立ち上がったサラは、立て掛けられた<鉄の槍>を背中に結び、もう片方の手で幼い妹の手を握る。そして、不安と恐怖という殻を破る扉をその手で押し開けた。

 

 

 

 『魔王討伐』という大望へ向かう者には、その魔王に対抗するだけの力が要求される。その力は、『人』が抗う事の出来ない者へ対抗する程の物である為、『人』に恐れを抱かせる程の力でもあった。

 『賢者』という職業は、そんな弱い『人』と『精霊ルビス』の懸け橋となる者と云われている。その力は強大であろうとも、『人』の為に振われる力であると。

 だが、当代の『賢者』は悩み、苦しむ。

 それは、『人』の為だけの力なのかと。

 彼女の悩みは、時間が解決してくれるような物ではないだろう。彼女がその足を前へと進めれば進める程、その悩みは具現化され、大きくなって行く。

 だが、それでも彼女は歩みを止める事はないのかもしれない。

 彼女の心を知り、想いを知り、彼女を見守る者がいるのだから。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回は少し短めの物語を付け足しました。
この回も実際、本来であれば必要ないのかもしれません。
ですが、どうしても差し込みたかったんです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

一人旅という物を経験し、一回り大きく成長した青年は、テドンの村でメルエの実父との会話を経て、その心の有り方を少しずつ変化して行った。その小さな変化は、再び訪れた試練という一人での行動の中で花を咲かせる。自身の生きる目的と意義を見出した彼は、真の『勇者』としての道を歩み出していた。

 

【年齢】:19歳

『魔王討伐』という使命を受け、アリアハンを出たその日から、既に三年という月日が経過していた。この三年という月日が彼の心を変化させ、彼と共に歩む者達を本当の『仲間』へと変化させて行く。それは、彼の周囲に居る者達の変化ではなく、彼女達を見るカミュの見方が変化した事による物であるという事実に、彼は気付いていない。

 

【装備】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガいう彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):魔法の鎧

滅びし村<テドン>で購入した鎧。抗魔力に優れ、魔法による攻撃を軽減させる効果を持つ。特別な金属によって制作され、赤紫色のような色彩をしている鎧。テドンでの夜が明けても尚、その輝きは失われず、身を守る防具としての役割を担っている。その特殊能力の一端として、外気からの防御も可能である。

 

盾):魔法の盾

一人旅が始まった時に、ポルトガにて鉄の盾を新調していたが、スーの村にて販売していた魔法の盾を見たリーシャの忠告も受け、買い換える事にする。メルエの時と同様に、その者の身に合った形へと変化する為、同じように購入したリーシャの物とは若干大きさが異なっている。

 

武器): 草薙剣(くさなぎのつるぎ)

真名は、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)遥か昔、ジパング創世の頃の初代国主が、民を護る為に神より賜った神剣と伝えられる剣。その切れ味は鋭く、天にかかる雲をも切り裂くという伝承があるが、現在には伝わってはいない。ジパング当代国主であるイヨから、別名と共に下賜される。

 

所持魔法):メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      リレミト

      マホトーン

 

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

彼女の戦士としての力量は、生まれ持った特別な力でもなく、神や精霊に選ばれた力でもなく、愚直なまでに積み重ねて来た経験と努力の賜物である。父と共に剣を振るい、父を失ってからは一心不乱に剣を振るった。そんな彼女は、『英雄オルテガ』の息子と旅に出る事によって、己の中だけで伸び悩んでいた殻を破る事となる。他者の死という物に恐怖に近い感情を持っていた彼女は、頼もしい仲間を得て、『戦士』として、『騎士』として、何より『人』としての大きな成長を遂げて行く。

 

【年齢】:不明

自身の年齢の事となると、話の矛先を変える程度のコンプレックスは持っている様子。カミュやサラよりも歳が上である事は間違いないが、その年齢の差は、彼女が思っている程離れている訳ではないだろう。英雄オルテガという者が『魔王討伐』に出る頃に剣を握り始めた事を考えれば、自然と彼女の年齢も想像できる事になる。

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):大地の鎧

試練の洞窟と呼ばれる人工の洞窟内に安置されていた鎧。『勇者』と呼ばれるカミュが発見するが、その者を主とは認めず、外で待つ一人の戦士を主と定めた。まるで己の意志があるかのように、『人』としての色を残す女性を主と定めた鎧は、他者の手に渡るのを拒む。精霊と共に崇められる対象となる母なるものの名を冠する鎧は、植物や動物を育てるように、温かくその身を包み、護る事だろう。

 

盾):魔法の盾

ジパングでのヤマタノオロチ戦にて、その機能の大半を失っていた鉄の盾の代わりにスーの村で購入する。バトルアックスという魅力的な武器よりも優先させる程、彼女の装備していた鉄の盾は限界を迎えていたのだろう。

 

武器):バトルアックス

鉄の斧とは異なり、両刃の斧。ハルバードよりも戦闘用に改良されている物であり、戦斧という名に相応しい程の機能を備えている。重量感も鉄の斧よりも数段上であり、圧し斬るというような攻撃方法も可能な程の全長も有している。装飾も凝った物が成されており、スーの村の装飾技術も窺える逸品。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

『賢き者』となってから既に二年近くの年月が経過している。その中で彼女は、賢者となる前よりも悩み、考える事が多くなった。だが、それは苦しみを感じる物ではなく、彼女を新たな高みへと引き上げる答えに向かってのもの。常に考え、悩む彼女は、その思慮深さを積み重ね、以前から所々で出ていた不用意な発言も鳴りを潜めている。様々な事を彼女なりに考え、自分なりの答えを導き出している節があるが、それを安易に口にしようとはしない。それは、周囲に居る者達にとってみれば不快に感じるような物ではあるのだが、カミュ達が気にしていない為に、その事に気付いてはいなかった。

 

【年齢】:20歳

十代も終え、『人』としても『女性』としても成熟期へ向けて歩み始めた彼女ではあったが、その身体のラインは、アリアハンを出た頃から寸分も変わりがない。火を扱う料理などもした事はなく、その腕前は未だに解らない。味音痴でもなく、手先が不器用な訳でもない為、教え込めばそれなりの物を作る事が出来る可能性はあるのだが、何故か他の三人はそれを恐れている節が見受けられた。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれている。その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

テドンという滅びし村で購入したこの法衣は、その村へ移住して来た年若い夫婦の手によって編み出された。昆虫が作り出す物を糸から『絹』という世界で初となる生地を作り出し、特殊な能力を保持していた妻が編んだ物。それは、奇しくも彼女と共に歩む幼い少女の母親であった。類稀なる魔法力を有し、稀代の『魔法使い』となった少女の母親も、特殊な術式を組み込んだ法衣を作り出している。その奇妙な巡り合わせが、サラという当代の『賢者』の思考に一石を投じていた。

 

盾):魔法の盾

カミュやリーシャと同様、スーの村で買い揃えた盾。サラの身体に合ったサイズに変化した盾は、その左腕に納まっている。以前まで使用していた<うろこの盾>に関しては、ロマリア国王から下賜された宝物である為、店で売却はせず、大事に保管されている。『意味のない行為』とカミュに小言を言われるが、リーシャの後押しもあり、その後は船の船員達は使う事になる。

 

武器):鉄の槍

既に、サラの力量は並の戦士を超えている。アリアハンを出た当初のリーシャとならば凌いでしまう程の実力を有していた。だが、その手に持つ武器は、旅に出たばかりの頃、ロマリア城下町で購入した<鉄の槍>。彼女の力量からすれば、余りにも頼りない武器と言っても過言ではない。それは、カミュやリーシャも危惧しており、武器を改める事が急務でであった。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ

       ザキ

 

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

       バシルーラ

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

カミュと逸れた二か月という時間は、彼女の幼い心に恐怖と不安という傷を確かに刻みつけていた。だが、彼女の成長を促す物であった事も確かであり、不安と恐怖という負の感情と戦いながらも信じて待つという事が出来るようにはなって来ている。己の出生や、己の数奇な運命を理解する日はまだ先ではあろうが、幼い実に宿る心は、確実に一歩一歩成長を続けていた。

 

【年齢】:7,8歳

テドンの村に移住した若い夫婦の間に生まれた少女。その月日が何時頃なのかは、今は知る術がない。だが、メルエという若い夫婦の宝は、数多くの想いに守られ、運命の者達と巡り合う。まるで、それが当初から決定していた物であるかのように、『魔王討伐』へと向かう勇者一行の下へ舞い降りた幼い希望は、もしかすると、この世界の希望となる程の可能性を秘めているのかもしれない。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):アンの服

みかわしの服と同じ素材でできた服。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えており、主を護るその時に、そのオブジェの嘴から<ベギラマ>と同様の灼熱の炎を吐き出した。主と定めた物を護るような意志を持つその杖が、何故スーの村にあったのか、そして誰が安置したのかは、まだ解らない。

   :毒針

 

所持道具:祈りの指輪

砂漠の国イシスの真女王となったアンリから授かった道具。『精霊ルビス』へ祈りを捧げる事によって、その恩恵を受ける事が出来ると伝えられている。祈りを捧げ、それが『精霊ルビス』の許に届いた時、その者の体内に宿る魔法力を回復させるという効果がある。<ヤマタノオロチ>という強敵との戦闘の中、魔法力切れを起こしたメルエの祈り、「大切な者達を護りたい」という想いに応え、その魔法力を回復させ、勝利に導いた過去を持つ。

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

     

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       マホカンタ

       ベギラゴン

 

 

 

 

 



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第十三章
旅人の祠


 

 

 

 船上を吹き抜ける風は、徐々に冷たい物へと変わって行き、船員達は上着を羽織り、手袋を着けて行く。カミュ達一行も同様であったが、例の如く、メルエだけは何故か上着を着る事を嫌がっていた。

 幼い『魔法使い』との対話によって、再び前を向いて歩み始めた『賢者』は、冷たい風が吹き抜ける中で海を眺めているメルエの世話を焼いている。上着を嫌がり、『むぅ』と頬を膨らませるメルエの手に何とか手袋を着けたサラは、寒さに凍えないように、その小さな身体を後ろから抱き締めた。

 

「そろそろ、この大陸の最北の場所へ着く筈だ」

 

 トルドの居る開拓地を出てから、二週間近くの時間が経過した頃、ようやく船は目的地へと近付いて行った。

 <グリンラッド>と呼ばれる永久凍土の島の南にある小さな島がカミュ達の目的地であり、その場所はスーの村や開拓地のある大陸の最北端に位置する。

 この世界の不可思議な成り立ちの全てを理解した訳ではないが、カミュ達もこの船の船員達も、『そういう物』として飲み込んでいたのだ。それは、数多くの神秘を見て来た者達だからこその考えなのかもしれない。自分達の理解の範疇を大きく超える現象が、この世の中に数多くある事を、彼等は知っていた。

 いや、正確に言えば、そう考えなければ、精神に負荷が掛かり過ぎるのかもしれない。

 

「あの島に上陸出来るか?」

 

「上陸は無理そうだな……いつも通り、何処かの浅瀬に止めてから小舟で上陸して貰った方が良いだろうな」

 

 大陸の最北端を過ぎた船の前方に陸地が見えて来た事で、カミュは頭目へ言葉を掛ける。だが、望遠鏡と呼ばれる物を覗き込んだ頭目は、カミュの提案に首を横へ振った。

 期待はしていなかったのだろう。頭目の答えに落胆した様子もなく、カミュは船の装備されている小舟の手配を始めた。

 

 グリンラッドに居た老人の話では、あの永久凍土の南に位置する場所にある祠近くに『旅の扉』があると言う物だった。

 スーの村付近で、そのような祠の話を聞いた事がない以上、最北端の先にある島にあると考えるのが妥当であろう。それは、メルエとの対話によって復活を果たしたサラとカミュが話し合った事で結論に達していた。

 二人が難しい顔をして地図を睨んでいる姿を不思議そうに見つめていたメルエが、何かと邪魔をしていて、リーシャに怒られた事は、また別の話である。

 

 

 

 小舟を使って島へ上陸したカミュ達は、その島の気温の低さに驚きを示した。

 グリンラッドと呼ばれる永久凍土程ではないが、吹き抜ける北風は冷たく、身体を縮ませる威力を誇り、カミュ達は、吹きつける風を避けるように一つに固まって歩き始める。唯一人、メルエだけは、皆が傍に寄って来る事に頬を緩め、皆の顔を笑顔で見上げていた。

 

「一度、森を抜ける」

 

 カミュ達が小舟を着けた場所は、森の入り口付近であり、周囲は木々に覆われていて視界がとても狭い。地図を手にしながら、カミュは森を抜ける為に、西の方角へと歩を進めた。

 森の中は木々の香りに満ちており、先程まで吹き付けていた風は、木々に遮られて周囲の気温も落ち着きを見せている。先を進むカミュを追うように歩き出したサラの手を握り、もう片方の手に持った<雷の杖>で草を搔き分けるようにメルエも歩いて行った。

 

「カミュ様、あれは……」

 

 陽が西の大地へと陰り始め、火の中に居るかのように森の中を赤く照らし始めた頃になって、ようやくカミュ達は森を出る事となる。欝蒼としていた木々が無くなり、急に開けた視界の中、カミュの後ろを歩いていたサラの瞳に、予想だにしなかった物が映り込んだ。

 それは、この小さな島に相応しくない建物。

 以前に見た事のある神殿のような、しっかりとした造りの建物の姿が、遥か前方に見えて来ていた。

 石造りであろうその建物は、西日の明かりを受けて、燃え上がるように赤く輝き、まるで新たな道を指し示すように、カミュ達の瞳に映り込む。建物の場所まではまだ距離があり、陽が沈むまでには到着する事は無理だとは思われるが、それでもその光景は、カミュ達の心に幾許かの想いを運んで来た。

 

「カミュ、どうする?」

 

「陽が沈むまでには少し時間がある」

 

 西の大地へ沈む太陽に視線を動かしたリーシャは、この後の行動をカミュへ尋ねる。だが、未だに陽の光によって地図が見え、前方には目的地であろう場所が見えている以上、この青年が立ち止まる事はない。

 そんなカミュの答えを予想していただのだろう。然して不満を見せる事もなく頷いたリーシャは、サラとメルエを先に歩かせ、最後尾を歩き始めた。

 

 

 

 結局、陽が沈み切るまで歩いた一行であったが、建物との距離はそれ程縮まる事もなく、近場の森の入口で野営を行い、太陽が昇るのを待って、再び歩き始めた。

 その姿を認識した頃から、建物の大きさは全く変わらない。それが、その建物の巨大さを如実に表している。遠近感覚の作用によって、通常であれば、遠くにある物は小さく見える筈なのだが、見つけてから半日近くも歩いているにも拘らず、その建物の見た目は、変わる事はなかった。

 

「今日中には辿り着けないかもしれませんね」

 

 日の出と共に歩き始めた一行であったが、太陽が真上に昇った頃になっても建物との距離が縮まった感覚が無い事で、サラは一つ溜息を吐き出す。そんなサラの手を握っていたメルエは、サラの溜息に首を傾げた。

 基本的に、一番幼い筈のメルエは、旅を続ける上で一番苦痛となる筈の徒歩を嫌がる事が無い。『眠い』という言葉を伝える事はあるが、『疲れた』という不満や、『歩けない』という我儘を言う事はないのだ。

 それは、カミュ達に『置いて行かれる』という恐怖からではないだろう。彼女にとって、見る物全てが輝き、聞く物全てが楽しいのかもしれない。平原の傍に湧く泉に反射する太陽の輝きに目を細め、その泉で生きる生命を見つけては目を輝かせる。それは、この広い世界を知ったばかりの少女にとっては、何よりも楽しい事なのだろう。そして、そんな自分を見守ってくれている三人と共に歩む事が、この少女にとって何よりの喜びとなっているのだ。

 

「そうだな。だが、行ける所まで行ってみよう」

 

 既に今回の目的地をカミュ達は船の頭目へと話しており、その頭目もまた、その目的地への移動手段を知っていた。

 実は、船を降りる際にカミュは頭目へ船の行く末に対して話をしている。サマンオサという場への移動手段が『旅の扉』しかない以上、この場所のすぐ近くにサマンオサが存在しない事は明白であり、その場所を訪れたカミュ達が長い時間戻って来ない可能性も考えられた。

 また、『旅の扉』という言葉から、行き来が出来る事は想像できるが、それが確実な物であると断言できる程、カミュ達は『旅の扉』を使ってはいなかったのだ。アリアハンからロマリアへの移動は、片道通行しか使用した事はなかったし、ガルナの塔にあった『旅の扉』は同じ塔内を移動する短い距離だけであった。

 故に、船はカミュ達をその場で待つのではなく、近くにあるスーの村へ滞在するか、天候の良い時を見計らって、ポルトガまで戻る事に決定していたのだ。

 何故か、海の強い魔物は、天候が崩れ、海が荒れた時に現れる事が多く、それ以外の<マーマン>は元カンダタ一味を中心に駆逐する事は可能であったし、<満月草>という道具を大量に船に積んでいるため、<しびれくらげ>の毒を恐れる心配はない。何より、<ルーラ>を行使出来るカミュ達であれば、サマンオサという国が、地図上の何処にあったとしても、スーの村やポルトガへ戻る事が可能であった。

 

「あれだけ巨大な神殿であれば、もしかすると、サマンオサへの『旅の扉』以外があるのかもしれないな」

 

「そうですね……この場所が、昔は移動拠点だったのかもしれませんね」

 

 歩きながら呟いたカミュの一言に、サラが感じた事を口にする。

 カミュ達であっても、一国へ向かう『旅の扉』という物が、森の中に剥き出しで存在するとは考えていなかった。だが、ここまで大がかりな建造物の中にそれがあるとすれば、魔王出現以前は、この場所も移動する商人や、そんな商人に向けて商売をする集落などが近くにあったと考えるのが妥当であろう。

 もしかすると、この島に上陸する為の船着き場の名残も、島の何処かに存在していたのかもしれない。そう言う事を考えられる程、目の前に見える建造物の佇まいは、多くの資金と労力が掛けられている事を想像させる物だった。

 

 建造物が更に大きく見えて来た頃に、再び太陽は西の大地へと隠れ、カミュ達はもう一晩の野営を余儀なくされる。近場にある森の中で果実や獣を採り、食事を終えたカミュ達は、太陽が昇るのを静かに待つ事となった。

 

 

 

 日の出と同時に再び歩き出した一行は、目の前に根元まで見えて来た建造物へと向かって歩き出す。ここまでの道のりの中でも、何度か魔物との戦闘を重ねては来ているが、カミュ達を苦戦させる程の魔物との遭遇はなかった。

 既に彼等四人の力量は、『人』としての枠を大きく超えてしまっている。それは、彼ら自身が一番理解しているのかもしれない。

 世界中に散らばる魔物達は、彼等が『魔王バラモス』へ近付く程に、その強さを増している。それは、正に彼等が『魔王バラモス』との距離を縮めている事を証明するかのように。

 魔王との距離は、その魔物の魔力に大きな影響を及ぼすのだろう。それは、物理的な距離だけではなく、精神的な距離も考慮に入れるべきなのかもしれない。

 

「…………おおきい…………」

 

「本当に大きいですね……」

 

「おそらく、この場所は、サラの言う通り、移動拠点にもなっていたんだろうな」

 

 ようやく辿り着いた建造物は、遠目に感じていた通りの巨大な物であった。

 建物を見上げたメルエの首が真上に上がってしまう程の物であり、その大きさに、サラでさえも溜息を吐き出す程であった。

 サラと同様に建造物を見ていたリーシャは、この場所の役割について想いを巡らす。国家に仕える騎士としての役職を持っていた彼女は、少なからず知識は持ち合わせていたのだ。

 『旅の扉』という移動手段を用いらなければ行く事の出来ない国へ入る以上、それには順番という物も存在した筈であり、何十人もの人間が一斉に飛び込む事の出来る物ではない為、それこそ数日の時間を待つ事もあっただろう。

 行く者もいれば、帰って来る物もいる。

 交互に『旅の扉』を使うのであれば、尚更である。

 

「行くぞ」

 

 大きな建造物を感慨深く見上げる三人を置いて、先頭に立っていた青年が重い扉を押し開いた。

 何年も、何十年も開く事のなかった扉が、今、再びその口を開く。かなりの力を込めなければ開かないのか、全身を使って、カミュがその扉を押し開いた。

 重苦しい音と共にカビ臭い臭いが中から溢れ出し、一行の鼻を衝く。カミュの後ろから覗き込んでいたメルエが、その臭いに対して不快に顔を歪め、不満そうにサラを見上げる。

 

「さあ、メルエ、行きましょう?」

 

「…………むぅ…………」

 

 中に進んでしまったカミュを追う為、サラが伸ばす手を握ったメルエは、中に入ると同時に漂う埃とカビの匂いに、尚一層表情を歪めた。

 少なからず緊迫した空気の漂う建造物の中で、そんなメルエの姿を見たリーシャとサラは、場の雰囲気とは異なる笑みを浮かべる。自分の事を笑われていると感じたのだろう。メルエは悔しそうにサラの腰に顔を埋めてしまった。

 

「どっちだ?」

 

 メルエを中心とする和やかな空気は、先頭を歩いていたカミュが立ち止まった事によって霧散する。

 背中の剣に手を掛けていない事から、魔物と遭遇した訳ではない事は解る為、三人は緩やかな足取りでカミュの許まで歩き、その動向を確認した。

 振り向いたカミュの目線は、一人の女性に固定されており、その言葉を聞けば、それが誰であるかなどは、即座に理解出来るだろう。現に、サラなどは、その質問の意図を理解し、無言で女性戦士へと視線を移している。先程までサラの腰に顔を埋めていたメルエもまた、その女性を見上げ、不思議そうに首を傾げていた。

 意図が掴めないのは、当の本人だけである。

 

「ん?……何がだ?」

 

「三方向に分かれていますね……」

 

 自分へカミュが何を問いかけているのかが、瞬時に理解出来ないリーシャは、メルエと共に首を傾げ、自分へ視線を向ける青年を見つめ返した。

 困ったように眉を寄せ、溜息を吐き出したカミュに代わって、リーシャの隣に立っていたサラが、カミュの問いかけたい内容を再度伝える。その言葉に、ようやくリーシャは合点が行ったのか、何かを考えるように拳を顎に当てた。

 サラの言葉通り、目の前は三叉路になっており、その先に『旅の扉』があるであろう事が解る。おそらく、この場所はリーシャの言う通り、移動拠点となっていたのだろう。サマンオサへの移動手段だけではなく、他の地方への扉ともなっていたのだ。

 行き先によって、この三叉路で別れ、各々の進みたい場所へ繋がる『旅の扉』へ飛び込んでいたと考えられる。だが、その道標が今はない。誰も利用する事の無くなったこの場所は、移動拠点としての名残は残されているものの、細かな配慮を残す事はなかったのだ。

 

「しかし、三方向に分かれているしな……私が道を示した所で、それを無視するのだろう?」

 

「そ、そんな事はありませんよ」

 

 暫しの間、顎に手を当てて考えていたリーシャであったが、不意に思いついたように顔を上げ、カミュを恨めしそうに睨みつける。その瞳を向けられていないにも拘わらず、驚いたのはサラであった。

 明らかに不審な動きをし、言葉も怪しく口籠る。誰が見ても怪しい態度を示すサラを、カミュとリーシャは冷ややかな瞳で見つめていた。

 そんなやり取りの中、一人だけ笑顔を浮かべていた少女が、三方向の道へ視線を移し、何度か首を往復させた後、諦めたように首を傾げる。そんなメルエの様子を見ていたカミュは、再び溜息を吐き出した後、ゆっくりと口を開いた。

 

「ならば、アンタが『この道だけは違う』と感じた方向を教えてくれ」

 

「違う道?……そうか、その道だけを外して、二択で考えると言うのだな?」

 

 カミュが提示した別案は、リーシャにとってはとても魅力的な物であった。

 リーシャが『違う』と感じた道だけを外し、それ以外の二方向への道からカミュが選ぶのであれば、全責任をリーシャが負う必要はない。一度『旅の扉』へ入れば、同じ場所に入って戻って来る事の出来る保証が無い以上、この選択はかなり責任を問われる物だとリーシャは感じていたのだ。

 常に、自分が最善と感じた道を示して来たリーシャではあったが、ここまでの結果が示す事を、彼女なりに実感してはいたのだった。

 

「そうだな……右だな……右への道だけは違うような気がするな!」

 

「そうか……右だな?」

 

 暫しの間、目の前にある三叉路を見つめていたリーシャであったが、何かが閃いたかのように首を上げ、その指で右へと続く道を指し示す。

 相当な自信があるのだろう。その指は、真っ直ぐ道を指し示し、声は高らかに張り上げられている。そのリーシャの姿に目を輝かせたメルエが、リーシャの姿を真似しながら微笑みを溢していた。

 しかし、そんな自信に満ちたリーシャの言葉に静かに頷いた筈の青年は、彼女が『絶対に違う』と感じた右への道へ、迷いなく進んで行ったのだ。

 

「お、おい! 右は違うと言ったぞ!」

 

 しっかりと頷きを返した筈のカミュが、そのまま右への道を進んで行くのを見たリーシャは、いつもの通り、その行動を咎めるように言葉を発した。

 いくらリーシャと言えども、経験は積んでいる。

 自分が正しいと指し示した道が誤りであったという経験を何度もして来たのだ。故に、その道が無視されたとしても、悔しさに唇を噛み締める事はあっても、喚く事はなかっただろう。だが、間違っていると思っている道を示したにも拘わらず、その道を進まれては、流石のリーシャも声を上げるしかなかった。

 

「……俺は、アンタを信じている……」

 

「ふぇっ!? あ……わ、私もです!」

 

「…………メルエも…………」

 

 しかし、そんなリーシャの抗議は、振り返ったカミュの一言によって、止まった時と共に消え失せる。

 真っ直ぐ向けられたカミュの瞳に嘘は見えない。

 その瞳に込められた物は、真実の信頼。

 それを感じ取ったリーシャの身体は硬直したように固まり、それを見たサラも慌てて同意を示し、今まで笑顔で成り行きを見守っていたメルエも、真剣な表情を作って名乗りを上げた。

 『信じる』という言葉は、今のメルエにとっては、とても重い言葉でもある。サラを信じ、カミュを信じ、そしてリーシャを信じているからこそ、今のメルエは笑う事が出来るのだ。

 それを、この幼い少女は、誰よりも理解していた。

 

「そ、そうか……何と言うか……ありがとう」

 

 この場で戸惑いを見せるのは、三人の視線を受けたリーシャ唯一人。

 先程まで感じていた憤りも消え失せ、何とも気恥ずかしい喜びが湧き上がって来るのを抑え切れず、照れたように顔を伏せ、皆に頭を下げる。

 リーシャの礼に答えるかのように、しっかりと頷きを返したメルエがその手を握り、笑みを浮かべた事によって、リーシャの顔にも輝かしい程の笑みが浮かび上がった。

 無言のまま、再び前を向いたカミュが右の道へと進んで行き、その後ろを笑顔の三人が続いて行く。

 

「メルエは、私と一緒に入りましょうね」

 

「…………ん…………」

 

 右の通路は、何の障害もなく真っ直ぐ進み、祈りを捧げるように微笑むルビス像が立つ行き止まりに辿り着いた。

 佇むルビス像の足下には、渦巻く泉が湧き、綺麗に整えられた石堤によって泉は堰き止められ、それにも拘らず、その水は透き通るように澄んでいる。まるで、この先の場所さえも見通す事の出来るかのように澄んだ泉は、絶えぬ渦を作り、この先の道を歩む者達を誘う。

 

「先に行く」

 

「わかった。次にサラとメルエを続かせる。向こうでの安全の確保を頼んだ」

 

 泉の姿に見とれている間に、カミュは石堤の上に立ち、泉の中へ飛び込む準備を進めていた。

 カミュへ視線を送ったリーシャは、先に行くカミュに、到着地での対応を任せる。

 カミュの次にメルエの手を握ったサラが飛び込めば、『旅の扉』を潜る際の安定を崩すだろう。

 人一人でさえ、その浮遊感に目を回す事もあるのだ。幼い子供の手を握り、その安全を確認しながらであれば、身体への影響も一人の時とは異なる事になるだろう。ましてや、今回はサラの役目となっている為、リーシャの時とは異なった不測の事態が起きないとも限らなかった。

 

「メルエ、準備は良いですか?」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャに一つ頷いたカミュが泉に飛び込み、泉に渦に飲み込まれるように消えて行った後、波打つ水が落ち着きを取り戻すのを見計らって、サラがメルエに声を掛ける。

 手を握っていたメルエが大きく頷くのを確認したサラは、メルエに優しい笑みを向けた後、泉の中へと飛び込んで行った。

 最後に残ったリーシャが、周囲を一通り見回した後、一気に泉へと飛び込む。

 大きな音を立てて波打った泉の水は、異物を飲み込むように渦を巻き、次第にその波紋を納めて行った。

 

 

 

 

 

 サラが意識を取り戻した時、その手はしっかりと幼い手を握り締めており、その幼い手の持ち主は、未だにサラの胸の上で意識を失っていた。

 既に、『勇者』と名乗る青年と、アリアハンが誇る『戦士』の女性は、意識を取り戻していたのだろう。既にカミュの姿はここにはなく、リーシャだけが周囲を確認するように、辺りを見回していた。

 改めて見回してみると、飛び込んだ場所と同じ様な泉が、石堤によって湛えられており、その傍には一体のルビス像が安置されていた。

 ただ、不思議な事に、ルビス像を真ん中に二つの泉が湛えられており、その二つの泉は、同じように渦を巻く様に動きを持っている。それは、その二つの泉が『旅の扉』と呼ばれる物である事を示していた。

 

「サラ、気が付いたか?」

 

 サラが周囲を確認している最中に、彼女が意識を取り戻した事を察したリーシャが傍に寄って来る。既にサラとメルエの身体の安否は確かめ終えているのだろう。リーシャは、身体の具合を確かめる素振りもなく、身体を起こそうとするサラから、メルエを離した。

 しかし、メルエの手は、しっかりとサラの手を握っており、その手を離そうとはしない。苦笑を浮かべたリーシャは、メルエの意識が戻るまで、サラの膝の上でメルエを寝かせる事にする。

 

「ここは、何処ですか?」

 

「……解らない……カミュが火を点したのだが、傍にもう一つ『旅の扉』があるだけで、この場所には他に何も無かった。今、カミュが少し先の方を確認しに行っている」

 

 リーシャだけではなく、カミュもこの場所が何処であるのかが一目では解らなかったのだろう。火を点し、壁に掛かる燭台へ移した後、周囲を見回しても判断出来ず、サラ達の意識が戻るまでの間、周辺を探索していたのだ。

 予想以上の時間、自分が気を失っていた事に気が付いたサラは、恥ずかしそうに顔を赤らめ、申し訳なさそうに顔を俯かせる。その姿に苦笑を洩らしたリーシャは、サラの頭を軽く二、三度叩き、カミュが向かった通路の先へと視線を戻した。

 

 その後、カミュが戻って来る頃にはメルエも意識を取り戻し、戻って来たカミュのマントの中へと潜り込んで行く。<たいまつ>の火が、メルエに危害を及ぼさぬように上へと上げるカミュの困惑顔を見たサラとリーシャが笑みを溢した。

 

「カミュ、ここが何処だか解ったか?」

 

「いや、正確には解らない。だが、サマンオサ国の周辺であろうとは思う」

 

 メルエをマントに入れたカミュは、リーシャとサラへ合図を送り、先程戻って来た道を再び進み始めた。

 カミュの後ろをついて歩き出したリーシャが、この場所が特定出来たのかを尋ねるが、その答えは酷く曖昧な物であり、二人は首を傾げる事となる。

 だが、二人は、この先にある行き止まりで、彼が発した言葉が嘘偽りない物である事を知るのだった。

 

「これは、見た事のない紋章ですね」

 

「おそらくは、サマンオサの国章だと思うが……」

 

 辿り着いた行き止まりは、大きな門であった。

 人工的に作られたその門は、金属で出来た巨大な門であり、その門の鍵穴らしき場所には、紋章が刻まれている。その紋章は、サラだけではなく、カミュも見た事のない物であり、鍵穴を覆うように刻まれた紋章の形は、今までの何処の国でも見た事のない物であったのだ。

 その紋章を見たサラは、自身の頭の中にある知識の引き出しから探るが、答えは見つからず、カミュは想像を口にはするが、確証までは至らない。故に、二人の瞳は、自ずと国家に関わっていた女性へと移るのだった。

 

「確かにサマンオサの国章だと思われる。私がアリアハン宮廷で見た各国の紋章に、この国章は存在した。この世界に残された国家で、未だに訪れていないのは、サマンオサだけだからな」

 

 この世界の『人』が造り出した国という物は、この数十年の間で数を減らしている。魔王台頭以前に、人間同士の争いによって滅びた国も多いが、魔王台頭後に滅びた国もあった。

 オルテガという青年が『魔王討伐』という旅に出る頃には、今と同じ世界状況になってはいたが、それ以前では、魔物によって滅ぼされた国も存在していた。

 実は、その魔物による侵攻の速度が急に衰えたのは、オルテガがその志半ばで無念の死を迎えた頃でもある。それまでは、魔物によって滅ばされる事はなくとも、国家が危機に脅かされる事はあったのだ。

 テドンの村が魔物に襲われた時期には、魔物の凶暴性は増しており、人々の危機は変わらずとも、国家がこの世から消えさる危険性は薄れていた。

 それが、現在の不安定な世界の均衡を保っている要因の一つであった。

 

「やはり、そうですか……では、この鍵はサマンオサ国が施錠した物なのでしょうね。外側からだけで開けられる物なのでしょうか?」

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの言葉は、カミュとサラにとっても既に答えとして出ていた物なのであろう。それに疑問を挟む事はせず、その扉についての会話を始める。サマンオサ国が自ら施錠した物であれば、それは国家の鍵である事になり、その国家特有の術式を編み込んである可能性があった。

 それは、簡単な術式ではない可能性もあり、この『旅の扉』という物が如何に国家にとって重要な物であるかを示している。国家に属す、宮廷魔道士のような者達が編み込んだ物であれば、<盗賊のカギ>等では、まず開錠は不可能であるだろうし、<魔法のカギ>と呼ばれる神秘の鍵でも不可能かもしれない。

 故に、カミュの言葉に応じたメルエは、ポシェットの中から、<最後のカギ>を取り出した。

 この幼い少女は、その幼さの残る心によって、我儘も言うし、拗ねもする。だが、その頭脳は決して愚鈍ではなく、むしろ、このパーティーの中でも、『賢者』と呼ばれる女性と並び立つ程の『かしこさ』を備えているのかもしれない。

 

「開いたな」

 

 カミュが<最後のカギ>を鍵穴に差し込むと、乾いた音を立てて扉が開錠された。

 それと同時に、扉の向こう側でも大きく乾いた音が響き、外側と内側の鍵が同時に開いた事を示す。

 カミュが鍵をメルエに渡し、その鍵がポシャットへと納まるのを見届けたリーシャは、解り切った事を呟きながら、見るからに重量感のある扉を押し開ける為に、一歩前へと踏み出した。

 カミュとリーシャという前衛部隊が、共同で扉に向かって力を込め、ゆっくりと鉄の扉が押し開かれる。重量感のある音を響かせながら開いて行く扉を見ているメルエの瞳が輝き、まだ見ぬ未知なる世界に想いを馳せていた。

 

「あれ?」

 

 しかし、押し開かれた鉄扉の先に見える景色は、サラやメルエの想像とは異なった物だったのだろう。拍子の抜けた声をサラが上げ、メルエに至っては、何とも不思議な表情で首を横に傾げていた。

 扉の先に見えたのは、只の壁。

 正確に言えば、左に折れる道へと繋がる行き止まりであった。

 

「行くぞ」

 

 不思議そうに目の前の光景を見つめる三人を余所に、カミュが先頭を歩き出し、扉の先に見える通路を左へと折れて行く。扉を開けた通路の壁には、既に灯された燭台が続き、明るく室内を照らし出していた。

 慌ててカミュの後を追うメルエに続く様に、サラとリーシャも歩き出し、一行は不思議な空間へと足を踏み入れて行く。

 

「えっ!? あ、あれ?」

 

 それはどちらの声だっただろうか。

 カミュの後ろを歩いていたサラは、その先に広がる景色を見て、不思議な声を上げるが、サラの目の前に見える場所に居た男性もまた、同じようにカミュ達を見て目を丸くし、不思議な声を上げていた。

 その男性は、サラが以前に着ていた法衣のような物を纏い、その男性の後ろには、静かに佇むルビス像が見える。郊外に佇む教会であるのか、その神父は、一人祭壇近くでカミュ達を見つめ続けていた。

 

「そちらから来られたと言う事は、『旅の扉』を使って来られたのですか?」

 

「はい」

 

 暫しの間、カミュ達を呆然と眺めていた神父であったが、我を取り戻し、先程感じた疑問をカミュに向けて口を開く。その言葉に、カミュは即座に返答し、神父とカミュとの間に緊迫した空気が流れた。

 ここに教会のような物が存在すると言う事実は、国家が所有する『旅の扉』という物を管理する役目を担っている可能性もある。国と教会は別の組織ではあるが、その関係は切っても切り離せない物である事も、また事実であるのだ。

 『旅の扉』という移動手段は、国家に余所者が流れ込むという事とは別に、国民が外へ流出してしまうという恐れもあった。

 国民の流出という物は、国家にとって税という収入が減る事と同義であり、故に、それを国家が管理する事は当然。そして、国と一体となる教会が、その役目を担っていたとしても、何ら不思議ではなかった。

 

「そうですか……この『旅の扉』が封鎖されてから、もう長い年月が過ぎました。その長い年月が経過する中、噂では、サマンオサ国の国王様が『人変わり』をなされてしまったらしい……もはや、この場所も不要なのかもしれませんね」

 

「サマンオサ国王が『人変わり』をされたと言うのは?」

 

 カミュと睨み合いを続けていた神父は、不意に視線を外し、大きな溜息を吐き出した。その様子を見る限り、カミュ達の予想は大きく外れていた訳ではなく、やはり、この場所は国の監視下に置かれていたと推測出来る。

 しかし、そんな他愛のない会話の中に含まれていた一言が、カミュとサラの何かに触れてしまった。

 『人』という種族の心の成長という部分は、カミュもサラも、この旅で実感している。カミュは、『賢者』となったサラを見ているし、今やパーティーの要と考えているリーシャの変化も目の当たりにしていた。

 対して、サラの方は、三年になる旅の中で、自身が本当の意味で『勇者』と信じる事が出来る存在へと変化して行くカミュという青年を見て来ている。その全員が、アリアハンという国を出て頃から考えると、別人と言っても過言ではない変化をしているのだ。

 だが、そんなカミュ達の変化は、『成長』であって、『人変わり』とは言わない。カミュ達を昔から知っている人間が彼等を見ても、『別人のように成長した』と評価する事はあっても、『人が変わってしまったようだ』とは言わないだろう。

 『人変わり』という言葉は、良い意味で使われる事は無いのだ。

 

「ふむ……それは……」

 

 一国の王が『人変わり』をしてしまったという事実は、只の噂ではあるが、教会の神父が興味本位で語ってはいけない物である事を思い出したのだろう。自分の失言を悔やむように表情を歪めた神父は、カミュの問いかけに口籠ってしまった。

 追及出来ない状況になってしまった事を察したカミュとサラが、それ以上に神父を追求する事を諦め、別の話題を振ろうと口を開きかけた時、傍で話を聞いていた女性戦士が、遂に口を開く。そして、その一言が彼等の今後の行動を決定する物になってしまったかもしれない。

 

「サイモン殿はご健勝か? この世界の『二大英雄』と謳われたサイモン殿にお会い出来るのが楽しみなのだ」

 

「!!」

 

 リーシャの言葉は、この場に居るメルエ以外の人間にとって予想外の物だった。メルエ自体、既に一連の会話に興味はなく、ルビス像を見上げている為、リーシャの言葉自体を聞いていない。

 だが、『英雄サイモン』という存在の会話は、この場所では禁忌だったのかもしれない。何故なら、その名を聞いた神父の顔が、死人のように青白く変化しており、口元も微かに震えていたのだ。

 

「……サイモン殿は、確かにこの地方の英雄でした。サマンオサ国民の誇りであり、希望でありました。しかし……そんなサイモン様も、十年程前にサマンオサを追放されました」

 

「追放だと!?」

 

「ど、どういう事ですか?」

 

 輝く瞳を向けるリーシャに対し、心苦しそうに俯いた神父は、絞り出すようにその事実を口にする。それは、リーシャやサラにとっては、予期せぬ物であり、想像すらもしていなかった物であった。

 アリアハンの英雄『オルテガ』と並び立つ程の者と称された一国の英雄が、十年程前に、その祖国を追放されていたと言うのだ。

 追放とは、ただ単に国から出される訳ではない。そこには、その国に著しい不利益を与えたという不名誉が与えられ、汚されたその名は、その国の中では汚物と等しい程に価値を失う。それだけではなく、追放という事実は、その者の命にも直結するのだ。

 国の外に出て、無事に解放される事など有り得ない。そればかりか、自由の身のままで国外に出る事が出来る訳がないのだ。追放された者が自由を手にする時は、その者が死を迎えた時だけと相場は決まっている。

 

「サイモン殿は、何処へ行ったのだ……」

 

「勇者サイモンが、向こうの『旅の扉』より追放されたのもまた、サマンオサ国王の命令と聞きます」

 

 呆然とする中、リーシャが無意識に言葉を洩らす。

 英雄という存在に強い憧れを持っていたこの女性が、この四人の中で一番衝撃を受けた事だろう。だからこそ、彼女は、その英雄の命がまだあるのではないかという希望に縋るのだ。

 だが、そんなリーシャの願いは、続く神父の言葉で絶たれてしまう。

 国王の命となれば、サイモンの命はないだろう。

 国外で処刑されているか、運が良くとも、国外の何処かに幽閉され、数年の間に命を落としているに違いない。

 リーシャは、下級といえども、貴族である。その事実が推測できない程、愚鈍な貴族ではないのだ。

 

「サマンオサへ向かうのならば、お気を付けなさい。国王のお人柄は、変わったままだと聞きます。この祠の西、山沿いをぐるりと西へ進まれるが良いでしょう」

 

 神父は、サマンオサへの道を告げた後、そのまま別室へ入ってしまう。

 彼は、この場所で暮らしているのだろう。サマンオサから監視役として置かれたのが何時の事なのかは解らないが、『旅の扉』閉鎖時の監視役でない事は、その勤務意識を見ても凡そ想像できる。

 神父が消えた後、暫しの時間が流れ、ようやく己の意識を取り戻したリーシャとサラがカミュへ視線を向け、行くべき道を問うように訴えかけた。

 

「カミュ様……」

 

「カミュ……」

 

 二人の瞳の奥に見える微かな光が解らない程、カミュとこの二人の付き合いが短い訳ではない。深い溜息を吐き出したカミュは、未だにルビス像を見上げているメルエを呼び、先程神父が示した、別の場所にある旅の扉へと歩き出した。

 リーシャとサラは、そんなカミュの背中を見つめ、頷き合った後、その後ろをついて歩き出す。

その方角にあるのは、サマンオサの英雄であるサイモンという男が追放される為に潜った『旅の扉』。

 何処へ繋がっているかも解らない物ではあるが、リーシャとサラの想いを受けたカミュがその道を選択したのだった。

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 神父の居た祭壇から見て左側の通路を進むと、先程カミュ達が通って来たのと同様な鉄扉が控えていた。

 鉄扉の取っ手には、何重にも鎖が巻かれており、その鎖に大きな別鍵が付けられている。その状況が、この場所の重要性と、禁忌性を如実に表していた。

 再びメルエへと出されたカミュの手に<最後のカギ>が乗せられ、鎖に付けられた鍵に差し込まれて行く。乾いた音と共に別鍵は外れ、巻かれている鎖は、カミュとリーシャによって解かれて行った。

 

「先に言っておくが、その英雄様は、生きてはいないぞ?」

 

「ああ……解っている」

 

 カミュの言う通り、サイモンという名の英雄は、既にこの世にはいないだろう。この先にある『旅の扉』が何処へ繋がっているのかは解らないが、何処へ繋がっていようと、追放された英雄が生き延びている理由にはならないだろう。

 その事を、リーシャは良く理解していた。

 サラも、何処か釈然としない表情を浮かべてはいたが、何も反論を述べないところを見ると、理解はしているのだろう。

 

 鎖が解かれた鉄扉の鍵穴に再度<最後のカギ>を差し込み、開錠された事を確認した後、前衛の二人がその扉を力任せに開いた。

 重量感のある音を立てて開かれた扉の先は、十年もの間、開かれる事がなかったにも拘らず、何処か神聖な空気に満ちている。燭台へと火を移し、周囲の状況を見ると、そこにもルビス像が建てられ、その足下に渦巻く泉が湛えられていた。

 

「先に行く」

 

「わかった。また、サラとメルエを先に行かせる」

 

 振り向いたカミュと頷き合い、泉の中へと飛び込んだカミュを見送ったリーシャは、続いてサラとメルエを泉に飛び込ませる。再び、あの感触を味わう事に、少し眉を下げていたメルエであったが、サラに導かれるまま、渦巻く泉の中へと消えて行った。

 残されたリーシャは、一つ息を吐き出す。

 その溜息は何の為の物なのかは解らない。

 だが、溜息を吐き出した後、再び顔を上げた彼女の瞳は、強い光が灯っていた。

 

 

 

 『旅の扉』へ飛び込んだ先というのは、当然『旅の扉』となる。

 先程とは全く異なる景色に、リーシャは少しの間、思考が止まってしまった。

 薄暗くはあっても、若干光があった先程とは異なり、この場所には一切の明かりがなかったのだ。周囲を見渡す事など出来ず、右を見ても左を見ても、闇しか広がっていない。瞳自体が潰れてしまったのではないかと感じる程の闇に、通常の人間ならば恐怖を感じてしまう事だろう。

 だが、そこは歴戦の猛者達である。

 

「カミュ、<たいまつ>を点けてくれ」

 

 リーシャの言葉と同時に、彼女の横で小さな炎が灯り、その炎が木の先に付けられた油布に移される。<メラ>という最下級の呪文を唱えたカミュの顔がうっすらと浮かび上がり、徐々に周囲の景色も見えて来た。

 今回は、気を張っていた為か、サラもメルエもすぐに意識を取り戻し、<たいまつ>を持ったカミュの許へと集まって行く。

 三人が自分の許へと集まって来た事を確認したカミュは、<たいまつ>を動かして、周囲の様子を確認し始めた。

 そして、その灯りは、一点で停止する。

 

「ひ、酷い……」

 

 その光景を見た、『賢者』を名乗る女性が声を失う。だが、それは<たいまつ>を持っていた青年も、その横に立っていた女性戦士も同様であった。

 泉の傍には、砕け散った破片が散らばっており、それが何であったか等、容易に想像できた。砕け散った破片は、全てが粉々に粉砕されている訳ではない。陶器のような物で出来たそれは、彼等四人が飛び込んだ『旅の扉』の傍に建てられていた物と同様の物であろう。

 破片と共に転がる人の手のような部分や、半分に割れ、それでも笑みを浮かべる女性の顔が、それが像の破片である事を物語っている。そして、泉の傍に立つ像など、この世界の守護者であり、『人』の信仰の対象である『精霊ルビス』を模った像以外に有り得ないのだ。

 

「これは、自然に朽ちた物ではないな……」

 

「誰がこのような事を……信仰をしていない者であっても、ルビス様の像を破壊するなど考えられはしない」

 

 散らばった破片を手に取ったカミュは、その壊れ方を見て、それが人為的に壊された物であると理解する。何かで叩き割ったかのように砕け散った破片は、決して自然に倒れて砕けた物ではない。執拗に叩き壊された像は、原型を留めている物は微かしか残ってはいなかった。

 この世界では、ジパングという特例以外の国では、『精霊ルビス』が共通の信仰対象となっている。全ての国の人間が、その存在を認め、今この時を生きる事が出来るのは、その加護による物と考えられていた。

 そして、その信仰の布教に努めるのが、『僧侶』と呼ばれる職業の者達である。サラという女性の前職は教会に属する『僧侶』であり、両親を失った後、神父に育てられた彼女は、誰よりも『精霊ルビス』の加護を信じていた。

 故に、カミュの呟きに怒りを露にするリーシャとは異なり、その横で言葉を失い、青褪めた顔を向ける事しか出来ないのだ。

 

「カミュでさえ、ここまではしないぞ! 誰だ、こんな事をする奴は!?」

 

 リーシャの頭にも、相当な量の血が上っているのだろう。彼女は『僧侶』ではないが、この世界で生を受け、この世界に生きる者達に育てられて来ている。幼い頃から、『精霊ルビス』という存在を教え込まれ、今日ある糧は、その加護による物だと信じて来た筈だ。

 そんな彼女が初めて出会った、ルビス教を信仰していない人間というのが、彼女の横に立つ、世界の希望と謳われる青年だった。だが、信仰の対象である存在を呼び捨てにし、その加護の存在に疑問を投げかけ、『人』が広める教えを否定して来たその青年は、決して他人の考えを変えようとまで踏み入る事はない。

 自分が信じていないと言う事を伝え、その理由を口にする事はあっても、それを信じる者の考えを覆そうと言う動きを見せる事はなかった。つまり、その信仰の対象である物を模った像を破壊したり、信仰を広める教会と対立したりという行動を起こす訳はないのだ。

 

「サマンオサ国王が『人変わり』をしたと言うのは、案外、本当の意味での『人変わり』なのかもしれないな……」

 

「なに!? どういう意味だ!?」

 

 自分を引き合いに出されたカミュは、苦い顔を浮かべるが、その言葉を聞き流す事にして、破壊されたルビス像を見て考えていた事を口にする。しかし、その内容はリーシャには理解出来ない物であった。

 それとは異なり、今まで呆然と砕け散った破片を眺めていたサラは、弾かれたように顔を上げる。まるで、この世の終わりかのように顔を青褪めさせ、縋るような視線をカミュへと向けるサラの表情は、悲壮感に包まれていた。

 

「そ、それは……まさか……」

 

「今、この段階では判断できない」

 

 ようやく絞り出したサラの言葉は、答えを求めた相手によって止められる事となる。この段階では、カミュの口にした事も単純な可能性にしか過ぎない。例え、彼等が解決して来た様々な出来事を省みても、この場所で断言し、確定する事など出来る訳はないのだ。

 特に、彼等がここまでの旅で解決して来た物は、全てその場で目にするまで判断の難しい物ばかりであった。

 

 ロマリアという国で盗まれた王家の宝は、カンダタ一味という盗賊によって盗まれ、その盗賊が行って来た様々な罪を、一味の棟梁は把握していなかった。

 ノアニールという、人が集う村に眠りの呪いを掛けた者は、人の敵と看做されている『エルフ』族ではあったが、その呪いの元は人の業であっただけではなく、その呪いを解いたのも、人の敵と考えていた『エルフ』の誇りと優しさであった。

 イシスの国を変えてしまった物は、権力を欲した者の強欲と考えられてはいたが、実際に私腹を肥やす事はなく、その全ては国民の為に使われ、真の国臣としての使命を全うしていた。

 バハラタの町を恐怖に陥れた盗賊の幹部は、自分達の罪を知っていて尚、それ以外に生きる道はなく、許されない行為へと手を染めていた。

 

 全てが全て、カミュ達一行が知る事柄ではないが、彼等は、一側面だけを見て物事を決定する恐ろしさを、この旅で学んでいるのだ。悔しさを滲ませるだろう、憤りも感じるであろう、哀しみも感じるかもしれない、それでも彼等は、自分の瞳で物事を見つめ、自分の頭で考えなければ物事を決定する事はしない。

 それこそ、彼等が『勇者一行』と呼ばれる所以なのかもしれない。

 

「メ、メルエ! 何をやっている!」

 

「…………むぅ…………」

 

 顔を俯かせてしまったサラの姿を見ていたリーシャは、その内容が並々ならぬ物である事を察して口を噤んでいたが、傍から聞こえ始めた奇妙な音に視線を移し、そこで繰り広げられている光景に絶句した。

 そこには、砕け散ったルビス像の破片を握り、それを壁に向かって投げている幼い少女の姿があったのだ。

 少し大きめの破片を掴み、壁に向かって投げ、再び砕ける時に発する乾いた音に頬を緩めたメルエは、何度も破片を拾っては壁に投げつけていたのだった。

 

「メルエ、これはルビス様のお姿を模った物だ。そのような事をしては、駄目だ!」

 

「…………むぅ…………」

 

 破片を持った手を強く握られ、叱りつけるように声を発するリーシャを見上げたメルエは、不満そうに頬を膨らませ、破片から手を離す。幼い彼女にとって、『精霊ルビス』という存在は、知識の中にも存在しない物なのだ。

 幼い頃から教育を受ける事はなく、自身の周りにある物に対しても興味を持つ事はなかった。故に、彼女にとって、食事の前の祈りも、大好きなリーシャやサラが行うから真似をするだけの事であり、そこに信仰心など欠片もない。ルビスの像に向かって祈るサラの姿を不思議そうに見つめ、面白そうだから真似をして跪くだけであり、そこに感謝の念など皆無なのだ。

 サラは、ルビスの教えという物をメルエに強要する事はなかった。この旅の中で、彼女自身、その教えに対して懐疑的になっており、『精霊ルビス』という存在自体は以前と変わらずに信仰しているものの、『人』が曲げてしまった教えに関しては、他者に強要する事はなくなっている。

 それが、ルビス像としての形を保っているのだとすれば、いつも見ているメルエも、それを破壊しようとは考えないだろう。だが、砕け散って破片となってしまえば、例え元は『精霊ルビス』を模った物であろうと、幼い彼女にとっては玩具に変わり果ててしまうのだ。

 

「メルエが大事にしていた<魔道士の杖>に嵌め込まれていた宝玉の欠片を、誰かが壁に投げつけていたら、メルエは怒らないのか?」

 

「…………だめ…………」

 

 自分の中の常識と、メルエの中にある物が完全に異なっている事を改めて感じたリーシャは、むくれる少女と目線を合わせ、言葉の内容を変化させる。そして、その考えは的を射ていたのか、メルエは先程まで膨らませていた頬を萎め、眉を下げて首を横へと振った。

 幼い少女が最初に買い与えられた武器は、今の彼女にとっても誇りであり、宝である。その想いを知っているリーシャだからこその言葉なのだろう。首を振った少女は、小さな声で謝罪の言葉を口にした。

 

「この問題は後だ……外に出てみる」

 

「わかった」

 

 母子のような会話が終了したのを見計らって、カミュが先頭を歩き出す。<たいまつ>を向けた先は、一寸先しか見えない程の闇が広がっており、カミュとの距離を置かずに、固まるように一行は前方へと歩を進めて行った。

 それ程の距離を歩く事無く、彼等は再び鉄で出来た扉の前に辿り着く。辺境の教会にあったのと同様に、しっかりとした造りの鉄扉は、そこに入る者も出る者も拒むように、悠然と構えられていた。

 メルエから鍵を受け取り、扉を開錠した一行は、重い扉を押し開け、外へと出て行く。ここも先程と同様に、『旅の扉』があった場所とは異なる明るさを保っており、壁の燭台には赤々と炎が灯っていた。

 

「あれ? 貴方達は何処から来たんですか?」

 

 出た先は、何処の城下町にも、どこの村にも存在する宿屋であった。

 カウンターで帳簿を付けていた店主が、不意に自分の目の前に現れた人間に驚き、入って来た場所を確かめる。カウンターの向かいには、しっかりと室内に入る扉があり、その扉には小さな鈴が付けられていた。

 客が店内に入って来れば鳴るようになっているのだろう。だが、その音を発する事無く店内に入って来たカミュ達に驚いたのだ。

 もしかすると、この店主は、『旅の扉』へと続く扉の存在を知らないのかもしれない。知ってはいても、鍵の掛けられた開かずの扉が開いたのを見た事はないのだろう。

 

「う~ん……あの鈴は壊れてしまったのかな……霊の類ではなさそうですし……」

 

 首を捻る店主は、失礼な言葉をカミュ達へ投げかけるが、この状況であれば、それも致し方ない事なのかもしれない。

 音も立てずに忍び寄る存在となれば、それは今も昔も死後の世界を生きる者達以外に有り得ないのだ。

 魔物の中にも、そのような存在がいる事はいるが、家屋に住み付く物は、魔物となる霊ではない可能性が高い。

 

「驚かせてしまって、申し訳ありません。道に迷ってしまい、この辺りが地図上でどの場所なのかも解らなくなり、見えたこの場所へ入ってしまいました。どのような場所なのかが解りませんでしたので、音を立てないように気を付けていたのが、いけなかったようです」

 

「そ、そうでしたか……これは失礼しました。では、改めまして……旅の宿屋へようこそ。ここは、バハラタの町の北方に位置する場所にある旅の宿屋です」

 

「えっ!? バハラタですか!?」

 

 『旅の扉』という存在を口にする危険性を感じたカミュは、店主の問いかけに、尤もらしい嘘を吐く。『勇者一行』と名乗る者達が嘘を吐く事に、未だに抵抗のあるサラは眉を顰めるが、その後に続いた店主の言葉に驚きを表す。

 店主が口にした場所は、かなり以前に一行が訪れた事のある場所。

 彼等が船という移動手段を手に入れる前に、ホビットの英雄が造りし抜け道を通って渡った場所であり、サラという『僧侶』の根底を覆してしまった場所である。

 

「すまない。少し外へ出て来る」

 

「あ、はい……またのお来しをお待ちしております」

 

 移動先の予想は大きく外れていたのだろう。

 カミュもまた、若干の驚きを露にし、店主に断りを入れて、外へ繋がる扉へと歩いて行った。

 メルエの手を引く余裕もなく、サラもその後を追い、眉を下げた幼い少女の手は、先程母のように叱った女性戦士が握る事となる。

 

 扉を開けたその先は、見渡す限りの平原が広がり、その先には大きな森が見える場所だった。

 少し歩いた先でカミュが地図を開く頃には、太陽は西へ沈み始めており、眩いばかりの西日を照らしつける。二度の『旅の扉』での移動は、それなりの時間を消費させていたようで、また一日が暮れようとしていた。

 

「地図で見る限り、この辺りか……」

 

「そうですね、あちらの海の方角がおそらく北でしょうから、ここは<バーンの抜け道>の出口があった森の北でしょうね」

 

 地図を広げたカミュは、横に並んだサラにも見えるように地図を下げ、その一点を指すように指を当てる。その場所は、ノルドという名のホビットが護っていた抜け道の出口があった森を北へ抜けた場所であった。

 更に北へ進めば、大きな海が広がり、その海岸からそう離れていない場所に、先程の宿屋が建てられていたのだ。

 

「サイモン殿は、この場所から更に何処かへ連行されたのか……それとも……」

 

 二人の会話を聞いていたリーシャは、サマンオサという大国で英雄とまで謳われた者の末路を考え、悲痛な表情を浮かべる。

 この場所がバハラタという自治都市の北方だとすれば、考えられる限り、この大陸に幽閉する場所など有り得ない。

 そうであるとすれば、北側に見える海の近辺で処刑された可能性も出て来てしまう。それは、英雄に憧れを持っているリーシャにとっては、耐えられない物だった。

 幼い少女の手を握ったまま、呆然と北方にある海を眺めるリーシャの横を、一人の男性が通り抜けて行く。旅をする為の身支度を整え、簡易な武器を持った男性は、無言で宿屋の方角へ歩いて行った。

 

「ここで、こうしていても仕方がありませんね……サイモン様の行方は、サマンオサで確認した方が良いでしょう」

 

「……ああ……」

 

 陽が刻々と沈み行く場所に佇んでいても、何の解決にもならない。

 その事を真っ先に告げたのは、先程までルビス像の破壊という所業に対しての衝撃が抜け切れていなかったサラ。

 既に太陽の半分は、西の大地へ隠れてしまっている。このままここに居ても、夜の帳が落ち、闇に包まれるのを待つだけになってしまうだろう。

 すぐ傍に宿屋があるにも拘わらず、その辺りで野宿をする必要はなく、一行は元来た道を戻り、宿屋の扉を再び開け放った。

 

「ようこそ、旅の宿屋へ。男性と女性でお部屋を分けますと、全部で40ゴールドになりますが、よろしいですか?」

 

「構わない」

 

 宿屋に戻り、カウンターに居る店主に声を掛けると、営業的な笑みを張りつけた店主が一行の部屋割を決め、値段を告げて来る。その価格は、辺鄙な場所にある宿屋としては、法外に近い程に高い価格ではあるが、それは辺鄙な場所にある宿屋だからこそかもしれない。

 基本的に需要が高いところほど、その値段も高くなる物ではあるが、ここまで需要が低ければ、一客当たりの価格を上げなければ、成り立たないのだろう。現に、カウンター傍にあるロビーのような場所には、先程リーシャの横を抜けて行った男性のみが腰を下していた。

 

「ここの宿屋に泊るなど、物好きもいたもんだな」

 

 カミュが店主に前金となる宿泊代を支払っている間、ロビーに置かれている椅子に腰かけたメルエが足をぶらぶらと振っている横で、不意に男性が口を開く。

 驚いたメルエが、椅子から飛び降り、リーシャの後ろに隠れてしまうのを見て、男性は苦笑を浮かべ、一つ溜息を吐き出した。

 男性の物言いに引っ掛かりを覚えたサラは、リーシャの横から顔を出し、男性に話の続きを促す。サラの瞳を見た男性は、その意味を察して、小さな息を吐き出した後、口をゆっくりと開いた。

 

「噂に過ぎないが……この場所に北にある湖の真ん中に、祠の牢獄があるらしい。そこに囚われていた者達の魂が、今でも彷徨っているという話だ」

 

「……牢獄……?」

 

「あれは、湖なのか!?」

 

 男が語り始める頃に、支払いを終えて戻って来たカミュが疑問を口にするが、同じように話を聞いていたリーシャは、彼とは異なる言葉に疑問を持つ。

 確かに、この宿屋の北に位置する場所に広がる場所を、リーシャもサラも海だと感じていた。カミュもメルエも同様であろう。だが、この男性は、あれは巨大な湖であると言う。それは、確かに衝撃的な事実ではあった。

 だが、カミュとサラは、リーシャとは異なり、その湖の真ん中にあるという『牢獄』という単語に引っ掛かりを覚える。湖の真ん中に牢獄があるのだとすれば、ここまでに感じていた疑問の多くが晴れて行くのだ。

 

 サマンオサの英雄である者が、何故ここに連行されたのか。

 何故、その英雄の消息が外の国に漏れていないのか。

 何故、この宿屋の店主が、突如現れたカミュ達に恐れを抱いたのか。

 

 その多くの疑問が一気に解消されて行く。この男性は、噂という形で話を進めてはいるが、何も無い場所に噂が出来上がる訳はなく、そこには元となる事実がある筈なのだ。

 牢獄で死んだ者達の魂が彷徨っているという物は、確かに噂の域から出る物ではないが、その場所に『祠の牢獄』と呼ばれる場所があるという事は、その元となる事実であると考えられもする。

 

「まぁ、あくまでも噂だがな」

 

 最後にその言葉を残した男性は、そのまま自分の部屋へと入って行った。

 残された一行は、それぞれに何らかの想いを持ち、男性の言葉について思考を巡らせる。唯一人、会話に興味さえも示さなかった幼い少女だけは、不思議そうに皆を見上げ、頻りに首を傾げていた。

 

「ここに牢獄があったとしても、今の俺達には行く術がない。まずは、サマンオサへ向かう」

 

「……そうですね。サイモン様の行方は気になりますが、まずは『何故、サイモン様が追放されたのか』という疑問を解かない事には、前へ進む事は出来ません」

 

 黙り込んでしまった一行に不満顔を浮かべ始めたメルエが、最も頼りとする青年のマントの裾を引いた事によって、再び時は動き出す。

 カミュの言葉に賛同したサラが、傍で頬を膨らませているメルエの手を引き、一行の一日の活動は終了を迎えた。

 四人が、割り振られたそれぞれの部屋へ入った後のロビーは、小さな灯りと、静けさだけが広がって行く。遠く奥の方で、店主が湯を沸かす音が、物悲しく響いていた。

 

 

 

 彼等の旅は、細い糸を手繰る旅。

 情報は、少しずつ見えて来るが、その情報が繋がる日が何時かは解らない。

 少ない選択肢を手繰り、今ある情報を繋いで行く旅は、今が初めてではない。

 目的地は、『人変わり』をしてしまった王の治める国。

 この世界の英雄の一人を生み出し、育んだ国。

 その場所で、彼等が何を見て、何を聞き、何を成すのか。

 それは、この世界の守護者にも解らないのかもしれない。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

大変遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。
予想以上に長くなってしましました。
次話から、ようやくサマンオサ編の突入となります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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サマンオサ大陸①

 

 

 

 翌朝、陽が昇ると同時に起床した一行は、眠たい目を擦る最年少の少女の手を引き、再び『旅の扉』へ飛び込み、遠く離れた教会へと戻った。

 早朝という事もあり、朝の祈りを終えていた神父は、祭壇傍にはおらず、一行は祭壇を抜けて、外へと出る事となる。陽が高く昇る前に、ある程度の距離を稼ぎたいと考えていたカミュは、外へ出ると同時に現在位置を確認する為に地図を広げた。

 サマンオサという国は、英雄を一人輩出している国家である。その国章などは、世界中の人間全てが知っている訳ではないが、その名前程度であれば、誰もが一度は耳にした事のある物であった。

 

「山沿いに西へ向かえと言われたな……」

 

「わかってはいるが、周囲が高い山脈に囲まれている……大まかな位置的には、おそらくこの辺りだとは思うが……」

 

 教会を出てすぐ、見えて来た広大な景色の前で、地図を広げたまま立ち尽くすカミュを見て、リーシャが傍に寄って行く。昨日、教会の神父に指示された行き方を言葉にするリーシャであったが、カミュの言う通り、広がる壮大な平原の向こうには、見事な山脈が連なっており、山沿いと言われても、正確な道を把握は出来なかった。

 朝陽を受けた平原は、朝露によって輝きを放ち、その眩しさにメルエは目を覆っている。平原は遙か彼方へ繋がるように遠く北西へと伸びていた。

 平原の道を作るように、北と南には大きな森が茂っており、森の先には高い山脈が連なっている。山脈へ向かって歩く訳ではない以上、平原を歩く以外に方法はないのだが、その平原が余りにも広過ぎるのだ。

 

「山沿いに西とおっしゃっていましたから、この平原を北西に向かって歩いて……ほら、ここを川が流れていますから、橋を見つければ良いのではないでしょうか?」

 

 地図を覗き込んでいたリーシャは、地図の見方が解らない訳ではないが、常日頃から、行く先をカミュに任せて来た経歴がある。ここ三年の月日で最後尾を常にあるいて来た事が災いしていた。

 目を覆っていた手を少しづつどけ、何とか目が慣れて来たメルエの手を引いたサラが、そんなリーシャの横から地図を覗き込み、地図上に記されている川のような図を指差して考えを口にしたのは、リーシャが首を傾げた直後だった。

 

「それ以外はないようだな……」

 

 常に前を歩いて来た青年も、考えは同じであったのだろう。サラの指差す場所を確認し、それ以外に方法が無い事を改めて認識する。

 平原は北から南に長く伸びている、遠く見える山脈の麓にある森にしても、地平線の向こうに見える程度の物で、その場所に辿り着くにも、数日の日数を掛ける必要があるだろう。ならば、方法として、その平原を地図通り、北西の方角へ歩くしか方法が無いのだ。

 

「方角は決まったな。メルエ、行こう!」

 

「…………ん…………」

 

 先程までの考え込むような表情を消し去り、リーシャは手を大きく前へと出す。その手を笑顔で受け取ったメルエは、朝露に濡れる草花のように輝いていた。

 行き先は決まっている。

 そして、その行き方も決まった。

 あとは、その道を歩むだけである。

 

「グモォォォ」

 

 しかし、彼等の歩む道は、常に平坦な物ではない。

 それを示すように、遠く離れた森の方から巨大な雄叫びが平原に轟いた。

 その雄叫びが魔物の物である事は間違いないだろう。それ程近くはない事は、轟いた雄叫びの方向に、魔物の姿が見えない事からも明らかではあるが、それでも、カミュ達の存在に気が付いている事だけは確か。

 魔物の速度は、人間の速度を遙かに凌ぎ、その持久力も人間の数倍の能力を誇る。例え、人間の足で歩いて数日の距離だとしても、魔物の速度では数刻にも値しないという事も充分に有り得るのだ。

 

「カミュ、少し先を急ごう」

 

「わかった。最後尾は任せる」

 

 一固まりで歩いていた一行は、ここまでの旅で慣れ親しんだ隊列へと変化させる。『勇者』を先頭に、『賢者』、『魔法使い』と並び、最後尾を『戦士』が歩む。戦闘時とは異なる隊列ではあるが、これがこのパーティーの最強布陣でもあった。

 一番幼いメルエの歩行速度に合わせながらも、歩く速度を上げ、魔物と遭遇するまでに距離を稼いで行く。カミュは前方へ注意を払い、サラとメルエは左右に注意を払う。そして、最も危険度の高い後方を、人類史上で最高位に立つであろう『戦士』が請け負った。

 

「カミュ、来るぞ!」

 

「メルエ、私の後ろへ!」

 

 徐々に近づいて来る雄叫びの感覚が短くなって行き、その姿が微かに見えて来た頃になって、ようやくリーシャは己の武器である<バトルアックス>を抜く。

 手を繋いでいたメルエを自分の後方へ下げたサラも、<鉄の槍>を抜き、後方へと向き直る。最後に、周囲を注意深く確認していたカミュが、後方から迫る魔物だけである事を認め、己の武器を抜いて、サラとメルエの前へと歩み出た。

 戦闘の開始である。

 

「グモォォォ」

 

 一行の目の前に現れた魔物の数は、二体。

 対になるように、横並びで陣取り、大木のように太い腕を高らかと上げて威嚇行為を取っている。口から剥き出された牙は鋭く、口の中に納まらない程の長さを誇っていた。

 身体全体を緑色をした体毛が覆っており、その体毛は、全ての物を拒絶するように魔物の肉体を覆い隠している。一体が威嚇行為を繰り返す間に、もう一体は一行の逃げ道を塞ぐように後方へと回り込んで行った。

 

「腕力はあるでしょうね……メルエ、<スクルト>を!」

 

「…………ん………スクルト…………」

 

 前方と後方に分かれた魔物を見て、サラはその生態を分析し始める。その魔物の姿は、以前に出会った事のある魔物であり、サラの心にも、そしてメルエの心にも深い傷と、決意を刻みつける事になった魔物であった。

 巨大な猿という表現が、最も適切なのだろう。

 大木のような腕を振り上げ、相手を威嚇するように胸を叩く姿は、通常の人間であれば、萎縮してしまう程の圧力を誇っていた。

 

<コング>

凶暴な大猿類の魔物の中でも、その腕力や肉体の強靭さは、他の同種とは一線を画す程の物を有す。森の中などに生息する魔物ではあるが、『人』の気配には敏感であり、森を避けるように歩く『人』の気配を感じては襲い、鋭く長い牙によって、その身体を食い千切る。サマンオサ地方の森のみに生息しており、サマンオサ城へ向かう一行は、この平原の道を<コング>に気付かれないように進む事が、暗黙のルールとなっていた。

 

「カミュ!」

 

 <コング>の恐ろしさは、その飛び抜けた腕力だけではない。身体の大きさに似合わない程の俊敏さをも持ち合わせているのだ。

 メルエの唱えた呪文によって、一行の身体をその魔法力が包み込む。膨大な魔法力によって包まれた一行の身体が、神々しい光に包まれた事に反応した<コング>は、力任せにその腕を振るい、先頭に出て来ていたカミュの身体を殴り飛ばした。

 世界最高の『魔法使い』の魔法力に護られているといえども、『魔物』と『人』という種族の壁を超える事は出来ない。<コング>の拳を受けたカミュは、そのまま平原の向こうへと弾き飛ばされ、数度地面を跳ねた後、沈黙した。

 

「マヌーサ!」

 

 前衛の二人が予想を超えた状況に陥った事を察したサラは、自分達の前で今にも腕を振り下ろそうとしている<コング>に向かって呪文を詠唱する。脳神経を狂わせ、幻に包むその呪文の効力は、まだメルエが加入していない<ナジミの塔>にて、リーシャが実証していた。

 今まで見ていた景色とは異なり、周囲を霧に包まれたような感覚に陥った<コング>は、闇雲に腕を振るうが、その腕がメルエやサラに及ぶ事はない。サラの後方へと再び移動したメルエは、サラの指示を待つように、<雷の杖>を握り締めた。

 

「ウホッウホッ」

 

 狂ったように腕を振るう一体とは異なり、先程カミュを吹き飛ばした<コング>は、威嚇するように叩いていた胸の音と叫び声を変化させる。斧を握り締めたリーシャは、転がって行ったカミュが起き上がるのを見て、再び魔物へと視線を戻した。

 しかし、その<コング>の行為は、一行の予想を遙かに超えた物で、彼等はその行為が齎す物に驚く事となる。

 

「…………ふえた…………」

 

「仲間を呼んでいたのですか……?」

 

 狂ったように振るわれる腕を避けていたサラは、後方から聞こえた呟きに、視線を動かした。

 視線の先には、森の方角から徐々に大きくなって来る魔物の姿があり、それが<コング>と呼ばれる種である事は明確。一体の不可思議な行動は、もう一体の同種を呼び寄せる行為であった事に、サラはようやく気付く事となる。

 あの凄まじい腕力と真っ向からぶつかりあっても、『人』という種族であるカミュ達には分が悪い。如何に人類の中で最高位にいると言えるカミュやリーシャであろうと、魔物の腕力に勝てる訳はないのだ。それは、この<コング>だけではなく、アッサラーム近辺で遭遇した、下位種である<暴れザル>だとしても同様であろう。

 鋭い武器や、強固な防具、そして強大な呪文という付加があるが故に、彼等は魔物と対等以上の戦いが出来るのだ。純粋に腕力や持久力だけを魔物と競おうとすれば、『人』である彼等に勝ち目はない。

 

「リーシャさん、カミュ様と魔物の隙を作ってください! 新たに現れる一体は、私とメルエで請け負います」

 

「わかった」

 

 リーシャにサラの考えている事など全てを理解出来る訳がない。

 だが、彼女達は、相手の意図を理解していなくとも、その指示を受け入れる事の出来る経験を積んで来ていた。『信じ合う』という行為は、それ相応の経験と、その時間の中での衝突があってこそ成り立つ物。

 それを彼女達は、積み重ね、そして壊し、再び積んで来たのだ。

 

「メルエ、解りますね?」

 

「…………ん…………」

 

 後ろで杖を握る少女へ顔を向けたサラは、詳細など一切語らず、確認の言葉を告げる。通常の人間であれば、そんな物で全てを把握する事は不可能なのだが、幼い少女と、それを導く者との間には、深く強い絆が築かれていた。

 それは、『勇者』の青年と少女の間に築かれた絆とも、『戦士』である女性と少女の間に築かれた絆とも異なる物。魔法という神秘に重きを置く者達の間に築かれた絆は、その状況に於いて最適な物を、適量の魔法力で行使する事が出来る程の物でもあったのだ。

 

「…………メダパニ…………」

 

 自身の前から保護者が退き、前方の視界が開けたメルエは、迫って来る一体の<コング>に向かって、その手に持つ杖を振り下ろす。メルエの体内で作られた魔法力は、正確に杖へと伝達し、杖の先に付けられたオブジェが神秘へと変換を完成させた。

 目に見えない魔法は、迫り来る<コング>一体を正確に包み込み、その脳神経を着実に蝕んで行く。以前に、リーシャが受けた時と同じように、その場で立ち止まった<コング>を見たサラは、即座に行動に移す。

 

「メルエ、急いで離れますよ!」

 

 呪文の余韻を残すメルエの手を引いたサラは、そのままカミュ達と合流する為に、急いで方向転換を果たす。こちらに向かって来ない状況を見る限り、幼い魔法使いの放った呪文が正確に効果を示した事を意味していたのだ。

 脳神経を狂わされた<コング>が、敵味方関係ない程に錯乱し始める事は、以前のリーシャによって実証されており、その際に傍にメルエやサラがいれば、その矛先が何時向けられても可笑しくはない。故に、このパーティーの頭脳は、その場を離れたのだ。

 

「サラ、どうした!?」

 

「あちらは、魔物同士に任せます。一体ずつ倒して行かなければ、危険が高くなりますので」

 

 突如合流した後方支援組を見て、リーシャは口を開く。既に、カミュは戦線に戻って来ており、今は<コング>の振るう腕を盾で流しながら剣を振るっていた。

 リーシャ達三人は気付いてはいないが、カミュの持つ<草薙剣>には、相手の防御力を低下させるような付加が備わっている。故に、振るわれた剣は、<コング>の硬い体毛を貫き、その身体を傷つけていた。

 飛び散る体液は、『人』の物とは異なり、赤い色をしてはいない。だが、痛みは感じているのだろう。カミュが剣を振るう度に、雄叫びのような叫び声を上げながら苛立ちを露にしていた。

 

「何がどうなっているんだ?」

 

 サラの言葉を聞き、後方へ向けた視線の先でリーシャが見た物は、何とも不思議な光景であった。

 合流した筈の<コング>の巨大な拳が、幻に包まれている<コング>に対して振るわれているのだ。渾身の力を込めた拳は、正確にもう一体の魔物へ貫かれ、その身体を吹き飛ばす。吹き飛ばされた<コング>は、反撃に出ようとするが、その攻撃は容易く避けられ、再び巨大な拳を顔面に受けていた。

 

「三体を同時に相手する事は出来ません。一体に錯乱して貰い、時間を稼いで貰います」

 

 戸惑うリーシャとは異なり、カミュが相手をしている魔物から視線を離さないサラは冷静である。その瞳自体が冷たい決意の炎に燃え、このパーティーを勝利に導く道を模索し続けていた。

 傍に控えるメルエは、カミュが苦戦している魔物に呪文を行使する時を待つように、静かに杖を掲げている。

 この四人は、四人が揃ってこそ、人類最高の戦力となり得るのかもしれない。一人一人が、既に人類の枠を超えた程の力を有してはいるが、それは『人』という種族の中の話。

 『魔物』という人類が敵わない種族に対して考えれば、個の力など中堅の部類に収まる事が出来るかどうかという程度である。だが、この四人が一つに纏まった時、それは『魔族』や『魔物』の王である『魔王バラモス』でさえ対抗出来る程の力となって行くのだろう。

 

「あれが……錯乱した魔物の姿か……闘技場では、あの状態の魔物を戦わせているのだな……」

 

「!!……今は手段を選んでいる場合ではありません。それに、如何にメルエの魔法力といえども、何度も衝撃を受ければ、正気に戻ってしまうでしょう。それまでにこちらの魔物を何とかしないと……」

 

 ロマリア、イシスに設立されていた闘技場や格闘場という場所では、魔物達を戦わせ、その勝者を賭ける事によって娯楽としていた。

 彼等がそれを目にした時、ある者は怒り、ある者は哀しみ、ある者は人間の業の凄まじさに己を見失った。

 魔物という種族は、基本的に同族での争いは起こさない。縄張り等の件で同種族の争いや、食物連鎖の争いはあるだろうが、利権などでの争いを起こす事はない。同じ場所に魔物を集めたとしても、そこに縄張りを作らない限り、争う事はないだろう。

 ならば、何故、闘技場が成り立つのか。

 それは、今、彼女達の瞳に映る光景が、その全てを物語っているのかもしれない。

 

「ルカニ」

 

 呆然とするリーシャの横で、『賢者』の詠唱が響く。大猿の身体を包み込んだサラの魔法力は、その体毛の強固さを削り取って行った。

 その機会を見計らっていたように、<コング>の拳を避けたカミュは、その剣を水平に持ち替え、真っ直ぐ突き出す。体毛という強固な鎧を失ったに等しい大猿の体内に潜り込んだ剣は、その肉体を抉って行った。

 

「グモォォォ」

 

 痛みを吐き出すように上げた雄叫びは、大猿の悲鳴だったのかもしれない。ゆっくりと引き抜かれた剣の後を追うように、<コング>の体液が噴き出した。

 膝が崩れ落ちる時に、最後の力を振り絞って腕をカミュへと振り下ろそうと<コング>が動き出した時、最後の一閃が迸る。呆然自失となっていたリーシャが我に返り、カミュへ攻撃を繰り出そうとする大猿の命を絶ったのだ。

 振り抜かれた<バトルアックス>は、寸分の狂いもなく、<コング>の首へ吸い込まれ、鍛え抜かれた刃は、腕以上に太い首を刈り取った。

 

「あちらも決着が着いたようです」

 

 崩れ落ち、命の灯火を消した<コング>の体躯を見ていたサラは、後方を振り返り、先程まで暴れ狂っていた二体の大猿の内、一体が地に伏して行くのを見て、言葉を洩らす。

 錯乱していた<コング>の拳が、幻に包まれていた大猿の顎に入り、小さな脳を揺らされた大猿は、その巨体を地面へ横たえ、沈黙していたのだ。

 それは、錯乱から覚めないまま、もう一体の大猿を打ち倒してしまった事を示している。<マヌーサ>の影響が消える事無く、打ちのめされた大猿の攻撃は、只の一度も当たる事はなかったのだろう。次なる標的を探し求めるような<コング>の瞳は、未だに正気を取り戻した様子はなく、狂気の色に彩られていた。

 

「あれは、あのままなのか?」

 

「いえ、攻撃する標的を無くすか、何度か衝撃を受ければ、正気に戻ってしまうと思います」

 

 一体の<コング>を葬り去ったカミュは、標的を定め終わったであろう大猿に視線を向け、その状況を作り出した者へ問いかける。

 正直、正気を失った今の姿の方が魔物本来の姿なのか、それとも正気に戻った時の姿が魔物の姿なのかは、カミュ達には解らない。正気に戻ったとはいえ、それは『魔王バラモス』の魔力に当てられ、その影響を大きく受けている姿でもある。

 つまり、本来の暴力性を凶暴性へと変化させた物を、呪文の効力によって更に狂気へと落としてしまっている状態とも考えられるのだ。

 

「来るぞ!」

 

 カミュとサラの会話が続く中、カミュの足下へと移動していたメルエが<雷の杖>を掲げる。そして、リーシャは残った<コング>の動きを見て、戦闘が終了していない事を仲間達に向かって告げた。

 しかし、狂ったような叫び声を上げ、突進して来る魔物に向かって武器を構えたリーシャの動きを、動じる事無く制する者がいた。

 それは、戦闘の非情さを知り、己の力の恐ろしさを学び、そしてその力の使い方を、自らの鏡のような幼い少女から教えられた『賢者』。冷静に周囲を見渡す力を備え始めた人類の光は、前へ出ようとする心優しい女性戦士を退け、一歩前へと踏み出す。

 

「メラミ!」

 

 完全に正気を失っている<コング>は、その身体能力を武器に、突進してくる事しか戦闘方法を選択出来はしない。何も考えていないかのように、カミュ達目掛けて突進して来る大猿に向かって向けられたサラの指先から、大きな火球が飛び出した。

 それは、ここまでの戦闘の中で、幼い『魔法使い』が要所要所で行使し、このパーティーを救って来た呪文。

 魔法力を有する者の進むべき道を決定する、最下級呪文と呼ばれる<メラ>の上位呪文であり、この世界でも数限られた者にしか行使出来ない神秘。いや、正確に言えば、現在のこの世界で、この呪文を唱える事の出来る『魔法使い』は、数える程しか存在しないのかもしれない。

 

「グモォォォ」

 

 脇目も振らず、真っ直ぐに突進して来た<コング>の力の方向は、カミュ達が待つ一点。その一点から放たれた上位火球呪文は、突進してくる力を利用し、何倍もの力へと変化して行った。

 <コング>の上半身を飲み込む程の火球は、正確にその身体を貫き、着弾と同時に、高熱を撒き散らす。生物の体毛が焦げる臭いが充満し、火炎によって呼吸が出来なくなった魔物の声にならない叫びが轟く。

 

「うおぉぉぉ!」

 

 魔物を苦しめて楽しむ趣味を、彼等四人が持っている訳ではない。活動が止まった<コング>へ突進して行ったリーシャが振り抜く斧が、暴れ狂う大猿の足を抉る。噴き出す体液と共に、支えを失った身体が地へと落ちて行った。

 <メラミ>の炎が薄れ、露になった<コング>の顔面は、目を覆いたくなる程の状態になっており、肌は焼け爛れ、爛れた皮膚は崩れ落ち、呼吸も出来ない程の物。

 そして、魔物という強靭な生物の生存本能だけで鼓動している命の灯火は、最後に振るわれた、神代の剣によって吹き消されて行った。

 

「あの一体は、死んではいないのだろう?」

 

「はい。おそらく失神しているだけだと思います」

 

 二体目の<コング>が倒れ、残る一体は<メダパニ>の影響を受けた大猿に打倒されている。打ち倒されて、大の字で平原に倒れている大猿を見たカミュの呟きに、サラは静かに答えた。

 その答えには、追い打ちをかける必要性を否定する響きが込められている。既に戦闘不能になっている魔物の命さえも奪おうとする者は、この四人の中に一人もいない。無言で視線を合わせた四人は、倒れている<コング>を避けるようにして、再び平原を歩き出した。

 

 

 

 その後の平原の道は、魔物の襲来もなく、一行は順調に歩を進めて行く。

 一度太陽が沈み、野営によって一夜を明かした一行は、太陽が昇ると同時に、再び平原の北西に向かって歩み始めた。

 二日目の陽が高く昇り始め、その陽が西の大地へ落ち始めた頃、カミュ達の頬を湿った空気が触れるようになって行く。

 その湿った風は、海から吹かれる潮風のように磯の香りがする訳でもなく、清らかな風をカミュ達の許へ運び、暫くぶりに漂うその香りに、一行は総じて頬を緩めた。

 

「川が近いようですね」

 

「陽も落ちて来た。カミュ、今日中に橋を見つけて渡るか?」

 

「出来るのであれば、渡っておきたい」

 

 手を繋ぐメルエと視線を合わせるように微笑むサラが、澄んだ香りの漂う元に想いを馳せ、その存在を幼い少女と共に確かめ合う。頬笑みを浮かべる二人を横目に、大地に半分ほど隠れてしまった太陽を見たリーシャが、先頭で地図を見ている青年に問いかけた。

 予想通りの返答だったのか、その答えに頷いたリーシャは、再びサラとメルエを促して歩き始める。

 

「カミュ様、向こうの方に橋が見えますよ」

 

 それ程の時間を必要とせず、一行は流れの緩やかな川に出た。

 川幅はとても大きく、その太い通り道を悠然と水が流れて行く。夕陽の光を受けた水は、赤く輝きを放ち、とても幻想的な光景を醸し出していた。

 川辺に降りようとするメルエを必死に抑えていたサラは、頬を膨らませる少女に苦笑しながら、南の方角で夕日に照らされている一本の橋に目を付ける。

 陽が落ち切り、闇が支配を完了するまでの時間は残り少ない。今からその橋まで歩けば、この幅のある川を渡り切る頃には、完全に夜の帳が落ち切ってしまうだろう。

 

「橋を渡った先で野営を行う」

 

「ならば急ごう」

 

 地図から目を離したカミュの決定に頷きを返したリーシャは、傍で草に付いた虫を眺めていたメルエを抱き上げた。

 陽が落ちるまでの時間が限られている以上、幼い少女の足で歩かせる事は難しいと考えたのだろう。カミュの後をサラが続き、いつもよりも歩調を速めた形で、一行は川沿いを南へと下って行く。

 空の半分が黒く染まり、星々と月の輝きが増して行く頃に橋を渡り始めた彼等は、計算通り、月明かりだけが川の水を照らす時分には、対岸の森の入口へと辿り着いた。

 

「メルエ、それは私の果物ですよ!?」

 

「…………メルエの…………」

 

 焚き火を熾し、森で入手した果実を食していた一行であったが、自分の分の果実を食し終えたメルエが、未だに手を付けていないサラの果実に手を伸ばし、口へ入れる。それに気づいたサラが少女を咎めるが、まるで自分が正当だと主張するように、メルエはそれを急いで口に放り込んだ。

 『ぷいっ』と顔を背けてしまうメルエに憤りを口にするサラを見ていたリーシャが笑みを溢す頃、再び一行の前に不穏な空気が広がり始める。変化に気づいたのはいつも通り、幼い少女だった。

 

「メルエ、聞いているのですか!?」

 

 顔を背け、目を合わせる事さえもしない少女の我儘に堪忍袋の緒を切ったサラは、メルエの顔のある方に回り込み、強引に視線を合わせようとしたが、その頬が膨らんでいない事に気が付き、その目線を追うように森へと視線を向ける。

 メルエが眺めている先は、森の中とはいえ、その先には先程渡って来た幅の太い川が流れている。森の入口で野営を行っている一行の耳に、今でもその流れる音は響いており、静まり返った闇の中で、その音だけが聞こえていると言っても過言ではないだろう。

 

「カミュ様、リーシャさん、戦闘の準備を!」

 

 メルエが人の話を聞かずに目線を固定する時に起こる出来事は一つ。

 それは、『人為らざる者』の襲来。

 それを経験則で理解しているサラは、メルエの叱責を後回しにして、前衛となる二人に戦闘準備の指示を出した。

 そこは、二人も心得ている。何の疑問も挟む事無く、即座に武器を構え、メルエが見つめる森へと身構えた。

 

「キシャァァァ」

 

 メルエを立ち上がらせ、自分の後ろへと移動させ終えたサラが、<鉄の槍>を手に取った時、森の中からゆっくりとその影は登場する。

 長い首を伸ばすように一行へ向けたその影は、焚き火の炎によって徐々にその姿を露にし、一行の前に全貌を現した。

 魔物の数は全部で三体。前衛の二人の前に二体と、後方支援組の二人の側面から一体。いずれも同様の姿をした魔物であり、同種の物と考えられた。

 

「龍種か!?」

 

 その魔物の姿、特に首から上は、リーシャが勘ぐってしまう程の姿。龍種と見えるようなその姿は、長い首を持ち、巨大な口の奥には、全てを噛み砕きそうな程の細かな牙が並んでいる。真っ赤な鬣のような物を頭部から首に掛けて蓄えており、今にも噛みつきそうな程に開かれた口の牙を月明かりが照らし出していた。

 だが、リーシャの言葉が断定的でなかったのは、その魔物の首より下がとても龍種の物ではなかったからである。その身体は、前衛の二人よりも大きくはあるが、龍種と呼べる程の巨大さではない。何よりその背には、怪しく光る甲羅のような物が備わっていたのだ。

 

<ガメゴン>

サマンオサ地方では、龍種の劣化種と考えられている。長い年月をかけて、龍種が劣化して行き、亀との亜種が誕生したという説が有力となっており、その寿命も亀と同様に長い生物と云われている。巨大な甲羅を背負い、通常の武器での攻撃は無効とされ、一般の人間では傷一つつける事が叶わない。また、亀の亜種とはいえども、その行動速度は素早く、逃げようとする人間達に回り込み、その退路を塞いでしまうのだ。

 

「メルエ、危ない!」

 

 その異様な様相に気を取られていたサラは、側面から出て来た一体の行動に反応するのが若干遅れてしまった。

 一体の<ガメゴン>の首が、幼い少女目掛けて伸ばされる。サラの反応は間に合わず、前衛の二人は気付くのが遅れた。

 だが、襲いかかる首を避けるように顔を覆ったメルエの左腕には、バハラタで購入した神秘の盾が装着されている。<魔法の盾>と呼ばれるその盾は、幼い少女の体に合わせるように、その形態を変化させていた。

 その盾が、まるで主を庇うようにその形態を変化させたのだ。

 

「バギマ」

 

 乾いた音を立てて弾かれた<ガメゴン>の首は、目標を失ったように動き回っていたが、その首に向かって唱えられた真空呪文によって、首筋を何度も切り刻まれて行く。

 本来であれば、上位の真空呪文といえども、<ガメゴン>は成す術なく受ける事はなかったのかもしれない。だが、この魔物の瞳に映った幼い子供によって、予期せぬ反撃を受け、大きな隙が出来てしまったのだろう。

 

「ギシャァァァ」

 

 巨大な叫びを上げ、首を下げた<ガメゴン>は、その首を甲羅の中へと仕舞い込もうとする。それを許す程、サラという『賢者』は甘くはなかった。

 サラの持つ<鉄の槍>が、甲羅に潜り込む首を追って突き出される。首と一緒に仕舞い込まれる手足の支えを失い、地面に甲羅だけが残される中、突き出した槍の穂先が、甲羅の中の首筋へと吸い込まれて行った。

 再び上げられた叫び声ではあったが、肝心の<鉄の槍>が甲羅から抜けない。何かに引っ掛かってしまったように、抜き出す事が出来ない武器を必死に動かそうと力を込めるが、サラの力だけでは少しも動きはしなかった。

 

「きゃぁぁぁ!」

 

 無理に引き抜こうとしたサラの身体が後方へと吹き飛んだ。

 基本的に、サラの持っている<鉄の槍>は頑丈な武器ではない。何処の国にもある、一般兵士などに支給される、ごく普通の槍なのだ。

 <鉄の槍>という名称は付いているが、実際に鉄の部分は穂先だけであり、柄の部分は木で出来ている事が多い。一般的に、獲物の長さによって、振り回すには相当な訓練が必要な武器でもあり、柄の部分までを鉄製にすると、自在に振り回す事が出来なくなる可能性があるからである。

 力の強い者の中で、槍を好んで使う者は、そのような特注品を作成する事もあるが、一般的に流通している槍製品は、サラの所持しているような物が多いのだ。

 そして、ここまでの数年間の旅で徐々に劣化して行った柄の部分は、無理な力で引いた影響と、<ガメゴン>の顎の力の影響によって、柄の根元から砕けてしまう。サラの手元には、僅かな長さの柄が残るだけだった。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

 向ける対象を失ったサラの力は、後方へと反転し、尻餅をつかせてしまう。その隙を見逃さず、再び手足を出した<ガメゴン>は、首を伸ばしてサラへ襲い掛かるのだが、それを幼い『魔法使い』が黙って見過ごす訳はない。

 紡がれた詠唱は、少女の持つ巨大な杖に魔法力を流し込み、氷結の神秘を生み出して行く。一気に下がった気温が、その魔物の最後を示していた。

 吹き抜ける冷気は、伸ばされた<ガメゴン>の首を包み込み、それを甲羅の中に戻す暇を与えず、細胞までを凍りつかせて行く。サラを仕留める為に、口を大きく開いたまま、<ガメゴン>の顔面と首が氷像へと変わって行った。

 

「メルエ、ありがとうございます」

 

「…………ん…………」

 

 凍り付き、活動を停止させた<ガメゴン>の首を砕き、完全に息の根を止めたサラは、危機に適切な対応をしてくれたメルエに謝礼を述べる。

 しかし、満足そうに頷いたメルエが、視線を動かした事によって、まだ戦闘が終了していない事を思い出し、前衛二人が戦闘を行っている現場へと駆け出した。

 

「カミュ、この甲羅は厄介だぞ!」

 

「首を伸ばした所を狙え!」

 

 前衛二人の戦闘は、苦戦を強いられていた。

 呪文が行使できるとはいえ、カミュが行使できる攻撃呪文は、それ程多くはない。

 空に浮かぶ月がくっきりと見えている以上、彼が持つ最強の攻撃呪文の行使も不可能であり、メルエやサラも行使できる灼熱呪文しか行使出来ないのと同義なのだ。

 必然的に剣や斧での物理的な攻撃しか方法が無い。しかし、<ガメゴン>という魔物が背負う甲羅は、彼等の想像以上に強固であり、剣や斧では傷一つ付ける事は出来なかった。

 

「カミュ様、リーシャさん、息を止めて下さい!」

 

「!!」

 

 次の攻撃に備えて武器を握り、真っ直ぐ伸ばされた一体の<ガメゴン>の首目掛けて、それを振るおうとした瞬間、二人の耳に後方からの叫びが届いた。

 考える暇などない。

 瞬時に行動を停止し、息を止めた二人の前から、<ガメゴン>が吐き出した息が噴きかかる。

 息を止めている時間は、激しい行動をしていた二人には限られた物であり、後方へと飛んだ彼等は、待っていた後方支援組と合流する形で息を吸い込んだ。

 

「眠りの息か?」

 

「おそらく、脳神経を狂わせる<甘い息>だと思います」

 

 振り返る事無いカミュの問いかけに、サラは静かに答える。ここまでの魔物との戦闘で着実に積み上げられた経験は、彼等の戦闘の幅を大きくしている事は確実であり、それは、カミュと共に『頭脳』としての働きを見せる『賢者』の視野も広くしていた。

 先程、<甘い息>を吐き出した<ガメゴン>は、忌々しそうに一行を睨みつけ、今にも襲いかかって来そうな素振りを見せてはいたが、残るもう一体は、サラとメルエによって葬り去られた同種を見て、何やら思案するように様子見を貫いている。

 

「カミュ、このままでは埒が明かない。私があの魔物の前面に出よう。私目掛けて伸ばして来る首を、お前が剣で薙いでくれ」

 

「……わかった」

 

 ここまで、かなりの時間を要していた。二人で二体を相手していた為に、隙を作り出す事は出来なかったが、一体が様子見を貫いている以上、一体を二人で相手する事が出来るようになる。それであれば、リーシャの話す行動も可能となるのだ。

 更に言えば、今は後方支援組も合流した。

 万が一、もう一体が動き出したとしても、彼女達であれば、牽制の意味も含め、魔物を足止めしてくれるという信頼も、リーシャの言葉に組み込まれていたのだ。

 それを感じ取ったカミュは、一拍の時間を要してから、静かに頷きを返す。

 

「行くぞ!」

 

 いつもとは異なり、リーシャの掛け声によって駆け出した二人は、それぞれの役割を果たす為に動き出した。

 女性戦士が振り被った斧は、避ける為に一度首を引っ込めた<ガメゴン>の上を通過し、強かに甲羅を叩く。硬い岩に金属をぶつけたような音が響き、弾かれた斧の重みで踏鞴を踏んだリーシャの身体が泳いだ。

 再び、首を出した<ガメゴン>は、態勢を崩したリーシャに襲いかかるが、それこそ、彼等が待ち望んだ瞬間でもあった。

 

「やあぁぁ!」

 

 気合いの声と共に横合いから振り下ろされた剣は、正確に<ガメゴン>の首を切り落とした。

肉を切り裂く音と、一拍遅れて轟く体液が噴き出す音。

 先端の重みを失った首は、蛇のようにのた打ち回り、体内の体液を吐き出した後、地面へと静かに横たわる。沈黙した甲羅を付けた魔物の身体から零れる液体が、月明かりで照らされた地面の色を変えて行った。

 

「残るは一体……」

 

 一体の止めをカミュへ任せ、手の空いていたリーシャは、残る一体の<ガメゴン>に視線を向けて、武器を構え直す。鋭い視線を向けられた魔物は、一度身体を振るわせた後、意を決したようにリーシャへと行動を開始した。

 重い甲羅を背負っているとは思えない速度で迫る<ガメゴン>に、リーシャは意表を突かれる。速度を上げて迫り来る魔物は、リーシャの身体を食い破るように口を大きく開いた。

 

「…………メラミ…………」

 

 しかし、その魔物の行動は、日中に幼い少女が見た光景に酷似していた。

 大猿が突進して来る姿を見ていた少女は、その大猿に対応するために起こした姉のような女性の行動も目にしていたのだ。

 相手が突進して来る速度と力を、逆に利用した攻撃方法。

 それの有効性を理解した彼女は、幼いとはいえ、やはり世界最高の『魔法使い』なのだろう。そして、それを即座に実行に移せるという事も、彼女が世界最強の『魔法使い』である事を示していた。

 

「キシャァァァァ」

 

 人類最強の『魔法使い』が放つ特大の火球を顔面に受けたガメゴンは、巨大な叫び声を上げて突進を急停止させる。如何に劣化した龍種とはいえども、その肌を覆う鱗は龍種の物に近く、火炎や吹雪のような物には耐性を持っている筈なのだが、人類の枠を逸脱し始めた者の放つ火球呪文は、その理屈を捩じ伏せる程の威力を示した。

 それでも、龍種は龍種。

 火球は<ガメゴン>の甲羅に燃え移る事はなく消滅して行く。振り払うように首を振っていた魔物の顔面は焼け爛れてはいるが、<コング>程の被害はなく、その瞳は怒りと憎しみに燃えていた。

 

「メルエ、下がって!」

 

「キシャァァ」

 

 目標を唯一人の少女へと移した<ガメゴン>は、巨大な口を開き、首を伸ばして襲いかかって来る。即座にそれに反応したサラは、メルエの腕を引き、自分の許へと引き寄せた。

 先程までメルエが居た場所で閉じられた<ガメゴン>の口が牙の合わさる乾いた音を立て、サラの背筋に冷たい汗を走らせる。あの場所にそのままメルエがいたのならば、その幼い身体は、無残に食い千切られていただろう。

 メルエ自体が反応できなかったのだから、彼女が着ている<みかわしの服>と同じ素材のアンの服が反応を示す訳がない。メルエのマントの端が破れた事がそれを物語っている。正に間一髪という具合の物であった。

 

「…………むぅ…………」

 

「下がっていろ!」

 

 自分の呪文が思った程の効力を見せず、その敵が自分に襲い掛かって来た事が、幼い少女の誇りを傷つける。頬を膨らませたメルエは、恨みがましい瞳を<ガメゴン>へ向けるが、彼女以外の三人には、先程の攻撃がこの魔物の最後の悪足掻きである事が理解出来ていた。

 既に<ガメゴン>は虫の息であり、メルエへの攻撃が、文字通り最後の灯火だったのだろう。ぐったりと首を横たえる<ガメゴン>に、再度攻撃する余力は残っていない筈だ。人類最強の『魔法使い』の放った中級の火球呪文は、それ程の威力であった。

 

「!!」

 

「リーシャさん!」

 

 頬を膨らませたメルエの前に躍り出たリーシャが、ぐったりとした首に<バトルアックス>を振り下ろすと、<ガメゴン>は生存本能を剝き出しにし、首を甲羅へと仕舞い込んだ。

 二度三度と甲羅に振り下ろした<バトルアックス>が、乾いた音を立てて弾かれる。もう一度振り下ろされた斧が弾かれ、リーシャの身体が泳いだ時、引っ込めていた<ガメゴン>の首が伸び、彼女の目の前で口を開いた。

 それが何の合図なのかを理解したのは、身体を泳がせたリーシャの名を叫んだサラだけではない。傍で隙を見ていたカミュはその首目掛けて剣を持って駆け寄っていたが、瞬時にその呼吸を止める。

 だが、気が付いたもう一人の行動は異なっていた。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

 リーシャに向かって伸びた首目掛けて振られた<雷の杖>から神秘が解き放たれる。禍々しいオブジェの瞳が怪しく光り、その嘴から全てを凍らせる程の冷気が放たれた。

 真っ直ぐ<ガメゴン>へ向かって吹き抜ける冷気は、大気中の水分を凍らせ、魔物へ襲い掛かる。成長したメルエによって調整された氷結呪文は、その密度を凝縮させ、先程まで燃え盛っていた焚火の炎さえも凍らせて行った。

 調整したとはいえ、人類最高の『魔法使い』が行使した氷結呪文は、強力過ぎたのだ。

 元来、メルエは火球呪文や灼熱呪文よりも、氷結呪文を得意としている。その威力は凄まじく、最下級の氷結呪文である<ヒャド>でさえ、受けた者の内部を凍らせる程の威力を誇る。それは、正しく脅威以外の何物でもなかった。

 

「なっ!?」

 

「ちっ」

 

 一体目の<ガメゴン>を倒した時には、攻撃対象である魔物と、保護対象であるサラとの距離が離れていた。

 だが、今は、メルエと魔物の延長線上から少し外れた場所にリーシャがいる。それは、メルエの強大な魔法力の餌食になる程の距離だったのだ。

 ランシールの時にカミュを襲ったベギラマと異なる点は、メルエがしっかりとその事を認識し、意識的に呪文の力を調節しているという点。彼女の成長が、他の三人が考えている以上の幅を持っていたという点。そして、何よりも、巻き込まれそうになっている女性戦士に魔法力が無いという点の三点だった。

 メルエが意識を持って呪文を行使しているのが、何よりも彼女の成長なのだが、そんな心の成長は、皮肉にも幼い少女の魔法力という最大の武器も成長させていたのだ。

 更に大きくなって行く彼女の魔法力は、自身が考えていた以上の効力を生み出し、護りたいと考えていた者までも巻き込む事になる。

 

「べ、ベギラマ!」

 

 だが、そんな悲劇を、この『賢者』が容認する訳はない。誰よりも自分自身の力が生み出す脅威を考え、誰よりもその恐ろしさを知る彼女は、その事を認識し始めている少女の心を傷つける訳にはいかないのだ。

 大地に氷の柱を作り上げる程の威力を誇る<ヒャダイン>の風に向かって上げられた掌から、木々を焼く程の熱風が吹き荒れる。冷気が通った道の横からその流出を防ぐように熱の道を作り上げ、冷気を相殺して行った。

 

「カミュ様、リーシャさんを早く!」

 

 熱風は、確かに冷気を相殺している筈だった。

 だが、サラは声を張り上げ、息を止めていたカミュへ指示を出す。

 サラは知っているのだ。

 自身の魔法力が生み出す神秘では、メルエという最高の『魔法使い』が生み出す神秘に対抗する事が出来ないという事を。

 メルエが行使した<ヒャダイン>という氷結呪文に比べ、サラの行使した<ベギラマ>という灼熱呪文が見劣りするという部分を差し引いたとしても、その威力には雲泥の差があった。

 灼熱系には三段階の階級が存在する。既にメルエが契約を済ませ、行使もしている<ギラ>、<ベギラマ>、<ベギラゴン>の三種。

 それに対し、氷結系の呪文は、今の段階で既に三階級が存在していた。メルエが得意とする<ヒャド>、<ヒャダルコ>、<ヒャダイン>の三種である。だが、未だに『悟りの書』に浮かび上がってはいないが、サラはその上の呪文の存在を予測していた。

 つまり、氷結呪文は四段階の四種。

 

「くっ!」

 

「ベギラマ」

 

 サラの予想通り、<ヒャダイン>の冷気は、彼女の発した<ベギラマ>の炎を飲み込んで行く。燃え広がる前に炎ごと凍結させるように蒸発を繰り返し、最後には炎を消し切ってしまう。

 それでも弱まりを見せる冷気は、リーシャの身体全体を凍らせる事はなく、<魔法の盾>を持つ左腕の一部に氷を付着させるのみだった。

 不測の事態に備え、念を押してカミュが<ベギラマ>を唱える。冷気を遮断するように作られた炎の壁は、リーシャの腕に付着した氷を溶かして行く。

 

「いやぁぁぁ!」

 

 自分の横で小さくなるメルエを見て、思考を巡らせていたサラであったが、リーシャの雄叫びに顔を上げた。<ベギラマ>の炎が収まりを見せると同時に、炎の壁を割って、リーシャが飛び出したのだ。

 <バトルアックス>を両手で振り上げ、体重を乗せて振り下ろされた斧は、冷気によって身動きが出来なくなった<ガメゴン>を甲羅ごと叩き割る。先程まで、固い甲羅に弾かれていた斧ではあったが、度重なる衝撃に耐えかねた甲羅が悲鳴を上げていたのだ。

 小さく入っていた亀裂は、渾身の一撃を受け、砕け散る。

 陶器が割れるような、派手な音を立てて砕け散った甲羅を抜け、<バトルアックス>が突き刺さる。護る防具を失った<ガメゴン>は、凍りついて行くその体内に金属製の刃を受け、断末魔の叫びを上げる間もなく絶命した。

 

「ふぅ……メルエ、大丈夫か!?」

 

 斧を抜き取り、一息吐いたリーシャは、即座に、最愛の妹の心を案じて視線を移す。振り返った先で、幼い少女の肩を抱く様に立つサラの姿を見たリーシャは、彼女が強く頷きを返すのを見て、その後の事を全て彼女に任せる事にした。

 サラが立ち位置を変え、回り込むようにメルエと視線を合わせようとするが、幼い少女は哀しそうに眉を下げ、顔を俯かせている。恐怖を感じていたのかもしれないと考えたリーシャは、カミュを誘って、メルエの許へ急いだ。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 しかし、心配して近寄った二人の考えは、的を外していた。

 全員が揃った事に気が付いたメルエは、小さな声で謝罪を口にしたのだ。

 眉を下げ、瞳に涙を溜めたメルエが、小さく頭を下げる。その姿を見たカミュは眉を顰め、リーシャは驚きに顔を硬直させてしまった。

 だが、そんな二人とは異なり、先程メルエの心を救う為に奔走した『賢者』は、優しい笑みを浮かべてメルエを見つめる。慈愛と誇りを湛えるその笑みは、幼い少女の心に生まれた罪悪感を霧散させて行った。

 

「何を謝る必要がありますか? 誰もメルエを責める人間などいません。あの時、あの場所で、メルエは的確な呪文を行使したのです。今回は、メルエの心の成長の度合いを把握し切れていなかった私の責任です」

 

「…………サラ…………」

 

 柔らかな笑みを向けて、自分の正当性を唱えるサラを見て、メルエは瞳に溜まっていた涙を溢す。

 メルエなりに、ここまでの旅で何度も考えて来たのだろう。

 『自分の力は、大切な者達を護る力』

 『その力の脅威を理解し、行使する場面を考える』

 サラから学んだ一つ一つの事柄を考え、どのようにすれば良いのかを、この幼い少女は、一生懸命考えていたのだ。

 だが、そんな考え抜いた結果は、自分の唱えた呪文によって大好きな者達を危険に晒してしまう事だった。その事実が、幼い心を蝕んでいたのだろう。

 そんな迷いは、考える事を教えてくれた大好きな者であり、先程の危機を救ってくれた大好きな者によって晴らされる。

 

「今回で、メルエの魔法力が以前よりも更に強まった事を知りました。メルエもそれが解ったでしょう? 今度は大丈夫です」

 

「…………ん…………」

 

 視線を合わせ、ゆっくりと語るサラの声が、メルエの心に沁み込んで行く。

 最後に同意を求めるように向けられた瞳を見た少女は、小さな笑みを浮かべ、しっかりと頷きを返した。

 彼等は、既に押しも押されぬ『勇者一行』へと変貌しているのだ。

 アリアハンを出た頃は、国命を受けたカミュという存在がありはしたが、『魔王討伐』を志す者達というだけの存在だった。それは、少し以前に溢れていた自称『勇者一行』と何も変わる事はなかったのだ。

 だが、彼等は様々な出来事に遭遇し、それを乗り越える事によって、成長し続けて来ている。その成長の度合いは、『人』としての枠を逸脱する程の物であり、これから先の成長の結果を予測する事は、『人』としての常識を持つ者達には困難であった。

 それでも、サラはメルエに『次は大丈夫』という魔法の言葉を伝えた。

 それは大きな自信が見えると同時に、大きな覚悟をも示している。

 サラは、メルエに『大丈夫』と伝えたその瞬間から、それを『大丈夫』にしなければならない責任を負うのだ。それを彼女も理解しているし、それを実行する事こそが彼女の誇りであり、自信でもあった。

 

「そうだな……私は、サラの事も、メルエの事も信じているぞ。メルエなら、絶対に大丈夫だ!」

 

「…………ん…………」

 

 大きく頷く少女の姿を見たリーシャは、満足そうな笑みを浮かべる。

 予期せぬ魔物との戦闘を終え、予想以上に更けてしまった夜を感じた一行は、野営地を移動した後、すぐに眠りに就く事となった。

 

 

 

 彼等にとって未開の地であるサマンオサという地には、彼等が遭遇した事もない強力な魔物が生息している。

 魔王の力の影響を強く受けているのか、それともこの地が魔物に力を与えているのかは解らない。魔物達の力が昔から強かったのか、ごく最近に強まったのかも解らない。

 もし、この地に生息する魔物が、昔から強力な物だとすれば、この地で英雄と謳われた者の力は、『勇者』と称するに値する物なのだろう。

 それ程の者を輩出した国家が、何故国交を閉じたのか。

 その国家は、何故それ程の者を追放したのか。

 深まる謎を解く鍵となる城は、目の前まで迫って来ている。

 新たなる『勇者』を迎える国家が、どのような反応を示すのか。

 それを知る者は、まだ誰もいない。

 

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。

次話こそ、必ずサマンオサ城内に移ります。
城まで行くかな……町で終わらないように頑張ります。
なかなか辿り着かない物語ですが、気を長くお読み頂ければ嬉しいです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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サマンオサ城下町①

  

 

 

 翌朝、皆が起き出す前に森の中に入っていたサラは、思ったような成果が出ない目的に溜息を洩らしながらも、大きな木の根元に穴を掘っていた。

 昨夜の戦闘では、メルエの力の強さと共に、自身の未熟さを痛烈に思い知らされている。今の自分では、魔法力の量が特出しているメルエに対抗する事が出来ないという事実を彼女は知っていたが、それを知識として自覚するのと、実際に体験して自覚するのとでは、その重みは異なっていたのだ。

 

「今のままでは駄目ですね……メルエに甘えてばかりでは……」

 

 穴を掘り進めながら口にした呟きは、自分に対する戒めなのだろう。

 サラは、無意識の内に幼い少女に依存していたのかもしれない。それは、魔法という部分だけではなく、日々の行動の中でも表れていたのだ。

 それを、自覚し始めたのは、あの船での出来事だった。

 あの時、自分が持ち得る事となった強大な力に恐怖したサラは、船室に閉じ籠ってしまう。それが何の解決にもならない事を知っていて尚、彼女は自身の殻に閉じ籠ったのだ。

 その裏には、無自覚の甘えがあったのだろう。

 『塞ぎ込んでいれば、心配してくれる仲間がいる』、『自分がいなくても、あの三人ならば、魔物に負ける事はない』、『自分と同じように強大な力を持っているにも拘わらず、何故あの三人は悩まないのだ』など、様々な想いが彼女の心を渦巻いていた。それは、全てサラの勝手な言い分であり、勝手な我儘。

 彼女は、それを昨夜、明確に自覚してしまったのだ。

 

「本当に、長い間お世話になりました」

 

 一心不乱に掘り進めていた穴は、木の根が見える頃まで掘られた所で停止する。サラは自身の懐に入っていた包みを取り出し、その包みを中へと静かに納めた。

 一度、胸の前で手を合わせた彼女は、小さな感謝を口にする。暫しの間、そのまま瞳を閉じた後、土を被せて行った。

 その包みの中身は、彼女と共に二年という長い月日を戦って来た<鉄の槍>の穂先。昨夜、戦闘終了後に、凍り付いた<ガメゴン>の残骸の中から取り出した穂先を、布で包み、胸元に納めていたのだ。

 

 <鉄の槍>は、本当に何処にでもある武器であった。

 メルエの持っていた<魔道士の杖>のように、特別な能力がある訳でもなく、主であるメルエの成長を見届けたと感じる程の特異性を持っていた訳でもない。

 ただただ、サラと共に二年以上の旅路を歩んで来た。

 しかし、サラの中には少なからず、思い入れもあったのだろう。

 アッサラーム近郊の森の中や、ピラミッドという古代遺跡の中では、メルエという少女を護る為に、一人で戦い、勝利した武器でもある。謂わば、彼女にとっては、覚悟と共にあった武器でもあった。

 

「魔法では、メルエに敵いません。武器では、リーシャさんにもカミュ様にも敵いません。ですが、私なりに何とかして行きます。私にしか出来ない事もあると同時に、私でも出来る事はある筈ですから。それを、ここで誓って行きます」

 

 土を掛け終った後、再度胸の前で手を合わせたサラは、力強い言葉を口にする。それは、長らく共にした戦友への誓いなのかもしれない。カミュにも、リーシャにも、そしてメルエにも解らない、サラだけの誓い。

 自身の未熟さを知り、反する脅威も知り、それでも尚、強くなる必要性を知る彼女だからこその誓いは、昇り始めた太陽の輝きに導かれ、彼女の崇拝する『精霊ルビス』へと届いて行くのだろう。

 

 

 

「サラ、何処へ行っていたんだ?」

 

「早く目が覚めましたので、少し木の実を取っていました」

 

 その後、野営地へ戻る頃には、メルエ以外の二人は目を覚ましていた。

 カミュの唱えた<トヘロス>の魔法力に護られた空間は、余程の強者でなければ入って来る事は出来ない。昨夜は見張りを立てずに眠る事にしていたのだ。

 随分心配していたのだろう。サラの姿を見つけたリーシャの顔には、安堵の表情が浮かんでいる。過保護にも思える、この心優しい女性戦士の言葉に、サラは柔らかな笑みを浮かべ、手に持った木の実を突き出した。

 

「そうか……だが、この大陸の魔物は強い。サラだけではなく、私やカミュであっても、一人でどうにかなる物ではないからな。余り、一人で動くなよ?」

 

「はい。ご心配をお掛けしました」

 

 サラの口にした理由を受け入れる事しか出来ないリーシャは、それでも尚、苦言を溢す。それが、本当に心配していた表れである事を知るサラは、素直に謝罪し、頭を下げた。

 それに満足そうに頷いたリーシャは、自分の傍で丸くなっているメルエの身体を揺らし、現実の世界へと引き戻しにかかる。何度かの揺すりを受け、ようやく身体を動かし始めた幼い少女は、ゆっくりと身体を起こし、目を擦りながら可愛らしい欠伸をした。

 

「サマンオサ城下町へは、この場所から南へ下る事になる」

 

「わかった。山脈との距離が短くなっているな。森も近いから、少し固まって歩こう」

 

 朝食を取り終えた一行は、再び平原へと出て、本日の進行方向を確認する。リーシャの言うように、川を渡る前とは異なり、平原を囲むように聳える山脈は、その幅を狭めていた。

 まるで、外敵から城を護るように細められた平原は、周囲を濃い森に囲まれ、真っ直ぐ南へと伸びている。森は、基本的に『人』以外の生物の根城である。そこへの距離が短ければ、平原を歩いてはいても、危険度は増す事になるのだ。

 その事を知っているリーシャは、一纏まりになって進む事を提案し、カミュもまた、それを受け入れる。

 

 朝陽の眩い平原を歩く中、その日は魔物との遭遇は少なかった。森の奥へと入る訳でもなく、平原を真っ直ぐ歩いていた事も幸いしたのか、陽が沈む頃まで歩き、一行は遠くに聳える城の姿を見る事が出来たのだ。

 城の姿が見えた事で、一行はもう一泊野営を行い、明朝を待って城下町の門まで歩いて行く。朝陽に照らされた城が美しく輝いてはいたが、その城を覆うような黒い雲がサラの心に一抹の不安を残して行った。

 

「何処から来た?」

 

 城下町の門を護る兵士が、来訪を唱えるカミュ達の前に出て、その姿を目にした時、開口一番に出て来た言葉がそれである。

 国交を閉じて十年以上になる国としては、極当然の疑問であろう。<ルーラ>という魔法を行使すれば、この国を訪問した事のある者ならば来訪が可能であろうが、今のこの国の現状を誰よりも知っている兵士からすれば、この時期に<ルーラ>を使ってまでこの国を訪れる者がいるとは思えなかったのだ。

 実際、ここ数年、この城下町を新たに訪れる者はおらず、迫る魔物を駆逐する事だけが、門兵の役割となっていた。

 

「アリアハンから参りましたカミュと申します」

 

 カミュの言葉を聞いた兵士は、更なる驚きの表情を浮かべ、カミュが手渡した各国の国王の印がある書状に目を通した後は、訝しげな瞳へと変化させる。

 カミュを上から下まで見つめた兵士は、その後、後ろに控えていた三人の女性にも同様の視線を向ける。それは、女性に対しての劣情が含まれたような下賤な視線ではなく、本当にその存在を疑うような視線。

 それが、この国の現状を明確に表していたのかもしれない。

 

「旅の扉へと続く道は、厳重に閉ざされていた筈だ……どうやってそれを……」

 

「神代から残される鍵を使って開けました」

 

 兵士の疑問は当然の物であろう。

 サイモンという名の英雄が追放されてから、この国の国民は、移動する自由を剥奪されていたのだ。

 外界から誰も入る事は出来ず、城下町から誰も出る事は叶わない。

 <ルーラ>という移動手段が取れるのは、『魔法使い』という職業の者だけであり、その中でも国家に仕える事の出来る程度の力量がある者でなければ、<ルーラ>という神秘を行使する事は出来ない。必然的に、一般国民は、この場所から出る事は叶わないという事になるのだ。

 故に、それを強制する事になった『旅の扉の閉鎖』という事項を壊した人間に、畏怖のような感情を持ってしまったのも仕方がない事なのかもしれない。

 

「悪い事は言わない……今の話は誰にもするな……そして、早々にこの国から離れた方が良い」

 

「ど、どういう事ですか?」

 

 しかし、この兵士は、カミュ達の予想を大きく外れた言葉を口にした。

 この兵士は、貴族などではなく、一般国民から上がった兵士なのだろう。『神代からの鍵』という理解が出来ない物を考えるよりも、開いてしまった『旅の扉』という重要性に顔を強張らせたのだ。

 そして、この兵士の性質なのか、それとも心からの優しさなのかは解らないが、その事実を己の胸に仕舞うのと同時に、それを口外しないようにと忠告し、最後には、静かに立ち去るように勧告する。

 国交を一個人が抉じ開けるという行為は、国家に対する反逆に等しい行為である事は、カミュ達も知っている。予期せぬ鎖国であれば、それを喜ぶ事もあるだろうが、このサマンオサに限っては、国王自らがその道を封鎖している。故にカミュ達の行為が罪に問われる可能性もあるのだが、それにしても、サラには、この兵士の怯え方は異常に感じた。

 

「今のこの国は、余所者が来るような国ではない。私は先程の件を口外する事はない故に、お前達に罪が及ぶ事はないが、そんな危険を冒してまで訪れる意味も無い国なのだ」

 

 カミュ達が国交を抉じ開けたという情報が国王の耳に入れば、カミュ達はおろか、この国の兵士にも監督責任が問われる事となり、監視役である教会の神父もまた、罪を問われる事となるだろう。だからこそ、彼は保身の為にも口外する事は出来ないのだ。

 だが、この兵士の会話の後半部分は、純粋にカミュ達の身を案じての物である事が解る。このサマンオサの現状を知らないカミュ達からすれば、何を恐れ、何に怯えているのかも理解出来ないが、自身の祖国を『訪れる意味もない国』と称するなど、国家に属する兵士としては、非国民と弾劾されても可笑しくはない行為だった。

 

「この国の事情が掴めませんが、私達もサマンオサ国を訪れる理由があります。先程の件は、口外しない事をお約束致しますので、入国を認めて頂けませんでしょうか?」

 

 ここで一兵士との問答を続けていても意味がない事を察したカミュは、未だに疑問を口にしようとするサラを押し退け、兵士に向かって頭を下げる。

 難しい顔をしながら、暫くカミュの後頭部を眺めていた兵士は、カミュから渡された各国王の書状を隣に居たリーシャへと返し、一つ大きな溜息を吐き出した。

 天を仰ぐように顔を上げ、何やら思案に耽るように目を瞑った兵士は、静かに顔を戻すと、同じく顔を戻したカミュの瞳を真っ直ぐ見つめ、口を開く。

 

「お前達が、この書状にあるように『勇者一行』なのならば、この国を変える事も出来るのかもしれないな。だが、一つ忠告しておく……命が惜しいのならば、城には絶対に近づくな」

 

「ご忠告感謝致します」

 

 アリアハン国、ロマリア国、イシス国、ポルトガ国の各国はカミュ達を勇者一行として認めている。この世界で、その他に国家と呼ばれる物は、エジンベア国とこのサマンオサ国しかないのだ。

 ジパングという国も厳密に言えば国家であるのだが、世界的な認知度は他国とは根本的に異なり、異教徒の暮らす集落ぐらいにしか見られていない。

 つまり、カミュ達四人は、世界にある七割の国から、既に『勇者一行』という称号を得ている事になる。それは、彼等が知らないところで、彼等の名が高まっている事と同意であり、彼等の背負う責任の重さも増している事を示していた。

 このサマンオサという国には、サイモンという英雄がいた経緯があり、国民にとって、それは誇りであり、自信でもあったのだろう。例え追放されたとしても、何の功績もない者を英雄としてはいない筈。そうだとすれば、この兵士にも自国の英雄に対する誇りがあり、カミュ達が『勇者一行』と名乗る事に対する反発もあったに違いない。それでも尚、四人を国内に入れるという行為が、今のサマンオサの逼迫感を示していた。

 

「これが、サマンオサなのか?」

 

 兵士に頭を下げながら門を潜り、城下町へと入って行った一行は、町の雰囲気を見て絶句する事となる。リーシャに至っては、見えたその光景に落胆を滲ませた声を上げてしまっていた。

 町の雰囲気は、一言で言うならば、『暗い』という言葉に尽きるだろう。

 目に映る人々の表情は、総じて何かに諦めたような色を湛えていた。

 そのような雰囲気を彼等は一度見た事がある。それは、カミュの祖母の故郷でもあり、日出る国と謳われる、誇りと美しさを持つ国に入った時。

 その国の人々は、産土神と崇めていた<ヤマタノオロチ>と呼ばれる存在によって、絶望と後悔を背負って生きている者ばかりだった。

 しかし、それに比べても遜色ないどころか、この国の人々の表情の方が更に暗い。まるで、微かな望みも光もないかのように、暗い影を背負う者ばかりなのだ。

 

「この国に一体何があったのでしょうか」

 

「カミュ、何故だ?」

 

 その光景を見て驚きの声を上げていたサラが、表情を真剣な物に変え、何やら考え込むように黙り込む。それとは反対に、いつも通りの行動を取ったのがリーシャであった。

 『解らない事はカミュへ聞け』とでも言わんばかりに、視線を固定させた女性から出た言葉に、考え込んでいたサラも顔を上げ、困ったような笑みを浮かべてしまう。

 この国を訪れたのは、全員が初めてであり、この国の情勢なども、本来であれば国家に属していたリーシャが一番把握している筈なのだ。

 アリアハンという国を閉ざした小国という事を差し引いても、それを一国民に過ぎなかったカミュへ問いかける事自体、大きな誤りであるのだが、リーシャという人物にとって、それ程にカミュという青年の存在は、大きな物へと変化していたのかもしれない。

 

「情報を集めるしかないだろう」

 

「そうか……そうだな。まずはどうする?」

 

 信頼をしているからこそ、カミュにも解らないという事に対し、咎める事はない。カミュが『情報を集める』という事を口にする以上、集まった情報次第では動く事を示唆していた。

 ジパングでそうであったように、今のカミュであれば、困難に陥っている国家を見捨てる事はないとリーシャは信じている。色々と考えがあり、一個人が介入できる事には限りがあるとはいえ、それを超越した何かを、彼女は盲信的に信じ始めているのかもしれない。

 

「武器屋だな」

 

「そうだな! サラの新しい武器を購入しなければいけない。しかし、サラの槍の腕も上がっては来ていたが、あれ以上に重い槍であれば、逆に戦闘に支障があるかもしれないぞ?」

 

「私は、剣でも槍でも良いです。今まで以上に、リーシャさんに教えて頂きますから」

 

 行き先を尋ねるリーシャに返って来たカミュの言葉は、忘れていた事を思い出させる。サラの武器は、先日の<ガメゴン>戦で失われてしまっていた。

 その後、戦闘らしい戦闘がなかったため、その事に注意を向ける必要がなく、リーシャはその事を忘れていたのだ。だが、確かに、リーシャの言う通り、如何に実力を上げたとはいえ、元僧侶であるサラの筋力は限られている。

 『戦士』であるリーシャとは比較にならず、『勇者』であるカミュとも比べようがない。『魔法使い』であり、幼い少女であるメルエよりも筋力は備わっているが、武器を中心に戦う筋力を彼女は持ち合わせていなかった。

 それでも、何が武器でも構わないと口にするサラを見て、リーシャは頼もしさを感じると共に、自身の責任の重さも理解する。神妙な面持ちで頷き合った二人は、歩き出したカミュに続いて、町の中を歩き始めた。

 

「…………むぅ………メルエも…………」

 

「ん? そうだな……メルエ用の防具が何かあれば、見ておこうな」

 

 歩き出す時に握った幼い手の持ち主が、不満そうに頬を膨らませ、自分の物の購入をせがむ姿に、リーシャは苦笑を浮かべて言葉を掛ける。

 メルエの防具は、テドンで購入した<マジカルスカート>が最後である。<みかわしの服>と同じ素材の<アンの服>は、既に二年以上も愛用しているし、先日の戦闘でメルエを護った<魔法の盾>は、バハラタで購入した物であった。

 カミュと逸れた時に、それを追って飛び出した際、魔物に襲われて破れた服は、サラの手によって修繕されている。料理という物は初体験ではあったが、裁縫に関しては、サラの腕は確かであった。

 教会という場所で暮らしているとはいえ、孤児であった彼女は、新たな服などを与えられる事は少なく、自身が着る物は、大事に修繕を繰り返しながら使っていたのだ。

 

「いらっしゃい」

 

「武器を見せて欲しい」

 

 サマンオサ城下町の武器屋は、町の外れに存在していた。

 町を歩く一行は、考えているよりも人々の数が少ない事に首を傾げながら、町外れの武器と防具の看板を掲げる店へと入って行く。入ってすぐに階段があり、その上が武器屋の店舗になっているのであろう。一行は、そのまま階段を上がって行った。

 案の定、階段の先には、カウンター越しに武器や防具が並んでおり、店主らしき人間が、営業的な笑みを浮かべて、カミュ達の来訪を歓迎する。

 挨拶もそこそこに話を切り出したカミュに気を悪くする様子もなく、店主は、目ぼしい武器をカウンターへと並べて行った。

 

「店主、この剣は何だ?」

 

「それは、<ゾンビキラー>と呼ばれる剣でね。何年も聖水に浸けて尚、劣化しなかったという剣だよ。聖水に浸かっていた為、その剣にはルビス様の加護が付加していて、この世に生を持っていない者に多大な力を発揮するって話だ。勿論、その斬れ味も、そんじょそこらの剣とは比べ物にならない物だぞ」

 

 店主がカウンターに置いて行く武器の中で、一つの剣がリーシャの目に留った。

 店主の言うように、良く手入れされた刀身は、顔が映る程に輝き、その輝きは神々しい程の物である。聖水に浸けていた武器となれば、サラが初期に持っていた<聖なるナイフ>もそうではあるが、おそらくその期間にも違いがあるのだろう。

 更に、<聖なるナイフ>とは、物自体が異なっている。本当に鉄で出来ているのかと疑いたくなる程に研ぎ澄まされた刀身は、以前カミュやリーシャが持っていた<鋼鉄の剣>よりも長く、鋭い。

 それは、正しく『精霊ルビス』と神に仕える者が持つ、最強の剣と言っても過言ではないのかもしれない。

 

「カミュ、サラの武器は決まったぞ」

 

「ふぇっ!?」

 

 一目でその剣が気に入ったリーシャは、剣を持って一振りし、それをサラへと手渡した。

 驚いたのは、それを渡されたサラである。突如手に圧し掛かった重みに態勢を崩しそうになりながらも、その柄をしっかりと握り込み、何度か軽く振ってみる。しっかりとした重みはあるが、全力で触れない程の重みではない。

 満足そうに頷きながら見ているリーシャに向かって、サラは一つ頷きを返した。

 

「じゃあ、9800ゴールドになるね」

 

「な、なに!?」

 

「ふぇっ!?」

 

 しかし、そんな二人も、店主がにこやかに発した価格を聞いて、先程までの笑みを消し飛ばしてしまう。

 実際に、ここまでの旅で、様々な装備品を買い替えて来た一行ではあったが、単品で10000ゴールド近くもする物に遭遇したのは、初めての事であったのだ。特殊な剣であるとはいえ、一品でその価格は、アリアハンという片田舎の出身の者達には、法外な物である。

 唯一人、その意味が解らないメルエだけは、首を傾げながらも、輝く瞳でカウンターの奥に並ぶ防具へ視線を向けていた。

 

「わかった。この町に魔物の部位などを買い取ってくれる場所はあるか?」

 

「ん? それなら、ここで買い取るぞ……これは、<ガメゴン>の甲羅かい? 最近はこれを取って来れる程の力量がある者がいないから、助かるよ」

 

 9800ゴールドという大金をカウンターへ置いたカミュは、その横にここまでの道中で採取した魔物の部位を置く。一つ一つ中を確かめていた店主は、出て来る部位の希少性に目を輝かせ、こちらも予想以上の買値で引き取ってくれた。

 サラの<ゾンビキラー>を購入しても余りある資金を手にした一行は、その他の武器や防具も見て行くのであるが、その中に二つほど気になった物があり、カミュとリーシャで暫しの間、会話が繰り返される。

 

「店主、この盾はいくらだ?」

 

「その<ドラゴンシールド>ならば、一つ3500ゴールドだな。希少種である『龍種』の鱗を繋ぎ合わせて作った盾で、龍種の吐き出す、火炎や吹雪にもある程度の耐性がある物だ」

 

 盾一つが3500ゴールドというのも、かなりの価格である。実際に、カミュ達が遭遇した事のある『龍種』という存在が、<スカイドラゴン>だけである事を考えると、この盾に使われている鱗と言う物も、本当に『龍種』の物であるかも疑わしい。

 もしかすると、先日遭遇した<ガメゴン>の纏う鱗を繋ぎ合わせた物なのかもしれない。あの魔物も、劣化したとはいえ、龍種の血を引く物であると云われている。その鱗であるならば、同種の放つ物に耐性を持っていても、筋は通るという物だ。

 

「これも二つくれ」

 

「おお! ありがとうよ。ならば、二つで7000ゴールドだが、<ゾンビキラー>も買って貰ったんだ。二つで5000ゴールドで結構だよ」

 

 ここまで即決する客も珍しいのだろう。店主は気前良く値引きを行い、受け取ったゴールドを数えて行く。

 手に持った<ドラゴンシールド>は、二人の手に吸いつく様に馴染み、それ程の重量も感じない。<魔法の盾>程軽い訳ではないが、<鉄の盾>よりも重い訳でもない。盾を装備しているという確かな感触がある分、<魔法の盾>よりも、彼等二人には良い防具なのかもしれない。

 二人の<魔法の盾>はその場で引き取って貰い、もう一つの気になった装備に関して再度注意を向けた。

 

「これは、<ドラゴンキラー>と呼ばれる武器だ。手に嵌め込むような形で使う武器ではあるが、『龍種』の牙や爪を加工して作られた刀身は、龍種の鱗も容易く貫く程の強度を持っている」

 

「手に嵌めるのか……」

 

 誇らしげに店主が掲げた武器は、カミュやリーシャにとって魅力的な物ではなかった。

 実際、手に嵌めて使うとなれば、それは刺突型の攻撃が主流となって来る。アリアハンを出た頃のような、頼りない武器であれば、魔物と戦う時にその攻撃方法が最も効果的ではあったが、一行の武器の強化と共に魔物も強力になっている今では、攻撃方法が一つのパターンと言うのは、逆に弱みと成り得るのだ。

 更に、籠手のような形で手に嵌め、中にある取っ手のような部分を持つ事で突くのであれば、そこには剣の腕だけではなく、武道の嗜みもなければ、魔物との戦闘は難しい物となるだろう。

 

「これを加工する事は出来ないか?」

 

「加工? 姿を変えるのか? う~ん……ここじゃ無理だろうな」

 

 扱う事の難しさを考えたカミュが、その姿の変更の可否を訊ねるが、それは即座に否定された。

 龍種の牙や爪を加工して剣の形にした物であれば、その後の加工も可能ではないかと考えたのだろうが、もしかすると、この剣は、この場所で作製された物ではないのかもしれない。

 その場で少し考え込んだカミュではあったが、一つ了承の頷きを返し、<ドラゴンキラー>を店主へと返した。

 

「<変化の杖>という物をご存知ですか?」

 

 カミュの話が一段落した事で、サラが口を開く。

 それは、グリンラッドという永久凍土の島で一人で暮らす老人が口にしていた物であり、このサマンオサにあると聞いた杖の事であった。

 それがこの国の何処にあるのかは解らない為、サラは武器屋の店主に情報を求めたのだ。サラも、その杖の能力を知っているだけに、武器屋のような場所で一般的に販売されているとは考えていなかっただろう。情報の一つとして、何か有益な事があればと考えていたのだ。

 

「ん? ああ……<変化の杖>の事ならば、噂に聞いた事があるよ。まぁ、うちのような普通の武器屋では扱えない代物だな」

 

「そうですか……」

 

 しかし、サラの考え通りの答えしか返っては来なかった。

 噂程度でしか聞いた事が無いのであれば、一行が持っている情報以上の物を仕入れる事は不可能であろう。

 予想していた事ではあったので、それ程落胆する事もなく、サラは<ゾンビキラー>を納める為の鞘を所望した。

 カミュとは異なり、元々持っていた剣の鞘等をサラは持っていない。剥き出しの剣を持ってある事が出来ない以上、それを納める鞘が必要となる。サラの姿を見て、それを理解した店主は、軽い謝罪を口にし、奥から鞘を取り出して来た。

 

「…………メルエの…………」

 

 武器や防具を見終わり、店を後にしようとした一行であったが、歩き出そうとするカミュのマントを引く者によって、その行動は阻まれる。

 『むぅ』と頬を膨らませた幼い少女は、期待と不満を宿した瞳を向けていた。

 この少女も、現在自分の持っている武器である<雷の杖>に替わる物が存在しないという事は解っているだろう。おそらく、他の武器を買い与えようとしても、『いらない』と頬を膨らませるに違いない。

 だが、それとこれとは別なのだろう。自分以外の人間が新しい物を買っているのに、自分にはないという事に不満を持っているのだ。

 

「この娘に合う防具などは何かないか?」

 

「え? その娘か……悪いが、うちには何もないな」

 

 メルエの視線を受けたカミュは、軽い溜息を吐いた後、店主をへと問いかける。しかし、それに対しての答えは無情な程に簡素な物だった。

 予想はしていたものの、カミュは視線をメルエへと戻した事を少し後悔する事となる。この少女は、幼い我儘を言うようにはなったが、基本的に物解りが悪い訳ではない。がっくりと項垂れるその姿は、誰しもが罪悪感を抱いてしまう程に物悲しかった。

 

「メルエ、仕方がない。メルエの武器は<雷の杖>があるだろう? 着ている物に関しては、また次の場所で何か探そう」

 

「…………ん…………」

 

 やはり、こういう時に傷心の少女に声をかける事が出来るのは、母のような姉のような女性だけである。帽子を取った頭を優しく撫で、ゆっくりと言い聞かせる言葉に、不承不承頷いた少女は、カミュの後に続いて店から離れて行った。

 店主から受け取った鞘を苦心しながら腰に着けたサラは、慣れぬ感触に歩き辛そうに何度も躓きながら、最後に武器屋を出て行く。

 

「サラ、それでは剣が足に当たってしまって歩き難いだろう? 貸してみろ」

 

「ありがとうございます」

 

 最後に階段を下りて来たサラの姿を見たリーシャは、その不格好さに溜息を吐き出し、彼女の腰に<ゾンビキラー>を装着し直す。しっかりと固定される形になった剣が更に足の動きを制限してしまうように感じてしまうが、騎士として生きて来たリーシャにとっては、それが当り前の物でもあった。

 <銅の剣>とは異なり、刀身の長い<ゾンビキラー>は、サラにとって違和感しか湧かない物であったが、それでも新たな武器を手にした高揚感が胸に湧き、それと共に新たな決意も刻まれて行く。

 

「何だ? この店は誰もいないのか?」

 

 サラの剣を着け直した一行は、武器屋の隣にある建物の中を覗き込んだ。

 そこは、道具などを売っている店なのだろう。カウンターの奥には、薬草などが入った壺のような物が並べられており、独特の匂いが漂っている。

 しかし、カウンターの向こうに居る筈の人物がいない。覗き込んだリーシャが呟いた通り、この店の主がいないのだ。例えカウンターで仕切っているとはいえ、不用心極まりないと言っても過言ではない。

 

「どうやら、店の人間は葬式に出てしまっているらしい」

 

「葬式?」

 

 不思議に思った一行が店の中へと入ると、中で困り果てていた男性が苦笑を浮かべながら語りかけて来た。

 入口からは死角になっていた場所に立っていた男性は、道具屋へ買い物に来ていたのだろう。店主がいない店の中で、どうしたら良いか考えていた男性は、中に入って来たカミュ達を見て、同じような目的を持つ者と認識したのだ。

 しかし、その中にあった単語は、道具屋で聞くような物ではなかった。

 

「最近、この城下町では、毎日のように葬式が行われているからな」

 

「毎日だと!?」

 

 驚いたリーシャへの返答もせず、男性は店を後にする。残された一行は、無人の店舗の中で呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。

 毎日、葬式が行われる理由など、一つしかない。

 それは、毎日のように『人』が死んでいるという事。

 

「教会に行ってみる」

 

 困惑の色を濃くするリーシャとサラであったが、カミュが店を出て行った事で、慌てて外へ出る事となる。

 正直に言えば、サラは若干の驚きを持っていた。

 『葬式』という単語を聞いても、本来であれば、カミュ達の目的に何の関連性もない筈。むしろ、彼等の旅には無駄な情報であるにも拘らず、カミュはそのまま教会へ行くと告げたのだ。

 それが、とても不思議なのにも拘わらず、とても自然で、昔から彼がこういう行動を当然の事のように行って来たような感覚にさえ陥る。彼は認めないのかもしれないが、サラはそれは彼が『勇者』であるが故ではないかとさえ思った。

 

「メルエ、どうした?」

 

「…………???…………」

 

 外へ出ると、誰もいない道具屋に興味を示していなかったメルエが、対面にある建物の入口から中を覗き込んでいた。

 その建物には、看板などは取り付けられておらず、中の様子も外から見る限りは解らない。入口の淵に手をかけ、顔だけを中に入れるように覗き込んでいるメルエの姿はとても愛らしく、リーシャは笑みを浮かべながら問いかけるのだが、その声に振り返った当の少女は、何が何やら理解出来ず、小さく首を傾げた。

 

「…………!!…………」

 

 しかし、リーシャ達が近付くと同時に、建物内から歓声のような物が響き渡る。その声に驚いたメルエは、大慌てでカミュのマントの中へと隠れてしまった。

 歓声のような響きは、地面の下から響くような遠い物。カミュは建物の中を覗き、下への階段を見つけると、そのまま階段を下りて行く。

 先程の地鳴りのような響きに、嫌な予感しかしないリーシャとサラはカミュを引き留めようとするが既に遅く、メルエを伴った彼の姿は、階下へと消えて行った。

 

「ようこそ、血肉湧き踊る『格闘場』へ!」

 

 そこは、彼女達二人が予想してた通りの場所であった。

 階段を降りると、正装をした男性が歓迎の笑みを浮かべて一行を迎え入れる。男性の後ろには、ゴールドを投票券に替える場所と、当たり投票券を景品に替える場所が並んでいた。

 更に奥には、客席へ続く道があり、観戦だけが目的の人間も入る事が出来るようになっている。歓声というよりも怒号に近い地響きがする中、一行は客席の方へと向かって歩き出した。

 

「お待たせ致しました。本日のメインバトルです!」

 

 楕円形に広がった客席は、中央にある地肌が良く見えるように配置されており、その姿は、遙か昔の時代に存在していたコロシアムと呼ばれる場所に酷似している。客席は、この国の人間全てがいるのではないかと思える程に人で溢れ返っており、小さくはない会場全体を熱気で包み込んでいた。

 アナウンスの声と共に魔物が中央へと登場する。一行が何度か遭遇した事のある魔物ばかりであり、その瞳は、総じて狂気に満ちていた。

 

「カミュ、出よう。ここは、メルエに見せる場所ではない」

 

「国の政策の一つとはいえ、私は納得できません」

 

 冷たい瞳で中央を見つめるカミュの肩に手を置いたリーシャは、早々な退出を提案する。考えると、闘技場や格闘場といった場所を、メルエは見た事が無い。ロマリアでは、その場所に行った時には、まだメルエと出会ってはいなかったし、イシス国では、カミュとリーシャの二人で行っていたのだ。

 今の人間の間に広まる、魔物を悪とするルビス教の教えであれば、この格闘場は間違いではないのかもしれない。その教えを信じる親の下で成長する子供達にとっては、正しい行いとなるのだ。

 だが、良くも悪くも、彼等はその枠から飛び出してしまっている。盲信的に教えを信じていたサラでさえ、魔物だけを悪とする考えを持ち合わせてはいない。そんな彼等が共に歩む幼い少女には、偏った考えを持って欲しくはないというのが、この三人の共通の思いでもあった。

 

「…………メルエ……ここ……きらい…………」

 

「ふぉふぉ……そうか、お譲ちゃんもそう思うか? 儂も騙されんぞ! 格闘場などを作って、政治への不満から目を逸らさせようとしてもな! 第一、ギャンブルで一番儲かるのは、何時の時代も胴元と相場は決まっているもんじゃ」

 

 魔物が戦いを始め、それを見つめていたメルエは、眉を下げてカミュのマントを引く。その表情は、強烈な嫌悪感を示しており、リーシャとサラは、何処か安堵を感じると共に、苦しさも感じてしまった。

 そんなメルエの言葉を聞いていたのだろう。一行の隣にした老人が、突如として口を開き、国の政策に向けての不満を吐き出し始める。それは、見ず知らずの人間に向かって語る内容ではなく、その不満の大きさを物語る物だった。

 

「失礼ですが、余りそのような事は口にされない方が……」

 

「儂は老い先短い人間じゃ。儂の苦言が届き、国が良くなるのならば、この命などいくらでも差し出そうという物。そのような心配は無用じゃ」

 

 しかし、カミュの忠告を歯牙にも掛けない老人は、それを知っていて尚、口にしていたのだ。

 闘技場や格闘場がある国家という場所は、その国家で暮らす国民に何らかの不満がある事が多い。その見えない不満の捌け口として、国家が用意したのが、魔物同士を戦わせるという闘技場や格闘場なのだ。

 アリアハンから数えて六つの国家を歩いて来た一行ではあるが、その内の半数に値する三つの国家にそれがあるという事実が、現状の世界の危うさを物語っているのかもしれない。

 

「……出るぞ……」

 

 しかし、ロマリアやイシスに比べ、このサマンオサの国民の不満は、更に強い物なのだろう。格闘場に居る者達の半数は、魔物達の戦いを狂気の瞳で見ていたが、あの老人だけではなく、何人かの人間が冷めた瞳でそれを見ていたようだった。

 国民の不満というのは、重税や強制労働のような見える物だけではない。『魔王バラモス』という強大な脅威に対する、日々の不安や恐怖もまた、国家に対する不満へと摩り替って行くのだ。

 だが、このサマンオサは、それだけではないと思われた。

 例え、未来への不安や恐怖が国家に向けられたとしても、それを明確に口にするというのは珍しい。国家の軍隊などで魔王が討伐出来るのだとすれば、疾の昔に行われているという事ぐらい、国民の全てが理解しているからだ。

 故に、本来であれば、その不安や恐怖は、その国の税への不満などに摩り替って行くのが通常なのである。

 

「あんたぁ……何で死んだのよぉ!」

 

「ブレナンよぉ! お前は良い奴だったのによぉ!」

 

 そんな疑問は、格闘場を出て、教会への通り道にある墓地に差し掛かった頃に氷解する事となる。墓地の外まで響くような泣き叫びが轟き、棺に抱きついた女性の横では、幼い男の子が呆然とそれを見つめていた。棺に抱きついた女性は、棺に納まる者の妻なのであろうし、呆然と佇む少年は、彼等の子供なのかもしれない。

 おそらく、道具屋で話題に出た葬式とは、この事を指していたのだろう。友人のような男性は、棺に納まった者の名を連呼しながら、大粒の涙を流している。棺の前では、サマンオサ教会の神父が言葉を紡いでいた。

 

「魔物に襲われたのでしょうか?」

 

 このような光景は、この時代では有り触れた光景でもある。魔物が凶暴化する世界では、平原でも魔物と遭遇する事はあり、それによって命を落とした者の数は数え切れないのだ。

 だが、このサマンオサ国では、その常識が通用しない部分もある。サラが疑問に感じたのは、正にそれであった。

 この国は、国交を国王によって遮断され、国民が城下町を出る機会が少ない。アリアハン大陸のように、城下町以外の集落があるのであれば、そことの行き来があるのだろうが、このサマンオサ大陸には、そのような集落が無いのだ。

 そうなれば、必然的に国民が魔物の脅威に晒される場面は少なくなり、魔物によって命を落とす事もなくなる。それにも拘らず、毎日のように葬式が執り行われるという事実が、サラの胸に疑問という形で残ったのだった。

 

「王様の悪口を言っただけで死刑になるなんて、いくらなんでも酷過ぎる」

 

「そうね……毎日、多くの人達が牢へ入れられたり、死刑になるなんて……昔はお優しい王様だった筈なのに……」

 

「私は、あの王様が子供だった時から存じ上げておる。あの王様は、別人としか考えられん」

 

 墓地を眺めていた一行の横で、同じように葬儀を見守っていた三人の男女が、囁くような声で会話をしている。その内容に関しては、既に『旅の扉』がある教会で話を聞いていたが、ここまで酷い物であるとは、カミュ達も想像していなかった。

 棺に納まる者は、国王の陰口を叩いたのだろう。それは立派な不敬罪であり、どの国家でも処罰の対象となる物である。しかし、何処の国でも、不敬罪で死罪となるには、それ以外の罪を併せ持つ者に限られていた。

 棺の中に居る者が、国王を扱き下ろし、国民の不満を煽って、国家転覆を図るような集団を作り上げていたようには見えず、彼の死を悼み、集う人間の数を見る限り、国家が脅威に感じる程の人望を備えた人物にも見えない。

 ただ、単純に陰口が耳に入っただけで死刑に処されたと考えるのが妥当だろう。

 国王とはいえ、絶対的な力を備えている訳ではない。国民にとって、行き届かない部分もあるだろうし、不満に感じる部分もあるのが当然なのだ。それは世論であって、それに関して、国王ともあろう者が右往左往する事があってはならない。それが世界的な常識でもあった。

 

「城へ行く」

 

「あっ、は、はい」

 

 三人の男女の言葉の中にあった『別人』という言葉に引っ掛かりを覚えたサラであったが、能面のように無表情となったカミュが歩き出した事によって、大慌ててそれを追う事となる。

 サマンオサの城下町には、人の姿が疎らにしかない。ほとんどの人間が葬儀に出ているか、格闘場へ赴いているのだろう。

 それは、国家として末期の状況であると言っても過言ではなかった。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回は少し中途半端に終わってしまった感があるかもしれませんが、その辺りは活動報告に記させて頂きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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サマンオサ城①

 

 

 

 

 サマンオサ城は、城下町の南西に聳え立つ。

 城下町から城へと延びる街道は、石畳で整備されており、真っ直ぐに城へと伸びていた。

 

「ここはサマンオサ城だ。何用だ?」

 

「アリアハンから来ました、カミュと申します」

 

 城門の前には、二人の門番が立っている。二人の後ろには、巨大な金属の城門が侵入者を阻むように立ち、その門はしっかりと閉じられていた。

 門番の前まで歩み寄ったカミュが丁寧に頭を下げるが、門番は厳しい表情のままカミュを見つめ、手渡された各国の王からの書状も受け取ろうとはしない。

 ここまでの旅で、高圧的な態度を取る門番を何度も見て来た一行ではあったが、書状さえも受け取らないという態度は初めてであった。

 

「国王様に呼ばれたのか? 私達は、そのような話を一切聞かされてはいない。早々に立ち去られよ」

 

 門番の態度に違和感を感じていたサラであったが、その違和感の正体が何であるかという事を、追い返す為に口を開いた門番達の表情を見て気が付く事となる。

 二人の門番は、その言動を心苦しそうに発していたのだ。

 元々、高圧的に追い返すエジンベアなどの門番とは異なり、本来の仕事である筈の取り次ぎさえも出来ない自分自身に、苛立ちを感じている事が目に見えて理解出来る。出された書状に目を通さないのも、それを見てしまえば、取り次がずにはいられないと考えているのかもしれない。

 何にせよ、彼等の態度が無理に作られた物である事は明白であった。

 

「許せ……無用な波風を立てれば、この城で働く者達の命に係わる……」

 

 そして、サラのその考えは、諦めた一行の背中に向かって呟かれた一言で証明される。

 国王が自ら呼んだ者以外を城へ通せば、それを咎められる者達が数多くいるのだろう。そして、罪を咎められた者達の末路は、先程一行が見て来た者と何も変わりはない。明確な『死』が待っているのだ。

 呟きを聞いたカミュは、一度門番へ頭を下げ、再び元来た道を戻って行った。

 

「お前達も追い返されたのか?」

 

 城下町へと続く街道を戻っていたカミュ達の横から突如として声が掛かる。カミュの横を歩いていたメルエは、マントの中へと潜り込み、全員がそちらへ視線を送った。

 そこに立っていたのは、しっかりした肉体を持つ男性。背丈はカミュと同程度か、若干それよりも低い。年齢は、リーシャよりも上なのかもしれない。身体には鎧のような防具を纏い、背中には剣を背負っていた。

 見た目だけでも、それなりの力量を持つ者である事が解る。だが、このパーティーの中で、その者の存在に動じたのは、驚いてマントの中へと逃げ込んだメルエだけであった。

 

「この国は、徐々におかしくなって行く。来訪者を門前払いするなど、昔では考えられないというのに……挙句には、我が父を追放し、この国は狂ってしまった」

 

 若干厳しい瞳を向けるカミュを余所に、男性は静かに語り出す。見ず知らずの人間に国の内情を語る程に、不満が溜まって来ているのだと理解はしていたが、その男性の語る内容を聞いている内に、リーシャとサラは、驚きの表情を浮かべる事となった。

 この国を追放された人物となれば、一行が得ている情報には、英雄サイモンという人物しか当て嵌まらない。そして、この男性は、追放された者を父と呼んだのだ。それは、サマンオサの英雄と呼ばれる男の息子である事を示していた。

 

「貴方は、サイモン様のご子息なのですか?」

 

「ん? ああ……英雄サイモンの息子だ。追放された後、行方知れずになった父を探している。捕縛された父は、追放後に国外の牢に入れられたという噂があるのだが、城に入れない為に、真偽を確かめる事が出来ない」

 

 サラの問いかけに胸を張って答える男性を目にしたリーシャは、何故か眉を顰める。別段、この息子と名乗る男性が特別な事を口にした訳ではない。しかも、リーシャは、その父親であるサイモンを英雄として憧れてもいたのだ。

 だが、父親を誇るように胸を張る男性を見て、何故か奇妙な不快感を覚えてしまう。父を誇る事は悪い事ではない。事実、リーシャ自身も、アリアハン宮廷騎士隊長の父を誇りに思っているし、アリアハンを出た頃は、自身の名乗りに関しても、『前宮廷騎士隊長クロノスの娘』と名乗った事もある。

 そんなリーシャであったのだが、何故か、その名乗り以外で、自身の名を口にしない男性に不快感を覚えた。それは三年間という間で、『オルテガの息子』としか見て貰えない人生を歩んで来た青年を見続けて来たからなのかもしれない。

 

「悪いが、アンタの父親の情報を、俺達は何も持っていない」

 

「そうか……何か情報を得たのなら、教えて欲しい」

 

 アリアハンの英雄の息子として、アリアハンの勇者となった青年は、その父を誇る事はない。最近では、その理由を朧気ながらもリーシャは理解し始めていた。

 彼は、世界中で語り継がれる英雄を見た事はないのだ。自身の父親であるにも拘らず、その声を聞いた事もなく、その顔を見た事はない。肖像画などが残される高貴な身分ではない為、その表情を想像する事さえ出来ないのだ。

 そして、そんな顔を見えない相手の代わりとしての人生を義務付けられ、『人』では敵わない存在の討伐を使命付けられた。

 母親は確かに彼を愛していたのかもしれない。だが、彼の話を聞く限り、その愛は歪んでしまっていたようにさえ感じる。母親の愛も、父親の愛も知らないこの彼は、考え方こそ歪んではいたが、性根の部分が歪んでいなかった事自体、奇跡に近い物ではないだろうかとさえ、リーシャは感じていた。

 逆に、おそらく、英雄サイモンの息子は、幼年時代から少年時代に掛けて、父親の愛情を受けて育って来たのだろう。故に、父を誇り、それを自身の力と思っているのかもしれない。

 そこに、アリアハンの英雄の息子と、サマンオサの英雄の息子の違いが、明確に表れていると感じてしまったのだ。

 

「追放された英雄の行方を捜して、どうするつもりなのだ?」

 

「なにっ!? 父が追放される理由がない! このサマンオサ国に尽して来た父が、何故追放されなければいけない! 何故お前達のような余所者にまで辱めを受けねばならぬ! 私は、この国を許しはしない」

 

 リーシャのそのような想いが口を吐いてしまう。追放されたサイモンは、余所者であるカミュ達から考えても、既に生存している可能性はとても低い。それが理解出来ているにも拘わらず父親を捜す気持ちは、リーシャにも良く解るのだが、一つ解せない事があったのだ。

 だが、リーシャの何気ない一言に過剰に反応した男は、親の仇でも睨みつけるようにリーシャへ憎しみの瞳を向ける。その瞳を真っ向から受け止めたリーシャは、英雄の息子の心の中にある想いを理解した。

 彼の心の中にある想いは、サラが遠い昔に胸に秘めていた物と似通った物。憎しみに彩られたその想いは、彼の視界を何処までも狭めて行く。

 アリアハンを出たばかりの頃の三人のように、狭い視野の中で動いている彼の姿は、リーシャの胸の内に哀しみを運んで来ていた。

 二人の英雄が残した遺児達は、やはり英雄の血を継いでいるのだという実感が湧くと共に、片方の遺児が歩んで来た道を共に歩んで来た彼女は、自分よりも年上であろう目の前の男性が、とても幼く見えてしまう。

 だが、それはカミュと彼の違いではなく、リーシャが敬愛するオルテガとサイモンという、二人の英雄の決定的な違いが何処かにあるからなのかもしれない。その決定的な違いが何なのかは、今のリーシャには解らないのだが、彼女はそんな哀しい想いを胸に、顔を俯かせてしまった。

 

「失礼します」

 

 城下町へ戻るのではなく、城門へ戻る訳でもなく、何故か城の側面の方角へ移動し始めたカミュに疑問を感じながらも、リーシャとサラはサイモンの息子へ会釈をし、その後を付いて歩き出す。

 

「カミュ、何処へ行くんだ?」

 

「城へ入る」

 

 サイモンの息子の姿が見えなくなった頃に、ようやくリーシャが口を開く。カミュが向かった場所は、町へ戻る道ではなく、どう考えても城への裏道のように感じる程、城の敷地内にある庭園のような場所。

 英雄の息子程の者ならば、一行の行動を注進する事はないだろうが、それでも一行の行動は不審を覚えられても仕方がない事だったのかもしれない。

 

「それ程に、この国は危ういのですか?」

 

 しかし、逆を返せば、基本的に無関心なカミュが、それ程までに急いて城へ入る必要があると考えていた事にもなる。サラは、それを問いかけているのだ。

 現状で一行が手に入れている情報の内容を吟味してみても、このサマンオサという国を取り巻く環境が全く見えて来ない。国民が牢へ入れられても、死刑に処せられても、国家としての在り方を維持している以上、他国の個人がそこに介入する謂れはない。

 

「英雄の息子とやらが言っていた事を聞く限り、追放された英雄の行方を知るのは、国家の上層部にしかいないのだろう」

 

「私もサイモン殿の行方は気になるが……」

 

「……ガイアの剣ですか?」

 

 立ち止まったカミュが振り返り様に語った内容に、リーシャは少し俯いた。

 サイモンという英雄は、オルテガの次に憧れを抱く存在ではあるが、正式な手続きを踏まずに城へ入る危険を冒す必要性には疑問を持ってしまったのだ。

 それは、サラやメルエも危機に晒すという事への危惧でもあった。

 だが、そんなリーシャの考えは、的を外した物である事が、サラの言葉で明らかとなる。サイモンという英雄の行方を探る理由は、その人物を憐れと思った訳でもなく、その息子の哀しみを考えた訳でもなく、ましてやサマンオサ国の現状を憂いての物でもなかったのだ。

 

「ガイアの剣がなければ、その先の道は途絶える」

 

「そうか……そうだったな」

 

 カミュの人間味を感じたような気がしていたリーシャは、哀しみと落胆を滲ませるような溜息を吐き出した。

 ルザミという忘れられし都で出会った預言者と名乗る老人が、一行の進む道を見た際に、『ネクロゴンド火山の火口にガイアの剣を投げ入れる』と予言していたのだ。そして、魔王バラモスへの道を切り開くとまで云われた事を、ここまでの道中で、リーシャはすっかり忘れてしまっていた。

 一行の目的は、何があろうと『魔王討伐』である事には変わりはない。それは、道中でどんな出来事に遭遇しようと、どれ程の哀しみを知り、どれ程の喜びを知ろうとも変わらない。

 それを、この哀しい青年だけは常に考えていたのだろう。

 

「ガイアの剣は、サイモン様がお持ちだという事でしたから……ですが、それだけではないですよね?」

 

「サラ?」

 

 何処か哀しい気持ちが胸に湧き上がっていたリーシャの心を代弁するように、確認を込めたサラの言葉が響く。その声に、先程まで落ち込むように下げられていたリーシャの顔が上がった。

 一行の話に興味の無いメルエが、庭園の花に止まる蝶のような虫を眺める為にしゃがみ込んでいる横で、陽光を受けて瞳を細めたカミュの顔に影が射す。

 何も語らないカミュを見たサラは、自分が発した失言を悔いるように顔を顰めたが、先程まで落胆していたリーシャは、逆に顔を徐々に輝かせて行く。

 彼女は忘れていたのだ。

 この『勇者』の性根が歪んでいない事を。

 

「人の心が変わる事はあるだろうが、人そのものが変わる事は有り得ない」

 

 輝き出したリーシャの顔は、眩いばかりの笑みへと変わる。

 先程まで、蝶を眺めていたメルエもまた、そんな彼女の笑みを見て、花咲くような笑顔を作った。

 もはや、昔のように、『関係ない事』と切り捨てる青年は、彼女の前には存在しない。彼女の手を握った幼い少女によって浮き上った『人』としての心は、彼女を含めた三人の力で、無理やり引き上げられていたのだ。

 彼は、冷徹な人形ではなく、誰かの代替品でもない。

 『勇者』ではあるが、『勇者』ではなく、彼女が最も頼りにし、最も信頼する人間の一人。

 アリアハンの英雄の息子にして、アリアハンの勇者であり、メルエという少女の英雄でもあり、勇者でもある。

 そして、何よりも、リーシャという女性戦士が背中を預ける事の出来る『勇者』でもあった。

 

「残るのは、『人』そのものが何かに摩り替っているという可能性だけだ」

 

「魔物……という可能性ですか?」

 

 喜びに打ち震えるリーシャは、カミュの言葉に答える事は出来ない。代わりに応えたのは、先程まで自分の言葉を悔いていたサラだった。

 実際、カミュが語る可能性が、どのような経路を辿って辿り着かれた結論なのかという事をリーシャは正確に把握出来てはいない。それは、そんな彼女を見上げながら微笑むメルエも同様であろう。

 つまり、ここから先は、このパーティーの頭脳二人の会話となり、それに導かれる道を共に歩むだけで、リーシャとメルエは良かったのだ。

 今のカミュの言葉を聞く限り、それが間違った道である訳がない事が理解出来ただけでリーシャの役目は終わったのかもしれない。

 

「現時点では特定は出来ないが、集まった情報を整理して行く限り、その可能性は高いと考えるのが妥当だろうな」

 

「よし! 城の中へ入るぞ! それで、どうやって入るつもりなんだ?」

 

 最後まで聞く必要はないとでも言うように高らかに声を上げたリーシャに倣い、その手を握っていたメルエもまた、高らかに<雷の杖>を掲げる。

 どのような状況が待っているかも考えずに、笑顔を浮かべる二人に対して溜息を吐き出したカミュは、庭園の先に見える、小さな勝手口へ指を伸ばした。

 

 通常の城という建造物は、城門の周囲を堀などで囲う事が多い。アリアハン城などは典型的で、城門へ向かうには、長い橋を渡らねばならず、ロマリアにしても同様であった。

 それは、他国からの侵攻に備える為であり、籠城という形での戦闘も考慮に入れ、敵を迎える際の備えとして作られているのだ。

 だが、このサマンオサ国は例外であり、堀などは存在しない。イシスのように砂漠という劣悪な環境の場所にある城であれば、侵攻軍が城へ攻め上る前に、軍自体が崩壊する可能性が高い為に、それ程大がかりな備えをしている訳ではないのだが、サマンオサ国の場合は、その特殊な地理が影響していた。

 『旅の扉』でしか訪れる事の出来ない国である以上、その場所からしか軍は侵入出来ない。『旅の扉』は大勢で移動できる程の物ではない為、何度も何度も使わなければ、軍自体が成り立たないだろう。編成を終える前に叩く事が出来る以上、城の備えを強固にする必要はないのだ。

 同じ『旅の扉』がある国家でも、海から侵攻出来るアリアハンとは、根本的に異なっているという事である。

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 勝手口のような場所の扉にも、当然鍵がかかっているのだが、門番が存在しなければ、そのような鍵など、カミュ達にとって物の数ではない。

 メルエから手渡された<最後のカギ>を手にしたカミュは、鍵穴に差し込み、その扉を開錠する。乾いた音を立てて開錠された扉を開き、中を覗き込んだカミュは、後方で合図を待つ三人に、目配せを行った。

 何か釈然としない想いを抱いたサラではあったが、楽しそうにその手を引張るメルエに付いて行くように、城の中へと足を踏み入れる事となる。

 

「ああ、忙しい! あれ? アンタ達はお客人かい? お客人は、台所などに入って来ないでおくれ! 王様の食事が遅くなってしまったら、殺されちまう!」

 

 中に入ってすぐ、勝手口が何処へ繋がっていたのかを一行は理解する事になる。既に、太陽は西の空へ傾きかけていた事を考えると、数刻もすれば、夕食時になるのだろう。厨房では、何人もの給仕が所狭しと駆け回り、かなりの量の料理を作り上げていた。

 その量は、この城で暮らす全ての人間の分なのかと考えてしまう程の物で、肉や魚なども大量に捌かれている。これ程の量であれば、相当な人数の人間が城内で働いているという事になるのだが、何故かサラ達はそれを鵜呑みにする事が出来なかった。

 

「申し訳ございません、道に迷ってしまいまして……場内の方々のお食事を作っている最中に、失礼致しました」

 

「はぁ!? 何を言っているんだい! これは全て王様の分さ! 間違っても、私達の分があったなんて、王様にお話ししないでおくれよ。これだけ一生懸命に作っているのに、謂れもない罪で死刑にされたくはないよ」

 

 しかし、厨房という場所を離れる為に、頭を下げながら口にしたカミュの言葉に対する返答を聞いて、一行は驚愕する。

 どれだけの目で見ても、この量を一人で食す事など出来はしない。パーティー内で一番食が太いメルエであっても、この四分の一も食す事は出来ないだろう。一行の脳裏には、必然的に、全てを食す事無く残し、捨ててしまう驕り高ぶった王族の姿が浮かんだ。

 

「こんな良い材料の料理を残すなど、材料にも、作った人間に対しても失礼だな」

 

「はぁ!? アンタ、気を付けなよ。そんな事が王様の耳に入ったら、即刻死刑だよ。それに、これは王様の一食分さ。全て平らげて下さる。ただ、食費は膨大だし、少しでも料理が遅れたり、味が悪かったら、私達の命もないけどね」

 

 リーシャの言葉に大袈裟に反応した大柄な女性は、最後まで話し終わる前に、人を掻き分けて、厨房の奥へと駆けて行ってしまう。残された四人は、ただ呆然と、その光景を眺めているしか出来なかった。

 この量を国王一人が食し、しかも一食分として全てを平らげるのであれば、それは既に異常である。食欲があるとか、食道楽とかいう次元の問題ではない。それは正に、『人』という枠組みでは考える事など出来ない物であった。

 

「カミュ様……やはり」

 

「国王への取り次ぎを頼める人間を探す」

 

 サラの言葉を最後まで聞く事無く、カミュはマントを翻して厨房を出て行く。表情を引き締めたリーシャとサラがそれに続き、美味しそうな匂いに目を輝かせていたメルエは、軽く頬を膨らませながら手を引かれて行った。

 台所を出ると、城の中は静寂が広がる世界であった。

 通常の城内であれば、宮廷で働く人物が何人もいる事が当たり前である。その役職や仕事の内容は異なっていても、場内を歩く人間がいても何も不思議ではない。

 だが、厨房に居た人間の数に比べて、場内の廊下に居る人間の数が圧倒的に少ないのだ。いや、少ないという次元の物ではなく、皆無と言った方が正しいのだろう。

 

 廊下を歩き、城門の方へ向かっても、人が一人もいない。城門から真っ直ぐ伸びる回廊には、真っ赤な絨毯が敷かれている事から、その先が謁見の間である事が予想されるのだが、そこまでの道に人がいるという雰囲気もないのだ。

 それは、国家として異常な状態である。しかも、ここはサマンオサという大国である。魔物の横行が無い時代では、その意志もなく、その行動が無くとも、強力な軍事を要する国家として、周囲に無言の圧力を持っていた国である事を考えると、その異常さは際立っている事が解る。

 

「おい、お前達は何処から入って来た?」

 

 呆然と城内を眺めていた一行の後方から突如声が掛かった。

 振り向くと、兵士とは異なる様相をした男性が立っており、この国家の中枢に居る人物である事が一目で解る。訝しげに細められた瞳が、四人を厳しく見咎め、その真偽を見極めようと光っていた。

 どう答えたらいいのかを迷っていたサラが口籠る中、即座に男性の前に立ったカミュが、仮面を被り直して対面する。真っ直ぐに男性の瞳を受け止めた彼は、静かに頭を下げた。

 

「国王様への謁見を願い出ようと人を探していたのですが、場内に人が見当たらず、途方に暮れていた所です」

 

「国王様に? 私は、このサマンオサ国の大臣ではあるが、そのような話は聞いておらぬぞ?」

 

 カミュの語る内容に、大臣を名乗る男性の瞳は更に細められる。

 それは、大臣という職に就く者として、当然の心構えであろう。通常であれば、門兵から伝言を受けた文官等が、大臣へ話を通し、大臣が国王へお伺いを立てるというのが筋道である。その順序を通さずに、謁見を願い出る者が城内に居るという事自体が、疑惑を生んでしまっていたのだ。

 

「これを」

 

 それを察したカミュは、先程門番に手渡した物を取り出した。

 ここまで訪れた五カ国の内、四カ国の国王が印章と共に記した書状である。何処の国を訪れようとも、カミュ達四人の身分を証明する物であり、その地位を確立させる物。

 それを受け取った大臣は、一つ一つの書状にされてある封の国章を見て、驚きに顔を上げ、各書状の文言を読み進める内に、驚愕で目を見開いた。

 書状の内容をカミュ達は見た事が無い。如何に使者の役割も担っているとはいえ、一国の王族から王族への書状を、カミュ達のような身分の者が目を通して良いという事にはならないのだ。故に、彼等は、大臣が何に驚いているのかさえ理解は出来なかった。

 

「拝見した……これ程の国家から認められた者達に無礼を働いたようだ、申し訳ない」

 

 書状をカミュへ返した大臣は、深く腰を折って、四人に対して謝罪の言葉を口にする。一国の大臣が腰を折って謝罪を向けるなど、通常であれば、考えようもない。ましてや、『勇者』といえども、カミュは年若い青年であり、その他の三人は女性ばかり。その内の一人は、年端も行かぬ少女である。

 その大臣の行為が、書状の内容と、この大臣の人格を明確に表していた。

 信頼に値する人間との出会いは、一行にとって幸運だったのかもしれない。

 

「しかし、今のこの国に、そなた達へ支援をする余裕は残されておらぬ。資金という面だけではなく、国民達の心にも余裕はない。差し出がましい事だが、国王様への謁見も、諦めた方が良いかもしれぬ」

 

「ご忠告、痛み入ります。ですが、『魔王討伐』の使命がある以上、各国の国王様へご報告申し上げるのも、私の務めでございます」

 

 大臣とカミュとのやり取りの間に他の人間が割り込む隙間はない。

 真っ直ぐ目を合わせた二人は、厳しい瞳のまま沈黙を貫き通す。お互いの主張を曲げるつもりもなく、折れるつもりもない事が、彼等を取り巻く緊迫感が明確に示していた。

 しかし、一国の大臣といえども、強力な魔物を相手にも一歩も引かない青年の瞳を受け続ける事は不可能であった。

 溜息のような息を吐き出した大臣は、再び厳しい瞳をカミュへと突きつけ、重い口をゆっくりと開く。

 

「国王様にお通ししよう。だが、一つだけ言っておく。国王様との謁見が叶っても、そなた達の希望に添えるとは限らない。むしろ、そなた達の身の安全さえも保証は出来ない。どのような結果を生もうとも、この国を恨まないでくれ」

 

「……畏まりました」

 

 『どんな結果になっても国を恨むな』という言葉は、非常に重い。それは、国を恨んでこの世を去るという可能性も示唆しているのだ。

 謁見を許されても、それ以後の保証は何もないだけでなく、既に四人の命がないという結果が見えているように話す大臣の瞳を見つめていたカミュは、静かに頷きを返した。

 リーシャの瞳も厳しく細まり、サラは緊張の余りに、メルエの手を握っている手に力を込める。急に力を込められた事に不満の声を上げるメルエの唸り声だけが、場違いのように、場内の廊下に響き渡った。

 

 

 

 謁見の間は、一行が大臣と出会った通路を真っ直ぐ北へ向かった場所に存在した。

 まず、大臣が中へ入り、国王に謁見の許可を得るという事で、カミュ達四人は、謁見の間に続く扉の前で待たされる事となる。扉を開け、中へと入って行く際に、大臣の顔が一瞬歪んだのをカミュが見逃す事はなかった。

 だが、その真意は、彼等が中へ入るまで理解する事は出来ない物だっただろう。 

 

「入れ」

 

 謁見の間に大臣が入ってから、暫しの時間が流れた後、扉の向こう側から声が掛かる。扉に手を掛けたカミュが、ゆっくりとそれを押し開け、一行は中へと入って行く。通常であれば、先導役がいてもおかしくはないのだが、現状のサマンオサ国を見る限り、そこまで人の手が回っていない事が予想出来た。

 真っ赤な絨毯が真っ直ぐ敷かれる方角へ目を向ける前に、一行は、謁見の間に広がる光景に絶句する。それは、彼等のような通常の人間の感覚では理解出来ない程の壮絶な光景であった。

 前方に見えるのは、玉座である事に間違いはない。

 だが、その周囲を舞う女性達の姿は、常軌を逸していたのだ。

 踊り子と考えても良い服装を身に纏った女性達は、国王と思わしき人物の周囲を煌びやかに踊っている。その姿を見たメルエは、一瞬眉を顰めた後、リーシャの影に隠れてしまった。

 

「何をしておる!」

 

 呆然と眺めていた一行に、大臣の厳しい声が届く。

 国王の前で呆けるなど、本来であれば不敬となるのは当然であるのだが、大臣の声には、それだけではない焦りが表れていた。

 大抵の国王であれば、庶民が宮廷内の景色に驚く事は当然であると考え、それだけの力を有した王族の力を誇り、気を良くする者も多い。だが、このサマンオサの国王に限っては、その常識は通用しないのかもしれない。

 

 玉座に近付いて行くカミュは、その周囲で踊っていた踊り子達の姿を見て、更に驚愕する事になった。

 遠目に見た踊り子達は、とても煌びやかに見えていたのだが、実際には真逆であったのだ。

 踊り子の額には、嫌な汗がびっしりと浮かび上がり、踊り子の靴の先は、どす黒く変色した血液がこびり付いている。既に限界を迎えた足は、細かな痙攣を繰り返し、瞳からは止め処なく涙が流れ落ちていた。

 既に、立っている事さえも厳しいのだろう。

 一人の踊り子が、カミュ達が玉座に辿り着く前に、地へ伏すように倒れ込んでしまった。

 

「なんじゃ、踊り続けよ! ちっ、役立たずが……もう良い! こ奴を牢へ連れて行け! 即刻死罪にしてくれる!」

 

 倒れ伏した踊り子は、痙攣する足を奮い立たせ、何とか立ち上がろうとするが、心と体は一つではない。どうあっても動きはしない足に、絶望の表情を浮かべ、それを見た国王と思しき人物が、非情な命を下した。

 数人の兵士に連れられて謁見の間を去る女性は、何度も泣き叫び、許しを請うのだが、それは誰にも受け入れられる事はない。誰しもが唇を噛み、目を合わせぬように俯くその状況は、異常以外の何物でもなかった。

 驚愕によって固まっていたリーシャが怒りに打ち震え、理解の範疇を超えた景色に戸惑っていたサラが瞳を細めた時、先頭を歩いていたカミュが、静かに玉座の前で跪いた。

 

「アリアハン国のカミュと申します。国王様に於かれましては、ご機嫌麗しく、恐悦至極にございます」

 

 これ程の皮肉を込めた言葉を、嘗て、カミュは口にした事が無い。

 それがカミュの胸の内を明確に示している事を知ったリーシャ達は、静かにカミュの後ろで跪いた。

 国王と謁見出来る人間はカミュだけであり、リーシャ達はその従者に過ぎない。王族と会話できる人間も、使者の役割も担っているカミュだけであり、リーシャ達は口を開く事さえ出来ない。

 その状況でも、カミュならばという想いが、彼女達にはあったのだ。

 

「お前達か……魔王討伐へ向かおう等という馬鹿げた輩は?」

 

「はっ、アリアハン国王様から、そのように命を受けております」

 

 赤い絨毯を見つめながらも、リーシャは拳を握り締めている。先程の光景で怒りが頂点に達しようというのにも拘わらず、『魔王討伐』という誇りある使命までを、馬鹿げた物と一蹴されたのだ。握り締めた拳から赤い血液が滲み出し、噛み締めた口内は鉄の味が満たして行った。

 同様にサラも、この王族の頭の中身が理解出来ず、困惑していた。

 サラの場合、怒りで湧き上がる頭の中を強引に冷やし、何とか冷静に思考出来るようにと努力していたが、ここまで出会って来た王族の中でも例を見ない程の醜悪さに、思考が纏まっていない。困惑は、更なる困惑を生み、現状を把握する事さえも出来なくなりつつあった。

 

「そうか……この者達を牢へぶち込め!」

 

「なっ!?」

 

 下げているカミュの頭を暫しの間見つめていた国王は、突如として兵士へと命を下す。その余りな内容に、珍しくリーシャが声を上げてしまった。

 宮廷騎士として仕えて来たリーシャは、謁見の間で口を開いた事などほとんどない。サラやメルエへ注意を促す為に口を開いた事はあるが、王族へ向けて声を発した事はなかった。

 そのリーシャが声を上げてしまう程の命である。周囲の者達にも動揺は走り、カミュ達をこの場に通した大臣は、思わず前へと身体を出してしまった。

 

「恐れながら、この者達は……」

 

「何だ? 貴様も牢へぶち込まれたいのか? そうでないのならば、早くこの馬鹿者どもを牢へぶち込んで参れ!」

 

 国王の前へ歩み出た大臣が言葉を漏らすが、その言葉に被せるように発せられた国王の言葉が、全ての音を搔き消してしまう。

 先程まで騒がしさを見せていた者達も口を噤み、緊迫した静寂が流れる中、数人の兵士がカミュ達の傍へと近付いて行く。

 怒りに燃えた瞳を向けるリーシャに怯えた兵士ではあったが、真っ先に立ち上がったカミュに手で制された事によって、若干の落ち着きを見せる女性戦士の姿に立ち直りを見せた。

 カミュ達四人に対し、その倍近くの人数の兵士が動いている事が、その警戒感の高さを物語っている。

 

「し、しかし、ここでこの者達を牢へ入れてしまっては……」

 

「うるさい! お前は黙って、私の言う事を聞いていれば良いのだ!」

 

 サマンオサ国王の怒号が響き渡る中、その他の音は全て消え失せ、兵士達が歩く際に擦れる剣の音だけが静かに聞こえていた。

 これ以上の発言が何を生み出すのかを理解している大臣は、悔しそうに唇を噛み締め、これから起こる出来事から目を逸らす。周囲に視線を向けると、勇者一行へ視線を向けている者は、サマンオサ国王唯一人である。

 立つように促された四人は、前と後ろを兵士に囲まれ、そのまま謁見の間を連れ出された。

 重い音を響かせて閉じられた扉を見つめる大臣の瞳から、ここまでの十数年間で決して消える事のなかった光が消え失せて行く。

 

 

 

 世界の希望を閉じ込めようとする巨大な扉は、この国で生きる者達にとって、絶望への入り口となる扉だった。

 闇が降り、絶望が支配する国の夜明けは、何時になるのか。

 それは、何時か来ると信じ続けて来た者の心が折れたこの瞬間に、潰えてしまったのかもしれない。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

本格的なサマンオサ編の始まりです。
十三章に入ってから七話目にまで入っていますね……
この章は結構な話数になってしまいそうです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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サマンオサ城②

 

 

 

 謁見の間を出た一行は、前後左右を兵士達に囲まれ、通路を北へ向かって歩いていた。

 周囲を囲む兵士の人数は、一行の倍となる数であり、彼等が如何にカミュ達を警戒しているのかが窺える。実際に、周囲を飲み込んでしまう程の威圧感を放つリーシャが最後尾を歩いているのだから、当然の事なのかもしれない。

 既にメルエはカミュのマントへと潜り込んでおり、サラはここまで遭遇した出来事を考えるように眉を顰めて、黙々と歩いていた。

 つまり、彼等四人の中で、投獄される事を恐れている者など誰一人としていないという事になる。幼い少女は、周囲の大人達の雰囲気を恐れているだけであり、信頼する者達と共にいれば心配がない事を知っているし、リーシャは怒りを覚えていても、カミュがこの理不尽な扱いを黙って受け入れるからには、そこに何らかの理由があるのだと理解しているのだ。

 

「カミュ様、投獄されている人々を早めに解放しなくては……」

 

「解っているが、今は無理だろう」

 

 そして、先程まで黙り込んでいたサラは、この国を取り巻く状況を正確に把握し始めている。それは未だに想像の物であり、確固たる物がある訳ではない。だが、彼女の胸の内に湧き上がる不安と焦りは、決して自分達が受けた処遇に対しての物ではなかった。

 振り向きもせずに、彼女にしか聞こえない程度の声で呟く青年もまた、その事を把握し、現状を掴もうとしているのかもしれない。

 

「黙って歩いてくれ。そうしてくれなければ、国王様に呼ばれる日が早まる事になるぞ」

 

 だが、彼等の会話は、カミュのすぐ横を歩いていた兵士には聞こえていたらしい。注意を促すように開かれた口から発せられた言葉は、カミュとサラを素直に驚かせる物であった。

 その口調は、とても罪人に対する物ではなかったのだ。

 例えどのような理由であれ、国王自らが罪人と認め、投獄を命じたとなれば、それは国敵と言っても過言ではない存在である。そのような相手の身を案じるような言葉を投げかける事自体、兵士としては異例な事であるのだ。

 そんな兵士に対し、軽く頭を下げながら、サラはこの国で起こっている事柄の分析を再び始める。おそらく、先程の踊り子の例を見る限り、兵士などでも納得の出来ない投獄や処刑が繰り返されて来ていたのだろう。積み重なった疑問は、時を重ねて不安となり、更に時を重ねて不満となって行く。

 

「またか……」

 

「ああ……他国からの使者を兼ねての方々のようだ。この時代に他国からここへ来た者達までも投獄されるとは、この国も……」

 

「それ以上は言うな。何処に耳があるか解らない」

 

 サラが思考の海へ潜っている間に、一行は、城内の北部にある階段を下りていた。

 階段を降りる直前に、城内の北側にある庭園に座る若い女性が、哀しみを湛えた瞳で自分達を見ている姿をリーシャは視界の端で捉えている。歳の頃は、ジパングの国主となったイヨとそう変わらない年頃の娘であろう。牢へ向かう一行がその者と会話できる訳もなかったが、何故だがリーシャの頭の片隅に、その少女の姿は残って行った。

 階段を降りた先には、牢への門を護る門番がおり、その者へ一行を引き渡す間に、兵士達との会話が聞こえて来る。毎日、何人もの人間が投獄される為に、この門を潜っているのだろう。辟易した様子で溜息を吐き出す門番に、声をかける兵士の言葉もまた、一国の兵の発する内容ではなかった。

 

「昨夜も何人か連れ出されたからな……牢の空きはあるが……牢の空きが無くなるよりも、国民の姿が町から無くなる方が早いのかもしれない」

 

 言葉を制された兵士の姿を見た門番は、もう一度深い溜息を吐き出し、苦しそうに表情を歪めながら言葉を吐き出した。

 カミュ達は黙して何も語らない。だが、耳だけはその言葉をしっかりと捉えていた。その証拠に、門番の言葉に驚いたサラの顔は弾かれたように上がり、前に居るカミュの横顔へと向けられる。視線を向けられた青年は、その視線に気付きながらも身動きはせず、眉を顰めるだけであったが、その言葉の中にある真意を探ろうと思考を巡らせている事は確かであった。

 

「こっちだ……」

 

 一行を連行して来た兵士達は、カミュ達が暴れない事を確認し、階段を上って行く。門番は、牢屋へと続く扉の鍵を開け、中へ入るように促した。

 ここまで来た以上、一行に逆らう気はない。もし、リーシャやカミュが本気になって抗えば、この場から逃亡する事は容易な事であろう。正確に言えば、このサマンオサという国家を滅ぼす事さえも可能なのだ。

 だが、先程まで怒りの炎を瞳に宿していたリーシャでさえ、今は落ち着きを取り戻し、無言で牢獄へと入って行く。

 

「メルエ、マントの中から出ては駄目ですよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 周囲の雰囲気が変わった事を察したメルエが、カミュのマントから顔を出そうとするのを見ていたサラが抑えた。

 牢獄という名に相応しいその場所は、薄暗く湿っぽい。壁は整備されておらず、土壁のまま。囚人達の体臭なのか、汗と垢の臭いは、鼻が歪む程に強烈に牢獄内に充満していた。

 腐乱死体の魔物達と戦闘を重ねて来た一行ににとっては、顔を顰める程度の物ではあるが、案内する門兵は、何度か嘔吐くように咳き込みを見せている。

 自分の行動を止められた事と、その臭いに顔を顰めたメルエは、再びカミュのマントの中へと潜り込んで行った。

 

「ここに入れ」

 

 門兵は、一つの大部屋のような牢の鍵を開け、その中に入るように促す。人が五、六人は入る事が出来る程の大きさを持つ牢獄には、草を編んだような敷物が敷かれているが、他に何も無い。

 糞尿の匂いのこびり付いた壁の反対側で固まった一行は、その場に座る事無く、牢の扉を閉め、門兵が鍵を掛ける姿を黙って眺めていた。

 牢の鍵を掛けた門兵は、そのまま元の道を戻って行く。門兵の姿が見えなくなってから、リーシャがようやくその口を開いて行った。

 

「所持品を没収もせずに投獄など、聞いた事もないな」

 

「そのような気力さえもないのかもしれませんね」

 

 確かに、一行の腰や背中には、各々の武器が装備されたままである。一行が逆らう素振りを見せなかった為なのか、サラの言う通り、囚人の持ち物を取り上げる気力さえもなかった為なのかは解らない。

 ただ、この時点で所持品を没収されていない事は、彼等にとって幸いであった。

 もし、所持品の没収を要求され、力尽くでも奪おうとしていたのならば、彼等は凄まじいまでの抵抗を見せたかもしれない。それこそ、幼いメルエへ手を伸ばそうものなら、その者の腕は、カミュとリーシャによって細切れに斬り飛ばされていただろう。

 

「夜になり、鎮まるまで待つ」

 

「わかった」

 

 新たな囚人が投獄された事によって、牢獄内はざわめきを見せていた。

 それは、先程に門兵が語っていた内容が起因しているのだろう。

 新たに連行されて来た囚人は、この場所から誰かが連れ出される事を意味しているのだ。それは、処刑の為なのか、追放される為なのかは解らない。だが、その者達が二度と帰って来ないという事実は、この牢獄内で確実な物として認識されていた。

 次に処刑されるのは自分かもしれないという想いが、この牢獄に連行された者達に蔓延し、それは不安から恐怖へと変化して行く。恐怖のあまり叫び出す者や、泣き出す者など様々ではあるが、牢獄は喧騒に包まれて行った。

 

 

 

 結果的に、牢獄内の喧騒が鎮まるまでには、かなりの時間を要した。

 既に、一行が投獄されてから半日ばかりの時間が経過した頃に、ようやく牢獄内に落ち着いた空気が流れ始め、所々では鼾のような音まで響いている。

 もしかすると、新たな者達が投獄されてから、これ程の時間が経っても誰かが連れ出されないという事はなかったのかもしれない。誰も連行される事無く、夜を迎えたという事実に安堵した囚人達は、それぞれの時間を過ごし始めていたのだ。

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 周囲の状況を把握したカミュは、マントの中に居る少女へと手を伸ばす。その言葉を受け取ったメルエは、肩から下げたポシェットに手を入れ、小さな鍵を取り出した。

 <最後のカギ>と呼ばれる神代の神秘は、どのような鍵でも開ける事が出来る。この世に開かない鍵はないと云われる程の鍵が、国家の牢獄の鍵程度を開く事が出来ない訳がなかった。

 格子状になっている牢屋から手を伸ばし、鍵穴に<最後のカギ>を差し込んだカミュは、静かにその手を捻る。

 

「出るぞ」

 

 乾いた音を立てて外された鍵は、重い格子状の扉を開かせた。

 一行の周囲の牢屋に囚人がいなかったという事も幸いし、騒がれる事無く、カミュ達は牢屋の外へと出て行く。薄暗い牢屋の中には、呻き声や鳴き声が静かに響き、この場所に投獄されている者達が、罪を自覚している訳ではない事を物語っていた。

 彼等は一様に、己の身を嘆き、その境遇に絶望しているのだろう。つまり、自身が投獄される事や、処刑される事に納得している訳ではないのだ。

 罪を罪として認めていない訳ではない。彼等は、何故、自分が投獄され、処刑されるのかを理解出来てはいないのだ。

 

「アンタ達はこんな所で何をしているんだ? 早くこのような場所から出て行った方が良い。このような場所を歩いている事が知られれば、牢屋に入れられ、処刑されてしまうぞ?」

 

 牢屋の入口に戻り、門兵を打ち倒して外へ出る事は出来ない為、一行は牢獄の奥へと進んで行った。

 左右に分かれるようにして作られている牢屋は、一行が入れられていた牢屋よりも小振りで、一人用の物が多い。ほとんどの牢屋には、人が収容されており、その者達の姿が朽ち果てていない事もまた、収容期間が短い事を意味していた。

 そんな中の一室を通り過ぎようとした時、不意にカミュ達に声をかける者がいた。

 格子越しに一行を発見した男性は、驚きに満ちた瞳を向けている。実際、投獄されている者以外でこの場所に居る事の出来る者は、看守を兼任している門兵ぐらいな物だろう。だが、そんな中で異様な組み合わせの男女四人が歩いていれば、誰であろうと驚くという物である。

 

「俺も、ここに来てから十日程になる。その間に連行された者は帰って来ていない。投獄されたが最後、処刑されるまでの期間は短い。アンタ方も見つからない内に早くここを出て行くんだ」

 

 鉄格子越しに小声で話す男性の姿は、衣服が破れたりはしていないが、随分くたびれた物になっている。瞳も虚ろで、顔は無精鬚に覆われていた。

 真剣に一行の身を案じている姿を見て、不思議に思うカミュ達ではあったが、これが現在のサマンオサ国の実態だと思うと、何ともやりきれない気持ちになってしまう。

 通常であれば、牢の外を歩いている人間を脱獄した者と考えて、自分も出して欲しいと懇願する物なのだが、そういう考えに至らない程に、彼等の精神は病んでしまっているのかもしれない。

 

「貴方は、どのような罪でこの牢獄へ?」

 

 だからかもしれない。何時もならば素通りする筈の牢屋の前で足を止めたカミュは、格子の向こう側に居る男性に向かって語りかけた。

 その姿にリーシャは驚くが、サラは同じ様な疑問を感じていたのか、カミュの横に移動し、男性の話に耳を傾ける。疑問が返って来るとは思っていなかった男性は、一瞬の間、呆けたような表情を作った後、その境遇を語り始めた。

 

「俺は、サマンオサの城下町で細々と店を開いていた。そんな時、この国に伝わると云われている伝承を耳にしたんだ」

 

「伝承ですか?」

 

 既に立っている事自体が苦しかったのか、男は鉄格子の傍に座り込み、地面に視線を落としながら口を開く。

 その内容は、カミュ達一行がここまで旅するに際し、必要不可欠であった情報と呼ぶ宝の匂いのする物だった。

 伝承とは、『人』から『人』を渡り歩く情報であり、信憑性の有無という問題はあれど、貴重な物である事は確かである。故に、サラは先を促すように、男性へと声を掛けたのだ。

 

「ああ……このサマンオサ城下町の南方にある<南の洞窟>に、真実を映し出す『ラーの鏡』という物があるという伝承だ。何でも、このサマンオサ国の国宝であったと伝えられているらしい」

 

「ラーの鏡ですか……」

 

「……真実を映し出す鏡……?」

 

 男性が話す内容は、カミュもサラも初めて聞く物だった。

 真実を映し出す鏡というのは、権力者にとっては恐怖の対象にもあり得る物である。その『真実』という言葉に、どのような意味が込められているのかは解らないが、心の内や、その者の本性等を映し出す物であるとすれば、それは自我を持つ者にとっては恐怖であろう。

 だが、カミュとサラが最も引っ掛かりを覚えたのは、それがサマンオサの国宝であったという伝承である。真実を映し出す鏡という存在を国宝とする国家が、このような状況に陥っているという事自体が不思議なのだ。

 そして、何故、国宝ともされていた物が、王城にではなく、南の洞窟などに保管されているのかが理解出来ない。

 それが、果たして保管されているのか、それとも封印されているのかさえも。

 

「この話を他人に話した途端、俺は投獄されてしまった。何が何やら、訳が解らない。どんな罪で裁かれるかも解らずに死んで行かなければならないなんて……」

 

 鉄格子を掴んでいた男性の手は、力なく地面へと落ちて行く。

 一行は、その姿を悲痛の表情で見つめる事しか出来なかった。

 いつの間にかマントから出ていたメルエだけは、会話の内容に興味を示しておらず、良く解らない雰囲気になってしまった三人を見上げ、小首を傾げていたが、何かに気が付いたようにポシェットへと手を差し込んだ。だが、その小さな腕は、隣に移動していたリーシャの手によって止められる。

 不思議そうに見上げるメルエに向かって静かに振られた首が、その行動が駄目な事であるという意思表示となり、メルエは静かに眉を下げた。

 もはや、絶望に沈んでしまった者を残して歩き出したカミュに驚いたのは、やはりサラである。リーシャに手を引かれたメルエが振り向くと、歩き出した三人と牢屋で崩れる男性を見比べていたサラが、ようやく我に返り、カミュを追って走って来た。

 

「カミュ様、何故ここから出して差し上げないのですか?」

 

 リーシャとメルエを追い抜き、カミュの横へと移動したサラは、意識的に潜めた声で疑問を投げかける。声こそ小さくはあるが、その語調は厳しく、それがサラの感情を明確に示していた。この時点で、この牢獄に来るまでに思考していた物は、全て吹き飛んでいる。サラの中で、サマンオサという国に渦巻いている何かへ思考を巡らすよりも、今目の前で苦しむ者達への想いが勝ってしまっていたのだ。

 対するカミュは、サラを一瞥すると、何も語る事無く、奥へと進んで行く。そのカミュの姿に、一瞬眉を顰めたサラであったが、これ以上はここで問答出来ないのだと理解し、黙って歩き始めた。

 彼女は、こうなったカミュが理由を語らないのは、この場所では語れないという意思表示である事を理解していたのだ。それは、何度となく彼とぶつかり合って来たサラだからこその物なのかもしれない。

 

「あ、貴女は……」

 

 一度顔を落とした後、再び厳しい表情に戻ったサラは、左側に見える牢屋の中で泣き崩れている人間を見て、思わず声を上げてしまう。

 牢屋の隅に投げ出され、そこから動く事も出来ずに泣き崩れている人物は、先程一行が見た踊り子であった。

 踊る事が出来なくなり、それを叱責された彼女は、国王の命によって、この牢屋へと入れられたのだ。立つ事も動く事も出来ない彼女は、兵士に担ぎ上げられ、この牢屋に投げ出されたのだろう。

 足に履いた踊り子の靴の先は、どす黒い血液が付着し、未だに痙攣している足は、肉離れでも起こしているのかもしれない。

 

「メルエ、鍵を」

 

「…………むぅ…………」

 

 その女性の姿を見たサラは、即座に振り返り、リーシャの手を握っている少女へと手を伸ばす。だが、その言葉を受けた少女は、眉を下げたまま、小さな唸りを発するのだった。

 メルエにとって、サラは師であり姉でもある。だが、カミュやリーシャと比べると、その言葉の強制力は低いのだろう。魔法の事となれば、サラ以上に信頼している人間はいないだろうし、彼女が発する『大丈夫』という言葉は、幼い少女の中で絶対的な強さを誇る言葉に違いはない。

 それでも、先程リーシャによって止められた行動をサラに依頼されるとなると、優先されるのは、制止したリーシャの行動の方なのかもしれない。

 故に、眉を下げたメルエは、何かを窺うように、カミュとリーシャを見上げるのだった。

 

「カミュ様がどうお考えなのかは解りません。ですが、彼女を放っておけば、その傷によって命を落としてしまうかもしれない。私は、それを許容する事は出来ません」

 

 メルエの視線を理解したサラは、顔を上げ、このパーティーを導く青年と瞳をぶつけ合う。その瞳は、燃えるような何かを宿してはいるが、何処か儚い。

 カミュは、その瞳を見て、小さな溜息を吐き出した。

 サラという人物を三年以上もの間見て来た彼にとって、この状況の彼女が好ましい物ではない事を理解している。常に何かを考え、何かに悩み、何かに涙する彼女は、感情の起伏が激しい。それは、相手への感情移入の多さが物語っているだろう。

 そんな彼女だからこそ、『人』だけではなく、『エルフ』や『魔物』の立場から物事を見るか事も出来るのであろうし、『賢者』として成り立っているのだ。

 目の前の事に懸命になる事は悪い事ではない。

 だが、彼女がもう一段上へと成長するには、その感情を制御し、常に広い視野を持つ事が必要なのかもしれない。

 それは、まだ先の話。

 

「……メルエ……」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの視線に気が付いたリーシャがカミュを見つめ、頷きを返した彼が少女の名を呼ぶと、その小さな手をポシェットに入れ、小さな鍵を取り出す。その鍵を受け取ったサラは、開錠した後に牢屋へと入って行った。

 その後をリーシャとメルエが続き、軽い溜息を吐き出したカミュが続いて行く。

 牢屋の中は、他の牢屋と同様に、汗と垢や糞尿の匂いに満ちており、メルエは瞬時に顔を顰めた。

 だが、<くさった死体>と遭遇した時程ではないのだろう。顔を顰めるだけで、黙ってサラの後を付いて行く。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……貴女方は……」

 

 牢屋の外から見る程、彼女は乱雑に扱われている訳ではなかった。

 彼女が横になっている付近には、真新しい枯草が敷かれており、動かす事の出来ない彼女の足は、重ならぬように静かに横たわっている。ここへ連れて来る際に、兵士達が用意したのかもしれない。それは彼女が女性という理由だけではない事が、ここまでの間で交わされていた兵士達の会話で推測が出来た。

 牢に入れられている囚人達は、全員がみすぼらしい恰好をしており、垢と埃に塗れてはいるが、痩せこけている訳ではない。餓死寸前のような者は誰一人としておらず、皆が皆、気力は失っていても、体力を失ってはいなかったのだ。

 

「今、治療をします。少し痛いかもしれませんが、我慢して下さい」

 

「ぐっ……」

 

 カミュ達を怯えるような瞳で見上げる彼女は、言葉と同時に自分の足に手を掛けたサラの行動に苦悶の声を上げる。

 骨が折れている訳ではないのだろうが、彼女の爪先の肉は削げ落ちているのかもしれない。踊り子の靴へサラが手を掛けると、その苦悶の声は悲痛な物へと変わり、大きな悲鳴へ変化した。

 このような牢屋で、大きな叫び声が上がれば、即座に看守が来るのだろうが、このサマンオサでは対して珍しくもない事なのか、誰かがこの牢屋へ近付いて来る様子はない。踊り子の悲鳴を聞き、表情を歪めていたサラであったが、心を鬼にして踊り子の足から靴を引き剥がした。

 

「きゃぁぁぁぁ!」

 

 先程以上の叫び声を上げた踊り子は、サラの肩に爪を喰い込ませ、『人』の握力とは思えない程の力で、その肉を抉って行く。<魔法の法衣>越しでも血が滲む程の力で握られても、表情一つ変えずに靴を引き剥がしたサラであったが、その足の惨状を見て、悔しそうに唇を噛み締めた。

 血液が固まり、靴と同化していた足は、引き剥がす事によって肉諸共に失ってしまっている。骨の見えた爪先は、『人』の身体とは思えない程の色に染まっており、それが本来の機能を取り戻す事が出来るかどうかも怪しい物であったのだ。

 

「ベホイミ!」

 

 それでも、サラは自身が持つ最高の回復呪文を唱え、その足先を癒して行く。

 淡い緑色の光が踊り子の足を包み込み、骨の周囲の肉や皮を再生して行き、どす黒く変色した足の色も戻して行った。

 一度の詠唱では治療し切れないのか、サラは間髪を入れずに再度<ベホイミ>を詠唱する。傷の修復と共に痛みも薄れて行く状況を見ていた踊り子は、失いそうになる意識を必死に抑え、修復される自分の足を見つめていた。

 

「すぐには歩けないかもしれませんが、無理をしてでも少しずつ歩いて下さい。必ず、歩けるようにはなります。ただ……以前のように、踊る事は出来ないかもしれません……」

 

「……歩けるようにさえなれるのであれば、そのような事は些細な事です。ありがとうございます……ありがとうございます」

 

 痛みも消え、元通りの形状へと戻った足に手を当てながら、踊り子は先程までとは異なる涙を流し続ける。既に、痛みの感覚さえも失い始めていた足そのものを失う覚悟をしていたのだろう。流す涙は、溢れる程の喜びに満ちていた。

 嬉しそうに微笑む踊り子を見ていたメルエもまた、小さな笑みを漏らし、その笑顔を齎した姉のような存在を誇らしく見つめている。

 しかし、そんな踊り子の喜びの表情も、すぐに沈痛な物へと変化して行った。

 

「私は、旅の踊り子でした。旅の途中で船が魔物に襲われ、このサマンオサに辿り着いたのですが……私はこのような牢屋で一生を終えるのですね……まるで、この国の英雄であるサイモン殿のように……」

 

「サイモン殿だと!?」

 

 暗い面持ちで地面を見つめていた踊り子が洩らした言葉は、一行にとって予想外の物であった。

 サマンオサの英雄であったサイモンという男の行方は、実の息子でさえも知らない程の極秘の情報なのだ。

 もしかすると、この情報を持っていたからこそ、彼女はあの場所で永遠と踊らされ、遂にはここへ投獄されてしまったのかもしれない。英雄サイモンという人物は、それ程の価値のある人物なのだ。

 

「はい……遙かロマリアの北東の湖にある、『祠の牢獄』にサイモン殿は囚われたと聞きます。旅の商人などの話ですので、信憑性はありませんが……」

 

「お、お前達、ここで何を……何故、牢屋が開いているのだ……?」

 

 踊り子がリーシャの問いかけに答えている途中で、突如後方から掛った声がそれを遮った。

 気配には気付いていたが、どうする事も出来ない以上、ここで何とかするしかないと考えていたカミュは、何時でも背中の剣を抜けるように体制を整えている。だが、サラは驚いた表情で、牢屋の外で同じように唖然としている門兵を見つめるだけであった。

 門兵は手に、<薬草>と思しき物を数多く持ち、それを磨り潰す為の道具と、それを含む為の薄い布が持たれている。おそらく、この踊り子の足を治療しようと考えていたのだろう。

 本来、サラが行使したような回復呪文は、教会に属する『僧侶』でなければ唱える事は出来ない。一介の兵士に行使出来る物ではないのだ。

 兵士であれば、国家の者として、教会で治療を受ける事が出来るが、踊り子のような囚人は、それを受ける事が叶わない為、<薬草>のような物に頼るしかなかった。

 だが、<薬草>のような物は、小さな傷などを修復する事は出来るが、深手を復元する事は出来ない。それを理解していて尚、この門兵は踊り子の足の治療の為に、この道具を持って来ていたのだ。

 

「そうか……私は夢を見ているのだな……牢の鍵を閉め忘れてしまっていた夢だ。目が覚めたら、鍵を掛けに行かなければな……」

 

 暫しの緊迫した時間が流れ、見つめ合っていた一行と門兵だったが、不意に小さな溜息を吐き出した門兵は、軽く頭を掻いた後、牢屋に背を向けた。

 独り言のように呟かれた言葉が、一行の行動を咎める物ではない事に全員が驚きを表し、サラに至っては、小さな笑みまで浮かべてしまう。もしかすると、この門兵は、囚人達の世話をしていたのかもしれない。男性であろうと、女性であろうと、その罪が理不尽な物であると感じれば、彼の中の信念の元、その囚人達の世話を行っていたのだろう。

 

「ありがとうございました」

 

「……きっと、私は眠っている。だから、これは寝言だ……」

 

 牢の外へ頭を下げ、感謝の言葉を口にしたサラの言葉に返答する事もなく、門兵は呟きを続ける。

 一行に背を向けたまま語るという行為が、彼の中で譲れない部分を示している。どれ程に今の国家情勢に不満を持っていても、どれ程に国家の先行きを不安視していても、彼はサマンオサ国に仕える兵士であり、この国を支える者の一人であるのだ。

 

「処刑される者は、二週間程の間隔で連行されて行く。昨日、処刑の為に三人の囚人が連行された為、暫くはないだろう。私はこの牢獄から動けぬが、噂によれば、この地下牢には、抜け穴があるそうだ……」

 

 振り返りもせず、独り言のように呟いた門兵は、そのまま牢獄の入口の方へと歩いて行く。その背を追いかける訳にも行かず、声を掛ける事も出来ない一行は、静かにその背に頭を下げた。

 牢獄という場所に抜け道があるという事も不思議な物ではあるが、囚人達は常に牢屋の中に入れられ、国家の作り出した鍵によって施錠されている為、その抜け道へと向かう事も出来ない事を考えると、それ程危険な物でもないのかもしれない。

 

「さあ、少し辛いでしょうが、一緒に行きましょう?」

 

 門兵の姿が見えなくなると、サラは足に手を当てている踊り子に向かって口を開く。それは、この場所から共に脱け出そうという誘いであり、サラにとっては当然の申し出でもあった。

 

「いえ……私は行けません……私がここを出てしまえば、あの兵士の方や、この王城に仕える数多くの方々が責めを負います。このサマンオサに漂流した私を優しく受け入れてくれた方々です。ご迷惑をお掛けする訳にはいきません」

 

「えっ……?」

 

 だが、サラの申し出は、踊り子の口によって即座に拒絶される。

 それは、とても強い信念に基づいた物なのだろう。

 自身の命さえも危うい状況で、それでも他者を慮れる精神というのは、育てようと思って育てられる物ではない。彼女の中で培われて来た感謝の念は、恩義となって育っていたのだ。

 『人』は、数多くの喜びは素早く忘れ、数少ない怒りや憎しみは心の奥底にしまい込んで温める。だが、それ以上に、心の奥底に刻みつけられた感謝の念は、『人』の根本をも変えてしまう程の力を有する事もあるのだ。

 

 確固たる瞳を向けた踊り子の言葉にサラは息を飲み、後方でその状況を見ていたカミュへ振り返ってしまう。そして、彼と瞳が合った時、彼女は全てを悟ったのだった。

 <ラーの鏡>という国宝の情報をくれた男性を見たサラは、カミュに対して、『何故出してあげないのか』と問いかけている。

 <最後のカギ>という神代の道具を使えば、ここに居る囚人の全てを開放する事が出来るのだ。

 サラは、全く口を開く事無く歩くカミュを見て、ここでは話せない内容だとは理解していたが、囚人達の心と、この国を憂いている者達の心までを考慮に入れていなかったのだ。

 

「貴女方は、どうぞお行きになってください。ここを出る時、再び自分の足で立つ事が出来るだけで、私は満足です。本当にありがとうございました」

 

 幸の薄い、それでいて慈愛に満ちた笑みを向ける踊り子の顔を見たサラは、不覚にも涙を流してしまう。それはリーシャも同様であったようで、まるでその暖かな瞳を避けるかのように逸らした顔は、小刻みに震えていた。

 カミュは知っていたのだろう。

 自分達が囚人達を逃がせば、その罪を問われた兵士達が、同じような咎を受ける事になるという事を。

 囚人達を救い出す事は簡単な事である。だが、一介の旅人である彼等が、サマンオサという大国を相手にする事は出来ないのだ。

 それが、『人』の造り、『人』が護りし国家ならば。

 

「……行くぞ……」

 

 無念の涙を流すサラに、何度も礼を述べる踊り子の瞳も濡れている。それでも、この場所に居続ける事の出来ない以上、誰かが冷酷な決断を下す他ない。

 そして、それは、常に背負い続けて来た青年の役目であった。

 冷酷な決断を下した青年の胸に、何の感情もないと考える程、リーシャやサラと、この青年の絆は浅い物ではない。非情とも思える言葉を吐く事しか出来ない己を責めているように、彼の表情はなくなっているのだ。

 能面のように冷たい表情を浮かべる彼が、これから何をするのかは解らない。だが、その先で待っている物が、希望の光である事を疑う者は、彼と共に歩んで来た三人の中には誰一人としていなかった。

 

 踊り子のいる牢に再び鍵をかけ、カミュ達はその場を後にする。

 小さく手を振るメルエに向けて、笑顔で手を振る踊り子の姿が、リーシャとサラの胸に哀しみを突き刺して行った。

 牢屋はその先も数多くあったが、その中に居る者達は、身体こそ健康であるのかもしれないが、精神が病んでいる者も多い。次に目を覚ました時が、この世との別れの日になるかもしれないと怯えながら生きているのだ。それは、徐々に心を壊して行く程の威力を持っているのかもしれない。

 

「ここよりも更に下の地下牢があるのでしょうか?」

 

 牢屋の集まる場所を抜けて歩き続けると、一行の目の前に下へ続く階段が見えて来た。

 既にこの場所が地下牢と言っても過言ではない場所であるだけに、更に地下に造られた牢獄がある可能性に、サラは驚く事となる。この牢獄の壁自体、土壁のような物であり、ここよりも地下に穴を掘る必要がある程の囚人達が居たと考えられるからであった。

 

「牢獄の数が限られているな……」

 

 下の階に降りると、その場所は細い通路になっており、更に先へ進むと、突き当たりに面して二つの牢獄が存在していた。

 いや、正確に言えば、牢屋とは言えないのかもしれない。

 突き当たりにぶつかり、右に折れた方にある物は、間違いなく牢屋である。鉄格子によって囲われ、床は土の空間は、誰がどう見ても牢屋であろう。

 だが、もう一方は、全く異なった様相をしていたのだ。

 

「牢屋というよりは……部屋のようですね……」

 

「カミュ、何故、このような場所に部屋があるんだ?」

 

「……解る訳がないだろう……」

 

 牢屋側ではなく、部屋のような場所の前に立った一行は、それぞれの感想を口にする。部屋というのは、言い得て妙であり、鉄格子のような物ではなく、しっかりした土壁によって中を隠していた。

 土壁も、ただ土を盛った物ではなく、土を捏ね、しっかりとした土台の上に作られた物である。そして、何よりも驚くのは、その壁に設置された扉の存在であろう。

まるで一戸の家屋のような佇まいに、一行は呆然と立ち尽くしてしまったのだ。

 

「…………ん…………」

 

「ああ……行くぞ……」

 

 呆然と扉を見つめる三人に業を煮やしたメルエが、肩から下げたポシャットに手を入れ、鍵を取り出した事で、時は再び動き出す。

 気を取り直したカミュは、鍵を受け取り、その扉の鍵穴に差し込んだ。

 乾いた音を立てて開錠された扉を開けて中へと入った時、三人は再び驚きで目を丸くする事となる。再び固まってしまった三人に、幼い少女が頬を膨らませる中、サマンオサ国は大きなうねりを見せ始めていた。

 

「誰か来ておるのか?」

 

 その場所は、外見通り、家屋に近い物であった。

 中には、机や椅子が置かれており、仕切りのような物で遮られた向こう側には、ベッドのような寝具までも用意されている。とても牢獄の中にあるとは思えないその場所で、一行は信じられない人物に出会う事になるのだった。

 

「貴方は?」

 

「無礼者、余が誰かと問うておるのだ。その方らが答えるのが筋であろう」

 

 仕切りに遮られた寝室の方から出て来た男性の姿に、カミュは思わず問いかけてしまうのだが、その言葉は予想外の言葉で遮られる。尊大不遜な物言いに驚いたサラは、先程よりも目を見開き、見た事もない男性を見上げていた。

 確かに、質問に質問で返す事は、問いかけて来た者に対して無礼な行為ではある。そして、この男性が口にしている内容も至極尤もな内容でもあった。

 カミュは静かに頭を下げ、目の前の人物に対して謝罪を述べる。その謝罪を受け入れるように一つ頷いた男性は、その瞳を後方に居る三人の女性へと向けたのだった。

 何故か、その視線を受けた途端、リーシャは居た堪れない気持ちになり、思わず頭を下げてしまう。それはサラも同様であった。

 不思議そうに皆を見上げるメルエが小さく頭を下げた事で、ようやく満足そうに頷いた男性は、再びカミュへと視線を移す。

 

「アリアハンから参りましたカミュと申します」

 

「アリアハンから? そうか……長旅、大義であった。他国からの来訪者を、このような場所でしか迎える事が出来ない事を、このサマンオサの王として、申し訳なく思う」

 

「えっ!?」

 

 カミュは、もう一度頭を下げた後、自身の素性を語るのだが、それに対する男性の答えは、サラの想像の遙か斜め上を行っている物であった。

 この男性は、よりにもよって『サマンオサ国王』と名乗ったのだ。

 それは、冗談や酔狂で口にして良い類の物ではない。

 ルビス教という物が浸透しているこの世界では、王族というのは選ばれた人種である。その名を騙る事は、王族に対する不敬ばかりか、『精霊ルビス』という絶対の存在に対する侮辱でもあった。

 故に、サラは冷静さを取り戻すと共に、頭に血が上ってしまう。

 

「何をおっしゃられているのですか!? 国王様の名を騙るなど、許されざる行為ですよ!? 国王様には、私達も先程ご拝謁致しました。そのお顔も覚えていますよ」

 

「……そうか……その方らは、『あれ』を見ているのだな?」

 

 今、一行の前に立つ男性は、先程サラ達が拝謁した国王とは異なる顔をしていた。

 似ていないとは言わない。

 だが、目元や鼻筋に面影はあれど、顔全体を見れば、それは全くの別人の物。それにも拘らず、『サマンオサ国王』と名乗るこの男性に、サラは憤りを感じていたのだ。

 そんなサラの直接的な怒りを受けて尚、この男性は尊大な態度を崩す事はなく、小さな呟きを洩らす。

 しかし、その漏らした言葉の中で、サマンオサ国王を『あれ』と称する態度に、サラは先程以上の怒りを感じてしまった。

 

「どちらが無礼者ですか!」

 

「止せ」

 

 再び前へ出て叫ぼうとするサラではあったが、その行動は、先程まで頭を下げていたカミュによって遮られる。

 有無も言わさぬ程の制止に、サラは黙り込むしかなく、それでも尚、治まらない怒りの瞳を男性へと向ける事になった。

 リーシャとメルエは、事の成り行きについて行けない。メルエは元からついて行く気が無いのだが、リーシャ自身は、何が何やら全く理解出来ないと言っても過言ではない状態だろう。

 

「ご無礼をお許し下さい」

 

「良い。その者の申す事は、至極尤もな事。今、あの玉座に座っているのは、余ではないのだからな……いや、元々、余ではなかったのかもしれん」

 

 カミュは、再び頭を下げた。

 その姿にサラは驚愕と言っても良い程の驚きを表し、事態を飲み込めていないリーシャも若干の驚きを見せる。

 カミュが頭を下げる事自体が少ない事ではあるのだが、二人が見たのは、仮面を被ったカミュの姿だったからだ。

 カミュも、今では常に仮面を着けている訳ではない。門兵のような兵士に対して、口調を改める事はあっても、仮面を着ける程に冷ややかな感情を持ってはいなかった。

 だが、今のカミュは、間違いなく冷たい仮面を着けている。その相手が、話すに値しない人物と考えている訳ではないだろうが、国王に謁見する際などに被る仮面を、彼は身につけて話していた。

 

「その方らは、『魔王討伐』を志しておるのか?」

 

「はい……アリアハン国王様から、そのように命を受けております」

 

 跪いてはいないものの、カミュの受け答えは、一国の国王に対するような物である。その事実が理解出来るだけに、リーシャもサラも困惑を隠し切れなかった。

 カミュが、冗談や酔狂でこのような態度を取る事は有り得ない。とすれば、彼は、この男性を『サマンオサ国王』として認めているという事と同意なのだ。

 それがサラには解せない。この場で口を挟むという愚行をしないだけでも、この賢者は成長しているのかもしれないが、それでもカミュの考えている事が理解出来ないし、納得も出来ない。自然と、厳しい瞳は、カミュへと向けられる事になった。

 

「そうか……思えば、オルテガという者が『魔王討伐』を志したのが最後であるな。あの時、是が非でもサイモンを共に行かせるべきであったと、今でも後悔しておる」

 

「オ、オルテガ様は、この国を訪れたのでしょうか?」

 

 リーシャは混乱していた。

 サラの言うように、目の前の男性が『サマンオサ国王』を騙る事など、子供が吐く嘘に等しい程に幼稚な物。だが、その幼稚とも言える言葉を信じているかのようなカミュの態度は、リーシャという人物の思考を狂わせて行っていた。 

 男性が『サマンオサ国王』を騙っていると思うからこそ、リーシャはこの場での発言をしたのだが、信じている『勇者』の態度は、彼女の口調を変化させている。サラのような丁寧な口調には、疑惑の心と共に、何やら解らない畏怖も含まれていたのかもしれない。

 

「うむ……あの時は、余が即位して間もなく、サイモン自身の子も幼かった事から、サイモンはこの国に残る事を決めてしまった。余は、そのサイモンの気持ちを有難がるばかりで、世界が見えてはおらなかったのかもしれん」

 

 もはや、リーシャとサラは、その会話に付いてはいけない。

 男性の口調と内容を考えて行けば行く程、これが児戯にも等しい嘘と断定する事が出来なくなっていた。

 もし、これが嘘であれば、国王の名を騙り、国の英雄の名を辱めた者として、重罪に課せられるであろう。

 だが、サイモンという名を口にする男性の瞳は、懐かしい温かみと、哀しい冷たさが同居しており、それが真実を語っているようにさえ思えてしまう物である事が、リーシャとサラを更なる混乱へと落として行った。

 

「それ程までの忠義を示してくれたサイモンを、余は見殺しにしてしまった……<変化の杖>を奪われた余を救い出してくれたあの者を……余はサイモンの子に顔向けが出来ぬ……」

 

 悔し涙を流し、崩れ落ちるように膝を折った男性の姿には、先程までの威厳は微塵も残っていない。何も言えず、立ち尽くす事しか出来なかった一行は、板が敷かれた床に涙を落す男性を見つめ続ける。

 その静寂を破ったのもまた、この場の空気を支配し続けた、その男性であった。

 突如として顔を上げた男性の瞳は、涙で濡れてはいるが、先程とは異なる炎をその瞳に宿している。それは、この場所に落ちてから、一度たりとも宿る事のなかった炎なのかもしれない。

 

「その方ら……『魔王討伐』を志す者達ならば、我が国の国宝である『ラーの鏡』を南の洞窟から持ち帰ってはくれぬか? <変化の杖>と対を成す、あの鏡があれば、この国に巣食う物を討ち果たす事が出来る」

 

「<ラーの鏡>があれば、貴方が国王様本人である事を証明できるのですね?」

 

 それまで黙って話を聞いていたサラが、ここでようやく口を開く。

 その言葉使いは、決して一国の王に向けられる物ではない。それが、サラの心を表すかのようであった。

 それでも、この『賢者』は、自分の中にある先入観や想いだけで物事を決定する程に浅はかな存在ではなくなっている。全てを決定するのは、全てをその目で見て、その耳で聞いてから。それは、彼女がこの旅で学んだ、最も尊い考えなのかもしれない。

 

「いや……<ラーの鏡>があっても、余が王である事を証明する事は出来ぬであろう。だが、今、玉座に座る『あれ』が、偽りの物である事は、必ず証明出来る筈だ」

 

「……充分でございます……」

 

 サラの期待する答えは、男性の口からは返って来なかった。

 だが、カミュという『勇者』からすれば、それだけで充分だったのだろう。

 彼は、この国を変革させようと考えている訳ではない。今の国王が偽物だと解れば、この国に渦巻く不穏な空気だけは払拭出来る。情報を欲しているカミュにしてみれば、それだけで充分なのだ。

 冷たい言い様ではあるが、彼にしてみれば、このサマンオサ国の国王が誰であっても変わりはない。現在の国王のように話をする事も叶わない程の傍若無人ぶりを見せる者でなければ、誰であっても良いのだ。

 

「南の洞窟は、このサマンオサ王城から南へ向かい、山を二つ超えた先にある。四日程歩けば、山は超えられる筈だ」

 

「帰りは<ルーラ>を使うとしても、洞窟内の探索を考えれば、時間はありませんね」

 

 <ラーの鏡>という国宝が封印されている場所の位置を聞いたサラは、先程門兵から聞いた、残された時間と照らし合わせ、現状を確認する。

 確かに、二週間の猶予があるとは聞いたが、それは確かな物ではない。

 国王の気分によって変動する可能性は大いに高く、二週間という時間が確実に残されていると油断は出来ないのだ。

 明日にも誰かが処刑されるかもしれない。

 一行が戻った時には、現在投獄されている者達は全て処刑されているかもしれない。

 楽観視できない状況ではあるが、焦りによって全てを無にする訳にも行かないという難しい状況ではあった。

 だが、そのような状況を、彼等は何度も経験して来ている。

 

「その方らのような者達に頼む事を許せ。今のこの国には、その目的を達する事が出来る程の者はおらぬ。サイモンの子は、この国を恨み、この国の為には立ち上がらぬだろうからな……」

 

「……サイモン殿のご子息か……」

 

 言葉とは裏腹に頭を下げる事をしない辺りが、この男性の気品を表しているのかもしれない。

 その姿を見ていたリーシャは、男性の口から零れた名に、小さな想いを巡らす。それは、この場所には似つかわしくない想いであった。

 

『三年以上も共に歩んで来たこの青年は、もしアリアハン国が窮地に立たされていたとすれば、祖国の為に立ち上がってくれるだろうか?』

 

 そんな想いが浮かんだリーシャは、即座に首を振り、自分の中に生まれた迷いを打ち消す。そのような事を今考えてみても、詮無き事であり、その答えは、誰よりも彼女が知っているからだ。

 リーシャが思考に落ちている間に、その青年は軽く頭を下げて、家屋のような空間を出て行こうと歩き出していた。

 話に全く興味を示していなかったメルエがそれに続き、形上の挨拶を交わしたサラも出て行く。その後ろ姿を見送っていたリーシャは、最後に男性と視線を合わせ、小さな呟きを口にする。

 

「サイモン殿のご子息のお考えは解りません……ただ、彼にまだ、護るべき者があるのであれば、必ず動いてくれる筈です。少なくとも、私が見て来た、アリアハンの英雄のご子息は、そのような男です」

 

「……そう…であるか……」

 

 既に全員がこの部屋を出て行った後に呟かれた言葉は、静かに響き渡る。

 その言葉を聞いた者は、目の前で小さな笑みを浮かべた男性だけであった。

 笑みを浮かべ、小さな頷きを返した男性の瞳には、先程の『決意』の炎とは異なる炎が宿り始めている。

 それは、何時の時代も人々の心に、『勇気』と『強さ』を齎す、『希望』の炎。

 英雄と謳われ、勇者と謳われる者が齎す事の出来る、人々の未来へと続く大きな力。

 

 

 

 全員が出て行き、部屋へと続く扉の鍵が落ちた音が響いた後、男性は静かな笑みを浮かべ、全ての準備に取り掛かる。

 彼にとって、この行動は全てが賭けであり、その対象は己の命であった。

 自身の全てを賭けてでも行わなければならない現状を喜ぶような彼の笑みは、小さな燭台の炎が揺れる一室で、強い決意へと変化して行く。

 

 サマンオサと呼ばれる、英雄を生みし国が再び動き出すまで、あと僅か。

 

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

サマンオサ城は、これにて一旦中断です。
次話から、ようやく戦闘を含めた「冒険の旅」に入ります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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サマンオサ大陸②

 

 

 

 サマンオサ国王を名乗る男性の居た部屋を出た一行は、この地下牢にあるという抜け道を探す為、周辺を探り始める。

 だが、それぞれに壁や地面を確認して行くのだが、それらしい部分は見つからなかった。

 作業をするのが楽しいのか、サラと一緒に壁を手で押すメルエの姿は、焦り始めていた一行の心を静めて行く。

 ある程度、周辺を探り終えた時、リーシャが前の壁を触っているカミュへ口を開いた。

 

「カミュ、残るは牢の中だけだぞ?」

 

 リーシャの言葉に頷きを返したカミュは、メルエから<最後のカギ>を受け取り、牢屋の扉を開け放った。

 上の階のように狭い牢屋ではなく、広々としたその牢屋の壁には、打ち付けられた鎖があり、囚人の手足を繋ぐ為の物である事は一目で理解出来る。周辺に血痕のような染みが残っており、その血痕が新しい物ではない事が、古い物までも残る程の壮絶な行為が有った事を明確に示していた。

 眉目を顰めたリーシャとサラであったが、そのような光景を見ていなかったように壁を探るカミュが微かな声を上げた事で、意識を戻す事となる。

 

「どうした?」

 

「この部分は向こう側に通じているのかもしれない」

 

 壁に手を当て、軽く叩いていたカミュは、返って来る音の違いに気が付き、その部分の向こう側が空洞であると考えたのだ。

 リーシャが一つ頷く事によって、サラはメルエの手を引き、後方へと下がる。背中の剣に手を掛けようとしたカミュも、それをリーシャによって制された事で、後方へと下がって行った。

 皆が下がったのを確認したリーシャは、背中の<バトルアックス>を抜き、カミュが指示した壁に向かって身構える。そして、そのまま力の限り、斧を振り下ろした。

 

 振り降ろされた斧が土壁に当たると同時に、轟音を立てて壁が崩れ始める。

 土が塗られていた格子状の木舞が破壊され、それによって乾いた土が激しい音を立てながら床へと落ちて行く。

 周囲の壁と同じように見えるように製作されていたのだろう。それ程の厚さもない壁は、リーシャの一撃によって完全に破壊され、牢屋から続く細い通路が姿を現した。

 

「……行くぞ……」

 

 破壊された壁に驚いているサラや、リーシャの剛腕に感動し、目を輝かせているメルエを余所に、牢屋の中にあった燭台から火を移したカミュは、先頭に立って、細い通路の中へと入って行く。その後を追うように、三人はそれぞれ歩き始めた。

 通路は真っ直ぐに伸びていたが、周囲は暗闇に支配されている。誰も口を開く者はおらず、奇妙な静寂だけがその場に広がっていた。

 

 通路の先には急な上り坂になっており、坂を上って行くと、天井のように覆われた鉄の板に突き当たる。先頭を歩いていたカミュが、その鉄の板を動かそうと力を込めると、引き摺るような音と共に大量の砂が落ちて来た。

 落ちて来る砂が掛かり、不満そうに頬を膨らませるメルエの頭を撫でていたリーシャは、それが外へ出る予兆である事に気付いており、差し込んで来る光が、それを証明している。

 差し込んで来る光は、太陽の光のように眩しい光ではなく、静かに降り注ぐ月の光。

 目が眩むような目映い物ではなく、何処か安心するようなその光に、リーシャは先程まで波立っていた心が静まって行くのを感じていた。

 

「こ、こんな……ば、場所に出るのですね」

 

「…………あわ……あわ…………」

 

 到達したのは、メルエの中で楽しい記憶として残っている物を引き摺り出す場所であり、サラの中に忌まわしき記憶が眠る場所でもあった。

 月明かりが照らす闇の中に立ち並ぶ多くの十字架。

 不気味に輝く十字架の下では、供えられた花等を啄む鳥が鳴き声を上げている。

 その全てが禍々しく、サラの恐怖心を煽って行く。

 最後に出て来たリーシャの拳骨を受けて涙目になるメルエの姿に苦笑しながらも、サラは一刻も早くこの場所を抜けたいと考えていた。

 

「このまま行くのだろう?」

 

「ああ」

 

 夜も更け、周囲に人影の無くなった城下町ではある。通常であれば、宿屋で一泊をし、翌朝出発するのだが、現状を考えれば、そのような事は許されないのだ。

 故に、リーシャの言葉は、問いかけではなく、只の確認。

 その証拠に、頷きを返したカミュを見た彼女は、満足そうに頷き、まだ頭を押さえているメルエに手を伸ばした。

 

 夜の城下町は人影がなかった。

 人影が無いというのではなく、人が全くいないのだ。

 人の気配さえも感じない程に静まり返った町は、死の闇に覆われた廃墟のような不気味さを漂わせている。

 その町の姿は、とても一国の城下町とは思えない。四人の誰もが、この町の姿に、メルエの生まれ故郷の姿を重ねていた。

 

 

 

 城下町の門兵を起こし、城下を出た一行は、月明かりと<たいまつ>の炎を頼りに夜道を歩き始める。地図を持つカミュを先頭に、南へ進路を取った彼等は、目の前に見える山の入口を目指した。

 人通りなど皆無に等しい山は、獣道のような細い道しかなく、一固まりになって歩く彼等の傍で、フクロウの鳴き声が響く。カミュとリーシャによって挟まれるように歩いていたサラは、メルエと繋いでいる手に力を込めた。

 『むぅ』と頬を膨らませ、眉を顰めたメルエであったが、痛い程の力ではなかった為、再びフクロウ達の声に耳を澄まし、小さな微笑みを浮かべた。

 

「キィィィ」

 

 そんな静かな山道に、絹を裂くような悲鳴が轟いた。

 正確に言えば、悲鳴ではなく、何かの雄叫びのような甲高い音。

 フクロウ達の静かな音色に頬を緩めていたメルエは、突如響いた奇声に顔を顰め、不愉快そうに唸り声を上げる。

 奇声の理由は唯一つしかなく、一行は各々の武器に手をかけ、周囲を警戒するように視線を巡らせた。

 

「メルエ、これを着けていましょうね」

 

「…………むぅ…………」

 

 山の木々の隙間から出て来た者の姿を見たサラは、万が一を考え、メルエの口と鼻を覆うように布を巻き付けて行く。嫌がるように首を振るメルエに何とか布を巻きつけたサラは、腰の鞘から長剣を抜き放った。

 まだ、鍛錬もしていない剣ではあったが、何故かそれはサラの手に吸いつく様に馴染み、まるで古くからの戦友のように鋭い輝きを放つ。

 戦闘の準備は整った。

 ゆっくりと木々の影から現れる、三体の魔物に向かって全員が己の武器を抜き放つ。

 

「キキィィィ」

 

「カミュ、一気に勝負を決めないと、また面倒くさい事になるぞ」

 

 出て来た魔物は、片手に持っていた物を突き上げるようにして奇声を上げている。それは、木で出来た棒のような形状をしているが、その先には小動物の頭蓋骨のような物が取り付けられている。

 邪教の祀りに使用されるようなその棒を高々と掲げた魔物は、面長の大きな仮面をつけ、首には獣の皮を巻き、腰には木々の葉を巻き付けていた。

 全てが異形ではあるが、似たような姿をした魔族と一度遭遇した事がある。それは、ランシールへ一度目の訪問の為に歩いていた時だった。

 

<ゾンビマスター>

サマンオサ地方に古くから存在する邪教の信徒の成れの果てと云われている。神や『精霊ルビス』ではなく、魔族や魔物を崇める宗教であり、サマンオサ国家から邪教としての烙印を押され、追放された者達が、その身と魂を魔王へと捧げ、膨大な力を手にしたと伝えられていた。元々、魔族や魔物に生贄を奉げる教えであり、命を落とした『人』の死骸を操る外道。その在り方から、このサマンオサ地方では、彼等を<ゾンビマスター>と呼んでいた。

 

「一体ずつ、確実に倒して行く」

 

「わかった。サラ、メルエを頼んだぞ」

 

 カミュの提案に頷きを返したリーシャは、一体に向けて<バトルアックス>を構え、彼よりも先に前へと出る。

 素早く間合いを詰められ、戸惑いを見せた<ゾンビマスター>であったが、寸前のところで一撃を避け、胸に浅い傷を残しながらも、体勢を立て直した。

 <ゾンビマスター>が体勢を立て直した場所には、既にカミュが陣取っており、待っていたかのように<草薙剣>を薙ぐ。その剣に合わせるように繰り出された杖は、付加効力を持つ剣を受けて尚、折れる事はなく、カミュの一撃も致命傷を負わせる程の物ではなく終わった。

 

「なかなかやるな……」

 

 二人の攻撃を受けて尚、胸に浅い傷を負っただけの魔物に向かって呟いたリーシャは、その他の二体にも注意を向ける。しかし、他の二体は様子を見るように戦闘を眺めていた。

 それを確認した二人は、互いに頷き合い、もう一度<ゾンビマスター>へ向かって武器を構える。

 相手の力量は把握した。

 本気の殺し合いの幕開けである。

 

 

 

「メルエ、あの一体は、お二人に任せましょう」

 

「M@H0T#」

 

 カミュとリーシャが一体との戦闘を再開した頃、後方支援組は別の戦いを開始していた。

 心配そうにカミュ達を見つめるメルエに声をかけ、<ゾンビマスター>と彼女の間に身体を滑り込ませようとしたサラは、突如聞こえた奇声に身構える。木々の隙間から出て来た時とは異なる奇声が、魔族特有の詠唱であると考えたのだ。

 メルエを護るように手を伸ばしたサラであったが、それよりも先に、メルエの身体が僅かに揺らいだ。そして、まるで彼女の体内から吸い出されるように、何かが飛び出て行く。

 

「…………むぅ…………」

 

「メ、メルエ、大丈夫ですか?」

 

 自分に身体を預けるようにするメルエを見て、サラはその身を案じた。

 だが、不満そうに頬を膨らませたメルエは、先程奇声を上げた<ゾンビマスター>を睨みつけるように視線を動かし、右手に持っている<雷の杖>を掲げる。サラの腕から身体を起こした彼女は、そのまま特殊な文言を呟いた。

 

「…………マホトラ…………」

 

「キィェッ」

 

 杖を<ゾンビマスター>へ向け、詠唱を行った途端、今度はその魔物が態勢を崩す。生気を吸い取られたように膝を落した<ゾンビマスター>を見て、サラは現状を正確に理解する事となる。

 それは、『悟りの書』に記載されている呪文の一つで、かなり特殊な部類に入る呪文であった。

 敵を殺める攻撃魔法でもなく、戦闘を有利にする補助魔法でもなく、味方を護る回復魔法でもない。

 

<マホトラ>

術者の魔法力を使う事無く、他者の魔法力を奪い去る魔法。体内に宿る魔法力を強制的に吸い取り、自身の魔法力として変換する事を目的とした呪文である。本来、他者の魔法力を自分の中へ埋め込む事は出来ないが、その詠唱によって、自身の魔法力と同じ形へ変換する事によって、魔法力の補充という形で成り立つ物であった。故に、特殊であり、特異なのだ。

 

「…………だめ………メルエの…………」

 

「マホ…トラだったのですか……」

 

 可愛らしく頬を膨らませたメルエは、そのままもう一度杖を掲げる。魔法力を取り戻した彼女は、反撃と云わんばかりの呟きを乗せ、その神秘を解き放った。

 溢れ出る魔法力は、彼女の呟きによって完成され、<雷の杖>という媒体を通って神秘となる。

 

「…………メラミ…………」

 

 木々が生い茂る山の中という事を考慮に入れたのだろう。メルエは圧縮した火球をその杖から放った。

 火球は、真っ直ぐ<ゾンビマスター>へ向かって飛んで行き、魔法力を吸い取られた事で体勢を崩していた魔物を打ち抜いて行く。火球は触る物を溶解させる程の熱量を誇り、胴体部分に受けた魔物は、胸から腹部にかけてを失った。

 声を上げる暇もなく、腹部を抉り取られた<ゾンビマスター>は、呼吸すらも出来ぬ状態で地面へと倒れ伏す。

 

「あっ!?」

 

「キエェェェェ」

 

 圧倒的なメルエの攻撃に息を飲んでいたサラは、残る一体の行動を視界の端に捉え、驚きの声を上げる。

 手に持っていた木の棒を高々と掲げた<ゾンビマスター>は、先程とは全く異なる雄叫びを上げたのだ。

 それが何を意味するのかが解らない程、彼等の旅は未熟な物ではない。ランシールで遭遇した<シャーマン>にも似たような行動があり、その結果として、何が出て来るのかは明白であった。

 

「キシャァァァ」

 

「ちっ……遅かったか」

 

 サラがその行動に気付き、メルエの口元を覆っている布をしっかりと巻き直している間に、<ゾンビマスター>の身体は、真っ二つに斬り裂かれた。

 一体を倒し終えたカミュが、<ゾンビマスター>の後方へ回り、その剣で薙ぎ払ったのだ。体液を溢し、胴体部分と離れた下半身は、力なく地面へと崩れ落ちる。しかし、それは、剣に付着した体液を払った青年が呟いた言葉通り、一拍遅い物であった。

 

「…………むぅ…………」

 

「うっ……お、おえっ……」

 

 口元を布で覆っているメルエでさえ、その臭いに唸り声を上げ、賢者の後方へと隠れてしまうのだ。前面に出されたサラにとっては、堪った物ではないだろう。

 周囲を覆い尽くすような腐敗臭が広がり、息すらも吸えない程の圧迫感が場を支配する。

改めてこの悪臭を嗅いでしまうと、サマンオサの地下牢を支配していた汗や垢の臭いが可愛らしく思えて来るから不思議である。

 <ゾンビマスター>の死骸の近くではなく、サラとメルエの至近距離の地面から湧き出た腐乱死体は、ゆっくりとした動きで、サラとの距離を縮めて行った。

 

「メ、メルエ……おえっ……下がってください」

 

 目も開ける事が難しい程の腐敗臭に、カミュやリーシャでさえも近づけない。一体だけの<腐った死体>であるのだが、その瘴気は、歴戦の勇士達をも退ける程の物であったのだ。

 手を伸ばす腐乱死体の姿を見たサラは、自分にしがみ付くメルエを後方へと下げる為に引き剝がし、持っていた剣を正眼に構える。引き剝がされたメルエは、哀しそうに眉を下げながらも、大人しく後方へと下がって行った。

 

「はぁぁぁ!」

 

 近づいて来た<腐った死体>に向かって、サラは息を吐き出すと同時に<ゾンビキラー>を振るった。その切っ先は、伸ばされた腐乱死体の腕を斬り裂き、腐り切った腕は、地面へと落ちて行く。

 しかし、その光景を見た一行は、驚きで声を失ってしまった。

 地面へと落ちた<腐った死体>の腕は、まるで聖なる炎に包まれるかのように燃え上がり、跡形もなく消え去ってしまったのだ。しかも、サラの持つ<ゾンビキラー>に付着した肉片もまた、青白い炎に包まれて燃え尽きて行く。

 

「これが……聖なる剣の力……」

 

 我が目を疑う程の光景に、呆然としていたサラであったが、苦悶の叫びのような唸り声を上げながら暴れる<腐った死体>を見て、我へと返って行った。

 腕を斬り落とされた腐乱死体は、その部分から燃え上がる青白い炎を消そうと腕を振るい、それでも徐々に上がって来る炎に恐れをなし、徐々に後退して行く。それを見逃す事は、リーシャという戦士の扱きを受けて来たサラには出来ない相談であった。

 

「やあ!」

 

 <腐った死体>を追うように、一歩踏み出したサラは、<ゾンビキラー>を振り下ろす。腐乱死体の肩口から入った剣は、その身体を袈裟斬りに斬り裂いた。

 血液も体液も出ない傷口から燃え上がった聖なる炎は、青白い線が走るように腐乱死体を包み込み、その全てを燃やし尽くして行く。これこそが、<聖水>と呼ばれる物に漬けて尚、朽ち果てる事のなかった剣の実力であった。

 聖なる水は、神と『精霊ルビス』の祝福と加護を内包し、様々な効力を持つ。

 力の弱い魔物を寄せ付けない程の聖気を持っているし、身体の内部を病んだ者の病も鎮めるとも云われている。だが、最も強い効力は、神や『精霊ルビス』の祝福を受けていない者、つまりはこの世に生を持っていない者にこそ発揮されるのだ。

 

「……眉唾物ではなかったのだな……」

 

 青白い炎に巻かれ、その身を消滅させて行く<腐った死体>を呆然と見ていたリーシャは、サラが持っている剣の効力に驚いていた。

 全く効力が無いと思っていた訳ではないが、話半分程度に考えていたのだろう。その絶大な効力は、そんな彼女の言葉を失わせる程の威力を持っていたのだ。

 それは、その隣で剣を鞘に納めたカミュも同様である。彼もまた、聖なる炎に巻かれる腐乱死体を、何処か異世界の物でも見るような瞳で見つめていた。

 

「…………サラ………すごい…………」

 

「ふぇっ!? あ、は、はい……私も驚いています」

 

 全てが灰と化し、煙となって天へと還って行った後、先程まで後方に控えていたメルエが、剣の切っ先を呆然と眺めているサラに抱き付いて来る。

 輝く瞳を向ける彼女に、サラはようやく笑顔を取り戻した。

 自身が手にした武器の強大さに驚いていたが、その力を恐れる事はない。力の使い方を考え、学び、そして実行に移す彼女達にとって、強大な力は、敵ではなく味方なのだ。

 

「サラ、良くやった」

 

 近寄って来たリーシャに肩を叩かれたサラは、その手に持っていた<ゾンビキラー>に再度視線を落とし、そのまま鞘の中へと納めて行く。

 リーシャに向けて上げられた彼女の顔には笑みが浮かび、その笑みを見たメルエは少し不満そうに頬を膨らませた。

 <腐った死体>を倒したのはサラではあるが、その前に一体の<ゾンビマスター>を倒したのは自分であると言いたいのだろう。それに気づいたリーシャは、幼い主張を告げる少女の頭も優しく撫でてやった。

 

 月明かりはまだ山を照らしている。

 一行の歩みは、幼い少女が目を擦り始めるまで続いた。

 

 

 

 一行の歩む速度は、これまで以上の物であった。

 通常の人間で四日程掛かる山道を越えるとなれば、投獄されている者達の命も危うい。ましてや、目的地の洞窟がどれ程の広さを持つ物なのかも解らないのだから、出来るだけ山を越える時間は短い方が良いのだ。

 日に休憩は一度か二度。

 それ以外は常に歩き続ける事で、一行は日数を削って行く。時には、陽が落ちた山道も<たいまつ>を頼りに歩き続けた。

 幼い為の眠りを必要とするメルエを背負い、後方を歩いたのはリーシャ。メルエのような幼子であれば、アリアハン屈指の戦士の歩く速度が変化する事はない。山を二日で抜け、三日目には目的の洞窟近くまで出て来た。

 

「カミュ様、地図ではこの辺りなのですか?」

 

「地図上では、この辺りに橋がある筈だ」

 

「橋? 私達は洞窟へ向かっているのではないのか?」

 

 山道を抜け、平原に出たリーシャとサラは、先頭で地図を片手に周囲を確認する青年へと視線を移す。迷う事無く、山を二日で超えられたのは、この青年の能力の賜物であろう。

 常に正確な道順を導き出すその能力は、『勇者』ならではの物なのか、目に見えぬ力の導きなのかは解らない。だが、彼がこの近くに洞窟があると言えば、そこに洞窟がある事に疑う余地はないのだ。

 故に、彼から返って来た答えが、洞窟というの名ではなく、橋という物であった事にリーシャは驚きを表した。

 

「地図によれば、山から下りて来る小川に囲まれた場所にあるらしい」

 

「ならば、少し東の方なのかもしれませんね」

 

 カミュの見解を聞いたサラは、少し上空を見上げた後、方角を示し出す。

 このサマンオサ大陸は、巨大な山脈に囲まれており、『旅の扉』以外での入国が不可能な場所。だが、山から湧き出る水は、細い小川となり、海へと流出しているのだ。

 船などが渡れる幅や深さを持つ物ではない。だが、海へ流れている以上、西側に聳える山脈の方ではなく、森のある東側なのではないかと考えるのが妥当な物でもあった。

 

「サマンオサ城を出てから、今日で三日目だ。何とか今日中に洞窟を見つけ、中に入りたいな」

 

「そうですね、急ぎましょう」

 

 太陽は昇ったとはいえ、まだ東の空を赤く染めたばかり。

 ここから半日掛けても、日暮れまでには間に合う。洞窟内で二日掛けたとしても、<ルーラ>という移動呪文があれば、サマンオサの状況にも間に合う可能性がある。それは、最優先事項でもあったのだ。

 平原を東に向かって歩く一行は、各々が別方向に視線を送りながら、目的地を探す為に首を巡らす。幼いメルエも一生懸命に首を動かし、低い視点から目的地を探していた。

 メルエの姿に苦笑を浮かべたリーシャは、その身体を担ぎ上げ、肩車のような状況で少女を乗せる。急に高くなった視点に目を輝かせたメルエは、『メルエ、頼むぞ』というリーシャの言葉に、大きく頷きを返した後、再び視線を動かし始めた。

 

 

 

 暫しの間、一行はゆっくりと歩を進めながら周囲を見渡し続ける。

 既に太陽は真上へ差し掛かり、一行に残された時間も少なくなっていた。

 

「…………かわ……あった…………」

 

「えっ!? 本当ですね! カミュ様、向こうの方に小川が見えます」

 

 そして、そんな状況の中、目的地を発見したのは、最も視点の高いメルエであった。

 少し右よりの前方へ指を向けたメルエは、目的地の周辺にある小川を発見し、それを呟く。その声は、周囲へ視線を巡らせていたサラの耳に届き、全員へと通達されて行った。

 先程よりも速度を速めた一行は、風によって運ばれて来る湿気に向かって歩き、その場所へと辿り着く。

 

「こ、これは……」

 

「酷いな……」

 

 だが、一行が見た景色は、想像を絶する程の衝撃的な物であった。

 流れる小川は、人の腰までもない程の深さではあるが、その流れはとても速い。まるで、その場の何かを洗い流すように流れる小川は、大きな音を立てながら下流へと流れていた。

 そして、その急流は、小さな大地を取り囲むように流れており、その大地へと掛けられた橋へと上がった一行は、その場の光景に絶句してしまう。

 

「こ、これは、魔物達の死骸ですか?」

 

「いや、人間の物も交じっているな」

 

 橋の上から見た小さな大地は、腐り切った死骸が転がり、その臭気と瘴気に満ちていた。

 まるで腐った海のように流れる瘴気の波は、その大地を丸ごと包み込み、入ろうとする者を拒むように広がっている。その先が見えない程の濃い霧は、全てその瘴気で出来ているのではないかと思う程の不快感を感じ、それより先へは足が動かない程でもあった。

 呆然と立ち尽くす一行ではあったが、この橋の上で時間を潰していても仕方がない事は確かであり、それを最も理解している『賢者』が、逸早く心を立て直す事に成功する。

 

「メルエ、あの呪文は使えますか?」

 

「…………??………ん…………」

 

 リーシャの肩から降ろされたメルエは、振り返ったサラが口にした言葉に思い当たる物が無かったのか、暫しの間首を捻っていたが、自分を真っ直ぐ見る瞳に何かを気付き、大きく首を縦に振った。

 満足そうに頷いたサラは、メルエの傍に他の二人を寄せ、一固まりになるように指示を出す。

 <ルーラ>や<リレミト>を行使する時のような陣形を組んだ事に首を傾げていたリーシャであったが、<雷の杖>を高々と掲げるメルエの姿を見て、その肩に手を置いた。

 

「…………トラマナ…………」

 

 呟きを詠唱へと変えた幼い少女に反応するように、<雷の杖>のオブジェの瞳が光り出す。オブジェから吐き出された何かは、その大地を覆う瘴気と拮抗するように広がり、一行を包み込んで行った。

 それを確認したサラは、そのまま橋を渡り、瘴気に包まれた大地へと足を下ろす。慌てて追いかけたカミュとリーシャもまた、メルエと共に大地へと足を着けた。

 

「サラ……この呪文は何だ?」

 

「トラマナという『悟りの書』に記載されている呪文で、瘴気に包まれた場所や、毒に侵された場所などを歩く為の呪文のようです」

 

<トラマナ>

この世界には、生物が生息していない場所が数多くある。龍種が生きる場所や、その他の魔物が生きる場所。そして、生物が生きてはいけない場所などだ。そのような場所は、人間のような潜在能力の弱い生物が立ち入る事の出来ない理由が存在する。その理由は、毒の霧で満たされた場所であったり、濃い瘴気に覆われた場所であったりと様々であった。そんな場所でも、何かの理由で入る必要のあった『古の賢者』が考案し、編み出した呪文が、この呪文である。

 

 大地に下り立つと、不快な空気を一切感じない。まるで、メルエの魔法力によって、周囲の空気が濾過されているように澄んでいた。

 メルエを中心として広がる空間は、周囲を覆う濃い霧はなく、視界も開けている。足下には不快な死骸が散乱している事に変わりはないが、その臭気すらも消え失せてしまっているように感じた。

 一行は、そのまま小さな大地の中央へと進む。

 何故なら、この小さな大地の中央に、盛り上がった山が見えていたからだ。

 先程まで、濃い瘴気の霧によって、一寸先も見えなかった視界は、人類最高の『魔法使い』の唱えた呪文の効力によって晴れて来ている。

 そして、一行は、その盛り上がった山の麓で大きく口を開ける入口へと辿り着いた。

 

「おい! この場所に何の用だ!?」

 

 しかし、洞窟の入口にカミュが手を掛けた時、後方から予期せぬ声が掛かる事となる。濃い瘴気の影響で、視界と共に気配も感じ辛くなっていた為、一行はその者達が近付く事を許してしまっていたのだ。

 そして、間が悪い事に、洞窟の入口に手を掛けていたカミュと共に、リーシャも前へと出ていた時。つまり、後方支援組であるサラとメルエが、声の持ち主達に対して前面に出てしまう形となっていたのだった。

 

「答えろ! ここへ何をしに来た!」

 

 勢い良く振り向いたサラの喉元に突き付けられたのは、リーシャの持っているような、戦闘用に改造された斧。サラの喉の薄皮一枚を綺麗に切り裂き、細く赤い筋を作って行く。奇しくも、その筋が、彼等のこの行動が脅しではない事を明確に示していたのだった。

 それを感じたサラは、動けない状況にも拘わらず、瞬時にメルエの手を引き、自分の後方へと移動させる。その際に、斧の切っ先で多少の傷は広がりはしたが、致命傷になる程の深さではなかった。

 

「貴方達は……」

 

「勘違いするな。問いかけているのは、俺達だ」

 

 喉元に斧を突き付けられて尚、動き、声を発しようとするサラの行動に、斧を向けていた男が低い声を絞り出す。それは、明確な殺意を含んだ物であり、答えようによっては、瞬時に斧を横へ振り抜く事を示唆していた。

 そして、何よりも、斧を持つ男の後方に居る数人の者達からも、その殺意は伝わっており、その者達が、そのような行為を何度も行って来た事を意味している。

 サラが人質に取られている以上、一行に選択の余地はない。

 ゆっくりと歩き出したカミュが、その者達の前へと出て行った。

 

「やるつもりか?」

 

 瞬時に身構えた者達は、各々の武器を抜き放つ。

 未だ射程距離に入ってはいないカミュを警戒しながらも、何時でもサラを殺せるように、斧を持つ手に力を込めた男は、顔を覆面のような物で覆っていた。

 後方で武器を抜き放った者達も同様で、まるで素顔を隠すかのように被られた覆面に開けられた穴からは、鋭い瞳が光を宿している。

 彼らこそ、この十数年ほどでサマンオサ地方に名を轟かせた者達であり、サマンオサ地方で知らぬ者はいないとさえ云われている者達である。

 

<デスストーカー>

『忍び寄る死』と名付けられたその者達は、サマンオサ地方でも恐怖の対象となっていた。国内の恐怖に慄いていた国民は、サマンオサ城下町近くで、魔物の死骸の上に立つその者達を見て、更なる恐怖へと落とされたのだ。その姿を見た頃に城下町付近で起こっていた、作物が荒らされ、家畜などが消えて行くという出来事も相まって、次は自分達の番ではないかと恐れる人々の間で噂になっていた。巨大な斧を持ち、覆面によって隠された口は耳まで裂け、その瞳は血に飢えるように赤く染まっているなどと、噂は噂を呼び、その者達を見た城下町の南方へは、ここ十数年近付く者さえも皆無となっている。

 

 

 

 ここ十数年で広まった、サマンオサ地方の怪異が、今、世界を救う為に歩む一行と対峙する。

 それは、新たな時代の幕開けとなる出会いであったのかもしれない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

少し短くなってしまいましたが、サマンオサ編の佳境への入口です。
ここからが本番になると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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サマンオサ大陸③

 

 

 

 斧の切っ先はサラの喉元から動きはしない。

 緊迫した時間が流れる中、サラの後ろに隠れていた少女が、瞳を鋭く細め始めた。

 それは、大好きな者を傷つける人間へ向ける怒り。それを象徴するように、一行を取り巻いていた魔法力に揺らぎが生じ始めた。

 

「メルエ、駄目ですよ。怒っては駄目です」

 

「…………むぅ…………」

 

 その変化に真っ先に気が付いたのは、喉の部分から赤い血液を流しているサラ。

 上手く声の出せない状況で尚、彼女は幼い少女を戒める。その力は相手を滅する物ではないと。

 だが、大事な者を護る力を持つと考える少女は、その大事な者が傷付く事は許せなかったのだ。不満そうに頬を膨らませたメルエは、サラの腰に手を回し、斧を持つ男性を睨みつけた。

 

「このままでは話も出来ません。一度、斧を下して頂けませんか? 正直に言えば、追い詰められているのは、私ではなく、貴方達なのですから」

 

「なに?」

 

 状況を把握した時、この『賢者』は誰よりも冷静な瞳を持つ者へと変わる。

 現状で、自身の命が危機に迫っている状況に見えていても、その危機を容易く打破できる事を理解しているのだ。

 彼女には、神秘を発現する事の出来る力がある。

 彼女の後ろには、彼女以上の神秘を我が意に出来る者がいる。

 世界を救う事の出来る程の力と剣技を有する者達がいる。

 何一つ、サラが恐れる理由が存在しないのだ。

 

「斧を引け……それ以上、その者を傷つけるつもりならば、自身の腕と今生の別れを済ませておけ」

 

 そして、サラの考えが正しい事の証明に、彼女の後ろには、最も頼りにする女性戦士が構えを見せていた。

 彼等四人は、勇者一行である。

 アリアハンを出た頃のような、何処にでも溢れている力自慢の者達ではない。

 様々な出来事を乗り越え、様々な物事を目にし、彼等はこの場に立っている。

 既に人外の力を有している者達が、ある地方で恐れられている程度の者に後れを取る事はない。それが、『人』であれば、尚更である。

 斧を向けている者達の素顔は解らないが、話す言語は間違いなく人語であり、その流暢さから見る限り、彼等が魔物や魔族の類ではないと予想出来た。

 人語を流暢に話す<スライム>に彼等は出会ってはいるが、武器を突き付けて脅すような真似をする魔族などには遭遇した事はなかったのだ。

 

「サマンオサ国王様の命により、<ラーの鏡>を取りに参りました」

 

「ならば、やはり魔物の類か!?」

 

 リーシャとサラの気迫に押されて生じた僅かな隙で、一歩前に出たカミュは、サラの喉元に突き付けられていた斧の柄を掴み、この場所を訪れた目的を口にする。

 しかし、その一言は、少し気を緩めていた覆面集団の何かに火を点けてしまった。

 一気に臨戦態勢となってしまった空気に、溜息を吐き出したカミュは、背中から剣を抜き放つ。それが一行にとっての戦闘開始の合図となった。

 リーシャは<バトルアックス>を手に取り、メルエは杖を高々と掲げる。

 

「メルエ、今回は後方で見ていて下さい。呪文を唱えては駄目ですよ。カミュ様とリーシャさんも、命を奪ってはいけません」

 

「…………むぅ…………」

 

 先程から、自分の行動を抑制するばかりのサラの言葉に、メルエは不満そうに口を尖らせる。別段、呪文を唱えて、敵を殲滅する事に喜びを感じている訳ではないだろう。単純に、自分ばかりを抑えるサラの言葉が気に喰わないだけなのだ。

 それを理解したサラは、メルエに小さくその理由を語る。

 その内容を聞いたメルエは、全てを理解したように、一つ頷きを返した。

 

「相手は四人か……カミュ、腕を斬り捨てるのも駄目だからな!」

 

「わかっている……」

 

 周囲を囲むように身構えた<デスストーカー>を見渡したリーシャは、その数を数え、未だにその一人の斧の柄から手を離さないカミュに注意を促す。

 鬱陶しそうに返答したカミュは、引き戻そうと力を込めている<デスストーカー>の斧に装飾されている物に目を向け、その瞳を軽く細めた。

 戦闘は既に始まっている。だが、彼等が恐れる程の力を<デスストーカー>が有している訳ではない。世に生きる大半の人間から見れば、その力は恐れる程の物かもしれない。

 だが、所詮は『人』である。

 どれ程の力を有していても、当たらなければ意味はない。

 

「マヌーサ」

 

 四人の<デスストーカー>に唱えられた呪文は、その者の脳を直接蝕み、感覚を狂わせてしまう物。

瘴気の霧に覆われた大地に、更なる霧が充満して行く。

 <デスストーカー>達の視界は、充満した濃い霧に包まれて行った。

 

「いやぁぁぁ!」

 

 濃い霧に包まれ、恐怖に陥った<デスストーカー>達の横をすり抜けたリーシャは、その手に持つ斧を振り下ろす。霧に向かって振られていた<デスストーカー>の持つ斧に向かって振り下ろされた<バトルアックス>は、その柄を真っ二つに圧し折った。

 攻撃方法が失われた事に気づいた<デスストーカー>は、次の瞬間、意識を失ってしまう。リーシャの肘が直接顎に入ったのだ。

 意識の糸が切れてしまった<デスストーカー>が倒れ伏すのを見届ける事無く、リーシャは次の獲物へと足を延ばした。

 実際に濃い瘴気に包まれていると考えていた大地ではあったが、毒のような物ではない。目の前の<デスストーカー>が『人』であると解れば、その者達が不自由なく呼吸している事が何よりの証明となる。

 既にメルエの唱えた<トラマナ>の範囲外に飛び出したリーシャがそこまでの確信を得ていたかどうかは解らないが、その行動を止めようとしなかったカミュとサラは理解していたのだろう。

 

「ちっ!」

 

 迫って来たリーシャと、霧の中に見える幻が重なったのか、一人の<デスストーカー>が振り下ろした斧が、正確にリーシャの脳天へと向かって来る。

 それでも尚、軽い舌打ちをした彼女は、それを<ドラゴンシールド>で受け止め、前方へと押し弾いた。

 泳ぐ<デスストーカー>の身体に向かって、<バトルアックス>を振り抜く。だが、その斧の面は刃の付いた部分ではなく、側面。凄まじい衝撃と共に弾き飛ばされた<デスストーカー>の身体は、生物の死骸が転がる地面へと伏して行った。

 

「ラリホー」

 

 瞬く間に二人の同士が倒された事に動揺した<デスストーカー>の心の隙間に、パーティー最強の補助魔法使いが放つ呪文が滑り込む。

 脳神経へと直接届く呪文は、その者を睡魔へと引き摺り込み、意識を奪って行った。

 残る<デスストーカー>は、カミュに斧の柄を握られている男のみ。

 全ての同士が、外傷一つなく昏倒させられている状況を、信じられない物のように見ていた男は、残るのが自分だけだと気付いた時、先程とは異なる冷たい汗を滲ませた。

 

「アンタ方は、誰の命令でここを護っていた?」

 

「ぐっ……」

 

 斧から手を離そうとする男の喉元にカミュは剣を突き付ける。

 先程とは、全く逆の立場となってしまった事に冷たい汗を流した男は、剣を突き付ける青年の瞳を見て、覚悟を決めた。

 その青年の瞳は、男が今も崇拝する者と何処か似た雰囲気を持つ物。

 何かを決意したような瞳が放つ物は、何かを護る為の光であり、何かを変える事の出来る光。懐かしささえも感じる程の光を見た男は、抵抗する事を諦め、斧から手を離した。

 

「お前達は何者だ?」

 

「勘違いするな……問い掛けているのは俺達だ」

 

 斧から手を離して、抵抗を否定したにも拘らず、先程自分が発したような冷たい言葉を紡ぐ青年に、男は先程まで感じていた物が間違いであったのかと感じてしまう。

 それ程にその言葉は冷たく、一言間違えただけでも命を失ってしまう程の緊迫感を持っていた。

 彼等も<デスストーカー>と呼ばれていた者達である。多数の魔物達と戦い、生き残って来た。その相手の中には、人間と思しき者達も存在していただろう。『人』を殺す者を軽蔑出来る程の生易しい道を歩いて来た訳ではない以上、その冷たい言葉を否定する事は出来なかったのだ。

 

「カミュ様、それでは満足に話が出来ません」

 

「そうだぞ。私達はこの者達と戦いに来た訳ではないだろう?」

 

「…………カミュ………だめ…………」

 

 そのような、死の覚悟を決めた男に、予期せぬ助け舟が渡される。

 先程仲間達を打ちのめした者達が全員集まり、剣を向ける青年を諌めたのだ。それは、戦いを主として来た男の人生の於いて、奇妙に映る光景であった。

 唖然と佇む男の前に出て来たのは、彼が斧を突き付けた女性。

 真っ直ぐ見つめる瞳は厳しいながらも慈愛を含み、見る者を魅了する程の冷たさと温かさを持っている。

 だからだろうか、男は、この女性と視線を合わせる事が出来なかった。

 

「貴方達は、ここで<ラーの鏡>を護っていたのですか? それは、サイモン様のご指示なのですか?」

 

「!!」

 

「なに!? ど、どういう事だ、サラ!?」

 

 全ての前置きを取り払った言葉は、真っ直ぐ男の胸へと突き刺さる。

 驚いたように顔を上げた男の表情が全てを物語っているのだが、それ以上の驚きと言葉を発した女性戦士の叫びによって、それは搔き消されてしまった。

 サラが前へ出る以上、何らかの考えがあるのだろうと考えていたリーシャではあったが、その内容の突飛性に、つい言葉が出てしまったのだ。

 サマンオサ国の英雄であるサイモンという人物が、サマンオサ国の国宝が眠る洞窟近くで追い剝ぎのような真似事をしている者達と関係しているという事自体、驚愕の事実であるのだが、その行為を指示したのが英雄と謳われる者であるという事は、英雄を崇拝するリーシャにとっては飲み込む事の出来ない物であった。

 

「……黙っていろ……」

 

「だ、だがな、カミュ……」

 

 しかし、そんな女性戦士の暴走は、隣に立っていた青年によって遮られる。もはや、この青年に、前に出る意思はないのだろう。<デスストーカー>と呼ばれた男との会話をするつもりもない事が見て取れる。

 その代り、耳だけは傾けており、その内容を聞き逃す気もない。

 それを理解したリーシャは、抗議の言葉を飲み込む事にした。

 何故なら、それはサラへの信頼の証と受け取ったからである。

 

「すまなかった……続けてくれ」

 

 リーシャ達三人は、一度この『勇者』と逸れた事がある。

 その時に交渉の矢面に立ったのは、『賢者』であるサラであった。

 彼女は己の願いを実現するために、己の身を犠牲にする事も厭わない。周囲の者達が苦しむ事を誰よりも嫌うにも拘らず、己の身が危険に晒される事に対しての危機感が決定的に欠けていると言っても過言ではないだろう。

 故に、刃を突き付けられても、怯える事無く冷静に対処し、再びその男の前に立つ事が出来ているのかもしれない。

 ただ、それは、後ろにカミュという『勇者』と、リーシャという『戦士』、そしてメルエという『魔法使い』がいるからこその物と言っても良い筈だ。

 もし、サラ一人であれば、その身を竦ませ、対処を考えるよりも先に、その命を散らしてしまっていたかもしれない。彼女の芯は強い物であると同時に、とても脆く儚い物でもあった。

 

「それを答える前に、お前達の素性を教えろ。この状況で条件を口に出来る立場ではない事は理解してはいるが、お前達がそれを口にしないのであれば、この首を刎ねろ」

 

「私達は、『魔王バラモス』を討伐する為に、アリアハンから旅をしている者です」

 

 サラの言葉の中に出て来た、サマンオサ国の英雄の名に驚きを表していた男であったが、そう簡単にサラ達の要求に答える様子はなかった。

 そればかりか、現状を理解して尚、優位にいる筈の一行に問いかけを返し、それに答えなければ、死を受け入れる事も辞さないという態度を示した事で、サラは即座に自分達の立場を答える。

 ここで、カミュを『勇者』として紹介しなかった事は、もう一人の英雄を生んだサマンオサ国に対する配慮だったのかもしれない。

 逆に予想外の答えが返った事で、男の身体は硬直した。

 口を開いたまま、何かを言おうと数度開閉を繰り返すのだが、何も言葉は出て来ず、目の前に居る四人の若者へと視線を泳がせる。

 

「もう一度聞きます。貴方達は、この場所にある<ラーの鏡>を何から護っているのですか?」

 

 再度問うように言葉を紡ぐサラではあったが、その内容は先程の物とは異なった物であった。

 既に、<デスストーカー>と恐れられている者達が<ラーの鏡>を護っているという事は、サラの中で確定事項なのだろう。そして、それを命じた者も同様に確定しているのだ。

 残るは、何者の手から護っているのかという一点に絞られる。

 もしかすると、それさえもこの『賢者』の中では、只の確認に過ぎないのかもしれない。

 

「倒れた仲間達は全員無事だ。アンタ方の命を奪うつもりはない」

 

「……わかった」

 

 薄汚れた地面へ倒れ伏す仲間達へ視線を動かしていた男であったが、その意味を理解したカミュの言葉によって、ようやく一息吐き出し、心を落ち着かせる。

 そのままゆっくりと覆面へ手を掛け、それを取り外した男は、精悍な顔つきの男性であり、その瞳は、とても追い剝ぎのような真似をする者の持つ物ではなかった。

 首元の筋肉は盛り上がり、その手に持つ斧を鍛錬の為に何度も振って来た事を想像させる。その鍛錬が、決してこのような姿を晒す為の物ではなかったという事も。

 

「アンタ方は、サマンオサ国の宮廷兵か?」

 

 ようやく話ができる態勢となった事で、口を開いたのはカミュであった。

 彼は、自分の手に残っている斧に装飾されている紋章を目にしていたのだ。

 それは、この大陸へ来るために飛び込んだ『旅の扉』があった場所の鍵穴に刻まれていた物と同じ形状の物。

 この世界で頂点に立つ程の軍事力を持ち、影響力を持つ程の英雄を生んだ国が掲げる紋章。

 

「……いや、正確には違う。我々は、サマンオサ国の英雄直属の近衛兵だ」

 

「英雄直属……? つまりは、サイモン殿の部下という事か?」

 

 サマンオサ国の紋章が彫られた斧を持っているという事は、国家の兵士という事になる。それを考えて問いかけたカミュではあったが、目の前の男は静かに首を横へと振った。

 そして、男の返答を聞いたリーシャは、信じられないという表情を浮かべ、その男の言葉を繰り返す。

 それは、もう一人の英雄が生まれた、アリアハンという国家で生まれ育った者にとっては、仕方がない反応なのかもしれない。

 

 アリアハン国に生まれた『オルテガ』という名の英雄は、間違いなく世界に誇る英雄であった。

 だが、彼の父親はアリアハン宮廷騎士としての地位を持っていたが、彼自身はアリアハン宮廷に出入りする者ではない。リーシャのような貴族の出ではなく、力を認められた平民上がりの騎士を父に持つ彼は、騎士や兵士になる事を嫌い、何度か旅に出ていたのだ。

 その旅の中で彼は妻と出会い、その妻との間にカミュが生まれている。

 つまり、国家が認め、国家を代表する英雄であるオルテガではあるが、彼には何の実権も地位も有りはしなかったのだ。故に、彼に部下はおらず、『魔王討伐』という危険な旅へも一人で旅立つ他なかったのだった。

 

「詳しく話が聞きたい」

 

 現状のサマンオサの状況を考えると、ここで男の話を悠長に聞いている暇はない。

 だが、この話を聞かなければ、サマンオサの現状を正確に把握する事は出来ず、あの国王を自称する男の為に<ラーの鏡>を入手する事が正しいのかも判断出来ないだろう。

 そこに、サマンオサの英雄と名高い、サイモンの名が出て来たからには尚更である。

 それを理解しているからこそ、カミュの言葉に誰一人反論せず、倒れ伏している<デスストーカー>達を洞窟の入り口付近へと運び、リーシャ達もまた、洞窟の入口に座り込んだ。

 洞窟の入り口付近は、地面に死骸などは散乱しておらず、良く見ると、古い焚き火の跡などもある。それは、もしかすると、この英雄直属の部下達の熾した物なのかもしれない。

 

「少し長くなるが……」

 

「構いません、細かく教えてください」

 

 サマンオサ国の英雄を知る者達の瞳にも、この四人は何処か特別な物に映ったのかもしれない。ゆっくりと息を吐き出した男は、静かに腰を下ろし、静かに語り始めた。

 時間が無い状況ではあっても、話を聞かなければならない必要性を感じている一行もまた、その話へ静かに耳を傾ける。

 そこから、彼等が何故<デスストーカー>と呼ばれる存在へと落ちてしまったのかが語られて行った。

 

 

 

 

 

 話を聞き終えたカミュは、無言で立ち上がり、そのまま洞窟の中へと入って行く。

 当初から話に興味を示していないメルエは、ようやく行動を始めたカミュを追って、早足で洞窟へと潜り込んで行った。

 その場に残されたのは、『戦士』と『賢者』。

 そして、何も語る事無く、洞窟へと入って行った青年の背中を呆然と眺める事しか出来ない男だけだった。

 

「あの男は、本当にアリアハンの英雄の息子なのか?」

 

「ふふふ。そうだな……アイツを良く知らない人間には、そう見えるのだろうな」

 

 既に見えなくなった青年の印象は、サマンオサの英雄に仕えていた者にとって、最悪の物と言っても過言ではなかったのだろう。彼の目には、とても世界を救う事の出来る者には映らなかったのかもしれない。

 だが、そんな態度を見て、顔を顰める『賢者』とは異なり、女性戦士の顔は、静かな微笑みを湛えている。後方を振り返り、既に見えなくなった青年へと視線を向けた彼女は、小さな呟きを洩らした。

 

「アイツは、私の知るアリアハンの英雄にも、お前達が知るサマンオサの英雄にも、劣る事のない『勇者』だ。何も心配はいらない」

 

「……そうか……」

 

 もう一度顔を戻した女性戦士の顔に浮かぶ笑みを見て、男は静かに嘆息する。

 既に、サマンオサの英雄と呼ばれる者は、ここにはいない。

 同様に、アリアハンの英雄と呼ばれた者も、この世には存在しない事を先程の話の中で聞いていた。それと同時に、無言のまま洞窟へと消えて行った青年が、その遺児である事を知る。

 そのような世界の唯一の希望となる筈の青年は、彼の想像していた者ではなかったのだろう。

 だが、その希望と共に旅をしている者達の姿は、サマンオサの英雄が持っていた輝きに似た物を持っていたのだった。

 故にこそ、彼は小さく頷く。

 彼等の頭に残る、幼い男子と同じ運命を持つ者へ全てを託して。

 

「カミュ様のお考えが正しければ、私達が<ラーの鏡>を持ち帰った時、サマンオサ国は大きな騒動となる筈です。その時、必ず貴方達の力が必要になります」

 

「そうだな、それにあの者の力もな……」

 

 洞窟へ向かおうとしていたリーシャの横で、サラが口を開く。

 <デスストーカー>とサマンオサ国城下町で恐れられていた者達の力が、そのサマンオサの危機に必要になると言うのだ。

 彼等の境遇を聞いた筈のサラであったが、その瞳に微塵の疑いもない。

 彼等ならば、必ず立ち上がってくれると信じている瞳を見て、リーシャは軽い笑みを浮かべる。そして、瘴気に覆われた空を見上げ、小さな呟きを溢し、そのまま洞窟へと入って行った。

 

「私達は、<ラーの鏡>を入手次第、<ルーラ>を唱えて、城下町へ向かいます。その時に一緒に行きましょう」

 

「……だが、<ルーラ>では大勢の移動は無理ではないか?」

 

 自分達の境遇を知って尚、祖国を恨む事はないと信じる女性に戸惑っていた男であったが、全てを包み込む真っ直ぐな瞳は、揺るぐ気配もなく、男を射抜いている。

 そんな真っ直ぐな瞳を受け続ける事が出来ず、男は一度目を瞑った後、女性が口にした呪文の欠陥を口にした。

 彼とて、英雄の直属の部下として多くの『魔法使い』を見て来ている。

 <ルーラ>という呪文は、術者のイメージに重きを置く物であり、術者の魔法力によってその場所へと移動する物であるのだ。

 故に、移動出来る物量には制限があり、術者の実力によって個人差はあれど、大人数での移動などは、余程の実力者でない限り、不可能に近い。

 

「ここに居る以外にも、仲間達はいる」

 

「そうですか……ですが、こちらも<ルーラ>の術者は、三人いますから」

 

 男の言葉に、一瞬の驚きを示したサラであったが、何も移動呪文を行使出来る人間が一人という訳ではない。

 最悪の場合、メルエにはリーシャを付けるとしても、カミュとサラは単独で<ルーラ>を行使すれば、数十人の移動は不可能ではない。無理をすれば、メルエ一人でも何とか出来る可能性があるのだが、それを強いる気は、全くなかった。

 だが、そんなサラの言葉にも、男は静かに首を横へと振った為、遂にサラの瞳にも揺らぎが生じてしまう。

<デスストーカー>と呼ばれる彼等の心の中に、以前まで自分の中に蠢いていた『憎悪』という感情が残っていると考えてしまったのだ。

 本来、それは当然の事であると共に、誰が否定出来る感情でもない。

 実際に、サラが飲み込まれていたその感情を、カミュ達三人が否定した事は一度たりともない。復讐を向ける相手を庇う事はあっても、サラの中の復讐という憎悪を否定し、弾劾した事はなかった。

 その感情が『人』として間違った物であると言う事など出来る訳がない。むしろ、哀しみや憎しみという負の感情は、『人』であるからこそ湧き上がる物である事を誰よりも知っているのが、サラなのであった。

 

「俺達は、馬車を使って、先にサマンオサ城下町へ向かう。<ラーの鏡>を入手するのなら、少なくとも二日近く時間が掛かる筈だ。アンタ方が<ルーラ>を行使して、サマンオサへ着く頃には、俺達も辿り着ける」

 

「は、はい!」

 

 しかし、眉を下げたサラへ向かって掛けられた言葉は、そんな彼女の考えを一蹴する物であり、『人』の強さを証明する物。

 喜びに打ち震える心を抑え切れず、サラは大きな声で返事を返した。

 彼等は、このサマンオサ大陸で恐れられる、<デスストーカー>と呼ばれる存在。

 カミュ達のような『勇者一行』には届かないまでも、その力は本物であり、並大抵の魔物に屈する事など有り得ない。

 彼等が馬車で移動すると言うのならば、徒歩で三日掛かった距離を、二日足らずで走破出来るだろう。

それだけの力を備えている事は、この洞窟の周辺で朽ち果てる死骸達が雄弁に物語っていた。

 

「では、サマンオサ城下町で」

 

「ああ、待っている」

 

 真っ直ぐに向けられたサラの瞳を、今度は男も真っ直ぐ見つめ返す。

 頷き合った後、サラは振り返る事無く、洞窟の中へと消えて行った。

 暗闇に吸い込まれるように消えて行った四人の若者達の残像を見ていた男は、意を決したように顔を上げ、未だに意識を取り戻さない仲間を揺り起こし、その場を後にする。

 

 過去の英雄達が繋げた想いは、確実に時代を超えて受け継がれていた。

 受け継がれたその想いは、やがて大きな力へと変貌して行く。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

実は、今回の話は、前回のお話にくっ付いていました。
ただ、どうしても長くなってしまうので、二つに分けた次第です。
少し短くなってしまいますが、次話以降は長い話が続きますので、ご容赦を。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ラーの洞窟(サマンオサ南の洞窟)①

 

 

 

 サラが洞窟の中へ入ると、洞窟の入り口付近で、カミュが<たいまつ>へと火を点している最中であった。

 屈み込んで<たいまつ>を置き、それに向けて指を向けているカミュの横で、同じように屈み込んだメルエが<たいまつ>を覗き込んでいる。その姿は親鳥から離れない雛鳥の姿に良く似ており、サラは思わず微笑んでしまった。

 メルエも<たいまつ>に火を点した事はあるが、基本的にその仕事はカミュの役回りである。静かに火が点るのを見守っているメルエは、カミュにじゃれついているようにも見え、暗闇の中で優しい光を湛えていた。

 

「サラも来たな。カミュ、進もう」

 

「ああ」

 

 サラが無事合流した事を確認したリーシャは、<たいまつ>を持って立ち上がったカミュの傍に居るメルエの手を取り、先を促す。

 洞窟内は、何処か神聖な空気が流れているかのように、外の瘴気を遮断していた。

 だが、澄んだ空気の中にも邪気は漂い、洞窟内に魔物が棲み付いている事を明確に示している。それを感じているからこそ、カミュは先頭を歩き、リーシャはメルエの手を握っていたのだ。

 だが、そんな父母のような二人の想いは、幼い少女の予期せぬ行動によって破綻する事となる。

 

「…………はこ…………」

 

「あっ! メルエ!」

 

 洞窟の入口から細い通路を抜けた先には、かなり開けた空間が広がっていた。

 全てを見渡せる程に平坦な空間であった為、その空間に落ちている物が真っ先に目に入る。それは、先頭を歩いていたカミュだけではなく、後方を歩いている三人の女性の瞳にも同様に入り込んで来た。

 そして、それが目に入った途端、幼い少女の瞳は、先程とは全く異なる程に輝き、興奮を抑え切れないかのように、リーシャの手を離して駆け出してしまう。

 以前、あれ程強烈に叱責を受けた事があるにも拘らず、それを完全に忘れてしまったようなメルエの行動に驚愕したリーシャは、制止する機を逸してしまった。

 

「カミュ!」

 

 イシスの歴史的建造物であるピラミッドを探索中に陥った危機を、否が応にも思い出したリーシャは、先頭にいる青年へ叫び声を上げる。

 しかし、リーシャと同様に、予期せぬ行動を起こした少女に戸惑っているカミュは、その小さな身体を制止する事は出来ず、易々と脇をすり抜けられてしまった。

 歴戦の勇士達をすり抜けた少女は、笑みを浮かべながら、地面に転がっている宝箱のような物体へと近付いて行く。

 焦燥感に襲われたのは、カミュとリーシャ。

 しかし、カミュの不甲斐無い姿に不満を口にして駆け出そうとするリーシャの身体を、先程まで静観していた『賢者』の手が制した。

 

「おそらく大丈夫です。メルエ、離れた所から唱えるのですよ!」

 

 ゆっくりと前へ出て来たサラの言葉に目を見開いたリーシャは、前方で振り返り様に頷くメルエの姿を見て、小さく首を捻る。カミュも同様で、駆け出そうとしていた身体を無理やり制御し、疑惑の瞳をサラへと向けた。

 しかし、メルエの背中を見守るサラの瞳に、恐怖や焦りはない。

 メルエの身の安全を絶対的に信じている瞳は、カミュとリーシャの心に、不安や疑問よりも興味を齎した。

 

「…………インパス…………」

 

 宝箱のような箱からある程度の距離を残し、メルエが<雷の杖>を掲げる。

 宝箱とメルエとの距離は、カミュ達とメルエとの距離よりも離れていた。

 それは、万が一の事があっても、カミュ達が即座に行動に移れば、難を逃れる事の出来る距離。それを理解したからこそ、カミュ達も何も言わずにメルエの行動を見つめる事にしたのだ。

 メルエが掲げた杖の先にあるオブジェの瞳が光り、魔法力の塊が吐き出される。

 吐き出された魔法力の塊は、前方に放置されていた宝箱に直撃するが、箱を破壊する事無く、その物を包み込むように広がりを見せた。

 

「メルエ、何色ですか!?」

 

「…………あお…………」

 

 その光景に言葉もなく呆然とする保護者二人を差し置いて、サラが前方のメルエに声を掛ける。その言葉の内容も、カミュやリーシャには全く理解出来ない物であり、二人は顔を見合せて、サラへ振り返る事しか出来なかった。

 だが、そんな二人の困惑を余所に、振り向いたメルエは明るい笑みを浮かべて、サラの問いに答える。そして、その答えを聞いたサラは、メルエに向かって小さく頷きを返した。

 

「お、おい! 勝手に開けては……」

 

「大丈夫です。メルエの行使した呪文によって、青色に発光したのであれば、危険はありません」

 

 サラの頷きを見たメルエは、そのまま宝箱へと近付き、その箱へと手を掛けようとする。驚いたリーシャが、制止しようと声を出すが、その言葉はサラによって遮られた。

 サラの言葉通り、何の抵抗もなく箱を開けたメルエは、中を覗き込み、その小さな手を箱の中へと差し込んで行く。

 このパーティーの頭脳であるサラを信じてはいても、やはり不安は拭えないリーシャは、メルエの傍へと駆け寄って行き、メルエが箱から取り出した物へと視線を向けた。

 

「…………ん…………」

 

「あ、ああ……これは、ゴールドか?」

 

 自分の傍へと駆け寄って来たリーシャに気付いたメルエは、箱から取り出した物を両手に乗せ、そのままリーシャへと差し出す。拍子抜けしながらもリーシャが受け取った物は、輝きを失い、くすんだ色にはなっているが、この世界に流通する貨幣である、ゴールドに違いはなかった。

 それ程の額ではない事から、既に誰かによって盗み出された物なのかもしれない。もしかすると、洞窟の外で出会った<デスストーカー>達の蓄えの一つなのかもしれないが、その真意はカミュ達には理解出来ない物であった。

 

「…………インパス…………」

 

 僅かなゴールドをリーシャに手渡すと、その場所から少し先に見える次の宝箱へ向かって、メルエは再び呪文を行使し始める。

 先程と同様に杖から飛び出した魔法力の塊は、先に見える宝箱を包み込み、不思議な輝きを放つ。その色を確認したであろうメルエは、即座に宝箱へと近付き、何の躊躇いもなく箱を開けて行った。

 未だに、何が何やら理解出来ないカミュとリーシャだけが、状況から取り残されて行く。そんな二人に苦笑を浮かべたサラは、宝箱を覗き込み、手を差し入れているメルエの傍へと、ゆっくり近づいて行った。

 

「…………ん…………」

 

「あ、ああ……ありがとう」

 

 今度は貴方へと云わんばかりに、カミュへと差し出されたメルエの両手の上には、先程とほぼ同額のゴールドが乗っている。戸惑い気味のカミュの掌へと落とされたゴールドが乾いた音を立てる中、傍に立っていたサラが小さな笑みを浮かべながらカミュの耳許へと口を寄せた。

 何故か、小さなお礼を述べたカミュを見上げるメルエの瞳が不満そうな光を宿し、心なしか頬を膨らませている事が、それが正しい見解である事を示している。

 

「カミュ様……メルエは、自分で危険かそうでないかを見極め、宝を発見した事を褒めて欲しいのです。あの時の失敗はもうしないという、メルエなりの自信の表れなんですよ」

 

 耳元で囁かれた小さな言葉は、今のメルエの心情を正確に表現しているのだろう。小さな胸を張り、自信満々にゴールドを手渡していたメルエの姿を思い出したカミュは、小さな苦笑を浮かべ、少女の頭に手を差し伸べた。

 帽子を取り、その柔らかな髪の上に乗せ、優しく動かされた手を満足そうに受け入れたメルエは、嬉しそうに目を細め、柔らかな笑みを浮かべる。

 カミュに引き続き、リーシャの手も受け入れたメルエは、満面の笑みを浮かべ、次の宝箱へと杖を掲げた。

 

「しかし、サラ……あのように、何度も呪文を唱えてしまっていても大丈夫なのか?」

 

「あの呪文は、魔法力を多く必要とはしません。自身の中にある魔法力を、ほんの少し分け与えるような物です。メルエの魔法力の保有量から見れば、それは微々たる物です」

 

 再び魔法力を宝箱へ飛ばすメルエの後ろ姿を見ながら、その身を案じたリーシャの不安は、サラによって否定された。

 確かに、メルエの保有する魔法力は、今や『賢者』となったサラであっても、足下にも及ばない程の物であり、強力な攻撃呪文を乱発しない限り、底を突く事はないだろう。

 第一に、これから洞窟内を探索するという時に、魔法力が枯渇する危険がある行為を、サラが許す訳はない。それでも尚、幼い少女の身を案じるリーシャという女性は、本当に母親のような感情を有しているのかもしれない。

 

「そもそも原理は何だ?」

 

「原理は解りませんが、『悟りの書』に記載されている呪文の一つで、密閉された箱のような物の中に、害意を持つ生命体がいると赤色に発光させ、無機物であれば青色に発光させるという物のようです」

 

 前方で箱へ手を差し入れているメルエの姿を眺めながら、カミュが一つ疑問を口にする。しかし、それに対しての明確な解答を得る事は出来なかった。

 『悟りの書』と呼ばれる、古の賢者が残した遺産の中には、その原理の解らない呪文が数多く記されている。本来、呪文を唱え、魔法を体現するという行為自体が、原理の理解出来ない物であるからこそ、それは神秘と呼ばれているのだ。

 つまり、カミュの問いかけこそが、何処かずれた物であるとも言えるだろう。

 それ程、彼も困惑していたのだ。

 

「害意の無い生命体が入っていた場合は、黄色に発光する事もあるそうです」

 

「何にせよ、メルエの行動を制限出来なくなる、少し厄介な呪文ではあるな」

 

 付け加えるように口を開くサラの言葉を上の空で聞いていたリーシャは、困ったように眉を下げ、小さな溜息を吐き出した。

 カミュ達と出会い、己の知らなかった世界に飛び出した少女は、信頼出来る保護者を得て、好奇心という本来の子供らしさを取り戻している。

 その背中には、この広い世界を飛び回る為の翼が小さく生え始めており、上手く制御しなければ、何の恐れも抱かずに大空へと舞い上がってしまうだろう。

 妹のように、そして娘のように彼女を想っているリーシャにとって、彼女が大空へと飛ぶ日を心待ちにしている反面、それに対する不安と、寂しさも持ち合わせているのだ。

 そんなリーシャの本心に気付いているサラは、柔らかな笑みを浮かべて、戻って来る少女へと視線を移した。

 

 

 

 その後も、まるで洞窟に入った人間を誘い込むように配置された宝箱へ向かってメルエは<インパス>を唱え続け、その中に入っていたささやかな宝物をカミュやリーシャへと手渡して行った。

 開けた空間の右壁に沿うように配置されていた宝箱は、そのまま奥の通路を右へと曲がり、更に右に曲がる事によって小さな空間へと向かっている。

 サラの言い付け通り、少し離れた場所から呪文を行使していたメルエであったが、その魔法力が発する輝きが、安全を示す青である事に何の疑いも覚えず、次々と宝箱を開けて行った。

 

「メルエ、そこまでです」

 

 しかし、箱の中身を手渡す度に頭を撫でられ、満面の笑みを作りながら呪文を詠唱する幼い『魔法使い』の行動は、狭い空間へ入る直前に遮られる。

 何時の間にかメルエのすぐ後ろに立ったサラは、狭い部屋のような空間へ入ろうとする彼女の肩に手を置き、中へ入る事を制止したのだった。

 洞窟内の通路は、カミュの持つ<たいまつ>と、リーシャの持つ<たいまつ>によって、明るく照らし出されてはいるが、突き当たりに位置するような空間は、闇に覆われている。

 それは、まるで何の疑いも持たずに、嬉々として入って来る旅人達を飲み込もうと口を開いた化け物のようであった。

 

「リーシャさん、<たいまつ>をこちらに向けて頂けませんか?」

 

「わかった」

 

 自分の後方に居るリーシャに声を掛けたサラは、<たいまつ>の炎によって映し出された闇の空間へと目を凝らす。

 サラよりも少し前へと出たリーシャは、ゆっくりと狭い空間へ<たいまつ>を動かし、闇を払って行った。

 サラの腰の横から覗き込むように顔を出したメルエも、中の様子が炎によって明らかになるのを確認して行く。

 

「…………はこ…………」

 

「メルエ、駄目です!」

 

 照らし出された空間の中には、メルエが口にするように、先程と同様の宝箱が転がっていた。

 その数は、全てで四つ。

 静かに佇むその箱を視界に捉えたメルエは、嬉々として前へ出ようとするが、その行動は、またしてもサラによって制止される。

 不満そうに頬を膨らませて見上げるメルエの瞳に、厳しい表情に引き締めたサラの顔を映り込み、その表情を見たメルエは、不満を抑えるように、小首を傾げた。

 

「……血の匂いだな……」

 

「そうだな……」

 

「インパス」

 

 小首を傾げるメルエの肩に手を置いたカミュが、闇へと身体を入れ込み、その中に漂う嗅ぎ慣れた臭いに顔を顰める。

 同様の臭いを感じていたリーシャも、即座にその言葉に頷きを返し、二人の言葉を聞き終えたサラは、右手を横へ薙ぎ振るように呪文を詠唱した。

 メルエの唱える<インパス>とは異なり、サラは小分けにした自身の魔法力を四つの宝箱へ向かって投げつける。

 四つに分断された魔法力は、寸分の狂いもなく宝箱へ直撃し、不可思議な光で包み込んで行った。

 

 元来、サラとメルエの呪文行使には、決定的な違いがある。

 それは、単純な魔法力の絶対量の違いが一つ。

 そして、もう一つは、その魔法力の扱い方にあった。

 人外と言っても過言ではない程の保有量を有するメルエは、その魔法力の量によって全てを補うだけの素質と、才能がある。

 逆に、人類の頂点に立つ『賢者』となったサラは、元々魔法力の調節に秀でた才能を有していた。

 もし、このパーティーに、メルエという規格外の『魔法使い』が存在しなければ、サラもまた、人類最高の呪文の使い手として、自身の中に眠る魔法力の量で勝負していたかもしれない。

 『賢者』となったサラには、それだけの魔法力の量と素質があった。

 だが、それも人類という枠の中ではという話である。

 『人』という種族の中で、サラが敵わない相手は、傍で不思議そうに首を傾げている幼い少女だけなのだ。

 

「赤ですね……おそらく、宝箱に擬態した魔物でしょう」

 

「凄いな……そこまで解るのか……」

 

<インパス>

『悟りの書』という古の賢者が書き残した書物の中に契約方法が記された呪文の一つ。密閉された宝箱などに自身の魔法力をぶつける事によって、その中身の危険性を図る魔法である。危険性が無い物であれば、それは青色に輝き、危険な物であれば、赤色へと変化すると記されていた。呪文の術者の魔法力によって反応を示す為、術者にしか色は確認が取れないという欠点はあるが、<人喰い箱>や<ミミック>が蔓延る洞窟などでは、かなり重宝される呪文の一つである。

 

 サラは、全ての宝箱が赤色に発光している事を確認し、そのまま踵を返した。

 目の前にある宝箱に未練が残るメルエは、奥にある宝箱へ向かって、もう一度自身の魔法力を宝箱へと投げつけ、その色を確認する。そんなメルエの行動をサラも止める事はしなかった。

 そして、聞き分けのない幼い少女にも、その宝箱が発する色が確認できたのだろう。目に見える程の落胆を身体全体で表現したメルエは、差し出されたサラの手を握り、共に元来た道を引き返し始めた。

 もはや、何が何やら理解が追い付かないのは、カミュとリーシャの二人だけである。

彼らとて、共に旅する呪文の使い手達が生み出す神秘を何度も見て来た。

 だが、今見ているのは、二人が投げつけた魔法力でぼんやりと輝く宝箱の姿だけなのだ。

 それで全てを理解出来るのは、『賢者』と『魔法使い』の二人だけなのかもしれない。

 

「カミュ……古の賢者とは、余程の者達なのだろうな」

 

「それこそ、今更の話だな……」

 

 もう一度闇の中へと<たいまつ>を向けたリーシャは、小さな呟きを洩らした。

 古の賢者という存在が、只者ではない事など、疾うの昔にリーシャも理解している筈。

 それでも尚、リーシャの考えている神秘という枠を飛び出してしまう程の光景であったのだろう。

 それはカミュも同様で、溜息と共に吐き出された言葉とは裏腹に、リーシャに向かって小さな苦笑を浮かべている。

 その表情が、とても優しく、とても静かな物に感じたリーシャは、呪文の使い手である二人の成長を素直に喜ぼうと思い直し、カミュに対して柔らかな笑みを浮かべた。

 

 

 

 元の開けた場所へ戻った一行は、再び<たいまつ>を掲げながら周囲の探索を開始する。

 先頭をカミュが歩き、サラがメルエと手を繋ぎ、最後尾をリーシャが歩く。

 前と後で灯された<たいまつ>が、一行の周囲を広く照らし出され、視界を広くしていた。

 中央に出る前に、右側に壁を確認しながら、広間の外周を確認して行く方法を取った一行は、ゆっくりとした足取りで先へと歩いて行く。

 

「…………ほね…………」

 

「えっ!?」

 

 そんな中、壁側を歩いていたメルエが、足下に何かを見つけ、繋いでいたサラの手を引いた。

 突如引かれた腕に驚いたサラは声を上げ、メルエが指さす方向へと視線を移す。そこには、朽ち果て、肉や皮も失った骨が幾つも転がっていた。

 一体の遺体ではないだろう。

 数体の遺体が折り重なるように骨となり、寂しげに転がっている。

 兜のような物を被ったまま骨となった頭蓋骨や、その傍に転がる無数の剣などから、この遺骸達がサマンオサの兵士の可能性が伺えた。

 

「何故、このような場所に兵士達が……」

 

「まだ新しい死骸のようだが」

 

 何故、サマンオサの兵士がこの場所で朽ち果てているのか。

 剣の状態や兜の状態から見ると、とても骨にまで朽ち果てる程の時間が経過しているとは思えない。

 考えられるのは、この洞窟に棲み付く魔物との戦闘で命を落とし、その魔物達に血肉を喰われたのだろうという事。

 それでも、元英雄の部下達が守護していた洞窟へ入るという事は、それなりの目的があったと推測出来る。

 誰かの指示であったのか、それとも元英雄の部下達の仲間なのか。

 今の現状では、それを推測する事が出来る程の情報はなかった。

 

「…………だめ…………」

 

「カミュ!」

 

 もう一度確認しようと近付いたカミュの行動を幼い少女が窘める。

 その小さな呟きが響いた時、最後尾に居た女性戦士が声を発して飛び出した。

 横合いから飛び出した何かが、突如としてカミュへと襲いかかり、その首筋を狙って振るわれたのだ。

 それは地面に散らばった無数の剣の一つ。

 そして、その剣を振るのは、無数に散らばる骨の一つ。

 

「くっ……」

 

「やぁぁぁ!」

 

 リーシャの叫びで、咄嗟に行動に移したカミュは、間一髪の隙間に盾を滑り込ませる。

軋むような音が、振るわれた剣の力強さを物語っていた。

 苦悶の声を上げるカミュの横から躍り出たリーシャは、手にした<バトルアックス>を横へと振り抜くのだが、それは虚空を斬るように何も斬り裂く事はない。

 剣を振るった者は、虚空に浮かぶ骨の一部だけ。

 斬る物が無い以上、例え人類最強の戦士といえど、攻撃は不可能であった。

 

「メルエ、下がって」

 

 態勢を立て直す為に距離を取った一行は、<たいまつ>の炎に照らされて蠢く人骨の動きに息を飲み込む。

 近場の壁に取り付けられた燭台のような場所に<たいまつ>を差し込んだカミュは、そのまま背中の剣を抜き放ち、リーシャもまた、後方に控えるサラへと<たいまつ>を手渡した。

 蠢く人骨は、徐々にその身体を作り上げて行き、生ある時の面影を取り戻して行く。

 原型を留めている物だけが集まり、寄せ集めのように人の形を成して行くそれは、もはや魔物と呼ぶに相応しいだろう。

 寄せ集めの身体は、徐々に人の姿とは掛け離れて行き、原型を残す腕の部分を多数引き寄せ、数本の腕を持つ異形へと変貌して行った。

 腕の合計数は、全部で六本。

 左右対称に三本ずつの腕は、それぞれ剣を握り込んでいる。

 

<骸骨剣士>

アンデッドの魔物の中でも強力な種族の一つ。死して尚、無念を残した遺骸が魔王の魔力によって蘇った魔物である。<腐った死体>等とは異なり、血肉を残していない骸骨が寄り集まり、一体の生物としての姿を形取った。不揃いのように見える骨だが、形を形成した後、魔王の魔力によって馴染む事で<骸骨剣士>としての身体となって行く。剣士の名に相応しく、生前の記憶を持つ様々な腕を持つ事から、剣の腕も相応の物を持っていた。

 

「ちっ」

 

 形を形成し終えた一体の<骸骨剣士>の後方で蠢く骨達を見たカミュは、大きな舌打ちを鳴らす。

 それは、この他にも数体の<骸骨剣士>が形成されるという事を示していた。

 原型を留めている骨の数から見れば、もう二体の<骸骨剣士>が出来上がると予想が出来る。

 その全ての腕を数えると、全てで十八本にもなっていた。

 カミュ達全員の腕を数えても、倍以上の数になるのだ。

 

「骸骨が相手では、私やメルエの呪文はそれ程効果を示さないと思います」

 

「しかし……いつも思うが、サラの中で、骸骨と幽霊の違いは何なんだ?」

 

 三体目の<骸骨剣士>が形成されるまで、カミュ達は何も出来なかった。

 正確に言えば、何かをする事によって、不測の事態が起きる事を嫌ったのだ。

 故に、最後の<骸骨剣士>が散乱する剣を手にしたのを見て、サラは正確に状況を把握し、それを前衛二人に伝えるのだが、その言葉を聞いたリーシャは場違いであり、見当違いな疑問を口にしてしまう。

 リーシャの目から見ても、死者の姿である骸骨が勝手に動き、身体を形成する姿は、気味の悪い物に違いはない。サラ程に闇を恐れ、霊的な物を恐れる事はないが、それでも、<腐った死体>のような腐乱死体や、目の前の動く骸骨を気味が悪いと感じる心はあるのだ。

 そんなリーシャからすれば、幽霊のように透き通った存在に対して異常な程の恐怖を感じるサラが、動く骸骨を前にして冷静でいる事は奇妙な事なのかもしれない。

 

「無駄話は後だ」

 

「わかっている!」

 

 サラとメルエの放つ神秘の効果が薄いと解った以上、攻撃の主力は、前衛で武器を振るうカミュとリーシャである。

 それを理解している二人だからこそ、カミュはリーシャを窘め、窘められた彼女は、恥ずかしそうに声を荒げた。

 戦闘準備は、双方共に整った。

 残るは、動き出す切っ掛けだけである。

 双方共に動けない時間が過ぎて行く。

 歴戦の勇士であるカミュとリーシャが動けないのだ。

 それは、この三体の<骸骨剣士>の力量を明確に物語っていた。

 

「メルエ、イオ系は駄目ですよ!」

 

 黙っている事が出来なくなったメルエが身動きを始めた事に対するサラの発言が、その均衡を破る形となる。

 最初に動いたのは、一体の<骸骨剣士>。

 右側にある三つの腕の一つをカミュ目掛けて突き出した。

 未だに朽ちてから新しい剣は、刀身に錆なども浮かんでおらず、人間の肉を突き刺す事など容易である。燭台に掲げられた<たいまつ>の炎によって怪しく輝く剣は、真っ直ぐにカミュの胸へと吸い込まれようとしていた。

 

「ちっ」

 

 しかし、その動きを見切っていたカミュは、僅かな動きで剣先を避け、返す剣でその腕を斬り落そうとするが、直後に盛大な舌打ちを鳴らし、盾を掲げる。

 竜の鱗と金属がぶつかる奇妙な音を立てた盾には、<骸骨剣士>の他の腕が握る剣が襲い掛かっていた。

 片側の腕だけでも、これだけの攻撃が為されるのだ。

 両側の腕を使用した場合、カミュでは捌き切れない可能性を示唆している。

 それが三体となれば、それ以上の厳しさになる筈。

 

「くらえ!」

 

 嫌な汗がカミュの頬を伝った時、横合いから繰り出された<バトルアックス>と呼ばれる斧が、<骸骨剣士>の首へと吸い込まれた。

 轟音を響かせて振り抜かれた斧は、<骸骨剣士>の頭部を斬り落とす。

 斬られた勢いをそのままに、兜を被った頭蓋骨は、壁へ吹き飛び、砕け散った。

 

「リーシャさん!」

 

 しかし、元々正規の命を持たないアンデッドである<骸骨剣士>が、首が無くなった程度で活動を停止させる訳がない。

 首から上を失くしながらも、六本ある腕を奇妙に使いながら、リーシャへと襲い掛かって行った。

 助けに向かおうと動いたカミュは、新たに参戦した<骸骨剣士>によって、その行動を妨げられる。

 人型の魔物にここまで苦しめられた事は彼等にもなかった。

 ここまで遭遇した魔物の中で、異形をした物がいなかった訳ではない。

 だが、攻撃手段が無数もある魔物となれば、カミュ達よりも体格が巨大な物ばかりであったのだ。

 

「…………メラミ…………」

 

 そのような巨大な魔物達と戦って来たのは、何もカミュやリーシャだけではない。

 常に彼等二人の後方には、彼等を援護する為に控えている者達がいた。

 この世の神秘とも言える魔法を操り、様々な危機を好機へと変えて来たのは、後方で控えていた者達であるのだ。

 <雷の杖>という名の大きな杖を前へと突き出し、呟くような詠唱を発したメルエの魔法力が、神秘へと変換されて行く。

 飛び出した大きな火球は、リーシャに向かって三本の腕を同時に振り下ろそうとしていた<骸骨剣士>に向かって走り、その胴体を吹き飛ばした。

 

「やぁぁぁ!」

 

「メラミ」

 

 メルエの呪文によって壁に身体を打ち付けた<骸骨剣士>へ、リーシャが追撃の雄叫びを上げるのと同時に、もう一人の後方支援組が呪文の詠唱を行う。

 残るもう一体が、<バトルアックス>を振り上げたリーシャを攻撃しようと動いたのだが、サラの指先から飛び出した火球がその身体を押し返した。

 メルエの唱えた同呪文のように、<骸骨剣士>の身体を吹き飛ばす程の威力はないが、<骸骨剣士>の腕の骨数本を溶解させるだけの熱量を誇っている<メラミ>は、リーシャに向かって振り上げていた二本の腕を根元から崩壊させる。

 サラの援護を受けたリーシャは、<骸骨剣士>の首筋部分から叩き割るように斧を振り下ろした。

 

「キシャァァ」

 

 既に奇声を上げる器官も存在しない<骸骨剣士>は、骨が軋むような音を立てて、その場に崩れ落ちる。

 メルエの唱えた<メラミ>によって、胴体の一部が融解していた<骸骨剣士>には、立っている事が出来る程の余力は残っていなかった。

 粉々に粉砕された<骸骨剣士>に見向きもせず、リーシャはサラの呪文で踏鞴を踏んだもう一体に向かって駆け出して行く。

 その間にカミュは六本の腕を搔い潜りながら、一体との戦闘を終結させようとしていた。

 

「ふん!」

 

 盾と剣で捌き続けて来たカミュは、既に六本あった腕の骨の内三本を砕いている。

 残る三本の腕であれば、それ程苦労する事はない。

 それだけ、カミュという『勇者』の力量も上がっているという事なのだ。

 二本同時の攻撃を<ドラゴンシールド>で防いだカミュは、下段から<草薙剣>を<骸骨剣士>へと突き入れる。

 元々血肉が無い<骸骨剣士>の身体に剣を突き入れても、骨と骨との隙間に剣が入り込むだけの結果しか生まれないのだが、それこそが彼の狙いでもあった。

 力を込める声を発して、剣を上へと突き上げる。

 剣は、腹部の隙間から、原型を留めている肋骨を砕きながら頭蓋骨へと真っ直ぐに突き上げられた。

 

「最後だ」

 

 首筋から抜けた剣を構え直したカミュは、そのまま<骸骨剣士>の頭蓋骨へと剣を振り下ろす。

 先程の攻撃によって兜を落してしまっていた魔物の頭部に、斜めの軌道で入った剣は、そのまま頭蓋骨を半分に叩き割って行った。

 身体の砕かれ、頭蓋骨も叩き割られた<骸骨剣士>は、空洞となっていた眼球部分の怪しい光を失って行く。そして、そのまま静かに崩れ落ちて行った。

 

「リーシャさん、下がって!」

 

 一仕事を終えたカミュが、崩れ落ちた<骸骨剣士>の残骸を見ながら息を整えていると、後方から厳しい叫びが轟いた。

 既に一体を倒し終えたリーシャが斧を持って、残る一体へと駆け出した瞬間、その<骸骨剣士>は、頭蓋骨の下顎を動かし、まるで口を大きく開けるような仕草をしたのだ。

 それが何を示しているのかを理解出来る者など存在しない。

 声を上げたサラであっても、振り返ったカミュであっても、目の前まで身体を動かしたリーシャであってもだ。

 

「どけ!」

 

 だが、何を示しているのかは解らずとも、何かを行おうとする行動である事だけは理解出来る。

 そして、僅かな時間ではあるが身体を硬直させてしまったリーシャとは異なり、カミュの行動は迅速であった。

 即座に駆け出したカミュは、<骸骨剣士>の目の前に移動していたリーシャを吹き飛ばし、その間に滑り込む。それを待って行ったかのように、<骸骨剣士>の眼球の窪みが怪しい光を宿し始めた。

 

「メルエ、牽制の為に呪文の行使を!」

 

「…………ん…………」

 

 攻撃呪文の行使のように周囲の大気に歪みが生じた訳ではない。

 熱気に包まれる訳でもなく、冷気によって一気に体感温度が下がる訳でもない。

 もし、呪文の行使であったのならば、受けたカミュだけが何らかの影響を受けた可能性があるのだが、サラが見る限り、カミュが正気を失っているようには見えず、眠りに落ちているようにも見えなかった。

 得体も知れぬ行動を取った<骸骨剣士>に無暗に近付く事は危険を意味する。

 故に、サラは牽制を行い、<骸骨剣士>から距離を取る方法を取ったのだ。

 

「…………ヒャダルコ…………」

 

 広い空間であったが、洞窟内で灼熱呪文を唱える危険性を把握したメルエは、自身が行使出来る氷結呪文の中でも中間に位置する威力を持つ呪文を行使する。

 吹き抜ける冷気がカミュの脇をすり抜け、カミュの持つ盾と左腕の一部に氷を付着させながら、<骸骨剣士>へと襲い掛かった。

 カミュが<骸骨剣士>とメルエの対角線上に居た事で、メルエは<ヒャダルコ>を選択したのだろう。しかも、その威力は、メルエの放つ氷結呪文としては威力を最小限にまで抑えた物である。

 故にこそ、カミュの身体を凍りつかせる事はなかったが、それは敵である<骸骨剣士>も同様であった。

 元々血肉の無い身体である為、<腐った死体>のように身体が凍りつくという感覚はないのだろう。骨同士の軋みが酷くなり、動き辛くなったという程度の物であったのかもしれない。

 それは、致命的な物だった。

 

「カミュ様、一端引いて……」

 

「ぐっ」

 

 <ヒャダルコ>の冷気によって、視界に曇りが生じていた一行は、<骸骨剣士>の動きを認識する事は出来なかった。

 態勢を整える為に退く事を提案するサラの声は途中で遮られ、代わりに先程前線に躍り出た青年の苦悶の声が響き渡る。

 

「カミュ!」

 

「リーシャさん、カミュ様をこちらへ! メルエ、もう一度<メラミ>を!」

 

 取り戻す視界の中、リーシャとサラの目には、数本の剣に胴体を貫かれたカミュの姿が映り込む。

 <骸骨剣士>の持つ六本の腕の半数が、カミュの胴を護っている<魔法の鎧>に向かって伸び、その手にある剣が<魔法の鎧>を貫き通し、反対側の背中から顔を出していた。

 即座に引き抜かれた剣に続き、真っ赤な血潮が弾け飛ぶ。

 <魔法の鎧>に空けられた穴から噴き出す血液が三人の視界を覆う中、崩れるようにカミュが膝を着く。

 状況を正確に把握してからのサラの指示は早かった。

 カミュに最も近い場所に居るリーシャへと指示を出し、後方に控えるメルエに呪文の行使を命じる。

 小さく頷きを返した『魔法使い』の瞳に宿るのは、怒りの炎。

 大事な者を傷つける者に対しての明確な怒りは、先程まで巧みに制御していた魔法力を解放させた。

 

「…………メラミ…………」

 

 飛び出した火球は、その大きさも然る事ながら、その熱量の密度は、周囲の空気を全て失わせる程の物であった。

 一気に息苦しくなる感覚を覚えながらも、膝を着きながらも倒れようとはしないカミュを担いだリーシャは、一気に真横へと飛ぶ。

 リーシャとカミュの移動を待っていた火球は、その速度を早め、剣を構える骸骨へと向かって行った。

 先程の氷結呪文を受け、凍り付いていた骨は、真逆の熱量を受け、一気に崩壊へと向かって行く。

 避けるには余りにも大きく、弾き返すには圧倒的に熱量の密度が濃い。

 成す術なく火球に呑み込まれた<骸骨剣士>は、断末魔を上げる器官も持たない為、静かに壁の滲みへと堕ちて行った。

 

「ベホイミ!」

 

 既に、メルエの魔法力を感じていたサラは、<骸骨剣士>の反撃など心配してはいない。今のメルエならば、周囲の被害を考えながらも確実に相手を沈める能力があると理解しているからだ。

 当初は、骨である<骸骨剣士>に魔法という神秘は効果が薄いと考えていたサラであったが、<メラミ>の行使により、それが間違いであった事を理解していた。

 故に、即座にカミュへと近付き、自身の持つ最高の回復呪文を唱えるのだが、<魔法の鎧>に空いた穴から溢れ出す血液は、すぐには止まらない。

 苦しそうに顔を歪めながらも意識を失わないカミュであったが、見た目以上の深手である事は、淡い緑色の光に包まれながらも塞がらない傷跡が物語っていた。

 

「…………カミュ…………」

 

「あれは、防御力を下げる呪文だったのか?」

 

「おそらくは<ルカナン>かと……ベホイミ!」

 

 全ての<骸骨剣士>を倒し終え、最後の一体を壁の滲みへと変えたメルエが、不安そうに眉を下げながら近寄って来る。

 リーシャの考え通り、防御力の高い筈の<魔法の鎧>を容易く突き破るほど、<骸骨剣士>の持っていた剣が名剣だとは思えない以上、それは呪文の効力を受けた結果だという結論に至った。

 そして、それは『賢者』であるサラによって肯定される。

 二度目となる<ベホイミ>の行使によって、辛うじて塞がり始めた傷跡を見るサラの瞳は険しい。その瞳は、リーシャやメルエが見る物とは異なる物を見ているのかもしれない。

 

「やはり……ここから先の旅では……」

 

 塞がって行く傷跡を見つめながら、小さな呟きを洩らしたサラは、もう一度<ベホイミ>を詠唱する事によって、カミュの傷を完全に癒し終えた。

 痛みがなくなった事によって、カミュの表情も和らぎ、それを見たメルエの顔にも笑みが浮かぶ。

 立ち上がったカミュを見て、リーシャも満足そうに微笑み、最悪の状況から回復させた功労者へと視線を落とすのだが、肝心の女性は、未だに何かを思いつめたように自身の掌を見つめていた。

 

「サラ、どうした?」

 

「ふぇ!? い、いえ、大丈夫です。カミュ様、身体の傷は癒えましたが、鎧の傷は直す事が出来ません。新しい鎧を買い替える事は出来ませんので、注意なさってください」

 

「ああ……助かった。鎧の穴もそれほど大きくはない。すぐに買い替える必要もないだろう」

 

 不審に思ったリーシャの声に大袈裟に反応したサラであったが、即座に意識を切り替え、立ち上がって身体の具合を確かめているカミュへと注意を促す。

 サラへ軽く頭を下げたカミュは、鎧に空いた三つ程の穴に指を這わせ、鎧の具合も確かめるが、確かに鎧という機能を全て失っているような物ではなかった。

 <ルカナン>という防御力低下の呪文の影響を受けていた<魔法の鎧>ではあるが、術者の崩壊によって、今はその防御力も許へと戻っている。

 防御力が低下した所を一突きに突かれた事が幸いしたのだろう。剣の刃の幅程の穴であれば、それ程大きくはない。更に言えば、<骸骨剣士>が所持していた剣は、カミュの持つ<草薙剣>のような刀身の幅の広い物ではなく、アリアハンを出る時にカミュやリーシャが持っていたような細身の物であった事が幸いしていた。

 

「探索を続ける」

 

「大丈夫か? 血液の回復も万全ではないだろう?」

 

 <ベホイミ>という回復呪文は万能ではない。

 どれ程に大きな傷も、それを塞ぎ、癒す事は出来る。

 だが、その者の身体で生成される血液までを増やす事は出来ない。

 大怪我を負った者を回復させる事は出来ても、即座に戦線へ戻す事は不可能なのだ。

 それが、<ベホイミ>という『教典』に記載された『僧侶』の呪文の限界なのであろう。

 

「悠長に事を構えている時間はない筈だ」

 

「そ、それはそうだが……」

 

 リーシャの心配を冷静に斬り捨てるカミュの言葉は、この場に居る誰もが理解している事であった。

 現状のサマンオサ国は、何時如何なる時に消滅してしまっても可笑しくはないのだ。

 それは、国民の不満が原因であったりするのではなく、国民自体が国から消滅してしまう程の危機である。それを彼等は、その場で見て来ていた。

 それでも、何故かリーシャは不満であった。

 カミュという人物が『勇者』であると最も信じているのは、今となってはこの女性戦士であろう。

 アリアハンを出た頃は、この青年を『勇者』と認めるどころか、英雄として名高いオルテガの息子である事さえ認めてはいなかった。

 だが、四年近くにもなる旅の中で、その存在の大きさ、その在り方、そしてその心根の優しさを知った彼女は、カミュこそが『勇者』であると信じ始め、今では盲信と言っても過言ではない程に、彼を信じている。

 だからこそ、『勇者』でなければどうする事も出来ないサマンオサの状況を知ってはいても、その為に己を犠牲にしようとする青年を許す事は出来なかった。

 

「やはり駄目だ。暫し、この場所で休む」

 

「え?」

 

 先程の戦闘場所から少し歩いた場所で、その想いは噴き出した。

 それは、毅然として先頭を歩くカミュの背中が、微かに揺れた事を確認したからに他ならない。

 最後尾から大きな声を発したリーシャに、サラは驚きの声を上げるというよりも、意外過ぎる言葉に放心したような声を発した。

 以前使った残りである少量の薪を取り出したリーシャは、そのまま地面に撒き、それに<たいまつ>から炎を移して行く。赤々と燃え上った焚き火に歩みを止めてしまったカミュとサラであったが、その場に座り込んだリーシャを見たメルエは、嬉々としてその膝の上へと移動してしまった。

 

「リーシャさん?」

 

「この洞窟も何があるか解らない。どれ程に深い物なのか、何処に<ラーの鏡>という物があるのかもな……だからこそ、カミュが万全でなければ、サマンオサへ戻る事さえも危ういと私は思う」

 

 もはや座り込んでしまったリーシャは、サラの言葉も受け付けようとはしない。

 既にメルエは、膝の上でリーシャの胸にもたれかかり、瞼を閉じ始めていた。

 リーシャの言葉には理解出来ない部分がある訳ではなく、むしろ一理も二理もある物である。

 戦闘での核も、謎解きでの核も、カミュではないかもしれない。

 最近の戦闘で全体を見通しているのはサラという『賢者』である事は、全体の認識であるし、謎解き等で頭脳を発揮するのもサラである。

 それでも、このパーティーの全員の総意として、核はカミュだという認識もあるのだ。

 この個性的な四人の心を一つにしているのは、眠りに落ちそうになっている幼いメルエであるだろうし、一つになった心の機微を感じ、それらが離れないように纏めているのは、リーシャという核であろう。そして、纏まった四つの心を制しているのは、サラという核なのかもしれない。

 それでも尚、このパーティーがパーティーとして成り立っているのは、カミュという『勇者』の存在があったればこそであると、リーシャもサラも、そして幼いメルエも胸を張って言うに違いない。

 

「そうですね……確かに、私達は必ず<ラーの鏡>を持ち帰らなければなりません」

 

「ああ。持ち帰った後も何があるか解らない以上、万全で挑む必要があるだろう」

 

 サマンオサの状況は理解しているし、それが一刻を争う事である事も承知している。

 それでも、サラは笑顔で納得し、リーシャの横へ座り込んだ。

 一刻を争う程に緊迫しているサマンオサ国ではあるが、それを立て直すためには<ラーの鏡>という物が絶対的に必要である事に違いはない。

 そして、それを手に入れる為にも、その後の壁を越えて行く為にも、カミュという人物は絶対不可欠な存在なのだ。

 既に眠りに落ちてしまったメルエの髪を梳きながら、リーシャはカミュが座るのを促す。

 

「わかった……だが、それ程時間が取れないのも事実だ」

 

「ああ……短い時間でも良い。お前は、保存食を口にした後、少しの間眠れ。私とサラで見張りを行う」

 

 溜息混じりに了承したカミュの言葉に、リーシャは満足そうに頷きを返した。

 僅かの時間でも、何かを口にし、身体を横たえる事によって、身体は生き永らえようと血液を作り出す。

 もしかすると、リーシャの膝の上で眠りについているメルエは、遠く砂漠の国でカミュが倒れてしまった時の事を思い出していたのかもしれない。

 あの時は、何も考えずにカミュの言葉通り先へ進んだが、今の三人は、あの時のように全てをカミュに託している訳ではないのだ。

 自分達の目で見て、自分達の頭で考える。

 その先で、カミュの口にした方針に間違いがなければ従うという構図が出来上がって来ていた。

 

 身体を横たえたカミュは、革袋を頭の下に敷き、すぐに眠りへと落ちて行く。

 意識はそれを拒んではいても、身体は確かに休息を欲していたのだろう。

 意識を手放す事の出来る程に信頼できる仲間が、今の彼の周囲には存在していた。

 それは、二十年前に旅に出た先代の英雄であるオルテガとも、このサマンオサに残る事を決めた英雄サイモンとも、そしてそのサイモンの息子とも異なる、カミュという当代の『勇者』が持ち得る宝なのかもしれない。

 時代は流れ、人の心は動き、世界は変わって行く。

 その時代に『賢者』と呼ばれた者とは異なる思想を持ち、異なる行動を起こす者が、今の時代の『賢者』として立ち上がり、脈々と連なる英雄や勇者の歴史の中で異質とも言える者が、当代の『勇者』として、時代と世界を切り開いて行く。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

少し長くなってしまいました。
一話でこの洞窟を終えようと思っていたのですが(苦笑)
やはり、このような形になりました。
このままだと、第十三章は二十話を超えてしまいますね……

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。



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ラーの洞窟(サマンオサ南の洞窟)②

 

 

 

 カミュの眠りは考えていたよりも早くに覚めた。

 リーシャの膝の上のメルエが未だに眠りから覚めない中、身体を起こしたカミュは、自身の身体の状態を確認するように立ち上がり、立眩みなどが無い事から、出発の準備を整え始める。

 これ以上、休めと言っても無理である事を察したリーシャは、膝の上で丸くなる少女を揺り動かし、軽い溜息を吐き出したサラは、焚き火の炎から<たいまつ>へ炎を戻して行った。

 

「フロアの南の方は、まだ見ていなかったな」

 

「そうですね。このまま壁沿いに歩けば、その方角へ出ると思います」

 

 目を擦るメルエの手を引いたサラは、リーシャの言葉に同調し、<たいまつ>に照らされた前方を指差す。

 洞窟内は、ここまで探索して来た物とは異なり、燭台のような物の数が圧倒的に少なく、例え存在していても、その燭台に枯草や枯れ木が備わっていない事が多かった。

 故に、周囲の闇は、奥へ進む程に濃くなって行き、視界は限りなく悪い状況が続いている。

 『人』は本能的に闇を恐れる。

 それは、元々、自分達種族が生きる場所ではない事を知っているからなのかもしれない。

 その意味では、サラが闇を恐れるのは、『人』として当然の感情なのだろう。

 

「通路があるようですね」

 

「どうする、カミュ?」

 

「進んでみる」

 

 サラの考え通り、壁沿いに進んで行くと、右へと折れるように別の通路が出現する。何処へ続いているのかも解らず、そもそも道が続いているのかも解らない物ではあったが、持っていた<たいまつ>の炎を通路の方へと向けたカミュは、そのまま進む事を提言した。

 <たいまつ>の炎は、まるで奥へと吸い込まれるように揺れ動いたのだ。

 それは、通路の奥へと空気が通っている事を示している。

 表に出るような道が続いているのか、それとも地底に何かがあるのかは解らないが、呼吸が出来る場所へと続いている事だけは確かであった。

 

「…………はこ…………」

 

 通路を進んだ先には、少女の瞳を再び輝かせる物が転がっていた。

 真っ直ぐ前へと進む道とは別に、左へと折れる細い道の入り口付近に転がっている物は、年季の入った宝箱のような物。

 即座に<雷の杖>を掲げる姿に苦笑を洩らした三人は、幼い少女の行動を咎める事はしなかった。

 呟くような詠唱と共に飛び出した魔法力は、正確に宝箱を打ち抜き、ぼんやりとした光で包み込み始める。

 

「メルエ、どうだ?」

 

「…………あお…………」

 

 先程見たばかりの呪文行使である為、隣に居たリーシャが魔法の結果を問いかけた。

 この呪文の結果は、術者でなければ解らない。

 故に、輝くような笑みを浮かべて振り返るメルエを見たリーシャは、そのまま静かに頷きを返した。

 リーシャの許しを得たメルエは、そのまま宝箱へと足を進め、箱へと手を掛ける。

 宝箱には鍵などは掛けられておらず、非力なメルエでも抵抗なく開けられる程の物であり、軋むような音を立てて開いた箱を覗き込んだ彼女は、そのまま箱の中へと手を差し込んだ。

 

「何がありましたか?」

 

「…………これ…………?」

 

 メルエへと近付いたサラは、彼女の取り出した物へと視線を落とす。

 だが、問いかけられた少女は、それが何なのかが理解出来ないようで、静かに首を傾げる素振りを見せた。

 首を傾げながらも差し出された小さな手の上には、丸みを帯びた縦長の種のような物と、完全に球体に近いような木の実がある。答えを求めるように見上げるメルエの瞳を見たサラは、それに対する明確な回答を持たず、言葉に窮してしまった。

 

「……また、何かの種か? トルドの所に寄る時にでも聞いてみよう」

 

「そ、そうですね。それもメルエのポシェットの中に入れておいてください」

 

「…………ん…………」

 

 横から覗き込んだリーシャが発した言葉は、純粋な瞳からの逃げ場を探していたサラにとって救いの手となる。

 それをポシェットへ仕舞うように告げられたメルエは、再びトルドという大事な者の居る場所へ行ける事を理解したか、笑顔を浮かべながら二つの種をポシェットへと入れて行った。

 メルエが種を仕舞っている間に、その先へと続く宝箱へ<インパス>を唱えたサラは、その発光が赤色である事を確認し、一度元の場所へと戻る事をカミュへと告げる。

 

 再び先程の通路のような部分へと戻った一行は、通路を東へと向かって歩いて行った。

 <たいまつ>の明かりは、淡い明かりによって照らし出された一行の影を岩壁に揺らめく様に映し出す。

 下半身から伸びる影は、壁を伝って大きくなり、頭部の部分などは見上げなければ見えない。その影の姿は、不思議な気持ちよりも恐怖を誘い、幼いメルエは影から逃げるようにサラの足下へ身を隠していた。

 

「…………はこ…………」

 

 それでも、前方から再び左へ折れる細い道の先にある箱を見付けたメルエは、<雷の杖>を大きく掲げ、前方へと魔法力を投げつける。飛び出した魔法力は正確に宝箱を射抜き、淡い発光を始めた。

 得意気になって呪文を行使するメルエの姿は、何処か微笑ましく、リーシャとサラは小さな笑みを浮かべて、その後ろ姿を見つめる。

 振り返ったメルエは、宝箱が発している色が安全を示す色である事をサラへと伝え、それに対して頷きが返って来た事を確認すると、宝箱へと駆け寄って行った。

 

「…………いし…………」

 

「これは……もしかすると『命の石』でしょうか?」

 

 宝箱を開けたメルエが再び首を傾げているのを見たサラは、宝箱へと近付き、取り出された物へと目を向ける。

 その手には、少女の言葉通り、青く透き通った石が乗っており、その色は、サラの頭にあるサークレットに嵌め込まれた石よりも淡い青色であった。

 以前何処かで見た事のある石の姿に首を傾げていたサラであったが、横から現れたカミュの顔を見て、その正体を思い出す。それは、アリアハンを旅立った頃に、『勇者』と呼ばれる青年が着けていたサークレットに嵌め込まれていた石と同じ光を宿していたのだ。

 

 『精霊ルビス』も加護により、死の呪文などからその持ち主を護る石。

 身代わりとなって砕け散る事によって、その役目を果たす石。

 その名を『命の石』と呼んだ

 

「メルエが大事にしている石の元の姿ですよ」

 

「命の石か……その石がなければ、二年以上前に、私達の旅は終わっていたな」

 

 不思議そうに石を見つめていたメルエであったが、サラの言葉でその石の正体に気が付き、嬉しそうに微笑みを溢す。

 その笑みの理由が理解出来るリーシャは、以前所有していた『命の石』の最後を思い出し、少し寂しげな笑みを浮かべた。

 カミュが旅立ち当初から所有していた『命の石』は、ガルナの塔と呼ばれる試練の塔で砕け散っている。<ミミック>が唱える死の呪文によって、深い闇へと叩き落とされたカミュは、その場所で生を諦めたのだった。

 生を諦めたカミュは、死への誘いに抵抗する事無く、その精神を崩壊させる筈であったが、その身代わりとして『命の石』が砕け散り、彼は再び現世へと舞い戻った。

 そして、その石は、彼の母親であるニーナという女性が送った物。

 

「…………ん…………」

 

「い、いや……それは、メルエが持っていてくれ」

 

 三人がその時の状況を思い出していると、先程まで石に魅入っていたメルエが立ち上がり、その手を一人に向かって突き出した。

 突如目の前に突き出された者は、その行為に戸惑い、反射的に断りを入れてしまう。

 だが、それはこの場に居る誰もが許さなかった。

 

「…………だめ…………」

 

「そうだな、それはお前が持っていろ。私達は、お前と違って、生への執着は強い筈だからな」

 

「ふふふ、そうですね。カミュ様がお持ち下さい」

 

 首を横に振って、厳しい瞳を向けるメルエは、頑として青年の断りを受け取はしない。再び突き出された両手の上には、吸い込まれるように透き通った青い石が乗っている。

 少女の行為に頬を緩ませた二人の女性もまた、その行動を肯定するように、カミュの拒絶を許さなかった。

 彼女達は、カミュが<地球のへそ>と呼ばれる洞窟内で、<ミミック>が唱えた<ザラキ>を弾き返した事を知らない。彼の心が、既に簡単に死を受け入れる物ではなくなっている事をまだ知らないのだ。

 

「わかった」

 

「良かったですね、メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 だが、彼はそれを敢えて口にはしなかった。

 もしかすると、それは彼の心の変化がそうさせていたのかもしれない。

 以前の彼ならば、彼女達の好意を理解しようとはせず、断固として断っていただろう。

 『いらないのならば、その辺りに捨てて行け』とでも答えていたかもしれない。

 そんな、心を閉ざし切ったアリアハンの英雄の息子は、もう何処にもいないのだ。この四年近くの旅の中で、彼は本当の意味での『勇者』への道を歩み始めている。

 それは、自分の父親である英雄オルテガをも超える旅。

 『象徴』として生きて来た彼は、三人の仲間と、数多く者達との出会いによって、心を宿し、感情を持ち、大きな変革を迎えていた。

 

 だが、この時の行為を、彼等は後々で悔やむ事となる。

 

「メルエ、こちらに!」

 

「カミュ、抜け!」

 

 和やかな雰囲気は一変する。

 カミュに向かって笑みを浮かべていたメルエの眉が下がった事で、サラが周囲の空気の変化を感じ取り、それを受けたリーシャが<バトルアックス>を抜き放った。

 敵の襲来の合図。

 カミュも背中の<草薙剣>を抜き放ち、身構えるが、その瞳に魔物の姿は映らない。不審に思い、周囲に目を配るが、他の二人も魔物の姿を捉える事が出来ずに困惑していた。

 唯一人、幼い少女だけは、『命の石』を手放した両手でしっかりと<雷の杖>を握り、<たいまつ>の炎によって揺らめく岩壁を見つめている。

 

「カミュ様、壁の影です!」

 

 サラの声が響き渡るのと、カミュが<ドラゴンシールド>を掲げるのは同時だった。

 竜の鱗が軋む音が響き、それに遅れるように、カミュが振るった剣の風切り音が轟く。

 カミュの剣が斬った何かが歪むが、それに実態がないのか、そのまま虚空へと消えて行く。まるで自身の影を斬ったような手ごたえの無い感触に、カミュは眉を顰めて後方へと下がった。

 

「カミュ、また実体の無い魔物か?」

 

「おそらくはな……」

 

 一歩後退したカミュへ近付いたリーシャは、目の前で徐々に形を成して行く黒い影に斧を向けたまま口を開く。その問いかけに、カミュは静かに頷きを返した。

 彼等の長い旅の中で、実体の無い魔物というのは限られている。

 <氷河魔人>や<溶岩魔人>等は、剣や斧での攻撃で倒す事は出来なくとも、攻撃自体は当たっていた。<キズモ>などは、攻撃が効果を示していないように見えても、その物を攻撃する事は可能であったかもしれない。

 だが、目の前で形を成し始めているのは、黒い影。

 それは、以前にカンダタ一味がアジトとしていた洞窟で遭遇した魔物と酷似していた。

 

<シャドー>

その名の通り、影の魔物である。どのような構造になっているのかは解明されていないが、長く存在する洞窟などに棲みつく魔物であり、その洞窟に灯りを持って入って来た者の影と同化するように襲いかかる。影である為、物理的な攻撃方法が解明されておらず、遭遇した場合、逃げるという行為が最善の方法である事が伝わっていた。

 

 じりじりと後退して行く一行を追うように影を伸ばす<シャドー>は、攻撃方法を見つける事が出来ない一行を嘲笑うように、頭部と思われる影の部分に口のような空間を開いている。

 カミュとリーシャを前面に出したまま、元の通路とは逆の方へと後退して行った一行は、少し開けた空間へと出た。

 そこは、所狭しと宝箱が置かれているような場所であり、その光景を見たサラは、瞬時に嫌な空気を感じ取っていた。

 

「カミュ様、これ以上は後退出来ません。逆には出来ませんか?」

 

「わかった……メルエを頼む」

 

 サラの忠告を聞いたカミュは、後方を振り返る事無く、リーシャと頷き合ってから<シャドー>へと向かって駆け出す。

 伸びて来る<シャドー>の腕のような部分を辛うじて避けたカミュは、そのまま剣を振り下ろし、影の身体を分断した。

 手応えの無い感触に、再び剣を構え直したカミュの横から、リーシャの持つ<バトルアックス>が飛び込んで来る。その一閃は、再び形を成し始めた影を両断する程の威力を誇り、影は霧散して行った。

 <シャドー>の身体が細切れとなり、霧散して行った場所を、カミュ達一行が駆け抜ける。一行が振り向き、態勢を整えた頃には、先程まで後方にあった空間に再び<シャドー>の姿が現れた。

 

「メルエ、詠唱の準備を! カミュ様とリーシャさんで、あの影の魔物を奥の部屋へ押し込んで下さい」

 

「…………ん…………」

 

「わかった!」

 

 もはや、このパーティーの頭脳としての役割を一手に引き受けるサラの言葉が響き、指示を受けた者達がそれに応じる。

 サラの言う、奥の部屋とは、先程背にしていた空間の事であろう。所狭しと置かれていた宝箱は、既にサラによって確認済みであった。

 その色は、危険を示す色である『赤』。

 故に、その箱を開ける必要はなく、むしろ消滅するべき物であるという事。

 

「カミュ!」

 

「ちっ!」

 

 立ち位置を変えた一行は、<シャドー>を映し出す為に<たいまつ>を狭い空間へと掲げるが、<たいまつ>を持っていたリーシャが声を上げる。彼女の声を聞いたカミュも、眉を顰め、盛大な舌打ちを鳴らした。

 狭い空間には、宝箱が所狭しと置かれているが、今までは只の闇の中に過ぎなかったのだ。

 だが、<たいまつ>を向けた事で、そこに光が差し、影が出来る。

 それは、新たな魔物の誕生を促す物であった。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ベギラゴン…………」

 

 狭い空間に新たな<シャドー>が生まれ、その数は徐々に増して行く。

 一体の<シャドー>の腕が、前衛に出ていたカミュの首筋を斬り裂いたのを見たサラは、後方で<雷の杖>を握るメルエに向かって指示を叫んだ。

 サラの指示を聞いたカミュとリーシャは、即座にその場を飛び退き、狭い空間の入口を大きく開ける。首筋を片手で押えながら飛び退いたカミュの血の匂いに誘われるように歩み出て来た<シャドー>は己に向かって来る強大な熱風にその身を焼かれて行った。

 メルエの杖の先から発した熱風は、真っ直ぐ空間の入口へと向かい、出て来た一体の<シャドー>の飲み込みながら、宝箱の転がる広間へと着弾する。着弾した熱風は瞬時に炎の海と化し、全てを飲み込む程の火炎へと変化して行った。

 

「カミュ様、リーシャさん、早く下がってください! メルエ、退きますよ!」

 

 前方が、炎の海しか見えない状況になった事を確認したサラは、そのままメルエの手を取り、一目散に元の場所へと駆けて行く。サラの声を聞いたカミュとリーシャもまた、後方の状況を確認する暇もなく、駆け出した。

 元の通路へと戻った一行は、そのまま通路を左へと折れ、その場所で足を止める。

 カミュ達が道を折れるのを見計らっていたかのように、熱風が通路を吹き抜け霧散して行った。

 髪を焦がす程の熱風が吹き抜け、一行は息を止める。メルエの口と鼻をサラが手で押さえ、その熱風によって気管を焼かれてしまわないように配慮したのだった。

 

「今後、狭い通路での<ベギラゴン>は考え物だな……」

 

「そ、そうですね……十分に気を付けます」

 

 先程よりも幾分か広い通路へ出た事によって熱風は霧散し、暫しの時間が経過すると、若干の熱気を感じる程度の物へと変わって行く。

 ようやく呼吸が出来るようになった頃、カミュがその火力の凄まじさに、行使する場所と時を改める事を提案し、サラもまた、それに同意を示した。

 サラの手が離れた事によって、大きく息を吸い込んだメルエは、苦しそうに眉を顰めながら、サラの恨めしげに見上げている。そんな幼い少女の姿が、一行の間に流れる空気を和やかな物へと変えて行った。

 

「しかし……改めて、メルエの呪文の脅威を感じたな……」

 

「例え影の魔物といえども、あの火炎の前では消え失せてしまうでしょうね」

 

 未だに強い熱気を放つ細い通路の奥へと顔を覗かせたリーシャが、その状況を把握し、首筋に冷たい汗を流す。

 その恐怖は、何もリーシャだけのものではない。

 メルエの隣に立っていたサラもまた、その呪文の脅威に肝を冷やしていた。

 <ベギラゴン>という呪文の威力は、グリンラッドという永久凍土の氷ですら溶かす程の炎を生み出す物であり、灼熱系の最強呪文である事を否が応でも理解させられる物でもある。

 それをサラも理解していたのだが、岩壁にくっきりと残る焦げ跡に背筋が冷たくなってしまった。

 

「…………メルエ………だめ…………?」

 

「いや、メルエは指示通り動いた。状況判断が甘かっただけだ」

 

 そんな二人の様子を見ていたメルエが、何かを窺うように眉を下げたのを見て、傍に居たカミュが口を開く。

 彼の言う通り、メルエはサラという指揮官の指示通り、その目的を確実に遂行したに過ぎない。その威力を調整していたとしても、この世界で生きる『人』の誰もが行使出来ない最強呪文では、抑え切れない物でもあっただろう。

 

「そうです。メルエが悪い訳ではありません」

 

「ああ……さあ、先へ進もう」

 

 カミュの言葉を聞いた二人は、気持ちを落としてしまったメルエに向かって笑みを向け、その手を取るように手を差し伸べた。

 二方向から差し伸べられた手を見たメルエは、少し悩んだ結果、リーシャの手を取る。振られてしまったサラは、がっくりと肩を落とした。

 一行は、そのまま通路を東の方角へと進んで行く。先程の膨大な熱量を持つ火炎を恐れたのか、魔物達と遭遇する事はなかった。

 

 

 

 東へ進むと下の階層へと降りる通路があり、ぽっかりと口を開いてカミュ達を誘っていた。

 進むしかないカミュ達は、そのまま坂を下って行き、奥へと進んで行く。

 カミュの血液を回復する為に一時休憩を挟んではいるが、既に洞窟へ入ってから一日近くの時間が経過していた。

 

「こ、これは……」

 

「…………むぅ…………」

 

 階下に降りた一行は、その光景に言葉を失う。

 サラは、その光景に眉を顰め、メルエはその空気に顔を顰めた。

 坂を降り切った一行の前には、巨大な湖のような物が広がっている。しかし、その湖の水の色は、人々が生きる為に欲する物とは大きく掛け離れていた。

 紫色に濁る液体からは、瘴気のような煙が立ち上り、異様な臭いを漂わせている。その臭いがメルエの気分を害し、リーシャの腰に顔を埋める事となっていた。

 

「水が腐っているのか?」

 

「解らない……ただ、異様な瘴気に包まれている事だけは確かだな」

 

 リーシャの言葉に答えたカミュは、一歩ずつ前へと歩を進めて行く。臭いはきついが、吸い込んでもすぐに身体に異常を齎す物ではない事が理解出来た。

 この場に長く留まればどうなるかは解らないが、毒のような効力を持っている訳ではない事を理解したカミュは、そのまま湖付近の通路を歩き始める。

 湖をぐるりと回るように出来た通路は、紫色の水から立ち上る煙によって、霧が掛かったように視界を霞ませており、湖の中央への視界を遮っていた。

 

「…………はこ…………」

 

「またか!?」

 

 視界の悪い通路を歩いていた一行であったが、固まって歩いて行く為、リーシャ横からサラの横へと移動していたメルエが再び動き始める。

 その行動に、諦めにも似た言葉を発したリーシャは、慌てて少女の後を追うように駆け出した。

 だが、大きな箱へ魔法力をぶつけたメルエは、奇妙な表情を浮かべて振り返る。その視線の先には、彼女にこの呪文を教えた『賢者』がいた。

 幼い少女の瞳を受けたサラは、その奇妙な表情の意味を理解し、一つの質問を投げ掛ける。

 

「メルエ、色は何色でしたか?」

 

「…………きいろ…………」

 

 魔法力に反応し、発光した色を問いかけたのだ。

 それに対して答えたメルエの解答は、青色でも赤色でもなく、曖昧な黄色であった。

 安全とも言い難く、かといって危険だと断定も出来ない。

 そんな曖昧な色であった事から、メルエは単独で宝箱を開ける事も出来ず、困ったようにサラへと助けを求めたのだった。

 

「カミュ様」

 

「わかった」

 

 宝箱を諦めきれないメルエに苦笑を浮かべたサラは、傍に立つカミュへ声を掛ける。

 全てを理解した彼は、一つ頷きを返した後、メルエを追い越すように宝箱へと近付き、何時でも戦闘へ入る事が出来る態勢を整えて、それを足で小突いた。

 数度の確認を終えたカミュは、メルエへと振り返り、小さく首を縦に振る。それは、宝箱が安全である事の合図である事を理解したメルエは、嬉しそうに頬を緩めながら箱を開け始め、中へと手を伸ばす。しかし、中にあった物に手が触れた頃になると、再び何とも言えない難しい表情を浮かべた。

 その表情が、何と表現したら良いのか解らない程に奇妙な物であった為、カミュは不思議に思ってメルエの手元を覗き込み、それに遅れるようにして、リーシャとサラも近付いて来た。

 

「メルエ、何だそれは?」

 

「…………むぅ…………」

 

 リーシャの問いかけにも、メルエは唸り声を上げるばかりで答えない。

 それは、本当に何であるのかが解らないという物だけではないようにも見える。現に、メルエは先程まで手を触れていた物から手を離し、リーシャの傍へと移動していたのだ。

 戦利品を誇らしげに見せに来ない姿は、ここまでの道程で初めての事であり、カミュもサラも、それを不審に思う。

 メルエが離れようとせず、身動きが取れないリーシャの代わりに、カミュが箱の中へと手を伸ばした。

 

「それは、獣の皮ですか?」

 

「着包みなのか?」

 

 カミュが取り出した物は、何とも言えない物であり、広げられたそれを見たサラとリーシャは、それぞれの見解を口にするが、そのどれもが的を射ており、逆にどれもが的外れにも感じるような物であった。

 サラの言うように、獣の皮と言えば皮だろう。

 手足さえもすっぽりと覆うような大きさをしたそれは、顔の部分は切り抜かれたように空いている。皮とは言っても、細かな体毛までもそのままとなっているそれは、人の手で一から作られた物というよりも、獣や魔物の身体から表面だけを切り取ったような物であったのだ。

 そして、それはリーシャの言うように、人型に造り直されている為、人が着る事の出来る形になっている。着包みと言っても差支えない物であり、獣や魔物の皮で出来ている物である為、全身を護る防具とも成り得る程の物でもあった。

 

「しかし、誰がこのような物を着るというのだ?」

 

「魔物の着包みだとすれば、魔物の巣窟となっている場所でもカモフラージュとなるのかもしれませんね」

 

 リーシャの疑問に答えたサラの言葉は、妙に納得の出来る物でもある。

 この洞窟だけではなく、この時代では魔物の巣窟と化している場所は、世界中でも数多くあった。

 人工的な建造物である、塔やピラミッド、自然的に出来上がった洞窟など、暗闇がある場所に、魔物は好んで棲み付く事が多い。

 そのような場所に『人』が入り込む場合、最大の危険は、魔物との遭遇である。

 魔物や獣は、『人』の気配に気付く訳ではなく、大抵はその臭いによって反応する。『人』や『エルフ』のような種族よりも優れた嗅覚を持つ者達である為、臭いという物は、それだけ危険を運ぶ物でもあった。

 だが、もし、そのような場所に入る際、魔物や獣の皮から作られた着包みですっぽりと身体を覆ったとしたら、『人』が発する独特の臭いは、その着包みが発する臭いに紛れ、身を隠す事も可能であろう。

 

「…………メルエ………いや…………」

 

「……だそうだ。それは、この場所へ置いて行け」

 

「そうですね……とても売り物になりそうもありませんから」

 

 興味深そうに、その着包みを眺めていたリーシャとサラであったが、リーシャの足下であからさまな不快感を示す少女の声に、二人は我に返る。

 メルエが、そこまでの不快感を示す理由については理解出来ないまでも、今の一行には全く必要のない物である事は確かである。不必要な荷物を持つ程、一行に余裕がある訳ではない以上、着包みのような物を持って歩く必要はないのだ。

 元々、リーシャやカミュにとっては、その着包みは小さ過ぎ、着る事が出来そうなのは、サラとメルエぐらいであろう。その二人に着る気持ちが無いのであれば、尚更であった。

 

「カミュ様、向こう側の通路は、瘴気の煙が薄いようですが……」

 

 着包みを箱へ戻した一行は、再び湖の周囲を囲むように出来た通路を歩き始める。

 彼等が降りて来た坂から、反対側に当たる部分に差し掛かった頃、サラが口を開いた。

 一行が視線を向けると、サラの言葉通り、その部分からは中央を見る事が出来る程、瘴気の煙が薄くなっている。湖の水の色は相変わらず毒々しく、不穏な空気と不快な臭いを発してはいるのだが、その瘴気は何かに疎外されるように晴れていた。

 

「カミュ、中央に浮島のような物が見えるぞ?」

 

「それに……あれは、祭壇でしょうか?」

 

 中央へと目を凝らしたリーシャは、瘴気の侵入を阻害するように浮かぶ小さな陸地を見つける。濁り切った湖の上で、何からも干渉を受けないかのように佇む小島には、更に小さな祭壇のような物が造られていた。

 それは、ルビス教を信仰するサラの目で理解出来る程に凝った造りであり、このような洞窟内にある事が不思議な程に立派な物であったのだ。

 

「しかし、渡る方法がありませんね……」

 

「流石に、この湖を泳ぐ危険は冒したくはないな」

 

 祭壇を見ながらも、湖を周回し終えた一行は、中央の浮島へ渡る方法が無い事を理解する。中央へ伸びる通路が無いのであるから、残る方法は、この瘴気に満ちた紫色の水を泳ぐぐらいしかないのだ。

 だが、この空気を吸っているだけでも、身体に何らかの影響を残しそうな程の瘴気である。その源と考えても良い、紫色に濁った湖に入るという行為は、とてもではないが自殺行為に等しい物であろう。

 リーシャとサラの言葉を聞いたカミュは、一つ大きな溜息を吐き出した後、不意に天を仰ぐように首を上げた。

 

「上の階層に、下への穴があったか?」

 

「えっ!?……あ、あれは……」

 

 天井を見上げたまま言葉を発したカミュの視線を追うように瞳を動かしたサラは、その光景を見て、何かを考え込む。

 瘴気の煙で霞んではいたが、それ程高くはない天井には、ぽっかりと黒い穴が空いていた。

 二つの<たいまつ>の頼りない明かりでは確証はないが、その部分だけは、他の部分とは異なり、吸い込むような闇が広がっており、岩や土で出来た天井ではない事が窺える。

 その闇と同じようにぽっかりと口を開けたまま見上げるメルエの表情に笑みを溢しながらも、リーシャはサラの言葉を待った。

 

「この湖の中央付近に向かって空いた穴ですね……。降りて来た場所から考えると、あの骸骨の魔物と遭遇した開けた空間の辺りでしょうか……」

 

「あの場所は、隅々までは見ていないからな……カミュ、戻るのか?」

 

 少し考えを巡らせていたサラは、状況を把握し、自身の考えを口にする。その内容に反対意見を述べる者など、この場には誰もいなかった。

 もはや、このパーティーの中で、彼女の思考は、それ程の信頼を得ているのだ。

 リーシャの問いかけに頷きを返したカミュが歩き出すと同時に、一行は再び来た道を戻り始める。

 

 

 

 坂を上り、メルエの残した<ベギラゴン>の爪痕を過ぎた一行は、再び開けた空間へと戻って来た。

 相も変わらず、漆黒の闇が広がる空間は、<たいまつ>の炎だけでは全てを見通せる物ではない。周囲を照らしながらも、魔物との遭遇を警戒しながら進み、来た道とは逆方向の壁沿いへと移動を始めた。

 開けた空間の中央へ出るのを最後に回し、まずは入り口付近へと戻る事を考えたのだ。

 

「…………あな…………」

 

「えっ!? 何処ですか?」

 

 そんな一行が、ぽっかりと空いた穴を発見したのは、幼い少女の一言からであった。

 サラの手を握りながら歩いていたメルエは、自分が蹴った小さな石が、床を転がらずに消えてしまった事を不思議に思い、その場所へ注意深く視線を向ける。

 暗がりの中で、殊更に黒い闇が広がる床を見た彼女は、サラの手を引き、その存在を伝えたのだった。

 メルエの指差す部分へと視線を向けたサラが他の二人を呼び、持っている<たいまつ>を向けると、それが完全な穴である事が証明される。それ程大きな穴ではないが、人が二人程すっぽりと落ちる事が出来る大きさは持っていた。

 

「カミュ、飛び込むのか?」

 

「……この穴が予想通りの場所へ繋がっているとしたら、その下はあの湖だぞ? 不用意に飛び込んでは、あの濁った水の中に落ちる事になる」

 

 <たいまつ>を穴へ向けても、下の階層のはっきりとした姿は見通せない。何処へ繋がっているかも解らない場所へ不用意に飛び込む事の危険性を理解しているからこそ、カミュはその行動に二の足を踏んでいた。

 それはリーシャも同様であったのだろう。彼の言葉に反論する事もなく、小さく頷きを返した後、彼が再び口を開くのを静かに待ち続ける。

 この先の方法は、リーシャでも、今座り込んで穴の奥を覗き込んでいるメルエが考える物でもない。

 それは、このパーティーの頭脳でもある、カミュという名の『勇者』と、サラという名の『賢者』が考える事項であり、その指示に『戦士』と『魔法使い』は従うだけなのだ。

 

「あの浮島のような場所は、それなりの広さがありました。このまま落ちても湖の中に落ちる事はないでしょう……この穴が、予想通りの場所へ繋がっていれば、という仮定の話ではありますが」

 

 しかし、『賢者』であるサラが口にした物は、とても曖昧な物でもあった。

 明確な自信がある訳ではなく、予測の話でしか言葉に出来ない自分自身を悔いるように、サラの顔は歪んでいる。それが、一行の安全を完全に確保出来ないという現実を示していた。

 不穏な空気を感じ取ったメルエは、首を上に向け、不思議そうに一行を見回している。

 

「洞窟に入る前に行使した呪文をアンタは行使出来ないのか?」

 

「え? トラマナですか? いえ、私も行使出来ますが……」

 

 そんな一行の迷いを払ったのは、カミュの一言であった。

 洞窟に入る前の瘴気を避ける為にメルエが唱えた呪文は、一行の周囲だけ、空気を清浄するような物であり、本来はこのような場所を歩く事を目的とした魔法でもあるのだ。

 サラは伊達に『賢者』という職に就いている訳ではない。

 暫しの間、彼が発した言葉の意味を考えていたが、何かに気付いたように顔を上げ、座り込んでいるメルエと視線を合わせた。

 

「メルエ、スクルトの行使を!」

 

「…………ん…………」

 

 サラの指示を受けた少女は、即座に立ち上がり、持っていた杖を高々と掲げる。呪文の詠唱を完成させたメルエの杖から魔法力が溢れ、一行の身体に魔法力の膜を作り出した。

 メルエの膨大な魔法力によって身体を覆った一行を見たサラは、そのまま自身の内にある魔法力を開放して行く。

 詠唱の言葉は洞窟の外でメルエが唱えた物と同じ。

 だが、一行を包み込む魔法力の質は、それとはやはり異なっていた。

 魔法力の量で周囲の空気を遮断して浄化するメルエの物とは異なり、サラの唱えた<トラマナ>は、何層ものフィルターを作り出す事によって、外界の空気を濾過するような物であったのだ。

 この部分でも、呪文の理解力に関する違いが出ていたのかもしれない。

 

「リーシャさん、一固まりになって飛び込みます。全員が横になって入れる程の穴ではありませんが、皆が手を繋いで入れば問題ないでしょう」

 

「わかった」

 

 答えを導き出した『賢者』の指示は、一つ一つ明確な物であった。

 その方法を聞いたリーシャは、全面的な信頼を向けて頷きを返す。そして、その手は、笑顔を向ける少女の手を取り、もう片方の手を『勇者』の青年へと差し伸べた。

 

「カミュ様……もし、スクルトでも耐えられそうになければ、アストロンの行使をお願いします。あの湖に落ちてしまう程度であれば、トラマナで何とかなると思いますので」

 

「わかった」

 

 差し伸べられた手を、眉を顰めながらも握り返したカミュは、しっかりと頷きを返す。最後にサラがメルエの手を握った事で、全ての準備は整った。

 <スクルト>のような身を護る為の魔法力の使用は、サラのような特性も持つ者よりも、メルエのような特性を持っている者の方が強みを持っている。その膨大で強力な魔法力は、衝撃を吸収し、傷を最小限に抑える事の出来る程の膜を作り出す。それを信じているからこそ、彼等三人は、この方法を取ったと言えるだろう。

 

「……行くぞ」

 

 先頭の青年の発した言葉が全ての合図となった。

 カミュが飛び込んだ勢いに引き摺られるように、次々と穴へと吸い込まれて行く。最後のサラが漆黒の闇へと続く穴へ吸い込まれると、明かりの消えた空間に、闇と静寂が再び戻っていた。

 

 

 

 穴から下降して行く四人の身体は、重力に従って速度を早め、急激に迫った地面に落下する。メルエの放った膨大な魔法力に護られているとはいえ、ある程度の衝撃を受けた三人の呻き声が響いた。

 それでも、幼い少女だけは、二人の姉によってしっかりと護られている。

 ゆっくりと立ち上がった一行は、自分達が立っている場所が、考えていた通りの場所である事を確認し、前方に広がる不思議な光景に目を見開いた。

 

「す、すごい……この場所では、トラマナなど必要ありませんでした」

 

「カミュ……これが<ラーの鏡>なのか?」

 

 浮島のような小島には、遠目で見た時以上に立派な祭壇が祀られていた。

 それは、一国の国宝を保管する場所というよりも、地に於いて何かを奉っているような形をしている。

 凝った装飾の成された祭壇は、ある一つの道具を大事に掲げ、それだけを崇めるように存在していたのだ。

 剥き出しの姿で安置されているそれは、狂いの無い円形をしており、中央には全てを映し出すような輝きを放つ円形の鏡が嵌め込まれている。その鏡を護るように、等間隔で周囲に宝玉が埋め込まれており、その青白い光沢は、薄暗い洞窟の中でも鮮やかな輝きを放っていた。

 その青い宝玉は、サラのサークレットに埋め込まれた石とも、先程メルエが取り出した『命の石』とも異なる光を放ち、この階層を覆う瘴気をも寄せ付けない程の神聖さを保っている。サラの言葉通り、この鏡を中心に、神聖な光と澄んだ空気が広がっており、その浄化能力は、<トラマナ>という人工的な物とは比べ物にならない物であった。

 

「これ程の大きさだとは思わなかった。取り上げた後はリレミトで脱出する」

 

「えっ!? だ、だれが、この鏡を手にするのですか?」

 

 これ程の神聖さを持つ鏡であれば、<ラーの鏡>と呼ばれるサマンオサの国宝に間違いはないだろう。しかし、その大きさは想像以上の物であり、メルエの装備している円形の盾と比べて、二回り程小さい物と考えても相違ない。

 メルエのポシェットに入らず、カミュ達の腰に下げている袋にも入らないそれを持って、来た道を戻る事は出来ない事は明白である。実際に、穴に落ちてこの場所に来た以上、脱出方法は一つしかないと言っても過言ではないのだった。

 しかし、そんな確認を込めたカミュの言葉に驚いたのは、唯一人の女性である。その他の三人の中では、何も驚く事ではないというのが、このパーティーの特性を示しているようではあるが、既に<リレミト>という脱出呪文の準備に入っている三人を見て、サラは素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「ん? それは、サラに決まっているだろう?」

 

「…………サラ…………」

 

「アンタだな」

 

 そして、そんな驚きの瞳を向ける『賢者』に向かって、全員がほぼ同時に声を発する。サラがその言葉を理解するのに暫しの時間を要する程、その声は時間差の無い物であった。

 美しい物、珍しい物に目が無いメルエでさえ、この鏡を手にする人間は自分ではないと理解している。

 それが何故なのか、そこにどんな思いがあるのかは解らないが、幼い少女はその鏡に興味を示す事無く、既にカミュのマントの裾を握り締め、脱出の準備を終えてしまっていたのだ。

 

「わ、わたしですか!?」

 

「サラ、早くしろ。サマンオサの状況は解っている筈だろう?」

 

 自分が指名された事に、再び驚きの声を上げたサラではあったが、続くリーシャの厳しい言葉と、その真剣な表情を見て、唾を飲み込み、表情を一変させる。

 恐る恐る祭壇へと近付いたサラは、ゆっくりとその手を伸ばす。

 彼女の手が鏡に触れるか触れないかの所まで伸ばされた時、その鏡は一際強い輝きを発した。

 その光を、彼女はその身で憶えている。

 それは、『精霊ルビス』と神に祝福された物に降り注ぐ、神々しいまでに神聖な光。

 同時に、『精霊ルビス』から役割を与えられた物が持つ光でもあった。

 

「お願い致します。私達を……いえ、サマンオサ国を救う為、お力をお貸し下さい」

 

 その光は、一気に洞窟内に広がり、広い階層の全てを包み込む。

 瘴気に満ちていた階層は、その光を受けて姿を変えて行く。

 紫色に濁り、瘴気の煙を吐き出し続けていた湖は、美しく澄んだ水へと姿を変え、瘴気の影響でくすんだ岩壁は、その身に宿す鉱石の輝きを取り戻して行った。

 眩い光で目を閉じてしまったカミュ達とは異なり、サラはしっかりとその鏡を見据え、力強くその手を伸ばす。円形の鏡を掴んだサラは、その重さに驚きながらも、ゆっくりと台座から取り外した。

 その見た目とは異なる重量ではあったが、持てない重さではない。ここまでの四年の旅の中で、その力量を上げ、リーシャという世界最高の『戦士』による扱きに堪えて来たサラであれば尚更であった。

 

「サラ、行くぞ!」

 

「…………いく…………」

 

 サラの手の中に落ち着いた<ラーの鏡>は、先程まで放っていた光を収束させ、その本体へと取り込んで行く。眩い光が収まった洞窟内の光景に驚きながらも、リーシャとメルエは、国宝を手にしたサラを呼び寄せた。

 しっかりと<ラーの鏡>を胸に頂いたサラがリーシャの手を握るのを確認したカミュは、そのまま小さな詠唱を口にする。

 

「リレミト」

 

 詠唱の歓声と共に、四人の身体が粒子に変わり、集束して行く。

 暫しの時間、方角を定めるように漂った光の束は、一気にその速度を早め、上空の大穴へと飛び込んで行った。

 

 サマンオサという大国に伝わる国宝は、神代から伝わる物である。

 その存在意義と、その目的は解らない。

 だが、この鏡が『精霊ルビス』の意思を受け継ぐ物である事だけは確かであろう。

 世界は再び動き出す。

 真実の姿を映し出すと云われる鏡が放つ希望の光によって。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

大変遅くなってしまいましたが、ようやく更新出来ました。
次話から、ようやくボス戦へと入って行く筈です。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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過去~サマンオサ①~

 

 

 

 サマンオサという国は、世界有数の軍事国家であった。

 周囲を険しい山々に取り囲まれ、<ルーラ>という魔法を行使出来ない者達は、『旅の扉』という移動手段を使わなければ、国内に入る事さえ叶わない。その為、他国の国内侵略を許した事はなく、魔王台頭以前は、絶対不可侵の国家として、その名を世界に轟かせていたのだ。

 険しい環境の中で育った人々は、その環境に適するように強力になって行った魔物達との戦闘でその力量を上げて行く。世界各国の中でも苛烈な環境下では、魔物の力もそれ相応に上がっており、このサマンオサ国周辺の魔物は、世界中でも上位に入る程の力を持っていた。

 それ故に、国家が所有する戦力も必然的に、他国よりも上位に位置する事となり、その軍事力は脅威に値する物となっていたのだ。

 その軍事国家であったサマンオサ国の中の最高戦力が、この国で生まれ、この国の危機を何度も救って来た一人の英雄である。

 サマンオサ国の国民達は、その名を畏敬の念を込めて呼ぶ。

 サマンオサの英雄、『サイモン』と。

 

「よくぞ戻ったサイモン! その様子だと、『旅の扉』付近に出没していた魔物の討伐も滞りなく済んだようだな」

 

「はっ!」

 

 サマンオサ国の王城の謁見の間に、一人の男性が通される。

 鍛え抜かれた鋼のような筋肉を持ち、その身体を赤紫の鎧で覆うその男こそ、このサマンオサ国で英雄と謳われるその人。

 齢は三十路を迎える手前であろう。

 男としても、戦士としても脂の乗った彼は、他国との戦にも、魔物との戦闘でも傷一つ負う事はなく、幾度もサマンオサ国に勝利と栄光を捧げて来た。

 今もまた、勅命を受け、サマンオサ国の出入りを可能とする唯一の手段である『旅の扉』周辺の魔物達を一掃し、帰城したばかりである。

 

「ごほっ……うむ、大義であった……ごほっごほ」

 

「国王様……」

 

 自身の前で跪き、赤い絨毯を見つめるサイモンに労いの言葉をかけていたサマンオサ国王が、数度の咳き込みを見せた。

 不敬とは知りながらも、その音を聞いたサイモンは、顔を上げて国王の顔へ視線を向けてしまう。本来、英雄とはいえ、国家の一家臣に過ぎないサイモンが国王の尊顔を見つめる事は罪に値する行為であるのだが、その様子を見ても、国王は軽く片手を上げるのみであった。

 

「大事ない……しかし、魔王台頭以降、日増しに魔物達は凶暴性を増して行くな……今は『旅の扉』が顕在ではあるが、この先、商人達の出入りも少なくなろう」

 

「御意にございます」

 

 国王の身を案じるサイモンであったが、その心配を国王が受け取らないとなれば、これ以上の詮索は不敬となる。故に、サイモンは、続く国王の言葉に同意を示し、再び深々と頭を下げた。

 軍事国家として名高いサマンオサ国ではあったが、この現国王は、軍事国家の国王にある独裁者のような者ではない。軍事とは他国を侵略する物ではなく、自国の民を護る物、という考えの下、サマンオサ国の平和と安全を守って来ていた。

 既にこの世界に『魔王バラモス』が台頭してから数十年の時間が経過している。当初は、それ程目立つ事の無かった影響も、ここ数年で顕著に表れ始め、それに比例するように魔物達の凶暴性も増していた。

 世界中の国家の人口は減少の一途を辿り、魔王台頭時から比べると、幾つかの国家もこの世から姿を消している。国家が消滅するのであるから、その国家に属する町や村なども同様で、魔物に抗う力の無い町や村の消滅数の方が何倍にも多い程であった。

 

「ふむ……世界では、魔王討伐に旅立つ者達も数多いと聞くが、討伐の成功の報が届いた試しはない。我が国としても、現状では魔王討伐に割く戦力が無い以上、国の将来を考えて行かねばならぬのかもしれんな」

 

「はっ」

 

 先程の咳き込みの影響なのか、胸に手を置いたままの国王は、軽く瞳を閉じた後、自身の思案内容を独り言のように呟く。

 その呟きは、自身に言い聞かせるような物であると同時に、目の前で跪く家臣をも納得させようとする物であった。

 魔王の力が日増しに大きくなって行く中、世界中では魔王討伐の声が高らかに上がり始める。それは、年を追う毎に大きくなり、今や全世界の腕に自信のある者達の共通の目的となって行き、毎日のように新たな『勇者』が旅立っていた。

 だが、その誰もが魔王討伐どころか、魔王の居城にまでも到達する事は出来ず、『魔王バラモス』の居場所も突き止められないまま、この世を去ってしまう。生き残った者達は、二度と魔王討伐という言葉を口にする事無く、隠遁とした生活を送る者達が多かった。

 軍事国家として名高いサマンオサ国は、元から強力な魔物達が近隣に生息しており、魔王の魔力をによってその狂暴性を増した事により、国内の治安維持が現状での第一優先事項となっている。

 英雄として名を馳せるサイモンは、諸悪の根源である『魔王バラモス』を討伐する事が急務である事を理解していても、祖国の為を考え、この場所を離れる事は出来なかったのだ。

 自国の英雄の胸の内を理解しているからこそ、このサマンオサ国の国王もまた、胸を痛めていた。

 

「しかし、兄上……我が国の将来とおっしゃるが、魔王を討伐する以外で現状を打破する事は難しいのではないですか?」

 

 国王と英雄の、言葉に出さない思いやりは、不意に掛けられた言葉によって遮られる。

 声の主は、このサマンオサ国の第一王位継承権を持つ者。

 前国王の忘れ形見であり、現国王の実弟でもある男性であった。

 忘れ形見と言われる通り、この王弟の年齢は、現国王とはかなりの開きがある。現国王は、齢四十半ばを超えているが、王弟の歳は、玉座の前に跪く英雄よりも一つか二つ下になるだろう。

 齢四十半ばを超えた現国王には子が出来ず、王妃は既にこの世にはない。何度か側室を設けた事もあるが、その誰もが懐妊する事無く、年若いままこの世を去っていた。

 自身に輿入れしてくる娘達が、悉く早逝してしまう事から、何時しか妃を迎える事も、自身の子を儲ける事も諦めてしまっている。

 

「確かにお前の言う通りだ、アンデル。だが、魔王の討伐の成功を祈るだけでは、国は瓦解し、民達が苦しむだけだ」

 

「では、如何するおつもりなのですか?」

 

 王弟アンデルは、決して暗愚な男ではない。

 だが、第一王位継承権を持つと言っても、所詮は王弟であり、国王に実子が生まれれば、即座にその継承権を失う者となる。故に、国政を担う者達の中では、この王弟を政務の中心には据える事は禁忌となっていた。

 幼くして前国王である父を亡くし、父親代わりに自分を育ててくれた兄の役に立ちたいという想いこそあれ、王弟アンデルは、圧倒的に経験が少な過ぎたのだ。

 

「今まで、外国からの物資に頼っていた部分を補って行く。一年や二年でどうなる物でもないが、自国で作物を育て、自国で必要な物資を作って行くのだ。幸い、我が国には、武器や防具などを作る際の技術力がある。諸国から作物の苗や種を購入し、我が国で育てられる物を増やして行く他あるまい」

 

「自給自足を行うというのですか?」

 

 サマンオサ国は、諸外国の隔たりが他国よりも強い。

 来る者を拒むような険しい山々に囲まれ、出入り口は、王城の東にある『旅の扉』しかない。一度に大量の人間を運ぶ事が出来ない為、訪れる商人の数も限られていた。

 その為に、東にある『旅の扉』は三か所の異なる場所へと繋がっており、多くの商人達が安全に訪れるように設置されているのだが、魔物の凶暴化が進む昨今では、その優位性も鳴りを潜めて来ている。

 三つの『旅の扉』によって、多くの文化や文明を吸収して来たサマンオサではあったが、ここ最近の来国者の減少によって、物資の流通にも影が差し始めていたのだった。

 

「うむ……それは、『旅の扉』が正常に稼働し、商人達が訪れる今しかないのだ。これ以上先延ばしにすれば、動こうと考えた時には、既に諸国との交流は不可能になる」

 

「そうでしょうか? サイモンはどうだ?」

 

「……ご英断かと存じます」

 

 魔王の台頭以来、日増しに強まる魔物の力は理解してはいても、自国が孤立してしまう危機感をどうしても持ち得ないアンデルは、玉座の前で跪いたままの英雄に声を掛けた。

 王族の会話に口を挟む事は出来ない為、じっと口を噤んでいたサイモンであったが、問いかけには答えなければならない。暫しの時間をかけて、国王の言い分に賛成の意を唱えた。

 本来、国王の考えに反対意見を出すなど、一家臣に出来る行為ではない。

 だが、このサイモンという男は別であった。

 例え自身の命が無くなろうとも、祖国の為に諫言を行う事の出来る者であり、その事を国王も王弟も知っていたのだ。

 

「ふむ……ならば、早速大臣たちと協議に掛けよう。この件については、アンデルを総督として話を進める。良いな?」

 

「わ、わたくしですか!?」

 

 サイモンの同意を聞き、国王はそのまま話を進めて行く。

 そして、その責任者の取り決めもまた、国王の独断で行われた。

 それに驚いたのは、この王弟である。前述の通り、彼は政務の中心からは極力切り離されていた。それは、現国王に実子が出来た時、政務の中心に王弟がいるという危険性を考えての物。

 王位継承権の最上位は、現国王の嫡男となるのだが、政務の中心に王弟がおれば、その派閥やその財務によって、王弟の力の方が上となり、相続紛争の幕開けとなってしまうからだ。

 それをアンデルも理解しており、兄の役に立つ為に日夜政務の勉強をしてはいるが、所詮は机上の論である事は否めず、実際に政務に立つ事はなかった。

 その自分が、兄が示した国の将来に係わる大事業の責任者に指名されたのだ。

 驚く以外に感情など表わしようがない。

 

「では、本日はここまでだ。サイモン、大義であった……ごほっごほっ」

 

「兄上!」

 

 話す内容は全て終了した、と国王が口を開き、サイモンが再び深く頭を下げたその上から、先程以上の咳き込みが聞こえて来た。

 それと同時に、傍に立つ王弟の声が響く。

 再び顔を上げてしまったサイモンの瞳には、玉座に寄ろうとする弟を遮るように、国王が左腕を上げている姿が映った。

 

「大事ない! 騒ぐな!」

 

 厳しい言葉を弟へとぶつけた国王は、不安そうに顔を上げたサイモンを見て、弱々しい笑みを浮かべる。

 謁見の間には、位の低い兵士達以外、国王、王弟、サイモンの三人しかおらず、兵士達は玉座の奥と、入口の門付近に居る為、この騒ぎにも気付く様子はなかった。

 王弟と国王の声は厳しい物ではあったが、現状を理解している為か、何処か圧し殺したような声であった事も幸いしていたのかもしれない。

 

「サイモンも下がって良い」

 

「はっ」

 

 英雄と謳われている者でも、主である国王の言葉に逆らう事は出来ない。

 国王が退出する事を望んでいるのであれば、余程の事でない限り、それを拒む事は罪となってしまうだろう。

 一度深々と頭を下げたサイモンは、そのままゆっくりと立ち上がり、頭を下げたまま数歩後ろへと下がった。

 素早く振り返ったサイモンは、一切の脇目も振らずに、謁見の間を後にする。

 

「サイモン様、ご機嫌麗しく」

 

 謁見の間を出て、回廊を歩くサイモンに対し、宮廷で暮らす貴族達が声を掛けて行く。その一つ一つに笑顔で答えながらも、サイモンの頭の中では他の事柄に想いを巡らせていた。

 サイモンは貴族の出ではない。

 宮廷騎士の中でも、平民から実力を買われて騎士となった者の子であった。

 陪臣とまではいかなくとも、国王から直接お声が掛かる程の地位を持っている訳ではなかったサイモンは、幾度もの魔物との戦闘や、他国との戦争によってその功名を上げ、サマンオサ国随一の力量と名声を手に入れたのだ。

 それ程の力と栄誉を持った一家臣には、様々な勧誘もあった。

魔王台頭後の世界は、常に脅威と隣り合わせでの生活を余儀なくされ、国家は自国の防衛に力を入れる。その為には、自国を守れる程の力量を持つ物が不可欠であった。

 纏まった軍を率いて魔物と戦う事は出来る。

 だが、その軍を率いる者もまた必要なのだ。

 

「国王様の事……迂闊な事は言えぬな」

 

 そんなサイモンをこのサマンオサ国に留めていたのは、祖国という想いとは別に、現国王という存在がある。

 現サマンオサ国王は、名君と呼ぶに相応しい王であった。

 バラモス台頭以前から、他国への侵略を嫌い、防衛に於いてのみに軍事力を行使しており、他国の商人達の誘致を積極的に行いながら、『旅の扉』までの街道の護衛として、国家の軍を派遣するなど、国家の繁栄を第一と考えていたのだ。

 民を慈しむだけではなく、民が生きる為に何が必要かを知っており、それを独断で決断するだけの能力を持っていながらも、重臣達を集め、合議を元に物事を進める柔軟性も持っている。

 この陸の孤島と言っても過言ではないサマンオサが、世界屈指の軍事国家であると同時に、世界屈指の先進国である事が出来るのも、現国王が若くして即位した事が無関係ではないだろう。

 

 しかし、ここ最近の国王には怪しい影が忍び寄っていた。

 以前は、謁見の間には常に重臣達が控えていたのだが、先程の謁見の際に見た通り、最近では玉座の周囲には、筆頭大臣と王弟しか配置されていない。

 重臣達との合議にも参加しない日もあり、まるで人を遠ざけるような印象さえも持ってしまう物であった。

 不審に思う重臣達もいたが、協議に上がって来る王の政策などに陰りは見えず、王の能力が衰えた訳ではない以上、それ以上の詮索は不敬に当たる物であると、誰もが黙認していたのだ。

 

「お帰りなさい!」

 

 様々な事を思案しながら歩いていたサイモンであったが、町外れにある一軒の家屋の前まで辿り着くと、まるでサイモンが来た事を察したように開かれた扉に我に返る。

 飛び出して来たのは、齢五つか六つ幼い男子。

 満面の笑みに輝く瞳を宿した男子は、サイモンまで一気に駆け寄り、その胸へと飛び込んで行った。

 突如飛び込んで来た子供をしっかりと受け止め、そのまま抱き上げたサイモンの顔にも笑みが浮かび、男子を追うように家屋から出て来た女性に視線を移す。

 サイモンとそう変わらぬ歳の頃に見える女性に顔にも笑みが浮かんでおり、しっかりとサイモンの首に腕を回す男子を優しく見つめていた。

 

「あなた、ご無事のご帰還、ご苦労様でございました」

 

「うむ。変わりはなかったか?」

 

「母上は、僕が護っているから大丈夫だよ!」

 

 言葉を聞く限り、この女性はサイモンの妻なのだろう。深々と頭を下げたその姿に、サイモンは満足そうに頷きを返した。

 彼の首に纏わりつくのは、彼の嫡子。

 五つ六つという幼さにも拘わらず、彼の中には、脈々と英雄の血は流れているのだろう。誇らしげに胸を張り、父親に答える姿を見た夫婦は、笑みを濃くする。

 サマンオサ国随一の英雄である彼には、祖国と共に護るべき存在があった。

 それが、この二人の家族である。

 

 

 

「あなた、お城から急使の方がお見えです」

 

 久しぶりに戻った自宅で家族の団欒を楽しんだその夜、揺り起こす声に、サイモンは目を覚ました。

 隣で寝ていた筈の妻が彼を揺り起こし、王城からの急使の来訪を告げたのだ。

 即座に身支度を整えた彼は、客間で待たせている急使の許へと急ぎ、王城へと登城して行った。

 急使の言葉は、『至急登城するように』という一言だけ。

 理由もなく、しかも発信元が国王ではなく、王弟であるアンデルであった。

 

「サイモン様がお見えになられました」

 

「通せ!」

 

 城内に入ったサイモンは、そのまま謁見の間へと通される。案内の者が発した言葉に返って来たのは、サイモンも良く知る筆頭大臣の声であった。

 中へ通された後、案内の者は出て行き様に人払いを指示される。厳粛な雰囲気の漂う謁見の間は、何処か悲壮感さえも漂っていた。

 玉座の横に立つ大臣の表情も明らかに強張っており、暗闇でもその表情が優れていない事が解る。

 嫌な予感を拭えないサイモンであったが、玉座の前で跪いたまま、大臣の言葉を待った。

 

「サイモン、こちらへ」

 

 案内の者が謁見の間を去り、周囲に人の気配が無くなったのを確認した大臣は、サイモンを立ち上がらせ、奥の階段へと歩を進めて行く。

 サイモンは英雄ではあるが、宮廷では一家臣にしか過ぎず、その位は大臣よりも数段劣る。無言で頭を下げたサイモンは、大臣の後を続く様に階段を上り、一度も足を踏み入れた事の無い場所へと入って行った。

 そこは、王族のみが入る事を許される居住区。

 王族以外に出入りが許されているのは、身の周りの世話をするメイドと、その代の筆頭大臣だけである。

 

「サイモンをお連れ致しました」

 

「入れ」

 

 階段を上った先にある一つの部屋へと辿り着いた大臣は、後方にサイモンが控えている事を確認すると、部屋の扉をノックした。

 ノックと同時に来訪を伝えると、中から静かな声が返って来る。

 その声もまた、その場所の主であろう国王の物ではなく、王弟であるアンデルの物であった。

 先程感じていた嫌な予感が、信憑性を増して来た事に眉を顰めながらも、サイモンは頭を下げたまま部屋へと入って行く。王族の部屋である事が解っている以上、一家臣に過ぎないサイモンは、面を上げる事は出来ないのだ。

 入室して即座に跪き、顔を伏せたままのサイモンの頭の上から弱々しくも威厳のある声が響く。

 それは、サイモンが主と仰ぎ、崇拝する者の声。

 再度深く頭を下げたサイモンは、一言も聞き逃すまいと耳を欹てた。

 

「良く参った。久方ぶりの家族との一夜に呼び出した事を詫びよう」

 

「滅相もございません。このような畏れ多い場所へお呼び頂けた事、終世の栄誉と致します」

 

 その声は、とてもではないが、サイモンが崇拝し、畏敬した者の発する物とは思えない程に弱り切っている。

 昼前に謁見をした際には、咳き込みはしたが、それでもしっかりとした力強さを持つ声ではあったのだが、今はその面影もない。不覚にも目に溜まった雫を落とさぬように、サイモンは声を振り絞った。

 

「サイモンよ……そなたのお陰で、この国の民の安全は、幾度となく護られた。この国の王として、そなたに改めて礼を申す」

 

「畏れ多いお言葉……」

 

 国王からの言葉に、サイモンは言葉を失くしてしまう。

 先程振り絞った筈の声は、既に喉から出て来ない。

 顔を上げる事さえも敵わない程に込み上げる想いは、サイモンの頭に様々な思い出を巡らせ、胸を詰まらせて行った。

 

「これ……そなたの顔をよく見せよ」

 

 騎士や戦士は、己の涙を見せる事を嫌う。

 それでも、国王の命となれば、それに逆らう事など出来はしない。しかも、それが自身の唯一崇拝する王であれば、尚更であろう。

 既に抑える事の出来ない涙が止め処なく流れる瞳を拭う事さえ出来ずに、サイモンはゆっくりと顔を上げた。

 歪む視界の中、寝具に身体を横たえた国王が顔だけをこちらへ向けているのが解る。その姿を見たサイモンの視界が再び歪み始めた。

 

「……近う寄れ」

 

「はっ」

 

 国王の言葉に、短く返したサイモンは、膝を床へ着けたまま、国王の傍へと擦り寄って行く。

 四十の半ばを過ぎたこの国王は、崇拝する相手であり、畏敬の念を向ける相手でもあった。

 だが、それと同時に、サイモンにとって兄とも思える程に慕っていた相手でもあったのだ。

 宮廷の下級騎士の息子として生まれたサイモンは、その剣の腕を磨き、呪文を学んだ。決して裕福ではない彼にとって、呪文を学ぶというのは給金の全てを吐き出す覚悟がいる物であった。

 そんな彼の才覚を見出し、その援助を行いながらも声をかけ、叱咤激励をしてくれたのが、現サマンオサ国王その人である。

 

「騎士に涙は禁物ぞ……恥と思え……ごほっ」

 

「国王様!」

 

 大きく暖かな手が己の頬に触れ、笑みを浮かべながら叱るその姿に、サイモンは再び涙する。

 だが、再び咳き込み出した国王に、思わず声が出てしまった。

 サイモンの動きを制するように手を上げた国王のその手は、自身の命の源によって、赤く染め上げられている。それを見たサイモンは、悔しそうに唇を噛みしめ、声を詰まらせた。

 

「口惜しいが、余はここまでのようじゃ。余の死後は、アンデルをサマンオサ国王として盛り立ててやってくれ」

 

「兄上! そのような弱気な事を申してはなりません」

 

 自身の死期を悟っているのか、国王は、サイモンと大臣へ視線を向けながら、自身の死後の体制に関しての言葉を残す。

 ここで国王の言葉に反論したのは、王弟であるアンデルだけであった。

 サイモンも、筆頭大臣である男も、これが自分達が慕い続けた国王の最後の言葉である事を知っているのだ。

 故に声を挟まない。

 全ての言葉を聞き洩らさぬように、そして全ての仕草を脳裏に焼き付けるように、国王へ視線を固定させたまま、無言で続く言葉を待っていた。

 

「アンデル……お前はまだ若い。だが、お前は余を超える男であると信じておる。お前はまだ気付いておらぬだろうが、お前には国王としての才が溢れておるのだ。余では成し遂げられなかった民の平穏を成し得る事が出来るのは、お前しかおらぬ」

 

「兄上……わたしには……私にはそのような才はございません」

 

 国王は知っていた。

 この王弟が、宮廷内の老若男女を問わず、好かれている事を。

 彼は、人々を分け隔てる事はない。

 自身が国王の弟という立場であり、国王に実子が誕生すれば、即座に用済みとなる事を知っていたアンデルは、自身を王族として見てはおらず、平民や貴族という垣根を越えて人と接していたのだ。

 故に、平民からの人気は当然の事、王族の権力を振り翳す事の無いアンデルは、貴族からもその人柄を受け入れられていた。

 常に自国で生きる者達の事を考え、自身が政務の中心に入れないと知りながらも、案があれば国王や大臣へと進言する。それが通らなくとも不貞腐れる事などなく、何が駄目であったのか、何処に落ち度があったのかという事を練り直し、再び案を持って来る姿は、重臣達からも高印象を持たれていたのだった。

 名君ある所に影はある。

 だが、そんなアンデルの活動は、このサマンオサ城内の隅々までに光を行き渡らせ、影の出来る暇を与えなかったのだ。

 

「サイモン、それに大臣……そなた達には、アンデルの後見を命じる。こ奴の光が曇らぬよう、そなた達の力を貸してやってくれ」

 

「国王様のお心のままに」

 

「しかと承りました」

 

 アンデルから視線を外した国王は、二人の寵臣へこの国の希望の補佐を命じた。

 胸に手を当て、深く頭を下げた大臣の声と、跪いたままで深く頭を下げるサイモンの声が重なる。既に、サイモンの瞳からは涙は消え、そこの瞳は、決意の炎と使命を受けた輝きに満ちていた。

 そんな二人に満足そうに笑みを浮かべた国王は、そっと瞳を閉じる。

 ゆっくりと身体を戻した国王は、大きな溜息を一つ吐き出した。

 

「今日は良き日じゃ……余には見える。サマンオサ国の民達の笑顔と、それを支えるお主達の姿が。今日は良き日じゃ……良き日じゃ……」

 

「兄上!」

 

 最後の言葉は、もはや聞き取れぬ程に小さく、ゆっくりと閉じられた口は、もはや動く事はなかった。

 上下に動いていた胸も静かに止まり、その者の生命活動の終わりを告げる。

 ここに、サマンオサ国の稀代の名君が消え去った。

 

「ぐっ……」

 

 兄の遺体にしがみ付く様に涙を洩らすアンデルの姿を見た大臣は、抑えて来た物を溢してしまう。込み上げた嗚咽を抑える事が出来ず、口元を押さえて呻き声を洩らした。

 彼もまた、この聡明な国王によって見出され、その頭脳と功績によって筆頭大臣まで上り詰めた男である。

 サイモンと異なるのは、元々貴族の出であったという点。

 しかし、貴族の三男という、家督を継ぐ事も、領地を継ぐ事もない身であった彼の頭脳という物を評価し、その頭脳を発揮できる場を与えたのは、落命した王であったのだ。

 歳はサイモンよりも十以上も上であり、サマンオサ国王よりも若干下である。

 そんな四十を超えた男が涙を抑えられぬ程、国王の死という物の影響は大きかった。

 

「……くっ……アンデル様、本日はこちらでお休みください。明日には国王様の崩御を皆に伝えなければなりません。アンデル様は、明日からはサマンオサ国王として、葬儀を指揮して頂く事になります」

 

「大臣様、今はまだ……」

 

 しかし、彼にはまだやらなければならない仕事が残っている。

 筆頭大臣として、サマンオサ国王に仕えて来たのだ。

 次代国王として、アンデル王弟が即位した場合、先代が重用していた腹心達が同じ立場で生きる事が出来ない可能性もある。だが、そのような心配よりも、まずは敬愛していた国王の遺言通り、王弟であるアンデルを即位させ、このサマンオサ国自体が揺るぎない事を、自国だけではなく、他国にも宣言しなければならない。

 彼に悲しんでいる時間はないのだ。

 そんな大臣の発言に、サマンオサ国の英雄が異を唱える。歳も地位も、役職さえも上である大臣に対しての言葉としては、余りにも無礼な物ではあったが、国王が身罷れたばかりでの物としては余りにも酷い大臣の物言いに、サイモンは軽い反発心を持ってしまった。

 

「サイモン、お前の気持ちも、アンデル様のお気持ちも痛い程に解っているつもりだ。泣き暮らせるのであれば、私とて三日三晩泣き通して見せよう。だが、国王が御隠れになった今、悠長にしている時間はない。魔物の動きが活発になる中、国王が不在であれば、民衆の心は静まらぬ」

 

「はっ! このサイモンの浅慮、平にご容赦を!」

 

 サイモンの心を正確に受け取った大臣は、表情に不快な物を滲ませる事無く、それでも厳しさを崩す事無く語り出す。

 その言葉を聞いたサイモンは、己の狭量を恥じた。

 泣き暮れる王弟の心を慮るばかりに、先代が愛したサマンオサ国の民の心を忘れていたのだ。

 名君と呼ばれた王への想いは、個人差はあれども皆同じである。サイモンや大臣のように己を護る腕力や知力、そして権力等の力がある者ならば良い。だが、サマンオサ城下町で暮らす国民の大多数は、何の力も持たない者達ばかりなのだ。

 国という保護下でなければ生きられないのは皆同じではあるが、その依存度は異なる。それを痛烈にサイモンは再認識した。

 

「ではアンデル様、明日にはお迎えに上がります」

 

 その言葉と共に、大臣は王の寝室を出る。

 それに続く様に、アンデルに一礼したサイモンは、もう一度サマンオサ国王の亡骸に向かって手を胸に置いて深々と頭を下げた後、寝室を出て行った。

 残された王弟は、動かぬ肉塊と成り果てた兄の胸に顔を埋めながら、夜を通して涙を流し続ける。

 それが、この先十数年続く、サマンオサ国の悲劇の始まりであった。

 

 

 

 翌日、アンデルは王の寝室から出て来る事はなかった。

 大臣とサイモンが呼びに行くが、中から鍵を掛け、呼びかけにも応じようとはしない。

 それでも、大臣とサイモンは、致し方ない事だと考え、一日の猶予を持つ事にした。

 

「アンデル様にとって、国王様は父も同然だ。父親を失ったのであるからその喪失感は、一日や二日で埋まる物でもあるまい」

 

「御意」

 

 王弟アンデルは、年老いた先代と第二夫人との間に生まれた所謂妾腹の子である。国王の血を引いてはいるが、正室と呼ばれる第一夫人との間に生まれた兄とは、基本的な格が異なっていた。

 第一夫人は、若くして亡くなってはいたが、第一夫人の実家となる貴族達からは疎まれる存在であり、その心労も重なり、母である第二夫人もまた、若くして天に召されている。

 幼くして庇護者を失ったアンデルを護ったのは、次期国王である皇太子であった。

 年が一回り以上も上の兄は、政務の傍らでアンデルを気に掛け、様々な事を教える。

 城の中の事、城の外の事、海を越えた遙か先にある国々の事。

 アンデルの全ては、兄である国王から学んだのだ。それは、もはや兄と言うよりも父に近い存在であっただろう。

 

「明日、また参ります」

 

 王の寝室の扉の前で、そう告げて去った大臣とサイモンであったが、その翌日も前日と異なる部分は何一つなかった。

 寝室から出て来ず、呼びかけにも応じない。

 塞ぎ込んでいるのかと考え、このサマンオサ国の行く末を案じた大臣とサイモンではあったが、その日の夜も同様となれば、もはや一刻の猶予もなくなっていた。

 サマンオサ国の気温はそれ程高まる事はない。それでも、生命を失った人体を放置しておいても変化が現れない程の永久凍土でもないのだ。

 死体は腐り、崩れ落ちて行く。

 サマンオサ国王ともあろう人間の遺体が、腐り落ちる事など許される訳はない。

 そして、ここまで返答がないという事は、王弟アンデルもまた、国王に殉じてしまったという可能性も出て来るのだ。

 

「ご無礼をお許し下さい!」

 

 その可能性を全く考えていなかった事を、大臣もサイモンも激しく後悔した。

 無礼な行為を謝罪しながら、王の寝室の扉を蹴破るように飛び込んだサイモンは、寝室に入ったと同時に漂う腐敗臭に顔を顰め、所狭しと飛び回る蠅に目を怒らせる。

 サイモンが王の遺骸に群がる蠅を斬り払い、その場に蹲る様に倒れるアンデルへ大臣が駆け寄った。

 気を失ってはいるが、小さな呼吸を繰り返すアンデルの姿に安堵した大臣ではあったが、王の変わり果てた姿に顔を顰め、早急に棺桶の準備をサイモンへ命じる。そこで、他者に知られる事が無いようにと厳命したのは、この大臣の唯一の失態であったのかもしれない。

 

「アンデル様! アンデル様!」

 

 夜であった事も幸いし、サイモンは誰にも気付かれる事無く木の棺桶を用意した。

 この魔物が横行する時代、一度の魔物討伐の遠征で何人もの兵士が死んで行く。それは、現地で魔物に殺される物だけではなく、魔物との戦闘による負傷が原因で命を落とす者達も多いのだ。

 死体を放置しておけば、悪しき魔王の魔力によって魔物に堕ちてしまうと考えられた時代である。死体は速やかに棺桶へと入れられ、火葬や埋葬という形で供養された。

 

「このような粗末な物に……国王様、お許し下さい」

 

 蠅が集る程の状態にまで落ちた王の亡骸を放置する訳にはいかない。

 これ以上の時間は、蠅の子を生み出し、恐ろしい死病もを生み出す事になるからだ。

 このサマンオサ国の全てを愛した国王を、そのような厄災にしてはならない。それは大臣とサイモンの共通の認識であった。

 アンデルを自室へと戻した大臣とサイモンは、そのまま国王の遺体が入った棺桶を運び出し、城の外へ出る勝手口の近くにある木の根元へと埋める事となる。

 一国の国王の密葬としては、余りにも不敬な行為ではあった。だが、現状では、それ以外に方法が無い事も事実。

 このような状態の国王を世間に晒せば、それを知っていた大臣とサイモンだけではなく、後継者であるアンデルさえも咎を受ける事となる。

 大臣もサイモンも、自分達が罰を負う事を恐れた訳ではない。唯一つ、国王の遺言を果たす事が出来ない事を恐れたのだ。

 

「アンデル様は、国王様以上の王と為られるのでしょうか?」

 

「私には解らん。だが、我々の敬愛する国王様が信じたお人だ。必ずやサマンオサを良き方へ導いて下さるだろう」

 

 アンデルの即位。

 それは彼等二人が敬愛する国王が願った事。

 だが、サイモンは半信半疑であった。

 サマンオサ国王を信じているからこそ、その言葉が信じられない。今、土の中へと埋葬された国王以上の王は存在しないと信じているからこそ、その王が発した言葉を信じる事が出来ないのだ。

 故に呟いた一言であった。

 そして、大臣もそんなサイモンの言葉を罰する事はなく、それでも尚、国王の言葉を信じるという事を宣言する。

 

「畏まりました。このサイモン、命に代えましても、アンデル国王をお護り致します」

 

「うむ。共に後見として、アンデル様をお護りしようぞ」

 

 ここに二人の男の誓いが成された。

 それはとても成し難い誓い。

 月が輝く木の下で成されたその盟約は、その後も破られる事はない。

 それは、ここから始まる地獄の始まりであった。

 

 

 

「アンデル様……そのお姿は……」

 

 翌朝、皆が起き出すよりも早くにアンデルの寝室へ向かった大臣とサイモンは、通された寝室内で声を失う。

 歴戦の勇士であるサイモンでさえ、扉を閉め、跪いた後で身体を硬直させてしまった。

 呆然自失の二人は、不敬とは知りながらも顔を上げたまま、目の前に立つ人物から目を離す事が出来ない。正確に言えば、何も考える事は出来なかったのかもしれない。

 

「アンデルは、昨日にこの世を去った。私は兄になる」

 

「し、しかし……」

 

 大臣とサイモンの目の前に立つ人物、それは先日崩御した筈の国王その人であったのだ。

 姿形を似せた程度の物ではない。

 何処をどう見ても、何一つ変わる事無いその姿は、生前の精力に満ちていた国王その物であった。

 部屋に入った直後は、大臣もサイモンも、思わず『国王様!』と呼びかけてしまいそうになった程の姿ではあったが、声までも同じとなれば、再びこの世に戻ったと言われれば、信じてしまいそうになる。

 だが、目の前の国王は、『兄になる』という言葉を残した。

 それは、彼がアンデルである事を明確に表す言葉。

 

「まず……そのお姿は、どうして……」

 

「大臣ならば知っておろう。このサマンオサ国には、二つの国宝がある。一つは、南の洞窟に祀られている<ラーの鏡>。そして、もう一つが、この杖だ」

 

 何とか絞り出した大臣の疑問に、悠然と答えるその姿もまた、生前の国王その物である事に、大臣とサイモンは戸惑うが、目の前に突き出された一つの杖に更に驚かされる。

 それは、真っ直ぐに伸びた金属製の杖の先に、丸い宝玉が嵌め込まれた物。

 まるで宝玉を護るように、杖の上部は金属の板が円を描き、その宝玉は青く怪しい光を帯びていた。

 金属製とは言っても、その輝きは鉄や鋼鉄とは異なり、人工の物ではない事が窺える。

 それこそが、サマンオサ国の二大国宝の一つである<変化の杖>であった。

 

「これは、変化の杖と呼ばれる物。念じた者に成り代わる事が出来る杖だ。兄上の寝室に掛けられてあった」

 

「そ、それは解りましたが……何故、国王様のお姿に……」

 

 何処か誇らしげに杖を見せるアンデルの姿に、サイモンは思わず口を開いてしまう。

 英雄とはいえ、位の低いサイモンは、次期国王と大臣の会話に口を挟む権利を有してはいない。本来であれば、叱責と共に軽い罰を受けるのであるが、当の大臣もまた、目の前の光景に取り乱していたのだろう。サイモンを見たまま一つ頷いたアンデルの答えを待つ事にした。

 

「兄上はあのようにおっしゃられたが、私には国王となる才はない。名君と謳われた兄上がこの世を去り、私のような者が国を継ぐ事となれば、この国の民達は戸惑い、迷う事だろう。貴族達も皆、この国を去ってしまうかもしれない」

 

「そ、そのような事、断じてありません!」

 

 しかし、待っていたアンデルの答えを聞いた時、大臣もサイモンも自分達の愚行を悔やんだ。

 このような答えを待っていた訳ではなく、そのような答えをする者の後見を託された訳でもない。強い失望と、強い哀しみが胸を打つ中、大臣は何とか声を振り絞り、アンデルの答えを否定した。

 だが、そんな大臣の言葉にも耳を貸さず、アンデルは静かに首を横へ振る。

 

「私は決めた。今後、私を兄と思って仕えてくれ。兄のように広い視野を持っている訳ではないが、私なりに努力し、少しでも兄に近づけるように生きるつもりだ。今日より、王弟アンデルはこの世にはいない。二人もそう心得よ」

 

 強い意志と、何よりも強い拒絶。

 それは、筆頭とはいえども、一大臣と一家臣に拒む事が出来る者ではなかった。

 零れ落ちそうになる涙を堪えながら、サイモンは深く頭を下げ、この偽りの国王に忠誠を誓うのだ。

 先代国王から受けた命を遂行するために、月に誓った想いは、先代国王の姿を模す王弟に裏切られて尚、破られる事はない。

 それは、サイモンに遅れて跪いた筆頭大臣も同様であった。

 

 王弟アンデルは、不慮の病でこの世を去ったと公表され、大々的な葬儀も行われた。

 豪華な棺桶には、重みを誤魔化す為に家畜の肉を入れ、そのまま王家の墓へと埋葬される。元来、尊い一族である王族の亡骸を見る事は叶わないという風習があった事が幸いし、アンデルの死は正当に執り行われた。

 だが、一部では、アンデルは死んだのではなく、武者修行の旅に出たのだと噂する者も多かったと云われている。

 その噂の出所は、宮廷内部とも、城下町の一角とも、サマンオサ城下町では囁かれていた。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

過去編は余りにも長く二話に分けました。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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過去~サマンオサ②~

 

 

 

 そして月日は流れる。

 王弟アンデルが偽国王として玉座に鎮座する事になってから二年の月日が経った頃、『魔王バラモス』の影響は無視できない程までに増大し、世界を覆い始めていた。

 サマンオサも例外ではなく、世界を覆う闇と同様に、未来に対する不満と、現状に対する僅かな疑念を抱く民達の心は荒んで行く。国民は、何処かで少しずつ国家が変化している事を実感しているのかもしれない。それは、今は見えずとも、少しずつ国家を蝕んで行く猛毒となるだろう。

 王弟アンデルが努力していないとは言わない。

 兄であり、名君であった先代を追いかけるように、合議に参加し、周囲の意見を聴き、自分の考えを成り立たせている。だが、それは所詮紛い物に過ぎないのだ。

 国王アンデルとして、先代へ近付こうと努力しているのであれば、それは周囲にも理解出来るだろうし、落胆する者もいるかもしれないが、それでもその努力を嘲笑う者はいない。

 だが、先代国王の姿のまま、能力だけが落ちれば、それは疑惑となる。

 『国王も老いてしまったのか』という僅かな落胆は不安となり、宮廷の重臣内に渦巻き始めていた。

 

「このままでは、サマンオサ国は魔物に呑まれてしまうのではないか?」

 

 以前と同様に魔物討伐の軍を率いて出陣していたサイモンが、帰還途中で空を見上げて呟いた頃、一人の青年がサマンオサを訪れる。

 帰還後、即座に王宮に呼び出されたサイモンは、討伐の成果の報告も兼ねて謁見の間へと向かった。

 通された謁見の間には、国内の重臣達が揃い、先代の姿をした王弟アンデルが玉座へと腰を下している。だが、サイモンは、召集された自分よりも先に、玉座の前で跪く者がいる事に驚きの表情を浮かべた。

 

「サイモン、大義である。此度も無事魔物討伐の命を果たした事、余も嬉しく思う」

 

 王弟アンデルは、変化の杖で姿を変えてからは、自身の呼称を『余』と改めた。

 それは、生前の先代国王が使用していた呼称ではあったが、実力が伴わない者が使うと、虚勢にしか聞こえないというのも事実。

 実際に、その呼称を聞く度に、サイモンは何処か寂しい物を感じてしまっていた。

 それが、先代国王と比べてしまっているという不敬な行為である事を理解していても、先代と同じ姿形をしている以上、それは致し方ないのかもしれない。

 

「この者は、辺境国であるアリアハンの英雄と名高いオルテガという。その名はお主の耳にも届いておろう」

 

 玉座の前まで近付いてから跪いたサイモンに、声が掛かる。

 その言葉を確認するように、顔を横へ向けたサイモンは、同じように跪く青年の姿を見て、国王の言葉に納得してしまった。

 アリアハンの英雄の話は、ここ数年で聞くようになった名である。

 周辺国を旅し、その地域で苦しむ者達の為に魔物を討伐いて行く程のその男は、世界の中でも小国に分類される辺境の国であった、アリアハンという島国の出身であった。

 剣の腕だけではなく、神魔両方の呪文を行使する事が出来ると云われており、その男の存在が、アリアハンという小国を支えていると言っても過言ではないとさえ語られる存在であったのだ。

 

「此度、アリアハン国は、このオルテガに『魔王バラモス』の討伐を命じたとの事。その為の援助を申し出て参った」

 

「それは……良き事と存じます」

 

 『魔王バラモス』という存在は、この世界の現状を悪くしている元凶である。『人』という種族だけではなく、全ての生き物にとっても、その存在は脅威であり、この世界の未来を覆う深い闇でもあった。

 そのような諸悪の根源の討伐は、全人類の希望であり、要望でもある。

 そして、噂を信じるのであれば、サイモンの横で跪く青年には、それだけの力があると考えられた。

 

「ふむ……余も、出来る限り援助をしたいと思う」

 

 サイモンの返答に対し、満足そうに頷きを返した国王は、自国の状況を把握して尚、援助の申し出を受ける事を口にした。

 先代国王が存命の頃から、王弟アンデルの考えは、魔王討伐にあった言っても良い。『魔王バラモス』さえ排除すれば、この悪循環に終止符は打たれ、全てが上手く回り出すと考えていた節もあった。

 それは、大臣やサイモンにとっては甘い考えであったが、世界中がその考えに傾いている傾向があり、国王の言葉に重臣達も了承を示す。

 

「だが、この場にオルテガしかおらぬが、供の者はおらぬのか? 『魔王バラモス』という魔物の頂点を打ち倒すには、一人だけというのは難しいのではないか?」

 

「……畏れながら申し上げます。ここまでの旅で、何度か共に歩む者達はおりましたが、命を落とす者も多く、今は申し出をお断りしております」

 

 国王からの問いかけに、直答の許しを請い、オルテガという名の青年は口を開いた。

 その言葉を聞いた玉座に座る王の瞳は見開かれ、隣で跪くサイモンは言葉に詰まる。周囲を囲んでいた重臣達だけではなく、玉座の横に立つ大臣までも言葉に窮してしまった。

 この世界の全ての人間の頭の中には、『魔王バラモス』という存在しかない。例え、自分達が多くの魔物達によって苦しめられていたとしても、『魔王バラモス』という諸悪の根源を討伐すれば、その魔物の脅威さえも無くなるとしか考えていないのだ。

 だが、現実は異なる。

 『魔王バラモス』という存在の根城さえも把握できていない中、それに向かって旅を続けているという事は、その道中で多くの魔物達と戦闘は必然なのだ。

 その魔物達も『魔王バラモス』へ近付けば近付く程に強力になって来る。生半可な実力の者達であれば、太刀打ちは出来ないだろう。しかも、このオルテガという青年が旅立ったのは、既に何人もの『勇者』が旅立った後である。

 世界中の実力者達が既に旅立ち、散って行った後であれば、呪文の実力者達も、剣の実力者達も国に囲われている者ばかりとなる。自国の防衛をしなければならない国家にとって、実力者の確保は死活問題になってしまうのだ。

 

「そうか……やはり、一筋縄ではいかぬ旅であったか……」

 

「異種族の者達の中にも、同道してくれている者達はおりますが……」

 

 落胆の息を吐き出した国王に向かって、続けて発せられた言葉は、故意的に途中で途切れた。

 王弟アンデルは名君の弟として比較されてしまうが、決して暗愚な人間ではない。オルテガのその言葉だけで、その全てを把握した。

 この場所は『人』が造った国家の中枢。

 その場所に異種族が入り込めば、快く思わない者も多いだろう。オルテガに同道している者達の中に異種族の者がいるとなれば、それはオルテガへの蔑みにも変わる事がある。それだけ、『人』の心も荒んでしまっているのだ。

 

「サイモン! お主も共に行くのだ!」

 

「なっ!」

 

 暫しの間、憂いの表情を見せていた王弟アンデルだったが、何かを決心するように、オルテガの隣で跪く者へ声を張り上げる。

 その言葉に、謁見の間に居た者達は全て、驚きの表情を浮かべた。

 サマンオサ国の現状を正確に理解している者である程、その驚きは大きく、自身の耳を疑ってしまう程の言葉に声を失う。跪いていたサイモンでさえ、その顔を弾かれたように上げ、玉座に腰を下ろす者の顔を凝視してしまった。

 

「畏れながら、国王様……現状の国勢を鑑みると、サイモンを旅に出すのは愚行と思われます」

 

「魔王を倒さねば、このサマンオサ国も無事では済まぬぞ?」

 

 声を失ったサイモンの代わりに、玉座の横に立つ筆頭大臣が重い口を開いた。

 それは、諫言といっても過言ではない程の厳しい言葉。

 主君の勘気を怖れる者であれば、口に出す事は有り得ない程の物である。

 国王が発した物を、愚行として断じたのだ。それは、国王の決断を真っ向から否定する所業である。短気な王であれば、首を刎ねかねない言動と言えるだろう。

 しかし、元々、王弟アンデルは、自身の器が足りぬ事を知っている。故に、その言葉に腹を立てる事もなく、意見の一つとして受け入れ、それを考慮にいれて再び口を開いた。

 

「畏れながら……国王様の御懸念は最もと存じます。しかし、私には私の別の使命がございます。その使命を果たさぬまま、このサマンオサを離れる訳には参りません。何卒……何卒、このサイモンに、サマンオサ国の為に働くご許可を」

 

「私からもお願い申し上げます。今のサマンオサ国に、サイモンという男は不可欠であります。何卒、ご再考の程を」

 

 しかし、王弟アンデルの言葉は、彼が最も信頼する二人の寵臣によって遮られる。

 彼等のその表情を見る限り、その嘆願が、己の保身の為の物ではない事ぐらい、アンデルにも理解出来た。

 彼等は、先代国王から、このサマンオサ国とアンデルという王弟を託された経緯がある。それ故の嘆願である事が理解出来るだけに、当の王弟アンデルは、己の未熟さを悔やみ、表情を強張らせる。

 そんな国王の眉の顰めは、他者から見れば危うい物と映るのだ。

 諫言とも聞こえる重臣二人の言葉に立腹した国王が機嫌を損ねたとも映り、周囲の重臣達のざわめきが起こり始めた。

 

「畏れながら、サマンオサ国王陛下に申し上げます。国王陛下の寛大な御配慮、このオルテガ、心より感謝申し上げます。しかしながら、そのような寛大な御配慮を頂いた国王陛下のお国に、これ以上ご迷惑をお掛けする訳には参りません。名高きサマンオサ国の英雄であるサイモン様が共に歩んで下さる事は大変栄誉な事ではありますが、平にご辞退を申し上げます」

 

「むっ……そうか……ならば致し方ない。我が国から、同道者を出せない代わりに、そなたの望みである援助は出来る限り致す事を約束しよう」

 

 不穏な空気が広がり始めた謁見の間に響いた声は、とても力強く、誰の言葉も聞き入れない程の決意に満ちていた。

 その声と言葉を聞き、王弟アンデルは、これ以上の問答は無意味である事を悟る。無理やりオルテガへ同道者を押し付けたとしても、世界を味方に付けて戦う英雄の印象を損ねてしまうだけなのだ。

 オルテガは、数多くの国家の援助を受けて旅をしている。しかし、ここで強引にサイモンを連れ出してしまえば、サマンオサ国の民衆の支持は得られない。そればかりか、国王の姿を模したアンデルの地位さえも揺らぎかねない物だった。

 

「アリアハン国の英雄オルテガの旅に、多くの加護があらん事を」

 

 その言葉で、世界を救う為に旅を続けるアリアハンの英雄との謁見は幕を閉じた。

 サマンオサ国の英雄と名高いサイモンよりも若い新たな英雄は、再び城下町を出て、果てしない旅へと戻って行ったのだ。

 そして、この時の決断を、王弟アンデルは生涯悔やむ事となる。

 

 

 

 更に時は流れ、魔物の脅威は増して行った。

 十年程以前にこのサマンオサ国を訪れた他国の英雄は、その志半ばで倒れていた。

 『魔王バラモス』は未だに健在であり、その魔力の影響は、日増しに大きくなっている。まるで、影響を及ぼす魔力自体が強大になっているようにさえ感じる物だった。

 『魔王バラモス』の根城があると噂されるネクロゴンドの麓にある村も、その大きくなる瘴気によって滅ぼされたという話まで、サマンオサ国へ届いている。

 

「もし、あの時、強引にでもお主を同道させておれば、バラモスを討伐出来ておったかもしれん」

 

「いえ……そのような事はありませんでしょう」

 

 サマンオサ国城の謁見の間で、玉座に腰を下ろす王の言葉に、髪に白い物が混じり始めた戦士が答える。

 既に、名高きサマンオサ国の英雄も、齢四十を超えてしまった。

 魔物との戦闘などによって命を落とす事も多い『戦士』等の中では、かなりの長命であるとは言えるが、その力も年齢と共に衰えて行く。以前よりも魔物討伐で部下を多く連れて行くようになったサイモンは、まるで自身の後継者を育てようと考えているようであった。

 

「お主の腰には、大地の女神から授かったと云われる剣があろう。その剣があれば、オルテガも火口で命を落とす事はなかったのではないか? この世界の大地を冠する名を持つ、その剣であれば……」

 

 王弟アンデルは、自身の前で跪く英雄の腰に下がっている剣を指差し、小さな溜息を吐き出す。その溜息を受け、サイモンは深々と頭を下げた。

 英雄サイモンの腰に下げられている剣こそ、このサマンオサ国の英雄が持つ神代の剣。

 若かりし頃のサイモンが、国外より持ち帰ったその剣は、大地の女神から『人』が授かった物という言い伝えが存在していた。

 ガイアの剣と名付けられたその剣は、この世界を意味する言葉を冠する剣。

 その一振りで地を割り、もう一振りで大気を割くとさえ伝わるその剣は、サマンオサ国が有する二つの国宝にも劣らぬ伝承を有していた。

 

「この剣には、そこまでの力はございません。それは、長年共にし、幾度となく振り続けた私が、一番理解しております」

 

「そうか……」

 

 サイモンの言葉に落胆を見せた彼は、あれから一度として王弟アンデルとしての姿を見せた事はない。

 変化の杖とて万能ではなく、その効力は有限である。

 時間と共に、その姿は元に戻ってしまうのであるが、彼はその度に変化の杖を振り、自身の兄の姿へと変化していた。

 兄の姿を借りたまま、十年以上の月日を過ごした彼は、国王の後妻として、一人の妾を王宮に入れ、その女性との間に姫を儲ける。

 久方ぶりの王族の誕生に国内は湧き、それまで沈み切っていたサマンオサ国にも明るい光が差し込んだ。

その姫も今年で十を数える歳となる。

 母親である妻は、数年前に流行り病で命を落としたが、健やかに育つ姫の姿は、疑惑が広がっていた王宮の中を変えて行った。

 王弟アンデルの力量が先代に及ばない事に変わりはないが、それを補うように重臣達が積極的に動くようになり、先代の願いであった自給自足の国家という基盤も出来つつある。その功績を少しも誇らず、功績は重臣達の物と謳う国王の姿に、重臣達は益々やる気を出し、サマンオサ国は少しずつ良き方向へと進み始めていたのだ。

 

 だが、それも、仮初の安寧であった。

 時は無情にも訪れる。

 自身の姿を隠し、兄の威光を借りていた偽国王への酬いは、非情な形で下された。

 

 

 

「サイモン様、至急のお呼びでございます」

 

 成人間近の息子に剣の稽古を付けていたサイモンは、急使の来訪によって、即座に身支度を整えて登城する。

 謁見の間に通されたサイモンは、その場に筆頭大臣しかいない事に、嫌な既視感を覚えるが、そのまま大臣に続いて王宮の奥へと進んで行った。

 向かった先は、国王陛下の寝室。

 以前と同様の到着先に、サイモンは胸騒ぎを覚え、前に立つ大臣の顔色を窺うが、その厳しい表情の内にある感情までは読み取る事が出来ない。

 

「国王様、サイモンを連れて参りました」

 

 部屋の扉を叩いた大臣は、中からの返答を待たずに、その扉を開けた。

 人が一人通れる程度に開けられた扉から滑り込んだ大臣を追うように、サイモンもまた部屋の中へと滑り込み、即座にその場で跪く。

 

「サイモン、面を上げよ」

 

 しかし、即座に掛けられた声を聞いた時、サイモンは驚きを露にし、指示どおりに顔を上げて、更に驚愕した。

 その声は、この十数年の間聞く事が出来ず、十数年ぶりに聞く事の出来た声。

 彼が敬愛していたサマンオサ先代国王の弟にして、皇位継承権第一位に座していた同年代の青年の声だったのだ。

 僅かに年老いた感のある声色ではあったが、その声をサイモンが忘れる筈もなかった。彼が先代から託され、命に代えても護ると決意した相手の声なのだ。

 そして、顔を上げたサイモンの瞳に映る姿も、十数年の年齢を重ねているとはいえ、昔の面影を色濃く残すその顔は懐かしさと共に、感動を覚える程の成長を見せている。昔は、経験も自信も皆無であった王弟は、幾多の政務を重ねる事によって、良い意味での年齢を重ねていた。

 それが明確に表れていた表情を見たサイモンは、驚きを忘れ、感動が湧き上がる胸を抑える事に苦心していたのだが、そんなサイモンの感動を呼び込んだ表情は瞬時にして崩れ去る。

 

「変化の杖が何処にもないのだ。あれが無くては、兄上の代わりはこなせぬ。盗まれたのではないか!? 国宝たる変化の杖を盗むとは、万死に値する!」

 

「こ、国王様……」

 

 突如発狂するように叫び始めたアンデルの姿に、サイモンは言葉を失った。

信頼する寵臣がいない間は、毅然と気を張っていたのだろう。だが、ようやく心を許せる者達が揃った事で、アンデルの心を支えていた物が崩れ、余裕を奪ってしまったのだ。

 故に、アンデルには、先代国王の姿でない自分を、周囲に人がいないこの場所で尚、『国王様』と呼んだサイモンの心が届かない。先程までの彼の姿を見て、このサマンオサ国を任せるに足る人物になっていると認めた事に気付かないのだ。

 

「大臣、サイモン、変化の杖を探してくれ! 私は、ここから一歩も出ぬように心がける。誰もここへは近づけるな、良いな!」

 

「し、しかし国王様……」

 

 もはや、大臣の言葉も、サイモンの言葉も届かない。

 完全に混乱状態に陥ってしまったアンデルは、縋り付いていた物の消失に心を惑わされ、自身が積み重ねて来た経験と自信を投げ捨ててしまっていた。

 それがどれ程哀れな事か、どれ程に哀しい事か、どれ程に落胆する物なのかを、大臣もサイモンも知っている。それでも、彼以外にこのサマンオサを治める血筋を持つ者がいない以上、彼等はその命を受け入れなければならない。

 深々と頭を下げた後、二人は王室を退去した。

 

「サイモン、この国は限界なのかもしれない……」

 

 王宮を出て、謁見の間に戻った大臣は、静かに口を開く。

 その呟きはとても小さく、そして小さい震えを帯びていた。

 それが、大臣の心を明確に表していたのだろう。先程見たアンデルの取り乱し様は、ここまでの十数年を堪えて来た者の心をも壊してしまう威力を秘めていた。

 軽い溜息と共に吐き出された言葉は、それだけの重みと哀しみを持っていたのだ。

 だが、その傍に立つもう一人の男の考えは異なっていた。

 

「お言葉ではございますが……王室に入った直後、私はアンデル様の前で、もう一度臣下の礼を取りたいと思いました。私の命を賭けるに惜しくはない王だと……。国宝を奪われた事は一大事ではございますが、これを機にアンデル様自らが玉座に腰を下して頂ければ、サマンオサは変わります」

 

「ふむ……その為に、我らはアンデル様の噂を流したのだったな」

 

 王弟アンデルの死という事を事実として公表する傍らで、大臣とサイモンは、小さな噂を国内に流していた。

 それは、アンデルは生きており、いつ戻るか解らない武者修行に出ているという噂だ。

 噂とは、出所を突き止める事は困難であり、誰が聞いたのか、誰が話したのかというは噂をする人間達にとっては必要のない情報である。しかも、それが王族の人間が生きているという、国民の願いも含まれた伝説のような噂であれば、宮廷で働く者達にとっても、敢えて処罰する案件ではなかったというのも一つの要因だろう。

 故に、その噂はサマンオサ国内を駆け巡り、今ではそちらが真実のように伝わっていた。

 

「変化の杖は、我が国にある二対の国宝の一つ。それの捜索は全力を挙げなければならぬが、例え発見できても、我々の手で封印する事も……」

 

「国王様を欺く咎は、甘んじてお受けいたしましょう」

 

 二人の決意は決まった。

 お互いに頷き合った二人は、それぞれの方角へと歩き出し、国宝の捜索へと向かう。国宝である以上、それが国内になければならず、万が一他国の物に盗難されたとすれば、その者を見つけ出して処断しなければならない。その時こそ、サイモンの腰で輝く剣の出番となると二人は考えていた。

 だが、その二人の目論見も、翌日には散ってしまう事となる。

 

 

 

 「こ、国王様!」

 

 変化の杖の捜索に思うような成果はなく、王の不在の理由を重臣達へ語ろうと謁見の間に姿を現したサイモンは、玉座に座る者の姿を見て、驚愕に声を発してしまった。

 玉座には、先代国王の姿そのままに、こちらへ視線を向ける者が腰を下していたのだ。それは、何処から見ても国王その者であり、誰しもがその姿に疑いを見せる事無く、国王の傍で跪いている。

 しかし、サイモンは、玉座に座る人間が先日まで腰を下していたアンデルではない事を本能的に悟っていた。

 姿形は、間違いなく先代国王の物。そこに疑いの余地はないが、先代国王の死を知っているサイモンにとって、変化の杖によって誰かが姿を模した物である事は明白である。そして、玉座に座る者の醸し出す空気の禍々しさが、サイモンの考えを如実に表していた。

 そして、それは玉座の傍に立つ大臣が首を横へと振った事で確定される。

 玉座に腰を下ろす者は、サマンオサ国の王族とは何の縁もない者なのだ。

 

「サイモン、お主に命を下す。南の洞窟に赴き、ラーの鏡を破壊して参れ」

 

「なっ!?」

 

 跪くサイモンに掛けられた最初の言葉が、謁見の間を騒然とした空気に包み込む。

 それは、誰しもが予測もしていなかった物であり、誰もが疑惑を持つに等しい物でもあった。

 ラーの鏡とは、サマンオサ国の創始者である国王が、『精霊ルビス』より授かったと伝えられる二対の宝物の一つ。

 真実を映し出し、その全てを変える力を持つと謳われる程の力を有した鏡。

 それは今、サマンオサの南に位置する場所にある洞窟内の祭壇に祀られ、ラーの鏡自体が造り出す結界によって護られている。

 サマンオサ王族でなければその結界は破れないとも、『精霊ルビス』の加護を持たぬ者には触れる事が出来ない物とも云われていた。

 そのような神代の宝具の破壊を命じるという事自体、国王の言質を疑うに値する物であったのだ。

 

「し、しかし……」

 

「余の命が聞けぬのか!? 命に背くとあれば、死罪を申し渡す!」

 

 その瞬間、謁見の間は大きなどよめきに満たされた。

 国家の英雄であるサイモンに死罪を申し付けるなど、今までの国王では考えられぬ物であったのだ。

 サイモンは、一家臣でありながらも、国王に重用されていた経緯がある。それを妬む者も少なくはなかったが、それでも国家を守護する英雄であるからこそ、その権利は認められていたのだ。

 だが、この国王の命は、立ち並ぶ様々な重臣達の胸の奥に眠っていた暗い感情をも浮かび上がらせてしまう。嫉妬や憎悪のような暗い感情は、死罪を言い渡されて驚きを露にするサイモンの姿に笑みを溢すという、醜い表情を生み出す。それは、一人や二人という数ではなかった。

 

「国王様、お待ちください。未だにサイモンは命に背く様な事は申しておりません。サイモン、国王様の命である。速やかに遂行せよ!」

 

「は、はっ!」

 

 奇妙な空気が渦巻く謁見の間で、助け舟を出したのは、筆頭大臣であった。

 即座に、命を復唱する事で、もう一度サイモンに返答をする機会を与えたのだ。それを理解したサイモンは、言葉に詰まりながらも、深々と頭を下げる。

 そんなサイモンの姿を見た国王の姿を模した者は、不愉快そうに鼻を鳴らし、踵を返して謁見の間を出て、王宮へと入って行った。

 国王が消えた謁見の間から、また一人、また一人と重臣達が消え、最後に筆頭大臣とサイモンだけが残る事となる。

 

「サイモン、アンデル様は外へお逃がしした。早急に庭に出て、アンデル様を保護してくれ」

 

「大臣様、あの者は何者なのでしょうか?」

 

 王弟アンデルの無事を聞いたサイモンは、一度大きな溜息を吐き出し、再び大臣を見上げる。そんなサイモンの視線を受けた大臣は、静かに首を横へと振った。

 何者かは解らないが、あの国王の右手に握られていた物は、見間違う事無く変化の杖その物である。重臣達は誰一人として気付いていないが、一度見た事のある二人には、瞬時にその正体を看破出来たのだ。

 

「解らぬ。だが、あの禍々しい雰囲気は、並大抵の物ではあるまい。強く心を律しなければ、あの空気に飲み込まれてしまうようであった」

 

「あの者……恥ずかしながら、私でも敵う相手であるかどうか……」

 

 サマンオサ国の英雄であり、世界的にもその名を轟かす程の男が、そのような弱気な事を口にした事に、大臣は驚きを露にした。

 しかし、歴戦の勇士であるサイモンが相手の力量を測り間違う訳はないと考え、大臣は気を落ち着かせると共に厳しい視線をサイモンへと送る。

 

「変化の杖を奪われている今、あの者をどうにかする事は難しい。まずはアンデル様を安全な所へお連れするのが先だ」

 

「はっ」

 

 大臣の言葉は尤もであり、サイモンにも反論する余地はなかった。

 変化の杖で姿を変えられてしまえば、時間の経過を待つ以外にそれを見破る方法はない。国王の死を知っている人間は、大臣とサイモン、そしてアンデルという王弟だけである以上、何を喚いても意味を成さないだろう。

 今やるべき事は、唯一の王族であるアンデルの保護と、その娘である姫の保護に他ならない。

 

「姫の身柄は、私が保護した。娘である姫を害する可能性はないと思うのが、念には念を入れる必要があるだろう。アンデル様の保護場所も、サイモンの自宅では駄目だな……」

 

 娘であるという筈の姫を害すれば、王への疑惑は決定的な物となり、国王の姿形を似せていても、無駄な事になる筈。

 あくまでも可能性の話ではあるが、この大臣は先を読んで手を打っていたのだ。

 そして、肝心の王弟を匿う場所に関しても、考えを巡らせていた。

 今回の謁見で、サイモンは偽国王の勘気に触れてしまっている。余りにも理不尽な物ではあるが、その勘気は彼の家族へも及ぶ可能性があった。

 

「サイモン、まずはそなたの妻と子を、サマンオサ城下町から遠ざけよ。その後、アンデル様のお顔が見えぬように布を掛け、地下牢の入り口まで来るのだ」

 

「ち、地下牢でございますか?」

 

 大臣が矢継ぎ早に捲くし立てる言葉を聞き、サイモンは思考が追い付いて行かなかった。

 自身の家族の移住場所を考えようとする矢先に、今度はアンデルの移動場所を告げたのだ。しかも、それは想像すらしていなかった場所。

 驚きの余り固まってしまったサイモンに眉を顰めた大臣は、叱責のような言葉を投げかけ、即座に対応するように指示を出す。我に返ったサイモンは、そのまま城下町へと飛び出し、家族の移動を始めた。

 

 城下町から少し離れた場所にある農村のような小さな集落へ家族を移動させたサイモンは、城の勝手口傍の茂みに身を隠していたアンデルに布を被せ、薄暗くなり人が少なくなった王城内を移動する。

 城の北側に位置する場所にあるのが、このサマンオサ国にある地下牢への入り口である。湿った空気と不快な臭いに満たされたその場所に初めて足を踏み入れたアンデルは、その先に見えた光景に絶句する。

 朽ち果て、骨に成り果てた者や、未だに苦痛に喘ぐ者。

 その悲惨さは様々であるが、罪を犯した者の末路は、華々しい場所で生きて来たアンデルにとって、その世界観を大きく変えてしまう程の物であった。

 

「お待ちしておりました」

 

 既に門番のような者はおらず、その場所には大臣が控えていた。

 牢獄の鍵を開け、中へと誘われたアンデルは、周囲のおぞましい光景を目にしないよう、固く目を瞑りながら、手を引くサイモンの腕を強く握り締める。

 牢獄など、それ程の広さがある訳ではない筈であるが、アンデルは想像以上の距離を歩かされる事となった。

 その間に、何故か更に下へと続く階段を降りた感覚があったが、アンデルは何も言わずに、ただ引かれるままに、牢獄を歩いて行く。

 

「こ、このような場所が地下牢の中に……」

 

 下へと続く階段のような物を降りた先辺りから、先程まで感じていた不快な臭いや、べたつく様な湿り気を感じなくなり、それについてアンデルが違和感を覚えた頃、隣で手を引いていたサイモンから、驚きの声が上がるのが聞こえた。

 恐る恐る顔を上げたアンデルは、自身の想像以上の物を見上げる事となる。

 それは、地下牢にある筈の無い程の建物。

 正確に言えば建物と呼べる程の物ではないが、壁と扉がある時点で、地下牢にあるべき物ではない事は明白であった。

 

「昔、王族の方が罪を犯した事がありました。反逆のような物ではありませんでしたが、厳格な国王は、その王族を地下牢へ入れるよう命じたそうです。その際に作られたのがこの場所です」

 

 確かに、罪を犯したとはいえ、王族は王族。

 国王に反逆するような重い罪でなければ、蓋をされてしまうのが通常である。

 だが、その時代の国王はそれを許さなかった。

 一般の者と同様に地下牢でその罪を償う事を命じたのだ。

 困惑したのは、家臣たちであろう。如何に罪人とはいえ、高貴な血を継ぐ王族を無碍には出来ない。故に、牢獄内にこのような立派な物を作り上げたのだ。

 

「アンデル様、申し訳ありませんが、この場所で時をお待ち下さい。我々の力で、何とかあの偽国王の正体を明かし、再びアンデル様に玉座をお返し致します」

 

「このサイモンの命に代えましても」

 

 扉を開けて中に入ると、アンデルは再び驚きを露にした。

 中にはベッドのような寝具まであり、とても罪人が過ごす場所ではなかったのだ。しかも、その場所で時を稼ぐ為の食料は支給され、水は地下から湧く綺麗な水を溜める場所さえも存在している。自身の前で跪く二人の寵臣達を見たアンデルは、小さな笑みを浮かべた。

 しかし、それは何処か自嘲気味な空気の漂う物。

 

「偽国王が、新たな偽国王に取って代わられただけだ」

 

 力ない笑みを溢すアンデルを見て、大臣もサイモンも言葉に窮してしまった。

 アンデルは、妾腹の子とはいえ、確かに高貴な血を継いでいる。だが、その血は彼にとって自信となる物ではなく、逆に重荷となっていたのかもしれない。

 それを理解した大臣は、一度深く頭を下げると、静かに扉の外へと出て行き、その後をサイモンを続いた。

 

「今、アンデル様が表に出ても、余計な混乱を招くだけだ。お前は偽国王の命を受け、そのまま南の洞窟へ向かえ。そして、ラーの鏡を破壊するのではなく、ここへ持ち帰るのだ」

 

「はっ……しかし、私のような者が、ラーの鏡に触れる事が出来ますでしょうか?」

 

 大臣の言葉に頭を下げたサイモンであったが、その命には一抹の不安があった。

 それは、神代からの国宝に、下級騎士の家系の自分が触れる事が出来るのかという物。

 高貴な血を受け継ぐ王族ならばまだしも、英雄とはいえ、一家臣に過ぎないサイモンが触れる事が出来る確証などないのだ。

 

「そなたは、ガイアの剣という神代の武器を所持している。それは大地の女神から授かりし物。ならば、『精霊ルビス』様の加護高きラーの鏡にも触れる事は出来るであろう」

 

 大臣が紡ぎ出した推測は、所詮勝手な解釈にしか過ぎない。

 だが、一刻の猶予も許されない状況を考えると、サイモンは、その言葉に頷く他なかった。

 そして二人は別れる。

 大臣は、偽国王の下で情報を集めながら、アンデルの庇護を行い、その間にサイモンはラーの鏡を持ち帰り、決定的な証拠を作り出す。

 だが、彼等は、失念していた。

 正体が解ったとしても、それに抗える力がこのサマンオサに残っているかという可能性を。

 

 

 

 サイモンは、自身の直属の部下達を引き連れて、ラーの鏡を求めて旅立った。

 部下達は、皆精鋭揃い。選りすぐりの者達を従えて向ったサイモンではあったが、予想以上の魔物達との遭遇回数によって、その行軍は遅れに遅れる事となる。

 彼等が南の洞窟に着いた頃には、サマンオサ城下町を出てから十日が経過していた。

 それでも、南の洞窟に入ろうと進んだサイモンは、そこで自分達が罠に陥った事を知るのだ。

 

「サイモン様!」

 

「取り乱すな! 初見の魔物等、一体もおらぬ!」

 

 南の洞窟の入り口付近には、埋め尽くす程の魔物達がサイモン達の到着を待っていた。

 その数は、サイモン達の人数の数倍。

 サイモンの言葉通り、初めて見る魔物は一体もいないが、その数は暴力的なまでの物である。如何に英雄サイモンを有する精鋭達といえども、その数を相手に勝利する事は、万に一つも有り得ないだろう。

 襲い掛かって来た一体をガイアの剣で斬り伏せたサイモンは、剣を抜き放った部下達に大声で命令を下した。

 

「深追いはするな! ルーラを行使出来る者は、詠唱の準備に入れ! 一度サマンオサへ引く!」

 

 目の前で豪快に振るわれたコングの腕を避けたサイモンは、その魔物の胸にガイアの剣を突き刺し、一歩後ろへと下がる。

 命令通り、詠唱の準備に入った数人の部下達を護るように、他の部下達が構えを取っている中、サイモンはゾンビマスターの腕を斬り落とし、そのまま近寄って来たもう一体を袈裟斬りに斬り伏せた。

 

「サイモン様、詠唱を始めます!」

 

「私は、自身のルーラで戻る。ルーラで戻った後、お前達は城下町へ入るな!」

 

 詠唱の準備が終わり、数人に服を掴まれた部下がサイモンに声を掛ける。その声に反応したサイモンは、最後の命を与え、飛び行く魔法力の塊を見上げた。

 その隙をついたコングの腕を盾で受けたサイモンの身体は、洞窟の入り口側へと弾き飛ばされ、体勢を立て直そうとした時、彼の脇腹から、一本の剣が生えて来た。

 洞窟内部から顔を出したアンデッド系のモンスターである骸骨剣士の持つ一本の剣が、後方からサイモンの脇腹を抉ったのだ。

 それでも強引に剣を抜き放ったサイモンは、即座に回復呪文を唱えるが、血が噴き出す状態での詠唱は完全な物ではない。ましてや、サイモンが行使出来る回復呪文は最下級のホイミであるのだから、傷が塞がり切れないという状況に陥った。

 

「な、なぜ……このような場所にアンデッド系が……魔王の魔力の影響がここまで強まっているというのか……?」

 

 アンデッド系の魔物というのは、元々生命の持たぬ者を強制的に蘇らせる物である。元々命の無い物質が魔物化するよりも、現実的には有り得ない物とされていた。

 長い年月と共に、徐々に形を成した魔物とは異なり、元々生命を持っていた肉体や骨格を利用している分、直接的な魔力の影響が必要となるのだ。

 『魔王バラモス』の影響が大きくなって来ている昨今である為、アンデッド系の魔物が出現する事も珍しくはないが、曲がりなりにも『精霊ルビス』の加護のあるラーの鏡が祀られている場所でアンデッド系の魔物が出現する程、サマンオサに瘴気が満ちていた訳ではない。

 腑に落ちない状況に表情を顰めながら、サイモンはホイミの行使を中断し、ルーラの詠唱を始めた。

 

「ルーラ!」

 

 振るわれたコングの拳を間一髪でやり過ごしたサイモンの身体は、魔法力に包まれたまま上空へ浮かび上がり、そのまま北の空へと向かって飛んで行った。

 

 

 

 サマンオサ城下町の入り口付近に戻ったサイモンは、居合わせた部下達によって傷を癒してもらい、その足で王城へと向かって歩き出す。

 その時、後を追うように歩き出した部下達を止めたサイモンは、彼等に次のように語りかけたのだ。

 

「おそらく、私は二度と戻らぬ。であればこそ、この場でお前達に告げておこうと思う」

 

 その言葉は、とても重く響き、尚もサイモンの後を追うと口にしていた部下達の口を閉ざしてしまう。

 誰もがサイモンの瞳だけを見つめ、その言葉だけに耳を傾ける。

 そして、その言葉は、彼等の未来を決定付ける物であった。

 

「必ず、真のサマンオサ国王が立ち上がる。その時、お前達が国王様を支えるのだ。それまでは、南の洞窟にあるラーの鏡を魔物達から護ってくれ」

 

 そして、誓いは成される。

 故郷であるサマンオサの町に入る事も許されなくなった彼等は、その身を魔物として扱われる事になろうとも、その誓いを破る事はなかった。

 サマンオサ城下町付近に出没するデスストーカーの誕生である。

 心を決め、誓いを遂行しようとする尊い志を胸に抱いた者達は、城下町へと入って行くサイモンの姿が人混みに消えて行くまで見つめていた。

 

 その後、城下町へと入ったサイモンは、登城する前に、王弟アンデルの許へと行き、今後の事を話す。

 サマンオサの現状、自分の境遇、サマンオサの未来を語った後、サイモンは涙ながらにアンデルへと言葉を掛けた。

 それは、この後十年近くの時を経て、アンデルの心に残り、再び彼の心に炎を点す言葉となる。

 

「アンデル様というお人そのものが、このサマンオサ国の王として相応しいと、このサイモンは信じております。先日、アンデル様の真のお姿を見て、ようやく先代国王様が信じておられた事が、このサイモンにも理解出来ました。私は、その礎を築く為、先代国王様との誓いを破ります。私の祖国を、この国で暮らす全ての者達の故郷を、お願い致します」

 

 サマンオサ国で英雄と称えられた者からの言葉は、何よりも重くアンデルの胸に沈み込む。

 歪む視界の中、サイモンの言葉を否定し、その行動を制しようとするが、英雄を止める事が出来る者はいないのだ。英雄とは、時として国王でさえ止める事の出来ない決意を宿す者。

 故にこそ、彼等のような者を、畏れ、讃え、『英雄』と称した。

 

 アンデルの許を離れたサイモンは、そのまま王城へと入り、謁見の間に向かう。

 謁見の間に入った時、玉座の周囲には重臣達が揃っていた。

 しかし、その余りに少ない数に、サイモンは疑惑を持つ。玉座の隣に立つ大臣の表情が曇っている事が、その疑惑に拍車をかける事となる。

 玉座の前に立ったサイモンは、跪こうとはしない。それは明確な反旗を意味する行為である事に、謁見の間に居る者達は驚き、一瞬の間、時間が硬直してしまった。

 

「サイモン、ラーの鏡は破壊して来たのか!?」

 

「いえ、大量の魔物に洞窟は囲まれており、中へ入る事さえも出来ませんでした」

 

 跪かないサイモンに対して、国王の姿を模した者の怒声が轟く。

 その声は、確かに先代国王の物である筈だが、その声量は全く異なり、まるで地底より響く音のように、人々の臓腑に恐怖を浸透させていた。

 その声を聞き、身を振るわせる重臣とは異なり、微動だにせずに答えるサイモンは、未だに国王に跪く事はない。その瞳には何かの決意に燃えるような炎が宿っていた。

 

「英雄と謳われた者の実力もその程度であったか!? しかも、命を果たせなかったにも拘らず、余の前で跪きもしないとは、反逆の意志の表れか!?」

 

 その言葉に周囲の兵士達がようやく我に返る。

 大臣やサイモンにはそれが偽国王だという確信があるが、周囲の者からすれば、少し性格は異なるが、姿形は以前の王その物である。故にこそ、王の命令は絶対であり、それに抗うサイモンは、英雄とはいえ反逆者となり得るのだ。

 手に持つ槍を一斉に横に構えた兵士達を見て、焦燥感に駆られたのは大臣であった。

 何とか場を鎮めようと考えるが、彼には頭脳はあっても武力はない。

 それでも国王の暴走を止めようと口を開きかけた彼の視界の端に、英雄サイモンの瞳が映り込む。

 その瞳を見た瞬間、大臣は全てを悟った。

 彼が、あの宣言通り、命に代えてもこの国を護るつもりだという事を。

 

「牢へぶち込んでおけ!」

 

 国王の命が下り、兵士達が動き出す。

 彼等のような一般兵士が何の抵抗もなく王の命に従い、それに対して重臣達が反発の声を上げないという事実が、サイモンが不在にしていたこの十日余りの時間で何があったのかを明確にしていた。

 この十日余りの時間で、既に何人もの人間が牢へ入れられ、処刑されて来たのだろう。今まで、国王と共に国を造って来たと自負する者達の心を追ってしまう程に頻繁に行われた凶行は、謁見の間に控える重臣の数を大幅に減らしていたのだ。

 

「処刑は明日、余自らが行う!」

 

 一般兵士に抑えられたサイモンは苦々しく表情を歪め、謁見の間には恐ろしいまでの静けさが漂う。

 サイモン程の力があれば、この場に居る一般兵士など容易く打ち倒す事は可能であっただろう。それでも、彼は自国の民を傷つける訳にはいかなかった。

 彼等は、この状況を正確に把握しておらず、国王という権力者の命に忠実に動いているのだ。それは、見方を変えれば罪となるが、堅固な国家を維持する為には重要な要素の一つでもある。

 故に、サイモンは、素直に地下牢へと進んで行った。

 

 

 

 その後、処刑は速やかに行われる。

 多くの兵士達に連れられて運ばれたサイモンは、サマンオサ城の北東にある『旅の扉』へ向かい、その場から知らぬ土地へと追放された。

 『旅の扉』近くにある『精霊ルビス』の像は、その際に、国王自ら破壊したとも、乱心したサイモンが破壊したとも云われているが、その真相は定かではない。

 何故なら、『旅の扉』を使って異国の土地へ向かった筈の者達は、国王唯一人を除いて、誰一人戻る事はなかったのだから。

 戻った国王の身体には、無数の傷があり、追放を受け入れる事を拒んだサイモンが国王に刃を向けたとして、国王はサイモンを反逆者として公表する。

 だが、その言葉を信じる者は、サマンオサ国民の誰一人としていなかった。

 それから始まるサマンオサ国の地獄が、それが正しかった事を物語っており、誰しもが英雄サイモンの帰還を待ち望んだ。

 

 交わされた数少ない誓いが実を結び、花を咲かせるその日を。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

本編の進行が遅くなってしまいますが、これが久慈川式サマンオサです。
私の中でのサマンオサ国王はこのような形でした。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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サマンオサ城③

 

 

 カミュ達の魔法力によって、一行がサマンオサ城下町へと降り立つ頃には、太陽は疾うの昔に地平線に隠れ、空には大きな月が浮かぶ時間帯になっていた。

 闇夜に響くふくろうの声が何故か不気味に響き渡り、まるでサマンオサ国の現状を憂いているようにさえ感じる。眠そうに目を擦るメルエへ手を伸ばしながらも、サラは周囲の空気の変化を感じて、表情を引き締めた。

 

「サイモン殿の部下達の姿が無いな……」

 

「これから起こり得る事を考えれば、国外に出る方が安全だろう」

 

 肌寒くすら感じる夜風が吹き抜ける中、城下町へと続く門の周囲を一通り見回したリーシャが静かに口を開く。その声は大きくはなかったが、静けさの広がる夜の闇の中で、一際通る物であった。その言葉を聞いたサラの表情は曇り、カミュは然も当然とでも言うように言葉を繋げる。

 確かに、彼等の使命は、<ラーの鏡>という国宝を護る事。それ以外の指示を、サイモンから受けていたかどうかを知らないカミュにとって、使命を果たした彼等がサマンオサ国を脱出していたとしても何等不思議な事ではなかったのだ。だが、そこはやはり、『象徴』としての道を歩んで来た、彼の限界なのかもしれない。

 

「いえ、あの方達は、国外になど出る訳はありません。必ず、この場所へ来て下さいます」

 

「そうだな……しかし、サラ、あの者達を待っている時間はないぞ?」

 

 強く、そして熱い瞳。それは、真っ直ぐに城下町の先に見える王城を見つめていた。先程まで歪んでいた表情は自信を取り戻し、自分達のやるべき事を見出している。それを証明するように、リーシャが発した忠告にも、サラは視線を変える事無く、一つ小さな頷きを返した。

 心が決まった『賢者』程、このパーティー内で強い者はいない。それを知っているリーシャは、笑みを浮かべ、カミュは静かに瞳を閉じる。メルエだけは、目を擦る手を止め、各々の行動の意味が解らず、小さく首を傾げていた。

 

「さあ、行こう」

 

「はい!」

 

 この先に何が待ち構えているか解らない。僅か数日ではあるが、カミュ達が旅立ってから、更にこの城下町の雰囲気が重くなっているのを、彼等四人は感じていたのだ。城下町の門の勝手口のような場所が僅かに開いている事も、それを証明しているのかもしれない。

 『何かが動き始めている』

 それを、誰もが強く感じていた。十数年間に及ぶ迷走の時が、ようやく終わりを告げるのかもしれない。

 

 城下町の中に入った一行は、先程感じていた自分達の感覚が間違いではなかった事を感じていた。全ての家屋の扉は頑なに閉じられ、何者も入り込めないように施錠されている。中の明かりは、申し訳程度に灯され、それが更に不気味さを演出していた。

 夜の闇に漂う静寂は、国民達の心を表しているように揺らいでいる。耳が痛くなるような静寂の中に、不安と恐怖、そして何よりも強い叫びが込められているようであった。

 

「まずは、教会から地下牢へ入る」

 

「自称国王を連れて行くのか?」

 

「えっ!? 墓地から入るのですか!?」

 

 誰も出ていない城下町を歩くカミュが、この後の行動について発言した時、即座に全く異なる内容で、全く異なる反応が返って来る。リーシャからは、国王を自称する人間と共に行動する事の有無を、サラからは、その場所へ向かう為の通過場所についてを。何時もならば、何かを問いかけたならば、不承不承でも答えを返すカミュではあるが、この時ばかりは、何一つ言葉を発する事無く、教会の方へと歩みを速めて行った。

 

 

 

「おお! 戻ったか」

 

 墓地の一角に隠されていた階段を降りた一行は、サマンオサ城の地下牢へと繋がる牢獄の一つに作られた部屋の扉を開けた。扉を開け、中へ入ると、まるで一行を待ち構えていたように、一人の男性が声を発する。それは、先日国王の名を口にした者。カミュ達に、このサマンオサを救う為に<ラーの鏡>という国宝を所望した男性であった。

 

「して、ラーの鏡は手にする事が出来たのか?」

 

「……ここに」

 

 目の前にいる男性が、サマンオサ国王である証明が無い以上、ここでカミュ達が跪く義務はない。それを理解しているのか、男性もカミュ達を咎める事はなく、早々と本題に入った。カミュの返答と共に、後方に控えていたサラが一歩前へと踏み出す。その手には、神代の鏡が納まっていた。

 神秘的な輝きを放つ鏡は、その役目を果たす時を待っているかのように静かに佇んでいる。覗き込む者を吸い込むような輝きは、見る者を魅了し、まるで悪しき心までをも吸い込んでしまうかのようだ。

 

「うむ。その鏡は、今しばらくそなたが持っておれ」

 

「よろしいのですか?」

 

 国宝と謳われる程の物となれば、このサマンオサにとっても至宝に近い。この男性が真の国王ならば、他国の者の手に納まっている事を良しとはしない筈である。だからこそ、サラは問い返した。『この鏡を自分が持っていて良いのか?』という問いと共に、『本当にサマンオサ国王なのか?』と。

 だが、そんな彼女の心の内は、この男性には透けて見えていたのかもしれない。苦笑のような笑みを浮かべた男性は、小さく溜息を吐き出した後、サラへと視線を向けた。

 

「余の名は、アンデル。先代サマンオサ国王の実弟であり、十数年前より玉座に座す者である」

 

 初めて口にされたその名を聞いたカミュは、静かに膝をつけた。それは、正に王の持つ威厳。『人』の上に立つ者としての覚悟と、下々の者達を護る為の想いを持つ者だけが有する力である。

 その力を、この旅の中で、彼等は何度も目にして来た。

 砂漠の中にある過酷な環境の国を束ねる若き女性に。海を渡る貿易という手段を魔物に奪われながらも、自国の民と世界の民を案ずる男性に。そして、異教徒と伝えられる程に小さな島国の中で、そこで生きる民達の為に自身の命さえも投げ出そうとした、太陽のような少女に。

 

「ご無礼をお許し下さい」

 

 カミュから遅れるように、サラは男性の前に膝を着く。アンデルと名乗った男性が、本当に先代国王の実弟であるという証拠はない。だが、その身に纏う空気が、彼を国王だと示していた。カミュやサラだけでなく、リーシャやメルエも、この旅の中で数多くの王族に出会って来ている。その中でも、国王としての威厳を持つ王族の数は限られていた。

 自国の民を想い、自国の為に自身を捨てる王族は、この世界で決して多くはない。それを理解しているからこそ、彼等はこの王の前で膝を着いたのだ。

 

「よい。そなたらの働き、実に大義である。だが、本当の戦いはこれからであろう」

 

「……畏れながら、その儀、我らも同道させて頂きたく存じます」

 

 ここまでの無礼を詫びるサラの言葉を軽く流したアンデルは、その視線を移し、牢獄の奥へと向ける。

 その時、カミュは満を持して口を開いた。その言葉は、アンデルにとって予想外の物だったのかもしれない。大きく見開かれた目は、まるで信じられない者を見るかのように驚きに彩られ、何かを口にしようと開かれた口からは、言葉が出て来なかった。

 先程、ラーの鏡をサラへ託したままにしたのには、アンデルなりの考えがあったのだ。彼とて、今、この国の玉座に腰を下している者が、只の盗賊風情でない事ぐらい理解はしている。だからこそ、ラーの鏡を持ち帰るだけの力量を持つ者にそれを持たせたまま、偽国王の真実の姿を写そうと考えていたのだ。

 それは、一国の王としては恥ずべき行為なのかもしれない。だが、アンデルが把握している現サマンオサの国力から考えれば、万が一の事を考慮に入れた場合、使える者は何でも使うという狡猾さも必要だと考えていた。

 

「そ、その方らが、このサマンオサの為に戦うと申すのか?」

 

「……国王様の御心のままに」

 

 カミュが頭を下げると同時に、後ろに控えた三人の女性もまた頭を下げる。その姿は、十数年の間、偽りの王として玉座にいたアンデルでさえ、心震える程の光景であった。

 しかし、それは頭を下げている二人の女性もまた同様であった。リーシャという名の『戦士』も、サラという名の『賢者』も、この場所で、このような出来事が起こるとは考えてもいなかったのだ。まず、第一にカミュがこの場面で名乗りを上げるとは思ってもみなかった。

 だが、彼はアンデルという名の真のサマンオサ国王の前で跪き、このサマンオサの危機に立ち上がる事を宣言している。それは、まるでこの国の礎となって鬼籍へと入った英雄のように。

 

「……すまぬ……すまぬ」

 

 一行の姿に顔を沈めたアンデルは、目頭を覆うように手を翳し、嗚咽に近い言葉を洩らす。国王の涙を見るという事は、王族以外では禁忌に近い。カミュ達四人は顔を下げたまま、国王の次の言葉を待ち、静かに跪いたままの姿勢を維持していた。

 その四人の行動を察したアンデルは、流れ落ちる涙を拭い、何事もなかったように彼らへと視線を落とす。

 

「では参ろう。このまま地下牢から城へ上がる事は出来まい。故に、一度城下町へ出て、城の東側にある勝手口から城内へと入る」

 

「はっ」

 

 魔王討伐を図る『勇者』とはいえ、ここで他国の者に全てを委ねる事はサマンオサ国王としては出来ない。それを理解出来るだけの分別をアンデルは持っていた。他国の者の介入があったとしても、それを主導する人間は、この国の王でなければならない。そうでなければ、このサマンオサという大国が、他国の属国となってしまう可能性があるからだ。

 『魔王バラモス』という共通の目的があるからこそ、今の人間達は他国を侵略する事はないが、この弱り切ったそれぞれの国家であるが故に、他国の介入を許し、他国に吸収される恐れもあった。

 

「では、一度教会へと出ますが、夜の闇に紛れる為、城内に入るのは真夜中になるかと思われます」

 

「ふむ……とすると、些か問題ではあるな」

 

「はい。ラーの鏡によって、暴かれる姿を目にする者が少なくなります」

 

 アンデルの言葉を受け、カミュが先導する為の注意事項を発する。それは、彼の言いたい事の全てを語る物ではなかった。だが、アンデルは思案する表情を浮かべた後、カミュが考えている事と同様の物を想い浮かべ、確認の為に問いかける。

 それに答えたのは、カミュの後方で跪く『賢者』と名乗る者。サラが発した内容を聞いたアンデルは、自分が考えていた事と寸分違わぬ物である事を確認し、再び思案する為に瞳を閉じた。

 

「よい。まずは城内に入る。誰も周囲に居ないのであれば、当の国王に呼ばせれば良いのだ」

 

「……畏まりました」

 

 既にアンデルの中では、その手段も結果も見えているのかもしれない。カミュ達の先導を必要とせず、数年の期間幽閉されていた場所を出ていた。

 その表情に浮かぶのは、『覚悟』と『決意』。

 彼が、このサマンオサ国の王族として生まれ、初めて宿した物。

 それは、奇しくも、死に行く直前に、この国の英雄が部下へ語った『真の国王』となる者が宿す炎に酷似した物でもあった。

 遅すぎた覚醒は、様々な悲劇を乗り越え、本来の国家へと帰還する。

 

 

 

 教会の傍にある墓地から脱出した一行は、そのままサマンオサ城を目指す。

 夜の城下町は静けさに満ちており、まるで人々が生活さえもしていないかのような、痛みすら感じる静寂に支配されていた。

 カミュの後ろを歩くアンデルは、その町の姿を見て、自分が犯して来た罪を改めて自覚する。このサマンオサ城下町の惨状は、彼が己を偽り続けた結果なのだ。

 もし、彼が<変化の杖>という国宝を使う事無く、有りの儘の姿で玉座に着き、アンデルという名の国王として政務を執っていれば、<変化の杖>という国宝は、サマンオサ王室の一角で埃を被ったままであっただろう。彼が頻繁にそれを使用した事によって、その国宝は『秘宝』ではなくなってしまったのだ。

 悔しさに唇を噛み締めるアンデルの姿を見たサラは、彼に対して跪いたカミュの考えが間違っていない事を改めて実感する。サラ自身もまた、アンデルに対して、王の威厳を感じてはいたが、彼女一人では、あのような形で対応する事はなかっただろう。

 彼女の信じる、『人の守護者としての王族』からは、大きく掛け離れてしまったサマンオサの元国王に跪いたのは、彼女が信じ始めている『勇者』の行動が強く影響していたのだ。

 

「サイモン殿の息子はいないか……」

 

「それも、余の不徳の致す所だ。成人間近であったサイモンの息子が、この国の騎士として志願していないという事実が、全てを物語っておろう」

 

 サマンオサ城の敷地内に入ったリーシャは、数日前に見た姿を思い出し、不意に言葉にしてしまう。それは、前を歩くカミュも、そしてサラも気付いていた。

 だが、この夜中まで城下の敷地内に入っていれば、宮廷騎士等でない以上、明らかな不審者となる。それでも、リーシャは何かを期待していたのかもしれない。

 そんな彼女の期待は、顔を伏せたアンデルによって斬り捨てられた。

 彼が玉座から降ろされた時、サイモンの息子は成人間近にまで成長している。つまり、彼が父と同じ道を歩む気があれば、宮廷騎士へ立候補する資格はあったという事になるだろう。父親がこの国で並ぶ者がいない程の英雄であれば、採用される事は難しい事ではない。

 その未来の英雄である青年が国家の人間として属していないという事は、自ら志願していない事を物語っているのだ。

 そして、それはこのサマンオサ国や国王へ不満を持っているからであるとアンデルは考えていた。

 

「まだ、全てが終わった訳ではございません」

 

「そうであるな……余には、まだやらねばならぬ事がある」

 

 顔を伏せたアンデルに対し、口を開いたのはサラであった。

 本来、リーシャやサラのような、『勇者』の一従者に直答出来る権利は与えられていない。だが、アンデルという存在は、『勇者』であるカミュが跪いたとはいえ、名実共の国王ではないのだ。

 直答をしても咎める事は出来ず、そして、それを許す事が出来る雰囲気を彼は有していた。

 王族としての威厳を有してはいても、それは何処か温かみを持つ物。

 このアンデルという初老の男性を見たサラは、王族が何故、『人』の守護を任されたのかという説が世界に広まっているのかという疑問に対する答えを見たような気がしていた。

 国王としての威厳という物は、それは相手を威圧するだけの物ではなく、傍に居る者を包み込むような不思議な空気をも含んだ物である事を理解する。

 何者も受け付けない高貴さではなく、誰もが恐れる威圧感でもなく、その者の傍に居たいと感じる程の空気が国に人を集め、留まらせ、国を盛り立てて行くのだろう。

 それは、イシスという砂漠を領する女王にも、ポルトガという貿易国の再建に尽力を尽くす国王にも、ジパングと呼ばれる異端の国を束ねる若き国主にも、そして、異種族であるエルフという者達を統べる女王にも備わっていた物。

 それこそが、下々の者達の希望であり、光なのだと、サラは感じていた。

 

「勝手口から食堂を通り、謁見の間を通り過ぎる」

 

「謁見の間からは入る事が出来ないのですか?」

 

 勝手口の取っ手に手を掛けたカミュは、アンデルの言葉に口を挟んだ。

 ここまでの道中、リーシャはアンデルに向かって口を開いてはいない。リーシャという女性は、厳格な宮廷騎士である。

 例え、牢獄に入っていたとしても、一度跪いた相手となれば、それは王なのだ。

 アリアハンとサマンオサという国の違いはあれど、王族は王族であり、国王は国王。一宮廷騎士が軽々しく会話が出来る立場の人間ではない。

 そこがリーシャとサラの違いなのかもしれない。

 

「うむ。夜は、王族の居住区へ続く階段に兵士が配備されている。今の現状ではそこを上る事は出来ないだろう」

 

 城の台所は、人一人いない。全ての明かりは消え、そこで働いている人間は全て帰宅しているのだろう。

 それでも警戒しながら進む中、城の廊下へと出る扉から中を覗き込み、アンデルは城の内部に関して忠告を促す。

 王城の内部の詳しい構造を他国の人間に話す事は、サマンオサの国家機密を暴露する事になるのだが、今はそれを危惧している時ではない事を、アンデルは強く感じていた。

 

「それは王室近辺も同様ではないのですか?」

 

「いや、それはない。玉座に座る偽物も余と同様に<変化の杖>を使用している筈。余は筆頭大臣とサイモン以外を部屋に近づけた事はなかった。おそらく、それに関しても同様であろう」

 

「変化の杖を使用されていたのですか……」

 

 カミュの疑問に対するアンデルの答えは、全て理にかなった物であった。

 確かに、<変化の杖>という道具を使用して姿を変えているのであれば、それが露見する事は、命を失うに等しい。効力がいつまで続くか解らない物であれば、その可能性は未知数であり、己の傍に信頼出来る者以外は近づけないであろう。

 そして、その答えを聞いていたサラは、ここに来て全てを把握した。

 今まで可能性を追っていただけの物だったが、アンデルという王弟自身が<変化の杖>を使用していたのであれば、ここまで感じていた疑問が全て晴れるからである。

 

「まずは、北にある階段から、物見台へと上る」

 

 謁見の間の入り口付近を横へと抜けた一行は、そのまま通路を北へと向かい、途中にある地下牢への階段を素通りし、北東に見える上への階段を目指した。

 地下牢へと続く階段を見たサラが、一瞬眉を顰めるが、後方を歩くリーシャの手と、不意に繋がれたメルエの手に我に返り、再び力強い瞳を取り戻す。

 今、牢獄に繋がれる者達を見れば、サラの心は絶望に囚われてしまうかもしれない。何よりも、今、彼女達が牢獄へ足を踏み入れても、出来る事は何一つないのだ。

 

「良い月夜だ。だが、これ程の月夜に、民達の声が聞こえない。それも……今日で終わる」

 

 物見台へと出たアンデルは、漆黒の空に浮かぶ大きな月を見上げ、独り言を呟いた。

 それは誰に聞かせる物でもない。自分に言い聞かせるような呟きは、彼を真の国王へと変えて行く。暗示に罹るように瞳の色を変えて行ったアンデルは、城下に見える数多くの家屋へ視線を移した後、もう一度浮かぶ月を見上げた。

 そのまま先頭を切って物見台の梯子を降りたアンデルは、下のバルコニーを抜け、一つの扉の前へと出る。

 追って来たカミュ達一行に目配せをした後、彼はその運命の扉を力強く開け放った。

 

 

 

 偽国王は、巨大な鼾を掻きながらベッドで横になっている。

 呑気に高鼾を掻く偽国王のベッドに、四人の『勇者』と、真の国王の影が掛かり、薄く灯された明かりだけが、その来訪を見定めていた。

 

「起きよ!」

 

 ここまでの道中で堪忍袋の緒は切れかけていたのだろう。

 ベッドの横へと移動したアンデルが、横たわる偽国王の横っ腹を蹴り上げ、ベッドの下へと蹴り落とした。

 偽とはいえ、国王に対する行動ではない。何処の国家であっても、即座に処刑される程の行為に息を飲んだサラであったが、向こう側から伸びて来る手が一瞬『人』ではない何かに見えたような気がして、表情を引き締めた。

 

「何事じゃ! 余の眠りを妨げるとは……即刻首を刎ねてやろう!」

 

 立ち上がった偽国王は、先日カミュ達を牢獄へと入れた時と変わらぬ姿をしていた。その姿は、このサマンオサ国民全ては王として認める者の姿。だがそれは、既に崩御し、この世に居る筈の無い者の姿。

 それは、余りにも不自然でありながらも、とても自然にこの王宮に溶け込んでいる。まるで数十年間、何一つ変わっていないかのように佇むそれは、カミュやリーシャといった武器を携帯した者達を見ても、その余裕を変える事はなかった。

 

「大臣やサイモンも、この姿をこのような想いで見ていたのだな……」

 

 そんな中、唯一人苦々しく表情を歪めたアンデルは、目の前で歯を剥き出しながら叫んでいる物体に視線を向け、小さな溜息を吐き出す。それは、彼が十数年の間、借り受けていた兄の姿。

 父のように慕い、国王として尊敬していた兄の姿は、とてもおぞましい物に映った。

 あれ程に国の行く末を憂い、残す者達に託す事を喜びにさえ感じて息を引き取った兄を冒涜するその姿を、その兄を自分以上に敬愛する二人の忠臣にアンデル自身が見せ続けて来たのだ。

 それは、どれ程に許せぬ事であっただろう。

 それは、どれ程の哀しみを齎した事であろう。

 アンデルは、その感情を想像するだけで、胸が詰まる想いに陥る。大臣とサイモンの二人は、このような想いを抱えたまま、十年以上の時間を生きて来たのだ。

 それでも彼等は、アンデルという次代の王に賭けて、共に歩んでくれた。

 サイモンに至っては、自身の命を引き換えにしてでも、次の世代に国の未来を託したのだ。

 

「刎ねられるものならば、刎ねてみよ! 余が誰かも解らぬ愚か者が、このサマンオサ国の国王を名乗るな!」

 

 悔しさを滲ませて閉じられていた瞳を開いた時、アンデルは真の国王と化していた。

 『覚悟』と『決意』を宿した王は、今、それらに加えて『使命』という重き物を胸に刻んだのだ。

 彼には、多くの者達から託された『想い』がある。

 多くの者達から譲り受けた国がある。

 譲り受けた国を、託された想いを持って、良き物へと導く『使命』が出来た。

 

「馬鹿者どもが……」

 

 常に平伏するだけの人間しか見て来なかった偽国王は、その感覚が麻痺していたのかもしれない。

 いや、実際に考える事を放棄していたのかもしれないし、考える能力自体が無かったのかもしれない。

 どちらにせよ、この愚か者は、最悪の方向へと導かれて行った。

 偽国王は、ベッドの脇にある紐を力一杯に引く。その瞬間、何かが起きると身構えたカミュ達であったが、実際には何一つ起きず、拍子抜けする程に、王室は静寂を戻して行った。

 

「あれは、階下に居る衛兵達へ異変を知らせる為の物だ」

 

 アンデルの言葉で、全てが思惑通りに進んでいる事を理解したカミュ達は、部屋の扉を開け、外へと出て行く。メルエという幼子を庇うようにリーシャとサラが左右に立ち、アンデルを先に外へと出してから、殿をカミュが担った。

 彼等は、未だに偽国王の正体が解らない。只の盗賊風情であれば、ここまで警戒する必要はないのだが、逃げ出す一行を見つめる偽国王の顔には、おぞましいまでの余裕が見え隠れしていた。

 それは権力に縋る者が浮かべる、底の浅い余裕ではない事は、ここまでの長い旅を乗り切って来た一行には一目瞭然である。それは、何かに裏付けられた自信や余裕の表れなのだろう。だが、その根拠が解らない。

 

「国王様、ご無事ですか!?」

 

 一行と偽国王が表に出るのを見計らっていたかのように、階下から衛兵達が駆け上って来た。

 挟まれる形となった一行を見た衛兵達は、一瞬驚いた表情を浮かべた後、腰の剣を抜き放つ。アンデルの顔が見えなかったのか、元より知らなかったのか解らないが、数日前に牢獄に入れられたカミュ達の顔には覚えがあったのだろう。

 牢獄に入れられている筈の人間が、外に出ているという事自体が驚愕の事実なのだが、その者達が国王の居住区に入っていれば、それは処罰の対象となるのは必然である。

 衛兵達が剣を抜き放ち、カミュ達を斬り捨てようとする行為は、国家を護る者達として当然の行いであり、その精神が、国家という巨大な生き物を生存させる原動力となっているのだ。

 

「アンデル様、強行突破致します。バルコニーまで一気に出ますので、周囲の音などに惑わされる事無く、供の者達にお任せ下さい」

 

「メルエ、おいで」

 

「…………ん…………」

 

 自分達を取り囲むように剣を向けた衛兵達から視線を逸らす事無く、カミュは後ろに居るアンデルに言葉を掛けた。

 その言葉は、アンデルという王ではなく、その後ろに居る二人の女性の心に火を点ける。

 彼女達は、既に明確な『仲間』である。カミュという『勇者』の従者ではあるが、それは対外的な名目であり、実質は『勇者』と共に歩む者達。それを、彼はサマンオサという巨大国家の国王の前で宣言したのだ。

 『国王を託すに値する仲間である』と。

 この言葉に震えない者はいない。ましてや、ここまでの旅で、カミュという青年を見ていれば尚更であろう。

 三年以上になる月日は、彼女達を強固な絆で結んで来た。それが花開く場所が、過去の英雄達が交わった場所というのも、数奇な運命なのかもしれない。

 

「……行くぞ」

 

「はい!」

 

 リーシャがメルエを抱き上げた事を確認したカミュは、背中から<草薙剣>を抜き放つ。

 彼程の強者が剣を抜き放ったのだ。その威圧感は、例え一国の衛兵であろうとも怯まずにはいられない程の物。一瞬腰の引けた衛兵達の隙を突き、カミュは静かに指示を飛ばす。

 それに答えるサラの声が合図となり、一行は一気に先程入って来たバルコニーへと駆け出した。

 前方で構えられている剣を弾き、虚を突かれた衛兵の身体を、体当たりで弾き飛ばす。カミュが抉じ開けた穴をアンデルが通り抜け、それを護るようにサラとリーシャが抜けて行った。

 

「追え!」

 

 我に返った衛兵達の隊長らしき人間が、剣を振り上げ檄を飛ばす。しかし、完全に抜けられてしまった衛兵達が追うように振り下ろした剣は、幼子を抱える女性が片手で持つ斧に弾き返されてしまった。

 バルコニーへと続く扉を開けた一行の後姿を見ていた衛兵達が、慌てふためきながら追う中、一人笑みを浮かべる者。それは、先程まで傍観に徹していた偽国王その人であった。

 おぞましい笑みを浮かべた偽国王は、そのままゆっくりと歩を進めて行く。

 彼は何も疑ってはいないのだ。

 この数年の間に行って来た物と何等変わらないと。

 それは、この愚か者の限界であったのかもしれない。

 

「何事だ!?」

 

 全ての人間がバルコニーへと出終わった頃、扉の向こうに見える階段から、多くの重臣達が姿を現した。

 国王の異常を伝える装置は、何も衛兵達だけに伝えられる物ではない。一国の王の一大事は、全ての重臣達へ伝えられ、皆がこの王室へと集まって来たのだ。

 それは、偽国王にとって、切に願っていた事なのだろう。

 この偽国王は、先程の一件で、アンデルの正体に勘付いていた。偽国王は、一度アンデルの顔を見ているのだ。<変化の杖>を手に入れるその前に、この国の内情を見た時、死んだと公表されている王弟が先代の国王に化けている事を知る事となる。その頃を思い出しながら、偽国王は再びおぞましい笑みを浮かべた。

 王族の居住区に立ち入るという行為は、許可無き場合、許されざる行為となる。

 今の重臣達のように緊急事態であれば、情状酌量も有り得るが、それは極刑に値する物であり、暗殺目的となれば、死体さえも拷問に掛けられる程の大罪であった。

 全ての者がいる中でそれを叫べば、剣を抜いているカミュがいる以上、全ての者を連座して処罰出来る。例え、それが元王族である、死去した筈の人間であってもだ。

 この場所に集まった人間の中で、アンデルという王弟の顔を覚えている人間は少ない。それは、ここ数年の間で、偽国王となった物が全て処罰してしまったからである。

 筆頭大臣を含めて数人しか顔を知らない人間を王弟と断定出来る訳はなく、十数年前に死去した筈の人間が生きている事を納得させる事は難しい。

 大義名分を持って、王族を処罰出来る機会に、おぞましく顔を歪めた偽国王であったが、これから起こる事に考えを及ばす程の頭脳はなかったのかもしれない。

 

「ア、アンデル様……」

 

「アンデル様ですと!?」

 

 しかし、状況は変化し始める。

 先頭を切って階段を駆け上って来た筆頭大臣が、先日訪れた、世界を救う勇者一行に護られている一人の男性を見た時、思わず叫び声を上げてしまったのだ。

 サイモン無き後、アンデルへ食事等を運んでいたのは、この筆頭大臣であった。何時訪れるか解らない輝かしい復活の時を待つように、彼は先代国王と戦友との誓いを忠実に護り通して来たのだ。

 その彼の前に居る人物こそ、その誓いの元となる人物。

 頼りなく、名君であった兄の威を借りる者ではあったその人物は、勇者一行に護られてはいるが、それでも強い瞳を前へ向け、しっかりと立っていた。

 

「国王様……役者は全て揃いました」

 

「……であるな」

 

 周囲を取り囲むように全ての人材が揃い切った。

 後方から現れた国の重臣達は、今現在サマンオサを支える者達であり、前方に居るのは、現在のサマンオサを護る衛兵達。そして、何より、それらを掻き分け、前に出て来た者こそ、彼等が奮闘せねばならなくなった元凶であり、サマンオサの諸悪の根源である。

 身から出た錆ではあるが、自身の罪を受け入れて尚、アンデルはカミュ達を退けて前へと踏み出す。

 偽の国王であった者と、偽の国王の対峙である。

 

「その者達は、王室に入り込んだ暗殺者である。生死は問わぬ、斬り捨ててしまえ!」

 

 号令を出す偽国王の言葉に、衛兵達は剣を抜き、その後方に居る重臣達も、各々の武器を取る。文官や大臣等は、自らの武力は無い為、後方へと移動を開始するが、それはたった一人の、たった一つの行動によって制止された。

 真っ直ぐに掲げられた手は、動き出そうとした全ての人間達の行動を制止させる。それは、不思議な程に強い強制力を持ち、全ての者を従わせる程の威厳を持っていた。

 それこそ、真の国王が持つ力。

 

「大臣よ、長い間大義であった。余は、そなたの忠義、生涯忘れる事はない。そなたとサイモンから受けた恩を、今、この場で返そう」

 

 全ての者が息を飲む中、筆頭大臣は胸から湧き上がる感情を抑える事に苦心していた。

 涙で歪む視界の先には、彼と戦友が待ち望んだ王の姿。

 悠然と、そして泰然と構えるその姿は、彼等が待ち望み、先代国王が信じ続けて来た次代国王の姿。

 その言葉に大臣が答えられない中、勇者一行の中の一人が、不思議な道具を胸に抱え、アンデルの横へと並び立つ。

 瞬間、全ての者達の視界は光に包まれた。

 

 

 

「あ、あれは!?」

 

「何だ、これは!?」

 

 サラが、持っていた<ラーの鏡>を偽国王に向けた瞬間、中心の鏡を護るように嵌め込まれていた青い宝玉が輝き出した。

 南の洞窟内の瘴気すらも消し去る程の神聖な光は、王の居住区を包み込み、誰もの視界を奪い尽くす。

 青白い光は、王の居住区に広がった後、中心に嵌め込まれた鏡へと集束され、その輝きは鏡に吸い込まれた。

 そして、その鏡に映し出された物の姿に、全ての衛兵達が息を飲む。

 <ラーの鏡>は、アンデルの前に立つ偽国王へと向けられており、その周囲に立つ衛兵を映し出してはいるのだが、中央に立つ物は、国王の姿をした者ではなかったのだ。

 

「ば、化け物……」

 

「ど、どういう事だ!?」

 

 鏡を覗き込んだ衛兵達が次々と悲鳴を上げる中、遠目にしか鏡の中が見えない重臣達は事態が把握出来ない。

 騒然となるバルコニーへと続く王宮で、カミュ達勇者一行の動きだけは早かった。

 鏡を持っているサラと、その横に立つアンデルを護るように前へと出たカミュとリーシャが、それぞれの武器を手に取り、未だに先代国王の姿をしている物へと身構える。

 そして、悪夢の終幕劇は始まった。

 

「グヘヘヘ……み~た~な~」

 

 先程まで発していた先代国王の声とは、似ても似つかない物がバルコニーに響き渡る。その声と共に、不快な臭いが充満し、偽国王の身体は不思議な光に包まれた。

 呆然とする衛兵達は、光に包まれていた偽国王の姿が肥大して行くのを感じ、即座にその場を離れる。他所よりも天井が高い筈の王宮に於いても、それは異常と言える程の巨大さを誇った。

 徐々に姿を現すそれを確認した衛兵達は、即座に移動を開始し、重臣達を護るように誘導しながらカミュ達の後方へと移動する。

 

「や、やはり……魔物であったか……」

 

「アンデル様もお下がりください。ここからは我らが」

 

 見上げる程の巨体に変貌したそれを呆然と見つめていたアンデルに、その声は掛けられた。

 それはまるで王宮を護る騎士のように強く、頼もしい声。

 王を護る為に存在する騎士団の中でも、最も優秀な者達の集まりである親衛隊と称する事が出来る程の者が発するような、安心感を持てる声であった。

 発したのは、今までアンデルに対して口を開く事の無かった女性戦士。

 隣に立つ『アリアハンの勇者』と肩を並べ、戦闘用に改良された斧を持っていた彼女が、少し後方へと下がり、一度膝を着いて口上を述べたのだ。

 それは、魔物と化した物を前にしてする行為ではない。命を無駄にする行為に映るそれは、逆に考えれば、仲間達への絶対的な信頼をも表していた。

 

「すまぬ……」

 

 魔物の姿を見たアンデルは、自分が何も出来ない事を悟り、礼を尽くす騎士に向かって頭を下げ、後方で唖然としたままの大臣達の許へと移動して行く。

 立ち上がったリーシャは、一度<バトルアックス>を大きく振り、戦闘の準備を行った後、後方支援組の二人へと視線を移した。

 幼い『魔法使い』は、自分の身長よりも大きな杖を握り、目の前の巨大な敵に怯える事もなく、しっかりと相手を見据えている。

 そして、<ラーの鏡>を後方の大臣へと手渡した『賢者』は、腰に差していた<ゾンビキラー>を抜き放ち、幼い少女を庇うように立っていた。

 頼もしい仲間達を見た『戦士』は、小さな笑みを溢し、隣に立つ『勇者』へと視線を送る。その視線を受け止めた青年は、しっかりとした頷きを返した。

 

「グヘヘヘ……魔王様には、この国で時間を稼げと言われたが、人間の相手も飽きていたところだ。最初から皆殺しにしてやれば良かったんだ。久しく味わっていなかった人間の味を堪能してやる」

 

 外見とは似つかわしくない人語を流暢に操る事に、サラは一瞬眉目を顰める。

 知能を持つ魔物が初めてである訳ではない。だが、ここまで流暢に人語を操る物となれば、ジパングで戦った<ヤマタノオロチ>以来となった。

 あの強敵と戦って、既に一年以上経つ。その間にも彼等は数多くの魔物と戦って来たが、四人揃った状態で苦戦する事は、あれ以来無かったと言っても過言ではない。

 緑色の皮膚を持つ巨大な化け物は、リーシャやカミュの身体以上の太さの腕を持ち、贅肉で弛んだ腹部を獣の皮で覆い隠している。頭部に毛髪などは一切なく、緩んだ口元からは、紫色の舌が垂れ下がり、呼吸する度に不快な臭気を撒き散らしていた。

 手には巨大な棍棒を持ち、その一振りで何人もの人間の命を奪う事が可能である事を物語っている。

 

<ボストロール>

魔王の居城があるネクロゴンドに生息すると云われているトロル族の上位種。その巨体から繰り出される怪力は、トロルの中でも群を抜いており、『魔王バラモス』が掌握する魔物達の中でも上位に位置する魔族。人型をしている為、知能は持っているが、巨体に見合う大きさの脳は持っておらず、魔族の中でも知能は低い。『魔王バラモス』の掌握する魔物達の中でも上位に位置するトロル族の中でも、その怪力によって、他のトロルを従わせている事を買われ、サマンオサ国へと入り込んでいた。

 

「おでだけが魔物だと思うな。この国は終わりだ」

 

「何だと!?」

 

 異様な身体と流暢な人語が結び付くのに時間が掛かっていたアンデルは、その後に続いた言葉に目を見開いた。

 確かに、この見るからに低脳な魔物だけでサマンオサを陥れる事など出来はしない。

 『魔王』という存在を臭わす言葉を吐いた魔物を言葉に、どこか納得してしまっていたアンデルは、先程まで静寂に満ちていた場外から聞こえて来る悲鳴に気付き、慌ててバルコニーの手すりに手をかけ、城下町の方角へ視線を移す。

 

「な、何と言う事だ……」

 

「あれは、魔物の集団……」

 

 アンデルに続いて大臣達が手すりへとしがみ付く。

 視線の先に見えたのは、月明かりしかなかった城下町を赤く染める炎。そして、炎に照らし出された、数多くの異形の影であった。

 それが示す事は、城下町への魔物達の侵入。

 魔物が集団で町や村を襲う事は、ここ十数年の間では有り得ない事だった。

 何時しか『人』の心に慢心を生み、その警備も何処か手薄になっていた事は否めない。だが、城下町へと続く門の付近には、多数の兵士を配備しているにも拘わらず、魔物の侵入を許したという事は、それだけ多数の魔物が押し寄せて来ている事実に他ならなかった。

 

「グヘヘヘ……安心しろ。お前達は全て、おでが食ってやる」

 

 炎が上がる城下町の姿に唖然としていた一行の後方から、身も凍る程の声が響き渡る。闇夜の空気が震える程の声が、その場に居た者達の足さえも恐怖で震わせ、絶望へと包み込んだ。

 

「大臣、まだ終わった訳ではない! この愚か者は、余とこの者達に任せよ。そなたらは、我がサマンオサの宝である民達を護る為、兵を連れて城下町へと進め!」

 

「ア、アンデル様……」

 

 だが、絶望に包まれた者達の中で、それでも魂を奮い立たせる者が五人。

 その一人であり、この国の王である男が、呆然とする筆頭大臣へ檄を飛ばす。その声は、先程の<ボストロール>の声にも負けぬ程に月夜に響き渡り、恐怖に支配されそうになっていた者達の心に力を与える。

 これこそ、サマンオサという国を永らく護って来た王族の力。

 

「し、しかし、我らだけでは……」

 

 それでも、目の前に広がる光景は、それ以上に絶望的な物であった。

 国民達の悲鳴や怒号が飛び交う城下町には、『人』が生理的に嫌悪を示す程の魔物の奇声が混じり合っている。

 真っ赤に染まる城下町は昼間のように明るく、逃げ惑う民達の姿が更なる絶望を運んで来ていた。

 絶望を口にしたのが、重臣の誰だかは解らない。おそらく、王弟アンデルの姿を見た事の無い者だろう。十数年前のアンデルを知る者が、今の彼を見れば、その頼もしさに胸は震え、その威厳に勇気を湧き上がらせる筈。

 だが、初見の者にとっては、その姿は虚勢にしか見えなかったのかもしれない。

 

「サラ……待ち兼ねた者達が、ようやく来たようだぞ」

 

「えっ!? あ、あれは!?」

 

 おぞましい笑い声を上げる<ボストロール>の前で、絶望に包みこまれそうになっていた重臣達を余所に、警戒を怠る事無くバルコニーから城下町を見ていたリーシャが笑った。

 遠く見える城下町の中で、一際目立つそれは、城下町へと続く門から中へ入り、群がる魔物の中を突き進んで来る。

 民達の悲鳴は歓声へ変わり、魔物達の奇声は断末魔へと変わる。

 

「あ、あれは……サイモンの紋章か?」

 

「御意! 我が国の英雄、サイモンが掲げる紋でございます!」

 

 それは、眩く輝く軍旗。

 真っ赤に燃え上がる炎に照らし出されたその軍旗に描かれるは、サマンオサ国の稀代の英雄にして、サマンオサ国の守護者の紋。

 翻る軍旗に薙ぎ倒されるように魔物が道を開けて行く。

 軍旗を掲げ、魔物へ武器を向けるは、生前のサイモンの部下達。

 <デスストーカー>と噂される程に、町を恐怖に陥れた強者達である。

 

「ぐっ……このような……このような事……余は、夢を見ておるのか?」

 

「夢ではありませぬ。あれこそ、我が盟友の子。我が国の新たな英雄にございます」

 

 軍旗が翻る周囲を元サイモンの直臣達が固める中、その先頭を駆ける者の姿を捉えたアンデルは、溢れる想いと、溢れる涙を抑えきれず、口元を押さえて嗚咽を漏らす。

 先頭で魔物に剣を振るう姿は、若かりし頃のサイモンを彷彿とさせる程の雄姿。

 その頭部に装備した兜は、若き頃にサイモンが装備していた兜。

 その身体を覆うのは、サイモンの紋章と共に、守護すべき国家の紋章が刻まれた英雄の鎧。

 空高く掲げた剣は、月明かりに輝き、魔物達を退けて行く。

 サマンオサという大国に、再び英雄が戻って来た瞬間である。

 

 <デスストーカー>と呼ばれた元サイモンの部下達は、サマンオサに着いたと同時に、町外れにあるサイモンの自宅へと足を運んでいたのだろう。

 その真実を伏せる事を誓った彼等は、サイモンの妻や息子にも、事実を語ろうとはしなかった。

 それは、どれ程に苦痛を伴う物であったろう。対外的に反逆者として処罰されたサイモンが何を想い、何を願っていたのかを伝えられない彼等は、サイモンが語ったその時を待っていたのだ。

 何人もの仲間達が倒れて行っても、彼等が交わした誓いは重く、長い時間を待ち続けて来た。

 『真の王が立ち上がる時』という言葉は、数年間一度もなかった人間の来訪によって現実となる。

 偽国王の命で南の洞窟を訪れた者達は多くいた。その者達の多くは、何かに操られているように虚ろで、洞窟内で死した後は、骸骨となって動き始める。

 そんな中現れたのは、自分達が崇拝していた英雄に良く似た空気を持つ者達。

 その者達の話を聞いた彼等は、時が訪れた事を悟ったのだ。

 

「カミュ、始めようか」

 

「楽な戦いではないぞ?」

 

「私達に楽な戦いなど、一度たりともありませんでした」

 

「…………メルエ………やる…………」

 

 このサマンオサ国で生きる者達が感動に震える中、おぞましく顔を歪めた<ボストロール>と対峙していたリーシャが小さく微笑みを浮かべる。楽観的なその言葉に、軽く溜息を吐き出したカミュもまた、<草薙剣>を一振りし、その威圧感を増して行った。

 カミュが放つ、『勇気』という威圧感は、この国の英雄にも劣らない。それを改めて実感したサラは、これまでの旅を思い出し、何時如何なる時も、彼が前に立っている事を思い出す。

 その背中を最も純粋に見て来たメルエは、己の魔法力を確認し、強く<雷の杖>を掲げた。

 

 全ての役者は、このサマンオサ城下に集った。

 十数年迷い続けた一つの大国が、次代へと続く大きな波に飲まれて行く。

 二人の英雄の子らが巡り合う偶然は、サマンオサという大国を動かす必然となる。

 それは、『精霊ルビス』の導きなのか。

 それとも、亡き英雄達の導きなのか。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

大変遅くなってしまいましたが、ようやくボス戦です。
頑張って描いて参ります。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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サマンオサ城④

 

 

 

 月明かりが降り注ぐサマンオサ城のバルコニーは静寂が支配している。

 既にサマンオサ国の重臣達は衛兵達を連れて、城下町へと駆け出して行った。新たな英雄となり、城下に軍旗を翻す者に負けじと駆け出す衛兵達を頼もしく見つめていたアンデルは、視線を移す。

 動かした視線の先には、先程正体を現した<ボストロール>。人々を恐怖に陥れる程の姿は、覚悟を決めていたアンデルの心さえも怯ませる。

 だが、その異形と同時に見えるのは、余りにも若い『勇者』達の背中。

 これ程の恐怖を誘う程の化け物を前にして、サマンオサ国の衛兵達が一人も欠ける事無く城下へと赴く事が出来たのは、彼等の存在があったればこそなのだろう。<ボストロール>の放つ威圧感を濾過するかのように、彼等の後ろは浄化された空気が流れている。

 自分が見て来た英雄とは異なる空気を醸し出す彼等に、アンデルは改めて彼等の目指す高みを実感した。

 

「アンデル様、お下がりください」

 

 様々な想いを胸に、カミュ達の背中を見つめていたアンデルへ筆頭大臣の声が掛かる。

 彼だけは、アンデルの補佐とその身を守る為に、この場に留まっていた。

 一つ頷いたアンデルは、アリアハンから訪れた次代の『勇者』達の邪魔にならぬように、後方へと退いて行く。

 それが、戦闘の合図となった。

 

「いやぁぁぁ!」

 

 後方へ下がるアンデル達へ首を向けた<ボストロール>を視界に納めたリーシャが、<バトルアックス>を構え直し、一気に<ボストロール>へと肉薄して行く。

 三年以上の旅の中、彼等四人は数多くの魔物達を倒して来た。

 魔物の身体能力は、基本的に『人』を凌駕しており、その速度や力は、通常の人間では対抗出来ない程の物である。必然的に、それと戦う者達にもそれ相応の能力が要求されるのだが、カミュ達一行は、徐々に強力になって行く魔物達に合わせるように、その力量を上げて来た。

 中でも、前線で戦う二人は、その身体能力を大きく上昇させており、魔物に付いて行く速度と、力負けしない筋力を備えて来ている。基本性能が異なる中でも、『人』の優位点を最大限に発揮し、結果を生み出して来たのだ。

 そんな『人』の範疇を大きく超えた戦士が持つ<バトルアックス>が、彼女の倍近くある巨体の太もも上部へ吸い込まれて行く。

 だが、今回の敵は、彼女達の想像を大きく超えた存在であった。

 

「リ、リーシャさん!」

 

 緑色の皮膚を持つ怪物は、その弛んだ贅肉や巨体の影響で、素早くは動けないだろうと判断したリーシャは、自分の斧が吸い込まれる瞬間、視界が急に暗転したと共に、激痛に襲われた事で混乱に陥る。

 バルコニーの壁に激突した身体は、命の源である血液を吐き出し、その場に倒れ込んだ。

 慌てて駆け寄ったサラは、リーシャの身体の状況を見て、息を飲み込む。彼女の左半身は大きく腫れ上がり、内部からの出血の為か、どす黒い色を浮かべていた。

 呻き声を上げるリーシャへ即座に<ベホイミ>を唱えたサラは、折れた骨が内臓などを傷つけていない様子を見て、一息吐き出したが、一度の詠唱では癒し切れない状況に表情を引き締める。

 予測していない方向からの、速度のある攻撃は、正確にリーシャの身体を打ち抜き、その機能を損傷させていた。それは、数多くの魔物達と戦い続けていたカミュ達の自信を崩壊させる程の威力を誇る攻撃。

 正に『痛恨の一撃』と言っても過言ではないだろう。

 

「メ、メルエ! 怒っては駄目です! 攻撃呪文の前に、唱える呪文がある筈ですよ!」

 

 回復呪文を唱え続けるサラの視界の端に、自身の背丈よりも大きな杖を掲げて前へ出る少女の姿が映り込む。『むっ』と頬を膨らませたその姿は、自身の大事な者を傷つけられた事に対する怒りが表れていた。

 しかし、詠唱を始めようとした幼い少女は、自身が信じるもう一人の姉によって、その行動を制止される。

 不満そうな表情を浮かべる彼女であったが、サラの瞳を見つめ、小さな頷きを返した。

 だが、そんな些細なやり取りも、先程、人類最高位に立つ『戦士』を弾き飛ばした怪物を目の前にして行う物ではない。

 メルエが視線を戻し、杖を掲げようとしたその時には、既に頭上に巨大な棍棒が迫っていた。

 

「ぐっ……」

 

「…………カミュ…………」

 

 自分の目の前に迫る棍棒に瞳を閉じかけたメルエの前に、大きな盾が掲げられる。このサマンオサで販売されていた<ドラゴンシールド>と呼ばれる盾を頭上に掲げた『勇者』の身体が、とてつもない重量を持つ音を響かせて沈み込んだ。

 骨が軋むような重圧を受けたカミュは、膝を崩してしまうが、それでも後方で不安そうに見つめる少女に危害を加えさせるつもりはないと、必死に耐える。

 更に後方で見守るアンデルでさえも、絶望に打ちのめされそうになる攻防という僅かな時間は、数多くの難敵を打ち倒して来た『勇者一行』の絆を、ようやく起動させた。

 

「メルエ、何時まで呆けているのです! 詠唱を!」

 

 横から飛んで来た叱責を受けて我に返ったメルエは、不安そうに下げていた眉を上げ、<雷の杖>を掲げる。

 その姿こそ、人類最高位に立つ『魔法使い』の姿。

 一国の『英雄』ではなく、世界の『勇者』の護り手の姿。

 いや、正確に言えば、『世界の』ではなく、『自身の』なのかもしれない。

 

「…………スクルト…………」

 

「うぉりゃぁぁぁ!」

 

 稀代の『魔法使い』が放出する強大な魔法力が一行を包み込む。

 魔法力に包まれたカミュが持つ盾の防御力も上がり、<ボストロール>の棍棒を押し返して行った。

 その状況に驚きの表情を浮かべた<ボストロール>の横から、腹の奥から響く雄叫びが轟く。

 雄叫びと共に振り抜かれたのは、戦闘用に改良された斧。

 鍛え抜かれた<バトルアックス>は、カミュの盾を押し込もうと力が込められた棍棒を横から弾き飛ばした。

 下へ向けて力が込められた物は、横からの圧力には弱い。圧し折る事は出来なかったが、棍棒はカミュが持つ<ドラゴンシールド>の上を滑るように、横へと弾かれて行った。

 

「むぉぉぉ!」

 

「スクルト!」

 

 予想していなかった者の乱入に腹を立てた<ボストロール>は、先程まで瀕死の重傷を負っていた筈の女性戦士に向けて棍棒を振り上げる。

 だが、その棍棒が振り下ろされるよりも早く、女性戦士を回復させた『賢者』の詠唱が響き渡った。

 メルエという稀代の『魔法使い』が行使した膨大な魔法力を、世界で唯一の『賢者』であるサラの放つ、細やかな魔法力が包み込む。それは、おそらくこの世界の人類が持つ、最強の防御魔法なのかもしれない。

 

「…………バイキルト…………」

 

「やぁ!」

 

 <ボストロール>の棍棒を受けたリーシャの盾は、鉄よりも硬く、柳よりもしなやか。性質の異なる二重の魔法力によって包まれた盾は、圧倒的な暴力である棍棒を往なすように受け流して行く。

 力の行き場を失った<ボストロール>の身体は泳ぎ、態勢を崩すように踏鞴を踏んだ足下へ、防御力低下の付加と、世界最高位の『魔法使い』が放つ魔法力に包まれた<草薙剣>が振り抜かれた。

 噴き出る体液と、沈む巨体。

 片膝を着く様に沈んだ<ボストロール>へ、態勢を立て直したリーシャが突き進む。

 

「…………バイキルト…………」

 

「グォォォォ!」

 

 しかし、リーシャの一歩は、メルエの詠唱を搔き消し、衝撃のように突き抜けた雄叫びによって制止された。

 怒りに燃えるようで、尚且つ全てを包み込むような雄叫びに、この場の全員が包まれる。まるで、身体から『勇気』を奪い尽くされてしまうかのような、圧倒的な力を感じる雄叫びに身が竦んでしまうのだ。

 僅かな時間ではあるが、行動が止まってしまった一行に向かって振り抜かれた棍棒は、最も傍に居たカミュへと吸い込まれて行く。

 

「ぐぼっ」

 

 受け止めようと掲げた盾は、棍棒の威力を殺し切れず、そのままカミュの身体は弾き飛ばされた。

 身体は折れるかのように曲がり、盾さえも破壊しかねない程の衝撃は、とても<スクルト>を重ね掛けした恩恵を受けているようには見えない。それこそ、メルエの魔法力も、サラの魔法力も消え失せてしまったような姿に、サラは驚きを隠せなかった。

 

「メルエ、もう一度スクルトを!」

 

 カミュの許へと駆け寄りながら、サラは、呆然と佇む少女へ指示を出す。目の前から絶対的守護者が消え失せた事に呆然としていたメルエは、その指示によって目を覚まし、<雷の杖>を高らかと掲げた。

 再び、メルエの持つ膨大な魔法力がカミュ達を包み込む。

 カミュやリーシャの身体が再度輝き出し、その身体を魔法力という膜が覆って行った。

 

「マホトーン!」

 

 サラは、先程の<ボストロール>の攻撃を見て、全てを把握していた。

 メルエとサラという、人類最高位に立つ魔法の使い手達の魔法力さえも消し去ってしまう物となれば、<ルカナン>や<ルカニ>という、防御力低下の呪文しかあり得ない。そして、その予想が正しければ、既に元の防御力へ戻ってしまったばかりか、逆に盾や鎧が脆くなってしまっている可能性さえもあるのだ。

 即座にメルエへと指示を出したサラは、右手で<ベホイミ>と唱えながら、左手を<ボストロール>へと向けて詠唱を完成させた。

 『賢者』として旅を続けて来たサラの力量も、メルエと同様に大幅に上がっている。それは、『教典』に記載されている、最上位の回復呪文を片手で行使し、その他の呪文を行使出来る程の物。

 右手へ流す魔法力と、左手に流す魔法力を分け、その呪文特有の魔法力へと変えて行く力を有し始めているのだ。

 一度の詠唱では癒し切れない傷に眉を顰めながら、『この先も旅を続けて行くのならば、<ベホイミ>では駄目なのだ』と彼女が感じていると同様に、彼女自身の力が、<ベホイミ>という回復呪文では物足りない物へと変化していた。

 

「グォォォォ!」

 

 だが、それ程に力を付けたサラが行使する呪文であっても、確実にその効力を発揮するとは限らない。

 再び雄叫びを上げた<ボストロール>が空気を震わせ、カミュ達一行の身体が何かに包まれて行く。それは、先程と同様に、身体に纏う何かを奪い去る程の不快感を味わう物であった。

 目に見えると感じる程に濃いメルエの魔法力が消え去って行くという事実が、サラの唱えた<マホトーン>が効力を発揮しなかったという事を示し、逆に、<ボストロール>の発した防御力低下の魔法がその力を如何なく発揮された事を示している。

 

「メルエ!」

 

 それを理解したサラは、瞬時に視線を動かす。

 その先には、絶対的な保護者を失った幼い少女。

 <スクルト>という防御力上昇の呪文を行使したそのままの姿で、迫る巨体を見上げたまま、身体を固めてしまったメルエの頭上から、巨大な棍棒が振り下ろされる光景であった。

 メルエの左腕には、<魔法の盾>と呼ばれる盾が嵌められている。彼女のような非力な『魔法使い』の為にあると言っても過言ではないその盾は、何度となく、幼い少女を護っている。

 だが、その盾も、持ち主である少女が耐えられる衝撃にしか効果は発揮出来ない。歴戦の戦士である、カミュやリーシャという人間でさえも、瀕死の重傷を負うような圧倒的な暴力を支える事が出来る程、メルエという『魔法使い』は筋力を有している訳ではない。<ボストロール>の棍棒がそのまま振り下されれば、その小さな身体は、圧倒的な力で潰され、肉塊と化してしまう事だろう。

 幼い少女を救う事の出来る、絶対防御を誇る呪文を行使出来る者は、未だにサラの回復呪文を受けている最中。身体の内部さえも傷ついている可能性もある彼は、未だに動く事さえ出来はしないのだ。

 

「舐めるなぁぁぁ!」

 

 久しく感じていなかった、戦闘時の絶望感を味わいかけたサラの視界の隅から猛然と駆ける一つの影。

 <バトルアックス>と呼ばれる、戦闘用に改良された斧を振り被り、振り下ろされる棍棒に合わせるように駆けるのは、彼女達が姉のように慕い続ける『戦士』。

 常に強く、常に厳しく、そして常に優しく暖かい。

 そんな女性戦士が振り被った斧が振り抜かれた時、彼女の倍近くもある巨体が振り下ろした棍棒が弾き飛ばされた。

 

「メルエ! 後方へ下がれ!」

 

「…………ん…………」

 

 全ての魔法力が消え失せたと感じた雄叫びであったが、所詮は<ルカナン>か<ルカニ>の効力しかない。

 サラが唱えた<スクルト>の後に唱えられたメルエの呪文は、その対象であるカミュとリーシャの武器に魔法力をしっかりと纏わせている。<スクルト>の対義に位置する<ルカナン>は、そ身に纏う魔法力の膜を打ち消す事は出来ても、武器の攻撃力を上げる<バイキルト>の魔法力の膜までもは打ち消すが出来ないのだ。

 メルエという稀代の『魔法使い』の魔法力を纏わせた<バトルアックス>は、その切れ味だけではなく、耐久性さえも増している。リーシャという世界屈指の『戦士』が振り抜いてこその物ではあるが、<ボストロール>の巨体から繰り出される暴力にも負けぬ程の威力を誇っていた。

 

「ぐむぅぅぅ」

 

 リーシャの倍、メルエの三倍もあろうかという巨体が揺らぐ。

 弾き返された棍棒の重みで腕が離れた隙に、メルエはサラのいる後方へと下がって行き、カミュが、前衛で斧を構え直すリーシャの横へと駆けて行った。

 再び立て直された陣形。

 それは、この『勇者一行』にとっての最強布陣。

 前衛の『勇者』と『戦士』、後方の『賢者』と『魔法使い』。

 三年以上もの間、旅を続けて行く中で出来上がったその布陣は、味方にとってはこれ程頼もしい物はなく、敵にとってはこれ程厄介な物はない。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ヒャダイン…………」

 

 サラの隣へと移動したメルエに怖い物はない。

 広い視野を持った『賢者』が彼女に道を指し示してくれる。

 彼女は、その道を突き進むだけ。

 <雷の杖>から迸った冷気は、踏鞴を踏むように態勢を崩してしまった<ボストロール>の棍棒を包み込んで行く。

 だが、何かを察した<ボストロール>は、寸前の所で棍棒を振り回し、纏わり付く冷気を振り払って行った。 

 メルエの放つ氷結呪文は、その物体の中までも凍り付かせ、機能さえも奪ってしまう。それを振り払い、棍棒を護るように動いたのは、<ボストロール>という魔物の本能なのかもしれない。

 

「やぁぁぁ!」

 

 冷気を振り払ったとはいえ、その腕が無傷な訳ではない。

 急激に下がった温度の中で振るった<ボストロール>の腕は、数多の氷が付着し、その機能を大幅に減少させていた。

 攻撃方法である腕が凍ったという事は、脅威が失せたという事と同意。

 そして、それを見逃す程、歴戦の勇士達は甘くはない。

 カミュの振るった剣が、仰け反っていた<ボストロール>の腕を斬り裂く。しかし、それは武器を持っている方の腕ではなく、それを庇うように出されたもう一方の腕。

 致命傷を与える事も出来ず、その腕の太さが原因で腕を斬り落とす事さえも出来ない。

 

「…………スクルト…………」

 

「スクルト!」

 

 後方から頼もしい詠唱が響き、前衛で戦うカミュとリーシャの身体を魔法力が包み込む。魔法力の光が収束するのと同時に、凍り付いた腕を無理やり動かした<ボストロール>の一撃がカミュを襲った。

 しかし、再び二重の魔法力に護られたカミュは、その一撃を<ドラゴンシールド>を掲げる事によって防御する。棍棒に付着していた氷が弾け飛び、竜の鱗が軋む音が響いた。

 それでも、『勇者』は立っている。

 盾の上部から<ボストロール>を睨む瞳は、鋭い光を宿しており、自身の倍近くある巨体の隙を窺っているようであった。

 

「虫けらどもが!」

 

 <ボストロール>の頭では、カミュ達四人は、瞬く間に叩き潰す事が出来る物と考えていたのだろう。

 彼等のような魔族の中では、『人』という種族は、物と同じ様に脆弱な存在であり、赤子の手を捻るように命を奪う事が出来る物なのだ。実際に、<ボストロール>のような巨体を持つ魔物であれば、指一本で人間を潰す事も可能であろう。それだけの力量の差がある筈だった。

 だが、この愚かな魔物の前に立ち塞がる人間は、何度棍棒を振るおうと、再び立ち上がって来る。

 この魔物が振るう棍棒の一振りは、同族である<トロル>でさえも退く程も一撃。その怪力の破壊力を持って、魔王から声をかけて貰える地位まで上り詰めたこの魔物からすれば、脆弱と考える『人』という種族が倒れないという事実が、許容する事が出来なかった。

 

「マホトーン!」

 

 苛立ちを隠さない<ボストロール>に向けて掲げられた手は、先程から彼等を何度も戦場へ送り出す原因となっている女性の物。

 先程効力の無かった呪文を再び唱える彼女の表情に諦めは見えない。呪文が効かない相手ではなく、単純に呪文の効力が届かなかったと考えたサラは、相手の魔法力の流れを狂わせる魔法を再度詠唱したのだ。

 鬱陶しそうに顔を歪めた<ボストロール>は、詠唱を終えたばかりのサラへ向けて、その手に持つ棍棒を叩き込む。唸る棍棒は、周囲の空気を巻き込み、凄まじいまでの風切り音を轟かせた。

 

「サラ、下がれ!」

 

「…………メラミ…………」

 

 横殴りに振られた棍棒は、間に割って入って来たリーシャの盾によって防がれるが、苛立ちを露にする<ボストロール>の力は、先程までの物よりも強力であり、盾で力の全てを受け止めきれなかったリーシャの身体は、サラの前から弾き飛ばされる。

 防壁を失ったサラの瞳に、再び棍棒を振り上げた<ボストロール>の姿が映り込む。だが、迫り来る絶望の光景を見ても、彼女の表情は揺るがない。それは、仲間への絶対的な信頼なのか、それとも内に秘める自信の表れなのかは解らないが、剣を構えようともせずに<ボストロール>を見上げる彼女の後方から聞こえて来た呟くような詠唱は、真っ直ぐ<ボストロール>を打ち抜いて行った。

 

「グォォォォ!」

 

 <雷の杖>の先から発生した火球は、正確に<ボストロール>の顔面を打ち抜き、緑色の肌を焼いて行く。

 顔面で揺らぐ炎を振り払うように腕を振るう<ボストロール>が、天に向かって大きく雄叫びを上げた。

 その雄叫びは、再び一行を襲い、その身体から力を奪って行く。それは、先程サラが唱えた<マホトーン>の効果が無かった事を意味していた。

 己が唱えた防御魔法を無にする雄叫びを上げる<ボストロール>を見上げるメルエの頬は、不満そうに膨れ上がり、再度呪文を行使しようと<雷の杖>を高らかに掲げている。

 

「メルエ、駄目で……!」

 

 <雷の杖>を掲げたメルエは、先程よりも一歩前へと踏み出していた。

 その一歩は、生と死を分かつ程の大きな一歩。

 後方に居た筈のメルエがサラと並び立つ姿は、顔面に直撃した火球の炎が消えた<ボストロール>の瞳にしっかりと映り込んだ。

 メルエの放つ<メラミ>の火球は、『人』が放つ物としては巨大な物である。だが、巨体を持つ魔物の顔面全てを覆う程の物ではない。その肌を焼くに留まり、目や呼吸器官を傷つける程の物ではなかった。

 再び棍棒を振り上げた<ボストロール>は、自身の肌を焼いた者に向かって、それを力任せに振り下ろす。唸る棍棒が迫る中、先程のサラとは異なり、眉を下げたまま呆然と棍棒を見つめるメルエの命は、風前の灯火であった。

 

「アストロン!」

 

 サラが目を覆いそうになり、リーシャが態勢を立て直し様に駆け出そうと身体を動かした時、その声は、サマンオサ城のバルコニーに響き渡る。

 古来から、英雄や勇者にしか唱える事の出来ない呪文。

 いや、正確には、『勇者』にしか唱える事の出来ない呪文なのかもしれない。

 響き渡るその声を聞いたメルエの眉は上がり、安心し切ったような笑みを浮かべたまま色を変化させて行く。何物も受け付けない鉄へと変化して行ったメルエの上に、遅れて棍棒が振り下ろされた。

 凄まじい音がバルコニーに轟く。

 バルコニーを形作る石畳に罅が入り、鉄像となったメルエの足が床にめり込むが、小さな身体は何の変化も見られない。あれ程の暴力を受けて尚、一切の干渉を受け付けないその姿に、リーシャとサラは改めて驚きを示した。

 

「呪文の効果が切れた後、メルエの事を頼むぞ」

 

「は、はい!」

 

 驚きの表情を浮かべていたサラの横を、リーシャが駆け抜けて行く。駆け抜け様に口にした言葉に大きく頷いたサラは、鉄像となったメルエの前へ移動し、前方に向かって駆け出した二人に向けて<スクルト>を唱えた。

 形勢は変わらない。正に一進一退の攻防が続く戦いではあるが、逆に考えれば、カミュ達が圧倒的な危機に陥っている訳ではないという事にもなる。

 サラの魔法力にも、まだ余力はある。それは鉄となってしまったメルエも同様であろう。

 カミュもリーシャも瀕死に落ちたとはいえ、回復呪文のお陰で傷は癒えている。また、戦闘自体が始まったばかりである為、体力もしっかりと残っていた。

 

「バイキルトの効力は残っているか?」

 

「ああ、大丈夫だ。カミュこそ、先程の怪我は大丈夫なのか?」

 

 前線に戻って来たリーシャは、問いかけられた言葉に、自身の武器である<バトルアックス>へ視線を落とす。そして、その斧を覆うように取り巻く魔法力が健在である事を確認し、逆にカミュへと問いかけた。

 その問いかけに対しての答えは返って来ない。

 だが、小さく彼が頷くのを視界の端に納めたリーシャは、唸り声を上げて顔を歪める<ボストロール>へ視線を移し、再び武器を構え直した。

 

「アンデル様、ここでは彼等の邪魔になってしまいます」

 

「う、うむ……これが、『勇者』の戦いなのだな……」

 

 そんな『勇者一行』の更に後方で戦いを見ていたアンデルは、その戦いの凄まじさに声を失っていた。

 彼の瞳に映る魔物は、どう見ても人の手に負える代物ではない。

 成人した人間の倍近くもあるその巨体から生み出される暴力は、一薙ぎで人間の命諸共吹き飛ばしてしまう程の脅威を持っていた。更に言えば、その武器を振るう風圧だけで、生きる希望を失ってしまう程の力を有していたのだ。

 アンデルという新たな国王が言葉を失う程の戦いの中、今や老臣となりつつある筆頭大臣が声を掛ける。既にその手はアンデルの腕を掴み、これ以上前へ出ないように注意を払っていた。

 

「ここは、一度城の外へ……」

 

「……うむ」

 

 城から出れば、城下町に迫っている魔物という危険が生じる。だが、このままこの場所へいるよりも、一度外へ出た後で城に残る者達が上の階に行かないように努める事の方が重大であると大臣は考えていた。

 城の中には女子供も多い。中でも、アンデルの実子である王女が今も尚、城の中に留まっている可能性があるのだ。

 

「……すまぬ、アリアハンの勇者よ……我がサマンオサ国の未来を、そなたに託すぞ」

 

 深々と頭を下げる姿は、国王としての威厳には欠けている。

 他国の者へ頭を下げ、国の行く末を託すという行為は、このサマンオサで暮らす多くの者達には見せる事が出来ない王の姿であろう。だが、この場所には、魔物と対峙する者達の他には、彼を幼い頃から見て来た大臣しか残っていない。その大臣も、アンデルと同じように、彼等の背中を見つめ、軽く頭を下げていた。

 英雄の息子という立ち位置であれば、この国の英雄であるサイモンの子も同じ場所に居るのだろう。だが、城下町へ軍旗を靡かせて入って来た彼を見た時、自分を牢獄から連れ出した者達と異なる部分を、アンデルは見出していた。

 それは、圧倒的な経験の差。

 魔物との戦闘という部分では、サイモンの息子も、オルテガの息子に劣っている訳ではないだろう。幼い頃からサマンオサ国で暮らすサイモンの息子の方が、逆に強い魔物との戦闘回数は上なのかもしれない。

 だが、その瞳に宿す光の強さは、このアリアハンの勇者の足元にも及ばない。

 それは、勇者としての輝きという物ではなく、辿って来た道の中で見聞きした物が造り出した輝き。

そして、その背に背負う、数多くの『想い』が造り出した輝き。

 それは、『英雄』ではなく、『勇者』だけが持ち得る尊い輝きなのかもしれない。

 

「……準備は良いな?」

 

「誰に物を言っている?」

 

 後方から人の気配が無くなった事を感じたカミュが、<ボストロール>から視線を外さずに、言葉を溢す。その言葉を聞いたリーシャが、不敵な笑みを浮かべて斧を構え直した。

 すぐ後ろでは、アストロンの効力が切れたメルエの身体を、サラが石畳の床から抜いている。頬を緩めながらサラへしがみつくメルエの姿は、とても強力な魔物を前にして見せる物ではない。

 それ程に、彼等には余力があるのだ。

 それは、彼等の成長も大きな要因の一つであろう。

 彼等の絆の強固さも要因であろう。

 だが、目の前に居る魔物の特性が最大の原因である事は確かであった。

 

「生意気な奴らだ! 黙っておでに喰われていれば良い物を!」

 

「魔物に喰われるのは、私の趣味ではないな……」

 

「己の分を弁えての行動の筈だが……」

 

 それは、カミュとリーシャの発言に表れていた。

 魔物に喰われる事を趣味とする人間などいる筈がない。もし存在するのだとすれば、生涯で一度きりしか味わう事の出来ない貴重な趣味であろう。

 生意気という言葉は、目上が目下に使う言葉である。己の力量も弁えずに発した言葉や、起こした行動に対して使用する言葉であるのだ。

 彼等の行動や発言は、決して相手を侮っている故に出た言葉ではない。

 確かに、<ボストロール>の圧倒的な暴力と、それを補う<ルカナン>という呪文は厄介極まりない。

 だが、逆に考えれば、それだけである。

 一行の身を焼き尽くす火炎を吐き出す訳でもない。

 一行の思考を混乱させる程に、複数の首がある訳でも、複数の尾がある訳でもない。

 気を抜けば自身が跡形もなく潰される程の暴力があるだけ。

 それは、今の彼等には、それ程恐れる物ではないのかもしれない。

 

「さぁ、仕切り直しだ」

 

 ここから先は『勇者』の戦い。

 国を護る為の礎となった『英雄』の戦いでも、世界の平和の為に散った『英雄』の戦いでもなく、ましてや大国の新たな『英雄』となった者の戦いでもない。

 後の世に、その名を残さぬ『勇者』の戦い。

 

 月明かりが照らすバルコニーに一陣の風が吹き抜ける。

 魔物の咆哮と、『勇者』達の雄叫びが夜の闇に響き渡った。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

少し短くなってしまいましたが、ボストロールの戦闘は二話に分けました。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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サマンオサ城⑤

 

 

 

 振り抜かれた斧は、<ボストロール>の振り回す棍棒に弾かれ、その身体を泳がせる。間髪入れずに巨大な拳が唸りを上げ、身を泳がせたリーシャ目掛けて叩き込まれた。

 その拳を受け止めたのは、二重の魔法力を纏わせた<ドラゴンシールド>。

 横合いから出て来たカミュがその拳を防ぎ、吹き飛ばされる。

 スクルトと呼ばれる防御力上昇の魔法を活用して尚、その怪力は脅威に値する程の暴力であった。

 

「グォォォォ!」

 

 そして、再びカミュ達が纏う魔法力の効果が打ち消されて行く。

 戦闘が仕切り直されてから、即座に行使されたサラとメルエのスクルトは、その反対呪文でもあるルカナンによって、搔き消されてしまった。

 いや、正確に言えば、その身に纏う魔法力を打ち消し、更には防具を脆くさせているのかもしれない。その形状が壊れていなければ、時間と共に元に戻って行く物ではあるが、スクルトの効果が無い以上、<ボストロール>の攻撃を受けてしまえば、防具自体が破損してしまう可能性が高かった。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………スクルト…………」

 

 もはや何度目になるか解らないスクルトの詠唱が響き、カミュ達の身体を魔法力が覆って行く。

 忌々しそうに顔を歪めた<ボストロール>は棍棒を振り上げ、足下で動き回る前衛の二人を払うように振り回した。

 自身の目の前を凄まじい風切り音を発して通り過ぎる棍棒を見ても、カミュ達には冷や汗を掻く暇すら与えられない。繰り出される攻撃の回数と速度は、今まで対峙して来た魔物達の中でも上位に入るそれは、彼等の間の会話すら奪い、視線での合図のみでの攻防を余儀無くされていた。

 

「マホトーン!」

 

 スクルトと同様、複数回行使している呪文が唱えられる。

 掌を<ボストロール>へと向けたサラは、自身の魔法力をその魔物の体内へと打ち込んで行くのだが、それが効果を示しているような気配はなかった。

 感触的にそれを理解したであろうサラが悔しそうに顔を歪める。そんなサラの表情を見たメルエが、不安気に眉を下げた。

 

「サラ、その魔法は効かないのではないか?」

 

「いえ、効き難いだけであって、効果が期待出来ない訳ではありません」

 

 <ボストロール>の攻撃を搔い潜って後方に戻って来たリーシャの問いかけに、サラは揺るがない強い口調で答えを返す。

 呪文が効き難い体質という物は存在する。だが、それの多くは、対象が持つ知能に影響される部分が大きい。故に、知能が決して高くはない筈である<ボストロール>には、必ず呪文が効力を発揮するとサラは考えていた。

 世界で唯一の『賢者』であるサラが唱える呪文が効果を示さないという事実が、この<ボストロール>という魔物が只者ではない事を証明しているのだが、それでも尚、サラは自身の考えに確信を持っていたのだ。

 

「ここまで怒りを表に出していれば、ラリホー等は効かないでしょうが、マホトーンならば、逆に効果的な状況だと思います」

 

「なるほどな……ならば、更に苛立たせれば良いのだな?」

 

 サラの言葉を聞いたリーシャは、棍棒の直撃を避け続けているカミュに苛立ちを隠さない<ボストロール>へ視線を移し、その言葉の意図する内容を正確に汲み取って行く。

 リーシャの言葉は、余裕のある人間の言葉のように聞こえはするが、実際には、彼女にもカミュにも余裕がある訳ではない。

 スクルトの加護があるとはいえ、直撃を受ければ瀕死に追い込まれる程の威力を持つ棍棒の脅威は、常に自身の身を脅かし続ける。逆に、カミュ達が振るう剣などは、その巨体に致命傷を与える事は出来ていない。

 だが、その細かな傷が、<ボストロール>という強敵を苛立たせているのだった。

 

「お願いします」

 

「任せろ!」

 

 自身の意図を理解してもらえたと感じたサラは、リーシャへと頭を下げる。それを受け取った女性戦士は、再度<バトルアックス>を大きく振るい、頼もしい笑みを浮かべて前線へと戻って行った。

 サラは『賢者』であるが、『戦士』ではない。

 その手に<ゾンビキラー>という強力な武器を持ってはいるが、その武器で<ボストロール>と対峙出来る程の技量もない。

 中途半端な立ち位置に居る自分の身に対して、歯痒い思いを抱きながらも、彼女は彼女に出来る事を考え、行動していたのだ。

 

「メルエ、大丈夫。不安になる必要など微塵もありません。私達には、私達の出来る事がある筈ですよ」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 前線に駆けて行くリーシャの背中を見つめていたサラは、隣で不安そうに眉を下げていたメルエへと魔法の言葉を投げかける。

 この言葉を発した以上、サラには大きな責任が圧し掛かった。

 メルエに対してだけは、彼女は自身の発言に絶対の責任を負う事となる。

 それが彼女の自信の源である以上、彼女は何があろうと『大丈夫』という状況を作り出さなければならない。

 だが、それは彼女一人では成し得ない事。

 そして、それを件の少女も心得ているのだ。

 

「いやぁぁ!」

 

 メルエが唱えた火球呪文が、カミュを追うように振り上げた<ボストロール>の右腕に直撃する。振り上げる力を増長させるように押し込んだ火球は、そのまま<ボストロール>の上体を後方へと泳がせた。

 その隙を見逃さず、カミュは己の剣を真っ直ぐ突き出す。

 突き出された<草薙剣>は<ボストロール>の太腿部分に突き刺さり、苦悶の叫びを上げた<ボストロール>の顔は、苦痛と怒りの色に彩られて行く。

 怒りに支配された<ボストロール>は、棍棒を持つ手をは逆の腕を、まるで虫を追うように振り抜いた。

 

「グギャァァ」

 

 しかし、その腕は対象であるカミュへ届く事無く、横から合わせられた斧によって、深く斬り込まれる。深々と抉った斧によって、<ボストロール>の緑色をした皮膚は切り裂かれ、人外の色をした体液が噴き出した。

 凄まじい叫び声を上げた<ボストロール>の怒りは頂点に達する。その瞳は燃えるように赤く染まり、興奮し過ぎた口元からは大量の涎が零れ落ちて行った。

 それこそ、このパーティーの頭脳であり、この世界で唯一の『賢者』が待ち望んでいた時間。

 メルエを庇うように前へ出たサラは、自身の中に流れる魔法力をその神秘へと変換する為、右掌を前へと突き出した。

 

「マホトーン!」

 

 声を張り上げて叫ばれた詠唱は、言霊となって<ボストロール>を包み込む。

 怒りによって冷静さを失った<ボストロール>の体内へと入ったサラの魔法力は、その魔物が生来持ち得る魔法力の流れを乱して行った。

 サラの発した声量と、目の前で怒り狂う<ボストロール>の姿が、その呪文の成功を物語っており、カミュとリーシャは、戦闘中にも拘わらず、一瞬の間だけ力を抜いてしまう。

 それは、『人』として仕方のない事なのかもしれない。

 だが、魔王からその力を認められる程の存在を前にしてという前提であれば、愚行以外の何物でもなかった。

 

「虫けらが! 死ね!」

 

 気を緩めたつもりはなかっただろう。

 だが、それでもカミュの身体から、本当に僅かな時間ではあるが、力が抜けていた。

 その本当に僅かな隙間を縫うように、<ボストロール>の持つ棍棒が滑り込む。

 罵声と共に振り抜かれた棍棒は、カミュの左側面に吸い込まれ、その身体を吹き飛ばして行った。

 カミュという人間の残像が残る程の速度で振り抜かれた棍棒の威力は、想像に難しくはない。吹き飛ばされた身体は、バルコニーの壁を破壊し、城の外へと投げ出されてしまった。

 

「メ、メルエ!」

 

「…………スカラ…………」

 

 何が起こったのか理解出来ない程の状況の中、最も早く立ち直ったのは、やはりこのパーティーの頭脳であった。

 傍で呆然とする幼い『魔法使い』へと指示を出し、その身を護る魔法力を放出させる。

 今のサラの魔法力では、あの衝撃を殺す事は出来ないという事に、サラ自身が気付いているのだろう。

 外へと投げ出されたカミュを追うように、バルコニーの端へと掛けるサラの後をメルエも追って行く。破壊された壁の部分から階下を見ると、落下したカミュが身動き一つせずに倒れている姿が映った。

 それは、命の危険さえある程の重傷を示唆している。

 

「リーシャさん、私は下へ降ります! メルエと共に下へ飛び下りて下さい!」

 

「な、なに!?」

 

 サラ達の慌てぶりを楽しむかのように、醜い笑いを浮かべる<ボストロール>から視線を外す事無くサラの指示を聞いたリーシャは、驚きに目を見開いた。だが、そんなリーシャの返答を待たずに、自身にスカラを唱えたサラは、バルコニーから城下の庭園へと飛び下りてしまう。残されたメルエは、不安そうに眉を下げて下の階を見つめていた。

 二階部分のバルコニーである。人間が飛び降りて無事に済む高さではない。それでも、世界で唯一の『賢者』の魔法力がその衝撃を緩和させ、サラの身体は無事に庭へと着地した。

 

「メルエ、呪文の詠唱は頼んだぞ!」

 

 遅れて駆けて来たリーシャが、その幼い身体を片手で抱き上げ、バルコニーから外へと飛び込んで行く。突如感じた浮遊感に驚きながらも、世界最高位に立つ『魔法使い』は、即座に二度の詠唱を完成させた。

 魔法力によって護られたリーシャの足は、しっかりと大地を踏み締め、次の行動へ移る為に駆け出して行く。下されたメルエは、倒れ伏すカミュに向かって回復呪文を唱え続けるサラの許へと駆け出して行った。

 

「ベホイミ!」

 

 この場所へ降りて来てから三度目になる回復呪文を唱えたサラの腕から発した淡い緑色の光は、カミュの身体を包み込み、その傷を癒して行く。しかし、サラは傷が癒えて行くその身体を覆っている物に目を留め、厳しく眉を顰めた。

 カミュの身体を護っている筈の<魔法の鎧>は、先日の<骸骨剣士>との戦闘によって小さな穴が幾つも空いていたのだが、<ボストロール>の一撃を受けて、その穴を始点として、かなり大きな罅が入っていたのだ。

 それは、既に鎧という機能を著しく損なっている証拠であり、これから続くであろう、強敵との戦闘に耐え得るだけの防御力をも失っているに等しい形状であった。

 

「…………カミュ…………」

 

「サラ、カミュは無事なのか!?」

 

 近寄って来たメルエの眉は下がりきり、心配そうにカミュを見つめている。上のバルコニーから視線を外さずに発したリーシャの問いかけにも答えようとしないサラの様子に、メルエの表情は更に曇って行った。

 鎧に罅が入る程の一撃は、確実にカミュの身体の内部をも傷つけている筈。その証拠に、腫れが引き始めているカミュの口端から大量の血液が吐き出されていた。

 外傷が癒えても、内部の傷が癒えなければ、『人』は動く事が出来ない。いや、それは『人』に限った事ではないだろう。『エルフ』だろうが、『魔物』だろうが、身体の内部が傷付いていれば、命の灯火は容易く消え失せてしまうのだ。

 そして、それは、カミュをこのような姿にした魔物であろうと例外ではない。

 

「ぐへへへ」

 

 おぞましい程に醜悪な笑みを浮かべ、リーシャの倍もある巨体が、上のバルコニーから飛び降りて来る。

 その巨体が落ちて来るのであれば、落下地点に居れば踏み潰されてしまう事は確定事項である。

 そして、その落下想定地点には、未だに意識の戻らない『勇者』と、それを治療する『賢者』、そして眉を下げたまま、不安そうに胸の前で杖を握る幼い『魔法使い』が固まっていた。

 少し離れた場所で<ボストロール>を警戒していたリーシャは、自分の迂闊さを悔やみながらも、必死に対処策を考えようと知恵を絞る。しかし、そのような時間の猶予は、僅かも残されていなかった。

 そして、誰もが絶望の淵に落ちてしまうその時、小さな呟きが夜の城下に木霊する。

 

「…………イオラ…………」

 

 誰がそれを予想出来ただろう。

 誰がそれを確信出来ただろう。

 絶望に顔を歪めるリーシャも、唱える回復呪文を停止させてしまう程に恐怖したサラも、そして、勝利を確信したような下衆な笑みを浮かべた<ボストロール>でさえも、その幼い少女が動くとは思ってもみなかった。

 上から落下して来る巨体の方へ視線を向ける事もなく、世界最高位に立つ『魔法使い』は、己の背丈よりも大きな杖を振ったのだ。

 それは、まるで木の葉を払うかのように。

 五月蠅い虫を手で払うかのように。

 

「ぐぉぉぉぉ」

 

 凄まじいまでの爆発音が、闇に包まれた城下に轟く。同時に、瞬時に昼へ戻ってしまったかのような光が、城下にある庭を輝かせた。

 重力に従って落下して来た<ボストロール>の巨体は、突如現れた圧縮された空気の解放によって、真横へと吹き飛ばされたのだ。

 サマンオサという軍事国家が誇る城壁に叩き付けられた巨体が、その城壁の石壁を破壊して行く。砂埃と、爆発による煙に巻かれた巨体は、完全に横たわり、その場で沈黙する。

 その呪文は、<ヤマタノオロチ>と呼ばれる、太古から生きる生物の首をも消し飛ばす程の威力を秘めた魔法を生み出す。

 圧縮した空気を瞬時に開放し、その力を持って全てを爆発させる呪文。

 『人』が持つ『魔道書』と呼ばれる書物に記載された、人類最高の破壊力を持つ呪文であった。

 

「メ、メルエ……」

 

 回復呪文を停止させてしまう程の衝撃を受けていたサラは、悠然と立ち上がる幼い少女の背中に、何か得体も知れない恐怖を感じていた。

 まるで、手の届かない場所に行ってしまうように遠くなるその背中に手を伸ばそうと、その身を動かしかけた時、再び時は動き出す。

 

「許さぬぞぉぉぉぉ!」

 

 凄まじい声量で叫ばれた人語は、闇に包まれた空気をも震えさせる程の物。通常の人間であれば、それに恐怖を感じ、足も身も竦んでしまうであろう。

 だが、この<ボストロール>という愚かな魔族が相手をしているのは、この世界で生きる『人』という種族の中でも飛び抜けた力を持つ四人であり、今、この魔族の怒りを再燃させた者は、その中でも更に異端と言っても過言ではない少女。

 

「…………イオラ…………」

 

 舞い上がる砂埃が地へと落ち、<ボストロール>の身体が月明かりに映ると同時に、再び呟くような詠唱が轟く。

 人類最高位の爆発呪文を受けて尚、その五体が満足に動く<ボストロール>という魔族は、あの時の<ヤマタノオロチ>よりも耐久力は強いのかもしれない。

 それでも、その身体は無傷ではなかった。

 緑色の皮膚は焼け爛れ、体液が滲むように腫れ上がった顔面は、先程以上にこの魔族の醜さを際立たせている。

 その<ボストロール>の目の前で、再び空気が圧縮されて行く。

 解放されるその時を待つかのように、その度合いを高めて行く空気は、対象の顔面の前で今まさに弾けようとしていた。

 

「があぁぁぁ!」

 

 しかし、その圧縮された空気は、開放するよりも先に振り抜かれた棍棒によって霧散して行く。

 怒りによって吊り上がった<ボストロール>の瞳は、目の前に立つ、自分の膝ほどしかない少女へと注がれた。

 圧倒的な怪力によって、自身の放った魔法が理不尽に消されてしまったにも拘わらず、その少女もまた、怒りに燃えた瞳を向け、<ボストロール>を見上げている。それは、更に<ボストロール>の怒りを増長させた。

 見下し、蔑んでいる『人』という種族の中でも、更にひ弱な幼子によって傷つけられたという事実を、<ボストロール>は素直に受け入れる事が出来ない。視界が赤に変わってしまう程の怒りに任せ、振り上げた棍棒をその少女へと振り下ろした。

 

「…………イオラ…………」

 

 しかし、それは、再び唱えられた呟きによって妨げられる。

 瞬時に圧縮された空気は、<ボストロール>が振り下ろそうとした棍棒を対象として弾け飛んだ。

 凄まじいまでの爆発音が轟き、<ボストロール>の持つ棍棒が後方へと弾き返される。

 込めた力が反対方向へ振られた事で、メルエの三倍もあろうかという巨体もまた、後方へと弾かれた。そのまま<ボストロール>は、地面を揺らす程の振動を立てて、後方に尻餅を着いてしまう。

 

「メ、メルエ……」

 

 呆気に取られたような表情を浮かべたのは、何も<ボストロール>だけではない。後方でその戦闘を見ていたリーシャも、回復呪文を再開していたサラも、その幼い妹のような少女の姿に目を丸くしていた。

 先程まで不安そうに眉を下げていた筈の少女は、静かな怒りをその身に宿し、自分よりも強大な敵に向かって揺らぐ事無く立っている。

 それがどれ程の事なのかを理解出来るのは、この場に二人しかいないだろう。

 

「ぐぉぉぉぉ!」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 物思いに二人が更ける中、戦闘は続く。

 怒りに狂う<ボストロール>が叫び声を上げて立ち上がったと同時に、再び<雷の杖>を掲げた幼い『魔法使い』が呟くような詠唱を完成させた。

 杖の先から迸る熱気が、夜の闇を斬り裂き、昼のような明るさを運んで来る。真っ赤に燃え上った炎は、<ボストロール>の巨体を飲み込み、城壁周辺を全て炎の海へと変えて行った。

 劈く様な叫び声が響き、その魔物の叫びを聞いていたリーシャとサラは、『人』としての本能の為に身体を硬直させる。歴戦の勇士達でさえも、そのような状況へと落とされる程の光景だった。

 全ての時が止まってしまったかのように静けさが戻る中、月の光と、燃え盛る炎だけがサマンオサ城を照らし出す。

 その場で動ける者など、誰一人としている筈もなかった。

 

「があぁぁぁぁ!」

 

 静けさが広がる城下に轟いた怒声。

 それは、一行の前で広がる炎の海を斬り裂く様に現れ、視認出来ぬ程の速度でその手に持つ凶器を振り抜いた。

 誰一人動けはしない。

 呆然と炎の海を見つめるリーシャも、その横で幼い少女を畏怖の瞳で見つめていたサラも、そして呪文を行使した先を見つめていた当のメルエも。

 無情な程の暴力は、炎を生み出した幼子へと真っ直ぐ向かって来る。絶望も感じる暇さえもない速度で迫る棍棒は、幼子の小さな身体が弾け飛ぶ未来を作り出すだろう。

 誰も動く事の出来ない、この闇の世界では。

 

「ぐぼっ」

 

 しかし、彼等を見護る『精霊ルビス』という精霊は、そのような未来を運んで来る事はなかった。

 呆然と見ていたメルエの身体は遠く彼方へ叩き出され、<ボストロール>の振るった凶器は、代わりの物体を再び殴り飛ばしたのだ。

 この場で動けた者。

 いや、正確に言えば、動ける筈の無い者が動いた。

 それは、『精霊ルビス』の加護を最も受けし者。

 世界の加護を受け、世界で生きる者達の救世主となるべく為に生きる者。

 

「カミュ様!」

 

 殴り飛ばされた青年は、地面を数度跳ねた後、再び動かなくなる。先程、回復呪文を途中でサラが止めてしまった為、彼は全快してはいなかった。

 回復し切れていないカミュが、動ける事自体が異常なのだが、その彼が再び<ボストロール>の圧倒的な暴力を受けたという事が、一行の頭の中に『勇者の死』という事態を連想させてしまう。

 彼女達は、この世界で生きる誰よりも、この捻くれた青年を『勇者』であると信じている。

 サマンオサという大国に新たに誕生した英雄である、サイモンの息子であろうと、『勇者』という括りでは括る事など出来はしない。

 彼女達にとって、『勇者』と名乗る事が出来る者は、カミュ唯一人なのだ。

 

「ぐおぉぉぉ!」

 

 勝ち誇るように雄叫びを上げた<ボストロール>ではあるが、その外見に余裕など微塵もない。

 天へと掲げられた手に持つ棍棒は所々が欠け、体中の皮膚は火傷で覆われている。顔面は皮膚が焼け爛れ、皮膚の奥にある肉が溶けかけており、だらしなく垂れ下った舌からは、止め処なく涎が零れ落ちていた。

 その身体を見れば、<ボストロール>自体が満身創痍である事が解る。メルエという稀代の『魔法使い』が放つ爆発呪文を受け、更には灼熱系の最高位呪文である<ベギラゴン>の炎に飲まれたのだ。実際に考えれば、今も尚、活動を止めていない事自体が信じられない物であった。

 

「…………カミュ…………」

 

 サラに遅れてカミュの許へと辿り着いたメルエの表情は、先程までとは異なり、眉を下げて不安そうな物。サラが畏怖を感じたような厳しさは欠片もなく、絶対の守護者である青年の身を案じる幼い少女そのものであった。

 再び身動き一つしない青年へと視線を落したサラは、その姿に息を飲む。

 彼の身体を護っていた<魔法の鎧>は、もはや鎧としての機能を果たす事はないだろう。『人』として、決して細くはない腕はあらぬ方向へ曲がり、支えている筈の骨が折れている事を示している。左半身は、『人』の物であると思えない程に腫れ上がり、内部からの出血が酷いのか、紫色に変色していた。

 それでも、その胸は僅かに上下している。

 それは、彼が生きようとしている証。

 その微かな鼓動を感じたサラは、瞳に強い光を点した。

 

「心配はいりません。カミュ様は必ず戻ります。メルエ、貴女にはまだやる事がある筈ですよ」

 

「メルエ! 私にスカラと、バイキルトを!」

 

 不安そうに見つめるメルエに厳しい言葉を投げかけたサラの声を追うように、メルエの後方から一番上の姉の声が轟く。

 三人を護るように、<ボストロール>の前に立ち塞がる戦士の背中は、とても大きく見える。それこそ、メルエの瞳には、<ボストロール>の巨体をも凌駕する程の大きさと、全てを包み込む安心感を備えているようにさえ見えていた。

 下げていた眉を上げ、再び<雷の杖>を手にしたメルエは、指示された二つの呪文を唱える。

 

「サラ、その馬鹿を頼んだぞ」

 

 身を挺してでも幼い少女を護り通した者に対しての言葉としては、余りにも辛辣な言葉をリーシャは呟いた。

 だが、リーシャは許せなかったのだ。

 何時でも自分の身を一番下に置く、この青年の考えを。

 そして、その行動を目の前で見ておきながら、何も出来なかった自分自身を。

 それは身勝手な怒りでありながらも、その身を焦がす程の怒り。

 静かに佇むその背中が、先程のメルエ以上の畏怖を覚える程に、静かな怒りを表している。

 

「はい。全力を尽くします」

 

「メルエ、援護を頼むぞ」

 

「…………ん…………」

 

 これこそが、『勇者一行』と呼ばれる所以なのかもしれない。

 『人』という種族は、弱く脆い。それは、何も体格的な問題でも、身体能力的な問題でもない。『人』という種族が、多種族よりも最も脆いと考えられる部分は、その『心』の在り方。

 一人一人の力は弱く、群れを成さなければ生活は出来ない。集団でなければ、外敵にも対抗出来ず、逆に言えば、群れを成せば何処までも残虐になれる程に、心が弱いのだ。

 そんな『人』の弱さを、彼等は何度も見て来た。

 だが、その中にも時折見せる『人』の強さがある。

 その『人』としての強さは、常に持っている事など出来ない物であり、それは歴戦の勇士達でも同様であった。

 気弱になる時もあるだろう。恐怖に身を竦ませる時もあるだろう。絶望の淵に立たされ、未来への希望を失う時もあるだろう。

 それでも、彼等は前へと歩み続ける。

 仲間を信じ、仲間から信頼されている自分自身を信じ、己を鼓舞し、仲間を奮い立たせるのだ。

 それこそ、『勇者』の証。

 『英雄』とは、誰しもが認める強者。

 『勇者』とは、誰も知りえない強者。

 

「ぐおぉぉぉ!」

 

 もはや、先程まで口にしていた人語を発する程の余裕はないのだろう。魔物特有の雄叫びのような叫び声を上げた<ボストロール>は、狂ったように、その手にある棍棒を振り回す。

 その一撃を受ければ、後方で意識を失っている青年のように、身体の骨さえも砕けてしまうだろう。

 だが、目の前の空気さえも切り裂くような攻撃を目の当たりにしても、<バトルアックス>を担いだリーシャは、身動き一つしない。

 彼女には、恐れる理由が無いのだ。

 

「…………ボミオス…………」

 

 彼女には、彼女が持ち得ない魔法力を持つ仲間がいる。

 彼女が持ち得ない知恵と、彼女では辿り着けない思考を持つ仲間がいる。

 彼女はただ、己の出来る事をやるだけなのだ。

 

「いやぁぁぁ!」

 

 メルエの放ったボミオスによって、その動きが緩慢になった<ボストロール>の一撃を搔い潜ったリーシャは、その手に持つ斧を真横へ一閃する。

 月明かりを受けて輝く刃先は、<ボストロール>の腰元を抉り、深々と斬り裂いた。

 噴き出す体液と、轟く悲鳴。

 地震のような地鳴りと共に、<ボストロール>の巨体が片膝を地面へ落とす。それでも尚、棍棒を持たない腕を振る事で、リーシャを弾き飛ばそうと試みるが、その隙を与える程、勇者一行の『魔法使い』は甘くはない。

 

「…………イオラ…………」

 

 凄まじい爆発音が轟き、<ボストロール>の左腕が弾かれる。爆発の衝撃を逃がす程の思考は、この魔族には既になく、まともに爆発を受けた左腕の肉が弾け飛んだ。

 爆煙が消えた頃に見えた<ボストロール>の左二の腕は、肉が削げ落ち、骨が見えている。もはや、先程までのような素早い動きを、この腕が行える事はないだろう。それ程の凄まじい怪我を負いながら尚、空気が震える程の雄叫びを上げ、棍棒を持つ手を振るう<ボストロール>は、魔王から声を掛けられるだけの存在だという事を示していた。

 

「おりゃぁぁ!」

 

 片膝を着き、左腕さえも損傷した<ボストロール>に向かって、リーシャがその斧を振り下ろす。斧は、垂れ下った左腕に突き刺さり、その肘よりも先を斬り落した。

 重量感のある音を響かせて落ちた腕と、肘先から噴き出す体液。

 夜の闇を劈く叫びが響き渡ると同時に、リーシャの身体が真横へと吹き飛ばされる。リーシャの斧が振り下ろされると同時に、<ボストロール>は棍棒を振り抜いていたのだ。

 地面を数度跳ねた後に転がって行ったリーシャではあったが、それでも世界最高位に立つ『魔法使い』の魔法力に護られた身体は無事であった。

 全身に擦り傷のような痕は残るが、カミュ程の重症ではない。左半身も腫れ上がる事はなく、立ち上がったリーシャは、再び<ボストロール>に向かって斧を構えた。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

 人類最高位に立つ『魔法使い』とはいえ、メルエとて無尽蔵に魔法力を有している訳ではない。ここまでの戦闘で数多くの呪文を行使して来た幼い少女の体内に眠る魔法力にも陰りが見え始めていた。

 彼女が持つ氷結系での最強呪文は、万全の状況で放つ時よりも、幾分か威力は弱まっている。

 それは、立ち上がろうとした<ボストロール>の下半身を狙ったヒャダインが明確に物語っていた。

 体内の組織さえも凍り付かせる筈のメルエの氷結系呪文は、完全に凍り付かせる前にその効力を失ってしまう。凍結時間が掛かり過ぎている為、無理やり立ち上がろうとした<ボストロール>の下半身を完全に凍り付かせる事が出来ずに霧散してしまったのだ。

 

「メルエ、下がれ!」

 

 『むぅ』と頬を膨らませるメルエに向かって振り上げられた棍棒を見たリーシャは、力の限りその名を叫ぶ。

 自身の名を聞いたメルエは、その場を離れる為に駆け出した。

 もし、メルエが自身にスカラを唱えていたとしても、<ボストロール>の一撃に耐えられるという確証はない。普段からその身を鍛え続けているリーシャやカミュだからこそ、魔法力によって緩和し切れなかった衝撃に耐える事が出来るのだ。

 スカラやスクルトといった防御力向上の呪文は、カミュが唱えるアストロンのような絶対防御の呪文ではない。魔法力によってその身を包み込み、外部からの衝撃を緩和したり、鋭い刃先の軌道をずらしたりする効力があるだけなのだ。

 それは、元々体力や筋力が無い人間にとっては、気休め程度の物にしかならない。高所からの落下の際に、必ず誰かがメルエを抱き抱えていた事からも、それが理解出来るであろう。

 

「ぐっ……」

 

 少女と棍棒の間に身を滑り込ませたリーシャは、サマンオサで購入した<ドラゴンシールド>を真横に掲げた。

 そこに襲いかかる衝撃は、彼女の予想をはるかに超えた物。メルエのという稀代の『魔法使い』の魔法力に護られて尚、その衝撃はリーシャに苦悶の表情を浮かべさせる。

 盾を貫通したかのような衝撃はリーシャの内臓まで届き、その体躯を横へと弾き飛ばす。宙に浮いた感覚を味わいながらも、彼女は何とか<バトルアックス>を地面へ引っ掛け、何とか態勢を立て直した。

 

「なっ!?」

 

 しかし、態勢を立て直し、再び<ボストロール>へ視線を向けたリーシャは、自分の目に飛び込んで来た光景に絶句する。

 既に目の前には、棍棒を振り上げた<ボストロール>が迫っていたのだ。その棍棒は、正確にリーシャ単体に狙いを定めており、残すは、その凶器を力任せに振り下ろすだけ。

 そんな絶望的な状況の中、彼女を動かしたのは、『戦士』としての本能なのか、それとも『人』としての本能なのかは解らない。だが、彼女は再び頭上に<ドラゴンシールド>を掲げた。

 

「がはっ!」

 

 遙か上階から落とされた岩でも受け止めたかのような衝撃に、人類最高位に立つ『戦士』の膝が折れる。頭上に掲げた盾を握る腕は、痺れたように痛んでいた。

 自身の怪力によって身体を沈めた人間を見ても、もはや笑みを浮かべる余裕さえない<ボストロール>は、その棍棒を矢継ぎ早に振り下ろし続ける。

 重量感のある音を響かせ、まるで木に釘を打ち付けるように振り下ろされる棍棒は、リーシャの身体を地面へと沈めて行った。

 盾を持つ腕の骨は既に折れてしまっているかもしれない。

 身体を支えていた足の骨も折れているかもしれない。

 衝撃と振動を受け続ける内臓は、大きな損傷を受けているかもしれない。

 しかし、霞んで行く視界の中で尚、リーシャは盾を掲げて耐え続けた。

 

「…………メラミ…………」

 

 耐え忍んだリーシャが待っていた声が、闇の城下に響く。

 呟くような詠唱が聞こえたと同時に、霞むリーシャの視界に真っ赤な炎が映り込んだ。

 魔法力の残りを叩き込んだような火球は、正確に<ボストロール>の顔面を打ち抜き、焼け爛れた肌を更に焼いて行く。苦悶の叫び声を上げた<ボストロール>は、リーシャへの攻撃を止め、自分の顔面を覆う炎を振り払うように右手を払い続けた。

 ようやく、続いていた攻撃が収まった事で、リーシャの身体はその場で横へと倒れ込む。正直に言えば、彼女は意識を失っていて尚、その盾を掲げ続けていたのだ。

 

「ぐおぉぉぉ!」

 

 火球の炎によって呼吸を乱された<ボストロール>は、怒りの雄叫びを上げて、再び棍棒を振り上げる。

 倒れ込み、身動き一つしないリーシャは、その棍棒を受ける態勢にはなく、今まともに受けてしまえば、その身体は原型を留めない程に潰されてしまうだろう。

 だが、それを許すようなメルエではない。

 

「…………イオラ…………」

 

 振り降ろされた棍棒は、その途中で凄まじい爆発に巻き込まれる。

 幼い少女が持つ魔法力も残り少ない。それでも彼女は、己の出来る事をするのだ。自分の大好きな者達を護る為に、彼女は己の力を最大限に使いきる。

 それは、サラという、姉であり、友であり、ライバルである者と交わした約束。

 

 振り降ろされた棍棒は、倒れ伏したリーシャを叩き潰す事はなかった。

 <ボストロール>の持つ巨大な棍棒といえども、元を質せば、所詮は木製である。何度と受け続けた、世界最高の『魔法使い』が放つ呪文や、世界最高の『戦士』が放つ攻撃によって、限界を迎えていたのだ。

 イオラの爆発が、その棍棒を根元から消し飛ばしていた。

 手に持つ柄の部分を残し、弾け飛んだ木片だけが、意識を失っているリーシャの上に降り注ぐ。

 

「ぐぬぬぬ……ぐおぉぉぉ!」

 

 思うように行かない苛立ちに、歯軋りするような表情を浮かべた<ボストロール>は、何度も柄の部分を地面へと打ちつけ、それを後方へ放り投げた。

 人間の倍もある体格を持つ魔族が所有する棍棒の柄は、後方の城壁を壊し、凄まじい破壊音を響かせる。肘先を失っている左手も同時に天に突き上げた<ボストロール>は、怒りに燃えた瞳を幼い少女へと向けて、巨大な雄叫びを上げた。

 攻撃の矛先が自分に向かった事を理解したメルエは、何とかその場を離れようと踵を返すが、ボミオスの効力が残っていて尚、<ボストロール>の行動の方が早かった。

 

「…………」

 

 敵に背を向けて逃げ出すメルエの前に、跳躍した<ボストロール>が着地する。

 地響きが鳴る程の振動に、尻餅を着いてしまったメルエの瞳に、巨大な右拳を握り締めたまま、それを振り上げる<ボストロール>が映り込んだ。

 もはや逃げ場はない。

 今更スカラを唱えようとも、幼い少女の身を守る事は出来ないだろう。

 攻撃呪文を唱えようにも、尻餅を着いたメルエは、<雷の杖>を手放している。

 媒体を使用せずに魔法を行使する事が出来る程、今のメルエは冷静ではなかった。

 

「ぐおぉぉぉ!」

 

 勝利を確信したかのような雄叫びを上げた<ボストロール>は、振り上げた拳を勢い良く振り下ろす。棍棒という重りを外した拳は、先程より速度を速めて繰り出された。

 確実に命を奪い、その身体の形状さえも奪い尽くす程の拳は、眉を下げて呆然と見つめるメルエの上へ落ちて行く。

 数多くの『想い』によって護られて来た少女の命が消え去りそうになったその時、彼女が待ち続けた声がサマンオサ城下に響き渡る。

 

「イオラ!」

 

「アストロン」

 

 拳を振り下ろす<ボストロール>の目の前で巻き起こる爆発。

 それに遅れるようにして響いたのは、この世で『勇者』と呼ばれる者にしか行使出来ない、絶対防御を誇る魔法の詠唱。

 下げていた眉が上がり、口元に笑みが浮かぶ頃には、メルエの意識は刈り取られ、その身体を無機質な物質へと変化させて行く。視界を遮られた<ボストロール>の拳が幼い少女を襲った時、その身体は何物も受け付けない鉄へと変化していた。

 

「ぐぎゃぁぁぁ!」

 

 棍棒ではなく、素手でそれを殴り付けた<ボストロール>の拳が砕ける。皮膚の下にある骨が、自身の力の反動を受け、砕けてしまったのだ。

 悲鳴のような雄叫びを上げる<ボストロール>の身体が、後方へ一歩二歩と退いて行く。それを待っていたかのように、鉄と化したメルエの前に出て来たのは、己の身を守る筈の鎧さえも満足に装備してはいない青年。

 この世界を救うと云われる、『勇者』である。

 

「アンタは、あの馬鹿の治療を頼む」

 

「ふふふ。大丈夫です。おそらく、カミュ様程の重症ではない筈ですので」

 

 『勇者』の後方へ移動した『賢者』は、彼の口から出た言葉に一人微笑んだ。

 それは、近くに倒れ伏す『戦士』が先程口にした言葉。

 まるで聞いていたのではないかと思う程に、全く同じ内容を口にする二人が、サラには何故か微笑ましく感じたのだ。

 彼女の言うように、リーシャの状態は、先程のカミュに比べれば、まだ軽症の部類に入るだろう。この世で唯一の『賢者』であれば、瞬く間に治療を終える事が出来る筈なのだ。

 <ボストロール>からすれば、何度叩き続けても、怪我さえも残さずに立ち上がる者達は脅威であろう。一撃で息の根を止めない限り、何度でも立ち上がり、自分に向かって来る。そんな相手に恐怖を覚えない方が可笑しいというものだ。

 

「ですが、これ以上は、私の魔法力も持ちません。リーシャさんの回復後は、補助魔法も攻撃魔法もそれ程行使する事は出来ませんので」

 

「わかった」

 

 しかし、彼等も『人』である以上、その貯蔵にも限りがある。幾ら力量を上げたとはいえ、その魔法力が無尽蔵になる訳ではない。

 それは、メルエという稀代の『魔法使い』も、世界で唯一の『賢者』であるサラも同様であった。

 リーシャの方へと走って行くサラの背中を見る事無く、カミュは右手に持つ剣を一振りする。

彼の身を護る鎧は既にない。

 もう一撃、彼が<ボストロール>の拳を受けてしまえば、この戦闘は<ボストロール>の勝利で終わってしまうだろう。

 それでも、彼は立ち向かわなければならない。

 己の信じた仲間達が繋いでくれた機会を逃さぬ為にも。

 

「やあぁぁぁ!」

 

 轟く叫びは、その手に持つ剣に力を与える。

 直前に罹けられていたバイキルトによってその鋭さを増した<草薙剣>は、荒れ狂う<ボストロール>の太腿へと突き刺さった。

 二度目となる刺し傷は深く、その剣の刀身の大半が、その足へと突き刺さっている。砕けた拳の痛みに叫ぶ<ボストロール>は、更に押し寄せた痛みに、悲鳴を大きくした。

 振り払うように出された右腕を搔い潜り、突き刺さった剣を抜き放ったカミュは、そのまま太腿を薙ぎ払う。空気をも斬り裂くような一閃は、太腿を深々と斬り裂き、雨のような体液を降らした。

 

「ぐおぉぉぉ!」

 

 身体を支える足の筋でも斬り裂かれたのだろう。堪らずに膝を着いた<ボストロール>は、空気までも震える叫びを発する。

 しかし、悲痛にも聞こえる叫びを聞いて、その身を同情する者など誰一人としていない。無情なまでの一太刀が、<ボストロール>の腹部を襲った。

 瞬時に距離を詰めたカミュが、その剣を振り下ろしたのだ。

 サラの唱えたバイキルトと、<草薙剣>が元より持つ付加によって、その一閃は、<ボストロール>の硬い皮膚を斬り裂いて行く。

 噴き出る体液と、見える臓物。

 苦悶の叫びを上げた<ボストロール>との戦いは、終盤に差し掛かっていた。

 

「ちっ!」

 

 それでも、その魔族は、ここまで遭遇したどの魔物よりも上位に入る者。

 世界を恐怖に陥れる『魔王バラモス』自らが、この場に派遣した者。

 例え『勇者』といえど、一人で打倒する事など出来ない。

 腹部から流れる体液を更に噴き出させ、<ボストロール>は右腕を振り上げる。その拳の骨は既に砕け、本来の破壊力を生み出せはしないだろう。それでも、この魔族の誇りと、怒りと、命を乗せた拳は、『勇者』一人程度であれば、この世から消し去る事は可能であった。

 これが、『勇者』一人との戦いであれば。

 

「…………イオラ…………」

 

 後方から響く呟くような詠唱は、正確に<ボストロール>の顔面を打ち抜いた。

 彼の目前ではなく、顔面を中心に爆発した魔法は、この頑強な魔族の意識を奪う程の威力を誇る。僅かな時間ではあるが、意識を失った<ボストロール>の巨体は後方へと崩れ始める。

 振り返ったカミュは、<ボストロール>同様に、地面へ膝を着く少女の姿を見た。

 彼女もまた、その体内に宿す魔法力を使い果たしたのだろう。それは、これ以上の戦闘が不可能である事を示していた。

 

「うおりゃぁぁぁ!」

 

 その事実を悟ったのは、何もカミュだけではない。

 後方へと倒れて行く<ボストロール>の意識が戻り、咄嗟に自身の巨体を支えようと、その右腕を地面へ伸ばした時、『勇者』と共に歩み続けて来た『戦士』が戻って来た。

 腹の底から吐き出すように発せられた雄叫びと共に、その一閃は<ボストロール>の右腕を襲う。地面へ着けようとしていた右腕は、<バトルアックス>と呼ばれる戦斧によって、手首から先を斬り飛ばされた。

 支える筈だった掌を失い、その巨体は崩れるように倒れ込む。地響きによる振動がカミュ達を揺らす中、雲が晴れた空から、月明かりが戦闘の終焉を彩った。

 

「カミュ!」

 

 復活を果たした女性戦士の声が轟き、その声にカミュが答える。

 猛然と走り出した青年の背中を月明かりが押して行く。

 まるで後光を背負うように駆けて来るカミュを見たリーシャは、小さな笑みを浮かべ、サマンオサの夜明けを感じていた。

 

「ルカニ!」

 

 全ての仲間が揃う時、彼は真の『勇者』となる。

 誰も見てはいない。

 誰も聞いてはいない。

 そんな戦いの中でも、彼の背中は、三人の仲間達が見つめている。

 その瞳は、何時しか彼に力を与える光となり、勇気を与える光となった。

 このサマンオサの全てを変える、歴史の一太刀が、夜の闇を斬り裂く。

 

「ぐおぉぉ……」

 

 <ボストロール>の断末魔の叫びは、最後まで発せられる事はなかった。

 地面へと倒れ伏した魔族の首は、『賢者』の唱えた防御力低下の効力を受け、『勇者』の放った一閃によって斬り落とされたのだ。

 両腕を失って尚、立ち上がろうと身体を起こしかけていた巨体が、完全に地面へと沈む。先程までよりも大きな振動が地面を揺らし、轟音となった地響きが轟いた。

 

 

 

 先程までの喧騒が消え失せ、静寂がその場を支配する。

 恐怖に慄き、身を震わせる女子供を護っていたアンデルは、静まり返った城外の空気に、巨大な魔物と勇者一行との戦いが終幕した事を悟った。

 隣に立つ筆頭大臣へ視線を送ると、彼もまたその事実を悟ったのか、静かに一つ頷きを返す。

 それでも、その幕が勇者一行によって降ろされた物であるとは限らない。

 ゆっくりと城門へと近付き、静かにその門を開いたアンデルは、そこから見える幻想的な光景に息を飲んだ。

 

「勇者とは……ここまで、ルビス様に愛された者であるのか……」

 

 アンデルの横に立つ大臣もまた、その景色に息を飲み、続いて溢れ出す、理由も解らない涙に戸惑いを見せる。

 それ程に、その光景は幻想的な物であったのだ。

 

「英雄と……勇者か……」

 

 アンデルの瞳には、夜の闇が支配する城下の庭の中で、一筋の月明かりが映り込んでいた。

 まるでその一点だけを照らすように、このサマンオサを救った『勇者』だけを月明かりが照らし出していたのだ。

 アンデルの瞳には、アリアハン国が『勇者』として送り出した青年の背中だけが見えている。静かな、そして優しい月明かりを一身に受けたその青年は、この世の守護者である『精霊ルビス』の愛をも一身に受けているようにさえ映った。

 その青年を護るように、徐々に姿を現す者達は、彼と共に歩む同道者達。

 一人、また一人と青年に近寄る彼女達も、月明かりが優しく照らし出す。

 それは、『精霊ルビス』の愛のような月明かりなのか、それとも月のような青年が放つ優しい光なのか。

 アンデルは、溢れ出る涙を拭う事無く、その光景を無言で見つめ続けた。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにて、ボストロール戦終了となります。
この回は、ドラクエⅡの「戦い」の音楽が皆様の頭の中で流れていれば嬉しいです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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サマンオサ城⑥

 

 

 

 

 サマンオサという巨大国家を飲み込んでいた、深く暗い闇が取り払われてから一夜が過ぎ去った。

 国王に化けていた魔物を打ち倒したカミュ達一行は、城下町にある宿屋で一晩を明かすのだが、魔法力を消費した功労者であるサラとメルエが昼になっても起きない為、国王からの呼び出しに応える事が叶わず、そのままもう一夜を明かす事になったのだ。

 

 

 

 <ボストロール>と呼ばれる巨大な魔物を打倒したのは、カミュという名の、アリアハンが送り出した『勇者』であった。

 だが、その雄姿を見た者は、このサマンオサ国家の中で皆無に等しい。王族の血を継ぐアンデルでさえ、その瞬間を見てはいないのだ。

 サマンオサ国民が目にした物は、城下町に入り込んだ魔物達であり、それを排除する為に現れた英雄の息子である。国民達は、国王が化け物であった事を知らず、その化け物がどれ程に強大な力を持っていたかも知らない。

 サイモンという英雄の血を継ぐ者が、新たなサマンオサ国の英雄となって戻って来た事に歓喜し、その者を讃えた。

 サマンオサ国として、ここ数年間における政治を王族が行った物として公表する事は、国家の転覆を意味する為、魔物が国王に化けており、先代の国王はその魔物によって殺害されていたという形で発表する。

 後継争いを避ける為に、死亡と公表して諸国を旅していた王弟であるアンデルが、サマンオサの危機に舞い戻った事を大々的に発表し、新たな次代国王として、正式に王位を継承した。

 これにより、サマンオサという大国は、新たな国王の執政へと移り変わり、ここまでの暗い過去に心を病んでいた国民達は、その変化を歓迎し、アンデルという国王の誕生を昼夜を問わずに祝い続ける。

 

「これで良かったのであろうか……」

 

「あの者達には、国王様直々にお言葉をお掛けなされ。このサマンオサを良き方へ導く為ならば、あの者達も理解してくれましょう」

 

 自身の罪を理解し、自身の力の無さを理解しているアンデルにとって、まるで国民を騙しているようなその動きは、釈然としない物が残る物だった。筆頭大臣と話し合った結果、それ以外に方法が無いという事も理解しているだけに、その罪悪感は広がって行く。

 だが、国王に化けた魔物の原因がアンデル自身にあるという事を公表してしまえば、それが王族に対する不信感を強め、国家の不安定さをも強めてしまう結果となるだろう。それは、『魔王バラモス』の力が強まった今、国家としての機能を著しく失い、国民達を危険に晒す事となる。

 今回の一連の事態から、『魔王バラモス』の力の強さを見せつけられる事となり、それも同時に理解したアンデルは、筆頭大臣の言葉に頷く事となった。

 

「余には、兄上のような力はない。だが、このサマンオサ国を想う気持ちに関して言えば、今はあの時の兄上よりも強いという自負がある。この国を良き方へ導く事は、余の力だけでは到底叶わぬ。そなた達全員の力が必要だ。この国を良き方へ導くのならば、手段も労力も、金銭も厭わぬ。余と共に、このサマンオサの新たな国造りに奮闘してくれ」

 

 謁見の間にて即位の言葉を述べたアンデルの姿を見て、筆頭大臣は込み上げる想いを抑える事に苦心する。

 長く待ち侘びた瞬間である事もあったが、それよりも、先代国王が何故、自分を超える者としてアンデルの名を挙げたのかを理解したからであった。

 この新たな王は、自身の未熟さを心得ている。それは今に始まった事ではなく、自身が持つ力で何を成す事が可能なのか、何を生み出す事が可能なのかを常に考えているのだ。

 先代国王が存命の頃も、彼は自身の頭で考え得る政策を案として提出している。そして、それは自己満足の物ではなく、常にサマンオサ国やそこで暮らす国民達を想っての政策であった。

 実現不可能な物であったり、甘い考えを捨てきれぬ物であったりと、棄却される事は多かったが、それでもその想いだけは、誰しもが認める物であったと言えよう。

 そして、この数年間に及ぶ時間が、彼のその想いを尚更に強くしていた。

 自国の国民を想い、名君と呼ばれた兄の威を借りていた弟は、その失態を知り、その罪を知る。

 

「我らの力の全ては、サマンオサ国の為に」

 

 筆頭大臣の言葉と同時に、全ての臣下の者達が跪く。

 国という生き物は、優秀な国王だけで動く訳ではない。余りにも優秀な国王が上に立てば、その臣下となる者達は只の駒と化してしまうのだ。

 駒と化した者達に、その仕事への誇りは持てない。自分でなくとも出来る仕事に対して誇りを持つ事は、非常に困難な事柄である。

 己の力を発揮する場所を与えられ、その仕事を任されて初めて、『人』は他に目を向ける事が出来るのだ。

 『この仕事は国王の為』

 『この仕事は国の為』

 『この仕事は国民の為』

 愚王であれば、その者達の仕事に目を向ける事が出来ず、働きに見合う褒賞も与えられず、逆に見合わない者を裁く事も出来ない。それが続けば、そこに不正等の暗部が生じる事だろう。

 だが、アンデルは違う。

 国王自らが向く方角は決まっており、その為に臣下の者達の力を借りるという信念を貫く限り、このサマンオサが暗部に落ちる事は二度とない。

 下で働く者達の旗頭と成り得る者。

 その者もまた、時代は『名君』と呼ぶのだ。

 

「国王様、明日は我が盟友サイモンの子と、アリアハンから訪れた者達を召し出します。その前に、姫にお声をお掛け下さい」

 

「う、うむ……しかし、あれに何と声を掛ければ良いか……」

 

 そんな、将来の名君を悩ます事柄が一つだけあった。

 サマンオサ城下町に入り込んだ魔物達を討伐した新たな英雄に対しても、このサマンオサを覆っていた暗い闇を払った勇者達に対しても、その恩賞はアンデルの中で決まっている。

 だが、自身の血を分けた娘に対してだけは、その後の処置を決めかねていたのだ。

 

「お気持ちは解ります。ですが、姫のお気持ちもお考えくだされ」

 

 アンデルが兄の姿を借りていた際に生まれた娘は、サマンオサ王族の血を継ぐ、大望の姫となった。

 既にこの世を去った妻にも、この娘にも本来の姿を見せた事の無いアンデルではあるが、娘を愛する想いに偽りはない。故にこそ、彼を悩ませていたのだ。

 サマンオサ国の姫は、先代国王の姿をしたアンデルを父だと思っている。幼い頃に優しかった父が急変し、暴君へと変わった姿に心を痛め続けていた。

 父だと思っていた国王は、魔物が化けていた物であり、数年前に父は魔物に喰われて死んでしまったと信じているのだ。

 今更、自分が本当の父親であった事など伝えられる訳が無い。アンデル自身の保身の為ではなく、愛する娘の心を護る為にも、そのような事を事実として伝えられる訳が無いのだ。

 

「解っておる」

 

 溜息を一つ溢したアンデルは、玉座から天井を見上げる。

 愛する娘の心を想い、この国の行く末を想った溜息は、静かに謁見の間に溶け込んで行った。

 

 

 

 アンデルという新国王が玉座に座った翌日、謁見の間には数多くの重臣達と、先日の英雄達が召集された。

 玉座の周囲に重臣達が陣取り、玉座の前にはサイモンの元部下達が跪く。

 元部下達を従えるように跪くのは、新たな英雄となったサイモンの息子。

 父が被っていた兜を横に置き、先日身に纏っていた鎧をこの日も装備している。眩く輝くその鎧には、このサマンオサ国の紋章が刻まれており、それが彼の心を示しているように輝いていた。

 そんな英雄一行とは一線を画すように、一固まりになって跪くのは、アリアハンが送り出した勇者一行。

 先頭にカミュという青年が跪き、その後ろに三人の女性が跪いている。

 

「よくぞ参った。面を上げよ」

 

 謁見の間に現れたアンデルが玉座に腰を下ろし、声を発した事で、サマンオサの歴史に残る謁見が始まった。

 国王であるアンデルの声に一度深々と頭を下げた一行は、顔を上げる。悠然と座るアンデルの姿に、国王の威厳を見たサラは、その姿を眩しそうに見上げ、表情には出さずに心で微笑みを浮かべた。

 サイモンの元部下達はこのような謁見の間に呼ばれる事自体が初めてなのだろう。恐縮したように大きな身体を縮め、国王の尊顔を拝する事さえも拒んでいる。

 対するサイモンの息子は、表情を一切変えずに国王であるアンデルを射抜き、まるでその資質を試すように目を鋭く光らせていた。

 それは、不敬に値する程の行為であろう。だが、ここで彼を罰する事が出来ないという事を、この新たな英雄は誰よりも理解していたのかもしれない。

 

「まずは、このサマンオサ国と、城下で暮らす民達を救ってくれた事、国王として改めて礼を申す」

 

 玉座から頭を下げるアンデルの姿に、先程とは異なるどよめきが起きる。

 一国の国王が、英雄とはいえ一国民に対して頭を下げるという行為は、本来であれば禁忌に等しい。

 王族としての威厳があるからこそ、その一族は国を統べる者として認められるのである。どれだけ功労があろうと、それに対し褒賞を与えたり、感状を与えたりする事で認め、決して一個人として礼を述べる事は許されてはいないのだ。

 

「我が国の英雄であるサイモンは、我が国の守護者でもある。そのサイモンの部下であったそなたらには、再びこの国を護って貰いたい」

 

 一同のざわめきが収まらない中、アンデルはそれを意に介さずに言葉を続ける。喧騒の中でも驚く程に通るその声は、小さく跪くサイモンの元部下達の耳にもしっかりと届いて行った。

 魔物と国王が入れ替わった時期は明確には公表されていない。

 城下町で暮らす国民達の間では信じられていないが、国家として押した反逆者としての烙印を、国王自らが払拭したのだ。

 英雄と呼ばれた者の部下としては、心だけではなく、その身でさえも震える程の言葉であっただろう。事実、元部下達は身体を震わせ、中には嗚咽を漏らす者さえいた。

 

「サイモンは、余の恩人であり、余の友でもある。その血を継ぐ者が、再びこのサマンオサを救う英雄として舞い戻ってくれた事、心より嬉しく思う。その感謝の意を込めて、そなたには今後『サイモン二世』を名乗る事を許そう」

 

 続いて出たアンデルの言葉に、元部下達の嗚咽は声を上げる程の泣き声へと変わる。

 彼等が崇拝する者の名は、その息子へと受け継がれた。

 それは、先代の英雄の功績を認めると共に、その子にも同様の期待をしているという表れである。

 サイモンという名は、サマンオサ国に永代刻まれる事となり、その栄誉ある名は脈々と受け継がれていく事になるだろう。

 

「有り難き幸せ。父の名に恥じぬよう、このサマンオサ国の為に尽くす所存にございます」

 

「うむ」

 

 誇らしげに顔を上げ、先程よりも幾分か表情を緩めたサイモンの息子は、アンデルに向けて深々と頭を下げた。それらのやり取りに、元部下達の嗚咽も大きくなる。

 この者達は、おそらくサイモン二世となったこの青年の下に就けられる事だろう。それもまた、彼等の望むところであり、予てよりの願いでもあった。

 

 そんな国王とのやり取りを聞いていたリーシャは、彼等の感動を余所に、全く異なる事を考えていた。

 『もし、カミュがオルテガの名を継ぐ事を許されたとしても、このような表情を浮かべるだろうか?』

 そんな考えは、リーシャの頭の中で即座に否定される。

 流石に国王の目の前で悪態を吐く事はないだろうが、固辞する事は間違いない。カミュという人間の中で、自身の父の名は誇らしい物ではなく、憎悪をも抱く不快な名なのである。

 もし、万が一にも、オルテガという英雄が『魔王討伐』に出る事無く、アリアハンを護る為だけに戦っていたとしたら。

 もし、アリアハンに留まり、カミュという息子との時間を過ごしていたら。

 そんな可能性の話にもならない物ではあるが、それであればカミュもまた、その名に誇りを感じ、そんな父のようになろうと生きていたのかもしれない。

 どちらが恵まれ、どちらが不幸なのかという事を論じる事自体が不毛な物ではあるが、リーシャはこの英雄の息子達の相違点に考えを巡らしてしまうのだった。

 

「そこでじゃ。そなたには、サマンオサ国の英雄として……」

 

「畏れながら! 私は父の名を継ぐ者として、このサマンオサ国を護る為に戦いとうございます。その儀、何卒お許し下さい」

 

 国王の言葉を遮るなど、万死を持って償う程の罪である。しかし、アンデルは真っ直ぐ向けられた瞳を見て、その全てを察した。

 その瞳には、『まだ、認めてはいない』という想いが込められていたのだ。

 サイモン二世となった青年は、サマンオサ王族に対しての不信感が植え付けられている。父を奪われた子の憎しみは、そう簡単に消え去る物ではないのだ。

 その愛情を一身に受けた者であれば尚更であろう。

 リーシャの父のように、国家の仕事の中での栄誉ある死とされていれば、例え周囲の目はきつくとも、父の死を誇りある死として受け止める事は出来る。だが、反逆者としての烙印は撤回されたとはいえ、一度は国家から排除されたのであれば、父を崇拝する者としては許せる事ではない。

 彼は、サイモン二世となった事で、このサマンオサ国でもある程度の地位を得た。今後の働き次第では、国王に向かって諌言する地位を有する事も可能であろう。

 愛する父が愛した国を護る為、彼は彼なりに考えていたのだ。

 

「相解った。そなたには、国の防衛を指揮して貰おう」

 

 アンデルは、小さな溜息を吐き出し、その願いを受け入れる。

 彼の素行は、決して臣下の物ではない。だが、彼の周囲には元サイモン直属の部下達がいる。国家に仕える者としての心得は、彼等から徐々に学んで行く事だろう。

 アンデルは、己の中にある『覚悟』と『決意』を胸に、『使命』を果たすだけ。それがこの若き英雄の歩む道を正しい方向へ導く事になるに違いない。

 

「大義であった」

 

 自国の英雄への勲功論証を先に終えたアンデルは、その者達を下がらせる言葉を発する。金銭などの褒賞に関しては、この場で口にするべきではないと考えていたのかもしれない。

 その辺りを理解している様子のサイモン二世達は、国王の言葉に深く頭を下げ、謁見の間を後にした。

 その後、重臣達も下がらせた事によって、謁見の間には国王アンデルと筆頭大臣、そしてカミュ達一行だけが残される形となる。

 他国から来た一行に、国としての恥部を見せた訳である為、その口止めも含めて様々な想像が為され、重臣達は渋々ながらも謁見の間を後にした。

 

「さて……改めて礼を述べさせて貰う。このサマンオサを救ってくれた事、心から感謝する」

 

 側近さえも遠ざかった事を確認し終えたアンデルは、先程よりも丁寧に頭を下げる。その姿は、玉座に座したままであるにも拘らず、カミュ達や大臣さえも息を飲む程の神聖さを醸し出していた。

 正しく、自国を救ってくれた救世主に対しての礼を尽くしているのであろう。重臣達や側近、そしてサイモン二世となった者がいる前では見せる事の出来ない姿は、彼の心を明確に示している。

 

「重ねて、此度の一件、サマンオサ国民に正確に伝えられない事を詫びる」

 

 感謝の念を伝える時とは相反するように尊大な態度で謝罪を口にしたアンデルは、先程とは異なり、一国の国王としての顔に変化していた。

 カミュ達への感謝の気持ちは、国王としてと共に、個人としても表明していたのだが、この謝罪に関しては、サマンオサ国王としての言葉である事を示している。

 国の政策として行った物である以上、他国の者に口を挟む権利はないという事を言外に示しているのだ。

 それを明確に感じ取ったカミュは、深く頭を下げた後、国王アンデルへ顔を向け、ゆっくりと口を開いた。

 

「畏れながら申し上げます。此度の件、我々が成した事など微々たる物でございます。全ては、サマンオサ国の皆様方が成した事」

 

「……感謝する」

 

 カミュの瞳を見たアンデルは、素直に感謝の意を口にした。

 アンデル自身有り得ない事とは考えていても、ここでこの一行が今回の一件での不満を口にすれば、サマンオサ国として何らかの対応をしなければならない。そこに、国の救世主である事や、国王の救出者である事などは意味を成さない。アリアハンという国家が送り出した者達であるという一点だけの問題となってしまうのだ。

 『魔王バラモス』という世界共通の脅威がある時代を考えると非常に愚かな事ではあるが、それが『人』の世界なのである。

 

「オルテガ殿にサイモンを同道させていたとしても、結果は変わらなかったのかもしれぬな……」

 

 アンデルは、カミュの後方で跪く者達の表情を見て、安堵した想いとは別の感情を持った。

 三人の若い女性達は、皆顔を伏せてはいるが、その表情に変化はない。幼い少女に至っては、アンデルとの会話に全く興味を示していない事さえ伺えた。

 おそらく、アリアハンの英雄であるオルテガが、今回のカミュ達のようにこの国を救ったとしても、同じような言葉を残すであろう。

 だが、それは多分に謙遜の意味も込められた物であり、実際の想いは異なるのかもしれない。もし、同道している者達がいれば、その者達が不満を口にしなくとも、その表情や態度に少なからず表れていた筈である。

 そのような自己顕示欲が、彼らには一切感じられなかった。

 先程、この場を後にした英雄サイモンの息子達には、自己の力を証明したいという欲がある。だからこそ、萎縮していたとはいえ、この謁見の間に意気揚々と出仕出来たのだ。

 それが、『英雄』と『勇者』の違いのように、アンデルは感じていた。

 

「これまでの英雄達が魔王を討伐出来なかったという事実も、当然の事なのやも知れぬな」

 

 アリアハン国のオルテガ。

 サマンオサ国のサイモン。

 両名共に誰しもが認める『英雄』である。

 国家の敵となる他国の者達と戦い、戦功を上げ、国家を脅かす魔物達を討伐し、名声を高めた。

 だが、彼等はそのような場があってこそ輝く者達。

 戦いの場があり、名を上げる状況が整ってこそ、彼等の武は光り輝くのだ。

 それこそが、『英雄』の証。

 戦いに自ら身を投じ、その場で己の武を振るう者。

 だが、逆に考えれば、その者達は何も生み出す事はない。

 彼等によって救われる者達はいるだろう、彼等によって命を護られる者達もいるだろう。

 それでも、彼等が成せる事は、既に出来上がった状況の中で戦う事だけなのである。

 

 では、その状況を生み出す者とは誰か。

 それが『勇者』である。

 英雄と呼ばれる者達と同様に、戦いに身を投じる者でありながら、『勇者』と呼ばれる者は、その理由が異なるのだ。

 自ら戦いに身を投じる訳ではなく、彼等の周囲で戦いが起こるのでもなく、『勇者』という存在が状況を動かし、時として戦いへと発展させる。

 必ずしも、剣を抜き合うような争いになる訳ではない。

 時には討論になり、時には慈しみ合いとなり、時には分かち合いとなる。

 全ては、その『勇者』と呼ばれる存在が生み出した『必然』による物。

 生み出された『必然』の中で名を上げる者が『英雄』となり、その地位と名誉を手にして行くが、『必然』を生み出した者の存在と功績は限られた者にしか残らない。

 その限られた者達が語り継ぐ事によって、その存在は『勇者』となるのだ。

 

「この世に生きる人間の中で、そなた達が……いや、そなた達だけが成し得る事の出来る物なのかもしれん」

 

 オルテガもサイモンも、世界にその名を轟かす程の『英雄』である。

 実質一人で旅を続けて来たオルテガの力量は、アンデルの目の前で跪く四人の若者達よりも上なのかもしれない。

 魔物を倒すという能力に掛けては、このサマンオサ国の英雄であったサイモンも劣る者ではないだろう。

 それでも、彼等は『英雄』という枠からは抜け出す事は出来ない。

 彼等が如何に強かろうと、『必然』を生み出す事の出来ない彼等では、『魔王』を討伐出来ないばかりか、『魔王』にすら辿り着けないのが道理である。

 

 このサマンオサ国を変えたのは、サマンオサ国で暮らす民であり、英雄の息子であり、アンデルという新国王である。彼等が動いたからこそ、この国は変化し、新たな時代を造り出したのだ。

 しかし、その全ては、アリアハン国が送り出した四人の若者達が訪国した事から始まった。

 今まで、このサマンオサ国の現状に心を痛め、苦しみを抱きながらも、誰一人として動き出さなかった国が、たった四人の……いや、たった一人の青年の出現によって大きくうねり出す。

 

 もし、筆頭大臣がカミュ達の謁見を許さなければ、彼等が地下牢へ向かう事はなかっただろう。

 もし、地下牢を護る門番が、彼等の脱獄を見逃さなければ、そして地下牢からの抜け道の噂を伝えなければ、彼等がアンデルという王弟に出会う事もなかっただろう。

 年齢差のある歪なパーティーを見たアンデルが彼等を信じなければ、国宝である<ラーの鏡>が再びサマンオサ国に戻る事もなかっただろう。

 それは、サマンオサ国の英雄であるサイモンの直属の部下達も同様であり、部下達が彼等を信じなければ、城下町を襲う魔物は、町で暮らす国民達を全て喰らい尽くしていただろうし、サマンオサに新たな英雄が生まれる事もなかった。

 全ては、アンデルの目の前で跪く、『勇者』が起こした『必然』なのだと考える方が自然であろう。

 それが、『英雄』と『勇者』の違いだと、アンデルは考えたのだ。

 

「そなた達に、余から褒美を取らす」

 

 一度目を瞑り、自身の馬鹿げた考えに小さな笑みを浮かべながら、アンデルは溜息を吐き出した。

 再び目を開き、目の前で跪く四人の姿を確認したアンデルは、その者達の功績を知る限られた人間として、労に報いる言葉を発する。

 それは、筆頭大臣でさえ予想もしていなかった言葉なのだろう。驚いたように顔を上げたカミュ達と同様に、見開いた瞳を国王であるアンデルへと向けていた。

 

「この<変化の杖>と、<ラーの鏡>を褒美として取らす」

 

「こ、国王様、そ、それは……」

 

 だが、続くアンデルの言葉に驚きは増し、言葉を失ってしまう。

 褒美の品として挙がった物の名は、このサマンオサ国にとって秘宝として存在する国宝であったのだ。

 一対となる二つの国宝は、このサマンオサ国を見出し、そして正した宝具。

 神代から残されていると伝えられる程の物であり、サマンオサ王族が『精霊ルビス』から与えられたとさえ伝わる物であった。

 

「よい! この二つは、確かに我が国の国宝であった。だが、もはや必要はない。己の姿を偽る必要もなく、己の真実の姿はこの国の民達が映し出してくれる」

 

「国王様……」

 

 『英雄』と『勇者』の違いを知ったアンデルは、同時に国王としての真の役割を知る事となる。

 どれ程に己の姿を偽っても、その王が行った政は、必ず国に反映されてしまう。良い物であれば、それは国民の笑みとなり、悪しき物であれば、それは国民の涙になる。

 国王として残した足跡には、必ずその国で生きる者達の顔が付いて来る。笑みという花を咲かすのか、涙という雨を降らすのか、それは全てその国を統治する者の働きによって決まるのだ。

 

「余に偽る物など、もはや何も無い。我が国の民達こそが、真実の余を映し出す鏡となろう」

 

 その言葉は、どれ程に尊い物であっただろう。

 昨晩に、死ぬまでの涙を全て流し終えたと思っていた大臣の瞳から、再び熱い想いが流れ落ちて行く。

 国に仕える者であれば、この言葉に心を動かされぬ者などいるだろうか。

 カミュの後方で跪いていたリーシャでさえ、胸に込み上げる熱い想いを抑えるのに必死であった。

 

「そなた達に、十数年間己を偽り続けた愚か者から言葉を贈る」

 

 大臣が口元を押さえ、言葉を失ってしまった事に苦笑を洩らしたアンデルは、玉座から立ち上がり、カミュの前に<変化の杖>と<ラーの鏡>を置き、ゆっくりと口を開く。

 静かにカミュ達全員を見渡し、自虐するような言葉を口にしたアンデルの瞳は真剣な輝きを放っていた。

 誰も言葉を挟む事は出来ず、その口から発せられるであろう言葉を固唾を飲んで待つ。

 

「そなた達が培って来た経験や、広げて来た見聞は、そなた達の未来を裏切る事は決してない。この先、迷う事はあろうが、己達が歩んで来た道を信じて進むが良い!」

 

「……はっ」

 

 謁見の間に轟く声は、『勇者一行』の胸に届き、定着させて行く。

 この言葉は、この先の旅で、長らく彼等の心に残って行く事だろう。

 時に彼等の心を叱咤し、時に激励する。そして、沈み込みそうになる彼等の心に勇気と決意を思い出させて行く事だろう。

 その証拠に、アンデルの言葉にカミュが声を返すまでに、暫しの時間を要するのであった。

 

「既にルビス様から愛されておるそなた達には今更ではあるが、そなた達の旅に、ルビス様の多大な加護があらん事を」

 

 アンデルの最後の言葉で、謁見は終了した。

 カミュ達の心にサマンオサ王族の偉大さを植え付ける結果となった謁見は、様々な物を残して行く。

 もはや話す事はないと口を閉ざしたアンデルが玉座へと戻ったのを見て、カミュ達も立ち上がり、謁見の間を後にした。

 

 

 

 謁見の間から『勇者一行』が出て行った後、筆頭大臣も仕事へと戻り、謁見の間にはアンデル一人となる。

 暫しの間、高い天井を眺めていたアンデルは、これから動き出すサマンオサ国への期待と不安を感じていた。

 彼に出来る事など、広いサマンオサ国のなかで限られている。それでも、これからは彼自身が動き出さなければ、この大国が変わる事など有り得ない。

 再び『決意』と『覚悟』を持って、『使命』へと向かおうと視線を戻したアンデルの瞳に、一人の美しい女性が映り込んだ。

 

「お、叔父様……」

 

 それは、彼が偽りの王として同じ場所に座していた頃、彼と妃となった妻との間に生まれた小さな命であり、次代へと続く小さな希望となる姫君であった。

 彼女自身、全てに於いて不安定なのだろう。

 サマンオサ国としては、魔物と国王が入れ替わった時期を明確にはしていない。故にこそ、この姫が生まれた時期の国王が、本当にサマンオサ王族であったかも定かにはしていないのだ。

 彼女の出生の秘密を知っているのは、この国でアンデルと筆頭大臣しかいない。それは、姫という立場を危うくする物であり、当の本人でさえも、自身の身を曖昧な物に感じていたのかもしれない。

 王弟としての明確な地位を持ち、今や国王となったアンデルには子供がおらず、必然的に王位継承権はこの姫君に移る。しかし、その姫君が本当に先代の子である証拠はなく、寧ろ邪魔な存在と考えても可笑しくはないのだ。

 彼女がそれでも、アンデルを『叔父』と呼んだのは、微かな希望を胸に宿していた証拠なのかもしれない。

 

「どうなされた?」

 

「叔父様……私は、私にはどのような処分が……」

 

 他人行儀なアンデルの言葉に、姫君は眉を顰める。

 それは、自身を親族として認めていないように感じてしまったのだ。

 親族として見ていないという事は、疑いを持っている事と同義。それは、姫君の命運を左右する程の物である。

 故に、か細く震える声で、玉座に座る王へと問いかけるのだ。

 『自分は何時裁かれるのか』と。

 

「処分? 何故、お前を処分する必要がある? お前は余の娘となるのだ。これからは、余を父と思い、心安らかな日々を送るが良い」

 

 だが、アンデル自身は、予想もしていなかった言葉に心底驚き、目を見開いた。

 先程、この謁見の間でアンデルが口にした言葉の中にあった、『もはや偽る物など何も無い』という言葉には、たった一つの偽りが含まれている。

 それは彼の生涯に掛けて偽り続けて行かなければならない程の大きな物。

 血を分けた本当の娘を、先代である兄の娘として接して行かなければならない大きな嘘。

 それを改めて認識したアンデルは、口調を崩し、自身の心の中を吐き出すように、柔らかな笑みを浮かべて言葉を紡いだ。

 

「こちらにおいで」

 

 玉座から伸ばされた手は、真っ直ぐに姫君へと向けられている。

 その笑みは、全てを包み込むような愛に満ちており、向けられた者に絶対的な安心感を齎す程の優しさが込められていた。

 それは、親だけが持つ事の出来る無償の『愛』。

 何よりも強く、何よりも優しい『愛』。

 

「……お……おとう……さま?」

 

 真っ直ぐに差し伸べられた手に吸い込まれるように引き寄せられた姫は、その手に触れた瞬間、理由の解らない感情に包まれた。

 無意識に溢れ出した涙が、次々と頬を伝って行く。

 

「うむ……うむ! 今日から、この私がお前の父だ!」

 

 真っ直ぐに向けられた『愛』は、必ず子の心に刻まれる。

 生まれてから幾年もの間注がれ続け、心に刻みつけられた『愛』を忘れる事など出来はしない。

 親となった者にしか注ぐ事の出来ないその『愛』は、姿形が変わってしまっていても、心が反応をするのかもしれない。

 無意識に求め、無意識に応えるそれは、生物がこの世で脈々と受け継いで来た物。

 親から子へ、子から孫へと繋いで来たそれは、消え去る事などないのかもしれない。

 

 

 

 長く苦しい時代は終わりを告げる。

 大国を覆っていた厚い闇は、『勇者』が造り出した必然によって動き出した様々な者達が払った。

 一つの時代が終わり、また新たな時代が始まる。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにて、ようやく第十三章も終章となります。
次話は、勇者一行装備品一覧を更新致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

『勇者』とは職業ではないというのは、ルビス教の教皇の言葉である。

『英雄』と比べ、その在り方が異なる存在は、自称する物ではなく、後の世で人の口から語られる物。

アリアハンを旅立ってから、既に四年の月日が流れようとする旅の中で、彼が起こし続けて来た『必然』の数々が、彼の名を後世に残す事になるのかもしれない。

 

【年齢】:19歳

アリアハンを旅立ってから、四度目の季節を迎えようとする中、彼の人と為りは大きく変化していた。目標となる物は『魔王討伐』に変わりはないが、そこへ向かう志が異なっている。

その道中で、何時死んでも構わないという想いは既にないだろう。死に対する『覚悟』は持っていても、生への『諦め』を持つ程の絶望に苛まれる事はない。

 

【装備】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガいう彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):なし

装備していた<魔法の鎧>は、サマンオサ南の洞窟で遭遇した<骸骨剣士>の攻撃を受け、幾つもの風穴を空けられた。加えて、サマンオサ城にて戦闘になった<ボストロール>の棍棒を何度も受け、その鎧は、鎧としての機能を失ったのだ。

だが、痛恨の一撃とも呼べる程の攻撃を二度受けて尚、カミュの命が残っていたのは、間違いなく、<魔法の鎧>があったからこその物であろう。

 

盾):ドラゴンシールド

サマンオサ城下町にて、リーシャと共に購入した盾。

龍種の鱗を土台となる金属の上に繋ぎ合わせた盾だと云われるが、サマンオサ近辺に龍種と呼べる種族が存在しない為、おそらくは龍種の劣化種である<ガメゴン>の鱗を繋ぎ合わせた物ではないかと考えられる。

だが、劣化種とはいえ龍種である事に変わりはなく、その盾の防御力は凄まじく高い。金属と異なり、龍種が身体に纏う鱗を繋ぎ合わせている為、その柔軟性はとても優れており、<ボストロール>の強力な攻撃を数度受けて尚、その身に傷一つ付けず健在であった。

 

武器): 草薙剣(くさなぎのつるぎ)

真名は、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)遥か昔、ジパング創世の頃の初代国主が、民を護る為に神より賜った神剣と伝えられる剣。その切れ味は鋭く、天にかかる雲をも切り裂くという伝承があるが、現在には伝わってはいない。ジパング当代国主であるイヨから、別名と共に下賜される。

 

所持魔法): メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      リレミト

      マホトーン

 

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

戦士としての実力は、英雄の去りしこの世界の中で、最高峰に立っていると言っても過言ではない。

アリアハンの英雄であるオルテガや、サマンオサの英雄であるサイモンの全盛期に比べれば、見劣りする部分がある事は否めないまでも、現人類の中で言えば、彼女の力量もまた、一国の英雄として扱われても可笑しくはない程の物であった。

 

【年齢】:不明

戦士としての力量を日々高めて行く中で、周囲に居る男性よりも高い実力を有すようになった彼女ではあるが、女性としての感覚や視点を捨ててはいない。

他者を思いやり、その者の心の内を知り、その者を温かく包み込むという彼女の姿勢もまた、女性特有の母性という物の表れであろう。

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):大地の鎧

試練の洞窟と呼ばれる人工の洞窟内に安置されていた鎧。『勇者』と呼ばれるカミュが発見するが、その者を主とは認めず、外で待つ一人の戦士を主と定めた。まるで己の意志があるかのように、『人』としての色を残す女性を主と定めた鎧は、他者の手に渡るのを拒む。精霊と共に崇められる対象となる母なるものの名を冠する鎧は、植物や動物を育てるように、温かくその身を包み、護る事だろう。

 

盾):ドラゴンシールド

サマンオサ城下町にて購入した盾。

劣化した龍種の鱗を繋ぎ合わせて作られた物だと考えられる。

劣化したとはいえ、龍種の鱗の防御力は高く、<ボストロール>の凶暴な力を受けても形状は変わらずない。また、炎や吹雪といった物への耐性も少なからず持ち合わせているという説もある。

 

武器):バトルアックス

鉄の斧とは異なり、両刃の斧。ハルバードよりも戦闘用に改良されている物であり、戦斧という名に相応しい程の機能を備えている。重量感も鉄の斧よりも数段上であり、圧し斬るというような攻撃方法も可能な程の全長も有している。装飾も凝った物が成されており、スーの村の装飾技術も窺える逸品。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

『賢き者』としての素質を開花させ始める若き女性。

『僧侶』としてアリアハンを旅立ってから四年近くの月日が流れた今、戦闘に於いての頭脳は、彼女であるという立ち位置を不動の物としている。

戦闘の組み立てだけではなく、パーティー全ての回復役も担う彼女の存在の重要性は時間と共に増しており、万が一彼女が戦線を離脱した時、全滅の危機に瀕する可能性を無視する事が出来ないまでになっているだろう。

 

【年齢】:20歳

女性としての成熟期に向かい始めた彼女ではあるが、その思考や思想の向上とは異なり、身体的な成長は、十代半ば程から些かの変化もない。若干伸びた身長というのはあるが、その伸びも既に停止し、身体的な成長の伸び代は残っていない事が解る。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれており、その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

テドンという滅びし村で購入したこの法衣は、その村へ移住して来た年若い夫婦の手によって編み出された。昆虫が作り出す物を糸から『絹』という世界で初となる生地を作り出し、特殊な能力を保持していた妻が編んだ物。それは、奇しくも彼女と共に歩む幼い少女の母親であった。類稀なる魔法力を有し、稀代の『魔法使い』となった少女の母親も、特殊な術式を組み込んだ法衣を作り出している。その奇妙な巡り合わせが、サラという当代の『賢者』の思考に一石を投じていた。

 

盾):魔法の盾

カミュやリーシャと同様、スーの村で買い揃えた盾。サラの身体に合ったサイズに変化した盾は、その左腕に納まっている。以前まで使用していた<うろこの盾>に関しては、ロマリア国王から下賜された宝物である為、店で売却はせず、大事に保管されている。『意味のない行為』とカミュに小言を言われるが、リーシャの後押しもあり、その後は船の船員達は使う事になる。

 

武器):ゾンビキラー

サマンオサ城下近郊での<ガメゴン>との戦闘により、三年以上も共にあった<鉄の槍>は破損してしまった。

共に歩む者達の武器が次々と強力な物になって行く中、彼女だけがロマリアで購入した物を使用していたというのは、彼女自身の武器を扱う力量とは別に、『賢者』となった彼女に合う武器が無かった事が理由であろう。

長い年月を掛けて聖水に浸けても尚、錆などが浮かなかった長剣であり、その刀身に『精霊ルビス』の加護を受けた剣。

聖なる力を宿した長剣は、この世に生を持たない者達に多大な効果を持ち、この世に縛り付けられた魂や肉体を『精霊ルビス』の許へ還すと考えられていた。

   :聖なるナイフ

育ての親であるアリアハン教会の神父から授けられた物。

アリアハン大陸の魔物達には有力な武器ではあったが、ロマリアで<鉄の槍>を入手してからは、彼女の腰に下がる袋の中に大事に保管されている。

それは、彼女の心の奥にある太い柱となっている『愛』の証であり、彼女が進む道を照らし続ける『覚悟』の証でもある 。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ

       ザキ

 

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       メラミ

       イオラ

       

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

       バシルーラ

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

カミュやリーシャとは異なり、彼女程の魔法の使い手は、オルテガやサイモンの時代には存在しなかったのかもしれない。唯一、対抗出来る存在がいるとすれば、先代の『賢者』であろう。

サラという『賢者』は、自身よりも膨大な魔法力を持ち、自身よりも大きな才能を持つメルエがいる事で、自分の力に酔う事はない。そして、それだけの才能と実力を持つメルエもまた、サラという『賢者』を師事する事によって、更なる高みへと昇って行くのだ。

 

【年齢】:7,8歳

出生の謎は解かれた。だが、彼女の両親を見る限り、彼女の中に溢れる魔法の才能を感じる物は何一つないだろう。

十歳にも満たない少女は、三年という月日が経ち、人類最高位に立つ程の『魔法使い』となった。その実力と才能は、この世で唯一の『賢者』であるサラであっても遠く及ばない程の物。

この『魔王討伐』という目標を掲げる勇者一行の旅に、彼女が同道する事になったのも、もしかすると偶然ではなく、必然なのかもしれない。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):アンの服

みかわしの服と同じ素材で出来た服。

既に二年以上の間着ている服であるが、そのサイズは、メルエの身体に適合している。

スーの村近辺で魔物からの攻撃によって空いた穴は、サラによって修繕されており、大事に洗われている為、綻びや色落ちといった事もなく、今の尚、メルエの身を護り続けている。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

サラの装備する<魔法の法衣>同様、メルエの母親が編んだ物である可能性が高い。常に彼女の魔法力を支え、その身を守る姿は、母親そのものなのかもしれない。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

既に何度もメルエの身を守る為に立ち塞がっており、魔物等の攻撃を受ける際にも、その形状を変化させる事も解っている。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えており、主を護るその時に、そのオブジェの嘴から<ベギラマ>と同様の灼熱の炎を吐き出した。主と定めた物を護るような意志を持つその杖が、何故スーの村にあったのか、そして誰が安置したのかは、まだ解らない。

   :毒針

何度もメルエの身を護ってくれたトルドからの贈り物。

ただ、最近は、メルエが直接的に魔物から攻撃を受ける機会はなく、それを使用する事もない。

それは、カミュやリーシャ、そしてサラといった絶対的な保護者達の働きが大きいのだろう。

 

所持道具:祈りの指輪

砂漠の国イシスの真女王となったアンリから授かった道具。『精霊ルビス』へ祈りを捧げる事によって、その恩恵を受ける事が出来ると伝えられている。祈りを捧げ、それが『精霊ルビス』の許に届いた時、その者の体内に宿る魔法力を回復させるという効果がある。<ヤマタノオロチ>という強敵との戦闘の中、魔法力切れを起こしたメルエの祈り、「大切な者達を護りたい」という想いに応え、その魔法力を回復させ、勝利に導いた過去を持つ。

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

       メダパニ

 

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       マホカンタ

       ベギラゴン

ラナルータ

 

 

 




これにて、十三章は完全終了となります。

次話から始まる十四章は、今週中には仕上げたいと思っていますが、少し遅れるかもしれません。
頑張って描いて参ります。


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第十四章
~幕間~【サマンオサ城下町】


 

 

 

 

 暗雲の晴れたサマンオサ城下町は、喜びと活気に満ち溢れている。

 町に出ている者達は例外なく笑みを浮かべ、道行く者達はそれぞれに声を掛け合う。

 それこそが、本来の町の姿であり、誰もが悲しみと絶望に暮れる日々を送っていた今までが異常なのだという事を、サマンオサ国民達の姿が物語っていた。

 

「これが本来のサマンオサ国なのですね」

 

「ああ、この国で生きる者達は皆強い。私達も学ばねばならない事が多いだろうな」

 

 行き交う人々の表情を眺めていたサラの呟きにリーシャが静かに答えた。

 サマンオサ国が黒く厚い闇に閉ざされていた期間は十数年にも及ぶ。その長い期間を苦しみと悲しみの中で過ごして来た国民の心には、深く惨い傷跡が残っている筈である。

 それでも、耐え忍んで来た日々が無駄にならぬように、精一杯の笑みを浮かべ、お互いの幸せを喜び合う国民の姿は、何よりも尊く、何よりも強い。

 親族を失った者達もいるだろう。

 消えぬ傷を負った者もいるだろう。

 二度と思うように動かぬ身体になった者もいるだろう。

 生涯消えぬ憎しみを背負い、生涯消えぬ悲しみを刻まれた者もいた筈である。

 それでも彼らは、今生きている喜びを噛み締め、死んで逝った者達の分まで生涯を全うしようと歩み続けるに違いない。

 それは『人』の持つ強さ。

 

「カミュ、武器と防具の店へ行くぞ」

 

 立ち止まり、町行く人々を眺めていた一行ではあったが、不意に発せられた言葉が全員の意識を動かした。

 自分では当たり前の事を言ったつもりなのだろう。不思議そうに自分を見つめるカミュの瞳を見たリーシャは、何故か軽い憤りを感じる事になる。

 

「何を呆けている! お前の身を護る防具が壊れた筈だぞ!?」

 

「それは言われなくとも解ってはいるが、ここから暫くはルーラでの移動が主となる。それ程に急いで防具を揃える必要もない」

 

 自分を見つめるカミュの姿を見て声を大きくしたリーシャであったが、返って来た答えが余りにも予想外であった為、憤りを通り越して呆けてしまった。

 リーシャの言う通り、カミュが身に付けていた<魔法の鎧>は、先日の<ボストロール>との死闘の中で破壊されてしまっている。圧倒的な暴力を受け続けた鎧は、その持ち主であるカミュの身体を護る代わりに、その機能を失い、只の鉄屑へと姿を変えていた。

 今のカミュは鎧の下に着る軽装であり、アリアハン大陸に生息するような魔物であれば対応する事も可能であろうが、ここから進む場所で生息する魔物達と戦闘を行うとなれば、頼りないという次元の物ではない。

 

「馬鹿者! 例えルーラで移動するのだとしても、魔物が生息する場所を移動する場面も出て来る筈だ! それに、ルーラで移動出来る場所は、私達が訪れた場所に限られているのだろう? ならば、このサマンオサで販売されている防具が最も良い物である事は間違いがない」

 

「……」

 

 呆けていたリーシャは、瞬時に表情を切り替え、怒りを露にしてカミュの言葉を否定する。

 その言い分は、恐ろしい程に的を射ており、リーシャらしからぬ物言いにカミュとサラは言葉を失って呆然と佇んでしまう。

 そんな二人が面白かったのか、カミュのマントの裾を握っていたメルエは、笑みを浮かべながら二人を見上げていた。

 

「さぁ、行くぞ!」

 

 リーシャはそのままカミュの腕を取り、先日訪れた武器屋へ向かって歩いて行く。もはや、混乱の域にまで達してしまっていると言っても過言ではないカミュは、為されるがまま城下町を歩き、その後ろをサラとメルエが笑みを浮かべて付いて行った。

 このサマンオサという国は、世界的に有名な軍事国家である。それ故に、この国で取り扱われている武器や防具は、世界中で販売されている物の中でも最上位に位置する程の品揃えなのだ。

 逆に考えれば、ここで揃わない武器や防具は、未だに世界中に普及していない新作か、もしくは四人各々が所持している神代からの希少品となる。

 だからこそ、リーシャはこの場所でカミュの鎧を購入する事を提言したのだ。

 

「いらっしゃい。今日はどのようなご用件で?」

 

「この店にある鎧の中で、コイツに合う最も優れた鎧をくれ」

 

 武器屋に入ると、いつもとは異なり、店主に向かって真っ先にリーシャが口を開く。前へと押し出されたカミュの表情の中には、未だに困惑の色が見え隠れするが、相対した店主は営業的な笑みを浮かべたまま、その用件を聞いていた。

 全てを聞き終えた店主は、カミュの身体を見てから、少し考えるような素振りを見せ、口を開く。

 

「う~ん。うちで取り扱っている鎧の中で最も良い物となれば、<魔法の鎧>しかないね」

 

「そうか……やはり<魔法の鎧>しかないのだな。仕方がないだろう……それをコイツに合わせてくれ」

 

 口を挟む暇もなく話は進み、購入する鎧が決定した事によって、寸法を合わせる為にカミュが奥へと連れて行かれる。最後には何か諦めたような溜息を吐き出したカミュであったが、抵抗する気も、反論する気もないのだろう。店内に陳列されている商品に目を向けながら奥へと入っていった。

 カミュと店主が奥へと入っていった為、リーシャ達三人は店内の商品を物色する事になる。

 先日訪れた時に、リーシャの<ドラゴンシールド>とサラの<ゾンビキラー>を購入しており、新たに購入する物があるとは思えないが、それでも軍事大国と称される国の武器屋にある物を一つ一つ見ていた。

 

「あれ? メルエ、何を見ているのですか?」

 

「…………つえ…………」

 

 店内を眺めていたサラは、棚に置かれた物や壁に飾られている物を見ていたのだが、自分やリーシャが見ている場所とは異なり、カウンター下にしゃがみ込んで何かを見ているメルエに気が付き、声を掛ける。

 リーシャやサラとは異なる目線で店内を見ていたメルエは、カウンター下に置かれた物が目に入ったのだろう。それを食い入るように見つめ、サラの問いかけにも視線を向けようとはしない。

 声だけで返された答えの通り、カウンター下にあった物は、剣や斧等ではなく、一本の杖であった。

 その杖は、木製のような色合いを持つ物で、真っ直ぐ伸びた杖の先は、龍の鉤爪のような形を模っている。鉤爪の中心に何かが埋め込まれている訳ではなく、空洞となったそこは、店内の薄暗さも相まって不気味な闇を作り出していた。

 同じ杖でも、メルエの持つ<雷の杖>のような神秘さは感じないが、それでも只の木の棒ではない事は一目瞭然であった。

 

「杖ですね……この杖にも何か特殊な付加効果があるのでしょうか?」

 

 メルエの隣に屈み込んだサラは、その杖を眺める。

 ここまでの旅でサラ達が見た杖の種類は多い訳ではない。メルエが最初に手にした<魔道師の杖>と、今メルエが手にしている<雷の杖>だけである。

 そのどちらもが、特殊な効果を持っており、<魔道師の杖>にはメラという最下級の火球呪文が、<雷の杖>にはベギラマという中級の灼熱呪文が備わっていた。

 この世にある全ての杖に何らかの付加効果があると考えるのは間違いであろうが、最も入手し易い<魔道師の杖>でさえも付加効果があった事を考えると、サラの考えも的外れの物ではないだろう。

 

「そいつは<裁きの杖>って名の代物だ。特殊な木材で出来ている為、武器としてもそれなりの攻撃力はあるが、<バギ>と同様の付加効果がある」

 

 そんなサラの考えの正当性を認める声が店の奥から響いて来る。<魔法の鎧>の仕立てを終えた店主が戻って来たのだ。

 サラとメルエが覗き込んでいる物に気付いた店主は、その杖の名と、その杖が所持している能力を口にする。それは、サラの予想通り付加効果に関する物であり、それを聞いたリーシャの瞳が輝き出す。

 

「バギが使えるのか!?」

 

「……バギなのですか」

 

 対照的な二つの反応に、店主は微かに首を傾げる。

 瞳を輝かせたリーシャは、魔法力がなくとも魔法が行使出来るという杖に対する憧れに似た感動を示しているが、サラはその付加効果の内容に何処か落胆に似た感情を持っているようだった。

 確かに『経典』に記載されている<バギ>と呼ばれる真空呪文は、その系統の魔法の中でも最下級に位置し、サラが『僧侶』であった頃でも初期に行使可能であった呪文でもある。アリアハン大陸やロマリア大陸などに生息する魔物に対してならばそれなりの効力も発揮するのだろうが、既に彼等が遭遇する魔物達の強靭さは、比較にならない物となっていた。

 

「バギでしたら、私も行使出来ますし、例え魔法力がなくなった時に使ったとしても、これから先の魔物に対して効果があるかどうか……」

 

「……そ、そうだな」

 

 物事を冷静に把握し、現状を組み込んで話すサラの言葉は、リーシャに反論の気持ちさえも抱かせない程の物であった。

 <バギ>という真空呪文を行使出来る人間は、『魔道書』と『経典』に記載されている神魔両方の魔法を行使出来るサラだけである。だが、そのサラであっても、ここ最近の戦闘に於いて、その上位魔法である<バギマ>を行使する事はあっても、<バギ>を行使した事はないのだ。

 『僧侶』という旅の同道者の中での回復役が所持する、唯一の攻撃魔法と言っても過言ではない呪文ではあるが、『魔王討伐』という大望を掲げる一行にとっては、既に役に立つ事のない魔法でもあるという事実が浮き彫りとなった。

 

「それに、何か<裁きの杖>という名も……」

 

「…………メルエ………いや…………」

 

 何よりも、サラ自身、その杖の名が気に食わなかった。

 『裁く』という言葉は、悪しき者達に対する文言である。

 戦闘に於いて、この杖を使う相手となれば、当然魔物という事になるだろう。この世界で悪しき者と言うのは、正しく魔物であり、それはサラ自身も十数年間信じ続けて来た事柄でもあった。

 だが、今のサラはそれを良しとはしない。

 彼女は、己の持つ大望の為に魔物の命を奪う。だが、それはその先にある希望を実現するが為であり、決して魔物を裁いているからではないのだ。

 『人』が襲われていれば、彼女は迷わずにその者を救う為に魔物を倒すだろう。それでも、彼女の中で裁きを与えるという感覚は微塵もない。彼女は『賢者』ではあるが、神でも『精霊ルビス』でもなく、己の生を全うしようとする者を裁く権利など有していない事を知っているからである。

 

「サラが必要ないと感じ、メルエがいらないというのであれば、私達の中でこの杖を使える者はいないな」

 

 あからさまな嫌悪感を出す二人を見たリーシャは、柔らかな笑みを浮かべる。

 魔法という神秘を使う者達が、その力を驕る事無く、自身の中にある『想い』に向かって歩み続けている姿が、リーシャには眩しく映り、そして何よりも嬉しく感じていた。

 メルエに関しては、実際にどうして嫌がっているのかは理解出来ないが、本能的にそれを避けているのか、それともその杖の持つ能力を理解しているのかもしれない。

 何れにせよ、魔法に重きを置く二人が嫌悪を示した段階で、この<裁きの杖>という武器が、カミュ達四人にとって必要のない物である事だけは確定した。

 

「鎧の具合は良いようだな」

 

「ああ、それとあの剣も一緒に貰おう」

 

 リーシャ達三人がやり取りを行っている間に奥から出て来たカミュの身体には、真新しい<魔法の鎧>が装備されていた。

 調整具合を見ていた店主が満足そうに頷いたのを見て、カミュはカウンターの奥にある剣とは呼べない姿の武器を指差し、購入の意思を伝える。その言葉に一瞬驚いた店主ではあったが、嬉しそうに微笑を浮かべると、即座にその武器をカウンターへと置いた。

 

「<魔法の鎧>と<ドラゴンキラー>で20000ゴールドを超えるが……この前もかなり買ってくれたし、15000ゴールドで良いよ」

 

 愛想良く値引く店主では合ったが、その話の内容は、半分は本気で、半分は営業的な物であろう。実際、奥から取り出された<ドラゴンキラー>は、その刃の鋭さこそ鈍ってはいないが、埃を被っていた。

 サマンオサの英雄と呼ばれるサイモンの死後、軍事大国と謳われたサマンオサ国は様変わりしている。新たな英雄としてサイモン二世が誕生はしたものの、<ドラゴンキラー>を扱う事の出来る強者は存在していなかったのだ。

 扱える者がいない以上、その武器を購入する者もいない。一昔前のように、『魔王討伐』へ向かう自称勇者達が横行していた時代であれば、己の身丈に合わぬ武器を所望する者もいただろう。

 だが、アンデルの失態により入れ替わってしまった偽国王の政策によって、サマンオサ国の民達は絶望と哀しみ、そして貧困に喘いでいた筈である。そのような中で、15000ゴールドもの大金を掛けてまでも、通常の剣の様相とは異なる武器を手にしようとする者はいなかった。

 つまり、この<ドラゴンキラー>は、この店の蔵に埃を被って眠る在庫になってしまっていたと仮定するのが正しいといえよう。その在庫を処分出来るのであれば、多少利益を削ってでも、売ってしまった方が良いと店主は考えたのだ。

 

「…………メルエも…………」

 

「ざっと見てみたが、この場所にメルエの装備はなさそうだな」

 

 カウンターへゴールドを置くカミュに向かって告げられた小さな望みは、先程まで店内を見回していたリーシャによって断念させられる。

 リーシャは、この店に入り、カミュの鎧を仕立てている間、必ず口にするであろうメルエの言葉を予想して、店内を物色していたのだ。だが、メルエのような幼子が装備出来る防具もなく、唯一装備可能な杖もメルエ自身が嫌悪を示した事によって潰えてしまった。

 『むぅ』と頬を膨らませながら自分の足にしがみつくメルエの頭を撫でながら、リーシャは代金を支払い終わったカミュへと視線を戻す。

 

「そこに飾ってあるのは何だ?」

 

「ん? ああ、これか……これは<鉄仮面>といって、頭部全てを覆う防具だよ」

 

 店を出る事を提案しようと口を開きかけたリーシャの耳に、代金を確認している店主へ投げかけるカミュの疑問が聞こえて来た。

 カウンターの後ろの棚に飾られているそれは、確かに店主の言葉通りの姿をした兜である。国家に属する兵士の中でも、前衛を任される重騎兵が被るような頭部全てを覆う物で、魔物である<さまよう鎧>や<地獄の鎧>などが装備している物に酷似していた。

 目のある部分の開閉は可能ではあるが、閉じた時は、細く空けられたT字の穴から出なければ外を見る事が出来ない。防御力という点では、<鉄兜>を遥かに凌ぐ物である事は間違いはないだろう。

 

「アンタが被ってみるか?」

 

「な、なに!? 私がか?」

 

 不意に振り返ったカミュは、その兜を装備してみろとリーシャへと声を掛ける。

 確かに、カミュの頭部には彼の父が装備していた兜がある。<鉄兜>よりも丈夫なそれは、その素材や装飾などから見ても、<鉄仮面>よりも良い兜である事は間違いがない。更に言えば、後方で成り行きを見守っているサラに関しては、サークレットを装備しており、兜を必要としておらず、元々<鉄仮面>の重量に耐えられるかどうかすらも怪しかった。

 つまり、この<鉄仮面>を装備出来る者がいるとすれば、このパーティーの中ではリーシャしか存在しないのだ。

 

「……うわぁ」

 

「……」

 

 手渡された<鉄仮面>を頭部に被ったリーシャが周囲に視線を動かすと、それを見たサラが微妙な表情を浮かべ、これまた微妙な声を発する。カミュにしても、何とも言えない表情を浮かべ、言葉を失くしたまま沈黙してしまった。

 二人の余りの態度では合ったが、慣れない<鉄仮面>の狭い視界からでは、二人の細かな表情が見えず、リーシャは自分の足元へと視線を落とす事となる。

 しかし、その場にいたのは、最も幼い少女。

 リーシャを母とも、姉とも慕う幼い少女は、自分の方へと動かされたリーシャの首を見て、その小さな身体を跳ねさせた後、大急ぎでサラの足元へと移動してしまった。

 

「…………リーシャ………いや…………」

 

「な、なに!?」

 

 明らかに自分へ向けられた嫌悪感に、リーシャは叫び声を上げる。

 慌てて前面の面甲を跳ね上げ、メルエを視線で追うが、当のメルエはサラの後ろに隠れてしまい、顔を出そうとさえしない。しっかりと腰を掴まれたサラは、そんなリーシャに苦笑を向ける事しか出来なかった。

 ここまで大事な妹を怯えさせてしまう防具など、如何に能力が高かろうとリーシャには必要がない。即座に被っていた<鉄仮面>を脱ぎ捨てて、カウンターへと置いた。

 

「それは私には必要がない。視界がそれ程に悪くては、魔物の動きに反応出来ないし、行動が制限されてしまう。それ自体は何とでもなるだろうが、そんな物を装備してしまっては、メルエと話す事さえも出来ないではないか!?」

 

 悲痛な叫びが店内に木霊し、その内容を聞いていたカミュとサラは思わず吹き出してしまう。

 カミュという青年が、思わず吹き出してしまう程の反応を示す事自体が珍しいのだが、何とも言えない不思議な雰囲気が、店内を和やかな空気で満たして行く。

 メルエに駆け寄り、その身体を抱き上げるリーシャの姿を見ていたカミュは、小さな笑みを溢し、それを見ていたサラは柔らかな笑みを浮かべた。

 

 重騎兵のように、集団で前面に押し出す事を目的とする者達であれば、あの兜が最適なのだろう。狭い視界の中でも、前面だけを見て突き進み、強力な壁となって立ち塞がる事が重騎兵の役割だからである。

 だが、リーシャは重騎兵と同様に前線へ出はするが、その役割は全く異なっている。同じように前線へと出たカミュと共に、魔物の動きに合わせて己の武器を振るい、後方支援組の唱える魔法が飛び出せば、その瞬間を逃さずに場を離れなければならない。

 それは、視界が悪い兜を被って行う事の出来る行動ではないのだ。

 また、元々『鉄仮面』とは、余り良い印象のない物である。この店主のネーミングセンスがないのか、それとも世界中で広まっている物なのかは解らないが、少なくとも宮廷内で重騎兵の被る兜を『鉄仮面』とリーシャが呼んだ事は一度たりともなかった。

 

「<ドラゴンキラー>は入れる鞘がないから、皮袋で包んでおいたよ」

 

 何とも不思議な四人のやり取りを傍観していた店主であったが、そのやり取りの最中で、カミュが購入した<ドラゴンキラー>の刃先を皮袋で包み込んでいた。

 その形状が特殊である為、専用の鞘などが必要となるのだが、現段階でこの店には専用の鞘がないようである。刃先を覆うように皮袋を被せ、根元を紐で結ぶ事によって危険がないようにしているが、使用する場面で一々紐を解かなければならない作業がある分、他の武器よりも使い勝手が悪いと考えられた。

 

 

 

 その後、店を出た一行は、そのままサマンオサ城下を出て行く。

 城下町の入り口である門を護る門兵が、カミュ達を見かけると笑みを作り、小さく頭を下げた姿が、何故だかサラの印象に残った。

 もしかすると、彼もまた、『勇者』の功績を知る者の一人なのかもしれない。彼が許可しなければ、カミュ達がサマンオサ国に入る事は不可能であった。それは、この国で起こった必然を全て否定する事となる。

 『必然』を生み出す者の来訪を拒んでいたとすれば、このサマンオサは未だに偽国王として魔物が牛耳る国であり、全ての国民が苦しみ続けていた事に相違ないのだ。

 

「カミュ、その<ドラゴンキラー>を購入する意味はあったのか? とてもではないが、戦闘向けの武器ではないぞ?」

 

「そうだな……確かに戦闘用というよりは観賞用の武器だろう。だが、曲がりなりにも<ドラゴンキラー>と名付けられたからには、その刀身にそれなりの力はある筈だ」

 

 平原に出た一行は、カミュが詠唱の準備を始めた事に気付き、その周囲に集まり始める。

 その際に、カミュの手元にある剣とは呼べない武器に気付いたリーシャが、その購入の目的を問いかけるのだが、それに対する応えは明確な物ではなかった。リーシャの言うとおり、<ドラゴンキラー>と呼ばれる武器は、決して実践向けの物ではない。カミュの言うように観賞用として富裕層の権力の象徴として飾られるのが本来の在り方なのかもしれない。

 だが、この時代の武器に関して言えば、その装飾や形態は別としても、その素材や強度などの点で言えば、それなりの物を備えていなければならないのだ。つまり、<ドラゴンキラー>という名を持っている以上、その刃は世界最高種である龍種の鱗をも貫く程の物でなければならず、その刃の素材自体が龍の牙や爪等で出来ている物である可能性が高かった。

 

「それは解るが……どうするつもりだ?」

 

「少し考えがある。まずは、船を見つける。一度ルーラでポルトガへ戻るぞ」

 

 リーシャの問いかけに尚を答えないカミュは、そのまま移動呪文の詠唱へと入って行く。慌ててカミュの腕を掴むリーシャを見て、メルエはマントの裾を、サラはリーシャの腕を掴んだ。

 いつものような抑揚のない詠唱が響き、四人の身体を魔法力が包み込む。

 そのまま空高く舞い上がった一行を包む魔法力は、方向を定めるように一旦停止した後、南東の方角へと消えて行った。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

大変遅くなってしまいましたが、第十四章の始まりです。
中途半端になってしまうので、二話に分ける事にしました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ポルトガ城下町①

 

 

 

 ポルトガへ着く頃には、陽も陰り始め、夜の支配が着々と進む頃であった。

 港町でもあるこの国は、つい数年前までは港を閉じ、船の往来など皆無に等しい状態であったが、トルドが作り始めた町の振興によって、貿易という物が再開され、暗闇が支配する夜になっても、灯台が明かりを絶やさぬようにされていた。

 対岸にある、カミュ達も訪れた場所にある灯台と共に、ポルトガの港にも新たに簡素な灯台が作られ、夜の間も船の来航を許可しているのだ。

 そんな灯台の明かりが鮮明になる時間にポルトガ城下に入ったカミュ達は、まず宿屋へと向かって歩き出した。

 

「カミュ様、何故ポルトガなのですか? スーの村の方が、あの『旅の扉』の場所から近いと思うのですが」

 

「そうだな……確かに航海の危険性を考えれば、あの者達はスーの村で停泊しているのではないか?」

 

 ポルトガ城下に入ると、サラがここまでの道中で感じていた疑問を口にする。それに同意を示すように口を開いたリーシャもまた、同じような疑問を持っていたのだろう。

 サマンオサへと続く『旅の扉』がある島へ上陸する前に、船を下りた後の事を頭目とカミュは話し合っていた。

 海の魔物と戦う事ならば、元カンダタ一味がいる限り、船の乗組員であっても可能ではある。だが、誰一人欠ける事無く航海を進めるという大前提で言えば、それは大きな危険を伴う事も確かであり、ましてや<大王イカ>のような魔物や<テンタクルス>のような魔物と遭遇した場合、全滅は必至である。

 故に、カミュ達が戻るまでの間は、何処かで停泊しているという事で合意が果たされていたのだ。

 

「確かにスーの村近辺という可能性もあるが、あの場所では船員全員が陸に上がる事は出来ない。ましてや、スーの村へ行くとなれば数日の間は徒歩の旅が必要となる。あれから一月以上の時間が経過しているのだから、天候の良い時を見計らって、ポルトガまで戻っている可能性の方が高いだろう」

 

「…………ふね…………」

 

 夕食時の喧騒に覆われたポルトガ城下町の中でカミュのマントの裾を握っていたメルエが、遠くに見えるポルトガ港に停泊する一際巨大な船のマストを発見する。

 カミュの見解に概ね理解を示していたリーシャとサラであったが、メルエの指差すマストが、他の建物などの間から見えた時には、明らかな安堵の溜息と共に、喜びを表していた。

 カミュの考え通り、一行を降ろした後、船は時間を掛けてこのポルトガまで戻って来たのだろう。遠くから見る限りではあるが、船体には大きな外傷はないようであり、順調な航海を続けて来た事が伺えた。

 おそらく以前に到着していたのだと考えられ、現在は故郷であるポルトガで思い思いに過ごしているだろう。故に、カミュ達は予定通りに宿屋で一泊する事にした。

 

「部屋に猫がいないか探してくれ」

 

「猫……ですか?」

 

「…………ねこ…………?」

 

 宿屋の店主から別棟にある部屋の鍵を渡された一行は、少し離れた場所にある別棟に向かう。その途中で不意に口にしたカミュの言葉に、サラとメルエは仲良く首を傾げた。

 この四人の中でカミュの言っている内容が理解出来るのは唯一人。

 だが、その唯一の一人もまた、カミュの言っている意味が解らず、眉を顰めながら首を捻っている。そんな姿に溜息を吐き出したカミュは、静かに自分に割り当てられた部屋の扉を開けた。

 カミュに割り当てられた部屋は、以前に宿泊した場所と奇しくも同じ部屋であり、中に入ったカミュは部屋の内部を注意深く見回す。そして、小さな机の下で逃げる為に身を構えている猫の姿を見つけ、扉の外で成り行きを見守っていた三人を部屋の中へと招き入れた。

 

「…………ねこ…………」

 

 最後に部屋に入ったリーシャが扉を閉めてしまった事によって、机の下にいる猫の退路は絶たれてしまう。諦めにも似た姿を晒す猫に対して、真っ先に反応したのは、やはり動物に一番興味を示す幼い少女であった。

 目線が低いメルエは、机の下にいる猫の姿を真っ先に見つけ、花咲くような笑みを浮かべて駆け寄って行く。以前、ホビットがいた祠で生活していた猫達は、そんなメルエに好意的に接し、背中までをも撫でさせてくれた。

 そんな思い出が残るメルエだからこそ、何の疑いもなく、机の下にいる猫に向かって手を伸ばしたのだが、それは予想外の結末を生む事となる。

 

「ふしゃぁぁ!」

 

 先程まで静かに机の下で佇んでいた猫が、メルエが手を伸ばした途端に豹変したのだ。

 威嚇するような声を上げ、身の毛を逆立たせる。前足を屈め、逆に後ろ足を伸ばす事によって尻を上げてメルエを威嚇していた。

 それでも、動物に対する免疫も経験もないメルエは、何かが解らずに手を伸ばす。それ程奥行きのない机の下である事から、机の前で屈み込んだメルエの手は、無理をする事無く猫の元へと届いたのだった。

 

「ふしゃぁぁ!」

 

「…………!!…………」

 

「メルエ!」

 

 しかし、そんなメルエの無垢な行為は、手痛いしっぺ返しを貰う事となる。

 威嚇しても尚、伸ばして来るメルエの手に向かって振り抜かれた小さな前足には、鋭く輝く爪が付いていた。

 鋭い爪で肉を引き裂かれたメルエの手の甲から鮮血が弾ける。三本の線を残し、そこから溢れ出す真っ赤な血液は床を濡らし、自分の身に何が起こったのかを理解出来ないメルエは、その場に尻餅を突いてしまった。

 慌てて近寄って来たサラが、その手の甲に向かって回復呪文を唱えた事で傷跡は綺麗に消えていったが、初めて受けた動物からの拒絶は、メルエの心に大きな傷跡を残してしまったのかもしれない。

 

「…………ぐずっ……メルエ……だめ…………?」

 

「今のはメルエが悪い。動物達も、自分の身に危険が迫ると思えば牙を剥く。始めに、メルエが害を為すつもりがない事をしっかりと伝えてからだ」

 

「そうですね。ほら、もう一度メルエの声で呼びかけてみましょう?」

 

 既に傷が消え去った手を握り締め、涙を堪え切れずに猫へと問いかけるメルエの姿は、哀愁を漂わせていた。

 だが、大事な妹にも等しいメルエを傷つけられたにも拘らず、リーシャもサラも、その結果が生まれた事に対してはメルエの落ち度である事を口にする。誰一人味方がいない状態でも尚、再びメルエは机の下で威嚇を続ける猫に向かって、謝罪の言葉を口にし、自分の許へ来てくれるように懇願の言葉を呟いた。

 そんな、少女の微笑ましい行動にリーシャとサラが頬を緩める中、何処か怪訝そうな表情を浮かべたカミュは、何かを考えるように目を細めていた。

 

「<ラーの鏡>を取り出しておいてくれ」

 

「え?」

 

 ようやく怒りを納めたのか、威嚇を弱めた猫の様子を見て、懸命に説得を続けるメルエの後ろで呟かれたカミュの言葉に、サラは思わず顔を上げてしまう。

 サマンオサ国で手に入れたばかりの<ラーの鏡>は、本来は門外不出の国宝である。既に使用する理由などもなく、カミュ達にとっても無用な長物ではあるが、易々と表に出せる代物ではない事も確かであった。

 サラの素っ頓狂な声に振り返ったリーシャは、ようやくこの場所に猫がいる事を理解し、何故カミュが猫を探していたのかを把握する。

 

「この猫は、あの時の女性なのか? 確かに<ラーの鏡>であれば、真実の姿を映し出し、魔王の呪いといえども解いてしまう可能性があるな」

 

「え? え? 魔王の呪い? ど、どういう事ですか?」

 

 このポルトガには、呪いを受けた事によって、夜の間は猫に変化してしまう女性と、昼の間は馬に変化してしまう男性がいた。その二人は、恋心を交し合った者同士ではあるのだが、その事実を知る者は、カミュとリーシャという二人しかいない。

 当の本人達も互いがどのような姿になっているのかを知らず、生死さえも確かめられてはいなかった。故にこそ、サラが知る由もなく、カミュとリーシャの会話自体を理解する事が出来なかったのだ。

 

「メルエ、少し下がろう。それでは、猫の方も机の下から出てくる事は出来ないぞ」

 

「…………むぅ…………」

 

 動物との対話を望むメルエにとって、すぐ目の前にいる猫が歩み寄って来てくれない事は悲しい事であり、知らず知らずに身を乗り出すように猫との距離を縮めてしまっていた。

 それは、メルエ自身にその気は無くとも、小動物には圧迫感を与えてしまう行為であり、例え中身は『人』であったとしても、現状の猫にとっては恐怖に映ってしまったのだろう。

 リーシャに腕を引かれ、その腕の中にすっぽりと納められてしまったメルエは、不満そうに頬を膨らませるが、危険性を感じなくなった猫が、伺うように外へと出て来た事によって、表情を和らげて瞳を輝かせた。

 

「カミュ様、<ラーの鏡>です」

 

「それをあの猫へ向けてくれ」

 

 事情を把握出来ないまま、自分が預かっていた神代の鏡を取り出したサラは、その後に続いたカミュの言葉に従い、警戒するように出て来た猫に向かって鏡を向ける。

 リーシャの腕の中で手を伸ばしていたメルエは、そのまま抱き上げられてしまった事に対して再び不満の声を発するが、目の前で起こり始める現象に驚き、目を丸くさせる。

 

「え?」

 

 鏡を持ったサラ自身が驚きの声を上げる中、鏡の中に映り込んだ猫は、鏡の中でその姿を変化させて行く。

 真実を映し出すと伝えられている鏡には、若く美しい女性が映り、自分の姿に驚いているような表情を浮かべているのだ。それは、以前にリーシャが見た女性と寸分も違わず、腰まで伸びた長く特徴的な癖のある髪は、今も同じ物であった。

 鏡に映し出された姿に驚くサラの目の前で、眼も眩む程の光が放たれる。部屋全体を包み込むような光は、四人の視界を奪い、世界を変えた。

 

「あ……あ……」

 

 それは誰の呟きだっただろうか。

 光の収まった前方を見たサラの声だったのか、愛しい姿であった猫が豹変した事に驚いたメルエの声か、それとも先程鏡に映り込んでいたそのままの姿をした女性だったのかもしれない。

 カミュとリーシャ以外の者達の驚きが言葉となって部屋に響く中、夢のような現象は現実の物となった。

 真実の姿を映し出すと云われる<ラーの鏡>に映った女性の姿は、先程まで猫であった者の真実の姿。神代から伝わり、『精霊ルビス』から『人』の手へ渡された道具は、『魔王バラモス』の呪いさえも弾き飛ばしてしまったのだ。

 

「まだ夜なのに……夜なのに……」

 

「呪いが解けた。貴女は元に姿に戻り、今後猫になる事は二度とない筈だ」

 

 カーテンの隙間から部屋に入り込むのは月の光。

 それが意味するのは、外が未だに夜の闇に支配されているという事実。数年もの間、闇が支配する時間は猫の姿に変化していた女性は、自分の瞳に映る手足や身体を見てもまだ、その事実を信じる事が出来ていなかった。

 しかし、現実に女性の姿は元の人間の姿に戻っている。それが示す意味は、『魔王バラモス』が罹けたと考えられる呪いが解かれたという事。

 実際に、『魔王バラモス』が呪いを罹けたのかどうかは解らない。だが、神代から伝わる道具が効力を発揮した事だけは確かであろう。

 

「あ、ありがとうございます……ありがとうございます」

 

 ようやく自分の身に降り注いだ天からの救いを理解した女性は、大粒の涙を浮かべ、何度も何度もカミュ達へと頭を下げる。その姿は、ここまでの苦しみと哀しみを想像させ、事情を理解出来ないサラまでも、理由の解らない涙を溢れさせた。

 戯れようと思っていた猫が突如として成人の女性へと変化した事によって、メルエだけは何処か納得の行かぬように頬を膨らませて女性を睨んでいたが、リーシャが優しくその頭を撫でる事によって、何とか機嫌を持ち直す事となる。

 

「カミュ、あの男性にも<ラーの鏡>を使うのか?」

 

「あの男性? カルロスの事ですか!? カルロスは生きているのですか!?」

 

 メルエの頭を撫でながら問いかけたリーシャの言葉にカミュが反応するよりも、涙を溢し続けながら頭を下げていた女性の方が反応は早かった。

 自分と同じような境遇にいる可能性のある人間となれば、彼女の中では愛しい恋人しか浮かばなかったのだろう。生存しているかもしれないという僅かな希望を胸に生きて来たこの女性の頭の中には、『恋人も、もしかすると自分と同じように動物になっているのかもしれない』という想いが合ったのかもしれない。

 そんな藁をも掴むような想いは、静かに首を縦に振ったリーシャの動きによって現実となる。奇跡のような現実を目の当たりにし、彼女は再び大粒の涙を流すのであった。

 

「人間の状態のままで<ラーの鏡>の効力が発揮されるのかが確定出来ない以上、夜が明けるのを待ってから放牧地へ行った方が良いだろうな」

 

「そうか……残念だが、カミュの言う通りかもしれない。サブリナと言ったか?……悪いが、カルロスという名の男性と会うのは、明日になるな」

 

 喜びを満面に湛える女性の顔を見て、自然に笑顔を作っていたサラとメルエであったが、現実的なカミュの言葉で、喜色に満たされていた部屋の温度が僅かに下がった。

 今目の前にいるサブリナという名の女性が呪いから解き放たれたのは、猫の状態で<ラーの鏡>を覗き込んだからである。昼間に人間に戻ってしまう彼女が、人間の姿のまま<ラーの鏡>を覗き込んでも、映し出されるのはそのままの人間の姿。それでは、夜を待たなければ、呪いから解き放たれたのかどうかを確認する事は出来ない。

 今人間の姿でいるであろうカルロスという男性に対して<ラーの鏡>を使用したとしても、夜が明けるまではその効力が発揮されたのかを確認する事は出来ないという事になるだろう。であるならば、目の前で効果が解る状態で<ラーの鏡>を使用する方法が正しいと言えるのかもしれない。

 

「だ、大丈夫ですよ。事情はよく解りませんが、この人達がこのように話す以上、何の心配もいりません」

 

「…………ん………だいじょうぶ…………」

 

 一転して落ち込むサブリナに対し、見かねたサラが魔法の言葉を口にする。この言葉を、メルエという幼子の前で発した以上、サラは大きな責任を背負う事となった。

 そして、サラがこの言葉を口にする以上、この案件で心配する必要がないという事を誰よりも知っているメルエもまた、花咲くような笑みを作り、魔法の言葉を口にする。

 そんな二人の笑みを見たサブリナも、哀しみを滲ませた表情から安堵の表情へと変えて行った。

 

「では、明日だな……そういえば、サブリナはこの町に家はあるのか?」

 

「あ……はい。大丈夫です。数年ぶりですので、未だに私の家かは確かではありませんが……」

 

 行動を起こす日取りを確認したリーシャであったが、目の前で微かな笑みを浮かべるサブリナを見ていて一つの疑問が浮かんだ。そして、サブリナの答えを聞き、それも当然だと思う反面、その言葉の哀しさに眉を顰める。

 彼女の話を聞く限り、彼女達には何の罪もないのだろう。それでも彼女達は呪いを掛けられ、数年もの間、自宅にさえ帰る事が許されなかった。

 そんな非道な仕打ちにリーシャは顔を歪め、事情を把握し切れていないサラまでもが眉を顰めて何かに耐えている。そんな二人の表情に気が付いたサブリナは、柔らかな笑みを浮かべ、もう一度頭を下げた。

 

「私なら大丈夫です。元の姿に戻れたのです。住む場所など何とでもなりますよ。本当に、本当にありがとうございました」

 

「もし、戻る家がなければ、この宿に戻って来い。三人部屋で少し狭いかもしれないが、私達と共に眠れば良い」

 

 深い感謝を示したサブリナは、顔を上げた時に掛けられた頼もしい言葉に、もう一度輝くような笑顔を作る。

 小さく頷きを返したサブリナはカミュの部屋を出て行き、それを見届けたリーシャ達もまた自分達の部屋へと戻って行った。

 

 

 

 翌朝、宿の別棟前で待ち合わせをし、カミュ達と共にサブリナは宿屋のカウンター奥にある放牧地へと足を進める。

 空は、希望に満ちたサブリナの心のように晴れ渡り、雲一つない晴天。

 青く透き通るような空は、今までの苦労も、心を押し潰そうとする哀しみをも吸い込むように広い。吹き抜ける心地良い風を目一杯吸い込み、花咲くような笑みを浮かべて空を見上げるメルエを見て、サブリナもまた、柔らかな笑顔を浮かべていた。

 宿屋のカウンターへ部屋の鍵を返し終えたカミュは、奥の放牧地へ向かう許可を貰い、そこへ続く扉へと手を掛ける。ゆっくりと押し開かれる扉の先に待っている光景を考え、高鳴る希望と増してゆく不安を押し隠すように、胸に手を合わせた。

 

「…………おうま…………」

 

 以前来た時にも見た動物ではあったが、あの時よりもメルエの心は成長している。スーの村で出会った『エド』という名の馬との会話が、幼い彼女の心に鮮明に残っているのだろう。

 誰よりも早く馬に駆け寄って行ったメルエは、届かない手を必死に掲げ、馬を撫でようとするが、それは予想外の行動に遮られた。

 

「ヒヒィィン」

 

「メルエ!」

 

 駆け寄って来るメルエに怯えた様子を見せた馬は、前足を振り上げ、威嚇の行動に出る。

 数倍もある巨体から繰り出される攻撃が当たれば、メルエの身体など容易く吹き飛ばされ、命を落としてしまうだろう。だが、それは一瞬の内に詰め寄った絶対的な保護者によって阻止された。

 メルエを掻っ攫うように抱き上げたカミュは、そのまま真横へと飛び、馬の前足を掻い潜る。メルエがいた場所へ振り下ろされた前足の蹄は、放牧地の地面を深々と抉った。

 

「メルエ、大丈夫ですか?」

 

「昨晩も言っただろう? 不用意に近づいては駄目だ。動物達も驚いてしまう。しっかりと、メルエが敵意を持っていない事を解ってもらってからだ」

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 カミュの胸元に顔を埋めていたメルエの許へ駆け寄ったサラとリーシャは、その身が無事である事に安堵の溜息を漏らす。そして、昨晩もメルエを諭した内容を口にしたリーシャは、それに対して可愛らしい謝罪をするメルエの後ろで、怪訝そうに目を細めるカミュの表情に気が付いた。

 何かを考え込むように、そして何かを懸念するように細められた彼の瞳は、未だに興奮冷めやらぬ馬を射抜いている。それは敵意のような物ではなく、ましてやメルエが傷つけられそうになった事への怒りでもない。その違いはリーシャにも解るのだが、明確な理由が解らない。

 

「カ、カミュ様、今のは不用意に近づいたメルエの責任ですよ。動物の本能に対して怒りを向けるのは……」

 

「いや、サラ、それは違う。カミュ、何か気掛かりな事でもあるのか?」

 

 しかし、カミュの微妙な反応が理解出来ないサラは、カミュが馬に対して怒りを向けていると感じてしまっていた。その点に掛けては、世界最高の頭脳を持つ『賢者』であるサラであっても、リーシャの足元にも及ばないのかもしれない。

 そんな若干の怯えを見せるサラを制したリーシャは、メルエを地面へと下したカミュに向かって、その理由を問いかける。心の機微には聡いリーシャではあるが、その内容までは理解する事が出来ない。

 だが、カミュは小さく首を横へと振った。

 

「まずは呪いを解く事を優先する」

 

 こうなれば、このパーティーでメルエの次に頑固者であるカミュが明確な答えを口にする事はないだろう。それを理解したリーシャは、軽い溜息を吐き出し、サラへ<ラーの鏡>を準備するように伝えた。

 落ち着きなく成り行きを見ていたサブリナを呼び寄せたリーシャは、興奮が幾分か収まって来た馬へ少しずつ近づき、自身に敵意がない事を示し続ける。そんなリーシャの後ろからゆっくりと近づいて来たサラが、馬を驚かせないように<ラーの鏡>を取り出した。

 

「大丈夫だ。落ち着け、落ち着いて鏡を覗き込め」

 

 太陽の陽光を反射した鏡に驚きを見せる馬へリーシャが言葉を投げかける。相手に安心感を与えるような静かな声は、興奮し始めた馬の心に落ち着きを取り戻させた。

 最後にカミュのマントを握るメルエが到着した頃、リーシャの後ろから鏡を覗き込んだサブリナは、そこに映り込んでいる馬の姿に驚きを見せる。

 鏡に映っているのは、目の前にいる馬である筈。

 だが、陽光に輝く鏡の中で驚きの表情を浮かべているのは、彼女の愛した唯一人の男性。

 共に夢を語り、共に愛を語り、共に未来を語った愛しい者。

 その姿を見たサブリナの瞳から、昨晩よりも大量の涙が零れ落ちた。

 

「カ、カルロス!」

 

 サブリナの叫びにも似た声に反応したかのように、カミュ達の視界は、眩い光によって遮られる。空から降り注ぐ陽光を受け、輝く鏡の効力を受け、目の前の馬の身体が光に包まれたのだ。

 昨晩のサブリナと同様に、眩い光が収まる頃には、その場所に馬という動物の姿はなくなっていた。

 代わりに存在するのは、事情を把握し切れずに呆然と佇む一人の男性。

 自身の腕や掌を何度も眺め、その手で身体のあちこちを触り続けていた男性が、ようやく目の前で涙を流して口元を抑える女性の姿に気が付いた。

 

「サ、サブリナなのか?」

 

「ええ……ええ……カルロス、ああ、カルロス!」

 

 何度も何度も恋い焦がれた相手との再会に、二人の声は詰まる。

 信じられない奇跡が彼女達に言葉を失わせる。

 いや、もはや言葉などいらないのかもしれない。

 この奇跡が夢のように消えてしまう事を恐れるように、ゆっくりと近付いた二人の指先が触れる。それは、抑えていた想いが溢れる切っ掛けとなった。

 

「サブリナ!」

 

「カルロス!」

 

 お互いの名を叫んだ二人の身体が交わる。

 二度と離さないという意思の表れのように強く抱き締める腕は、狂ったようにお互いを求め合う。お互いの体温を感じ、お互いの息遣いを感じ、お互いの愛を確かめ合った。

 口付けを交わす事はせずとも、激しく求め合うその姿は、恋愛経験の乏しいリーシャやサラは目のやり場に困ってしまう。しかし、先程まで馬が人になってしまった事に頬を膨らませていたメルエは、恋人達の行為を見て、傍にいたサラの腰に抱き着いた。

 嬉しそうに頬を緩め、自分に抱き着いて来るメルエを見て、サラは苦笑を浮かべながらもメルエの小さな身体を抱き締める。

 

「この方達が、私達を救ってくれたのよ」

 

「貴方達が……ありがとうございます。本当にありがとうございます」

 

 二人の顔は、涙と鼻水で見られた物ではない。

 だが、それに勝るような笑みが、見る者の心を温かくさせて行く。

 だが、何度も何度も頭を下げる二人に、軽く頭を掻いたリーシャの横から出て来たカミュの表情は、温かさや喜びを微塵も浮かべてはいなかった。

 

「一つ聞きたい。アンタ方は動物になっている時に自我はあったのか?」

 

 感動の再会と、和やかな雰囲気を一変させる冷たい声色。

 その質問の意味が理解出来ないサブリナとカルロスは、謝礼の言葉を飲み込み、呆然とカミュを見つめる。

 サラは、やはり自分の考えは間違っていなかったのではないかと感じていたが、リーシャは何か危惧する部分があったのかもしれないと、呪いの解けた二人へ視線を戻した。

 

「いえ……完全に自我が残っている訳ではありませんが、意識はありました」

 

「私も同じです。猫であった時の記憶は曖昧ではありますが、その時は何とか『人』に見つからないようにと、考えながら行動していました」

 

 二人の答えを聞いたカミュの瞳が細められる。

 只ならぬ雰囲気を醸し出す青年に、若干の怯えを見せる二人に気遣うようにリーシャが間に入った。カミュにその気はないのだろうが、彼の纏う雰囲気はこういう場面では恐怖の対象になってしまうのだ。

 サラが危惧しているような『怒り』の感情ではないだろう。彼が何を恐れているのかは知らないが、何処かしらに不安要素を見つけてしまったからこそ、ここまで真剣になっているに違いはない。

 

「そうか……ならば、メルエを襲った時の事は憶えていないのか?」

 

「や、やはり!?」

 

「カミュ、あれはメルエの落ち度だぞ」

 

 しかし、表情を緩めたカミュの口から出た言葉は、サラの考えを肯定するような物であり、リーシャの確信を打ち砕く物であった。

 慌てて弁解するリーシャであったが、振り向いたカミュの瞳を見て、自分の心配が杞憂であった事を悟り、そのままサブリナ達の答えを待つ事となる。

 不安と心配で『おろおろ』しているサラと、自分の名前が出て来た事で不思議そうに首を傾げるメルエだけが、状況から取り残されていた。

 

「あの時は……何故だか解りませんが、言いようのない恐怖に襲われまして……」

 

「私は、何か嫌な思い出が蘇った気がして……こんな可愛らしい女の子なのに」

 

 沈黙が支配する中、ようやく絞り出された声が小さく響く。

 言い難そうに顔を歪めた二人の様子から見る限り、その時の事を朧気ながらも憶えているようであった。

 暫しの間、二人の顔を見つめていたカミュであったが、『そうか』という呟きを漏らした後、そのまま放牧地を出て行ってしまう。急に切り上げられた会話に驚きながらも、再びお礼の言葉を告げ、深々と頭を下げるサブリナとカルロスへ別れを告げ、リーシャとサラも放牧地を後にした。

 サラの腰元に未だにしがみつくメルエの振る手に、サブリナが柔らかな笑みを作って応えている。それはメルエにとって、この上ない喜びであり、先程よりも色濃い笑顔を浮かべたメルエは、外へと続く扉を潜るまで手を振り続けていた。

 

 また一つ、栄誉を望まぬ者の起こした奇跡の伝説が残る。

 彼らが残した足跡は、限られた者達の心に確実に残り、後の世へと語り継がれるのだろう。

 『魔王バラモス』という諸悪の根源が消え失せるかどうかは誰にも分からない。だが、その目標に向かって歩き続ける者達の軌跡は、着実に人々の心に残って行くのだ。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

少し短めですが、一話にすると長すぎるのでこのような形で分けました。
たぶん、皆様が気にされているであろう、この場面で手に入る武器ですが……
纏まりが悪いので、次話で描こうと思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ポルトガ城③

 

 

 

 ポルトガという国も、カミュ達四人が訪れた頃から少しずつ変化している。

 魔王台頭から、貿易の船までも閉ざされていたこの国は、『勇者』を名乗る四人の若者達の来訪によって、今まで製造した事もない程の巨大な船の建造を行った。

 その船は、人類最高の戦力を乗せる事によって、世界中を巡る事になる。そして、数か月、一年の時間を掛けて戻って来る船は、世界中の特産を積み、長く鬱屈としていたポルトガ国民に世界の希望を運んで来るようになった。

 その品々は、決して高価な物ばかりではない。

 だが、その全ての品は、『魔王バラモス』の台頭によって活発化する魔物達に怯え続けて来た人々には輝いて見えた事であろう。

 それに加え、ポルトガの西にある大陸に新しく造られた町は、活発化して行くポルトガ国の需要に応えるように材木や食物を齎す。貿易を行う為に船を造り、船を造る為に材木を貿易するというような自然の良い流れが出来上がり、魔物の出現に怯えながらも、そこに小さな光明を見つけた人々の心は強かった。

 

「この世界の人間達は、皆強いのだな」

 

「はい。本当に素晴らしい事だと思います」

 

 宿屋のカウンターがある集合店舗を出たリーシャは、以前よりも数倍の活気に包まれたポルトガ城下町を見て、人々の強さを感じていた。

 それはサラも同様で、町行く人々の表情を見て、自然に笑みを浮かべている。そんな二人を見上げていたメルエもまた、二人の表情が笑顔である事で、花咲くような笑みを浮かべた。

 

「お待ちください!」

 

 雑踏の中へ入り、カミュ達が港へと足を向けた時、後方から呼びかける声が響く。

 振り向くと、先程別れたばかりのサブリナが両手に何かを抱えながら一行に向かって駆けて来ていた。後方からカルロスも続いており、その懸命な姿に首を捻りながらも、四人は足を止め、二人の到着を待つ。

 やがてカミュ達の許へと辿り着いたサブリナは、息を切らせながら両手に抱えた物を一番手前に居たリーシャに向かって差し出した。

 

「どうした? これは何だ?」

 

 息を切らしている為、言葉よりも早く行動に移したサブリナではあったが、無言で差し出された物に戸惑うなという方が無理であろう。訳も解らずに差し出された物に戸惑ったリーシャは首を傾げてサブリナの言葉を待った。

 何度か深呼吸をして息を整えたサブリナは、ようやく聞き取れる言葉を発し始める。よくよく考えれば、サブリナとカルロスが駆けて来た方角は、先程カルロスを呪いから解き放った放牧地がある方ではない。全く異なる方角から駆けて来た事で、二人が何処かに寄り、そこからカミュ達を追って来た事を示していた。

 

「こ、これは……私の家に伝わる<誘惑の剣>と呼ばれる武器です」

 

「<誘惑の剣>?」

 

 何とか言葉を繋いだサブリナではあったが、その内容を聞いたカミュ達四人は、全く意味が解らないというような表情を浮かべる。

 包まれた布を剥ぎ取り、その中身を取り出した時、カミュ達の表情は尚更に歪んでしまった。

 細身で綺麗な曲線を描くその剣は、刃先は鋭く光っているものの、金属としてはとても特殊な色をしている。見た目はその辺りで売られている剣とそれ程大差はないのだが、桃色に輝くその刀身が、この<誘惑の剣>という武器の特殊性を物語っていた。

 

「はい。私の家に伝わる物なのですが、女性にしか扱う事の出来ない剣で、敵を魅了する効果があると云われています」

 

「そのような物を貰う事は出来ませんよ」

 

 布を被せ直したサブリナは、それを再びリーシャへと差し出す。差し出された剣を横目で見ていたサラは、その剣の出所が一家族の家宝に近い物である事に驚き、それを辞退しようと首を振った。

 しかし、サブリナとしては、一生解ける事のないと思っていた呪いを解いて貰い、更には再び出会う事はないと考えていた恋人との再会を可能としてくれた事に対しては、感謝をしてもし足りない程の物だったのだろう。

 受けられないと言うリーシャとサラと、どうしても感謝の品として受け取って欲しいと言うサブリナとの押し問答が暫しの間繰り広げられた。

 

「<誘惑の剣>は、女性にしか使えないのか?」

 

「え? あ、はい。私の家にはそのように伝えられています。他界した父も、一度その剣に触れようとしたらしいのですが、触れる事は出来なかったと言っていました」

 

 軽い溜息を吐き出したカミュが間に入った事により、それまで何度も往復していた<誘惑の剣>が動きを止める。

 カミュの質問に対して返って来たサブリナの答えが、<誘惑の剣>という剣が、カミュの持つ<草薙剣>と同様に持ち主を選ぶ事を示していた。

 このパーティーは幸いな事に女性の比率が圧倒的に高い。武器を扱う事に長けた『戦士』もリーシャという女性であるし、サマンオサで剣を購入したばかりの『賢者』も女性であり、その足元で楽しそうに成り行きを見ている幼い『魔法使い』も女性である。

 

「そうか……だが、その剣を使う必要がある者はいないようだな」

 

「え?」

 

 女性の比率が多い一行ではあるが、カミュの言う通り、この状況で<誘惑の剣>を必要としている人物はその中には居ないのだ。

 リーシャという『戦士』は武器の扱いに長けてはいるのは確かだが、その剣技に関しては、『勇者』と呼ばれるカミュよりも上である。もはや、長けているという部分のレベルが、世間一般とは異なっているのだ。

 また、サラという『賢者』も、サマンオサにて剣を購入し、現在剣の扱いをリーシャから教授されている。そして、その手に持つ<ゾンビキラー>という武器に関しては、<誘惑の剣>に劣るとは思えない鋭さを持ち合わせており、この世に生を持たない者達へ絶対的な効力を発揮するという特殊効果も持っていた。つまり、<誘惑の剣>は不要なのである。

 最後に付け加えるのであれば、女性ではあるが、幼い少女であるメルエが剣を扱う事など到底不可能であり、彼女が剣を持ち、その何らかの不可効果を行使するのだとしても、彼女の特出した才能である魔法という物を妨げてしまうものとなるだろう。

 総じて結論を出すのであれば、このパーティーに<誘惑の剣>という武器自体が不要だという事になる。

 

「それに……例え女性だとしても、アンタに他者を誘惑する事など出来るのか?」

 

「な、なんだと!? わ、私だって、男の一人や二人……」

 

 カミュの発する言葉の中に込められた意味を理解し、納得していたサラとは異なり、只の断り文句だと思っていたリーシャは、続くカミュの視線とその言葉に驚き、そして慌てた。

 リーシャの容姿は、イシス女王などに比べれば数段劣るものの、世間一般では美人の枠に入る者であろう。

 肩までで切り揃えられた独特の癖のある金髪は、太陽の光を様々な角度に反射し、とても美しい。また、成人男性でさえ振り回す事が不可能な武器を軽々と振り切る事の出来る筋力を持ってはいるが、無駄な脂肪を持つ事無く、しなやかな筋肉を有する腕や足は、引き締まった細身を維持している。

更に言えば、サラのような華奢な女性とは異なり、女性らしさを持つ丸みを帯びた曲線を描く体のラインや張り出した胸部は、身に着けている物が鎧ではなく、真紅のドレスなどであった場合、大抵の男性は振り向く程の破壊力を有する筈だ。

 どれも、サラが望んでも手に入れる事の出来ない物ばかりである。

 だが、哀しいかな、リーシャという女性は恋愛経験が皆無である。

 男性に負けぬように鍛錬を重ね、男性と比べられる事を良しとしなかった彼女の生い立ちが、同年代の男性との会話を恋愛方面へ向ける手段を習得させる事はなかったのだ。

 

「とてもではないが、魔物を誘惑出来るような人物がいるとは思えない。魔物相手に限るのであれば、メルエの方が余程上手く立ち回れるだろうな」

 

「わ、私までもですか!?」

 

「サ、サラは私よりも上手く男を誘惑出来ると思っていたのか!?」

 

 もはや、会話はとんでもない方向へと突き進み始める。

 カミュが先程リーシャへ向けて発した言葉を他人事のように聞いて面白がっていたサラであったが、それが自分にも向けられている事に驚き、そして憤慨するのだが、それはリーシャにとってみれば自尊心を大きく損なう物であった。

 確かに、内面的女性らしさは、何かとその身を気にするサラに比べて、若干自分にとって分が悪いと考えていたリーシャではあったが、そこは同じ女性として譲れない部分もあったのだろう。

 対するサラとしても、アッサラームの町で出会った女性に言われた事を自覚もし、『その辺りを目指すのは無理』と女海賊メアリにも語ってはいたが、それでも女性としての誇りがあったに違いない。

 そんな不毛なやり取りをする二人を笑顔で見つめていたメルエの小さな笑い声が響いていた。

 

「それは、自身の身を守る為に取っておく方が良いだろう。その為に、アンタの親もその剣を残したのだろうからな」

 

「ですが……わかりました。本当に、この度はありがとうございました」

 

 未だに何やら言い合っているリーシャとサラを余所に、カミュはサブリナへ剣の辞退を申し入れた。

 それでも食い下がろうとするサブリナであったが、カルロスが首を横へと振った事によって、自身の申し入れを諦め、再び深々と腰を折って謝礼の言葉を述べる。その頃にはリーシャの一方的なサラ攻撃も一段落し、全員がサブリナ達へ別れを告げていた。

 

「カミュ、お前は常に身の回りに注意して生きて行け」

 

「そうですね。カミュ様は、もう少し女性に対しての発言に注意するべきです」

 

 サブリナ達が揃って人混みに消えて行った後、鋭い瞳を向けたリーシャの不穏な発言にサラは同意を示した。

 この二人の女性は、既に全世界でも『人』としての枠をはみ出してしまった者達である。人類の中でも最高戦力となった二人は、一般的な女性とは異なり、外見だけで判断出来るような者達ではない。だが、それを男性であるカミュが口にする事は、二人の女性にとっては許す事の出来ない行為だったのだ。

 その証拠に、普段はカミュに対して感情的な怒り以外を見せないサラが、静かな怒りを露わにし、リーシャと共にカミュを睨み付けていた。

 

「……港へ向かうぞ」

 

 二人の女性の鋭い視線を受けながらも、軽い溜息を吐き出したカミュは、そのままメルエを従えてポルトガ港への道を進んで行く。憮然とした表情を浮かべながらも、リーシャもサラもその後をついて歩き出す以外に方法はなかった。

 

「おお! 戻って来たのか!?」

 

 人混みを抜け、ポルトガ城門の近くにある港へ着いた一行を待っていたのは、船の整備や荷造りを行っている船員達と頭目であった。

 真っ先にカミュを見つけた頭目は、指示を出す為に上っていた木箱の上から降り、一行の許へと駆け寄って行く。頭目の行動に気付いた船員達も、自分の仕事を放り、カミュ達の許へと走り出した。

 彼等にとって、カミュ達四人という存在は、それ程の意味を持つ物なのだろう。

 彼等にとっての希望であり、彼等にとっての喜びでもある。

 もはや、彼等にとって、カミュ達四人は世界の希望ではないのかもしれない。自分達を未知の世界へと導いてくれ、そこで新たな光を伝えてくれる者達。それは、正しく『勇者』そのものなのかもしれない。

 

「すぐ出れるぞ! 次は何処へ行く?」

 

「ポルトガ国王へ謁見を済ませてから、開拓地へ向かいたい」

 

 カミュ達の帰還を喜んでいた頭目達は、早速次の目的地を問いかける。

 自分達の帰りを待ち望んでいたように喜ぶ船員達を見たリーシャ達も笑みを浮かべる中、カミュは次の目的地を口にした。

 その目的地にリーシャとサラは驚き、メルエは花咲くような笑みを浮かべる。

 トルドという名の商人が開発を行う町は、このポルトガを見る限り、かなりの発展を遂げているのだろう。以前に訪れた時は、移住する者も増え始め、娯楽施設を建設する計画を立てている頃であった。

 あれから既に数か月以上の時間が経過している以上、その娯楽施設の建設も終了し、以前にも増した活気に満ち溢れている事だろう。

 

「カミュ、こう言っては何だが、トルドに何か用なのか?」

 

 満面の笑みを浮かべ、早速船に乗り込みかねないメルエの手を引き戻したリーシャの問いかけが響く。

 確かに、現状でトルドの場所に用はないだろう。通り道などであれば、以前の約束通りに顔を出す事を厭わないが、今はその時ではないようにリーシャは感じたのだ。

 <変化の杖>を欲しがっていた老人の許へ行くのならば、通り道と言えなくもない。だが、リーシャの頭の中には、<ガイアの剣>という物を手に入れなければならないという想いがあった。

 サマンオサの英雄が持ちし、大地の神から祝福を受けた剣。

 それは、ネクロゴンドの火口に投げ入れる事によって、新たな道を切り開く為の手段である。

 

「…………むぅ………メルエ……いく…………」

 

「そうだな。理由等どうでも良いな。トルドに会いに行こう」

 

 問いかけた筈のリーシャは、自分の手元で頬を膨らませるメルエの姿を見て、柔らかな笑みを浮かべた。

 幼いメルエにとって、トルドは自分に笑顔を向けてくれる大事な者。その者がいる場所へ行く事は喜び以外の何物でもなく、それを妨げるリーシャに不満を明確に表したのだ。

 『理由等どうでも良い』と言う程、彼等の旅は時間を持て余している訳ではない。刻一刻と魔物の凶暴さは増して行き、サマンオサのような国家が出て来る程に魔王の力も強まっている。それは、魔物以外の生命体にとって死活問題になる程に重要な事であった。

 この魔物の力が大きくなる時代に、それに対抗出来る力は限られている。この数十年の間で、『魔王討伐』の旅へ出た若者達は星の数程いるが、その中で高い可能性を持っていた者も限られていた。

 そして、オルテガという人類最後の希望が潰えてからを考えれば、この四人以外に魔物と真っ向から対峙出来る者達は皆無であったと言っても過言ではない。

 急がなければ世界が滅ぼされてしまうかもしれない。

 だが、『魔王バラモス』が台頭してから数十年経った今も、人類は魔物に怯えながらも存在している。

 それもまた事実なのだ。

 

 

 

「よくぞ戻った」

 

 ポルトガ城へ謁見に入ったカミュ達は、謁見の間にてポルトガ王の尊顔を拝する。

 サマンオサで購入した食料や反物などを献上品として差出し、船員達の貿易も成されている事を報告し終えた時、ポルトガ王は満足そうに頷きを返した。

 『オルザ・ド・ポルトガ』という名の国王は、久しぶりに見るカミュ達一行の表情に笑みを濃くする。それは、彼等の顔に刻まれた経験を見て取ったからだ。

 『人』は様々な経験を積んで行く事で、見違えるような成長を遂げて行く。それは、その心と身体に経験値として積み重なり、まるで木の年輪のようにその者の容貌さえも変えて行くのだ。

 カミュ達は短い期間で、この世で生きるどんな人間達よりも濃い経験を積み、誰も成し得ない事を成して来た。

 苦しみに喘ぐ者達を開放し、哀しみに暮れる者達を解き放ち、絶望に伏す者達を立ち上がらせ、全ての者達に希望の光を降り注ぐ。その中で、彼等も自身の中に眠る悩みや葛藤を振り払い、しっかりと前を見据えて歩んで来ていた。

 その全てが彼等の糧となり、彼等の力となっている。

 

「ふむ……会う度に、お前達の表情は変わって行くな……お前達の成長が頼もしい」

 

「……有難きお言葉」

 

 仮面を被ってはいるが、何処か余所余所しい雰囲気を持たないカミュの返答に、サラは小さく口元を綻ばせた。

 ここまでの旅で、一行は六つの国家の王族に謁見を果たしている。

 アリアハン、ロマリア、イシス、ポルトガ、エジンベア、サマンオサの六か国である。

 未だに国として認められていない場所も加えるのであれば、ジパングを含めて七か国となる。

 厳密に言えば、サラとメルエはアリアハン国王への謁見はした事がないのだが、それでも五か国の王族の尊顔を拝している事になるだろう。

 サラの中で確立されていた王族という者は、カミュのような人間にとっては『傲慢』に映る者ばかりであった。サラやリーシャはそれが王族だと考えていた分、それを『傲慢』だと感じる事はなく、不満に感じた事もない。

 だが、様々な王族を見て行く中で、王族の中でも異なる者達がいる事を知る。本当に民を想い、国を想い、その為に自己さえも犠牲にする王族がいる事も知った。

 その内の一人が、今目の前でカミュ達へ微笑みを向けている『オルザ・ド・ポルトガ』なのである。

 

「サマンオサの闇を払ったか……サマンオサとの交流も途絶えてから久しい。これで全ての国家の門が開かれた筈だ。お前達がこの世界の闇を払った時こそ、俺達王族の真価が問われる時なのかもしれんな」

 

 サマンオサの特産を献上する際に、サマンオサの概要を報告したカミュであったが、詳しい部分は適当に暈かしていた。

 一国の国王が魔物に成り変わられていた等という事は、その国家にとって恥でしかなく、ましてや国民にさえも詳しい実情を説明していないサマンオサ国家にとって、それを吹聴される事は許す事の出来ない事柄となるだろう。

 故に、サマンオサに新国王が誕生し、その国政自体が変化した事だけを伝えたのだが、聡明なポルトガ国王にはお見通しだったのかもしれない。全てを把握した訳ではないだろうが、カミュ達が訪れた事によって、国家の中身が引っ繰り返ったという事実で何かを察したのだ。

 このポルトガ国王もまた、現サマンオサ国王と同様に、『英雄』と『勇者』の違いを知る者なのかもしれない。

 

「次は何処へ向かう? この世界にある、『人』が造りし国家は全て赴いたであろう?」

 

「魔王の居城があると云われるネクロゴンドを目指します」

 

 肘掛けに肘を置いたままで尋ねたポルトガ国王は、間髪入れずに返って来た答えを聞き、思わず立ち上がってしまう。それはカミュの後ろへ控えるリーシャ達も同様であった。

 謁見の間で、王族の許しも得ずに顔を上げる事は不敬に値する行為。それにも拘らず、顔を上げてしまう程に、カミュの発した言葉は破壊力を有していたのだ。

 アリアハンを出てから、カミュの口から明確に『魔王』という単語が出て来たのは初めての事かもしれない。

 『魔王討伐』を目指して歩んで来た彼等ではあったが、先頭に立つ青年の胸に、明確な意思があった訳ではない。むしろ、その旅の途中での死を覚悟していたと言った方が正しいのかもしれない。

 そんなカミュの口から、諸悪の根源である『魔王バラモス』の居城を目指すという言葉が飛び出した事で、リーシャ達は改めて自分達の目的を自覚するに至ったのだ。

 忘れていた訳ではない。

 覚悟が鈍った訳ではない。

 それでも、自分達の指針となる青年の口から明確な目的が出た事によって、彼女達の意思もまた、強く固まって行った。

 

「そうか……遂にそこまで来たのか……」

 

 自分が無意識に立ち上がってしまっていた事に気が付いたポルトガ国王は、照れ隠しのように苦笑を浮かべ、感慨深そうに言葉を零す。

 玉座に座りなおした国王の前には、以前とは比べ物にならない程の成長を遂げた四人の若者達が跪いていた。

 彼等が初めてポルトガを訪れたのは、三年近く以前になる。通常に生活をしていれば、それ程長い時間という訳ではないが、彼等が訪れてからの劇的な変化が、その月日の厚みを尚更に感じさせる物となっていた。

 ポルトガという国自体、三年前に比べれば、その活気は雲泥の差である。再び開かれた港は、貿易の成功と共に、様々な物資や情報を齎し、国民は目を輝かせてそれを喜んだ。

そして、新たな交流によって潤うのは、何も国民だけではない。ポルトガ国そのものも、税金や貿易による利益によって、その国庫を潤わせていた。

 俗的な物言いになるが、金銭的な潤いは国政に余裕を持たせ、国政の余裕は国民の心の余裕を生んで行く。

 魔物に怯えるだけの毎日に、徐々に荒んで行った国民達の心は、余裕を取り戻した事によって、逆境にも負けぬ強い心に生まれ変わっていたのだ。

 僅か三年の期間ではあるが、それは一国どころか世界全てを変えてしまう程に濃密な三年であった。

 

「ならば……次に会う時は、『魔王討伐』の成功の報告の時となるのだな?」

 

「……全力を尽くします」

 

 感慨深げに一行を見回したポルトガ国王の言葉に、カミュは時間を掛けて返答する。

 カミュという『勇者』の胸の内にどのような想いがあるのかは誰にも分からない。だが、ここまでの道中で、まるでその言葉を発する事を避けていたようにしていたカミュが、『魔王討伐』を口にしたのだ。

 共に歩んで来た、リーシャとサラにとっては、それだけで十分であった。

 

「お前達の武運を祈る!」

 

「はっ」

 

 余計な言葉は何一ついらない。

 これがこの世で最後の顔合わせとなるかもしれないのだ。

 『魔王バラモス』は強大な敵であり、必ずしも勝利を収められるとは限らない。

 むしろ、カミュ達が全滅する可能性の方が遥かに高いだろう。

 それでも、『オルザ・ド・ポルトガ』は信じていた。

 彼等こそが『勇者』であるのだと。

 

 

 

「出港だ!」

 

 ポルトガ港に、久しぶりの大号令が響き渡る。

 頭目の声に応える船員達の声。

 それは世界の希望となる者達を運ぶのは自分達であるという誇りなのかもしれない。

 港には、数多くの国民達の見送りが出ていた。

 彼等もまた、この船に乗る者達が世界を変えて行く事を知っているのだろう。

 

「カミュ様、ネクロゴンドを目指すには情報が足りませんよ?」

 

「新たな道を切り開く為の<ガイアの剣>も手に入れてはいないぞ?」

 

 船が港を離れ、陸地が遠くなっていく中、港とは反対側の進行方向を見ていたカミュへサラが問いかける。

 先程のポルトガ国王との謁見でのカミュの言葉は、リーシャやサラの胸を大いに震わせた。だが、それとは別に、まだネクロゴンドへ向かうには多くの物が足りない事もまた事実なのである。

 『何処へ向かえばネクロゴンドに辿り着けるのか』

 『ネクロゴンドへ向かうには何が必要なのか』

 単純に考えてもこの二点の情報が足りない。リーシャの口にした<ガイアの剣>は、ネクロゴンド火山の火口へ放る事によって道を切り開くと云われる武器である。つまり、それはネクロゴンドに辿り着く事が出来てから必要になる物であり、そこまでの道が解らないのだ。

 

「今までも、一歩ずつ前へ進むしか、選択肢はなかった筈だ」

 

「……そうだったな」

 

 リーシャ達へ視線を移す事無く口を開くカミュの姿は、ここまでの道程の何ら変わりはない。

 彼等の旅は何時でもそうであった。

暗中模索を続け、その中で一筋の光明を見つけ出す。

 見つけ出した細い光道を押し広げ、そこから見える景色を変えて来たのだ。

 選択肢は限られていると『勇者』は言う。だが、その限られた選択肢を彼が選び続けた先に今があるのだ。それはこの先も変わらないだろう。

 誰も成し得なかった事を成し遂げようとする彼等が歩む道は、前人未到の道なのだから。

 

「魔物だ!」

 

 周囲の陸地が見えなくなって来た頃、もはや魔物程度では慌てる事のなくなった船員達の声が甲板に響き渡る。

 海面に次々と浮かび上がる魔物の影。

 何度も遭遇して来た<マーマン>や<しびれくらげ>、そしてそれを統率するように控える<マーマンダイン>といった魔物達が我先へと船の甲板へと上がって来た。

 

「……下がっていろ」

 

 勇者一行を乗せている時、この船の乗組員が戦闘に参加する必要など何処にもない。

 人類最高戦力である四人がいる限り、船員達が前面に出る事は、彼等の行動の邪魔をしてしまう可能性の方が高いのだ。

 一斉に後方へと下がった船員達は、魔物が侵入して来ても航路を維持する為に自分達の仕事へと戻って行く。全ての船員達に共通する事は、自分達の仕事に全力を上げる事に何の不安も感じていない事だろう。

 それだけの信頼を受ける事が出来る器を、この四人は有していた。

 

 武器の扱いに長け、世界中の誰よりも強力な魔物と戦闘を行って来た経験を持つ『戦士』。

 この世で唯一の存在となり、世界で唯一人、神魔両方の魔法を行使出来る『賢者』。

 その『賢者』でさえも、魔法に関しては足元にも及ばない才能を有する『魔法使い』。

 そして、もはや人類の枠を飛び出した力を有する彼女達でさえ、絶対的な信頼を向ける『勇者』。

 彼等四人の前では、海を支配すると云われ続けた魔物達など、烏合の衆に過ぎなかった。

 

「メルエ、灼熱系は駄目ですよ!」

 

「…………ん………ヒャダイン…………」

 

 吹き荒れる冷気は、船の甲板に辿り着いた魔物達を包み込んで行く。

 一瞬の内に凍り付いて行く身体に違和感を感じる暇もなく、<マーマン>や<しびれくらげ>が絶命して行った。

 既に自分の魔法力の調節を学んだメルエにとって、船を傷つけずに魔物を凍らせる事は難しい事ではない。サラに言われたように、灼熱系である、ギラ、ベギラマ、ベギラゴンであればその調節にも苦心したであろうが、幼い『魔法使い』は氷結系の魔法を最も得意としているのだ。

 

「いやぁぁぁ!」

 

 凍り付いた魔物達の間を縫うように駆け抜けたリーシャの<バトルアックス>が魔物の首を薙いで行く。迫り来るリーシャに対し、襲い掛かろうと掲げられた<マーマン>の腕は、振り下ろされる事もなく、その命令系統の要である頭部が切り落とされた。

 甲板に上って来た魔物の数は、勇者一行の数倍の数であった筈。

 だが、その数は瞬く間に減少し、今や統率しているであろう<マーマンダイン>の他に数体となっていた。

 <マーマンダイン>自体も船首の部分で呆然と成り行きを見つめる事しか出来ない。

 

「バギマ!」

 

 その数体も、メルエの呪文の効果を見届けた『賢者』によって消滅させられる。

 怯えるように一塊になった魔物に向けて広げられた掌から巻き起こる真空の嵐は、海に巣食う魔物達の身体を切り刻んで行った。

 劈くような叫び声を上げ、その体液を飛ばした<マーマン>達は、身体の部位を切り落とされ、最後には甲板の上に崩れ落ちる。役目を終えた真空の刃は、穏やかな風へと変化し、晴れ渡る海原へと流れて行った。

 

「……最後だな」

 

 自分の指揮していた魔物達が、指示を出す暇もなく死に絶えて行くのを呆然と見ていた<マーマンダイン>は、何時の間にか近づいていた『勇者』の持つ剣が、自分の喉元へと突き刺さるのを不思議な感覚で見つめていた。

 この魔物がこれまで襲撃して来た人間の中で、このような経験をした事はなかったのだろう。本来、通常の貿易船などであれば、本能で暴れ回る魔物を統率する魔物がいるというのは脅威に値するだろう。

 逃げ惑う人間や、狂ったように悲鳴を上げる人間しか見て来た事のない<マーマンダイン>にとって、命の灯を消す寸前に見たこの光景は、死して尚、理解の出来ない物なのかもしれない。

 

「野郎ども、魔物の亡骸を海に戻してやれ!」

 

 <草薙剣>を引き抜くと、既に肉塊と化した<マーマンダイン>の身体は、船首から海へと落ちて行った。

 それが戦闘終了の合図となり、頭目が船員達へと指示を飛ばす。

 その指示の内容は、通常の人間の立場からでは決して出て来ない物であろう。憎しみの対象であり、悪の象徴でもある『魔物』という存在を、一つの生物として認め、命を失って尚、その身を住処へと戻そうとする行為。

 それは、この世界で生きる『人』としては常軌を逸していると考えられる程の行為ではあるが、『賢者』を従える勇者一行と共に歩む者達としては、極当然で何も疑う余地などない物であった。

 

「皆さん、ありがとうございます!」

 

 例え魔物といえども、その命もまた、掛け替えのない一つの命。

 サラという『僧侶』が辿り着いたその答えを、彼女は他者に強要した事など一度たりともない。メルエに対して、必要以上に魔物を攻撃する必要がない事を伝えてはいるが、このパーティーの三人以外に話した事もなければ、魔物を攻撃する人間に嫌悪を示した事もなかった。

 だが、それでも、サラの想いは少しずつ人々に届いている。

 言葉には表さずとも、彼女の行動と想いは、彼女を取り巻く人々の心へと届いていたのだ。

 既に魂を失った肉塊を海に戻す行為に意味があるとは思えない。それこそ、人間の自己満足と言われても仕方のない事であり、偽善的な行為と捉えられても仕方のない事だろう。

 それでも、船員達の全てが、切り刻まれた魔物の身体や、氷漬けにされた魔物の身体などを丁重に海へと戻す姿は、サラの瞳にとても尊いものに映っていた。

 

「サラの理想への一歩だな」

 

 船員達へ深々と頭を下げ、その光景を涙交じりに見つめていたサラの横を、姉のように慕う女性戦士が通り過ぎて行く。

 難しい事に関しては理解するのに時間を要する彼女であったが、人の心の機微にだけはその能力を如何なく発揮する。船員達の動きが、サラの目指す物の途中にある物だという事を察したリーシャは、涙交じりにその光景を見つめる彼女の肩に手を置き、そのまま船員達を手伝う為に甲板の上を歩いて行ったのだ。

 

「…………サラ………また……泣く…………」

 

「泣きますよ……」

 

 リーシャだけではなく、カミュでさえも船員達と共に魔物を海へ還す作業をしている事で、サラの涙腺は崩壊してしまう。そんなサラの足元からからかうような声が響くが、それに反論する余裕さえもサラには残されていなかった。

 小さな笑みを浮かべたメルエが、サラの掌を優しく握り、その体温がサラに伝わった時、彼女は泣き崩れるように屈み込んでしまう。

 このような光景は、一度や二度ではなかった筈である。

 今までの戦闘で何度も、何度も魔物を倒して来た。

 だが、実際は、倒した魔物を率先して海へ還していたのはサラであり、船員達はその手伝いをするような動きを見せるだけだったのである。だが、その立場は逆転した。

 

 『勇者』と呼ばれる者は、その敬称を自称する者ではない。

 後の世の人々が、その者を讃える時にその敬称を使用するのだ。

 『勇者』と呼ばれる者は一人だけ。

 だが、一人だけでは『勇者』と称される程の偉業を成し得る事など出来はしない。

 常に共に歩き、『勇者』となる者さえも導く者もまた、偉業を成す者なのだろう。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

まさか、この部分だけで一話が終わってしまうとは思いませんでした。
長くなってしまいますが、お許しください。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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トルドバーグ①

 

 

 

 ポルトガの港から、トルドという商人がいる開拓地までの距離は、カミュ達が今まで通過して来た船旅を考えると近い物である。

 僅か二日か三日程の船旅は、襲い掛かって来る魔物の数も限られ、天候が急に変わる事も稀であった。

 いつもの木箱の上に陣取り、潮風に靡く髪を押さえて海を眺めていたメルエは、前方に見え始めた大陸に目を輝かせ、木箱を降りてリーシャ達を呼びに走り出す。そんな幼い少女の姿に笑みを浮かべた船員達は、大陸が見えているにも拘らず、その事実を口にする事はなかった。

 

「おっ、陸地が見えたのか?」

 

「…………ん…………」

 

 普段は雨などが降らない限り、木箱から降りる事のないメルエが傍に寄って来た事で、リーシャは彼女が何を伝えたいのかを明確に理解する。自分の伝えたい内容が、口に出さなくとも伝わった事に満面の笑みを浮かべたメルエは、大きく首を縦に振った。

 もはや、海で遭遇する魔物達はカミュ達四人の敵ではない。唯一苦戦を強いられる可能性のある<テンタクルス>には、あれ以来遭遇する事はなかった。

 しかし、その<テンタクルス>であっても、死の呪文を行使出来るサラがいる以上、この船を破壊する事は不可能であろう。

 故に、この三日間程の船旅は、とても穏やかな物であった。

 

「益々、港が栄えて来ていますね」

 

「それだけ移民が多くなっているんだろうな」

 

 徐々に見えて来る港は、以前に訪れた頃よりも更なる繁栄を見せていた。

 以前よりも大きな船が何隻か停泊しており、荷を下ろす者達が黒い波となって動いているのが解る。それは、この開拓地が着実に『町』という形態に向かって歩み続けている事の証であろう。

 満足そうに頷きを返したリーシャは、その光景を眩しそうに見つめ、この状況を作り出した者を称賛するような言葉を紡いだ。

 

「これだけの人が訪れるようになれば、もう安心ですね」

 

「……それは逆だろうな」

 

 一般の船が辿り着く船着き場を横切り、カミュ達の船専用の船着き場へと移動する際に、海原へ轟く程の喧騒を見つめていたサラは、その光景を笑みを浮かべて見つめていた。

 だが、その笑顔はカミュの放った一言によって凍り付く。

 彼のような人物が、何の確信もなく、このような言葉を発するとはサラとて思ってはいない。彼なりに何らかの考えがあって発した言葉の中には、反論する事も、それに対して不満を述べる事も出来ない強さがあったのだ。

 

「ど、どういう事ですか? 『町』として機能する為には、数多くの人達が移住して来る事が不可欠な筈です。これだけの人達が訪れているという事は、移住して来た人達も多いという事ではないのですか?」

 

「カミュ、何が言いたいんだ?」

 

「確かに移民は増えたかもしれない。だが、『人』が増えるという事は、それだけ影が増えるという事でもある」

 

 それでも尚、疑問を呈したサラの顔には、余裕の欠片も見えなかった。

 もしかすると、彼女自身もまた、心の奥底に自分では認識出来ない程の小さな不安を持っていたのかもしれない。だからこそ、何とかカミュの言葉に反論したいという想いがある反面、それを覆す事が出来ないという不安も持ってしまっているのだろう。

 サラの後ろでメルエの手を引いていたリーシャは、カミュの発する言葉の意味を理解する事が出来ず、その意図が掴めなかったが、再び発せられた彼の言葉に、何か思いついたような仕草をする。

 そんなやり取りの中でも、全く話に興味を示さないメルエは、木箱の上へと戻る為、リーシャの手を放して駆けて行った。

 

「……カンダタへ話していたあの事か?」

 

「……行ってみれば解る」

 

 リーシャの問いかけを無視するように視線を外したカミュは、再び口を開く事はなかった。

 『カンダタ』という名前が出て来た事で、船員達の中にいる七人の男が振り返り、サラが怪訝な表情を浮かべるが、リーシャだけは何かを察したように眉を顰めて黙り込む。その二人の空気が尚更訝しく、サラはその真意を確かめようと口を開きかけたが、それは見えて来た港から投げられた停泊の為の縄によって遮られた。

 投げ入れられた縄を船止めに括り、船員達がゆっくりと船着き場へと近付く船を誘導して行く。掛けられた板を受け、船を降りる準備は整った。

 

「さぁ、メルエ、トルドに会いに行こう!」

 

「…………ん…………」

 

 重苦しく表情を硬くするサラの気持ちを吹き飛ばすように上げられたリーシャの大きな声は、満面の笑みを浮かべたメルエによって歓喜の声に変わる。先程まで甲板に漂っていた不穏な空気は、ムードメーカーでもある幼い少女の笑みによって消し飛ばされた。

 リーシャの手を取り、真っ先に船を下りて行くその後ろ姿は、この少女の心を知る者達にとって、無意識に笑みを浮かべてしまう程の優しさを滲み出している。

 小さな笑みを浮かべたカミュがその後に続いて船を降り、そんな三人の様子を厳しい表情で見ていたサラが、とても重い一歩を踏み出した。

 

「以前に来た時よりも道の幅が広がったか?」

 

「……そうだな」

 

「それだけ、あの場所に運ばれる品も増えたという事だと思います」

 

 トルドが開拓をする場所へと繋がる道は、以前に訪れた時よりも整備が進み、その幅も広げられていた。道と森を遮る柵が遠く見える程に広げられた道が、この世界で生きる『人』という種族の強さを物語っていた。

 カミュ達が最後に訪れてから、一年近く月日が経過しているとはいえ、それでも世界的な視点から見れば、それは本当に僅かな時の話である。『人』という種族の数倍もの寿命を持つ『エルフ』や『魔物』などから見れば、瞬きをする程の僅かな時間であろう。

 それでも『人』は、その僅かな時間を懸命に駆ける。エルフや魔物が懸命に生きていないという訳ではなく、『人』は短い時間の間でしか輝く事が出来ない以上、その短い時間で何かを残そうと生きるのである。

 だが、それは『人』の視点から見ると、儚い浮世での眩い程の輝きに映るが、他種族の視点からとなれば異なって来るのだ。貪欲に、そして強欲に他者の生活域ですら侵し、自身の生を輝かせる。それを美しいと思えるのは、『人』だけなのかもしれない。

 

「メルエ、そんな顔をするな。少し森側を歩こう」

 

 その証拠に、傍で鳥達の囀りや虫達の営み、そして咲き誇る花々の姿がない事に、幼い少女の顔は曇っていた。

 メルエという少女にとって、様々な者達が生きるこの世界は、果てしない輝きに満ちているのだろう。彼女にとって、自身や仲間に危害を加えないのであれば、魔物とて世界を生きる者達の一つなのだ。

 懸命に輝く花達を不必要に摘もうとはしない。森の中を縦横無尽に飛び回る虫達を不快に思って命を奪おうともしない。小動物達に対しては、自分の好意を伝えようと懸命に話しかけ、その温かみに触れようと手も伸ばす。それが、メルエという少女であった。

 

「町へ向かう人々も本当に増えていますね……」

 

「それだけ、アンタの理想からは掛け離れて来たという事なのだろう」

 

 広がった道を歩く人々や、引かれる台車を見ていたサラの呟きは、予想外の言葉によって断ち切られた。

 勢い良く振り向いたサラの表情を見る限り、カミュが発した内容に関して、思いが至っていたとは考え難い。本当にそこまで考えが及んでいなかったのであろう。その顔には、悲壮感さえも滲み出し、何かを口にしようと動く唇は、僅かに震えてさえいた。

 サラの理想は、『人』だけではなく、全ての生き物が幸せに生涯を全うする世界。

 実現困難であり、実現不可能な世界でもある。

 どれか一つの種族が繁栄するという事は、どこかの種族が没落する事と等しいのだ。全ての者達の均等な幸せを望むという事は、全ての者達の繁栄を拒む事にもなりかねない。

 そんな可能性を突き付けられたと、サラはカミュの言葉から感じ取ってしまった。

 

「で、ですが、それは……」

 

「だが……それでも、アンタは理想に向かって歩むのだろう?」

 

 自分の胸に湧き上がった未知なる不安を吐き出すように口を開いたサラの言葉は、遥か先の開拓地へと続く道を見つめる青年によって遮られる事となる。

 先程よりも驚愕に彩られた表情をしたサラは、真っ直ぐ道の先を見つめる青年の横顔を見つめてしまう。陽の光によって影を差す青年の横顔には、怒りも悲しみも、そして喜びによる笑顔もない。他人によって無表情と感じてしまう程の冷たい表情の中にある感情を窺う事は出来なかった。

 だが、自分の発した言葉が然も当然の事のように動じないその姿は、別の見方をすれば、絶対的な信頼を向けている事を示しているともなるのかもしれない。

 そんな青年の細かな変化を理解出来るサラではなかったが、彼が指し示す未来への道を再び見つめる決意だけは胸に戻す事が出来た。不安に押し潰されそうな程に揺れ動いていた瞳は定まり、歩もうとしている道の先にある可能性を知った事の恐怖で震えていた唇は、しっかりと結ばれる。

 

「はい!」

 

 再び灯った覚悟の炎を燃え上がらせるように宣言したサラは、隣に立つ青年が微かに笑みを溢した様に感じた。それは、本当に僅かな変化だったのかもしれない。実際は笑みなど浮かべる事無く、無表情で歩き始めていたのかもしれない。だが、それでもサラには、微笑んだように感じたのだ。

『自分が歩もうとしている道を支えてくれる者達がいる』

 それがどれ程の勇気となるだろう。

 それがどれ程の活力となるだろう。

 船の上で流し続けた溢れ出す想いが、再び溢れ出そうと胸を熱くさせる事を感じながらも、サラは真っ直ぐ前を見据えて歩き出した。

 

 前方ではリーシャがメルエと一緒に屈み込んで、柵の向こうで動き回る虫達を見つめている。その先には懸命に咲き誇る花々達が、虫達を誘う華やかな香りを風に乗せて運んでいた。

 世界は輝きに満ちている。サラはそれを、三年近く共に歩んで来た幼い少女に教えられた。

 『人』を守る為でもなく、ましてや『魔物』を打ち滅ぼす為でもなく、世界を救い、守る為に自分達は旅をしているのだと、サラはメルエを見る度に思い出さされる。

 それは、世界中の人間が、カミュ達へ『勇者』として期待する本分を裏切る物なのかもしれない。だが、それでも彼女はその道の先にある物を目指し歩み続けるのだろう。

 彼女を支える、大きくなった光と共に。

 

 

 

「カミュ……これは既に『町』だろう……」

 

「……そうだな」

 

 開拓地へと辿り着いた一行は、その入り口となる門の前で佇んでしまった。

 見上げる程に大きくなった門の中心には、あの日にトルドが打ち据えた<魔道士の杖>が今も輝いている。だが、その門を中心に広がる防御柵は、以前訪れた時よりも一回りも二回りも大きくなっていたのだ。

 それは、この開拓地自体の広がりを意味し、只の集落から『町』という機能を持ち始めている事を示していた。奇妙な縁でこの地に辿り着いた老人が望んだ物が、勇者一行に導かれた者の手によって現実へと向かって歩み続けている証拠。

 

「……町の名前も決まったのですね……」

 

 そして何よりも、<魔道士の杖>というこの町を象徴する町章の下に掲げられた板に記された文字が一行の驚きを誘っていた。

 四人が見上げた先には、町の名前が彫られた板が掲げられている。驚きと呆れに口を開いたまま見つめるリーシャとサラとは異なり、カミュの眉間には深い皺が刻まれ、それと反するようにメルエの瞳は輝いていた。

 

「ん? これはな、『トルドバーグ』と読むんだ」

 

「…………トルド…………」

 

 その板に彫られていた名は、『トルドバーグ』。

 カミュ達によって、この場所に導かれた者の名前がそのまま入っていたのである。

 それは、幼い少女にとっては、目を輝かす程の出来事であったのだろう。だが、他の三人はそれぞれに複雑な想いを抱いていた。その証拠に、この場で笑みを浮かべているのは、看板を嬉しそうに見上げるメルエだけである。

 この名前を決定する際に、トルドという『商人』が諸手を挙げて賛成の意を示したかどうかは解らない。だが、この名前が掲げられた事によって、この集落の代表者は、必然的にカザーブという小さな村の『商人』であった男となったのだ。

 リーシャは、トルドという人間が、自分の力や地位を表立って誇るような人物には思えない。そればかりか、彼の歩んで来た人生を顧みると、自身の功績を隠してでも発展に尽力を尽くす人物だと考えていた。

 それはサラも同様であり、自身が開拓した土地であったとしても、その名に自分の名前が付けられる事を良しとはせず、何があっても阻止するような人物だと考えていただけに、この看板を見た時、船上でカミュが語った言葉が思い出されてしまったのだ。

 

「…………いく…………」

 

「ああ」

 

 呆然と入り口の看板を見上げる三人を不満そうに見上げたメルエは、いつものように一番の保護者のマントの裾を引いた。

 集落の中へと入る為の荷物検査に並ぶ荷台が増えて行く中、自分がトルドに会えるまでの時間が遅くなってしまう事を危惧しているのだろう。不満そうに頬を膨らませ、せがむようにマントを引くメルエの姿を見て、カミュは重い足を一歩前へと踏み出した。

 

「荷台はないんだね。ようこそ『トルドバーグ』へ」

 

 荷台の荷物検査を待つ行列に並んだカミュ達の順番が来たのは、この門まで辿り着いてから数刻の時間を要した。

 上り始めていた朝陽は、既に真上まで昇り、昼食時を示している。門を守る検査員のような男の何処か卑屈めいた歓迎の言葉を受け、一行は友の名を掲げる町の中へと入って行った。

 

「うわぁ」

 

「…………トルド……すごい…………」

 

「そうだな……まさか、ここまで発展しているとは」

 

 町の中へと入った一行は、その景色の凄まじさに、先程以上の放心状態へと陥ってしまう。瞳を輝かせるメルエとは別に、リーシャとサラは純粋に驚きを示し、カミュはまたしても苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 この場所の光景は、既に町の中でも上位に入る程の繁栄を見せていたのだ。

 町の中には人が溢れ、ここで暮らす者達の家屋が立ち並び、商いを行う為に店を構える者達とは別に、敷物を敷いた上に商品を並べて売る者もいる。その賑わいは、アッサラームやバハラタのような巨大都市とまでは行かなくとも、一般の城下町を凌ぐ程の物であった。

 

「ようこそ、トルドバーグへ」

 

「あ、ああ、ありがとう」

 

 町の入口で固まっていた一行に女性が声を掛けて来る。おそらく、この町へ移住して来た者の家族なのであろう。水瓶を抱え、にこやかに笑みを浮かべるその顔は、旅人や商人への歓迎を示していた。

 この町も、バハラタのような自治都市と同様に、遠方から訪れる旅人や商人があってこその町なのである。訪れる商人との売買があってこそ、この町の店舗の品揃えは増え、旅人達が訪れるからこそ、この町に新たなゴールドが入り込んで来るのだ。

 それを理解していても、突如掛った声と、その言葉の中にある名前を聞いたリーシャは、咄嗟に返事を返す事が出来なかった。

 

「あれは、以前にトルドさんが建設していた劇場でしょうか?」

 

「…………むぅ………メルエ……いや…………」

 

 水瓶を持って去って行く女性に会釈を返したサラは、入り口から見て左手にある大きな建造物に目を止めた。

 その場所は、以前に訪れた際に、トルドが新たな娯楽施設を建設しようと縄張りを行っていた場所である。周囲に見える家屋などの数倍もある大きさを誇り、煌びやかな装飾を施された建物は、何処か威圧感さえも有しているように見えた。

 以前からその存在を嫌悪していたメルエは、その場所へ行く事を拒むように、傍にいたリーシャの腰元へとしがみ付く。だが、そんなメルエの願いは先頭を歩き出した青年によって打ち砕かれ、仕方なくリーシャに手を引かれてメルエは歩き出すしかなかった。

 

「いらっしゃい。どうぞ奥へ」

 

 建物内に入ると、賑やかな音楽と共に、人々の歓声が聞こえて来る。独特な雰囲気を醸し出すその場所に入った途端、メルエは逃げるようにカミュのマントの中へと入り込んで行った。

 入り口では、通常時であれば滑稽とも取れるような大げさな燕尾服を着込んだ男が、まるでカミュ達を品定めするような瞳を向けている。不快に感じる程の視線を向けられたカミュは、男の言葉に返事を返す事無く、小さな入り口から更に奥へと足を踏み入れた。

 

「最高!」

 

「いいぞぉ! こっち向いてくれ!」

 

 奥へと入ると、そこは劇場の会場であった。

 ステージでは、数人の踊り子達が踊り、客席には多くの男達が狂喜乱舞している。大声を張り上げ、贔屓の踊り子の名を叫ぶ者や、音楽と共に体を揺らし手拍子をする者など、その姿は様々ではあるが、町の外とは掛け離れた喧騒が広がっている事だけは確かであった。

 怯えるように自分の足にしがみ付くメルエを気にしながらも、周囲を見回していたカミュであったが、ここに居ても何も収穫などない事を察したのか、誰にも声を掛ける事無く、先程入って来たばかりの出口へと向かって歩いて行く。

 リーシャやサラも、知識として知っていた劇場という物の真の姿に驚きを表すが、メルエを怯えさせたまま眺めていたいとも思わず、カミュに続いて出口へと向かって行った。

 

「これはこれは、お帰りですか? でしたら、お代を頂きませんと」

 

 出口をカミュが潜ろうとした時、先程品定めをするようにカミュ達を見ていた男が、行く手を遮るように立ち塞がった。

 張り付いたような厭らしい笑みを浮かべた男は、手もみをしたまま、カミュ達の前に立ち、劇場への入場料金を支払うように要求して来る。有無も言わさぬ程の圧力を持ってカミュ達に対峙するその姿は、正当性を持っているという自信の表れなのか、屈強なカミュやリーシャの前でも怯む様子はなかった。

 劇場という場所へ入る事が初めてであったカミュではあるが、品物を売る訳でもなく、闘技場のように賭け事をする訳でもない以上、中に入り、踊り子の踊りを見た段階で料金が発生するのも致し方ない物なのかもしれないと考え、腰の皮袋へと手を伸ばす。

 

「四名様で、合計50000ゴールドになります」

 

「ご、ごま……」

 

「な、なんだと!?」

 

 カミュが支払う素振りを見せた事で、厭らしい笑みを浮かべた男は、その手を前に突出し、料金を口にする。しかし、その料金の額を聞いた一行は、驚きによって目を見開いた。

 皮袋へ手を掛けていたカミュでさえ、その額に驚き、手を止めてしまう。サラに至っては、言葉にならない声を発して、口を開閉させていた。

 メルエを抜いた三人の中で、一番冷静に物事を把握したのは、リーシャであったのかもしれない。驚きから立ち直った彼女は、怒りを隠そうともせず、カミュを押し退けて前へと躍り出た。

 筋肉質ではないが、鍛え抜かれた身体を持ち、背中に大きな斧を縛り付ける女性が迫って来た事で、男は厭らしい笑みを即座に消し、数歩後ろへと下がって行く。それでも、気丈にリーシャから視線を外さないのは、彼の『商人』としての意地なのかもしれない。

 

「な、なんですか!? この劇場に入った以上、正規の料金を払って下さい!」

 

「正規の料金だと!? この場所はトルドが造った劇場ではないのか!? お前のいう正規の料金はトルドが定めた料金なのか!?」

 

 入場しただけで、飲み物も飲まずに立ち去った者に対する正規の料金が50000ゴールドであれば、あの場所に既にいた者達は一体いくら支払う事になるのかさえ分からない。

 このパーティーの持つ装備品の中でも一番高価な物である<ドラゴンキラー>でさえ、通常の販売価格は15000ゴールであるのだ。それ以上に高い料金の劇場など、どれ程の価値があるというのだろうか。それがリーシャには解らなかった。

 故に彼女は、この場所を造ったトルドが料金を定める訳はなく、この男が勝手に定め、自分の懐へ入れているのだと考えたのだ。

 そして、そんなリーシャの予測は、概ね合っていた。

 

「ト、トルドさんのお知り合いの方でしたか……し、失礼致しました。どうぞお通り下さい」

 

 リーシャの口から出た人物の名前を聞いた途端、男の表情から完全に余裕が消え失せたのだ。即座に身体を退け、カミュ達一行が通れるように道の端へと寄り、そして深々と頭を下げる。

 男のその姿を見たリーシャは、自分の考え通り、トルドには無断で行っているのだと理解し、満足そうに出口へと向かって歩き出す。だが、サラは視線を合わせないように深々と頭を下げる男の姿を暫しの間見つめ、何かを考えるように眉を顰めていた。

 考え込むサラの横を通り抜けるカミュの表情はとても冷たく、そして何の感情も見えない程に無表情であり、それがリーシャとサラとは異なった考えを持っている事を示していた。

 

「カミュ、あの老人は、ディアンさんではないか?」

 

 カミュ達が出て来るのを待っていたリーシャは、劇場から出たカミュのマントの中から顔を出したメルエに微笑みを向け、町の中央を指差した。その先には、顔に刻まれた深い皺を歪めながら、満足そうに街の隅々まで見回している老人の姿がある。笑みを浮かべながら立ち並ぶ建物の眺め、通り行く人々の姿に顔を綻ばせると思えば、急に物思いにふけるように眉間に皺を寄せている。

 喜ぶように微笑んでいる老人の姿は、ここまでの経緯を知っているリーシャやサラにとってみれば、極当然の物ではあると思うが、その後の表情が理解出来ないため、少し首を傾げるのだった。

 

「おお……ここ町……なった。感謝………でも……トルド……評判悪い……」

 

「トルドさんの評判?」

 

 近づいて来たカミュ達に気が付いた老人は、輝くような笑みを浮かべて振り返るが、その笑顔は瞬時に曇って行く。この老人自体も、この場所がここまでの大きさになるとは想像していなかったのかもしれない。予想外の発展に目を輝かせてはいるが、急速な発展の裏で蠢く噂は、彼の耳にも逐一入って来ているのだろう。

 急速に発展する場所を指揮する者は、それなりの地位のある者であったとしても、様々な負の想いを受ける事になる。それは、『嫉妬』であったり、『不満』であったり、『恐怖』であったりと数多いが、それが指揮する者の評判となって町で噂されているという事実が問題であった。

 

「……トルド……みんな…働かせ過ぎる……」

 

 ここまでの急速な発展は、トルド一人の力では有り得ない。

 数多くの人間が移住し、その者達が自身の住む家や活動拠点を造り、そして商いを行う者や農業を行う者が増えて行く事で、町が活気に満ちて行く。

 町の縄張りと言うか、この場所に何を建て、この場所に何を造るかという事は、町の発案者である老人と共にトルドが考案して来たのだろうが、只の集落から町としての形態へ変化させて行ったのは、この場所で生きる事を決めた数多くの者達である事に間違いはない。

 

「トルドさんが、この町の皆さんに命令しているのですか?」

 

 サラの胸には言いようのない大きな不安が募っていた。

 それは、この場所へ来るまでの時間で徐々に大きくなって来た物であり、船上で投げかけられたカミュの言葉が起因となっている。

 トルドという、彼らが全幅の信頼を寄せている人物が変わってしまったのではないという想いが彼女の胸に湧いて来たのは、直近で訪れた場所がサマンオサと呼ばれる軍事大国であった事も理由の一つであろう。

 『人』が変わったような言動、行動をするという事には、それなりの理由が存在する。カミュやサラの印象が大きく変わったとはいえ、彼等の根本が変わった訳ではない。

 相変わらずカミュは無口であるし、自分の考えや想いを明確に口をする事は少ない。それでも彼の内面が大きく変わった事を知っているのは、リーシャやサラ、そしてメルエといった数少ない者達だけである。それは、サラに関しても同様であろう。

 多くの者達が、その変化を感じ取り、その変化が良い物と感じないとするならば、あのサマンオサの悪夢が蘇ってしまったのだ。

 

「いずれにせよ、一度トルドに会うのだろう?」

 

「ああ」

 

 サラの質問に対し、静かに首を横へと振った老人の姿を見たリーシャは、今後の行動をリーダーである青年に問いかける。それに対してしっかりと頷きを返したカミュは、自分の足元で不安そうに眉を下げるメルエの頭を撫でた後、町の奥に見える一際大きな家屋へと視線を移した。

 誰が見ても、この町で一番大きな家屋は、先程見た劇場とまでは言わずとも、豪邸と言っても過言ではない様相をしている。

 権力の象徴としてなのか、それとも驕りの表れなのかは解らない。だが、その建物の外観を見る限り、見る者に良い感情を抱かせない事だけは確かであった。

 

 

 

「ここは、トルド様の館である。用のない者は早急に立ち去れ」

 

 館の前まで辿り着いた一行の前に屈強な大男が立ち塞がる。まるで城へと続く城門を守るかのように立つ大男は、カミュ達へ威圧感のある瞳を向けていた。

 その姿にメルエはカミュのマントの中へ逃げ込んでしまうが、その他の三人が只の人間に怯える筈もなく、悠然と前へと足を踏み出す。忠告をしたにも拘らず迫って来るカミュ達に対し、逆に大男が怯みを見せた。

 

「私はリーシャという。中にトルドがいるのならば、取り次いでくれ」

 

「なっ!? トルドさんの知り合いなのか? ちょっと待っていてくれ」

 

 この館の門で待機する者は、国家に属する者ではない。ましてや、リーシャにとっては友にも近い者の館の前にいる人間である。故に、国家の門番の時には一言も口を開く事がない彼女ではあったが、今回は先頭に立って門番と相対した。

 本来、身分の違いなどで態度や言動を変化させる事はないリーシャではあるが、先程の劇場での一件や老人の話を聞き、胸の中で抑えきれない物もあったのだろう。それに加え、彼女の生まれが貴族である事も影響しているのかもしれない。

 

「余り感情的になるな。この町に関しては、俺達に何も言う資格はない」

 

「……カミュ様」

 

 リーシャの迫力に押された門番のような大男は、踵を返して館内へと入って行った。

 室内へ男が消えたと同時に、カミュは大きな溜息を吐き出し、前に立つリーシャへ鋭い視線を送る。視線とは裏腹に、その口調に咎めるような雰囲気はなかった。

  カミュ自体も辟易した部分もあるのだろうし、この変わり果てた状況に対し、何か思うところもあったのだろう。悲しげに顔を伏せるサラや、マントから出て来ないメルエを気遣うように、軽くリーシャを注意しただけであったのだ。

 

「よく来てくれた!」

 

 暫しの時間が流れた後、奥から懐かしい声が響いて来る。城や屋敷であれば、通常はその場所の主が居る場所へ案内する者がカミュ達のような来訪者を迎えに来るのであるが、ここでは主本人のトルドが迎えに出て来た。

 懐かしい声が聞こえた事によって、ようやくメルエがマントから顔を出す。満面の笑みを浮かべて掛けて来るトルドの顔を見て、幼い少女も花咲くような笑みを浮かべた。

 

 トルドに案内されて館の中に入った一行は、その内装にも驚く事となる。

 一国の城内とまでは行かないが、それでも一個人の館としては豪華過ぎる程の内装。高価そうな壺や絵画、煌びやかな燭台が置かれた廊下には、赤い絨毯が敷かれており、その絨毯に施された刺繍はとても凝った物であった。

 それらに反するように、トルド自身が身に着けている物は以前に出会った頃と変わる事はなく、粗末ではないが豪華でもないという物であり、館の姿との差異が大きい。

 館の内装に驚きを示すリーシャや、廊下にある高価そうな壺に手を伸ばすメルエを必死で止めるサラとは別に、カミュだけは真っ直ぐトルドの背中へ視線を送り続けていた。

 

「ポルトガへ戻っていたのかい?」

 

「トルド、私達の事よりも先に聞きたい事がある」

 

 館の中にある一室へ入った一行は、勧められるがままに席に着き、出された飲み物に手を付ける。飲み物を喉に通し、一息吐いたトルドがカミュ達の現状を訪ねようと口を開いたが、それを遮るようにリーシャが間に入った。

 リーシャのような良くも悪くも真っ直ぐな人間にとって、今のこの町の現状や、この館の姿などは納得の行く物ではないのだろう。その証拠に、リーシャの瞳は問い詰めるような厳しさを有しており、虚言を言える雰囲気でもなければ、カミュやサラが割り込む事の出来る空気でもない。

 トルドも何かを感じたのだろう。黙って頷きを返し、リーシャの言葉を待つ事となった。

 

「まず、あの劇場は何だ? トルドが仕切っている場所なのか?」

 

「いや、あれは建てた後に、ここで商売を始めたいという人間に譲ったが……何かあったのかい?」

 

 こうなってしまったリーシャに、遠回しな言い回しを期待する事自体が無茶であろう。直接的な言葉に目を丸くしたトルドは、その言葉の中に何が込められているのかが理解出来ず、傍で成り行きを見ていたカミュへと問いかけた。

 あの場所で『自分達には何も言う資格はない』と忠告したにも拘らず、この場で真っ先に問いかけるリーシャに対して溜息を吐き出したカミュは、視線を隣に立つサラへと移して行く。カミュの視線の意味を理解したサラは、あの劇場で遭遇した出来事に関して説明を始めた。

 説明が進む内に、先程までの困惑顔から厳しい表情へと移ったトルドではあるが、最後まで聞き終わった時、大きく息を吐き出し、表情を緩めるのだった。

 

「それは、申し訳ない事をした。今度注意をしておくよ」

 

「むっ……そうか。だが、あのような事を繰り返していれば、この町を訪れた人間が去って行ってしまうぞ」

 

 厳しく歪んでいたトルドは、リーシャが話す内容を聞き、その表情を改める。だが、それはその言葉を受け入れる物ではなく、何処か表面上の断り文句のように見えた。

 リーシャはそんなトルドの変化に気付く事はなく、サラもメルエも同様にトルドを信じきっている。残るカミュだけが、哀しそうに瞳を閉じた後、会話を打ち切るように前へと出て行った。老人から告げられた事を確認する前に、カミュが出て来た事を不思議に思ったリーシャであったが、彼が出て来た以上、この話題を続ける事が不可能である事を悟り、おとなしく後ろへと下がって行く。

 

「この<ドラゴンキラー>という武器を、通常の両刃剣のような形に作り替える事は可能か?」

 

「これは特殊な物だな……。ある程度の時間を貰う事にはなるが、何とかやってみるよ」

 

 二人の会話を聞き、サラとリーシャは、カミュが何故<ドラゴンキラー>を購入し、何故この場所を訪れたのかをようやく理解した。

 あの武器をそのまま使う気はなかったのだろう。ただ、龍種の鱗さえも斬り裂く程の刃を加工する事など本当に可能なのかどうかが、カミュでさえ確信を持てなかったのだ。

 この世界の剣の大半は、型に溶かした鉄や銅を流した物が主流となっている。それを更に鍛える事によって、より強力な武器にするという方法を取り、手間と時間を掛ける程にその価格も上昇するという仕組みになっていた。

 故にこそ、武器の加工などが出来る人間は、この世界でも限られているのだ。

 

「加工するにしても、今日明日に出来る物ではないからな……アンタ達の旅の途中で、また寄ってみてくれ。その頃には、この場所も本当の意味での『町』になっている筈だから」

 

 トルドの浮かべる笑顔は、メルエの顔にも花咲くような笑みを浮かべさせ、先程まで漂っていた不穏な空気をも吹き飛ばして行く。

 陽が陰り始めている事から、今日はこの場所で宿を取る事となり、リーシャを先頭にトルドの館を出て行った。最後まで手を振り続けるメルエが出て行った後、カミュだけがトルドの横で足を止める。

 

「このままでは……」

 

「解っているさ。だが、この場所が『町』となる為には必要な事だからな」

 

 カミュの口から出た言葉は、トルドによって遮られた。その全てを言わせないかのように、トルドは顔を見ずに言葉を紡ぐ。その顔には、確かな『決意』と『覚悟』が滲んでいた。

 トルドなりに、今この場所に渦巻く雰囲気を理解しているのだろう。そして、それがリーシャの言葉から確信に変わって尚、彼の中で譲る事の出来ない物があるのだ。

 それは、彼が信じ続けている者達によって導かれた場所を『町』にするという使命感なのか、それとも他にある想いなのかは解らない。何れにしても、トルドという『商人』の中にある想いは、例え彼が信じ続けるカミュ達一行であっても立ち入る事が出来ない物であった。

 

「……この場所に関しては、アンタに任せている。俺達に何かを言う資格はないが……無理だけはしないでくれ」

 

「ああ、ありがとう。自分なりに精一杯やってみるよ。しかし……アンタも数年前に比べると、随分変わったな」

 

 すれ違いざまに告げられたカミュの言葉に、トルドは目を見開いた。そして、出口へと歩いて行く青年の背中を見つめながら、先程までも見せなかった静かな微笑みを浮かべる。

 最後に加えられたトルドの言葉に足を止めたカミュであったが、何も返答する事無く、再び出口へと歩き出した。

 閉じられた扉を見つめながら微笑み続けたトルドの表情が、徐々に変化して行く。それはメルエへ向けていた温かく優しい物ではなく、何かを決心した『男』の顔。

 世界で最高位に立つ程の強さを持つ『父』の顔とは別の、世の中で戦い続ける『男』の強さを持つ顔である。どのような障害があろうと、どのような苦難があろうと、自身の信じた道を歩む強さと決意を持つ者の顔であった。

 

 

 

「カミュ、先程は何故止めた? この状況をトルドに改善して貰わなくては、この場所が『町』になる為の障害になってしまうぞ?」

 

「何度も言うが、この場所に関して俺達に口を挟む資格はない」

 

「し、しかし、カミュ様」

 

 夕陽によって真っ赤に染まり始めた集落の中で、リーシャ達三人はカミュを待っていた。

 先程は中途半端に終わってしまった会話を蒸し返すように口を開いたリーシャではあったが、その口調にカミュを責めるような強さはない。彼女自身、この青年が起こす行動全てを否定するような昔のままではないのだ。

 彼と共に歩み、彼の本当の心を知り、その心の広さと優しさを知り、彼を信じ始めている。『何か訳があるのだろう』という想いがあり、自分自身がそれらについて考える事に適していない事を知る彼女だからこそ、この場でも疑問を口にするだけであったのである。

 返って来たカミュの言葉が説明不足の部分が多い事は否めず、今度はサラが口を開く。

 問い詰めるようにカミュへ接近するサラとは異なり、何かを感じたのだろうリーシャは口を閉ざし、真剣な瞳でカミュを見つめていた。

 

「今はトルドを信じろ」

 

 訝しげにカミュを見つめていたサラだけではなく、その場にいる全員が声を発した青年を顔を見つめてしまう。それは、青年の顔に穴が開いてしまうのではないかと思う程の凝視であり、リーシャの瞳も、サラの瞳も、幼いメルエの瞳でさえも大きく見開かれていたのだった。

 『勇者』と呼ばれ、『魔王バラモス』という『人』の力では対抗さえも出来ない存在の討伐を命じられた青年は、この四年近くの旅の中で、メルエという彼が連れて行くと決めた少女の名前しか口にした事はない。四年近くも共に旅をして来たリーシャやサラでさえも、この青年から名前を呼ばれた事は今まで一度たりともないのだ。

 

「…………カミュ……トルド……すき…………?」

 

「……ああ、そうだな」

 

 メルエの口にする『好き』という内容は、世間一般の物とは多少の異なりがある。彼女の場合、他人に対しての評価の段階が『好き』か『嫌い』しかないのだ。

 そして、そんなメルエの問いかけに対し、肯定を示したカミュを見たメルエは満面の笑みを浮かべ、それ以外の二人は口を開け放ったまま、放心したように立ち尽くしてしまう。

 彼という個人が変わったという事は理解していても、その変化の度合いは、彼女達二人の認識を遥かに超えていたのだ。

 メルエは花咲くような笑みを浮かべてカミュの手を取り、宿屋への道程を共に歩き出す。放心状態から覚めたサラもまた、柔らかな笑みを浮かべてその後ろを歩き出した。

 唯一人、最後まで放心していた女性戦士だけは、何故か不満あり気に表情を歪め、肩を怒らせて『町』と成り行く道を歩くのであった。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

大変お待たせ致しました。
出来れば、今月中にもう一話と考えています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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~幕間~【エルフの隠れ里】

 

 

 

 『トルドバーグ』の朝は早い。

 この場所で生きる者達は、アッサラームで生きる者とは異なる夢を描く者達が多いからだ。

 アッサラームという町は若者が多く、そのほとんどが未来への希望と、一獲千金のような夢を描いて移住して来る町である。それに対し、この開拓地に来る者は、ある程度の年齢を重ねた者や、家族を持つ者達が多いのだ。

 『魔王バラモス』の台頭以後、この世界で生きる『人』という種族は、滅びた訳ではないが衰退の一途を辿っている。

 全盛期に比べれば、種族の数も半数近くになっているのかもしれない。毎日のように新しい命が生まれはしているのだろうが、それ以上に『人』が死んで行く。魔物に殺される者、魔物に食われる者、国家の衰退によって仕事を無くし路頭に迷った果てに死んで行く者など様々ではあるが、それらの全てが『人』から希望や、生きる活力を奪っていた。

 若者であれば、それらを全て逆境と思い、『自分ならばそれを跳ね返すだけの力を持っている』という根拠のない強さのまま突き進む事も可能であろう。だが、家族を持ち、守るべき者を持った者は、そのような冒険心は萎んで行く物だ。

 自らが生きる集落が衰退すれば、そこで物が売れなくなる。買う者が少なくなるのだから、それを生産し、売る者の収益も当然減って行く。野菜や果物、それに水を食しているだけで『人』が生きて行けるのならば苦労はないのだが、『人』には様々な欲があり、趣向がある。

 今まで生きて行た場所から離れ、新天地でもう一度やり直すという考えを持つのに、この『トルドバーグ』のようなゼロから作り出された集落は適した場所であったのだ。

 仕事など数多くあり、同じ夢を持った者達が集う事によって、現在の世界の中でも最高位に立つ程の活気に満ちている。

 そんな、『町』への道を直走る集落にとって、朝というのは最も重要な時間帯であった。

 

「……うぅぅん……」

 

 宿屋の一室でベッドに入っていたサラは、自分の顔に差し込む陽光の明るさで目を覚ます。

 カーテンによって遮られていた陽光であるが、その隙間から差し込む光は、一日の始まりを示すように力強く、夢も見る事無く熟睡していた『賢者』を覚醒させたのだった。

 身体を起こしたサラは、ゆっくりと部屋を見渡した後、その違和感に気が付く。

 まだ、陽が昇ったばかりなのだろう。隣のベッドでは、いつも早起きであるリーシャが未だに寝息を立てている。だが、その隣で眠っている筈の小さな膨らみが見えない。いつも最も遅くまで眠っている少女の姿がなかったのだ。

 

「メルエ?」

 

 自分の上に掛っていた毛布を取り、入り口の扉へ視線を移すが、その扉には内側から鍵が掛けられたままである。それは、この部屋から誰も出て行っていない事を示しており、メルエ自体がこの部屋に残っている事も示していた。

 窓も閉じられたままであるが、部屋の周囲を見回してはみるが、幼い少女の姿を見つける事は出来ない。それ程大きな部屋ではない為、メルエの姿が見つからないという方が可笑しいのだ。

 不思議に思ったサラは、リーシャの隣で眠っている内に奥へ潜り込んでしまったのではないかと考え、リーシャのベッドに近づいて行く。

 サラが向かう場所で眠っている女性は歴戦の戦士である。そんなサラの小さな行動だけで、眠りから覚醒していた。

 

「サラ、どうした?」

 

「あっ、リーシャさん、おはようございます。メルエは毛布の中にいるのですか?」

 

 ゆっくりと身体を起こしたリーシャに朝の挨拶を済ませたサラであったが、自分が続けた疑問をリーシャの身体から離れた毛布が否定している事を悟り、再び周囲へと視線を動かした。

 ベッドが二つしかない部屋であり、その他の家具といえば、壁側に取り付けられた机程度しかない。この小さな部屋で、如何に幼い少女とはいえ、メルエの姿を見失うという事は異常以外の何物でもないだろう。

 サラの言葉に事の重大さを理解したリーシャも慌てて毛布を剥ぎ取り、身体を完全にベッドから起き上がらせた。

 

「…………サラ…………」

 

「えっ? メルエ、いたのですか……!!」

 

 不意に後方から掛った呟きを聞き、サラはその小さな胸を撫で下ろした。その声は、彼女が知るような呟くような拙い言葉であり、いつでも自分の後ろに控えている幼い少女の声である事を悟ったのだ。

 だが、安堵の溜息と共に叱る準備をしていたサラは、ゆっくりと振り返った先に佇んでいた者の姿を見て、大きく息を飲む。そのまま驚愕の為に目を見開き、飲み込んだ息を勢い良く吐き出したのだった。

 

「きゃぁぁぁぁ!!」

 

「サラ、武器を持て!」

 

 劈くようなサラの悲鳴が部屋の中に響き渡り、同じように驚いていたリーシャは、即座にベッドの傍に立てかけている<バトルアックス>に手を掛ける。

 だが、飛び退くようにベッドから落ちてしまったサラが、強かに打った尻を摩りながら武器を探す頃には、先程までいた筈の者が消え失せていたのだった。

 

「サラ、あの魔物は何処へ行った!?」

 

「えっ、えっ?」

 

 先程サラが振り返った先には、恐ろしい程に鋭い牙を剥き出しにした魔物が立っていたのだ。その魔物は、今までの旅路で見た事のない姿をしていた。

 振り返った直後にいる筈のない魔物の姿を見た事と、今までに見た事のないその姿に、サラは驚きの声を上げてしまったのだ。

 だが、その魔物もリーシャとサラが少し目を離した隙に、煙のように消え去ってしまった。再び静けさを取り戻した部屋には、悪しき気配など微塵もない。ゆっくりと見渡すように部屋の隅々まで見ていたサラは、壁側に置かれた机付近で跳ねる青い影を見つけた。

 

「ス、スライム!?」

 

「なに!?」

 

 先程の異形の魔物といい、今自分の方へ飛び跳ねて来るスライムといい、この小さな部屋に何故これ程の魔物が入り込んだのか理解が追い付かないサラは、困惑を極める。スライムは真っ直ぐにサラを目指して飛び跳ねて来るが、何故かそのスライムに邪気は感じられず、恐怖も感じない。既に、スライムのような魔物は脅威ではない事を差し引いても、その感覚はとても奇妙な物であった。

 それはリーシャも同様であったようで、手にした<バトルアックス>を振り上げる事はなく、何処か楽しそうに飛び跳ねるスライムを見つめている。

 

「…………ふふ…………」

 

 サラの足元まで来たスライムが、突如小さな笑い声を上げる。

 それは、リーシャやサラが何時も聞いているような小さな笑い声。

 この世の全てに希望と夢を感じ取り、そのどれもが輝いて見えているのではないかと思う程に、咲き誇る笑みを浮かべる少女に酷似した笑い声であった。

 

「メ、メルエなのですか?」

 

「なんだと!?」

 

 奇妙な感覚に襲われたサラは、自分の足元で纏わり付くように飛び跳ねるスライムに向かって、常識では考えられないような問いかけをしてしまう。どれ程に常識外れの疑問なのかは、サラの傍で素っ頓狂な声を上げているリーシャの姿が物語っているだろう。

 だが、サラの中では、何か確信に似た物が存在していたのも事実であり、それはスライムである筈の物と一緒に奇妙な形をした杖までもが飛び跳ねていたからである。

 

「…………ん…………」

 

 メルエの頷きのような言葉が返って来たと同時に、何かが弾けるような奇妙な音が部屋の中に響き、スライムの姿が消え失せる。代わりにサラの前に現れたのは、可愛らしい笑みを浮かべた幼い少女の姿。

 悪戯が成功した時の子供そのものの笑顔を作った彼女の手には、奇妙な形をした杖がしっかりと握り込まれている。サラの記憶が正しければ、それはサマンオサ国王となったアンデルから下賜された国宝。使用者の姿を変えてしまう程の神秘を生み出す神代の宝物であった。

 

「メルエ、それを勝手に持ち出して! 駄目ではないですか!」

 

「…………むぅ…………」

 

 国宝だろうが、王から下賜された物であろうが、その物の実質的な価値にしか興味のないカミュは、この杖もまた鏡と同様に、使用可能なサラへ預けたままになっていたのだ。

 幼いメルエは、杖の効力などを詳しく知りはしなかったであろう。だが、朝早くに目を覚ましたメルエは、ベッドの傍に立て掛けられている杖を見つけ、それを手に取ったのだ。

 杖を振る度に自分の姿が変わるという事に驚き、不安になったのだろうが、暫くすれば元の姿に戻る事が確認出来た彼女は、何度かそれを繰り返す事によって、楽しみへと変えて行く。そして、その楽しみは、他者を驚かせようという悪戯心へと摩り替って行った事を誰も責める事は出来ないのかもしれない。

 

「そうだぞ、メルエ。何に変化しても良いが、魔物は駄目だ。魔物の姿になってしまえば、身の危険を感じた『人』が攻撃して来てしまうぞ」

 

「リーシャさん、そういう事ではありませんよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 何処か観点の異なる注意を促すリーシャに、サラは表情を崩してしまった。

 メルエが身内である自分達へ悪戯心を表すという事は、決して悪い事だけではない。それ程に自分達を信頼している証拠でもあり、そのままの姿で外へ出なかった事は、メルエ自体がこの行為が重い事である事を自覚している証拠でもあった。

 だからこそ、自分の行いを咎めるサラに対してむくれ、『魔物であれば攻撃する』というリーシャの考えに頬を膨らませているのだ。

 

「何を騒いでいる」

 

「…………カミュ…………」

 

 小さな部屋で、朝早くからあれ程の悲鳴を上げ、ドタバタと部屋を駆け回れば、隣で眠っていたカミュが起きて来るのは当然の事である。扉の向こうで中の様子を窺うように声を掛けて来たカミュの声を聞き、先程まで頬を膨らませていたメルエは笑みを浮かべて扉へと駆け寄って行く。

 鍵に手が届かないメルエの代わりに扉を開けようとするリーシャは、既に寝巻から着替え終えているが、先程までメルエとやり取りを繰り返して来たサラは起きたままの姿であり、寝癖のついた黒みがかった青色の髪はあちこちへ跳ねていた。

 

「あっ、リーシャさん、待って下さいよ!」

 

 開けようとするリーシャの手を止めたサラは、大急ぎで着替え始めるが、カミュの侵入を妨害した彼女に対して、幼い少女は更に頬を膨らませる事になる。

 サラが着替え終わった事を確認し、リーシャが扉を開ける頃になっても、メルエの手にはサマンオサの国宝である<変化の杖>が握られていた。

 部屋に入って来たカミュに喜び勇んで近づこうとするメルエの首根っこを摑まえたリーシャは、少女をベッドに座らせ、もう一度屈み込んで彼女と目を合わせる。リーシャの真剣な瞳を感じ取ったメルエは、一度首を傾げるが、その瞳を恐れるように顔を伏せた。

 

「メルエ、先程の件だが……サラはメルエの身を案じているんだ。その杖はとても強い力を持っている。私達の前であれば構わない。だが、メルエの事を知らない人間がそれを目にすれば、皆メルエを恐れて近づこうとしなくなるかもしれない」

 

「…………むぅ…………」

 

 諭すように話すリーシャの言葉を聞いても、メルエは少し頬を膨らませる。幼い彼女にとって、この数年間は色々な事を学ぶ時間でもあった。

 それは、喜びや悲しみ、怒りや苦しみ、夢や希望に世界やそこに生きる多くの者達。そんな当たり前の事に加え、嫉妬や楽しみ、不満や使命感なども彼女は学んで来たのだ。

 <変化の杖>という特殊な杖の効果は、<消え去り草>の特殊効果を『楽しい』と感じたメルエにとって、とても不思議でとても魅力的な物に映ったのだろう。新しい玩具を与えられた子供のように、極当然の感情ではあるのだが、それが余りにも強力な物であるだけにリーシャは窘めている。だが、それは色々な感情を学び始めているメルエにとっては不満に感じる事なのかもしれない。

 

「……何があった?」

 

「あ、はい」

 

 経緯の解らないカミュに対し、サラは朝に起きた出来事を全て伝えた。

 話を聞いている間、カミュの表情は一切変化する事はなく、その事自体に興味がないかのようである。それでも、メルエが魔物の姿に変わり、スライムの姿になったという部分でだけは、視線を<変化の杖>へと移し、何かを考えるように瞳を閉じた。

 ベッドではリーシャの話に納得がいっていない様子を見せながらも首を縦に振ったメルエが、その小さな頭を撫でられている所であり、サラはそんな二人の様子を優しい瞳で見つめる。

 

「メルエ、魔物の姿にしかなれなかったのか?」

 

「カミュ様?」

 

「…………なれる…………」

 

 そんな中、不意に告げられた言葉にサラは首を傾げ、先程まで神妙な顔で俯いていたメルエは、輝くような笑みを浮かべ、<変化の杖>を持ってカミュの足元へと駆け寄って行く。リーシャはそんな少女の行動に軽い溜息を吐きながら小さな笑みを溢し、サラもそんな二人を微笑ましく見つめた。

 お叱りの時間は終わった。それをメルエが正確に把握したかは定かではなく、むしろ納得をしていなかったとしても、『無断で行えば叱られる』という認識が頭の片隅にでも残っていれば、リーシャやサラの目論見は達成されたと考えても良いだろう。

 子供を産んだ事もなく、子供を育てた事もない二人ではあったが、数は少なくとも深い愛情を受けて育って来た二人だからこそ、その辺りの線引きが出来ていたのかもしれない。

 

「魔物以外では何になれるのだ?」

 

「リーシャさんにもなれるのではないですか?」

 

 <変化の杖>を手に持つメルエを囲むように集まった三人は、誇らしげに杖を掲げる少女に様々な問いかけを行い、その事を笑い合う。そんな和やかな雰囲気の中、幼い少女は<変化の杖>へ念を送り始めた。

 眩く輝く光が小さな身体を包み込み、奇妙な音を立てたかと思うと、先程までそこに立っていたメルエの姿が消え失せる。代わりに現れたのは、メルエと同じような背格好をした少女であった。

 

「……エルフか?」

 

「……子供のエルフみたいですね」

 

 一見すれば、何処にでもいる人間の子供のように見えるが、メルエと同じように切り揃えられた短い髪から尖った耳が飛び出している。瞳も何処となく『人』の物とは異なりを見せ、その形状や色が人外の物である事を示していた。

 『人』自体が『エルフ』に似せて作られたのか、『エルフ』が『人』の身体へ近づいたのかは解らない。だが、その少女の姿は、間違いなく『エルフ』の物であったのだ。

 カミュが口にした疑問にサラが肯定で答え、自分の姿が思い描いていた物に違いない事で、目の前にいるエルフの少女は、眩いばかりの笑みを溢す。皆に姿を見せるようにその場で回り始めた少女は、先程まで叱っていた筈のリーシャの腰に抱き着いた。

 

「ふふ。メルエ、凄いな」

 

「…………ん…………」

 

 抱き着いて来たエルフの少女を抱き上げたリーシャは、メルエの面影など背丈ぐらいしかない顔を覗き込んで笑みを浮かべる。顔を突き合わせるように微笑み合う姿は、とても『人』と『エルフ』の姿には見えず、それを見ていたサラは、自分の目指す道の先にある光景を夢見るのであった。

 メルエと額を擦り合わせるリーシャの姿は、本当に親子や姉妹のようであり、この先の時代に、『人』や『エルフ』の垣根を越え、このような光景が世界のあちこちで見られたとしたら、それはサラの目指す世界に少しでも近づいた事を示す指標とさえなるだろう。

 

「カミュ、このようにエルフの姿になれば、あの隠れ里で買い物なども出来るのではないか?」

 

「えっ?」

 

 しかし、そんな理想の先を夢見ていたサラは、何気なく口にしたリーシャの言葉で現実に引き戻された。

 リーシャの表情を見る限り、それは只の冗談である事が解る。それはカミュも理解しているのだろう。溜息を軽く吐き出しながら、リーシャへと視線を送り、それを諌めるような言葉を口にした。

 

「アンタは、あのエルフ達を騙してまで、あの場所で買いたい物でもあるのか?」

 

 『騙す』という言葉は、リーシャとサラの胸を深く抉り込む。サマンオサの惨状を見て来た彼女達だからこそ、カミュのその言葉の重みを理解する事が出来たのだろう。

 姿を偽る事は、その者を見る相手の心をも欺く事になる。それは、結局の所、自分自身さえも偽る事になり、多くの者達を傷つける事になってしまうのだ。それを、あのサマンオサの新国王から彼女達は学んだばかりである。故に、先程までの陽気な雰囲気は一気に消え失せ、何か言いようのない不快な空気が部屋を包み込んで行った。

 

「…………メルエ……いく…………」

 

 しかし、そんな重苦しい空気も、エルフの少女の姿を模した者に打ち破られる事になる。

 リーシャが何気なく口にした言葉ではあったが、メルエの中でその場所に行く理由が出来てしまったのだろう。カミュへと送る視線は、エルフ特有の鋭い瞳の影響だけではなく、強い意志さえも有しているように感じる物であった。

 溜息を再び吐き出したカミュは、睨み付けるようにリーシャへ視線を送り、その視線を受けたリーシャは逃げるように顔を背ける。

 

「エルフの女王様のいる隠れ里に行っても、メルエの装備品などはありませんよ?」

 

「そうだな、先程のは冗談だ。あの場所に行っても、買い物などしないぞ?」

 

 自分の物を買って貰う事は、この旅の中に存在するメルエの楽しみの一つである。故に、サラやリーシャは、その場所に行っても何も購入するつもりがないという事を伝えるが、それを聞き取ったエルフの少女の姿をしたメルエは、大きく首を横へと振るのだった。

 それが示す事は、メルエがその場所に行く目的は、別の物であるという事。しかし、その目的はカミュ達には理解出来ない。首を横へ振り終わったメルエは、そのまま再びカミュへと視線を送った。

 

「…………メルエ……いく…………」

 

「……わかった」

 

 こうなってしまったメルエは、もはや誰の言う事も聞かない。それを三人は誰よりも理解していた。

 自分自身に非がない事であれば、メルエの頑固さはパーティーの中で最高位に位置する。アリアハン時代から『人』を信じて来なかったカミュも、宮廷内で爪弾きにされる程に硬い頭を持っていたリーシャも、教会が唱えるルビス教を盲信していたサラでさえ、この幼い少女の頑固さには敵わないのだ。

 『エルフを騙してまで買い物がしたい』という理由でここまで頑固な態度を取っている訳ではない事は、メルエの瞳を見れば理解出来る。故に、カミュは首を縦に振ったのだった。

 

「よし。ならば、朝食を取って、船に戻ろう」

 

「そうですね。一度ポルトガへ戻ってからルーラで移動しましょう」

 

 目的地はカミュが決める。これは、アリアハンを出立したあの日から何も変わる事のない事柄。だが、その目的地が決定した後は、全員がその目的に向かって全力で動く事もまた、アリアハン出立の日から変わる事のない物であるのだ。

 メルエを床へ下したリーシャは、その姿を元に戻す事をメルエに命じ、そのまま出立の支度を始める。カミュも一つ頷きを返した後、自分の部屋へと戻って行った。

 

 

 

 トルドの見送りを受けて『トルドバーグ』を出た一行は、変わり行く町をもう一度振り返り、それぞれの想いを胸に船への道を始める。

 船に戻る道の途中で、何人もの商人達とすれ違いながらも船へと戻った一行は、そのまま二日程の日数を要してポルトガの港へと入って行った。

 

「じゃあ、俺達は『トルドバーグ』で仕入れた品を売った後、またアンタ方が戻るのを待つ事にするよ」

 

「ああ、おそらく二、三日で戻ると思う」

 

 船を降りたカミュ達は、頭目との会話の後、ポルトガの城下町を出て行く。

 城下町へと続く門を抜けた一行は、そのまま暫く歩き、カミュの唱えるルーラによって、上空に浮かび上がった。

 上空へと浮かび上がった魔法力の塊は、方向を定めた後、北東の方角へと消えて行く。

 

 

 

 <エルフの隠れ里>と呼ばれる場所は、深い森の中にある。その森にはエルフの魔法による結界のような物が張られ、人々の侵入を拒み続けていた。

 故に、その場所へ直接ルーラで向かおうとしても無駄であり、一度近場の町や村から徒歩で向かわなければならないのだ。

 ルーラの魔法力が降り立った場所は、数年前まで村人全てが眠りに落ちていた場所であり、『人』という種族の大きな弱さと、小さな強さをカミュ達に教えた村であった。

 ノアニールと呼ばれるその村は、数年前に訪れた時よりも幾らか活気を取り戻しているようにも見える。ロマリア国家が数年間の税収を取り戻すかのように重い税を取り立てていたと考えられるその村は、眠りから覚めたばかりの村人達を混乱に陥れていた筈だが、今は、全ての村人達が笑みを浮かべながら日々の営みを行っているようにも見えたのだ。

 

「この村も随分変わったな」

 

「おそらく、税率が下がったのだろうな。一度課せられた重税が下がれば、例えそれが以前よりも割高な税だとしても、そこで生きる者達にとっては喜びとなる……あのロマリア王女らしい政策だ」

 

 村の入り口から中へ入ったリーシャは、その活気に驚くと同時に何処か感心してしまう。その言葉を聞いたカミュは、考えられる可能性を口にする事で、この状況の答えとした。

 サラは、為政者としての巧みな政策に対し、純粋に感心を示し、憤りや不満を感じる事もなく、村人達の笑顔を心から喜んだ。

 だが、カミュ達一行は、別段この村に用がある訳ではない。即座に村を出た彼等は、そのまま大陸を西へと歩み始めた。

 

「魔物達の姿さえも見えませんね」

 

「それだけ、サラやメルエも成長した証しだろう。二人の身体から溢れ出す魔法力が、この大陸にいる魔物達を怯えさせているのだ」

 

 西に向かって歩き出して数刻経ち、陽が西の大地へ沈む頃になっても、彼等は魔物と遭遇する事はなかった。

 魔物は夜が近づけば、その凶暴性を増して行く物である。だが、彼等の周囲には魔物の姿どころか、気配すら感じない。それは魔物自体が彼等を避けるように行動していると感じてしまう程であった。

 それは陽が完全に落ちてしまっても変わる事なく、魔物の気配がしない森の入口で、一行は火を熾し野営を行う事となる。

 

 翌朝、森の中へ入る前に<変化の杖>によって姿をエルフの物へと変えた一行は、森の結界の影響を然程受ける事無く、森の中心部へ向かって歩み続ける。

 その結界が表面の姿だけを認識しているとは思えないが、サマンオサ国が『精霊ルビス』から授かったと言われる程の神代の道具であるだけに、エルフの結界の影響も受け難いのかもしれない。

 確かに、サマンオサ国を混乱させた<ボストロール>という魔物の巨大な身体を人間の姿にしただけではなく、その異臭と言える程の体臭や、人間を喰らう事による生臭い息なども消してしまった杖である以上、結界を誤魔化す程度の事は可能なのかもしれない。

 

「こら、メルエ走るな!」

 

 見覚えのある木々のアーチを目にしたメルエは、幼いエルフの少女の姿のままそこへ向かって駆け出した。

 全員がエルフの姿となり、カミュ達三人に至っては声色も若干変わっているのであるが、それでも尚、『人』では遠く及ばない程の力を有する『エルフ』と呼ばれる種族が生活をしている場所に入る事を躊躇ってしまう。それは、生物として当然の、本能による恐れなのかもしれない。

 既に人類最高位に立ち、この世界の最大の脅威である『魔王バラモス』に挑もうとするリーシャやサラでさえ、やはりエルフの持つ未知なる強さに対して恐怖を持つのである。いや、人類最高位に立つ彼女達だからこそ、その恐ろしさを実感出来るのかもしれない。

 その証拠に、以前にここを訪れた際に感じていた戸惑いと、現在の躊躇いは異なる物であった。

 

「ここだけは、何も変わる事はないな」

 

「はい。これも、『人』とは異なる強さなのでしょうね」

 

 木々のアーチを潜り抜け、エルフ達が生活する空間へと出たリーシャは、数年前と寸分も違わないその姿に感嘆の声を上げてしまう。そして、サラはそれもまた、人間が持つ強さとは異なる強さの表れだと感じていた。

 変化を望み、今よりも良い暮らしをと願う『人』とは異なり、ここで暮らすエルフ達は今と同じ平穏を望む。そこに進化はなく、変化もないだろう。だが、『人』では感じる事の出来ない世界を、ここで暮らす者達は感じる事が出来るのかもしれない。

 全ての生き物達が生涯を全う出来る世の中という、到底実現不可能な世界を夢見るサラにとって、草花の中で笑みを溢すエルフ達は、何処か儚く、それでいて力強い、不思議な存在に映っていた。

 

「あら、いらっしゃい。こんな時期に新しい仲間に会えるなんて嬉しいわ。それにこんなに可愛いお子さんも……お二人の子供?」

 

「えっ?」

 

 隠れ里の光景に目を奪われていたサラ達は、横から不意に掛った声に驚きの表情を浮かべた。

 声がした方を見ると、人の良さそうな笑みを浮かべた妙齢のエルフが立っている。その視線は、カミュ達というよりも、リーシャの手を引いたメルエに注がれていた。

 エルフ族というのは、他種族の集合体である。実際に、リーシャやサラはこの場所にいるエルフ達と変わらぬ女性のエルフの姿をしているが、カミュに至っては何処か中性的な姿に変化している。

 以前、エルフの女王の話にあったが、もしかするとこのエルフ族が子孫を残す方法は、『人』とは少し異なりを見せるのかもしれない。その答えは、『賢者』となったサラであっても、導き出す事など出来はしなかった。

 

「この子にピッタリのローブがあるのよ。良かったら見て行ってくれない?」

 

「…………ん…………」

 

 そのエルフは、後ろに見える店舗を指差し、カミュ達を誘う。よくよく見れば、そのエルフは以前、道を聞いているのに『売る物はない』の一点張りで答えてくれなかったエルフであった。

 優しい笑顔を浮かべるエルフは、メルエに対し好意を向けている。それは営業的な物だけではないのだろう。純粋に新たな仲間の出現を喜び、これから先の未来を担う幼いエルフの誕生を喜んでいるのだ。だからこそ、メルエはその笑顔に無条件で頷きを返した。

 逆に、リーシャやサラは、このような良い心を持っているエルフを騙している事に罪悪感を感じてしまう。しかし、カミュがメルエに引かれて動いた事によって、その後をついて行く事しか選択肢がなかった。

 

「これは<天使のローブ>という物なの。これを着ていれば、理不尽な死を望むような死の呪文の効力も弾き返してしまうわ。幼いエルフが無事に成長するようにという願掛けでもあるの」

 

 店舗に入ったエルフは、店の奥から一つのローブを手に戻って来る。それは、僧侶や司祭が着るような物によく似た形式をしてはいるが、それよりも数段高価な物である事が良く解る。中に着込む物も一緒になっており、上から羽織る生地は、鮮やかな桃色をしていた。

 ジパングという島国で見た、春風に漂う<サクラ>の花弁のように鮮やかな桃色のローブは、朝陽が注ぐ光に輝き、優しく暖かな輝きを放っている。

 このエルフは、商品に対して誇張していたり、嘘を吐いていたりする事はないだろう。それは、本当に心から信じているという瞳と、幼いエルフの未来を願う想いが証明していた。

 <天使のローブ>という物は、幼い我が子の幸せを願い、同じ種族の幼子の成長を願う想いと共に、特殊な技法によって編み出された物なのだろう。エルフ族という集合体の種族だからこその願いは、身に着けた者を理不尽な死から遠ざける効力さえも持ち、不幸を寄せ付けない程の強さを持つのかもしれない。

 

「おいくらですか?」

 

「本当は3000ゴールドだけど、久しぶりに会った未来の希望のお祝いに、1500ゴールドで良いよ」

 

 人の良い笑顔を向けるエルフの表情を見たサラは、自分の顔が歪んで行くのを自覚してしまう。慌てて顔を伏せた彼女は、こんなに同種族の幸せと未来を願う者を騙している罪悪感を覚えると共に、今のエルフ族という種族の状況を悟り、静かに涙の滴を地面へと落とした。

 リーシャもサラと同様に、言いようのない想いに苛まれ、視線をエルフから外す事になる。その時、奥の棚に置かれている見覚えのある物に視線が止まった。

 

「サラ、あれは<祈りの指輪>ではないのか?」

 

 棚に置かれた物は、小さな指輪。

 イシス国の女王が、約束と共にメルエの指に嵌めた物であり、装備者の願いを『精霊ルビス』に届け、その者の魔法力を大幅に回復させる効力を持っている。

 カミュ達が<ヤマタノオロチ>と呼ばれる強敵と戦闘を行った際に、燃え盛るような火炎から前衛部隊を守り続けて来たメルエが魔法力の枯渇によって膝をついた時、その幼くも切実な願いを聞き届け、奇跡を齎した指輪であった。

 

「そうだよ。<祈りの指輪>を知っているのかい? あら、貴女も指に嵌めているのね。お母様の祈りなのかしら?」

 

「今後の事を考えると、サラも一つ持っていた方が良いのかもしれないな」

 

「ああ」

 

 メルエの前に屈み込んだエルフは、その小さな手に嵌められた指輪の存在に気が付き、柔らかな笑みを浮かべる。

 本来であれば、この<祈りの指輪>の語源もまた、幼い我が子の幸せを願う親の祈りから来ているのかもしれない。それが『人』の手に渡り、時代を追う毎に、その祈りは親の願いではなく、『精霊ルビス』への祈りという解釈へと変わって行ったのだろう。

 効力は同じでも、その想いは異なるのだ。

 そんな不思議な感覚を覚えたリーシャは、その必要性を説き、カミュへと視線を移す。そして、その効力を肌で感じているカミュもまた、静かに頷きを返した。

 

「ありがとう。この<祈りの指輪>も本来は2500ゴールドするけれど、<天使のローブ>と合わせて、3000ゴールドで良いよ」

 

 もしかすると、このエルフから見ると、サラとメルエは姉妹のように見えたのかもしれない。姉妹の幸せを願い、未来を願う想いを微笑ましく見つめ、そして優しく値引いたのだろう。

 メルエを奥へと連れて行き、着ている<アンの服>を脱がせると、その上から<天使のローブ>を着せて行く。その際に、<マジカルスカート>はそのまま残される事となった。

 

「この<みかわしの服>は、処分しても良いのかい?」

 

「…………だめ…………」

 

「申し訳ないが、それはこの娘の友の形見なのです。こちらで引き取らせて頂きます」

 

 メルエが脱いだ<アンの服>を畳んだエルフは、処分する物を入れる箱へそれを入れようとするが、それは新しい衣服に目を輝かせていた幼い少女によって遮られる。そして、それを補足するようにカミュが前に出ると、エルフは申し訳なさそうに顔を伏せた。

 少し前まで、『人』と『エルフ』の間では過酷な戦いが繰り広げられていたのだ。その戦いの中で数多くのエルフ達が命を落とし、その中には若い者や幼い者も含まれている。それは、今も尚、多くのエルフ達の心に傷となって残っていた。

 

「そうかい……それは無神経な事を言ってしまったね、ごめんよ」

 

「…………ん…………」

 

「こちらこそ、色々とお気遣い頂きありがとうございました。代金はこちらに置かせて頂きます」

 

 悲しそうに瞳を伏せ、涙を流すかのような悲壮感を漂わせるエルフに、メルエは花咲くような笑みを浮かべて頷きを返す。その笑顔は、エルフ達の心に残る傷さえも癒す程に優しく、暖かな物であった。

 このやり取りは、心を凍らせたまま成長を続けて来た青年でさえ、何か感じる物があったのだろう。涙を拭って笑顔を浮かべるエルフに向かって深々と頭を下げて礼を述べるその姿は、心からの感謝と、そして深い謝罪の意を表していた。

 

 メルエに向かって何時までも手を振るエルフに何度も頭を下げながら店から離れた後、一行は隠れ里の中でも一際大きな屋敷へと足を向ける。

 未だに<変化の杖>の効力は解ける事無く、一行の姿はエルフ族のままであり、里で生活する者達は皆、新たな仲間の来訪を喜ぶように声を掛けて来た。

 その全てがこの場所を訪れた事に対する罪悪感へと摩り替って行く。メルエの目的はカミュ達には解らない。だが、あれ程頑なにここへ来る事を望んだ以上、メルエにはどうしてもこの場所を訪れ、女王に会う理由があった事だけは理解出来た三人は、胸を蝕む罪悪感に苦しみながらも、里を歩くエルフ達に笑顔を返すのであった。

 

「お前達は何処から来たのだ? まだ同志が生き残っているなど、女王様から聞いてはいなかったが……」

 

「『人』に紛れて海を渡って参りました。この里の噂は聞いておりましたので」

 

 以前と同じように、館の門を守る側近のエルフは、突如現れた同族に戸惑い、喜びとは別に疑惑の視線を送る。この里に入り込める人間はいない筈なのだが、数年前に入って来た人間がいる事で、この側近も警戒感を持っていたのだろう。

 罪悪感に苛まれるリーシャとサラを退け、カミュが前に出て側近の質問に答える。それは、リーシャやサラにとっては罪悪感を増して行く程の嘘ではあったが、メルエの願いを叶える為には、致し方ない方法でもあった。

 現に、その側近は、彼等の身なりを見て、遠くから旅を続けて来たのだという事を察し、歓迎を示す笑顔へと変わっている。笑みを浮かべた側近を見ていたメルエの顔にも笑みが浮かび、それに気づいた側近はその場に屈み込んだ。

 

「おお! 幼子もいるのか! よく来た、よく来た。女王様は、この奥にいらっしゃる。中の者に取り次がせる故、しっかりとご挨拶をするのだぞ」

 

「…………ん…………」

 

 『人』には見せる事のない、優しい笑みを見せる側近を見ながら、サラは心苦しく顔を伏せてしまう。これ程の優しさと喜びを示してくれる者達を騙し続ける自分達の愚かさと罪を感じ、もはや相手の目を見る事さえも出来なかった。

 如何にメルエの望みを叶える為とはいえ、このエルフの隠れ里を訪れたのは、『人』の傲慢ではなかっただろうか。それ程に強い後悔の念を抱えながら、自分が宿屋で何気なく口にした言葉をリーシャは飲み込むしかなかった。

 

「こちらに女王様がおられます」

 

「ありがとうございました」

 

 案内の者に頭を下げたカミュは、そのまま一行を引き連れて以前に訪れた事のある謁見の間へと足を踏み入れた。

 人間の王族とは異なり、その謁見の間はエルフの女王の為だけに存在し、他の者は誰一人としていない。取次の者でさえ中に入る事もなく、尚且つ来訪者を告げる事もなく去って行く。以前も見た光景であったが、人間が造った全ての国家を見たサラは、『人』と『エルフ』の違いを見たような気がした。

 

「……そなた達、それがどれ程に我々エルフ族を侮辱する行為であるかを解っている筈です」

 

「はっ」

 

 しかし、そんな思考は即座に吹き飛んでしまう。玉座の前まで辿り着く前に、そこに座す女王によって、彼等の行動は遮られたのだ。

 鋭く細められた瞳は、彼女の怒りを明確に示しており、咎めるような口調からは嘲りさえも感じる。だが、リーシャやサラには、女王のその言葉の中に、若干の失望も含まれているように感じていた。

 このエルフの女王は、『人』の中でも異質な存在であるカミュ達を、他の人間達よりも信頼してくれていたのかもしれない。そんな一行が、エルフの姿を模して現れた事によって、侮辱された事への怒りとそのような愚行を起こす者達であったという失望が見えていた。

 

「姿を変えようと、私には解ります。我々エルフ族の誇りを侮辱する事は許しません!」

 

「も、もうし……」

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

「メ、メルエ!」

 

 先程まで微かに見えていた失望の色は消え失せ、純粋な怒りとなって表情に現れた女王は、カミュ達四人に向かって、今までに聞いた事のないような大声を上げた。

 それは、どんなに強力な魔物の放つ威圧感よりも、どれ程に偉い王族が持つ威圧感よりも強く、サラは身体を跳ねさせてしまう。ここまでの旅で、手足さえも動かせない程の怒りを向けられた事は一度たりともなかった。それは、その全てを前に立つカミュが濾過していてくれたからという部分もあるが、一行全員に向けての怒りや威圧感など、<ヤマタノオロチ>や<ボストロール>との戦闘でも感じた事はなかったからだ。

 しかし、リーシャでさえも手に汗を握る程の威圧感が部屋の空気を占める中、その手を握っていた筈の幼い少女がカミュよりも前に出て行った。

 一行の中で一番先頭に立ち、瞳を怒らせる女王の前で深々と頭を下げる少女の姿は、ここまでの旅の中でも見た事がない。常に誰かの護られ、咲き誇る花々や飛び回る虫達に目を輝かせる時以外は後方にいた少女が、誰しもが指一本動かせない状況で前へ踏み出したのだ。

 

「幼き者、何故そなたが謝る。そなたは只、この者達と共にここを訪れただけであろう」

 

「…………ちがう………メルエ……会う……いった…………」

 

 エルフの女王からすれば、メルエという幼い少女は、この年若い『人』の希望達に従う者の一人でしかない。しかも、年端も行かぬ者である為、自分の意志で目的地を定める事など出来ないと考えていたのだろう。

 だが、そんな女王の考えは、その幼い少女によって否定される。必死に首を横へ振り、まるでカミュ達三人を護るかのように立つ彼女の背中は、後方のサラからは、とても大きく見えてしまった。

 それは、魔物との戦闘で前衛に立つカミュやリーシャのように。

 サラは、何故かそんなメルエの背中を見ながら、メルエから見た自分の背中も同じように見えていたらと願ってしまう。それ程までに、自分がこの幼い少女に依存している事に、サラは小さな喜びを感じ、先程まで硬直していた身体が解けて行くのを感じていた。

 

「幼き者、私に何か用があるのですか?」

 

「…………ん………これ…………」

 

「メ、メルエ、それを渡す為に……」

 

 意志の強い瞳を向けるメルエに対し、ようやく女王は怒気を収める。

 メルエという少女がこの里を見たいというだけであれば、わざわざ危険を冒してまで女王のいる館に来る必要はない。それにも拘らず、この館の謁見の間まで来たという事は、それ相応の理由があるのだと感じ、女王はメルエへと問いかけた。

 その問いかけに、我が意を得たりと表情を笑顔へと変えたメルエは、自身の肩から下がるポシェットへ手を入れ、小さな青色の欠片を取り出す。その欠片は、ここまでの旅でサラ達も何度も見て来た物であり、自分に好意を示し、自分に笑顔をくれる者へメルエが差し出す『命の石』の欠片であった。

 その石の欠片を見たカミュの眉は険しく歪み、それとは対照的にリーシャは微笑む。そして、ここまでの道中、そんなメルエの心情を理解出来なかった自分を恥じると共に、メルエが心優しいままで生きている事にサラは涙した。

 

「これは……どうして、私に?」

 

「…………メルエ……アンの………おかあさん……すき…………」

 

 本来であれば許されぬ行為ではあるが、許可もなく女王へと近付いたメルエは、その掌に『命の石』の欠片を置く。淡い青色の輝きを放つ欠片は、手にした女王を護るように輝き、それはまるで目の前で微笑む幼い少女の微笑みそのもののようであった。

 『人』の子であるこの少女が、何故このような石の欠片を自分へ渡してくれるのかが解らずに女王はメルエへ視線を送るが、そこから返って来た言葉を聞いた時、遠い昔の記憶が頭に蘇る事となる。

 

 それは、娘のアンが未だ里の外に興味を示さず、里の中で探検を繰り返していた頃。

 里の中で見つけたガラスの割れた欠片を、アンは宝物のように大事に仕舞っていた。だが、『人』への復讐に燃える同族の怒りを鎮め、エルフの誇りを取り戻させる為に奮闘し疲れた母親を見た彼女は、大事に仕舞っていた欠片を笑顔で母親に差し出した事がある。

 大好きな母親の辛そうな表情を見たアンは、自分が大事にしている物を渡す事で、その想いとその願いを伝えようとしていたのだろう。

 あの時は、それ程重要な事だとは考えもしなかった。

 これ程に喜びを感じるべき事だとは気付かなかった。

 だが、今も尚笑顔を向けるメルエの顔が、幼い日のアンの顔と重なり、女王の瞳から数滴の滴が零れ落ちる。

 

「畏れながら……それは、メルエが大事に思っている者へ託す宝物でございます。メルエの大事な者を護ったその石の欠片が、他のメルエが大事に思っている者も護ってくれるようにと願いを込めてございます」

 

「……そうですか……幼き者、ありがとう……」

 

「…………ん…………」

 

 時が止まったように石の欠片を見つめていた女王に向かって、リーシャが初めて口を開いた。

 彼女が、このような場所で口を開く事自体初めての事ではあったが、メルエの保護者として、幼い少女の足りない言葉を補足するのは、自分であるという自負があったのだろう。

 そんなリーシャの補足によって我に返った女王は、流れ落ちる涙を隠す事無く、メルエに向かって軽く頭を下げ、小さな微笑みを浮かべた。

 自分に笑みを浮かべてくれる者へメルエが返す物といえば、それは笑顔以外に有り得ない。花咲くような笑みを浮かべたメルエは、満足そうに一つ頷きを返した。そして、そんなメルエの顔が、エルフ族のそれから、元の人間の物へと変化して行く。それと同時に、カミュ達全員の姿も元の物へと戻って行った。 

 夢の時間が終わったのだ。

 

「そなた達に、この幼き者と同じ心があるのであれば、姿を変えてここからもう一度里を通るのは辛いでしょう。そこからバルコニーへ出る事が出来ます。出たのならば、<ルーラ>をお使いなさい。里を囲む結界は緩めておきましょう」

 

「此度の非礼、誠に申し訳ございませんでした。以後、如何なる時も、このような愚行を犯さない事をここに誓います」

 

 短い謁見は終わりを告げる。

 自分達の浅慮と浅はかな行動を詫びたカミュは、その想いに偽りがない事を示す為、その場で膝を折り、深々と頭を下げた。

 それに倣うように膝を着いて頭を下げたリーシャ達は、カミュを追うようにバルコニーへと出て行く。

 

 メルエという幼い『人』に救われた心は、長い時間を掛けて蝕まれていた異種族の王の物。

 自身の娘の願いと想いを知りながら、それを同族の命と天秤にかけ、切り捨ててしまった親の懺悔は、この日に天へと届いたのかもしれない。

 幼き日の娘のように、花咲くような笑みを向ける無垢な少女は、微笑みという表情を取り戻した女王に向かって何度も何度も手を振り続けていた。

 二度と会う事もないだろう。

 二度と声を聞く事もないだろう。

 それでも、女王はこの少女の笑みと声を忘れはしない。

 そして、その少女の笑顔を護る三つの光の存在も忘れる事はない。

 

 『勇者』の旅は、果てしなく長い。

 遥かなるその旅路の中で出会った者達は数少なく、それでもその数少ない者達の記憶には『勇者』として残って行く。

 『人』であろうと、『エルフ』であろうと、それこそ『魔物』であったとしても、その記憶にとどまる存在、それこそが『勇者』と呼ばれ続ける者なのかもしれない。

 

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。

8月中には間に合いませんでした。
申し訳ありませんが、8月は1度の更新だけです。9月は頑張って描いて行きたいと思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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グリンラッド②

 

 

 

 ポルトガの港は賑わいを見せていた。

 西からの新たな荷を積んだ船が続々と入港して来るからである。

 『トルドバーク』という新たな町との交易額が最も大きいのは、言わずと知れたポルトガ国であり、いくら護衛団へ昇格した海の覇者達に守られると言えども、魔物が蔓延る海を渡って遠く離れた国家へ荷を運ぶには、人間の力は非力過ぎるのだ。

 故に、最も近場にあるポルトガへ立ち寄り、荷をある程度軽くしてから、少し離れた場所へ航海するという手法を取る商団が必然的に多くなる。その為、ポルトガの活気は日を追う毎に増して行き、全盛期には及ばずとも、カミュ達が最初にこの城下町を訪れた頃の数倍の人口に膨れ上がっていた。

 

「それで、次は何処へ向かうんだ?」

 

 エルフの隠れ里からルーラによってポルトガへ戻ったカミュ達は、船の整備を終えていた船員達によって迎え入れられる。その船員達の顔を見ると、新たな場所へ向かう事の出来る喜びに満ちており、そこには不安の欠片さえも見る事は出来なかった。

 船員達の誰もが、自分達の旅が死の危険と隣り合わせである事を自覚している筈である。だが、商人とは異なり、貿易の利益ではなく未知の場所へ向かう事に喜びを感じる彼等は、紛れもなく海の男達なのだろう。

 

「バハラタの北、ロマリアの東に位置する湖へ行きたい」

 

「湖? ああ……あの巨大な入り江の事か?」

 

 カミュ達の目的の場所は、サマンオサの英雄が眠る場所。

 偽の国王によって追放され、幽閉されたまま行方知れずとなった彼は、旅の扉を使った先にある宿屋から北の湖に向かって行ったという話が残されていた。

 その宿屋は、バハラタから北へ向かい、森を抜けた場所にある。その北にある巨大な湖は、ロマリア国の領土と面しており、カミュはその場所を告げたのだが、頭目にとっては、そこは海から水が入り込んでいる巨大な入り江という事だった。

 

「だが、あそこは難しいぞ。かなり前から船では入る事が出来ないそうだからな」

 

「何故ですか?」

 

 カミュの話す目的地を理解した頭目は、その場所へ想いを走らせ、何かを考え込むように唸った後、理解不可能な事を口にする。その内容が全く理解出来ないサラが横から顔を出し、理由を問いかけた。

 海から海水が入る入り江へ入る事の出来ない理由など、その入り口が狭いという物しか思い浮かばない。しかし、川のような物であれば、小舟で乗り入れる事も可能であろうし、それよりも細いのであれば、歩きで入れるという事になる。根本的に水が入り込めるのであれば、地下へでも入る小さな穴でもない限り、人間が通れないという事になる筈がないのだ。

 だが、理由を聞いたサラへ向けられた頭目の表情を見る限り、彼が嘘を吐いている事など有り得る筈もなく、ましてや冗談を口にしているという物でもなかった。

 

「理由は解らない。だが、呪いが掛けられているように船が押し戻されてしまうらしい」

 

「……船が押し戻される?」

 

 その噂のような物は、船乗り達にとっては常識に近い程に広まっている物なのかもしれない。頭目が理由を話し出すと、他の船員達の顔色も変わって行く。まるで幽霊怪談でも語るかのように潜められた声が甲板の上に響いて行った。

 そんな船員達の雰囲気に対し、真っ先に飲み込まれたのはやはりというべきかサラであり、その様子に笑みを浮かべたメルエを置いて、カミュが話の続きを促す。一度頷きを返した頭目は、表情を厳しい物へ変えて語り始めた。

 

「昔、ある商船が海賊に襲われたらしい。その商船に乗っていた恋人の死を受け入れる事の出来なかった娘が、あの入り江の岬から身を投げたという話だ」

 

「……み、身を投げた方が……化けて出ている……のですか?」

 

「サラ……化けて出るはないだろう」

 

 一行はポルトガの港を出港し、北へと船を走らせている。既にメルエは傍にはおらず、定位置である木箱の上へと移動していた。幼いメルエにとって、怯えるサラは楽しい事に入るのだろうが、海の景色や飛び回る海鳥達に勝る程の興味をそそる物ではなかったのだろう。

 船員への指示を出しながら続けられた頭目の昔話にすっかり怯えきったサラは、震える声で問いかけ、その姿にリーシャは溜息を吐き出す。『僧侶』という霊などに特化した特殊な職業から、世界で唯一の『賢者』となった今でも、霊魂に恐怖を感じているサラ自体が、リーシャには到底信じられないのだ。

 

「さぁな……それはどうだか解らないが、その岬を通る事は出来ない。死にきれず、他の船を呼び戻すのだという噂もあるがな。それに、その岬には娘の名前が付けられ、『オリビアの岬』と言われている」

 

 甲板の上が静まり返り、遠く海鳥の鳴く声と、波の音だけが響いて行く。

 怪談などを恐れるような時間帯でもない。だが、リーシャでさえもその頬に冷たい汗が流れてしまう程、その話は信憑性を持っており、勇者一行にとって旅の妨げになる事は明白であった。

 船員達の中でも、その噂を聞き及んでいる者も多く、中には実際に体験した事のある者もいるのかもしれない。皆総じて青白い顔をしながら、自分の仕事に従事していた。

 そんな中、カミュだけは小さく溜息を吐き出し、木箱の上から海を笑顔で眺めているメルエへと視線を移す。魔物を相手にし、その中で実体を持たない物までも斬り伏せて来た彼にとって、霊魂のような物は恐怖に値しない物なのだろう。

 

「そ、それで……その恋人は……」

 

「ん? ああ……エリックという名の男らしいが、実際に行方知れずだからな……しかも、その海賊船も、他の海賊との戦闘によって海へ沈んだと言われている」

 

 オリビアという名の女性が絶望を感じる程に愛した男性の消息を問いかけたサラは、返って来た答えを聞いて絶句する。商船を襲った海賊さえも既にこの世にいないとなれば、商船で旅をしていた者達は全て海の藻屑と化してしまっている筈であった。

 海の略奪者である海賊は、余計な荷を積む事はない。見目麗しい女性であれば、様々な需要があるのだろうが、男性となれば同じ海賊に堕ちる以外に残された道は、死一つである。

 

「だが……その海賊船も、オリビアの呪いによって、エリックを乗せたまま、夜な夜な海を彷徨い続けているっていう噂だ」

 

「ふぇっ!? ゆ、ゆう……幽霊船ですか……」

 

 こうなってしまったサラの頭脳は、いつものような回転を見せる事はない。怯えきった瞳は、視点を定める事無く揺れ動き、決して太くはない足は、小刻みに震えていた。

 先程まで、その怪談話に薄ら寒い物を感じていたリーシャであったが、隣のサラの怖がりように、何処か冷めてしまう。よくよく考えれば、リーシャ達は霊魂などよりも不思議な現象を、この四年間で何度も目にして来た。

 その度に驚きで目を見開いた物であるが、それを『そういう物なのだ』と理解するようにすれば、自分の中での折り合いが着き、何処か自然に落ち着く物である。故に、足の震えが手や顔に転移し始めたサラを見たリーシャは、その肩に手を置こうと伸ばすのであった。

 

「うひゃぁぁ!」

 

「な、なんだ!? それ程に驚く事か?」

 

 突然置かれた手に驚いたサラは、かなり大きく素っ頓狂な声を上げてしまう。驚かせようと思っていた訳ではないリーシャの方が驚いてしまう程の声を上げたサラは、そのまま腰が抜けたように甲板へとへたり込んでしまった。

 不甲斐ない『賢者』の姿に大きな溜息を吐き出したリーシャは、まるで叱りつけるようにサラへと声を掛け、その手を掴んで立たせようとするが、足に力の入らないサラは、情けない表情を浮かべてリーシャを見上げるばかり。

 以前にカザーブの村で遭遇した時のような失態を見せなかった事だけでも、サラを褒めてやるべきなのかもしれなかった。

 

「サラ……またメルエにからかわれるぞ?」

 

「……うぅぅ……」

 

 座り込んだまま涙目で見上げるサラを見たリーシャは、盛大な溜息を吐き出す。リーシャの言葉通り、この状況をメルエが見ていたのであれば、これ幸いと『あわあわ』という言葉を投げかけ、サラをからかっていたであろう。

 リーシャの忠告が現実的であるが故に、サラもまた涙目で唸り声を上げる事しかできなかった。

 いや、正確に言えば、彼女達二人は既に理解してしまっているのだ。

 必ず、自分達がその場所へ行かなくてはならないという事を。

 

「どちらにしても、その場所へ行ってみなければならない事に変わりはない。ネクロゴンドへの道の情報は、サイモンの所持していた<ガイアの剣>しかないのだからな」

 

「そうだな……だが、呪いの話が本当であれば、幽霊船も他人事ではないな……」

 

「……行く事になるのですね?」

 

 今までの頭目の話に興味を示していなかったカミュではあったが、その内容はしっかりと聞いていたのだろう。そして、彼等の目的が『魔王バラモス』の討伐である以上、その『オリビアの岬』という場所へ行かなければならない事もまた事実であった。

 その岬が、身を投げた女性の呪いを帯びているのだとしても、その場所へ行き、サイモンの所持していた<ガイアの剣>と呼ばれる神代の剣を手に入れなければならない。その為にも、呪われた岬であるのであれば、その呪いを解く必要が発生するだろう。幽霊船と呼ばれる生者が一人もいない船に乗り込む事になったとしてもだ。

 

「ならば、グリンラッドを抜けて行った方が早いのかもしれないな……」

 

 三人のやり取りを聞いていた頭目は航路を考え始め、その呟きを持ち場にいる船員達は指示として受け入れる。

 カミュ達にとっては最早当然の事のように話は進んでいるが、世界が平面であると信じられているこの時代で、地図上を横断するような航路を口にし、それを然も当然の指示のように受け入れる船員達自体が、既に世界の理から外れ始めているのかもしれない。

 風を帆一杯に受け、真っ直ぐ北へと動き出す船の甲板の上で、それぞれの仕事に打ち込む船員達をリーシャは頼もしく見つめていた。

 

 

 

 船は順調に航海を進め、嵐に会う事もなく、<テンタクルス>のような魔物と遭遇する事もなかった。遭遇する魔物は、何度も戦闘を繰り返して来た魔物ばかりであり、カミュ達に敵う訳もなく、船員達の中でも腕に覚えのある元カンダタ一味も参入する事で駆逐して行った。

 船は開拓地の脇を抜け、そのまま北を目指して航路を取る。サマンオサへと続く旅の扉の館を横目に船を進め、周囲の気温が下がって来た頃、メルエの身体を気にしていたサラが何かを思いついたように、カミュへと視線を送った。

 

「カミュ様……そういえば、グリンラッドに居た方が、<変化の杖>を望んでいませんでしたか?」

 

「ん? そういえば、そうだったな。だが、あのご老体が何に使うつもりなのか解らない以上、おいそれと手渡す事も出来ないだろう」

 

 嫌がるメルエに上着を羽織らせたサラは、そんなメルエと共にカミュとリーシャの傍へと近寄り話し出す。その内容を聞いたリーシャは、カミュが反応するよりも早くに、自身の考えを口にし始めた。

 確かにリーシャの言葉通り、<変化の杖>という道具は、サマンオサ国王から託された国宝であると共に、神代から伝わる強い力を持った物でもある。その力は、使用者の身体を全く異なる存在へ変化させ、その姿ばかりか声や体格なども変えてしまう。

 あの老人の使用目的は解らないが、悪しき心を持っていたとすれば、それはこの世界で大きな災いの種になってしまうだろう。

 

「だが、俺達に不要な物である事もまた事実だ」

 

「…………いや…………」

 

 サラと共に近づいて来ていたメルエは、先程まで立てかけてあった<変化の杖>を胸に抱き締め、カミュ達の物言いに抵抗を示す。幼い彼女の武器である<雷の杖>は背中に結ばれたままであり、新たに自分の玩具となった<変化の杖>を誰にも渡すまいと鋭い瞳を向けていた。

 <変化の杖>とは、使用者の姿形や声や体の構造に至るまで変化させてしまう神代の道具である。だが、カミュがエルフの隠れ里で約束を交わした通り、彼等は今後この杖を使用する事はないだろう。他者を欺き、自身を欺き、自分という存在を冒涜するようなこの道具を使用する事はなく、また仲間内でそれを使用する事も許しはしない。故に、メルエがいくらそれを欲しても、使用したその場で叱責が待っている事は明らかであった。

 もはや、この杖を使用する事が無いという事は、攻撃の媒体として<雷の杖>を所持している限り、メルエには必要な物ではなく、元々杖という武器を手にしないカミュやリーシャにとっては、その使用効果が必要ない以上、無用の長物となるのだ。

 

「メルエ……私達は、エルフの女王様に『その杖を二度と使わない』と誓ったんだ。それはメルエであっても、使用する事は許されない。もし、メルエがそれを使うのなら、女王様はメルエとお話をしてくれなくなるぞ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 <変化の杖>を胸に抱いたまま、メルエは不満そうにむくれ顔をするが、その行為を見ても、リーシャの表情が和らぐ事はない。次第に頬を萎ませたメルエは、懇願するようにサラへ視線を送るが、こちらも首を横へ振る事で否定を示していた。

 メルエにとって、とても不思議でとても楽しい遊びであった『変化』という行為は、彼女が最も信頼する保護者達によって禁止事項となる。それは玩具を手に入れたばかりの子供にとっては、身を切り裂かれる程に辛い事であった。

 

「どうしますか? グリンラッドへ寄られますか?」

 

「……ああ、上陸しよう」

 

 悲しそうに俯くメルエを傍目で見つめながらも、サラは今後の行動方針をカミュへと問いかける。冷たい北風が甲板に吹き込んで来る中、前方を見つめていた青年は、その問いかけに静かに頷きを返した。

 行動方針が確定すると、サラ達は自分達が身に着ける防寒具を取り出し始める。永久凍土と化したグリンラッドと呼ばれる島は、常に氷で覆われているのと同時に、常に雪が降り続けていた。

 前回とは異なり、島のどの辺りにあの老人が暮らす唯一の平原があるのかを理解している為、それ程歩き続ける事はないであろうが、氷に覆われた島で雪を掻い潜って進む事には変わりなく、その身を護る為の防具の他に体温を護る物も必要となるのだ。

 

「この辺りで良いか!?」

 

 永久凍土の島にある唯一の平原の場所を記憶していたサラの指示を聞き、船を動かしていた頭目の問いかけに全員が頷きを返す。

 島全体の大きさや形を考えると、この場所で上陸すれば、半日程度の時間で平原に出る筈だという予想の元、カミュ達は岸へと小舟を走らせた。

 

「メルエ、勝手に行っては駄目ですよ!」

 

 島に上陸した途端、小舟を岸へと上げるカミュ達を余所に、メルエは雪の中へと駆け込んで行く。子供特有の楽しみという事もあるのだろうが、雪を見たメルエの瞳は眩いばかりに輝き、それは<変化の杖>を持って遊んでいる時よりも強い光を宿しているようであった。

 サラの忠告も聞かず、地面に積もっている雪を掬い上げては空へと放ち、キラキラと輝く雪の結晶を浴びては笑顔を溢す。冷たい雪を全身に受け、吹き抜ける北風によって頬を赤くしていても笑顔で雪を掬い上げるメルエの姿は、窘めていたサラでさえも苦笑を浮かべてしまう程に無邪気な物であった。

 

「地図上であれば、おそらくこの辺りでしょう。前回、あのご老人がいた平原は、大体この辺りにありましたから……北西に向かえば良いでしょうね」

 

 正確ではないだろうが、大凡の位置を把握していたサラが進行方向を示し、頷きを返したカミュを先頭に、一行は雪原を歩き始める。雪を触りたくて堪らないメルエを引き摺るように、雪原を歩く一行は、風もなく穏やかに舞い落ちる雪に心を和ませていた。

 だが、雪という物は、カミュ達が考えている程に甘い物ではなく、穏やかな姿というのは雪原が持つ小さな一面である。進む毎に強さを増す風は、空から舞い降りる雪だけではなく、地面に降り積もっていた粉雪さえも舞い上がらせ、彼等の視界を奪って行った。

 

「メルエ、カミュ様のマントの中に入って」

 

「…………ん…………」

 

 風が強まり、粉雪が舞い上がって吹雪へと変わって行く。その状況を見たサラは、手を繋いで必死に歩き続けているメルエをカミュのマントの中へと誘導した。

 素直に頷くメルエを見たサラは、先頭を歩くカミュを大きな声で呼び止め、そのマントの中へメルエを押し込んで行く。メルエは身体が濡れでもしない限り、寒さを訴える事はない。だが、その体が幼い物である事には変わりはなく、体力や体温の低下は、四人の中で最も早い事は間違いがないとサラは考えたのだ。

 数刻の時を一寸先も見えない雪原で固まって歩く中、最後尾を歩いていたリーシャは何処か不自然な周囲に首を傾げ、それが何か理解出来ない不安に変わって行く事で全員を呼び止める声を上げた。

 

「カミュ、何かが変だ! この吹雪の具合は、何かがおかしい! 先程までよりも私達の周囲の風だけが増しているぞ!」

 

「……魔物か?」

 

 突然のリーシャの声に立ち止った一行は、その言葉の内容に首を傾げながらも、吹き荒れる風へと目を凝らし、上空へと視線を向ける。

 マントの中に隠れていたメルエも顔を出して空を見上げる中、周囲の吹雪が嘘のように晴れ渡る青空をカミュは見た。吹き荒れる雪の結晶で視界が遮られていても目に飛び込んで来る美しい青が、リーシャの言葉通り、この場所だけが吹雪いている事を示していた。

 青空の中にも雲はあり、このような島では晴れていても雪が降る事は珍しくはないが、吹雪くという事はあり得ない。それを理解したカミュは、予想出来る一つの可能性を考え、背中の剣を抜き放った。

 

「カミュ様! あの雲の中に影が!」

 

「構えろ!」

 

 頬に当たる雪を手で押さえながら見上げた雲の先に巨大な影を見たサラは、その旨を全員へと通達すると共に、腰に差している剣を抜き放つ。上空から迫る敵に対し、サラの力量では剣による攻撃は不可能であろう。それでも、彼女には一つの使命があるのだ。

 

「メルエ、下がっていろ!」

 

 それは、幼くも世界最高位に立つ『魔法使い』の守護。

 カミュのマントから出て、リーシャの指示通り後ろへと下がって来たメルエを自分の後ろへと隠したサラは、上空で蠢く影に目を凝らす。吹雪の中に見える雲に映る影は、雲と共に降りて来ていた。

 雲が地上へと降りて来るように広がり、先程まで見えていた青空を隠すようになった頃、その影の全貌が見えて来る。太く長いその影は、雲の中を駆け回りながらその大きさを増し、カミュ達が一塊になり、空へと向かって陣形を完成させたのと同時に、その姿を表した。

 

「龍種か!?」

 

「ちっ!」

 

 雲の中から顔を出したそれは、以前に遭遇した事のある魔物に酷似していたのだ。いや、それは魔物というよりも神獣と言った方が正しいのかもしれない。

 巨大な顎を大きく開き、そこから見える牙は、『人』などを一刺しに出来る程に鋭く光っている。口元には髭のような触覚が伸び、巨大な目玉と頭部を覆う(たてがみ)、そしてそこから生える巨大な角に、長く巨大な胴体に似合わぬ程に小さな前足には鋭い爪が輝いていた。

 それは、この世界の中でも希少種と呼ばれる種族であり、時には神と崇められ、時には神に従う獣として畏れられ、時には全てを滅ぼす魔獣として恐れられる物である。

 

「グオォォォォ!」

 

 数年前、サラが『賢者』となる為に登った塔を住処とし、カミュが己の心と向き合う為に立ち向かった試練の洞窟内で遭遇した<スカイドラゴン>と姿こそ似てはいるが、その鱗の色や瞳の色は異なっており、同種族ではあっても同じ物ではない事を物語っていた。

 巨大な口を開いて放った咆哮は、カミュ達四人の身体を振動させる程の威力を誇り、大地の雪を舞い上がらせる程の強さを誇る。痺れるように震える身体を護るように抱えたサラは、後ろで怯えているであろう幼い少女を護ろうと振り返った。

 

<スノードラゴン>

世界の北部にある、常に雪が降り続ける永久凍土を住処とする古代種。

龍種の中でも最下位に位置する<スカイドラゴン>と大差はないが、それでも<スカイドラゴン>よりも上位に位置する龍である。

遭遇した者は全てその命を散らし、この龍種の存在を伝える事の出来る者は皆無であった事から、その存在は伝説に近い物にまで昇華しており、世界の北部では雪原を護る神として崇めている地方もあると云われていた。

 

「カミュ、来るぞ!」

 

 口を大きく開いた<スノードラゴン>の様子に身構えたリーシャは、同じように剣を構えたカミュへ声を発し、<スノードラゴン>の口から何かが放たれる前に横へと飛び退いたのだ。

 一塊になっていたカミュとリーシャは、それぞれ別方向へ飛ぶ事で、<スノードラゴン>の攻撃を避けようとする。だが、<スノードラゴン>の口から放たれた物は、リーシャやカミュが想像していた火炎ではなく、先程まで視界を奪っていた雪と風の嵐であった。

 吹き荒れる雪の舞いは、避けきる事の出来なかったカミュやリーシャの身体に付着して行き、その腕を雪で覆い始める。メルエの氷結系呪文程の即効性はないが、それでも振り払う事の出来ない雪は確実にカミュ達二人の体温を奪って行った。

 

「グオォォォ」

 

 カミュ達が付着する雪を払い切る前に、再び開かれた<スノードラゴン>の口から吹雪が吐き出される。二手に分かれていたカミュとリーシャであったが、その吹雪が向けられたのはカミュであった。

 上空から見る<スノードラゴン>の瞳が、人間と同じように物を認識しているかどうかは解らないが、大地と同化するようにその身を護る<大地の鎧>を纏うリーシャよりも、赤紫色の<魔法の鎧>を纏うカミュの方が、真っ白な雪原では目立っていたのかもしれない。

 剣を持つ方の腕に付着した雪が拭えず、痺れるように冷えた手が剣を持つ事も儘ならなくなる中、辛うじて<ドラゴンシールド>を掲げたカミュは、その盾で吹雪を遮ろうと腰を落とす。龍種の鱗を張り合わせて作成したと云われる<ドラゴンシールド>は、例え劣化種の鱗だと言えども、龍種が吐き出す火炎や吹雪の損害を軽減する能力を持っていた。

 

「…………ベギラマ…………」

 

 <ドラゴンシールド>の付加能力によって、辛うじてその場を切り抜けたカミュは、雪と風で音さえも聞こえなくなり始めた雪原に響き渡る呟きを聞き、後方へと身体を飛ばした。

 カミュの身体がその場を離れると同時に、むせ返るような熱気が吹雪を包み込む。火炎と化した熱気は、雪原の雪を溶かしながら周囲の気温を上昇させ、カミュの身体に付着する雪をも溶かし始めた。

 自分の指示を待つ事もなく、的確な呪文を行使したメルエを褒めようとその顔を見たサラは、そこに立つ幼い少女の表情を見て凍り付く。

 射抜くような視線を<スノードラゴン>へと向けたメルエの瞳の中に怒りや恐怖は見えない。まるでその辺りに転がる石でも見るように冷めた視線を向けるメルエの心中は計り知れないが、<スノードラゴン>という龍種に対し、興味さえも示していないかのようなその姿に、逆にサラは恐怖を感じてしまった。

 

「……メ、メルエ?」

 

 恐れを成したサラは、自分へ視線を向けようともしないメルエへ震える声で問いかけるが、その声にも反応を返さずに、メルエは<スノードラゴン>を睨むように見つめ続ける。

 吹雪を消し溶かされた<スノードラゴン>は、標的をカミュやリーシャから呪文を唱えた幼い少女へと変え、そちらの方向へ巨大な身体をうねらせる。しかし、空中でうねった尾が、地面の雪を掻き揚げ、陽光で雪の結晶が輝く中、幼い少女へと向き直った<スノードラゴン>は世界で唯一の『賢者』と同様にその身体を硬直させてしまった。

 射抜くように細められた少女の瞳は、<スノードラゴン>を射殺さんばかりに鋭く光り、その手に持つ禍々しいオブジェの付いた杖は、真っ直ぐ前方へと向けられている。両者の間に流れる緊迫した空気に、態勢を立て直していたカミュやリーシャでさえも動く事は出来ない。

 本来、<スノードラゴン>の下位種とはいえ、同じ龍種である<スカイドラゴン>を一人で倒しきったカミュであれば、この雪原の支配者である龍種に対しても効果的な攻撃は可能である。そして、それはここまで彼と共に旅を続けて来たリーシャやサラも同様であり、幾ら世界最強の種族である龍種であっても、彼等三人を同時に相手が出来る程の力を有している訳もないのだ。

 だが、それでも動けない。

 

「グオォォォォォ!」

 

 そのような誰一人動けない状況の中、緊迫した空気に真っ先に耐えられなくなった者は、雪原の支配者たる<スノードラゴン>であった。

 怯えるように咆哮を上げた<スノードラゴン>は、まるでメルエの視線から逃げ出すように顔を背け、その恐怖の象徴である少女に向かって口を大きく開く。そこから吐き出される物は、先程と同様の吹雪であり、通常の人間であれば、その凄まじいまでの雪と風によって雪の彫像と化してしまう程の威力を誇る物であった。

 しかし、大口を開いた<スノードラゴン>が、自分の意思で吹雪を吐き出すその瞬間、目の前で厳しい瞳を向けていた少女が、自分の背丈よりも大きな杖を振り下ろす。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 <スノードラゴン>が先に動いた事によって張り詰めていた空気は弾け、その隙を突いて<スノードラゴン>から離れたカミュとリーシャは、自分の横を通り過ぎて行く熱気を感じて呼吸を止めた。

 灼熱系最強の呪文によって焼かれた空気で喉までも焼かれる事を防ぐ為である。それ程に、この世界最高位に立つ『魔法使い』の力は桁違いなのだ。

 吐き出された雪と風は、瞬時に焼き尽くされ、迫り来る巨大な火炎は怯える<スノードラゴン>へ向かって襲い掛かって行く。

 永久凍土の氷さえも溶かす程の威力を持つ火炎である。如何に雪原の支配者と言われた<スノードラゴン>であっても、その火炎に身体全てを飲み込まれてしまえば、無傷では済まないどころか命さえも瞬時に奪われてしまうだろう。故に<スノードラゴン>は恐怖で身が竦む中、それでも懸命に吹雪を吐き出し続けた。

 

「……カミュ」

 

「……既に戦意はないのだろうな」

 

 火炎が全てを焼き尽くすように収まりを見せた頃、その対象となっていた<スノードラゴン>の姿が現れる。

 <スノードラゴン>の周囲の雪は溶け、永久凍土の氷も半分近く溶けている。全てを溶かし、大地の色が顔を出さなかったのは、死への恐怖を感じた<スノードラゴン>が懸命に吹雪を吐き出し続けたからなのだろう。

 それでも、神獣とさえ伝えられる雪原の支配者の身体にも、目を覆いたくなる程の傷跡を残している。吹雪を吐き出し続けた筈の口元の皮膚も焼け爛れ、巨大な瞳を守る為にある瞼も火傷の為か大きく腫れ上がっていた。龍種という世界最強種である証である強靭な鱗も所々剥がれており、疎らになった鱗のない部分に見える地肌は、灼熱の炎によって焼け爛れている。

 満身創痍と言っても良い程のその姿に、先程までの戦意は微塵も感じる事は出来なかった。

 

「グモォォォォ」

 

 焼け爛れた口を大きく開いた<スノードラゴン>は、哀しみさえも滲ませる雄叫びを上げる。

 その雄叫びにも身動きせずに自身を見つめる幼い少女の瞳を一瞥した<スノードラゴン>は、恐怖による身体の震えを隠す事無く、身体をうねらせて上空へと逃げ出した。

 追撃を警戒する事もなく、敵に背を見せて逃げ出す姿は、カミュ達から攻撃の意思さえも奪い取ってしまう。哀れにさえ感じてしまう程の行動を起こしてまで、<スノードラゴン>は幼い『魔法使い』から逃げ出したかったのだ。それは、彼女の持つ強大な魔法力と、強力な呪文の力だけの影響ではないのかもしれない。

 何故なら、その幼い少女に対し、<スノードラゴン>だけではなく、この場に居た全ての物が恐怖に近い感情を持ってしまっていたのだから。

 

「メルエ、何があった?」

 

「…………???…………」

 

 そんな中、逸早く心を戻したのは、この幼い少女を旅に同道させる事を決めた青年である。世界で最も希少で、最も強い種族である龍種を睨み付けていた少女へと近付き、その変化を問いかけるが、既にメルエは何時もの様子へと戻っていた。

 カミュの発する言葉の意味を理解する事は出来ず、小首を傾げるような仕草で不思議そうな表情を向けている。彼は、メルエの身に何かがあり、今までの戦闘では見せた事のない表情を見せたと考えたのだ。

 思えば、<エルフの隠れ里>に以前訪れ、アンという娘の魂を開放した後のメルエも、まるでその娘の魂が乗り移ったような戦闘を行い、カミュ達三人の恐怖を誘った事がある。あの時は、媒体を使用しないまま<ベギラマ>を行使しようとし、カミュに叱責された事で意識を戻したが、先程の<スノードラゴン>との戦闘中は、終始メルエの様子は変であった。

 

「メルエ、身体は大丈夫なのか?」

 

「…………???…………」

 

 吹雪が収まり、雪が空から静かに振り続ける中、心配そうに近づいて来るリーシャの言葉の意味さえも理解出来ないメルエは、反対側へ小首を傾げ、困惑したような姿を見せる。本当に意味が理解出来ないのだろう。

 先程まで身体を動かせない程の恐怖を感じていたサラではあったが、いつも通りの無邪気な少女の姿に、ようやく硬直していた身体から力が抜けて行くのを感じる。心配し、その身体の隅々までを触って確認するリーシャに対し、困惑の表情を浮かべているメルエを見て、サラは小さな笑みを溢した。

 

「メルエは凄いですね。龍種さえも退けてしまうとは」

 

「…………ん…………」

 

 カミュやリーシャとは異なり、サラの中ではある程度の答えが出ているのかもしれない。その証拠に、恐怖が去ったサラの顔は、困惑と不安に彩られているカミュやリーシャの表情とは異なる笑みが浮かんでいる。

 笑顔で近づいて来るサラに向かって頷いたメルエもまた、花咲くような笑みを浮かべ、その腰へと抱き着いて行った。

 メルエという少女は、とても不思議な少女である。

 『魔王バラモス』という諸悪の根源に立ち向かうように旅立った者達の中で、『勇者』と自称する者達は数多くいた。 

 だが、その者達の中で、ここまでの功績を残して来た者は一人もおらず、『魔王バラモス』という存在に肉薄した存在も『英雄オルテガ』以外には、その息子であるカミュしかいない。その事からも、このカミュという青年が、その他の者達とは異なる運命を持っている可能性は否定出来ず、リーシャやサラが信じるように、彼こそが『勇者』と呼ばれる存在であると言っても過言ではない。

 そして、カミュという青年が『勇者』であるからこそ、彼の周囲にもそれぞれの運命を持つ者達が集まるのかもしれない。

 女性でありながら、今や世界最高位の『戦士』となったリーシャ。

 世界で唯一の『賢者』となったサラ。

 そして、何かに導かれるように、それが必然であるかのように出会い、その内に眠る才能を開花させ続け、今や『賢者』となったサラでさえ足元にも及ばない呪文を行使し続ける『魔法使い』となったメルエ。

 そのメルエとの出会いもまた、カミュという『勇者』が引き起こした必然なのかもしれない。

 出会うべくして出会い、開花する事が当然であったかのように才能を爆発させた事もまた、全てを見守る『精霊ルビス』のお導きなのかもしれない、とサラは考えていた。

 

「……先へ進む」

 

「お、おい! カミュ、良いのか?」

 

 腰へと抱き着くメルエと、その背中を優しく撫でるサラの姿を見ていたカミュは、そのまま踵を返し、前方へと歩き出す。その行動に驚いたのはリーシャであり、最愛の妹のような存在の身の危険を危惧していた彼女は、歩き始めた青年の背中へ向かって問いかけてしまう。

 だが、振り返ったカミュの表情を見た時、リーシャは全てを悟り、そして後悔の念さえも胸に宿してしまう。それ程に、彼の表情は哀しみに満ちていたのだ。

 

「今の俺達に何が解る? 進むしかない……」

 

「……わかった」

 

 メルエの身に何が起きたのか。

 それを明確に把握している者など、この中に誰一人としていない。

 何かに気付き始めているサラでさえ、明確な理由を説明出来る程に理解している訳ではないだろう。それでも、サラは笑みを作り、妹のように可愛がるメルエを抱き締めている。

 リーシャは、この青年の考えている事が手に取るように理解出来た。

 この青年は、自分を責めているのだ。

 自分と出会う事で、魔物と戦う必要がある旅をする事になり、自分の不注意で魔法の契約を済ませた事により、幼い少女は『魔法使い』となった。更に言えば、その危険な旅を続けていた為に、幼い『魔法使い』は世界最高位に立つ程の能力を有する事になってしまったのだ。

 それを彼は悔いている。だからこそ、あの表情を浮かべ、あの言葉を吐き出したに違いない。

 『今の自分には何も出来ない』、『何もしてやる事が出来ない』、そんな考えが、彼の罪悪感を大きくさせ、そして哀しみを増大させているのだろう。

 

「悔やむな……。お前が悔やめば、お前と共にいる事に喜びを感じているメルエの顔もまた、哀しみに歪んでしまうぞ」

 

 再び歩き出そうとする青年の背中へ向かって、リーシャは口を開いた。

 その言葉は、彼と共に四年の旅を歩んで来た彼女だからこそ口に出来た言葉なのかもしれない。だが、同じように四年間という時間を過ごして来たサラには口に出来なかった言葉でもある。

 カミュという青年を、一人の人間として接し、その心の中を理解しようと奮闘して来たリーシャだからこそ、彼が心の奥底へと仕舞い込んだ悲しみや苦しみに気付き、他の人間であれば気付きもしない僅かな表情の変化に気が付いたのだ。

 それは、世界で唯一人の『賢者』にも、皆を和ます世界最高位の『魔法使い』にも出来ない、このパーティーを引っ張って来た二人が築いて来た『絆』なのかもしれない。

 

 

 

「氷が少なくなって来ましたね」

 

 そこから数刻の時間を歩き続けた彼等は、道中で<スノードラゴン>や<氷河魔人>と遭遇する事もなく、無事に平原まで出る事が出来た。

 大地の土を覆う分厚い氷も薄くなり、空から降り注ぐ太陽の光も何処かしら温かく感じるその場所には、緑豊かな木々が立ち並び、太陽の光を一身に受けようと、花々が咲き乱れている。雪に心を弾ませていた筈のメルエの瞳が、先程までとは異なる光を宿し始め、草花の中へと駆け出した。

 苦笑を浮かべるリーシャとサラは、駆け出したメルエを追うように歩き出し、残されたカミュは、青い空に輝く太陽のような微笑みを浮かべている少女を暫しの間眺め、ゆっくりと歩き出す。

 

「このような場所にまた来られるなど、物好きな方達じゃな」

 

 草花の中にひっそりと建つ小屋の扉を叩くと、以前に訪れた時と同じ人物が出て来る。この場所を訪れてから一年程の年月しか経過してはいないが、その老人の姿は、更に老いを感じてしまう程の物であった。

 頬はこけており、目は窪み、唇の色は落ちている。死人のようなその表情を見たメルエは、驚きの余りマントの中へと隠れてしまった。それ程にこの老人の衰えは顕著であり、生きる希望を失いつつある事を明確に示唆している。

 老人の姿に驚きながらも、勧めに従って中へと入った一行は、老人と相対するように席へと座り、この部屋の空気が落ち着くのを待った。

 

「ここへ再び来られたという事は、何か用でもあるのであろう?」

 

「はい。ですが、その前に一つお聞きしたいのですが……」

 

 メルエの前に暖かな白湯を出した老人は、ゆっくりとした動作でカミュ達へ向き直り、この場所への来訪目的を問い質す。

 確かに、この氷で覆われた島を歩き、命の危険を冒してまで来る価値は、この小屋には一つもない。貧しい小屋に何の取り得もない老人が住んでいるだけとなれば、この老人の知人や親族でない限り、この老人に会う事が来訪目的となる事はないだろう。

 それでもカミュ一行のような若者達がこの場所を訪れたという事は、この老人に何か用事があるという事になると考えるのが普通であった。

 

「……以前、<変化の杖>を欲しておられましたが、その杖を手にしてまで何を求めておられるのですか?」

 

「な、なに!? <変化の杖>を入手されたのか!? 譲ってくれ! 頼む!」

 

 静かにカミュを見つめていた瞳は、その青年の口から出た言葉を聞いた途端、歓喜と困惑の為に揺れ動き、発狂してしまったかのように大声で喚き立てる。突如発せられた大声に驚いたメルエは、持っていた白湯の入ったカップを落としてしまい、机の上に白湯が零れ落ちた。

 机の端まで流れた白湯が床へと落ちて行く中、発狂したように叫んだ老人を見据えているカミュの瞳には、一切の揺らぎはない。老人の慌てぶりに驚く事もなく、老人の鬼気迫る想いに気圧される事もない。ただ黙って老人を射抜くように見つめているだけであった。

 

「す、すまぬ……取り乱してしまった」

 

「いえ、お気になさらずに」

 

 微動だにしないカミュの瞳に射抜かれた老人は、自分の姿を改めて振り返り、羞恥に赤らめた顔を隠すように床へと視線を落とす。この老人にとって、<変化の杖>という物は、我を忘れてしまう程に欲した夢の道具であるのだろう。半ば伝説化したように『人』の世に伝わる神代の道具の存在を信じきる事は出来ず、それでも尚その希望に縋る他なく、この老人は生きる気力を繋げて来ていたのであろう。

 何かを考え込むように俯いた老人は、暫く考え込んだ後、ゆっくりとその胸の内にある想いを吐き出して行く。それは哀しいまでも『人』の感情の一つであり、『人』の心の向かう場所であった。

 

「わしは、昔にエジンベアを追われた身。もはやあの国に身寄りはなく、知り合いもいない。だが、エジンベアはわしの故郷なのじゃ……」

 

 この老人は、十数年前にこの場所へ移り住んだと話している。それまではエジンベアで暮らしていたのだとも話していた。

 あの特殊な国では、自分達の中にある常識以外を許す事はない。ルザミに居た学者のように、『世界は丸い』と唱えただけでも、それは人心を惑わす物だと追放処分を受けてしまうのだ。この老人もまた、あの国の常識を覆す事を成したのかもしれない。

 あの国とこの老人の間に何があったのかは解らないが、それでもこの老人が故郷を追われる事となり、二度と戻る事が出来ないという事実だけは確かめる必要などないだろう。

 

「わしはあの国へ戻りたい。生まれたあの場所で死を迎えたい。例え、今の姿を失う事になっても、誰もわしという個人を見る事がなくとも、あの場所へ帰りたい……」

 

「……そうですか」

 

 老人の独白は続き、その想いは切実な願いへと変化して行く。それを聞くリーシャやサラの表情も沈痛な物へと変化して行き、次第に老人の強い願いが彼女達の胸を打った。

 生まれ故郷という物は、人それぞれの想いはあれども、その者の心、人格、身体の全てを育んで来た土地である。そこにどれ程の苦労があろうとも、歳を重ねる毎にそれらは思い出へと変わり、やがて望郷の念へと昇華する。

 リーシャやサラは、生まれ故郷であるアリアハン国を愛している。彼女達でさえ、あの国には嫌な思い出の方が多い事だろう。親を亡くし、孤独を感じ、何度涙した事か解らない。だが、それでもあの国は彼女達を育み、彼女達を造って来た。故郷への想いは、彼女達が年齢を重ねる程、そして故郷を離れてからの時間が長くなる程に大きくなって行く。

 それが、本来の故郷という物なのかもしれない。

 

「変化の杖ならば、どんな姿にもなる事が出来ると伝えられておる。本当に存在するのかも解らないし、そんな不可思議な事が現実になる事がない事も理解しておるのじゃ。だが、それでも……僅かな可能性でもあるならば、その希望に縋りたい……」

 

 カミュは、生まれ育ったアリアハンに対し、特別な想いはない。むしろ憎しみに近い程の感情を持っているし、どうしても行かねばならない理由でもない限り、二度と足を踏み入れたくはないとさえ考えていた。

 だが、目の前で膝を折り、顔を覆って咽び泣く老人の姿を見て、彼の心の中にも僅かではあるが何らかの想いが湧き上がって来る。それは憐みかもしれないし、蔑みかもしれない。それでもカミュの中にこの老人に対しての歩み寄りが生まれていたのだ。

 

「……変化の杖は差し上げます」

 

 カミュの口から零れた言葉が、この小屋の中の時間を僅かに止めてしまう。

 リーシャやサラは目を見開き、老人は驚愕の言葉に勢い良く顔を上げた。只一人、白湯を飲みそびれたメルエだけは、不満そうに頬を膨らませ、カミュの方へ瞳を向けている。

 神代から伝わり、この世の守護者と云われる『精霊ルビス』の手から『人』の王へと渡った国宝級の杖である。一国を救った恩賞として下賜された物を、哀しい過去があるとはいえ、一般人に委ねる事は、不敬に値する行為なのかもしれない。だが、驚きに見開かれていたリーシャとサラの表情は、すぐに穏やかな物へと変わった。

 それは、彼女達もまた、カミュの考えに賛同した事を表している。

 

「メルエ、杖を」

 

「…………いや…………」

 

 だが、ここに来て、唯一人だけカミュの考えに異を唱える者が現れた。

 それは、ここまでその神代の杖を持って歩いて来た人物であり、この杖の能力を一番楽しんでいる者。子供がお気に入りの玩具を手放さないように、この少女もまた、奇妙なその杖を胸に抱いて、絶対的な保護者に背を向けるように身体を背けたのだ。

 メルエがカミュに対して反抗的な態度を取る事は珍しい。いや、珍しいというよりも初めてかもしれない。

 ヤマタノオロチの住処であるジパングの洞窟内で、カミュの進行方向に異を唱える事はあったが、それは彼の身を案じての物であり、魔物に対して不思議な感覚を持つ彼女だからこその行動である事はカミュ達三人も知っている。

 その時とは異なり、今のメルエの行動は、完全な彼女の身勝手な我儘であった。

 

「メルエ……その杖を持っていても使用する事は出来ない」

 

「そうですよ、メルエ。私達が持っていても使う事は許されない事は、リーシャさんからお話しをされたでしょう?」

 

「…………むぅ…………」

 

 大きな溜息を吐き出したカミュは、我儘を言い出した少女に困惑したように口を開くが、その言葉から逃げるようにメルエはカミュから遠ざかろうとする。そんなメルエのマントを掴んだサラは、彼女の前に屈み込んだ。

 目を合わせるように語るサラの瞳から顔を背けたメルエではあったが、自分が不利である事を理解出来ない彼女ではない。ここで自分が我儘を続けていても、カミュ達が折れてくれる訳はなく、自分の要望が届かない事は既に悟った筈である。

 しかし、それでも、甘えや我儘という物を知ったばかりの少女は、不貞腐れたように頬を膨らませ、<変化の杖>を抱えたまま離さなかった。

 

「ああ、ご老体。一つ言い忘れてはいたが、この<変化の杖>を使用する際には、悪しき心を持たぬ事を忠告しておく。悪しき心を持ってこの杖を使用した場合、最悪元の姿に戻れないばかりか、命の補償はないぞ」

 

 頑なに<変化の杖>を抱き抱えるメルエを見ていたリーシャは、未だに呆然としている老人に向かって意味ありげな言葉を漏らす。それは、決してカミュ達が体験した事でもなく、言い伝えがある物でもない。

 あの<ボストロール>という魔物でさえ、元の姿に戻っている。『人』の造った国を崩壊へと導き、その国で生きる者達に苦痛を与え続けていた<ボストロール>が元の姿に戻れた以上、リーシャの語る内容が正しいとは言い難い。

 それでも、先程まで顔を背けていたメルエは、驚いたように顔を上げ、真偽を確かめるようにリーシャからサラへと視線を移した。

 

「メルエが悪戯で使用した時は、初めての使用でしたので、ルビス様もお許しになったのでしょう。ですが、メルエも知っているでしょう? その杖を使って皆を苦しめていた魔物は、メルエ自身がその報いを与えたではありませんか。エルフの女王様とのお約束を破り、メルエがあの杖を悪戯に使用するのであれば、必ずルビス様のお叱りがありますよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 自分の方へようやく視線を戻したメルエに、サラは優しい笑みを浮かべる。だが、その笑みとは裏腹に、メルエの希望を打ち壊す言葉は、メルエの顔からも希望を奪い取った。

 不貞腐れたように頬を膨らませていたメルエは、哀しそうに目を伏せ、その瞳には大粒の涙がたまり始める。

 この幼い少女の中で、エルフ女王と約束をしたつもりはなかったのだろう。だが、『約束』という言葉は、メルエの中ではとても重要な物である。カミュが誓ったあの言葉は、自分にも適用される事を改めて把握し、<変化の杖>を使う事が出来ない事を正確に理解したのだ。

 

「それに、メルエ……背中にある<雷の杖>は重くはありませんか? メルエが<変化の杖>ばかりに気を向けてしまうと、あれ程にメルエの事を好いてくれている<雷の杖>に嫌われてしまいますよ?」

 

「…………だめ…………」

 

 涙を溢す事を耐えていたメルエであったが、サラから掛った予想外の言葉に、溜まっていた物を溢しながら、弾かれるように顔を上げた。

 <雷の杖>という杖も、<変化の杖>にも負けぬ程の能力を持っている。姿を変えてしまうというような摩訶不思議な能力ではないが、人類最高位に立つメルエという『魔法使い』の魔力を一身に受け、それを魔法という神秘へと変換し続けているのだ。

 同じ杖とはいっても、<変化の杖>ではメルエの魔法力に耐える事など出来はしないだろう。それだけでも稀有な武器であるのだが、この<雷の杖>は主を定め、その主を護るように自らで<ベギラマ>を放つ事もあるのだ。

 その杖は、メルエが誇りに感じている<魔道士の杖>の想いを引き継いだ物であり、メルエ自身もその杖を生涯の戦友として認めた物でもある。

 その戦友に『嫌い』だと思われる事は、メルエには耐え難い物でもあった。

 

「では、差し上げましょう? 私は、魔物の姿でもなく、スライムの姿でもなく、エルフの姿でもない、今のメルエの姿が一番大好きですよ」

 

「そうだな。メルエは、今の姿が一番だ。私の大好きなメルエだからな」

 

 サラとのやり取りを黙って聞いていたリーシャであったが、最後のサラの言葉を聞き、優しい笑みを浮かべる。そのままメルエを抱き上げ、涙に濡れるその瞳に視線を合わせ、その頬に自分の頬を合わせる。

 暫くの間、頬を膨らませていたメルエだが、そのままリーシャの肩に顔を埋めてしまった。

 その小さな手から<変化の杖>を受け取ったカミュは、四人のやり取りを眺めていた老人に向かって差し出すように手を伸ばす。

 

「すまぬ……すまぬ……」

 

 仰々しく、神代の神秘を両手で受け取った老人は、涙を流してカミュ達へ頭を下げ続ける。

 十数年もの間、夢に見続けて来た道具は、その神秘として語られている能力を有した物であった。それを齎した者達の言葉を聞く限り、彼等がその効力を試し、その能力を実感した事は確かであろう。だが、注意点として語られた物は、幼い少女を諌める目的もあるのだろうが、自分の使用目的を制限する物でもある事を、この老人は理解していた。

 もし、この老人が悪しき目的で<変化の杖>を使用し、その噂が流れたとすれば、この者達は必ず自分を罰しに来るであろう。それ程の力を有している事は、先程までの会話でも十分理解する事が出来るし、この神秘の杖を入手したという事実が何よりの証拠であった。

 

「その杖の効力が続く時間には限りがありますので、ご注意を。ですが、余りその杖に頼りすぎるのは……」

 

「解っております。わし自身が他人を騙し続ける事への罪悪感で潰されてしまうでしょう。『精霊ルビス』様から伝わる程の道具に、わしのような只の人間が耐えられる時間は短い筈です」

 

 自分の姿を偽り、自分自身を偽る事への忠告を口にしたカミュであったが、その事自体、この老人は明確に把握していた。

 確かに、この<変化の杖>は『精霊ルビス』の手からサマンオサ王族へと受け継がれた道具であり、神が造りし物という伝説も残されている。あの杖を使用したアンデルは、先代国王の実弟ではあったが、『精霊ルビス』から『人』の守護を任されたと伝えられる王族の血を受け継いでいた。その血にどれ程の力が備わっているのかは解らないが、<変化の杖>を受け継ぐ正当な後継者であった事だけは確かである。

 <ボストロール>は魔物の中でも一際強靭な物であり、その神秘に耐え得るだけの胆力も持ち合わせていたと考えられる。また、カミュ達一行に至っては、その魔物を打ち倒し、世界を救う可能性さえも秘めた者達であり、ここまでの旅で何度も神秘を体験した者達でもある為、その神秘に耐えられたとしても不思議な事ではない。

 だが、何の力も有さず、高齢で体力も気力も衰えた老人にとって、<変化の杖>の持つ強力な力は毒にしかならないのかもしれない。

 

「その杖の処分はお任せ致します。世に出す事だけは避けた方がよろしいでしょう」

 

「承知しております。わしと共に墓へ埋める事になるでしょう」

 

 この世界での<変化の杖>の使用は、この老人が最後になるだろう。

 悪しき者が使用すれば、世界に災いが訪れる事は間違いなく、それを容認する事が出来ない以上、最後の使用者と共に灰となるか、土へと還るかしか選択肢は残されていない。

 それを理解しているからこそ、老人は自分の遺骸と共に埋めて貰えるように遺言でも残すつもりなのだろう。そして、それはそう遠くない未来の話となる事は間違いなかった。

 

「何か代わりに差し上げたいのだが、生憎このような生活をしている為、高価な物は何もなくてのう……」

 

「……お気遣いなく」

 

 申し入れを軽く断ったカミュではあったが、老人はそれでも小さな小屋の中の隅々を探し始める。これ以上断る事も出来ない一行は、成り行きを見守る事しか出来ず、再び老人が戻って来る頃には、リーシャの腕の中でメルエは眠りに就いてしまっていた。

 しかし、ようやく戻って来た老人の手にある物を見たサラは、ここまで黙って見守っていた事を激しく後悔してしまう。それはリーシャも同様であり、その手にある物を見つめる目は厳しく、眉間には大きな皺が寄っていた。

 

「これは<船乗りの骨>じゃ。ここを訪れた者が置いて行ったものなのじゃが、この近くでの戦闘で海の藻屑となった海賊団の船長の骨の一部だという。その海賊船は幽霊船となり、夜な夜なこの船長の骨を探し続けていると噂されておる」

 

「……幽霊船?」

 

 しかし、申し訳なさそうにそれを差し出した老人の言葉を聞いたカミュ達は、その言葉の中にあった聞き覚えのある単語に興味を示す事となる。

 それは、この場所へ訪れる前に頭目から聞いた話にも存在した物であり、オリビアの岬の呪いの元ともなっている海賊船の末路でもあった。

 何の因果なのか、それともこれも『勇者』という存在が引き起こす必然なのだろうか。彼等の前に再び細い糸のような道が開けたのだ。それはとても細く脆い道ではあるが、彼等四人は常にそういう道を歩んで来ている。

 それは、今までも、そしてこれから先も変わる事はないのだろう。

 

「その<船乗りの骨>は、糸で吊るせば幽霊船の場所を示すように動き出す。その方角へ進めば、もしかすると幽霊船に遭遇する事が出来るかもしれぬが、それも噂に過ぎぬのじゃ。誠に申し訳ない事ではあるが、わしには、差し上げられる物がこの程度の物しかない」

 

「いえ……十分です」

 

 老人から<船乗りの骨>を受け取ったカミュは一度軽く頭を下げるが、恐縮し切った老人はカミュ達三人に向かって深々と頭を下げる。最後には嗚咽さえ上げ始めた老人を残し、眠り扱けてしまったメルエを抱いたリーシャが最初に小屋を出て行った。

 咽び泣く音を聞きながら、サラも一度綺麗なお辞儀を返して小屋を退出し、最後に残ったカミュは一度小さな溜息を吐き出し、小屋の扉を閉める。

 故郷を追われた者は、己の姿を偽り、己という存在をこの世界から消し去ってでもそこへ戻りたいと願った。

 その想いや願いを今のカミュには理解する事は出来ない。だが、そんな老人の願いを聞き届けた事は、彼の変化の一部が影響しているのかもしれない。

 

 細く頼りない道を辿って来た一行の旅は、その途中で出会う様々な者達によって支えられ、その道を照らされて来た。

 この世の諸悪の根源である『魔王バラモス』へ続く道は、そこへ向かう『勇者』と出会った者達によって明るく照らし出され、堅実な道へと変わって行く。それは、『魔王バラモス』台頭後、誰一人として成し遂げる事の出来なかった事であり、誰一人として見る事の出来なかった道である。

 新たに切り開かれるその道を、彼等は今歩み続けているのだ。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

少し長くなってしまいました。
読みづらいとお感じになられたとしたら、大変申し訳ありません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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オリビアの岬

 

 

 

 グリンラッドの永久凍土を出た一行は、再び船に乗って海へと漕ぎ出していた。

 雪の降り続く島では、往路で遭遇した<スノードラゴン>との再遭遇はなく、行く手を遮るように登場した<氷河魔人>も、メルエの放つ<ベギラゴン>によって天へと還って行く事となる。

 彼等四人が苦戦するような魔物の登場は、最近では見る事がない。サマンオサ国を牛耳っていた<ボストロール>には、カミュが何度も瀕死に落とされ、リーシャでさえ気を失ってしまう程の苦戦を強いられたが、それ以外の旅路で命の危機に瀕した事はなかった。

 それは、この世界で暮らす魔物の強靭さをカミュ達一行が凌駕し始めている証拠でもあるだろう。しかし、その差が何時までも続く訳ではないという事は、誰よりも彼等が知っていた。

 

「そのまま、オリビアの岬へ向かうのか?」

 

「ああ。一度その場所を見てみない事には、対処の方法も解らない筈だ」

 

 戻って来た一行に頭目が目的地を訪ねるが、その答えはこのグリンラッドへ訪れる以前と同様の物となる。

 オリビアの岬に関しては、カミュ達はその目で見た事はない。彼等の旅は、不可思議な現象が数多くあった旅ではあるが、その目で見てみない事には、どのような物であって、どのようにすれば良いのかという判断が付かないというのもまた事実である。

 オリビアという女性は既にこの世にはなく、本来であれば『呪い』などという文言自体が信憑性に欠く物であり、教会の唱える教えの中にある通りにオリビアの魂が『精霊ルビス』の御許へと昇天したのであれば、『人』が作り出した偽りの現象となるのだ。

 だが、先日ポルトガという国で『呪い』としか考えられない現象を目の当たりにしているカミュ達にとって、一蹴する事の出来ない話でもあり、その真偽を自身の目で見ない事には信じる事も出来ないという事だろう。

 

「出港だ!」

 

 頭目の掛け声と共に、錨を上げた船は、ゆっくりとグリンラッドの島を離れ始める。冷たい風が船の帆を押し、舵を切った方向へと走り出す中、着ていた上着を脱ぎ捨てたメルエは、小さな木箱をいつもの場所へ配置し、その上から潮の香りを胸一杯に吸い込んでいた。

 元々、身体が濡れていない限り寒さを口にしないメルエにとって、動き難い厚手の上着は邪魔にしかならないのだろう。冷たい海風を受けて赤く染まる頬を緩め、波立つ海と時折顔を出す魚達の姿に見入っている少女を、リーシャとサラは微笑ましく見つめていた。

 

 

 

 グリンラッドの島から離れ、二週間程の航海を経て、カミュ達は以前に訪れたホビットの居る祠の近辺まで船を走らせた。

 ホビットの祠は、ムオルの村の北部にあり、大きな川の畔にある。その川は対岸が見えぬ程の川であり、海から流れ込む海水が奥の入り江に向かって進んでいた。

 川へと繋がる入り口というのは、大抵は流れが急となり、帆を畳んで舵を切らなければ入り込む事は不可能な筈なのだが、この巨大な川の入口は、まるで船を飲み込むように広く、両端の対岸が見えない程である。故に、船もゆっくりとした速度で、水流に流される訳ではなく、風を受けて走っているという物であった。

 

「海へ戻れそうにない入り江であれば、小舟で行ってもらおうと思っていたが、そうならずに済んだようだな」

 

「逆流となれば、船が戻れないという事か……」

 

 カミュ達はそのような計算をしてはいなかったが、頭目は前もって最悪の状況を考慮に入れていたのだ。

 この時代の船の主な動力は風である。逆風の中進む事が出来る船は数少なく、カミュ達が乗る最新式の巨大船であっても、嵐のような逆風には逆らう事は難しい。

 だが、最も恐れるべきものは、水流である。海岸への波のような物であれば満ち引きがある為、船が沖へ出る事はそう難しい物ではない。だが、川のように上流から下流へと流れ、その流れが急であった場合、帆船のような船はその流れに逆らって進む事は難しいのだ。

 そのような危険がある場合、頭目という立場として、船で入り江に入る事を拒む必要もあると考えていた彼は、穏やかに流れる川の流れを見て、風さえ味方に付けば十分に戻る事が出来ると判断したのだろう。

 カミュやサラは、この頭目を初めとする船員達の存在を、改めて心強く感じたのだった。

 

「しかし、最悪の場合、カミュやサラ、そしてメルエの三人が固まって<ルーラ>を唱えれば、この船一隻ぐらいならば移動は可能なのではないか?」

 

「えっ!?」

 

 しかし、甲板の上で働く船員達を頼もしそうに見つめていたサラは、不意に掛けられたリーシャの言葉に素っ頓狂な声を上げてしまう事となる。その驚きはカミュもまた同じであったようで、不意を突かれたその表情は、何とも間の抜けた物となっていた。

 自分の名が呼ばれた事によって、カミュ達の許へと戻って来たメルエが、二人の表情に笑みを溢す中、リーシャの発言に疑問を持った頭目が部下に舵を任せて歩み寄って来る。

 

「それは、実現可能な話なのか?」

 

「い、いえ……試した事もありませんし、これだけ大きな船となると……」

 

 何か期待の籠った瞳を向ける頭目の疑問に、サラは戸惑いを隠せない。

 この船員達は、カミュ達へ何も話す事はなかったが、カミュ達と離れて自分達だけで航海をする事に限界を感じていたのかもしれない。

 実際に、何度かカミュ達と離れて独自にポルトガへと戻った事も少なくはない。その間は、元カンダタ一味が奮闘する事で、魔物達から船を護っては来たが、それは運が良かっただけと言われれば否定は出来ないのだ。

 海には、カミュ達が居なければ抗う事の出来ない強力な魔物も居る。<大王イカ>や<テンタクルス>などがその良い例であろう。あの二体と遭遇してしまえば、この船は破壊され、乗組員達も全て命を落としていた可能性がある。そんな恐怖を抱えながらの航海は、船員達の心にも負担をかけていたのだろうし、それ以外の魔物達との戦闘は、少なからず船員達の身体に傷跡を残していた。

 

「以前であれば無理かもしれないが、今ではサラは『賢者』となったし、メルエは押しも押されぬ世界最高位の『魔法使い』だ。まぁ、一番頼りないカミュの魔法力の量だって上がっている筈なのだから、三人が同時に行使すれば、可能なのではないか?」

 

「魔法力の欠片もないアンタにだけは言われたくはないが」

 

 自分と共に旅する者達を誇るように笑みを見せるリーシャは、同じように笑みを浮かべるメルエを抱き上げ、その頬に自分の頬を押し付ける。

 彼女にとって、護るべき存在であり、妹のように愛するメルエという少女は、既に自分の誇りとなっているのかもしれない。余りに強力な魔法を行使した時は、その身体に悪い影響がないのかを心配する事は多いが、この幼い少女の才能と努力を信じているという一面も存在していた。

 『魔法を使わせたくない』という物ではなく、『無理をさせたくはない』という物であり、その辺りは、カミュという青年とは少し異なっているのだ。

 

「それが出来るのであれば有難い。実を言えば、アンタ方とサマンオサに繋がる『旅の扉』で別れた後、ポルトガまでの航海の中、数人の船員が傷を負った。命に別状はなかったが、本来であれば船での仕事も難しい程の傷だ」

 

「な、なに!?」

 

 カミュとリーシャの恒例のやり取りが行われる中、頭目が何気なく口にした言葉に、カミュ達全員が驚きの表情を浮かべる。

 カミュ達は、この船の乗組員全てを仲間だと考えていた。それは、この数年間の旅の間で、命を預け合う者同士が理解出来る感情なのかもしれないが、サラやメルエからすれば、この船の船員達は既に家族同然の物と言っても良いだろう。

 その者達が一人でもいなくなれば、その存在の有無に気が付くのだが、傷を隠すように船の仕事に注視していれば、僅かな差に気が付く事が出来る訳ではない。それは、カミュ達の目的が『魔王バラモス』の討伐であり、それに向かって歩む為には、終始様々な事を思案して行かねばならないという事も大きかった。

 もしかすると、傷を負った者が、歩く時に足を引き摺っていたり、片方の腕が動かなかったりしている事に、メルエだけは気が付いていたのかもしれない。だが、その船員に状態を尋ねる事があっても、その船員が怪我をしている事をカミュ達に伝えなかったという可能性もあった。

 

「何故言わなかった?」

 

「アンタ方に言えば、船を降りろと言うだろう? だが、船を降りれば、怪我人達に働く場所はない。ましてや、身寄りのない者達が多いからな……この船に乗せていてやりたい」

 

 船での仕事が儘ならない程の怪我をした者達を冷酷に船から降ろすようなカミュ達ではない事ぐらい、頭目も理解はしている。彼等はおそらく、その怪我の具合を案じて、ポルトガで静養するように勧めるだろう。その時、生活に困らない程度の資金を渡すであろう事まで理解した上で、頭目はカミュの疑問に対して答えたのだ。

 身寄りがないという事は、ポルトガの町で一人で生活しなければならないという事になる。仕事が儘ならない程の怪我となれば、私生活にも不具合が生じる程の物だろう。それを見捨てる事が出来ないと踏んで、この言葉を選んだのだ。

 

「船を降りる必要はない……だが、無理な仕事はさせるな」

 

「……わかっているさ」

 

 その目論見通り、頭目の信じる青年は答えた。

 自分の想像通り、そして自分が思っていた通りの人物であったという事実に、頭目の頬は自然と緩みを見せる。それは数年間の船旅の中で築かれて来た『絆』ではあると同時に、彼等が『勇者』という存在を心の底から信じている証であった。

 その証拠に、周囲でやり取りを聞いていた船員達の表情にも、安堵ではない喜びの笑みが浮かんでいる。

 

「それで、先程の話は実現可能なのか?」

 

「……解りません。正直に言えば、実践した事がない以上、かなりの危険が伴うでしょうし、これだけ大きな船を運ぶとなれば、目的地へ辿り着く前に魔法力が切れてしまう可能性もあります」

 

 ルーラとは、術者の魔法力によって、記憶にある場所へ物や人物を運ぶ呪文である。一般の『魔法使い』の中でも、宮廷に上がる事の出来る程の実力と才能がなければ習得する事は出来ず、その行使自体が難しい物だと云われていた。

 だが、そんな限られた数の『魔法使い』であっても、数人の人間を運ぶ事しか出来ず、荷台を一台運ぶだけでも危険を伴う物でもある。卓越した者であっても、馬車を運ぶ事が出来る者が限度であり、客船と呼ぶに相応しい程の大きさを持つ船を移動させるとなれば、どれ程に優れた術者であっても不可能と言っても過言ではないだろう。

 故に、サラはその危険性を重視する。それは見方を変えれば、自分達の魔法力であれば、船を浮かせる事も、ある程度の距離を移動する事も可能であると断言したのと同時である事をサラは気付いていない。

 だが、それはここまでの経験を重ねて来た者としては当然の考えなのかもしれない。既に、彼等の中に存在する常識は、この世界で当たり前として広がっている常識とは掛け離れた物になっているのだ。

 世界の常識では知り得ない程の数の呪文を習得し、それを当たり前の物として行使する。その中には、瞬時に昼と夜を引っ繰り返すという神のような力を見せる物もあれば、教会では治療出来ない麻痺に対する治療魔法まで存在した。

 世に存在する、魔法に特化した者達の誰もが届かない場所へ足を踏み入れた彼等にとって、それが実現可能かどうかではなく、目的を達する事が出来るかどうかの違いでしかないのだ。

 

「大丈夫だろう。何と言っても、サラとメルエだ。魔法に関して、二人に出来ない事など無いと、私は信じているからな」

 

「……アンタのその自信は、一体何処から湧いて来るんだ?」

 

 サラやメルエを信じきっているリーシャへ溜息を吐き出すカミュではあったが、その瞳には優しい光が宿っている。

 彼女は、自分自身の力を誇る事をしない。男性よりも劣る女性だと馬鹿にされれば、その事に対して怒りを燃やす事もあるが、自分の出自や地位、そしてその力を他者に対して誇ったり、驕ったりする事はないのだ。

 例外的に、カミュに対してその力を脅迫めいた事に使う事はあるが、それも彼女の人柄と考える事が出来るだろう。そんな彼女がこれ程に言い切るという事は、彼女達の力を信じているという他に、サラという『賢者』の気持ちを奮い立たせるという目的もあるのだ。

 サラという人物は、『賢者』という称号を持つ、世界で唯一の人間である。だが、それと同時に、常に悩み、常に迷い、常に考え、そして初めて前を向く事の出来る人間であり続ける物でもあった。一人で答えを出しているように見えはするが、その答えを導き出す為に様々な者の見えない力を頼りにしている事もまた事実である。

 その一つが、この姉のように慕っている女性戦士の言葉であり、温かく大きな手であるのだ。そして、それをリーシャは無意識に理解しているのかもしれない。だからこそ、ここで言葉を発し、世界で唯一となる『賢者』の背中を押しているのだろう。

 

「……わかりました。必要な時は、私とメルエで呪文を行使してみます」

 

 そして、その見識が正しい事を証明するように、サラの瞳が先程までの自信無さ気な物から、何かを決意した強い光を宿す物へと変化して行く。それこそ、彼女がここまでの旅で積み重ねて来た経験への信頼に他ならない。

 彼女自身が自分が歩んで来た道を信じ始めている。それは、サマンオサ国王が彼等四人へ下賜した言葉を信じているという事でもあるのだ。それ程に、あの言葉は彼等四人にとって大きなものであったのだろう。

 成功するとは限らない。

 可能性で言えば、限りなく不可能に近い行為でもあるだろう。

 だが、それでも彼女達は、その無謀とも言える行為を実践し、そしてその力を証明するに違いない。

 

「見えて来たな……あれが『オリビアの岬』と呼ばれる、呪われた岬だ」

 

 サラの瞳を見た頭目は、今まで見た事のないような安堵の表情を浮かべ、船の進行方向へと視線を動かした。その先には、小さく陸地が見え始めている。対岸すら見えない川を渡り切った船は、それこそ果てしない海のように大きな湖に出たのだ。

 海水が入り込んでいる為、完全な淡水とまでは行かないようではあるが、川の入口の時のような潮の香りは薄まり、波のない穏やかな湖面が日光を受けて輝きを放っている。水面まで上がって来た魚達の鱗が更にその輝きを際立たせ、湖面を見つめているメルエの表情も眩いばかりの輝きを湛えていた。

 

「あの岬の先から、オリビアという女性が身投げしたと云われている。それ以来、あの先へ向かおうとする船を拒むらしい」

 

 徐々に近づいて来る岬は、カミュ達が考えていたよりも巨大な物であり、人間がその断崖絶壁の上から飛び降りれば、硬い湖面に直撃し、骨一つ残らない事は容易に想像出来る。

 巨大な湖には、奥に小さな湖を持っているようであり、両端にある岬がその入り口の門のように聳えていた。そして、頭目の話通りであるならば、その岬の入口を通ろうとする船は、岬に残されたオリビアの呪いによって拒まれてしまうという事であるのだ。

 

「あれだけ水流が乱れていれば、船など入る事が出来ないのは当然ではないのか?」

 

 しかし、岬が近づいた所で帆を畳み、湖面に停止した船の上から岬方面を見たカミュは、それが呪いの仕業ではなく、単なる自然現象の一部ではないかと考えてしまう。カミュの言葉通り、両端にある岬の間の水流は乱れており、視認出来る程の渦を巻いている。湖全体へ影響が出ていない事が不思議ではあるが、様々な方向へ渦巻く水流の中を船が進めないという事は当然の事であるのだ。

 そんなカミュへの回答は、無言で首を横へ振る頭目の姿であった。それが示す事は、その水流が自然に起こり得る現象ではないという物である。それの真意が解らないカミュ達は、頭目へ先を促すように視線を投げかけた。

 

「以前は、あのような水流はなかったようだ。あの渦巻く水流が現れたのは、オリビアという女性が身を投げてからと云われている」

 

「では……オリビアさんの呪いが、あの水流を生んでいるというのですか?」

 

「何があっても『呪い』という物へ結び付けようとしているだけにしか聞こえないがな」

 

 説明を始める頭目に、身体を振わせて問いかけるサラ。そんな二人に対して盛大な溜息を吐き出したカミュの言う事に、リーシャは静かな同意を示した。

 これは、人間に限った悪癖なのかもしれないが、自身の身に降りかかった不幸を何かの責任へと転嫁する事がある。この岬で身を投げた女性がいた事は事実なのであろうが、その時期とこの水流が生まれた時期が近いというだけで、悲恋の末に絶望を胸に死した女性の名を弄ぶような風聞に、カミュやリーシャは若干の不快感を表したのかもしれない。

 我関せずのメルエだけは、輝く湖に見える魚達に喜び、傍にいる船員達と何やら笑顔で話をしているようであった。

 

「ですが、真実がどうであれ、あの岬の奥へ進む事が無理である事だけは確かなようですよ」

 

「そうだな……。カミュ、あの水流の中へ入り込んでしまえば、小舟は転覆するだろうし、この船のような大型船は岬と接触して大破するぞ」

 

「俺としても、その危険だけは避けたいところだな」

 

 不思議な空気が流れる甲板で、真っ先に口を開いたのは、先程まで細かく身体を震わせていたサラであった。そして、サラに続き、リーシャや頭目もこの岬へ向かう事への危険性を説き始める。

 確かに、何重にも渦巻く水流の上を小舟で渡る事は不可能であり、即座に転覆した後、全員が溺死する可能性が高い。逆に今乗っている大型船で突入したとしても、舵が言う事を聞かず、方向感覚を失った末、岬の岩壁に激突して大破してしまうのは火を見るよりも明らかであった。

 行動の指針を示す事はリーシャやサラでも可能ではあるが、そのどれを選択し、決定するかはカミュという青年に委ねられる。船に乗るほぼ全員の視線がカミュへと集まる中、その青年はゆっくりと口を開いた。

 

「<船乗りの骨>の中心に糸を巻きつけておいてくれ」

 

 カミュは腰についている皮袋から一本の骨を取り出し、『ぎょっ』と目を見開くサラの手にそれを乗せる。乗せられたサラは、カミュの言葉に反応を示す事が出来ず、広げた掌を閉じる事も出来ない。

 如何に『人』の末路の姿だと理解をしていたとしても、それが気味の悪い物である事に変わりはなく、他人の亡骸である骨を手に置いたまま、サラは固まってしまったのだ。

 そんな『賢者』を捨て置いたカミュは、そのまま頭目に海へ戻る事を告げる。頷きを返した頭目は、全船員達へ号令を掛け、先程畳んであった帆を逆方面に向けて開き、来た道を戻り始める。

 穏やかで波一つない湖面を進み始めた船は、緩やかな川を上り、数刻後には海へと出て行った。

 

 

 

 船が海へと出る頃には、空の支配権は月へと移っていた。

 闇が広がり、雲が流れる中、月と星の輝きが船の甲板を照らし出す。闇によって海の輝きが失われた事で、メルエもリーシャの膝元で眠りに就いていた。

 船員達も交代要員と変わる中、夜にはその禍々しさを増す<船乗りの骨>へ糸を巻き付けた物をカミュが手に取る。その様子を、メルエを起こさぬように座ったままのリーシャが見上げ、その横でサラが不安そうに見つめていた。

 <船乗りの骨>の形状は、自然に朽ち果てたような物ではない。腕なのか、足なのかが判別出来ない物ではあるが、骨と骨の接続部分が残る部分と、先が尖った部分があるのだ。その骨の中心部分に糸を巻き付け、それを垂らすように糸の先を持ったカミュは、月明かりが差し込んでいる場所へと移動して行った。

 

「これは……南西を指しているのでしょうか?」

 

 風も吹いていないにも拘らず、カミュの持つ糸の先に吊るされた骨が回転を始めた事に驚いていたサラであったが、暫く後にその骨が微動だにしなくなった事で、更に驚きを増す。尖った骨の先は、今までの動きが嘘のように、ある方角を指すように動きを止めたのだ。

 一番星の方向が解る夜空の下、その方角がどちら側なのかを把握したサラは、自分達が向かうべき方角にある場所を思い浮かべながら首を捻る。サラが考えた疑問は、カミュやリーシャにとっても同様の疑問を残す物であったらしく、同じように首を傾げた後、メルエの髪を梳いていたリーシャが口を開いた。

 

「南西というと、先程の『オリビアの岬』がある方角ではないか? その骨が幽霊船の場所を指すと言うならば、あの岬の先に幽霊船がいるという事か? ならば、手詰まりではないか」

 

「いえ、おそらく更に西を指しているのだろうと思います。この巨大な大陸の向こうですから……バハラタの北西……ポルトガ港の南西辺りという事になるのでしょう」

 

 そのまま疑問を口にしたリーシャではあったが、サラはもう一歩踏み込んだ先を見据えている。西に見える大陸を指している訳でもなく、その大陸の内側にあった入り江を指している訳でもない。つまりは、この巨大な大陸の向こう側を指しているのではないかと考えたのだ。

 確かに、リーシャの言う通り、『オリビアの岬』の先にある入り江の中で幽霊船があったとしたら、それこそ手詰まりとなってしまうだろう。だが、船という物理的な物である限り、それ自体があの大渦を超えて行ける訳はなく、また船自体が霊的な物であれば、同じような『呪い』という観念と対立するのではないかと考えていた。

 

「一度ポルトガへ戻る」

 

「了解した。このまま船で戻って良いのだな?」

 

 サラの考えに同意を示したカミュは、頭目へ向かって進路を告げ、星空輝く海原を船はゆっくりとした速度で進み始める。その際に、頭目が先程議題に上がった<ルーラ>という呪文に対しての問いかけをしたのだが、それにカミュは苦笑を浮かべただけであった。

 今はまだ船の旅で良い。

 『魔王バラモス』の力を目の当たりにした彼等ではあるが、今日明日に人類が滅亡するような話でもなかったのは事実。着実にその可能性が近づいては来ているが、それが一刻を争うような物ではない以上、彼等が敢えて危険を冒す必要はないのだ。

 

 船は時間を掛けてポルトガへと戻る。

 今回は、南下してジパングを通る航路ではなく、北上してノアニールの村の北部を通り、エジンベアの東を南下する航路を取った。

 もはや、この船の乗組員達は、世界に数多くいる船乗り達とは、知識も経験も雲泥の開きがある。『勇者一行』と呼ばれるカミュ達と旅する事により、世界の海を渡る海賊達よりも、その知識は豊富になっているのかもしれない。

 今や、海の護衛団として名乗りを上げたメアリ率いる『リード海賊団』達よりも、船乗りとしての経験は濃く、魔物達との戦闘などの経験も豊富になっている。それは海で生きる者達として、最上位に入る程の物となっているのだ。

 

「ポルトガへ寄港するのか?」

 

「いや、このまま東へ向かう」

 

 『オリビアの岬』近辺の海域を出発してから一か月近くが経過した頃、ようやく船の前方にポルトガの港が見えて来た。夕暮れ時の為か、漁船の帰港や貿易船の入港などが多く、ポルトガの港の賑わいが手に取るように解る。

 船が犇めく港を見ながらのリーシャの問いかけは、港の方へ視線を送りもしないカミュによって即座に却下された。

 既にポルトガ国王に、『魔王討伐の為にネクロゴンドを目指す』と口にした彼等である。その場所から<ルーラ>を使って何処かへ移動するのであれば別であるが、宿泊も含めて停泊するのであれば、国王への謁見をしないという不敬を冒す事は出来ない。故に、カミュはポルトガへ停泊する事を拒否したのだ。

 

「このまま向かえば、ロマリアの南部へ着く頃には、最悪明日の夜になるぞ? 夜の闇の中で幽霊船を探すのか?」

 

「<船乗りの骨>がある」

 

「し、しかし! 夜の航海は、障害物などを避けられない危険もあり、ここで無理をする必要はないのではありませんか!?」

 

 リーシャの言葉通り、ポルトガの港を東へ向かえば、ロマリア王城のある島の南部へ辿り着く。カミュ達が初めて到着したアリアハン以外の国土であり、旅の扉の出口があった場所から見える海域へ出るのだが、そこまでの船旅の航路を考えても、沈み始めた太陽が再び昇り、その太陽が沈みきる頃までの時間を要する事は明白であった。

 夜になってから、船一隻を大海原で探し出す事は不可能に近い事であり、それをリーシャは指摘するのだが、カミュはグリンラッドで入手した<船乗りの骨>という探索手段を口にする。それに対して大声を張り上げて異議を唱えたのは、夕陽で赤く染まる顔を真っ青をにしたサラであった。

 その必死さは、何処か滑稽さを滲み出している物であり、甲板のあちこちから失笑が零れて来るのだが、その周囲の変化に気付く余裕もない程に懸命に理由を説くサラの後方から、一つの影が迫って来る。

 

「それは心外だな。俺達は、ここまでの旅で何度も夜間航海をして来たぞ? アンタ達を無事に目的地まで運ぶ事は俺達の誇りだ。その誇りを信じてくれてはいなかったのかい?」

 

「い、いえ! そ、そういう事ではありません! 皆さんの事は信じていますが……な、なにも夜間に探す必要などないのではという事を言いたいのです」

 

 その影は、この巨大な船の全権を握っている頭目の物であった。

 サラの言葉に傷ついたように肩を落としてはいるが、カミュやリーシャから見れば、目が笑っているのは明らかである。だが、その細かな表情にサラは気付く事無く、懸命に弁明を繰り返すのだが、それは結局墓穴を掘ってしまう結果を生み出すのだった。

 海を眺めていたメルエも、皆の楽しげな雰囲気に誘われ、笑みを浮かべながら近づいて来る。そんなメルエを抱き上げたリーシャは、必死に手を振りながら弁明を繰り返すサラに対して、最後勧告を投げつけた。

 

「だが、『幽霊船』という名が付いている以上、夜の闇の中でしか存在しないのかもしれないぞ? 幽霊は夜に現れるというのは、昔からの相場だからな」

 

「ひぃぃぃ!」

 

 今まで考え無いように苦心して来たのだろう。最後通告を受けたサラは、身を強張らせて顔色を失って行く。膝が笑うように震え、歯さえも噛み合わずに派手な音を鳴らし始めるその姿を見た船員達は、先程までの失笑を通り越し、何処か哀れにさえ感じてしまった。

 強大な魔物を駆逐する程の力を有し、どんな傷も癒す神秘を使いこなし、死さえも司る程の呪文を行使する『賢者』が、既にこの世の物でなくなった者達の影に怯える姿は、滑稽を通り越して、哀愁さえも感じてしまう物であったのかもしれない。

 しかし、そんな中でも、周囲の空気を全く気にしない者が一人。

 

「…………あわ……あわ…………」

 

「メルエ……それは言わない約束だぞ?」

 

 震えるサラを見上げ、楽しそうな笑みを見せる少女は、何度も注意をされた言葉を口にし、サラの足元にしがみ付く。 

 実際、その言葉の何がそこまで楽しいのかを理解出来ないリーシャは、何度窘めても直らないメルエの行いに溜息を吐き出し、諦めたような言葉を投げかけた。しかし、拳骨が落ちて来ない事を悟ったメルエは、その言葉を繰り返しながらサラの顔を見上げては笑みを溢す。

 メルエのからかいも聞こえない程に狼狽えるサラの姿を気の毒に思った頭目ではあったが、カミュが方針を変えない以上、その指示に従う他なく、乗組員達へ指示を出し、船を目的地へ向かって走らせる事となった。

 

 大方の予想通り、船は翌日の深夜にロマリア南部にある小さな孤島に辿り着く事となる。島の入り江に停泊した船の上で、取り出した<船乗りの骨>を垂らすと、月明かりに照らされた骨は、勢いよく回転した後、カミュ達の居る場所から島を挟んだ向こう側を指し示すように動きを止めた。

 実際は、島そのものを指しているのであるが、『幽霊船』という名が付いている以上、海の上を浮かぶ物だと考えられ、島の向こう岸を指していると考える事が妥当であろう。

 既にメルエは夢の中に入っており、動きを止め、風が吹いても微動だにしない<船乗りの骨>を凝視するサラの身体は小刻みに震えている。恐る恐る顔を上げたサラは、目の前にあるカミュの顔が、既に島の向こうを見据えているのを見て、自分の希望が打ち砕かれて行く事を自覚し、絶望に近い表情を浮かべた。

 

「夜が明けると見失ってしまうかもしれないな」

 

「ああ……島を回ってくれ」

 

 リーシャの考えに同意を示したカミュの指示に、頭目は小さく頷きを返す。

 これで方針は確定事項となった。

 もはや、誰が何を言っても、彼等の行く道は『幽霊船』という事になり、夜が明けるのを待つ事も、気持ちを落ち着かせる為の時間もない。闇に閉ざされた海の上で、<船乗りの骨>に導かれた船は、ゆっくりと速度を上げ、小さな島の外周を回って行った。

 

「……霧が出て来たな」

 

「心配するな。夜の霧も、海の醍醐味だ」

 

 島の外周を回り始めてすぐ、まるでカミュ達の船そのものを覆い隠すように濃い霧が立ち込み始める。だが、一寸先も見え辛くなる中、頭目は胸を張って自信あり気に口を開いた。

 その霧は徐々に濃くなって行き、島の反対方向へ辿り着いた頃には、夜の帳が落ちた海が真っ白に染まる程の物となる。肌寒くさえ感じる程の霧が立ち込める中、一つ小さなくしゃみをしたメルエが目を覚まし、前方を見ているリーシャの傍へと近寄って行くが、リーシャの横に立つサラの身体が小刻みに震えている事に気付き、再びからかいの言葉を口にするのであった。

 そんなメルエの愛らしい姿に苦笑を浮かべながらも軽い拳骨を落としたリーシャは、頭を押さえるメルエの首が突然在らぬ方角へ向けられた事に気が付く。その方角は、乗組員のほとんどが向いている前方ではなく、船の真横であった。

 

「…………なにか………くる…………」

 

「魔物か!?」

 

 メルエの察知能力を知っているリーシャは、一寸先も見えない霧の中で、姿を隠して近づく魔物を想像し、背中の<バトルアックス>を取る。だが、即座に横へと振られたメルエの首が、近づく物が魔物ではない事を示しており、それ以外の物の接近を感じ取っている事を示していた。

 この霧が立ち込める海上で接近する物が魔物でないとするならば、残る可能性は一つしかない。聡いサラは、その可能性を既に察しており、絶望を感じる程の表情を浮かべてメルエを見て、更にその顔を青くしながらメルエの視線を追った。

 

「うわぁぁ!」

 

 響き渡る突然の叫び声にサラが尻餅を突き、乗組員達全員の視線がその発信元へと移動する。叫び声を上げた乗組員は、船の側面に一番近い場所にいた者であり、海上から近づく何かに真っ先に気付いた者であった。

 濃い霧の中でも徐々に見え始めた接近物の姿は、カミュ達が乗る船と比べても遜色のない程に巨大な船。近づくにつれてはっきりと見えるその船体は、海の上を走っている事が不思議な程に破損が酷く、頭部の人骨の後部で交差する骨という族章が描かれた帆は、判別が不可能な程に破れ果てていた。

 カミュ達の乗る船は、ポルトガという貿易国家が、国家の威信を懸けて造船した物であり、その大きさから装備に至るまで、他の追随を許さない程の物である。そんな船に遜色がない程の船体を持つこの船は、正しく海の覇権を最後まで争った海賊棟梁が乗る船と言えるだろう。

 

「と、停まった……」

 

 船体が破損し尽くしたその船は、まるでカミュ達を船内へと誘うように、船を横付けさせて停止した。船体が擦れる程に近づいた船同士が軋む音が響く中、甲板の上では誰一人声を発する事が出来ず、奇妙な静けさが広がる。

 破れた帆の布が風に靡いてカミュ達の船の手摺に絡みつき、船体の穴を吹き抜ける風がおどろおどろしい音を発していた。それは、歴戦を重ねて来た海の男達の肝さえも冷やしてしまう程に悍ましく、皆が指一本動かせずにいる。

 だが、そんな中、銅像のように動けない船員達の脇を通り抜ける影。

 

「カミュ、行くのか?」

 

「行く以外の選択肢があるのか?」

 

 自分の横を抜けて行く青年の背中へ問いかけたリーシャの言葉は、全く正反対の問いかけとなって帰って来た。

 確かに『勇者一行』と呼ばれる彼等が持つ選択肢は少ない。いや、少ないというよりも皆無と言った方が良いかもしれない。選べる道が複数あった事など、この旅を始めてから数える程しかない。それは、この悍ましい姿をした船を目の前にしても同様であった。

 疑問に対して疑問で返す非礼にも苦笑を浮かべたリーシャは、傍で不思議そうに首を傾げているメルエの手を取って『幽霊船』へと足を踏み出す。

 

「え、え……ま、待って下さい。な、何も今行かなくても……」

 

「サラは来なくても良いぞ? 今日のサラは、駄目そうだからな」

 

「…………サラ………だめ…………?」

 

 そんな三人の行動に驚き、慌てふためいたのは『賢者』と呼ばれる女性である。

 霊魂という物に苦手意識を持っている彼女は、突如現れた廃船の姿に怯えきっており、震え続ける足は一向に前へと動く事がない。必死に声だけは絞り出すのだが、その発現は世界で唯一の『賢者』とも思えない程の弱気な物であり、カミュ達の行動を阻止しようとする物であった。

 そんなサラの姿に大きな溜息を吐き出したリーシャは、珍しく挑発的な物言いを溢す。

 『来なくて良い』と言われて引き下がるような軟弱な人間であれば、サラはここまで旅を続ける事など出来はしなかった。何度も悩み苦しみ、その度に自身の価値観を覆され、前も見れない程に心が壊れてしまった時にも、彼女は足を踏み出して来たのだ。

 リーシャの言葉を聞いた途端、目に宿る光が切り替わったサラは、続くメルエの挑発に対してようやく本来の姿を取り戻した。

 

「もう! メルエは先程から私を馬鹿にしているのですね!」

 

「…………サラ………おこった…………」

 

「メルエが悪いな。あれ程言えば、流石のサラも怒るさ」

 

 頼みの綱のリーシャが庇ってくれない事を理解したメルエは、即座にサラから逃げるように甲板を走り出す。しかし、元々の身体構造から考えて、サラから逃げ切れる訳はなく、身体ごと捕まり、サラからの拳骨と叱責を受けながらも微笑むメルエの姿は、とても微笑ましい物であった。

 そんな二人のやり取りに苦笑を浮かべながらも、視線を『幽霊船』らしき物へと移したリーシャは、自分の身体に纏わりつくような寒気を感じる。悪寒と言っても過言ではない冷気は、彼女の頭を過った悪い予感のせいなのか、それとも目の前の廃船から漂う霊気の影響なのかは解らないが、何れにしても良い感触を持たない物である事だけは確かであった。

 

「トヘロス」

 

 船の縁へ近づいたカミュは、一度振り返った後、船の甲板全体を覆うように呪文を行使する。それは、イシス国女王から下賜された書物に記載されていた呪文であり、弱い魔物を近づけない聖なる空間で包み込む神秘である。

 術者であるカミュは、この世界で人類最高位に立つ程の強者であり、海上と言えども、船を取り巻く聖なる空間は非常に強力な物となる筈であった。それは魔物に対してだけではなく、弱い邪気や霊気などにも効果があるのではと考えたのだろう。

 その行使が終了した事を見届けた一行は、そのまま寄せ合う廃船へと足を踏み入れた。

 

 古いながらも持ち続ける強い念の源が、この船に乗る海賊と思われる者達の恨みの念なのか、後悔の念なのか、それともこの海賊船に襲われた商船に乗っていた者達の怨念や、オリビアの想い人であるエリックの無念であるのかは解らない。

 だが、どのような念であろうとも、その念が人々を恐怖させる程に強力な物である事に変わりはなく、夜な夜な彷徨い続ける幽霊船がこの世の理を捻じ曲げてしまっている事も事実である。

 この『幽霊船』を生んだのはカミュ達ではないが、<船乗りの骨>という物を手にした彼等が『幽霊船』という現世の理から外れた存在と遭遇する事となったのも、カミュという『勇者』が引き起こす必然であったのかもしれない。

 それは、この船に乗り込んだ彼等自身が、強く感じる事になるだろう。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

幽霊船のお話は次話になってしまいました。
描いている内にどうしても長くなってしまい、二話に分けました。
次話は再度ゲームと同時進行で描き直しますので、少しお時間を頂きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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幽霊船①

 

 

 

 廃船内の明かりは、月から降り注ぐ淡い物しかなく、船内は暗い闇に覆われていた。

 カミュが持つ『たいまつ』から燭台へと炎を移す事によって、少しずつ船内の状況が見えて来るが、その様相はとても海の上に浮かぶ船の物ではない。

 甲板の板は抜け、足元に炎を向けなければ、下の船室へ落ちてしまうだろう。マストに掛けられた帆は破れ、もはや海の上を吹き抜ける風を受け止める事など出来る物ではない。それに加え、主となるマストは無事ではあったが、補助のマストは途中から折れ甲板に突き刺さっていた。

 

「これで良く海上を動く事が出来ているな」

 

「それが幽霊船の所以でもあるのだろう」

 

 周囲を見渡したリーシャは、この廃船が海に浮かんでいるという事実が信じられない物に映る。確かにこの様子を見る限り、船底にも穴が開いていても不思議ではなく、そこから海水が僅かでも入っていれば、その量は徐々に増し、船体を暗い海の底深くへ引き摺り込む事になる筈なのだ。

 だが、この船は海上に浮かび、海の上を吹き抜ける風を受けて動いている。その事実がある以上、ここまでの旅で彼等が目撃して来た不可思議な現象と何ら変わりがないという事だろう。

 

「…………サラ………いたい…………」

 

「ふぇ!? あっ! ご、ごめんなさい」

 

 そんな不可思議な現象を目の当たりにし、周囲に『たいまつ』を向けていたカミュとリーシャの足元から、何とも情けない声が聞こえて来た。

 この廃船に乗り組む前の騒動の流れでサラに手を引かれていたメルエが小さい苦悶の声を上げたのだ。

 余程の事が無ければ苦しみの声を上げないメルエが眉を下げて声を発したという事で、その手を握るサラの力が相当強い事を示している。乗り込む際には、からかうメルエに対して強気の姿勢を見せていたサラではあったが、実際に『幽霊船』と呼ばれる廃船に入った途端、その意気込みは萎んでしまったようであった。

 足が竦み、支える膝は笑う。表情は青ざめ、周囲を見渡す余裕のない瞳は、節操なく泳いでいる。冷たい汗が頬を流れ、握っていた少女の小さな手を握り潰さんばかりに力を込めていたのだ。

 

「サラ……本来であれば、この船で苦しんでいる者達を救うのが、サラの仕事なのだぞ?」

 

「アンタはこの僧侶擬きに何を期待している?」

 

「そ、僧侶……もどき……」

 

 溜息と共に吐き出されたリーシャの言葉は、傍で<たいまつ>を前方へ繰り出していたカミュから辛辣な物言いに掻き消される。それを聞いたサラは、先程までの怯えきった表情から、愕然としたような表情へと変化し、肩を大きく落とした。

 既に『賢者』という敬称が付く者へと昇華したサラではあるが、その胸の内は、『精霊ルビス』という絶対の存在を信じ続けており、信心深い女性なのだ。だが、カミュの言う通り、本来の『僧侶』であれば、修行の過程で行う霊的な物への対処を苦手としているのもまた事実。霊の存在を怖がり、年端もいかない少女の手を握り締める『僧侶』など、『僧侶(もど)き』と称されても弁解の余地はないだろう。

 

「サラの『人』を救いたいという想いは、『人』であった者には向かわないのか!?」

 

「……」

 

 カミュの辛辣な言葉と、それに対するサラの反応に対して大きな溜息を吐き出したリーシャは、少し厳しい視線をサラへと向け、その胸の中で燻っている炎を燃え上がらせようとするが、その言葉に対して向けられたサラの瞳を見て、全てを諦めた。

 その瞳は自信無さ気に揺らぎ、まるで叱られた時のメルエのように眉を八の字に下げられている。何をどう言ったところで、『怖い物は怖い』という事であり、それが元僧侶であろうと、現賢者であろうと変わりはないのだ。

 そんなサラの怯えが伝わったのだろう。先程まで痛みに歪んでいたメルエの表情が変化し、まるで相手を慈しむような穏やかな物となる。からかい続けていたサラの様子が尋常でない物である事を悟り、その不安を和らげようと、手に力を込めた。

 

「メ、メルエ?」

 

「…………だいじょうぶ………メルエ……いる…………」

 

 その言葉は、幼い少女にとっては魔法の言葉。

 自身が常に勇気と自信を貰って来た言葉。

 笑みと共に紡がれた言葉は、怯えの闇に支配されていたサラの心に一筋の光を注ぎ込む。

 

「ありがとうございます」

 

 儚く脆いながらも、ようやくサラの顔に笑みが戻った事に安堵したリーシャは、カミュへと視線を戻し、そのまま船内の探索へと意識を向けて行った。

 暗闇に支配された船内は、視界が限りなく狭く、一歩一歩歩きながら、傍にある燭台へと炎を移して行く作業となる。カミュが先頭を歩き、その後ろにメルエに手を繋がれたサラが続く。最後尾にもう一つの『たいまつ』を握ったリーシャが周囲を警戒しながら進むという布陣となった。

 幽霊船と呼ばれる廃船の大きさは、カミュ達が所有する船には及ばないまでも、かなりの大きさを有している。甲板の中央まで出たカミュは、そこで周囲へと『たいまつ』を向け、向かう方角を導き出した。

 

「こちらは操舵室のようだな」

 

「行っても行き止まりなだけだ」

 

 カミュが向かおうとしたのは、推測にはなるが船尾の方角。それを理解したリーシャは、船首の方へ『たいまつ』を向け、近くに見える小さな小屋のような物を見つめた。

 船の構造などに詳しい訳ではないが、ここ数年間の間、船に乗る回数も増えていたリーシャは、その小屋らしき場所が何をする為に存在するのかを正確に言い当てる。だが、即座に返された言葉に、瞬時に眉を上げ、憤怒の形相で振り返った。

 別に方角を示そうとした訳でもない為、カミュの物言いが何とも腹立たしい。リーシャとて、自分が指し示した方角が運悪く行き止まりにぶつかる事が稀にある事ぐらいは自覚している。だが、明らかに発言を抑止しようとするカミュの物言いに、流石のリーシャも怒りを感じてしまったのだ。

 

「操舵室が行き止まりである事ぐらいわかっている! だが、何かあるかもしれないだろう!」

 

「いや。アンタがそう言う以上、何もない筈だ」

 

 悔しさを滲ませて叫ぶリーシャの言葉も、容赦のないカミュの一言に切り捨てられる。

 それは、最早カミュの中で、リーシャの発言という物を何よりも信頼しているという一面もあるのだが、当のリーシャから見れば、馬鹿にされているとしか感じる事が出来なかったのだろう。

 悔しさと怒りに歪んだ表情を浮かべたリーシャであったが、背中の武器を手にする事はない。以前のように一触即発という場面にはならないという事が、リーシャの心の変化を示しているのかもしれない。

 

「…………ふふ…………」

 

 しかし、そんな二人のやり取りが、場の雰囲気を和ませる物であった事だけは確かであった。

 二人の会話と、リーシャの表情が面白かったのだろう。サラの手を握っていたメルエが小さな笑みを溢し、暗闇に支配されている甲板に和やかな空気を振り撒いていた。

 恐怖に怯え、足元を震わせていたサラでさえ、笑みを溢すメルエに釣られるように小さく微笑みを浮かべる。

 

「行くぞ」

 

「むっ……カミュ、憶えていろよ」

 

 ようやく何時もの調子に戻って来た事で、カミュは先程『たいまつ』を向けた船尾の方角へと歩き始める。サラの手を引くメルエがその後ろを歩き出した事によって、リーシャは怒りや悔しさを胸に仕舞い込まなければならなくなった。

 最後にせめてもの文句を述べ、リーシャが歩き出した事によって、操舵室近辺が闇に覆われて行く。

 『たいまつ』という光源が無くなった甲板は静かな闇に閉ざされるが、静寂が支配する中で小さな炎がポツリポツリと浮かび上がって来る。

 それは、この船に残る無念を表す魂なのか、それとも船に乗り込んで来る不作法者が静かな眠りを遮る事への怒りの表れなのかは解らない。

 

 

 

 後方の船尾へと向かう途中、下の船室へと続くであろう階段らしい入り口を発見するが、取り敢えずは船尾へ向かうというカミュの方針に従って、一行は歩き続けた。

 考えていた以上に大きな船の中、先程和んだ筈の空気は、再び緊張感に支配され始める。それは、サラという『賢者』が、自分を引っ張る少女の手を両手で握り締めた事から発していた。

 突如歩き難くなった事に眉を下げたメルエではあるが、自身が唱えた『大丈夫』という言葉が魔法の言葉である事を誰よりも知るメルエは、一切の弱音を吐かずにカミュの後を歩き続ける。『大丈夫』と言った以上、『大丈夫』にしなければならないという事を、この少女は誰に教わる訳でもなく理解しているのだ。

 だが、歩く速度が遅くなってしまう事だけは避けられない。どれ程にメルエが責任感を持っていたとしても、成人した大人の全体重を掛けられた状態で、幼い少女が通常の速度で歩ける訳はないのだ。

 

「サラ……メルエが困っているぞ。何か霊的な物が出て来たら、ニフラムを唱えれば良いだろう? いくら除霊などが苦手で、『僧侶』としての才覚がどうであろうと、サラは呪文の熟練者なのだ。そのくらいは出来るだろう?」

 

「テドンの時もそうだが、問答無用で昇華させるというのはどうなんだ?」

 

 立ち止ったカミュは、テドンの村へ入る際と同じ事を口にするリーシャに対して、呆れた表情を見せる。

 しかし、再びカミュとリーシャのやり取りが繰り返されそうになるその横で、サラは放心した表情をリーシャへ向け、徐々に絶望に近い程の物へと変化させて行った。サラとしても、まさかリーシャにまで『僧侶失格』の烙印を押されるとは思わなかったのだ。

 特に、カミュやリーシャは、あのガルナの塔やダーマ神殿にて『サラ以外を僧侶しては認めない』とまで口にしてくれた人間である。

 あの時のサラは、この世に存在する多くの『僧侶』が信じる捻じ曲がった信仰と、自分が歩む道程で見て来た現実との間で悩み、泣き、苦しみ、それでも前へ進もうと足掻き続けていた。その姿は、元々ルビス教を信仰していたリーシャだけではなく、『僧侶』という存在を嫌悪していたカミュでさえも認める物であり、彼ら二人は、そのサラの姿こそ『僧侶』本来の姿だと感じたのだ。

 その二人が、口を揃えて『僧侶としての才覚』という物に疑問を呈している。サラはこの旅で、ここまでの絶望を感じた事はなかったかもしれない。目の前が真っ暗になる程の絶望感は、先程までの恐怖と合わさり、全ての視界を奪ってしまう程の闇となる。

 

「…………サラ………いじめる……だめ…………」

 

 しかし、絶望の底へと落とされたサラを掬い上げたのは、彼女の手を取っていた小さな光。力強く握られた小さな手が、『賢者』として成長を果たしたサラの心に残る熱い想いを揺り動かし、再び大きな炎となって燃え上がらせた。

 カミュやリーシャとしてもサラを虐めていたつもりは微塵もないだろう。だが、いつまで経っても怯え続ける『賢者』に辟易した部分は否めないし、確かに彼女を奮起させようとする配慮に欠けていた事も事実である。それ故に、サラの身を護るように前へと踏み出した幼い少女の姿に、二人は言葉を飲み込む事にした。

 

「ありがとうございます、メルエ。すぐには無理ですが、何とか頑張ってみますね」

 

「…………ん…………」

 

 温かく包み込まれた手へ視線を落としながら、サラは誓いを立てる。

 いつものような魔法の言葉は口に出来ない。あの言葉は、サラ自身さえも絶対的に縛られる事になるからだ。

 サラが挫折したとしても、今のメルエがサラに対して失望する事はないだろう。だが、それを許してしまっては、サラ自身が自分を許す事が出来ないに違いない。サラが積み重ねて来た物が全て崩れ去り、彼女自身の存在自体をも危うくさせてしまう。

 彼女達四人は、今や人類最高位に立つ程の力を有している。だが、それは尋常ではない速度で駆け上がった結果でもあるのだ。誰よりも濃い経験を積み、誰よりも苦しみ、悩み、それでも前へと踏み出して来た彼等だからこそ有するその力は、『人』の身には過ぎたる物なのかもしれない。

 『人』の身では過ぎたるその力は、その力を有する物を護る者達が居てこそ輝く物であり、その護り手の光を失ってしまえば、自力では輝く事の出来ない力。

 だからこそ、彼等は一つとなる。

 共に悩み、共に苦しみ、共に前へ踏み出す。

 そういう集合体なのだ。

 

「ふっ……サラ、すまなかった。しかし、私にはサラの恐怖が理解出来ない。それは今もこの先も変わらないだろう。私達が相手する者達は、命ある者達ばかりではない。サラの目指す場所は、多くの命と多くの屍の先にあると知れ」

 

「は、はい……」

 

 メルエの視線を受けたリーシャは、一度表情を緩めて素直に謝罪を口にする。だが、即座に表情を引き締め、未だに幼い少女の手を握る妹のような女性に厳しい瞳を向けた。

 それは、人生の先輩として、そして多くの命を葬り去って来た先駆者としての言葉。

 彼等の目指す先にあるのは、多くの者達の未来。

 それは、多くの者達の命と、その屍の上にこそ成り立つ物である事も事実である。それを再度サラの心に植え付ける事で、彼女の心を定めようとする、優しくも厳しい一言に、サラは言葉に詰まりながらも大きく頷きを返した。

 

「…………むぅ…………」

 

 サラの頷きに対して、満足そうに表情を緩めたリーシャは、その手を握っている少女の視線が自分達から異なる方角へ向けられている事に気が付く。

 先程まで姉のように慕う女性を護る為に上がっていた眉は不安そうに下がり、何か不満そうに唸り声を上げて見ている先は、暗闇に支配された一角であった。

 甲板の後方に位置する場所にある一角には、横揺れでも荷が動かないようにする為の仕切りのような物が造られており、その囲いの中に向けられたメルエの瞳に気が付いたカミュやサラもまた、メルエの視線を追うように暗闇へと目を凝らす。

 

「どうした、メルエ?」

 

「…………なにか………いる…………」

 

「えぇぇぇ」

 

 歩み寄ったリーシャが視線を外す事無くメルエへ問いかけると、こちらも視線を暗闇から外す事無く答えを返した。

 メルエの不思議な感覚に関しては、この旅の中で何度も助けられてきている。それが魔物と断定する事は出来ないが、この少女がこう言う以上、その場所に何かが存在する事だけは確かであり、それを理解しているからこそ、先程の決意も虚しく、サラは情けない声を発する事になった。

 

「カミュ、魔物か?」

 

「解らない。行ってみるしかないだろう」

 

 振り向きざまに発せられた疑問に対して答える事の出来る物をカミュも所持してはいない。何かが存在する事だけは確かである為、その場所に行ってみるか、それとも避けて通るかの二択しかないのだが、カミュは敢えてその場所へ踏み込む事を選択した。

 この幽霊船自体に何があるか解らない上、魑魅魍魎の類から魔物に至るまで、この船の中を住処としていても不思議ではない。<船乗りの骨>という物が、この船に乗る誰の骨かも解らず、この船にオリビアという女性の恋人となるエリックが乗っていたという確証さえないのだ。

 故にこそ、彼等はこの船を隅から隅まで調べなければならない。彼等でさえ、何を目的としているのかを明言出来ない為、それを見つけ出す為にも、ここを避けて通る訳には行かないのだ。

 

「……ギッ!」

 

 仕切りの向こうへと<たいまつ>を向けた瞬間、その場所に居た生物がカミュ達の存在に気付く。『人』では有り得ない不快な音を発したそれは、異常なまでに光る眼をカミュ達へと向けた。

 <たいまつ>の炎でも照らし尽くせない闇の中で動く二つの光は、真っ直ぐカミュ達を射抜く。暗闇に浮かぶ二つの光に、先程までの恐怖が再び舞い戻って来たサラの足は、その場所から一歩も動く事が出来ない。

 そんなサラの横を抜け、<たいまつ>を掲げて進み出たのは、『勇気』という見えない物の象徴でもある一人の青年だった。

 

「ヒヒヒッ……。幽霊船ニハ屍が相応シカロウ。オ前達モ死ヌガ良イ!」

 

「くっ……」

 

 しかし、その足は途中で遮られる。

 一歩踏み出したカミュは、突如として発せられた人語と共に自分へ向かって来る殺気に背中の剣を抜いたのだ。

 持っていた<たいまつ>が甲板へと落ち、カミュの足元だけを照らし出す中、金属と金属がぶつかる音が響き渡る。咄嗟に<たいまつ>を前へと出したリーシャは、そこに映った姿に息を飲んだ。

 

「魔物!?」

 

「アッサラームに居たあの魔物か!?」

 

 カミュの胸元目がけて突き出されていたのは、三又の槍。フォーク型と言えば良いのだろうか、奇妙な形をしたその武器の切っ先は、カミュの纏う<魔法の鎧>の接している。辛うじて鎧を突き破っていないのは、三又の武器の根元を<草薙剣>が押さえ込んでいるからだった。

 その魔物の姿は、リーシャの言葉通り、アッサラームでメルエの義母を刺殺した魔物と瓜二つである。身体は小さく、メルエより少し大きい程度。背中には蝙蝠に似た羽を生やし、尻からは奇妙に長い尻尾を生やしている。

 子供のような体格に似合わない程の力でカミュの胸へと武器を押し込み、受けているカミュは苦悶の声を上げる。愉悦に歪む口からは、紫色の舌と鋭い牙が覗いていた。

 

「アッサラーム? アノ場所ヘ向カワセタ<ベビーサタン>ガ戻ラナイノハ、オ前達ニ殺サレテイタカラカ……」

 

「な……に?」

 

 苦悶の声を上げていたカミュは、予想外の言葉に驚きを示す。そして、先程まで込められた力を緩めてしまう。

 途端に突き進む三又の槍は、<魔法の鎧>の表面を削るように刺さり、穴を空けないまでも傷をつけて行く。サラもリーシャもその魔物が語った内容に驚き、行動に移れない。サラは先程までの霊的な物への恐怖が尾を引いているのであるが、リーシャは目を見開いたまま身動き一つ出来ずにいた。

 そんな中で動いたのは、この魔物が語った<ベビーサタン>に刺殺されたアンジェという女性を義母に持つ一人の少女。

 

「…………メラミ…………」

 

「ギッ!」

 

 唱えられた呪文は、『魔道書』の記載された最高の火球呪文。戦友である<雷の杖>の嘴から放たれた火球は、カミュを押し込む小さな魔物の身体へと向かって飛んで行く。

 しかし、人類最高位に位置する<魔法使い>の放った火球呪文は、咄嗟に三又の槍を外して後方へと飛んだ魔物によって避けられてしまった。

 カミュの髪の焼きながらも暗闇の空へと消えて行く火球は、一瞬の内に幽霊船の甲板を照らし出し、その魔物の姿も四人の瞼に焼き付ける。魔族の子供と称しても可笑しくはないその姿に似つかわしくない獰猛な笑みを浮かべ、長い舌を垂れ流す魔物に、サラは唾を飲み込んでしまった。

 

<ミニデーモン>

知能の低い魔物とは一線を画す魔族という種族。

<ベビーサタン>の上位種にも当たり、<ベビーサタン>を部下として持つ事もある。『魔王バラモス』の子飼いの魔族とも考えられ、多くの<ベビーサタン>を従えて、魔王直属の命を遂行する事もあると云われていた。

姿に似つかわしくない程に獰猛で残忍な性質を持ち、人間の子供を好んで食す。その姿を見た者は全てこの世から消えている事から、想像上の魔物として考えられている節もあった。

 

「テドンデ取リ逃ガシタ者ヲ始末スルヨウニ厳命シタニモ拘ラズ、数年経過シテモ戻ラナイ。ドノヨウニ殺シテヤロウカト思ッテイタガ、オ前達ガ代ワリニ始末シテクレテイルトハ」

 

「……テドンで?」

 

 態勢を立て直した魔物のその言葉は、先程まで霊的な物への恐怖で怯えていた一人の女性の瞳の色を描き換える。

 この勇者一行の頭脳と称しても過言ではない女性は、その一文で全てを察したのだ。その察した内容は、カミュとも、リーシャとも、そして幼いメルエとも異なっているかもしれない。先程までの足の震えはピタリと止まり、固まっていた指先は強く握り込まれる。自信無さ気に揺らいでいた瞳には、燃えるような感情が宿り、不快な笑い声を発する魔物に強く向けられていた。

 

「ふん!」

 

 自身への圧迫が無くなった事によって、一歩踏み出したカミュが剣を横薙ぎに振う。その剣を三又の槍で受け止めた<ミニデーモン>は、即座に口を開いて息を吐き出した。

 その口から吐き出された息は、グリンラッドという永久凍土で遭遇した<スノードラゴン>と同等の物。雪の結晶を大量に舞わせる風を含んだ吹雪である。

 剣を引き、<ドラゴンシールド>を掲げたカミュは、手元が凍る程の冷気を受けながらも、<ミニデーモン>の動向に目を光らせ、油断なく身構えた。

 

「ベギラマ!」

 

 カミュと同様に<ドラゴンシールド>を掲げながら前へ突進しようとしていたリーシャは、先程喝を入れたばかりの『賢者』が発する力強い詠唱を聞いて踏み止まる。

 カミュと<ミニデーモン>との間に割り込むように迸る灼熱の炎は、吐き出された冷気に威力を弱められながらも、カミュと<ミニデーモン>を分断した。

 襲って来る吹雪が消え、<ドラゴンシールド>を下げたカミュは一歩下がり、隣に立つリーシャと共に、先程の呪文の行使者であるサラへと視線を移す。

 そこに立つのは、今や彼等二人が最も頼りにする『賢き者』。

 常に悩み、常に迷い、理想と現実の狭間で涙を流しながらも前へと進む者。

 

「カミュ様……その魔物は、私とメルエにお任せ下さい。一切の手助けは無用に願います」

 

「……サラ?」

 

 呪文を放った余韻を左手に残したまま、腰に差した<ゾンビキラー>を抜き放ったサラの瞳は、真っ直ぐに<ミニデーモン>へと向けられている。その瞳に宿る炎を見たリーシャは、その『怒り』とその『決意』を理解するのだが、その危うさをも理解した。

 だが、隣に立つカミュが、<ミニデーモン>の動きに注意しながらも、<草薙剣>を鞘へと戻した事によって、一つ息を漏らし斧を下げる。

 『何時でも飛び出せる』、『危うい時には、サラの決意を壊そうとも動く』というカミュの想いを、その瞳を見ただけでリーシャは理解したのだ。斧を下げ、胸の前で腕を組んだリーシャは、<ミニデーモン>へ向けていた殺気を緩める事無く、戦いを見守る姿勢を取った。

 

「クククッ……子供ノ肉ハ柔ラカク旨イ。望ミ通リニ、真ッ先ニ喰ラッテヤロウ」

 

「メルエ、行きますよ。あれは、メルエの二人のお母様の仇です。私も手助けしますが、メルエが倒すべき魔物ですよ」

 

「…………ん…………」

 

 サラの目指す世界では、他種族の住処に入り命を失った者は自業自得という節もある。だが、その仇が目の前にいた場合は別であろう。

 カミュ達四人が倒して来た魔物の子供がカミュ達を敵と見て襲い掛かって来たとしても、彼等はそれを倒して前へと進む。この<ミニデーモン>が殺して来た人間の子供達が襲い掛かっても、<ミニデーモン>の食糧になるだけである。

 しかし、一方の力がその仇よりも強かった場合、カミュ達も、そしてこの<ミニデーモン>も土へと還るのだ。それもまた、世の摂理という物なのかもしれない。

 

「死ネ!」

 

「させません!」

 

 小さな身体を目一杯に使って飛び込んで来る<ミニデーモン>の三又の槍は、真っ直ぐメルエへと向かっていた。だが、その槍の道筋は、横から振われた<ゾンビキラー>によって変えられてしまう。

 振るわれた<ゾンビキラー>は、派手な金属音を響かせて三又の槍を弾き、<ミニデーモン>の身体ごと吹き飛ばす。前へと向いていた力は、横からの力に弱く、カミュのような力比べをしていない分、非力なサラでも魔族の攻撃を弾く事が出来たのだ。

 そして、非力とはいえ、彼女とて四年の間、人類最高の『戦士』の手解きを受けて来た者である。槍から剣へと武器が変わったとしても、その力量は一般兵士などでは足元にも及ばない。技量だけで言うならば、一国の兵士長に収まってもおかしくはないのだ。

 

「…………スクルト…………」

 

「バイキルト」

 

 この世界で生きる人類の中でも、最も魔法に長じた者達の戦いである。己の持つ技と呪文を使う事に何の躊躇いがあろう。

 史上最高と言っても過言ではない『魔法使い』がそれぞれの身に魔法力を纏わせ、数十年ぶりに誕生した『賢者』が、己の武器に魔法力を纏わせる。

 弾き飛ばされた<ミニデーモン>が忌々しそうに顔を歪め、三又の槍を持ち直した時には、彼女達二人の戦闘準備は整っていた。

 

「クワァァ!」

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ベギラマ…………」

 

 自分達に向かって大きく口を開いた<ミニデーモン>を見たサラは、即座にメルエへと指示を出す。その指示に間髪入れずに答える事が出来るという事自体、既に彼女達二人が並みの者ではない事を示しているのだが、幼い少女が振った杖の先から迸る灼熱の炎が、その事を雄弁に物語っていた。

 吐き出された吹雪は、先程サラが唱えた物よりも威力が勝る火炎に相殺され、蒸気となって夜空へと立ち上って行く。魔族が吐き出した吹雪である分、ベギラマでも相殺し切れない冷気が周囲の温度を下げるのだが、サラ達の身体を凍りつかせる程の力は残されていなかった。

 

「シャァァ」

 

「ぐっ」

 

 蒸気によって視界が遮られ、<ミニデーモン>の姿が視認出来なくなった事で、サラは即座にメルエの前へと移動する。そして、そのまま<魔法の盾>を掲げた。

 その行動を待っていたかのように飛び込んで来た槍先が<魔法の盾>にぶつかり、金属音を撒き散らす。押し込まれる力の強さに、盾を掲げるサラが力負けしてしまい、盾が上へと弾き上げられた。

 蹈鞴を踏むように後方へと下がったサラの胸目掛けて再度<ミニデーモン>の槍が突き出されようとしたその時、それを許さない少女の詠唱が闇の濃い甲板に響き渡る。

 

「…………メラミ…………」

 

 倒れ込むサラの後方から飛び出した火球が、槍を突き出そうとする<ミニデーモン>へと襲い掛かる。

絶妙の間合いであり、圧倒的な魔法力を有する火球である。通常の魔物であれば、その火球をその身に受け、命を失わないまでも、その身体に多大な火傷を負い、戦闘が困難になる筈であった。

 だが、この<ミニデーモン>は、これまで遭遇して来た魔物とは格が違う。曲がりなりにも、『魔王バラモス』の傍で生き、<ベビーサタン>と呼ばれる部下を多数有する程の実力者。

 一歩下がった<ミニデーモン>は、迫り来る火球に向かって、その詠唱を完成させた。

 

「メラミ」

 

 三又の槍の先から発せられた火球は、メルエが放った物と同等かそれ以上の物。真っ赤に燃え上がった火球は、暗闇の支配する幽霊船の甲板の隅々までも照らし出す程の熱量を誇り、戦いを見守るカミュ達でさえも息苦しさを感じる程に強力な物であった。

 火球と火球がぶつかり合う。弾け飛ぶ火花が甲板へと落ちて行くが、その拮抗は続く。お互いを燃え尽くそうと鬩ぎ合う火球は、空中で制止したように留まり、その熱気を霧散させて行った。

 だが、<ミニデーモン>は魔族。人類よりも長い時間を魔法と共に過ごして来た種族であり、生まれ持ったその才覚が、習得する呪文を固定させ、その呪文の熟練度を上げているのだ。

 つまり、この<ミニデーモン>と呼ばれる魔族は、メラミという火球呪文を唱える以上、その呪文の高段者でもあるという事になる。『人』では敵わない力を有する魔族が放つ火球呪文は、例え人類最高位に立った『魔法使い』でも敵わない。

 徐々に押し込まれて行くメルエが放った火球は、相手の火球の威力と大きさを大幅に奪いながらも、その力を失い消滅して行った。

 

「ヒャダイン!」

 

 しかし、その火球の余波をメルエが受ける事はない。何故なら、彼女は一人で<ミニデーモン>と相対している訳ではないからだ。

 周囲に吹き荒れる冷気が、威力の弱まった火球を飲み込み、空へと立ち上る蒸気へと変えて行く。如何に魔族の放つ火球とはいえ、大幅に威力を奪われているのならば、人類唯一の『賢者』が放つ氷結呪文に敵う訳もない。

 瞬時に蒸気へと変えられた火球は消え、今度は残った冷気が<ミニデーモン>に襲い掛かる。

 

「クワァァ!」

 

 状況を理解した<ミニデーモン>は、忌々しそうに口を開き、吹雪を吐き出す事によって冷気を相殺する。熱気と冷気が入り乱れる甲板の上では、黒焦げになった樽が数個転がり、煤けた仕切りがその戦いの苛烈さを物語っていた。

 そんな凄まじい魔法合戦の間、カミュとリーシャは身動き一つせずに戦いを見守り続ける。腕を組んだリーシャは、二人の成長に驚きながらも、その姿を頼もしく思いながら小さな笑みを浮かべ、鋭い瞳で<ミニデーモン>を睨み付けるカミュは、何処か自身を押さえつけているようにも見えた。

 

「メルエ、よく聞いて下さい。あの魔物には、おそらく氷結呪文や灼熱呪文はあまり効果がありません」

 

「…………むぅ…………」

 

 自分の呪文が効果を発揮しない事にむくれるメルエを諭すように、サラは小さく言葉を漏らす。その間も、視線は<ミニデーモン>から外す事はなく、油断なく<ゾンビキラー>を構えていた。

 <ミニデーモン>の方も、人間の予想外の力に驚きを示しており、攻撃の機会を窺うように三又の槍を向けて警戒感を表している。

 この小さな魔族が人間に対して驚きを表すのは、これで二度目。自分に対して、怯えを見せる事無く、あろう事か攻撃の姿勢を見せて、強い視線を向けて来る。そんな人間は、長い魔族の生涯の中でも一人しかいなかったのだ。

 それはテドンを襲う理由となった女性であり、この魔族がその三又の槍で背中から刺し貫いた筈の女性であった。

 

「良いですか? 私が飛び込んで隙を作ります。メルエは、再び<メラミ>を唱える準備をして下さい。あのエジンベアで唱えた時のように、集中して魔法力を調整するのです。あの、限界まで圧縮した<メラミ>ならば、魔族の唱える<メラミ>であっても負ける事はありません」

 

「…………ん…………」

 

 サラの言葉に確かな信頼を感じ取ったメルエは、先程まで膨らませていた頬を萎め、真剣な面持ちで頷きを返す。

 この少女の誇りは魔法である。初めて契約を済ませたあの時から、常に自分と共にあり、常に自分の大事な者達を護って来た神秘。それを行使し、自身の存在を確立する事が出来る魔法という存在が、彼女の誇りであり、光でもあった。

 故にこそ、サラの言葉に応える事が出来なければ、それはメルエ自身が自分の誇りを傷つける事になる。それを、この幼い少女は誰よりも理解し、その決意を相手に伝えようとしたのだ。

 

「では行きますよ。大丈夫、メルエならば必ず出来ます」

 

「…………ん………メルエ………だいじょうぶ…………」

 

 お互いに魔法の言葉を口にした以上、彼女達はここから先の行動を『大丈夫』にしなければならない。お互いにその言葉に秘めた想いは違えど、それが向かう先に違いはない。

 メルエに対して口にする『大丈夫』は、サラにとって誇りである。

 サラに向かって口にする『大丈夫』は、メルエにとって決意である。

 そして、その先にある物は、目の前に居る魔物の打倒であった。

 

「やあぁぁ!」

 

「チッ」

 

 小さな微笑みを浮かべたサラは、瞬時に笑みを消して<ミニデーモン>の懐へと飛び込んで行く。虚を突かれた<ミニデーモン>は、三又の槍を突き出して応戦しようと身を動かした。

 

「バギマ」

 

 しかし、それは槍の動きを予想していたサラによって別方向へと避けられる。身体を横へ避けたサラの纏う法衣を僅かばかり切り裂いた三又の槍ではあったが、そのまま虚空を突き、翻ったサラの手から発せられた真空の刃が<ミニデーモン>へと襲い掛かる。

 研ぎ澄まされた真空の刃は、容赦なく<ミニデーモン>の身体を切り刻み、その体液を撒き散らかせた。

 だが、上位種に位置するこの魔族は、バギマ程度で命を散らす程の弱者ではない。真空の刃の隙を突き、三又の槍を横へと振り抜く。振り抜かれた槍は、容赦なくサラの腹部へと吸い込まれ、無理な体勢で呪文を行使したサラの身体を吹き飛ばした。

 

「サラ!」

 

 カミュ達とは反対側へと吹き飛ばされたサラの姿を見たリーシャは、組んでいた腕を解いて斧を握り締めるが、走り出そうとする身体を力強い腕によって引き留められる。遮るように握り込まれた腕の強さに振り向いたリーシャは、ゆっくりと首を横に振るカミュの表情を見て、冷静さを取り戻して行った。

 彼とて、今すぐにでも飛び出して、四人がかりで<ミニデーモン>を討伐したいのだ。だが、それでも彼が動かないという事は、彼の中でサラとメルエの危機だと認識していないという事になる。

 彼女達二人が危なくなれば、彼が必ず動く。<アストロン>という絶対防御の呪文を有するこの青年が一切の動きを見せない事が、サラという『賢者』とメルエという『魔法使い』へ絶対的な信頼を持っている証でもあるのだろう。

 ゆっくりと元の位置まで戻ったリーシャは、再び腕を組んで戦いを見守る事にした。

 

「ベホイミ」

 

 仕切りに叩きつけられた筈のサラは即座に起き上がり、自身の身体に回復呪文を唱える。三又の槍によって受けた内部の傷も癒され、切り裂かれた法衣の下から滲む血液が止まる。

 これこそ、彼等『勇者一行』の強みでもあるのかもしれない。

 何度攻撃を受けようとも、何度瀕死の重傷に陥ろうとも、このサラという女性がいる限り、勇者一行は地に伏す事はない。パーティー全員の回復役を請け負いながらも、自身も戦闘に参加出来る彼女という存在が、勇者一行をこの場所まで連れて来たと言っても過言ではないのだろう。

 

「キサマ……回復呪文サエモ行使出来ルノカ?」

 

 立ち上がったサラの手元で光る淡い緑色の魔法力を見た<ミニデーモン>が驚愕の表情を浮かべる。実際に、魔族の表情の変化などは、人類であるカミュ達には解り難い物ではあるのだが、その瞳が見開かれている事から、この魔族が驚きを表している事は確かであった。

 何に驚いているのかは解らない。魔物の中には、攻撃呪文も回復呪文も唱える事が出来る物も居る筈であり、元々呪文を分けてしまったのは人類であるのだから、この魔族が驚く意味がないのだ。

 だが、確かに<ミニデーモン>は驚愕している。その証拠に、人類最高位の『戦士』の扱きに堪えて来たサラには、<ミニデーモン>に隙が出来ている事が見えていた。

 

「やぁぁ!」

 

「グギャ!」

 

 鋭く研ぎ澄まされた<ゾンビキラー>の刃は、生命を持たぬ者以外の身体をも斬り落とす事は可能である。振り抜かれた剣は、<ミニデーモン>の左腕の肘から先を斬り飛ばし、派手に体液を撒き散らす。

 吹き飛んだ<ミニデーモン>の左腕が空中を舞い、甲板に落ちる瞬間、三又の槍が突き出された。

 隙が出来たとはいえ上位種の魔族である。瞬時に敵を認識し、突き出された槍はサラの腹部へと突き刺さる。三又の一本がサラの脇腹を抉り、真っ赤な血液を絞り出した。

 

「ヤハリ、アノ時ニ持ッテイタノハ……」

 

「メルエ!」

 

 サラの腹部を突き刺した槍を抜いた<ミニデーモン>は、失った左腕の痛みに顔を歪めながらも何かを呟くが、その呟きは、流れ出る血液を左腕で押さえつけるサラによって遮られる。

 自身の身体への回復呪文の詠唱よりも優先させたその指示は、後方で控えていた少女の決意を神秘へと変換させて行った。

 

「…………メラミ…………」

 

 血液を流しながらも離れるサラを待っていたかのように紡ぎ出された詠唱は、振り下ろした杖の先で敵を見据えていたオブジェの瞳を光らせ、その嘴から巨大な火球を吐き出させる。

 真っ赤に燃え上がる火球は、先程以上に甲板を明るく照らし出し、周囲の木片を焦がし尽くす程の熱量を誇って、その攻撃対象となる魔族へと襲い掛かった。

 

「チッ……何度ヤッテモ同ジ事ダ」

 

 自身へ迫り来る火球を見た<ミニデーモン>は、失った左腕から流れ落ちる体液を無視し、残った右手で三又の槍を振り下ろしながら詠唱を完成させる。

 先程メルエが唱えた物と同様の詠唱を行った<ミニデーモン>の槍先から迸る火球。それは、一度目の<ミニデーモン>が唱えた物と同等の威力を誇り、迫る火球へと一直線に向かって飛んで行った。

 ぶつかり合う火球と火球。

 弾け飛ぶ火炎。

 全てが先程の繰り返しのような光景ではあったが、全てが同じように見えるその光景に、決定的な違いが見え始める。

 

「ナ、ナニ!」

 

 先程とは異なり、メルエが放った火球が、<ミニデーモン>が放った火球を飲み込んで行くのだ。

 魔族が放つ魔法と、人類が放つ魔法では、同じ呪文でもその威力が異なって来る。魔族のメラミを人類のメラミが飲み込むなど、何がどうあっても不可能なのだ。

 だが、確かに今目の前で起きている現象は、メルエのメラミが相手の火球を飲み込んでいる物である。それは、先程の<ミニデーモン>の唱えた火球のように、相手の呪文によって威力を削られていくような物ではなく、相手の火球の威力そのものを飲み込んで行く物。

 つまりそれは、同等の呪文では有り得ない事が起きていると言った方が正しいのだろう。

 

「マ、マサカ……ソノ呪文ハ……メラゾ……。ソウカ、オ前ガ……!!」

 

 <ミニデーモン>が唱えた火球の全てを飲み込んだ圧縮されたメラミは、そのまま対象となる<ミニデーモン>へと襲い掛かる。

 自身の身体が焼け焦げて行く熱さを感じながらも発した<ミニデーモン>の呟きは、闇に包まれた幽霊船にいる誰も聞き取る事は出来なかった。

 全てを飲み込む火球は、全てを焼き溶かし、虚空の彼方へと消えて行く。幽霊船の甲板の木板や、破れていた帆なども溶かした火球が消えた後、再び暗闇と静寂が戻って行った。

 

「カミュ、私達はとんでもない二人を生んでしまったのかもしれないぞ」

 

「あの二人がいなければ、魔王討伐など夢のまた夢だ」

 

 夜空へと消えて行った火球を目で追っていたリーシャは、冷たい汗を頬に流しながら、横に立つ青年へと言葉を掛ける。だが、それに対しての答えを聞いた時、リーシャの胸の中に生まれた不安は瞬時に霧散して行った。

 カミュの目的が明確に『魔王討伐』になっている事は、あのポルトガでの一言で理解している。だが、ここまで他者を信頼し、他者と共に歩む事を明言したのは初めてであるし、何よりもリーシャが誇りに思っている二人の力を、彼自身が誰よりも信じている事に喜びを感じたのだ。

 

「メルエ! アンジェさんとお母様の仇をメルエが討ったのです。これで二人のお母様が戻って来る訳ではありませんし、メルエの心が晴れる訳でもありませんが……ぐずっ」

 

「…………サラ………また……泣く…………」

 

 魔物の消滅を見届けたサラは、最大の功労者に向かって笑みを浮かべようとするが、その試みは賛辞の言葉の途中で崩れ去る。メルエの手を握った瞬間、サラの中の何かが感極まってしまったのだ。

 メルエ自身はその感覚がないのだろうが、先程の戦闘は親の仇討ちなのである。

 サラもまた、自身の生みの親を魔物の襲撃によって亡くしている。そして、サラはその仇討ちをする事が出来ず、その憎しみは魔物全てに及ぶに至った。今でこそ、その憎しみが間違っていた物だと理解出来るサラではあるが、当時は年々増して行く憎しみだけが彼女の生きる目的のような物であったのだ。

 そんな自分が取る事の出来なかった親の仇を、この幼い少女が自らの手で討った事で、『賢者』となってからもサラの心の奥底に残り続けた憎しみの源を消し去ったのかもしれない。

 実母の仇であり、養母の仇でもある魔物は、その二人が最も愛した少女の手によって葬り去られた。それは喜ぶべき事なのか、それとも悲しむ事なのかはサラには解らない。だが、この出来事は、自分の中に確かに残っていた負の感情を隠し続けていた『賢者』の心を開放し、幼く無邪気な『魔法使い』の一段上への成長を促す事となった。

 

「サラ、メルエ、よくやった」

 

「…………リーシャ…………」

 

 泣き出してしまったサラに困惑していたメルエは、ようやく登場したリーシャに向かって眉を下げ切った表情を向ける。そんな少女の表情に笑みを溢したリーシャは、ゆっくりとその小さな頭を撫でつけた。

 目を細めてその手を受け入れたメルエの頬も緩み、愚図ったように泣き続けるサラもまた、その少女の身体を抱き締める。

 

「メルエは偉かったな。サラも、ようやく憑き物が落ちたようだな」

 

 リーシャのその言葉が、サラの胸に残る最後の壁を打ち壊した。自身の中に残っていた闇の存在に気付いていたリーシャへの驚きもあったが、その存在を知っていて尚、自分を信じ続けてくれていたという事実に、彼女の感情が爆発してしまったのだ。

 止めどなく流れ落ちる涙と共に、嗚咽を繰り返しながら自分の胸で泣き続けるサラの背中を、メルエが優しく叩く。

 闇と静寂が支配する廃船の甲板の上で、暫しの休憩が取られる事となった。

 

 若い勇者一行は、また一つ大きな成長を遂げる事となる。

 自身の持つ理想へ向かって歩み始めていた『賢者』の心の中に唯一残されていた闇は晴れた。

 これより先、彼女が迷う事は少なくなるかもしれないが、それでも彼女は迷い、悩み、泣き、そして前へと足を踏み出して行くのだろう。それでこそサラという人間であり、サラという『賢者』の在り方だからである。

 その道は、『賢者』だけで歩む事が出来る物ではない。

 彼女を知り、彼女を理解し、彼女と共に歩む者達が居るからこそ、当代の『賢者』は輝くのである。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

幽霊船は一話で纏めようと思ったのですが、とんでもない間違いでした。
ここから先の事も含めると、30000文字になってしまいそうですので、二話に分ける事に致しました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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幽霊船②

 

 

 

 暗闇に支配された廃船の破れた帆が風に靡く中、ようやくサラの状態が落ち着きを見せ、一行は再び幽霊船探索を再開した。

 <たいまつ>で照らし出される廃船内部は、今にも崩れそうな程に脆く、先程の戦闘の傷跡も色濃く残っている。腐りかけの床板を踏み抜いてしまわないように注意深く歩く一行は、下への梯子を発見するが、それを素通りし、船尾へと抜けて行った。

 

「カミュ、先程のあの魔物は、何故この幽霊船に居たのだろうか?」

 

「……解らないが、この船の中にある何かを探していたのかもしれない」

 

 船尾が近づく頃、先程から黙り込んでいたリーシャが徐に疑問を口にする。その疑問は、彼女だけではなく、このパーティー内のメルエ以外の人間が感じていた疑問に他ならない。

 先程葬り去った<ミニデーモン>という存在は、その魔物の言葉を信じる限り、多数の部下を従える程の地位を持っていたのだろう。

 そして、何よりテドンを滅ぼした魔物の一部であり、メルエの母を殺した張本人である事を窺わせていた。また、部下である<ベビーサタン>をアッサラームに派遣し、メルエの母の生死を確認させる命を与え、更に生きていれば始末するようにも命じている。

 それ程の権限を持つ魔物となれば、『魔王バラモス』の傍近くに居た魔物と考えてもおかしくはなく、そう考えるのならば、このような廃船に居る事自体が謎なのだ。

 

「この船の中に、本当にオリビアの岬の先へと進む為に必要な物があるのだとしたら、魔物達はその先にある何かを『人』には渡したくないのかもしれませんね」

 

「ガイアの剣か……」

 

 先程の戦闘を機に、自身の中で何かが弾けたのだろう。先程までのようなか細く震えた声ではなく、しっかりとした口調で話すサラの言葉に、カミュは考え得る物の名を口にした。

 それは、サマンオサの英雄と呼ばれる『サイモン』が所有する神代の剣であり、大地の女神の祝福を受けた聖なる剣。

 カミュの持つ剣もまた神代から伝わる剣ではあるが、全世界に名が通る程の一品ではない。ジパングという国が世界に認識される程の大国であれば、<草薙剣>と呼ばれる神剣も世界に名立たる聖剣となっていた事であろう。

 同じ神代の剣でも、大地の女神に祝福された剣である<ガイアの剣>は、サラの言葉通りだとすれば『魔王バラモス』でさえも意識する程の一品であるようだが、それが剣の切れ味に対する物なのか、それ以外の特殊な能力への物なのかは、カミュ達一行には解らなかった。

 

「いずれにせよ、この船を探索するしかないようですね」

 

「…………サラ………こわく……ない…………?」

 

 結論は、『解らなければ探索するのみ』という物であったが、先程とは打って変わった態度を示すサラを見上げていたメルエが首を傾げる。

 少し前までは、自分の手が潰れる程に強い力で握り締めていたサラが、真っ直ぐ暗闇に目を向けている事が、幼い少女には不思議に見えたのだろう。正直、余りにも変わり過ぎであると言っても過言ではなかった。

 

「メ、メルエ、言わないでください……これでも我慢しているのですから」

 

「…………ふふ…………」

 

 実際、メルエの低い視野に映るサラの足は小刻みに震えていたのだから、不思議がるのも当然の事である。そして、メルエの予想通り、強気な姿勢は完全なる虚勢であり、胸の内に蠢く恐怖を隠し続けていた結果であった。

 情けない顔をして震える声を発するサラの姿に微笑んだメルエは、いつも自分がしてもらっているように、優しく手を差し出し、頼りない姉の手を取る。安心したような笑みを浮かべるサラに対して頷きを返したメルエは、溜息を吐き出して歩き出したカミュの後ろをついて歩き始めた。

 

「むっ……カミュ、何かが居るぞ」

 

「ま、またですか……?」

 

 船尾となる、廃船の最後尾まで辿り着いたカミュ達は、その場所に何もないと感じ、先程発見した下へ続く梯子の場所へ戻ろうと踵を返すが、霊と共に彷徨い続ける船には不釣り合いな花壇のような場所で動く影を見つけたリーシャが、戻り掛けたカミュへ声を掛ける。

 それに驚いたのはサラであった。先程遭遇した<ミニデーモン>の部下達が船の中を探索している可能性もあるが、『幽霊船』と名が付く以上、彷徨う亡霊が姿を見せる可能性の方が高く、痩せ我慢をしていたサラにとっては、恐怖の始まり以外の何物でもなかったのだ。

 

「おや? 貴方達は亡霊ではなさそうですね……さては、貴方達も財宝が目当てですね?」

 

 向けられた<たいまつ>の炎でカミュ達の存在に気が付いた影は、四人の居る方へ歩み寄って来た。

 それはお世辞にも身なりが良いとは言えない男性であり、<たいまつ>と共に持つ大きな袋で両手が塞がった人間。言葉も人語であり、魔物の持つ邪気も感じない。只の人間である事は間違いないが、発したその言葉に、リーシャとサラはあからさまに顔を顰めた。

 この『幽霊船』の噂は、カミュ達が知る事が出来た物であるのだから、世界中で噂になっている事は明白である。ならば、この『幽霊船』を探す者が居ても不思議ではなく、<船乗りの骨>を所持していなくとも、たまたま『幽霊船』と遭遇した者がいてもおかしくはないだろう。

 

「私も運良くこの船を発見し、小舟で乗り移りましたが、この船にいるのは亡霊ばかり……参りましたよ」

 

「ふぇ!? ぼ、亡霊は本当にいるのですか!?」

 

 カミュ達の返事を待つ事無く発した男性の言葉に、サラは素っ頓狂な声を上げる。

 事実、この男性の持っている袋は、殆ど空の状態である事を示していた。それは、この船の甲板上では何一つ発見する事は出来ず、船を彷徨う亡霊との遭遇しかなかった事を示している。

 だが、カミュやリーシャは、男性の発した言葉の中にある異なる部分に意識を止めていた。

 怯えるサラの手を先程よりも強い力で握るメルエも気付いておらず、サラを怖がらせる男性に対して厳しい瞳を向けているが、カミュ達が軽く会釈したきり来た道を戻り始めた事で、完全に興味を失ってしまう。

 その他の会話を一切する事無くその場を離れた一行は、そのまま下へ続く梯子へ向かって行った。

 

「小舟など、この船の周辺にはなかったな?」

 

「ああ……どうやってこの船に入ったのかは解らないが、あの男が戻れる保証は何処にもないだろう」

 

 梯子の場所へ戻り、下のフロアへ<たいまつ>の炎を向けていたカミュへ掛けたリーシャの言葉は、端的な事実を述べるに留まり、そこに他の感情を見出す事は出来ない。それはカミュも同様であり、あの男性の現状を理解して尚、それに同情を示す訳でもなく、その状況から救おうとしているようにも思えなかった。

 何かを言いたげに視線を向けるサラではあったが、財宝荒らしを公言する男性に対し、彼女自身も何か思うところがあったのだろう。何度か口を開閉させたきり、結局声を発する事は出来なかった。

 

「下へ降りる」

 

「わかった。サラとメルエは先に行け」

 

 <たいまつ>を翳して奥を窺っていたカミュは、一度振り返ってリーシャと視線を合わせ、梯子へと足を掛ける。頷きを返したリーシャは、未だに手を繋いでいるサラとメルエを先に行かせ、周囲を警戒するように<たいまつ>を向けた後、最後に梯子を降り始めた。

 下のフロアは、月明かりがない分、甲板よりも更に暗い。船倉の板も腐った物が多く、その穴から細い月明かりが差し込んでいるが、<たいまつ>の炎が無ければ一歩たりとも歩く事は出来ないだろう。

 

「カミュ様……」

 

「…………つめたい…………」

 

 何よりも驚く事は、下に降りた一行の足を濡らす海水であった。

 船倉の板が腐っており、所々に穴が開いているのである。その穴から海水が入り込み、床を濡らすばかりか、一行の脛の部分まで海水は侵食していたのだ。

 そのような船が海に浮かぶ訳はない。一度海水が入り込んだ船は、徐々にその船体を沈ませ、それによって更なる海水の流入を呼び込み、そのまま深海へと引き摺り込まれてしまうのが通常である。

 それにも拘らず、この船は月光の下、大海原を渡り続けているのだ。

 

「……余り時間は残されていないのかもしれないな」

 

「……ああ」

 

 最後に梯子を降りたリーシャは、眉を下げているメルエを抱き上げ、この船の行く末を口にする。それにはカミュも同意を示し、上部にある燭台へと次々に炎を移して明かりをともして行った。

 脛まで海水に浸る事による体温の低下も危惧されたが、気温の下がる夜にも拘らず、船内の海水は生暖かい。これ以上の海水が中に入って来ない為か、それともこの船に残る霊魂の温かみが残っているのか、不快に感じる程の温度であった。

 

「ひぃぃぃ!」

 

 そんな時、下のフロアの仕切りを隔てた向こうから、何か直接脳に響くような音が聞こえて来る。それは、音というよりも歌と表現した方が正しいのかもしれない。禍々しく、恨めしい歌声は、『人』の心の奥底に眠る恐怖心を煽るように、直接響いて来た。

 期待を裏切らないサラの反応にリーシャは溜息を吐き出すが、その歌声自体がとても生者の物とは思えない為、<たいまつ>を握ったカミュへと視線を移す。視線を受けたカミュは、それに返答せずに仕切りの向こうへと歩を進め始めた。

 今にも腰を抜かしそうなサラは、涙目になりながら必死に首を横へと振り続けるが、その願いは天にも仲間にも届かず、悲鳴に近い鳴き声を上げながらリーシャの腕にしがみ付く。

 

「……これがこの船の動力か」

 

 仕切りの向こうへと出たカミュは、そこに広がる光景を見て、何かを感じたように眉を顰めた。リーシャも同様の表情を浮かべるが、その腕にしがみ付いたサラは必死に目を閉じている。

 目の前に広がる光景は、通常の人間であれば到底信じる事など出来ない物であろう。この船が『幽霊船』であるという知識がない限り、この光景を見た人間の誰しもが驚き、誰しもが死の恐怖を味わう筈である。

 この時代の船という乗り物の動力は二つある。

 風力と、人力である。

 風を帆に受け、それを動力として海上を走る物と、人の力で漕ぐ事によって進む物。大抵の船の場合、その二つを有する物が殆どであり、カミュ達が乗船する程の船でもない限り、帆の向きを変える事によって進む物など皆無に等しいのだ。

 そして、この『幽霊船』も例外ではなく、破れ果てた帆の代わりの動力になるのは、漕ぎ続ける事の出来る者達なのだ。

 その行為は、死して尚続くのである。

 

「……惨いな」

 

 リーシャでさえもそう口にしてしまう程、目の前の光景は惨たらしい物であった。船の壁面には数多くのオールが並び、その場所には様々な物が座り込みながら動かしている。それらは様々であり、血肉があるとは思えない骨だけとなった者や、既に肉体を持つ事を許されていないであろう透き通る身体を持つ物など、生者など一人たりともいなかった。

 死して尚、この『幽霊船』の動力として酷使され続けている者達は、己を慰めるように歌を口ずさみ、活力など感じる筈はなく、只々同じ行動を繰り返している。改めて見れば、それは恐怖よりも哀愁を感じる程の物であった。

 

「……奴隷か」

 

「この船は奴隷船なのか?」

 

 その光景を見て呟かれたカミュの言葉にリーシャが反応し、その聞き捨てならない単語に、ようやくサラの瞳が開かれる。

 この時代、奴隷という身分は当たり前に存在し、身分の高い貴族社会では極当然の考えでもあった。現に、彼等と共にいるメルエという少女は、奴隷として売られ、奴隷としての生涯を閉じるところをカミュ達に救われている。だが、メルエのような幸運な巡り合わせを持つ者は多くない。大抵の者は、奴隷としての人生を送り続け、絶望と悲しみの中で死を迎えるのだ。

 この船がそんな奴隷達を運び、身分の高い者達に売りつける奴隷商人の船であれば、その船の動力源となるのもまた奴隷である事は当然であろう。奴隷であれば代わりは幾らでもおり、過酷な労働の中で死を迎えた物は、海へと投げ込めば邪魔にもならない。それは最早『人』の所業ではないが、時代の闇の中に確かにある事でもあった。

 

「そうさ、船を漕ぐのは、奴隷か罪人の仕事なのさ」

 

「ひぃぃぃ!」

 

 顔を上げたサラであったが、突如掛った見知らぬ声に再び悲鳴を上げる。カミュとリーシャが前へと進んでいた事によって、そのリーシャの腕にしがみ付いていたサラもまた、気付かぬ内に亡霊達に囲まれてしまう場所へと移動していたのだ。

 声を掛けて来た者は、既に肉体を失った骨だけの物。それが魔物であれば、サラは悲鳴を上げなかったのかもしれない。骨だけの存在など、ここまでの旅で何度も見てきてはいるし、サマンオサではそんな骸骨相手に戦闘を繰り広げているのだ。

 だが、何とも物悲しい空気を醸し出すその存在は、この世に無念を残して死んで行った霊魂。『魔王バラモス』の魔法力の影響で動いている物ではなく、『精霊ルビス』の許へ逝けない程の無念を残している為にこの世を彷徨う者達である。

 それが、この者達の意思なのか、それとも他者の無念に引き摺られているのかは解らないが、恐怖に引き摺り込まれたサラは、そこから抜け出す手段がなかった。

 

「オラは、村で人を殺しちまったで奴隷に落とされだ……だからどんな死に方をしたって仕方ねぇって思うだよ。でも、そこに居たエリックって奴は、この船の主に無理やり連れて来られたって……可哀相にな」

 

「……エリック?」

 

 肉体を持たぬ者が言葉を話す事など出来はしない。全てその言葉は、一行の脳に直接響いて来るようであった。

 骨だけの者の横にいた透き通る身体を持つ霊魂が続けて言葉を紡ぐ。この者は、自身が暮らしていた村で同郷の者を殺してしまい、村の人間達に取り押さえられた挙句、奴隷商人に売り払われてしまったのだろう。

 村とは『人』の集合によって成り立つ場所である。その中には良き感情や悪しき感情が入り乱れる。だが、それを表面に出し、禁忌である『人殺し』を犯してしまっては、集落で暮らす事など出来はしないのだ。

 そんな男の人生に顔を顰めるリーシャやサラとは異なり、カミュは話の中にあった人物の名前に意識を向ける。そして、男が顎で指示した空席へと視線を移した。

 

「…………あっち…………」

 

 その部分にあるオールを誰も握っていない事を見たカミュは、リーシャの腕の中から声を発したメルエの指差す方向へと視線を動かす。そこには、既に身体越しに床板が透けている男が寝そべっていた。

 最早船を漕ぐ気力もなく、それに縛られる事もないのだろう。ならば、何故この場に霊魂として残っているのかが解らないが、その霊魂がエリックという名の男性に物だとすれば、カミュ達は言葉を交わす必要があったのだ。

 

「おい」

 

「ああ、オリビア……もう船が沈んでしまう……君には永遠に会えなくなるのだね。でも、僕は忘れない。君との愛の思い出を……」

 

 近くに寄ったカミュが声を掛けるが、既にカミュの言葉を聞き取る事などこの霊魂には出来ないのかもしれない。

 うわ言のように口を開いて発した言葉は、波の音に掻き消されてしまう程に小さく、一行は海水が入り込んだ船室の中に屈み込み、その言葉を聞き取るように耳を澄ませた。

 エリックという名のその男の霊魂は、間違いなくオリビアという女性と恋仲だった者に違いない。その胸に輝くロケットペンダントを握り締め、虚ろな瞳を天井に向けて愛しい恋人の名を何度も口にしていた。

 

「せめて、君だけでも……幸せに……幸せに生きておくれ」

 

「あっ」

 

 もはや、霊魂を現世に縛り付ける力も限界だったのだろう。その言葉を最後に、エリックと呼ばれた男の魂は『精霊ルビス』の御許へと旅立った。

 元々肉体は朽ち果てている。消え逝く霊魂はその場に握り締めていたロケットペンダントだけを残し、跡形もなく消え失せる。何一つ情報を得る事が叶わなかった事に、サラが情けない声を上げるが、入り込んだ海水が揺らめく中、銀色に輝くペンダントが浮かんでいるだけであった。

 

「この船の主に会わなければならないな」

 

「は、はい」

 

 ロケットペンダントを拾い上げ、抱いているメルエの手を借りてそれを開いたリーシャは、その中にある物を見て表情を変える。そこにあるのは、明確な『怒り』と『哀しみ』。この船の主が何者で何を求めていたのかを知らない事には引き下がれないという熱い想いだった。

 再び自分の胸の中で燻る勇気を奮い立たせたサラは、そのリーシャの言葉に強く頷きを返す。

目指すは、この船の一番奥に見える船室。

 他の場所とは異なりを見せるしっかりとした造りの船室が、この船の主たる船長がいる部屋である事はまず間違いはない。梯子を降りてからここまでの全ての燭台に火を灯していたからこそ見えたその場所に、四人は歩き始めた。

 

「ここから先は、何があるか解らない。何時でも戦闘には入れる準備だけはしておけ」

 

「……わかった」

 

「わ、わかりました」

 

 船室の扉の前まで移動し、扉のノブに手を掛けたカミュは、後ろに控える三人に気を引き締めるように忠告をする。この船での戦闘は、甲板で遭遇した<ミニデーモン>だけであり、入り込む海水に紛れた<スライムつむり>などとの戦闘は行って来なかった。

 だが、この船室がこの船の主の部屋だとすれば、それが魔物の類である事は否定出来ず、むしろその可能性の方が高いと言っても過言ではない。そして、そこが魔物の住処であった場合、即座に戦闘が開始され、狭い船室内での厳しい戦闘になる事は間違いないだろう。

 各々の武器を構えた一行を確認した後、カミュはその扉を押し開けた。

 

「ひぃぃぃ!」

 

 再び轟くサラの叫び。

 先程奮い立たせた『勇気』が急速に萎んで行く。腰が抜けてしまいそうな程の光景にサラの身体が泳ぐ。だが、しっかりと握られたメルエの手がそれを許さなかった。

 狭い船室の中には、既に白骨化した遺体が所狭しと存在し、その殆どが奥にある一際大きな席を囲むように壁にもたれ掛って座していた。

 中には未だに骨に腐肉が付着している物もあり、異様な臭気が部屋に充満している。先頭のカミュが<たいまつ>の炎を船室の燭台に移した事により、その全貌がはっきりと視認出来るようになったのだが、その異様で奇怪な光景は、更にその恐ろしさを増すだけであった。

 

「なっ!?」

 

「きゃぁぁぁ!」

 

 四人全てが狭い船室に入り切った時、最後尾にいたリーシャが驚きの声を上げる。その声に恐怖心を煽られたサラは、自分の左側にある壁にもたれ掛る白骨にぶつかり、白骨自体が自分に覆い被さって来た事で大きな叫び声を上げた。

 四人全てが船室に入り切ると同時に、その船室へと続く扉が勝手に閉じてしまったのだ。音を響かせて閉じられた扉は、慌てて体当たりをしたリーシャの力でも開かれる事はなく、勇者一行は完全にこの船室へ閉じ込められてしまったのだ。

 <シャンパーニの塔>で白骨化した死体を見ても動じる事はなく、骨だけになっても動く<骸骨剣士>との戦闘も行って来たサラであったが、この船に限ってはその限りではないのだろう。最早顔色は死人と言っても過言ではない程に青ざめており、歯は噛み合わなくなって奇妙な音を立てていた。

 

「久方ぶりの女だな」

 

「ひぃぃぃ」

 

 そんなサラは、自分に覆い被さっていた白骨から突如人語が発せられた事で、再び声を失う程の叫び声を上げる。よくよく見ると、先程まで自分の肩から垂れ下がっていた白骨化した手には、しっかりとした肉が付いていた。

 まるで生きている人間に身体を抱かれているように感じたサラは、目を回さんばかりに身体の力が抜け、座り込みそうになるが、それは手を繋いでいる幼い少女が許さない。<雷の杖>を手に取ったメルエは、サラに覆い被さる男性の霊魂に向かってそれを振った。

 

「…………だめ…………」

 

「おっと、なんだこのガキは!?」

 

 霊魂の身体をすり抜けた<雷の杖>ではあったが、その霊魂はまるで少女を恐れるようにサラから体を離し、不機嫌そうに眉を顰める。舌打ちをして不満をいう霊魂とメルエの間にカミュが立ち塞がり、その行動を止めなければ、この霊魂は間違いなくメルエに害を成したかもしれない。

 サラは既に役立たずに落ち、小さなメルエの背中に隠れるように、その身体を抱き締めている。そんなサラの姿が、この幼い少女の心に火を点し、睨み付けるように霊魂へ視線を送っていた。

 

「カミュ、そんな木端の相手をしている暇はなさそうだぞ」

 

「……あ、あわ……あわ」

 

 一体の霊魂と睨み合うカミュであったが、その行動は最後尾で船室全体を見ていたリーシャによって遮られる事となる。『木端』という言葉を用いて、他者を侮るような素振りを見せるリーシャは珍しい。だが、実際にリーシャやカミュから見れば、この船室にいる白骨化した霊魂など、歯牙にも掛けない程の存在なのだろう。

 リーシャの言葉で船室全体へと視線を移したサラは、満を持してあの言葉を口にする。いや、実際は既に言葉にさえなっていない。言葉にならない恐怖の言葉を口にしたサラに、メルエは先程までの厳しい瞳を緩め、口元さえも緩めて笑みを溢す。

 船室内にあった白骨が霊体化して行き、カミュ達を威圧するように壁へ背を付けたのだ。それは、船室の一番奥へカミュ達の視界を開くようでもあった。

 

「お前等が、アタイの一部を持って来たのかい?」

 

 そして、手前の白骨から徐々に霊体化して順序に従って壁へ背を付けて行き、最後の二体が霊体化を終えると、その奥にある燭台に勝手に火が灯る。その炎が照らし出す物は、一国の城にある玉座のような大きな椅子。そして、その椅子には、一体の白骨化した遺骸が座っていた。

 その遺骸は霊体化する事無く、全てが骨のまま、その空洞化した目をカミュ達へ向ける。カタカタと不快な音を立てながら話す人語は、やはりカミュ達の脳へ直接響くような物であった。

 サラは恐怖の余り膝が笑い続け、まともに立っている事さえも出来なくなっている。その手をメルエが握り、その背をリーシャが押さえていなければ、彼女は腰を抜かしてしまっていたかもしれない。それ程奇怪で異様な光景であったと言えよう。

 

「さっさと出しな! それはアタイの物だよ! アタイはね、奪う事はあっても、奪われる事だけは許せないんだ。それを奪って行ったのはお前等ではなさそうだから、優しく言ってやっているんだ。気が変わらない内に出す物を出しな!」

 

 その声は船室を震わせているのではないかと思う程にカミュ達の脳を震わせる。玉座に座っている白骨死体の怒りが直接伝わって来るだけに、それが一刻を争う事であるという事が理解出来た。

 この白骨化した者達だけであれば、リーシャが考えている通り、只の木端に過ぎない。だが、この玉座に座っている白骨死体の放つ空気は、それの生前が只者ではない事を物語っており、生を失った今となっては、どのような奇術を使うか解らない以上、それに従うのが得策である事は明白であった。

 だが、何を示しているのかが解らない事も事実。震えるサラに、困惑するカミュ、そしてサラが先程発した言葉に笑みを溢しているメルエと、状況が前へと進まない中、この船に入ってから一つも失態を見せていない女性戦士が口を開いた。

 

「カミュ、もしかすると<船乗りの骨>の事ではないか?」

 

「……なるほど」

 

 その助言が的を射た物であり、カミュにしても何故気付かなかったのかと思ってしまう程の物であった為、彼は素直に頷きを返す。即座に思い浮かばなかったという事は、カミュ自体もこの状況に若干の困惑を見せていたのだろう。

 人間の死体を見た回数で言えば、カミュもリーシャもそれ程変わりはない。凄惨な死体を見た回数も大差はないだろう。だが、霊魂という物を見た回数となれば、宮廷という場で生きて来たリーシャの方が若干上であるのだ。

 『人』のあらゆる感情が渦巻くのが宮廷内部である。『嫉妬』や『憎悪』、派閥によって分けられた人間の線引きは、その感情を増幅させ、時には宮廷内の人間の失踪を誘う事もある。そして無念の内に命を落とした者達は、その無念の地である宮廷内を彷徨い続ける事もあるのだ。

 司祭によって払い切れない邪気は、霊魂となって宮廷内に姿を見せる事もある。幼い頃から、宮廷騎士団長の娘として出入りしていたリーシャは、数多くの霊魂を見て来ていた。

 

「よし! それはアタイの物だ!」

 

 袋から取り出した<船乗りの骨>は、玉座に座る白骨死体の声に応えるかのように、カミュの手から離れ宙を舞う。そのまま漂うように宙を滑り、玉座に座る白骨死体の左足へと吸い込まれて行った。

 そして、吸い込まれた<船乗りの骨>が他の左足の骨と骨の間に収まった瞬間、玉座が輝きを放つ。その眩いばかりの輝きは、この船の主の帰還を祝うように鮮やかな物であった。

 

「お頭のお帰りだ!」

 

「おぉぉぉぉ!」

 

 壁にもたれ掛っていた霊魂で、最も玉座近くに立つ者が片腕を上げる。それに呼応するかのように響き渡る叫び声が狭い船室に響き渡った。

 ようやく叫び声が船室の壁に吸い込まれた頃、輝きを放っていた玉座の光もまた、船室の壁へと吸い込まれて行く。そして収束して行った光の中にあるその姿を見たカミュ達四人は、先程までとは異なる驚きを見せる事となった。

 

「アタイの一部を持ち帰った事、褒めてやる。お前達は無傷でこの船から降りる事を許可してやろう」

 

 霊体化を終えたその姿は、周囲の壁にもたれ掛る屈強な男達とは全く異なる姿。

 見目麗しいとまでは行かないが、男好きのする容姿を持ち、鍛え上げられたしなやかな筋肉を持ちながらも丸みを残したその身体の胸部には、リーシャと比べても引けを取らない程の膨らみがあった。

 それは、玉座に座る者が女性である事を示しており、玉座に座す以上、この女性が屈強な男達を従える棟梁である事を物語っている。海は男達の世界であるというのが、この時代では当然の考えと言っても良い。それ程に、この時代の海上は危険に満ちているのであった。

 魔物が蔓延り、海賊が海上を支配する時代である。戦闘が必須である以上、それらを打倒出来る力が求められる。女性であれば、リーシャのように『戦士』と呼ばれる程の技量が必要であるのだ。

 

「これでようやく黄泉への航海が出来るってもんだ。野郎ども、出港の準備をしな! 黄泉の国がどんな所か知らないが、そこにも海があれば、今度こそそこの支配者になってやろうじゃないか!」

 

「おぉぉぉぉ!」

 

 混乱するカミュ達を置き去りにし、船室では話が加速的に進んで行く。玉座に座る女性が命令を口にし、それに応えるように叫び声を上げたカミュ達の周囲にいた霊魂は、次々と閉じられた扉をすり抜けて甲板へと出て行った。

 自分の身体さえもすり抜けて行く霊体に、気を失いそうな程怯えるサラは、言葉にならない声を口から発し続けているが、メルエはサラの状況をからかう事無く、首を傾げて玉座の女性を見つめ続ける。

 

「なんだ? アタイに何か文句でもあるってのかい?」

 

 メルエの視線に気が付いた女性は、挑発的に鼻を鳴らし、幼い少女に向かって威圧するように言葉を掛けた。

 その言葉を聞いたメルエは、先程とは反対側に首を傾げ、困ったように眉を下げるが、何かを思いついたのか、そのまま周囲の霊魂に見向きもせずに玉座へと歩み寄り始める。

 それに驚いたのはカミュとリーシャ、そして手を繋がれていたサラである。メルエが歩けば、手を繋いでいるサラも歩かざるを得ない。踏ん張る力も抜けてしまっているサラに抵抗する事など出来ず、まるで手綱を引かれた馬のようにメルエの後を追って歩くしかなかった。

 一息溜息を吐き出したリーシャはカミュへ視線を送り、彼が一つ頷いた事を確認してから、メルエを護るように屈強な男達の霊魂との間に割り込む。両側をカミュとリーシャに護られたメルエは、そのまま玉座の前へと辿り着いた。

 

「なんだい!?」

 

「…………アン…………?」

 

 目の前に来ても首を傾げたまま見つめるメルエに苛立った女性は、先程よりも威圧的に言葉を発する。直接脳へと響くその声は、苛立ちと怒りを表してはいたが、小さな困惑も含まれている事に、カミュとリーシャは気が付いていた。

 しかし、その後に口にしたメルエの言葉は、カミュやサラを驚かせるのに十分な物であり、唯一人、リーシャだけは何処か納得したように声を上げる。

 それは、メルエの唯一の友の名であり、トルドという敏腕商人の娘の名前。そして、先日再訪したばかりのエルフの隠れ里を治める、エルフの女王の娘の名前であったのだ。

 

「なに!? 何でガキがアタイの名前を知っている!? お前等は何者だ!?」

 

 疑問符が頭の上に浮かぶ程に驚きを示したカミュとサラではあったが、目の前の女性がメルエの発した名を自身の名だと明言した事に尚更の驚きを示す。最早、カミュやサラに至っては、この状況が全く理解出来ないと言っても過言ではなかった。

 だが、リーシャだけは、何かに納得したように頷きを繰り返しており、その瞳には挑発的な色を宿したまま不敵な笑みさえも浮かべている。

 自分が考えていた通りの人物であった事に笑みを浮かべたメルエであったが、アンと名乗った女性は、その笑顔が気に食わない。自分が知らない人間が、自分の事を知っているというのは、あまり愉快な事ではないだけに仕方ない事であろう。

 

「答えろ! 何故、アタイの名を……待て……ガキ、何故お前がそれを持っている?」

 

「…………???…………」

 

 不快感を表したアンという女性は、苛立ちをぶつけるようにメルエへ叫び声を上げるが、その途中で何かに気付いたように、言葉を途切った。

 再び自分が理解出来ない事を言われ、メルエは首を傾げる事となる。だが、アンという女性が指差す先が、自分が肩から下げているポシェットである事に気付き、その中へと手を入れた。

 

「…………これ…………?」

 

「そうだ、それだ。答えろ! 何故、お前がその<レッドオーブ>を持っている!?」

 

 袋の中から取り出したのは、カミュと逸れた三人が辿り着いた大海賊団のアジトで、その棟梁であるメアリからメルエが譲り受けた紅く輝く宝玉であった。

 メルエの手の中にすっぽりと納まる大きさのその宝玉は、確かに<レッドオーブ>と呼ばれる物に間違いはない。ただ、それはルビス教でも限られた者にしか伝わらない程の物。隠遁されている訳ではなくても、それを知る者は数少ないと言って良いだろう。

 しかし、このアンという名の女性はそれを知っていた。

 それが、この女性が只者ではない事を示しており、この宝玉の持ち主であった事を物語っている。

 

「…………メアリ………くれた…………」

 

「なに!? メアリの馬鹿がお前に譲ったというのか? アタイとの誓いの証だぞ? それをお前のようなガキにくれてやっただと?」

 

「その通りだ。メアリは、自身が滅ぼしたお前の海賊団との誓いを遂げる決意の証と、このメルエとの約束を守る証として、このオーブをメルエに託したのだ」

 

 言葉足らずのメルエの言葉に、思わず玉座から腰を浮かしかけたアンの行動を制するようにリーシャが間に入った。

 この譲渡式に立ち会ったのはリーシャだけである。メルエとメアリの誓いを知る人物もリーシャだけであり、メアリが他の海賊と争って世界に覇を唱える海賊となった事自体は知っているサラであっても、このオーブの譲渡に関する話を詳しくは知らなかった。

 再び視線が交差する強者同士。

 共に女性ではあるが、この世界で生きる大半の男性よりも強い力と技量を持ち、男に屈しないどころか、男さえも屈服させる程の女性達である。

 

「メアリが、アタイとの誓いを遂げるだと? あの馬鹿じゃ土台無理だ。魔物が横行するこの時代に、海賊が生き残れる方法は何一つない」

 

「そうだ。だからこそ、メアリは考え続けた。そして今、このサラの知恵を借り、偉業を成し遂げようと奮闘している」

 

 ある程度の力量を持つ者であれば、相手の力量を推し量る事は出来る。力量と技量で敵わない事を理解したアンは、そのまま視線を外し、リーシャの言葉を馬鹿にするように鼻を鳴らす。しかし、小馬鹿にした態度を取るアンに対しても憤る事無く、リーシャは言葉を続けた。

 もしかすると、自身を『筋肉馬鹿』と愚弄したメアリという人物が、他者から更に馬鹿にされているのを面白がっていたのかもしれない。だからこそ、アンが『馬鹿のメアリでは駄目だ』と口にするのに対して、一度肯定を表したのだろう。

 そんなリーシャの言葉に対して、驚いたのはアンである。

 メアリ率いるリード海賊団に敗れ去ったとはいえ、女海賊として、男が率いる海賊団に一度たりとも負けた事のない彼女は、その腕力だけで伸し上がって来た訳ではない。その頭脳は、メアリでさえも認める程に冴え渡り、この先の世界で海賊が生き残って行く道は残されていないという考えを持っていたのだ。

 故にこそ、リーシャが発した『偉業を成し遂げる』という言葉と、その偉業を成す為の助言を行ったという人物の存在に驚いたのだ。

 

「お前のような冴えない女が? メアリの馬鹿に何を吹き込みやがった! 事と次第によっちゃ、お前等もこの船を降ろす訳には行かないよ!?」

 

「サラ……話してやれ」

 

「ふぇっ!?」

 

 アンという女海賊にとって、メアリという女海賊は、敵であるのと同時に友でもあるのだろう。好敵手と言えば良いのだろうか、彼女は自身の敵として認めると共に、仲間に近い程に想いも持っていたのかもしれない。

 故に、自身の夢を託した友に適当な事を吹き込んで踊らせようとする者であれば、生かしてはおかないという意思を口にしたのだ。

 その想いを理解したリーシャは、先程まで事の進行について行けず、呆然と立ち尽くしていた『賢者』を前へと押し出す。押し出されたサラは、突如の事に再び動揺し、素っ頓狂な声を上げた。

 

「わ、私は、メアリさんに当たり前の事を告げただけです。この先の時代で、海の支配権を持つという事は、その海を誰もが自由且つ安全に航海出来るようにするという意味だと考えました。で、ですから、客船を襲うのではなく、客船を護り、その対価を受けるべきだとお話しました」

 

「対価? 海の領有権をメアリが全て有するという事か?」

 

 サラの話す内容次第によっては、四人全てを許すつもりはなかったアンではあったが、その話す内容が予想外の物であり、思わず興味を示してしまう。だが、それはサラの考えていた物とはかなりの差異を生じさせていた。

 アンが死に際にメアリと何を語り合ったのかは解らない。だが、その中身は、現状のアンを見る限り、それ程練られた物ではなかったのだろう。となれば、メアリが考えていたと思われる未来への展望は、アンとの戦闘の後、メアリ一人で導き出した物が大半だったのかもしれない。

 

「いえ、海は誰の物でもありません。ですが、だからこそ危険が付いて回ります。魔物も生きていますし、海を生活圏とする海賊もいます。大きな商人となれば、他の商人が持つ商船を襲う事もあるでしょう。時代が変われば、国の要人が乗る船も多くなる筈です。その時、その航海の安全を護る集団がいれば、多少の利益を削ってでも護衛を必要とする者達もまた、数多くいるという事をお話しました」

 

「……海上の護衛団という訳か。なるほどな、アタイが死んだ今となっちゃ、この世界の七つの海はメアリの物だ。大きくなった海賊団を七つに分け、その海域の航海を護衛させれば、大抵の魔物であれば船を沈められる事はない。法外な金額を要求せずに、安全な航海を実現させれば、再利用しようとする者も増えるだろうな」

 

 だが、やはり腕力と頭脳で一時代を築いて来た女海賊である。サラの短かな説明で、全てを悟った。『一を聞いて十を知る』とまでは行かないが、文官でもなく賢者でもない、一海賊の棟梁であれば、異常な程の冴えであると言っても過言ではない。

 快活な笑みを浮かべたアンは、その威圧感を解き、物珍しそうにサラを見ていた。この女海賊にしても、海賊として忌み嫌われるメアリに対して、そのような知恵を与えたサラという人物に興味を持ったのだろう。

 

「わかった。メアリが認めたお前達をアタイも認めよう。その<レッドオーブ>は、何でも『精霊ルビス』の従者を蘇らせるという伝説がある代物らしい。アタイが全て手に入れ、その従者とやらを蘇らせてやろうと思ったが、結局その<レッドオーブ>しか手に入らなかった。その夢は、お前達に託すよ」

 

 アンの口から明確に告げられた内容に、メルエを除く三人が驚いた。その宝玉の真の名を知る限り、ある程度の情報は持っているだろうという予測はあったが、正確に掴んでいるとまでは考えていなかった。

 世界の海を股に駆ける海賊の棟梁であれば、そのような伝説紛いの話が耳に入る事はあるのかもしれない。だが、それを信じて集めてみようと考える人間は珍しい。このアンという女海賊は、そういう点でも、抜きん出た不世出の逸材だったのだ。

 そしてそれは、その伝説を伝える事無く、メアリという友にオーブを手渡していた事からも推察出来る。『この宝玉に関する情報は、お前が集めろ』とでも言わんばかりの行為であるが、夢半ばにして倒れる事への僅かばかりの抵抗であったのかもしれない。

 

「……一つお聞きしたい事があります」

 

「何だ?」

 

 アンの言葉を聞いたメルエは、大事そうに<レッドオーブ>をポシェットの中へと仕舞い込み、軽くポシェットを数回叩く。その姿にリーシャとアンが頬を緩めた時、先程までの怯えた様子を消し去ったサラが口を開いた。

 重苦しく開かれた口から発せられた疑問に、アンの顔が上がる。その玉座の周囲に残っていた数体の霊魂もまた、何も言わずにサラへと視線を集めた。

 恐怖の対象である大量の霊魂から注目された事で、一瞬戸惑いを見せたサラではあったが、再び拳を強く握り込み、意を決したように言葉を続ける。

 

「エリックという男性を、何故この船に乗せたのですか?」

 

「……エリック? ああ、あの男か? あれは、襲った客船に乗っていた男だが、顔がアタイ好みでね。アタイの飼い犬として可愛がってやろうと思っていたが、よりにもよって、『心に決めた女がいる』とぬかしやがった。このアタイを馬鹿にしやがったのさ。だから奴隷として船を漕がせたが、それがどうした?」

 

 サラが発した名に聞き覚えが無かったのだろう。アンは全く知らぬ名であると言わんばかりに、周囲に立つ部下達の方へ視線を送った。

 その部下達の中でエリックの名とその存在を知っていた者から、誰の事かを聞いたアンは、それほど興味もなかった人物の事を思い出し、忌々しそうに当時の事を語り出す。だが、それは強者の言い分であり、弱者からすれば許す事の出来ない物であった。

 

「そんな惨い事を……」

 

「惨い? 何を言ってやがる。この世界では力こそが全てだ。力が無ければ他者からの圧力に逆らうことも出来ずに、受け入れる以外の選択肢はない。それが嫌であれば、他者に負けぬ力を有すれば良い。お前達もそれ程の力を持っているんだ、それぐらいは理解していると思ったが?」

 

 正に強者の言い分である。他者を虐げる力を有していれば、その力を行使するのは当然であり、それが嫌ならば、自身が他者を虐げる力を有するべきだと言うのだ。

 それは、世界で唯一の『賢者』となり、他者を強制的に死へと導く呪文さえも行使出来るサラであるからこそ、納得も理解も出来ない思考であった。

 サラもメルエも、他者を虐げる力は有している。虐げるどころか、この世界から骨一つ残さずに消し去る事さえ可能な程の力を持っている。だが、だからこそサラは自身の力に酔う事はない。その力を知り、そして恐れ、自重する事はあっても、無暗矢鱈にそれを使用する事はないのだ。

 そして、それはサラから教えを受けたメルエも同様である。彼女もまた、自身の力の強大さを知り、それを行使する恐ろしさを学んでいる最中なのであった。

 

「それは違います。持っている力が強大であればある程、その力を『護る』という方向へ向けるべきです。まずは自分自身を守る為に行使するのも仕方がありません。その結果、自身を攻撃しようとする者を虐げてしまう事になるでしょう。ですが、必要以上に行使された力は、只の暴力となります。暴力となった力は、どれ程強い力であっても認められる事はありません」

 

「はっ! 知ったような口を叩きやがる。そもそも、お前はアタイと解り合えるとでも思っているのかい? そんな事は不可能だ。アタイは悪党さ。悪党には悪党の生き方があり、死に方がある。悪党の死に方はお前の考えている通り、碌な物にはならないだろう。だが、それらを全て受け入れるからこそ、悪党なのさ」

 

 自身の考えを述べていたサラは、全てを話し終わらぬ内に割り込んで来たアンの言葉に閉口してしまう。それは、彼女の言う通り、サラと言う人間と生涯交わる事の出来ない考え方だったからだ。

 自身を悪党と名乗り、悪党としての生き方を否定する事無く、それら全てを受け入れて尚、悪党として死のうとするこの人物に対し、サラは伝えるべき言葉がなかった。理解し合う事の出来ない相手を諭す方法など、年若い『賢者』が持ち合わせている訳はない。

 実際、サラはこの旅を通じて、相手の考え方や価値観を覆した事などない。自分の考えや価値観を押し付ける事に成功した事など有はしないのだ。全ては、相互の譲歩による結果が、ここまでのサラの旅路を支え続けている。相手にも自分にも譲歩する余地がない場合、それは決裂という形で終了を迎えるしかなかった。

 

「悪党は最後まで悪党なのさ。それを全う出来ない奴は、死に際に見苦しく狼狽えるだろう。だが、アタイはこの人生に悔いはない。生きたいように生き、最後は悪党らしく華々しい死に様を晒した。お前等のような人間には理解出来ないだろうし、理解して欲しいとも思わない」

 

「サラ、何を言っても無駄だ。メアリとは根本的に違う」

 

 悔しさに唇を噛みしめるサラに畳みかけるように自論を口にするアンを眺めていたリーシャは、一つ大きな息を吐き出して、サラの肩へ手を置く。主を馬鹿にされたと感じた側近達が勇み立つも、リーシャから向けられる鋭い瞳によって、身動き一つ出来なくなった。

 今のリーシャであれば、例え実体のない霊魂であっても、その白骨を再生不能な程にまで粉々に砕く事など瞬時に出来る。いや、正確に言えば、この幽霊船ごと海の藻屑とする事さえも可能であろう。

 

「最初から用などなかった筈だ。最早黄泉へと旅立つ哀れな弱者に構っている暇はない」

 

 そして、そんなリーシャの言葉に続くように発せられたのは、表情を消し去った青年だった。彼がここまで相手を挑発するような言葉を発する事も久しく感じる。

 ここまで一言も口を開かなかった青年が口を開いた事に驚いたアンであったが、その言葉を口にした青年の瞳を見て不敵な笑みを浮かべる。それは獲物を見つけた猛禽類のようでもあり、その強さに魅かれた女の物のようでもあった。

 

「良い男じゃないか。アタイに喧嘩を吹っ掛ける男なんて初めてだよ。お前であれば、アタイも女として従おうじゃないか。どうだい、共に黄泉の国の海を制してみないか?」

 

「断る」

 

 パーティーの女性三人を護るかのように前へと出たカミュへと声を掛けたアンは、妖艶な女の香りを放っている。大抵の男であればその香りに誘われて、身体ごと全てを喰われてしまう程に強烈な女性の強い引力。

 カミュの瞳を見て、更にその身体に纏う空気を敏感に感じ取ったアンは、彼の中に何かを見たのかもしれない。男達の中であっても一歩たりとも譲る事が無かった海賊棟梁の胸の奥に眠っていた女性としての本能を目覚めさせる何かを感じたアンは、カミュの口にした言葉の内容を無視し、そしてこの男を欲した。

 だが、それは当の本人ではなく、その後ろに隠れた者によって遮られる。アンが口を閉じ終わる前に放たれた言葉は、明確な拒絶であるのだが、それは本来であれば本人が口にする筈の物。

 

「何だ? お前の男だったのか?」

 

「違う!」

 

 カミュ本人が口を開く前に言葉を発したのは、先程アンを小馬鹿にしたリーシャであった。後方から攻撃する事を不得手とし、更にそのような気質でもない彼女ではあったが、アンとその配下の人間からの圧力から護るように立つカミュを押し退ける事も出来ない為、その場から声を発したのだろう。

 リーシャの言葉に若干驚いた表情を浮かべたアンではあったが、即座に厭らしい笑みを浮かべて彼女の顔へ視線を送った。その表情は、楽しむようなからかうような物であると同時に、自身の望みを遮る者への怒りも含まれているような物。

 そして、そのからかいと怒りは、言葉となってリーシャを襲い、その内容に間髪入れずに反応した彼女の声は狭い船室に響き渡った。

 

「ほぅ……ならば、何故お前が拒否する? アタイは、その男に問いかけているんだ。もう一度問おう、アタイならばお前を満足させる事が出来ると思うぞ? その頭の悪そうな女よりも、男が喜ぶ事を熟知しているからね」

 

「なに!?」

 

 最早こうなっては、先程までの緊迫感など微塵もない。リーシャは、メアリだけではなくその友であるアンにまで馬鹿にされた事で憤りを露わにしているし、先程まで相対していたサラは突然の話題転換について行けずに呆然としている。メルエに至っては、話の内容が理解出来ない為、表情を無くしているカミュと、怒りを露わにするリーシャを見て、その対象であるアンへ鋭い視線を向ける始末であった。

 暫し無言でアンへ視線を向けていたカミュであったが、その馬鹿馬鹿しい空気に大きな溜息を吐き出し、踵を返して扉の方向へと歩き始める。

 

「おい!」

 

「……馬鹿であっても、悪党ではない」

 

 女性からの誘いに答えも返さずに去ろうとするカミュに対し、流石のアンも激高しかける。椅子から立ち上がったアンの叫びに対し、一瞬足を止めたカミュは、呟くような一言を告げて扉のノブを回した。

 出て行く青年を唖然とした表情で見つめていた者達の中、真っ先に動いたのは幼い少女であり、『とてとて』と駆け出した彼女は、青年のマントの裾を握り締めて満面の笑みを浮かべる。そんな二人の姿に落ち着きを取り戻したサラもまた、自身とは価値観が正反対であった女海賊の顔をもう一度見た後、扉を出て行った。

 

「残念だったな」

 

「ちっ! あの男を逃したのなら、お前も生涯悔いるだろうよ!」

 

 最後に残ったリーシャは、勝ち誇った笑みを浮かべてアンに対して嫌味を口にした。リーシャの気質からすれば、このような態度を取る事も、このような発言をする事も珍しい事ではあるのだが、その事に彼女自身は気付いていないだろう。

 盛大な舌打ちをしたアンの表情を見る限り、単純にリーシャをからかっていただけではなかった事が窺える。彼女自身、カミュという青年に何かを感じ、それを異性として欲していたのは本心であったのかもしれない。

 

「頭!」

 

 最後のリーシャが扉を潜ろうとした時、船室に一人の男が入って来た。正確に言えば、この男自体が既に生命を持たぬ者であり、男性と称しても良いか悩むところではあるが、触れる事は出来ずとも、はっきりとした身体を視認出来るのであるから、ここではそう呼ぶのが正しいのだろう。

 今までの不機嫌さを隠すつもりもないアンは、その男に対して厳しい瞳を向け、声を詰まらせた男は自分が飛び込んで来た理由を述べる事が出来ず、身体を硬直させるように立ち尽くしてしまった。

 

「何だ!? さっさと要件を言え!」

 

 そんな男の様子に更に機嫌を悪くしたアンは、肘掛けを殴りつけて叫び声に近い程の怒声を上げる。狭い船室を揺らす程の大声に飛び上がった男は、背筋を伸ばすように姿勢を直し、恐怖に委縮した心を奮い立たせて答えを返した。

 

「この者達以外にも船内に不審な男を発見! 魔物ではなく、生きている人間のようです」

 

「ああ? 生きてこの船から降ろすのは、コイツ等だけだ。その他は、黄泉への道連れだ!」

 

 男の報告に対し、不機嫌さを隠す事もないアンは、吐き捨てるように叫んだ。その声は、船室を出ようとしたリーシャだけではなく、既に外へ出ていたカミュ達三人の耳にも届く。

 この場所に来るまでに遭遇した、この船の財宝を目的とする男の事を話しているのだという事は即座に理解出来る。カミュはそれを理解しても表情すら変えず、アンの叫ぶ言葉の意味が解らないメルエは一人で首を傾げるのだが、サラだけはその内容に勢い良く振り返ってしまった。

 船を降りる事が出来ないという事は、既にこの世の物ではない船と共に、死後の世界へと旅立つ事を意味する。それは、生きている者の命の灯を吹き消す行為に他ならなかった。

 

「サラ、戻っても仕方がない。幽霊船の財宝目当てでこの船に乗り込んだ者の自業自得なんだ。死にたくないと考えるならば、あの女海賊が言うように力を備えるか、それとも命の危険がある場所を避けるという二つの方法しかない事もこの世の摂理だと私は思う」

 

「そ、そんな……」

 

 振り返り、船室へ戻ろうとしたサラの肩を、船室から出て来たばかりのリーシャが掴む。その力は予想以上に強く、サラの身体を宙に浮かせた。

 じたばたと動いていたサラではあったが、凡そリーシャとは思えないその言葉に、愕然としたように口を閉ざす。

 リーシャは心優しい女性ではあるが、それと同時に宮廷に仕える騎士でもある。情が強く、弱き者からも慕われる性質を持っていながらも、決断を下す非情さも持ち合わせているのだ。幽霊船内に『オリビアの呪い』に関する物を探しに来たカミュ達ではあるが、その後生還の道を導き出したのは彼等である。だが、財宝目当てで侵入していた男は自力で生還の道を見つける事は出来なかった。ただそれだけである。

 

「魔物やエルフ、そして人間との住み分けという考えも、サラの目指す先にあるのではないか? ならば、生ある者と、ない者も同じ筈だ。『全ての者を救いたい』というサラの考えは立派ではあるが、私達は神でも精霊でもない」

 

「……」

 

 リーシャの瞳からサラは目を離す事が出来ない。何故なら、その瞳は自分一人だけを見つめているからである。サラだけを見つめ、サラだけに伝えられているその言葉は、サラという『賢者』を信じている事を強く示していた。

 信じていて尚、その在り方に関して言葉にしなければならない事でもあったのだろう。

 この問題に正解など有りはしない。だが、『人』とは皆、それぞれの信念の許に生きている。『全ての者を救いたい』という考えは、救おうとする者の自己満足でしかないというのも事実であり、そして『人』の身では身の程を知らぬ思い上がりであると言われようとも反論など出来はしない。

 

「清濁併せ呑む事もまた、これから先のサラの道で必要な事となるだろうな」

 

「し、しかし……」

 

 最早涙目になりつつあるサラの瞳から視線を外さないまま、リーシャは柔らかな笑みを作る。その表情は、サラの全てを包み込むように優しく、サラの道を照らし出してくれるように厳しい。常に傍で見つめ、ここぞという時に引き戻してくれるこの女性を、サラは心から頼りにしていた。

 だからこそ食い下がる。自身の胸の内にある迷いや悩みを振り払ってくれる事を期待しているつもりはないのだろうが、それでも姉のようなこの存在が、自身の歩むべき道を照らし続けてくれる事を信じているのだ。

 

「全ての者を救う事など出来はしない。魔物もエルフも人間も幸せに暮らせる世の中など、私には想像すら出来ない。だが、サラが歩む道のその先には、多くの者が笑顔で生きる事の出来る世界が広がっている事を私は信じている」

 

「……リーシャさん」

 

 だが、この女性戦士の口から、サラが求める答えが出た事など、ここまでの旅路の中で一度もない。正確に言えば、サラの悩みや苦しみを解決する言葉など、何処にもないのだ。

 それでも、この女性戦士の言葉は、サラを前へと歩み出させる。胸の内に燻る火種を、燃え盛る炎へと変えてくれる。それは、アリアハンという小さな島国を旅立ってから今まで、揺るがない事実であった。

 

「その為に、サラは清廉潔白なままではいられないだろう。他者からの妬みや憎しみを受ける時もある。それこそ、己の手を汚さなければならない時も来る筈だ。それでも尚、サラは歩みを止める事は許されない。そして、私も共にその道を歩もう」

 

 零れ落ちる感情は、喜びなのか、それとも苦難への不安なのかは解らない。だが、言葉にならぬ想いだけが、サラの瞳から次々と零れ落ちて行く。

 悪と決めつける事は出来ない。世間が悪とする者も、悪とされた者からすれば、世間が悪となる。どちらが正義で、どちらが悪かなどは、その者の立ち位置によっていくらでも変化してしまうのだ。

 故にこそ、サラが悪評を受ける事もあるだろう。恨みを買う事もあるだろう。それでも彼女が『賢者』としての道を歩む限り、その足を止める事は出来ない。そして、彼女を信じ続ける人間が一人でもいる限り、彼女もまた前へと歩き続けるのだろう。

 

「サラが汚名を被るのであれば、私も共に被ろう。サラが罵声を浴びるのであれば、私も甘んじて受けよう。サラが覚悟を決めるのであれば、私はそれに従おう。だからこそ、サラは自身がやるべき事と、出来る事の違いを考えてくれ。私達は常にサラと共にある。サラの道は、私達の道でもあるのだからな」

 

「……はい」

 

 自己満足は許されない。最早、この『賢者』はカンダタを救った時とは違うのだ。あの時のサラは、理想という現実不可能な道を模索する駆け出しの者であった。だが、あれから数年の旅を続け、彼女は世界を救う『勇者』と共に歩む事の出来る『賢者』となっている。

 それは、サラには理解出来ない違いであろう。だが、年長者として彼女達を見続けて来たリーシャは、彼女の成長と、それを見て来た一人の青年の心の変化を把握していた。

 カミュという青年は、『英雄』とは異なる『勇者』と呼ばれる存在への道をしっかりと歩み始めている。彼の功績は、後の世に語り継がれる程の物となって来ており、リーシャは彼こそがこの世界を救う者だと信じていた。

 そして、その『勇者』となる青年は、この年若い『賢者』の存在を認めているのだ。言葉には出さないし、態度にも出さない。だが、最も早くから青年と旅を始めたリーシャだけは、その胸の内に隠された評価を感じていた。

 昔のように、サラの発言の揚げ足を取る事はない。サラの考えを頭から否定する事もない。全面肯定をする訳でもないが、彼がサラの歩む道を遮る事はなくなっていた。それは、彼女の存在と価値観、そしてその思考を認め始めている証であり、パーティー内での彼女の大きさを信じ始めている証でもある。

 

「……船を降りるぞ」

 

「わかった。今行く」

 

 リーシャとサラのやり取りに口を挟む事無く立ち止っていたカミュは、最後に発したサラの小さな返事を聞き、そのまま上の甲板へ続く梯子を上り始めた。

 苦笑を浮かべてそれに答えたリーシャは、未だに俯くサラの背中を軽く押す。背中を押された『賢者』は、小さな一歩を踏み出し、それを機に再び顔を真っ直ぐ前へと上げた。

 

 『人』として過分な力を有した彼等は、それぞれの立ち位置も大きく変えて行くのかもしれない。

 それは、『魔王バラモス』という諸悪の根源を打ち倒した暁には、どのような形へと変化しているのだろう。

 仲間達の待つ船へと乗り移ったと同時に、霧のように姿を消して行く『幽霊船』を見つめていた一行の胸に、様々な想いが通り過ぎて行った。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

予想以上に文字数が多くなってしまいました。
読み辛かったら、申し訳ありません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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~幕間~【ポルトガ近郊海域】

 

 

 

 幽霊船が夜の海へと消えて行った姿は、今も尚、船の乗組員の心に強烈な衝撃を残していた。

 物悲しい音を響かせ、海の底へと沈んで行ったようにも、虚空の彼方へ消えて行ったとも感じられるが、どちらにしても、この現世の何処を探しても、『ボニー海賊団』の乗る船を見つける事が不可能となった事だけは確かであろう。

 一時代を築き、世界の海を領有する程に巨大な版図を築いた女性棟梁の率いる海賊団は、友とも呼べる者へ夢と想いを託して、黄泉への海路を旅立って行ったのだ。

 

「次は何処へ向かう?」

 

「オリビアの岬へ向かってくれ」

 

 夜の海を呆然と眺め続ける船員達の姿に溜息を漏らした頭目は、既に幽霊船の行方に興味さえも示していないカミュに向かって目的地を問う。その問いに対しても、然して動じる様子を見せずに淡々と目的地を告げたカミュは、思いついたように『朝を迎えてからでも構わない』という言葉を付け加えた。

 細かな心遣いに苦笑を浮かべた頭目は、即座に表情を引き締めて、仕事へ戻らない船員達に激を飛ばす。その怒鳴り声に、ようやく再起動を果たした船員達が、各々の仕事へと戻って行った。

 

「…………メルエ………ねむい…………」

 

「ん? そうだな……サラ、メルエを船室へ連れて行ってやってくれ」

 

「え? 私がですか?……わかりました。メルエ、行きましょう」

 

 目を擦りながら眠気を口にするメルエの姿を見たリーシャは柔らかな笑みを作り、固い表情で海を眺めていたサラへ少女を託す。小さく頷きを返したメルエは、サラの返事を待たずにその手を握った。

 思考を海の彼方へ向けていたサラは、自分の手を握って目を擦るメルエを見て苦笑を浮かべ、その少女を伴って船室へと入って行く。甲板には、船員達の他にカミュとリーシャが残る事になるのだが、暗い闇へ視線を向け続けるカミュが、その先にある光の道を見出しているようにさえ、リーシャは感じていた。

 

「カミュ、オリビアの呪いを解く方法は見つかったのか? エリックという男は見たが、呪いを解く方法など口にはしていなかったぞ?」

 

「……あの岬の状況が呪いである確証はないが、呪いだと仮定した場合、それを解く可能性はアンタが持っている筈だ」

 

 細かな表情さえも判別出来ない甲板の上でのリーシャの問いかけは尤もな物であろう。彼女の言うように、幽霊船の中にエリックという男性は存在した。正確に言えば、肉体のない霊魂である為、存在したというのは可笑しいのかもしれないが、その霊魂は現世に残り続ける事が出来ずに、一人語りの後で海水に溶け込むように消えて行ったのだ。

 だが、あれだけの光景を見たリーシャは『呪い』という物を信じ始めており、それを前提に解く方法という物を問いかけている。

 それに対し、カミュは未だ、あの岬の状況を『呪い』の影響があるものだとは見ていなかった。

 

「私が持っている物? このロケットペンダントか?」

 

 そんなカミュから投げかけられた言葉に対し、リーシャは困惑した表情を浮かべ、自分の腰に下がっている革袋の中に入っていた銀色に輝くペンダントを取り出す。

 それは、無念の内に魂を消滅させたエリックという男性が最後まで握り締めていたロケットペンダントである。開封した中には、女性の似顔絵や小さく折り畳んだ手紙、そして毛髪の一部が大事そうに入っていた。

 そのロケットペンダントは、拾い上げたリーシャが持つ事になり、幽霊船内部から彼女の腰に下がる革袋の中に入っていたのだ。

 

「今の所、それ以外の糸口はない。岬の入口で、それを掲げて効果が無いようであれば、渦巻く海流の中へ放り込むしかないだろうな」

 

 現状のカミュ達に与えられた選択肢は数少ない。それは旅を始めた頃から変わりない事ではあるのだが、この岬の呪いに関しては、いつも以上に情報が頼りなかった。

 不確定要素の多い行動を取る必要があり、それが効果を示さなければ、彼等のここまでの行動が全て無駄に終わってしまう事になるだろう。それ程に慎重さを必要とする事柄に対しても、淡々と話すカミュを見ていたリーシャは、苦笑を浮かべた。

 

「そうか……まぁ、呪いという物が解けなくても、エリックの持ち物をオリビアの遺体が眠る海底へ届けてやるのも悪い事ではないだろうな」

 

 自分達の数か月の時間が無駄に終わる可能性を示されたリーシャであったが、ここでも彼女の人柄が表に出る事となる。

 無念の内に消滅したエリックの想いが入った遺品を、その相手である女性の想いが残る場所へ送り届ける事を良しとする彼女の優しさに、カミュは小さな笑みを浮かべた。

 暗闇に支配され、相手の表情を読み取る事さえも出来ない甲板の上ではあるが、リーシャはそんな僅かばかりのカミュの変化に気付く。笑みを浮かべたかどうかまでは判別出来ないまでも、表情が動いた事だけは理解したのだ。

 

「な、なんだ!? 私は何か変な事を言ったか?」

 

「いや……やはり、悪党ではないと思っただけだ」

 

 いつものように自分が馬鹿にされたのかと考えたリーシャは、少し声を荒げるが、それに返された言葉を聞いて口を噤んでしまう。カミュに対しては何処か被害妄想が強くなってしまうリーシャではあったが、返って来た真っ直ぐな言葉に何も言えなくなってしまったのだ。

 欠けた月を見上げるように顔を上げたカミュは、その淡い月明かりを浴びて口を閉じる。それ以上に何も語る気はないのだろう。

 淡く優しい月明かりに照らし出された船は、再び西の方角へと進み始めた。

 

 船はポルトガを通り過ぎ、そのまま再びオリビアの岬を目指して進む。

 食料や水などの貯蔵は十分にあったし、何の交易品も持たずに再びポルトガの港に入る事は難しかったのだ。

 別段、それが許されぬ行為ではない。だが、ようやく活気を取り戻し始めたポルトガの根底には、カミュ達が乗る船によって齎される、見た事もない交易品の数々への渇望があった。

 カミュ達の船が戻る度に、この世界にも希望が残されているという事を感じる事が出来るし、その希望が未来へ続く夢である事も事実である。『人』が生きる為に最も強い活力は、未来への希望であった。

 『今日より良い明日がある』

 『今年よりも素晴らしい年が来る』

 そんな小さな希望が、明日を生きる勇気と喜びを与えているのだ。

 

「ポルトガの活気を見ると、『人』の未来も悪くはないのだと感じるな」

 

「……気楽な物言いだな」

 

 夜が明ける前の為、サラとメルエは船室で眠ったままである。

 水平線の先に太陽の欠片が見えるまで数刻の時間が必要となるだろう。そのような真夜中にも拘らず、船の上から見えるポルトガの港は、無数の明かりに満たされていた。

 夜が明けぬ内から航海へ出る船もあるのだろうし、町の中で活動を開始する職業もあるのだろう。その状況自体、ポルトガ国王の尽力の賜物であるが、その原動力となったのは、その営みの明かりを嬉しそうに眺めるリーシャや、皮肉を口にする青年達である。

 しかし、『人』の未来が、ポルトガ国民の願う通りの物になるかどうかは、カミュの言う通り、この先の厳しい旅路の成否によって決まる。『魔王バラモス』を討伐出来たとしても、必ずしも世界が救われる訳ではない。だが、『魔王バラモス』を討伐出来なければ、この世界に広がる暗雲が晴れる事がないのは確実でもあった。

 

「大丈夫だ。お前は必ず『魔王バラモス』を打倒出来る。アリアハンを出た頃の私は、お前を見て絶望した。だが、今の私は、自信を持ってそう言える」

 

 いつものような嫌味を言うカミュに対しても腹を立てず、彼女は遠くに見える明かりから視線を外し、口端を上げている青年の瞳を見つめる。急に振り返ったリーシャに対して驚いた彼は、その口から出て来た言葉に対し、更なる驚きを表した。

 リーシャが『カミュこそが勇者である』という言葉を口にした事は、これまでの旅で何度かある。彼が作り出す『必然』を目の当たりにし、彼の行動の先にある未来を感じ、その全てを信じ始めている事も確かである。

 だが、彼女がアリアハンという生国を出立した頃に感じた想いを本人に対して話したのは初めてであったのだ。

 

「お前こそが『勇者』だ。私は、この旅の中でお前を見て来た。私はもう、お前に『世界を救え』や『魔王を倒せ』などと言うつもりはない。お前は、お前が思うように、己が信じた道を突き進め。その道が、王道であり正道でもある筈だ。私はそう信じている」

 

「……何が言いたい?」

 

 いつもとは毛色の異なる言葉に、カミュは明らかな猜疑心を向ける。

 カミュとリーシャの表面上ではない対立は、ロマリアを超えた辺りから少なくなり、今や皆無となっていた。それは感情をぶつけ合う必要が無くなっているという事ではなく、お互いがお互いの考えを何処かで容認し始めているという証拠であろう。

 リーシャとしても、カミュの考えを全面的に支持している訳でもないし、未だに父であるオルテガへ向ける憎しみの理由も解らなければ、それを認めるつもりもない。親と子の間にある蟠りを何とかして溶かしてやりたいとさえ考えてもいた。

 それでも、彼女は誰よりも、この無口で孤独な青年を信じているのだ。

 カミュも彼女の思考や価値観全てを認めている訳ではない。相変わらず、交渉の前面に出る事を禁じているし、その考え無しの行動には辟易する時もある。自分の伝えたい事が簡単に伝わらないという事実に心を乱される事もあるし、その無遠慮な物言いや、他人の心に強引に入り込んで来る事を鬱陶しく思う事もあった。

 だが、それと同時に、この長く辛い旅の中でリーシャという一人の人間を見ている内に、この女性戦士を誰よりも頼りにするようになっていたのだ。

 

「サラの進む道について、私はあのように伝えた。だが、サラの歩む道は、お前がここまで歩んで来た道でもある。サラは気付いていないだろうが、お前が切り開いた細く頼りない道を、サラは大きく広げながら舗装して来たんだ……だが、いずれ何処かで、お前達二人は道を分かつ事になるだろうな」

 

「……俺にその気はないが」

 

 訝しげにリーシャを見つめていたカミュは、その後に出て来た内容に、再び目を見開いた。

 カミュ自身、この無骨な女性戦士と共に旅を続けて来たという想いはあるし、メルエのような幼い少女が加わってからの旅路をリーシャが語るのであれば、カミュ自身も振り返る事は出来た。

 だが、それ以前の自分自身の人生の道を顧みた事は一度もない。それは、リーシャのような他人が解る筈がないと突き放す訳ではなく、カミュ自身が歩んで来た道を自覚した事がない事を示していた。

 彼にとって、リーシャとサラと共に歩み始め、メルエが加わった事で本格化した旅が、人生の始まりと言っても過言ではないのだ。彼でさえも振り返る事のない旅路を、後方から共に歩んで来たこの女性戦士だけはしっかりと見つめ続けて来ていた。

 それは、他者の存在を認識せずに生きて来たカミュにとって、全てを覆される程の衝撃だったのだろう。故に、カミュはいつものような皮肉交じりではなく、素直な想いを口にしてしまう。

 

「わかっているさ。お前はサラと道を分かつ時、その道が間違った道でなければ、先頭をサラへと譲るだろう。お前もサラも自覚していないだろうし、その時になって気付く物だとも思う。だが、知らず知らずの内に、サラはお前の背中を見て歩き続けるんだ。お前が見て来た光景を、お前が成して来た功績を……そして、お前が無自覚の内に抑え込んで来た自我という尊さをな」

 

 押し黙ってしまったカミュは、笑みを浮かべながら語り続けるリーシャの瞳を鋭く睨み付ける。自分でさえ知らない自分を、他人に語られる事ほど苦痛な物はない。『そんな者は俺ではない』と反論したい気持ちが喉元まで出て来る中、『何を言っても無駄ではないか』という諦めに似た感情さえも湧き上がって来る。

 それが悪意を交えて語られている内容であれば、反論する気も失せるのであろうが、喜びを表すように微笑むリーシャの表情が、カミュの心を尚更苛立たせていた。

 

「サラは少しずつ変わって行かなければならないのかもしれない。自我を消し、全てを飲み込みながらも前へと進めるようにな」

 

「その必要はない。それこそ、アレはアレの想う道を突き進めば良い。傀儡ではない存在として歩む為に被る汚れならば、アレが被る必要はないだろう」

 

 最後に笑みを消して、真剣な瞳を海へと向けたリーシャの言葉は、即座に返される。予想もしていなかった返しにリーシャは驚愕の表情を浮かべ、目を見開いて振り返った。

 振り返った先の青年の表情は、暗い闇に隠され、はっきりと視認する事は出来ない。だが、月明かりによって少しずつ見え始めた彼の瞳は、真剣な光を宿しており、口にしたその言葉に偽りがない事を物語っていた。

 そして、それがリーシャの胸を締め付ける。

 それは、苦しみではなく、大いなる喜び。

 哀しみの為ではなく、嬉々とした感情の表れ。

 

「……昔、お前に貰った言葉を、今度は私がお前に送ろう」

 

 込み上げる感情に、抑えきれない想いを抑え、リーシャは月明かりに輝く潤んだ瞳をカミュへと向ける。メルエを思い出す程の満面の笑みを浮かべたその表情は、月が注ぐ淡い光に照らし出され、とても美しく輝いていた。

 リーシャが口にした言葉の意味を理解出来ないカミュは怪訝な表情を浮かべるが、月に照らされた女性戦士の表情に見蕩れてしまう。

 

「……お前は……変わり過ぎだ……」

 

 何とか紡ぎ出した言葉は、甲板の上を吹き抜ける一陣の風に乗ってカミュの耳へと届いて行く。しかし、カミュはそれを理解する頃には、踵を返したリーシャは船室へ向かって歩み出していた。

 リーシャとしても、最後の言葉を口にする事が限界だったのだろう。足早に船室へと歩いて行った彼女は、早々に扉を閉め、自室へと入って行ってしまう。

 淡い月明かりが降り注ぎ甲板の上で、静かに空を見上げたカミュの口元に、小さな笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回はかなり短めです。
描き続けていたら、とても長くなってしまい、冗長的になり過ぎた部分もありましたので、2話に分けました。
分け方に関しては、少し差があり過ぎましたが、このような形になりました。
二話同時投稿になると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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祠の牢獄

 

 

 

 ポルトガを抜けた船は南回りに航海を続け、テドンを越えてジパング付近も越えて行く。途中で何度か戦闘を行う事にはなるが、荒れていない海で遭遇する魔物は、最早カミュ達の相手になる程の物はおらず、怪我人一つ出さずに航海を続けて行った。

 ムオルの村を越えて北へ向かう途中、雪の積もった岬を見たメルエの瞳が輝き、上陸したいと駄々を捏ね始めたが、それはリーシャとサラに窘められ、敢え無く却下となる。残念そうに眉を落とし、不満そうに頬を含ませるメルエの姿に、長旅になって疲れを見せ始めた船員達の心も和んで行った。

 

「メルエ、待ちなさい!」

 

 最近のメルエは、甲板の上に置かれた木箱から海を眺め続けるだけではなく、船員達が釣り上げた魚にも興味を示し、甲板の上を跳ね回る魚を追う事もある。そして、手に取った小さな魚を考え事をしているサラの膝の上に乗せたりと、悪戯を行う事もあった。

 今は、幽霊船の時のサラの状態をからかう事を口にし、それに怒ったサラから甲板の上を縦横無尽に逃げ回っている最中である。もしかすると、このパーティー四人の中で最も変化した者は、この幼い少女なのかもしれない。

 

「あと数日もすれば、あの川へ入る事になる。天候も良いから何の問題もないとは思うが、あの岬の呪いを解く事が出来るのか?」

 

「解けると断言は出来ないが、やってみる価値はある」

 

 晴れ渡った空の下、北へと進む船は、着実にオリビアの岬へと向かって進んでいた。左手には巨大な森の広がる台地が見え、数日もすれば、ホビットが暮らす小さな祠が見えて来るだろう。その先にある大きな川から入った先が、オリビアの岬が存在する湖のような場所となる。

 天候が荒れれば、川の水位は上昇し、その流れも速くなる。航海に関しては、荒れなければ問題のない話ではあるが、その先にあるオリビアの岬付近で渦巻く海流に関しては、天候云々でどうにかなる問題ではないのだ。

 その後も、大きな問題が生じる事無く船は進み、数日後には内陸に向かって伸びる川へ入って行った。

 対岸も見えない程に大きな川は、様々な生き物達が生息している。魔物なども存在はするのだろうが、邪気はそれ程感じず、太陽の光に鱗を輝かせた魚達が躍るように泳ぎ回っていた。

 

「メルエ、そんなに乗り出したら海へ落ちてしまうぞ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 木箱の上から水面を覗き込むように身を乗り出していたメルエの身体を抱き上げたリーシャは、不満そうに頬を膨らませる少女を窘める。抱き上げられ、川の中が見えなくなる事を嫌がるように身を捩るメルエに苦笑を浮かべたリーシャは、自分が支えるようにして、幼い少女に川の中を見せて行った。

 流れが穏やかな水面には、多くの魚達の他にも羽を休める海鳥の群れがいる。食事をするように時折水中に首を突っ込む姿に目を輝かせたメルエは、自分も水中へ顔を入れたいと訴えるようにリーシャを見るのだが、即座にその考えを理解したリーシャによってそれは却下された。

 

「見えて来たぞ」

 

「リーシャさん、準備を始めて下さい」

 

「わかった。メルエ、行こう」

 

 大きな岬とその下で渦巻く海流が見えて来た事を告げる頭目の声に、サラが即座に反応を返す。その投げかけに頷いたリーシャは、メルエの身体を甲板へ降ろし、その小さな手を引いて、船首へ向かって歩き出した。

 既にカミュとサラは準備を進めており、船は海流の影響が出ない境界線にある大きな岩場に錨を下している。岩場とはいえ、人間が上陸出来る程の物であり、しっかりと下された錨は、巨大な船の動きを固定させた。

 

「空にでも掲げてみるか?」

 

「効果があるとは思えないがな」

 

 革袋から取り出したロケットペンダントを手にしたリーシャは、その後の行動に関してカミュへ問いかけるが、それに対しては素っ気ない答えしか返って来ない。不満そうに眉を顰めるリーシャではあったが、空に輝く太陽に向けてロケットペンダントを掲げてみても、その銀に輝くペンダントの光が増すばかりで、目の前の海流に何の変化もなかった。

 固唾を飲んで見守る船員達にも落胆の色が見え、居心地が悪そうにペンダントを手元に戻したリーシャは、懇願するような視線をカミュへと向ける。ロケットペンダントを預かっているのはリーシャではあるが、その使用方法までも理解している訳ではない。故に、助けを求めるようにカミュとサラへ視線を送ったのだ。

 

「空に掲げても駄目なら、海流に投げ込むしかないな」

 

「ふぇっ!? そ、そのような事をして効果が無ければ、折角の糸口を失ってしまう事になりますよ?」

 

 助けを求められたカミュは、以前に話した物と同様の物を口にする。だが、その内容はかなり博打に近い物であり、サラは素っ頓狂な声を上げた。

 以前のカミュの言葉を聞いていたとしても、それを冗談と認識していたのかもしれないし、その言葉自体を聞いていなかったのかもしれない。

 確かにサラの言葉通り、一か八かの賭けのような行動は、彼等が苦労して手に入れた重要な糸口を失ってしまう事になりかねないだろう。特にサラにとっては、あの幽霊船の出来事を思い出す事も憚れるほどに苦労したという想いがある為、その想いは一入であった。

 

「わかった。やってみよう」

 

「え? え? す、少し待って下さい! 既にエリックさんの魂もルビス様の許へ旅立っています。そのペンダント以外に、エリックさんの遺品はないのですよ?」

 

 カミュの言葉に頷きを返したリーシャを見て、サラの声量は更に増して行く。

 彼女の言う通り、呪いを掛けていると考えられているオリビアという女性と繋がりを持っているのは、エリックという男性しかいない。そして、そのエリックという男性は、幽霊船の中で虚空へと消えて行ってしまっているのだ。

 消えた魂は、この世界の普及するルビス教によると、『精霊ルビス』の御許へ向かうとされている。つまり、再びこの世に戻る事は、『精霊ルビス』から新たな生を賜る以外に方法はないのだ。

 エリックという繋がりを失ってしまえば、オリビアの呪いは永遠に残り続けるであろうし、その繋がりは、リーシャが持っているロケットペンダント以外にはないというのも事実である。故にこそ、サラは慌ててその行動を止めようと思ったのだ。

 

「あ、ああ……」

 

 しかし、その願いは届かない。

 力一杯に振り被ったリーシャの腕から、大きな放物線を描いて飛んで行ったロケットペンダントは、渦巻く海流の中へと消えて行く。水中に入る音さえも聞こえない程の距離があるにも拘らず、サラの耳には絶望へと落ちる音が響いて行った。

 太陽の光を反射しながら飛んで行くロケットペンダントを輝く瞳で見つめていたメルエは、その輝きが消えてしまった先を凝視する。

 そして、その奇跡は始まった。

 

「船をしっかり固定しろ! 手の空いた人間は、船の一部をしっかり握れ!」

 

 甲板の上に頭目の叫び声が響き渡る。

 ロケットペンダントが水中に消えて暫くの時間が過ぎた頃、渦巻いていた水流が大きくうねり出したのだ。その水流の影響を受けるように、静かだった湖に大きな波が立ち、その上で待機していた船を大きく揺らした。

 錨を繋ぐ鎖が張り、船に固定している部分が大きく軋む。その音を聞いた頭目が、もう一つの錨を岩場に固定するように指示を出し、船が水流に飲み込まれないように船員達を動かして行った。

 

「……あれは、ペンダントですか?」

 

 揺れ動く甲板から岬を見ていたサラは、信じられない光景を目にする。

 先程水中へと確かに消えて行ったロケットペンダントが、再び太陽の光を反射するように輝き出したのである。湖の水でその身を濡らしたペンダントの輝きは、先程以上の物であり、見ている者の目を眩ませる程であった。

 空中に浮かび上がったペンダントは、その輝きを更に増して行き、そしてその輝きの中に確かな人影を作り出して行く。

それは、夜の闇に支配された幽霊船の中で消え去った魂と同じ形をした男性。

 その姿は、遠く離れているにも拘らず、サラ達でも視認出来る程の大きさに映し出されていた。

 

「ああ、エリック……私の愛しき人。貴方を、ずっと……ずっと待っていたわ」

 

 そして、何よりも船に乗る全員を驚かせたのは、エリックらしい人影が岬付近に現れた後で響き渡る美しい声。その声は、女性の物であると考えられる程に透き通り、全ての人間の脳へ直接響いて来た。

 姿は見えずとも、声が聞こえるという状況に戸惑いを見せる船員達であったが、リーシャに抱き上げられたメルエが突如として指を差した方角に視線を向け、その双眸を見開く事になる。

 メルエが指差した方向には、岬の先端があり、その岬の上に人影が映り出していたのだ。濃い栗色の長い髪を靡かせたその女性の影は、太陽の光に反射するような輝く笑みを浮かべて、水中より現れたエリックへと微笑みかける。

 何故、そのような光景が遠くから視認出来るのかが理解出来ないが、船に乗る全員がその光景を認識する事が出来ていた。それは、彼等がここまでで遭遇した不可思議な現象の中でも、かなり特殊な物であるだろう。

 

「オリビア……僕のオリビア。ああ……もう僕は君を離さないよ」

 

「エリック!」

 

 岬の先端から、崖下へと飛び込む女性の影に、思わず目を瞑ってしまったサラであったが、再び輝きを増した光に目を開き、男性と女性の影が重なり合う光景を目にする。飛び込んだオリビアと思われる女性を、水上で抱き締めたエリックと思われる男性は、そのまま力強くその身体を胸に抱いた。

 愛を語らう事無く、そのまま静かな口付けを交わした二人は、眩い光と共に天へと昇り始める。舞踏会で踊るように昇天して行く二人は、共に『精霊ルビス』の御許へと旅立って行った。

 

「……本当に『呪い』であった訳か」

 

「いや、『呪い』というよりは、寂しさに耐え切れなかった、女としての執念だろうな」

 

 二人の影が天へと消え去り、周囲の輝きも収まりを見せ始めた頃、呆然とその光景を見ていたカミュは、小さな呟きを溢す。

 彼としては、自然現象を死人の責任とする考え方を容認していなかったのだろう。渦巻く海流というのは、何かの拍子に出来上がる事もある。何処かの岩が崩れるだけで水流は乱れ、乱れた水流は更に環境を破壊し、それが何重もの渦を作り出す事もあるのだ。

 だが、目の前で繰り広げられた光景を見る限り、あの渦がオリビアという女性の『呪い』であったと考えるのが妥当であろう。その証拠に、周囲を満たしていた輝きが消えた今となっては、岬と岬の間にあった渦は、嘘のように消え失せていた。

 そんな状況に言葉を漏らしたカミュではあったが、彼とは異なる考えを持つ者がいる。それはこの船で数少ない女性の一人である戦士であった。

 『呪い』という表現ではなく、『執念』という言葉を用いる事により、その印象を和らげている。その考えにサラも賛成なのか、先程とは異なる笑みを浮かべながら、大きく頷いていた。

 

「どちらにせよ、これで岬の奥へ進む事が出来る」

 

「野郎ども、錨を上げろ!」

 

 リーシャとサラの微笑みに関心を示さないカミュは、頭目へ視線を動かす。その視線を意味を理解した頭目は、未だに呆然と空を見上げている船員達へ大声で指示を出した。

 慌てたように我に返った船員達は、各々の仕事へ戻って行く。錨が上げられ、岩場を蹴る事によって船は前へと進み出した。

 輝く陽光を背に受けて進む船は、『精霊ルビス』の祝福をその身に浴びているかのように、温かな光に包み込まれている。それは、愛し合う二人の再会を成し遂げ、母なる『精霊ルビス』の御許へと送り届けたカミュ達一行を褒め称えるように優しい光でもあった。

 

「岬を抜けたな……この後はどうするんだ?」

 

「湖の何処かに牢獄のような物がある筈なのだが」

 

 ゆっくりと両脇の岬を抜けて行く船。各々の仕事を行う船員達は、再び水流が生み出されないかと肝を冷やしていたが、無事に岬を抜けた事によって安堵の溜息を吐き出している。

 岬を抜けた船は、岬の前にあった湖と同程度の湖に出ていた。先程の場所よりも海水の濃度は更に低いのか、そこで泳ぐ生物達は、海で生きる者達とは大きく異なりを見せていた。

 

「小さな島が見えるぞ?」

 

 湖を進んでいると、左手には大きな大陸が見え、それがバハラタの北に位置する場所にある宿屋があった位置だと推測出来る。そして、それとは距離を取るように進んでいた船は、見張り台にいた男の言葉に出て来た小島へと近付いていた。

 見張りの男の言うように、その島は、船上のカミュ達の目にも小さな小島として映っている。それだけ小さな島である以上、人が暮らしているとは思えない。徐々に近づいて来る島への上陸の為、船員達は小舟を水上へ降ろす作業へと移って行った。

 

「この湖には邪気がない。俺達も状況を見て上陸し、食料や水などを調達する事にするよ」

 

「わかった。くれぐれも無理な戦闘は行うな」

 

 小舟に乗り込もうとした四人に向かって口を開いた頭目の言葉に、カミュは眉を顰める。

 確かに、この湖の周囲には、魔物が放つ邪気が多くはない。故に船を安全な場所へ停泊させた後、無人島であろう小さな島へ船員達を上陸させ、航海には必需品である柑橘類や食料となる肉類などの調達を行おうと考えたのだ。

 しかし、それはカミュにとって歓迎出来る物ではなかった。基本的に、船に乗る者に被害が出る事を極端に嫌う傾向がある彼は、自分達が同道しない形での上陸を危険視したのであろう。だが、彼に船員達の行動を縛る権利はない。この船の船員達は、カミュ達が雇っている訳ではなく、自分達で交易などの利益を得ている。

 故に、カミュは無理な行動を控えるように忠告する事ぐらいしか出来なかった。

 

「アンタ方も気を付けてな」

 

 だが、そんなカミュの想いは、この船に乗る誰もが知っている。

 優しい笑みを浮かべた頭目は、大きく頷いた後で、カミュ達の無事を祈る。それに同調するように、他の船員達もまた、爽やかな笑顔を見せた。

 和やかな空気が流れる甲板で、リーシャが抑えているメルエとサラが小舟へと移り、最後にカミュが小舟へと乗り移る。その際に、乗り込んで来るカミュを見つめる六つの瞳が優しい光を帯びている事に、カミュの表情は消え失せた。

 無表情へと変わったカミュを見たリーシャは、メルエと顔を合わせて笑い、そんな二人を見てサラも苦笑を浮かべる。手を振る船員達へメルエが手を振りながら小舟は小島へと出発した。

 

「メルエ、遠くに行っては駄目だと言っているでしょう!?」

 

「…………むぅ…………」

 

 小島へ上陸し、カミュとリーシャが小舟を木に括り付けている間、いつも通りメルエが動き回る。海岸の砂浜で動き回る小動物の動きに合わせるように動き、他の昆虫を見つければそちらへ移動してしまう。咲き誇る花を見つければそこへ屈み込むといったように、一つの場所に落ち着かないメルエにサラが苦言を呈すと、幼い少女は頬を膨らませて不満を露わにした。

 魔物の放つ濃い邪気を感じられないこの場所は、それ程多くの魔物が生息している訳ではないのだろう。湖の中心に浮かぶ小島では魔物の食糧となる大型の動物などの存在も少ないのかもしれない。

 

「カミュ様達が来るまで大人しくここで待っていましょう。ほら、カニさんもいますよ」

 

「…………かに……さん…………?」

 

 サラの差し伸べる手を不満気に握ったメルエではあったが、サラの指差した先で動く小動物の名を教えられたメルエはその場所へ屈み込み、ハサミを器用に使いながら砂を摘み上げる蟹を見て、微笑みを浮かべる。

 このように、サラが当たり前だと感じている物も全て、この幼い少女にとっては輝きに満ちた物に映っている事を、サラはとても羨ましく感じていた。

 『人』以外の生命を邪魔に感じる者も存在するし、『人』以外の生命を食料か敵としか区別出来ない者もいる中、この少女は『人』も含めて全ての生命に平等な想いを向け続ける。子供特有の物と言ってしまえばそれまでではあるが、彼女の瞳に映る景色が自分と異なっている事を、サラはいつも痛感するのであった。

 

「サラ、メルエ、行くぞ」

 

「はい! メルエ、行きましょう」

 

「…………ん…………」

 

 小舟を結び付け終えたリーシャがサラとメルエを呼ぶ声を発する。しっかりと答えたサラは、未だに目を輝かせながら蟹を眺めている少女の手を引き、立ち上がる。今度は不満を口にする事無く立ち上がったメルエは、その手を握って小さく微笑んだ。

 この小島は、木々は生えているが大きな森はなく、平原が広がる長閑な場所であった。

 海岸から続く砂浜の向こうには、木々が立ち並ぶ林があり、その林を抜けると見渡す限りが平原となる。空を見上げれば鳥が群れを成して飛んでおり、野生の動物達が平原の草を啄んでいた。

 長閑なその光景にメルエは微笑み、自分の手を握るサラの腕を引くように平原を歩き始める。そんなメルエを先頭に歩き出した一行は、平原の中央に巨大な石碑が立っている事に気が付いた。

 

「あの石碑……何処か変ではありませんか?」

 

 徐々に石碑に近づくにつれ、その異様さが際立ち始め、近くに居るメルエの衝動を抑えていたサラは、その石碑の姿に奇妙な感覚を覚える。それは、リーシャも同様であったようで、多くの慰霊碑などが立つこの時代でも、その石碑の異様さは著しい物であった。

 通常の慰霊碑などの石碑であれば、そこに何かが彫られている事が多く、何の為の石碑なのかは明白である。だが、この石碑には何も記されてはおらず、しかも切り整えられた物とは異なりその辺りに乱雑している大岩を用いたような風貌をしているのだ。

 

「……石碑の下を調べてみる」

 

「何かを押さえる為の物なのか?」

 

 サラやリーシャの言葉で、その石碑に対して不信感を抱いたカミュは、その石碑の下にある地面を調べ始める。何かを閉じる為の重しとしてそれを使用している可能性を暗に口にするカミュに、リーシャもまた石碑の下の枯れ草などを払い始めた。

 そんな二人の行動を興味深そうに見ていたメルエは、二人が枯れ草を退かす作業を始めた事で、嬉々としてその行動に加わり始める。リーシャの隣で枯れ草を退かし始めたメルエは、その草の下で生きる虫達の姿に頬を緩め、すぐに作業を中止してしまうのだが、それはまた別の話である。

 

「カミュ、やはり下に鉄蓋があるぞ」

 

「……地中に造られた牢獄という訳か」

 

 カミュの予想通り、先程まで石碑だと思っていた物は、慰霊碑のような物ではなく、地中に造られた何かを封じる為に乗せられた重しである可能性が現れた。

 ただ、強力な力を持つ者を封じる為、その上に神聖な物を乗せて邪気を抑え込むという方法を取る場合もある。地中深くに封じられた邪悪なる物は、その抑えの影響を受けて外部へ出る事が叶わないという物であるが、その場合、何らかの印がその抑えに記されている事が通常であった。

 ジパングの脅威であった<ヤマタノオロチ>を封じていたのは、その封じ手の血を引き継ぐ者が作り出す『般若の面』と呼ばれる神具であり、ジパング地方独特の手法ではあるが、その周囲は荒縄にて遮られ、『般若の面』の持つ力を荒縄へ伝える事で<ヤマタノオロチ>を封じ込めていた。

 しかし、この石碑には何の細工もなく、無造作に置かれているだけとなっている。それは神聖な物ではない事を示していた。

 

「動かす事は難しそうだな……破壊出来るか?」

 

「う~ん……まぁ、出来ない事もないが……」

 

「…………メルエ………やる…………」

 

 その岩の大きさから考えて、それを動かして退ける事は難しい。如何に怪力を自慢にするリーシャであっても不可能である事は明白であり、残りの手段としては石碑ごと破壊する事しかない。故にカミュはそれを問いかけるのであるが、流石のリーシャも即答は難しい物であった。

 そんな二人のやり取りを聞いていた幼い少女が急に立ち上がり、立候補をした事でカミュとリーシャは目を丸くする。誇らしげに胸を張り、<雷の杖>を高く掲げるその姿は、誰も出来ない事を自分が遂行するという事に対する自信の現れであるのかもしれない。

 

「メルエ、魔法を行使するのは良いですが、この石碑の上部に狙いを定めるのですよ? この石碑全てを対象としては、先程までメルエが見ていた小さな虫達も死んでしまいますから」

 

「…………ん…………」

 

 カミュとリーシャが口を開く前に、傍にいたサラがメルエに細かな注意を施して行く。メルエが何を行おうとしているのかが理解出来ないカミュやリーシャとは異なり、サラだけはメルエの意図に気が付いているのだろう。そして、その行動の結果起こり得る危険性さえも把握しているのだ。

 注意を受けたメルエは、一度視線を地面へ落とし、枯れ草の上を動き回る昆虫達を見て大きく頷きを返す。その頷きに微笑みを向けたサラは、細かな内容を説明する事無く、一行を石碑から離した。

 何を行おうとしているか解らずにサラに問いかけようとするリーシャをカミュが遮り、距離を離した一行は、メルエを先頭に、石碑に向かって立つ事になる。先頭に立ったメルエは、右手に握る<雷の杖>を高々と掲げ、全てを準備を始めた。

 メルエの周囲の空気が変わる。メルエの身体に内包されている魔法力が、外へと飛び出す準備を始め、それを今か今かと待ち侘びるように小さな身体の周囲を渦巻き始めた。

 

「メルエ、お願いします」

 

「…………ん………イオ…………」

 

 サラの合図に頷いたメルエは、呟くような詠唱を完成させる。その瞬間に耳鳴りのような甲高い音が周囲に響き、石碑の上部の周りの空気が圧縮されて行く、圧縮された空気が弾け飛んだ時、壮絶な爆発音と共に、カミュ達の視覚と聴覚を奪い取って行った。

 粉々に砕けた石碑の欠片は、地面に落ちる程の大きさも残されず、細かな細粒となり地面へと降り注いで行く。この粉末を吸い込まないように距離を取ったのだとすれば、メルエが行使する呪文と、その魔法の成長を正確に把握していたサラは流石と言ったところであろう。

 自分が成し遂げた結果を問いかけるように自分を見上げるメルエに微笑んだサラは、その頭に乗る帽子を取って、優しく頭を撫でた。

 

「良く出来ました。イオラではなくイオを行使したのは、素晴らしいです。そして、そのイオに関しても、これだけ調整出来るのはメルエだけですよ」

 

「…………ん…………」

 

 サラからの賛辞を受け、誇らしげに微笑むメルエは、サラが撫で終わるのを待って、次にリーシャの許へと頭を突き出す。苦笑を浮かべたリーシャは、褒め言葉と共にその頭を優しく撫でてやり、カミュも同様にメルエの小さな頭に手を置いた。

 根元の部分を残して消え去った石碑であれば、カミュやリーシャであっても移動は可能であろう。この幼い少女の底知れぬ力に驚きながらも、それを良い方向へ導いているサラという『賢者』の存在に、リーシャは改めて感謝の念を抱いていた。

 

「さて、動かしてしまおうか」

 

「……わかった」

 

 カミュからの賛辞を受け終わったメルエは、再びサラの手を握り、近くで動き回る小動物達へ視線を落とす。その姿を見届けたリーシャは、軽く溜息を吐き出しているカミュに向かって、石碑の移動を始める提案をした。頷きを返したカミュと共に残っていた岩を取り除き、その下に隠れていた鉄蓋の土を払う。出て来た鉄蓋は、人間一人が入れるかどうかの大きさしかなく、その全貌を見たリーシャは訝しげに首を傾げ、カミュへと視線を送った。

 カミュが口にしたような牢獄であるならば、罪人を閉じ込める目的があったとしても、それなりに大きな入り口が必要な筈であり、このような小さな入り口であれば、人を押し込むように入れなければならなくなってしまうのだ。

 

「……開けるぞ」

 

 首を傾げていたリーシャは、カミュの合図によって鉄蓋へ手を掛ける。そのまま力を込めると、重たい音を立てて鉄蓋が上部へと上がって行った。カミュ達が手を掛けた反対側には蝶番が付けられており、それを起点に扉が開く形になっていたのだ。

 土埃が舞う中で開かれた鉄蓋は、十数年開かれる事が無かったのか、地上の空気を一気に取り込むように吸い込んで行く。引き込まれる錯覚を覚える程の勢いに、重い音が周囲に響き渡り、それに驚いたメルエは、先程まで見つめていた昆虫から視線を外し、カミュ達の許へと移動して来た。

 

「<たいまつ>が必要だな」

 

「空気が残っているのかも解らない。暫く開放したまま様子を見る」

 

 覗き込んだ奥は、暗闇が支配しており、手元に灯りが必要である事を物語っている。それを感じたリーシャは、腰の革袋から<たいまつ>を取り出すのだが、冷静に内部を見ていたカミュは、時間を置いてからの探索を提言した。

 十数年の期間密封されていた場所であれば、他に通気口でもない限り、その中の空気が淀んでいる可能性が高い。呼吸が出来る程度の物であれば問題はないが、それが不可能であった場合、最悪<たいまつ>の炎さえも消え失せてしまうだろう。

 牢獄と名の付く場所である以上、この場所に放り込まれた者はいる筈であろうが、食料の差し入れもなく、そして空気の提供もないのであれば、僅か数日で命を落とす事は明白であり、それを目的として造られた物と言っても過言ではない。

 

「しかし、降りる階段さえもないぞ? この場所へ突き落す形で閉じ込める場所なのか?」

 

「……元々、許される事のない程の罪を犯した者の為の牢獄だ。どのような形で投獄しようとも、それに対して不満を述べる資格のない者達ばかりなのだろう」

 

「……そんな」

 

 暫しの時間が流れ、<たいまつ>へ炎を点したリーシャは、入り口付近から中へと視線を送った際に、中へと続く階段さえもない事に驚きを露わにした。

 だが、言われて見れば、確かにここへ連れて来られる者は、全て明白な罪人である。冤罪など有り得ない程の明確な罪を犯し、その罪は死で償うよりも重い物である人間が投獄されるとなれば、そのような配慮は必要ない事も事実であろう。罪とはそれほど重い物であり、重すぎる罪を犯した者を『人』として扱う必要性は、この世界にはないのだ。

 本来頂点に立つ筈の真の国王であれば、その選別はしっかりと行われるのであろうし、生きる為に盗みを行った孤児ような、情状酌量の余地が残される者達をこの場に投獄する事はない筈である。だが、この牢獄がサマンオサ国家が作成した牢獄であるならば、ボストロールという魔物が扮した偽国王の時代に罪もない人間が投獄されている可能性は捨て切れない。

 だが、殆どの者が処刑という形で殺害されている為、この場所に投獄されたのは、英雄サイモン唯一人と言っても差し支えはないだろう。

 

「入るぞ。メルエはアンタが背負って降りてくれ」

 

「わかった」

 

 近くに立つ木にロープを結び付け、そのまま地下の牢獄へ垂らした状態でカミュが降りて行く。ロープを伝い降りる作業である為、メルエを背負ってリーシャが降りる事となった。カミュが下へ降り立ち、<たいまつ>の炎が灯っている為、下の階層に空気がある事が理解出来る。故に、そのままサラを降ろし、最後にリーシャが降りて行った。

 薄暗くかび臭い地下は、不快な空気に満ちており、何処か生臭い臭いが漂っている。不快な臭いに顔を顰めたメルエは、そのままサラの腰にしがみ付くように顔を埋めるが、傍にある燭台に炎を移した事によって照らし出された地下牢獄の姿に、サラまでも顔を背けてしまった。

 

「……流石に、酷い有様だな」

 

 地下は牢獄というよりも、廃棄場であった。

 『人』であった物の廃棄場。正確に言えば、この場所へ落とされた時点では生きているのであるから、その表現は正しくはないのだが、散乱する人骨や、朽ち果てた衣服、そして既に土と化した老廃物などの光景は、そう表現せざるを得ない物であった。

 この場所へ落ちた者達が何を思い、何を悔い、何を嘆いたかは解らない。だが、その無念と悲しみ、そして何よりも強い恐怖だけは、今も尚、この牢獄の岩壁に染み入っていると感じてしまう程の空気が張り詰めていた。

 

「……奥へ進む」

 

 総じて顰める表情を無視するように歩き出したカミュは、散乱する白骨を踏みしめて前へと進んで行く。数十年、十数年という時間を散乱し続けていた白骨は朽ち果てており、触れるだけで粉々に砕け、上部から入り込む風に運ばれて霧散して行く。それ程に長い時間、この場に放置されていた遺体にサラは眉を顰め、未だに腰にしがみ付くメルエを引き摺りながら奥へと進んで行った。

 それ程広くはない牢獄は、何の為にあるのか解らない燭台が整えられている。それに一つ一つ炎を点して行くカミュを見ていたリーシャは、少し疑問を感じていた。

 

「もしかすると、元々あの鉄蓋はなかったのかもしれないな」

 

「網格子の物であれば、雨水も入れば空気も入りますね」

 

 その疑問にはサラも同意し、顔を顰めたまま周囲を見回した。正直に言えば、今のサラの心は余り平常心ではないのだろう。この牢獄の有様に嫌悪感を示している事も一つの理由ではあろうが、それ以上に、この場所に残り続ける怨念に近い程の空気が彼女の心を掻き乱していた。

 幽霊船という、この世でも悍ましい部類に入る難関を突破したばかりだというのに、再び無念の魂が漂うであろう場所に入らなければならなかったサラは、次第に震えて来る足を抑える事に必死であったのだ。

 故に、先程まで腰にしがみ付いて顔を埋めていた筈のメルエが顔を上げ、サラの顔の後ろを不思議そうに眺めている事に気付かない振りをしていたのだった。だが、明らかに自分を見ていない視線に、サラの我慢は限界に達してしまう。

 

「な、何かありましたか?」

 

「…………サラ………うしろ…………」

 

 意を決して、震える声でメルエに問いかけるサラであったが、返って来た答えを聞いて瞬時に顔を青褪めさせる。

 サラの後方には誰もいる訳はないのだ。カミュが先頭を歩き、その後方をリーシャ達三人が歩いていたのだが、サラとメルエが止まった事で、リーシャは一歩前へと出ていた。故に、サラの後ろには、先程までその腰にしがみ付いていた幼い少女しかいない筈であるが、その少女もまた、サラの目の前に立って小首を傾げている。それはつまり、サラの最も苦手とする者が後方に控えているという事に他ならなかった。

 真っ青に青褪めた顔に脂汗を垂らし、口を開閉するサラは、硬直したように身動きが出来ない。

 

「メ、メルエ……私を驚かそうとしても……だ、駄目ですよ」

 

「…………???…………」

 

 必死に紡ぎ出したメルエを窘める言葉は、反対側に首を傾げる少女によって否定される。そして、二人のやり取りに振り返ったカミュとリーシャの驚愕の表情が、更にサラを追い詰めて行く事となるのだ。

 『振り向いてはいけない』、『振り向く事など出来ない』という想いとは別に、サラの首は壊れた玩具のように後方へと動いて行く。鉄で出来た人形のように軋む音を立てて振り向いたサラは、その場に浮かぶ火の玉を見て、意識を手放しかけてしまった。

 腰が抜けたように座り込むサラは、薄暗い地下牢獄の中で浮かぶ火の玉を指差し、声にならない言葉を紡ぎ出す。それでも失禁しなかったのは、彼女が限界の境界線を越えぬように必死に堪えたからに他ならないだろう。

 

「我はサイモン……我が遺骸の傍を掘り起こせ。汝が大地に愛された者であれば、それは姿を現すであろう」

 

「ひぃぃぃ!」

 

「…………サラ………うるさい…………」

 

 カミュ達の目の前で浮かぶ火の玉から、直接頭に響く声が届き、サラはいつものような悲痛の叫び声を上げてしまう。更には抜けた腰を引き摺るようにメルエにしがみ付いた事で、少女から厳しい言葉を貰う羽目となった。

 言いたい事を告げ終えた火の玉は虚空へ消え去り、先程まで照らされていた場所も闇が広がり始める。その言葉の意味を考える事の出来る者は、この場には一人しかいない。本来であれば二人いるのだろうが、その片割れは腰を抜かして幼い少女にしがみ付いている始末。

 故に、リーシャは困惑に彩られた表情をカミュへと向けるのだった。

 

「……何処かにサイモンの遺骸となる白骨がある筈だ。その傍を掘り返す。そこからは、アンタの出番だ」

 

「私か?」

 

 サイモンの白骨となれば、それ相応の姿をしているのだろう。サマンオサの英雄であり、サマンオサの偽国王に最後まで抗った強者である。最後まで抵抗したと言われている以上、その身に何か装備品を纏っていた可能性も少なくはなく、肉体は滅びても、その身を護る鎧は残っている可能性があるだろう。

 しかし、リーシャとしては、自分の名前が最後に出て来た事に首を傾げる。自分の名前が出て来る理由が理解出来ないのだ。サイモンの名を発した火の玉は、決してリーシャを連想させる言葉を発していない。

 少なくとも、リーシャはそう考えていた。

 

「……自覚がないというのも、何処かアンタらしいが」

 

「何だというのだ!? 解るように説明しろ!」

 

 溜息と共に吐き出された物は、小馬鹿にしたような空気を持つ物ではなかったのだが、それでもカミュの言葉には過剰に反応するのがリーシャという女性戦士である。先程から、自分が理解出来ない事ばかりが進んで行く事に苛立ちを強めていた彼女は、カミュに説明を求めるのだが、それは軽い溜息によって流される事となった。

 行き場を失った怒りは、未だにメルエにしがみ付くサラへ向けられる事になり、足に力の入らない『賢者』は泣きながら喝を入れられる。しがみ付かれていたメルエも、心底困っていたのだろう。いつもならば、リーシャがサラを強烈に叱る時はそれを庇う節もあるのだが、この時ばかりは早々にカミュのマントの中へと入り込んでしまった。

 

「……行くぞ」

 

 ようやく立ち上がり、自身で歩行が出来る程度まで回復したサラを見たカミュは、<たいまつ>を前方へと掲げながら先頭を歩き出す。厳しい事を言いながらも、リーシャはサラに肩を貸し、その後ろを歩き始めた。

 この牢獄はそれ程広い場所ではない。少し進むとすぐに行き止まりとなり、いつも通りリーシャの発する方角の逆に進むという手法を取った一行は、再び行き止まりへと辿り着く。勝ち誇ったようなリーシャの表情に気が付かない振りをしたカミュは、その行き止まりに倒れ込んでいる一つの遺体の前へ屈み込んだ。

 

「……これか」

 

「……サイモン様は、自身が助からない事を察していたのでしょうね」

 

 <たいまつ>を翳すと、壁に寄り掛かるように座り込んだ白骨死体が浮かび上がる。その白骨は、身に鎧を纏い、その鎧は朽ちてはいるが安物ではない事が一目で解る代物であった。

 おそらく、国章と自身の紋章の入った鎧は自宅へ送り、代わりに着込んでいた鎧なのであろう。<ラーの鏡>の破壊命令が出た際に、既にサイモンはある程度察していたのかもしれない。自身が国家の為に出陣する際に常に装備していた鎧は、サマンオサの革新の際に息子であるサイモン二世が装備していた筈であったからだ。

 

「しかし、<ガイアの剣>はお持ちではないようです」

 

「毎回理解に苦しむが、サラの中ではこの白骨死体と、幽霊船の白骨の何がどう異なっているんだ?」

 

 カミュが掲げる<たいまつ>に照らされた白骨死体を注意深く見つめるサラを見ていたリーシャは、心底理解出来ないというように溜息を吐き出した。そのリーシャの反応に対し、敢えて無視を決め込んだサラは、その白骨の周囲をカミュに照らしてもらうが、やはりその傍に彼の所持していた筈の聖剣の姿はない。

 カミュへ視線を送ったサラは、彼が頷きを返すのを見て、白骨死体の前で手を組んだ。祈りを捧げるように手を組んで膝を折ったサラを真似るように、マントから出て来たメルエも膝を折り、暫しの時間が過ぎて行く。

 その後、サラが鎧を着込んだ白骨死体を丁寧に横へとずらし、先程まで白骨が座り込んでいた地面を露わにした。

 

「ここからは、リーシャさんにお願いします」

 

「なに? 私が何をすれば良いのだ?」

 

 もう一度白骨死体に向かって手を合わせ終えたサラは、後方で見つめていたリーシャに向かってその指示を出す。しかし、その意図が全く理解出来ないリーシャは、何をして良いのかが解らずに首を傾げる他なかった。

 

「その地面を掘り返してくれ。方法は問わないが、慎重に頼む」

 

「掘れば良いのか? わかった、やってみよう」

 

 カミュの瞳と口調が真剣な物である事を察したリーシャは、二つ返事で頷き、後方へと移動して来たサラと入れ替えになって、サイモンと思われる白骨死体があった地面を掘り始める。リーシャの作業の真似をして、自分も地面を掘ろうとするメルエを宥め、徐々に掘り返される地面へとカミュとサラは<たいまつ>を翳し続けた。

 どれくらいの時間、土を掘り返しただろう。元々、湿気の強い場所ではあるが、専用の道具が無くとも掘り返す事が出来るという事は、一度掘られた部分に土を被せた可能性が高い。つまり、誰かが何かを埋めたという事を容易に想像する事が出来た。

 

「ん? 何かがあるぞ」

 

 掘り続けていたリーシャの手が、何か硬い物に触れたのは、掘り返し始めてから四半刻程の時間が経った頃であった。

 慎重に残りの土を掻き出したリーシャの手に、革製の鞘が触れ、その周囲の土を掻き出す事で、ようやくその全貌が見えて来る。全ての土を掻き出したリーシャは、その鞘に納められた物を大事そうに抱き上げ、後方で<たいまつ>を持つカミュの前へと置いた。

 

「……これが<ガイアの剣>なのでしょうか?」

 

「状況的に、それ以外の答えはないと思うが」

 

 掘り出されたそれは、確かに剣のような形をしているが、サラが考えていたような物ではなかったのだろう。信じる事が出来ないというよりは、純粋にこれが本物であるという自信が持てなかったのかもしれない。それはカミュも同様であり、状況的な分析しか口にする事が出来なかった。

 その剣は、鞘に収まっている為、刀身などは見えないが、とても細身の剣である。カミュの持っている神代の剣と思われる<草薙剣>よりもずっと細く、抜身の姿が片刃の剣であっても不思議ではないだろう。剣というよりもサーベルに近いような外見であったのだ。

 

「いや、間違いなく<ガイアの剣>だろう。何となくだが、そう思う」

 

「……そうか。アンタがそう言うのであれば、間違いないだろうな」

 

 しかし、そんなカミュとサラの疑問は、掘り出した後、目の前に横たわる剣を呆然と眺めていたリーシャによって一蹴される事となる。

 確証などはない。それでも、この静かに地面と同化するように横たわる剣こそが<ガイアの剣>である事を、リーシャは肌で感じていた。それは誰にも説明出来ない程に曖昧な物であると同時に、誰にも否定出来ない程の確信でもあったのだ。

 それを理解したカミュは、彼女の言葉に何一つ異議を唱えない。サラもまた、未だに剣から目を離さないリーシャの姿を見て、大きく頷きを返した。

 

「これが……大地の女神に愛された剣か」

 

 誰一人何も出来ない中、リーシャがゆっくりとその剣を手に取る。手に取った剣の柄に手を掛け、そのまま反対の手で鞘を取り外し始めた。

 長年地面の下に眠っていた剣と鞘は、同化してしまったかのように固定されており、すんなりと抜けると考えていたリーシャは、その硬さに戸惑いを見せる。だが、再度力を籠めて鞘から引き抜いた事によって、<ガイアの剣>がその全貌を露わにした。

 刀身が表へと出た一瞬、眩い光が暗闇に支配された牢獄を照らし出すが、その光もすぐに収まりを見せる。

 メルエが<雷の杖>に出会った時のような衝撃的な光ではなく、リーシャが<大地の鎧>と出会った時のような包み込む優しさもない。まるで、蝋燭の最後の灯のような淡い光を放った剣は、その後は静かに沈黙を続けた。

 

「錆びている訳ではないが、刀身が曇っているな」

 

「アンタが持っても駄目なのか?」

 

 大地の女神から『人』の手に渡ったと伝えられる程の聖剣である。その剣を所有していた者は、一国の英雄としてその名を世界に轟かせ、その英雄の名と対になって世界に轟いた剣ではあったが、やはり聖剣と言えども寄る年波には勝てなかったのかもしれない。

 カミュが何に驚いているのかリーシャには理解出来なかったが、彼女は一流の戦士である。故に、武器の良し悪しは、鑑定士ほどではないにしても把握する事が出来た。その彼女の眼には、この剣の刀身が本来の輝きを失っているように映っていたのだ。

 

「私が持っているからこそ駄目なのだろう。もし、サイモン殿がこの剣を再び握る事が出来ていたら、この剣は本来の輝きと鋭さを取り戻したのかもしれない」

 

「……サイモン様だけの剣という事ですか」

 

 カミュとサラの持つ<たいまつ>の炎に照らすように<ガイアの剣>を掲げたリーシャは、その剣の輝きを取り戻す事が出来るのは、本来の持ち主である彼の英雄だけであると口にする。カミュと同様に何処か納得が行かない表情を浮かべるサラであったが、リーシャがそういう以上、納得せざるを得なかった。

 剣に大した興味を示さないメルエだけは、リーシャが掘り返した土から出て来た虫と戯れている。メルエから逃げるように動き回る虫へ手を伸ばす事無く、その動きと姿を見て微笑むメルエにとって、カミュ達が真剣に語り合っている内容など、この世に生きる小さな命に比べれば些細な事なのかもしれない。

 

「ふふふ。メルエ、サイモン様のご遺体にお祈りをしてから出ましょう」

 

「…………ん…………」

 

 そんなメルエの姿に気が付いたサラは、その隣に屈み込み、再びサイモンの白骨遺体に向かって手を合わせた。それに続くように、小さな手を合わせたメルエは、静かに瞳を閉じる。

 メルエが『祈り』の意味を理解するのはまだ先の事であろう。だが、サラの言葉に反論する事無く、嫌がる素振りを見せずに同じような行為をするという事が、この少女の心が少しずつ成長を遂げている事を示していた。

 祈りを終えた二人が立ち上がったのと同時に、カミュ達は出口に向かって歩き出す。

 本来であれば、サイモンの白骨をサマンオサ国へ持ち帰るべきなのかもしれないが、その手段をカミュ達は持ち合わせていない。骨壺となる入れ物もなく、まさか英雄の骨を革袋に入れて運ぶ訳にもいかない。いずれサマンオサ国へこの報が届く時、彼の国から息子であるサイモン二世がこの地に足を運ぶ事となるだろう。

 

 勇者一行の道を切り開くと予言された大地の剣が、勇者達の手元に渡った。

 大地の女神に愛された剣は『人』の世を駆け巡り、この世界の大地を護る為に旅を続ける者達の許へと辿り着く。この剣が彼等にどのような道を指し示すのかは解らない。だが、この剣が勇者達を更なる高みへと導くであろう事だけは、志半ばで倒れた英雄が確信していた筈だ。

 そして、この剣もまた、在るべき姿に戻る事を願っているのかもしれない。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ようやくガイアの剣を手に入れました。
ここからの勇者一行の旅路は一直線です。
頑張って描いて行きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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トルドバーグ②

 

 

 一行が乗る船は大海原へと出て、再び潮風が靡く場所へと戻って行った。

 いつものように、木箱に乗ったメルエは波飛沫に瞳を輝かせ、海鳥が集まる場所で跳ね回っている魚達に感嘆の息を吐き出す。そんないつも通りの光景に頬を緩ませながらも、サラは船首を見つめるカミュへと視線を移した。

 祠の牢獄を出てから、この青年は何かを思いつめるように言葉を発する事はなかったのだ。カミュという青年が無口である事は、アリアハンという生国を出てから一貫してはいるのだが、何かいつもと異なる雰囲気である事に、サラは不安を募らせていた。

 あの祠の牢獄という場所は、確かに凄惨な場所であっただろう。サラ自身もその中の光景を目にした時、胃の物を全て吐き出してしまいそうな衝動に駆られている。白骨遺体が各所に散乱し、老廃物が土に還る程に長い時間放置されていた。地下にある牢獄である事から、『地獄』と命名しても支障はないだろうとさえ考えてしまう程の光景。

 だが、サラ達四人は、更に凄惨な場所や場面を目にして来た。とても言葉では言い表せない程の悲惨な出来事を聞いて来たのだ。その中でも表情一つ変えず、全てを希望に変えて来た青年が、口を閉ざし、まるで心さえも閉ざしているように海を眺めている。それがサラの心に不安を運んで来ていた。

 

「心配するな。カミュは既に遥か先を見ているだけだ」

 

「え?」

 

 そんなサラの肩を優しく叩く手の持ち主の声が甲板に響く。サラと同じ方向を見るその瞳は、サラとは真逆の色を帯びていた。

 それは『信頼』の瞳。

 不安に揺れ動く事もなく、疑問に彩られる事もない、真っ直ぐにその者の真実を見据える程に強い瞳は、温かな光を宿していたのだ。

 そんなリーシャの瞳を見て、サラは初めて気付く。カミュの様子が変であった事は確かではあるが、その事に対して、リーシャもメルエも何も口にはせず、態度にも表す事はなかった。ここまでの旅を振り返れば、心優しい女性戦士は、この青年の心が揺れ動く時には何らかの言葉を掛けている。遠目で見ていただけではあったが、その事にサラは気が付いていた。

 そして、最も幼い少女は、この青年を誰よりも信じ、誰よりも頼りにしている。誰よりもその変化に聡く、誰よりもその心を慮っているこの少女が、今はとても楽しそうに海を眺めているのであるから、何も心配する必要はないのかもしれない。

 

「カミュの背から目を離すな。それが、サラの追い求める先へと続く道を切り開く」

 

「……私が求める道……」

 

 今のサラでは、リーシャが見据える未来を見る事は出来ない。サラにとって、リーシャの発する忠告や言葉は、遥か先を見据える尊い言葉として確立していた。

 メルエを救う時にリーシャが発した言葉通り、その先の道でサラを大いに苦しめる事になり、バハラタという自治都市の町長の娘を救う時に発したリーシャの言葉は、サラを包み込んでいた分厚い殻を破る一石となった。

 何時でも周囲に目を配り、何時でも自分を見つめ続けてくれるリーシャの言葉は、サラを『賢者』へと押し上げ、そして大きく羽ばたかせ続けて来たのだ。

 それを誰よりも理解しているサラは、リーシャが発した言葉を胸に刻みつけるように反芻する。自らが歩み、求め続ける道とは何かという事を未だに理解してはいなくとも、彼女はその言葉通りにカミュの背を見つめながら歩み続ける事になるのだ。

 

「カミュ、そろそろ<ドラゴンキラー>も出来上がった頃ではないのか?」

 

「……わかった」

 

 考え込むサラの表情に優しい笑みを浮かべたリーシャは、その目標となる青年へ声を掛ける。その言葉に頷いたカミュは、頭目へ次の目的地を告げた。

 既にトルドバークという名が付いた開拓地で、その創始者であるトルドへ<ドラゴンキラー>という武器の改良を依頼してから数か月の時間が経過している。一日、二日で終える作業ではないだろうが、数か月単位となれば問題はないだろう。

 カミュと同様、リーシャもまた<ドラゴンキラー>という武器の必要性を感じていたのだ。龍種と呼ばれる世界最強種族は希少種としても名高い。故に、それ程に数多く遭遇する訳ではないだろうが、魔王の本拠地へ近づけば、その可能性も今までとは比べ物にならぬ程に高まるだろう。

 カミュの持つ神代の剣である<草薙剣>の斬れ味も引けを取る事はないが、どれ程に素晴らしい剣であっても、この剣は借り物である。

 ジパングという異教の国に伝わる神剣。

 神から初代国主が賜ったその剣は、必ず無傷で返さなければならないという事をカミュもリーシャも理解していた。本来の持ち主であり、ジパングという小国を世界に名高い国家へと導く可能性を秘めた新たな国主の手の中へ返す事は、この勇者一行の総意なのだ。

 

「メルエ、トルドの所へ行こう」

 

「…………ん…………」

 

 カミュが目的地を決めた事によって、リーシャは海を眺める少女の許へと近付いて行く。目を輝かせて海を眺めていた少女は、自身の肩に置かれた手に振り返り、その手の主の言葉に先程まで以上の笑みを浮かべて大きく頷きを返した。

 北回りに航路を取った為、徐々に気温は下がり、海鳥などの姿も疎らになって行く中、メルエの笑みは終始消える事はなく、船は進んで行く。

 

 

 

 数週間の時間を経て、船はエジンベア大陸の東の海を進む。

 スーの村のある大陸を抜け、開拓地の港が見えて来る頃には、祠の牢獄を出てから一か月近くの時間が経過していた。

 夜が明け、太陽が東の空から昇り始めた頃に船は港へ繋がれ、未だに夢の中から抜け切れないメルエの手を引いたリーシャが陸地に足を付けた事で、一行全員の上陸が果たされる。早朝という事で、港の喧騒はなく、離れた一般の港の船も皆静まり返っていた。

 

「来る度に、この港は大きくなっていくな」

 

「そうですね……この場所の知名度も上がり、多くの商船が赴くのでしょうね」

 

 トルドバーグへと向かう道を歩くリーシャは、一般の船が停泊する港を見て言葉を漏らす。それは見たままの真実であり、以前に訪れた時よりも多くの帆が風に靡いていた。

 サラもまた、その光景を眩しげに見上げ、自身の考えを口にする。彼女の言う通り、この場所の知名度が上がれば上がる程、訪れる商人の数は増えて行くのである。その中には、世界で有力な商人もいるであろうし、大きな商団の者もいるであろう。そのような者達が運んで来る荷は、希少価値の高い物なども含まれており、立ち上がったばかりの町には手が出ない物もあるだろうが、それでも町の活性化には大きく貢献する物である事は確かであった。

 

「ようこそトルドバーグへ」

 

「……あ、ああ」

 

 しかし、そんな眩しげに輝いていたリーシャやサラの瞳は、町の入口である門の前で陰りを見せ始める。

 訪れる商人達の運んで来た荷を確かめる門番達の表情に輝きが無いのだ。何かに疲れたようなその表情は、口にする言葉にも表れており、その中に覇気はなく、只の形式的な挨拶と化している。それは以前のような希望に満ち満ちた物ではなかった。

 その門番の表情と言葉に首を傾げるリーシャとサラであったが、メルエだけは門の上に打ち付けられている<魔道士の杖>であった物を見上げて満面の笑みを浮かべている。その後方にいるカミュは、瞳を細め、感情を抑えるように門を潜って行った。

 

「町の喧騒は変わらないな」

 

「はい……門番の人の疲れが溜まっていたのかもしれませんね」

 

 夕暮れ時の町は、人々の喧騒に包まれている。既にこの場所へ移住して来てから数年の時が経過している者もいるだろう。その者達はこの町が暮らす場所であり、生きる場所なのだ。既に自分の町と公言しても笑う者などおらず、そのように長い期間生活をしている者達は、新たに移住を決めた者達と共に発展に寄与している筈であった。

 商人達との商いを終えた店は店仕舞いを始め、食料品などを売る店は、稼ぎ時とばかりに声を張り上げて客を呼び込む。以前に訪れた劇場にも灯りが灯され、夜の仕事の始まりを物語っていた。

 

「トルドの屋敷へ向かう」

 

「…………ん…………」

 

 町を見渡しているリーシャやサラを置いて、カミュは先頭を歩き出す。行く目的地を聞いたメルエは、笑みを浮かべてマントを裾を握った。久しぶりに会うトルドに対し、色々な想いを持っているのだろう。

 嬉しそうに微笑むメルエを見て、リーシャやサラも優しい笑みを溢す。だが、微笑みとは裏腹にメルエの瞼は何度か落ちかけ、その眠気を払うように、手でその瞳を擦っていた。

 

「ここはトルド様のお屋敷だ」

 

「わかっている……カミュという、取り次いでくれ」

 

 トルドの屋敷の前には、以前訪れた時と同様に屈強な男が立っていた。許可のない者は通さないという気構えの元、門へ近づくカミュ達を遮るように言葉を発したが、それに対しての返答を聞いて、先程までの威勢が急速に萎んで行くのが解った。

 対外的には仮面を被り続けるカミュが、このような形で門番と接する事は非常に珍しい。『お前には興味の欠片もない』という事をはっきりと伝えるかのような口調は、屈強な男を黙らせるのに十分な威力を誇っていた。

 自分よりも二回り近く小柄な青年を前に、門番は冷たい汗が背中を流れるのを感じ、その言葉に逆らう事が得策ではない事を悟る。声を出さずに了解の意を示した門番は、そのまま屋敷の中へと入って行った。

 

「……カミュ?」

 

 カミュの背中から感じる不穏な空気を敏感に感じ取ったメルエが首を捻り、それを後方から見ていたリーシャが小さな問いかけを発する。だが、その問いかけにカミュが反応するよりも前に、屋敷の扉が再び開かれた。

 開かれた扉から出て来たのは先程の門番ではなく、彼等が良く知る商人。柔らかな笑みを浮かべた商人の顔を見えた途端、先程まで首を傾げていたメルエの顔も輝くような笑みが浮かんだ。

 以前訪れた時と変わりなく、屋敷に似合わない質素な身なりで現れたトルドは、メルエの頭に手を乗せる為に屈み、四人の来訪を心から喜ぶ。そのままトルドは屋敷の中へと案内し、大広間へと四人を通した。

 

「よく来てくれたね。ドラゴンキラーならば、出来上がっているよ」

 

 大広間の椅子へ四人を座らせたトルドは、歓迎の言葉を口にするのと同時に、広間の壁に掛けられた一本の剣を手に取った。その剣を持って、カミュの前のテーブルの上へと置いたトルドは、そのまま四人の対面の椅子へと腰かける。カミュ達全員の瞳がテーブルの上に乗る一振りの剣へと向けられた。

 カミュ達が持ち込んだ<ドラゴンキラー>という武器からは想像も出来ない程に形を変えた剣は、見る者を魅了する程の輝きを放っている。手に嵌め込むような形で装備する筈だったドラゴンキラーではあるが、テーブルの上に乗るそれは通常の剣と同様に柄と刀身に分かれていた。

 刀身はしっかりとした鞘に収まっているが、長刀と言っても過言ではない長さを持ち、柄の部分には凝った装飾が施されている。<スカイドラゴン>や<スノードラゴン>のような姿形をした龍が、柄に巻き付くように伸び、柄頭でその恐ろしい口を開いている。柄に巻き付いた龍の身体は、握る者の手に合わせるように、滑り止めのような役目を担っているのだろう。

 

「カミュ、抜いてみろ」

 

 その美しい姿に見蕩れていた一行の中で、武器に関して最も理解があるリーシャは、この武器は『勇者』である青年が抜くべきだと考えた。それに頷いたカミュは、龍の身体を手にするように柄を握り、ゆっくりと鞘を引いて行く。

 滑るようにその身を表したドラゴンキラーの刀身は、陽が落ち始めた事によって薄暗くなり始めた大広間を照らし出す程の輝きを放ち、その眩しさにメルエは瞳を閉じてしまった。

 現れた刀身は、申し分のない長さを有しているにも拘らず、その幅や厚みに関しても、一般の<鋼鉄の剣>よりも上位の物となっている。触れるだけで斬れそうな程に鋭く輝く刃は、龍種の鱗さえも容易く斬り裂くと伝えられるに十分な物でもあった。

 

「これ程までの剣に化けるとは……この町の鍛冶職人は相当な腕を持っているのだな」

 

「そうだろう? 何でも、ジパングという国から来た人間らしい。ここは新興の町だからな。個人の趣味や信仰に対する偏見も少ない。数年前に移住して来たが、今ではこの町随一の職人だよ」

 

「ジパングですか!? あの国に何か不満があったのでしょうか?」

 

 カミュが手にする剣の出来栄えに感嘆の声を上げるリーシャに、トルドは得意気に胸を張る。何処か子供じみたその姿に笑みを浮かべそうになっていたサラの顔は、トルドが発した中にあった国名に驚きの物へと瞬時に変化した。

 ジパングという国は、今は新たな国主の元、新たな道を歩み始めたばかりである。そのような国から移住しようと考える者が出て来ているとなれば、それは由々しき問題であり、新たな国主の器を疑われる事になるだろう。サラは、自分より年若い新国主の人柄と優しさ、そしてその器の大きさを知っているだけに、トルドの言葉が信じられなかったのだ。

 

「その男がジパングを出たのは、もう十年近く前の事のようだ。何でも、ジパングはかなり不穏な空気に包まれていたらしく、鍛冶を生業としている友人と共に、家族ぐるみで国外へ逃げたと言っていたな……。途中でその友人と友人の妻とは別れてしまったらしいが、この町の噂を聞いて来たらしい」

 

「……そうですか。今のジパングは、その鍛冶屋さんがいらっしゃった頃とは様変わりしている筈です。新たに若い国主が国を治めており、その治世は素晴らしい物になるでしょう」

 

「そうだな。だがなサラ、その者はもはやこの町の人間なのだろう。望郷の念に駆られているのならば別だが、このような見事な剣を打つのならば、この者の心は定まっている筈だ」

 

 鍛冶屋の身の上話を聞いたサラは納得を示す。その鍛冶屋がジパングを出たのは、<ヤマタノオロチ>という厄災が国を覆い始めた頃なのだろう。その脅威は、一般の人間であれば抗う事など出来ない程の物であり、ヒミコという国主を崇拝する者が多い中、国と共に生きるのではなく、自分の道を切り開こうと考える者がいても何もおかしな事ではないのだ。

 だが、身勝手な言い分ではあるが、サラにとって新たな国主となったイヨという女性は、盟友に近い存在である。異教徒の国と悪名高く、世界地図にも記載されない程の国ではあるが、一国を束ねるに相応しい物を持っている年若い国主は、サラの憧れであり、誇りでもあった。

 そんなサラの想いを知っているリーシャは、意気込むサラを抑えるように微笑み、それを柔らかく制止する。何事も、心が定まらなければ成し得る事など出来ない。それは、物を産み出す者であれば顕著に表れるのだ。その者が生み出す物が素晴らしければ、その者の心は揺れ動いている訳はなく、一つの事に真っ直ぐ向き合っている事を証明しているのだ。

 

「確かに素晴らしい剣だ。代金はどうすれば良い?」

 

「ああ……そうだな、悪いがドラゴンキラーの半額程払って貰えるか? 鍛冶屋にはそれ相応の礼をしたい。いずれは、その剣がドラゴンキラーと呼ばれる事になるように、量産を目指してはいるが、如何せん元々のドラゴンキラーの製造方法が解らないからな」

 

 剣を鞘へと納めたカミュは、自身の要望以上の出来栄えに満足していた。それだけ素晴らしい一品であったのだ。

 ドラゴンキラーという物を持参したとはいえ、龍種の鱗さえも斬り裂くと伝えられる程の刀身を加工し直す作業はかなりの労力を要したであろう。その労力に見合う代金を支払うのは当然の事であり、この出来栄えを考慮に入れれば、その代金が元のドラゴンキラーを越える物であっても、カミュに異存はなかった。

 だが、トルドが口にした言葉に、カミュだけではなくリーシャやサラまでも驚きを露わにする。それは、代金が半額という物ではなく、この剣を量産する計画を持っているという事実にであった。

 

「ドラゴンキラーは、この町の象徴と成り得る程の物だ。あの鍛冶屋がいなければ不可能だろうが、それもまたこの町の名物になるさ」

 

 夢を追うように視線を虚空へと向けたトルドを、リーシャとサラは眩しげに見上げたが、ゴールドをテーブルに置き終えたカミュだけは、静かに目を細める。その瞳は、厳しい光を持ちながらも、何処か哀しいまでの優しさに満ちている事に、視線を動かしたリーシャは気が付いた。

 だが、リーシャには、何故カミュがそのような瞳を向けるのかが解らない。その瞳に込められた感情を把握しているが故に、その感情が何故トルドに向けられるのかが理解出来ないのだ。

 

「おっと、そうだ。もう一つ、アンタ方に渡しておかなければならない物があるんだ。少しここで待っていてくれるか?」

 

「…………むぅ…………」

 

 そんなカミュとリーシャの視線に気付かなかったトルドは思い出したかのように手を打ち、奥の部屋へと向かおうとしたが、その足はここまで一切口を開かなかった幼い少女の唸り声によって停止する。振り返ったトルドは、頬を膨らませながらも目を擦る幼い少女の姿が映った。

 眠そうに目を擦りながらも、自分の相手をしてくれない事にむくれているのだろう。しかし、そんな意地も限界が近いように見えた。

 

「…………メルエ……ねむい…………」

 

「そうか、そうか。もう陽も落ち切ってしまったね。それは明日にしよう。悪いが、明日もう一度、ここに来てくれないか? その時に、渡す事にするよ」

 

「……わかった」

 

 目を擦りながら自身の欲望を口にする少女を誰も咎めはしない。睡眠欲を我慢しなければならないのは、成人を迎えた者だけだからである。メルエのような幼い子供は、眠る事もまた、成長を助ける仕事なのだ。よく食べ、よく眠り、よく遊ぶ。それこそが、この時代に生き延びる子供の鉄則でもあった。

 柔らかな笑みを浮かべて、明日の来訪を願うトルドに向かって頷きを返したカミュは、新たな<ドラゴンキラー>を手にし、大広間の出口へと向かって歩き出す。その後をサラが続き、最早首を落とし始めたメルエを抱き上げたリーシャが最後に歩き始めた。

 玄関まで見送りに出て来たトルドに向かって会釈をしたリーシャとサラは、宿屋に向かって歩き出す中、カミュは怪訝な表情で立っているトルドに向かって静かに口を開く。

 

「……そろそろか?」

 

「ん? そうだな……そろそろそんな時期だな。早ければ、一月後ぐらいだろう」

 

 小さく呟かれたカミュの言葉で全てを察したトルドは、夜の喧騒に包まれ始めた町を一回り見回した後、静かに返答した。その表情を見る限り、彼の中に焦りはない。全てを悟ったようにも、全てを飲み込んだようにも見えるその表情に、カミュは一瞬顔を顰めた。

 トルドという商人にとって、この開拓地での町造りは、既に最終段階に入っているのだろう。自身がやるべき事はやり終えたという想いが無ければ、『人』はこのような表情を浮かべる事はない。それが理解出来るからこそ、そしてその後に起こり得る物が予測出来るからこそ、カミュは柄にもなく言葉を言い淀んでいるのだ。

 

「……命だけは粗末にするな。アンタが死ねば、メルエが悲しむ」

 

「ふふふ……本当に、まさかアンタからそんな言葉を聞くとは思いもしなかった。あははははっ!」

 

 全てを要約したようなカミュの言葉にトルドは呆気に取られた表情を浮かべ、瞬時に小さな笑い声を漏らす。そして、予想もしなかったカミュの言葉に対し、トルドの笑い声は徐々に強まって行き、最後には空を見上げての物となって行った。

 突如上がった笑い声にリーシャとサラは振り返るが、お互いに首を傾げた後、再び宿屋への道を歩き始める。

 いつまでも笑い続けるトルドの前で憮然とした表情を浮かべるカミュは、最後にもう一度表情を引き締め、涙まで流し始めたトルドを睨み付けた。

 

「何かがあった時、抵抗はするな。抵抗しない者にまで凶器を向ける者は、この町にはいない筈だ」

 

「ああ……忠告通りにするよ。これが、俺に出来る最後の仕事だ。しっかりとやり遂げるさ」

 

 涙を拭いながらも表情を改めたトルドは、しっかりと頷きを返す。トルド自身、ここに至るまでのカミュとの会話は、何処か一線を引いていた物であった。だが、最後のカミュの言葉を聞き、この年若い青年が、この町の状況を正確に把握し、尚且つ自分の考えをも理解している事を認めたのだ。

 暗い裏街道に近い場所で生きて来た二人だからこそ、理解出来る事であったのかもしれない。盗賊や海賊が歩む裏街道とは異なり、『人』という種族の心の闇が漂い淀む場所を彼等二人は通って来たのだ。

 最後に頷き合い、カミュは先に行った三人の後を追うように歩き出した。

 

「いらっしゃい。旅の宿屋にようこそ」

 

 宿屋に入ると、愛想の良い男性がカウンターに立っていた。部屋の要望を伝えたカミュは宿賃を支払い、鍵を受け取る。それぞれに鍵を配布し、それぞれの部屋へ皆が入って行った。

 カミュはいつも通りの一人部屋だが、大部屋が開いていなかったため、サラとメルエが一部屋に入り、リーシャが単独の一人部屋となる。既に夢の中へと旅立ったメルエをサラと同室のベッドへ寝かしつけたリーシャは、湯浴みを終えた後でベッドへと入った。

 メルエの小さな寝息を聞きながら、湯浴みで濡れた髪をタオルで拭き取っていたサラは、部屋に付いた小さな窓から夜の闇に支配された町と、暗く広がる空を見上げる。明るく大地を照らす月明かりが小さな窓から差し込み、眠るメルエを優しく包んでいた。

 メルエの髪を一度梳いたサラは、そのままベッドへと入り、眠りに落ちて行く。

 

 

 

 皆が眠りに落ち、宿屋の明かりが全て消え失せる。夜の代名詞でもある劇場の明かりだけが小さく灯る町は静寂に満ちていた。

 劇場の喧騒が遠く聞こえる町の中で、月明かりを覆い隠すように雲が流れて来ている。星々の光は雲の影に隠れ、町の中にも月明かりの届かない影が出来始めて行った。

 そんな中、一人の少女が目を覚ます。昨晩は、いつもより早い睡眠欲に負け、陽が沈み切る前にその瞼を閉じてしまった少女は、闇の支配が終わる前に覚醒を果たしてしまったのだ。ゆっくりと起き上がった少女は、部屋の中を見回すように首を動かし、隣のベッドに姉のように慕う女性が眠っている姿を認めて、安堵の笑みを浮かべる。

 

「…………???…………」

 

 暫しの間は笑みを浮かべたまま呆けていたメルエであったが、何かに気付いたように首を左右に動かし、最後には傾げてしまった。

 何に疑問を感じたのかは解らないが、ベッドから勢い良く降りたメルエは、そのまま壁に付けられた小さな窓の下へと移動する。その場所から窓を見上げ、自分の背が届かない事に眉を下げるが、部屋の中にある木箱を移動し、その上に乗る事で何とか窓の外を覗き込んだ。

 自身の鼻の中程から上の部分しか出ていないメルエにとって、窓の外から見えるのは、動く雲が大好きな月を覆い隠そうとしている姿だけであり、二階部分にある宿屋の部屋では、下の部分で何が起こっているのかまでは全く視認する事が出来なかった。

 しかし、その不穏な空気を、この聡い少女は敏感に感じ取る。

 別段、町が騒がしい訳ではない。

 人々の喧騒が聞こえる訳でもない。

 それでも、この少女の胸は騒ぎ出し、何か言いようのない焦燥感に駆られて行く。

 

「…………サラ………サラ…………」

 

 メルエという幼い少女は、膨大な魔法力を持つ稀代の『魔法使い』である。どのような魔物に対しても対抗出来る程の神秘を生み出す事の出来る才を持ち、どのような劣勢をも覆す事の出来る程の力を持つ者なのだ。だが、それと同時に、感情という『人』として当然の物を持ち始めたばかりの幼い一人の少女でもあった。

 そのような少女が、言いようのない不安に襲われた時、起こす行動は一つしかない。それは、自身が頼りとし、信じている人間に助けを求めるという物。

 木箱から飛び降りたメルエは、ベッドの中で静かに寝息を立てるサラの傍に近寄り、その身体を激しく揺する。激しくとは言っても、メルエの持つ力には限界があり、深い眠りに落ちているサラは容易に目を覚まさなかった。

 これがカミュやリーシャであれば、自分が近づいた時点で目を覚ましてくれると知っているメルエは、不満そうに頬を膨らませてサラを再度揺すり始める。もしかすると、カミュやリーシャであったのならば、メルエが窓へ移動した時点で目を覚まし、声を掛けてくれたかもしれないと考えるメルエは、徐々に強まる揺れに対しても全く目を覚ます様子のないサラに対して怒りさえも感じ始めていた。

 

 夜空には月が浮かび、優しい光を大地へ注いでいるが、暗く寂しい場所で苦しむ者達に救いの道を示すように輝く月は、少しずつ近づく大きな雲にその身を隠されてしまうかもしれない。

 この世の希望を示す月の明かりを遮られた大地は、漆黒の闇に閉ざされるだろう。

 希望に満ちた大地に深い闇が襲い掛かる時、暗く長い夜が始まるのだ。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

第十四章の最後を飾る回です。
次話で第十四章は終了となり、いよいよ第十五章へ入ります。
この町の行方を頑張って描いて行きたいと思っています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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トルドバーグ③

 

 

 

 新たに始まった『人』の集落は、その創始者である一人の商人の頭脳と時の偶然によって急速的な発展を遂げる。その速度は尋常ではない程の物であり、如何に時代が混迷を極めていたかを如実に示していた。

 突如切り開かれた場所に造られた集落は、来る者を拒む事はなく、去る者を追う事もない。集落の基本に対して忠実に、『人』が集まる事で出来上がって行くのだが、その速度はこの商人の頭脳によって導き出された設備などが整って行く度に加速して行く事になる。

 元からの住人である老人しかいなかった場所に店を立てたのは商人である。偶然立ち寄った商団との取引を始め、その正当な取引が人々の口から噂となって広がり、その噂に半信半疑であった者達が取引を成功させた事によって、更に加速的に取引が広がって行った。

 大きな取引が決まって行く度、この集落での仕事は増え、その仕事に就く為に移住する者達も増して行く。集落の施設や設備が整って行けば、家族を持った者達の移住も増え、女性や子供が増えて行けば、必要な施設も充実を見せて行った。

 元々、開拓資金は多く持っていた為、資金難に陥る事はなく、大きな取引が行われていた為に、更に集落は潤う事となる。そして、ある者達の間接的な助力を得て、この集落へ来る商船や移住船などの護衛を行う集団が生まれた事によって、発展の基盤は完全な物となったのだ。

 

「この場所は、アンタに譲ろう」

 

「私に!? ありがとうございます、トルドさん」

 

 この集落の創始者は一人。

 自身の造り出した店舗や劇場、その他の施設を一人で切り盛りする事は不可能である。故に、創始者は自分が認めた商人や、頑張り著しい若者等にその権利を譲る事が多くなった。

 譲られた者は、新天地での生まれ変わりを胸に夢を描いていた者達ばかりである。自分の店を持つ為に奮闘して来た者であれば、その基盤が与えられれば、瞬く間に成果を上げて行く。そして、成果が上がれば上がる程、その感謝の念は強くなって行くのだ。

 創始者から基盤を与えられた者達は、その感謝の想いをゴールドとして支払う事で合意する事になる。固辞する創始者に対し、『自分達の感謝の念を理解して欲しい』と無理強いをし、自分が得た利益の何割かを上納する事としたのだ。

 定期的に運ばれる上納金は町が発展する程に額も大きくなり、創始者が質素な暮らしをしている限り、基盤を与えられた者達も贅沢が出来ないという理由で、創始者の屋敷が有志の手によって建てられる事となった。

 

「今日からここでお暮しください」

 

「いや、このような場所で暮らす訳には……この場所を町へと発展させたのは、アンタ達の努力の賜物なのだから」

 

 建てられた屋敷は、まるで一国の重臣が持つ館のように立派な物で、町を象徴するかの如く、一際巨大な物となる。内装はかなり凝っている物となり、職人が施した装飾や、この集落へ貿易に来た商団から買い取った絵画などが所狭しと飾られていた。

 分不相応と考えた創始者は、その屋敷を与えられた事に困惑する。皆の気持ちを理解し、それを嬉しく思う事はあれど、その屋敷に関しては過剰に映ったのだろう。『自分一人の力ではない』という想いが強い創始者だからこそ、このような扱いは迷惑にさえ感じてしまったのだ。

 だが、そんな創始者の想いは集落の者達には届かず、徐々に高みへと押し上げられ、現場に絡む事が必然的に少なくなって行く。自分で縄張りを作り、建物を建てる事をして来た創始者は、徐々に出来上がって行く町としての形態を何よりも楽しみにしていただけに、自分の思惑とは異なる方角へ歩み始めた集落に寂しさに似たような感覚を覚えていた。

 そして、彼の地位は、集落の名が町の有志達の意思によって決定された事によって、不動の物となってしまう。

 

「この場所は、皆が作り上げた町だ。その大事な場所に俺のような者の名を付けるなんて、何を考えているんだ!」

 

「ここの創始者はトルド様です。トルド様がいなければこの場所は荒れ地のままでした。そして、それは私達の暮らす場所もなかったという事。その感謝の念を込めて、住民全員の総意なんです」

 

 何度言っても、町の名を再考する事を拒む住民達に、流石の創始者も怒りを露わにしたが、それでも折れない彼等を見て、溜息を吐き出す事しか出来なかった。

 結局、町の名はその創始者の名から取り、『トルドバーグ』と名付けられる。町章とされた、創始者の友の持ち物であった杖の横に掛けられた看板を見て、住民達は皆笑みを浮かべていた。この町の創始者が築いて来た物が永久に続く事を期待する数多くの瞳は、眩しい程に照り付ける太陽のように輝いていたのだ。

 

 

 

 町としての出発は順風満帆な物であった。

 だが、その町の構造は、徐々に崩れ始める。それは、この町の創始者である一人の商人が気に掛けていた物であり、その理由も、その兆候も、彼が考えていた物と何一つ変わりがなかったのだ。

 町は急速的な発展を遂げ、商人達の来訪も日に日に増して行く。それに伴って移住して来る者達も増え、仕事の需要も増えて行った。仕事を得る為には、この町での人脈を作らなくてはならない。既に以前とは異なり、空いている仕事などは少なく、自分が起業するという事が難しくなっていたのだ。

 人脈を造る為には資金が必要となる。賄賂が出現し、不明な資金の流れが増えて行く。そんな兆候が見え始めた時、この町の創始者であるトルドは動き出した。

 

「この町は皆の町だ。皆がそれぞれ考え、皆で大きくして来たのだろう!? 貧富の差が出るのは仕方がない。だが、弱い者から大事な商いの資金を巻き上げるなど以ての外だ!」

 

 集落の立ち上げ時期からこの場所へ移住して来た商人達は、皆大きな店舗を構える程に成長を果たしていた。だが、その半数以上は、創始者であるトルドから基盤を譲り受けた者達である。その為、この創始者の力を知っている上、彼の町での影響力も熟知していたのだ。

 賄賂を手にした上、それでも弱者を虐げていた商人達は、故にこそ彼の怒りを恐れた。

 成り上がりと言っても過言ではない彼等だけに、この町の最高権力者である創始者の怒りを買った時に全てを奪われ、再び路頭に迷う可能性を否定出来なかったのである。

 彼等は即座に賄賂を受け取る事を止め、今まで以上の上納金を創始者へ送るという結論に達した。

 

「何故……何故、解ってくれないんだ」

 

 毎日のように屋敷に送り届けられるゴールドや芸術品を見たトルドは、深い溜息を吐き出す事になる。怯えた商人達は、先を争うようにトルドの屋敷に上納金を送り込み、自分の地位を維持しようと躍起になって行ったのだ。それは、最早賄賂と称しても過言ではないだろう。

 そして、それは悪い方向へと突き進んで行く。今まで大型商人に商いの資金を渡し、自分の商いの基盤を作ろうとしていた新入りの住民達は、この町の最高権力者が誰かという事を感じ取り、この町での商い権を手に入れる為、トルドへ資金を送って来るようになってしまったのだ。

 それは、町という理想を追い求めて来た一人の商人が考える輝かしい未来とは、真逆の方向へ進み出してしまった事を意味していた。

 

「新たに店を出す事になりました。今後ともご贔屓にお願い致します」

 

「俺には何も出来ない。自身の力で頑張ってくれ」

 

 時間の経過と共に、町は大きく変化を始める。

 元来、成り上がる為、夢を掴む為にこの町へ移住して来た者が多いのだ。その者達の中には野心に燃える者も数多くいる。自分の店を手に入れる者、貿易に精を出す者、新たな商売を始める者など様々であった。

 そのような数多くの者達の中で、保身に走った商人ほど力の弱い存在はいない。商いの基本は強気な姿勢である。前へ前へ踏み出そうとする者が、失敗を乗り越えて成功を果たすのだ。

 トルドという権力者に怯え、自身の縄張りを護ろうと躍起になればなる程、新たに台頭して来た若い力に縄張りを侵食されて行った。弱者と蔑んで来た者達に後れを取った商人達は、自身が手にした店をも奪われて行くのだ。

 弱肉強食の世界と言えば仕方のない事ではあるが、成り代わった者達もまた、それがトルドの力の影響だとでも言うように、上納金を送って来る。その繰り返しが、トルドの心を沈ませる。

 トルドは、送られて来る上納金や宝飾品に一切手を付ける事無く、誰から届いた物であるのか、いつ届いた物であるのかを明記し、それを屋敷の一室に保管していた。だが、それは妬みと蔑みの視線を生む事になる。

 

『トルドは、下の者に働かせて私腹を肥やしている』

『上納金は使わず、毎晩ゴールドに埋もれるように眠っている』

 

 良い評価はなかなか広まらないが、悪い噂は風のように舞い、凄まじい速度で蔓延するのだ。

 徐々に広まる悪い噂は、最早事実の欠片もない物へと摩り替って行った。トルドが一言も要求した事の無い上納金は、先を争うように納めていた者達によって吊り上って行き、何時の間にかそれはトルドが要求したという噂となって広まって行く。

 その噂の拡散が進んで行くと、この町の住民の心に他人への責任転嫁が始まった。

 

『こんなに苦労するのは、トルドが自分達を働かせ過ぎるからだ』

『何故、トルドへ上納するゴールドを稼ぐ為に働かねばならないんだ』

 

 元々、自由を求め、自分達の夢を求めて移住して来た者達が、その誇りを失って行く。それは病原菌のような速度で、確実に町を侵食して行った。

 自分が働く意義を、自分の生きる意味を、そして何より自身の誇りを他人に投げてしまった彼等の瞳は曇り、心には暗い影が差し込み始める。不満は不安となり、現状への不安は怒りへと摩り替る。

 そんな緊迫した町の空気は、突如として広がり始めた一つの噂によって弾けた。

 

『貿易で訪れた商人が持って来た何の変哲もない黄色い珠を、トルドが大金で買い取ったらしい』

 

 

 

 

「メルエ、急ぎましょう!」

 

「…………ん…………」

 

 度重なるメルエの揺さぶりによってようやく目を覚ましたサラは、鬼気迫るメルエの表情に驚きながらも、ゆっくりとした足取りで窓へと向かった。しかし、窓から階下を見下ろしたサラは、先程まで開き切っていなかった双眸を大きく見開き、寝ぼけていた頭は即座に覚醒を果たす。

 覚醒を果たしたサラの行動は早かった。即座に足元で不安そうに眉を下げているメルエの手を引き、そのまま外へと飛び出して行ったのだ。

 だが、この時のサラは覚醒を果たしてはいても、それは『賢者』としてのサラではなく、只の人間としてサラであった。

 

「こ、これは……」

 

 宿屋の外へと飛び出したサラは、暗闇の中に広がる光景に絶句してしまう。

 既に空で輝いていた月は、黒く大きな雲によってその姿を隠していた。雲に覆われた月からは優しい光は届かず、町の中に充満している暗い闇を更に大きくさせて行く。月明かりは、人々の心に優しい想いをも降り注ぐが、その優しく暖かな光は閉ざされてしまっていたのだ。

 町の人々の多くが、深夜にも拘らず外へと出ており、その全ての者の瞳は、町の北西にある一際大きな屋敷へと向けられている。その瞳に優しい光は欠片もなく、強く鋭い感情のみが宿っていた。

 それは『怒り』と『不満』。

 その全てが一つの屋敷へと向けられ、一瞬の内に爆発してしまいそうな程に緊迫した空気を醸し出している。人々の手に武器こそ所持してはいないが、人数は町の住民の大半を占め、町全体の目的が一つになっている事を示していた。

 

「…………サラ…………」

 

「はっ!? メ、メルエ、行きましょう!」

 

 手を握るメルエの声に我に返ったサラは、溢れ返る人の群れの中に飛び込み、全員の視線が集まる一点を目指して突き進む。多くの大人達によって押し潰されそうになり、苦悶の声を漏らしながらも、メルエも必死になってサラの後を追った。

 集まった住民達は、雄叫びを上げる事もなく、奇声を上げる事もない。ただ静かに一点を目指して歩みを進めていた。狂喜に彩られた瞳をしている者など誰一人としておらず、彼等が皆正気である事を示している。それだけ、彼等の不満が静かに限界を迎えていた事を示しているのだろう。

 

「な、なんの用だ? ここはトルド様のお屋敷だぞ?」

 

「邪魔をするな。トルドによる支配はもう終わるんだ」

 

 押し寄せる人波に腰が引けた門番が辛うじて言葉を口にするが、即座に返された住民の声を聞き、その役目を放棄する事となる。逃げるようにその場を後にした門番を気に留める事もなく、住民達は町一番の大きな屋敷へと続く扉に手を掛けた。

 静寂に支配された夜の町に、木の扉が開かれる軋む音が響き渡る。雪崩れ込むような勢いで動き出す住民達の前に、二つの小さな影が滑り込んだのは、先頭の男が一歩前に踏み出したその時であった。

 

「お待ちください! 何をなさるおつもりですか!?」

 

「…………だめ…………」

 

 先頭の男の前に立ち塞がった影は、闇の中でも輝く濃い蒼色をした石の嵌め込まれたサークレットを頭に嵌めた女性である。大きく広げた両手で、誰も中へと通さないという意思を表し、闇の中で光る二つの瞳は、強い意気込みを示していた。

 同じように両手を広げた幼い少女は、言葉少なに住民達の行動を諌め、膨らませた頬が住民達への不満を表している。

 だが、年若い二人の女性に止める事が出来る程の勢いではない。それ程の物であれば、このような人数が集まる訳はなく、ましてや大挙して押し寄せる事など有り得はしないのだ。前へと出て来た女性二人に、誰もが視線を動かす事無く、開けられた扉の中へと入って行く。

 

「えっ!? ま、待って下さい! あっ、メルエ!」

 

「…………!!…………」

 

 サラの身体を押し退けて先頭の男が屋敷内に入ると同時に、その後方から人間の川が流れ込んで行く。堰き止められていた水が流れ込むように、怒涛の勢いで押し寄せて来る人波にサラは押し出され、その前にいたメルエは弾き出された事によって地面に倒れ込んだ。

 人波の飲み込まれそうになる身体を懸命に踏ん張らせたサラは、大人の足によって踏み潰されそうなメルエに覆い被さり、その流れが収まるまで懸命に耐える事となる。数多くの人間の足が襲い掛かり、身体を丸めたサラの背や腹を蹴られ、踏まれ、サラは何度も呻き声を上げた。

 

「…………サラ…………」

 

「……だい…じょうぶ……です。もう少しの……辛抱ですよ」

 

 自身の身体を護るように覆い被さるサラの顔を見ているメルエの眉は下がり切っている。不安に押し潰されそうになる心は、苦痛に歪みながらも懸命に笑みを浮かべようとするサラを見て、涙となって溢れて行った。

 絶対に自分を守ってくれるだろうという信頼と共に、自分が迷惑を掛けてしまっているという自責の念がメルエを襲い、それは次第に怒りとなって彼女の身体を覆い始める。それは彼女の身体の中に満ちている魔法力であり、人類最高位に立つ程の『魔法使い』としての才能であった。

 

「怒って……は…駄目です。あの人達が……悪い訳ではないのですよ」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 しかし、今にも溢れ出しそうな少女の怒りは、珠のような汗を額に浮かべながらも笑みを崩さない姉によって阻まれる。自分の身体の下にいる少女を覆う力に気付いたサラは、それがこの場所に居る全ての人間を消し去る事の出来る物である事を諭し、それを制したのだ。

 辛そうに顔を歪めまいと懸命に踏ん張るサラの顔を見て、メルエは悔しそうに涙を流す。大事な者を護りたいと想う気持ちは、この幼い少女も同じなのだ。サラがメルエを護ろうとするように、メルエもまた、自分を護ろうとするサラを護りたいと願っている。それが出来ない悔しさは、身を切り裂かれる程の物なのかもしれない。

 

「メルエ、呪文を行使しては駄目ですよ。これは私との約束です。絶対に呪文を行使してはいけません。約束出来ますか?」

 

「…………むぅ…………」

 

 濁流となって屋敷に押し入って行った人間の波は引いた。

 痛む身体を懸命に奮い立たせて何とか立ち上がったサラは、小さなその手を取ってメルエを立ち上がらせる。少女のマントや服に付いた土を払いながら口にした言葉は、少女が安易に納得出来る物ではなかった。メルエの膨らませた頬には、涙の跡がくっきりと残っている。

 不満を露わにするメルエに対し、サラは優しい微笑みを浮かべた。その微笑みは、幼い少女の心に灯った怒りの炎を鎮め、心に安らぎを運んで来る。未だに眉を下げながらも、静かに頷きを返したメルエを見て、サラはその小さな頭に手を置いた。

 

「このままではトルドさんが危険です。メルエ、行きましょう」

 

「…………ん…………」

 

 トルドという名が出た事により、下がり切っていたメルエの眉が再び上がる。彼女が守りたいと思っている大事な者は、何もサラやリーシャ、そしてカミュだけではない。ここまでの旅で出会い、自分に対して笑顔をくれた者達全てが、この幼い少女の護りたい者達である。そこに人間や動物などの垣根はない。エルフであろうが、それこそ魔物であろうが、メルエに対して好意を示した者は全て、彼女が護る対象と成り得るのだ。

 手を取り合った二人は、そのまま屋敷の中へと入って行く。多くの者達が通り過ぎた屋敷の牢かは、飾られていた宝飾品や絵画が落ち、粉々に砕けている物もあった。それらに顔を顰めながらも、奥の大広間へと続く廊下を駆けるサラの心は焦燥感に駆られている。いつも以上に懸命に走るメルエの姿が、その心を更に煽り立てていた。

 

「……思っていたよりも早かったな」

 

 大広間へと続く扉は既に開け放たれており、中に入り切らない人間達が最後に辿り着いたサラ達の視界を遮っている。中では既に住民達とトルドが対峙しているのだろう。トルドらしき声の呟きが小さくサラの耳にも入って来た。

 一刻を争うような、一触即発の状況である事を察したサラは、溢れ返る人間の間に身体を割り込ませ、メルエの手を引いたまま、奥へ奥へと身体を潜り込ませる。不満を漏らさずにサラの後を続いたメルエは、その小さな身体の利点を生かし、大人達の足の間を潜り抜け、何時の間にかサラを先導する立場へと代っていた。

 

「もう我慢出来ない。アンタのやり方は酷過ぎる!」

 

「賄賂で私腹を肥やす人間が上に立つ事など許される訳がない!」

 

「ましてや、くだらない物を買い取る為に、搾り取った我々の努力の結晶を大量に使うなんて!」

 

 ようやくトルドの顔が見えるような場所に出たサラは、飛び交う罵詈雑言に思わず耳を塞いでしまいたくなる。耳を劈く程の声量である事は確かであるが、それ以上に自分が信頼する者を罵倒する言葉に耐えられなかったのだ。

 逆にメルエの瞳は徐々に吊り上り、それと共に彼女の身体を取り巻く空気が変化して行く。それは先程と同様の怒りに彩られた魔法力の渦であり、周囲の緊迫した空気さえも歪ませる程の膨大な暴力であった。

 

「メ、メルエ、約束したでしょう!?」

 

 焦ったのはサラである。先程はしっかりと頷きを返した筈のメルエは、その約束など憶えてもいないかのように、怒りを全身に纏わせ、今にも全てを無にしてしまう力を行使してしまう瞳を人々へ向けている。

 サラの胸に焦りよりも濃い恐怖が込み上げて来た。この幼い少女が怒りに任せて呪文を行使した場合、その被害は想像する事さえも難しい。口々にトルドを罵倒する住民達は、間違いなくこの世から消滅するだろう。そして、この場に居るトルドやサラでさえ、身の安全が保証されているかと問われれば、その答えは否であった。

 背中から雷の杖を外したメルエは、そのままその魔法力を開放する準備に入る。杖の先はトルドを口々に罵倒していた多くの住民達。今、最も命の危機に瀕している者達である。

 魔法力を有しない者や、有していてもそれを放出する才の無い者には、メルエの纏う巨大な魔法力を感じる事は出来ない。だが、中には少なからず魔法力を有している者もいるのだ。商人や職人となる者の中には、それしか才の無い者だけではなく、『魔法使い』としての才や『僧侶』としての才を持つ者もいるだろう。そのような者達から見れば、禍々しいオブジェの付いた杖を自分達に向けて瞳を釣り上げている少女は、恐怖の対象として映ってしまう。

 

「メルエちゃん、止めなさい! 大丈夫……大丈夫だから」

 

 しかし、立場が完全に逆転してしまった一触即発の空気は、たった一人の男性の声によって霧散する。まるで父親が娘を叱りつけるように張られた声は、大広間中に鳴り響き、その場にいる全ての者の時間を止めてしまった。

 個人の顔も判別出来ない程に押し寄せた群衆によって罵倒されていたその男性は、その少女にとっての魔法の言葉を静かに告げる。トルドは、『大丈夫』という言葉がメルエにとってどれ程大きな意味を持つ言葉なのかという事を知らないだろう。だが、少女の行動を止めた声とは正反対の静かな言葉は、柔らかい笑みと共に少女の心に届いて行った。

 

「…………うぅぅ…………」

 

「……メルエ」

 

 自分が叱られてしまったと感じたのか、メルエは哀しそうに眉を下げ、そのままサラの腰元に顔を埋めてしまう。先程までの迫力は露と消え、今は大人に怯える子供の姿を見せる少女に、押し寄せていた住民達は困惑を表情に表していた。

 一瞬の空白の時間が出来上がり、人々の心に僅かな隙を作り出す。そして、そんな隙間に入り込んだ声は、この大広間にいる全ての者達の心へと染み込んで行くのであった。

 

「さぁ、逃げも隠れもしない。アンタ方の想うようにすれば良い」

 

 しっかりとした足で立つこの町の創始者の姿に、先程まで鬼気迫る勢いで乱入して来ていた者達の方が逆に怯んでしまう。『抵抗すれば、命を奪う事も辞さない』と言う程に狂気じみた空気を醸し出していたが、真っ直ぐに向けられたトルドの瞳が、彼等の勢いを削いだのだ。

 大広間に押し寄せて来た者達は誰も動く事が出来ない。トルドの表情は実に穏やかであり、害を成すような尖った物を出してはいないにも拘らず、彼等はその空気に完全に飲まれてしまっていた。

 そして、数多くの人間の行動を決定する声が、最後に大広間へ響き渡る。

 

「トルドさんを害するのであれば、私達は許しません。どのような事があったのかは理解出来ませんが、トルドさんを信じて下さい!」

 

 それは、ここに集結した住民達からすれば、酷く勝手な言い分であろう。この賢しい小娘に、彼等が味わって来た屈辱を理解出来る訳がない。どれ程に悩み、どれ程に苦しみ、この暴挙に至る事になったかを彼女は知らない。この数多い住民達にとって、トルドの何を信じれば良いのかも分からないし、信じる価値があるかも疑わしいのだ。

 故に、サラという人間のこの言葉は、この場に押し寄せる住民の心を逆立てる要因しかなく、怒りを煽り立てるような物である筈なのだが、何故か住民達は、この年若い女性の放つ威圧感に飲み込まれてしまう。住民達はサラがどのような力を持っているかを理解していないだろう。だが、それでも彼女の放つ言葉の必死さだけは理解出来たのかもしれない。

 

「我々にトルドさんを害する考えはない。要望は、この町の代表から降りて貰う事……ただ、それだけでは納得しない者達もいる為、ここで暮らす者達の心を惑わし、乱した罪により、貴方が造った牢に入ってもらいたい」

 

「そ、そんな!」

 

 静まり返る群衆の中、一歩前へと出て来た一人の男が、トルドに向かって彼等の総意を伝えた。

 それは、一方的な申し出であると同時に、彼等の譲歩でもあるのだろう。本来であれば、これ程多くの人間の感情を動かしてしまったのならば、見せしめとして処刑という選択肢もあった筈である。それにも拘らず、町の代表としての座を退く事のみを要求し、牢へ入れるとは発言しているが、その待遇は酷な物とはならない可能性を残していた。

 しかし、この男性の言葉は、何もサラの発言に臆した物ではないのだろう。その証拠に、彼等は自分達を睨み付けるように見る年若い女性の方へ視線を送る事もなく、彼女の存在自体を気にも留めていなかった。故に、その処遇に愕然とするサラの声に応える者は無く、その呟きは大広間の中へと消えて行く。

 

「……わかった……ありがとう」

 

 誰もが唯一人の人間の言葉を待ち、緊迫した面持ちで見守る中、笑みを浮かべながら頷いたトルドは、そのまま深々とその場にいる人間達全員に頭を下げた。予想もしていなかったトルドの行動に、全員が息を飲み、サラやメルエでさえ、その姿に瞳を奪われる。

 顔を上げたトルドが、一歩前に足を踏み出した事により、大広間の時が再び動き出した。

 メルエと視線を合わせるように屈み込んだトルドは、いつも被っている帽子を被る事も忘れて駆け付けてくれた幼い少女に、柔らかな笑みを浮かべる。その後、サラへ視線を向け、静かに口を開いた。

 

「二人とも、来てくれてありがとう。他の二人に、夜が明けたら牢屋へ足を運んでくれるように言ってくれるかな?」

 

「…………むぅ…………」

 

「……トルドさん」

 

 まずは、危険を顧みずに自分の心配をしてくれた二人にお礼を口にし、ここには来ていない二人と共に、再度自分に会いに来てくれるように頼む。しかし、そのトルドの言葉に、サラもメルエもはっきりとした返答をする事が出来なかった。

 メルエには、何故トルドが責められているのかが理解出来ない。皆が寄って集ってトルドを虐めているようにしか見えなかったのだろう。彼女にとって大事な者であるトルドを虐める存在は、総じて「敵」となる。それは、魔物であろうと、エルフであろうと、人間であろうと変わりはないのだ。

 そんな自分が恐れていた状況の中にも拘らず、サラもまた思考が定まらずに、相手の名前を溢す事しか出来ない。それは、この場に居るサラが、『賢者』としてではなく、一人の人間として存在している事を明確に示していた。

 

「俺は大丈夫さ。頼むよ、必ず会いに来てくれ」

 

 実際、トルドが牢屋に入り、その牢屋の鍵が如何に堅固な物であったとしても、カミュ達の手の中には、どんな鍵も解除してしまうと伝えられる『最後のカギ』がある。瞬く間に牢屋の鍵を開け、トルドを自由の身にする事が、カミュ達には可能なのだ。

 だが、トルドはその鍵の存在を知らない。そればかりか、『最後のカギ』よりも劣る『魔法のカギ』の存在さえも知らないだろう。そして、その『最後のカギ』も彼が微笑みかける幼い少女のポシェットの中にある。故に、トルドの願いが、そのような事ではない事が理解出来た。

 

「今後は、有力者だけではなく、町の人間での合議制を持って運営を行って行きます」

 

「……そうか。それが良い……自治都市を謳うのであれば、魔物からの防衛も、貿易に対しての警護も、町の人間達が考えて行かなければならないだろう。町の防衛を担当する部署や、港を警護する部署、公正な商いと公正な運営が行われているかを管理する部署なども作って行かなければならない筈だ……まぁ、俺が言う資格のある事ではないのかもしれないがな」

 

 トルドの身を引き受けた男が今後の方向性を告げると、少し考える素振りを見せたトルドは、その方針に対する様々な施策を口にする。その内容に関しては、この場に居た者達が考えもしなかった物であり、知識や教養を持つ者は一様に驚愕の表情を浮かべるが、その他の者達はトルドの発言に反感を覚えていた。

 そういう者達は、トルドが語り終える前に野次を飛ばし、怒りの感情をあらわにする。そんな多くの者達の言葉にトルドは自嘲気味な笑みを浮かべ、その表情を見たメルエの瞳が再び吊り上った。

 

「メルエちゃん、俺は大丈夫だから。さぁ、行こう」

 

 再び不穏な空気を醸し出すメルエに苦笑を浮かべたトルドは、幼い少女の行動を諌め、そのまま多くの人間に囲まれるように外へと出て行く。トルドが群衆の中へと消えて行くと共に、歓声が屋敷内に響き渡った。

 革命というよりもクーデターと呼ぶに相応しい騒動の決着は、大凡立ち上がった者達の思惑通りに着ける事が出来たのだ。それに対しての喜びと、彼等の未来に対する希望の雄叫びは、雲が晴れた月夜に響き続ける。

 呆然とその光景を見つめ続けていたサラは、ようやく我に返ったように、メルエの手を取って外へと飛び出す。鳴り止まない歓声は、町全体を包み込むように轟き続け、月明かりが降り注ぐ町を包み込んで行った。

 既に多くの住民達は遠く離れた場所へと移動している。勝利を祝すように高々と上げられた数多くの腕は、サラの目には鋭い刃を持つ剣山のようにも見えていた。

 

「…………カミュ…………」

 

「リ、リーシャさん!」

 

 多くの人間達が消えて行くのを黙って見続ける事しか出来なかったサラは、手を繋いでいたメルエがその手を離して駆け出した事で、ようやく自分達以外の人間が大きな屋敷の前にいる事に気が付く。駆け出したメルエは、そのままその一人である青年の腰にしがみ付き、呻き声のような嗚咽を始めた。そしてサラは、青年の横に立っている女性の名前を涙交じりの声で叫ぶ。

 雲が晴れ、優しい光を注ぐ月の下で、彼女達二人が最も頼りとする者達は待っていた。

 何も言わず、助ける為に屋敷にも入っては来なかったが、彼等はサラとメルエを後方から護っていてくれていたのだろう。屋敷の中へ入らず、彼女達のすぐ傍まで来なかったのは、彼等がサラとメルエを信じ、トルドという商人の人間性を信じていたからに他ならない。

 サラはその信頼が痛かった。

 『賢者』という存在にも拘らず、後先考えずに行動し、自分と行動を共にしたメルエという少女の立ち位置を危うくしたばかりか、救う対象であったトルドの身さえも危険に晒してしまっていたのだ。トルドという人間が、彼女達の信頼に足る者であったからこそ、この場は穏やかな結末を迎える事が出来た事をサラは否定する事が出来なかった。

 

「カミュ、お前の言葉を信じるぞ」

 

「ああ。この町の人間はそこまで馬鹿ではない。それに、トルド側に立つ人間が誰もいないという訳ではないだろう」

 

 自分達の身体に縋りつくように泣く二人の身体を優しく撫でたリーシャは、少し厳しい瞳をカミュへと向け、彼に釘を刺すような言葉を紡ぐ。それに対し、一つ頷きを返したカミュは、住民達が消えて行った、この町唯一の牢屋がある建物へと視線を移した。

 実際、この二人は、夜中に近くの部屋の扉が開いた音によって目を覚ましていたのだ。外へと出た二人は、それぞれの身支度を整え、宿屋の表へと出る。そして、多くの住民達とそれを追うサラとメルエの姿を確認し、後を追った。

 その際、危機感を感じていたリーシャとは異なり、何処か落ち着き払った態度を示すカミュがサラとメルエに続いて屋敷内へ入ろうとする彼女を止めている。緊迫した事態にも拘らず、それを救う為の行動さえも抑止する青年に怒りを吐き出した女性戦士であったが、彼女は既にこの青年の心が冷え切った物ではない事を知っていたのだ。

 『自分には関係ない』という一言で、自分の信頼する者を切り捨てる事が出来る人間ではない事を知っているし、彼が必要と感じたのならば、命を賭して救い出すという確信さえあった。

 

『心配するな、トルドは無事に出て来る。後は、あの二人に任せておけ』

 

 故に、リーシャはカミュの言葉を信じた。

 サラとメルエが中に入った以上、トルドは無事であると言い切った言葉はとても重い。それは、トルドという人間を信頼していると共に、彼と共に歩み続けて来た『賢者』と『魔法使い』を心から信じている事を示していたからだ。

 住民達の全てが屋敷の中へと入り、月の隠れた町に静寂が戻った時、リーシャは大きな息を吐き出した後、胸の前で腕を組み、再びその扉の奥から人間が出て来るのを待つ事にする。何か変事があれば、即座に飛び込む事が出来る準備を怠る事の無いその姿に、カミュは小さな笑みを溢していた。

 

「…………だいじょうぶ…………?」

 

「ああ、大丈夫だ」

 

 涙で目を赤く染め、鼻水を啜るように顔を上げたメルエは、自分が最も信頼する青年に問いかける。その問いかけは、この幼い少女にとって、何よりも重い問いかけであった。

 彼女は『大丈夫』という言葉の重さを誰よりも知っている。その言葉の持つ強さと厳しさを誰よりも信じている。それは、彼女が姉のように慕う女性から教えられた物であり、彼女を何度も立ち直らせて来た魔法の言葉であった。

 そして、その言葉は、彼女が最も信頼する青年の口から即座に返される。その声には自信と信頼が滲み出しており、不安そうに眉を下げる幼い少女の心を包み込むように浸透して行った。

 

「ほ、本当に大丈夫でしょうか?」

 

「処刑する為の拘束ではないだろう。それに、町の住民の全てが参加している訳ではない」

 

 ようやく微笑みを浮かべたメルエの心に水を差すかのように口を開いたサラに対しては、カミュは魔法の言葉を口にはしなかった。それは、彼の中で自信が有る無しではなく、サラという女性を『賢者』へと引き戻す為の物であったのかもしれない。

 カミュの発した内容によって、サラの頭脳は再び起動を始める。

 月夜の灯りが雲に隠れ、漆黒の闇に包まれたと感じた町には、幾らかの灯りが灯っていた。それはその家屋に人間がいる事を示しており、この騒動の中で眠る事をせずに起きていた者達の存在を示している。中には、家屋の灯りを灯したままで外へ出て来た者達もいるだろうが、灯りとなる炎は、家屋が無人であった際には火事を起こす危険性を孕んでいる為、通常では炎を消してから外出する事が多いのだ。

 つまり、今家屋にいる者達は、このクーデターに乗り気ではない者達や、日和見の者達という事になる。日和見の者達であれば、クーデター後の発言権は大きく後退するだろうが、声高に反対を唱える者達も皆無ではなかったのだろう。

 トルドの政策によって恩恵を受けて来た者達や、商いの基盤を作って貰った恩を感じている者達など、その数はかなりの数に上る筈だ。

 

「……はい。私もカミュ様の言葉を信じます」

 

「…………メルエも…………」

 

 起動を果たしたサラの頭脳は、先程までの錆びついた動きではなく、凄まじいまでの速度で回転し、彼女の歩む道を確定させた。

 しっかりと見据えられた瞳は、強く激しい炎を点している。それは彼女が『賢者』という存在に立ち返った事を示しており、再び前を向いて足を踏み出した事を示している。そんなサラの覚悟を感じたのか、その言葉に同調するように幼い少女は片手を上げた。

 メルエの頭を優しく撫でたカミュは、そのまま宿屋の方角へと足を向ける。

 暗く長い夜がようやく終演を迎え、希望に満ちた太陽が東の空から顔を出し始めていた。

 

 

 

 翌朝、サラからトルドの言葉を聞いたカミュ達は、町の罪人を入れる為に作られた牢屋へと足を運ぶ。町の南の外れに造られたその建物には、既に門番のような者が配置されており、厳しい表情でカミュ達を迎えた。

 しかし、この町に入ってからのカミュは仮面を脱ぎ捨てている。威圧的に対応しようとする門番に対して鋭い視線を向けたカミュは、それ以上の行動を起こす隙さえも与えない。その場を通り、奥へと入る考えを告げた彼を止められる人間など、この世には既に存在しないと言っても過言ではないだろう。自分の横を抜けて行く一行に何も言えず立ち竦むだけの門番ではあったが、入り口は一つしかない為、中の人間が逃げ出す訳もなく、見てみない振りをする事とした。

 

「やぁ、よく来てくれたね」

 

「……大丈夫ですか?」

 

 町の罪人を入れる牢屋と言っても、一国の王城にあるような大きな牢屋ではない。精々二つか三つ程の牢屋がある程度であった。だが、トルドが作成した物である故に、その牢屋には罪人に対してもある程度の温情が施されている。サマンオサの地下牢や、祠の牢獄のように、藁の上で眠るような物ではなかった。ベッドとまでは行かなくとも、それ相応の生活水準は保たれていると言っても良いだろう。

 そんな牢屋の中から、カミュ達一行の姿を確認したトルドは、鉄格子越しに口を開いた。

 その身を案じていたサラは、トルドの身体に傷一つなく服装も乱れていない事に安堵の溜息を吐き出しながらも声を掛け、サラの腰元から心配そうに眉を下げるメルエは鉄格子へと手を掛ける。

 

「ああ、大丈夫さ。大人しく牢へ入ったから、下手な乱暴をする人もいなかった」

 

 笑みを浮かべながら話すトルドの言葉に、ようやくメルエも小さな笑みを浮かべ、その内容にサラも息を吐き出した。

 トルドを害するという事は、この町にとって決して良い事だけではない。この町は、多くの人間の想いで発展を続けて来ている。想いが一つであったからこそ、この場所の急速な発展があったのだ。故にこそ、トルドを害する事によって離反する者達もいる可能性がある以上、その命を奪う事は愚行と言わざるを得ないのだ。

 

「……それで、俺達をここへ呼んだ理由は?」

 

「いや、待て! カミュ、私は今のこの状況をまだ納得していないぞ!」

 

 優しい微笑みを浮かべるトルドへ向けて発せられたカミュの言葉は、最後尾にいたリーシャによって遮られる。昨夜はカミュを信じる事にした彼女ではあったが、この町の騒動の根本が何かという事を理解している訳ではなかったのだ。

 実際、この町の状況を正確に把握している者など、この場には誰もいないのかもしれない。カミュはある程度理解しているのかもしれないが、それでも全てを把握している訳ではない。そして当事者であるトルドもまた、推測でしか答える事は出来なかった。

 しかし、現在のリーシャの表情を見る限り、『解らない』では済まされない筈であり、溜息を吐き出すカミュとは正反対に、トルドは優しい笑みを浮かべて小さく頷きを返す。彼の中で、ここ数年の動きはそれなりに把握していたのだろう。『情報こそ商人にとって必要な物』と考える彼だからこそ、自身の造る町の情報は常に新しい物を入れていたのかもしれない。

 

「町という物は、人間が一人で生み出せる程簡単な物ではないんだ」

 

「……どういう事だ?」

 

 トルドの語り出しは、リーシャの質問に対しての真っ直ぐな答えではなかった。故に、その言葉を聞いたリーシャは何の事か理解出来ず、何故かトルドではなくカミュの方へと問いかけてしまう。いつも通りの行動を見たサラにも余裕が生まれ、カミュは盛大な溜息を吐き出した。

 そんな一行に軽い笑い声を発したトルドは、そのままこの町で起き始めていた騒動の発端を語り出す。その内容を聞いて行く内に、リーシャとサラの表情は険しい物へと変化を始め、終盤には怒りさえも表面へと出してしまっていた。

 

「お前は何一つ悪くないではないか!?」

 

「そうです! 何故トルドさんがこのような仕打ちを受けなければならないのですか!?」

 

 だからこそ、この何事にも真っ直ぐな二人の女性は、憤りを声に出して叫んでしまう。トルドの瞳から見た町の動きであるから仕方のない事なのかもしれないが、そんな二人を見たトルドは明らかに失態を犯したというように顔を顰めてしまった。

 彼女達の性分を理解していると考えていたトルドであったが、まさかここまで自分に対して好意を持っていてくれていたとは思わなかったのだろう。特に海賊と渡りをつけたサラという『賢者』を高く買い過ぎていたのかもしれない。

 助けを求めるように自分へと視線を移すトルドを見たカミュは、苦笑を浮かべながら静かに首を横へ振る。それは、トルドが全てを語る必要性がある事を示唆しており、それを察したトルドは深い溜息を吐き出す事となった。

 

「俺はカザーブで学んだ筈だった。だが、同じ過ちをここでも繰り返してしまったのかもしれない。何か一つの事に頼り過ぎてしまえば、それが壊れた時、支えを失った物は瞬く間に倒壊する。考える事を放棄したこの町は、俺がいる限り何時か滅びゆく事になったと思う」

 

「ならば、後任の方にお任せすれば良かったのではないですか?」

 

 今のサラは、再び『賢者』ではなくなってしまっていた。これが彼女の長所であると共に、欠点でもあるのだろう。感情という『人』の持ち得る才能を如何なく発揮するこの女性は、カミュが言うように『象徴』としての道を歩む事は出来ないのかもしれない。

 思考するよりも早くに感情が表に出てしまう。それは彼女の性分ではあるが、彼女が目指す未来を見るのであれば、この欠点が何時か邪魔をする事になるだろう。

 

「結局は俺が指名した者になる。それでは依存の対象が異なるだけで、行き着く先は変わらない。この町の者達が自ら考え、この町の者達の手によって変わらなければならなかった。……それに、ここはアンタ方から託された町だ。俺が勝手に逃げ出す訳にはいかないだろう?」

 

「それでも……それでも、トルドさんが全てを被る必要は無かったのではないですか?」

 

「……サラ」

 

 実は、トルドが優しい笑みで語るその内容に、サラは既に察しが付いていたのだ。だが、如何に町のためとはいえ、無実の罪を全て被り、罪人として裁かれようとするトルドを認めたくはなかったのかもしれない。諦めきれないように問いかけるサラの姿を見たリーシャは、そんなサラの胸の内を察する。

 サラは幽霊船でリーシャから忠告された言葉を思い出していた。この世は、正と誤、善と悪というような単純な二つで分かれている訳ではない。一方から見れば悪であっても、方角を変えてみればそれが善となる。正しいと思う道を歩んでいても、異なる道を歩む者から見れば、その道は誤りでもあるのだ。

 町という、数多くの人間が集う場所を運営する方法は、それこそ幾通りも存在するだろう。トルドの方法が必ずしも正しい訳ではないが、彼にとってそれが最善であった事も事実。それは、この町に直接関わっていない者が後世で論じる物であり、今のサラにその資格はなかった。

 

「いや……彼等は俺を罰する資格がある。この町に広まる噂の中に、たった一つだけ真実があってね……」

 

「……真実?」

 

 今にも涙を溢しそうになっているサラに優しい笑みを向けたトルドは、自分の頬を掻きながら、小さな懺悔を口にし始める。それは、リーシャやサラだけではなく、カミュにとっても予想外の物であり、牢屋の前に並んだ一行は、総じてトルドの言葉の続きを待った。

 集まる視線に言い難そうな表情を浮かべたトルドであったが、懐に手を入れ、そこから小さな鍵を取り出す。その鍵は、カミュ達が持っているような特別な鍵ではなく、何処にでもあるような簡素な物であった。

 

「まずは、これを……」

 

 牢屋の鉄格子の隙間から伸ばされた手の上に乗った小さな鍵を受け取ったサラは、それが何を示す物なのかが解らず、尚も問いかけるような視線をトルドへと向ける。サラの手に乗った物に興味を示したメルエは、覗き込むように背伸びをするが、それが只の鍵であった為に興味を失ってしまった。

 

「以前から俺が探していた物を手に入れたと、ある商人がこの町を訪ねて来てね。結構な値で吹っ掛けて来た。足元を見ている事は解ってはいたが、機を逃しては二度と手に入らないと感じた俺は、町の住民が俺に送って来たゴールドに手を付けてしまった」

 

「なに!?」

 

 町の人間達がトルドに送って来たゴールドという事は、先程話に出て来ていた賄賂という事になる。それに手を付けてしまったとなれば、住民達の不満を真っ向から否定する事が出来なくなってしまうのだ。その額が僅かだとしても、賄賂に手を出した事は覆らない。それはトルドの言うように『罪』となる物であろう。

 予想していなかった展開にサラは息を飲み、リーシャは驚きの声を上げる。カミュに至っても、トルドの思惑は理解していても、その罪までは見通せてはいなかった。

 

「そのゴールドは、個人的な商いによってすぐに戻したが、一度手を付けてしまった事には変わりない。だから、俺がこの牢屋に入る事は当然の事なんだ」

 

 ここで『戻したのならば良いだろう』と言えればどれ程楽であっただろう。だが、本人が罪と認め、深く悔いている事が痛い程に理解出来る為、リーシャやサラは何も言葉を発する事が出来なかった。

 このトルドという商人が、他者の物と考える資金に手を出してまでも入手したかった物など想像する事も出来ないが、その品物が、この真っ直ぐな商人の心を罪悪感に蝕み、そしてこのような境遇に陥れてしまった事だけは確かであった。

 

「まぁ、そんな訳で俺は暫くここで過ごすよ。もし、この町の住民に許される事があれば、もう一度カザーブへ戻ろうと思っている」

 

 一度牢に入れられた者が許される事など、この時代では皆無に等しい。国家であれば尚更であり、一度罪人として牢に入れた者を外へ出すという事は、その者を捕まえた国家の威信に係わる事柄となるからだ。

 だが、ここは自治都市である。この町の法も、そこで暮らす者達が決め、そして判断する事の出来る場所。トルド程の功績があるのならば、それ程の時間を要する事なく、放免される可能性もあるだろう。

 

「…………メルエ………あける…………」

 

 カミュ達三人が押し黙ってしまう中、一人の少女が満を持して動き出した。

 彼女にとって、今までの会話の内容は理解出来る物ではないのだろう。半分も理解出来ない内容に痺れを切らした彼女は、肩から下がるポシェットから輝く鍵を取り出した。それは、勇者一行が持つ、神代から伝わる鍵であり、どんな鍵でも解除すると伝えられる『最後のカギ』である。

 その鍵であれば、この牢屋の鍵でさえも容易く開けてしまうだろう。トルドという大事な者を救い出す事に理由などいらないメルエは、そのまま鍵を牢屋の鍵穴に差し込もうと手を伸ばした。

 

「メルエちゃん、それは駄目だ。俺はここで罪を償うよ。そして、ここで何が悪かったのかをじっくりと考えてみようと思う。時間ならば、腐る程にあるだろうからな……」

 

「…………むぅ…………」

 

 だが、そんな少女の無邪気な手は、救う対象である者によって阻まれる。

 昨日から自分の行動を悉く遮るトルドに対して頬を膨らませたメルエであったが、強い光を宿すその瞳を見て、力なく肩を眉を落とすのであった。

 鉄格子の奥から伸ばした手をそんな少女の頭の上へと置いたトルドは、その小さな頭を優しく撫でる。まるで最愛の娘の頭を撫でるように優しく、そして暖かい手は、メルエの心に安らぎではなく、哀しみを運んで来た。

 いつもならば、目を細める程に気持ち良い手が、何故か切ない程に哀しく感じる事に困惑し、メルエの双眸から大粒の滴が地面へと零れ落ちて行く。

 

「俺の寝室の椅子の下に小さな引き出しがある。それはそこの鍵だよ。アンタ方の旅の役に立つ物であれば、持って行ってくれ」

 

「……トルドさん」

 

 名残惜しそうにメルエの頭から手を離したトルドは、カミュ達へ視線を戻し、最後の言葉を早口で言い切った。そして、それ以上には何も語る事がないとでも言うように、そのまま牢屋の奥へと戻って行く。広くはない牢屋の奥へと歩くトルドの背中を見ながら、サラは何とも言えない想いを胸に抱く事となった。

 しかし、ここでその背中に語りかける言葉は見つからない。何かを言おうとしても口を開く事が出来ない。それは、腰にしがみ付いて来たメルエをマントの中へと導いたカミュが牢屋から出て行くまで続いた。

 

 牢屋のある建物から出た一行は、そのままトルドの元屋敷へ向かって歩き出す。途中の道では、誰一人として口を開く者はおらず、ただ黙々と屋敷までの道を歩き続けた。

 屋敷の門の前に着くと、昨日までいた門番のような男の姿は見えず、代わりにその大きな屋敷を見上げるように立つ男性が見える。その男性の姿は、カミュやリーシャよりも背丈が低いが、髪色はカミュと同じように漆黒に輝いていた。

 

「……鍛冶屋の方ですか?」

 

「ん? お前さん達は……ああ、トルド殿が言うておった御仁か」

 

 漆黒に輝く髪色は、この世界ではある地方で生まれた者にしか持つ事が出来ない者。カミュの祖母もまた、その地方の出身であり、その血を受け継いだカミュの髪色は、その地方の者と同様に漆黒に輝く物であった。

 この町でその地方であるジパングの者と言えば、昨晩にトルドの話にあった鍛冶屋しか存在しない事は明白である。故に、カミュはその男性の背中に向かって声を掛けたのだった。

 振り向いた男性は一瞬顔を顰めるが、カミュ達四人の姿を確認した後、歳相応の皺が刻まれた顔を緩め、優しい笑みを溢す。年の頃は四十から五十と言ったところだろう。もしかするともっと若いのかもしれないが、彼の半生の苦労がしっかりとその身体に刻まれていた。

 

「この屋敷も今朝からトルド殿の物ではなくなった。今後は町の会議所として使われるようだ」

 

「……そうですか」

 

 カミュ達から視線を外した鍛冶屋は、主の居なくなった大きな屋敷を見上げる。その言葉には、憐みとは異なる哀しみが滲んでいた。この鍛冶屋は、カミュ達が考えていた以上に、トルドとの間に信頼関係を築いていたのかもしれない。サラは鍛冶屋の男性の横顔を見つめながら、昨夜カミュが語っていた、『トルドの味方』であれば良いと考えていた。

 町の大半が、反トルドの立場として動いてはいるが、決して町全体という訳ではない。この町の中にも、トルドという人間が排除された事を悲しむ者もおり、その人柄を知っているが故に惜しむ者もいる筈である。そんな人間が一人でもいる限り、この場所が絶対王政でない以上、トルドが釈放される事は夢物語ではないのだ。

 

「今は町の者も熱くなっていて何を言っても聞かないだろう。だが、何時かその声が皆に届く時が来る」

 

 鍛冶屋の男性は、サラの心の内を見透かしたような言葉を残し、町の雑踏の中へと消えて行く。その言葉の意味を問いかける事も出来ず、サラはその背中を呆然と見送るしか出来なかった。

 だが、先程の言葉で、あの鍛冶屋の男性が『トルドの味方』である事だけは確定したと言って良いだろう。彼がこの先で何をしようとしているのかまでは解らないが、それでも彼がトルドの為に動こうという意思がある事はカミュ達全員が理解出来たのだ。

 

「……行くぞ」

 

 消えて行く鍛冶屋の背中を見つめていたリーシャとサラは、先に屋敷へと入って行ったカミュの後を続いて歩き出す。

屋敷の中へ入ると、そこは外の世界とは一線を画した物となっていた。外の喧騒は屋敷内には届かず、以前まで廊下などにあった宝飾品などの高価な物は全て片づけられている。閑散とした廊下は、この屋敷の主の衰退を思わせるに十分な物となっていた。

 奥へと進み、大広間に出ると、そこもまた以前とは異なった様相をしている。大きな机が円卓のように置かれ、幾つもの椅子が設置されていた。おそらく、多くの町民達による合議制を用いる為、会議所としての設備を整えているのだろう。

 誰もいない大広間を抜けた一行は、そのままトルドの寝室があった場所へと入って行く。そこもまた、町民によって綺麗に片づけられていたが、トルドが使っていたであろう机と椅子はそのままになっていた。

 

「この椅子の事でしょうか?」

 

「椅子の下に引き出しはあるぞ」

 

 トルドの話を思い出しながら椅子へと近付いたサラとリーシャは、その椅子を丹念に調べ、その四本の足の間に小さな引き出しがある事を確認する。通常の粗末な椅子とは異なり、木で作られた椅子は羊毛の入った布で覆われており、椅子の足を隠すように垂らされた布に隠れるような形でその引き出しは存在していた。

 トルドから受け取った鍵を鍵穴に差し込むと、何の抵抗もなく鍵は回り、乾いた金属音を響かせて引き出しは開錠される。

 

「!!」

 

 そして、その小さな引き出しを引き、中身を目にした三人は、息を飲む事となった。

 誰一人として声を出す事など出来ない。その引き出しの中に唯一つだけ残されていた物を目にした時、リーシャとサラは胸に湧き上がる感情を抑える事など不可能であった。

 サラは既に視界が歪み始め、引き出しの中にある物を正視する事が出来ない。リーシャもまた、その物から逃げるように顔を背け、何かを我慢するように天井を見上げた。いつもは冷静さを失わないカミュでさえも、眉間に皺を寄せて口元を厳しく引き締める。

 そんな三者三様の行動を起こす中、先程までカミュのマントの裾を握っていたメルエは、引き出しの中にあった物と同じような輝く瞳を向け、小さな笑みを溢す。

 

「……こ、これの為に……私達の為に、ト、トルドさんは……」

 

「……あの馬鹿が」

 

 最早溢れ出る水滴を拭う事も出来ず、嗚咽を抑えるように口元へ手を持って行ったサラは、その物がこの場所にある意味を正確に捉えていた。それはリーシャも同様であり、ここにはいないお人好しの商人に向かって悪態を吐く。その声は涙が混じるように擦れ、天井を見つめていた瞳はきつく閉ざされていた。

 カミュの横から顔を出したメルエが、それを手に取り、柔らかな笑みを浮かべる。幼い少女の笑顔を映すそれは、鮮やかな黄色に輝きを放っていた。

 

 トルドという、この世界でも上位に入る程の商人が、他者のゴールドに手を付けてまでも欲した物とは、カミュ達が探し求める『精霊ルビスの従者』を蘇らせると伝えられている小さな珠であったのだ。

 ランシールにあった神殿で聞いたように、この黄色く輝く珠は『人から人へと世界中を巡る物』と云われる物。<山彦の笛>でさえも発見する事は難しく、一度見失ってしまえば、一度の生涯では再び見出す事は出来ないとさえ考えられている物でもあった。

 その名は『イエローオーブ』。

 オーブに関する会話を何度かトルドとしてはいたが、彼が実際にオーブという物を見たのは一度きりの筈である。それでも彼は、そのオーブという物を記憶に留め、この町を訪れる商人達からそれに関する情報を集めていたのだろう。

 

「カミュ……私達は返し切れない程の恩を受けた。この恩を忘れる事は許されない」

 

「……わかっているさ」

 

 メルエの手に乗るイエローオーブを見つめていたカミュは、後方から掛ったリーシャの言葉に深く頷きを返した。

 以前の彼であれば、この出来事を『恩』とは感じなかったかもしれない。だが、今の彼はその表情を歪める程に、その事実を重く考えていた。それが理解出来たリーシャは、ようやく笑みを浮かべる。目の端に光る水滴を見せるその笑顔は、朝露に輝く花のような輝きを放つ物であった。

 ポシェットにオーブを仕舞い込んだメルエを連れてカミュが屋敷を出て行き、部屋に残ったリーシャは、未だに涙を流し続けるサラの肩を抱く。身体を一瞬強張らせたサラではあったが、感情を押し殺す事は出来ず、リーシャの胸にしがみ付いた。

 

「サラ、泣くな。私達の旅は、多くの者達によって支えられて来たんだ。それは、昔も今も、そしてこの先も変わらない。ならば、私達がするべき事は一つだろう?」

 

「……はい……はい」

 

 自分の胸の中で泣き続けるサラの背中を優しく撫で、リーシャは優しい笑みを浮かべる。その胸の内に宿る偉大な炎が再び燃え上がるように、ゆっくりと撫でる手の暖かさを感じながら、サラは何度も頷きを返した。

 

 トルドの意思が固い以上、今のサラ達に出来る事など限られている。彼女達の想いのまま、あの牢の鍵を開けたとしても、彼は外へ出る事はないだろう。ならば、彼がその身を犠牲にしてまで守った町と、そこで暮らす人々の為に彼女達がするべき事は一つである。

 彼が罪を犯してまで手に入れたオーブを全て集め、『精霊ルビスの従者』を蘇らせる事。そして、その先にある未来を手にする事しか有り得ないのだ。

 その道中には、この世界で生きる者達全ての恐怖の対象である『魔王バラモス』が待ち受けているだろう。

 だが、それでも勇者一行が歩みを止める事は許されない。

 いや、彼等自身がそれを許さないのだ。

 それこそ、彼等が『勇者一行』と呼ばれる所以なのかもしれない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにて第十四章は終了となります。
この後に、勇者一行装備品一覧を更新し、その後は第十五章へと突入します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

この青年を『勇者』と呼ぶ者は、世界でもまだ少ないかもしれない。だが、その人数は確実増えており、その功績は確実に人々の口から広がって行くだろう。それはいずれ世界を覆う程の物となり、後世へと受け継がれて行く物となって行く。

『彼の歩む道が王道であると共に正道でもある』とは、彼と共に歩み続けて来た女性戦士の言葉である。

 

【年齢】:19歳

既にアリアハンという生国を旅立ってから四年近くの月日が流れている。着実に世界が魔王の魔力に蝕まれて行く中、各地で生きる人々の心が折れていないのは、この四年の月日で世界中を旅して来たこの青年の功績が大きい。

だが、人々に残された時間は限られており、その時は刻一刻と近づいているだろう。

 

【装備】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガいう彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):魔法の鎧

サマンオサにてボストロールに破壊された鎧の代わりに購入した物は、以前と同様の魔法の鎧であった。この世界の武器と防具の店で購入出来る鎧は、この魔法の鎧が最高位に位置する物である。それ以上の鎧となれば、リーシャが装備しているような、世界で一つしかない物となるだろう。

 

盾):ドラゴンシールド

サマンオサ城下町にて、リーシャと共に購入した盾。

龍種の鱗を土台となる金属の上に繋ぎ合わせた盾だと云われるが、サマンオサ近辺に龍種と呼べる種族が存在しない為、おそらくは龍種の劣化種である<ガメゴン>の鱗を繋ぎ合わせた物ではないかと考えられる。

だが、劣化種とはいえ龍種である事に変わりはなく、その盾の防御力は凄まじく高い。金属と異なり、龍種が身体に纏う鱗を繋ぎ合わせている為、その柔軟性はとても優れており、<ボストロール>の強力な攻撃を数度受けて尚、その身に傷一つ付けず健在であった。

 

武器):ドラゴンキラー

トルドバークという、彼等の信頼する商人が開拓した町で手に入れた武器。本来の姿は、片手に嵌め込むような形の武器であり、サマンオサにて販売している武器でもある。

その名の通り、世界最強種である龍種の鱗さえも斬り裂く鋭さを有するその刀身は、龍種の牙で出来ているとも、爪で出来ているとも云われる。その製造方法は世界に広まってはおらず、一から作り出す事は難しいと考えられていた。

サマンオサで嵌め込み型のドラゴンキラーを購入したカミュが、トルドへ改良を依頼した事に始まり、トルドバークへ移住して来ていた鍛冶屋によって改良が成される。刀身は長刀のように長く、その鋭さは失わず、柄と刀身を持つ両刃剣となって生まれ変わった。

製造方法さえも解らない剣の改良を成し得たのは、この鍛冶屋の力量があってこその物であり、ジパングという国の鍛冶職人の力量の高さが窺える。このトルドバークへ移住して来た鍛冶屋は、友人と共にジパングから亡命しているが、その友人とは途中で分かれ、行方は解らないと言う。

 

所持魔法): メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      リレミト

      マホトーン

 

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

戦士として歩み続ける彼女ではあるが、その力は世界にとっての脅威である『魔王バラモス』を打倒する事へ向けられているのと同時に、彼女の周囲にいる仲間や大事に思っている者達を護る事にも向けられている。

どれ程に力を有しても、その力を誇示する事はなく、その力に訴える事もない。その在り方は、既に過去の英雄達に匹敵する程の物となっているのだろう。

アリアハンを出たばかりの頃であれば話にもならぬ者であった彼女もまた、英雄として名を残す者へと成長を遂げているのかもしれない

 

【年齢】:不明

四年の月日が流れる旅の中で、彼女も年齢を重ねて行く。カミュやサラとの年齢差は、彼等二人が考えている程にある訳ではないが、この時代の女性としては悩みどころもあるだろう。

最年長である彼女は、周囲の者達の心の変化を敏感に察し、その者の背を押す事の出来る人間へ成長をしている。彼女のその言葉に、カミュやサラは何度も救われて来ただろうし、何度も奮い立たされて来た筈である。

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):大地の鎧

試練の洞窟と呼ばれる人工の洞窟内に安置されていた鎧。『勇者』と呼ばれるカミュが発見するが、その者を主とは認めず、外で待つ一人の戦士を主と定めた。まるで己の意志があるかのように、『人』としての色を残す女性を主と定めた鎧は、他者の手に渡るのを拒む。精霊と共に崇められる対象となる母なるものの名を冠する鎧は、植物や動物を育てるように、温かくその身を包み、護る事だろう。

 

盾):ドラゴンシールド

サマンオサ城下町にて購入した盾。

劣化した龍種の鱗を繋ぎ合わせて作られた物だと考えられる。

劣化したとはいえ、龍種の鱗の防御力は高く、<ボストロール>の凶暴な力を受けても形状は変わらない。また、炎や吹雪といった物への耐性も少なからず持ち合わせているという説もある。

 

武器):バトルアックス

鉄の斧とは異なり、両刃の斧。ハルバードよりも戦闘用に改良されている物であり、戦斧という名に相応しい程の機能を備えている。重量感も鉄の斧よりも数段上であり、圧し斬るというような攻撃方法も可能な程の全長も有している。装飾も凝った物が成されており、スーの村の装飾技術も窺える逸品。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

真っ直ぐに『賢者』としての道を歩み続ける彼女ではあるが、その思考は常に自分の信じている物が『正』であるという考えが根底にあった。だが、長い旅の中で数多くの人間に出会い、数多くの考えを知る事になる。自身の考えを貫き通す事で歩んで来た彼女の旅ではあったが、自らを『悪党』と名乗る海賊との出会いによって、それも限界がある事をリーシャから忠告を受ける事となった。

『清濁を併せ呑む』事の必要性を問われた彼女は、また一つ悩みが増えて行く。だが、その悩みは、既に彼女と共に歩む二人の男女によって解決されている事を彼女は知らない。

 

【年齢】:21歳

アリアハンを出てから彼女は年輪を重ねている。だが、彼女の周囲には、彼女が頼りに出来る存在がいる為、心の何処かで甘えが残っている節がある。それは決して戦いへの覚悟や、歩む道への覚悟についての物ではなく、単純に頼りになる者への依存の感情である。故に、メルエがサラに甘えるように、サラもまたリーシャに甘えている部分も否定は出来なかった。

また、自身の親が魔物によって食い殺され、それに対しての仇討ちが出来ていなかった事は、彼女の心の奥深くに、暗い闇として残されていた。自分自身でも気付かない程に小さな闇ではあったが、それは確実にサラの心に住処を作り、心の何処かで迷いを生んでいたのだ。メルエという彼女の教え子が実母と養母の仇討ちをする手助けをした事によって、彼女の心に残る小さな闇は晴れたかに思われた。

だが、人の心に巣食う闇は、容易な物ではない。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれており、その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

テドンという滅びし村で購入したこの法衣は、その村へ移住して来た年若い夫婦の手によって編み出された。昆虫が作り出す物を糸から『絹』という世界で初となる生地を作り出し、特殊な能力を保持していた妻が編んだ物。それは、奇しくも彼女と共に歩む幼い少女の母親であった。類稀なる魔法力を有し、稀代の『魔法使い』となった少女の母親も、特殊な術式を組み込んだ法衣を作り出している。その奇妙な巡り合わせが、サラという当代の『賢者』の思考に一石を投じていた。

 

盾):魔法の盾

カミュやリーシャと同様、スーの村で買い揃えた盾。サラの身体に合ったサイズに変化した盾は、その左腕に納まっている。以前まで使用していた<うろこの盾>に関しては、ロマリア国王から下賜された宝物である為、店で売却はせず、大事に保管されている。『意味のない行為』とカミュに小言を言われるが、リーシャの後押しもあり、その後は船の船員達は使う事になる。

 

武器):ゾンビキラー

サマンオサ城下近郊での<ガメゴン>との戦闘により、三年以上も共にあった<鉄の槍>は破損してしまった。

共に歩む者達の武器が次々と強力な物になって行く中、彼女だけがロマリアで購入した物を使用していたというのは、彼女自身の武器を扱う力量とは別に、『賢者』となった彼女に合う武器が無かった事が理由であろう。

長い年月を掛けて聖水に浸けても尚、錆などが浮かなかった長剣であり、その刀身に『精霊ルビス』の加護を受けた剣。

聖なる力を宿した長剣は、この世に生を持たない者達に多大な効果を持ち、この世に縛り付けられた魂や肉体を『精霊ルビス』の許へ還すと考えられていた。

   :聖なるナイフ

育ての親であるアリアハン教会の神父から授けられた物。

アリアハン大陸の魔物達には有力な武器ではあったが、ロマリアで<鉄の槍>を入手してからは、彼女の腰に下がる袋の中に大事に保管されている。

それは、彼女の心の奥にある太い柱となっている『愛』の証であり、彼女が進む道を照らし続ける『覚悟』の証でもある 。

 

所持道具:祈りの指輪

エルフの隠れ里にて購入した物である。メルエの指に嵌っている物と同様の物で、元々は子の幸せを願う親の想いが込められた物が起源と考えられている指輪であった。

純粋な祈りは『精霊ルビス』の許へと届き、指輪の所持者の魔法力や気力を回復するという効力がある。呪文に重きを置くサラにも必要であると考えたリーシャが購入する事をカミュへ提言し、それが受け入れられた事によって、サラの指にも嵌められる事となった。

購入する際は、2500ゴールドという大金が必要となるらしい。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ

       ザキ

 

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       メラミ

       イオラ

       

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

       バシルーラ

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

世界最高峰へと上り詰めた魔法使いは、その膨大な魔法力を行使して、強力な魔物を討ち果たす。そして、この幼い少女は自分の力の大きさを理解し始めているし、それに対しての意識も高まっている。だが、この幼い少女には未だに謎が多く残されていた。

グリンラッドでスノードラゴンと遭遇した時に見せた姿は、『賢者』となったサラであっても恐怖する程の力に満ちており、カミュやリーシャであっても身動き一つ出来ない程の物。メルエの表情には感情も見えず、ただ、路傍の石でも見るようにスノードラゴンを見つめていた。

その瞳の理由を解明出来る者は誰一人としていない。

 

【年齢】:7,8歳

彼女の養母であるアンジェという元踊り子は、アッサラームに侵入したベビーサタンによって殺害されている。そして、そのベビーサタンをアッサラームに差し向けたのは、彼女の実母をテドンの村で殺害したミニデーモンであった。幽霊船という、この世に存在してはいけない物の中で遭遇したその魔物を、姉のように慕うサラと共に打ち破った彼女は、二人の母親の仇討ちを遂げる事となる。その際に使用した呪文は、これまでサラが見た火球呪文とは一線を画した威力を誇った。

火球系の最上位呪文はメラミであり、それ以上の呪文は、『魔道書』にも記載されておらず、『悟りの書』でも未だに浮かび上がっていない。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):天使のローブ

エルフの女王へ『命の石』の欠片を手渡す為に訪れた隠れ里にて購入した物。

変化の杖の力によって、エルフへと姿を変えたメルエの将来に希望を見出したエルフの店主が購入を勧めた物である。

元々、エルフの母達が自分の娘の未来を案じて、一本一本想いを込めて編み込んで行ったローブが起源となっている。母達の強い想いが、そのローブを形成する糸に宿り、それを纏った者を理不尽な死から遠ざける効果を持つと云われていた。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

サラの装備する<魔法の法衣>同様、メルエの母親が編んだ物である可能性が高い。常に彼女の魔法力を支え、その身を守る姿は、母親そのものなのかもしれない。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

既に何度もメルエの身を守る為に立ち塞がっており、魔物等の攻撃を受ける際にも、その形状を変化させる事も解っている。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えており、主を護るその時に、そのオブジェの嘴から<ベギラマ>と同様の灼熱の炎を吐き出した。主と定めた物を護るような意志を持つその杖が、何故スーの村にあったのか、そして誰が安置したのかは、まだ解らない。

   :毒針

何度もメルエの身を護ってくれたトルドからの贈り物。

ただ、最近は、メルエが直接的に魔物から攻撃を受ける機会はなく、それを使用する事もない。

それは、カミュやリーシャ、そしてサラといった絶対的な保護者達の働きが大きいのだろう。

 

所持道具:祈りの指輪

砂漠の国イシスの真女王となったアンリから授かった道具。『精霊ルビス』へ祈りを捧げる事によって、その恩恵を受ける事が出来ると伝えられている。祈りを捧げ、それが『精霊ルビス』の許に届いた時、その者の体内に宿る魔法力を回復させるという効果がある。<ヤマタノオロチ>という強敵との戦闘の中、魔法力切れを起こしたメルエの祈り、「大切な者達を護りたい」という想いに応え、その魔法力を回復させ、勝利に導いた過去を持つ。

    :アンの服

天使のローブという新しい防具を手に入れたメルエであったが、この服に何度もその命を護られて来た。みかわしの服と同様の生地で作られたこの服は、アンという幼い少女の身を案じた両親の愛が込められているのだろう。魔物の攻撃などで穴が空いたり、切れたりした部分は、サラによって修繕され、何度も復活を果たしていた。

現在はメルエが眠る船室に掛けられており、トルドバークを訪れる際にトルドへ返還する事も考えたが、渋るメルエを説得するのに、今暫くの時間が必要なのかもしれない。

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

       メダパニ

 

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       マホカンタ

       ベギラゴン

       ラナルータ

 

 

 




第十五章は、今月中に開始したいと考えています。


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第十五章
ジパング⑤


 

 

 

 トルドバークの政権がクーデターによって覆されたという報は、この港へも届いていた。一夜にして決着した物であった為、自分達が港へ着くよりも早くに情報が届いていた事に驚いたカミュ達であったが、考えていたよりも多くの人間がこの出来事に賛同していたのだと納得する。

 今はまだカミュ達の船だけが停泊する大きな港も、他の商船が来港する事になり、勇者一行が乗る船が着港出来ないという事にもなりかねないだろう。

 錨を外し、徐々に離れて行く陸地を眺めながら、四人は各々の想いを胸に、巨大な自治都市となった町を一人で築いた男を思い浮かべていた。

 

「それで、ここから何処へ向かう?」

 

「……ジパングへ向かってくれ」

 

 大海原へ出て、陸地の影も見えなくなった頃、ようやく頭目が次の目的地をカミュへと尋ねた。彼自身はトルドバークへ向かってはいなかった為、詳しい事情などは理解出来ていなかったが、戻って来たカミュ達の表情がかなり厳しい物であった事で色々を察したのだ。

 カミュが暫く考えた末に出した目的地の名は、その他の三人の心に新たな風を巻き起こす。

 トルドバークにて体験した出来事を忘れる事はない。そしてトルドという男性の身を案じない日もないだろう。それでも、彼等は前を向いて歩んで行かなければならないのだ。そして、彼等の心に生まれた影を晴らす事が出来る物は、太陽だけである。

 ジパングは『日出る国』という異名を持つ国であり、その国を統治する若い国主は、そこで生きる者達の道を照らす太陽のような少女であった。

 

「…………イヨ…………?」

 

「そうですね、イヨ様です」

 

「草薙剣を返還しに行くのか?」

 

 カミュの告げた目的地を聞いた一行が甲板の中央に集まって来る。首を傾げてカミュを見上げたメルエの呟きをサラが肯定し、そんな二人に笑みを溢しながら、リーシャがその真意を問う。そしてそれを肯定するように、カミュは一つ頷きを返した。

 トルドバークでカミュが手に入れた武器は、<ドラゴンキラー>と呼ばれるこの世界で販売している中でも最強の武器である。販売している武器屋も限られており、その希少性も高い。カミュ達はサマンオサの武器屋で購入はしたが、その形状から今の時代で扱える者は少なく、在庫も一つ限りとなっていた。

 <草薙剣>は真名を<天叢雲剣>といい、ジパング初代国主が神より授かったと言われる神剣である。その刀身に<ルカニ>のように相手の防御力を下げる効力を持っているとも考えられる。それ程の剣である為、<ドラゴンキラー>よりも劣る剣という訳でもなく、むしろ剣としての能力であれば<草薙剣>の方が遥かに高いだろう。

 それでも、<天叢雲剣>がジパング国に伝わる神剣であり、国主が持つ覚悟の証である以上、何時までもカミュが所持していて良い物ではないのだ。この神剣の名が<草薙剣>となったのも、その本来の持つ主となる筈のイヨという皇女の計らいによるものである。故に、強力な武器が手に入った以上、それを本来の主へ返還する必要があった。

 

「ジパングですか……どのような国になっているのでしょう」

 

「心配するな。イヨ殿は、元々国主の血筋の者。そしてあの方であれば、立派に国を治められているだろう」

 

 トルドバークの結末を見たばかりである為、サラの胸には一抹の不安が過ぎる。だが、そんな不安はリーシャによって即座に一蹴された。

 トルドという人間は、どれ程に優秀であっても商人である。その求心力も、威厳も、一国の王族とは比べ物にはならない。成功をし続けている内は良いが、何か失策を犯したり、そこで生きる者達の胸に不安や不満が宿り始めてしまえば、それが致命的な物となってしまう。だが、その不安や不満は王族という血筋があれば、ある程度は抑える事が出来るのだ。

 相手が王族だろうと、クーデターを企てる場所はあるが、その際には王族に対する絶対的な忠誠を誓った者達が味方に付くだろう。そのような過去から続く歴史を持っているからこそ、その国を治める事が可能であり、その国を導く強さをも有するのだ。

 

 

 

 船は順調に南へと進路を取り、テドンの南の海を抜けて行った。

 テドンへ続く森が見えると、木箱を移動したメルエは陸地へ寂しい瞳を向け始める。それを見たリーシャはゆっくりとその背に近付き、包み込むように抱き締めたまま、メルエと共に北に見える大地を眺めた。

 そんなリーシャが不意に口にした言葉は、船に乗る全員が驚く物であった。

 

「カミュ、あの川を上って行くと何処へ向かうんだ?」

 

 既に船はテドンのある森の傍を抜け、その先にあるバハラタへ向かって北上している最中である。西側に陸地は見えるが、そこは断崖絶壁の岩山が続き、海鳥達が巣を成しているのか、何羽もの海鳥達が岩山に張り付いていた。

 その断崖絶壁が続く大陸は、バハラタのある大陸とは異なっている事はカミュ達も気付いていたが、その間にある川を上って行くという考えは微塵もなかったのだ。故に、サラは、それを知っているであろう頭目の顔へと視線を移し、カミュは地図を取り出してそれを覗き込む。突如向けられた視線に戸惑いながらも、頭目はその答えを口にした。

 

「アッサラームの東にある山脈から流れる川だろう。その川は、イシスの東にも流れ込んでいて、何でもネクロゴンドの火山の麓まで続いているって話だ」

 

「ネクロゴンドの火山だと!?」

 

 ネクロゴンドという単語は、何度もカミュ達の中で登場した物である。テドンという村が、ネクロゴンドの麓にあるという話は聞いていたが、その場所へ赴く手段も情報もなかったのだが、それを辿る為の噂は、意外な程近い場所にあったのだった。

 過剰な程に反応を示したリーシャに驚いたメルエは、不満そうに頬を膨らませ、サラの腰にしがみ付く。

 魔王の居城がネクロゴンドにあるというのも、結局噂であり、その信憑性を確認する術はない。術がない以上、それに関する物であれば、どのような物でも確かめなければならないのだ。故に、彼等の方向性はここで確定する事になる。

 

「カミュ様、ジパングの後は……」

 

「……行くしかないだろう」

 

 ジパングに行く事は既に決定事項であった。それは、このパーティー四人の総意である。故に、そこを訪れた後は、本当の意味での戦いが始まるのだ。

 アリアハンを旅立った時は、先が全く見えない旅であった。何処へ行けば良いのかさえ分からず、何処に何があるのかさえ分からない。当初の目的が、討伐の命を受けたにも拘らず、その命を下した国を出る方法を見つけるという物だったのだから、彼等の困惑は一入であっただろう。

 アリアハン大陸を出た彼等が次に辿り着いたのはロマリア大陸。そのロマリア国でも、国王の身勝手な要望を受け入れた彼等であるが、正確に言えば、あの場面では次の目的地を把握する事は出来なかっただろう。そして、このパーティーを何度も勝利に導いた、稀代の『魔法使い』と出会う事もなかった筈である。

 その後カザーブでトルドと出会い、ノアニールの事件でエルフという種族の王と出会う。その出会いが無ければ、彼等が大陸を南下し、イシス国へ入る事もなかったかもしれない。アッサラームでメルエの義母と出会わなければ、彼等の絆が生まれる事もなかったかもしれないし、その後の船の入手も有り得なかっただろう。

 そんなここまで辿り続けた細く頼りない糸のような道を思い出しながら、四人は感慨深く絶壁の岩山を見上げていた。

 

 

 

「メルエ、火炎系は駄目ですよ。メルエの氷結呪文であれば、この辺りの魔物は全て倒せます」

 

「…………ん………ヒャダルコ…………」

 

 船は順調に進む。軽い雨に降られる事はあったが、海が荒れる事はなく、<テンタクルス>のような強力な魔物が姿を現す事はなかった。

 度々現れる魔物も、既に何度も遭遇した事のある魔物であり、カミュ達四人の敵ではない。以前は船員達を護る為に武器を取っていた元カンダタ一味の者達も、今では己の仕事に従事する事に意識を向け、全てをカミュ達に任せていた。

 船に上がって来る魔物は、カミュやリーシャの餌食となり、海面に顔を出して船をよじ登る魔物達は、メルエの放つ呪文の餌食となる。船に残った魔物の遺体を海へと丁重に戻す行為は、何時の間にか船員達の仕事となっていた。

 

「そろそろジパングが見えて来る頃だぞ」

 

 戦闘を終えた一行がそれぞれの武器を納めると、頭目が船の左手を見ながら目的地の到着を口にする。既にバハラタのある大陸を過ぎ、ジパング南の小さな大陸が見えて来ていた。

 大陸と言っても、ジパングは島国である。同じ島国であるエジンベアと比べても、その領土は遥かに小さい。船から全体が見える程小さい訳ではないが、ジパングの南が見えて来たのであれば、数日以内に、イヨが治める集落近辺に辿り着くだろう。

 

「今回も数人の船員達を連れて行ってくれるか?」

 

「わかった」

 

 予想通り、数日で以前上陸した辺りに辿り着いた一行は、小舟を海へと降ろして上陸の準備を始める。その時、頭目が掛けて来た提案にも、カミュは二つ返事で頷きを返した。

 ジパングという国は、この世界でも名前が知られている事が少ない。また、独特の文化を有しているだけに、そこで手に入る品の数々は、世界でも価値が認められる物が多かった。

 貿易とは、需要のある物を運ぶ事が第一目的ではあるが、物珍しい希少品を世界に広めるという特性も有しているのだ。以前の交易の事を覚えている為、上陸しようとする船員達は、物々交換が可能だと思われる品も小舟へと積み込み、ジパングへの上陸の準備を始めていた。

 準備の終わった者から小舟を走らせ、数隻に及んだ小舟は次々に上陸を果たす。

 

「遠くに行っては駄目だと、何度も言っているでしょう!」

 

「…………むぅ…………」

 

 上陸した者から、小舟を近くの木に括り付けて行く。そしていつも通りのやり取りが砂浜で繰り広げられるのだった。小さな生き物を見つけては目を輝かせて後を追い、ちょこちょこと動き回る彼女の後をサラが大慌てで追いかけるというやり取りは、小舟に乗っている間、魔物への不安を抱えていた船員達の心に安堵と笑いを齎して行く。

 森の入り口付近でサラに捕まったメルエは、不満そうに頬を膨らませ、『ぷいっ』と顔を背けてしまう。それに対して溜息を吐き出したサラは、メルエの帽子を取って、その頭に軽く拳骨を落とした。

 リーシャ以外に拳骨を落とされた事の無かったメルエは驚いたように目を見開き、サラの拳が落ちた付近に両手を翳す。その部分にじわりと広がる痛みが、幼い少女の瞳に涙を堪えさせた。

 

「メルエ、私達が何故駄目だと言っているかを理解していないのですか? メルエが小さな動物や花や昆虫に興味を示す事はとても良い事です。私達が一緒にいて、時が許すのであれば、好きなだけ見ても良いとも言っている筈ですよ」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 真剣に怒られている事を察したメルエは、小さく涙を溢す。確かにここまでの旅で何度も同じような注意を受けて来たし、それに対して叱られた事も何度もあった。だが、ここまで強い口調で言われた事はなかったし、ましてやサラから拳骨を落とされた事など一度たりともなかったのだ。

 故に、幼いメルエは、それ程に重大な事であると認識していなかった。奇しくも、以前にジパングを訪れた時にリーシャに軽い拳骨を貰った事を再び思い出したメルエは、自分が軽い気持ちで行っていた事が、本当にいけない事だと再認識するのであった。

 

「はっ!? メ、メルエ、私の後ろに!」

 

 落ち込むメルエに、ようやく表情を緩めたサラであったが、自分に降り注いでいた太陽の光が何かによって遮られた事を感じ、咄嗟にメルエの身体を自分の後方へと引き込む。森の木々による陰でない事は、先程までサラの目に入っていた光が消滅した事で証明されている。盾を掲げて正面へ視線を送ったサラは、瞬時に戦闘態勢に入った。

 

「グオォォォ!」

 

 目の前にいたのは、二本足で立つ巨大な熊。

 以前と同様にメルエへと襲い掛かろうとしていたのは、巨大な口から覗く鋭い牙を輝かせ、涎を垂れ流した<豪傑熊>であった。

 威嚇とも雄叫びとも取れる咆哮を上げた<豪傑熊>は、太い右腕を振り上げ、目の前にいるサラへと攻撃を繰り出す。迫り来る暴力に備えて、しっかりと盾を握ったサラは、自分の腰にしがみ付くメルエに被害が及ばぬように、両足を広げて踏ん張る態勢を取った。

 しかし、そんなサラの覚悟は、全くの杞憂に終わる事になる。

 大きな衝突音と共に、何かが軋むような音が砂浜に響き渡る。

 

「…………カミュ…………」

 

 サラの腰にしがみ付くメルエが発した通り、サラの前には<豪傑熊>の腕を完全に盾で受け止めた青年が立っていたのだ。

 左腕に装備した<ドラゴンシールド>は、<豪傑熊>の暴力を受け止めて尚、傷一つなく、その盾を持つ青年の身体もぶれる事はない。腕力自慢の魔物である<豪傑熊>の攻撃は、通常の人間であれば、遥か彼方に吹き飛ばされる物であり、その爪は人間の皮膚や肉を容易く切り刻む程に鋭い筈。

 だが、この青年は、何事もなかったように盾を下した。

 

「カミュ様……」

 

 盾を下したカミュは剣を抜く事もなく、ただ黙って<豪傑熊>と睨み合う。その後ろ姿しか見ていないサラでさえ、身体が硬直して動けなくなる程の迫力は、正面から対していた<豪傑熊>の心さえも飲み込んで行った。

 唸り声を上げ続けていた<豪傑熊>であったが、剣を抜こうともせず、逃げようともしないカミュの姿に恐怖すら覚え始める。再度両手を振り上げ、威嚇の咆哮を上げても、身動きせずに自身を睨む人間が、自分よりも大きな存在に見え始めていたのだ。

 先に根を上げたのは<豪傑熊>であった。

 

「グフゥゥ」

 

 前足を下ろし、四足歩行で逃げて行く<豪傑熊>の姿は、元々の姿である野生の熊を思わせる。自分の生息圏に入って来た異種族に対しての威嚇と攻撃をしていたと言われれば、非はカミュ達にあるだろうし、<豪傑熊>を責める事は出来ないのかもしれない。

 <豪傑熊>と呼ばれる魔物は、野生の熊が『魔王バラモス』の魔力の影響で凶暴性を増した物と考えられていたが、その根本は何一つ変わっていないのだろう。野生の熊よりも凶暴性が強く、人間という生き物を食料として欲する欲望が強いだけで、その本能は熊なのだ。

 森の奥へと消えて行く獣の後姿を眺めながら、サラはそう考えていた。

 

「……行くぞ」

 

 去って行った<豪傑熊>を一瞥したカミュは、何事もなかったかのようにジパングの集落がある方角へと歩き出す。そんな青年の姿を見ていた船員達は、改めてこの一行の凄さを理解する事になるのであった。

 その後、大した戦闘もなく、一行は順調に森を進んで行く。船を降りて二日目には、彼等の目の前に人々の営みの証である煙が見えて来た。集落の中で火を使えば、その煙が空へと立ち上る。集落の柵が見えて来た頃には、太陽が真上に登る頃であった。

 

「ようこそジパングへ」

 

 門番をしていた人間は、以前訪れたカミュ達を覚えていた。自分達と同じ髪色をしているカミュは、記憶に残る存在だったのであろう。小さな島国で生きて来たこの国の住民にとって、他国からの来訪者を目にする事は少なく、その為、一度見た『ガイジン』を忘れる事はなかったのかもしれない。

 にこやかな笑みを受けたメルエも花咲くような笑みを門番へと向け、手を振りながら集落の中へと入って行った。

 

「……流石はイヨ殿だな」

 

「はい……はい!」

 

 集落の中へ入ったリーシャは、その変化を即座に感じ取る。そして、その変化を起こしたこの国の国主に敬意を示した。それはサラも同様であったようで、瞳に涙を浮かべながら、何度も何度も頷きを返す。

 ジパングの人の営みは、輝きに満ちていた。ヤマタノオロチという強大な存在に怯えていた頃とは比べ物にならない程に活気に満ちており、外を歩く人々の表情は、希望と喜びによって眩しい程に輝いている。忙しそうに畑や田で農作業を行う者や、朝に狩って来た獣を誇らしく掲げて歩く者も見える。そして、そんな者達の周囲には、楽しそうな笑みを浮かべた子供達が、必ず駆け回っていた。

 それこそ、『人』という種族が長く続けて来た営みの姿であるのかもしれない。

 

「俺達は、色々と交易を始めてみるよ。言葉は通じるから問題はないとは思うけれども、まずは信用して貰わないとな」

 

「私達も付いて行った方が良いですか?」

 

 集落の姿に感動しているサラ達に微笑んでいた船員達は、自分達がここを訪れた目的を遂行する為に動く事を口にする。だが、船員達の言う通り、この国にはこの国の交易の仕方があり、それは他国から来た『ガイジン』では信用されないという可能性が残されていた。

 それを理解したサラが、自分達も共に行動しようと提案するが、船員達は静かに首を横に振り、その必要がない事を示す。交易は船員達の仕事であり、信用を得る為に様々な工夫を凝らすのも、彼等の力量の一つである。貿易や商いに信用が不可欠である事は、全世界共通の物である事に変わりはない。それを学ぶ事もまた、海に生きる者にとっての術でもあるのだ。

 

「じゃあ、戻る時には声を掛けてくれ」

 

 ジパングという国には、宿屋のような物は存在しない。この島国には、集落がこの場所にしかない為、宿屋を利用する人間がいないのだ。『ガイジン』と呼ばれる他国の者の来訪も少ない上、ゴールドによる取引の概念がない以上、宿屋のような物では生計が立てられないのだ。

 故に、この国で夜を超す事は出来ない。カミュ達だけであれば、この国の国主であるイヨに頼む事で屋敷に泊めて貰える可能性はあるが、流石に船員達も共に泊めてもらうように願う事は出来ないだろう。カミュ達と別れて集落の者達と話し始める船員達もその事は重々承知している事であった。

 

「カミュと申します。イヨ様へのお取次ぎをお願い致します」

 

 屋敷は相変わらず大きな平屋であり、その巨大な門の前には、腰に剣を差した男が警備を行っている。名を告げたカミュは、快くその言葉に頷き奥へと消えて行くその男性に若干の驚きを見せた。

 屋敷の中へと入って行った門番は、一人の女性を伴って短い時間で戻って来る。カミュ達へ丁寧に頭を下げた女性は、カミュ達にも見覚えのある者であり、サラはその姿を見た瞬間、優しい笑みを浮かべた。

 

「お久しぶりです。その節は、本当にありがとうございました」

 

 その女性の名はヤヨイ。

 カミュ達がこのジパングを訪れた折、ヤマタノオロチへの生贄となる筈であった女性である。

 イヨという皇女の決意の為、その命を一時的に救われた彼女は、カミュ達がヤマタノオロチを滅ぼした事によって、生涯を全う出来る権利を手に入れていた。

 彼女こそ、このジパングの平和の象徴なのかもしれない。彼女が生きているという事実が、あの忌まわしいジパングの闇を打ち破ったという証なのだ。

 

「今はイヨ様の侍女をさせて頂いております」

 

「そうなのですか」

 

 ヤヨイという女性は、あの時に結納を済ませていた相手との婚儀を済ませ、今はイヨ付の侍女として働いているという。あの時の恩義を感じている事もあるだろうが、イヨという国主がそのような器であると彼女が判断したという事も事実なのだろう。

 このジパングをカミュ達が出てから二年近くの月日が流れている。あの頃はまだ女性として成熟していなかったヤヨイも、未だでは立派な女性として成長を遂げている。しかも、その下腹部を見る限り、彼女の身体の中に新たな命が宿っている事が明確に分かった。

 

「イヨ様は、外に出ておられます。人を向かわせましたので、中でお待ち頂けますか?」

 

「お子を授かったのですね。おめでとうございます」

 

 カミュ達に履物を脱ぐように勧め、そのまま部屋へ案内しようとするヤヨイに、サラは祝辞を述べる。どの時代であっても、自身の血を受け継ぐ子を授かる事はとても喜ばしい事である。ましてや、ヤマタノオロチと呼ばれる厄災が消え、平和が訪れたばかりの国にとっては、国を挙げての祭りになるほどの物であろう。

 恥ずかしそうに微笑みを浮かべたヤヨイは、サラに向かって丁寧に頭を下げる。その様子を見る限り、この国の多くの者から祝福を受けて来たのだろう。もしかすると、その中でも一際喜びを表し、彼女を褒め称えたのは、イヨという名の国主なのかもしれない。

 

「皆、良い顔をしているな」

 

「本当にそうですね」

 

 国主の間への通路ですれ違う者達の顔は、以前に訪れた際の物とは大きく異なっていた。それは良い方向への変化であり、皆の表情にある笑みは心から浮かべている物である事が解る。カミュ達への好奇の視線も、排他的な物ではなく、歓迎を含めた物であった。

 各々の仕事も充実し、この国の安全も守られている。『魔王バラモス』という諸悪の根源の存在を知らない彼等だからこそ、今この時の幸せを噛み締めているのだろう。リーシャやサラに、彼等の幸せを邪魔する気は毛頭ない。この国で『魔王バラモス』の存在を声高に謳い、危機感を煽る事は得策ではない事を十二分に理解しているからだ。

 

「こちらで暫くお待ち下さい。イヨ様は、あなた方の安否をいつも気にしていていましたから、早々にこの場所へ参られるでしょう。では、私はお飲物でもお持ち致します」

 

 にこやかな笑みを浮かべたまま一礼をしたヤヨイは、そのまま国主の間を出て行った。

 国主の間は、先代の国主である『ヒミコ』が使用していた場所であり、この国を恐怖の底へと突き落とした<ヤマタノオロチ>が人に化けて暮らしていた場所でもある。だが、その面影は既に微塵も感じられない。

 現国主である年若い女性そのもののように明るいその場所は、外から入り込む太陽の光を部屋全体に広げていた。太陽の光が入り込むように広げられた縁側は、ヤマタノオロチという化け物と対峙した時に、カミュとイヨが吹き飛ばされて壊れた壁があった場所にある。破壊された壁は綺麗に修繕され、通常時は紙を張り付けた木戸によって閉じられる仕組みになっていた。

 イヨという国主の治世となり、徐々にこの国は変わって来ている。古き時代の物を色濃く残しながらも、この国を支える若い力が新たな輝きを放つ国。それは、この世界でも大きな力を持ち得る可能性なのかもしれない。

 

「そなた達、よう来た!」

 

 国主の間全体を眺めながら、リーシャやサラだけでなく、幼いメルエまでもが笑みを浮かべ始めた頃、突如開かれた入口から矢のように飛んで来た人物の発した声が響き渡る。本当に突然の登場だった為、先程まで柔らかな笑みを浮かべていたメルエは身体を跳ねさせ、笑みを凍りつかせた。

 入って来た人間は、予想通りこの国の国主ではあったが、その服装は粗末な物であり、その顔や服には泥や土が多く付着している。驚きで硬直していたメルエの表情さえも緩める程の滑稽な姿であり、とても一国の王としての物ではなかった。

 

「イヨ様、いくら嬉しかったとはいえ、そのようなお姿のまま来られては、お客人の方々に失礼ですよ」

 

「むっ。妾は子供ではないぞ! そのような事解っておる!」

 

 カミュ達の訪問を子供のように喜ぶイヨを窘める姿は、本当に姉のようである。ヤマタノオロチが存在する時には、このヤヨイという女性を守る為に毅然とした姿を見せていたイヨであったが、平和になり、この国を治める立場となったイヨにとって、このヤヨイという女性は安らぎを感じる場所なのかもしれない。

 小さく笑みを溢すヤヨイは、濡らした布でイヨの顔を拭き、汚れた衣服の上に打掛を羽織らせる事で、その表面を繕った。カミュ達の座る場所から一段高くなった場所に腰を下ろしたイヨは、再び満面の笑みを湛える。

 

「改めて、よう参った。そなた達が息災で何よりじゃ」

 

「有難きお言葉」

 

 深々と頭を下げたカミュの姿に一瞬眉を顰めたイヨであったが、メルエの花咲くような笑みを見て、満足そうに頷きを返す。彼女にとってカミュ達は、自分の祖国を護ってくれた恩人であり、自分の母の誇りを護ってくれた恩人でもある。だが、それ以上に、友のようにも思っているのかもしれない。

 その証拠に、カミュだけではなく、その後にはリーシャやサラ、メルエにまで声を掛け、その者の直答を許す言葉をも発していた。通常、一国の王が下々の言葉に耳を貸す事は稀であり、それ以前に下々の者が王に対して言葉を発する事さえも不敬とされている。それを考えれば、イヨの対応が如何にこの世界の常識と掛け離れているかが解るだろう。しかし、それがジパングという国の特性なのかもしれない。

 

「イヨ様は、外で何をされていらっしゃったのですか?」

 

 イヨという人物の人間性を知っているサラにとっては、そのイヨの対応は疑問に思う物ではなく、至極当然の物として受け入れてしまう程の説得力を持っており、サラはその行動を問いかけるといった、死罪に値する程の行為をしてしまう。

 だが、そんなサラの行動にも、国主の間にいる人間は誰一人として表情を変える事はない。イヨという国主が、如何にこの旅の一行を待ち侘びていた事を皆が知っているという証拠であろう。皆が皆、喜びを全身で表すイヨの姿に頬を緩めていたのだった。

 

「畑と田んぼじゃ。今年の実りは良いぞ! そなた達も食して行け」

 

「……畑?……ですか?」

 

 サラの問いかけを受けたイヨは、その笑みを更に濃くし、自国の豊作を誇る。国の作物の実りが良い事は喜ばしい事である事は理解出来る。だが、それは国民が大いに喜ぶ事であり、統治者が満面の笑みを浮かべて他国の者へ話す物ではないだろう。それ故に、リーシャやサラは不思議な表情でイヨを見つめ、サラに至っては疑問の疑問を口にしてしまう。

 『田んぼ』という言葉自体に聞き覚えがないサラではあったが、畑という物は理解出来る。だが、それはとても国主と呼ばれる一国の王が踏み入る場所ではない。ましてや、服や顔に泥や土を付着させる程にいる場所でもない筈である。

 

「イヨ様は、何度言っても聞かないのです。国主として、もう少し威厳を持たれなくてはならないと常々申し上げているのですが」

 

「国主としての威厳などいらぬ。妾は、皆と共に生き、皆と共に喜び、皆と共に泣く。それが妾の願いであり、喜びである。作物を育てる者達も、狩りを行う者達も、皆妾の家族と思うておる」

 

 小さな笑いを溢しながらイヨを窘めるヤヨイを見る限り、年若い国主の行動を苦々しく思っている訳ではない事が解る。その証拠に、それに対するイヨの答えを聞いたヤヨイは、その姿を誇らしく見上げ、満面の笑みを浮かべていた。

 この広い世界で、このような考えを持つ統治者は皆無に等しいだろう。ジパングのように、他国からの干渉が少ない島国だから出来る考えなのかもしれない。だが、この年若い統治者の考えこそが、自分の理想に近い物である事を、サラは気付いていた。

 

「妾の家族達が作った物は旨いぞ。近海で取れた海の幸や、周辺の山で採れた山の幸。そして、この国の大地で育った作物は皆の顔を笑顔にする。今宵はその食材を振舞おう。そなた達も堪能するが良い」

 

「有難き幸せ」

 

 国の要人への対応のように歓迎を示すイヨの言葉に、リーシャ達三人は笑顔で頷くが、一人の青年だけは重苦しく格式ばった受け答えを返す。その態度に、遂に年若い国主の堪忍袋の緒も切れてしまった。

 先程までの笑顔が消え去り、先頭に座る青年を射殺す程の視線を投げつける。リーシャは苦笑を浮かべるが、サラは急に変化したイヨの態度に慌ててしまった。

 

「そのような仰々しい態度はいらぬと以前に申したであろう! これ以上そのような受け答えをするのであれば、妾も怒るぞ!」

 

 とても一国の王とは思えない物言いに面を食らうサラとは異なり、憤る国主の横に立つヤヨイと、その怒りの対象のすぐ傍に座るリーシャは柔らかな笑みを浮かべる。

 イヨという国主と、カミュという青年の身体に流れる血液は、長い時間で薄まってしまったとはいえ、元は同じ物である事は、周知の事実となっている。年若くして一国の王となった少女にとって、自分の最も大切な国を救ってくれた縁者であるカミュを、兄のように慕っていても不思議ではないのだ。

 血縁者として慕う者に仰々しい態度を取られるという事は、そこに壁を作られてしまっていると感じる程に寂しい物である。既に母も亡くし、血縁者がいないイヨにとって、カミュという青年が唯一の支えなのかもしれない。

 

「……して、此度の要件はなんじゃ?」

 

 『むぅ』と睨み付けるイヨであったが、それに対して困ったような表情を浮かべたカミュの顔を見て満足したのであろう。険しかった表情を緩めて、彼等の来訪の目的を問う。

 カミュ達四人の旅の目的が『魔王バラモス』の討伐である事を知っているのは、この国でイヨ唯一人である。その存在さえも知りはしないが、彼らがヤマタノオロチを通過点と言う以上、それよりも恐ろしい存在である事をイヨは察していた。

 故にこそ、それ程の大事を成そうとしている者達が、この国を再度訪れたことに対し、喜びはしても疑問に思っていたのだ。

 

「まずは、こちらを……」

 

「ん? これは……草薙剣ではないか」

 

 カミュが前へと差し出した一本の剣を見たイヨは、再度カミュの表情を伺うように顔を上げる。国主の間にいた別の人間が、その剣を拾い上げようとするのを制したイヨは、何も言葉を発する事のないカミュを見たまま剣へと近寄り、鞘から抜き放った。

 抜かれた草薙の剣は、差し込む陽光を受けて神々しいまでの輝きを放つ。それは、正に所有者の手に戻った事を剣自体が喜んでいるようにさえも感じる程の輝き。国主の間に居た人間だけではなく、カミュ達四人もその輝きに目を奪われた。

 

「刃毀れなどはない……という事は、別の剣が手に入ったか?」

 

「……はい。草薙剣には劣りますが、ドラゴンキラーという良い剣が手に入りましたので、こちらをイヨ様に献上致します」

 

 カミュは、『返還』という言葉ではなく、『献上』という言葉を使用した。その言葉を聞いたリーシャは不思議そうな表情をするが、サラはカミュが言葉を選んだ意味を正確に理解する。

 草薙剣とは、本来はこのジパングの国宝とも呼べる神剣である。その名を『天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)』という、ジパング初代国主が神より授かった剣と謳われていた。カミュが『返還』という言葉を使用すれば、草薙剣が元々ジパングに有った物という認識を植え付ける。それは、国宝を持ち出した咎を受け入れるのと同義であり、それを許したイヨの立場をも危うくする物であった。

 故に、カミュは『献上』という言葉を使用したのだ。ジパングの国主であるイヨへ、同じジパングの血を引くカミュが物を『献上』するとなれば、それはジパングの民の自尊心を満足させる事になるだろう。

 

「着替えて参る。暫し待て」

 

 剣を鞘へと納めたイヨは、再びそれをカミュの前へと置き、そのまま別室へと移動して行く。慌ててヤヨイもその後を追って国主の間を出て行った。

 残されたカミュ達四人は、突然のイヨの行動に呆然とするが、国主の間に居る他の人間達は顔色一つ変えず、柔らかな微笑みを湛えていた。

 暫しの時間、国主の間には静けさが広がるが、奥の扉を開けてヤヨイが現れると、カミュ達全員が息を飲む。ヤヨイの姿は全く変わりはしないのだが、その後ろから現れた者の姿に驚愕の表情を浮かべたのだ。

 

「なんじゃ、その顔は?」

 

「…………イヨ………すごい…………」

 

 満を持して登場したイヨではあったが、驚愕に彩られたカミュ達の表情を見ると眉を顰め、年相応の少女のように頬を膨らませる。そんな中、メルエだけはイヨの姿を見上げて目を輝かせていた。

 メルエの発した言葉は、一国の王に対する物としては余りにも不敬な物である。だが、このジパングの国主は、笑顔を浮かべてメルエの言葉を喜んだ。先程まで膨らませていた頬を萎ませ、満足そうに頷きながら、一段上の場所へと腰を下ろす。

 この国での正装とも言って良い綺麗な姿を現し再度座り直したという事は、草薙剣という神剣をカミュから受け取る準備が出来たという事なのだろう。この国でもイヨとカミュにしか手に出来ない剣である以上、カミュが自らイヨの許へと差し出さなければならない。それを理解したカミュは、剣を両手で掲げながら、にじり寄るようにイヨの前へと出た。

 

「草薙剣と呼ばれる神剣でございます。神より授かったという伝承がございました」

 

「うむ。そなた達の忠義、嬉しく思う。この剣は我が国の宝としよう」

 

 仰々しく掲げた草薙剣を、カミュは跪いたままイヨへと差し出した。その剣を片手で受け取ったイヨは、笑みを浮かべながらも大きく頷きを返す。元々このジパングの国宝とも言える剣ではあったが、既に失われた物であった為に名を変えて再びその位置に戻す事にしたのだ。

 何も示し合わせた訳ではないが、剣を渡そうとしたカミュの言葉を聞いたイヨは全てを察し、衣装を着替えたイヨを見たカミュもまた、相手がそれを了承した事を理解したのだった。それは、この国の王族とも言っても過言ではない者の血を受け継ぐ者達だからこその意思の疎通なのかもしれない。

 

「皆の者、これは『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』という。我が国の護神剣であった『天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)』を失って久しい。今後は、我が国の救い主が持ち帰ったこの神代の剣を御神体とする」

 

 カミュから受け取った草薙剣を抜き放ったイヨは、太陽の光を反射する刀身を国主の間に居る者全てに見えるように高々と掲げ、そう宣言する。その宣言を受けたジパングの民達は、一斉にイグサという植物で編んだ敷物へと頭を着けた。

 国主を信じる彼らは、国主の考えさえも信じ続ける。初代国主が神より授かったと伝えられる『天叢雲剣』が、遥か昔に失われたという事は、ジパングの民ならば誰もが知っている。だが、それ故に、その剣の姿や形などを知る者は誰もいないのだ。唯一つ、その神代の剣は国主の血を継いでいる者しか扱えないという事だけ。

 今後は、この草薙剣にそれと同様の伝説が語り継がれるのかもしれない。

 

「…………イヨ………それ…………?」

 

 しかし、そんな厳粛な空気の流れる国主の間の中で、これまでの一連の流れに興味を示さない者が唯一人だけいた。

 イヨが剣を抜き、それを掲げる際に胸元から飛び出した煌めく首飾りを目敏く見つけたメルエは、先程と同様に、国主に対しての口調とは思えない問いかけをする。そんなメルエの言葉に、頭を下げていた数人の民が明らかに眉を顰めた。

 そんな民達を手で制したイヨは、苦笑交じりの笑顔でメルエへと向き直り、首元から下がった煌びやかな宝石のような物を手に取る。

 それは、奇妙な形をした青い石。歪んだ楕円形の玉のような形をしたその石は、太陽からの光を反射し、淡い青色に輝いていた。

 

「これか? これはそなたから貰ったあの石じゃ。あのままでは肌身離さずという訳にはいかないからの……このように、職人に頼んで『勾玉』にして貰った」

 

「…………まが……たま…………?」

 

 その綺麗な姿に微笑むメルエであったが、イヨの発した単語に聞き覚えが無い為、少し首を傾げてその言葉を反芻する。剣を鞘へと納めたイヨは、それを持ったままメルエの傍まで移動し、首から下がる勾玉を見せた。

 近くで見ると、イヨの言う通りにそれは『命の石』の欠片と同じ色を放っている。首を傾げていたメルエも、その色を見て花咲くような笑みを浮かべた。違う形状へと加工はしているものの、自分が渡した物を肌身離さず大事に持っている事が嬉しかったのだろう。

 メルエは、この石の欠片が、その持ち主を護ってくれると信じている。故にこそ、それを大事に持っていてくれているという事は何よりの喜びなのだ。

 

「イヨ様、こちらもお納めください」

 

「……カミュ様、それは」

 

 そんな微笑ましいイヨとメルエのやり取りを見つめていたサラは、再びイヨへと向き直ったカミュが差し出した品を見て驚いた。

 それは、もはや使用する事はないと考えて、船に置いて来た筈の品であると同時に、草薙剣と同様に神から人間が授かった物と伝えられる神代の道具であったのだ。

 抜身の草薙剣の放つ輝きや命の石の欠片が放つ輝きとも異なる光を放つそれは、太陽の光を内に取り込む事無く、全てを反射している為の物。覗き込む者の本当の姿を映し出すと伝えられるそれに、カミュ達は何度となく救われて来た。

 

「その者の真実の姿を映し出すと伝えられる神代からの鏡にございます。ヤマタノオロチという厄災が去った後に、このような物を献上するというのは、ジパングの方々の心を逆立てる事になるかもしれませんが、この国の永久なる平和を願い、ここに献上させて頂きます」

 

「……真実の姿を映し出す鏡……か」

 

 カミュは敢えてその鏡の名称を伝えなかった。『ラーの鏡』という名の鏡は、サマンオサ国の国宝である。例え、サマンオサ国王からカミュ達が下賜された物とはいえ、巨大な軍事国家として名高いサマンオサの国宝を辺境の島国の王が所有していれば、何かと都合が悪くなる恐れがあるだろう。

 また、その鏡の効力を考えれば、本来はこのジパングで献上する事は考えられない。国主であるヒミコに化けたヤマタノオロチの真実の姿に気づかずに、何年もの間苦しみ続けて来た事を知っていれば、その申し出自体が無神経にも程があるだろう。だが、カミュはそれを知っていて尚、この国にその鏡を委ねたのだ。

 放心したように鏡を見つめるイヨは、おそらくあの苦しい時代を思い出しているのだろう。そのような逸話のある鏡があれば、もっと前に苦しみから解放されたかもしれないという思いとは別に、その鏡があったのならば、敵対したヤマタノオロチに全てを滅ぼされ、ジパングという国はこの世から消滅していたかもしれないという思いもあるに違いない。

 

「……カミュ、良いのだな?」

 

 放心しているイヨを余所に、リーシャはカミュへとその是非を問い質す。実際、リーシャ自身はその行為に納得してはいるのだが、この先の旅で『ラーの鏡』が不必要なのかどうかが解らず、最終的にカミュの意見を再確認する事にしたのだ。

 それに対して小さく頷いたカミュを見たリーシャは、満足気に頷きを返し、驚きを隠し切れないサラの肩に手を置いた。肩に置かれた手で我に返ったサラもまた、この方法が最も良いのかもしれないと考える。

 『ラーの鏡』は国宝に値する神代の道具ではあるが、今後使用する機会があるかは定かではない。そして、使用しない場合は船の中に置いて行かねばならず、不慮の事故などで船が沈んだ場合、貴重な品物が、永遠に海の底へ消えて行く事になってしまうのだ。それは、人間を思ってそれを下賜した神に対しての不忠であり、不義であるのかもしれない。

 

「……この鏡に、悪しき心が映らぬような国主となれ、とそなたは言うのだな」

 

「そのような畏れ多い事は……」

 

 鏡を手にしたイヨは、映り込む自分の顔を見ている内に、それを献上して来たカミュの真意に気が付いた。

 この鏡は、その者の真実の姿を映し出すと伝えられている。それは、何も変化をした者ばかりではないだろう。その者が悪しき心を持っていれば、鏡に映り込む姿は醜く歪むであろうし、その者が間違った行いをしていれば、その周囲にいる人間の心が正しく映るに違いない。

 この青年は、『そのような統治者にはなるな』と言っているのだとイヨは考えた。未だにヤマタノオロチの付けたジパングの傷跡は癒えておらず、国自体がようやく再出発を果たしたばかりである。道に迷う事があろうと、己が目指した道を歩まなければ、イヨが統治するこのジパングは滅びへと向かって進んで行ってしまうのだ。

 故にこそ、初志貫徹を心に刻み付け、イヨはジパングの民達を照らし続ける太陽でなければならない。

 

「良い。そなたの心を妾は解っておる。この鏡、確かに預かった。草薙剣と共に、我が国の宝としよう」

 

 鏡をヤヨイへと渡したイヨは、再び一段上がった場所へ座り直す。その表情はとても晴れやかであり、以前にも増した威厳をも持ち合わせた物であった。

 彼女は、この瞬間から、真の国主となったのかもしれない。このジパングを想う気持ちは些かの違いもない。だが、未来への希望と、それを成さなければならないという責任感は、以前よりも更に強くなった事だろう。

 今この時を持って、ジパングという辺境の島国は、世界に名立たる国家への道を歩み出したのだ。

 

「今宵は、この屋敷に泊まるが良い。以前のように、供の者達も連れて来ているのであれば、その者達も屋敷の一室を宛がおう。今宵は宴会じゃ、ジパングの地の幸を存分に味わって行け」

 

 笑みを湛えたイヨの表情は、実際の年齢よりも遥かに上に見える程の物。それは、国主としての威厳を備え、民達を愛する心を持っているが故の物なのかもしれない。

 謁見は終わり、夕食時には外で待つ船員達も招かれての大宴会となった。屋敷中の者達ばかりではなく、ジパングの民達を交えての大宴会は、屋敷内では収まりきらず、外に出て火を興し、ジパングという一国を上げての宴会となる。

 ヤマタノオロチという誰もが恐れ続けた化け物を倒した勇者を讃え、崩壊しかけたジパングを立て直した若き国主を讃え、国中の者達が浴びる程に酒を飲み、腹がはち切れそうな程に食べ、倒れる程に踊り明かした。

 『勇者』と呼ばれる者が起こした必然は、一つの国家を救い、そこで生きる者達の心をも救って行く。そして、この国でもまた、その存在は語り継がれて行くのだろう。

 

 

 

 その後、このジパングの国主の家系には、三つの神器が継承されて行く。

 一つは、国主の覚悟の証であり、決意の証でもある神剣。

 一つは、国主の身を護り続ける祈りが込められた勾玉。

 一つは、国主が間違った道を歩んだ際に戒める為の鏡。

 剣の名は『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』。遥か昔、勇者と呼ばれる神の使いが、その時代の国主の身を、草を薙ぎ払って救ったと伝えられる剣である。

 勾玉の名は『八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)』。遥か昔、神の使いと共にジパングを訪れた者から、国主が譲り受けた宝玉であり、授かった者の身を護る加護が付与されていると伝えられる宝玉である。

 鏡の名は『八咫鏡(やたのかがみ)』。覗き込む者の真実の姿を映し出すと云われるその鏡は、国を統治する国主の心を戒める物である云われ、国主となる者は、幼き頃よりその鏡の恐ろしさと、それに醜い心が映り込まぬように励む事を教育されて行ったと云う。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

第十五章の幕開けです。そして、ようやくジパング編も完結しました。
魔王バラモスまでもう少し。頑張って描いて行きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ネクロゴンド火山

 

 

 

 新たな未来を切り開いたジパングを出発した一行の船は、西の方角へと進路を取る。ジパングの大陸を出港する時に登ったばかりの太陽は、既に真上へと移動していた。

 イヨという新しい王が行う善政を目の当たりにしたリーシャやサラは、とても良い笑みを浮かべて海を眺めている。中でもメルエの上機嫌ぶりは異常と言っても過言ではなかった。

 ジパングの町を出てから船までの間、誰よりも前を歩き、くるくると踊るように歩き続けていたのだ。そして、船に着いてからも、歌を口ずさみながら海を眺めている。

 イヨに会えたという事も機嫌の良い理由の一つであろうが、そのイヨの首から下がっていた『勾玉』と呼ばれる物が、自分の手渡した『命の石』の欠片であったという事が最大の理由であろう。

 

「メルエはご機嫌だな」

 

「メルエの手渡した『命の石』の欠片は、この先のジパングで本当にメルエの望み通りの力を有する事になるのかもしれませんね」

 

 先程まで歌を口ずさんでいた筈のメルエが、船員の釣り上げた魚に興味を移して駆けて行くのを見たリーシャは、優しい笑みを浮かべながら嬉しそうに呟く。それに対してのサラの答えは、同様の笑みを浮かべながらも若干異なった物であった。

 メルエがイヨに手渡した物は、正確に『命の石の欠片』である。その石は、それ以上の物でもなければ、それ以下の物でもない。持ち主の命の身代わりとなって砕け散った瞬間からその石の能力は何一つ残されてはいない筈であった。

 だが、砕け散り、役目を終えた筈の欠片は、幼い少女が拾い集めた事によって、再び命を吹き込まれる事となる。その少女が大事に想う相手に手渡された時から、その欠片には願いが込められたのだ。

 

「そうだな……。あの欠片にはメルエの想いが詰まっているからな」

 

「はい」

 

 願いの込められた欠片は相手の手に渡り、新たな伝承を作り出す。それは『命の石』本来の効力ではなく、メルエの願いとそれを渡された者が信じる形として残って行くに違いない。イヨの身の安全を願うメルエの想いと、それと同様の願いを持つ想いを媒体として、再び輝きを取り戻すのだ。

 国主の身を護る勾玉となった欠片は、その願いと想いと共に、イヨの子や孫へと受け継がれて行くのだろう。そして、それは伝承となり、真実となる。長い時間を掛けて、あの欠片は力を宿して行く事となるのだ。

 

「……そろそろバハラタへ差し掛かるぞ」

 

 はしゃぐメルエを眺めていたリーシャとサラは自分達が考えていた以上に時が経過していた事を知る。未だに元気に船内を駆け回っているメルエではあったが、その幼い身体に似つかわしくない程に影が伸びていた。

 陽が西の大地へと沈む準備を進める中、船はバハラタの町の南を進む。闇が広がり始めた大地に灯る明かりが、大きな自治都市が今も尚健在である事を示していた。

 バハラタは港町ではない。故に、船を受け入れる灯台のような物は設置されてはいないが、その巨大都市と言っても過言ではない町明かりが、船の上からでもはっきりと視認出来る物であった。

 

 夜の闇に完全に支配された海を船は走り続ける。ジパングの町で大宴会を開いた事により、船員達の半分は日頃の鬱憤を全て吐き出している。いつもより早めの交代をし、夜半から翌朝までを担当する者達は、ジパングへ共に向かった者達であった。

 既にメルエとサラは船室で眠りに就き、カミュとリーシャが交代で甲板に出ている。魔物の棲む海では、いつ遭遇するか分からない危険性を孕んでいる為、戦闘に参加出来るカミュかリーシャが常に起きているという暗黙のルールが出来上がっていたのだ。

 

「あの川への入り口には、夜が明けてから入ったほうが良いだろう。断崖絶壁の岩壁に触れてしまえば、如何にこの船と言えども無事では済まないからな」

 

「わかった。適当な場所で錨を下ろしてくれ」

 

 リーシャと交代で甲板に出て来たカミュに近づいて来た頭目は、順調な航海による弊害を口にする。確かに、リーシャが見つけた入り口は、ネクロゴンドの岩山に囲まれた川のような場所であり、そこへ入る為に船を進めるならば、視界がはっきりとする昼間が好ましい。船にも明かりは灯されてはいるが、その程度の明かりでは、広く開けた場所でなければ安全とは言えないだろう。

 それを理解したカミュは、船員達の休息も兼ねて、船を停泊する許可を出した。地図を広げる頭目は、大凡の現在地をカミュに伝え、停泊する場所の詳細を決定する。地図上ではアッサラームの真南の位置する大きな砂浜近くで停泊し、夜が明けるまで待つ事となった。

 

 

 

 翌朝、ほぼ全ての船員達が甲板に出揃った所で、船はアッサラームとイシスの間にある川へと続く入り江へと入って行く。オリビアの岬へ続く巨大な川とは異なり、この入り江は山からの水が海へと流れ込んで来ていた。アリアハンを流れる川のように急流ではない為、帆に風を受けた船であれば、難無く進む事が可能である。

 川を上って行く巨大な船は流れに逆らうように進み、速度こそ遅いが、人間の目から見ればさぞ不思議な光景に映る事であろう。川の左手に見える絶壁に船体が触れないように舵を取り、やや川の右寄りを走る船の甲板の上で、カミュ達は左手に見える絶壁を見上げる。

 山肌が露になった岩壁は雲の上まで続いているかのように聳え立ち、その上部を見る事は叶わない。その遥か先に魔王バラモスの居城があるのであれば、この四年近くの旅も終わりが近づいている事になるだろう。それぞれの胸に、それぞれの想いが湧き上がる中、船は順調に川を上って行った。

 

「船で近づけるのはここまでのようだな」

 

「俺達がここへ戻って来れる保証がない。もし出来るならば、このまま船でポルトガまで戻って欲しい」

 

 カミュ達の乗る船がこの先の細い川に入れない事を確認した頭目は、カミュにその事を告げる。確かに、これ以上進んでしまえば、船の進路を変更する事も不可能になってしまうだろう。客船と呼んでも差し支えないほどの船であるだけに、その辺りの弊害が生じてしまうのだ。

 だが、カミュが返して来た言葉は、頭目の予想の遥か斜め上を行っていた。

 カミュは、この場所へ四人が戻って来ない事を遠回しに告げている。彼らにはルーラという神秘がある以上、どこに居ようと行った事のある場所であれば戻れるという保証があるのだ。

 カミュがポルトガへ戻っていて欲しいという言葉を告げる事は初めての事ではない。だが頭目はカミュの瞳の中にいつもとは異なる色を見つける。それは悲壮感さえも漂わせる強い色であり、何かの覚悟を決めた者が持つ圧倒的な威圧感さえも持っていた。

 その瞳を見た頭目は、自分の身体が小刻みに震えて来るのを感じる。それは恐怖の為でもなく、寒さの為でもない。カミュの言葉から、彼が持つ覚悟を肌で感じた為であった。その覚悟は、己の死をも飲み込んだ物であり、それを覚悟で挑む彼の胸の内を想うと、頭目の瞳には無意識に涙が溢れて来るのだ。

 

「……っ! ポ、ポルトガで待ってるよ」

 

「必ず戻って来いよ!」

 

 涙ながらに声を詰まらせる頭目の言葉に、カミュ達が乗る小船を準備していた船員達が呼応する。いつの間にかカミュ達四人を囲むように集まった船員達も、次々と激励の言葉を掛ける。

 既に四年近くの旅の中で、船を使用しての旅も二年近くになっていた。その僅か二年の間で彼等が体験して来た事は、通常の人生を歩む者達からすれば、何度人生を重ねても体験する事など出来はしない程に濃密な物であろう。故にこそ、この船に乗るもの達全てが家族のような存在になっているのかもしれない。

 船員達の誰もが、小船に乗り込む四人と再び会える事を信じている。このネクロゴンドの火山の麓から、諸悪の根源とされる魔王の元へ辿り着き、それを打ち破る事の出来る者達である事を信じて疑わないのだ。

 それが、彼等が紡いで来た太い『絆』なのだろう。

 

「メルエ、そろそろ行きますよ」

 

 小船が陸地に着き、カミュとリーシャが岸に上げて木に括り付けている間、遠ざかる船に向かって手を振っていたメルエは、サラの声に振り返り、その手を握って歩き出す。

 上陸した陸地は、山と川に挟まれた小さな場所であり、前に巨大な岩山が上陸する者を威圧するように聳え立っている。山を囲むように流れる川は、天然の堀のように山を護り、岩山へ登る者の入り口を限定していた。

 

「カミュ、入り口は良いが、この山はダーマの時よりも厳しいものになるぞ」

 

「わかっている。途中でアンタか俺がメルエを背負う事になる」

 

 山の入り口に差し掛かった時、見る事さえも出来ない山の頂を仰ぎ見たリーシャは、その険しさに眉を顰める。それはカミュも理解していた為、同意を示すと共に、行動の妨げとなるであろう幼い少女の扱いを口にした。

 確かに、サラという賢者を生んだダーマ神殿に向かう際に登った山も険しい物ではあったが、この断崖絶壁と呼ぶに相応しいほどの山はそれ以上に厳しい物である事が解る。旅慣れていて、膨大な魔法力を有しているとはいえ、メルエが幼い少女である事に変わりはない。歩幅も小さく、体力も乏しいメルエにとって、カミュやリーシャと同じ速度で山を登るのは不可能な話であろう。

 人類最強と言っても過言ではないカミュとリーシャのコンビに付いていく事が出来る人間など、本来であれば存在はしないのだ。つまり、サラという唯一の『賢者』も同様なのである。

 

「サラには頑張って貰うしかないな。踏ん張ってくれよ」

 

「はい! 懸命に付いて行きます」

 

 リーシャの言葉に大きく頷いたサラの瞳には、強い決意が宿っている。彼女も覚悟はしていたのだろう。ダーマ神殿に向かう時のように心が揺れ動いている訳でもなく、不安と罪悪感に押し潰されそうになっている訳でもない。

 あの頃よりも心も体力も成長した彼女は、勇者一行を支える『賢者』としての道歩み出しており、一つの通過点としてこの山も乗り越えなければならない物であるのだ。

 満足そうに頷きを返したリーシャは、そのままカミュへと合図を送った後で最後尾に位置を取る。先頭をカミュが歩き、サラが続き、最後尾をリーシャとメルエが歩く。険しい山道へと入った四人は、最後の旅路を歩み始めたのかもしれない。

 

「メルエ、寒くはないか?」

 

「…………だいじょうぶ…………」

 

 山を登り始めてすぐに、その険しさは増し、メルエの歩幅では登れないほどの傾斜となって来る。リーシャが手を引きながら登り続けてはいるが、それでも高度が上がれば上がるほど、来訪者を拒むように険しさが登山者に襲い掛かって来た。

 高度が上がれば薄くなって行く空気と共に気温も下がる。既にメルエを抱き上げる事にしたリーシャは、腕の中で丸くなるメルエに声を掛けるが、その心配は杞憂であった。その言葉を口にするという事は、メルエの中で絶対の自信がある時に限るのだろう。

 何故かメルエは寒さには強い。肌や服が濡れていない限り、寒さを口にする事はなかった。今現在も、登山の疲れはあるだろうが、寒さによる体力の低下は見られていない。そんなメルエに笑みを浮かべながらも、リーシャは先頭のカミュが背中の鞘から剣を抜き放つ姿を捉えた。

 

「サラ、魔物だ!」

 

 急な傾斜を登り続け、体力を奪われて下を向いて歩いていたサラは、鋭い声に顔を上げる。険しい山肌という足場の悪い中、剣を構えたカミュは鋭い舌打ちを鳴らした。

 それは、このような場所では決して会いたくはない形態の魔物。実体を持たない魔物には剣での攻撃は効果が薄くなる。険しい山道を歩き続け、体力が低下しているサラとメルエに頼らなければならない状況というのは、カミュとしては歓迎したくはない状況であったのだ。

 

「ブフゥゥゥゥ」

 

 剣を構えたカミュの許へ他の三人が集まる前に、山の気温の低下と共に集結して来た冷気が形状を作り始める。塊となって集まった冷気は雲のようにその実体を作り出し、円形に纏まった煙の中央におぞましい人面が浮き上がった。

 空の青さを映し出すように淡い青色をしている煙は、周囲の気温を更に下げて行き、冷たい空気を生み出し続ける。肌寒く感じる程度だった山の気温の急激な変化に、サラは自身の身体を抱き抱えた時、煙の中央に浮き上がった人面の口が開かれた。

 

「HY@6L<>」

 

 開かれた口を窄めた煙は、そのまま氷の混じった息のような物を吐き出す。それは、以前にグリンラッドで遭遇したスカイドラゴンの吐き出した吹雪のような物ではなく、魔法力を帯びた物であった。

 先程の奇声のような雄叫びが、この魔物にとっての詠唱だったのだろう。吹き出された魔法力を帯びた氷の風は、咄嗟に掲げたカミュのドラゴンシールドを凍りつかせて行く。盾の表面を凍りつかせた風は、その盾を持つ者までも包み込もうとしていた。

 本来、ドラゴンシールドという物は劣化したとはいえ、龍種の鱗によって作成された盾である。その鱗は龍種の物である為、魔物が吐き出す炎や吹雪に対してある程度の耐久性を持っている。それにも拘らず、盾が凍りつくという事は、吐き出された氷の風に魔法力が込められている事が原因なのだろう。

 

「ベギラマ」

 

 そんな魔法力を帯びた氷の風が盾全体を凍りつかせてしまう直前に、先程まで疲労で息を乱していたサラが詠唱を完成させた。目の前に広げた掌から発現した熱風は、カミュに襲い掛かる冷気を相殺して行く。凍りつきそうになっていた盾を解凍し、カミュの身体さえも温めていく熱気が消え去る頃には、魔物の吐き出した冷気全てを消し去っていた。

 それでも、目の前に浮かぶ煙のような魔物の表情は愉悦に近い物である。元々魔物の表情などは理解し難いものではあったが、その口元が醜く上がっている事を見る限り、目の前に居る四人を格下と見ている事が明白であった。

 魔物が浮かべたその余裕は、態勢を立て直したカミュが再び舌打ちを鳴らした事で現実となる。カミュ達四人を覆うように集まって来た冷気が、先程と同様の魔物の姿を生み出して行った。

 

<フロストギズモ>

ギズモの亜種とも、上位種とも考えている魔物である。ヒートギズモが熱気を元とする魔物であるのに対し、フロストギズモは冷気を元とする魔物である。遭遇した人間を凍らせてその生気を全て吸い取る事で食料とする云われてはいるが、生存者が限りなく少ない為、正確な事は解ってはいない。実体を持たない魔物の一つであり、通常の人間であれば剣による攻撃は意味を成さず、フロストギズモの唱える魔法に対して対抗出来る程の魔法力を有している者でなければ、討伐は不可能とさえ云われていた。

 

「カミュ、囲まれたぞ。どうする?」

 

「この系統の魔物は、メルエ達に任せるより他はない。俺達で隙を作るしかないだろう」

 

 カミュ達を囲むように表れた三体のフロストギズモは、醜悪な人面を歪めたまま魔法の詠唱の機会を伺っている。既にメルエを下ろしていたリーシャは背中からバトルアックスを抜き、周囲に目を向けながらもカミュに指示を仰いだ。返された言葉を聞いたリーシャは頷きを返し、後方でそれを聞いていたサラとメルエも小さく頷きを返す。

 

「あのギズモが唱えたのはヒャダルコだと思います。私のベギラマでは相殺し切れませんが、メルエのベギラゴンであれば圧倒出来るでしょう」

 

「…………メルエ……できる…………」

 

 自分の見解を口にしたサラに応えるように、メルエは手にした雷の杖を掲げる。だが、サラはそんなメルエを見ながらも何やら思案していた。

 ヒャダルコという呪文とベギラマの呪文を比べた場合、その威力は同格か若しくはベギラマの方が若干ではあるが上である。ヒャダインという氷結系呪文であれば、ベギラマよりも威力は上であるが、サラのベギラマで相殺する事が出来た事を考えると、フロストギズモが唱えた呪文はヒャダルコと考えるのが妥当であろう。

 魔物と人間では魔法力の地が異なる。ベギラマという灼熱系呪文の方が優位であっても、サラが行使すれば、魔物のヒャダルコを相殺するのが精一杯なのである。しかも、正面同士からぶつかりあった場合、相殺しきれるかと問われれば、それも定かではなかった。

 

「よし、一体ずつ倒して行くぞ。魔物の呪文行使に対しては、サラ達に任せる」

 

 その言葉を伝えたリーシャは、目の前に浮かぶフロストギズモに向かって一直線に駆け出す。ふわふわと浮かぶ煙のような魔物を一刀両断するように斧を振り下ろしはしたものの、その身体を傷つける事は出来ず、フロストギズモは霧散して行った。

 再びリーシャの周囲に冷気が集まり始め、その場所に実体が現れるよりも早く、リーシャが斧を振るう。通常の魔物であれば対処も出来ない速度での攻撃ではあるが、実態を形成する核でも傷つけない限り、このリーシャの攻撃は何の意味も成さないのだろう。

 

「俺の方は、自分のベギラマで何とか凌いでみる。まずはあの馬鹿の援護で、魔物を駆除する方法を見出してくれ」

 

「はい。わかりました」

 

 自身の攻撃が当たらない事に対して、悔しそうに顔を歪めるリーシャを見ていたカミュは、後方で戦いを見つめるサラに向かって口を開いた後、もう一体のフロストギズモに向かって駆け出した。

 カミュという『勇者』は氷結呪文を行使する事は出来ないが、灼熱呪文であるベギラマは行使する事が可能である。本来呪文を取得する為には、下級の呪文を習得し、修練を積む事で習得する力量を持つ。カミュの場合も、ギラという灼熱呪文を習得しているし、その延長線上でベギラマを習得しているとサラは考えていた。

 しかし、それはサラの思い違いであった事をここで思い知る事になるのだ。

 

「ふん!」

 

 瞬時にフロストギズモの前に移動したカミュはそのままドラゴンキラーを振り下ろす。輝く煌きが弾ける様な剣筋が流れ、フロストギズモの身体が真っ二つに切り裂かれ、煙が霧散して行くように周囲に冷気が流れて行った。

 リーシャの奮闘に、呪文の行使の機会を探っていたサラは、先程のリーシャと同様の攻防を繰り広げるカミュに視線を動かし、驚愕する。それはメルエも同様であったようで、少し驚いたように目を見開いた後、不満そうに頬を振るませていた。

 フロストギズモであった冷気は、カミュの目の前から移動し、別の場所で収束を始める。そのまま集まった冷気が煙へと変化するその時、カミュが手を翳し、その場所へ向けて詠唱を開始していた。

 

「イオラ」

 

 再び煙が形を成し、その中央に人面を浮かべ始めたフロストギズモは、目の前の空気が圧縮されて行くのを感じるのと同時に、自身を形成する冷気すらも歪んで行くのを感じる。そして、フロストギズモが全てを理解する前に、周囲の全てが弾けた。

 圧縮された空気は凄まじいまでの爆発を起こし、その隣でヒャダルコの行使の機会を伺っていたもう一体のフロストギズモをも巻き込んで行く。自身の身体を霧散させる暇も与えずに、二体のフロストギズモは核と共に消滅して行った。

 その光景は驚きに値する物であることは確かであるが、不満そうに頬を膨らませるメルエとは異なり、サラの驚き方は異常とも言える程の物だろう。この旅の中で何度も驚愕の表情を浮かべて来たサラではあったが、今回の驚きは、この世界の常識とも言える物であったのだ。

 

「…………サラ…………」

 

「はっ!? そ、そうですね、まずはリーシャさんの援護をしなければ」

 

 呆けてしまったサラを呼び戻したのは、先程まで頬を膨らませていたメルエであった。リーシャは今も尚、浮かぶフロストギズモを斬り付けている。息も切れている様子はないし、汗を掻いている様子もないのは流石ではあるが、一向に進展しない戦闘に苛立っている事は確かであろう。

 メルエは先程のカミュの戦闘を見ている。そしてサラはその戦闘の恐ろしさを理解している。ならば、ここで出来る事は唯一つであり、それを行える者もこの二人を於いて他にはいないのだ。

 杖を掲げたメルエはその機会を待っている。そして幼い少女の姿に己のやるべき事を理解したサラは、その瞬間を待って声を発した。

 

「メルエのイオラでは、リーシャさんにも被害が及んでしまいます。メルエならもう解っていると思いますが、行使する呪文はイオラでも調節を間違えては駄目ですよ?」

 

「…………ん…………」

 

 メルエとカミュでは、『魔法使い』として雲泥の差がある。カミュもイオラという『魔道書』最強の攻撃呪文を習得している以上、人類で最高位に立つ程の呪文使いではあるが、『魔法使い』ではない。様々な攻撃呪文や補助呪文を使用出来ても、根本的な魔法力の貯蔵量などの性能が違い過ぎているのだ。

 故に、メルエのイオラとカミュのイオラでは、その威力もまた雲泥の差がある。ヤマタノオロチの頭部を吹き飛ばし、ボストロールの巨体をも吹き飛ばす程の威力をカミュのイオラは持っていない。それは、人類最高位に立つ『魔法使い』の少女だからこそ持つ事の出来る物だった。

 

「メルエ!」

 

「…………イオラ…………」

 

 リーシャが斧を振るい、霧散したフロストギズモが離れた場所で収束する様子を見せた瞬間、サラは隣に立つ少女に指示を叫ぶ。もはや見慣れた光景となったこの指示は、人類の常識を覆すほどの神秘を生み出す布陣。

 サラの声が届いた瞬間、リーシャは後方へと飛び去り、その魔法の攻撃範囲から脱出しようと試みる。そして、それを見ていたカミュもまた、リーシャのいる方向へと移動を開始した。

 リーシャには、魔法力を放出する才がない。故に魔法の攻撃に対する耐性も低いのだ。イオラという中級の爆発呪文がメルエの唱える物であれば、少なからず怪我を負う可能性もあると考えたのかもしれない。

 

「グモォォォォ」

 

 断末魔のような叫びを残し、フロストギズモはその身体を消滅させる。爆発はメルエが上手く調節した為なのか、それ程広範囲に広がる事はなく、幸いリーシャを傷つける事はなかった。万が一に備え、リーシャはドラゴンシールドを掲げていたのだが、その必要もなかったようだ。

 安堵と共にリーシャはサラとメルエの許へと歩き始める。カミュもまた、同じように足を動かし始めた。

 

「カミュ様、何時イオラを? カミュ様はイオを習得していなかった筈ですが?」

 

「イオは初めから契約してはいない。アンタやメルエがいる以上、俺が最下級の爆発呪文を習得する必要はないだろう」

 

 サラの質問に対し、然も当然のように返って来たカミュの言葉は、更に彼女を驚かせる事となる。通常、下級呪文を習得してから修練を重ねる事が通常であるという事は前述した通りであるが、それは、一足飛びに上級の魔法の契約を成功した者がいない事に起因する。

 サラやメルエのように、呪文に重きを置く者にとって、魔法とは自身の成長の証である。『経典』と『魔道書』という違いはあるが、一つ一つ順序立てて覚える事によって、己の成長を実感するという意味合いもあるのだ。

 故に、一足飛びに呪文を習得する事はない。才能の塊であるメルエでさえ、『魔道書』に記載されている呪文を順番通りに習得している。即座に何種類の呪文を習得してはいたが、メラの前にメラミを習得したり、ギラの前にベギラマを習得したりした事はないのだ。それは今回の爆発系呪文も同様である。

 

「そのような事が可能なのですか? 爆発系の呪文の行使の仕方も解らずに上位呪文の契約などが出来る物なのでしょうか……」

 

「イオやイオラに関しては、メルエやアンタで散々見せて貰ったからな」

 

 だからこそ、サラは納得が行かない。呪文を下級から覚えるというのは、その者の力量が影響しているというのも原因の一つであるが、それと同時に下級呪文を習得する事によって、その呪文の特性や威力などを学ぶという一端もあるのだ。

 カミュはイオを行使した事がないにも拘らず、その上位魔法であるイオラの威力を調節出来ていた。『賢者』となり、神魔両方の魔法を行使するようになったサラは、見ただけでその呪文の特性を理解する事が不可能に近い物であると理解している。故にこそ、彼女はカミュの言葉を聞いて尚、首を傾げていたのだった。

 

「そう悩むな。カミュが異常な存在である事は、ここ数年で十分に理解しているだろう?」

 

「アンタにだけは言われたくはないが……」

 

 尚も悩むサラに軽口を叩くリーシャであったが、それは剣を背中の鞘へと仕舞ったカミュによって斬り捨てられる。四年前とほとんど変わらないやり取りを見ていたメルエは小さく微笑み、そんな少女の表情を見たサラも、難しく考える事を止めた。

 カミュはイオを契約していないという話であり、契約が出来ないと答えた訳ではない。最下級呪文が契約出来ないのに、上級呪文の契約が出来た訳ではない以上、それ程に不思議がる現象でもないという結論に達したのだ。

 

「行くぞ」

 

 再び先頭を歩き始めたカミュを見て、リーシャはメルエを抱き上げた。既に陽が落ち始めている事は明白であり、この先の行動は宿営場所を探す道のりとなる。山肌の途中で空いた穴があれば最高であるが、それがない場合は岩肌で身を寄せ合って眠る事となる。周囲に木々が生え場所は少なく、焚き木になるような枯れ木もないだろう。寒さに備える為、身を寄せ合う他に道はないのだ。

 それを覚悟していた三人であったが、夕陽が山の向こうへと消えて行く頃になってようやく横穴を発見する。船から持ってきていた僅かな焚き木を燃やして暖を取り、カミュとリーシャで火の番をする事で一行は夜を明かす事となった。

 

 

 

 翌朝、陽が昇ると同時に再び登り始めた一行であったが、余りにも険しい山肌によって進行速度は速まらず、山肌でもう一泊する事で、ようやく山の頂が視界に収まるまでになる。既に雲の上にある山道を歩いている事に改めて感動を覚えるサラではあったが、連日の山登りは彼女の想定以上の厳しさであった。

 歩く事で進める部分は少なく、岩を手や足で掴みながら這い上がるという表現の方が正しかったかもしれない。その頃には、メルエはカミュかリーシャに背負われている事が多くなっていた。現に、今もメルエはリーシャの背中で眠りについている。

 山での戦闘では、今までで遭遇した魔物が多く、その中でもフロストギズモの頻度が高かった。山の上層部へ行けば行く程に気温は下がり、周囲を冷気が満たし始める。そうなれば、大気の変化によって生み出されるフロストギズモのような魔物の出現率が高くなるのは当然であろう。そんなフロストギズモの殲滅は、もっぱらメルエの役目となっていた。

 幼い身体で一日中険しい山を登り、戦闘では体力の元となる魔法力を使用して呪文を行使しているメルエの疲労は相当な物となっていたのだ。

 

「カミュ、とても魔王の城がある場所とは思えないが……」

 

「……そうですね。完全に火口へと近づいているように感じます」

 

 リーシャの言葉通り、山頂部分に城のようなものは見えない。昨夜一泊した横穴から山頂まではそれ程の距離はなかった。

 かなりの高度がある為、空気が薄くなっている事が解る。それとは逆に高度と共に下がって来る筈の気温は上昇していた。

 ネクロゴンド火山は休火山である。最後に噴火をしたのは二十年近く前の事となる。世界の英雄と名高いオルテガがこの火口で姿を消した時であった。それ以来はネクロゴンド火山は沈黙を続けており、噂だけしか流れていない『魔王』の存在のような不気味さを有している。だが、それでも火山は火山であり、火口近辺は溶岩の熱気によって気温を上昇させていたのだ。もしかするとこの火口は、中に溜まった鬱憤を晴らす時を待ち続けているのかもしれない。

 

「やはり何もないですね……。城はおろか、建物さえもないです」

 

「この場所が……オルテガ様の消息が絶たれた場所か」

 

 ネクロゴンドの火山の登頂に成功した一行ではあったが、その場所の景色に絶句する。その場所には何一つなく、足を踏み外せば巨大な火口に飲み込まれてしまう程に険しい場所であったのだ。サラは周囲を見渡すが、吹き抜ける風以外に何もないその場所に意気を消沈させる。それとは逆にリーシャはその場所を感慨深そうに眺めていた。

 カミュの父親であるオルテガという英雄は、このネクロゴンドの火口付近で消息を絶ったと云われている。『魔王バラモス』という諸悪の根源に立ち向かった青年は、その志半ばにして命を散らした。それが、今リーシャが眺めている、まるで地の果てまでも続くような大穴付近なのである。

 

「だが……本当に、オルテガ様はここで倒れられたのか? むしろ、この場所で消息を絶った事を誰が目撃したのかが疑問だな」

 

「……確かにそうですね。オルテガ様が供の者を連れていた可能性もありますが、ここまでの旅で出会った人達の中でこの場所まで共にした人とはお会いしていないですし……」

 

 オルテガが命を散らしたというのも、正確な事であるのかは解らない。いや、アリアハンを出発した時はカミュ達もそう考えていた。だが、この四年近くの旅の中でオルテガの足跡を追う中、この英雄の生存説さえも出て来ていたのだ。

 ムオルの村で傷ついたオルテガを救出した少年は、カミュよりも遥かに若い少年であり、彼が救った人物が本当にオルテガであったとすれば、オルテガはこのネクロゴンドの火口で消息を絶っただけであって、決して死んではいなかったという事になる。

 そして、もっとも不可解な事は、オルテガという人物がこの場所で消息を絶った事を誰が世界に通告したのかという事である。共に旅をしていた者達がいるのであれば、世界中を隅々まで回ったカミュ達が出会っていない訳がない。一人のホビットがオルテガと旅をしていたという話はあったが、この場所まで共に歩んだというようには聞いていなかった。何故なら、そのホビットはオルテガの死を見ていなかったからである。

 

「オルテガ様は、この場所から何を見て、何処へ向かったのだろうな」

 

 オルテガ生存説というのはリーシャやサラの中だけに存在する説であり、この世界で生きている人間にとっては二十年近く前に終わった事なのである。故に、この事を国の重要人物などに話す事はなかったし、生国であるアリアハンに通知する事もなかった。

 だが、実際に消息を絶った場所に立ったリーシャは、それが只に希望論ではないことを感じている。その確証を得た訳ではない。それでもこの火口近辺を吹き抜ける風を受けたリーシャは、根拠のない自信を持っていた。

 

「……どうでも良い事だ。行くぞ」

 

「カミュ……お前は何時までそうして……あっ!」

 

 二人の言葉を無視するように歩き出すカミュを見たリーシャは、大きな溜息を吐き出してその言葉を窘めようと一歩踏み出す。その時、リーシャの腰に下げられていた一本の革が千切れた。

 それは、サマンオサの英雄が手にしていた名剣であり、大地の女神の加護を持つ神代からの剣である。祠の牢獄で見つけたその剣は、大地の鎧を纏うリーシャが持つ事になっていたのだ。

 既にリーシャの武器はバトルアックスという斧として定着しており、真の力を解放出来ないガイアの剣は鞘と共にリーシャの腰に下げられていた。真の持ち主でなければ開放が出来ない武器と考えてはいたが、カミュ達の道を切り開くと聞かされていた為、この場所まで運んで来ていたのだ。

 そのガイアの剣の鞘を吊るしていた革が切れた。カミュ達は左手に火口を見て歩いている。足を踏み外せば、真っ逆さまに火口へと滑り落ちて行く危険性を持って歩いていたリーシャの左腰に吊るしていた鞘は、その中に納められている剣と共に、火口へと滑り落ちて行った。

 

「あ……ガイアの剣が」

 

 それはサラの声であっただろうか。乾いた音を響かせて火口へと落ちて行くガイアの剣は、サラの声が残る中、その姿を消してしまった。

 唯一と言っても良い道標が消えてしまった事の焦燥感は、サラだけではなく、カミュやリーシャをも襲って行く。大失態をしてしまった事に気付いたリーシャの顔は青白く染まり、呆然としたように火口を覗き込むカミュは、言葉を失っていた。

 そんな中、三人の表情が面白く感じたメルエだけは、柔らかな笑みを作ったまま、地の果てへと続く火口を覗き込んでいる。

 しかし、そんな奇妙な時間は長くは続かなかった。

 

「なっ!」

 

「下がれ! 昨晩過ごした場所まで戻るぞ!」

 

 火口付近の地面が急激に揺れ動く。その揺れは尋常な物ではなく、立っている事さえも難しい程のもの。大地が怒り狂ったように震え、幼いメルエなどの身体は宙に何度か浮いてしまっていた。

 即座にメルエを抱き上げたカミュは、何とか重心を安定させ、山肌にしがみ付く二人に指示を飛ばす。ここまでの旅の中でも数少ない程の大声量で叫ぶカミュの声でリーシャ達は何とか立ち上がり、ふらつきながらも山を折り始めた。

 カミュが何を危険視しているのかは、リーシャもサラも正確には理解していない。それでも、今動かなければ死の危険性があるという事だけはカミュの剣幕によって理解出来た。故にこそ、彼女達は懸命に走る。何かに追われるように駆け出す彼女達の表情は、魔物達を前にしても見せた事がない程に切羽詰まっていた。

 駆け出すカミュ達の足が進まない程の揺れは徐々に激しくなり、地の底から響くような重点音が火口付近に鳴り響く。転がるように駆け下りた一行は、ようやく昨晩夜を明かした横穴に滑り込んだ。

 

「きゃぁぁぁ!」

 

 その瞬間、ネクロゴンド火山は爆発を起こした。

 凄まじいまでの爆発音と共に、先程以上の揺れがカミュ達を襲う。隣に座っている人間の残像が見える程の激しい揺れは、カミュ達に叫び声しか許さない。会話さえも出来ない状況で身を寄せる四人は更に恐ろしい光景を見る事となる。

 身体が熔けてしまうのではないかと思う程の熱気が横穴に入り込み、より深く避難した彼らは、入り口付近を下へと流れて行く真っ赤な炎の塊を目にした。

 誰しもがネクロゴンド火山が噴火した事を悟る。

 噴火した火山が、その体内に宿した溶岩を吐き出し、大地へと流しているのだ。それは人間など容易に熔かし尽くす程の熱量を持っている事は明白である。ジパングの地で、洞窟内に流れていた溶岩と同様の物であり、その熱量だけで呼吸を困難にさせる程のものであった。

 

「カ、カミュ様……」

 

「ちっ! メルエ、入り口に向けてヒャダインを唱えられるか?」

 

「…………ん…………」

 

 揺れが次第に収まっていく中、火口から吐き出される溶岩の量は増して行く。それでも横穴全てを覆い尽くす程の量ではない事は幸いであった。火口から吐き出された溶岩は、カミュ達が登って来た方角ではなく、反対側の方角へ大量に流れ落ちているのだろう。もしかすると、火口付近の傾斜が反対側に傾いていた為かもしれない。それでも、その熱量で人間を死に至らしめる事は容易い。故にカミュはメルエに氷結系呪文の詠唱を指示したのだ。

 小さく頷いたメルエは、額に汗を浮かべながらも雷の杖を入り口に向けて詠唱を開始する。揺れ自体が落ち着いた事もあり、杖の先にあるオブジェの口から凄まじい冷気が迸った。横穴内の温度を一気に下げた冷気は、外を流れる灼熱の溶岩さえも凍りつかせて行く。かなりの速度で流れ落ちているにも拘わらず、その形態を固めた溶岩の塊が入り口を塞いで行った。

 

「イオラ」

 

 横穴内の空気さえも奪ってしまう可能性のある冷却された溶岩を、カミュが習得したばかりの爆発呪文で吹き飛ばす。習得したばかりにも拘らず調整されたイオラは、入り口を塞ぐ溶岩だけを吹き飛ばし、入り口付近に大きな傘を作った。

 横穴の入り口に出来た傘により、溶岩の流れが変化し、まるで横穴を避けるように落ちて行く溶岩を見ながら、サラはようやく安堵の溜息を吐き出す。

 その後も、メルエとサラで何度か氷結呪文を唱えながら、横穴内の温度を調節して噴火が落ち着くのを待つ事となった。

 

 

 

 噴火が収まったのは登っていた太陽が落ちた頃であった。

 山の揺れも完全に収まり、流れていく溶岩もなくなった事を確認したカミュは、気温の下がる夜が明けるのを待つ事にする。そう間単に溶岩が固まる訳ではないだろうが、ネクロゴンド火山の気候を考えると、可能性はあったのだ。ここまでの登山の中で野営する際、気温の低下による寒さが厳しい事を彼らは身を持って味わっていた。

 火を熾さなければ、寒さによって命を落とすほどの物であり、山頂付近にはうっすらと雪が積もっている部分さえもある。それ程の寒さであれば、噴火の落ち着いた溶岩を固める事は可能だと考えたのだ。

 

「こ、これは……」

 

 カミュの予想通り、夜明けと共にカミュ達のいる横穴付近の溶岩は固まった。未だに熱気を帯びてはいるが、その上を歩く事は可能であり、履いているブーツが熔ける事もない。それを確認した四人が再び山頂へと登ったのだが、そこで見た景色に全員が絶句した。

 そこから見える景色は、先程までとは様変わりしている。山を囲う雲は溶岩の影響で晴れ、山の下まで見えているのだが、その大地もまた大きな変貌を遂げていた。

 山の周囲を流れる川の全てが溶岩で埋まり、新しい大地となっている。橋を掛けなければ渡る事など到底不可能であった筈の巨大な川は、溶岩が流れ込み、それが固まる事によって全てを平らな大地となっていたのだ。

 

「ガイアの剣が道を切り開くか……」

 

「もしかすると、ガイアの剣は、己の意思で母なる大地へと帰ったのかもしれないな」

 

 その光景を見ながら呟くカミュの横で、己の腰から離れたガイアの剣が成した事を理解したリーシャが口を開く。

 ガイアの剣は、大地の女神の加護を受けた剣である。要約すれば、リーシャの纏う大地の鎧と同じように、大地の女神から生まれた物であると言っても過言ではない。サイモンという一人の人間に下賜された剣は、その役目を終え、生みの親である母の許へと戻っていった。

 ネクロゴンドの火山の噴火の切っ掛けを作り、溶岩によってその身を溶かされ、川を埋めて新たな大地となる。その名に相応しい最後を飾ったと言えるだろう。

 

「カミュ様、川によって阻まれていた奥へ進む事が可能となりました。一度山を下りて進みましょう」

 

「わかった」

 

 山の反対側は多くの川によって侵入者を拒んでいた。だが、先程の噴火による溶岩によって川は埋まり、険しい岩壁に挟まれた奥へと侵入が可能となっている。山の上からでは細かな部分は見えないが、遥か先まで森が続いているように見えていた。

 それがどこへ続くのかは解らない。だが、この場所からオルテガの消息が途絶えている事や、この場所が魔王の城の所在地だという噂が流れていた事を考えると、この先に進む事が『魔王バラモス』へ続くという事だけは確かであろう。

 サラと同様の事を考えていたカミュは大きく頷き、そのまま山を下り始めた。

 

 死の象徴と呼ばれるネクロゴンド火山。

 魔王の居城があると云われ、その魔王を倒す為に旅立った青年が命を落としたと云われる場所。

 その場所を、当代の『勇者』達は越えて行く。

 決して順調な旅ではなかったし、楽な旅路でもなかった。

 幾度の死線を潜り抜け、幾度の危機を越えて来た。

 世界の未来を賭けた戦いは、着実に近づいているのだろう。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

約2ヶ月ぶりの更新となります。
大変遅くなり、申し訳ありません。

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~幕間~【ネクロゴンド地方】

 

 

 

 登って来たのと反対側へと下り始めた一行ではあったが、未だに熱を持ち続ける溶岩の名残によって、その速度は上がらない。額に汗が滲む中、安全な場所を探りながらの下山となり、リーシャはメルエを抱きながらの歩行となった。

 幸いな事に、先程の噴火によって魔物の出現は皆無であり、戦闘が行われる事もない。魔物自体が溶岩に飲まれてしまったのか、それとも避難をしたのかは解らないが、どちらにしてもカミュ達にとっては有難い事であった。

 夜が来ても休む場所を見つけるのは至難であり、溶岩の熱のお陰で凍える事はないが、ゆっくりと身体を横たえる事は出来ない。メルエはリーシャの腕の中で眠るのだが、カミュやリーシャに至っては不眠不休に近い状態の下山となる。

 

「カミュ、まずは川であった場所を越えよう。あれを越えれば、森に入る前に休む事も出来る筈だ」

 

「わかっている」

 

 一行が山を下り終えた頃には陽が傾き始めており、下り始めてから四日目の夜が更けようとしていた。

 山を囲むように流れていた美しい川は消え失せ、その畔に生えていた木々は根こそぎ溶岩に飲み込まれている。全てを焼き尽くした後の焦土のような景色に、リーシャとサラは眉を顰めた。この平原や森を住処としていた動物達も溶岩に飲まれてしまったのかもしれない。その可能性は否定出来ず、自分達の都合で罪もない動物達の生活場所を奪ってしまった事にサラは心を痛めたのだった。

 異様な臭いと熱気に包まれた大地を歩き続け、一行は川であった場所を渡りきる。その頃には、メルエはリーシャの腕の中で眠りに就いており、太陽が沈み切ると同時に月が夜空に浮かび始めていた。

 

「この辺で良いだろう」

 

「そうですね……近くの川で水を汲んで来ます」

 

「私も付いて行こう」

 

 川であった場所を越え、森の入り口に入った場所でカミュは荷物を下ろし始める。周囲の木々が上空を覆い、雨などで濡れる心配もなさそうな場所であった事から、サラは安堵の溜息を吐き出した。

 荷物を下ろしたサラは、近くに流れる小川の音を聞き、腰の水筒を取り出す。そのまま全員の水筒を手にし、小川で水汲みに行く事を告げると、メルエを寝かしつけたリーシャも同行する事を口にした。軽く食料でも狩って来るつもりなのだろう。手にはしっかりと斧を握っており、獣を狩るつもりである事が解った。

 眠るメルエを護るように座ったカミュは、近くの枯れ木を集め、メラによって炎を点す。赤々と燃える炎が夜の寒さを和らげて行った。

 水を汲み終わったサラと共に戻って来たリーシャは、小川で取れた魚を数匹調理し始める。簡単な食事を終えた後、トヘロスを唱えて全員で眠りに就く事となった。噴火の影響もあるのか、周囲に魔物の気配はなく、全員が就寝しても問題はないと考えた為である。

 

「カミュ、起きろ!」

 

 しかし、そんな静かな夜は、耳を劈くような声によって破られた。

 溜まっていた疲れを癒すように深い眠りに落ちていたカミュは、火山の噴火時のような大きな揺れに驚いて目を覚ます。身体を起こしたカミュは、自分の胸倉を掴んで大きく揺すっているのがリーシャだと気付いた時、不機嫌さを明らかにした。

 血相を変えたリーシャの瞳を見れば、魔物の襲来などではない事が解る。それが解るからこそ、カミュはこの女性戦士の慌てように顔を顰めたのだ。

 

「メルエがまたいない!」

 

「また、魔法の契約でもしているのだろう」

 

 血相を変えたリーシャの口から出た言葉を聞いたカミュは、大きな溜息を吐き出す。この言葉を聞くのも久しぶりの事ではあったが、それ以上にこの事柄に関して心配をしていないという点もあるのだろう。

 メルエは『悟りの書』に記載されている呪文の契約を始めてからは、一人で呪文の契約をする事はなくなっていた。それはサラに厳しく言いつけられているからという理由もあるが、『悟りの書』自体をサラが所有しているという理由もあったからだ。

 カミュに続いてサラも叩き起こしたリーシャは、『悟りの書』の有無をサラへと問いかける。寝ぼけ眼で自分の荷物を調べた彼女は、暫くして『悟りの書』を袋から取り出した。その存在を確認した瞬間、カミュは勢い良く立ち上がり、ドラゴンキラーを背中へと括り付けた。

 

「手分けはしない! 森の奥から探す!」

 

「わかった」

 

「わかりました!」

 

 『悟りの書』がサラの手元にあるという事は、メルエが契約に必要となる魔方陣が記載されている物を持っていないという事。それは、メルエが呪文の契約の為にこの場を離れている訳ではないという可能性が高くなった事を意味していた。

 呪文の契約ではない状態でメルエがいなくなったという事実自体が重い。誰かがメルエを攫って行ったのか、それとも魔物がメルエを襲ったのかは解らないが、メルエがカミュ達三人と離れたいと考えていない以上、深刻な事態に陥っている可能性が高いのだ。

 故にカミュは急いで支度をし、不測の事態に備えて三人一緒にメルエを探す事を提言した。

 

「平原の方へ戻ったとは考え難い。森の奥へ向かった可能性が高い筈だ」

 

 先程言った言葉を再度言う姿が、カミュが珍しく混乱している事を示している。メルエがこの場所を動いた時間が何時かは解らない。それでも、既に夜明けまで数刻というこの時間になっても戻っていないという事が本来であれば異常であった。

 メルエの『魔法使い』としての力量はカミュ達全員が信じているし、それが人類最高位の物である事は疑いようもない事実である。だが、ある程度の魔物であれば、自力で消滅させるほどの力を有しているといっても、彼女は幼い少女なのだ。

 彼女が一人きりの時に呪文を行使して魔物を打ち破った事は一度たりともなく、全てはカミュやリーシャやサラといった保護者と共に戦う時だけであった。大事な者を傷つけられた事に怒り、己の中にある魔法力を暴発させる事はあっても、それも全て彼らが共にいればこそであろう。メルエ一人では魔物と対峙出来ないという事をカミュ達は知っているのだ。

 それでも、今まではそれ程遠くに行く事はなかったし、魔物の気配にカミュやリーシャが気付く事の方が早いという過信があった。それをカミュは悔いているのだ。

 

「メルエは少し開けた場所で呪文の契約を行う癖があります。おそらくカミュ様と行った最初の契約時がそうだったのでしょう」

 

「開けた場所か……そういえば、先程サラと水を汲みに行く途中に、そんな場所があったな」

 

「何処だ!」

 

 野営地から森の奥へ入った際に、歩く速度を維持しながら口にしたサラの言葉に、リーシャは思い当たった事を発する。

 メルエは初回の契約時に、カミュが描いた地面の魔方陣を見ている。故に、その後も魔方陣を描ける地面がある場所を契約場所として定める癖がメルエに出来上がっていた。地面に木の枝で魔方陣を描くという方法以外にメルエが契約方法を知らない事が一番の原因ではあるだろうが、最も信頼するカミュがその方法を使用していたという事もその理由となっているのだろう。

 

「落ち着けカミュ。先程慌てふためいていた私が言うのもなんだが、お前が慌てればこのパーティーは崩れる。サラがいる、私もいる。必ずメルエは見つかる。それに、今のメルエの心は壊れてはいない。ならば、私達が頼りとする偉大な『魔法使い』は、私達が来るのを待つだけの力と頭脳を持っている筈だろう?」

 

 掴みかからんばかりに詰め寄って来るカミュに、リーシャは一つ息を吐き出した。

 先程は、顔面蒼白となるほどに慌てていた彼女ではあったが、カミュの珍しい姿を見て、冷静さを取り戻したのだ。確かに、リーシャの口から言うべき事ではないかもしれない。しかし、この状態になったカミュを抑えられるほど、サラは強くはない。

 カミュの両肩を掴んだリーシャは、その瞳を真っ直ぐ見つめて年若い『勇者』を窘めた。

 父親のような、それでいて兄のような感情を表すカミュに対し、リーシャの胸は熱くなっている。だが、それでもこのパーティーの核だと信じる青年が取り乱しては、全てが狂い出すとリーシャは考えていたし、今のまま探しに飛び出しても決して良い結果は生まれないと考えていた。最も、カミュからすれば、その核となる人物は異なっている訳だが。

 

「……わかった。それで、何処だ? メルエの力は知っているが、夜が深くなれば魔物の動きは活発化する。この場所の魔物の生態を全て知っている訳ではない以上、呪文の効力がない魔物がいてもおかしくはない筈だ」

 

「それでいい。私が先導しよう」

 

「いえ! 私が覚えていますので、先頭を歩きます。取り乱す事で捜索が難航するのは駄目ですが、急を要する事は確かですから」

 

 カミュの瞳を見て、リーシャは頷きを返す。先程までの焦燥感に駆られた瞳ではなくなった事が理解出来たからだ。彼の中にあるメルエの存在はとてつもなく大きいのだろう。それはメルエの父親との約束も含まれたものなのかもしれないが、アリアハン出立当初のような、誰の事へも関心を示さない青年はもういないのだという事だけは、明確になっていた。

 頷きを返したリーシャは、自分が見つけた場所へ行く為に歩き出そうとするが、それは後方から慌てたように口を開いたサラによって止められてしまう。リーシャの方向感覚は致命的なほどに狂っている。元いた場所へも戻れない可能性がある以上、サラが覚えている限り歩いた方が確実性があると考えたのだろう。

 

「そうか。ならば頼む。私は最後尾で魔物の襲来に備える」

 

「はい」

 

 何の疑いもなくサラの言葉に従ったリーシャは、バトルアックスを片手に、皆が歩き出すのを待つ。サラが先頭を歩き、こちらも剣を抜いたカミュが続く。焚き火から移した<たいまつ>を掲げ、一行は森の中へと入っていった。

 月明かりが雲によって遮られ、漆黒の闇に閉ざされた森の中にフクロウの鳴き声だけが轟く。魔物さえも寝静まっているのではないかと錯覚する程の静けさの中、赤々と燃える焚き火だけが野営地に残されていた。

 

 

 

 風によって動く木の枝が擦れる音と、葉が揺れる音だけが響く森の中を歩く一行は、リーシャが言っていた場所に辿り着く。だが、そこにメルエの姿はなく、森の中と変わらない闇と静寂が広がっているだけであった。

 

「いないな」

 

「……契約をしていたような魔法陣も残っていません。もしかすると、ここではないのかもしれませんね」

 

 開けた場所へ<たいまつ>を翳し、隅々まで見回ってみたが、幼い少女の姿はない。それに加え、呪文の契約の際に必要な魔法陣の跡も残っていない事から、この場所ではなかったという結論に達する。

 口調とは異なり、サラの表情には明確な焦りが浮かんで来ていた。メルエがここで契約をしていなかったという事は、別の場所で契約をしているか、もしくは本当に何者かに連れ去られてしまったという可能性が浮上する。それは、彼ら三人にとって最も恐れている事であるからだ。

 

「今からでも遅くはない。カミュ、皆で手分けをして探そう!」

 

 カミュの取り乱し様を窘めた筈のリーシャが、明らかな動揺を表し出す。彼女にとって、妹のようでありながらも娘のような存在でもあるメルエの身に危険が迫っている可能性があるという事は、リーシャの根底を揺らす程の重大事なのかもしれない。

 そして、先程まで我を失っていたカミュが、打って変わって落ち着き払った状態であった事がリーシャを慌てさせる事になっていた。言い方は可笑しいが、リーシャとしては安心して慌てられる状態になったとでも言うべきなのだろう。

 

「カミュ様」

 

 しかし、そんなリーシャを余所に、周囲の空気から何かを感じ取ったサラが、周辺を探っていたカミュへ声を掛ける。声を掛けながらもサラの視線は森の奥へと向いたままであり、それが何を示すのかが解らない彼等ではなかった。

 藁にも縋るような思いでサラへと駆け寄ったリーシャは、同じように駆け寄って来たカミュの表情が即座に歪むのを見て、顔色を失う。

 

「……冷気か」

 

「はい、この奥からです。急ぎましょう」

 

 サラの視線の先にある闇が広がる森の中から吹き抜け来る風には、カミュの頬を痺れさせる程の冷気が乗せられていたのだ。夜の寒さが厳しいネクロゴンドではあったが、これ程の冷気を感じる事はない筈である。それにも拘らず、森の中から肌で感じるほどの冷気が流れ込んで来る理由は一つしかないだろう。

 それを理解しているからこそ、サラはカミュやリーシャへ視線を向けずに森の奥へと駆け出して行く。サラの雰囲気に只ならぬ物を感じたリーシャもまた、慌ててその後を追った。

 

「こ、これは……」

 

 森の奥へ進めば進むほど、肌に感じる冷気は強くなって行き、リーシャが斧を握る指先の感覚さえも失うほどまでの物となって行く。これ程の寒さは、北の果てにあるグリンラッドと呼ばれる島でしか感じた事はなかった。

 永久凍土と呼ぶに相応しいあの島は、大地の上に降り積もった雪が解ける事はなく、その雪が氷となって大地を覆う。その為、防寒具無くしては上陸する事など不可能であり、そこで生きる魔物達もまた、寒さに特化した魔物達ばかりであった。

 駆けるカミュ達の吐く息は真っ白く濁り、吐き出した傍から水分が凍りついてしまったかのように口元を凍らせて行く。水分を含む目元に氷が付着し、鼻の周りにも白い結晶がこびり付いていった。

 そして、その世界は現れたのだ。

 

「なんだ、ここは……」

 

「ぐわっ!」

 

「きゃあ!」

 

 真っ先に開けた場所へと抜けたサラが呆然と見つめる場所へようやく辿り着いたカミュは、その光景に言葉を失う。同じように飛び込んで来たリーシャは、驚きの声をあげる前に足元を滑らし、盛大に転んでしまった。転んだリーシャはその勢いのままサラの足元を掬い、サラまでも地面へと尻餅を突く事になる。

 そんな二人の間抜けな姿を一瞥する事もなく、カミュはその壮絶な光景を呆然と眺め続ける。周囲に<たいまつ>を翳してはいるが、詳細を処理するには暫しの時間を有する事となった。

 

「メ、メルエ!」

 

 カミュが正気を取り戻すよりも早く、盛大に転んだリーシャの手から離れた<たいまつ>が転がる場所に倒れている少女の姿を確認したサラは、再び転んでしまわないように這うように近づいて行く。いや、正確に言えば立ち上がれないのだ。

 カミュが言葉を失うほどの光景とは、全ての時を止めてしまったかのように輝く世界であった。

 ようやく立ち上がったリーシャが、傍に落ちていたサラの<たいまつ>を拾い上げて周囲を照らし出す。カミュの持つ物と合わせ、ようやくその場所の全貌が見えてきた時、その異常な景色は、美しい輝きを放っていたのだった。

 

「氷の世界……」

 

「何故、これ程に……」

 

 リーシャの言葉が続かないのも無理はないだろう。何故なら、その場所は見渡す限り凍結し終えた氷の世界だったのだから。

 木々はその色を失う事無く透明な氷に閉じ込められ、傍を流れていたであろう小川は、その流れ自体の時間を止められてしまっている。表面だけではなく底の水までも凍りつけられ、<たいまつ>を近づけると、中を泳いでいた魚までもそのまま動きを固められていた。

 岩も草も土も、全てが透明な氷に閉じ込められたその世界は、芸術品といっても過言ではない程の美しさを誇り、見る物を魅了すると共に、恐怖で支配する。歴戦の勇士であるカミュやリーシャでさえ、その光景を前に足は細かく震え、胸が締め付けられるような感覚に陥った。それは決してその場所の気温が原因ではないだろう。

 

「はっ! メ、メルエは無事か!?」

 

 恐怖に縛られていたリーシャは、震える足を強引に動かし、サラが近寄って行った場所へ駆け出す。しかし、氷に覆われた地面は何度となく彼女の足元を掬い上げ、地面へと叩き付けた。通常時であれば滑稽に映るその姿も、今のこの世界を目にした後であれば、誰一人表情を緩める事など出来はしないだろう。

 一面氷に覆われた大地で倒れ伏しているメルエは、身体を横に倒すような形で丸まっていた。近くに寄ったサラはその身体を隅々まで触診し、呼吸が安定している事を確認すると安堵の溜息を吐き出す。何度も転倒を繰り返しながらも到達したリーシャも、そんなサラの表情を見て安堵の溜息を吐き出した。

 吐き出した溜息が瞬時に凍り付く程の冷気が支配する世界。永久凍土にも引けを取らないその冷気の中、最愛の少女の無事を喜ぶ二人の女性が満面の笑みを浮かべた。

 

「この魔物さえも凍らせるのか……」

 

「えっ?」

 

 しかし、緊張感を解いた二人とは異なり、ゆっくりと近づいて来たカミュは、照らし出される周囲の光景を注意深く見つめ、そして驚愕の声を漏らす。持っている<たいまつ>が照らし出している地点は、一点から動こうとはしない。その地点へ視線を動かしたサラもまた、その場所に転がる物を見て絶句した。

 それは本来であれば、絶対にその姿を固定する物ではない。だが、小川を挟んだ向こう側に転がる三体の物体は、全て身体を氷によって固められていたのだ。

 

「あれは、火山で遭遇した魔物なのか?」

 

 空中に浮かぶのではなく、煙のように漂う訳でもなく、その物体は氷で覆われた地面に転がっていた。

 それは、ネクロゴンド火山を登山中に遭遇した冷気の塊である魔物。フロストギズモと呼ばれる、山頂付近の冷気から生まれた魔物。山頂から吹き抜ける冷気が森へと落ちる事によって、森の中でも生まれたのであろうその魔物が、生理的に拒絶したくなるような薄汚い笑みを浮かべたままの姿で凍り付いていたのだ。

 本来、冷気が寄り集まり生まれたこの魔物自体が、視認出来る程の冷気の塊である。それにも拘らず、その冷気ごと氷の中に閉じ込めるという行為が、どれ程に異常な事なのかが理解できる者は少ないだろう。

 圧倒的な冷気で、更に瞬間的な急凍を行わなければ、そのような芸当は出来はしない。それを理解したからこそ、カミュとサラは絶句したのだ。逆に言えば、凄まじい光景である事は理解しても、その光景を生み出す事の壮絶さを理解出来ないリーシャの驚きは、二人の物とは若干異なっていたのだろう。

 

「これは全てメルエが行ったのか?」

 

「ええ……おそらくは」

 

 周囲の光景、そして凍りついた魔物を見たリーシャは、この光景を作り出す事の出来る可能性のある只一人の少女へ視線を向ける。その視線を見たサラは、リーシャの考えを肯定するように頷きを返した。

 この場の全てが凍り付いている中で、只一人凍りつく事無く眠りに就いている少女が、この世界を生み出したと考えるのが当然であろう。だが、リーシャの知るメルエの氷結呪文でも、ここまでの世界を生み出す事が可能であるかどうかは自信がない。元来魔法という神秘に憧れてはいても、その中身に関しての知識は皆無であるリーシャには、この世界がどのようにして生み出されたかは想像さえも難しかったのだ。

 

「メルエは大丈夫なのか?」

 

「既に契約は済んでいます。ただ、行使するにはメルエの力量が未熟だったのでしょう」

 

 景色を変える程の呪文を行使した事による後遺症を心配したリーシャではあったが、サラはメルエが行った行為の原因に思い当たる物があるのだろう。ようやく笑みを浮かべたサラは、自信に満ちた顔でリーシャに頷きを返した。

 サラとメルエの間には約束事がある。それは、呪文の契約時にはサラが必ず立ち会う事というものだ。その約束事をメルエも破る事はない。『悟りの書』をサラが所有しているという事も理由の一つではあるが、それ以上にメルエはサラを信頼していた。

 故に、今回も既に契約を終えた呪文の練習を行おうとしたのだとサラは考えていたのだ。

 

「俺は魔物を砕いてから戻る。焚き火でメルエを温めてやってくれ」

 

「わかった」

 

 メルエを抱き上げたリーシャは凍りついた地面を慎重に歩き始め、それを見たカミュは転がる魔物であった物体を叩き割り始める。この氷の世界が何時出来上がったのかは解らないが、メルエが氷の世界で暫しの時間を眠っていた事は確かである以上、その身体を一刻も早く温めなければならない事に変わりはない。メルエが寒さに強い事と、生物としての機能については別問題なのだ。

 慎重に歩を進め、ようやく氷の世界から抜け出したリーシャとサラは、野営地に向かって駆け出して行く。身体の芯まで冷え切ったメルエを抱いたリーシャは、心配そうに顔を歪めながらも、一刻も早く野営地へ戻るように足を速めた。

 必死になったのはサラである。メルエの状態が魔法力切れに近い状態であると予想していたサラではあったが、リーシャと同様にその小さな身体の体力も心配していた。だが、『賢者』であるサラが、『戦士』であるリーシャの体力について行けない事も事実であり、徐々に引き離されて行く事に焦りさえも感じてしまう。

 結局リーシャが野営地に辿り着き、焚き火の傍でメルエの身体を摩り続けて毛布を掛け終えた頃に、息も絶え絶えなサラが戻って来るという結果に終わった。

 

 

 

 翌朝、何事もなく目を覚ましたメルエはいつも通りであり、カミュが取って来た果物を頬張りながら笑みを浮かべる。呪文の契約については約束事をしてはいたが、呪文の修練に関してはメルエなりにも思う所があるのだと考えたサラは、昨夜の事をメルエに尋ねないという結論に達していた。

 サラが考える限り、メルエの身体に負担になる物ではないと聞いたカミュとリーシャもそれらに納得を示した事で、何事もない朝食時を向かえたのだ。

 

「地図上の位置から見て、ここから南下する以外に道はない」

 

「そうですね。何があるか解りませんが、行くしかありません」

 

 朝食を取りながら地図を広げていたカミュは、これからの道を確認を込めて口にする。それに呼応するように頷きを返したサラの瞳も何時も以上の力を宿していた。そんな二人を見ていたリーシャが笑顔を浮かべ、食事を終えたメルエもリーシャに口元を拭って貰いながら大きく頷きを返す。

 全員がこの先で待ち構える者の存在を肌で感じ始めているのだろう。これが彼らにとって最後の行進となるのかもしれない。そんな感慨が湧き上がって来るほどの決意が皆の胸を占めているのだろう。

 

 森を抜けた一行は、そのまま山肌に囲まれた平原を南へと下って行く。陽が昇り、陽が落ち、再び陽が昇っても歩き続ける。

 出来る限り魔物との遭遇は避けるように歩みを進めていた彼等ではあったが、人間にとって未開の地であるネクロゴンド地方で魔物と遭遇しないなどという事はあり得ない。山を下りてから三日目に、ネクロゴンド地方の恐ろしさを知る事となる。

 

「なっ!?」

 

 平原から再び森へと入った頃であった。先頭を歩いていたカミュが立ち止まった事で、一行に緊張感が走る。背中のドラゴンキラーの柄に手をかけたカミュは、息を殺して周囲を警戒し始めた。

 それに伴って、サラやメルエも準備を始め、リーシャもバトルアックスを手に取る。しかし、そんな彼等の警戒を嘲笑うかのようにそれは現れた。

 

「グオォォォ!」

 

 警戒していた前方ではなく、縦一列に並んだ一行の真横の木々が一瞬で薙ぎ倒されたのだ。

 軋むような音を立てて根こそぎ倒されて行く木々が悲鳴を上げる。木々を住処としていた鳥達が一斉に羽ばたき、危機を知らせるように鳴き声を上げた。

 薙ぎ倒された木々は、その者に道を空けるように横たわり、木々が遮っていた日光はその者の到来を知らせるように、その者を照らし出す。陽の光を背中に受けたそれは、カミュ達が見上げなければ全貌を把握出来ないほどの巨体を持った生物であった。

 

「サ、サマンオサの魔物!」

 

「ちっ!」

 

 それは、醜悪な姿をした魔物。サマンオサで相対したボストロールに酷似した巨体に、申し訳程度に獣の皮で隠されたたるんだ贅肉が露となった浅黒い肌からは、異臭を放っていた。

 ボストロールのように特殊な棍棒を持っている訳ではなく、ただ、その巨体から生み出される怪力のよって木々を薙ぎ倒して現れたその魔物は、一番近くにいたカミュに向かってその拳を振り下ろす。驚きはしても警戒を緩めていなかったカミュは、咄嗟に後方へ飛び、間一髪でその暴力から脱出した。

 拳が振り下ろされた地面は一瞬の内に陥没し、まるで大地が暴れるような振動を生み出す。体重の軽いメルエなどは空中に浮いてしまうが、その身体は後方から来たリーシャの片腕に抱き抱えられ、サラと共に最後尾へと退けられた。

 

<トロル>

ネクロゴンド地方に住み着く巨人族の末裔とも云われる。魔物というよりは魔族に近い存在ではあるが、知能は限りなく低く、本能で動く獣と大差はない。武器や道具を使用する知識もなく、その身体能力だけに依存した攻撃方法を持つ。魔族の中でも異端であり、その雑食性から、人間を好んで食す以外にも、魔物を食す事もあると云う。トロルの中で稀に現れる知能を有した者が、これらを下位種として従えるボストロールという説が有力である。

 

「カミュ、盾で受けるな! その馬鹿力は盾では受け止められないぞ!」

 

 追撃を仕掛けようとするトロルの腕が振るわれた際、カミュは咄嗟にドラゴンシールドを掲げようとするが、瞬時に叫ばれたリーシャの言葉で真横へと転がった。

 風切り音を上げて振り抜かれた巨大な拳がカミュの頭上を過ぎて行く。大きな空振りをして態勢を崩したトロルは、二、三歩よろけるように動き、その隙を突いたリーシャは、自身の倍近くある巨体の足に向かってバトルアックスを振り抜いた。

 

「グギャォォォ」

 

 トロルの苦痛の叫びと共に、人類とは異なった色の体液が噴き出す。膝上の大腿部を斬り裂かれたトロルは片膝を着くように地面に落ち、苦悶の表情を浮かべた。

 立ち上がったカミュが、跳躍と共にトロルの右腕を深々と斬り裂く。二の腕部を斬り裂かれたトロルは、右腕を上げる事が出来なくなり、垂れ下がった腕を庇うように左腕を動かすのだが、それは勇者一行にとって児戯にも等しい行為であった。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 戦闘力が一気に低下したトロルを見たサラが、人類最高位に立つ『魔法使い』へと指示を出す。高く掲げられた杖の先にあるオブジェの口から、巨大な火球が飛び出した。苦痛に歪むトロルの顔面ほどの大きさもある火球が、その顔面へと真っ直ぐ飛んで行く。

 左手一本しかないトロルに、メラミの火球を避ける方法などある筈がない。辛うじて左手で僅かに勢いを殺したとはいえ、数本の指を犠牲にした恩恵はなかった。

 森に轟く程の衝突音を響かせ、トロルの顔面に直撃した火球は、その肌を焼き、トロルの身体自体を後方へと弾き飛ばす。踏ん張りの利かない足と、受身の取れない腕では、トロルが転倒を避ける術とはならなかった。

 再び大地を揺らすほどの振動を起こしながら倒れ込んだトロルは、焼け爛れた鼻や口から必死に空気を取り入れようともがき、奇妙な音を発している。

 

「カミュ、とどめだ!」

 

 『魔王討伐』という使命を持っていても、この一行は既に魔物への憎しみなど持ってはいない。無闇に魔物を苦しめて楽しむ趣味などなく、自分達が襲われなければ好んで戦闘を行う事もないのだ。故に、リーシャは早急にとどめを刺し、魔物を楽にするように動こうとしていた。

 だが、彼らは、このネクロゴンド地方に生息する魔物達を甘く見ていたのかもしれない。決して油断をしていた訳でもない。侮っていた訳でもない。それでも、彼等はここまでの旅の中で培って来た自信に酔っていたのかもしれなかった。

 

「下がれ!」

 

「ぐぼっ」

 

 倒れ込んだトロルにとどめを刺そうとバトルアックスを振り被ってリーシャが駆け出した瞬間、その対象となった魔物の身体全体が濃い緑色の光に包まれる。それは、輝いたと表現した方が良いのかもしれない。その輝きは瀕死のトロルを包み込む。

 そして、斧を振り下ろし始めていたリーシャの姿が掻き消えた。

 

「メルエ、私はリーシャさんを治療します! 皆にスクルトを」

 

「…………ん…………」

 

 残像さえも瞳に焼き付くほどの速度で吹き飛ばされたリーシャは、先程トロルによって薙ぎ倒された木々に叩き付けられ、悶絶する。

 呼吸が止まってしまう程の衝撃を受けたリーシャの頭からはどす黒い血液が流れ、頭部を裂傷した事が解る。更に、吐き出した液体にも血液が混じっている為、身体の内部も傷ついている事が予想された。

 サラの指示通りにスクルトを唱えたメルエは、戻って来たカミュの後方で次の指示を待っている。サラは即座にリーシャの治療を始めるが、それよりも早く動き出した山のような巨体が視界に入って来た。

 

「あの呪文は……」

 

「何故だ?」

 

 先程まで瀕死の状態で身体を横たえていた筈のトロルは、戦闘開始直後と変わらない姿で再び立ち上がったのだ。その身体の何処にも傷はなく、流れ出ていた体液の跡さえない。カミュに斬り裂かれた筈の右腕を振り回し、メルエの呪文で焼け爛れた筈の顔面の肌は、醜悪であれど火傷の跡さえも残ってはいなかった。

 不快そうに顔を歪めるカミュとは異なり、サラはその理由に勘付いている様子である。しかし、そんなサラの顔も悔しさに歪むように眉を顰ませ、下唇を強く噛んでいた。

 

「マヌーサ!」

 

 表情を歪めていたサラではあったが、再び全快の状態で襲い掛かって来るトロルの行動を抑える為の呪文を詠唱する。トロルの周囲が軽く発光した途端、先程まで真っ直ぐカミュへ向かっていたトロルの拳が制御を失った。

 神経性の呪文の効果が現れた事で、カミュは一つ息を吐き出し、態勢を立て直す。その隙にサラはリーシャの治療を開始した。

 しかし、トロルは決して意識を手放している訳ではない。神経性の呪文の影響でカミュ達の幻を見ているだけであり、その場所が必ずしもカミュ達の本当の場所と重ならないという訳でもなかった。

 

「えっ?」

 

 リーシャの身体に手を翳し、ベホイミの詠唱を行っていたサラは、先程まで眩しい程に照りつけていた太陽の光に影が差した事で呆けた声を上げる。幻に包まれていた筈のトロルの瞳が正確にサラを射抜き、そのまま巨大な拳を振り上げていたのだ。

 トロルの状態を見て態勢を立て直していたカミュはサラとリーシャへの救援には間に合わない。リーシャの怪我の回復も未だ終了しておらず、意識さえも戻ってはいなかった。

 

「…………イオラ…………」

 

 サラが覚悟を決めた時、トロルの顔面を中心として空気が弾ける。圧縮された空気の開放は、盛大な爆発音と共にサラとリーシャの身体さえも弾き飛ばした。

 自身が母のように、姉のように大事に思う者を傷つけられた事を黙って見ているほど、このパーティーの『魔法使い』は大人しい存在ではない。自身の力の制御を覚えた筈の彼女ではあるが、今回は自分の中で燃え上がる怒りの方が勝っていたのだ。

 そんな怒りの捌け口とされたトロルは堪ったものではない。危うく首から上が吹き飛んでしまうかのような爆発をまともに受け、顔面の機能が大幅に削られた。

 鼻は削げ落ち、耳は弾け飛び、眼球は砕け散る。喉から下の上半身の皮膚は焼け爛れ、呼吸さえも困難なほどにまで、トロルの身体は破壊されていたのだ。トロルはそのまま後方へと倒れ込む。

 

「リ、リーシャさん。今、ベホイミを」

 

 しかし、その爆発の余波を受けたリーシャとサラも無事ではなかった。爆風の熱気でサラは火傷を覆い、爆発で砕け散った岩の欠片がリーシャの半身に突き刺さっている。即座にその欠片を抜き放ったサラは、血が噴き出すリーシャの身体にベホイミを唱える。そんな自分の火傷よりもリーシャの治療を優先させようとするサラの頬を暖かな掌が覆った。

 気を失っていた筈のリーシャの意識は、先程の爆発によって強引に戻されていたのだ。

 

「私よりも、自分の顔の手当てを優先しろ。私なら大丈夫だ。それと、今回はメルエを叱るなよ。今叱れば、メルエは迷ってしまう。それは、この先の戦闘では足枷にしかならないぞ」

 

「……わかっています。それに、まだ戦いは終わっていませんから」

 

 火傷で爛れたサラの肌を掌で隠しながら、リーシャは力ない笑みを浮かべる。サラが考えていたよりも深く岩の破片が突き刺さっており、未だに真っ赤な血液が流れ出していた。

 それでも、リーシャはサラやメルエの事を心配している。それが彼女が彼女である所以なのだろうが、今だけはその姿が歯痒く映った。顔を顰めたサラは、右手で自分の身体にベホイミを掛け、左手でリーシャの身体にベホイミを唱える。

 このネクロゴンドまで来れば、残るは『魔王バラモス』となる事は必至である。その時に、メルエが迷い、悩む状態であれば、とてもではないが戦力とはならない。己の中に宿る膨大な魔法力の制御を覚えた幼い少女ではあるが、己の感情までも制御出来る程の成長は遂げてはいなかった。

 いや、メルエほどの年齢の子供であれば、自分の感情を制御する事を学んでいる最中であり、感情というのも手に入れたばかりのメルエであれば、それを制御する事など不可能に近いだろう。

 

「まさか……まだあの魔物は立ち上がるのか?」

 

 しかし、そんなメルエの話を飛ばしてまで語るサラの話を聞いたリーシャは、痛む身体を押さえながらも上半身を起き上げる。それを柔らかく抑えながらベホイミを唱え続けるサラの視線が、倒れ伏したトロルの方へ動かされた。そして、サラの視線を追ったリーシャは、驚きの声を上げたのだ。

 倒れたトロルの巨体を包み込むように発光する濃い緑色の光。それは、リーシャが意識を失う直前まで見ていた光景である。それが何を意味するのかが理解出来ないリーシャではない。それは、再びあの巨大な魔物が戦闘可能状態に戻るという事だった。

 

「カミュ様! 近くに必ず回復呪文を唱えている魔物がいる筈です!」

 

 自身の火傷の治療を終えたサラは残るリーシャの傷に全力を傾け、それと同時にカミュへと注意を促す。トロルを包み込む緑色の光は、人間界では『神の祝福』とまで呼ばれる回復呪文の物である事は確かであった。

 しかし、あの暴力の塊と言っても過言ではないトロルにそのような事が出来るとは思えない。サマンオサで王に成り代わっていた魔物が上位種と考えるのであれば、尚更に不可能であろう。故に、サラは他の魔物が回復呪文を唱えたのだと結論付けていた。

 

「…………サラ………あそこ…………」

 

「はっ!? カミュ様、あの魔物を先に倒してください! リーシャさんは、カミュ様の援護を」

 

「引き受けた!」

 

 必ず何処かに魔物が存在すると確信しているサラが周囲に目を向ける中、近寄って来たメルエがある一点を指差す。その方向へ視線を向けたサラは、即座にカミュとリーシャへと指示を出した。

 既に怪我の回復が済んだリーシャは、我が事得たりと立ち上がったトロルへと駆け出して行く。それと同時に、カミュもまたメルエの指差した方角へと走り出した。

 メルエの指差した方角には、森の木々が立ち並んでいる。だが、陽の光の影に隠れるように、それは漂っていた。

 まるで人間の血液を吸収したような赤黒い身体を持ち、その下部からは無数の黄色い触手を垂らした魔物。以前に遭遇した事のある、回復呪文を唱える魔物<ホイミスライム>に酷似した姿を持つその魔物は、嫌らしい笑みをその赤黒い身体に浮かべながら、空中に浮かんでいたのだ。

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 赤黒い魔物に一直線に向かうカミュを遮るように立ち上がったトロルの行動を、リーシャがバトルアックスで弾き返す。

 回復呪文で怪我が治癒したとはいえ、トロルが失った身体の部位は戻らない。片目は醜く潰れ、弾け飛んだ耳は欠損したままである。だらりと垂れた舌は、最初の頃に比べて長さが半分程になっていた。

 リーシャが作ってくれた隙を利用し、赤黒い魔物の目の前に辿り着いたカミュは、手に持つドラゴンキラーを振り抜く。避けるように伸ばされた黄色い触手が斬り飛び、人類とは異なる色の体液が噴き出した。

 しかし、その斬り傷もまた、即座に回復呪文で塞がって行く。

 

<ベホマスライム>

スライム族の亜種であるホイミスライムの上位種と考えられている。攻撃力などは皆無に等しく、ホイミスライムと大差はない。だが、通常の人間には脅威であり、捕食した人間の肉体ではなく血液を食す為に、スライム状の体躯の色が赤黒い色だとも云われていた。どのような怪我も即座に治す回復呪文を行使すると云われ、その呪文は『経典』にさえ記載されていない悪魔の呪文であると伝えられている。神の祝福を受けた回復呪文ではなく、魔物の身体のみに効果を示す魔の呪文だと、人々の間では語られて来たのだ。

 

「いやぁぁぁ!」

 

「ピキュゥゥ」

 

 しかし、回復呪文だけが取り得の魔物が、ここまで戦い続けて来た歴戦の勇士を相手に持ち堪えられる訳がない。返す剣で、浮かぶ胴体を真っ二つに切り裂いたカミュは、地面へと落ちたスライムが形状を保てずに地面へと吸収されるのを見て、即座にトロルへと向かって駆け出した。

 既にトロルとの戦闘も終盤を迎えている。ボストロールとさえも激戦を繰り広げたリーシャが、下位種一体に後れを取る訳がない。カミュが走り出したと同時に唱えられた呪文が、戦闘を終了させる幕引きの鐘となって鳴り響いた。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 振り下ろされたトロルの腕を斧で斬り飛ばしたリーシャが後方へ下がると同時に紡がれた呪文は、この世界にある灼熱呪文の中でも最強の呪文。全てを飲み込む程の火炎が、幼い『魔法使い』の持つ杖の先から迸った。

 まるで周囲の森を炎から護るように、トロルの周囲を取り囲むように着弾した火炎は、そのまま天へと登るように立ち上り、トロルの巨体を飲み込んで行く。逃げる事さえ出来ないように囲みを作る火炎は、天から吸い上げられているかのように円を描いて立ち上ったのだ。

 

「炎から飛び出して来た際の準備をしておけ」

 

「わかった」

 

 灼熱呪文を唱えた少女と、火柱との間に入ったカミュは、傍にいるリーシャへと警戒を緩めないように指示を出す。斧を下げて火柱を見ていた彼女は、再び表情を引き締めた。

 だが、彼等の心配は杞憂に終わる。力自慢の巨体を有するその魔物は、二度と炎から出て来る事はなく、火柱が終息するとその肉体を全て燃やし尽くし、炭のような骨だけを残してこの世から消え去って行った。

 怪我は回復してはいても、体力が戻る事はない。二度も瀕死に陥っていたトロルには、最上位の灼熱呪文から逃れるほどの体力は残されていなかったのだろう。故に、燃やし尽くされる事しか術はなかったのだ。

 

「……あの呪文の契約を急がないと」

 

 戦闘が終了し、移動を開始し始める。カミュもリーシャも武器を納め、笑みを浮かべて近づいて来たメルエの手を握って再び歩き始めた。

 そんな三人の後ろを歩き始めたサラは、誰にも聞き取れない小さな呟きを漏らす。魔物の肉が焼けた不快な臭いと、木々の焦げ臭さが残る森の中で、その小さな呟きは天へと登って行った。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

次話は今月中に更新出来るかどうかわかりませんが、頑張って描いていきます。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。



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ネクロゴンドの洞窟①

 

 

 

 一行は森を抜ける為に歩き続ける。地図を見ながら、木々の隙間から覗く太陽の位置を確認したカミュとサラは、途中から西へと進路を取り始めた。

 森の中には魔物は多く、何度かトロルとの戦闘が行われたが、ベホマスライムの存在は確認されず、それ程苦労をする事はなかった。夜半になると急激に気温は下がり、その冷気が固まる事によって生まれるフロストギズモなどとも戦闘が行われる。だが、それもカミュ達にとって、身の危険を感じるほどの戦闘とはならなかった。

 

「森を抜けたぞ」

 

 数日歩いた後、ようやく長い森を抜けた一行の前に開けた景色は、予想とは異なった物となる。

 広がる平原は、穏やかな風に靡きながら不快な香りを発する物ではない。ただ静かに、そして青々と茂る芝が延々と広がり、空には大きな白い雲が悠然と流れていた。太陽は優しく輝き、諸悪の根源の居城があると云われる場所にも、例外なく暖かな恵みの光を注いでいる。

 その光景は、人間にとっては釈然としない物なのかもしれない。

 

「どのような種族であろうと、どのような想いを持っていようと、自然の恵みは優しいのですね」

 

 人間にとって魔物は『悪』である。その明確な悪が、自分達と同じように神や精霊の恵みを平等に受け取る資格を有しているなどという事は、人間にとっては許す事が出来ない物なのだろう。

 魔物は夜半に動き、闇と共に生きる物。そんな考えが至極当然のように人間界には広まってはいるが、魔物にも様々な種族があり、凶暴性を増しただけの獣もいる。そんな物達が大地や空の恵みを受けずに生きて行ける事など不可能であろう。食料となる獣も、草も、果実も、全ては大地と空の恵みによって育っているからだ。

 この景色を見る限り、この地域で生きる魔物達の上にも、確かに神や精霊の祝福は下りている。大地に根付いた草花は、その生命力を誇るかのように咲き乱れ、小川を流れる水は清らかに澄み、その川で生きる魚達は澄んだ水の中で生きる小さな生命を食料としていた。

 魔物であろうと、エルフであろうと、人間であろうと、この暖かな恵みがなければ生きてはいけないのではないかと、初めてサラは考える事となる。

 

「カミュ、この先には断崖絶壁の岩山しかないぞ?」

 

「ああ、地図上でも行き止まりにはなっているが、行ってみるしかない」

 

 太陽の恵みによって咲いている花々に興味を示したメルエと共に、美しい景色に頬を緩めていたサラとは別に、カミュとリーシャはこの景色を冷静に分析していた。

 森を抜けた先に見えるのは、断崖絶壁の岩山。それ程近距離ではないが、岩山の大きさが尋常ではない為、平原の先が行き止まりである可能性の方が高い事は明白であった。

 しかし、それでもカミュの言うとおり、彼らには進むしか方法がない。ガイアの剣という神代の剣が勇者一行の道を開くという予言を信じるのだとすれば、この先に彼らが目指す物があると考えるのが正しいのだろう。

 

「メルエ、行きますよ!」

 

「…………ん…………」

 

 地図を見ていたカミュが動き出すのを見たサラは、近場の花を見る為に屈んでいたメルエを呼び寄せる。笑みを浮かべて近づいて来た少女は、サラの手を握ってカミュの後を追って歩き出した。

 周囲に木々など欠片もない平原は、魔物達から姿を隠すような場所も存在せず、魔物側からも一行側からも全てが筒抜けのように見渡せる。それは逆に言えば、不意打ちのような物が否定される事となり、雨などが降らない限りは安全に歩けるという事を指していた。

 

 平原での旅は順調に進み、天候も崩れなかった為、二日目には岩肌に辿り着く事となる。魔物との遭遇もなく、空に輝く太陽は、夜半からの気温を取り戻すかのように暖かな光を降り注いでくれた。

 メルエは上機嫌にサラの手を取り、教えて貰った歌を口ずさみながら歩き続ける。そんなメルエの姿を見ながら、サラは数日間考え続けていた疑問が大きくなって行くのを感じていた。

 あの夜、メルエは呪文の行使の為に魔法力を全て使い切ったように眠っていた筈。それは魔法という神秘を持つ者にとっては必ず起きる事ではあるが、今までの経験上、メルエが新たに契約した呪文でそのような事になった記憶はない。誇るように新たな呪文を覚えた事を口にし、喜々として新たな呪文を皆の前で行使して来たメルエにしては珍しい事であったと言えるだろう。

 何より、メルエの性格上、自分が契約した筈の呪文が正確に行使出来ず、自分の力不足を痛感するような状況になって尚、このように上機嫌でいる事が出来るであろうか。

 そんな、自分でも何処か歪だと思う疑問を、サラは捨て切れずにいた。

 

「カミュ、向こうに岩の隙間が見えるぞ?」

 

 岩肌に辿り着き、その岩にへばり付くように動く小動物を見るメルエの姿にサラが目を奪われている間に、リーシャは断崖絶壁の岩肌に洞窟の入り口のような隙間を見つけていた。

 本来、洞窟とは危険な物である。中がどうなっているのかが解らず、人間が通れる程の幅があるのかどうかも解らない。更に言えば、その場所で人間が呼吸を出来るのかも解らなければ、危険な魔物が棲み付いている可能性も拭えはしないのだ。

 だが、それでも彼らに足を止めるという選択肢は残されてはいなかった。

 カミュの視線が他の三人に向けられた瞬間、全員が即座に頷きを返す。この洞窟に入る以外、彼等に道は残されてはいない。この場所がどれ程に天からの祝福を受けた場所であろうと、魔物達もまた、天からの恩恵がなければ生きて行けないとしても、彼等の目的は唯一つ。

 それは『魔王バラモス』の討伐なのだ。

 

「サラ、メルエを頼むぞ」

 

 先頭で洞窟内に入ったカミュの持つ<たいまつ>の明かりだけが頼りとなった時、リーシャの声に頷いたサラはメルエの手を取って洞窟内へと入って行く。サラの右手はメルエの手を、左手は<たいまつ>を握っている。魔物の襲来に瞬時に反応は出来ないだろうが、それでもサラはメルエを護るだろう。そして、一撃目を防げば、後は最後尾のリーシャの仕事であった。

 リーシャが慢心している訳ではなく、それだけの自信を持てる場数を彼女達は越えて来ている。何度も積み重ねた経験が、一つの言葉で全てを理解し、実践出来るだけの能力を育てて来たのだ。彼女達が歩んで来た旅は、それだけ過酷な物であったとも言えるだろう。

 

「人の手が入っている様子は微塵もないな」

 

「燭台もないとなれば、常に<たいまつ>の火だけが頼りか」

 

 狭い入り口を抜けると、屈む事無く立つ事の出来る程の広間へと出る。しかし、その空間はある程度の広さを備えてはいても、設備が整っている訳ではなかった。

 灯りを点す燭台がある訳ではなく、壁が整備されている訳でもない。自然に出来上がったと思われる洞窟は、暗い闇に閉ざされており、<たいまつ>で照らし出された僅かな距離だけしか視認出来ない状況であった。

 彼らがこれまで見て来た洞窟は、ある程度人の手が入っていたと言っても過言ではない。このような原始的な洞窟は初めてであり、視界の悪さと漂う邪気に、カミュとリーシャは警戒心を強めていく。

 

「一本道ですが、何が出て来るか解りませんからね……メルエ、傍を離れないで下さい」

 

「…………ん…………」

 

 慎重に歩を進め始めたカミュの後ろからサラとメルエが続く。この洞窟に人の手が入っていないとなれば、太古の昔より魔物の住処となっているという事になる。ならば、サラの言うとおり、不測の事態が起こる可能性もあるだろう。傍にいるメルエは、前方の闇の中で灯る<たいまつ>の灯りへ目を向けたまま、しっかりと頷きを返した。

 足元に注意しながらも、周囲を照らす灯りに映る洞窟内の姿は、やはり自然に出来上がった物である事が解る。剥き出しの岩肌は冷たく威圧的であり、滴る水滴が洞窟内を冷やしていた。

 

「一本道だな」

 

 最後尾を歩いていたリーシャの言葉通り、洞窟の入り口からは一本道が続いている。それ程狭くはない通路であるが、剥き出しの岩肌が閉鎖間を醸し出していた。

 短い一本道には魔物の気配はなく、一行は足元を注意しながらも、ゆっくりと前進を続ける。暫く歩くと、通路は右へと折れ、その先は小さな空間が広がっていた。空間の先には更に上へと上がる坂道が見え、それが上の階層へと続く道である事は明白。立ち止まったカミュの許に集まった三人は顔を見合わせて、その坂を上り始めた。

 

「息苦しくはないな……。魔物も存在するという事か」

 

「慎重に進みましょう」

 

 坂を上りきった場所は、更に暗闇が増している。

 闇は、人間の本能を恐怖させる。それは人間がこの世界に生まれた時に持つ生来の物であり、その本能があるからこそ、人間は火を使い、灯りを求めるのだ。自分の瞳では認識出来ない物を恐怖するのは、生き物であれば当然であろうが、人間は他の種族に比べて夜目が利かない。順応力は多種族に比べて低いのかもしれない。

 <たいまつ>を周囲に翳すと、そこは下の階層よりも広い事が解る。岩肌は相も変わらず威圧的ではあるが、目の前の通路は二方向に分かれていた。つまり、分かれ道がある程に洞窟内は入り組んでおり、それ相応を広さを持つと考えるのが妥当であろう。

 

「……どっちだ?」

 

「そうですね……リーシャさんに聞いてみましょう」

 

「私か!? う~ん……直進かな?」

 

 分かれ道が出て来た場合、このパーティーには『行き止まり探索機』が存在する。常にこのパーティーの探索を陰で支え続け、その信頼度はパーティーの全員が高く評価する人物。その重要度を理解していないのは、当の本人だけなのかもしれない。

 先頭で立ち止まったカミュの問いかけにサラも同調し、最後尾から追いついたリーシャが満更でもない表情で考え込む。そして、いつも通り、彼女が口にした方角とは別の方角へと彼等は歩み出すのだった。

 毎度の事ながら、問いかけたにも拘らず、意見を全否定される事に憤りを感じるリーシャではあったが、<たいまつ>という乏しい明かりの中でも柔らかな笑みを浮かべるメルエに手を取られ、仕方無しにその後を付いて行くのであった。

 

「……どっちだ?」

 

 しかし、その頻度が上がれば、流石のリーシャの機嫌も悪くなる。先程の分かれ道から時間を於かずに現れた十字路に溜息を吐き出したカミュの問いかけに、不満そうな表情をしたリーシャは、口を開こうとはしなかった。

 返って来ない答えに振り向いたカミュの視線を追うように、サラとメルエの視線もリーシャへと移動する。カミュはリーシャの言う事を聞かないが、サラとメルエはリーシャの言葉を待っている事が解った。特にメルエは、彼女の事を心の底から信じているというような澄み切った瞳を向けて来るのだから堪らない。

 

「左だ! それ以外はどっちに行っても同じだ!」

 

「え?」

 

 ぶっきらぼうに答えたリーシャではあったが、その答えを聞いたサラは、間抜けな声を上げ、心底不思議そうにリーシャの顔を見つめる。その姿を見たメルエも可笑しそうに微笑み、リーシャに向かって小首を傾げた。

 顔を背けていたリーシャではあったが、自分に再度集まる視線の違和感に気付き、自分が何か間違った事を言ってしまったかと考え込む。だが、自分が発した言葉に可笑しな所は見つからず、こちらもまた首を傾げてしまうのだった。

 

「……そこまで性能は上がったのか?」

 

「本当に凄いですね……」

 

「何がだ! 私に解るように説明しろ!」

 

 そんなリーシャの姿を呆然と眺めながらカミュが呟いた言葉に、サラも同意する。解らないリーシャにとっては、苛立ちしか募らない物ではあるのだが、それを細かく説明する気は、彼等二人には無いようであった。

 知らぬは本人ばかり。その探知能力の上昇は、魔物の巣窟となった場所を旅し続けなければならない勇者一行にとって、貴重な物であろう。それこそ、サラの回復呪文の増加や、メルエの攻撃呪文の増加よりも、ある意味で重要度は高いといっても過言ではなかった。

 説明する気の無い二人に掴みかかろうとするリーシャの手を握ったメルエが微笑み、改めてこの女性戦士の希少性を認識したカミュは、十字路を右に向かって歩き出す。それは、完全にリーシャの言葉を無視するような行動であるのと同時に、その言葉を無条件に信じている証でもあった。

 

「…………リーシャ…………」

 

「ぐぐっ……ん? どうしたメルエ?」

 

 歩き出すカミュの後姿を悔しそうに睨むリーシャの手が引かれる。手元へと視線を移したリーシャは、後方へと視線を送る幼い少女を目にした。

 その行動の理由を問いかけてはいるが、リーシャの中でその答えは既に出ている。その証拠に、反対の手は既にバトルアックスへと伸びていた。

 メルエという少女がこのような行動を起こす時、何があるかなど、説明しなくとも把握出来る。それだけの時間を共にして来ていたし、それだけの経験も積んで来た。それはリーシャだけではなく、他の二人も同様であろう。何も声を掛けなくとも、先を歩いていた二人がそれぞれの武器を手にして戻って来ていたのだ。

 

「メルエ、こちらに!」

 

 メルエが見つめていたのは、リーシャが指し示した左手の方角。<たいまつ>を向けても奥まで見えない程の闇に包まれた場所から数個の小さな光がカミュ達に向かって動き始めていた。

 手にした<たいまつ>を岩肌の出っ張りに引っ掛けたカミュとリーシャが先頭に立つ。その後方で杖を構えるメルエを庇うようにサラが立った。

 準備は整った。

 何度と無く繰り返して来た、勇者一行の戦闘の開始である。

 

「盾を掲げろ!」

 

 闇の中から突如出現した赤い光を見たカミュは、隣に立つリーシャに向かって叫んだ。咄嗟に反応したリーシャのドラゴンシールドに強い衝撃が当たる。それと同時に、周囲を髪を焦がす程の熱気が広がった。

 それと同時に姿を現した魔物は、重そうな体躯を引き摺るように首を伸ばし、先程の熱気を吐き出した口を大きく開いて雄たけびを上げる。その姿は以前、サマンオサ地方で遭遇した物と酷似した物で、驚異的な防御力を有する事は、魔物を包むような甲羅が示していた。

 

<ガメゴンロード>

サマンオサ地方に生息するガメゴンの上位種と考えられる魔物である。長い年月を経て劣化した龍種である事は変わりがないが、ガメゴンよりも龍種の血の名残を色濃く残している。その証拠に、その亀のような容貌とは異なり、口から炎を吐き出して周囲を焼く事も出来る。最下級であっても、純粋な龍種であるスカイドラゴン同様の火炎は、通常の魔法使いが唱えるベギラマなどを飲み込む程の威力を誇った。更に、ガメゴン同様、生まれた時から背負う甲羅は、鉄製の武器さえも弾く程に強固であり、戦闘時においては傷をつける事さえも難しいと云われている。遭遇した者の中で生き残った者はおらず、伝承にその姿が残っているだけであった。

 

「炎を吐き出すのは厄介だな……」

 

「一体だけなのが救いか……」

 

 前線に出ている二人は、暗闇から出て来た魔物が一体だけである事に安堵する。実際に暗闇から見えた光は複数のように見えたのだが、もしかすると<たいまつ>の光が甲羅に反射したのかもしれないと考えたのだ。

 暗闇から出て来たのはガメゴンロード一体。それ以外は見えず、伸ばされた首は前衛の二人の動きを警戒するように動いている。サマンオサで遭遇したガメゴンと同様の防御力を有しているのならば、カミュやリーシャの攻撃の効果が薄い可能性もあったが、それでも魔物の生態を知る為にも、攻撃を仕掛けてみなくては始まらないのも事実であった。

 故に、カミュが先陣を切った。

 攻撃対象が定まらないガメゴンロードに向かって駆け出したカミュは、それを迎撃しようと開かれた口へ剣を振り下ろす。龍種の爪や牙を加工したと云われるドラゴンキラーは、同じ龍種の鱗さえも斬り裂く程の鋭さを誇る。劣化したとはいえ、龍種であると云われるガメゴンロードの口元を容易く斬り裂き、その傷跡から体液が弾け飛んだ。

 

「ギシャァァァ」

 

 雄叫びのような悲鳴を上げたガメゴンロードは、甲羅に仕舞われた首を最大限に伸ばし、剣を振り下ろした態勢のカミュの横腹を力任せに払う。纏っている魔法の鎧を変形させるのではないかと思う程の衝撃を受けたカミュは、そのまま岩壁まで吹き飛ばされ、身体を強打した。

 カミュの状態を確認するよりも先に、伸び切ったガメゴンロードの首へと振り下ろされたリーシャの斧は、首が瞬時に甲羅へと収納された事によって空を斬る。そして再び顔を出したガメゴンロードが吐き出した火炎を防ぐ為にリーシャは盾を掲げた。

 吐き出された火炎は、龍種の物だからなのかは判らないが、ドラゴンシードを覆う龍種の鱗によって防がれ、その熱気をリーシャの身体に伝える事は無い。再び盾を下ろしたリーシャは、斬り裂かれた口によって、火炎を思うように噴射出来ないガメゴンロードの姿を見て、斧を横薙ぎに振るおうと身構えた。

 

「@%#$&&$」

 

「えっ?」

 

 斧が今にも振られようとしたその時、サラの真横辺りから奇妙な奇声が発せられる。その突然の出来事に、サラは間抜けな声を上げ、その傍にいたメルエは奇声の出所へと視線を動かした。

 その出所は、死の瀬戸際まで追い詰められたガメゴンロードの物ではない。<たいまつ>の灯りが乏しい中でははっきりと視認出来ない闇の中から聞こえたのだ。しかも、魔物の気配には人一倍敏感なメルエでさえも、今の今まで気付く事が出来なかったという事が、サラの心に恐怖を呼び起こさせる。

 

「くそぉ! 何時の間に増えたんだ!」

 

 闇へと視線を向けていたサラは、先程の奇声が魔物特有の呪文行使である事に気付き、その対象が自分やメルエでなかったと確認すると、前線の二人へと視線を戻す。しかし、その先に広がる光景は、とても信じたくは無い物であった。

 闇雲にバトルアックスを振り回すリーシャ。そして、それを嘲笑うかのように虎視眈々と火炎を吐き出す機会を伺うガメゴンロード。それは、このパーティーの主戦力である女性戦士が幻に包まれてしまっている事を明確に物語っていた。

 この旅の中で何度も幻覚系の呪文に惑わされて来たリーシャであるが、今回はカミュが未だに立ち上がっていないからなのか、味方に攻撃をするような事はなく、何度かガメゴンロードの甲羅を打つ場面も見える。それが、幻に包まれたといえども、正確に敵を見抜いている証であり、リーシャという女性戦士の力量の上昇の証でもあるのだろう。

 

「メラ!」

 

 危機的状況を目にしたサラは、即座に先程の奇声の発信源に向かって最下級の火球呪文を放つ。小さな火球が岩肌に衝突し、弾ける事で証明のように周囲を明るく照らした。そして、そこにあった物を見たサラは、怪訝そうに眉を顰めながらも、傍で眉を下げているメルエに視線を移す。

 その視線を受けたメルエは、自身の役割が与えられる事を理解したのだろう。即座に眉を挙げ、雷の杖を握って指示を待つ態勢へと変化する。その姿がサラにはとても頼もしく映った。

 

「メルエ、一緒に。カミュ様を治療した後、リーシャさんを傷つけないように呪文を行使しますよ」

 

「…………ん…………」

 

 頷きを返したメルエと共に駆け出したサラは、リーシャとガメゴンロードの間を縫うようにカミュの許へと辿り着く。

 未だに起き上がる事の出来ないカミュは、打ち所が悪かったのか、内臓を傷つけているのかもしれない。即座にベホイミを詠唱したサラであったが、一度の詠唱では回復しない事に眉を顰め、再度ベホイミを詠唱した。

 サラがカミュを治療している間も、メルエはガメゴンロードと、未知なる魔物の方向を交互に見つめ、呪文行使の機会を伺う。以前までのメルエであれば、カミュが倒れたという非常時にうろたえていたかもしれない。だが、今のメルエはサラという『賢者』を信じているし、自身の役割を正確に把握していた。

 

「すまない……助かった」

 

「カミュ様、リーシャさんはマヌーサの影響を受けています。ですが、マヌーサはあの龍種が行使したのではありません。あちらの方角にその魔物がいると思われます。先にその魔物を倒さなければ……」

 

 起き上がったカミュは、サラの口から出た言葉を聞き、『またか』と小さく呟きながらも現状を正確に把握する。そして、サラの指差す方角に岩肌に掛けた<たいまつ>を放り投げた。

 乾いた音を立てて転がる<たいまつ>の灯りは、その場所にある何かを映し出す。しかし、その何かは、その姿からは想像も出来ない事を起こすのだった。

 <たいまつ>の炎に映し出されたのは、只の袋。薄汚れた袋は、旅人が持つような皮袋ではなく、布で出来たような麻袋に近い色合いをしていた。だが、その袋は、まるで<たいまつ>の炎から逃げるように場所を移したのだ。

 飛び上がるように動く袋が、只の袋である訳は無い。それは生命を持った何かなのだろう。袋の中に魔物が生きているのかもしれないし、袋そのものが生命体なのかもしれない。人喰い箱やミミックという無機質な物体にも命を吹き込む程に魔王の魔法力は強い。ならば、只の布袋に命を吹き込む事など容易いと考えても決して考え過ぎではないだろう。

 

「ヒャダイン」

 

 剣を持ち直したカミュが、布袋の方へ駆け出すその時、サラの詠唱の声が響き渡った。

 未だに幻に包まれているリーシャに向かって、一歩下がったガメゴンロードが火炎を吐き出したのだ。その火炎を今のリーシャが盾で防ぐ事は不可能であろう。故に、その火炎を相殺するようにサラが持ち得る最強の氷結呪文を唱えたのだった。

 ヒャダインという氷結呪文は、ベギラマという灼熱呪文よりも上位の魔法である。古の賢者達が、ヒャダルコの上位魔法を編み出したのか、それとも太古から脈々と受け継がれている物なのかは判らないが、サラはこの氷結呪文が最上位の物だとは思っていない。ベギラゴンという最上位の灼熱呪文に匹敵するような氷結呪文もまた、あの『悟りの書』の中に記されているのだ。

 

「カミュ様、援護はしますが、あの袋が何であるか解らない以上、軽率に呪文を行使する事は出来ません」

 

「わかった……」

 

 リーシャを襲う火炎が全て蒸発した事を確認したサラは、駆け出そうとするカミュに向かって己の考えを口にする。確かに、魔物であるかも定かではない物に呪文を行使するのは諸刃の剣と言っても過言ではないだろう。魔法の効かない魔物とは既に遭遇しているし、精神系の呪文を持つ魔物であれば、マホトーンのような呪文妨害の術も持っているかもしれない。

 それを理解しているからこそ、カミュは大きく頷きを返した後、転がる<たいまつ>の方向へと一気に駆け出した。

 

「クケケケ」

 

 しかし、駆け出したカミュは、横合いから襲い掛かる金属に気付き、咄嗟に盾を掲げる事となる。軋む龍種の鱗と乾いた金属音が洞窟内に響き、身を転がしたカミュが拾い上げた<たいまつ>を掲げる事によって、その未知なる生命体の全貌が明らかとなった。

 嫌らしい笑い声のような声を響かせるその袋の中腹には、巨大な二つの瞳と大きく裂けた口が浮かんでいる。まるで袋の中とは別の次元へと繋がっているのではないかと思う口からは鋭い牙とだらしの無い舌が垂れ下がっていた。

 袋の口を結ぶ紐は緩んでおり、中から飛び出した金銀の財宝や宝石が今にも零れ落ちそうになっている。その金で出来た鎖のような物が、先程カミュを襲った物であった。

 

<踊る宝石>

財宝目当てに洞窟に入った盗賊などが魔物に襲われて命を落とし、袋に入れた財宝が放置された結果、魔王の魔法力で命を吹き込まれたとも、洞窟に逃げ込んだ盗賊達の持っていた財宝が魔物と化し、盗賊達を喰らう事で上位の魔物となったとも云われている。袋は安物の布袋ではあるが、中に入っている財宝は高価な物が多く、この魔物を目的に洞窟に入り、一攫千金を狙う者達も多かった。人間による各地の開拓が進むにつれ、洞窟などでその姿は皆無となり、今では伝承でしか知られていない。

 

「メルエ、リーシャさんの援護を!」

 

 横合いからの攻撃を盾で弾いたカミュが、視界の悪さもあって踊る宝石の姿を見失う。<たいまつ>を掲げて周囲を見渡す間に、サラは杖を握るメルエへと指示を飛ばした。

 頷きを返したメルエではあったが、リーシャとガメゴンロードの距離が近すぎて呪文の行使が出来ない。今のメルエは魔法の威力を調整する事は出来るが、それでも彼女が行使する魔法の威力は規格違いなのだ。

 魔物を攻撃した余波でリーシャが傷つく可能性がある以上、この心優しい『魔法使い』は動けない。それを確認したサラは、行使する機会を探りながらも踊る宝石の横槍に気を配った。

 

「メルエ、今です!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 リーシャの持つバトルアックスがガメゴンロードの甲羅に弾かれ、彼女が態勢を崩すのを見たガメゴンロードが距離を空ける。その機会を待っていたサラは、隣で杖を突き出したメルエに最終の指示を飛ばした。

 杖を振り下ろした少女の魔法力は、大きな火球となって魔物へと突き進む。距離が空いたとはいえ、ベギラゴンやヒャダインなどであれば、傍にいるリーシャを巻き込む可能性もあり、単体に攻撃が可能な火球呪文を選択したのだろう。

 口を大きく開いたガメゴンロードの顔面に向かって飛んだ火球は、そのまま劣化した龍種の鱗をも焼くかに思われた。

 

「M@H0K@」

 

「えっ?」

 

 サラもメルエも魔物の機能の一時停止を確信していたが、それは露と消えて行く。

 大きく口を開いたガメゴンロードは、その口から火炎を吐き出すのではなく、奇妙な雄叫びを上げたのだ。それは彼女達が何度も聞いた事のある、魔物特有の呪文詠唱。

 サラの驚きの声と共に、ガメゴンロードの身体を光の壁が包み込む。

 暗闇に閉ざされた洞窟の中でも視認出来る程の光の壁は、<たいまつ>の明かりを反射するような輝きを放ち、ガメゴンロードの周囲に完成した。

 そして、人類最高位に立つ『魔法使い』が放った火球は弾かれた。

 

「メ、メルエ!」

 

 『人を呪わば穴二つ』

 相手を呪詛するなば、その相手も自分を呪詛している可能性もあり、その呪いは必ず術者に帰って来る。そんな言葉が一瞬サラの頭の中で渦巻いた。

 弾かれた火球は、術者であるメルエに向かって真っ直ぐ飛んで来ている。魔物の身体さえも融解させてしまう程の熱量を誇る火球である。メルエのような少女がその身に受ければ、骨さえも残らない可能性もあるだろう。

 今の状況を正確に把握出来れば、ガメゴンロードの唱えた呪文が、以前にメルエが唱えたマホカンタである事は直ぐに解る。だが、余りに突然の出来事であった為、サラは困惑していた。メルエが唱えた際に、それを魔物が唱えた時の脅威を考えていたにも拘らず、実際にその場になった時には何も出来なかったのだ。

 

「……あ…ああ……」

 

 サラが正気に戻る暇もなく、呆然と立つメルエに火球は迫って行く。弾かれた事によって速度こそ落ちてはいるが、その威力に陰りはない。

 対抗策としては、ヒャダインなどの氷結呪文をぶつけて相殺する事しかないのだが、この距離では相殺し切れはしないだろう。そして、メルエでさえもその事に思い当たらず、只々迫り来る火球を見つめている事しか出来なかった。

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 パーティー内で最強の呪文使いと魔法使いが呆然とする中、彼女達の胸を振るわせる雄叫びが洞窟内に轟く。そして、その瞬間、メルエに迫っていた大きな火球は、真っ二つに斬り裂かれ、大きな爆発音にも似た音を立てて左右の岩肌に弾け飛んだ。

 真昼のように明るくなった洞窟内で、メルエの前に立った者は、手にした斧を地面に叩きつける。その腕は熱によって焼け爛れ、伸び始めていた金髪の髪は中程まで焦げていた。斧は真っ赤に熱し、それを持つ手もまた、皮膚を溶かす不快な臭いを放っている。それでも彼女の瞳は、目の前の魔物一点に注がれ、怒りを湛えていた。

 

「…………リーシャ…………」

 

「すまなかった。また私は幻覚に襲われていたようだ」

 

 自分の目の前に立つ大きな背中に安堵したメルエは、その頼りになる姉のような存在の名を口にする。その声にも振り返ろうとしない女性戦士は、謝罪の言葉を口にした後、手に持つ斧を何度か振り、その温度を下げて行った。

 真っ赤に熱した斧の色が、金属の色へと戻る頃、サラはその身体を回復させる為に三度目のベホイミを唱える。既に一度や二度の詠唱では、回復出来ない傷を負う事も多くなって来ていたのだ。

 

「リーシャさん……髪が……」

 

「髪などまた伸びて来る。それよりもサラ、あの魔法は術者が死ぬまで有効なのか?」

 

 焦げた髪の毛は、洞窟の床へと落ちている。四年の旅の間でも、何度か伸びた髪を切りそろえる事によって、肩口付近に揃えていたリーシャの金髪は、耳も見える程に短くなっていた。

 髪は女性にとって命にも等しい物である。多少のウエーブが掛かっているとはいえ、リーシャの持つ綺麗な金髪であれば、専門の業者に良い値段で買い取って貰える程であろう。それ程に美しく輝く髪の毛を何でもない事の様に話すリーシャの顔を見たサラは、リーシャ自身でマヌーサによって陥った幻から抜け出した事を知った。

 後方を見れば、先程のメラミの破裂によって明るくなった事で、カミュは踊る宝石の姿を確認し、今まさに止めを刺そうとしている。術者である踊る宝石が生きている以上、リーシャがその呪文の効力から抜け出す事は実質不可能に近く、相当な精神力を必要とした事が伺えた。

 メルエの危機が彼女を呼び戻したのか、それとも魔物への怒りが彼女を正気に戻したのかは解らないが、今のリーシャの目的は只一つという事だけは確かである。

 

「いえ、あの呪文は一度きりしか効果はありません。一度魔法を弾いてしまえば、光の壁もまた霧散します」

 

「そうか……ならば、あの魔物にルカニを」

 

 サラの答えに頷いたリーシャは、手短い指示を口にした後、一気にガメゴンロードへと突進する。ルカニという守備力低下の呪文の詠唱を促すという事は、手に持つ武器で直接攻撃するつもりなのだろう。リーシャのバトルアックスとて、最強の武器である訳ではない。先程のように高熱に曝され、融解しそうな程に熱しきった金属を急激に冷やしたのだ。その構造が脆くなっていても不思議ではないだろう。

 それでも、リーシャという女性戦士は斧を振るう筈。それは、彼女の誇りでもあり、彼女の使命でもあるからだとサラは知っていた。

 

「@%#$&&$」

 

 そんなサラとリーシャの短いやり取りの最中、カミュは踊る宝石を追い詰めて行く。追い詰められた踊る宝石は、浅く斬られた袋の端から小さな宝石をばら撒きながらも詠唱を口にする。それは、勇者一行の中で最強の攻撃力を持つ戦士の精神を蝕んだ呪文であり、攻撃対象を見失う幻覚に陥る魔法。

 しかし、精神呪文というものは、不意打ちでなければ高位の者には効果がない。

 

「あの馬鹿と一緒にするな……」

 

「グキャ」

 

 呪文がカミュを包み込むが、その程度で揺れる勇者の精神ではなかった。

 不敵な笑みと共に振り下ろされた剣は、正確に踊る宝石を頭上から真っ二つに斬り裂き、袋の中身を辺りにばら撒かせる。飛び出した財宝や宝石の輝きは闇に吸い込まれ、断末魔の叫びを上げた踊る宝石は只の布袋へと戻って行った。

 転がる<たいまつ>を拾い上げたカミュは、そのままガメゴンロードと対峙したリーシャの方へと視線を向けるが、そちらの戦闘も終盤を迎えていた。

 

「ルカニ!」

 

「いやぁぁぁ!」

 

「M@H0K……」

 

 駆け出したリーシャの陰に隠れるように身を動かしたサラは、リーシャの到着と同時にその呪文の詠唱を完成させる。呪文の対象を魔物に絞った詠唱は、前方を駆けるリーシャの脇をすり抜け、ガメゴンロードに襲い掛かった。

 死角から詠唱された呪文に対応が遅れたガメゴンロードの詠唱は最後まで続かず、振り下ろされたバトルアックスの小さな刃がその甲羅に吸い込まれて行く。甲羅の中央に突き刺さったバトルアックスは、その威力によって甲羅全体に大きな亀裂を入れた。

 バトルアックスという斧は両刃の武器である。だがその刃は、片方が大きく、片方が小さな物であった。大きな方が面は広く通常の戦闘で使う事が多い。それにも拘らず、リーシャは小さな刃の方で甲羅を打ったのだ。

 それは、小さな刃での一点突破を図ったからであろう。世界最高位に立つ戦士の力が、その小さな刃に全て集中される。その攻撃力は計り知れない物であった。

 

「グギャァァ」

 

 甲羅に深々と突き刺さった斧を引き抜いたリーシャは、間髪入れずにもう一度同じ場所へ斧を振り下ろす。大きな亀裂の入った甲羅は、二度目の攻撃で木っ端微塵に砕け散り、既に形を変えてしまった小さな刃は、ガメゴンロードの本体を抉って行った。

 甲羅と共に砕けたバトルアックスの小さな刃は、鋭い刃へと変化し、劣化した龍種の鱗を突き破り、その臓腑をも壊して行く。断末魔の叫びを上げ、瞳の光を失ったガメゴンロードは、だらしなく首を床へと落として生を手放した。

 

「終わったか?」

 

「カミュ様……鎧が?」

 

 沈黙したガメゴンロードを見下ろすリーシャの後姿を見ていたサラは、近づいて来たカミュの胴体を見て驚きの表情を浮かべる。先程、回復呪文を詠唱した時には周囲の闇の影響でカミュの胴体を護る鎧の具合まで気付く事はなかった。

 カミュが纏う魔法の鎧の脇腹付近は、ガメゴンロードの攻撃を受けた事によって醜く窪んでしまっており、防御力に支障はないだろうが、着続ける事に抵抗がある程の形状となっていたのだ。だが、それでも鎧としての機能がある限り、この場所で鎧を脱ぎ捨てる事は命を捨てる事と同義である。それをカミュも理解していた。

 

「片刃が駄目になってしまったな……」

 

 そんなサラの許へリーシャも戻って来る。斧の刃の部分に顔を近づけるようにして歩いて来た彼女は、その武器にも限界が来ている事を薄々感じ始めていたのかもしれない。

 バトルアックスは、スーの村で購入した武器であり、あれから二年近くの月日が経過している。よくよく考えれば、鉄の斧という武器程の付き合いはないかもしれないが、それでも随分の時間を共にしていると言えるだろう。

 リーシャは戦士である為か、武器の手入れを欠かす事はなく、常にその輝きが失われる事はなかった。その大切にしていた武器を、己の無茶によって潰してしまったのだから、彼女の胸の内は外から見るほど穏やかな物ではないだろう。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

「ん? メルエが何を謝る必要がある? 今回の魔物が魔法を反射する呪文を唱える事を知る事が出来た。それだけでも大きな収穫だ」

 

「そうですね……私の方こそ、申し訳ありません。あのような場面で咄嗟に相殺の呪文を唱えなければならなかったのに……。私もメルエも、もっと頑張らないといけませんね」

 

 少し湿った空気が流れていた事が原因なのか、今まで全く言葉を口にしなかったメルエが、泣きそうに顔を歪めながらも小さな謝罪を口にする。彼女にとって、魔法とは誇りであり、自分が自分である為の大事な戦友である。それが役に立たなかったという事は身を削られる程に辛い事なのかもしれない。

 しかし、そんな少女の謝罪は、髪が極端に短くなった戦士によって一蹴される。そして、それに同調するように口を開いたサラは、自分が突然の出来事に固まってしまった事を謝罪し、罪悪感に苛まれている少女に、まだまだ成長する必要性を説いた。

 姉のように慕う二人から言われた言葉に頷いたメルエは、横から出て来た勇者の手が頭に乗った事で目を細める。ゆっくりと優しく、それでいて力強く撫でるその手は、いつでもメルエの心に強さを生み出す。恐怖に陥った時でも、哀しみに暮れた時でも、そして自信を失ったその時も、この大きな手が何度もメルエを引き上げてくれるのだ。

 

「行くぞ」

 

 自分の頭から離れた大きな手に残念そうな顔を浮かべたメルエであったが、大事な相棒である帽子を被り直し、その後を追うように歩き出す。そんな二人の様子に柔らかな微笑を浮かべたリーシャとサラもまた、岩肌に掛けていた<たいまつ>を再び握り直し、洞窟の奥へと進んで行った。

 暗闇の中へと<たいまつ>の炎が消えて行くと、魔物達の死骸だけが残り、再び洞窟内は深い闇と痛い程の静寂が広がって行く。魔王の直轄地とも考えられるネクロゴンドに生息する魔物達の力量は、ここまでの旅の中でも群を抜いていた。

 僅かな油断が命取りとなり、力任せの攻防であれば身を護る防具や武器さえも失いかねない程に過酷な場所。それは、彼等が目的へと着実に近づいている事の証明なのかもしれない。

 

 

 




読んで頂きありがとうございます。

本当はあの武器の場所まで行きたかったのですが、思っていたよりも戦闘シーンに文字数を取られてしまいました(苦笑)。
ネクロゴンドの洞窟は全部で3話ほど必要なのかもしれません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ネクロゴンドの洞窟②

 

 

 

 一行は次に現れた十字路を当然のように左に折れ、そのまま真っ直ぐ上って行く。洞窟内部は緩やかに上がっており、徐々に上層へと進んでいる事が実感出来た。洞窟内の空気が薄くなっていない事から、何処かに通風口のような穴があるのか、それとも違う場所へと続く出口があるのだろう。

 視界の悪い中を進んだ先へと<たいまつ>を掲げると、少し開けた空間に出た事が解る。細い通路のような場所を一列で歩いていた一行は、魔物の気配を警戒するように横へと広がり、<たいまつ>の灯りが届く範囲を広げて行った。

 

「あれは……剣か?」

 

 そんな中、最後尾に居たリーシャが<たいまつ>を掲げた右方向に不思議な光景が広がっていたのだ。

 人の手が入っていないながらも祭壇のように岩が崩れ、その一段上の岩に何かが突き刺さっている。その祭壇のような場所は、自然に出来たとは考え難い程にしっかりと周囲の岩が砕けてはいるが、何者かが整えたとは思えない程に荒い物であった。

 元々長い年月で作り出された洞窟部分の岩肌を強引にくり貫いたような形の岩に突き刺さった物を見たリーシャは、その形状に相応しい名称を口にする。

 

「とてつもない力を感じますね……」

 

 リーシャの声に視線を移したサラは、その物を目にすると、怯えたように一歩後ろへと下がった。それと同時にメルエもサラの後ろへと隠れてしまい、必然的に前衛二人が取り残される形となる。

 祭壇のように崩れた岩に突き刺さっているのは、間違いなく剣であろう。今現在は、岩に突き刺さっている為、柄の部分と刃の中央付近までしか見えはしないが、<たいまつ>の灯りを受けて輝くその姿は、攻撃の為に使用する金属である事は明白であった。

 柄は細いがしっかりした造りであり、装飾などは皆無であるが眼を引く程の強さを持つ。中腹まで見えている刃は、今打ったばかりのような輝きを放ち、その鋭さはカミュの持つドラゴンキラーを凌ぐほどの物であった。ただ、その刃の色は通常の金属のような鋼鉄色ではなく、真っ赤に燃えるようにも、黄金のように輝くようにも見える。それは、カミュが放つ天の怒りと呼ばれる呪文の色のようにサラには見えていた。

 

「なっ!?」

 

「サラ! メルエとそこで待っていろ!」

 

 剣に惹かれるように近づいたカミュは、<たいまつ>の炎に照らされる事で見えて来た剣の周囲に息を飲む。カミュの変化を敏感に感じ取ったリーシャは、後方から近づいて来ようとするサラとメルエの足を制止させた。

 剣の突き刺さった祭壇のようにくり貫かれた岩の周囲には、それこそ埋め尽くされる程の骨が散乱していたのだ。それは人骨ばかりではなく、魔物のような形をした骨も数多い。総じて言える事は、その骨の中で原型を残している物が少ないという事だろう。

 人骨だけであれば、ここで魔物に襲われたのだとも考えられるが、魔物の骨までもがこれ程の数あると言う事が、その異様さを物語っていた。

 

「カミュ、気をつけろ」

 

「……ああ」

 

 <たいまつ>を掲げたまま周囲を警戒していた二人であったが、魔物の気配がない事で、一歩カミュが前に出る。その行動に警告を放ったリーシャは、援護するようにバトルアックスを手に取った。

 慎重に一歩踏み出したカミュが何の骨だか解らない物を踏み砕く。乾いた音が洞窟内に響き、少し離れた場所に居たサラが眉を顰めた時にそれは起こった。

 

「カミュ様!」

 

 後方から見ていたサラとメルエでしか気付かない場所から、煌く刃が振り抜かれる。<たいまつ>を片手で持っていたカミュは剣を抜いておらず、その咄嗟の叫びに本能で反応した。

 振り抜かれた刃は、カミュが掲げたドラゴンシールドによって防がれ、鱗が軋むような音を立てて弾かれる。踏み出した足を戻したカミュは、態勢を立て直すのと同時に、<たいまつ>を捨てて剣を握り締めた。

 カミュに代わってサラが刃の出所へと<たいまつ>を向けると、そこに居たのは人成らざる者。カタカタと不快な音を立てながら起き上がったのは、周囲に散乱する骨が寄り集まった物であり、何の骨だかも解らない物の寄せ集めは、頭部だけは人型の物となっていた。

 腕は太さも長さも異なる物が六本。その腕全てに錆びた剣が握られており、頭部の人骨は古ぼけた鉄兜を被っている。カタカタと顎を上下に動かしながら迫って来る骸骨に、カミュは一歩引きながらも攻撃の態勢に入っていた。

 

<地獄の騎士>

骸骨剣士と同様の死して尚、剣を手放さない者の成れの果て。騎士としての誇りが自らの死を認める事を許さず、大地を彷徨い続けていた魂が、『魔王バラモス』の魔法力の影響を受けて蘇った亜者である。ネクロゴンド地方という特異性もあり、魔王の魔法力の影響を強く受けた為、その魂の力は増大し、骸骨剣士よりも上位の魔物と化していた。もはや伝説の域へと達していると言っても過言ではないその魔物の姿を見た者は現代にはおらず、魔物の行動や生態なども不明である。ただ、伝承に近い言い伝えでは、この魔物と遭遇した者達は全て、体の自由を奪われたとしか思えない奇妙な状態で死んでいる事が多かったと云う。

 

「ちっ!」

 

 カミュは左から振るわれた剣を盾で防ぎ、その隙に右手でドラゴンキラーを振るうが、その攻撃は地獄の騎士の別の腕にある剣で防がれた。

 勇者一行は、ここまでの旅で数多くの激戦を乗り越えて来ている。如何に伝承でしか伝わっていないような魔物であれ、劣勢に陥る事はない筈である。だが、もはや滅びる肉体もない骨だけの騎士が相手であり、しかも六本もある腕から繰り出される攻撃を、一つの盾と一本の剣で凌ぐのにはかなりの力量を必要とする事には変わりがなかった。

 三本目の腕がカミュへ向かって振るわれた時、後方に控えていたリーシャが前に出る。ドラゴンシールドで攻撃を防いだリーシャは、即座にバトルアックスを振り抜き、地獄の騎士の一本の腕を砕いた。

 

「リーシャさん、横です!」

 

「退け!」

 

 一本の腕を砕き飛ばしたリーシャは、追い討ちを掛けようと斧を振り上げる。しかし、その横合いから振り抜かれた剣を見たサラの悲鳴にも似た声が上がった。

 気付いたリーシャの盾は間に合わず、武器を持つ手を強く引かれた事で、リーシャは後方へと投げ出される。代わりにその剣を受けたのは勇者と呼ばれる青年の盾であった。軋む龍種の鱗が錆びた剣を弾き返し、態勢を立て直す為に後方へと下がろうとした彼に、更なる追撃の魔の手が伸びる。

 先程リーシャによって腕を砕き飛ばされた地獄の騎士が、その空洞しかない口を大きく開き、奇妙な唸り声を上げ始めたのだ。それは、今までの旅で聞いた事のある、魔物特有の呪文詠唱とは異なり、何かを吐き出そうとする魔物の唸り声に似た物であった。

 

「くそっ!」

 

「リーシャさん! 担いででもカミュ様を下がらせてください!」

 

 骨だけとなり、何処にも何かを溜め込む場所などない地獄の騎士の口から、真っ赤に燃え上がるような煙が吐き出される。それをまともに受けてしまったカミュは、大きな舌打ちと共に悪態を口にした。

 真っ赤に染まる煙はカミュの全身を包み、その身体の器官を麻痺させたように停止させて行く。身体の全ての器官が焼き付いてしまったかと思う程の痛みと痺れが全身を覆い、カミュはその場に倒れ伏した。

 状況を即座に判断したサラは、カミュの後方で尻餅を突いていたリーシャに立ち上がるように指示を出す。追撃しようとする地獄の騎士の剣がカミュへと突き下ろされるが、倒れ伏したカミュの足を掴んだリーシャが、その身体を一気に引いた事によって、間一髪で難を逃れる事となった。

 

「キアリク」

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 意識はあっても動く事の出来ないカミュに向かってサラが詠唱を開始する。それは、しびれくらげなどの毒によって麻痺した際の治療呪文であり、メルエの命を救った事のある呪文。カミュの身体の何処にも火傷の痕もない事を確認したサラは、ある種の毒のような物によって、神経自体が焼かれたのではないかと考え、麻痺治療呪文を唱えたのだ。

 柔らかく暖かな光がカミュを包み込み、焼け付いた器官がその機能を回復させて行く。全身の神経や器官が麻痺していたカミュの回復にはそれなりの時間を要する事となり、その間にも近づいて来る一体の地獄の騎士の胸部を、リーシャは思い切り突いて距離を取る事とした。

 

「あの骸骨が吐き出す物には注意して下さい。神経系の呪文ではありませんが、身体の器官を麻痺させる物のようです」

 

「魔法で一掃は出来ないのか?」

 

 回復して行くカミュと、戻って来たリーシャに注意を促したサラは、逆に問いかけられたリーシャの疑問に首を振る。

 骨だけとなった物へ灼熱呪文を唱えても効果は余り期待出来ないだろう。更に言えば、この場所で最強の灼熱呪文であるベギラゴンをメルエが唱えれば、狭い空間の空気は一気に失われ、最悪カミュ達も焼け死んでしまう事になる。

 メルエが最も得意とする氷結系呪文であっても、骨のみの魔物を一掃する事は難しいかもしれない。元々肉体を持たない骨だけの存在である地獄の騎士を凍らせたとしても、その魂まで昇華出来るかどうかは定かではないからだ。活動を停止させる事は出来るだろう。この地下洞窟の気温であれば、氷が解けるまで時間がかかると考える事が出来るが、サラとしては自信を持って応える事は出来なかった。

 残るは、イオ系のような爆発呪文となるのだが、メルエやサラ、そしてカミュも詠唱出来る中級呪文であるイオラ一撃では、地獄の騎士二体を一掃出来るかどうかは怪しい。連発すれば洞窟自体が持つかどうかも解らず、万が一にも洞窟が崩れ始めれば、カミュ達一行は生き埋めになってしまう可能性さえもあるのだ。

 

「来るぞ」

 

 回復が終わり、立ち上がったカミュが再び剣を握る。サラとリーシャは神妙な顔をしているが、カミュは再び剣を構えて、離れた地獄の騎士と向き合った。

 <焼けつく息>という人間にとって脅威となる攻撃以外は、骸骨剣士と大差はない。ここまでの旅で何度も強敵と戦って来たカミュ達が遅れを取るような相手ではなく、十分に注意を払えば、恐れるような相手ではない。それが理解出来たリーシャもバトルアックスを構え直し、前線へと足を踏み出した。

 

「え? きゃぁぁぁ!」

 

 しかし、そんな二人に地獄の騎士が吐き出す息への注意を促そうとしたサラは、突如響き渡った強烈な音と風によって、後方へ弾き飛ばされる。前線に出ていた二人は、即座に盾を掲げる事によって、その衝撃と熱を防ぎはしたが、立ち上がっていたサラは、襲い掛かる熱風を受け、メルエの足元まで転がった。

 自身の身体の状況を確認するよりも早くに前方へと視線を戻したサラは、その場に広がる光景に絶句する。

 

「カミュ、下がるぞ!」

 

 盾の隙間から前方を確認したリーシャは、カミュの腕を取って後方へと飛ぶ。そして、それを待っていたかのように、再び大きな破裂音と共に熱風が襲い掛かって来た。

 破裂音はカミュ達よりも前にいる地獄の騎士を中心に発しており、それはこのパーティーの内、三人が行使出来る爆発呪文に酷似した音と効果を発揮している。地獄の騎士の前後の空気が歪み、それが圧縮された途端に弾けるという物。

 

「メ、メルエ?」

 

「…………むぅ………メルエ……じゃない…………」

 

 その爆発がイオラだと感じたサラは、自分の後ろで杖を掲げているメルエへ視線を送る。だが、その咎めるような視線を受けた少女は、不満を露にし、何度も首を横へと振った。この場所で爆発呪文を行使する事をしなかったのは、メルエの中でジパングでの出来事が残っているからなのだろう。故にこそ、それでも自分を疑うサラに対して、怒りに似た感情を持ってしまったのだ。

 だが、それであれば誰が行使しているというのか。サラは自分が行使していない事を誰よりも知っているし、前線に出たカミュの身体が爆風によって僅かに傷ついている事から、彼でもない事が解る。既に二体の地獄の騎士の身体は上半身が粉々に弾け飛んでおり、それでも下半身が僅かに動いている事で、活動が停止していない事が微かに解る程度の物となっていた。

 

「あっ!」

 

 微かに動く地獄の騎士の下半身が、自分を攻撃して来た者の方向へと動いた時、サラは驚きの声を上げる。それはカミュやリーシャも同様であり、驚いた分、盾を掲げる一瞬が遅れてしまった。

 サラがメルエを庇うように覆い被さり、リーシャよりも復活が一歩早かったカミュが最前線で盾を掲げる。それを待っていたかのように、先程カミュ達が目にした一本の剣の刀身が輝き、巨大な爆発音が洞窟を包み込んだ。

 空気が歪み、圧縮し、そして弾ける。微かに残っていた地獄の騎士の下半身は、最後の爆発に耐える事は出来ず、木っ端微塵に砕け散る。洞窟が揺れ、天井から小岩が降り注いで来た。

 

「メルエ、大丈夫ですか?」

 

「…………ん………サラ……痛い…………?」

 

 メルエの上から身体を退けたサラの顔と手には火傷の痕が残っている。それを目にしたメルエの眉は下がり、その部分に翳すように手を動かした。だが、この幼い少女は『魔法使い』であり、『僧侶』でも『賢者』でもない。回復呪文は行使出来ず、自らの魔法力を使って他者を癒す事は出来ないのだ。

 その事を彼女は悔しく思っているのだろう。自分の手から淡い緑色の光が出ない事に眉を下げ、悔しそうに唇を噛む。そんな少女の姿に、サラはにこやかに微笑み、自分自身で回復呪文を唱え始めた。

 

「この場所の地形は、あの剣が造り出したものなのか……」

 

「あの剣の付加効果がイオラなのだろう。まさか、剣自体が自らを護る動きをするとは思わなかったが」

 

 メルエの頭に手を乗せていたサラは、前方でリーシャの傷に回復呪文を唱えながら語るカミュの言葉を聞き、ようやく今までの出来事の全てが繋がったような気がした。

 あの剣は、このような場所にあるのが不思議な程の高価な物なのだろう。神代の剣と言っても過言ではない程の武器であり、その内には力強い能力を秘めていると考えられる。その能力とは、メルエの持っていた『魔道士の杖』や、今所有している『雷の杖』、そしてジパングの至宝である『草薙剣』のように何らかの呪文と同等の効力を持つ物である事は間違いがない。

 イオラと似た効果を生み出す能力を持った剣は、この洞窟の岩壁の奥に封印されていたか、それとも埋まっていたかしたのだろう。それを何者かが掘り起こしたのか、それとも自然に一部が表に出てしまったかは解らないが、強引にそれを引き抜こうとした者がいた筈である。

 メルエの『雷の杖』、カミュの『草薙剣』、リーシャの『大地の鎧』のような神代の物は、その武器や防具自身に意思があるかのように、主となる者を選ぶ事がある。この剣もまた、主となり得る者以外の手に渡る事を拒み、それを退ける為に能力を行使していたのだとしたら、この自然に出来上がった祭壇のような場所も理解出来るという物であった。

 

「カミュ様、リーシャさん。流石にあの剣を手に入れる事は諦めた方が良いのでは? もし主として認識されなければ、先程のようにイオラを直接打ち込まれますよ」

 

 現状を理解出来たサラは、それでも近づこうとするカミュとリーシャに向かって注意勧告を促す。確かに、もしカミュやリーシャがあの剣の主と認められなければ、既に破片として散らばっている地獄の騎士と同様の末路を歩む事となるだろう。サラの腰元にしがみ付いているメルエもまた、同様の想いを持っているようで、カミュやリーシャを心配そうな瞳で見つめていた。

 だが、当のカミュとリーシャは、お互いの顔を見比べ、一つ頷きを返した後、並んで剣へと近づいて行く。思わず息を飲んだサラではあったが、カミュとリーシャが同じ行動を起こす事は珍しく、それを止める手段を持ち合わせてはいなかった。

 

「あの剣は、何故かお前を呼んでいるような気がするんだ」

 

「いや、俺にはアンタを呼んでいるような気がするが……」

 

 岩に突き刺さった剣に手が届く程の距離まで近づいても、その剣が再び輝きを放つ事はなく、巨大な爆発音も、焦がすような熱風も起こる様子はない。それに安堵を浮かべたサラであったが、その先で話し合う二人の会話に首を傾げた。

 『何故、自分を呼んでいる気がしていないのに、あの二人は自ら近づいたのか?』と思うのと同時に、『それは二人を呼んでいるという事ではないのか?』という、何処か予感めいた物さえも浮かんで来る。それは、二人が剣へ手を伸ばした事によって確信に変わった。

 

「抜けるか?」

 

「ああ、問題ない」

 

 カミュが伸ばした手はしっかりと剣の柄を握り込み、そのまま問題なく引き抜き始める。おそらくここ数十年以上、もしかすると数百年かもしれないが、いずれにしても誰も触れる事のなかった柄へ触れ、それを引き抜いた者がその所有者となる資格を持つ事だけは確かであろう。

 台座のような岩から徐々に姿を現し始めた刀身は、一行がこれまで目にしたどんな剣よりも異質なものであり、反り上がった刀身の幅は太く、真っ赤に燃え上がるように赤く染まっている。赤く染まった刀身には、稲光のように輝く亀裂が浮き出ており、それがカミュの放つライデインによって起こる稲妻に良く似た姿に映った。

 

「凄まじい力を有した剣だな」

 

 カミュから剣を受け取ったリーシャはそれを何度か振り、その内に秘められた大きな力を肌で感じる事となる。吸い付くような柄からは、刀身に込められた力が流れ込んで来るような錯覚に陥る程の物。掲げて見れば、闇しかない洞窟の中でも光が差すような輝きに満ちており、手にした者の心までも魅了する力を宿していた。

 だが、その刀身はドラゴンキラー等とは異なり、反りが深い。更に刀身の幅も大きく、剣先の背は二股に分かれた部分も存在し、とても鞘に収める事など出来はしないものである事が解る。裸の状態で岩に突き刺さっていた事も頷ける一品であった。

 

「カミュ、この剣はお前が持て」

 

「……わかった。ならば、アンタはこのドラゴンキラーを使え」

 

 何度か素振りをしていたリーシャであったが、それをカミュの手に返すと、その使用者を定める。リーシャの持つバトルアックスの劣化が激しい為、サラはその剣の持ち主は、この最強の戦士になるだろうと考えていた。だが、それは当の本人によって否定され、それに同意したカミュが鞘ごと剣を背中から取り外した事で決定事項となる。

 若干驚きを表したリーシャであったが、カミュから受け取った剣を腰に下げ、先程まで手にしていた斧を愛おし気に一撫でした。スーの村で購入してから二年近くも共にして来た武器である。丁寧に使い続けたリーシャにとっては、宝物に近い物であろう。

 

「剣を使うのは本当に久しぶりだな……暫くは感覚を取り戻す為にも、この斧も持って行こうと思うが、良いだろうか?」

 

「……好きにしろ」

 

 リーシャの武器は、アリアハンを出てから三度変化している。

 アリアハンから持ち出した物は、宮廷騎士に支給される量産型の鉄の剣。切れ味は鋭くは無く、リーシャの丁寧な手入れによって何とか斬るという行為が出来た程度の武器。そして、その武器はカザーブの村で購入した鋼鉄の剣に取って代わった。

 リーシャの武器が剣であったのはここまでである。その後、アッサラームで購入した鉄の斧は、長くその身を護るばかりか、彼女の大切な仲間達の命をも護り、強大な敵であるヤマタノオロチという龍種の身体さえも斬り裂いた。

 その鉄の斧も、龍種の鱗と斬り合うという無理が祟り、スーの村で購入したバトルアックスという斧に変わる。この戦闘用に改良が施された斧が、リーシャの最強武器であったのだ。

 その斧で数多くの魔物を葬り、何度と無くサラとメルエを救って来た。少し前のガメゴンロードの戦闘では、メルエの放ったメラミを一刀両断したのもこのバトルアックスである。一心同体と言っても過言ではない程に馴染んだ斧という武器は、既にリーシャという戦士の象徴とも言える物だったのかもしれない。

 

「…………リーシャの……おの………すごい…………?」

 

「ん? そうだな、凄いぞ。メルエを『魔法使い』にしてくれた魔道士の杖と同じぐらいに凄い。だからこそ、もうそろそろ休ませてやらないとな」

 

 何時の間にかリーシャの足元へ移動していたメルエが、斧を見上げるように言葉を発する。それは、メルエという幼い少女を育てた一つの杖が終焉を迎えた時に、リーシャが語った内容であった。彼女は、自分と同じように、リーシャが武器を大事に思っている事を感じていたのだろう。間髪入れずに胸を張って答えたリーシャの言葉に笑みを浮かべて大きく頷きを返した。

 そんなメルエの頭を優しく撫でたリーシャは、再びバトルアックスを背中に結びつけ、<たいまつ>を拾い上げる。周囲を改めて照らして見れば、数多くの骨と共に、新しい魔物の死骸も散乱している。おそらく、あの剣の餌食となったのだろう。中にはガメゴンロードのような死骸もあり、マホカンタなどで反射しても、対象が剣であればそれ程の被害は無く、際限なく連発されるイオラによって命を落としたのだと考えられた。

 

「まるで、カミュ様の放つライデインのような剣ですね」

 

「『稲妻の剣』とでも言うのかもしれないな」

 

<稲妻の剣>

神代の時代から存在する剣である。人間など地上には存在する以前に神々が使用していた剣と伝えられていた。その刀身は神々の怒りを象徴するような輝きを放ち、幾筋もの稲光が走ったような模様が施されている。世界に多くの種族が存在し始めた頃に地上へと落ち、その輝きと、雷が落ちた時と同じような現象を起こすその剣を、畏怖も込めて『稲妻の剣』と呼ばれる事となった。一度振るえば大地を割り、海を割る。再び振るえば地上を破壊するような稲妻を落とすと云われ、長らく神が持つ武器として崇められて来たが、人間がこの地上で活動を始める頃になると、その姿を現す事はなくなり、伝承のみを残す形となった。そして、何時しか誰も知り得る事の無い、忘れられた遺産となって行くのだ。

 

 刀身を裸で持ち歩く事は出来ず、カミュは持っていた汚れた布を引き千切り、刀身に巻いて行く事によってそれを隠した。そのまま背中へと結びつけたカミュは、そのまま奥へと進む為に歩き始める。リーシャの手を握ったメルエが歩き始め、その後をサラが追って歩き出す。ネクロゴンドの洞窟の深部へと向かい始めた一行は、順調に歩み始めていた。

 

 

 

「酷い臭いだな……」

 

「死臭か……」

 

 稲妻の剣があった場所から更に上がった場所にある十字路を右に折れた一行であったが、そのまま進んだ先にあった二又の分かれ道に漂う臭いに全員が顔を顰める事となる。洞窟内を吹き抜ける風は無く、ほぼ無風状態にも拘わらずに漂う臭いという物は、異常以外の何物でもない。リーシャが不快感を露にし、カミュがその臭いの事実を口にした。

 漂う不快な臭いは、この旅で何度も嗅いだ事のある物であり、何度も目にした物でもある。それは生き物が死んだ後に漂う物であり、死した生物の持つ肉体が徐々に朽ちて行く時に放つ物でもあった。

 

「…………むぅ…………」

 

 不快感を露にするメルエではあったが、この場所で呪文を詠唱する事はない。腐乱死体が出て来る訳でもなく、誰かが襲われている訳ではない以上、彼女に何かをする必要性が無いのだろう。

 腐った死体や毒毒ゾンビなどの腐乱死体は、元々は生ある人間である。何らかの原因で死亡した人間がこの世に未練を残し、漂う魔王の魔法力の影響で彷徨い続ける事になった魔物なのだ。故に、このネクロゴンドの洞窟のように未開の地では人間自体が存在せず、たまたま入り込んだ数少ない人間は、肉体を残す事無く魔物の餌となる。

 ここまでの道中で新しい焚き火の跡や、火を熾した跡など無い以上、少なくともここ数年以上は誰もこの場所に足を踏み入れていないという事になる。それならば、この真新しい死臭は人間のものではないと推測出来た。

 

「アンタはこの分かれ道は、どちらに行くべきだと思う?」

 

「……死臭が漂う方角だな」

 

 死臭が漂って来る方角は直進する場所である。もう一つは左に折れる方角であり、いつものような様子で尋ねるカミュの問いかけに、リーシャは神妙そうな表情で答えた。

 しかし、神妙そうなリーシャとは異なり、カミュとサラは明らかな安堵の溜息を吐き出す。それを不思議そうに見つめるメルエの表情は、不快な臭いによって歪んでいた。自分がかなり深刻に考えているにも拘わらず、何故か安堵する二人を見たリーシャもまた、不思議そうに二人を見る事となる。

 

「だが、カミュ……死臭が漂うからという訳ではないが、何故か私はあそこに行きたくないな」

 

「なに?」

 

 しかし、そんなカミュの表情もまた、続けられたリーシャの言葉に歪んで行く。二方向しかない道のどちらへも行きたくないと彼女は言うのだ。これまでこのような事はなかった筈であり、必ずどちらかの道を指し示して来ていた。それにも拘らず、今回はこの場所から出来れば動きたくはないとはっきり口にしている。

 最初に直進を示した以上、この二又の分かれ道は、左方向が次の階層へ繋がる道である可能性は高い。だが、彼女がここまで明確に拒絶するという事は、直進した先にも何かが存在する可能性があるのだろう。故にこそ、カミュは迷った。

 

「カミュ様、行ってみましょう。万が一ですが、魔物に襲われている者がいるのかもしれませんし、逆に魔物が何かに襲われているのかもしれません」

 

 悩むカミュに道を示したのは、先程彼と同様に安堵していた『賢者』であった。

 彼女はこの死臭の元が何かを知るべきだと説いている。人間が魔物に襲われているのかもしれないし、人間以外の種族が魔物に襲われているのかもしれないと。それは、『人』を護る者としてある『賢者』という存在であれば当然のものであろう。

 だが、同時に彼女はこうも言った。

 『魔物が何かに襲われているのかもしれない』と。

 それは、人間という種族であれば考慮に入れる必要はなく、むしろ喜ぶべき事だろう。絶対悪と考えられている魔物が襲撃されているのだとすれば、弱い立場である人間としては喜ぶべきものというのが通常の考えであるからだ。

 だが、サラの瞳を見る限り、そのような感情は見えない。むしろ、その場合は魔物であっても救うべきだという強い意思さえも感じられる。それは人間としては異端な考えであり、『賢者』としても稀な物なのかもしれない。

 それでも、彼女が強い意志をぶつけた相手である『勇者』は、しっかりと頷きを返した。

 

「メルエ、私の後ろに。呪文の詠唱は私の指示に従って下さいね」

 

「…………むぅ…………」

 

 カミュが頷いた事によって、このパーティーの行動は決まる。どれ程に自分達の意見を述べたとしても、最終的な判断を下すのは彼である事を、彼女達全員が理解しているのだ。

 不満そうに頷くメルエの手を引いたサラが最後尾を歩き、先頭のカミュが持つ<たいまつ>の灯りが、奥の空間を少しずつ照らして行く。その後ろに続くリーシャの<たいまつ>とサラの持つ<たいまつ>の灯りが狭い空間を照らし出す時、彼女達はその場に広がる光景に言葉を失った。

 

「うぐっ……」

 

「…………むぅ…………」

 

 その場に広がる光景と、噎せ返るほどの死臭にサラは口元を押さえ、その手を握るメルエは不快そうに顔を歪めながらサラの腰元へとしがみ付く。カミュやリーシャであっても、その凄惨な光景に眉を顰めて行った。

 そこは、正に地獄絵図と言える光景が広がっていたのだ。

 周囲には所狭しと死骸が転がり、その死骸は古い物の上に新しい物が重なるように積み上がっている。どの死骸も原型が解らないほどに切り刻まれており、夥しい程の体液が洞窟の床を満たしていた。

 古い死骸は腐乱が進み、奇妙な虫が這い回っている。乾いた体液が異臭を放ち、足元はぬめりを持っていた。

 

「サラ、メルエを連れて一度外へ出ろ」

 

「え? あ、はい。解りました」

 

 周囲に<たいまつ>を掲げたリーシャはその光景を見て、後方のサラにメルエを連れ出す指示を出す。どれ程に魔物を葬って来たカミュやリーシャであっても、この場所の光景は凄惨を極めていたのだ。幼い少女であるメルエが見るような光景でもなく、その少女の心に刻ませる光景でもない。命という重みを理解し始めている彼女に、この光景は重過ぎると判断したのだった。

 しかし、サラがメルエの手を引いて元の場所へ戻ろうと振り返った時、その奇声は狭い空間に轟く。テドンの名産である絹を裂くような奇声は、魔物が折り重なった一つの場所から響き、その場所で立ち上がったミニデーモンと思われる魔物がある方向へ向かって武器を掲げて突進した。

 

「あれは……鎧か?」

 

 先程、稲妻の剣を発見した時と全く同様の言葉を口にしたのはリーシャである。彼女の持つ<たいまつ>の炎がミニデーモンの向かった場所へと動き、その先に鎮座する一つの防具を照らし出したのだ。

 それは武具に精通するリーシャでさえも疑問に思う形状をした防具。鎧と呼ぶには余りにも無骨であり、余りにも凶悪な姿をしている。胴体はそれ程に奇妙な所はなく、胸部には十字の紋章が記されていた。腰回りまで覆うように造られており、その防御力が高い事が伺える。だが、最も異質なのがその肩当部分であった。

 両肩にある肩当からは、鋭い刃が伸び、まるで武器をそこに納めているかのように怪しい輝きを放っている。その刃の鋭さは、世に出回っている鋼鉄の剣などとは比べ物にならず、それこそ先程入手したばかりの稲妻の剣と同等の神代の剣と言っても過言ではなかった。

 

「キシャァァァ!」

 

 その鎧が収まっている場所もまた、稲妻の剣があったような岩肌で出来た台座のようなものである。ただ、先程と異なるのは、その台座が爆発などの破壊によって出来上がったものではないだろうと言う事。まるで鋭利な何かで斬り整えられたかのように綺麗な断面を作っていたのだ。

 そして、その理由は、先程のミニデーモンの持つ三又の槍が鎧に触れたと同時に判明される。

 槍が触れた瞬間、眩い輝きを放った鎧は、揺らぐ事無く鋭利な刃を生み出した。その刃は、決して魔法力によって生み出された真空の刃などではない。金属製の刃としか表現出来ない刃物が、その鎧から生み出され、攻撃を繰り出したばかりのミニデーモンへと襲い掛かって行ったのだ。

 斬り刻まれるミニデーモンの身体は、既に数える事が出来ない程の傷を負っており、最後の一太刀が魔物の身体をすり抜けると同時に、上半身と下半身は真っ二つに斬り分けられてしまった。

 

「……すごい」

 

 再び魔物の死臭だけが漂う静寂さが広がり、その光景を目にしたサラが思わず言葉を漏らしてしまう。稲妻の剣といい、この鎧といい、魔物にとってこれがどれ程の物であるのかは解らないが、それでもこれだけの数の魔物を高々一防具が駆逐してしまう事に、サラは呆然となるより他なかった。

 この鎧を人間が着ていれば、集団で襲い掛かって来た魔物によって中の人間だけが死を迎えてしまうだろう。それでも鎧には傷一つつかず、主を殺した魔物を滅ぼすまで、その攻撃を停止しないのかもしれない。稲妻の剣は、近づいて来た者が主でなければ攻撃を繰り出すが、この鎧は攻撃を受けたと同時に発動した事を考えると、サラの考えが的外れな訳ではない事が解る。

 

「あの鎧も手にするのか?」

 

「触れた瞬間に斬り刻まれる可能性は捨てきれないな」

 

 稲妻の剣の時とは異なり、リーシャもカミュも余り積極的ではない。触れれば斬れるという物は、防具としての優秀さよりも、危険性を多く孕んでいるのである。そもそも、その鎧を装着する際に斬られるかもしれないし、その鎧に触れた者を見境なく攻撃するならば、それを装備した者に触れる事さえも出来なくなるのだ。

 だが、防具としての性能の高さは、ミニデーモンの槍を受けても傷一つない事で証明されている。ネクロゴンドの洞窟へ入り、魔物の強さが段違いになっている事を実感している一行にとって、入手したい防具である事も確かであった。

 

「……行って来る。外で待っていてくれ」

 

「盾を掲げて行けよ」

 

 暫く逡巡していたカミュであったが、意を決したように鎧へと近づいて行く。その背に声を掛けたリーシャは、サラとメルエを伴って先程の分かれ道まで戻るため、異臭が立ち込める空間を後にした。

 そのまま分かれ道へ戻ったリーシャは腕を組んでカミュを待ち、サラは何やらメルエと話を始める。サラの言葉に小さな頷きを返したメルエは、カミュが出て来るであろう入り口に向かって雷の杖を掲げた。

 

「無事に手に入れられたようだな」

 

「そうですね……ではメルエ、ベギラゴンを」

 

「…………ん………ベギラゴン…………」

 

 鎧を手に持ったカミュが出て来た事で、サラがメルエへと指示を出し、それを受けた少女は杖を振るって呪文の詠唱を完成させる。杖の先のオブジェの口から吐き出された凄まじいまでの火炎は、そのまま入り口を抜けて奥の空間に着弾した。

 凄まじい轟音を響かせて燃え上がる炎は、入り口の奥を真っ赤に染め上げ、その熱風が一行へと襲い掛かる。その瞬間、サラは右手を掲げ、彼女が持つ最高位の氷結呪文を唱えた。

 ヒャダインの冷気が押し寄せる熱風を防ぎ、一行の身を護る。メルエのベギラゴンの火炎を押し返す事や、その炎を鎮火する事など出来はしないが、余波の熱風程度であれば十分に相殺出来るものなのだ。

 

「カミュ、その鎧は着る事が出来そうか?」

 

「触れた程度では斬れる事はないようだ。この鎧が、どこから攻撃と認識するのかは不透明だな」

 

 魔物の死骸を焼き払い、その身を昇華させたメルエは、リーシャの横から鎧を覗き込み、奇妙なその形に首を傾げる。そんなメルエの頭に手を乗せながら、装備が可能なものかどうか尋ねるリーシャの表情は、何処か不安を滲ませるものであった。

 カミュ自身も、この鎧に只ならぬ力を感じてはいたが、それが何であるのかを理解出来ない為、どうしても装備する事を躊躇っている節がある。それは人間としてではなく、生物としての本能から来る恐怖が原因であるのかもしれない。

 そんな二人の不確かな不安は、最後に現れたサラの口から明確にされた。

 

「この世界には、呪われた武具があると聞いた事があります。その武具を装備した者は呪われ、自身の意思を剥奪されてしまうという事でした。それらの呪いを解く事が出来るのは教会でも最上位に入る者だけで、その呪文もまた、ルビス様の祝福を受けた者しか契約が出来ないと云われています」

 

「呪いの鎧か……」

 

 武器や防具には、多くの怨念や無念を帯びて放置される物もある。そういった物は、その負の念に引き摺り込まれ、それを装備した者を呪縛する事もあった。呪いによって縛られた者は、己の意思を失い、武具に宿った怨念の手先となってしまう。錯乱したように仲間を攻撃する事もあるし、自傷行為に走る事もある。最悪なものは、装備した途端に命を落とすという物もあると云われていた。

 この鎧がそうであるとは限らないが、呪いの武具はその雰囲気以外には判別する事は出来ず、装備して初めて呪われた武具である事が解る場合が多い。それは、解呪の方法がない場合には命取りとなる事を示していた。

 

「サラは唱えられるのか?」

 

「正直に言えば、これは『経典』に記載された呪文ではなく、『魔道書』に記載された物なのです。本来は僧侶の呪文ではなく、魔法使いが行使する呪文。『裏魔道書』と呼ばれ、国家の管理下に置かれた場所に安置されています」

 

「……裏魔道書?」

 

 サラが呪いを解く呪文を行使出来るのかどうかを問いかけた筈のリーシャであったが、その答えは彼女の想像の斜め上を行っていた。初めて聞くその存在に目を見開いたリーシャは、カミュへと視線を送るが、静かに首を横に振られた事で、彼もその存在を知らないと言う事を理解する。

 『魔道書』に記載された呪文を行使出来るという事は、修練を積んだ司祭のような存在は、『賢者』に近いものになっているとさえ考えられる。ならば、サラのような可能性を秘めた者が世界には数多くいたと言う事になるのだ。

 

「『経典』と『魔道書』へと分けた際に、記載を間違えたという説もありますが、実際のところは定かではありません。宮廷魔術師と呼ばれる程に高位の魔法使いでも、この呪文を行使出来ない者は多く、本来であれば『経典』に記載されるべき呪文という説が有力です」

 

「…………メルエ………できる…………」

 

「なに!?」

 

 サラの話を聞く限り、限られた者だけしか閲覧出来ない物である事が解り、それならばここにそれを行使出来る人間がいない事が予想されていたのだが、突然横から飛び出した自慢気な声にリーシャは驚愕する。そんなリーシャの姿が面白かったのか、いつも以上に胸を張って誇らしげに立つメルエの姿に、サラは小さな微笑を浮かべた。

 『魔道書』の呪文であれば、メルエが行使出来る事は不思議ではないが、国家で管理されているような書物をどうやって閲覧したのかが解らない。故に、リーシャと同じようにカミュも首を傾げる事となる。

 そんな二人の姿が不満なのか、頬を膨らませたメルエは雷の杖を掲げた。

 

「ふふふ。メルエ、今その呪文を唱えても効果は現れませんから意味がありませんよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 自分が行使出来る事を見せようとしていたメルエをやんわりと止めたサラは微笑を崩さず、むくれるメルエの背中を優しく撫でる。確かに解呪の呪文であれば、呪われた者がいなくてはその効果を実感する事など出来はしないだろう。

 完全に話から置いて行かれてしまったカミュとリーシャは、二人の顔を交互に見る事ぐらいしか出来なかった。

 

「申し訳ありません。そういう武具もある事をお話したかっただけです。実は『悟りの書』にも記載されていましたし、私も既に契約だけは済ませてあります。ただ、カミュ様であっても、リーシャさんであっても、呪われたお二人を私とメルエで何とかする事は難しいですので、呪われる時は一人ずつにして下さい」

 

「……一人ずつ……」

 

「いや、サラ……私達が呪われる事は確定事項なのか?」

 

 悪戯が成功したような笑みを浮かべたサラは、メルエと共に柔らかな空気を醸し出す。ネクロゴンドという未開の土地で魔物達と戦う者達の会話とは思えない空気に、カミュは呆れた様な表情を浮かべ、リーシャは何かに諦めた溜息を吐き出した。

 その後、誰がこの鎧を着てみるかという事になるが、リーシャは大地の鎧がある事を理由に拒否した事によって必然的にカミュの装備品となる。肩当の部分に手が掛からないように鎧を着たカミュは、自分の意思が今もまだ残っている事に人知れず安堵する事となる。

 自分の身体に吸い付くように馴染んだ鎧は、刃のような鋭さを持ちながらも、その主と周囲の者を護るように静かな輝きを放っていた。

 

「メルエ、今度からカミュに不用意に近づいてはいけないぞ。いつ何時、あの刃がメルエに向かって飛んで来るか解らない」

 

「…………むぅ…………」

 

 いつもの意趣返しとも取れるようなリーシャの言葉に、メルエは不満そうにうなり声を上げる。この幼い少女にとって、それだけカミュという人物は大事な存在なのだろう。いつでも共に居たいと思うし、いつでも傍に居て欲しいと願う。自分を常に護ってくれる保護者の傍に寄れないという事は、メルエにとって苦痛でしかないのだ。

 そんな不満そうなメルエの頭をカミュが優しく撫でる。気持ち良さそうに目を細めていた彼女は、リーシャの言葉のように鎧が自分を攻撃して来ない事に花咲くような笑みを浮かべた。

 

<刃の鎧>

神代から伝わる鎧の一つ。神同士が争っていた時代に使用されていた鎧という言い伝えもある。研ぎ澄まされた金属は、その身に攻撃を受けると、刃を生み出して反撃をするという神秘を起こす。真空の刃でもない、金属そのものの刃は、攻撃を仕掛けて来た者の身体を斬り刻むように攻撃を繰り返すと云う。ただ、それを身に纏った主との絆が反撃の成功率に左右するという噂もある。主であった神の死によって地上へと落とされたこの鎧は、長い時間を地底で過ごし、新たな主の到来を待っているという伝承が伝わっていた。

 

「よし、先へ進むか!」

 

「はい!」

 

 メルエの笑顔を見たリーシャが号令を上げる。それに呼応するようにサラも声を上げ、<たいまつ>の炎を拾い上げて前を歩き出した。

 メルエもまた、小さな手でマントの裾を握って、カミュを促しながら洞窟を上り始める。屈強な鎧を纏う事となった『勇者』は新たな剣を背中に背負って歩き出した。

 神代の武具を手に入れた『勇者』達は、ネクロゴンドという未開の地の最深部へと向かって突き進む。誰も手に入れた事のない武器を持ち、誰も手にした事のない防具を纏った彼等が向かう場所は、誰も成し遂げた事のない偉業への道なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

少し早めの更新になりましたが、次話は少し遅くなるかもしれません。
頑張って描いて行きます。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ネクロゴンドの洞窟③

 

 

 

 カミュ達は、緩やかに上る坂道を上り、再び周囲が岩壁に囲まれた場所へと出ていた。天井となる岩盤までの距離はあり、歩く事に不自由はない。更に上層へと入った事は洞窟内の気温が全く異なる事で理解出来た。

 洞窟内の闇は、下の階層よりも更に強くなっており、頼りなく燃える<たいまつ>のみが、彼等の道を指し示す道標となる。ここまでの道程の中で魔物と遭遇する事はなく、稲妻の剣や刃の鎧があった場所で多くの魔物が命を落としていた事が窺えた。

 

「……どっちだ?」

 

「また私に聞くのか? どっちに行っても変わりないとは思うが、強いて言うなら左だな」

 

 最早諦めの境地に達したのか、リーシャは激昂する事無く道を示す。それに対して大きく頷きを返したカミュは、そのまま直進の道を選んで歩き出した。

 深い溜息を吐き出したリーシャを見たサラは柔らかい笑みを浮かべ、その顔を見たメルエも花咲くような笑みを浮かべる。<たいまつ>の炎に照らされているとはいえ、表情の変化が解り辛い中でも、その場の雰囲気が柔らかくなった事だけは誰しもが感じていた。

 そのまま直進した先にあった分かれ道も更に直進していた先頭のカミュが突如立ち止まる。一寸先が闇の状態で歩いていた一行であったが、カミュが足を止めた事に気付いたサラが他の二人へ注意を促し、カミュの横へと寄って行った。

 

「それ以上進むな」

 

「え!?」

 

 一歩前に出ようとしたサラの体を、カミュが静止する。理由の解らないサラではあったが、予想以上に力強い手で止められた事で、自分の足元へ視線を送り、そのまま硬直してしまった。

 サラの足元には、巨大な空洞が口を開けており、<たいまつ>の炎では照らし切れない程の闇が、その空洞の奥深さを物語っている。あと半歩、彼女の足が前へと踏み出していたら、彼女は何処まで続くか解らない程の闇の底へと落ちていってしまった事だろう。

 

「ほらな。やはりこっちが行き止まりであっただろう?」

 

 冷や汗を掻くサラを余所に、リーシャが胸を張る。やはり自分の意見を無視し続けられる事に不満を持っていたのだろう。<たいまつ>の炎の先にある底も見えない巨大な穴を見て勝ち誇るリーシャは、嫌味の色が濃い笑みを浮かべ、傍に居たメルエまで胸を張って鼻息を荒くしていた。

 しかし、このやり取りも今に始まった事ではない。リーシャを無視するように<たいまつ>を周囲に翳したカミュは、巨大な穴を囲むように床が続き、その先へ向かえると判断した。慎重に歩き始めた彼にサラが続き、『往生際の悪い』と呟いたリーシャは、メルエを抱き上げてその後を歩き出す。

 

「こちら側はしっかりした地盤になっているな」

 

 円を描くように岩壁沿いに歩いていたカミュ達は、その奥に続く上層へと上がる坂道を発見する。崩れそうな床岩を踏み抜かないように注意を払いながらも一行は固まりながら奥へと進んで行った。

 魔物の気配はない。道の奥から流れて来る風は冷たく冷え切っているが、死臭や腐敗臭のような不快な臭いが漂って来る事はなかった。先程の大穴の例がある為、一歩一歩足元に注意を向けながらも周囲への警戒も怠らない足運びは、着実に一行の疲労を蓄積させて行く。

 

「カミュ、ここら辺りで一度休憩を入れないか? どれ程の高さや長さがあるか解らない以上、体力を維持していく必要がある筈だ」

 

「わかった」

 

 上の階層へ上がってすぐの場所でリーシャの意見を受け入れたカミュが腰を下ろす。それを基点に円を描くように座った一行は、洞窟に入る前に拾い集めた枯れ木を取り出し、火を熾し始めた。

 リーシャの膝枕に頭を乗せたメルエはそのまますぐに眠りへ落ち、サラも安堵の溜息を吐き出しながらぐったりと腰を落とす。視界が利かない場所での行動というものは、瞳からの情報に頼りきった人間にとっては、想像以上の気力と体力を使う物であったのだ。

 緊張感というものを常に持って行動する事は難しい。いつ何処から現れるか解らない魔物の脅威を警戒し、突如として足場を失う可能性を警戒するという行動を常に続けて行く事は、長い旅を経験して来たカミュ達であっても、極度の緊張を強い入り、大きな疲労を残していた。

 

「この洞窟はどれ程に大きな物なんだ? おそらく、外は陽が落ちてしまっているだろう」

 

「そうですね……かなり大きな洞窟なのは確かだと思います。ですが、この先に『魔王バラモス』の居城があるとすれば、魔物の数が少ないような気もします」

 

 リーシャの言葉通り、既に外は日も暮れている事だろう。感覚だけの判断ではあるが、長く旅を続けて来た彼等の感覚が正しければ、夜中に近い刻限となる。それは、ほぼ丸一日の間、この暗い闇に閉ざされた洞窟内を彷徨い歩いた事になるのだ。

 身体を横たえたメルエが即座に眠りに就いた事や、リーシャに答えを返したサラの瞼が落ちそうになっている事が、蓄積された疲労を物語っている。だが、その疲労は、これまでの洞窟内の行動の物とは異なっていた。

 このネクロゴンドの洞窟内でカミュ達が行った戦闘は、片手で数える事が出来る程の数である。魔物自体と遭遇する回数も少なく、稲妻の剣や刃の鎧を発見した場所以外では集団の魔物さえ見た事がなかったのだ。

 

「カミュ、もしかするとの話だが……この洞窟の奥に強力な魔物が生息していたとして、それが外の世界に出て来なかったのは、その剣と鎧があったからなのではないか?」

 

「……この剣と鎧が、魔物の流出を抑えていたとでも言うのか?」

 

 倒れ込むように眠りに落ちてしまったサラに苦笑を浮かべたリーシャは、焚き火の炎を調整していたカミュに向かって、少し前から気になっていた事を口にする。それはカミュにとって考えても見なかった物であり、改めてリーシャの瞳を覗き込むように視線を動かした。

 彼女の表情を見る限り、それが只の戯れではない事を理解したカミュは、何かを考えるように黙り込む。赤々と燃える焚き火の炎が落ち着き、パチパチと枯れ木に残った水分が飛んで行く音だけが洞窟内に響いた。

 

「この奥が『魔王バラモス』の居城へと繋がっているのであれば、その可能性がないとは言えないが、この洞窟が外へと続いているのであれば、魔物が洞窟を通らなければならない理由がないな」

 

「……確かに、そうか。だが、ならば何故、あの魔物達はその剣や鎧に執着するように攻撃を繰り返していたのだろうな?」

 

 リーシャは、刃の鎧が魔物達の進行を食い止め、入り口側に近い場所にあった稲妻の剣が魔物に止めを刺しているように見えたのだろう。確かに、累々と積み重ねられた魔物の死骸は、そのような錯覚に陥るほどに凄まじい物であった。何度も押し寄せる魔物を倒し続け、人間達の暮らす世界への道を塞ぐように鎮座する二つの武具を崇めてしまう事は自然の流れなのかもしれない。

 だが、カミュが言うように、翼のある魔物達までこの洞窟を抜ける必要はない。刃の鎧によって最後に倒された魔物はミニデーモンであり、その魔物の背中には蝙蝠のような翼が生えていた。それがあれば空を飛べる為、わざわざ洞窟内を通り抜ける必要性はないだろう。

 サラが疑問に思ったとおり、この洞窟が魔王の城へ繋がっている可能性はかなり低いだろう。ならばと、リーシャは次の疑問を口にした。それは、カミュもまた疑問に思っていた事でもありながら、昔から理解していた事であるのかもしれない。

 

「同族を殺されれば、魔物も復讐に燃えるのかもしれない。幽霊船で遭遇した魔物の考えが全てではないのだろう……この剣と鎧を手にする為に近づいた可能性もあるがな」

 

「魔物の仲間意識か……」

 

 以前のリーシャであれば、カミュの言葉を鼻で笑っただろう。諸悪の根源であり、本能のままに生きる低知能な魔物が仲間意識を持っているなどと考える事自体が異端な事なのだ。

 しかし、この長い旅路の中で、魔物の中には知能を持ったものも存在し、知能を持った魔物の恐ろしさを肌で感じて来たリーシャにとって、このカミュの考えを否定する事は出来なかった。

 神代の剣と鎧が魔物にとってどれ程の脅威になるのかはリーシャには想像も出来ない。稲妻の剣は、今はカミュを主と定めてはいるが、力量の足りない者であれば、例え人間だろうとその能力を開放し、弾き飛ばした事だろう。それは逆に言えば、魔物であろうと、その力量に見合う者であれば手にする事が出来たという可能性も否定は出来ない。

 刃の鎧という防具にしても同様な事が言えるだろう。だが、リーシャとしては魔物の仲間意識という言葉の方が、強く胸に残る事となった。

 

 

 

 その後、カミュとリーシャが交代で眠りに就く事で、束の間の休息を取った一行は、最後のメルエが自然に目を覚ますのを待って、再び洞窟内を歩き始めた。いや、正確に言えば、歩き始める準備を始めたと言った方が良いだろう。

 この階層は、下の階層からの坂道を出てすぐに分かれ道が存在していたのだ。それも三方向へ分かれており、崩れ落ちた床がその分かれ道を明確に区切っていた。

 分かれ道となれば、このパーティーの道標となる者は一人しかいない。起きたばかりのメルエでさえも、その人物を見上げて指示を待つ程の信頼を向けていた。最早言葉は要らないのか、全員の視線がその者へと集まり、方向を示してくれるのを今か今かと待っている。

 

「どの方向へ進んでも変わりはないと思う」

 

「それはどういう意味だ?」

 

 憮然とした表情で言い放ったリーシャの言葉に対してカミュは疑問に思った事を口にする。下の階層まででのリーシャの言葉の中にも同じような物が出た事はあったが、ここまで明確に発せられた物ではなかった。まるで、全てが行き止まりに通じているような物言いに、カミュは疑問を持ったのだ。

 リーシャという道標が機能しないとなれば、全ての道を進むしかない。それは、この闇に包まれた洞窟を隅から隅まで歩かなければならない事を意味し、それが一行の疲労を増幅させる事になる事は明白であった。

 

「カミュ様、とりあえずは歩かなくては」

 

 カミュの疑問に対して、リーシャは明確な回答を出す事は出来ない。何故なら、彼女のこの能力は全て感覚での物であり、そこに理由がある訳ではないのだ。先程までの不満気な表情と打って変わって首を傾げるリーシャと共に、メルエが笑みを浮かべながら首を傾げる。

 <たいまつ>の頼りない炎に照らされた少女の笑みを見ながら、サラは現状を正しく把握し、考え込んでいるカミュへ進言した。一つ頷きを返したカミュは、そのまま崩れた床の隙間を縫うようにして前方の道を歩き始めた。

 床が脆くなっている可能性も高く、一行は慎重に歩を進めるが、その一本道は真っ直ぐ続き、結局行き止まりに辿り着く。

 

「戻りましょう」

 

 行き止まりを確認したカミュは、サラの言葉に頷きを返して、元来た道を戻り始める。そして、下の階層へと続く坂道へ戻ると、そのままその場所を突っ切るように直進した。

 真っ直ぐ続く一本道は、そのまま左に折れ、再び行き止まりにぶつかる。少し開けたその空間は、カミュの持つ<たいまつ>の炎によって照らされ、一部分が見えて来た。

 

「カミュ!」

 

 そこが行き止まりであるかどうかを確認していたカミュとサラは、その存在に気付く事はなかったが、初めから何処へ行っても同じだと感じていたリーシャだけは、<たいまつ>の炎を反射して輝く何かが横切った事に気付いた。

 勇者の名を叫んだリーシャは、腰に刺していたドラゴンキラーではなく、背中に背負ったバトルアックスを抜き放つ。咄嗟の対応となれば、やはり長年共にした武器を手にしてしまうのだろう。リーシャが武器を構えた事によって、その傍にいたメルエもまた、雷の杖を掲げた。

 

「何ですか、あれは!?」

 

「ちっ!」

 

 リーシャの対応に、ようやく何者かがこの空間にいる事に気付いたサラは、自分の持っている<たいまつ>をカミュとは反対方向へ掲げ、照らし出す範囲を広げる。その時、まるで<たいまつ>の灯りから逃れるように動く物体を見た彼女は、自分の中にある常識を覆すその姿に驚愕の声を上げた。

 その物体は、人が目で追う事が難しい程の速度で空間を動き回り、照準を合わせる事さえも許してはもらえない。四人を翻弄するように動き回る姿が停止するのを待たなくてはならない事にカミュは大きな舌打ちを鳴らした。

 

「……金属系のスライムか?」

 

 空間の入り口付近にリーシャとメルエがいる為、行き場を失った物体が停止する。その姿を三つの<たいまつ>が映し出し、全貌が明らかになった。

 炎の明かりを反射するように輝く銀色の体躯は、ダーマ神殿付近で遭遇したメタルスライムに似た物であり、それは剣などを弾き返す程の強度を持つ金属のような物。それでも『ぷるぷる』と揺れるように動くそれは、人間の知識では説明が付かない物質で出来ている物である。

 だが、今も尚揺れ続けるその物体は、カミュの記憶にある物とは少し異なっていた。

 一行の記憶にある金属のスライムは、通常のスライムと同様の姿をしていたが、今目の前で揺れるその物体は、通常のスライムとは異なる形態をしており、どちらかと言えば毒質によって形状が崩れたバブルスライムに似た物であったのだ。

 

<はぐれメタル>

スライム系の亜種中の亜種。

スライムの亜種であるメタルスライムの中でも異常種と云われている。金属よりも硬いながらも、スライムのように柔らかな形状を維持出来るメタルスライムという種族の中で稀に生まれる異端種であり、その形態を維持する事が出来ずに崩れた物だと考えられていた。

異端種を弾くという行為は、生物の中では当たり前の行為であり、それは魔物であっても変わらない。集団で生息する事の多いスライム種から爪弾きとなった物は、単独での行動が多くなる。その為、自身の身を護る為にその身体の強度は更に増し、人間などにとっては、メタルスライムよりも上位の魔物と認識される事となった。

 

「カミュ、来たぞ!」

 

 その異様な姿に動けなかった一行ではあったが、その隙を突いた<はぐれメタル>は、一気にカミュ目掛けて突進して来た。素早さでは、彼等を遥かに凌ぐその動きに、カミュの防御が間に合わない。<はぐれメタル>は、カミュの胴体ではなく、更に上へ跳躍し、被っている兜を弾いて頭部へ体当たりをして来た。

 大きな金属音を響かせて床へと落ちた<オルテガの兜>が『カラカラ』と音を立てて回る。着地した<はぐれメタル>が忙しなく洞窟内を動く中、リーシャ達の目の前で人類の希望である青年の身体がゆっくりと倒れた。

 

「カミュ様!」

 

 見た目はスライム状の生物である<はぐれメタル>ではあるが、その体躯は並みの金属よりも強度が高く、以前は鋼鉄の鎧でさえも簡単に窪ます程の攻撃力を有していた。その体当たりを頭部に受けたカミュは、彼の父親が装備していた兜によって致命傷は逃れたものの、脳震盪を起こして気を失ってしまっていたのだ。

 彼が忌み嫌っていた者の装備品によって命を救われるというのも皮肉な話ではあるが、気を失った彼が固い床に再度頭を打ってしまっては、命に係わる惨事となってしまう可能性もある。それを案じたサラであったが、咄嗟に身を乗り出したリーシャの腕にその身は受け止められた。

 だが、カミュの傍へ駆け寄ろうと動き始めたサラの耳に奇妙な雄叫びが響き渡る。

 

「@#(9&)」

 

「メルエ!」

 

 その雄叫びを聞いたサラは、瞬時に後方に控えているメルエに指示を飛ばす。その雄叫びは<はぐれメタル>から発せられた事は明白であり、それが魔物特有の詠唱だという事に気付いたサラはその名を呼ぶだけの指示を叫んだのだが、このパーティーに属する幼い『魔法使い』はそれだけで全てを理解した。

 雷の杖を振り上げたメルエは、小さな呟きのような詠唱を紡ぐ。

 

「…………ヒャダルコ…………」

 

 倒れたカミュに向かって<はぐれメタル>が吐き出した炎弾が床に着火すると同時に完成した呪文は、冷気の塊となって燃え上がる炎へと吹き荒れて行く。

 幼い少女が生み出した冷気は、ヒャダインよりも一段下位の氷結呪文。全てを凍らせる程の冷気ではないが、生命力の乏しい魔物であれば凍りつかせる事も出来る程の威力を誇る。

 本来であれば、魔物の唱える呪文に対して人間が対抗する事は不可能に近い。だが、ギラという初級の灼熱呪文であれば、一段上の氷結呪文で相殺する事が出来る可能性もあるのだ。それが、人間の中でも最高位に立つ『魔法使い』の実力でもあった。

 もし、この魔物がベギラマという中級灼熱呪文を唱えていれば、如何にメルエと言えどもヒャダインを唱えざるを得なかっただろう。そしてその時には、この狭い洞窟の中での被害も大きくなり、気を失っているカミュの身にも危険があった筈である。

 

「ピキュー」

 

 メルエが唱えた呪文の弊害と言えば、灼熱呪文と氷結呪文がぶつかり合った事によって生じた水蒸気の量であろう。凄まじい音を立てて瞬時に蒸発して行く冷気は、カミュ達と<はぐれメタル>との間に真っ白な壁を作り上げてしまった。

 蒸気の壁によって遮られた視界の向こうで奇妙な声が聞こえたが、熱した蒸気は下手な炎よりも危険であり、リーシャ達はその場を動く事が出来ない。未だにカミュの意識も戻っていない為、動くに動けないというのが正確なところではあるが、<はぐれメタル>という魔物がメタルスライムと同様に呪文の効果がない魔物だとすれば、メルエやサラの呪文行使にも意味はないというのも動けない理由であった。

 

「な、なに!? いないぞ!」

 

「……逃げてしまったようですね」

 

 そして、蒸気の壁が晴れたその場所に、魔物の姿はなかった。

 既にこの場から離れてしまったのだろう。余韻も残さない程の逃げっぷりにリーシャは驚愕し、サラは呆れ返ってしまう。困ったように眉を下げるメルエの肩に優しく手をかけたサラは、呆れの篭った呟きを漏らした。

 同じように溜息を吐き出したリーシャは、気を失ったカミュを起こす事にする。その際の、サラの傍から離れたメルエが、『ぺちぺち』とカミュの頬を叩く姿に二人が軽い笑みを溢した事は、彼の知らない出来事であろう。

 

 

 

 その後、意識を取り戻したカミュを先頭に元の場所まで戻った彼らであったが、残る方角は一つであり、互いに確認する必要性もなく、そのまま残りの道を突き進む事となる。その道は真っ直ぐ伸びた一本道であり、<たいまつ>の炎だけでも通路を照らし出せる程に細い物であった。

 魔物の気配はなく、只暗闇だけが続くその道を歩き続けていた彼らの視界に次なる十字路のような物が移り込んだ時、足元の異変に気付く事となる。

 

「これ以上は進めませんね」

 

 足元へ<たいまつ>を向けると、先頭を歩いていたカミュの少し先から床が抜けていた。一行を飲み込むように深い闇を広げた穴は、通路全体に行き渡っており、向こう側へ渡る事はどうあっても不可能である事が窺える。

 飛び越えて行くには距離が遠く、ロープなどを掛けようにも向こう側に何かを引っ掛ける物もない。サラの言葉通り、これ以上は前へ進めない事は明白であった。

 

「しかし、全ての道を通ったぞ? 他に道などなかった筈だ」

 

「……ルーラなどでも無理だな」

 

 ここまでの道中で、このフロアにある全ての道は歩き尽くしている。それでも向こう側へ渡る方法がないという事は、下の階層に別の上り坂があった可能性があり、もう一度下の階層へ戻る必要性が生じてしまうのだ。

 カミュが言うように、ルーラという移動呪文がカミュ達には行使出来るが、元来の目的と異なる使用方法は、意図した物と異なる結果を生み出す可能性がある。目視している場所へ移動するという使い方もない訳ではないだろうが、飛び越せないまでもすぐそこにある場所へ移動する為に使用する事は繊細な魔法力の制御が必要となり、人類の枠を飛び越えてしまっている彼等ではその微妙な調節は難しいかもしれなかった。

 

「一度戻りましょう……あっ、カミュ様!」

 

「カミュ!」

 

 来た道を戻って、一度下の階層へ降りようとした一行ではあったが、一斉に動き出した四人の重みに耐え切れないかのように床が軋みを上げる。必然的に先頭を歩いていたカミュが最後尾になっており、その足元が一気に崩れ落ちたのだ。

 それに逸早く気付いたサラが手を伸ばしてカミュの腕を握るが、落下の勢いを止める事は出来ない。そのサラの腕をメルエを抱き上げたリーシャが握り、何とか支えようと踏ん張るが、崩れ始めた床は、その支える地面さえも奪って行った、

 

「アストロン」

 

 全員が闇に吸い込まれた事を理解したカミュは、即座に最強の防御呪文を唱える。急速に高まって行く浮遊感が失せ、四人の身体が何物の受け付けない鉄へと変わって行った。身体が鉄へと変わりきると、四体の鉄像が落下速度を上げて暗闇へ飲み込まれて行く。

 落下した鉄像の後を追うように、三つの<たいまつ>が周囲を照らしながら下の階層へと落ちて行き、冷たい洞窟内に再び静けさが戻っていった。

 

 

 

「大丈夫か?」

 

「…………ん…………」

 

 落下した先は、少し広めの空間であった。

 鉄化が解けたカミュが、同じように鉄化が解けたメルエの身体を起こす。傍に落ちていた<たいまつ>を拾い上げて周囲を照らすと、他の二人も近くで起き上がろうとしているところであった。

 アストロンという呪文は、『勇者』のみが行使出来る魔法であるが、その防御力を術者の意思で維持し続ける事は出来ない。どれ程の時間、身体が鉄のままの状態が続くかどうかが解らない呪文はある意味賭けに近いものである。流石に行使して即座に効力が解ける事はないが、他の者達の安全が確認出来た事にカミュは安堵の溜息を漏らした。

 

「……ここは、先程通った場所とは違いますね」

 

 カミュとメルエの許に歩いて来たサラは、<たいまつ>を翳して周囲を確認し、現在の状況を正確に把握する。確かに、狭くはないが見た事のない空間に<たいまつ>の炎が灯り、隅々までは見渡す事は出来ないが、それは確実に今まで歩いて来た場所とは異なる物であった。下の階層へ落ちた事は確かではあるが、それは先程まで歩いて来た場所とは違う場所にある階層。そこで始めて、このネクロゴンドの洞窟がカミュ達が考えていた物よりも確実に大きな事を理解した。

 この少し広い空間の中央に落ちた一行は、<たいまつ>の炎に照らされた部分しか認識出来ない。壁際であれば、その壁に沿って歩くという方法もあるのだが、この状況ではその方法も取る事は出来ず、歩く方角を決めかねていたのだった。

 

「メルエ、周囲にメラを放てるか?」

 

「…………???………ん…………」

 

 突然カミュが口にした言葉の意味が解らなかったメルエが小首を傾げる。だが、実践するように一方向ヘ向けてカミュがメラを放った事で、幼い『魔法使い』にもその意図が理解出来た。

 カミュが放ったメラは、何もない洞窟内を明るく照らしながら岩壁に向かって飛び、壁にぶつかった事で弾けて消える。その過程で照らされた洞窟内の状況を把握出来たのだ。暗闇が支配する洞窟の全てを<たいまつ>で照らす事が出来ない以上、ある一定の間隔で奥まで照らす必要がある。これは、その方向に魔物がいた時の牽制にもなるのだが、メルエにはそこまでは理解出来ていないだろう。

 

「こちらと向こう側に上り坂がありましたね」

 

 メルエとサラ、そしてカミュによって放たれたメラが周囲の状況を正確に照らし出す。魔物の気配はなく、二つの方角に上の階層に上がるであろう上り坂を確認した。

 洞窟などで分かれ道があった場合、このパーティーが頼る者は一人しかいない。それは全員の総意であり、その視線は当然のようにその一人に向かって送られる事となる。

 

「あっちだな」

 

「……わかった」

 

 いつも通りに憮然とした表情で応えた女性戦士であったが、それに対して大きく頷いたカミュが選択したのは、これもいつも通り真逆の方角にある上り坂であった。

 何の説明もなく歩き始めたカミュの後ろを、サラもメルエも当然のように付いて行く。もはや慣れたと言っても過言ではない行動ではあるが、それでも胸の奥に湧き上がる怒りを否定する事が出来ないリーシャは、近くに落ちていた小石を蹴り飛ばしてその後を歩き始めた。

 

「ここは、落ちる前に居た場所ですね」

 

「ああ、元々はあの裂け目も繋がっていたのだろう」

 

 カミュが選択した上り坂を登り、一本道となった洞窟を進んで行くと、見た事のある場所に辿り着く。その場所は、先程の地盤崩壊にって一行が下へ落とされた場所であり、その証拠に<たいまつ>の炎で照らし出された向こう側の床は大きく崩れ落ちているのが解った。

 元々は、今カミュ達が立っている場所と、先程崩れ落ちた場所は繋がっていたのだろう。だが、長い年月を経て地盤が緩み、下の階層のような空洞が出来てしまった事によって崩壊する事になったと考えられる。そうなれば、カミュ達が立っている場所もまた絶対的な安全区域でない事が解った。

 魔物と遭遇していない事が幸いしている為、この場所で激しい動きをする事はない。だが、この場所にトロルのような巨大魔物が居たり、メルエの放つイオ系の呪文を唱えたりすれば、一気に洞窟自体の崩壊に直結する可能性さえもあるのだ。そこまで予想したサラは、更に下層で発見した『稲妻の剣』の能力によって、この場所の地盤が緩んでいた可能性もある事に気が付いていた。

 

「早めにもう一つ上の階層へ行きましょう」

 

 幸い、彼女達の後ろには、もう一つ上の階層へと続であろう上り坂が見えている。何処まで続くか解らない洞窟ではあるが、サラの記憶が正しければ、この上り坂を上った先は四階層か五階層となる筈だ。

 カミュ達が入り込んだ洞窟の入り口は、険しい岩山の麓にある場所であった。まるで山登りでもしているかのような洞窟探索は、洞窟自体の崩壊という危険性と共に、カミュ達四人の体力の低下という危険性も孕んでいる。小休憩を挟みながら探索を行ってはいるが、冷たい岩肌は冷たい空気を生み出しており、徐々にではあるが確実に四人の体力を奪ってしまっていたのだ。

 しかし、カミュを先頭に上りきった一行は、上の階層に出た事に安堵するよりも、絶望に苛まれる事となる。

 

「カミュ、予想以上に広い場所のようだぞ」

 

「……正直、アンタ頼みとなる。申し訳ないが、堪えてくれ」

 

 上の階層の闇は更に濃くなっており、一寸先も闇に閉ざされていた。その向こうへ<たいまつ>を向けはするが、何処まで続くか解らない程の一本道の奥からは冷たい空気と共に、一行の心を弱らせる程の闇が襲い掛かって来ている。

 直感的にこのフロアが広く入り組んでいる事を理解したリーシャがカミュへその事を告げると、それを聞いた彼は、珍しく彼女に謝罪に近い言葉を漏らして来た。彼自身、リーシャの心の内などは重々承知していたのだろう。

 常に道を尋ねるくせに、一度たりともその道を選択しないという事は、懸命に考えている人間を嘲笑う行為である。普通ならば、その腹いせに自分が感じた事に嘘を混ぜて答えたりする事も考える人間が出て来ても可笑しくはない。それにも拘らず、この女性戦士は、毎回必ず自分の中で最善と思われる道を導き出す事に懸命になり、少しでも皆の旅が楽になるようにと答えていた。それでも、その道は絶対に選択されない。

 それはどれ程に屈辱的な事であろう。どれ程に悲しい事であろう。

 懸命に導き出した道を選択して貰えないという事は、その道を導き出した彼女自身を信じてくれてはいないという事に他ならない。正確に言えば、彼ら程リーシャという女性戦士を信じている者達はいないのだが、それは当の本人には絶対に伝わらない信頼であるのだった。

 

「私達はリーシャさんを信じています。リーシャさんが道を指し示して下さっているからこそ、ここまでの旅を歩み続けて来れたのだとも思っています」

 

「…………メルエも…………」

 

 言葉にしなくても繋がる想いはある。他人はそれを『絆』と呼ぶ事もあるだろう。だが、人の想いとは、本来言葉にしなくては相手に伝わらない事もまた事実である。いくら胸の内で思っていたとしても、それを言語という風に乗せなければ相手の心には届かないのだ。

 故にこそ、エルフも人も言語という手段を編み出し、お互いの心を伝え合う歴史を築いて来ていた。いや、下級の魔物に言語という手段があれば、ここまで世界は拗れる事はなかったのかもしれない。それは、ランシールに居たスライムとメルエの繋がりが物語っているだろう。

 何にせよ、サラとメルエの信頼は、しっかりとリーシャの胸の奥へと届く事となる。加えて、申し訳なさそうに告げたカミュの心は、彼の心を四年という長い月日を掛けて追って来たリーシャの胸に直接響いて来たのかもしれない。

 

「……任せろ。これ以降は、カミュがどの道を選択しようと文句は言わない。私は私が思う最善の道を指し示そう」

 

「ふふふ。ありがとうございます」

 

 皆の信頼を受け入れたリーシャの顔は、先程までの不満に満ちた物ではなくなっていた。何か強い誇りを手に入れたような爽やかな笑み。それは、見ていたサラとメルエの顔にも優しい笑みを浮かべさせる程に暖かな物であった。

 歩き進めた一行が始めに出会った分かれ道は、リーシャが直進する事を示唆し、それを受けたカミュは左に折れる。次にぶつかった十字路は、目の前が行き止まりである事が既に見えていた為、右か左の二択になるのだが、リーシャが右を示した事で、迷う事無く左の道が選択された。

 悉く自分の指し示した方角と異なる道を選択するカミュに対しても、先程の言葉通り不満を表す事のないリーシャは、手を繋ぐメルエと柔らかな笑みを浮かべながら歩き続けている。だが、そんな彼等の和やかな雰囲気は、大きな橋のような地盤を渡った先で一変した。

 

「グオォォォォ!」

 

 岩壁が震える程の雄叫びが、暗闇が支配する洞窟内に響き渡る。その雄叫びは、一行が今まで聞いた事もない程に大きく、禍々しい。人間としてではなく、生物としての本能が、その雄叫びを上げる物への恐怖を呼び覚ませた。

 即座に戦闘態勢に入った一行は、少しずつ足を前へ踏み出し、<たいまつ>の明かりを前方へと向けるが、先頭に立つカミュの右腕でさえ細かな震えを齎していた事に、リーシャだけが気付く。そんなカミュとリーシャに護られるように前へと進んでいたサラとメルエがその正体を見た時には、前衛二人が一気に駆け出した後であった。

 

「おりゃぁぁ!」

 

 未だにドラゴンキラーを使わず、使い慣れたバトルアックスを振るったリーシャであったが、その斧は、雄叫びを上げていた魔物の一振りによって弾き返される。泳いだ身体に追い討ちを掛けるように横から魔物の体当たりが襲いかかって来る辺りで、その魔物が複数である事が解った。

 体当たりによって吹き飛ばされたリーシャの身体を受け止めたカミュは、持っていた<たいまつ>を放り投げ、魔物がいるであろう場所を確認する。

 その魔物は、姿を見る限り只の獣にしか見えない物であった。しかし、その姿は空想上に存在する獅子と呼ばれる獣に酷似しており、カミュやリーシャばかりか、サラでさえも初めて見る物。鋭い牙を持ち、その牙を納める口は大きく裂け、目は吊り上り、その顔面を覆うように鬣が靡いている。そして何よりも、通常の獣のように四足歩行のような動きをしてはいるが、その魔物の足の数は合計で六本あった。更に言えば、その背中には大きな蝙蝠のような羽が付いており、空中を飛ぶ事も可能である事を示している。

 

<ライオンヘッド>

ネクロゴンド地方に生息すると伝えられている獅子という獣が魔物へ進化した物だと考えられている。世界中を探しても、獅子という獣は確認されておらず、ネクロゴンド地方にある密林地帯や草原地帯に生息すると考えられており、その姿は伝説上の動物と云われていた。

獅子という獣は百獣の王とも謳われており、全ての獣の中で頂点に立つ程の力を有していると考えられている。その全ての獣の王が魔物化しているため力は強く、並みの人間であれば、その腕の一振りで細切れになってしまうとまで云われていた。

 

「すまん、カミュ。だが、あの魔物の力は相当な物だ。洞窟の外で遭遇した巨人族のような魔物の力と大差はないぞ」

 

「……それが三体か」

 

 態勢を立て直したリーシャは、目の前で唸り声をあげている魔物から目を離す事無く忠告を口にする。それを受けたカミュは眉を顰めながら、自分達を囲むように近づいて来る魔物に向かって舌打ちを鳴らした。

 一行が遭遇したライオンヘッドは全部で三体。どれが統率者という訳でもないが、一つの群れなのかもしれない。唸り声を上げ、鋭い牙の脇から涎を垂らして近づいて来るその姿は、元を質せば只の獣に近い人間の本能に警告を促す程の威圧感を放っていた。

 

「どのような攻撃を仕掛けてくるか解らない以上、安易な呪文は行使出来ない。俺達が前に出るしかないだろう」

 

「そうだな……このバトルアックスには悪いが、力加減を気にせず、思い切り振り抜かせてもらおう」

 

 カミュの言う通り、魔物の特性が解らない以上、後方からの呪文支援は逆に危機に陥ってしまう可能性がある。下の階層で遭遇したガメゴンロードが行使したマホカンタのような呪文を有している魔物であれば、人間の枠を超えてしまった二人の呪文で一行が全滅してしまう恐れさえあるのだ。

 それ程に、今のサラやメルエの力は飛び抜けてしまっている。それを理解したリーシャは、己の手にあるバトルアックスを一振りし、不敵な笑みを浮かべた。

 今までの戦闘の中で、彼女が手を抜いていたなどという事は有り得ない。そのような余裕は彼らにはなかっただろうし、そのような愚行を繰り返していたら、間違いなくこの場所には到達出来てはいないだろう。

 だが、それと同時に、魔物を相手にする際、己の武器というのは絶対不可欠な物でもある。故に固い敵や特性の解らない敵に対しては牽制の意味を含めた偵察のような攻撃をする事もあった。それは、ここまでの旅で何度かカミュが武器を欠損してしまっているのに対し、リーシャは一度もないという事が物語っているのかもしれない。

 

「やぁぁぁ!」

 

 再び前線に躍り出た二人は、警戒しながらも距離を詰めて来るライオンヘッドに向かってその手にある武器を振るう。だがリーシャの斧は先程と同様にライオンヘッドの前足に弾かれ、カミュの一撃はライオンヘッドが背中の羽を使って飛び退いた事によって避けられてしまった。

 リーシャの一撃は決して遅い訳ではないし、軽い訳でもない。現に、二度目となるこの返しでは、一体のライオンヘッドにそれ相応の報いを与えている。斧を弾いた筈の前足には鋭く斬り裂かれた傷が残り、毒々しい色をした体液が滴り落ちていた。

 そして、カミュの攻撃を避けた一体の動きを見る限り、このライオンヘッドの背中から生えている羽は退化した物だという事が解る。自分の身体を浮かび上がらせ、空中を飛び回れる程の強靭さを持たない羽なのだろう。故に、この魔物はそれを使って後方へ下がる速度を上げる事しか出来なかったのだ。

 

「カミュ、前だ!」

 

「ちっ!」

 

 自分の剣を避けた一体のライオンヘッドとは別の一体がカミュの真横から飛び出し、それに対応していた彼は、先程剣を避けた一体の動きが見えておらず、リーシャの言葉を聞いて初めて、自分の目の前にライオンヘッドが迫っている事に気が付いた。

 飛び掛るように跳ねたライオンヘッドが、その前足と中足とで切り裂くような一撃を繰り出す。それは寸分違わずにカミュの胴体を切り裂くような軌道を描いた。しかし、その一撃はカミュの纏う『刃の鎧』によって完璧に防がれた。そして再びあの現象が発現する。

 

「リーシャさん、下がって!」

 

 サラの叫びと共にリーシャが素早く飛び退く。その直後に烈風のような刃の嵐がライオンヘッドへと襲い掛かった。真空の刃ではなく、金属音を響かせるその刃は、ライオンヘッドの身体を切り刻んで行く。だが、一度の刃ではその命を奪い去る事までは出来なかった。

 毒々しい色をした体液を撒き散らしながらも怒りの遠吠えをしたライオンヘッドの周囲に、他の二体も集まって来る。一度距離を取ったカミュ達と付かず離れずの距離を保ったまま、三体のライオヘッドはカミュ達に向かって大きく口を開いた。

 

「皆さん、離れて!」

 

 サラの声が狭く暗い洞窟内に響き渡ると同時に、先程とは異なる雄叫びを三体のライオンヘッドが同時に発する。その雄叫びは暗い洞窟を一瞬の内に眩く輝かせ、周囲の温度を一気に上げて行った。

 メルエを抱き抱えたリーシャ、背中を向けて後方へ駆け出したサラはその熱風を受ける事無く難を逃れるが、一歩遅れたカミュの前に着弾した三つの灼熱弾は破裂し、一気に炎が燃え上がる。燃え上がった三つの炎は瞬く間に合体し、その火力を増していった。それは、メルエの放つベギラゴンという灼熱系最強の呪文の威力に勝るとも劣らない程の威力であり、飲み込まれるカミュの身体全てを焼き尽くすには十分な力を有しているだろう。

 

「メルエ、ヒャダインを!」

 

 炎に飲み込まれて行くカミュに向けて手を掲げたサラは、リーシャの腕の中で唖然としているメルエへ指示を飛ばす。その声に我に返ったメルエは地面へと降り立って杖を掲げ、即座に指示通りの呪文を詠唱した。

 続けて唱えられたサラのヒャダインが、メルエの生み出した冷気を後押しする。一気に吹き抜ける冷気は、熱風に押し負ける事無く炎にぶつかり、盛大な音を立てて水蒸気を吹き上がらせた。

 真っ白な蒸気に覆われた洞窟内で尚も氷結呪文の詠唱を繰り返したサラは、徐々に晴れて行く視界の先に、鈍い輝きを放つ鉄像を見つけ、安堵の溜息を吐き出す。リーシャやメルエも同様に、その姿を見た瞬間、表情を緩めた。

 

「メルエ、魔物に警戒を! リーシャさん、アストロンの効力が解けると同時に、カミュ様をこちらへ!」

 

 状況を把握したサラの指示は的確且つ迅速であった。

 ライオンヘッドの放った物が灼熱系の呪文であり、その回避が間に合わないと悟ったカミュは即座にアストロンを唱えたのだろう。何物も受け付ける事のない鉄へと変化したカミュは、どれ程の高熱に覆われようとも、その身体に傷一つ負う事はない。だが、いつ効力が切れるか解らないその呪文は、次の攻撃に対しての危険性も否めなかった。

 再び詠唱を開始しようとしていたライオンヘッドに向けて放たれた火球は、三体のライオンヘッドの中央に着弾し、洞窟の床を抉り取る。メルエが作ったその隙を利用し、鉄化が解け始めたカミュの身体を抱えたリーシャがサラの許へと戻って来た。

 

「……すまない、助かった」

 

「あの三体が放ったのは、おそらくベギラマでしょうが……ベギラマを三連続で唱えられては厄介です。私だけのヒャダインでも、メルエだけのヒャダインでも対抗出来ないと思います」

 

 意識を取り戻したカミュは、リーシャやサラに対して例を述べる。首を横に振ってその謝礼を誇示したサラは、魔物が放ったであろう呪文の分析と、一行が直面している状況を正確に把握していた。

 例え中級の灼熱呪文とはいえ、魔物が唱える攻撃呪文である。一体の放つベギラマであれば、サラのヒャダインでも対抗出来るだろうが、それが三体同時に放たれたり、三連続での詠唱となれば、サラよりも強力な氷結呪文を行使出来るメルエであっても対抗は出来ないのだ。

 

「相手の魔法力を狂わせる呪文は効かないのか?」

 

「やってはみますが、効果がなかった時の事も考えておかなければ危険です」

 

「力もそれなりにある。接近戦だけでも厄介だ」

 

 唸り声を上げながらお互いの位置を変えて警戒を続ける三体のライオンヘッドから視線を離す事無く、カミュ達三人がこの戦闘について協議を重ねて行く。そんな三人の様子を見上げていたメルエは、自分がその中に入れない事に徐々に不満を募らせて行き、カミュが話す頃には頬を膨らませ始めていた。

 『むぅ』と頬を膨らませる自分の姿に誰も気付いてくれない事に怒りを爆発させたメルエは、傍に立っていたカミュのマントの裾を握り、それを何度か引き始める。ようやく幼い『魔法使い』が何かを主張している事に気付いた一行は、一斉に視線を下げた。

 

「…………あたらしい………おぼえた…………」

 

「え!?」

 

「なに!?」

 

 全員の視線が自分に集まった事に満足したメルエは、まるで胸を張るようにその言葉を発する。もはや聞き慣れたと言っても過言ではないその言葉ではあるが、何度聞いても驚きの表情を浮かべるリーシャとサラの姿が、メルエの欲望を満たしているのかもしれない。

 嬉しそうに笑みを浮かべるメルエを見るリーシャの表情は、未だに驚きを表したものではあったが、もう一人は即座に表情を引き締めた。それは何かを咎めるように厳しく、何かを諭すように穏やかな相反する色を映し出している。

 

「メルエ、その呪文はまだ駄目です。メルエには制御し切れないでしょう?」

 

「そうなのか?」

 

 サラの口から出た言葉は、メルエの発した言葉を否定する物であった。

 メルエが新しい呪文を覚えた事を口にする時、その呪文を行使する事に技量や精神が追いついていなかった事は今までに一度しかない。それは、ベギラマと呼ばれる灼熱の中級呪文を唱えた時だけだ。

 あの時のメルエは魔法力の流れを認識せず、その才能のみで呪文を行使していた。故にこそ、彼女はベギラマという中級呪文を行使する力を持っていながらも、その身を犠牲にするような行使の仕方しか持つ事が出来なかったのだ。

 だが、今のメルエは己の力量を把握しているし、何よりもその呪文の行使に際しての調節さえも可能となっている。そんなメルエが己の行使出来る呪文を誇張する訳がないという思いが、リーシャの首を傾げていた。

 

「…………むぅ………メルエ……できる…………」

 

「駄目です!」

 

 魔物を置き去りにした会話は続き、カミュだけがライオンヘッドの動きに注意しながら何時でもアストロンを唱えられるように準備を整えている。

 サラは厳しく窘めるが、それでもメルエは頑として納得しない。頬を膨らませてサラを睨みつける姿は、通常時であれば微笑ましいものではあるが、今は戦闘の真っ最中である。このようなやり取りに時間を掛けている事が出来ないのだ。

 溜息を吐き出したリーシャは、睨み合う二人に言葉を掛けた。

 

「メルエ、出来るのか?」

 

「…………ん………メルエ……だいじょうぶ…………」

 

 問いかけるように視線を下へと向けたリーシャに対し、メルエは魔法の言葉を口にしながら大きく頷きを返す。それを見るリーシャの瞳は先程とは打って変わって厳しい光を宿していた。

 そんな瞳を見つめるメルエの瞳の中に宿る光に陰りはない。しっかりと見つめ返した瞳の中には自信と覚悟が漲っている。それを確認したリーシャは、厳しい表情を緩め、そして頷きを返した。

 

「サラ……メルエがこの言葉を言った以上は大丈夫だ。私が保証しよう」

 

「……どういう事ですか?」

 

 自信を持ってメルエの言葉を肯定したリーシャに対し、サラは不思議そうに首を傾げる。メルエが発した言葉にどのような力があるのかがサラには解らないのだ。

 メルエという少女は、出会ってから三年の月日が経って尚、己の胸の内を言葉にして伝えるという事を苦手としている。いや、正確に言えば苦手意識さえも持っていないだろう。彼女にとって、言葉とは必要最低限が伝われば良いという思いがあり、それだけでも彼女の周囲にいる人間が彼女の事を理解してくれるという絶対の自信があるのだ。

 メルエがサラから教えられた、『大丈夫』という魔法の言葉の意味と、その強さを知っているのは、メルエ唯一人である。メルエの中にある想いというのは、彼女にしか解らないものであり、彼女が口にしなければそれが伝わる事はない。今までは、彼女が口にする『大丈夫』という言葉の重さを理解しなくともその自信を伝える事は出来たが、今のサラは別の確信を持っている為に届かない。

 だが、彼女を含め、このパーティー全員を見つめ続けていた女性戦士は、この幼い少女が口にする言葉が、少女にとってどれ程に重く強い言葉なのかを理解していた。何度も崩れ落ちそうになって来たメルエという、人間として未熟な少女を立ち上がらせて来た経緯を知っているリーシャにとって、サラがメルエに対して絶対の自信を持っている時にしか使用しない一つの言葉が神格を持つ程に高められている事に気付いていたのだ。

 故にこそ、この場面でリーシャもまた、その言葉を口にする。

 

「ちっ!」

 

 そんな三人の耳に、前線で魔物と対峙していたカミュの舌打ちが聞こえて来た。

 警戒するようにカミュ達との距離を保っていたライオンヘッドではあったが、その内の一体がカミュに向かって飛び掛って来たのだ。その一体は、唯一傷一つ負ってはいない魔物であり、その速度も他の魔物達よりも上である。元々魔物としての格も上位に入る者であり、歴戦の勇士であるカミュであっても気の抜けない程の速度であった。

 稲妻の剣でライオンヘッドの爪を弾き、更に迫る後ろ足をドラゴンシールドで防ぐ。その重圧は強く、カミュ自体が数歩後ろへ下がる事となった。

 

「ワオォォォン!」

 

 後方へ下がったカミュを見た他の二体のライオンヘッドが、詠唱となる雄叫びを上げる。それに呼応するようにカミュへ攻撃を繰り出していた一体も雄叫びを続けた。

 輝きを放つと同時に、凄まじいまでの熱風が洞窟内を駆け巡り、生み出された灼熱弾がカミュの足元へと着弾した。

 

「…………マヒャド…………」

 

 しかし、その灼熱弾が破裂し、生み出されようとしていた灼熱の火炎は、カミュの後方から吹き荒れる凄まじい冷気によって一気に凍り付いて行く。振り抜いたメルエの杖の先から、既に冷気ではなく氷の刃が飛び出していた。

 呟くような詠唱の後、生み出された冷気は周囲の水分を全て氷の刃と化して行く。対象を凍り付かせるだけではなく、その周囲の全てを凍りつかせるその威力は、溶岩さえも凍りつかせたヒャダインを遥に凌いでいた。

 対象となっていないカミュの身体さえも凍りつきそうになる程の冷気が周囲を包み込み、燃え上がった炎を鎮火させるどころか、その炎さえも形状を保ったままで凍りつかせる。考えられない程の冷気がベギラマの呪文を完全に打ち消してしまっていた。

 

「カミュ、急げ!」

 

 呆けていては足元までが凍り付いてしまうと感じたリーシャは、カミュに急ぎ戻るよう指示を飛ばす。その声を聞いたカミュは、自身の周囲にベギラマを放ち、圧倒的且つ暴力的な冷気への抵抗を示し、後方へと飛び退いた。

 リーシャを押し退けるように前へと出ていたメルエの杖は、未だに前方のライオンヘッドへと向けられている。その横で一人の『賢者』が、成す術もなく凍り付いて行く三体の魔物の姿を呆然と眺めていたのだった。

 

「……何故?」

 

 サラは、メルエ自体が未だにこの最強の氷結呪文を御していないと考えていたのだ。ヒャド、ヒャダルコ、ヒャダインという氷結呪文の頂点に立つこの呪文は、その威力も然る事ながら、その特異性も際立った呪文であった。

 この洞窟に入ってから、メルエが呪文の契約の為に一人で行動した事などない。皆で一塊で休憩していたし、必ず誰かが起きてはいた。魔物への警戒の為に全員が眠りに就くなどの愚行は犯してはおらず、それ以外に呪文の契約や修練を人知れず行う機会など有りはしなかったのだ。

 

<マヒャド>

氷結系最強の呪文にして、氷結系の完成形呪文。

その契約方法は古の賢者しか知らず、『悟りの書』と呼ばれる伝説の書物にしか記載されてはいない。長い歴史の中でも、この呪文の契約が出来た者は限られており、歴代の『賢者』と呼ばれる者達の中でも一握りの者だけであった。

周囲に冷気を生み出すだけではなく、その圧倒的な冷気は生み出された瞬間に氷の刃となって対象を貫く。対象を貫いた刃がその体躯を凍りつかせ、永遠の眠りへ落として行くとまで云われる圧倒的な氷結呪文である。

 

「……メルエ、貴女は一体何を……」

 

 ライオンヘッドという強敵三体を瞬時に死へ落として行った幼い少女を褒め称えるリーシャと、その圧倒的な呪文の凄まじさに驚きを隠せないカミュを余所に、今も尚洞窟内を支配する冷気の中で、サラだけが凍りついた魔物を見て小さな呟きを漏らす。

 その後、リーシャの指示と逆の道を歩き続け、一行はネクロゴンドの洞窟を抜ける上り坂を発見するのだが、その間もサラは一言も口を開く事はなかった。

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。
これでネクロゴンドの洞窟は終了となります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ネクロゴンド地方

 

 

 

 ネクロゴンドの岩山の麓にあった入り口から洞窟に入った一行が出たのは、岩の山脈に囲まれた高原のような場所であった。

 空を見上げると青い空と白い雲に手が届くのではないかと思えるほどに近く見える。カミュに続いて外へ出たメルエは、突如入って来た眩いばかりの陽光に目を瞑り顔を顰めた。自分の顔に当たる暖かな陽光と、澄んだ空気の香りを感じたメルエは静かに目を開き、すぐ傍を流れて行く雲を掴もうと空へ手を伸ばす。

 高度がある場所である為、空気が薄いのかもしれない。見上げる空は抜けるように青く、緑に覆われた高原は太陽の光を一身に受けて輝いていた。

 

「これが、魔物の本拠地なのか?」

 

「さあな」

 

 洞窟を抜けた先の光景が、自分の想像していた物と余りにも掛け離れた物であった為、リーシャはその光景の前で呆然としてしまう。禍々しく、荒々しい魔物達が本拠とする場所と云われるネクロゴンド山脈に、これ程清らかな空気が流れている事に驚き、それを信じる事が出来ないのだろう。

 何度も何度も雲を掴もうと手を伸ばしているメルエに苦笑を浮かべながら、カミュはリーシャへと言葉を返す。彼にとって見れば、その場所がどれ程に清らかであろうと、魔王が居る場所であるかどうかが問題であり、それ以外は些細な事なのかもしれない。言葉と同時に歩き出したカミュに気付いたメルエがそのマントの裾を握って歩き出し、ようやく我に返ったリーシャがその後に続く中、洞窟内から一言も言葉を発する事がなくなったサラが、周囲へ視線を動かしながら、尚深い思考の海へと落ちて行った。

 

「……カミュ様」

 

「ああ……やはり、魔王の城へ辿り着く事は出来ないか」

 

 それは、太陽の光が陰り始めた頃に現れた。

 一行を暖かく照らしていた太陽が西の空へと傾き、今日という日が終わりを告げようとする頃、一行の前に大きな湖が見えて来たのだ。周囲に深い森なども無いため、その湖は、海ではないかと疑ってしまうほどに広く、一行を飲み込まんばかりの力に満ちていた。

 湖の海は濁ってはいない。だが、それでも決して澄んではいない。不快な腐臭などが漂っている訳ではないが、爽やかで胸の透くような雰囲気を漂わせている訳でもないのだ。それが、却って彼等の胸にある不安感を煽る。

 そして、それは湖に近づき、その先を見た時に現実となった。

 

「……あれが『魔王バラモス』の居城か」

 

 湖の遥先に雲に巻かれた城が見える。沈みかけた太陽の光は届かず、暗闇が覆うように黒く染まった雲によって遮られ、全貌は見えないまでもその巨大さは理解出来た。

 既にネクロゴンドの山脈の上部にある高原よりも遥か高い場所に浮かぶその城こそ、彼等が四年の月日を経て求め続けて来た魔物の本拠地であり、『魔王バラモス』の居城である。見る者の心を魅了し、その心に恐怖を植え付け、その意気までも奪ってしまう程に見事な城は、闇の中で物言わずに佇んでいた。

 先程までの清らかな高原の雰囲気などの一切を奪い尽くし、見る者の心さえも闇で覆い尽くそうとする城からは、凄まじいまでの禍々しい空気が流れ出ている。湖が濁ってはいないにも拘らず、不快感を感じてしまうのは、城から流れ出る瘴気に当てられてしまうからだろう。

 

「泳いで渡れるという次元の問題ではないな」

 

「そうですね……船で渡れる訳でもないでしょう。行く事が出来るとすれば、空中の瘴気を突き進む事ぐらいしか……」

 

 太陽の残光に照らされたバラモス城を見上げたリーシャは、その場所への道程が完全に断たれてしまっている事を悟る。それはサラも同様であり、今いる場所よりも遥か高みにある城へ渡る方法が非現実的な物しか残されていない事を理解していた。

 この世界で空を飛ぶ事が出来るのは、羽を持つ者達だけである。エルフや魔物の中には背に羽を持つ者もいるが、人間という種族にはそのような者は一人としていない。空を飛ぶという行為を人間が行使出来ない以上、彼等の四年という長い月日の旅全てが無駄に終わってしまう事を意味していたのだ。

 その事実をリーシャもサラも正確に把握していた。

 この場所にバラモスの居城があると信じて歩んで来た二人である。最後の決戦が近い事を感じ、それでも己の技量を高める為に常に努力を続けて来ていたのだ。その二人にとって、見上げる事しか出来ないその城は、精神と身体を支え続けて来た芯を折ってしまう程の存在感を示していた。

 

「アンタであれば泳いで渡れそうな気もするがな」

 

「な、なに!?」

 

 しかし、そんな二人を嘲笑うかのように、場違いな空気を放つ言葉が飛んで来る。その言葉を向けられた一人の女性戦士は、いつものように条件反射で振り向き、その場所に居た人物の表情を見て、己の心の弱さを悟った。

 彼女を真っ直ぐに見つめる青年の瞳に『諦め』や『絶望』などの色は欠片もない。彼女が四年の間ずっと見続けて来た、頼もしくとも儚いその瞳は、遥か高みにある城を見て尚、彼の心が折れていない事を明確に示していた。

 軽口を叩くその口元は微かに上がり、傍にいるメルエがそんな彼を見て柔らかく微笑んでいる。それが示す事を理解出来ないリーシャではない。

 この青年は、人類という弱い種族の希望であり、世界で生きる全ての生物達の希望でもある。その希望が生きている。他に何が必要だというのか。彼が歩む道を共に歩き、そしてその先にある物を見定める事こそ、四年の月日を共に歩んで来た女性戦士の使命である。それをリーシャは思い出したのだ。

 

「夜が更ける。木々のある場所で暖を取ろう」

 

「は、はい」

 

 自分を取り戻した女性戦士が空に視線を送ると、既に空の支配は太陽から月へと移っていた。その闇の時間は、魔物の支配する時間であると共に、その月と性質を同じくする人類の希望の時間でもある。

 月の光は、常に優しく大地へと降り注ぐ。闇に生きる者達でさえ、その明かりを受けて道を歩み、その光の優しさに心を和ませるのだ。

 絶望に折れそうだった心の芯は、青年の放つ柔らかく優しい光によってその強度を取り戻す。リーシャの言葉に大きく頷きを返したサラは、伸ばされたメルエの手を握り、湖に背を向けて歩き出すのだった。

 

 

 

 翌朝、霧の掛かる高原の視界の悪さに苦労しながらも、一行は湖を遠巻きに見るように歩き出す。既にネクロゴンドの洞窟の出口は見えず、その場所から北東へと高原を歩き続けると、湖の向こうに見えていた居城から流れる瘴気が濃くなって来るようにも感じた。周辺の空気が息苦しい程に濃くなり、それが頭の奥底を痺れさせるように視界を霞ませて行く。

 カミュを先頭に歩いてはいるが、その先頭のカミュの背中が霞んで来る事にサラは自分の目を何度も擦る。それはメルエも同様であったようで、何度か咳き込むような仕草をし、嫌々をするように数度首を首を振っていた。

 

「カミュ! 前に建物らしき物が見えるぞ!」

 

 瘴気によってカミュとサラは自分の足元に注意を向けるのが精一杯だったのだが、最後尾を歩いていたリーシャからは、前方に見え始めた小さな建物が確認出来ていた。

 顔を前方へと向けたカミュとサラにもその姿が見えて来る。それは、瘴気に包まれた中でも、その部分だけは澄んだ空気に満ちており、何かに護られたように輝きを放っていた。

 息苦しく感じていた筈の胸は、その建物を視認するだけで落ち着きを取り戻し、不安に満ちていた心は静けさを取り戻して行く。

 それが何の影響による物なのか、そしてその建物の中に何があり、誰が待っているのかに彼らは気付いていた。 

 

「……あの建物に『シルバーオーブ』があるのですね」

 

 これ程の瘴気の影響を受けない物など一つしかないだろう。

 彼らの旅の中で何度となく神秘を見せて来た、神代からの遺産であり、もはや伝説ともなっている『精霊ルビス』の従者を蘇らせると云われる六つの珠。世界中に散らばり、時には人の手に、時には魔物の手に、そして時には死者の手にあった物である。

 シルバーオーブは、その内の最後の一つとなる珠である。その情報は欠片もなかった。ランシールの神殿で遭遇した男性からもイエローオーブの情報は聞いたが、シルバーオーブに関する物は何一つとしてなかったのだ。

 それでも、目の前に佇む建物を見たサラは、そこに最後のオーブがあるのだと確信していた。

 

「……行くぞ」

 

 いつも通りのカミュの言葉であったが、その場にいた者全ての表情が引き締まる。『魔王バラモス』まではまだ届かないが、それでも確実に自分達がその場所に近づいている事を改めて実感したのだ。

 リーシャやサラの胸の内で、『やはりカミュは正しかった』という想いが湧き上がっている事だろう。あれ程の絶望な光景を見て尚、その希望と志を失わず、心を折らなかった青年こそ、やはり世界を救うと謳われる『勇者』なのだと。

 視界が歪む程の瘴気の中、一行の視界は徐々に晴れて行く。それは、特殊な能力を持つ珠の効果だけではないだろう。世界を救う『勇者』の後ろを歩いて来た彼女達三人は、常に彼によって濾過された空気の中を歩いていたのだ。それがどれ程に大きな存在なのかを知るのも、彼女達三人しかいないのかもしれない。

 

「……扉がありませんね」

 

「廃屋に近いのだろうな」

 

 傍に近づくとその建物の異様さが際立っていた。

 既に、人間が住んでいる気配などなく、建物は老朽化している。そこに取り付けられていたであろう扉も既に朽ちており、周辺に腐った木片が転がっていた。

 だが、朽ち果てた建物にも拘らず、その建物の放つ雰囲気は聖なる空気に満ちており、そこに何らかの神秘が残されている事に間違いはないだろう。それが解っていて尚、リーシャもサラも最初の一歩が踏み出せなかった。

 そんな中、踏み出したのは最も幼い少女である。握っていたマントの裾から手を離し、扉のない入り口から中を覗いた彼女は、ゆっくりと中を見渡した後、不思議そうに首を傾げて戻って来た。

 

「何かあったか?」

 

「…………むぅ…………」

 

 もしかすると、メルエは先程のサラの言葉を聞いていたのかもしれない。『オーブ』という単語は、彼女のポシェットに入っている五つの珠と同じ物を示している。それは、綺麗な物が好きな幼い少女にとって、自分の目で確かめたいという欲求が生まれて来る程の物だったのだろう。

 しかし、カミュの許へと戻って来た彼女は、不満そうに頬を膨らませ、首をゆっくり横へと振った。入り口付近からはそれは見えず、一人でそれ以上奥へ進む勇気はなかったのだろう。再び掴んだマントの裾を引き、カミュに一緒に来るように促すその姿は、後方で硬直していたリーシャとサラの心に余裕を取り戻す事となった。

 

「カミュ、入るしか道はないのだろう」

 

「そうですね。何があるか解りませんが、私達が選択出来る道は一つしかありません」

 

 後方から告げられた言葉を聞いたカミュは軽い笑みを溢し、メルエに促されるままに建物の中へと入って行く。

 小型の建物の中は昼間だというのに薄暗く、周囲を見渡すと窓らしき物は小さな物が数個あるだけであった。その窓から差し込む陽光も、傍にある魔王城からの瘴気の影響で陰りが見え、部屋の中全てを照らす程の力は残されてはいないのだろう。

 魔物の棲み処か、霊魂の掃溜め地と考えても可笑しくはない雰囲気を醸し出す建物内に入ると同時に、先程まで大層な口を叩いていたサラはリーシャの腕を握り締める事となった。苦笑を浮かべるリーシャではあったが、カミュの前を歩くメルエの手を握る何かが見えた気がして、目を見開く。それは、身体も足もない、透き通るような手であった。

 

「お、おい……カミュ……!!」

 

 そんな不可思議な物を見る事は初めてではないが、決して気持ちの良い物ではない。ましてや、それが死者の腕であれば、生者を黄泉の国へと引き摺り込む物であるというのが、一般的なルビス教の考えであるだけに、リーシャは前方を歩くカミュへと声を掛けた。

 だが、そんなリーシャの言葉は、突然発現した炎によって遮られる事となる。

 外から見た限りでは小さな小屋のようであった建物の中は、カミュ達が想像していたよりも広いつくりになっており、その中央を取り囲むように設けられた燭台に一気に炎が灯ったのだ。

 燃え上がった炎は、部屋全体を明るく染め上げ、昼間だというのに薄暗かった内部全体を照らし出す。そして、その炎はメルエの手を引いていた腕の持ち主を浮かび上がらせた。

 

「……あ、貴方は」

 

「ふむ。よくぞここまで参った」

 

 突如現れたその男性は、カミュ達のここまでの道程で何度か出会った事のある人物と同じ顔をした人間。年齢こそ、その場所その場所で異なってはいたが、その面影は変わってはいない。

 最後のカギを入手した祠、そのカギで入る事が出来たランシールの神殿、そこにいた人物は今目の前に立つ人物の若かりし頃の姿だという事が、誰に説明を受けた訳でもなく理解出来る。それ程老いている訳ではないが、あの場所に居た者達よりも更なる苦悩と、絶望を味わったその顔は、経験と年数が蓄積されていた。

 自分の手元から姿を現したその男性を見上げたメルエは、不思議そうに小首を傾げ、その姿を見た男性は暖かく柔らかな笑みを浮かべる。

 

「遥か高みにある『魔王バラモス』の居城へ行く為には、『不死鳥ラーミア』を蘇らせる必要があるだろう」

 

「……ルビス様の従者、不死鳥ラーミア……」

 

 カミュやサラがその男性に何かを問いかける前に、彼は一行の絶望を払拭させる程の情報を口にする。その中にあった単語に憶えのあったサラは、復唱するように口元で呟きを溢した。

 その名は、サラという『僧侶』が数多の苦難を乗り越え、『賢者』として生まれ変わった場所で聞いた物。ダーマ神殿というルビス教の聖地を管理する、教皇という雲よりも遥か上の存在だと思っていた人物から聞いた物でもあった。

 『精霊ルビス』という、この世界の守護者である者の従者の名であり、不死という生物を超越した存在の名でもある。

 

「僅か二十年程前には掛けられていた橋が今はない。あの城へ向かう為には、不死鳥ラーミアを蘇らせるより他はないのだ」

 

 驚きに固まるサラを余所に、男性は言葉を続けた。それを聞いていたカミュとリーシャも、男性の言葉に身体を硬直させる。

 二十年程前の事を持ち出して来るという事は、その二十年程前にあの魔王城へ挑んだ者がいたという事と同義。つまり、この死者であろう男性と、既にこの世に居ないと考えられている英雄が共に魔王へ挑んだ可能性もあるという事であった。

 先代の英雄となっているオルテガという男は、共に旅する者がいなかったと言われている。一人旅を続け、ネクロゴンドの火口で命を落とした事になっているのだ。だが、目の前の死者が共に旅する仲間だったとすれば、単純に話が変わって来る。

 それをリーシャとカミュは気付いていた。

 

「……話の腰を折るようですが、それはオルテガ様の事ですか?」

 

「ふむ」

 

 口を開かないカミュの変わりに、隣に居たリーシャがその男性へ質問をぶつける。それに対し、男性は静かに首を縦へと振った。

 何も知らない人間からすれば、男性とリーシャの会話は噛み合ってはいない。男性の言葉の中には、『二十年前には橋があった』という事柄しかなく、その橋を渡った人物がいるなどという事は一言も口にしていないのだ。

 だが、男性はまるでリーシャ達の考えている事も、聞きたい事も理解しているかのような面持ちで首を縦に振っている。その言葉が事実だとすれば、オルテガの死地はネクロゴンドの火口ではない事が確定してしまうのだった。

 

「ネクロゴンドの火口付近で船を降り、そのまま戻って来なければ、火口で命を落としたと船乗り達が伝える事だろう」

 

「……では、オルテガ様は生きていらっしゃる、と?」

 

 男性の口から出たオルテガ死亡説の裏側は、『何故そんな事に頭が回らなかったのか』と思う程に単純な物であると同時に、致し方ない物であると納得も出来る物でもあった。

 確かに、カミュ達と同じように、あの場所でオルテガが船と別れを告げたとなれば、オルテガの姿を最後に見た者は船乗り達という事になる。暫しの間、あの場所に停泊してオルテガの帰還を待っていたとしても、その期間は長くても数ヶ月だろう。それ程の時間が経過して尚、オルテガが世界中の何処にも戻っていないとなれば、ネクロゴンド火山の火口付近で命を落としたと考えるのが普通であり、それを否定出来る者は誰もいない。

 そして、その事実に対して大幅な希望的観測を入れ込むと、リーシャが男性へと問いかけた物になる事も否定する事が出来ないものだった。

 しかし、そんなリーシャの淡い希望は、男性が静かに首を振った事で、脆くも砕け散る事となる。

 

「……それは解らん。その後、あの者の名を聞く事はなく、姿を見た者もいないのであれば、想像は難しくはなかろう」

 

「しかし、それは……」

 

 尚も食い下がろうとするリーシャであったが、目の前に出された腕によって、その言葉を飲み込まざるを得なかった。

 隣に立っていたカミュがその腕をリーシャの胸付近に上げ、その言動を遮る。それは有無も言わさぬ程の強さを持ち、如何にリーシャといえどもそれ以上口を開く事は出来なかった。

 リーシャとカミュの間の溝は、アリアハンから出て四年の月日を経て埋まっている。既にその心と心の間に溝などはないかもしれない。だが、この『オルテガ』という人物に関してだけは、どれ程にリーシャがカミュの心へ入り込もうとしても、どれ程にその心を慮り、その心を知ろうと語りかけても、彼が心の全てを開く事はなかった。

 カミュの挙げた腕を見ながら悔しそうに唇を噛むリーシャの姿が、この四年の月日を経て尚、心を開かないその姿に対する彼女の心の内を明確に物語っているのかもしれない。

 

「……済まぬな。そなた達にこの『シルバーオーブ』を渡そう。全てのオーブを持ち、遥か南にあるレイアムランドへ向かうが良い」

 

 悔しそうに顔を歪めるリーシャへ視線を送った男性は、軽く目を伏せて謝罪の言葉を口にする。それに対するリーシャやサラの反応を見る事無く、男性は懐から一つの珠を取り出した。

 今まで一行が見て来たオーブとは明らかに異なるそれは、淡い光ではなく、眩いばかりの銀色に輝きを放っている。見上げていたメルエは、その光の眩しさに手で目を覆うが、それでも興味があるのか、手の隙間から輝く珠へ視線を送っていた。

 輝きに落ち着きを見せた銀色の珠を、男性は目から手を離したメルエの掌に乗せる。自分の掌よりも小さな珠を見たメルエは、その輝きに頬を緩め、男性に対して小さく感謝の言葉を漏らした。にこやかな笑みを浮かべる男性の顔は、先程までと異なり、溢れる程の優しさと暖かさに満ちている。それを不思議そうに見るリーシャとは対照的に、それまで硬直していたサラは、釣られるように笑みを溢していた。

 

「そなたならば、必ず『魔王バラモス』の許へと辿り着き、そして打倒する事が出来るだろう。そして、そなた達ならば、ルビス様もラーミアも力を貸して下さる筈だ」

 

 男性は一度カミュへと視線を動かし、その瞳を見て大きく頷く。そして、一行へと視線を移し、もう一度頷いた。

 その瞳に宿る優しい光は、まるで自分の子供の成長を喜ぶ好々爺が持つ物に似ている。暖かく見つめる先にあるのは、カミュでありリーシャであり、サラでありメルエであった。

 『精霊ルビス』という名を出し、その従者の名さえも知っているこの男性の素性は解らない。だが、この場所にカミュ達を導いて来た者は、間違いなくこの男性なのであろう。

 最後のカギの情報を手にしたカミュ達がエジンベアへ向かい、渇きの壷を入手した彼らはそのまま浅瀬の祠へと向かった。そしてその祠で出会った男性も彼と同様の魂を持つ者だとすれば、その者が口にした『ギアガの大穴』という物もカミュ達を導く為の言葉なのかもしれない。

 浅瀬の祠で出会った魂は最早その力を残してはおらず、カミュ達に最後のカギの在り処を示す事で限界であった。だが、その後に再訪したランシールの神殿に居た男性は、まず間違いなく目の前で微笑む男性であろう。

 そこまで思考を及ばせたサラは、自分の中で不確かだった物の全てが隙間もなく嵌まって行くのを感じていた。

 

「そなた達と会うのも、これで最後となろう。ここまでの道程は厳しく辛い事も多かった筈だ。だが、そなた達ならば、我らが護れなかったこの広い世界の未来を……更なる希望に満ちた物へと繋げてくれると信じておる」

 

「……それは、『人』にとってでしょうか?」

 

 そこまで何一つ口を開かなかったサラは、男性が発した別れの言葉に口を挟んだ。柔らかな微笑を浮かべる者がサラの考えている通りの人物であれば、彼はその身で『魔王バラモス』に挑んだ事は間違いないだろう。

 だが、その挑戦の源となる想いが何処にあるのかは解らない。今のサラにとって、この広い世界は、決して『人』だけの物ではない。エルフも魔物も、動物も昆虫も、そして草木や花々に至るまで、その命の限り生きて行く為の世界であるのだ。故にこそ、サラは悩み、考え、泣き、そして歩き続けている。

 『自分の考えは間違っているのか』、『自分の進んでいる道は正しいのか』、その問いを彼女はこの男性に対してせずにはいられなかった。

 

「驕るでない!」

 

「!!」

 

 しかし、そのサラの心の問いかけは、先程までの柔和な笑みを消し去った男性によって一蹴される。厳しい瞳をサラへと向けた男性は、迷える若者を一喝するように声を発し、その心の迷いを吹き飛ばす。身体が跳ねるように硬直したサラの横で、驚いたメルエがカミュのマントの中へと逃げ込んでいた。

 一喝の言葉の後、暫しの静寂が建物内を支配する。男性に気圧されたように揺れ動いていた燭台の炎が落ち着きを取り戻した頃、ようやく男性はその口を再び開いた。

 

「そなた達にどれ程の力があろうと、この世界の理を定める事など出来はしない。この世界が誰の物でもない以上、この世界で生きる許可を与える事が出来る存在があるとすれば、それはこの世界そのものである。ルビス様や、その上にいらっしゃる創造神であろうと、既にこの世界で生まれ死に逝く物を定める事は不可能だ」

 

「……そ、それは」

 

 男性の口から発せられた言葉は、ここまでの四年のサラの苦悩を根本から覆す程に強烈な物であった。

 『人』を救うと伝えられる『賢者』であろうと、『世界』を救うと謳われる『勇者』であろうと、この世界で生きる生物達を区別する権利などないという、当然といえば当然の考え。だが、それは、生きとし生ける物の幸せを願うサラとしては、辿り着く事の出来なかった答えでもあった。

 彼女にとって、それは彼女の考える悩みであり、彼女が導き出す答えであった筈だからだ。しかし、そんな極当然の答えに既に辿り着いていた者もいた。それは、そんなサラに対して何度となくその言葉を掛け続けて来た者でもある。

 

「サラ、揺れるな。そんな事は、サラが一番解っていた筈だ。この世界自体も、その場所で生きている物達も、それぞれの命を懸命に燃やしている。サラが目指す未来は、その命を燃やし尽くす事の出来る世界だろう? サラが世界を変える訳ではないし、私達にそんな力はない。私達に出来る事は、そんな当たり前の未来を妨げようとする者を打倒する事だけだ」

 

「……リーシャさん」

 

 常にサラの傍を歩み、その背中を押して来た者。彼女が悩む時、迷う時、涙する時、そんな時に何も言わずに進むべき道を指し示し続けてくれた姉のような存在である。

 難しい話が得意ではない彼女の答えは、至極単純な物になりがちである。だが、そんな単純な答えが、凝り固まったサラの思考に斬新な一撃を入れて来た。暗中模索を繰り返すサラの思考は、そんな一撃を受けて何度も修正を繰り返して来ている。それこそが、彼女を『賢者』として成り立たせている源なのかもしれない。

 

「ふむ。もし、『人』がこの世界に必要のない存在であれば、魔王が人類を滅ぼすまでその脅威は続く筈。これまで数多の人間が『魔王討伐』に向かいながら、この場所へ辿り着いた者がいないという事は、この世界の後押しがなかったからやもしれん……だが、そなた達という希望が生まれた。それがこの世界の答えであると、私は信じておる」

 

「……私達の存在自体が……世界の答えだと?」

 

 男性の言葉に対して呆然とするサラの横で、リーシャは何かに納得するように頷く。しかし、その傍にいたカミュの顔は見るからに歪み、明らかな不快感を示していた。

 この男性の言葉をそのまま聞くと、カミュ達の四人は、この世界の見えない力によって操られている人形のようにも聞こえる。それは、彼等四人の人格や感情を完全に無視した考えであり、極論を言えば、この世界で生きている物全てを冒涜するような物とも言えるだろう。

 アリアハンという国を出立した頃は、カミュという青年は自分の境遇に諦め、只死に逝く旅を続ける為に旅立つと考えている節があった。常に自分を『そういう存在』と称し、周囲からの身勝手な期待や、過剰な責務を当たり前の物として受け入れて来たのである。

 そんな彼が、『そういう存在』という物へ嫌悪を示すという態度を出しているというのは、今までになかった物なのかもしれない。

 

「カミュ、そうではない……そうではないんだ。私達は、私達に希望を託して来た者達の為に戦えば良い。ポルトガ国王や、イヨ殿、そしてトルドのような、私達が応えたいと思う者達の為に前へ進めば良いんだ」

 

 カミュが自身の事を『そういう存在』と言う言葉で表現しなくなったのは何時頃からだろう。彼がその言葉を口にする度に顔を歪め、悔しそうに唇を噛んでいた女性戦士は、今更ながらにそんな事を考える。

 今、彼女の横で顔を歪める青年は、サラという『賢者』が傀儡のように言われる事を不快に思っていると同時に、自身さえもそれとは認めていないのだろう。それがリーシャには何よりも嬉しい事のように感じていた。

 カミュは今、己の意思で『魔王討伐』という道を歩んでいる。それを否定されたように感じた彼が、その表情を歪めているのだとしたら、この四年の旅路の中でリーシャが行って来た事が間違いではなかったのだろう。

 彼女は何度となく彼の心に踏み込んで行っている。それこそ、相手の怒りを買う事もあったし、相手の感情を押さえ込む事もあった。それでも、リーシャという女性の心の奥にあった想いは、『カミュという人物の心が知りたい』という物と同時に、『カミュという一個人が只の象徴ではない事を解らせたい』という物もあったのだ。

 その長年の想いが届いた事を感じた彼女は、不覚にも視界が歪んで行くのを感じていた。

 

「カミュ……そなたの持つ剣の一振りは、この世界の行く末を決める物ではない。だが、その一振りは、そなたの後ろを歩く者達の道となる。サラ、そなたの導き出す答えは、全ての種族の生死を定める物ではない。だが、その答えが世界で生きる物全ての希望となるだろう」

 

 カミュとリーシャのやり取りを見つめていた男性の瞳に、先程と同じような暖かく優しい光が戻って来ている。苦悩する二人の若者に向けられた優しい瞳は、その胸の内に渦巻く悩みと苦しみを正確に見出し、正しい方向へと導いて行く。それはまるで親が子を導くように厳しく、親が子を諭すように優しい。

 カミュの名だけではなく、自分の名前さえも呼ぶ男性に対して目を丸くしたサラであったが、その言葉の内容を聞き逃さぬように耳を欹てる。そんな中、剣呑な声が聞こえなくなった事でマントから顔を出したメルエは、そんな男性の笑顔を見て、花咲くような笑顔を浮かべた。

 

「では、古き者は去るとしよう。そなた達の歩む先に、新たな光と希望があらん事を……」

 

 先程まで周囲を満たしていた不安の闇が晴れた事を感じた男性は一度大きく頷き、マントから出て来たメルエの頭を優しく撫でる。不思議そうにその手を受け入れたメルエであったが、その手が思っていたよりも優しく暖かい事に、目を細めて微笑みを浮かべた。

 メルエの頭から手を離した男性の手が透けて行く。

 その手はもう何も掴む事は出来ない。

 彼が望んだ世界の未来も、彼自身が夢見た自分の未来も。

 それでも彼は微笑を崩さない。目の前で輝く若き希望に、彼自身が夢見た世界を託したのだから。

 

「……メルエ……幸せに暮らしなさい」

 

 既に身体の半分以上が消え失せていた男性ではあったが、自分を見上げる幼い少女にだけ聞こえる呟きを漏らす。自分の名前が呼ばれた事に驚いたメルエが、何事かと問いかけようとした時には既にその身体の全てが天へと溶けていた。

 最後まで微笑を崩さなかった男性の魂から未来を託された四人の若者は、暫しの間、主の居なくなった建物内の虚空を眺める事となる。

 どれくらいの時間が経ったのかを誰もが口にしない中、不可思議に灯っていた燭台の炎が、奥の方から一つずつ消えて行く。まるで、この場所の役目が全て終わったかのように引いて行く炎の幕が、カミュ達の退場を促して行った。

 

「……あれは一体誰だったのだろうな?」

 

「あの方は、おそらく……いえ、これも推測の話ですね」

 

 外の時間もそれなりに経過していたのだろう。全ての燭台の炎が消え失せた建物内は、入って来た時よりも薄暗い。主を失った事も起因しているのか、肌寒ささえも感じる程の空気が流れていた。

 疑問を口にするリーシャに対し、何らかの答えに辿り着いているサラが答えようとするが、それは何時ものように途中で止められる。彼女自身に確信に近い程の想いはあるのだろうが、それを口にしたところで推測の域を出る訳ではない。そして、何より、あの男性の素性を知ったところで、自分達の旅の道が変わる訳でもない、とこの時のサラは考えていた。

 

「……行くぞ」

 

「ああ」

 

 既に建物の外へと出ていたカミュの傍には、リーシャ達を見つめるメルエがいる。ここが彼等の旅の終着点でない限り、彼等の歩みが止まる事もないのだ。

 次の目的地は『レイアムランド』。

 精霊ルビスの従者である、『不死鳥ラーミア』の眠る土地。

 カミュ達の手元には、その従者を蘇らせる為の『オーブ』が全て揃っている。

 『紫』、『赤』、『緑』、『青』、『黄』、『銀』という六つの珠が揃う時、この世界の守護者の従者が蘇るという伝説が、遂に現実のものとなるのだ。

 

「ルーラ」

 

 彼等が最も信頼する海の男達と出会う為に詠唱を開始し、それが完成すると同時に空中へと浮かび上がった彼等の身体が、北西の空へと消えて行く。

 『魔王バラモス』に挑む為に旅立った者達の数は計り知れない。だが、その中で『魔王バラモス』の姿を見た者は皆無と言っても過言ではなかった。

 誰も到達する事が出来ず、誰も達成する事が出来なかった、そんな遥か高みへとカミュ達四人は駆け上がって来ていた。

 それは、世界を見守る『精霊ルビス』の加護なのか、それとも均衡を保とうとする世界そのものの意思なのか。

 それは誰にも解りはしない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回は少し短めです。
戦闘を抜きましたので、少し短くなってしまいました。
ようやくバラモスに手が掛かりそうになっています。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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戦闘⑨【南西海域】

 

 

 

 ルーラという移動呪文を行使した一行は、ネクロゴンドの山脈を抜けて南西の森の中へと着地する。当初は北西方角へと移動していた彼らであったが、その進路は突如変わり、以前に見た事のある森の中を目的地として定める事となった。

 その場所は、通常の人間であれば何度見ても不気味な印象しか受けない程の物ではあったが、カミュ達四人にとっては感慨さえも湧いて来る場所である。特に幼い少女にとっては、哀しみと共に暖かな思い出がある場所。

 崩れ落ちた木製の門は既に朽ち果てており、その木を寝床にしている虫達の活動拠点となっている。古ぼけた木製の柵にはカラス達が止まり、仲間達の帰りを待っていた。

 

「……カミュ様、何故テドンへ?」

 

「船を降りてから一月も経過していない。船が順調に航海しても、ポルトガへは着いていないだろう。テドン周辺の森の近くで停泊している可能性もあるからな」

 

 グリーンオーブという神秘の力を失い、その力を借りて現世に繋ぎ止められていた魂は全て天へと還っている。故に、この朽ち果てた村にはもはや復元する力は残されていなかった。

 メルエがラナルータという呪文を唱え、昼と夜を逆転させた時には僅かではあるがオーブの力の残骸が残っていたのだろう。だが、今少女のポシェットに入っているオーブは、まるでその力を使う時を待つように静かに輝きを押さえ込んでいる。

 残留していた力を失った村は、夜になってもその姿を変える事無く、昼間と同様に朽ち果てた姿でその場に存在していた。

 カミュとしても、確実にテドンへ向かえると考えていた訳ではない。カミュの中に残る印象を朽ち果てた村の姿にしたのはまだ陽がある内であり、それも可能性を追った結果に過ぎないのだ。だが、既に朽ち果てた姿から変化しない村は、カミュの頭の中に残る印象と合致し、魔法力という神秘を媒体として移動を可能にさせていた。

 

「メルエ、行こう。哀しい事だが、ここにはもう何もない」

 

「…………ん…………」

 

 本来、メルエという幼い少女を最も大事にするカミュであれば、この場所を避けて通る事が普通のように思える。だが、その胸の内をリーシャはある程度把握していた。

 おそらく、彼は船に乗っている者達の身も案じているのだろう。如何に旅慣れたとはいえ、彼らでは全ての魔物と対峙する事は不可能であり、万が一にも大王イカのような魔物と遭遇すれば、全滅する可能性さえも有り得るのだ。

 メルエという大事な少女の心に残る傷を慮って尚、危険の多い航海を続ける船員達の身を案じながらポルトガで待つ事を嫌ったとリーシャは考える。口に出す事も、表情に出す事もしないが、カミュという『勇者』はそういう人物なのだと、彼女は知っていた。

 故にリーシャは、寂しそうに村であった場所を見つめるメルエの手を引き、その心を案じるように歩き出す。

 

「……夜も更けて来ましたね。一度何処かで休みましょう」

 

 テドンの森の中に入り、南に抜けた先にある海へと向かう途中でサラは先頭のカミュへと進言した。既に空には月が浮かび、森の木々に遮られるようにその光は乏しい。歩く先が見え辛くなった今では、道に迷う事はないだろうが危険である事に変わりはない。

 目的である船も、敢えて危険を冒して夜の航海を続けるとは思えない以上、一晩を森の中で明かし、太陽と共に歩き出した方が良い事も確かであった。

 

「陽が完全に上ってしまえば、出港してしまう可能性もある。出来る限り森を抜けたい」

 

「そうだな……メルエは私が背負おう。サラ、これを頼む」

 

 それでも歩みを止めないカミュの発した理由を聞き、眠そうに目を擦り始めたメルエの前に屈んだリーシャは、背中に括っていたバトルアックスをサラへと手渡す。倒れ込むようにリーシャの背に乗ったメルエに苦笑を浮かべたリーシャであったが、受け取ったバトルアックスの重さにふらつくサラを見て目を細めた。

 リーシャの虐めのような修練を受けて来たサラは剣の扱いも上達し、今やその辺りの剣士などよりも上位に立つ存在となっている。だが、それでも彼女は戦士でも勇者でもない。並みの剣士では持つことも出来ない程の重量があるバトルアックスを振り回す事など出来はしないのだ。

 

「それは俺が持つ。もはやこの斧も必要はないと思うがな……」

 

「わかっている。だが、どうしても愛着があってな。出来るならば、船に乗る人間で使える者がいるのなら使って欲しいと思っている」

 

 ふらつくサラからバトルアックスを受け取ったカミュは、その斧の在り方を見て軽い溜息を吐き出す。彼にとって、武器は所詮武器でしかなく、愛着を持って接する物ではないのだろう。草薙剣のように、特別な意味を持つ神代の剣であれば、それを返還しなければならないという使命感にも似た物を持つのだが、今カミュが装備している稲妻の剣などには興味の欠片もないのかもしれない。

 だが、戦士であるリーシャにとって、武器とは己の力を示す物の一つである。戦士とは己の力のみで戦う者であり、その力を引き出す為に武器を用いる。故にこそ、武器とは己と共に歩む戦友に等しく、ぞれを粗末に扱えば必ず己に返って来ると考えている者も多いのだ。

 騎士といっても、上級貴族のような裕福な家であれば武器を買い換える事も容易であろうが、リーシャのような下級貴族の出であったり、平民の出である戦士にはそのような余裕はない。そういう者達は巡り合った武器こそが己の命を預ける相手であり、共に歩む友なのだ。

 

「ですが、リーシャさんのように力がある方は……」

 

「……サラ、まさかとは思うが、私を『馬鹿力の怪力女』だとでも言うつもりか?」

 

「自覚はあるのか……」

 

 サラは先程まで自分の手に有ったバトルアックスの重さを考え、その重量を振り回せる人間が船の上どころか、世界中を探してもいないのではないかと思っていた。船に乗っている人間の中には、カンダタ一味という、ある地方では恐れられた一団の元幹部がいるのだが、その者達であっても戦闘用に改良されたバトルアックスを振り回す事が出来る者はいないだろう。それこそ、彼等が兄のように慕う一味の棟梁でなければ無理ではないかと考えられる。

 そんなサラの正直な考えに対し、瞬時に瞳を吊り上げたリーシャはメルエを起こさないように低い声を発した。

 戦士としての矜持も、騎士としての誇りも持ってはいるが、それでもやはりリーシャは女性なのだろう。だが、そんなリーシャの恨み節は、同じようにバトルアックスを軽々と持った青年によって斬り捨てられる。もはや射殺しかねない程の鋭さになったリーシャの瞳を無視するように歩き始めたカミュの背中を、サラも慌てて追いかけた。

 

「森は抜けましたね……陽が上る頃に海岸を確認しましょう」

 

 リーシャの背ですやすやと眠るメルエに苦笑しながら、彼らは夜の森を抜けて行く。途中でゴートドンのような魔物を視界に納める事はあったが、カミュ達から逃れるように身を隠し、夜の闇に紛れて消えて行った。

 最早、彼等四人の実力は、その身から溢れ出さんばかりに上昇している。それはサラやメルエが宿す魔法力もそうであろうが、カミュやリーシャの纏う実力自体が魔物の本能を呼び覚ましているとも言えるだろう。

 『逆らってはならぬ者』、『手を出してはならぬ者』、『己の生命を脅かす者』、様々な言い方はあれど、テドン近辺を住処とする魔物達から見れば、カミュ達四人は種族を超えた上位に位置する者達である事は間違いはないのだ。

 

「ふぅ……カミュ、そのままレイアムランドと呼ばれる島へ向かうのか?」

 

「ああ。ここまで来て足踏みをする必要はない筈だ」

 

 火を熾し、眠るメルエを護るように身体を横たえたサラは、即座に眠りに就いてしまう。サラ自身も、ネクロゴンドの火山付近の洞窟の探索には力が入っていたのだろう。そこを抜ければ『魔王バラモス』という諸悪の根源と相対する事になる可能性があると覚悟していたのだろうし、緊張も極限近くまで高まっていた筈だ。

 バラモス城の圧倒的な存在感に気圧され、自分達の目的が達成出来ないという絶望感に陥った時に、高まっていた緊張感と覚悟は、とても深い絶望へと変化する。それは、緊張と覚悟によって押さえつけていた疲労を一気に噴き出させたのかもしれない。

 シルバーオーブを手にし、精霊ルビスの従者の復活を可能な物とした時、その疲労は安堵となってサラを襲う。そして、ようやく彼女は信頼する者達に護られる中で、それら全てを開放する事が出来たのだろう。

 

「しかし、不死鳥ラーミアとは、どのような者なのだろうな?」

 

「さぁな……。だが、あの城に行く為に必要だという事だけは確かだ」

 

 サラとメルエが仲良く眠りに就く横で、カミュとリーシャの会話は続いていた。

 『精霊ルビス』という存在を目にした者はいない。ルビス教の教皇でさえ、その姿を見た事はなく、声を聞いた事さえもない。唯一、歴代の『賢者』と呼ばれる存在だけは、精霊ルビスと人間の架け橋になる者として、その尊顔を拝した事があるのかもしれないが、この世界に現存する者の中では誰一人としていない事は事実であった。

 そんな信仰の世界の存在である『精霊ルビス』の従者とされる不死鳥。死を受け入れない鳥と呼ばれるその者が、どのような存在なのかもまた、この世界で知る者は誰もいない。

 

 

 夜が更けて行き、交代で眠りに就きながら日の出を待った一行は、東の空の方から明るみが見えたと同時に海岸沿いを歩き始める。未だに夢の中にいるメルエを背負ったリーシャを最後尾に海岸沿いを歩く一行は、朝陽に輝く海面に知らず知らず頬を緩めた。

 魔王バラモスが台頭し、如何に世界が魔に怯える時代になろうとも、太陽は毎日昇り、恵みの輝きを降り注ぐ。この世界に生きる者達全てに平等に降り注ぐ太陽の輝きは力強く、明日への希望を胸に湧き上がらせて行くのだ。

 そんな太陽が有る限り、人々の希望は消えない。

 今日よりも良い日を東の大地より運んで来る太陽が昇る限り、世界で生きる全ての生物の営みは消える事はないだろう。

 サラは東の空へと浮かび上がって来る太陽を見ながら、そんな事を考えていた。

 

「カミュ、船だ!」

 

 サラが東の空に気を取られ、カミュが周辺の魔物を警戒する中、後方に居たリーシャが未だに太陽の光の届かない暗がりに佇む帆を捉える。畳まれていた帆を徐々に上げられ、船上からは様々な声が聞こえていた。

 日の出と共に出港する予定であったのだろう。それを察した一行は、走り難い砂浜を駆けて船へと近づいて行く。既にリーシャに背負われているメルエは目を覚ましていたが、砂浜を駆ける速度が落ちてしまう為、彼女が下ろされる事はなかった。

 

「おい! あれを見ろ!」

 

 出航の指示を飛ばす頭目の怒鳴り声が響く中、最後の手順となる錨を上げる作業を待っていた船員が、遠くから聞こえて来る声を耳にし、昇って来る太陽の光の中に小さな影を発見する。眩しそうに額付近に手を翳した船員は、徐々に近づいて来る影の正体に気が付き、周囲の船員達へと声を飛ばした。

 出航の準備が整ったにも拘らず錨を上げようとしない船員を不審に思った者が近づき、最後には多数集まった錨付近に檄を飛ばす為に頭目までが近づいて行く。

 そして、船上は歓喜の声に包まれた。

 

「おかえり! よく戻って来た、よく戻って来た」

 

 いつもは感情を極力抑える筈の頭目が、カミュ達の帰りに対して全身で喜びを表している。それを見ていた船員達もまた、勇者達の凱旋を心から喜んだ。

 それ程に、ネクロゴンド地方という場所は、人間という種族にとっては鬼門に近い場所なのである。誰一人としてその場所に辿り着いた者はおらず、その場所を見た者もいない。唯一、世界の期待を背負った一人の英雄がその場所に辿り着いたと云われるが、その英雄もまたその場所で命を落としたと考えられていた。

 カミュ達がどれ程に強力な能力を持っていたとしても、カミュ達をどれ程に信じていたとしても、頭目や船員達にとって彼等四人が大事な者達である以上、その身を心から案じていたのだろう。皆の顔がそれを明確に物語っている。

 

「魔王の城はなかったのか?」

 

「いや、あるにはあったが、渡る方法がない」

 

 だが、頭目は即座に表情を戻す。周囲の船員達が勇者達の帰還を喜ぶ中、彼だけはカミュ達がこの日数で戻って来た事の真意に気付いていたのだ。

 もし、あのネクロゴンドに魔王の城があり、そこへ入ったとすれば、帰還する事自体が難しい。世界を闇の脅威で覆う程の存在と死闘を行うのだ、如何にカミュ達四人の力が強いとはいえ、無傷で帰還出来る訳がない。魔物の拠点となる場所なのだから何度も戦闘を行う筈であり、最悪その場で死んでしまっていても可笑しくはないだろう。

 それにも拘らず、僅か一週間程で帰還したという事は、その場に彼等の目的地はなかったと考えるのが普通であり、頭目はそれを確認したのだ。

 

「レイアムランドという島へ向かいたい」

 

「レイアム……ランド? ああ、あの南の果てにあると云われる島か」

 

 次の目的地を告げるカミュの言葉を聞いた頭目は、その聞き覚えのある単語を自身の頭の引き出しから引き摺り出し、この世界に伝わる場所を口にする。カミュ達にシルバーオーブを預けた男性もまた、レイアムランドの場所は遥か南にあると口にしていた。

 既に伝承化してしまっている程の場所であり、本当にある場所なのかも解らない。この世界では世界の果ては奈落の底へと続く崖になっているという説が信じられている。故に誰も果てまで旅をしようとは考えないのだ。

 遥か北にあるグリンラッド。

 遥か南で忘れられた島、ルザミ。

 その場所を知る者は限られた者であり、その場所に辿り着く者もまた、限られた者である。

 

「まぁ、今となっちゃ、南の果てなのか、北の果てなのかは解らんがな」

 

 この船に乗る船員達は、その限られた者達であった。

 誰しもが果てに向かう事を恐れてはいたが、この世界の果てはなく、繋がっている事を既に知っている。それが海に生きる者達にとってどれ程の知識なのかという事を彼等が気付いているかは解らないが、彼等の中でその事実は既に常識となっていた。

 それは、彼等が『勇者一行』と呼ばれる者達との旅で築いて来た『絆』なのかもしれない。

 

「よし! 出航だ!」

 

 世界の希望が再びこの船に戻って来た。

その事だけで彼等の胸に宿る勇気は再燃する。

 頭目の言葉に反応した船員達は、喜々とした表情で己の持ち場へと散って行く。錨は即座に上げられ、日の出と共に靡く風を受けた帆は、巨大な船をゆっくりと動かし始めた。

 

 

 

 テドン付近の海岸から真っ直ぐ南へ下りながら船は進んで行く。天候にも恵まれ、時折雨が降る事はあっても、大きく海が荒れる事はなかった。

 陸地は見えず、常に海原と海鳥達しか見えない景色をメルエは飽きもせずに笑顔で見つめ、海が穏やかな日に船員達が行う魚釣りを傍で見ながら、揚がって来る魚が生簀に入って行くのを屈み込んで眺める。そんな中、珍しい海の生き物を見つけてはサラに問いかけ、その名前を反芻しては触れてみようと手を伸ばすメルエが、貝に手を挟まれて大泣きしたのは船員達の中で長く笑い話として語り継がれる事となる。

 

「…………ヒャダイン…………」

 

「やぁ!」

 

 そんな穏やかな航海の途中でも魔物との遭遇はあり、甲板へとよじ登ろうとする魔物へ向かってメルエやサラが呪文を唱え、既に甲板まで辿り着いた魔物をカミュとリーシャが斬り飛ばす。以前のように船員達が戦闘に加わる必要はなく、むしろ足手纏いになる恐れがある為、彼等は己の仕事に没頭していた。

 最後のマーマンダインを斬り捨てたカミュは、甲板に横たわる魔物の死骸を海へと戻す作業をしている船員達を見て、息を吐き出す。それと同時にリーシャもバトルアックスを背中へと戻した。

 

「ぎゃぁぁぁ!」

 

 だが、そんな戦闘終了の雰囲気は、突如響いた悲鳴によって打ち破られる。テドンを出てから一月近くの航海の中で、戦闘で悲鳴が上がった事などない。それがどれ程異質な物であるかを理解した船員達の表情にも緊張が走った。

 既に太陽は西の空へと沈み始め、一日の終わりを示している。薄暗くなって来た甲板の視界は悪くなっており、夜という魔物の時間が迫っている事を示していた。

 戦闘終了を感じた船員の一人が持ち場に戻ろうと甲板の荷物を横切ろうとした時、その刃が彼の足を切り裂いたのだ。噴き出す血潮は甲板を真っ赤に染め上げ、倒れ込んだ船員は深々と切り裂かれた腿の部分を押さえる。

 

「くそっ!」

 

 倒れ込んだ船員から一番近くにいた乗組員が駆け出した。

 その場所に何が居るかは解らないが、そのまま放置していて良い訳がない。この状況で船員達に攻撃を仕掛けて来るとすれば、それは魔物以外には有り得なく、魔物相手となれば一般の船員では対処が難しかった。

 駆け出した者は、この船に乗る船員達の中でも新人扱いされる者。既に三年近くも船に乗っている者を新人と称する事が正しい事なのかは解らないが、船の扱いとなればまだまだ未熟な部類に入るのだろう。

 しかし、話が戦闘となれば別である。

 

「こっちに来い!」

 

 倒れ込んだ船員の腕を掴んだ新人は、その重い身体を引き、自分の後方へと下がらせる。それと同時に持っていた鋼鉄の剣を手にし、暗がりに向けて声を荒げた。

 広い甲板の反対側にいたカミュ達が到着するまであと僅か。その間だけでも凌げれば、怪我を負った船員の傷も癒され、その魔物も対峙されるだろう。この新人はそれを十分に理解していたし、自分の力を過信する事はなかった。

 それでも、その魔物は彼が一人で対峙する相手ではなかったのかもしれない。

 

「ぐっ、ちきしょう、離せ!」

 

「グルル」

 

 荷物のように暗がりに鎮座していた影がのそりと動き出したかと思うと、新人が剣を持つのとは反対の腕に何かが飛び出して来る。それは新人が考えていたよりも巨大な物であり、一瞬の内に彼の腕は強力な力で挟み込まれた。

 万力のように圧倒的なその力は、彼の左腕を容赦なく締め付け、通常では有り得ない程の音を響かせる。彼の脳に直接響く軋むような音とは別に、波や風の音を遮るようにそれは甲板にも轟いていた。

 その力から逃れようとする彼ではあったが、強力な力で挟み込まれた腕は動かない。後方へと下がりながら喚く彼と共に、その魔物はゆっくりと姿を現した。

 

「無理に動くな! 腕がなくなるぞ!」

 

 甲板の荷物の影になっていた場所から引き摺り出されるように現れた魔物を見たリーシャは、駆けながらも声を荒げる。今も尚、左腕を引き抜こうとしていた新人は、その声と、自分の腕を挟む青紫色をした巨大な鋏を見て硬直した。

 出て来たのは巨大な蟹。沈み行く太陽の真っ赤な光を受けて尚、青紫に輝く体躯は通常の人間よりも大きい。そしてそこから伸ばされる二つの鋏もまた、一つ一つがメルエの身体並みの大きさを持っていた。

 青紫色に輝く甲羅のから伸ばされた目は獲物である新人を睨みつけ、その下にある巨大な口からは全てを噛み砕ける程の牙が覗いている。

 

<ガニラス>

『軍隊ガニ』や『地獄のハサミ』とは異なり、本来の生存場所である海原を住処とする蟹の魔物である。陸へ揚がり、適合した魔物ではない為、本来の本能や技量を有したまま強力な魔物と化していた。抵抗の強い水中での動きに合わせ、数多くの足は同種の魔物よりも太くしなやかな筋肉で覆われており、巨大な鋏の力もまた、同種の物よりも強く出来ている。特殊な技能を有している訳ではないが、基本性能が同種の物よりも遥かに高く、海域で遭遇する魔物の中では大王イカに次ぐ難敵であった。

 

「ちきしょう!」

 

「やめろ!」

 

 左腕の感覚がなくなり、自分の真下にいる巨大な魔物と同じような色へと変色した事で、新人は冷静さを失ってしまう。右腕に持った鋼鉄の剣を振り下ろそうとしたその時、ようやく辿り着いたカミュが声を上げた。

 だがそれと同時に振り下ろされた鋼鉄の剣がガニラスの身体に衝突するよりも早く、不快な音と共に、絶叫と血飛沫が甲板に噴き上がる。

 骨をも一瞬で圧し折る力は、新人の左腕を二の腕部分からぶった切ったのだ。空中に投げ出せれた左腕は、甲板に落ちると同時にもう片方の鋏で掴まれ、そのままガニラスの口へと運ばれて行く。鋏ばかりか口元までも真っ赤な血液に染めたガニラスが、腕から噴き出す血液を必至に抑える新人の後ろで蹲っていた船員に向かって鋏を伸ばした。

 

「ぐぶっ!」

 

 辿り着いたカミュが間に入るよりも早くに伸ばされた鋏に反応出来たのは唯一人。片腕を失って尚、腰が抜けたように動けない船員に覆い被さった新人だった。

 肉を切り裂き、深々と背中に突き刺さった鋏の脇から真っ赤な血液が溢れ出して来る。それは確実にこの人間の命の灯火を吹き消して行く。内蔵までをも傷つける程の重症。致命傷ともなりえるその傷を受けた新人は、大量の血液を甲板に吐き出し、瞳の焦点さえも朧になって行った。

 

「お、おい! 死ぬなよ!」

 

 ポルトガ国王が自身の財を投じて製作させた巨大な船。その船はこの世界を救うと謳われる『勇者』が持ち主となるが、彼等に船を動かす技術はなかった。その為に国王自ら自国の民に問い掛け、募った結果、この船の船員達は集められたのだ。

 しかし、国王の呼びかけに応じた者達の数では、この巨大な船を動かすには足りない。頭目を命じられた人間は、進水式が近づくにつれ焦りを感じる。そんな進退窮まった時に現れたのが、決して若くはない七人の男達であった。

 精悍というには影が強く、勇敢というには歪な色が濃い七人の男達を見た時、頭目はその七人の脛に幾つもの傷がある事を察する。これだけ巨大な船が海に出るというのだから、そこに発生する利権に肖ろうと群がる者達は数多くいた。その中から純粋に海に出たいという人間だけを選んで来た頭目であった為、彼等を見た時に受け入れるか否かを悩む事になる。

 だが、それでも人手が足りないのは明らかであり、今まで見て来た下心がはっきりと解る者達とは異なる雰囲気を持つ七人を頭目は日雇いのような形で雇う事にした。

 

「ごふっ……怪我はないか?」

 

「ああ! ああ! お前のお陰で傷一つない。しっかりしろ!」

 

 勇者一行を乗せての出港準備の為、ポルトガ港は喧騒に包まれる。その中でも、食料や水を船へと運び込む仕事や、船の部品の確認など、船員達は睡眠時間を削る程に仕事に追われる事となっていた。

 そんな中でも七人の男達は懸命に働いていたのだ。彼等の見た目は優男ではない。むしろ屈強な者達と言っても過言ではないだろう。海の男として生きて来た船員達が気後れすることはないだろうが、それでも陸上であれば腕力で海の男達に遅れを取るような者達ではない事は確かだ。

 そんな男達にも拘らず、船員達の指示に黙って従い、どんな仕事でも不平不満を口にせず働いている。そればかりか、仕事の一つ一つに疑問を持ち、海で生きる為に何故必要なのかを貪欲に吸収しようとしていた。

 何事も真面目に取り組み、仕事の意味を考え、どんな事でも吸収しようとする者達を邪険に出来る人間などいない。最初は舐められないようにと強気に出ていた船員達も、この七人の新人に対して次第に心を開くようになって行く。

 

「サラ、急げ!」

 

「二人を下げろ!」

 

 そんな七人の姿を見ていた頭目は、これ以上疑問に思っても仕方がないと考え、その採用の合否をいずれ訪れる勇者一行に委ねる事にした。

 そして、ポルトガ港にて勇者一行を初めて見た頭目は、その若さに驚く共に、七人の男と勇者一行の関係性に驚く事になる。何か因縁めいた物を持っている事だけは理解出来たが、その内容までは解らない。それでも、自分の勘が間違っていなかった事を感じた頭目は、彼等のやり取りに注視した。

 そして、七人の新人の覚悟と、それを受け入れる勇者一行の度量を見て、頭目は彼等を本当の仲間として認めたのだ。

 それからの時間の経過は早かった。勇者一行との旅は過酷でありながら、夢と希望に溢れ、船員達の表情を輝かせ続ける。未知の土地に、未知の特産、そして未知の知識が彼等を大きく成長させて行った。

 唯一の懸念である魔物との戦闘も、この七人の新人が居たお陰で、船の安全が確保されていたといっても過言ではない。そして、今や脛に傷のある七人の男達は、この船にとって掛け替えのない人材であり、勇者一行を支える仲間となっていたのだ。

 

「ピィ―――」

 

 瀕死の新人と足に傷を受けた船員を下げ、カミュとリーシャがそれぞれの武器を構える。その瞬間、ガニラスの甲羅にへばり付いていた貝が奇声を発した。

 マリンスライムと呼ばれるその魔物が奇声を上げると同時に、ガニラスを包み込むように光が集まって行く。その光はガニラスの甲羅を覆うように膜を作り、只でさえ頑丈な甲羅を更に強化して行った。

 しかし、もはや、マリンスライムなどの貝に弾かれるような者達ではない。その手に握る武器も、その武器を握る腕も、『魔王バラモス』という頂点に挑もうとする程の物なのだ。カミュが振り抜いた稲妻の剣は、マリンスライムを貝ごと容易く斬り裂き、その命を奪って行く。

 

「…………バイキルト…………」

 

「うおりゃぁぁぁぁ!」

 

 甲羅を強化させたところで、所詮は蟹の化け物である。人類の頂点に立つ戦士の会心の一撃を防げる程の強度を持っている訳ではない。直前に唱えられた『魔法使い』の補助呪文を受けたバトルアックスは、ガニラスの甲羅を突き抜けてその身体を真っ二つに砕いて行く。防御するように突き上げた二つの鋏はその役目を担えず、弾き飛ばされた右鋏は甲板に置いてあった大きな木箱に突き刺さった。

 瞬く間に魔物を葬り去った二人の後方では、船員の治療が行われている。駆け寄ったサラは即座にベホイミを唱えるが、背中から内臓までを貫通したガニラスの鋏がつけた傷は粗く、ベホイミでは修復が追いついていかない。その内に、新人の瞳から光が失われて行った。

 

「頼みます、どうかこいつを助けてやって下さい!」

 

 未だに血が止まらない自分の太腿を押さえながら、自分を庇った男の身を案じる船員は、喉を枯らしてサラへ懇願する。懸命に回復呪文を唱え続けるサラではあったが、腕の肘付近まで輝く淡い緑色の光では、命の危機にまで瀕した傷を癒す事は叶わない。悔しそうに唇を噛み締めるサラの頭に、以前の悔しさが浮かび上がった。

 カミュという勇者を失わない為に始めて行使したベホイミという中級回復呪文。だが、人喰い箱の鋭い牙を受けた深い傷さえも復元した回復呪文でさえ、メルエの義母であるアンジェの命を救う事は出来なかった。

 背中から突き抜け、臓物まで届いた傷は生命の危機にまで達する。カミュのように鍛え抜かれた者であれば、それ程の傷を受けて尚、立ち上がる気力を残す事もあるだろう。生きる気力を失わなければ、回復呪文の恩恵を最大限まで引き出す事も可能であるからだ。

 だが、通常の人間の生命力はそれ程強い訳ではない。意識を失う程に強い痛みは、その者の生きる気力さえも奪い、生を諦めてしまう。生を諦めた者に対して行使する呪文としては、ベホイミは弱いのだ。相手の意思さえも無視する程の圧倒的な治癒力。それを有する呪文が必要であった。

 

「カミュ様はそちらの方の足にベホイミを! メルエ、リーシャさんを下がらせて!」

 

 唱え続けていたベホイミの詠唱を止めたサラの腕から淡い光が消えて行く。サラの指示を受けたカミュによって場所を移動させられた船員の瞳が絶望の色へと変化して行った。

 だが、『賢者』の瞳になった時のサラの強さを、この三人は知っている。頷きを返したメルエは素早くリーシャの手を引いてサラとの距離を取る。ベホイミの行使が終わり、斬り裂かれた足の傷を癒したカミュは、そのまま船員を担いで甲板中央へと移動した。

 既にサラの下でうつ伏せになっている男の意識は朦朧となり、いつ命の灯火が吹き消えてしまっても可笑しくはない。先程までのベホイミの行使によって、左腕の傷は塞がり血は止まっている。欠損部分の復元は出来ないが、その部分が化膿する事はないだろう。

 

「その御許へと向かう者を遮る事をお許し下さい」

 

 一つ小さな呟きを漏らしたサラは、更に小さく詠唱を開始する。紡ぎ出す言霊と共に、サラの周囲に巨大な魔法陣が浮かび上がった。魔法力を放出する才が皆無であるリーシャでさえも視認出来る程の魔法陣は、サラの下で苦しむ男性を包み込む。

 額に汗を滲ませながらサラは男性へと視線を動かした。

まだ息はある。心臓の鼓動は微弱ながらも続いており、懸命に生きようともがいている事が解った。心臓の鼓動が止まらなければ、まだサラに出来る事はある。既にルビスの御許へと旅立った魂を呼び戻す事は出来ないが、その身体に残ろうと踏ん張っている魂を繋ぎ止める事は出来る筈だ。

 そう決意したサラの瞳に再び炎が宿る。大きく広げた両手を中心に、サラの身体全体を緑色の光が包み込む。最早それは淡い光ではなく、太陽の沈んだ暗闇の中でも周囲を照らす程に明るく輝いていた。

 

「ベホマ!」

 

 詠唱の完成と共に、サラを中心に光が爆発する。

 緑色に輝きを放った光は、サラの下で横たわる男性の身体に向かって一気に吸い込まれて行く。生命力を失いかけていた身体の傷は、瞬時の内に塞がって行き、あれ程醜く傷つけられていた臓腑は元の健康な色へと戻って行った。

 臓物が修復され、それを確認するよりも早く、その上を肉が覆い皮が覆う。全ての傷を塞いで行き、最後には時間を巻き戻したかのように、修復作業を終えた。

 男性を命の危機に陥れていた傷は塞がったが、欠損した左腕は戻らない。それでも、先程まで弱々しかった息吹はしっかりとした呼吸へと戻り、誰一人として口を開けない静寂の中、男性の命の鼓動がしっかりと刻む音が鳴り響く。

 それは、彼が命を取り留めた事を明確に示していた。

 

<ベホマ>

回復系の呪文としては最高位に位置する呪文。『経典』という教会が保持する書物には記載されておらず、『悟りの書』という古の賢者が残した文献に記載されていた。どれ程に深い傷であろうと、その者の命の灯火が宿っている限り修復してしまう程の神秘である。生命を諦めない者、未だ精霊ルビスの御許に向かうには早過ぎる者を繋ぎ止める程に強力な回復呪文は、生命のバランスさえも崩しかねない物として、『悟りの書』という限られた者にしか見えない書物に封印されていた。

 

「成……功……しました」

 

「サラ!」

 

 緊張の糸が切れたサラは、そのままゆっくりと横へ倒れて行く。慌てて駆け寄ったリーシャが抱きとめなければ、甲板に頭を打ってしまっていただろう。満足そうな笑みを浮かべて眠るサラを見たリーシャは安堵の溜息を吐き出し、誇らしげにその頭を優しく撫でた。

 魔法力が枯渇した訳ではないだろう。今のサラが、大呪文とはいえども一つの呪文の行使だけで魔法力が枯渇するとは思えない。故に只緊張の糸が切れ、安堵の為に力が抜けたのだろうと考えていた。それはカミュの顔を見れば明確であり、彼もまた小さな微笑を浮かべて頷きを返している。

 

「……うぅぅ……」

 

「もう目が覚めたのか? 無理をするな、死線を彷徨っていたのだからな」

 

 カミュに頷きを返したリーシャの下で小さな呻き声が聞こえて来る。先程まで死線を彷徨い、再びこの世界で生きる事が許された者が生還を果たしたのである。

 ゆっくりと起き上がろうとするが、未だに血液が足りないのか身体をふらつかせる。その身体を支えたのは、カミュによって足の怪我を回復してもらった船員であった。彼によって命を救われ、彼の生還を誰よりも願った船員は、その顔を涙と鼻水で汚しながらも、満面の笑みで男を支える。

 そんな船員の顔を見て、自分が未だに生きている事を実感した男は、困ったような笑みを作るのだが、左腕に違和感を感じ、そこに何もない事に気付いた時、再び絶望の表情を浮かべた。

 

「その左腕は、名誉の傷だ。確かにこの先の人生で苦労する事もあるだろう。だが、それでもその傷を誇れ。私も、カミュも、サラやメルエも、そしてこの船に乗る全ての者が、その傷を誇りに思う」

 

 二の腕から先がなくなり、二の腕部分を愛おしそうに撫でる男に誰も声を掛けられない中、サラの身体を静かに甲板に横たえたリーシャは、満面の笑みを浮かべたまま口を開く。その言葉の何処にも嘘偽りは含まれていない。その事を誰もが理解出来る程、彼女の言葉は真っ直ぐであった。

 だが、カミュは若干の驚きを見せる。

 左腕を失った男は、元カンダタ一味の者。そして、それを誰よりも糾弾していたのは、この頑固な女性戦士だった。それから三年近くの旅を続けて行く中で、彼等を少しずつ認めて来た彼女ではあったが、騎士という職業上、人間性を認める事は出来ても、その罪自体を許す事はないように見えていたのだ。

 一度の善行が、全ての罪を洗い流す訳ではない。だが、その善行が罪を償おうとしている人間の決意の現れであり、その道の起点となっているならば、その決意を認め、誇りとする。そんなリーシャの言葉に、カミュは笑みを濃くした。

 

「鍛えろ! お前に身体の一部を奪われた者もいた筈だ。その者達に負けぬよう、そしてその胸にある誇りを失わぬよう、自らを鍛えろ!」

 

 厳しい言葉を投げかけたリーシャは、その手に持っていたバトルアックスを男の前に突き出した。突然の行動に驚いた男性であったが、残る右腕でそれを受け取り、静かに涙を溢す。座っている分、受け取ったまま倒れる事はなかったが、受け取った斧の重さを全身で感じた。

 戦斧と呼ぶに相応しいそれは、歴戦の者達だけが使える程の重量を持つ。それは元カンダタ一味の者にとっては特別な意味を持つ武器の一つであり、憧れの象徴ともいうべき武器。

 その背を追いかけて来る者達全てを護り続けようと奮闘した男が最後まで使用していた武器と同じ物であり、兄のように慕い続けて来た男が強敵達を薙ぎ倒し続けて来た武器と同じ物。

 今、彼の手にある物は、そんな憧れの男を打ち倒した者が常に持ち続けていた武器なのだ。その価値を測る事など出来はしない。後に英雄として語り継がれても可笑しくはない程の人物から、その誇りと考えても可笑しくはない武器を託された。それがどれ程の事なのかを理解出来ない者ではない。胸にバトルアックスを抱き抱えた男は、静かに涙を流し続けていた。

 

「仲間は誰一人欠けちゃいねぇ! 出航だ!」

 

 既に闇が支配し始めた海原の真ん中で漂う訳には行かない。

 頭目が張り上げた声に応える船員達の声は、少し涙の混じり擦れている。それでもその声を聞いた頭目は、笑みを浮かべたまま舵の方向へと歩き出した。

 全ての船員が持ち場へと戻って行く。全ての者の持ち場が同じ方角である訳がない。それにも拘らず、全員が同じ方向へ向かい、その場所で涙交じりの声を掛け、そこに座る者の肩に触れてから持ち場へと戻って行った。

 カミュ達四人だけが、この長い旅で『絆』を築いて来た訳ではない。この船に乗る船員達は、勇者一行が探索を続けている間でも、お互いを護り、お互いを気遣って来たのだ。

 それもまた、『人』が紡ぐ立派な『絆』と呼べる物であろう。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

かなり長くなってしまいそうなので、二話に分ける事としました。
レイアムランドは次話になると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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レイアムランド

 

 

 

 一行の乗った船はその後は順調に航海を続けていた。海は荒れる事はなく、天候が急変する事もない。比較的穏やかな海原を南へ南へと船は進んで行った。

 先の戦闘で腕を失った船員も、己の仕事を全うしている。他の人間達も彼に対して特別な配慮をする訳でもなく、いつも通りに仕事を振っていた。だが、時折訪れる片手では不可能な仕事に関してだけは、何人かの船員がさり気無く手を貸し、何事もなかったように己の仕事に戻って行く。

 最初こそ、申し訳なさそうに顔を下げていた片腕の船員であったが、己の武器となったバトルアックスを見つめ、再び顔を上げて仕事を始める。そんな事を続けながらも、船は真っ直ぐレイアムランドへと向かっていた。

 

「気温が下がって来ましたね……南へ向かっている筈なのに」

 

「そうだな。この分では、雪でも降り始めそうだ」

 

 船が南へ進む度に上がっていた気温は、ある地点を境に急激に下降して行く事となる。南下して行けば行く分だけ気温は高くなるというのがこの世界の常識であり、比較的南方にあるアリアハン大陸などは、常に穏やかな気温で一年が経過する。だが、アリアハン大陸の緯度を越えた辺りから周囲の気温が急激に下がっていた。

 太陽の光が届かない訳ではない。甲板の上には太陽が燦々と輝いており、その光を海へと降り注いでいる。だが、その太陽がテドン辺りにいた頃よりも遠く感じる事にサラは気付いていた。

 太陽との明確な距離が解るという訳もなく、只単純にそう感じるというものであった為、その事をサラも口にする事はなく、気温が下がって来ている事だけに疑問を感じているように口を開く。それを聞いたリーシャも肌寒さを感じていたのだろう。サラの言葉に同意を示し、若干雲が広がり始めた空へと視線を移した。

 

「メルエ、上に防寒具を着ましょう。ほら、こっちへ来て」

 

「…………むぅ………いや…………」

 

 何時ものように甲板に置かれた木箱の上から海を眺めていたメルエは、サラの呼びかけに頬を膨らませ、そのまま『ぷいっ』と顔を背けてしまう。甲板の中央にいるリーシャやサラとは異なり、船の縁から海を眺めているメルエは冷たい風を身体全体に受けている筈である。だが、冷たい風を受けた事で頬を赤くしている少女は、防寒具を着る事を拒否していた。

 基本的にメルエは厚着を嫌う節がある。アンの服を着ていた頃も、天使のローブを着ている今も、それ以上の重ね着をする事を嫌がるのだ。購入して貰ったマントは、カミュとお揃いという事もあり、余程の事がない限り脱ごうとはしないが、手を覆う手袋でさえも嫌がるメルエの身体に防寒具を着せる事はいつの間にかサラの役目になっていた。

 

「もう! いつもいつも我儘を言って! こんなに頬も手も赤くなっているのですから、寒いのでしょう!?」

 

「…………メルエ………さむくない…………」

 

 鼻息を荒くしながら近寄って来るサラから逃げるように顔を背けるメルエの手は、言葉通りかなり冷たくなっている。赤くなった手はそのまま放っておけば凍傷にかかってしまう恐れさえもある。もしかすれば、既にメルエには手の感覚さえもないのではないかという極論にまで達したサラは、大慌ててその手を摩り、息を吐きかけて暖め始めた。

 自分の手を何故か摩るサラの行動が理解出来ないメルエは、先程までの不機嫌さを無くし、不思議そうに首を傾げる。そんな二人の姿に苦笑を浮かべたリーシャは、ようやく重い腰を上げて近づいて行った。

 

「メルエ、そのまま放っておいたら、手が腐って落ちてしまうぞ? 赤い内ならまだ良いが、それが紫色になってしまったら、メルエの手はもう駄目だな」

 

「…………!!………いや…………」

 

 突如現れたリーシャが告げた言葉は、メルエの幼い恐怖心を煽って行く。確かにリーシャの言う通り、今のメルエの手はほんのり赤く染まっている。それが紫色へ変化するまでの時間がどの程度なのかは解らないが、彼女が慕う母のような存在が嘘を言う訳がない以上、もしこの手が紫色になってしまった時、メルエの手は枯葉が地面へ落ちるように手首から先が落ちてしまうのだろう。そんな恐怖心しか湧かない光景がメルエの頭に過ぎって行った。

 瞬間的に首を横へと振ったメルエは、サラの持っていた手袋を大急ぎで手に嵌め、何度も取っては中にある自分の手の色を確認する。しかし、そう簡単に手の色が変わる訳は無く、何度見ても赤い色をしている自分の手を見て、泣きそうな表情でリーシャを見上げるのであった。

 

「大丈夫ですよ。暫く手袋をしていれば、普通の色へと戻ります。さぁ、上着も羽織りましょう」

 

 メルエが着る『天使のローブ』という防具は、ローブという名はついているが、上着のように羽織る物ではない。中に薄いワンピースのような物を着て、その上に桃色の法衣のような物を纏うような物であった。正確に言えば、この桃色の法衣のような物が『天使のローブ』と呼ばれる効力を持っているのかもしれない。

 身体に羽毛の入った厚手の物を着せられ、動き辛そうに顔を顰めるメルエの姿に、サラとリーシャは笑みを浮かべる。それでも文句を言わないのは、この幼い少女の中で腐った死体のようになってしまうという恐怖心があるからなのだろう。

 

「降って来たな……」

 

「最南端まで行けば、最北端と同様に気温は低いのかもしれませんね」

 

 先程まで見えていた太陽は厚い雲に覆われて見えなくなっている。陽の光が届き辛くなっている為、周囲が薄暗くなり、空を見上げると白い小さな結晶が降り始めていた。

 雪という物は、基本的には北方の地域でしか見る事が出来ない。元々気温が上がりづらい地域では、季節によっては雪に覆われる地域もあるのだ。だが、現在の季節がそうでない以上、このような南方で雪が舞い落ちるという現象が、この場所が北の果てにあるグリンラッドと同様の気候になっているという推測が出来るだろう。

 

「島が見えて来たぞ!」

 

 舞い落ちる雪が自分の頬に当たった事で笑顔を取り戻したメルエが空に向かって大きく手を広げた頃、寒さに震えながらも見張り台に立っていた船員から前方に陸地が見えて来たという声が掛かる。全員が前方へと視線を送ると、舞い散る雪の向こうに青い海とは異なる色が見えて来た。

 陸地である事に間違いはないのだろうが、その場所は以前に訪れたグリンラッドと同様に真っ白な雪に覆われており、永久凍土に近い場所である事が解る。グリンラッドには草木が生えるような場所があったが、この場所にそれがあるかも怪しいほどに真っ白に染め上げられていた。

 

「上陸出来そうな場所を探す。しかし……この場所に錨を下ろせるような場所があるかは定かじゃないな」

 

「難しいのであれば、こちらで何とかする」

 

 カミュの返答に苦笑を浮かべた頭目は、『そう言われちゃ、意地でも何とかするのが海の男だ』という言葉を残し、船員達に向かって矢継ぎ早に指示を飛ばして行く。指示を受けた船員達はそれぞれの仕事へと戻り、船の上陸に向かって着々と向かって行った。

 陽が落ちる頃には錨を下ろす場所も決まり、停泊した船で一夜を明かした後、陽が昇ると同時に上陸する事になる。久しぶりに見た雪に興奮冷めやらぬメルエを寝かし付けるのに苦労したリーシャは深々と降り積もる雪を船室の窓から眺めながら、自然に瞼が落ちるのを待って眠りに就いた。

 

 

 

 翌朝、太陽が昇ると同時に、防寒具に身を固めた一行は上陸を果たす。一面雪に覆われた場所は、誰もが通る事は無かったのだろう、一歩進む度に足が沈み込み、身体ごと落ち込みそうになるほどであった。元々体の小さなメルエなどは一歩進もうとすれば腰までがすっぽりと入ってしまい、まともに歩く事も出来ない。仕方ないと首を振ったリーシャが抱き上げるが、折角楽しみにしていた雪から引き剥がされた事に不満を露にしたメルエが頬を膨らませた。

 一歩進む毎に深々と突き刺さる足を引き抜き、再び奥へと嵌る雪原を歩くのは想像以上の体力を使う事になる。一向に歩は進まず、太陽は傾き、風と共に吹きつける雪が強くなって行く。防寒具に積もる雪を払いながらも歩く一行の前に魔物が表れる事もなかった。

 

「カミュ、何処かで休める所を探さなければ、陽が落ちてからでは厳しい事になるぞ」

 

「ああ」

 

 見渡す限り雪原を歩いているだけに、周囲に身を隠すような場所は見当たらない。洞穴のような場所があればよいが、山のような場所を歩いている訳ではない為、そのような穴も発見出来なかった。

 次第に強まって行く雪は、既に吹雪といっても過言ではない。視界も悪くなっている中、唯一の明かりである太陽の微かな光さえも遮られてしまっては、歩むべき道さえも見失ってしまう可能性もあるのだ。

 

「し、しかし……周囲に風や雪を遮るような場所はありませんよ!」

 

 最早大声で語り掛けなければサラからカミュへの言葉は届かない。体力的に二人よりも劣るサラは、メルエを抱いたリーシャよりも後方を歩いていた。口を開く度に口の中へ入る雪に顔を顰めながらも、しっかり開かない目を懸命に開けたサラは、薄暗くなり始めた周囲を見て口を開く。

 同じように周囲を見渡したリーシャは、身体の態勢を立て直しながらも、再びカミュへと声を飛ばした。

 

「カミュ! 遮る場所が無ければ、作るしかないぞ!」

 

「何を言っているのか、理解に苦しむ!」

 

 『なければ作れば良い』

 この考えが、多種族に比べて遥かに劣る人類が、この世界で繁栄した原点である。

 エルフ族に比べて魔法力は無く、魔族に比べて力も無い。鳥のように大空を飛ぶ事も出来ず、魚のように海を渡る事も出来ない。草花のように太陽の光だけで生きて行く事は出来ず、牛や馬のように草花だけを食して生きて行く事も出来ない。

 そんな人類がここまで繁栄を遂げたのは、その無力さを実感し、自分達でも他種族のような優位性を実現出来ないかと試行錯誤を繰り返して来た結果なのだ。

 魔法力が少ないのであれば、行使出来る数少ない呪文をより深く研究すれば良い。力が足りないのであれば、それを補う武器や防具を生み出せば良い。空を飛べないのであれば、それを補う呪文を行使する為に研究をし、海を泳ぎ渡る事が出来なければ、それが可能な乗り物を作れば良い。そういう過程を経て、現在の人類は成長を続けて来たのだ。

 リーシャの口にした言葉は、実に人間らしい物であった。だが、そんな実例がない以上、カミュは不快そうに言葉を吐き捨て、サラは困惑するように首を傾げる。既にメルエは眠そうに目を擦っており、三人の会話に興味を示してはいなかった。

 

「この大量にある雪で洞穴のような物を作れば良い! 風を凌げれば、寒さ程度は何とかなるだろう!」

 

 一気に言い切ったリーシャは、カミュにメルエの身体を預け、手袋の上から周囲の雪をかき集め始める。少し前辺りから、足が沈み込む深さは変化していた。太腿近辺まで沈み込んでいた雪の道は、足首程度の沈み込みに抑えられて来ている。

 海に近い場所ほど、降り積もる雪が新雪なのだろう。比較的温かな場所に降り積もる雪は、太陽の熱で解かされる事も多く、凍りつく前に再び雪が降り積もるのかもしれない。それに対し、既に島の内陸側に移動していたカミュ達のいる場所は、雪の量は差ほどでもないが、誰も踏みしめない雪が氷となって固まっていたのだった。

 氷の上に降り積もった新雪を集め、リーシャは手早く洞穴のような物を作成して行く。カミュ達四人が入れるほどの洞穴が出来たのは、頭の上に降り積もった雪によって、サラの身長がカミュと並ぶほどになった頃であった。

 

「これでどうだ!?」

 

「……リーシャさんの凄さを改めて感じました」

 

 誇らしげに胸を張るリーシャの肩から湯気が立っている。それだけの重労働であった事は確かであるが、その結果出来上がった物を見たサラは、自分の中にある常識という物が如何に役に立たないものであるかを改めて感じる事となった。

 同じように唖然として吹雪を頬に受けていたカミュは、何を思ったのか革袋から『たいまつ』を取り出し、それに点された炎を雪で作った洞穴の淵に翳す。徐々に溶ける雪を見たリーシャが、自分の力作を壊しに掛かっているのだと感じ、血相を変えてカミュへと詰め寄った。

 

「壊すつもりは無い。こうしておけば淵は凍るだろう」

 

「……なるほど。そうすれば強い風が来ても耐えられますね」

 

 溶けた場所は、即座に凍りついて行く。それだけの気温である事もあるのだが、その場所に新雪が積もっても、凍りついた場所であれば、それ程積もらずに下へと落ちて行くだろう。幸い、この雪の洞穴は円形状に作られていた。

 カミュの考えている事が理解出来たサラは納得したように頷いているが、その仕組みが理解出来ないリーシャは、釈然としないように眉を顰める。だが、カミュが破壊しようとしている訳ではない事だけは理解出来た為、それ以上は何も口にしなかった。

 唯一人、出来上がった巨大な雪の洞穴を見上げていた幼い少女は、その出来栄えに目を輝かせ、誰よりも早くに中へと入り、雪や風の影響がない事に頬を緩ませる。そのままもう一度外へ出されたその顔は、満面の笑みを湛えていた。

 

 雪で作成された洞穴の中は、風や雪を遮れるだけではなく、温かさも持ち合わせていた。四人で入る事が出来ると言っても、宿屋ほどの広さは無い。故に、四人の体温で暖められたその場所は、入り口が狭い事もあって暖かな空気が逃げていかないのだろう。

 火を熾す事が叶わない為、リーシャとサラ、そしてメルエは身体を寄せ合うようにして固まり、そしてメルエは何時しか眠りに就いてしまっていた。濡れた服は乾かないが、汗で身体が冷える事はない。濡れた身体をこのような雪原で放置しておけば、その場所から凍りつき、腐り落ちてしまう恐れもある。だが、そのような可能性を危惧する必要もなさそうであった。

 

 

 

「よし、風も落ち着いて来たな」

 

 翌朝、太陽の光が真っ白な雪原に輝く頃、雪の洞穴から顔を出したリーシャは、外の状況を確認して顔を綻ばせた。

 雪自体は夜半過ぎに止みはしたが、風が強く降り積もった雪を舞い上がらせ、視界が極めて悪かったのだ。だが、朝陽が昇ると共に風は大分弱まり、雪は太陽の光を反射する輝く大地へと変化して行く。ようやく出発する事が出来そうになり、一行は出発の準備を始めた。

 メルエだけは、リーシャが作成した雪の洞穴から出るのを嫌がり、駄々を捏ねるように頬を膨らませるのだが、『ならば、メルエはここでお留守番だな』というリーシャの言葉を聞き、慌てて準備を始める事となる。

 

「おそらくですが、地図上ではこの辺りでしょうね」

 

「無闇に歩き回っても仕方がないが、ここまで見渡す限り雪原では歩くしかないのか」

 

 歩き始めた一行は、カミュが持つ地図へと視線を落とす。大きな世界地図のような物しか所有していない彼等が見るのは、大まかな場所である。このレイアムランドという南の果てにある島自体の開拓が進んでいない以上、この島の詳しい地図がある訳もなく、船が進んだ航路から大まかな上陸地点を導き出し、現在位置を把握する事しか出来ないのだ。

 上陸したのは、島の北東にある場所である事が予想され、微かに見える太陽の位置から、その場所より南西に進んで来たのだと考えられる。巨大な雪原が広がる永久凍土の島には目印となる場所などは無く、通常の旅人であれば、迷い彷徨い死んで行くのが常であろう。彼等が培って来た四年の経験があるからこそ、この雪原を突き進む事が出来るのかもしれない。

 

「島の中央付近を目指して歩く。何かを見たら声を出せ」

 

「わかった」

 

「わかりました」

 

「…………メルエも…………」

 

 進む方角の方針が定まり、カミュの言葉に他の三人が頷きを返す。

 島の中央を目指すとはいえ、その場所が中央付近である事が明確にわかる訳ではない。歩く速度と、掛かる日数によって計算をして行くしかないのだ。それは、彼等が歩んで来た四年という経験が成せる技であろう。

 

 その後、四日近く雪原を歩き続けた彼等は、寒さと疲労で誰しもが口数が少なくなる中、ようやく目的地へと到達する事となる。その場所は、雪原に建てられた巨大な神殿。遥か上空に見える円形の屋根は、雪に覆われて尚、その雄大さを現していた。

 神殿を覆うように作られた石壁は、その高さも然る事ながら、その長さにも驚くほどの物。先が見えない壁を呆然と見つめるメルエの横で、目の前にある巨大な門の前に祀られた『精霊ルビス』の像からサラは目を離す事が出来なかった。

 天へと祈りを奉げるように手を合わせた『精霊ルビス』の瞳は、それと相反するように大地へと向けられている。瞳を閉じる訳でもなく、そしてその手を広げている訳でもない。まるで、この大地に生きる物全てを見守るように、その像は佇んでいた。

 門の正面から見ると、円形の神殿の屋根は『精霊ルビス』を護る巨大な羽根のようにも見える。大きく広げられた羽根が、世界を見守るルビス像を護っているのだ。従者が主人を包み込むようなその姿は、サラの心に深く刻まれて行った。

 

「ここに不死鳥ラーミアがいるのか」

 

 見上げる程に大きな神殿にリーシャは感嘆の声を上げる。その横で、同じように見上げようとしたメルエが、その余りの高さに引っ繰り返りそうになるのをその手で押さえたカミュは、そのまま神殿の門を潜って行った。

 城門のように大きな門の横にある勝手口のような扉に鍵は掛けられておらず、来る者を拒む様子はない。このような極寒の地を訪れようとする者もいないのだろうが、まずレイアムランドという島が存在する事を知る者もいないのだろう。そして、例えその存在を知っていたとしても、海の果てが底の見えない崖になっていると信じているこの世界の住人は、南の果てにあると伝えられるレイアムランドに向かおうとは考えないのだ。

 

「広いな……」

 

「はい」

 

 中に入ると、外から見た通りに巨大な広間が広がっていた。

 その圧倒的な広さと天井の高さは、以前に訪れたダーマ神殿という、ルビス教の聖地さえも足元に及ばない。リーシャはその巨大さに圧倒され、サラは言葉を失った。

 中央には巨大な燭台があり、大きな炎が点されている。その炎によって広間全体を照らして入るが、炎の大きさと広間の大きさの釣り合いが取れていない為、広間は薄暗く翳っていた。

 真っ直ぐに中央へと歩いて行くカミュの後ろに続いたサラ達は、その広間の状況が徐々に見えて来る。中央の燭台の後ろには巨大な台座があり、その台座の上には楕円形の球体の影が映っていた。そして、その台座を囲むようにサラの背丈と同じ高さの金の台座が等間隔に六点設置されている。その六点の黄金色に輝く台座の横に二つずつの小さな燭台があるが、こちらには炎が点されてはおらず、周囲を照らすだけの明かりが灯るとも思えない程の大きさであった。

 

「……人か?」

 

「えっ?」

 

 巨大な楕円形の影が乗る台座に近づいていた先頭のカミュが突如立ち止まる。突然立ち止まったカミュの背中に周囲を物珍しげに見ていたメルエが衝突し、不満そうな表情を浮かべた時、不意にカミュが口を開いた。

 その言葉に正面へと視線を向けたサラは、カミュの言葉通りに台座の前に二つの人影がある事を確認し、驚きの表情を浮かべる。サラとしては、このような極寒の地に人間がいるとは考えていなかったのだろう。このような場所では『人』が生きる為の食料も無く、常に雪や氷に覆われた場所では寒さで命を落とす可能性もあるからだ。

 だが、更に一歩ずつ近寄った結果、それが間違いなく二人の人間の姿だという事が理解出来た。いや、正確に言えば人間ではないのかもしれない。二人の背丈はメルエよりも小さな者であり、このような極寒の地で人間の子供が生きて行く事が不可能である以上、異なる種族と考えた方が正しいのだろう。

 

「私達は卵を護っています」

 

「え?」

 

 先頭のカミュが二人へ言葉を掛ける前に、片方が口を開く。カミュ達になど興味がないかのように、振り返る事無く、視線は台座へと向けられていた。それでもその言葉が自分達に向けられた物である事を理解したカミュ達は、その場で立ち止まり、その言葉に耳を傾ける。

 台座に近づいたサラは、ようやくその上に乗った物を把握する事が出来た。それはサラどころか、リーシャの背丈よりも遥かに大きな卵。一体何の卵かも解らない程に巨大な物であり、巨大生物の多い魔物の中でも、この卵に見合う大きさの物となれば、龍種以外にはないだろうと考えられる程物であった。

 そして、薄暗い中で気付きはしなかったのだが、その卵の真上に屋根は無く、透明なガラスで覆われている。そのガラスの大きさも卵をすっぽりと飲み込んでしまうほどに大きく、如何にこの神殿自体が巨大なのかを明確に表していた。

 

「世界中に散らばる六つのオーブを金の台座に奉げた時……」

 

「伝説の不死鳥『ラーミア』は蘇りましょう」

 

 卵が放つ圧倒的な存在感に気圧されそうになっていたサラを余所に、台座から視線を動かさなかった二人の人間がカミュ達へと振り返る。振り返った二人の者の顔を見たカミュやリーシャは驚き、サラは何処か納得してしまう。

 その二人の者は、女性と言われれば女性に見え、男性だと言われれば男性にも見える中性的な存在であったのだ。背丈こそ小さいが、その瞳が宿す物は幼子のそれではない。自身の役割を把握し、それを担うだけの資質を備えている事が、サラには理解出来た。それは、カミュ達が歩んだ四年の月日の経験があってこそなのだろうが、その姿こそが『精霊ルビス』の従者に相応しい物のようにも感じたのだった。

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 言葉を投げかけた後、役目を終えたかのように再び台座へ視線を移した二人を見たカミュは、そのまま台座を中心に配置された六つの台座の方へと歩いて行く。カミュに声を掛けられたメルエはポシェットに手を入れ、その後を追いかけて駆け出した。

 金の台座の一つに辿り着いたカミュは、メルエが取り出した一つのオーブを手に取る。

そのオーブの輝きは『紫』。

 異教徒の住む島として伝えられる島国であり、この世界を救うと謳われる『勇者』として生きる青年の祖母が生まれ育った、日出る国の国主に伝わる霊宝。

 民を愛し、民と共に泣き、民と共に喜ぶ国主が、懸命に民を護ろうとその身を奉げて生きる証である。

 それは『決意』の珠。

 

「あっ……」

 

 金の台座へと『パープルオーブ』を置いた瞬間、その台座の両脇にある燭台に炎が点る。サラが少し間の抜けた声を上げた時には、カミュとメルエは次の台座へと移動を始めていた。

 次の台座に辿り着いたカミュへ、再びメルエがポシェットから出したオーブを手渡す。

 その輝きは『赤』。

 この世界にある七つの海の覇権を争った海賊達が、その行く末を誓い合った証。一方は滅び、一方が残る中、それぞれの想いと願いが込められた珠である。最後まで悪党であり続けた者と、悪党で終わるのではなく、自分を信じて着いて来る者達と共に生きる者との想いが合わさった結晶。

 それは『夢』の珠。

 

「この炎に、数多くの想いが詰まっているのだな」

 

「は、はい」

 

 再び点った炎を見上げたリーシャは、自分達が歩んで来た旅を振り返る。決して楽な道ではなく、辛いだけの旅でもなかった。その中で出会った数多くの者達に支えられて来たからこそ、今の彼等があるのだろう。

 それを感じたサラもまた、揺らぐ炎がぼやけて来るのを感じながらも、懸命に頷きを返す。いつでも彼女は一人ではなかった。それは、アリアハンで生きていた時も、そしてこの旅の中であってもだ。

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 次の台座に辿り着いたカミュの声に応えたメルエの手に、次のオーブが乗せられている。

 その輝きは『緑』。

 既にこの世界から消え去った小さな村に残された父の願い。その願いに応える為に、その村に残る魂の欠片を集め、奇跡を起こし続けて来た珠。自らの命を奉げ、娘の幸せを祈り続けた男のささやかであるが故に壮大な願い。それを叶え続けて来た奇跡の証。

 それは『祈り』の珠。

 

「メルエのお父様とお母様の願いの炎ですね」

 

「ああ」

 

 一際輝くように燃え上がった炎は、メルエという幼い少女の幸せを願い、その身に愛を注ぐかのように暖かい。『精霊ルビス』の祝福を受け、その御許へと昇った両親が、今も笑顔でカミュの後ろを付いて歩く少女を見守り続けてくれる事を願ってサラは胸に手を合わせた。

 四つ目の台座に奉げられた珠の輝きは『青』。

 『精霊ルビス』の許、大地の女神が愛した防具が眠る場所。たった一人でしか入る事を許されず、その者の覚悟と想いを試される場所で輝いていた珠。

 己の存在を認め、己の矮小さを自覚して尚、前へと進もうとする者の前に姿を現すその珠は、『精霊ルビス』の前に跪く像の手の中に納められていた。

 それは『勇気』の珠。

 

「……あと二つ」

 

 巨大な卵が乗る台座の周囲を囲むように燃え上がる炎を視界に納めた中性的な二人は、小さく呟きを漏らす。何かを期待するように、喜びを押さえつけているかのように、その声は微かな震えを含んでいた。

 そして、カミュとメルエがリーシャ達とは対角線上にある台座へと近づいて行く。幼い小さな手からまた一つのオーブが手渡される。雪雲の隙間から顔を出した太陽の輝きが、卵の真上にあるガラス張りの屋根を通してオーブへと降り注いだ。

 その輝きは『黄』。

 他のオーブとは異なり、それはあらゆる者の手を渡り歩いて世界を渡る珠。人間という種族に限らず渡り歩くその輝きを繋ぐのは絆である。

 アリアハンを旅立った一行が最初に築いた絆は、過疎化が進む小さな村で道具屋を営んでいた男であった。妻と娘を失い、それの原因となった己を呪い、自責の念で潰されそうになったその男に未来へと繋がる道を示したのはカミュ達であり、その男が自己を犠牲にしてでも絆に応えようとした証。

 それは『信頼』の珠。

 

「トルドさんは大丈夫でしょうか……」

 

「大丈夫だ。魔王を討ち果たした後には、真っ先に知らせに行こう」

 

 点された炎は、そのオーブを手にした男のように力強く、それを見たサラの頭にあの結末が思い出される。カミュ達にとって望まぬ結末になってはしまったが、彼の命はまだ繋がっていた。リーシャの手がサラの肩に乗せられ、その暖かさを感じたサラは大きく頷きを返す。

 最後の台座は、既に晴れ渡った空から降り注ぐ太陽の光を受け、黄金色に輝いていた。最初に置いたパープルオーブの対面に位置する場所にある金の台座に辿り着いたカミュの手に最後のオーブが乗せられる。

 眩いばかりに輝く金の台座と相対するような輝きは『銀』。

 この世界を憂い、『人』の行く末を憂い、己の命をかけて戦って来た男性からこの世界の未来を託された証。人間の為だけではなく、この世界で生きる全ての物の幸せな未来を願い、その命を賭けて来た者達の想いを宿す宝玉。

 それは『希望』の珠。

 

「私達は……私達は、この日をどんなに待ち望んでいた事でしょう」

 

 最後のオーブが奉げられた。

 全ての台座にオーブが並び、全ての燭台に炎が点る。全てのオーブが一斉にその身を輝かせ始め、その輝きは共鳴するように大きくなって行った。

 オーブごとに異なる輝きの色を眺めていた二人の者は、感動に打ち震えるように声を詰まらせる。それでもその瞳は真っ直ぐに台座へ向けられ、鎮座する巨大な卵に向かって両手を伸ばした。

 その姿はまるで我が子の誕生を願う母親のようにも、まるで弟や妹の誕生を祝う兄や姉のようにも見える。徐々に六つのオーブの輝きが増して行く中、リーシャとサラの許へと戻って来たカミュとメルエも台座の卵へと視線を移した。

 

「時は来たれり……今こそ目覚めの時!」

 

「無限に広がる大空はそなたの物……舞い上がれ、大空高く!」

 

 中性的な空気を持つ二人が言葉を発する。その言葉に呼応するようにオーブの輝きが一つに集まり、一気に卵へと集約されて行く。卵の中へ吸い込まれるように、六色に輝く光が広間を輝かせた。

 全ての明かりが卵へと吸い込まれるのと同時に、燭台に点っていた炎もまた消えて行く。先程まで輝いていた太陽さえも、一時的に流れて来た雲に顔を隠し、広間は薄暗い闇に閉ざされて行った。

 

「なんだ?」

 

 闇と静寂が支配し始めた広間に、小さな音が響き始める。その音を聞き取ったリーシャが不思議そうに台座を注視すると、その台座に乗せられていた卵が震えるように動いていた。右に左にと動く卵の殻へ少しずつ亀裂が入って行く。亀裂が大きくなる度に雲に隠れていた太陽が顔を出し始める。

 その誕生を祝福するように降り注ぎ始めた太陽の輝きが、巨大な神殿の広間を全て包み込んだ時、待ち望まれたその刻が訪れた。

 

「キュエェェェ」

 

 広間全体に轟く雄叫びは、広間の空気を震わせ、聞く者の身体さえも震わせる。だが、その震えは決して恐怖から来る物ではなく、感動に近い震えであった。

 分厚い殻を突き破って飛び出して来たそれは、神々しい程の輝きを放つ巨大な鳥。

 純白の翼を大きく広げ、天高く雄叫びを上げるその姿は、精霊ルビスの従者というよりも神の従者に近しい物にさえ見える。赤い鶏冠は炎が燃えるように輝き、白い羽毛で覆われた首筋の付け根は、森を思わせるような鮮やかな緑色の毛で覆われていた。瞳は青空のように深い蒼色をしており、嘴は黄色く輝く。見る者を魅了するような尾羽は紫色が映え、その先は銀色の羽毛が太陽の光を受けて輝いている。

 まるで全てのオーブの色を受け継いだかのようなその鮮やかな色合いは、不死鳥という名よりも、遥か昔に伝承と化した『鳳凰』という存在と云えるのかもしれない。しかし、その伝承もまた、遥か昔にジパングで語られていた伝説の存在である為、今この時代でその名を知る者は誰一人としていないのも事実である。

 

「…………きれい…………」

 

「ルビス様の従者……ラーミア様」

 

 その高貴な姿にメルエは目を輝かせ、サラは心を奪われたかのようにうわ言を口にする。カミュ達を一瞥したラーミアは、そのまま神殿の中で数度羽ばたき、そのまま天井を覆っていたガラスに向かって一気に飛び上がった。

 カミュ達四人の誰もがガラスに衝突すると感じた瞬間、まるで吸い込まれるようにガラスをすり抜けて行く。障害など無かったかのように大空へと飛び上がったラーミアに唖然としたサラではあったが、上空に向けていた視線を戻し、振り返った二人の者を見て我に返った。

 中性的な顔立ちをした二人の身体もまた、先程のラーミアのように輝きを放っている。眩しいほどではないが、静かな輝きは神々しさを湛えていた。

 

「伝説の不死鳥ラーミアは蘇りました。ラーミアは神の下僕(しもべ)……心正しき者であれば、その背に乗る事を許されるでしょう」

 

「さぁ、ラーミアが貴方達を待っています。外へ出てご覧なさい」

 

 二人の者の顔には優しい笑みが浮かんでいる。その笑みを包み込むように輝きが増して行く。包み込んだ光がそのまま集約され、その背に翼を生み出すように形を形成して行った。

 不死鳥ラーミアの誕生に驚いていたサラの表情に、先程以上の驚愕が張り付く。笑顔を浮かべたままの二人は、そのまま空中へと浮かび上がり、ラーミアと同じ経路を辿って天へと昇って行ったのだ。

 

「精霊様……」

 

 この世界で精霊と称されるのは『ルビス』だけではない。数多くの精霊達の頂点に立つ者が『精霊ルビス』であるのだ。

 その精霊を見た者はこの世界でも限られた者しかいない。その限られた者の中でも現存する者など皆無に等しいだろう。それ程に貴重な出会いを果たしたのだが、余りの光景にカミュ達の思考が追いついて行かない。そんな中、メルエだけは先程飛び出していったラーミアの後を追いかけたいのか、頻りにカミュのマントの裾を引き続けていた。

 

「出るぞ……」

 

 その言葉を合図に外へと向かって歩き出すカミュ。その後ろを嬉しそうに笑顔を浮かべながら追うメルエ。そんな二人が出口へと消え去って初めて、自分達が置いていかれた事を理解したリーシャとサラは、慌てて出口へと駆け出した。

 誰もいなくなった神殿内に暗闇と静寂が支配する。台座の全ての炎が消え失せ、差し込む陽光だけが台座に残る卵の殻の残骸を照らしていた。

 

 

 

「クエェェェェ」

 

 神殿の外へと出た一行を待ち受けていたのは、巨大な鳥。

 天に向かって一鳴きをしたラーミアは、その瞳をカミュへと向けて頭を垂れる。その瞳は、親を見つけた子供のように歓喜に満ちており、主人を見つけた従者のように使命感に燃えていた。

 大きな嘴をカミュの身体へ摺り寄せ、その顔をカミュへと擦りつける。彼の中に何かを見ているのか、それともラーミア自身が彼を『勇者』として認めたのかは解らないが、その在り方だけはリーシャ達三人にも明確に理解出来た。

 

「…………ラーミア…………」

 

 そんな不死鳥と勇者のやり取りを羨望の眼差しで眺めていた少女は、意を決したようにその名を呼んで手を伸ばす。幼い少女にとって、初めて見る不死鳥はその胸に宿る好奇心を湧き上がらせる存在だったのだろう。

 好意を表す為に満面の笑みを浮かべたメルエは、戸惑うカミュの身体に擦り寄るラーミアの顔に向かって手を伸ばしたのだ。

 『以前の人語を話す猫のように自分を受け入れてくれるのではないか』、『人語を話す馬のエドのように自分と話をしてくれるのではないか』という期待が、ポルトガの町で不用意に手を伸ばした記憶を掻き消してしまっている。受け入れてくれるだろうという期待は、受け入れてくれる筈だという曖昧な確信へと変わってしまっていたのだ。

 

「え?」

 

「…………!!…………」

 

 故に、ラーミアのその行動は意外であった。

 手を伸ばすメルエから逃げるように顔を持ち上げたラーミアは、一度メルエを威嚇するように嘴を開き、そのまま在らぬ方向へ顔を背けてしまう。驚いたように目を見開くメルエと、精霊ルビスの従者と呼ばれる霊鳥の起こした行動に戸惑ったサラの声が雪原に消えて行った。

 目を見開いたメルエはその小さな手を向ける方向を見失い、暫しの間固まっていたのだが、やがてゆっくりともう片方の手の中へと納め、悲しそうに眉を下げながら両手を胸の前へと隠してしまう。

 明らかな『拒絶』。

 害を成そうとされた訳ではないが、それでも完璧なまでの拒絶を受けた少女の心は、深い谷底へと落とされたように沈み込んで行く。周囲の三人の誰もが声を掛けられず、メルエの瞳に無意識に溜まって来た涙が雪原の雪を溶かす頃、ようやく少女は口を開いた。

 

「…………ラーミア………メルエ………きらい…………?」

 

 ようやく搾り出した言葉は、既に絶望の色に染まっている。それは相手に対する確認のようであってもそうではない。メルエの中では最早確信となっている事を口にしているのだろう。相手が自分を拒絶するという事は、相手が自分を嫌っているという事。それはメルエの中では揺るがない事実なのだろう。

 リーシャからお叱りを受けた事はある。サラから拒絶のような態度を取られ、無視された事もある。それでも彼女達はメルエを大事に想ってくれているし、大好きだとも言ってくれていた。だからこそ、僅かな期待を込めて、メルエは顔を背けるラーミアに問い掛けた。

 言葉が通じるのかどうかも解らない。自分自身が持つ好意が伝わるかも解らない。それでも、幼い少女が自分の想いを伝える方法は限られており、それを精一杯示す事しか出来ないのだ。

 

「メルエ……」

 

 傍で見ているリーシャやサラでさえも辛くなってしまう程に悲痛な表情を浮かべるメルエは、それでも尚、一人きりでラーミアへと問い掛けている。この幼い少女にしてみれば、自分自身が何故嫌われるのかが理解出来ないのだろう。だが、同時に昔はそれが当然であった事を思い出しているのかもしれない。

 カミュ達と出会い、メルエという常識さえも無い幼子に無条件の好意を向けてくれる者と数多く出会う事となる。彼女が微笑めば微笑み返してくれ、彼女が頑張れば褒めてくれる。そんな普通の幼子であれば当たり前に受ける事が出来る好意を、当たり前に感じるようになったのは極最近であった。それまでは、何処へ行こうとも、何をしようとも、彼女に当たり前に向けられて来たのは、嫌悪であり、暴力であったのだ。

 それを悲しい事だと感じ始めたのは何時の頃からであろう。今のメルエにとって、相手からの拒絶は、何よりも辛く哀しい事なのかもしれない。

 

「…………ごめん………なさい…………」

 

 再度問い掛けて尚、一向に顔を向けてくれないラーミアを見ていたメルエの瞳から、大粒の涙が溢れ出し、雪原へと落ちて行く。冷たい哀しみが詰まった水滴は雪原の雪を溶かす事無く、瞬時に凍り付いてしまった。

 ポルトガの町で猫に向けた手を引っ掻かれた時のように、何か自分に落ち度があったのかもしれないと思い至ったメルエは、顔を背けるラーミアに向かって小さく頭を下げる。だが、そこまでが限界であった。

 傍に立っていたリーシャの腰にしがみ付き、小さな嗚咽を繰り返しながら、何度も何度もしゃくり上げる。全く受け入れる気のないラーミアを見上げる事はもう出来なかった。力強くしがみ付くメルエの背を撫でるリーシャも、ラーミアがメルエを拒絶する理由が解らず、困惑するばかりである。

 

「ルビスの従者と言っても、この程度か」

 

「お、おい、カミュ!」

 

 リーシャの腰元で嗚咽を繰り返すメルエの姿に、軽い溜息を吐き出したカミュが鋭い言葉を吐き捨てる。それを怒りだと誤認したリーシャは慌てたように手を伸ばすが、その手は穢れの無い真っ白な羽毛によって遮られた。

 カミュが言葉を吐き捨てるよりも早く、不死鳥と崇められ続けた神代の生物は、か弱く幼い少女の許へと首を伸ばしていたのだ。柔らかな羽毛がリーシャの腰に埋めた少女の頬を撫でる。嗚咽を繰り返していたメルエの身体の震えが緩やかになって行った。

 恐る恐るという様子でリーシャの腰から顔を離したメルエの瞳に、大きく澄んだ蒼色の瞳が移り込む。まるでメルエの心の中を覗き込むような純粋な瞳は、その本質を見抜いて行った。

 

「…………ラー…ミア…………」

 

「クエェェェ」

 

 真っ赤に泣き腫らした瞼を向け、小さくその名を溢したメルエは小さな手をもう一度その大きな嘴へと伸ばす。その呼びかけに一鳴きしたラーミアではあったが、その鳴き声は先程の物とは異なり、威嚇の物ではなく優しく受け入れるような物であった。

 震える小さな手が黄色に輝く嘴に触れ、その手を受け入れるようにゆっくりとラーミアは瞼を落とす。優しく撫でようと必死なメルエではあったが、その表情は徐々に緩み、涙の後が残る頬が柔らかく上がって行った。

 その場で足を畳んだラーミアは翼を軽く広げ、その内にメルエの包み込むように閉じて行く。リーシャの腰元から離れたメルエは、柔らかく暖かな羽毛に包まれ、満面の笑みを浮かべた。自分を受け入れてくれている事を理解した少女は、その羽毛に顔を埋めもう一度涙を溢す。

 

「カミュ……お前は斬るつもりだっただろう?」

 

「アンタ程の馬鹿ではない」

 

 鋭い視線を向けるリーシャに向かってカミュは溜息を吐き出す。その溜息と共に吐き出された言葉にリーシャは言葉を詰まらせた。

 いつもと異なり、馬鹿にされたにも拘わらず反論しないリーシャの姿に驚いたサラであったが、その理由に思い当たり、盛大な溜息を吐き出す。そして、鋭い視線をこの馬鹿親達に向けるのであった。

 カミュを責めきれないのは、リーシャにもその気持ちがあったからなのだろう。『斬る』とまでは行かないが、神の下僕とも、精霊ルビスの従者とも言われる霊鳥に対して怒りを向けた事は事実なのだ。それがどれだけ大それた事であり、分不相応の驕りであるかを二人に伝えなければならないとサラは胸に炎を点すのであった。

 この二人は、メルエという少女に甘すぎる。時には叱り、時には窘めはするが、根本的な部分でこの少女を傷つける者を敵と看做す傾向がある。それは最早、親馬鹿という世界ではなく、馬鹿親の部類に入るほどの物であった。メルエの行動全てを肯定する訳ではないだろう。だが、どんな行動を行おうとも、メルエの全てを受け入れ、最終的にはその存在を肯定してしまう。それがこの少女にとっても危うい事だとサラは感じていた。

 

「二人とも! ルビス様の従者様の前ですよ!」

 

「キュエェェェ」

 

 サラの声に応えるように一鳴きしたラーミアは、その背を更に低く屈め、メルエの前に翼を下ろす。その行動に不思議そうに首を傾げていたメルエではあったが、好奇心には勝てず、その翼を上ってラーミアの背中へと辿り着いた。

 『乗れ』と言わんばかりにカミュ達へ蒼色の瞳を向けるラーミアを見た一行は、何も言わずに頷き合い、その背の上で嬉々として周囲を見渡している少女の許へと向かう。巨大な翼は、カミュ達三人が乗ったところで揺らぐ事はなく、柔らかな絨毯の上を歩いているような感覚さえある。背中まで辿り着くと、自分を受け入れてくれたラーミアの背中に寝そべり、ふかふかの羽毛にメルエが身を委ねていた。

 

「キュエェェェェ」

 

 大きな雄叫びを天高く奉げた後、ラーミアの翼がゆっくりと羽ばたき出す。落ちないようにと屈み込んだカミュ達ではあったが、その背に乗る者達の事もラーミアは考慮しているのか、足場に一切の揺らぎは無い。一瞬の浮遊感を感じた後は、徐々に離れて行く雪原の色が遥か向こうに見えて来た。

 天高く舞い上がった伝説の不死鳥は、当代の勇者一行を乗せて大空を旋回する。

 

「北東の海岸に船がある筈だ。そこまで行けるか?」

 

 人語が理解出来るかどうか定かではない中、大きな背から遠くにあるラーミアの顔へカミュは目的地を告げた。

 空中に浮かび上がったにも拘らず、カミュ達の周囲には風がほとんど無い。何かに護られているかのように穏やかな風と暖かな陽光が降り注ぎ、カミュが口にした言葉も難無く響き渡る。その声に応えるかのように首を小さく下げたラーミアは、翼をはためかせて北東の空へと移動を開始した。

 

 遥か昔、この世を創造した神と、この世を守護する精霊の許には神鳥が控えていた。その大きな翼で風を切り、その不死性を持って世界を渡る。己が主人と定めた者に忠実であり、全ての種族を超えた存在として世界を見守る役目を果たす。

 常に精霊ルビスの傍らで世界を見つめて来た神鳥は、ある時期を境にこの世界からその姿を消した。この世が乱れる時、再び己が主人と定める存在が登場する事を願い、その身を封印したのだとも伝えられていたが、その伝承もまた、時と共に薄れて行く。

 『精霊達の力が宿った六つのオーブの光が集まりし時、精霊の長の従者は蘇る』。

 遥か昔、神鳥の存在を知る者達が語り継いだ伝承である。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

考えていたよりも長くなってしまいました。
ここで十五章を終えようか、それとももう一話繋げようか考え中です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ポルトガ港

 

 

 

 大空に舞い上がった不死鳥の翼は、この世で生きるどの鳥類よりも大きく、力強かった。

 一掻きで大きく上昇し、もう一掻きで景色が急転する。それはまるで奇跡を見ているように神秘的で、夢を見ているように儚い。遥か下に見える雪原の白と、太陽の光を反射する海の青さが全ての者の心を魅了していった。

 

「メルエ、乗り出すな! 落ちたら死んでしまうぞ!」

 

 不思議な物で、遥か上空に上がったにも拘らず、カミュ達一行の傍は穏やかな風が流れている。口を開いて会話をする事も出来るし、目を開いて景色を楽しむ事も出来た。自分の横を通り過ぎようとする白い雲を掴もうと手を伸ばしたメルエを窘めたリーシャであったが、その雲の流れる速さを見て、自分達の頬を凪ぐ風の優しさに首を傾げる。それはサラも同感であったようで、あれ程の寒さを感じた雪原の上にも拘らず、その痛烈な寒さを感じない事に驚きを表していた。

 あと僅かで雲まで手が届きそうだったにも拘らず、自分の身体を引き戻されたメルエは、不満そうに頬を膨らませ、リーシャから顔を背けてしまう。しかし、そんな我儘が許される事はなく、間髪入れずに落とされた拳骨に涙目になるのであった。

 

「カミュ様、船が見えて来ました」

 

「降りれるか?」

 

「キュエェェェ」

 

 大空へと舞い上がり、ラーミアが数回羽ばたいただけで、一行は船が見える海岸付近に近づいていた。それは数日の時間を有しながら雪原を歩いて来た彼らにとって驚異的な速さであり、舞い上がった直後に空の旅が終了してしまったとも言えるだろう。そして、そんな短い空の旅に涙目になっていた筈のメルエは再び頬を膨らませていた。

 カミュの言葉を理解したかのように一鳴きしたラーミアは、羽ばたきを繰り返しながら、徐々に着陸態勢へ入って行く。急速に雪原が大きくなって行き、周囲の雪が大きく舞い上がった。船のある海岸傍へ着陸する為、巻き起こる風によって海は荒れ、船は大きく揺れ動く。悲鳴にも似た船員達の怒声が響く中、ラーミアの巨体はようやく着陸を果たした。

 

「……あまり人の住む場所の近くには着陸出来ませんね」

 

「そうだな……ラーミアを魔物扱いされては堪らないな」

 

 未だに視界さえもはっきりしない吹雪の中、呆然と雪原に下りたサラの呟きにリーシャも同意を示す。勇者一行四人を乗せて軽々と飛ぶ巨体は、『不死鳥ラーミア』という正体を知る者以外には脅威として映ってしまうだろう。

 ただ、決してラーミアの身を案じて出た心配ではない。それは、魔物扱いをしてラーミアに攻撃を仕掛けようとする『人』の身を案じた物である。『精霊ルビス』の従者としてその名を残すラーミアは、魔物などよりも上位の能力を有している事は明らかであろう。そのような存在が『人』相手に遅れを取る事などないだろうが、ラーミアという伝説の不死鳥が『人』の傲慢を許す訳がない。

 加えて、この巨鳥に対して最も好意を示している少女の身体に内包された魔法力は、『人』という種族の中でも特出しており、とてもではないが一国の宮廷にいる『魔法使い』などでは太刀打ちは出来ない。既に世界で生きる『人』という種族を滅ぼす事が出来る程の力を有していると言っても過言ではないのだ。

 ラーミアとメルエ。この二つの存在が人類の敵となっただけでも、現在の魔王と同程度の脅威となる可能性がある。そこにメルエの保護者であるカミュという青年が加われば、魔王さえも凌ぐ程の脅威になりかねない。

 『魔王バラモス』という脅威に怯えながらもそれを目標として来たリーシャやサラだからこそ、自分のすぐ傍に居る人間がそれに挑むだけの力を有している事を知っている。そして諸悪の根源に挑む力を有するという事は、その諸悪の根源と同様の脅威を振り撒く事が出来る存在である事と同意なのだった。

 

「船に向かうぞ」

 

 四人全てを降ろして翼を畳んだラーミアは、次の指示を待つようにカミュへと視線を向ける。そんな不死鳥に向かって『少し待っていてくれ』という言葉を残した青年は、そのまま木に括りつけていた小舟を海に浮かべて乗り込んで行く。

 先程の大きな揺れの余韻が残る船は、未だに喧騒が続いている。ラーミアから離れたがらないメルエを抱き上げたリーシャがその後を続き、サラは不死鳥を見上げてその蒼い瞳を暫し見つめてから小舟に向かって歩き出した。

 

「アンタ達だったのか……驚かせないでくれ」

 

「すまない」

 

 船に近づいて来た一行を見つけた頭目が船の上から安堵の声を漏らす。船員達によって引き上げられた小舟は無事に船へ辿り着き、一行は乗組員全てから労いの言葉を掛けられた。そんな中、頭目だけは何処か呆れたような声を発し、それに苦笑を浮かべたカミュが小さく謝罪の言葉を口にする。

 船から少しはなれた海岸からこちらを見つめている巨大な鳥へと船員達の視線は自然と集まって行き、その回答を求めるようにカミュ達へと視線が移動して行った。距離があるにも拘らず、船員達が乗る船と同程度の大きさに見える鳥という存在は、常識とはかけ離れた物であっただろう。

 世界に数多く暮らす魔物の中でも鳥と同じ形をしている物は多い。海域にも出没する事がある、ヘルコンドルなどもその手合いであるが、人間よりも大きな身体を持つ者はいても、船より大きな身体を持つ者は存在しないのだ。そのような存在となれば、大王イカやテンタクルスのような魔物に限られていたのだった。

 通常であればその姿は恐怖の対象となるのだが、勇者一行を良く知る彼等だからこそ、その存在を受け入れる為に説明を求めているのだろう。

 

「ルビス様の従者と伝えられる、不死鳥ラーミア様です」

 

「…………ん………ラーミア…………」

 

 全船員への答えは、その全ての視線が集まったカミュではなく、この場の誰よりも『精霊ルビス』という存在を敬うサラによって告げられる。

 その答えは俄かに信じられる物ではなかった。伝説上の存在となっている不死鳥ラーミアではあるが、その伝説自体が既に風化している物だからだ。この世界に六つのオーブに纏わる言い伝えを知る者の数が限られている以上、そのオーブを終結させる事で復活する存在を知る者の数も限られて来るのは当然の事であろう。

 しかし、困惑する船員達は、サラに続いて口を開いた幼い少女の顔に浮かぶ表情を見て、それを受け入れる事に決めた。この幼い少女は、その生物の種族などに囚われる事無く、その存在の本質を見抜く力がある。彼等は長く共に旅をする中で、そんな考えを持っていたのだ。

 船で出る海の男達は、その仕事の内容から荒くれ者が多くなる。特に幼子から見れば、その体躯や言動は恐怖を感じる事も多いだろう。それでも、メルエという少女は、一度たりとも彼等を怖がることはなかったのだ。

 

「そうか……そうなると、船での旅も終わりということだな」

 

「……ああ」

 

 幼い少女の微笑みに心を和ませながら巨大な神鳥を眺めていた船員達は、同じように眺めていた頭目の小さな呟きと、間を取って答えたカミュの言葉を聞き、一斉に視線を動かした。そこで見た物は、何処か納得したような表情の中にも寂しさを滲ませる頭目と、少し眉を顰めながらもしっかりと頷く勇者が立っている。

 それは、彼等船員と勇者一行の旅の終わりを確定させる物であった。

 ポルトガ港を初めて出港した時から、既に三年の月日が流れている。時間にすればそれ程の長い物ではない。如何に種族の中でも寿命が短い『人』であっても、三年となれば、人生の中で考えれば僅かな物でしかないのだ。だが、その僅かな時間は、数十年と生きる人間の人生でも通常であれば経験出来ない出来事と、習得出来ない知識に満ちていた。

 訪れた事のない場所。出会った事もない人種。見た事も無い特産品や名産品。そのどれもが彼等の知的好奇心と冒険心を満たして行った。

 巨大な船を動かす為には、経験して来た船の扱いよりも難しい事など山ほどあった筈。

 嵐の中を進む為に帆を畳まなければならず、それを成す為に手の皮を何度剥いだ事だろう。

 冷たい風が吹く中で、甲板の掃除の為に水を使い何度手を荒らした事だろう。

 勇者一行と離れた際に遭遇した魔物達との戦闘の為に、何度命の危機を味わった事だろう。

 それも全て、今となっては思い出の一つに過ぎないのかもしれない。

 

「ルーラで帰りましょう。皆さんと一緒に……ポルトガへ!」

 

 走馬灯のように蘇る三年の旅路を船員達が見ていた時、一人の女性が口を開いた。

 それは、戦闘ではなく、その叡智と魔法力によって何度も船員達の命を救って来た女性。命に係わる程の傷を負ってもそれを癒し、常識を恐れる海の男達に新たな世界を見せて来た者である。

 弾かれたように顔を上げた船員達の視線がサラという一人の『賢者』へと集中して行く。その内容を聞く限り、勇者一行がネクロゴンド火山の入り口へ向かう前に頭目と話していた物である事は誰もが気付いていた。

 別れを惜しむならば、最後の航海となるポルトガまでの航路を、様々な想いを乗せて共に進む事が最善であろう。だが、彼等一行にそのような悠長な時間は与えられてはいない。次第に強まりを見せる『魔王バラモス』の力は、この世界を席巻し、飲み込もうとしている。感傷に浸る余裕など、本来の彼等には残されてはいないのだ。

 ならば、この場所で船とは別れを告げ、即座に不死鳥ラーミアと共に旅立つ必要がある筈。だが、それが出来る程に彼等四人は強くはない。この場所で船と別れを告げるとなれば、この船は自力でポルトガまで辿り着かなくてはならない。魔物との戦闘を数多く経験し、並みの船乗りよりも力量は上とはいえ、海に生息する魔物達と戦い続けながら航海出来る程ではないのだ。

 それを理解しているからこそ、サラという『賢者』はそれを提案したのだった。

 

「サラ……出来るのか?」

 

 しかし、その提案には無理がある。

 以前の会話の中でも、その成否は曖昧であった。サラ自身もそれが可能であるかと問われれば、胸を張って答えられるほどに自信がある訳ではない。人間一人の魔法力に限りがある以上、その魔法力によって運ぶ物にも制限があるのは当然であるからだ。

 それでも、彼女は顔を上げたまま、小さく微笑む。

 彼女は『賢者』である。出来ない事を然も出来る事のように語る事はしない。それを行う価値がある物であり、その必要があるのであれば、それを可能とするのも彼女であった。

 

「私一人では無理でしょう。ですが、ルーラを唱える事が出来る者は三人いますから」

 

「…………メルエ………できる…………」

 

 ルーラという呪文は、本来『魔道書』と呼ばれる物に記載される物である。『魔法使いの力量を測るならば、ルーラを基準に考えろ』と云われる程、『魔法使い』の才能の線引きとして人間の世界では考えられている呪文であった。

 宮廷に仕える魔法使いの基準は、まず第一にルーラを行使出来るかどうかという部分が第一関門である。カミュ達のように『経典』や『魔道書』に記載される呪文以外も行使出来る者達から見れば、ルーラという呪文は初期呪文に近い物ではあるが、『経典』や『魔道書』に記載されている呪文でさえも全て契約出来ない事が当然とされている『人』の中では、それが常識なのだった。

 『魔法使い』としての才能に溢れ、今や世界の頂点に立つメルエは当然ルーラを行使する事ができ、幼い頃から何度も命の危機に曝されて来たカミュにとって、その呪文は命綱のような物でもあった。そして、『僧侶』としての道を歩んでいた女性は、『賢者』として生まれ変わった事によって、『魔道書』の呪文さえも行使が可能となっていたのだ。

 

「行使出来ないのは、アンタだけだったな」

 

「くっ……」

 

 軽い笑みを浮かべたカミュの挑発に対し、悔しそうに唇を噛み締めたリーシャは、射殺さんばかりの呪詛の視線を青年に送る。魔法への憧れを幼い頃から持ち続け、それでも自分には無理であると諦め、魔道士の杖という神秘でその望みを再燃させ、それでも自分達の仲間が持つ魔法力の強さと量にその望みを萎まされた彼女からしてみれば、カミュの言葉は涙が出る程に悔しい物だったのだろう。

 リーシャの余りの反応に、自分の失態を今更ながら感じたカミュは、隣にいたメルエの咎めるような視線を受け、素直に頭を下げた。その一連の様子が何処か優しい風を持つ物で、サラを筆頭に船に乗る者全ての表情を和らげて行く。

 

「……それでどうするつもりだ?」

 

「はい……カミュ様には魔法力だけを頂きます。ルーラの感覚で魔法力を放出して下さい」

 

 リーシャの機嫌が直らないままに、カミュは早々にサラへとその方法を問い掛ける。彼にとってしても、ルーラという呪文によって船のような巨大な物を運ぶ事が可能だとは考えていなかった。故に、その方法などに思い当たる事もなかったのだろう。

 そして、その方法として告げられたサラの答えを聞き、彼は驚く事となる。

 『魔法力だけを出せ』という内容が良く理解出来なかったからだ。呪文とは、詠唱を持って完成する。自身の魔法力を神秘へ変えるのは、その詠唱による言霊であり、契約によって刻まれた陣である。特にルーラという呪文は、術者が目的地を思い描き、それを言霊に乗せる事で完成するのだ。

 カミュは当惑という言葉が当て嵌まるほどに呆けた表情を浮かべてしまった。

 

「最後にメルエも含めた三人で詠唱を行い、ルーラを完成させます。私が目的地であるポルトガを思い描きますので、カミュ様はその魔法力を」

 

「……わかった」

 

 正確には理解などしてはいないだろう。

 彼がルーラを唱える時は、彼が目的地を思い描いているのだから当然の事なのかもしれない。ただ、三人が同じ場所を思い浮かべるのだから、どちらにしても同じだと考えたのだ。

 そんなカミュの隣では、瞳を輝かせた少女がサラを見上げている。そんな少女に瞳を合わせるように屈み込んだサラは、先程よりも厳しい表情を作ってメルエを見つめた。

 

「このルーラは、メルエが鍵となります。重大な役目ですよ」

 

「…………ん…………」

 

 厳しい表情の中で告げられた役目の重さを理解したメルエは、大きく頷きを返す。それとは逆にカミュやリーシャは首を傾げてしまった。何故、メルエが鍵となるのかが解らないのだ。確かに、魔法力の量や魔法の才能という点から見れば、メルエの方が上だろう。だが、魔法力の質やその理解度となれば圧倒的にサラが上である。今回のような特殊な呪文行使となれば、サラが全てを掌握すると考えるのが普通であろう。

 

「メルエ……カミュ様と手を繋ぎ、その魔法力を感じなさい。そしてその魔法力に自分の魔法力を合わせ、この船を覆うように展開して下さい」

 

「…………ん…………」

 

 ここからは、魔法という神秘の専門家達の独壇場となる。そこに、『勇者』であるカミュも、『戦士』であるリーシャも入り込む余地など有りはしない。正直言えば、理解が追いつかないのだ。

 三年以上前、メルエが魔道士の杖を握ったばかりの頃、その制御方法が理解出来ないメルエに対しカミュとサラで教えようと動いた事はある。だが、カミュもサラもその制御方法を頭で理解した訳ではなく、身体で理解していた節があり、教える事は出来なかった。

 そして、魔法に関してだけは、そんな数年前とカミュは変わってはいない。あの頃と同じように、頭で考えずに彼は呪文を詠唱し、それを行使している。それに比べ、サラは『賢者』として生まれ変わった時に、一度挫折を経験していた。あの時の経験があるからこそ、魔法力の制御という事の重大性を認識し、そして呪文という物を深く考えて来たのだ。

 それは、『勇者』であるカミュと、『賢者』であるサラの習得出来る呪文の数の違いも影響しているのかもしれない。現に、カミュは三年前と比べても、行使出来る呪文が二桁に増えている訳ではない。

 

「私は更にその上から魔法力を展開します。全てが完了した後で私が声をお掛けしますので、三人同時に詠唱を完成させます」

 

「…………ん…………」

 

「……わかった」

 

 サラの言葉にしっかりと頷いたメルエとは対照的に、カミュは何処か曖昧な返事を返す。その姿がリーシャには自信が無いように見えてしまった。

 カミュという青年があのような表情を浮かべる事は珍しい。常時自信に漲っている訳ではないが、何事にも動じる素振りを見せない彼が完全に女性二人に押されているのだ。そんな表情を見て、リーシャが笑みを我慢出来る訳がない。呆けたカミュから視線を外し、堪え切れない笑いが甲板に響いて行く。そんなリーシャの笑いを聞いて初めて、船員達は自分達もその魔法の神秘を体験出来る事を実感したのか、隣同士で笑い合い、肩を叩き合った。

 

「…………むぅ………メルエ……できる…………」

 

「あはははっ……すまない、メルエを笑った訳じゃない。メルエが出来る事は信じているさ。心配なのはカミュだ。ふふふ……お前、本当に理解出来ているのか?」

 

 真剣にサラの言葉を聞いていたメルエは、そんな自分が役に立たないと笑われたのだと考え、頬を膨らませてリーシャを睨みつける。そんな幼い怒りを見たリーシャは笑いを抑え切れないながらも懸命に弁明を始めた。そして、メルエに対して弁明を終えた後に、先程の仕返しとばかりにカミュに向かって挑発的な言葉を発して、盛大な笑い声を上げるのだった。

 笑われたカミュは憮然とした表情を浮かべるが、その言葉に反論する事も出来ず、鋭い視線をリーシャに向けるのだが、それが益々彼女の笑いを誘って行く。収拾がつかなくなる程の状況は、サラが大きく手を打つまで続いた。

 

「では、始めましょう。カミュ様、ラーミア様に共に飛んで頂けるようにお願いして貰えますか?」

 

「……伝える? 何をすれば良い?」

 

「…………メルエ………やる…………」

 

 手を打ったサラへと皆の視線が集まる中、巨大な船を魔法力によって移動する準備が始まる。まずは、ルビスの従者であるラーミアに、自分達が向かう場所に付いて来て欲しい旨を伝えろというのだ。

 これに困惑したのはカミュである。サラとしては、ラーミアから最も好意を受けているカミュにその役目を託したに過ぎないが、彼からすればラーミアが自分に懐く理由が理解出来ない。精霊ルビスという存在も信じておらず、その恩恵も、その恵みも、その加護も信じていない自分に、その従者であるラーミアと意思疎通が出来る訳がないと考えているのだ。

 そんな彼の姿に再び笑いが込み上げて来たリーシャが声を発する前に、一歩前へと進み出たメルエが、船尾へと駆けて行く。そのまま船尾で木箱の上に乗ったメルエは、身振り手振りでラーミアに何かを伝えようとしている。傍から見れば、ただ別れの手を振っているようにしか見えない。

 だが、暫し手を振っていたメルエがその行動を止めると、天に向かって一鳴きしたラーミアはゆっくりと翼を動かし始めた。途端に風が巻き起こり、海が波立つ。揺れる船の柱にしがみ付きながらも船員達はその神秘的な光景に見惚れてしまう。それ程の雄大であり、神々しいその姿が、彼等には世界を照らす光のように映ったのかもしれない。

 

「……メルエは、アレと意思疎通が出来るのか?」

 

「いや、どちらかと言うと、メルエの身振り手振りは意味を成していないように私には見えたぞ? むしろラーミアがその心を読み取ったのではないか?」

 

 飛び立ったラーミアを見上げながら満足気にこちらへ戻って来るメルエの姿を呆けたように見ていたカミュは、呟くような疑問を口にする。それに答えたのは、同じように船の揺れに動じず腕を組んだままで立っていたリーシャであった。

 メルエが船尾に立ち、身振り手振りで何かを伝えようとし始めると、それに気付いたラーミアの首がしっかりと船へと向かったように見える。そして、あの蒼く輝く瞳によって、メルエだけではなく自分達をも見られていたような気がしていたのだ。

 メルエだけではなく、自分を含めたカミュ達全員の心の奥を見透かすような視線を感じていたリーシャは、それこそが神秘の体現である不死鳥の持つ力ではないかと納得もしていた。

 

「メルエ、ここに来てカミュ様と手を繋いで下さい」

 

「…………ん…………」

 

 意思疎通が出来た事への喜びなのか、それとも保護者であるカミュと手を繋ぐ事が嬉しいのかは解らないが、メルエは満面の笑みを浮かべながらその手を差し出す。ゆっくりと握られたカミュの手の暖かさを感じたメルエは、笑みを濃くしながらもう片方の手をサラへと伸ばした。

 リーシャはそんな三人の姿に微笑を浮かべながらも、その輪の中に入れない一抹の寂しさを感じる。だが、それ以上に、今満面の笑みを浮かべる少女の存在に心から感謝を感じていた。

 この少女がいなければ、おそらく彼等はこのような高みまで登る事は出来なかっただろう。この少女の微笑がなければ、本物の『勇者』は誕生しなかったに違いない。そして、当代の『賢者』もまた、この少女の悲しみと苦しみ、そして未来へ向ける希望を知らなければ誕生はしなかった筈だ。

 全てがメルエという存在によって成された事ではない。だが、起点はこの天涯孤独の少女であった事は紛れもない事実なのだろう。

 

「カミュ様、ルーラの準備を。メルエ、カミュ様の魔法力とゆっくり合わせて行ってください」

 

 カミュが静かに瞳を閉じる。それと同時に彼の身体を覆うように溢れ出した魔法力は、腕を通り幼い手へと移動して行く。自分の中にある魔法力を確認するように息を吐き出したメルエは、受け取った魔法力と合わせた膨大な魔法力を船全体に行き渡らせて行った。

 球体に船を閉じ込めるように広がりを見せた魔法力は、空の青さをも歪ませる。魔法力を持たない者達でさえ視認出来る程の空間の歪みが、この巨大な客船全てを包み込んだ事を示していた。

 その状況を見ていたリーシャは、柔らかな笑みを浮かべながら、そっとカミュの手を握る。驚きに目を見開いた彼に向けられたその笑顔は、歴戦の戦士とは思えない程の美しさを誇っていた。

 心を乱されたカミュの魔法力が揺らいだ事に気付いたメルエは厳しく眉を顰め、頬を膨らませてカミュを窘める。慌てて集中した青年の姿に船員達の笑い声が響いた。

 

「カミュ様とメルエは詠唱の準備を」

 

 最後の調整に入った『賢者』が己の魔法力を展開して行く。人類最高位に立つ『魔法使い』の膨大な魔法力の外側を覆うように、緻密な魔法力が展開されて行った。先程まで、外側の空間が歪んでいたように感じた景色が、その魔法力が展開されて行った部分から透き通って行くのが解る。濃度の濃い魔法力を均して行くように、魔法力が視認出来なくなって行った。

 全ての準備が整い終わる。一つ息を吐き出したサラがその瞼を開け、カミュとメルエへと視線を移した。それに頷きを返した二人が静かに口を開く。

 そして、三つの声が重なった。

 

「ルーラ」

 

 感じる浮遊感は、三年の旅路の最後を飾る。

 海面より浮かび上がる巨大な船は、真横にラーミアが見える位置まで上がり、船員達から大きな歓声が上がった。

 夢の体現。

 人類最高位に立つ三人の魔法力が、巨大な船と、そこで生きる全ての者を人類では踏む事の出来ない未開の空へと運ぶ。

 三人の集中力は途切れない。自身の頭に浮かぶ明確な目的地の姿を認識し、その場所へ移動するように強く念じた。

 大きな光に包まれた巨大な船は、神話に残る神の船のように神々しく輝いている。その横を飛ぶ鳥もまた、その時代を生きた神鳥。神々しく輝く光は、真っ直ぐ北へと向かって航路を取った。

 

 

 

 

 空が一日の終わりを告げるように赤く染まる頃、南の空から光が現れる。それを見たポルトガ国民は己の胸に湧き上がる恐怖を抑える事は出来なかった。ポルトガの南に位置する方角には、魔王の本拠と噂されるネクロゴンドがある。その噂を知る者も限られていたが、空を飛べる種族となれば、鳥類か魔族のみである事は周知の事実である。そんなポルトガ国民にとって、突如として現れた巨大な光は、その胸の内に押し込めていた恐怖心を煽って行ったのだ。

 城下で大きな悲鳴が上がる中、ポルトガ城でもバルコニーへ出て来た国王が南の空へと視線を向けていた。その先に見えるのは巨大な二つの輝き。見た当初は、何か特別な攻撃呪文がポルトガに向けて放たれたのかとも考えたが、攻撃魔法にしてはその輝きは神々し過ぎる。神秘と言っても過言ではない魔法という物ではあるが、世界を旅したこの国王は、魔物が放つ魔法の禍々しさを知っていた。故に、その可能性を打ち消したのだ。

 暫し空へと目を向けていた国王は、一瞬目を見開いた後、マントを翻して後ろに控える従者に向かって命を発した。

 

「我が国の英雄の帰還だ! 港を開ける準備をしておけ!」

 

 その命を受けた従者が城下へと駆け出して行く。それを見送った大臣もまた、采配を振るう為に国王に頭を下げてその場を後にした。

 貿易国であるポルトガでは、海に出る事が出来る者を保護している。身分の上下などはないが、周囲に生息する魔物達が城下を襲う事がない以上、外に向けて船を出す者の勇気と強さを讃える風習があるのだ。

 特に、魔王台頭後の世界は魔物の脅威に怯える事も多かった。だが、ここ最近に誕生した海の護衛団の登場によって、全盛期には遠く及ばないまでも、多くの船が国外の町や国との貿易を再開している。そして、その船達の帰還こそ、このポルトガ国という国家を成り立たせている要因なのだ。

 故に、戻って来る者達全てが、ポルトガ国にとっては英雄となる。国を富ませ、国を潤わせ、そしてそこで生きる者達に希望を与える。それを英雄と呼ばずして何を英雄と成すのか。それが、貿易で生きて来た国家の思想であった。

 

「船だ!」

 

 港に集まり始めた多くの国民の中で、誰が最も早くその光の内に隠された姿に気付いただろう。誰かが発した声に賛同し始めた民衆は、その光が持つ独特な神聖さに飲まれ、感嘆とも驚嘆ともつかぬ息を吐き出した。

 徐々に近づく光の中には大きな船があり、その船に見慣れた紋章が刻まれている事に気付いた民衆が歓声を上げ始める。徐々に大きくなって行く歓声は、その船の全貌がはっきりと見え、ポルトガ港の南の海面に着水するまで続き、それと共に飛んで来た巨大な鳥がポルトガ城下町を飛び越えていく姿を見て鳴り止んだ。

 誰一人として口を開けない程の静寂が広がり、その静寂が少しずつ破られて行く。ざわつき始めた民衆は、今ポルトガ城下町を飛び越えて行った影が何であったのかを口々に語り合い、顔を突き合わせていた。

 

「……成功しましたね」

 

「そうだな。メルエ、お疲れ様」

 

 そんなポルトガ国民達の感情を余所に、ポルトガ港傍の海面に無事着水した船の甲板では、世界初の試みであり、おそらく長い歴史の中でも成功した例ない偉業を成した者達がその労を労い合っていた。それ程の奇跡を起こした当代の『賢者』は、力が抜けたように甲板へと座り込んでしまう。そんなサラを横目に、流石に疲労感を感じているのか、笑みにも力がないメルエの頭をリーシャが撫で付けた。

 船員達は体験したばかりの奇跡の影響で、言葉もなく周囲を見渡している。時間は経過しているが、彼等がいるのは、間違いなく生まれ育った国の海域。風を受けて進む船の縁では海水が泡立ち、漂う潮風は彼等の鼻をくすぐる。そして何よりも、船の進行方向に見える港では大歓声と共に帰還を喜ぶ懐かしき者達の姿が見えていた。

 

「……一年も経過していないのにな……何故か胸を締め付ける程に懐かしい」

 

 前方に見えるポルトガ港を見ていた頭目の瞳に光る物が見える。確かに、最後にポルトガを訪れてから一年は経過していない。グリンラッドで『船乗りの骨』を手に入れ、幽霊船に乗り込み、その際もポルトガへ寄らずに開拓の町へ向かい、そしてジパング、ネクロゴンドと進んで来た。

 それでも、この航海が未だに通過点であれば、頭目の胸にこのような想いは湧き上がる事はなかっただろう。だが、このままポルトガ港へ入ってしまえば、彼等が夢見た旅も終了の時を迎えてしまう。

 最初は海に出る事が出来るだけで良かった。魔物の脅威に怯え、誰しもが海に出る事が出来なくなった時、頭目は生まれ故郷であるポルトガ国は死んでしまったと感じていたのだ。

 ポルトガの若き皇太子は、苦しい国情を把握もせずに諸国を旅するような奔放な人間だという噂もあり、ポルトガ国民の多くは国の未来に希望を感じる事が出来ては居なかった。

 魔王という超越した存在に世界全体が怯え、その配下である魔物の脅威によって町の防壁から出る事も叶わない。貿易国であるポルトガ国は元々自給率が低く、食料などは海の特産以外は他国からの輸入に頼っている部分も多かった為、国民の生活の水準は徐々に低くなって行ったのだ。

 

「……改めて礼を言おう。俺達をこの海に連れ出してくれ、そして素晴らしい景色と夢を見させてくれた事……俺達は勇者一行と共に歩めた事を、生涯の誇りとする」

 

 だが、多くの国民達の展望とは異なり、放蕩息子であった皇太子が国に戻り、数年後に即位してからのポルトガは、本当に徐々にではあるが変化して行く事となる。

 国庫からの資金によって、周囲の開墾作業が進み、専業の農家が増えて行った。畑は数多くなり、それに合わせて城壁さえも変化して行く。農家として暮らす者達をも囲い込むように作られた城壁は、町全体の大きさをも広げて行ったのだ。

 魔物の脅威に怯え、生活範囲を狭めて行く国が多い中、それを広げた国家はポルトガ国だけではないだろうか。海産物に加え農作物の生産も上がり、ポルトガ国の自給率は少しずつ上がって行く。その為、国力が衰えて行く他国に比べ、ポルトガの国力はそれ程落ちる事はなかった。

 絶望と不安に押し潰されそうになっていた国民達はその僅かな変化に縋り、未来に夢を繋いで行く。そんな綱渡りのような日々が続く中、渡航が完全に禁止になっていた港に突如として活気が戻り始めた。

 国王の私財を投げ打って巨大な船が造船され、その船に乗せる物資も国内のあらゆる物が選ばれる。船の乗組員もそれと同時に選出され、港は久方ぶりの活気に満ちて行った。

 それが、『勇者一行』との旅の始まりだった。

 

「礼を言うのはこちらの方だ。アンタ方がいてくれたからこそ、ここまでの旅が出来た」

 

「そうだぞ。私達だけであれば、海には出る事が出来ない。例え海に出たとしても、初回の航海で見舞われた嵐によって海の藻屑と化していた筈だ」

 

 何もかもが順風な航海ではなかった。

 ポルトガ港を出てすぐに嵐に見舞われ、大荒れの海で最悪の魔物と遭遇する。全ての船を海の藻屑と変えて来た大王イカと遭遇した時、正直に言えば頭目も航海を諦めた程だ。海に出た事を後悔はしなかった。それでも頭目として多くの乗組員達の命を預かる者として後悔の念が浮かんでしまったのだ。

 そんなこの世で生きる海の男達全ての天敵とも言える大王イカは、ポルトガ国王に私財さえも投げ打たせる程の青年によって海へと沈む事になる。それを見た時、この頭目は自分の人生を賭けるに値する者達だと認識した。

 そして、そんな頭目の判断は間違いではなく、ポルトガ港を出てから約三年の間にこの広い世界の隅々まで渡って行く。世界の東と西の端が繋がっている事など、この勇者一行と旅をしなければ、頭目は死ぬまで理解する事はなかっただろう。

 

「ありがとうございました。どのように表現したら良いか解りません……私こそ、この船で過ごした時間を生涯忘れる事はありません」

 

「…………ありが……とう…………」

 

 死を連想させる出来事など一度や二度ではない。だが、それも今では自分達海の男が、この世界を救う勇者一行と旅を続けた証であり、この胸に残る誇りである。その全ての危機を乗り越え、誰一人欠ける事無く旅を終えた事で、彼等の心に残る物は楽しい笑顔ばかりであった。

 たった一人で帰船したカミュを見て、明らかに失望した事もある。だが、そんな彼の心は既に定まっており、仲間を信じ、再び巡り合う為に船を走らせた事は、全船員達の胸に残っていた。そして、数多くの場所を巡った後で辿り着いたスー近辺から帰って来た勇者の横には、三つの笑顔があり、その姿を見た全船員達の顔も瞬時に笑みが浮かんだ。

 船の上では魔物と遭遇しない限り常に和やかな航海であった。当初は、海の男達に慣れない少女は木箱の上から海を眺めるだけであったが、それも最初の内だけ。食料調達の為に釣りを始めた船員達の傍に寄り、揚がった魚を眺めてはその名を問いかける。魚に触れる事が出来るようになってからは、それを姉のように微笑む女性の膝元に置くなどの悪戯をして、船員達を笑わせた。

 思い出されるのは、常に笑顔である。

 

「……余り、泣かせないでくれ……そら、港へ着くぞ」

 

 船に乗るだけの者にとって、船乗りとは所詮従業員である。特別視する者も少なければ、それに感謝する者も少ない。自分達が目的の場所に辿り着くまでの付き合いだと考え、会話さえしない者も多いだろう。

 だが、この船は何もかもが違った。この船の主である青年は、表にこそ出ないが、その心は優しさで満ちている。その横で彼を見ている女性は誰よりもこの青年を理解しようとしており、その心は慈愛に満ちながらも厳しさを宿していた。誰よりも他者を慮り、それを魔物にさえも向ける女性は、この船に乗る者達の命を何度となく救ったし、人の心を和ませるような花咲く笑みを浮かべる少女は、その愛らしさで船員達の心を何度も救って来たのだ。

 この船に乗る者全てが仲間であり、戦友である。

 もはや、勇者一行とは、四人の若者だけではなく、この船に乗る者達も含まれるのかもしれない。

 

「わあぁぁぁぁ!」

 

 涙が止まらぬ瞳を何度も押さえつける頭目を見たサラは、自分の瞳からも溢れ出る物をとめる事が出来なかった。リーシャとメルエは優しく微笑み合い、その横でカミュが苦笑を浮かべる。そんな一行のやり取りの間に、船は大歓声に包まれながらも港へと入って行った。

 数多くの貿易船が出入りするようになったポルトガ港ではあるが、この国章を掲げる船は別格である。世界の希望である勇者達と共に旅をし、未だに船が向かえない場所の名産や特産を数多く運んで来るのだ。それは、この世界の未来を夢見させるに十分な物であり、ポルトガ国で生きて来た者にとっては何よりの希望となる物であった。

 故に、人々は歓喜する。いや、正確には狂喜と言った方が正しいのかもしれない。狂ったように喜び、それを身体全体で表し、声を枯らす程に叫ぶ。それは、船の甲板で繰り広げられて来た別れの儀式を遮る程に大気を揺らした。

 

「ありがとう。貴方達と海を渡る事が出来て幸せだった」

 

 船が港に着くと、船員達が錨を下ろし、港に繋ぐ為のロープが投げられる。船員達はジパングや開拓の町で仕入れた品物を降ろす為に、渡し板を掛けた後で一人一人船を降りて行った。誰しもがその瞳に涙を溜め、カミュ達四人と固い握手を交わして行く。幼いメルエともしっかりと握手を交わす為、屈み込んで泣き笑いを浮かべる船員達の姿に、サラの涙腺は既に崩壊していた。

 笑顔を浮かべていた筈のメルエでさえ、その雰囲気を察したのか、寂しそうに眉を下げ、何度か鼻を啜っている。大泣きする事はないが、船員達との別れを嫌がるようにその手を離そうとはしないのだ。始めはそんなメルエに苦笑を漏らしていた船員達だが、『むぅ』と唸ったきり言葉を発さず涙を溢したメルエを見て、その場にいた全ての船員達が男泣きに泣いた。

 

「ぐっ……野郎ども、永遠の別れじゃねえ! キリキリ動かねぇか!」

 

 一向に進まない別れの儀式にようやく頭目が口を挟む。その声も涙声であれば、その頬も濡れ切っている。

 男が泣く事は恥ずべき事という常識が罷り通る海の男達ではあるが、泣くと決めればそこに恥も外聞もない。この勇気ある四人の若者達と三年以上も旅を続けて来たのだ。そこに何を恥じる必要があろうか。誇りにこそ思えど、その涙は弱さから来る物ではない。

 メルエの手を離した船員達は、港に集まった民衆の歓声を掻き消す程の泣き声を上げながら荷物を下ろす仕事へと移って行く。それぞれの想いを彼等四人に掛け、最後にメルエの頭を撫でる。見送るサラもメルエも、既に号泣と言っても過言ではない程に嗚咽を漏らし、その姿を見続けているリーシャも強く唇を噛み締めていた。

 

「……俺達は、この国で働いて行こうと思う。俺達に出来る事を探し、それに一所懸命に打ち込んで行くよ」

 

「……が、頑張って……ください」

 

 最後の最後にサラの手を握り締めたのは、このポルトガ国で船乗りとして再出発を果たした七人の男達。三年の月日をカミュ達と共に旅し、その間に一切の弱音も不満も口にする事なく、どんな仕事もやり通した者達である。

 彼等が犯した罪は生涯消える事はない。

 彼等に害された者達の恨みは生涯消える事はない。

 それでも、そこから目を背けず、自らの命と覚悟を掛けてこの三年間を生きて来たのだろう。彼等七人の顔は、覚悟を決めた三年前よりも更に精悍な物へと変化していた。

 以前彼等が棟梁と仰いでいた男に向かって告げた物と全く同じ物をサラは口にする。最早言う言葉はないのだろう。余人には理解出来ない程の覚悟を示した者に対して、何かを告げる必要はなく、それは両者の間に流れる多くの涙が全てを物語っている物なのだ。

 

「次に合う時には、このバトルアックスに見合うだけの男になっているつもりだ」

 

「ああ」

 

 最後に隻腕の男が自分が背中に担いでいる斧を軽く叩いた後、リーシャに右手を差し出す。がっしりとした体躯の男の瞳からは大粒の涙が流れ、リーシャに向かって深々と頭を下げていた。何時まで経っても上がって来ない頭に苦笑を浮かべたリーシャの瞳にも小さな雫が光る。

 全ての者達との別れは済んだ。

 最後の一人である、この船の実質的な船長とカミュが握手を交わす。お互いに最早口にする言葉はなかった。ただ、その瞳を見つめ、小さく頷き合うだけ。

 カミュから順に握手を終えて船を降り始める。しゃくり上げるように嗚咽を繰り返すサラの手を握り、もう片方の手で同じような状況になったメルエの頭を撫でた頭目は、四人を送り出した後、作業をしている船員達へ指示を出した。

 頭目の声で船員達全員が港から城下町への道を作る。野次馬となった民衆に取り囲まれないようにカミュ達一行の歩むべき道を作ったのだ。道の壁となった男達の頬は涙で濡れてはいるが、総じて笑顔。それぞれの頭に、それぞれの思い出を浮かべながら、彼等は世界の希望となる四人を送り出す。

 船員達の作る壁が途切れる場所まで歩いたカミュ達は一つに固まる。カミュの衣服を他の三人が掴むと同時に、小さく唱えられた詠唱と共に彼等は城下町の外へと飛んで行った。

 

「我らが勇者に栄光あれ!」

 

 その光の尾を眺めながら叫んだ頭目の声は、騒然といた民衆の中でも一際大きく、ポルトガの港全体へと響き渡る。それに呼応するように高々と掲げられた腕は、三年の旅で鍛え上げられ、陽に焼けた物ばかりであった。

 町の外へと飛んで行った光が消え、港に集まった民衆の騒ぎも一段落した頃、一陣の風と共に舞い上がった大きな光が、ポルトガから南東の方角へと飛んで行く。

 それは、ポルトガに希望と夢を与え、世界に未来を齎す光。

 

 

 

 貿易国家ポルトガには、長く伝わる伝承がある。

 ポルトガ国が所有する貿易船の中でも一際大きな客船の船首にはポルトガ国の国章が刻まれていた。それは、国が所有するポルトガ国家の貿易船を示している。その所有者はポルトガ国の王族ではなく、ポルトガ国家その物であり、その貿易の利益などは全て国庫に入る物であった。

 その船の初代船長と船員達は勇者一行を乗せて旅をしたとも伝えられ、その船の舵には勇者一行から託された守りの加護を持つ宝玉が埋め込まれている。優しく淡い青色の輝きは、強大な魔物と遭遇する危険性を軽減し、その船の安全な航海を護ると伝えられていた。

 その加護を受け、初代の船員達は船を傷つける事無く航海を続け、数多くの品々をポルトガ国へと持ち帰っている。船員達の中には、商人も舌を巻く程の商才を持つ者や船を操る者とは思えない程に戦闘に長けた者達がいた。

 弱者を虐げず、仕事に不平を言わず、己に与えられた事を喜ぶように働く彼等は、ポルトガ国の中でも海の守護者として名声を得て行く。中でも、どんな魔物にも、どんな荒くれ者にも引かず、常に先頭に立つ男の左腕は肘から先は無く、唯一残った鍛え上げられた右腕一本で、常人では持ち上げられない程の戦斧を軽々と振り回していたと云われている。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

これにて十五章も終了です。
この後、勇者一行装備品一覧を公開し、十六章へ入ります。
十六章は、決戦です。
おそらく戦闘がメインの章となるでしょう。
頑張って描いてまいります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

ジパングという異色の国に生きる異民族の王の血を継ぎし者。

四年という長い時間の経過と共にその力量と心を成長させて来た。それは、アリアハンという辺境の生国を出た頃を知る者からすれば別人と称される程の物だろう。

数々の苦難を数多くの支えを借りて超えて行き、今その頂へと進もうとしている。その姿は、正に世界を救う『勇者』と呼ばれるに相応しい物となっていた。

 

【年齢】:20歳

四年の月日は、成長期の男性の身体も変化させて行く。アリアハンを出立した時は、強さはあれども細身であった彼の身体は、陽に焼けて良い色合いに変わり、その身体を覆う筋肉も、しなやかであれども強靭な物へ変化していた。

魔物の脅威などを別にしても、平均的な人間の寿命が六十年と云われる世界において、瞬きをする間の如し四年という月日ではあるが、その僅か四年の月日によって、彼は真の意味で『人』としての成長を果たしている。

 

【装備】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガいう彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):刃の鎧

ネクロゴンドの河口付近にある洞窟内に埋もれていた神代の鎧。

神が置き忘れたのか、それとも『人』に与えられた物なのは解らないが、まるで己の主を待つように、洞窟内にその姿を隠していた。だが、それを発見した魔物が手にしようとする事をこの鎧は拒絶する。自らに触れようとする許可無き者を、その鎧を形成する鋭い金属の刃によって分断していたのだ。真空で出来た刃ではなく、金属で出来た刃が鎧から飛び出す事自体が不可思議な現象ではあり、刃を発した鎧に傷一つないのだから尚更である。

大地の鎧を纏っている事から辞退したリーシャの代わりに、彼が装備する事となった。彼が敵と認識しない物や鎧自体に危害を加えようとしない者であれば、それに触れる事も可能である事は、彼の傍を離れない幼い少女が証明して見せている。

 

盾):ドラゴンシールド

サマンオサ城下町にて、リーシャと共に購入した盾。

龍種の鱗を土台となる金属の上に繋ぎ合わせた盾だと云われるが、サマンオサ近辺に龍種と呼べる種族が存在しない為、おそらくは龍種の劣化種である<ガメゴン>の鱗を繋ぎ合わせた物ではないかと考えられる。

だが、劣化種とはいえ龍種である事に変わりはなく、その盾の防御力は凄まじく高い。金属と異なり、龍種が身体に纏う鱗を繋ぎ合わせている為、その柔軟性はとても優れており、<ボストロール>の強力な攻撃を数度受けて尚、その身に傷一つ付けず健在であった。

 

武器):稲妻の剣

刃の鎧と共にネクロゴンドの洞窟内に安置されていた剣。

まるで空から振り落とされる稲妻のように荒々しい刀身を持ち、それ専用の鞘でも製作しない限り、刀身を隠す物がない程の姿をしている。

刃の鎧と同じように、望まぬ相手に触れられる事を拒み、周囲の空気を圧縮して爆発させる力を解放していた。それは、『魔道書』の最強攻撃呪文であるイオラに酷似した物であり、その力を際限なく発揮する事が出来る時点で、この剣の異常性が解るという物であろう。

その名の通り、荒々しく輝く稲光のような剣は、その主を定めたように『勇者』の背中でその出番を待っている。

 

所持魔法): メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      リレミト

      マホトーン

      イオラ

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

勇者一行と呼ばれる四人の若者の中でも、意外な程に特殊な能力を持ち合わせていない彼女ではあるが、四年という月日の間で実直に積み重ねて行った経験は彼女の剣技という唯一の技能を極限まで高めていた。

勇者と呼ばれる青年でさえも、未だ彼女の域まで達する事は出来ない。何度挑戦を繰り返しても、どれ程自身の力量の上昇を実感していたとしても、彼はリーシャという戦士まで届きはしない。明確な目標として、そして誰よりも頼りになる攻撃陣として、彼女はこの一行の中で確固たる立場を確立していた。

 

【年齢】:不明

勇者一行の中で最年長となる彼女ではあるが、年齢と性質が比例する訳ではない。最年長としての自覚と、それに伴う責任を感じてはいるのだろうが、他の三人にとっての彼女の存在というのは、彼女が考えている以上であり、そして世間一般での年齢以上の物であろう。

誰よりも高みにいる筈の勇者の心を宥め、彼を正しい道へと導こうとする言動。『人』の頂点に立つ賢者の心の闇や弱さを理解し、それを受け止めて尚、前へ踏み出す一歩を誘導する行動。そのどれをとっても、彼女の年齢では考えられない程の心を持っていると言えよう。

そんな彼女だからこそ、何度叱られても幼い少女は彼女を頼るのだろう。己の母を頼るように、歳の離れた姉を慕うように。

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):大地の鎧

試練の洞窟と呼ばれる人工の洞窟内に安置されていた鎧。『勇者』と呼ばれるカミュが発見するが、その者を主とは認めず、外で待つ一人の戦士を主と定めた。まるで己の意志があるかのように、『人』としての色を残す女性を主と定めた鎧は、他者の手に渡るのを拒む。精霊と共に崇められる対象となる母なるものの名を冠する鎧は、植物や動物を育てるように、温かくその身を包み、護る事だろう。

 

盾):ドラゴンシールド

サマンオサ城下町にて購入した盾。

劣化した龍種の鱗を繋ぎ合わせて作られた物だと考えられる。

劣化したとはいえ、龍種の鱗の防御力は高く、<ボストロール>の凶暴な力を受けても形状は変わらない。また、炎や吹雪といった物への耐性も少なからず持ち合わせているという説もある。

 

武器):ドラゴンキラー

トルドバークという開拓の町で暮らすジパング出身の鍛冶屋が鍛えた逸品。

その切れ味は、龍種の牙や爪のように鋭く、同族となる龍種の鱗さえも容易く貫くという逸話からその名が付いたと云われている。

稲妻の剣を手に入れたカミュが、己の持っていたドラゴンキラーを彼女へと譲った事で、久方ぶりの剣を持つ事となった。四年に渡る旅の半分以上の期間を斧という武器で過ごした彼女ではあったが、騎士としての職業柄、その剣技が衰える事はない。古くからの相棒のようにその剣を振るう姿を見たカミュは、縮まらない力量の差に歯噛みしたという。

彼女が使用していたバトルアックスと呼ばれる戦斧は、三年に及ぶ船旅を共にし、その覚悟と決意を見せた船員に譲られる事となる。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

『賢者』として歩み始め、既に三年の月日が流れた。その間に様々な物を見て、様々な事を聞いている。

彼女の根底にある物は、「全ての生物が生命を全う出来る世界を」という物であるが、それは彼女自身の独善的な考えでもある事をネクロゴンドにて指摘された。

彼女は神でも精霊でもなく、この世界で生きる者全ての生命を司る者でもない。自身が悩み考え、そして導き出した物が、この世界で生きる者達の生死を定める物ではなく、それらに希望という光を与える物であるという言葉を、彼女は今噛み締めているのだろう。

悩み考える事が無駄になる事は無い。だが、遥か高みから全ての生物を見下ろすのではなく、同じ視点から見ていかなければならない事を感じているのかもしれない。

 

【年齢】:21歳

この世界で成人と看做される年齢から、既に五年の月日が経過している。幼いメルエへの対処などは、年長者のそれから、肉親へのそれの酷似した物へと変化していた。女性としての婚姻適齢期を迎えてはいるが、過酷な旅を長く続けてきた為、その辺りの魅力は磨かれてはいない。

長い旅の中で湯浴みも出来ずに野営を何日も続ける時もあり、身体から立ち上る汗臭さなどを一番気にしていたのが彼女であり、宿に着く度に自分の衣服を積極的に洗濯する姿は女性としての意識を失っていない事が窺える。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれており、その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

テドンという滅びし村で購入したこの法衣は、その村へ移住して来た年若い夫婦の手によって編み出された。昆虫が作り出す物を糸から『絹』という世界で初となる生地を作り出し、特殊な能力を保持していた妻が編んだ物。それは、奇しくも彼女と共に歩む幼い少女の母親であった。類稀なる魔法力を有し、稀代の『魔法使い』となった少女の母親も、特殊な術式を組み込んだ法衣を作り出している。その奇妙な巡り合わせが、サラという当代の『賢者』の思考に一石を投じていた。

 

盾):魔法の盾

カミュやリーシャと同様、スーの村で買い揃えた盾。サラの身体に合ったサイズに変化した盾は、その左腕に納まっている。以前まで使用していた<うろこの盾>に関しては、ロマリア国王から下賜された宝物である為、店で売却はせず、大事に保管されている。『意味のない行為』とカミュに小言を言われるが、リーシャの後押しもあり、その後は船の船員達が使う事になる。

 

武器):ゾンビキラー

サマンオサ城下近郊での<ガメゴン>との戦闘により、三年以上も共にあった<鉄の槍>は破損してしまった。

共に歩む者達の武器が次々と強力な物になって行く中、彼女だけがロマリアで購入した物を使用していたというのは、彼女自身の武器を扱う力量とは別に、『賢者』となった彼女に合う武器が無かった事が理由であろう。

長い年月を掛けて聖水に浸けても尚、錆などが浮かなかった長剣であり、その刀身に『精霊ルビス』の加護を受けた剣。

聖なる力を宿した長剣は、この世に生を持たない者達に多大な効果を持ち、この世に縛り付けられた魂や肉体を『精霊ルビス』の許へ還すと考えられていた。

   :聖なるナイフ

育ての親であるアリアハン教会の神父から授けられた物。

アリアハン大陸の魔物達には有力な武器ではあったが、ロマリアで<鉄の槍>を入手してからは、彼女の腰に下がる袋の中に大事に保管されている。

それは、彼女の心の奥にある太い柱となっている『愛』の証であり、彼女が進む道を照らし続ける『覚悟』の証でもある 。

 

所持道具:祈りの指輪

エルフの隠れ里にて購入した物である。メルエの指に嵌っている物と同様の物で、元々は子の幸せを願う親の想いが込められた物が起源と考えられている指輪であった。

純粋な祈りは『精霊ルビス』の許へと届き、指輪の所持者の魔法力や気力を回復するという効力がある。呪文に重きを置くサラにも必要であると考えたリーシャが購入する事をカミュへ提言し、それが受け入れられた事によって、サラの指にも嵌められる事となった。

購入する際は、2500ゴールドという大金が必要となるらしい。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ

       ザキ

       ザラキ(未行使ではあるが、契約済)

 

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       メラミ

       イオラ

       

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

       バシルーラ

       ベホマ

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

もはや魔物さえも凌駕する程の潜在能力の片鱗を見せる少女。

その小さな身体からは考えられない程の魔法力を有し、拙い会話力からは想像も出来ない程に強力な呪文を行使する。

呪文の契約には、その者の賢さが関係しているというのが一般的な論ではあるが、彼女を見る限りそれだけではない事が窺えた。魔法に関しての理解力は決して悪くは無いが、識字力や会話力などの一般的常識の観念から見ると、年齢以上の幼さを持つ彼女を『賢き者』と証する事は出来ないだろう。それでも、この世界の人間の誰も習得出来ない呪文を行使し、この世界の『賢者』として確立したサラをも凌ぐ行使呪文の数は、この幼い少女の内に秘められた何かが基因している事を想像させた。

 

【年齢】:7,8歳

幼さから、何にでも興味を持つ。特に動植物に関しては、初めて見る物には目を輝かせる程の興味を示した。

神代から生きる不死鳥ラーミアは、そんな彼女の中で大きな存在感を示しており、一目でその心を奪われている。だが、自分の周囲に無関心だった人形のような時代は疾うの昔に過ぎ去り、心を持った彼女は相手からの嫌悪や拒絶に心を痛める事となった。

好意を示しているにも拘らず、それを拒絶される理由が思い当たらない彼女は、涙する事しか出来ない。それを見たラーミアの瞳は、まるで少女の内を見透かすように輝き、少女の本質を見抜いたかのようにメルエへ身を委ねる事となった。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):天使のローブ

エルフの女王へ『命の石』の欠片を手渡す為に訪れた隠れ里にて購入した物。

変化の杖の力によって、エルフへと姿を変えたメルエの将来に希望を見出したエルフの店主が購入を勧めた物である。

元々、エルフの母達が自分の娘の未来を案じて、一本一本想いを込めて編み込んで行ったローブが起源となっている。母達の強い想いが、そのローブを形成する糸に宿り、それを纏った者を理不尽な死から遠ざける効果を持つと云われていた。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

サラの装備する<魔法の法衣>同様、メルエの母親が編んだ物である可能性が高い。常に彼女の魔法力を支え、その身を守る姿は、母親そのものなのかもしれない。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

既に何度もメルエの身を守る為に立ち塞がっており、魔物等の攻撃を受ける際にも、その形状を変化させる事も解っている。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えており、主を護るその時に、そのオブジェの嘴から<ベギラマ>と同様の灼熱の炎を吐き出した。主と定めた物を護るような意志を持つその杖が、何故スーの村にあったのか、そして誰が安置したのかは、まだ解らない。

   :毒針

何度もメルエの身を護ってくれたトルドからの贈り物。

ただ、最近は、メルエが直接的に魔物から攻撃を受ける機会はなく、それを使用する事もない。

それは、カミュやリーシャ、そしてサラといった絶対的な保護者達の働きが大きいのだろう。

 

所持道具:祈りの指輪

砂漠の国イシスの真女王となったアンリから授かった道具。『精霊ルビス』へ祈りを捧げる事によって、その恩恵を受ける事が出来ると伝えられている。祈りを捧げ、それが『精霊ルビス』の許に届いた時、その者の体内に宿る魔法力を回復させるという効果がある。<ヤマタノオロチ>という強敵との戦闘の中、魔法力切れを起こしたメルエの祈り、「大切な者達を護りたい」という想いに応え、その魔法力を回復させ、勝利に導いた過去を持つ。

    :アンの服

天使のローブという新しい防具を手に入れたメルエであったが、この服に何度もその命を護られて来た。みかわしの服と同様の生地で作られたこの服は、アンという幼い少女の身を案じた両親の愛が込められているのだろう。魔物の攻撃などで穴が空いたり、切れたりした部分は、サラによって修繕され、何度も復活を果たしていた。

現在はメルエが眠る船室に掛けられており、トルドバークを訪れる際にトルドへ返還する事も考えたが、渋るメルエを説得するのに、今暫くの時間が必要なのかもしれない。

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

       メダパニ

 

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       マホカンタ

       ベギラゴン

       ラナルータ

       マヒャド

 



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第十六章
バラモス城①


 

 

 

 純白の大きな翼を一掻きすれば景色が変わる。広く果てない空は、やはりこの不死鳥だけの物なのかもしれない。白く柔らかな羽毛に包まれながらも、地上の景色に目を輝かせるメルエを必死で押さえるサラの姿にリーシャが苦笑を漏らした。

 青く抜けるような空は、何者も拒みはしない。全てを受け止めるかのように広く優しく、その代わりに何よりも厳しい自然を誇っている。雲が広がれば雨を降らし、天の怒りを地上へ落とす事もあるだろう。その雨や雷が恵みとなる者もいれば、命の危機になる者もいるのだ。

 そんな空を一行は駆っている。自分達の力でではないが、それでも彼等の功績の賜物である事に違いはない。彼等を乗せて大空を飛ぶその姿は、神代から繋がる命を再びこの世に現した霊鳥であるからだ。

 

「メルエ、何度も言っているでしょう! 落ちてしまったら、もう二度と会う事は出来ませんよ!」

 

「…………むぅ…………」

 

 サラの腕を嫌がるように身を乗り出す少女は、悲痛の叫びのような叱責を受けて頬を膨らませる。最早成人して数年経過するカミュやサラであっても、大空からの視界という未知の体験に胸が騒いでいるのだ。同じように未知の経験とは言えども、幼い少女の胸の高鳴りは尚更であろう。

 『ぷいっ』と顔を背けるメルエに対して溜息を吐き出したサラは、『ならば良いですよ、メルエとはここでお別れですね』という最後通告を口にする。自分の傍から離れ、前方へ視線を戻したサラを見たメルエは、喜び勇んで身を乗り出して地上へ視線を向けるのだが、その感覚に何か物足りなさを感じたのか、後方へと視線を戻した。

 そして、全く自分を見ようともしないサラと、その横で下を向くリーシャを見た彼女の心は不安に駆られて行く。故意的に更に身を乗り出してみるが、その小さな身体を掴む腕は伸びて来ない。もう一度振り向くと、サラは先程と同様であるが、リーシャの方はメルエから完全に顔を逸らしてしまっていた。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 既に不安という感情は恐怖に近い物へと変わっていた。自分に対して興味を失ってしまったように視線さえも向けないサラの姿も、自分を拒絶するように顔を背けるリーシャの姿も、その恐怖を煽る物以外の何物でもない。その恐怖は、微かな希望を込めて動かした視線の先にいるカミュの姿で恐慌と呼べる物まで進化する事となる。

 少女が最も頼りとする青年は、女性三人のやり取りに見向きもせず、ラーミアへ言葉を投げかけながら進路を示していたのだ。それを見たメルエは絶望し、そろそろとサラへと近づきながら謝罪の言葉を口にする。その瞳には既に涙が溜まっていた。

 

「ぷぷっ……サ、サラ、もう許してやれ」

 

「ふぅ……仕方がありません。メルエ、本当に危ないのですから、身を乗り出しては駄目ですよ。この景色を見たい気持ちは解ります。ですが、メルエが落ちてしまったらと考えると、私達は本当に心配なのですから」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャはメルエを拒絶する為に顔を背けていた為ではない。笑いを堪える為に顔を背けていたのだ。傍から見ていれば、メルエの慌てた姿は笑いを誘う物である。当の本人からすれば堪ったものではないのだが、最近我儘が強くなって来たメルエを懲らしめるのに良い機会だと感じていたリーシャは、静観を決め込んでいた。

 笑みをどうにか堪えながらもサラへと助言を口にしたリーシャの姿は、メルエからは見えていない。その視線の先にあるのは、以前ランシール近辺で見た事のある無表情なサラの顔。そんなサラが小さな溜息を吐きながらも再び自分へ視線を向けてくれた事が嬉しく、メルエは泣き笑いのような表情を浮かべながら大きく頷き、その膝元へと移動して行った。

 

「カミュ、このままあの城へ向かうのか?」

 

「最早他による場所などない筈だ」

 

 メルエとサラとの関係復活に笑みを溢したリーシャは、その表情を再び引き締めて前方で進路を見続けている青年へと向ける。その疑問は、心からの疑問ではなく、自身の覚悟と決意の再確認をする物であったのだろう。その証拠に、カミュの答えを聞いたリーシャの顔は先程以上に引き締まり、大きく頷きを返した。

 その二人のやり取りから生まれた緊張感は、サラやメルエにも波及して行く。楽しそうにサラの腕の中で微笑んでいたメルエの表情は、魔物と対峙する時のそれへと変化していた。強く握り締めたサラの拳は、四年の月日を掛けて近づいて来た道を再確認しているような決意を表している。

 

「いよいよですね」

 

「そうだな」

 

 サラの呟きにリーシャが頷きを返す。

 彼等がここまで辿り着くのに、どれ程の魔物を淘汰して来ただろう。

 諸悪の根源の打倒を夢見ながら、どれ程の困難を乗り越えて来た事だろう。

 どれ程の『人』の悪しき部分を見て、どれ程の『人』の正しき部分を感じただろう。

 世界で生きる数多くの生物達がどれ程にこの世界を必要としているのかを感じ、この世界自体がそれらの生物達全てを必要としているのを理解したのも、この旅があってこそ。

 そして彼等は、ここへ辿り着いた。

 

「カミュ様、『人』は護る価値のある存在でしたか?」

 

「……サラ?」

 

 ネクロゴンドの火山を超え、湖に浮かぶように聳え建つ城が見えた頃、サラは前方で瞳を細める青年へと一つの疑問を投げかけた。

 それは、今では遥か昔のようで、それでいて最近にも感じる頃にカミュの口から出た言葉。

 『人という種族自体が、護る価値のある物なのかが解らない』と溢したカミュの言葉は、あの頃のサラには全く理解が出来なかった。それでも、人間という種族の数多くの醜い部分を見て、サラはカミュの心の奥にある迷いを感じ取る事となる。だが、『人』の醜い部分を見て尚、『人』の強さと美しさを信じる彼女は、何時かカミュも理解してくれると信じ続けて来た。

 そして、この最終局面を前にして、彼女はその心にある物を直接問い掛けたのだ。

 

「……降りるぞ」

 

 だが、そんなサラの問い掛けに対して、一切の答えを放棄した彼は、ラーミアへと指示を出す。下降を始めた不死鳥の背中で、苦笑を浮かべるサラとは対照的に、少し肩を落としたリーシャがメルエの腕を引いて抱え込んだ。

 サラの問い掛け自体が突然の事であり、その内容自体が驚きの内容であったのだが、リーシャはその心の何処かで僅かな期待を持ってしまったのかもしれない。彼が『人』に対して希望を持てる旅を歩んで来た事を、そしてそんな彼の変化を見て来たという自負があったのだ。

 急速に近づく地面は本来ならば恐怖を誘う物であっただろうが、不死鳥ラーミアという絶対の存在に護られた一行は、その柔らかな羽毛に包まれながら、近づく決戦の地へ各々の思いを巡らせて行った。

 

「これが……魔王城」

 

 地面へと足を着けたラーミアが地上への架け橋として己の片翼を伸ばし、その上を歩く事によってカミュ達四人は、この世を恐怖で支配する物の拠点へと降り立つ。見上げた魔王の拠点は、見る者を恐怖させる程の存在感を示していた。

 それは、渡る事の出来ない湖の向こう岸から見た比ではない。圧倒的な圧力は、無意識に唾を飲み込み、手足が小刻みに震える程である。それでも拳を握り締めたサラは、魔王城を見据えて心を決めた。

 その敷地は遠巻きに見るよりも遥かに広く、城壁の上部は見えず、端も見えない。城門は大きく開かれてはいるが、その奥は漆黒の闇によって窺う事さえも出来ない。この世界さえも飲み込んでしまいそうな程の濃い闇は、まるでカミュ達を誘うように巨大な口を開いていた。

 

「これ程に輝く太陽の光さえも届かないのか……」

 

 太陽が真上を過ぎたばかりの今の時間では、燦々とその輝きは大地へと降り注がれている。湖に反射された輝きは人の目を眩ませる程に眩く、その恩恵を受けた草花はそれ以上に受け取ろうと葉を伸ばしていた。

 だが、それ程に強い輝きを持つ太陽の光も、魔王バラモスの居城内には届かない。創造神からの恵みを拒絶するように広がった闇は、一切の輝きも受け入れるつもりもなく、それでも進入しようとする輝きを飲み込んでしまっていた。

 カミュが後方を振り返り、他の三人へ一人ずつ視線を投げかける。始めにメルエが頷きを返し、サラが緊張した面持ちで続く。そして最後に、最も古参の仲間であるリーシャがしっかりと頷いた。

 世界中の人間の悲願であり、希望である戦いが今始まる。

 

 

 

 開け放たれた城門を潜った一行は、その異様さに目を見張る。

 高さも定かではない程の城壁の向こう側には、先程まで感じていた闇など存在せず、太陽に向かって伸びる木々さえ植えられていた。地面の土は瘴気に染まった様子はなく、木々が養分を吸い上げるに値する土壌なのだろう。吹きぬける風にも禍々しい物は混じっておらず、とても諸悪の根源である魔王の居城とは思えなかったのだ。

 だが、驚きに周囲を見回していたサラはある事に気付く。この広い庭園とも呼べる場所には、小動物達の息吹が感じられなかった。立ち並ぶ木々からは小鳥の鳴き声などは聞こえて来ず、木々の根元で眠る猫などもいない。それは、この場所に立つ勇者一行を何処かで見ている魔物達以外の生物が悉く存在していないという事を示していた。

 

「いつでも戦闘に入れるように準備しておけ」

 

 場内へと続く門の前へと移動したカミュは、その禍々しい空気を敏感に感じ取り、後方から近づいて来る三人へ注意を促す。剣こそ抜きはしないが、それでもカミュから発せられる空気は既に臨戦態勢に入っている事が解った。

 だが、警戒を続けながら城の中へと入った瞬間、一行は絶句する事となる。

 

「こ、これは……」

 

 それは、全てにおいて覚悟を決めて入った筈のリーシャの心を揺らぎ、強い想いと強い決意を持って挑んだサラの心を容易く折る程の光景であり、サラの手を握っていたメルエだけがその光景を見て不思議そうに首を傾げている。

 それは正に魔王の軍。

 フロアに整列するように並んだ骨の剣士達は、入り口から入って来る者達を待ち構えていたように隙間なく並んでいた。空洞となった頭蓋骨の瞳の部分は、全てを飲み込むような闇に覆われており、動き出す事のない置物のようにさえも思える。だが、人間の物とは思えないその異形は、全ての骸骨が持つ六本の腕が示していた。

 全ての骸骨が、入り口に向けて六本の腕を掲げ、その全ての手に剣が握られている。だが、まるで置物のように佇んでおり、動く気配もなければ、魔物特有の邪気さえも感じられない。

 城壁に開けられた窓のような空洞から差し込む陽光がその物々しい光景を曝し、先頭のカミュが背中に掛けている稲妻の剣を抜いた。

 それが四年の旅路の果てに辿り着いた、最終決戦の幕開けとなる。

 

「サラ! メルエと魔法の準備だ!」

 

「は、はい!」

 

 覆われた布から、稲妻の剣の刀身がその姿を現した瞬間、今まで置物のように鎮座していた骸骨達の瞳の窪みに炎が点った。炎と称するのは正しくはないだろうその輝きは、まるで自らの意思などないかのように怪しく光り、その先にある者達を射抜く。

 即座に戦闘態勢に入ったカミュ達ではあるが、六本の腕全てに剣を持った地獄の騎士の数は十体。一体二体でもその強さに苦しむ程の強敵である。それが十体となれば、如何に人類最高の地位を持つカミュ達であろうとも、気を抜く事など出来はしないのだ。

 稲妻の剣を抜いたカミュを先頭に、リーシャもドラゴンキラーを抜き放つ。後方では呪文の詠唱の準備に入ったサラとメルエが、注意深く魔物の動向を窺っていた。突進して来る訳ではなく、じりじりと間を詰めて来る地獄の騎士に対して、カミュは一歩も動かない。後方へと退く事もなければ、故意的に前進する事もない。

 

「いやぁぁ!」

 

 それは、自身の間合いに入るのをじっと待つ捕食者の行動。

 ある一線を越えた地獄の騎士の一体は、瞬間的に振り抜かれた稲妻の剣を受け、頭蓋骨を粉々に砕かれる。元々脳などが入っている訳ではない頭蓋骨は、乾いた音を立てて派手に砕け散るが、その程度でカミュの攻撃が止む事はなかった。

 そのまま真っ直ぐに斬り下ろされた稲妻の剣は、骸骨の肋骨から腰骨に掛けて斬り砕き、二度と同じ形で再生出来ない程に破壊して行く。砕かれた一体の六本の腕は地面へと落ち、それを乗り越えるように現れた別の地獄の騎士へと今度はドラゴンキラーが横薙ぎに振るわれた。

 

「ちっ! 斧のようには行かないか……」

 

 ドラゴンキラーを横薙ぎに振るったリーシャからすれば、地獄の騎士を粉砕するのではなく、弾き飛ばすつもりであったのだろう。だが、その目論見は崩れ、地獄の騎士の腕数本を粉砕し、わき腹から入った剣は、肋骨を綺麗に斬り裂いた。

 彼女の舌打ちの理由は一つ。余りにも剣速が早すぎた為、骨の断面が美し過ぎるのだ。乾いた音を立てて崩れた骨を乗り越えて来る地獄の騎士が振るった剣をドラゴンシールドで受け止めたリーシャは、先程自分が斬り裂いた地獄の騎士が、カミュが倒した地獄の騎士の腕と同化する事によって復活を始めた姿を見て、もう一度大きな舌打ちを鳴らした。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………イオラ…………」

 

 カミュ達に群がって来る地獄の騎士の後方に向けて指を指し示したサラに頷いたメルエが雷の杖に自身の魔法力を乗せる。瞬時にオブジェへと集まった魔法力がサラが指差す方向へと飛んで行き、その周囲の空気を圧縮して行った。

 弾ける空気と、轟く爆発音、更には一気に広がる熱風から身を護るように掲げられたカミュとリーシャの盾に骨の破片が飛んで来る。盾の隙間から広間の奥へ視線を向けたカミュの目の前に現れた地獄の騎士が、その盾の隙間目掛けて剣を突き入れて来た。

 間一髪で剣先を避けたカミュであったが、数本の頭髪と共に鮮血が周囲に飛び散る。深々と抉られた頬から流れ出る血を止めようと、回復呪文を唱える彼に向かって再び剣を振るった地獄の騎士の頭蓋骨が真っ二つに斬り裂かれ、その後方から現れたリーシャが血糊の付着していないドラゴンキラーを一度大きく振るった。

 息が詰まるほどの攻防が繰り広げられる中、攻撃範囲の広い呪文を行使出来ないメルエは困惑したようにサラを見上げる。幼い少女からの救いを求める視線に気付いていて尚、サラにはそれに応じる戦略が出て来ないのだ。

 

「ちっ!」

 

 再び目の前に現れた地獄の騎士の剣を盾で防いだカミュではあったが、その魔物の別の腕が持つ剣によって太腿を切られ、盛大な舌打ちを鳴らす。後方に飛び退こうとした彼ではあったが、傷ついた太腿によってそれ程距離は稼げず、すぐ横に現れた別の地獄の騎士が顎の骨を下へと動かした事を見て眉を顰めた。

 骨しかないその体躯の何処にそれが存在するのかと考えたくなるほどに不快な息が吐き出され、それを直接受けたカミュの身体は、何かによって焼き尽くされたかのように感覚を失って行く。身体全体が麻痺し、身動きが出来ないカミュの目の前に二本の剣が滑るように落ちて来た。

 

「させるか!」

 

「キアリク!」

 

 しかし、彼は一人で戦っている訳ではなく、彼と同等の力を持つ者達と共にやって来たのだ。

 横から繰り出された盾が、カミュへと剣を振り下ろそうとしている地獄の騎士の頭蓋骨を粉砕し、その身体を弾き飛ばす。ドラゴンシールドを掲げたリーシャがカミュの前に立ち、彼を護るように地獄の騎士達へ鋭い視線を向けた。

 それに遅れるように唱えられた古から伝わる賢者の呪文がカミュを包み込む。淡い光に包まれた彼の身体から、痺れるような熱さが消え、その動きを戻して行った。

 

「限がない。カミュ、どうする!?」

 

「駆け抜ける! メルエを頼んだ!」

 

 広間で未だに剣を持つ地獄の騎士は六体。

 既に十体などは粉砕し尽くした。いや、正確に言うならば、メルエの放ったイオラだけでも、十体近くの地獄の騎士を葬っている筈だ。それでもこの場所に四体の地獄の騎士が存在し、床に散らばる骨達が蠢いている事を考えると、これを続けて行っても、蘇る事のない状態に全てを追い込むまでにかなりの時間を有する事になる。それを理解した彼等は、一気に奥まで駆け抜け、次のフロアへ到達しようと考えた。

 斧よりも軽いドラゴンキラーを片手に持ったリーシャがメルエを抱き上げ、先頭のカミュが駆け出したのを見たサラはその後を全力で追い駆けて行く。道を遮るように出て来た地獄の騎士を吹き飛ばし、突き出して来た剣を盾で弾き飛ばす。それは、カミュとリーシャに比べて地獄の騎士の力量が劣っているからこそ出来る芸当ではあるが、サラやメルエといった武器の扱いに関して更に下位に位置する者にとっては目を疑う程の物であろう。サラは自分に迫る骸骨が前方と後方から振るわれる二本の剣によって粉砕されて行くのを場違いな程に呆然と眺めながら駆けていた。

 

「…………サラ……………」

 

「はっ!? カミュ様、伏せて!」

 

 砕け散る骸骨達に意識を飛ばしていたサラは、後方からの呟きを聞いて我に返り、カミュの更に前方の闇に光る何かを見て大声で叫ぶ。その叫びは有無も言わさぬ程の力を有し、地獄の騎士の剣を弾いたカミュは、そのまま倒れ込むように床へと伏せた。

 声を張り上げたサラも即座に伏せたが、後方でメルエを抱きながら剣を振るっていたリーシャは一歩行動が遅れてしまう。一体の地獄の騎士の剣を交わしながらドラゴンキラーを振るった彼女が正面を向いた時、それはすぐ目の前にまで迫っていた。

 カミュやサラの傍にいた地獄の騎士を巻き込み、その骨ごと融解させる程の高温を持つそれは、真っ赤に燃え上がりながらリーシャに迫っていたのだ。

 

「…………メラミ…………」

 

 真っ赤に燃え上がる火球は、絶望を感じていたリーシャの腕に抱えられた少女が振るう杖の先から飛び出した火球と衝突し、盛大に弾け飛ぶ。周囲の空気を一気に熱しながらも床へと落ちる火の粉が、その火球の凄まじさを物語っていた。

 残っていた地獄の騎士のほとんどを巻き込んだその火球が消え、即座に立ち上がったカミュとサラは、自分達の正面に立つ存在を見て驚きを隠し切れない。乾いた骸骨の残骸を踏みながら姿を現したのは、サラ程の背丈しかない魔物だったのだ。

 全身を緑色のローブで包み込み、腰で縛った紐は地面に着く程の長さを誇っている。その紐は浅黒く汚れており、緑色のローブで唯一刳り貫かれた目元からは怪しげな光が覗いていた。

 

<エビルマージ>

古の賢者に匹敵するとまで云われている呪文使いである。魔物の中でも魔法に重きを置く者は少ないが、その中でも魔王の傍近くで生きる事を許された程の高位呪文使いである。実在するかさえも正確には証明されておらず、ネクロゴンド地方に近い場所で、『邪悪な魔道士』という意味合いを持つ者として伝えられて来た。右腕と左腕で同時に呪文を行使出来るなどの伝承もあり、この世界の魔法に携わる者の中では、恐怖の対象でありながらも憧れを持っている者もいると云う。

 

「……先程のはメラミか?」

 

「はい。おそらくそうでしょう。数多くの骸骨を巻き込んだ事によって威力が落ちていなければ、メルエの呪文でも相殺出来なかったかもしれません」

 

 両腕を下へ垂らしながら広間の奥に陣取るエビルマージから視線を外す事無く問い掛けるカミュに、同じように視線を動かさないサラが眉を顰めて答える。

 確かに、先程の呪文は中級の火球呪文に違いはない。幽霊船で遭遇した魔物と同様以上の威力を持っている事が想像出来る程の熱量を有していた。それは、カミュやリーシャの攻撃を受けても復活して来た地獄の騎士の骨を跡形もなく消し去る程の物。人類最高位に立つメルエの呪文でなければ、対抗さえも出来ない物であっただろう。

 

「キキキッ」

 

 メルエを床に降ろし、戦闘態勢に入ったリーシャは、目の前に存在する魔物が発した不快な笑い声のような音に眉を顰める。

ローブの置くの瞳は見えない。怪しい光だけが魔王城の暗闇に輝き、その光がまるでカミュ達一行を嘲笑っているかのように見えたのだ。その笑い声のような奇声も、人間の本能が不快感を示す程に脳へ直接響き、サラの身体は無意識に震え始める。

 それは嫌悪による恐怖。

 メルエも同様の物を感じているようで、小さな唇が小刻みに震えていた。僅か一体の魔物に対してここまで歩んで来た猛者である彼等が怯むという事自体が信じられない事柄であり、目の前の魔物が尋常ではない力を有している事の証明。

 それが魔王という遥か高みにいる存在の居城の実体なのだ。

 

「……カミュ」

 

「下手に突っ込むな……ここでアンタが惑わされれば、冗談では済まない」

 

 目の前の魔物の威圧感が想像以上であった事もあり、リーシャは額から汗を垂らす。搾り出すように発した言葉に対するカミュの言葉は、ここまでの道程で彼女をからかう時と同じ内容でありながら、それ以上に緊迫した空気を醸し出していた。

 エビルマージと呼ばれる魔物が、呪文に重きを置く存在である事が、先程放たれたメラミが明確に物語っている。幽霊船で遭遇したミニデーモンのようにメラミだけに特化した存在でない事をカミュは理解していたのだ。

 もし、それ程に高位の呪文使いが精神に影響を及ぼす呪文を行使する事が出来たとしたら、最悪カミュであってもその毒牙に蝕まれる恐れがあり、二人の前衛が精神異常となった場合は間違いなく全滅の憂き目に会う事だろう。

 

「カミュ様が護る者はメルエ。リーシャさんが護る者もメルエです。その事をしっかり胸に刻んで下さい。それだけでも、精神に影響する呪文への対抗になる筈です」

 

「…………メルエも……まもる…………」

 

 動きを考えていた前衛の二人は、後方から掛かる『賢者』の声に大きく頷いた。

 精神に影響する呪文の効力は、その対象の魔法力の量や質によって変わって来る。例えば、この世界にいる一般的な『魔法使い』が、人類最高位に立つメルエに向かってメダパニやラリホーなどを唱えたとしても、魔法力の量も質も圧倒的に上であるメルエには効果が薄く、成功する確率も必然的に低くなるのだ。

 それは魔物対人間であっても同様であり、魔法力の有無によっても変化する。この勇者一行の中で最も呪文に惑わされ易いのがリーシャであるのは、魔法力が皆無に近く、その行使の手段もない事が主な原因であり、その知能が低いという訳ではないのだ。

 だが、そんな魔法力の差を覆す可能性が一つだけある。

 それが行使された側の精神状態である。

 

「ふぅ……さて、行くか」

 

 サマンオサで遭遇したボストロールには、サラがマホトーンを何度行使しても効果が現れなかった。だが、ボストロールの精神状態を怒りによって乱し、魔法力への抵抗を減退させる事でサラはその効力を発揮させたのだ。

 カミュがザキという死の呪文を弾き返したのは、その胸の内に確固たる想いを持ったからであり、それが確実に死の呪文を弾くという保証はないまでも、その回避率を上げていた事だけは確かであろう。ならば、護る対象を心にしっかりと定める事で、混乱の呪文などへの抵抗になる可能性は否定出来ない。

 それを理解したリーシャは、一度メルエの顔を見て笑みを浮かべると、ドラゴンキラーを一振りしてカミュへ言葉を投げかけた。それに頷きを返したカミュもまた、稲妻の剣を強く握り込む。

 戦闘の準備は整った。

 

「クワァァ」

 

 剣を手に持って駆け出そうとするリーシャに向かってローブの口の部分が開き、その場所にある闇が赤く染まって行く。何かを吐き出すように声を上げたエビルマージは、そのまま燃え盛る火炎を吐き出した。

 最早急停止出来ないリーシャは、盾を掲げながらも前へと進み、右手に握った剣を水平に構える。そんな彼女を後押しするように、彼女の後方から冷気を帯びた魔法力が吹き抜けて行った。

 人類最高位に立つ『魔法使い』が唱えた中級の氷結呪文である。

 ヒャダインと銘を打たれたその呪文は、リーシャに襲い掛かる火炎とぶつかり蒸発して行く。熱を持った蒸気の中でも突き進むリーシャの肌が焼けるように熱くなるが、それでも突き出された剣が緑色のローブを突き抜けた。

 

「カミュ!」

 

 突き刺した剣を抜いたリーシャは後方へ飛び、その後ろから稲妻の剣を振り被ったカミュが現れる。突き刺さった剣が引き抜かれ、体液を溢しながら苦悶の表情を浮かべたエビルマージはその剣に反応出来ない。袈裟斬りに入った剣は、エビルマージの肩口から下腹部までを斬り裂き、その命を刈り取って行った。

 断末魔の叫びを上げながら床へ倒れ伏したエビルマージは、数度の痙攣をした後に絶命する。あれ程の威圧感を発していた魔物の何とも呆気ない幕切れに、サラとメルエは少し拍子抜けしたような表情を浮かべた。

 

「一体だけというのが幸運だったな」

 

「ああ……魔物というよりは魔族なのだろう。こちらを侮っていてくれたのも幸いだった」

 

 剣に付着した体液を振り払ったカミュとリーシャは、床に倒れ伏して動かないエビルマージだった物を見ながら息を吐き出す。野生の本能が強い魔物が敵を侮るという事自体が考えられる事ではないのだが、それが知能を持つ魔族のような存在であれば別であろう。己の魔法力に絶大の自信があったのか、若しくは人間自体を侮っていたのかは解らないが、地獄の騎士達を葬っていた一行に対してさえも余裕を持って対峙していた事から、かなり上位に位置する魔族なのだという事が窺えた。

 リーシャの言葉通り、そのような敵が数体現れて戦闘に発展すれば、この一行であってもかなりの危険が伴うだろう。呪文に重きを置いた魔族の中でも上位に入る者が複数出現し、それらが一斉に攻撃呪文を唱えたとすれば、対抗するのが如何に人類最高位に立つサラとメルエであっても、それらを防ぐ事は難しくなる筈だ。

 それを誰よりも理解しているサラは、難しい表情で唇を噛み締めていた。

 

「階段があるな」

 

「……行くぞ」

 

 難しい表情をしているサラを余所に、奥に見つけた階段を下りようとカミュが歩き出す。何時ものようにリーシャへ問いかけないのは、選択肢が限られているからだろう。内部へ入ってからは広い広間になっており、その奥は薄暗く近づかなければ階段は見えなかった。太陽は西に沈み始め、徐々に暗さが濃くなって行く中、カミュに若干の焦りがあったのかもしれない。更に言えば、魔王という諸悪の根源であれば、地下にいるだろうと言う勝手な思い込みもあったのだろう。

 置いていかれないように歩き始めたメルエに気付き、漸くサラも行動を開始する。実際にここまでの戦闘で、サラの出番はかなり少なかった。本来、サラの腰に下がっている剣は、地獄の騎士のような命を持たない者に対して絶大な力を有している。だが、彼女の剣の腕が地獄の騎士まで届かない事で、あの時動く事が出来なかったのだ。

 大きく力を伸ばして来た一行ではあるが、己の特化した部分を中心に伸ばして来た節もあり、メルエは勿論の事、サラでも人間相手ならばまだしも、上位の魔物相手に対等以上の戦いが出来る程ではない。

 『この状態で魔王に届くのか?』

 自分が歩んで来た道が間違っていないという自信をサラは持っている。だが、そこで培って来た経験が役に立たないのではないかという小さな疑問が彼女の中に生まれてしまった。それは、この最終局面に向かう場面では致命的な程に大きな隙となる。

 

「サラが広げていた見聞、そして培って来た経験は、決してサラを裏切らない」

 

「えっ?」

 

 だが、若い賢者のそんな揺らぎは、いつの間にか近づいて来ていた女性戦士によって払拭される。その力強い言葉が、サラの胸の奥で小さくなって行く炎へ薪をくべて行くのだ。

 彼女はいつでもそうであった。サラという人間が迷う時、苦しむ時にはそれが解るかのように、必ず前へ踏み出す勇気をくれる。それがこの若い賢者を支え、歩み続けさせて来たのだろう。だからこそ、サラはもう一度顔を上げてリーシャの瞳を見た。

 そこにあるのは明確な覚悟と揺ぎ無い決意の炎が点る瞳。それこそ、サラという賢者も、カミュという勇者も信じる、この一行の要となる者の強さの現れであったのだ。

 

「ポルトガ国王の言葉を、サマンオサ国王の言葉を、そしてイヨ殿の言葉を忘れるな」

 

「はい!」

 

 剣を鞘に収める事無く握り締めたままのリーシャは、サラの返事に頷きを返し、メルエに続いて階段を下って行く。その背中を見つめながら、もう一度胸の前で両手を合わせて握り締めたサラは、ここから続く激闘の数々を考え、大きく深呼吸をして歩き出した。

 

 

 

 下の階層に降り、即座に現れた分かれ道でカミュが思い抱いたかのように隣を歩く女性戦士に声を掛ける。分かれ道となればこの女性である事をようやく思い出したのかもしれない。

 当然のように左へと折れる道を指し示すリーシャに対し、頷きを返したカミュはこれまた当然のように直進する道を選択する。以前とは異なり、そんなカミュに異議申し立てをしない彼女は、引き締まった表情でメルエの手を取った。

 魔物や魔族の登場を警戒するような足取りで進む一行は、その道の先にある階段を見つけて『ほっ』と溜息を吐き出す。僅かな距離ではあったものの、魔王の居城というだけでも身体が自然と強張るのにも拘らず、先程のような強力な魔族の存在を見てしまえば警戒し過ぎるという事はなく、知らず知らずの内に疲労が蓄積していたのだ。

 

「えっ?」

 

「これは、城の庭園か?」

 

 息を吐き出した一行はその階段を上って行ったのだが、その先に広がる光景を見たサラは驚きに声を失い、リーシャは再び見た景色に呆然と立ち尽くす。

 階段を上がったその場所は壁に覆われた一室であったが、その空間を閉ざす扉を開けたその先には静寂が支配する庭園だった。既に太陽は西の大地に半分以上が沈み、周囲に夜の帳が降り始めている。だが、そこは間違いなく、巨大な城門を潜った先にある庭園と呼べる物であった。

 

「戻って来たのか」

 

「…………おなじ…………」

 

 見渡す立ち位置は変化してはいるが、見える景色は先程と寸分も違いはない。異なる部分があるとすれば、それは太陽からの光の色と周囲の暗さぐらいだろう。軽い溜息を吐き出したカミュの横で、小首を傾げたメルエの小さな呟きが広く広がる庭園に消えて行った。

 立ち尽くす四人の顔を照らしていた夕陽が完全に沈み、周囲を完全なる暗闇が支配して行く。魔王のお膝元である居城が、魔物や魔族の時間である闇夜に覆われて行った。

 

「……カミュ、出来るならば避けたくはあるが、ここで朝を迎えるのか?」

 

「ラーミアで戻った所で、また同じ場所からのやり直しになるだけだ。この場所へ来た時から、危険は覚悟の上ではないのか?」

 

 周囲が完全に闇に閉ざされ、魔王城の不気味さが更に際立って来る中、リーシャがこの後の行動をカミュへ問い掛ける。だが、その問い掛けは逆に問いかけで返された。

 もはや、カミュ達一行は魔王の胸元に入っているのだ。この場所に入った時点で、魔王バラモスという存在を倒すか、若しくはカミュ達全員が死滅するかしなければ出る事が叶わない可能性さえもある。そして、それらを覚悟の上で、彼等はこの場所へ足を踏み入れたのだ。カミュ達と共に在りたいと考えるメルエだけは異なるかもしれないが、少なくともカミュとリーシャはそんなメルエだけは護るという意志の許、この場所に立っているのだった。

 

「わかった。ならば、あの階段があった室内へ戻ろう。あの場所に魔物が入る為には、扉を壊すか階段を上がって来なければならない筈だ。危険への警戒は少ない方が良い」

 

「……ああ」

 

 リーシャはメルエの手を取り、先程上って来た階段がある場所へと戻り始め、その後をサラが追う。最後に残ったカミュは、遥か高みに見える城を見上げた。

 夜空に浮かぶ月は、何時もと同じ光を何時もと同じように地へと降り注いでいる。カミュの瞳に映る月の姿は、この四年の月日で大きく変わっているのかもしれない。月を見上げる彼の顔もまた、この四年で大きく変化しているのだ。

 

 

 

 最後の決戦地である魔王城には辿り着いた。

 だが、そこに蔓延る魔物達は、ここまでの旅で遭遇したどんな魔物達よりも強靭な者達である。一行が培って来た経験に裏付けされた自信さえも揺るがしかねない程に強力な者達が棲むその場所は、世界を恐怖の渦に落とし込む『魔王バラモス』の居城。

 『勇者』と認められた者達は、身の危険を感じながらも戦闘を続けるが、それも未だ入り口に過ぎない。

その中心部へ繋がるのは、果てしなく遠く危険な道。

 それでも彼等は、その道を歩み続けるのだ。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

ようやくここまで参りました。
第十六章は完全にこの場所だけの章になると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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バラモス城②

 

 

 

 魔王の膝元で一夜を明かす事は、かなりの困難であった。

 夜が更けるほどに、周囲の庭園には魔物の咆哮などが轟き、交代で見張り行う筈であったカミュとリーシャが揃って起きなければならない場面が多かったのだ。実際に、室内へと続く扉が大きく揺れる場面などもあり、幼いメルエでさえも何度か眠りから強制的に戻される場面もあった。

 それでも、階段から上って来る魔物はおらず、直接的な戦闘がなかった事だけは僥倖であろう。十分な休息を取る事は出来ず、身体的な疲労が抜けはしなかったが、余計な体力と魔法力を使用せずに済んだ事は確かである。

 

「メルエ、起きて下さい。出発しますよ」

 

「…………むぅ………メルエ……ねむい…………」

 

 眠るメルエを揺り起こしたサラは、幼い少女が眠たそうに目を擦る姿に苦笑を浮かべる。この四人の中では、メルエが最も眠っていた事は事実である。だが、魔法力の量は圧倒的にメルエが上位に立っており、その魔法力を回復させる為にも、身体が眠りを欲しているのだと考えれば、彼女が不機嫌そうに頬を膨らませるのも尤もな事なのだ。

 これから数多くの魔物と遭遇しながらもそれを討ち果たし、辿り着く先に居るであろう魔王バラモスをも討伐しなければならない。その戦闘の数々は命を賭した戦いであり、その戦闘にメルエの行使する呪文は必須である。それを理解しているからこそ、カミュやリーシャ、そしてサラは、メルエという最も幼い少女の体力を最優先に考えていたのだ。

 

「メルエ、我慢してくれ。この先の戦いにはメルエの存在が絶対に不可欠なんだ」

 

「…………ん…………」

 

 むずかるメルエと視線を合わせたリーシャは、その瞳を見ながら真剣に語り出す。その言葉を聞いたメルエの瞳がしっかりと開かれ、強く頷きが返された。

 『自分が必要とされている』という気持ちは、どんな人間であっても嬉しい物である。それが自分が最も信頼する者からであれば、尚の事であろう。リーシャという母のように慕っている相手にここまで言われたという事がメルエの自信になり、誇りとなる。

 先頭のカミュが慎重に扉を開け、庭園へと出た事によって、その後ろを女性三人が続いた。外は晴れ晴れとしており、昨日以上に暖かな太陽の光が降り注いでいる。昨日訪れた時と同様、とても魔王という物が作った場所には思えない。それ程に美しい光景にサラは目を細めた。

 

「カミュ、もう一度正門から入るよりもあの階段から下って戻った方が良いのではないか?」

 

「そうですね。正門から入った先の広間に居た骸骨達が蘇っていたら厄介です」

 

 一度外へ出た一行ではあったが、リーシャの発言は的を射たものであり、サラもその発言に同意を示す。確かに、広間に詰めていた地獄の騎士の数は尋常ではなかった。その地獄の騎士が再び待ち構えていたとすれば、それはかなり厳しい戦いになる事は間違いがない。

 カミュ達の力量は人外の物へと昇華してはいるが、その肉体は間違いなく『人』であり、昨日の疲れが取れていない現状での過酷な連戦は魔王への道を困難な物へと変えてしまう可能性さえある。それ故に、リーシャは来た道を戻るような提案をしたのだ。

 

「一応、選択しなかった方へも向かってみましょう」

 

「……わかった」

 

 リーシャの提案を即座に聞き入れたカミュが階段を下る際、サラはもう一つの提案を口にする。地下の階層では、一度だけリーシャに道を尋ねた分かれ道があった。彼女が指し示した方向ではない道を選択した結果がこの状況である以上、もう一つの道に何かがある可能性もあるのだ。

 少し誇らしげなリーシャの顔に溜息を吐いたカミュは、サラの提案に明確な返答をしないままに階段を下って行く。しかし、問題の分かれ道に辿り着いた時、迷いなくリーシャが指し示した事のある方へ足を向けた事から、サラの言い分に一理がある事を理解していたのだろう。

 右へと道を折れた後は完全な一本道となっており、陽の光の届かないような通路を歩く為に『たいまつ』を取り出した一行は、そのまま突き当りまで真っ直ぐに進んで行く。そして、いつものように行き止まりへと辿り着いた。

 

「……ここは」

 

「…………ベッド…………」

 

 地下の一室と言っても過言ではない広さのある空間には、照らし出す明かりさえない。手に持つ『たいまつ』を向けたリーシャは、その異様な光景に絶句し、その後ろから顔を出したメルエが、所狭しと並べられている物の名称を口にした。

 メルエが言うように、この空間には幾つものベッドが置かれている。それは、家屋にあるようなベッドではなく、怪我人や病人を運び入れる為に用意されるような簡易的な物ばかりであった。

 かなりの時間が経過している事を感じさせる年季の入ったベッドは埃塗れになっており、木造の足が折れている物さえある。足の折れたベッドは傾き、その上に乗っていたであろう物を硬い地面へと落としていた。

 ベッドに横たわっていたであろう物。それは、やはり人骨であった。

 無数のベッドの上には、朽ち果てた白骨が散らばっており、既に腐臭さえも漂っていない事から、白骨化したのが遥か昔である事を示している。中には包帯であったのではないかと思わせる布が巻かれた白骨などもあり、この場所が怪我人の収容所であった可能性もあった。

 

「この城に人が住んでいたのでしょうか?」

 

「……この城は、人間が建造した物であると言われても納得出来る程の構造をしている。襲撃に備えるような造りは、魔物を束ねる魔王には必要のない物だろう。もしかすると……遥か昔にはこのネクロゴンドにも王国が存在していたのかもしれない」

 

 ベッドに横たわる白骨であった物を見ていたサラは、自分の胸の中に湧き上がった疑問を抑える事が出来ず、隣に立つリーシャへと問い掛けてしまう。その問い掛けに眉を顰めたリーシャは、搾り出すように言葉を紡いだ。

 この四人の中で国家に属していたのはリーシャ唯一人である。正確に言えば、世界中に広まるルビス教会に属していたサラもアリアハン国民であるし、アリアハンの町の片隅で暮らしていたカミュもまた、歴としたアリアハン国民であるのだが、国家の職に就いていたのはリーシャだけなのだ。

 そのリーシャから見ても、この城の外観は篭城を意識した造りになっているように感じる物であった。城壁は遥かに高く、二重の門が敵の侵入を防ぎ、城の内部へと続く道も数多くの虚偽に満ちている。これ程に攻め難い城は、世界中の国家を回った彼女であっても見た事がなかったのだ。

 魔王という存在は、世界中を恐怖に陥れるほどの者であり、その力は脆弱な人間ばかりか、魔法力を持つエルフ族でさえも敵わない程の物であろう。それ程の存在が他者の襲撃を恐れる意味がない。どれ程の存在であろうとも退け、屈服させる程の力があるからこそ魔王なのである。それ故に、リーシャはそう結論付けたのだ。

 

「魔王バラモスの台頭は、それ程昔の話ではない。だが、それ以前にも歴史に埋もれた存在が居た可能性はあるだろうな」

 

「魔王バラモス以前の存在……それは?」

 

 リーシャの言葉に暫し思考していたカミュではあったが、自分達の知らない歴史がある可能性を示唆する。魔王バラモスが台頭して数十年と言われている。これ程世界を恐怖に陥れてからでも百年は経過していない筈であった。

 だが、魔物はそれ以前にも存在していた事は事実であり、それこそ人間などよりも遥かに長い歴史を持っている。人間がこの世に生まれ、国を作ってからの長い歴史全てが書として残っている訳ではない。語られる事のない歴史や、受け継がれる事のない歴史も当然存在するのだ。

 魔物に長い歴史があるように、突然台頭して来たバラモスという魔王にも歴史がある筈であり、その出生や経歴があっても可笑しくはない。魔王バラモス台頭以前にこの世界を席巻した存在が居ても何ら不思議な事ではないのだ。

 

「サラ、それを考えるのは今ではない。今は唯一点だけを見つめろ。私達がここへ来たのは、魔王バラモスの打倒であり、それ以外を考えるのはそれを成した後だ」

 

「は、はい」

 

 カミュの言葉に更に疑問を被せようとするサラを制したのは、そんな疑問の元を生み出した女性戦士であった。どこか納得が行かないような表情を浮かべたサラであったが、その言葉が尤もである事を理解し、再度表情を引き締める。

 どんな疑惑がこの場所にあろうと、彼等の目的は唯一つ。

 『魔王討伐』唯一点だけである。

 

「……戻るぞ」

 

 この場所でいくら考えたところで彼等の目的が変わる訳ではない以上、この場所に居る事自体が不要である。短く呟かれたカミュの言葉に他の三人が頷きを返し、再び来た道を戻って行った。

 分かれ道を過ぎ、正門を潜った先にあった広間へと続く階段を上る。地獄の騎士のような存在の強襲を警戒し、慎重に顔を出したカミュは、『たいまつ』を向けた先が昨日のまま放置された状態であった事で、後方の三人を誘導した。

 もはや、消し炭になった骨の残骸や、カミュとリーシャによって核までも傷つけられた骨の残骸が散らばる中、カミュは窓らしき物から差し込む陽光と『たいまつ』の明かりによって周囲を確認する。そして、上って来た階段の対角線上に、更に上の階層へと続く階段を発見した。

 最早言葉は必要ではなく、全員が小さく頷きを返し、その階段を上って行く。警戒をし過ぎるという事はなく、『たいまつ』の炎を消さずに上階へと上がるのだが、その場所から見える光景に、彼等は再び驚きの表情を浮かべる事とった。

 

「……また外なのか?」

 

「バルコニーのような場所でしょうか……」

 

 その場所は完全に行き場を失ったバルコニーのような場所であり、唯一の行動可能場所は、庭園へと降りる階段だけである。つまり、この正門から入った場所からは城の内部へ行く道が皆無と言う事になるのだ。

 これ程までに侵入者を恐れる城の構造というのは多くはない。まるで人間以外の襲撃を予定しているような建物の造りに、カミュ達は改めて驚きを表した。

 空から注ぐ太陽の輝きは、まるで霧によって遮られているかのように弱くなっており、照らされている城の各所に小さな影を作り出している。夜のように暗い訳ではないが、どこか頼りないその光を見上げた一行は、ここから先の行動に不安を感じていた。

 

「カミュ、こうなったら庭園を歩き回るしか方法はないぞ」

 

「……わかっている」

 

 階段があった下の広間には他に道はなかった。昨日の状況であれば見落としがあった可能性はあるが、今日は『たいまつ』まで使用しての細部の確認を行っている。故に見落としなどある筈はないのだ。そうなると、必然的にこのバルコニーから下の庭園へと下り、その庭園を歩き回る他に道がない事になる。

 バルコニーから見下ろす庭園に魔物の姿はない。いや、正確に言えば魔物の姿が見えないのだ。霧が掛かったように霞む庭園の視界は悪く、魔物の放つ瘴気に満ちたこの場所では、魔物の気配を細かく感じる事など出来はしないからである。

 

「カミュ様!」

 

 そんな状況の中で庭園へと先へ下りたカミュの頭上から迫る不穏な気配に逸早く気付いたのはやはりメルエであり、メルエが腕を引く事でそれに気付いたサラは前方のカミュに向かって叫び声を上げる。咄嗟に発せられた叫びによって、カミュは頭上から迫る存在に反応し、その鋭い爪を辛うじて避ける事が出来た。

 彼を襲った存在は、そのままカミュの前に浮かぶように滞空し、一行を睨みつける。両者動けない状況の中、新たにもう一体が上空から舞い降りて来た。

 それは、この世界の中でも希少種と呼ばれる存在であり、その鋭い牙と爪で敵を葬り、その堅固な鱗によって身を守り通す種族。『龍種』と呼ばれるその存在は、この世界の中でも魔族や魔物とは一線を画した存在であり、魔王とは関係を持たないと考えられていた。

 その種族が、魔王バラモスの居城と云われる場所に二体も現れたのだ。それが意味する事は、この龍種もまた魔王の眷属と成り下がってしまったという事。それは、これまでの歴史では考えられない事であり、魔王台頭後数十年の月日が経過する中、魔王バラモスの圧倒的魔力が更に強まった可能性を示唆していた。

 

「メルエ……大丈夫だ。カミュ、ここは私に任せてくれないか?」

 

 カミュ達一行の前に現れたのはスノードラゴン。グリンラッドやレイアムランドのような雪原を棲み処とする龍種であり、最下級のスカイドラゴンよりも上位の物ではあるが、その差は今のカミュ達にとって些細な物である。

 一歩前へと踏み出したリーシャが右手に握るのは、その龍種の牙や爪によって練成された剣。『龍種を殺す剣』という名を持つその剣は、リーシャが持つ事によって更なる輝きを放っていた。

 彼女がこの剣をカミュから譲られたのは数ヶ月前になる。ネクロゴンドの洞窟で稲妻の剣を手に入れたカミュは、それまで使用していた剣をリーシャへと手渡した。その日から、彼等が友と思う程に信頼する人間が作成に携わっていたこの剣を、リーシャは毎日丁寧に手入れを行っている。魔物の体液などで曇り始めていた刀身は、その丁寧な扱いによって、新品以上の輝きと鋭さを取り戻していた。

 

「二体同時に対処するつもりか?」

 

「サラやメルエもこの場所に挑むだけの力を有した。これくらい出来なければ、私はこの場所に挑む資格はないだろう」

 

 二体の龍種というのは、通常の人間であれば絶対に相手をしない存在である。通常の人間から見れば、圧倒的な存在であり、それこそ神の使いと考える地方さえもある。それ程の存在に対し、単身で挑もうと考えているリーシャに、カミュは少しばかり眉を顰めた。

 だが、リーシャは、目の前で唸る二体の龍種に脅威を感じては居なかったのだ。それは彼女が歩んで来た経験の裏付けであるのだが、その経験を彼女は誰よりも信じている。サラやメルエといった呪文使い達が次々と強力な魔法を行使し、魔王バラモスという存在に立ち向かえるだけの力を示して行く中、彼女はその力を自身の腕と身体だけで示していかなければならない。そして、それが出来るだけの力を既に自分が有している事を彼女は知っているのだ。

 幼いと思っていたメルエや、常に迷い悩むサラの力を見て焦りを感じている訳ではない。ダーマの頃のように、自分の力を卑下している訳でもない。先程まで、グリンラッドで見せたような表情をするメルエの肩に手を置いたリーシャは、胸を張ってスノードラゴンの前へと進み出たのだ。

 

「さぁ、曲がりなりにも龍種の力、見せて貰おう」

 

 『龍殺し』と『龍種の護り』という名の付く剣と盾を掲げた女性戦士が単身で二体の龍種と向かい合う。スノードラゴンが威嚇するようにその長い身体を伸ばして咆哮を上げた。

 人類最高位に立つ『戦士』と、世界最高種と呼ばれる『龍種』の戦いが始まる。

 

「グオォォォ」

 

 先制を取ったのはスノードラゴン。

 大きく開いた口から冷たく凍りつくような息を一気に吐き出した。晴天の庭園に突如吹き荒れる吹雪がリーシャに襲い掛かる。それでも瞬時に盾を掲げたリーシャは、その隙間からスノードラゴンの位置を把握し、真っ直ぐに歩を進めて行く。

 龍種といえども、吐き出す息が永遠に続く訳ではない。更に言えば、リーシャの掲げるドラゴンシールドという盾は、劣化した種族といえども龍種の鱗を張り合わせた物である。その効力として、火炎や吹雪といった物に対しての抵抗力は高いのだ。

 盾を持つ手が痺れるほどに冷たくなっている事を構わずに突き出された剣が、吹雪を吐き出し終えたスノードラゴンの胴体へと吸い込まれて行く。苦悶の叫びを上げたスノードラゴンの落ちて来た首をリーシャが一閃した。

 

「くっ!」

 

 一体のスノードラゴンの首が庭園に落ちた瞬間、リーシャの身体が真横へと吹き飛ばされる。もう一体の残ったスノードラゴンが、仲間の命を救おうと彼女へ体当たりをして来たのだ。龍種の身体がリーシャへと届く前に、仲間の首は地面へと落ちてしまったが、それを成した女性戦士の身体は渾身の力で吹き飛ばされた。

 地面を転がるように滑ったリーシャは、即座に態勢を立て直して剣を構える。そんな彼女の目の前で再びスノードラゴンの口が大きく開かれた。

 吹き荒れる吹雪。

 凍りつく草花。

 

「メルエ、いけません! これはリーシャさんの戦いです。手を出せば、後でリーシャさんに怒られてしまいますよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 即座に盾を構え、吹雪に対して防御姿勢を取るリーシャを見た少女は、その背に縛り付けた杖を持ち、体内にある魔法力を動かし始める。しかし、その行動は、彼女の隣に立って真剣な表情で戦いを見つめていた『賢者』によって制された。

 この魔王城に来て、個人的な戦いも何もある訳ではないだろうが、先程のリーシャの表情を見る限り、彼女はこの戦いに並々ならぬ想いを持って挑んでいる事が理解出来たのだ。故に、サラはその戦いに割り込もうとするメルエを制した。

 メルエにとって、他人の矜持などに興味がない事など解っている。それこそ、この少女は大事な物を護る為ならば、常識も通例も、正論も正義も関係ないのだろう。誰が何を思おうと、誰が何を言おうと、大事に思う限られた者達を護るという事が、この幼い少女の誇りであり願いなのだ。

 それでも、この戦いにだけは手を出す事は許されない。それこそ、リーシャ自身が命の危機に瀕しているのであれば別ではあるが、今の現状であればその時ではない。サラの横にいるカミュは、全く動く気がないのか、胸の前で腕を組んだままであった。

 

「龍種の力、その程度の物なのか?」

 

 メルエの不安が杞憂であり、サラの信頼が正しかった事が、吹き荒れていた吹雪が収まったその先で明らかとなる。氷の付着するドラゴンシールドを下ろし、煌びやかに輝く剣を手にしたリーシャは、その場所に悠然と立っていた。

 メルエは花咲くような笑みを浮かべ、サラは先程までの自信が本物だったのかを疑いたくなる程の安堵の溜息を吐き出す。そんな二人の横では、微動だにしないカミュが戦いを見守っていた。

 無傷に近い状態で現れたリーシャの姿を見たスノードラゴンは、甲高い咆哮を上げて半狂乱の状態に陥る。そのまま、鋭い牙と爪をリーシャに向かって突き出し、空中を泳ぐように向かって行った。

 この龍種が何故この城に居るのかは解らない。

 魔王に呼び出されたのか、魔王の魔力に引き寄せられたのか。それとも、この場所に迷い込んでしまったのか、意図的にこの場所へ来たのかも解らない。もしかすると、誰かと共にこの場所を訪れたのかもしれない。

 ただ、この場所に限って言えば、如何に世界最高種族である『龍種』であろうと、スノードラゴンのような下位種よりも強力な魔物が多く蔓延っている。これが、スカイドラゴンが棲み処としたガルナの塔や、スノードラゴンの本拠であるグリンラッドやレイアムランドなどであれば、それぞれが連鎖の頂点に君臨していただろう。だが、この魔王の本拠地に居る魔者達は、この龍種よりも遥か高みに居る存在なのだ。

 そんな龍種が己よりも下位の存在と思って攻撃を仕掛けた『人』という種族もまた、彼らよりも遥か高みに居る存在であったという事実に、スノードラゴンは恐慌に陥ってしまったのかもしれない。

 

「ふん!」

 

 迫り来る巨大な爪をドラゴンシールドで上へと弾き、それを予測していたかのように降りかかる鋭い牙を剣で弾いたリーシャは、先程から一歩も動かずにその場に立っている。それは、この龍種と人間の戦士の力量の差を明確に物語っていた。

 真っ赤に燃え上がるような怒りの瞳を浮かべたスノードラゴンを冷たく見つめたリーシャは、『龍殺し』と名の付く鋭い剣を掲げ、一歩前へと足を運ぶ。近づいて来る脅威に唸り声を大きくするスノードラゴンではあったが、最早その脅威に抗う術など残されてはいなかった。

 

「さらばだ」

 

 小さく呟かれた別れの言葉の後、一気にスノードラゴンとの間合いを詰めたリーシャは、驚きに目を見開き、慌てて吹雪を吐き出そうと開かれた巨大な口諸共、真上から真っ二つに斬り裂いた。

 噴き出す体液と、苦悶の叫び。

 一撃で仕留められなかった事に眉を顰めたリーシャであったが、痛みと苦しみ暴れるスノードラゴンへの哀れみの表情を浮かべ、その苦しみから解放させる為に再び剣を振るう。真横に薙いだドラゴンキラーは、スノードラゴンの小さな腕を斬り落とし、そのまま巨大な頭部を支える首をも斬り落とした。

 太い龍種の首を一刀の元で全て斬る事は不可能である。だが、堅固な鱗を斬り裂き、首の半分近くも裂いてしまえば、その頭部の重さに耐えられずに、花が落ちるように地面へと落ちて行った。

 重量のある音と振動が地面へと伝わり、それが戦闘終了の合図となる。短い戦いではあったが、一行の並外れた力の一端を垣間見る戦闘となった。

 

「リーシャさん、左腕を見せて下さい!」

 

「…………リーシャ………すごい…………」

 

 戦闘が終了した事を理解したサラが、吹雪を支えたリーシャの左腕が凍傷などになっていないかと慌てて駆け寄り、先程まで不安そうに戦いを見つめていたメルエは、感動を抑え切れずにリーシャへと駆け寄って行く。

 ドラゴンシールドを地面に置いたリーシャの左腕を取り、回復呪文を唱えようとしたサラではあったが、リーシャの胸に飛び込むように掛けて来たメルエの行動によって、回復呪文が霧散してしまう。軽いお叱りの言葉が魔王城に響き渡り、半泣きになったメルエの頭をリーシャが撫でる事になるのだが、そんな和やかなやり取りは、この一行を率いる青年の登場によって終了を告げた。

 

「回復呪文という保険がない以上、今後単身で魔物に挑むのは控えろ。アンタの力量なら、この場にいる全員が把握している筈だ」

 

「……そうだな」

 

 表情を緩める事無く発せられた言葉は、リーシャの軽挙を咎めるような物であった。その発言にサラは驚きを示し、メルエは『むぅ』と頬を膨らませる。サラの治療を受けるリーシャを庇うように前へ踏み出した少女は、『いじめるな』と言うようにカミュを鋭い視線を送った。

 一つ大きな溜息を吐き出したカミュではあったが、リーシャ自体は彼の言葉の意味を正確に理解しており、首を縦に振る事でその言葉を受け入れる。無事であった右手でメルエの頭を撫で、幼い少女の憤りを静めると共に、自分が行った事によって余計な気遣いをさせてしまった事に謝罪の言葉を口にした。

 

「治療が終わり次第、奥へ向かう」

 

 スノードラゴンの血の臭いに他の魔物が集まって来ていない事を確認しながら呟いたカミュの言葉に、他の三人が頷きを返す。不気味な程の静寂に包まれた魔王城では一瞬たりとも気を抜く事は出来ない。いつどのような形で、どれ程の魔物と遭遇するか分からず、まだ見ぬ強力な魔物が出現した場合、咄嗟の判断の誤りが即座に死へと繋がる危険性を孕んでいた。

 故に、カミュを先頭に歩き始めた一行はここまで来る道と同様の隊列を組んで行く。先頭をカミュが歩き、メルエの手を引いたサラが続き、最後尾をリーシャが歩く物。それは、ロマリア近郊の森でメルエという少女に出会った頃から変わりはない。ある意味で言えば、この一行の最強布陣なのかもしれない。

 

「あの建物の脇を入って行くしかなさそうですね……」

 

「カミュ、十分に気を引き締めて行け」

 

 庭園ともいえる外は、かなりの大きさを誇ってはいるが、その中心に聳える城が巨大であるため、城内にはいる為の扉などがない事は歩き始めてすぐに解る。魔物に遭遇する事もなく、庭園内を東側へ移動していた一行は、庭園をも広く囲む城壁と城との間に細い通路のような物を発見した。

 陽光さえも届き難くなっている脇道は、色濃い影が重なっており、細い道の向こう側から魔物に急襲されてしまえば、全滅の危機に陥る可能性も否定出来ない。だが、その道しかない以上、彼等の目的が魔王バラモスであるならば、その道を歩まなければならないのも事実であった。

 慎重にカミュから細道へと入って行く。常に城壁の影になっているその細道は湿気に満ちており、草花よりも苔などが多い。小さな虫達が巨木から落ちる枯葉の下に集まっており、それに目を輝かせたメルエの動きを制する事にサラは苦心するのであった。

 

「カミュ!」

 

「ちっ!」

 

 陽光の届かない暗がりに何か小さな輝きを確認したリーシャの叫びが最後尾から轟く。前方を向いていたカミュが視界の端にその生物を捕らえ、盛大な舌打ちを鳴らした。

 その生物は、ネクロゴンドの洞窟でも遭遇したスライムの亜種中の亜種。希少種と言う点で言えば、龍種よりも更に希少な存在である。崩れて溶けたように地面に広がるその身体は、陽光の届かない闇の中であっても輝きを放っていた。

 はぐれメタルと呼ばれるその亜種は、行く手を阻むかのように不快な笑みを身体に貼り付け、嘲笑うかのようにその身体を震わせている。左右を城壁に挟まれ、人が二人通れるかという幅の細道で最も遭遇したくはない魔物であった。

 ギラという最下級ではあるが灼熱呪文を放ち、カミュやリーシャであっても目で追う事が出来ない程の素早さを持つ魔物。その身体は見た目とは異なり、魔法の鎧を歪ませる程の強度を持っている。そして、最悪な事に、目の前に広がるように現れたのは、そのはぐれメタルが三体であったのだ。

 

「メルエ、魔法は効きません。せめて自分の身を護れるように毒針を手にして下さい」

 

「…………ん…………」

 

 カミュ越しにその魔物の姿を捉えたサラは、腰の鞘からゾンビキラーを抜きながらメルエを自分の後方へと誘導する。そんなサラの忠告通り、メルエも腰の革鞘から毒針を抜き、その襲撃に備えた。

 サラの言う通り、ここまでの道中で遭遇したスライムの亜種には全ての魔法が打ち消されている。スライムが何かをした訳ではなく、その特殊な身体が魔法という神秘を受け付けないようにさえ思えた。

 呪文の行使の意味がないとなれば、サラはともかくとしてもメルエの出番はない。ガルナの塔で乾坤一擲を打ち込んだ時とは状況は異なり、メルエがその毒針を持ってはぐれメタルに攻撃を繰り出すという事は不可能に近いだろう。はぐれメタル自らメルエの持つ毒針に向かって来ない限り、その攻撃が掠める可能性は著しく低いのだ。

 

「来るぞ!」

 

 リーシャの叫びよりも一瞬早く動き出した一体のはぐれメタルは、先頭のカミュへと体当たりを仕掛けた。咄嗟の判断で盾を掲げたカミュは、その衝撃に歯を食いしばる。龍種の鱗が軋む音を立て、その圧力が緩むと同時に、カミュは抜き放っていた稲妻の剣を振り下ろした。

 乾いた金属音を立てて弾かれた剣が空を仰ぐ。まるで液体のように揺らぐ魔物の身体は、瞬時に神代の剣さえも弾く強度を持ったのだ。そして、剣を弾いたはぐれメタルが地面へと着地すると同時に、もう一体の魔物がカミュへと襲い掛かる。

 

「いやぁぁ!」

 

 しかし、宙を飛んだはぐれメタルの身体は、瞬時に後方から移動したリーシャが振り下ろした剣によって、真下に叩き落された。

 大きな金属音を響かせ、地面へと落ちたはぐれメタルではあったが、無傷にしか見えない。逆に、あれ程の力を込めて振り下ろしたリーシャのほうが、剣を持つ右手を押さえて苦悶の表情を浮かべていた。

 硬い岩や金属を叩いた時のような痺れを腕に感じたリーシャは、その腕を押さえて回復を待つ事しか出来ない。その間に割り込んだカミュが再び飛び掛って来たはぐれメタルに剣を振り抜く。しかし、今度は空中を飛ばず、地面を這うように突進して来た為、カミュの振るった剣は空を斬り、その腹部に強烈な衝撃を感じる事となった。

 カミュが纏う刃の鎧が、自身の主が攻撃を受けたと認識し、はぐれメタルに対して刃を生み出すのだが、その全ての刃ははぐれメタルの身体に弾かれ虚空へと消えて行く。その隙を突いたように、リーシャの攻撃を受けた方のはぐれメタルがギラの詠唱を完成させた。

 

「…………ヒャダルコ…………」

 

 しかし、サラの後方で控えていた『魔法使い』がそのような魔物の動きを見落とす訳はなく、瞬時にそれを相殺出来る呪文の詠唱を完成させる。ぶつかり合う熱気と冷気が濃い霧を生み出し、視界を奪う中、腕の痺れが抜けたリーシャが、霧の中で動く物に剣を振るった。

 リーシャのドラゴンキラーが弾かれた事を認識したカミュが同じ場所へと稲妻の剣を振り下ろす。正確に魔物が居る場所を把握している訳ではないが、ここまで培って来た戦闘の勘が彼等二人を動かしているのだろう。

 乾いた金属音が再び響くが、追撃するように横に薙いだカミュの剣は空を斬る。その一撃は蒸気の霧をも斬り裂き、周囲の視界を開かせた。

 

「二体はまた逃げたのか……」

 

 霧の晴れた景色を見たリーシャが忌々しそうに呟きを漏らす。彼女の言うように、既に三体中二体の姿が消えていた。先程の蒸気に紛れて逃げてしまったのだろう。カミュとリーシャの剣撃を受けた一体だけが、軽く目を回した形で地面へと転がっているだけである。

 しかし、しっかりと意識を変えたカミュとリーシャが、起き上がるはぐれメタルに向かって連続して剣を振り下ろし、強度を保てなくなった魔物は、そのまま灰色の液体へと変わって行った。

 カミュとリーシャの全力の攻撃を数度加えなければ倒れない魔物という物は、ここまでの道中でも数える程しかいない。それが、この魔王城の異常性を明確に物語っているのかもしれない。

 

「この細道を抜ける」

 

「はい」

 

 はぐれメタルだった物が地面へと熔けて行き、再び静寂が戻った事を確認したカミュは、隊列を立て直す。狭い通路で遭遇した魔物との戦闘の割には、彼等の被害は少ない方だろう。カミュの纏っている刃の鎧は、あの強度を持つはぐれメタルの体当たりを受けてもへこみ一つない。

 後方支援組みの二人に至っては、狭い通路であった為か、魔物が回り込む事もなく、戦闘に参加さえしていなかった。唯一、メルエが相手のギラを相殺する為にヒャダルコを放ったぐらいであろう。最悪だと思っていた相手ではあったが、この場所で更に強力な呪文を行使する魔物と遭遇していたらと考えると、はぐれメタルという相手であった事の方が幸いであったのかもしれないと誰もが思っていた。

 

「泉が……瘴気に包まれています」

 

「……ああ。あの場所に魔王がいると考えて間違いはないだろう」

 

 城壁伝いに細道を抜けると、少し開けた庭園が広がっており、北側には大きな泉が水を湛えている。しかし、その泉を見た瞬間、誰もが表情を引き締め、拳を握り締めた。

 泉の水が濁っている訳ではない。それでも、その泉の向こうから漂う瘴気が、カミュ達全員の身体を震わせる。それは、人類の憎き敵である魔王に向けられた物ではなく、生物としての本能が訴える恐怖であった。

 メルエを除く三人の心は既に決まっている。魔王討伐の為の覚悟も決意もした。

 だが、それでも彼等の身体は、その瘴気を受ける事によって小刻みに震える事を止められはしなかったのだ。圧倒的な魔力と威圧感が、その泉の向こうから漂っている。それは、『魔の王』としての威厳なのかもしれない。

 カミュ達の前に自ら出る必要などなく、勇者一行が辿り着けたとしてもそれを容易に打ち払う事が出来ると考えているような圧倒的な存在感がそこにはあった。

 

「まずは、城内に入る」

 

 いつまでも泉の向こうを見つめるリーシャとサラを動かす為、敢えてカミュは解りきった事を口にした。先程よりも小さな空間の庭園の先には、城内へ続くであろう扉が見えており、瘴気に覆われた泉を泳いで渡る事が出来ない以上、その扉の向こうへ進む以外に道はないのだ。

 我に返った二人は引き締めた表情で頷きを返し、再び隊列を整えた後、カミュがその扉に手を掛ける。

 

 度重なる戦闘を超えて尚、魔王への道は遠く、果てない。

 魔王は全ての魔物を掌握する『魔の王』であり、この居城には未だに遭遇した事のない魔物も数多くいるだろう。

 それらを全て越えた後に対峙する王は、それら全ての魔物を凌駕する存在。

 その入り口をようやく彼等は潜ったばかりである。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

バラモス城はあと3話ぐらい続くと思います。
冗長的に思われるかもしれませんが、もう暫くお付き合い頂ければ嬉しく思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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バラモス城③

 

 

 

 外観から城内に入る為の裏口のような扉は、強固な物ではなかったが、木製ではなく鉄製の重い扉であった。

 鍵は掛かっておらず、ノブを回すと重さはあっても容易に引く事が出来る。先頭のカミュが警戒しながら城内を見回し、魔物の気配を感じない事を確認した後、扉を引き開いた。

 城の一階部分という事もあり、開け放たれた木窓から差し込む陽光によって、場内の隅々まで見渡す事が出来る。全員が城内に入ると、鉄扉がその重さによって自然と閉じられた。

 大きな音を立てて閉じる鉄扉に驚いたメルエがサラの腰にしがみ付き、その音で魔物が現れる事を警戒したカミュとリーシャが各々の剣を抜く。だが、静寂に支配された一階部分は、物音一つなく、聞こえて来るのは一行の小さな息遣いだけであった。

 

「全ての木窓を開けよう」

 

 リーシャの言葉に、一階部分に取り付けられている木窓が開け放たれ、広間の全貌が明らかになる。それ程広くはない空間には、上の階に向かう為の階段以外には何もなく、魔物の姿もない。即座に戦闘という危険性がない事に安堵したサラがメルエの手を握る力を緩めた。

 ここまで、通常の人間であれば精神が壊れてしまいかねないほどの緊張感を続けている。それはサラだけではなく、カミュやリーシャも同様であろう。軽率な行動が即座に死へと繋がる危険性という物は、人間の心に想像以上の負荷を与え、その精神を摩り減らしてしまう。僅か一時ではあるが、その危険性が薄い事に安堵するサラを誰が咎める事が出来ようか。

 

「サラ、酷なようだが、休憩をしている暇はないぞ」

 

「は、はい。解っています」

 

 だが、その心を察してはいても、この場に留まる事が出来ない以上、先へ進むしかない。彼等の目的がこの城の探索という事だけであれば、それ程急ぐ必要はないのだろうが、今回に限って言えば、この城の探索など二の次なのである。最終的な目的は『魔王バラモス』の討伐であるからだ。

 それはサラも重々承知しているし、未だその入り口に足を掛けただけである事も理解している。故に、リーシャに向かって大きく頷いた彼女の表情は、厳しく引き締まり、上へと続く階段へと視線を向けていた。

 

「カミュ、注意して進め」

 

 リーシャの忠告に頷きを返したカミュが先頭となって階段を上って行く。一歩一歩慎重に足を進めるカミュの姿が、彼もまたかなり神経質になっている事を物語っていた。

 先に行ったカミュの合図によって三人が階段を昇り終える。二階部分は、既に全ての木窓が開け放たれており、『たいまつ』などの炎がなくとも、見渡せる状況になっていた。小さな部屋は、中央の広間へと繋がっており、その向こうにもう一つの部屋が見える。魔物の姿は見えないが、警戒を緩める理由にはならない。

 咄嗟の戦闘になった際の弱みとなるメルエは、サラとリーシャに挟まれる形で広間へと顔を出す。中央の広間へと足を踏み入れた一行は、小さな溜息を吐き出した。

 

「奥の部屋にあるのは、また下る階段ですね」

 

「……進むしかないだろう」

 

 見晴らしの良い部屋の奥にあったのは、再び下の階へと戻る階段。一歩進んでは二歩下がるような一進一退を繰り返している事に、サラは不安を感じてしまったのだ。しかし、カミュの言葉通り、他に道がなかった事をここまでの道中で確認している以上、この階段を下りる以外に選択肢はない。

 しっかりと頷きを返したサラは、周囲を警戒し続けるリーシャの代わりに、先に降りて行ったカミュからの合図を待つ。不安そうに階下を覗き込むメルエが眉を顰めたままサラへ振り返った。メルエの表情から何かを察したサラは、後方のリーシャに声を掛け、カミュからの合図を待たずして階段を降り始める。

 

「カミュ、大丈夫か!?」

 

 いつの間にかサラを追い抜いたリーシャが無事を確認する声を上げた。

 突如降りて来た三人に驚いた表情を浮かべたカミュではあったが、溜息を吐くより先に腰にしがみ付いて来たメルエを見て、小さな笑みを浮かべる。優しく背を撫でられた事で安堵したのか、メルエが花咲く笑みを浮かべる顔を上げた。

 城の一階部分であるこの階の木窓は全て閉じられており、漆黒の闇とまでは行かなくとも、奥が見えない程度の薄暗さを持っている。カミュとメルエの微笑ましいやり取りを横目に、リーシャとサラはその薄暗さから漂う不快な感覚に表情を引き締めていた。

 その不快感が何かは解りはしないが、それでも彼女達の経験がこの暗がりの向こうに何か危険な物が待ち受けている事を示唆しているのだ。それは未だ見ぬ強敵なのかもしれないし、魔王の罠かもしれない。

 だが、どのような物が待ち受けていようとも、彼等は進むしかないのだ。

 

「木窓を開けながら進もう」

 

 リーシャの提案を否定する者はおらず、魔物を警戒しながらも、一行は一階部分の木窓を開放しながら先へと進んだ。開け放たれた部分からは陽光が差し込み、周囲を照らして行く。しかし、建物内に十分な陽光が入って来たにも拘らず、何処か曇った空気を感じる程、この場所は瘴気に満ちていた。

 嬉しそうに微笑みながら陽光を浴びるメルエを手を引いたサラが厳しい瞳のままカミュへ視線を送り、それに対してリーシャと共に頷いた彼は、真っ直ぐに進路を取る。そして、その先にある光景を見て、文字通り彼等は絶句した。

 

「こ、これは……」

 

「凄まじい程の瘴気だな……」

 

 一階部分の西側にある階段から中央へ移動した彼等は、中央にある南側へと続く大きな回廊に出る。そこには、左右に二体ずつの龍の石像があり、その四体の龍がお互いに向かい合いながら大きく口を開いていた。

 左右向かい合うよう設置された龍種の石像の口からは、夥しい程の瘴気が吐き出され、一行の行く手を妨げている。瘴気である為、即座に死へ繋がる物ではないだろうが、その石像の間を通る事は相当の覚悟が必要であり、体力が必要であろう。幼いメルエのような存在は、これ程の瘴気を一気に受けてしまえば、その場で昏倒する可能性さえあるのだ。

 幸いな事に、石像間で交わされる瘴気が部屋に充満せず、まるで線引きされているように一定間を覆っている。石像の異様さと、そこから吐き出される瘴気に呆然としていた三人は、最も幼い少女が杖を掲げた事に気付いた。

 

「そ、そうですね。メルエ、二人で行使しましょう。まずはメルエがトラマナを」

 

「…………ん………トラマナ…………」

 

 勇者であるカミュに同道している呪文使いは二人。その二人は、敵を打ち倒す攻撃呪文だけを唱える為に存在している訳ではない。回復呪文や補助呪文、そして移動呪文の他にも、このような場所を歩く為の呪文さえも契約を済ませているのだ。

 それは、世界を覆う程の恐怖を撒き散らす魔王に対抗出来る程の力を有する者である証。人類最高位に立ち、今やその契約数はエルフや魔族にさえ引けを取らぬ程になっている『賢者』と『魔法使い』だからこその力の証明であった。

 サラの言葉に頷いたメルエが雷の杖を高々と掲げ、詠唱を完成させる。四人を大きく覆うように少女の魔法力が展開され、周囲の空気を遮断した。それを確認したサラが同様の詠唱を完成させ、更にその魔法力を覆うように展開して行く。瘴気を遮断するだけではなく、その空気を濾過させるような効力を有する障壁が完成した。

 

「……行きましょう。この回廊の途中で魔物と遭遇する事は避けたいですが、魔物が待ってくれる訳もありませんから」

 

「大丈夫だサラ、私とカミュに任せておけ」

 

 サラとメルエが展開した障壁は、周囲の空気や地面への物であり、魔物の攻撃を阻止する事が出来る物ではない。魔物が行使する魔法を弾く事が出来るのは光の壁だけであり、物理攻撃を防ぐ壁を生み出す呪文はない。つまり、魔物と遭遇してしまえば、この障壁内で戦わなければならないのだ。

 余り激しい戦闘は不可能であり、尚且つメルエやサラの放つ強力な攻撃呪文も行使出来ない。それは彼等の戦力を半減させる要因であり、決して楽観し出来る物ではなかった。だが、それでも後方から頼もしい笑みを浮かべて答えるリーシャを見て、サラは心から安堵する。楽観視出来る状況でもなく、安心出来る場面でもないが、彼等の間にある絆や信頼感は、それに勝る程の物なのだろう。

 

「視認出来る程の瘴気か……」

 

「魔王城の先へ進める者かどうかの線引きが行われているのかもしれませんね」

 

 サラとメルエの魔法力に護られて進む中、リーシャはその瘴気の濃さに驚く。通常、瘴気など目に見えぬのが当然であり、まるで着色されているかのように目に見える瘴気は、通常の人間の心に恐怖の感情を植えつけるのに十分な威力があるものであった。

 この回廊は、サラの言葉通りの選別の間なのかもしれない。この瘴気の中を平然と進む事が出来るのは魔族や魔物であろうし、間違っても人間などが通り抜ける事は不可能に近い。どのような構造になっているのかは解らないが、この場で命を落とした者も数多いのかもしれない。

 

「……またか」

 

 等間隔に設置された四体の石像を通り抜けた一行は、その先にあった分かれ道を見て、軽い溜息を吐き出した。

 最早何度目になるか解らない別れ道を見て、辟易するなという方が無理なのかもしれない。カミュはいつものようにリーシャへ視線を送り、それに気付いたサラとメルエも彼女達が最も信頼する女性戦士へと視線を向けた。

 視線を受けたリーシャは暫し左右に顔を向け、行く先を確認する。向かって右手には下の階層に降りる階段が、左手には上へと向かう階段が見える。そしてその上の階層へ向かう階段を見たリーシャは何かを感じ取ったように素早くカミュへと振り返った。

 

「左だ!」

 

「……そうか」

 

 ここ最近では有り得ない程の声量で行く先を告げるリーシャに驚いたカミュではあったが、そのまま右手にある下への階段へ足を向ける。サラやメルエも何時もの事である為、何も不思議に感じずにカミュの後ろを付いて歩き始めた。

 だが、ここで歩き始めたカミュの足が止められる。カミュの肩に掛けられたリーシャの手は、恐ろしい程に力が込められており、その掌に血管が浮かび上がっていた。力を込められて握られた肩に痛みを感じたカミュが、眉を顰めて振り返ると、いつも以上に血相を変えた女性戦士の顔が寸前に迫っていたのだ。

 

「カミュ、今回だけは私の言う方へ行ってくれ! 何かが呼んでいるんだ!」

 

「……呼んでいる?」

 

 ここ最近は、自分の指し示す道の反対方向へ進む事を半ば了承していたリーシャが、ここまで抵抗を示す以上、その場所に何かがある可能性は否定出来ない。しかし、彼女の言葉の中にあるその一言が、カミュの中で何か嫌な予感を沸き上がらせていた。

 リーシャという女性戦士は、この四年間の旅の中で何度となく敵の呪文に惑わされている。混乱や眠りなども経験したし、幻に包まれる事も幾度となくあった。しかも、今回は今も吐き出されている濃い瘴気の中を突き進んで来た経過があり、カミュは瘴気の影響で何らかの悪い影響があったのではないかと疑っていたのだった。

 

「カミュ様、例え罠だとしても、それを突き破る事が出来る力を私達は有している筈です。不測の事態が起こった際は、不本意ではありますが、一度戻る事も出来ます」

 

「…………いく…………」

 

 リーシャの珍しい態度を見ていたサラは、迷っているカミュを動かす一言を告げる。それに呼応するようにメルエも言葉を繋ぎ、小さな溜息を吐き出したカミュは、進路を左手にある上り階段へ取ったのだった。

 慎重に階段を上った先には細い回廊が繋がり、一つだけある木窓から差し込む陽光だけでもその全てを照らし出す事が出来ている。魔物の姿はなく、その気配さえもない。危険性はないと判断したカミュは、そのまま回廊を真っ直ぐに進んで行った。

 先へ進むと見えて来たのは下の階層へ降りる階段。再び現れた階段に顔を見合わせた一行は、階下の様子を探りながらも、一歩一歩下へと降りて行く。再び一階部分になる筈の場所にも拘らず、漆黒に近い闇に覆われた場所の為、カミュとリーシャは『たいまつ』に火を点した。

 

「ちっ!」

 

「な、なんだ、これは……」

 

 階下へと降り、周囲にあった燭台へと炎を移したリーシャは突如として現れた物に目を見張り、カミュに至っては盛大な舌打ちを鳴らす。

 この階層は小さな一つの部屋しかなかった。その部屋は天井の高さは高く、広さもかなりの物となる。だが、それが彼等の驚きの理由ではなく、その部屋に置かれた一つの巨大な石像が彼等の意識を奪っていたのだ。

 トロールという巨人族と言っても過言ではない魔物と同程度の背丈を持つその石像は、禍々しい程の空気を放つ兜を被り、右手には人間の意識を圧倒する程の装飾が施された斧を持っている。その奥には何もなく、広間にはその石像一体しか置かれていない。だが、その石像は何かを護るかのように、階段がある方向に向かって立っていた。

 

「あの斧は……」

 

「……以前に泉の精霊様がお持ちしていた物ですか?」

 

 その石像に目を奪われていたカミュとメルエであったが、リーシャとサラはその石像の右手に握られている武器に目が行っていた。特に女性戦士にとって、その斧は意識の全てを持って行かれる程の存在感を示していたようだ。

 一言呟いたまま、固まってしまったように視線を動かさないリーシャに、サラはその武器を以前に見た場所を思い浮かべる。彼女は傍で不思議そうに見上げるメルエの顔を見て、嫌な思い出と共にその場所を思い出した。

 以前、最後のカギを入手した後に立ち寄った船の食料調達場所で、休憩を兼ねて一行が訪れた巨大な泉でそれを見ている。ミミズという未知の生物に興味を示したメルエが、それを嫌がるサラを追い駆けた際に泉に落としてしまった鉄の槍を巡っての一連の騒動。

 泉の精霊が落ち込むメルエに救いの手を差し伸べる。落ちた物とは別の物を泉から拾い上げ、その心の清らかさを試したのだ。その拾い上げた物は全てで三つ。

 一つは、只の檜の棒。

 一つは、サラの持ち物であり、メルエが落とす原因を作った鉄の槍。

 そして、今、目の前の石像が右手に持つ斧である。

 

「今の私ならば、アレを扱えるだろうか……」

 

 あの泉で斧を見た時も、リーシャはその斧に瞳も心も奪われている。

 彼女は『戦士』である。

 その手に武器を持ち、己の肉体とその武器の扱いのみで戦って行く者。

 故にこそ、彼女は誰よりもその斧に心を惹かれる。

 

「……あれ? 今、あの石像の目が動きませんでしたか?」

 

「…………うごいた…………」

 

 呆然と見上げるカミュと、石像の手にある武器に釘付けになっているリーシャの横でサラはその石像の変化に気付いた。そして、その問いかけを不思議そうに小首を傾げながら隣で見ているメルエにすると、サラの目を見て彼女は頷きを返す。

 魔王城という場所に居ながら緊張感が足りなかったと言われれば、それに反論する事など出来ないだろう。だが、如何に不可思議な出来事を見続けて来た彼等であっても、まさか石像が動くとは思わなかったに違いない。

 だが、それが危機を生み出す事になる。

 

「リーシャさん!」

 

 石像の右腕に気を取られていたリーシャが一瞬で消え去った。

 部屋の壁に叩き付けられる音を立て、人類最高位に立つ『戦士』が真横へ吹き飛んだのだ。斧を持った右腕ではなく、石像の左腕がリーシャを真横から殴り飛ばしている。サラの言葉通り、この石像が動き出した事の証拠であろう。

 何が起こったのか解らないカミュとメルエは、戦闘に入るのが遅れてしまう。サラは隣に居たメルエを後方へ弾き飛ばし、未だに呆然としているカミュへ大声を張り上げた。後ろに転がるメルエの苦悶の声が響くより前に、サラの頭上から巨大な岩拳が振り下ろされる。

 壁に叩き付けられたリーシャの安否は定かではない。その上で唯一の回復役と言っても過言ではないサラを失えば、この一行が全滅するどころか、人類だけではなく世界の命運の幕も閉じる事になりかねない。それだけの威力をこの石像の拳は持っていた。

 

「アストロン!」

 

 しかし、その危機は、世界を救う存在によって阻まれる。

 いつもでは絶対に聞く事の出来ない程の声量で唱えられた詠唱は、巨大な岩拳を受け入れるだけしか選択肢のなかったサラの身体を、何物も受け付ける事のない鉄へと変えて行った。

 振り下ろされた岩拳の方が砕けてしまったのではないかと思う程の轟音が広間に響き渡る。それ程の威力を持った一撃であり、もし『勇者』特有の呪文がなければ、サラの身体など跡形もなく潰れてしまった事だろう。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………イオラ…………」

 

 再度振り下ろされる拳を見たカミュが、杖を支えに立ち上がったメルエに向かって指示を飛ばす。その内容を正確に把握した少女が、その杖を石像に向かって振り下ろした。

 瞬間的に圧縮された空気が、一気に開放される。拳が生み出した轟音に勝るとも劣らない爆発音を生み出し、石像の拳を後方へと吹き飛ばす。続いて、態勢を崩した石像に向かって高々と掲げられたカミュの剣が、その力の一部を解放した。

 石像の顔面部分の空気が一気に圧縮され、凄まじい程の爆発音を立てて開放される。狭くはない広間の壁が揺らぎ、天井から細かな破片が舞い落ちて来た。

 

「はっ!? リーシャさんの具合を診に行きます!」

 

「頼む!」

 

 カミュとメルエの奮闘により、近々の脅威は回避出来た。轟く爆発音によってようやく意識を取り戻したサラは、反対側の壁に叩き付けられたリーシャの早急な回復が必要である事に気付き、駆け出して行く。その際、背中に掛けられた言葉を聞き、不謹慎ながらも小さな笑みが浮かんでしまうのだが、それはサラとリーシャにしか解らない感情なのかもしれない。

 岩で出来た石像に、多少の爆発が通用するかは定かではない。土埃と煙に撒かれた向こう側の魔物から注意を逸らさず、カミュは己の剣を握り締めた。

 サラという『賢者』は、最高位の回復呪文を習得している。腕や足を欠損していない限り、大抵の傷は治癒させる事が出来るだろう。故に彼は女性戦士の身を案じている訳ではない。だが、治癒途中で再度魔物の脅威に曝される事になれば、最悪命を落としかねない。その危険性がある以上、この未知なる魔物を彼女達二人の場所へ行かせる訳にはいかないのだ。

 

「ちっ! 無傷か……」

 

「…………むぅ…………」

 

 強大な敵とはいえども、メルエの呪文と神代の剣の神秘をその身に受けたのだから何らかの損傷をしているかもしれないというカミュの淡い期待は、煙の向こうにはっきりと見えたその姿に脆くも崩れ去る。カミュの足元で杖を握っていたメルエも、自分の魔法に何の効果もなかった事に不満そうに頬を膨らませていた。

 カミュの背丈の倍もあろうかという巨体がその巨大な右腕を振り下ろす。禍々しい威圧感を放つ巨大な斧が今代の『勇者』へと迫り、その素早い行動に避ける事が叶わないと悟った彼は両腕で盾を頭上へと掲げた。

 

「…………スカラ…………」

 

 盾に真っ直ぐ振り下ろされた斧が、龍種の鱗で覆われたその面に触れる直前に、人類最高位に立つ『魔法使い』の魔法力がカミュを覆った。魔法力によって緩和された斧の衝撃であるにも拘らず、カミュの身体が床に沈み込む。呼吸をしていてはその力に押し込まれそうになってしまう為、呼吸を止めたカミュの顔が赤く染まって行った。

 いつもならば横合いから救いの一撃を放ってくれる筈の女性戦士は、唯一の回復役であるサラの治療を受けている。抗う事の出来ない程の圧力から逃れる方法が思い浮かばないカミュの心に小さな諦めが生まれていた。

 どんな時でも彼が諦めという感情を持った事はない。いや、正確に言えば、彼は幼い頃からその生を諦めていたのだろう。故に、何が起ころうとも、何を見ようとも、どれ程の苦境に曝されようとも、諦めという感情を持つ事はなかった。

 既にどんな事も諦めているのだ。再度物事に希望を持つ事もなく、希望を持つ事がないからこそ諦めという想いを持つ事もない。

 そんな彼の心に、僅かではあるが諦めという感情が戻った。

 それは、彼の周囲にいる三人の女性が、絶え間なく注いで来た感情の結果なのかもしれない。

 

「バシルーラ!」

 

 『勇者』として生きる事を強要されて来た青年の心を変えて来た女性の一人の詠唱が、広間に響き渡る。リーシャが吹き飛ばされた方向から紡がれた詠唱は、一陣の風と、抗う事の出来ない程の強制的な反発力を生み出した。

 カミュに斧を押し付けていたその魔物は、見えない力に弾き飛ばされたように、その巨体を反対側の壁に叩き付けられる。巨体が壁にぶつかる轟音と、崩れる天井の一部が再び一行と魔物の間を裂いた。

 

「リーシャさんならば大丈夫です! まだ気を失っていますが、身体の異常は治癒しました!」

 

 圧力から開放されたカミュは呪文の行使者の方へ視線を送り、満足行く答えを貰い大きく頷きを返す。

 気を失っているとはいえ、屈指の戦士であるリーシャであれば、即座に目を覚ます事だろう。不意を突かれた為に思わぬ危機に陥った一行ではあったが、四人揃った状態で魔物に遅れを取った事など一度足りともない。ここからが本当の戦闘になるのだ。

 巨体の魔物はこの部屋から飛び出してはいない。外での戦闘であれば、魔物の姿は遥か彼方に吹き飛ばされていただろう。だが、篭城や襲撃を前提に造られたであろうこの魔王城の壁は、想像以上に堅固であり、巨体の石像が激しく衝突しても、崩れる事はなかった。

 起き上がる石像。その手に握られていた斧は、先程の衝撃で石像の手から離れてしまっている。だが、その身体には僅かな亀裂が入っているものの、その擬似的な生命に何一つ損傷はない。咆哮一つ上げず、奇声一つ発しない魔物が再び目の前に立つ事は、命を持つ生物にとって恐怖を感じさせる程の物であった。

 

<動く石像>

ネクロゴンドの城には、襲撃者を数多く討ち取り、退けて来た者達を讃える石像が数多く作られていた。その偉業を讃えるように、その力を讃えるように、石像の身体は実寸よりも大きく造られ、その偉大さを後世まで残して行ったのだ。

だが、ネクロゴンドにある城が魔族の手に落ち、その城を強大な魔法力を持つ魔王が居城とした頃から、その石像達には生前の英雄達の意思が蘇って行く。

それは、『襲撃者の排除』という使命。

城の平和を乱す者達を殲滅するという想いだけが宿った石像は、魔王の魔法力の影響もあり、その矛先を生前護り続けて来た者達に向ける事になった。

 

「メルエ、援護を」

 

「…………ん…………」

 

 立ち上がる石像の拳を掻い潜ったカミュは、その手にある稲妻の剣を横なぎに振るう。しかし、如何に神代の剣であろうとも、魔王の魔法力によって強化された石像を一刀両断出来る訳ではない。石像の左足部分を斬りつけるが、その足に小さな傷を生む程度の効果しかなかった。

 稲妻の剣に刃毀れはないが、打ち付けた腕に痺れは残る。眉を顰めたカミュに向かって間髪入れずに巨大な拳が迫っていた。唸りを上げる拳が直撃すれば、如何に神代の鎧を纏っているとはいえ、無傷では済まない。咄嗟に盾を構えたカミュの身体に圧倒的な衝撃が襲い掛かった。

 

「…………イオラ…………」

 

 カミュが衝撃の強さに耐えられずに後退し、それを追うように振り翳された拳を見たメルエは、その杖を真っ直ぐに振るう。再び爆発音が広間に響き渡り、動く石像の身体が再び反り返った。

 既に三度目となる爆発呪文に加え、先程のバシルーラによる壁への衝撃を考えると、この部屋が如何に耐久力に優れていたとしても、限界が近い可能性は否定出来ない。この場所で強力な攻撃呪文を行使する事は自滅行為に近いと言っても過言ではないのだ。

 

「…………バイキルト…………」

 

 そして、その事を理解出来ないメルエではない。自分の頭に降り注ぐ細かな埃や岩の欠片を見たメルエは、以前に受けたサラの小言を思い出したのだろう。即座にカミュの武器に向かって補助呪文を行使し、その魔法力を纏わせる事にした。

 ジパングという異国の国にある洞窟内で、ヤマタノオロチという強大な敵と戦闘を行った際、その洞窟の崩壊を危惧したサラは、爆発呪文を抑制するようにメルエを窘めている。その時は、イオとイオラという呪文の違いを理由に逆らうような態度を取ったメルエではあるが、現在の彼女は自身の魔法力が生み出す脅威を理解しているし、その脅威が大事な者を傷つける可能性がある事も明確に把握しているのだ。

 

「メルエ、よく耐えてくれました。あの魔物を弾く為には、爆発呪文も致し方ありません。それに、建物が壊れないように、調整してくれていたのでしょう?」

 

「…………サラ…………」

 

 そんな幼い少女の成長は、彼女を教え導き、その成長の過程を見守って来た姉のような存在に認められた。柔らかな笑みを浮かべたその顔は、メルエの心に勇気と安心を運んで来てくれる。大きく頷いたメルエは、再び自分達に襲い掛かる石像へと視線を送った。

 人類最高位に立つメルエという『魔法使い』の本気の魔法力でイオラを唱えていれば、如何に魔王の魔法力に護られた動く石像といえども無傷でいられる訳はない。そして、それ以上にこの場所が崩壊しない事など有り得はしないのだ。

 それを知っているサラは、メルエが魔法力を調整しながら、動く石像を怯ませる程度に爆発の規模を抑えているのだと考える。その証拠に、カミュの持つ稲妻の剣が生み出す神秘と、メルエの放ったイオラの威力に大差がなかった。神代の剣という事を考えても、メルエという稀代の『魔法使い』が生み出す力と拮抗するような物を、武器という存在が生み出す事など不可能に近い。ならば、幼い少女がその部分をしっかりと調整している事に他ならなかった。

 

「ふん!」

 

 サラがメルエの横に立ち、動く石像へ視線を送る頃、態勢を立て直したカミュの攻撃が再度動く石像の足を捉える。横薙ぎに振られた稲妻の剣が、再度石像の左足の膝裏部分に辺り、火花が散るように輝きを放った。

 先程のように弾かれる事なく突き刺さった剣の部分から、石像に小さな亀裂が入る。石像の足をける事によって剣を抜き放ったカミュ目掛け、もう片方の足が振られた。

 巨大な石像の足が唸りを上げる。そんな迫り来る脅威に盾を構えたカミュの横から一陣の風が吹き抜けて行った。

 

「うおりゃぁぁ!」

 

 飛び込んで来た人物が一気に振りぬいた細身の剣は、薄暗い部屋の中でも輝き、その残像を残す程に鋭い。世界で唯一の『賢者』の魔法力を纏ったその剣は、凄まじい勢いで迫る石像の足に突き刺さり、その膝から下を斬り飛ばした。

 巨大な足がまるでチーズを切るように斬り落とされ、その勢いを失う事無くカミュの方へ飛んで行く。自分の身体の半分以上もある巨大な足が自分に向かって飛んで来る事に気付いたカミュは、構えていた盾を下げ、横に飛んだ。僅かにカミュの左足に当たり、骨が折れる音が広間に響き渡る。その音を聞いたサラは、即座にカミュへと駆け寄った。

 

「あの馬鹿力が……」

 

「ふふふ。カミュ様、すぐに回復呪文を唱えます。それに、リーシャさんの援護がなければ、如何にメルエのスカラの効力があるとしても、全身の骨が砕けている可能性もあるのですから……」

 

 痛みに表情を歪めたカミュの悪態を聞いたサラは、再び不謹慎ながらも笑みを溢す。メルエの魔法力を纏っているカミュの稲妻の剣でさえ、その左足に亀裂を入れる事しか出来なかったにも拘らず、サラの緻密な魔法力を纏っているとはいえども、まるでナイフでチーズを切るように石像を斬ったリーシャに対する評価としては、余りにも酷い物だったからだ。

 それがカミュなりの信頼を示しており、その中に僅かばかりの悔しさを含んでいる事を知っているサラは、この二人の関係を羨ましく思えていた。自分よりも一つ年下ではあるが、何処か兄のように思う事もあり、姉のように慕うリーシャとのやり取りを頼もしく思う事も多い。

 それだけ感情の変化をして来た自分を不思議に思うと同時に、それ程の強い絆を築いて来た事を誇りに思う。笑みを浮かべながらも、無意識に溜まって来る涙が床へ一粒零れた事で、ようやくサラは自分が涙している事に気付いた。

 

「メルエを頼む。それと、全員にスクルトを」

 

「はい。補助と回復はお任せ下さい」

 

 足の骨が繋がれ、即座に立ち上がれる程に回復する最上位の回復呪文の凄まじさを実感したカミュは、驚きの表情を浮かべながらも、足の具合を確かめる。異常がない事を確認した彼は、剣をしっかりと握り締め、振り返る事無く動く石像と対峙しているリーシャへと視線を向けた。

 自分を見ようともせずに指示を出すカミュの言葉を、サラは何故か嬉しく感じる。そこには確かな信頼と、見えない絆があると胸を張って言える程の暖かさがあったからだ。歪む視界を強引に振り払い、前を向くカミュは見る事のない笑みをサラは浮かべた。

 人類最高戦力が、最高の形で結集した。

 

「…………マヒャド…………」

 

 片足を失い、身体の重心の置き場を失った動く石像が片腕を床に着ける。亀裂の入った左足に一撃を加えたリーシャは、そのまま一度飛び退いた。その瞬間を逃さず、メルエがその杖を振るう。

 一気に吹き荒れた冷気は部屋の全ての物を一瞬で凍りつかせて行く。人類最高位の『魔法使い』が唱える最上位の氷結呪文を見ると、外観で遭遇したスノードラゴンが吐き出す吹雪など児戯に等しい。カミュやリーシャの吐く息も瞬く間に凍りつき、動く石像の足元だけではなく上半身までも氷で包み込んで行った。

 石像が氷像に変わって行く。床に着いた腕をそれでも動かそうとするが、急速に凍りついた掌は床と結合しており、肘から先が折れてしまった。

 その状況を見たリーシャとカミュは己の武器を掲げて一気に動く石像へと駆けて行く。振り抜かれたカミュの稲妻の剣が亀裂の入っていた左足を斬り飛ばし、振り下ろされたリーシャのドラゴンキラーが根元から凍りつき始めた石像の首を強打した。

 バイキルトという付加呪文の支援を得たドラゴンキラーであっても、魔王の魔法力で強化された石像の首を斬り落とす事など通常であれば不可能である。それを考えれば、動く石像の足を斬り飛ばしたあの一撃は、リーシャという戦士の会心の一撃だったのであろう。

 

「最後だ!」

 

 完全に凍りついた石像の首には、先程のリーシャの一撃で亀裂が入っている。その亀裂に寸分の狂いもなく、再度彼女の剣が食い込んだ。

 金属が硬い物を叩いた音が部屋に響き、亀裂が一気に首全体へと広がって行く。飛び込んで一撃を繰り出したリーシャが着地すると同時に、床を揺らす程の振動を残して動く石像の首が落ちた。

 戦闘の終結である。

 息を吐き出したカミュが稲妻の剣に布を巻き始めるのを見て、メルエがその腰へとしがみ付いた。そんな少女の行動に苦笑を浮かべながらもサラが近づいて行く。だが、そんな三人とは一歩離れた場所で、リーシャだけは自分の剣を掲げてそれを見つめていた。

 

「刃が反れた……」

 

「ドラゴンキラーがか?」

 

 不思議に思ったカミュが近づくと、陽の光に照らすようにドラゴンキラーを掲げていたリーシャが小さな呟きを漏らす。その呟きを聞いたカミュは驚きに目を見開いた。

 刃が反ってしまったという事は、余りにも硬い物を斬った為に歪みが生じてしまった事と同意である。龍種の牙と爪を鍛えたドラゴンキラーは、龍種の鱗でさえも容易く斬るという逸話の元、その名が付けられていた。それにも拘らず、ドラゴンキラーの刀身が歪んでしまったという事は、それ以上に石像の強度があったのか、それともこのドラゴンキラーの改良の中で落ち度があったのかのどちらかという事になる。

 ドラゴンキラーの本来の形は、斬る物ではなく穿つ物である。それを剣としての機能を持つ為に、カミュが改良を依頼し、ジパングの鍛治が鍛え直した事によって、リーシャが持っている形へと作り直されたのだ。カミュがその剣を見た限り、ジパングの鍛治屋の腕に疑うような部分はない。それでも、本来の形の時よりもその耐久度が落ちているという可能性は捨て切れなかった。

 

「…………おの……ある…………」

 

 『龍殺しの剣』という名を持つ程の物の喪失というのは、武具を愛するリーシャにとってかなり心に堪える部分があったのかもしれない。そんな意気消沈した姉のような存在の様子を見ていたメルエが何とか元気付けようと、その足元に立って崩壊した石像の向こうを指差した。

 その場所に転がるのは、石像が持っていた斧。

 怪しく禍々しい程の輝きを放つその斧は、何かを待つようにその場所に横たわっている。

 

「あれ? 石像が持っていた時よりも小さくなっていませんか?」

 

「……また、その類の武器か」

 

 横たわる斧を見たサラは、その姿に一抹の疑問を持つ。斧の形態が余りにも不可思議な物だったからだ。リーシャの倍近くある巨人が右手に持っていた斧である以上、それ相応の大きさを持つ物である筈だが、床に横たわるそれは、カミュ達が持つ武器とそれ程大差ない。

 巨人が持っていた為大きく見えたのか、それとも巨人の手を離れた為にその大きさを変化させたのかは解らない。唯一つ言える事は、カミュの持つ稲妻の剣や、メルエの持つ雷の杖と同様、そのような武器であるという事だろう。

 

「アレはアンタの物だ」

 

「そうですね。リーシャさんの武器ですね」

 

「…………リーシャ……おの……つよい…………」

 

 ドラゴンキラーを腰の鞘に収めたリーシャは、横たわる斧の傍に近づき、震える手でその斧を手にした。吸い付くように右手に収まった斧は、ずっしりとした重量を持ちながらも、使い慣れた武器のような感覚にさえ陥る。

 両刃でありながら片方の刃が広く、その鋭さは近づいただけで切り刻まれそうな程。小さい方の刃も鋭く、その斧がまともに当たれば、全ての物を斬り裂くのではないかと思う程である。両刃を支える柄の先端には、龍種の首のようなオブジェが付けられてはいるが、その禍々しさは龍種ではなく魔族であると言われても納得する物であった。

 

「魔人の斧ですね」

 

「……ほぅ、それは私が魔人のようだという事か?」

 

 手にした斧を数度振るリーシャを見て、サラは久方ぶりに失言をしてしまう。サラにしてみれば、英雄を模したとはいえ、自分の倍近くの大きさがある石像が手にしていた武器である。あの石像を見る限り、『魔人』と称しても何らおかしくはないだろう。故にこそ、彼女はその斧を『魔人が持っていた斧』という意味で口にしたのだ。

 だが、その斧を手にした事で少なからず喜びを感じていたリーシャからすれば、何とも不快な言葉である事も事実である。元々吊り目気味の瞳を鋭く細めた視線を受け、サラは久しく感じていなかった冷たい汗の感覚を思い出した。

 

「あの兜も被ったらどうだ?」

 

「そ、そうですね! あの兜も良い品なのではありませんか!?」

 

 迫る恐怖に耐えられなくなったサラへ思わぬ助け舟が出される。その言葉に慌てて乗ったサラは、裏返った声で、床に転がる兜を指差した。

 そこには、先程の石像が被っていた兜が転がっている。こちらも、石像が装備していた時よりもその形状を変化させており、人間が被れる程の大きさになっていた。見た目は無骨な兜であり、特徴的な物は何一つない。使用されている素材は貴重な物なのだろうが、一目では解らない物であった。

 

「……あれは何か嫌だな。それに、石像が最後まで被っていた兜など、何処か縁起が悪いだろう。私の運気まで落ちてしまいそうだ」

 

「由緒正しい物かもしれませんけれど……」

 

 誤魔化すように提案したサラであったが、その兜に不思議な力があるのではないかと考えていた事も事実である。だからこそ、リーシャの余りの物言いに、驚いてしまったのだ。

 あの石像がどのような意図で作成されたのかを彼等は知らない。だが、形状を変化させるような武具が只の物である訳がない。何らかの謂れがある物である可能性は高く、それなりの力を備えている物であると考えるのが普通であろう。ましてや、リーシャの頭部を護る防具は、ポルトガ国で購入した鉄兜であり、この魔王城まで来た彼らにとって、心許ない防具であるのは確かであった。

 故に、サラは再度リーシャに勧めるのだが、そんな真剣な提案にもリーシャは頑として首を縦に振らなかった。

 

「アンタが被らないのであれば、必要のない物だ」

 

「……何か勿体無い気もしますね」

 

 カミュは父親が装備していた兜を被っており、サラやメルエが重い兜を装備する事は出来ない。必然的にリーシャが必要ないと言えば、その兜は打ち捨てて行く他ないのである。何か惜しい気持ちを捨てきれないサラであったが、満足そうに斧を背中に括りつけるリーシャを見て、それを持って行く事を諦めた。

 来た道を戻るカミュに続いて、マントの裾を握ったメルエが階段を上り、リーシャに促されたサラが続いた後、リーシャは石像の残骸へ最後に視線を送り階段を上って行った。

 闇と静寂が戻った部屋の中で、床に転がった兜からは、悲痛の声が響いていた。

 

<魔神の斧>

サラは、それを手にしていた石像や、その後を継承した女性戦士を見て、『魔の人』という意味で『魔人』と称していたが、本来は『魔の神』が所有していたと伝えられる斧である。魔族や魔物の頂点に立つ魔王という存在よりも遥か高みに存在する、『魔の神』。世界を手中に収める事が出来る程の力を持ち、精霊ルビスよりも高位の力を有する者である。遥か昔、世界に神や精霊しかいない時代に、戦い破れ、その部下と共に封印されたと伝えられる。その際に創造神が拾い上げた武器が、この斧と云われ、長い年月を経て『人』の世界に降りていた。

 

<不幸の兜>

リーシャが感じ取った通り、装備した者の運気を下げると伝えられる兜である。遥か昔英雄と呼ばれた者が装備していた兜であったが、その英雄がとある戦いで流れ矢に貫かれて死んだ事に始まり、その後の所有者も次々に不慮の死亡理由で他界して来た事から、敬遠され続けた兜である。三代目の所有者辺りまでは偶然の産物に過ぎないだろう。だが、度重なる不幸は人々の心に恐怖を運び、その恐怖を煽るように噂は肥大して行く。結果、その兜には不幸な死を迎えた者達の怨念が宿り、只の噂を真実へと変えてしまった。以来、この兜を装備した者は、自ら死地へと赴くような行動を取るようになり、装備者を不幸へ導く兜として『不幸の兜』と名付けられる事となる。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

バラモス城も三話目です。
ようやくこの武器を描けました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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バラモス城④

 

 

 

 瘴気を吐き出す龍の石像の部屋に戻った一行は、奥にある地下への階段を下りて行く。階段を下りた一行の目の前には上に戻る階段が見えていた。しかし、そこを上るように道を示したリーシャの言葉を聞いたカミュは、脇目も振らずに左手の通路を歩き始める。今回はカミュのその行動を止める事もなく、微笑むメルエに笑顔を返したリーシャは、その後ろを歩いて行った。

 細い通路には魔物の影はなく、カミュが持つ『たいまつ』の炎だけが揺らめいている。壁に映る四つの影が時に小さく、時に大きくなる姿は、幼いメルエにとって何度見ても気味の悪い物なのだろう。サラの手を強く握った彼女は、その腰に身体をくっつけるようにして歩いていた。

 そんなメルエの様子を微笑ましく見ていた一行は、その影の一つが大きく揺らめき、その影に鋭い瞳が浮かんだ事に気付いてはいなかったのだ。

 

「また地上に戻るのか……」

 

「……魔王となれば、地下にいそうなものですが」

 

 カミュ達の目の前に再び現れた上り階段が、彼等の心に広がり始めた疲労感を大きくさせる。明らかに落胆を示したリーシャに、メルエは笑顔を浮かべながら同じ行動をする。そんな二人を余所に、サラは先入観に支配された言葉を口にした。

 魔に属する物は地下という考えは、『人』の世界では常識と言っても過言ではない。だが、この城を囲む泉やその周囲の木々を見て、それが単純な先入観である事が解った筈。夜行性の強い魔物が多い為、彼等の暮らす場所は暗く湿った場所という考えが固定してしまったが、魔物といえども太陽の恵みがなければ食する物を失い、いずれ滅びて行く事になるだろう。

 もしそれでも、太陽を嫌い、闇だけを望む者がいるとすれば、それは魔物が栄える時代を望む者ではなく、世界の滅びを望む者なのかもしれない。

 

「どっちだ?」

 

「……右だな」

 

 階段を上がって直ぐに左右へ分かれる回廊が続いていた。

 リーシャの返答を聞いたカミュは、当然の事のように左手の通路へと足を向け、誰一人それに反論する事無く、その道を進んで行く。魔物の気配もなく、周囲に瘴気も満ちていない為か、彼等一行の心に若干の余裕が生まれていた。

 何処かに遊びに行くかのように、メルエはサラの手を嬉しそうに握り、その顔を見上げては小さく歌を口ずさむ。その様子を見る限り、この幼い少女はこの場所に何をしに来ているのかを正確に理解していないのだろう。彼女にとって『魔王バラモス』という存在はそれ程脅威を感じる存在ではないのかもしれない。

 それは、何もメルエの能力が魔王よりも上だからという訳ではないのだろう。魔王と名乗る存在から見れば、如何に人類最高位の『魔法使い』であっても、赤子のような存在である筈だからだ。だが、彼女はそれだけの力を持つ魔王の居城でも微笑を浮かべる。

 彼女にとって、最も強く、最も優しく、最も厳しい存在は、彼女を護る三人の大人なのだから。

 

「メルエ、しっかり歩け。この場所は呑気に散歩出来る場所ではないぞ」

 

「…………むぅ…………」

 

 しかし、そんなメルエの無邪気さも、この場所ではご法度であった。珍しくメルエに厳しい表情を見せたリーシャは、その行動を窘めるように強い口調で叱りつける。サラに纏わり付くように歩いていたメルエは不満そうに頬を膨らませ、顔を背けようとするが、それさえも拳骨による制裁を受けた。

 しょんぼりと俯いた少女は、サラの手を握りながら、魔王城の一階部分を歩き続ける。だが、その先にある上への階段を更に上り、再び城の二階へと足を踏み入れた時、不意に感じた視線にメルエは振り向いた。

 まだメルエが怒られていると思っているのかと思ったリーシャは、小さな笑みを浮かべてその心を落ち着かせようとするが、少女の視線は、リーシャの表情を捉えず、何かを探すように首をめぐらしている。変化したメルエの態度を不審に思ったサラも、魔物の気配を探して首を巡らせた。

 

「メルエ、何かいるのか?」

 

「…………??…………」

 

 暫し首を巡らせていたメルエだが、最後尾から近づいて来たリーシャの問い掛けに、首を横へと傾ける。カミュやサラが注意深く周囲を見回しても、魔物の姿どころか気配すらない。陽光が差し込む二階部分の回廊は、影を生み出す場所も限られている程に見渡す事ができ、この場所に一行以外がいない事は確かであった。

 だが、それでもメルエがこの場所で何かを感じた事は確かであり、それをカミュ達三人は何よりも信じている。自分達が感じる事の出来る気配など、メルエが感じる事の出来る気配の足元にも及ばない。この一行の中で誰よりも魔物の気配に敏感なのは、誰よりも幼い少女なのだ。

 

「カミュ、警戒を怠るな」

 

「わかっている」

 

 先程メルエの感じた物が魔物の視線や気配であるという確証はない。それどころか、この細い回廊で魔物の姿が見えない以上、身体が透明な魔物でもない限り、魔物がいないと考えた方が正しいだろう。しかも、メルエの経歴を振り返ると、彼女は霊体となったアンやその母親の姿も視認していた事からも、彼女が首を傾げるのであれば、この場所に魔物の襲来はないと考えても良い筈だ。

 だが、メルエが一度でもその気配を感じたのであれば、確かにこの場所に魔物が居たのだと三人は考えている。階段を上った直後であった為、もしかすると、階下から階段を昇って来ていたのかもしれない。

 彼等三人が警戒する理由としては、メルエが何かを感じたというだけで十分なのであった。故に、カミュ達は警戒の度合いを最大限に高め、回廊の突き当たりにある下り階段を下りて行く。一進一退の行動に辟易して来ている心は否めないが、再び気持ちを引き締めて行った。

 

「……広いな」

 

 一階部分に再度下りた彼等は、そこに広がる広間の大きさに少し驚きを表す。大きな広間に繋がる部分には、扉があったであろう部分もあるが、その扉は既に朽ち果てており、その場所に存在していない。その奥には大きなベッドが二つ置かれており、在りし日の姿は煌びやかな物であったのだろうと想像出来る物であった。

 高貴な者の寝室であったのかもしれない。壁に飾られた額であったのであろうと想像出来る物が床に落ちており、埃と不快な空気に部屋は満ちていた。

 

「寝室のようですね」

 

 奥へと通り抜けながら、サラは無残なその部屋の姿に言葉を漏らす。不気味な程に静寂に満ちているその部屋は、何処となく不穏な空気に満ちており、メルエはサラの腰に身体を付けるようにその横を歩いていた。

 再び扉が取り付けられていたと思われる金具を残した小さな吹き抜けを通り抜けた先には、地下へと繋がる階段があり、何度目になるか解らないそれを一行は間を開けずに下りて行く。地下独特のかび臭い空気が充満し、微妙な湿気を帯びた地下は、肌寒さを感じる程度の冷気が支配していた。

 地下の状況を確認したカミュは、『たいまつ』に炎を点して行く。点された炎が映し出された

場所は、細い回廊。真っ直ぐに伸びた通路は、染み出した雨水などが溜まり、小さな鼠などの小動物が突然照らされた事に驚き奇声を上げた。

 『たいまつ』一つでは明かりに乏しく、リーシャがもう一本の『たいまつ』に炎を点す。二つの明かりに照らされ、通路の岩壁には八つの影が重なり合った。

 

「メルエ、足元に気を付けて下さいね」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 その通路の半ばを過ぎた頃、右に折れるように通路が曲がり、更にその直ぐ先で左手へ大きく曲線を描く。その通路を曲がる際に、濡れた地面に滑ったメルエの身体を支えたサラが再度注意を促すと、頬を膨らませたメルエが、恨めしそうに地面を睨み、不意にその視線を後方の壁へと向けた。

 前方でカミュが掲げる『たいまつ』の明かりと、後方でこちらを見ているリーシャが掲げる『たいまつ』の明かりによって、メルエの影が暗明に差があれど、幾つも壁に映し出されている。その影を見つめるメルエの姿を見て、サラもその壁へと視線を向けた。

 それは、視線を向けられる側にいるリーシャにとっては、戦闘開始の合図である。背中に抱えた魔神の斧を手にしたリーシャが振り返った時、その存在が姿を現した。

 

「カミュ、敵だ!」

 

 メルエの影の一つが揺らめき、その影に瞳と口が浮かび上がる。人型ではないが、明らかに生物の影のような形をしたそれは、ゆっくりと壁から這い出るように現れ、『たいまつ』の明かりに照らされる事で漂うように揺らめいていた。

 周囲の壁の色と地面の土の色が反射し、緑色に発色しながら揺らめく影は、不気味な笑みを浮かべるように口らしき物を開き、その上部には瞳のように怪しく輝く光を放っている。

 軋むような不快な音を立てて笑う影を好意的に見る者はいない。サラとメルエを後方に下げたカミュは、リーシャと共にその影の前に対峙した。

 

「……実体を持たない系統の魔物だな」

 

「物理攻撃は無意味か?」

 

 揺らめく影を見たカミュは、以前から何度も遭遇した事のある系統の魔物だと判断する。それを聞いたリーシャは同意見だと頷きを返した後、斧や剣での攻撃が全くの無駄に終わるのかどうかを再度確認した。

 それに対し、首を横に振ったカミュではあるが、それは『物理攻撃が有効だ』と答える物ではなく、『見当も付かない』という意味を持つ物なのだろう。一つ息を吐き出したリーシャは、斧を両手で握り締め、揺らめきながら近づいて来る影に向かって一気に肉薄する。そのまま、影が何かをする暇を与えずに斧を振り下ろした。

 

「ちっ!」

 

 しかし、脳天から真っ二つに割られた影は、数度の揺らめきの後、再度身体の形を構築し、元の状態へと戻って行く。それを見たリーシャは、珍しく舌打ちを鳴らし、不快そうに眉を顰めるのだが、それだけで攻撃を終えるつもりはなく、横薙ぎに魔神の斧を振るった。追撃するようにカミュが袈裟斬りに剣を振り下ろし、影を縦横に四分割に斬り裂く。

 それでも、影は数度の揺らめき後に元の形状へと戻ってしまった。

 

「キキキ」

 

 まるで笑っているかのように軋む音を立てる影に、物理攻撃の効果は余りないように見える。しかし、後方から見ていたサラには、その影の大きさが若干縮まっているように見えていた。

 斬り裂かれた影を元に戻す前に霧散した物もあるのかもしれない。定かではないが、人類最高位に立つ前衛二人の攻撃が何の意味も成さなかった訳ではない事だけは確かであろう。それでも、削り取る事が出来た影の部分が僅かである事も事実であり、たった一体の影にこれだけの時間を掛けていられない事も事実。

 一気に勝負を決める為には、不快な笑みを浮かべて揺らめく影を一瞬でどうにかする必要があるのかもしれない。

 

<ホロゴースト>

暗がりに潜む影の魔物の中でも最上位に位置する存在である。光あるところに必ず存在するその存在は、魔王の魔法力を持って生まれた存在と云われており、その中でも最上位に位置するこの魔物に関しては、魔王の影とも噂されていた。魔王の影となり、魔王の目や耳の役割を果たす。時には魔王の邪魔となる存在の排除の為に動き、時には諜報部隊としての役割も果たしていた。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 前衛にいる二人へ下がるように指示を出した直後、その指示を受けた少女の杖が大きく振られる。杖の先にある禍々しいオブジェの嘴から巨大な火球が飛び出した。

 味方に被害が出ないように調整された火球であるが、以前洞窟内で遭遇した<怪しい影>を瞬時に溶かし尽くした火球よりも威力は高い。そんな火球が迫っているにも拘らず、ホロゴーストは不快な笑みを浮かべながら、揺ら揺らと漂っていた。

 

「なっ!?」

 

 火球が直撃する寸前でホロゴーストは横にある壁へと溶け込み、目標を失った火球は、逃げ遅れた数匹の鼠を巻き込んで後方の壁に弾け飛んだ。

 メルエの行使する火球呪文の速度は決して遅くはない。サラであっても、事前に何の呪文なのかを把握しなくては、対処呪文を行使する事は出来ないかもしれない程だ。それにも拘らず、まるでその火球を鼻にも掛けない態度で壁へと消えて行ったホロゴースト自体に、サラは驚きの声を上げた。

 数匹の小動物を巻き込み、死骸さえも残らぬ程に焼き尽くしてしまった事に眉を下げていたメルエは、謝罪するようにサラを見上げる。その視線に気付いたサラは、メルエの肩に手を置き、小さく微笑みを返した。

 

「今のはメルエが悪い訳ではありません。私がネズミさんに謝りますから、気を落としては駄目ですよ。まだ、あの影がいるかもしれませんから」

 

「…………もう………いない…………」

 

 小動物の命を奪う呪文を唱えたのはメルエであるが、それを指示したのはサラであり、その命を背負うのは自分の役目である事を幼い少女へと伝えたサラは、警戒するように周囲の壁へと視線を戻す。だが、そんなサラの足元で、最も気配に敏感であるメルエが首を横へと振った。

 姿が見えないというだけで、魔物の存在を否定する事をメルエはしないだろう。ならば、この地下に先程の影はいないという事になる。それは、両者共に被害なく戦闘が終了した事を意味していた。

 

「しかし、本当に厄介な魔物だな……」

 

「そうですね。私達がこの城へ辿り着いている事は、既にバラモスも知っているのでしょうが、先程の影が報告役だとすれば、これまで以上の妨害も有り得るかもしれません」

 

 斧の背中に括りつけたリーシャが、大きな溜息と共に壁に立てかけていた『たいまつ』を取る。そんなリーシャの横で、サラは何処か思案めいた表情を浮かべ、不穏な事を口走った。その言葉はこの一行の誰もが思いつかなかった事であり、カミュでさえも弾かれたようにサラへ視線を送る。

 これまでの旅の中で、強敵と遭遇する事は多々あった。カンダタという盗賊の親玉を含めても、その中の誰もが、カミュ達が襲撃する為に向かって来ている事を察している人間はいなかったのだ。ヤマタノオロチと呼ばれる太古からの龍種であっても、溶岩の洞窟の奥でカミュ達を目にするまでその襲来を予感していても、確信にまでは達していなかった。

 

「サラ、どういう事だ? 先程の影が魔王の斥候だというのか?」

 

「え? あ、はい……メ、メルエ、ネズミさんは余り綺麗ではありませんから、触っては駄目ですよ! 噛まれたりしたら、病気になってしまいます!」

 

 疑問を感じたリーシャの問い掛けは、その辺りの話に興味を示す事無く、甲高い泣き声を上げる鼠に興味を示して手を伸ばそうとしたメルエの行動によって霧散してしまう。屈み込むメルエを大慌てで立ち上がらせたサラは、その瞳を見て、行動を窘めた。

 叱られている訳ではない事が解ったメルエは、何故駄目なのかが解らず、不思議そうに小首を傾げる。とても先程までの戦闘で強力な火球を生み出した少女とは思えない姿に、リーシャは苦笑を浮かべた。

 鼠など、何処にでもいる生物ではあるのだが、不衛生な場所に多い事は事実であり、幼い赤子などは、鼠に齧られて死亡する事なども多い。アリアハンのスラム街などは、餓死した死骸などに群がる鼠が繁殖し、人の数百倍の数が生活していただろう。そして、スラム街での死亡理由として多いのが、餓死以外に原因不明の病気があり、それは鼠が齎した物ではないかという説もあった。

 しかし、どれ程人間社会で忌み嫌われる動物であろうと、メルエにとって害をなさない物であれば、それは興味の対象となる。アッサラームの家の中で何度か見た事はあるのだろうが、家の中で食事が取れないメルエには食料を取られたという記憶もなく、その頃の彼女には、逃げ出す小動物に興味を示す余裕はなかったのだ。

 

「ネズミさんが悪い訳ではないかもしれませんが、ネズミさんの身体は汚いのです。だから触っては駄目です」

 

「…………メルエも……だめ…………?」

 

 もう一度触ってはいけない理由を説明するサラに向かって、少し哀しそうに眉を下げたメルエが問い返す。その問い掛けを聞いたサラは、一瞬何を言っているのか解らなかったが、すぐにメルエの言いたい事を理解する事が出来た。

 メルエの頭の中では、『汚い=駄目』という構図が今の話で出来上がってしまっている。そうなれば、自分も汚ければ駄目なのかという想いが浮かんだのだろう。彼女は奴隷として売られる前から、湯浴みなどを滅多にさせてもらっていなかっただろうし、奴隷として連れられた馬車の中では、垢と埃に塗れていた。加えて言えば、今の彼女達四人は、暫くの間湯浴みを行ってはいないし、旅の埃や汗がそのままになっていると言える。

 

「ふふふ。そうですね、私達もこのままでは駄目になってしまいますね。この戦いが終わったら、ゆっくり湯浴みをしましょう」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの心配事が、このような場所に相応しくない程に和む内容だった事で、サラだけではなく、他の二人の表情にも余裕を齎した。

 『この戦いが終わったら』。

 その言葉にサラがどれ程の想いを込めているのだろう。本来では決して叶わぬ夢物語に近い願望。その願望の意味は、世界中の生物が抗う気力さえも失う程の力を有する『魔王バラモス』を打倒し、この世界と、この世界に生きる者達の平和を取り戻すという事と同義であるのだ。

 その偉業を成し遂げた者はおらず、数十年以上の間、それを望んで旅立った者達は悉くこの世を去っている。戦闘の終了後に湯浴みをする所か、この場所にも辿り着けずに魔物の餌となった者は数多い。そんな数多くの想いと屍を乗り越えて彼等はこの最終決戦の地に辿り着いた。

 だが、それでも、誰も辿り着く事が出来なかった魔王城へ足を踏み入れた彼らでさえ、超越する程の力を『魔王バラモス』は有しているだろう。なればこそ、その存在は『魔王』なのである。

 何者も届かず、何者も寄せ付けない程の絶対的な存在。

 それが『魔王バラモス』。

 今、その絶対的な存在を目の前にして、その先にある未来をサラが初めて口にした。誰しもが願いながらも、それを口にする事を忌み嫌っていたように避けて来た事柄を、一行の中にいる『賢者』が口にする。それは、想像以上に大きな意味を持っていた。

 

「そうだな。帰ったら、私がメルエの髪を洗ってやろう」

 

「でしたら、私は身体ですね。それに、リーシャさんの髪も整えないといけませんし」

 

 嬉しそうに未来を語る二人の女性に、幼い少女は花咲く笑みを浮かべる。その笑みは、暗く湿った地下道さえも照らす程の暖かな輝きに満ちていた。

 そんな三人のやり取りを見ていたカミュは、若干表情を和らげながらも、その脇を抜けて先へと足を踏み出す。この最後の城へ辿り着いてからも深まる各自の絆は、最早容易く切れるような物ではない。しっかりと結ばれたそれは、言葉にせずとも、各自の心に刻まれている事だろう。

 

 通路を先へと進むと、再び一階部分に続く階段が見えて来る。心を通わせ、未来を見つめる四人に、落胆という感情は既に存在しない。その階段の向こうに『魔王バラモス』がいるかのように厳しく瞳を細めたカミュは、一歩一歩確かめるように階段を昇って行った。

 階段の先は再び細い通路が続き、真っ直ぐに伸びた道を突き進むと、右に折れるように進む事になる。だが、その道を折れた瞬間、先頭のカミュの足が急に停止した。急停止した事でサラも寸前で足を止めるが、皆の足元しか見えないメルエは、そのままカミュの足にぶつかってしまう。何事かと最後尾から顔を出したリーシャは、歪む視界に愕然とした。

 

「瘴気に満ちているというよりは……」

 

「……瘴気のカーテンですか」

 

 その通路から於くの広間へと続く小さな入り口は、視認出来る程の瘴気によって覆われていたのだ。その奥の部屋全てが瘴気に満ちた場所という訳ではなく、その入り口が入る者を拒むように瘴気が降りていると考えた方が正しく見える。

 歪む大気がその瘴気の濃さを示しており、そのまま奥へ向かおうとすれば、高濃度の瘴気を吸い込んでしまい、身体にどのような異変が起きるかも解らない。だが、進まなくてはならない以上、この場で出来る事は唯一つである。

 

「メルエ」

 

「…………ん………トラマナ…………」

 

 瞬時に何をすべきかを悟った二人の呪文使いは、即座に障壁を作り出し、瘴気に対する壁を生み出した。高濃度の魔法力を更に均す事によって、障壁内の空気は澄んだ物へと変化して行く。頷いたカミュが一歩踏み出す事で、障壁がそのまま入り口の上部から降り注ぐ瘴気を遮って行った。

 だが、本当に驚くべき物は、魔族の本拠地である場所にあってしかるべきである高濃度の瘴気ではなく、その瘴気の壁に遮られた向こう側にある景色であったのだ。

 

「……謁見の間なのか?」

 

「向こうに見えるのは……玉座ですね」

 

 瘴気に周囲を囲まれたその場所は、瘴気を入り込ませない程の神聖さを保っており、真っ直ぐに伸びた赤い絨毯は、在りし日の名残を残している。赤い絨毯の先の一段上がった場所には玉座が設置されていた。

 それらが示す事柄は、ここは王が来訪者との謁見を行う場所であるという事実。各国の王城に必ず存在する、『謁見の間』と呼ばれる広間であるという事である。それは、明らかにこの城が国家の王城であった事も示しており、それが人間の国であったのか、それ以外の種族であったのかを知る術は残っていないが、この場所で国王となる人間が自国の家臣や他国の客人と相対していた事だけは確かであろう。

 ネクロゴンド王国とでも云うべきなのかもしれない国の中枢となる王城は、今や魔王の手に落ちている。魔族が棲み付き、昔の栄華の名残など欠片も見えない。それでも、この謁見の間を中心に国家を形成し、この場所を中心に微笑みと涙が入り混じり、数多くの生が育まれて来た筈である。

 

「この国家は遥か昔に魔族に滅ぼされたのか……許せんな」

 

「いえ、一概にはそう言えないでしょう。遥か昔、魔物や魔族がこの場所で平穏に暮らしていたのかもしれません。その場所に人間が入り込み、魔族や魔物を追い出して城を構えたのであれば、それは侵略者側の非です」

 

 国家に属する騎士として生きて来たリーシャは、朽ち果てた玉座へ視線を送り、悔しそうに唇を噛み締める。国家という物は、王族がその場所にいるだけでは成り立たない。その場所で生きる数多くの者達がいなければ、食料も生み出す事は出来ず、文化も生まれないのだ。

 この王城も、王族が建造を命じたとしても、その命で実際に動く者、そして実際に働く者がいなければ建立される事はなかっただろう。この国で暮らす数多くの者達の惨い死に様を想像したリーシャは、魔族や魔物に対する強烈な怒りに見舞われた。故にこそ、サラが口にした言葉が信じられなかった。

 

「サラ……魔物ではなく、人間が悪いというのか?」

 

「いえ、そういう訳ではありません。ただ、どちらが悪いと判断出来る状況ではないということです。第一に、この場所で国家を形成していた者が人間であると決まった訳ではありません。魔族が国家を形成し、魔族同士の争いで片方が敗れたのだったとしたら、この場所は元々魔族や魔物の生きていた場所となります」

 

 サラはこの四年の旅で大きく変化している。愚直に魔物を憎むだけの『僧侶』はここにはおらず、冷静な瞳で世界を見つめる事が出来る『賢者』となっていた。

 故に、この場所を見て自分の胸の内に生まれた憤りの炎を押さえ込み、この状況で何が解るか、何が考えられるか、という事を冷静に考える。この城が本当にネクロゴンド王国と呼ばれた王城なのか、それともそうでないのかを考えた際、今の自分達では答えに辿り着けないという事を理解するのだ。

 その答えがリーシャやカミュに受け入れられるかどうかは解らない。それでも、自分はこの場所で安易に答えを出すべきではないというのが、サラの答えであった。

 

「……ふぅ。熱くなってしまったな。済まない、サラ。私達が考える事は唯一つ。『魔王バラモス』の討伐である事を思い出した」

 

「アンタのその姿も随分久しぶりに見た気がするな」

 

 玉座をみたまま視線を動かす事もなく自身の考えを口にするサラを見つめていたリーシャは、肩の力を不意に抜き、息をゆっくりと吐き出す。自身が想像以上に熱くなってしまっていた事に気付き、その目的を再認識したのだ。

 そんな彼女の姿に小さな笑みを浮かべたカミュは、冗談とも本気とも取れる言葉を口にする。傍で不思議そうに三人を見ていたメルエも、出会った頃のリーシャを思い出したのか、柔らかな笑みを浮かべた。

 二人のその姿に羞恥を憶えたのはリーシャである。自分の昔の姿を語られる程恥ずかしい物はない。しかも、自分でさえも理解している恥部であれば尚更であろう。だが、羞恥に顔を赤くする彼女の姿が、尚更にメルエの顔に笑みを浮かべさせる事となった。

 

「そ、そこまで酷くはなかった筈だ!」

 

「いや、それに対しては同意出来ないな」

 

「…………リーシャ……おこる……………」

 

 最早、先程まで難しい表情を浮かべていたサラでさえも、頬が緩んでしまう。微笑みながらカミュのマントの中へと逃げ込んだメルエの姿が更に笑いを誘って行った。

 滅びし国家の謁見の間で繰り広げられるやり取りは一時の休息となり、羞恥に燃えるリーシャから逃げるように外へと繋がる大手門を開けるのだが、そんな休息時間は一瞬の物となる。巨大な門を押し開けて外へと出た一行は、そこに蔓延する強大な威圧感に足が竦んでしまう。門を出た左手であり、城の東側にある泉の方から来る強大な魔法力と、それに伴う威圧感は、ここまでの四年の旅の間でも感じた事のない程の物であった。

 

「いよいよか……」

 

「ああ」

 

 羞恥に燃えていた顔は自然と引き締まり、拳を握る力は強まる。先程とは異なる熱を帯びた身体は、この四年の旅の集大成を迎える為に小刻みに震え始めた。

 それは、恐怖の震えでも、感動の震えでもない。この四年の旅で培って来た物全てを吐き出して戦う事への武者震い。彼等は今、ようやくその場所に立ったのだ。

 横一列に並んだ一行は、泉の中央に続く橋の前に立ち、凄まじい威圧感が漏れ出す地下へ向かう階段に視線を送る。各々の表情にそれぞれの経験が宿っていた。

 アリアハンを出た時は、『勇者』であるカミュ、『戦士』であるリーシャの二人だけでの出発。しかし、アリアハン城を出立し、アリアハン大陸の平原を歩き始めた時に彼等を追って来た『僧侶』であるサラが同道する事となる。そして、三人での過酷な旅は、ロマリア城でのカミュ王誕生という小さな事件を経て立ち寄った森の中で、幼くとも才能溢れる『魔法使い』メルエが加わる事によって、様変わりを始めた。

 

「メルエ、魔法力はたくさん残っていますか?」

 

「…………ん…………」

 

 教会の教えを愚直に信じる『僧侶』と、残酷な程の幼年時代を送って来た『勇者』とのやり取りは、幼い『魔法使い』を怯えさせる程に過激な物であり、常に平行線を辿る。アリアハンを出たばかりの頃は、そんな『僧侶』と共に『勇者』を糾弾していた筈の『戦士』は、誰よりも一行の心を見て、その変化を感じていた。

 『自分が変わって行く事を否定しない』という戦士の言葉が、常に教えが最優先だった僧侶の思考に一石を投じ、多くの醜さを持つ『人』の心に残された美しさを見る事によって、僧侶は常に迷い、悩み、泣く事となる。

 『誰しもが幸せに生きる事を許されている』という彼女の言葉は、奴隷として売られた幼い少女を救う時に出た言葉。それは、何度も彼女を苦しめ、何度も彼女に涙させる言葉となった。

 そんな僧侶が後の苦しみを生みながらも救った少女は、類稀なる才能を秘めた魔法使いとなる。戯れのように魔法陣へと導いた勇者がその後長く後悔する程に、彼女は容易く呪文の契約を済ませ、その後も次々と高位の呪文の契約を済ませて行く。世間一般の魔法使いが一生を掛けて使用する『魔道士の杖』と心を通わせ、只の道具である筈の杖が限界を超える程に耐え続ける事が出来たという不思議な魅力をも持った少女であった。

 常に苦しみ、悩み、考え、泣いて来た僧侶は、人類を救うと謳われる『賢者』となり、今その元凶の許へと辿り着く。そして、不思議な魅力を持つ少女は、その生い立ちが徐々に明らかにされながら、『悟りの書』に記された古の賢者が手にした呪文の契約まで済ませ、今、人類最高位の『魔法使い』となっていた。

 

「カミュ、遂に私達はここまで来たのだな……」

 

「……まだ『来た』だけだ」

 

 その勇者の在り方に疑問を持ち、アリアハン出立時には勇者として認めないと心に誓った戦士は、旅を続ける中で、その青年の心を知る努力を続けて行く。何度も衝突しながらも強引に心へと踏み込んで行く姿勢は、時に鬱陶しく、時に嫌悪の感情を受ける事もあった。それでも諦めず、その心に踏み込んで行った彼女は、その青年の広い心と、深い優しさを知る事となる。そして、青年が生み出す必然を認め、彼こそが『勇者』であり、彼だけが『勇者』であると認めた。

 アリアハンという辺境の小国を出立した時から常に隣を歩み続けて来た戦士は、勇者として祀り上げられた青年の心に大きな扉を開ける事となる。彼にとって頭が固く、短慮で、粗野であるという認識があったその戦士は、誰よりも深い慈愛を持ち、誰よりも他人の心を慮る優しさを持っていた。

 魔法力もなく、只武器を振るうだけしか能がないと悩むその心の根は、共に旅をする若すぎる呪文使い達の心と身体を想っての事。騎士としての誇りを持ち、精霊ルビスという存在を信仰しながらも、賢者となる女性を前へと進める為、その至上の存在にも斧を向けると宣言する程の熱い心も持ち合わせていた。勇者の青年にとって、一人旅を続け、誰も知らぬ場所でその命を散らす事を目的とする旅は、この一人の女性戦士によって、死ぬ事が許されない旅へと変化をして行く。どれ程の強敵に遭遇しても、剣を振るう彼の横にあり、お互いの動きやそれに伴う考えさえも理解出来る程に回数を重ねた戦闘の中で、いつしか彼が最も頼りとする最高の『戦士』となって行った。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 各々の頭にこれまでの旅が蘇り、それを振り払うかのように『勇者』が一歩足を前へと踏み出したその時、青年の横に立っていた少女が、振り向き様に杖を大きく振るった。

 巨大な魔法陣が浮かび上がり、先端のオブジェの嘴から灼熱の炎が飛び出す。そのまま一行の後方へ着弾した炎弾は、立ち上る炎の壁を生み出した。それと共に水分が蒸発する巨大な音が庭園に響き渡り、蒸気が空へと立ち上る。

 一行の心や、場の空気さえも読まない魔物の出現に、一行は眉を顰めながらも即座に戦闘態勢に入った。

 

「……厄介だな」

 

「はい……相殺し切れなかった冷気がここまで来ている事から、マヒャドだと思われます。全員がマヒャドを行使するとなると、厳しい戦いになります」

 

 蒸気の霧が晴れて行く中、一行の肌を刺すような冷気が周囲を満たして行く。そして、横並びになっている一行と相対するように、正面の魔物も横並びに四体が立ち並んでいた。

 その魔物はエビルマージ。魔物の中でも魔法に重きを置いた上位の魔物である。両手を広げながら、今にも呪文を行使しようと身構えるその姿が、一行の胸にある小さな不安を煽っていた。

 メルエが放ったベギラゴンという最高位の灼熱呪文でも相殺し切れない程の冷気となれば、ネクロゴンドでメルエが行使した最高位の氷結呪文以外は有り得ない。魔法に重きを置いた魔物の放つ呪文である以上、人間であるメルエの呪文で完全に相殺する事は不可能に近い。しかも、それが四体となれば、サラという世界唯一の賢者の呪文を足しても、相殺する事は出来ないのだ。

 この最終局面で、これ程に厄介な敵はいない。魔王バラモスという強大な敵を前にして、サラやメルエの魔法力を温存したいというのが、一行の考えであるのだが、そうも言っていられない状況に追い込まれてしまった。

 

「カミュ、一気に倒すぞ。時間を掛ける分、私達は不利になる」

 

「アンタに魔法力はない。マヒャドをまともに喰らえば即死も有り得る」

 

 一気に肉薄し、一撃で数体のエビルマージを倒してしまいたいのはカミュも同じである。だが、カミュとは異なり、リーシャに呪文の耐性は期待出来ない。ある程度は大地の鎧やドラゴンシールドが緩和してくれるであろうが、肉体は別である。最上位の氷結呪文は、その肉体の中までも凍らせてしまう程の威力を秘めており、そうなってしまっては、如何にベホマといえども完治は難しい可能性があった。

 

「……時間は余りなさそうです。空が曇って来ました……雨が降り出せば、氷結呪文の防御が厳しくなるばかりか、凍結を早める事になりかねません」

 

「ちっ!」

 

 状況を分析しながら剣を構えていたカミュは、サラの言葉で空を見上げて舌打ちを鳴らす。先程まで暖かな光を降り注いでいた太陽が、今は雲の陰に隠れてしまっていた。そればかりか、その雲は黒々とした厚い物で、雨ばかりか雷さえも宿した物である事が解る。

 これ程の雷雲となれば、降り注ぐ雨の量は想像に難しくない。相当の量の雨が降り出せば、屋外であるこの場所の地面に水は溜まり、カミュ達全員の身体は濡れる。濡れた物ほど、凍らせる事は容易であり、エビルマージが唱える氷結呪文の脅威が増す形となる事は想像出来た。

 

「俺が先頭で行く。アンタは、俺の影から必ず一体は倒してくれ」

 

「……わかった」

 

 カミュの言葉に渋々ながら頷いたリーシャが、魔神の斧を握り込む。二人の瞳の間で交わされた会話は、彼等以外には解らないだろうが、それを機にカミュは一気にエビルマージへと駆け出した。

 緑色のローブを纏った四体の魔物は、迫り来るカミュの姿を見て手を翳す。その動きを見て、サラとメルエが動き始めた。先制するように魔封じの呪文をサラが唱えるが、カミュの突進に身構える三体のエビルマージは、それを嘲笑うかのように手に魔法力を溜め始める。

 しかし、最後の一体が、他のエビルマージと同様に手を掲げたまま何やら慌て始めたのを見て、リーシャは好機と判断し、魔神の斧を手にして駆け出した。

 

「呪文を封じられた奴は後だ!」

 

 そんなリーシャの行動を叱りつける様にカミュは叫び、一体のエビルマージが呪文を詠唱終える前に、その身体の肩口から斬り付ける。鋭い斬り口を残し、稲妻の剣がエビルマージの身体抜け、一泊置いてから激しく体液が噴き出した。

 崩れるようにエビルマージが地面へと倒れるのを見届ける暇もなく、カミュは前方へドラゴンシールドを掲げる。身体の芯まで凍りつきそうな程の冷気が周囲を支配し始め、カミュの足と地面を縛りつけた。

 

「ベ、ベギラマ……」

 

「メルエ!」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 微かに動く右腕を振り、凍りつく口を強引に開いて完成させた詠唱により、カミュの周囲が炎に包まれる。だが、エビルマージが唱えたマヒャドに対し、圧倒的に威力が違い過ぎた。カミュの生み出した炎の壁は、燃え上がる前に鎮火して行き、足元の氷を若干溶かす程度にしか効力を現さない。

 もし、サラの指示がもう少し遅かったり、その指示に即座にメルエが応えなければ、カミュは身体の芯まで凍りついた氷像と化していただろう。だが、人類最高位に立つ『魔法使い』が唱えた最上位の灼熱呪文の熱気が彼を包み込み、その身体を覆っていた冷気を吹き飛ばして行った。

 

「いやぁぁ!」

 

 自身の放った最上位の氷結呪文が霧散して行くのを呆然と見ていたエビルマージにリーシャの斧が振り抜かれる。だが、『魔の神』が所有していたこの斧は気まぐれであり、定めた主をも試すような行いをするという言い伝えがあった。

 剣よりも斧を持っての戦闘の時間の方が長くなっているリーシャであったが、振り抜いた斧の重さが急激に重くなったような錯覚に陥る。重心がぶれた斧は、エビルマージの身体に触れる前に波打ち、そのローブを僅かに斬り裂いたのみに留まった。

 

「R@L1H0」

 

「えっ?」

 

 リーシャが攻撃を失敗する事など、この四年余りの旅の中で一度もない。マヌーサなどの呪文によって幻に包まれている時であれば別だが、エビルマージがそれを唱えた様子はない。それにも拘らず、その手にした斧が空を斬った事にサラは声を失った。

 だが、この場所は『魔王バラモス』の居城。そのような呆けている時間は与えられる筈がない。未だに身体を覆う冷気からの完全脱出を果たしていないカミュと、先程斧を振りぬいた態勢のリーシャが、突然その場で倒れ伏したのだ。

 何が起きたのか理解が追いつかないサラであったが、今まで傍観した一体のエビルマージが何かを行使し終えたように手を翳している事に気付き、最悪の展開を頭に浮かべてしまう。その魔物の手から発せられた呪文が『死の呪文』であったとしたら、倒れ込んだカミュとリーシャは、既に生を手放した存在という事になってしまうのだ。

 愕然とするサラの視界に、先程マヒャドを行使したエビルマージが再度両手に魔法力を集めている姿が映り込む。それが倒れ伏した前衛二人に向けられている事に気付き、サラは自分の横で杖を持っているであろう少女へと視線を送った。

 

「メ、メルエ!」

 

 しかし、サラの横で杖を持ちながら呪文の準備をしている筈の少女の姿はなく、視線を下に落とすと、その少女は前衛二人と同様に地面に倒れ伏していたのだった。

 杖を握ったまま、地面に頬をつけるように倒れているメルエの姿は、苦痛に満ちた物ではない。だが、それがサラの心の不安を大きくする。『死の呪文』を受けた者は、死へと誘う言霊に運ばれ、その魂を手放してしまう。そこに身体的苦痛は皆無なのだ。

 

「はっ!? ベギラゴン!」

 

 自分の横で倒れるメルエの姿に意識を持っていかれてしまったサラではあったが、エビルマージの周囲の空気が冷えて行くのを感じ、咄嗟に詠唱を完成させる。その呪文は、既に人類最高位の『魔法使い』が習得してはいるが、この『賢者』にとっては契約を済ませたばかりの初詠唱の物であった。

 倒れ伏すカミュとリーシャの上を吹き抜けた熱風は、二人とエビルマージ達とを遮るように灼熱の壁を生み出す。一歩遅れたエビルマージのマヒャドがその壁に衝突し、瞬時に蒸気へと変化して行った。

 メルエよりも威力に劣るサラのベギラゴンではあったが、先に着弾した事と、緻密な魔法力によって構成された炎の壁が、魔物の氷結呪文を必死に食い止める。しかし、それも時間の問題であり、敵であるエビルマージは残り三体。一体の呪文を封じているとはいえ、サラ一人で何とか出来る相手ではない。

 

「メルエ……眠っているのですか……」

 

 メルエの状態を見ようと屈み込んだサラは、倒れ伏す少女の小さな胸が規則正しく上下している事を確認した。そこまで来て、ようやく自分が焦りでかなり心を乱していた事に気付く。

 前衛にいるカミュは、『死の呪文』の身代わりとなる『命の石』を所持している。サマンオサ大陸にて、ラーの鏡が安置されていた洞窟で発見したそれを、満場一致で彼へと渡していたのだ。故に、彼が『死の呪文』によって命を落とす事は有り得ない。ならば、先程エビルマージが唱えた呪文は、『死の呪文』であるザラキではなく、眠りへと誘うラリホーであったと考えるべきだろう。

 この一行の力量は魔物相手であっても遅れを取る物ではない。通常であれば、ラリホーのような精神異常を起こす呪文は、そこまで効き目はなかった筈だ。

 だが、エビルマージという魔物の中でも上位に入る呪文使いが行使したという事とが原因の一つであり、それ以上の要因として、ここまでの道中で一行は自分達が考えているよりも疲労していたという事だろう。

 バラモス城に入ってから既に二日近くの時間が経過している。昨夜は全員が十分な睡眠を取る事が出来ず、ここまでの道中では一瞬も気の抜く場所はなかった。常に周囲を警戒し、解らぬ道に戸惑いながら、緊張と緊迫感に胸を圧されながら突き進んで来たのだ。

 

「メルエ……行って来ますね」

 

 ならば、何故サラだけが眠りに落ちなかったのか。

 それは、『精霊ルビス』の加護の賜物なのか。

 否である。

 彼女は、この一行の中で唯一、エビルマージが唱える精神異常の呪文を警戒していたのだ。常に魔物の手に注視し、それが何を行使しようとする為の物なのかを解読しようと必死であった。

 カミュ達三人の警戒が足りなかったという訳ではない。だが、その警戒に対しての注視力が異なっていたのだ。

 

「邪魔です!」

 

 全速力でカミュ達の許へと駆け出したサラは、その間にいるエビルマージを一刀の元に斬り捨てる。最早、呪文さえも行使出来ないエビルマージなど敵にもならない。倒れ込んだ魔物の身体に遅れ、緑色のローブに包まれた首が落ちて行った。

 サラの持つゾンビキラーという剣は、この世に生を持たない者達に絶大な威力を有する物ではあるが、鍛え上げられたその刃は、それ以外の者に対しても剣としての威力は十分に有している。それを手にしたサラという『賢者』も、カミュやリーシャには及ばないまでも、人類の中では上位に入る程の力量は有していた。

 地獄の騎士や、動く石像などの直接攻撃を主とする者に対して抗う事は出来ないまでも、エビルマージのように呪文に主力を置く敵であれば、剣技で圧倒する事は可能なのだ。

 

「M@HY@5」

 

「マホカンタ!」

 

 サラは『賢者』になってから、『悟りの書』にある呪文を数多く取得して来ている。攻撃呪文に関して言えば、メルエの方が習得は早く、威力も圧倒的に高い。それ故に、戦闘で必要性がない限り、サラは攻撃呪文を行使する事を控えていた。

 だが、決してサラが呪文を習得していない訳ではなく、常にどの呪文も行使出来るように準備は進めて来ている。メルエの成長の為に一歩引いた立場で補助呪文や回復呪文の行使に徹してはいても、味方の危機とあれば、その限りではない。

 自身の持つ全ての呪文を行使し、魔物と渡り合う。呪文の知識、理解力、どれを取っても、彼女が人類で最高位に立つだろう。どのような時に、どんな呪文を行使するべきなのか。そして、それがどのような結果を生むのかも理解しているからこそ、彼女は『賢者』なのだ。

 

「ザメハ!」

 

 放った氷結呪文が自身へ跳ね返って来た事に戸惑っているエビルマージ達の隙を付き、サラは詠唱を完成させる。それは『悟りの書』に記載されていた一つ。このような危機がある事を予測していたかのように記載されていた魔法陣による契約を、サラは済ませたばかりであった。

 彼女が歩む道を、彼女よりも前を歩いて切り開いて来た『勇者』を、その細く頼りない道を歩む事に迷う彼女をいつでも正道へと引き戻してくれる『戦士』を、そして彼女を姉のように慕いながら、いつも和みと決意を齎してくれる『魔法使い』を再びこの戦場へと戻す為に、彼女は力の限りその呪文を詠唱する。

 

<ザメハ>

深い眠りに落ちた者を強制的に引き摺り起こす呪文。『睡眠』という、生物であれば生きて行く為に必要な欲を押さえ込み、逆にその欲を霧散させる呪文であり、それはある意味で考えれば、生物を死に至らしめる程の魔法である。故にこそ、古の賢者は、この呪文を『悟りの書』に記載する事によって封じ込めたのだ。

 

「カミュ様! リーシャさん!」

 

 瞬時に眠気を振り払ったカミュとリーシャが立ち上がる。己が置かれた状況を全て把握していないまでも、そこは人類の頂点に立つ『勇者』と『戦士』である。後方にいた筈のサラがこの場所におり、そのサラが大声で自分達へ指示を出している。それだけで彼等には十分であった。

 一瞬で間を詰められたエビルマージは、振り抜かれた魔神の斧を避ける事は出来ない。今度は重心がずれる事はなく、むしろ重さを感じない程に手に吸い付いた魔神の斧は、エビルマージの身体を両断した。

 凄まじい威力で振り抜かれた為、エビルマージの上半身が魔神の斧の刃の上に乗り、そのまま遥か彼方へと吹き飛ばされる。体液さえも置き去りにして吹き飛ぶ斧の威力に一瞬足が鈍ったカミュの前にエビルマージの魔法力が集まっていた。

 

「…………マホカンタ…………」

 

 しかし、そんなカミュを光の壁が包み込む。目の前で吹き荒れる冷気が、光の壁に反射されて行使者であるエビルマージへと襲い掛かった。

 サラの行使したザメハは、後方にいる幼い少女の眠りさえも打破していたのだ。振り抜かれた杖を握り、真っ直ぐに魔物を捉えた瞳は、強い光を宿している。

 元々自分の行使した呪文であり、攻撃呪文は氷結系しか持ち合わせていないエビルマージにとって、跳ね返って来るマヒャドは脅威ではない。しかし、その冷気の壁を突き抜けて来る、天の怒りのような剣は、この魔物にとって命を奪う威力を十分に有していたのだった。

 袈裟斬りに入った剣は、肩口から腰までを斬り裂き、エビルマージの身体を斜めに両断して行く。剣が抜けてから、暫しの時間を掛け、エビルマージの身体はずれるように地面へと落ちて行った。

 

「ふぅ……何とかなりましたね」

 

「すまない……たすかった」

 

 四体全ての死骸が散らばる中、ようやくサラが安堵の溜息を漏らす。そこでようやく自分達が置かれていた状況を理解したカミュは、小さくサラへと頭を下げた。

 駆け寄って来るメルエを抱き上げたリーシャではあったが、再び自分が魔物の呪文によって眠りに落ちてしまっていた事を知り、カミュと共に頭を下げる。それを見ていたメルエも、サラへ向かって、リーシャの腕の中から小さく頭を下げていた。

 

「い、いえ! 初めての呪文でしたから、成功して良かったです」

 

「最近は、サラが初めての呪文を行使する事が多いな。それだけサラも成長し、『悟りの書』に記載されている物を見る事が出来るようになったという事か」

 

 ベホマに続き、サラが新呪文を行使した事を知ったリーシャは、笑みを浮かべてその健闘を讃える。安堵の溜息を吐きながら、何処か引き攣った笑みを浮かべるサラを見て、それ程まで緊迫した状況であった中で、緊張と共に行使したものである事を悟ったのであった。

 しかし、そんなリーシャの笑みは、『ふぅ』と息を吐き出すと共に片膝を地面へと突けてしまったサラを見て凍り付く。そんな姿を見た事は数度ある。それの意味する事を知っているカミュの表情も一気に険しくなった。

 

「だ、大丈夫です。魔法力切れではありません」

 

 近寄って手を貸そうとするリーシャを手で制したサラは、静かに立ち上がり、着ている法衣に付いた砂を手で払う。しかし、その表情を見る限り、それ程余裕があるようにも見えない。むしろ、今は魔法力が切れてはいないが、それも時間の問題のように見えるのだ。

 そして、同じ呪文使いであるメルエへと視線を移したカミュとリーシャは、幼い少女の表情を見て眉を顰める。彼女の表情にも余裕はなかったのだ。常に笑顔を浮かべる少女の顔に余裕はなく、何処か神妙にサラを見つめている。それを見たカミュ達は、一抹の不安に駆られた。

 

「正直に言えば、私もメルエも余裕はありません。このまま『魔王バラモス』に挑んでも、十分に力を発揮出来るとは言えません」

 

「ど、どうするんだ?」

 

 そんな二人の不安を煽るように告げられたサラの告白に、リーシャは心から動揺してしまう。サラが弱音を吐く事は初めてではない。だが、このような場面で、しかも『賢者』の顔となっているサラが弱音を吐くなど有り得る事ではなかった。

 それが尚更、この状況が切羽詰った物である事を物語っている。動揺してしまったリーシャを責める事など誰にも出来よう筈がない。その隣にいるカミュでさえ、何一つ言葉を発する事が出来ず、黙り込んでしまっていた。

 

「ここまで来て、このような事を言うのは悔しいのですが、一度戻って態勢を立て直しましょう。この場所からなら、ランシールが最も近い筈です。一日休息を取り、もう一度この場所へ挑みます。それが、最も確実な方法だと思います」

 

「……カミュ」

 

「……一日二日で世界が滅びるのならば、疾うの昔に滅び去っている筈だ。ルーラで一度ランシールへ戻る。この場所なら、魔王の張った結界なども感じない。ルーラでも移動は可能だろう」

 

 カミュの瞳を見て語るサラの提案は、通常ならば受け入れるに値しない物である。彼等の目的は『魔王討伐』であり、その魔王まで最早目の前なのだ。次にこの場所へ来れる確証もなく、この場所へ辿り着いたとしても、その時に魔王がここにいるとは限らない。

 それを理解しているからこそ、リーシャは救いを求めるようにカミュへ視線を向けた。だが、そんな一行のリーダーである青年の口からは、サラの提案を受け入れる言葉が発せられる。

 確かにカミュの言うように、僅か数日で世界が滅びてしまうのであれば、そのような時間は遥か昔に過ぎ去っているだろう。魔王によってこの世界の全ては破壊され、人間などは一人も残っていないかもしれない。だが、それも希望的観測に過ぎなかった。

 そんな不確定な物で好機を逃す事を否定しようとしたリーシャであったが、カミュの瞳を見て、それを諦める。彼の瞳の中には、何か確信めいた光が輝いていたからだ。

 彼がこのような瞳をする時、その胸にはリーシャやサラでさえも解らない何かが秘められている。それを細かく説明しようとはしないため、時折口論になって来た経歴はあるが、それでも彼がこの瞳をする時、それが間違っていた例はなかった事も事実であった。

 

「……仕方がない。道順は憶えているのだろう? ならば、次は戦闘を極力減らし、この場所まで来る事も可能だな」

 

「ああ」

 

 一息吐き出したリーシャの問い掛けに、カミュは大きく頷きを返す。それを見たリーシャは満足気に頷きを返し、自分の腕の中で船を漕ぎ始めたメルエを抱き直した。

 メルエを抱きながらサラに肩を貸したリーシャは、そのままカミュの近くへ寄って行く。サラがもう片方の手でカミュの腕を掴んだ事で、帰還の準備は整った。

 

「外のラーミア様は、カミュ様の魔法力に反応する筈です」

 

「ルーラ」

 

 サラの言葉に無言で頷いたカミュは、そのまま移動呪文の詠唱を完成させる。

 魔王の拠点である城の庭園から上空に浮かび上がった光は、未練があるように暫く上空で留まった後、南東の方角へと消えて行った。

 

 

 

 魔王が台頭して数十年。誰も辿り着く事の出来なかったと云われる場所に彼等は立つ事となる。だが、それは『勇者』と呼ばれる者にとっても、それに同道する者達にとっても過酷な道程であった。

 人類最高位に立つ四人を、精神的にも肉体的にも限界に近い状態に追い込む程に過酷な場所。それが世界を恐怖で覆う『魔王バラモス』の居城であるバラモス城である。

 何故、それ程の力を持つ魔王がこの場所から動かないのかは解らない。だが、今も尚、その場所に在り続けるその存在がある限り、この世界に平和が訪れる事はない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

一旦休憩です。
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~閑話~【ランシールの村②】

 

 

 

 ネクロゴンドの山脈を越えた場所にあるバラモス城を飛び出した一行の光に気付いたラーミアは、下げていた首を動かし、大きく翼を広げる。羽ばたきながら上昇した不死鳥はその光を追うように速度を上げて行った。

 ルーラの光に包まれながらも、追い付いて来たラーミアの姿を確認したメルエは満面の笑みを浮かべ、その顔を見たリーシャも柔らかな笑みを浮かべる。

 ラーミアという不死鳥がカミュ達一行にどのような感情を抱いているのかは解らない。だが、カミュ達一行と行動を共にしようとする意志は窺えた。一行が目指す南東の大陸に向かって翼を羽ばたかせている。

 

「キュェェェ」

 

 南東に浮かぶ大陸が視界に入り、徐々に高度が下がって行く中、ラーミアが一鳴きした。

 太陽が西の方へ傾き始めており、真っ赤に染まった海が波打つ。夕暮れ時に入ったランシール大陸の中央に無事着陸した一行は、ラーミアの羽ばたきによって巻き起こる風を防ぐように手を掲げる。幼いメルエが吹き飛ばされないように、その身をマントの中へと誘ったカミュは、ラーミアの足が大地へ着いた事を確認し、魔法力を弱めた。

 着陸したラーミアを覗き見たメルエが、絶対防壁であるカミュのマントから飛び出し、柔らかな羽毛に包まれたその身体へと抱き着く。大きな翼でその幼く小さな身体を包み込んだラーミアの瞳は、メルエとの初対面の時に比べて遥かに優しくなっている事が解る。

 

「カミュ様、明日一日はランシールで休息しましょう。皆さんが気付いていませんが、かなりの疲労が溜まっていると思いますので」

 

「……わかった」

 

 サラの提案に頷きを返したカミュは、メルエと戯れるラーミアに向かって今後の方針を語り聞かせる。既にラーミアが人語を理解している事は明白であり、その証拠にカミュが語り終えた時には、その首を縦に振った後で一鳴きをした。

 名残惜しそうにラーミアから離れるメルエであったが、リーシャに抱き上げられると、疲れが出たのか重そうに瞼を落としてしまう。カミュやリーシャでさえ今回のバラモス城での攻防には疲労を感じているのだ。幼く、体力を魔法力で補っているメルエは、それ以上の疲労を感じているのだろう。

 

「旅の宿屋にようこそ」

 

 町に入るとそのまま宿屋へと直行した一行に、宿屋の店主は営業的な笑みを浮かべる。それぞれの部屋の鍵を渡された一行は、各々の部屋に入り、即座に就寝した。

 自分達が考えているよりも疲労度は遥かに高かったのだろう。それぞれが湯浴みや食事も取る事無く、深い眠りへと落ちて行く。極度の緊張と、大きな警戒感が緩み、勇者一行の小さな休息日が訪れた。

 

 

 

「カミュ! 服を脱げ!」

 

 翌朝、メルエから借りた最後の鍵で部屋の扉を開けたリーシャは、ベッドの中で未だに眠るカミュを叩き起こす。言葉を聞く限りで言えば、追い剥ぎのように感じる言葉ではあったが、何の躊躇もなく布団を剥ぎ取るその姿は、正に追い剥ぎのそれであっただろう。

 驚きに目を見開いたカミュであったが、そんな追い剥ぎの横で笑顔を浮かべる少女を見て、深い溜息を吐き出した。彼女の髪は、少し湿り気を残しており、埃や油が綺麗に落ちた清潔感を漂わせている。朝目覚めると共にリーシャと湯浴みをしたのだろう。リーシャ共々宿屋にある部屋着に着替えており、清々しい笑顔を浮かべていた。

 

「……わかった。湯浴みを済ませてから衣服は持って行く」

 

「今はサラが湯浴みをしているからな。暫く待て」

 

 『ならば何故、今この時に服を徴収しに来た?』と問い掛けたくなる程の事を平然と言うリーシャに呆れるように溜息を吐き出したカミュは、そのやり取りを聞いてさえいなかったかのように笑顔で手を差し出すメルエを見て、一際大きな溜息を吐き出す。

 メルエにとってカミュの服を洗う事は与えられた仕事なのである。しかも嫌な仕事ではなく、自分でも役に立つ事が出来るという喜びの伴う仕事であった。故に、彼女はカミュへと両手を伸ばすのだ。

 

「部屋着に着替えて、メルエに渡せ。メルエ、私は下で洗濯の準備をしているから、カミュの衣服が重いようなら、カミュに持たせろよ」

 

「…………ん…………」

 

 ベッドから出て来ないカミュを見ていたリーシャは、後の事をメルエに託して階段を下りて行く。その背中に向かって頷いたメルエは、再び笑顔でカミュへと両手を差し出した。

 全てに諦めなければならない状況になって、ようやくカミュはベッドからその身体を下ろして行く。上着を脱ぎ、ズボンも脱いだ彼はそれを畳んでメルエの腕の上に置いた。自分の腕に掛かった重みを感じたメルエは花咲くような笑みを浮かべ、そのまま覚束ない足取りで部屋を出て行く。

 

「メルエ、少し待て」

 

 『よたよた』と歩き始めたメルエを慌てて引き止めたカミュは、ベッド横に畳んである部屋着へと着替える。振り向いたメルエにそれ程余裕が見えない事から、階段を一人で下ろす事に不安を感じたカミュは、部屋の扉を出た所で、自分の衣服をメルエの手から受け取ろうとするが、それは反対方向へと振り向いた彼女によって拒絶された。

 『ぷいっ』と顔を背けたメルエは、そのまま階段へと移動し、一歩ずつ下へと下り始める。それを見て慌てたのはカミュであろう。見るからに衣服の重さで前のめりに階段を落ちて行きそうな少女の身体に手を翳しながら、共に階段を下りて行った。

 

「メルエ、こっちだ!」

 

「…………ん…………」

 

 ようやく全ての階段をメルエが下りた頃には、カミュの額や首筋は嫌な汗で湿っていた。そんなカミュの苦労も知らず、宿屋の裏口の向こうからメルエを呼ぶ声が聞こえ、そちらに視線を動かした少女は嬉しそうに笑みを溢す。

 既に外で大きな桶に手を入れているリーシャは、自分達の衣服を洗い始めていた。泡立つ石鹸の香りが辺りに漂い、小さな泡が宙に浮いて弾ける。その景色を見たメルエの瞳が先程以上の輝きを放ち、自分の為に用意された桶へと手に持った衣服を入れ込んだ。

 リーシャによって冷たい水が桶に入れられ、自分の顔に飛んで来た水の冷たさに微笑みながらもメルエは腕を桶へと放り込む。汗と汚れが冷たい水へと溶け込み、何度か揉み洗いを繰り返した後、桶の水を地面へと捨てた。新たに水を入れて貰い、ようやく石鹸を放り込んだメルエは、その小さな手で衣服を洗い始める。

 

「あっ、もう洗い始めてしまっているのですか?」

 

 メルエが顔に飛んで来る泡をそれがついた手で擦り、笑みを浮かべる頃、ようやくサラが湯浴みを終えて外へと出て来る。湯で火照った身体に爽やかな風を涼しげに受け、靡く髪を手で押さえる姿に、メルエは花咲くような笑みを浮かべた。

 片手で持った自分の衣服を新しい桶へと入れたサラは、井戸から新たな水を汲み入れる。そのまま屈み込んで衣服を揉み始める彼女を見ていたリーシャは、青く抜ける空を仰ぐように顔を上げていたカミュへと声を掛けた。

 

「カミュ、早く湯浴みを済ませて来い。それまでに洗濯を終わらせて朝食を用意しておくから」

 

「…………メルエ………あらう…………」

 

 カミュの湯浴みが長い時間を要しない事を理解しているリーシャは、それまでに洗濯を済ませ、朝食の準備に入ろうとしている事を伝える。幸い、この日も他に宿泊客はおらず、店主に朝食を作る事の了承を得ていたのだ。

 顔に幾つも泡をつけたメルエは、そんなカミュを見上げて満面の笑みを浮かべる。胸を張って仕事を請け負った職人のように鼻息荒く言葉を紡いだ彼女は、再び桶へと腕を入れて衣服を揉み始めた。

 

「メルエ、頼む」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの言葉を聞いたメルエは、先程以上に嬉しそうに微笑み、大きく頷きを返す。結局、最後はリーシャの手を借りる事になると予想は出来るが、最後の最後までメルエはカミュの衣服を洗う役目を他の人間に渡そうとはしないだろう。故に、カミュは柔らかな笑みを浮かべながら、屋内へと入って行った。

 使命に燃えるメルエが一生懸命に手を動かす姿をリーシャとサラは微笑ましく見つめ、各々の洗濯物を洗い続ける。抜けるような青空が広がり、東から昇った太陽が眩いばかりの光を大地へと降り注いでいた。

 

 

 

 カミュが湯浴みから戻る頃、先程までメルエ達が桶を広げていた井戸の周りには誰もおらず、井戸から少し離れた物干し台の傍で、一仕事をやり切った笑みを浮かべるメルエが、風に揺れる衣服を見上げていた。

 その横で少女の頭を優しく撫でる女性と、洗濯物が入っていた桶を重ねる女性が同じように、太陽の暖かな光を受ける衣服を見上げている。そんな女性達の傍に歩み寄って来た青年に気付いたリーシャは、小さな笑みを浮かべた。

 

「スープの仕込みは既に済んでいる。中に入って食事にしよう」

 

「…………ん…………」

 

 朝早くに起床し、湯浴み、洗濯という仕事をやり終えたメルエは自分の空腹感を思い出し、大きく頷きを返す。柔らかな笑みを浮かべたサラは、食堂へ向かうリーシャとメルエを追って宿屋の門を潜って行った。

 野菜のスープに軽く炙られたパン、そして朝の市場で買って来た鳥の卵を焼いた物が食堂の机に並べられ、食後の果物類も各人に切って配られる。果物に関しては、机に並べられる食事に目を輝かせている少女の分だけ多少大きめに切り分けられていたが、誰一人不服を訴える者はいなかった。

 

「今日一日はゆっくりと身体を休めましょう」

 

「……最後の休息になるかもしれないからな」

 

「カミュ、縁起の悪い事を言うな!」

 

 パンを齧りながら何気なく口にしたサラの言葉に、スープを口に運んでいたカミュが呟くように答える。しかし、その言葉は、如何に何度も死線を潜り抜けて来た者といえども看過できない物であり、リーシャが大きな声で咎める事となった。

 勇者と呼ばれる事となった青年の使命は『魔王討伐』である。世界の脅威であり、人類の脅威である魔王バラモスの討伐という使命を一身に受けた青年は、その戦いの中で起こり得る自身の死という物を既に受け入れていた。

 これまで数十年の間、誰一人として達成する事は出来ず、その目的へと向かった者達は誰一人として戻ってきていない。それ程の困難の先にある『夢』なのだ。その夢を実現する事が出来ると安易に信じる事が出来る程に甘い道を彼等は歩んで来てはいなかった。

 魔王へ近づいている事を実感する程に、魔王が持つ強大な力をも否が応にも感じずにはいられない。凶暴性を増して行く魔物達の中で、その知能も高くなっているようにさえ感じる。魔王直前に遭遇したエビルマージなどは、己の特性を理解した上で、如何に相手を始末するかという事を計算した動きに見えた。

 この先にいる魔王はそれらを遥かに凌ぐ程の強敵である。その先にあるのは、世界の平和か、若しくは一行の死であるのだ。

 それ以外の結末は有り得ない。

 

「最後の決戦です。私は全力を尽くします」

 

「…………メルエも…………」

 

 しかし、そんな悲観的な勇者の発言も、今の賢者と魔法使いには些細な事なのかもしれない。

 以前ならばそうではなかっただろう。カミュの言葉の裏の真意を読み取ろうとする余裕はサラにはなかったし、カミュを盲信するメルエにとって、その言葉は絶対に近かったのだから。

 だが、彼女達はこの四年以上の期間で驚く程の成長を遂げている。これまでリーシャにしか踏み込む事の出来なかった勇者の心は、真っ直ぐな女性戦士の努力の結果、外の世界へと繋ぐ扉を少しずつ開いていたし、その心を読み取る余裕を賢者は有していた。また、幼い少女は、世界を知り、愛を知り、心を知る事で、己の意志という物を明確に持ち始めていたのだ。

 

「ふふふ。お前の軽口など、誰一人気にしなくなってしまったな」

 

 そんな二人を見たリーシャは、心底面白そうに笑みを浮かべ、意地の悪い視線をカミュへと送る。別段特別な意図などなかった彼ではあったが、彼女の得意気な表情を見て、何処か不愉快な感情を抱く事となった。

 各々が皿の上に乗せられた料理を食し終わるまで、他愛もない話が飛び交いながら、和やかな一時が過ぎて行く。サラの果物にまで手を伸ばそうとするメルエをリーシャが叱り、それに対して頬を膨らませる少女へ鉄拳が落ちるのを見たサラが、自分の分を半分に切り分けて与えていた。

 

「時間がありますから、リーシャさんの髪を整えましょう。ネクロゴンドの洞窟で燃えてしまったままですから、このままでは折角綺麗な髪が痛んでしまいます」

 

「ん? 私は別にこのままでも良いが……」

 

 食事が終わり、食器をメルエと共に洗い場へと運ぶ時、前を歩くリーシャの頭部を見たサラは一つの提案を口にする。だが、サラにしてみれば、今まで何故思いつかなかったのかと思う程の事であったのだが、当の本人にとってはそれ程重要な事ではなかったようだった。

 己の癖のある金髪を指で摘んだリーシャは、確かに毛先に痛みがあるように見えるが、それがそれ程気にする物でもないと考えている。むしろ以前よりも短くなった髪が戦闘の邪魔になる事がないとさえ思っていた。

 

「駄目です。いくらなんでも、そのままでは不恰好ですよ。リーシャさんが私に言ったのですよ? 女性たる者、乱れた髪を振り乱して外へ出てはいけないと……」

 

「ぐっ……」

 

 確かにその言葉には覚えがあった。

 以前、寝癖をそのままに寝巻き姿で宿屋を飛び出して来たサラへ向かってリーシャが告げた言葉であり、その回数も一度や二度ではない。

 自分の発した過去の言葉を持ち出して来たサラの発言にリーシャは言葉を詰まらせる。これ以上抗う事が出来ないと悟った彼女は、一つ大きな溜息を吐き出し、サラへと振り返った。

 

「だが、サラは髪を切る事は出来るのか?」

 

「はい! 自分の髪や神父様の髪を切っていましたので」

 

 最後の望みの綱も今断ち切られた。

 もう一度大きな溜息を吐き出したリーシャは、口煩い賢者の提案を受け入れる以外に道がない事を理解する。そんな横で面白そうに成り行きを見ていたメルエが花咲くような笑みを浮かべていた。

 確かにサラの髪の毛は綺麗に揃えられている。アリアハンを出た頃から比べると遥かに長くなった髪ではあるが、前髪や横などは整えられていた。そして、横で微笑を浮かべるメルエも出会ってから比べても少し伸びた程度にしか見えないのは、サラが人知れず切り揃えていたのだろう。自分の持っていたナイフなどで伸びた部分を切り落としていたリーシャとは髪の毛の扱いが根本的に異なっていたのだ。

 

「……わかった。サラ、頼む」

 

「はい」

 

 何処か諦めに似た笑顔を浮かべるリーシャとは対称的な満面の笑みを浮かべるサラを見たメルエは、自分の分の食器を洗いながら小首を傾げる。

 その後、全ての食器を洗い終え、リーシャ達三人は椅子と布と鋏を持って洗濯物が靡く物干し台の近くへと出て行った。

 リーシャを椅子に座らせたサラは、その首から布を巻き、お湯で濡らした手拭いを髪に巻きつける。細い金髪を蒸らすようにした後、櫛で梳いて行く。観念したように瞳を閉じるリーシャと、その横で笑顔で見上げるメルエの姿を遠巻きにカミュが眺めていた。

 

「やはり綺麗な髪ですね」

 

「そ、そうか……?」

 

 濡れて癖が薄くなった金髪を揃えるように梳いていたサラは、朝陽に輝くその毛色を恍惚と眺める。そんな視線を感じたリーシャは戸惑うように苦笑を浮かべた。

 戸惑うリーシャの様子を気にした感じもなく、サラは繊細な金髪に鋏を入れて行く。軽やかな金属が擦れる音と共に、短い金髪が膝元の布へと落ちて行った。そこまで大幅に切るつもりもなく、本当に整える程度の考えだった為、櫛で梳きながら細かく鋏を入れて行く。『はらはら』と落ちて行く髪が太陽に光に輝き、まるで雪の結晶のように煌いていた。

 

「…………メルエも…………」

 

「え? そうですね……メルエの髪も少し切っておきましょうか。リーシャさんの次に切りましょう」

 

 軽やかな金属音と共に落ちて行く金糸を眺めていた筈のメルエが、鋏を握るサラの横へと移動して来る。何処にあったのか、小さな木箱を抱えており、それをサラの横に置く事でサラの身長まで背丈を伸ばそうとしていた。

 何か嫌な予感はするものの、メルエが自分の髪も切って貰いたいのだと言っているのだと考えようとしたサラが、次は彼女の髪を切る事を約束するが、その少女は不満そうに頬を膨らませる。それを見たサラは、自分の嫌な予感が間違っていなかった事に気付くが、敢えてメルエと視線を合わせないように鋏を動かし続けた。

 

「…………メルエも……きる…………」

 

「わっ! あ、あぶないですよ!」

 

 しかし、そんな意図的な無視を黙って受け入れる程、この幼い少女は大人しい性格ではない。カミュという勇者に救い出され、リーシャという戦士に愛を注がれ、サラという賢者に心を学んだ彼女は、自分の意思を外へ発する術を知る。最早我儘にも近い感情の吐露ではあるが、それも彼女の変化の一つである事を知るリーシャやサラは、窘めたり叱ったりするもののそれを押さえつけるような事はして来なかった。

 だが、この時ばかりは、そんな幼い少女の我儘は天誅を受ける事となる。

 

「メルエ!」

 

「…………!!…………」

 

 自分の頭の上で何やら不穏な空気が広がり始めている事を感じたリーシャは、ゆっくりと瞼を開け、鋏が反射する太陽の光を感じた時、凄まじい一喝を放った。

 久方ぶりに聞く、自分へ向けられたリーシャの怒声を受けたメルエは、余りの驚きに木箱から落ちてしまう。強かに臀部を打ったメルエは、涙を浮かべながら静かに動かない背中を見上げた。鋏を持っていたサラでさえも動きを固めてしまう程の声量を轟かせた女性戦士がゆっくりと顔を後方へと動かして行く。

 

「メルエ、大人しく座って待っていろ……」

 

「…………ん…………」

 

 『これ以上の我儘は許されない』

 幼いメルエでさえも理解出来る程の空気を纏ったリーシャの姿に、少女の首は即座に縦へと振られる。その勢いに負けたサラまでもが、何故か何度も頷いてしまうのだった。

 しょんぼりと肩を落としたメルエは、木箱を抱えて少し離れた花壇の傍へと歩いて行く。そこに木箱を置くと、そのまま木箱に登り腰を下ろした。足をぶらぶらと揺らしながら、リーシャの髪を切るサラを羨ましそうに見つめるその姿は、リーシャの心に何か罪悪感さえも湧き上がらせるような物となる。

 

「……少し厳しく言い過ぎたかな」

 

「いえ、そんな事はありませんよ。ほら、メルエの事ですからすぐに……」

 

 暫くそんなメルエの姿を横目に見ていたリーシャの小さな呟きに、サラは可笑しそうに微笑む。そして、その微笑に少し首を動かしたリーシャもまた、その先に見える光景に頬を緩ませた。

 先程までしょんぼりと肩を落としていた筈のメルエは既に木箱に座ってはおらず、花壇の傍に屈み込み、花の香りを楽しみながら、土を弄り始めている。土の中から顔を出す小さな昆虫に頬を緩め、その虫を指で突きながら興味深そうに瞳を輝かせていたのだった。

 叱られた事を既に忘れてしまったかのように動き回るメルエを見たサラは、再びリーシャの髪の毛を整え始める。子供特有の物ではあるが、その思考の切り替えの早さに呆れたような溜息を吐き出し、リーシャは再び瞳を閉じた。

 

「……この位でどうでしょうか? 焦げが残っている部分を切ると、全体的に短めにしなければ変になってしまうので……」

 

「ん? 十分だ。前よりも動きやすくなっているし、何より鬱陶しくない」

 

 切り終った事で、軽くブラシで叩いたサラは、布を外しながら自信なさ気にリーシャへと確認する。だが、それに対して返って来た答えを聞き、彼女は呆れてしまうのだった。

 女性の命ともいえる髪の毛に対し、『鬱陶しくない』という感想を持つ事自体が異常であるのだが、動きやすいか否かという基準で髪を触るリーシャが不思議な生き物に映ってしまう。髪の毛が燃えたり切られたりした程度で泣き叫ぶ事はサラもしない。だが、それでも喪失感は拭えないだろうし、悲しみという感情を持つ事は必至であるだろう。

 持って来た小さな鏡を覗き込み、満足そうに頷くリーシャの金髪は、アリアハンを出た頃に比べると、圧倒的に短くなっている。肩口まであった髪は、耳が完全に出てしまう程に切られており、前髪も眉に一切掛かる事はない。生まれ持っての癖がある髪である事から、真っ直ぐに揃った前髪ではないが、それでも女性の前髪としては短すぎる物であった。

 後ろ髪は首筋を伝うように揃えられており、正直、身体的な特徴がなければ、綺麗な顔の男性と取られても不思議ではない。この時代では髪の短い女性が少ない事もサラがそう考える理由の一つであった。

 

「メルエも髪を切ってもらえ!」

 

「…………ん…………」

 

 すっきりした表情を浮かべるリーシャは、そのまま花壇付近で動き回るメルエへと声を掛ける。その声に嬉しそうに頷く少女が駆け寄って来て始めて、サラは花壇付近で遊び回るメルエを放置していた事を悔やんだ。

 それはリーシャも同様であり、額に手を当てたまま大きな溜息を吐き出す。そんな二人を見上げたメルエは、不思議そうに首を傾げた。

 

「メルエ……湯浴みをしたばかりだろう。そんなに汚してしまっては、手も顔ももう一度洗わないと駄目だ。服も洗濯が必要だな……」

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 メルエの目の前に屈み込んだリーシャは、その小さな手を持って窘める。その瞳は優しくはあっても咎める物であり、メルエは小さく頭を下げた。

 花壇の土を触り、動き回る虫と共に土に膝や手をつけたのだろう。メルエの手も土で汚れており、その土は朝露や撒かれた水によって緩んでいる。泥に近い状態に緩んだ土は、手や膝だけではなく、何故か顔にも付着しており、更には宿屋で借りた部屋着まで汚していたのだった。

 まだ昼前とはいえ、もう一度洗濯をして干すとなると、急がなければならず、しょげ込むメルエを宿屋の中へと連れて歩き出す。侘びの言葉を口にして頭を下げるリーシャに、店主は柔らかな笑みを浮かべて、新しい部屋着を渡してくれた。更には、汚れた部屋着の洗濯も宿屋側で引き受けてくれると快く言ってくれる。恐縮するリーシャではあったが、メルエの身体を洗う為、再び浴場へと消えて行った。

 

「……このような平和な日々が来るのでしょうか?」

 

「それは、『人』次第だな」

 

 一言も口にせず、遠巻きに剣の手入れを行っていたカミュへサラは何気なく問い掛ける。見上げた空は抜けるように青く、漂う少ない雲が優雅に青い空を泳いでいた。

 そんなサラへと返って来た答え。

 それは、とても厳しく、とても優しい一言。

 人間という種族が生きている限り、多種族との共生を考えるのも人間であるのだ。エルフは基本的に他種族との係わりを持とうとはしない。動物や植物は自分が生きる場所を出る事は少ないだろう。そして、ここまでの旅の中で遭遇した魔物と呼ばれる生物達もまた、己の生活圏を定めて生きている節があった。

 この世界で、暮らす範囲を広げようとする者は、『人』だけと言っても過言ではないのだ。平和な世界で生きるという事は、何も『人』だけの権利ではない。動物や植物、昆虫などやエルフや魔物にもその権利はあり、それを四年以上の旅の中でサラも理解していた。

 故にこそ、このカミュの言葉がサラの胸に重く響いて行く。

 

「……カミュ様は、魔王を倒した後はどうするつもりなのですか?」

 

 だからであろう。サラは、ここまでの旅の中でずっと心に引っ掛かっていた疑問を口にする。それは、アリアハンを出立する頃には考えもしなかった疑問ではあるが、ダーマ神殿で『賢者』という存在になってからは常に頭に残っていた疑問でもあった。

 カミュはその頃から自分の事を卑下しなくなった。『そういう存在』という言葉を使い、自分の生を諦めたような発言をしなくなっていたのだ。故にこそ、サラはそんなカミュの未来を聞いてみたいと思っていたのかもしれない。

 魔王という諸悪の根源を打倒する事が『勇者』の使命であり、目標である。だが、逆に言えば、『勇者』という存在は、それ以外に何も求められていなかった。

 

「……さぁな」

 

 期待して待っていたサラは、気の抜けたようなカミュの言葉に肩透かしを食う事となる。カミュ自身、その事が想像出来ないのかもしれないが、この場所まで駆け上がって来たサラは、魔王バラモスを必ず打倒出来ると信じていた。

 まだ目の前で対峙した事はない。その脅威や威圧感を肌で味わった事もない。それでも、この一行であれば、例え世界を恐怖に陥れる魔王であろうと負けはしないと胸を張って言えるだけの時間を彼女は過ごして来たのだ。

 

「カミュ様は、魔王との戦いで死ぬ事はありませんよ。リーシャさんが必ず護ります。メルエも必ず護ります。そして、私もカミュ様を護ります」

 

 だからこそ、彼女はこの青年にも、未来への展望を開いて欲しかった。

 この旅は、既に『死』への旅ではない。そして彼等は、魔王という絶対の力に無謀にも立ち向かう愚者の集まりでもない。それだけの力を有し、それだけの思想を持ち、その先の光を信じて進む者達であるのだ。

 リーシャがカミュを護るように、カミュもリーシャを護るだろう。メルエがカミュを護るように、カミュはメルエを必ず護るだろう。そして、サラもカミュを護ろうと動くし、カミュも自分を護ってくれると彼女は信じている。それだけの絆を彼女は築いて来たと信じていた。

 

「……わかっている」

 

「はい!」

 

 たった一言。

 小さく呟くようなその一言は、風に乗ってサラの耳に確かに届いた。その瞬間、彼女の想いは報われたのかもしれない。

 何度も何度もこの青年とは争って来た。自分の信じて来た教えを蔑ろにする『勇者』を理解する事が出来ず、恨んだ事も憎んだ事もある。それでも彼が『魔王バラモス』という存在を目指す以上は付いて行く事を決め、ここまで歩んで来たのだ。

 『賢者』となり、それまでの自分の行いや言動が、如何に身勝手な物であったかを知った彼女ではあったが、それまで続けて来た論争に対し、一度たりともカミュへ謝罪をした事はない。彼の苦悩も、その苦労も、辛さも悲しみも理解したとは口が裂けても言えず、どうしても謝罪する事は出来なかった。

 リーシャのようにカミュと並んで前線に切り込む事は出来ず、メルエのように魔物と拮抗するような攻撃呪文は使えない。カミュが回復呪文を唱える事が出来るのならば、自分は不要な存在かもしれないとさえ考えていた彼女は、その陳謝の想いを、行動で示すしかなかったのだ。

 

「…………サラ……また……ないてる…………」

 

 『悟りの書』に記載される呪文の契約は毎日のように試して来た。開いた書物に昨日見た物以外が浮かび上がって来ていない事に肩を落とし、契約の魔法陣に入っても契約が完了しない事に嘆き、自分が契約を済ます前に強大な力でそれを行使する少女の魔法力に自信を失い、それでも彼女は前を向いて歩いて来たのだ。

 何度悔しい思いに唇を噛んだ事だろう。

 何度悲しみに涙した事だろう。

 何度辛い思いに挫折を覚悟しただろう。

 リーシャから受ける剣の鍛錬で自分の不甲斐なさを知り、魔物との戦闘でメルエとの魔法力の違いに愕然とする。その繰り返し中でも、彼女はサマンオサで自分の武器に誓った事を胸に歩み続けて来た。

 その努力と、その意思が認められる。

 それも、分かり合う事などないとさえ考えて来た『勇者』に、認められたのだ。

 

「メルエの髪も切ってやってくれ。前髪が流石に鬱陶しそうだからな」

 

 知らず知らずに溢れ出た涙を見つけた少女は、不思議そうに首を傾げた後、厳しい瞳をカミュへと向ける。状況を判断し、カミュがサラを虐めたのだと思ったのだろう。だが、浴場へ微かに聞こえて来ていた声に耳を傾けていたリーシャは、そんなメルエの肩に手を置き、とても優しい笑みを浮かべていた。

 涙を拭ったサラは、リーシャに抱き上げられて椅子に座ったメルエの首から布を掛け、癖のない綺麗な茶色の髪に櫛を入れ始める。先程までの厳しい瞳を緩めたメルエは気持ち良さそうに目を細め、軽やかな金属音と共に落ちて来る自分の髪に頬を緩めた。

 太陽は優しく暖かな光を注ぎ、雲は優雅に空を泳ぐ。何事もない一日が過ぎ、また新しい日を迎える準備に入るまで、僅かな時間が過ぎて行った。

 

 

 

 翌朝、陽が昇りきらない薄暗いランシールの門の前に、全ての準備を終えた一行が立っている。未だに夢の中を彷徨うメルエを抱き上げたリーシャは、ラーミアへと近づくカミュの後を追い、その羽毛へ少女を預けた。

 全員がその背に乗り、一鳴きした不死鳥がまだ闇が濃い空へと舞い上がる。方向を定めた不死鳥が北西へと続く一筋の光となって飛んで行った。

 

 僅かな休息の時間を終え、彼等は再び厳しい戦いの中へと戻って行く。

 人知れぬ苦悩と葛藤の先に、数多くの幸せを見た者達の過酷な旅が再び幕を開ける。

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

次話からようやく決戦に入ります。
久慈川なりのバラモスを描いて行きますので、よろしくお願い致します。

ご意見、ご感想を心からお待ちしております。


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魔王バラモス①

 

 

 

 ランシール大陸を飛び出したラーミアは、海を渡り、ネクロゴンド大陸の中へと入って行く。柔らかな羽毛に包まれ深い眠りに落ちていたメルエが目を覚ました頃、大きな翼はネクロゴンド火山の上を横切って行った。

 周囲の景色と柔らかな羽毛に頬を緩めたメルエは、その羽毛に抱き付くように腹這いに横になり、その暖かさに再び瞳を閉じる。もう一度眠りに就いてしまいそうな少女をサラが窘め、それに対して頬を膨らませる姿に苦笑を浮かべた。

 

「カミュ、あの城でルーラを行使した場所にラーミアで下りる事は出来ないのか?」

 

「ラーミアには狭過ぎる。万が一、翼が建物などに当たった場合を考えれば、実行すべきではないな」

 

 サラとメルエのやり取りを微笑みながら見ていたリーシャは、前方で地上を見下ろすカミュへと考えていた事を問い掛ける。その問い掛けは、あの過酷な城を歩んだ者だけが思うものであろう。出来るならば、再びあの道程を歩きたくないと考えるのは仕方のない事であった。

 しかし、そんなリーシャの願いは即座に斬り捨てられる。カミュ達にとってみれば、かなりの広さを持つ庭園であっても、ラーミアという神代の不死鳥の巨体にとってみれば、手狭と言っても過言ではないだろう。その翼が建物に接触すれば、如何に霊鳥といえども只では済まない。しかも、そこが魔王の城となれば尚更であった。

 

「そうですね。ラーミア様には同じ場所で待っていて貰いましょう。先日よりも魔物との接触には注意を払いながらの行動になるでしょう。カミュ様やリーシャさんには少し無理をして頂く事になるかもしれません」

 

「……ああ」

 

「呪文の援護がなくても対抗出来る程度の魔物であれば良いがな……」

 

 メルエを押さえながらも二人の会話に入って来たサラは、今後の方針を語る。既に一度魔王の直前まで探索を終えた場所である。太陽の光が届くのであれば、道に迷う事もなければ、余計な場所に入り込んでしまう事もないだろう。ただ、魔物の本拠地と言っても過言ではない場所なだけに、極力魔物と接触しないように行動する必要はあるのだ。

 サラの言葉通り、サラやメルエといった呪文使いにとって、魔法力を使った呪文の行使は極力避けて行きたい。魔物達の頂点に立つ魔王バラモスと対峙する為には、彼女達の魔法という神秘がどうしても必要になって来るからだ。

 魔法力を温存する為には、前衛で戦うカミュやリーシャに武器のみでの戦闘を強いる事となり、補助呪文や回復呪文を行使する事はあっても、上位の攻撃呪文などは控える必要がある。それは、如何に人類の頂点に立つ武器の使い手二人であっても、かなりの危険が伴う行動であった。

 更に言えば、武器での攻撃が通用しないような敵と遭遇した場合、その限りではない。動く石像などは、サラやメルエの補助呪文がなければかなり厳しい戦いになるだろうし、ホロゴーストのような実体のない魔物に対しては、武器での攻撃には限界があるからだ。

 

「いざとなれば、私にもメルエにも『祈りの指輪』があります。魔王との決戦の前に、ルビス様が我々の祈りを拒絶するとは思えませんから」

 

「…………メルエ……がんばる…………」

 

 心配そうにカミュへ視線を送っていたリーシャは、サラとメルエの指に嵌められた小さ指輪を見て、小さな溜息を吐き出す。彼女にしてみれば、どれ程にサラが優秀な賢者になろうとも、どれ程にメルエが上位の魔法使いになろうとも、その身を案じる事に変わりはないのだ。

 しかし、サラの腕から抜け出したメルエが、小さな決意を示した事で、一行の方向性は決する。全ては『魔王バラモス』の討伐という最終目標に到達す為。それだけの為に、彼等はこの長い旅路を歩んで来たのだ。

 

「ふふふ。メルエも随分逞しくなったものだ」

 

 笑みを浮かべるリーシャに、メルエも満面の笑みを浮かべる。

 この幼く微笑む少女は、アリアハン出立当初から一行と共に行動していた訳ではない。故に、彼女の目標が『魔王討伐』でない事は確かである。それでも彼女は皆と共に歩もうとする。それが彼女の生きる道なのだろう。

 捻くれ者の勇者が一人で旅立つ筈だった旅に、その勇者を認めようとしない頑固な戦士が加わり、二人でアリアハン城下町を出た時に駆けて来た教会の教えを盲信する僧侶が同道を申し入れた。歪な者同士、何かあれば口論に発展し、とてもではないが噛み合う事もなく全滅の一途を辿る筈だった旅に突如舞い降りた少女は、今や世界の頂点に立つ戦士が認める程に逞しい存在となったのだ。

 そんな少女の微笑を見て、リーシャは確信する。

 『自分達は必ず魔王を打倒する事が出来る』と。

 

「……降りるぞ」

 

 カミュが呟いた一言を合図に、巨大な不死鳥が降下を始める。背にカミュ達を乗せている為、鳥特有の頭からの急降下をする事無く、翼をはためかせながら、徐々に高度を下げて行った。

 森の木々達を越え、十分に翼を広げられる程の平原に出た所で、ラーミアの足が地面へと着地する。再び見上げる巨城は、数日前と変わらず圧倒的な存在感を示していた。

 それでも彼等が怯む事はない。数日前に訪れた時よりも更に硬くなった決意と絆の許、彼等は再びその土地へと足を踏み入れる。何かを告げるように一鳴きしたラーミアの鳴声を背中に受け、四人は城門を潜って行った。

 

「あの中に入っても仕方ありませんでしたね。外周を回って行きましょう」

 

「あの細道は危険だぞ。魔物の気配がない事を確認した上で進もう」

 

 一度通った道を忘れるほど、彼等は軽い道を通って来た訳ではない。彼等が歩んで来た道は、どれも危険と隣り合わせの物であり、一瞬の気の緩みが命に直結する物であった。故に、サラは一度通った道順を指し、リーシャはその道に伴う危険性を口にする。二人の言葉に同意するように頷きを返したカミュは、陽の光が差し込む庭園を注意深く進んで行った。

 気のせいかもしれないが、リーシャもサラも、数日前の太陽よりも今日の太陽の方が強烈な陽光を放っているように感じていた。それは、まるで勇者一行を後押しするように魔物達の住処を照らし、その出現を妨げているようにさえ感じる。夜の闇を本領とする魔物からすれば、強烈な太陽は天敵なのかも知れない。その陽光によって力を制限されるような事はないだろうが、それでも好んで出て来る場所でもないのだろう。

 それを考えると、太陽のような強烈な光を放つ『英雄オルテガ』という存在は、魔族や魔物にとっては天敵のような物であったのかもしれないとリーシャは不意に考える。そして、『ならば、自分の前を歩く青年はどのような存在なのだろう』という思いを馳せた。

 

「……下がっていろ」

 

 城壁と建物の壁の間にある小道の中に入って直ぐ、カミュはサラやメルエに後方へ下がるように指示を出す。大人二人が横並びになれるかどうかの細道である為、最後尾にいるリーシャには、前方の光景が僅かしか見えない。

 太陽の光が届き難いこの場所に現れたのは、先日この場所を通った時に遭遇した物と同じ魔物。

 崩れたスライムのような形状をしていながら、その体躯はあらゆる武器を弾き返す程の強度を誇る。下級の灼熱呪文を行使し、あらゆる生物の頂点に立つ程の敏捷さを持っていた。

 はぐれメタルと呼ばれる、スライム系の亜種であるメタルスライムの亜種。亜種中の亜種と言っても過言ではない魔物が、嫌悪感を抱く程の笑みを浮かべてカミュ達の行く手を遮っていた。

 

「カミュ、私にやらせてくれ」

 

 一歩前に出ようとした勇者を制したのは、最後尾から最前線へ出て来た戦士。既に魔神の斧を手にしていた彼女は、有無も言わさぬ雰囲気を醸し出しながら、はぐれメタルとの間に割って入って来た。

 元々、メルエの持つ攻撃呪文などの効果がない相手であり、サラの補助呪文の効果もない魔物である。呪文使いである二人に出番はなく、一撃必殺の毒針という武器を持っているメルエを前線に出す事が出来ない以上、カミュかリーシャが相手をしなくてはならないのだ。

 そして、目の前にいるはぐれメタルは一体。如何に俊敏さを売りとしている魔物であろうとも、この細道でカミュ達側へ抜ける事は不可能であり、必然的に一対一の状況が作り上げられていた。

 

「任せた」

 

「任せろ!」

 

 二人の中で一言のみのやり取りが行われ、カミュは一歩後ろへと後退する。不安そうにそのマントの裾を握るメルエの肩にサラの手が乗せられた。

 別段、無理をして倒す必要のない魔物でもある。何度かの攻撃を警戒していれば、勝手に逃げ去ってしまうような魔物なのだから、武器を手にして前へ踏み出す必要はないのかもしれない。だが、前方へと踏み出した女性戦士の背中は、その魔物さえも畏怖させる程の何かを発していた。

 その証拠に、目の前で嫌らしい笑みを浮かべていた筈のはぐれメタルは何かに驚き、戸惑うような動きを見せる。逃げようとしながらも、自分の後方にがら空きの道がある事さえ忘れてしまったように、壁と壁の間を右往左往していたのだ。

 

「やあぁぁ!」

 

 そんなはぐれメタルの動きに合わせるように振り下ろされた魔神の斧が空を切り、地面を割る。初撃を辛うじて交わしたはぐれメタルではあったが、地面に残された傷跡を見て、その戸惑いに拍車を掛けた。

 既に混乱状態といっても過言ではない状況に追い込まれたその魔物は、地面に突き刺さった斧を抜いたリーシャに向かって、飛び込んで行く。速度を増したはぐれメタルの突進ではあったが、掲げられたドラゴンシールドによってそれは防がれ、金属音を響かせてその身体は地面へと転がった。

 

「正直にお聞きしますが、リーシャさんの力量というのは、カミュ様から見てどうなのですか?」

 

 地面に転がるはぐれメタルに追撃を掛けるリーシャが斧を振り下ろす。しかし、急激に重量を変える魔神の斧の特性によってバランスを崩した彼女の攻撃は、またしても避けられてしまった。

 そんな女性戦士の戦闘を見ながら、微動だにしないカミュへサラはずっと感じていた疑問を口にする。サラという賢者にとって、剣や斧といった武器を振るうカミュやリーシャの力量は、雲の上の物であり、計り知る事の出来ない程の高みにある物でもあった。故に、自分に稽古を付けてくれるリーシャの力量が全人類の中でも最上位に入る物だという事は理解していても、それがどれ程の物なのかが正確に把握出来ない。

 リーシャという女性戦士と渡り合える力量を持つ者といえば、世界広しと雖も、カミュ以外には存在しないだろう。それは同時に、リーシャという『戦士』の力量を把握出来るのもまた、彼以外には有り得ないという事になる。だからこそ、サラは彼に問い掛けたのだ。

 

「……呪文を行使せず、剣のみでの戦闘であれば、この世で勝てる者などいない」

 

「そ、そうですか……カミュ様にそこまで言わせる程なのですね」

 

 混乱状態に陥っているのではと感じる程に緩慢な動きを繰り返すはぐれメタルの動きを注視するリーシャの背中を見ながら一向に口を開かないカミュを見たサラは、自分の失言を理解する。カミュにとっても、リーシャという女性戦士との模擬戦で勝ち星よりも敗戦の方が多いのだ。そんな人間に相手の力量を尋ねる事自体が間違っていたと彼女は後悔する。

 だが、はぐれメタルの動きに合わせて、斧を振るう機会を探っているリーシャの手の動きを見ていたカミュは、小さく呟きを返した。それを聞いたサラは、驚きと共に湧き上がるような喜びを感じる事となる。

 カミュ程の人材にそこまで言わせる人間は、この世で誰一人いないだろう。彼は、一見何事にも興味を示さない人間に見えるが、四年も共に旅をして来たサラやリーシャは、その胸の奥にある物を知っていた。『負けず嫌い』と言えば良いのか、彼はあの女性戦士に勝てない事を人一倍悔しがっていたし、何時かそれを超えようと努力を続けている。そんな彼が本人に聞こえないとは言えども、そこまでの評価を口にした事がサラは嬉しかった。

 

「…………リーシャ……つよい…………」

 

「ああ」

 

 まるで我が事のように胸を張るメルエの姿に、カミュは小さな頷きを返す。そんな二人の姿にサラが笑みを浮かべた時、前方で繰り広げられて来た戦闘が終わりの時を迎えた。

 機を待っていたリーシャの斧が、満を持して振り下ろされたのだ。

 魔神の斧は陽光を受けて鋭い輝きを放ち、横に飛び退こうとしたはぐれメタルの身体のど真ん中に吸い込まれて行く。斧自体の重さと、その持ち主の生み出す速度で斬り込まれた一撃は、あれ程の強度を誇った魔物の体躯を両断した。

 

「プキュッ」

 

 奇妙な声を発したはぐれメタルであったが、その後は何一つ声を上げる事も出来ずに命の灯火を失って行く。二つに分かれた銀色の魔物は、徐々に液体と化し、地面へと吸い込まれて行った。

 僅か一撃。されど、渾身の一撃である。

 世界を救うと謳われる勇者が認めた一撃であり、世界で敵う者のいない程の一撃。それは、人類最高の一撃と言っても過言ではないだろう。

 それを成す者と、その者の持つ武器が最高位に立っているからこそ成せる技でもある。

 

「ふぅ……時間が惜しい、先へ進もう」

 

「はい!」

 

 斧を一振りした後に振り返ったリーシャの顔を見たサラは、満面の笑みで頷きを返した。

 そのまま最後尾へ戻ろうしたリーシャの腰にメルエがしがみ付く。花咲くような笑みを浮かべて見上げる少女の頭から帽子を取ったリーシャは、その頭を優しく撫でた。

 そんな三人のやり取りを暫しの間眺めていたカミュが再び歩き出したのを機に、再び人類頂点に立つ者達が歩み出す。事態は最終局面に向けて、着実に近づいていた。

 

 

 

 その後、先日歩んだ通りの道を歩んだ一行は、数度の戦闘を行いながらも、ネクロゴンド王国の在りし日の姿が残る玉座を抜けた。

 その間に遭遇した魔物は、地獄の騎士やライオンヘッドなど。その中にエビルマージがいなかった事は彼らにとって幸いだっただろう。動く石像に関しては、ここまでの道程の中、石像が飾られている場所は無く、遭遇する事はなかった。

 ライオンヘッドは、ここまでの多くの戦闘によって力量を更に数段上げていたカミュとリーシャによって、呪文の行使をする暇も無く、一刀の元に斬り伏せられている。地獄の騎士に至っては、ゾンビキラーという生命を持たぬ者に対して絶大な威力を発揮する剣によって呪縛から解き放たれていた。

 ここまでの道程は、バラモス城を一度経験した一行の更なる力量の上昇を証明する物となる。『魔王バラモス』を残すのみとなった一行にとっては、その討伐の成功の確率をも上げる物となった。

 

「カミュ、外にあの魔道士はいないか?」

 

「……大丈夫そうだ」

 

 玉座から外へと出る門を開けたカミュは周囲を注意深く眺め、最早天敵とも言えるエビルマージの姿を探す。だが、中央の泉から発せられる威圧感や瘴気が感じられるだけで、その周囲にエビルマージの姿は無かった。

 それでも慎重に表へと出た彼は、再度確認した後、リーシャ達三人を呼び出す。魔神の斧を手にしたリーシャが、サラとメルエを護るように門を潜って行く。真上に上った陽光が強く差し込む庭園は、泉からの瘴気を押さえ込むように輝いていた。

 

「今度こそ、最後の戦いだな」

 

「……はい」

 

 泉の中央へ伸びる一本の橋の入り口に立った一行は、禍々しい瘴気を吐き出す地下への入り口へ視線を向け、大きく息を吐き出す。

 再びこの場所まで辿り着いた。

 この先は、これまでとは比べ物にならない程の厳しい戦いとなるだろう。

 アリアハンを出立し、ロマリアという異国の地に辿り着いた彼等は、自分達よりも力量の高いカンダタという盗賊と戦った。それでも、彼等は四人全ての力を使い、それを打破する。その後、自分達よりも力量の高い魔物達との戦闘を経て、再び遭遇したカンダタという盗賊を、カミュ一人で圧倒出来る程に彼等は成長を続けて来た。

 ヤマタノオロチという太古からの龍種を撃破し、魔王直属の部下であるボストロールさえも退けて来ている。それは、たった一人の力では成し得ない事であり、四人各々が自身の役割を把握し、その力を最大限に発揮して来た結果なのだ。

 ヤマタノオロチが弱かったとは思わない。同じように、ボストロールが弱かった訳でもない。ここまでで遭遇して来た数多くの魔族や魔物が弱かった訳でも、カミュ達の力が圧倒的だった訳でもない。全てが紙一重の戦いであったとも言えよう。それでも彼等は、全ての戦いに勝利し、今この場所に立っている。

 

「……行くぞ」

 

 誰が何と言おうと、リーシャ達三人は、この青年の後ろを歩んで来た。『共に歩んで来た』と言えば聞こえは良いだろうが、リーシャやサラはそう感じている。彼に導かれ、彼に護られて、彼女達はこの場所まで辿り着いたのだ。

 だが、この場所まで来た事で、自分達が『共に歩む』事の出来る仲間として受け入れられている事を改めて感じ、そしてその自信を強めて行く。彼女達は既に世界が認める『勇者』の横を歩める者達なのだ。アリアハン国以外となると、カミュという勇者の名を知る者はいても、同道する三人の女性の名を知る者はいないだろう。それでも彼女達は勇者を信じ、勇者と共に歩んで来た。

 そして、今、彼女達は世界の救世主となろうとしている。

 

「……ここは」

 

 泉の中央へ向かう橋を渡り、まるで浮島のようになっている大地へと足を下ろす。そして、その中央にある下りの階段を下りた先で、サラは言葉を失った。

 先頭のカミュが皆を護るように立っているが、そんなカミュでさえも濾過出来ない程の威圧感が周囲に満ちている。濃く漂う瘴気が一行の呼吸を困難にさせ、視界の全てを赤く染め上げていた。

 地下の広間は、それこそ魔王にとっての謁見の間なのかもしれない。あの泉の底にここまで広い空間を造る事が出来るのかと思う程の面積をしている。漂う雰囲気は今まで感じた事もない程に歪んでおり、濃密な瘴気が真綿で首を絞めるように一行を包んでいた。

 

「メルエ、大丈夫か?」

 

「…………ん…………」

 

 濃い瘴気に口元を押さえたリーシャは、自分の足元にいるメルエの身体を気遣う。既に成人してから長いリーシャでさえも息苦しさを感じる程の場所である。幼いメルエにとっては死活問題に発展しても可笑しくは無いのだ。

 しかし、リーシャの考えに反し、メルエは真っ直ぐ前方を見つめながら、大きく頷きを返す。それは、何者も折る事の出来ない決意に満ちた表情であり、声を掛けたリーシャでさえも怯みそうになる強さを持っていた。

 幼いながらも、この先に居るであろう存在の強大さを理解し、カミュ達が成し遂げようとしている事の困難さを感じているのであろう。自分の大好きな人間に危害を加えようとする者は、何処の誰であろうがメルエの敵である。『魔王』であろうが、『国王』であろうが、『魔物』であろうが、『人』であろうが、彼女の善悪の線引きは、カミュ達三人が基点なのだ。

 

「ふはははははっ」

 

 周囲の雰囲気に飲み込まれそうになっていたカミュ達の耳に大音量の笑い声が響いて来る。それは、怯みかけていた心を恐怖に竦ませる程の威力を誇る。それは最早、声というよりも地響きと称した方が良いのかもしれない。広い地下の空間が揺らぎ、カミュ達が踏み締める地面を大きく揺らしていた。

 しかし、それは一行の勘違いであり、揺れているのは地面ではなく彼等の足そのものであったのだ。小刻みに震えるその足は、目の前に聳える魔物の頂点に君臨する者から発せられる威圧感によって刻み付けられた消えぬ恐怖の証。

 覚悟は決めて来た。決意も固めて来た。それでも尚、この場所まで来てしまった自分自身を呪いたくなる程の恐怖がそこには存在していたのだ。

 身が竦むほどの瘴気の中、圧倒的威圧感に心が圧され、強大な魔法力に喉が焼かれる。先頭に立つカミュでさえも、前に一歩も足を踏み出す事が出来ていなかった。

 

「……醜いな」

 

「……カ、カミュ様」

 

 それでも当代の『勇者』は前を向く。目の前の圧倒的な存在の姿を見て、眉を顰めながら不遜な言葉を呟いた。そんな青年の姿にサラは驚き、視線を前方から外してしまう。圧倒的な威圧感に飲み込まれ、強大な魔法力に竦んだ身が解けて行く。『勇者』の一言によって、全てが引っ繰り返ったのだ。

 再び歩き出した一行の視界に、はっきりとその存在が見えて来る。カミュが溢した通り、その姿は人類であれば誰しもが嫌悪感を感じる程に醜く歪んでいた。

 大きく開かれた口からは、毒々しい色の舌が覗き、その頭部に頭髪などは一切無く、代わりに大きな瘤のような物が突き出している。顎辺りの贅肉は弛み、その贅肉は己の巨体を支えきれないのではないかと思う程に身体全体を覆っていた。

 その醜い身体を隠すように余裕のある衣服を身につけ、自分の地位を誇示するように巨大なマントを掛けている。手足は鳥のように三本の指しかなく、全体的に浅黒い肌が、禿げ鷲を想像させる姿であった。

 

「遂にここまで来たか……自らの矮小さも知らずに驕る者達よ。大人しく滅びの日を待っていれば良いものを、この大魔王バラモス様に逆らおうなどと身の程さえも弁えぬ者達じゃな」

 

「自らを『大魔王』と名乗るとは……」

 

 確かに、今目の前にいる圧倒的な存在からすれば、人類など矮小な存在なのだろう。それを否定するつもりも無ければ、それが出来るともサラは思っていない。だが、自らを『大魔王』と名乗るこの存在に対し、強い怒りだけが湧いて来ていた。

 人間でありながらも、既に世界で生きる全ての者の象徴となったサラからしても、『魔王』という存在が他者に誇る呼称ではないと思っている。それにも拘らず、この世界で誰も認識していない『大魔王』という名称を名乗るこの存在が容姿だけではなく、その中身も醜い存在なのだと感じてしまったのだ。

 当然、カミュに護られるように魔王を見上げているサラの呟きなど、瘴気に飲み込まれて誰も聞こえてはいない。それでも、サラの瞳の色は明らかに変化していた。

 

「我の念願まであと僅か。座して滅するのを待っておれば良いものを……この地へ自ら赴いた事を、地の底で悔やむが良い」

 

 サラの瞳が変化する頃、魔王から放たれる威圧感と魔法力が高まりを見せる。足ばかりではなく手さえも小刻みな震えが走り、メルエは無意識にリーシャの腰元に手を伸ばした。ここまでの厳しい旅路を歩み、今や種族を超えた存在となった彼らでさえも胸に湧き上がる恐怖を抑え切れない存在が、その本性を表に出し始めたのだ。

 

「メルエ、怯えるな。私達は負けはしない。あの化け物こそ、私達と相対した事を悔いる事になるだろう」

 

 だが、前衛で真っ直ぐ魔王を見つめる『勇者』と、その後ろを常に護って来た『戦士』の心は揺るがない。怯えるメルエの手を握ったリーシャは、その視線を逸らす事無く、もう片方の手で魔神の斧を握り締めた。

 既にカミュも稲妻の剣を抜いている。この二人は、まるで心の奥底で繋がりを持っているように、ほぼ同時に戦闘の態勢へと入っていたのだ。そんな二人の姿を見たサラはメルエの手を引いて自分の隣へと移動させ、自身も戦闘の態勢へと入る。

 

「最早『人』の中にも戻れぬ矮小な者達が、それでもこの大魔王に逆らうか!」

 

 戦闘態勢に入るため、ゾンビキラーを抜いたサラは、思わずその剣を取り落としそうになる。何よりも醜く、何よりも魔物と思える姿をした魔王が発した言葉に、彼女は自身の胸の中に生まれ始めていた一抹の不安を呼び覚まされたのだった。

 『人類の中に戻れない者』という言葉は、彼等が既に人類を超越した存在になっている事を示している。その事実をこの魔王が認識している事にも驚愕したのだが、強すぎる力が人類の中で弾かれる可能性を他種族に指摘された事に最も驚愕してしまったのだ。

 

「……お前が『大』魔王だとは聞いていないが? 醜いのは外見だけではないようだな」

 

 サラの驚愕、メルエの恐怖、リーシャの気負いが再び一人の青年の言葉によって霧散する。確かに、世界中に恐怖と共に轟ろかせていたのは、魔物達の棟梁である『魔王バラモス』という名であり、決して『大魔王バラモス』という名ではなかった。

 魔王と大魔王の違いなど人類にとっては些細な事であり、どちらにしても自分達の脅威となる存在である事に違いはない。目の前にいる圧倒的な存在感を示す存在が『魔王』であろうと、『大魔王』であろうとカミュ達の目的は何一つ変化しないのだ。

 それでもバラモスが敢えて『大魔王』という名乗りを口にしたという事は、何か別の意味があったのではないかとカミュは考える。それが虚栄心からなのか、誇示欲からなのか、それとも畏怖させる為のものなのかは解らない。ただ、それが醜い感情の表れである事は理解出来た。

 

「忌々しい矮小な人間め……。ん? その目、何処かで? そうか……我に逆らった愚かな人間と同じ目をしておる。我ら魔族と同等の魔法力を有する『賢者』と呼ばれる一族でもないにも拘わらず、この我に逆らった愚かな人間に」

 

「……そ、それはオルテガ様の事なのか?」

 

 魔王という圧倒的存在の中に蔓延る人間的な醜さを指摘するカミュを睨みつけていたバラモスは、その瞳の中に宿る光を思い出す。そしてその言葉を聞いたサラは何かに引っ掛かりを覚え、その瞳を細めた。だが、リーシャは自身が感じた疑問を口にしてしまう。その声は絞り出すように小さく、傍にいるカミュやメルエにしか聞こえない程に力の無い物であった。

 『魔王バラモス』にとって、自分の目の前にいるカミュ以外は歯牙にもかけない存在なのであろう。リーシャやサラの動きなど気にも留めず、一人記憶の世界へ落ち、瞬時に戻って来た。

 

「あの愚かな人間も、死よりも辛い苦しみを与え、遥か彼方に吹き飛ばして以降は戻っては来ぬ。良い暇つぶしになると、敢えて生かしておいてやったにも拘らず、何処かで野たれ死んだのであろう」

 

「……吹き飛ばした?」

 

 カミュ達を無視するように独り言を始めたバラモスの言葉は、奇妙な違和感を一行に与える事となる。サラは先ほど感じた違和感とは別の物に眉を顰め、再度自分の頭の中を整理するように、思考の渦へと呑まれて行った。

 リーシャやサラとは別に、カミュはこの魔王の独り言に一切耳を貸してはいない。だが、身体を動かす事もまた出来はしなかった。何故ならば、剣を持って駆け出したとしても、一瞬の内に消し飛ばされる姿しか想像出来なかったからである。

 余計な独り言を繰り返す間抜けな姿を曝してはいても、この存在が魔王である事に変わりはなく、その存在が圧倒的な物である事にも変わりは無いのだ。この世に生きる全ての魔物を従え、この世の全ての生物の頂点にも立つ力を有する『魔王バラモス』は、例え『勇者』と呼ばれる存在であっても、一瞬も気を抜く事を許されない存在であった。

 

「忌々しい『賢者』の一族も根絶やしにした。最早、この大魔王バラモスに逆らおうとする者達など、在ってはならんのだ!」

 

 一気に開放された『魔王バラモス』の魔法力が、地下に蔓延する瘴気を吹き飛ばす。息苦しさと視界の悪さが即座に晴れた代わりに、カミュ達は先程以上の威圧感をその身に受ける事となった。

 醜く垂れ下がった顎肉を大きく広げ、大きな咆哮を上げたバラモスの瞳が真っ赤に燃え上がる。それは、これから始まる一方的な蹂躙の開始を告げる物。あらゆる生物の頂点に立つ存在が、他者を踏み潰す事の宣言でもあった。

 軽く振るわれたバラモスの左手に圧縮された空気が集まって行く。それは一行に同道する幼い魔法使いが唱えるイオラという爆発呪文に酷似した動きを見せ、それ以上の濃度を感じさせる。周囲の空気が圧縮されて行き、歪んで行く視界に気付いたカミュは、後方にいる三人に注意を呼びかけた。

 

「再び蘇る事さえも出来ぬよう、その(はらわた)を喰らい尽くしてくれるわっ!」

 

 最後の宣告を告げると同時に、バラモスは左腕を薙ぎ払う。瞬時に圧縮されていた空気はその濃度を濃くして行き、最早カミュ達の位置からバラモスの姿が確認出来ない程になって行った。

 圧倒的な存在が放つ、圧倒的な力。それは、彼等の四年以上に渡る旅路を無にする程の物であり、瞬時にこの世の終わりを告げる事の出来る程の物でもあった。

 光と共に歪んだ景色さえも見えなくなる。圧縮された空気が、その開放を今か今かと待つ中、退避する為に動き出したカミュを嘲笑うかのような死刑宣告が広い地下空間に響き渡った。

 

「イオナズン!」

 

 

 




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開戦です。
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魔王バラモス②

 

 

 

 耳を劈くような爆発音が地下の広間に響き渡り、周囲を真っ白な光が包み込む。狭くは無い広間が大きく揺らぎ、天井を形成していた岩が床へと降り注ぐ。大きな岩が床に落ちる度に地震のように世界が揺れ、土埃と岩の欠片が周囲に飛び散った。

 左腕を振り切った姿のまま、魔王バラモスは不敵な笑みを浮かべ、それだけで戦闘が終了したかのように勝利を確信する。脆弱な人類という種族であれば、最上位の爆発呪文に耐えられる者などいはしない。その呪文の存在さえも知る事も無く、どのような呪文なのかを知る事も無く、何が起こったのかも理解しないまま、この世の生を手放している筈だった。

 

「……あれが……最上位の爆発呪文ですか」

 

 だが、この場にいるのは、そんな種族の垣根さえも越えてしまった者達である。数多くの魔物と対峙し、その全てを打ち破って来た者達であり、エルフや魔族などよりも上位の力を有するまでに成長した、世界の希望なのだ。

 無傷ではない。先頭で盾を掲げていたカミュの左腕は、凄まじい爆発によって焼け爛れ、既に感覚さえも失っているだろう。刃の鎧に護られていない部分は、酷い火傷を負っており、皮膚は溶け、赤黒い肉が見えていた。

 同じくその隣でドラゴンシールドを掲げていたリーシャの右足には、酷い火傷と共に大きな岩片が突き刺さっており、今も尚血液が地面へと滴り落ちている。ドラゴンシールドの鱗のところどころが剥げ、その爆発力の凄まじさを物語っていた。

 何より、常に怪我などをした事のないメルエが、地面に倒れ伏している。爆発の余波を受けた軽い身体は、後方に吹き飛ばされ、地下の広間を支える石柱の一つに身体を打ち付けていたのだ。

 そして、サラ自身も立っているのがやっとの状態であり、火傷を負った腕からは血液と共に体液さえも流れ出ている。彼女の身体を護る法衣が魔法の威力を幾分か軽減してくれていたとはいえ、その被害は決して軽視出来る物ではなかった。

 それでも、全員が生きている。

 

「……矮小な人間の分際で!」

 

 最上位の呪文を行使したにも拘らず、自身の前で跪く事もせずに立つ一行を視界に捉えたバラモスは忌々しげに顔を顰める。この最上位の爆発呪文は、魔族であっても上位に位置する者しか唱える事は出来ない。周囲の空気を一瞬で圧縮させ、それを間髪入れずに開放するという行為は、並大抵の魔法力では実現出来ないのだ。

 それだけの大呪文を受けたにも拘らず、無傷ではないにしても、誰一人命を失ってはいない。今にも死を受け入れるような状態に陥っている可能性はあるが、それでも生きている事は事実であり、そのような状況が、魔王バラモスの自尊心を大きく傷つけていた。

 

<イオナズン>

世界最高の攻撃呪文と言っても過言ではないだろう。術者が最大限の魔法力を駆使して行使すれば、辺り一帯を焼け野原にする事も可能な程の威力を誇る爆発呪文である。その場に立つ者を呼吸困難に陥れる程に圧縮された空気が一気に弾ける爆発力は、一国の全戦力さえも一瞬の内に消し飛ばす程の物であった。『魔道書』に記載されていない事は当然として、『悟りの書』と呼ばれる古の賢者の遺産にも未だに浮かび上がってはいない大呪文である。

 

「リーシャさん、カミュ様、ご自分の身体に刺さった破片などはご自分で抜いておいて下さい。その後は、私の魔法力を受け入れる準備を」

 

 辛うじて立っているという状況であるカミュとリーシャに向かって言葉を発したサラは、痛む身体を引き摺ってメルエの許へと向かう。倒れ伏していたメルエの指が動き、傍に転がる雷の杖に触れる頃、ようやくサラが辿り着いた。

 強かに石柱に身体を打ちつけたメルエではあるが、その脊髄などに損傷は無いようで、杖を支えに懸命に立ち上がろうと力を込めている。そんなメルエの身体の隅々まで手を這わせたサラは、大きな傷がない事に安堵の溜息を吐き出した。

 早々に爆風で吹き飛ばされた事により、その熱などを受ける事は少なく、小さな手や顔の一部に火傷を負う程度に留まったのだろう。打ち付けた事による打撲はあるだろうが、内臓の損傷などは血液を吐き出していない為、ないと考えて良い筈である。難しく顰められた眉は、それでも身体に痛みがある証拠ではあるが、サラは安堵していた。

 

「ベホマラー!」

 

 優しく落ち着いた笑みを浮かべたサラは、強く手を天へ向けて詠唱を行う。それと同時に、サラの掲げた手を中心に淡い緑色の光が集まり、先程のイオナズンのように弾けた。弾けた淡い光は、彼女が指定する者達を包み込み、その身体を癒して行く。傷を塞ぎ、火傷を修復し、肌を癒して行った。

 自身の身体の傷が癒えて行くのを感じながらも、カミュとリーシャは視線を魔王から動かさない。いつでも動き出せるように注意深く身体の具合を確かめていた。

 サラが行使した呪文は、彼等にとっても初見の物である。それでも、今更サラがどのような呪文を行使出来るようになろうと彼等は驚かない。メルエが行使する攻撃呪文には恐ろしさを感じる程の驚愕を示す彼らだが、サラという『賢者』については、その魔法への探究心や理解力を心から信じているのだ。

 故に、サラの行使する初見の回復呪文も抵抗なく受け入れる事が出来ていた。

 

<ベホマラー>

術者の魔法力を対象者複数に行き渡らせ、その傷を癒す呪文である。言葉にすればとても簡単な物であるし、実際に、ルカニやルカナン、スカラやスクルトという単体呪文と複数呪文を使い分ける者にとっては容易いようにも感じる。だが、自身の手を翳す事無く、その患部を見る事無く、その者達の傷を癒すのである。単純に魔法力を纏わせるだけのスクルト等とは根本的な難易度が異なっているのだ。その為、古の賢者がその呪文につけた名は最上位回復呪文の物ではあるが、一人一人へ行き渡る効果はベホイミ並の物である。ベホマという単体へ向けると最上位の回復呪文を複数に向けて唱えていると考えると良いだろう。

 

「あの爆発呪文に対抗する事は難しいです。メルエはあの呪文を感じ取ったら、即座にマホカンタを唱えて下さい」

 

「…………ん…………」

 

 カミュ達の許へ戻りながら、メルエの手を引いたサラは彼女に指示を出して行く。

 それが灼熱呪文や氷結呪文であれば、如何に魔王の呪文とはいえどもサラとメルエの呪文で対抗する事は難しい話ではない。だが、魔王バラモスが行使した最上位の爆発呪文に対しては相殺する手段が無いのだ。

 故に、最も体力の少ないメルエには、魔法を完全に遮断する事が出来るマホカンタを行使させ、爆発呪文だけでも回避させようとする。一度の反射で消えてしまう光の壁であれば、その後に攻撃を受けた時に行使するサラの回復呪文までは反射しないだろう。そこまで考えてサラはメルエへと指示を出していた。

 

「この場所まで辿り着いただけはあるという事か……。だが、その奇跡もここまでだ」

 

 再び戦闘態勢に入ったカミュとリーシャが各々の武器を振るう前に、既に勇者一行が生きていた事への驚きから回復したバラモスの腕が振るわれる。贅肉に覆われた腕が一番前で立つカミュの身体を真横に弾き飛ばした。

 『魔王』という地位は、何も膨大な魔法力だけで得る事の出来る物ではない。魔法力に長けた魔物も、腕力に長けた魔物もその下へ置く為には、それ相応の力を示さなければならない。『人』とは異なり、血筋などよりもその力量に重きを置く魔族を統べるには、頂点に君臨するだけの力を誇る必要があるのだ。

 

「うおぉぉぉ!」

 

 吹き飛ばされたカミュの身体が地下室の壁に直撃した音を聞いたと同時に、二人の女性が異なる方角へと駆ける。一人は血液を吐き出して地面へと倒れる青年の許へ、もう一人は吹き飛んだ人間を見て不気味な笑みを浮かべる魔王の許へ。

 魔王の許へ駆け出した女性戦士の速度は、それに気付いた魔王が反応するよりも俊敏であり、その巨体を支える太い足へと手にした斧を振り抜いた。太古の魔の神が所有していたと云われるその斧は、正確に魔王の膝上に吸い込まれ、醜い身体を隠す余裕のある衣服と共に、浅黒い肉をも斬り裂いて行く。吹き出る体液は、この世の生物とは思えない程におぞましい色をしており、床に飛び散ったそれからは、溢れ出る瘴気が立ち上っていた。

 

「ぐぅぅ……人間風情がこの大魔王の身体に傷をつけるなど!」

 

 吹き飛ばされたカミュは駆け寄るサラを手で制して立ち上がっている。血液を吐き出しはしたが、自身の持つベホイミでどうにか出来る程度の物だったのだろう。即座に戦線に戻って来たカミュを見たサラは再びメルエの傍へと位置を取った。

 斧を振り抜いたリーシャは追撃を繰り出そうと斧を振り被るが、バラモスは傷を受けた方の足でそれを振り払う。攻撃の矛先を失ったリーシャは後方へと一度下がるが、その直後に発せられた魔王の怒りの咆哮に足を竦ませる。怯えた訳ではない。恐怖した訳でもない。それでもリーシャは『今、前へ出てはいけない』と本能的に察したのだ。

 

「カミュ様、リーシャさん、一度下がって!」

 

 後方で待つサラの叫びに、リーシャとカミュは後方へと飛ぶ。しかし、その行動途中にバラモスが先に動いた。

 大きく開かれた口から真っ赤に燃え上がる火炎が見えた瞬間、カミュ達の視界が真っ赤に染まる。同時に感じる凄まじい熱気に、カミュとリーシャは一斉に盾を掲げた。

 身体全てが解けてしまいそうな熱気が周囲を包み込み、地下の広間全てに広がった火炎が、カミュ達全てを飲み込んで行く。生物であれば誰しもが生を諦める程の熱量が周囲を覆う中、一人の少女を中心とした冷気が発生した。

 

「…………マ…マヒャド…………」

 

 未だに詠唱の準備が整っていなかったのだろう。これまでの魔物達とは異なり、魔王バラモスの攻撃動作は極めて短い。どのような攻撃が繰り出されるのか解らない事に加え、それが行使されてから対応策を取ろうとしても間に合わない程の速度で繰り出されるのだ。故に、先程のイオナズンや今回吐き出された激しい炎にメルエの対応が遅れた事を誰も責める事は出来ないだろう。

 むしろ、自身を覆う圧倒的な熱量の中にいるにも拘らず、最上位の氷結呪文を唱えたメルエを褒めるべきである。少女を中心に生まれた冷気は、圧倒的な炎を押し返すように広がって行き、蒸発を繰り返しながらも、カミュ達の周囲温度を一気に低下させて行く。

 

「ベホイミ」

 

「ベホイミ」

 

 自分達の周囲の温度が下がった瞬間、カミュとサラが回復呪文を同時に行使する。カミュは横にいるリーシャへ、サラは火傷を負ったメルエに対しての行使である。カミュやリーシャが持つドラゴンシールドは、龍種が放つ火炎や吹雪にも耐性を持つ盾ではあるが、ここまでの戦闘に加え、先程のイオナズンによって劣化が激しい。そこに魔王バラモスという魔物や魔族の頂点に位置する者の吐き出す炎を受けているのだ。

 リーシャの身体は大地の鎧で護られてはいるが、身体全てが護られている訳ではない。バラモスを睨みつける彼女の手は魔神の斧を離さずに握ってはいるが、その手を見ればとても物を握れる状態ではない。火傷によって皮膚は剥がれ、高熱に曝された武器を握る肉は真っ赤に焼け爛れていた。

 

「……カミュ、見ろ」

 

 そんなリーシャの回復をしていたカミュは、視線を動かそうともしない彼女の呟きに魔王バラモスへと視線を送る。そして、そこで今まで感じた事も無い程の絶望感を味わう事となった。メルエの回復を終えたサラもまた、その光景を見て言葉を失い、無意識に手を胸の前で合わせてしまう。

 

「……自然治癒」

 

「矮小な人間から受けた傷など、僅かな時間があれば塞がってしまうわ!」

 

 呆然と見つめるサラの視線の先は、先程リーシャが斧で斬り裂いたバラモスの膝上に残る傷がある筈だったのだが、その部分は体液が泡立つように噴き上がり、傷を塞いで行っていたのだ。斬り裂いた衣服は当然元には戻らない。だが、魔王バラモスの肉体は、戦闘開始前の状態へと戻って行った。

 カミュ達の傷は完全に塞がっていない。魔法力を温存する為にサラはベホマを使用しておらず、カミュもまたベホイミしか行使していない。だが、それでも彼等が保有している魔法力は確実に目減りしている。いくら『賢者』となり、魔法力の量が増えたサラといえども、魔王に拮抗する程の魔法力を有している訳でもなく、無尽蔵に引き出せる器が別にある訳ではない。

 このまま戦闘を続けて行けば、徐々に減って行く魔法力と、徐々に増えて行く傷を持つカミュ達に比べ、魔王バラモスの有利が崩れる事はないと言っても過言ではないだろう。それは、この場に挑んだ者達が持っていた自信と覚悟が強ければ強い程、与える絶望も大きな物となる程の事実であった。

 

「……別段、瞬時に傷が回復する訳ではなさそうだ。回復よりも与える攻撃を多くすれば良い。傷を受ければ癒さなければならないという事は、魔王であろうと死ぬという事だ。俺達のやる事に変わりは無い」

 

「……カミュ」

 

 リーシャでさえ半ば諦めに近い感情を持ってしまった状況にも拘らず、稲妻の剣を握り締めた青年だけは一人前を向く。確かにバラモスの身体は未だに体液が泡立ち、傷を覆っている。それは、大きな傷であれば、それを治癒する為にそれ相応の時間が必要である事を示していた。

 ならば、その傷が癒えぬ間に更に大きな傷を与えれば良いのである。そして、それは致命傷となる攻撃を繰り出せば、魔王であろうと『死』に至るという事を示す物でもあった。自然治癒という驚愕の事実に目が行っていたリーシャとサラは、その事実に気付いていなかったのだ。

 『魔王討伐』という使命に誰よりも興味を示さなかった青年が、誰よりもその成功を信じていた。それは、世界の最高位に立つ者達にとって何よりも心強い事実であり、何よりも喜びを感じる事実であったのだ。

 

「メルエ、俺とコイツの武器にバイキルトを! それに加え、全員にスクルト。アンタは回復に専念してくれ。攻撃呪文にそれ程効果はないかもしれないが、隙があればメルエに行使させてくれ!」

 

「はい!」

 

 剣を一振りした青年は、そのまま目の前のバラモスに向かって突進して行く。その指示に大きく頷いた少女が杖を一振りすると、彼の持つ稲妻の剣の輝きが変化して行った。続いて駆け出したリーシャの斧もメルエの魔法力を纏い、その輝きを強くする。

 この長い旅路の中で、メルエの魔法力の質も大きく変化していた。以前はその膨大な魔法力の量に頼る節が強く、細やかな調節が苦手であったのだが、船ごと運ぶルーラの行使や度重なるトラマナの行使などの経験を積み、その魔法力への細やかな対応が可能となって来ている。

 カミュやリーシャの武器に施されたバイキルトという補助呪文は、以前にヤマタノオロチ戦で使用した物とは雲泥の差があり、一切の歪みを生じさせずに武器を覆っていた。

 

「愚かな人間が!」

 

 迫って来るカミュを見たバラモスはその腕を突き出し、まるで照準を合わせるかのように指先をカミュへと向ける。しかし、そんなバラモスの攻撃が繰り出される前に、囮となったカミュの後方から再び魔神の斧が薙ぎ払われた。

 先程とは異なり、人類最高位に立つ魔法使いの魔法力を纏った斧は、バラモスの太腿を深々と抉り、その態勢を崩す。贅肉に覆われた体躯を支える事が出来なくなったバラモスは盛大に膝を着き、カミュへと向けていた指先の照準を離してしまった。

 苦痛と不快で歪んだバラモスの表情は、迫る稲妻の剣の輝きを見て驚愕の物へと変わって行く。全ての魔物の頂点に立つ魔王バラモスにとって、自身に歯向かって来る相手など久方ぶりであり、更に言えば、複数での連携攻撃が可能な者達など初めて対峙したのだろう。

 愚かで矮小なる人間ならば、自分の身体に触れる前に吹き飛ばす事も、消し炭にする事も出来るという自信がバラモスにはあった。彼に逆らおうとした者達の数は少ないが、それでもその者達は魔王バラモスという強大な存在の前に立つ程の力を有していたのである。だが、それだけの力を有した者達であっても魔王バラモスに傷を付ける事は出来ず、その身体に触れる事さえ出来ずに生を手放して来たのだ。

 魔王バラモスが脅威と感じている唯一の人間である、古の賢者でさえもこの魔王バラモスの身体に何度も傷を付ける事は出来ていない。それだけの力を持った者が魔王バラモスという存在であり、この世界の脅威として君臨する存在なのだ。

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 渾身の雄叫びと共に振り下ろされた稲妻の剣がその鋭い刃をバラモスの肩口を斬り裂いた。バラモスの体格は、ボストロールやトロルのような巨人族程の物ではないが、それでもカミュやリーシャに比べて頭二つ以上に抜き出た体躯を持っている。

 足を斬り裂かれ、態勢を崩していなければ、カミュの剣は間違いなく届かなかっただろう。だが、人類最高位の戦士の援護を受ける事によって、今まで誰も届かなかった高みへ神代の剣が吸い込まれていったのだ。

 それは、まさしく人類の起こした奇跡だろう。

 

「メルエ、来ますよ!」

 

「…………ん………メラミ…………」

 

 自身の身体に傷を付けられ、絶対の自信を崩された事で、魔王としての誇りと共に憤怒の表情へと変わって行く。傷口が泡立ちながら治癒していく中、立ち上がったバラモスが再び指先をカミュへと向けたのを見て、サラがメルエへ指示を飛ばした。

 杖を振り上げたメルエが詠唱を完成させ、杖先から巨大な火球が飛び出して行く。真っ直ぐにバラモスの掲げる指先に向かって火球が飛んで行き、それはバラモスの行動を制したように思われた。

 しかし、相手は魔族の頂点に立つ『王』である。その力は、人間の遥か上にあり、『人』という種族の想像力をも遥かに凌ぐ程の物であった。

 

「メラゾーマ!」

 

 その詠唱の言葉は、カミュ達が今まで聞いた事のない物。バラモスの醜い指先に巨大な魔法陣が浮かび上がる。魔法陣に描かれた文字さえもはっきりと視認出来る程に鮮明なそれは、幼い少女の頭に強烈に焼き付いて行った。

 魔法陣の中心から飛び出した物は、カミュの体躯全てを飲み込むほどに巨大な火球であり、その熱量を現すように、周囲の空気が歪んでいる。その歪みを認識するかしないかの段階で、その火球はメルエの火球に衝突し、その全てを飲み込んでいった。

 メルエという人類が放つ火球とはいえ、一度は魔族のメラミさえも飲み込んだ程の威力を誇る呪文である。その火球がまるで路傍の石に見えてしまう程の圧倒的な熱量と体積に、カミュはその場を一歩も動く事は出来なかった。

 

「マ、マホカンタ!」

 

 呆然としていたのはカミュだけではない。魔王の放つ圧倒的な熱量にリーシャやメルエも何も行動出来ずに固まってしまっていたのだ。

 それでも『賢者』だけは動き出す。稀代の魔法使いであるメルエの火球を飲み込む時間を利用し、サラはその火球の矢面に立っていたカミュへ光の壁を生み出した。どのような効果のある呪文であろうと、どれ程に強力な呪文であろうとも、全てを弾き返す光の壁がカミュを包み込み、迫り来る圧倒的な火球を待ち構える。

 メルエが生み出した火球全てを飲み込んだそれは、速度と威力を増して光の壁に衝突。全てを弾き返す光の壁さえも軋む程の衝撃を残し、巨大な火球は地下室の天井へ辛うじて弾き返された。先程のイオナズンによって脆くなっていた天井から大きな岩が降り注ぎ、カミュ達とバラモスの間に壁を作り出す。

 泉の中央から下部へと潜った地下室ではあったが、そこまでの階段はかなりの距離があった。かなり深く掘り下げて造られた地下室なのだろう。あれ程に天井を崩壊されたにも拘らず、天井部分から水が漏れて来る事はなかった。

 

「カミュ、気を抜くな!」

 

 確実に全てを飲み込むであろうと思われた火球が目の前で弾き返され、間近に迫っていた命の危機を乗り越えたカミュは、自分と魔王を遮る岩壁が出来上がった事によって、僅かに力を抜いてしまう。しかし、どれ程僅かな時間であろうと、どれ程に些細な瞬間であろうと、世界の恐怖の全てである『魔王バラモス』の前で気を緩める事は命取りとなるのだ。

 カミュの僅かな気の緩みに気付いたリーシャはそれを咎める叫びを上げるが、僅かに遅かった。自分の失態に我に返ったカミュが前方へ視線を向けた瞬間、目の前にあった筈の岩壁は破壊され、そこからは大きく鋭い三本の指先が突き抜けて来ていたのだ。

 

「ぐっ」

 

 ドラゴンシールドは間に合わない。掲げるよりも早くに滑り込んだ三本の指先は、鎧に覆われていないカミュの腕から足先までに掛けて振り下ろされた。指先に光る爪は龍種のように鋭く、カミュの腕の肉をこそげ落として行く。刃の鎧で護られた部分には爪は刺さらず、まるで弾き返すように刃を生み出してバラモスの指先へ傷を付けるが、それよりも深い傷跡をバラモスはカミュの身体に残して行った。

 崩れるカミュの身体から大量の血液が溢れ出し、床下を真っ赤に染め上げて行く。尚も追撃を仕掛けようとするバラモスの腕を魔神の斧の一振りで遮ったリーシャは、倒れたカミュを護るようにその前に立ち、回復役であるサラの到着を待った。

 

「ならば、諸共焼け死ね!」

 

「…………マヒャド…………」

 

 自身の物理攻撃を何度となく防ぐリーシャに苛立ちを覚えたバラモスは、再び大きくその口を開け、真っ赤に燃え上がる火炎を吐き出す。先程の火球ほどの熱量はないまでも、人間数人を焼き尽くす程度の威力は有しており、倒れ伏すカミュが流す血液さえも即座に蒸発する程の熱気が周囲を覆って行った。

 しかし、その熱は再び振り下ろされた少女の杖から噴き出した圧倒的な冷気によって打ち消される。例え激しい炎であっても、その行動機会さえ失わなければ、メルエの放つ最上位の氷結呪文が負ける道理はない。吹き荒れるブリザードが火炎を巻き込んで気化して行き、周囲を真っ白に染め上げて行った。

 

「ベホマ!」

 

 その間にカミュの許へと辿り着いたサラは、即座に最上位の回復呪文を詠唱する。カミュの身体全体を覆い尽くす緑色の光が、深々と抉られた傷を癒して行く。最早、この戦闘に限って言えば、ベホイミ級の回復呪文では傷を完全に癒す事など出来なかった。それ程に魔王バラモスの力は圧倒的であり、全ての攻撃が致命傷になりかねない物であったのだ。

 回復を終え、立ち上がったカミュがリーシャの横に並ぶ。同時に晴れた視界の先に見えるバラモスがカミュ達全員を忌々しげに睨み付けていた。

 カミュ達の傷は癒えている。だが、その代償として、サラやメルエの魔法力は大きく減少しているだろう。特にここまででサラの回復呪文の詠唱間隔は相当に短くなっていた。魔王バラモスの攻撃が想像以上の物であると同時に、勇者一行全員に効果を及ぼす攻撃方法が多い事が最大の原因であろう。

 対するバラモスの身体にある傷は、半分程の治癒が終わっている。いや、正確に言えば、半分程しか終わってはいないのだ。体液を泡立てるようにして傷を癒していたバラモスではあるが、それは攻撃と同時進行で行える物ではないらしい。彼が攻撃の手を休めた時や、一つの攻撃を終えた時に治癒が始まっていた。つまり、攻撃の手を緩めなければ、その治癒の速度を遅らせる事は可能であるという事になる。

 

「バイキルトの効力は続いているな?」

 

「……ああ」

 

 カミュの方へ視線も向けずに問い掛けるリーシャに対し、彼は小さく頷きを返す。稲妻の剣を覆う魔法力にも、魔神の斧を覆う魔法力にも揺らぎはない。後方で厳しく眉を顰めながら杖を持つ少女が立っている限り、その魔法力が霧散する事などないのだろう。

 前衛の二人へ魔王の攻撃が集中する限り、後方のメルエへの被害は軽減する筈である。幼いとはいえども、彼女も立派な勇者一行なのだ。この場に立つ事の意味に気付いていない訳でもなく、そこに伴う危険性を理解出来ない程に愚かでもない。だが、それでもこの前衛二人にとっては、護らなければならない存在なのであった。

 

「来るぞ!」

 

 自分の身体の治癒を後回しにしたバラモスは、その腕を大きく振り上げる。振り上げた掌に一気に掌握されて行く空気は、高濃度に圧縮されて行った。

 それだけの行動で次に何を行うつもりなのかを理解したカミュとリーシャは、攻撃に移るよりも防御の体制に入ってしまう。だが、彼等が護るべき者と考えていた少女だけは、その圧倒的な魔法力に立ち向かうべく、雷の杖を大きく振るった。

 

「…………イオラ………マホカンタ…………」

 

 矢継ぎ早に二つの詠唱を行った少女の行動は、この世の常識では考えられないものである。二つの呪文を同時に詠唱する事など不可能に近い。魔法陣での契約を行う魔法使いや僧侶は、その契約に使った魔法陣を使用する事で呪文を行使するのだ。それが描かなければならないのか、頭の中で描くのかという些細な違いはある物の、攻撃呪文の同時行使などは、難度が高いという物ではなく実質不可能に近かった。

 しかし、右腕に持つ雷の杖を振るう事でバラモスの顔面部分に大きな爆発を生み出した彼女は、左腕を直に振るう事で、前方のカミュに再び光の壁を生み出している。実際、『賢者』であるサラが、二つの呪文を同時に行使するという離れ業を行ってはいるが、あれは魔法力に対して誰よりも探求している彼女だからこそ可能な事なのだろう。

 

「…………メラミ………マホカンタ…………」

 

 イオナズンという最大爆発呪文を行使するための準備を始めていたバラモスではあったが、下位の呪文であるという利点を生かした行使速度で放たれたイオラによって、圧縮し始めた空気の一部が霧散していく事に苛立ちの舌打ちを打つ。実際のダメージというのは皆無に近いのだろう。ヤマタノオロチの頭部を吹き飛ばし、ボストロールの巨体を吹き飛ばしたメルエのイオラではあるが、この魔族の頂点に立つ『王』に対しては、効果を示す事が出来ていなかったのだ。

 それでも、メルエの意図はバラモスを傷つける事ではない。彼女の目的は唯一つ。それは彼女が大事に思う者達の身を護る為の呪文の行使時間を得る事であり、彼女の全てはその一時の為に使われていた。

 

「メルエ、バラモスの攻撃が呪文でなかった場合、回復呪文も弾いてしまいます。最悪の場合、自分だけに行使しなさい」

 

「…………むぅ…………」

 

 続いてサラへ同じように光の壁を生み出そうとしたメルエの杖を、対象者である賢者が手で下ろす。確かに、バラモス自体が魔法を反射する光の壁に気付いていたとすれば、呪文以外の攻撃手段に変える可能性がある。その場合、身体的な傷に関しての回復手段がなくなるという結果になってしまうのだ。

 マホカンタという光の壁は、それがどのような効果の呪文であろうと、誰が行使した呪文であろうと、全てを弾き返してしまう。他者を想い、その傷を癒す為に行使した回復呪文であっても、その全てを弾き返してしまう為、魔法力の無駄使いになるのだ。

 

「メルエが行使した呪文に気付いてはいないようですね。メルエ、自分にマホカンタを……私は自分で行使しますから」

 

「…………ん…………」

 

 しかし、サラが見る限り、バラモスがマホカンタの行使に気付いた様子はない。故にバラモスは先程と同じ行動をし始めたのだ。掌に向かって高速に圧縮される空気がこれから起こり得る事象を明確に物語っている。通常の『人』という種族の魔法使いや僧侶であれば、対処する事の出来ない速度であっても、サラとメルエという稀代の呪文使い達であれば可能であった。

 即座に自分へ光の壁を生み出したサラは、前方で警戒するカミュ達に向かって大きく頷いてみせる。それは準備が整った事の報告と、カミュ達の行動を後押しする自信の表れであった。

 呪文行使に突き進む魔王バラモスへ駆け出したカミュの手にはしっかりと稲妻の剣が握り込まれており、その横を駆けるリーシャは両手で魔神の斧を握り締めている。カミュやリーシャには、メルエがマホカンタを行使した姿が見えていない。元来の呟くような詠唱に加え、その直前に行使した攻撃呪文が目に入っている為、自分達を包む透明な光の壁が見えてはいないのだ。

 だが、それでも彼等がサラという賢者を疑う事はない。彼女があれだけ自信に満ちた顔で頷きを見せる事は少ない。その数少ない自信が裏目に出る事は、更に限られて来るのだ。しかも、目の前に立ちはだかる魔王の力は、ここまでの僅かな戦闘で明確になっており、少しでも狂った判断をした場合、その者達の『死』という現実が待っている事も明白である。それでも尚、サラが頷きをみせた。それだけでも、彼等二人が全精力を掛けて魔王に向かう価値があるのだろう。

 

「イオナズン!」

 

 魔王バラモスの左腕が振るわれる。それと同時に、息苦しく感じる程に圧縮された空気が弾けた。耳を劈き、地面を揺らす爆発音が響き渡り、カミュ達の視界を真っ白に染め上げて行く。だが、その爆風と熱風は、カミュ達の方向ではなく、行使者であるバラモスの許へと向かって行った。

 凄まじい速さで弾き返された爆風は、魔王の巨体をも仰け反らせ、その熱風は魔王の纏うマントを焦がして行く。それでもその身体には一切の傷を与えない。まるで攻撃呪文の効力がないかのように立つバラモスの浅黒い皮膚には焦げ一つ見る事が出来なかった。

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 反射されたイオナズンは、元々魔王バラモスの行使した呪文である。しかし、爆風を受けて忌々しそうに細めた瞳に映ったそれは、人類最高位の攻撃力を持つ『戦士』の一振りであった。

 煌く刃の一閃は、それを繰り出す者が発する気合の声をも超えた鋭さを誇り、放り出されていたバラモスの左腕に斬り込んだ。容易く斬れる筈のないその肉は、魔の神が愛した斧の刃を受け入れ、地面へと落ちて行く。三本の指を持つ魔王の腕は、肘先から斬り落とされた。

 人類最高位に立つ戦士の最高の一撃。

 それは、矮小な人類であっても、魔の王に対抗する力がある事を高らかに示す。彼等が歩んで来た道程と、彼等が培って来た経験が花開いた瞬間であった。

 

「カミュ!」

 

 魔王の腕を斬り飛ばした女性戦士は、後方から掛けて来る勇者の為に屈み込む。屈み込まれた女性の肩に足を掛けた青年は、そのまま肩を蹴り出して跳躍する。肘先を失ったバラモスがその痛みに顔を歪めている間に、重力に従って落ちる力を利用した一振りが肩口へと吸い込まれて行った。

 しかし、肉を深々と斬り裂く感触と噴き出す体液の音を聞いた頃には、カミュの身体は真横へと吹き飛ばされ、地下室の壁に直撃する事となる。肩口に斬り込まれた剣が抜ける瞬間に、バラモスの片腕がカミュの身体を捕らえていたのだ。渾身の力を込めて薙ぎ払われた腕は、鞭のようにしなやかでありながらも、金槌のような破壊力を持っていた。

 地下室全体が揺れる程の衝撃を残したカミュは、そのまま床へと崩れ落ちる。慌てて駆け寄ろうとするサラの目の前には、巨大な足が踏み出されていた。魔王バラモスという存在はその強大な力だけで魔王の位置にいる訳ではない。僅かな戦闘であっても、誰がこの一行の要となっているのかなど判断出来る頭脳を持ち合わせているのだ。

 攻撃の中心は剣や斧を持った前衛二人である事は見て解る。その為、バラモスの攻撃は鬱陶しい蝿を払うように、前衛二人に向けられていたのだが、致命傷とも思える傷を負わせても立ち上がる彼等を見て、それを可能とさせている者が誰であるかを把握していた。

 

「手始めにお前からだ!」

 

 ここまでの戦闘では、回復役が誰であるかを理解してはいても、その者を攻撃する事が叶わなかったのである。回復役というのは、戦闘を主とする一行の中で要となる。その者を失えば、ほぼ間違いなくその一行は全滅の道を辿るだろう。それをこの一行は誰よりも知っていたのだ。

 故に、ここまでの戦闘の中でも意図的にサラという賢者が前へ出て来なければ、彼女が傷つく事はなかった筈である。そういう布陣を敷いていたし、前衛二人が後衛の二人へ敵の攻撃が向かわないように動いて来ていた。

 今、その最強の布陣が崩れている。しかし、それは初めての事ではなく、ここまでの戦闘でも何度かあった事であった。ヤマタノオロチと死闘を繰り広げた時も、ボストロールと大きな戦闘を行った時も、その隙は必ず生じていたのだ。

 その中で、何故サラやメルエが無事であったかと問われれば、それはカミュ達と敵との力量の差が僅差であった事と、その敵となる魔物自体が人間を侮り、そのような分析をする必要性を持ち合わせていなかった事であろう。

 しかし、今カミュ達が対峙しているのは、あらゆる魔族や魔物の頂点に立つ『魔王』なのである。

 

「…………スカラ…………」

 

 バラモスは敢えて呪文の行使を行わなかった。

 肘先を失った方の腕ではなく、もう片方の腕を振り上げたバラモスは、握り拳を真っ直ぐに振り下ろす。空気を震わす程の唸りを上げて振り下ろされる拳を見た少女は、自分の大事な姉のような存在に向かって杖を振るった。

 魔法力の鎧を纏わせるように輝いたサラの身体ではあるが、魔王の攻撃をまともに受けて無事である保証はない。直接戦闘に特化したカミュやリーシャであれば、並みの攻撃では微動だにしない程の強靭な肉体を所有してはいるのだが、呪文使いの色が強いサラはその限りではない。

 誤解の無いように言っておけば、サラという賢者も人類の頂点に立つ程の存在である。呪文使いとしての色が濃い彼女ではあるが、人類最高位の戦士の手解きを受け、魔物の中でも最上位に位置するであろうネクロゴンドの魔物達を斬り伏せて来たのだ。その剣技も体力も、そして肉体も、並みの人間からすれば、遥か高みにいる存在である事に間違いはない。

 それでも尚、容易く粉砕出来るのが、『魔王バラモス』なのだ。

 

「……ア、アストロン」

 

 駆け出したリーシャの斧は間に合わない。

 人類最高位に立つ『魔法使い』の呪文でも防ぎ切れない。

 その威圧感とその恐怖で足を竦ませてしまったサラに対抗手段はない。

 だが、唯一人、それでも諦めず、そしてその絶望的な状況を覆す事の出来る存在がいた。

 この世界の『勇者』であり、ここまで来た一行全員にとっての『勇者』である。

 

「この死に損ないが!」

 

 光に包まれたサラは、魔王の拳が届くよりも一瞬速くその身を鉄へと変えて行く。何物も受け付ける事のないその鉄は、魔族の頂点に立つ者の拳さえも弾き返した。

 己の攻撃力で拳を痛める程脆弱ではないバラモスは一瞬唖然とした表情を浮かべ、鉄色に変わったサラを眺める。そして、自分の攻撃が何の意味も成さなかった事を理解すると、それを行ったであろう者を憎々しげに睨みつけ、生きる物ならば例外なく萎縮する程の巨大な咆哮を上げた。

 その視線の先には、辛うじて立ち上がり、自分の身体に向かって淡い緑色の光を放っている青年の姿がある。彼は、凄まじい力で吹き飛ばされ、硬い岩壁に激突した事によって受けた傷の回復よりも、仲間の危機回避を優先させていたのだ。

 

「バシルーラ!」

 

 回復を終えたカミュが皆の許へと戻ろうと駆け出した瞬間、怒りに燃えたバラモスが腕を振るう。強く抵抗出来ない程の力がカミュを襲い、そのまま弾き返されるように先程の岩壁に叩き付けられた。

 回復役が重要な立ち位置にある事は誰しもが知る事柄である。だが、この一行の場合、再び一行との合流を妨げられた青年が全てを握ると言っても過言ではないだろう。皆を奮い立たせる勇気を、皆の絶望を振り払う希望を、そして絶対的な自信を与える安心感を、彼は三人の女性に与え続けて来たのだ。

 魔王バラモスは、その事に気付いていた。いや、正確に言えば、本能的に恐れていたのかもしれない。

 

「…………カミュ…………」

 

 バラモスは世界の情勢に疎い訳ではない。常にこの世の生物達の間で交わされる噂などを耳に入れていた。『勇者』と呼ばれる人類の希望が自分を倒す為に旅を始めたという話は、数十年前から何度も耳にしている。しかし、そんな噂を耳にしても、矮小な人間が何を言っているのかと嘲笑ってさえいた。

 事実、この数十年の間に、自分の許に辿り着いた人間など皆無に等しい。たった二人だけが十数年前に顔を出したが、その者達など脅威にすらならなかった。人類の歴史だけではなく、魔族の歴史の中にも名前を挙げる『賢者』という存在であっても、魔王バラモスに傷一つ付ける事は出来なかったのだ。

 バラモスは、その悲願の為にこの場所を動く事は出来ない。だが、それであっても、既に彼が恐れるような者はおらず、彼の悲願を妨げる者など何処にもいない筈であった。

 絶対的な強者である魔王のそんな考えを、根底から揺るがしかねない者が、今視界の端で苦悶の表情を浮かべている青年である。先頭に立って現れた時、『勇者を名乗ろうとも、所詮は人間』と考えていたが、今バラモスの身体を覆う泡立つ体液が、彼等が並みの人間ではない事を示していた。

 そして、その者達を率いていたのが、あの青年であったのだ。

 

「今度こそ、屍を曝してやろう!」

 

 動けないカミュを尻目に、鉄化が解け始めたサラに向かって拳を握り締めたバラモスは、その拳を横薙ぎに振るう。上部から殴り潰すのではなく、側部から身体の内部を破壊しようと考えたのだ。

 即死という形ではなく、修復不可能な程の傷を負わせ、深い絶望感に落とし入れようと考えての行動なのかもしれないが、それは悪手であった。

 鉄化が解けた事で意識を戻したサラは、迫り来る拳の出現に驚いてはいたが、慌てふためく事もなく冷静にその拳を見つめる。それは、その拳を防いだ後、自分が何を成すべきなのかを考える為であり、何を成せば魔王に届くのかを吟味する為でもあった。

 圧倒的な力を持つ魔王の拳を前にしても、彼女が冷静でいられる訳。それは、バラモスさえも気付いていない、この一行の共通の認識である一つの事柄にある。

 

「ふぅ……余り、私達を侮るなよ」

 

 この一行の『要』となる存在は、カミュでもサラでもない。それは、世界を救うと云われる『勇者』自身も、人類を救うと云われる『賢者』自身も認める事柄であった。

 一行の中で誰よりも人間らしく、誰よりも『人』としての心を残す者。

 女性という事で受けた屈辱を晴らそうと必死になりながらも、女性である事に誇りさえも持つ者であり、そして、今や人類という枠ではなく、この世で生きる生物の中で頂を見る事が可能な程の力量を有しながらも、『人』として世界を見つめる事の出来る瞳を持つ者でもある。

 その者の持つ盾が、魔族の頂点に立つ『王』の拳を防ぎ、その衝撃を受けて尚、彼女の身体は吹き飛ばされる事はなかった。

 

「カミュ! 自力で戻って来い!」

 

「……ちっ」

 

 何とか立ち上がり、再び自分の身体に回復呪文を掛ける勇者に向かって、厳しい一言を放つ女性戦士を見て、サラは苦笑を浮かべる。小さな舌打ちが、地下室全体に響き渡ったのではないかと思う程、場違いな空気がこの場所を支配した。

 魔の神が愛した斧の柄を地面に付けて仁王立ちするリーシャの放つ気が、魔の王さえも怯ませる。後方にいるメルエは、ようやく訪れた一時の安堵の時間に頬を緩め、サラの傍に駆け寄って行った。サラもまた、その後の行動を考えながらも、自分の前に立つ女性戦士の大きな背中を見上げて一つ息を吐き出している。

 このような最終局面の場所で、そしてこのような緊迫した場面で尚、仲間達を気負わせるのではなく、いつもの力を発揮させる空気を生み出す事は、カミュにもサラにも出来はしない。それは、この四年以上に渡る長い旅路の中で、生まれも育ちも価値観さえも異なる者達を繋ぎ止めて来た『鎖』となる存在にしか成しえない事であるのだ。

 

「さぁ、もう一踏ん張りだ」

 

「はい!」

 

「…………ん…………」

 

 魔王バラモスという存在は、確かに世界を恐怖に陥れるだけの力を有した存在であった。

 だが、それは決して手の届かない物ではない。人間である『勇者』や『戦士』の攻撃で傷つき、『賢者』や『魔法使い』の唱える呪文によって、攻撃を防ぐ事も出来る。

 魔王台頭から長い年月が経過する中、それを知る者は未だに誰一人としていなかった。恐怖の対象であり、絶対的な力の象徴でもあったからだ。

 今、その象徴に挑む者達が四人。その手は、確かに届き掛けていた。

 魔王という絶対的な存在に。

 そして、その先にある未来へと。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
バラモス戦はもう少し掛かります。

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魔王バラモス③

 

 

 

 傷が塞がって行くバラモスを前にしても、カミュ達四人は行動に移せない。それは、苛立たしげに鋭い視線を送るバラモスの威圧感が、戦闘開始時よりも更に増していたからだ。

 確かに魔の王であろうと、人間の攻撃によって傷つき、その傷が深ければ命を落とす事は証明出来た。そして、カミュ達の力であればそれが可能である事も理解出来たし、ここまで来た経験と実績が通用する事も証明して見せている。

 だが、それでも、そこまで来て尚、魔王バラモスの存在は圧倒的な物であったのだ。

 傷を与える事は出来る。

 簡単に殺されるつもりもない。

 だが、魔王バラモスを倒し、勝利する光景も見えない。

 流れ落ちる汗は、決してこの場所の気温の変化ではないだろう。ようやく合流を果たしたカミュの表情にも、先程味方を鼓舞したリーシャの表情にも余裕の欠片もなかった。

 

「ふはははははっ。このバラモスと相対する資格のある者達である事は認めよう。だが、それだけだ」

 

 身動きが出来ないカミュ達を一通り見渡したバラモスは、先程までの不愉快そうな表情を変化させ、大きな高笑いを発する。バラモスの身体にある傷は未だに癒されていない。その癒しの力の全てをある一点に集中させたかのように、その治癒活動を止めていた。

 カミュ達の力を認めているにも拘わらず、その傲慢な発言に陰りは見えない。そして、それだけの自信を裏付けるように、バラモスが持ち上げた一本の腕に変化が起こった。

 リーシャが渾身の力を込めて斬り落とした腕が、再生し始める。体内から新たに出現した新しい腕は、粘膜と体液に包まれながらも、しっかりとした動きを見せていた。

 その異常な程の光景を一行は唖然と見つめる事しか出来ない。どれ程に強力な回復呪文を詠唱したとしても、身体の欠損部分の再生というのは不可能であると云われていた。それは世界全土の全ての種族共通の事柄である。だが、目の前の魔の王は、そのような事を然も当然の事のように容易く成し遂げてしまったのだ。

 

「…………て……でた…………」

 

「……流石に、ここまでの絶望感を味わったのは初めてだ」

 

 雷の杖を手にしたメルエが、巨大な魔王の姿を見上げながら小さな呟きを漏らす。その呟きは本当に小さな物だったにも拘わらず、一行全員の耳に浸透していて行った。

 眉を厳しく顰めてその光景を眺め、珍しい言葉を呟いたカミュをリーシャとサラは対称的な表情を浮かべる。サラは、久しく見た事のない本当に絶望の淵に落とされたようなくらい表情を。そして、リーシャは薄い笑みを含めた、心からの喜びを示す表情を。

 二人の対称的な表情を不思議そうに見上げたメルエの視線に気付いたサラは、自分とは真逆の表情を浮かべるリーシャを不審に思う。何故、この状況で笑えるのかと。

 

「お前も希望を持っていたのだな……。大丈夫だ……腕が再生しようと、傷が回復しようと、私達のすべき事に変わりはない。私は、お前を信じているぞ」

 

「…………メルエも………だいじょうぶ…………」

 

 笑みを浮かべたリーシャの言葉に、サラは虚を突かれたように驚愕を表す。目を見開いたまま視線を動かした先には、不愉快そうに顔を顰めたカミュの姿。

 『勇者カミュ』という存在は、全世界の希望としてアリアハンから送り出された者である。世界で生きる全ての者達の希望を一身に背負って歩む者であり、それは自身の願いや想いを押さえ込み、消し去らなければ背負えない程に重い物であった。

 『賢者』となり、象徴としての道を歩み始めたサラだからこそ、カミュが背負う物の大きさと重さを理解していたつもりである。サラとて、『人』の頂点に立つと云われる賢者となり、同じような重責を担う者となったのだ。その重責は、とてもではないがサラ一人で背負える物ではない。先駆者であるカミュがいたからこそ、彼女はその重荷を背負う覚悟を持てたと言っても過言ではないだろう。

 自分の感情のみで動いてはいけない。自分の考え全てが正しいと思ってはいけない。数多くある制約の中で、何処が最善の道なのかを模索しながら歩む事は本当に難しい。サラは未だに未熟な為、多分に感情を入れ込んでしまう事もあったが、サラから見たカミュという『勇者』は、その制約を遵守しているように見えていたのだ。

 希望を持たなければ、絶望感など感じはしない。自分の生にさえ執着を持たず、アリアハンを出た頃から変わらず、全てに諦めているようなカミュが絶望感を口にした。それがどれ程に驚くべき言葉なのかを知っていたのは、やはりこの一行の要となる女性戦士であったのだ。

 

「わ、私も、カミュ様が『勇者』様であると強く信じています! 私をここまで導いて下さりました。私に新しい道を見せて下さいました。カミュ様とリーシャさんと、メルエがいたからこそ、私は今、この場所に立っているのだと知っています」

 

「……ちっ」

 

 サラの言葉は、宣言のように地下室に響き渡る。その言葉の内容に誰よりも優しく、何よりも暖かな笑みを浮かべたリーシャは、不愉快そうに舌打ちを鳴らすカミュの肩に手を置いた。

 魔王の傷は癒えつつある。その中でこのようなやり取りを続ける事は愚行以外の何物でもないだろう。それでもリーシャは自分の胸に湧き上がる喜びを押さえる事は出来なかった。

 カミュが希望を持っていた事、サラがカミュを心から信じている事、メルエが自分の力を制御し管理出来ている事。その全てが、この旅をカミュと共に始めた彼女にとって歓喜の雄叫びを上げたい程の喜びに満ちた出来事であったのだ。

 

「祈りの指輪は着けているな? この戦いで魔法力切れは言い訳にならない。自分の魔法力の残力を確認しながら行使しろ。もし危ういと感じたら、即座にルビスに祈れ。応えてくれるかどうかは知らないが、何もしないよりは良いだろう」

 

「……ふふ。ルビス様は、いつでも私達を見守って下さっています」

 

「メルエも頼むぞ?」

 

「…………ん…………」

 

 未だに眉を顰めたままのカミュの指示に対し、サラは小さく笑みを浮かべながら、その言葉の一節を窘める。そんなやり取りを見ながら、リーシャはメルエにも彼の指示を実践するように言い付けた。

 戦闘の再開の準備は整った。魔王バラモスに比べ、カミュ達一行の体力や魔法力に余裕はない。回復呪文や補助呪文を連続で行使して来たサラの魔法力は半分近くに減っていても可笑しくはなく、強力な攻撃呪文で魔王の攻撃を防いで来たメルエもまた同様である。

 それでも、カミュの言葉通り、彼等が倒れ伏す言い訳にはならない。彼等はこの場所に来るまでに、多くの者達の心にある希望を託されて来ている。『人』に対し、世界に対し、諦めしか持っていなかった青年の胸に『希望』という光を生み出す程の者達から託された想いは、簡単に諦めを受け入れる事を許しはしないのだ。

 

「人間どもよ、滅びるが良い!」

 

 再び最強の布陣を敷いたカミュ達は、凶悪な宣言と共に振り下ろされたバラモスの拳を掻い潜る。しかし、掻い潜った筈の腕の横合いから、もう一方の拳が唸り上げ、リーシャの身体に直撃した。

 真横に吹き飛ばされた彼女は、地下室を支える柱の一つに打ち付けられ、床に崩れ落ちる。余程の力で叩き付けられたのか、柱には大きな亀裂が入り、天井からは巨大な岩が落ちて来た。

 

「…………イオ…………」

 

 リーシャの身体を押し潰しかねない程の巨大な岩が空中で激しく弾け、細かな石粒となって地面へと降り注ぐ。雷の杖を振るったメルエが、天井から崩れ落ちる巨大な岩に向かって、最下位の爆発呪文を詠唱したのだ。

 メルエという少女の視野は、魔法という神秘を覚えたばかりの頃に比べて、圧倒的に広くなっている。それは、彼女が姉のように慕うサラの教えの賜物であろう。

 『メルエの力は、相手を滅する物ではなく、全てを護る物』という言葉は、幼い魔法使いの心の成長と共に、戦闘における視野をも広くさせていた。

 

「メラゾーマ」

 

 間髪入れずに唱えられた最上位の火球呪文が倒れ付すリーシャを襲う。その距離は短く、サラやメルエの放つマホカンタの詠唱は間に合わない。朦朧とする意識の中、リーシャは自分の身体に迫る圧倒的な熱量を感じ、顔を上げた。

 全てを飲み込む程の火球は、橙色に発光しながらもリーシャの肌を焦がして行く。余りにも強大な火球の為、その速度は遅く、間一髪で我に返った彼女は、その場を飛び退くように離れた。しかし、余波だけでも相当な熱量を誇る火球である。その肌は黒く焦げ、ところどころ焼け爛れたように肉を露にしていた。

 巨大な火球は柱一本を容易く飲み込み、その全てを消滅させて行く。天井に繋がっている一部が残っている事だけが、そこに柱があったという事を物語っていた。

 

「ベホイミ」

 

「すまない……あの火球だけは、受け止める訳にもいかなそうだ」

 

 即座にリーシャに駆け寄ったサラが焼け爛れたリーシャの肌を癒して行く。余波だけでもこれだけの火傷を負う火球である。まともに受け止めようとしたならば、盾どころかその身体全てを消滅させる可能性さえもあるだろう。

 今は、最上位の火球呪文を行使した隙を突いたカミュの剣がバラモスの右腕に食い込み、派手におぞましい色をした体液を噴き出させている。受けた傷の痛みと、鬱陶しく駆け回るカミュの姿に顔を顰めたバラモスは、再び何らかの呪文詠唱の準備に入った。

 魔の王の周囲に尋常ではない程の魔法力が収束されて行く。それは、再び最上位の呪文が行使される事を示していた。しかし、今のサラは全精力を傾けてリーシャの回復を急いでいる。最上位の火球呪文の余波は、それだけの傷跡を残していたのだ。

 

「…………マホトラ…………」

 

 残った呪文使いは、『経典』の呪文は使えない。そして、全ての呪文を弾き返す光の壁を一行全員に作り出すには時間が足りない。だが、この幼い呪文使いは、そのような絶望的な状況の中でも自分に何が出来るのかを考え、その中で最善の方法を取捨選択するだけの経験と知識を育んで来ていた。

 バラモスの腕に集まり掛けていた魔法力が霧散し、その一部がメルエの身体に取り込まれて行く。相手の魔法力の一部を奪い、自身の魔法力へと変換する呪文。それは、魔王バラモスという圧倒的な存在の持つ魔法力にさえ効力を発揮した。

 魔法力の欠乏という危機をも未然に防ぎ、尚且つ魔王の攻撃さえも妨害する。今、これ程の絶妙な魔法行使が他にあるだろうか。それは『賢者』となったサラでさえも、考え付かない程の高度な行使方法であった。

 しかし、この世を恐怖に陥れる魔王は、それを不問にする程穏やかな生物ではない。

 

「煩いわ!」

 

 魔法力を奪われた隙を突いて剣を振り下ろそうとしたカミュを左腕一本で弾き飛ばし、追い討ちを掛けるように激しい炎を吐き出す。壁に直撃したカミュが、床に伏せる前に唱えたアストロンによって、その激しい炎はカミュの身体を害する事はなかったが、これで『勇者』の一定時間の戦線離脱が決定した。

 吐き出された激しい炎に包まれて行くカミュを呆然と見つめていたメルエは、自分の倍以上もある体躯が急激に迫っている事に気付き、杖を構える。しかし、魔の王の圧力を一身に受けた少女の足は、心とは裏腹に小刻みに震え、動かす事など出来はしなかった。

 

「バシルーラ!」

 

 怯えるようにバラモスを見上げていたメルエの瞳が一瞬輝き、即座に光を失う。メルエという少女の危機は、常に誰かによって防がれて来た。彼女が心から頼りにする『勇者』であったり、姉のように慕う『賢者』であったり、そして、今バラモスの放ったバシルーラによって反対側の壁に吹き飛ばされた『戦士』にである。

 魔神の斧を掲げ、少女の危機に割り込んで来た女性戦士は、その斧を振り下ろすよりも前に圧倒的な反発力によって弾き飛ばされ、彼女が最も大事にする少女の傍から遠く離されてしまった。強かに打ち付けられた身体は、大地の鎧という女神の愛した鎧に護られているものの、地下室に響き渡る程の軋みを上げる。

 

「…………リーシャ…………」

 

「その身に絶望を刻み込め!」

 

 弱々しく呟かれた言葉は、救いを求める言葉。地下室の喧騒に消え逝く小さな呟きは、目の前に迫る魔王の死の宣告に掻き消される。唸りを上げる腕がその小さな身体を粉砕し、この世からメルエという存在自体を消し去る為に襲い掛かった。

 少女が呟く救いを求める言葉は誰にも届かない。この世を生み出した創造神にも、この世の守護者である精霊ルビスにも。諸悪の根源である魔王バラモスが、神や精霊王よりも強力な存在である事の証明なのか、幼い少女の願いは天には届かなかった。

 

「ごぶっ」

 

 願いは天には届かない。

 神や精霊は応えない。

 それでも、少女の願いは届く。

 誰よりもこの少女の危うさを知り、誰よりもこの少女の身を案じ、誰よりも少女の事を理解している者へ。

 

「サラ!」

 

 バシルーラによって壁に叩き付けられた筈のリーシャが即座に立ち上がる。それだけ衝撃的な映像であったのだ。

 リーシャとて無事ではない。内臓を傷つけられたのか、口端からは血液が垂れ落ちている。左手の指の数本が違う方向へ曲がっており、折れている事が解った。それだけの怪我を負い、心さえも折れそうな状況でも彼女は自分が妹のように愛している『賢者』の身を案じているのだ。

 その心の叫びはこの広い地下室に虚しく響き渡り、宙に舞った『賢者』の身体は、数度硬い地面に叩き付けれる。最後に完全に沈黙したその身体に生気は感じられなかった。

 

「…………サラ…………」

 

 地面に尻餅を着いていたメルエは、遠く吹き飛んだ者の名を呟く。

 バラモスの圧倒的な拳が迫る中、カミュが殴り飛ばされ、リーシャが弾き飛ばされた。それでも少女を護ろうと割って入って来たサラがメルエの身体を押し出し、その身代わりとなってバラモスの拳を受け入れたのだ。

 遠目から見てもサラの身体は正常な状態ではない。右腕と左足は奇妙な方向へ曲がっており、口からだけではなく、鼻からも大量に血液が溢れ出している。意識はないのだろうが、その身体は小刻みな痙攣を起こしていた。

 

「ふははははっ。どうした人間、その程度か?」

 

 高笑いを上げるバラモスは、回復役を葬った事に満足そうな表情を浮かべている。バラモスの言うように、倒れ伏したサラの命は風前の灯と言っても過言ではない。数分もすれば細かい痙攣も治まり、身体は冷たくなって行くだろう。それだけの攻撃を彼女はその身で受けたのだ。メルエを庇う為に盾を掲げる事も出来ず、無防備の状態で魔の頂点に立つ者の全力の拳を受けるという事は、死を意味する。

 サラは、カミュやリーシャのように神代の鎧に身を護られている訳ではない。その為、全ての衝撃をその身一つで受け入れる事になった。それが最大の要因であろう。

 

「……カ、カミュ」

 

「アンタへの回復は終えた。アレは俺に任せろ」

 

 自身の身体にベホイミを掛け、即座にメルエの元へと戻って来たカミュは、そのままリーシャの身体に回復呪文を唱える。そして、それが終了すると、死に瀕した賢者の方へ視線を移した。

 自分の指が正常な形に戻り、常に叩かれているような頭痛が治まった事に安堵したリーシャは、カミュの言葉に驚きの表情を浮かべるが、即座に柔らかな笑みを浮かべる。そして、再び厳しく表情を引き締めると、魔神の斧をしっかりと両手で握り締めた。

 

「その間、アンタには魔王の相手を一人でして貰う。……頼んだ」

 

「信じているぞ、カミュ。バラモスは、私に任せろ」

 

 短いやり取りで、お互いの心は把握出来た。リーシャはカミュの心を、カミュはリーシャの心を。そして調和した二つの心は、一つの目的に向かって動き出す。互いを理解し、互いを信じているからこそ成せる技なのだろう。

 互いに頷き合った後、カミュは一気に速度を上げてサラの許へと駆け出す。そしてリーシャは、その動きに勘付いたバラモスを牽制するようにその間に割り込んだ。

 カミュへと向けられたバラモスの腕は、リーシャの持つ魔神の斧によって阻まれる。僅かに斬り裂かれた腕から新鮮な体液が吹き上がった。それでもこの者は魔の王であり、人間一人で抑える事など不可能な存在である。

 

「骨も残らぬように殺してやる!」

 

 リーシャによって斬り裂かれた腕の治癒も後回しにしたバラモスは、そのまま大きく口を開く。その奥には真っ赤に燃え上がる火炎。それを盛大な勢いで吐き出したのだ。

 噴き上がる激しい炎は真っ直ぐに細かく痙攣するサラへと向かって吐き出された。それは、死に逝く者を更に殺し得る程に強力な物であり、死者すらも冒涜する程に残酷な所業。最早死を待つのみとなった相手の骸さえも残さぬその力は、まさに魔の王に相応しい圧倒敵的な物でもあった。

 

「…………マヒャド!…………」

 

 駆け寄るカミュさえも巻き込んで燃え上がろうとする激しい炎の音が地下室を支配する中、珍しく力強い呪文行使が響き渡る。吹き荒れる吹雪よりも低い冷気が周囲を覆い尽くし、バラモスが吐き出した激しい炎の進路を塞ぐように通り抜けて行く。

 激しくぶつかり合う炎と冷気が、凄まじい音を上げながら大気へと変化して行き、高温の霧となってバラモスの視界を奪った。その隙を突くようにカミュはサラの許へと駆け寄り、その身体を確認する為に屈み込んだ。

 そして、希望を失う。

 

「……息はあるのか?」

 

 最早、サラの身体は魂を半ば程を手放しており、小刻みに繰り返していた痙攣も治まり始め、瞳は白目を剥いている。口や鼻からは大量の血液を流し、手や足は大きく別方向へ曲がってしまっていた。

 流石のカミュでさえ、その凄惨な姿に言葉を失ってしまう。その理由の一つは、ここまでの状況になってしまったサラを癒す術をカミュが持ち合わせていない事にある。彼が行使出来るのは、中級回復呪文であるベホイミであり、死を受け入れ始めた魂を戻す程に強力な回復呪文を行使する事は出来ないのだ。

 故にこそ、この場でカミュは立ち尽くす。自身の力ではこの場を覆す事が出来ないという事を、彼は誰よりも理解している。『任せろ』という言葉を口にした手前、何とかしなければならないという事を解っていて尚、彼はその凄惨な仲間の姿を見つめる事しか出来なかった。

 

「…………スカラ…………」

 

 カミュの後方では、バラモスという強大な敵を戦士と魔法使いのみで相手している。彼女達には回復手段が何もない。どちらかが怪我を負えば、それは致命傷ともなり得る。それ程の緊迫した状況にも拘らず、リーシャという女性戦士は、バラモスの攻撃を掻い潜りながらもメルエという少女を護っていた。

 彼女だけでは魔王を倒す事など出来はしない。それでも尚、あの場で諦めもせず、絶望もせずにバラモスと対峙している理由は唯一つだけなのだろう。バラモスという強大な敵を前にして怯えず、その攻撃がサラの方向へも、メルエの方向へも向かわないように気張っている理由は僅か一つだけの理由なのだ。

 『私はお前を信じている』

 先程戦闘に戻る際に告げられた言葉である。彼女はその言葉通り、カミュという『勇者』を信じ、彼が『賢者』を再び戦場へ戻してくれると信じ切っていた。だからこそ、それまでの間、彼から託された事を全うしようと必死になっているのだ。

 

「……やるしかないのか」

 

 魔神の斧を振るい、メルエへと攻撃をしようとするバラモスの腕を弾き返したリーシャの姿を見たカミュは僅かに目を閉じ、そして大きく息を吐き出す。開かれた瞳は、決意と覚悟の光に満ちていた。

 既に意識のないサラの手足を元の位置に戻す。折れた骨を正しい形に直しているのだろう。幸いな事に綺麗に折れた骨であった為、元に戻す事は簡単であった。意識がないというよりも、魂の在り処が変わって来ている為、サラが痛みで呻く事はない。準備を整えたカミュがもう一度息を吐き出した。

 一つ印を結んだカミュは、その手を天へと向ける。彼が神に祈った事など、生まれてこの方一度足りともない。神という存在に加護を貰った事など一度もないと考えているし、その下にいる精霊ルビスなど、憎しみを感じる事はあっても感謝などした事は髪の毛の先程もなかった。

 その彼が自身の魔法力を天に向かって放出し始めたのだ。それは本当の奇跡の始まりなのかもしれない。彼が世界の『勇者』となる第一歩。その祝福の光が彼の腕に集まり、その光は死を迎えるだけとなったサラの身体をも包み込んだ。

 

「ベホマ!」

 

 地下室全体を照らす程の緑色の光がサラの身体全体を覆う。折れた骨は結合し、身体の内部の傷が修復されて行く。細かく痙攣しながら弱まり続けていた呼吸は、しっかりとした息遣いへと戻って行った。

 サラという『賢者』の中に、未だに生への執着が残されていたのだろう。通常の人間であれば、即死であっても可笑しくはない程の状況であった。生者と死者を分かつ最後の物はその精神である。その者が死を受け入れてしまえば、その魂は精霊ルビスの許へと召されてしまう。最後の最後まで死と抗う者だけが、それを救おうとする者の魔法力を受け入れる資格を有するのだろう。

 呼吸が安定し、サラの指先が僅かに動いた事を確認したカミュは安堵の溜息を吐き出した。しかし、それも一瞬の事であり、即座に先程まで死の境を彷徨っていた女性の頬を張ったのだ。

 

「ふぇっ!?」

 

「目が覚めたか? 身体の具合はまだ完全ではないかもしれないが、余裕がない。俺は前線に戻る……後方は任せた」

 

 強く張られた衝撃で目を覚ましたサラに、カミュは矢継ぎ早に指示を出す。死線を彷徨っていた朦朧とした頭の中で、サラは必死に今の状況を把握しようとした。そして、その中で最も素直に頭の中に入って来た言葉がある。

 『任せた』

 もしかすると、彼の口からこの言葉は何度か聞いた事があるかもしれない。だが、まるで初めて聞いたかのように彼女の頭の中に浸透して行った。魔法のように直接サラの心へと響くその言葉は、再び『賢者』としての彼女を覚醒させる。それは、この世界を左右する程の人間の復活を意味していた。

 

「お任せ下さい!」

 

「メルエは危うい……アンタだけが頼りだ……頼む」

 

 不覚にも、サラは瞳を潤ませてしまった。カミュの言葉に喜び以外の感情が湧き上がらない。ここまで四年の旅を経て、自分が仲間として認められたと感じた事は何度かあった。そして、それを匂わすようなカミュの言葉を聞いた事もある。だが、ここまではっきりと明確に、そして力強く告げられた事はなかっただろう。

 零れ落ちる涙を拭いもせず、サラはカミュへ向かって大きく頷きを返す。

 想いは託される。

 そして、再び前へと向かって歩き出すのだ。

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 蝿を振り払うように振り抜かれるバラモスの腕に斧を合わせたリーシャは、その勢いに押される身体を踏ん張りで押さえつける。何度も弾き返したバラモスの腕や足には、無数の斬り傷が出来ており、身体の至る所から体液を流していた。

 しかし、それを成した者もまた無傷ではない。身体の内部にある骨の数本は折れているのだろう。それが内臓を傷つけている為か、口からは血液を流しており、身体は痛々しい火傷の痕が残っている。何度か吐き出された激しい炎は、メルエの放つマヒャドによって相殺されてはいるが、それでもその余波によって身体が焼かれていたのだ。

 それでも彼女が立っているのは、彼女が心から信じている者の帰りを待つが為である。そして、その瞬間が訪れる。

 

「ふん!」

 

 態勢を崩したリーシャの身体を襲うバラモスの腕を、横から突き出された剣が貫く。貫かれた剣は反対側へ突き抜け、即座に抜かれた剣と共に大量の体液が噴き出した。剣が抜かれる瞬間、カミュが持つ神代の剣が、その特殊性を吐き出したのだ。

 体内から爆発する衝撃は、魔王でさえも抗う事は出来なかった。傷口から噴き出される体液と共に、再び魔王の腕がその機能を失う。

 

「……遅いぞ、カミュ。サラは大丈夫なのか?」

 

「ああ」

 

 自分の横へと移動して来た青年の顔を見たリーシャは、僅かに微笑を浮かべる。そして、その問い掛けに彼が頷いたのを見て、その笑みを濃くした。しかし、逆にカミュはリーシャの姿を見て顔を顰める。それ程凄惨な姿をしていたのだ。

 死が目前に迫っていたサラ程ではないにせよ、立っている事もままならない程の傷である事は確かである。意識が朦朧としていても不思議ではなく、地に伏し、息も絶え絶えになっていても可笑しくはない物であったのだ。

 それを示すように、カミュ帰還によって一瞬気が緩んだリーシャは、足元をふらつかせる。その身体を抱き留めたカミュは、即座に回復呪文の詠唱を行った。

 人類最高位に立つ『戦士』とは、人類最高位の攻撃力を有する者である。その者でも、バラモスに対して致命傷を与える事は出来ず、死と隣り合わせの戦闘を行わなければ対峙出来ない相手なのだ。

 むしろ、この状況でサラとメルエを守り抜いた彼女を褒めるべきだろう。

 

「……信じていたぞ、カミュ」

 

 カミュに抱かれながらも、自分の身体が癒えて行くのを感じたリーシャは、駆け寄って来るサラの姿をその背中越しに見て、綺麗な笑みを浮かべる。もしかすると、彼女自身は意識的にカミュを信じ込んでいたのかもしれない。『サラは助からないのではないか?』という疑問が浮かばなかった訳はない。それ程に厳しい状況であった事は、倒れ伏すサラの姿を見ていた時から感じていただろう。

 それでも、彼女は信じるという選択肢を取った。カミュという『勇者』ではなく、カミュという一人の男性を心から信じた結果は、彼女が考えていた最も幸せな物だったのかもしれない。

 彼女が信じる男は、もう昔のようにサラを只の同道者として見てはいない。同じ目的を持ち、志さえも近くする仲間として受け入れていると、リーシャは信じたかったのだろう。そしてその願いとその期待は、満点の回答を持って応えられたのだ。

 

「……カミュ、ありがとう」

 

「……礼を言われる覚えはない。アレがいなければ、この結末は俺達の死で幕を下ろすだけだ。それに……まだ終わった訳でもない」

 

 心からの謝礼を述べたリーシャに対し、カミュはその身体を引き剥がし、右手に稲妻の剣を握り込む。その素っ気無い対応を見たリーシャもまた、回復した身体で魔神の斧を握り込み、微笑を浮かべた。

 サラを復活させたのは、誰がどう言おうとカミュである。それをリーシャは信じていたし、理解をしている。あの状況からサラを再び戦場に立てるように立ち上がらせる方法が何であるのかを察する事はリーシャには出来ない。それは呪文や魔法が生み出す神秘の知識がリーシャ自身に無いからであった。

 それでも、今のカミュの言葉を心の底から嬉しく思う。

 『礼を言われる覚えがない』というのは、サラを救う事がカミュにとっても当然の行為であるから。

 『アレがいなければ……』という言葉は、サラという『賢者』の重要性を理解し、サラという個人の必要性を理解しているからこそ。

 そして、『まだ終わった訳ではない』という言葉が、彼自身が諦めていない事の証拠。

 その全てがリーシャにとって喜びとなる。

 

「相手は魔王だ。俺やメルエだけではなく、あの賢者の魔法力もいつまで持つか解らない。正直に言えば、既に俺の魔法力は枯渇間近だと考えている。それでも……それでも前へ出るしかない」

 

「任せろ! 元より私には魔法力など有りはしない」

 

 腕の再生を優先させていたバラモスが再び戦闘状態に戻って来る。その瞳は、魔族特有の怒りの色に彩られており、何とか理性を保っているようにも見えた。

 ここから先は、これまで以上の激戦となるだろう。先程のサラのように、何時仲間が死の淵に落ちるか解らない。サラ程の強者が、僅か一撃だけで昏倒する程の物なのだ。それをメルエのような幼子が受けてしまえば、おそらく即死であろう。それを阻止する事が出来るとすれば、それはカミュでありリーシャであり、そしてサラである。この三人が幼い魔法使いを護りながらも魔王という圧倒的な存在に立ち向かわなければならないのだ。

 ここまでの魔物との戦闘では、メルエという規格外の魔法使いが放つ神秘によって幾度となく彼等は救われて来た。だが、この魔王という存在には、メルエの放つ攻撃呪文が目に見える形で効果を現してはいない。それは何もメルエの能力が下だからという訳ではないだろう。メルエよりも、魔王バラモスが行使する呪文が圧倒的に上位にいるからである。

 人類最高位に立つ魔法使いとはいえ、彼女もまた人間である事は否めない。それに対し、バラモスは魔の王なのだ。同じ呪文を行使したとしても、メルエではそれを相殺する事は出来ても圧倒する事は出来ない。ましてや、相手が上位の呪文を行使して来るとすれば尚更である。

 ここまで来て、メルエという少女が彼等の足枷になっている。サラであれば、バラモスの攻撃に対しても何らかの防御態勢を敷く事が出来るだろう。盾を構えるも良し、その場を離れるも良し。実際、カミュのアストロンに護られた経緯があるサラではあるが、カミュやリーシャから見れば、自己の判断に任せる事が可能な仲間の一人であった。

 だが、メルエを支える魔法力が枯渇してしまえば、それこそ手には負えない。動く事さえも出来ない幼子を護りながら戦える程、魔王バラモスという相手は脆弱な存在ではない。しかし、それら全てを理解していて尚、リーシャはカミュに向かって笑みを浮かべながら頷きを返した。

 

「許さんぞ! 貴様ら全て、骨も残さぬように喰らい尽くしてくれるわ!」

 

 最早、バラモスに魔の王としての余裕は欠片もない。カミュ達を睨みつける瞳は真っ赤に血走っており、その怒りの大きさを物語っている。再生した腕から滴り落ちる体液はどす黒く濁り、先程の余裕は見られなかった。

 それが示す事は、魔王バラモスといえども再生能力は無限ではないという事だろう。己の魔法力を使用しているのか、それとも体力を使用しているのかは知らないが、欠損部分の再生にはそれ相応の代償を支払っていると考えて間違いはない。

 依然として、バラモスの放つ威圧感や圧倒的な魔法力に陰りは見えないが、それでもカミュ達の攻撃が有効であったという事実は揺るがないのだ。小さくはある一歩ではあるが、彼等はその悲願に着実に近づいていた。

 

「カミュ……」

 

「後方の二人には『祈りの指輪』がある。俺の魔法力に期待するな。ここから先は、俺とアンタでの肉弾戦が主流だ。気合を入れろ」

 

 『気合』

 そんな言葉がカミュの口から出て来るとは思わなかった。リーシャは驚きと共に、不敵な笑みを浮かべる。

 彼女の隣には常に彼がいた。どんなに苦しい戦いの中でも、どれ程絶望感に打ち震える時でも。それがリーシャという戦士にとってどれだけ心強かったかを彼は知らないだろう。彼を『勇者』であると信じ始めてからのリーシャは、彼と共に武器を振るえる場所を護って来たのだ。

 その彼女に向かって『気合を入れろ』など、鳥に飛び方を教えているようなものである。

 

「お前こそ気合を込めろ! お前が振るう一振りが、サラやメルエの歩む道となる」

 

「……行くぞ」

 

 魔王バラモスの力は圧倒的であった。

 カミュやリーシャだけではなく、この戦いでは本当の意味でサラは死に掛けたのだ。今までのように攻撃を受ける前に救われたのではなく、最早息を引き取るのを待つだけという状況まで追い込まれている。

 ここまでの戦いで、これ程の窮地に陥った事はなかっただろう。誰が何時、己を生を諦め、この戦闘の勝利を諦めても不思議ではない。心が折れそうな程に刻み込まれる圧倒的な力が襲い掛かる中、未だに立ち上がり魔王へと己の武器を向ける彼らこそ、やはり『勇者一行』なのだろう。

 魔の頂点に立つ者との決戦も佳境を迎えようとしていた。

 

 

 




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魔王バラモス④

 

 

 リーシャが先陣を切って走り出す。魔神の斧が怪しく輝き、それを握る人間の身体を眩い光が包み込む。後方から唱えられたピオリムという呪文が、彼女の俊敏さを急激に上昇させて行ったのだ。既にその武器はメルエの魔法力を纏っており、その身体もメルエの魔法力で覆われている。バイキルトとスカラによって強化された女性戦士を最終段階まで上げる補助魔法が唱えられていた。

 その後ろを天上から降された剣を握り締めたカミュが掛けて行く。突如攻勢に出たカミュ達に一瞬戸惑いを見せたバラモスであったが、その表情に余裕が即座に浮かんだ。魔の王から見れば、何をどうしようが人間である事に変わりはないのだろう。ここまでの戦いの中で自分が傷つけられた事には我慢ならないが、それでも自身の命を脅かす程の存在ではないと認識していたのだった。

 

「愚かな……自ら死に急ぐとは」

 

 斧を振り被ったリーシャの姿を確認したバラモスは、それを振り払うように腕を振るう。しかし、ピオリムによって俊敏さを上げていたリーシャはそれを僅かな動きで避けた。そのまま振り下ろされた斧は、バラモスの胸元に吸い込まれ、ゆったりとした衣服と共にその贅肉を斬り裂く。吹き出る体液が床に弾け飛んだ。

 続いたカミュの剣が深々とバラモスの太腿に突き刺さり、派手に体液を撒き散らす。堪らず膝を着いたバラモスは、怒り狂うように腕を振るう。しかし、既に離脱しているカミュには当たらず、それを見たバラモスは大きく口を開いた。

 

「燃え尽きよ!」

 

 動作も少なく、溜めも少なく吐き出された激しい炎は、真っ直ぐカミュとリーシャへと向かう。その炎は、魔王の怒りを表すように激しく、先程までよりも広範囲に広がっているようにさえ見えた。

 メルエが杖を構えて氷結呪文の準備に入るが、それよりも速く、少女を護るように立つ賢者の両腕が前へと突き出される。両手の前に巨大な魔法陣が浮かび、眩い輝きを放った。

 その魔法陣は、メルエでさえも見た事のない魔法陣であり、『悟りの書』という秘められた書物の中にあるにも拘らず、稀代の魔法使いにも見えぬ程の希少性を持つ物である。悔しそうにその魔法陣を見つめるメルエではあったが、その魔法陣が及ぼす効果まで理解する事は出来ず、その結末を見つめる事しか出来ないのだった。

 

「フバーハ!」

 

 サラの詠唱と共に巨大な魔法陣から真っ白な霧の壁が生み出される。カミュとリーシャを護るように展開された霧の壁は、バラモスの吐き出した炎と衝突し、それを包み込むように気化させて行った。

 カミュやリーシャの視界を遮る訳ではないその霧は、激しい炎の全てを気化する事は出来ず、その熱風の余波と炎が僅かにカミュ達を襲う。しかし、それは二人の前衛が持つ龍種の盾によって十分に防ぐ事が出来る程度のもの。多少の火傷は怪我の内には入らない。カミュは自身とリーシャにベホイミを唱えた。

 

<フバーハ>

古の賢者が編み出した霧を生み出す呪文。魔法力によって編み出す霧である為、同じように魔法力で生み出された火炎や氷結には効果はないが、魔物や龍種などの吐き出す炎や吹雪に関しては、その効力を軽減させる効果を持つ。炎に対しては霧によって火炎を気化させ、吹雪などに対しては水分のある霧で包む事によって溶かすのだ。水分を多く含む霧を壁のように生み出す為、その使用魔法力の量はかなり多く、通常の呪文使いであれば即座に魔法力が枯渇する程である。その為、『悟りの書』に封印された呪文であった。

 

「…………サラ…………」

 

「大丈夫ですよ、メルエ……ルビス様、その大いなるお力の一部を私にお貸し下さい……」

 

 フバーハの結果を見届けたサラが片膝を着いた事で、隣に立っていたメルエが心配そうに近寄って行く。だが、そんなメルエを手で制したサラは、その指に嵌められた指輪を握り込み、胸の前で合わせて天へと祈りを捧げた。

 その祈りの言葉と同時に眩く輝き出した指輪を中心に、サラの身体全体を激しい光が包み込む。その光を目にしたメルエは小さな笑みを浮かべた。彼女はその光を知っているのだ。内なる魔法力を再び満たす感覚を彼女は覚えている。

 それは希望という光を繋ぐ未来への輝き。

 

「小癪な人間め!」

 

 指輪から溢れた光は、斧を振るうリーシャへ一撃を見舞おうとしていたバラモスの視界にも入り込む。その聖なる輝きは、魔の王が最も嫌う種類の光であったのだ。

 目の位置に腕を掲げたバラモスは、不愉快そうに顔を顰め、憎々しげにその光を放つ者を睨みつける。その瞳には、憎悪と憤怒の炎が吹き上がるように燃えていた。その怪しい炎を認識したカミュとリーシャは、サラとメルエを護るようにバラモスとの間に入り、それぞれの武器を構える。それを嘲笑うかのように、再びバラモスは口を大きく開いた。

 

「カミュ、盾を掲げろ!」

 

 リーシャが自身の盾を掲げる。彼女はカミュの魔法力の残りが少ない事を知っており、アストロンという絶対防御の呪文を当てに出来ないと思っていたのだ。即座にカミュも盾を掲げるが、ここまでの戦闘の中で何度も経験して来たバラモスが吐き出す激しい炎を防ぐには、正直ドラゴンシールドだけでは心許ない。元々、魔物が吐き出す炎や吹雪への耐性がある盾ではあるが、魔の王が吐き出す炎を全て防ぐ事は不可能なのだ。

 ある程度の覚悟を決めたリーシャは、足を踏ん張るような態勢を取る。しかし、そんな彼女の心配を吹き払うように、吐き出された激しい炎の前に霧の壁が再び立ち塞がった。視界を覆うように展開された霧の壁は、炎を包み込むように気化させて行く。蒸発しきれない余波がカミュ達を襲うが、それは龍種の鱗で作られた盾によって防ぐ事の出来る範疇であった。

 

「メルエ、祈りの言葉は覚えていますね? 倒れるまで魔法力を酷使してはいけませんよ。メルエの魔法力の残量はメルエにしか解りませんから、自分の魔法力と向き合って、祈りを捧げるのです」

 

「…………ん…………」

 

 補助魔法の効力は、本来行使者の命がある限り続く。メルエの放ったスクルトやバイキルトは、今も尚カミュとリーシャの身体や武器を覆っているし、サラが放ったフバーハは前衛二人を護るように霧の壁を生み出し続けていた。

 一度放った魔法力がその身体や武器を覆い続けるという事は、その魔法力を維持し続けるという事でもある。魔法力を新たに追加する程ではないが、それを維持する為の制御は行使者に委ねられていた。今のカミュの武器を覆っている魔法力に歪みや乱れはない。リーシャの身体を覆っている魔法力は、吸い付くようにその身体を護っている。それは、メルエがその魔法力を維持し、制御し続けている事を示していた。

 それがメルエの成長でなくて何だと言うのだろう。以前にメルエがその呪文を行使した時は、荒さの目立つ危うい物であった筈。それが今、世界の頂点に立つ魔の王の身体さえも貫き、その強靭な攻撃さえも緩和させる働きを、この幼い少女が一人で担っているのだ。

 故にこそ、サラは心を配るのだ。幼い少女には体力がない。メルエという魔法使いは、その内に宿す膨大な魔法力によって体力を補っていた。魔法力の制御や維持は、精神をすり減らし、神経を衰弱させる。サラならば、それを体力によって補填する事は可能であるが、メルエはそれを魔法力で補填している可能性が高かった。

 

「おりゃぁぁぁ!」

 

 サラとメルエの会話が終わる頃、地下室に戦士の雄叫びが響き渡る。吐き出した炎さえも緩和された事に怒りを剥き出しにしたバラモスが拳を振るい、それに合わせる様にリーシャが魔神の斧を振り下ろしたのだ。

 しかし、バラモスとて魔族達との覇権争いを勝ち抜いて来た強者である。魔神の斧が深々と突き刺さって尚、その拳を振り抜き、人類最高位に立つ女性戦士の身体を吹き飛ばした。

 凄まじい音と土埃が立ち上り、衝撃によって魔王の腕から抜けた斧が宙を舞う。壁に衝突したリーシャが床に落ちると同時に、魔神の斧がその傍に突き刺さる。石で出来た壁さえも貫き突き刺さるその姿が、魔神の斧という特殊な武器の鋭さを物語っていた。

 

「吹き飛べ!」

 

「…………マホカンタ…………」

 

 起き上がるリーシャに向かって体液を撒き散らしながら振るわれたバラモスの腕が、その魔法力を開放する。瞬時に圧縮されて行く空気を確認したメルエが、雷の杖を振るった。

 光の壁がリーシャを包み込むと同時に、その周囲の空気が一気に弾ける。地面を揺るがす衝撃と、耳を劈く爆音が響き、天井の一部が崩壊する。だが、その熱した爆風はリーシャを襲わず、行使者であるバラモスへと弾き返されて行った。

 体液が流れ出している腕の治癒は進んでいない。その傷跡を襲う熱風にバラモスは苦悶の声を発した。今までどれ程の呪文を行使しようともその身体に傷一つ付ける事が叶わなかったのだが、ここに来て初めて、呪文の効果によって魔王に一矢を報いたと言えるのかもしれない。

 

「カミュ様! 魔王とて生物です!」

 

 その時、サラの叫びが轟く。言葉は少なく、聞く者によっては何を指しているのか理解出来ないだろう。だが、カミュは爆風の余波を盾で防ぎながら、しっかりと頷きを返した。

 世界の頂点に立ち、世界で生きる生物達の恐怖の対象となっている魔の王でさえ、生命という尊い物を持つ生物の一つである事に変わりはない。剣で斬られれば傷を受けるし、その傷が深ければ命を落とす。そして、戦い続ければその内にある魔法力を使用するし、如何に膨大な魔法力といえども無尽蔵な訳でない以上、いつか尽きるのだろう。肉体は再生する事は出来ても疲労するし、その体力が人間の何倍もある魔族だとしても、疲労によって行使出来ない事も出て来る筈なのだ。

 

「目障りだ!」

 

 しかし、自身を愚弄するような言葉を発したサラを睨み付けたバラモスは、再びその腕を振るう。振るわれた腕と同時に放たれた詠唱は、メルエが反応するよりも早くにサラの身体へと到達した。圧倒的な強制力を持つその風は、この世で唯一人の賢者でさえも抵抗出来ない程の力を有している。一瞬目を見開いたサラではあったが、次の瞬間に自分の身体がリーシャとは反対側の壁に打ち付けられている事を知った。

 強かに背中を打ち付けられた事によって、呼吸が詰まってしまったサラは、そのまま床へと倒れ込む。その瞬間を待っていたかのように、崩れた天井の一部がサラの背中に直撃した。身体の内部を傷つけられたサラは盛大に血液を吐き出し、朦朧とする意識の中で迫り来る魔王の姿を見る。

 

「させるかぁぁ!」

 

 しかし、サラを踏みつけようとしたバラモスの足は、横一線に振り抜かれた魔神の斧によって弾き返された。派手に体液を撒き散らしながらも、サラから幾分か横へずれた場所に落ちたバラモスの足に、輝くような一閃が追い討ちを掛ける。

 走り込んで来たカミュがその足を斬り裂き、そして、足を踏み台にして跳躍したのだ。慌ててそれを叩き落とそうとしたバラモスではあったが、カミュが剣を振り抜く方が早かった。肩口から入ったカミュの剣が、バラモスの腹部までを切り裂いて行く。

 吹き出る体液と、飛び出る臓物。並みの魔物であれば、その一撃で命さえも奪える程に強烈な一閃。カミュでさえ、この長い旅の中で数度しか経験した事のない程の会心の一撃だったに違いない。

 

「グオォォォォ!」

 

 これまでの理知的な叫びではなく、魔物本来の雄叫びのような声を上げる。それは地下室全体の大気を揺るがす程に巨大な叫びであり、人類であれば例外なく恐怖を覚える程の凄まじい咆哮であった。

 身を竦ませたのは、やはり最も幼い少女。サラに対する暴力に怒りを露にしていたメルエの足が、魔王の咆哮によって小刻みに震える。サラの元へと踏み出そうとした足が動かず、口元は歯が噛み合わない。カタカタと小さな音を立てて鳴り続ける自分の口元が、自分の意思で動いている訳ではない事にさえ気付かず、メルエはその恐怖の対象を見上げた。

 体液を派手に流し続けながらも、尚をその瞳は生命力に満ちている。通常の魔物ならば致命傷であるその傷も、自然治癒という特殊能力によって徐々に回復し始めていた。

 

「許さんぞぉぉぉ!」

 

 既に魔王バラモスに冷静さは欠片もない。あるのは世界を滅ぼす事の出来る程の暴力のみ。カミュが切り開いた活路を広げようと斧を振り上げたリーシャの身体は、メルエが瞬きをする僅かな時間で消え去った。

 横から現れたバラモスの足がリーシャの身体を蹴り飛ばしたのだ。その威力は、先程まで受けていた物の比ではない。壁に打ち付けられて止まる事が出来る程度の暴力が生易しく感じる程に強力な一撃は、リーシャの身体を中央に立つ柱に直撃させて尚衰える事はない。太い柱を砕き、更にその向こうへ吹き飛ばされたリーシャは、サラが横たわる近くの壁に叩き付けられた。

 一瞬で意識を刈り取る程の暴力。歴戦の戦士であり、今や人類最高位に立つ戦士である彼女でさえ、激しく血液を吐き出した後、白目を剥いて床へと倒れ込んだ。

 

「貴様は骨も残さぬ!」

 

 既にリーシャが虫の息になっている事を確認したバラモスは、次の標的を、目の前で剣を握っているカミュに定める。おぞましい色の体液を付着させたままの稲妻の剣は、しっかりとバラモスへ向かってはいるが、それを持つ青年の意識はバラモスへは向いていなかった。

 徐々に立ち位置を動かすカミュの向かう先は、彼の仲間が倒れ伏す場所。再び意識を手放してしまった賢者と、この旅で初めて命の危機に瀕した戦士が倒れている壁に向かって、カミュは警戒を怠る事無く進んでいたのだ。

 振り抜かれたバラモスの拳を避けたカミュは、それを機に駆け出す。しかし、それを嘲笑うかのように、激しい炎がカミュを飲み込んで行く。いつもならば、カミュという青年を襲う炎を防ぐ氷結呪文を唱える魔法使いは、その杖を振るえる状態ではなかった。恐怖に襲われた少女は、只々その戦闘を傍観するしか出来ない。

 

「ふははははっ。己の矮小さを思い知れ!」

 

 真っ赤に燃え上がる炎が、この世の希望である『勇者』を包み込む。全てを燃やし尽くす程の業火は、天上付近まで炎を立ち上らせ、そこにいる生物を閉じ込めて行った。

 通常の人間ならば、命を取り留める事など出来はしない。その肉はおろか、骨の欠片までも燃やし尽くすであろう業火は、離れた場所でその戦いを見ていたメルエの視界さえも真っ赤に染め上げる。それは、幼い少女にとって絶望と悲しみの光景だった。

 

「貴様……」

 

 しかし、この青年は最早アリアハンを出立した時のような心を持ってはいない。彼を包む炎を、絶望を感じながら見ていた少女の父親の前で誓ったあの時から、彼に諦めという言葉はないのかもしれない。命ある限り、彼は生きる事を諦めず、生き残る事に向かって努力を続ける義務がある。

 誰もが絶望し、誰もが倒れ伏しても、彼だけは絶望する事も倒れ伏す事も許されない。それは誰に誓った訳でも、誰に強要された訳でもない。

 彼自身の誓いなのだ。

 

「…………カミュ…………」

 

 激しい炎が消え、床の石までもが溶けている姿が現れる。しかし、魔王が目的としていた人物だけは、その場に変わらず立っていた。

 徐々に変わって行く肌の色が、彼がこの場で唱えた呪文の種類を物語っている。例え人類最高位に立つ魔法使いであろうと、例え世界で唯一の賢者であろうと、例え世界を恐怖に陥れる魔の王であろうと、その呪文を唱える事は出来ず、行使する事も出来ない。

 その呪文を行使し、全ての者を護る事が出来るのは、この世界で唯一人。

 『勇者』と名乗る青年だけなのだ。

 

「ちっ」

 

 しかし、『勇者』といえども人間である。体力や腕力は戦士に及ばず、魔法力の量は賢者や魔法使いに及ばない。

 最後の魔法力を振り絞ってのアストロンだったのであろう。鉄化が解けたカミュは、そのまま片膝を床につけてしまう。それが示す事は唯一つの事柄であり、一行の全滅を示す事。

 『魔法力切れ』である。

 カミュは、サラやメルエとは異なり、祈りの指輪を嵌めてはいない。いや、もしその指に精霊の神秘を嵌めていたとしても、彼は祈らないかもしれない。だが、その事実が示す事は、これ以上の呪文行使が不可能であるという絶望であった。

 

「それが矮小な人間の限界だ! 大人しく死んで行け!」

 

 カミュが膝を着いた事を見たバラモスは高笑いを浮かべ、その拳をカミュに向かって勢い良く振り下ろす。魔法力を失った彼にその拳から己を身を護る術はない。ドラゴンシールドを掲げた彼は、その衝撃に耐える為に立ち上がり、足に力を込めた。

 地響きがする程の一撃。脆弱な人間の身体など一瞬の内に潰されてしまうだろうその一撃は、正確にカミュの身体を打ち抜く。

 土埃が舞い、床の岩が砕け散る。その様子を眺めているメルエの身体が再び細かく震え始めた。それは何にも勝る恐怖であり、彼女の根底を脅かす程の絶望である。絶対の保護者であり、彼女にとって誰よりも強者であるカミュの死。それを予感させる程の一撃だったのだ。

 

「どれ程耐える事が出来る! その身体の全ての骨を叩き砕いてくれるわ!」

 

 魔の王の圧倒的な一撃を受けて尚、盾を掲げたまま立つ姿が見えた時、一瞬メルエの身体の震えは止まった。だが、息も吐かせぬ間に再び振り下ろされた拳が、再びメルエの視界を真っ黒に染め上げる。

 メルエは絶望の中、生まれて初めて何かに祈った。だが、今や、彼を救ってくれる者は誰一人としていない。いつも小言を言いながらも笑みをくれる賢者の意識は未だに戻ってはいない。母のように暖かい戦士は、血溜まりの中で細かな痙攣を繰り返していた。

 常に四人で紡いで来た物語は、今終幕の時を迎えているのかもしれない。

 

「ふはははは!」

 

 高笑いと共に何度も振り下ろされる拳は、反撃の余地など与えず、それを受ける者の精神までも粉々に叩き潰す。巻き上がった土埃は視界を遮り、最早メルエの方からカミュの姿を見る事は叶わなくなっていた。

 カミュが立っていた場所を中心に走り始めた床の亀裂は、徐々にその範囲を広げて行き、今やメルエの足元にまで及んでいる。立っている事さえも出来ぬ程の振動を生み、その衝撃を受け止めきれない地下室は、天井を形成する岩を地面へと落として行った。

 

「…………カミュ………カミュ…………」

 

 地面に座り込んでしまったメルエの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。止める事など叶わないその想いは頬を伝い、彼女が握り締める拳へと落ちて行った。少女の生み出す水滴は、その指に嵌められた精霊の神秘を濡らし、曇らせて行く。

 最早、少女は青年の名を呟く事しか出来なかった。

 何度も何度もその名を呟き、歪んで行く視界の先にあるその絶望を只眺める事しか出来ない。彼を救う呪文は何もない。魔法使いである彼女にサラやリーシャを回復させる呪文を行使する事も出来ない。彼女が大事に思っている者を護る為の力は、魔の王という絶対的な相手を前に何の役にも立たなかった。

 僅かな時間で歪められた希望。ほんの僅か前までは、四人が魔王打倒を目前にしているとさえ思っていた。サラという賢者の唱えた呪文によって、魔王の吐き出す炎の被害は軽減され、メルエという幼い魔法使いの放つ呪文によって、魔王が放つ圧倒的な爆発呪文は弾き返された筈。リーシャという女性戦士の振り抜いた斧によって魔王の身体は傷つけられ、カミュという勇者の一閃は魔王に致命傷を与えたとさえ思われたのだ。

 だが、現実は無常であった。

 肩口から腹部への傷の回復を後回しにした魔王バラモスは、一瞬の内に二名の強者を虫の息に落とし込み、今、彼女達を支える絶対的な主柱まで折ろうとしている。彼等三人を失えば、残る者は幼い少女である。人間としては規格外の魔法力を持ち、年齢を考えれば異常な程に強力な呪文を行使するとはいえ、メルエは年端も行かぬ少女であった。魔王の拳を受け止める事など出来はしないし、魔法力の量も魔王に匹敵する程ではない。

 待っているのは『死』のみである。

 

 何もかもが終わる。

 この世界で生きる者達の希望も。

 この場所へ赴く為に歩んで来た青年達を支えて来た者達の夢も。

 この世界の未来も全て。

 

 人知れぬ戦いは、人知れず幕を閉じる。

 『勇者』と称される者が、魔王バラモスの許へと辿り着いた事さえも誰も知らぬまま、この世界の最後の戦いの幕は下ろされるのだ。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
かなり短いですが、ここで終わらせて頂きました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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魔王バラモス⑤

 

 

 

 サラは夢を見ていた。

 それはとても暖かく、とても優しい夢。

 敬愛する両親に囲まれて食事をする彼女の手は小さく、スープを掬うスプーンさえも上手く持てない。それを見た母親が苦笑を浮かべながら彼女の手を握り、スプーンの握り方を優しく教えてくれる。一人でそれを実践し、上手くスープを掬えた事に満足そうに微笑んだ彼女の頭に大きく優しい手が乗せられた。

 その手は遠い昔に感じた事のある、暖かい無償の愛に満ちた物。優しく撫でられた事が嬉しく、彼女は満面の笑みを浮かべるのだ。

 そんな何処にでも溢れているような、極当たり前の幸せ。彼女に与えられる筈だった幸せ。それは、彼女が再びスープを掬おうとスプーンを動かした時に唐突に暗転する。

 

「お母さん!」

 

 既に父親は母子を逃がす為に囮となり、この場にはいない。懸命に彼女を護ろうとしていた母親の身体に魔物の角が突き刺さる。背中を貫き、腹部から顔を出した魔物の角は、彼女の目の前に姿を現した。

 どす黒い血液が大量に付着した角は、幼い彼女の胸に耐え難い恐怖を植え付ける。それと同時に吐き出された母親の血液を頭から被る事になった彼女の恐怖は、限界点を大きく超えてしまった。

 声にならない叫び声を上げ、最早身体の制御も利かない。身体のあらゆる部分から、身に宿る水分を垂れ流す事になった彼女をそれでも離す事のない母親は、そのまま気力と生命を振り絞って魔物から距離を取った。

 しかし、呪文の契約もしておらず、武器を扱う事も出来ない彼女の母親が、数匹とはいえ魔物の群れから逃げ出す事など不可能に近い。絶望に伏しながらも、最後には自分の愛する娘を抱き締め、亀のように丸まった母親は、命が尽きて尚、魔物の攻撃から娘を護り続けたのだった。

 

「魔王バラモスは、必ず勇者様が討伐して下さいます。それを信じて強く生きなさい」

 

 母親が命を賭して護った娘は、通りかかった魔物の討伐隊に偶然発見され、それに同道していた神父に引き取られる。孤児に手を伸ばす事自体が珍しいこの時代で、彼女は幸運を持っていたのだろう。

 次第に強まって行く魔物の脅威は、それらを支配する魔王の力の増加を示していた。そんな中、アリアハンで暮らす者達の間で一つの希望が生まれ始める。

 アリアハンの英雄と謳われた青年の死から十年が経過する頃、その忘れ形見である息子が『勇者』として正式に認定された事が起因となっていた。英雄の息子として、生まれた頃から『勇者』となる事を義務付けられていた子供ではあるが、国王から正式に、成人した暁には『魔王討伐』の勅命を受ける資格がある事を認められたのだ。

 混沌とする時代の中、魔王バラモスという諸悪の根源の存在に怯える世界。その世界に唯一の希望となる英雄の息子を『勇者』と認定するにしては遅過ぎた程である。何故、もっと早くに国王は認定を行わなかったのかという疑問が渦巻く中、その英雄の息子は魔物討伐隊の中でもしっかりと実績を上げていた。

 

「魔王の討伐……。魔物など、この世から消えてしまえば良いのに」

 

 勇者と認定された青年に過剰な期待が注がれて行く中、その噂を聞く度に、教会に引き取られた少女の胸の中にどす黒くへばり付く憎悪の炎が燃え上がる。自分の父を殺し、母を殺し、自分の幸せを全て奪った魔物に対する憎しみは日が経つにつれて大きくなって行き、少女の瞳に悲しい炎を宿して行った。

 教会の教えは、魔物を『悪』とする。正確に言えば、人間は『善』であり、それ以外の知的生物を『悪』としているのかもしれない。人間が知的生物の頂点に立っていると考え、それ以外は人間が管理するか、人間に討伐されるのが当たり前という考えである。その考えを彼女は幼い頃から植え付けられ、そして幼い頃に刻み込まれた恐怖が憎悪へと変わって行ったのだ。

 

「……神父様、私は勇者様の魔王討伐の旅に同道させて頂きたいと思っています」

 

 英雄の息子が勇者と認定されて五年が経過する頃には、彼女の心に棲み付いた憎しみという感情は、抑える事が不可能な程に巨大化していた。

 『魔物をこの手で滅ぼしたい』

 その想いは日に日に強くなり、最終的には『魔物を従える魔王バラモスという存在へ復讐を』という考えに至る。それは、如何にアリアハン教会を任されている司祭といえども止める事の出来ない物であった。

 故に神父は微笑を浮かべて見送る事にする。この、若く才能溢れる一人の『僧侶』を。

 

「この世に死んで当然の命などありません! 誰しもが生きて幸せになる事を許されている筈です! 生きる価値のない者などいません!」

 

 だが、この魔王討伐の旅は若い僧侶が考えていたような旅ではなかった。

 魔物討伐隊という国家が形成した部隊は、荒くれ者が多い事はあっても全員が魔物によい感情を持っていない。憎しみを持つ者、狂気に満ちた者、快楽を楽しむ者、単純に報酬目当ての者など様々ではあったが、ルビス教の教えを信じている者が大多数であり、魔物を『悪』と考える事が当然であった。

 そんな当然の思想と考えていた彼女が見た者は、彼女の理想や希望や思想を打ち壊す存在であったのだ。アリアハン国王が認定し、魔王討伐の旅に出立した『勇者』の持つ価値観は、教会という閉ざされた空間で生きて来た彼女には信じられない物であった。

 国王に認定される『勇者』は稀である。自称勇者という存在は数多く旅に出たが、その全ての行方が解らない。正式に国王に認定された『勇者』となれば、世界広しといえども、サマンオサ国王に認定されたサイモンとアリアハン国王に認定されたオルテガの二人しかいなかった。しかも、厳密にいえば、その二人でさえも『英雄』の枠から出る事は叶わなかったのだ。

 

「……カミュ様は、勇者様ではないのですか?」

 

 幼い頃から信じ続けて来た『勇者』像からかけ離れた存在。

 それが彼女から見た、勇者カミュという存在であった。

 何度となく衝突を繰り返し、それでも彼女にはその青年の胸の内が見えて来ない。勇者である事さえも疑ってしまう程にまで彼女の心は曇り始める。魔物に情けを掛け、人間を忌み嫌うような態度を取り、精霊ルビスさえも蔑ろにする発言をするこの青年へ憎しみの感情さえも持ち始めていたのだ。

 

「悩み、苦しみ、考え、泣く。それでも最後には再び前へ向かって進むのが、サラだ。私もカミュと同様、サラ以外の『僧侶』を見た事はない」

 

 そんな暗闇に落ちて行きそうになる彼女の心を、寸での所で必ず引き上げてくれる存在がいた。旅の途中、この広い世界の理と、自分の信じる教義との隔たりに悩む彼女を導いて来たのは、その暖かな手である。

 答えを教えてくれる訳ではない。悩みを解決してくれる訳でもない。それでもその一言が、その一押しが、彼女を再び前へと歩き出させて来たのだ。凝り固まった教えで雁字搦めになっていた彼女の心を解きほぐし、『変わって行く自分を恐れない』という考えを教えてくれたのも、その存在である。

 何度となく救われて来た。

 何度もその手に導かれて来た。

 その人物こそ、彼女にとって師であり、目指す目標なのかもしれない。

 

「……アンタだけが頼りだ……頼む」

 

 しかし、意識はしていなかっただけで、彼女にとってもう一人『師』と呼べる存在がいたのだ。教え導くような事は一切ない。言葉にして相手に想いを伝える事も、態度でそれを示す事も一切ない。だが、その青年が歩む道は、常にサラの指針となっていた。

 認める事も、理解する事も拒み続けて来た『勇者』という存在は、彼女が幼い頃から憧れ続けていた者よりも遥かに厳しく、遥かに哀しく、遥かに尊い存在であったのだ。何時しか彼女もまた、彼こそが『勇者』であると信じ始める。彼が遭遇する様々な事件を見る度に暴走しがちになる彼女とは異なり、その青年は常に冷静に物事を捉え、冷静な判断によって仲間達を導いて来た。

 彼と共にならば、『魔王討伐』という不可能に近い悲願を達成出来るとまで考えるようになった彼女は、その青年に認められ、頼られる存在になっている事を実感してはいなかったのだが、それは言葉にして明確に告げられる。死に瀕した彼女をこの世界に繋ぎとめ、再び皆の許へと引き上げてくれた青年は、その場で彼女の目を見ながら告げたのだ。

 

 

 

「ぐぅぅ……」

 

 最後に自分が姉のように慕う人物の笑顔を見た気がしたサラは、全身の痛みを突如感じる。戻って来た意識が、身体の異常と危険をサラへと知らせているのだ。

 倒れ伏したサラは身体を動かす事が出来ない。背中を中心に全身に響き渡る激痛が、全ての神経への命令を断絶させている。地震のように揺れ続ける地下室の振動が、その激痛を継続的に彼女に与え、息を吸う事も困難にさせていた。

 首は動かず、手も右手が僅かに動くだけ。それでも開いた瞳の向こうに映る者を見た彼女は、夢現の状態から即座に覚醒する。

 そこに座り込み、大事な杖までも手放しているのは、彼女が護ると誓った相手。魔物に両親を殺され、孤児として教会に引き取られた彼女よりも辛く苦しい時間を過ごして来た少女。その少女が絶望しか見えない表情を浮かべ、成す術も無く座り込んでいた。

 

「……メ…メルエ……」

 

 圧迫される肺の空気を精一杯吐き出すように漏らした声は、何故か鳴り響く爆音のような音に掻き消されて行く。凄まじい音と共に響く振動が、この地下室で起こっている事の重大性を物語っていた。

 呟くようなサラの声は誰にも届かない。サラ自身でさえ自分の声が聞こえない状態であったのだから仕方の無い事であろう。

 だが、サラの視線の先にいる少女にだけはその小さな呟きが届いていた。僅かに顔を上げた少女は、周囲を確認するように顔を動かし、倒れ伏すサラの姿を見つけた瞬間、間髪入れずに立ち上がる。そのままサラの許へと『とてとて』と駆け出した。

 メルエが駆け出した瞬間も、サラしか見えない状態で走っている間も、地下室は一定の間隔で揺れ続け、その振動で何度も転びながらメルエは走り続ける。また、爆音のような凄まじい破壊音も鳴り止む事は無かった。

 

「…………サラ………サラ…………」

 

 自分の許へと辿り着き、その傍に座り込んだメルエの瞳からは止め処なく涙が溢れ続けている。それ程の恐怖を感じ、絶望を感じていたのだろう。痛む身体を感じながらも、サラは無理やり笑顔を浮かべた。

 右手しか動かない。倒れる時に背中に受けた天井の石が、彼女の脊髄を傷つけたのかもしれない。それでも何とか立ち上がろうと身体に力を込めるが、その命令が全身に行き渡る事はなかった。無理に力を込めた事で大量の血液を吐き出したサラを見たメルエは、再び涙を溢れさせ、その背中に手を宛がう。

 

「…………ホイミ………ホイミ…………」

 

 メルエにとって、何度も見て来た呪文である。自分が行使出来ない事など百も承知でありながら、それでも何とかこの姉のような存在を救いたいという想いから、その行動を繰り返し続けた。

 賢者としての洗礼を受けていないメルエに、神魔両方の呪文を行使出来る訳はない。如何に魔法力の量が多くとも、魔法の才能が頭抜けていても、彼女の体内に眠る魔法力の色が変化しない限り、彼女が『経典』の呪文を行使する事は出来ないのだ。

 そんな幼い少女の行動を見ていたサラの瞳にも大量の水分が溢れ出し始める。メルエ自身、自分がホイミを行使出来ない事を十分に理解した上で、それでもサラを救いたいと考えてくれている事に涙した。

 そして、そんな歪む視界の中に、ほんの僅かではあるが、淡い緑色の光を見たサラは、驚きと共に納得してしまう。

 『やはり賢者としての才能を持っていたのだ』と。

 

「……メ、メルエ、ありが……とう。だい……じょうぶ……大丈夫…です…から」

 

「…………サラ…………」

 

 サラの呟きの中に込められた言葉。それは、メルエにとって何よりも勝る魔法の言葉。サラがその言葉を口にする以上、この場でメルエが心配する事は何一つなくなる。そんな魔法の言葉であった。

 それでも心配そうに顔を覗き込んで来るメルエに笑顔で頷きを返したサラは、静かに瞳を閉じる。まるで眠るように閉じられた瞳を見たメルエは焦りを感じるが、僅かに動いたサラの右腕から溢れ出す緑色の光を見て安堵の笑みを浮かべる。

 

「……ベ、ベホマ……」

 

 その詠唱と同時に巨大な魔法陣が浮かび上がり、サラの身体を包み込む。急速に治癒して行くサラの身体は、死の間際まで迫っていた身体を戦闘可能状態まで引き上げて行く。背中の傷ついた脊髄をも修復し、徐々に身体全体に力が行き渡るようになって行く事を確認したサラは、身体を起こした。

 輝くような笑みを浮かべ、再び大粒の涙を流すメルエの頭に手を置いたサラは、そこで初めてこの地下室になり続けていた轟音と、揺れ続けていた振動が止んでいる事に気付く。前方へ視線を向けると、そこには巨大な魔王の姿が見える。そして、それに対峙するように立つ青年。

 サラはようやく状況を把握した。

 鳴り響いていた轟音は、魔王バラモスの振り上げた拳が落とされ続けていた音であり、サラの傷に響く程の振動は、その拳によって何かが地面に叩きつけられ続けた物だったのだ。それを理解したサラは、その対象となっていたのが盾を掲げた態勢のまま立っている青年だと把握する。それは、信じる事が出来ない程の奇跡である。

 あの轟音と振動は、サラが目覚めてからも数える事が出来ない程鳴り続けていた。それはサラが目覚める前から続けられていた物である事は明白であり、魔の頂点に立つ存在の全力の拳を受け続けて尚、その場に立ち続ける事など、人類には絶対に不可能な事なのだ。

 

「……カミュ様」

 

「…………カミュ…………」

 

 魔王バラモスは、サラの行使した最上位の回復呪文が生み出す魔法陣に気付き、ようやくその攻撃を中止した。それは、既に目の前にいた筈の青年が粉々になっている自信があった事が前提で、回復した他の人間の命を奪おうとした為だろう。だが、その青年は、土埃が晴れると同時に、再び魔の王の目前に現れたのだ。

 それは驚愕に値する程の物。魔の頂点に立ち、世界中の生物の頂点に立つ力を持つバラモスでさえ、その光景を信じる事が出来なかった。我を忘れる程に怒り狂っていた事は認めよう。それでも全ての力を持って振り下ろし続けた拳は、どのような生物も粉砕して来た拳である。どのように強靭な魔族であろうとその拳で叩き潰し、バラモスは魔の頂点へと登り詰めて来たのだ。

 

「人間の分際で……」

 

 再び怒りの形相を向けるバラモスに対し、無言で立ち続ける影。サラの場所からは、その影の位置は真正面ではない。少し横へとずれたその場所からは、青年の顔がはっきりと見えていた。

 上部へ掲げた盾の隙間から見えるその瞳を見た時、サラの瞳から無意識に涙が零れ落ちる。歪んで行く視界の中でもはっきりと映り込むその瞳の光は絶える事無く、むしろ輝きを増しているようにも見えた。

 諦めも絶望も、悲しみも苦しみも見えないその光が、呆然と見つめていたサラとメルエの胸で消え掛けていた希望と勇気の炎を再び燃え上がらせる。再燃した炎は、全ての恐怖と絶望を燃やし尽くし、輝く希望と絶え間ぬ勇気を彼女達に与えた。

 何故、彼がその位置にいるのか、それを理解した時、サラの心に歓喜の感情と感動の涙が襲い掛かる。彼がいる場所の真後ろには大きな血溜まりが出来ており、その中央に一人の女性が倒れ伏している。細かな痙攣を続けている事が、彼女の生命が未だに残っている事を示してはいるが、危険な状態である事は確かであろう。

 そんな女性戦士を護るように立つ青年こそ、真の『勇者』なのだろう。

 サラが幼い頃に教え続けられて来た『勇者』ではない。教会が口を揃えて発信する『勇者』ではない。全ての魔物を倒し、魔物を根絶やしにしようとする『勇者』でもなく、人類の為だけに全てを捧げる『勇者』でもない。

 だが、今、サラの視線の先で鋭く魔王を睨むその青年こそが、リーシャが信じ続け、メルエが慕い続け、サラ自身が信じ始めた『勇者』なのだ。

 

「ベホマラー」

 

 涙で擦れた声を張り上げ、サラは祈りを捧げる。サラの手に魔法陣が浮かび上がり、奇跡の光が周囲に降り注ぐ。血溜まりで倒れ伏す女性戦士に、傍らで涙を流す幼い魔法使いに、そして誰よりも強く、誰よりも暖かく、誰よりも尊い『勇者』に。

 何故、カミュが魔王の拳を受け続ける事が出来たのかは解らない。それが勇者としての力なのか、それとも彼の身体に流れる島国の国主の血が成せる鬼の力なのかも解らない。

 只一つ言える事は、彼の瞳に諦めという光はなく、その心が折れる事もないという事。その事実は、周囲にいる者達の心に希望と勇気を生み、再び前へと足を踏み出させる。それこそが、『勇者』と名乗る資格のある者が持つ特殊な力なのかもしれない。

 

「メルエ、しっかりしなさい! カミュ様の援護をするのです。メルエはカミュ様を護るのでしょう!?」

 

「……!!…………ん…………」

 

 傍で未だに嗚咽を繰り返すメルエに向かって、サラは大きな檄を飛ばす。その言葉は、メルエ自身がダーマ神殿近くの森でカミュに向かって誓った約束。二年以上前の約束を忘れた訳ではない。それでも動く事が出来ない程に折れ掛けていた心は、もう折れる事はない。メルエにとって約束という物が持つ重みは、通常の人間が考える重みではなかった。

 折れない心は、勇気と希望に満ちている。しっかりと頷いたメルエは、自分の背丈よりも大きな杖を握り、大好きな青年の背中を見つめる。その姿を見たサラは笑みを浮かべ、即座にリーシャの許へと駆け出した。

 先程のベホマラーで幾分かは回復したのだろうが、それでも死の境を彷徨っていた人間を全回復させる事は難しい。呼吸は正常に戻っていても、未だに身体を動かす事は出来ず、意識を取り戻す様子もないリーシャに駆け寄ったサラは、即座に最上位の回復呪文の詠唱に入った。

 

「大人しく死んでいろ!」

 

 リーシャの許へ駆け寄るサラの姿を確認したバラモスは、それを阻止しようと動き始めるが、その前には未だに微動だにしない青年が立ちはだかる。苛立つ感情を抑える事をせず、バラモスはその青年を横薙ぎに殴りつけた。

 だが、それでもその青年は吹き飛ばされる事はなかった。上部に構えていた盾を真横へ構え直し、その拳の衝撃を受けて尚、彼はそこに立ち続ける。既に彼の持つ盾は原型を留めてはいない。ひしゃげるように歪んだ盾には龍種の鱗が疎らになっており、それがドラゴンシールドだという事を理解出来る人間は誰もいないだろう。

 

「……お前こそ、大人しく待っていろ」

 

 鋭くバラモスを睨み付けていた勇者の口から、久方ぶりの声が発せられる。それは、魔の王に対しても臆す事無く、むしろ上位に位置しているのではないかと思える程に威圧的な物言いであった。

 本来であれば、彼の方こそ倒れ伏していても可笑しくはない。いや、正確に言えば、原型を留めぬ程の肉塊に成り果てていても可笑しくはないのだ。全身の骨の悉くが粉砕され、臓物さえも破壊され、潰されていても可笑しくはない命。ベホマラーという回復呪文によって回復されたとはいえ、それで全快する程生易しい状況ではなかった筈。

 それでも彼はその場に立ち続け、仲間を護り続ける。

 

「この我を……塵一つ残す事無く、消え失せろ! メラゾーマ!」

 

「…………マホカンタ…………」

 

 カミュの発した言葉に憤りを感じたバラモスは、目の前で不遜に立ち続ける青年に向かって三本の指の一本を指し向ける。その指先に巨大な魔法陣が浮かび上がり、その魔法陣を理解したメルエが杖を振るった。

 バラモスの指先から発せられた巨大な火球は、真っ直ぐにカミュに向かって飛んで行く。直撃してもいないにも拘わらず、迫る火球の熱気でカミュの髪の毛が焦げて行った。それでも動こうとしないカミュの身体が光の壁によって覆われる。人類最高位に立つ魔法使いの魔法力によって生み出された光の壁が呪文に対しての絶対的な障壁となるのだ。

 

「ふはははっ。この呪文はあのお方が生み出された呪文。貴様らのような矮小な人間にどうこう出来る物ではないわ!」

 

 しかし、その光の壁を認識して尚、魔王バラモスは高笑いを浮かべる。カミュに斬りつけられた傷も癒えず、未だに体液を流し続けながらも自身の勝利を疑わないその姿にカミュは眉を顰めた。

 そして、その言葉が真実である事を告げるように、カミュを護る光の壁に衝突した極大の火球は、弾き返される事なく光の壁を押し続ける。目の前に迫っている極大の火球は、カミュのような人間の身体など何一つ残す事無く消し去るだけの力を有していた。それを理解しているカミュは、火球と衝突している部分に僅かな亀裂が入った事を目にし、急遽横へと避ける。

 

<メラゾーマ>

メラと呼ばれる火球呪文の最上位に位置する呪文である。しかし、その呪文は人類の間では伝わっておらず、エルフや人間にとって火球呪文の最上位はメラミであるという認識があった。それは、このメラゾーマという呪文を編み出した存在が魔族であるという説や、限られた魔族や魔物にしか契約出来ない呪文であるという説があり、その説も限られたエルフの間でしか語られては来なかったからだ。その呪文を編み出した魔族の名を持つとさえ伝えられているその呪文を実際に見た人間は、過去一人もいない。

 

「ちっ」

 

 自身の身の危険を感じ、咄嗟に横へと動いてしまったが、その先にいるのは横たわるリーシャに回復呪文を唱えるサラである。マホカンタの光の壁を砕き、その威力を落としたとはいえ、人間の一人や二人を軽く飲み込む事の出来るだけの脅威は維持している。その熱量を感じたサラは、振り向き様に先程メルエが唱えた物と同じ呪文を行使した。

 サラとリーシャを包み込むように生み出された光の壁が、最上位の火球を受け止める。軋むような音を響かせ、光の壁の淵が解る程にその形状を歪ませて行く。マホカンタという全ての魔法を弾き返すと云われる絶対障壁がまた一つ消え去ろうとしていた。

 

「ふはははは! 何度受け止めようと同じ事。そのまま消し炭となって燃え尽きろ!」

 

 魔法力の制御はサラの方が遥かにメルエよりも上だとはいえ、その魔法力の量は逆である。全てを弾き返す光の壁の強度は、その質ではなく量が重要となるのだ。軋んでいた光の壁に細かな亀裂が入り始める。

 リーシャの意識は未だに戻ってはいない。今のサラに強靭な女性戦士を担いでこの場を離れる事など出来ず、巨大な火球が押し寄せている場所へカミュが割り込む事など出来ない。絶体絶命の窮地から抜け出たと感じていただけに、サラの瞳に再び絶望の闇が映り込んだ。

 

「な! き、貴様……それは!」

 

 しかし、唯一人、この状況でも心を折らぬ者がいた。

 先程、誰よりも慕う青年から勇気と希望を受け取り、その胸に誓った約束を果たす事を決意した少女が、自身の背丈よりも大きな杖を動かしたのだ。

 杖の先のオブジェの口が大きく開かれる。それと同時にその嘴の先を中心に巨大な魔法陣が浮かび上がった。その魔法陣は、この地下室にいる誰もが目にした事のある紋様。しかし、それを呆然と眺めるサラが持つ『悟りの書』にさえも記載されてはいなかった魔法陣である。

 魔法陣を形成する一言一句が目に入る程に大きく、その輝きはサラが行使した最上位の回復呪文の魔法陣よりも強い。光の壁に入る亀裂の音さえも耳に入らないかのように、サラは呆然とその魔法陣から生み出される神秘に目を奪われた。

 

「その呪文は、あのお方が生み出された物だ! 貴様のような人間に……はっ! き、貴様は……」

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 その魔法陣の形に驚愕の表情を浮かべたのは魔王バラモス。

 それもその筈であろう。その魔法陣は、魔の王を名乗る者が先程行使し、今まさに勇者一行の内二人を消し去ろうとしていた呪文の物なのだ。

 呟くような詠唱が地下室に響き渡る。その合図を待っていたかのように、雷の杖の先にあるオブジェが、巨大な火球を吐き出した。その火球は大きさも然る事ながら、凝縮された炎の密度がメラミなど比較にならない程に濃い。触れる大気さえも飲み込んでしまう熱量を放ちながら、光の壁を破壊しようとするバラモスの放った火球へと真っ直ぐに走った。

 

「きゃぁぁぁ!」

 

 凄まじい熱量と熱量のぶつかり合い。魔法に対しての絶対防壁と言っても過言ではない光の壁の内にいながらも、サラはその衝突の凄まじさに悲鳴を上げてしまう。相手を喰らうかのようにせめぎ合いを続けていた火球であったが、徐々にメルエの放った火球がその勢いを増して行った。

 如何に魔の王が放った物とはいえど、二つの光の壁を破壊しようとするのに相当な勢いを殺されていたのだ。新たに生み出された火球の勢いに勝てず、その熱量を奪い尽くされ、全てを飲み込まれて行った。

 同種の火球を飲み込んだメルエの放ったメラゾーマは、そのまま反対側の壁に直撃し、壁石を融解させながら消滅して行く。火球が消滅した後に見えた壁の大穴が、その呪文の凄まじさを物語っていた。

 

「その馬鹿を叩き起こせ!」

 

「えっ? あ、は、はい!」

 

 その凄まじさに圧倒され、火球が消えて行った先を呆然と眺めていたサラは、突如響き渡った声に我に返る。即座にもう一度リーシャに対してベホイミを行使したサラは、その身体に傷が残っていない事と呼吸が安定している事を確認した後、揺り動かしながらその名を呼んだ。

 カミュが発した『叩き起こせ』という指示は、文字通りの事なのだろう。実際、死の境を彷徨ったサラ自身が体験しているのだから、その行動方針に変わりは無い筈だ。しかし、そんな事がサラに出来る訳がない。しかし、耳元で名を叫ぶサラの声にもリーシャは反応しなかった。

 

「早くしろ!」

 

「き、貴様達だけは生かしてはおけん。退け!」

 

 サラを急かすカミュの声が響き渡り、それを掻き消す雄叫びをバラモスが上げる。大きく横へ振った腕と共に唱えられたバシルーラの詠唱が、抗う事の出来ない強制的な風を生み出す。しかし、それでも地面に足が根を生やしたように動かないカミュを見て、バラモスが苛立たしげに舌打ちを鳴らした。

 怒りに任せた魔王の豪腕が振るわれ、それを避けたカミュがすれ違い様に剣を振るう。神代から伝えられる稲妻を模した剣は、その名の通り、バラモスの腕に稲妻のような一撃を落とした。凄まじい轟音が鳴り響き、バラモスの体液と共にその太い腕が宙に舞う。しかし、その瞬間を狙ったかのように再び唱えられたバシルーラという呪文が、カミュの身体を強制的に壁へと吹き飛ばした。

 カミュが壁に直撃するのを確認する事無く、バラモスが動き出す。斬り落とされた腕を放置したまま向かう先は、自分の背丈よりも大きな杖を抱き締めて立つ幼い魔法使いの許。狂いそうな程の怒りに冷静さを失っているバラモスの口からは、体液なのか涎なのかわからない液体が零れ落ちていた。

 

「…………リーシャ…………」

 

 徐々に近づいて来る存在は、先程までメルエの心に恐怖を刻みつけていた存在。徐々に再燃する恐怖の炎がメルエの幼い心を蝕み、膝が細かく震え始める。助けを求めるように呟かれた声は、消え入りそうな程にか細く儚かった。

 しかし、その呟きは、彼女の第一保護者を自負する女性には届く。先程までどんなにサラが呼び掛けても反応を返さなかった女性戦士は、その呟きが大気に溶けて行くよりも前にその両目を開いたのだ。

 即座に立ち上がったリーシャは、メルエへと近づくバラモスとの間へと割って入る。その豹変振りに驚きの表情を浮かべていたサラは、一つ苦笑を浮かべると、壁に激突したカミュの様子を窺うように視線を動かした。

 

「メルエ、私にもう一度スカラとバイキルトを掛けてくれるか?」

 

「…………ん…………」

 

 一度死線を彷徨ったリーシャの身体は、いつの間にか魔法の効力が薄れていた。スカラやバイキルトによって彼女の身体や武器を覆っていたメルエの魔法力が霧散している。それは、確実にリーシャが死の一歩手前まで旅をしていた事を示しており、心を折ってしまっていたメルエの魔法力制御が不安定になっていた事を示していた。

 そのやり取りを聞きながらも、立ち上がって来るカミュを視界に納めたサラは、驚愕の表情と共にメルエを振り返る。もし、メルエの不安定な制御によって補助呪文の効力が消え失せてしまっていたとしたら、何がカミュを護っていたというのだろう。あれ程の攻撃を一身に受けながらも心を折らず立ち続け、先程はバラモスの腕さえも斬り飛ばしている。それが補助呪文の支え無く行っていた行為であるとすれば、彼は別の何かに護られているとしか考えられない物であったのだ。

 故にサラは、立ち上がり様に駆け寄って来るカミュの姿に恐怖を感じてしまう。それは未知の者への恐怖ではなく、彼自身が生命さえも犠牲にしてこの場に立っているのではないかという恐怖。この戦いが終わった瞬間に、その役目を終えるかのように生命の灯火を消すのではないかという不確かな恐怖にサラは青褪めた。

 

「さぁ、カミュ、最後の戦いだ!」

 

「直前まで眠っていた奴に言われたくはない」

 

 再び役者は集結した。

 魔の王の圧倒的な脅威をその身に受けながらも、再びこの場に募ったのだ。

 無傷ではない。誰しもが死の境を彷徨った。目に見える傷が消えはしても、誰もが満身創痍である。勇者の魔法力は既に枯渇しており、この先で呪文を行使する事は出来ない。最上位の回復呪文も、彼にしか行使出来ない絶対防御の呪文も使えはしない。戦士は死線を彷徨って帰還したばかりである。その手に込める力が上手く全身に行き渡るまで、今しばらくの猶予が必要であろう。同じく死線を彷徨いながらも帰還した賢者の魔法力は一度枯渇し、祈りの指輪で魔法力を補充はしたが、それも十分な量ではなく、再び枯渇する時は近い。幼い魔法使いもまた、皆を護る為に何度も補助呪文を行使し、その体内にある余力の全てを使い尽くしかねない状況にまで追い込まれていた。

 それでもこの四人は、その最大の脅威へと向かい合う。

 その脅威の先にある未来を夢見て。

 

「纏めて死んで逝け!」

 

「フバーハ!」

 

 四人が固まった事を把握したバラモスは、大きく口を開き、激しい炎を吐き出した。しかし、それを予測していたサラが両手を前に出して霧の壁を生み出す。先程行使した筈の霧の壁は既に霧散しており、意識を失っていたサラが制御不可能だった事を物語っている。だからこそ、サラが意識を失っている間に吐き出された激しい炎を、カミュはまともに全て受け止めたのだ。

 燃え盛る激しい炎は、霧の障壁とぶつかり蒸発して行く。それでも残る熱波を物ともせず、リーシャが炎の中を突き進んで行った。

 

「…………マヒャド…………」

 

 そんなリーシャを支援するように、後方から身も凍る程の冷気が吹き荒れる。熱風に曝されていた彼女の身体が急速に冷やされ、氷の刃と化した魔神の斧の刃先が魔王の身体に吸い込まれて行った。

 深々とバラモスの脇腹に突き刺さった斧を渾身の力で振り抜いたリーシャは、追撃を警戒して即座に距離を取る。体液と内部の臓物が飛び出た事で態勢を崩したバラモスの腕がリーシャを吹き飛ばすように薙ぎ払われた。距離を取っていてもその脅威に曝されたリーシャは咄嗟に盾を構えて防御の態勢を取る。脇腹を抉られた事で十分な力を込める事が出来ないバラモスの腕は、リーシャの身体を吹き飛ばす事は出来ず、サラやメルエの待つ後方へ飛ばす事しか出来なかった。

 再び戦闘態勢に入ったリーシャに視線を奪われていたバラモスは、最も警戒しなくてはならない者への注意を怠ってしまう。

 

「バイキルト!」

 

「うおぉぉぉぉ」

 

 賢者の放つ緻密な魔法力を纏わせた剣を構えた勇者が、その内にある情熱を吐き出すような雄叫びを発して、バラモスへと突進していたのだ。その距離は僅か。脇腹の治癒を優先する時間もなく、カミュを弾き飛ばす呪文を行使する事も出来ない。必然的にバラモスは一つの呪文を行使する選択肢しか残されてはいなかった。

 真っ直ぐカミュに向けられた指先に巨大な魔法陣が浮かび上がる。この世で限られた魔族しか契約する事は出来ず、その中でもそれ相応の実力を持つ者にしか行使出来ない最上位の火球呪文。全ての呪文を弾き返すと云われる光の壁さえも砕き、全てを飲み込む程の熱量を持つ、最大の攻撃呪文と言っても過言ではないだろう。

 それが再び、カミュの身に襲い掛かろうとしていた。

 

「メラゾーマ!」

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 しかし、彼の後方には、そんな魔族の常識さえも覆す程の才能を秘めた魔法使いがいる。バラモスが行使した魔法陣をその頭の中に叩き込み、二度目にその魔法陣を見た時に、その魔法陣の構成までをも読み解く程の才能。

 賢者と謳われるサラでさえ出来ぬ偉業。しっかりと記憶した魔法陣を頭に思い浮かべ、それを杖先に展開する事によって詠唱を可能にするなど、人間界の常識さえも無視している。『魔道書』や『経典』、更に言えば『悟りの書』に記載される呪文は、その魔法陣の構成も描かれている。それを地面に描き、その内に入る事によって契約を済ませるのが通常の呪文使いであるのだが、メルエはその順序を飛び越えてしまっているのだ。

 契約とは、その呪文に必要な魔法力を対価とし、力を借りる為の物として語られている。だが、今のメルエは強引にその魔法陣を描き、呪文を使役しているのに等しい行為をしていた。それがどれ程に常識破りで、どれ程に驚異的な事なのか、それをこの中で理解出来るのは、この幼い少女の師である賢者と、その呪文を与えられた魔王だけなのかもしれない。

 

「き、貴様! 一度ならず、二度までも!」

 

 カミュに向かって飛び出した特大の火球は、同じようにカミュの側面後方から飛んで来た特大の火球とぶつかり合い、あらぬ方向へと進路を変えてしまう。流石に魔王と少女の火球となれば、必然的に魔王の火球の勢いの方が強く、メルエの呪文はじりじりとその勢いを喰われてはいるが、進路が変わった事によって、一行に危害が出る事はないだろう。

 先程以上の憤怒の表情を浮かべたバラモスが、行使した少女を睨みつけ、それを亡き者にするために動き出す。だが、この魔王は怒りの余りに、何故自身がメラゾーマを放つ事になったのかという事実を失念していた。

 

「ぐぼっ……き、きさま……」

 

「メルエ! 祈りを捧げなさい!」

 

 突如走った激痛に、バラモスの視線が下へと落ちる。バラモスの動きが止まった事を見たサラは、地面に両膝を着いてしまったメルエへ指示を叫んだ。ここまでの呪文の行使に加え、魔王が行使するような最上位の呪文を二度も詠唱して来たメルエの魔法力は完全に底を突いてしまっていた。

 少女の指に嵌められた祈りの指輪は、サラの指に嵌められている物とは根本的な部分が異なっている。サラの物は、エルフ族の暮らす隠れ里で購入した物であるのに対し、メルエのそれは、イシス国女王から直に譲られた物であった。

 購入した祈りの指輪は、エルフの親達の祈りが込められているとはいえ、それはカミュ達に向けられた祈りではない。それに比べ、メルエが譲り受けた物は、メルエを含むカミュ達一行の無事な帰還へのイシス国女王の祈りが込められているのだ。

 その違いは、見た目には解らず、言葉にしても解らない。それは心に直接響く物である。

 

「…………メルエ………まもり……たい…………」

 

 その呟きは、精霊ルビスに捧げる物ではないのかもしれない。その言葉は少女の願いであり、決意であった。そして、その願いこそが、その指輪を譲り受けた時にイシス国女王と交わしたメルエの約束である。

 故にこそ、この指輪はその願いに応えるのだ。

 眩い光に包まれたメルエの身体に、魔法力が漲って行く。全快する事はないまでも、幼い少女の全てを支える魔法力が今、その小さな身体に満ちて行った。

 

「ごふっ……」

 

 そんなサラとメルエのやり取りの間に、バラモスは自身の胸から生える剣先を眺め、怒りに震えていた。先程のカミュの一撃は、正確にバラモスの胸を貫き、その生命の源に一撃を入れていたのだ。溢れ出る体液が逆流し、魔王の口から一気に吐き出される。それは、カミュが剣を抜くのと同時に堰を切ったように溢れ出して来た。

 世界を恐怖に陥れる魔王でさえも死を実感するような一撃。それは、カミュだけの攻撃ではない。そこまでの様々な過程を経て、一瞬だけ生まれた僅かな隙を突いたという話。

 サラが懸命に回復に努め、攻撃呪文の効果が薄くとも、メルエがその類稀なる才能を持ってバラモスの攻撃を相殺し、リーシャがバラモスの攻撃を掻い潜りながらその身体を斬りつけて生まれた本当に僅かな隙に、カミュという『勇者』が入り込んだのだ。

 世界中の時を止めてしまったのではないかと思う程に静かな時が流れる。それは本当に僅かな時だったかも知れない。瞬きする程度の少ない時間だったかもしれない。それでも、それを見つめる一行には、ここまでの四年以上の旅と同程度に長く辛い時間であった。

 

「……き、きさまだけは……貴様だけは生かしてはおけん」

 

 その停止した時間が破られる。あとは倒れ込むだけであった筈のバラモスが、一歩前へと踏み込み、その腕を高らかに振り上げたのだ。狙いは、その先に佇む幼い少女。既に生命の灯火も消えかけたその最後の輝きを、バラモスは一つの目的の為に燃え上がらせる。

 踏み出す一歩は、カミュやリーシャの比ではない。空間を超越したのではないかと思える程、一気にメルエとの距離を詰めて行く。その腕を振り下ろすだけで、幼い少女は消え失せる。そこまでの距離に近づいた時、バラモスの足元で一筋の光が駆け抜けた。

 

「ぐぅ……」

 

 メルエへと近づくその足を横薙ぎに払った一閃は太腿を深く抉り、バラモスの重心を崩す。膝を着くように落ちたバラモスの身体に、再度光が走った。

 魔神の斧と呼ばれる魔の神が愛した武器が、魔の王を名乗る者の身体を傷つけて行く。噴出す体液は、最早その命の灯火が消え失せている事を示すように、量を減らしていた。

 既に勝敗は決している。だが、それでもこの者は魔の王であり、魔族の頂点に立つ者なのだ。残る腕を大きく振り上げ、そのまま自身に残る最後の魔法力を集めて行く。集束して行く魔法力は、周囲の空気を巻き込み、凄まじい圧迫感を生み出していった。

 一気に薄くなって行く大気に、カミュやリーシャの動きもにぶり、その最後の攻撃を許してしまう。

 

「……イ…オナズ……ン……」

 

「…………マホカンタ…………」

 

 圧縮された空気が一気に開放される。それは、一撃で範囲内の人間を全滅させる事が可能な程の最上位攻撃呪文である。メラゾーマは一点集中の力だとすれば、イオナズンは拡散型の広範囲に及ぶ暴力と言っても過言ではない。

 しかも、魔の王の死力を尽くした一撃である。この地下室ごと潰す程の一撃が、一行全員の視界を塗りつぶして行く。即座にメルエが杖を振るい、自身の周囲に光の壁を生み出すが、基本的にマホカンタと呼ばれる呪文は単体に向けての呪文であり、その効力を広げようとすれば、光の壁に行き渡る魔法力が薄くなってしまい、呪文を弾く事自体が不可能となってしまうのだ。

 サラのマホカンタと合わせても、全員を護る障壁を生み出す事は出来ない。それを予測しての行使だとすれば、魔王バラモスは最後に一行全員の道連れを考えていたのかもしれない。

 

「きさまだけは……きさまだけは……」

 

 しかし、魔の呪文の常識さえも覆した少女にとって、人間にとっての呪文の常識などあってないような物である。自身の内に残る魔法力を全て開放するように放たれたマホカンタは、一箇所に纏まった勇者一行全てを包み込むように展開され、輝く壁を生み出していた。

 地下室全てを破壊する程の爆発音が響き渡り、天井は崩れ、地上にある泉の水が流れ込む。天井を支えている柱に入る亀裂が大きくなり、支えを失った壁が魔王が座っていた玉座を飲み込んで行った。

 それでも勇者一行は倒れない。世界中の全ての期待と希望を背負うその背を、地上から降り注ぐ太陽の輝きが押して行く。

 最大の爆発呪文さえも弾き返され、残された魔法力さえも失ったバラモスは、それでも腕を幼い魔法使いへと伸ばした。まるで少女さえ葬り去れば自分の役目が終わるかのように、その姿には悲壮感さえも漂わせている。

 だが、魔王の悲願は届かない。

 

「いやぁぁぁぁ!」

 

 伸ばされた腕は、突如として空を舞う。死力を尽くし、死を賭して戦い続けて来た者の会心の一撃が決まったのだ。

 一閃された斧の一撃は、バラモスの二の腕付近に突き刺さり、その刃の鋭さと、それを所有する者の技量の高さによって、根元から魔王の腕をもぎ取る。腕が根元から失われたにも拘らず、その根元からは最早体液さえも零れない。既に枯渇した命の源は、この世界を恐怖に陥れ続けて来た諸悪の根源の消失を明確に物語っていた。

 

「ごふっ……こ、この……バラモスを倒したところで……」

 

 虚ろなバラモスの瞳は、未だに幼い少女から離れない。既に立ち上がる事も出来ず、振り上げる腕もない状態でこの魔王に出来る事は只一つ。何かを言いかけながらも、しっかりと開かれた口の中には、燃え盛る激しい炎が見えていた。

 その光景を見上げる女性戦士にも、少し離れた場所で見つめる賢者にも、その隣に立つ魔法使いにも焦りはない。何一つ恐れる事はなく、何一つ不安になる要素はない。

 それは、彼女達の前に一人の青年が立っているから。

 

「……最後だ」

 

 その呟きは、崩れ行く地下室の轟音の中でも、一際大きく響き渡った。

 後ろで見つめる三人の女性の耳に。

 そしてその心に。

 

 長く続いた一つの時代が終わりを告げる。

 辺境の小さな島国を旅立った青年は、自身が考えていた物とは全く異なる旅路を経て、予想さえもしなかった結末を迎える事となった。

 その剣は誰の為に振るうのか。

 その盾は誰の身を護る物なのか。

 その心は誰を想う物なのか。

 

 駆け出した『勇者』の一閃が、差し込む陽光のように輝いた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
これにて第十六章は終了となります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

アリアハンという辺境の小国で生まれた英雄の息子。ジパングという島国の国主の血を受け継ぎ、その血筋に宿る『鬼』の力をも受け継いでいる。ただ、歴代のジパングの国主に受け継がれる『鬼』への変貌方法は知らず、未知なる力を使いこなす事は出来ない。

全ての人間の期待と希望を一身に背負いながらも、全世界の失望や絶望をも背負い続け、彼は四年の月日を歩んで来た。誰しもが彼の魔王討伐を願い、誰もが彼もまた魔王に殺されるのだろうという諦めを持つ。しかし、一人で出る筈の旅は、予期せぬ形で人数を増やし、その同道者との間に築かれた絆が、彼に偉業を達成させる事となる。

 

【年齢】:20歳

アリアハンを出た当初は、少年に近い容姿と身体をしていた彼ではあるが、四年以上の長い旅路の中で青年へと変貌を遂げている。人の醜さばかりを見てきた少年の瞳は濁り、暗い帳越しに見ていた世界は、その旅の中で色を変えていた。人の強さや優しさ、そして美しさを知り、それを彼に同道する三人の女性に教えられる。何時しか暗い帳は外され、彼の見る世界は一変する。

彼が今、何を思い、誰を想い、そして何を成そうしているのかは誰にも解らない。だが、彼が成して来た事は、この広い世界で誰も成しえなかった事であり、彼こそが『勇者』である事を示していた。

 

【装備】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガいう彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):刃の鎧

ネクロゴンドの河口付近にある洞窟内に埋もれていた神代の鎧。

神が置き忘れたのか、それとも『人』に与えられた物なのは解らないが、まるで己の主を待つように、洞窟内にその姿を隠していた。だが、それを発見した魔物が手にしようとする事をこの鎧は拒絶する。自らに触れようとする許可無き者を、その鎧を形成する鋭い金属の刃によって分断していたのだ。真空で出来た刃ではなく、金属で出来た刃が鎧から飛び出す事自体が不可思議な現象ではあり、刃を発した鎧に傷一つないのだから尚更である。

大地の鎧を纏っている事から辞退したリーシャの代わりに、彼が装備する事となった。彼が敵と認識しない物や鎧自体に危害を加えようとしない者であれば、それに触れる事も可能である事は、彼の傍を離れない幼い少女が証明して見せている。

 

盾):ドラゴンシールド

サマンオサ城下町にて、リーシャと共に購入した盾。

龍種の鱗を土台となる金属の上に繋ぎ合わせた盾だと云われるが、サマンオサ近辺に龍種と呼べる種族が存在しない為、おそらくは龍種の劣化種である<ガメゴン>の鱗を繋ぎ合わせた物ではないかと考えられる。

だが、如何に龍種の鱗を繋ぎ合わせた物であったとしても、この世界で生きる全ての生物の頂点に立つ魔王の攻撃には耐える事は出来なかった。何度も吐き出される激しい炎を軽減する度、その鱗の数は減り、振り下ろされる拳を受け止める度に基盤は歪んで行く。最早、その盾の機能は無に等しい状態にまで落ちていた。

 

武器):稲妻の剣

刃の鎧と共にネクロゴンドの洞窟内に安置されていた剣。

まるで空から振り落とされる稲妻のように荒々しい刀身を持ち、それ専用の鞘でも製作しない限り、刀身を隠す物がない程の姿をしている。

刃の鎧と同じように、望まぬ相手に触れられる事を拒み、周囲の空気を圧縮して爆発させる力を解放していた。それは、『魔道書』の最強攻撃呪文であるイオラに酷似した物であり、その力を際限なく発揮する事が出来る時点で、この剣の異常性が解るという物であろう。

魔王の腕を斬り落とし、その体内で能力を開放するなど、かなりの攻撃力を有する剣ではあるが、それを扱う者は限られている。リーシャの持つ魔神の斧と同様、この剣はカミュにしか扱う事の出来ない武器なのかもしれない。

 

所持魔法): メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      リレミト

      マホトーン

      イオラ

      ベホマ

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(アリアハン宮廷騎士)

最早、彼女を『女性騎士』と揶揄出来る者は誰もいないだろう。その身に宿る力は、魔王の身体さえも傷つけ、立つ事さえも出来ぬ程の深手を負わせる程。それは、この世界で生きる『人』という脆弱生物の中で特出した力を持っている事を示している。彼女の周囲には、同じように人間の枠から出てしまっている者達がいる為、今はそれ程目立つ事はないが、一般の人間達の輪の中に戻れば、その特出した力は視認出来る程の空気となって周囲に伝わる事だろう。

その手に持つ斧の一振りでアリアハン大陸に生息する魔物など一瞬で命を落とし、その拳一つで人間の命さえも奪う事の出来る力を彼女は有している。それは、戦士として、騎士として、そして女性として幸せな事なのか、今の彼女には解らない。

 

【年齢】:不明

本来のこの世界の常識であれば、既に家庭に入り、子を設けていても可笑しくはない年齢になっているのであろう。粗暴な振る舞いや短慮な行動によって勘違いされ易いのだが、彼女の母性本能が強い事は、サラのように彼女をしっかりと見ている者にとっては当然の事実であった。

子供を産んだ事はなくとも、その母性は周囲を包み込むように暖かく、いつも周囲の者に愛情を注ぎ込む。本当に自身の血を引く子を成した時、その母性は世界を覆う程に成長するのかもしれない。

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):大地の鎧

試練の洞窟と呼ばれる人工の洞窟内に安置されていた鎧。『勇者』と呼ばれるカミュが発見するが、その者を主とは認めず、外で待つ一人の戦士を主と定めた。まるで己の意志があるかのように、『人』としての色を残す女性を主と定めた鎧は、他者の手に渡るのを拒む。精霊と共に崇められる対象となる母なるものの名を冠する鎧は、植物や動物を育てるように、温かくその身を包み、護る事だろう。

 

盾):ドラゴンシールド

サマンオサ城下町にて購入した盾。

劣化した龍種の鱗を繋ぎ合わせて作られた物だと考えられる。

カミュと同様、魔王バラモスの攻撃を幾度となく防ぐ事によって、既に原型を留めてはいない。それ程に過酷な戦いであった事を示す物でもあり、それだけの防御力を有していた盾である事を証明していた。

 

武器):魔神の斧

遥か太古の魔の神が愛した斧。

その鋭い刃先は、どのような強固な物をも斬り裂き、その一撃は大地をも斬り裂くとさえ謳われた武器である。魔の神と天上の神との争いの際に失われ、地上へと落とされたという。それがネクロゴンドという地方に安置されていた事は奇跡であり、ネクロゴンドにある城に飾られた英雄の像の手に握られていた事も今では謎である。

その斧もまた、他の神代の武器と同様に自我を持っているかのように、己の主を定める。しかも、魔の神が愛した物である為、それは一筋縄ではいかない代物であった。己の主を嘲笑うかのように、試すかのようにその重量を変化させ、扱う者の重心をずらしてしまう事もある。しかし、その変化と持ち手の技量が合致した際には、逸話通りの一撃を生む事もあるのだった。

:ドラゴンキラー

魔神の斧を握っていた古の英雄の像である、動く石像との戦闘の際、その強固な石像を斬りつけた事によって、刀身に歪みが生じてしまう。本来、腕に嵌め込んで突き刺す事で強固な龍種の鱗をも破る武器であったが、それを打ち直した事によって強度が下がってしまったと考えられる。

通常の人間が、通常の魔物などを相手にする際は、その切れ味はこの世で販売されている武器の中でも群を抜いているのだが、人類最高戦力となった女性戦士の力量と、龍種を二体斬り裂いた後での続け様の戦闘によって、限界を迎えてしまったのだろう。

今は、リーシャの腰に下がる鞘の中で静かに余生を送っている。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

古から続く『賢者』という職業。

それは職業というよりも、その者の才と苦悩を讃える称号なのかもしれない。

先代の『賢者』の血筋は、魔王であるバラモスさえも脅威と感じる程の物であり、その才能と能力は、既に絶えていると云われている。当代の『賢者』であるサラには、その血は受け継がれていない。レーベという辺境の小国にある小さな村で生活していた両親の間に生まれ、その愛情を一身に受けたサラという少女は、古の賢者の血筋という物ではなく、その思考や行動を含めた個人として『精霊ルビス』に認められた『賢者』なのである。

それは、古から続く『賢者』という称号の中でも極めて珍しい事であり、何も持つ事のなかった一僧侶が、己の努力と経験によって手にした栄誉であるのかもしれない。

 

【年齢】:21歳

教会で過ごして来た十数年という月日は、彼女に様々な技能を修得させていた。元々の器用さも手伝ってか、裁縫などは店舗を構える者達に混じっても通用する程の物である。また、肉親が髪を整えるこの時代にあって、彼女は自身の髪や父親代わりの神父の髪を切って来た。それに加え、教会を訪れる子供達の髪の毛を整える機会などもあり、その技量を磨いて来たのだ。

彼女が料理という未知なる領域を制覇する日も、そう遠い未来ではないのかもしれない。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれており、その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

テドンという滅びし村で購入したこの法衣は、その村へ移住して来た年若い夫婦の手によって編み出された。昆虫が作り出す物を糸から『絹』という世界で初となる生地を作り出し、特殊な能力を保持していた妻が編んだ物。それは、奇しくも彼女と共に歩む幼い少女の母親であった。類稀なる魔法力を有し、稀代の『魔法使い』となった少女の母親も、特殊な術式を組み込んだ法衣を作り出している。その奇妙な巡り合わせが、サラという当代の『賢者』の思考に一石を投じていた。

 

盾):魔法の盾

カミュやリーシャと同様、スーの村で買い揃えた盾。サラの身体に合ったサイズに変化した盾は、その左腕に納まっている。以前まで使用していた<うろこの盾>に関しては、ロマリア国王から下賜された宝物である為、店で売却はせず、大事に保管されている。『意味のない行為』とカミュに小言を言われるが、リーシャの後押しもあり、その後は船の船員達が使う事になる。

 

武器):ゾンビキラー

サマンオサ城下近郊での<ガメゴン>との戦闘により、三年以上も共にあった<鉄の槍>は破損してしまった。

共に歩む者達の武器が次々と強力な物になって行く中、彼女だけがロマリアで購入した物を使用していたというのは、彼女自身の武器を扱う力量とは別に、『賢者』となった彼女に合う武器が無かった事が理由であろう。

長い年月を掛けて聖水に浸けても尚、錆などが浮かなかった長剣であり、その刀身に『精霊ルビス』の加護を受けた剣。

聖なる力を宿した長剣は、この世に生を持たない者達に多大な効果を持ち、この世に縛り付けられた魂や肉体を『精霊ルビス』の許へ還すと考えられていた。

   :聖なるナイフ

育ての親であるアリアハン教会の神父から授けられた物。

アリアハン大陸の魔物達には有力な武器ではあったが、ロマリアで<鉄の槍>を入手してからは、彼女の腰に下がる袋の中に大事に保管されている。

それは、彼女の心の奥にある太い柱となっている『愛』の証であり、彼女が進む道を照らし続ける『覚悟』の証でもある 。

 

所持道具:祈りの指輪

エルフの隠れ里にて購入した物である。メルエの指に嵌っている物と同様の物で、元々は子の幸せを願う親の想いが込められた物が起源と考えられている指輪であった。

純粋な祈りは『精霊ルビス』の許へと届き、指輪の所持者の魔法力や気力を回復するという効力がある。呪文に重きを置くサラにも必要であると考えたリーシャが購入する事をカミュへ提言し、それが受け入れられた事によって、サラの指にも嵌められる事となった。

購入する際は、2500ゴールドという大金が必要となるらしい。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ

       ザキ

       ザラキ(未行使ではあるが、契約済)

 

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       メラミ

       イオラ

 

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

       トラマナ

       インパス

       バシルーラ

       ベホマ

       ベギラゴン

       フバーハ

       ベホマラー

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

魔王でさえも驚愕し、その底知れぬ才能に恐怖する。

魔族の常識もエルフの常識も、そして人間の常識さえも覆すその才能は、彼女の内にある何かに基因しているのかもしれない。それを示すように、魔王バラモスは最後の力を振り絞り、彼女を亡き者にしようと目論んでいた。人類最高位に立つ魔法使いであるばかりか、全生物最高位に立つ攻撃呪文の使い手となる日もそう遠くないのかもしれない。

 

【年齢】:7,8歳

カミュ達三人がこの少女と出会ってから四年以上の月日が流れている。その間に、カミュという少年は青年に、サラという少女は女性へと成長していた。だが、この少女の見た目だけは、出会った頃からほとんど変わりがない。

カミュにとって子供というのは未知の存在であり、その成長速度などを理解する事はない。リーシャも子供の頃から同い年の人間と接する機会を失っており、自分の頃を思い返す以外にはなかった。唯一子供と接する機会の多かったサラではあるが、メルエという少女を護る事に必死で、それ以外の事に気を回す余裕はないのだろう。

しかし、四年という人間の子供にとっては長い期間を経て、メルエという少女は異常であった。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):天使のローブ

エルフの女王へ『命の石』の欠片を手渡す為に訪れた隠れ里にて購入した物。

変化の杖の力によって、エルフへと姿を変えたメルエの将来に希望を見出したエルフの店主が購入を勧めた物である。

元々、エルフの母達が自分の娘の未来を案じて、一本一本想いを込めて編み込んで行ったローブが起源となっている。母達の強い想いが、そのローブを形成する糸に宿り、それを纏った者を理不尽な死から遠ざける効果を持つと云われていた。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

サラの装備する<魔法の法衣>同様、メルエの母親が編んだ物である可能性が高い。常に彼女の魔法力を支え、その身を守る姿は、母親そのものなのかもしれない。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

既に何度もメルエの身を守る為に立ち塞がっており、魔物等の攻撃を受ける際にも、その形状を変化させる事も解っている。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えており、主を護るその時に、そのオブジェの嘴から<ベギラマ>と同様の灼熱の炎を吐き出した。主と定めた物を護るような意志を持つその杖が、何故スーの村にあったのか、そして誰が安置したのかは、まだ解らない。

   :毒針

何度もメルエの身を護ってくれたトルドからの贈り物。

ただ、最近は、メルエが直接的に魔物から攻撃を受ける機会はなく、それを使用する事もない。

それは、カミュやリーシャ、そしてサラといった絶対的な保護者達の働きが大きいのだろう。

 

所持道具:祈りの指輪

精霊ルビスの加護を持つ指輪。

イシス国女王から下賜されたその指輪は、彼女との約束と共にメルエの指に嵌められている。『必ず元気な姿を見せて欲しい』というイシス国女王の願いは、メルエの胸の中で絶対の効力を持つ約束なのだ。その為に、この幼い少女は他の三人を護らなければならない。護りたいと願い、護ろうと決意する。そんな少女の願いと想いだからこそ、この指輪はそれに応えようとするのだろう。

    :アンの服

天使のローブという新しい防具を手に入れたメルエであったが、この服に何度もその命を護られて来た。みかわしの服と同様の生地で作られたこの服は、アンという幼い少女の身を案じた両親の愛が込められているのだろう。魔物の攻撃などで穴が空いたり、切れたりした部分は、サラによって修繕され、何度も復活を果たしていた。

現在はメルエが眠る船室に掛けられており、トルドバークを訪れる際にトルドへ返還する事も考えたが、渋るメルエを説得するのに、今暫くの時間が必要なのかもしれない。

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

       メダパニ

 

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       トラマナ

       マホトラ

       インパス

       マホカンタ

       ベギラゴン

       ラナルータ

       マヒャド

 

      【それ以外の呪文】

       メラゾーマ

 

 

 




十六章は終了です。
次回は少しのんびりとした十七章に入ります。


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第十七章
バラモス城⑤


 

 

 

 天井が崩れ落ち、上部から陽の光と共に泉の水が落ちて来る。鳴り響く轟音の中でも、リーシャ達三人の心は静寂に満ちていた。

 彼女達の目の前には、首の半分を斬り裂かれた魔王の姿がある。最後の命の源を盛大に噴出させ、支える腕もない魔王の身体は、水に浸かり始めた床へと落ちていた。世界中を恐怖で支配し、世界の全てを手中に納めようとしていた魔王という存在の没落は、その偉業を成し遂げた者達によって見届けられる。最後の一太刀を振るった勇者は、膝まで達した水の中で魔王バラモスの最後を見つめていた。

 

「ぐっ……ゆ、ゆるさぬ……わ、我は…諦めぬぞ……」

 

 擦れ行く瞳を懸命に戻し、魔王バラモスは目の前に立つ勇者カミュを睨みつける。その瞳に宿る憎悪は凄まじく、並みの人間であればその視線だけで心の臓が止まってしまう程の物であるが、それを真っ直ぐに受け止めたカミュは、穏やかな顔でその死に様を見届けた。

 如何に魔王とはいえ、失った命を巻き戻す事など出来はしない。魔王バラモスがどれ程願ったところで、カミュ達に雪辱を果たす機会は永遠に訪れる訳はなく、『諦めない』という意志だけでどうにか出来る問題ではないのだ。

 命の灯火も消え失せ、バラモスの瞳から光が失われて行く。それでも伸ばそうとするの腕の先は既になく、カミュ達を捕まえる事など不可能。魔の頂点に君臨し、全ての魔族を従える程の力を有する存在が今、最も脆弱な人類によって打ち倒された。

 

「えっ!?」

 

「なにっ!?」

 

 崩れ落ちるバラモスの巨体を見つめていたリーシャとサラが声を上げる。今まで何の感情もないような穏やかな表情を浮かべていたカミュでさえ、眉を顰めた。

 瞳の光も失われ、伸ばした腕が床へと落ちるその瞬間に、魔王バラモスの身体が突如現れた闇の中へと吸い込まれて行く。まるで突如現れた闇の中から伸ばされた腕によって引き摺り込まれるように徐々に闇の中へと消えて行くバラモスの身体を、一行は成す術もなく見守る事しか出来なかった。

 しかし、その身体の全てが飲み込まれる時、再びバラモスの瞳に怪しい光が点った事には誰一人として気付きはしなかった。

 

「…………カミュ…………」

 

「えっ? あ! カ、カミュ様!」

 

「カミュ!」

 

 バラモスの身体が完全に闇の中へと消え失せ、暫し呆然とした時が流れて行く中、メルエが突如として駆け出す。その行動に気付いたリーシャとサラがほぼ同時に声を上げた。

 彼女達の前方で死に逝くバラモスを見届けていたカミュが、崩れ落ちるようにその場に倒れ込んだのだ。それを逸早く見つけたメルエの瞳からは大粒の涙が零れ、床に溜まった水に落ちて行く。最早自分の腰までになっている水を掻き分けて進もうとするメルエの身体を軽々と抱き上げたリーシャがその場に駆け寄って行った。

 

「サラ! どうなんだ!」

 

「ベホマは掛けました! で、ですが……まるで、命の灯火が消えて行くようで……」

 

 倒れ伏したカミュの身体には既に傷はない。即座に唱えられた最上位の回復呪文によって、その身体に付けられた傷は全て治癒している。それにも拘らず、カミュの身体から徐々に力が抜けていくのをサラは感じていた。

 まるで自分の役割は全て終えたかのように、その『死』を受け入れるかのように、当代の勇者は、この世を去ろうとしている。一度消えかけた命の灯火であっても、サラの唱える最上位の回復呪文は再度燃え上がらせる事を可能とする。だが、その対象となる者が完全に『死』を受け入れ、『生』を諦めてしまえば、それを呼び戻す事は誰も出来はしないのだ。

 まるで太陽の光がカミュだけに降り注いでいるように、その場所だけ神秘な空気が満ちて行く。それがカミュという青年を天へと導く道筋となっているようにさえサラには見えてしまっていた。

 

「カ、カミュ! お前はメルエを置いて行くのか!? 目を開けろ! 私は許さないぞ!」

 

「…………カミュ…………」

 

 サラの表情と、神秘的に降り注ぐ陽光を見上げたリーシャは、今カミュが迎えている状況を正確に理解する。それはメルエも同様であり、リーシャの腕から逃れるように水の中へと入り、カミュの身体にしがみ付いた。

 あれ程の激戦を潜り抜け、この場に立っているリーシャ達三人が本来であれば奇跡に近い。だが、それ以上に、カミュが生きて最後の一太刀を繰り出した事の方がより奇跡に近いのだ。

 彼を支え続けていたのは、その心である。誰しもが魔王バラモスの圧倒的暴力の前に倒れ伏し、死を迎えるのを待つだけとなっても、彼だけはその攻撃を受け続け、それでもそこに在り続けていた。それがどれ程に無謀な事で、どれ程に奇跡的な事かを理解出来ない程、サラ達は愚かではない。

 『勇者』としてアリアハンを出た当初は、自分の命を軽い物として考えていた彼は、テドンの夜を越えてその命の重さを知る。だが、その命の優先順位だけは、この四年間で一度たりとも変わることは無かった。それを誰よりも知っているのは、今涙を流しながら叫び続ける女性戦士なのかもしれない。

 

「……カミュ様」

 

 信じ続け、憧れ続けた『勇者』という偶像を打ち壊した青年こそ、真の『勇者』であった。その大きくはない背に、様々な想いを背負い、数多くの重責を背負い、そして数多くの命を背負っていただろう。その事実を知ろうともせず、サラは何度も彼を愚弄して来た。しかし、どれ程彼を罵倒しようとも、彼はその在り方を変える事はなく、その道を歩み続ける。何時しかその道は彼女の目指す指針となり、彼女の歩む道となる。それに気付いたのは、本当に僅か前の事であった。

 消え逝く命の灯火を、只見つめる事しか出来ないサラは、己が歩んで来た道が本当に正しかったのかどうかを自身に問い掛ける。何故、ここで未来の希望となる青年を失わなければならないのか、何故、彼のような犠牲がなければ世界は平和を得る事が出来ないのか。

 そんな途方に暮れるサラの耳に、リーシャの叫びとメルエの泣き声以外の声が届いたのは、カミュの身体が冷たくなりかけた時であった。

 

『カミュ……カミュ……聞こえていますか?』

 

 何処か遠くから呼び掛けられる声。それでいて、直接脳へと響くようなその声に気付いたサラは、その発信源を探すように顔を上げる。だが、その声が聞こえているのはサラだけのようで、リーシャは今もカミュの身体を抱き上げたまま声の限り叫んでおり、メルエは涙を流しながら天に向かって叫び続けていた。

 サラにしか聞こえないその声は、それでも彼女に対して呼びかけている訳ではない。その声は、命の灯火を消そうとしている青年に向かってのみ呼びかけ、その青年にのみ問い掛けている。

 

『カミュ……カミュ……私の声が聞こえていますね?』

 

 サラにしか聞こえないその声が、崩落を迎えた魔王城に響き渡り、それと同時に暖かな光が周囲を包み込む。その光は倒れ込むカミュの胸の辺りを中心に広がり、カミュという『勇者』を祝福するように輝きを放っていた。

 それでも、リーシャやメルエはその圧倒的な輝きに気付かない。自分達をも包み込むような暖かな祝福に気付く事無く、身動き一つしないカミュの傍で叫び声を上げ続けていた。そんな二人の悲痛な叫び声が何処か遠くに聞こえる程、どこからともなく聞こえて来る声はサラの心と頭に直接響き渡る。

 

『カミュ、貴方は本当によく頑張りましたね……私も貴方を誇りに思いますよ』

 

 メルエが大きな泣き声を上げ、倒れ伏すカミュの背中に覆い被さる。リーシャもまた大粒の涙を頬に伝わせながら、水に浸かり始めた床へと崩れるように膝を落とした。だが、サラだけはそれらの光景が遠い映像のように見つめ、直接響いて来る声に意識を奪われる。

 サラに向けられた訳ではないその声は、既に命の灯火を消してしまいそうな程に弱りきった『勇者』だけに届く物。『勇者』の功績を讃え、『勇者』の存在意義を認め、『勇者』であるカミュを一個人として慈しむ暖かな声。

 ようやく、サラはその声の持ち主を確信した。

 

『貴方のお陰で、私を封じている力も弱まりました。これより後の事は全て私に任せ、貴方は自身の幸せの為に生きなさい』

 

 優しい声は、倒れ伏すカミュの心へと送り込まれる。

 彼が生きて来た二十年の人生の中で、その身は彼の物でありながらも彼の物ではなかった。彼自身の希望を持つ事は許されず、意志さえも持つ事は許されない。世界中の生物の希望を一身に背負い、その行動は他者の意志によって決定される。

 彼個人の幸せを考慮に入れる者など誰一人としておらず、自分達の幸せの為の人柱として、『勇者カミュ』は存在していたのだ。故にこそ、彼は自分自身の意志というのを明確にする事はなかった。そんな彼に対し、『己の幸せの為に生きろ』というのは、余りにも優しく、そして厳しい要求であるのかもしれない。

 

『魔王バラモスが消滅した事によって、貴方のいる世界とこちらの世界との均衡が崩れています。あの者の復活も近いでしょう……』

 

 カミュへ注がれていた暖かな光がその胸の中へと浸透して行く。光の全てを取り込んだカミュの身体全体が淡い光を放った。戻って行くカミュの生気が目に見えて解る程に、その輝きは強く、生命の喜びに満ちている。だが、それが理解出来るのもサラ一人であった。

 最早カミュ一人に語る物ではなく、独白に近い物へと変わっていた声は、魔王バラモスが倒れて尚、世界が平和に包まれる事がないという事実を遠回しに語っている。だが、その真意に気付く事が出来る程、当代の賢者の精神は落ち着いている訳ではなかった。

 

『カミュ……貴方が大事に思う者と、貴方を大事に思う者が同一である訳ではないのです。貴方は多くの愛によって護られて来ました。これからは、貴方が大事に思っている者を護りなさい。その先に貴方の幸せがきっとある筈です』 

 

 僅かに身動きをしたカミュの様子を見たリーシャが歓喜の声を上げ、その声でメルエが上半身を起こす。再びカミュの背中に耳を当てたメルエは、その奥に聞こえていた微かな振動が、しっかりとした脈動へと変化している事に気付き、満面の笑みを浮かべた。

 リーシャとメルエには相変わらずこの不思議な声は聞こえず、勇者の帰還を心から喜んでいる。零れ落ちる涙を隠そうともせずにリーシャは青年の身体を抱き締め、それに覆い被さるようにメルエが抱き着く姿は、サラに自然な笑みを浮かばせた。

 

『さぁ、行きなさい。決してこちらの世界に来てはいけませんよ』

 

 その声がサラの耳に届いたと同時に、全員が暖かく大きな光によって包まれる。

 『精霊ルビス』

 その大いなる存在を示すかのような暖かな光はサラの脳裏に強烈な印象を焼き付ける。生まれてから二十年以上も崇拝し続けて来た者の声を聞き、その胸に抱かれるような感覚に包まれた彼女は全てを委ねた。

 突如包まれた事でリーシャとメルエは驚きの表情を浮かべて慌てるが、いつもならば即座に対応策を取る筈のサラが落ち着いた表情で瞳を閉じている姿を見て、その身を委ねる判断をする。魔法力とは異なるその光が、とても暖かく優しい物である事に気付いた彼女達は、徐々に癒えて行く自分の心と身体を自然に受け入れる事が出来た。

 

「クェェェェ!」

 

 柔らかな光が消え、涼やかな風を頬に受けたサラは、その双眸をゆっくりと開く。差し込んで来る朝陽が眩しく輝き、吹き抜ける風と共に、その場でカミュ達を待ち続けていた神鳥の鳴き声が響いた。

 ラーミアが居るという事は、この場所がバラモス城の傍である事に間違いはない。だが、そのバラモス城は、魔王が作り出した瘴気によって包まれていた筈であり、このような清々しい空気が流れるような事はなかった。

 思わず見上げた神鳥ラーミアの巨大な身体の向こうに、抜けるような青空が広がっている事を確認したサラは、自分達が成し遂げた偉業を改めて実感し、大きく息を吐き出す。魔王バラモスの消滅によって、魔物達の攻撃性を高めていた瘴気が薄まったのだろう。これにより、魔物達の生態は変わらないだろうが、少なくとも人間を襲い続けるような攻撃性は鳴りを潜める筈である。

 不思議なあの声の内容という気掛かりはあるものの、この世界に全生物の平和が戻ってきた事は確かである。サラは湧き上がって来る喜びを噛み締めるように瞳を閉じ、溢れて来る涙を隠すように天を仰いだ。

 

「カミュが目を覚ますまで待ってくれ」

 

「クエェェェ」

 

 そんなサラの横では、未だに目を覚まさないカミュを心配するように座り込んだリーシャと、最早カミュの胸の上で瞳を閉じてしまいそうになっているメルエの姿がある。先程、自分達を包み込む暖かな光の心地良さは、幼い少女を眠りに誘うには十分な力を持っていたのだろう。

 ゆっくりと瞼を落とし、旅立って行く彼女の夢の世界が、この世界のように平和である事を願いながら、サラはラーミアへと近づいて行った。

 それは、彼女には問い掛ける内容があったからだ。今、この場で聞かなければ、聞く時はもうないだろう。それはカミュの意識が戻る前に、リーシャという女性騎士に問い掛けなければならない事なのだった。

 

「リーシャさんは、アリアハンへ戻るのですか?」

 

 それは一国家の騎士として生きて来た者への問いかけ。

 リーシャという女性は若くして宮廷騎士に取り上げられた逸材である。女性であるという事で蔑視されてはいたが、それでも宮廷騎士として生きる事の出来る技量と器量を見込まれていたのだ。誰も彼もが騎士としての名誉を与えられる訳ではない。そこにはそれに相当する程の力量を示す必要性が生じて来る。様々な試練を乗り越え、彼女は一国の騎士として取り立てられていた。

 リーシャという女性は、カミュに同道していた理由がサラやメルエとは大きく異なっている。サラは自分自身の意志でカミュとリーシャを追いかけ、半ば強引に同道を願い出ていたし、メルエに至っては運命とも言える出会いによって彼らと共に歩んで来ていた。それに対し、リーシャはアリアハンという一国家からの命を受け、カミュという勇者と共に歩んで来ている。

 要するに、彼女だけは国家からの使命を受けて勇者一行となっているのだ。故に、今でも彼女はアリアハン国の宮廷騎士であり、彼女の上にはアリアハン国王が居るという事になる。彼女にはアリアハンという国に戻り、成果の報告を行う義務があり、魔王討伐後は騎士として再びアリアハン国家に仕える義務もあった。

 

「ん?……そうだな。国王様にご報告申し上げなければならないな」

 

 例え四年もの月日を共に過ごし、命を預けあった中でも、国家という枠内であればリーシャとサラは身分も地位も異なっている。落ちぶれたとはいえ、リーシャはアリアハン国の貴族であり、サラは一教会の僧侶であった。

 アリアハンという一国家の中に戻ってしまえば、今のように気軽に声を掛け合う事は出来ないだろう。リーシャがそれを気にする事はなくとも、他の貴族達がそれを拒む筈である。例え、世界を救った人間の一人とはいえ、対外的に魔王を討伐したのは『勇者』であり、それに同道した女性騎士とされるのだ。そこに、サラやメルエの入る余地があるとは思えなかった。

 

「……ぐっ」

 

 そんな思いに気持ちを落としていたサラを余所に、ようやく最大の功労者が目を覚ます。カミュが身動きをした事で、その胸の上で眠りに落ちそうになっていたメルエも目を覚まし、開かれた勇者の瞳を覗き込むように顔を出した。

 目を開いた途端、目の前にメルエの顔がある事に驚いたカミュであったが、その顔が花咲くような笑みであった事に苦笑いを浮かべる。ゆっくりと起き上がるカミュの胸に抱きついたメルエをそのままに、カミュは一度周囲を見渡し、現状を把握して行った。

 

「身体は大丈夫か? 不思議な事だが、私達の身体の傷は全て癒えていた。だが、お前はまた命を手放そうとしていたからな!」

 

「リ、リーシャさん。魔王バラモスとの戦いは死力を尽くしたものでしたから……カミュ様が悪い訳ではありませんよ」

 

 カミュの身体を気遣う様子のリーシャであったが、彼の身体に異常がない事を理解すると、一変して厳しく表情を引き締める。カミュを責めるような言葉を口にするリーシャを諌めようとサラが口を挟むが、先程まで流し続けていた涙の跡が残るリーシャを顔を見ていた彼は、小さな笑みを浮かべた。

 その笑みは、今までの旅の中でも見た事のないような儚い微笑み。それは、リーシャの胸に先程まで感じていたような不安と恐怖を呼び覚ますのに十分な威力を誇った。

 

「リ、リーシャさん!」

 

 咄嗟の動きだったのだろう。振り抜かれた右腕は若い勇者の頬を打ち、それを受けた彼も、そしてその行動を起こした女性戦士も驚きの表情を浮かべていた。

 突然の出来事に驚きの声を上げたサラは、同じように驚きの表情を浮かべているメルエの手を握り締める。もしかすると、この場面で自分の出番はないのではないかと感じる程に静かな時が流れて行き、傍で佇むラーミアでさえも鳴き声一つ上げはしなかった。

 

「魔の王を倒しても、その先にあるのがお前の死では駄目なんだ……。何度言ったら、お前は解ってくれる? 何度問い掛けたら、お前は私達と共に歩んでくれるんだ?」

 

 リーシャとて、先程までの戦いが死を賭した戦いである事は十分に理解している。アリアハンを出た頃とは全く異なる想いをその胸に宿し、この歳若い勇者が魔王と対峙していた事も知っている。それでも、その身を犠牲にし、自分達を護ろうとしてくれた青年を褒め称える事だけは、彼女には出来なかったのだ。

 誰かの犠牲の上にしか成り立たない平和である事も重々承知している。ここまで多くの魔物達の命を奪って来たし、多くの人間達の死を見て来た。だが、それは己が生き抜く為にしてきた決断の末である事。お互いが己の生を諦めず、譲れない戦いの中で勝敗を分けて来たのだ。

 死を覚悟する事と、死を受け入れる事は全く異なる。リーシャもサラも魔王との戦いで自分達の死を覚悟していたが、自分達の死を受け入れようとは思っていなかった。

 魔王バラモスの消滅を見届けたカミュは、それを受け入れようとしていた。その先に続く自分の生を手放し、役目を終えたかのように死を受け入れようとしていたのである。サラのベホマでさえも、彼の命の灯火の消滅を抑えられなかった事がそれを示しているのだろう。

 彼が護ろうとしていた者達と共に歩む未来を諦め、もがく素振りさえも見せなかったその姿が、どうしてもリーシャは許せなかった。

 

「私達が……いや、お前が勝ち取ったこの世界で、どうして生きようとしてくれない!? この世界はお前を拒絶していたか? この四年以上の旅の中で、お前は何を見て来たんだ!?」

 

 その悲痛な叫びは、彼を四年以上も見続けて来た者にしか発する事が許されない慟哭なのかもしれない。この熱い女性戦士の双眸から再び零れ落ちた涙が、彼女の胸を締め付ける悔しさを明確に物語っていた。

 いつもならば、仲間内での諍いなどには過敏に反応するメルエでさえも、今のリーシャに掛ける言葉は見つからず、心配そうに眉を下げたままカミュを見上げている。それはサラも同様であり、何と声を掛ければ良いのか、はたして自分が声を発して良いのかさえも解らなかった。

 

「生きる事を諦めないでくれ……。少なくとも、私はお前に生きていて欲しいと思っている」

 

「…………メルエも…………」

 

 どれ程の沈黙が流れた事だろう。瞬きをする程度の時間であったかもしれないし、陽が沈む程に長い時間であったようにも思える。そんな痛いような沈黙が流れる中、ようやくリーシャが口を開く。

 それは懇願。

 彼の生き方も、彼の想いも、彼の覚悟も理解して尚、彼の生を願う一人の人間の想い。

 それに呼応するように、先程まで心配そうに眉を下げていた少女が口を開く。その眉はしっかりと上がり、何かを決心するように熱い瞳をカミュへと向けていた。勇者の生還を誰よりも喜んだ彼女の瞳を見ていた青年は、先程とは全く異なる小さな笑みを溢す。

 

「……大丈夫だ」

 

 その一言にどれ程の物が詰まっているのだろう。想像する事さえも難しく、読み解く事など決して出来ない短い物ではあったが、彼なりの全ての答えがその魔法の言葉に詰め込まれていたのかもしれない。

 見上げていた少女が微笑み、女性戦士は乱暴に瞳を拭う。全員の想いを全て受け止めてしまった女性賢者だけが、今更になって大粒の涙を溢し続けていた。

 この短く、儚い言葉に込められていた想いを、誰もが捉えきれていなかった事を知るのは、もう少し後の事となる。

 

「ぐずっ……カミュ様、真っ直ぐアリアハンに戻られますか?」

 

「……いや、一度トルドの所へ寄りたい」

 

 次から次へと溢れ出す涙を拭いながら問い掛けたサラの言葉は、意外な返答によって遮られる。

 この瘴気が晴れた今となっては、世界中に魔王バラモスの消滅が広まるのも時間の問題であるだろう。魔物達から凶暴性は失われ、魔王の魔法力によって生まれていた魔物達はその生命を手放している筈だ。

 そんな世界において、カミュという青年は完全なる『勇者』となってしまっている。誰も成し遂げる事の出来なかった『魔王討伐』という偉業を成し遂げ、この世界に平和を齎し、人類の未来を護った彼は、世界中の人間達が讃える存在へと昇華しているだろう。

 そんな英雄以上の存在の帰国は、凱旋と呼ぶに相応しい物になるだろうし、送り出した国家としてもそうでなければ示しが付かない。

何処かで一泊して休息を取るかを問い掛けたつもりであったサラは、意外な言葉に涙を止めてしまった。

 

「…………トルド…………」

 

「確かに、トルドの身が心配だな。イエローオーブの借りもある。寄ってから戻っても、ラーミアであれば数日も掛からないだろう」

 

 懐かしい名が出て来た事に目を輝かせたメルエを見て、リーシャは苦笑を溢しながらその頭を優しく撫でる。

 確かに神鳥ラーミアの復活は、トルドの犠牲があってこそと言えるのかも知れない。投獄されてしまった彼の身は、町の人間達の差配に委ねられている事も事実であり、悲観的になる必要はないかもしれないが、楽観的に考えられるような物でもなかった。

 ラーミアという神鳥であれば、船などよりも速い速度で移動が可能であり、トルドバーグに寄ってもアリアハンへの帰還が大幅に遅れる訳でもないだろう。故に、リーシャはカミュの目的の内容も確認せず、その提案を了承した。

 

「わかりました。では、まずはトルドさんの所へ向かいましょう!」

 

 自分の考えとは大きく異なる方針ではあったが、それでもサラは満面の笑みを浮かべる。最早、最終の目的は達成したのだし、多少は自分達の時間を持っても非難される事はないだろう。賢者となったサラも、この今の瞬間だけは考える事を放棄し、自分が大事に想う者達との行動を純粋に楽しんでも良い筈だ。

 嬉々としてラーミアの背に乗ったメルエは、その柔らかな羽毛の上に寝そべり、既に瞼を落とし始めている。全員がその背に乗った事を確認した神鳥は、大きく一鳴きをした後、翼を広げて羽ばたき始めた。

 ゆっくりと離れて行く大地に見える城は、この場所を訪れた時とは全く異なる雰囲気を醸し出しており、その城を住処にしている魔物達の心が穏やかな物になっている事を示している。朝陽に映える城の美しさに目を奪われ、周囲の泉に映るその雄大さに心奪われた。

 この場所を切り開いた人間が造った城なのか、元々魔物の物であった城なのかは解らない。だが、今サラの瞳に映るその城は、何者も拒む事はなく、穏やかに佇んでいた。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
かなり短くなってしまいましたが、今回は二話に分けました。
二話目も短い物になります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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トルドバーグ④

 

 

 

 優雅に舞う神鳥ラーミアの背から見る世界は、新たな希望の輝きに満ちていた。魔物が消滅した訳ではない。人類だけがこの世界に生きる生物でもない。だが、地上に見える雄大な大地と広大な海は、太陽の光を受けて喜びに満ちているようにさえ感じる物だった。

 吹き抜ける風も瘴気に満ちた物ではなく、潮の香りや緑の香りを運んで来ている。ラーミアの背で眠りに就いてしまったメルエの背を撫でながら、サラはそんな幸せを噛み締めていた。

 不意に上げた視線に映るのは、ラーミアに寄り添うように飛ぶ鳥達。群れで飛ぶ鳥達は、ここまでの旅でサラ達が渡り歩いて来た島々を飛んでいるのだろう。一鳴きして方向を変えた鳥の群れに手を振り、頬を緩める。彼女は今、世界はこれ程までに輝いているという事を改めて実感していた。

 

「その近くに下りてくれ」

 

「キュェェェェェ」

 

 そんな周囲の輝きに視線を向ける事無く、地上を見ていたカミュがラーミアへと指示を出す。それに応えるように声を上げた神鳥は、ゆっくりと高度を下げて行った。

 ポルトガの港から数隻の船が出ており、それを護るように寄り添う船の帆には独特の紋章が描かれている。既に海路を護る護衛船の噂は世界中に広まっており、商船などの護衛の仕事を独占的に行っているのだろう。

 魔王という脅威が去り、これから益々船の数は増して行く筈だ。だが、海は人間という一つの種族の為にある訳ではない。そこで暮らす魔物や海洋生物達の領土を侵せば、逆襲を受ける事も致し方ない事実である。それを理解し、航路に関して統制を取って行くのは、ポルトガ国王の仕事になって行くのかもしれない。

 

「ここからは歩く。悪いが、ここで少し待っていてくれるか?」

 

 無事着陸したラーミアの背から降りたカミュは、待機の依頼を口にする。長い首を動かして了承の答えを示したラーミアを見てカミュが歩き出し、その後ろをメルエを抱いたリーシャが歩き、最後尾をサラが歩く事となった。

 常に最後尾を歩いて来たリーシャではあったが、それは一行の危険性を考え、後方から広い視野を持って魔物を警戒する為という理由があったのだ。だが、魔王を討伐し、世界中の魔物達から狂気が薄れたとすれば、その警戒も無用の物となるだろう。しかも、この周辺に生息する魔物達であれば、今のサラであれば単独でも勝利出来るという考えもあった。

 それだけ、彼等四人の力は、規格外の物になってしまっているのだ。

 

「……町の名が変わったのだな」

 

「ウィザードバーグですか……」

 

 周辺の木を切り倒しただけの平地を、ここまでの大きな都市へと変貌させた男の名は、その町を示す呼称から取り外されていた。

 以前訪れた時よりもしっかりとした造りの門の上に掲げられた看板には、今も尚、メルエが持っていた魔道士の杖が打ち付けられており、その先端に輝く大きな石が太陽の光に輝いている。だが、その下に描かれた町の名前は、以前訪れた時とは全く異なる物であったのだ。

 『魔術師の町』

 別名でそう読める町の名を見たサラは、複雑な想いを抱きながらその看板を見上げていた。

 この場所は、彼等が初めて訪れた時には何もなかったのだ。ポルトガから出航して直ぐに襲われた嵐によって漂着した場所から歩き、辿り着いたこの場所は、遥か昔に漂着した一人の男性の悲しい願いに満ちていた。

 妻を失い、その時の経験から、この場所に町を作りたいという老人の願いを受け、当代の勇者がその大役として指名したのは、カザーブという小さな村で過去の過ちに苦しむ道具屋の主人であった。

 

「……入るぞ」

 

 来る度に変わって行く集落の姿は、『人』という種族の本当の強さを示しているようにさえ感じるものであり、サラはいつも目を輝かせていた。徐々に増える人と建物。その全ては様々な者達の想いの結晶であるのだろう。

 道具屋が建ち、宿屋が建ち、劇場が建ち、中央には綺麗な噴水も造られる。その光景は人々の希望の表れのようにも感じる物であった。僅か数年で都市としての形態を持ち、交易を含めての様々仕事が生まれる。その恩恵に与っていた者達が、それを生み出した者をこの場から排除した。

 それは『人』としての強さなのか、それとも弱さなのかは今のサラにも解らない。ただ、この場所を生み出した者の為にも、この場所がこれからも未来永劫在り続けて欲しいという願いを自分が持っている事だけは理解していたのだった。

 

「ようこそ、ウィザードバーグへ」

 

 町に入ると、見知らぬ女性がカミュ達に歓迎の言葉を投げかける。最近になってこの場所へ移住して来た者の一人なのかもしれない。カミュ達の顔も知らなければ、彼等がこの町を生み出す起源となった事さえも知らないだろう。もしかすると、この場所を生み出した男の顔も知らないのかもしれない。

 女性へ関心さえも示さず、カミュは町の奥にある一つの建物へ真っ直ぐ歩いて行った。代わりに頭を下げたサラを見て微笑んだ女性ではあったが、明らかにカミュに対して不信感を持ったように表情を曇らせている。

 町が大きくなれば、その利権などを求めて荒くれ者もまた流入して来る物である。特にカミュやリーシャは、その背に神代の武器を携帯しているし、サラもまた腰には剣を差していた。メルエの背中に括られた杖は、初見の者ならば恐れを抱くようなオブジェが付いており、それらもその女性が不信感を抱く原因となっていたのだろう。

 

「もし、この町の人々がトルドさんの最後の言葉を真摯に受け止めていたとしたら、自警団のような方々が来るかもしれませんね」

 

「ん? そうだな。まぁ、私達を止められるような者達がいたら驚きだがな」

 

 ようやく余裕を取り戻したサラは、不審顔のまま去って行く女性を苦笑を浮かべながら見送る。そんなサラの表情に気付いたリーシャは軽口を叩きながらも、抱いているメルエを起こそうと身体を揺すっていた。

 確かに、例え腕に覚えのある自警団であったとしても、魔王バラモスさえも打ち倒した四人を止められる者など、この世界の何処にもいないだろう。彼女達がその気になれば、ここまで大きくなった町であろうとも、一瞬の内に焼け野原に変える事も可能なのだ。

 

「ここは牢獄だ! この場所に何の用だ!?」

 

「……ここに囚われている人間と話がしたい」

 

 その強大な力は、知らず知らずの内に周囲に漏れているのかもしれない。近づいて来るカミュの姿に身構えた兵士のような者は、自分でも解らない怯えを隠すように、尊大な態度を持って声を荒げる。だが、そんな兵士の態度や声を意に介さないカミュは、自分の目的を簡潔に告げるのだった。

 もしかすると、彼自身がこの町の在り方に憤りを感じていたのかもしれない。誰にもそのような姿を見せはしなかったが、彼がトルドという商人を信頼していた事は確かであり、自分がこの町の創造を依頼したという負い目も感じていたのだろう。そんな憤りの一端がこの場で表に出てしまっていたのだ。

 

「こ、この牢獄には、今は誰もいないぞ!」

 

「な、なに!? ならば、トルドはどうした!? まさか処刑したとでも言うのか!?」

 

 人類最高位に立つ者の一人の圧力を受けながらも、兵士は気丈に口を開く。声も震えており、足元も小刻みに震えているものの、それでも職務を全うしようとする彼は、真面目で良い兵士なのかもしれなかった。

 だが、この兵士が発言した内容がカミュ達一行に衝撃を齎す。驚愕に目を見開いたサラと、瞬間的に眉を顰めたカミュを押し退けて前へ出て来たリーシャは、今にも兵士に掴み掛かりそうな程に肉薄し、怒声を上げた。その腕の中で眠っていたメルエが驚きで目を覚まし、周囲に蔓延する緊迫した空気に眉を下げる。

 長くリーシャと旅を共にして来たメルエでさえも恐れを抱く程の怒声。それを直接受けた兵士が失禁していない事を褒め称えるべきなのだろう。しかし、その怒声は町の中に響き渡り、数多くの町民達の注意を引いてしまった。

 

「何をやっている!?」

 

 先程の女性が呼んだのだろう。様々な甲冑に身を固めた兵士のような者達が、カミュ達を囲むように集まり始め、それぞれの武器に手を掛ける。そんな緊迫した空気なのにも拘わらず、先程まで目を見開いていたサラは安堵の溜息を漏らした。

 カミュ達四人を敵として見ている彼等は、この町を荒くれ者達から護るべく結成された自警団の者達なのだろう。少し短慮な部分がある事は否めないが、カミュ達の素性を知らなければ、町を荒らす者達と見えても仕方がないのかもしれない。

 この偉大な四人の今の姿は余りにも酷い。纏っている衣服は綻び、破れている。衣服や鎧には体液や血液がこびり付き、酷い部分になればどす黒く変色までしている始末。何日も湯浴みをしていない身体は埃と垢に塗れ、汗臭いに臭いさえも放っている。そのような人物達を快く受け入れる場所など、この世界の何処を探しても有りはしないだろう。

 自警団が組織されているという事は、トルドの助言も無駄ではなかった事を示している。それがサラには嬉しかった。この町はまだ、悪しき方角に向かってはいないのだと思えるからだ。

 

「カミュ、どうする? 全員を叩きのめす事は容易だが……」

 

「……考えが物騒過ぎる」

 

 メルエをそっと地面に下ろしたリーシャは、周囲をぐるりと見渡す。勿論、武器に手を掛ける様な事はしない。彼女が武器を手にしてしまえば、即座に戦闘が始まってしまい、この場を収める方法が全員を叩き潰すしかなくなってしまうからだ。

 そして、今のリーシャであれば、周囲を取り囲む自警団全員が一斉に飛び掛って来ても、素手だけで叩きのめす事は可能であろう。それだけの力量の差が今の彼等にはあるのだ。

 しかし、呆れるように溜息を吐き出したカミュの身体から先程までの緊迫感が抜けて行った事を見たリーシャは、瞬時に瞳を和らげる。もしかするとこの女性戦士は、何時になく怒気を露にする青年を諌める為に軽口を叩いたのかもしれない。

 

「待ちなさい! この者達は私の知り合いだ」

 

 そんな自警団の者達にとってすれば一触即発の状況の中に飛び込んで来たのは、初老の男性であった。背丈はそれ程高くはなく、何よりもその髪の色は漆黒に輝いている。それはカミュと同じジパングの血を受け継いでいる事を示していた。

 この土地に新たにジパングから移民が来ていたとしても不思議ではないが、その顔には見覚えがあり、以前に話した事のある鍛冶屋の人間である事が解る。突如輪の中に入って来た男性に皆の視線が集まるが、その視線を気にした素振りもなく、初老の男性はカミュの目の前まで歩いて来た。

 

「ここでは話も出来ん」

 

 一言だけ告げた男性は、カミュ達を伴って集まり始めた人々の輪を抜けて行く。突如表れ、町を荒らすと思われた者達を連れ去る男性を誰一人として引き止める事は出来ず、皆が呆然とその後姿を見送る事しか出来なかった。

 ようやく脅威が去った事で、牢獄を護っていた兵士は腰を抜かし、そのまま地面に座り込んでしまう。周囲を取り囲んでいた兵士達でさえ、額に汗を浮かべて一歩も動く事が出来なかったのだ。直接対峙し、言葉さえも交わしたこの兵士の状況を責める事が出来る者など誰一人としていない。町の奥にある一つの家屋へと四人の不審者が消えて行った事を見届けた後、皆がこの兵士の勇気を讃える事となった。

 

 

 

「さぁ、まずは掛けなさい」

 

 鍛冶屋と併設された家屋へカミュ達を誘った男性は、そのまま四人に椅子を勧める。そこで初めて自分達の酷い身なりを理解したサラは、それを固辞するように手を振った。だが、男性は柔らかな笑みを浮かべ、再度椅子に腰掛ける事を勧める。

 『座って貰わねば話しも出来ない』と言われては、それ以上固辞する事は出来ず、三人は丸いテーブルの傍に置かれた椅子へと腰掛けた。メルエはリーシャの膝の上に乗り、何とかテーブルの上に顔を出せるような形で男性を見上げる。

 

「お前さん達の事はトルド殿から聞いておるよ。今、この場にその姿でおられるという事は、『お前さん達』などと呼ぶのは無礼に当たるのかもしれないな」

 

「そ、そのような事は!」

 

 白湯を四人に出した男性はゆっくりと自分の椅子へと腰掛け、一度見渡した後、小さな笑みと共に言葉を漏らす。ジパングという小さな島国を出てこの場所に辿り着いた彼に『魔王バラモス』という脅威が正確に伝わっているかどうかは解らない。それでも、彼なりにカミュ達の偉業を讃えているのだろう。

 トルドという商人が、カミュ達に目的を漏らす程にこの男性を信頼していた事にも驚くが、この男性が未だにトルドに敬称を付けている事にもリーシャは驚いた。それは、この男性が未だにトルドに対して友好的な感情を持っている事に他ならないからだ。

 

「トルドは処刑されたのか?」

 

「いやいや。この町の人間とて、それ程の馬鹿達ではない。トルド殿は釈放され、カザーブの村という場所に帰ると言っていた……私の娘を攫ってな」

 

 待ち切れないように問い掛けたリーシャへの答えは、彼等の考えの遥か斜め上を行った物であり、四人全てが驚愕の表情を浮かべる。トルドが処刑されずに釈放される可能性というのは、彼らもある程度は想定していた。だが、トルドという人物の人となりを知る彼らにとって、女性を攫うという行為は寝耳に水のような出来事であったのだ。

 口を開いたり閉じたりしていたサラは、ようやく声を絞り出す。困惑が手に取るように解る程の困惑振りに、初老の男性は小さな意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「さ、攫って行ったとは……?」

 

「ふはははっ……すまん、すまん。大事な娘を奪われた爺の戯言だ。娘とは言っても、既に二十も半ばになる行き遅れだ。牢に入ったトルド殿を世話する内に、勝手に惚れて、勝手に付いて行こうとする。トルド殿は一人で帰るつもりだったようだが、この爺が娘の事を頼み込んだのだ」

 

 快活な笑みを浮かべる初老の男性は、何処か華やかな顔をしている。娘の将来を心配していたのか、娘が惚れ込んだ相手との幸せを確信しているようにも見える、心温まる笑みであった。

 ジパングで生きる者達の髪色や肌の色はこの世界の中でも独特である。背丈も他国の者よりも低い事が多く、その考え方も独自の慣習の為か他国の者とは異なっていた。ジパングという小さな島国を出て、父親に付いて来た少女は、様々な国で謂れ無き迫害を受けて来たのだろう。友も出来ず、恋人など作る事も出来ずに二十数年の月日を過ごして来た筈である。

 そんな娘を不憫に思っていた男性は、娘が一人の男に惚れ込んだ事を喜ぶと同時に、やはり大事な一人娘を取られる寂しさを一人で感じていたに違いない。そんな八つ当たりにも等しい物を、カミュ達は受けただけの事である。

 

「自分の娘ながら、あの子は気も強い。押しかけ女房になってでも、トルド殿の心を射止めるだろう」

 

「……そうですか、トルドさんと」

 

 優しく暖かな父親の笑みを浮かべる男性を見ていたサラの顔にも笑みが浮かび、安堵の溜息を漏らしたリーシャも爽やかな笑みを作る。一人、意味の解らないメルエだけは、頻りに首を傾け、それでも周囲の雰囲気を感じて可愛らしく微笑んでいた。

 トルドが最愛の妻と娘に別れを告げてから、既に十年近くの月日が流れている。その内の半分以上は、後悔と自分への憎しみによって費やし、妻や娘に囚われていたと言っても過言ではない。だが、カミュ達と出会い、己の中で一つの区切りを付けた彼は、この場所で新たな夢を追い駆けた。

 そろそろ、彼自身も人生の再出発を決めても良い頃合だ。それが、妻や娘を忘れる事に繋がるなどと誰も思わないし、彼がどれ程に妻や娘を愛しているかという事を、今は天上から見守っているアンと母親が誰よりも知っているだろう。

 

「……ありがとうございました。いつかカザーブへ向かい、トルドに会って参ります」

 

「うむ。あの馬鹿娘によろしく伝えておいてくれ」

 

 小さく頭を下げたカミュに、男性は優しい笑みを返す。口は悪いが、この男性も誰より娘を愛している事が解る表情であった。リーシャに手を引かれたメルエが、男性に向かって手を振る姿を見れば、この男性の持つ心の温かさが解るというものだ。

 鍛冶屋の家屋から出てみると、そこは既に通常の町の様子へと戻っていた。誰もカミュ達を気にする様子はなく、それがこの場所が大都市へと移り変わろうとしている事を示してる。それが良い事なのか、それとも悪い事なのかは解らない。ただ、この町を生み出し、育んで来た商人の願いが浸透している事だけは確かであった。

 宿屋にも、道具屋にも寄らず、一行はそのまま町の外へと出て行く。潜った門の上に掲げられた魔道士の杖を見上げた四人は、各々の胸に宿る想いに表情を変えた。

 何処か誇らしく、それでいて哀しげで寂しい。そんな杖の先に嵌め込まれた綺麗な石が、太陽の光を反射させ、一行を導く光を放っていた。

 

「よし! アリアハンへ向かうぞ」

 

「そうですね」

 

 胸の前で腕を組んで杖を見上げていたリーシャが、一つ息を吐き出して大きな声を上げる。何かを吹っ切るようでいて、何かを決意するような表情を見たサラも、笑みを浮かべて大きく頷きを返した。

 待機していたラーミアの背に乗り、徐々に離れて行く町を見下ろしながら、一行は遂に凱旋を果たす為の帰路に着く。多くの出会いを経て、多くの喜びと悲しみを経て、今の彼等は成り立っている。

その起点となったのは、辺境の島にある小さな国家。全てがそこから始まり、この四年の間、一度も戻る事のなかった場所へ、彼等は帰るのだ。

 

 

 

 カザーブという小さな村で生まれ、その小さな枠組みでは収まり切らない程の才覚に恵まれた商人は、己の才覚を過信した結果、生涯悔やみ続ける程の傷を心に負う事となる。だが、その決められたような運命は、一つの出会いによって大きく動き始めた。

 世界中の希望となる『勇者』との出会い。それは、朽ち果てて行くだけであった一人の商人の心の闇を打ち払い、再び希望と勇気を与える。胸の内に燻ぶり続けていた勇気の炎を燃え上がらせた商人は、自分の才覚を如何なく発揮し、後世に残る程の大都市を生み出した。

 その名は『ウィザードバーグ』。

 後の残る言い伝えには、この場所の創始者となった商人が、まるで魔術を使ったかのように町を生み出したとされている。人々が集まり、交易が開始され、後に世界中に広がる海の護衛団と単独で交渉し、その基盤を共に築いたとさえ云われていた。

 真相は定かではない。だが、その言い伝えの信憑性を高めるのが、この町の象徴ともなっている町章である。

 この世界を救ったとされる『勇者』に同道していた『魔法使い』から譲り受けたとされる魔道士の杖が、発展し続けて行く町を常に見守り続けていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
本当に短いお話になりますが、やはり前の話とは区別した方が良いと思い、二話に分けました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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アリアハン城②

 

 

 

 ウィザードバーグと名を変えた都市から離れた一行は、南東を目指す。ゆっくりと羽ばたく神鳥の羽毛に包まれた少女は、既に夢の中へと旅立っていた。

 いくら神鳥とはいえども、瞬間移動が出来る訳ではない。船で渡るよりも遥かに速い速度ではあるが、それでもアリアハンまでは数日掛かるだろう。先程まで最後の輝きを放っていた太陽は西の大地へと沈み、月明かりが降り注ぎ始めている。まもなく星々が輝く時間帯へと突入する事は明白であった。

 ルーラという移動呪文を行使する方法もあるが、それでも結局は移動する事に変わりは無く、無駄な魔法力を使用するよりも、ラーミアという神鳥の背で移動した方が合理的であるという判断なのだろう。

 

「カミュ、夜も更ける。ラーミアも休ませなければならないだろうし、一度何処かで野営をしよう」

 

「……わかった」

 

 景色の変化を感じ取ったリーシャが一度地上へ下りる事を提案し、カミュはそれに肯定を示す。最早、ラーミアはポルトガを越え、バハラタ近くの森の上を飛んでいた。着地場所を探すようにカミュが声を掛けると、一鳴きした後ゆっくりと高度を下げて行く。サイモンの亡骸が眠る島のある湖を越え、森の手前で着陸したラーミアは、自身の食料を探す為にもう一度大空へと舞い上がった。

 カミュ達がこの近くで野営するという事を理解しているのだろう。食事を終えれば、またこの場所に戻って来るであろう事を察したカミュとリーシャは、その付近で野営を行う為に準備を始めた。一人だけ、柔らかな羽毛から引き剥がされる事にぐずった少女がいた事は、また別の話である。

 

「先に休ませて貰いますね」

 

「ああ、この場所の魔物であれば、警戒する必要もないだろうが、火の番は私とカミュに任せてゆっくり休め」

 

 カミュとリーシャで狩って来た獲物や果物で食事を終えると、メルエは即座に眠りに就いてしまい、暫く後でサラもまたその傍に身を横たえる。リーシャの言葉通り、このバハラタ周辺に生息する魔物であれば、最早カミュ達の敵ではない。更に言えば、魔王バラモスの影響力が消滅した事により、余程の事がない限りは魔物に襲われるという事もないだろう。『腐った死体』のような、元々生命を持たない種類の魔物となれば尚更である。

 本来であれば、火の番など必要はないだろうが、それでもこれまでの習慣のようにカミュは焚き火に薪をくべ、リーシャは炎を見つめていた。

 

「……アリアハンまでは行くが、城下にはアンタ方だけで行ってくれ」

 

「なに?」

 

 暫くそうした静かな時間が流れた後、不意に開かれたカミュの口から発せられた言葉にリーシャは素で聞き返してしまう。それ程に意味が解らない言葉であり、全く予想もしていなかった言葉であったのだ。

 アリアハンへの帰還は、盛大に祝われる程の物である。それは英雄の帰還などとは比べ物にならない、真の勇者としての凱旋なのだ。誰も成し遂げられるとは考えていなかった程の偉業である、『魔王討伐』という使命を見事に果たした者の帰還は、世界中の生物の喜びと共に、それを送り出した者達の誇りとさえも成り得るもの。

 その場所に、その主役が戻らないと口にしたのだ。リーシャでなくとも、呆けて当然の事であっただろう。

 

「ま、待て! 何故だ!? 確かに、お前にとってアリアハンに良い思い出などないかもしれないが、魔王バラモスを討った今のお前であれば、それこそ国を動かす事の出来る力を持っているのだぞ?」

 

「……元々、あの国へ帰るつもりは無かった。戻った所で新たな制約が増えるだけだ」

 

 魔王バラモスを討伐したのは、カミュを含めて四人の功績ではあるが、世界中の人々が崇めるのは、その使命を受けた『勇者』である。魔王の消滅によって世界が劇的に変わるだろう。その時に誰よりも崇められるのは、それを命じた国王ではなく、それを成した『勇者』なのだ。

 カミュにとって忌まわしい過去しかないアリアハンではあるが、帰還すれば今まで彼を英雄の息子としてしか見ていなかった者達も、彼こそが『勇者』であると認めるだろう。それまでとは正反対の待遇が彼を待っているに違いない。リーシャは、そのような華々しい経験をカミュにもして欲しかった。

 だが、それに対して返された答えは、リーシャの胸に太い釘を突き刺す。『元々戻るつもりが無かった』という言葉は、リーシャの胸の奥で理解していた事柄であり、理解していて尚、蓋をして奥へ仕舞い込んでいた事であったのだ。

 

「こ、国王様への報告があるだろう!? お前にはその義務がある筈だぞ!」

 

 そして、リーシャの恐れていた事もまた、先程カミュが口にした事の一つであった。

 以前、ランシール近辺の森の中でサラと語り合った時に危惧された事柄。それは、魔王という強大な存在を討ち果たした者の力もまた、それ以上の脅威となりかねないという事実である。

 確かに、世界を恐怖で覆った『魔王バラモス』という存在は消滅した。だが、それを討ち果たした者というのは、それ以上の力を持っているという事を証明している。世界中を恐怖させる程の力よりも上位にある力。それは、力の無い者にとっては、脅威以外の何物でもないのだ。

 故にこそ、それを抑え、制御する為の制約が生まれて来る。彼を捨石とさえ考えていた可能性のある国家であれば、その者を牛耳る為に更なる強硬な制約を強いても不思議ではなかった。

 

「アリアハン国王への報告は、本来は騎士であるアンタの仕事の筈だ」

 

「ならば、お前はどうするつもりだ!?」

 

 国王への報告は、勇者であるカミュの義務であると同時に、それに同道する命を受けたリーシャの義務でもある。カミュが同席しないという事は本来許される事ではないが、魔王との戦闘によって受けた傷の療養中とでも言えば、それもまた許されるだろう。それ程に過酷な旅であった事は、彼女達が証明出来るからだ。

 だが、アリアハンに戻らないという事は、カミュが何処の国にも属さない存在となってしまう。それはアリアハン国家としても看過出来る物ではない。故にこそ、カミュはアリアハン国へ戻らなければならないという義務が生じるのだ。

 魔王を討ち果たす事さえも可能な者となれば、軍事的にも政治的にも人間社会では非常に危うい存在となる。その存在を所有する国家は、それだけの力を有する事となり、世界的な発言力も行動力も強くなるのは必然であろう。アリアハンとしても、それを他国に奪われる事だけは何としてでも避けたい筈だ。

 国家に属して来たリーシャという宮廷騎士は、その事をこの場にいる誰よりも理解している。だが、それでもこの青年を無理やりアリアハンへ連れて行く事だけは出来なかった。これだけの時間を共有して来た彼が、どれ程の苦しみと悲しみを味わって来たのかという事の一端を、彼女は見てしまっていたからだ。

 故に問い掛ける。

 何処へ向かうのかと。

 

「さぁな」

 

 だが、それに対して、明確な答えは何一つ返って来る事は無かった。視線を外すように焚き火の炎へと瞳を向けた彼は、静かに薪を炎へと入れて行く。薪に残る水分が炎の中で弾け、乾いた音が夜空へと響き渡った。

 二人の会話はこれ以上進む事はない。リーシャには言いたい事が数多くはあった筈であるが、それでもその口が再び開かれる事はなかった。

 

 

 

 朝陽が昇り、朝食を取った一行は、待機していたラーミアの背に乗り、再び大空へと舞い上がる。魔王の放っていた瘴気からの開放を喜ぶように空一面は晴れ渡り、勇者達の新たな門出を祝っているようにさえ感じる物であった。

 だが、その中でも沈痛の面持ちのまま一言も口を開かない女性戦士の姿は、彼女の抱える悩みや苦しみを知らないサラとメルエにとって、とても不思議な物に見える。時折真っ青な空を見上げ、一つ息を吐き出しては遠くを見つめる彼女の姿は、悲壮感さえも漂う程に寂しい物だった。

 

「……アリアハンが見えて来ました」

 

「…………アリ……アハン…………」

 

 広く青い海が途切れ、懐かしい村が見えて来る。自然と溢れ出す涙は、彼女達が歩んで来た長い道程の全てを洗い流す想いなのかもしれない。感慨深そうに下を見つめるサラの横で、初めて見る大陸に首を傾げ、メルエがその名を反芻していた。

 レーベという村を越え、瞬く間にラーミアは『ナジミの塔』の上空に達する。その景色を見ていたリーシャとサラの頭に、四年以上前の出来事が鮮明に思い出されていた。

 アリアハン城下町を旅立つ時の数多くの声援は、今もリーシャの心に残っている。二人を見送る大勢の人間達の中を必死に掻い潜り、ようやく城下を出た時の景色をサラは今でも鮮明に思い出せる。

 

『どうぞ、このサラも、勇者様の旅へ同道する事をお認めください』

 

 息を切らして追い付いた先で叫んだ言葉は、リーシャの耳にもサラの耳にも残っている。その後顔を上げた時に見た、背筋が凍る程に冷たい視線は、今もサラの心に恐怖の欠片を残していた。

 何一つ噛み合う事のない三人の旅は、この小さな島国から始まったのだ。踏み出した事の無い外の世界に戸惑いながらも期待に胸を膨らませていたサラが、アリアハン城下町を出て直ぐに絶望を味わう事になったのも、今では懐かしい思い出である。

 自分が何故アリアハンという国を出される事になったのかという事を突きつけられたのは、ナジミの塔がある小島に近い森の中であった事をリーシャは思い出す。言い返す事の出来ない悔しさと、自分でも何処か察していた事を指摘された事による絶望。それは今まで感じた事の無い感覚であり、前後不覚になる程の衝撃であった。

 

『最後にお主達のような若い希望の力になれた……』

 

 ナジミの塔とレーベの村に居た二人の老兄弟が揃って口にした言葉である。あの頃のサラには、この言葉の持つ重みと哀しみ、そして喜びと望みを正確に理解する事は出来なかった。

 今のサラにはそれが痛い程に理解出来る。あの二人の老人は、決して生を諦めた訳ではない。だが、死を真っ直ぐに受け入れたのだ。まるで、バラモスを討ち果たした時のカミュのように、その命の灯火が消え去るという事実を受け入れ、抗う事を止めた。

 哀しく、苦しい時間は長く辛い物だっただろう。だが、あの時の二人には、それさえも懐かしい思い出として振り返る事の出来る心が宿っていたのかもしれない。

 

『……私は、カミュ様の言葉を否定する事が出来ません』

 

 その時に感じた苦しみと悩みは、その先の旅の中で彼女の頭と心に残り続ける。何度も悩み、何度も苦しみ、何度も嘆き、何度も泣いた。何度も倒れたし、何度も救いを求めた。だが、一度たりとも、その時に感じた疑問を解決出来るような答えが与えられる事はなかったのだ。

 それでも、その女性は『賢者』となる。世界を救うと謳われる『勇者』と対を成す存在であり、『勇者』が取りこぼす『人』という種族を救う存在として。彼女ほど、自身の存在とこの世界の理について悩んだ『僧侶』はいないだろう。彼女ほど、精霊ルビスという存在を信じながらも、この世界の『人』の中で広まる教えに疑問を持った『僧侶』はいないだろう。

 その全ての始まりは、レーベの村を二度目に訪れたあの夜なのかもしれない。

 

「……アリアハン城だな」

 

 それぞれの胸に各々の想いを抱きながらも、遠い過去にあった出来事のように思い出に浸っている内に、ラーミアはこの大陸の王のいる城の上空に辿り着く。四年以上も前に出た頃と全く変わりなく、城はそこに存在していた。

 城下町へと続く門は固く閉ざされているが、上空から見た城下町の活気は、リーシャが生まれてから一度も見た事のない程の物である。町は活気に溢れ、色とりどりの衣服が町中を回っていた。煌くようなその輝きが、太陽の光を反射し、鮮やかな色合いを醸し出している。

 アリアハン城に掲げられている国旗は、風に身を任せて悠然と揺れており、抜けるような青空に映えていた。

 全ての物が懐かしく、それでいて遠い過去に見た物のように新鮮に映る。徐々に近づく城の景色は、郷愁の思いに駆られるリーシャとサラの胸を強烈に締め付けていた。

 

「……帰って来る事が出来たのだな」

 

「は、はい……生きて戻る事が出来ました」

 

 着地したラーミアの背から降りたリーシャは、目の前で閉ざされた大きな門を見上げて瞳を潤ませる。既に大粒の涙を溢し始めていたサラは、何度もその言葉に頷きを返し、咽ぶように言葉を漏らしていた。

 どれ程に苦しい時間を過ごしていようと、彼女達二人にとってはこのアリアハンこそが故郷なのだ。生国であり、育ててくれた国である。それは、長い時間を掛けて培われた物であり、どれ程の濃い時間を他所で過ごしたとしても、その想いだけは変わらない。

 そんな二人の感動の時間は、意外な程に早く終幕を迎える。

 

「……もう、会う事もないだろう」

 

「え!?」

 

 リーシャとサラの背中に掛けられた言葉は、とても短く、とても小さかった。サラが驚いて後方を振り返った時には、それを発した青年はラーミアの背に乗り、飛び立つように指示を出す。サラの隣には何かを諦めたような表情をしたリーシャがおり、哀しみを帯びた瞳は、傍にいた筈の少女の背中へ向けられていた。

 急にカミュがラーミアの背に乗った事で、置いて行かれると感じたメルエは、それを追うようにラーミアの背に手を伸ばす。だが、既に浮かび上がった霊鳥の羽毛にはメルエの幼い手は届かず、泣きそうな顔を浮かべた。

 

「馬鹿者! メルエを連れて行ってやれ!」

 

 その声は誰に向けられた者であろう。涙で擦れたような大声に、浮かび上がったラーミアの首が動く。メルエが纏う天使のローブを嘴で挟んだラーミアは、そのまま幼い少女の身体を背中へと降ろして上空へと飛び上がった。

 一瞬の出来事に目を奪われていたサラは、既に遥か上空へと舞い上がってしまったラーミアの姿に我に返る。このような結末は彼女の想像の枠を遥かに超えていた。世界の脅威であった諸悪の根源を討ち果たし、全ての生物の平和を勝ち取った勇者がその功績を讃えられる事無く行方をくらませるなど、到底考えられる話ではない。それこそ、アリアハン国家としても世界に顔向け出来ない程の失態となる筈だ。

 そのような状況にも拘らず、リーシャは何も口にする事もなく、遠ざかるラーミアの影を追っている。それがサラには不思議でならなかった。

 以前のリーシャであれば、カミュの行動を何が何でも止めたであろう。アリアハンという国家に仕える宮廷騎士でもある彼女にはアリアハン国としての面子を護る義務がある。魔王バラモスを討ち果たした勇者と共に、アリアハン国王に拝謁し、その栄誉を賜るという願いもあっただろう。

 だが、寂しげな瞳を空へと向ける女性騎士は、その逃亡にも近い勇者の行動を黙認したのだ。

 

「よろしかったのですか?」

 

「……ん? 何を言っても無駄だろう。カミュは十分に苦しんだ。もうそろそろ、自由にしてやっても良い筈だ。それに……メルエがカミュを選ぶ事も解っていた事だからな」

 

 一騎士が判断して良い事柄ではない。だが、彼女は敢えてそれを犯した。その心にある想いはサラには解らない。それはきっと、アリアハン城の謁見の間から共に旅をして来たリーシャにしか解らない想いなのだろう。

 勇者もおらず、共に戦った魔法使いもいない。そのような状況で、サラがアリアハン国王に拝謁する事は出来ず、必然的にリーシャ一人での謁見となるのだろう。その時、この騎士がどれ程の叱責を受けるのかはサラにも解らない。もしかすると、魔王バラモスの討伐という偉業さえも打ち消してしまう程の罰を科せられるかもしれない。

 それでも、この決断をしたリーシャに対して、サラが口に出来る言葉は何一つなかった。

 

「サラ、城下に入るぞ」

 

「は、はい!」

 

 ラーミアの影が遠く北の彼方へ消えて行った頃、ようやくリーシャは門へと向き直る。大きな城門の脇にある勝手口に取り付けられた窓を叩き、中にいるであろう門番へ合図を出したリーシャの言葉で、サラはその後を追って歩き出した。

 小窓から顔を出した男の顔は、長くアリアハンで生活していたリーシャやサラも驚く程に穏やかで晴れやかな物であり、それが今のアリアハン国を明確に現している。門番としての職務は、余計な発言をする必要はない。訪れた者の素性を確認し、それが国にとって危険な者でなければ門を通すという単純な物。だが、訪れた者が起こす行動の良し悪しによって、門番である者に責任が及ぶという重い仕事でもある。

 

「宮廷騎士のリーシャ・デ・ランドルフだ。この度、勅命である魔王討伐を果たし、帰還した」

 

「なっ!? も、申し訳ございません! すぐに門をお開け致します!」

 

 宮廷騎士リーシャ・デ・ランドルフ。

 その名は、四年前であればこのアリアハンで知る者など限られていた筈。貴族とはいえ、最下級に位置する家名である。アリアハン城下町でその名を知る者は彼女が懇意にしていた者達だけであろうし、アリアハン国で宮仕えしている者達の中でもそれ程名が通っていた訳ではない。貴族達の中で、彼女の持つ才能と力に嫉妬の感情を持っていた者達ならば別であるが、有象無象の騎士の一人と考える者達も多かっただろう。

 だが、この門番の慌てようから察するに、彼の瞳は英雄を見るように輝き、その対応を自分がしている事に感動さえ覚えているように見えた。

 今の城下を見る限り、魔王の消滅という状況が伝わっているようにさえ感じる。確かにカミュ達は、直接この国へ戻った訳ではなく、全世界にルーラを使用した情報が行き渡っても可笑しくはない時間が流れてはいた。だが、その情報の出所は一体何処であるかという事だけが、サラの胸に大きな疑問として残る事となる。

 

「アリアハンへよくぞお帰りなさいました! 魔王バラモスの討伐の報は、既にこの国にも届いております!」

 

「……そうか」

 

 巨大な門が開き、徐々に見えて来るアリアハン城下町は歓喜に満ちていた。誰もが笑みを絶やす事無く、笑い声と歓声が溢れている。ゆっくりとその中へと入ったリーシャとサラを歓迎するように、先程の門番が口を開いた。

 リーシャの表情は、横にいるサラが今まで見た事のない物。それは、彼女の職業である宮廷騎士としての顔なのかもしれないが、サラの好きなリーシャの顔ではなかった。

 門番とリーシャの会話に口を挟む事の出来ないサラは、四年ぶりに戻った故郷の町の光景に目を細める。何もかもが懐かしく、それでいて何処か寂しく感じるのは、彼女がこの世界にある全ての国と町や村を訪れているからなのかもしれない。

 この小さな島国が彼女の全てであったあの頃、雄大であり威厳に満ちた町だと思っていたこの城下町が、今は何故か小さく見える。この城下町を出た時のサラの年齢は十七。四年経過した今もその頃と身長は変わらない。視点は変化していないが、彼女の視野が変わったのだろう。

 

「……勇者カミュ様はどちらに?」

 

「ん? ああ……」

 

 門番はサラを一瞥すると、リーシャの後方に誰もいない事に気付く。魔王討伐という命を受け、この城下町を大々的に旅立った者は、今リーシャの横にいる女性ではない。それは、このアリアハン国の国民全員が帰還を待ち侘びている『勇者』という存在なのだ。

 勇者カミュは、英雄オルテガの息子であると共に、彼らと同じアリアハン国民である。城下町の外れにある一軒家で十数年を過ごしていた彼は、父親の名声の影響もあって、町民達全員に顔を知られていた。故にこそ、この名誉ある凱旋に彼がいない事に不審を抱いたのだろう。

 

「し、失礼致しました! さぁ、早くお城へ。国王様もお喜びになっておられます」

 

「……ああ」

 

 門番とはいえ、その責務は重い。人の表情や雰囲気を見て入国の審査をするのである。リーシャの表情と、口ごもる姿を見た彼は、ある一つの想像を巡らせた。

 それは、魔王バラモスとの戦闘で、勇者カミュは名誉の死を遂げたのではないかという勝手な想像。誰もが恐れ、世界中を恐怖に陥れる程の存在との戦闘は、彼らのような一般人には想像さえも難しい。如何に勇者といえども、無傷で勝利を捥ぎ取る事など出来ない筈だ。そう感じていた彼は、相討ちという最期を持って、勇者がこの世に平和を齎したのだと考えた。

 それは、勝手な妄想ではあるが、現状のリーシャ達の状況から考えれば、否定する必要性を感じない物である。勇者がこの国に戻らないという事実よりも、『死』とされた方が、カミュの今後の生活にも影響は少ないだろう。

 

「お疲れ様でした! そしてありがとうございました!」

 

「これで……これで平和がやって来るのじゃな」

 

 王城へと歩く途中、リーシャとサラは道々で彼女達を見ている者達の言葉に耳を傾ける。その全てが喜びと感謝に満ちており、騎士として悠然と歩くリーシャの横で歩くサラは、気恥ずかしく居心地の悪い想いを抱いていた。

 俯いて歩くサラは、自分の記憶に残る十字架の影が地面に映りこんだ事で顔を上げる。そこに祀られたルビス像が、胸の前で手を合わせ、静かな微笑を湛えていた。そして、そんな教会の開かれた門の前で立っていた一人の男性を見た彼女は、瞬時に溢れ出す涙に視界を歪ませる。

 

「国王様への報告は私がする。サラは、待ってくれている人の許へ戻れ」

 

「……はい!」

 

 元々、サラという『僧侶』は国王から使命を受けた者ではない。カミュが旅立つ時に『仲間を集めよ』という言葉を国王から賜っていたが、アリアハン城下町にある酒場にカミュが訪れる事がなかった事など、既に耳に入っている筈だ。

 そうであれば、如何に魔王バラモスを討伐したとはいえ、サラが国王に謁見しなければならないという義務はない。サラが名声を欲しているのであれば、リーシャは強引にでも謁見の間に彼女を連れて行っただろうが、今の彼女にその欲がない事を誰よりもリーシャは心得ていた。

 サラという賢者の目指す物を現実とする為には、ある程度の名声と権威が必要となるのかもしれないが、それを彼女達が実感するのはもう少し先の事となる。

 

「よく戻りましたね、サラ。ルビス様も、貴女のその努力を褒めて下さる事でしょう」

 

「……神父様」

 

 リーシャの方に振り返りながらも教会に辿り着いたサラは、涙混じりに自分を抱き締める年老いた神父の背中へと手を回す。娘の身を案じていたように暖かなその愛情は、久しくそれを感じていなかったサラの心へと素直に浸透して行った。

 サラは既に一僧侶ではない。それこそ、この年老いた神父達の遥か高みに立つ『賢者』である。だが、その事を彼女は口にしないだろう。ようやく訪れた平和の中で、波風を立てる事を彼女は嫌う筈だからである。

 だが、それは彼女が『賢者』である限り、長くは続かないだろう。そんな一抹の哀しみを感じながら、リーシャは義理の親子の再会を眺め、再び歩き出した。

 

「騎士様、ご無礼を承知でお尋ねしたい事が……」

 

 既にサラから視線を外し、アリアハン城へと続く橋を視界に入れた頃、リーシャは不意に横合いから声を掛けられる。リーシャが騎士である事に遠慮した言葉ではあるが、それはリーシャの拒否を受け付けない程の強制力を感じる問い掛けであった。

 視線を移したリーシャの瞳が見開かれる。

 そこに立っていたのは、その存在を知りながらも、リーシャでさえ言葉を交わした事のない相手であり、このアリアハン城下町で一番名の通っている人間であった。

 

「息子は……カミュは魔王バラモスを打ち倒す事が出来たのでしょうか?」

 

 英雄オルテガの妻ニーナである。

 世界中に名が通り、アリアハン国民の憧れともなっている英雄の妻となり、若くして一人息子の母となった者。今や、英雄オルテガの妻であり、勇者カミュの母という名声を持つ女性であったのだ。

 胸に手を合わせ、不安に眉を下げながらリーシャに問い掛けるその姿は、一人息子の身を案じているようにも見えながら、何処かそうではない雰囲気を醸し出している。その不思議な感覚が何なのかが理解出来ないリーシャであったが、それでもこの問い掛けにはしっかりと答えなければならない義務が彼女にはあった。

 

「はい。カミュは、その手で魔王バラモスの首を落とし、見事討ち果たしました」

 

「ああ……やはり、オルテガ様はカミュを見守って下さっていたのですね」

 

 胸を張り、自分と共に命を賭して戦った勇者の勇姿を真っ直ぐに伝えたリーシャは、その言葉を聞いたニーナの言葉で、朧気ながらも自分が感じた不思議な感覚の理由に気が付く。しかし、それはここで決め付ける事の出来るような問題ではない。故に、リーシャはこの妙齢の女性ともう一度言葉を交わそうと口を開く。

 うっとりと何処かに意識を放ってしまっているニーナは、胸の前で手を合わせながら空を仰ぎ見ていた。

 

「ニーナ様、大変申し訳ありません。カミュはここへは戻っていません」

 

「え? ま、まさか……」

 

 苦々しく表情を顰めたリーシャの言葉は、意識を飛ばしていたニーナの脳へ直接響き、目を見開いたまま視線を動かす。

 魔王討伐という偉業を成し遂げて尚、生国であるアリアハンへ彼が戻って来ないという事は、一般的な想像力を持つ者ならば『死』を連想させるのは必然である。それはこの母親も同様であり、半開きのままになっている唇は微かに震え、リーシャの言葉を聞き漏らすまいとその瞳を固定させていた。

 そんなニーナの姿に安堵の溜息を漏らしたリーシャは、ゆっくりと口を開く。

 

「いえ……カミュは生きております。ですが、この国に戻る事はありません」

 

「……そうですか。ですが、何処にいても、オルテガ様がカミュを護って下さいます」

 

 ニーナの返答を聞いたリーシャは、自分の中にあった違和感が確信に変わった事を知る。そして、哀しげにニーナを見つめ、小さく頭を下げた後、アリアハン城へと続く橋を渡り始めた。

 知らずに溢れる涙は、誰を思っての物だろう。自分の瞳から流れる涙に気付いたリーシャは、青く澄んだ空を見上げ、何処かでこの空の上を飛んでいるであろう青年を思う。彼が何故、あれ程までにここを嫌うのか、そしてレーベの村で宿屋の義理の息子に向かって語った内容が何から来ていたのかを彼女はようやく理解したのだ。

 オルテガの妻であるニーナは、既に三十路を半ば越えて尚、オルテガの妻であり続けているのだろう。確かに、彼女は息子であるカミュを愛している事に変わりはない。それは絶対に揺るがない事実であり、どれ程にカミュに対して厳しい態度を取っていても、心の底から息子を愛していた。

 カミュの祖父であるオルテナという老人は、己の息子の不名誉な汚名を返上するという目標を持ち、孫を厳しく鍛える為に非人道的な行為を行っていたのかもしれないが、その横でこの母親は口を挟めなかっただけなのかもしれない。だが、幼い少年にとっては、手を差し伸べてくれない者もまた、自分を虐げる者に映っていたとしても責める事は出来ないだろう。

 

「カミュ……今、お前の傍にいる少女は、お前という存在だけをしっかりと見つめてくれている筈だぞ……」

 

 オルテガの妻であるニーナにとって、カミュは自身の息子という前に、英雄オルテガの息子という面が強かった。自分の腹を痛めて産んだ息子ではあるが、彼女は息子を産んで尚、オルテガにとっての女性であろうとしていたのだ。それは、彼女が未だに自身の夫の名に敬称をつけている事からも窺える。

 若くしてオルテガに嫁ぎ、二十歳になる前に母となったニーナは、恋する夫への愛情を捨て切る事は出来ず、息子に対しての愛情も歪めてしまったのだろう。それは、オルテガの死という、何よりも辛い報によって加速して行き、息子の姿に恋する夫の姿を見てしまっていた。

 カミュが己の力で何かを成したとしても、『オルテガ様が護っていたから』と言われれば、その努力も覚悟も無に帰してしまう。『オルテガ様であったら……』、『オルテガ様のように』と言われ続けるという事は、子供の立場から見れば、自身を見てくれていないと感じてしまっても仕方のない事であろう。

 それを彼は十六年間感じ続けて来たのだ。それは、祖父や母親の本当の心とは異なる事だったのかもしれないが、それでもそれを受け続けて来た彼にとって、自分を見てくれない者達を『親』と認識する事が出来なくなってしまったとしても誰もそれを否定する事は出来ないだろう。

 

「国王様にお取次ぎを」

 

「はっ! 暫しお待ち下さい」

 

 アリアハン城門に辿り着いたリーシャは溢れる涙を拭い、城門を護る門兵に口上を述べる。英雄となった女性騎士の涙を勘違いした門兵は感極まったように涙ぐみ、即座に城へ取次ぎに戻った。

 そんな兵士の後姿を見ながらも、リーシャは再びカミュの過去について想いを馳せる。

 カミュの心を覆う闇、そして背中に残る不恰好な傷、そしてカミュがメルエに対して口にした暗い過去。その全てはカミュの視点からの物であり、全てが真実という訳ではない。擦れ違いや掛け違いがあったとはいえ、カミュが受けて来た苦痛や悲しみは消える事はないだろう。そして、カミュの持つ憎しみが失せる事もない。だが、彼が愛されていたという事実もまた、変えようのない事実であるのだ。

 オルテガの息子として母親から見られてはいても、その根底にあるのは愛情である。彼の身を案じて作られたサークレットには、彼の身代わりになるように『命の石』が嵌め込まれていた。彼が戻らない事を伝えたリーシャに向けたニーナの顔は、誰が何と言おうと息子を想う母親の顔であった。

 だが、その全ては伝わらない。

 それも、永遠にだ。

 

「哀しいな……。お前が持つ憎しみも、お前が持つ悲しみも、誰にも届きはしないんだ。だが、お前を想う者の暖かな愛情も、お前の生存を喜ぶ表情も、お前には届かないのだな」

 

 門兵が戻るまでの間、リーシャは再び涙を溢す。

 哀しい生き方しか出来なかった、誰よりも優しい青年を想いながら。

 誰が悪で、誰が正義など、誰にも決める事は出来ない。カミュから見れば、この世界に生きる全ての人間が悪に映るだろう。幼い内に荒くれ者達が多い討伐隊に放り込まれた彼が経験した苦痛は、想像も難しい。何度も死を経験し、それでも死を許されず、そしてそれを護るべき存在である親は自分を見ていない。

 彼の逃げ場は何処にあったというのだろう。

 彼の心の安らぎは何処に求めるべきだったのだろう。

 

「お待たせ致しました。国王様がお待ちです」

 

「うむ」

 

 カミュが魔王バラモスの討伐に成功した今となっては、彼の祖父の厳しい行いも正当化されてしまう。『幼い頃から厳しく鍛錬を行っていたからこそ、勇者は魔王を倒せた』と言われれば、それを否定出来る者は誰一人としていないのだ。

 『魔王バラモスを討ち果たし、英雄オルテガの無念を息子が晴らした』というカミュの感情を無視した噂は飛ぶように世界へと広まるだろう。そして、その影には『英雄オルテガが天から勇者を護っていたのだ』という噂も付いて来る。

 カミュという青年がこのアリアハンへ戻り、祖父や母親と向き合わない限り、彼が持つ恨みも憎しみも永遠に残り続けるのだ。そして、それは母親側も同じであり、どれ程に息子を愛していたかという事を伝える事は出来ず、この親子は永遠に分かり合う事はない。

 それは親の本当の愛を知るリーシャにとって、哀しみ以外の何物でもなかった。

 

「お帰りなさいませ」

 

「よくぞ戻られた」

 

 謁見の間に向かう廊下を歩くリーシャに、数多くの言葉が掛かる。宮廷で働く侍女や、文官達も丁重に女性騎士の帰還を祝福する。そのような中、不意に感じた鋭い視線に気付いたリーシャは、そちらの方へと視線を動かした。

 そこには『いざないの洞窟』で会った上級貴族の騎士が立っていた。視線を向けて直ぐには最早名前さえも出て来ず、咄嗟に誰であったのかさえも解らなかったリーシャではあったが、その騎士が向けて来る敵意のある視線で、ようやく誰であったのかを思い出す。

 親の七光りで宮廷の地位を得た者から見れば、勇者と共に旅立ち、四年の月日を経て魔王を討ち果たした女性騎士に集まる視線が憎らしかったのだろう。羨望も高まれば憎悪になる。もはや憎しみに近い視線を送って来るその男の視線に気付きながらも、リーシャは軽い溜息を吐き出して無視する事にした。

 あの頃、躍起になって自分の力を認めて貰おうとした女性騎士はここにはいない。今や、このアリアハン国にいるどの騎士よりも高い戦闘能力を持ち、それこそ一部隊が相手でも殲滅出来るだけの経験を積んだ彼女にとって、一騎士の妬みなど気にする必要もない些事であったのだ。

 

「……良い気なもんだな。魔王を倒した英雄様は、いつの間にか貴族の位も上がるのか?」

 

 だが、無視をされた貴族にとっては、些事で済ます事の出来る物ではない。

 どれだけ強大な敵を討ち果たした者だとしても、どれだけの偉業を成した者だとしても、狭い箱庭から出た事のない者から見れば、現実味のない物なのだ。故にこそ、その力関係も、立ち位置も昔のままだと錯覚する。

 アリアハンという小さな国しか知らない彼にとって、リーシャという女性騎士は下級貴族に他ならず、貴族の地位という物しか誇る物を持たない彼は、それに縋るしかないのだ。

 だが、現実は箱庭に降り注ぐ太陽ほど優しくはない。

 

「……ひっ! 勇者やお前など、いずれ俺の指揮下に入れて貰い、捨て駒にしてやる」

 

 無言の圧力を受けた男は瞬時に硬直する。しかし、無意識に威圧的な空気を作ってしまった事を恥じたリーシャがそれを押さえ込むと、男は喚くように言葉を吐き捨てた。

 既に城の中でも貴族しか入る事の出来ない領域に入っていた為、周囲に人は少ない。故に彼を咎める者もおらず、彼を諌める者もいなかったのだ。それが彼の勘違いを更に強くさせる。

 魔王という諸悪の根源を打ち倒す程の力を有した者を御しきれる訳がない。そして、それ程に貴重な力を有した者達を一貴族の指揮下に入れる訳もない。だが、常に自分の思い通りに生きて来た彼には、大半の望みは権力を通して可能であったのだろう。

 だからこそ、先程と全く異なる雰囲気になっているリーシャに気付かなかった。

 

「……宮廷を血で汚す訳にはいかないな。だが、この世に未練がないのならば、いつでも相手になろう」

 

 一瞬の怒気を受けただけで、彼の腰は砕ける。へたり込むように座り込んだ上級貴族の股から暖かな液体が零れ始めた。四年もの間、強力な魔物と戦い続けて来た者がその腕を振れば、自分などの命は容易く消し飛ばされる事をようやく理解したのだ。

 そんな哀れな男の姿を見たリーシャは、自分を諌めるように首を数度振り、再び謁見の間への道を歩み始める。そして、この程度の者達の妬みに負けた過去の自分を情けなく思うのだった。

 この男がカミュと共に旅に出ていたら、間違いなくアリアハン大陸を出る事は出来なかっただろう。戦闘技術も然る事ながら、その無駄な誇りが邪魔をし、最悪カミュに斬り殺されていたかもしれない。

 宮廷貴族もこれ程に腐った者達ばかりではないが、大なり小なり貴族としての誇りを持っている。それは、この宮廷で生きる為には必要不可欠なものではあるが、カミュやサラやメルエという個性の強い者達と旅をする上では、これ以上に邪魔になる物などないだろう。

 そこまで考えて、リーシャは自身が貴族である事への顕示欲がない事に気付く。騎士としての誇りはある。父が残してくれた家名への誇りもある。だが、下級貴族へ落ちた家名を再び上げようという願いはあったが、それを他者へ誇示しようという思いはなかった。

 もしかすると、それが勇者への同道の理由だったのかもしれないと思った所で、謁見の間へ続く扉の前へと辿り着く。

 

「宮廷騎士リーシャ・デ・ランドルフ様、ご帰還されました!」

 

「お通ししろ!」

 

 扉を護る兵士が、名乗りを上げるように声を張り上げ、それに応えるように中から声が響いた。ゆっくりと開かれる扉の向こうに見えてきた玉座には、懐かしきアリアハン国王の姿が見える。その横には大臣だけではなく、数多くの役人達が並び、リーシャ一人だけの帰還を待ち侘びていた。

 一歩一歩踏み締めるように赤絨毯を歩き、リーシャは玉座へと進み出る。その身に纏う『大地の鎧』はこの場にいる誰もが見た事のない輝きを放ち、その背に背負う『魔神の斧』は誰もが腰を引いてしまう程の威圧感を放っていた。

 それこそが魔王バラモスという存在を打ち倒す事の出来る程の力量を持つ者である事を明確に示す物である。誰も見た事のない武器や防具を持ち、鍛え抜かれた肉体と、試練を乗り越え続けて来た精神が放つ空気は、その姿を見た者達の息さえも止めてしまう程に凄まじかった。

 

「よくぞ、戻った!」

 

「はっ」

 

 玉座から少し離れた場所へリーシャが跪くのを待っていたように、アリアハン国王の声が広い謁見の間に響き渡る。顔を上げる事無くもう一度頭を下げたリーシャの声に、国王は満足そうに頷きを返し、一つ息を吐き出した。

 魔王バラモスの討伐の報は、既に国王の許へも届いている。誰がそれを成したかなど火を見るよりも明らかであり、英雄オルテガの死後に魔王討伐へ旅立った人間はアリアハンから出立した勇者と女性戦士しかいない。そして、ここにその女性戦士が戻って来たという事実が、魔王バラモスの消滅という事実を証明していた。

 それは全世界の喜びであり、アリアハン国の誇りである。

 

「よくぞ魔王バラモスを打ち倒した! 流石は英雄オルテガの息子である。国中の、いや世界中の者達が勇者カミュを讃えるだろう」

 

「はっ」

 

 国王の顔に一瞬の苦悩が浮かぶ。しかし、即座にそれは笑みと変わり、その偉業とそれを成した者を讃える言葉を送った。静かに聞き入るリーシャは、赤い絨毯を見つめながら、ここには居ない三人の仲間達の顔を思い浮かべる。

 不愉快そうに眉を顰める『勇者』

 過分な程に恐縮し、身を震わせる『賢者』

 何故自分が頭を下げているのかも理解出来ずに不思議そうに首を傾げる『魔法使い』

 その全ての者達の表情が鮮明に浮かび、リーシャの頬は無意識に緩んだ。魔王バラモスの討伐という偉業は、彼等三人が居たからこそ成しえた物である。カミュとリーシャという二人では到底成しえなかった物であり、そこにサラが加わっただけでも成しえなかった物。

 運命のように、そして奇跡のように集まったこの四人でなければ成す事の出来なかった偉業は、ようやく認められる。願わくば、この場に全員が揃っていればと思うリーシャであったが、その思考は国王から掛かった次の言葉で霧散した。

 

「面を上げよ!」

 

 ゆっくりを顔を上げたリーシャが見た国王の表情は何処か晴れやかであり、何処か寂しげであった。それがリーシャには不思議な光景に映るが、それを問い掛ける事など出来はしない。目の前で自分を見つめる者は、このアリアハン国を治める国王であり、リーシャという女性騎士にとっての主となる者であるのだ。

 

「……して、カミュは戻らぬか……」

 

「!!……御意……」

 

 薄い笑みを浮かべた国王は、小さく呟くような問いを投げかける。その声にリーシャの身体は小さく跳ね、国王の問い掛けに肯定を示した。

 まるでその事を予想していたような国王の言葉はリーシャにとって予想外の物であり、それを察していて尚、これ程穏やかな表情を浮かべる国王の真意が理解出来ない。だが、国王の胸の内を邪推するなど、臣下としてあってはならない物であり、リーシャはそれ以上思考する事を止めてしまった。

 ただ、国王は静かに瞳を閉じ、小さく息を吐き出す。それを見た大臣や他の役人達は、それぞれに勝手な妄想を始めるのだ。

 

「……苦労を掛けたな……今はゆるりと休むが良い」

 

 天井へ視線を移した国王の言葉が、皆の想像に決定打を打つ。

 それは、勇者の『死』。

 魔王バラモスを打ち倒す事に全てを賭し、全てを失った勇者は、この瞬間にアリアハン国にて生み出されたのだ。

 

「……国王様」

 

「良い、何も申すな」

 

 それがアリアハン城下町で暮らす者達であればリーシャは何も言わない。その勘違いを訂正する事はないし、それをする必要性も感じはしなかった。だが、それが自分が仕える主となれば話は別である。国王を欺く事は一騎士として出来る物ではない。故に、彼女はその身に罰が下る事を承知で口を開こうとする。

 しかし、その言葉は始まる前に遮られた。

 遮る声の主は、この国の頂点に立つ王。不敬と知りながらもその瞳を真っ直ぐに見てしまったリーシャは、その瞳の奥に真実を見る。

 『国王様は全てを理解していらっしゃる』と。

 

「さぁ、皆の者、ここには無い者達と共に祝おうぞ! 祝いの宴じゃ!」

 

 魔王バラモス台頭から数十年。その苦しく長い時間の間にこの世を去った者達は数知れず。誰もが苦しみ、誰もが哀しみ、誰もが涙した。その長い道程があればこそ、今この喜びと平和があるのだ。

 国王の宣言を機に、謁見の間に歓声が沸く。全員が喜びの声をあげ、喜びの涙を流す。隣の者達と抱き合い、己の生と友の生を喜び合った。それは、このアリアハン国だけではなく、全世界で生きる者達が待ち侘びた瞬間である。

 だが、謁見の間の内部を警護する兵士が宴の準備のために侍女を呼ぼうと扉に手を掛けた時、その短い歓喜の時間が暗転した。

 

「ぎゃぁぁぁぁ!」

 

 謁見の間の後方から響き渡った悲鳴に全員が振り返る。しかし、その場には先程悲鳴を上げた者の姿はなく、立ち上る黒煙と焦げ臭い臭いが謁見の間に広がり始めていた。

 それは、先程までその場所に居た筈の兵士の消滅を意味している。その意味がこの場にいる者全てに理解出来ない。しかし、それは周囲を覆うように出現した闇が答える事となる。

 突如現れた闇は、リーシャの周りに居た兵士達を次々と飲み込んで行き、その身体も心も魂さえもこの世から消滅させて行く。それは正に地獄絵図であった。

 誰しもがその闇の正体を理解出来る者はおらず、目の前で完全に消滅する兵士達の姿に本能的な恐怖を植え付けられる。植え付けられた恐怖のよって身は竦み、制御下を離れた身体は全く動かす事が出来ない。役人の一人がこの世から消え去った時、ようやくこの状況を打開出来る唯一の人間が我に返った。

 

「おりゃぁぁ!」

 

 跪く際に、利き腕とは逆側に置かれていた禍々しい斧を取り、アリアハン国王にまで手を伸ばそうとする闇に向かってそれを振り下ろす。世界最高位に立つ戦士の一撃が、国王の傍に広がった闇を霧散させ、危機的な状況を打開したのだ。

 そのまま国王を護るように武器を構えた彼女は、周囲で腰を抜かす役人達の周囲に再び闇が出現するのではと注意深く謁見の間を見渡す。しかし、それ以上は人を飲み込む程の闇が出現する事はなく、その代わりに謁見の間全体が夜のような闇の帳が下りて来た。

 先程兵士達を飲み込む闇が出現した時、直ぐには気付かなかったリーシャではあったが、その闇がバラモス城にて魔王バラモスを飲み込んだ物と同一である事を理解した時、瞬時に気持ちを切り替え、『騎士』の顔から『戦士』の物へと変化させていた。

 

『ふははははははっ』

 

 そして、隣にいる人間の表情さえも明確に見えない暗闇の中で、地の底から響くような巨大な笑い声が響き渡る。生命を持つ者であれば、誰しもが『死』を連想し、絶望の淵に落とされる程の恐怖を植え付けられる声。その笑い声を聞いた者全てがその場にへたり込み、中には失禁をしている者さえ居る。リーシャでさえも斧を握る手が細かく震える程の圧倒的な力が、その声には満ちていた。

 静まり返る謁見の間には、先程まで満ち満ちていた喜びの空気も、希望の空気も有りはしない。そこにあるのは、圧倒的な恐怖と、闇よりも暗く、地の底よりも深い絶望だけであった。

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。
調子に乗って描いていたら、いつの間にかとんでもない文字数になりました。
ですので、二話に分けようと思います。
二話目はもう少し時間を置いて更新致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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アリアハン城③

 

 

 

 謁見の間に広がる暗闇は、誰もの心に生み出された深い哀しみと苦しみを表すように、徐々に全てを支配して行く。生き残った役人達の瞳は生気を失い、全ての気力を失くした者のように虚ろな表情を浮かべていた。

 ようやく訪れたと思った平和という甘い蜜を吸い込んだ者達にとって、全てを絶望の淵に落とす程の闇は、生きる気力さえも奪い尽くす威力を誇る。それだけの圧倒的な力をこの闇は有していたのだ。

 

「ふはははは! 喜びの一時に少し驚かせてしまったようだ。だが、矮小で脆弱な貴様ら人間にとって、一時でも喜びに浸れた事に感謝して欲しい程だが……」

 

 闇の中で響くその圧倒的な声は、高圧的に見下した言葉を紡いで行く。そして、その内容は決して声の主が人間側の味方ではない事を明確に示していた。矮小で脆弱な存在として人間を見下すその姿勢は、リーシャ達が打ち倒した魔王という強大な存在と同じ物。だが、その声が持つ威圧感は、魔王バラモスさえも可愛く見える程に圧倒的な物であった。

 この謁見の間にいる人間でその事実が認識出来るのは、王を護るように斧を構える一人の女性戦士だけであろう。腰を抜かしたように床に座り込む者達は、声が持つ威圧感に恐怖していても、それがどれ程の力を有する者なのかなど、理解する事は出来ない。比較対象が無いのだ。

 魔王という世界を席巻する程の力を有した者と対峙し、尚且つそれを討ち果たしたリーシャだからこそ、この声の持ち主が『敵対してはいけない者』である事を認識する事が出来たのだろう。魔王を倒した一行の一人である女性戦士の足が小刻みに震えている事がそれを物語っている。斧を持つ手も震え、立っているだけでも全ての気力を使い果たしてしまうのではないかという程に、彼女はこの声の主に恐怖を抱いていた。

 

「余の名は『ゾーマ』! 闇の世界を支配する余の力が戻った以上、この世界全てを闇に閉ざしてやろう」

 

 闇の世界

 それは、生物ならば誰しもが本能的に恐れる世界である。誰もが闇を恐れ、炎を点して明かりを生む。魔物以外の生物であれば、闇の中で行き抜く事など出来よう筈がない。人間が太刀打ち出来ない強大な魔物達が生きる世界を支配する者。それは、魔の王を名乗ったバラモスよりも更に上位に位置する者である事を示していた。

 闇は生物の奥底にある凶暴性を強くする。人間であっても、エルフであっても、闇に対する潜在的な恐怖は持っており、その恐怖が転じて高揚状態になった時、それは凶暴性を生み出すのだ。魔物の凶暴性は増し、人々の不安は矛先を変える。

 世界の崩壊への始まりである。

 

「……ゾーマ」

 

「さぁ、苦しみ悩むが良い! 貴様らの苦しみこそが余の喜び……」

 

 震える唇から零れたリーシャの声は、深い闇の中へと消えて行く。新たに出現した世界の脅威に対し、今の自分では何も出来ないという事を彼女は明確に理解していた。だが、消えて行く彼女の声に重なるように宣告された内容は、彼女の瞳の奥に消え掛けていた勇気の炎を再び燃え上がらせる。他者の苦しみこそが自身の喜びだと告げるその声に、謁見の間にいる者達の誰もが瞳を閉じる中、リーシャだけは燃える瞳を闇に向けた。

 ここまでの数十年の時間の中、どれ程の人間が、どれ程のエルフが、どれだけの魔物達が苦しみ悩んで来ただろう。今の彼女は、人間が善であり魔物が悪であるとは考えていない。一行の中でも間違いなく人間寄りの彼女でさえも、魔物達には魔物達の生き方があるという事を理解していた。

 なればこそ、それらを操り、苦しみ足掻く姿を楽しむような者が全ての元凶だという認識を持つようになっている。それがリーシャという女性戦士の見解であり、限界なのかもしれない。

 

「命ある者全てを余の生贄として捧げよ! その見返りとして、貴様らが味わった事のない絶望でこの世界を覆い尽くしてやろう!」

 

「姿を見せろ!」

 

 先程までの恐怖による足の震えはいつの間にか止まっており、リーシャは闇に向けてしっかりと斧を構え直している。生物全てを生贄とし、この世界を闇で覆い尽くす事を宣言するその声に向かって叫んだリーシャは、何時何処に声の主が現れても良いように臨戦態勢に入った。

 しかし、彼女とて魔王バラモスを討ち果たした猛者である。その身体から発せられる圧力は、宮廷という安全な場所で過ごして来た者達にとって恐怖を感じる程に強力な物であり、鳴り響く声と共に脅威と成り得る程の物であった。

 

「余の名はゾーマ……全てを滅ぼす者である。貴様ら全てが生贄となる日を楽しみにしておるぞ。ふはははははは……」

 

 息巻くリーシャを嘲笑うかのように、笑い声を最後にその声は途切れる。世界で生きる全ての生物を生贄に要求するという前代未聞の圧力を残し、謁見の間を取り巻いていた闇も徐々に晴れて行った。

 宮廷に差し込む陽光が謁見の間にまでその恵みを届け始めた頃、ようやく押し迫っていた危機が去った事に安堵の溜息があちこちから零れ始める。それと同時に、リーシャの後方で圧力に負けず立ち続けていたアリアハン国王が玉座に座り込む音が聞こえた。

 大きな溜息を吐き出し、手を額に当てるようにして視線を隠すその姿は、実際の年齢よりも十年以上老けてしまったようにさえ感じる。僅か前までは、ようやく訪れた平和を祝した宴の指示を出していたこの国王の心労は、リーシャのような宮廷騎士でさえ察する事が出来ない物であった。

 

「なんとした事だ……ようやく平和を取り戻せたというのに……」

 

 深い溜息を吐き出し、ようやく搾り出した言葉は悲嘆。

 アリアハン国王として、二人の勇者を輩出し、ようやく世界に平和を齎したと思った矢先の出来事に、気を張り続けていた国王の心の糸が切れてしまったのかもしれない。玉座の上で脱力するその身体からは、王族が発する覇気が全く感じられなかった。

 周囲を囲う重臣達は完全に床へとへたり込み、新たに訪れた世界的な危機よりも、目の前に感じていた死の恐怖から開放された事に安堵している。

 しかし、それも致し方ない事であろう。あのような状況の中で自我を保っていられる人間は世界中でも限られている。魔王バラモスと直接対峙したリーシャや一国を治める国王、そしてその一国の政を担う筆頭大臣だけが、この場でまだ理性を保っていた。

 

「皆の者に何と言えば良い……。これ程に疲弊した世の中で、更に闇の世界が訪れるなど、どうして言う事が出来ようか。この事は決して口外してはならぬぞ」

 

 天井へと視線を向けた国王は独り言のように呟きを漏らし、最後に筆頭大臣へ視線を移すと、先程の出来事を口外する事を禁じる命を発する。それに対して顔を顰めた大臣は、一つ呼吸を落ち着けると、国王へ真っ直ぐ瞳を向けた。

 その瞳には失望や絶望は無く、この状況に陥って尚、このアリアハンという国家を慮る使命感が宿っている。それはこの国が未だに死んでいない事の証なのかもしれない。

 

「国王様、何人かの兵士と役人がゾーマと名乗る者によって命を落としております。この事を秘するのは難しいかと……」

 

「……魔物の討伐隊に参加し、命を落としたとする。遺族への補償金を支払い、この場に居た者達にも秘密を護るように厳命するより他はない」

 

 大臣の言う通り、この場で少なくとも数人の人間が一瞬で消え去った。ゾーマと名乗る闇の王の力によって、遺体も残らずに消え失せてしまった者の事を秘する事は難しいだろう。遺族は宮廷へ出仕した事を見ているだろうし、この王城の中でもその姿を見た者は数多く居る筈である。魔物討伐隊が派遣されたという噂も無く、その行軍も見ていない町の人間はその言葉を信じるかとなれば、限りなく否に等しい。それでも、アリアハン国王は、自身に疑惑を掛けられる可能性を考えて尚、その嘘を突き通すように命じたのだ。

 元々、魔物討伐隊で命を落とした者に親族が居る場合には、その者に遺族補償金を支払う制度がアリアハンにはあった。それ程強力な魔物が生息している訳ではないこの大陸では、戦闘の術を持っている人間が命を落とすという数が少なかったというのも、制度が確立した原因の一つではある。ただ、この制度は、他国では一切見られない事を考えると、当代のアリアハン国王の異質さが窺える物でもあった。

 

「既に国庫から捻出するのは不可能であります。税収も年々少なくなる中、平和による国家活性化も夢の話となりました……」

 

「ならば、余の財産から与えれば良かろう! 城にある調度品や美術品を売り払ってでも支度致せ!」

 

 国王と大臣のやり取りを聞いていたリーシャは、ようやくアリアハン国の実態を察する。そして、自分がこの国に捧げて来た忠誠が間違っていなかった事を再確認し、知らずに小さな笑みを浮かべてしまった。

 このアリアハンという辺境の島国は貧しい。取り扱っている商品なども、他国と比べれば貧相な物ばかりであり、食料なども海の幸や山の幸を主食としている。国民が贅沢などを出来る訳も無く、城下町の一角にはスラム街と化した場所さえもある。

 貧しい国には仕事も少ない。城下町に幾つも道具屋がある訳でもなく、外界との関係を絶ったこの国に旅人が立ち寄る事などない以上、宿屋などの施設もそれ程必要ではない。武器や防具に関しても、商品の種類が限られており、店舗を構えられる人間を増やす事が出来るような在庫も無いのだ。

 必然的に仕事にあぶれた者は、魔物討伐隊に参加するか、スラム街に行く事になる。

 

「……旅の扉を開通させる事は未だ出来ません。再び難民者が多く流入しては、今度こそこの国は……。しかし、城の調度品や美術品を買い取る事の出来る商人は、この国にはおりません。可能だとすれば……城下の酒場の女店主ぐらいかと」

 

 スラム街は、元々アリアハンという国には存在しなかった。

 広大な海と、雄大な大地を持つこの国は、基本的に自給自足が可能な国でもある。海に出て海産物を獲り、山で山菜を採り、川で水を汲み、森で薪を拾う。それがこのアリアハンという国の原点なのであった。

 何時しか他国と交流を持つようになったこの国は、少しずつ形態を変えて行く。海を渡って来る交易船に海産物を売り、趣向品や武器や防具を購入し、城下で売買を行う。自給自足よりも高い収入と、贅沢な生活に慣れてしまうと、時代を追う毎に自給自足が出来る人間は少なくなって行くのだ。親が子供に教えず、子供が孫に教える事も出来ず、その内数える程の人間だけが猟師や漁師として残るだけとなった。

 そして、魔王バラモスの台頭により海は荒れ、交易船の来航がなくなると、アリアハン国家は行き詰まる事となる。税収は落ち込み、城下町の活気も著しく低下した。そんな中で旅立ったのが英雄オルテガである。英雄オルテガであれば、この最悪な状況を打ち壊してくれると誰もが希望を持ち、送り出した。

 だが、世界の希望となる英雄の出立は、思わぬ弊害を生む事となる。

 それが難民の流入である。

 

「ならば、その酒場の店主が買い取れる分だけでも良い! 大臣よ、何度も言うが……このアリアハンは国民あっての国なのだ。この国で生きる者が居なければ、国王など只の飾りに過ぎん」

 

 魔王バラモスの台頭により、凶暴化した魔物達は世界中に猛威を振るった。その被害は、生息する魔物の種類によって大きく異なり、凶暴な魔物達の生息する国から亡命する者達などが増えて行く事となる。

 出来るだけ弱い魔物が生息する国へと考える者達が目指した先は、最弱にして最古の魔物が生息する大陸。陸続きのロマリアまで出た者達は、そのまま旅の扉を使ってアリアハン大陸へと流れて来た。

 しかし、貧しく自給自足が基本のアリアハン国では、その難民全てを受け入れる事など出来はしない。レーベという村で留まる者達は少なく、アリアハン城下町に流れ込んだ難民は元々アリアハンで暮らしていた人口に匹敵する程に上った。

 必然的に仕事にありつけない難民は一箇所に集まり、それがスラム街となる。

 

「国王様……国王なくしても、国は成り立たないのです」

 

「余は……もう疲れた」

 

 最初の内は、英雄オルテガの生還を信じ、それまでの辛抱と難民を受け入れていたアリアハン国ではあったが、英雄オルテガの死亡が確認されると、これ以上の難民を受け入れる事は出来ないと判断し、旅の扉を封鎖する決断を下す。

 勇者カミュがアリアハンから旅立ったとなれば、再び旅の扉が開通した事が知れると考え、カミュの旅立ちと共に封鎖した。英雄オルテガが旅立った頃よりも更に魔物の凶暴化が進んでいる事を考えると、それ以上の難民が押し寄せて来る可能性を否定する事が出来なかったのだろう。

 他国からどれ程に糾弾されても、難民を輩出している他国を糾弾する事はせず、自国の民を護る為に国交を断絶したこの決断は、誰もが出来る物ではないのかもしれない。

 

「宮廷騎士リーシャよ」

 

「……はっ!」

 

 同行していた考え過ぎる賢者のように思考の海に潜っていたリーシャは、国王からの直の問い掛けに意識を戻す。再び膝を着いて目の前に跪いた彼女は、大臣の命によってそれぞれの仕事に戻って行く重臣達の足音を聞きながら、続く言葉を待った。

 謁見の間の扉が閉まり、周囲の気配を察するに、この場所に居る人間は彼女以外では国王と筆頭大臣だけになっているのだろう。ゆっくりと玉座の隣に戻って来た大臣が止まるのを待ってから、国王は重い口を開いた。

 

「先程の出来事は他言無用だ」

 

「はっ」

 

 予想通りの言葉に深々と頭を下げたリーシャであったが、続く言葉に反射的に顔を上げる事となる。それは、リーシャの予想の遥か上を行く言葉であり、全く想像さえもしていなかった言葉でもあった。

 反射的に上げた顔を大臣に向けると、大臣さえもそれに納得しているような表情を浮かべており、リーシャは、自分の考えの浅はかさを知る事となる。

 

「……カミュへも伝える事を禁ずる。あの者には伝えてはならぬぞ?」

 

 魔王バラモスを討伐し、名実共に『勇者』となった青年に、闇の王であるゾーマの出現を伝える事を禁じる命であったのだ。

 勇者カミュの帰還がない事で、謁見の間に居た者達の中で『勇者死亡説』が有力化した事はリーシャであっても感じる事が出来ていた。だが、その中でもアリアハン国王だけは真実を把握しているのではないかとも感じていたのだ。

 それでも、この言葉は予想外であった。

 

「カミュは自身が望む望まないに係わらず、勇者となるしか選択肢はなかった筈だ。それもこれも余の誤りから始まった事……」

 

「国王様……」

 

 静かに独白するアリアハン国王の言葉は懺悔に近い。流石に直視する訳にもいかないが、リーシャは玉座へと視線を戻した。隣に居る大臣が国王を気遣うように言葉を掛け、それを手で制するようにした国王が、真っ直ぐリーシャの瞳を見つめる。

 ここから先で語られる事が、他言無用な物である事を示す行動に気付いたリーシャは、右腕を胸の前に掲げ、もう一度深々と頭を下げた。

 

「オルテガが命を落とした報がこの国に届いた時、余は重臣達を集めた上で、オルテガの妻を登城させた。重臣達にもオルテガの死を伝える事で、オルテガという人物の死は誇るべきものである事を宣告したかったのだが……妻の言葉は余の想像を超えていた」

 

「は?」

 

 静かに語られ始めたアリアハン国王の言葉は、何処か要領を得ない。自然とリーシャは顔を上げてしまい、救いを求めるように大臣へと視線を送った。

 国王に対して直に疑問を持つ事は不敬に値する行為である。本来は、謁見最中に許しも無く顔を上げる事自体が不敬に値するのだが、この状況ではその罪を問われる事はないだろう。事実、国王は強く瞳を閉じ、大臣は静かに息を吐き出すだけであった。

 

「『オルテガ様の意志は、この子が継ぎます』と答えたのだよ。彼女の腕の中で静かに眠る我が子を見て」

 

「そ、それは……」

 

 国王の代わりに言葉を紡ぎ出した大臣は、過去を思い出したのか苦い表情を浮かべる。それは、その場にいた者達の感情が真っ二つに分かれる出来事だったのだろう。

 重臣達が揃った謁見の間での発言は、それだけの重要度と拘束力を持つ事になる。多くの者達がそれを聞いてしまっているのだ。それが国にとって不利益になる物であれば、反対意見も数多く出て来る事で、発言者に何らかの罰則が与えられるだろう。だが、それが利益を生むものであったとすれば別の話である。

 英雄オルテガの旅というのは、アリアハン国にとってかなりの負担となっていたのは事実である。志半ばに倒れたオルテガの功績よりも、魔王バラモス討伐失敗という責任が際立ってしまっており、アリアハン国としては名誉を挽回しなければならない事もまた事実であった。

 英雄の妻が、己の子を次の英雄として育てる事を公言してしまった。それは、国王と大臣の胸の中に仕舞って置けるような物ではなくなった事を示している。そして、その一言がカミュという一人の人間の運命を決めてしまったのだ。

 ニーナに自覚はなかっただろう。自分の恋しい夫を失った憤りと悔しさが、その言葉を生み出してしまったと言っても良いのかもしれない。

 だが、その発言は時と場所を誤っていた。

 

「日増しに強まる魔物達の脅威と、城内に広まり始めた新たな勇者の誕生の噂は、このアリアハン国の民達を歪めてしまった。オルテガは自ら魔王討伐の旅に出る事を志願したが、カミュは違う。余が勇者認定を行わなければ各国での優遇もなく、旅に出る事も出来ないのではと考えたのが……」

 

「オルテガ殿の父であるオルテナ殿が息を巻いていてな……あのままでは、認定されずとも旅立たせる可能性さえもあったのだ」

 

 遥か遠い過去を見るように瞳を虚空に向けながら語る国王の言葉を、傍に立つ大臣が後に繋げる。

 確かに、カミュの祖父であるオルテナは、日増しに糾弾の強くなる息子への批評に憤っていたと云われていた。その名誉の挽回のために、カミュを勇者として厳しく育て、魔物討伐隊へも志願させている。

 カミュが他国に行っても、それなりの対応を受けていたのは、アリアハン国から認定された『勇者』であるからだ。自称勇者が数多く出回った頃から、国家としては援助などを行う相手を厳正に判断するようになっている。故にそこ、もしアリアハン国がカミュを『勇者』として認定していなければ、彼等の旅は想像以上に厳しい物になっていただろう。

 

「カミュは生きておるのだろう? 良い、大臣も気付いておるわ。あの者がこの国に戻って来ないという事が、余の罪を明確に物語っておる。せめて、この先の人生だけは好きに生かせてやりたいのだ」

 

「……こ、国王様」

 

 不敬とは知りながらも、リーシャは国王の瞳を真っ直ぐ見つめて涙を溢す。カミュが生きている事を問い掛けに対し、否定する事も肯定する事も出来ずにいたリーシャを手で制した国王は、とても優しい笑みを浮かべて言葉を紡いだ。

 『自分の信じていた国王は、やはり信じるに値する国王であった』

 そう感じずにはいられない彼女は、流れ落ちる涙を拭う事も出来ず、深々と頭を下げて小さな嗚咽を漏らし続ける。

 しかし、事はそれ程に単純な事でもなく、時間が有り余っている訳でもない。暫しの時間、己の感情を吐き出したリーシャは、意を決したように顔を上げて口を開いた。

 

「畏れながら申し上げます」

 

「良い! 直答を許す」

 

 即座に返された国王の言葉に対し、喜びが湧き上がって来るのを抑えつけたリーシャは、国王に視線を移して口を開く。それは、彼女が四年という旅を続けて来た結果であり、四年という旅で得た経験であった。

 小さな笑みを浮かべ、真っ向から主である国王に反論する自分を、四年前のリーシャは想像さえもしていなかったであろう。だが、今の彼女は、それを成すだけの決意があり、希望があり、勇気がある。それは、彼女の隣にいつでも立ち続けていた一人の青年から与えられた輝く宝物なのかもしれない。

 

「……本日を以て、宮廷騎士の職とアリアハン国貴族の称号をご返還致したく存じます」

 

「な、なんだと!?」

 

 予想だにしなかったリーシャの言葉に驚きの声を発したのは筆頭大臣であった。アリアハン国王は驚きで目を見開いてはいるが、何処か予想をしていたのか、声を上げる事はなかった。

 魔王バラモスを打倒した勇者に続き、それに同道していた戦士さえもアリアハン国から出る事を明言する。それは、アリアハン国にとって損失にしかならない事であった。吸引力を疑われる事は当然として、勇者や英雄が戻る事を拒否した国として汚名を残す事になりかねない。それは、一国の政を担う大臣としては許す事の出来ない物であったのだ。

 しかし、声を荒げようとする大臣を手で制したアリアハン国王は、静かにリーシャを見つめて口を開く。それは、まるで父のように優しく、暖かな声であった。

 

「……旅立つつもりか?」

 

「御意。大魔王ゾーマが存在する限り、この世界やアリアハン国に平和は訪れません」

 

 アリアハン宮廷騎士という職を失おうと、アリアハン国貴族という地位を失おうと、リーシャという女性戦士はアリアハンが産んだ子である。国王を真っ直ぐに見つめる彼女の瞳がそれを明確に物語っていた。

 アリアハンの子である以上、アリアハンに及ぶ危害を許す訳にはいかない。それを防ぐだけの力を有しているのならば尚更である。だが、闇の王であるゾーマの存在を秘するのであれば大々的に旅に出る訳にも行かず、討伐が成功する補償もない以上、アリアハンの騎士や貴族という地位は生国に迷惑を掛ける可能性があるだけの重荷になってしまう。

 アリアハン国王の願いである、誰にもゾーマの存在を知られぬままに討伐するという行為を行うとすれば、これ以外に方法は無かった。

 

「相解った。今よりアリアハン宮廷騎士の任を解く。貴族の称号の返還も受け取ろう」

 

「国王様!」

 

 大臣が反論を述べようとするが、それを手で制した国王は柔らかな笑みを浮かべる。小さく首を横へ振った国王を見て、大臣は大きな溜息を一つ溢した。

 この国の国王と大臣もまた、リーシャ達が旅の最中で出会った主従と同じように、戦友であるのかもしれない。互いに己の力を最大限に発揮出来るように助け合い、ここまで国を維持して来たのだろう。改めて、リーシャは国王と大臣に敬意を表した。

 

「……国王様、騎士の任と称号の返還の後となりますが、国王様の命に背く不忠をお許し下さい」

 

「……カミュを連れて行くつもりか? ふむ。やはり、そなたを同道させた事は間違ってはいなかったのかもしれんな」

 

 全てに於いて先回りされてしまう事に驚いたリーシャであるが、その後に続いた言葉を聞いて、更に驚く事になる。

 アリアハン大陸でカミュから告げられた事を事実ではないかと考えていたリーシャは、アリアハン国王がリーシャという一騎士を認識していないと思っていた。数多くいる貴族達の中でも最下級の地位を持ち、宮廷騎士団長の父を持つと言っても、彼女に名声があった訳ではなく、国王の親衛隊であった訳でもない。故に、厄介払いとして上申された人事のままに国王が勇者への同道を命じたのだと思っていたのだ。

 だが、それは自身の主君であるアリアハン国王を侮る大不敬な行為であった。

 

「そなたの父には世話になった。あの者の頭は固いが、他者を認める柔軟性を持っていた。そして、何者にも屈しない強い信念と、絶対に折れない強い心の芯を持つ者でもあったな」

 

 最早、リーシャの瞳から零れ落ちる物を遮断する術は何もない。国王の顔さえも見る事が出来ぬ程に歪んでしまった視界に気付き、リーシャは視線を床へと落とした。

 次々と零れ落ちる水滴が、赤い絨毯に染みを作っては消えて行く。この宮廷に味方など一人もいないと感じて過ごして来た十数年は誤りであり、自分を見ていてくれた者、自分を信じてくれた者、そして自分の誇りである父を信じてくれた者がいた事に、彼女は心から感謝した。

 彼女もカミュと同じであったのだ。人の心など言葉にしなければ伝わる事はない。彼女とカミュの異なる一点は、それを伝えてくれる者がいた事だけである。

 

「何者にも縛られる必要はない。ここから先の旅は、そなた達の旅だ。無理をするな、命を粗末にするな、己の力を信じ、己の経験を信じよ」

 

「……はっ」

 

 国王の一言一言がリーシャの胸に染み込んで行く。零れ落ちる涙は止まらず、返答する声も震えていた。

 父のように暖かな声は、臣下への言葉には聞こえない。まるで自らの子へと語り聞かせるように告げられる教訓の胸に刻み込み、リーシャは何度も何度も頭を下げ続けた。

 そして、暫く口を閉ざしていた国王が、最後にリーシャに告げた言葉が、彼女の感情の最後の砦を決壊させてしまう。

 

「そなたもカミュもアリアハンの子である。良い記憶はないかもしれぬ。楽しい記憶も少なかろう。それでも、この国の大地も森も、川も海も、そなた等を見守り続けてくれる筈だ。そなた等に、多大な幸ある事を願っておる」

 

「……はっ」

 

 何とか搾り出した声は国王の耳にも届かない程に小さく、不敬とは理解しながらも、リーシャは口元を手で覆ってしまう。嗚咽が漏れ、静寂に満ちた謁見の間に喜びの慟哭が響き渡った。

 最早、リーシャでさえもこの国に戻る事は無いだろう。闇の王ゾーマの居場所が何処なのかは解らないが、勅命として受けた魔王バラモス討伐とは異なり、今回は出奔のような扱いになってしまう。リーシャはこのアリアハンに戻る資格を失ったのだ。

 ゾーマという存在を世界が認識しない以上、それを討ち果たしたと声を上げても、誰一人その行為を認める者はいない。宮廷騎士として勅命を受けて魔王を倒した英雄は、その職を捨てて他国へ出奔したという噂は即座に世界中へ広まるだろう。

 極論を言えば、この時点でリーシャはこの世界での居場所を失った。アリアハン国を出奔した英雄を受け入れようとする酔狂な国はないだろう。強大な軍事力と引き換えに、全世界を敵に回す可能性があるからだ。

 それを理解しているからこそ、アリアハン国王の言葉は別れの言葉であり、それを受けたリーシャは涙した。

 

 

 

 

 

 謁見の間を出たリーシャは装備を確認した後で、城下町にある一つの建物へ向かって歩き出す。町の中央に位置する場所にあるその建物は、このアリアハン国にある唯一の教会。『精霊ルビス』を信仰する世界の中で、その教えを広め、その偉大さを敬う者達の集う場所。

 世界各国にあるその場所に居る人間の中でも更に異質な者を求めて、リーシャは歩く。彼女の顔には涙の跡が今も尚、くっきりと残っていた。

 精霊ルビスが手を合わせる像が掲げられている門の前に辿り着いた彼女は、その門を両手で開く。誰であろうと開かれるその扉は、広く深い心を持つ精霊ルビスを示しており、質素ながらも厳粛な空気が奥から流れて来ていた。

 

「この教会にどのようなご用件かな?」

 

「リーシャと申します。サラに用がございます」

 

 門が開かれた事によって、奥にある精霊ルビス像の前に立っていた神父の問いかけが聞こえて来る。門から像までの距離はある程度あり、神父からリーシャの顔は明確に見えてはいないのだろう。しかし、教会に属するサラの名を告げた事によって、神父は来客者の素性を把握する事となった。

 このアリアハン国に於いて、教会に所属する一僧侶の名を知っている者は少ない。元々孤児であったサラには、友と呼べる者は少なく、神父の使いとして買い物に出たとしても、その名で呼ばれる事は稀であったのだ。

 ならば、先程サラと共に帰還した勇者一行の一人であるという事は明白である。故にこそ、神父はその場に跪いた。

 

「これは失礼致しました。この度は、ルビス様に代わり、世界に平和を齎すお働き、誠にご苦労様でございました」

 

「お顔を上げて下さい。申し訳ございませんが、急ぎの用がございますので、サラをお呼び頂けませんか?」

 

 跪く神父の口上は、世間一般的には正しい物言いなのだろう。だが、あの地獄のような戦場を知る者にとっては、何処か釈然としない内容でもある。

この世界を創造神より託されたのが『精霊ルビス』であると云うのが、この世界で信じられている神話であった。故に、この世界に生きる者達に与えられる試練というのは、神やルビスの意志でもあると云うのが常識である。

 しかし、世界を恐怖に陥れ、全ての生物の脅威となる魔王という存在は、人間達に与えられた試練というには余りにも過酷過ぎた。その為、『精霊ルビス』に成り代わり、魔王という悪を打ち倒す者こそ、『勇者』であるという事を高らかに謳う事によって、人間の正当性を国家や教会は示していたのだ。

 

「畏まりました。暫しお待ちを」

 

 一抹の疑問を胸に抱きながらも、リーシャは神父と問答する愚を理解し、早々にサラへの取次ぎを頼む。リーシャとて、ルビス教の信者の一人である。精霊ルビスの代わりに魔王という諸悪の根源を討ち果たした事を誇りに思ってもいるし、それが世界にとっての善行であったと信じてもいる。だが、四年以上に渡る長い旅路の中で、仲間達が苦しみ、悩み、嘆き、涙して来た事を間近で見て来た彼女にとって、神父の物言いには若干の憤りを感じてしまったのだ。

 奥の居住区へ下がって行く神父の背中を見ながら、リーシャは大きく深呼吸を行う。現状を考えると、悠長にしていられない事もまた事実であり、このような場所で無用な諍いを起こす事が愚の骨頂である事を理解していた。彼女もまた、四年という長い旅路の中で大きく成長をしているのだろう。

 

「リーシャさん! どうなされたのですか?」

 

 暫しリーシャがルビス像を見つめていると、居住区の方から慌てたように女性が駆け寄って来た。一瞬、その女性が誰だか解らなかったリーシャではあったが、飛び出した言葉が聞き慣れた声であった事で、柔らかな笑みを浮かべる。

 アリアハンへ戻った時に着用していた装備品を脱いだ賢者は、普段着ていたであろう継ぎ接ぎが多く見られる布の服を身に纏っていた。貧しい国にある教会に金銭的な余裕などないだろう。旅立ちの時にサラが着用していた僧侶服や武器は、そのような苦しい台所事情の中で神父が与えた物なのかもしれない。それは、育ての親である神父の深い愛情の表れなのだろう。

 

「サラ、長旅がようやく終わって休んでいるところに申し訳ないが、カミュを探すのを手伝ってはくれないか?」

 

「えっ!?」

 

 気を利かせているのか、この場に神父が戻って来る事はなかった。必然的にサラと二人きりになったリーシャは、優しい瞳で見つめるルビス像の前で、端的に用件だけを告げる。それは、圧倒的に言葉の足りない物であり、サラであっても瞬時に理解出来るような物ではなかった。

 何を言われたのかが理解出来ないサラは、呆然とリーシャを見上げて言葉を失う。だが、そこは世界で唯一の賢者となった者。暫しの時間も掛からずに、眉を顰めて顔を落とした。

 

「そうですか……やはり、カミュ様の自由は認めて貰う事が出来なかったのですね」

 

「ん? い、いや、そうではない。そうではないぞ」

 

 視線を落としたサラは、彼女が考えていた一つの可能性に辿り着き、落胆の溜息を吐き出す。

 アリアハン国にとって、勇者カミュという存在は計り知れない程の重要性を持つ。外交的にも軍事的にも、彼の存在はアリアハン国の切り札と成り得る存在なのだ。故にこそ、勇者カミュの行動には制限が掛かり、それは国家の所有物として扱われる可能性さえも出て来る。それをサラは考えてしまった。

 生きている事をリーシャが国王に報告し、カミュを連れ戻す勅命を彼女が受けて来たのだと考えたサラは、哀しみを宿した瞳をリーシャへと向ける。サラの知るリーシャという存在であれば、勅命を固辞する事は出来ない筈だが、その心は哀しみと苦しみで満たされてしまっているだろうという気遣いの瞳でもあった。

 

「闇の王を名乗る者が、謁見の間に現れた。この世界を闇で覆い尽くすと宣言した者の名は、ゾーマ」

 

「……えっ? ど、どういう事ですか?」

 

 サラの勘違いに気付いたリーシャは否定の言葉を口にし、一つ息を吐き出して心を鎮め、ゆっくりと新たなる脅威の名を口にする。その名を口にする時、謁見の間で味わった恐怖を思い出し、リーシャの身体が小さく震え出す。無意識に震える身体が、その存在の圧倒的な力を示していた。

 リーシャという女性戦士は、既に人類最高位に立つ戦闘能力を持つ。魔王さえも退ける程の力量を持つ彼女でさえも、自らの死しか想像出来ないその威圧感が、大魔王ゾーマの恐ろしさを明確に物語っているのだろう。

 突如告げられた内容に戸惑うサラに対し、リーシャは時間に余裕がないにも拘らず、ゆっくりと謁見の間で遭遇した一連の出来事について語り出した。

 あの場で大魔王ゾーマが告げた内容を、その圧倒的な力を。そして、これから襲い掛かる世界的な脅威を。

 最初の頃は驚きと恐怖に目を見開いていたサラではあったが、話が進むにつれて思考の海へと潜り始め、リーシャが語り終わる頃には視線を落としたまま頭に手をやって何やら呟きを漏らすようになっていた。

 

「あれ程の存在を打ち倒す事が出来るのは、カミュしかいない。それに、武器を振るう事しか出来ない私のような存在と共に戦う事が出来る者もアイツしかいないだろう」

 

 自由を求めたカミュを再び戦場へと連れ出す事への罪悪感はリーシャにもある。だが、彼女にとって勇者カミュという存在は、共に戦う事の出来る唯一の存在でもあるのだ。

 小さく笑みを浮かべたリーシャは、未だに思考の海に落ちているサラに向かって真っ直ぐ頭を下げる。深々と下げられた頭は、サラを通して、後方にあるルビス像に向けられているようにも見えた。

 

「サラを無理やり連れて行くつもりはない。だが、私にはキメラの翼もなければ、ルーラという移動呪文もないんだ。いくつかの町や城を回ってくれるだけでも良い。頼む、力を貸して欲しい」

 

 頭を下げたまま依頼の言葉を口にしたリーシャは、自分の言葉に何時までも返答をしないサラの言葉を辛抱強く待つ。しかし、何時もならばどのような事でも何らかの言葉を発するサラが、今回ばかりは一切の言葉を口にしなかった。

 勝手な物言いだという事を重々承知しており、自分の栄誉の為にカミュを犠牲にしていると思われても仕方ない程に説明を省いている自覚のあったリーシャは、それでも尚、サラの言葉を待ち続ける。だが、ようやく、搾り出すように零れたサラの言葉に、彼女は勢い良く顔を上げる事となった。

 

「やはり、あのお声はルビス様だったのですね……。であれば、ルビス様を封印している者がゾーマ。それに、こちらの世界と……あちらの世界……」

 

「サラ、どういう事だ!? サラは、ゾーマの存在を知っていたのか!?」

 

 呟きはとても小さく、リーシャでも聞き取れない部分が多々ある。だがそれでも、サラの呟きを繋ぎ合わせると、サラ自身が何らかの形で大魔王ゾーマの存在に気付く情報を持っていた事だけは理解出来た。

 勢い良く顔を上げたリーシャは、その勢いのままサラの両肩を握り締め、その真意を問い質そうとする。突如思考の海から現実に引き戻されたサラは、驚きの悲鳴を上げて驚愕の表情を浮かべた。

 目の前に迫る真剣なリーシャの瞳を見たサラは正気を取り戻し、記憶の中にある精霊ルビスの言葉らしき物をリーシャへと語り始める。魔王バラモスを打ち倒し、カミュが倒れた時に聞こえて来たその声は、サラにではなくカミュへと語り掛ける物であった事を。

 

「カ、カミュはその事を知っているのか!? アイツは大魔王ゾーマの存在を知っていたのか!?」

 

「明確にゾーマという名が出て来る事はありませんでした。ですが、カミュ様ならば何かに気付いているかもしれません。ルビス様は、『決してこちらの世界に来てはならない』とおっしゃっていましたから」

 

 未だに強くサラの両肩を握り締めながら焦りを浮かべるリーシャを見たサラは、その焦燥感に駆られている姿に疑問を持つ。リーシャの姿は、大魔王ゾーマという存在の台頭よりも、精霊ルビスが封印されているという重大事よりも、この世界の危機をカミュという勇者が知っている事に恐怖を感じているようにさえ見えたからだ。

 そして、サラがその答えを口にした瞬間、焦燥感に駆られていたように見えたリーシャという女性は、歴戦の勇士であり、世界最高位に立つ戦士へと変わって行く。顔を挙げ、教会の扉の外へと視線を移した彼女の背中は、四年の旅の中で、後方にいるサラやメルエを護り続けて来た力強さを持っていた。

 

「サラ、時間がない。悪いが、即座に着替えて来てくれ。サラの支度が出来次第、すぐに出るぞ」

 

「えっ? 出ると言っても、カミュ様が何処にいらっしゃるか解りませんよ」

 

 最早、サラと問答するつもりもなければ、サラの都合を考えるつもりもないのだろう。振り返る事もしないリーシャからの願いは、既に命令に近い強制力を持っていたのだ。

 その背中から立ち上る物は、明確な怒気。魔物さえも震え上がらせる怒気を目の前にして、サラは気力を振り絞って制止を掛ける。

 カミュが何処へ行ったのかという事は先程までリーシャでさえも把握していなかった筈であった。闇雲に探すには、この世界は広過ぎる。如何にルーラという移動呪文があるとはいえ、一日や二日で全ての国や町を回れる訳ではない。一つ一つ虱潰しに探す事が出来る程に時間がある訳ではない事は、先程のリーシャの焦り具合からして明白であった。

 

「あの馬鹿が行く所など、一つしかない!」

 

「え? ど、何処ですか?」

 

 振り返ったリーシャの表情に恐れを抱いたサラであるが、言葉に詰まりながらもその目的地を問い質す。既にサラが同道する事は確定事項になっており、それを避ける事は不可能である。

 正確に言えば、サラ自身、リーシャから謁見の間での出来事を聞いた時から、再び旅へ出る覚悟は決めていた。もっと突き詰めれば、例え大魔王ゾーマが出現しなくとも、彼女は旅立っていただろう。

 サラという『賢者』の目指す先は、未だ道半ばなのだから。

 

「カザーブだ!」

 

 教会内に響き渡るリーシャの宣告が、勇者一行の新たなる旅の幕開けとなる。

 世界を恐怖に陥れた魔王バラモスを打倒した人類の希望は、再び人知れぬ戦いへと向かって歩み始めるのだ。

 世界中で誰も知らぬ敵との戦い。

 それは更に過酷な旅となって行く。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
ようやく旅立ちです。

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カザーブの村④

 

 

 

 周囲を険しいロマリア山脈に囲まれ、その森から吹き抜ける風と雨雲によって生い茂る木々が生み出した森に護られた小さな村に一つしかない道具屋の一室では、近年聞く事のなかった幼い子供の声が響いていた。

 部屋の外にまでは届かないまでも、その一室の空気は重苦しく、その道具屋の店主とその横に建つ若い女性は、困惑した表情を浮かべながら成り行きを見守る事しか出来ない。当事者である少女の瞳からは大粒の涙が溢れ出しており、感情を余り出す事のなかった少女の変貌に店主は驚きながらも、それだけの絆を築いて来た者達へ羨望の感情を抱いていた。

 

「…………いや…………」

 

 まるで絶対に離れないという意志を示すかのように一人の青年の腰にしがみ付いた少女は、首を何度も横へと振りながら、腕をきつく回している。この場所に着いたのが僅か数刻前であり、その僅か数刻前には店主との再会を喜ぶように満面の笑みを浮かべていた少女の表情は恐怖と悲しみに満ちていた。

 カザーブと呼ばれるロマリア国にある小さな村は、四年前と変わらず、細々とした生活の中にも人々の生活が満ち溢れている。カンダタ一味というゴールドの収入源を失って尚、自給自足と鉱石の採掘によって成り立つこの村は、魔王バラモスの消滅という衝撃的な出来事にも大きな影響を受ける事はない。これから先の時代であれば、来訪者は徐々に増え、村の中の活気は上がって行くのかもしれないが、僅か数日で大きな変化は見られる筈もなく、魔王バラモスが打倒されたという報も届いていないのかもしれない。

 

「……メルエ」

 

「…………いや…………」

 

 そんな村に大きな霊鳥が舞い降りたのは、数刻ほど前。村の住民が空に大きな影を見つけ、魔物の襲来かと怯える中、村から少し離れた場所に降り立った霊鳥は、まるで主人を待つように静かに翼を休め始めた。そして、その方角から村の門を潜って来たのは、幼い少女を連れた一人の青年だったのだ。

 マントの裾をしっかりと握った少女は、村の門を潜ると一直線に一つの家屋に向かって駆け出し、それを見た青年は優しい笑みを浮かべながらその後を追う。魔物の襲来の可能性に怯えていた村民は、口々に二人の噂を始め、その中で彼等二人の容姿を憶えていた者の言葉によって安堵の溜息を吐き出した。

 一軒しかない道具屋の扉の前に立った少女が悲しそうに扉の金具を見上げ、追いついた青年がその金具を叩く。中から顔を出した人物が、少女の想像していた者と異なっていた事で、扉の前で首を傾げる少女の姿に村人達は小さな笑みを浮かべていた。

 最近戻った道具屋の店主は、一人の若い女性を連れて戻って来ていたのだ。若い頃に最愛の妻と娘を亡くした彼は、深い哀しみと濃い影を背負っており、村人達も声を掛けられない程の空気を纏っていたのだが、その女性と戻った彼には一切の影が無くなっていた。

 彼が新たな人生を歩み始めた事を村人達は喜び、新たな村人となった若い女性を歓迎する。その女性は髪色が漆黒という特色を持っていたが、そのような違いなど一蹴するかのように活発な性格をしていた彼女は、僅かな時間で村人達に溶け込み、今では再婚の儀式は何時になるのかという村人達の問い詰めに、道具屋の店主が困惑する程になっていた。

 

「……メルエは、暫くここに居てくれ」

 

「…………いや…………」

 

 道具屋へ入って行った少女は、店主であるトルドとの再会を喜び、魔王バラモスを討ち果たした事を青年が報告すると、我が事のように小さな胸を張る。暖かな空気と、柔らかな優しさに包まれた時間は流れ、青年がトルドへ依頼を口にした瞬間にその時間は終わりを告げた。

 青年は、トルドに対して少女を一時預かって欲しいという願いを口にする。驚きを表したトルドが声を荒げた事で、隣の部屋で出された食事を口にしていた少女が戻って来てしまった。内容を聞いた少女は、目を潤ませながら青年にしがみ付き、今の状況へ至る。最早、口を挟む事さえも出来なくなったトルドと若い女性は、成り行きを見守る事しか出来なかったのだ。

 

「暫くすれば、あの戦士と賢者がこの場所に来る。その時、メルエは二人と共にアリアハンで暮らすか、ここで暮らすかを選べば良い。それまではここでゆっくり暮らすんだ」

 

「…………いや…………」

 

 小さな腕に精一杯の力を込めてしがみ付いていた少女ではあったが、相手は魔王さえも討ち果たす勇者である。力任せではなく、ゆっくりと離され、少女と瞳を合わせようと青年が屈み込んだ。

 説得するように、落ち着いた声で語りかける勇者カミュの言葉も、彼と共に歩み続けて来た魔法使いメルエの耳には届かない。最後まで聞く事無く、彼女の首は横へと何度も振られた。僅か数刻前の喜びは消え失せ、悲しみと焦りだけがメルエの心を支配している。最早涙は抑える必要もなく、大粒の雫となって木で出来た床へと零れ落ちていた。

 

「…………メルエも………いく…………」

 

「駄目だ」

 

 再びしがみ付こうとするメルエの腕を掴み、厳しく眉を顰めたカミュは一度首を横へと振る。それは、完全なる拒絶であり、絶対の強制力を持つ言葉。出会った頃から最大にして最強の保護者であるカミュが、自分の願いも祈りも無視して拒絶した事に、メルエの心は絶望に覆われた。

 幼い彼女にとって、カミュという青年は絶対の存在である。それは、彼が世界に認められる『勇者』だからではなく、彼女に光を与えてくれた者だからであった。そのような存在に受け入れて貰えないという状況に、メルエは抗う手段が何一つない。彼を看破出来る弁がある訳でもなく、彼を叩き伏せる力がある訳でもない。彼女に残された手段は、数多くいる子供達と何一つ変わらない事だけであった。

 

「…………いや………うぇぇぇぇぇん………メルエも……メルエも……いく…………」

 

 天井に顔を向けて感情がある限り泣き叫ぶ。それ以外の手段を持ち合わせていないこの幼い少女を誰が責める事が出来ようか。何度も何度も同じ言葉を繰り返しながら泣き叫ぶ少女の姿は、トルドやその横にいる若い女性の涙も誘った。

 幼い子供が自分の思い通りに行かないという理由で泣く事は、子供を育てた事のあるトルドは知っている。だが、世界を救う程の力を有した少女が、只泣く事しか出来ないのだ。それは、この勇者と呼ばれる青年に少女を連れて行けない理由が存在する事を示していた。

 故にこそ、トルドは口を挟めない。感情的に言うのであれば、幼い子供を置いて何処へ行くのだと怒鳴りたい気持ちで一杯なのだ。だが、目の前の青年の苦しみに似た表情を見てしまうと、そこにある父性を嫌でも感じてしまう。そこには、家族に持つ感情に近い物が見ていたのだった。

 

「……馬鹿な事を言うな。メルエは、あの二人と共に生きろ」

 

「…………うぇぇぇん…………」

 

 哀しみに近いような表情を浮かべたカミュはメルエの頭に手を乗せ、数度撫でたところで立ち上がる。成す術のないメルエは泣く事しか出来ない。しがみ付いても剥がされ、自分の想いを口にしても拒絶された。彼女は今までに感じた事のない絶望を味わっているのだろう。その泣き声は、彼女にしては珍しい程に大きく、家屋の外にも響き渡る程の物であった。

 しかし、この幼い少女は、彼女を護る保護者達に出会ってから全てが変化している。常に彼女を見守る者がおり、常に彼女の声は誰かに届く。魔物との戦闘でも、心の奥底に刻まれた恐怖にも、魔王という強大な敵との決戦でもだ。

 彼女の悲痛な叫びは必ず届く。

 

「……あっ」

 

「馬鹿はお前だ!」

 

 トルドの横に立っていた女性が入り口の扉の方へと視線を向けて小さな呟きを漏らした瞬間、メルエの前に立っていた青年が真横へと弾き飛ばされた。

 道具屋の居間にある木で造られた椅子などを薙ぎ倒し、勇者カミュは床へと倒れ込む。新たにメルエの前に現れたのは、拳を握り締めた屈強な女性戦士。怒りを隠そうともしないその表情は、倒れ伏したカミュへと向けられ、未だに立ち上がらない彼を心配するどころか、追い討ちを掛けるように再び拳を掲げていた。

 

「…………リーシャ…………」

 

「……メルエ、大丈夫だ。私達はいつまでも一緒だ。心配するな、泣くな、私を信じろ」

 

 カミュへと追い討ちを掛けようとする女性戦士であったが、腰にしがみ付いて来たメルエによってその行動を取り止める事となる。しがみ付くように顔をつけるメルエを見て苦笑を浮かべたリーシャは、ゆっくりと小さな身体を抱き上げ、その瞳を見て魔法の言葉を口にした。

 涙で赤く染まった瞳をリーシャに合わせ、ゆっくりと頷いたメルエは、そのままその肩へと顔を落とす。すすり泣くように嗚咽を繰り返す少女の姿が、先程まで感じていた恐怖と絶望の深さを明確に物語っていた。

 

「リ、リーシャさん……カミュ様が気を失っていますが……」

 

「ん? 当然の報いだ! あの程度の一撃で気を失っているようでは、この馬鹿は旅立って直ぐに命を落とした筈だ」

 

 魔王を倒した『勇者』とはいえ人間である事に変わりはない。それが、魔物との戦闘時であれば、彼は一瞬も気を緩める事はなく、どのような攻撃を受けても意識を飛ばす事はなかっただろう。だが、このカザーブという村に魔物が入り込む事はなく、その上に後方からの突然の攻撃を受けてしまっては、如何に歴戦の勇士であっても一溜まりもないだろう。しかも、その攻撃を放った者もまた、人類最高位に立つ者なのだ。

 倒れたまま意識を失っているカミュに近づき、息があるかどうかを確認したサラは、多少呆れ気味にリーシャへと言葉を投げかける。それに対して後悔の念の欠片もない彼女の物言いに、ここへ来るまでに交わした会話の内容を思い出してしまった。

 

 

 

 

 アリアハン教会にリーシャの雄叫びが轟き、何事かと飛び込んで来た育て親である神父に対し、再び旅へ出る事をサラが告げると、全てを理解した神父は哀しいような嬉しいような笑みを浮かべてた。

 身支度を済ませ、最後の挨拶を告げたサラに向かって、『もう一度、顔を良く見せておくれ』という言葉と共に涙を溢した老いた神父は、その身体を強く抱き締めた後、この先の続く長い旅の中でサラの心に残り続ける言葉を告げた。

 

『何処にいようと、何をしていようと、サラは私の娘だよ』

 

 サラの双眸からも大粒の涙が溢れ、ここまで育ててくれた事への感謝の言葉を告げる。そして、神父に引き取られてから十数年間口にした事のなかった『父』という言葉を、彼女は育ての親に向かって口にしたのだった。

 涙の別れの後、城下町の外へ出る為にアリアハン城下町を歩く中、リーシャとサラは現在の状況を再確認し、行き先を明確に設定する。その際に、リーシャは長く疑問だった事への答えをサラから聞く事となる。

 

「リーシャさんは、カミュ様の背中にある傷を憶えていますか?」

 

「ん? ああ、あの歪に残った傷跡の事か?」

 

 ランシールという村へ向かっている最中、メルエの唱えた呪文の余波を受けたカミュは、全身に火傷を覆う事となった。人類最高位に立つ魔法使いの放った灼熱呪文によって、高温に熱せられた鎧を剥ぎ取った彼女達は、歳若い青年には似つかわしくない傷跡を、彼の背中で発見する事となる。

 リーシャからカミュの母と祖父の話を聞いたサラは、突然その事を口にしたのだ。サラが何を言うつもりなのかが解らないリーシャは、相槌を打ちながらも首を傾げる。

 

「私の記憶も曖昧なのですが……あの傷を癒したのは私かもしれません」

 

「なに?」

 

 独白に近い懺悔を突然始めたサラに驚いた表情を浮かべたリーシャは、歩いていた足を止め、サラの方へと向き直った。そこで見たサラの表情は、苦しそうに眉を顰めながらも、まるで過去の自分の過ちを暴露したように苦笑を浮かべている。

 確かに、サラはアリアハン教会に所属する僧侶である。神父と共にその身に『経典』の呪文を刻み込み、身体に傷を負った者や、魔物の攻撃で毒を受けた者などを治療するという仕事を行っていても不思議ではない。現に、アリアハンを出る頃には、最下級ではあるが回復呪文をサラは行使していた。

 だが、カミュの傷を見る限りでは、それ程新しい傷ではない事は明白であり、その頃にサラが回復呪文を行使出来たかどうかには疑問が残ってしまう。

 

「私の初行使のホイミだったのです。神父様が魔物討伐隊に同道していて不在の時、母親に背負われた同じ歳くらいの男の子が教会を訪れました」

 

「それが、カミュなのか?」

 

 遠い記憶を掘り起こすように視線を空へと投げるサラの言葉に、リーシャは聞き入ってしまう。今はそのような事よりも急がなければならない理由があるにも拘らず、何故かその話を聞いておかなければという気持ちを持ってしまっていた。

 サラの気を軽くさせる為などではない。過去の懺悔を聞いて、その者の気持ちを軽くさせるのは、本来サラのような僧侶の仕事であり、決して宮廷騎士であったリーシャの本分ではないのだ。

 そんなリーシャの気持ちを知ってか知らずか、サラは彼女の問い掛けに小さく首を横へと振った。

 

「解りません。記憶が曖昧ですし、私自身気が動転していて、母親の顔も憶えていません。ただ、鍛錬中に刃抜きした剣で強引に斬られたという背中の傷が醜かった事だけは憶えています。神父様が不在である事を告げると、その母親は幼い私に泣き縋るように回復呪文を行使する事を懇願して来ました」

 

「……そうか」

 

 記憶が曖昧ではあるが、リーシャはそれがニーナとカミュの二人であると確信する。カミュの祖父であるオルテナは、名誉の挽回という執念に囚われていた。故に、厳しい鍛錬をカミュに課し、それから逃げ出そうとするカミュを感情的に斬り付けたとしても不思議ではない。

 何故、その場に祖父の姿がなかったのかは疑問ではあるが、サラが憶えていないのか、それとも自分の行為の正当性を訴える為に家で待っていたのかは解らない。しかし、その母親がニーナであり、己の息子の命を救おうと必死だった彼女の姿は容易に想像出来た。

 

「呪文の契約は済んでいましたが、行使した事のない状態だった私には、男の子の背中の傷は難易度の高い物でした。傷は塞がり、出血も止まり、鼓動も落ち着きましたが、その背中の傷は残るであろう事は一目瞭然だったのです」

 

「それでも、その母親は泣いて礼を述べていたのだろう?」

 

 リーシャはようやくサラが何故その話を今したのかを察する。彼女もまた、この場所にいないカミュという青年に対し、思う部分があったのだろう。

 彼を糾弾するつもりなど欠片もない。彼の受けて来た苦しみや哀しみを理解出来るとは微塵も思っていない。だが、彼が見る事の出来なかった側面が、このアリアハンには数多くあったのだと、改めて彼女も感じているのだ。

 それは、四年以上もの長い旅の中で、世界各国で生きる者達を見て来たからこそ見える物なのかも知れない。リーシャの問い掛けに、サラが小さく頷きを返した事が、彼女が何を言いたかったのかを明確に物語っていた。

 

「アイツも何時か解る時が来る。いや、もう解っているのかもしれないな」

 

「そうでしょうか……」

 

 小さな笑みを浮かべたリーシャは、今彼がいるであろう場所へ続く空を見上げながら、呟くように言葉を紡ぐ。その言葉の内容に首を傾げたサラは、それに同意する事は出来ないようだが、リーシャにはその確信があった。

 立ち止まっていた足を動かし、外へと繋がる門に向かって歩きながら、リーシャは先程サラから問い掛けられた疑問に答えるように口を開く。その口調は先程までの怒りが嘘のように静かで、暖かい優しさに満ちていた。

 

「サラは、カミュの行く場所がカザーブだとは思っていないのか?」

 

「え? あ、はい。可能性の一つとしては一番高いかもしれませんが、他にも行く場所はあるでしょうし、トルドさんの所に寄るとしても、すぐに出てしまうかもしれません」

 

 確かに、カザーブの他にも行く場所はある。ましてや、トルドは今はあの開拓地で出会った女性と新たな生活を始めたばかりだろう。ようやく動き始めた商人の人生を、メルエを連れて行く事によって巻き戻す必要はないのだ。

 メルエを見れば、トルドは必ずアンを思い出すだろう。アンや最愛の妻を忘れろという事ではないが、必要なく過去の思い出を引っ張り出す事もない。それが解らないカミュではないだろうし、その他にもメルエが『命の石の欠片』を手渡す程の者達はいるのだ。

 可能性としては高くとも、必ずそこにいるとは限らないというのがサラの考えであった。

 

「バラモスとの戦いで、メルエがあの巨大な火球呪文……メラ…ゾーマだったかを行使した時、バラモスの目の色が変わった事を憶えているか?」

 

「え? 確かに、必要以上にメルエに執着していたかもしれません」

 

 突然投げかけられた問い掛けに、サラは記憶の糸を辿るように頭の中を掘り起こす。

 あの戦闘時、確かにバラモスは何度と無くメルエへと手を伸ばしていた。その全てがカミュやリーシャによって阻まれ、最上位の爆発呪文はメルエ自身のマホカンタによって阻まれている。だが、最後の最後まで、バラモスの腕は幼い魔法使いに伸ばされていたかもしれない。

 思い当たる節もある事で、サラはリーシャに向かって頷きを返す。賢者とはいえ、彼女もあの戦いでは生死の境を何度も彷徨いながら必死に戦っていたのだ。

 

「バラモスは、己の命が尽きようとして尚、メルエへと手を伸ばしていた。それが、ゾーマという存在の為だとすれば、メルエという存在はゾーマにとって不利益になる可能性があるのだろう。そして、あの馬鹿がサラの聞いた声を聞いていたとしたら……」

 

「一人で旅立つ……」

 

 リーシャは敢えて最後まで語る事をしなかった。

 バラモスが本当にメルエに執着を見せていたのか、カミュがゾーマの存在を知っていたのか、ゾーマにとってメルエという存在が害となるのかなど、不確定な推測部分が多過ぎる。推定の域を出る物ではないし、カミュの行動に関しては完全にリーシャの思い込みであった。

 だが、カミュという青年と四年以上旅を続けて来たリーシャにとって、彼が起こし得る行動の推測には自信がある。それが間違っていないという自信もあるし、確信もある。それだけリーシャ自身が彼を信じているのだろう。

 

「私も同じではあるが、あの馬鹿にとってメルエは絶対に護らなければならない存在なんだ。今のカミュがカミュとして有り続けられるのは、メルエが居たからこそだからな」

 

「メルエを置いて、一人で旅立つつもりなのですね」

 

 魔王バラモスさえも討ち果たした『勇者』が一人で旅立つ場所となれば、それはそれ以上に過酷な戦いしかないだろう。もし、カミュが安寧に生きて行きたいと考えているならば、絶対にメルエを置いてはいかないからだ。

 メルエを護る事。それは自由を手に入れた『勇者』の至上の使命である。今の彼にはそれしか残っていないとも言えるのかもしれない。サラが聞いていた精霊ルビスの声らしき物を彼もまた聞いていたとすれば、魔王バラモスの上に立つ者がいる事を察していても可笑しくはない。その凶悪な存在の目的がメルエという少女であるならば、それを阻止する為に彼が旅立つ事は想像に難しくはなかった。

 そして、何もかもをその背に背負おうとする彼だからこそ、一人で旅立つという選択肢を選んでしまうだろう。リーシャ程ではないが、サラも朧気ながらにそれを理解する事が出来た。

 

「宮廷騎士の職と、貴族の地位も国王様にお返しして来た。残っていた婆やにも宮廷での職を与えてくれるとお言葉を頂いた。もはや、私に後顧の憂いはない」

 

「え? えぇぇぇぇぇ!? リ、リーシャさん、今何と仰いましたか!?」

 

 カミュの居場所を特定した理由の話が終わる頃、ようやく彼女達二人は外へと続く門を抜ける。抜けるような青空を飛ぶ鳥達を見上げたリーシャは、晴れ晴れとした顔で腕を大きく上げた。

 何でもない事のように飛び出した言葉を聞いたサラは、何かの聞き間違いではないかと一瞬考えた後、弾かれたように横に居るリーシャへと顔を向ける。貴族がその称号を返還するという事の意味は、国家に対しての裏切りに近い物であるのだ。

 『この国の貴族として生きる事は出来ない』という意思表示であり、国家否定と受け取られても反論出来ない程の暴挙である。更に言えば、宮廷騎士としての職も辞退したとなれば、反逆の意志と受け取られても否定は出来なかった。

 それを井戸で水を汲んで来たとでも言うように、当たり前の事として口にするリーシャがサラには信じられなかったのだろう。目を丸くしたままリーシャを見上げる彼女は、口を開閉させながらも言葉が一切出て来なかった。

 

「サラはカザーブまで私を送ってくれた後で、アリアハンに戻ると良い。サラには、この先でするべき仕事が山程あるだろうからな」

 

 先程までの怒りを胸の内に納めたリーシャは、当初の予定通りの行動を取るようにサラへと語りかける。この世界で『キメラの翼』という道具が希少な物であり、一国家の宝物としてしか残されていない以上、リーシャのような一戦士が所有している筈がない。そして戦士であるリーシャに魔法力が備わっていないのだから、ルーラという移動呪文の行使も出来る筈がない。故に、彼女がカザーブの村へ向かおうとすれば、海を渡るしかないのだ。

 ロマリアへ続く旅の扉への入り口は再び封鎖されており、魔法の玉を生み出した老人の生死は解らない。再びあの壁を壊す手段がない以上、彼女は海を渡る他に方法はなかった。しかも、定期的な連絡船なども無い為、泳いで渡るしかない。それは、余りにも無謀で無茶な方法だろう。

 だからこそ、リーシャはサラへ頼み込んだのだ。移動手段を有するこの賢者に願う事しか彼女には出来なかった。

 しかし、その言葉を聞いたサラの表情が一瞬で変化する。先程まで驚愕に見開かれていた瞳を細め、視線を外した彼女は、そのまま詠唱の準備に入り始める。態度が変化したサラに驚いたリーシャは、動きを止めてしまった。

 

「何をされているのですか!? 早く私の腕に掴まって下さい! 詠唱が完成してしまいますよ!」

 

「あ、ああ」

 

 珍しく怒気を滲ませた声で発言するサラに戸惑ったリーシャではあったが、自分の方を見もしようとせずに詠唱を完成させる姿に、慌ててその腕を握る。サラの魔法力がリーシャの身体を含めて広がり始め、二人を包み込んだ。

 後はその言葉を紡ぐだけという状況になっても、暫くの間サラは完成した魔法を行使しない。まるで何かに迷っているように唇を噛み締めている彼女の姿に首を傾げたリーシャは、サラの顔を覗き込むように視線を向けた。

 

「一つだけ、リーシャさんに言わせて下さい」

 

「ん?」

 

 意を決したように上げたその顔を見たリーシャは、自分の失態に気付いて眉を顰める。それでも、その口から出て来る言葉を聞かなければならない事を察し、静かに耳を傾けた。

 サラの顔は、このアリアハンを出た頃のような僧侶の顔ではない。長い旅路で何度も見た、何かに悩んでいる顔でもない。何かに哀しむ物でも、何かに苦しむ物でもなく、ましてやこのアリアハンへ戻って来た時のような穏やかな物でもなかった。

 それは、リーシャという女性戦士が信じ、メルエという幼い魔法使いが師事し、カミュという世界の勇者が頼る者の顔。

 

「……私は、『賢者』です」

 

「ああ、そうだったな」

 

 その一言にどれ程の想いが詰め込まれているかを理解出来ないリーシャではない。彼女もまた、教会での会話を済ませた時に、このアリアハンへ二度と戻らない事を覚悟していたのだろう。そんな不退転の決意を、リーシャは踏み躙ってしまったのだ。

 リーシャとしては、サラという存在の立ち位置を考えての発言のつもりだったのだろう。だが、それは本当の意味で、『賢者』という存在の重責を理解していなかったのだ。サラの責務と理想は重く、それこそ人類が到達出来ない程に遥か遠い。それでも前へと向かって進もうとする彼女にとって、先程のリーシャの言葉は無視出来ない物だったのだろう。

 

「ルーラ!」

 

 力強い詠唱と共に、二人の身体を包み込んでいた魔法力がその効果を発揮する。一気に浮かび上がった二人は、上空で一時滞空した後、北西の方角へと飛んで行った。

 

 

 

 

 そんな一連の会話を済ませ、彼女達二人がカザーブの村に付いた頃、村中の者達が一軒の家屋を取り巻くように眺めていた。不思議に思った彼女達が近づくと、そこは何度か来た事のある一軒の道具屋。彼女達が最も信頼する商人と言っても過言ではない者が営むその場所へ近づくと、何故村人達が注視しているかが理解出来た。

 外まで漏れている幼い子供の泣き声。木と少ない煉瓦で造られた家屋からは、余程の声でなければ外の人間は意識を向ける事はない。それにも拘わらず、村中の人間の視線を集めるとなれば、その発信源を彼女達は容易に想像出来た。

 そして、扉を叩いても返答がない事を理解したリーシャが中へと入り、カミュが気を失う事になったという事である。

 

「や、やぁ、いらっしゃい。随分久しぶりだね。まずは、魔王討伐お疲れ様……いや、世界に平和を齎してくれた事を心から感謝するよ」

 

 突然起きた一連の騒動の中、家主であるトルドが正気に戻る。やはり、殴られて気を失った青年の事も、殴った事を後悔する事もなく胸を張る女性の事も知っている彼にとって、この騒動は衝撃的な物でありながらも何処か納得出来る物だったのだろう。実際、彼の隣に立っている女性は未だに衝撃から立ち直れずにいた。

 女性の年齢は、リーシャとそう大差はないだろう。若干リーシャよりも上である事は解るが、三十路を越えている事はないと思われる。ジパング出身という事もあり、様々な苦労をして来た彼女にとっても、今の騒動は大きな衝撃を受けてしまう物だったのだ。

 

「トルド、久しぶりだな。あの町を出るなら出るで、何か言伝を残しておいてくれれば良かったんだ」

 

「ああ……すまない。私の考えでは、何故か君達は二度とあの場所に戻って来ないような気もしていたからな」

 

 未だに小さな嗚咽を繰り返すメルエの背を優しく叩きながら、リーシャはトルドの行動に苦言を呈す。彼の横に立つ女性の父である鍛冶屋に話を聞かなければ、リーシャ達はトルドの行方を知るどころか、あの町で犯罪者として扱われていたかもしれないのだ。世界を救った勇者一行が犯罪者扱いされては堪った物ではない。

 そんなリーシャの苦言を受けて苦笑を浮かべたトルドは、頭を軽く下げながら、自分の考えを語る。確かに、イエローオーブが手に入った彼らにとって、あの町に実質的な目的は何も無い。だが、それはトルド自身が自分の存在の大きさを誤認している事を示していた。

 

「トルドさんがあの場所にいる限りは、私達は必ず行きましたよ」

 

「あははは。そうだね、君達はそういう人間だった」

 

 トルドが居る町。

 それだけで、彼らがその町に立ち寄る絶対の理由に成り得るのだ。自分達の目的であるオーブ収集という物の為に己を犠牲にした友人を見捨てる事が出来る程、彼らの心は強くはない。そして、彼を父親のように慕うメルエが居る限り、その場所に行く事を拒否する事など誰も出来ないのだ。

 サラの言葉を受けたトルドは、柔らかく暖かな笑みを浮かべる。決して相手を馬鹿にした笑みではない。そこに居る者達の性根を理解し切れていなかった自分へ向けた苦笑であり、その想いを嬉しく思う笑みでもあった。

 

「何故、解放される事が出来たんだ?」

 

「ん? ああ……まぁ、たまたまだな」

 

 リーシャが場の空気も省みずに発した疑問に対し、トルドは明確な答えを返す事はなかった。何処かはぐらかすように頭を掻き、口篭るように押し黙る。何ともいえない沈黙が流れる中、ようやく倒れ伏していた勇者の意識が戻った。

 半身を起こしたカミュは数度頭を振った後、人を射殺せる程に強い視線で、自分の前に立っている女性戦士を睨みつける。しかし、それ受けたリーシャは、その恐ろしい視線を何処吹く風で受け止め、興味なさ気にトルドへと視線を戻した。

 

「カ、カミュ様、言いたい事は私達にも山程あるのです。これ以上リーシャさんを刺激する事は得策ではありませんよ」

 

「ちっ!」

 

 傍で屈み込んでいたサラの呟きを聞いたカミュは、忌々しげに舌打ちを鳴らしながら立ち上がる。しかし、再び厳しい視線をリーシャの横顔へ投げかけようとした時に、その肩口からの恨めしそうな視線を受けて視線を逸らしてしまった。

 先程まで嗚咽を繰り返していた少女が、カミュの意識が戻った事に気付き、先程まで自分が受けた悲しみと絶望を表すような瞳を彼へと向けていたのだ。若干頬を膨らませながらも、その頬に残る涙の跡が、カミュという勇者の心に強大な罪悪感を生み出して行く。それに耐える事が出来ないかのように、彼は視線をトルドへ向ける事で逃げ出した。

 

「トルドさんが手を付けなかったゴールドが発見されたのです。一つ一つ送って来た者の名前と日付を記して一室に管理していた物が見つかった時、人々は守銭奴だと揶揄しました。しかし、商売に困窮した時に無償で与えられたゴールドが、自分達が献上していた物の中から出された事を帳簿で知った事で、トルドさんの解放が決まったのです」

 

「……流石はトルドさんですね」

 

 口を開こうとしないトルドを見ていた一行への答えは、トルドの隣に立っていた女性から告げられる事となる。確かにトルドが投獄されていた場所で聞いた話では、賄賂として献上された物には手をつけていないと語っていた。しかし、それを名前や日付を付けて管理し、その者達が困窮した時の支援金に回していたという事は初耳であったのだ。

 その話の重要度をリーシャは理解出来なかったが、サラは少し考えただけで、彼が生み出した制度の有用性と実用性を理解する。呟くように告げられたトルドへの賞賛を聞いた女性は、満足そうに笑みを浮かべた。

 

「その後、それぞれの持ち主へ資金は戻され、その資金の中で持ち主がいない物や持ち主が返還を拒んだ物は、協賛準備金として町の備蓄金となりました。商売を支援する為の貸出金として、今後は町の者達が管理して行く事になります」

 

「……そうか」

 

 女性が繋げた内容を聞いていたカミュは、その内容の先進性に驚き、先程までの怒りを忘れたように聞き入る。国家では備蓄の食糧などを持ち、飢饉などに備える方法は既に導入されているが、商人という生産性の無い職業に対しての支援は、国家として行われている所は無かったのだ。

 何処の国家にも属さない自治都市として成り立つ開拓地ならではの制度であろう。同じ自治都市でも、黒胡椒という特産によって人を呼ぶ事の出来るバハラタや、夜の街として若者の夢を体現したようなアッサラームでは、商売を基本とした純粋な商人を護る制度は生まれなかった筈である。

 世界的に画期的なこの制度は、商人という職業の立ち位置を大きく変えて行く物となるのだが、それはまた別の話であった。

 

「もういいよ。悪いが、飲み物でも持って来て貰えるか?」

 

「あっ、ごめんなさい」

 

 我が事のように自慢気に話す女性に苦笑を浮かべたトルドは、まだまだ話し足りないというような彼女の言葉を制止し、来客に飲み物を振舞うように頼む。自分が何時の間にか熱を込めて話していた事に気付いた彼女は、恥ずかしそうに顔を赤らめ、そのまま台所の方へと消えて行った。

 その背中を追うように一行の視線が動くが、その中で唯一人、メルエの視線だけは未だにカミュを恨めしげに見つめている。自分がここへ置いて行かれるという不安がまだ彼女の胸を占めているのだろう。カミュの一挙一投足を見逃さないように彼女の瞳は厳しく細められていた。

 

「あの女性と所帯を持つのか?」

 

「ん? 今までは考えてもみなかった事なんだが……」

 

 女性の背中を優しい瞳で見つめているトルドに笑みを溢したリーシャは、とても優しい声色で問い掛ける。それは決してトルドを責めるような物ではなく、むしろ喜び、祝いの気持ちを持った物であった。

 そんなリーシャの気持ちを感じたトルドは、気恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、衣服の中へと手を差し入れ、とても小さな物を取り出す。それは、何処かで見た事のある物のようでありながら、知っている物とは全く異なった形をした物であった。

 

「メルエちゃん……貰った物をこうする事には少し抵抗があったのだが、俺はこの石にあの人も護って欲しいと想っているんだ。許してくれるかい?」

 

「…………ん…………」

 

 トルドが懐から取り出した物は、二つの小さな指輪。その指輪には、淡く青色に輝く小さな石が嵌め込まれている。それは、リーシャに抱かれた少女が、自分の大事な者を護って欲しいという願いを込めた奇跡の石。魔王バラモスという強大な敵をも打ち倒す事となった『勇者』の命を死の呪文から護り切った石である。

 おそらくトルド自身が加工したのであろう。二つに分けられた『命の石』の欠片は、それぞれの指輪の上で淡い輝きを放っていた。その輝きを見たメルエは、先程までの鋭い瞳を緩め、嬉しそうに微笑を浮かべる。そんなメルエの大きな頷きを受けたトルドもまた、満面の笑みを浮かべた。

 

「そうか……。その石は、メルエの願いが込められている。だが、あの女性を護り抜くのは、お前だぞ」

 

「ああ……今度こそ、この手で護り抜いてみせるよ」

 

 メルエの嬉しそうな微笑に表情を崩したリーシャであったが、瞬時に表情を引き締めた後で、トルドへと苦言を呈す。誰も口にしなかった古い傷を、彼女は敢えてこの場で口にしたのだ。

 それが意味する事を理解出来ないトルドではない。先程までの緩んだ表情を苦悶に歪め、それでもしっかりとした光を宿した瞳でリーシャを見つめ返す。そこから口にされた言葉は、彼の心からの決意に満ちており、その力強さは『男』が持ち得る最上位に立つ程の物であった。

 彼が、長く愛し続けた妻と娘を忘れる事はない。それは深い傷となって彼の心に死ぬまで残る事だろう。だが、それもまた彼の教訓となり、強さとなる。それを強さとする心を、彼はこの勇者一行に学び、あの開拓地で出会った女性に掘り出されたのだ。

 

「トルドさん、これを……」

 

「……これは」

 

 そんな決意の炎を宿したトルドの瞳が、再び涙に包まれる。サラが手にした大きな布を解き、一つの衣服を取り出した。

 それは、四年前にトルドが一行へと預けた衣服。『みかわしの服』と呼ばれる物と同じ素材で作られ、彼の妻が愛する娘の為にと繕った衣服である。

 あの時からずっとメルエの身を護り続けて来た衣服であったが、エルフの隠れ里を再訪した際に購入した『天使のローブ』が今はメルエの身を護っている。決して不要になったから返還する訳ではない。その事は、先程まで笑顔であったメルエの顔が歪んでいる事が証明していた。

 彼女にとって、友の形見であり、友の父親の愛情が篭った物である。手放したくはないのだろうが、船を降りる時にそれを船室から持ち出したサラと共に話をした結果、今後のトルドの事を考えて涙を飲む事に決めたのだ。

 

「大事に使わせて頂いていたのですが、どうしても綻びが出来てしまって……私が何度か継ぎ接ぎをした結果、このような姿に……」

 

「ありがとう。この服の今の姿が、メルエちゃんをしっかりと護ってくれた証拠だと思うよ。アンとメルエちゃん、俺の二人の娘が着た服だ。大事にさせて貰うよ」

 

 メルエが魔物から攻撃を受けた事など数える程しかない。だが、それでも通常の人間であれば一撃で葬られる程の魔物達の攻撃を受けて来たのだ。その鋭い嘴で貫かれ、魔物の放つ呪文の余波を受け、ところどころが綻んでしまったとしても、それは仕方のない事なのだろう。

 そんなメルエの衣服は、綻んでしまった事を訴えて来た彼女の願いを受けて、サラが何度も繕って来たのだった。少しでも痛みが生じると、泣きそうな表情で衣服を持って来るメルエに辟易しながらも、サラは何度もその衣服に針を通している。その結果、どうしても異なる色になってしまっている部分や、糸の跡が残ってしまっている部分などが出来てしまっていた。

 それでも、トルドは涙を浮かべながらその衣服を大事そうに抱き締め、微笑を浮かべて何度も頷きを返す。新たな門出となった彼に対しての贈り物としては異色かもしれないが、最適な物でもあったのかもしれない。

 

「……もう、君達と会える事はないのかな? ここへ来て、これを渡してくれたという事は、そういう事なのか?」

 

「え? あ、いえ……そういう訳では」

 

「ああ、おそらく会う事はもう無いだろう」

 

「トルド、達者で暮らせよ」

 

 衣服を胸に抱いたまま、トルドは感じ続けていた疑問を口にする。それは核心的な物であり、アリアハン国王の意図を汲んでいるサラには答える事が出来ない物であった。

 だが、アリアハン国王の考えや優しさなどを知らないカミュは、そのままの答えを口にしてしまう。そして、それを横目で見ていたリーシャもまた、別れの言葉を口にしたのだった。

 旅立つ理由は言わない。だが、彼等一行は魔王さえも討ち果たす力を有した者達である。その立場の難しさを、カンダタ一味という集団を村へと招き入れたトルドは理解していた。そんなトルドに、カミュ達は旅立つ理由の想像を一任したのだ。

 

「…………メルエも………いく…………」

 

「大丈夫だ、メルエ。先程も言ったが、私達はいつも一緒だ」

 

「そうですよ。ずっと一緒です」

 

 先程の問答を思い出したメルエは、リーシャの肩越しにカミュを睨みつけ、もう一度先程と同じ言葉を口にする。だが、今回は彼女の願いではなく、彼女の決意であった。それを理解したリーシャが後押しし、サラが決定付ける。残るは唯一人の回答だけなのだが、その青年は苦々しく表情を歪め、重苦しく口を閉ざしたままであった。

 緊迫した空気の中、ようやく飲み物を用意し終えた女性が居間へと戻って来る。一変した部屋の空気に戸惑いながらも、それぞれの前に飲み物を置いた彼女は、トルドの隣の席へと腰掛けた。

 

「……勝手にしろ」

 

 全員の視線が集中する居心地の悪さに顔を歪めたカミュは、吐き捨てるように言葉を紡ぎ出す。それは、彼の行動に全員が同道する事を許す物であり、今後も共に歩む事を了承する物であった。

 メルエが花咲くように微笑み、それを見たリーシャは彼女の額に自分の額を付けて微笑み、その二人を見たサラは手を合わせて微笑んだ。今も変わらない四人に対して、トルドも優しげに笑みを溢し、何がどうなっているのかが解らない女性もまた、その暖かな空気に笑みを浮かべる。

 

「よし。トルドの新たな門出に乾杯だ!」

 

 全てが丸く収まった事を理解したリーシャは、女性が持って来てくれた杯を手にして、友であり恩人でもある商人の新たな門出を祝う。その言葉に全員が杯を手にし、腕を高らかに掲げた。

 照れくさそうに微笑むトルドと、それで何かを察した女性の幸せそうな微笑を見ながら、サラは一気に飲み物を飲み干す。

 それは、トルドの幸せを願う四人の想いであり、二度とは会えない友への別れの杯でもあった。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
これにて、トルド編は完結となります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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イシス城③

 

 

 

 トルド宅で一夜を明かし、十分に別れの儀式と祝いの儀式を終えたカミュ達一行は、手を振り続けるメルエを引き連れ、カザーブの村の門を外へと出て行く。空は真っ青に晴れ渡り、雲が少ない快晴となっていた。

 大魔王ゾーマがこの世界にその手を伸ばし始めたとはいえ、今はまだ魔王バラモスの影響が消えた事による一時的な平和が続いている。魔物達の凶暴性は一時的かもしれないが鳴りを潜め、穏やかな風に瘴気は含まれていない。正気を取り戻した魔物達も、今は森の中などで己の生を謳歌している事だろう。

 

「カミュ、何処へ行くんだ?」

 

「そうですね……あちらの世界というのは、何処の事なのでしょう?」

 

 完全にカザーブの森へと入った事で、メルエも前を向いて歩くようになっている。先頭を歩くカミュは、ラーミアが羽を休めている場所へと向かっていた。そんな彼の背中に語りかけるように発せられたリーシャの言葉に同意を示したサラは、何かを考えるように視線を空へと移す。高い鳴き声を発しながら飛んで行く鳶を見つけたメルエもまた、目を輝かせながら空へと視線を移した。

 精霊ルビスと思われる声を聞いたのは、サラの言葉通りであればカミュと彼女しかいない。大魔王ゾーマを討ち果たす事を目的として行動するにしても、その行き先を把握しているのも二人しかいない事になる。

 

「とりあえずは、地図上で俺達が訪れた事のない地域へ行ってみる」

 

「……そうですね。それが一番の近道かもしれません」

 

 歩きながら地図を広げたカミュは、その地図上へ視線を落とす。それを横から覗き込むリーシャとサラを見たメルエは、自分だけが取り残される事を嫌い、一生懸命リーシャの身体へとしがみ付いた。

 苦笑を浮かべたリーシャが彼女を抱き上げ、幼い少女の顔が地図上に影を作る頃、カミュは一点を指差す。それは、カザーブから南東にある森と山脈に囲まれた場所であった。

 ホビットの祠から大陸内部に入る川から見て北部に辺り、オリビアの岬と呼ばれた大陸である。確かに、四年以上の旅の中でも、その場所に上陸した事は無かった。オリビアの岬にしても、船の上から視界に納めただけであり、停泊した事はない。世界中を隈なく歩いたと思われていた彼らでさえ、未だに足を踏み入れていない場所がある事にリーシャとサラは驚きの表情を浮かべた。

 カミュがその場所を指差した事によって、彼等の目的地は確定したといっても良いだろう。だが、そんな彼等の中でも、次の目的地となった場所に全く興味を示さない者が一人だけいたのだ。

 

「…………アンリ…………」

 

「え? アンリ……イシス女王様の事ですか?」

 

 地図を覗き込みながら一点だけを見つめていた少女は、その場所で出会った者との約束を思い出す。この幼い少女にとって、他人との約束程に重い物はない。そして、それを完全に思い出してしまった彼女の頑固さは、誰も敵う者はいないのだ。

 メルエという少女は、この四年の月日の中でようやく文字を読めるようになっている。全てを読めるかと言われれば、その単語が何を差すのかを全て理解した訳ではない以上、否となる。だが、彼女が覚えた言葉は数多く、少なくとも世界各国の国名ぐらいは読む事が出来た。

 イシス国という国は、この世界で唯一の砂漠の中で生きる国である。彼等が勇者一行として機能し始めた場所と言っても過言ではない場所であり、その後の旅の中で何度も彼等を救った『祈りの指輪』や、彼等に新たな道を示す事となった『魔法のカギ』という神秘の道具を手にした場所でもあった。

 

「あっ! もしかして、女王様にも『命の石』の欠片をお渡しするのですか?」

 

「…………ん…………」

 

 暫し、イシス国の女王の顔を思い出していたサラであったが、その真意に至る。メルエという幼い少女にとって、女王と交わした約束はとても重い物ではあるのだが、それ以上に彼女はある物を女王へと渡したいという願いを持っていたのだ。

 メルエという天涯孤独の少女に対して無償の笑みをくれた者は、彼女にとって大事な者となる。その大事な者には幸せな生活を送って欲しいと願い、その人生を全うして欲しいと彼女は願っていた。その表れとなるのが、彼女にとって絶対の保護者であるカミュを護ってくれた『命の石』の欠片の譲渡なのだ。

 ここまでの旅の中、それは数多くの者達へ渡された。

 異端児として同族にさえも避けられたホビット。ジパングで新たに生まれた女王。愛する妻と娘を失いながらも前へと進んだ商人。大きな夢を追う事を決めた元女海賊。常に共に歩んで来た船員達を代表した頭目。最後まで娘を愛しながらもそれを護りきる事の出来なかった事を後悔し続けているエルフの女王。

 それぞれにそれぞれの想いと後悔を持っている者達へ渡された石の欠片は、今は多くの役割を担い始めている。だが、その中で少しも変わる事無く在り続ける役目があった。

 それは、メルエという幼い少女の願いを叶える事。

 渡された者の『守護』である。

 

「そうですね。イシス女王様は、この先の時代に必ず必要な方となる筈です。メルエの想いと願いを持つ欠片であれば、大丈夫ですね」

 

「…………ん…………」

 

 自分の行動を肯定して貰えた事が嬉しいのか、メルエは満面の笑みを浮かべて頷きを返した。サラがメルエにとっての魔法の言葉を口にした事も大きいのだろう。ここまで彼女が行って来た行為が無駄ではなかった事や、その願いが間違っていなかった事を証明してくれたサラの腰に抱き付いたメルエは、次の行き先が思い通りになったのだと思っていた。

 だが、それに対し、一人顔を歪めた者がいる事に気付く者は誰一人としていない。

 

「イシスか……。サラとメルエで女王様と謁見して来たらどうだ? 私とカミュはイシスの城下町で待っていよう」

 

「え? 何故ですか? それに、私とメルエだけでは謁見の許可は下りませんよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 顔を歪めていたリーシャが、全員でイシス城へ登城する事に否定的な事を口にしたのだ。だが、それは即座にサラから否定され、その腰に腕を回したメルエの不満そうな声と瞳の矛先となる。

 確かに、人類を救うと謳われる『賢者』となったサラであっても、それは世界的に周知の物ではない。知っている人間といえば、ダーマ神殿に居る教皇と、今や世界的な海の護衛団となりつつある元海賊達くらいのものであろう。

 通常の人間からみれば、サラは歳若い女性でしかなく、メルエに至っては何処にでもいるような少女に過ぎない。その身にどれ程の魔法力を備えていても、それを制御する事が出来る二人は、意図的にそれを表に出さない限り、魔王バラモスを討伐した者には見えないのだ。

 女王であるアンリであればサラやメルエの顔を憶えているかもしれないが、それを城で働いている者に求めるのは酷である。故に、サラとメルエの二人では、謁見の間にまで辿り着く事無く、城門で追い返される可能性が高かった。

 

「アンタとメルエは、常に一緒ではなかったのか?」

 

「ぐっ!」

 

 そして、そんな二人の否定に続き、カミュの意趣返しにあったリーシャは言葉を詰まらせる。まさか、トルドの家で意識を失っていた筈の彼がその言葉を憶えているとは思っても見なかったのだろう。苦い顔をした後に、親の敵でも見るような視線をカミュへと送っていた。

 自分を擁護してくれたのがカミュであった事で、先程までの蟠りが解けたかのようにマントの裾を握ったメルエは、花咲くような笑みで彼を見上げる。そんな少女の姿を見てしまったリーシャは、その目的地を受け入れる事しか出来なかった。

 

「では、メルエ。ルーラの準備を」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャが大きな溜息を吐き出した事で、彼女が承諾した事を理解したサラは、カミュのマントの裾を握るメルエに向かって詠唱の準備に入るように指示を出す。メルエが行きたいという場所に向かうのだ。別に行使者が誰であっても変わりはないが、それでもメルエに唱えさせるべきだと判断したのだろう。

 サラに向かって大きく頷きを返したメルエをリーシャが抱き上げ、それを中心としてカミュとサラが近づいて行く。皆が傍にいる、それだけでも喜びを感じる少女が微笑みながら詠唱を完成させた。

 浮かび上がった大きな光は、暫しの滞空の後、南南西の方角へと飛んで行く。

 

 

 

 

 イシス城下町のあるオアシスの近くでは、最近多くなって来た他国からの商団の荷台が列を成していた。

 勇者一行の偉業が風の噂で広がる度に、世界各国の人間達の胸に再び希望の炎が燃え上がる。ここ数年、全く世界で名を聞く事の無かったサマンオサという軍事大国が再びその国交を開き、海を渡る商船を護衛する一団が組織を立ち上げた事で、魔王バラモスという存在に怯えながらも、人々は来る平和の世を夢見て活動を再開していたのだ。

 砂漠の中の国であるイシスにも、遠くバハラタの町や近くのアッサラームの町から商人が訪れ、砂漠に住む魔物という危険を冒しながらも商売を開始する。勿論、人間の力など及ぶ事のない程に強力な魔物達の被害は減る事はない。何人もの犠牲を出してでも、その先にある世を生き抜く為に、商人達は他国を目指した。

 

「もう少しでイシス城下だ。オアシスの麓にあるから水もある。もう少しの辛抱だぞ」

 

 そんな商人達の一人であるこの男もまた、そんな未来への夢を見る者の一人であった。

 数日前にそんな未来の道に立ち塞がっていた魔王バラモスが勇者一行によって討ち果たされたという報は、全世界の国家が同時に発表した。彼は旅の途中で寄ったロマリア国でその報を聞き、魔物の脅威が薄れて行く中で商売の競争が苛烈する事に焦りを感じて、僅か数日でこの場所まで来ていたのだ。

 生国はポルトガ。近年、勇者一行の船を造船した事から世界的にも発言権を持つようになり、世界各国との貿易を再開した事で富をも築き始めた国である。だが、勇者一行に船を与えてから既に三年近くの月日がこの貿易国家を変化させ過ぎたのかもしれない。

 既に出来上がった商売しかその場には無く、新たな商売を始めるにも土地はない。利権は目ぼしい者達に抑えられ、若い商人達が入り込む余地が無くなっていた。それでもその場で新たな商売を始める者達は数多くいたが、彼は新天地を求めてポルトガ国を出たのだ。

 

「キシャァァァ!」

 

 しかし、彼の旅は決して楽な物ではなかった。

 勇者一行によって着実に近づいていた魔王討伐の瞬間ではあったが、魔者達の凶暴性は強く、彼が持つ馬車は何度も襲われ、その度に馬を失う。ポルトガから持ち出した荷物や売り物の半分以上も失い、ロマリアに着く頃には元手以下のゴールドしか手に入らなかった。

 何度も挫折を繰り返しながらも、『砂漠の真ん中にある国であれば、他国よりも需要の多い商品は多いだろう』という希望的観測の中、彼はここまで歩み続けて来る。しかし、それも限界であったのかもしれない。

 

「……ふぅ。流石にこれは逃げ切れないかな……お前はお逃げ」

 

 既に前方には水辺に生い茂る木々が見え、その奥には美しく輝く城が見えている。数刻もしない内にイシス城下町の中へ入る事が出来るところまで来ていたのだ。だが、今、彼の目の前には四匹の巨大な蟹が取り囲むようにその牙を向けている。

 ここまでの旅で何度も魔物に遭遇し、馬車を引く馬を見捨てて逃げていた彼であったが、今共にいる馬はその中でも最も長く彼と共に歩んで来た馬であった。身体を焼く程の熱気に満ちた砂漠中で、水を分け合い、お互いを叱咤しながら歩んで来た戦友を一撫でした彼は、全てを諦め、全てを受け入れるような瞳を『地獄のハサミ』へと向ける。

 しかし、そんな彼の達観は、精霊ルビスはおろか、その上に立つ創造神にさえも認められる事はなかった。

 

「……サラ、やはり魔物達にも再び影響が出ているのか?」

 

「そうかもしれません。魔王バラモスの消滅で凶暴性は静まった筈ですから」

 

 城が見えるオアシスの方角から見えた陰は、砂漠の砂が発する熱によって歪んでいる。死を受け入れようとしていた商人は、陽炎によって生まれた幻とばかり思っていたそれは、姿がはっきりと視認出来るようになった頃、何か会話を始めたのだった。

 はっきりと見えるようになった影は全部で四人分。大きな影が二つに、彼よりも少し小さな影が一つ。そして、大きな影の横に更に小さな影が一つ見えている。死ぬ前に見る幻かとも思った彼であったが、自分の目の前まで来た幻は、一瞥する事も無く魔物へと向かって鋭い視線を送った。

 

「逃げるなら良し。向かって来るのなら容赦は出来ないぞ」

 

「アンタ一人で大丈夫だろう」

 

 大きな影の一つであった者が女性である事に驚いた彼であったが、その女性が背中から抜き放った斧の鋭さに更に驚く事となる。彼とて、駆け出しとはいえども商人である。ある程度の武器の良し悪しは解るつもりであるし、鑑定する事で値を決める事さえも出来た。だが、その女性が抜き放った斧は、彼がこれまでの人生で見て来たどんな斧よりも鋭く、どんな武器よりも禍々しい雰囲気を放っていたのだ。

 彼と同様の想いを魔物達も感じたのかもしれない。斧を構えたまま微動だにしない女性に対して気後れしているかのようにも見える。巨大なハサミを忙しなく動かし、飛び出た目を動かし、進むべきか退くべきかを迷っていた。

 

「キシャァァァァ」

 

 しかし、その内に一体が恐怖によっての錯乱の為か、巨大なハサミを振り上げたのだ。振り上げられたハサミはそのまま目の前に立つ女性に向かって振り下ろされる。通常の人間であれば、その一撃で地に伏し、そのまま巨大なハサミによって身体を捩じ切られた事だろう。それだけの力を、砂漠の中でも上位に立つこの魔物は有していた。

 だが、地獄のハサミと呼ばれる凶悪な魔物の前に立つ女性は、並の人間ではない。この砂漠を通過した日が遥か昔に感じる程の濃い経験を経て、彼女は人類最高位に立つ戦士となっている。そして、今や数多くある種族の垣根を越え、正に世界最高位に程近い場所に彼女は立っていた。

 

「キィィィィィィ」

 

 鳴き声なのか叫び声なのかも解らない叫び声を上げた地獄のハサミの身体が真横へと弾け飛ぶ。しかし、弾き飛ばされた身体は地獄のハサミの上部のみであった。

 斜め下から繰り出されたその一撃は、地獄のハサミの足元から突き入り、そのまま腕の上部まで突き抜けたのである。並の人間では理解出来ないばかりか、その速度を目で追う事さえも出来ない一撃は、一瞬でこの地方で食物連鎖の上位にいる魔物を葬ったのだ。

 体液の付着した斧を一振りした女性は、そのまま次の獲物へと目を向ける。その視線の鋭さと、その身体から溢れる空気は、魔物だけではなく、その場で成り行きを見る事しか出来なかった商人さえも怯えさせてしまった。

 

「リーシャさん、魔物達に最早戦意はありません」

 

「ん? そうだな。さっさと棲み処に帰れ」

 

 後方から告げられた声に、斧を持った女性はその空気を和らげ、武器を背中へと納める。場の空気が変わった事でようやく身動きが取れるようになった地獄のハサミ達は、我先にと砂の中へと姿を隠していった。

 ようやく去った危機に対する安堵とは別に、今見たばかりの凄まじい重圧に腰を抜かし、そのまま砂の上に腰を落としてしまう。股間の部分に若干の湿り気がある事は致し方のない事なのかもしれない。それだけの恐怖を与えてしまう程、彼等の力は規格を大きくはみ出してしまっているのだ。

 商人と共に歩んで来た馬も女性戦士に怯え、細かく身体を震わせている。こちらは恥も外聞も無く、砂地に体内の水分を出し終えてしまっていた。

 

「…………おうま…………?」

 

 そんな緊迫した空気を壊したのは、それぞれの分野で人類の頂点に立とうとしている者達と共に歩み続けていながら、何時までも変わらない少女であった。

 怯えている生き物に不用意に近づいてはいけないという事を教えられている彼女は、少し離れた所で小首を傾げて馬を見つめる。馬を見て『あなたは馬ですか?』と聞く事自体が何処か抜けたものではあるのだが、幼い少女がそれをする事によって、先程までの微妙な空気が一変してしまうのだった。

 馬の怯えた瞳が徐々に和らぎ、純粋に見つめる幼い少女の瞳を覗き込む。暫し見詰め合った馬と少女であるが、馬の瞳の中に映った一瞬の影が消えると、馬の方から少女へと歩み寄って行った。少女に触れようと下げられた首に小さな手が添えられると、安心したように馬は静かに瞳を閉じる。止まっていた時間が再び動き出した。

 

「大丈夫でしたか? イシス城下町もすぐですから、私達と一緒に行きましょう」

 

「へっ? あ、ああ……貴女達は人間なのですか?」

 

 腰が抜けたように座り込んでいた男性に手を差し伸べたサラは、男性から返って来た言葉に一瞬顔を顰める。その言葉は、彼女が最も恐れていた物であり、彼等四人の未来に暗雲を呼ぶ物でもあったのだ。

 差し出した手を落としそうになるサラではあったが、何とか意識を繋ぎとめ、ぎこちない笑みを浮かべる。若干引き攣り気味の笑みは、様々な想いが込められていたのだろう。それに気付いたリーシャは、サラがランシール近辺で恐れていた事が現実になりつつある事をようやく理解したのだった。

 

「…………ふふふ…………」

 

 眉を顰めていたサラを見て、尚更不安を煽られた男性であったが、自分の馬がじゃれ付いている少女の笑みを見て、顔の険しさを解いて行く。飼い主としての贔屓目ではないが、ここまで共に旅を続けていた戦友は、利口な馬であった。魔物の気配を察知する事も出来るし、危険な物に極力近づかない。自分にとって害になるか否かの判断を誤る事がないからこそ、数多くいた馬の中でも唯一生き残って来たのだ。

 そんな馬が恐れもせず、怯えもせず、警戒もせずに戯れる相手が、人間に仇成す物である訳がない。この男性は、そう思う事にした。

 

「申し訳ありません。余りの事に混乱してしまったようです。商人としてあるまじき振る舞いでした。お許し下さい」

 

「い、いえ! こちらこそ、無用な恐怖を与えてしまったようで……」

 

 静かに頭を下げた男性の心からの謝罪を受け、サラは慌てて頭を下げ返す。その二人の行動が余りにも滑稽であり、リーシャが笑い声を上げ、その声を聞いたメルエもまた笑みを浮かべた。

 その後、馬の背中に乗せてもらった事に大喜びしたメルエは、ゆっくりと歩く馬の背から見える砂漠の景色に頬を緩める。周囲に砂しか見えない場所であっても、今まで見た事の無いその視点は、彼女にとって何よりも楽しい事なのだろう。

 そのままイシス城下町へと入った一行は、商人の男性と別れ、イシス城へと続く道を歩き始めるのだが、その際に馬から降ろされる事を嫌がったメルエに三人が苦労した事は、後の笑い話となるのだった。

 そして、夢と希望を持ってイシスへと移り住んだ男性が、勇者一行に救われたという強運を使い、イシス国で大きく成長を遂げる事もまた、別の話である。

 

 

 

「よく戻りましたね。面を上げなさい」

 

 勇者一行が魔王バラモスを討ち果たしたという報は、このイシス国まで届いていた。

 イシス城門の前で名乗ったカミュ達の顔を見て、それを証明するイシス女王が記した文を見た門番達は、歓喜の声を上げて城内へと取り次ぎに行く。魔王バラモスという諸悪の根源は、それ程までに『人』の心を蝕んでおり、それを討ち果たしたという報は、世界中を歓喜の渦に飲み込んでいたのだ。

 それだけの変わりように驚いたサラであったが、彼女が謁見の間に通された時、門番の変化など些細な事のように感じる程に驚く事となる。

 謁見の間で対面の玉座に座る女王の姿は、ここまで見て来た王族のどれとも異なる物であり、その容姿を含めて別次元の物に映ったのだ。

 

「魔王バラモスの討伐、誠に大儀であった」

 

「はっ」

 

 四年近く前にこの場所を訪れた時の、祖母に怯え、自分の運命に怯えていた少女は何処にもいない。凛として玉座に座るその女性の身体からは威厳という空気が醸し出されており、周囲の人間もそれに呑まれる事無く自分達の王を立てていた。

 それは、自分の人生に絶望を感じていた少女が、一国を担うだけの王へと変貌を遂げた事を証明している。城下は潤い、未だに闘技場はあれど、町行く者達の顔は総じて笑顔であった。誰しもが砂漠という厳しい環境の中でも明日への希望を持っている証拠であり、そのような未来を造り得る事の出来る存在として、自分達の王を崇めている証拠でもある。

 ピラミッドという王家の墓を封鎖し、王族以外の立ち入りを禁じて尚、この国には人が訪れるだけの価値が存在する。その価値を作り上げたのは、歴代の王から全てを受け継いだ、目の前に座る絶世の美女なのだろう。

 

「して、このイシスへ戻ったという事は、妾に答えを聞かせてくれるという事ですね?」

 

 イシス女王アンリの言葉の意味を知る者は、この場に一人しかいない。先頭で跪く、この世界に新たに生まれた真の『勇者』だけである。

 アンリという運命に翻弄された少女が、一国の女王として立ち上がったその夜に交わした二人だけの言葉の中にあった問いかけ。それに対しての答えを期待した女王の瞳は、以前の少女に戻ってしまったかのように輝いていた。

 そんな女王の変化に戸惑いを見せながらも、問い掛けの内容が理解出来ない重臣達は顔を見合わせ、サラやメルエもまた首を傾げる。だが、その中でリーシャだけが何かを察しているのか、眉を顰めるように表情を硬くしていた。

 

「……再び旅に出ます」

 

「旅に? 魔王バラモスは確かにこの世界から消滅した筈ですよ。各国の王達が、ルビス様のお言葉を聞いています」

 

 カミュの予想外の答えを聞き、イシス女王はもう一度疑問を投げかける。そんな女王の疑問は、奇しくもサラの疑問を全て解消する事となった。

 カミュ達一行が魔王バラモスを討ち果たしてからの時間の経過を考えると、全世界にその報が届くのが早過ぎる。それはサラという賢者にとって何よりも強い疑問であった。だが、崩壊が進むバラモス城でサラが聞いた声の主が、世界各国の王族の夢の中に現れていたとしたら、その疑問は一気に解決してしまう。そして、それだけの事が出来る力を、あの声の主が持っていた事は明白であったのだ。

 

「平和が訪れたこの世界に私は必要ありません」

 

「そのような事はないと、あの時に妾は伝えた筈ですが?」

 

 カミュが漏らした言葉に表情を変えた女性が二人。

 一人は、目の前の玉座に座る美しき砂漠の女王。あからさまに顔を顰め、その美しい顔を歪めた瞳には、明確は怒りが込められている。カミュという勇者の瞳の中に絶望以外の色を見つけたこの女王は、世界中の願いである『魔王討伐』という物を成し遂げた後の彼の必要性を説いたつもりであったのだ。

 彼の瞳の中に微かに見えた『希望』の光は、その輝きを濃くしていると彼女は感じている。それは、彼自身がこの世界に対して希望の光を見たからなのだと考えていた。故にこそ、カミュの言葉が許せない。

 そして、もう一人は彼の後方で跪く女性戦士。世界最高位に立つ程の実力を有する者であり、最も勇者の心を知る者である。彼の心に巣食う闇と、その闇を払う光を知るが故に、彼の苦悩を理解していた。だが、それでも彼のその言葉は許す事が出来ない。

 その言葉が心の底から出ている本音なのか、旅に出る事を正当化する建前なのかは彼女には解らないが、その言葉は彼女にとって最も嫌な言葉なのだ。『そういう存在』という言葉を口にしなくなった彼ではあるが、平和な世界に必要のない者という言葉は同じような物である。握る拳から血が滲み出す程に悔しい言葉であった。

 

「……私の中の迷いは未だに晴れません」

 

「!!……そうですか」

 

 様々な想いが交差する中、搾り出すように口にしたカミュの言葉に、イシス女王アンリは絶句する。彼が口にした『迷い』が何を示すのかは解らない。だが、そのやり取りは、あの夜に二人だけで交わした物であった。

 『魔王討伐を果たし、その迷いも晴れたのならば、この地で共に生きて欲しい』

 これが女王アンリの願いであった。その願いを遠回しに断っている事が彼女には理解出来たのだ。世界に平和は訪れた筈。それでも彼の迷いが晴れないのならば、『人』の生み出した社会で生きる事は出来ないだろう。

 

「本日は、後方に控えるメルエから、女王様へ献上したき物がございます」

 

「……メルエからですか?」

 

 失意の中、呆然と視線を彷徨わせるアンリに再び掛けられた言葉は予想外の物であり、その言葉によって彼女は現実へと引き戻された。再び焦点の合った視線の先にいる少女は、アンリに向けて可愛らしい笑みを浮かべている。先程までのアンリとカミュの会話の内容が理解出来なかった彼女は、ようやく自分の番になった事を喜び、献上品を受け取る為の器を持った役人が近づいて来るのを待っていた。

 器に載せられた物は、小さな宝玉のような欠片。淡い青い輝きを持つそれは、神秘的な光を宿しており、アンリが数多く見て来た宝玉とは全く異なる物であった。

 

「これは?」

 

「畏れながら申し上げます。それは、ここにおりますメルエが、己にとって大事な方を護ってくれるよう祈りを捧げた石の欠片でございます。以前に勇者カミュを護りし『命の石』の欠片であり、このメルエによって新たな力を吹き込みました。叶う事ならば、女王様に身に着けて頂ければとメルエは願っております」

 

 その石に関しての答えを口にする事を躊躇うカミュの様子を察したリーシャは、このイシス城で初めて女王に向かって口を開く。その横では、自分の想いが正確に伝えられている事を喜ぶように、幼い少女が花咲くような笑みを浮かべていた。

 メルエにとって、アンリは恩人である。幼い指に嵌められた指輪は、何度も少女の願いに応えてくれた。『大事な者達を護りたい』という少女の願いに応えるように、再び少女の身体の内に魔法力を宿して来たのだ。

 その指輪は、イシス女王アンリからの贈り物であり、女王の願いをも宿した物。それと共に交わした約束を果たしたメルエは、その贈り物に対しての返礼をしたいと思っていたのだろう。

 

「ありがとう、メルエ。これは生涯に渡り、私の身を護ってくれるのでしょう。肌身離さず身に着ける事をここに誓います」

 

「…………ん…………」

 

 美しい女王の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。それは、メルエからの贈り物に対する嬉し涙なのか、それとも彼等との永遠の別れを示す贈り物を受け取ってしまったという悲しみの涙なのかは解らない。だが、女王からの感謝を受け取った少女の笑みは、全てを打ち払う程の輝きを宿していた。

 少女の願いを宿した青い石の欠片を大事そうに両手で包み込んだアンリは、静かに瞳を閉じる。女王の胸の中にある想いは誰にも解らない。それは長らく側近として働いて来た者達であっても察する事は難しいだろう。

 そして、再び瞳を開いたアンリの表情は、先程までとはまた異なった物となっていた。

 

「そなた達の旅の目的は問いません。そなた達にはそなた達の信ずる物があるのでしょう。そなた達の歩む道の先に、多くの幸ある事を祈っています」

 

「……イシス国の更なる繁栄を」

 

 最後の会話は、一国の女王と来訪者の物となる。

 そこに、以前訪れた夜のような温かみはない。己の感情を己の立場で打ち消したその会話は、冷たい風を巻き起こした。

 

 

 

 そのまま謁見自体は終了し、今代の勇者率いる一行は謁見の間から退出して行く。玉座に残ったアンリは、謁見の間から見える西日へと視線を向けた。全てを赤く染める程の太陽の光は、謁見の間をも燃え上がらせるような色へと染める。一言も口を開く事無く外へと視線を向ける女王の心中を察した側近の一人が皆を下がらせ、無言の女王に一礼した後、自らも謁見の間から退出して行った。

 

「くっ……うぅぅ………」

 

 誰一人いなくなった謁見の間で、どれ程の時間が流れただろう。真っ赤に燃え上がった太陽が西の大地へ沈み、周囲を闇が支配し始めた頃、玉座に座る一人の女性の嗚咽が漏れる。一度溢れ出した感情は、簡単に抑える事は出来ず、瞳を覆うように伸ばした掌の隙間から小さな水滴が落ちて行った。

 もう片方の掌へと落ちた雫は、そこに乗る小さな石の欠片に染み込み、淡い輝きを曇らせる。しかし、何度も落ちる雫を受け続けた石の欠片は、新たに吹き込まれた使命を刻み込み、染み込む雫の主を、新たな主として認識して行った。

 

 メルエという幼い少女の願いが込められた小さな石の欠片は、己の主の身を護るという使命を帯びて行く。それは、『人』という短命な種族だからこそ成り立つ使命なのかもしれない。誰かを想い、誰かを信じ、誰かと寄り添わねば生きては行けない種族だからこそ、己の力が届かない者の身を強く案じる。

 それが『人』の強さなのかもしれない。

 

 イシスの国に受け継がれている国宝は二つある。

 一つは創造神からイシス王族が下賜されたと云われる『星降る腕輪』。王族の血に共鳴する事によって、装備した者の俊敏さを天突く程に上げる効果を持っていたと云う。女系家族のイシス王族の女王から、娘である次代女王へと継承されて行った。

 もう一つは、神の使いと謳われた勇者から与えられたと云われる『砂漠の涙』。

 勇者の身を想うその時代の女王の涙のような形状と、その石に込められた勇者の願いは、イシス国王家に長く受け継がれ、その淡い青色の輝きは永遠に色褪せる事はなかった。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

イシス編も完結です。
これにて、この世界での残りは後一つ。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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竜の女王の城

 

 

 

 イシス城下町で一夜を明かした一行は、ラーミアの背に乗り込み、再び上空へと舞い上がる。オアシスの湖が朝陽を反射して輝き、砂しかない砂漠を黄金色に輝かせていた。ラーミアの背中から見える景色に目を輝かせたメルエが身を乗り出し、それを諌めるサラの声が響くという一連のやり取りもいつも通りである。

 彼等の目的地は、北東の大陸。カザーブの東部に位置する森と山に囲まれた場所であった。アリアハンを出立してから四年以上の月日が流れる中、一度も上陸した事のない場所であり、一度も通過した事のない場所である。

 

「メルエ、アッサラームが見えますよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 上空へ舞い上がったラーミアは、そのまま東へ進路を取り、アッサラームの上空から北へと進路を変える。その際に見えた、夢と現実が交差する町の姿にサラが声を上げた。しかし、その声に反応したメルエは何処か不服そうに頬を膨らませる。彼女にとって余り良い思い出のないその場所は、今でも彼女の心に蟠りを残しているのだろう。

 小さな苦笑を浮かべたサラは、メルエの頬を両手で挟み込み、頬を萎ませた後で笑みを溢す。その笑みを見たメルエもまた小さな笑みを浮かべた。

 

「サイモン殿の亡骸の場所をサマンオサ国王様にお伝えしなくても良かったのか?」

 

「あの牢獄の存在が広まれば、ようやく治まりを見せた国に新たな火種を生む事になる。それに、英雄には英雄の役割がある筈だ」

 

 アッサラームを北へ進むと、巨大な湖があり、その中心に浮かぶ小島を見つけたリーシャはカミュへと問い掛ける。その場所には地下へと続く牢獄があり、食べ物も水もないその場所は死しか見えない場所でもあった。

 その場所にあったのは、サマンオサの英雄の亡骸。既に事切れて十数年の時間が流れており、肉も皮も無くなり、骨さえも風化した部分が多くある物であった。サマンオサの新たな英雄となった彼の息子であるサイモン二世は、父であるサイモンの居場所を探していた筈である。人としての情けがあるならば、その場所を教える事が当然の義務であろう。

 だが、それをカミュは否定した。彼にとって、サイモンという存在は過去の人間なのである。今、新たな道を歩み始めたサマンオサ国にとって、その存在は害悪にしかならない。心苦しい事ではあるが、サマンオサ国家は過去を忘れずとも、振り返る事無く進む時なのだ。そこに、あの惨い牢獄の存在を伝える事は、情の上に於いては正しい事でも、政治上は愚行にしかならないだろう。

 そして、カミュが言うように、『英雄には英雄の死に様がある』のかもしれない。英雄の役割は、戦いで勝利を勝ち取る事だけではない。その死もまた、意味のある物でなければならないのだ。

 当代の勇者である彼が、それをその身で証明している。

 

「オルテガ様にもその役割はあるのか?」

 

「……遺骸が残っているだけ、サイモンの方が上だろう」

 

 吐き捨てるように溢したカミュの言葉に、リーシャは小さな笑みを浮かべる。決して許す事の出来る発言ではない。死者を冒涜するような発言である事は理解しているが、それでも彼の小さな変化に喜びを感じてしまう自分に彼女は笑みを溢してしまったのだ。

 『英雄オルテガ』の名が出て来る時、これまでならば、彼は頑なにその口を閉ざしていた。鼻で笑い、他人の事のように語る事はあっても、その存在自体を明確に認めた発言は初めてかもしれない。『サイモンの方が上』という事は、それ以下であっても、オルテガもまた英雄としての役割を担っていた事を認めているのだ。

 魔王バラモスを討伐した事によって、彼もその偉業を一人きりで成し遂げる事が不可能である事を理解したのだろう。それでも世界各国に残るオルテガの名が、英雄として魔王バラモスの許まで辿り着いていた事を示していた。その功績は、カミュでさえも認めざるを得ない状況にまで達していたのだ。

 

「……お前は死ぬなよ。それだけは、絶対に許さんぞ」

 

「死すら許されないのか……残酷な話だ」

 

 笑みを消したリーシャは、真剣な表情でカミュを睨みつける。その言葉は、勇者として確立したカミュに対する願いであり、命令でもあった。そんな言葉を聞いたカミュは、口端を小さく上げ、苦笑を漏らすように笑みを溢した。

 英雄として生きて行く道と、勇者として行きて行く道は異なる物かもしれない。英雄としての役割、勇者としての役割、その違いはリーシャには解らない。だが、それでもその先にある未来が、天寿を全う出来ない死ではならないというのが彼女の信じる勇者の道であった。それはとても厳しく、とても重い願い。それと同時にとても優しく、とても暖かな想いでもある。

 メルエとじゃれ付いていたサラも、二人のやり取りを聞きながら笑みを溢し、そんなサラを見たメルエも花咲くような笑みを浮かべていた。

 

「…………おしろ…………」

 

「え? あっ、本当ですね。山脈に囲まれた森の中央に大きなお城が見えます」

 

 そんな和やかな空気の中、再びサラの脇を抜けたメルエが地上に大きな建物を見つける。

 基本的に、メルエの言葉遣いはサラを真似ている節がある。言葉自体を流暢に話す事の出来ないメルエである故に単語のみにはなるのだが、馬や城などの頭に「御」という言葉を付ける事が多かった。

 メルエが見つけたその城は、アリアハン城の倍近く有る敷地面積で建てられており、この世界の人間が建造した物とは異なる風貌をしている。通常の国家の城には周囲に城下町が存在し、多くの国民が生活する住居などがあるのだが、その城にはそれが存在していなかった。

 煉瓦や石を組み合わせて建造する『人』の城は、本来敵襲に備えた造りとなり、堀に水が張られていたり、跳ね橋を架けたりする物が多い。しかし、この巨大な城は、まるで自然が造り出したような形状で、堀も無く橋も架かっていない。それでいて、難攻不落の城のように悠然とその場に建っていた。

 

「この辺りに国家などあったか?」

 

「いや、私が知る国家は、六つしかない」

 

「そうですね……アリアハン、ロマリア、イシス、ポルトガ、エジンベア、サマンオサの六カ国。その他に神殿のような物はありましたが、神殿には見えませんね」

 

 メルエの見つけた城の上空を旋回するラーミアの上で、カミュはその城の所持国を考えるが答えは出ない。リーシャに問い掛けてみるも同様であり、サラもまた一つ一つの国家の名を出しながら考えるが、それらしい物は思い当たらなかった。

 何処かの国家に属する支城であったとしても、人が入り込む事の出来ない程の険しい山脈に囲まれた森の中に建造する意味がない。砦や支城という物は、本城への補給路の確保や他国からの侵攻への備えとして建造するのが常識であり、誰も入り込めない場所に建てる意味はないのだ。

 誰も入り込めないという事は、この場所に元から暮らしていた者達が建造したものか、それとも『人』ではない者が建造したとしか考えられない。

 

「…………おりる…………?」

 

「どうしますか?」

 

 幼い少女は皆が行く場所に行くだけ。当代の賢者は考えるが決定する事はない。彼等の行動の全てを決めるのは今代の勇者。二人の問い掛けに静かに頷きを返した事で、彼らの行き先は決定された。

 一鳴きしたラーミアがゆっくりと地上に向けて下降して行く。徐々に近付いて来る山脈が予想以上に険しい物である事に気付いた。地上に立っていれば、果ての見えない森ではあるだろうが、空から見たその場所は、完全に巨大な山脈に取り囲まれており、山脈の外側からはその森に入る事さえも不可能に近い行為であろう。この場所が『人』が入り込む事も出来ない未開の場所である事は確かであった。

 

「近くで見ると、圧倒される程の城だな」

 

「そうですね。自然が生み出した城なのか、それとも手を加えられた物なのかは解りませんが、人間では生み出せない建物だと思います」

 

 城のすぐ傍に着陸した一行は、その外観に圧倒される。常に冷静さを失わないカミュでさえも、その圧倒的な存在感に気圧されていた。

 森を刳り貫いたような平地に建てられたその城は、人間が建造した城などとは比べ物にならない程の大きさであり、それは正に巨大な山があるかのような物である。それでいて精巧な装飾が施されており、窓のような物や、勝手口のような扉、そして来訪者を迎える為の巨大な門まで存在していた。

 人族ではない他種族の城と言われても納得してしまうその存在感は、進入不可能な森の中でも際立っている。それでいて、他者を恐怖させない空気が流れているのだ。魔王バラモスが居城としていたネクロゴンドにある城もその存在感は大きく、他者を圧倒させる物ではあったが、同時に恐怖で足を竦ませる物でもあった。だが、この城にはそのような威圧感はなく、その証拠に鳥達や小動物達が多く城の周りで営みを生んでいる。

 

「メルエ、行きますよ」

 

「…………ん…………」

 

 巨大な城に興味を示さず、その傍で生活している動物達へ視線を向けて頬を緩めていたメルエは、サラの呼びかけに応じてその手を取る。しかし、一羽の小鳥がそんなメルエの被っている帽子の先に留まった事で、幼い少女の身体は停止してしまった。

 帽子の先に感じる微かな重みを確認する為に首を動かす事も出来ず、それでも自分の近くに来た物を確認したいと願う少女は困ったような表情を浮かべる。そんなメルエの表情に雰囲気を和らげたカミュ達は、城へ入る事を後に回し、メルエの傍に座り込んだ。

 まずはリーシャが芝生に座り込み、それを見たサラもまたメルエの手を外して腰を下ろす。最後に、苦笑交じりの溜息を吐き出したカミュがメルエを囲むように腰を下ろした事で、暫しの休息が決まった。

 ラーミアも羽根を休めるように身体を丸め、暖かい陽光を浴びながら瞳を閉じる。そんな穏やかで優しい時間が流れて云った。

 

「ほら、メルエもゆっくり座って」

 

「…………むぅ…………」

 

 未だに身動き一つ出来ないメルエは、サラの言葉に不満そうに頬を膨らませる。動いてしまえば、折角自分の傍まで来てくれた何かが逃げてしまうかもしれない。それは少女にとって哀しい事以外の何物でもなく、それを指示するサラに不満を漏らしたのだ。

 だが、そんなメルエの考えを否定するように、帽子の先に留まっていた小鳥は飛び立ち、重さがなくなった事でそれを感じたメルエは、残念そうに眉を下げる。

 

「大丈夫ですよ、メルエ。ほら、鳥さん達を驚かせなければ、またメルエの傍に来てくれます」

 

 泣きそうな表情でサラを見つめるメルエの帽子を取ってあげたサラは、美しい鳴き声を放つ小鳥達が、物珍しそうにカミュ達を遠巻きに見つめている事に気付いていた。

 害のない者達である事を理解し、突如動き出す事さえなければ、小動物達は距離を縮めてくれるだろう。その証拠に、一羽の小鳥がメルエの傍に近付き、その肩の上に乗ったのだ。

 突然の出来事に驚いたメルエであったが、再び指一本動かす事の出来ない状況に陥り、首を動かそうにも動かせず、その存在を確認出来ない事に眉を下げる。そんな少女の表情が可愛らしくも滑稽であり、リーシャもサラも優しい笑みを溢すのだった。

 一羽の小鳥がメルエの肩に乗った事を機に、小さな動物達がメルエの傍へと近寄って来る。数羽の鳥達がメルエの足元に乗り、小さなうさぎのような動物が、メルエの傍の草を食べ始めた。

 

「しかし、メルエの傍ばかりに集まるな」

 

「そうですね。メルエが動物達に好意を持っている事が伝わっているのかもしれませんね」

 

 小動物達はメルエの傍ばかりに集まっている。メルエの横にいるリーシャやサラの傍を避けるように集まる小動物達に疑問を持ったリーシャであったが、そんな小動物達との戯れに満面の笑みを浮かべている少女の姿に頬を緩め、それを追及する気はなかった。

 それはサラも同様であり、メルエの身体から溢れる好意が小動物達にも伝わっているのかもしれないと考えるようにし、その様子を和やかに見つめている。笑みを浮かべていたメルエが、傍で草を食むうさぎを見つめ、サラの方へと視線を向けた事で、その内容を察したサラは優しく口を開いた。

 

「うさぎさんですよ」

 

「…………うさぎ……さん…………」

 

 何度か見た事のある動物である事は知っているのだろう。だが、大抵は食料として登場するその動物を死骸でしか見た事のなかったメルエは、その名を覚える事はなかった。死んでしまっているうさぎを哀しそうに見つめ、そのまますぐに目を離してしまうメルエは、その後の食事は食べるものの、それが何の肉なのかを理解しないままこの場まで来ていたのだ。

 本来、人間は他者を食らわなければ生きて行けない。魔物が人間を食うように、人間も小動物を食すのだ。それを幼いながらも理解し始めたメルエにとって、今後うさぎを食す事に難色を示すかもしれないと、うさぎの背を恐る恐る撫でている少女を見てサラは思っていた。

 サラにとっても、うさぎは得意な部類の動物ではない。彼女の記憶に残る傷跡は、母親を殺した一角うさぎである。明確に憶えている訳ではないが、それが原因でうさぎを好きにはなれない事は事実であった。それでも賢者となり、何にでも興味を持つメルエが小動物達を分け隔てなく見つめるのを見ていて、彼女の中の気持ちにも幾分かの変化が見えている。生きとし生ける物全てが、己の生を全うする為に懸命に生きている事を、サラという賢者はこの長い旅路の中で学んで来たのであった。

 

「グオォォォォォォ!」

 

 誰もが笑みを浮かべるような和やかな時間は、突如響き渡った咆哮によって打ち壊される。大地が揺れる程の大声量は、メルエに寄って来ていた小動物達を驚かせ、一瞬の内に散開させてしまった。

 何も小動物だけではない。その咆哮は生物の奥に存在する潜在的な恐怖心を煽る程の物であり、サラはおろか、リーシャやカミュでさえも臨戦態勢に入る程の物であった。

大地が震え、木々が振るえ、鳥達が本能のままに飛び去る。それと同時に、サラの胸に何かが飛び込んで来た。

 

「…………サラ……サラ…………」

 

「メ、メルエ、どうしたのですか? 落ち着いて……ね、落ち着いて」

 

 サラの胸に飛び込んで来たのは、幼い少女。先程まで満面の笑みを湛えていた筈のメルエは、小刻みに震え、サラの胸に顔を押し付けるようにしがみ付いている。小刻みに震えた身体は、生物としての根本的な恐怖を示していた。

 メルエがここまで怯えた姿を見たのはいつ以来であろう。サラの言葉も聞こえていないように、サラの名前を呼び続けて離れまいとしがみ付き続ける。

 カミュ達四人は、これまでに何度も強敵と相対して来た。それこそ、自分達の数倍もある敵と戦い、勝利をもぎ取って来たのだ。何度も死を覚悟したし、何度も絶望を味わって来ている。それでも世界最高位に立つ程の魔法使いであるメルエが、ここまでの怯えを見せた事は一度しかない。

 

「カミュ、どうする?」

 

「……警戒は怠るな。だが、これは威嚇の咆哮というよりは、何かに苦しんでいるような叫びに近いな」

 

 魔神の斧へ手を掛けたリーシャではあったが、それに対するカミュの答えを聞き、何故か納得してしまう。確かにその声は誰かを威嚇して遠ざけるというよりも、自分の中にある苦痛を叫ぶような物に聞こえる。それは、何かに耐える苦しみのようであった。

 カミュの言う通り、警戒を解く事は出来ないが、魔王バラモスに挑む時のような過剰な戦闘態勢は必要ないだろう。それは、恐怖を湧き上がらせる程の咆哮でありながらも、この場所の空気が殺気に満ちた物でない事からも明らかである。

 問題は、未だにサラの胸に顔を埋める一人の少女。小刻みに震えた身体は治まる事はなく、背中を摩るサラは困惑したようにカミュ達へ視線を向ける。メルエの様子が尋常でない事に改めて気付いたリーシャとカミュは、少女の傍に屈み込んだ。

 メルエの怯えがここまで強かったのは、ジパングにてヤマタノオロチという魔物が生息する溶岩の洞窟へ入った時以来だろう。あの時のメルエも、サラの腰にしがみ付くように怯え、戦闘を開始する事が出来なかった。

 

「メルエ……私がいるぞ。私がいる限り、メルエには指一本触れさせない。相手が誰であろうと、何であろうとだ」

 

「…………リーシャ……リーシャ…………」

 

 考えてみれば、あの時のメルエを奮い立たせたのも母のように、姉のように少女を護って来た女性戦士であった。彼女の声は、いつでも仲間達を奮起させる。彼女が居るという事だけで、賢者も魔法使いも自分の役割を思い出し、自分達が護られている事を思い出すのだ。

 サラの胸からリーシャの豊かな胸へと移動したメルエは、未だに震えが治まらないながらも、しっかりと顔を上げる。小さな身体を抱き上げたリーシャは一度カミュへと視線を送り、彼がその行動を了承した事で、メルエを抱いたまま城へ入る事にした。

 

「……行くぞ」

 

 大きな門を押し開き、中の様子を確認したカミュは、後方で控えた三人へ合図を送る。押し開かれた城内は、しっかりと明かりが点されており、外から差し込む陽光も相まって、かなり明るく照らされていた。

 外見とは裏腹に、とても綺麗にされている城内には埃一つなく、正面に見える扉のノブに至るまで輝くように磨かれている。それは、この城の城主の他に、それを世話する者達などが多く存在する事を示しており、その者達が今も尚この場所にあり続けている事を物語っていた。

 

「ここが、竜の女王様の居城と知っていての来訪か?」

 

 城内の様子に驚いていたカミュ達は、突如横から掛けられた声に息を詰まらす程に驚いた。彼等四人は、世界を飲み込む程に凶悪な魔王バラモスを打ち倒した者達である。彼等に気配を察知させずに近寄る事が出来る者など、最早この地上に誰もいない筈なのだ。

 それでも、彼等に声を掛けて来た執事服を着た男性は、声を掛けるその時になって突如現れたかのように気配を感じさせていない。それは、カミュやリーシャという包囲網を抜けて、夜の森の中で呪文契約を行うメルエのような物であった。

 その突然の出来事に思考が付いて行かないカミュ達は、執事風の男性からの質問に答える事も出来ずに呆然と視線を向けてしまう。そんな一行の様子に先程までの険しい空気を納めた男性は、もう一度ゆっくりと口を開いた。

 

「再度問おう。ここが竜の女王様の居城である事を知っての来訪か?」

 

「……申し訳ございません。竜の女王様が治める城とは知らず、ご無礼致しました」

 

 ゆっくりと告げられた問い掛けに殺気は込められていなかったが、それでも男性の瞳は油断なくカミュ達へと注がれている。四人同時に掛かれば、決して負ける相手ではないだろう。それでも、彼等四人の内、何人かが黄泉へと旅立つ事になるかもしれない。そう思える程に、その男性の持つ存在感は強かった。

 『竜の女王』という存在自体、この世界のどの文献にも残されてはいない。龍種と呼ばれる世界最高位に立つ種族は、人間達よりも先にこの世界に存在しているのだから、その王がいる事に何ら不思議はないのだろう。

 細かな話にはなるが、龍種と竜種は全く同じようで、細かくは異なる。大地を好み、二本の足で大地を踏み締める物を『竜』と呼び、大地よりも空を好み、翼が無くとも空を飛ぶ物を『龍』と呼ぶ。これは諸説色々とあるが、どちらが劣化された物であるかという事も含め、人間達の間では議論されている物であった。

 

「竜の女王様は、この世界の創造神様の使い」

 

「カミュと申します。大魔王討伐の為に旅をしております。女王様との謁見は可能でしょうか?」

 

 男性の言葉に対し、暫し口を閉じたカミュであったが、会釈程度に頭を下げ、女王との謁見を希望する。しかし、そのカミュの言葉にリーシャとサラは驚きと喜びを滲ませる事となった。

 彼自身の目的は、魔王バラモスの討伐で終了したと言っても過言ではない。その後、リーシャもサラも大魔王ゾーマという存在を知ったが、ここまでの道中でその事をしっかりカミュと語り合う事はなかった。

 カミュの口から『大魔王ゾーマ』という存在の名が出て来る事はなかったし、リーシャやサラも敢えて確認しようとはしなかったのだ。それは彼女達の絆の証なのかもしれないが、カミュが地図で目的地を考え始めた事を見た二人は、確認する必要性を感じてはいなかったのだろう。

 だが、ここで明確にカミュの口から『大魔王討伐の為の旅』という事を聞くと、改めて自分達が何に向かって旅をしているかという実感が湧くと共に、彼が何に向かって歩み始めたのかを把握する事が出来たのだ。

 

「大魔王……そうでしたか。女王様は奥の部屋にいらっしゃいます。女王様がお会いする気があれば、謁見も叶う事でしょう」

 

 カミュの口から出た『大魔王』という単語に、執事風の男性は瞳を閉じて苦痛の表情を浮かべる。何かを悔いるように、何かを憎むように刻み付けられた眉間の皺は僅かの間で消え去り、開かれた瞳は慈愛のような温かさに満ちていた。

 胸に手を当て、城の奥へと片方の手を上げた男性は、軽くカミュ達へと頭を下げる。客人に対する執事の対応のように整然とした動きは、受けた者に涼やかな風を運んで来た。先程まで怯えたようにリーシャの首にしがみ付いていたメルエでさえも、その男性へ顔を向け、小さな笑みを浮かべる程である。

 その執事のような男性が『人』である事はないだろう。涼やかなその身体が持つ力は、単体であればカミュをも凌ぐ物であったかもしれない。だが、その者がエルフであれ、例え魔物であろうとも、礼には礼で返す事が当然である。返礼のように静かに頭を下げたカミュに倣い、リーシャ達三人もまた、男性に向けて頭を下げた。

 

「メルエ、自分で歩かないのか?」

 

「…………むぅ…………」

 

 執事風の男性から離れ、城内の奥へと歩く中、自分の首に腕を回したまま離れようとしないメルエにリーシャは声を掛ける。どの場所に行っても基本的にメルエがカミュ達から離れる事はないが、好奇心旺盛な少女は、初めて見る場所などでは忙しなく周囲へ首を動かす姿が当たり前であった。だが、この竜の女王の城へと足を踏み入れた彼女は、一切の興味を捨て去ったかのように、絶対的保護者の腕の中で身動きさえもせずにいる。リーシャの問い掛けにさえも、頬を膨らませるような仕草は見せるが、首に回す腕に力を込める事で首さえも振る事はなかった。

 苦笑を浮かべたリーシャがメルエを抱き直した時、カミュは奥へと続く小さな扉のノブへと手を掛ける。先程の男性の対応を見て、警戒感を最小にまで落とした三人は、ゆっくりと奥へと足を踏み入れた。

 

「誰じゃ?」

 

「……失礼致しました。カミュと申します。女王様への謁見を望み、お伺い致しました」

 

 奥の部屋へと入ると、通常の城でいう兵舎のような場所へと出る。武器などが置かれている訳ではなく、いくつかのベッドと机が置かれている事から、使用人部屋と言った方が正しいのかもしれない。そんな取次ぎ部屋の一室に、一人の小柄な男性が腰掛けていた。

 突然現れた者へ視線を送り、見知らぬ者であった事から一気に警戒心を剥き出しにする。その警戒心からの威圧感は半端な物ではなく、部屋中の空気が張り詰めるような感覚に陥った。再びメルエがリーシャの肩に顔を埋める。小さな身体は震えこそ無いものの、強張りを見せる程に固くなっていたのだ。

 しかし、その張り詰めた空気も一瞬の内に霧散する。恐れずに真っ直ぐに向けられたカミュの瞳を受け、そしてその名乗りを聞いた小柄な男性は、即座に瞳を和らげたからだ。

 

「そうか、お主が魔王バラモスを打ち倒した者か。女王様がゾーマとの戦闘によって受けた傷から病を得なければ、本来、バラモスなどという小者にこの世界を好き勝手にさせる事など無かったのだが……」

 

「……大魔王ゾーマと竜の女王様が?」

 

 思わぬ所で思わぬ名を聞いたカミュ達は、一様に驚きを表す。大魔王ゾーマという名は、アリアハン国の重臣達が吹聴しなければ、世界中で知る者のない名である。更にいえば、この場所は険しい山に囲まれた人類未開の土地であった。そのような場所で生きる者が、大魔王ゾーマの名を知っている事自体が不思議な事であるのだが、その内容がまた彼等を驚かせる。

 竜の女王は、大魔王ゾーマと戦ったという事実。そして、大魔王と戦った竜の女王から見れば、魔王バラモスなど小者程度の存在でしかないという事実。

 それは、命を賭して魔王バラモスとの戦いを生き抜いていた彼等にとって、衝撃の情報であった。

 

「女王様は新たな時代を予見されておる。その為に、病の身体でありながら、お命を賭して卵をお産みになるという」

 

「……新たな時代?」

 

 バラモスなど小者程度に吹き飛ばす事の出来る竜の女王を傷つけ、更に命を奪う程の病を植え付ける存在が、大魔王ゾーマという巨悪なのだ。それがどれ程に絶望的な情報なのかを知るのは、カミュ達四人以外にいないだろう。

 大魔王ゾーマがここまで登場しなかったのは、ゾーマもまた竜の女王との戦いによって何らかの傷を負っていた可能性が高い。だが、その存在が復活した今、対等に渡り合える竜の女王という存在が消え去るならば、対抗出来る勢力が無いという事になる。それは、世界の終焉を意味する程の物であった。

 世界最高位の種族である竜種の頂点に立つ竜の女王。その存在でさえも打ち倒す事の出来なかった大魔王ゾーマ。そのような相手に、只の人間であるカミュ達が立ち向かおうとしている。それは、絶望以外の何物でもないだろう。

 それでも、竜の女王は『新たな時代』を予見している。新たな時代というからには、それが世界の終焉である訳がない。その先に続く世界の未来があるからこそ、竜の女王は子を成そうとしているのだ。

 

「女王様のお命もあと幾許か……勇者よ、女王様は奥の部屋におられる。そなたは女王様と会わねばなるまい」

 

「……はい」

 

 その心にどれ程の暗い闇が覆っただろう。目の前が真っ暗になる程の絶望を感じたサラではあったが、静かに頷きを返す勇者の声で我に返った。そして、自分の前に立つ世界の希望の瞳が宿す光を見て、我を取り戻す。

 幼い少女を抱き抱えていた女性戦士は、そんな賢者の背中を軽く叩いた。見上げる先にあったのは、優しい笑み。その笑みは何よりも強く、何よりも暖かい。自然と溢れる涙で歪む視界を振り払い、当代の賢者は前を歩く勇者の背中を見つめた。

 絶望などはいらない。恐怖もいらない。諦める必要など何処にもない。

 彼等の前にあるのは、輝く希望の光だけ。

 それを、前を歩く勇者と共に求め続けて来たではないか。

 

「さぁ、サラ。行こう」

 

「はい!」

 

 奥の部屋へと続く扉を開けたカミュを見て、リーシャがもう一度サラの背中を押す。その声を聞いたサラは、再び賢者の顔を取り戻した。

 しかし、扉の先で見た物は、そんな彼女達の勇気を一気に萎ます程の光景。誰もが息を飲み、誰もが身体を膠着させる。魔族の王と討ち果たして来た者達であっても、一歩も動けない状況に陥ってしまったのだ。

 

「グゥゥゥ」

 

 メルエは再び小刻みに身体を振るわせ始める。それは、目の前の圧倒的な存在に対する明確な恐怖であろう。先程は確かに奮い立った勇気が一気に萎んで行くのを感じたサラもまた、膝が笑うように震えていた。

 先頭に立つカミュは後方の者達を護るように立ち、その後ろでメルエを抱くリーシャもまた、鋭い瞳を前方へと向けている。

 その視線の先には一体の巨竜。建物の全てを覆い尽くす程の巨体を持った竜が、大きな翼を広げて苦悶の表情を浮かべていた。カミュ達の数倍はあろうかというその竜の力は、見ただけでも圧倒的な物である事は解る。

 カミュ達が魔王を討ち果たす程の力を有していようとも、数多くの強敵達を退けて来たとしても、目の前に存在する竜に勝てると思う程、彼等は愚かではない。指一本動かせない緊迫した状況の中、巨大な竜の瞳が動き出す。メルエの頭部ほどの大きさがある黒目が動き、その視線を受けた一行の身体に緊張が走った。

 だが、一目カミュ達を視界に納めた竜は、苦悶の表情を緩め、その身体を変化させて行く。大きく広げられた翼は背中の中へと消え、大きく裂けた口元から覗く牙は小さく縮んで行った。

 

「……私が、竜種の女王です。そなたらが、魔王バラモスを討ち果たした一行ですね?」

 

 この空間では納まりきらない程の巨体は徐々に小さくなって行き、美しい妙齢の女性へと姿を変える。人型へと姿を変えた女王には、先程のような強烈な威圧感はない。その身の内に全ての力を納めたのか、今の姿であれば、カミュ達四人でも勝利を収める事が可能ではないかと思う物であった。

 とても美しいその容姿ではあるが、先程の従者が語った通り、重い病で苦しんでいる事が解るほどに顔がやつれている。目の下には真っ黒な隈が刻み込まれ、珠のような汗が額から流れ落ちていた。

 

「……そうですか、あの魂を持つ者が『勇者』であり、そなたのような者がその供をしていたのですね」

 

「カミュの魂……」

 

 しかし、敢えて苦しみをも押し隠そうとする女王は、一つ息を整えた後で、柔らかな笑みを浮かべる。先程までこの部屋を覆い尽くしていた強い威圧感は霧散し、とても優しい空気が満ちて行った。

 一度カミュへとその瞳を向けた女王は小さく頷き、その後にリーシャにしがみ付くメルエへと視線を向ける。その優しく細められた瞳は慈愛に満ちており、この竜の女王こそが、多くの者達が生きるこの世界の守護神であるのではないかとさえ思う程であった。

 空気が変わった事によって、リーシャの首筋から顔を上げたメルエは、優しく微笑む女王と視線を合わせる。暫しの間、視線を合わせていたメルエの身体から震えは消え、自分を取り巻く暖かな空気に頬を緩めた。

 

「……怖がる必要はありません。さぁ、おいでなさい」

 

 メルエの微笑みを見た女王は、先程とは異なる心からの笑みを浮かべ、自分の許へとメルエを誘う。この場所にある玉座へと座り直し、その膝元へと手を差し出した女王を見たメルエは、リーシャへと顔を向けた。

 メルエが何を問うているのかを理解したリーシャは一つ頷きを返し、ゆっくりと少女を地面へと下ろす。地面へと足を着けたメルエは、カミュやサラへ確認した後、女王の許へと歩き始めた。一歩一歩確かめるように歩くメルエの姿に対し、微笑を浮かべたままの女王の顔には、先程まで浮かんでいた汗は消えている。それは、この女王の死期が近い事を物語っていた。

 

「よく、ここまで来ましたね、我が子よ」

 

「我が子?」

 

 女王に辿り着いたメルエは女王の手を取り、導かれるままにその膝元に首を横たえた。膝枕をされるように瞳を閉じたメルエは、優しく背を撫でる女王の手を受け入れ、気持ち良さそうに表情を緩める。先程まで完全に萎縮し、怯えていた少女の姿は何処にも無く、まるで母親に甘えるようなその姿にリーシャだけは優しく目を細めていた。

 カミュとサラは、竜の女王の言葉に強い違和感を覚える。その言葉の中にあった一単語が強く印象に残ったのだ。

 メルエの母親は既に解っている。それはカミュやサラの想像ではなく、しっかりとした裏付けのある事実である。だが、この女王はメルエを『我が子』と呼んだ。それは、ここまで不明瞭であったメルエの能力に何らかの答えが見つかるかもしれない程の言葉であった。

 

「我が竜族は、この世界の守護を創造神より託されております。私はその竜族の長です。ならば、この世界に生きる者達は全て我が一族であり、我が子という事。それは『エルフ』であろうと、『人』であろうと、『魔物』であろうと変わりません」

 

 物腰の柔らかな言葉ではあるが、その一言一句に込められている力はとても強く、世界最強種の長として相応しい物である。それだけの威厳と優しさに満ちた存在だからこそ、この広い世界を守護する役割を担えるのだろう。

 精霊ルビスと呼ばれる精霊と、竜の女王が守護するこの世界は、本来であれば優しさに満ちた世界である筈なのだ。しかし、ここ数十年、この世界は荒れに荒れていた。

 

「魔王バラモスや、大魔王ゾーマもまた、女王様のお子なのでしょうか?」

 

 そんな疑問がつい、サラの口から漏れてしまう。本来女王への謁見中であれば、リーシャやサラが口を開く事はない。だが、既に最年少のメルエがその膝元で眠り、先程見た竜の姿との落差に安堵していた彼女は、雰囲気に飲まれて口を開いてしまったのだ。

 そんなサラの不躾な質問にも表情を変えず、竜の女王は優しい笑みを浮かべながらサラへと視線を向ける。別段、睨まれた訳でも殺気を向けられた訳でもないが、サラはその視線を受けて身体を硬直させてしまった。

 

「あの者達は、本来この世界で生きる者達ではありません。ゾーマを封印する為に負った傷を癒す為に、私はこの場所を動く事は出来ませんでした。バラモスは小者であり、この世界の全てを手中にする程の力は有していません。しかし、ゾーマであれば、この世界を消し去る事も可能でありましょう」

 

「!!」

 

 自分達四人が死力を尽くし、死を賭してまで討ち果たした魔王を小者呼ばわりする竜の女王にサラは絶句する。確かに、魔王バラモスが台頭してから数十年の間、この世界に生きる全ての生物の中で絶滅した物はない。だが、それが魔王バラモスの力不足が理由であるなど誰も考えはしなかった。

 しかし、考えてみれば、魔王バラモスという存在に対し、危機感を持っていたのは『人』という種族だけであったのかもしれない。エルフ族の長である女王は、人間に対して危機感を持ってはいても、魔王に対して警戒している様子は微塵もなく、魔物達が凶暴化して行く中でも、その成り行きを見守る姿勢を取り続けていた。

 今目の前に居る竜族の長の持つ圧倒的な存在感は、病によって衰えているとはいえ、魔王バラモスなど一瞬の内に消滅させるだけの力を持っている事を示している。ならば何故、人間達の平和が脅かされている中で、その力を発揮してバラモスを倒さなかったのかという疑問が生まれて来るのだ。

 その理由が、この場所に来る前に出会った男が語る、『ゾーマとの死闘の末に負った傷から来る病』という物だけではない事をサラは朧気ながらも理解していた。

 

「精霊神ルビスが、この世界を模倣して生み出した世界があります。しかし、例え精霊神といえど、ルビスは創造神ではありません。世界を創造した時に生まれた歪が年月を経て広がり、その爪痕から大魔王ゾーマは現れました」

 

「……それが、あちらの世界ですか」

 

 もう一つの世界という物が想像出来ない彼等ではあったが、この世界の守護者が精霊ルビスと竜の女王であるという事だけは理解出来た。

 他者を打ち倒す事の出来る圧倒的な力と、模倣とはいえ一つの世界を生み出す事の出来る精霊ルビスの力を持ってすれば、この大きな世界を護り抜く事は出来るだろう。

しかし、精霊ルビスとはいえ絶対ではない。例え、精霊の長として『精霊神』の称号を与えられていたとしても、この大地を生み出した創造神と同等の力を有している訳ではないのだ。創造神とは絶対神でもある。この大地や海や空、そして様々な生物達を生み出したと云われる神は、あらゆる者達の頂点に君臨する物であった。

 精霊ルビスが生み出した世界の僅かな歪は、他世界にいる王の野望に火を点けたのかもしれない。その歪から世界を渡って来たゾーマは、己の力とそれに従う配下の者達で世界を蹂躙し始めたのだろう。

 

「ゾーマの力はルビスの想像を超えた物でした。彼女一人では対処は出来ず、私が加勢してもあの者を封印する事が精一杯な程。そして、ゾーマとの戦いで弱体化したルビスはバラモスによって封じられ、ルビスの力を失ったゾーマの封印は弱まっています。例えバラモスを討ち果たしはしても、ルビスの封印は完全に解かれた訳ではありません。そして、私の力も弱まった事で、ゾーマの復活を許してしまいました」

 

「ルビス様と竜の女王様が力を合わせても、封印する事しか出来ない存在……」

 

「大魔王ゾーマ……それ程までの存在か」

 

 竜の女王の言葉に、サラは自分達の成そうとしている事の無謀さを改めて知る事になる。今、自分達の目の前に存在する竜の女王の力は、自分達よりも遥か上にいるだろう。一瞬の内に全滅する事はないだろうが、勝利を収める事は難しいと言える。それ程の存在と精霊ルビスという信仰の対象が力を合わせても、滅ぼす事の出来ない大魔王ゾーマという存在に、改めて恐怖を感じた。

 リーシャは、あのアリアハン城で感じた恐怖が間違いではなかった事を知る。魔王バラモスを討ち果たした自分でさえも、足が竦む程の恐怖を感じ、身動き一つ出来なかった事を思い出し、彼女は表情を苦々しく歪めた。

 『絶望』に近い感情と空気が竜の女王の間に広がり、太陽の光が届かないこの空間の灯りが一段小さくなったように感じる。それだけ、彼らの目指す先にある闇は大きく、その目的が無謀な事である事を示していた。

 

「それでも、そなた達にはゾーマと戦う勇気がありますか?」

 

「……私には、それしか道がありません」

 

 しかし、その中で心を折らぬ者がいる。

 若き『勇者』である。

 リーシャやサラの心に小さな絶望と諦めを垣間見た竜の女王は、優しく諭すように言葉を発した。まるで子供を慈しむように、大事な子供達の命を尊ぶように発せられたその声は、例え彼等四人がゾーマとの対峙を拒もうとも、それを咎めない事を約束するように優しかった。

 だが、それでも勇者は真っ直ぐ女王の瞳を見つめ、答えた。

 彼が歩む道の先には、必ず希望の光があるのだという事を。

 

「そなたの道は無限にありますよ? 今、そなたが見ている道は、そなたが歩む事を決めた道です。この子や、その者達に照らされ、そなたが選んだ道です。そして、そなたがその道を歩むのならば、この光の珠を授けましょう」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの言葉を聞いた竜の女王は、まるで手の掛かる子供を諭すように口を開く。我儘をいう子供に対してするような困った笑みを浮かべた女王の手には、いつの間にか輝く珠が置かれていた。

 この世界に六つ存在していたオーブという名の珠と同程度の大きさを持つ珠ではあったが、その輝きは似て非なる物。まるで空に輝く太陽の輝きを封じ込めたような眩いばかりの光は、先程まで絶望と諦めで影の差した広間を照らし出した。

 竜の女王は、その珠を膝元で目を瞑っていたメルエへと差出し、それを受け取った少女は、笑みを浮かべてポシェットへと入れ込む。目を開けている事さえも辛くなる程の輝きが収まり、周囲の明かりが通常に戻った頃、再び竜の女王は口を開いた。

 

「この光の珠の輝きが世界を照らし、一時も早く平和が訪れる事を願っています……産まれて来る、我が子の為にも……」

 

「……必ずや」

 

 メルエの背を押し、カミュ達の許へと戻した女王は、己の下腹部を優しく撫で、そして優しい笑みを浮かべる。それは正しく母の慈愛。自分の子が生きる世界が、平和に包まれた世界である事を願い、その子の未来が優しく輝かしい物である事を願う母の想い。

 世界中に生きる者達全てが我が子と口にした女王ではあるが、やはり血を分けた子への想いは別格なのであろう。既に己の死期を悟り、我が子の成長を見る事が叶わない事を知っているからこそ、その笑みは儚く、脆い。

 再び苦しそうに顔を歪めた女王は、珠のような汗を浮かべ、苦悶の声を上げ始めた。

 

「……さ、さぁ、お行きなさい。この身体も、天へと還る時が近いようです。そなた等の歩む道に大いなる希望と幸ある事を祈っています。小さき我が子達よ……恐れず進みなさい……」

 

「!!」

 

 カミュ達を優しい空気がふわりと撫でる。母親に撫でられたように優しい感触を残し、竜の女王の身体が光の粒となって宙へと霧散して行った。

 最後の最後まで優しい笑みを浮かべ続けた女王の身体の全てが光の粒となり、広間の隅々まで行き渡った後、その光の粒達は女王の座していた玉座の前へと集まり始める。幻想のような光景に目を奪われていたカミュ達が我に返る頃、玉座の前に大きな一つの球体が現れた。

 メルエの身体並の大きさもあるそれは、竜族の卵。

 斑模様が刻み込まれたその卵は、女王の亡骸である光の粒に包まれ、優しい輝きを放っている。脈動を打つように輝く卵からは、安らかな寝息が聞こえて来るような気がしていた。

 

「女王様!」

 

 呆然と卵を見つめていたカミュ達の後方の扉が勢い良く開かれ、数人の竜族と思われる者達が入って来る。皆それぞれに悲しみを宿した表情を浮かべてはいるが、その事を予期していなかった者はいなかったのだろう。卵へと視線を移した彼等全員は、その瞳から大粒の涙を溢しながらも小さな笑みを浮かべていた。

 竜の女王の死というのは、この世界の死にも繋がる程の一大事である。だが、世界の守護者である存在が消えるという事は、その役目を受け継ぐ者が新たに誕生した事も示しているのだ。古き守護者の役目は終わり、新たな守護者が誕生する。それは、新たな時代の到来であった。

 

「卵は私達が大事に育てて参ります。それが女王様の願いであり、この世界の願いでもある筈ですから」

 

「……失礼します」

 

 最早、この場でカミュ達に出来る事など何一つ無い。それを告げるようにカミュへと言葉を発した女性に頭を下げた彼は、そのまま入り口へと戻る為に歩き始めた。

 リーシャが続き、サラもまた歩き出す為にメルエの手を取る。サラの手を取ったメルエは、女性に向かって手を振り、それに応えるように女性もまた笑顔で手を振った。メルエへ優しく手を振る彼女の背には白い羽根があり、それは竜族が持つ者とは少し異なる物ではあったが、誰一人それを気にする者などいない。気付かない訳ではない。だが、この場所にいた竜の女王は、天にいる創造神に最も近い者である事を誰もが理解していたからであった。

 

 

 

 竜の女王。

 世界最強の種族である竜種の王である。その力は魔王を遥かに凌ぎ、全ての竜種を従え、魔物達でさえも従える事の出来る程の存在であった。

 だが、長きに渡る大魔王ゾーマとの戦いで負傷した事によってその力は弱まる。弱まった女王の許から離反した竜種も多く、女王の後ろ盾を失った為に魔王の魔力に取り込まれた竜種も多かった。

 守護者たる証であり、この世界を温かく見守る太陽のような輝きを持つ『光の珠』を勇者へと託し、己の後継者として竜族の王となる我が子が守護する事になる世界の平和を願い、創造神の許へと旅立ったと語り継がれて行く。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

何とか今月中に間に合いました。
次話で十七章も締めとなります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ギアガの大穴

 

 

 

 竜の女王の城から外へと出た一行の中で、メルエだけは満面の笑みを浮かべていた。この場所に入る時は、これ以上ない程に怯えきっていたにも拘わらず、そのような事は忘れてしまったかのように微笑む彼女を見たサラは苦笑を浮かべてしまう。

 幼いメルエの手を引いているのはサラである。入る時にはリーシャに抱かれたまま身動きせずにいた少女は、今は近くに寄って来る小動物に目を輝かせ、サラを引っ張るように歩いていた。

 

「良かったですね、メルエ。でも、一体メルエは『命の石の欠片』を幾つ持っているのですか?」

 

「…………ふふふ…………」

 

 サラの質問に対して笑顔で返したメルエは、答えを言うつもりはないのだろう。幼い彼女にとって、カミュを護ってくれた『命の石』の欠片は、何よりも大事な宝物なのかもしれない。少女にとっての宝物は秘する物である。故にこそ、彼女の肩から掛けられたポシェットに入っている欠片の数は誰にも口にしないのだった。

 困ったような笑みを浮かべたサラであったが、優しい心を持ったこの少女を誇りに思う事には変わりなく、彼女と共に小動物達へと近付いて行く。

 

「あの石の欠片が、新たな守護者を護ってくれるだろう」

 

「……世界の守護者さえも護る石か……」

 

 先程、竜の女王が光の粒となり、己の産み落とした卵を護るように輝く中、出口へ向かおうとしていた一行の中で、突如サラの手を解いたメルエは、制止しようとする竜族の間を抜けて卵の前に立った。幼い少女から邪気や敵意が感じられなかった為、竜族の者達はメルエを害する事無く、彼女の行動に目を光らせる。そんな緊迫した空気の中、ポシェットの中を小さな手で探り、青く輝く小さな欠片を取り出したメルエは、その欠片を卵に向かって差し出した。

 笑みを浮かべ、欠片を差し出す少女を中心に暖かな空気が部屋を満たして行く。その石の欠片の効力を知るリーシャやサラはメルエのその優しさに微笑み、それが示す意味を理解出来ない竜族の者達もまた、何処か優しい空気に表情を和らげた。

 しかし、幾らメルエが欠片を乗せた手を差し伸べようと、卵が受け取る事など出来はしない。誰もがそう考え、竜族の一人がそれを受け取ろうと足を踏み出した時、卵を護るように輝いていた光の粒が動きを見せる。メルエを包むように光の粒が輝き、その手に乗った欠片を受け取った後、そのまま卵の周囲へと戻って行ったのだ。

 卵の中央に浮かぶ青い石の欠片を中心に、光の粒の色が変化して行く。淡い青色へと変化して行った光の粒が、まるで障壁のように卵を包み込んで行った。

 

「忘れているかもしれないが、あの石の欠片はニーナ様の愛情が刻まれた石が砕けた物だ。ニーナ様のお前への愛情と、メルエの持つ純粋な想いが、あの欠片に力を与えているのだぞ」

 

「……ちっ」

 

 竜の女王の居た玉座の間での出来事を思い出しながら、リーシャはカミュに対して口を開く。それを聞いた彼は勇者らしからぬ表情を浮かべ、舌打ちと共に離れて行った。

 そんな彼に対し、リーシャは優しい笑みを浮かべる。今のカミュはまだそれを認めない。だが、リーシャを罵倒する事もない。彼の中にある憎しみや悲しみは生涯消えない程に重い物である事を彼女が理解していて尚、それでも踏み込もうとしているのだと解っているからなのだろう。

 だからこそ、彼は逃げてしまうのだ。『自分の想いは誰にも解る筈がない』という言い訳が出来なくなっている事を無意識に感じ始めているのかもしれない。

 

「これもまた、長い戦いになりそうだな……」

 

 ラーミアへと向かうカミュの背を見つめながら、リーシャは小さな笑みを浮かべる。彼の想いや、彼の受けて来た傷痕を否定するつもりは毛頭ない。その上で、彼もまた愛されていたのだという事を教えてやりたいという想いしか、彼女の中にはなかった。

 余計な世話かもしれないし、身勝手な言い分なのかもしれない。だが、歪んで尚、心の奥底の優しさは失わず、真っ直ぐに立つ彼をリーシャは救ってやりたかった。傲慢な言い方に聞こえるかもしれないが、それもまた、一つの愛情なのかもしれない。

 

「メルエ、行きますよ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュがラーミアの許へ向かったのを見たサラは、近寄って来たうさぎの背を優しく撫でるメルエに声を掛ける。名残惜しそうにしながらもしっかりと頷いたメルエは、サラの手を取って歩き始めた。

 四人がラーミアへと近付くと、ゆっくりとした動作で神鳥は羽を広げ始める。真っ先にその背に乗ったのはやはり幼い少女であった。ラーミアの背の羽毛に寝そべったメルエは、そのまま幸せそうに瞳を閉じ、神鳥の暖かさに身を委ねる。そんな少女の行動に優しい笑みを浮かべたリーシャとサラもラーミアの背へと乗って行った。

 

「……世界の歪を上空から確認する。頼む」

 

 最後に残ったカミュが、ラーミアの首に手を当てながら言葉を発すると、鳴き声を上げる事無く神鳥が首を縦に振る。その姿とその瞳が理知的な色を宿している事を感じたカミュは、暫しラーミアの蒼い瞳を覗き込んだ。

 雲一つない大空のように青く澄んだその瞳は、真っ直ぐカミュを見つめている。優しく暖かな光を宿しながらも、確かな力強さも感じるそれは、神鳥とはいえ鳥類が持つ物ではなかった。遥か高位から見守る者が持つような瞳。それは不思議な安心感と、強い力を与える物であった。

 

「カミュ、何処へ向かう?」

 

「この場所以外で、未開の場所はない……」

 

 ラーミアの背に乗って来たカミュに対して発せられたリーシャの問い掛けは空を斬る。ここまでの旅で、常に一行の進路を決定して来た彼ではあったが、ここに来て全ての選択肢が潰れてしまっていた。

 彼らが足を踏み入れた事のない場所は、この竜の女王の居城のある大陸だけである。地図上に載っている場所という限定はあるが、それでもそれ以外の場所に精霊ルビスの創造した世界があるとすれば、最早闇雲になって探すしかないのだ。

 それは、神鳥ラーミアの飛行速度などを考えても、この世界の広さからすると絶望的な物でもある。世界の歪がどれ程の大きさの物かも解らない。何よりも、その歪がこの世界にあるのかも解らないのだ。

 しかし、魔王バラモスという存在が、その歪からこの世界に現れたと考えるならば、その存在は確かにあるのだろう。

 

「魔王の爪痕と呼ばれる歪か……」

 

「あの……少し宜しいでしょうか?」

 

 カミュの返答を聞いたリーシャが、考え込むように呟きを漏らす。ここまでの旅を必死に歩んで来た彼等だからこそ、道中で目的以外の物を見たとしても、目的との関係性が薄ければ記憶にも残っていない。特にリーシャのような戦士は、勇者と賢者が考え、導き出した道を共に歩んで来た傾向が強い為、尚更であった。

 そんな重苦しい空気が流れる中、ラーミアが大地を蹴って上空へと浮かび上がる。何度も感じた事のある浮遊感に頬を緩めて周囲を見るメルエの横で、サラが慎重に口を開いたのはそんな時であった。

 

「カミュ様、最後のカギを入手した場所での会話を憶えていますか?」

 

「……渇きの壷を使ったあの場所か?」

 

 ラーミアの背の上で地図を広げるカミュは、サラから発せられた疑問に意識を向ける。最早遠い過去の出来事のように、思い出さなければならないその場所は、海の中央にある浅瀬であった。

 エジンベア国に奪われたスーの村の宝物は、その場の水分を飲み込んでしまうという神秘の道具であり、海水さえも飲み込み、浅瀬に祠を浮かび上がらせる。その祠の奥にある玉座のような場所に、彼等の旅を進める最後のカギがあったのだ。

 しかし、サラが言っているのは、神代の道具である最後のカギではない。あの場所で遭遇した者との間に交わされた会話であった。

 

「確か……『ネクロゴンドの山奥にギアガの大穴ありき。全ての災いは、その大穴から(いづ)るものなり』だったと思うのです。竜の女王様のお話をお聞きし、思い出したのですが」

 

「……全ての災いの元となる大穴か」

 

 サラの言葉を聞いたカミュは、考え込むように瞳を伏せる。あの時の言葉など、カミュは憶えていなかったのかもしれない。その内容の重要性を理解しながらも、彼は目の前に次々と現れる難題を解決して行く事の方が重要性を増して行っていたのだ。

 あの時点では。

 だが、そんな些細な会話を、一言一句違わずに憶えていたサラは、あの場所に居た亡霊が誰であるのかという事を考えていたのだろう。その答えが出たのかどうかは定かではないが、彼女の中で、その会話の内容は何処かに引っ掛かりがあった事は間違いなかった。

 

「ネクロゴンドの山奥という事は、おそらくバラモスの居城があったあの辺りだと思います。あの洞窟内にあった可能性もありますが、あの中ではかなり歩きましたので……」

 

「カミュ、もしかすると魔王バラモスがあの場所から動かなかったのは……」

 

「その歪みを護り、監視する為という事か?」

 

 ようやくサラの話している内容が理解出来たリーシャは、自分が思い至った事柄の重要性に驚き、カミュへと視線を移す。尻切れになった彼女の言葉を繋いだカミュは、その内容の的確性を感じ、信憑性の高さを知った。

 魔王バラモスが台頭して数十年。魔王自らその手を動かした事はない。魔物達と共に村や町、城などを襲った事もなければ、国自体を壊滅に陥れた事もない。唯一、サマンオサ国の内部が魔王の手下によって大きく揺り動かされてはいるが、魔王バラモス自らが手を下した訳ではなかった。

 そんなサマンオサ国へ自身の部下を送り込んだ理由も、世界の地形さえも変えてしまう力を持つ『ガイアの剣』という神代の武器を懸念した故となれば、世界の歪みを護っていたという仮説にも説明が付いてしまう。

 精霊神ルビスと竜の女王によって封印された大魔王ゾーマの復活の為にも、魔王の爪痕と呼ばれる世界を繋ぐ歪みを監視していたとすれば、あの場所を動かなかった理由としては十分だろう。

 竜の女王は、バラモスを小者と称してはいたが、人間にとっては恐怖の象徴とも言える存在であった。それ程の存在が、身を挺してでもその場所を護らなければならない程に大魔王ゾーマは強大な存在だというのだろうか。改めてそれを実感した三人は、口を閉ざして黙り込んでしまった。

 

「もう一度、バラモス城へ向かってくれるか?」

 

 何よりも先に、その是非を確かめなければならない。今や、魔王バラモスの本来の目的など知る術はなく、そこに何の意味もない。大魔王ゾーマが、復活後にこの世界を滅ぼそうと考えていたのならば、その復活までの期間をバラモスが抑えていた事になる。後は号令を掛けるだけという状態まで追い込まれていた世界ではあるが、勇者一行が成し遂げた偉業によって、その危機は一時的に回避されていた。

 しかし、既に大魔王ゾーマは復活を遂げている。もし精霊ルビスが生み出した世界が未だに健在だとすれば、それを征服した後に、この世界へと乗り込んでくる可能性は高いだろう。それは、完全な世界の崩壊である。

 この世界の守護者は最早残っていない。創造神から託された使命を全うした竜の女王は、新たな時代の到来を予期し、自身の後継者を生んでその生涯を閉じた。もう一つの守護者である精霊ルビスは、己が創造した世界で封印されている。今、大魔王ゾーマがこの世界に足を踏み入れてしまえば、間違いなく世界の終焉が待っているだろう。

 

「……もし、ギアガの大穴という物が存在し、それが異なる世界へと繋がる歪みであった場合、この世界の見納めになる」

 

「そうだな……私達が生まれ、多くの事を経験し、多くの事を学んだ世界だ。人間だけではなく、エルフも魔物も、動物や昆虫や草木も生きている世界。こうして見ると、本当に美しい世界だな」

 

「……はい。美しく、強い世界です」

 

 ラーミアがゆっくりと羽根を動かし、上空から見える大地や海が見える。それを見ながら口にしたカミュの胸の内は解らないが、それでもリーシャやサラは感慨深く自分達の故郷となる世界を見つめていた。

 本来、故郷とは生まれ育った国や町を指すのだろうが、この世界の広さと美しさを知る彼女達にとって、広大な世界そのものが故郷のように感じているのだろう。太陽の光を反射する大海原の輝きが眩しく、吹き抜ける風に動く緑の木々が映えている。

 広大な海と雄大な大地。無限に広がる大空に流れる雲。

 その全てが今この世界で生きている者達全てを拒絶せずに受け入れている。この太陽からの恵みを受けて生きる者達は、この世界に護られているのだろう。

 

「メルエ、眠ったら起きれなくなってしまいますよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 先程までのカミュ達の会話が難し過ぎたのか、羽毛に寝そべり瞳を閉じてしまったメルエから小さな寝息が聞こえ始めた事で、サラはその身体を小さく揺り動かす。気持ちの良いまどろみから強制的に引き戻された事で少女がぐずり出した。

 最早、行き先は決まっている。その場に行き、どうするべきかを考えるのはサラとカミュであり、その後に決定するのはカミュであるのだ。竜の女王や精霊ルビスがこの世界の守護者であるのならば、リーシャはこのパーティーの守護者である。三人に害を成す者がいればそれを打ち払うが、行く道を決めるのは彼女ではない。

 

「メルエはラーミアが大好きだな」

 

「…………ん…………」

 

 微笑を浮かべたリーシャは、メルエの帽子を取って頭を優しく撫でる。その気持ち良さと暖かさにメルエは笑みを浮かべ、大きく頷きを返した。眠気にぐずるのを止め、座っているリーシャの膝に乗った少女は、自分の周囲に大好きな者達がいる事の幸せを改めて感じ、満面の笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 陽が傾き始め、空と海が真っ赤に染まる頃、ようやく一行を乗せたラーミアがネクロゴンドの山脈を抜ける。魔王バラモスが居た頃の不浄な空気は霧散し、澄んだ風が吹き抜ける大地は、多くの草花が咲き誇っていた。夕陽に照らされた泉は見惚れる程に美しく、諸悪の根源が根城にしていた場所とは思えない厳粛な雰囲気を醸し出している。

上空を旋回するように飛び続けていたラーミア上から大地を見ていたサラは、バラモス城へ目を向けているカミュやリーシャとは異なった場所に視線を動かしていた。

 

「カミュ様!」

 

 それは、バラモス城が浮かぶ小島の横にあった。

 同じように湖に浮かぶ小島は、夕陽の輝きを飲み込む程の闇に閉ざされている。何故これ程までの歪みに今まで気付かなかったのかと自分自身に疑問を感じてしまう程の闇は、浮島を斬り裂くように島全体を覆っていた。

 大地の歪みは空中にまで広がり、その傍の大気までをも歪ませている。向こう側の景色まで歪み、その実体を正確に把握する事は出来なかった。

 

「……下りれるか?」

 

 問い掛けるカミュに対して無言の肯定を示したラーミアは、バラモス城のある小島の隣へと降下して行く。高度が下がるにつれて明確に見えて来るその歪みは、まるでラーミアごと四人を飲み込むように大きな口を開けており、それが大地の裂け目である事に気が付いたのは、大地の緑が正確に把握出来るようになってからであった。

 そこまで来て、バラモス城へ向かった際に、この割れ目に気付かなかったのかをサラは理解する。それは、この世界の歪みといえる異質な空間と、バラモス城が放っていた異常なまでの瘴気によって、この場所自体が視界から外れていたのだという考えであった。

 魔王バラモスという存在が与える影響は大きく、人間よりも強靭な魔物達が理性を失う程に凶暴化し、人間という弱い種族の心を恐怖で支配する程の物。故にこそ、その周囲に漂う瘴気は空間を歪ませるのに十分な物でもあるのだ。空間を歪ませてしまう程の瘴気と、空間自体の歪みが同一の場所にあった場合、『人』という種族ではそれを認識する事さえも不可能なのかもしれない。

 

「これ程に巨大な穴に気付かなかったとは……」

 

 無事に着陸したラーミアの背から降りた一行は、島の大地を足で踏み締めながらも、とても不安定な浮遊感を感じていた。島の中央付近から裂けたように広がる割れ目は、その端も見えない程に大きく、全てを飲み込むかのような穴と化している。

 奥を窺う事など出来ない真っ暗な闇が広がり、その闇が地上に漏れ出してしまうのではないかと思う程に不穏な雰囲気を醸し出していた。

 足を踏み外せば、奈落の底へと落ちてしまう恐怖にメルエは怯え、サラの腰へとしがみ付く。通常の大地の割れ目ではない事だけは確かであり、別の世界へと繋がる道だと言われても納得せざるを得ない物であった。

 

「カミュ様、ここに飛び込むのですか?」

 

「……余りにも情報が少な過ぎる」

 

 自然と膝が笑い始めたサラは、恐怖に震えた声で前に立つ青年へと声を掛ける。しかし、救いを求めて口にした彼女の問い掛けは、苦い顔をした勇者には届かなかった。

 巨大な闇の口を開くその歪みを前に厳しい表情を崩さない彼は、ここまでの自分達の旅を思い出す。

 アリアハンを出た当初から綱渡りの旅であった。一つ一つの情報を繋ぎ合わせ、細い一本の糸を手繰るように歩いて来た道は、先の見えない頼りない道ではあったが、それでもその先に僅かな光が見えていた筈である。だが、今目の前に広がる巨大な歪みは漆黒に覆われ、一寸先も見えない完全なる闇であった。

 『勇者』として歩んで来た経験も、魔王を討ち果たしたという実績も霞んでしまう程の闇に、彼の心でさえも飲み込まれそうになって行く。

 

「カミュ! 何かが来るぞ!」

 

 呆然と闇の前で佇む一行の中で、その動きに気付いたのは唯一人であった。

 それは、常に何かの気配を真っ先に感じ取る少女ではなく、常に先頭を歩き続けて来た青年でもない。『人』の高みへと駆け上がる賢者でもなければ、神の使いと云われる神鳥でもない。

 己の肉体と精神、そして手にする斧を武器として戦い続けて来た一人の女性である。

 素早く構えた彼女は、後方にいる少女を護るように立ちはだかり、漆黒の穴から這い上がって来た何かに向けてその手にある斧を振り抜いた。

 真っ二つに斬り裂かれたそれは、小島に残された大地へと落ち、その形状を崩して行く。まるで土へと還るように消えて行く姿は、生物とはとても思えない物であった。

 

「…………て…………?」

 

 サラの腰元から顔を出したメルエは、巨大な穴から這い出て来る物を見つけ、首を傾げる。緊張感の感じられないその仕草ではあったが、先程のリーシャの一撃で絶命したその物体を見る限り、彼らの脅威となり得る者でない事だけは確かであろう。背中から剣を抜いたカミュもまた、その物体の放つ物が自分達を害する力のない物である事を感じており、その全ての姿が把握出来るまで、攻撃を仕掛けるつもりはない様子であった。

 しかし、その物体を見たサラだけは顔を歪める。何故なら、その物体を彼女は初めて見たのだからだ。

 勇者一行として、魔王バラモス討伐の為に世界を隈なく歩いて来た。世界中全ての生物を把握しているとは言わない。それでも、数多くの魔物や動植物を見て来た彼女が初めて見る物なのだ。ましてや、世界の歪みと思われるその大穴から這い上がって来たとなれば、この物体がサラ達の生きて来た世界の生物ではないという可能性が高いだろう。

 

「カミュ、それ程強い敵ではない」

 

「わかっている……だが、油断はするな」

 

 リーシャは既にその物体を『敵』と認識していた。明確にこちらに敵意を向けて来た訳ではない。それでも、この異形の物体が自分達と共に生きて行ける物ではない事だけは理解出来たのだ。

 メルエの言葉通り、その物体は人間の肘から先だけの姿をしている。まるで土から手が生えて来たようなその姿は、大地の手として崇められてもおかしくはないのかもしれない。しかし、手の先の部分から溶け掛かっているように崩れて行くそれが、大地の神の力を借りた神聖な物とは思えなかった。

 崩れ行く手の先を必死に模ろうと動く物体の不気味さに眉を顰めたメルエは、サラの後方へと隠れてしまう。何度も手を握るように動き、それはカミュ達を誘うようにさえ見えた。

 

「はっ! いけません、仲間を呼んでいるようです!」

 

 それ程脅威を感じない手の化け物を前に、カミュとリーシャはその動きを見てしまう。彼等が培って来た強敵との戦闘経験が、この場面では裏目に出てしまった。

 何をして来るのか解らない相手に対し、迂闊に飛び込むという愚行は、仲間全員を危険に曝す可能性を秘めている事を知る二人だからこそ、その物体の奇妙な動きが生む結果を見てしまったのだ。サラの叫びに慌ててカミュがその物体の身体を両断するが、時既に遅し。

 割れ目を這い上がって来た腕の化け物が即座に手招きを繰り返し、それに呼応するように現れた同じ生物が更に手招きを行う。カミュ達が対処をする暇もなく増え続ける腕は、瞬く間にカミュ達の視界を埋め尽して行った。

 

【マドハンド】

大魔王によって生み出された下級生物。暗闇を好み、集団での行動を好む。まるで人間の腕のような身体を使って行動する。攻撃力などはそれ程高い訳ではないが、それでも魔王バラモスが従えていた中級の魔物よりも上位の力を持っていた。集団での行動を好む為、行動を共にする同種の一体を失うと、新たに同種を呼ぶ行動を繰り返す。倒しても倒しても減らないという悪循環によって、相手が疲れ果てた頃を見計らって襲うという戦闘を得意としていた。極稀にマドハンドの呼びかけに応じる他種族が居るとも云われている。

 

「カミュ! 個別に撃破して行っても限がないぞ!」

 

「ちっ」

 

 カミュとリーシャが、その武器の一振りで一度に二体を土に返しても、他のマドハンド二体が仲間を呼ぶ行動を繰り返し、その数は減らない。カミュ達がマドハンドの攻撃を受ける事はないが、このままでは彼等の攻撃よりも増えて行くマドハンドの方が上回る可能性が高い。

 一体を魔神の斧で吹き飛ばし、割れ目へと落としたリーシャは、割れ目から這い上がって来る二体のマドハンドを見てカミュへと救援を求める。今までにない魔物の属性に戸惑う彼女と同様に、じりじりと包囲網を狭めて来るマドハンドの存在にカミュもまた苛立ちを隠せなかった。

 

「カミュ様、リーシャさん、一度下がってください!」

 

 しかし、この一行には前衛で剣を振るう者達の他にも頼もしい仲間が居る。

この世界で生きる人間達の旅団の間で時折話題に上る理想の一行の職業という噂がある。魔物が蔓延る世界を長く旅するに当たり、最も適したパーティーというのがあるとすればという話は、アリアハンにあるルイーダの酒場では頻繁に話題になっていた。

 その中でも最も有力な物として、四つの職業で構成された四人パーティーという物がある。重量のある武器や防具を装備する事が可能であり、その腕力と武器の威力による大きな攻撃力を有し、また頑丈な防具によって壁役にも成り得る『戦士』。武器や防具に頼らず、己の肉体のみで魔物さえも打ち倒す事が可能であり、その身軽さから来る敏捷さで、咄嗟の危機にも反応出来る『武闘家』。長く旅を続ける為には絶対不可欠な回復呪文の使い手であり、身を護る為の補助呪文も多様に使いこなす事の可能な『僧侶』。そして、剣や拳では討ち果たせない魔物の集団を薙ぎ払う事の出来る強力な攻撃呪文を放ち、攻撃に対する補助呪文さえも行使可能な『魔法使い』である。

 酒の肴に話されるこの議論は、土台無理な話でもあるのだ。何故なら、この世界で生きる者達の中で、噂に上る程の力量を持つ『戦士』も『武闘家』もおらず、それだけの呪文を行使可能な『僧侶』も『魔法使い』もいないのだから。

 この世で唯一の『勇者』の後ろに控える者達以外には。

 

「メルエ!」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 カミュ達が後方へ下がり、それを追う様に間を詰めて来るマドハンドに向かって、凶悪なオブジェが彫られた杖が振られる。その持つ主である少女の呟くような詠唱と共に、燃え盛る炎が大地を焦がして行った。

 目の前に広がる巨大な穴さえも隠す程も炎の海が広がり、その場所にいたマドハンド達を包み込んで行く。一瞬で飲み込まれたマドハンド達は、炎の中で悶え苦しむように動き回るが、理想の『魔法使い』と噂される程の者が放った火炎呪文は、一度飲み込んだ者を逃がす程に甘い物ではない。 焼け焦げる不快な臭いを放ちながらも、全てのマドハンドの身体を焼き尽くし、炎が消える頃には、その場所に残る物など何一つなかった。

 

「ちっ」

 

 しかし、戦闘終了かと思われたその時、炎が消えた大地の向こうから新たに這い上がって来る物体を見たカミュは盛大な舌打ちを鳴らす。メルエがベギラゴンという最上位の灼熱呪文を放つその瞬間に、一体のマドハンドが仲間を呼んでいたのだ。

 その数は僅か一体であり、仲間を呼ばれる前に斬り捨てれば何も問題はない。そう考えたカミュは一気に間合いを詰めて剣を振り抜く。しかし、その剣の軌道よりも早く、マドハンドは再び仲間を呼ぶ為の儀式を始めていた。

 

「!!」

 

 その瞬間、この場にいる誰もが硬直する。ゾワリと背中を撫でる冷たい感触。その後に全ての毛が逆立ったのではないかと思う程の危機感が襲ったのだ。

 それが何なのかは解らない。だが、剣を振るったカミュも、その後ろで斧を握っていたリーシャも、確かに自分の身に強烈な危機感を覚えた。後方にいるサラの膝は無意識に震え、杖を持つメルエの眉は下がり切る。彼等ほどの者達がこれ程の危機感を覚える相手など、この世界の魔物には存在しない。それが何を意味するものなのかを考える暇も無く、仲間を呼ぶ行動を終えたマドハンドはカミュの剣によって葬られて行った。

 その場に残るのは何もない大地と、吸い込むように大きな口を開けた世界の歪み。誰一人声を出す事も出来ず、その場を静寂だけが支配する。

 

「あのような魔物が、あちらの世界にはいるのだな」

 

「おそらくだが……あれは最弱に分類される魔物だろう」

 

 新たな魔物が割れ目から這い上がって来る様子はなく、長く続いた緊張を緩めたリーシャは、斧を収めながら呟きを漏らす。それに反応を返したカミュの言葉通り、マドハンドという魔物の強さは、この世界の中級の魔物程度。この一行が全滅の危機に陥るような強さはなく、只の捨て駒のような存在であったと言っても過言ではないのだろう。

 それは、この先の旅がこれまで以上に過酷な物となる可能性を示唆していた。

 

「どうする? この穴に飛び込むのか?」

 

 あの魔物が這い上がって来れたのならば、カミュやリーシャが降りる事が出来ないという事はないだろう。だが、何も考えずに飛び込む事が出来る程、安全な物でない事も確かである。答えに窮するカミュに全員の視線が集まる中、暫しの時間が流れて行った。

 そんな張り詰めた静寂の時間が流れる中、予想外の者が動きを見せる。静かにカミュの傍へと寄って来たそれは、その首を下げてカミュの瞳を覗き込む。

 

『私の背にお乗りなさい。この先に感じる闇の中では、私が役に立てる事は少ない筈です。ですが、安全な場所までは、貴方達を送りましょう』

 

「…………ラーミア…………?」

 

 カミュへと顔を寄せて来たラーミアの瞳は青く澄んでいる。そして、この場にいる全員の頭の中へ直接響く声は透き通るように美しい物であった。

 大気を震わせ、耳に届いて来る声ではない。直接脳へと届くその声に、幼いメルエがラーミアへと近付いて行く。彼女にとって、話が出来る動物は特別なのだ。スーの村で出会った馬のエド以来、何度か遭遇した会話が出来る動物と彼女は話をして来た。それは、エドと『話が出来る動物とあったら話をする』という約束があるからなのだろう。

 近付いて来るメルエを大きな翼で包み込んだラーミアは、優しい瞳をメルエへと向け、その頭へ直接言葉を投げかける。カミュ達には届かない声ではあったが、笑みを浮かべたメルエが何度も頷いている事から、会話が成されている事だけは解った。

 

『さぁ、行きましょう。精霊神ルビスの居る世界へ』

 

 一通り会話を終えたラーミアは、翼を広げて背中へとカミュ達を誘導する。笑顔のまま背中に乗り込むメルエの後を追ってリーシャとサラ歩き出す。最後に残ったカミュがもう一度ラーミアと目を合わせると、その青く澄んだ瞳をカミュの奥へと向け、目元を緩めた。

 神鳥と呼ばれるラーミアは、この世界では精霊ルビスの従者として伝えられている。しかし、先程の言葉を聞く限り、ラーミア自体がルビスの下に就いているという印象は受けない。むしろ、同列に並ぶ友のような言葉に、サラは疑問を感じていた。

 

『貴方が居る限り、こちらの世界もあちらの世界も闇に閉ざされる事はありません。貴方がこの世に生を受けた事がこの世界の答えであり、この世界で生きる全ての者達の願いなのでしょう。辛く、苦しい運命かもしれません。それでも、貴方ならば……いえ、貴方達ならば乗り越えて行ける筈です』

 

 カミュの瞳を覗き込んだまま、ラーミアは彼の頭にだけ届く声を発する。リーシャ達がその声を聞いていない事は、彼女達を見れば解る。それでも、暫し三人の姿を視界に納めたカミュは、口元に小さな笑みを浮かべて一つ頷きを返した。

 それこそが、この世に生まれた唯一人の『勇者』の答え。

 数多くの英雄達の生まれて来た世界で、勇ましい者達は多く存在したし、強者も多く存在した。だが、世界に愛され、世界に望まれた『勇者』は、彼一人なのかもしれない。

 

 カミュを背に乗せた後、大きく翼を広げたラーミアが大空へと舞い上がる。太陽の輝きを失った大地が夜の闇に閉ざされる中、輝く神鳥の身体が更に深い闇の中へと消えて行った。

 アリアハンから始まった彼等四人の旅は、一つの世界で終わる事はなく、更なる世界へと羽ばたいて行く。

 それは、新たなる伝説の始まりなのかもしれない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

遅くなってしまいましたが、これで第十七章は終わりとなります。
十八章以降はあの場所です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

魔王バラモスという長く世界を恐怖に陥れていた存在を討ち果たした事によって、彼は名実共に『勇者』となる。それまでは、アリアハン国という辺境にある一国が認定した『勇者』としての地位が彼の身を証明する物であったが、これからは全世界の『勇者』として長く語り継がれる事となるだろう。大魔王ゾーマという存在を隠蔽する限り、彼は世界を魔王の手から救った『勇者』であり、誰も成し遂げる事の出来なかった偉業を達成した英雄なのである。

 

【年齢】:20歳

彼の人生の全ては、虚無と諦めに支配されていた。だが、四年以上に渡る旅は、彼の心を大きく変化させて行く。その長い旅路の中で彼の瞳に映った景色は、醜く濁った物もあっただろう。だが、それ以上に美しく輝く物も数多くあった。『人』という種族の醜い物ばかりを見て来た彼であっても、その中に輝く美しさを無視する事は出来ない。そして、それは彼が憎しみさえも抱いていた両親に対する想いも同様であった。十六年間という果てしなく長い時間、彼が受けて来た苦痛や絶望が消え去る事はないし、それらを与え続けて来た親族を許す事も出来ない。だが、それでも父オルテガや、母ニーナが成した事から眼を背けずに、それを真っ直ぐな瞳で見る事が出来るようになっていた。それは、彼の持つ生来の真っ直ぐな気質と、彼の横に有り続けて来た一人の女性の影響なのかもしれない。

 

【装備】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガいう彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):刃の鎧

ネクロゴンドの河口付近にある洞窟内に埋もれていた神代の鎧。

神が置き忘れたのか、それとも『人』に与えられた物なのは解らないが、まるで己の主を待つように、洞窟内にその姿を隠していた。だが、それを発見した魔物が手にしようとする事をこの鎧は拒絶する。自らに触れようとする許可無き者を、その鎧を形成する鋭い金属の刃によって分断していたのだ。真空で出来た刃ではなく、金属で出来た刃が鎧から飛び出す事自体が不可思議な現象ではあり、刃を発した鎧に傷一つないのだから尚更である。

大地の鎧を纏っている事から辞退したリーシャの代わりに、彼が装備する事となった。彼が敵と認識しない物や鎧自体に危害を加えようとしない者であれば、それに触れる事も可能である事は、彼の傍を離れない幼い少女が証明して見せている。

 

盾):ドラゴンシールド

サマンオサ城下町にて、リーシャと共に購入した盾。

龍種の鱗を土台となる金属の上に繋ぎ合わせた盾だと云われるが、サマンオサ近辺に龍種と呼べる種族が存在しない為、おそらくは龍種の劣化種である<ガメゴン>の鱗を繋ぎ合わせた物ではないかと考えられる。

だが、如何に龍種の鱗を繋ぎ合わせた物であったとしても、この世界で生きる全ての生物の頂点に立つ魔王の攻撃には耐える事は出来なかった。何度も吐き出される激しい炎を軽減する度、その鱗の数は減り、振り下ろされる拳を受け止める度に基盤は歪んで行く。最早、その盾の機能は無に等しい状態にまで落ちていた。

 

武器):稲妻の剣

刃の鎧と共にネクロゴンドの洞窟内に安置されていた剣。

まるで空から振り落とされる稲妻のように荒々しい刀身を持ち、それ専用の鞘でも製作しない限り、刀身を隠す物がない程の姿をしている。

刃の鎧と同じように、望まぬ相手に触れられる事を拒み、周囲の空気を圧縮して爆発させる力を解放していた。それは、『魔道書』の最強攻撃呪文であるイオラに酷似した物であり、その力を際限なく発揮する事が出来る時点で、この剣の異常性が解るという物であろう。

魔王の腕を斬り落とし、その体内で能力を開放するなど、かなりの攻撃力を有する剣ではあるが、それを扱う者は限られている。リーシャの持つ魔神の斧と同様、この剣はカミュにしか扱う事の出来ない武器なのかもしれない。

 

所持魔法): メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      リレミト

      マホトーン

      イオラ

      ベホマ

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(元アリアハン宮廷騎士)

魔王バラモス討伐という王命を達成し、凱旋した彼女は、自分を育ててくれたアリアハン国に対し、未来永劫の忠誠を誓う事となる。彼女自身、己が女性であるという原因によって、不遇な扱いを受けて来たという想いを持っていた。国王への忠誠は変わらずとも、アリアハン国が成す事に疑問を抱かずにはいられなかったのだ。だが、彼女が忠誠を誓った辺境国の王の思慮は深く、アリアハン国に生きる全ての者達の幸福を願う物であった。彼女は自分が幼い頃より見守られ続け、今も尚、アリアハン国民として愛されている事実を知る。それは、彼女が歩んで来た二十数年間の人生が価値ある物であり、輝く物である事を証明していた。彼女は、大魔王ゾーマという存在を世界に生きる者達の幸福の為に隠蔽する覚悟を決めたアリアハン国王の罪を被り、アリアハン王国貴族の地位と騎士の役職を返上し、一個人としてそれの討伐へと向かう決意をした。

 

【年齢】:不明

彼女の人生は、悲しみと後悔に彩られていた。心から愛し、尊敬していた父の死は、その同僚達によって辱められ、それを見返す為に騎士を目指す。彼女の心の中にあった想いは、『何故、父と共に魔物討伐に出る実力が、あの時の自分にはなかったのか』という後悔の念だけであった。父の変わりに魔物を討伐出来たと思う程に自惚れている訳ではない。それでも、自分も共に行けば、父は死ななかったのではないかという僅かな想いが後悔となって彼女を苦しめて来たのだ。故にこそ、彼女は誰よりも前に立つ。魔物によって命を失った者達の遺族が自分と同じ想いをしないように。そして、自己犠牲の精神を許さない。それが自己満足の身勝手な行為である事を誰よりも知っているから。彼女の悲しみと後悔の人生は、彼女の心を大きく成長させている。誰よりも他者の心を慮り、その心を理解しようと努力する。他者の為に苦しみ、悲しみ、涙する事が出来るのは、彼女が歩んで来た人生の糧と、この四年間見続けて来た青年の背中があったからなのかもしれない。

 

【装備】

頭):鉄兜

本人曰く、「気に入っている」兜らしい。

 

胴):大地の鎧

試練の洞窟と呼ばれる人工の洞窟内に安置されていた鎧。『勇者』と呼ばれるカミュが発見するが、その者を主とは認めず、外で待つ一人の戦士を主と定めた。まるで己の意志があるかのように、『人』としての色を残す女性を主と定めた鎧は、他者の手に渡るのを拒む。精霊と共に崇められる対象となる母なるものの名を冠する鎧は、植物や動物を育てるように、温かくその身を包み、護る事だろう。

 

盾):ドラゴンシールド

サマンオサ城下町にて購入した盾。

劣化した龍種の鱗を繋ぎ合わせて作られた物だと考えられる。

カミュと同様、魔王バラモスの攻撃を幾度となく防ぐ事によって、既に原型を留めてはいない。それ程に過酷な戦いであった事を示す物でもあり、それだけの防御力を有していた盾である事を証明していた。

 

武器):魔神の斧

遥か太古の魔の神が愛した斧。

その鋭い刃先は、どのような強固な物をも斬り裂き、その一撃は大地をも斬り裂くとさえ謳われた武器である。魔の神と天上の神との争いの際に失われ、地上へと落とされたという。それがネクロゴンドという地方に安置されていた事は奇跡であり、ネクロゴンドにある城に飾られた英雄の像の手に握られていた事も今では謎である。

その斧もまた、他の神代の武器と同様に自我を持っているかのように、己の主を定める。しかも、魔の神が愛した物である為、それは一筋縄ではいかない代物であった。己の主を嘲笑うかのように、試すかのようにその重量を変化させ、扱う者の重心をずらしてしまう事もある。しかし、その変化と持ち手の技量が合致した際には、逸話通りの一撃を生む事もあるのだった。

:ドラゴンキラー

魔神の斧を握っていた古の英雄の像である、動く石像との戦闘の際、その強固な石像を斬りつけた事によって、刀身に歪みが生じてしまう。本来、腕に嵌め込んで突き刺す事で強固な龍種の鱗をも破る武器であったが、それを打ち直した事によって強度が下がってしまったと考えられる。

通常の人間が、通常の魔物などを相手にする際は、その切れ味はこの世で販売されている武器の中でも群を抜いているのだが、人類最高戦力となった女性戦士の力量と、龍種を二体斬り裂いた後での続け様の戦闘によって、限界を迎えてしまったのだろう。

今は、リーシャの腰に下がる鞘の中で静かに余生を送っている。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

『人』を救う者。それが、この世界に伝えられている『賢者』の敬称でもある。だが、それは『人』だけを救う者であるという事ではないのかもしれない。世界に生きる全ての者達を救う事の出来る者だからこそ、その中に『人』という矮小な存在も含めるのだ。魔物も、エルフも、動植物達も、精霊神ルビスに最も近しい存在である『賢者』にとっては、この世界に生きる者として同等の存在なのだろう。サラという当代の『賢者』は、常に悩み、考える。その先に続く道の果ては、世界で生きる全ての生物達にとって、輝くべき未来である事を信じて。

 

【年齢】:21歳

彼女の人生の大半は、憎しみと哀しみに彩られていた。彼女自身は記憶にはないが、彼女の母が彼女を産んだ頃の年齢にまで彼女は成長している。両親と精霊ルビスの祝福を受けて誕生した子は、愛する両親を奪った魔物達へ憎悪を募らせ、復讐の念を抱く。それは、彼女と同様に精霊ルビスの祝福を受けて生まれていた魔物の子を憎むという行為であった。だが、彼女が憎悪を育て続けた十数年の月日は、若き勇者と共に旅した僅か数年の時間で覆される事になる。彼女が敬愛する『精霊神ルビス』は、この世に生きる全ての者達を愛し、全ての者達の幸せを願っているという事を知って行くのだ。魔王バラモスを討ち果たし、世界の平和を手にした筈の彼女には、未だに成さねばならぬ事が残されている。それを成す為に、彼女は再び勇者と共に歩み出す。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれており、その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

テドンという滅びし村で購入したこの法衣は、その村へ移住して来た年若い夫婦の手によって編み出された。昆虫が作り出す物を糸から『絹』という世界で初となる生地を作り出し、特殊な能力を保持していた妻が編んだ物。それは、奇しくも彼女と共に歩む幼い少女の母親であった。類稀なる魔法力を有し、稀代の『魔法使い』となった少女の母親も、特殊な術式を組み込んだ法衣を作り出している。その奇妙な巡り合わせが、サラという当代の『賢者』の思考に一石を投じていた。

 

盾):魔法の盾

カミュやリーシャと同様、スーの村で買い揃えた盾。サラの身体に合ったサイズに変化した盾は、その左腕に納まっている。以前まで使用していた<うろこの盾>に関しては、ロマリア国王から下賜された宝物である為、店で売却はせず、大事に保管されている。『意味のない行為』とカミュに小言を言われるが、リーシャの後押しもあり、その後は船の船員達が使う事になる。

 

武器):ゾンビキラー

サマンオサ城下近郊での<ガメゴン>との戦闘により、三年以上も共にあった<鉄の槍>は破損してしまった。

共に歩む者達の武器が次々と強力な物になって行く中、彼女だけがロマリアで購入した物を使用していたというのは、彼女自身の武器を扱う力量とは別に、『賢者』となった彼女に合う武器が無かった事が理由であろう。

長い年月を掛けて聖水に浸けても尚、錆などが浮かなかった長剣であり、その刀身に『精霊ルビス』の加護を受けた剣。

聖なる力を宿した長剣は、この世に生を持たない者達に多大な効果を持ち、この世に縛り付けられた魂や肉体を『精霊ルビス』の許へ還すと考えられていた。

   :聖なるナイフ

育ての親であるアリアハン教会の神父から授けられた物。

アリアハン大陸の魔物達には有力な武器ではあったが、ロマリアで<鉄の槍>を入手してからは、彼女の腰に下がる袋の中に大事に保管されている。

それは、彼女の心の奥にある太い柱となっている『愛』の証であり、彼女が進む道を照らし続ける『覚悟』の証でもある 。

 

所持道具:祈りの指輪

エルフの隠れ里にて購入した物である。メルエの指に嵌っている物と同様の物で、元々は子の幸せを願う親の想いが込められた物が起源と考えられている指輪であった。

純粋な祈りは『精霊ルビス』の許へと届き、指輪の所持者の魔法力や気力を回復するという効力がある。呪文に重きを置くサラにも必要であると考えたリーシャが購入する事をカミュへ提言し、それが受け入れられた事によって、サラの指にも嵌められる事となった。

購入する際は、2500ゴールドという大金が必要となるらしい。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ

       ザキ

       ザラキ(未行使ではあるが、契約済)

 

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       メラミ

       イオラ

 

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

       トラマナ

       インパス

       バシルーラ

       ベホマ

       ベギラゴン

       フバーハ

       ベホマラー

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

この世の中で、彼女ほどの魔法力を持った人間は存在しないだろう。この世で唯一の賢者である女性であっても、魔法力の量と才能では足元にも及ばない。未だ二桁にも届かない幼子のような容姿から想像も出来ない程の呪文の契約を済ませ、圧倒的な威力で行使するその姿は、同種の人間から見ても異常な物である。だが、彼女の才能もまた、カミュという勇者と出会う事がなければ開花する事はなく、この世界の美しさも喜びも知る事無く散った命の一つであった。その出会いが、精霊神ルビスの導きなのか、彼女を心から愛し続けた両親の導きなのかは解らない。だが、彼女程の魔法使いと出会えた事もまた、当代の勇者が引き起こした必然なのかもしれない。

 

【年齢】:7,8歳

彼女の始まったばかりの人生は、孤独と絶望によって覆われていた。それは、自身がそれを悲しみだと感じる事さえもない程の孤独。誰からも必要とされず、誰からも愛される事はない。そのような人生を彼女は数年間過ごして来たのだ。だが、そんな彼女の人生は、一人の青年と、同道する二人の女性によって変えられる。愛を知り、喜びを知り、心を知る。その全ては彼女の全てを変えてしまう程に大きく、彼女を取り巻く世界を輝く物へと変えて行った。故にこそ、彼女はその者達から離れない。父のように、母のように、姉のように慕う者達から離れる事を良しとはせず、無理やり引き離されそうになれば、これまでの人生で感じた事のない絶望感を味わい泣き叫ぶ。それは最早、強力な依存と言っても過言ではないのかもしれない。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):天使のローブ

エルフの女王へ『命の石』の欠片を手渡す為に訪れた隠れ里にて購入した物。

変化の杖の力によって、エルフへと姿を変えたメルエの将来に希望を見出したエルフの店主が購入を勧めた物である。

元々、エルフの母達が自分の娘の未来を案じて、一本一本想いを込めて編み込んで行ったローブが起源となっている。母達の強い想いが、そのローブを形成する糸に宿り、それを纏った者を理不尽な死から遠ざける効果を持つと云われていた。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

サラの装備する<魔法の法衣>同様、メルエの母親が編んだ物である可能性が高い。常に彼女の魔法力を支え、その身を守る姿は、母親そのものなのかもしれない。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

既に何度もメルエの身を守る為に立ち塞がっており、魔物等の攻撃を受ける際にも、その形状を変化させる事も解っている。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えており、主を護るその時に、そのオブジェの嘴から<ベギラマ>と同様の灼熱の炎を吐き出した。主と定めた物を護るような意志を持つその杖が、何故スーの村にあったのか、そして誰が安置したのかは、まだ解らない。

   :毒針

何度もメルエの身を護ってくれたトルドからの贈り物。

ただ、最近は、メルエが直接的に魔物から攻撃を受ける機会はなく、それを使用する事もない。

それは、カミュやリーシャ、そしてサラといった絶対的な保護者達の働きが大きいのだろう。

 

所持道具:祈りの指輪

精霊ルビスの加護を持つ指輪。

イシス国女王から下賜されたその指輪は、彼女との約束と共にメルエの指に嵌められている。『必ず元気な姿を見せて欲しい』というイシス国女王の願いは、メルエの胸の中で絶対の効力を持つ約束なのだ。その為に、この幼い少女は他の三人を護らなければならない。護りたいと願い、護ろうと決意する。そんな少女の願いと想いだからこそ、この指輪はそれに応えようとするのだろう。

    :アンの服

天使のローブという新しい防具を手に入れたメルエであったが、この服に何度もその命を護られて来た。みかわしの服と同様の生地で作られたこの服は、アンという幼い少女の身を案じた両親の愛が込められているのだろう。魔物の攻撃などで穴が空いたり、切れたりした部分は、サラによって修繕され、何度も復活を果たしていた。

魔王バラモスの討伐も成功し、再び訪れたカザーブの村の中で、三年以上の間メルエという少女の身を護り続けてくれたそれは、多大な感謝と共にトルドへと返還された。ジパングの血を引く女性と新たな人生を歩み始めようとする彼の心に残り続ける罪の意識を、新たな決意へと変えるその服は、何時までもカザーブの村にある道具屋の一室に飾られる事だろう。

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

       メダパニ

 

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       トラマナ

       マホトラ

       インパス

       マホカンタ

       ベギラゴン

       ラナルータ

       マヒャド

 

      【それ以外の呪文】

       メラゾーマ

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
十七章完です。

十八章は出来るだけ早く更新出来るように頑張って行きます。
よろしくお願い致します。


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第十八章
アレフガルド大陸①


 

 

 

 ラーミアが飛び込んだ巨大な闇の穴は、世界の歪み。浮遊感を感じるような崖ではなく、旅の扉に入った時のような奇妙な感覚に一行は陥った。

 まるで自分の視界全てが歪んでしまうような感覚にサラはメルエを抱き締め、カミュとリーシャはラーミアの背で足を踏ん張る。三半規管の全てが狂ってしまったかのような感覚の中、カミュ達を落とす事無く飛行を続けるラーミアは、やはり神代からの霊鳥なのだろう。

 とてつもなく長い時間のようで、瞬く間のような短い時間が終わり、不意に戻った感覚に瞳を開けたカミュは、未だに広がる闇の世界を見て気を引き締める。しかし、それは世界の歪みのような漆黒の闇ではなく、太陽が大地へと落ちた後に訪れる自然の闇である事に気付き、周囲を確認するように視線を彷徨わせた。

 

「ここがルビス様のお創りになられた世界……」

 

 闇が広がるその場所には、海があり森もある。大地があり風もある。只一つ、陽の光がないという事を除いて見れば、サラ達が生まれた世界と何ら変わらない景色であった。

 上空を見上げると、太陽の光がないばかりか、星の輝きも、月の輝きもない。何一つない空の一部に、歪んだ闇が広がっている。おそらく、その闇がカミュ達が育った世界へと繋がっているのだろう。

 あのギアガの大穴がこの世界へ繋がる理由は解らない。それが精霊ルビスの力の限界なのか、それとも大魔王ゾーマの力の影響なのかも解らない。言える事は、この世界がサラ達が知る世界ではないという事と、この世界が大魔王ゾーマによって闇に覆われようとしているという事であった。

 

『私がお送り出来るのはここまででしょう。あの世界には今や守護者がおりません。精霊神ルビスも竜の女王も、そして貴方もいない今、ゾーマの触手が伸びて来た場合を考え、私はあちらへ戻る事にします』

 

「……頼む」

 

 海に浮かぶ一つの小島へと着陸したラーミアは、その背から一行を下ろし、カミュ達の脳へ向かって声を発する。直接響いて来るその言葉の内容に、カミュは一つ頷きを返すが、先程まで笑顔であったメルエの顔は瞬時に歪んで行った。

 ラーミアの言葉通り、カミュ達が生まれた世界には守護者がいない。信仰として伝えられている精霊神ルビスは、この闇に覆われかけた世界にいると云われているし、本来の守護者である竜の女王は、新たな守護者へ全てを託して命を終えている。新たな守護者となるべき者は未だに卵から孵らず、守護者としての役割を全う出来る訳はない。そして、リーシャとサラが最も驚いたのは、ラーミアという神鳥が、守護者という枠の中に一人の青年を含めた事であった。

 確かにカミュという青年は、『勇者』として旅を続け、世界の脅威である魔王バラモスを討ち果たしている。だが、彼が一個の人間である事に変わりはなく、精霊神ルビスや竜の女王のような力を有している訳ではない。それでも、この神代の生物である神鳥は、唯一人の人間を世界の守護者として認めていたのだ。

 

「…………ラーミア………いない……だめ…………」

 

『再び出会う日はそう遠くはありません。貴女と再び会える日を楽しみにしています』

 

 瞳に涙を溜めた少女が、大きな翼に近付いて来るのを感じたラーミアは、そのまま翼を広げ少女を内へと誘い込む。暖かな羽毛に包まれたメルエは静かに涙を流し、自分とようやく会話をしてくれるようになった神鳥との別れを惜しんでいた。

 いくら駄々を捏ねようと、その別れを拒否しようと叫んでも、この別れがどうにも出来ない物である事を理解した彼女は、押し殺すような嗚咽を漏らしながら、その羽毛に顔を埋める。神鳥と呼ばれ、崇拝の対象にさえ成り得る存在に対して、このような姿を見せる人間は珍しいのかもしれない。それだけこの少女は無垢であり、この少女の傍にいる者達も異質なのだろう。

 勇者として生きる青年は、共に歩む戦友のようにラーミアを認め、女性戦士はラーミアを神代の霊鳥として崇めてはいるものの、少女が慕う動物としての見方の方が強いようにも思える。唯一、精霊神ルビスを崇めている賢者だけは、この神鳥を精霊ルビスの従者として尊い存在として見てはいたものの、己の目指す遥かなる道へと向ける瞳の方が強かった。

 

「さぁ、メルエ。ラーミア様にお礼を」

 

「…………ぐずっ……ありが……とう…………」

 

 既にサラの中でも、この神鳥が精霊ルビスの下に就いていたという認識はないのかもしれない。むしろ精霊神ルビスと呼ばれる精霊の頂点に立つ存在と同等の神気を持つ者であると言っても過言ではないのだろう。この世界を生み出した創造神から何らかの使命を受けた存在のようにも見えるし、竜の女王と同格の守護者のようにも見える。異世界との狭間を何の問題もなく渡る事が出来るこの神鳥は、それだけの力を有していた。

 鼻を啜り、涙を溢しながらも頭を下げてお礼を述べるメルエを見つめる青い瞳は優しい光を湛えている。顔を上げたメルエを抱き上げたリーシャは、ラーミアが飛び立つ為に距離を取った。全員が距離を取り終えた事を確認したラーミアがその大きな翼を広げ、大地を蹴る。太陽の光さえも届かぬ空へ眩い光となって飛び立ち、暫しの旋回の後、空に見える巨大な歪みの中へと消えて行った。

 

「泣くな、メルエ。ラーミアと約束したのだろう? 必ずまた出会える日が来る。その時を楽しみに待とう」

 

「…………ん…………」

 

 抱き上げられたメルエは、リーシャの首筋に顔を埋め、未だにすすり泣く。誰に対しても、何に対しても偏見を抱かず、好意を好意で返そうとする少女の優しい涙に笑みを溢したリーシャは、その背を静かに撫でながら、再び神鳥と会える日を思った。

 その日は遥か遠い未来かもしれないし、すぐ傍にある未来かもしれない。だが、語り継がれる程の神鳥がそれを口にしたのだ。必ずその日が来る事だけは確かであろう。今は只、その日が来るまで、彼等の前にある道を歩み続ければ良い。

 

「カミュ様、建物が見えます」

 

 リーシャがメルエを慰めている横で、サラは夜の闇に閉ざされた孤島を観察していた。立地的にも山などなく、平地が支配する小さな島は、一日、二日で歩き終える事が出来る程度の大きさしかない。そして、サラの指差す先の海岸付近に小さな小屋が建てられていた。

 小さな小屋からは海へと続く桟橋が掛けられており、その桟橋には小さな小舟が繋がれている。人間数人が乗る事の出来る程度の小舟であるが、対岸の陸地が見える海域であれば十分に渡る事が出来る筈である。おそらく、この小屋の持ち主が使用しているのだろう。

 

「あれ? また上の世界から来た人?」

 

「……上の世界?」

 

 小屋へと近付くと、桟橋にある小舟の近くに十二、三歳程度の年齢と思われる少年が手入れをしていた。この小屋で暮らす者の息子なのか、舟の手入れの仕方も堂に入っている。真面目な少年の手入れも行き届いており、小舟の状態も良く、不備などは全く見られなかった。

 そんな少年が近付いて来るカミュ達に気付き、自分の身体よりも大きなブラシを止めて首を傾げる。少年が発した言葉は、カミュ達には理解し難い内容ではあったが、全く理解出来ない物でもない。つまりは、上空にある歪みから落ちて来た者達も居たという事なのだろう。

 ラーミアという神鳥に乗ってこの世界に来たカミュ達は、空に浮かぶ歪みの闇から出ている。だが、あの歪みがこの世界の入り口だとすれば、空でも飛べなければこの場所以外の海などに落下し、命を落としているだろう。それでも、この世界にいる少年が異世界を渡る者達を見て来たと言うならば、他の者は別の形でこの場所へと現れたのかもしれない。

 

「お父さんが中にいるから、会えば?」

 

 何よりも、この少年にはカミュ達への興味がない。それは、彼の言う『上の世界から来た人』という存在が、それ程珍しい物でない事を意味していた。流石に毎日という訳ではないだろうが、一年に数回の回数でそのような人物の来訪があるのかもしれない。

 カミュ達への興味を失った少年は、再びブラシを握り、小舟の清掃を始める。水を撒き、ブラシで擦るという行動を繰り返しながらも、その表情に苦痛はない。何処か、メルエが洗濯を行う時のような楽しささえも滲ませるその表情に、リーシャは自然と笑みを作ってしまった。

 小屋の中に入ると、その小屋は見た目通りの部屋数も少なく、親子二人で暮らす事が可能である程度の広さしかない。中央にある暖炉には火が点されており、太陽の温かみがない夜の寒さを補うように暖を取っていた。

 中央にある椅子に座っていた男性が、入って来たカミュ達の方へと顔を向ける。おそらく、この男性が表に居た少年の父親なのだろう。ポルトガに居た海の男達程ではないが、屈強な体躯をしているその男性は、カミュ達の来訪にそれ程興味を示さず、持っていたカップの飲み物を口に運んだ。

 

「また上の世界から来た人間か? ここは、闇に閉ざされてしまったアレフガルドだ」

 

「アレフガルド国王様にお会いするには何処へ向かえば宜しいでしょうか?」

 

 男性はカップから口を離し、自分の言葉に反応して問いかけたカミュをまじまじと見つめる。もしかすると、彼の言う『上の世界から来た人間』がこの場所に来て初めて口にする言葉は『ここは何処だ!?』という物なのかもしれない。何度もその問いかけを受けて来た彼は、定例文のようにこの場所の説明をしただけなのだろう。だが、予想に反して、カミュの口から出たのはその国家の王への謁見に関する物であった。

 カミュ達四人は、アレフガルドという地名は聞いた事はない。だが、上の世界という未知の異世界から来た人間だと考えているのであれば、地方名などを口にはしないだろう。つまり、この男性は国家名を口にしたのだと彼等は認識したのだ。

 

「ん? いや、アレフガルドとは、この大陸の名だ。アレフガルドを治めている国家はラダトーム王国となる。ラダトームの王都と城は、この島から海を渡って真っ直ぐ東に向かえば一日、二日で辿り着くだろう」

 

「……失礼致しました」

 

 だが、それはカミュ達の勘違いであった。この世界にどれ程の大陸があるのか解らないが、今カミュ達の居る場所の呼称がアレフガルド大陸であり、その大きな大陸全てを統べる国家がラダトーム王国であると言う。国家名を誤るなど、不敬以外の何物でもない。その国に忠誠を誓っている者からすれば、激怒しても可笑しくはない筈なのだ。だが、この男性は少し驚いた顔をした後、気にした様子もなく、その間違いを訂正した。

 

「外に居る息子に舟を出して貰うと良い。気が向いたら駄賃でも上げてくれ」

 

「ありがとうございます」

 

 ラダトーム王国が統治しているアレフガルドという大陸はかなりの大きさなのかもしれない。それこそ、アリアハン大陸など比較にならないだろう。流石に上の世界全てに比べれば小さな物だろうが、一国家として考えるのであれば、上の世界の六カ国よりも大きい可能性があった。

 会話を終えた男性は、漁師が使うような道具の手入れを始め、カミュ達を振り返る事もない。最早珍しくもない異世界の人間への興味など、その程度の物なのだろう。頭を下げたカミュ達は、小屋から退出し、先程の少年の許へと戻って行った。

 

「……ラダトームのお城へ行くの? じゃあ、乗って行きなよ」

 

 男性との会話の内容をカミュが話すと、屈託のない笑みを浮かべた少年が舟の掃除を止めて、オールのような物を手に取る。少年にお礼を言って乗り込む一行の中で、何やらメルエだけは不機嫌そうに頬を膨らませていた。

 カミュやリーシャが少年を見る目はとても優しい物である。このような辺鄙な孤島で父親と二人で暮らしている子供としては、この少年の瞳は優しく澄んでいた事が原因であろう。だが、自分の保護者である二人が、自分以外の子供に優しい瞳を向ける事を、この幼い少女は許さない。独占欲と我儘を覚えたこの少女は、まるで敵のように少年を見つめるのだった。

 

「この人数だと、僕一人じゃ舟を動かせないから……」

 

「わかった」

 

「わ、私もなのか?」

 

 四人が乗り込んだ後、困ったように首を傾げた少年は、一度小屋に戻ってオールのような物を二つ持って戻って来た。

 確かにそれ程大きな舟ではないとはいえ、ある程度の重量がある大人三人を乗せるのであれば、少年だけで海を渡るのは難しいのだろう。素直にそれを受け取ったカミュとは異なり、手渡されたオールに戸惑ったのはリーシャであった。

 この一行の中で唯一の男手であるカミュが漕ぐ事は当然であろう。だが、屈強な戦士といえども、リーシャは女性である。何故か当然のように少年からオールを手渡された事に釈然としない想いがあったのだ。

 

「…………メルエも……やる…………」

 

 リーシャが呆然と手に持つオールを眺めていると、先程までむくれていたメルエがオールへと手を伸ばす。十二、三歳の少年が持っているオールよりも大きな大人用の物である為、身体つきが少年よりも幼いメルエが持てる訳がない。手を伸ばしてオールの柄を掴んでも、リーシャが手を離せば舟の上で引っ繰り返り、そのまま海に落ちてしまう事は明白であった。

 舟の前方にサラが座り、中央にカミュとリーシャが並んで座る。船尾には少年がオールを持って立ち、メルエはリーシャの膝の上に乗ってオールを握った。小さな舟ではあるが、四人が乗り込んでも余裕はあり、重みで船が沈むという事もないだろう。

 一つ合図を出した少年は、桟橋に括っていた縄を解いて、足で蹴る事によって出航させる。海を渡るとはいえども、この孤島から対岸の陸地は見えていた。故に、長い時間が掛かる訳ではない。この世界にも海の魔物が居たといても、遭遇する可能性も低いだろうと考えていたのだ。

 だが、そんな考えは、己の力量と重要性を把握し切れていないという落ち度があった。

 

「え? こ、こんな……」

 

「カミュ!」

 

 陸地から離れ、対岸との中央まで舟を進めた頃、後方で舟を誘導していた少年が海面が泡立っている事に気付く。そして、一気に波立ち、舟が揺れ動いた。立っていた少年が己の身体を支え切れない程に大きな揺れであり、オールを手放して舟に腰を打ってしまう。

 舟が転覆しなかったのは、少し離れた場所から海面にそれが出て来たからであろう。だが、大きな揺れによって舟の中に大量の海水が流れ込み、舟体が大きく沈み込む。入り込んだ海水をサラとメルエで海へと戻す中、海面に現れたそれを見上げた少年は恐怖で声を失っていた。

 カミュとリーシャは己の武器を抜くが、海上での戦いを行える程に舟が大きい訳ではない。何より、海面に顔を出したそれは、舟に上げて戦う事が出来るような物ではなかった。

 

「グオォォォォ」

 

「……なに、これ? こんな魔物、見た事ないよ」

 

 カミュ達の数倍以上の真っ赤に染め上がった身体を持ち、その魔物は大きな雄叫びを上げる。カミュ達の身体よりも太い十本の触手を高らかに掲げ、その先には毒々しい青色の光沢を放つ吸盤を持っていた。その内の一本の触手の一振りだけで、カミュ達の乗る小舟などは木っ端微塵に砕け散るだろう。それだけの力を有している事が一目で解る程に、その存在感は大きかった。

 腰を抜かした少年は、巨大な赤い化け物を見上げて言葉を漏らす。その内容に、小舟の中の海水を出し終えたサラは弾かれたように顔を上げた。

 この少年は、何度もこの舟で海を渡っている筈である。僅かな短い距離である事に加え、それ程強力な魔物との遭遇もないからこそ、あの父親である男性も少年に任せていたのだろう。つまり、この巨大な魔物が現れたの事は近年ではなかったという事だ。

 

<クラーゴン>

巨大イカ属の最上位に位置する魔物である。大魔王ゾーマの持つ世界の海に存在していたと云われる魔物であり、海域最強の魔物でもあった。海を棲み処とする魔物達の中の頂点に立つに相応しい力を持ち、その数の多い触手を同時に繰り出す事で、相手が行動を起こす隙を奪う。その巨体通り、体力や生命力も高く、通常の攻撃や攻撃呪文などでは傷一つ与えられない程であった。

 

「グオォォォォ」

 

「舐めるな!」

 

 雄叫びを上げたクラーゴンは、一つの触手を舟に向けて振り下ろす。しかし、それを見切っていたリーシャの一閃が、太い幹のような触手を斬り飛ばした。振り下ろした勢いをそのままに、後方の海へと落ちて行く触手が巨大な波を作り出し、小さな小舟が再び大きく揺れ動く。

 体制が崩れたカミュに向かって振り下ろされた触手は、立て直しながらに振り抜かれた稲妻の剣によって斬り飛ばされるが、同時に繰り出されたもう一本の触手が後方で腰を抜かしていた少年へと襲い掛かった。

 

「サラ!」

 

「…………むぅ………メラゾーマ…………」

 

 間一髪で少年を抱えたサラがその一撃を受け、そのまま海の中へと落とされてしまう。サラの身体ごと海へと弾き飛ばす怪力を見せたクラーゴンであるが、それに怒りを表した小さな魔法使いの生み出した大火球を受ける事となった。

 触手数本を犠牲にし、己の身を護ろうとしたクラーゴンの判断は正しかった。最も太い触手を含めた三本が、メルエの放った火球を受けて消滅する。それは限界まで圧縮された高温によって瞬時に溶けてしまった事を意味している。触手であった残骸が海へと落ちるが、根元から消え失せた触手はクラーゴンに命の危機を感じさせた。

 

「……リーシャさん、この子を」

 

「サラ、自分に回復呪文を掛けろ!」

 

 メルエが杖を握り締めてクラーゴンと対峙する中、サラが気を失った少年を舟へと上げる。強かに打ち付けられた触手によって、サラ自身も大きな怪我を負っているのだろう。口端からは血液が流れ、庇った際の右腕は大きく晴れ上がっていた。右腕の骨が折れ、内部で肉に突き刺さっているのかもしれない。

 痛みに耐えるように表情を歪めながらも腕を正常な形へ戻したサラは、最上位の回復呪文を己の身体へと唱える。強い緑色の光がサラの身体を包み込み、身体内部の傷を癒して行った。

 死への恐怖と怒りによって半狂乱になったクラーゴンが小舟に向かって触手を振るうが、メルエの放つ魔法と、カミュの迅速の剣捌きによって、何とか被害を抑えている。そんな中、ようやく舟に上がったサラが、海水で濡れた服をそのままに、クラーゴンの前へと歩み出て行った。

 

「ザキ」

 

 それは、カミュやメルエ、そしてリーシャにも聞き取る事の出来ない言霊。その行使者が、対象者にのみ放つ呪いの言葉であり、それはそれ以外の者達の耳に入る事はない。カミュやメルエには、サラが何かを呟くように口を開いたようにしか見えなかった。

 手を前方に向けて放たれた呪いの言葉は、正確にクラーゴンを打ち抜き、巨大なイカが苦しむように身を捩る。触手の半数以上を失い、それでも怒りの任せて攻撃を繰り出していた大イカが海の中で暴れる事で、再び大きな波が立つ。

 

「グオォォォォ」

 

 しかし、このクラーゴンという魔物が、海の支配者である証が示された。

 巨大な雄叫びを上げたクラーゴンの瞳までが真っ赤に染め上がり、頂点に達した怒りが夜の闇を切り裂いて行く。それは、サラの放った死へ誘う呪いの言葉を弾き返した事を意味していた。

 以前のカミュのように、クラーゴンが命の石を持っていたとは思えない。となれば、その時のリーシャや試練の洞窟の時のカミュのように、独力で死への誘いを打ち払ったという事になる。それは、本能が優先されると考えられている魔物としては異例であった。だが、本能が優先されているからこそ、生への渇望が強かったとも考えられるのかもしれない。

 

「ちっ!」

 

「……そうですね、死にたくはありませんね。ですが……ごめんなさい。私達もまだ、死ぬ訳には行かないのです」

 

 怒りに燃えた瞳をサラへと向け、その渾身の一撃を加えようと残った触手を振り被ったクラーゴンを見たカミュは舌打ちを鳴らし、それとは対照的にサラは哀しそうに眉を下げて小さな呟きを溢す。

 しかし、再び上げられた顔は、先程までの憂いなど欠片も見えない。そこにあるのは他者を死に至らしめる事を理解し、飲み込み、覚悟した者しか出来ない瞳をした『賢者』そのものであった。

 触手を振り下ろそうとしているクラーゴンに向けて掲げられた掌に力を込め、彼女は再びその力を解き放つ。強制的に生者を死へと誘い、その魂までも無に還す力。それは、『人』が持つには余りにも大きく、余りにも危険な力であった。

 

「ザキ」

 

 呟くように静かながらも、先程よりも更に力が篭ったその言霊は、カミュやリーシャの脳にも微かに聞こえる程の力を有する。生への執念さえも断ち切らせるその言霊は、怒りに燃えたクラーゴンの瞳から光を奪って行った。

 振り上げた触手を振り下ろす事さえも出来ず、全ての時を止め、全ての活動を放棄したクラーゴンは海へと沈んで行く。夜の闇に支配された海の上でもはっきりと確認出来る真っ赤な巨体が、完全に海の中へと消えて行く頃、サラの瞳から緊張の力は抜け、大きな溜息を吐き出した。

 

「…………サラ…………」

 

「……大丈夫ですよ。この力は震える程に怖い……出来る事ならば使いたくはないのですが、それでも私には目指す先があります。そこに辿り着くまでは、死ぬ訳にはいきませんから」

 

 心配そうにサラの手を握ったメルエの眉は下がっている。あちらの世界でサマンオサ国に入る前にサラが陥った状況を思い出したのだろう。

 あの時のサラは、己が行使した呪文の凶悪さと、その呪文の持つ力の強大さ、そして何よりも倫理観から己を苦しめ続けた。神にも近い他者の命を強制的に奪い取るという『死の呪文』は、サラという賢者の思考をも止めてしまう物であったのだ。

 だが、今のサラはそれを乗り越え終えている。決してその呪文を軽く考えている訳でもなく、ましてや他者の命を軽く考えている訳でもない。それでも自分が進む先にある未来を実現する為、自身の命を優先するという結論に達しているのかもしれない。

 

「カミュ、あの魔物はゾーマの完全なる復活と共に現れたのか? だとすれば、この状況で少年だけであの家へ戻すのは危険ではないか?」

 

「……ああ」

 

 既に対岸は目と鼻の先である。浅瀬に入った事で、リーシャとカミュは舟を降り、海水に腰まで浸かりながら舟を押し始めていた。その中で、あの魔物を見たリーシャは、感じた疑問を口にする。

 確かに、この少年が今まで見た事もない魔物が突如現れたのだとすれば、今まではあの魔物がこの海域に生息していなかったという事になる。ならば、考えられる事とすれば、大魔王ゾーマの復活と共に、このアレフガルドに生息する魔物の質や凶暴性に変化があったという可能性であった。

 そして、今後もこのような短い航路の途中でもあれ程の魔物と遭遇するならば、舟を使って暮らしを営んでいる親子は死活問題になって来るだろう。まず第一に、あの場所に少年を一人で戻す事の危険性は明らかであった。

 

「メルエ、目的地が見えていたら、ルーラで戻って来れますか?」

 

「…………ん………メルエ……できる…………」

 

 そんな二人の会話を聞いていたサラは、未だに心配そうに眉を下げたまま自分の手を握るメルエに向かって問い掛ける。自分の誇りでもある魔法に関しての問いかけを受けた少女は、少し考えた後、下げていた眉を上げ、しっかりと頷きを返した。

 ルーラという呪文は特殊な呪文でもある。本来は、行使者の頭に残るイメージを利用して、魔法力の開放によって目的地へ向かう者であった。だが、それは『魔道書』という書物に記載された呪文の説明であり、魔法力の開放という点で言えば、幾らでも応用は可能な呪文でもあるのだ。

 行使者のイメージがしっかりしていれば、その場所へ飛ぶ事は可能であるし、そのイメージは視界に入っているのであれば容易に構築が可能であろう。しかし、それもまた、高位の呪文使いでなければ不可能なのだ。

 この四人の中でルーラを行使出来ないのはリーシャだけであるが、呪文を行使するための魔法力の制御という点で言えば、カミュもまたサラやメルエの足元にも及ばない。ルーラという初期の呪文を最も早く行使出来たのは彼であるが、それを応用する程の技量は持っていないのだ。

 そして、応用するという事は、それなりの魔法量を持っていなければならない。最小限の魔法力で行使出来る距離であっても、ルーラという契約の外にある行使方法であれば、対価の魔法力が増えてしまっても可笑しくはなかった。

 故に、サラはその行使者としてメルエを選んだ。

 

「カミュ様はもう一度メルエと共に舟で戻って下さい。あの巨大なイカは流石に出て来ないでしょうが、他の魔物が出て来た際、カミュ様も居れば十分でしょう。メルエは向こう岸に着いたら、こちらまでルーラで戻るのですよ? 目印は……あの大きな木は、あちらからでも見えていましたね」

 

「メルエ、大丈夫か?」

 

「…………ん………だいじょうぶ…………」

 

 サラが細かい説明を加えて行く中、心配そうにメルエへと声を掛けたリーシャは、その瞳に宿る光と、口にされた魔法の言葉に笑みを浮かべる。この少女は、その魔法の言葉に宿る力を知っていると共に、その言葉が意味する大きな責任をも理解しているのだ。ならば、保護者であるリーシャは、この少女を信じて託すのみである。

 一度帽子を取り、その明るい茶色の髪を梳きながら撫でて行くと、気持ち良さそうに目を細めたメルエが花咲くような笑みを浮かべる。二人のいつもと変わらないその行為が、これから行う難しい呪文の行使をも容易なものであると錯覚させた。

 厳密に言えば、メルエは一度同じような行使方法を成功させている。それは、彼女達がカミュと逸れてしまった時、魔物のバシルーラへ対抗する為に魔法力を使い切ったサラに代わって、メルエは下で航海する船に向かい行使した魔法であった。

 あの時は無我夢中という域を出ない物ではあったが、今のメルエは本当の意味で世界最高の魔法使いにまで成長している。魔王バラモスでさえも恐れる程の魔法使いなど、同じ魔族であっても多くはないだろう。それ程の存在に不可能など有り得なかった。

 

「う……」

 

「目が覚めたか? 今、お前の家まで戻っている。これからは、この短い海域でも魔物と遭遇する可能性が高い。父親にもこの事を告げてくれ」

 

 もう一度舟に乗り込み、オールをカミュが漕ぐ事で小舟を動かす。再び中間地点辺りまで進んだ頃、ようやく少年は意識を取り戻した。ゆっくりと起き上がる少年の背を支えたカミュは、静かに現状を少年へと伝える。その内容は、少年には余りにも重い内容であろう。しかも、意識を取り戻したばかりとなれば尚更であった。

 周囲を見渡すように首を動かした少年は、ようやく先程遭遇した巨大イカとの戦闘を思い出して顔を青くする。この海域であのような魔物と遭遇した事は今までにはないのだ。それが今後も遭遇する可能性を指摘されたとなれば、それは彼とその父親にとっては死活問題となるだろう。

 

「…………カミュ…………」

 

 青くなる少年に顔を歪めたカミュではあったが、後方に居るメルエの呟きによって瞬時に戦闘状態へと入って行く。鋭く目を細めたメルエがその身に膨大な魔法力を纏っている。それはその視線の先に現れる者が強力な魔物である事を示していた。

 稲妻の剣を抜き放ち、少年を護るように立ったカミュもまた、泡立つ海に視線を向ける。もし、再び先程遭遇した巨大イカのような魔物が現れた場合、サラのような強制的な呪文が行使出来ないカミュとメルエでは力と力のぶつかり合いとなる戦闘を行うしかない。それはこのような小舟で対応出来る物ではない以上、完全に人選ミスのように思われた。

 

「サラ、魔物のようだ」

 

「はい。しかし、あのイカではないようです。ここからでは見えませんが、あの程度の魔物ならば、カミュ様とメルエが苦戦する事もないでしょう」

 

 だが、対岸で見守っている二人の会話を聞く限り、そのような事に気付かない賢者ではないのだろう。陸と陸の間で戦闘を始めた小舟に視線を向けていたリーシャが魔物の到来を口にするが、それを見据えた考えを持っていたサラは動じない。彼女の言葉通り、対岸に居る二人からでは、小舟に襲い掛かる魔物ははっきりとは見えない。だが、見えないという事は、先程遭遇したクラーゴンではないという事になる。

 クラーゴンは人間の何倍も大きな巨体を持つ巨大イカであり、その身体が海から現れれば、対岸からでもはっきりと視認出来るだろう。対象が見えれば、呪文行使が可能となる。特にサラの行使したザキという死の呪文であれば、対象への到達時間なども考慮に入れる必要はないのだ。

 

「キェェェェェ!」

 

 カミュ達の前に現れた魔物は三体。海面に顔を出したその魔物は、器用に尾ひれを動かしながら小舟に照準を合わせている。剣を握った青年は居ても、その後方には幼子が二人居るだけであり、魔物達にとっては格好の獲物なのだろう。

 鋭い三白眼は怪しく光り、顔の端まで裂けた口からは更に鋭い牙を生やしている。顔の上部と側部には魚であった頃の名残のようにヒレが残っており、その体躯は誰もが忌避するような紫色の鱗に覆われていた。

 隙を見てカミュ達を海に引き摺り込もうと考えているのか、注意深く舟の周囲を泳ぎながら機を窺っている。そのまま小舟を転覆させる事が出来ないのは、カミュが発する威圧感によって、小舟に手を掛ける事が出来ないからであろう。

 

<キングマーマン>

上の世界で生息していたマーマン属の頂点に立つ存在。海の魔物の王であるクラーゴンに力では及ばないが、他者を統率して行く能力は巨大イカよりも上である。大魔王ゾーマの居た世界の海では、下位のマーマン達や他の魔物達を統べ、一個小隊を形成する事もあった。他者を食い破る鋭い牙を持ち、振るわれる腕の爪は他者を容易に斬り裂く。太い下半身が生み出す力によって素早く海中を泳ぐ事で他者を翻弄する魔物である。

 

「キエェェェェ」

 

 注意深く剣を構えるカミュによって、隙を見出せないキングマーマンが焦れて来る。彼らにとって人間などは底辺の存在であり、只の食料以外の何物でもないのだろう。そんな食料が自分達に牙を向き、抵抗の意志を見せているのだ。それが、己達の力量を自負し、その力量で同族最高位の地位を築いて来た彼らには許せない。

 しかし、そのような魔物の誇りは、今まで出会った事もない一人の人間に打ち壊される事となる。

 

「ふん!」

 

 奇声を上げて海から飛び出した一匹のキングマーマンが、青年の一振りでこの世との別れを告げる。冷静に振り抜かれた剣は、キングマーマンの肩口に入り、飛び出した勢いに逆らう事無く、その身体を真っ二つに斬り裂いた。

 後方の海へと消えて行く二つに分かれた死骸は、夜の闇によって黒く映る海を緑色の体液で染めて行く。一瞬の出来事に呆然とする二体のキングマーマンであったが、その内の一体は怒りに表情を歪ませ、海水をカミュ目掛けて噴出した後、先程のキングマーマン同様に小舟へと飛び込んで行った。

 しかし、圧倒的強者の前で、その行為は愚行以外の何物でもない。既に鱗の剥げてしまったドラゴンシールドで海水を防いだカミュは、座り込んでいる少年に向かって飛び込んで来たキングマーマンに回し蹴りを繰り出す。目眩ましなど勇者には効果がないのだ。

 回転の威力を上乗せされた回し蹴りは、キングマーマンの腹部に突き刺さり、そのまま海へと身体を差し戻される。激しく打ち付けられた海面に大きな水飛沫が上がり、一体のキングマーマンの身体は海中へと沈んで行った。

 

「キシャァァァァ!」

 

 海中に沈んだキングマーマンは死んではいないだろう。それでも、即座の戦線復帰は難しい。残る一匹となったキングマーマンは海中から半身を出し、その醜悪な口を大きく開いて先程とは異なった奇声を上げた。

 それは、魔物特有の呪文詠唱。一気に下がった周囲の気温は圧倒的な冷気を呼び込み、小舟に霜を落として行く。吹き荒れる冷気は、鱗の剥がれたドラゴンシールドを氷の盾に変えて行き、呆然と戦闘を見ていた少年の吐く息を凍らせ、その身体を凍結させて行った。

 カミュ達にとって、ヒャダルコ程度の冷気であれば、最早死に至る物ではない。だが、一般の人間であり、尚且つ年端も行かぬ少年にとってそれは死に直結する程の脅威であった。

 それに気付いたカミュは、少年を庇うように盾を掲げ、自分の纏っていたマントで少年を包み込む。更に上空に向けてベギラマの詠唱を行い、火炎を生み出す事で冷気からの防御を図った。既に歯が噛み合わない程の寒さを通り越し、瞼を落とそうとしていた少年は、戻って来る体温に活動を再開させ、自分を護る青年の背中を眩しそうに見つめる。

 そんな二人のやり取りを不満そうに頬を膨らませて見ていた少女が一歩前へと進み出る。吹き荒れる冷気など物ともせずに杖を掲げた少女は、海の中で余裕の笑みを浮かべるキングマーマンに向かってそれを振り抜いた。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 杖先のオブジェの瞳が輝き、その嘴の先から巨大な火球が飛び出す。極限まで圧縮された大火球は真っ直ぐキングマーマン目掛けて飛んで行った。カミュ達が生まれ育った世界では、魔王バラモスのみが行使可能な呪文。全てを飲み込み、全てを消滅させる程の熱量は、海中に居る魔物を飲み込んで行く。

 海水が蒸発する音と、大量の水蒸気を上げながら突き進む巨大火球を避ける術はない。キングマーマンが海中に戻ろうと動き始めた頃には、その火球は魔物のすぐ傍まで接近していた。直接触れなくとも、その対象を焼き焦がす火球の熱に焼き溶かされたキングマーマンは、瞬時にその生命を失う。

 海中へと沈んで行く巨大な火球の後には、上半身の全てを消滅させたキングマーマンの尾ひれだけが残り、指令系統を失った下半身は静かに海中深く沈んで行った。

 

「大丈夫か?」

 

「え? あ、うん」

 

「…………むぅ…………」

 

 強力な敵を呪文一つで薙ぎ払ったにも拘わらず、それに対して労いの言葉も掛けてくれない事にむくれるメルエを余所に、カミュは座り込んでいる少年の身体を気遣う。それが余計に少女の神経を逆撫でし、頬を膨らせて彼の目の前に頭を突き出すのであった。

 メルエの嫉妬心に気付いたカミュではあったが、軽くその頭を撫でた後、オールを手にして小舟を動かし始める。この場所を一刻も早く移動し、少年が住む小屋のある場所まで戻らなければ、キングマーマンの体液の香りに誘われた魔物がいつ登場しても可笑しくはないからだ。

 今目の前で繰り広げられて来た戦闘の余韻に呆然とする少年は、未だに大きなマントに包まれている。それがまた幼い少女の心を掻き乱し、鋭い視線を少年へと向けるのだった。

 

「暫くは、一人で海には出るな。父親にもしっかりと伝えてくれ」

 

「わかったよ」

 

 小屋に連結された桟橋に辿り着いたカミュは、即座に舟を繋ぎ、メルエを抱き抱える事で舟から降ろす。同時に降りた少年にしっかりと伝えると、カミュは少年の手に数十ゴールドを手渡した。手間賃と、小舟を少し損傷させた事への賠償金である。少し小首を傾げた少年であったが、その理由を聞くと、素直に礼を述べてポケットへと仕舞い込んだ。

 少年から返却されたマントを身に着けたカミュは、未だに膨れっ面をしながらその裾を握るメルエに苦笑を浮かべ、静かに頭を撫でてやる。

 

「メルエ、詠唱の全てを任せても良いな?」

 

「…………ん…………」

 

 顔を覗き込むように屈み込んだカミュは、リーシャとサラが待っているであろう方角へ視線を移す。その問い掛けに大きく頷きを返したメルエが、目印となる大木を真っ直ぐに見つめ、詠唱の準備に入って行った。

 溢れ出す魔法力は、力の限り放出していた頃のメルエの物とは根本的に異なっている。賢者であるサラにはまだ及ばないまでも、均一に調整された魔法力がカミュとメルエを包み込んで行った。

 基本的なルーラの行使としては異例な方法。だが、これは双方の場所に知っている人間が居るから可能であると言える。メルエの中でサラの魔法力は探知出来ているのだろう。その理由は解らないが、幼い彼女の魔法に関する才能は、カミュやサラの魔法力を探知する事も可能なのだ。

 カミュと逸れ、一人で森を彷徨う事になったあの時も、誰も感じ得なかったカミュの帰還を誰よりも早く感じ、その場所へと駆けている。目印となる目標があり、尚且つ自分の知る魔法力がそこにある事というのが、メルエがルーラの応用を行使出来る最低条件であった。

 

「…………ルーラ…………」

 

 詠唱と共に魔法力に包まれた一筋の光が、再び勇者一行として集う為に飛び上がる。その輝きが向かう場所には、行使者である少女が母のように慕う女性と、姉のように慕う女性が待っているのだ。

 新たな世界に辿り着いた第一歩は、彼等の予想を超える程の力を有した魔物達の洗礼を受ける事となった。それは、彼等の歩む道の先にこれまで以上の困難が待ち受けている事を物語るものでもある。大魔王ゾーマの力によって凶暴化したものなのか、それとも元々強力な力を持つ魔物や魔族なのかは解らないが、彼等の行く道は果てしなく険しい事だけは確かであった。

 

精霊神ルビスが産みし大陸の名はアレフガルド。

 その地を闇で覆い尽くそうとする者の名は大魔王ゾーマ。

 そして、それを阻み、討ち果たそうとする者の名は勇者カミュ。

 

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。
ようやく新章です。
アレフガルド編、頑張って描いて行きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ラダトーム王都①

 

 

 

 リーシャ達と合流したメルエは、その功績を大いに讃えられ、賛辞の言葉を浴びる程に貰う事となった。その小さな身体を抱き締め、頬擦りをするように褒め称える言葉を投げかけるリーシャに、メルエは花咲くような笑みを浮かべる。

 そんな二人の様子に笑みを浮かべていたサラであったが、即座に顔を引き締め、戻って来たカミュへと視線を向けた。

 

「私達が居た世界の魔物とは根本的に異なるのかもしれません。あれ程の魔物が相手となれば、人間では一溜まりもありませんね」

 

「向こうの世界の上位に位置する強さを持つ魔物が当たり前のように存在するのだろう」

 

 サラの言葉を聞くと、カミュやメルエは人間ではないようにも聞こえる。実際に、サラは最早自分達が通常の人間という枠では納まらない存在であるという事を認識しているのかもしれない。

 メルエの放ったメラゾーマという魔法一つを取ってみても、魔族の上位に位置する者にしか行使出来ない物である。魔王バラモスという魔族の頂点に立つと考えられていた者が行使していた呪文であるし、ここまでの旅でそれを行使した者を見た事がないという事がその信憑性を高めていた。

 更に言えば、カミュという青年は、その魔王バラモスの首を落とした勇者であり、この世界に生きる者達の中でも最上位に括られる強さを持つ者である。最早、それは人間としての枠ではなく、魔族やエルフと同格かそれ以上の存在であろう。

 その青年よりも武器の扱いに長け、模擬戦でも不敗であるリーシャも同様であり、魔族しか行使出来ない呪文を操る少女の師であるサラもまた既に人間という枠では納まらないのだ。

 

「カミュ、このまま行くのか? 真っ直ぐ平原を東に進むとはいえ、ここまで日が暮れていては危険ではないか? 先程の魔物を見る限りでは、この世界の魔物達はどれも強力だと言わざるを得ないぞ」

 

「そうだな……近くの森で一泊しよう」

 

 リーシャの言う通り、このアレフガルドの地は夜の闇に閉ざされている。アレフガルドに来る際のあちらの世界は陽が落ちる直前であった為、時間的な感覚は繋がっているのかもしれないと考えた一行は、近場にある森の入り口で野営を行う事にした。

 アレフガルドという名の大陸に辿り着いてすぐに大きな戦闘を立て続けに行った事により、疲れていたメルエはリーシャの膝元で即座に眠りに就く。焚き火の炎に乾いた小枝を投げ入れたカミュは、一度空を見上げて眉を顰めた。

 

「月も星も見ないが、それを覆い隠している雲さえも見えないなど、変な空だな」

 

「そうですね……夜というよりは、闇というか」

 

 カミュの視線の先へと瞳を向けたリーシャは、空の奇妙さを口にする。確かに、空を覆う雲も無いのにも拘わらず、輝いている筈の月も星もない。元々、この世界に月が無いという可能性もあるが、どうにも奇妙な空である事はサラの言葉通りであろう。

 夜の帳というよりは、闇の支配が進んでいるという印象を受けるその空は、カミュ達三人の心に圧迫するような不安感を与えて行く。『早急に何とかしなければ、この世界は終わる』とさえ感じるその感覚は、彼らが歩んで来た四年以上の旅の経験から来るものなのかもしれない。

 

「とにかく眠っておこう。私とカミュで火の番をするから、サラは朝まで休め」

 

「はい。すみません、お願い致します」

 

 いつもの事ではあるが、火の番の役目はカミュとリーシャとなる。アリアハンを出た当初は、魔物との戦闘を単独で行う事の出来ないサラを火の番にする事の危険性を考えた物であったが、今ではその理由は大きく異なっていた。

 サラやメルエは、その身体の内に宿す魔法力で戦闘を行う者達である。メルエとは異なり、今のサラであれば、ある程度の魔物を単独で倒す事が出来るだろう。だが、それでも魔法という神秘に比重を置く戦闘を行う事に変わりはない。そして、魔法力とは精神力であるという事実がある以上、彼女達にはしっかりとした睡眠と食事が絶対不可欠であるのだ。

 カミュもいくつかの呪文を行使するが、それが中心となる戦闘を行う訳ではない。彼の場合、剣を中心に補助として呪文を行使する形態である。ライデインのような一撃必殺の呪文であれば別であるが、それ程の使用頻度ではない以上、サラやメルエとは大きく異なるだろう。

 

「カミュも先に休め」

 

「わかった頼む」

 

 最初の番はリーシャとなり、森の入り口でカミュもまた眠りに就く。数刻の後に起こされる事を考えると、休める時にしっかりと身体を休めておく必要もあり、カミュは身体を横たえてすぐに深い眠りへと落ちて行った。

 その後、リーシャに起こされたカミュが火の番を交代し、夜明けまでの火の番を行う事になる。カミュ同様、横になったリーシャは即座に深い眠りへと落ちて行った。

 彼等二人の間には、既にお互いを強く信じる信頼感が構築されている。深い眠りに落ちても、相手に任せる事の出来る安心感というのは、並大抵の物ではない。それだけ過酷な旅を続けて来ている彼らが、今まで夜に魔物の襲撃を受ける事があっても無事でいられたのは、そんな二人の信頼感があってこそなのかもしれない。

 

 

 

 どれだけの時間が経過しただろう。深い眠りに就いていたリーシャが自然に目を覚ます。四年の長い旅路の中で、彼女はそれ程長い眠りを必要とはしなくなっていた。宿屋のような場所の暖かなベッドで眠る場合は別だが、野営時には短い時間で深く眠るという習性に慣れてしまっていたのだ。

 瞳を開け、身体を起こしたリーシャは奇妙な感覚を覚える。しっかりと眠り、身体に疲れは残っていないのだが、周囲が未だに暗い。夜の時間が続いているかのように深い闇に閉ざされた森の中で、近くにある焚き火だけが赤々と燃えていた。

 その焚き火の前に座りながら、空を見上げている青年が居る事に安堵したリーシャは、彼がいつも以上に難しい表情を浮かべている事に気付き、その対面に座る為に立ち上がった。

 

「どうした?」

 

「……夜が明けない」

 

 空から視線を動かさないカミュの対面に座ったリーシャの問い掛けは、予想以上に深刻な声によって返される事となる。眉を顰めながら口にした彼の言葉は、とても短いながらもかなり深い懸念を含んだ物であった。

 火の番を交代で行っているとはいえ、大抵は一度の交代で太陽が顔を出す事が多い。季節によって、陽の落ちる時間と昇る時間に差があるとしても、太陽の欠片が薄く顔を出す事で、周囲に陽の光が届き始めるものであった。

 だが、この場所では一切その傾向が見えない。薄暗いという次元の問題ではなく、完全なる夜なのだ。いや、月の光も星の輝きも無いこの場所は、夜ではなく闇なのかもしれない。そして、カミュの言葉通りであるならば、この場所は常に闇の中にあるという事になる。それは、異常であった。

 

「……闇に閉ざされてしまったアレフガルドか」

 

「それは、あの小屋に居た父親の言葉か?」

 

 カミュが呟いた言葉は、リーシャの言う通りにあの孤島に居た男性の言葉である。上の世界から来た人間にこの場所を説明する時に用いた物であるが、よくよく考えればかなり不穏な言葉を含んだ物であった。あの時は、今の現状を把握しきれていなかった四人にとって、『アレフガルド』という地名の方が優先された為に流されてしまったが、『闇に閉ざされてしまった』という前置きはこの世界を表す物であったのだろう。

 元々闇の世界であった訳ではない。暗い夜が続く世界であった訳でもない。それは、何者かによって闇で閉ざされてしまったという事実を口にした物であった。

 それが可能な者となれば、思い当たる存在は一つしかない。

 大魔王ゾーマである。

 

「この状態が何十年、何百年と続いているのか?」

 

「いや、長くても数年程度だろう」

 

 この現状を生み出した者に思い当たったリーシャは、表情を怒りに染めながらカミュに問い掛ける。闇の世界の支配者であり、全てを滅ぼす者と自称する大魔王の脅威が数十年、数百年と続いているのだとすれば、この世界は魔物の巣窟となっていても可笑しくはない。それにリーシャは憤っていた。

 だが、カミュの考えはリーシャとは異なっているようである。それを示すように静かに首を横へ振った彼は、そんな二人に近付いて来る者へ視線を動かした。必然的にリーシャも彼の視線を追う様に首を動かす。

 

「カミュ様のおっしゃる通りだと思います。太陽の恵みが無ければ、命は育ちません。草花も穀物も育ちませんし、それを食する動物達も生きては行けないでしょう。もし、備蓄があったとしても、人間とて闇が支配する世界でどれ程の期間生き延びれる事か……」

 

 リーシャ達の会話によって目を覚ましたのは一行の中で思考する者としての立ち位置を持った賢者であった。もしかすると、彼女は眠りに就く前にこの可能性を考えていたのかもしれない。月や星も浮かばぬ空は、彼女の中の思考を大きく動かしていた。

 彼女の言葉通り、太陽の恵みというのは、大地で生きる者達にとって必要不可欠の物である。太陽の光が届かなければ、この世で生を受けた者達は皆死に果てるだろう。即座に死に果てる訳ではないだろうが、大地に根付く物達が何年も太陽の恵み無しに行き続ける事など出来はしないのだ。

 

「数年でも厳しいと思います。このまま行けば、私達人間どころか、草花や動物達、それに魔物の一部でさえも生きては行けません」

 

「全てを滅ぼす者か……大魔王ゾーマは、この世の全てを滅ぼすつもりなのか?」

 

「さぁな。だが、ゾーマを倒さなければ、この世界の全てが滅びる事だけは確かのようだ」

 

 大魔王ゾーマの目的など理解する事は出来ない。だが、全てを闇に包むという事は、全ての生物の生存を認めないという事になる。草木の生存も、それを食す動物も、そして人間や魔物であろうと、根絶やしにされる事と同意であった。

 淡々と事実だけを語るカミュの言葉に、当代の賢者は明確な怒りを示す。それは感情を込めて話さない青年ではなく、それを成そうとする諸悪の根源に向けた怒りである。全ての生物の幸せを願い、それぞれが共存共栄出来る世界を目指す彼女にとって、どれか一つの種族の繁栄という物でさえも既に認められる物ではないのだが、全生物の滅亡など有ってはならない物なのだ。

 

「行きましょう。魔王バラモスの時よりも時間に余裕はありません。急ぎラダトームのお城へ向かいましょう」

 

「そうだな。メルエを起こすか」

 

 今は、ここであれこれと語り合う時ではない。サラの言葉に頷いたリーシャは、未だに夢の中にいる幼い少女を起こす為に立ち上がる。カミュのマントに包まったまま身動き一つせずに寝息を立てる少女に笑みを浮かべながら、その身体を軽く揺すった。

 何度か揺すられた事で、微かに瞼を開いた少女は、ゆっくりと起き上がりながら目を擦る。まだ眠そうに小さな欠伸をした彼女は、寝ぼけ眼で周囲へと首を動かした。

 

「…………むぅ………くらい…………」

 

「そうだな。だが、これはまだ夜という訳ではないようだ。だから、メルエも起きてくれ」

 

 周囲を包む暗闇を見たメルエは、『まだ夜ではないか?』と不満を口にする。余程の強行でない限り、一度寝てしまえば朝まで起こされないという経験を持っている彼女にとって、夜を感じる闇の中での起床は不満を感じる物なのだろう。そんな幼い我儘に苦笑を浮かべながら、リーシャは現状を簡単に伝えようとする。要領を得ない物言いではあるが、幼いメルエにもこの状況が夜から来る闇ではないという事だけは伝わったようだ。小さく頷いた彼女は、マントを抱き抱えながら起き上がる。

 メルエから手渡されたマントをカミュが身に着けた事によって、出立の準備は完了した。

 

「見渡す限り平原だ。海から真っ直ぐ東へ進めば良いのだろう?」

 

「言っている事は正しいが、間違ってもアンタは先頭に立ってくれるな」

 

 この世界の地図などを持っている訳ではない。現在、彼等自身がこのアレフガルド大陸の何処にいるのかさえも解らない中、唯一の情報が真っ直ぐ東に向かった先にラダトームの王都と城があるという物だけであった。

 メルエの手を握ったリーシャが、場の雰囲気を変えるように陽気な声を出すが、それは先程よりも明らかに眉を顰めたカミュによって斬り捨てられる。難しい思考に陥っていたサラでさえ、思わず噴出してしまう程に間髪入れない返しは、陽気を装っていたリーシャの言葉を喉に詰まらせ、表情を強張らせた。

 

「……道を間違えた時は、覚えていろよ」

 

 恨めしげに呟かれたリーシャの言葉を無視し、カミュは海を背にして真っ直ぐに歩き始める。正直、地図も無く、目印となる太陽も無いとなれば、己の培って来た方向感覚しか信じる物はなく、カミュ以外に先頭を歩ける人物がいない事も確かであった。

 怒り心頭のリーシャの手から離れたメルエはカミュの後ろを歩くサラと手を繋ぎ、その後ろで溜息を一つ吐き出したリーシャが続く。緊迫した状況から始まったアレフガルドの旅は、いつの間にかこれまでの旅と同じ雰囲気に変化していた。それは、彼らが共に歩み続けて来た時間が成し得る技なのだろう。

 

「やはり、太陽の光がないからなのか、何処か物悲しい雰囲気ですね」

 

「ああ、街道からは離れているのかもしれないが、他の人間とすれ違う事さえもないな」

 

 森の入り口から離れ、広く広がった平原を歩く中、サラは周囲の雰囲気に呑まれていた。闇が広がるばかりで、明かり一つない。今は先頭のカミュと最後尾のリーシャが手にする『たいまつ』の明かりがあるが、本当に自分の周囲以外は照らす事は出来ず、少し離れた場所などは漆黒の闇に包まれていた。

 人一人歩いては居ない平原は何処か物悲しい雰囲気が漂っており、まるでこの世界に自分達しか存在していないのではという錯覚にさえ陥る。気温はそこまで低くはないが、吹き抜けて行く風がその寂しさを強め、サラは自分の傍にメルエやリーシャが居る事に安堵する程であった。

 

「カミュ、前方に明かりが見えているぞ」

 

 通常であれば、昇っていた太陽が西へと沈みかける程に時間が経過する頃、何度かの休憩を挟んで歩き続けて来た一行の前に人工的な明かりが見えて来る。まだ少し離れている為か、まだ明かりが少し暈けてはいるが、それが王都の灯りである事は確かであろう。

 その先に続く道の確認の為に『たいまつ』を前方へと向けたカミュは、ここでようやく何かが前方に近づいている事に気付く。素早く剣を抜き放ったカミュを見て、サラやリーシャも戦闘態勢へと入って行った。

 

「……スライムか?」

 

 しかし、前方に現れたそれは、カミュ達が脅威を抱く程の物ではなかった。

 アリアハン大陸に生息する最弱最古の魔物。それと形状を同じくしながらも、体躯を模るゲル状の部分の色が異なる魔物であったのだ。

 その魔物が発する雰囲気から力量を察したカミュは、剣を握る手の力を抜く。同じようにリーシャも斧を構える事を止め、背中へとそれを戻してしまった。魔物を前にしての行動としては異例ではあったが、賢者であるサラでさえ息を抜いてしまう程に、目の前の魔物の力量は低いと考えられた。

 だが、それはやはり愚行であったのだ。

 

「…………ぷるぷる…………」

 

「あっ、メルエ!?」

 

 サラの手を握っていたメルエが、目の前に現れたスライム系の魔物を見てカミュよりも前に出てしまう。通常の戦闘であればメルエであっても絶対にしない行動であるが、彼女の中にあるこの形状のスライム族の印象はランシールの神殿前に居た物しか残っていないのだ。

 実際には、ガルナの塔やダーマ神殿付近に生息したメタルスライムを見てはいるが、あの頃のメルエの体調は芳しくなく、それよりも後で出会った言葉を話すスライムの印象が強かったのだろう。幼い彼女の中の残る公式として、『スライム=話す』という構図が出来上がってしまっていても不思議ではなかった。

 同じスライム族でもはぐれメタルなどの形状は通常のスライムとは掛け離れており、目の前に現れたスライムを敵として認識出来なかったのだろう。また、カミュ達がそのまま武器を納めてしまった事も大きな要因の一つであった。

 

「…………ふふふ…………」

 

 呆気に取られて行動が遅れてしまったカミュ達をすり抜け、スライムの前に座り込んだメルエは、小さな笑みを浮かべながらその体躯に触れようと指を伸ばす。独特の感触が楽しかった事を覚えている彼女は、再びそれに触れる事に満面の笑みを浮かべていた。

 しかし、このスライムは、古の賢者と出会い、知識を与えられた異端の物ではない。大魔王ゾーマの魔力に当てられ、内に秘めた凶暴性を露にした魔物なのだ。そのような魔物が幼い少女の指を大人しく受け入れる筈がない。

 

「ピキュ――――」

 

「…………ふぎゅっ…………」

 

「メルエ!」

 

 奇声を上げたスライムは、屈んだまま指を差し出したメルエの顔面に吸い込まれ、そのまま身体ごと体当たりをする。顔面にスライムの体躯を受けたメルエは奇妙な声を上げ、後方へと尻餅を突いてしまった。

 突如動き出した魔物の動きにリーシャは叫び、『たいまつ』を持ったままメルエの傍へと駆け出す。カミュやサラもその後を追うが、二人の表情はリーシャのように鬼気迫るような物ではなかった。歳の離れた妹の行動に呆れながらも何処か諦めたような感覚さえ感じる。

 そんな二人の表情の理由は、リーシャがメルエの身体を確認するように近付いた頃に明らかとなった。

 

「…………むぅ…………」

 

「ピキュ―――」

 

 鼻を押さえながら起き上がったメルエは、『怒ってます』という事を示すように頬を膨らませ、威嚇するように奇声を上げるスライムを睨み付けたのだ。

 そんな幼い少女の姿に唖然とするリーシャは、後方で溜息を吐き出すカミュとサラへと顔を向ける。しかし、彼女の視線を受け止めたサラは、静かに首を横に振るのだった。

 むくれるメルエと対峙するスライムは、『たいまつ』の灯りを受けてその全貌が見えている。アリアハン大陸に生息する最弱最古の魔物と大きさは同等。牙を生やしている訳でもなく、触手が生えている訳でもない。唯一異なる物と言えば、その体躯の色だけであろう。アリアハンに生息するスライムは透き通るような青色をしているジェリー状の生物であるが、アレフガルドに生息するそれは、赤い色としていた。

 『たいまつ』の乏しい灯りで照らされている為、どす黒い赤色をしているように見えるが、もし太陽の光を浴びれば、透き通るような明るい赤色の体躯をしているのだろう。頼りなげに揺れるその体躯は、本来であれば幼子など容易に破壊し、その上に覆い被さる事でその身を溶かして食す事が出来る筈であった。

 

<スライムベス>

アレフガルド地方に古来より生息する魔物である。何故かこの大陸にしか生息する事が出来ず、他の大陸や地方では存在しない。基本的な性能は最弱最古のスライムとそう変わりは無く、多少体力が上であるというだけであった。体躯の色はスライムとは対極に位置する赤色をしており、それは溶解した人間の血液が体内に浸透した為だと考えられ、アレフガルド地方でも忌み嫌われる魔物である。単体では弱い為、人を襲う時などは群れで行動する事も多く、アレフガルド地方では脅威である事に変わりは無かった。

 

「…………メルエ………おこる…………」

 

「ピキュ―――」

 

 『むぅ』と頬を膨らませ、多少赤くなってしまった鼻先を撫でながら涙を溜めていたメルエは、叱るようにスライムベスへと声を掛ける。自分がリーシャやサラに叱られる時と同じように、上から見下ろすような視線を送ったメルエに対し、スライムベスがもう一度体当たりを開始した。

 慌てて斧を手にしたリーシャをカミュが止め、再び呆れた様子のサラが、小さく『後でメルエも叱らないと駄目ですね』という言葉を呟く。護らなければならない対象であるメルエの危機に行動を止めるカミュへ鋭い視線を向けたリーシャであったが、二度目の体当たりを受けて転んだ筈のメルエがもう一度起き上がったのを見て安堵の溜息を吐き出した。

 

「今更、スライムがどうにか出来る相手ではないだろう?」

 

「メルエの内包する魔法力は、出会った頃とは比べ物になりません。それを活動の原動力とするメルエにとって、スライム程度の攻撃で傷を受ける事はありませんよ」

 

 メルエの行動に一喜一憂するリーシャに対し、カミュは呆れた呟きを漏らし、それを補うようにサラは説明を加える。自身に魔法力を具現化する能力の無いリーシャにとって、メルエは尋常ではない呪文を行使する事は出来ても幼子なのであった。その魔法力を体力へ変換していると言われても、実感は出来ないのだろう。

 しかし、常にカミュやリーシャやサラに護られているメルエとはいえ、その内なる成長は群を抜いている。出会った頃から圧倒的であった魔法力の量は、更にその量を増やし、今やサラでも目を見張る程の制御力を持っていた。それが力自慢の魔物や、鋭い牙を持つ魔物であれば別であるが、スライムのような魔物では彼女に傷一つ付ける事は叶わないのだ。

 

「…………むぅ…………」

 

「ピギャ」

 

 起き上がったメルエは、尚も飛び掛ろうとするスライムベスを小さな拳で殴りつける。飛び上がった力を逆に返されたスライムベスは、奇妙な声を上げて地面へと叩きつけられた。更に、持っている雷の杖でスライムベスの身体を殴りつけた事で、魔物は完全に目を回してしまう。

 動かなくなったスライムベスを見たメルエは、まるで勝ち名乗りを上げるように胸を張り、大きく息を吐き出した。幼い少女の完全勝利であり、魔法以外での初勝利の瞬間である。

 雷の杖での一撃を受けてもスライムが生きている事を見る限り、メルエの中でもある程度の手心を加えていたのだろう。メルエの持つ雷の杖は、本来は彼女以外が持てない程の重量がある。それが本来の重量なのか、杖自体が自在に重量を変化させられるのかは解らないが、その武器での一撃は、スライムなど容易に叩き潰す事は可能であった。

 それでも彼女はスライムベスの命を奪う事を良しとはしなかったのだろう。そして、主のその意志を汲み取った雷の杖が、故意的に力を弱めていたのかもしれない。それは、目を回すスライムベスを暫く見ていた少女が、少し心配そうに眉を下げ、再びその魔物の前に屈み込んだ事からも窺えた。

 

「…………ぷるぷる…………」

 

「メルエ、今はこのスライムさんとはお話は出来ません。大魔王ゾーマが居る限り、悪いスライムさんのままだと思いますよ。いつかきっと、またスライムさんとお話が出来る日が来る筈です」

 

 不安そうな瞳を向けるメルエの肩に手を置き、サラはその優しい心を労わるように言葉を紡ぐ。本来は、ランシールの神殿近くに居たスライムが特殊な存在であり、通常のスライムは人間と会話などは出来ない。そして、人間を食料とする魔物が人間を襲うのは自然の摂理であり、その善悪に関しては、人間目線では語れない事も事実であった。

 そのような事はサラも理解しているの筈である。しかし、大魔王ゾーマの存在が、この世界の魔物達の凶暴性を上昇させているというのも事実なのだ。人間を食料として襲う事はあっても、見境無く襲い掛かる程、魔物達も知能が低い訳ではない。むしろ本能が強い分、自分達の縄張りから出ないという性質の方が優先されるだろう。

 故に、メルエにも解り易いようにそれを伝える。大魔王ゾーマが消滅しても、魔物であるスライムベスと交流が出来るとは限らない。それでも、大魔王ゾーマを討ち果たさない限り、そのような夢の日は永遠に訪れる事はないのだ。

 

「そうだな。今はまだ、その時ではない。メルエの心が、スライムや他の魔物にも届く日が必ず来るさ」

 

「…………ん…………」

 

 未だに目を回しているスライムベスを哀しそうに見つめたメルエは、リーシャの言葉に小さな頷きを返した。

 もしかすると、ここまでの旅でも、この少女は魔物の命を奪う事に抵抗を感じていたのかもしれない。それでもカミュ達が剣を抜く以上、その相手は自分の大切な者達を傷つける可能性を持つ存在であり、それを許す事が出来ないからこそ、彼女はその杖を振るい続けて来たのだろう。本来は、全ての動物達と同じように、その背を撫でたり、会話をしたり、穏やかな時間を共にしたいと考えているのかもしれない。

 そんな優しい心を持ち続ける彼女を見たサラは、心からの笑みを浮かべ、その手を取って歩き出す。既に先頭のカミュは『たいまつ』を掲げながら歩き出していた。残念そうにスライムベスを見つめるメルエの後方をリーシャが歩き、再びラダトームの王都に向かっての道を辿り始めた。

 しかし、そんな優しい時間は何時までも許されない。

 

「さて、メルエ」

 

「…………??…………」

 

 自分の手を引いてくれていたサラが顔をメルエへと向けた事で、少女も顔を前方へと戻す。何処か不穏な雰囲気を醸し出すサラを見たメルエは少し小首を傾げた後、躾役である女性の真剣な瞳を見て不安そうに眉を下げた。

 幼い彼女であっても、『これは叱られる前兆だ』という事は肌で感じたのだろう。何とかリーシャの許へ逃げようとするが、その手はしっかり握られていて逃げる事は出来ない。救いを求めるように振り向いた先では、逃げ場と決めていた女性戦士も表情を厳しい物に変えていたのだった。

 

「メルエ、まさかとは思いますが、ピラミッドでリーシャさんに叱られた事を忘れてしまったのですか?」

 

「…………わすれて……ない…………」

 

 最早、逃げ場は何処にもない事を理解したメルエには、静かに始まったお説教の時間を甘んじて受け入れるしか残されていなかった。

 がっくりと肩を落とすメルエは、逃げ場を残しながらも罪悪感を促すような厳しい詰問に小さな呟きを持って答えて行く。その一つ一つの答えに続く小言が、スライムベスの攻撃でも怪我を負わなかった少女の心を抉って行った。

 それを眺めながらリーシャは苦笑を浮かべ、メルエからの救いの視線を無視するようにカミュは黙々と前方を歩き続ける。今の彼女には、誰一人味方はいなかった。

 

 

 

 お説教の時間は終わり、サラに手を引かれながらとぼとぼと歩くメルエを連れ、一行はようやくラダトームの王都だと思われる場所へと辿り着く。夜の闇に浮かぶ数々の灯りは、この場所に数多くの人間が暮らしている事を示していた。

 王都へと続く門の前に立ったカミュは、後方の三人に確認の視線を送った後、詰め所の窓口に向かって声を掛ける。中から顔を出した中年の兵士が、奇妙な組み合わせの一行を訝しげに品定めを始めた。

 どれだけカミュ達が人知を超える力を有していたとしても、彼らを知らない人間から見れば、彼等の組み合わせは奇妙な一団にしか見えないだろう。歳若い青年が一人で他は女性、尚且つその一人は年端も行かない少女である。誰がどのように見ても、数多くの魔物を打ち倒して来た者達には見えない筈であった。

 

「……上の世界と呼ばれる場所から来ました。この世界で暮らす為、ラダトーム国王様にお許しを頂ければと思っております」

 

「また上の世界からか……大変だったな。少し待っていろ、門を開けるから」

 

 訝しげな門番は、カミュの口にした内容に納得したのか、門を開ける為に姿を消す。あの孤島に居た親子でさえ、上の世界から来た人間と多く会っているのだ。全くの異世界へ足を踏み入れた者が向かう場所となれば、その世界の中心にある都市と相場は決まっており、この門番も多くの難民を受け入れる為に門を開いて来たのだろう。

 大手門の横にある小さな勝手口のような扉が開かれ、そこから顔を出した門兵が周囲を注意深く見渡す。手に持っている『たいまつ』で周囲を照らしているが、乏しい灯りでは遠くを確認する事は出来ず、かなり慎重に外へと出て来た。

 

「さぁ、早く入りな。最近は、この闇も濃くなって来て、魔物達の凶暴化も酷くなっている。一匹でも中に入れてしまえば、大変な事になるからな」

 

「ありがとうございます」

 

 カミュ達四人を素早く中へ入れると、扉を即座に閉めた門兵は鍵を掛ける。確かに、巨大な大手門を開いてしまえば、それを閉じるまでに時間が掛かってしまう。その間に近付いて来た魔物が王都の中に入ってしまえば、大惨事となるだろう。もしかすると、このラダトーム王都の大手門は数年間開かれてはいなかったのかもしれない。王都の中へ入ると、門番は城までの道をカミュ達に伝え、そのまま詰め所へと戻って行った。

 カミュ達は、一国の王都としては、かなりの広さがある町を眺める。大手門からすぐ左手には、武器と防具の看板を下げた店が見え、右手には宿屋が見えていた。奥へと続く大通りは石畳で舗装されており、ラダトーム王国の財政に余裕があった事を物語っている。

 

「……活気がありませんね」

 

「流石に何年も夜が続き、あのゾーマの脅威を肌で感じていれば仕方もないか」

 

 この一行の中で、大魔王ゾーマと相対した事のある者は、リーシャ唯一人である。彼女だけがゾーマの脅威を肌で感じており、その恐ろしさを身を持って味わっている。自分自身の事を過信してはいない彼女ではあるが、それでも一般の人間よりも胆力はあると考えているのだろう。その自分が、足を竦ませてしまった程の存在の脅威を感じ続けている者達に活気を持てという事が無理な話であると考えていた。

 確かに、夜が続けば、人々の生活の調和も崩れて行く。夜寝て朝起きるという通常の生活が出来ない以上、その中での規則正しい動きは無理であった。更に言えば、夜の闇に閉ざされていれば、明かりを灯す必要がある。そしてそれには経済的な費用が必要となり、それを捻出し続ける事は負担にもなるだろう。

 

「カミュ、先に防具屋へ行かないか? 私もお前も盾が心許ない。この世界の魔物達が今まで以上の強敵であった場合、鱗を失ったドラゴンシールドなど、只の板切れだぞ?」

 

「そうだな」

 

 周囲を見回した一行の中で、リーシャが口を開く。自らが左腕に装着している盾を掲げてカミュへと見せるが、それは既に盾とは呼べない代物になっていた。その惨状を目にしたサラが顔を顰める。

 魔王バラモスとの戦いは、熾烈を極めた。メルエ以外の全員が死を覚悟する場面があり、その身を護る防具が無ければ、今この場で生きては居なかっただろう。中でも、バラモスの吐き出す火炎や、その暴力を受け続けて来たカミュとリーシャの盾を覆っていた劣化した龍種の鱗は、ほとんど剥がれ落ち、防御力を大幅に落としていたのだ。

 リーシャの例え通り、既に只の板切れと言っても過言ではないだろう。あちらの世界よりも強力な魔物が相手となれば、死活問題になる事は明らかであり、あちらの世界で最上位の防御力を持っていた盾をもその状態にしてしまった魔王バラモスよりも上位に居る大魔王との戦いに生き残れる訳ではない事を感じたサラは顔を顰めたのだ。

 

「いらっしゃい」

 

「この店にある盾を見せてくれるか? それと、これは買取でなくても構わないから、処分して貰えないか?」

 

 武器と防具の店の扉を開くと、主人が歓迎の言葉を掛けて来る。カミュとリーシャはそれぞれの盾であった物をカウンターへと置き、それに変わる物を所望した。置かれた物体の状態の酷さに驚いた主人であったが、そのまま奥へと消えて行き、暫く後に円形の綺麗な盾を二つ抱えて戻って来る。

 カウンターに置かれた円形の盾は、完全なる円を成しており、その中心部分には鏡のように磨かれていた。中央の鏡を中心に、亀裂のような模様が掘り込まれており、全体的に装飾の少ない物である。しかし、その盾を形成する金属は、カミュ達が生まれた世界では見た事のない物であり、鉄や鋼鉄ではない事だけは確かであった。

 

「水鏡の盾という。少々特殊な金属で作られている為、数はない。それに鉄などとは違って重さもそれ程ない事が特徴で、『どんな攻撃も水の如く受け流し、鏡の如く跳ね返す』と伝えられている盾だ」

 

「なる程……思ったよりも軽いな」

 

 カミュ達から受け取ったドラゴンシールドの残骸を奥へと投げ置いた主人は、試しに腕に嵌めるリーシャを見て、手元の調整に入る。綺麗な円形の盾が、薄暗い店内で灯された炎を反射し、美しく輝いていた。

 先程まで叱られた余韻を残したまま項垂れていたメルエの顔が上がり、その瞳が輝き始める。旅を始めた頃から、武器と防具の店での彼女は常に期待と希望に満ちていた。『自分も何か買って貰えるかもしれない』という期待が彼女の瞳を輝かせるのだが、魔法使いという特性と少女という幼さから、その身に合う物が少なく、その期待の大半は潰される事となるのだ。

 

「……マホカンタのように、魔法を跳ね返す付加価値があるのでしょうか?」

 

「いや、言い伝えなだけで、本当に攻撃を跳ね返す訳ではないよ」

 

 リーシャの腕に嵌められた盾をメルエと同様に眺めていたサラは、店主の言葉の中にあった言い伝えの能力があるのではないかと感じて、手を出して触れてみる。しかし、その期待は、言い伝えを口にした本人から否定される事となった。

 既にサラやメルエにとって当たり前になりつつある『マホカンタ』という魔法障壁ではあるが、通常に生きている者達からすれば、魔法全てを跳ね返す呪文などという存在すら知らない。マホカンタという呪文名を聞いた店主の表情がそれを物語っていた。

 

「水鏡の盾と同じ金属で造られたミスリルヘルムもあるが?」

 

「見せて貰おう」

 

「そうだな。だが、お前はその兜がある。ミスリルヘルムというのは、私の兜だな」

 

 水鏡を気に入った様子のリーシャを見た店主は、それと同じ金属で製造された兜もあると言う。カミュは即座にその申し出を受ける為に頷きを返すが、それは隣に立っていたリーシャによって遮られる事となる。

 確かに、カミュの頭には既に立派な兜がある。それは、彼の父親の遺品であり、あのバラモスとの激闘でもその身を護り切った一品であった。ミスリルヘルムという兜がどの程度の物なのかは解らないが、英雄オルテガの被っていた兜が大きく劣るという事はないだろう。だが、それ以上に、リーシャはその兜をもう少し、彼に被らせておきたかった。

 アリアハンで彼の母親に会い、当代の勇者とその家族を繋ぐ物が、今はその兜しか残されていないという事をリーシャは改めて感じている。カミュ自身が家族との繋がりを嫌っているだろうが、押し付けだと言われようと、独善的な行為だと思われようと、彼女はその繋がりを絶つには時期早々だと考えていた。

 

「いや、俺も……」

 

「駄目だ。この先の旅を考えれば、確かに強力な防具は必要だが、無駄遣いも出来ない」

 

 反論しようとするカミュの言葉に被せるように発せられたリーシャの言葉は、傍から聞けば随分勝手な言い分である。盾の買い替えの際には、装備の弱体化が命の危険に直結するという懸念を話したにも拘らず、今は兜を新調しようとするカミュを諌めているのだ。

 カミュの被っている英雄オルテガの兜は確かにミスリルヘルムに劣るとしても些細な差であろう。それが危機に直結するとは言えない程の差である事は、武器や防具を使い込んで来たリーシャには解っていた。なればこそ、この場でカミュの申し出を押さえ込んだのだ。

 

「いくらだ?」

 

「水鏡の盾が一つ8800ゴールドで、ミスリルヘルムが一つ18000ゴールドだから、35600ゴールドだな」

 

「え?」

 

 怒りさえ滲む瞳をリーシャへと向けるカミュの変わりに彼女が店主へ値段を問い掛けたが、予想以上の金額を当然の如く口にされ、サラは素っ頓狂な声を上げてしまう。同じようにリーシャは唖然とし、その様子が面白かったのか、メルエがくすくす笑みを浮かべていた。

 18000ゴールドという金額は、ここまでの旅の中で出会った武器や防具の中でも最高価格である。今やリーシャの腰に下がっているだけとなったドラゴンキラーであっても、15000ゴールドだった事を考えると、異常な金額である事が解るだろう。

 様々な武器や防具を購入して来た彼らではあったが、一度に40000ゴールド近くとなる買い物は始めての事だった。

 

「こ、この剣は買い取って貰えるか?」

 

「ん? 何だこの剣は? 通常の物ではないな……悪いが、俺は鍛治は兼ねてないから無理だな」

 

 余りの金額に戸惑ったリーシャが、腰に差した剣をカウンターに置いて買取を依頼するが、それは即座に断られる。その剣は、間違いなくドラゴンキラーであった物ではあるが、旧トルドバーグにて改良された物であり、初見の者ではそれが何なのかを判別する事は難しいだろう。そして、刃の反れてしまった武器は、再度打ち直さなければ使用する事は出来ないのだ。店主に鍛治の心得が無ければ、無用の物となるだろう。

 言葉に詰まり、再度腰にドラゴンキラーを差し直したリーシャの横からカミュがカウンターの前へと出る。腰の中から大量に出されたゴールドを見て、店主は顔を綻ばせながら、それを数え始めた。

 

「纏めて購入したんだ。多少は値引くのも礼儀だろう?」

 

「えっ? あ、そ、そうだな……全部一緒で32000ゴールドにしよう。先程も話したが、鍛治の心得はないから、仕入れ値があるんでな。これ以上は負けられないよ」

 

 ゴールドを数える店主に向けて発せられた声は、底冷えするような低い物であった。それは、値引き交渉というよりは、脅迫に近い物である。確かに、纏め買いなどをする相手に対し、全体的な値引きをするのは商売の常識であるが、それをするかしないかはその商人次第であり、客側は何とかそれを引き出す為に商人との交渉を行うというのが買い物の醍醐味でもあった。

 しかし、カミュの瞳に宿るその光には、一切の優しさはなく、殺伐とした空気さえも纏っている。ラダトーム王都の武器屋の店主は、その雰囲気に呑まれそうになりながらも、何とか商人としての維持を発揮したのだった。

 

「わかった。この世界にも、魔物の部位などを買い取る場所はあるのか?」

 

「ああ、上の世界から来た人達か? 魔物の部位であれば、大抵の武器と防具の店で買い取ってるよ。鍛治の心得は無くとも、そういう方面に売る事が出来るからな」

 

 上の世界で剥いだ魔物の部位などが入った革袋をカウンターに置いたカミュの言葉に、ゴールドを数え終えた店主が反応する。残りのゴールドをもう一度革袋へ入れたカミュは、中から魔物の皮や牙を取り出した。

 上の世界で暮らす者達の中で、冒険者と呼ばれる者や魔物討伐に同道する者は、魔物の部位などを売却する事で収入を得ていた者も多い。カミュ達のように大量に入手する事も出来ず、その地方に生息する弱い魔物の部位という事もあり、それ程多くの収入には繋がらないが、何もしないよりは余程良く、新たな武器や防具を作成する為にも必要な物資である為に需要もあったのだ。

 しかし、この世界では、水鏡の盾やミスリルヘルムを見ても解るように、鉱石で作成された防具が多い。それに加え、強力な魔物が多い為、そのような方法で収入を得る人間も少ないのだろう。

 

「しかし、見た事も無い魔物の部位も多いな……。これならば、結構な値で買い取れるよ」

 

 上の世界の魔物の部位が多い為、このアレフガルドでは見た事の少ない物を多かったのだろう。店主はカミュが取り出した物を一つ一つ品定めしながら、買い取り価格を検討して行く。全て買い取る事が決まると、それに相応するゴールドをカミュの前に置いた。

 買い取り価格まで交渉する気のないカミュは、そのままゴールドを受け取るが、購入した防具の半分のゴールドが戻って来た形となる。

 

「…………メルエの…………」

 

「え? う~ん、メルエの新しい装備品はないと思いますよ。天使のローブも、綻びなどありませんし」

 

 それまで静かに成り行きを見ていた少女が、自分の傍に立つサラの手を引き、小さな願いを口にする。しかし、店頭にある商品と、少女が身に纏う装備品を見たサラは、その願いを受け入れなかった。しょんぼりと肩を落とすメルエに苦笑したサラは、その手を引いて、先に外へと出て行く。購入した物を身に着けたリーシャがその後に続き、魔物の部位を入れていた袋を手にしたカミュが最期に店を後にした。

 外へ出ると町の人間達も何処か慌しい雰囲気を醸し出しているように見えた。おそらく、通常であれば、夕食時なのだろう。立ち並ぶ家々の煙突からは煙が立ち上り、町に出ていた人間達もそれぞれが帰路に着いている。いくつかの店も店仕舞いを始めており、今日一日の終了を物語っていた。

 

「ラダトーム国王様に謁見するにしても、明日にした方が良さそうだな」

 

「そうだな……何時が朝で、何時が夜なのかも解らないが、町の流れに任せた方が良いだろう」

 

 町の様子を見たリーシャは、最後に店から出て来たカミュに向かって口を開く。それを聞いた彼もまた、周囲の状況を確認し、頷きを返した。

 確かにこの闇が原因で、太陽が見えない。故に、朝なのか夜なのかは把握出来ないが、この場所で長く生活をして来た物達にとっては、時間の感覚があるのだろう。この王都で暮らす者達の生活サイクルに合わせる事が正しい事であり、時間感覚的に夜となる時間に国王への謁見など以ての外と言う事となる。

 一行は宿屋への門を潜り、今日一日の疲れを癒し、翌日に謁見をする事となった。

 

 夜の闇とは異なる闇に閉ざされた世界。

 その闇は、太陽によって晴らされる事は無く、朝も昼も夜も同じように閉ざしていた。

 生物は太陽の恵み無しでは生きては行けない。その恵みを受けた食物を食し、食物を食す動物を食す。その食物連鎖が成り立つ以上、太陽の恵みは生物の営みには不可欠な存在なのだ。

 滅亡、崩壊への道を歩み始めたアレフガルド大陸を有する世界の猶予は数える程度の時間しかなかった。

 『上の世界』と呼ばれる異世界を救い、その世界に生きる生物の未来を切り開いた者達が訪れるこの瞬間までは。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
次話は、ラダトームの町→ラダトーム城となる予定です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ラダトーム王都②

 

 

 

 宿屋で一泊した一行は、未だに明ける事のない夜の王都へと出る。朝と称する事が果たして本当に正しい事かも解らない空には、太陽も月も星さえも浮かんではいない。『まだ暗い』と愚図るメルエを無理やり起こし、手を引いて宿屋を出たサラは、真っ黒な空を見上げて、これから先の旅への不安を感じていた。

 王都から王城までの道は、王都を二つに分けるように中央にあり、東に向かって真っ直ぐに造られている。石畳で綺麗に舗装されたその道が、ラダトーム国の裕福さを物語っており、この場に太陽の輝きが有れば、カミュ達が生まれ育った大陸の中でも並ぶ物のない美しさを持っていた事が窺えた。

 

「メルエ? どうしたのですか?」

 

 王城へと続く石畳の道を歩いている最中に、先程まで目を擦りながら愚図っていた筈のメルエが、突如として立ち止まり、ある方向へと視線を向けた事で、サラも立ち止まる事となる。ラダトーム王都の中にまで魔物が入って来る事がない以上、それ程危険な物ではない事が解っているからこそ、サラは少し屈み気味にメルエの瞳の先へと視線を向けた。前を歩いていたカミュも振り返り、最後尾を歩くリーシャが追い着いた事で、全員がある場所へと視線を向ける事となる。

 その視線の先には幼い子供が何やら呟きながら腕を振っている姿が見えた。まるで何かの呪文を詠唱しているような姿に、サラもまた興味を引かれる。しかし、その幼い子が呟く詠唱が何なのか解らないメルエは、小さく首を傾げてサラを見上げていた。

 

「少し行ってみましょうか?」

 

「…………ん…………」

 

 メルエの視線に気付いたサラは、その少年に近付く為に歩き出し、リーシャと視線を交わしたカミュは小さな溜息を吐き出して戻って来る。サラとメルエが手を繋いだまま先頭を歩き、その後ろをカミュとリーシャが追うような形で少年へと近づいて行った。

 その少年は、メルエよりも歳が上であろう。十二、三歳と思われ、この世界で最初に会った舟漕ぎの少年と同年代のようにも見える。家屋の外で一人腕を振るうその姿は、サラにとっても、リーシャにとっても懐かしい物であった。

 魔道士の杖という媒体を使いこなす事が出来ず、それでも皆を護ると心に誓った幼い少女が、誰にも告げる事無く森の奥へと向かい、一人精神が尽きるまで杖を振るった姿に酷似していた。だからこそ、サラもリーシャもその少年の力になろうと考えたのだろうし、溜息を漏らしながらもカミュもまたそれを了承したのかもしれない。

 

「何をなさっているのですか?」

 

「…………なに…………?」

 

 一心不乱に腕を振るう少年に近付いたサラは、その少年の行動を問いかける。そして、メルエにしても珍しく声を発した。それ程、この少年の動きが不思議な物だったのだろう。突如近付いて来た四人の人物に驚いた少年は、今まで行っていた行動を隠すように戸惑い、その後不審そうに四人へと視線を向けた。

 警戒されている事を感じたサラは、少年の目線に合わせるように膝を曲げ、もう一度優しく問いかける。サラの優しさに対する嫉妬よりも、少年が行っていた行動への疑問が勝っていたメルエも、小さく小首を傾げて目線で問いかけた。

 

「将来……呪いを解けるように成りたいんだ。夜が終わらないような呪いは解けなくても、皆が苦しむような呪いは解けるようになりたい」

 

 サラの優しい瞳に警戒心を緩めた少年は、自分が続けていた行動の内容を少しずつ話し始める。それは、歳若い少年の未来としては華やかさに欠ける物でありながらも、聞いている者達の心に暖かな風を運んで来る内容であった。少年の優しい心がこの先いつまでも続く事を願いながら、自分の横で小さく首を傾げる少女を見てサラは小さな微笑を浮かべる。

 この少女の心も出会った頃から変わりはしない。全ての生物に対して偏見を持たず、その真意を見つめ続けている。小動物や草花を愛し、自分より弱い物としてではなく、対等の生物として見ていた。自分に笑顔を向けてくれる者を大切にし、自分を護ってくれる者を護りたいと心から願い続ける。そんな彼女だからこそ、皆が笑顔を向けてくれているのだという事を、彼女自身は気付いていないのだろう。

 

「呪いを解く呪文……シャナクを覚えたいのですか?」

 

 笑みを浮かべながら腰を屈めたサラは、少年の目を真っ直ぐに見つめ、その真意を問いかける。太古からある様々な呪いを解く事の出来る呪文と言えば、サラは一つしか知らない。それは『経典』にも『魔道書』にも記載されていない呪文であり、『裏魔道書』として別管理された呪文であった。

 宮廷魔術師と呼ばれる高位の者でも契約は出来ず、それを行使する事の出来る者となれば皆無に近い。以前、一行の中で話題に上がった際には、己は行使出来るとメルエが胸を張った事があったが、おそらく世界中を探しても、行使出来る者はサラとメルエ以外にはいないだろう。

 

「え!? おばさんは呪いを解く呪文が使えるの!?」

 

「お、おばさん!?」

 

 行使したいと考える呪文の種類も、その理由も、他者の事を考えての物である少年の想いに頬を緩めていたサラは、その少年の口から飛び出した単語に言葉を失ってしまう。

 既にアリアハンを出立してから四年以上の月日が経過しており、サラの年齢も二十二に近付いていた。だが、それでも彼女は未婚の若き女性なのであり、目の前にいる少年の倍も生きてはいないだろう。故に、その言葉は衝撃的で心に突き刺さる程の物であった。

 思わず崩れ落ちそうになるサラを不思議そうに見ていたメルエであったが、その少年が発した言葉によってサラが傷ついた事を察すると、瞳を細めて厳しい視線を少年へと送る。

 

「…………おばさん………じゃない…………」

 

「ご、ごめんよ」

 

 自分よりも年下の少女から注がれる厳しい視線を受けた少年は、思わず頭を下げてしまった。それは、目の前の少女が纏う膨大な魔法力に気圧されてしまったからなのかもしれない。

 シャナクという呪いの解除呪文を修得しようとする少年であるのだから、少なからず魔法力を有しているのだろう。だからこそ、メルエという少女が纏う魔法力の強大さに気付いたのだ。それは、自分など一瞬にして消されてしまうという確信に似た恐怖と同じ物であった。

 小さく頭を下げる少年の姿に怒りを納めたメルエは、『許してあげて』とでも言うようにサラを見上げる。メルエが同年代の人間を庇う事は珍しい。もしかすると、魔法という神秘の高みを目指す少年に、彼女も何か共感を得ていたのかもしれない。

 

「私の名はサラといいます。もし、貴方が今の想いのまま、将来多くの方々を救ってくださるのならば、私がシャナクをお教えしましょう」

 

「ほ、本当に!?」

 

 メルエの視線を受けた事で我に返ったサラは、一つ咳払いをした後、威厳を見せるように少年へと口を開いた。その姿は、少年からは神々しく映ったかもしれない。だが、後方にいるリーシャやカミュからすれば、メルエと同じような背伸びをした子供のようにしか見えなかった。

 肩を震わせるように笑いを堪えるリーシャを鋭い視線で睨み付けた後、サラは地面に魔法陣を描き始める。それは、本来は裏魔道書という国家管理の書物にしか記載されない物ではあるが、実は『悟りの書』にもしっかりと記載されていたのだ。

 古の賢者の一人が、その呪文によって救われる人が一人でも多くなるのならばと、人の間に伝わる『魔道書』に記載したという経緯があるのかもしれない。だからこそ、メルエの修得が済んでいるのであるし、賢者であるサラも修得する事が出来たのであろう。

 

「貴方の魔法力は余り多くはありません。大人になれば、今よりも多くなるかもしれませんが、この呪文を何度も行使出来るようにはならないでしょう。それでも良いですか?」

 

「うん! 一日に一度でも良い。一日に一人は呪いを解く事が出来るから」

 

 描いた魔法陣へ少年を誘導する際に、サラは忠告を口にする。この世界にいる人間達全てを見た訳ではないが、サラはこの世界の住民達が、向こうの世界の住民達よりも魔法力が少ないと感じていた。それは、一部だけなのかもしれないが、それでも向こうの世界で生きる宮廷魔術師程度の魔法使いや、教会の司祭などの魔法力を持つ者も皆無である事が予想される。上の世界と下の世界の人間では、その魔法力の質や量に差が有るのかもしれない。

 その差の理由は解らないが、それでも高位呪文であるシャナクという呪い解除呪文を何度も行使出来る者ではない事は確かであった。上の世界と呼ばれる場所で生きる魔法使いの中でも、限られた者しか修得出来ない呪文である。とてもではないが、魔法力も少なく、更には年端も行かぬ少年に修得出来るとは思えない。

 そう考えたリーシャが言葉を発しようとしたが、それはカミュによって止められた。

 

「魔法に関してだけは、アレが一番上に居る。アレが可能だと言えば、それが正しいのだろう」

 

「……そういうものか?」

 

 リーシャはカミュが口にした言葉に、不思議そうに首を傾げながら頷いたが、その内容に改めて気付き、嬉しそうに頬を緩めた。カミュのそれは信頼の証である。何度も何度も確認はして来たが、彼の信頼を勝ち取ったサラを誇りに思うと同時に、曇りなき眼でその人間性を見つめる事の出来るカミュを嬉しく思うのだ。

 カミュの横で腕を組んで見守るリーシャの顔は優しい笑みを湛えている。勇者一行という特出した能力を持つ中でも魔法という神秘に特化した二人が未来を夢見る少年に力を分け与えるその姿に、このアレフガルドの輝く未来を見たのかもしれない。

 サラが自分の描いた魔法陣の中心に少年を導き、メルエが少年にその場所に座る事を指示する。自分よりも幼い姿の少女に指示される事に若干違和感を覚えながらも、大人しく魔法陣の中へ入った彼は、そのまま魔法陣の中央に座り込んだ。

 魔法の才がないリーシャであっても、少年が座ると同時に、魔法陣を模る文字が微かに光った事が解った。だが、それも一瞬の事で、その光は少年を包み込む事もなく消えてしまう。その光が少年にも微かに見えていたのだろう。不思議そうに空中を見上げた彼は、即座に不安そうな瞳をサラへと向けた。

 

「大丈夫ですよ。これで、貴方がシャナクを契約出来る準備は整いました。もう少し大人になり、契約が可能な時期になった時、もう一度この魔法陣を描いて中に入って下さいね」

 

「…………だいじょうぶ…………」

 

 不安になっている瞳には、優しく微笑む女性が映る。頭部にサークレットを嵌め、そこには印象的な深い青色の石が埋め込められている。その石に映り込む自分を見つめている少年の心に不思議な安堵感が生まれて来ていた。

 絶対的な安堵感が生まれるようなその笑みは、成長期に差し掛かったばかりの少年の心の中に焼きつき、彼を突き動かす将来の原動力となって行く。憧れであり、目標であり、夢となるその女性は、彼の中で永遠に輝き続けるのかもしれない。

 

「ありがとう。毎日、試してみるよ」

 

「…………だめ………おおきく……なってから…………」

 

 先程の不思議な光景が、自分が願い続けていた魔法の修得の準備段階であった事を告げられた少年は、満面の笑みを浮かべてサラに対して頷きを返し、努力を怠らない事を誓う。しかし、その誓いは、自分よりも幼少に見える少女によって否定された。

 若干の不満を持って少女へ視線を向けた少年であるが、少女の言葉に笑顔で頷く女性を見て、しぶしぶ了承の頷きを返す事となる。今の自分ではシャナクという名の解呪魔法の契約が無理であると断言されたに等しくはあるが、絶対に無理だと言われた訳ではない。むしろ、可能な年齢となれば、契約が完了する事を示唆されたと言っても過言ではなかった。

 導かれた少年は、後にこのアレフガルドで暮らす多くの者達を救い、そして彼の子孫が後世で不思議な縁を感じる事となる。

 

「あれで大丈夫なのか?」

 

「はい。魔法使いや僧侶としての才はないと思いますが、シャナク一つだけを突き詰めて行くのならば、行使する事は可能だと思っています。それに、あのような志を強く持つ少年をルビス様が見放す訳がありませんから」

 

「…………かぜ………でた…………」

 

 嬉しそうに微笑む少年の許を離れたサラとメルエは、後方で待つ二人の許へと向かう。笑顔で待っていたリーシャからの問いに、はっきりと答えたサラの表情は、正しく『賢者』と名乗るに相応しい物であった。

 その大いなる能力を有しながらも、その力を無闇に振るう事無く、後世の人間達へと伝えて行く。それが『賢者』と呼ばれる者の使命でもある。矮小でありながらも、最も強欲である人間という種族が、その力によって道を間違える事のないように見守る義務を持ち、正しき道を指し示し続けなければならないという責務を負うのだ。

 自分が見た事を誇らしげに告げるメルエに柔らかな微笑を浮かべるサラを見たリーシャは、彼女の中に太い芯のような物が一本出来上がり始めているのだと感じる。だが、それは未だ危うい感が否めない。

 

「では行こうか」

 

「はい」

 

 サラという賢者は、この四年の中であらゆる経験を積んで来た。その度に苦しみ、悲しみ、悩み、泣いて来たのだ。だが、彼女はまだ真の苦しみを知らないだろうとリーシャは見ている。確かに魔物によって目の前で両親を殺された事は、彼女の心の傷となっているだろう。それでも、その後の神父から与えられた愛は本物であり、復讐という憎しみを捨て去る事は出来ずとも、その傷は過去の物となっていた。

 身を引き裂かれるような想い、涙を流せない程の悔しさ、血が出る程に握り締めた拳。そのような状況に、彼女はまだ陥ってはいない。

 自分の価値観を否定された事はある。打ちのめされて倒れ込んだ事もある。苦悩し、嘆き、涙した事もあるが、それは全て自身の内なる問題ばかりであった。トルドの娘のアンの事も、エルフの女王の娘のアンの事も、どれだけ人の業を感じて悩んではいても、他人の苦しみである事に違いはない。

 いつか、彼女自身がその苦しみと悲しみ、そして嘆きを再び味わう時、その時は最早記憶の片隅へと追いやる事の出来る年齢ではないだろう。幼い自身の心を護るという自衛手段が取られる事はないのだ。真っ直ぐにその苦しみとぶつかり、その悲しみを受け止めなければならない。

 もし、この世界に誕生したサラという『賢者』が完成する時があるとすれば、その全てを乗り越える事が出来た時だろうとリーシャは考えていた。

 

「あれ? あの作業場にいる人って……」

 

「ん? おい、カミュ!」

 

 そんな考えに没頭していたリーシャは、不意に掛けられた声に我に返る。彼女の少し前を歩いていたサラは、メルエの手を引きながらとある方向へ視線を向けていた。その方角へ何気なく視線を移したリーシャは驚愕の声を上げてしまう。呼び止められたカミュもまた、その方角へ振り向き、珍しく目を見開いた。

 その場所はサラの言葉通り、作業現場である。新しく家屋を建てようとしているのだろう。大柄な男性が木材を肩に担いで、周辺に居る男性達に声を掛け回っている。木造の家屋が多いのは、急普請の物ばかりだからだろう。上の世界と呼ばれる場所から来た者達の多くは、このラダトーム王都に押し寄せている。難民達がスラム街を形成する前に国家によって家屋を立て、その借金を徴収する方が国の政策としては良策なのだ。

 もしかすると、このラダトーム国自体の財政がカミュ達が考えるよりも豊かなのかもしれないが、あの家屋が上の世界からの難民の為に造られている事だけは確かだろう。

 

「カ、カンダタさん!」

 

 そのような国家事情よりも、今はそんな作業現場を仕切っている大柄な男性の事であろう。サラの叫び通り、その男性の容姿は、彼等四人と浅からぬ因縁のある者に酷似していたのだ。

 カミュ達三人がメルエという少女に出会う機会を与える事となり、サラという平凡な僧侶が、人類を救うと謳われる『賢者』へ転職する程の成長の機会を与える事となった原因。一地方の盗賊団だった集団を一国を脅かす程の集団へと変えてしまった男である。

 遥か昔に存在したと語り継がれる義賊の名を継承したその男は、己の罪を理解して尚、勇者一行と二度に渡る死闘を繰り広げた。そして、後に『賢者』となる女性の苦悩の末に救われた彼は、重ねて来た罪を償い続ける人生を選び、苦しい道を歩み始めていた筈である。

 そんな男が、異世界であるアレフガルドで大工のような事をしているのだ。カミュでさえも驚くのは無理もないだろう。

 

「ん? お、おお……おお! お前達か!?」

 

 自分の名を呼ぶ声で振り返った大柄な男もまた、予期せぬ遭遇に動揺し、言葉に詰まる。声を発したであろう女性の姿に戸惑うが、その後ろに控えている青年と女性の顔を見て、その素性に思い至ったのであろう。

 最早、カンダタという男と別れてから三年以上の月日が経過している。カミュという勇者は、僅かに残っていた少年のような幼さは消え、精悍な青年へと成長していたし、背丈に関しても今や女性戦士と同じ高さへと変貌していた。隣に立つリーシャは姿形こそ然程変わりはないが、その瞳からは完全に迷いは消え、溢れ出す優しさと慈愛が周囲にいる者達を包み込んでいる。それは彼女が浮かべる笑みを見ていれば自ずと解る物であった。

 唯一人、あの頃と全く変わらない幼い少女だけは、青年のマントの中へと逃げ込み、表情を無くしたような顔でカンダタを見つめていた。

 

「随分変わっちまったな……誰だか解らなかったぞ」

 

「あ……僧侶帽や法衣を纏っていませんでした」

 

 サラの前まで移動したカンダタは、額の汗を布で拭いながら豪快な笑みを浮かべる。それは、カンダタ一味と恐れられた盗賊団の中でも限られた七人の者達しか知らない優しい笑みであった。

 あの頃のサラは迷い、悩み、苦しんでいた。僧侶として生きて来た彼女の価値観が何度も覆され、目の当たりにする人の業が彼女の信じて来た全てを打ちのめしていたのだ。ルビス教の信者である象徴の法衣と僧侶帽を身に着け、歪められた教えを信じていた彼女は、この一行の中で最も不安定な存在であっただろう。カンダタの言葉の中には、そういう思いも含まれていた。

 つまり、今のサラは、最早この一行の足手纏いに成り得る存在ではないと映ったのだ。

 

「改めてあの時の礼をさせて貰うよ。アンタのお陰で、こうして他人の役に立てる。これで償えるような軽い罪ではないが、少しずつ返して行こうと思っているんだ」

 

「い、いえ……私はそのような事は。それよりも、どうしてアレフガルドへ?」

 

 静かに頭を下げたカンダタは、心からの感謝を伝える。彼の言葉の一言一句に想いが詰められており、それを感じたサラは慌てて手を振った後、即座に話題を変えた。彼女の疑問は、この場に居る一行全員が感じた疑問でもあり、上の世界の人間達がギアガの大穴を通らずにどうやってアレフガルドに辿り着いたのかという根本的な疑問でもあった。

 ギアガの大穴というのは、魔王と恐れられたバラモスの居城の傍にある。カミュ達であっても、ラーミアという霊鳥が居なければ降り立つ事の出来なかった場所であり、通常の人間がその穴から下の世界へ落ちる事は不可能であった。それにも拘らず、このアレフガルドには多数のガイア世界からの来訪者がいる。それは他の行き方があるという事実に他ならないのだ。

 

「バハラタでの一件の後、辛うじて出ていた船などを使って色々な場所を回っていたが、定住が出来るような場所がなくてな。途方に暮れそうになっていた時に、巨大な地震が起きた。その地震はかなり長く続いて、それによって生じた地割れに飲まれちまったのさ。気付いたら、このアレフガルドに居たって訳だ」

 

「……巨大な地震ですか?」

 

 このアレフガルドを下の世界と称する以上、異世界からの来訪者は上層から落ちて来ると考えられる。だが、上の世界の地面の先にこの世界があるという訳ではないだろう。たまたま、その地割れの闇にアレフガルドへの繋がりが出来てしまったと考えるのが自然であった。

 このアレフガルドに来た上の世界の者達の多くは、そのような地割れに飲み込まれたと考えても良いだろう。全てが全て、カンダタ同様に地震で出来た地割れではないだろうが、ガイア世界のあちこちにはそうした地割れが幾つも生まれているのかもしれない。

 

「カミュ……可能性の話でしかないが、ネクロゴンド火山の噴火の影響だろうか?」

 

「可能性は否定出来ないな」

 

 カンダタと別れてから遭遇した大地震となれば、ネクロゴンド火山の火口へガイアの剣が落ちたあの時以外ない。巨大な火山の大噴火があったのだから、世界中で大なり小なりの地震が起こった可能性は高いだろう。その中で、震源地の近くであれば、多少の地割れが生まれていても不思議ではなかった。

 魔王バラモスへと続く道を切り開く為とはいえ、火山が噴火してしまったのはカミュ達が原因である。そうなると、このアレフガルドへ落ちた大半の人間は、世界を救うと謳われる勇者一行の歩みの犠牲になったと言えるだろう。それをサラに聞こえないように呟いたリーシャに向かって、カミュは静かに肯定を返した。

 

「まぁ、向こうの世界では償う場所さえもなかったからな。俺としてはこっちの世界に来れて良かったと思っている。このラダトームの城に『太陽の石』という宝物があると聞いた時には、昔の血が騒いだが……あ、いや、本当に真面目に働いているさ」

 

 カミュやリーシャの罪悪感を余所に軽口を叩いたカンダタは、無表情を貫いたメルエの視線と、厳しく細められたサラの視線を受けて、慌てて弁明を始めている。彼としては再会の中で交わす軽い冗談のつもりだったのだろうが、元々彼を信用していないメルエと、彼を逃した事で様々な苦しみを味わったサラとしては、とても看過出来る内容ではなかったのだ。

 とは言えども、先程まで材木を抱えながら汗を流していた彼を疑っている訳ではない為、サラは即座に瞳を緩め、柔和な笑みを浮かべる。

 

「わかっていますよ」

 

「そ、そうか……だが、このアレフガルドには言い伝えのような宝物が多くあるらしい。ここから東の小さな大陸にはマイラという村があって、『妖精の笛』という宝物があるそうだ。その笛にどんな言い伝えがあるかまでは知らないがな」

 

 サラの笑みに胸を撫で下ろしたカンダタは、元盗賊の棟梁らしい情報をカミュ達へと提供する。様々な伝承のある宝物らしいが、この世界に来て日の浅い彼では、今のところは余り深くまで探る事は出来なかったのだろう。それでも、このアレフガルド世界の右も左も解らない状態のカミュ達にとってはとても有力な情報であった。

 このラダトームにて国王と謁見した後の行き先が一つ決まる。それは地図もなく、太陽も昇らない場所ではとても有益な事である。ただ、それはカンダタが口にした宝物に何の力があるのか、何をする為に必要なのかという情報を仕入れた時、宝物の情報が何かを成す事だろう。それでも、方向性だけでも定められた事だけでも意味があったのだ。

 

「色々と教えてくださり、ありがとうございます。こちらでのお仕事、頑張って下さい」

 

「二度と会う事はないと思っていたからな。アンタとの約束は必ず護るよ。俺も大工のような力仕事が天職だったようだしな。何故か、こっちの世界の人間達は、力が弱い者達が多いみたいだ」

 

 異なる世界に来ても、交わした約束を護り続けていたカンダタに向かってサラは満面の笑みを浮かべる。

 彼がこのアレフガルドの地を踏むまでの数年間は想像を絶する苦難があった事だろう。だが、それでも彼は諦める事無く、そして決して楽な道へ戻る事をせずに、ここに辿り着いたのだ。それだけでも、彼は罪を償う為の道に踏み入れたと言っても過言ではない筈である。

 サラが笑みを浮かべ、それに豪快な笑い声で返すカンダタを見つめながら、柔らかな笑みを浮かべるリーシャとは別に、カミュは何処か難しい表情で考え込んでいた。それは、カンダタの言葉の何かに引っ掛かりを覚えたからなのかもしれないが、彼のそんな表情に気付いたのは、そのマントの中で不満気な顔をしていたメルエだけであった。

 

「だが、お前達がアレフガルドに来たという事は、本当に魔王バラモスを倒したのだな! 他の自称勇者達とは違うとは思っていたが、お前達ならばアレフガルドを闇に覆う大魔王なんて奴も倒せるだろうよ」

 

「……最大限、努力します」

 

 笑みを浮かべていたリーシャは、今のサラの言葉を振り返る。彼女は決して安請け合いをしていない。それは今までとは少し態度が異なっているだろう。魔王バラモスを倒す為に出立した旅の途中では、『必ず倒します』と明言した事もあるし、それを相手に約束した事もあった。

 サラは自分では気付いていないだろうが、そこまでの旅路の険しさと、大魔王ゾーマという存在の理由を探っているのだ。人間至上主義という凝り固まった考えから脱却した彼女だからこそ、人間も、エルフも、そして魔物でさえも幸せに暮らせる世界にする為に何が必要なのか、何を成すべきなのかを日々考えているのだろう。

 リーシャは彼女達の剣であり、盾である。だからこそ、道を模索し続けるサラの想いを嬉しく思う。魔物だから悪という考えに執着する事無く、その力の使い所を考えるサラこそ、やはり『賢者』の器なのだと、改めて実感したのだ。

 残るは、『賢者』の完成を待つだけとなる。

 

「アンタらしくないな? 俺は、アンタがこの一行の足枷だと思っていた。だが、バハラタで再戦した時、俺が間違っていた事を理解したよ。アンタはもっと自信を持て! アンタによって救われた人間も、魔物も多いのだろう。その救われた者達が未来を作って行くんだ。それに、アンタの後ろには、どんな苦境も跳ね返してくれる仲間がいる筈だ」

 

「……は、はい!」

 

 カンダタの言葉に瞳を潤ませたサラは、力強く頷きを返す。

 彼女は一人で悩み、苦しみ、そして泣いて来た。だが、彼女が再び前を向いて歩き始める時は、必ず誰かが支えてくれていたのだ。それは、姉のように慕うリーシャであったり、妹のように可愛がっているメルエであったり、いつも無口でありながら核心を突くカミュであったり様々ではあるが、彼女は一人で立ち上がった訳ではない。

 サラという凡庸な僧侶が、魔王を倒す旅に同道し、その途中で『賢者』として世界唯一の存在となれたのは、彼等三人の存在が不可欠であった。他のどのような人間と旅をしようと、あのままアリアハンという国の教会で過ごそうと、彼女は『賢者』には成り得なかったであろう。

 逆に言えば、彼等三人と共にいるからこそ、彼女は『賢者』なのである。

 

「じゃあ、俺は仕事へ戻るよ」

 

「はい。お元気で」

 

「悪事を再び働いた時には、私達が必ずその首を貰い受けに来るからな」

 

 別れの挨拶は簡易な物であった。サラは柔和な笑みを浮かべ、リーシャは軽口を叩く。カンダタはその軽口に苦笑を浮かべて胸を叩き、そのまま建設作業へ戻って行った。

 四年近く前に出会った頃は、悪党の棟梁として絶大な統率力を発揮していた。カミュとリーシャという魔王へ挑もうとする者達二人を一度に相手しても引けを取らない程の力量を持ち、逆に勇者一行を追い込む程の戦闘経験を持っていたのだ。

 二度目の対戦ではその関係は逆転していた。魔王バラモスへ近付く小さな一歩を歩み続けて来たカミュ達は、僅か一年の月日で大きく成長する。既に人間という枠では納まる事が出来ない程の力を有し始め、カンダタを遥かに凌駕する。カミュという勇者の輝きを有し始めた青年一人に敗北した彼は、己の人生を償う覚悟をした。

 そんな彼が別世界で汗を流して働いている。彼を取り巻く者達は、純粋に彼の仕事ぶりを賞賛し、共に働いている事が解る。皆が笑みを浮かべながら、徐々に形を成して行く家屋に瞳を輝かせ、新たに訪れる輝く未来へ想いを馳せているのだ。

 それは、サラという『賢者』が生み出した奇跡の一つなのかもしれない。

 

「メルエ、いつまでもそんな顔をするな。メルエが感じた恐怖も、苦しみも、悲しみも、忘れろとは言わない。だが、それを許す事の出来る心を育んでくれ。悪人が善を積み重ね、今まで真っ当に生きて来た者達と同等の暮らしをするまでの道は険しい。それでも、隠れもせず、隠しもせず、その道を歩もうとする者を蔑んではいけない。カンダタは死ぬまでの長い時間を、苦しみと悲しみに捧げたのだ」

 

「…………むぅ…………」

 

 しかし、サラが生み出した奇跡のもう一つは、そんなカンダタへ険しい表情を向けていた。彼女としては、自分を奴隷として攫った者達の棟梁に良い感情は持っていないだろうし、更に言えば、自身の唯一の友であるアンを殺害した一党の棟梁へ憎しみさえ持っていてもおかしくはない。

 そんなメルエを抱き上げたリーシャは、ようやく表情を戻した少女に言葉を投げかける。カンダタの人間性を考えると、おそらく自分が犯して来た罪を隠しはしないだろう。それを誇示する程愚かな者ではないが、それを隠す程臆病でもない。自らが犯した罪の重さを自覚し、それに対する蔑みの視線も、憎しみの感情も甘んじて受ける道を選んだ筈なのだ。その上で、彼はこのアレフガルドの地で受け入れられた。それが、彼の努力の度合いを明確に物語っている筈である。

 

「メルエがそんな感じだと、昨日メルエが倒したスライムも、メルエの事を許してはくれないぞ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 頬を膨らませていた少女は、リーシャの言葉で更に頬を膨らませる。昨日の戦闘で、スライムベスに攻撃したのはメルエだけであり、打ち倒したのはメルエ唯一人であった。つまり、スライムベスが怒りや憎しみを向ける相手も、メルエだけとなるとリーシャは言っているのだ。

 魔物に人間的な感情があるかどうかは別にしても、魔物との対話を望む幼い少女にとって、それは全力で拒否したい事柄なのだろう。難しい顔で唸り声を上げながら、最後にはリーシャの肩に顔を埋めてしまった。

 

「行くぞ」

 

 今まで事の成り行きを黙って見ていた青年の言葉に、ようやく一行は歩みを再会する。両脇に灯された松明の灯りに照らされた石畳を真っ直ぐ東の方角へ進んで行く。王都の外れには、様々な木々が植えられており、太陽の恵みさえあれば数多くの花々が咲き誇る美しい庭園である事が窺えた。

 小さな昆虫達が動き回る庭園は、本来ならばメルエの格好の遊び場となるのだろうが、闇の中では小さな虫達の姿は見えない。地面に下ろされてリーシャと手を繋いで歩く少女は、少し残念そうに草花の方へと視線を向けていた。

 庭園を抜けると、一際大きな松明が灯された城門が見えて来る。アリアハン城の城門などとは比べ物にならない程に巨大な城門には凝った装飾が施され、城自体は王都を囲む外壁とは別の城壁によって囲まれていた。

 

「上の世界から訪れました。大魔王ゾーマ討伐に際し、ラダトーム国王様への謁見を望みます」

 

「……カミュ様」

 

 城門を護るように立つ門兵によって行く道を遮られたカミュは、謙る事もなく、真っ直ぐに門兵を見つめて口を開く。その内容は、ここまでのカミュを見て来たリーシャやサラにとっては予想外の物であった。それにサラは驚きの声を上げるが、リーシャは柔らかな笑みを浮かべて青年の背中を見つめる。

 彼等四人は、魔王バラモスを討ち果たした強者である。今この時、大魔王ゾーマを討伐出来る者がいるとすれば彼らだけであり、それを自負する事は自惚れではない。

 奇妙な組み合わせの一行が放った事の内容に、門兵は訝しげな視線を送り、自分達では判断出来ない事として、一人の門兵が城の中へと入って行く。暫く待つと、戻って来た門兵がもう一人の門兵へと声を掛け、勝手口から戻って行った。

 

「開門!」

 

 勝手口からカミュ達を通す訳ではなく、重く巨大な大手門がゆっくりと開き始める。重々しい音を立てながら開く門の前には、歪な組み合わせの四人の若者達が立っていた。

 後世へと語り継がれて行く伝説が、今、幕を上げる。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
大変遅くなってしまい、申し訳ありません。
年内にもう一話は更新したいと思っています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ラダトーム城①

 

 

 

 重く巨大な門が開かれ、カミュを先頭に一行が中へと入って行く。門の奥には、既に案内役の文官が待っており、その傍には護衛らしき騎士が二人控えていた。

 リーシャはその騎士達の職務を理解しており、当然の行いだと思ってはいるが、サラはアレフガルドという異世界の土地での自分達の立ち位置を改めて実感する。カミュに至っては、この程度の騎士が何人揃おうと、有事となれば自分達相手に何の役にも立たないと考えているのか、全く気にも留めていなかった。

 剣の柄にこそ手を掛けてはいないが、騎士達が四人を警戒している事は醸し出す雰囲気からも察する事が出来る。確かに、突如として現れた者が、この世界を闇に包む原因となる大魔王の討伐を口にしたのだから、その警戒が的外れな訳ではなかった。

 最早、このアレフガルド大陸全域に、大魔王ゾーマという名は轟いているのだろう。町を歩く者達が知っているからこそ、再会したカンダタさえもその名を知っていたのだ。このような状況になれば、自称勇者が現れる事は当然の成り行きである。

 上の世界のバラモス打倒の時のように、有名な英雄でも成し得ないという結果でもなければ、打倒大魔王を謳う者が現れ続けても不思議ではないのだ。

 

「国王様が謁見の準備をしております。こちらへどうぞ」

 

「突然の来訪にも拘らず、ご許可頂いた国王様の御心に多大な感謝を」

 

 腰を低くしながらも警戒を怠らない文官の視線を受けたカミュは、深々と頭を下げて謝辞を述べる。既に完全なる仮面を装着し終えたカミュは、後方に控える三人に目で合図し、そのまま文官に続いて謁見の間へ続く回廊を歩き始めた。

 ラダトーム城の城内も上の世界にある各国の城に劣る事のない広さである。だが、陽の光のない城内は薄暗く、各所に灯された松明が放つ明かりでは広い城内を照らし尽くす事は出来ていなかった。

 

「ご一行は上の世界から大魔王ゾーマ討伐の為にアレフガルドへ来られたという事ですが、上の世界のどちらからお越しに?」

 

「……アリアハンという国の出身です」

 

 城内へ視線を巡らせていたカミュに向かって、謁見の間への道を先導していた文官が問いかける。その内容を聞いたカミュは、上の世界という名前を知ってはいても、国家の名までは知らない筈にも拘らず聞いて来る文官を不審に思った。

 上の世界から来た人間達から聞いた事を基にして地図などを作成し、領土拡大の為に動こうとしていると考えるには、今のアレフガルドは混迷し過ぎている。他所へ思いを馳せる暇など無く、むしろ逃亡先として考えていると言われた方が納得の行く状況なのだ。

 カミュは既にアリアハン国からの命で動いている訳ではない。アリアハン国王からの勅命である魔王バラモスの討伐は成し遂げた。故に、今のカミュは個人的な理由から大魔王ゾーマの討伐へ向かっており、己の出身国に留めたのだろう。そして、リーシャも同様に勅命に背いてこの場にいる訳であるから、当然カミュの言動を諌める事はなかった。

 

「アリアハンとは……では、オルテガ殿と同郷の方々ですか」

 

「オルテガ様だと!?」

 

 しかし、静かにカミュと文官の話を聞いていたリーシャは、突如出た名に驚きの声を上げる。まさか、この場で聞く事になるとは思いもよらず、それでいて僅かに残る期待を捨て切れなかった名であった。

 一瞬で顔を顰めた青年とは正反対の表情を浮かべるリーシャと、困惑したような表情を浮かべるサラ。それは各々の思考を明確に物語っているのかもしれない。

 アリアハンの英雄が、遠い異世界であるアレフガルドに来ていた。それが、彼の生存を明確に示している。オルテガという同名の者がいる可能性は捨て切れないが、上の世界の、しかもアリアハンという国から来たオルテガとなれば、彼等全員が考えている者で間違いはないだろう。

 

「もう五年以上前になるでしょうか。このアレフガルドにルビス様の威光が届かなくなり、闇に覆われた時、突如としてこの城へ来られたのがオルテガ殿でした。大魔王ゾーマを討ち果たさない限り、朝が訪れる事はないと陛下に直訴され、そのまま旅に出られました」

 

「オルテガ様はやはり生きておられたのか!」

 

 五年前となれば、カミュ達がアリアハンを出る直前である。英雄オルテガがネクロゴンドの火口で亡くなったという報がアリアハンに届いたのは二十年近く前であった。しかし、ムオルの村の住民達の話に出ていた男がオルテガだとすれば、十年近く前にムオルの村でオルテガが静養していた事になる。そして、五年前ほどにこのアレフガルドへ辿り着き、再び旅に出たとすれば、全ての時間軸が一致するのだ。

 しかし、魔王バラモスはカミュが討ち果たし、その時に聞いた神々しい声によって、彼等はアレフガルドの存在を知った。ならば、オルテガは魔王バラモスを討ち果たそうとはせず、何故アレフガルドの存在を知る事が出来たのかという疑問が残る。この文官の話を聞く限り、オルテガが来る以前は、上の世界からの訪問者は皆無に等しかった事が窺えた。

 他に上の世界からアレフガルドへ来る手段のない中、オルテガがどのような方法で来たのかが解らない。万が一、カンダタのような理由で地割れに飲み込まれたとすれば、何故大魔王ゾーマの存在を知っていたのかという疑問が残ってしまうのだ。

 だが、それでも、勇者カミュの父であり、アリアハンの英雄とまで謳われた男が生きている事だけは、最早疑いようの無い事実である。

 

「あの屈強なオルテガ殿でも、五年以上も音沙汰がありません。生きているのかどうかは、我々には……」

 

 文官はリーシャの言葉に対し目を伏せる。確かに、五年も音沙汰が無ければ、その人物の生死を確かめる術はない。このアレフガルド大陸にも様々な都市や村があるのだろうが、闇に閉ざされた今となっては、人の行き来も激減している事が容易に解る。オルテガがこの王都へ戻って来ない限り、彼の生死を確かめる方法はないのだ。

 それでも、リーシャには何故か根拠の無い自信があった。オルテガは生きており、カミュという勇者と再び出会う事が出来るだろうという確信にも似た想いが胸に込み上げる。それは喜びとなって彼女の顔に浮かび上がるのだが、その笑みが何を意味しているか理解したカミュは、盛大な舌打ちを鳴らして先を急ぐように歩き始めた。

 

「こちらでラルス国王様がお待ちです」

 

「……ありがとうございます」

 

 階段を上がった二階に、ラダトーム城の謁見の間は造られていた。大きな扉の前で待つように指示した文官は、中にいる人間へカミュ達の来訪を告げる。玉座に座る国王へ取り次がれ、許可を貰うまでの僅かな時間、周囲に張り詰めたような静寂が広がった。

 大臣らしき者の声が中から轟いた事で、ようやく大きな扉が開き始める。その国の威厳を示す謁見の間は、どの国でもそれなりの広さが取られており、凝った装飾なども施されている。ラダトーム城も同様に、最奥の玉座から真っ直ぐに伸びる赤絨毯には国家の紋章が刺繍され、両脇で天井を支える柱は綺麗な石を使った物であった。

 先頭のカミュが歩き始めた事によって、後方にいた三人の女性達も絨毯を歩き始める。謁見の間には国王と筆頭大臣の他にも重臣達が集められており、カミュ達の存在の重要性を物語っていた。前方に見える玉座は二つあり、向かって左の玉座には、歳の頃がサラやカミュとそう変わらないであろう青年が腰掛け、右の玉座には、壮年を過ぎて初老と呼ぶに相応しい年齢に入った男性が座っている。頭の上に王冠がある事を見る限り、初老の男性がラダトーム国王なのだろう。

 

「よくぞ参った。ラダトーム国王のラルスである」

 

 玉座までの距離を測り、カミュが跪くのを見て、リーシャ達三人も膝を着く。全員が頭を下げた事を見た国王が名乗りを上げた。

 玉座の隣に立つ大臣らしき者が『直答を許す』という言葉を告げる。その間に、先程カミュ達を案内した文官が大臣に耳打ちをし、大臣がその言葉を小さく国王へと告げると、国王は驚きに目を見開いた。

 

「そなたらは、オルテガ殿と同郷と聞いたが相違ないか?」

 

「……はっ。アリアハン国の生まれです」

 

 決してオルテガが父親であるという事を口にはしない。ここまでの道中で何度も衝突していなければ、その事実にリーシャは口を開いていたかもしれない。だが、今の彼女は、『まだその時ではないのだ』と考えており、赤い絨毯を見つめていた。

 もし、ここでカミュがオルテガの息子である事を口にすれば、先程の文官の様子を見る限り、ここでも過剰な期待を背負う事になるだろう。過剰な期待は重荷となり、再び青年を苦しめる事になる。彼は今、彼の意志でアレフガルドに立っているのだ。そこに国家への責務も無く、定められた道でもない。

 今のカミュは、『そういう存在』ではないのだ。

 

「オルテガ殿が話してくれたが、上の世界に行ったバラモスは如何した?」

 

「……我々が討ち果たしましてございます」

 

 ラルス国王の質問に対するカミュの言葉が出た瞬間、謁見の間が一気にざわついた。それは、魔王バラモスを倒したという偉業に対しての驚きではない事が、重臣達が囁く言葉で解る。彼等は、カミュ達のような歪な集団がバラモスを倒したという事に対して口々に何かを言っているのだ。

 確かに、傍から見れば、屈強そうな青年は別にしても、他は全て女性。更に言えば、一人は年端も行かない幼子である。とても魔物を倒す事が出来る一行には見えないだろう。中には、聞こえるような声で『嘘ではないか』という言葉を発する人間さえも居た。

 

「静まれ! この者達がバラモスを倒した事の是非は重要ではない。バラモスなど、例えルビス様を封印した者とはいえ、大魔王ゾーマの手下の一人にしか過ぎぬ。全ての元凶はゾーマである」

 

 騒々しくなった謁見の間を、ラルス国王が一声で黙らせる。そこは流石は一国の国王といったところであろう。そして、一瞬にして静けさを取り戻した謁見の間に、信じられないような言葉が飛び出す。その内容にサラは思わず顔を上げてしまい、慌ててもう一度赤絨毯を見つめるように頭を下げた。

 大魔王ゾーマという存在が出て来た以上、バラモスはその部下に過ぎない可能性が高い事はサラも理解している。バラモスがルビスを封印した事も、竜の女王の話の中にあった。だが、それがこのアレフガルドの人間達が正確に把握している事に驚いていたのだ。

 精霊ルビスという存在は、上の世界では絶対神に近しい存在である。それは、このアレフガルドでも同様であるのだろう。そのような絶対的な存在が魔の者によって封印されてしまうという事は、絶望以外の何物でもない。

 人間の心は弱い。自らが信じる絶対神でさえも封じる事の出来る者を打ち倒す事など不可能だと知り、恐怖し、怯え、諦める。もし上の世界の国家が、精霊ルビスがバラモスによって封印されたという事実を知っていたとしたら、カミュという犠牲を生み出す事は無かったかもしれない。何故なら、彼らが心から信じる精霊ルビスの加護という物は既に存在しないという事になるからだ。

 

「だが、手下とはいえ、バラモスも精霊ルビス様を封じる程の者。その者を討ち果たしたそなたらが、大魔王ゾーマの討伐に名乗りを上げてくれた事、アレフガルドの王として嬉しく思う」

 

「畏れ多い言葉でございます」

 

 このアレフガルドの民の中で、精霊ルビスという存在を見た者はいないだろう。それでも、明けぬ夜が続くのは、精霊ルビスという輝きが何処かに封じられ、それによって光が届かない状態になっているのだと考えているのかもしれない。その封印が解かれ、再び大地を光が照らす日を待っているのだろう。

 文官の話では、五年以上もの間、このアレフガルドは闇に覆われていたという事になる。それでも心を折られず、夜が明ける日を民達が待てるのは、目の前に居るラダトーム国王の人徳と善政の成せる事なのかもしれない。それだけの威厳を、この王は有していた。

 

「凶暴化が進んだ魔物達に殺された民も多い。更には、人間だけではなく、魔物さえも愛するルビス様を封じ、太陽の恵みを奪った。大魔王ゾーマの影響を受けているとはいえ、魔物達を許す事は出来ぬ。オルテガ殿さえ戻らぬ今、最早そなたら以外に頼める者はおらぬ。このアレフガルドから魔物達を一掃せよ」

 

 だが、国王としての能力を認める事の出来る者と思っていた人物が大きな声で発した言葉に、再びサラは顔を上げてしまう。その時、ラルス国王の横に座る青年と目が合った。許容出来ない驚きの瞳を向けたサラの顔を、同様以上に驚きに目を見開いた青年は、口を半開きにさせたまま、固まってしまったかのように時を止めてしまう。

 そんな青年の姿への疑問よりも、今のラルス国王からの命に対するカミュの答えが気になったサラは、不敬にも顔を上げたまま、カミュの背中へと視線を移す。先程までのように、仮面を被ったままのカミュであれば、その命を粛々と受け止め、早々にこの場を立ってしまう筈。そう考えたからこそ、サラは動かない彼に不安を感じ、隣で跪くリーシャへと視線を向けた。

 そこに有ったのは、優しい笑みを浮かべ、首を静かに横へ降る女性戦士の姿。サラがメルエに放つ魔法の言葉と同等の力を持つその笑みは、不安に覆われそうになっていたサラの心に一筋の光を差し込んで行った。

 

「畏れながら……魔物全てを討ち果たす事は難しく、国王様の命と言えども我々に成し遂げられるとは思えません。不敬とは心得ながらも、国王様の命を遂行出来ない事を一番の不敬と思えばこそ、その儀は平にご容赦頂きたく、お願い申し上げます」

 

 暫しの間、鋭く目を細めていたカミュは、何を恐れる事もなく、一国の国王の勅命を跳ね除けたのだ。

 再びざわめく謁見の間。だが、『上の世界の者が!』や、『バラモス如きを倒した程度で』など罵声に近い物もあったが、中には『それは道理』と頷く者もおり、即座にカミュ達を処罰するような雰囲気にはならなかった。

 安堵するように表情を緩めたサラは、リーシャが声を出さずに『心配するな』と口を開いたのを見て、己の浅慮を恥ずかしく思う。信じていた筈であるし、それだけの時間も共有して来た。だが、どうしてもアリアハンを出た頃のカミュのイメージはサラの中で残っており、僅かでも彼を疑う心が残ってしまっていたのだ。

 

「……ふむ。オルテガ殿と同郷の者であり、バラモスを討ち果たす強者でありながらも、そなたは少し異なる目をしておるな」

 

 勅命を跳ね返された事など皆無であろう。それは、国家に対する反逆であり、国王に対する裏切り行為に等しい物であるのだから当然である。だが、同時に、如何に一国家の王と言えども、他国の者に対してまで強制力を持つ事はない。民は国家の所有物であり、その民が亡命でもしない限りは所有権が移る事はないのだ。

 アリアハン国の出身と口にしたカミュという勇者は、アリアハン国家の所有物であり、その命令はアリアハン国王のみが発する権利を持つ。依頼であれば別であるが、命令する権利はラダトーム国王にはないのだ。実際、移動手段も解らぬ上の世界の未知の国家とはいえ、それは世界共通の理である。

 暫し、思案に更けるようにカミュを見つめていたラルス国王は、静かに息を吐き出し、何かを達観したような瞳をカミュへ向けた。

 

「この大陸は、精霊ルビス様によって造られたと云われておる。精霊ルビス様は、云わば我らの母なのだ……」

 

 何かを悟ったように瞳を閉じたラルス国王は、隣に座る青年へと視線を移し、先程とは異なる柔和な笑みを浮かべる。

 もし、このアレフガルドを生み出した者が精霊ルビスであると云う伝説があるならば、国王の言うように、母のような存在であろう。上の世界では、創造神が世界を作り、精霊ルビスがその世界を守護しているという教会の教えがあったが、母なる大地には大地の女神がおり、泉も森も個別の精霊達が護っていると考えられてもいた。アレフガルドとでは、教えの根本が異なっているのだ。

 母を傷つけられて怒りを感じない人間など皆無に等しい。特別な生い立ちを持つ者でなければ、敬愛する母を侮辱されて黙っている事など出来はしないのだ。このアレフガルドの民にとって、精霊ルビスとはそういう存在なのだろう。

 

「これは我が息子であり、ラルス二世としてアレフガルドを継ぐ者である。こ奴がこの国を治める時、アレフガルド大陸の全てに母なるルビス様の祝福が注ぎ、全ての民達が笑みを浮かべて暮らせるようにしたいと考えておる」

 

「全力を尽くします」

 

 国王の隣に座っていたのは、このラダトーム国王家の嫡男であった。このラダトームが建国されてどの程度の時間が流れているのかは解らないが、自身を初代として、息子に二世を名乗らせるという国王の自信もかなりの物である。だが、その胸の想いは、父や王の物としては当然の物であった。

 自分の愛する息子に苦難の道を歩ませたいと思う親はいない。どんな親も、子供が幸せに暮らす事を心から願い、その為に自身を犠牲にする。親子であっても人間であるが故に、擦れ違いや誤解など数多くあるだろう。それでも等しく親は子を想うのだ。

 

「このラダトーム王都から南にある海を挟んで向こう側に大魔王ゾーマの城がある。年々瘴気の量が増えて来ており、最近ではこの王都にまで届く時もある程だ。大魔王の城へは、周辺の海域の荒さと魔物の為に、船では行けぬ」

 

「畏れながら……ならば、オルテガという男はどのようにして魔王の城へと向かったのでしょう?」

 

 闇の向こうにある城を見る事は出来ない。例えラダトームの南西にある海岸へ出たとしても、大魔王ゾーマの居城を見る事は出来ないだろう。しかも、船にて渡る事も出来ないとなれば、南へ進路を取る必要がない事になる。

 しかし、カミュの発した疑問に、リーシャとサラは顔を見合わせた。その疑問は、このアレフガルドに来るまでに何度か思い浮かんだ事である。その頃は、既にオルテガが死亡していると思い込んでいた為、それに対して深く考える事はなかったが、生存している事が明確となれば、オルテガの軌跡については疑問しか残らないのだ。

 カミュ達が歩み続けて来た道は決して平坦ではない。魔法のカギや最後のカギがなければ辿り着けない場所もあり、ラーミアという存在を復活させなければ辿り着けない場所もあった。それでもオルテガは魔王バラモスと対峙し、アレフガルドに来たという実績がある。疑問は深まるばかりなのだ。

 

「解らぬ。しかし、五年の月日が流れて尚、アレフガルドに朝は来ず、大魔王ゾーマは健在である。オルテガ殿は、辿り着けぬまま命を落とした可能性もあるだろう」

 

 確かに、何の便りもなければその生存自体が怪しく、大魔王ゾーマの健在は、夜が明けない事で証明されている。通常に考えて、オルテガは既に死亡していると考えても致し方のない事であった。

 それでも、後方に控えるリーシャには、オルテガ生存の自信があったのだ。それは、オルテガへの信頼ではなく、勇者カミュへの信頼。彼が勇者であるからこそ、彼の父であるオルテガは生きているという根拠のない自信に基づく物。何度となく、勇者カミュが引き起こして来た必然を目の当たりにして来た彼女だからこその自信なのかもしれない。

 

「出立は明日にし、今日はこの城で身体を休めるが良い。ささやかではあるが、壮行の宴を催そう。そなたらの旅の安全と無事な帰還、そして吉報を待っておる」

 

「……有り難き幸せ」

 

 ラダトーム国王との謁見が終了する。大臣の締めの言葉を契機に、カミュ達を先導するように文官が前に出る。壮行の宴までの時間を過ごす為の部屋へと案内するつもりなのだろう。カミュが先に立ち上がり、国王と皇太子に一礼をすると、そのまま謁見の間を辞した。

 文官に続き、階段を下り、一つの部屋へと案内される。四人が過ごすにはかなり広めの部屋には、テーブルと椅子が並べられており、テーブルの上には綺麗なティーセットが置かれていた。壁には額が掛けられており、中にはアレフガルド大陸の地図であろう物が入っている。かなり細かく造られた物であり、地名から川や海の名、都市や村の名前も記載されていた。

 

「こちらの部屋でゆっくりとお過ごし下さい。城内を見て回られても結構ですが、客人にお見せ出来ない場所もございますので」

 

「ありがとうございます。その辺りは気を付けて行動致します」

 

 案内を終えた文官が、共に連れて来ていた侍女にお茶を入れさせている間、少し注意事項を口にする。壁に掛かっている地図へ視線を固定しているカミュに代わり、サラが文官の懸念に応えた。如何に国王が認めた客人とはいえ、城の中を無遠慮に歩き回る事は良しとはしない。上の世界の人間達の常識を把握していない文官は、その辺りを危惧していたのだろう。

 侍女に可愛らしいお礼を口にしたメルエは、足が床に届かない高さの椅子に座り、温かなお茶で喉を潤す。太陽が無い為か、アレフガルド大陸は上の世界よりも肌寒く、リーシャであっても温かな飲み物は有り難かった。

 

「そちらの『妖精の地図』は、国王様から皆様へ差し上げるようにと申し付かっております。宴の最中に額から外し、用意をしておきますので」

 

「……ラルス国王様の御心に感謝致します」

 

 茶を入れ終えた侍女が退出し、全員が席に着いた事を見計らって、文官は国王からの命を口にする。この地図の名称の謂れは解らないが、これ程に精巧な地図となれば、国宝に近い位置にあっても可笑しくはないだろう。それを無償で下賜するという事の重大性に、カミュは若干顔を顰めた。

 国家としてはそれなりの見返りがなければ、素性も解らない人間にそれ程の厚意を示さない。大魔王ゾーマを討ち果たす者としてカミュ達を見ていたとしても、それが成し遂げられる保証はどこにもなく、そもそも大魔王ゾーマ討伐を本当に目指しているのかも解らない。それにも拘らず、これ程の厚意を示されるという意味がカミュには解らなかったのだ。

 

「失礼致します」

 

 部屋を出て行った文官が扉を閉めると即座に、再び扉がノックされる。対応の為にサラが扉を開くと、一人の老人が立っていた。上の世界では宮廷いる魔法使いのようにローブを纏い、白く長い髯を蓄えている。手を部屋の中へと向けるサラの横を抜けて入って来た老人に、カミュは訝しげな視線を送った。

 一つ咳払いをした老人は、一行をゆっくりと見渡し、小さな笑みを浮かべる。敵意のない笑みを向けられたメルエもまた、それに対して笑顔で返した。メルエが笑顔を浮かべたという一つだけで、この一行の雰囲気は和らぐ。そこに例外はなく、サラは老人に椅子を勧めた。

 

「お寛ぎのところに、申し訳ございません。大魔王ゾーマへ挑む皆様に祝福をと国王様に申し付けられましたので、お伺い致しました」

 

 老人の笑みの中には悪意が見えない。純粋なカミュ達一行への労いに満ちていた。それは、様々な国で、様々な者達を見て来た一行にとって、初めて体験する笑みだったかもしれない。

 そして何よりも、謁見の間で勅命に近しい物を拒絶したカミュ達に対し、ラダトーム国王がこれ程の厚意を示す理由が解らない。度量の狭い国王であれば、その場で処刑の命を発しても可笑しくはない程に、彼等は国王の面子を潰している。それでも尚、地図を与え、そしてこの老人に祝福の儀を執り行うように命を下しているのだ。

 単純に喜ぶリーシャやサラとは異なり、カミュは何処か訝しげに老人へと視線を送る。

 

「では……勇気ある若者達に祝福あれ!?」

 

 一つ息を吐き出した老人が立ち上がり、四人の頭上に両手を向け、祝福の詔を唱える。瞬時に部屋を染め上げれる光が眩い程に輝き、闇に閉ざされたアレフガルドに一時の光を与えた。

 光が収まると同時に、酷く憔悴したように老人は椅子に座り込み、大きく息を吐き出す。目が開けられるようになったリーシャは、何が行ったのか全く解らず首を傾げるが、祝福とはいえ気休め程度の物なのかもしれないと隣のカミュやサラへと視線を向けた。だが、そんなリーシャとは全く異なる表情を浮かべたカミュとサラは、自分自身の身体を見つめながら、何度も老人へと視線を送ってたのだ。

 

「……魔法力が回復している」

 

「は、はい。私もです。宿屋で一泊していますので、枯渇寸前という訳でもありませんでしたが、今では完全に全快しています」

 

「…………メルエも…………」

 

 この一行の中で魔法という神秘を行使する事の出来る者達だけが、老人が起こした奇跡を体験しているのだった。故に、リーシャだけはその奇跡が起こした恩恵を受けていない。彼女だけは自身の内に流れる魔法力を感じる能力はなく、それを外へ放出する術もないのだ。

 通常は宿屋で一泊すれば、大抵の人間は体力や気力が回復する。魔法力などは全回復するのが通常ではあるが、彼等三人の成長度合いによる魔法力の量の増大と、闇に閉ざされたアレフガルドの特殊な環境によって、全てが回復出来ていなかったのかもしれない。

 だが、目の前で肩で息をしている老人が行った祝福の儀により、彼等の魔法力が全て回復したのだった。

 

「……流石は、大魔王ゾーマへ挑もうとする方々。魔法力の量も尋常ではありませんな」

 

「魔法力を回復する事が出来るのか!? それなら、旅に同道して貰えば、無敵ではないか!?」

 

「リ、リーシャさん……」

 

 カミュやサラの言動から、先程の祝福の儀の効果を知ったリーシャは、未だに息も絶え絶えで言葉を発する老人を旅に同道させる事を提案する。しかし、それは余りにも酷な事であり、現実から遠く離れた身勝手な言い分である事である。サラは少し呆れたような表情を浮かべながらリーシャへ視線を送った。

 だが、確かにリーシャの言う通り、一行の中に魔法力を完全回復させる事の出来る者がいれば、戦いは遥かに楽になるに違いない。メルエやサラが己の魔法力の残量を考える事無く、強力な呪文を唱え続ける事が出来るのであれば、大抵の魔物に後れを取る事はないだろう。それはカミュにもサラにも理解出来る事であった。

 

「いやいや。私のような老人には皆様のような方々と共に歩く事は出来ませぬよ。この能力は、私の家系に受け継がれる物なのですが、この歳にならなければ発現しない能力でもありましてな。とてもではありませんが、厳しい旅や魔物達との戦闘などには着いて行けんでしょう」

 

「いえ。貴重なお力を分け与えて頂いた事、心より感謝致します」

 

 リーシャの物言いに感情を乱される事なく、老人は物腰柔らかく丁重な断りを入れる。この老人の能力は、他人の魔法力を回復させるものではあるのだろうが、その神秘の解析は出来ない。何故、このような能力が使えるのか、そして何故このような能力が可能なのかという事などは解らないのだ。もしかすると、この老人でさえもその理屈は理解していないのかもしれない。

 サラの感謝と、メルエの幼い感謝の言葉を受けた老人は、来た時と同じような柔和な笑みを浮かべたまま、退出して行った。

 その後、暫く何事もなく時間が過ぎ、メルエが眠そうに舟を漕ぎ始めた頃、再び部屋の扉が叩かれる。先程と同じようにサラが対応の為に扉を開けると、歳若い侍女が深々と頭を下げ、宴の準備が出来た事を告げた。

 

 客室とは異なる大広間に通された一行は、開かれた扉の先の光景に息を飲む。これまで上の世界の全ての国家へ訪問した彼らではあったが、このような宴を開かれた事は一度もなかった。

 宮廷で働く全ての人間が集まっている訳ではないが、それでも主要な人物達はこの広間に集められているだろう。正直に言うと、この厚意は有り難い物ではなく、むしろカミュにとっては迷惑以外の何物でもないのだ。何故なら、この宴によって、カミュ達一行が大魔王ゾーマ討伐を目指している事が公式の物となり、その目的は義務に近い物となるからである。

 今後のカミュ達の行動に制限が掛かる訳ではないが、過剰とも言える期待をその身に受ける事だけは確かであった。

 

「今宵は、このアレフガルドにルビス様の威光が戻る日を願い、宴を催した。このラダトームを出立し、大魔王ゾーマに挑む若き勇者達を送ろうではないか」

 

 ラルス国王の開会の言葉と共に、宴が始まる。アレフガルド交響楽団が演奏を開始し、その曲に合わせるように、様々な飲み物が出席者達に配られる。各テーブルに乗せられた数々の料理からは暖かな湯気が立ち上り、食欲を誘う匂いが辺りに立ち込めていた。

 次々と押し寄せる重臣達に辟易しながらも一つ一つ言葉を交わすカミュの足元で、テーブルの上に乗る料理を食べたいメルエが頬を膨らませている。それを見たリーシャは少女を抱き上げ、欲しい料理を聞き、小皿にそれらを盛り付けた。更に近くに居る侍女に声を掛けて、メルエが腰掛ける小さな椅子と机などを持って来てくれるように頼む。余り頼まれた事のない申し出に困惑した侍女であったが、手に持つ皿の料理を哀しそうに見つめる少女に苦笑を浮かべ、ホールの端にあるテーブルと椅子を勧めてくれた。

 重臣達の対応に追われていたカミュに断りを入れ、リーシャはメルエを伴ってバルコニー近くにあるテーブルへと向かう。自分の分の料理を取り分けたリーシャは、ほくほく顔で果実汁を受け取ったメルエを椅子に乗せ、自分も着席した後、料理を食べ始めた。

 

「国王様!」

 

 メルエの口元を拭いながら、リーシャが何気なくカミュへ視線を戻すと、先程までカミュを取り巻くように集まっていた重臣達は潮が引くように道を開け始める。誰かが声を上げた通り、カミュの許へ歩み寄って来たのは、このアレフガルド大陸全てを治めるラルス国王その人であった。

 この場が立食パーティーであるが故に、その場で跪く者は居ないが、それでも話題の勇者に対して国王が何を話すつもりなのかという好奇心からその場を動く者もいない。だが、筆頭大臣までその隣を歩き、周囲の重臣達へ人払いを命じた事によって、渋々といった感じで離れて行った。

 それを機に、カミュの隣に居たサラもまた、国王へ一つ礼をし、リーシャ達の横を抜けてバルコニーから外へと出て行く。それを見送ったリーシャは小さく息を吐き出し立ち上がろうとした。

 おそらく、サラという賢者は、先程の謁見時に国王が発した言葉を気にしているのだろう。彼女が目指す理想は、国王が発した言葉の真逆に位置する物であり、憎しみを捨てた先にある未来である。このアレフガルドは、闇に閉ざした大魔王の影響によって、少しずつ人々の心は荒んで来ていた。それは目に見えない程の変化ではあるが、確かな変化である。

 その荒んだ心は、その原因となった物へ向かう。大魔王へ向けられた憎しみは、人間達へ被害を及ぼす魔物達へと移って行った。それは日を増すごとに大きくなり、己では抑え切れない程の物へと変わって行くのだ。

 それはサラという『賢者』が歩んで来た道でもある。だからこそ、彼女は悩むのだろう。どうしたら、自分の理想へ辿り着けるのかと。

 立ち上がったリーシャが料理を頬張るメルエに声を掛けようとした時、その横を一人の男性が擦りぬけて行った。

 

 

 

「カミュと申したか?」

 

「はっ」

 

 リーシャが擦りぬけて行った男性がバルコニーへと出て行くのを見送った頃、ラルス国王がカミュへと語りかけ始める。周囲に人がいない事を確認した大臣も少し離れた場所へと移動し、実質一国の王と一人の青年だけの会話が始まった。

 跪く訳にもいかない為、カミュは静かに国王と対峙する。真っ直ぐに向けられたラルス国王の瞳は、一国の王としての威厳を持ちながらも、何処か優しさを感じる暖かさがある。少なくとも、先程の謁見の不敬を追求する訳ではない事は理解出来た。

 

「ふむ。やはり、そなたは精霊ルビス様に愛されし者なのだな」

 

 ふと視線を和らげたラルス国王は、一人自己完結をするように頷き、その肩に手を置く。何を指し、何を意味するのかが解らないカミュは、不敬と知りつつもその言葉に答える事が出来ない。仕方なく目を伏せるように頭を下げるしか出来なかった。

 このラルス国王は、先程謁見の間で見た王とは別人のような瞳の色をしている。それがカミュが持った印象であった。何が違うという事を明確に表す事が出来ないが、何かを達観したかのようなその顔は、憑き物が落ちたかのように晴れやかである。また、何かを決意し、何かを成そうとする『男』の表情でもあった。

 

「この城の北西に、大魔王が現れた魔王の爪痕がある洞窟がある。この悪夢の全ての起源がそこにあるだろう。だが、もしその場所に行くのであれば気をつけるが良い。魔王の爪痕は全てを飲み込むと伝えられておる」

 

「魔王の爪痕ですか」

 

 カミュにこの事を伝えたかったのだろう。もしかすると、このラダトーム国王は、オルテガにこの情報を伝える事を失念していたのかもしれない。そして、それを後悔しているからこそ、カミュにこれを伝えようとこの場に現れた可能性があった。

 そして、カミュは自分達の勘違いを知る事となる。彼等一行は、ギアガの大穴のような裂け目が『魔王の爪痕』だと考えていた。魔王が世界を渡る為に斬り裂いた事で生まれた裂け目という逸話を持つ物だと考えていたが、その名は全ての元凶であるこのアレフガルドに存在する物を差すというのだ。

 

「ふむ。強力な魔物がその裂け目から溢れ出しており、その洞窟には誰も入る事が出来ぬ。入った者は例外なく戻っては来ず、全ては言い伝えという物ではあるがな」

 

 確かに、大魔王が居た場所で生きていた魔物であれば強力な者達ばかりであろう。海で遭遇したクラーゴンやマーマンキングなども十分に強力ではあるが、それ以上の魔物達が棲み付いていても可笑しくはない。そして、それ程の魔物達であれば、このアレフガルド大陸の者達では対処が出来ない筈だ。魔王バラモスを打ち倒した勇者一行でさえも苦戦する魔物達を、上の世界の通常の人間よりも力や魔法力で劣る者達が相手出来る訳がないのだ。

 故に、その洞窟は何時しか『勇者の洞窟』と呼ばれるようになる。真の『勇者』にしか攻略出来ない場所であり、そこから生きて出て来る事が出来た者こそが『勇者』であると。

 ラルス国王は、確信にも似た想いで、この情報をカミュに伝えたのだ。オルテガの時は半信半疑であった。腕力も魔法力もあり、次々と魔物を討ち果たしているオルテガを見ても、上の世界から来た余所者という事を差し引いても、ラルス国王は彼を『勇者』であると感じる事はなかった。

 広大なアレフガルド大陸を治める王族であり、精霊ルビスが生み出した大地を治める王族であるラルス国王には、上の世界の王族よりも若干特殊な能力が備わっているのかもしれない。

 

「このアレフガルドには、遠い昔から伝わる英雄譚がある。ルビス様が生みし、このアレフガルドを護った真の勇者。その勇者が装備していた物が、勇者の洞窟の奥底に眠るという言い伝えもあるのだ。もし、そなたらが真の勇気を持つ者達であるならば、勇者の洞窟へ入る事になるかも知れぬな」

 

「はっ……ラルス国王様のご配慮、心よりお礼申し上げます」

 

 ラルス国王なりにカミュ達の行動を後押しするつもりなのだろう。アレフガルド大陸で『勇者の洞窟』とまで云われる場所を攻略すれば、このアレフガルドでカミュ達は精霊ルビスの祝福を受けし者という称号を得る事が出来る。そうなれば、ラダトーム王国としても、助力する事に何の後ろめたさもなくなるのだ。

 それに加え、古の勇者の装備品の言い伝えも本当の事なのだろう。その言い伝えが全国民が知る物なのか、それともラダトーム王族にしか伝えられていない物なのかは解らない。だが、ラルス国王の瞳が嘘を言っている人間の物ではなかったのだ。

 アレフガルド国王と、アリアハンの勇者の会談は、この言葉を最後に終了する。マントを翻して離れて行く国王の後ろを大臣が歩き、再びカミュは重臣達に周囲を固められる事となる。

 

 

 

 バルコニーに出たサラは、火照った頬を撫でる冷たい風に心地良さを感じながらも、月さえも浮かばない漆黒の空を見上げる。このアレフガルドの人々の心を覆ってしまう闇も、この空から来たのではないかと思う程の闇。見る者の心に焦りと不安を湧き起こさせるその闇は、南に聳えているだろう大魔王の居城さえも包み込み、勇者達の目標までも見失わせてしまっていた。

 今、このアレフガルドで生きる者達の心は、深い闇に包まれ始めている。魔物を憎み、それを率いる大魔王を憎み、人間以外の者達を蔑む瞳を持ち始めているのだ。それは、サラにとって最も避けたい事であり、最も恐れていた事でもあった。

 

「サラ殿」

 

「はっ!? 王子様」

 

 サラの後にバルコニーへと出た男性は、ラダトーム国王の嫡子であった。

 既に謁見の間で大々的に後継者指名に近い名乗りをされた事もあり、王太子と述べた方が正しいのかもしれないが、サラは突然掛けられた言葉に驚き、単純に王子と呼んでしまう。そんなサラに対しても笑顔を崩さない王太子は、手に持つ飲料の一つをサラへと手渡し、自然な仕草で隣に並んだ。

 この行動に驚いたのはサラであり、その目的も意図も解らず、王族の思惑などを推測する事も出来はしない。混乱状態に陥ってしまったサラは、おろおろと首を動かしながら、飲み物を飲む事も出来ず、最後には視線を落としてしまった。

 

「貴女のお名前は伺いました。許可も得ずにお名前を口にした事をお詫びします」

 

「い、いえ!」

 

 王族の第一王子に謝罪されてしまうと、如何に勇者一行の『賢者』といえども立つ瀬はない。恐縮するように勢い良く頭を下げた事によって、手に持っていた飲み物の全てを床へと溢してしまった。

 自分の犯した失態に呆然としていたサラではあったが、隣でくすくすと笑う王子の声に我に返り、慌てて謝罪を繰り返す。真っ赤に染め上がった顔を隠してくれる漆黒の闇に、サラは初めて感謝したい気持ちであった。

 

「父に代わり、謁見時の言葉を謝罪します」

 

「え?」

 

 顔を上げたサラの瞳を真っ直ぐに見つめた王子は、真剣な表情で真っ直ぐに頭を下げる。それは、先程のような儀礼的な謝罪ではなく、心よりの謝罪である事が解る程の物であった。

 アレフガルド大陸という広大な国の王子に二度も頭を下げさせてしまったサラは、事の顛末に付いて行く事が出来ず、放心してしまう。漆黒の闇に包まれて入る為、お互いに気付いてはいないが、頬をほんのりと赤く染めた二人が見つめ合う姿は、ここまでの話の流れでは有り得ない姿だった。

 

「このアレフガルドは、精霊ルビス様が生み出された大地。遥か昔より、魔物も人間もお互いの領域を犯す事無く生きて来たのです。ですが、大魔王ゾーマの台頭、そしてゾーマとの死闘で弱られたルビス様が封じられた事により、その均衡が崩れました」

 

「……それまでは、人と魔物は敵対していなかったのですか?」

 

 サラから視線を外し、真っ暗な空を哀しい瞳で見上げた王子は静かに話を始める。

 その内容は、サラにとって一筋の希望であり、彼女が望む理想への一歩と成り得る程の物。故にこそ、先程までの羞恥を忘れ、サラは王子に対して口を開いてしまった。

 国王でない者とはいえ、次期国王に対して不敬に値する程の物ではあるが、それでもサラは自分の内から沸き上がる想いを抑える事が出来ない。輝く瞳を王子に向け、問うその姿は、彼女が『賢者』と呼ばれる存在である証明なのだろう。

 

「魔物に襲われる事はありました。ですが、それは魔物の領域に踏み込んだ人間の罪。逆に人の領域に踏み込んだ魔物は、我々が討伐します。そのように均衡を保って来たのです。何故なら、精霊ルビス様は、人間だけではなく、魔物も植物も、その他の動物達も等しく愛して下さっているのですから」

 

「はい! 私もそう思います。ルビス様は、懸命に生きる物を区別される訳がありません。もしかすると、大魔王ゾーマでさえ、愛そうとされていたのかもしれません」

 

 王子の語るアレフガルドに於けるルビス教の教えに喜びを感じたサラは、自分の内にあった想いを思わず吐き出してしまう。『賢者』と呼ばれようと、どれ程の経験を積もうと、どれ程に変化しようと、サラの根本は変わらない。自分の発言に驚いた表情を浮かべた王子を見るまで、サラは自分の発言の重大性に気付かなかった。

 目を見開くように驚愕の表情を浮かべた王子を見て、ようやく我に返ったサラは、自分の失言を後悔する。如何に、自分の理想と同じ方向を見ているとはいえ、目の前に居るのはこのアレフガルドを治める王族である。その祖国を窮地に陥れている元凶までも愛すべき対象として語る事は、相手の心情を害する物であるだろう。

 だが、この王子は、サラが考えていた以上にアレフガルド大陸を想う者であった。

 

「なるほど……確かにルビス様ならば、そうなのかもしれません。なればこそ、そのルビス様を裏切り、愛を受ける筈であった魔物達を巻き込んで世界を闇に包むゾーマを許す事は出来ませんね」

 

「は、はい! ご安心下さい。カミュ様は、真の『勇者』です。必ず大魔王を討ち果たし、この大地にルビス様の愛を取り戻して下さいます。私も、『賢者』として、精一杯カミュ様をお助け致します」

 

 先程までの不安と後悔を吹き飛ばすような王子の笑みと言葉。その全ては、サラの心を暖かく包み込んで行った。沸き上がる勇気は、カミュという勇者の背中を見つめていた時とは異なる種類の物である。それが何なのかは解らないまでも、サラは希望に満ちた瞳で漆黒の空を見つめて決意を新たにした。

 そんなサラの姿に若干困ったような表情を浮かべた王子は、手にした飲料を一度口に運び、もう一度サラへと視線を戻す。

 

「サラ殿は、あの勇者を随分と信頼されているのですね?」

 

「え?」

 

 王子が口にしたのは小さな呟きであった。その呟きは吹き抜けた一陣の風に乗って、サラの居る方向とは逆へと運ばれて行く。何かを王子が口にした事だけは解ったサラが視線を戻すが、もう一度口にするつもりのない王子は、困ったような笑みを浮かべて空を見上げた。

 噛み合う事のない歯車は動き出す事無く、灯りの少ないバルコニーに光が差す事もない。このアレフガルドに精霊の祝福が舞い降りるには、まだ時が早かったのかもしれない。

 

「賢者殿の見ている未来を、私も見てみたい。魔王さえ愛そうとするルビス様の生み出した大地に、多くの種族の幸せが広がる世界を……」

 

「ありがとうございます」

 

 漆黒の空を見上げながら発せられた王子の言葉は、今度はサラの耳にしっかりと届く。己の描く夢のような世界を理解してくれた喜びが彼女の胸に湧き上がり、想いとなって瞳から溢れ出す。

 誰にも理解されないかもしれないと思っていた。それはラルス国王との謁見で更に強くなり、自分の目指す道は人間には受け入れて貰えないかもしれないと不安にもなった。それでも自分を信じてくれるリーシャやメルエ、そして先を歩く勇者の為にも、進まなければならないと考えていたのだ。

 サラという賢者にさえ襲い掛かる大きな闇を晴らしてくれたのは、いつも支えてくれる女性戦士の言葉ではなく、彼女を不安に陥れる言葉を発した王の後継者であった。

 

 一つの時代は終わりを告げ、一つの時代が始まって行く。

 それが精霊ルビスという精霊神が生み出した世界の理。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
年内最後の更新になると思います。
来年も頑張って描いて行きますので、よろしくお願い致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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アレフガルド大陸②

 

 

 

 翌日、再び謁見の間にて国王に宴の謝礼を述べた一行は、多くの者達に見送られてラダトーム王都を出立する。カミュ達に手を振る子供達の中には、太陽の光を受けた事のない者達も居る事だろう。何故、周囲の大人達がカミュ達を盛大に見送るのかも、大人達が何を待ち望んでいるのかも解らないだろう。それでも、皆が笑顔でカミュ達を見送る多くの人間の姿は、彼等にとって初めて経験する心躍る物であったに違いない。

 

「サラ、昨夜は王子様と長くお話されていたな」

 

「え? あ、はい。こちらの物を拝借致しました」

 

 王都と平原を隔てる大きな門を潜り、その門が再びしっかりと閉じた事を確認したリーシャは、隣を歩くサラへと声を掛ける。その声に反応した彼女は、腰の袋から大事そうに小さな木箱を取り出した。

 サラが何かを取り出した事で、メルエが興味深そうにサラの手を覗き込むように背伸びをし、先頭で『妖精の地図』を見ていたカミュも、近づいて来る。背伸びをしてもサラの手の中が見えないメルエが何度か小さく飛び跳ねる姿に苦笑を浮かべ、リーシャがメルエを抱き上げた。

 サラの掌の上に乗せられていた木箱の中には、上の世界で集めたオーブ程の大きさの石。ただ、その石は球体ではなく、鉱石と一体化した物で、まるで台座に置かれた宝玉のように輝きを放っていた。その輝きは赤いようで赤くはなく、それでいて輝きは眩い程の物である。凄まじい熱量が渦を巻いているような輝きを放つ石は、それだけで神代の物である事が窺えた。

 

「『太陽の石』と呼ばれる物だそうです」

 

「……太陽の石? 随分と畏れ多い名前だな」

 

 輝く石に頬を緩めるメルエの横で、リーシャが難しい顔をする。確かに、ルビス教の教えの中では、太陽とは精霊ルビスの威光であるとされていた。その名を冠にする石となれば、それが人間の命名によるものではない事が解る。

 リーシャの問いに一つ頷きを返したサラは、昨晩の王子との会話を思い出した。

 

 

 

 勇者と共に旅をする『賢者』として見ている未来について共感を得る事が出来たサラは、美しい笑みを浮かべながら、漆黒の空を見上げていた。そんな彼女の横顔を見ていた王子は、自分の懐の中から、一つの木箱を取り出す。王子の行動に気付いた彼女は、その木箱へと視線を移した。

 ゆっくりと木箱が開かれると、彼女達二人がいるバルコニーが眩いばかりの光に包まれる。目を開いている事自体が難しい程の輝きに、辺りが昼間のような明かりを得て、二人の顔が照らし出された。

 

「雨と太陽が合わさる時、虹の橋が架けられるであろう」

 

「え?」

 

 ようやく目を開ける事が出来るようになった時、木箱の中にある宝玉の姿が見えて来る。燃えるような赤でありながら、透き通るような輝きを放つその宝玉は、己の役目を全うするその時を待つかのように、木箱の中に納まっていた。

 覗き込むようにその宝玉に魅入られていたサラに対し、王子はゆっくりと何かを語り始める。その文言は、先程までの王子の口調ではなく、人伝に聞いた物である事が推測された。顔を上げたサラの顔を見た王子は、優しい笑みを浮かべて一つ頷きを返す。

 

「アレフガルド大陸に古くから伝わる伝承です。そして、この石の名は『太陽の石』……サラ殿の旅に役立つのではないかと思い、お持ちしました」

 

「お借りしても宜しいのでしょうか?」

 

 柔らかに浮かぶ年頃の青年の笑みに、サラは頬を染める。しかし、即座に『賢者』の顔となった彼女は、差し出される物が一国の国宝に値する物である事に気付き、窺うように王子を見上げた。

 神代から語り継がれるような伝承を持つ物が、粗末に扱って良い品である訳がない。一国の王城の宝物庫に納まる筈の物を持ち出し、貸し与えたなどという事が明るみに成れば、この王子の立場も悪くなってしまう可能性が高い。サラはそれを危惧していた。

 だが、対する王子はゆっくりと、首を横へと振る。サラの危惧を理解して尚、この王子はそれを貫こうとしていた。

 

「ご心配には及びません。大魔王ゾーマに奪われたという事にでもしましょう。第一に、この『太陽の石』を見る事が出来るのは、私とラルス国王だけです。国民達が紛失に気付く事もありませんし、元々、このラダトーム城にあると云う事も噂の一つにしか過ぎないのです」

 

「……それでも、大魔王ゾーマに奪われたとなれば、国家の沽券に係わる事では?」

 

 つまりは、国宝として『太陽の石』が存在している事を知っているのは、ラダトーム王族だけである故に、例えそれが紛失してしまっても、誰にも解らないという事なのだろう。確かに、誰も見た事もなく、噂や伝承の域を出ない物であるならば、誰も確かめようはない筈だ。

 だが、それでもラルス国王に知られれば、この王子が責を負う程のものであろう。それは、後継者として指名され、ラダトーム王国の次期国王と目された者とはいえ、かなりの危険を伴う物である。それでも尚、それをサラへ託そうとする王子の言葉に彼女は疑問を口にした。

 

「遥か昔、我が国には古の勇者の装備していた武器や防具があるという伝承がありました。精霊ルビス様から、我が国の初代国王が譲り受けたという言い伝えです」

 

 しかし、王子は故意にサラの疑問の矛先を避けるように言葉を紡ぐ。全く関係のない方向から飛んで来る言葉を理解するのに時間が掛かったサラではあったが、その内容を聞いている内に表情が真剣な物へと変わって行った。

 『古の勇者』と呼ばれる人物が誰であるのか、その人物が何を成したのかという事をサラは理解していないが、それでもその人物が精霊神ルビスと関係のある者であり、尚且つラダトーム国にとって伝説の存在である事だけは納得出来る。だが、何故それを今この王子が口にするのかという事だけは解らなかった。

 

「しかし、それは伝承でしかありません。我が国にはそのような武器や防具は存在していなかったのです」

 

「え?」

 

 若干困惑気味であったサラは、完全に混乱状態へと陥る。この王子が口にした内容はそれだけの破壊力を持った物であったのだ。

 本来であれば、部外者であり、尚且つこのアレフガルド大陸の住民でもないサラへ語る内容ではない。国家が抱える最大級の隠遁内容であり、禁忌に近い物である。それが外へ漏れてしまえば、このアレフガルド大陸を治めるラダトーム王家の信頼の失墜は明確であるのだ。

 王族が特別視されるのは、過去から続く歴史が在る故である。その血筋が高貴な物とされ、国家を統べる者として納得させるには、その王族が持つ伝承という後ろ盾があればこそなのだ。その信用の証が、このアレフガルドでは古の勇者の武器や防具であったのかもしれない。それを精霊ルビスから譲り受けたという伝承があるからこそ、彼等は王族として認められていたのだとすれば、先程の発言は国家を揺るがしかねない物であった。

 

「大魔王ゾーマにより、このアレフガルドが闇に包まれました。必然的に民衆の最後の拠り所は古の勇者の装備品へ向かいます。王家がそれを出し惜しめば、同様に信頼は失墜するでしょう。それ故に、我が王家は、伝承にある盾、鎧、剣は大魔王ゾーマによって奪われたという噂を流しました」

 

「そ、それでは、国家の威信が崩れてしまわれるのでは?」

 

 嘘を嘘で蓋をする。いや、正確に言えば、古の勇者の装備品がラダトーム王家へ下賜されたというのは伝承であり、国家が吹聴した嘘では無い為、語弊があるかもしれない。だが、その偽りの伝承を隠す為に、国民を欺いたという事実は拭えない。

 そして何よりも、それを身元も定かではない者へ語る王子の真意がサラには解らなかった。

 

「アレフガルド大陸に伝わる伝承とは別に、我が王家に伝わる物があります。『盾は地深く、その身は精霊の許へ、威力を恐れて砕かれし剣は元始に戻る』と。装備品に纏わる伝承は確かにこの国に存在していましたが、その場所を特定出来る物でもありません。ですが、貴方達には必要な情報だと思ったのです。精霊ルビス様に愛されしあの勇者ならば、と」

 

「カミュ様がルビス様に愛されていると、何故お考えに?」

 

 確かに王子の語る内容は、大魔王ゾーマを打倒しようと考えているサラ達には大いに役立つ物である。古の勇者の装備品が本当に存在する物なのかどうかは定かではないが、伝承として残り続けているのであれば、可能性は無ではない。そして、その装備品が対ゾーマに役立つ事は明白であった。

 だが、古の勇者が身に纏っていた装備品をカミュ達が装備出来るかは別の話である。精霊ルビスがラダトーム王家へ下賜したという伝承が残るのであるから、古の勇者と精霊ルビスが懇意であった事は確かであろう。それは、古の勇者もまた、神代の者であり、神に近しい存在であった事を意味している。そのような者が身に纏った装備品を通常の人間が纏えるのかとなれば、それは不可能に近い物でもあったのだ。

 

「ラルス国王も私も、あの勇者の言を以て、彼こそがルビス様に愛されし者である事を確信しました。彼の瞳に魔物への憎悪はない。そして、我々人間に向ける偏愛もない。常に平等であり、どの種族を遇するつもりもないのでしょう。それこそが、このアレフガルドに伝わる精霊ルビス様の教えなのです」

 

「……このアレフガルドには、正確にルビス様のお心が届いているのですね」

 

 自然と零れ落ちる涙は、サラの心を表す物だったのかもしれない。王子の話には色々と疑問に感じる事はある。太陽の石という神代の道具から派生した話は、ルビスの教えへと続いた。そのルビスの教えは、二年以上前にダーマ神殿にて教皇から聞いた物であり、サラ達が生まれ育った上の世界では既に衰退してしまった物でもある。だが、同時に、サラの目指す世界の道標ともなる教えであったのだ。

 サラは、カミュが精霊神ルビスの教えに帰依しているとは考えていない。ただ、王子の言葉通り、彼が全ての種族に対して平等な瞳を持っている事は理解していた。決して魔物や魔族の敵ではなく、決して人間の味方でもない。アリアハンを出て魔王バラモスを打倒する為に旅を続けていた時の彼は、それ以外の生き方を許されてはいなかったが、今の彼の歩みは真の意味で自由である。

 このアレフガルドに来る事さえも拒否する権利はあったし、大魔王ゾーマを打倒する事が使命でもない。精霊ルビスの言葉を受けていたとしても、このアレフガルドへ足を踏み入れたのは彼の決断であり、ラダトーム国王へゾーマ打倒の為という口実で謁見したのも彼の決意であってそれ以上でも、それ以下でもないのだ。

 例え、その真意をサラが掴み切れていないと言えども。

 

「大魔王ゾーマに挑み、それを討ち果たす事の出来る可能性を持つのは、貴方達だけでしょう。このアレフガルドは、全てを貴方達に託し、貴方達と運命を共にするしか残された道はないのです。精霊ルビス様がそれをお望みでも、そうでなくとも、来るべきその日まで、我々はこのアレフガルドで生きる者達を護らなければなりません。それこそ、人であろうが、動植物であろうが、魔物であろうが……」

 

「……ラルス二世次期国王の尊き志、このサラの胸に深く刻み付け、アレフガルドの地に再びルビス様の威光が戻る為、全力を尽くします」

 

 王子の言葉に感動を抑える事が不可能となったサラは、そのまま崩れるように跪き、頭を垂れる。ここで『必ずや大魔王討伐を果たしてみせます』と答えなかった事こそ、彼女の成長なのだろう。何度も言うが、彼女には大魔王ゾーマの思惑は解らない。それが、魔物達の繁栄を望むものなのか、それとも全世界の生物の死滅を望むものなのか、はたまたそれ以外の望みがあるのかが彼女に特定出来ないのだ。

 全世界の生物の死滅を望むのであれば、サラとして許すつもりもなければ、それを受け入れるつもりもない。だが、魔物の繁栄を願う物であれば、その願い自体は何に基因しているのかが問題であり、それを完全に否定する事も今のサラには出来なかった。

 それでも、このアレフガルドに太陽の恵みを戻す為には大魔王ゾーマの討伐が不可欠であり、それが避けて通れない事であるという事実を忘れる事はない。賢者サラは、常に迷い、悩み、苦しみ、泣き、それでも前に進む者であり、それは今も昔も変わる事はないのだ。

 

「先程も言いましたが、私はサラ殿の見ている未来を見てみたいと心から願っています。再び、サラ殿がこの城へ戻る日を楽しみにしています」

 

「はい!」

 

 跪くサラへ手を伸ばした王子は、柔らかな微笑を浮かべる。その微笑みは、メルエのような眩い太陽の微笑でもなく、カミュのような静かな月の微笑でもない。どちらかと言えば、リーシャの浮かべるような微笑み。正しく『人の微笑み』なのだろう。

 強い信頼を感じるその微笑みを受けたサラは、優しい笑みを浮かべて力強く頷きを返す。若者二人の柔らかな微笑みがこのアレフガルド大陸の未来を照らす物となるかは定かではないが、闇に覆われた絶望の世界に一筋の光明を生み出した事だけは確かであったのかもしれない。

 

 

 

「カミュ、どう思う?」

 

「その伝承が真実かどうかをここで判断する事は出来ない。いつも通り、今はっきりとしている事を一つ一つ潰して行くだけだ」

 

 昨晩のサラと王子の会話の中身を聞いたリーシャは、その伝承についてカミュに問いかける。太陽の石が関連する伝承にある『虹の橋』や、古の勇者が身に着けていた装備品などについて、不可解な部分も多い為、リーシャでは判断する事は出来なかった。それはカミュも同様であり、それを判断する材料が乏し過ぎたのだ。

 だが、彼等は常にそのような道を歩み続けて来た。アリアハンという辺境の島国を出てから、魔王バラモスという諸悪の根源に辿り着くまで、彼等は細く頼りない糸を懸命に手繰り、時には分かれる糸を紡ぎ合わせて歩いて来ている。それは気の遠くなるような道程でありながらも、最も確実で最短な道であったのかもしれない。そして、それはこのアレフガルドという未知の大地でも変わりはしなかった。

 

「そうですね。一つ一つ解決して行きましょう。時間はそれ程ある訳ではありませんが、大魔王ゾーマを討ち果たす近道もまた、ないのですから」

 

「よし! 次は何処へ向かうんだ?」

 

「ラルス国王が語っていた『勇者の洞窟』という場所へ向かう」

 

 サラの言葉に強く頷いたリーシャは、カミュが広げ始めた『妖精の地図』を覗き込む。それに呼応するように彼女の腕の中に居るメルエもまた地図を覗き込んだ。そんな二人の頭を押し退けるように指差された地図の場所は、ラダトーム王都から北西に当たる場所にある砂丘であった。

 距離からいえば、一日もあれば辿り着ける距離であろう。砂丘の広さもそれ程でもないと思われる為、途中の何処かで野営を行えば、明日の昼前には辿り着けると推測出来た。

 しかし、それよりも何故、カミュがその場所を目指す事にしたのか、そして何故その場所が『勇者の洞窟』という呼称なのかという事にサラとリーシャの気持ちは向いて行く。その視線を受けた彼は、明りが灯るラダトーム王都から方角を確認した後、徐に口を開いた。

 

「その洞窟は魔王の爪痕が在る場所と云われているらしい。全てを飲み込むと云われるその爪痕は洞窟の奥にあるのだそうだ。古の勇者の装備が本当に存在するのだとすれば……」

 

「あ! 『盾は地深く』ですね?」

 

 カミュはこの場で伝承を判断する愚を嫌いはしたが、それを確認するという作業自体を遠ざけた訳ではない。サラが王子から聞いた伝承の一つを聞き、昨晩に国王から聞いた話を統合させた結果、『勇者の洞窟』へ向かう理由が生まれたのだった。

 その洞窟の奥にあると云われている魔王の爪痕を見た者は誰もいない。その洞窟に入る事さえも、このアレフガルドの住民には不可能であったのだ。通常の力も魔法力も上の世界の人間よりも劣るアレフガルドの住民達が、大魔王ゾーマと同じ世界で生きていた魔物に対抗出来る訳がない。

 誰も辿り着く事も出来ないという理由が、逆にその伝承の信憑性を高めているのだった。

 

「わかった」

 

 カミュとサラが旅の方向性を確定した事で、リーシャは抱いていたメルエを下ろし、その手を握る。暗い闇に包まれた場所に下ろされた事で一瞬眉を下げたメルエではあるが、優しく暖かな手を握った事で花咲く笑みを浮かべた。

 『たいまつ』はカミュとリーシャが持ち、一行は広がる平原を僅かな明かりを頼りに歩き始める。ラダトーム王都の北側にある山脈の麓から伸びる森を避け、王都を背にして西へと向かい歩き始めた一行は、自分達の足元さえも覆い尽くす闇の厄介さを改めて感じていた。

 見えないのだ。後方を歩く仲間の顔も、周囲に迫る魔物の影も、己の歩く道の先も、何一つ見えないからこそ、それに気付く事が出来るのはやはり幼い少女であった。

 西へ向かって歩いて数刻、太陽が見えれば、西へと傾き始めるようなその時に、それは訪れた。

 

「…………くる…………」

 

「カミュ、剣を抜け!」

 

 自分の手を握っていたメルエの足が止まり、前方を見据えた瞳が厳しく細まる。僅かに口にした呟きを聞き逃さなかったリーシャは、『たいまつ』をサラへと手渡し、魔神の斧を手にした。リーシャの声に反応したカミュは即座に地図を袋へと戻し、稲妻の剣を抜き放つ。そして、前方へと『たいまつ』を向け、臨戦態勢に入った。

 前方へと向けた『たいまつ』の明かりに照らされた大地に奇妙な動きが見え始めたのは、カミュが完全に戦闘態勢に入ってからである。まるで地面から湧き上がるように姿を現したのは、このアレフガルドへ入る直前のギアガの大穴で遭遇した手の化け物であった。

 

「ちっ! 増援を呼ぶ前に一体ずつ倒して行く!」

 

「わかった!」

 

 地面から湧き上がるように姿を現したマドハンドは、その身体の全てが形成される前にカミュの剣とリーシャの斧によって分断される。サラの横を抜けたリーシャは、戦士とは思えない俊敏さで次々とマドハンドを葬って行った。

 だが、この場に現れるマドハンドの数の方が、カミュやリーシャの俊敏さよりも上であったのだ。次々と葬られるマドハンドを余所に、攻撃を向けられていないマドハンドが例の動きを始め、次々と新たなマドハンドが生み出されて行く。葬り去られる速度よりも、マドハンドが増殖する数が上になってしまった時、サラがカミュやリーシャへ声を掛け、後方へと下がらせる。

 

「一体一体潰して行くのは効率的ではありません。ある程度数が揃った時に、ベギラゴンで一掃する方が良さそうです」

 

「あの魔物が呼ぶ仲間が同種だけではない可能性がある」

 

「ああ、もしあの時に感じた感覚が正しければ、かなりの強敵だぞ」

 

 サラの忠告は尤もであり、一体一体潰していては限がない。だが、それでも仲間を呼ぶだけではマドハンド達は消え去って行くのみであり、いつかは攻撃に転じる事を考えると、その攻撃方法が無駄な作業だとは言い切れないだろう。

 そして、何よりもカミュとリーシャには一つの大きな懸念があった。それは、ギアガの大穴で感じた恐怖である。背筋を冷たい汗が流れるような感覚は、長く強敵と相対して来た二人であっても滅多に感じる事の無い物であったのだ。

 サラもそれを感じていた筈ではあったが、その感覚に対する脅威に度合いが前衛二人とは大きく異なっていた。彼女もゾンビキラーという剣を握り、一国の兵士長などよりも数段上の技量を持っている。並みの戦士であれば、彼女は容易く打ちのめす事も出来るだろう。だが、それでも彼女は『賢者』であり、魔法に重きを置く者であるのだ。

 

「メルエ、ベギラゴンの詠唱の準備を」

 

「…………ん…………」

 

 例え、カミュ達が言うような脅威があったとしても、今いるマドハンドを一掃してしまえば、その脅威すらなくなると考えたサラは、メルエへ魔法詠唱の指示を出す。指示を受けたメルエは、大きく頷くと前方に杖を向けて詠唱の準備に入った。

 サラ自身もベギラゴンという灼熱系最高位呪文を行使する事は出来る。だが、サラは極力メルエへ指示を出す事で自ら行使する事はない。メルエの呪文だけでは対処出来ない場合や、自分自身が魔物と向き合う時など以外には、攻撃系呪文はメルエへ任せる事が多かった。一度リーシャがその事をサラへと尋ねた事がある。その時のサラの答えは、『私が唱える必要のない呪文を唱えると、メルエが拗ねてしまった挙句に、無理な行使をしてしまいかねませんから』という物であった。今までの経緯を考えると、その傾向は確かにあり、魔法の師としてサラを敬愛する一方で、メルエは師に対して対抗意識をも持ち合わせているようである。呪文の行使に伴う魔法力の制御や、その行使の機を見る目など、彼女の教えを忠実に護る反面、『攻撃呪文の威力ならば負けない』という思いも強いのだ。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 前方に見えるマドハンドは全部で六体。だが、『たいまつ』に照らされている部分だけがカミュ達に見えているだけであり、メルエが詠唱を完成させたベギラゴンの灼熱が前方へ噴出すと同時に、全部で十体のマドハンドが映り出す。如何にこの闇の中での戦闘が困難であるかの証明であり、今後の戦闘の中では細心の注意が必要である事を物語っていた。

 噴出した火炎は、マドハンド全体を覆うように着弾し、周囲の闇を一気に晴らす。真っ赤に燃え上がった炎の海は、吹き抜ける風を味方に付け、マドハンドを包み込んで荒れ狂う嵐となる。一気に戦闘終了へと近付いた事で、カミュとリーシャは己の武器を納めようと動くが、その時恐れていた感覚が彼等二人を襲った。

 炎に包まれる直前に、一体のマドハンドが行った例の行為が、それを呼び寄せる。魔王バラモスさえも討ち果たした勇者と戦士が戦慄する程の存在であり、このアレフガルドに古くから伝わる古の存在。それが今、彼等へと真っ直ぐに向かっていた。

 

「……カミュ、来るぞ」

 

「メルエを下げろ。悪いが、後方に気を取られる暇はないぞ」

 

 鋭く前方へ視線を向けたリーシャが再び魔神の斧を両手に構える。カミュもまた、後方を振り返る事もなく、サラへと指示を飛ばした。しかし、彼女もまたそんなカミュに返答を返す余裕はなく、杖を手にする少女を庇うように一歩前へと踏み出す。

 一行が再び戦闘態勢に入ると同時に、アレフガルドの大地に大きな振動が響き渡った。それは、何処かで火山が噴火したのではないかと思う程の振動であり、地震に近い程に人間の深層心理に恐怖を齎す。

 徐々に大きくなる振動と、大地に響き渡るような重低音。前方を覆うベギラゴンが最後の炎柱を吹き上がらせるのと同時に、それがカミュ達の前に姿を現した。

 

「避けろ!」

 

 その圧倒的な姿に気を取られたリーシャは、カミュの叫び声と同時に襲い掛かる巨大な何かに殴りつけられ、遥か向こうへと吹き飛ばされる。何度か地面へ激突した後に止まったリーシャは、必死に立ち上がろうと動くが、身体の各所が傷つけられ、思うように身体を動かす事が出来ない。その姿を見て泣きそうになるメルエに喝を入れたサラは、瞬時に呪文詠唱の準備に入りながら駆け出した。

 動き始めたサラを視界に納めたそれは、標的を定めたように身体を動かすが、その前方に立ち塞がった小さき者の放つ威圧感に行動を停止させる。カミュの倍以上あろうかと思われるその巨体は、生物としての機能を持ち合わせていないように見えるが、それでもその巨体に相応な太い腕や足は、関節を通常の人間のように曲げ、握り込まれた拳を形成する指は、一本一本綺麗に動いている。

 しかし、その身体は明確に石であった。暗闇に覆われ、乏しい明かりの中でしか全貌を見る事は出来ないが、それでも間違いなくそれは石像である。柔らかな石ではなく、自然が生み出した鉱石に近い光沢を持ち、乏しい明かりに照らされて緑色に煌くそれは、血肉で造られた身体ではない事だけは確かであった。

 

<大魔人>

アレフガルド大陸の各地には、古の勇者を祀る石像が配置されていた。精霊神ルビスの教えを正確に受け継ぐアレフガルドの民達は、魔物と人間の生活圏を明確に維持し、それを不可侵の領域として護って行く。魔物の棲み処と人間の生活圏の境目に、古の勇者の許に集いし英雄を模した石像を配置する事でそれを明確にし、人間の領域に踏み入れようとする魔物を討ち果たし、魔物の領域に入ろうとする人間を弾き飛ばす存在として崇め奉った。

しかし、大魔王ゾーマの力が戻り、このアレフガルド全てを覆う頃から、その石像が意思を持つように動き始める。魔物から人間を護り、人間から魔物を護る神のような存在として祀られていた石像は、人間を悪と定め、人間のみを淘汰する存在として成り代わってしまったのだ。

何時しか、人の間では、英雄達を模した石像は人間の神ではなく、魔人として恐れられるようになった。

 

「メルエ、バイキルトを」

 

「…………バイキルト…………」

 

 大魔人を前にして一歩も退こうとしないカミュは、剣を構えながら後方に残されたメルエへ指示を飛ばす。我に返るようにそれに反応した少女は己の身長よりも大きな杖を振るい、稲妻の剣を魔法力で覆った。

 標的を変えた大魔人の太い腕が振り抜かれ、咄嗟に距離を取ったカミュの顔前を一閃する。その風圧だけでもカミュの身体が吹き飛ばされそうになる程であり、カミュの鼻先はその風圧が生み出す鋭い刃によって切られ、鮮血が噴き出していた。

 

「…………スカラ…………」

 

 カミュの身体が傷つけられた事を見たメルエが、即座に呪文詠唱を行う。彼女が大事に思う青年の身体が、彼女の膨大な魔法力によって包み込まれた。

 自分を覆う柔らかな魔法力を感じたカミュは、そのまま一気に大魔人へと肉薄し、再度振り下ろされた反対の腕を稲妻の剣で振り払う。固い金属同士がぶつかり合ったような激しい金属音を響かせ、大きく仰け反ったカミュの身体目掛けて大魔人の片足が振り抜かれた。

 元々腕力に差がある人間と魔物であり、尚且つその身体の大きさが倍違うとなれば、カミュが力負けしても致し方ない。だが、身体が泳いでしまった今の状態でカミュが大魔人の足を身体に受ければ、先程のリーシャ同様戦線を離脱せざるを得ないだろう。それは、後方に居るメルエの死に直結する事柄であり、この若き勇者にとって絶対に許す事が出来ない物であった。

 態勢を無理やり変え、ラダトーム王都で購入したばかりの水鏡の盾を掲げる。それと同時にカミュを襲った衝撃は、盾を突き抜けて彼の骨を軋ませる程の物であった。

 

「…………イオラ…………」

 

 衝撃を逃がすように後方へよろけたカミュと大魔人の隙間に、人類最高の魔法の使い手が放つ攻撃呪文が炸裂する。瞬時に圧縮された空気が一気に弾け、大魔人の身体が後方へ吹き飛ばされた。

 だが、如何にメルエの放つ中級爆発呪文が人類の枠から逸脱していたとしても、大魔王ゾーマに命を吹き込まれた大魔人の身体を粉々にする程の威力はない。多少の亀裂を生みながらも態勢を立て直した大魔人は、再び巨大な拳をカミュへと振り下ろした。

 未だに盾を持っていた左腕に痺れが残るカミュは、その拳を避ける為に盾を掲げる事が出来ない。尚且つ、よろけた状態から態勢を立て直し切れていない彼はそれを避ける為に身体を動かす事も出来なかった。

 

「うおりゃぁぁぁ!」

 

 しかし、この一行の直接攻撃を担う前衛はカミュ一人ではない。初撃で相当な被害を被り、それによって立ち上がる事も困難であった彼女は、既に賢き者によって全快していた。一気に肉薄し、豪快に振り抜かれた斧は、巨大な腕を肘の部分から切断する。鉱石にも近い程の強度を持つ大魔人の身体の一部を切り落とす斧の威力も相当な物だが、それを可能とする女性戦士の技量も並大抵な物ではないだろう。

 腕が切断された事で大魔人は攻撃方法を変更し、片足をもう一度振り抜く。片腕が途中から失われた事で身体の均衡が取り辛くなってはいるのだろうが、それでも人一人を内部から破壊する事など容易い程の威力のある一撃がリーシャに向かって襲い掛かった。

 

「退け!」

 

 しかし、その一撃も女性戦士には届かない。態勢を立て直した青年が、迫り来る片足に合わせるように剣を薙いだのだ。再び炸裂する金属音が響き、お互いがその威力に押されるように後方へと弾かれる。自身の倍もあろうかという巨体から放たれる一撃と同等の力を発揮したカミュも並大抵の者ではない。リーシャの一撃のように、綺麗に切断する事は叶わずとも、その威力に押し負ける事もなく、再び距離を作った事をみれば、その力量の上昇も解るというものだ。

 そして、僅かとはいえ、前衛と大魔人との間に距離が出来たという事は、彼等の後方に控える者達の出番となる。それは、この一行の最強の布陣であり、磐石の布陣でもある。

 

「…………イオラ…………」

 

「イオラ!」

 

 瞬時に圧縮された空気が、大魔人の顔前で一気に弾ける。凄まじい炸裂音が響き、大地が震えるように振動した。そして、爆発呪文によって更に開いた距離の間に、再度同呪文破裂を起こす。一気に弾け飛んだ圧縮された空気が、大魔人の顔面を襲った。

 一度目の爆発によって刻まれた小さな亀裂が、二度目の爆発を受けて大きく広がって行く。大魔人の顔面に入った細かな亀裂が広がり、首筋まで亀裂が入って行った。だが、それでも尚、この屈強な石像の活動を止める所までは行かない。

 斧を握り直したリーシャが、若干下がって来た大魔人の首筋に向かって大きな跳躍と共に斧を振り下ろす。細かな亀裂は大きな衝撃によって致命的な裂傷となり、破壊する事が出来る筈。誰もがそう考えた瞬間、跳躍したリーシャの姿が消え去った。

 

「リ、リーシャさん!」

 

 凄まじい音を立てて地面へと叩き付けられたリーシャは、身体の外部も内部も大きく傷つけられているのだろう。身動き一つ出来ない彼女に襲い掛かる巨大な足を見たサラがその名を叫ぶ。残る片腕で、煩い蝿を叩き落すように彼女を攻撃した大魔人は、追い討ちを掛けるようにその足を振り上げ、彼女を踏み潰そうとしていた。

 如何にここまでの戦いで何度となく死に瀕した者であっても、人間という枠を大きく超える者であっても、生物としての枠から逸脱する事は出来ない。彼女の身体は生身の物であり、自分の身体の倍以上もある石像の重量で踏みつけられて生きていられる訳がないのだ。

 盾でその攻撃を防ぎ、耐える事は出来るかもしれない。だが、意識を失っている状態であれば、待ち受けているのは死だけである。

 

「邪魔だ!」

 

 だが、思わず前へ出ようとしたサラを強引に弾き飛ばし、その足の真下へ向かった者がいた。それは、このアレフガルドへ降り立った『勇者』。誰も成し遂げられなかった偉業を成し、世界の守護者さえも討ち果たす事の出来なかった者へ向かおうとする勇ましき者。

 大陸を覆い尽くす漆黒の闇の中で煌く一閃は、その剣の名を表すかのような一筋の稲妻にさえも見える。尻餅を突いてしまったサラが見たその一閃は、今まで見た彼のどんな一撃よりも美しく、どんな攻撃よりも力強かった。

 聞こえる筈の金属音が聞こえない。巨大な鉱石の足と神代の金属がぶつかり合ったにも拘わらず、一切の衝突音が聞こえないのだ。それは、彼のその一撃が、如何に常識を外れた物であったのかを明確に表している。それは正に『会心の一撃』。メルエの詠唱したバイキルトによって魔法力を纏っていたとはいえ、それはカミュが放つ事の出来る最高の一閃であった。

 

「回復!」

 

「は、はい!」

 

 倒れ伏すリーシャの前に立つ背中から短い指令が轟く、我に返ったサラは一気に立ち上がり、回復呪文の詠唱を始める。カミュが放った先程の一撃が会心の一撃だとすれば、戦闘の勝利を確信したリーシャを襲った大魔人の一撃は痛恨の一撃だった。意識を失っているリーシャの傍に屈み込んだサラは最上位の回復呪文を唱えながら、前方で仁王立ちするカミュを見上げる。

 既に戦闘は終了していた。カミュの一閃によって片足を真っ二つに割られた大魔人は、既に立つ事は出来ず、その切れ目は腹部まで広がっている。こちら側へ倒れてきそうな大魔人を見上げたまま、カミュは稲妻の剣を背中の鞘へと納めた。

 

「イオラ」

 

「…………イオラ…………」

 

 同時に紡がれた中級の爆発呪文。カミュが放った呪文によって、こちら側に倒れ込んで来る巨体を押し返し、それによって更に広がった亀裂は、人類最高位に立つ魔法使いの放った爆発呪文に耐える事は出来なかった。

 粉々に粉砕された鉱石の石像は、上半身だけではなく、下半身さえも只の鉱石の塊へと変わって行く。人間が『魔物』と『人』の平和を願って生み出した石像はその調和を乱す者となり、平和を取り戻そうとする者達に打ち砕かれる事となった。

 

「……このアレフガルド大陸に旅人がいない理由が解ります」

 

 リーシャの身体が回復した事を確認したサラは、闇に覆われたアレフガルド大陸を歩く者達を見かけない理由を実感する。始めは、闇に覆われた大陸は魔物の時間であり、それによって人間に襲い掛かる危険性を考えての物だと考えていた。だが、実際はその程度のものではなかったのだ。

 今、遭遇した大魔人は、カミュ達一行であっても全滅する可能性がある程の強敵である。そして、それはマドハンドという比較的弱い魔物が呼び寄せるという特殊な敵でもあったのだ。そのような所をアレフガルド大陸で生活する者達が歩ける訳がない。例え歩く事が出来たとしても、遭遇した途端、確実な死が待っているだろう。

 旅人がいない訳ではない。居たとしてもカミュ達が出会う事が出来ないだけである。

 

「ソイツが意識を取り戻したら直ぐに歩き始める。地図にある砂丘に入る直前の森までは行きたい」

 

 粉々に散った鉱石の塊を呆然と眺めていたサラは、カミュの言葉に意識を取り戻し、状況を把握する。確かに、このアレフガルドはかなりの危険性を伴っている。一箇所に何時までも留まっている訳にもいかず、一寸先も見えない闇の中で魔物の警戒をし続ける事は疲労を溜めるだけの物であった。

 森に入る事で、周囲の木々や枯れ草などが、その警戒を若干容易にさせる。火を熾す事も出来るし、体力の乏しいメルエを休ませる事も出来る。サラは、改めてこのアレフガルド大陸を旅する難しさを理解した。

 

 その後、再びマドハンドと遭遇する事はなく、バラモスの居城で遭遇した事のある地獄の騎士やスライムと同等の力しか持たないスライムベスを駆逐しながら、カミュ達はラダトーム王都の北西を目指して歩き続ける。上の世界であれば、既に陽も落ちきり、夜の帳が完全に下りる程の時間を掛けて、彼等はようやく森の入り口へと辿り着いた。

 サラに手を引かれるメルエは頻りに目を擦り、己の眠気を我慢してはいるが、一度腰を下ろしてしまえば、直ぐに眠りに就いてしまうだろう。そんな幼い少女の頑張りに頬を緩めながら、カミュとリーシャは野営の準備を始め、森の入り口で火を熾す。食料を取りに行くよりも前にメルエが眠りに就いてしまった事から、三人も保存食である干し肉を口にするだけで、身体を休める事とした。

 

 ラダトーム王都を出て僅か一日。その僅かな時間だけでもこのアレフガルド大陸の厳しさと、大魔王ゾーマの強大さが身に染みて理解出来る程、この大陸に蔓延る魔物達が強力である事を実感する。

 勇者一行が歩む旅路は、険しく長い。しかし、果てしない程に長い旅路も必ず終わりはやって来る。その終幕の結末がどのような物であろうとも、旅は終わるのである。

 その一歩目を彼等は歩み始めたのだ。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
新年明けましておめでとうございます。
本年も頑張って描いて行きますので、よろしくお願い致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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勇者の洞窟(ラダトーム北の洞窟)①

 

 

 決して明ける事のない夜の森を抜けると、一気に広がる砂丘が見えて来る。未だに眠気を訴えるメルエの手を引いたサラも、真っ暗な闇の中に広がる砂丘を不思議な気持ちで眺めていた。

 何処か神聖な空気を感じるようで、飲み込まれそうな不穏さも持ち、全身の毛が逆立つ程に禍々しい瘴気を吐き出しているようで、何やら生命の源へ帰って来たような感覚に陥る。そんな不思議な空気を持つ場所であった。

 全員が揃っている事を確認したカミュは、砂丘の盛り上がった頂上に向けて歩き始める。吹き抜ける風が砂を巻き上げ、それが目に入る事を防ぐようにマントを掲げると、カミュの動きを待っていたかのように、その中でメルエが逃げ込んだ。

 この砂丘には生物が住んでいないのか、イシス砂漠のような魔物が這い出て来る様子もない。吹き曝しの風と、巻き上がる砂という強敵を凌ぎながら、カミュ達は砂丘の頂上へと向かって歩き続けた。

 

「……あれのようですね」

 

 二つの『たいまつ』のみという乏しい明かりの中、迷う事無く歩き続けた一行は、頂上付近でぽっかりと口を開ける洞穴を見つける。先頭のカミュが持つ炎に照らされながらも、吸い込むような闇が広がった洞穴は中の様子を窺う事は出来なかった。

 砂丘の砂とは異なり、古代からの岩で形成された洞穴である事が窺える。砂丘の砂が入り口に溜まってはいるが、洞穴の中まで砂丘という事はないようであった。人類が入った形跡は乏しく、明かりを灯す設備などは全く残されてはいない。頷き合った一行は、そのまま洞穴の中へと入っていった。

 

「メルエ、カミュ様の邪魔になってしまいます。こちらへ」

 

「…………むぅ…………」

 

 洞穴の中へ入ってからもカミュのマントに潜り込もうとするメルエの姿に苦笑を浮かべたサラは、甘えたがりの少女を自分の許へと呼び戻す。不満そうに頬を膨らませた彼女であったが、『たいまつ』を前方へ掲げながら真剣な瞳で周囲を見渡しているカミュを見上げ、渋々といった感じでサラの手を握るのであった。

 洞穴の内部は、入り口からは想像も出来ない広さを持っているようで、外の砂丘部分の地下全てに亘って広がっているのではないかと感じる程の面積がある。入り組むように岩壁があり、分かれ道が多く存在していた。

 このような時の一行の共通認識は、只一つ。

 

「……どっちだ?」

 

 入って直ぐに登場した分かれ道の前で足を止めたカミュは、振り返った先にいる一人の女性へ問いかける。それと同時にサラとメルエもまた、その女性へと振り返った。

 全員の視線が集まるのを感じた最後尾の女性戦士は、その行為に慣れたかのように嘆息し、考えるように顎へ指を添える。暫しの時間、左右へ分かれる道を交互に見比べていたリーシャであったが、困ったような表情を浮かべ、首を傾げた。

 

「どっちへ行っても同じような気がするな……本当に奥へと続いているのか?」

 

「アンタがどちらも行き止まりのように感じているのなら、間違いなく奥へ繋がっているのだろう」

 

 困惑したように自分の感じた事を語るリーシャの言葉に、カミュは納得したように前方へと視線を戻す。言っている事は正しいのだろうが、言われた側からすれば良い気がする訳がない。不快そうに一瞬眉を顰めたリーシャであったが、サラとメルエの笑顔を見て、諦めたように一つ息を吐き出した。

 先頭の勇者が選んだのは、向かって右側に続く道。その道を歩いて直ぐに見えた分かれ道に対してもリーシャの反応は同じであった為、迷う事無く左に折れた。

 洞穴内の闇は強く、『たいまつ』の炎では本当に手元しか見えない。まるで洞穴の奥から闇が噴出しているのではないかと思う程に濃い闇が、一行の足を遅らせていた。

 

「カミュ、洞穴内に転がる枯れ木などに火を移して行こう。亡くなった者達には悪いが、未だに残る衣服達にも炎を移さなければ、視界が悪過ぎる」

 

「……わかった」

 

 洞穴内の入り口付近には、人骨が幾つか転がっている。それは、己を英雄と勘違いした者達の成れの果てなのだろが、既に骨さえも風化してしまった物も多く、人であった痕跡もない。中には数体の人外の骨などもあるが、それが人間との戦闘での死なのか、それとも自然な死なのかは解らなかった。

 注目するべき部分は、人骨の周囲にはそれが着衣していたであろう衣服の成れの果てがあり、薄汚れているとはいえ、着火する事が可能であろうと考えられる事である。しかも、この砂丘の中心に位置する洞穴の中にも、生命力の強さを物語るように植物が生えているという事であろう。枯れ木と呼ばれる立派な物は無くとも、枯れ草などはそれなりに溜まっており、それに着火する事で周囲を照らす事も可能であると見えた。

 僅かな時間であっても、周囲を照らす明りが灯るというのは、人間にとって重要な事である。このような些細な事でも、やはり太陽という物の有り難味をサラは深く実感するのであった。

 

「キシャァァァ」

 

 周囲の枯れ草に火を移し、幾分か周囲が見渡せるようになった時、前方の曲がり角から二体の生命体がカミュ目掛けて飛び掛って来る。咄嗟な事であったにも拘わらず、カミュは左腕に装備した水鏡の盾を掲げる事によってその奇襲を防いだ。流石は、『水の如く受け流し、鏡のように跳ね返す』と謳われる程の盾と言っても過言ではないだろう。突如現れた物の奇襲を受けて尚、傷一つ付いていないその盾は、それだけの信頼を受けるに値する代物であった。

 一端距離を取ったカミュは稲妻の剣を握り、後方へと移動したサラとメルエが呪文詠唱の準備に入る。カミュの隣に移動したリーシャが『たいまつ』を前方に掲げ、現れた魔物の姿を曝した。

 その魔物の姿は今まで見た事も無い程に異様な物であり、『人』としての本能が嫌悪感という警告を鳴らし続ける程の物であったのだ。乏しい光に照らされたその身体は、闇に紛れて紺色のような色をしている。もし陽の光を浴びたのならば、紫色の光沢を持つ物なのかもしれない。

 巨大な目と耳まで裂けた口。その口から覗く牙は『たいまつ』の炎を受けて怪しく輝いていた。背中には巨大な蝙蝠のような羽を生やしており、頭部は奇妙な形をしてはいるが、髪の毛のような体毛が一切無い。左にいる一体は錆びたナイフを持ち、右の一体は長い鞭のような物を握っていた。

 

<サタンパピー>

大魔王ゾーマの世界で生きる魔族。魔族の中でも最下層にいる下級魔族という声もあるが、それは大魔王ゾーマの世界の中でという意味で考えれば、それ以外の世界ではかなり上位の力を持つ魔族と考えて良いだろう。

大魔王ゾーマの下で働く者という説もあり、それに相応する呪文も修得していると云う噂もあるが、実際に遭遇した者達の中で生存している者はおらず、推測の域からは出ていない。同じように、下級魔族であるベビーサタンの成体という説もある。奇しくも皮膚の色やその攻撃方法などから見てもかなり有力な説という考えもあるが、それも遠くから確認した上の世界の人間の言であるだけに、信憑性が薄いと云われていた。

 

「キシャァァァ」

 

「ふん!」

 

 左側にいた一体のサタンパピーがカミュに向かって飛び掛るが、その小型ナイフの一撃を盾で流した彼は、一気に剣を振り下ろす。少なくない体液を飛ばし再び後方へと引き下がったサタンパピーではあったが、それ程に深手ではない。更に手を傷口に当て、何かを呟くように発生している姿を見たサラは、驚きの表情を浮かべた。

 それは、明らかに回復呪文を行使している仕草なのだ。だが、最早、魔物がそれを行使するという事に対してサラが驚く事はない。ならば、何故サラが驚愕の顔を向けたかというと、それは明らかな呪文行使の後でも、その傷が塞がる気配が一切無かったという事であった。

 回復呪文は、怪我という肉体的損傷に対してであれば万能に近い。欠損部分を復活させる事は不可能ではあるが、それでも斬り裂かれた傷に対しては有効である。尚且つ、このアレフガルドで遭遇する程の魔物であれば、少なくとも中級以上の回復呪文を唱えるであろうと考えた場合、あの程度の傷であれば、間違いなく治癒する事が出来る筈なのだ。

 

「リ、リーシャさん、最悪の場合、この洞穴からは出た方が良いかもしれません」

 

「なに? どういうことだ?」

 

 魔物と対峙するという状況で身動きが取れないカミュを補佐しようと動き始めたリーシャに、サラは重々しく言葉を告げる。しかし、そのような簡易な説明では他者には届く訳がない。リーシャのように魔法の知識が薄い人間に対してであれば尚更である。

 サラの言葉の意味を考える余裕もなく、もう一体のサタンパピーが動き始めた。手に持った鞭のような武器を振るい、リーシャの足を絡め取ろうとする。後方へ下がる事でそれを辛うじて裂けたリーシャではあったが、それを見越していたように、もう一体のサタンパピーが体液を飛ばしながら彼女に向かって来ていた。

 

「…………メラミ…………」

 

 しかし、大事な者の危機を黙って見ている事が出来る程、この一行の魔法使いは消極的な人間ではない。自信の身長よりも大きな杖を振るい、中級火球呪文を詠唱した。

 リーシャへの配慮の為か、最大級の火球呪文を唱えなかったのは彼女の成長なのだろうが、そこで一行は不思議な光景を見る事となる。左側から迫る錆びたナイフをカミュと同様に盾で弾いたリーシャは、若干の驚きを示した顔で、後方のメルエへ振り返る。そこには、何とも哀しそうに眉を下げる少女が、己の杖を眺めながら呆然と立ち尽くしていたのだった。

 サラは、今起こった出来事に何処か納得したような表情を浮かべる。メルエが杖を振るう瞬間、確かにメルエの身体から杖へと魔法力が通っていた。だが、その魔法力が杖の先から放射される瞬間、まるで何かに吸い込まれてしまったかのように、魔法力が消え去ってしまっていたのだ。

 

「カミュ様! この洞穴はおそらくピラミッドの地下と変わりません! 魔法の行使が何かに邪魔されています!」

 

「ちっ!」

 

 呪文が使えないという事は、この一行にとってはかなりの痛手となる。呪文の行使が不可能という事は、魔物側にも同じような状況であると云う事ではあるが、それを含めて尚、この一行にとっては致命的と言っても過言ではない物なのだ。

 それは、メルエという一人の少女である。この少女は魔法力の量とその才能によって、勇者一行の一人として成り立っている。それ以外は、成人前の幼子に過ぎず、例え魔法力を体力に補っているとはいえ、防御力も攻撃力も一行の中で最弱なのだ。

 それは、魔物と戦う意味では完全な足枷となる。足手纏いと言っても過言ではない。幼い少女を庇いながら戦うという行為と、護りながら戦ういう事は、似ているようで全く異なると言っても良いだろう。

 

「MER@40M」

 

 舌打ちを鳴らしたカミュに向かって、サタンパピーがその片腕の人差し指を向けて来る。それは何処かで見た事のある呪文行使の形であった。

 魔の王と呼ばれたバラモスがカミュ達に向かって行使し、後方で眉を下げている少女がその規格外を露にして唱えた呪文。大魔王ゾーマの名を持ち、全ての魔法を弾くとされる光の壁さえも破壊しかねない威力を持つ火球。それを生み出す姿に酷似していたのだ。

 メルエが呪文を行使出来ず、魔法を探究するサラが口にした事が真実だとすれば、それが例えメラゾーマと呼ばれる全てを飲み込む火球を生み出す呪文だとしても何も恐れる必要はないのだが、カミュとリーシャは後方の二人を護るように盾を掲げた。

 

「……やはり」

 

 しかし、カミュとリーシャの行動は意味を成さず、サタンパピーの指先からは火球の欠片も発現しない。もし、このサタンパピーが以前遭遇した事のあるベビーサタンのように行使不可能な呪文を詠唱し、それに必要な魔法力を有していなかったとなれば話は別であるが、このアレフガルド大陸に姿を現し始めた大魔王ゾーマ直轄の魔族達が、己の領分や力量を把握していない訳はなく、サラの推測通りの状況である事が解った。

 つまり、この勇者の洞窟と呼ばれる場所は、何故かは解らないが、呪文の行使が不可能な場所であるという事。体内から放出された魔法力が神秘に変換される事なく霧散してしまっているのだ。

 

「カミュ、一気に決めるぞ!」

 

 相手もまた呪文が行使出来ないとなれば、この女性戦士に恐れる物はない。例え相手が魔族であろうと、剣技のみの戦いとなれば負けない自身が彼女にはあった。それは四年以上の戦いの旅を歩み続けて来た多くの経験に裏付けられた物であり、決して驕りなどではない。現に、一気に間合いを詰めた彼女は、一体のサタンパピーが振り抜いた鞭を斧で斬り裂き、そのまま半身を回転させるように再度振り抜いた斧によってサタンパピーの上半身と下半身を斬り分けていた。

 一撃で勝負が着いた事を見た一体のサタンパピーは、もう一度指を突き出し、先程と同様の奇声を発するが、サラの予測通りに魔法が発現する事はない。己の状況に困惑しているのか、元々知能が低い魔族なのかは解らないが、その無駄な行為は、人類最高位に立つ者達を相手取る中で命を捨てる程に愚かな物であった。

 肩口から斜めに入った稲妻の剣が、もう一体のサタンパピーの命を奪って行く。岩壁に噴き上げるサタンパピーの体液の量が、この魔族の生命が尽きた事を物語っており、カミュ達の勝利が確定した。

 

「カミュ様、呪文が行使出来ない洞窟は危険です。一度外へ戻りましょう」

 

「そうだな……薬草などの準備も必要だろうし、ここは一度戻った方が良いだろうな」

 

 サタンパピーの死骸を確認したカミュは、剣に付着した体液を振り払い背中へ納める。それを待っていたかのように口を開いたサラの提案にリーシャも同意した。

 呪文が行使出来ない場合の弊害は、何も攻撃方法の一つが失われる事だけではない。基本的にこの一行はサラとカミュの持ち得る回復呪文に頼っていた傾向が強かった。二人が行使出来る最上位の回復呪文であるベホマは、死に逝く程の重傷であろうと瞬く間に塞ぎ切る神秘である。どれ程の怪我を負う事になろうとも、どれ程の火傷を負う事になろうと、二人の回復呪文があれば、死という結末から回避する事も可能であった。

 だが、呪文が行使出来ず、神秘も発現しないとなれば、一行と死という物の距離が一気に縮まってしまう。回復手段は薬草という物しかなく、それも煎じた物を飲んだり、磨り潰した状態の物を患部に当てたりといった方法しかない。それでは、大きな裂傷などには対処出来ず、傷が自然治癒で塞がるまでの間、強引に縫いつけたりという原始的な手段しかないのだ。

 

「尤もな提案だが……この場所はそれを許してはくれないみたいだな」

 

「え?」

 

 サラ達の提案に頷いたカミュであったが、『たいまつ』を掲げて来た道を戻る為に先頭へ立って直ぐに立ち止まってしまう。不思議に思ったサラが前方へと視線を向けるが、その先に広がるのは闇ばかりであり、カミュが口にした意味が把握出来ない。枯れ草や衣服の残骸へ移して来た火も消え掛けており、洞窟全体を照らすような明りが無い中、その疑問は明確に体感出来るようになった。

 まるで洞窟そのものが震えるかのように響き渡る振動。洞窟の天井が崩れ落ちてしまうのではないかと思う程に細かな石が降って来る。それは巨大な何かがカミュ達に向かって歩いて来ている事を意味していた。

 

「下がれ! ここから戻る事は不可能だ」

 

 その振動の大きさから、ここまでの道幅一杯の巨体である事は予想出来る。幼いメルエなどは、余りの振動に立っている事さえも出来ない程の物であったのだ。メルエを抱き上げたリーシャが最後尾から先頭へ切り替わり、殿をカミュが務める形となる。

 後方へ行けば、左に折れる道と正面に向かって続く道に分かれていた。本来であればリーシャの意見を聞き、逆に進むような場面ではあったが、後方から迫る脅威への対処によって、カミュもサラもそれを失念する。暫しどちらに行こうか迷っていたリーシャであったが、不意に顔を上げると左に折れるように曲がって行った。

 だが、揺れる洞窟内でリーシャを追ったサラとカミュは、その場所で立ち止まるリーシャの背を見て、警戒していなかった行き止まりにぶつかったのだと勘違いしてしまう。行動をリーシャに委ねた事を悔やむように彼女の隣へ移動するが、その視線の先には闇だけが広がっており、『たいまつ』の炎が届く範囲で確認する限りは行き止まりではなかった。

 しかし、リーシャの瞳も、その腕の中にいるメルエの瞳も真っ直ぐに闇の奥へと向けられており、それが何を意味する物なのかは明白である。そして、それを表すかのように再び先程と同様の振動が洞窟内に響き渡り始めた。

 

「……アンタが選んだ道が外へと続く道なのは間違いないだろうな」

 

「……奥へ進むしかないのか?」

 

 戻る事も左に折れる事も出来ないという状況の中、残された道は洞窟の奥へと続く正面の道だけである。迫り来る魔物を打ち倒せば済む事ではあるが、後方と左方からで急激された状態で、尚且つ回復手段も少ないとなれば、極めて危険な行為であると言えるだろう。

 正面の道へ戻った一行は、来た道の方角から姿を現す巨大な魔物の姿を一瞬目で捉えた。それを見た瞬間、自分達の決断が間違っていなかった事を知り、無心に奥へと向かって駆けて行く。

 彼らが目にしたのは、垂れ下がった贅肉を露にし、腰巻のような皮一枚を肩から被る事によって下半身を隠した巨体の化け物。闇に覆われており、全体的な皮膚の色などは把握出来ないが、巨大な棍棒を手にして周囲の壁を打ち鳴らしながら進むその姿は、恐怖の象徴のようにさえ思える。だらしなく垂れ下がった長い舌からは、涎が地面へと落ち、血走った瞳は闇の中でも獲物を捕らえるように爛々と光を放っていた。

 

「二体に挟み撃ちにされる訳には行かない! 走れ!」

 

 感じた振動は二つ。ならば、あの巨体がもう一体近付いて来ているという事に他ならない。呪文の行使が出来ない以上、あの巨体と相対するのはカミュとリーシャだけである。一人一体を相手取り、無傷で勝利を収められると考える程、彼等は愚かではない。

 ここまで遭遇した魔物の中で彼等が見た事もない魔物達は、全て上の世界に存在する魔物の上位種である事が予測出来る。もし、あの巨体を持つ魔物が、上の世界でいたトロルの上位種であるボストロールの更に上に存在する物であれば、尚の事であった。

 駆け出したカミュ達の前に現れる魔物はおらず、そのまま一気に坂道を下って行く。おそらく洞窟の下層へと続く坂道なのだろう。回復の手段もない中で本来は進むべき道ではないのだろうが、彼等に残された道はなく、それを突き進むしかなかった。

 

「このまま奥へ進むのか?」

 

「……先程の魔物が下って来ないとも限らない。本来であれば進むべきではないのだろうが、この洞窟全てが呪文の行使が不可能という確証もない筈だ」

 

「しかし、危険ですよ。私やリーシャさんの革袋の中にも薬草は幾つかありますが、それでも大きな怪我に対応は出来ません。古の勇者様の装備品が残されている可能性があるとしても、進むべきではないと思います」

 

 坂道を下り切った辺りから、上層部の振動が収まり始める。それは、先程の魔物がカミュ達を追って来なかった事を証明しており、危機を一旦は回避出来た事の証明であった。だが、もう一度同じ場所に戻った際に、あの魔物が移動しているという保証はない。それどころか、待ち伏せをしている可能性も捨て切れなかった。今、上層へ戻る事が危険であるという認識はカミュもサラも共通している。しかし、カミュとサラではその後の認識が異なっていたのだ。

 カミュは、この先へ進む事で、可能性として捨て切れない呪文行使が可能な場所でリレミトによって脱出を考えているようであり、サラはその少ない可能性を追う危険性を危惧している。上層部で行使出来ない物が、下層で行使出来るようになる訳がないというのがサラの考えであり、そこまで辿り着く間に遭遇するであろう魔物との戦闘が如何に苦しい戦いになるかを理解しているが故の物なのだろう。

 

「カミュ、サラの言う事は尤もだ。極力魔物との戦闘は避けた方が良いだろう。魔物も同様に呪文行使が出来ないとなれば、直接戦闘のみにはなるが、一瞬の気の緩みが致命傷になる」

 

「わかっている……俺の持っている薬草も数が多い訳ではない。敢えて危険に飛び込む必要はないだろう」

 

 サラの言葉を理解したリーシャは、忠告に近い物言いでカミュへと提言する。奥へ向かうかどうかを決めるのはカミュである。これは今も昔も変わりはない。様々な危険性などを考慮するのはサラであるが、最終的な道を決定して来たのは勇者である彼であった。

 その道の全てが正しかったとは言わない。だが、彼がその道を歩もうと決意した時、それは彼がそこから先の危険性を全て考慮した上での物である事だけは確かであった。だからこそ、リーシャはその上で尚、ここから先の道が危険である事を告げる事によって、一人で全てを背負おうとする彼の荷を共に背負う事を口にしたのだろう。

 

「わかりました。私もメルエも呪文の行使は出来ません。攻撃呪文は勿論、回復呪文も補助呪文も行使出来ません。お二人を補助する事は出来ませんし、救う事も出来ないと思ってください。せめて足手纏いにならないよう、メルエと共に努めて行きます」

 

「…………むぅ…………」

 

 カミュの決定とリーシャの提言を聞いていたサラは、一行の行動方針が確定した事を把握する。方針が確定した以上、それに反論するならば、この状況で尚、外へ出る方法を提示しなければならない。それが出来ないならば、カミュの決定に従う以外に道はないのだ。

 だが、この先の道が上層と同様に呪文行使不可能な道であるならば、サラはまだしもメルエは全く役に立たない。幾らサラの足元で頬を膨らませたとしてもその事実は覆る事はなく、呪文行使が可能になる訳でもなかった。カミュとリーシャの補助が出来る訳でもなく、回復出来る訳もない。本当に戦闘の邪魔にならないようにメルエと大人しくしている他はないのだ。

 

「…………メルエも……もってる…………」

 

「あれ? メルエは薬草をたくさん持っているのですか? メルエのポシェットは何でも入っていますね」

 

 厳しい表情でカミュとリーシャへ宣告したサラの足元から不満そうな声が響く。サラに見えるように掲げられた小さな手には、町の道具屋などで売っている薬草が数枚握られていた。誇らしげに掲げられた薬草がまだポシェットに入っているとでも言うように軽く叩く仕草をした少女を見て、サラは驚きながらも優しく微笑みを返す。一時は、六つのオーブ全てを収納していた物であり、今もメルエの宝物である命の石の欠片を幾つも詰め込んでいるポシェットである。無限に入る訳ではないだろうが、収納上手というメルエの意外な才能にサラは目を丸くしたのだ。

 自分が役立たずではない事が証明出来たメルエは小さく笑みを作り、近寄って来たリーシャの顔を見上げて更に笑みを強くする。帽子を取って頭を撫でられると、嬉しそうに目を細めて微笑んだ。

 

「私が以前、花々の中に生えていた薬草を見つけてメルエに渡したんだ。メルエは薬草の見分け方を覚えていたのだな」

 

「え? では、メルエは山や森で屈み込んでいる時に集めていたのですか?」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャは女性戦士ではあるが、討伐隊に従軍した事もある宮廷騎士である。国からの物資も限られている中、回復呪文を行使出来る者も少ない。必然的に重傷者以外の者達は薬草などの簡易的な治療しか受けられず、回復呪文を行使出来る者も重傷の者でなければ身分の高い者を優先する事になるのだ。

 アリアハンを出立した時は、国を挙げての勇者であるカミュに対して討伐隊以下の物資しか送られていないなどと考えてもいなかった為に準備をしていなかったが、野生の薬草を見分ける程度の知識を彼女は備えていた。それをいつも花々や虫達を眺めているメルエに教えたのだろう。そして、自分でも出来る事を見つけた少女は、嬉々として薬草を蓄えていたのだ。

 出番が来るかも解らない物をしっかりと保存していた事に驚いたが、おそらく劣化した物は捨て、新しい物に差し替えたりなどという事をし続けていたのだろう。花々を摘む事を極力避ける彼女は、『もしかすると、皆を救う事が出来るかもしれない』という小さな可能性の為に、この行動を繰り返していた。

 満面の笑みを浮かべる少女の頷きを見たサラは、何故だか目頭が熱くなって来る。依存するばかりでなく、少しでも皆の助けになろうと日々何かを考え続けている少女に、頭が下がるばかりであった。

 

「万全とは言えないが、それでも準備は出来た」

 

「……後方は頼む」

 

 いつでも戦闘態勢に入れるように魔神の斧を手にしたまま、リーシャは準備が整った事を告げる。前方をカミュが警戒し、後方をリーシャが警戒するという常の布陣ではあるが、中央にいる二人を護りながらの行動となるという差異があった。

 『たいまつ』の炎が届く範囲の視界しかない中、一行は慎重に歩を進める。所々でリーシャの意見を聞きながらも、それとは反対の道を進み続ける事は変わらなかった。奥へ奥へと進んでいるにも拘らず、空気が薄くなる事もない。ただ、奥へ進む程、まるで風が奥へと流れているかのように『たいまつ』の炎が揺らいでいる点だけがカミュ達の印象に残っていた。

 

「カミュ様、気をつけて下さい。メルエが何かを感じています」

 

「私も前へ出よう」

 

 どれ程進んだ頃だろう。運良くなのか、それともこの階層に魔物が生息していないのか、ここまで全く魔物に遭遇しなかった一行であったが、不意に自分の手を強く握ったメルエの変化に、当代の賢者は強敵の来訪を察した。

 メルエの様子に怯えは見えない。それでも前方を睨みつけるその姿は、ここまでの魔物とは異なる力を有した存在を感じているようにも見える。ここまでの旅で何度となく、この少女の不思議な感覚に救われて来たサラは、尚一層の警戒を提言した。

 サラの緊張感の篭った言葉に、最後尾を歩いていたリーシャも前衛へと加わる。ゆっくりと慎重に歩を進めるカミュの視界に大きく分かれた道が現れたのはその頃であった。

 

「……どっちだ?」

 

「右だな」

 

 自身の問いかけに間髪入れずに返された言葉を聞いたカミュは、真剣な表情でしっかり頷きを返し、迷う事無く正面に続く道を歩き始めた。緩やかに下方へと続く坂道を歩きながら、それでも警戒を緩める事無く『たいまつ』を周囲へ翳し続けるカミュ達の前に壁が見えて来る。一瞬、行き止まりにぶつかったのかと思いはしたが、『たいまつ』の炎は左に揺らいでおり、それを理解したカミュが左へ視線を移すと、ぽっかりと空いたような入り口が口を開けていた。

 入り口は狭く、人一人が通れるような物ではあったが、その穴のような物を潜った先はこれまでの通路とは比べ物にならない程の開けた空間が出来ていたのだ。炎を掲げ、周囲を照らしてみても、天井の高さはかなり高く、通路の幅もカミュ達四人が横に並んでも尚余る程である。自然に出来たと言われても首を傾げるしかない程に大きく開けた場所は、まるでその部分全てが何かによって喰われたと考えてしまうような物であった。

 即座に大きく左に折れるように巨大な通路は繋がっており、迷う事無くカミュはその道を歩き、左へと足を踏み出す。

 

「…………だめ!…………」

 

「!!」

 

 しかし、カミュのその行動は、後方を歩いていた幼い少女によって阻まれる事となった。

 突如としてカミュの腰にしがみ付いたメルエは、絶対にその先に行かせないとでも言うように、力を込めている。珍しい彼女の行動にリーシャやサラも驚き、その足を止めてしまっていた。

 その行動は、彼等の命を寸での所で繋ぎ止める程の物となる。

 

「グオォォォォ」

 

 洞窟内に響き渡る大きな轟きの後、カミュ達の目の前を真っ赤な火炎が襲う。凄まじいまでの火炎は、そのまま壁に衝突し、岩壁の表面を融解させながら消えて行った。

 もし、あのままカミュが通路を曲がっていたら、盾を掲げる暇もなく、怒涛のように押し寄せる火炎に飲み込まれていた事だろう。この洞窟内では絶対防御の呪文であるアストロンは行使出来ない。それを避ける方法は皆無に等しいのだ。

 辛うじて炎を避けた形の一行であったが、彼等の行く道を妨げる魔物が未だに健在である事は明白である。この広い一本道を通り抜けなければ奥へは進めず、その魔物がカミュ達の存在に気付いて炎を吐き出したとなれば戻る事も叶わない。最早逃げ道はないのだ。

 

「……龍種か」

 

「カミュ様、吐き出される炎は危険です。正面からぶつかるには、相殺する氷結呪文は行使出来ません」

 

 先程の火炎によって通路の各所に落ちている枯れ草などに燃え移った炎が広い通路を照らす。ゆっくりと通路の奥へと視線を移したカミュはその場に存在する魔物の姿を捉えた。同じようにその姿を捉えたサラは、自分達が直面している危機的状況を把握し、対策を必死に考えるが、何の対応策も浮かばない事で苦悩の表情を浮かべる。

 彼等の視界に入ったのは、空中を漂うように泳ぐ長い胴体を持った魔物。巨大な頭部を持ちながらもその重さを感じさせない動きは、正に空を泳いでいるようにも見える。大きく開かれた口には無数の牙が生え、長い髯のような物を持ち、頭部には鶏冠のような鬣を持つ。その体躯の大きさと鋭い瞳は、見る者を恐怖に慄かせる程の威圧感を持っていた。

 

「グオォォォォ!」

 

 大気が震える程の雄叫びを上げた龍種は、標的を完全にカミュ達へと切り替える。再び大きな口を開け、その中に燃え盛るような火炎を見たカミュは、後方にいる全員を押し出すように通路を戻った。

 再び吹き抜ける火炎が周囲の物を燃やし、洞窟内を明るく照らす。剣を抜き放ち、リーシャへと視線を移したカミュは、口端を上げるように微笑んだ。その微笑みの意味を朧気ながらも理解した彼女もまた、不敵な笑みを浮かべる。

 

「まるで、この奥にある物を護っているかのようですね」

 

「これまで遭遇した龍種の中でも群を抜いているぞ、あれは」

 

「……それでも、竜の女王ほどではない」

 

 カミュ達の進行を遮るように立ち塞がる龍種の姿を見たサラは、その奥に何があるのかという疑問を感じる。あれ程の魔物が死守しようとする物となれば、古の勇者の遺品という可能性以上の物があっても不思議ではなかった。

 飛龍と呼べる種族は、ここまで相対した物で二種。スカイドラゴンと呼ばれる龍種と、その上位種であるスノードラゴンである。空中を泳ぐように飛び、その体内から火炎や吹雪を吐き出す恐るべき魔物であったが、それは同時に各地で神聖化された存在でもあった。

 スカイドラゴンに至っては、ガルナの塔で『悟りの書』という古の賢者の遺品を護るかのように存在していたし、ランシールにある試練の洞窟でも奥にあるブルーオーブを守護するように存在していた。先程遭遇したサタンパピーなどの魔族とは一線を画した存在と考える事も出来るし、異なる使命を帯びた存在とも考えられる。

 しかし、この場で倒さなければならない存在である事だけは明確な事実であった。

 

「竜の女王様よりも上の存在であれば、大魔王ゾーマなど既に消滅していますよ」

 

「あの程度の相手に苦戦しているようでは……」

 

「大魔王ゾーマなど夢のまた夢という事だ!」

 

 カミュの言葉を聞いたサラの表情に余裕が生まれる。確かにこのアレフガルドに来る前に訪れた城で最後の力を振り絞っていた者は、世界の守護者である竜種の女王。大魔王ゾーマとの死闘の末、その力の大半を失っていたとはいえ、その力はカミュ達の範疇を大きく超えていた。様々な強敵と戦って来たカミュ達であっても恐れ戦き、身動き一つ出来ない。魔王バラモスという脅威の前でも自分の役割を果たしていたメルエが、恐怖の余り何も出来ない程に怯える。そんな相手であった。

 その存在に比べれば、如何に龍種の最上位に位置する程の存在でも、足元にも及ばないだろう。そして、竜の女王と対等の戦いをした大魔王ゾーマを討ち果たそうとするならば、この程度の存在を避ける事など出来はしないのだ。

 

<サラマンダー>

翼を持たず、空を泳ぐように飛ぶ龍種の最上位に位置する存在。最上位に位置する場所にいるだけの力量を持ち、吐き出す炎は魔王バラモスが吐き出していた物に匹敵する程の威力を持つ。最早、『人』の世界では伝説化している存在であり、その吐き出される炎の威力から、炎の精霊が姿を現した物として崇める地域もあった。

本来であれば、上空を泳ぐように飛び、自由を尊ぶ存在であるが、人間が勇者の洞窟と呼ぶ地底深くで何かを護るように存在するという噂もある。それが地深くにあると伝わる古の勇者の装備品の伝説の信憑性を高める事となっていた。

 

「行くぞ」

 

「ああ」

 

 リーシャの掛け声に応じるようにカミュが駆け出す。一気に間合いを詰めて来た二人の人間に対し、サラマンダーは炎を吐き出す機会を失った。

 カミュの一撃を泳ぐように避けたサラマンダーは、大きく口を開いて体内から炎を吐き出そうとするが、続いた斧による一閃を避ける為、火炎放射を中断せざるを得ない。牽制を含めたリーシャの一閃であったが、矢継ぎ早に攻撃を繰り出す二人の人間に対し、サラマンダーは警戒心を強くして行った。

 距離を取ってしまっては、サラマンダーに炎を吐き出す機会を与えてしまう。今の状態では吐き出される炎が最大の脅威であるが故に、カミュとリーシャは交互に武器を振る事で相手のとの距離感を把握していた。

 

「メルエ、私達には私達のやるべき事がありますよ。この器でメルエの持つ薬草を磨り潰して下さい。私は布を水で濡らしておきます」

 

「…………ん…………」

 

 カミュ達二人の戦闘を眉を下げながら見つめているメルエの手に力が入る。杖を握り込む手を見たサラは、メルエが自分の不甲斐なさを悔しく思っている事を理解し、今自分達がやるべき事を告げた。

 魔法を行使出来ないという事は、メルエがこの戦闘に参加出来ないという事に他ならない。ならば、直接的に戦闘に参加するのではなく、戦闘を行う者達を支える裏方の仕事をすれば良い。それもまた重大な役割の一つであり、今のメルエにしか出来ない事でもあった。

 メルエの身をサラ一人で守る事など出来はしない。それでも周囲を警戒する事はサラの仕事であり、いざという時には腰に下げたゾンビキラーを持ち、魔物と対峙しなければならない。故に、サラが無心で薬草を磨り潰す事は出来ないのだ。

 

「グオォォォォ」

 

 炎を吐き出す事が出来ない事に苛立つサラマンダーは長い身体を捻り、力任せに尾でリーシャを弾き飛ばす。水鏡の盾を掲げて受け止めた彼女であったが、その強力な力によって距離を作ってしまった。

 距離が空いたという事は、サラマンダーにとって最も得意とする攻撃が可能になったという事と同意である。大きく開かれた口の内部に燃え盛る火炎が見えた時、リーシャが態勢を立て直すよりも早く、サラマンダーと彼女の間にカミュが割り込んでいった。

 吐き出される火炎の威力は凄まじい。まともに受けてしまえば、一瞬でカミュ達の身体は燃え尽きてしまうだろう。だが、カミュは左腕の水鏡の盾を斜めに倒し、炎を受け流すように構える。計算通りに火炎が反対方向へ流れる中、リーシャを突き飛ばして目線で合図を送った。

 その瞳の合図を間違える程、彼等の信頼の絆は薄くはない。

 

「おりゃぁぁぁぁ!」

 

「グギャァァァァ」

 

 未だに途切れる事のない火炎を受け流す水鏡の盾が高温により真っ赤に染まり、それを持つカミュの左腕から焦げ臭い匂いが立ち上る中、火炎の横を抜けた女性戦士の持つ神代の斧が煌きを放つ。

 真上から振り下ろされた魔神の斧が長い胴体を持つサラマンダーの鱗を突き抜け、深々と斬り裂いた。噴き上がる体液と共に、サラマンダーの胴体の下部が地に落ちる。胴体の半ば付近を深々と斬り裂かれた事によって、空中を泳ぐ事が出来なくなったのだ。

 空中から身体を落とした事により、必然的にサラマンダーの頭部も高度を下げる。余りの激痛に火炎の放射も停止した事によって、ようやくカミュが水鏡の盾から手を離した。地面に落ちる水鏡の盾は真っ赤に染まっており、落ちた事で金属音を響かせるが、形状は変化していない。落ちた衝撃で形状を変化させないこの盾が、如何に加工が難しい金属で造られているかが解る程であった。

 しかし、対照的にカミュの腕は無残な状態になっている。刃の鎧で守られた部分以外の皮膚は爛れ、金属に張り付いた皮が剥がれて真っ赤な肉が見えていた。

 

「カミュ!」

 

「わかっている!」

 

 それでも勇者の怠慢は許されない。

 厳しい言葉がリーシャから飛び、苛立ちを含む大声を発したカミュは稲妻の剣を握り込んで正面のサラマンダーへと振り下ろす。裂傷の痛みに顔を歪めていたサラマンダーがそれでも大きく口を開こうとした眉間に剣が吸い込まれ、力任せにそれを突き入れた。

 龍種の鱗さえも補助呪文の助けもなく斬り裂く神代の剣の鋭さも驚愕に値するが、それを片手で扱う青年の力量もまた人外の物である。深々と突き刺さった剣を引き抜く事で、洞窟の天井へ向かって体液が噴き上がった。

 サラマンダーは最後の力を振り絞って口を開くが、口内の火炎は弱々しい。それを吐き出す事も出来ず、何度となく口を開閉するが、徐々に失われて行く瞳の光がサラマンダーの命の灯火と共に消え失せたと同時に頭部が地面へと落ちて行った。

 

「メルエ、磨り潰した薬草をこの布の上に」

 

「…………カミュ…………」

 

 戦闘が終了した事を理解したサラは濡らした布をメルエに差出し、器の中で磨り潰した薬草を乗せさせる。薬草を乗せられて染まって行く布は、サラやカミュが回復呪文を行使した時のような淡い緑色に変化して行く。それを確認し、サラとメルエはカミュの許へと駆け出した。

 稲妻の剣を振り、サラマンダーの体液を飛ばしたカミュは、熱を飛ばした水鏡の盾を取ろうと左腕を伸ばした時に苦痛で顔を顰める。本来であれば動かす事さえも苦痛な程の重度の火傷である。その腕で再び盾を装備するなど、通常の人間では不可能に近かった。

 盾の持ち手には、カミュの皮膚の残骸がこびり付き、どれ程に高温であったかを物語っている。サラマンダーの息の根が確実に止まっている事を確認し終えたリーシャでさえも、その盾の状態を見て顔を顰める程であった。

 

「カミュ様、早く腕を出して下さい! メルエ、水筒を!」

 

「…………ん…………」

 

 苦痛に歪むカミュの腕を強引に奪ったサラはその火傷の状態の酷さに厳しい表情を浮かべ、メルエへ手を伸ばす。泣きそうに眉を下げながらも、自分の腰にある水筒を手渡したメルエは、心配そうにカミュの腕を覗き込んでいた。

 一気に水筒の水を腕に振り掛けると、激痛が走った為かカミュが低い呻き声を漏らす。その声を気に掛ける様子もなく、磨り潰した数枚の薬草を染み込ませた布でその火傷の部分を覆い、その上から包帯のような細い布を巻いて行く。薬草も擂り鉢も包帯も、アリアハンを出立した初期の頃しか使用する事のなかった物であるが、それでも使用する時もある筈と持ち歩いていた事が幸いしていた。

 回復呪文によって傷を癒す時、傷が癒える苦痛を感じる事はない。だが、自然の治癒を促進させ、それを補う為の薬草などを使用する際は、自身の身体が発する警告が鳴り止む事はないのだ。

 

「やはり、あの火炎は厄介だったな」

 

「バラモスの吐き出していた火炎並だ。この先で遭遇する火炎を吐き出す魔物達が、皆この威力の火炎を吐き出すとなると、かなり苦しいな」

 

 カミュ達の周囲は、先程の火炎の名残を残し、視界が良くなっている。明りが灯るという事でこれだけの安心感を得られる事を改めて知ったサラはカミュに座るように促し、残りの包帯を巻いて行った。

 心配そうに見詰めるメルエに魔法の言葉を伝え、包帯を結ぶ事で固定したサラは、そのまま洞窟の奥へと目を向ける。その瞳は僅かな不安の色を残しており、そんな賢者の不安をカミュもリーシャも理解していた。

 この勇者の洞窟は人類未踏の場所である。それは、この洞窟が何層になっているかも定かではなく、その奥が何処まで続くのか、どのような魔物が生息するのかも判明していない事を意味していた。つまり、ここから奥へと向かっても、どれ程の時間が掛かるのかも解らない。更に言えば、今遭遇したサラマンダーのような魔物が多数生息しているようであれば、回復呪文が行使出来ない一行にとっては死への行軍となる可能性もあった。

 

「行くのか?」

 

「この下り坂の先にまだ洞窟が続くようであれば、一度戻る」

 

 リーシャの問いかけに、カミュは即答した。

 サラの懸念を理解して尚、この先に何があるのかを見る必要があると判断したカミュは、もう一歩奥へと進む事を決断する。だが、一行が感じている不安を誰よりも痛感しているのもまた、腕に大きな火傷を負った彼である事も事実であり、この階層と同様に入り組んだ洞窟が続くようであれば外へ戻るという事も同時に決断したのだ。

 立ち上がったカミュは包帯に巻かれた腕の具合を見て、再び水鏡の盾を装備する。あれ程の高温に曝されて尚、ラダトーム王都で購入した時と何も変わらない姿を残している盾に頼もしさを感じながらも、『たいまつ』を掲げて歩き出した。

 リーシャとサラも頷き合い、メルエの手を引いて歩き出す。

 だが、この決断が、彼等を更なる苦境へと追い込む事となった。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
おそらくこの洞窟は三話構成になるかもしれません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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勇者の洞窟(ラダトーム北の洞窟)②

 

 

 

 広い通路のような洞窟は真っ直ぐ奥へと伸びている。ゆっくりとした下り坂ではあるが、確かに下の階層へ降りている事が解った。痛々しく左腕に包帯を巻いたカミュが先頭を歩き、心配そうに眉を下げたメルエがサラの手を引くように後ろを歩く。自分を先導するようにカミュに付いて行こうとするメルエに苦笑を浮かべたサラは、後方を警戒し続けるリーシャへ視線を送った。

 サラマンダーの吐き出した炎の名残も消えかけ、周囲を再び闇が支配し始めている。『たいまつ』の炎のみが頼りとなる薄暗い洞窟の中を慎重に歩を進めていた一行は、遂にその場所に辿り着いた。

 

「カミュ……」

 

「……やはり来るべきではなかったか」

 

 広い通路に似た下り坂を下った先には、開けた空間が広がっていた。その広さは洞窟の中とは思えない程の物で、一つの町がすっぽりと納まってしまう程の物。漆黒の洞窟の中にも拘わらず、全体を見渡せる程の明るさがあり、周囲で燃え盛る炎がまるで奥へ吸い込まれる事を抵抗するように揺れている。

 その広大な空間に一歩踏み入れたカミュは、その奥へと進もうとはせずに立ち止まってしまう。後方からカミュに追いついた三人の女性もまた、その異様な光景に立ち尽くしてしまった。

 

「戻りましょう」

 

「いや、もう遅いだろうな」

 

 この場所が勇者の洞窟の最奥である事は間違いないだろう。燃え盛る炎によって照らし出された空間の奥には、巨大な漆黒の穴が見えている。それが魔王の爪痕と呼ばれる異世界への歪みである事は誰の目から見ても明らかであった。

 全てを飲み込むような漆黒の闇。揺れ動く炎さえもその闇に飲み込まれそうになり、その場に立っているだけで足元が不安定に感じてしまう程の畏怖を感じる闇である。もしかすると、この洞窟内で行使した魔法に使用する魔法力もまた、あの闇に全て吸い込まれてしまい、結果的に呪文の行使が出来ないのかもしれない。

 ここまでどのような苦境も乗り越えて来た勇者一行の心を折りかねない程の恐怖を与えるその闇を見たサラは引き返す事を先頭の勇者に提言するが、その言葉は背中の剣を抜き放った彼によって却下された。

 

「グオォォォォォ!」

 

「……また竜種か」

 

 それは、全てを飲み込む程の漆黒の闇の前で暴れ狂う魔物がカミュ達へ照準を合わせた事を感じた為である。洞窟内を照らし出す炎の原因は、この魔物の吐き出す炎なのだろう。鋭い牙を除かせる巨大な口から今も吐き出される炎が、周囲の炎を消す事無く、燃え盛っていた。

 カミュの言葉通り、その魔物は竜である。先程戦闘したサラマンダーのような龍ではなく、竜の女王のような竜。大地を踏み締める四つの足で巨体を支え、その頭部には角を持ち、大きく裂けた口には鋭い牙を生やしていた。

 しかし、その姿を見る限り、正確には竜種ではないのかもしれない。竜の女王のような体躯ではなく、その姿はジパングという小さな島国を滅亡に追い込んでいた『ヤマタノオロチ』という生物に酷似していたのだ。

 五つの首を持ち、その長い首から続く頭部も五つ。中央にある三つの頭に備わる鋭い瞳がカミュ達四人を射抜き、両脇の二つの首が威嚇するように炎を吐き出していた。

 

「オロチか?」

 

「いや、あれとは異なる存在だな。竜種なのか否かは判らないが、厄介な相手である事に変わりはない」

 

 盛大に雄叫びを上げる目の前の化け物に対して、以前に見た姿を思い出したリーシャは斧を手に持つ力を増す。ジパングで遭遇したヤマタノオロチという化け物は、言葉通り死力を尽くして戦った相手であった。あの頃のカミュ達よりも遥か上位に力量は上がっていたとしても、自分達の全てを出して戦い切った相手と同格の者となれば、それなりの覚悟が必要となる。しかも、あの時はサラとメルエの魔法という神秘がなければ、間違いなく彼等は全滅していたのだ。

 しかし、そんなリーシャとは裏腹に剣を抜き、『たいまつ』を壁際に置いた勇者は落ち着き払っている。厄介な相手だとは口にしながらも、勝てない相手であると口にする事はない。それどころか逃げ出す相手でもないという事を明確に背中が物語っていた。

 

<ヒドラ>

正確に言えば竜種ではないのだろう。胴体から伸びる首は五つ。古くからアレフガルドに伝わる伝承に登場する魔物である。伝承の中では首が九つという物もあったり、それこそ百に届く数を持つという物まである、正真正銘の化け物であった。その為、竜の女王の下に就いていた竜種や龍種とはその立ち位置が異なっている。

数多くの首から吐き出される炎と、その鋭い牙で過去の英雄達を何人も葬り去り、アレフガルドと別世界を行き来するとさえ云われており、大魔王ゾーマが支配する魔族や魔物の中でもかなりの力を有する者であった。

 

「メルエ、大丈夫ですか?」

 

「…………ん…………」

 

 以前に遭遇したヤマタノオロチと呼ばれる産土神との戦闘開始時に怯え切っていた少女の姿を思い出したサラは、隣で杖を持つメルエに声を掛ける。しかし、そこにはヤマタノオロチや竜の女王を前にした時のような少女はいなかった。真っ直ぐに目の前の化け物を見据えたその姿は、歴戦の勇士を思わせるような強さがある。頼れる仲間の姿に頬を緩めたサラは、前方のリーシャへ頷きを返した。

 徐々に近付いて来るヒドラを前にした一行の周囲の空気が緊迫して行く。張り詰められた空気がヒドラの力量を明確に物語っていた。

 侮れる相手ではない。

 それでも臆する程の相手でもない。

 

「確かに、あの時のような絶望感はないな」

 

「ヤマタノオロチの時に、アンタが絶望感を覚えた事はあったのか?」

 

 自分の手にあった『たいまつ』を後方のサラへと渡したリーシャは見上げるようにヒドラへと視線を送り、完全な戦闘態勢へと入って行く。その時に呟いた言葉に即座に反応したカミュの口端は上がっているものの、視線は同じくヒドラへと向けられていた。

 ヤマタノオロチとの死闘は確かに絶望的な状況が何度もあった。その口から吐き出される炎を相殺する程の呪文を行使していたメルエの魔法力の枯渇や、それに続くサラの魔法力の枯渇。連戦に寄る疲労で動かなくなった前衛二人の腕は、竜種の鱗を何度も斬りつけた事によって握力さえもなくなり掛けていたのだ。

 そこまでの死闘を繰り広げ、その末にようやく手に入れた勝利である。薄氷を踏むような死と隣り合わせの戦いを経験した彼等にとって、今目の前で雄叫びを上げる同種に近い存在は脅威に値する程の魔物ではなかった。

 

「いや、全くなかったな!」

 

 そんなヤマタノオロチとの死闘で、誰もが少なからず諦めに似た感情を持ってしまった中、唯一人悲観的な考えも持たなかった者となれば、彼女しかいないだろう。握力が無くなってしまった事にも微笑みを浮かべ、自分達が倒れる事など想像もせず、常に前線に立ち続けた女性が再びその手にある斧を振るう。

 ヤマタノオロチと相対した時の彼女の武器もまた斧であった。だが、それは上の世界では何処ででも購入出来る程に簡易な斧。『鉄の斧』と名付けられたその斧には特徴など何もなく、木こりが使う斧を少し頑丈にした程度の物である。

 如何にメルエという規格外の魔法使いが放つ魔法力に覆われようと、何度も竜種の鱗を突きぬける事が出来る程の強度を持つ訳ではない。持っている手は痺れ、武器の刃は毀れる。そんな頼りない武器であった。

 

「グギャァァァァ」

 

 しかし、彼女が今装備している武器は、神代の斧である。魔の神が愛した斧であり、この世で最高位に立つ程の斧であった。

 所有する者を試すように重量を変え、その威力を変動させるような悪辣な斧でありながらも、一度その所有者を認めた場合、絶大な威力を発揮する斧でもある。

 そして、勇者と共に歩くこの女性戦士は、既にその斧を持つに相応しい場所にまで登り詰めていた。

 

「グオォォォォ」

 

 噴き上げる体液は、駆け出したリーシャに襲い掛かったヒドラの首の一つの物。牙を剥き出しにして襲い掛かるヒドラの頭部を一閃した斧は、見事に竜種の鱗を斬り裂き、体液を噴出させる。口元を斬られたヒドラは怒りの咆哮を上げ、他の頭部が大きく口を開いた。

 口内には炎が渦巻いており、それを見たリーシャは即座に水鏡の盾を掲げる。吐き出される炎がサラマンダーの吐き出した炎と同格であれば、吐き出す口の多いヒドラが圧倒的に優位となるだろう。カミュの放つ勇者特有の絶対防御呪文がない今、盾によって防ぐ事の出来る炎は限られており、本来であれば避けるという選択が最善だったのかもしれない。

 だが、そんなリーシャの後悔も杞憂に終わる。ヒドラの口から吐き出された炎は、リーシャの後方から飛び込んで来た熱風によって押さえ込まれ、リーシャの目の前で炎の海を広げたのだ。

 

「……メルエ?」

 

 リーシャの呟きは呆けたような声であった。

 それは何も彼女だけではない。彼女と共にヒドラへ向かおうとしたカミュも、後方で薬草の準備を始めたサラも、呆然と目の前の光景に言葉を失っていた。

 それは当然の事であろう。この場所は呪文が行使出来ない筈であり、それはカミュとサラ自身がこの階層に到達してからも試して見た結果である。自分の腕から発せられた魔法力は、ヒドラの後方に見える漆黒の闇へと吸い込まれるように消え失せ、神秘を発現する事はなかったのだ。

 だが、サラの隣にいる少女は、自分よりも大きな杖を真っ直ぐヒドラへと向け、その結果を当然のように受け入れている。その姿が意味する物を理解出来ないカミュとサラが呆けてしまっても仕方のない事なのだ。元よりリーシャは呪文行使が出来ない場所としか認識していない為、メルエが起こした神秘の理由になど辿り着ける訳がない。

 

「…………サラ……やくそう……つぶす…………」

 

「え? あ、はい」

 

 サラの方へ視線を向ける事無く杖を掲げる少女は、自分の師である姉のような女性に指示を出す。そんな少女の纏う空気に臆した訳ではないが、何故かその言葉は拒否する事が出来ない程の力が篭っていた。

 自分の革袋から出した器にメルエの持っていた薬草を入れ、それを磨り潰す。小奇麗な布に磨り潰したものを載せ、それを揉む事で布に薬草の成分を染み込ませて行った。

 メルエが何故、この場所で呪文を行使出来たのかは解らない。いや、むしろメルエが呪文を詠唱した呟きをサラも聞いてはいないのだ。それでも、今、間違いなく神秘は発現した。リーシャを襲う炎を押さえ込む程の炎を発現させ、炎の壁を生み出している。

 

「……今のはベギラマだろう。ならば、この竜種の吐き出す炎はベギラマで相殺出来る程度の物だという事。その盾でも十分に防ぎ切れる筈だ」

 

「……カミュ、ここは呪文行使が可能な場所なのか?」

 

 カミュの考察など、リーシャの頭には入って来ない。その瞳は厳しく細められ、まるで尋問するように低い声で問いかける。それに対し、静かに首を横に振ったのを見た彼女は、苦々しく表情を歪めた。

 『メルエに無理をさせている』という想いがリーシャの胸を締め付けて行く。時折メルエは人が変わってしまったかのような状態に陥る時があった。己の心を殺し、己の自我を殺し、目の前の敵を殲滅する事だけを目的としたような変化を起こす際、彼女は己の分を越えた呪文を行使したり、自分の身体に負荷を掛けてしまう可能性があったのだ。

 魔法という神秘が行使出来ない事で、足手纏いになってしまう事を恐れた少女が再びそのような状態に陥ってしまったのではないかと、リーシャは心を痛めていた。

 

「……まずは、目の前の障害を排除してからだ」

 

「わかった」

 

 カミュもまた似たような感情を持っていたのだろう。故にこそ、立ち上がるリーシャの顔を見る事もなく、襲い掛かるヒドラの首に向かって剣を振り下ろした。

 もし、彼等二人が妹のように愛する少女の身に何かがあった場合、この二人は平常心ではいられないだろう。いや、今でさえ、彼等二人の心は乱れ始めている。メルエという少女の危うさは、二人の共通する認識であったのだ。

 

「カミュ、右だ!」

 

 駆け出したカミュの右手から、一つの首が襲い掛かる。鋭い牙を剥き出しにしたヒドラは、そのままカミュの右半身を食い千切ろうと迫っていた。正面の首と左前にある首から吐き出される炎を警戒していたカミュは、その首の接近に直前まで気付かず、リーシャの忠告で咄嗟に態勢を変える。

 巨大な牙を水鏡の盾で防いだカミュは、若干後方へと下がるが、既にその程度の力で吹き飛ばされるような存在ではない。だが、それでも五つ全ての首の相手をする事も出来なかった。

 カミュが態勢を立て直して剣を振るうよりも先に、ヒドラの他の首が彼へ襲い掛かる。盾が弾かれた状態でその牙を防ぐ方法はなく、盛大な舌打ちを鳴らしたカミュは剣を振るおうと強引に身体を捻った。

 

「うおりゃぁぁぁぁぁ!」

 

 しかし、その首はカミュへ届く事はなく、床へと落ちて行く。地響きを鳴らして落ちた首は、既に白目を剥いており、巨大な口からは大量の体液を吐き出していた。カミュがその首に視線を送ると、首先が途中で斬り落とされており、体液が滝のように溢れ出している。その横では、斧に付着する体液を振り払うリーシャの姿が確認された。

 その凄まじい一撃は、正確にヒドラの太い首を切断し、一つの首を戦闘不能へと追い込んでいたのだ。のた打ち回るように跳ねる首を鬱陶しそうに避けながらも、リーシャは次の標的となる首へと視線を向ける。態勢を立て直したカミュもまた、視線をこちらを向いているヒドラの首へと移した。

 しかし、二人はその首を見た瞬間に盾を構える事となる。視線を向けた先の一体の首は二人に向けて大きく口を開いていたのだ。その中には渦巻く炎が見えており、カミュ達二人が視線を向けた時には既にそれを吐き出す段階に入っていた。

 

「…………いく…………」

 

「は?」

 

 炎の襲来に備えた二人が瞬時に上がる熱気を感じた頃、後方から呟くような声とそれに反応する間抜けた声を聞く。その瞬間、前方から迫っていた熱気を押さえ込むような熱量が後方から吹き抜けて行った。

 カミュ達の前に着弾した熱弾は、頭部を失って暴れ回る首を巻き込んで炎の壁を生み出す。斬り口を焼かれた首は力なく床へと落ち、他の首から吐き出された炎は壁に阻まれてカミュ達へは届かなかった。

 再び発現した神秘に首を動かした二人は、後方で杖を前へと突き出している少女へ視線を移す。

 

「心配要りません。今のはメルエが呪文を行使したのではなく、雷の杖に備わっている力をメルエが解放したのです」

 

 二人が心配している内容を理解していたサラは、前方へ大きな声を張る。先程メルエが杖を突き出した際に発した言葉が、呪文の詠唱ではない事に間の抜けた声を発した彼女ではあったが、その後に発現された神秘を見た時に全てを理解したのだ。

 メルエの持つ『雷の杖』は神代の武器である。その杖は己の主と認めた者に対しては、絶対の忠誠を誓うかのように尽くす。その身と心を護る門番のように、主の身に及ぶ危険を排除する為には自らが神秘を発現する事さえも可能としていた。

 そして、それは主の命令があった時でも同様なのだろう。メルエという雷の杖を持つ主が、己の大事な者達を護る為に命を下した。神代から残る武具であるこの杖にとって、それは何よりも優先させなければならない命であり、喜びさえも感じる信頼の証なのかもしれない。

 杖の先端に装飾された禍々しいオブジェの口から吐き出された熱弾は、ベギラマという神秘となって、ヒドラが吐き出した炎を防ぐ。正しくその炎の壁の姿こそが、メルエという少女の心にある想いの具現なのだろう。大事な者を必ず護るという彼女の想いこそが、ここまでの旅の中で彼等の間に築かれて来た絆を強くし続ける元であった。

 

「妹の成長は嬉しいものだな」

 

「……『娘の』の間違いではないのか?」

 

 サラの言葉を聞いた前衛二人は、後方で杖を持ったままヒドラを睨みつける少女へ視線を移し、優しい笑みを浮かべる。その際に発し合った軽口が彼等の心に生まれた余裕を示していた。

 ベギラマでも防ぎ切れる炎に躊躇する二人ではない。その程度の炎であれば水鏡の盾でも防ぐ事が可能であるし、後方にいる少女が目を光らせている以上、その必要もないだろう。ならば、彼等の役目は一つしかない。

 

「カミュ、一つ一つ首を落として行く必要などない。首の攻撃を避けながら、直接胴体を狙うぞ。いざとなれば、お前のその剣にも付加効果があった筈だ」

 

「わかった」

 

 神代の武器はメルエの雷の杖だけではない。リーシャの持つ魔神の斧も、カミュが持つ稲妻の剣も同様の物である。リーシャの言うように、稲妻の剣に関しては、ネクロゴンドの洞窟内で数多くの魔物を駆逐する程の能力を秘めていた。それは、まるで中級の爆発呪文であるイオラのような効力である。

 ヤマタノオロチを打倒した時のカミュ達であれば、首の攻撃を掻い潜りながら本体を攻めるという戦略を取る事は出来なかった。カミュ達の力量がヤマタノオロチよりも遥かに下であったという事と、その吐き出す炎を相殺する為の方法がメルエの放つ呪文しかなかったという理由がある。それに比べ、炎を防ぐ方法自体がメルエ任せである事に変わりはなくとも、カミュ達全員の力量と装備武具の強さが異なっていた。

 既に人類を超越し、魔物や魔族の中でも最上位に入る程の攻撃力を持つリーシャとカミュが持つ武器も、神代から伝わる物である。身体能力、武器の能力、そして戦闘経験の幅を考えた場合、彼等二人が如何に竜種といえども遅れを取る事は有り得なかった。

 

「…………いく…………」

 

 駆け出したリーシャ目掛けて口を開いたヒドラを見た少女が杖を振るう。吐き出される炎と、杖が生み出す炎がぶつかり、炎を壁を作った。炎の壁に首を差し込むような愚かな行動をしないヒドラは、生み出された炎によって胴体へと真っ直ぐ進む道を駆けるリーシャを待ち受けるように出口へ首を動かす。既にリーシャの周囲は相当な熱量を持つ炎の壁に塞がれており、その出口から更に炎を吐き出されれば、完全に炎に包まれてしまうだろう。

 それを理解して尚、彼女は脇目も振らず真っ直ぐに駆けた。

 

「行け!」

 

 出口にヒドラの首が移動し、その口を大きく開けた時、カミュは握っている剣を前へと突き出す。

 瞬間的に圧縮されて行く空気。それは大きく開かれたヒドラの口内で弾け飛んだ。渦巻く火炎を巻き込むように弾けた空気が、ヒドラの頭部を内部から破壊して行く。白目を剥いた一つの頭部が下に落ちてくると同時に、神代の斧が一閃した。

 巨大な首が根元から斬り込まれ、派手に体液を撒き散らす。上部から降り注ぐ体液を縫うように避けながらリーシャは斧を最上段に構えた。巨大なヒドラの腹部に突き刺さった斧をそのまま流れるように這わせ、鱗の護りのない腹部を抉って行く。

 竜種の中でも上位に位置するヒドラの鱗は通常の人間では傷一つ付ける事は出来ないだろう。それを可能にしているのは、カミュとリーシャの力量と、その手にある武器の恩恵があればこそである。そして、竜種の鱗をも斬り裂く事が出来る者が脆い腹部を斬り裂いたとなれば、通常の魔物に対処出来る筈がなかった。

 

「ギャオォォォォォ!」

 

 駆け抜けたリーシャを追う様に降って来る体液の中には、ヒドラの生命の源である臓物までもが含まれている。痛みと苦しみを叫ぶように全ての首が叫び声を上げ、その内の一つの首が、潰されないように外へ出て来たリーシャの身体を壁へと弾き飛ばした。

 勇者の洞窟の最下層に位置する壁はここまでの岩壁よりも強度が高い。大地の女神に愛された鎧とはいえ、全ての衝撃を緩和出来る訳ではないのだ。壁に当たり、そのまま地面へと落ちたリーシャを見たサラが磨り潰した薬草を持って駆け出し、それへ視線を向けたヒドラよりも早く一つの首の前にカミュが立ち塞がった。

 

「グギャァァァァ」

 

「…………いく…………」

 

 既に五つ存在したヒドラの首は、残り二つとなっている。既に過半数の首を失い、腹部には大きな裂傷がある。臓物を垂れ流し、生物としての限界は既に超えているだろう。それでも残る首の一つは大きく口を開き、駆け寄るサラ諸共にリーシャを焼き殺そうと炎を吐き出した。

 しかし、そのような暴挙を許すようなメルエではない。杖を振るい、炎の横合いから熱弾を叩き込む。着弾すると同時に炎の壁を生み出し、ヒドラが吐き出した火炎の進路を完全に遮断した。

 何度となく自分の火炎を防がれた事と、死に瀕した状況という事実が相まって、ヒドラは完全に我を失って行く。自身の攻撃を悉く遮った原因である少女に狙いを定め、一飲みにしようと首を伸ばした。

 

「……行かせると思ったのか?」

 

 だが、その首は幼い少女に辿り着く前に、途中から切断される事となる。

 駆け出したカミュの剣が突き刺さり、その刺突部分を起点にして一気に振り下ろされたのだ。

 噴き出す体液を撒き散らしながら上げた首に、皮一枚で頭部がぶら下がるが、その重みと激しい動きによって、頭部が床へと落下する。凄まじい音と衝撃を残す頭部を避けたカミュは、そのまま再びヒドラの腹部へと潜り込んだ。

 残る一つとなった首がカミュを追うが、その牙が彼を捕らえる事はなく、再び腹部へと稲妻の剣が突き刺さる。深々と突き刺さった剣を引き、世界最上位種である竜種の生命を斬り裂いて行った。更に、剣を突き刺したままカミュが念じると、その剣を中心に空気が圧縮され、ヒドラの内部から一気に弾ける。爆発音を響かせて弾け飛ぶ臓物が、ヒドラの最後に残った生命への執着を剥がして行った。

 

「メルエの機転がなければ、かなり苦戦しただろうな」

 

「ああ。もし、呪文を行使出来ていたとしても、強敵であった事には変わりはない」

 

 命の灯火が消え失せ、最後に残った頭部の瞳から光が失われる。首を支える力が消滅した事で、一気に地面へと落ち、洞窟の最下層に巨大な振動が響き渡った。巨体が沈んだ事で揺れる大地は、幼いメルエを引っくり返させ、尻餅を突いた少女は恨めしげにヒドラだった物を睨み付けた。

 そんな幼い少女が、この戦闘中に己の出来る事を考え続けていなければ、この戦闘はかなりの苦戦を強いられた事は間違いないだろう。本来の万全の状態で戦っていてもそれは変わらない。この狭い空間であったからこそ、ヒドラ自身も己の動きが制御されていたのだろうし、もしヒドラが何らかの呪文を行使出来たとしたら、今以上の苦戦は免れない事は確かであった。

 

「しかし、この竜種は何を護っていたのでしょう?」

 

「魔王の爪痕という事もないだろうな……」

 

 戻って来たリーシャは多少の擦り傷を身体に残していながらも、骨を折った様子もなく、臓物を傷つけられた様子もない。その頑丈さに若干の呆れを含んだ溜息を吐き出したカミュは、遅れて来たサラの言葉を聞いて竜種の遺骸へと視線を移した。

 その時、ヒドラであった物体が、倒れた後方にある巨大な穴へと落ちて行く姿が映り込む。魔王の爪痕とは呼ばれているが、それはぽっかりと空いた穴のような物であり、空間自体が歪んでいるようにも見えない。一行は徐々に落ちて行くヒドラの身体を見守る事しか出来なかった。

 

「なっ!?」

 

 しかし、その巨体の全てが巨大な穴へと落ちた瞬間、四人全員が言葉を失う事となる。

 ヒドラの最後の頭部が穴へと落ち、その姿が見えなくなると同時に、勇者の洞窟最深部を大きな地震が襲ったのだ。

メルエだけではなく、カミュ達三人であっても立っている事すら不可能な程の振動が響く。洞窟自体が崩れてしまうかもしれないと思う程に大きな振動により、天井を形成している岩の小さな破片が降り注ぐ。メルエを庇うようにマントを広げたカミュを中心にリーシャ達が固まり、振動が止むのを待つ事となった。

 

「……あ、あれは」

 

 落ちて来る小岩の影響で視界が悪くなって行く中、一際大きな振動が響いたと同時に、継続していた揺れが収まる。徐々に晴れて行く視界に目を凝らしたサラは、その先に見えた物体に言葉を失ってしまった。

 それは、正しくヒドラの巨体。あの一際大きな振動は、まるで吐き出されるように飛び出したヒドラの巨体が天井部分に当たり、床へと落下した時のものなのだろう。ヒドラの死体は、何処かが再生した訳でもなく、逆に何処かが欠損している訳でもない。単純にカミュ達が倒した時のままの状態で床に転がっていた。

 魔王の爪痕と呼ばれる異世界からの入り口と思われていた場所であったが、何故かヒドラはこの場所へ戻されている。その理屈も原因も解りはしないが、魔王の爪痕が自ら拒否したような形になっていた。

 

「カミュ、あれは……」

 

「盾ですね……」

 

 周囲の砂埃が完全に晴れると、ヒドラの死骸の近くに何かが落ちている事が見えて来る。ヒドラと戦闘していた時には気付かなかったのか、それとも魔王の爪痕が今吐き出したのかは解らないが、薄暗い洞窟の中でも青く輝くその光は周囲の空気を浄化しているかのように神秘的であった。

 『盾は地深くに』という言い伝え通りだとすれば、本当に魔王の爪痕の奥に落ちていたという可能性も捨て切れない。ただ、見えている盾のような物が、町の防具屋で販売されているような代物ではない事だけは感じ取る事が出来た。

 

「古の勇者が使用していたとされる盾は、『勇者の盾』と伝えられているそうです」

 

「そのままの名だな……」

 

 先程の地震が再び起こらないかを警戒しながら慎重に盾へと移動している途中で、サラはラダトーム城で王子から聞いた伝説の内容を思い出しながら口にする。しかし、その名を聞いたリーシャは、何処か捻りのない名に警戒心が抜けてしまった。

 確かに古の勇者として語り継がれている者が装備した盾なのだから、『勇者の盾』と呼ぶ事は間違いではない。更に言えば、古の勇者が装備していた武具というのは伝承の中だけにしか存在しない物であるのだから、全ての武器や防具が、『勇者の剣』、『勇者の鎧』、『勇者の兜』、『勇者の盾』となっていてもおかしくはないだろう。

 現に、カミュが握っている稲妻の剣も、上の世界では『勇者の剣』と呼ばれるに相応しい実績を残している。もし、大魔王ゾーマという存在がおらず、バラモスを討ち果たした後、カミュが何処かで平和に暮らしていけたとしたら、そういう伝承が残ったのかもしれなかった。

 

「これは……」

 

「凄い力を感じますね」

 

 魔王の爪痕と呼ばれる巨大な穴付近まで近付いた一行は、そこに鎮座する盾を見て言葉を失う。その盾は、水鏡の盾のように円形でもなければ、魔法の盾のように楕円形でもない。台形に近いながらも滑らかな曲線を描き、その淵は金色に輝いている。盾自体は青い輝きを放つ不思議な金属で造られており、その金属が地上には存在しない貴重な物である事が解る程に神秘的な色をしていた。

 そして、何よりも眼を引くのが、その盾全体に描かれた絵画のような模様である。中央に埋め込まれた真っ赤な宝玉を中心に描かれた模様もまた光り輝く金色であり、それは見る者の心を和ませ、大きな安心感で包み込むような不思議な模様であった。

 

「…………ラーミア…………」

 

「ん? そうだな! 確かにラーミアだ。メルエの言う通り、この模様はラーミアに良く似ているな」

 

 盾へ手を伸ばそうとするカミュの横から顔を出したメルエは、その盾に描かれた模様を見て満面の笑みを浮かべる。笑みと共に口にしたその名は、彼等を魔王バラモスの元へと運び、このアレフガルドへも渡って来た神鳥。精霊ルビスの従者として語り継がれていながらも、その存在感は精霊神ルビスや竜の女王にも匹敵する。カミュを『勇者』として、そして世界の守護者として認めたその神鳥は、今は守護者不在の上の世界を護っていた。

 自分の感じた事が嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべたメルエは、それを肯定するように微笑むリーシャを見て笑みを濃くする。短い期間ではあったが、世界が輝いて見える少女にとって、あの神鳥は大好きな存在の一つであったのだろう。

 嬉しそうに微笑むメルエの頭を撫でたカミュは、その盾を持ち上げる。持ち上げる際に水鏡の盾を外したカミュは、怪我をした腕を庇うようにゆっくりと嵌めて行った。

 

<勇者の盾>

アレフガルド大陸に遥か昔から伝わる伝承の中に存在する勇者が装備していた盾。遥か昔に訪れたアレフガルドの危機を救った者であり、その者が装備していた武器や防具の全てが伝承として、今も語り継がれている。

竜種の吐き出す火炎や吹雪などを遮断し、持ち主の身体を傷つけない程に火炎や吹雪への耐性が強い。原料となる金属の特徴であるのか、熱への耐性が有り、高温に曝しても変形する事はなく、人類では加工は不可能な物とさえ伝えられていた。

アレフガルド大陸では古の勇者がラダトーム王家へ下賜したという伝承も残っており、現在の国民達はその伝承を信じている。だが、実際はラダトームには伝えられておらず、伝わるのはそれらに関する言葉だけであった。

 

「この盾はアンタが使え」

 

「え? 私ですか?」

 

「…………むぅ………サラ……ずるい…………」

 

 左腕に吸い付くように納まった勇者の盾を暫しの間見ていたカミュであったが、先程まで装備していた水鏡の盾をサラへと手渡す。受け取ったサラは久しぶりに変更される盾に戸惑うが、その横で先程までの笑みを消して鋭い視線を向けるメルエを見て苦笑を浮かべた。

 水鏡の盾もまた特殊な金属で造られている。その為、その盾の重量も通常の鉄の盾に比べて軽く、サラでも装備が可能な物である。流石にメルエも装備出来るかと問われれば、首を傾げる物ではあるが、成人の女性魔法使いであれば装備が可能なのかもしれない。

 サラマンダーという火の精霊にも例えられる龍種が吐き出した強力な火炎を防ぐ事も可能であり、尚且つその高温でも変形しない盾となれば、ここから先の旅でもかなり重宝する物となる事は間違いなかった。

 サラは隣で頬を膨らませるメルエを見ないようにしながら、今まで使用していた魔法の盾を外し、左腕に水鏡の盾を装備する。魔法の盾のように持ち主の大きさに合わせるように変形する事はなかったが、まるで女神の祝福を受けたかのようにサラの左腕に納まった。

 

「メルエには水鏡の盾は重いだろう? それに、メルエが自分の身を護る為に盾を掲げる事態は私やカミュが必ず阻止してみせる。だから、本来はメルエに盾など必要ないのだぞ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 不貞腐れてしまったメルエを宥めるのはリーシャの役目である。メルエが己の装備品を購入して貰ったのは、魔王バラモスの居城へ向かう前に訪れたエルフの隠れ里が最後であった。

 変化の杖を使用し、エルフの姿になっていたメルエの成長を願うエルフ達の優しい想いを受けて手に入れたローブは、今もメルエの身を護り続けている。その身を理不尽な死から護るその装備品は、それを纏う少女が着るに相応しい優しい名を持つ。

 

「膨れた顔をしていると、その衣服は似合わないぞ。メルエの笑顔は天使のようでなければな。ほら、ラーミアも今のメルエを笑っているぞ」

 

 メルエを抱き上げたリーシャは、リスのように膨らんだ少女の頬を突く。頬が萎んで行く『ぷぅ』という可愛らしい音に、サラは微笑みを浮かべた。

 先程まで死と直面するような戦闘を行っていたとは思えない和やかな空気に、カミュでさえも小さく息を吐き出す。その左腕に装備された勇者の盾に描かれた黄金の鳥は静かに輝きながらも、そんな一行を見守っていた。

 

「慎重に且つ、迅速に洞窟を出ましょう」

 

 笑みを消したサラの言葉に全員がしっかりと頷きを返す。この洞窟は間違いなくこの場所が最下層であろう。勇者の盾という古の勇者の装備品も手に入った以上、この場所に長居する理由はない。呪文の行使が可能な場所もなく、生息する魔物も強力な物ばかりであり、ここまで何とか戦闘に勝利してはいるが、それも薄氷の上を歩くような物であった。

 傍目からどのように見えようと、この一行はサラとメルエの呪文行使によって保たれている。アリアハンを出立したばかりの頃はそれ程ではないが、メルエが加入し、サラが賢者となってからは、この二人が発現する神秘は、何度となく一行を救って来たのだ。

 今の一行は、その両翼を奪われた鳥と言っても過言ではない。前衛の二人が真っ直ぐ魔物へ向かえるのも、後方からの支援があるからこそであり、それがなければ例え勇者であっても、例え人類最高の戦士であっても、玉砕を覚悟しなければならなかった。

 

 メルエを下ろしたリーシャはその小さな手をサラへと託し、再び斧を構えて歩き出す。最後尾のリーシャが、来た時に下った下り坂を登り終えた頃、ヒドラとの戦闘で燃え移っていた火炎の炎が、まるで何かに飲み込まれるかのように消え失せた。

 ひっそりと静まり返った最深部には、洞窟内よりも暗い闇を持つ魔王の爪痕が残されている。

 まるで、勇者の帰還を喜ぶように、そして勇者の帰還を待ち望むかのように。

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございます。
勇者の洞窟はあと一話続くかもしれません。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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勇者の洞窟(ラダトーム北の洞窟)③

 

 

 

 上の階層へ戻ると、既にサラマンダーの吐き出した炎の形跡は既になく、完全な闇が広がっていた。真っ直ぐに突き進む通路のような道へ『たいまつ』を向けると、既に物言わぬ肉塊となったサラマンダーの亡骸が照らされる。

 他の魔物に喰い散らかされてはおらず、カミュ達が下の階層に行っている間にこの場所へ魔物が入り込んでいた可能性は薄い。それでも、この洞窟内には多数の魔物が生息している事は明白であり、カミュ達が持つ『たいまつ』の灯りに引き寄せられた魔物と遭遇する可能性は捨て切れなかった。

 

「カミュ様、極力魔物との戦闘は避けましょう。逃げ切れるか解りませんが、現状で魔物と戦闘を行うのは得策ではありません」

 

「そうだな……ここまでの戦闘は運も味方していた。地上までの道で戦闘を行えば、私達が怪我を負う可能性の方が高いだろうな」

 

 真っ直ぐ進む通路を通り抜け、右へと折れようとするカミュを止めたサラが警戒心を緩める事無く口にした言葉は、とても魔王を討ち果たした者が口にする物ではなかった。だが、それに同調するように口を開いたリーシャの言葉が、今の一行の状況も正確に物語っている事も事実である。

 ここまでの戦闘は、多対一という状況を作り上げられたという点があり、一点集中での攻撃と防御が行えたのだが、この後で遭遇する魔物が必ずしも一体とは限らないだろう。もし、カミュ達と同数以上であれば、サラやメルエという直接戦闘に長じていない者達も魔物と対峙しなければならない。その時、致命的な怪我を負ってしまえば、最悪命を落としてしまう可能性は否定出来ないのだ。

 

「なるべく魔物と遭遇しないよう歩くが、見つかった時は走るぞ」

 

 そんな二人の意見を素直に取り入れたカミュの言葉に、二人は大きく頷きを返す。逃げる為に駆け出す際、足手纏いになりかねないメルエという少女を抱えるのはリーシャとなるだろう。カミュが道を切り開き、その道を一気に駆け抜けるという方法しか、この洞窟を安全に出る道はなかった。

 細心の注意を払いながら先頭を歩くカミュは、無駄に『たいまつ』を動かす事無く、周囲の空気や気配を窺いながら進む。迷路のような洞窟ではあるが、来た道を戻るだけの作業であれば『行き止まり探査機』の出番はない。最後尾を警戒しながら進む女性戦士はいつでもメルエを抱える事が出来るように少女の直ぐ後方を歩いていた。

 

「ここまでは何とかなったか……」

 

 上の階層へ続く坂道まで戻って来たカミュは、大きな息を一度だけ吐き出す。『たいまつ』の炎が揺らめいている事からも、この坂道の先が表へ繋がる最後の階層になる事は確かであった。

 ここまでの中で魔物の影を見る事はなく、時間は掛かったが無事にこの場所まで辿り着いている。だが、この階層の上には、往路で遭遇しかけた巨大な魔物達が存在しており、今も尚カミュ達の戻りを待っている可能性は捨て切れない。その際、最悪の状況にまで陥る場面が有り得るのだ。

 振り返ったカミュに皆が頷きを返し、先頭を歩く彼がゆっくりと坂道を上がって行く。徐々に『たいまつ』の灯りによって見えて来る岩壁が、四人の胸の内に久方ぶりの恐怖を運んで来ていた。

 彼等の実力は、既に魔物や魔族の中でも上位に位置する。しかし、それは通常の状態であればという但し書きが付随するのだ。今の状態であれば、魔物との戦闘はいつも以上の緊迫感を要し、『死』という結末を容易に想像させる程の物であった。

 

「メルエ、抱き上げるぞ」

 

 そんな一行の危機感は、坂道を上りきった時に現実となる。リーシャの前を歩いていた幼い少女が、眉を下げた状態で振り返ったのだ。

 それが意味する物は魔物の襲来以外にはない。即座に少女を抱き上げたリーシャは、駆け出す準備に入る。周囲の気配を探るように動きを止めたカミュは、『たいまつ』の炎を高く掲げた。

 目の前の道は完全な十字路。カミュ達が進んで来た後方から魔物が登場しないと考えれば、前方、左方、右方の三方向に絞られる。三方向全てから魔物が来るという可能性もあるが、逃げる方向を見定めなければ、即座に全滅という未来が現実となるだろう。物音一つ立てずに周囲を警戒するカミュは、僅かな音も聞き逃さないように耳を欹てた。

 

「……正面の通路を駆ける」

 

「わかった。サラ、魔物は私とカミュに任せて、全力で駆けろ」

 

「はい」

 

 小さく呟くような声にリーシャとサラは即座に頷きを返す。僅かばかりに聞こえて来た音で、カミュは左右から魔物が近づいている事を察知したのだ。それがどのような魔物なのかは解らない。だが、少しずつ大きくなる気配と音から考えれば、この洞窟に入った時に戦闘を行わずに退避した魔物である可能性は高かった。

 今の状態で巨大な魔物の挟み撃ちに合えば、全滅の可能性も捨て切れない。カミュは剣を背中から抜き放ち、リーシャもメルエを抱き上げながら斧を構える。全員の準備が整った頃、左右の岩壁が何かによって削られるような甲高い音が洞窟内に響き始めた。

 それと同時に洞窟内を揺らす振動が始まり、それを感じた一行は全力で駆け出す。

 

「やはり、あの魔物か!」

 

 カミュが先頭を走り、サラがその後を続く。最後尾でメルエを抱えて駆け出したリーシャの瞳に、左右の通路からこちらへ向かって来る魔物の姿が微かに映り込む。それは、やはりこの洞窟へ入った時に遭遇した巨体の化け物であり、上の世界で遭遇したトロルやボストロールのような醜い姿をした魔物であった。

 カミュ達が駆け出した事を理解した二体の魔物達も、その巨体を揺らしながらそれを追うように駆け出す。手にした棍棒のような武器で岩壁をなぞりながら、騒音を撒き散らして駆ける巨体の魔物達は、まるでカミュ達の存在を洞窟内に知らしめるように近付いて来ていた。

 

「カミュ様、左です!」

 

 前方に左右の分かれ道が見えた時、サラが大きな声で進行方向を告げる。返事も頷きも返す事なく、カミュが左へと足を進め、それにサラとリーシャが続いた。

 後方から迫る巨体の魔物達の一歩と、カミュ達人間の一歩ではその幅に大きな差がある。通路の幅によって縦に一列となった魔物ではあったが、その距離は確実に近付いていた。このまま洞窟の出口に辿り着くよりも、魔物がカミュ達に追い着く方が先であろう。最後尾を走るリーシャの顔に焦りが生まれ始めた。

 

「カミュ! 追い着かれるぞ!」

 

「右です!」

 

 岩壁を削るような音が大きくなって来る。それは後方の魔物が迫っている事を示していた。最早リーシャに後方を振り返る余裕はない。この状況で戦闘態勢に入っても、万全の状態で魔物と打ち合える訳がないだろう。呪文が行使出来る出来ないの問題ではなく、戦士としての経験から来るものであった。

 逃げる事しか出来ない事に歯噛みしながらも、リーシャは後方から迫る巨体の魔物達の気配を感じ、前方のカミュへと叫び声を上げる。そして、サラは地上へ続く道の最後の分かれ道に入った事を悟り、向かう方向を大声で告げた。

 勿論、先頭を走る青年も帰りの道順は頭の中に入っていただろう。

 だが、無言で進路を右へと取った青年の姿は、一瞬の内に掻き消えた。

 

「カミュ様!」

 

「サラ、急げ!」

 

 右へ曲がろうとしたカミュを左側から突如現れた棍棒が弾き飛ばしたのだ。凄まじい速さで振り抜かれた棍棒は、曲がり角を曲がって地上への入り口で殿を務めようと考えていたカミュの意識ごと刈り取って行く。弾き飛ばされたカミュは対面にある壁に直撃し、沈黙した。

 咄嗟に動こうとするサラを護るように横へ並んだリーシャは、メルエを下ろして臨戦態勢へと入る。前方に現れた魔物の棍棒を斧で受け止め、魔物の隙間からサラとメルエを通す。だが、意識を失っているカミュの身体の内部が破壊されていたり、骨子が破壊されていれば、回復呪文を唱える事の出来ない洞窟では対処が出来なかった。

 

「…………いく…………」

 

 リーシャの脇を通り抜けて行く際に、メルエが後方へ向かって杖を振るう。杖の先に付けられた禍々しいオブジェの嘴が開き、その内から炎の吐き出した。こちらに向かって来る巨体の魔物二体の前に着弾した熱弾は、一気に炎の海と化す。

 ベギラマという中級灼熱呪文程度の威力しかないとはいえ、魔物を一瞬とはいえ戸惑わせる事は可能である。魔物と呼ばれていようと、生物の本能は変わらない。突如現れた炎に対し、本能の奥にある恐れは隠せないのだ。

 

「サラ、カミュを背負って地上へ出ろ!」

 

「えっ!? カ、カミュ様を背負う事は……」

 

 二体の魔物はメルエの機転で足止めをする事が出来た。だが、残る一体は未だにリーシャの目の前に残っており、その巨体から繰り出される一撃を彼女は辛うじて避けている。振り抜かれる棍棒を斧で弾き、唸りを上げる拳を避けるという行為は、一瞬の判断を誤れば死に直結する程の物であった。

 そんな紙一重の攻防の中で見つけた隙に発した彼女の声は、賢者という称号を持ってしてもサラには不可能な行為。男性と女性という性別の違いは勿論、前衛を担う者と後衛を担う者の違い。そして根本的な体力と腕力の違いが明白なのだ。

 ましてや、カミュという勇者が身に付ける装備は、賢者であるサラが装備不可能な程の重量を有した物である。それを装備したまま意識を失っている屈強な男性を背負える程の力をサラは有していなかった。

 

「ちっ! ならば、傍に落ちている剣を使え! それを道具として使うのであれば、サラでも出来るだろう!? この魔物に向かって剣に願え!」

 

「は、はい」

 

 メルエが生み出したベギラマと同程度の炎が弱まりを見せ、その奥にいる二体の魔物が弱まった炎を乗り越えて来るのが見える。多少皮膚に火傷を負いながらも、それを物ともせずに近付いて来る魔物達に大きな舌打ちを鳴らしたリーシャは、代案をサラへと叫んだ。

 カミュが握っていた稲妻の剣は、魔物からの一撃を受けた際に彼の手から離れている。近付いたサラの近くに転がった剣は、その刀身を静かに輝かせていた。稲妻の剣という神代の武器にも、メルエが持っている雷の杖と同様に付加効果がある。ヒドラとの戦闘でもカミュが使用したように、中級の爆発呪文であるイオラと同程度の威力を持つ神秘を生み出すという物であった。

 そして、付加効果を持つ武器を道具として使用する場合、そこに使用者の制限はない。それは以前メルエが所有していた魔道士の杖が物語っている。魔法力を発現する才能が皆無であるリーシャでさえも、魔道士の杖からメラと同等の火球を生み出す事が出来ていた。それは、道具としての使用であれば、魔法力の有無も、その呪文の行使の可否も、それこそ所有する資格の有無も必要ない事を意味しているのだ。

 だが、メルエの所有する雷の杖が、主である少女以外の命令を大人しく聞くかと問われれば、首を捻らざるを得ないという事も事実であった。

 

「お願いします……貴方の主であるカミュ様を救う時間を下さい」

 

 メルエという主に対し、絶対的な忠誠を見せる雷の杖を間近で見続けて来たサラだからこそ、握り締めた稲妻の剣に対し、己が行使する理由を述べる。サラという主の資格を持たない者が神代の武器に対して命じるのではなく、依頼するという形式を取った。

 そして、その願いは、稲妻の剣という武器の使命と合致したのだろう。一瞬の輝きを見せた刀身は、リーシャの目の前で先端の丸い棍棒を振り回す魔物へ神秘を発現させる。魔物の顔面の空気が一気に圧縮を始め、リーシャが大きく後退すると同時に弾け飛んだ。

 凄まじい爆音と振動が響き、魔物の巨体が後方へと仰け反る。そのまま尻餅を突くように倒れた魔物を見たリーシャは瞬時にカミュの許へと戻り、青年の身体を担ぎ上げた。腕と足が本来とは逆方向に曲がっている様子を見る限り、彼の身体の内の骨の幾つかは無残に折られているのだろう。口端から零れる真っ赤な血液が、内部の臓物も傷つけられている可能性を示していた。

 サラに手を引かれたメルエが迫って来る二体の魔物に向けて再度杖を振るうのを待って、全員が地上への坂道を駆け上がる。上の世界とは異なり、地上へ戻る道から陽の光が差し込んで来る訳ではない。それでも洞窟へと流れ込んで来る新鮮な空気が、住み慣れた場所への帰還を実感させていた。

 

「カミュの治療を急いでくれ! メルエ、呪文での援護を頼むぞ!」

 

「…………ん…………」

 

 サラとメルエを先行させていたリーシャは、洞窟の出口を抜けると同時に、少し離れた場所にカミュを下ろす。そのまま斧を構えてぽっかりと開いた洞窟へと向き直った。後方に控えたメルエがしっかりと杖を握って前方を見据える。その際に、予備として持っていた枯れ木に『たいまつ』の炎を移し、小さな焚き火を燃やした。

 洞窟の奥から響く咆哮が、稲妻の剣の生み出した神秘によって傷つけられた魔物の怒りを物語っている。咆哮と共に響く振動が、洞窟の入り口付近の岩壁を揺らし、リーシャ達が立つ地上の大地さえも震わせる。小さな砂丘の砂を震わせ、只でさえ動き難い立ち位置を更に悪くしていた。

 勇者の洞窟と呼ばれる特殊な場所で生息していた魔物が、自身が受けた傷への怒りと、食料となる人間を求めて地上へと姿を現す瞬間である。

 

「メルエ、私の武器にバイキルトを、この身にスカラを頼む」

 

「…………ん…………」

 

 洞窟内から姿を現した醜い魔物が、カミュとリーシャの持っていた『たいまつ』から移された炎によって浮かび上がった。

 どす黒い皮膚を持ち、肩から下がった何の毛皮か解らない物の中に見える垂れ下がった贅肉は、人間に生理的な嫌悪感を抱かせる。巨大な身体に相応の大きさを持つ頭部にある口からは、長い舌がだらしなく垂れ下がっており、腐敗色に近い紫色をしたそれからは、臭いさえも漂って来そうな涎が砂丘へと落ちていた。

 洞窟から地上へ姿を現した魔物は二体。その姿を確認したリーシャは、後方のメルエに武器強化と防御強化の呪文の詠唱を依頼する。即座に唱えられた二つの呪文が、人類最高位に立つ『魔法使い』の復活を示していた。

 三体居た魔物の内、稲妻の剣によって傷を受けた者と、雷の杖によって火傷を負った二体が地上へ出て来ている。怪我も受けず、怒りを覚えなかった一体は、棲み処を離れる事を嫌って洞窟の奥へと戻って行ったのだろう。

 

「サラ、カミュは任せたぞ」

 

「はい。お任せ下さい」

 

 メルエの後方で治療に専念していたサラは、リーシャの背中に向けて大きく頷きを返す。

 如何に最上位の回復呪文であるベホマを行使するとはいえ、完全に折れてしまった骨を元に戻すにはそれなりの手順と時間が必要となる。骨が折れる前の正常な位置に身体を戻し、それから回復呪文を唱えなければ、しっかりと骨が繋がらないのだ。

 こちらに近付いて来る魔物は、その姿を見る限り、トロルやボストロールの上位種である事は間違いないだろう。本来であれば、カミュとリーシャという人類最高位に立つ直接戦闘の達人達が揃って、初めて戦う事が可能な程の強敵である。

 だが、今のリーシャの背中とメルエの背中は、当代の勇者が回復するまでの時間を作り出してくれるという安心感さえ覚える程の力強さを有していた。二人を頼もしく思うサラは、大きく頷きを返し、意識を失っている勇者の回復へと意識を集中させる。

 

「ムオォォォォォ」

 

 人外の叫び声を上げた一体の魔物が棍棒を振るう。手に持つ棍棒は、先端が球体となっており、その球体は意図的に削られたような形をしており、無数の棘が作られていた。

 凄まじい勢いで振り抜かれる棍棒の速度は、通常の人間では目で追う事など不可能に近い。そしてその速度で棍棒が衝突すれば、先端の棘に肉は突き破られ、更に棍棒の重量で人間の身体などは内部から弾け飛ぶだろう。人間の女性の中でも上位に位置するリーシャの背丈の倍近くあるその巨体は、それに似合った腕力と、それに合わない速度を併せ持っていた。

 

<トロルキング>

トロル系統の最上位種である。だが、最上位種とは言っても、トロルという巨人族の中で特出した存在がそれを率いるボストロールであるのに対し、異世界に等しい場所を棲み処とするトロルキングはトロルやボストロールを率いる能力はない。基本的に同種と群れて生息する事が多く、人間が遭遇する時は二体以上の場合が多い。その暴力に近い腕力と、体型に似合わない俊敏さを併せ持ち、遭遇した者は万が一にも生き残る事はなかった。知能は低く、言語を話す者も皆無に等しいが、様々な魔物や魔族の中での生存競争を勝ち抜いて来ただけあり、小さな傷であれば治癒を促進して自動回復する能力や、呪文の行使さえも可能であると云われている。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 棍棒を斧で弾いたリーシャに向かって、もう一体のトロルキングが拳を振るう。咄嗟に盾を構えたリーシャであったが、その凄まじい腕力によって真横へと弾き飛ばされた。

 だが、リーシャが横へ動いた事によって、前方の視界が晴れた少女が杖を振るう。呟くような詠唱を受け、雷の杖の先にあるオブジェの嘴部分に巨大な魔法陣が生まれた。魔の王が行使していた最上位火球呪文が、リーシャを殴りつけたトロルキング目掛けて放たれる。

 周囲の砂さえも溶かしてしまう程の高熱が迫り、トロルキングはそれを払うように腕を振るった。

 

「ギャァァァァァ」

 

 しかし、その火球呪文は、如何にトロル系最上位種であろうと手で払える程度の物ではない。全てを溶かす高熱は、トロルキングの左腕の肉も骨も溶かして行く。触れた部分は瞬時に融解し、火球はそのまま周囲に肉の焦げる臭いを撒き散らせながら、二の腕付近までを飲み込んで行く。

 剣で斬り裂いたような傷ではない為、切断部分から体液などは噴き出しては来ない。だが、焼け爛れた肉は痛々しい程に体液を溢れ出していた。同種の左腕が即座に消え失せた事を見た一体のトロルキングは、驚愕の為か動きを止めてしまう。そして、そんな隙を突いて態勢を立て直したリーシャが真っ直ぐトロルキングへと向かって行った。

 左腕を失って咆哮を上げるトロルキングは、迫り来るリーシャへ怒りの瞳を向ける。そして棍棒を振り抜いた。

 

「うおりゃぁぁぁぁ!」

 

 しかし、それを横へ飛ぶ事で避けた彼女は、一気に魔神の斧を横薙ぎに払う。太い足の太腿部分に突き刺さった斧は、そのまま紫色の皮膚を抵抗なく斬り裂いて行った。噴き出す体液が砂丘をどす黒く染め、自分の身体を支える事の出来なくなったトロルキングが膝を着く。

 一体を葬り去ろうと再び斧を構え直したリーシャが落ちて来た腹部に向かって腕を振るおうとした時、先程まで驚愕で硬直していた方のトロルキングが左腕を動かした。

 

「B@46UR」

 

「…………マホカンタ…………」

 

 しかし、リーシャへ向かって左腕を掲げたトロルキングが奇声を発すると同時に、後方に控えていた少女が再び杖を振るう。瞬時に生み出された光の壁がリーシャを包み込んだ。それは如何なる呪文も弾き返すと云われる魔法力で生み出された光の壁。

 その光の壁が輝き、トロルキングが放った神秘を弾き返す。突風のように巻き起こった抗う事の出来ない風が、行使者であるトロルキングへと襲い掛かった。しかし、敵も然る者、その太い腕を交差させ、砂地に足を埋めるようにして圧力に耐え切ったトロルキングが、自身の行使した呪文を跳ね返す元凶を生み出した少女へ標的を変える。

 

「グラァァァァァ」

 

 真っ直ぐに振り被った棍棒を幼い少女へと振り下ろす。マホカンタという光の壁によって事無きを得たリーシャは、左腕を失ったトロルキングが半狂乱になって振るう棍棒を避ける為に少女を護る事は出来ない。棍棒を振り下ろすトロルキングは勝利を確信し、もう一体の棍棒を盾で受け止めたリーシャは焦った。

 だが、凄まじい速度で振り下ろされる棍棒を他人事のように見つめる少女の顔には、焦りも怯えも見えない。

 そこにあるのは小さな笑み。

 

「アストロン」

 

 そして、少女は笑みを浮かべたまま、物言わぬ鉄像へと姿を変えて行く。

 堅い木と金属がぶつかり合う大きな音を上げ、周囲の砂が空中へと舞い上がった。自分の腕に響く衝撃が、生物を潰した時の感触とは異なる事を感じたトロルキングは、遅れて走る腕への激痛に表情を歪める。あれ程の勢いで、何物も受け付けない鉄の塊へ棍棒を振り下ろしたのだ。対象へ伝わる筈の衝撃の全てがトロルキングの腕を襲ったのだろう。

 棍棒は折れずとも、トロルキングの右腕に裂傷が入り、体液が噴き出す。その腕を左腕で押さえようとする頃には、第二撃が巨体の魔物を襲った。

 

「バイキルト」

 

 後方から響く賢者の詠唱によって、トロルキングへ向かった青年の剣が魔法力に包まれる。元々の輝きの上に、極め細やかな魔法力の輝きが加わり、稲妻のような稲光を伴って振るわれた一撃は、トロルキングの片足を斬り飛ばした。

 肉も骨も一撃を持って斬り裂き、片足を失ったトロルキングは砂丘の上に倒れ込む。倒れ込んでくるトロルキングの太い首に稲妻の剣を突き入れ、そのまま真っ直ぐ切り落とした。巨大な頭部を支える首筋から盛大に体液が噴き出し、その量と反比例するようにトロルキングの瞳から光が失われて行く。その最後を見つめるように一度剣を振るった青年へ左腕を伸ばすように、トロルキングは生命を失った。

 

「カミュ様! リーシャさんの方へ! 理屈はわかりませんが、バラモスのように自然治癒の能力を持っているようです!」

 

 一体のトロルキングを葬り去った青年へ向けて後方から指示が飛ぶ。青年がもう一体のトロルキングへ視線を向けると、片腕を失ったトロルキングが人類最高位に立つ女性戦士と真っ向から切り結んでいた。

 その太い両足はしっかりと砂丘の砂を踏み締めており、リーシャが抉った太腿の傷は既に傷痕さえも残っていない。それが示すものは、この知能の低そうな魔物が回復呪文を行使出来るという可能性と、魔王バラモスのように自身の魔法力を使用して自然治癒の能力を行使している可能性の二つであった。

 先程、メルエがマホカンタで防いだ物が、バシルーラという呪文であるとサラは見ている。故にトロルキングが回復呪文を行使出来る可能性も否定は出来ないが、回復呪文であるホイミ系を唱えた際に現れる緑色の光が発現しなかったという点から、自然治癒の能力だと考えたのだ。

 

「カミュ! 肝心な時に寝ていた分は働け!」

 

「わかった」

 

 自分に近付いて来た者が待ち望んでいた青年である事に気付いたリーシャは、表情を緩め、笑みを浮かべながら皮肉を飛ばす。それを受けたカミュもまた、口端を上げて頷きを返した。

 砂丘という場所の足場は悪い。本来であれば、トロルキングの巨体を振り回すように動き回り、隙を見つけて斬りかかるという戦闘手段をとるべきなのだが、砂地に足を取られて思うように動けないという状況であった。

 メルエの魔法力であるスカラを纏ったリーシャだからこそ、怪力を持つトロルキングの一撃を何度も耐えて来れたのだが、それでも致命傷を与える事が出来なかったのは、足場の悪さが原因の一つである事は間違いないだろう。そして、先程のメルエの危機に駆けつけられなかったのもまた、砂丘による足場の悪さがあったのだ。

 しかし、今のリーシャには少しの焦りも不安もない。彼女の隣に一人の青年が戻っただけではあるが、それはこの一行の完全なる復活を意味している。前衛である勇者と戦士、そして後衛を担う賢者と魔法使いが揃った今、彼等の『死』という未来は遥か彼方へ遠退いたのだった。

 

「ブモォォォォォ」

 

 鼻息荒く振り上げた棍棒が横薙ぎに振るわれる。笑みを引き締めたリーシャは水鏡の盾を掲げ、僅かにその身を泳がせるがそれを受け止め、返す斧で棍棒を持つ右腕を傷つけた。斬り裂かれた傷口から体液が上がるが、その傷も暫くすれば消えて行く。僅かな傷では敵を倒せない事が明白となり、再生するよりも早くに致命傷を与える必要がある事が解った。

 一度カミュと横並びに並んだリーシャは、冷静さを欠きながら棍棒を振るトロルキングへと視線を向け、態勢を立て直す。横にいるカミュの左腕には青く輝く盾が見えた。先程のトロルキングの強力な一撃を受けて尚、その形状に歪みも無く、輝きに曇りも無い。黄金の神鳥が、今も尚、この勇者の存在を讃えるように輝いていた。

 

「カミュ様、リーシャさん、一度下がってください!」

 

 振り回される棍棒を避けていた二人に後方から指示が飛ぶ。それはここまでの長い旅の中で何度も聞いた事がある言葉。後方支援組が何らかの行動を起こそうとする前兆であった。

 振り抜かれた棍棒に魔神の斧を合わせたリーシャが、その体格差を物ともせずに棍棒を弾き飛ばした勢いを利用し、二人は一旦後方へと下がる。後方にいる二人の呪文使いの視界が開けた事を契機に、戦いは一気に終幕へと向かって行った。

 

「ベギラゴン」

 

 サラが両手を一気に前方へ突き出す事で、その掌から膨大な熱弾が飛び出す。既に行使済みの呪文ではあるが、根本的な魔法力の量と内に秘めた才能が異なるサラは、最上位の灼熱呪文を行使する為に、己の両手を使用する必要があった。

 この呪文の行使自体に慣れて来れば、賢者であるサラは片手での行使も可能になるのであろうが、基本的に攻撃呪文をメルエに託している事が、このような部分で弊害となっていた。

 

「この火炎は、いつ見ても凄まじいな……」

 

 サラの両手から発現した神秘は、トロルキングの足元に着弾し、そのまま強大な炎の海を生み出す。炎を振り払うように棍棒を振り回す巨体をそのまま飲み込み、砂丘に炎柱を打ち立てるその呪文の結果を見たリーシャは、その脅威に言葉を溢した。

 リーシャの頭の中では勇者の洞窟内で遭遇したサラマンダーという魔物が吐き出した火炎が思い出されていた。あの火炎もまた、今目の前で立ち上る炎の柱と同程度の威力があったように思える。その火炎の中でも生き残って来た自分達の強運を誇ると共に、紙一重の戦闘を行って来たという事を改めて実感していたのだ。

 

「グオォォォォォ」

 

「…………マヒャド…………」

 

 しかし、戦闘はまだ終了していない。あれ程の炎の海を掻き分けて、トロルキングは尚も前進し、カミュやリーシャに襲い掛かろうと棍棒を高らかに掲げる。振り上げた棍棒は火炎の炎が移り、真っ赤に燃え上がっていた。その棍棒が当たれば、如何に鎧の上からといえども、深刻な傷を受けるだろう。

 アレフガルド大陸の魔物の強靭さに驚きながらも再び戦闘態勢に入ったカミュとリーシャの後方から、トロルキングに止めを刺す詠唱が呟かれる。

 幼い少女が振り下ろした杖の先にあるオブジェから吹き荒れる冷気は、最早吹雪のような生易しさではない。ベギラゴンという神秘が生み出した熱気は、寒さが厳しい砂丘を熱気で包み込む程の物であった。だが、その後に唱えられたマヒャドが生み出す冷気は、一気にその温度を永久凍土よりも下へと引き下げて行く。カミュ達の吐く息が瞬時に凍り付く程の冷気は、ベギラゴンの炎で焼け爛れたトロルキングの身体の細胞を死滅させて行った。

 

「カミュ様、メルエ、とどめを!」

 

「…………イオラ…………」

 

「イオラ」

 

 紫色の体表が真っ赤に焼けていたトロルキングは、一気に冷却される事によって氷像へと変化して行く。それを見届けたサラは、最後の指示を口にした。その指示の細かな内容を聞かずとも理解した勇者と魔法使いは、己の持つ爆発呪文の詠唱を完成させる。

 耳鳴りがする程に急速に圧縮された空気が一気に弾けた。凄まじい爆発音を響かせ、巨大な氷像が砕け散って行く。闇に包まれたアレフガルドを照らし出すように一瞬の光が弾け、トロル系最上位の魔物の命は潰えた。

 

「勇者の洞窟を出てしまった魔物が哀れに思えてしまうな……」

 

 弾け飛んだ氷像の欠片が砂丘へ舞い落ちて行く姿を見ながら、リーシャは魔物へ追悼の意志を示す。どれ程に強大な魔物であろうと、どれ程に人間の脅威となる魔物であろうと、一つの命である事に変わりはない。人に仇名す魔物であれば躊躇無く命を奪うが、勇者の洞窟という場所で生息し続ける限り、このアレフガルドの住民と争う事は無かっただろう。

 勇者の洞窟自体が、既に危険区域として看做され、今や誰も入る事が無かったのであれば、あの洞窟で暮らす魔物達は害にはならない物達だったとも言える。カミュ達が洞窟に入る事なく、トロルキングに見つかる事もなければ、あの二体の魔物は外へ出る事はなかっただろう。外へ出てしまった以上、アレフガルドで暮らす人間の害になる可能性は否定出来ず、それを考慮に入れて戦いはしたが、地上に出た事によって呪文行使が可能になった二人の呪文使いの餌食になってしまった事については、何処か哀れに思えたのだ。

 

「俺の剣や、アンタの斧だけでは、ここまで旅を続ける事は出来なかっただろうな」

 

「……その言葉はサラへ言ってやれ」

 

 剣を背中の鞘に収めるカミュが溢した言葉を聞いたリーシャは、一転した笑みを浮かべる。後方でメルエを褒めるサラへ視線を移しながら、『カミュの言葉を聞いたとしたら、彼女はどのような顔をするのだろう』という想像をしてしまったのだ。

 リーシャに何も返す事もなく歩き始めたカミュは、再び革袋から地図を取り出した。勇者の洞窟での目的は全て果たし、次への目標を考えながら、旅の進行を考えているのだろう。そんな勇者の行動を見たサラとメルエも、二人の傍へと近付いて来た。

 

「どうする? 一度ラダトーム王都へ戻るか?」

 

「いや、このまま進む。カンダタとの話にあったマイラの村を目指す」

 

 太陽が見えないアレフガルド大陸では、洞窟に入ってしまえば、今が昼なのか夜なのかが正確に把握出来なくなる。自身の身体が感じる疲労と、欲する休息が、それを確認する術となるのだ。

 確かに、神経を研ぎ澄まさなければならなかった洞窟を出た事で疲労は感じているが、呪文を行使出来なかった為に、サラやメルエの魔法力も十分に残っているだろう。カミュが受けた火傷のような傷も、先程サラによって回復しており、誰も大きな傷は負っていない。ラダトームの宿屋で休む必要もなければ、治療を受ける必要もなかった。

 再び『たいまつ』を手にした一行は、砂丘を抜けて北東へと進路を取って行く。

 

 アレフガルド大陸の進み方には二つの方法がある。

 一つはその大陸の大地を隈なく歩き続ける事。

 そして、もう一つは海原を乗り越え、大陸に添って進む道。

 だが、このアレフガルドという世界は、ガイアと呼ばれる上の世界に比べて歴史が浅かった。故に、世界自体が未だに完成されてはいない。

 この大陸で暮らす人間達はこの大陸しか知らず、海を渡って新たなる世界を見ようと願うには歴史が浅過ぎた。更に、そのような願いを人々が持つよりも前に、闇がアレフガルドという世界を包んでしまった為、時代が停滞してしまう。

 そんな小さな世界と闇の世界を結ぶ『魔王の爪痕』と呼ばれる大穴が、異世界から訪れた勇者一行によって眠りから覚まされた。

 時代と歴史が大きな渦と共に加速度的に動き出す。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
一応、これで第十八章は終了と致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

名実共にその称号を手にした彼は、最早『何も残してはいない』という言い訳が出来る存在ではない。誰も成し得なかった『魔王バラモスの討伐』という偉業を果たし、彼が生まれた広大な世界に仮初の平和を齎した。それは誰もが成し得る事ではなく、彼にしか成し得なかった偉業であろう。勿論、彼一人の力で全てが成された訳ではない。だが、カミュという一個人であったからこそ、彼の背を護る三人の仲間が共に歩んでくれた事は事実であった。彼の父親である英雄オルテガが、供の一人もなく、アレフガルド大陸へ辿り着いたという噂が、カミュという青年こそが『勇者』である事を明確に物語っている。

 

【年齢】:20歳

生国アリアハンを出てから、五年近くの月日が流れている。異なる世界にあるアレフガルドという未知なる大地を踏み締めている身体も、その時間と共に逞しくなっていた。アリアハンを出立した頃は、共に歩む女性戦士より低かった背丈も、今はそれと同格以上の物となっている。勇者という称号の下、様々な呪文を使いこなす彼は、生粋の戦士ではない。だが、その腕力も脚力も、今や女性戦士と並ぶ程までに成長を遂げていた。いつか女性戦士が口にしていたように、彼が彼女を超える日もそう遠い未来ではないのかもしれない。

 

【装備】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガいう彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):刃の鎧

ネクロゴンドの河口付近にある洞窟内に埋もれていた神代の鎧。

神が置き忘れたのか、それとも『人』に与えられた物なのは解らないが、まるで己の主を待つように、洞窟内にその姿を隠していた。だが、それを発見した魔物が手にしようとする事をこの鎧は拒絶する。自らに触れようとする許可無き者を、その鎧を形成する鋭い金属の刃によって分断していたのだ。真空で出来た刃ではなく、金属で出来た刃が鎧から飛び出す事自体が不可思議な現象ではあり、刃を発した鎧に傷一つないのだから尚更である。

大地の鎧を纏っている事から辞退したリーシャの代わりに、彼が装備する事となった。彼が敵と認識しない物や鎧自体に危害を加えようとしない者であれば、それに触れる事も可能である事は、彼の傍を離れない幼い少女が証明して見せている。

 

盾):勇者の盾

遥か昔、アレフガルド大陸が闇に閉ざされそうになった時、天より舞い降りたと伝えられる『勇者』が装備していた盾。地上にはない金属によって造られ、青く輝くような光を放つ。表面には黄金色に輝く神鳥が描かれており、中央には真っ赤に燃えるような宝玉が嵌め込まれている。上の世界で蘇った不死鳥ラーミアに酷似したその装飾は、アレフガルドに伝わる古の勇者と精霊神ルビスが知己の存在である事を示していた。

地上にはない神代の金属によって生み出されたその盾は、竜種などが吐き出す炎や吹雪への耐性も強く、どれだけ高温に曝されようと変形する事はない。正しく、生物が暮らす現世最強の盾と云えるだろう。

 

武器):稲妻の剣

刃の鎧と共にネクロゴンドの洞窟内に安置されていた剣。

まるで空から振り落とされる稲妻のように荒々しい刀身を持ち、それ専用の鞘でも製作しない限り、刀身を隠す物がない程の姿をしている。

刃の鎧と同じように、望まぬ相手に触れられる事を拒み、周囲の空気を圧縮して爆発させる力を解放していた。それは、『魔道書』の最強攻撃呪文であるイオラに酷似した物であり、その力を際限なく発揮する事が出来る時点で、この剣の異常性が解るという物であろう。

魔王の腕を斬り落とし、その体内で能力を開放するなど、かなりの攻撃力を有する剣ではあるが、それを扱う者は限られている。リーシャの持つ魔神の斧と同様、この剣はカミュにしか扱う事の出来ない武器なのかもしれない。

 

所持魔法): メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      リレミト

      マホトーン

      イオラ

      ベホマ

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(元アリアハン宮廷騎士)

元は小さな辺境の国家の一騎士にしか過ぎない彼女が、今や精霊神ルビスが生み出した広大な世界を救う一行の一人として歩んでいる。その事に一番驚き、戸惑っているのは彼女なのかもしれない。彼女自身、己の力量は正確に把握している。武器を持ち、それを扱うという事になれば、自分の右に出る事が出来るのは共に歩む勇者以外にいないとも考えていた。だが、それと同時に、自分一人では魔王討伐はおろか、強力な魔物達の打倒さえも不可能である事をしっかりと理解している。己の利点と欠点を誰よりも理解しているのは彼女なのだろう。

 

【年齢】:不明

勇者一行と呼ばれる年若い四人の中での最年長である彼女ではあるが、四人の内の三人が二十歳を超えた今となれば、数歳の年の差など無きに等しいのかもしれない。正確な年齢を彼女が口にした事はないが、それでもまだ三十という歳には遠い事実は理解出来た。それでも、宮廷という男社会で生きて来た彼女が発する言葉は、何度も勇者と賢者に道を示している。恐怖と不安で進めなくなった者達の足を前へ進める為の一言は、綺麗事ばかりではなく、時に厳しく、時に優しい物。そんな一言が、この一行の『要』だと信じさせる一つなのかもしれない。

 

【装備】

頭):ミスリルヘルム

超希少金属であるミスリルによって生み出された兜。その製造方法も加工方法も秘術と云われる程の物である。故に、このアレフガルドにのみ伝えられているミスリル金属を使用した防具は、上の世界に存在する防具よりも遥かに高額で取引されている。この兜一つで竜種の鱗さえも斬り裂くと云われるドラゴンキラーよりも高額であった。

己もこの兜をと口にするカミュを一喝し、彼女だけがこの兜を被る事になったが、それは独占欲から来る我儘でない事は周知の事実である。ミスリルという希少金属で造られた兜の防御力を差し引いても、彼の装備する兜の方が希少性も重要性も高い事を彼女は知っているのだ。

 

胴):大地の鎧

試練の洞窟と呼ばれる人工の洞窟内に安置されていた鎧。『勇者』と呼ばれるカミュが発見するが、その者を主とは認めず、外で待つ一人の戦士を主と定めた。まるで己の意志があるかのように、『人』としての色を残す女性を主と定めた鎧は、他者の手に渡るのを拒む。精霊と共に崇められる対象となる母なるものの名を冠する鎧は、植物や動物を育てるように、温かくその身を包み、護る事だろう。

 

盾):水鏡の盾

ミスリルヘルムと同じ希少価値の高い金属で造られた盾。正確な円形をした盾は、余計な装飾などもなく、見方によれば無粋な盾に見えるだろう。だが、それは鏡のように美しく、正面にいる者の姿をまるで水で出来た鏡のように映し出す。『どのような攻撃も、水の如く受け流し、鏡のように跳ね返す』と謳われてはいるが、実際はそのような特殊効果はない。だが、ミスリルという希少金属で製造されている為、その耐久性は現存する盾の中でも最上位に位置する物である。

 

武器):魔神の斧

遥か太古の魔の神が愛した斧。

その鋭い刃先は、どのような強固な物をも斬り裂き、その一撃は大地をも斬り裂くとさえ謳われた武器である。魔の神と天上の神との争いの際に失われ、地上へと落とされたという。それがネクロゴンドという地方に安置されていた事は奇跡であり、ネクロゴンドにある城に飾られた英雄の像の手に握られていた事も今では謎である。

その斧もまた、他の神代の武器と同様に自我を持っているかのように、己の主を定める。しかも、魔の神が愛した物である為、それは一筋縄ではいかない代物であった。己の主を嘲笑うかのように、試すかのようにその重量を変化させ、扱う者の重心をずらしてしまう事もある。しかし、その変化と持ち手の技量が合致した際には、逸話通りの一撃を生む事もあるのだった。

:ドラゴンキラー

魔神の斧を握っていた古の英雄の像である、動く石像との戦闘の際、その強固な石像を斬りつけた事によって、刀身に歪みが生じてしまう。本来、腕に嵌め込んで突き刺す事で強固な龍種の鱗をも破る武器であったが、それを打ち直した事によって強度が下がってしまったと考えられる。

通常の人間が、通常の魔物などを相手にする際は、その切れ味はこの世で販売されている武器の中でも群を抜いているのだが、人類最高戦力となった女性戦士の力量と、龍種を二体斬り裂いた後での続け様の戦闘によって、限界を迎えてしまったのだろう。

今は、リーシャの腰に下がる鞘の中で静かに余生を送っている。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

賢者となった彼女の目標は、『全ての生物が天から与えられた寿命を全う出来るような世界を造る事』である。だが、それは神の領域に入る程の難題であった。己の分を弁えていれば、口にする事さえも憚れる願いであり、想いなのだ。それを理解していて尚、彼女は前へ歩み続ける。弱肉強食という食物連鎖が成り立つ世界の中で、全ての生物が寿命を全う出来る訳はない。サラはそれを理解しているにも拘わらず、人の身でありながらも進むのだった。

長い歴史が人族至上主義という思想を生み出し、それに合わせるように歪んでしまったルビス教の教えを盲信する上の世界とは異なり、精霊神ルビスという全ての生物を見守る存在を正確に認識しているアレフガルド大陸と、それを統べる立場にあるラダトーム王族の存在が、彼女が目指す未来を現実へと導く一助となるのかもしれない。

 

【年齢】:22歳

孤児であり、アリアハン教会の僧侶であった彼女は、二十歳を過ぎて尚、恋愛という駆け引きの経験はない。教会を訪れる様々な人々から聞く話によって耳年増にはなっているが、実際にそれを経験した事もなく、異性を異性として意識した事もなかった。既にこの時代の結婚適齢期に入っている彼女ではあるが、アリアハンで暮らしていた頃とは違い、生半可な異性であれば彼女の思想と理想を理解する事は出来ず、共に歩む事も出来なくなっている。それは、彼女の女性としての幸せの一つを奪う事になってしまうのかもしれない。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれており、その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):魔法の法衣

テドンという滅びし村で購入したこの法衣は、その村へ移住して来た年若い夫婦の手によって編み出された。昆虫が作り出す物を糸から『絹』という世界で初となる生地を作り出し、特殊な能力を保持していた妻が編んだ物。それは、奇しくも彼女と共に歩む幼い少女の母親であった。類稀なる魔法力を有し、稀代の『魔法使い』となった少女の母親も、特殊な術式を組み込んだ法衣を作り出している。その奇妙な巡り合わせが、サラという当代の『賢者』の思考に一石を投じていた。

 

盾):水鏡の盾

カミュがリーシャと共にラダトーム王都にて購入した盾である。勇者の洞窟と呼ばれる場所で発見した古の勇者の防具をカミュが装備した為、彼から譲り受けた。古代龍種であるサラマンダーの吐き出す爆炎を受け、真っ赤に染め上がりはしたが、希少金属で造られたこの盾は、購入した時と一切形状を変化させてはいない。このアレフガルドにしかない盾が、強力な魔物が数多く生息し始めた大陸に於いて、後衛を担当する賢者と魔法使いを命を護る大きな防壁となるだろう。

 

武器):ゾンビキラー

サマンオサ城下近郊での<ガメゴン>との戦闘により、三年以上も共にあった<鉄の槍>は破損してしまった。

共に歩む者達の武器が次々と強力な物になって行く中、彼女だけがロマリアで購入した物を使用していたというのは、彼女自身の武器を扱う力量とは別に、『賢者』となった彼女に合う武器が無かった事が理由であろう。

長い年月を掛けて聖水に浸けても尚、錆などが浮かなかった長剣であり、その刀身に『精霊ルビス』の加護を受けた剣。

聖なる力を宿した長剣は、この世に生を持たない者達に多大な効果を持ち、この世に縛り付けられた魂や肉体を『精霊ルビス』の許へ還すと考えられていた。

   :聖なるナイフ

育ての親であるアリアハン教会の神父から授けられた物。

アリアハン大陸の魔物達には有力な武器ではあったが、ロマリアで<鉄の槍>を入手してからは、彼女の腰に下がる袋の中に大事に保管されている。

それは、彼女の心の奥にある太い柱となっている『愛』の証であり、彼女が進む道を照らし続ける『覚悟』の証でもある 。

 

所持道具:祈りの指輪

エルフの隠れ里にて購入した物である。メルエの指に嵌っている物と同様の物で、元々は子の幸せを願う親の想いが込められた物が起源と考えられている指輪であった。

純粋な祈りは『精霊ルビス』の許へと届き、指輪の所持者の魔法力や気力を回復するという効力がある。呪文に重きを置くサラにも必要であると考えたリーシャが購入する事をカミュへ提言し、それが受け入れられた事によって、サラの指にも嵌められる事となった。

購入する際は、2500ゴールドという大金が必要となるらしい。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ

       ザキ

       ザラキ(未行使ではあるが、契約済)

 

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       メラミ

       イオラ

 

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

       トラマナ

       インパス

       バシルーラ

       ベホマ

       ベギラゴン

       フバーハ

       ベホマラー

       シャナク

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

魔法力という点では、その量も才能もこの少女が人類で最高位に立つだろう。だが、逆に言えば、彼女にはこの魔法力という物しか存在しない。膨大な魔法力で体力を補っているからこそ、既に人類の枠をはみ出している勇者や戦士達と旅を続けて来る事が出来たのだ。体格は通常の子供程度でしかなく、武器を振るう事も、己の身を護る為に盾を掲げる事も出来ない。その腕にある盾も、本来の役目を果たしたのは数度の事であった。故に、呪文行使が不可能な場所に入ってしまえば、彼女は何の役にも立たない存在でしかなく、むしろ足手纏いと言っても過言ではない。

それでも、彼女は諦めない。己の取り得が魔法という神秘しかない事を誰よりも知る彼女だからこそ、その様な状況になった時にでも、自分に何が出来るのか、自分が何をすべきなのかを必死に考えるのだ。

彼女が勇者一行の一人である理由は、その身に宿す膨大な魔法力ではない。行使出来る呪文の種類と数の多さでもない。どのような状況に陥っても、諦める事なく、自身の役割を考え、実行しようとする折れない意志があるからである。

 

【年齢】:7,8歳

奴隷馬車から救い出してくれた勇者によって世界を知り、常に暖かな笑みをくれる女性戦士によって愛を知り、小言を言いながらも常に見守ってくれる賢者によって心を知った彼女は、少しずつ成長を遂げている。それは、勇者一行としての戦闘に役立つ物ばかりではない。通常の子供が少しずつ学んで行く社会の理や、自意識などである。我儘や甘えを知った彼女は親や姉代わりの三人に甘える事に遠慮はないが、それ以外の者達には大人びた対応を取ろうとする。それは、少女が女性へと変わって行く過程の中で起こる自然な行動なのだろう。身体の成長は、出会った頃から比べてもかなり遅いのだが、心の成長は、遅くとも確実に前へと進んでいるのだった。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):天使のローブ

エルフの女王へ『命の石』の欠片を手渡す為に訪れた隠れ里にて購入した物。

変化の杖の力によって、エルフへと姿を変えたメルエの将来に希望を見出したエルフの店主が購入を勧めた物である。

元々、エルフの母達が自分の娘の未来を案じて、一本一本想いを込めて編み込んで行ったローブが起源となっている。母達の強い想いが、そのローブを形成する糸に宿り、それを纏った者を理不尽な死から遠ざける効果を持つと云われていた。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

サラの装備する<魔法の法衣>同様、メルエの母親が編んだ物である可能性が高い。常に彼女の魔法力を支え、その身を守る姿は、母親そのものなのかもしれない。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

既に何度もメルエの身を守る為に立ち塞がっており、魔物等の攻撃を受ける際にも、その形状を変化させる事も解っている。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えており、主を護るその時に、そのオブジェの嘴から<ベギラマ>と同様の灼熱の炎を吐き出した。主と定めた物を護るような意志を持つその杖が、何故スーの村にあったのか、そして誰が安置したのかは、まだ解らない。

   :毒針

何度もメルエの身を護ってくれたトルドからの贈り物。

ただ、最近は、メルエが直接的に魔物から攻撃を受ける機会はなく、それを使用する事もない。

それは、カミュやリーシャ、そしてサラといった絶対的な保護者達の働きが大きいのだろう。

 

所持道具:祈りの指輪

精霊ルビスの加護を持つ指輪。

イシス国女王から下賜されたその指輪は、彼女との約束と共にメルエの指に嵌められている。『必ず元気な姿を見せて欲しい』というイシス国女王の願いは、メルエの胸の中で絶対の効力を持つ約束なのだ。その為に、この幼い少女は他の三人を護らなければならない。護りたいと願い、護ろうと決意する。そんな少女の願いと想いだからこそ、この指輪はそれに応えようとするのだろう。

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

       メダパニ

       ボミオス

 

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       トラマナ

       マホトラ

       インパス

       マホカンタ

       ベギラゴン

       ラナルータ

       マヒャド

       シャナク

 

      【それ以外の呪文】

       メラゾーマ

 

 

 




更新部分が装備品一覧で申し訳ありません。
次章の最新話は、今週中には更新出来ると思います。


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第十九章
アレフガルド大陸③


 

 

 

 砂丘を抜け、再び森へと入った一行は、その森の中で野営を行い、再び北東へと進路を取って歩き出す。左右の深い森に挟まれながらも、中央の平原は真っ直ぐ北へと伸びており、『たいまつ』の炎で照らされた部分しか見えないが、太陽の光を失って尚、このアレフガルド大陸で生きる植物達は、懸命に命を繋いでいた。

 魔物との遭遇は特段なく、スライムやスライムベスといった、最古にして最弱の魔物との戦闘が数度あっただけである。周囲の森は不気味な静けさを保ち、一行が完全に口を閉ざせば、耳鳴りがする程の静寂が平原を支配していた。

 

「アレフガルド大陸はかなり広大な大地だな……ラダトーム王国は、私達が居た世界の中で考えれば、最大の国土を有した国家になるのだろうな」

 

「国家の威光が隅々まで届いているかは甚だ疑問ではあるがな」

 

 暗闇の中で地図を広げ、自分達の歩いている位置を確認していたカミュは、その地図を横から覗き込んで来たリーシャの言葉に棘のある悪態を吐く。

 この勇者である青年は、人間が造った国家を根本的に信用してはいない。謁見の間では余計な波風を立てない為に仮面を被り続けるが、本音の部分では王族を特別視する事もなく、国家の制度を信用する事もない。それは、魔王討伐という鎖のような使命から解き放たれて尚、変わる事はなかった。

 アリアハン国王の真意を知ったリーシャは、そんなカミュの反応に対して悲しそうに眉を落とすが、彼の言う事にも一理はある為にそれを口にする事はない。これ程に広大な領土を持つ国家が、辺境の町や村の全てを管理する事は出来ないのは事実であり、本来であれば王位を継がない王族の者が各地を管理したりする制度を取るものであるのだ。

 だが、このラダトーム王国にそのような制度はないだろう。それは、精霊神ルビスの考えを正確に受け継いでいるからこそなのかもしれない。この広大な大陸は、人間だけの物ではなく、様々な種族の生物や植物達の生きる場所なのである。それをこの大陸で生きる者達は理解しているのだ。

 この大陸が、ラダトーム大陸ではなく、アレフガルド大陸と呼ばれている事からも、それは判断出来た。

 

「東へ進む」

 

「わかった。この大陸の魔物は強いぞ。慎重にな」

 

 地図を見終えたカミュが進行方向を定め、それに頷いたリーシャが注意を勧告する。ここまでの道中で遭遇した魔物は、スライム系の物や地獄の騎士など、上の大陸でも戦った魔物達であったが、勇者の洞窟に生息していた魔物達のような強敵も既に大陸中に広がっていると考えても間違いはないだろう。そして、太陽の光が降り注ぐ事のない暗闇の中での戦闘は、予想以上に神経を使い、陽の光の下での戦闘よりも苦戦する事は明らかであった。

 そんな危機感を再度認識し直した一行であったが、リーシャと共にカミュの持つ『妖精の地図』を覗き込んでいたサラが一人首を傾げていた。何か納得の行かない事があるのか、歩き出そうとするカミュを見つめて口を開く。

 

「カミュ様、地図を見る限り、マイラ方面は陸続きでは行けないように見えますが……」

 

 それは、地図を見て尚、東へ進もうとするカミュへ向けられた疑問であった。

 サラの言葉通り、『妖精の地図』ではラダトーム王都のある大陸とは別に、東に小さな大陸が記されている。その小さな大陸にマイラの村があるとは限らないが、それでもカンダタの言葉を正確に把握すると、『東の小さな大陸』にマイラの村があると考えるのが妥当であった。

 つまり、海を渡らなければその大陸には行けないのだ。もしかすると、大陸を繋ぐ橋が架けられているかもしれないが、海峡を繋ぐ程の橋を架けられるとはとてもではないが考えられない。このまま東に進んでも、行き詰まる可能性の方が高かった。

 

「わかっている。だが、他に有力な情報がない以上、向かうしかない」

 

「わかりました。もしもの時は一度ルーラでラダトームへ戻りましょう」

 

 だが、カミュの言うように情報が少な過ぎる事も事実である。アレフガルド大陸の地理や地名に疎い一行であるからこそ、上の世界で旅していた頃よりも自由度は制限されていた。どの場所にどの集落があるのかも解らず、どのようにその場所へ行くのかも解らない。漆黒の闇に覆われてしまったアレフガルド大陸の民達もまた、都市間を移動しようとは考えず、生来の場所を動かないのだから情報を得る事さえも出来ないのだ。

 ここまでの旅よりも更に細く頼りない糸を辿って行く旅は、とても過酷である。更には太陽の光の無い場所を永遠に歩き続けなければならない事もまた、彼等の精神を削り取っていた。

 

 

 

「…………むぅ…………」

 

 サラがカミュの言葉に納得し、平原を東へ向かって歩き始めて数刻が経過した頃、サラの手を握っていたメルエが顔を顰めて唸り声を上げ始める。魔物の襲来を理解した一行は一気に戦闘態勢に入るが、『たいまつ』の灯りで照らし出せる範囲に魔物の姿は無かった。

 しかし、忍び寄る魔の手は、姿は見えなくとも確実に一行へと近付いて来る。それはサラの手を握りながら顔を顰めていたメルエが、サラの腰へと顔を埋めてしまった事で明白となった。

 

「カミュ、潮風に乗って死臭が近付いて来る」

 

「……また腐乱死体か」

 

 メルエがここまで苦手意識を向ける魔物と言えば一つしかない。竜種に対して怯えを見せる事はあっても、魔物と遭遇する前にここまで不快感を示すのは、死臭と腐敗臭を撒き散らす魔物しかいないだろう。

 上の世界でも何度も遭遇した魔物であり、メルエが己の身に宿った強大な魔法力の恐ろしさを理解する契機となった魔物でもある。火葬も埋葬もされずに放置された死体が魔王や大魔王の魔力の影響で現世を彷徨うようになったそれは、腐り切った身体と、腐乱が進んだ事で思考さえ出来ない脳を持ち、唯一残った生への渇望を剥き出しにして生者へ襲い掛かる。

 次第に聞こえて来た何かを引き摺るような音と、強まって来た腐敗臭が一行へ襲い掛かった。

 

「ベギラゴン」

 

 前方から吹いて来る風と共に漂って来る腐敗臭に眉を顰めたサラは、両手で印を結び、最上位の灼熱呪文の詠唱を完成させる。腰にしがみ付くように顔を埋めてしまったメルエが呪文を唱えようとしない以上、サラが行使するしかなかったのだ。

 前方に着弾すると同時に燃え上がる炎の海が、闇に包まれたアレフガルドの大地を真っ赤に染め上げて行く。平原の草が焼ける焦げ臭い香りと共に、腐敗した肉が焼ける不快な臭いが広がって行った。

 

「カミュ、来るぞ!」

 

 しかし、魔王バラモスの魔力で命を宿した『くさった死体』や『毒毒ゾンビ』とは異なり、大魔王ゾーマの魔力によって仮初の命を宿した腐乱死体は、世界で唯一の賢者が放った最上位の灼熱呪文を乗り越えて来る。

 腐敗し切った肉に炎を宿しながらも、その熱さや痛みを感じてさえいないように前進して来る腐乱死体は、見ているだけでも恐怖を誘う。魔神の斧を構えたリーシャの言葉に頷いたカミュが、剣を手にとって三体の腐乱死体へと駆け出した。

 

<グール>

魔王バラモスよりも圧倒的上位に存在する『大魔王ゾーマ』の魔力によって彷徨う死体。生物の許容量を超えた瘴気に似た魔法力の影響を受けた為、最早意志などは存在しない。生前に強く願った生への渇望と執着、そして何よりも強い生者への憎しみのみによって動き回る。己の肉体を省みる事などなく、痛みも恐怖も感じない肉兵は、他者からの攻撃に怯む事はない。

特殊な攻撃方法など何一つ無く、その肉体で生者を押し倒し、その肉を食らう事で現世に魂を繋ぎ止める。ある意味で言えば、最も厄介な敵となるのかもしれない。

 

「くっ!」

 

 稲妻の剣という神代の剣によって、伸ばされたグールの腕が斬り飛ばされる。それに伴い、腐り切った体液が溢れ出し、その強烈な臭いにカミュが顔を顰めた。

 真っ赤な炎を身に纏い、肉が溶けて尚、カミュ達へ向かって来る腐乱死体は生物としての本能に恐怖を植えつける。飛び出した眼球は既に炎によって消滅し、窪んだ穴からは不気味な光が放たれていた。

 臭気から逃げるように口元を腕で押さえたカミュの腹部に、グールの一撃が吸い込まれる。腐敗した腕自体を破壊する事を厭わない一撃を受け、カミュは後方へ弾き飛ばされた。しかし、彼がその身に纏う鎧は、神代の鎧である。『刃の鎧』と呼ばれるその鎧は、己の主に危害を加えようとする物を許しはしなかった。

 

「グモォォォォ」

 

 最早人語も話せない程に腐敗した脳であっても、自らの死期は理解出来るのであろう。カミュの纏う鎧から放たれた無数の刃がグールに襲い掛かり、焼け爛れたその身を切り刻んで行く。バラバラに分解された腐乱死体は闇の大地へ崩れ落ち、仮初の生命を手放して行った。

 サラの放ったベギラゴンによって、この世界に魂を繋ぎ止める事だけでも限界に近かったのだろう。脆く崩れ去ったグールを見たリーシャは、即座に残るグールを切り刻んで行く。切り刻む度に噴き出す体液を華麗に避けながらも、腐乱死体を瞬時に葬って行った。

 最後の腐乱死体だった物が平原へと崩れ落ちたのを見届けたサラが、もう一度両手で印を結び、最上位の灼熱呪文を唱える。真昼のように平原を明るく染めた火炎がグール達の亡骸を燃やし、煙と共に魂を天へと還して行った。

 

「メラ」

 

 祈りを捧げるように手を合わせたサラの横で、カミュが自身の腹部に向けて最下位の火球呪文を唱える。先程の攻撃によって刃の鎧に付着した腐肉を焼き払っているのだ。幸い、刃の鎧が放った刃と共に腐肉の位置は飛び散り、若干残った物を焼き払うだけで良く、カミュから腐敗臭が漂う事は無かった。

 顔を顰めていたメルエもようやくサラの腰から顔を外し、新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。平原の草と共に焼き尽くされた腐肉はアレフガルドの大地から消え失せ、全てが天へと還って行った。

 

「行くぞ」

 

 自身が纏う鎧から腐肉が消えた事を確認したカミュが再び東へと歩き出す。カミュの近くに寄り、腐敗臭がしない事に頬を緩めたメルエは、彼のマントの裾を握りながら笑みを溢した。

 グールの群れが現れた東の方角からは、微かに潮の香りが漂って来ている。それは海が近い事を物語っていた。海という物を見た事の無かった頃のメルエはその潮の香りを嫌がっていたが、海上を渡る船が大好きになった今となっては、その香りは懐かしさを運んでは来ても、不快になるような匂いではない。

 海の傍に生息する小動物達を思い描く彼女の頬は自然と緩み、そわそわとし始めた少女をサラとリーシャは柔らかな笑みを浮かべながら見守っていた。

 

 数刻の時間を歩き、太陽が昇っていれば西へと傾き始め、一日の終わりが近づく頃になって一行はようやく海辺へと辿り着く。大陸と小大陸の狭間を流れる海ではあるが、その大陸間の距離はそれ程でもないのかもしれない。穏やかな波の海流は、静かな闇の中で安らぎを与える音を醸し出していた。

 波が押し寄せ、そして引いて行く。そんな繰り返しが、戦闘を警戒して荒立っていた一行の心を優しく洗い流して行った。絶え間なく続く潮の満ち引きが、生物の帰巣本能をくすぐるように音を発し、海の向こうさえも見えない闇への不安感を和らげて行く。それは、母なる大地とは異なった安心感を与え、精霊神ルビスとも異なった畏怖を感じる物であった。

 

「やはり海を渡らなければ行けないようですね……。どうしますか? 一度ラダトームへ戻りますか?」

 

「少し周囲を見てみる」

 

 海辺に辿り着くと同時に、カミュのマントから手を離し、リーシャの手を引きながら海岸へ歩いて行ったメルエは、砂浜に顔を出した虫などを見つけてはリーシャの顔を見上げる。砂浜に上がる貝殻を手に取り、暗闇の中でも優しい輝きを持つその貝殻に頬を緩め、大事そうにポシェットへと入れ込んだ。

 そんな幼い少女の行動を眺めながらも、サラはこの場所に来るまでに提案した内容を再度口にする。確かに、船がない以上この海域を渡る事は出来ず、何か他の方法を探す必要性が出て来るのだ。だが、カミュは異なる見解を持っているようであった。

 周囲へ『たいまつ』の炎を翳した彼は、海岸の近くに何かを探すように瞳を細める。漆黒の闇に閉ざされたアレフガルド大陸は、一寸先も見えない程ではあったが、それでも彼は目を凝らす。

 今現在ある情報が、マイラの村という物だけだからである。もしかすると、再度ラダトームへ向かえば、他の情報が手に入るかもしれない。他の都市の情報が手に入るかもしれない。それでも、細い糸を一つ一つ手繰っていかなければならない旅を続けて来た彼らにとって、僅かな情報でも疎かには出来ないのだ。

 

「カミュ! 向こうに小屋があるぞ!」

 

 そんな時、厳しい表情で周囲を見渡していたカミュとサラへ、海辺にいたリーシャから声が掛かる。はしゃぐメルエの手綱を引きながらも周囲へ『たいまつ』を向けていた彼女は、海岸にひっそりと建つ小屋を発見していた。

 二人に近付いて来たカミュ達にも徐々に見えて来た小屋は木造の小さな物であり、その小屋も一つしかない。別段、この場所に集落がある訳ではなく、その小屋だけが海辺にひっそりと建てられていた。

 アレフガルドへカミュ達が降り立った小島にあった小屋と同じような佇まいであり、漁業を生業としている者が生活をしているように窺える。その大きさから言っても、一家族が限界であろう。

 

「誰だ?」

 

 小屋の前に辿り着いた一行は、木で出来た扉を数度叩く。暫くの時間が経過して後、中から警戒したような声が響いた。

 このような場所で柵のような仕切りも無く、剥き出しの小屋で生活する事はかなりの危険を有する。魔物達が凶暴化した今となっては、このアレフガルド大陸でこのような生活をする事は命を秤に掛けていると同義であった。故にこそ、中の住人は突如として鳴った扉へ警戒心を剥き出しにしているのだろう。もしかすると、中では鋭い剣などを何時でも振り下ろせるように構えているのかもしれなかった。

 

「旅の者です。マイラへ向かおうとここまで来たのですが、海を渡る手段がありません。もし、東の大陸へ向かう方法があるのでしたらご教授頂ければと思いお伺いしました」

 

 警戒心を剥き出しにする緊張感のある声に対し、カミュは静かに口を開く。丁寧に告げられた言葉は全て真実であり、それが尚更に誠実さを込める結果となった。

 カミュの言葉に対し、警戒心を緩めた中の人物は扉を少し開き、カミュ達一行の姿を注意深く見つめる。闇に閉ざされた大陸ではあるが、カミュとリーシャの持つ『たいまつ』によって、一行の姿はしっかりと照らし出されており、屈強な青年の後方には女性が二人と幼子が一人という組み合わせも、住人の警戒心を解く一助となった。

 

「こんな時代に、旅なのか? しかも女性と子供を連れて? マイラに何の用だ?」

 

 先程よりも扉は開かれてはいるが、それでもカミュ達を歓迎するような開き方ではない。何かあれば即座に扉を閉める準備はしており、その瞳には怯えさえも宿っていた。

 幾分かの警戒心は解かれてはいても、このような場所で暮らす人間にとっては、今のアレフガルドを闊歩する魔物達は相当な脅威なのだろう。カミュ達四人が魔族ではないという保証は無く、それを全面的に信じる事が出来る程、甘い生活は送って来ていない事が推測出来た。

 

「ラダトームでマイラの情報を得ました。上の世界から来た者ですので、暮らす場所がありません」

 

「上の世界から……。そうか、アンタ方もその口の人間か……。ラダトームでも上の世界の者達を受け入れ始めているという噂はあったが、王城の膝元では暮らし難いかもな」

 

 鋭い視線を向けていた住人ではあったが、カミュが口にした『上の世界』という言葉に反応し、雰囲気を大きく和らげる。このアレフガルド大陸が闇に覆われる前から、上の世界の者達の存在があったとすれば、この道を通った者達もいただろう。そんな記憶があった為なのか、住人はそのまま扉を大きく開いた。

 現れたのは、浅黒く日焼した身体を持つ大柄の男性。太陽があった頃は、何度も舟を出して漁を行っていた事が一目で解る。カミュ達には懐かしささえ感じられる海の男の風貌は、今も尚、彼が海へ出ている事を窺わせていた。

 

「ここからマイラに行くには、船で海を渡らなければならないが……流石に今の海は危険だ。近場で漁をするぐらいなら何とかなるが、向こう側の大陸へ向かうのは無理だろうな」

 

「そうですか……」

 

「魔物との戦闘は、我々で請け負います。何とか舟を出して頂けませんでしょうか?」

 

 小屋の中へ四人を招き入れた男性は、現状を正直に語る。大魔王ゾーマの復活前までは、このアレフガルドでも遠洋での漁業が可能であったのだろう。だが、闇に覆われた今となっては、海域にも強力な魔物達が生息し出している。それが大魔王バラモスの魔力によって凶暴化したのが影響なのか、それとも闇の世界から現れたのかは解らない。だが、現状で舟を出す事は相応の危険を覚悟しなければならない事は確かであった。

 そんな理由を聞いたサラは一気に落ち込むが、カミュは尚も食い下がる。上の世界ではその旅路に関して何処か諦めた感があった彼ではあるが、このアレフガルドに来てからは何かを恐れているように突き進んでいる。そんなカミュの言葉にサラは驚きの表情を浮かべるが、後方にいたリーシャは若干哀しそうに表情を歪め、一つ溜息を吐き出した。

 

「魔物を引き受ける? そんな事が可能なのか? もし、それが可能ならば、塩漬けした魚などをマイラへ売りに行けるし、願っても無い申し出ではあるが……」

 

「大抵の海の魔物であれば大丈夫だろう。もし望むのならば、マイラの村までも護衛を引き受けよう」

 

 カミュの申し出に対し、この男性も全てを信じる事が出来ない。目の前に居る青年は、その姿から見ても十分な戦力を有する存在である事は理解出来るが、それ以外は女性二人と幼子である。巨大な斧を背中に背負う女性はまだしも、自分よりも大きな杖を背中に括っている少女にそのような力があるとはとてもではないが思えなかったのだ。

 だが、そんな男性の疑惑の目を振り払ったのは、斧を背負った女性戦士だった。真っ直ぐに見るめる瞳は、己の力を過信している訳でも、虚勢を張っている訳でもない事が一目で解る。荒れる海を何度も渡り、数多くの獲物を獲って来た海の男だからこそ、彼等の本質の一部を垣間見る事が出来たのかもしれない。

 

「わかった。俺も男だ、アンタ方を信じてみよう。どうせ、このまま時が過ぎれば立ち行かなくなるんだ」

 

 暫しカミュとリーシャの瞳を見つめていた男性は、突如自分の膝を叩き、勢い良く立ち上がる。そこには決意を固めた海の男の顔があった。

 この大陸が平和であれば、この場所で海産物を獲り、山の麓にあるマイラの村まで行商に出る事も可能であったのだろう。だが、今となってはそのような行動は取る事は出来ず、このままこの場所に一人でいれば、何時か命を落とす事になりかねない。それが、魔物によっての物なのか、生活が出来なくなっての餓死なのかの違いだけである。

 故に、この男は人生の駆けに出たのだろう。年齢的に言えば、リーシャよりも上である事は解るが、それでも初老という程ではない。三十路を超えた程度と考えれば、一念発起するには最後の機会だったのかもしれない。

 

「直ぐに出るのか? 何もない所ではあるが、休んで行くかい?」

 

「助かります」

 

 常に夜のような闇に包まれ、いつが昼で、いつが夜なのかを判別する事が不可能なアレフガルド大陸ではあったが、既に起床してから随分長い時間をカミュ達は歩き続けていた。身体は疲労を訴えているし、幼いメルエは眠気を感じて舟を漕ぎ始めている。大陸間の海域を舟で渡り、その後再び歩く事は不可能ではないが危険性は高いだろう。故に、この男性の申し出は一行にとっては有り難い物であった。

 ベッドなどが余っている訳ではない為、部屋の隅に毛布などを集め、カミュ達四人が固まって眠る事になる。男性は隣の部屋で眠り、目が覚めてから行動を開始する事となった。

 

 

 

 翌朝というよりも、一行全員が目を覚ました後と言った方が正確かもしれないが、小屋を出た五人は、海に浮かべられた漁船に乗り込む。人間一人で動かせる舟である為、上の世界でカミュ達が乗っていたような大きな物ではない。だが、アレフガルドに到着直後に乗る事となった少年の舟よりかは幾分か大きな物であった。

 大海原を渡るような物ではないが、吊り上げた魚などを大量に入れる生簀を備えた物であり、小さくはあるが帆もしっかりと備え付けられている。最後にメルエがリーシャに抱き上げられて乗り込んだのを確認した男性が舟に帆を張った。

 闇の中を舞う風を受けた帆が揺らぎ、その力でゆっくりと舟が走り出す。久方ぶりに潮風を感じたメルエははしゃぐように海へ顔を出すが、そこは真っ黒な水が広がるだけであり、海鳥のような動物達の姿も無かった。

 

「メルエ、向こうとは違うだろう? 危ないからこっちへおいで」

 

 眉を下げて肩を落とすメルエに苦笑を浮かべたリーシャが手招きする。仕方なく彼女の傍へと戻って来た少女は、つまらなそうに頬を膨らませた。

 舟の船首には大きな篝火を焚かれ、闇の中でも視界がある程度は確保される。だが、逆に考えれば、海に生息する魔物達に道標を与えているような物であった。闇が支配を始めてから、このアレフガルドには多数の強力な魔物が棲み付いている。それらは常に闇の中で生きて来た者達が多数であり、光という物の方が異質なのだ。故に、篝火のような灯りが灯っていれば、その場所へ襲い掛かる事も当然なのかもしれない。

 

「カミュ様、遭遇した魔物達はまず私が対応します。この舟の上では大掛かりな戦闘は出来ませんから」

 

 周囲に漂う不穏な気配を感じ取ったサラは、魔物との遭遇を警戒しながらも、その対応に関しての意見を口にする。確かに、舟は四人が乗っても歩けるスペースがある物ではあるが、この上での戦闘が可能かと問われれば、それは否であった。この狭さではリーシャが斧を振るう事は出来ず、波の影響を大きく受けている為に踏ん張りも利かない。大掛かりな攻撃呪文を行使する危険性を考えると、長引く戦闘は得策ではないだろう。

 

「この辺りの海域は、ルビス様の塔のお膝元だ。昔であれば、凶悪な魔物など居なかったのだがな……。ルビス様のご威光が届かなくなってからは荒れ放題だ」

 

「……ルビス様の塔ですか?」

 

 カミュとの会話を聞いていた男性が舟を操作しながら呟いた一言にサラが反応する。彼女は賢者ではあるが、元僧侶でもある。今生きている事が出来るのは、自分を心から愛してくれた両親の愛と精霊神ルビスの加護のお陰であると心から信じている者でもあるのだ。どんな僧侶よりも精霊ルビスを敬愛し、どれ程に高位な僧侶よりも精霊神ルビスの存在を信じている。人間が歪めてしまったルビス教の教えを盲信している訳ではなく、その存在の尊さと大きさを誰よりも知っているのだろう。

 それは、このアレフガルドという大地へ降り立ってから尚の事強くなっている。精霊ルビスと人間の架け橋となる存在の『賢者』だからという訳ではなく、何故かサラはこの世界へ降り立ってから、精霊神ルビスという存在を身近に感じるようになっていたのだ。

 ここまでの道中で感じていた奇妙な違和感が、意外な形で解消される事に彼女は驚いていた。

 

「ん? ああ、アンタ方は上の世界から来たんだったな。このアレフガルド大陸には時折ルビス様が天界から下向くださるという言い伝えがある。下向なさるルビス様をお迎えする為に造られたのがルビス様の塔なんだ。ルビス様のご気分を害さぬよう、人間が立ち入る事の難しい北の孤島に造られており、それがここから真っ直ぐ北へ向かった先という訳さ」

 

「……ルビス様が」

 

 上の世界と呼ばれるサラが生まれた世界にはそのような逸話は残っていない。ガルナの塔という塔やダーマ神殿という神聖な場所は存在していても、そこへ精霊ルビスが降りて来るという話は無かった。このアレフガルドという世界が、如何に精霊神ルビスとの距離が近いかの証なのかもしれない。

 ここまで聞いた数々の伝承の中で、精霊神ルビスに纏わる物も多く、尚且つ精霊神ルビスの教えが正確に伝わっている事を考えれば、このアレフガルドという世界を創造した母がルビスであるという話も納得出来る。創造神が生み出した世界ではなく、精霊ルビス自身が生み出した世界であれば、その世界を見守る為に姿を現したとしても何ら不思議ではないのかもしれない。

 

「だが、ルビス様のご威光は闇によって覆われた。今では、ルビス様の塔は、ルビス様が封じられた塔だという話すら出て来ている。ルビス様が封印されたからこそ、このアレフガルドは闇に覆われ、朽ち果てて行くとな……。この世界の多くは絶望によって閉ざされ、あの塔へ近付こうとする者もいない。それに、大魔王の魔力によってあの塔自体が封じられていて、人間が近寄る事が出来ないという話だ」

 

「ルビス様が本当に封じられているのだとすれば、私達は行かなければならないな」

 

「……今は封印を解く方法が無い」

 

 男の話を黙って聞いていたリーシャは、確認するようにカミュへ視線を向ける。だが、彼女達が信じる勇者は冷たい一言を返したのみであった。

 精霊ルビスが封じられているという確証も無く、そしてそれが事実だとしても封印を解く方法も無い。それでは、例えその場所へ行ったとしても、彼等四人に成せる事など何一つ無いのだ。

 何かを期待してカミュを見ていたサラの落胆振りとは正反対に、リーシャは満足そうに頷きを返す。彼女は、カミュの言葉の中にあった『今は』という単語をしっかりと聞いており、それが何を意味するのかを理解していた。

 『今は』という事は、封印されている事が事実で、尚且つその解除方法があれば必ずその場所へ赴く事を意味している。五年近くの旅路の中で、彼女はこの青年が成し遂げて来た事を全て見て来ているし、その経過も見て来ていたのだった。

 

「…………リーシャ…………」

 

「ふぅ……何時か魔物と戦う事のない船旅を経験してみたいものだ」

 

 ルビスの塔と伝えられる塔がある方角を見つめていたリーシャは、眉を下げて袖を引く少女の言葉を聞いて大きな溜息を吐き出す。幼い少女がこの表情をする時の来訪者は決まっている。それが間違いでない事を裏付けるように波立った海面から巨大な姿が出て来たのは、溜息混じりにリーシャが斧を構えた時であった。

 波立つ海面が浮き上がり、船首にある篝火の炎が揺らぐ。カミュ達の進行方向を遮るように現れたのは、真っ赤に染まった二つの巨体。このアレフガルド大陸へ降り立って最初に遭遇した魔物でもあるクラーゴンであった。

 転覆するのではないかと思う程に揺れる船体へしがみ付いた男性は、目の前に現れた巨大なイカの化け物に恐怖し、絶望に染まった顔を青くする。彼の頭の中には、昨日した決断を後悔する念が追い寄せている事だろう。それでも何かに縋るように動かした視線の先に居る四人の若者の瞳を見て、絶望よりも大きな驚きを受けた。

 

「……任せた」

 

「サラ、頼んだぞ」

 

「…………むぅ…………」

 

 一人の女性を除き、それぞれがそれぞれの感情を宿した表情を浮かべた若者達。

 先頭にいた青年は、魔物を見ようともせず、道を空けるように後方へと下がる。青年と同程度の背丈の女性もまた、手にした斧を背中へ結び直し、その者の肩を軽く叩いて後ろへと下がって行く。最後に、幼い少女だけは何処か不満そうに頬を膨らませ、その者を軽く睨んだまま青年のマントの中へと入って行った。

 傍から見れば不思議な光景であろう。舟の目の前には小舟など一捻りに出来るだけの巨体を持つ魔物が二体も居るのだ。それでも戦闘を開始しようとはせず、その魔物の動向さえも見る素振りもない。ただ一人の女性を除き、誰一人魔物へ注意を向けようとさえしていなかった。

 恐怖と絶望の念が再び戻って来た男性の瞳に、三人の仲間から全てを託された者の姿が映し出される。頭部に輝くサークレットの中心に嵌め込まれた深い青色をした石が輝き、その輝きに反した苦悩の表情を見せる女性が両手を魔物達へ向けて小さな呟きを漏らす。

 

「ザラキ」

 

 男性の耳には何も聞こえはしない。その女性が何かを口にした事だけは解るが、それは口元が言葉を紡ぐように動いたからであって、その音を聞いた訳ではない。それでもその呟きのような一言がこの場所の全てを一瞬で変えてしまった。

 雄叫びを上げ、今にも舟を潰そうと振り上げられていたクラーゴンの触手は力を失ったかのように海面へと落ち、その巨体に似つかわしい大きさの瞳からは光が失われる。まるで底なし沼へ落ちてしまった時のように静かに海へと沈んで行く二体の巨大イカが何処か遠い世界の出来事のように映っていた。

 

<ザラキ>

ザキと呼ばれる死の呪文から派生した呪文である。単体の死を願うザキとは異なり、集団の死を願う物。呪いと称しても可笑しくない程の力を持つ魔法ではあるが、単体へ向けた物よりもその強制力は低い。術者である者の意識が単体よりも複数の方が向け難いという事も影響しているのだろう。だが、その呪文によって失われた命の魂は永遠の闇へと落ちて行く事となる。

 

「アンタ方は一体……」

 

 海へ沈んで行く二体のクラーゴンを呆然と見つめていた男性は、機械仕掛けの人形のように首を動かしてカミュ達へと視線を向ける。その瞳には明確な怯えが見えていた。

 人間が何を最も恐れるかと言えば、それは自身が理解出来ない物である。何故人間が『死』を恐れるかというと、それは『死』の先に何があるのかを知らないからであり、もし『死』の先に美しい世界が広がっていると知っていれば、『死』を恐れる理由が無いのだ。

 この男性は先程まで目の前に近付いていた『死』という物を恐れていたのだが、その危機が去ってしまえば、今度はその危機を打ち払った者達の未知なる力を恐れている。それは生物としては当然の感情なのかもしれない。

 

「我々は、大魔王ゾーマを討ち果たす為に旅をしている。その辺りに生息する魔物程度に苦戦をしている場合ではない」

 

 明確な怯えの色を宿した男性の瞳から逃げるように顔を背けたサラに代わって、胸の前で腕を組んでいたリーシャが男性の呟きに答える。

 リーシャはサラの苦しみを見て来た。誰に対しても強制的な『死』を与える力を有した事で前へ進む事が出来なくなった姿を知っている。そんな己の容量を遥かに超えた力を有した事に悩む賢者を救ったのは、同じように世界の枠組みから逸脱した魔法力を有する魔法使いであった。幼い魔法使いを導いたのは、賢者。つまり、彼女の悩みを解決したのは彼女自身なのだ。

 だが、悩みは消えても、己の力の強大さへの恐怖は変わらない。一般的な人間からすれば、その力は圧倒的な暴力であり、有無も言わさぬ程の強制力となる。それを誰よりも知っているのも、常に悩み、苦しみ、泣いて来た賢者なのだろう。故に、彼女は男性の視線から顔を背けてしまった。その怯えの光の濃い瞳で見つめられる事を誰よりも恐れているのだから。

 

「……大魔王を? アンタ方、本気か?」

 

「その為に、このアレフガルドへ来た。余計な騒ぎを起こしたくないから、この話は他言無用で頼む」

 

 大魔王ゾーマという存在は、このアレフガルドでは周知の事実なのだ。上の世界での魔王バラモスのように、当初はその存在を討ち果たそうとする若者達も存在していたのだろう。だが、母なる絶対的な存在である精霊神ルビスの封印という事が大陸中へ広まると同時に、この世界は闇と絶望に包まれたのだ。

 この世界の者達は、誰よりも大魔王ゾーマの恐ろしさを知っている。この世界の創造主であり、尚且つ母神でもある『精霊神ルビス』という存在が封印されてしまう程に弱らせた者となれば、それは世界全てを相手にしても勝利を掴む事が出来ないという存在なのだ。

 そんな幼子さえも知っている力関係を踏み越えて行こうとする者が目の前に居る。それを驚かずにして、何に驚けというのだ。男性は、先程サラが行使した力を忘れ、呆然とリーシャの顔を見上げる事しか出来なかった。

 

「成し遂げられるかどうかは解りません。ですが、私達の力はその為にあると思っています。このアレフガルド大陸の闇を晴らす為に……」

 

 顔を背けていたサラが口を開く。彼女は今、もはや遥か昔の出来事のようにさえ感じるバハラタでのカミュの言葉を思い出しているのかもしれない。懸命に生きる者達の為に成した行動が、己が異質であるという事の証明となり、それが同種族の中で生きる事の妨げに成り得るという皮肉。それをあの時に彼女は嫌という程に味わっていた。

 『自分が選んだ道の先』という言葉が、サラの頭に浮かんでは消えて行く。今や『人』だけではなく、『魔物』までをも含めて平和な世界を目指す彼女の力は、一般の人間からすれば脅威にしかならない。それでもその道を選んだ彼女は、その感情と視線を受け止めなければならない義務を持つ。

 そんな新たな決意に燃えたサラにリーシャは笑みを浮かべ、カミュは静かに瞳を閉じた。

 

「……とんでもない人達を舟に乗せてしまったな。アンタ方の事は口外しない。それは約束するよ。俺の目的はマイラの村へ行く事だけだからな」

 

「……すまないな」

 

 小さな溜息を吐き出した男性は何度か首を横に振り、己の意識を覚醒させて行く。海の男として屈強な身体を持っていたとしても、彼が一般人である事に変わりはない。彼の言葉は、心底から来る本音なのだろう。

 本来であれば、彼のような一漁師がカミュ達のような一行と係わり合いを持つ事は有り得ない。彼からすれば、万が一の災害に巻き込まれてしまったのと同程度の物なのだろう。それでも、そんな小さな確率の出会いは、結果的に彼の延命に繋がる出会いでもあった。それを誰よりも痛感したのもまた、彼なのだ。

 

「対岸が見えて来たな。ここから北東にある大きな森の手前にマイラの村がある」

 

 気持ちを切り替えて舟を動かし始めた男性が、篝火に映る並みの動きを見て大地が近い事を口にする。その直後にオールの先が砂浜に触れる感触が伝わり、カミュとリーシャが海の中へと入って行った。

 ゆっくりと動かされる舟の上で近付く大地に心を躍らせたメルエが舟から身を乗り出すのをサラが懸命に抑える。ようやく陸へ上げられた舟から飛び出した少女は、周囲に生き物の姿が見えない事に肩を落とし、追い付いて来たサラと共に小動物達を探す為に砂浜を歩き始めた。

 砂浜へと三人がかりで舟を上げ、大きな岩に縄を括りつけて固定する。マイラの村へと運ぶ魚介類の干物や塩漬けの荷物を取り出した男性を待って、一行はアレフガルド世界の北東にある小さな大陸を歩き始めた。

 

 『妖精の笛』という道具の伝承があるマイラの村。その村がある小さな大陸の傍には更に小さな孤島があり、その孤島には精霊神ルビスを迎える為の塔があると云う。

 精霊の神という位置に居るルビスと、その母なる存在が想像した世界で生きる者達を繋ぐ場所。そして、大魔王ゾーマとの戦いで弱ったルビスを魔王バラモスが封じた場所。

 大魔王ゾーマの打倒という大望を掲げるカミュ達が避けては通れない場所は、彼等の来訪を待ち侘びているかのように、闇の中で今も聳え立っているのだ。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
更新が遅くなってしまい、申し訳ありません。
次話はマイラの村です。
この章から、少し大きく物語が動く予定です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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マイラの村①

 

 

 

 マイラの村へ向かう道は漁師の男性が知っていた。彼はあの場所で漁を営み、その魚や貝などを干物にしたり塩漬けにしたりした物を、内陸にあるマイラで売却する事で生計を立てていたのだ。ここ数年は海は勿論、陸地でも強力な魔物の出現が相次ぎ、マイラへの行動も危険が高くなった為、自給自足の生活が続いていたらしい。そろそろ命を賭けてでもマイラへ向かわなければ、その命も尽きてしまう所まで追い詰められていたが、カミュ達の来訪という強運に見舞われたのだった。その強運は、狭い袋小路へと追い詰められたこの男性の未来を明るい大通りへと導く程の物となる。

 巨大な森を背にしたマイラの村への道は決して平坦な物ではなく、その途中では魔物達が数多く生息していた。しかも、ラダトーム王都周辺にいるスライムベスのような弱い魔物はおらず、グールやマドハンド、そしてマイラの大陸を守護する為に造られた石達のように一般の人間では生命を諦める事しか出来ない魔物達が主流である。

 そんな絶望的な道にも拘らず、海で魚を揚げる事だけをして来た普通の男性が傷一つ受けずに生きている事が出来るのは、今まさに魔物達との戦闘を繰り広げている四人の若者達が最大の要因であろう。

 

「カミュ、またあの石像を呼ばれる前に終わらせるぞ!」

 

「わかっている。あの手の魔物はメルエに任せる。一気に焼き払え!」

 

 腐敗臭を撒き散らしながら森近くの平原を徘徊しているグールへ向かったリーシャは、その近くの地面から生え出した手を見てカミュへ声を張り上げる。一体のグールを斬り捨てたカミュは、次々と生えて来るマドハンドを見て眉を顰めるが、後方にいる少女が杖を動かしたのを見て、もう一体のグールへと駆け出した。

 サラの横へと出て来た少女の杖の先が妖しく光るという不思議な光景を漁師の男性は、その光景を何処か夢の世界のような気持ちで見つめる。彼は漁師であるが、このアレフガルドの住人でもある。この世に魔法という神秘がある事も知っているし、魔物達がそれを行使する事も知っている。そんな魔物に対抗する為に国家の中枢にいる者達の中で強力な呪文を唱える魔法使いが存在する事も噂程度ではあるが聞いた事もあった。だが、その光景を見た事は一度たりとも無いのだ。

 

「メルエ、今です」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 大地に生えた手が一つの場所に集まった事を確認したサラは、マドハンドが次の行動に移る前に杖を持ったメルエへと指示を出す。その指示と同時に振り抜かれた雷の杖の先のオブジェの口が開いた。

 眩いばかりの閃光が輝き、息も出来ない程の熱気が周囲を包み込む。大量のマドハンドが湧き出した大地に着弾した閃光は、一気に炎の海を生み出した。闇に包まれたアレフガルドの大地を真昼のように照らし出し、真夏のように周囲を熱気が包み込む。その圧倒的な光景は、ここまで魔法という神秘と離れた生活をしていた男性の根底を覆してしまう程の物であった。

 自分が共に行動しようと決めた相手は、人間という枠を超えてしまった者達であり、彼等の怒りを買えば、自分など瞬きをする暇も無く消滅する事が瞬時に理解出来る。その相手に恐怖を抱いてしまうのは、生物としては当たり前の事であろう。

 だが、それでもこの男は怯まなかった。何故なら、彼ら四人に同道しないという選択肢も、海の傍に建てたあの小屋に残るという選択肢も無いのだから。『どうせ、何を選択しても行き着く先が死であれば』という考えがある彼は、その中でも最も生き残る可能性の高い道を選んだ。それは、『人』という種族の強かさなのかもしれない。

 

「大丈夫ですか?」

 

「はっ!? あ、ああ、アンタ方のお陰で傷一つない。マイラの村は、あの森を進んだ先にある」

 

 何処か不安を宿した瞳を向けて自分を気遣う女性を見て、男性は立ち上がる。自分が彼等を恐れていると判断されれば、この場所に置いて行かれるかもしれないという可能性がある以上、男性は気丈に振舞う必要があった。そんな男性の内心を見透かしているように弱々しい微笑みを浮かべた女性は、視線を森の方へと向ける。

 剣に付着した体液を振り払った青年が腐肉の塊となったグールに向けて中級の灼熱呪文を唱え、再び広がった炎の海が、この世に彷徨い続けた死者の魂を天へと還して行った。その後、地図を広げた青年は、他の仲間達へ合図を送り、森の中へと入って行く。それに続くように歩き出した少女を追って、男性を伴った二人の女性が歩き出した。

 

「この森の入り口で今日は休むのか?」

 

「そうだな……。マイラの村までの距離がわからない以上、無理をするべきではないだろう」

 

 森の入り口付近で周囲を見渡しているカミュを見たリーシャは、既に一日の終わりが近づいている事を察する。常に闇が支配するアレフガルドでは太陽の傾きで一日の動きを察する事は出来ない。故に、旅をする者の経験が全てという事になるのだ。何度かの休憩と食事を挟みながら歩き続け、自身の疲労度合いと空腹を指針として休憩時期を決めるのは、先頭を歩くカミュであり、旅慣れたリーシャの役割でもあった。

 マイラまでの道は、旅慣れない漁師の男性も同道している為、歩く速度も遅く、休憩の回数も多い。更に言えば、極力魔物との戦闘が行われないように配慮をしている為、危険性の高い行動は控えていたのだ。

 

「メルエ、一緒に枯れ木を集めて来ましょう」

 

「…………ん…………」

 

「いや、枯れ木も私とカミュで集めよう。サラはメルエと共にこの場所で待っていてくれ」

 

 野営が決定したと同時にサラがメルエへと手を伸ばす。この一行の野営時は各々の役割は決まっていた。火を熾す為の枯れ木を集めるのはサラとメルエ、そして食料となる獣や魚、そして木の実などを採取して来るのはカミュとリーシャとなる。特にサラが賢者として生まれ変わってからは、一行を二分する事の危険性は少なくなり、今ではそれが当然の配置となっていた。

 しかし、今回の行動には一般人である男性が同道している。故に、この場所で男性の身を護る人間が必要となり、リーシャはそれをサラに託したのだ。若干不満そうに頬を膨らませたメルエに苦笑したリーシャであったが、改めてカミュと森の奥へと入って行く。二人の背を見送ったサラが、傍に落ちている少ない枯れ木を組み始めた事で、ようやくメルエもその枯れ木に小さなメラを放った。

 

 

 

「枯れ木も食料もこのぐらいでいいだろう」

 

 森の奥へと入り、枯れ木を持っていた縄で括りつけたカミュは、リーシャが抱える木の実や獣を見て、一つ息を吐き出した。闇に支配されたアレフガルドではあるが、森で暮らす小動物達も逞しく生き抜いている。全盛期に比べれば数は少なくなっているだろう。それでも子を成し、懸命に次世代へ命を紡いで行く生物の在り方は変わらずに残っていた。

 他者の生命を口にしなければ生きては行けない『人』という種族もその数を減らしてはいてもまだ生き残っている。この世界の生物達が全滅する前に大魔王ゾーマを討ち果たす必要性を、手に持つ小動物の遺体を見ながらリーシャは改めて思っていた。

 

「待て!」

 

 縄で縛った枯れ木の束を持ったカミュを先頭に野営場所へ戻ろうとしていた二人であったが、その途中でカミュは小さくとも鋭い声を発した事で、行軍は停止する。木々の陰に隠れるように屈み込んだカミュに続きリーシャもその後方で屈み込み、鋭い視線を向ける彼の瞳の先を見つめた。

 闇と静寂が支配する森の中でじっと息を殺していると、僅かな振動が地面を伝ってカミュやリーシャの身体に襲い掛かる。始めは僅かな物であったが、それが近付いて来ている事の証明であるように振動が大きくなって行く。

 

「ここから暫く、息を吐き出すな」

 

 小さな声で忠告を受けたリーシャは口を開く事なく、首だけで了解を示す。魔物達は、人間などとは比べ物にならない嗅覚を持つ。人間の放つ体臭や吐き出す息の臭いでその存在を見つける事も可能であるのだ。

 振動の大きさから、遭遇した事のある『動く石像』や『大魔人』のような本来生命を持たぬ石像なのかと考えたリーシャであったが、そんなカミュの忠告がそれらのような相手ではない事を察した。

 そして、遂にその存在が姿を現す。

 

「なっ!?」

 

 思わず声を漏らしてしまったリーシャを誰も攻める事は出来ないだろう。しかし、振り向いたカミュの瞳は鋭く彼女を諌める物であり、それを受けた彼女は口を手で覆い、もう一度深く身を隠した。

 木々の生い茂る森の先に見えた物は、骨。それもカミュ達の倍以上の大きさを誇る巨大な骨が、その骨格を崩す事も無く歩いていたのだ。

 その骨格を見る限り、人類の物でない事は確かである。巨大な頭蓋骨の先には大きな二本の角のような骨があり、大地を踏み締める足の骨の付け根にある尾骶骨には、長い尻尾のような骨がついていた。また、背中には巨大な翼を模る骨が広がっており、それがこの骨の化け物の生前の姿を物語っている。

 

「……竜種の成れの果てか」

 

「世界最高位に立つ竜種でさえも、大魔王ゾーマの魔力には抗えないのか?」

 

 カミュ達の存在に気付く事なく、森の奥深くへと移動して行く骨の化け物が遠く離れた事で、ようやくカミュは口を開く。幸いな事に、サラやメルエが待つ野営地の方角から来た訳でも、そちらへ向かう訳でもなかった為、敢えて戦闘を行わなかったが、それが正解であったのかもしれない。竜種の成れの果てとはいえ、あの形状の骨格を持つ竜種であれば、ヒドラやヤマタノオロチとはまた異なった種族の竜である事は明白である。竜の女王と同様の竜種であったとすれば、それ相応の力を有していてもおかしくはなかった。

 そして、竜種という種族は、間違いなく世界最高位に立つ種族である。人類やエルフ、そして魔族であろうとも、その種族差は越えられない。下位の物であれば、エルフや魔族の上位に立つ者よりも力量は劣るだろう。だが、竜の女王と同等の種族となれば、それは相対する事の出来る相手ではなかった。

 そんな上位に位置する種族の亡骸さえも操る大魔王ゾーマの力に、リーシャは改めて旅の困難さを知る事となる。

 

 その後、野営地へ戻った二人は、先程遭遇した骨の化け物の話をする事はなく、静かに休憩を取る事とする。相対した訳ではない為、その力量が解らない以上、この場で変に先入観を植え付けるべきではないというのが、カミュとリーシャの共通した認識であったのだ。

 リーシャが採取して来た果物を美味しそうに頬張り、満面の笑みを浮かべているメルエの口元をサラが拭う。くすぐったそうに笑うメルエの姿が、食事の時間を和ませている。マイラの村へ辿り着けば、一先ずは漁師の男性とは別れる事になるだろう。その後には再度あの骨の化け物と遭遇する可能性は高く、メルエの頭を撫でながら、リーシャはその時に起るであろう激戦へと気を引き締めていた。

 

 

 

 一眠りした一行は、森の奥へと向かって歩き出す。途中途中で足を止めて小動物や昆虫、そして花々を目を輝かせて見つめるメルエに苦労しながらも、森を進んで行った。

 北へと向かって進んで行く道は、獣道というよりは人間が踏み締めたような道が続いており、柵こそある訳ではないが、何度も何度も人間がこの道を通った事が解る。先頭を歩くカミュの直ぐ後ろに漁師の男性が荷物を引きながら続き、何度かある曲がり角の道を伝えていた。

 森に入ってから半日程の時間を進むと、急に木々の無い開けた空間へ出る。そこには明らかな集落の入り口が見えていた。

 大きな木造の柵が周囲に巡らされ、集落の後方は険しい岩山が保護している。魔物の襲撃に備える為に作られた柵は、今現在アレフガルドに生息する強力な魔物達に対してとなれば心許ない物であるが、通常の魔物達への備えとしては有効な物であろう。集落の中は、人間が落ち着くような明かりが灯されており、少なくない数の者達がここで暮らしている事を物語っていた。

 

「…………むぅ………くさい…………」

 

「また、あの腐乱死体か」

 

 しかし、そんな集落の門の前に佇んだ彼等であったが、リーシャの手を掴んでいた少女の顔が顰められると同時に吐き出された呟きを聞き、即座に臨戦態勢となる。確かにメルエが言うように、集落の周囲を異様な臭いが包んでいる。何度か遭遇した腐乱死体のような目も開けられない程の臭いではないが、まるで玉子を腐らせたような臭いが周囲を漂っていたのだ。

 軽く溜息を吐き出したのはカミュとリーシャ。歴戦の戦士達である彼らにとっても、あの腐乱死体との戦闘は、肉体的にも精神的にもかなり辛い物なのだろう。その溜息には、辟易とした想いが十二分に詰まっているようであった。

 

「……でも、この臭いは村の中からしていますね」

 

「なに!? 既に村は壊滅していて、死体全てが腐乱死体の集まりにでもなっているのか!?」

 

「…………むぅ………いや…………」

 

 臨戦態勢に入り、周囲を警戒するように視線を動かしていたリーシャは、不意に告げられた予想もしない言葉に戸惑ってしまう。何かを考えるように集落の中へと視線を移すサラの瞳が厳しく細められた事で、リーシャの中である事が決定付けられてしまった。そして、そんな場面を想像したのか、完全に眉を下げてしまったメルエがカミュのマントへと逃げ込んでしまう。

 マイラの村が、テドンの村よりも凄惨な場所となってしまった瞬間であった。

 

「いや、この臭いは『硫黄』だよ。上の世界には、温泉はないのか?」

 

「……温泉?」

 

 しかし、四人が次の行動へと移ろうとしたその時、不穏な空気によって硬直していた男性がようやく口を開く。何度もマイラの村へ来た事のある彼にとって、この臭いは嗅ぎ慣れた物だったのだろう。だが、ここまでの道中でグールという動く腐乱死体を見てしまった彼は、あの時の恐怖と吐き気を思い出してしまい、一時的に思考を手放してしまっていたのだ。

 だが、よくよく考えれば、村の中が全て腐乱死体で埋まっていたとしたら、このような明かりは灯っていないだろうし、中から住人達の賑やかな声も聞こえて来る筈が無い。そんな事に思い至った彼は、臭いの元である物の正体を彼等に伝えたのだった。

 対するカミュ達にとって、湯浴みというのは重要な行為ではあったが、大地から湧き出す熱湯という物を見た事はない。温泉に浸かり、心と身体の疲労を取るといった行動が取れる程、彼等の旅は悠長なものでもなかった。初めて聞く名に、初めて嗅ぐ臭い、そんな未体験の存在に彼等は戸惑う事しか出来なかった。

 

「まぁ、入ってみれば解るさ。ここまで無事に来れたのは、アンタ方のお陰だ。俺は知り合いの家に泊めてもらうが、アンタ方の宿代は俺に持たせてくれ」

 

 ここまでの道中で、どれ程に凶暴な魔物と遭遇しても顔色一つ変えずに対処していた四人の若者の表情が、今まで見たことの無い程に呆けているのを見て、漁師の男性は何処か安堵したような溜息を吐き出す。今まで強引に抑え付けていた恐怖心であったが、今の四人の表情を見ると、『彼もやはり人間なのだ』という安堵の想いが強く湧いて来たのだ。

 このマイラを知る者であれば誰しもが知っている『温泉』という存在。平和な世であれば、その歓楽を求めて多くの人間がこの地を訪れるそれを、彼等は見た事がなかった。それだけなら特別珍しい事でもなかったが、温泉に漂う硫黄の香りを腐乱死体の臭いと勘違いし、もう少し遅ければ、武器を片手に村へ乱入する所であったのだ。ここまでの道中の毅然とした姿しか知らない彼にとって、そんな何処か間の抜けた四人の行動が、恐怖の針を振り切らせ、笑いへと変える程の物だったのだろう。

 

「ぷっ……。そのまま武器を振り回して村へ乱入すれば、大魔王討伐を目指す勇者どころか、盗賊や山賊だったぞ。あはははっ」

 

「あははは……危ないところでしたね。とんでもない恥と、誤解を受けるところでした」

 

 笑い出した男性に対し、表情を顰めたリーシャとは異なり、サラは脱力したように肩を落として乾いた笑いを吐き出す。例え賢者であっても、知らない事は多くあり、それはこのアレフガルドで生きる者達にとって常識的な事である可能性もある。どれだけ濃密な経験を重ねて来たとしても、彼等はこの世に生まれて未だ二十年程度しか生きてはいないのだ。そんな当たり前の事を再認識したサラは、『むぅ』と頬を膨らませるメルエの手を取って小さな笑みを浮かべた。

 笑われている事と、一向に消える事の無い臭いに顔を顰め続けるメルエではあったが、よくよく考えれば、彼女は潮風の香りを初めて嗅いだ時もこのような顔をしている。その後、海を渡る船からの景色に心を奪われた彼女は、そんな海の景色と共に漂う潮の香りを好ましい物へと変えて行った。

 温泉という物がどのような物なのかは未だに定かではないが、それがこの少女にとって心地良い物であれば、この奇妙な臭いもまたそれを示す物として好ましい物へと変わるかもしれない。

 

「さぁ、入ろう」

 

 一頻り笑い終えた男性は、木造の門を叩き、村の入り口を護る門番と幾つか言葉を交わす。小さな勝手口のような門を開けてもらった男性は、未だに憮然とした表情で村の入り口を見つめる四人を中へと誘った。

 カミュを先頭に門を潜り、最後に入ったリーシャが周囲の魔物の気配に注意しながら門を閉じる。門の両脇に灯された篝火の奥は、かなりの人数が暮らす大きな集落となっていた。闇を晴らすように多くの篝火が焚かれ、数多くの家屋が所狭しと建てられている。中央の大通りが村の背に聳える岩山へ向かって真っ直ぐ伸びており、その大通りを挟むように様々な店が並んでいた。

 予想していたよりも遥かに栄えた町並みに驚いたカミュ達ではあったが、漁師の男性が持っていた荷物を売りに行くという言葉と、宿屋には話をつけておくという言葉と共に去って行く姿を見て我に返る。

 

「カミュ、どうする?」

 

「宿へ向かう前に武器と防具の店や道具屋へも寄って行きましょう。勇者の洞窟のような場所が幾つもあるとは思えませんが、ある程度の備えは必要である事は確かです」

 

 残された一行は、この後の行動方針をカミュへと尋ねる。リーシャは純粋に方針を問いかけているのに対し、サラはここまでの道での教訓を組み入れて準備を提案していた。

 確かに、勇者の洞窟のように呪文を行使出来ない場所は多くないだろう。だが、そのような場所が無いと言い切る事も出来ない。万が一、再びそのような場所に踏み入れてしまった場合、薬草や毒消し草、麻痺を治す満月草などの持ち合わせが無ければ今度こそ全滅してしまうだろう。そんな可能性を打ち消す為にも、サラの言い分通り、道具屋である程度の備えをしておくべきであった。

 賢者の申し出に確かな説得力があった為、マイラの村へ入った一行の指針は決定する。まずは武器と防具の店、そしてその後に道具屋へ向かう事で一行は行動に移った。

 幸い、武器と防具の店は大通りの右手に看板が見えており、未だに硫黄の臭いに顔を顰めるメルエをリーシャが抱き上げ、店舗へと足を進める。

 

「いらっしゃい。色々と揃えているから、遠慮なく見ていってくれ」

 

 武器と防具の店の扉を開いた途端、中のカウンターに居た店主は驚いた表情を浮かべた直後、満面の笑みを浮かべてカミュ達を歓迎する。おそらく、長く続く闇によって、このマイラの村へ来る人間も激減しているのだろう。この村で生活する人間にとって、武器や防具はそれ程必要に迫られている物ではない。貨幣の流が止まる事はないだろうが、このような時代になってしまえば、食料を自給自足している物が一番強い。ゴールドが幾ら有っても腹は膨れないのだから当然であろう。

 だが、そのような時代の先にある物を見据えて動く者達が商人である。そんな商人であっても客が居なければ商売にはならず、客を求めて旅するには、余りにも過酷な状況であったのだ。

 

「この村特有の物はどんな物があるんだ?」

 

「この村特有の武器や防具か……。この『水の羽衣』という防具を販売しているのは、この村だけだろうな。今や、この一着しかないが」

 

 カウンター前まで移動したカミュが店主へ販売商品に関して問いかける。その問いかけに暫し考え込んだ店主は、奥に入って一つの木箱を持って戻って来た。

 しっとりとした木箱はまるで水に濡れているように見える。売りつけようとする商品の入った木箱を濡らすような雑な扱いしかしていない店かと誰もが落胆した時、店主は木箱を空けながらその防具について軽い説明を挟んだ。

 中に入っていた衣は、その名の通り、羽根のように軽やかで美しい輝きに満ちている。透き通るような青色に彩られたそれは、確かに羽衣という名に相応しい物であった。店主の言葉を信じれば、このマイラでしか売られておらず、尚且つこの一着しか残っていないというかなり希少価値の高い防具である事が解った。

 

「これは、『雨露の糸』という天上の女神様が紡いだ糸によって作られる。雨が降った翌日に稀に見つかる物なのだが、このマイラの森の近くにある事が多いんだ。その糸を特殊な方法で編み込んで作られるんだが、今はそれを織れる者がいなくてな」

 

「女神様が紡いだ糸ですか……」

 

 その衣の美しさに見惚れていた一行は、その衣に纏わる話を聞いて尚更に驚いた。精霊神ルビスを信仰する大陸に伝わる天上の女神の話。それは何とも神秘的で美しく、もし平和な世の中であれば女性はこの防具を競うように欲するのではないかと思われる程に魅力的な物であった。

 雨露の糸の貴重さも然る事ながら、既にこの衣を織れる人間が居ないという事がその希少性と美しさに拍車を掛けている。闇の中でも輝く湖面のように流れる衣の表面は、カミュ達四人の顔を映し出していた。

 

「この衣は、その名の通り水のように滑らかで、露のように軽い。炎のような攻撃に対してもそれなりの耐性があるみたいだしな。だが、こんなに美しく、価値のある物だが、今のマイラでは売れない。水のような特性のある物を保管するのも難しくて、もし買ってくれるのなら、ある程度は安くさせて貰うよ」

 

「カミュ、サラの着ている魔法の法衣もそろそろ限界かもしれない」

 

 店主の話を聞いていたリーシャが口にした『限界』という言葉は、決してサラの着ている魔法の法衣という衣服の状態を示している訳ではない。上の世界以上の魔物達が蔓延るアレフガルドを旅する中で、サラだけがテドンで購入した防具を身に纏っているのだ。

 メルエが纏っている天使のローブという物は、テドンよりも遥か前に訪れたエルフの隠れ里で購入した物ではあるが、それを織ったのはエルフであり、その中にはかなり特殊な特性を編み込んである事も考えれば、サラの物とは比べ物にはならない。

 実際、メルエの実母が織った魔法の法衣という防具は、同様の法衣などに比べて遥かに良い性能を持っている。特殊な技法で編み込まれた絹の糸には、呪文に対する耐性なども備えられていたからだ。

 それでも、この先の旅を考えるのならば、この場所で装備品を変えておくべきだとリーシャはカミュに語っていた。

 

「いくらだ?」

 

「本来は一品物という形になるから値が上がるんだが、12500ゴールドでどうだ?」

 

 リーシャの言い分を受け入れたカミュは、店主に対して値段を問いかける。しかし、返って来た金額に、一行は眉を顰めた。

 高過ぎる訳ではない。これ以上に高い装備品を既にラダトームで見ている。逆に一品物となるそれの値段としてはどうにも中途半端な物なのだ。それが、この防具の信憑性を下げてしまっている。だが、この衣の特殊性を考えると、今の時代で在庫として抱えるには難しい物である事も理解出来る為、カミュ達は微妙な表情を浮かべてしまったのだった。

 

「わかった、貰おう。これは調整が必要なのか?」

 

「いや、雨露の糸は伸縮を自ら行うから、着たい人間が着るだけで良い」

 

 懐からゴールドを取り出したカミュはカウンターへそれを置き、店主の言葉を聞いて『水の羽衣』の入った木箱をサラへと押し出す。半ば無理やり押し付けられたサラは、この場で着替える事も出来ず、店主と木箱、リーシャと木箱というように視線を彷徨わせて戸惑った。

 その後、店主の勧めで試着室へと入って行くサラを恨めしそうに見つめる幼い視線に気付いたリーシャはいつも通りの買い物風景に苦笑を漏らす。『むぅ』と頬を膨らませる少女にとって、買い物時は誰よりも期待に胸を膨らませているのだろう。『また、自分も何か買ってもらえるかもしれない』、『何か新しい物が自分の物になるかもしれない』という願いに近い期待が、いつも彼女の胸の中にあるのだ。それは、この少女の年齢と生い立ちから考えれば仕方の無い事だとリーシャは考えていた。

 

「メルエにはエルフの人々の願いの詰まった天使のローブがあるだろう? それに武器はメルエの守護者でもある雷の杖だ。それをメルエは手放すのか? ならば、他の物を買うか? 今まで一緒に戦って来て、何度もメルエを護ってくれたそれを捨てるんだな?」

 

「…………むぅ…………」

 

 それはリーシャでしか口に出来ない言葉なのかもしれない。彼女ほど、自身の武器や防具に愛着を持ち、長く使い続ける者はいない。既に武器としての機能を果たせないドラゴンキラーが今も彼女の腰に差されている事がそれを物語っていた。

 だが、幼い少女からすれば、その言葉は卑怯であり、カミュのような青年が聞けば鼻で笑うような事でもある。今の武器よりも良い物があれば即座に買い換えるという姿勢が彼の命を救って来た事も確かなのだ。

 それでもリーシャはメルエにこの言葉を伝えただろう。それは、魔道士の杖という一般的な武器を心の支えとし、あれ程に依存していたメルエだからこそ、雷の杖という武器もまた、彼女の心を支える事の出来る武器である事を伝えようとしたのだ。そして、彼女が身に着ける『天使のローブ』という物は、エルフ族の者達の願いと想いが込められた物である事、そしてその願いがリーシャ達三人の願いでもある事をメルエには理解して欲しかったのかもしれない。

 だが、幼い少女にはそれは少し難しい事であった。膨らませた頬のまま、サラの入っていた試着室を睨み、『ぷいっ』と顔を背けてしまう。流石のリーシャも苦笑を浮かべるしかなかった。

 

「他には何かあるか?」

 

「他にか……。そうだな、この『賢者の杖』というのも一品物ではあるな。何でもこのアレフガルドへ来た『賢者』がこのマイラの村で多くの人々を治療するのに使ったという逸話が残された物だ」

 

 膨れるメルエを視界の隅に納めたカミュは、意図的にそちらへ視線を向ける事なく、店主へ他の物を見せてくれるように頼む。そんなカミュの言葉に応えるように店主が取り出した物は、木造の杖であった。

 メルエが昔所有していた魔道士の杖のような木造の杖は、杖先が木槌のような形をしている。片方は尖っているが、もう片方は先が平たく整えられており、その中央には不思議な宝玉が埋め込まれていた。

 このアレフガルドにも『賢者』という存在が居たのか、それともカミュ達が生まれた上の世界からアレフガルドへ訪れたのかは解らないが、その伝承が信憑性が皆無ではないという事が解るだけの雰囲気を持った物であったのだ。

 

「これもサラに必要か?」

 

「この杖の付加能力がベホイミやベホマと同じような物であれば、あの洞窟のような場所でも役には立つだろうが……」

 

「…………サラ………ずるい…………」

 

 『賢者の杖』という名は、確かにサラが持つ物には相応しい。だが、リーシャの中でサラという人物と杖という武器が結びつかない。それはカミュも同様であったのか、何処か消極的な発言となっていた。唯一、幼い少女だけは、不満そうに頬を膨らませ、試着室を睨みつける。

 『むぅ』と再び頬を膨らませ始めたメルエを抱き上げたリーシャは、その頬を軽く突きながらもその杖の必要性についてカミュへもう一度視線を向けた。その視線を受けたカミュは、軽く首を横へ振りながら、その持ち主となる可能性のある人物のいる場所へと視線を移す。

 

「これは、本当に凄い衣ですね。まるで常に身体の周囲に水が流れているような気さえします」

 

 店舗内に流れる何とも言えない雰囲気を察する事なく試着室から出て来た『賢者』は、着終えた『水の羽衣』の素晴らしさに感動を覚え、歓喜の表情を浮かべている。全員にその素晴らしさを理解して貰いたいという感情が漏れ出している笑顔は、自分に集まっている奇妙な視線に気付いた時に凍りついた。

 カミュやリーシャの微妙な瞳、そして店主の困ったような表情、何よりも不満と妬みを濃く宿したメルエの鋭い視線が、サラを硬直させてしまう。『水の羽衣』という神代の防具にも近い物が自分には似合わなかったのかと大きく外れた事を考えながらも、それらの視線が全く違う物である事に気付き、首を傾げてしまった。

 

「え、えぇ……何かありましたか?」

 

「…………サラ………ずるい…………」

 

 恐る恐る問いかけたサラの言葉に被せるように発せられた少女の言葉は、いつも通りの物ではあったが、ここまでの旅の中でも何度も遭遇した場面であった為にそこまでサラが動揺する事はない。それよりも、カミュとリーシャの視線が移ったカウンターの上に置かれた一つの杖が彼女の視界に入って来た。

 何とも言いようが無い不思議な雰囲気を持つその杖は、何かを語りかけるようにサラの前に置かれており、不満そうに近づいて来たメルエの頭を撫でながらも、サラはカウンターへと進み出る。疑問を口にする前に、彼女はリーシャへと視線を移し、その後カミュへと瞳を向けた。

 

「賢者の杖という杖だ。遥か昔、このマイラを訪れた賢者が使っていた物らしい。話を聞く限り、ベホイミやベホマといった回復呪文と同等の付加能力を持っている可能性が高い」

 

「この杖を使うとしたら、サラだろうな。私達には使えないし、メルエには雷の杖がある」

 

 サラの視線の意味に気付いたカミュとリーシャがその杖に秘められているだろう能力を口にする。それを聞いた彼女は若干の驚きを表情に出し、もう一度カウンターの上に乗る杖へと視線を落とした。

 回復呪文というのは最上位の神秘である。生きている者達にとって、他者を殺める呪文よりも、他者を生かす呪文の方がより神秘に近いのだ。だからこそ、教会に属する者達がこれ程に重宝されるのだろうし、信仰を強めて行く。それだけの神秘を内に宿す杖となれば、これ程に貴重な物はないだろう。それは、このアレフガルドを覆う闇を払う者達が持つ物として十分な価値を持つ物でもあった。

 

「回復呪文の効果を持つ杖であるならば、私が持つ物ではありませんね。確かに、勇者の洞窟のような場所が他に無いとは限りませんが、それでもこの杖はこの村にあるべきだと思います」

 

 だが、それだけ貴重で希少な武器を、当代の賢者は笑顔で固辞する。その笑みを見たリーシャは何かを察したように笑みを浮かべ、カミュは小さな呆れの溜息を吐き出して瞳を閉じた。先程まで膨れていたメルエは、『何故買って貰える物を断るの?』とでも言うように首を傾げる。

 水色に輝く羽衣を纏った賢者は、そんな少女の頭をもう一度撫で、目線を合わせるように屈み込む。不思議そうに見つめるメルエと目を合わせ、柔らかな笑みを浮かべたサラは賢者の杖を固辞した理由を口にした。

 

「この杖に回復呪文の効果が有るのならば、魔法力を持つ者であれば使用が出来るかもしれません。人や、動物や、それこそ魔物であっても、傷ついた方々を救える手段は残しておきたいのです」

 

 『水の羽衣』の輝きとは別に、リーシャにはサラが眩しく見える。あれ程に悩み、苦しみ、迷い、泣いて来た女性が、今や魔物さえも救う手段を残しておきたいと口にしていた。何故か湧き出して来る涙が、何の涙なのかがリーシャには解らない。だが、五年という月日で遥か高みへと昇り始めた彼女の道が、真っ直ぐに伸び続けている事を祈るのであった。

 

「カミュ様、この杖は幾らですか?」

 

「ん? ああ、まだ伝えてなかったな。15000ゴールドだよ」

 

 問いかけられたカミュは、そのまま店主へ視線を移す。その視線に品物の値段を伝えてなかった事に気付いた店主は、苦笑交じりに口を開く。その値段もまた、納得が出来るような、それでいて納得出来ないような微妙な値段であった。

 水の羽衣よりも高い値段ではあるが、それでも賢者と呼ばれる人間が使用し、回復呪文と同程度の付加効果を持っている武器としては安過ぎると言える。リーシャが装備しているミスリルヘルムの値段が18000ゴールドである事を考えると、破格の値段と言っても良い。

 

「この盾は買い取って頂けますか?」

 

「ん? 随分珍しい盾だな。これは上の世界の盾なのか? そうだな……随分使い込まれているようだから、5000ゴールドで買い取るよ」

 

 15000ゴールドは決して少ない金額ではない。サラは水鏡の盾を装備する際に外した魔法の盾をカウンターに置いて買取を依頼する。少しでもゴールドが入ればと考えての行動ではあったが、店主の以外な言葉に彼女は素っ頓狂な声を上げてしまった。

 魔法の盾は上の世界では2000ゴールド程度で販売されている物である。故に、この店主が申し出て来た買取価格は倍以上の値段となるのだ。確かに、このアレフガルドには魔法の盾という盾は存在しないのかもしれないが、その品質で言えば、水鏡の盾の方が数段上であった。物珍しさという部分もあるのかもしれないが、もしかすると上の世界の武器や防具、そして道具などを収集する人間からの需要があるのかもしれない。

 

「カミュ様……」

 

「アンタの負債だぞ……。この杖をくれ。その盾の買取額を引いた10000ゴールドだ」

 

 縋るように見つめて来るサラに溜息を吐き出したカミュは、厳しい楔を打ちながらも腰の革袋からゴールドを取り出す。この店だけでもかなりのゴールドを使用した為、腰の革袋の膨らみはかなり小さくなっていた。

 柔らかく微笑むリーシャの横で、『結局買って貰うのではないか!』という想いを隠そうともせずに鋭い視線を向けるメルエへ微笑んだサラは、購入した賢者の杖を持って、そんな少女の頭上に杖先を下ろす。大好きな姉のような存在から下ろされた杖によって、予想だにしない暴力を受けると思った少女は驚きに目を見開いた後、ぎゅっと瞳を閉じた。だが、一向に襲って来ない衝撃に目を開け、首を横へと傾げる。

 メルエが不思議そうに首を傾げると同時に、賢者の杖の杖先が淡い緑色の光を放ち始め、心地良い空気を生み出した。それは、まさに回復呪文が生み出す癒しの輝きであり、生命への祝福の光である。

 

「やはり、お二人のおっしゃる通りでしたね。この杖には回復呪文の効果が備わっています」

 

 杖に願う事で回復呪文と同程度の癒しを生み出す。光の度合いから見ても、おそらくはベホイミ程度の力ではあろうが、死に瀕するような傷でなければ大抵の傷は治療が可能な力であった。

 その光を生み出したサラは、満足そうに杖を持って微笑み、再びカウンターへと戻す。購入された物が戻される事に驚いた店主は、疑問に満ちた瞳をサラへと向けた。

 

「この杖はお貸し致します。このお店に置いて頂き、必要になった際には使用出来る方に持って頂いて、苦しむ方々を救って下さい」

 

「え? あ、ああ……それは構わないが」

 

 サラのその言葉を予想していなかったのは、この店主とメルエだけであったのだろう。不思議そうに首を傾げる少女と、驚愕に目を見開いた店主だけが戸惑いを見せていた。

 購入金額となるゴールドを支払った以上、賢者の杖の所有者はこの一行であり、先程その杖を手にしたサラである。その人間が武器をどう扱おうと店主が何かを言う権利はなく、その申し出を断る事など出来はしない。必然的にサラの言葉を受け入れるしかなかった。

 

 この『賢者の杖』と呼ばれる杖は、後世にまで『賢者』から送られた杖として、マイラの村を護る象徴となって行く。どれ程の困難が訪れようと、どれ程の苦難が待ち受けようと、このマイラだけは常に来る者を拒まず、訪れる者達を和ませる町として名を残して行く事となる。

 にこやかに微笑む賢者の顔は、武器屋の店主から誇張を含めて語られて行く。それは、アレフガルドに長く伝わる一つの物語となって行くのだった。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
次話もマイラの村となると思います。
おそらく「閑話」となるでしょう。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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~閑話~【マイラの村】

 

 

 

 武器と防具の店を出た一行は、そのまま対面にあると云われる道具屋へと向かって歩き出す。手持ちのゴールドが少なくなった事もあり、魔物達の部位を売却しようとしたところ、道具屋の主人が色々と買い取っているという話を聞いたのだ。

 マイラの村で道具屋を開く主人も、元々はアレフガルドの者ではなく、上の世界から降りて来た者だという事であった。道具屋を営んではいるが、鍛治にも長け、色々な武具を武器屋へ下ろしているのだそうだ。

 先程の武器と防具の店にあった、『パワーナックル』と呼ばれる素手に嵌める事で物理攻撃力を上げる武器や、戦う為の巨大で重い金槌である『ウォーハンマー』なども、道具屋の主人が鍛治で生み出した物であるという。

 

「おい、カミュ。あそこに居る婦人は、もしやジパングの女性ではないか?」

 

「黒髪ですね」

 

 その道具屋へ向かう途中の家屋付近で庭の手入れをしている女性を見たリーシャがその容姿を見て驚きの表情を浮かべる。その声で確認したサラもまた、同様の声を上げた。

 このアレフガルドを訪れてからも、黒髪の人間となればカミュ以外には存在していない。上の世界でもジパングと呼ばれる島国で暮らす者達以外に艶のある漆黒の髪を持つ者達はおらず、それがマイラの村に存在する事自体が異様な事であったのだ。尚且つ、その女性が着ている衣服もまた、このアレフガルドでも珍しい衣服であり、ジパングで暮らす者達が好んで着用する物であった。

 それが示す事は、この女性がジパング出身の者であり、カンダタと同じように何らかの影響でアレフガルドへ来た可能性である。それがネクロゴンド火山の噴火が影響した地割れなのか、それとも他の要因なのかは解らないが、この女性が上の世界から来たと言われる道具屋の主人と関係がある者である事は間違いないだろう。

 

「申し訳ありません。ジパング出身の方ですか?」

 

「……貴方達は?」

 

 ジパング皇家の血筋を持つと考えられるカミュは、本来であればあの小さな島国を支える人間の一人でもある。だが、カミュの祖母自体がそれを知らない以上、そのような義務もなければ、資格も無い。女性の出身地を尋ねた事は、そのような義務や責任といった話ではなく、ジパング出身の鍛治屋という部分に引っ掛かりを覚えたからであった。

 トルドが生み出した開拓地に出来上がった町には、ジパング出身の鍛治屋が存在していた。ヤマタノオロチという太古の存在に捧げる生贄という儀式から逃げ出した者達であり、自分の鍛治能力を生かす事の出来る新天地を求めてあの地へ辿り着いている。そして、その娘はその町を生み出した男と共に新たな人生を歩み始めていた。

 そんな鍛治屋の男には、ジパングからの移動の際に別れた者達がいたという。おそらく、それがこの女性と道具屋を営む男性ではないかとカミュ達は考えたのだ。

 

「カミュと申します。上の世界から来た者で、ジパングでイヨ様にお世話になった物です」

 

「まぁ! イヨ様はお元気なのですか!?」

 

 今はウイザードバーグとなった町で暮らす鍛治屋も、目の前で輝く瞳を向ける女性達も、ジパングという国が嫌で飛び出した訳ではない。その統治者の娘であるイヨを恨んでいる訳でもなく、彼女達にとって、今もジパングという国は故郷なのであろう。彼女達がジパングを出た頃のイヨの年齢がどの程度なのかは解らないが、まるで自分の娘の身を案じていたような表情を見る限り、あのジパングの小さな太陽は、全ての住民の心を照らしていたのであろう事だけは理解出来た。

 ヤマタノオロチという竜種さえ居なければ、あの国は平和な時を刻み、太陽のような国主の下で素晴らしい発展を遂げていたのかもしれない。

 

「そうですか……私の夫は、ヤマタノオロチの生贄にされそうになった私を連れ、ジパングを飛び出ました。私の代わりに誰かが生贄になる事を知っていながら、そして夫の世界一の鍛治屋になるという夢を知っていながら、私はその手を拒む事は出来ませんでした」

 

「今のジパングにはヤマタノオロチはいません。イヨ様が見事な国を造り上げています。ジパングはこの先で世界有数の国になると思いますよ」

 

 イヨの健在を示すようにカミュが頷きを返すと、長年胸の中へ押し込めていた懺悔を漏らすように、女性は涙を浮かべて口を開き始める。漏れ出した言葉は、それを心から悔いながらも、それでも今の幸せを感じている事への贖罪のようにも聞こえた。

 そんな女性の言葉を聞いたサラは、現状のジパングの様子を伝える。それが彼女にとっての慰めになるかどうかは解らない。現状のジパングがどれ程に美しく、良い国に変わっていたとしても、彼女が逃げ出した事で代わりに生贄になった娘の命が戻る事も無く、その時の悲しみが消え去る事もないだろう。それでも、サラはその言葉を言わざるを得なかった。

 

「……ありがとうございます。夫は、二階で道具屋をしながらも夢を諦めていません。もし宜しければ、見て行って頂けませんか?」

 

 先程浮かべた苦痛の表情ではなく、とても優しい笑みを浮かべた女性は、自分の夫の夢を心から応援しているのだろう。少しでも夫の夢の助けになればと、彼女なりにカミュ達を見て思ったのだろう。カミュの背中には立派な剣が差されており、リーシャの背中には見た事も無いような斧が括りつけられている。他の二人の女性が身に着ける物も、このアレフガルドの住民達が装備するにはかなり上位の物である事が一目で解る物であった。

 鍛治屋として成長するのは、良い武器を見て真似る事から始まる。それを知っているからこそ、彼女はカミュ達を建物へ導いたのだ。

 

「なんでも、ここの店主は伝説の剣を探しているんだと」

 

「伝説の剣? それは、古の勇者が持っていたと云う剣の事か? あれは、大魔王が粉々に砕いたとかいう言い伝えじゃなかったか?」

 

 建物内に入ると、一階部分は椅子やテーブルが置かれていた。奥には仕切りがあり、その奥を窺う事は出来ないが、おそらく鍛治を行うスペースがあるのだろう。その鍛治を待つ為のものなのか、それとも鍛治を行う際に客の要望を聞く為のものなのかは解らないが、とてもゆったりとしたスペースが設けられていた。

 その場所には二人の人物が腰掛けており、この道具屋兼鍛治屋の店主である男性についての噂話に花を咲かせている。その中には興味深い話もあり、カミュ達はその男達の話に耳を傾けた。

 古の勇者が装備していた物の話は、盾と鎧と剣のものがある。今、カミュが装備している『勇者の盾』の名は、サラがラダトーム国の王子から聞いていたが、鎧や剣についてはその名を聞いてはいなかった。

 

「なんでも、その剣ってのは『オリハルコン』という金属で出来ていたんだとよ。神様がお造りになった金属だそうで、この世には無いらしい。正確には、店主はその剣ではなく、オリハルコンって金属を探しているって言ってたな」

 

「この世に無い金属じゃ見つかる筈がないだろう? それに、例え見つかったとしても、神様がお造りになった金属を人間が加工出来るとは思えないが……」

 

 横を通り過ぎようとするカミュ達一行へ一旦視線を向けた男性であったが、古の勇者の使用していた剣の話に興味を戻し、再びその内容に首を傾げる。それはとても興味深い内容の話であり、カミュ達が欲していた物でもあった。

 しかし、古の勇者が装備していた武器は既にこの世にはないという伝承が残っている以上、その剣を手にする事は出来ないという事になる。その剣がどれ程の威力を持った物なのかは解らないが、それでも神代の勇者が使用していた武器というだけでも、それ相応の鋭さと付加効果が期待出来た。尚且つ、精霊神ルビスでさえも倒す事の出来なかった大魔王ゾーマという存在を打倒する為には必要不可欠な武器と言っても過言ではないだろう。

 そして、その希望に一抹の光を与えたのが、この道具屋の店主であるジパング出身の鍛治屋がその金属からその剣を再生させるという夢を持っていると云う話であった。ジパングの鍛治屋が優秀である事は、あの開拓地で既に証明されている。神代の金属を加工する事が出来るか否かという部分を除外すれば、それは希望の残す情報であったのだ。

 

「いらっしゃい」

 

 未だに話題の尽きない二人の男性を横目に階段を上った先には、かなり広めの店舗が広がっていた。部屋一面に陳列棚が置いてあり、薬草や毒消し草、満月草なども置かれている。そんな道具達に埋もれるように材料となる魔物の角や牙、動く石像の石なども置かれていた。

 部屋の中央にはカウンターがあり、そこには黒髪の男性が座っており、何かを作成しているのか手元を動かしながらも、階段を上がって来たカミュ達の姿へ視線を向けている。その瞳はカミュ達を値踏みをするような物ではなく、その者達が装備している武器や防具を品定めするような物であり、少し驚くように目を見開いた後、手元で作成していた物を傍に置いた。

 

「お客様方が必要そうな物はここにはないかもしれませんが、ゆっくり見て行って下さい」

 

「ここで魔物の部位などを買い取ってくれると聞いてきたのだが?」

 

 ジパングで暮らす人間特有の服装をした店主は、柔らかな笑みを浮かべながらカミュ達に歓迎の意を示す。

 元々、ジパングという国は自給自足の制度が成り立っている国であった。カミュ達が訪れた際には集落の中に店などは一軒もなく、旅人を宿泊させる宿屋などの施設も無い。ほとんどの住民が各々の欲する物を物々交換という方法で手に入れていたのだ。勿論、世界共通の貨幣という認識も無かった為、ゴールドのやり取りという方法も有りはしない。それが、異教徒の国と呼ばれるジパングの実態であった。

 そんな島国で生きて来た彼らにとって、例え世界は異なろうとも、貨幣での交換というには中々に難しい物であっただろう。正直に言えば、カミュ達でさえ、このアレフガルドで上の世界の貨幣であるゴールドが使用出来るとは思ってもみなかったのだ。

 

「結構あるんだね。貴方達はこれ程の魔物達を倒す事が出来るだけの力量を持っているという事か」

 

 貨幣とは裏付けが無ければ価値のない物となる。それが国家の裏付けなのか、それとも貨幣自体の価値なのかという違いだけで、それが無ければ貨幣など無価値となってしまうのだ。上の世界での貨幣は『ゴールド』という単位であった。それはその名の通り、貨幣自体が金で出来ている。かなりの重さを持つ物ではあるが、それが全世界共通の価値を持っていたのだ。

 アリアハンにはアリアハンの通貨という物ではなく、国印が押されていようとも、全世界共通の金の含有量が定められていた。それが狂ってしまえば、全世界の流通自体が狂ってしまい、取り返しのつかない事態となる為、どれ程に国家が困窮しようとも、その一線だけは超える事がなかったのだ。

 このアレフガルドという世界の始まりは、仮定の話ではあるが、上の世界からの移住から始まったのかもしれない。上の世界の人間が『ゴールド』という貨幣を持ち込んだ事で、アレフガルドにも『ゴールド』という貨幣価値が生まれたとも考えられた。

 全ては仮定の話であり、実際のところは解らない。だが、アレフガルド大陸という別世界でも同じ通貨での取引が可能であるという事実だけは確かであった。

 

「貴方達はオリハルコンという金属をご存知ですか?」

 

「……いや、見た事も聞いた事も無い」

 

 カミュが取り出した魔物の部位の種類の多さに驚きながら、何かを思った店主は、カミュに向かって問いかけを放つ。それは、この建物の一階部分で二人の男性がしていた会話の中に出て来た名であった。

 神代の金属など、カミュ達が知る由もない。今、リーシャやサラが装備している盾や兜に使われているミスリルという金属でさえ、彼等はアレフガルドで初めて聞いた物であるのだ。大地の鎧や刃の鎧、稲妻の剣や魔神の斧がどのような金属で造られているのかは知らないが、彼等が鑑定の出来る商人でもなく、金属を打つ鍛冶職人でもない以上、それを知る必要もなかった。

 カミュ達の返答に対し半ば予想していたのか、店主はそれ程の落胆を見せる事もなく、魔物の部位の買取金額をカミュへ差し出すと、一振りの剣をカウンターの奥から取り出して来た。

 

「私は、上の世界にあるジパングという国の出身です。私の国には、遥か昔から国主様の血筋に伝わる『天叢雲剣』という剣がありました。神から国主様へ下賜された物だという事なのですが、その剣は天を遮る雲を斬り裂くような美しい光を放ち、その装飾は簡素ながらも人の心に響く物であったと云われています」

 

 独り言のように呟きながら手にした剣を眺める店主に、カミュ達は口を開く事が出来ない。彼らが国主の後継者となったイヨから借り受けた『草薙剣』は、古の『天叢雲剣』と呼ばれる剣であった物だろうと考えられていた。それは、イヨを含めたジパングの民達全てが見た事のない剣であり、誰一人として手にした事のない剣でもあったのだ。

 

「私の夢は、そんな祖国に伝わる『天叢雲剣』のような剣を打つ事。いつか、そのような剣をと思い、何本も打っては見たものの、やはり形ばかりで中身のない物しか出来上がりません」

 

 自嘲気味な苦笑を浮かべた店主の手の中にある剣は、そう言われれば、何処となく『草薙剣』に似た物であった。両刃の剣でありながらも野暮ったい厚さや幅はなく、細身という程に細い訳でもない。鋭く磨がれた刃は輝くような光を放ち、下位の魔物であれば力を込める事なく両断出来るであろう力を宿していた。

 だが、鋼鉄の剣などは及びも付かない程の剣でありながらも、カミュの持つ稲妻の剣はおろか、草薙剣にも遠く及ばない剣である。それが『人』が生み出す事の出来る限界なのだと言われればそれまでであるが、この店主はそれを限界だとは考えていないようであった。

 

「……話は解りましたが、何故私達に?」

 

「貴方達が身に着けている装備品は、武器も防具も並大抵の物ではありません。失礼とは承知しながら、見定めさせて頂いておりました」

 

 店主の話は、只の客に話す内容ではない。ここまでの旅で、様々な人間の思惑の中を歩いて来たカミュだからこそ、店主へ鋭く瞳を細め、その真意を問いかけた。

 警戒するカミュの心に気付いた店主は、深々と頭を下げて、その無礼を謝罪する。そして彼は、カミュ達が纏う雰囲気が只者ではないと理解した上で、今までの話を語ったのだと口にした。

 確かに、カミュ達が身に着ける装備品は、今では一品物が多い。カミュに至っては、兜から剣までの全てが一品物である。オルテガが使用していた兜が何の兜なのかは解らないが、ここまでの旅でそれを超える可能性のある兜は、リーシャが被る『ミスリルヘルム』だけであった。

 

「このアレフガルドにも、古の勇者が持っていた神代の剣の伝承が残っています。その剣はオリハルコンという金属で出来ており、既に大魔王によって砕かれたと伝えられていますが、その後、ラダトームの南西にあるドムドーラ付近でオリハルコンを見たという話もあります。もし、オリハルコンを見つける事があったら、どうか私に売って下さい」

 

 一気に要望を吐き出した店主は、カミュ達四人に向かって深々と頭を下げた。既に三十路を超えていそうな男性が、若者というには若過ぎるカミュ達へ真剣に頭を下げるという行為自体、彼の切実さを物語っている。

 彼が何故そこまで神代の剣に拘るのかは解らない。だが、既に壮年に足を掛けたジパングの男性は、神代の剣に並び得る物の作成に自身の人生を賭けているのだろう。強力な魔物が蔓延るアレフガルドで、オリハルコンという金属を求めて旅する事は命を捨てる行為と言っても過言ではない。故にこそ、彼の目に強者として映ったカミュ達にそれらを依頼したのだ。

 

「その神代の剣というのは、完全に復元出来るのか?」

 

「……わかりません。神々が造ったとされる剣を、人間である私が造ろうとする事自体が畏れ多い事なのです。それに、オリハルコンという金属は太陽の熱でなければ溶けないとさえ云われていますし、それを錬成する事が可能かどうかも解りません。ただ、私の全てを注ぎ込むつもりです」

 

 押し黙ったカミュの代わりに、リーシャが剣の製作が可能かどうかを問う。大魔王ゾーマに砕かれたといえども、それは神代から伝わる勇者の剣であり、それを生み出した者は人間ではないのだ。精霊神ルビスよりも高位にいる神々が生み出した剣であれば、人間に造り出せる物ではない。

 ジパングというルビス教とは異なった宗教観を持つ国で生まれた店主ではあるが、彼はアレフガルドに伝わる精霊ルビスという存在と、更に上位に位置する神という存在をしっかりと把握し、信仰心こそ定かではないが、その存在の大きさを認識している節がある。それは、異世界人として生きて行く上で必要な事であったのかもしれない。

 

「……旅先で見つけたとしたら、ここにお持ちしましょう」

 

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 

 男性が持つ剣は、このジパング出身の鍛治屋が打った剣だという。その剣は、確かに草薙剣には遠く及ばない物ではあるが、神代の剣以外の物であれば上位に入る武器に見える。ドラゴンキラーのように特殊な材料を使用しているようには見えず、鉄や鋼鉄で作ったというのであれば、この男性の力量は十分な領域にあると見て良いだろう

 この一行の中で最も武器に対して思い入れを持つリーシャは、この男性の力量を理解したのか、腰に差されたドラゴンキラーをカウンターへ置いた。このドラゴンキラーも、ジパング出身の鍛治屋が鍛え直して改良した業物である。だが、もしかすると鍛冶師としての才は、アレフガルドへ渡ったこの男性の方が上であったのかもしれない。もし、彼がドラゴンキラーを改良していれば、今もリーシャの武器は、この竜の剣であった可能性も否定は出来なかった。

 

「これは、店主と同じようにジパングを出た鍛治屋の男性が改良した物だ。竜の牙などで作られた剣ではあるが、本来の形状を変えてしまった為に刃が反れてしまった。だが、私達にとって、この剣は色々な者達との絆の証でもある。私達がもう一度ここへ戻って来るという証に、これを店主に預けよう」

 

「……え? あ……確かに、これは師が造った物に間違いない。この刻印は師の物であるし、このような見事な剣を造れるのは、あの人しかしない筈だ」

 

 リーシャが置いたドラゴンキラーを鞘から抜き放った男性は、その見事な刀身に見惚れる。そして剣の根元にある刻印を見て。何やら納得したように頷きを繰り返した。

 トルドバーグという場所に居た鍛冶師の男性は、共にジパングを出た人間の事を友人として口にしている。だが、確かに上の世界にいた男性の年齢は、目の前に居る男性よりも二十以上上であった。ならば、彼は弟子となる男性の境遇と、自身の娘に降り懸るであろう災いを危惧し、共にジパングを出たと考えられる。

 そして、カミュ達が見る限り、アレフガルドへ来てしまったこの男性は、既に師を超える力量を有していると言えた。

 

「ジパングは、今はヤマタノオロチもおらず、イヨ様の治世となって落ち着いています。それまでに犠牲になって来た人達は戻りませんが、未来に向かって真っ直ぐ動き出しています」

 

「……そうですか」

 

 ジパングの現状を語るサラの言葉を聞いた男性は、ドラゴンキラーを抱きながら静かに涙を溢す。彼の心を長く蝕んで来た罪悪感が消える訳ではないだろう。それでも、祖国と言える場所の平和を願わない訳ではない。まだ小さく脆い集落であったジパングに生まれ、隣の家の人間だけではなく、集落に生きる全ての者達と関係を持ちながら生きて来たのだ。時には国主である者と会話を交わし、日々の恵みと、今ある生に感謝を捧げて生きて来た彼にとって、祖国ジパングは忘れる事の出来ない故郷であった。

 男性の様子に柔らかな笑みを浮かべたリーシャとサラは、既に階段付近へ移動したカミュの後を追って道具屋を出て行く。静かになった道具屋の二階には、後悔と喜びの嗚咽が小さく響いていた。

 

 

 

「宿へ向かうのか?」

 

「そういえば、漁師の方が宿屋の手配をして下さっていると言っていましたね」

 

 道具屋の建物を出たカミュ達は、不安そうに彼等の帰りを待っていたジパングの女性に笑みを送りながら、マイラの村の大通りへと出る。大通りを北へ真っ直ぐ向かった先に、宿屋の看板が見えており、一度宿屋へ向かう事となった。

 マイラの村には、『妖精の笛』という宝物があるという話ではあったが、その道具の使い道などの明確な情報がある訳ではなく、緊急な必要性があるとも思えない。この場所で進むべき道を見出さればと考えてはいたのだが、予想外の場所から方向性を見出した形になっていた。

 

「いらっしゃい。四人様でしょうか? でしたら一晩120ゴールドになります」

 

「……随分高いな」

 

 宿屋の扉を開き、カウンターへ近付くと、そこに居た店主が営業的な笑みを浮かべて料金を提示する。その金額を聞いた一行は、流石に驚きを表してしまった。一人30ゴールドの宿泊料金となれば、上の世界のどの地域の宿屋よりも高額となる。ラダトーム王都でさえ、一人頭1ゴールドから2ゴールドといったところであった事を考えると、異常と言っても良かった。

 宿屋の雰囲気はそれ程高級感はない。調度品や部屋の扉を見ても、どこにでもある宿屋の物と大差はなかった。料理が名物なのかと考えても、同行した漁師の話を聞く限り、海の幸は少なく、家畜のような物も飼っている様子がない事から、肉料理が有名な訳でもないだろう。

 

「ここの名物は温泉なのです。温泉の料金も宿代に含まれておりますので……」

 

 リーシャやサラの表情に考えている事が明確に出ていたのだろう。苦笑を浮かべた店主がこの宿の名物を口にする。温泉宿という事だけでそれだけの金額を取るという事が感覚的に解らないリーシャとサラは、その言葉を聞いて尚、首を傾げざるを得なかった。それを下から眺めていたメルエは、面白そうに微笑みながら小首を傾げる。まるで親子のように揃う三人を見ていた店主は先程とは異なった普通の笑みを浮かべた。

 ここへ来ているであろう漁師の話をすると、既に料金を受け取っているらしく、店主はにこやかな対応を取る。120ゴールドという料金が、このアレフガルドではどの程度の金額なのかは解らないが、アリアハンでは十泊は可能な料金でもあり、銅の剣のような武器さえも買う事の出来る金額であった。カミュ達の考えの範疇を超え、この内陸のマイラの村では、塩漬けされた魚介類が高額な値段で取引されているのかもしれない。

 

「温泉は初めてですか? 男湯と女湯に分かれていますから、安心してお入り下さい。お湯の中で身体を洗うなどされなければ、どれだけ入っていても結構ですから」

 

「お湯の中へ入るのですか?」

 

 不思議そうに見つめるサラの視線を受けた店主が温泉の入り方を説明し、それを聞いたサラは更に首を傾げる。湯の中へ入るというのは、リーシャもサラも経験した事がない。通常の宿屋であれば、浴場のような場所は設置されているが、そこには沸かした湯が置かれているだけである。その湯を掬いながら、湯で濡らした布で身体を拭き、髪などは湯で洗い流すのが通常であった。身体を洗うという行為の後、その湯に浸かるという行為はしないのだ。

 細かく話せば、実はジパングにはそのような施設がある。あの場所には宿泊施設はなく、国主の館にはあるが、彼等がそこを利用した事はなかった。元々、溶岩の洞窟が近くにあるジパングでは、地面から湯が沸く場所は多く、温泉と呼ばれる場所は多い。ただ、来訪者であるカミュ達がそこへ案内されなかったという事なのだろう。

 もしかすると、イヨ自体が好んで使用してはいなかったのかもしれない。

 

「食事までは時間がありますので、それまでにゆっくりお浸かり下さい」

 

 部屋の鍵と共に身体を拭く布を渡された四人は困惑したままそれぞれの部屋へと入って行く。何が楽しいのか、メルエだけはにこやかな笑顔を浮かべならも、香りの強くなった硫黄の臭いに顔を顰めるという百面相を繰り返していた。

 各々が部屋に入ると同時に、装備品を外して部屋着に着替えて部屋を出る。いつもならば湯浴みまでの時間に暫く時間を掛けるカミュでさえも、部屋に入って直ぐに布を持って出て来た事を見る限り、彼もまた温泉という物に興味を示したのであろう。

 

「ここですね……」

 

「…………むぅ………くさい…………」

 

 宿屋から外へ出る廊下が続き、その廊下は高い壁としっかりした屋根で仕切られている。そこを抜けた奥に、赤色の布が掛かった入り口と、青色の布が掛かった入り口の二つがあり、赤が女性、青が男性となっていた。

 入り口が近くなるにつれて濃くなる硫黄の臭いが鼻をつき、慣れない臭いにメルエだけではなくリーシャやサラも多少顔を顰める。カミュと別れた三人は布を潜り、中にある扉を開けるのだが、その中を見て驚きに目を見開く事となった。

 

「み、みなさん……は、裸ですが?」

 

「全員が裸で湯に入るのか?」

 

 中は脱衣所となっており、様々な女性が既に生まれたままの姿になっている。布で隠す者もいない事はないが、全員が女性である為なのか、それ程気にはしていないようであった。サラやリーシャもメルエを含めた三人で湯浴みをした事はある。だが、全員が素っ裸になって湯を浴びた事はなく、そんな習慣に驚愕しかなかった。

 最早、ここに先程の武器屋での対応のような凛々しい賢者はおらず、先程の道具屋での力強い戦士もいない。只々驚きで目と口を開いてしまった女性が二人呆然とその光景を眺めているだけであった。そんな中、一人だけその光景を興味津々と眺めていた少女が自らの部屋着を脱ぎ始める。何重にも重ねている訳ではない部屋着は即座に脱ぐ事が可能であり、呆然とする二人の横で裸になったメルエは、奥へ進もうとする女性達に混じって歩き始めた。

 

「あっ! メ、メルエ、少し待て!」

 

 慌てたのは、そんな少女の保護者であるリーシャであった。自身の部屋着を脱ぎ、女性の中でも豊かである胸を押さえていた布を解く。未だに若干抵抗感を残している為か、大きな布で自身の身体を隠しながらも、膨れ顔で待つメルエの方へと向かった。

 二人が奥へ消えてしまった後も誰もいなくなった脱衣所で放心していたサラは、難しく顔を歪めながら、おずおずと部屋着を脱ぎ始めた。リーシャのように押さえつける必要のない胸に巻いている布はない。部屋着の下に着ている肌着を脱いでしまえば、控え目な膨らみが、サラが女性である事を主張していた。

 先程まで脱衣所にいた女性達の年齢層は様々である。サラ達よりも遥かに上の年齢となる老婆もいれば、少し上のうら若き女性もいた。老婆は別として、若い女性は皆、サラよりも女性としての丸みが顕著であり、どうしても劣等感を感じずにはいられない。

 そんな自身の胸に湧き上がるどす黒い感情を抑えながらも、サラは意を決したように大き目の布を身体にしっかりと巻きつけ、リーシャとメルエが消えた奥へと踏み出した。

 

「わぁ……」

 

 奥へ進むと大きな引き戸があり、それを引いて開けた時、先程とは異なる感嘆の声をサラは上げてしまう。まるで、視界全てが真っ白に変化してしまったかのように、サラ自身が全て湯気に包まれたのだ。強い硫黄の香りも気にならない程の熱を持つ湯気がサラの視界を奪い、息苦しさを感じる程の熱気に包まれる。それは、戦闘時に感じるような命の危機に直結する物ではなく、何処か安心出来るような心地良い物であった。

 徐々に開けて行く視界の中で、はしゃぐメルエの声が聞こえて来る。そんな少女の歓喜に困ったような注意を口にするリーシャの声が聞こえて来る。それは、何処か別世界のような光景であり、ランシールでサラ自身が望んだ未来の先にあるような景色であった。

 

「メルエ! 周りの人の迷惑を考えろ!」

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 サラの視界が完全に戻ると同時に、目の前で振り下ろされた拳骨が少女の頭を打ち抜く。最早リーシャの身体を覆う布はメルエによって取り除かれており、裸の女性が裸の少女に拳骨を落とすという奇妙な光景が広がっていた。

 三人以外にも既に五、六人の女性がこの場所におり、皆思い思いに温泉を楽しんでいる。中央には数十人の人間が入れるのではないかと思う程の大きさがある岩で作られた窪みがあり、その窪みには溢れんばかりの湯が満たされている。新たな湯が岩で出来た窪みの中央部分から湧き出している証拠に、中央部分では泡が途切れる事なく浮き上がっていた。新たな湯が湧き出す度に古い湯が外へと押し出され、サラやリーシャが立つ場所もまた温かな湯で満たされている。既に硫黄の臭いなども気にならない程に鼻は麻痺し、独特の雰囲気と独特の香りの中、人々は皆笑みを浮かべていた。

 

「サラ、こっちに来い! 一度この窪みの湯で身体の泥や埃を洗い流してから湯へ入るそうだ」

 

「は、はい!」

 

 素っ裸のまま仁王立ちで立つリーシャの呼びかけに応えたサラは、湯で滑りやすくなっている床を注意深く歩く。湯で満たされた窪みの近くには木で出来た桶が置いてあり、身体を屈めたリーシャはそれで掬った湯を傍にいるメルエへと掛け始めた。いつも身体を拭う湯よりも温度が高いのだろう。一瞬、驚いたように身体を跳ねさせたメルエは、『熱い』という苦情をリーシャへと伝えた。

 不満を漏らす少女に軽く謝罪を告げたリーシャではあったが、そのままメルエの茶色に輝く髪へもお湯をゆっくりと掛けて行く。最初は不満を漏らしていたメルエも、直ぐにその温度になれたのか、楽しそうにお湯を被りながら目を手で押さえていた。

 メルエと戯れながら笑うリーシャの胸元が、動く度に揺れるのを恨めしそうに見ていたサラは、突如として飛んで来た熱い湯に、悲鳴を上げてしまう。顔に落ちて来る湯の雫を払ったメルエが、窪みから湯を掬ってサラへと掛けたのだ。自分が考えていたよりも遥かに高い温度の湯が突然降って来たのだから、サラでなくとも驚くだろう。だが、思っていた以上に大きな声を出してしまったらしく、湯に浸かっていた女性達の視線が一気に集まって来てしまった。

 

「ふふふ。湯に入っている女性達に聞いたのだが、温泉に布を巻いたまま入るのは禁止なのだそうだ。マナー違反となるのかな。皆、一糸纏わぬ姿で入るのが礼儀らしい」

 

「ふぇ!? 巻いたままでは駄目なのですか!?」

 

 メルエに対して怒りを向けるサラを見ていたリーシャは笑みと一緒に彼女を地獄へ落とす一言を発する。それを聞いてしまった彼女は、まるで絶望の淵へ落とされたかのような表情を浮かべ、愕然とリーシャを見つめた。

 最早サラには、横から飛んで来るメルエが掬った湯の熱さなど感じる事は出来ない。遠くなって行く湯煙の中、自身の身体へ掬った湯を掛けるリーシャが見えるだけである。サラの身体は大きな白い布が完全に巻かれており、見えているのは肩口の肌と、太腿より下の肌だけであった。だが、湯に入る為には布を解かなければならず、それは自身の胸の中にある劣等感とどす黒い嫉妬を晒す事になってしまう。それは当代の賢者として、どうしても避けなければならない物であった。

 

「ほら、サラも早く布を解け、湯を掛けるぞ」

 

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 

 そんなサラの苦悩を知らず、自身にお湯を掛け終わったリーシャは、サラに湯を掛ける為に桶に湯を掬い始める。まだ、心の準備も、決意も出来上がっていない彼女は、必死に手でそれを制そうとするが、理由の解らないリーシャは、首を傾げながらも湯を掬い終えてしまう。逃げる事も出来ない状況まで追い込まれて尚、サラは何とかこの状況を打破出来る妙案はないものかと賢者としての頭脳を懸命に回転させた。

 しかし、世は無常である。サラの後ろから忍び寄ったメルエが、彼女の身体に巻きつかれた乾いた布を一気に剥ぎ取ってしまったのだ。

 

「…………サラ………だめ…………」

 

「きゃぁぁ! な、何が駄目なんですか!? 私は駄目ではありません! 私の何処が駄目なんですか!?」

 

「サラ……お前は何を言っているんだ?」

 

 メルエとしては、禁止事項だと言われている布を巻いての入浴という行為をしようとしているサラへ駄目出しをしたつもりなのだろう。だが、ここまで自分の中にある黒い感情と戦い続けて来たサラからすれば、その言葉はそんな自身の心の闇を突き刺す物であったのだ。

 故に、通常では絶対に発しない大きな声で、まるでメダパニにでも掛かってしまったかのように喚き散らしてしまう。驚いたのは、誰よりもメルエであろう。自身の行動など、いつもの悪戯とサラへの駄目出しなのだ。予想以上の反応に面を食らってしまったメルエは、呆然とサラを眺めるしかなく、そんな一連のやり取りを見ていたリーシャは言葉を失ってしまった。

 周囲から一気に集まった視線は、息を切らせたサラを現実に戻す程に冷たい物で、急速に失われる血の気が、彼女に冷静さを取り戻させる。湯に入った訳でもないのに真っ赤に染まった彼女の顔を見ていたメルエが眉を下げて涙ぐむ。悪戯のつもりで行った事がサラを傷つけ、このような姿にしてしまった事を悔やんでいるのだろう。

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

「だ、大丈夫です。少し驚いただけですから……。メルエが悪いのではありません」

 

 哀しそうに眉を下げながら、自分に向かって謝罪の言葉を呟く少女を見て、サラの心に罪悪感が生まれて来る。自身の劣等感も嫉妬も、この純粋な少女には関係のない事なのだと知ったのだ。メルエは只、大好きな姉のような二人の女性と、初めて訪れた幻想的な場所を楽しみたかっただけなのだろう。自分が楽しいと思うように、二人も一緒に楽しんで欲しいと願っているのかもしれない。そんな幼い心を、サラは自身の黒い感情で塗り潰してしまったのだった。

 アリアハンという国を出てから五年。既にサラの成長は止まってしまっている可能性がある。内なる成長はこの先もまだ伸び代が残っているだろうが、身体的な成長は絶望的に近い。だが、目の前に居る少女もまた、出会った頃からほとんど変わりはない。身長も伸びた様子はなく、女性としての丸みや膨らみも現れた感はない。何処か親近感さえも感じてしまうメルエを抱き締めたサラは、哀しそうに見上げる少女へ満面の笑みを浮かべた。

 

「さぁ、お湯の中に入ってみましょう。掛けたお湯も熱い物でしたから、ゆっくり入らないと火傷してしまうかもしれませんよ」

 

「…………ん…………」

 

 メルエを抱き締めたまま、そろそろと湯の中へ足を入れ始めたサラを見て、リーシャもゆっくりと岩で出来た湯船へと足を入れて行く。じんわりと染み込むように広がる温かみが、戦闘などで疲労した身体を癒して行った。

 思った以上に深い岩で出来た窪みは、幼いメルエでは立つ事も侭ならない。サラからメルエを受け取ったリーシャはその小さな身体と共に湯の中へ身体を沈めて行く。溜息のような何とも言えない息を吐き出しながら湯に浸かるリーシャを横目で見ていたサラは、湯の中に入って浮かぶ双丘を憎々しげに見つめながらも、その隣に身体を沈めて行った。

 

「ふぅ……湯に身体を沈めるというのは初めての体験だが、これは心地良いものだな」

 

「…………あたたかい…………」

 

「そうですね。疲れや、身体の毒素もお湯に溶けて行くようです」

 

 気持ち良さそうに目を閉じたメルエの頭を優しく撫でながら、リーシャは一つ静かに息を吐く。サラもまた、湯に入るという不思議な行為が齎す心地良さに目を細め、先程まで心の中で渦巻いていた黒い感情が溶け出して行くような錯覚に陥っていた。

 中央付近から熱い熱湯が湧き出している為、必然的に入る者は淵へと集まって来る。サラ達の周囲にも年齢が様々な女性達が気持ち良さそうに湯に身体を沈めており、ゆっくりとした時間が流れて行った。

 

「あれ? こことは違う、小さな窪みもありますね」

 

 心地良い温かさに包まれながら暫しの時間過ごしていたサラは、自分達が入っている窪みの他に、小さな窪みがある事に気付く。その窪みにも湯が満たされており、サラ達が入っている湯船とは異なり、湧き出した湯がその小さな窪みへと流れ入る通り道が出来ていた。

 この大きな窪みの湯が溢れる際に流入しているのだろう。サラ達が入っている場所よりも湯の温度が低いのか、静かな湯気が立ち昇っている。だが、その湯船に入っている人は誰もおらず、遠くから見る限りでは、底の浅い湯船のようであった。

 

「あら、貴女達はここが初めてかしら? あの湯船は、時々来るお客様の為の物よ」

 

「お客様?」

 

 サラの言葉を傍で聞いていた妙齢の女性がその疑問に答える。リーシャよりも幾分か上の年齢ではあるだろうが、肌は艶々と輝き、母性の象徴でもある豊かな胸を持っていた。その部分を見ただけで、再び黒い感情が湧き上がって来る感触を抑えながら、サラは女性の言葉に疑問を挟む。

 客というならば、リーシャ達三人もこの妙齢の女性も宿の客であろう。だが、この女性の言葉の中にあるお客様という言葉が、サラが考えている内容とは異なる事を示していた。

 

「運が良ければ見る事が出来ると思うけど……あら、貴女達は運が良さそうね」

 

「え? あれ?」

 

 小さな湯船の方へ視線を向けたままだった女性は、その先に見えた幾つかの影を見つけ、楽しそうに微笑みを浮かべる。サラもまた再び視線をそちらへ向けると、三体ほどの影が小さな湯船に入ろうとしている姿が見えた。リーシャの腕の中でまどろんでいたメルエは、その小さな複数の影を目聡く見つけ、身を乗り出してそちらへ注意を向ける。そろそろと湯船へ入った影は、先程までのサラ達と同じように、心地良さそうに目を細めながら湯の中へと身体を沈めて行った。

 

「お猿さんですか……」

 

「…………おさる……さん…………」

 

 小さな湯船へと入った影は、自然に生きる猿達であった。マイラの村は周囲を森に囲まれた村である。大魔王ゾーマの勢いが増す中、魔物との生存競争に負けた動物達の数も減ってはいるが、それでもこの森の恵みを受けた動物達は懸命に生きていたのだ。

 既に魔物と化した暴れ猿などとは異なり、自然界の猿を初めて見たメルエは瞳を輝かせながら、湯船の中でじっとしている猿達を見つめている。好奇心に満ちた瞳ではあるが、自分と同じように心地良さそうに湯船に浸かる猿達の邪魔をするつもりはないのだろう。花咲くような笑みを浮かべながら、湯の中で呆ける猿達の姿を眺めるだけであった。

 

「マイラの村は、マイラの森の精霊様に護られています。妖精の笛を持つ森の精霊様は、この森で暮らす動物達や人間達、そして魔物達を護って下さっているのです」

 

 猿を優しく見つめるメルエの瞳に頬を緩めた女性は、このマイラの村の守護者である精霊の名を口にする。精霊ルビスという存在は、アレフガルドでの正式名称として精霊神ルビスと呼ばれてもいる。全ての精霊の頂点に立つ存在として、精霊神ルビスは存在し、この世界に存在する精霊達を束ねているという考えだ。

 森の精霊もその一つであり、広大なマイラの森が齎す数多くの恵みが、その精霊への信仰を強くしているのだろう。

 

「妖精の笛は、森の精霊様がお持ちなのですか?」

 

「はい。アレフガルドではマイラの村に『妖精の笛』があると考えられているようですが、正確にはマイラの森の精霊様がお持ちなのです。様々な呪いを解くと伝えられる笛ですから、ルビス様の封印も解く事が出来るのではないかと考える人も多く、一時期は数多くの方々がこの村を訪れました」

 

 女性の言葉の中にあった『妖精の笛』という物は、ラダトーム王都でカンダタが口にしていた物である。マイラの村の宝物として噂されていたようだが、実際はマイラの森の精霊が持つと伝えられる神代の道具であったのだ。

 精霊神ルビスの威光が陰りを見せ、アレフガルドは闇に包まれたと考えられている。ルビスの塔という精霊神ルビスを迎える為の塔に封印されているという話が信憑性を増すにつれ、その封印を解こうと考える者達が出て来るのは自然の流れであろう。

 アレフガルドに現れ始めた魔物達の強さを肌で感じ始めると、人間達は先を憂いながらも今を生きる為に懸命になって行く。それもまた、自然の摂理であった。

 

「ルビス様の封印を解く事が出来るのですか……」

 

「次の目的地は決まりそうだな」

 

 湯船に浸かりながら話を静かに聞いていたリーシャは、猿に夢中になっているメルエを抱き直して口を開く。勇者一行としての目的は『大魔王ゾーマの討伐』である。だが、精霊神ルビスという存在が封印されているのであれば、それを解除するのはサラの役目でもあった。

 『賢者とは、精霊ルビスと人を結ぶ架け橋である』とは、ダーマ神殿の教皇の言葉である。当代の賢者であるサラには、その義務があり、その権利がある。故にこそ、サラはルビスの塔へ向かうべきであるし、マイラの森の精霊と対面するべきなのだ。

 余談ではあるが、このマイラの村を訪れた古の賢者は、マイラの森の精霊との対話を望んでいたのかもしれない。その頃に精霊神ルビスが封じられていたかどうかは定かではないが、このマイラの村を訪れたという事は、そんな理由があったのではないかと推測が出来た。

 

「だが、今日はゆっくりと温泉を楽しもう。心と身体を綺麗にする事も、精霊様にお会いするには必要な事だろう?」

 

「はい」

 

 先程まで湯に浸かっていた猿達が森へと帰ってしまい、残念そうに肩を落とすメルエの頭を撫でながら、リーシャはゆっくりと瞳を閉じる。生まれたままの姿にも拘らず、ここまで心を落ち着かせる事が出来るのは、温泉ならではなのかもしれない。頬を伝う汗さえも心地良く感じる不思議な時間を、彼女達はゆっくりと過ごしていた。おそらく、隣の男性の湯でも、初めて体験する温泉に身を沈め、カミュもまたゆっくりとした時間を過ごしている事だろう。

 久方ぶりに訪れた勇者達の休息は、闇に閉ざされた森の木々が揺れる音と、波立つ湯の音に満たされていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
閑話となります。
次話から徐々に話を動かしていきます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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マイラの森①

 

 

 

 翌日、マイラの村を出た一行は、村の北側にある森を目指す事となる。温泉から出たリーシャ達はカミュと合流し、今後の予定を確認する作業に入り、その時に『妖精の笛』を持つ森の精霊についての話となったのだ。あらゆる呪いを解く事が可能だと伝えられるその笛を手に入れる事で、精霊神ルビスの封印を解呪出来る可能性をサラが強く訴えた。元々、今ある情報と言えば、オリハルコンという金属の目撃情報のあるドムドーラという町の事しかない。精霊神ルビスの復活という大事と天秤に掛ける程の事ではなく、サラの提案にカミュが頷いた事で方針は定まった。

 マイラの村周辺の森は深く、木々達が生い茂っている。若い木の成長を妨げる事を嫌った古木は立ち枯れ、葉を失くし、本来であれば降り注ぐ太陽を若い芽に届けようと役目を終えていた。森が自然に循環出来る訳はなく、このような循環も森の精霊と呼ばれる者の力である事は明らかである。

 

「……魔物が多いな」

 

 そんな深い森の中、稲妻の剣に付着した体液を振り払いながらカミュが言葉を漏らす。その言葉に同意を示すようにリーシャ達も闇に包まれた森の中で『たいまつ』の炎を翳し、周辺に注意を払っていた。

 森の中は、精霊の加護を受けているとは思えない程に凶悪な魔物達が闊歩している。ここまでの間にも、サマンオサで遭遇した事のあるゾンビマスターや、それに操られたグールなどといった死者の成れの果てが多く見受けられた。森の中である為、火炎呪文なども使用する事が出来ず、メルエやサラの放つ氷結系の呪文で対処するしかなかったのだ。

 剣を納めたカミュの足元には二体のサタンパピーの死骸があり、その後ろで斧を背中へ括りつけるリーシャの足元にも二体のサタンパピーの死骸がある。計四体のサタンパピーと一度に遭遇するという確率を考えると、それは異常であった。

 

「……部位の刈り取りはアンタの仕事だ」

 

「ふぇ? わ、わたしですか?」

 

 剣を納めると同時に、カミュが口にした言葉を聞いたサラは驚きに目を丸くする。ここまでの旅の中で魔物の部位を刈り取る作業というのは主にカミュが行って来た。数が多い時などはリーシャも手伝いはするが、基本的にサラやメルエにその作業をさせる事はなかったのだ。

 命の尊さという部分を学ぶ為には、部位の切り取りなども重要な仕事ではあったのだが、カミュもリーシャも幼いメルエにそのような事をさせたくはなかったのだろう。だが、ゴールドを手に入れる為には、彼等にとってその作業は無視出来ない物でもある。

英雄オルテガなどは、倒した魔物をそのまま放置して旅を続けて来た可能性が高い。彼は様々な国家から金銭的な援助を受けていたし、各所に残る逸話などを聞く限りでは、可能な限り人助けを行っていたのだろう。その見返りに宿を取る事が出来たり、道具を手に入れたりする事が可能だったのかもしれないが、そのような事をカミュは好まない。

 それは、リーシャが例える、『太陽』と『月』の違いなのかもしれない。

 

「アンタには10000ゴールドの貸しがある。その程度は働いて貰わなければ、貴重な資金を無駄にした穴埋めにはならない筈だ」

 

「……そうだな。確かに、皆の装備品は買うという約束はあったが、マイラの村へ寄付したのはサラだからな。サラ個人の買い物と考えるべきかも知れないな」

 

「えぇぇぇ! あ、あの時は皆さんも納得してくれたではないですか!?」

 

 カミュが口にしたのは、マイラの村の武器屋での出来事だった。あの武器屋で購入した『賢者の杖』は、その武器屋へ貸し与える事で、マイラの村を訪れる怪我人などの対処に使用する公共の物とされている。それは、サラという賢者の残した偉大な産物となるではあろうが、カミュ達一行の持ち物であっても、正確には所有物ではなくなる事と同意であった。

 まだメルエが加入していないレーベの村でカミュとリーシャが交わした約束は、『一行の所持金の大半はカミュが管理し、その所持金の中から仲間達の装備品を購入する』という物である。そこに公共物として提供する物は含まれておらず、そのような決断をしたサラの個人的な資産から捻出するというのが、カミュやリーシャの考えであった。

 しかし、サラが所有しているゴールドなど、仲間と逸れてしまうという緊急事態に備えた程度の額しかない。とてもではないが、10000ゴールドなどという大金を所持している訳はなく、カミュとリーシャという二人を敵に回してまで我を通す力強さがないサラは、その指示を蹴る事など出来はしなかった。

 

「カミュ、森を闇雲に歩いても仕方ないのではないか?」

 

「だが、何か道標がある訳でもない」

 

 苦心しながら魔物の部位を切り落とすサラを見ながらリーシャはこの先の行動を問いかける。サラが一所懸命に行う姿を屈み込みながら見ているメルエは手伝おうと手を伸ばすが、それはサラによって拒まれていた。

 二人のやり取りが見える場所で地図を広げたカミュは、リーシャの言葉を肯定しながらもそれ以外に方法がない事を口にする。確かに、マイラの森に居ると伝わる精霊ではあるが、その姿を見た者は皆無に近く、その場所を特定する事など不可能に近かった。

 温泉で聞いたリーシャとサラの話に頷いたカミュではあったが、この行為自体が無謀である事は十分に理解している。それでもこの状況で歩き続けているのは、今懸命に剥ぎ取りを行っている賢者と、それを興味深げに眺めている少女が居るからであった。

 

「もし『妖精の笛』という物が、本当にルビスを解放するだけの力を宿しているのだとすれば、『悟りの書』と同じように向こうから勝手に寄って来る筈だ」

 

「サラへか?」

 

 『賢者』であるサラは、この世で生きる人間と精霊神ルビスの架け橋となる存在と云われている。それが事実であるとすれば、封印された精霊神ルビスの解放という使命もサラの物と考えられた。故にこそ、カミュはこの無計画な森散策を続けていたのだ。

 もし、本当にサラが精霊神ルビスの祝福を受けた賢者であれば、精霊神ルビスの解放を託す為に森の精霊の方から彼女に接触を図って来る筈だと考えられる。そしてサラと共に行動している少女は何故かカミュ達にも感じられない気配に対して敏感であり、上の世界で湖の精霊と接触する状況を作り出したのもこの幼い少女であった。

 ダーマ神殿の教皇が口にしていた言葉に、『選ばれし者であれば、必ず呼びかけて来るだろう』という物がある。カミュはその言葉を憶えていたのだ。

 

「あの賢者なのか、それともメルエなのかはわからないがな」

 

「お前かもしれないぞ?」

 

 サラかメルエに向けて森の精霊が呼びかけて来るというカミュの発言に、リーシャは納得したように頷きながらも、もう一つの可能性を口にする。カミュ自身は認めないだろうが、この青年こそが精霊神ルビスに認められた勇者なのだ。あのバラモス城でサラが聞いた声がルビスの声であるのだとすれば、このアレフガルドで精霊神ルビスの封印を解く者もまたこの青年だけだろう。

 そんな言葉に苦笑を浮かべながら首を横へ振るカミュを見て、リーシャもまた小さな笑みを浮かべる。何故なら、カミュのそんな反応が以前では考えられない程に柔らかな物だからである。救いを求めても報われる事はなく、その教えと言われる狂った教義によって命の危機を何度も超えて来た彼にとって、精霊ルビスという存在は親同様に憎むべき存在であった。

 それでも、今のカミュにはそのような激しい憎悪は見えない。心の中に受け入れるつもりはないだろうが、明らかな拒絶を示す事もなく、何処か落ち着いた雰囲気を持ったその姿は、彼の成長を示していた。

 

「キィィィィィ」

 

 何処か優しい雰囲気が流れていた一行の空気が、突如響き渡った切り裂くような奇声によって霧散する。魔物の襲来かと考えた一行はそれぞれ戦闘態勢へと入り、奇声が聞こえて来た方向へと身構えた。

 暫くすると、そちらの方向の木々や草が擦れるような音が徐々に大きくなって行き、カミュ達の間近で聞こえ始める。生い茂った草が揺れ動き、その襲来を感じ取ったリーシャが一歩前に出た。

 しかし、前に出たリーシャが勢い良く振り返り、斧を持った手とは逆の手を大きく横へと薙ぐ。彼女が何を示しているのかが理解出来ないサラとメルエは一瞬身体を硬直させるが、その後で飛び出したリーシャの言葉で一行は一斉に横へと飛んだ。

 

「カミュ! 魔物ではない! 相当の数の獣達だ!」

 

 その声と同時に森の奥の草を分けて飛び出して来たのは、森を棲み処とする様々な獣達。先んじて鹿や馬といった足の速い草食動物達が飛び出し、その後ろをウサギや猿などの小動物達が続く。最後尾の猪や熊などといった獣が出て来た頃には、カミュ達が歩いて来た森の草などは踏み躙られ、大量の泥と埃で周囲の視界さえも奪われてしまった。

 大好きな動物達が真横を通り過ぎて行く姿を見ながらも、メルエは何が起きているのか解らず、目を白黒させるだけであり、そんな少女を護るように抱えたサラもまた、過ぎ去って行く集団の脅威に驚きを隠せない。

 即座に態勢を立て直したカミュとリーシャは、後続の動物達が疎らになって来た事を確認し、動物達が来た方向へと視線を凝らした。

 

「……あそこまで動物達が恐慌に陥るとなれば只事ではないな」

 

「奥に何かあるのだろう。行ってみるか?」

 

 今も尚、自分達の横を擦り抜けて行く動物達を横目に呟かれたカミュの言葉にリーシャは即座に反応を返す。先程二人が会話していた通り、この動きが森の精霊と関わりがあるのだとすれば、その場所へ行くという選択肢以外はないのだった。

 頷きを返したカミュを見て、リーシャは後方のサラとメルエに呼びかける。呆然としていた二人ではあったが、この出来事が只事ではない事を理解し、森の奥へと進み始めたカミュを追って歩き出した。

 木々の上ではリスなどの小動物達が今も逃げ惑っており、その恐怖に駆られた動きを見たメルエは哀しそうに眉を下げた後、小さな怒りを胸の奥へと灯す。彼女にとって、大好きな者達を傷つける者は全て敵なのである。正確に言えば、そのような小動物達を食すメルエもまた敵になってしまうのだが、幼い少女にはその辺りの区別は難しいだろう。

 

「メルエ、氷結呪文の準備を!」

 

「…………ん…………」

 

 表情を変える少女の手を引いて森の奥へと進むサラの視界が真っ赤に染まり始める。それと共に襲って来る熱気が、その正体が炎である事を物語っていた。森を形成する木々が炎に包まれている。それは、この場所を棲み処とする動物達にとっては生死に関わる程の重大事であろう。故に、その炎から逃げるように、動物達は移動を始めたのだ。

 サラやメルエが唱える事の出来る魔法の中に『水』を生み出す物はない。これ程に大きな森の火事を消し止める事が出来る水の量となれば相当な物であり、サラ達が持っている水の量など僅かな足しにもならないだろう。

 故に、サラは氷結呪文で炎ごと凍結させる方法を取った。メルエという稀代の魔法使いが行使する氷結呪文は、人類という枠から大きく飛び出しており、氷結呪文のみで言えば、魔物の放つ物以上と言っても過言ではない。ネクロゴンド付近でフロストギズモという冷気の塊さえも氷漬けにしてしまった物が、メルエの放ったマヒャドと呼ばれる最上位の氷結呪文であれば、この程度の炎であれば瞬時に消火出来るとサラは考えたのだ。

 

「カミュ、またあの手の化け物だ!」

 

「近付いて来る物達は全て斬り伏せろ! メルエ、魔物達は構うな!」

 

 既に徒歩ではなく、駆け出し始めたカミュとリーシャの視界に、最早見慣れた魔物の姿が映り込む。アレフガルド大陸へ降り立つ前に遭遇した魔物は、この世界では当然のように各地で繁殖している。正確には繁殖ではないのかもしれないが、大魔王の魔力が及ぶ場所であれば何処にでも出現する魔物なのだろう。

 地面に生えた手のようなその魔物を斧や剣で斬り飛ばした二人は、その奥に広がる惨状に眉を顰める。一面覆い尽くす程のマドハンドという魔物が地面から生え、そのマドハンドさえも飲み込む炎が森を包み込んでいた。

 炎に包まれて燃え尽きるマドハンド達と入れ替わるように新たに生えて来る手が、その半永久的な惨状を生み出している。炎に焼かれては生まれ、生まれては焼かれるという光景は、例え魔物の姿と言えども気持ちの良い物ではない。そんな魔物へ視線を向けたメルエに指示を出すカミュの声には若干の怒りさえも込められているようであった。

 

「…………マヒャド…………」

 

 少女の背丈よりも大きな杖の先から吹き荒れる冷気は、一気に森の木々を包み込み、炎に焼かれた木々を凍りつかせて行く。真っ赤に燃え上がる炎を纏っていた木々は、メルエが放った最上位の氷結呪文によって死に至る事はなく、表面上が凍り付く程度に抑えられていた。

 それは、炎に巻かれていたという部分を差し引いても、メルエという人類最高位の魔法使いによる微妙な魔法力の調整に原因があるのだろう。立ち上る煙が未だに残る中、火が消えて行く事によって漆黒の闇を取り戻して行った。

 そんな森の沈静化に安堵しながらも、鋭い視線を魔物へと向けた少女の杖が再度振り抜かれる。再び巻き起こる圧倒的な冷気が、地面から沸き始めたマドハンドに襲い掛かり、その内部の細胞までも死滅させて行った。

 

「この魔物は、灼熱呪文さえも行使出来るのか?」

 

「いや、その可能性は低いな……」

 

 氷像と化したマドハンドの死体を砕こうと近寄るリーシャの身体を、カミュの左腕が制する。森の周囲の炎は鎮火し、マドハンドという魔物も既に全滅している。それにも拘らず行動を遮るカミュに視線を向けたリーシャは、その瞳を見て再び戦闘態勢に入った。

 カミュが視線を向けている先は森の奥。そして徐々に伝わって来る振動が、これから現れる物の巨大さを物語っている。奥から吹いて来る熱気が、この森の惨状を生み出した者である事を示しており、再び放たれる炎を警戒した二人は、手にする盾を構え直した。

 

「来るぞ」

 

「メルエ、炎には即座に氷結呪文で対応を。私も一緒に放ちます」

 

「…………ん…………」

 

 緊張感に満ちたカミュの言葉に、全員の気が引き締まる。アレフガルド大陸の魔物が上の世界の魔物よりも強力である事は既に全員が確信していた。その上で考えた場合、この振動を生み出す巨体で、尚且つ森を焼く程の炎を吐き出す魔物となれば、魔王バラモス並の存在であっても可笑しくはない。サラマンダーが吐き出す程の炎となれば、メルエのマヒャドでも相殺が限界となり、その炎を喰らって尚、吐き出した魔物を攻撃するという事は不可能であった。

 今は、この森を護る事が最優先であり、森を焼こうとする炎に対処が可能な者がサラとメルエしかいない以上、魔物の相手はカミュとリーシャとなるのは必然である。いつものように前線に二人が立ち、現れる強大な魔物に備えて万全の態勢で待ち受けた。魔王を討ち、大魔王を討とうとする者達が万全の態勢で構えたのだ。それを打ち崩す事は、どれ程に強力な魔物であっても不可能であると思われた。

 

「飛べ!」

 

「!!」

 

 だが、何かを察したカミュがリーシャの身体を横へ押すように声を掛け、二人が逆方向へ飛んだその場所に一気に炎の海が広がった事でその予想は完全に覆される事となる。

 詠唱のような奇声は聞こえなかった。魔物が口から吐き出す時の轟音も聞こえなかった。まるで無から炎が生み出されたような感覚にさえ陥る程、その炎は突如としてカミュ達の目の前に姿を現したのだ。

 吹き荒れる熱気は近場の木々へと燃え移り、カミュ達の視界を再び真っ赤に染め上げて行く。立ち上る煙が、この森で生きていた木々の命を神の許へと運ぶ道となるように漆黒の空へと吸い込まれていた。

 

「ヒャダイン」

 

「…………マヒャド…………」

 

 広がる炎を食い止めるように周囲を冷気が包み込む。世界唯一の賢者が放つ緻密な氷結呪文が木々達を護る壁となり、人類最高位の魔法使いが放つ氷結呪文が一気に炎を消し去って行った。

 それでも、焼かれた木々の命が戻る訳ではない。黒く焼け焦げた木々の表皮は痛々しく、先程まで咲いていた花々は、その姿をこの世から消していた。

 『人』として生きる以上、材木を手に入れる為に木々を伐採する事もある。好意を寄せる相手に想いを伝える為に花々を摘む事もある。食物として草花や木々に実る果実を採る事もあるだろう。それでも、この惨状を生み出した者への強い怒りと、この惨状への深い悲しみをサラとメルエは胸に宿していた。

 

「……あの石像か」

 

「カミュ、一体であれば何とかなる。だが、二体以上となれば話は別だぞ」

 

 炎が消え、再び闇が濃くなった森の中で、周囲の木々が焼けた事で出来た小さな空間に招かざる客が到着する。それは、先んじてこの場所に湧いていたマドハンドが呼び寄せていたであろう物であり、本来であればこの精霊が住む森を護るという目的を持って生み出された英雄の姿であった。

 大魔人と呼ばれ、今や忌み嫌われる存在へと落ちてしまった古の英雄を模した石像は、森の木を薙ぎ倒しながらカミュ達の前に姿を現す。先に出て来た一体の大魔人を見たカミュは表情を険しくし、その横でリーシャが現状を冷静に分析していた。

 カミュ達に恐れを抱かせた事もあるこの石像ではあるが、一体であれば打ち倒した事もある。だが、これ程の力を有した石像が二体以上となれば、必然的にカミュとリーシャに一対一以下の状況が生まれてしまい、かなり厳しい戦いとなる事は明白であった。

 

「…………あたらしい………おぼえた…………」

 

 そんな緊迫した状況で数歩後退したカミュとリーシャに聞こえるように呟かれた少女の言葉は、久しく聞いていなかった物。魔法という神秘を行使する事だけが自分の存在意義であり、当初は新たな呪文を修得したという事を保護者達に伝える事で、『自分は役に立つよ』という事実を伝える為に発せられていた言葉。それは、常に彼女の回りに居る三人を驚かせ、その新呪文の効果で言葉を失わせて来た物である。それを今、この場で発したと言う事は、その新呪文がこの状況を打破出来る可能性を持っているという事を示していた。

 メルエの魔法の師はサラである。ある地点を境に、少女の呪文契約の際は必ず立ち合う事となっており、その修得状況も共有している。故に、久しぶりに聞いた誇らしげな声を聞いたカミュとリーシャは、その少女ではなく師へと視線を向けた。

 

「駄目です。あの呪文をこのような場所で使う事は許しません。メルエは、先程の炎のように、この森で生きる動物や木々を破壊したいのですか?」

 

「…………むぅ…………」

 

 自分の成長を伝えた筈の前衛二人は視線を自分へ向ける事はなく、ある意味競争相手とも言えるサラを見た事が不満であったメルエではあるが、自分の修得した呪文の効力を考えると、姉のように慕う師の言葉が正しい事を理解し、頬を膨らませるだけとなる。

 このような緊迫した場面には相応しくないメルエの表情が、先程まで焦りさえも感じていた前衛二人の心に余裕を齎す。どちらかともなく小さな笑みを浮かべたカミュとリーシャは、既に目の前に姿を現した大魔人の後方から出て来たもう一体を見て、各々の武器を構え直した。

 

「……剣? カミュ様、あの剣はもしかしたら神代の物かもしれません」

 

 迫り来る驚異の前で、若干の余裕を持ったサラは、後方から現れた大魔人が手にした剣を発見する。怪しく輝きを放つその剣は、まるで先程の炎を思わす熱気を纏っており、有象無象の剣ではない事が窺えた。

 巨体の大魔人の身体には合わない大きさではあるが、それでも人間が持つには巨大な剣である。だが、以前に動く石像という同じように城を守る英雄を模した魔物が『魔神の斧』を所有していた時の事を考えると、所有者に合わせて形状を変化している可能性もあった。

 幅広の刀身は中程までは細くなって行き、それ以降は末広がりに広がっている。剣というよりも、断頭台の刃を思わせるようなその姿は、見る者の心の奥深くにある恐怖を呼び起こしてしまうだろう。大魔人が持つ事により、通常の人間が持つ剣の倍近くの大きさを持ったそれは、カミュ達のような強者の心さえも抉って行った。

 

「メルエ!」

 

「…………マヒャド…………」

 

 大魔人が天に捧げるように、その剣を大きく掲げる。その瞬間、圧倒的な熱量を生み出した剣は、闇に包まれた森を真っ赤に燃え上がらせた。咄嗟に放たれたサラの指示に頷くよりも先に、幼い少女がその杖を振るう。異様な剣が生み出した熱量をも上回る冷気が一気に吹き荒れ、燃え上がった炎ごと凍らせて行った。

 異様な剣が生み出した灼熱の炎は、メルエやサラが行使可能なベギラゴンに匹敵する熱量を持っている。だが、魔物が使用しているとはいえ、道具から生み出される炎が世界最高位に立つ魔法使いが放つ最上位氷結呪文に勝る訳がない。冷気と熱気がぶつかり合った事で生じた霧のような水蒸気をサラがヒャダインを唱える事で消し去ると、炎を飲み込む冷気の余波によって、剣を持たない大魔人の足元は凍り付いていた。

 

「カミュ、まずは武器を持たない石像を倒すぞ」

 

「わかった」

 

 即座に駆け出したリーシャは、足元を凍りつかせて動けない大魔人に斧を振り抜く。迫って来るリーシャに対して巨大な腕を振って悪足掻きのような攻撃を繰り出す大魔人であったが、その腕は振り抜かれた斧と激しく交差した瞬間、派手に砕け散った。

 メルエが放ったマヒャドという最上位の氷結呪文は、石像の内部さえも脆くさせてしまっていたのだ。本来であれば石の内部を脆くさせる事など出来はしない。だが、人類最高位の魔法使いが放った氷結呪文は、石像を模る岩の内部の空洞などを凍らせ、衝撃に対しての耐久度を下げてしまっていた。

 力で魔物と競り合って、人間が勝てる訳がない。大魔人の腕を粉砕したリーシャであったが、その身体は後方へ弾き飛ばされ、マヒャドによって氷が付着した大木へ衝突する。それを好機と取った大魔人が足元の氷を破壊して動こうとした時、カミュの持つ剣が稲妻のような一撃を見舞った。

 

「メルエ!」

 

「…………マヒャド…………」

 

 カミュの一撃が態勢を崩す大魔人の眉間に突き刺さる瞬間、もう一体の大魔人が持つ神代の剣が輝いたのを見たサラがメルエへと指示を飛ばす。雷の杖と呼ばれる炎を生み出す杖から吐き出された圧倒的な冷気が、大魔人の持つ剣が生み出す火炎が大地に下りる前にその効力を無効化して行った。

 吹き荒れる冷気は神代の剣を持つ大魔人の腕を凍りつかせ、その行動を制限する。眉間に剣を突き入れられた大魔人が、稲妻の剣の解放によって頭部を破壊され、その活動を停止させた頃、サラによって傷を癒したリーシャが一気に距離を詰め、魔の神が愛した斧を振り抜いた。

 過去の英雄を模し、大魔王の魔法力によって『魔人』と化した石像であっても、魔の神が愛した武具の一撃に耐える事は出来ない。リーシャの力と魔神の斧の力が合わさった時、その一撃は精霊神ルビスに愛された勇者でさえも届かない至高の物となる。母なる大地を割り、大いなる海を裂く程の一撃が、大魔人の大腿部を斬り裂いた。

 

「メルエ! 貴女のイオ系は駄目です!」

 

「…………むぅ…………」

 

 大腿部から真っ二つに斬り裂かれた大魔人が、大地へ落ちる瞬間を狙って杖を振ろうとするメルエを見たサラは大きな声でそれを制止する。開けた平原などであれば、確かにメルエの判断は正しかっただろう。倒れ込もうとする無防備な大魔人に向かって止めの一撃を放とうとするメルエの考えは正しく、それは彼女が彼女なりに戦闘の経過を正しく見ている事の証明でもあった。

 だが、その止めの一撃として選択する呪文は、ここまでの戦闘の経験から爆発呪文である事は明白であり、それを察したサラの言葉に対して少女が唸り声を上げて杖を下ろした事で、その予測が正しかった事を証明している。

 この魔法の選択に関してもメルエが正しいのだ。石で出来た石像を完膚なきまでに破壊するのは、火球呪文でも灼熱呪文でも氷結呪文でも不可能である。現にカミュは稲妻の剣に付随していた効果によって大魔人の頭部を破壊していた。

 

「自分の呪文の力と、他者の呪文の力の違いを知りなさい! メルエは誰が何を言おうと、世界で一番の魔法使いなのです! カミュ様の武器の力など、貴女の力の足元にも及びません。私の呪文でさえ、メルエに及ばないのです。メルエはカミュ様達も、この森も、この森で暮らす多くの生物達も護るのでしょう!?」

 

「…………ん…………」

 

 しかし、如何に神代の武器と言えども、今や押しも押されぬ勇者一行の魔法使いとなったメルエの呪文と肩を並べる事など出来はしない。稲妻の剣が放つイオラに似た効力であれば、サラの放つイオラの方が威力は数段上である。そうであれば、サラよりも上位にいるメルエの攻撃呪文は別格と言っても過言ではなかった。

 これ程の厳しい言葉をサラがメルエにぶつけたのは何時以来であろう。そこにどれだけの想いがあるかという事はカミュやリーシャには解らないかもしれない。魔法力を発現する才が欠片もないリーシャは勿論、呪文よりも武器での攻撃を主体とするカミュもその想いの一部も理解出来ないだろう。しかし、そんな姉のように慕う賢者の想いを、幼い少女は全て理解した。

 仲間を傷つけないように呪文を放つという努力は常にしている。だが、それが最優先になっているメルエにとって、森を護り、森の生物達を護るという部分に割く想いが希薄になっていた。メルエがイオラを放てば、大魔人は完膚なきまでに破壊されただろう。だが、それと同時に周囲の木々も花も、虫も、二度と戻らない程に破壊されてしまっていただろう。真剣に頷きを返したメルエの瞳に、異なる強い光が宿った。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 残る片足で何とか態勢を立て直した大魔人は、突如として目の前に現れた大火球を避ける術はない。片腕を前に出すが、その腕は瞬時に融解して行き、神代の剣を放り出してもう一方の腕を防御に向けて尚、その火球の勢いは衰えなかった。

 放り出された巨大な剣はカミュが見上げる近くの地面に突き刺さり、その姿を変化させて行く。収縮して行くように縮んだ剣は、丁度稲妻の剣の刀身よりも一回りほど大きな状態で変化を停止させた。

 大魔人の両腕を融解させ、その胴体へ突き刺さった火球は、苦悶の表情と声を上げる大魔人の仮初の生命を奪って行く。最早赤い色ではなく、何処か黄色くさえ見える火球は、大魔人の胸部を抉って行った。

 

「…………マヒャド…………」

 

 大魔人の胸部に大きな穴を開け、その後方へと火球が抜けようかという時、再び少女が杖を振るう。吹き荒れる冷気が、大魔人の融解させた事で赤色に戻った火球を包み込んで行く。お互いがお互いを相殺するように威力を発揮する中、木々へ到達する前にその火球を飲み込もうと冷気が猛威を振るった。

 

「ヒャダイン!」

 

 そして、それを支援するように、唯一の賢者となった女性が被せるように氷結呪文を唱える。威力が弱まりを見せたマヒャドの冷気を後押しするように吹き荒れ始めたヒャダインの冷気が一気に火球を包み込み、石像一体の両腕と胸部を奪った脅威を消滅させて行った。

 吹き荒れる冷気は木々に氷を付着させて行く。しかし、大魔人へ向かう火球を対象として唱えられた氷結呪文の冷気の余波は、木々の強い生命力を奪う程ではない。同様にカミュやリーシャの持つ装備品に付着した氷も、彼らの命を脅かす物ではなかった。

 前衛二人が各々の武器を背中に納めた頃、森に猛威を振るっていた二体の石像は完全に沈黙する。静けさと闇が戻った森の奥から、フクロウの鳴く声が小さく聞こえ始め、それが長い戦闘の終了を告げていた。

 

「流石はメルエです」

 

「…………ん…………」

 

 一つ息を吐き出したサラは、隣で心配そうに眉を下げながら見上げて来る少女に満面の笑みを浮かべる。帽子を取り、その頭部を撫でて賞賛するサラの手を受けたメルエは、嬉しそうに目を細めた後、誇らしげに胸を張った。

 少女は一歩一歩成長している。己の力を知り、その力によって仲間を傷つけてしまう事を恐れ、その力の使い方を考え続ける。そして、今その先にあるもっと大きな世界を守る為にその力を使い始めたのだろう。他者を滅ぼす力ではなく、他者を守る力。その本当の意味を彼女は徐々に学んで行くのかもしれない。

 

「カミュ、この剣は大丈夫か?」

 

「呪われた武器という事か? アンタならば解るのではないか?」

 

 そんな姉妹のようなやり取りを余所に、前衛二人は地面に突き刺さった一本の剣の傍へと歩み寄っていた。片刃ではなく、両刃の剣は、先程までの効力の名残を残すように、相当な熱を有している。それは、カミュ達の想像通り、この剣が神代の剣として付加効果を持っている事を意味していた。所有していた大魔人が滅んで尚、原形を留めて地面に突き刺さっている事が何よりの証拠であろう。

 ただ、魔物が所持していた武器なのである。それは呪われた武具と考えても不思議ではない。リーシャの持つ魔神の斧も同じような石像が所持していた武器であるが、それはこの剣が呪われた武器ではない事の証明にはならない。現に、魔神の斧と同様に動く石像が装備していた兜は、リーシャの勘という不確かな物ではあるが、不吉な物であった。

 

「私は……何となくだが大丈夫だとは思うが、商人ではないからな。正確な鑑定などが出来る訳でもなく、神代の武器に詳しい訳でもない」

 

「まぁ、それはそうだろうな」

 

 リーシャの持つ不思議な感覚に対し、奇妙な話ではあるがカミュはそれ相応の信頼を持っている。だが、確かに商人ではないリーシャが武具の鑑定などを正確に出来る訳はなく、呪いがあるかどうかなど熟練の商人であっても判別する事が難しい事も承知していた。

 どうした物かと剣を眺めながら腕を組む二人の許へサラとメルエが辿り着いた頃、静寂と闇に包まれていた森に奇妙な変化が起り始める。

 去って行った小動物達が戻って来たのだろう。自然界に生きる物達にとって脅威への察知能力は死活問題に発展する。故にこそ、危険を感じれば一目散に逃げるが、危険が去ったとなればその場に戻って来る事もあるのだ。あの炎を身を持って感じた動物達は、その危険を心と脳に刻み付けられ、その場に近寄る事はないかもしれないが、周囲に居た動物達は、元々の住処へと帰還を果たした。

 

「メルエの護った場所に、たくさんの動物達が戻って来たみたいだな」

 

 近くに寄って来たメルエの頭を撫でながら口にしたリーシャの言葉は、幼い少女の自信と誇りを刺激する。くすぐったそうに微笑むメルエは何処か誇らしげに見えた。

 そんな一行の周囲を一陣の風が吹き抜けたのは、満足そうに帽子を被り直したメルエが突き刺さった剣へと視線を移した時であった。

 吹き抜けた風は、木々に護られた森の中とは思えない強い物で、被り直した帽子が飛ばされそうになったメルエが必至に頭を抑えなければならない程の物であり、水のようにしなやかな水の羽衣が波立つ程の物。森の奥から吹き抜けて行く風がその勢いを弱め、舞った木の葉がカミュ達の目の前に集まり始めた。

 

「この森を護ってくれた事を感謝します」

 

「え?」

 

 まるで舞った木の葉が形を成すように、カミュ達の目の前に人型の姿が生まれる。透き通るように美しいその姿は、とても人類には見えない。どちらかと言えばエルフに近いような美しさを持つ姿から直接脳へと響く声が聞こえて来た。

 突然の出来事にサラは驚きの声を上げ、リーシャとカミュは呆然と目を見開く。唯一幼い少女だけは目を輝かせてその不可思議な現象へと視線を向けていた。

 徐々に色を成すその姿は、森を吹き抜ける風のように穏やかであり、木々のような暖かさを湛えている。花々のように香る芳しい香りは見る者を魅了し、闇の中でも伸びる草木のような逞しさも備えていた。

 

「驚かせるつもりはありませんでした。私はこのマイラの森の精。貴方達がこのマイラの森を護り、救ってくれた事に感謝を述べます」

 

「森の精霊様……」

 

 マイラの村の温泉の中で森の精霊の存在は聞いており、上の世界で湖の精霊に遭遇した事もあるサラは、その存在を信じてもいたし、拝謁出来ると考えてもいた。だが、実際に神秘の存在である精霊を目の前にすると、身体も思考も固まってしまうのが当代の賢者らしいとも言えるだろう。

 思考が固まってしまったそんな姉のような存在に対し、目を輝かせていたメルエはサラの前に出て森の精霊を眩しそうに見上げる。完全なる未知ではない。以前に遭遇した湖の精霊は幼いメルエに対して高圧的な態度に出る事などなく、あの時に底辺にまで困り掛けていた少女の悩みを完全に解決してくれた優しき者であった。故にこそ、メルエという少女は森の精霊に対して好意的な態度を示しているのだろう。

 

「この森にも魔物達の手が伸びて来ました。森で暮らしていた魔物達も大魔王の魔法力の影響を受け始めています。最早、この森で生きる者達を護り切る事も難しい」

 

「森の精霊様は、ルビス様の封印を解く事の出来る『妖精の笛』をお持ちだとお聞きしました」

 

 大魔人の所持していた剣が生み出した灼熱の火炎と、メルエの放った最上位の冷気の影響を受けた森の姿を寂しげな表情で見回した森の精霊は、一人呟くように懺悔を溢す。サラはその言葉を敢えて流し、マイラの村で聞いた事を確認するように問いかけた。

 自分を飛び越えて森の精霊と会話をしようとするサラを見上げたメルエは頬を膨らませるが、サラの言葉を聞き取った森の精霊が何処からともなく取り出した一つの笛を目にして頬を緩める。それは、メルエの首から下がっている『山びこの笛』とは形態が異なっていた。山びこの笛がオカリナのような形をしているのに対し、妖精の笛は縦長の横笛と同じ形をしている。

 

「これをお持ちなさい。ルビス様が封じられた場所でこの笛を吹けば、その呪いさえも解く事が出来るでしょう」

 

「……何故、私に?」

 

 森の妖精は取り出した横笛を、目の前で期待に胸を膨らませて目を輝かせている少女にでもなく、その後ろで精霊へ問いかけるように声を発した女性にでもなく、そんな後方組二人を護るように立つ青年へと預ける。その行動は一行の内三人が驚きの表情を浮かべる物であり、森の精霊の予想外の動きに納得の表情を浮かべているのは、僅か一人だけであった。

 『むぅ』と頬を膨らませ、恨めしそうに見上げて来るメルエの視線を受けながらも、妖精の笛を手にしたカミュは自分を選んだ事への疑問を精霊に対して投げかける。カミュとしては、音楽の才能もなく、笛など奏でた事もない自分を選んだ理由が理解出来ないのだ。ましてや、大魔王ゾーマを討伐する為に旅をしているとはいえ、精霊神ルビスに対して思い入れもなく、むしろ憎しみに近い感情さえも持っている自覚のある自分が、その封印を解く為の笛を奏でるという行動が出来るとは思えなかった。

 

「貴方の中にある魂がその笛を奏でるでしょう」

 

「カミュの魂が笛を奏でるのか?」

 

 森の精霊の言葉は、誰もが理解出来る物でありながら、誰もが本当の意味で理解出来ない物でもあった。カミュ自身が笛を奏でる事は出来ず、それでもカミュの魂が笛を奏でる。そんな現象がどうして起り得るのかが解らない。それを最も素直に表現したのは、先程まで何処か納得した表情を浮かべていたリーシャであった。

 リーシャの言葉に対し、同じように首を傾けたメルエは、先程までの嫉妬を忘れたように森の精霊を不思議そうに見上げてる。賢者であるサラであっても、森の精霊の言葉の真意には辿り着けてはいなかった。

 

「ルビス様の事は頼みましたよ。太陽の恵みがなければ、いずれ森は死に絶えます。貴方達の歩む道に大いなる加護と、輝ける光があらん事を」

 

 短い会合は終わりを告げる。カミュの質問に明確な答えを返す事もなく、見上げるメルエに優しい笑みを溢す訳でもない。賢者であるサラの信奉に応える訳でもない精霊は、最後にカミュとリーシャの後方へと視線を向けた。

 その場所には先程の戦闘で大魔人が取り落とし、地面に突き刺さったままの両刃の大剣。未だにその刀身に熱を帯びている剣は、主となる者以外が持つ事を拒むような雰囲気を醸し出している。だが、闇に覆われた天に向かって伸びた柄は、逆に主を待つように佇んでいた。

 

「その剣は、『雷神の剣』。古の英雄が持ちし剣としてこの世界に伝わる物のようです。神や精霊の祝福を受けている剣ですから、持って行くと良いでしょう」

 

 地面に突き刺さった剣を指差すように名を告げた森の精霊は、その言葉を最後に再び一陣の風となって森の奥へと消えて行く。現れるのも突然であれば、去るのも突然の出来事に、一行は言葉を失ったままその場に立ち尽くすしかなかった。

 闇と静けさが戻った森の中で、『たいまつ』の炎に照らされた剣は眩く輝き、反射された光に妖精の笛が瞬く。

 精霊神ルビスの封印を解く方法が解り、それに必要な道具は手に入った。それが行使可能な物なのかは不確定ではあるが、それでも彼らが向かう場所は決定し、彼らがやるべき事も確定する。

 目指すは『ルビスの塔』。

 精霊神ルビスがこの大陸に降り立つ場所であり、それを迎える為に人間が造りし塔。そして、その輝きが封じられし場所。

彼らは北にある小島を目指す事となる。

 

<雷神の剣>

稲妻の剣と同様に、神代から伝わる剣。

その刀身に秘められた神秘の力は、稲妻の剣よりも上位にあるだろう。稲妻の剣の効果が、『まるで稲光が落ちた時のような音を立て、周囲を更地にしてしまう』という伝承を持っているとすれば、雷神の剣は『その稲妻を操る事の出来る雷神が暴れ回る様に激しい炎で包み込み、全てを焼き尽くしてしまう』という伝承に基づく物である。

『悟りの書』に記載された最上位灼熱呪文であるベギラゴンと同等の威力を持つそれは、本来は剣という武器に付随する効果ではない。雷の神と謳われる雷神が愛し、その手から離さなかったという逸話さえあるこの剣は、人間が手にするには余りある力を宿していた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
更新が遅くなり、大変申し訳ございません。

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ルビスの塔①

 

 

 

 妖精の笛という貴重な物を森の精霊から譲り受けた一行は、マイラの森を抜け、ラダトーム城のある大陸に繋がる海岸へと出る為に歩き出していた。

 森の中には、地面から湧くマドハンドなどの魔物達も出現していたが、根元から刈り取るようにそれらを打ち倒して突き進む。既にこの辺りに設置されていた英雄達の石像がないのか、マドハンドが大魔人を呼び寄せる事はなく、森の中という事で配慮されたサラとメルエの氷結呪文によって凍りついた魔物を砕くという単純な作業であった。

 既にカミュの背中にある剣は『雷神の剣』に変わっている。リーシャとの協議の末、この剣はカミュが持つ事になっていた。装備していた『稲妻の剣』は今はカミュの腰に下がっており、戦闘の邪魔にならないようにその力を封印している。

 リーシャとしては、強力な武器である事は理解していても、既に彼女の中で斧が最も扱いやすい武具に変化しているのだろう。思えば、アッサラームで購入した鉄の斧に続き、次に購入した武器もまたバトルアックスという斧であった。その後、ドラゴンキラーという人類が加工出来る最上位の剣に装備を変えるが、やはり彼女の攻撃スタイルが斧のような武器に適した動きになっていた事は否めない。故にこそ、彼女は敢えて『魔神の斧』を選び続けた。

 実は、そこに、純粋なメルエの瞳があった事も理由の一つである。幼い少女にとって、『斧』という武器は強者の証でもある。それを振るうリーシャという戦士の強さに誰よりも惹かれているのもこの少女であり、その瞳に宿る期待をリーシャが裏切れる訳もなかった。

 

「海に出るのか?」

 

「この舟では極力戦闘を避けなければなりませんね。魔物によって舟底に穴を開けられたら全員が溺れてしまいます」

 

 一日の野営を挟んで海へ出たカミュ達であったが、巨大な川のような海を見てリーシャが一言呟きを漏らす。マイラの村に暫し住居を構える事にした漁師の了解は既に得ており、この小大陸へ移動した際に使用した小舟を借りてルビスの塔がある小島への向かう事は決定していた。

 だが、カミュ達四人は舟に関しては素人同然であり、ここから小島へ向かうのにどれ程の時間が掛かるかも解らず、そしてどのような航路を辿れば良いのかも解らない。船というには余りにも頼りない小舟であるだけに、魔物との戦闘によって転覆する危険性も十分に孕んでいる。そのような危険を含んだ海の旅を前に、リーシャは再確認の言葉を発したのだ。

 

「地図によれば、それ程の距離はない筈だ。対岸にあるラダトーム城のある大陸へ渡る倍程の距離だろう。太陽さえ昇っていれば、日暮れ頃には辿り着ける程度の時間しか掛からないと思う」

 

「そうか……だが、闇に包まれた海を渡る作業は想像以上に厳しい筈だ。進む方向はお前に任せる。頼むぞ」

 

 カミュの言葉に一つ頷いたリーシャは、繋いでいた小舟を浜辺に浸け、メルエを抱き上げて船の中へと下ろして行く。二人の会話を聞きながら、この行動がかなり危険性を孕んでいる事を再確認したサラも表情を引き締めて小舟へと乗り込んだ。

 進む方向に関しては、これまでの旅の経路を考えれば、カミュが誤る訳がない。ならば、小舟を漕ぐ作業をするのはリーシャとなり、それをカミュとサラが補助するような形になるだろう。海上での戦闘では、勇者の洞窟とは真逆となり、サラとメルエしか役に立たないと言っても過言ではない。カミュとリーシャの振るう剣や斧は、相手も自分と同じ土俵に居なければ効力は半減以下になってしまうからだ。

 故にこそ、戦闘要員であるサラやメルエを主体での構成となる。『たいまつ』を持つのも、舟を進めるのもカミュやリーシャであり、周囲を警戒する役目をサラが担う事となった。実は、これは上の世界にいるときとそう変わりはない。ポルトガ国王から下賜されたあの船から上陸する時の小舟では、このような陣形が当然のように行われていたのだ。

 

「メルエ、頼むぞ。この小舟の上ではメルエが頼りだからな」

 

「…………ん…………」

 

 真っ黒な海を残念そうに眺めていたメルエは、不意に肩を叩かれ、真剣な表情で言葉を発するリーシャを見て表情を引き締める。今の彼女にとって、頼りにされていると感じる事は何よりの喜びであるのだが、その重圧の強さを実感出来るだけの経験を積んでいる為、楽観的に構えるような事はしない。その責任の重さを知り、しっかりと視線を前方へ向けた少女は、周囲の音に惑わされる事なく、己の役目を全うしようと身構えた。

 頼もしい少女の姿に頬を緩めたリーシャは、舟に取り付けられた小さな帆を張り、舵を取るカミュへ視線を向ける。カミュが向かおうとする方角へ行く為、帆の調節などはリーシャがする事となる。漁師でも船員でもない彼らが舟を操るというのは想像以上に難しい事であり、通常の漁師であれば一人で行う事を二人で行うしかないのだ。そして、それは長い時間、共に旅を続けて来た彼らだからこそ成し得る事なのかもしれない。

 

「カミュ、方角は大丈夫か?」

 

「問題ない。このまま進む」

 

 陸を離れた彼等の舟は、アレフガルド大陸を吹き抜けて行く風を受けてゆっくりと海原へと乗り出して行く。上の世界で彼等が乗っていた船であれば、荒れ狂うような嵐の時でもなければ大きな揺れはない。だが、一漁師が使用するような小舟では、それ程に荒れていない海の波でも大きなゆれとなる。押し寄せる波を乗り越えるように上下に動く小舟は、湖に漂う枯葉のように危うく、しっかりと舟の縁を掴んでいなければ、真っ黒な海へ投げ出されてしまうだろう。

 乱暴に揺らされる揺り篭の中にいても、座り込んだメルエの視線が揺れ動く事はない。しっかりと前方の闇を見据えながら、自分が大事に想う者達に危害を加えようとする物の来訪を経過していた。

 

「うっぷ……」

 

 だが、そんな頼もしい最年少の少女と対照的に、もう一人の戦闘要員は早々に戦線を離脱しそうな状態へ陥り始める。元々船という移動手段が苦手であったサラは、それを慣れという生物の持つ強みによって克服したかのように思われていた。だが、それは上の世界でも最高傑作と謳われ続ける巨大な船があればこそなのだ。枯葉のように頼りない小舟が齎す大いなる揺れは、再び賢者を役立たずへと落としてしまう。

 何度も口元を押さえながら、今にも海面に向けて胃の内部を吐き出してしまいそうになるサラを見たリーシャは、先程まで自分が必要以上に身体に力を入れていた事に気付く。船旅が未知なるものではないが、舟や海を熟知した者達がいない船旅は始めてである為、どうしても肩に力が入ってしまっていたのだ。

 

「サラ……この際、胃の内部を全て海に吐き出してしまえ。サラの嘔吐物が周囲を漂えば、魔物も近寄らないかもしれないぞ」

 

「ひ、ひどいですよ! ……うっぷ」

 

 冗談交じりの言葉に、涙を浮かべて抗議をするサラではあったが、生物としての機能を無視する事は出来ない。急激な揺れによって乱高下する景色に、サラの脳の認識が追いつかないのだろう。まるで目を回した者のようにふらふらと座り込んでしまった彼女は、舟の縁から顔を出して胃の内部を吐き出し始めた。

 まだ陸を離れて数刻も経過していない。未だにルビスの塔らしき物は視界には入らないが、戻る陸地も見えなくなっている。大きく揺れ続ける舟は、波を生み出す風を受けて順調に前へと進んでいる証拠であった。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 そんな何処か間の抜けた航海が進むかと思われた時に、突然少女が杖を前方へと突き出し、彼女が持つ最上位の攻撃呪文を解き放つ。瞬時に真昼のように明るくなった小舟の周囲に、離れた海の光景が映し出され、まるでカミュ達を待ち受けるように顔を出していた三体のマーマンキングの姿が見えた。

 しかし、哀れなのはそんな三体のマーマンキングであろう。暫く見る事もなかった人間の舟を見つけ、襲う為に待ち受けていたにも拘らず、海面に上半身を出した直後に迫って来た大火球によって、瞬時に命を奪われてしまったのだ。

 上半身が高熱によって融解し、巨大な尾ひれだけを残した三体のマーマンキングは、そのまま海の底へと沈んで行く。真昼のように真っ赤に周囲を染めていた大火球もそのまま海の中へと落ちて行き、派手な水蒸気を生み出しながらも消滅して行った。

 

「カミュ、どうやら私の不安は杞憂だったようだ……」

 

「メルエの事よりも、あそこで蹲ってる馬鹿を何とかしろ。大型のイカが出て来た時は、メルエだけでは対処出来ない」

 

 戦闘に入るよりも前に消滅した脅威を見ていたリーシャは、既に次の脅威への警戒へと戻った少女の姿を見て、舵を取るカミュへと声を掛ける。陸を離れる時にあれ程に警戒していた事が、何をするでもなく消滅した事に対して安堵の想いと、それ以上の不安が襲ったのだろう。

 そんな女性戦士の心の内を理解したカミュは、敢えて彼女の奥にある不安を避けるように話題を変更した。マーマンキングが現れていた事にさえも気付かないように嘔吐しているサラへ厳しい視線を向け、リーシャの意識を逸らす。

 

「だが、船酔いはどうにもならないぞ?」

 

「アレはキアリーでもベホマでも行使出来る筈だ。どんな方法でも、一時の気休めでも、いざという時に戦闘に入れるようにしておけ」

 

 船酔いは、サラが長く苦しんでいる病魔に近い。どんな理由でその状況が起るのかも正確には解らず、慣れる事のみで対処していただけにそのような考えに至る事もなかった。回復呪文の効力が船酔いにまであるとは考え難い。キアリーのような解毒呪文や、キアリクのような麻痺を治療する呪文も効力があるとは思えない。だが、船酔い自体を状態異常として括るのであれば、若干ではあっても船酔いが軽減する可能性もあるだろう。

 カミュの言葉に頷いたリーシャは、舟の縁に掴まって項垂れているサラへと近寄って行く。既に胃の中身を全て吐き出した後なのか、彼女は虚ろな瞳で胃液のみを海面に吐き出していた。

 

「サラ、ベホマでなくても良い。ベホイミを自身に掛け続けろ。それが駄目なら、キアリーという解毒呪文も試せ。悪いが、この小さな舟での移動は、サラの体調不良を許せるようなものではない」

 

「げほっ……は、はい」

 

 目が回っているかのように焦点の合わない瞳を上げたサラは、力なく頷きを返す。自分のこの状況を知って尚、厳しい言葉を投げかけるリーシャは、サラにとっては鬼に映ったかもしれない。それでも、大きな舟から上陸するまでの短い距離の移動ではないこの船旅は、かなりの危険性を孕んでいる事を理解出来る為、サラは必死で自分の身体を奮い立たせる。

 平衡感覚も狂い、真っ直ぐ立つ事も出来ない状況にも拘らず、サラは自身に向けて回復呪文を唱える。淡い緑色の光がサラを包み込み、身体の内部を浄化するように輝いた。船酔いによって奪われた体力が完全に戻る事はない。それでも幾分か気分が和らいだサラの瞳が生存本能に従って焦点を合わせ始めた。

 

「大丈夫そうだな。直ぐにまた気分が悪くなるだろう。無理をさせてしまうようで申し訳ないが、ルビス様の塔がある小島に着いたら、ゆっくり休ませてやるからな」

 

「こ、こちらこそ、申し訳ありません。何とか頑張ってみます」

 

 完全回復とは言えない。今のサラでは、精神集中が必要な呪文行使という手段の中でも更に別格である死の呪文の行使を成功させられるかは定かではないだろう。それでも、この一行の中に『賢者』がいるという事が重要なのだ。それだけの信頼と、実力を、彼女はこの五年の旅で勝ち取って来ていた。

 サラという賢者が居るという安心感が、強力な魔法使いの幼い精神を安定させる。その二人が安定するからこそ、前衛二人は魔物に向かえるのだ。今は船の上で前衛二人の役割は戦闘ではないが、それでもサラという一人の女性の存在感は、彼女自身が考えているよりも遥かに大きい事だけは確かである。

 

「カミュ、微かだが塔のような物が見えるぞ」

 

 その後、何度かマーマンキングやマリンスライムとの遭遇があったが、全てメルエの放つマヒャドによって氷漬けにされて海へと還って行った。夜の闇の中で魔物を発見する事はかなり困難ではあったが、メルエがその襲来に気付き、舟へ近寄るよりも先に呪文を行使するという先手必勝の動きから敵を葬っている。

 既に数刻の船旅の中、サラの体力消耗は顕著であり、青白い顔をしながらも何度も回復呪文を行使し続け、魔法力の残りも多くはない事が窺える。それでも何度かメルエへと指示を出しながら、自身も攻撃呪文を行使していた事を見る限り、やはり彼女もまた勇者一行の一人であるのだろう。

 

「小島の近くに岩場はないと思うが、座礁にだけは注意してくれ」

 

 舟がゆっくりと小島へと近づいて行くにつれ、天へ突き出すように伸びている塔が大きく見えて来る。空を飛べない人間であっても天にいる神や精霊神へ届こうとする傲慢さなのか、それとも神や精霊神が地上へ降りて来る際の移動の距離を僅かでも縮めようとする忠義心の表れなのかは解らないが、カミュ達の視界に入って来る塔の頂上は、雲が掛かったように見えない程の高さにあった。

 闇に包まれたアレフガルドには太陽の光は届かない。だが、本来太陽の光を遮る役目を担う雲は空中を漂っており、低い場所を漂う雲を突き抜けて伸びる塔の姿は、闇を突き抜けて天へと上る希望の架け橋のようにさえ見えていた。

 

「サラ、地上に下りて横になれ。休憩は取るが、一眠りした後には直ぐに出る事になるぞ」

 

「は、はい……」

 

 小島へと上陸した舟を近場の木々に括りつけたカミュは、闇が支配する海岸でさえも懸命に生きる小動物に夢中になっているメルエの周囲を警戒する。舟から真っ先に降りたリーシャは、ぐったりと力尽きたサラを背負い、木々が生い茂る森の入り口まで歩いて行った。

 木にもたれ掛かるように座り込んだサラへ横になるように指示を出したリーシャは、枯れ木を集めて火を熾す。心地良い暖かさと、何処か安心出来る木々が燃える音を聞きながら、サラは直ぐに眠りに就いた。

 体力的にも精神的にも限界であったのだろう。即座に寝息を立て始めたサラに笑みを浮かべたリーシャは水筒の水で濡らした布をその額へと置いてやる。人間の身体は不思議な物で、どれ程に揺れ動く乗り物に乗っても酔わない者もいれば、どれだけの時間を掛けてもそれを克服出来ない者もいるのだ。それでも、懸命に自身の役割を全うしたサラを誰が責める事が出来よう。リーシャは小さく賞賛の言葉をサラへ向け、未だに海岸で目を輝かせている少女の方へと視線を移した。

 

「カミュ、メルエ、少し休もう。私は食料となる物を探して来る。火の番と、サラを頼むぞ」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの言葉を聞いたメルエの表情が再び変化する。責任感を持った表情を浮かべて少女は大きく頷きを返した後、『とてとて』と小走りでサラの傍へ移動し、座り込むとじっと焚き火の炎を見つめ始めた。その姿に苦笑を浮かべたカミュとリーシャは、それぞれの役割を果たす為に動き出す。

 その後、リーシャが取って来た果物や獣の肉を調理して食事を取り、サラが覚醒するまで休息を取る事となった。カミュとリーシャが交互に火の番をし、闇の中で焚き火を絶やさぬように過ごして行く。そんな中、通常であれば夜が明けるかという時間が経過した頃、サラの横で丸くなって眠っていたメルエが不意に身体を上げた事で、火の番をしていたカミュは傍に置いてあった雷神の剣の柄を握った。

 

「起きろ、魔物だ」

 

 いつもならば寝ぼけ眼で周囲を見回すメルエが、上空に視線を向けたまま動かない事で魔物の襲来だと確信したカミュは、傍で眠るリーシャの身体を軽く揺する。僅かな振動で目を覚ましたリーシャも斧を握って戦闘態勢へと入って行った。

 森の入り口から海岸の方へ出ると、闇の空から大粒の雫が落ちて来るのが解る。それはカミュ達の旅で何度も経験して来た雨という現象であり、旅を続けて行く中で魔物の襲来以上に厄介な相手であった。

 未だに目を覚まさないサラを護るかのように火の傍を動かないメルエの瞳が警戒を続けている事に気付いたリーシャは、大粒の雨を降り注ぐ空へ目を凝らす。『たいまつ』の炎が雨の雫で小さくなって行く中、突如としてそれは現れた。

 

「ちっ」

 

 僅かでも勇者の盾を掲げるのが遅れていたら、カミュの目は串刺しにされていたかもしれない。重厚な金属音が響く中、その勢いに押された彼は小さな舌打ちを鳴らした。雨が激しくなって来た小島の海岸に空から襲来して来た魔物は二体。

 カミュやリーシャよりも大きな身体を持ち、その体躯と同等の大きさの翼を広げている。翼を広げると大魔人に迫る程の巨体。激しくなった雨に打たれながらも空中を飛び続ける強靭な翼を持った魔物は、森の入り口の大木の枝に足を掛け、カミュ達を虎視眈々と狙い続けていた。

 

「今回は何処かへ吹き飛ばされるなよ」

 

「当たり前だ!」

 

 雨に濡れて小さくなった『たいまつ』の炎を掲げたカミュは、大木から見下ろすように自分達を狙う二体の魔物を見て口端を上げる。その言葉を聞いたリーシャは、ここ最近では珍しく切れ長の瞳を吊り上げて叫んだ。

 二人を見下ろす魔物は、以前エジンベアという特殊な国家を訪れた際に遭遇した魔物と酷似していた。ヘルコンドルとその地方で呼ばれていた鳥類に似た魔物は、鋭い嘴と鋭利な足の爪を持って敵を抹殺するのと同時に、特殊な呪文を行使する魔物でもある。既にサラも行使が可能な呪文であり、魔王バラモスとの死闘の際にはその魔法に苦しめられた経歴もある。だが、一行の記憶に最も残っているのは、その呪文によって四人が離れ離れになったあの時の事であろう。

 エジンベアを出立し、船へと向かうその道中でヘルコンドルと遭遇した一行は、『バシルーラ』と呼ばれるその呪文を受けたリーシャとそれにしがみ付こうとするメルエとサラがあらぬ方角へ吹き飛ばされ、カミュ一人が残されるという受難に合う。その後、数ヶ月の間、別々に行動した時間は彼等の心に深く刻み付けられていた。

 

「雨が邪魔だな」

 

「天候に文句を言っても仕方ない。作物を育てる者にとっては恵みの雨かもしれないからな」

 

 魔物を見上げるカミュが、豪快に降り注ぐ雨の雫を鬱陶しそうに払うと、リーシャは柔らかな笑みを浮かべながらその言動を窘める。太陽が昇らなければ生物はいずれ死に絶えるだろう。だが、雨が降らなければ生物の死は加速度的に進むのだ。水は生物の根幹である。水無くしては作物は生長出来ず、それを食す生物達も水がなければ身体を維持出来ない。

 今は鬱陶しくとも、この場面では邪魔以外の何物でもなかろうと、降り注ぐ雨は明日の希望となる。明日の飲み水となり、明日の食料となる。リーシャの言葉は端的にそれを示しており、カミュは小さな笑みを浮かべ、『そうだな』という言葉と共に剣を構え直した。

 

<極楽鳥>

本来は天の国の鳥と謳われる程に美しい鳥である。色鮮やかな体毛を持ち、不死鳥ラーミアと対を成すかのような輝きを所持する。不死鳥ラーミアのように伝承の中だけで生きていた物とは異なり、アレフガルド大陸などで数多く生息していた事から、天の国から下向してきた鳥として語り継がれて来た。

だが、大魔王の魔法力による瘴気が強まって行く中、魔物としての攻撃的な本能を覚醒させ、人を襲うようになって行く。元々肉食であったこの鳥は、人類を捕獲し巣に持ち帰って食すのだ。覚醒したばかりの極楽鳥に人が攫われるのを見た者達は現実を認める事が出来ず、『極楽である神の国へお連れ下さった』と解釈したと云う。それ以来、魔物として認識されてからも当時の名残を残した極楽鳥という名で通っていた。

 

「飛来して来る時を狙う」

 

「私は一体を引き付けながら、メルエ達の許へ戻ろう」

 

 雷神の剣を構え直したカミュは、一体の極楽鳥が翼をはためかせたのを見てリーシャへ方針を伝える。頷きを返したリーシャはじりじりと後方へ動きながら、サラとメルエが待つ森の入り口へと向かう為に動き始めていた。

 バシルーラという特殊呪文を極楽鳥が所持している場合、魔法力への抵抗が薄いリーシャは格好の的となる。人類最高位の魔法使いであるメルエであれば、リーシャへの行使に対してマホカンタという光の壁を生み出す事も可能であり、不測の事態を回避する事も可能なのだ。

 リーシャという女性戦士は、自身に足りない所を素直に認める事の出来る旅を続けて来た。アリアハンを出た頃は、女性であるという事にさえ劣等感を感じていたが、頼もしい仲間と、その仲間と共に戦う誇りが彼女を大きく変化させている。己に足りないもの、出来ない事を飲み込み、己にしかないもの、己にしか出来ぬ事を真っ直ぐに成し遂げる強さ。それを持つ彼女こそ、人類最高位の戦士なのだろう。

 

「クエェェェェ」

 

 一体の極楽鳥がカミュ目掛けて一気に降下を開始する。攻撃方法をそれ程持たないこの魔物が取る行動としては解り切っている事ではあるが、その鋭い爪と巨大な翼で作り上げる速度は並みの人間であれば十分な脅威であった。

 しかし、この魔物が今対峙しているのは、大魔王ゾーマという精霊神や竜の女王でさえも敵わない相手に挑もうとする勇者である。砂浜に足を踏ん張った彼は、その速度に臆する事なく、手にした神代の剣を振り抜いた。

 極楽鳥の足の鋭利な爪が青年の頬を掠めて鮮血を飛ばし、被っていた兜が砂浜へと飛んだ。しかし青年の迸る一撃は、極楽鳥の腹部を斬り裂き、致命的な傷を与えていた。

 

「クワァァァァ」

 

 腹部の傷から夥しい体液を流した極楽鳥が砂浜へと落ちると、もう一体の極楽鳥は空へと飛び上がり、奇声を発する。その瞬間、砂浜へと転がった極楽鳥の身体全体を淡い緑色の光が包み、そして上空を旋回する奇声を上げた極楽鳥の身体までも包み込んだ。

 その光景に、剣に付着する体液を振り払ったカミュは驚きの表情を浮かべる。メルエの許へと辿り着いたリーシャもまた同様であった。何故なら、それは彼等が最も頼りとする賢者が何度か行使した事のある回復呪文に酷似したものであったからだ。

 魔王バラモスの戦闘時には何度も仲間達を救い、本来単体で患部に手を当てる事で行使が可能である回復呪文を複数に向けて放つという高度な呪文。ベホマラーと呼ばれるそれは、『悟りの書』と云う古の賢者が残した遺産に記された物であった。

 

「クエェェェ」

 

 カミュが刻んだ致命的な傷を癒した極楽鳥は、大粒の雨が降る海の方へと飛び去り、砂浜に転がっていたもう一体も、懸命に態勢を立て直して飛び上がる。砂浜という安定しない足場にも拘らず、大きく翼を広げて飛び立った極楽鳥は、カミュ達を振り返りもせず、必死に海原へと飛んで行った。

 一瞬の出来事に流石のカミュも行動が伴わず、リーシャもまた真っ黒な空へと飛んで行った極楽鳥の影を眺める事しか出来ない。魔物の襲来と云う危機は去ったが、何とも言えない後味を残した戦闘は、彼等の心に一抹の不安を残した。

 

「カミュ! 雨が激しい、早くこっちへ来い!」

 

 戦闘が終了しても、雨は激しくなるばかり。降り続ける雨はカミュの身体を濡らし、気付かぬ内に体力を奪って行く。それを知っているリーシャは、雨を遮る木々が生い茂る森へとカミュを呼び、集めていた枯れ木を焚き火へと移して行った。

 小さくなっていた焚き火は、新たな燃料を注ぎ込む事によって火勢を取り戻し、周囲を熱で暖めて行く。雨が何時まで降り続けるのかは解らないが、ルビスの塔へ向かうまでに衣服を乾かしておかなければそのまま探索をする前に体力が底を尽きてしまう事は明らかであった。

 

「メルエ、サラは寝かせてやろう。この雨が降り止めば良いが、そうでなくともサラが起きたら動き出すぞ」

 

「…………ん…………」

 

 先程までの厳しい表情は鳴りを潜め、いつも通りの笑みを浮かべたメルエは、サラの傍で焚き火の暖かさに頬を緩めている。雨による湿気を帯びた茶色い髪の毛をくしゃりと撫で付けたリーシャは、そんな小さな身体を抱き上げ、抱き抱えるように焚き火の傍へ座り込んだ。

 森で集めた木々が湿気に帯びてしまう前に、ある程度の数をカミュ、リーシャ、サラの三人が持つ革袋の中へ納める。この雨が続くようであれば、塔の探索中に何度か火を熾す必要があると考えたからだ。

 

「しかし……何故か私達が塔を目の前にすると、いつも雨が降るな」

 

「……偶然だろう」

 

 失った体力を懸命に戻すように眠り続けるサラの横で、森の木々が伸ばす葉に当たる雨の音を聞きながらリーシャは小さな呟きを漏らす。それを聞いたカミュとメルエが同時に上空を見上げるように首を動かした。

 この五年の旅の中で、彼等が入った塔というのは幾つかある。

 アリアハン大陸にあった『ナジミの塔』。

 ロマリア大陸に聳え、盗賊達の隠れ家となっていた『シャンパーニの塔』。

 ルビス教の聖地と呼ばれるダーマ神殿の傍にあり、古の賢者が遺産を残した『ガルナの塔』。

 エジンベアが発見した新大陸に残る、人間の罪を隠し続けた『アープの塔』。

 奇妙な事に、その内三つの塔で、探索する為に近付く時は常に雨が降り始めている。塔に入る前から降り始めた雨は、その探索が終わるまで降り続ける。今の雨の量はシャンパーニの塔へ入った頃のような豪雨に等しい。

 

「ここまでの雨となると、まるで私達が塔に入る事を拒んでいるようだな」

 

「その考えは、間違いではないかもしれないな。ルビスなどの解放を誰も望んではいないのだろう」

 

 リーシャの言うように、森の入り口から外の様子が見えない程に雨は強まっている。いつの間にかサラの横で再び丸くなってしまったメルエを起こさないようにマントを掛けたカミュは、リーシャの考えを肯定するように言葉を漏らした。

 それは、上の世界と呼ばれる場所だけでなく、このアレフガルドでさえも禁忌となる程の言葉。流石にリーシャもその言動を許す事は出来ず、窘めるように瞳を細くする。肩を竦めるようにしたカミュは、静かに焚き火へと枯れ木をくべた。

 

 

 

 雨は降り止む事はなく、むしろ更に強まっている感がある。木々に当たる雨粒の音が激しさを増し、風も強まっている為に木々が揺れ動き擦れる音が響いていた。

 ようやく目覚めたサラは、その状況を見て塔へ赴く危険性を感じるが、塔の探索時は雨が降り止まないという常の状況をカミュ達に説かれ、森を抜けて塔へ向かう事を了承する。サラに遅れるように目覚めたメルエの準備が整った事を確認し、一行は森を抜けて小島の中心部を目指して歩き出した。

 

「地面さえもぬかるんで来たな。サラ、足元に気をつけろよ」

 

「はい」

 

 雨を避けるように森を抜ける事にした一行であるが、森の中とは言っても雨は降り注ぐ。木々の隙間から降り注いだ雨によって水分を含んだ土が緩くなっている事が、降り注ぐ雨の激しさと量を物語っていた。

 いつものようにカミュのマントの中へ潜り込んだメルエは、大きなマントで雨風を凌いで入るが、カミュやリーシャと比べて体力が少ないサラにとってこの雨と風は着実に体力を削って行くだろう。そう感じたリーシャがサラを気遣うように声を掛けるが、十分な睡眠をとったサラは余裕のある笑みを浮かべて頷きを返した。

 

「この水の羽衣は、外からの水に対してもある程度護ってくれるようです」

 

「そうなのか? 良い防具を手に入れたな」

 

 サラが身に纏っているのは、マイラの村で手に入れた『水の羽衣』である。既に製作出来る者も皆無に等しく、その原料となる『雨露の糸』も今では希少な物。そんな希少価値の高い防具はそれなりの価格がしたのだが、高額な金額に伴う実用性を有していた。

 火炎や吹雪などの他に、雨風にも抵抗力を持つなどとは聞いてはいないが、実際に身に纏っているサラが感じているのであればその通りなのだろう。カミュやリーシャが纏う重量感のある鎧のような防御力はなくとも、賢者であるサラにとってはこれ以上ない防具と言っても過言ではなかった。

 

「……雨雲に隠れて塔の上部は見えないが、かなりの高さがありそうだな」

 

「雨が激しすぎて、根元さえも見えないぞ」

 

 森を護る木々が疎らになり、降り注ぐ雨粒の量が多くなって来ると、前方の視界が一気に開ける。広がる平原の中心に、海を背にして聳える巨大な塔は、真っ直ぐに天に向かって伸びていた。真っ黒く分厚い雲に隠れて上部は全く見えないが、これまでに上って来た塔の中でも最上位に位置する程の高さを誇っているだろう。

 しかし、リーシャの言うように雨の勢いが強すぎて、塔の全貌ははっきりと視認出来ない。根元の入り口さえも見辛い程の豪雨が何を示しているのかは解らないが、彼女の言葉通り、何者かがカミュ達を拒んでいるようにさえ感じる物であった。

 

「サラ、カミュのマントの裾を掴んで逸れないように進め」

 

「はい」

 

 激しさを増す雨のよって視界が遮られている。先頭を歩くカミュはそれを物ともせずに豪雨の中へ足を踏み出すが、常にその背を見て歩いて来たサラにとって、彼の背中さえも隠そうとする豪雨の中の行軍は難しい。故にリーシャはいつものメルエのように先頭を歩く勇者のマントの裾を掴んで歩く事となった。

 既に各々の声さえも聞き取り辛い程に雨風は強まっている。カミュのマントの裾を掴んだサラは地面へ視線を落としたまま歩き続けた。精霊神ルビスが封じられていると云われる塔へ入る前としては不吉な予感しか沸かない状況であり、サラはそれが大魔王ゾーマの魔法力による妨害なのかと考えていた。

 だが、ふと雨に濡れる瞳で空を見上げた彼女の頭に、空に掛かる真っ黒な雨雲とそこから落ちて来る大粒の雨を見て一つの考えが過ぎる。それは、彼女にとって思い当たってはならない予感であり、考えてはいけない事柄であった。故に、サラは一度大きく首を振り、即座に視線を地面に向けて歩き続ける。

 

『ルビス様自体が、今の自分達を拒んでいるとしたら』

 

 賢者として成り立つ時、彼女はルビス教の教えに背いた事に罪を感じていた。その行動を後悔はしないし、その頃の自分の悩みを捨てもしていない。だが、精霊神ルビスに対して彼女が負い目を感じている事もまた事実である。

 魔王バラモスを討ち果たした時に、カミュへ語りかけた声が精霊神ルビスの物であるとすれば、その言葉はアレフガルドへ赴く事を拒絶する内容であった。その言葉に反するように一行はアレフガルドへ渡り、封じられし精霊神を解放しようと動いているのだ。

 今の行動自体が正しい物であると信じてはいるし、この世界に精霊神が必要である事も十分に感じている。それでも、信仰の対象の言葉への裏切り行為である事は事実なのだ。僧侶として勇者と共に旅をし、賢者となって魔王討伐を果たしたサラは、カミュ以外の世界中の誰よりも精霊ルビスを感じて来たし、その信仰心も厚い。だからこそ、彼女は自分が感じた僅かな疑問を必死に振り払うのだった。

 

「早く入れ!」

 

 いつの間にか辿り着いた塔の入り口の重厚な扉を押し開いたカミュは、マントの中のメルエを先に入れた後、サラとリーシャを誘う。天から降り注ぐ大量の涙は激しく塔の壁部を打ち、周囲の気温を下げている。吐く息さえも白くなる塔の内部を見る限り、即座に何処かで火を熾さなければならないだろう。

 リーシャが内部へ入った事で、最後にカミュが内部から扉を押し閉める。ゆっくりと動き出した扉が重厚な音を立てて完全に閉まると、闇に包まれたアレフガルドに降り注ぐ大量の雨の音だけが残された。

 

 五年の月日が経過した勇者の旅が、遂に精霊神ルビスとの交差へ近付く。

 信仰の対象として、上の世界では伝承としてしか語られないその存在を信じてさえいなかった一人の青年の旅は、佳境へと向かって加速度的に動き始めていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
ルビスの塔編の開幕です。

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ルビスの塔②

 

 

 

 アレフガルド大陸に於いて『ルビスの塔』と呼ばれている神聖な塔は、外観よりも美しく、正しく天界に最も近い場所として謳われた場所に相応しい物であった。

 塔の内部は、アレフガルドの職人達が施した装飾が彫り込まれており、それは燭台を模る金属にまで及ぶ。精霊神ルビスを現世に迎える為、人類の叡智と技術を全て注ぎ込んだこれらの装飾は、既に芸術品という枠さえも飛び越えた物であり、見る者全てを魅了する力を有していた。

 入り口から入って真っ直ぐに進む回廊が続く。回廊にある燭台の一つ一つに『たいまつ』から炎を移して行き、闇に支配された塔内部に明かりが灯って行った。

 魔物との遭遇もなく、暫く直線に伸びた廊下を進むと、十字路が見えて来る。道が分かれ事を見たメルエが自然にリーシャへと視線を動かすが、先頭を歩いていたカミュは迷う事なく道を直進した。

 

「奥は開けた場所になっているようだ。火を熾して一度身体を暖める」

 

「そうだな。このままでは身体が冷えてしまう」

 

 自分を見上げるメルエの身体さえも濡れている事を見たリーシャは、その隣に立つサラへ視線を移して休憩に同意する。メルエはカミュのマントに護られていた為、それ程酷い状態ではないが、サラは完全に濡れ鼠のようになっていた。黒味交じりの青い髪は肌にぴったりと張り付き、その髪からは水が滴り落ちている。如何に水の羽衣とはいえ、雨の雫全てを防ぐ訳ではないのだ。

 メルエが寒さに強いとは云えども、濡れた身体を放置していれば体調を崩す可能性は高い。それ以上にサラの身体も心配であった。

 

「サラの革袋に入っている枯れ木を使おう」

 

 サラの腰に結ばれた革袋に入れていた枯れ木を少し開けた広間のような場所に出し、火を着ける。湿り気を帯びてしまっている為、即座に燃え上がる事はないが、塔の中の燭台に残る枯れ草を混ぜる事によって徐々に炎が上がり始めた。

 体力などを考えて三人の中でサラの物を優先させたリーシャであったが、燃え始めた炎に見向きもしないメルエが何かそわそわし始めたのを見て嫌な予感が走る。それはカミュも感じたようで、少女を遮るように目の前に移動した。

 

「…………むぅ………はこ…………」

 

 視界を遮ったカミュを恨めしげに見上げたメルエは、先程まで見えていた物を示すように口にする。焚き火の炎が大きくなると同時に見える物が多くなって行き、焚き火から燭台へ炎を移す事によって完全に開けた。

 その場所は少し開けた空間であり、奥には祭壇のような高台が設置されている。精霊神ルビスを迎え入れる為の儀式をする場所なのか、それなりに大きな空間になっており、壁に掛かった燭台意外にも、祭壇の周りに篝火を焚く台があった。そして、その祭壇の中段には宝物箱が二つ置かれており、それを逸早く見つけたメルエが心を弾ませていたのだ。

 

「待っていろ」

 

「カミュ、私も行こう」

 

「そうですね。この塔は本来ルビス様の威光が届いていますから、悪しき魔物などが棲み付く事はないのでしょうが、現在は何処か空気が濁っています」

 

 宝箱の型式からいって、それ程に重要な物が入っている様子はない。この場所が儀式をする場所だとすれば、その儀式に必要な道具などが入っている可能性が高い。しかし、サラの言葉通り、この塔に入った頃から、これまでの塔とは同等以上の瘴気を感じていたのも事実。精霊ルビスが封印された事によって空気が濁った塔内部には、凶悪な魔物達が棲み付いていたとしても不思議ではなかった。

 宝箱に擬態する魔物は数種類であるが存在し、その攻撃力は侮れない。イシスのピラミッドでは勇者であるカミュが命を落とし掛け、ガルナの塔でも死の呪文によって勇者は命を落としかけた。地球のへそにてその悪い流れを断ち切った彼ではあるが、それを見ていないリーシャやサラにとっては、その魔物はカミュの天敵以外の何物でもないのだ。

 

「インパス」

 

 カミュ達が宝箱へ向かって動き出す前に、サラがその呪文を行使する。本来であれば自分が行使する筈であった物を行使してしまったサラに対してメルエは不満そうな表情をするが、魔法力を当てた宝箱を見たサラの表情を見て杖を構えた。

 険しく眉を顰めたサラの表情が、その魔法力を受けた宝箱の色が赤色であった事を明確に表している。それはこちらに害意を持った物である事を示していた。つまりは『人喰い箱』や『ミミック』といった宝箱に擬態した魔物の存在である。

 

「右の宝箱は無害ですが、左の宝箱は魔物で間違いありません」

 

「カミュ、まずは魔物を倒そう」

 

 サラの言葉を聞いたリーシャとカミュが各々の武器を構える。未だに擬態を解かない宝箱に対してメルエが杖を振るって中級火球呪文を唱えた。

 真っ直ぐに宝箱へ向かって行き、直撃するかと思われた時にようやく擬態が解かれる。箱が突然開き、縁には鋭利な牙が生え揃っていた。ミミックと呼ばれるその魔物は、宝箱を装って近付く者を鋭い牙で食い千切る。そんな凶悪な魔物がメルエの放ったメラミの火球を避けてカミュ達へと襲い掛かった。

 しかし、ミミックなど既にカミュ達の敵ではない。死の呪文を行使するのであればそれなりの脅威にもなろうが、牙を武器に向かって来るのであれば、相手にもならないだろう。

 

「ふん!」

 

 案の定、雷神の剣の一撃を受けたミミックの蝶番は破壊され、その牙がカミュに触れる事もない。止めの一撃とばかりにリーシャが魔神の斧を横薙ぎに振るえば、ミミックの身体を模る木造の箱は、木片となって燃え盛る焚き火の中へと落ちて行った。

 その力量を正確に把握していたと思っていたサラでさえも、前衛二人の力量の上昇具合を見誤っていたと感じてしまう。それ程に彼等二人は人外の域に達していたのだ。焚き火の中へ落下したミミックの破片は炎を更に激しく燃え上がらせる燃料となり、見る見る内に炭へと変わって行った。

 

「メルエ、開けて良いぞ」

 

「…………ん…………」

 

 ミミックという宝箱に擬態した魔物を撃退した事によって、害のない宝箱だけが残っている。斧を背中へと戻したリーシャは、若干頬を膨らませているメルエを呼び寄せ、宝箱を開けさせた。ゆっくりと開かれた宝箱の中は、乏しい明かりに反射するくすんだ光が見える。メルエが幼い腕を入れ、それを取り出せば、このアレフガルドでも通用する硬貨であった。

 ゴールドと呼ばれる通貨がぎっしりと詰められており、その合計金額はおよそ1000ゴールドにも届くだろう。綺麗な物に目を輝かせるメルエであったが、今のところ彼女に通貨への興味はない。不満そうに眉を下げたメルエは、興味を失ったようにカミュへと視線を動かした。

 

「たいした金額ではないが、貰っておくか」

 

「え? い、いけませんよ。これはこのアレフガルドで暮らす方々がルビス様に捧げた物です。我々が勝手に使用して良い物ではありません」

 

 メルエの横から覗き込んだカミュが、その小さな手から受け取ったゴールドを見て発した呟きは、精霊ルビスの信者としてのサラにとって看過出来る物ではなかった。精霊ルビスという神に近しい存在が下向して来るのをお迎えする為にアレフガルド大陸で暮らす人間が寄付した布施を横領するというは大罪に等しい。然も当たり前の事のように懐に入れようとするカミュへ信じられないという表情を浮かべたのだ。

 しかし、そんな視線と発言を受けたカミュは、いつも通り表情の読めない顔でサラを見つめ、そのまま無言でゴールドを袋へと入れて行く。慌てたサラはその行動を止めようとするが、二人の会話の内容が解らないメルエが首を傾げる横で、ようやくリーシャが口を開く事で足を止めた。

 

「カミュ、ゴールドが必須なのは解るが、流石にルビス様への布施を取るのは感心出来ないぞ」

 

「このアレフガルドで生きる者達の願いが、この世界を覆う闇を払う事であり、その為にルビスを解放しなければならないのだとすれば、このゴールドをその為に使用すれば良い。それに、精霊ルビスという曖昧な存在が、人間が使用する通貨を欲するとでも思っているのか?」

 

「曖昧な存在……。いくらカミュ様でも、その物言いは駄目ですよ。ルビス様はこのアレフガルドでも信仰されている精霊神様です。確かに、ルビス様のような精霊様が貨幣などを欲するとは思いませんが、それでもそれは『人の想い』なのです。何かを願い、それへの対価として、自身の大切な物を差し出したのですから、それを無碍にするのは許されません」

 

 彼等三人は、この五年の旅の中で歩み寄り、心を近付けて来た。しかし、根本的な所で交わっている訳ではなく、相手の考えや価値観全てを認めている訳でもない。カミュが持つ過去への怒りや憎しみを知っていても、その深さを理解している訳ではなく、サラの強い信仰心を許容していても、それに自らが同調している訳でもないのだ。

 それでも、ここまでの旅の間は、『打倒魔王バラモス』という目標の元に集っていたが、信仰の対象である精霊ルビスという存在を前にして、その不安が表面化して行く。何故、彼らが言い争っているのかが理解出来ないメルエは、先程とは異なる哀しそうな瞳を向けて三人を見ていた。

 

「ジパングと云う国で、全ての国民の願いから生まれた『生贄』を否定した人間の言葉とは思えないな」

 

「……っ」

 

 再び向けられたカミュの瞳は、久しく見ていなかった程に冷たい物であった。そして、それを一身に受けてしまったサラの身体は硬直してしまう。まるで蛇に睨まれた蛙のように動けないサラの額から一滴の汗が流れ落ちる頃、大きな溜息が聞こえて来た。

 何処か呆れたような、それでいて悲しみを宿し、そして何よりも暖かな慈愛を宿した瞳は、カミュとサラを交互に見やり、そして幼いメルエを呼ぶようにその手が動く。救いの手が差し伸べられた少女は、泣きそうに歪めた表情をそのままに、母のような女性の腰元に抱き付いた。

 

「わかった、わかった……カミュ、1000ゴールド程度の資金が急ぎで必要なのか? サラの目指す世界は、ルビス様を信仰していない者は生きて行けない場所なのか?」

 

 腰から顔を上げたメルエに優しく微笑んだリーシャは、鋭い視線をカミュとサラへと向ける。それは有無も言わさぬ程に強い光を宿し、二人の反論を認めるつもりがない事を示していた。

 頼もしい雰囲気を出したリーシャを眺めていたメルエの表情に余裕が生まれ、先程まで下げられていた眉が上がる。そのまま、まるで二人を叱りつけるように腰に手を当てた少女の姿に、リーシャの瞳が若干和らいだ。

 

「違うだろう? ルビス様を前にして二人の心が焦るのも解るが、馬鹿らしい争いはもう良いだろう。私も今話したが、1000ゴールドなど今の私達であれば何度かの戦闘で稼げる金額だ。それでも、この場所に奉納されていたのであれば、それなりに重い金額なのも解る筈だ」

 

「…………カミュ………だめ…………」

 

 続けられた言葉は明らかにカミュへ向けられた物。アリアハンと云う小さな国を出たばかりの頃とは異なり、他人の想いを慮る姿を見せ始めたカミュであれば、その程度の事は理解出来るだろうという確認のような仕草であり、相手の肯定しか認めないという強い姿勢にも見える。それを受けたカミュは、反論する事もなく、応える事もなく、目を伏せる事しか出来なかった。

 そんなカミュに追い討ちを駆けるように、メルエがお叱りの言葉を口にする。幼い子供を叱るような仕草が、周囲の雰囲気を軽い物へと変え、柔らかく微笑んだリーシャの手で撫でられたメルエが目を細めた。

 

「サラはどうなんだ? 魔物や動物達のように、ルビス様へ祈りを捧げない物達は救われない世を目指すのか? 盗みが目的でこのゴールドを取った者は罰せられるだろう。それを否定するつもりもなければ、カミュの行動を肯定するつもりもない。だが、ルビス様を信じない、崇めないという者達を拒否してしまう姿勢を変えていかなければ、進むべき道を見失うぞ」

 

「…………サラも………だめ…………」

 

 リーシャの言葉は、サラの胸に想像以上に鋭い刃を落とす。まるで胸の奥にある何かを見透かされているかのような言葉の刃は彼女の心に深々と突き刺さった。

 サラ自身も自覚はなかったのだろう。精霊ルビスを信仰の対象とするルビス教の教えから飛び出てしまったとはいえ、彼女は熱心な信者である。歪んだ教えの中で悪とされる魔物に対しても慈悲を向けるようになったとしても、やはりルビス至上主義という根底は変わらなかったのだ。故にこそ、無自覚の内に精霊ルビスへの信仰を強要する姿勢が出てしまう。だが、本来信仰は自由であり、その者が何を信じ、何を頼るのかと云うのもまた、各々の自由であるのだ。

 

「さぁ、早急に服を乾かすぞ。カミュもサラもこっちへ来い。宝箱に擬態していた魔物のお陰でしっかりとした焚き火になっているのだから、今の内に身体全体を暖めておけ」

 

 最年長の女性戦士の言葉に反論する者は誰もいなかった。

 精霊ルビスという存在は、カミュにとっては忌むべきものでもある。父であるオルテガと同様、自身を勇者という象徴に押し上げた元凶であり、その後の苦難の要因でもあるからだ。だが、そんな相手でも自分の目的の為に解放しなければならないという苛立ちが、僅かなゴールドに固執する結果になってしまったのは明らかであり、その苛立ちを精霊ルビスを至上と考える賢者に向けてしまった事も確かであった。

 サラ自身、自分の胸の奥底に残る何かに思い当たる節などない。だが、改めて真っ直ぐに言われてみれば、これ程に的確な指摘はなかった。彼女は魔物によって家族を奪われ、愛を奪われている。だが、その後ルビス教の司祭によって拾われた事で、精霊ルビスの加護によって命を永らえているという想いがあったのだ。故にこそ、精霊ルビスへの侮辱は許せない。表面上は許しても、その奥底では燻り続ける何かが残っていたのだろう。それを今回リーシャに突き刺されたのだった。

 

「…………ふふふ………リーシャ……すごい…………」

 

「そうか? こういう時は、メルエの方が凄いぞ」

 

 剣呑な雰囲気を一瞬の内に変えてしまった母のような存在に、幼い少女は目を輝かせながら賛辞を述べる。『濡れるから駄目だ』と言っても、笑顔で腰にしがみ付いて来るメルエにリーシャも小さな笑みを作った。

 リーシャだけの言葉では、カミュにもサラにも蟠りが残ってしまう。如何にそれが真実だとしても、自分でも気付いている物だとはしても、他人から指摘されて素直に受け入れる事が出来る者など少ない。指摘した者とその原因を作った相手に対して何らかの悪感情を頂いてしまうのが通常の人間なのだが、その部分を補うのが、この幼い少女であった。

 メルエという少女は不思議な雰囲気を持っている。それはこの世で生きる幼い子供特有の物ではあるが、彼女がここまでの旅で何度も一行の雰囲気を和ませて来た。巨大な敵へ向かうという重圧を受ける中、それ以外の悩みや苦しみで沈んで行く気持ちをギリギリの場所で拾い上げて来たのは、この幼い少女である。

 全てに諦めていた青年に心を蘇らせ、自身の力を認めさせようと躍起になっていた女性戦士の母性を目覚めさせ、そして一つの価値観に凝り固まっていた女性僧侶の心を大空へ羽ばたかせる切っ掛けを作った。

 その全ては、この少女の功績であるだろう。

 

「服も乾いて来たな。メルエも寒くはないか?」

 

「…………ん…………」

 

 炎の傍で服をはためかせて水分を飛ばす。少女の茶色の髪を撫で付けて乾かしていたリーシャの呟きにメルエは頷きを返した。短い時間であった為、湿り気はどうしても残ってしまうが、体温で自然に乾く状態にまでは戻っている。この程度であれば探索を続ける内に乾くだろう。

 花咲くように微笑むメルエを見ながらリーシャも衣服を乾かし、先程まで諍いを続けていたカミュとサラも準備を整えた事で焚き火を消した。何が嬉しいのか、焚き火に残った長い木の枝を取り出したメルエは笑顔でカミュとサラを見やる。苦笑を浮かべたサラはその手を握った。

 勇者と賢者の間にある溝は決して埋まる事はなく、広がる事もない。アリアハンという小国を出た頃から五年間、その溝の深さも広さも変化はしていないのだ。

 『世界を救う者』と『人を救う者』。その名義を持って生まれた勇者と賢者は決して交わる事はない。どれ程歩み寄ろうと、どれ程にお互いを信頼していようと、その根底にある物は決定的な差異がある。それを辛うじて繋いでいるのは、メルエという楔と、リーシャという鎖なのかもしれない。

 

「……どっちだ?」

 

「左だな」

 

 最早、この問答に葛藤はない。入り口へ戻るように空間を出た一行は、再度現れた十字路を前に足を止める。カミュの言葉にリーシャが即座に答え、それに頷いた彼は反対方向へと足を進めた。

 通常であれば、このやり取りは他人を馬鹿にしたようなものではあるが、当のリーシャはサラの手を握るメルエと微笑み合っている。一行にとって日常に近い行動で何度も何度も繰り返して来たやり取りなのだ。

 

「流石はルビス様をお迎えする為に造られた塔だな」

 

「……そうですね。途方もない労力と財力を注ぎ込んだのでしょうね」

 

 通路の壁に掛けられた燭台へ炎を移しながらリーシャは炎に照らし出された装飾に目を凝らす。人の叡智の結晶と呼んでも過言でない程に手を加えられた塔内部は、このアレフガルド大陸以外の世界を知る一行であっても驚く物であった。

 何年も、もしかすると何十年も掛けて建造された塔は、その時代その時代の最高技術を注ぎ込んでいる。塔の層ごとに建造した時代が異なるのか、少しずつ装飾の在り方も変わっていた。美しく、それでいて力強く掘り込まれた装飾は、見る者を圧倒しながらも安堵させる暖かさを有している。それは、このアレフガルド大陸の人間の中にあるルビス像そのものなのかもしれない。

 

「止まれ」

 

 雰囲気に呑まれそうになる程の装飾に目を奪われていたリーシャとサラは、『たいまつ』を掲げて先頭を歩くカミュの言葉に表情を変える。カミュが纏う空気に緊張感が帯び始めたのだ。それは明確な戦闘開始の合図。

 静かに雷神の剣を抜き放ったカミュに続き、リーシャが魔神の斧を構える。一行が歩いて来た通路に掛けられた燭台の炎は後方を照らし出しているが、未だに踏み入れていない奥は漆黒の闇に包まれている。襲撃に備えるように前線で動かない二人を見て、サラとメルエも戦闘準備に入った。

 前方の闇の中でちらりちらりと瞬きを繰り返す光が、魔物の瞳である事が解った時、戦闘の火蓋は切って落とされる。一気に迫って来たそれは、燭台の炎に煌く牙を前線の二人へ向けて煌かせた。

 

「ちっ」

 

 大きな舌打ちをしたカミュは迫る牙を雷神の剣で防ぎ、想像以上の力に表情を顰める。炎によって映し出されたその姿は、カミュ達の倍近くの大きさがある獣であった。押し寄せる力は相当な物であり、その威力にカミュが後方へと押し込まれる。一拍遅れたリーシャはその獣の身体に斧を振り下ろすが、それを嘲笑うかのように獣は後方へ飛んだ。

 襲い掛かって来た獣の他に闇の中からゆっくりと同じ獣が二体現れる。総数で三体。全ての瞳が四人の人間を射抜いていた。

 全身を灰色の体毛に覆われ、顔面を鬣が覆っている。鋭く生えた牙は炎に照らされて煌き、背中から生えた翼はその大きな体躯を更に大きく見せていた。ネクロゴンドの洞窟で遭遇したライオンヘッドに酷似した姿が強敵である事を明確に物語っている。

 

「カミュ、来るぞ!」

 

 一気に肉薄して来たその魔物の牙がカミュを襲う。リーシャの叫び声に反応して勇者の盾を掲げたカミュは、その衝撃に押される力を利用して雷神の剣を振るった。鋭い一撃を体躯に受けた魔物の体液が塔の床を穢す。だが、それ程の深手でもなく、大きな雄叫びを上げた魔物が後方へと下がって行った。

 睨み合うように対峙した一行と魔物の均衡は、一体の魔物の奇声と、人類最高位の魔法使いの詠唱によって崩される。空気が震えるような雄叫びに掻き消されるような呟きを漏らした少女が大きく杖を振るった。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 雄叫びと共に周囲を襲う冷気が吹き荒れる。燭台の炎さえも吹き消すように漂った冷気は壁に氷の壁を作って行った。だが、その直後に唱えられた最上位の灼熱呪文の炎が氷の壁を溶かし、一気に冷気を押し込んで行く。蒸発した冷気が白い霧を生み出して行った。

 真っ白に染まった視界から飛び出して来た魔物がその前足を振るう。鋭い爪が光るその一撃は、リーシャの右腕の肉を抉った。迸る真っ赤な鮮血がルビスの塔の壁を染めるが、それでも彼女は己の武器を手放さない。斧を振るえない彼女は再度振るわれた前足を水鏡の盾で防ぎ、一気に押し返した。

 

「ベホイミ」

 

 少し離れた場所から唱えられた詠唱がリーシャの腕の傷を癒して行く。自分の腕に握力が戻った事を感じたリーシャは、かなりの重量を有す魔神が愛した斧を片手で振り抜いた。一体の魔物の胴体に吸い込まれた斧の刃が肉を斬り裂き、どす黒い体液を溢れ出させる。一撃で致命傷に近い傷を与えられた魔物は臓物を護るようにその場に屈み込んだ。

 追撃を掛けようとするカミュを防ぐように再び吹き荒れる冷気。他の一体が唱えた氷結呪文が周囲の温度を一気に下げて行く。それに対抗するように唱えられたメルエのベギラゴンが再び白い霧を生み出した。

 

「ムゥオォォォォ」

 

 霧の向こうから先程の物とは異なる奇声が聞こえて来る。何かの攻撃的な呪文の行使かとカミュ達は身構えるが、何事もなく白い霧が晴れて行った。徐々に晴れて行く霧の向こうに先程と同じように三体の魔物が見える。

 その姿にリーシャが驚き、サラは険しく眉を顰める。先程リーシャが斬り裂いた魔物もその傷の欠片もなく鋭い瞳を向けていたのだ。それは、先程の雄叫びが回復呪文である事を示している。そして強力な氷結呪文を行使し、その上で回復呪文を行使出来る魔物がかなりの強敵である事の証明であった。

 

「あの傷を癒す事が出来るとなれば、ベホマ級の物であると思います」

 

「厄介な奴か……」

 

<ラゴンヌ>

ネクロゴンド地方に生息するライオンヘッドの上位種に当たる魔物である。その体躯の大きさはライオンヘッドよりも一回り大きく、鋭い爪と牙は十分脅威となる物。上位種と云われるだけあり、行使出来る呪文は氷結系と回復系の二種であっても共に最上位に近い威力を誇っていた。

襲った相手の肉を保存するように冷却して食すとも云われてはいるが、既に伝承にしか残っていない魔物でもあり、その生態は解明されていない。

 

 数ではカミュ達一行に分があるとはいえ、強力な魔物が三体無傷という状況はかなり厳しい。先程のリーシャの一撃で解るように、人類最高位の攻撃力を持った戦士でも一撃で葬る事が出来ない魔物が、その傷を完全回復出来る手段を持っているというのは脅威以外の何物でもないのだ。

 サラやカミュがベホマという最上位回復呪文を行使出来る。故に、一撃死しなければどのような傷であろうと、回復させる事が出来るだろう。だが、その条件が相手も同等であれば状況は一変する。一撃で葬らなければ回復され、地力の強い魔物が優位となってしまうのだ。それを最も理解しているサラが険しく表情を歪めていた。

 

「カミュ様、難しいかもしれませんが、短期で戦闘を終了させなければ苦しくなります」

 

「……わかっている」

 

 先程まで口論していた者同士とは思えないやり取りに、リーシャは頬を緩める。胸の奥にある根幹が交わらなくとも、互いが互いを認め、信じている事は揺ぎ無い事実なのだ。故にこそ、互いの存在を含めた作戦を練る事も出来るし、それを詳しく説明する事なく実行出来るのだろう。

 依然状況は変わらない。だが、リーシャという女性戦士にとって、状況が変わらないという事は自分達の勝利が揺るがないという事と同意であった。圧倒的不利に陥らなければ自分達の負けはなく、負けないのであれば勝利しかない。

 強く魔神の斧を握り締めた女性戦士が駆け出した。

 

「メルエ、援護を頼むぞ!」

 

「グゥモォォォォ」

 

 リーシャの叫びとラゴンヌの雄叫びが重なる。斧を持って突進して来る戦士を見て、魔物が呪文の詠唱に入ったのだ。

 吹き荒れる冷気が周囲の気温を一気に下げ、吐く息さえも瞬時に凍らせて行く。斧を持つ手に霜が降り、身体の表面が凍る。だが、それでもリーシャは歩みを止めない。ラゴンヌとの距離を詰めるように駆け出した足さえも凍り付きそうになる時、後方から援護の熱風が吹き抜けた。

 魔法力が皆無に等しいリーシャにとって、最上位の呪文は死に直面しかねない脅威である。故にこそ、ラゴンヌのような魔物との戦闘ではカミュが駆け出す事が多かった。リーシャの場合、援護で放たれたメルエの呪文でさえも傷付きかねないからだ。

 

「おりゃぁぁぁ」

 

 全身の傷が凍傷と火傷のどちらなのかが解らない状態のリーシャが一気に斧を振り落とす。メルエの放ったベギラゴンの火炎で相殺し切れない氷の結晶を纏った魔神の斧が、ラゴンヌの太い首筋に吸い込まれて行った。

 マヒャドという最上位氷結呪文を行使した直後で対応出来ないラゴンヌは、自分の命を刈り取る断頭の斧を受け入れる事しか出来ない。命を刈り取る不快な音を響かせて、一体の魔物の首は、心の臓を持つ胴体と永遠の別れを迎えた。

 

「リーシャさん、戻って!」

 

「早く行け!」

 

 満身創痍のリーシャに回復呪文を掛ける為に詠唱を始めていたサラの叫びが轟き、一気に距離を詰めたカミュがリーシャの腕を引いて、後方へと放り投げる。迫っていたラゴンヌの牙を勇者の盾で受けたカミュの持つ雷神の剣が唸りを上げた。

 風を斬り裂き、大地を割る一撃。雷を司る雷神の怒りに似た一撃がラゴンヌの胴体に襲い掛かり、咄嗟に身体を庇うように上げられた前足を斬り飛ばす。根元から斬り飛ばされた前足が塔の壁に当たって落ち、巨体を支える一本の足を失ったラゴンヌは床に伏せた。

 

「ムゥオォォォォ」

 

 しかし、残る一体が即座に唱えた最上位の回復呪文がその傷を瞬時に癒して行く。欠損した前足は戻らなくとも、深々と抉られた傷は塞がり、流れていた体液も止まった。通常の獣であれば、動き回れないというのは死に等しい。だが、呪文行使が可能なラゴンヌであれば、その括りではない。

 怪我が癒えたラゴンヌが氷結系呪文を行使する。自身の周囲を氷の結晶が覆い始めた事を確認したカミュはベギラマを唱えるが、只でさえ呪文の格差があり、更に言えば魔物と人間の呪文の威力の差がある為、氷結呪文を相殺する事は不可能であった。

 徐々に凍り付いて行く盾や剣に舌打ちをしたカミュではあるが、先程のリーシャと同様に、死に至らしめる程の冷気の中、前へと足を踏み出す。それは、彼の後方から迫る圧倒的な熱風を感じたからであった。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 後方から吹き荒れる熱風がカミュの背中から抜けて行き、冷気とぶつかり蒸気になる。凍りついた盾や剣の氷を溶かし、多少の火傷を勇者に与えながらもその活動を後押しさせた。

 前足を失っているラゴンヌに逃げる術などない。真っ直ぐに振り下ろされた神代の大剣を眉間に受ける。本来であれば、ルビスの塔を守護する神聖な獣として生きていたであろう獣が最後に見た光景は、天から落ちる雷神の怒りのような輝きであった。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 ラゴンヌの顔面を割ったカミュは、横へ飛ぶ事で最後に残ったラゴンヌへの道を開ける。勝利へ続く真っ直ぐに開けた道は、人類最高位の魔法使いが持つ最大の呪文の通り道となった。

 極限まで圧縮された巨大な火球が壁に残る氷を溶かしながら、真っ直ぐにラゴンヌへと向かって行く。この通路は狭い訳ではない。むしろ塔内部の通路としては圧倒的な広さを誇るだろう。それでも、メルエが唱えた火球から逃げる事など出来ない。カミュの横を通り過ぎた火球はその大きさと密度を更に濃くし、ラゴンヌを飲み込んで行った。

 

「ギャオォォォォ」

 

 断末魔の叫びと生物が焦げる臭いを轟かせ、ラゴンヌはルビスの塔に残る染みと化す。全ての肉と骨を瞬時に溶かされ、跡形も残らずに消滅したラゴンヌが生きていた証拠は、床に残った黒い染みだけであった。

 リーシャの回復を終えたサラからの治療を受けるカミュは、徐々に増して行くメルエの呪文の威力に目を見開く。そんなカミュの様子を見ていたサラは小さな苦笑を浮かべ、彼の身体全体に淡い緑色に光る輝きを纏わせた。

 

「カミュ様、メルエが覚えた新しい呪文を見た時にはそのような表情はしないで上げて下さいね。魔王バラモスが唱えていたあの呪文は、メルエこそが本来の使い手かもしれませんから」

 

「……イオナズンか?」

 

 弾かれるように振り向いたカミュの瞳は驚愕の色に包まれている。静かに頷きを返したサラは、リーシャに頭を撫でられて微笑む幼い少女へ視線を移した。

 爆発系の最上位呪文であるイオナズンは、魔王バラモスがあの死闘の最中に何度も行使した呪文である。その威力は計り知れなく、メルエのマホカンタがなければカミュ達など粉々に砕け散っていた可能性が高かった。現に、戦闘開始直後に放たれたイオナズンによって、四人全員が瀕死に近い状況に追い込まれていたのだ。

 その驚異的な呪文が『悟りの書』に記載されていたという事実にも驚かされたが、メルエがそれを修得してしまっているという事にカミュは驚愕する。あれ程の威力を持つ呪文となれば、魔族や魔物だけが有する呪文であっても可笑しくはない。それにも拘らず、サラは『本来の使い手はメルエかもしれない』と口にしていた。それは、メルエの放つイオナズンが魔王バラモスよりも強力であるという事を意味している。

 魔族や魔物よりも強力な呪文を放つ少女がいるであろうか。常識的に考えれば否である。何らかの理由がなければ、その異常性を説明出来ないだろう。

 

「あっ!? こ、この事はメルエには内緒ですよ。私が既に新しい呪文について話してしまっていると知ったら、きっと凄く怒ってしまいますから」

 

 異常性を持つ少女ではあるが、その心は何処にでもいる子供と変わりはない。自分の功績を誇り、それを褒めて貰いたいと願うのは子供特有の物であろう。直前まで秘密にし、それを見せて驚かせたいと思うのも、その後の賞賛を受けたいと思うのも子供ならではである。そんな少女にとって、このサラの発言は裏切り行為であり、おそらく激怒する事であろう。それこそサラと口を利いてくれなくなるかもしれない。それは世界で唯一の賢者といえども恐るべきものであった。

 先程の驚愕の表情よりも余裕を戻したカミュは静かに頷き、自分の方へと寄って来る少女へと視線を移す。何度もこの少女の能力によって一行は救われている。例え彼女がどのような存在であろうとも、カミュ自身の心に変化が訪れる事はないだろう。

 

「流石に強力な魔物が多いな。何とか対処出来たが、この先も大丈夫だとは安易に言えないな」

 

「そうですね。アレフガルド大陸の魔物の強力さは知っていましたが、それでもかなり厳しいようです」

 

 カミュに頭を撫でられてご機嫌なメルエを見ながら、リーシャは奥へ続く闇へ視線を凝らす。今でこそリーシャもカミュも傷は癒えているが、あのまま放置していれば死に至る可能性もある大怪我であった。ラゴンヌという魔物を討ち果たす為にメルエも数度最上位呪文を行使しているし、サラも回復呪文を数度行使している。それは、ここまでの戦闘でも数える程しかない激戦と言えるだろう。

 大魔王ゾーマとさえも戦う事が出来る精霊神を封印している場所を並大抵の魔物が護っている訳はない。それこそ、最上位に位置する魔物達が生息していても何ら不思議ではないだろう。カミュもリーシャも自分達の力が大抵の魔物に後れを取る物だとは思っていない。だが、そんな彼らでもこのルビスの塔に生息する魔物達と戦うには、力が不足しているのではないかと考えていた。

 

「とりあえず進むぞ」

 

 真っ直ぐに伸びる通路の壁にある燭台へ炎を移しながら歩き出す。魔物の体液で湿った床で滑らないように手を繋がれたメルエが、少し哀しそうに眉を顰めてラゴンヌであった物へ視線を移したのを見て、サラは優しい笑みを浮かべた。

 あれ程の呪文をメルエが放ったのは、ラゴンヌという魔物がカミュ達に敵意を向けたからである。カミュやリーシャの敵はメルエの敵であり、そこに慈悲の欠片もない。それがこれまでのメルエの行動であった。だが、今ラゴンヌの死骸に向けた彼女の悲しい瞳は、そこに若干の後悔の念を映し出している。

 『出来る事ならば、殺してしまいたくはない』という想いは、メルエという少女の確かな成長の証であり、優しさの現れであるだろう。魔物を打ち倒し、魔王を打ち倒し、大魔王を打ち果たそうとする一行の中で、その心が育っている事にサラは喜びを感じていた。

 

「上への階段だな」

 

 通路の奥には一階部分の終わりを告げる階段が見える。ルビスの塔の名に恥じないだけの装飾が施されたその階段は、天へと伸びる塔の上層部へと続いていた。見たままを告げるリーシャに対して頷いたカミュが、これまで以上に真剣な瞳を他の三人へと向ける。その瞳の厳しさが、この塔の攻略が難解である事を明確に物語っていた。

 未だに一階部分を攻略したに過ぎない。天高く聳え立つルビスの塔の入り口部分を攻略しただけであり、この階層にいる魔物が全てではないだろう。大魔王ゾーマにとって唯一の脅威と成り得る精霊神を封じている塔である事を考えれば、この先の道中が楽な道ではない事が推測出来るのだ。

 ゆっくりと踏み出した足が、一歩一歩長い階段を上がって行く。一行はまた一歩精霊ルビスとの対面に近付いて行った。

 

 精霊神ルビスが封じられし天高き塔。

 この先で、彼らが味わう絶望と悲しみを、今は誰も知る事が出来ない。

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございます。
ルビスの塔の二話目です。

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ルビスの塔③

 

 

 

 階段を上がり、上の階層へと辿り着いた一行が見た物は、下の階と同様の真っ直ぐに伸びる通路であった。太陽の光が差し込まない塔内部の為、一切の明かりは無く闇に包まれている。燭台一つ一つに炎を移しながら、カミュ達は周囲を確認した。

 階段のある空間は少し開けた物であり、階段側から真っ直ぐ伸びる通路とは別に右手へ進む通路も見える。両方とも先は闇に包まれて確認する事は出来ず、奥から吹き抜けて来る風が奥まで続いている事を物語っていた。

 

「どっちだ?」

 

「……どちらでも同じだと思うがな。敢えて言うならば、右かな?」

 

 いつも通りの問いかけに、気負う事なく答えたリーシャの言葉を聞き、カミュもまた一切の躊躇なく正面の通路へと進路を取る。最早彼女なくして洞窟や塔の探索は不可能に近い。彼女の直感が何度と無くこの一行を救って来たと言っても過言ではないのだ。

 この階層は、一階部分よりも不穏な空気は濃くなっており、既に瘴気と言い換えても可笑しくはない状態になっている。魔王バラモスが陣取っていたバラモス城と大差ない程の瘴気は、人間であるカミュ達にとって深い以外の何物でもない。幼いメルエを気遣ったカミュは彼女をマントの中へ誘い、周囲への警戒を怠らずに歩を進めた。

 

「ルビス様をお迎えする為に造られた場所がこのような状態に……」

 

「それだけルビス様のお力が弱まっておられる証拠なのかもしれないな」

 

 噎せ返るような瘴気が押し寄せてくる中、口元を押さえたサラの瞳に悲しみの色が広がる。その横で同じように顔を顰めたリーシャは、炎を燭台に移して尚、押し寄せるような闇を見て緊張感を強めた。

 この塔は精霊神を迎える為に作られた塔である。そこにその真偽は関係が無いのだ。例え、精霊ルビスがこの塔を利用しなくとも、アレフガルドの人間がそれを信じ、崇め奉れば、この場所は神聖な場所となり、その空気を纏い始める。元来信仰とはそういう物であった。

 想いが強ければ、その想いは具現化され、それが真実となる。神聖な物として祀られれば、そこに神気が宿り、邪気を寄せ付けないようになって行く。だが、その想いが廃れていけば、想いと比例するように場所も廃れて行く。

 アレフガルドで生きる者達が、この場所に精霊神ルビスが封じられていると信じ始め、それによってルビスの力が弱まっていると信じれば信じる程にこの塔の力は弱まって行くのだ。邪気を寄せ付ける事さえなかった場所は、人間が寄り付く事も出来なくなり、瘴気が支配する環境へと落ちて行く。それが尚更、封じられた精霊神の力を弱めているのかもしれない。

 

「…………むぅ…………」

 

 リーシャやサラとは異なり、瘴気が強まっている事に何の疑問も持たずに歩みを進めていたカミュの足元で、幼い少女が唸り声を上げた。

 息苦しい程の瘴気による不満を口にしたのかと視線を下げたカミュは、見上げるメルエの瞳を見て認識を改める。その瞳には不満の色は微塵も無く、何かを警戒するような強い光が宿っていたのだ。

 この幼い少女がこのような瞳をする時は、決まって強敵との遭遇が近い。背中から雷神の剣を抜き放ったカミュは、マントの中からメルエを出して後方へ送った。『とてとて』と駆けて来るメルエの手を取ったサラはその意図を理解し、同じように把握したリーシャは魔神の斧を握って戦闘態勢へと入って行く。

 暗闇が支配する塔内部が、燭台に移した炎によって少しずつ明らかになって来た。相変わらず、人類の全てを注ぎ込んだ装飾が施されているが、今は瘴気と相まっておどろおどろしい物へと変わっている。そんな中で見えて来た通路の曲がり角へ近付いた瞬間、一行の耳に地響きに近い轟きが届いて来た。

 

「カミュ……」

 

「竜種か?」

 

 轟く雄叫びは、この五年の旅で何度と無く聞いて来た物に酷似していた。

 世界最高位に位置する種族である『竜種』と呼ばれる種族。その大地の守護者として君臨する女王の下、生存する全ての種族の頂点に立つ強靭さを持った希少種でもある。最下級に位置するスカイドラゴンと呼ばれる龍種でさえも、人類からは神獣の扱いを受ける程の者であり、更に上位に位置する者達の中には、神格さえ備えている者も多かった。

 如何に人類の枠を大きく出てしまったカミュ達であったとしても、竜種が相手であれば死という最悪の結果と隣り合わせの戦闘を余儀なくされ、命の危機を換算しての勝利への道筋を生み出さなければならない。それ程の相手であった。

 

「ルビス様の封印を護る存在が竜種なのですか?」

 

「竜の女王様の下僕という訳ではないのだろうな」

 

 竜の女王は上の世界の守護者でもある。精霊神ルビスと共闘出来る程の力を備え、魔王バラモスを討ち果たしたカミュ達でさえも恐怖に陥れる程の威圧感を持っていた。そして、何よりも大魔王ゾーマの危険性を理解しており、敵として認識していた女王であれば、精霊神ルビスの解放を邪魔する訳はないのだ。

 もし、この場所に竜種が居るのだとすれば、それは既に大魔王ゾーマの下に就いた者達であり、カミュ達の明確な敵となる。そして、これ程に重要な役割を担う竜種となれば、それ相応の力を宿した者達となるだろう。

 

「メルエ、大丈夫か?」

 

「…………ん…………」

 

 曲がり角を曲がって直ぐに竜種の吐き出す火炎に巻き込まれては一巻の終わりである。一歩踏み止まったカミュは、曲がり角の先へ注意を向けながらも後方にいる少女を気遣った。

 ヤマタノオロチと相対する時には、それがいるであろう方角へは絶対に踏み入れさせないと彼にしがみ付いた少女は、その竜種と遭遇した時に恐怖によって縛られてしまっている。また、全ての竜種の頂点に立つ竜の女王の城では、その雄叫びを聞いた瞬間に恐怖と怯えで自分で歩く事さえも拒否するまでになっていた。

 聞こえて来た雄叫びを聞く限り、今まで遭遇して来た竜種の中でも上位に位置する力を有した相手である事が想像出来る。竜の女王程ではないにしろ、竜種の中でも極めて強力な存在であろう。なればこそ、メルエが恐怖を感じてしまうのではないかとカミュは考えたのだ。

 しかし、そんなカミュの心配は杞憂に終わり、しっかりと頷きを返した少女は右手に自分の背丈よりも大きな杖を握り締めた。

 

「行くぞ」

 

 先頭にいる青年の言葉に大きく頷いた三人の女性は、それぞれが瞳に覚悟を宿し、強敵との戦闘に心を定める。これまでも楽な戦いなど一度も無かったが、このアレフガルドに入ってからは更に戦闘が厳しくなっていた。それでも彼等は前へ進むしか選択肢は無く、今回もその選択の先に勝利があり、着実に自分達の目的へと近付く一歩を踏めるのだと信じて疑わない。

 だが、竜種と云う世界最強種の幅は、彼等人間に理解出来る範疇を超えていた。時代によっては神と同格に崇められ、場所によっては天災と同様の災害を巻き起こす諸悪の根源と恐れられる竜種と云う存在は、人間程度が定めた枠組みなど瞬時に破壊し、その全てを飲み込む程の物。

 カミュ達四人は、自分達の浅はかさと、無力さ、そして知らぬ内に驕り高ぶった心を思い知る事となる。

 

「グオォォォォォォ!」

 

 最早、息を吐き出す事も出来ない。その圧倒的な存在に対し、先頭で曲がり角を曲がってその空間へ入り込んだ勇者でさえも身を竦ませてしまった。空気全てが震え、塔の壁が崩れるのではないかと錯覚する程の恐怖が支配して行く。

 曲がり角を曲がった先には広々とした空間が広がっており、向こう端が見えない広さを有していた。その空間の中で数多くの宝箱が散ばっており、ここが精霊神ルビスを迎える為に行う儀式の為に人間が入る事の出来る最後の場所である事を示している。これより上部は精霊神の領域であり、どれ程に高位な僧侶であろうと入り込む事は出来ないのだろう。

 周囲を囲むように人型であったであろう石像が並んでおり、精霊神ルビスを迎える為に参上した数多くの精霊を模している事がわかる。森の精や泉の精、そんな数多くの精霊達の首がそこら中に散乱していた。

 

「カ、カミュ様……」

 

「カミュ、これは勝てないぞ……」

 

 その広々とした空間には、世界の最大脅威であった魔王バラモスを打倒した勇者達でさえ絶望する光景が広がっている。精霊を模した石像全てを打ち壊し、尚も怒り収まらぬかのように雄叫びを上げる巨大な竜。吐き出されたであろう炎が揺らめき、それに照らし出されたその姿は、人間であれば誰しもが恐怖を抱く象徴そのものであった。

 これまでの旅で一度たりとも弱気になった事の無いリーシャでさえも、その眉は下がり、絶望を感じる程の威圧感。魔王バラモスと相対した時よりも強く感じる圧倒的な力量の差に、サラは言葉を失っていた。

 緑色に輝く鱗に身を包み、四本の足を床につけて長い首を縦横無尽に動かす。頭部から銀色の鶏冠のような物が背中にまで伸びている。長い首の先にある巨大な頭部は角のような物が生え、大きく裂けた口からは鋭い牙が輝いていた。

 その巨大な敵が四体。それは正しく絶望的な光景であった。

 

「グオォォォォォ」

 

「はっ!? フ、フバーハ!」

 

 カミュ達の侵入に気付いた一体の竜が大きく口を開いたのを見たサラが我に返る。即座に詠唱を開始し、両手を前へと突き出した。その手を起点に生み出された霧のカーテンが、竜の口から吐き出された激しい炎を受け止める。蒸気を上げて消えて行く霧はその炎の火力を弱めて行った。

 それでも蒸気によって視界が奪われた一行は、近付いて来た一体の動きに気付くのが遅れてしまう。横薙ぎに振り抜かれた首は、カミュの真横から飛び出し、その一撃を受けた彼は真横に大きく吹き飛ばされた。

 真横に吹き飛ばした青年が転がるのを見届けた竜は、追い討ちを掛けるように大きく口を開く。真っ赤に燃え上がった火炎が見えた瞬間、一気にカミュへ向かってそれは放出されて行った。

 

「ぐっ……ア、アストロン」

 

 身体を起こしたカミュは視界が真っ赤に染まっている事と、肌を焼くような熱気を感じて、即座に最強の防御呪文を行使する。一拍置いて変化して行く身体が、何物も受け付けない鉄へと変わって行った。

 真っ赤な火炎がカミュであった物を包み込み、それを見ていたリーシャ達は息を飲む。広々とした空間全てを照らし出すような火炎は、転がっていた宝箱諸共周囲を焼き尽くした。

 

<ドラゴン>

世界最高種族である竜種の中でも最も上位に位置する存在。遥か太古からこの世に生を受け、最も古い竜種とも云われている。他種族がその姿を見て、竜という種族を認識したとさえ考えられており、その名も『竜』という呼称そのままを持つ。

戦闘方法に奇抜な物はなく、口から吐き出される火炎と、圧倒的な暴力のみによって他者を圧倒する程の力を有していた。その正攻法の戦闘方法と、その姿の美しさから、他種族から崇められる事もあり、人間の伝承に残る竜種の姿の多くが、その姿によって描かれている。

 

「…………マヒャド…………」

 

 鉄と化した青年へ容赦なく放射される火炎を遮るように唱えられた最上位氷結呪文が凄まじい冷気を呼び、火炎とぶつかり合う。杖を振るった少女が青年の無事を確認する暇も無く、他のドラゴンがその大きな口を開いて少女を噛み砕こうと牙を剥いた。

 一気に迫りそのまま相当な力で持って閉じられる口を抑え込むように掲げられた銀色に輝く盾が乾いた金属音を響かせる。この幼い少女の危機に駆け寄る存在は三人いるが、今回はその内の一人である女性戦士が円形の盾を掲げてその牙を防いでいた。

 

「サラ!」

 

「ルカニ」

 

 盾で再度迫る牙を弾いたリーシャは、カミュへの回復を終えたサラへ補助呪文の行使を指示する。その短い指示で全てを理解した賢者は、リーシャが相対しているドラゴンへ向けて防御力低下の魔法を唱えた。

 詠唱と同時にドラゴンの身体をサラの魔法力が包み込む。しかし、その光は何かに弾かれるように弾け、塔内部へ霧散してしまった。それは竜種最高位に位置するドラゴンの特性なのか、それとも偶然なのかは解らない。だが、世界唯一の賢者が行使する呪文が効かなかった事だけは確かであった。

 

「うらぁぁぁ!」

 

 それでも、目の前のドラゴン一体を退けない事には行動に移れないリーシャは、無理な態勢から斧を振り下ろす。真っ直ぐに振り下ろされた魔神の斧が、彼女に向かって伸ばされていたドラゴンの首に吸い込まれて行った。

 だが、竜種最高位の鱗の硬さは、一行の考えの遥か上を行く物であった。

 魔神の斧の刃は、確かに一体のドラゴンを傷つけている。それでも、それは巨体を持つドラゴンの僅か一部分でしかなく、とてもではないが致命傷に成り得るような傷ではない。微かに見える傷口からは奇妙な色の体液が零れ、床へと滴り落ちてはいるが、巨大な瞳は怒りによって真っ赤に燃えていた。

 

「フバーハ!」

 

「グオォォォォ」

 

 怒りに狂ったドラゴンの危険性に気付いたサラが即座に詠唱に入る。目の前で大きく開かれたドラゴンの口の奥に燃え盛る火炎を見たリーシャは、水鏡の盾を掲げて後方のメルエを護るように身構えた。

 リーシャの目の前に濃い霧のカーテンが生まれたのと、ドラゴンが火炎を吐き出したのはほぼ同時であった。一気に押し寄せる高温の火炎は、濃い霧に突き破ってリーシャの身体を焼いて行く。直接受けるよりも軽減はされているが、それでも無傷とは行かない。肌は焼け、髪は焦げ、意識さえも飛ばされそうになる。そんな中、後方から押し寄せて来る冷気がリーシャの意識を戻し、身体を冷やして行った。

 

「…………むぅ…………」

 

 母親のように想っている女性戦士を傷つけた相手に対し、憎しみに近い鋭い瞳を向けたメルエは、杖を握り締めてリーシャの傍に立つ。駆け寄って来たサラがリーシャへ回復呪文を詠唱するのと同時に振り下ろされた少女の杖から、巨大な火球が生み出された。

 大魔王が生み出したと云われ、魔王が行使していた最上位火球呪文。圧縮された火球の熱は、竜種最高位に位置するドラゴンが吐き出す火炎よりも遥かに高温である。迫り来る大火球を前にドラゴンが火炎を吐き出すが、それを防ぐように生み出された霧のカーテンを突き抜けて来る火球を避ける術はなかった。

 

「グォォォォ」

 

 顔面に大火球を受けたドラゴンは、苦悶の叫びを上げる。圧縮された最上位の火球は、竜種の鱗を焼き、溶解させた。ドラゴンの片目は潰れ、左半分の口元の鱗が焼け爛れている。それでもドラゴンの命を奪う事は出来ず、逆に怒りを増長させる結果となった。

 回復呪文によって身体の傷を癒されたリーシャは、咄嗟にメルエを引き戻す。一気に引き戻された事で呼吸が止められたメルエであったが、先程まで自分がいた場所がドラゴンの前足によって粉砕されたのを見て肝を冷やした。

 引き戻されたメルエを抱き止めたサラは、一瞬疑問に思う。自分達は三人であるのに対し、目の前で怒り狂っているドラゴンは一体。しかし、この空間に入った時に遭遇したドラゴンの総数は四体であった。ならば、残りの三体は何処にいるのか、と。

 

「!!」

 

 その答えは直ぐに見つかる。簡単な答えであり、当然の答えは、怒り狂うドラゴンの向こう側に示されていたのだ。

 リーシャ、サラ、メルエが一箇所に集まり、一体のドラゴンと対峙しているとなれば、必然的に残る一人が三体を相手しているという事になる。その絶望的な光景は、顔面の傷による痛みに悶えた一体のドラゴンが位置を変えた事によって、彼女達三人の眼前に広がった。

 吐き出される火炎を鉄となって防ぎ、鉄化が解けたところに振り抜かれる尾を受けて弾き飛ばされる。剣による一撃で傷を付けるものの、残る二体からの攻撃によって真っ赤な鮮血を噴き上げた。何度倒れようとも、淡い緑色の光を生み出して身体の傷を癒し、迫る三体の竜種を相手取るその姿は、勇者そのもの。だが、それでもその力の差は歴然であったのだ。

 

「カミュ!」

 

 太い尾で床に叩きつけられたカミュが回復呪文を詠唱している最中に他の一体の前足が振り抜かれる。勇者の盾を掲げる事も間に合わず、前足の爪で刃の鎧諸共に傷つけられたカミュから真っ赤な鮮血が迸った。

 吹き飛ばされたカミュの意識は刈り取られており、ぐったりと倒れ込んでいる。そんな勇者に向けて三体のドラゴンが同時に口を開いた。それは、心が凍り付いてしまう程の絶望であり、世界の希望が潰えてしまう可能性。

 だが、それを認めてしまう程に彼等の心は弱くはない。

 

「…………マヒャド…………」

 

「マヒャド」

 

 世界最高位に立つ魔法使いが最も得意とする氷結呪文の中でも最上位に位置する魔法が、二人の呪文使いから放たれる。それは最早暴走する冷気となり、塔の階層全てを凍りつかせてしまうのではないかと感じる程の嵐を呼んだ。

 一人の青年を護るように吹き抜けて行く冷気の壁が、三体のドラゴンが吐き出す火炎と衝突し、真っ白な蒸気を生み出して行く。そんな二人の呪文使いへ向かおうとする手負いのドラゴンの前に一人の女性戦士が立ち塞がった。

 

「邪魔をするな!」

 

 一気に振り抜いた魔神の斧がドラゴンの牙と交差する。凄まじい音を立てて衝突する両者は、竜種の足元にも及ばない力しか有していない人間に軍配が上がった。

 根元からドラゴンの牙を折った斧は、そのまま高々と掲げられ、片目を潰したドラゴンの鼻先に振り下ろされる。緑色に輝く鱗を突き破り、魔神の斧はドラゴンの鼻先から口に掛けて大きく斬り裂いた。

 凄まじい絶叫を上げたドラゴンは、自身の口元を斬り裂いた女性戦士から距離を空ける。その隙を突いて止めを刺そうとしたリーシャは、横合いから出て来た強靭な尾を見落としてしまっていた。

 

「リーシャさん!」

 

 水鏡の盾を掲げる暇も無く筋肉で構成された尾を受けてしまった彼女は、サラとメルエの後方へ吹き飛ばされ、壁に直撃する。手負いとはいえ、世界最高種族である竜種であり、その生命力と強靭さは他種族を寄せ付けない。

 単純な攻撃方法しか有していないドラゴンという種は、その能力だけでも世界最高種族の上位に位置するからこそ、小賢しい能力を必要としないのだ。この世に生を受けた時点での強者であり、彼等を下に見る者達など限られた存在しかいない。それは、単純な程の世界の理なのであった。

 

「…………むぅ…………」

 

「あっ!?」

 

 吹き飛ばされたリーシャが床へ落ちると同時に盛大に血液を吐き出したのを見て、サラは慌てて駆け寄ろうとするが、自分が動いてしまえば幼いメルエを竜種の前に残してしまう事に気付き、振り返る。だが、当の少女は、真っ直ぐにドラゴンを睨みつけ、不穏な空気を纏い始めていた。

 一気に膨れ上がるメルエの魔法力が、彼女がその身に宿す強大な能力を放出させようとしている事を物語っている。既に『悟りの書』に記載されている呪文の中で『経典』寄りの物以外を網羅しようとしている彼女が行使出来る呪文は、世界そのものを変えてしまう程の力を有しているのだ。それが怒りと云う感情の下で制御を無視して爆発させてしまえば、この場に居る全ての物を巻き込みかねない。『魔法使いメルエ』は、既にそういう存在であるのだった。

 しかし、そんなサラの不安は既に遅かった。

 

「…………イオナズン…………」

 

 世界唯一の賢者をして、『彼女こそが本来の使い手』と云わしめた呪文が、一気に解放される。距離を取っていたドラゴンの頭上の空気を中心に一気に圧縮されて行き、耳鳴りがする程に周囲の空気が薄くなって行った。

 リーシャに駆け寄ろうとしていたサラの視界が歪む程の空気の圧縮。それは魔王バラモスが何度も行使していた呪文よりも速く、そして範囲が広かった。『経典』、『魔道書』、『裏魔道書』、『悟りの書』と数多くの魔法書にある攻撃呪文の中で、頂点に君臨する破壊力を誇る攻撃呪文が今、精霊神ルビスを迎える為の叡智の結晶である塔内部で解放される。

 

「きゃぁぁぁぁ」

 

 圧縮された空気が一気に弾ける。凄まじい轟音と、目を開く事も出来ない光が広がった直後、抗う事も出来ない爆風がサラを襲い、その身体はリーシャが横たわる床付近まで飛ばされた。塔が軋むように揺れ、天井を形成している鉱石が崩れ落ちて来る。天井を支える柱に亀裂が入り、手負いのドラゴンがいた床は陥没するように抉れていた。

 最高位の破壊力を有する爆発呪文が解放されて無事である事が出来るのは、本来術者だけとさえ云われている。全てを巻き込み、全てを無に返すとまでに『悟りの書』で記載されていたその呪文をサラはメルエに慎ませていた。彼女がそれを行使する所を初めて見た時、これを行使するのは開けた場所であるか、それとも一行が絶体絶命の窮地に陥った時だけと考える程の威力を発揮したからだ。

 現状が、勇者一行にとって絶体絶命の危機と考えられない事もない。竜種の最上位に位置するドラゴン四体を一度に相手する事は、今の彼等には荷が重すぎていた。

 慢心していた訳ではない。自分達の能力を過信していた訳でもない。それでも、彼等は魔王バラモスを打ち倒したという確かな実績と自信を持ってアレフガルド大陸へと降り立ったのだ。アレフガルド大陸に生息し始めた魔物達が上の世界よりも強力である事も理解していたが、それでも前へ進んで行けると信じていた。仲間への信頼と、自身の力を信じる余り、自分達の種族と云う当たり前の事を失念してしまっていたのだろう。

 

「ベホマラー」

 

 天高く突き上げたサラの腕から淡い緑色の光が降り注ぐ。少し離れたところで倒れ込むカミュと、傍で意識を失っているリーシャ、そして自分とメルエにも降り注ぐ緑色の光が、傷ついた身体を癒して行った。

 メルエの目の前に居た手負いのドラゴンの姿は最早無い。凄まじい程の爆発の中心に居たドラゴンの身体は解放された魔法力と共に弾け飛び、既に肉片と化していた。だが、その魔法による被害も凄まじく、塔の二階部分の広い空間は見る影も無い。掘り込まれていた鮮やかな彫刻は全て消え失せ、無機質な岩肌が剥き出しになっている。周囲に散ばっていた奉納品の入った宝箱は一つ残らず消滅し、亀裂の入った床だけが残されていた。

 カミュを襲おうとしていたドラゴン達も無傷ではなく、その鱗は焼け爛れ、体液がにじみ出ている箇所さえもある。だが、それでも三体は健在。むしろその怒りに拍車が掛かっており、凄まじい咆哮と共に真っ赤に燃え上がった瞳を幼い少女へと向けていた。

 

「メ、メルエ!」

 

 一体のドラゴンが先程の災害に近い状況を生み出した少女を標的として突進を開始する。自身の身体から一気に魔法力を放出した事で先程までの怒りが落ち着いてしまったメルエは、そんなドラゴンを呆然と眺めていた。

 魔法力が枯渇した訳ではない事は、彼女がしっかりと床を踏み締めている事でも解る。だが、一気に多くの魔法力を失う脱力感を味わった彼女は、一瞬の間ではあるが自我を放棄してしまっていたのだ。

 それは、世界最高種族である竜種を前にしては致命的な一瞬であった。

 

「ぐぎゃ」

 

 呆けたメルエは後方へ押され、その隙間に入り込んだ影が奇妙な声を漏らす。幼い少女の視界を真っ赤に染め上げたのは、その影の身体から噴出した鮮血。大量の血液がメルエの頭から降り注ぎ、生臭い鉄の香りが鼻を突いた。

 吹き飛ばされた影は数度床に叩き付けられ、暫しの痙攣の後に動きを止める。広がって行く血液の海がその傷の深さを物語っており、致命傷は免れていたとしても、放っておけば死に至る程の傷である事が解った。

 倒れた者が纏う水色に輝く織物が、血の色に滲んで色を変えて行く。姉のように慕い、師のように敬い、好敵手のように対抗心を燃やす相手が、地に伏してしまった。それは、少女の心を深い絶望の淵へと落とす程の物。

 自身を回復する呪文を行使しようと身を動かすその姿で息がある事は解るが、それを今のメルエは理解出来ない。何度と無く味わって来た深い絶望と、足元さえ不安定になる程の恐怖が彼女の胸を襲い、自然と瞳に涙が溜まって行った。

 

「グオォォォォォ」

 

 そんな少女の心を慮る配慮など、ドラゴンが持ち合わせている訳が無い。放心したようにサラが倒れる場所を見つめる少女に向けて、一体のドラゴンの口が大きく開かれた。見えるのは渦巻く火炎。激しく燃え盛る火炎が、幼い少女の全てを飲み込もうとしていた。

 彼女の未来も、夢も、希望も、そして何よりも求めている愛情さえも飲み込み、消滅させる火炎が吐き出される。周囲全てが真っ赤に染まり、幼い少女の全てが赤く塗り潰されて行った。

 

「ぐあぁぁぁ」

 

 それでも少女は深い愛に護られ続ける。

 既にこの世にはいない両親や、その身を母親から譲り受けたホビット。最後には身を挺して魔物から護った義母や、失った自身の娘の影を重ねながらも愛情を注いでくれた稀代の商人まで。彼女の半生は、深い悲しみと絶望に覆われながらも、確かな愛によって常に護られて来たのだ。

 そして、その愛は確実に受け継がれている。不思議な雰囲気を持ち、本人さえも解らない謎を持つこの少女に無条件の愛情を四年以上も注ぎ続けて来た者達は、今も彼女の傍らを離れる事はない。『いつも一緒だ』と宣言してくれた母のような女性は苦悶の表情を浮かべながらも、少女の身体を右腕で抱え上げた。

 左半身を炎で焼かれ、伸び始めた美しい金髪は再び焦げている。女性として見目麗しい顔は、左側の皮膚が爛れ、瞼は腫れ上がっていた。装備している盾は真っ赤に染まり、それを持つ左腕の皮膚が溶けて金属に張り付いている。それでも尚、先程まで瀕死であった筈の彼女は幼い少女を抱き抱えて、起き上がり始めた賢者の許へと駆けた。

 

「うおりゃぁぁぁ」

 

 左足も焼け爛れ、思うように重心が取れないリーシャが必死に駆ける姿を嘲笑うかのように、もう一体のドラゴンが再び大きく口を開く。渦巻く炎が喉の奥に見え、残る右目でそれを見たリーシャが悔しげに顔を顰めた時、この世界に舞い降りた勇者の一閃がドラゴンを襲った。

 雷神の怒りを表現した剣の凄まじい一撃を受けても、ドラゴンの首が落ちる事はない。それでも閉じられた口から火炎が放射される事はなく、再び三体のドラゴンと勇者の戦闘が開始される。彼とて不死身の生物ではない。何度も叩きのめされ、何度も回復を続けて来たその身体は満身創痍。体内に残る魔法力でさえ、それ程多くの残量がある訳ではないだろう。

 それでも、彼はそこに立ち続ける。

 

「リ、リーシャさん……は、はやく横になって下さい!」

 

「…………リ、リーシャ…………」

 

 自身の身体に回復呪文を掛けていたサラは復活を果たしている。致命傷とはならぬまでも、深く抉られた傷からは未だに血が滲んではいるが、それでも死へ至るような峠は既に越えているだろう。そんな賢者の頼もしい姿を見たリーシャは、抱えていたメルエを下ろすと同時に、前のめりに倒れ込んだ。

 倒れ込む衝撃でミスリルヘルムが外れ、焦げ付いた金髪の束が剥がれ落ちる。左半身の焼け爛れた肉は真っ赤に腫れ上がり、痛々しく体液が滲み出していた。生物とは、これ程の火傷を全身の三割近く受ければ死に至ると云われている。リーシャの身体の左半身全てがこのような状態である以上、最早一刻の猶予もなく、サラは即座に最上位回復呪文の詠唱に入った。

 

「…………リーシャ…………」

 

「……メ、メルエ……怪我は…ないか?」

 

「リーシャさん! 口を開かないで! もう、しゃべらないで下さい!」

 

 右側から自分の顔を覗き込む少女を滲む視界で捉えたリーシャは、動く右腕をその頬へそっと当て、少女の無事を確認する。そんな女性戦士の動きを涙ながらに叱りつける賢者の右腕からは今も血液が滲み出していた。彼女とて、瀕死の状態から回復呪文を懸命に唱えているのだ。最上位呪文を行使出来るような安定した精神状態ではなく、中級の回復呪文で処置した身体は完全に回復しているとは言い難い。

 最早メルエの姿さえもはっきりと見えないであろうリーシャであったが、自分の頬に落ちて来る雫を感じて小さな笑みを浮かべる。右半分の口しか動かず、歪な笑みにはなってしまっているが、それでもそれを見つめている少女の心の奥深くに届いた。

 その笑みを見た少女の表情が劇的に変化する。今まで涙していた瞳を強く閉じ、再び開いた時にはその光の奥底に明確な怯えを映し出す。何かを恐れるように、何かを不安がるように、それでいて、その全てを失う覚悟を宿しているかのように輝く瞳の光は、とても儚く、そしてとても強い物であった。

 

「…………リーシャ……メルエ……きらい…なる…………?」

 

 怯えと不安を帯びた声は震え、擦れる程に小さな呟きはドラゴン三体の咆哮によって消え去ってしまう。傍で詠唱の準備を終えようとしていたサラでさえもはっきりと聞こえなかったその呟きだが、彼女の姉を自負し、共に居続ける事を宣言した女性戦士に残った右耳にだけは届いていた。

 少女の頬を触れていたリーシャの右手が弱々しい拳を作り、それを幼い少女の頭へと落とす。『こつん』という小さな音が、場違いのように響き渡り、驚いたように目を見開いたメルエは再び口元だけで笑みを作るリーシャを見た。

 

「ば、ばかもの……私が…メルエを嫌いになるものか。た、たとえ……何があろうと、メルエが何であろうと……私は、メルエとずっと……一緒だ」

 

「リ、リーシャさん……お願いですから、もう話さないで……」

 

 弱々しい言葉は幼い少女の不安も怯えも、恐怖も怒りも吹き飛ばす。息も絶え絶えとなり、薄れて行く意識の中、それでも尚自分へ笑みを向けてくれるその姿は、少女の心に何かを生み出した。

 涙ながらに懇願しながら回復呪文を詠唱したサラの腕から圧倒的な魔法力がリーシャへと流れ込む。最上位の回復呪文は死者を蘇らせる呪文ではない。受ける人間の生命力が残っており、尚も生にしがみ付こうとする者だけがその恩恵を受ける事が出来るのだ。だが、現状のリーシャには、その生命力の強さが足りない。彼女に限って生を諦める事はしないが、気持ちだけではどうしようもない程に残る生命力が足りないのだ。

 それでも緑色の癒しの光を受けたリーシャの身体が癒されて行き、焼け爛れた皮膚が戻って行くにつれて、弱々しく乱れていた呼吸が正常に戻って行く。それは、サラの回復呪文が間に合った事を意味しており、リーシャの生への執着が勝利した事を物語っていた。

 そこで初めて、涙で歪む視界の向こうで、幼い少女が顔を上げた事にサラは気付く。そして、その表情が他者へ恐れを抱かす程に鬼気迫る物であり、その内にある魔法力が凄まじいまでの動きをしている事を感じるのだった。

 

「メ、メルエ?」

 

「…………サラ……カミュにも…………」

 

 無意識の恐怖によって震える声で呼びかけたサラに返って来たのは、いつもとは全く異なる確りとした言葉。彼女がその言葉の意味を聞き返そうとしたその時、先程までドラゴン三体を相手していた勇者が近くの壁に叩きつけられた。

 既に満身創痍の状態であり、左腕と右足は奇妙な方向へ曲がっている。ドラゴン三体の内、二体もまた重度の傷を負ってはいるが、それでも死にまでは至っていない。本来であれば、一行全員で一体か二体の相手が精一杯なのだろう。それを一人で戦い続けていた青年が無事である訳はない。

 

「…………マヒャド…………」

 

 カミュへ駆け寄ろうとしたサラの前方で、メルエが左腕を大きく振るう。それと同時に呟かれた詠唱の言葉に乗って、冷気の嵐が吹き荒れる。カミュの追い討ちを掛けようとしていたドラゴンが吐き出した炎を包み込んだ圧倒的な冷気が、ドラゴンの口元までも凍らせて行った。

 痛みと熱で表情を歪めるカミュの身体を強い緑色の光が包み込む。折れた腕と足を正常の場所へ戻した事の痛みと熱だった事に気付いたカミュは、それまでの一瞬だけでも気を失っていた事で慌てて周囲の状況を確認した。

 自分の傍で膝を折って座り込んでいる賢者の背中。そしてその賢者が視線を向ける幼い少女の姿。心なしか、賢者の身体が小刻みに震えている事が、カミュの心に大きな不安を生み出していた。

 

「……まさか、メルエ……そんな……」

 

 自分の傍にいる賢者が何を呟いているのか、カミュには意味が解らない。だが、その視線の先に居る少女が纏い始めた魔法力が彼が見て来た物とは全てが異なる事だけは理解出来た。

 その魔法力は禍々しく、とても人間が発する物とは思えない。その纏われた空気に気付いた三体のドラゴンが一斉に首を一人の少女へ向け、標的として定めた。それでもその禍々しい魔法力は幼い少女全てを包み込み、強力さを増して行く。この広い空間全てを飲み込むような雰囲気を放つ一人の少女が全てを支配して行き、鋭い視線を向けていた三体のドラゴンの瞳に怯えの色を生み出して行った。

 

 

 

 体内に備えた膨大な魔法力を禍々しい物へと変えて行く少女を呆然と見つめながら、サラは一年近く以前の出来事に想いを馳せる。既に詠唱の完成を待つだけとなり、後はその小さな口で呪文の名を告げるだけという状態にまで高まったメルエが、あの時感じた不吉な予感そのもののようにサラには感じられていた。

 それは、このアレフガルドへ降り立つ前。かなり昔の段階の話ではあるが、ネクロゴンドの洞窟へ入る以前にまで遡る。

 ドラゴンとの戦闘で何度も行使を行い、何度もカミュやリーシャを救って来た氷結系呪文の最上位の契約が済んだ頃である。あの時も近場の森で共に『悟りの書』を眺め、新しく浮き出て来た文字を見つけては二人で喜び合い、その魔法陣を描いて契約の儀式を行っていた。

 氷結系を元来得意呪文とするメルエは、その最上位の呪文も難なく契約を済ませ、後はその行使に関しての修練を積むだけになっている。それはメルエの歳を考えると異常な速さであり、賢者となったサラでさえも契約が出来ていない事を考えると、その才能の異常性が明らかであった。

 

「ふふふ。でも、これでメルエは『悟りの書』に記載されている呪文のほとんどを覚えてしまいましたね。行使する必要性のない呪文も含めて、全てと言っても良いかもしれません」

 

「…………むぅ…………」

 

 契約が出来た事に喜びを表していたメルエを見ていたサラは、微笑みを浮かべて賛辞を述べる。既に、この幼い少女は、『悟りの書』に記載されているほぼ全ての呪文の契約を済ませたと言っても過言ではない。最早、二人が読めないページは残り数枚しかなく、読めるページに記載されていた魔法陣は全て描き終えていたのだ。

 勿論、描いた魔法陣の中でもメルエが契約出来ない呪文は存在した。だがそれは、ベホマなどといった回復呪文や、フバーハのような補助呪文であり、本来賢者としての祝福を受けていないメルエでは行使出来ない呪文である為、当然の結果である。当の本人であるメルエは非常に不満であり、自分が契約の出来ない呪文をサラが契約してしまった場合、ほぼ半日は頬を膨らませる事になるのだが、それはまた別の話であった。

 

「え? あれ……このページの文字が読めるようになっていますね」

 

「…………サラ……かく…………」

 

 傍にあった『悟りの書』を拾い上げたメルエは、書の後方にあるページを開き不満そうにサラへと突き出す。そのページは、つい先日まで文字が浮かび上がっておらず、白紙のままであった。それが、今はしっかりと文字と魔法陣が浮かび上がり、その呪文の名と効力、そして特性がしっかりと記載されている。最上位の呪文の魔法陣を最近では描き続けて来たサラから見ても、その魔法陣はかなり複雑なもので、木の枝をサラへと手渡そうとするメルエに直ぐには手を伸ばす事が出来なかった。

 また、その呪文の効果や特性は、魔法陣以上に特殊な物であり、そこに記載されている内容から見ても、簡単に手を出して良い物ではない事は明らかであったのだ。

 

「この呪文は、おそらく私もメルエも契約出来ませんよ。そして、万が一契約出来たとしても、絶対に行使出来ません」

 

「…………むぅ………メルエ……やる…………」

 

 『悟りの書』に記載されている文言を読み解いたサラは、自分達二人では行使はおろか、契約さえも出来ない事を悟り、魔法を誇りにしている少女に釘を刺すのだが、そんな窘めは即座に拒絶される。これまでも、ベホマやフバーハのように明らかにメルエでは契約が出来ない呪文であっても、絶対に魔法陣の中に入る事を譲らないメルエに溜息を吐いて来た。その度に落胆し、不満そうな瞳を向ける少女に辟易しながらも、少女の胸にある強い想いを知っているサラは、メルエの為に魔法陣を描いて来たのだ。

 今回の呪文は、メルエだけではなく、間違いなくサラも契約が不可能であろう事は、『悟りの書』を読めば理解出来る。それは、魔法使いだとか、僧侶であるとか、賢者であるとかという次元の問題ではなく、サラとメルエという存在では絶対に不可能であるという程の強い理由があった。

 

「仕方ありませんね。難しい魔法陣ですから、描くのに時間が掛かりますよ?」

 

「…………ん…………」

 

 結局折れる事となったのはサラであり、溜息と共に木の枝を受け取った彼女を見て、メルエは花咲くように微笑みを浮かべる。受け取った木の枝で、地面の土に丁寧に魔法陣を描いて行くが、かなり複雑で難解な魔法陣であり、賢者であるサラであっても何度も何度も書で確認しながら描かなければならなかった。

 どれだけの時間が経過しただろう。先程まで興味深そうに魔法陣を眺めていたメルエが、うつらうつらと舟を漕ぎ始めた頃、ようやく複雑な魔法陣は完成を迎えた。曲げ続けていた腰を伸ばし、大きく息を吐き出したサラは、傍にある木の根元で眠気と戦っているメルエを見て苦笑を浮かべる。

 

「メルエ、出来ましたよ。先に言っておきますが、まず間違いなくメルエには契約出来ません。この呪文に関しては私も契約は出来ないでしょうから、膨れては駄目ですよ」

 

「…………ん…………」

 

 眠そうに目を擦りながらも、愚図る事なく魔法陣へと近付いたメルエは、『たいまつ』の炎に照らし出された魔法陣を見て目を輝かせる。早速魔法陣へ入ろうとした所で告げられたサラの言葉を理解したメルエは、神妙に頷きを返した。

 魔法に関してのサラの言葉は誤りが無い。絶対という訳ではないが、メルエの事に関してだけで言えば、絶対に限りなく近いのだ。故にこそ、メルエは彼女を心から信頼しているし、彼女を師と仰いでいるのだろう。そんなサラが契約出来ないと言えば、ほぼ間違いなく出来ないのであろうが、それでもメルエに『試さない』という選択肢は存在しない。どんなに小さな可能性であろうと、魔法という神秘で大事な者達を護ると決めた彼女は手を伸ばし続けるのだろう。そして、その心を誰よりも知っているサラだからこそ、溜息を吐き出しながらも彼女の為に魔法陣を描くのだ。

 

「えっ!? あれ?」

 

 しかし、そんなサラの確信に近い予想とは裏腹に、魔法陣の中央にメルエが座った瞬間、描かれた文字一つ一つが輝きを放ち、大きな光となって少女を包み込んだのだった。今までの経緯から、今回も契約は出来ないだろうと考えていたメルエも驚きの表情を浮かべ、自分を包み込む光と、周囲を巻くように流れる風を眺める。

 やがて治まりを見せた光は地面に吸い込まれるように消えて行き、メルエの髪の毛を巻き上げていた風も周囲に溶けて行った。何が起きたのかが理解出来ないサラは、魔法陣の中心で首を傾げるメルエを呆然と見つめる。それ程に異常な事が起きていたのだが、サラよりも再起動の速かったメルエが嬉しそうに微笑みを浮かべて魔法陣を出た事によって、賢者の思考が再起動した。

 

「メルエ、契約は出来ましたが、その呪文は行使出来ません。残念かもしれませんが、無理に行使しようとすれば、メルエの身体が壊れてしまうかもしれませんからね」

 

「…………むぅ…………」

 

 今まさに契約を済ませ、後は行使するだけとなった呪文があるにも拘らず、即座に駄目出しを受けたメルエは不満そうに頬を膨らませる。幼い少女にとって、契約が出来た呪文が行使出来なかった事などなく、先程もサラが契約出来ないと豪語していた呪文の契約が済んだ事もあって、認めたくはなかったのだろう。

 だが、サラの瞳が真剣な物であり、その瞳が宿す光が自分を心から心配している物である事を理解したメルエは、不承不承に頷きを返すのだった。

 落胆するように肩を落とし、道具を片付け始めたメルエの小さな背中を見つめながら、サラはもう一度先程の呪文の詳細が描かれた『悟りの書』のページへ視線を落とす。そこに記された文言は、サラの心の奥底にある不安と恐怖を騒がせる物であった。

 

『おそらく、この呪文の契約、行使が出来る者はいないだろう。何かの歯車が噛み合い、契約が完了してしまう事はあっても、この呪文を行使する事は出来ない。もし、この呪文を行使出来る者がいるとすれば、これを記す私の血を受け継ぐ者だけである』

 

 数多くの古の賢者達が自身が編み出した呪文を残す為に受け継がれて来た書が『悟りの書』であり、この書には多くの賢者達が自ら描き加えて来ていた。

 この最後の方のページに突如現れた魔法陣もまた、古の賢者の一人が編み出し、それを残す為に描いたものであるのだろう。誰も契約は出来ず、誰も行使する事が叶わない呪文であっても、それを残す事に何らかの意味があったのかもしれない。

 

『この書を私の血を受け継ぐ者が読む時の為にこの呪文を記し残す。竜種と人間との間に生まれた者の末裔であり、竜の因子を持つ我が血族の為に』

 

 この一文がサラの心に大きな不安と恐怖を残す。

 何故、今この時に、このページの文字が浮かび上がったのか。そして、それを何故メルエが契約出来たのか。その理由が解らず、理解する事自体が罪のように感じた為である。

 基本的に異種族との間に子は成せない。エルフと人間の間に子が産まれる事もなく、魔物と獣の交配によって子孫が繋がる事もないのだ。

 だが、それも皆無に近いというだけで、皆無ではない。本当に神の悪戯と言える確率の中だけで、神の祝福を受ける者達がいる。何万年に一つ、いや、何百万年に一つの可能性なのかもしれないが、それでも皆無ではなかった。

 その大いなる祝福を受けた者の血を受け継ぐ者が古の賢者の中にいる。それは有り得ない話のようでありながら、不思議ではない話でもある。人間やエルフの中でも特出した魔法の才能に恵まれ、『経典』の呪文も『魔道書』の呪文も網羅する事の出来る存在であれば、それだけの異能を持っていたとしても不思議ではないのだ。

 

 賢者となった自身に竜族の血が流れているのではないかという可能性を恐れた。だからこそ、サラはそれ以降あの魔法陣を描く事はなく、自分の記憶から消去しようとさえ考える。自分が人間ではないという恐怖は、サラの心の奥深くにある他種族への恐れという物を同時に心の奥深くへ仕舞い込んでしまったのだ。

 故にこそ、気付かなかった。ネクロゴンドの森付近でメルエが倒れていた時の光景を見ても、それが氷結系最高位の呪文の結果だと思い込んでいた。だが、それは、サラの中に残る恐怖を無自覚に押さえ込もうとしている結果の現れであったのだ。

 

 世界で唯一となった賢者が恐れ、この世界の奇跡とも呼べる神の祝福を受けた一族が残した呪文。

 その名は……

 

 

 

「…………ドラゴラム…………」

 

 放心するサラを押し退けて前へ出ようとしていたカミュでさえも、一歩も動く事は出来ない。それ程に禍々しい魔法力が一気に爆発し、幼い少女を飲み込んで行った。

 眩い光ではない。神々しい輝きでもない。それは竜の女王が人型になる瞬間に放っていた優しい輝きでもない。それらとは全く逆である他者を圧倒し、飲み込もうとする強大な威圧感。この場の全てを支配し、全てを消し去る事さえ可能な程の力の象徴であった。

 

「メルエ……」

 

 その魔法力の強大さ、そして凶暴さを目にしたカミュは、小さな呟きと共に大きな後悔で表情を歪める。彼の中で、カザーブの村で自分が彼女を魔法陣に誘い込まなければという後悔が今も残っているのだろう。あれがなければ、メルエはカザーブでトルドと共に幸せに暮らせていたかもしれないと考えれば、カミュ自身の感情を抜いてしまえば、メルエの幸せを奪ってしまったとさえ考えている節があった。

 それは、彼と共に歩んで来た女性戦士が何度『違う』と告げても変わりはしなかったのだ。

 

「グオォォォォ」

 

 禍々しい魔法力の渦の中、輝く光と共に巨大な咆哮が響き渡る。それは、この階層諸共に破壊してしまうのではないかと思える程の大気の振動を起こし、その場にいる全ての者達の心を飲み込んで行った。

 それは先程までこの階層を縦横無尽に暴れ回っていたドラゴンも例外ではなく、残った三体のドラゴンは、怯えを多分に含んだ瞳で禍々しい魔法力を見つめている。既に動く気力さえも失ってしまったのか、巨大な咆哮が響き渡ると、その場で足を畳んでしまう者までいたのだった。

 眩いばかりの輝きが消え、溢れていた禍々しい魔法力は収束されるように消えて行く。そして、その場所には一体の竜種がいた。

 目の前で怯える三体のドラゴンとは系統が異なるのだろう。二本の太い後ろ足で立ち、背中からは巨大な翼が広がっている。銀色に輝く鱗は、燭台の炎によって黄金のような輝きを放ち、長い尾は敵を煽るように床を叩いていた。

 

「メルエなのか?」

 

 サラによる回復呪文によってようやく意識を取り戻したリーシャは、自分のすぐ傍で咆哮を上げる巨大な竜種を見上げて小さな問いかけを呟く。それは少し離れたカミュやサラの耳には届く事はなく、三体のドラゴンが上げる怯えの雄叫びに掻き消されて行った。

 だが、何故か、目の前に居る巨大な竜だけは、そんなリーシャの方へ首を向け、大きな瞳に哀しみの色を浮かべる。その瞳を見たリーシャは、自分の考えが正しかった事を確信し、柔らかな笑みを浮かべるのであった。

 

「美しいな……。本当に美しい竜だ」

 

「グオォォォォ」

 

 銀色に輝く鱗を持つ竜は、希少種である竜種の中でも更に稀有な存在なのかもしれない。数多くの竜種を見て来たカミュ達ではあるが、その全てと比較しても、メルエであろうと思われる竜の姿は何よりも気高く、何よりも美しかった。

 世界の守護者でもあった竜の女王の姿を見ているリーシャであっても、それ以上に美しく輝く竜が神聖な者のように感じる。そんな賞賛の呟きに応えるように咆哮を上げた銀竜が目の前で怯える三体の竜へ鋭い視線を向けた。

 竜種の中でも最上位に位置するドラゴンでさえも怯え、竦んでしまう程に冷たい視線を向けた銀竜が一歩前へと進み出る。天井の高いルビスの塔内部でさえも手狭に感じる巨体が動いた事で、呆然とそれを見つめていたサラが尻餅を着いた。

 

「ギャァァァァァ」

 

 迫る恐怖に耐えられなくなった一体のドラゴンが、銀竜に向かって大きく口を開き咆哮を上げる。しかし、そのような咆哮を意に介す事なく踏み込んで来る銀竜に、ドラゴンは口から火炎を吐き出した。

 カミュ達一行があれ程に苦しめられた燃え盛るような火炎が銀竜に向かって迫って行く。だが、カミュやリーシャが声を漏らした時には、既に銀竜とドラゴンの戦闘は終了していた。

 口を大きく開いた銀竜は、迫る火炎に向かって息を吐き出す。吐き出された息は即座に真っ白な冷気となり、先程まで燃え盛っていた火炎諸共ドラゴンの身体までをも凍り付かせて行った。その冷気は氷結系最高位の呪文であるマヒャドよりも数段上の威力を誇り、一瞬でドラゴンの命ごと氷漬けにしてしまう。そんな哀れな同種に同情する様子もなく、銀竜は氷像と化したドラゴンの頭部を踏みつけ、粉々に砕いてしまった。

 

『氷竜』

最早、このアレフガルドだけではなく、上の世界であっても伝説と化した竜種である。永久凍土であるグリンラッドに生息するスノードラゴンの遥か上位に位置する種族であった。氷山を主な住処とし、全ての雪原を支配下に置く強大な竜種。火竜として括られる炎を吐き出す竜種よりも希少性の高い種であり、太古の竜の女王の側近を勤めていたという言い伝えも残っている。

多くの竜種を支配下に置く事で世界の守護の一助となり、多くの生物から守り神のように崇められていた事もある。吐き出す冷気は全てを凍りつかせ、振るわれた尾は永久凍土の氷さえも割る。大きく広げた翼で空を飛び、太い二本足で雪原を歩いて世界を守護すると云われていた。

 

「あ……あ…あ」

 

 怯えて許しを請うように鳴き声を上げるドラゴンを容赦なく氷像と化して行く氷竜を見上げるサラは、既に声を出す事も出来ない。その瞳には絶対的強者に対する恐怖が刻まれており、その恐怖を与えている存在が、自分と長く旅を続け、妹のように愛していた少女である事への戸惑いが見えていた。

 

 今更ながら思い返せば、メルエが竜の因子を含む血を受け継いでいると考えられる節は多々あったのだ。見上げるサラの脳裏に、その数々の出来事が思い返される。

 何度も何度もサラが注意をしなければ、メルエは厚着をする事を了承しなかった。身体が濡れてしまう事さえなければ、基本的にあの少女は寒さに強く、グリンラッドの地に辿り着いた時には、どんな吹雪の中でも笑みを浮かべて雪に触れ続けていた。それも、氷竜という雪原の支配者の因子を受け継いでいたのだとしたら、不思議な事ではない。

 竜種と人間の間に生まれた者の末裔である賢者が、『悟りの書』という書物を残し、それをガルナの塔へ封じたとすれば、あのガルナの塔で遭遇したスカイドラゴンがそれを守護していたのも頷ける。氷竜という最上位に位置する竜種の因子を受け継いでいるのであれば、スカイドラゴンのような下位の竜種を従わせる事も出来るだろう。

 サラは知る事がないが、『地球のへそ』と呼ばれる試練の洞窟の中でも、スカイドラゴンがカミュを迎えるように生息していた。あの神殿でカミュ達を出迎えた者が、竜種の因子を受け継ぐ賢者だとすれば、試練の洞窟でカミュが体験した事も、全てを見透かしたような言葉を発していた事も全て辻褄が合ってしまう。

 二度目にグリンラッドを訪れた際のメルエの変貌ぶりも同様である。氷竜という雪原最上位種の因子を彼女が受け継いでいたとすれば、その配下となるスノードラゴンなどに牙を向けられた事に怒りを表したとしても不思議ではなく、あの時のスノードラゴンの怯えようも解るというものだ。

 そして、何より、メルエという少女は、呪文を行使出来るようになってからも一貫して氷結系の呪文を最も得意としていた。彼女の放つヒャドは、その物質の原子さえも凍りつかせ、ヒャダルコは大抵の生物の命を奪っている。元々サラとメルエの魔法力の量に大きな差があるが、中でも氷結系呪文の威力は、同じ呪文であってもその差が激しかった。

 そんなメルエが怯え、恐怖した相手は、ヤマタノオロチと竜の女王だけ。となれば、両者とも、氷竜よりも上位にいる竜種となる。もし、ヤマタノオロチが完全な状態であれば、カミュ達など一瞬で命を落としていたのかもしれない。ジパングという島国の産土神は、それだけの存在であったと云えるのだろう。

 

「おい……おい!」

 

「!?」

 

 メルエと出会ってからの出来事が走馬灯のように流れ、その一つ一つの出来事がこの状況へと繋がる事に思い当たっていたサラは、容赦のない程に揺らされる強い力に我に返る。焦点の合い始めた視線の先には、険しい表情をした勇者が見えた。

 彼は、メルエが竜へと変わる経緯を知らない。同じように何故メルエが竜になるのかという事が解らないリーシャではあるが、彼女は瀕死の状態の際に、何かを決意するメルエを見ている。仲間の心の機微に関しては、誰よりも速く察し、誰よりも強く慮る彼女だからこそ、今のこの状況を受け入れる事が出来ているのだろう。

 だが、サラへ険しい表情を向ける彼は違う。メルエの実父からその身を託され、彼女が呪文を行使するという事に誰よりも責任を感じている彼は、幼い少女の幸せを護る義務を持っていた。それは、誰が何を言おうとも、彼の中での絶対的な優先事項なのだろう。

 

「メルエは……メルエは大丈夫なのか!?」

 

 強く詰問するような激しい問いかけが、今の彼の心を如実に表している。明確な焦りと、それ以上の不安。それは何物にも動じない勇者には珍しい感情であった。だが、その感情の全ては今三体ものドラゴンを相手取っている一人の少女へと向けられている。

 カミュにとっては存在すら知らない魔法。人間が竜の姿に変身するというのは、非常識の象徴と云える魔法という神秘の中でも更に際立った非常識である。変化の杖のような神代の道具を使用したとしても竜種の咆哮しか上げられない程に自我を失う訳がない。また、エルフに姿を変えた際にリーシャが魔法を使えるようになっていた訳ではない事を考えると、変化の杖での変身では、変身した相手の能力が使用出来るという訳ではない事が解っていた。

 なればこそ、今のメルエの状況は異常なのだ。リーシャは何やら納得しているが、正確に把握している訳ではないだろう。カミュに至っては混乱に陥る程に、状況が把握出来なかった為、賢者と呼ばれ、呪文や魔法の真相を追究し、そして幼い少女の師でもあるサラへ問い掛けているのだ。

 

「わ、わかりません……」

 

「ちっ!」

 

 しかし、そんなサラでさえ、この状況を正確に把握し、飲み込めている訳ではない。確証など何もなく、全ては状況証拠からの推測に過ぎないのだ。それでも、サラはそれが事実だと確信しているし、最早疑う事さえ出来なかった。

 メルエが何故竜の姿に変化したのかの理由が解る事と、その結果彼女の身体に及ぼす危険性を把握する事は異なった物である。絶対に行使は不可能だと思い込み、試行使の段階を踏んでいない以上、メルエの安全を約束する事は出来ないのだ。

 頼りない呟きのようなサラの答えを聞いたカミュは、苛立った舌打ちを盛大に鳴らす。彼としても、サラを糾弾するつもりなど毛頭ない。だが、その焦り故に、サラに対して強い対応になってしまっていた。

 

「グギャァァァ」

 

「グオォォォ」

 

 カミュとサラのやり取りの間に、最後の一体となったドラゴンと氷竜の戦いは終幕を迎えようとしていた。最後に残った一体が、追い詰められた鼠のように氷竜へと嚙み付いて行く。太い左足へ喰いついたドラゴンの牙が、氷竜の美しい銀の鱗を突き破り、赤ではない体液が床へと噴き出した。

 その光景にカミュとリーシャは同時に眉を顰め、その瞳の中に不安の色を浮かべるのだが、サラだけは、床に飛び散った体液の色を見つめ、表情を歪める。

 苦悶の雄叫びを上げながらも、氷竜は短い前足でドラゴンの頭部を叩き殴り、牙が外れたところで傷ついていない方の足で蹴り飛ばした。弾き飛ばされるドラゴンが床を転がり、盛大に体液を吐き出す。強力な一撃を腹部に受け、内部の臓物が傷ついたのだろう。それでも火炎を吐き出そうと口を開いたまま、そのドラゴンは氷像と化した。

 全てを凍りつかせる冷気を吐き出し終えた氷竜は、左足から痛々しく体液を流しながらも、勝利の雄叫びを上げる。階層全ての大気を震わせ、階層全体を大きく揺らす咆哮は、生物であれば誰しも恐れ戦く程の物であった。

 

「メルエ!」

 

 そんな咆哮を聞いても揺るがない二人の男女の叫びが重なる。雄叫びを上げた姿のまま大きな光に包まれた氷竜はその姿をゆっくりと変化させて行ったのだ。その光は、先程のような禍々しさはなく、優しく神々しい物であった。

 徐々に小さくなって行く竜の身体が、いつしか少女の物に変わり、そして床に倒れる。ドラゴラムという呪文がどのような構造になっているのか解らないが、メルエの衣服はドラゴンと化す以前のままであり、損傷している部分はなかった。唯一点、幼い少女の左足からは、滲むように血液が流れ出しており、それが彼女が先程の竜であった事を明確に物語っていたのだ。

 カミュよりも近くに居たリーシャが先に駆け寄り、その身体を抱き抱えた。安らかな少女の寝息を聞き取った彼女は、堰を切ったように涙を溢れさせる。遅れて辿り着いたカミュが即座にメルエの足に向けて最上位の回復呪文を唱え、安堵したようにその場に座り込んだ。

 

「カ、カミュ……この塔の探索は、今の私達では無理だ。ルビス様の解放は一時諦め、他の地へ向かおう」

 

「……ああ」

 

 竜種の最上位種であるドラゴン四体は倒した。一体は跡形もなく弾け飛び、その他の三体は氷像と化している。その全てを、今リーシャの腕の中で安らかな眠りに就く少女が行ったのだ。それは、カミュ達勇者一行の力でありながらも、認める事の出来ない力である。

 精霊ルビスの解放というアレフガルドを動かす大きな仕事を成すには、彼等一行の力は不足していた。最早、目指すのは大魔王ゾーマだけだと考えていた訳ではない。それでも、魔族や魔物に遅れを取る事はないと考えていなかったかと言えば、嘘になった。慢心でも過信でもないが、彼等はアレフガルドに生息する魔物達の力を見誤っていたのだ。

 

「サラ! リレミトとルーラを使ってくれ。一度マイラへ戻る」

 

「は、はい……」

 

 熱心なルビス教徒であるサラにとって、ここまで来ての一時撤退は認める事の出来ない事柄であろう。だが、今のサラの瞳の中にそれに対する不満は見えない。それとは次元が異なる何かが、彼女の心を蝕んでいるように見えた。

 ゆっくりと近付いて来たサラは、リーシャが抱き抱える少女へ視線を向ける事なく詠唱を開始する。カミュとリーシャが彼女の衣服を掴んだ事で、呟くような詠唱が完成した。一瞬の間の後、光の粒子へと変化した一行が、未だに冷気の残骸が残る階層から消えて行く。

 

 精霊神ルビスを封じた塔は、その封印を解こうとする者を防ぐ為に、強力な魔物が配置されていた。アレフガルド大陸の中でも上位に位置する魔物達の力は、魔王バラモスさえ討ち果たした勇者一行の力を凌駕していたのだ。

 アレフガルドで生きる者達の悲願である精霊神ルビスの解放は、現時点での勇者一行の力では成し遂げる事は出来ない。日々、濃い闇に包まれ始めるアレフガルドに余り時間は残されていないが、それでも彼等は自分達の力不足を認め、態勢の立て直しを図ったのだ。

 だが、戦闘に於いての力不足という単純な問題だけでなく、今回のルビスの塔の探索は、一行の胸深くに残された大きな問題も露呈する事となった。

 

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。
一気に書き上げてしまったような感じです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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マイラの村②

 

 

 

 リレミトによって塔の外へ出た一行は、そのままサラの唱えたルーラによってマイラの村へと戻る。海岸に泊められている小舟を置いて行く事になるが、今の一行の状態では舟を使って戻る事は出来ないのが事実であった。

 メルエという最強の呪文使いが戦線を離脱したままであり、サラの今の精神状態を考慮に入れると、船酔いを加えてしまえば戦闘では役に立たないであろう。カミュの呪文ではアレフガルドで生きる魔物達の生命を奪う事は出来ない事は確かであり、今は舟を使う事は危険以外の何物でもなかった。

 次にこのルビスの塔へ訪れる方法が無い訳ではない。だが、あの小舟を善意で貸し与えてくれた漁師の男性への謝罪などの必要は出て来るだろう。

 

「以前に訪れた者です。開門をお願いします」

 

 ルビスの塔からマイラの村までは、それなりの時間が掛かった。周囲全体が闇に覆われている為、今が朝なのか夜なのかは解らない。それは、この村の住人の生活の基準も曖昧にしている。今が寝ている時間帯なのか、それとも活動している時間なのかが解らないのだ。

 マイラの村の中は明かりが灯されてはいるが、温泉という施設がある為に、皆が寝ている時でも明かりが全て消えるという事はない。その為、マイラの村の門の前に着いたカミュ達は、何度か門を叩き、中へ入る為に人を呼ばなければならなかった。

 

「三部屋借りたい」

 

「畏まりました。この時分では、部屋も空いていますから」

 

 門を潜った一行は、そのまま脇目も振らずに宿屋へと入って行く。カミュ個人の部屋、リーシャとサラの部屋、そしてメルエの部屋に分けて部屋を取った。

 ドラゴラムという未知なる呪文を行使が、幼い少女の身体にどう影響を与えているのかが解らない。その為、大部屋のような場所ではなく、メルエ個人の部屋としてゆったりとした部屋を取り、看病をする事になったのだ。

 ここまでの道中でも一切意識を戻さない少女を抱きながら、泣きそうに眉を下げているリーシャと、そんな二人を心配そうに見つめながらも宿の手配を終えるカミュの姿は、若い夫婦のようにも映ったのだろう。宿屋の店主が薬師を呼んでくれ、手配された部屋のベッドに寝かされたメルエは、診断を受ける事となった。

 

「ふむ。身体に異常はなさそうだね。暖かくしていれば、いずれ目を覚ますでしょう」

 

「本当か!? 大丈夫なのだな!?」

 

 一通り身体を見ていた薬師は、メルエの状態を過労に近い症状だと判断し、柔らかな笑みを浮かべる。その笑みは、先程までベッドの傍で固く手を合わせながら極度の心配を少女に向けるリーシャへの物だったのだが、薬師の言葉を聞いた彼女の剣幕に、薬師は笑みを引き攣らせる事となった。

 何度も何度も礼を述べ、診断料として多くのゴールドを手渡すリーシャの姿に苦笑を浮かべながら薬師は部屋を出て行く。彼の目にも、娘を心配する母親のように映っていたのかもしれない。

 ベッドに横になるメルエの意識は未だに戻らない。だが、規則正しい寝息が、彼女が生きている事を明確に物語っていた。そんな彼女の両側には心配そうに見つめる青年と、何度も濡れた布を取り替える女性の姿。それは確かに子を心配する親の姿に近しい物であろう。そんな三人から少し離れた所でその光景を見ていたサラは、そんな想いを持っていた。

 

「サラ、メルエはあの呪文を以前に使用した事があったのか?」

 

「え? あ、はい。おそらくですが、一人で使用した事があったと思います」

 

 安らかな寝顔を見せるメルエに安堵したリーシャは、少し離れた場所に座るサラへ、未知なる呪文について尋ね始める。それは、カミュにとっても疑問に思っていた事だったようで、彼も視線を最上位の呪文使いである賢者へと向けた。

 サラの脳裏には、あのネクロゴンドの洞窟近くにある森の光景が広がる。全てを凍結させた氷の世界であり、冷気の塊であるフロストギズモさえも凍らせてしまう程の世界。確証はないが、サラはあの世界がメルエのドラゴラムの結果であると考えていた。

 何故あの時気付かなかったのかと、今になれば思う程の異常な世界は、氷竜となったメルエが造り上げた世界であると考えた方が理に適っている。世界最強種である竜種の中でも更に上位種である氷竜という存在。その力は、人類の思考の範疇を大きく越えていた。

 

「ならば大丈夫か……」

 

「今回も大丈夫だとは言えないだろう。メルエが目を覚ますまでは気を抜くな」

 

 思考の海へと落ちて行くサラを余所に、一度行使した事のある呪文であれば問題はないと判断したリーシャは安堵の溜息を吐き出す。だが、それをカミュは許さなかった。彼が見たドラゴラムという呪文は、本当の意味での神秘であったのだろう。手から炎を出す事や冷気を出す事以上に、その姿自体を変えてしまう呪文は、異常性を特出させていた。

 竜種と云う世界最強種へと姿を変えるというのは、最早人類の枠を大きく逸脱しており、それは単純に人類の中でも特出して力が強い事や、魔法力が多いなどといった物とは根本的な部分が異なっている。故にこそ、前回が大丈夫であっても、今回もまた大丈夫だとは決して言い切る事は出来なかった。

 

「メルエは生きている。それだけでも私は嬉しい。目を覚まして欲しいと心から願うが、目を覚ましてしまえば、またメルエに無理をさせてしまうのではと考えると……私は怖い」

 

「二度と使わせない。竜種が相手であろうが、大魔王が相手であろうが、メルエにあの呪文を使わせる事は二度とない」

 

 それまで安堵の表情を浮かべていたリーシャが、視線を落としてメルエを見つめる。その心の内を吐き出した彼女は、いつもでは見られない程に弱々しかった。感情の押さえが利かないかのように目に涙を浮かべ、膝の上に乗せられた拳をきつく握り締めている。彼女のこのような姿は、長い五年以上の旅の中でもサラは見た事がなかった。

 そして、そんなリーシャへ告げたカミュの決意もまた、ここまでの旅の中で見た事のない程に強く、その言葉の一言一句に彼の揺ぎ無い想いが込められている。今回の戦闘はそれ程の物であったのだ。これまでどれ程の強敵を前にしても揺るがなかった女性戦士の心を折り、どれ程の苦難にぶつかろうと冷静さを失わなかった勇者の心に熱い決意を生む程の戦闘。大魔王ゾーマへ辿り着く前に全滅しかねない程の戦いは、それぞれの心に大きな傷を植え付けていた。

 

「まずは、休もう。私はこの部屋で休む。メルエが起きた時に誰もいないのは可哀想だからな。カミュとサラは温泉にでも入って、ゆっくりと休め」

 

 顔を上げたリーシャは、無理に作った笑顔を浮かべて優しくも強い提案を口にする。その言葉には逆らう事の出来ない力強さがあり、カミュとサラは静かに頷くしかなかった。

 温泉へ入り、身体の汚れを落とした二人は部屋に入って眠りに就く。様々な思考によって眠れないと考えていた二人であったが、身体は想像以上の疲労を抱えており、ベッドへ入って目を閉じた途端に眠りへと落ちて行った。

 

 

 

 カミュが目を覚ましたのは、太陽が見える上の世界であれば、一日が経過した頃であろう。丸一日眠りに就いてしまう程に疲労していた自分に驚きながらも、メルエが眠る部屋へと移動する。部屋の戸を開けると、未だに少女の意識は戻っておらず、ベッドの隣に置いた椅子に座った女性戦士だけが、その寝顔を見つめ続けていた。

 

「眠っていないのか?」

 

「ん? ああ……どうにも心配でな」

 

 近くでカミュが声を掛けた事で、ようやく部屋に入って来た彼に気付いたリーシャは、この一日で随分やつれてしまっているように見える。本来、優れた戦士である彼女が、部屋の戸が開いた事に気付かないなどという事はなく、間近まで迫られなければその存在に気付かないという事もない。それだけ、彼女も疲労が溜まっているのであろうし、通常の精神状態ではない事が解る。

 リーシャの答えに一つ溜息を吐き出したカミュは、ベッドを挟んだ対面に置いてある椅子に腰掛け、今も目を覚まさない少女の頭を優しく撫でた。いつもならば目を細めて喜ぶ少女は、今は身動き一つしない。その事に僅かに顔を顰めたカミュであったが、もう一度息を吐き出してリーシャへと視線を移した。

 

「何か思う事でもあるのか?」

 

「……メルエがあの呪文を行使したのは、私の責任かもしれない。あの時、私へ問いかけたメルエの言葉は、『竜の姿に変わってしまえば、嫌いになるか?』という意味だったのだろう。それに対して、私は『メルエが何であっても、ずっと一緒だ』と答えてしまった」

 

 静かに問いかけたカミュの言葉に暫く沈黙を続けていたリーシャであったが、目に浮かべた涙の雫を一つ溢した後、消え去りそうな程の小さな声でぽつりぽつりと語り出す。それは、ルビスの塔でドラゴンという竜種に追い詰められた時の出来事であり、メルエがドラゴラムを行使する直前の二人の会話であった。

 大火傷を負ったリーシャは朦朧とする意識の中でも、幼い少女との会話を一言一句憶えていたのだ。あの時のリーシャは、自分の左半身を奪った炎を受ける原因となった事をメルエが悔いているのだと思っていた。だからこそ、そんな彼女の罪悪感を和らげようと口にした言葉であったが、それがドラゴラムを行使して竜の姿になってしまった後の事をメルエが危惧していたとなれば、リーシャの返答がメルエにそれの行使を決意させてしまったとも考えられる。

 

「竜になろうが、それこそメルエが竜種であろうが、私がメルエを嫌いになる事など有り得ない。お前だってそうだろう? だが、それでもこのままメルエが目を覚まさなければ、私はあの時の自分の言葉を許す事が出来ない」

 

 溢れて来る涙の雫は、メルエに掛けられた布団に零れて行く。それだけ、この女性戦士は過去の自分の発言に心を痛めているのだろう。彼女が涙を溢す事は珍しい。それも、他者の心を慮った物ではなく、自身の行動への後悔でとなれば、長い旅の中でも皆無に等しかった。

 しかし、カミュはそんなリーシャの心を好ましく思っている。その考えを馬鹿な事と一蹴するのは簡単な事ではあるが、彼はリーシャの心に根付いた恐怖をしっかりと理解していた。言い換えれば、彼女の心配と罪悪感は、彼にしてみれば自分が感じなければならない物であったのだ。

 

「アンタの責任などない。メルエが魔法を使う事になった全ての原因は俺にある。もし、メルエが目覚めない時は俺を恨め」

 

「馬鹿を言うな! お前がメルエを魔法陣に入れたからこそ、ここまで私達は共に歩いて来れたんだ。もし、メルエがいなかったら、私達は道半ばで全滅していただろうし、上の世界に平和など永遠に訪れる事はなかった筈だ。それこそ、見当違いな罪悪感を感じるな!」

 

 お互いがお互いの罪の意識を否定する。それは、お互いを庇い合っているようにも見えはするが、実際は随分異なる物であった。カミュは自分の罪の意識に苛まれ続け、ここまでの旅を歩んで来ているし、リーシャはそれを罪と認めてはいない。カザーブの森の中では彼を糾弾したリーシャではあるが、その後の旅でメルエの必要性は否応なく感じざるを得ない物であり、幼い少女の魔法なくては旅を続ける事さえ出来なかった事が事実であったのだ。

 だからこそ、リーシャは涙を溢しながら叫び、カミュはその顔を見て大きな溜息を吐き出す。お互いの認識が完全に異なっているのだ。

 

「そういうのであれば、あの時メルエがドラゴラムという呪文を行使しなければ全滅していた筈だ。それでも罪を感じたいのならば、俺と同じようにアンタも自分の弱さを恨め。俺達があの竜種に遅れを取らなければ、この事態は起きなかった」

 

「……そうだな。私達がもっと強ければ、メルエが無理をする事もなかったのだな。何が、大魔王討伐だ! それに従う竜種一つ倒す事も出来ず、思い上がりも甚だしい!」

 

 息を吐き出したカミュは、真っ直ぐにリーシャの瞳を見つめ、断罪の言葉を発する。その罪はリーシャだけの物ではなく、その言葉を発した青年の物でもあった。前衛を担う二人が、例え四体であろうと、竜種と拮抗する実力を備えていれば、サラとメルエは後方支援に専念出来ていただろう。彼女達二人を前へ出してしまったのは、絶対に揺るがない大きな壁である二人が崩れてしまったからだとも言えた。

 悔しそうに顔を歪めたリーシャは、吐き出した言葉と共に自身の膝を殴りつける。誰もが成しえる事の出来なかった魔王バラモスの討伐を果たし、自分達が遥か高みに登った事を実感していた彼女達だからこそ、大魔王ゾーマに挑む事の出来る人間は自分達だけだと考えていた。だが、その大魔王は、そんな勇者一行の思惑の更に遥か高みに存在していたのだ。

 

「余り大声を出すな。メルエが起きるぞ」

 

「あっ……すまない」

 

 大きな後悔の念に、リーシャはこの場所がどんな場所かを失念していた。未だに眠り続けるメルエは、部屋に響く大きな声に対しても身動き一つせず、起きる気配はない。それでも、あれだけの事を成し、身体に無理をして来た少女には、優しい目覚めを迎えて欲しいという想いを二人は持っていたのだった。

 静かに二人が見つめる少女は、本当に安らかな寝顔を浮かべている。彼女の心に心配は何もなく、起きた時には優しい世界が広がっている事を願わずにはいられなかった。

 

「アンタも温泉に入って休め。メルエは暫くは俺が見ている」

 

「……わかった」

 

 静寂が広がる中、メルエの寝顔から視線を外す事なく呟かれた言葉に、リーシャは静かに頷きを返す。カミュの言葉の中に棘はなく、心の奥から他者への配慮に溢れていた。そんな彼の言葉だからこそ、リーシャは休む気になったのだろう。立ち上がった際にふらついた自分へ向けたカミュの瞳を見て、リーシャは小さな笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

 それから二日が経過する。

 未だにメルエは目覚めない。

 毎日、カミュとリーシャはメルエのベッドの横で彼女を見守っていた。交代で食事を取り、交代で眠りに就く。その繰り返しが続く中、サラはどうしてもその部屋に長居する事は出来なかった。

 彼女もまた毎日メルエの様子を見には行くが、それでも一日部屋の中で座っている事が出来ず、マイラの村にある教会へと足を運んでいたのだ。カミュ達とは逆に、サラは一日のほとんどを教会にあるルビス像の前で過ごしていた。

 

「……ルビス様」

 

 毎日ルビス像の前で跪き、胸の前で手を合わせて祈る姿は、マイラの村の住人達から見れば熱心な信者に映っていただろう。だが、その胸の内は大きく異なっており、不安と恐怖に押し潰されそうになっていた。

 そんな自分の中に生まれた感情を誤魔化すように、サラは一日中祈りを捧げる。正確に言えば、サラはその感情が急に生まれた物ではない事を知っていた。幼いあの頃から常に心の奥底にあり、僧侶として魔物を憎んで生きて来た時も、賢者として魔物も人間もエルフも区別なく生きようと決意してからも、そこに在り続けた物である。それを知ってしまったからこそ、彼女は己の中で大きくなる不安と恐怖を恐れたのだ。

 

「私は……私は……」

 

 『魔物への根本的な恐怖』

 それは、自我さえも朧気な幼少の時に感じた恐怖であり、目の前で父親と母親を失った時に感じた物。自身に降りかかる生臭い鉄の香りと目の前に突き出た大きな角。その記憶はどれだけ厳重に蓋をしたとしても、彼女の心に棲み付き、消える事はなかった。

 自分が敵わない者への潜在的な恐怖は生物として当然の物であり、消そうと思って消せる物ではない。そして、その存在によって植え付けられた恐怖は心の奥深くに刻み付けられ、生涯に渡って残り続けるのだ。

 サラという僧侶は、その感情を誤魔化す為に生きて来た。目の前で父が死に、自分を護るように母が死んだ。その時の恐怖を隠す為に、憎しみという感情を表に出して生き続け、勇者という青年に出会う事によって命の尊さに区別がない事を知り、その大望によって恐怖に蓋をして来ている。

 それは決して間違った行動ではない。むしろ、それは彼女が人間として生きて行く為に、彼女の心が無意識に選択して来た結果なのだ。それが今、表に出てしまった。ただ、それだけの事である。

 

「……竜族と人間族との間に生まれた子。神と精霊の大いなる祝福を受けてこの世に生を受けた子」

 

 五年近くもの長い旅路を共に歩んで来た少女を、サラは心から愛していた。本当に血の繋がった妹のように愛し、共に歩める事を心から喜んでいた。だが、その少女は圧倒的な力を持つ竜種の因子を受け継ぐ一族の末裔であったのだ。

 最早人類最高位に立つカミュとリーシャでさえも歯が立たないドラゴンという竜種を圧倒的な力の差で氷像と化すその姿は、長く抑え続けて来たサラの心の奥の恐怖を掘り起こす。そして一度掘り起こされた感情は、二度と蓋する事は出来なかった。

 メルエが賢者の血筋ではないかと云う想像は、サラの中でほぼ確定事項にはなっていた。テドンでの出来事やランシールで出会った存在、そしてネクロゴンドの洞窟を抜けた場所で見た存在を繋ぎ合わせれば、その終着点に辿り着く事は不思議な事ではない。そして、もしメルエが竜種の因子を持つ子であったとしても、あの姿を見なければこれ程の恐怖を感じる事はなかったかもしれない。

 『メルエが純粋な人間ではない』という事実さえもサラの心に波風を立ててしまうのは、全てあの竜となった姿を見てしまったからなのだろう。それは、ドラゴンという他者を圧倒する存在の遭遇直後の出来事であった事も大きな原因の一つであった。

 

「お嬢さん、そろそろ宿に戻られては? 皆も心配する頃でしょう」

 

「あっ!? も、申し訳ございません」

 

 物思いに耽っていたサラは、近付いて来た神父に気付くのが遅れる。既に彼女がこの教会に来てから半日が経過していた。太陽が昇っていれば既に完全に地平線の下へと落ちてしまっているだろう。流石に毎日そのような長い時間祈りを捧げ続ける女性に、神父も心を痛めていたのだ。

 教会の門は常に開かれてはいるし、祈りを妨げる事もない。だが、数日連続して半日以上も祈りを捧げている者がいれば、そこの管理者としてはその身を案じない訳には行かないだろう。この神父も例外ではなく、立ち上がったサラに対して心配そうな視線を向けていた。

 

「何か大きな悩みがあるのでしたら、お聞き致しますよ?」

 

「……ありがとうございます。ですが、大丈夫です」

 

 そんな神父に対して発した彼女の魔法の言葉は、メルエに放っていた物とは比べ物にならない程にその力を失っている。サラと云う女性を姉として、師として慕う少女にとって絶対の力を持つその言葉は、今では見る影もなく、只の飾りに過ぎない。

 力なく笑みを浮かべたサラは、小さく頭を下げて教会を後にする。その後姿を神父は見つめる事しか出来なかった。

 

 

 

 サラの足が帰る事を拒むように前へと進まないその頃、宿屋では歓喜の瞬間が訪れていた。

 眠り続けるメルエの頭に乗せた布を取り替えていたリーシャと、その寝顔を見つめていたカミュは、ゆっくりと開かれる瞳の瞬間に居合わせる。気付いた二人の表情は無意識に緩み、リーシャなどは満面の笑みを浮かべていた。

 閉じられていた瞳がゆっくりと開き、眩しそうに細められた瞳に二人の笑みが映り込む。何度か瞬きを繰り返した少女は、自分の目の前にある顔を不思議そうに見つめた後、花咲くような笑みを浮かべた。

 

「メルエ!」

 

 その笑みを浮かべた少女を見たリーシャは、我慢の限界を超えて抱きついてしまう。頭を抱え込むように抱かれ、人目も憚らずに涙を流すリーシャにメルエは困ったような表情を浮かべた。

 だが、もう一つ見えた顔にも優しい笑みが浮かんでいる事に嬉しくなり、近付いて来る大きな手で頭を撫でられた事で再び柔らかく微笑む。優しい空気が部屋を支配し、小さな少女の小さな笑い声と、それを喜ぶ女性の泣き声が響いていた。

 

「何処も痛いところはないか? 喉は乾いてないか? お腹は空いてないか?」

 

「……そんなに一度に聞いても、メルエが困るだけだろう?」

 

「…………ふふふ…………」

 

 ようやくメルエから離れたリーシャは恥ずかしそうに涙を拭い、それを誤魔化すように矢継ぎ早に質問を飛ばす。しかし、その質問と質問の間に答える隙などなく、本当に尋ねているのかどうかさえも怪しくなる物であった。溜息を吐き出すようにカミュが窘め、そんなやり取りにメルエが微笑む。そして、そんなメルエの笑顔を見たリーシャが恥ずかしそうに笑みを浮かべた。

 何処かにある平和な一家族のやり取りのような優しい時間が過ぎて行く。部屋を照らす明かりが小さく揺らぐ頃、腕捲りをしたリーシャが立ち上がった事で、その時間も終幕へと近付いて行った。

 

「よし! 今日はメルエの食べたい物を私が作るぞ! 何が食べたい? 宿屋の主人に作らせて貰えるように頼んでみるからな。カミュは買い物だ! それぐらいは役に立てよ」

 

「……わかった」

 

 先程と同じように矢継ぎ早に口を開くリーシャに笑みを浮かべたメルエは、買出し役に選ばれたカミュが溜息を吐き出す姿を見て笑い声を漏らす。メルエにとって、リーシャが作り出す料理であれば何でも良いのだろう。彼女が作る料理に失敗はなく、全てが輝くように眩しく、舌がとろけるように美味しいのだ。

 献立を考えながら、結局はカミュと共に買出しにも行く事に決めたリーシャは、階下のカウンターで主人に厨房の使用許可を貰い、そのままカミュと連れ立って食料品を販売している店へと直行して行く。宿屋の入り口でサラが二人と擦れ違ったのは、そんな時であった。

 

「サラ、食事の買出しに行って来る。メルエを見てやってくれ」

 

 その言葉に驚いたサラが口を開こうとした時には、既にリーシャとカミュは村の住人達の波の中へと消えて行ってしまう。片手を上げて、口を開閉するだけとなったサラは、大きな溜息を吐き出して、先程よりも更に重くなった足を前へと踏み出すしかなかった。

 カウンターに居た主人の挨拶に応える余裕さえも残されていないサラは、一段一段ゆっくりと上がって行く。永遠に続いて欲しいと思う階段は、以前来た時よりも短くなってしまったのではないかと思う程に終わりは近かった。最後の段を上がったサラは、再び階下へ下りてしまいたい衝動に駆られながらも、何とか一つの部屋の前に辿り着く。しかし、その後の行動が出来なかった。

 

「……ふぅ」

 

 一つ息を吐き出して手を上げては、再び下ろす。そんな事を何度続けただろう。先程出て行ったリーシャ達が戻って来てしまうのではないかと思う程の時間が経過した頃になって、ようやく上げたサラの手がドアを叩いた。

 静寂の中で響き渡ったノックの音は、サラの胸の奥にある恐怖さえも呼び覚ます。自分で発した音にも拘らず、跳ねるように驚いた彼女は、返って来る筈のない返事を待った。

 部屋に居たとしても、メルエが返事をする事はなく、ドアを開ける事はない。誰かが来ても開けてはいけないという事はリーシャに教えられた事でもあるが、返事をしないのはメルエが余り言葉を発しないという理由からであった。

 おそらく、メルエが目を覚ましているのであれば、今は不思議そうにドアを見つめて首を傾げている事であろう。そんな単純な想像が出来るサラであったが、何故かその顔を見たいという欲求が湧いて来なかった。伸ばしかけた手は取っ手を掴むが、それを回す事が出来ない。しかし、いつまでもそのような事を繰り返す事も出来ない彼女は、『このままドアの前に居ても、メルエを護っている事になるのでは?』という甘い囁きを振り払ってドアノブを回した。

 

「…………サラ…………」

 

 ドアノブを回して目に入って来た光景にサラは驚く事となる。

 ここ数日、何度も足を運んだこの部屋は、暗い雰囲気に包まれていた。責任を感じる二人の男女が醸し出す空気が、この部屋の空気を淀ませていたのだろう。そんな空気が今は一変していたのだ。

 だが、それは決して良い方向にではない。サラという賢者の目には、その部屋の明かりは届いておらず、まるで自分を飲み込む大きな闇が広がっているようにさえ見えていた。それは、サラの心の中にある恐怖が見せる幻影であり、彼女の心の不安が生み出した闇である。それを理解していても、サラの足は細かく震え、それ以上踏み込む事は出来なかった。

 だからであろう。入って来た人物が誰かを理解した少女が、先程と同じような花咲く笑みを浮かべて呼ぶ自分の名が聞こえた時、その不安と恐怖は一気に弾け飛んだ。

 瞬時に視線を外したサラは、こちらを見つめるメルエの視線を受け続ける事は出来ず、そのまま震える足を動かして部屋を出てしまう。そして、一度もメルエに視線を向ける事なく、その戸を閉じてしまった。

 その行動がどれ程に少女の心を傷つけ、どれ程の哀しみを与えるかを知りながら。そして、その行動がどれ程に自分を苦しめ、どれ程の苦難を与えるかを知りながらも、サラは行動に移してしまったのだ。

 

「……う…うぅぅ」

 

 それは誰の呻きであったろう。部屋の戸の前で顔を覆って座り込んでしまったサラの物であったかもしれないし、部屋の中で大きな哀しみに襲われたメルエの物であったかもしれない。小さく弱々しい呻きが、宿屋の二階に響いた。

 

 

 

「……買い込み過ぎではないか?」

 

「そうか? 良い物があれば買ってしまうだろう。それに、きっとメルエはお腹を空かせているだろうからな」

 

 宿屋の二階の呻きが消えてからどれ位の時間が経過した頃だろう。ようやく、買出しへ行っていた二人が宿屋へと戻って来た。荷物持ちのカミュは何個も大きな袋を抱え、その前を歩くリーシャもまた大きな荷物を抱えている。その量はどう見ても四人分の量ではない。大人数の家族であっても、これ程の量を一晩で食す事はないだろう。

 それでも、それを窘めるカミュの顔は呆れを含みながらも何処か優しさに満ちており、それを受けたリーシャの顔は満面の喜びに満ち溢れている。それだけ、この二人にとって一人の少女の目覚めは喜ぶべき物であったのだろう。

 しかし、そんな喜びは、少女が好きな果実を手にとって誇らしげに部屋に入ったところで消え失せる事となる。部屋に入ったリーシャは、そこに広がる光景に思考が追いつかず、持っていた果実を取り落として、大きな袋さえも床へと落としてしまった。

 

「メ、メルエ……メルエ! サラ! サラは何処にいる!?」

 

「何が……!!」

 

 そして、一人の少女は消えてしまった。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
少し短い話ですが、次話への繋ぎとなります。
この章もあと一話で最後となるでしょう。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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マイラの森②

 

 

 

 部屋から忽然と姿を消してしまったメルエを探してリーシャは宿屋を駆け回り、隅々まで探し続けたが、その姿の欠片も見えなかったのだ。カウンターで帳簿を付けていた宿屋の主人に迫った彼女の表情は鬼気迫る物であり、それを真正面から受けてしまった店主は肝を冷やした事であろう。それでも、背の高いカウンターで帳簿を付けていた主人は、少女が宿を出て行く姿を見ていなかったと答えた。

 ならば宿から出ておらず、生理現象の為に部屋を出たのかと再度宿屋の隅々まで確認するが、それでも少女の姿は何処にも見つからない。焦りに焦ったリーシャは、偶然外から戻って来たサラを見てその焦りを怒りへと変貌させた。

 怒鳴り声にも似た問いかけを受けたサラは、後ろに仰け反りながらもリーシャの瞳を真っ直ぐ見つめ、内容を聞き進める内に顔色を失って行く。最早真っ青を通り越して血の気すらもない蒼白という状態に入ったサラをリーシャの怒声が再び現実へと引き戻した。

 

「メルエは何処へ行った!? 何故、サラは傍にいてやらなかったんだ!?」

 

 本来のリーシャであれば、これ程の追求をサラへ向ける事は無かっただろう。だが、今のリーシャの表情には明らかな怒りが浮かんでいる。その瞳を見て、この女性戦士は既に自分の中に再浮上して来た悩みを知っていたのだとサラは察した。

 リーシャさえも買い出しへ出たのは、メルエに食べさせる物を自ら選びたいという理由の他に、サラとメルエの二人だけに時間を与えるという理由もあったのだろう。カミュでは察する事も出来ない他人の心の機微。ここまでの五年以上の長い旅の中で、そんな彼女の能力に何度も救われて来た。だが、今回はそれが完全に裏目に出てしまう。リーシャはサラの胸の奥にある深い闇を見誤っていたのだ。

 

「わ、わかりません……」

 

「カミュ! 表に出るぞ! 村の外へ出るのであれば、必ず門を通る筈だ!」

 

 完全に目が泳いでしまったサラに表情を歪めたリーシャは、一歩後ろで自分以上に顔を歪めている青年へと言葉を飛ばす。彼はメルエの失踪とサラとの関係性に理解が及んではいないだろう。だが、メルエという少女を最優先に考える彼は、現状がかなり深刻である事は理解している。故に、リーシャよりも早く宿屋の門を飛び出していた。

 自分の言葉を聞き終える前に宿屋を飛び出した青年の背中に大きな溜息を吐き出したリーシャは、元々吊り目気味の瞳を細めてサラの方へ視線を送る。だが、その視線を受けたサラが身体を硬直させるのを見ると、再び息を一つ吐き出した。

 

「まずはメルエを見つけるのが先だ。細かな話は道中で話す」

 

「は、はい……」

 

 自分の中身まで見透かされてしまったように感じたサラは、力なく頷きを返し、リーシャの後を追って外へ出る。まるで自分の心の闇が噴き出してしまったのかと思う程の空を見上げた彼女の瞳は暗く濁りを見せていた。

 晴れる事のない闇が彼女の心を覆い、歩むべき道を見失う。賢者として歩み始め、その想いを成就する先が見えたと感じていた矢先に、的中する筈の的を失ったのだ。

 魔王バラモスを討ち果たし、精霊ルビスの教えを忠実に受け継ぐアレフガルド大陸にて、その大陸を統べる王族の尊い志に触れ、自身の目指す先が決して不可能な未来ではない事を知った。だが、それを不可能にしてしまう者が自分であったという最悪の結末が、彼女の心に太い杭となって打ち付けられたのだ。

 

「女の子? ああ、アンタ達と一緒にいた女の子か……いや、悪いが、一日ここで警備をしているが、門は開けていないぞ」

 

 サラがカミュ達に追いついた頃、既に彼等の会話は終わっていた。門番の話を聞く限り、彼がこの場を動いていない事は疑いようも無い事実であり、彼が門を開けない限り、この村に誰も入れないのと同様に誰も出る事が出来ない。つまり、メルエはこの村から出ていないという事になるのだ。

 ならば、あの幼い少女は何処へ行ったのか。温泉村であるマイラは、並みの村に比べれば確かに広い。だが、周囲を森に囲まれた村であり、魔物対策も兼ねた村壁は、極力村の拡張を抑えるように作られていた。目が届かない範囲など、木々の根元や建物の裏などしか考える事が出来ないのだ。

 

「……まてよ? もしかしたら……。ちょっと来てくれ」

 

 カミュとリーシャが焦りながらも周囲を見渡し、再び駆け出そうとする頃、少し思案に耽っていた門番が不意に口を開き、何かに思い当たったのか、村の北側へ視線を向けて歩き始める。そんな門番を見たカミュ達は、元々心当たりも無く、藁にも縋る思いで門番の後を付いて行く事にした。

 門番は、村の中央にある井戸を横目に、宿屋に併設する温泉の裏へと抜けて行く。温泉の周囲は竹で出来た柵で囲まれており、その中を見られないようになってはいるが、その脇は人が通れるような獣道が続いていた。

 温泉の後方には、マイラの森を縦断するような岩山が聳えており、それはこの村を護る自然の壁となっている。だが、村の西側には木々が生い茂る小さな森が広がっており、門番はそちらへと歩いて行った。

 

「やっぱりか……。もし、あのお嬢ちゃんが村の中に居ないとすれば、ここから外へ出たのかもしれない。以前、子供達が誤って空けてしまった穴なんだが……」

 

「カミュ、行くぞ!」

 

 門番に案内されて向かった先には、村を囲む壁があったのだが、その壁の一部分の木が壊され、大人であっても無理をすれば通れる程の穴が開いていた。穴の先は木々が生い茂る深い森が広がっており、それがマイラの森と呼ばれる、『森の精霊』が護る神聖な森である事が一目で解る。

 最早メルエは村の中にはいないという確信に近い物を持っていたリーシャは、躊躇無く壁の穴に飛び込み、それを追うようにカミュもまた穴を潜った。残されたサラも、呆然とする門番に一礼をした後、壁の穴へと身体を潜り込ませる。しかし、門番によって呼び止められたサラは、彼が持っていた『たいまつ』を受け取ってから二人の後を追うのであった。

 

「何!? メルエは古の賢者の血筋なのか!?」

 

 マイラの村へ入ると、並走するように走るリーシャからの問いかけに小さな声で答えを返したサラは、自分の憶測も含んだメルエの真実を語り始める。それなりの速度で走っているにも拘らず、それでも会話を止めようとしないリーシャの問いかけは矢継ぎ早に飛び、息を切らせながらもサラはその問いに一つ一つ答えて行くのだった。

 メルエが古の賢者の血を受け継ぐ事。その賢者がドラゴラムという呪文を『悟りの書』に残していた事。そして、その呪文を行使するには、賢者の血筋に残る『竜の因子』が不可欠である事。それが、メルエが『竜の因子』を持つ、竜種と人間種との間に生まれた者の末裔であると云う証明になる事。

 一つ一つが驚愕の事実であり、二人の会話に関心を示していなかったカミュでさえも、驚愕の表情を浮かべて振り返る。魔法の才能から考えれば、メルエが賢者の血を引いているという事は何の疑いも無く納得が出来るが、それが竜種と人間種との末裔となれば荒唐無稽な物語とも言える程であったのだ。

 

「メルエのご先祖様が、竜の女王様のように人型になれるとすれば、二つの種の間に神と精霊の祝福が降りたとしても不思議ではありません……」

 

 驚愕の表情を消し、再び先頭でメルエの名を叫び始めたカミュを余所に、サラは自分の胸に広がる闇と戦いながらリーシャとの会話を続ける。

 種族の垣根を越えた子種と云うのは、神や精霊の祝福とも考えられていた。それは、それだけの希少な確率で生まれる奇跡であり、偶然と云う言葉で片付けるには畏れ多い程の奇跡だからである。

 だが、メルエの魔法力や、古の賢者の残した功績から考えれば、その力は『人』という種族の能力を大幅に超えており、人間から見れば脅威に等しい。迫害を受け、人の集落では生きて行く事は出来ず、人目を避けるように生きていたのかもしれない。賢者としての祝福を受けるまでは、その一族は不遇な生活を強いられていた可能性も否定は出来なかった。

 

「メルエが恐ろしいのか?」

 

「!!」

 

 そんな自身の胸に渦巻く負の感情を隠しながら話していたサラは、突然告げられた核心に息を飲む。走りながらも顔をサラへと向けたリーシャの瞳は真剣な光を宿しており、それでありながらその光は糾弾するような物ではなかった。

 それは、何処か哀しみを宿した寂しい光を含む物。サラの胸の中にある全てを理解しながらも、僅かに残るそうでない可能性を信じようとしているようにさえも見える。そんな瞳を見ている事の出来なくなったサラは、顔を背けるように地面へと視線を落としてしまった。

 

「私は、バハラタを出る時、サラに『顔を上げろ』と伝えた筈だぞ」

 

 しかし、そんなサラの行為は許される事はなかった。静かに、それでいてとても強い強制力を持つその言葉は、その顔を見ていなくとも感情を抑えた物である事が解る。それでも、それが怒りなのか、悔しさなのか、それとも悲しみなのかは解らない。ただ、その言葉に逆らう事が出来ない事だけは事実であった。

 顔を上げたサラはリーシャへ視線を送るが、当の本人の視線は既にサラに向けられてはおらず、先頭を走るカミュの背中へ向けられている。メルエという少女が村を出てからそう長い時間が経過した訳ではない。本来であれば、既にその姿を見つけていても可笑しくない事を考えると、見当違いの方角に向かっている可能性さえも考えられていた。

 

「カミュ! 方角を変えよう!」

 

 振り向いたカミュは静かに頷きを返し、一旦周辺へ視線を向けながら、サラの持っていた『たいまつ』を奪って周囲を確認する。その間にリーシャはサラへと視線を向け直した。

 その視線を受けたサラは心臓を鷲掴みにされたように感じる。この五年の旅の中で、姉のように慕うこの女性戦士が、サラに向けてこのような瞳を向ける時、その言葉は絶対に聞き逃してはならない物であった。その言葉の数々は、新たにサラの胸に苦悩を生み、その先にある厳しい道を彼女に示す物となって来ている。

 故にこそ、サラは息を整えるのも忘れ、リーシャの瞳を見つめてしまった。

 

「サラ、一つ言っておく。その者への恐怖と愛情は、全く別のものだ」

 

「……え?」

 

 だが、その言葉はサラの考えていた物とは全く異なる物であった。

 叱責を含む、呆れや失望などを受けると考えていたサラは、リーシャの口から出た静かな言葉に、意表を突かれたように惚けた声を上げてしまう。手元の地図に『たいまつ』を翳して真剣に道を探っているカミュを横目に、リーシャは呆けるサラの頬に軽く手を当てた。

 その手はとても暖かく、何よりサラの心の闇を晴らすように浸透して行く。その悩みなど小さな物であるようにリーシャの瞳は優しく、揺れ動くサラの瞳を固定させて行った。

 

「私は父を心から愛しているし、父も私を深く愛してくれていた。だが、私はこの世の何よりも父が怖かったぞ」

 

 サラはそんなリーシャの口から告げられた言葉に首を傾げる。先程まで感じていた安心感など気の迷いであったかのように、その言葉は的外れに近いように感じたのだ。

 カミュが道を決めるまで、もう暫くの時間が残されているだろう。メルエという少女がのこの森で彷徨うのならば、一刻の時間も許されはしないのだが、それでもリーシャはサラの瞳を真っ直ぐに見つめ、言葉を紡いだ。

 

「剣の修行の時は本当に厳しかった。それ以外でも父の張りのある声を聞くと背筋が伸びたさ。周囲の人間が恐れる魔物さえも打ち倒して行く父が、魔物よりも恐ろしい化け物に感じた事もある。だが、それでも婆やの作ってくれた食事を二人で食べる時は誰よりも優しく、誰よりも暖かかった」

 

「でも……」

 

 リーシャの話したい内容は理解出来る。だが、それでもリーシャの父親は魔物でもなければ竜種でもない。絶対の強者ではなく、何時か乗り越える事も出来る強さを持った普通の人間なのだ。それを言おうとしたサラの口を続いて告げられたリーシャの言葉が塞いでしまう。

 それは、サラにとって、最も考えたくはない内容であり、最も考えなければならない内容であった。

 

「サラにとって、メルエという存在は何なのだ?」

 

「そ、それは……」

 

 メルエという幼い少女と出会い、既に五年近くの時間が経過している。サラの年齢を考えれば、人生の四分の一に近い時間を共に過ごしていると言っても過言ではない。それは、サラの生みの親と過ごした時間と匹敵する程の長い時間であった。

 妹のように愛し、メルエもサラを姉のように慕っている。一番心が許せる相手のように、サラに対して最も我儘を言い、対抗心を燃やしていた。カミュやリーシャに対しては父や母への甘えを見せる反面、サラに対しては実の姉への感情を見せていたのだ。

 そんな幼い少女の笑みや涙、怒りの表情や悲しみの表情。頬を膨らませて不満を表そうと必死な姿に、感情を失くしたように表情さえも失う姿。この五年間で見せるようになった様々な彼女の姿がサラの脳裏に浮かんでは消え、最後に花咲くような満面の笑みが浮かぶ。

 

「生物が強者へ恐れを抱くのは当然の事だ。だからこそ、人と魔物は住み分ける事も出来る。人を恐れる獣や魔物は人里へ近付かず、魔物を恐れる人間は森や洞窟へ近付かない。それがこの世で生きる為の生物としての本能だ」

 

 愛すべき妹のような少女の笑みを見たサラは、リーシャの言葉で我に返る。それは誰しもが知る当たり前の事で、誰しもが解る簡単な理。

 恐ろしければ近寄らなければ良い。命の危険を回避するのであれば、その場に近付かない。そんな子供でも理解出来る内容が、本来生物が持つ本能である。

 

「サラの目指す世界というのは、人間も魔物も同じ家屋で暮らす世界なのか? そんな実現不可能な夢に向かって邁進していたのか? 人間が魔物を恐れ、魔物が人間を恐れる。そういう世界だからこそ、互いの生活圏を侵さないという決まりが自然と生まれる筈だ」

 

「リ、リーシャさ……ん」

 

 賢者となり、自分の目指す道を定めたサラは、己の胸の奥にある本能を隠し続けて来た。深く刻まれた傷は、再び表に現れた時にはその本能を大きく肥大させてしまう。生物としての本能は、賢者の精神をも壊してしまったいた。

 人間も魔物も同じ場所で生活をし、お互いを襲う事がないなど、弱肉強食の食物連鎖で成り立つ世界では不可能な話である。互いの住処を分け、それを侵す者の生命は自己責任というのが、当初の目標であった筈。しかし、魔物に対しての潜在的な恐れを表に出してしまったサラは、そんな思いさえも忘れてしまう程に落ちていたのだ。

 魔物を恐れる自分では、そのような世界は望めないという思いが、彼女の賢者としての資質を曇らせている。常に仲間を見続けて来た女性戦士だからこそ、そんなサラの誤った認識を理解する事が出来たのだろう。

 しかし、この女性戦士は、何も優しさだけの女性ではない。

 

「だが、サラ。それと、メルエの件は別だ。お前にとってメルエは何だ!? この五年の時間は、あの一瞬の、あの一つの呪文で崩れ去る程度の物か!? メルエはサラが見て来た魔物のように、恐れるだけの存在なのか!?」

 

「!!」

 

 それは悲痛にも似た叫びであった。

 サラとメルエの間に築かれた絆を彼女は知っている。あの幼い少女が、目の前の賢者をどれだけ信頼し、どれだけ慕い、どれだけ愛しているのかを彼女は知っている。そして、この賢者が幼い少女の事をどれだけ真剣に考え、どれだけ心を痛め、どれだけ深く愛しているかを知っている。

 故に、彼女は怒るのだ。

 『何故、自分の想いに気付かないのだ』と。

 

「……いくぞ」

 

 固まってしまったサラから視線を外したリーシャはカミュの近くに寄り、向かう方角を確認し合う。それが完了した後に発したカミュの声で、サラもその後を追うように歩き出した。

 そして、カミュの傍まで近寄った彼女に、最終勧告が告げられる。それはとてつもなく重い信頼に包まれながら、それでいて凄まじい厳しさを放つ言葉。遠い昔に聞いた事のある言葉であり、それはサラの心の奥底に眠っていた物であった。

 

「アッサラームで先延ばしにした答えを出す時だ」

 

「あっ……」

 

 その先をカミュは口にしなかった。だがサラには、彼が口にすべきであった言葉の続きが解ってしまう。それは、アッサラーム近辺の森で成された二人の会話から来ていた。

 ベギラマという呪文を魔道士の杖を媒体として行使したメルエの膨大な魔法力を改めて感じたサラは、少女の存在に疑問を持つ事となる。そして、その問いをカミュへと向けたのだ。その時に彼が口にした言葉は、遥か昔の事のようにサラの心の奥底に眠っていた。

 『メルエに対して危害を加えるのならば、敵対する』

 それは、勇者と呼ばれる青年が向ける完全なる敵意である。だが、サラはその言葉の裏に、彼の深い優しさを見た。

 先程までのリーシャとの会話は、地図を見ているカミュにも聞こえていただろう。それでも、即座にサラをメルエの敵として認識する事なく、メルエが消えてしまった責を追求もしなかった。今もまだ敵意を向ける訳でもなく、サラの決断を待ってくれている。

 それは、彼らが歩んで来た五年の月日が築かせて来た絆なのだろう。

 

 

 

 

 

 カミュ達三人が再びメルエを探す為に駆け出した頃、その少女は森の中を彷徨い歩いていた。

 彼女の姿は宿屋が用意した部屋着のまま。バハラタで購入して貰った魔法の盾も装備していなければ、エルフの隠れ里でエルフ族の好意で購入した天使のローブも身に着けていない。彼女と共に苦楽を共にして来た相棒である雷の杖さえも、今の彼女の手には握られていなかった。

 『たいまつ』の明かりも無い、真っ暗な闇に包まれた森の中を少女は彷徨い歩く。その瞳に輝くような光は無く、虚ろに揺れ動く瞳を虚空へ向けて一歩一歩森の奥へと進んでいた。

 何処へ向かおうという訳でもない。今の彼女に目標もなければ、希望さえも無いのだ。只々、あの宿屋の一室には居たくはなかった。それだけなのだろう。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 思い出したように突如として溢れて来る涙が、この幼い少女の心に大きな傷がある事を示している。母のように慕う女性戦士の笑顔が浮かぶ。父のように慕う青年の小さな微笑みが浮かぶ。そして、最後に姉のように慕う賢者の笑みが浮かんだ後、あの凍りついたような表情が浮かんだ。

 自分と目を合わせる事を嫌うように逸らされた顔は、少女に絶望を植え付け、その後に静かに閉まって行く扉が、少女の未来へと続く道を閉ざした。

 原因は、幼い少女であっても理解はしている。あのルビスの塔と呼ばれる場所で、皆を救う為とはいえ、行使してしまった呪文が原因だという事を。

 メルエはドラゴラムを行使していても、自分の姿が変わった事を理解していた。初行使の時には、自分が人間ではない姿になってしまった事に驚き、そして恐怖している。それが、『変化の杖』を使用した時とは全く異なる感覚だった事は、メルエの内にある本能で理解していたのだろう。そして、余りの恐怖に自身の力の制御が出来ず、周囲一面を氷の世界へと変えてしまった。

 その後、いつの間にか野営地へ戻っていたメルエは、皆が自分が竜の姿になってしまった事に気付いていないかを不安に思いながら過ごしていた。だが、誰もその事には触れない事に安心した彼女は、あの塔に入るまで、ドラゴラムという呪文の存在さえも忘れようとしていたのだ。

 

「…………ぐずっ…………」

 

 いつも自分に絶対の安心感をくれる大事な人。自分に光を与えてくれた勇者の青年。自分に愛を教えてくれた母のような女性戦士。自分に心を与えてくれ、大きな力を教えてくれた姉のような賢者。その三人は、メルエという少女にとって何に変えてでも護りたい者達であった。

 竜に変わってしまえば、皆と異なる姿になってしまえば、そんな大好きな人達に嫌われてしまうのではないかという恐怖と戦いながらも、彼女はあの場でその呪文を唱えている。彼女の心の葛藤は、想像する事も難しい程の物であろう。彼女にとって、彼等三人しかいないのだ。そんな三人に嫌われるかもしれないという恐怖は、想像を絶する物であった筈だ。

 それでも、行使後に目が覚めた時、そこに二人の満面の笑みがあった。それがどれ程に希望を与えただろう。メルエの内に宿った恐怖を吹き飛ばすような強い微笑みの光は、彼女の心にどれ程の勇気を与えただろう。

 だが、そんな希望と勇気は、あの一瞬で消し飛ばされてしまった。

 

「…………サラ…………」

 

 賢者となった女性が、魔物を嫌っていた事をメルエは知っている。初めて出会った時、魔物と同様にカミュを嫌っていた事を知っている。サラがどれだけ隠していたとしても、子供の瞳は全ての真実を映し出してしまう。

 そんなサラが徐々に変わって行く過程を見て来たメルエであったが、あの頃のサラが魔物に対して向けていた瞳と感情を忘れた訳ではない。そんな姉のような存在が、自分と目を合わせる事もなくその場を離れたという事が、メルエの心に残っていた最後の希望を打ち砕いてしまったのだ。

 カミュやリーシャは必ずメルエを護ってくれるだろう。サラがどれ程にメルエへ敵意を向けたとしても、彼女の生命が危ぶまれる事など有り得はしない。だが、そんな考えが思い浮かぶ程、この少女の心と身体は成長を果たしてはいなかった。

 竜の因子と云うのは、人間とは異なる。元来竜種は希少種であると共に長命種でもある。人間と同じ速度で成長する事はなく、成熟するまでの期間も人間の何倍も時間が掛かるのだ。純粋な竜種とは異なるメルエのような存在であっても、その度合いは異なるが、通常の人間とは成長速度が異なっていた。

 故に、カミュ達と出会って五年と云う月日が流れても、出会った頃のままの姿なのだ。子供の成長を間近で見た事のないカミュ達でさえ、その異常さに薄々気づいてしまう程、この少女の姿は全く変化していなかった。

 

「クククク」

 

 絶望の淵に落とされ、夢も希望もなく漆黒の森を彷徨い歩く少女の耳に聞き慣れない笑い声のような奇妙な音が聞こえて来る。近場の木々以外は闇に閉ざされた中、その笑い声は何処か遠いところから聞こえて来るようで、それでいてすぐ耳元で聞こえて来るようにも感じる。だが、今のメルエにとってそのような事はどうでも良い事であった。

 今のメルエにとって、これ以上恐怖を感じる事など何もない。カミュを見失ったスーの村では、彼女の心は壊れかけていても未だ希望は残されていた。だが、今の彼女の心に希望も余裕も何も残されてはいない。心に残るのは、絶望と悲しみだけであった。

 

「P¥5%*」

 

 暗闇から響く笑い声さえも気にする事なく、歩を進めようとするメルエの耳元に、いつか何処かで聞いた事のあるような文言が響く。いや、正確には耳に響くのではなく、直接脳へと届く物。空気の振動による伝達ではなく、生物の本能へ打ち込む楔のような文言が届いて行った。

 瞬時にメルエの顔が曇る。虚空を見るように虚ろでありながらも光を宿していた瞳から完全に光が失われて行く。愛情を求めるように差し出された小さな手は何も掴む事もなく、幼い身体と共に枯葉が落ちるように地面へと落ちて行った。

 

「ククククク」

 

 世界の希望となる一行をここまで繋ぎ止めていた少女の輝きは、アレフガルドを覆う闇の中へと消えて行く。僅か一人の年端も行かぬ少女の消失は、このアレフガルド大陸だけではなく、全ての世界を闇で覆い尽くす大きな起因となるだろう。

 漆黒の闇に包まれる深い森の中で、得体の知れぬ笑い声だけが静かに響き渡っていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
かなり短いですが、ここで区切る事にしました。
次話でこの十九章も完結です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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マイラの森③

 

 

 

 メルエという幼い少女を追って走り続ける三人の間には既に会話はない。誰一人口を開く事はなく、自分の胸に広がり始める強い不安を隠すように押し黙っていた。

 メルエがいなくなるという事は初めてではない。魔法の契約で一人森の中へ入って行った事もある。魔道士の杖を媒体とする呪文行使の為に一人森の奥へ篭った事もある。光を与えてくれた勇者不在に心を壊し、その青年を探す為に森の中を彷徨っていた事もあった。

 ここまでの旅で何度も姿を消した少女ではあったが、命を失った事はない。それが神の加護なのか、精霊の加護なのか、それとも亡くなった両親の愛や、彼女の中に流れる血筋の加護なのかは解らない。いずれにしても、彼女は必ず三人の許へと戻って来ていたのだ。

 だが、何故かカミュ達の胸の中に今広がっている不安は、ここまでの旅の中で感じた事もないような強い物であった。その存在自体を失ってしまったような喪失感と全ての希望を失ってしまったような絶望感が、三人の心に例外なく広がっていたのだ。

 

「……カミュ」

 

「煩い、走れ!」

 

 その言いようのない不安をリーシャが堪らず口に出してしまう。だが、その横で真っ直ぐ前を見て駆けている青年は、この五年で張り上げた事のない程の声量でそれを遮断した。そんな彼の見た事もない姿が、リーシャと同じ不安を感じている事を明確に物語っている。それだけ強い喪失感と絶望感であったのだ。

 二人に遅れないように必死に駆けているサラの表情は、最早色を失っている。自分の行いが予想だにしない大きな問題へと発展し、それによって自分がこれ程悔やむ事になった事で彼女の心は壊れ掛けていた。

 あの時、メルエから目を逸らした瞬間、自分が後にどれだけそれを悔やみ、悩み、苦しむのかを知っていた筈。それでも自分の胸の中に湧き上がった恐怖に抗えなかった。扉の前で屈み込み、顔を手で覆ってそんな自分に泣き続けたのだ。

 自己嫌悪と自己否定。今のサラはそんな負の感情を胸に持ち、この五年の旅の中でも最悪の状態へと落ちていた。

 

「……なんだ?」

 

 サラの瞳に映る景色の闇が、実際よりも更に濃くなっていた頃、先頭を駆けていたカミュが急に立ち止まる。それに驚いたリーシャも急停止してカミュへと振り返り、その後方を走っていたサラは停止したリーシャの身体へと衝突した。

 メルエという少女がこの場にいれば、和やかな笑みに包まれるような出来事ではあったが、カミュに浮かんだ表情を見たリーシャは、先程感じていた以上の不安に襲われる。それ程に彼の表情は酷く、この世の全てに絶望したような物であったのだ。

 

「こっちか?」

 

 それでも勇者は動き始める。彼に問いかけるような言葉を漏らしたリーシャの声を無視し、周囲を見回した彼は、一点に視線を固定させた後、一気にその奥へと駆け出した。何が何やら解らないリーシャとサラもその後へ続く。カミュが持つ『たいまつ』の火の粉が周囲に飛び、進行方向の景色が徐々に見えて来る。

 そして、彼等三人の前に、絶望的な光景が広がった。

 

「メルエ!」

 

 それは、三人同時に発した悲痛な叫びであった。

 森の奥に位置する木々が生い茂る場所に一体の人が横たわる。うつ伏せに倒れた小さな身体は、触れなくても解る程に生気の欠片も見当たらなかった。それが意味する事が理解出来ない程に幸せな生活を送ってきた者など、この場所には一人もいない。明確に意識出来る程に濃い死の空気がその場全てを支配していた。

 駆け寄ったリーシャの後ろから近付くサラの唇は震え、彼女こそ死人ではないかと思う程にその色は血色を失っている。青に限りなく近い色になった唇を震わせ、動かない少女の身体の傍に座り込んだ。先に屈み込んでいたリーシャがその小さな身体を動かし、仰向けに寝かせるが、その身体が既に活動を停止させてしまっている事は明白であった。

 屈み込む二人の後方からゆっくりと近付いて来た青年は、少女の顔を見て瞳を強く閉じる。それは、どんな場面でも、どんな人間が希望を手放しても、一度も諦めるという選択肢を取る事のなかった青年が初めて全てを諦めた瞬間でもあった。

 

「何故だ!? メルエ! 目を覚ましてくれ……頼む、目を開けてくれ……」

 

 小さな身体を揺するように動かしていたリーシャが突如叫び出す。先程までの呆然とした表情は消え失せ、鬼気迫る物へと変わって行く。そして、最後には再び消え去るような声になり、大粒の涙が零れ落ちた。

 リーシャが触れているメルエの頬は、まだ微かに温かみが残っており、この少女が僅か前までしっかりと生きていた事を示している。だが、それでもその温かみも徐々に失われつつあった。

 明確になって行く『死』という結末。この長い旅路は、死と隣り合わせの物であった。いつも死と向き合いながら戦って来ていたし、誰かを失っても可笑しくはない状況は何度でもあったのだ。だが、それでもこの少女だけは、最も死から遠い場所にいた筈であった。

 

「メ、メルエ……メルエ? あれ? メ、メルエ?」

 

 そんな少女の姿を見て、サラの心を繋ぎ止めていた最後の糸が切れてしまう。最早同じ事を繰り返す人形のように、動かなくなった少女の身体に触れては戻すという行為を繰り返していた。状況が理解出来ないのではなく、状況を理解する事を拒否しているのだろう。身動き一つしなくなった少女の身体が、まるで夢の中での出来事のように映っていた。

 少女の身体には傷一つない。まるで魂だけを抜かれてしまったようにその身体を手放し、三人が愛した少女はこの世から消え失せていた。半狂乱になった戦士が大声で泣き叫び、心を壊してしまった賢者が小さく呟きながら少女の身体に触れる。その後方で、胸の中に渦巻く憤りを抑えきれなくなった青年が、枯葉が散ばる地面へと『たいまつ』を投げ捨てた。

 

「クククク」

 

 勇者一行と呼ばれ、誰も成しえなかった偉業を果たした四人の若者が崩壊し始めたその時、闇の中に不気味な笑い声が響き渡る。それは聞く者を不快にさせる笑い声であり、心の底から嫌悪感を感じる音であった。

 真っ先にそれに気づいたカミュは、背中から剣を取り出し周囲に鋭い瞳を動かす。最愛の少女を失った今となっても、外敵に対して身体が動いてしまう事に顔を顰めた彼であったが、その瞳はどんな些細な事も見逃さないように鋭い光を放っていた。

 カミュが投げ捨てた『たいまつ』の炎が落ち葉に燃え移り、火事という程の大惨事にはならずとも、周囲を十分に照らし出す明かりを生み出して行く。そんな炎による明かりの中、カミュの瞳が一点に固定された。

 

「ククククク」

 

「……お前か? お前がメルエを襲ったのか?」

 

 燃え広がる炎が漆黒の闇に包まれた森を照らす中、照らし出された樹木に移り込んだ大きな影は、この場にいる誰の者とも異なる姿を見せていたのだ。それは、五年の旅の中で何度か遭遇した事のある魔物の一つと考えられる存在。そして、今、この場にそれがいるという事自体が、カミュが噛み殺すように発した呟きが正しい事を物語っていた。

 剣を握り締めるカミュの掌から一筋の液体が流れ落ちる。炎に照らされた真っ赤な液体は、彼の生命の源である血液。手の皮が捲れ、内にある肉を傷つける程に強く握り込まれた剣が、彼の心中を表していた。

 そんなカミュを嘲笑うかのように、大きな異形の影は木々に飛び移るように場所を移し、彼の前にその実体を表す。影が立体化したように揺らめきながら、未だに不快な笑い声を発する影と対峙したカミュは、メルエの傍で屈み込む二人の女性が、状況を把握していない事に小さな舌打ちを鳴らした。

 リーシャは泣き叫び、サラは未だに呆然とメルエの名を繰り返している。今の彼女達が戦力にもならないどころか、足手纏いにさえ成り得る事は明白であった。

 

「P¥5%*」

 

 揺らめく影から突如奇妙な文言が発せられる。それは即座に対峙するカミュを包み込み、その後方にいる二人の女性さえも包み込んで行った。

 脳裏に直接打ち込まれる文言は、その相手の死を望む呪いの言葉。生きる気力を奪い、死へ誘う事で、自主的に生を手放させる呪文である。

 亡者の呼びかけが絶え間なく続き、意識が深い闇へと引き摺り込まれる。死と云う結末を恐れる心を奪い、生への渇望さえも奪って行くのだ。それは、高位の僧侶でさえも修得する事は不可能であり、それを修得出来る者は『死』をも超越するとさえ云われる高等呪文。

 

「クククク」

 

<魔王の影>

その名の通り、大魔王ゾーマが生み出した影である。自身の影となり、主に諜報を司る魔物である。その特性を生かし、どのような場所へも入り込み、相手に気取られる事もなく様々な情報を収集して来るのだ。そして、その中で敵を人知れず葬る為に、死の呪文を有しており、自身が生まれた闇へと哀れな魂を引き摺り込むのだ。

ルビスの塔という大魔王ゾーマにとっても重要な場所に監視の為に遣わされていたこの影は、その場に現れた一行の動向を常に監視していた。そして、その場所でドラゴラムという古の賢者の中でも特殊な出である者だけが行使出来る呪文を唱えた少女を見て、マイラの森まで足を伸ばしていたのだ。その血族の流れを止める為に。

 

 魔王の影にとって、脅威となるのはメルエ唯一人である。魔王の影とはいえ、大魔王と同等の力を有している訳ではなく、竜種を越える力を有している訳でもない。それでも、受け継がれる脅威の血筋の断絶がこの魔物にとって最重要事項であり、竜種の上位種とはいえ、ドラゴン程度に後れを取る者達が大魔王の脅威となるとは考えていなかった。

 ザキやザラキといった死の呪文は、心の弱った者には絶大な効果を発揮する。常に希望に満ち溢れるメルエなどには絶対に通用しない呪文の一つではあるのだが、間が余りにも悪かったのだ。そして、本来であれば、そんな希望の証である少女を失った三人の心の弱り具合を見た魔王の影は、今ならば他の三人も抵抗なく死の呪文を受け入れると考えてその姿を現したのだろう。

 しかし、大魔王の影から生まれた魔物とはいえ、所詮は影である。人間の持つ心の絆の強さも知らなければ、それを推測出来る脳もない。

 

「貴様か……。貴様、メルエに死の呪文を使ったな!?」

 

 死の淵を彷徨い、絶望の中で命を手放している筈であった一人の女性が、背負っていた斧を取り出し、ゆっくりと立ち上がる。そして振り向いて発した怒声は、ルビスの塔で竜種上位にいるドラゴンが上げた咆哮以上に大気を震わせた。

 一体何が起こったのか理解が出来ない魔王の影は、一瞬の間で目の前に迫って来た女性戦士に驚き、本能で身を捩るように動く。しかし、振り抜かれた斧は的確に魔王の影の身体に入り込み、その身体を両断してしまった。

 本来、実体を持たないこの種の魔物を物理攻撃で倒す事は難しい。案の定、リーシャの一撃を受けて尚、魔王の影はその形状を戻して行った。

 

「ギギギッ」

 

 だが、魔王の影にとって当たり前の復元が上手く行かない。まるで影が修復後の形状を忘れてしまったかのように、上手く影同士が結びつかないのだ。予想外の出来事に動揺した魔王の影は、先程の不快な笑みを浮かべる事も出来ず、軋むような音を発する。

 間髪入れずに振り抜かれた斧を見た魔王の影は本能的に身を捩り、影へと戻ろうと試みた。しかし、そのような動きを許す程、今目の前にしている二人は慈悲深くはない。最愛の少女を死に至らしめた魔物を逃がすような精神状態ではなかったのだ。

 

「逃がす訳がないだろう?」

 

 袈裟斬りに入った大剣は、魔王の影の肩口から斜めに両断する。雷神が愛した剣は鋭い稲光のように漆黒の影の中を走り、実体のないその身体を傷つけて行った。

 驚いたのは魔王の影であろう。この世に自分の身体を傷つける事が出来るのは大魔王以外はいないとさえ考えていても可笑しくはない。それが、人間風情に傷つけられ、しかもそれも二人となれば、この大魔王の自尊心を分けて生まれた魔物にとっては耐え難い物であった筈だ。

 しかし、そんな些細な誇りなど、自分達の誇りであり希望でもある少女を奪われた男女の怒りに比べれば塵にも等しい。核を傷つけられたように復元する事が出来ない影は、抵抗する隙も与えて貰えずに迫る斧を受け入れるしかなかった。

 

「消え失せろ!」

 

 静かな怒りの炎を燃やす勇者と、烈火の如く燃え盛る怒りの炎を吐き出す戦士。そんな二人の攻撃は、それぞれが持つ武器を愛した神々の物と大差はないかもしれない。止めとばかりに振り抜かれた斧は、驚愕の表情を浮かべたように見える魔王の影をこの世から完全に消滅させた。

 闇の中に溶け込むように消えて行く魔王の影を見たリーシャは、取り逃がしたかと感じて顔を顰めたが、その後に核となっていると思われる宝玉のような物が粉々になって地面に落ちたのを見て表情を緩める。しかし、直後に感じた喪失感は、彼女の中にある全てを奪われた程に大きな物であり、その事実に立ち返った彼女は、涙を目一杯に溜めて顔を歪めてしまった。

 それはカミュも同様であったようで、きつく瞳を閉じて天を仰ぐように顔を空へと向け、手に持っていた雷神の剣を地面へと落としてしまう。彼をここまで歩ませていた活力が、彼を勇者として輝かせていた意義が、そして何よりも彼を人間として留まらせていた優しさが消えて行く瞬間でもあった。

 そんな時、二人をも包む大きな光がマイラの森を包み込んだ。

 

 

 

 

 

 そんな二人の強者が力を失ってしまう少し前に遡る。その頃、この世で唯一人の賢者は、全ての希望と夢を手放そうとしていた。

 魔王の影が放った物は『ザラキ』。集団に対して死と云う呪いへと誘う言霊を浴びせる凶悪な呪文である。単体を対象とする『ザキ』に比べると、その効力は若干甘いが、それでも生きる気力を失いつつある者にとっては、抗う事の難しい物であった。

 本来のサラであれば、このような呪文の餌食になる事など有り得ない。何故なら彼女は自身の目指す先にある未来に大きな希望を抱いているからだ。しかし、そんな『賢き者』の心はこの場に足を踏み入れる前から粉々に砕け散っていた。

 メルエに対して恐怖し、それがどれだけ彼女を悲しませるかを知っていて尚、あの場で目を逸らしてしまう。それは、己の弱さを認める行為であり、己の中に成立し掛けていた誇りを打ち壊す行為であった。

 

「……あ……あ」

 

 降りかかる死の言葉。自身が生きる価値の無い物であり、この世界で生きる資格さえも所有していないと囁かれる言葉は、脆く崩れ去ったサラの心に打ち込まれ、抗う力さえも奪って行く。

 メルエが居なくなったと聞かされた時、顔を青褪めさせた。それはそれを予期していたにも拘らず、あの場で目を逸らし、そしてその場を立ち去ってしまった自分を責めた為である。そして、その顔色が色を失くし、真っ白に変化してしまったのは、メルエ失踪という重大事件に対して安堵する自分を知り、死にたいと感じる程に心を壊していたのだ。

 故にこそ、彼女は今、自身の死を受け入れてしまう。誘われるように闇の奥底へと落ちて行く感覚が心地良いと感じる程、今の彼女は弱っていた。

しかし、このまま生を手放し、死を受け入れてしまった方が余程楽ではないかと感じた時、彼女の目の前に一筋の光明が差し込む。

 

「……死の…呪文……!?」

 

 闇へと落ちる意識の中、目の前を漂う亡者の顔を見ても恐怖を感じない程に全てを手放しかけたサラであったが、その光景を見せているのが『死の呪文』と呼ばれる魔法であると云う認識が蘇った瞬間、自分の身体から流れ出る生気を一気に戻し始める。

 最早、一点に集中された賢者の意識に、敗者である亡者達の奏でる文言などは届かない。まるで閉ざされた扉が開け放たれたかのように、押し寄せるように光が溢れ、サラの意識は現実へと引き戻された。

 

「死の呪文ならば……死の呪文ならばまだ間に合う筈」

 

 暗い闇の奥底から引き上げられた意識は、通常の人間であればある程度の時間が経過しない限り覚醒しない。だが、彼女は世界で唯一の賢者であり、強大な敵に立ち向かう勇者一行の頭脳でもある。周囲の状況を確認するよりも早く、メルエの亡骸を触り、傷が一つもない事を確認して行った。

 今のサラには周囲の音などは聞こえていないだろう。リーシャの怒りの叫びも、メルエを死に追いやった魔物の苦悶の奇声も、カミュが放つ底冷えするような声も、一点に集中された賢者の耳には届かない。無心にメルエの身体を調べる彼女の額から一筋の汗が流れ落ちる頃、全ての準備が整ったのか、サラの表情が一変した。

 厳しく結ばれた口が小さく開き、詠唱の準備に入るように祈りの言葉を紡いで行く。胸の前で合わせられた手が、救いを求めるように天へと伸ばされ、それと同時にサラを包み込む膨大な魔法力が溢れ出して行った。

 それは、メルエが一行を救う為に紡ぎ出した、先祖返りを促す呪文を唱えた時とは真逆の質を持った魔法力。禍々しさなど欠片もなく、この場の全てを浄化してしまうのではないかと感じる程の聖なる魔法力が溢れ出している。メルエを失った悲しみと怒りで我を忘れているカミュとリーシャは気づかないが、この世界唯一の賢者がある領域を超えてしまった事を意味していた。

 

「ザオラル!」

 

 天へと掲げた両腕を一気に幼い少女の身体へ振り下ろす。サラの中で眠る膨大な魔法力に、天からの祝福が加わった魔法力が少女の身体を満たして行った。

 神聖な魔法力に包まれて輝きを放って行くメルエの身体が一瞬宙に浮くが、その輝きの消滅と同時にゆっくりと地面へと降りて行く。そして、先程と全く同じ姿で地面に横たわるその身体に生気は戻っておらず、身動き一つしていなかった。

 

<ザオラル>

『悟りの書』に記された禁断の呪文の一つである。死者を甦らせると云われるその呪文ではあるが、それを生み出した賢者の注釈を読む限り、万能な呪文ではない事が解るのだ。

基本的に、人間は神ではない。命を奪う事は出来ても、それを甦らせる事など不可能である。死した魂は精霊ルビスの御許を通り、創造神の御許へ還るという言い伝え通り、本来生物の生死を神以外が定める事は出来ないのだ。

ただ、その中で例外が一つだけある。それが『死の呪文』である。ザキやザラキによって強制的に死を迎えた魂は、精霊ルビスの御許へ向かう事が出来ず、現世の闇を彷徨うと云われている。それは、神や精霊の意思とは無関係な死であると考えられているからであった。

それ故に、精霊ルビスの御許へ向かう事も出来ずに現世を彷徨う魂を、肉体が滅びる前に呼び戻す方法が生み出される事となる。永久に彷徨う定めの哀れな魂の救済の為に生み出された呪文がこのザオラルであった。

だが、『人』の身分を越えた神秘である為、その成功率は限りなく低い。

 

「……どうして……どうして!? お願い、戻って来て! 戻って来て……」

 

 蘇生呪文という高等呪文の行使の脱力感を感じる暇もなく、サラは再度同じ呪文の行使準備に入る。メルエが先程の魔王の影が放った死の呪文と同じ物を受けて死に至ったならば、サラの行動は正しい筈であった。だが、その蘇生呪文は成功せず、未だに魂の抜けた少女の身体は動かない。まるで行使する自分を拒むように戻らない魂に、サラは再び自責の念に苛まれ始めた。

 最初にメルエを拒絶したのは自分である。あの時、満面の笑みを浮かべてサラを迎えたメルエは、皆を護ったという事実を誰よりもサラに褒めて欲しかったのだろう。サラの言い付けを破り、ドラゴラムと云う禁忌の呪文を行使した事を叱られる事があったとしても、メルエの心の中にある『サラに拒絶されるかもしれない』という不安は、それ程大きくはなかったのかもしれない。それにも拘らず、サラは幼い少女の信頼を裏切ってしまったのだ。

 目を逸らし、そのまま扉を閉じてしまった為にメルエの表情をサラは見ていない。だが、その悲しみに満ちた表情は容易に想像出来る物であった。

 そんなサラが唱える蘇生呪文は、この現世に希望を失ってしまったメルエにとって拒絶したいと思っても仕方のない行為である。戻って来ても、大好きな者が自分を恐れる姿は見たくはないだろう。

 

「メルエ、お願いだから! 戻って来て……」

 

 その事に思い至ったサラは溢れて来る涙を少女の遺骸に落としながらも再びザオラルという神秘を唱え始める。

 『悟りの書』というこの世に二つと無い書物に記された大呪文である。その希少性や呪文効果を考えれば、行使による魔法力の消費量は生半可な物ではないだろう。通常の僧侶などでは行使する事も出来なければ契約する事も出来ない。高位の僧侶であっても同様であろう。それを二度も行使出来るのは、世界広しといえどもサラだけである。

 しかし、そんな呪文使いの中でも奇跡に近い行使であっても実を結ばない。再び神聖な光に包まれたメルエの身体は、その光が消えて行くのと同時に力なく地面へと横たわってしまった。その瞳は開かず、その口元は動かない。花咲くような笑みを浮かべる事もなく、不満そうに頬を膨らませる事もない。呟くようでありながらも、何とか自分の想いを伝えようと必死に紡ぐ声も聞こえず、その身の内にある膨大な魔法力を感じる事もなかった。

 

「ぐずっ……ごめんなさい! ごめんなさい……メルエ。私が、メルエを嫌いになんてなれる筈がなかったんです! お願いだから……お願いだから、目を開けてください!」

 

 最早サラの瞳にメルエの姿ははっきりと映っていない。次々と溢れて来る涙は、洪水のようにメルエの服を濡らして行き、視界を歪ませて行く。魔法力の著しい消費の為に、朦朧として来る意識を繋ぎ止めながらもサラは叫び続けた。

 懺悔の言葉を繰り返し、それと共にザオラルいう奇跡の呪文を繰り返す。神や精霊ルビスの祝福を受けて輝くサラの腕が再度メルエの身体に光を送り込んだ。

 だが、それでも少女の魂は、彼女の器には戻らない。倒れそうになる身体を必死に起こし、サラは再び両手を天へと突き上げた。光がその両手に集まり、天からの祝福を加えて輝きを放つ。しかし、三度目の行使でも、四度目の行使でも、メルエの魂がサラの呼び掛けに応じる事はなかったのだ。

 

「私は、メルエが大好きですよ! 本当に……本当に大好きなんです……。でも、でも……竜になったメルエは恐かった。身体の震えが止まらなかった……えぐっ……それでも、やっぱり私はメルエが大好きなんです」

 

 メルエの身体に下ろした両腕でメルエの身体を揺すりながら、サラは大粒の涙を流し続ける。未だにこの森を彷徨っているであろうメルエの魂に語りかけるように、それでいて自分の胸の奥にある想いを確かめるように呟かれる言葉は、サラという賢者を成り立たせている原点なのだろう。

 魔物への潜在的恐怖を消す事は出来ない。それこそサラという賢者の原点であり起源だからである。魔物への恐怖が彼女を歪め、その恐怖があるからこそ魔物も生物である事を知った。盗賊や魔物達を葬って行く自分達を見る者達の瞳が、自分が魔物やカミュを見る瞳と酷似している事を知ったからこそ、恐怖の対象である魔物を一個の生物として認識する事が出来たのだ。

 魔物とて一つの生物であり、その生に意義は存在する。魔物とて命は一つであり、死を迎えれば魂となる。それは人間と同じであり、死への恐怖もまた同じ。己の遺伝子を後世に伝え、それを命を掛けて護ろうとする姿も変わりがないのだ。

 当初は気づこうともせず、憎しみだけをぶつけて来た彼女ではあったが、カンダタという盗賊との二度目の対戦を期に周囲への視野が大きく広がって来る。自分にも護る物があり、自分が敵対する者にも護る物があるという単純な事に気付く事が出来たのも、その頃であった。

 サラはアッサラームの夜に、その胸に誓ったのだ。義母に怯え、アッサラームの町へ入る事を拒んでいた少女の寝顔を見ながら、『この少女を護る』と。そして、ランシールでリーシャと語った事で、その誓いが重い物である事を自覚したサラは、その後に何度も自問自答を繰り返して来た。

 その答えが今、出る事となる。

 

「もっと、お話をしましょう……もっとお歌を歌いましょう……もっと、もっと、メルエと一緒に居たいんです! メルエが私を嫌っても良い……それでも私はメルエが大好きですから! だから、お願い……お願いだから戻って来て!」

 

 最後の慟哭といえる叫びと共に、サラは再び天を仰ぐように両手を掲げる。既にサラの魔法力は枯渇寸前であろう。高等呪文である蘇生呪文を何度も何度も繰り返し、溢れる涙が彼女の体力を削って行っていた。それでも彼女は呪文行使を繰り返す。自身の命を投げ打つかのような行為は、彼女が持つ罪悪感の強さと、決意の強さの表れであった。

 丁度カミュとリーシャが魔王の影に止めの一撃を与えた頃、サラの両手に先程以上に神聖な輝きが集まり始める。それはサラの身体に残った全ての魔法力でありながら、それ以上の輝きを放っていた。

 全ての生物は創造神によって生み出され、死を与えられると伝えられている。本来は神や精霊の祝福を受けてこの世に生を受け、短くとも生を全うした者が精霊の御許へと呼ばれると云われた。この世で生きる全ての物が神の祝福を受けて生まれて来る。それは人もエルフも魔物も、虫や獣や草花に至るまで例外はない。

 そして、竜の因子を受け継ぐ神の奇跡と呼ばれる一族の末裔であるメルエもまた、神や精霊の祝福を受けて生まれた者であった。

 

「メルエ……目が覚めた時、哀しんでは駄目ですよ。メルエはもっともっと大きな世界を見て、たくさんの生物に優しさを分けて下さいね」

 

 大粒の涙を溢れさせ、それでも優しい微笑みを浮かべたサラの顔は、ルビスの塔へ挑む前よりも賢者の顔となっていた。世界で唯一の精霊ルビスとの架け橋となれる存在であり、人類だけではなく、全ての生物の希望となる存在。

 竜種の因子を持ち、自分よりも圧倒的な力を持つ少女に微笑み、自分の心に残る傷と闇を生み出した魔物にさえも慈悲を向けようとし、遭遇する出来事全てに悩み、苦しみ、泣き、後悔を重ね、それでも立ち上がり前へと進む者。

 歴代の賢者の中でも最も心が弱く、力も弱い。だが、どれだけ高名な賢者よりも芯は強く、その力に対する知識には貪欲。誰も成しえなかった願いに向かう決意は強く、それを支える者達も多い。癒えぬ傷を持ちながらも、他者を癒そうとする志は高い。

 至上類を見ない『賢者』が誕生した瞬間であった。

 

「ザオリク!」

 

 創造神や精霊達の祝福が一気に集まったサラの腕が、闇に包まれたマイラの森を明るく包み込む。サラの体内に残っていた魔法力は少ない。そんな残りの魔法力全てを注ぎ込むような輝きは、サラの命の灯火のように眩い光を放っていた。

 それは、神の祝福であり、精霊の祝福。そして何よりも新たに生まれた真の賢者が持つ決意の輝きである。誰も踏み込む事の出来ない聖域へと踏み込み、誰も乗り越えられない高い壁を乗り越えた者が手にした輝きは、横たわる少女の身体へと吸い込まれていった。

 

 

 

 メルエという少女にとって、この世で大事な者は多くない。特に、アレフガルド大陸に限って言うのであれば、三人だけと言っても過言ではなかった。

 その三人が居なければこの少女は存在せず、この三人の内一人でも失えば、その心は壊れてしまう。それはカミュと逸れてしまった時に既に証明されている。それ程に彼女にとって勇者一行の三人の存在は大きいのだ。

 三人が彼女の夢であり、希望であり、そして全てである。

 

「…………??…………」

 

 その全てが崩れ去った彼女は森で歩き続けた結果、突如として広がった闇に飲み込まれた。心地良ささえも感じる闇に恐怖は感じず、解放されたような安らぎに満ちて行く中、彼女は意識を手放す。そして、気づいた時には何故か空中を漂っていた。

 浮遊感を感じる事はなく、只単純に自分の意識がそこにある。そんな不思議な感覚に不安を覚えたメルエが下を見ると、そこには見た事のある身体が横たわっていた。音さえも聞こえず、光も見えない状況で何故かはっきりと浮き上がる自分の身体を見たメルエは恐くなり、必死に自分の保護者を探すように首を動かす。

 しかし、そのような状況に陥って初めて、自分が何故この森へ来たのかを思い出した。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 再来する悲しみは彼女の心を襲い、唸り声を上げる。しかし、涙は出て来ず、胸の痛みも感じない。意識はあるのに、自分の身体が自分の身体ではないという感覚に、再度恐怖心が湧き上がった。

 見える景色は徐々に地面から離れ、周囲の木を掴もうとする手は木の枝をすり抜ける。襲い掛かる恐怖心は全てを飲み込み、声を上げようとしても喉が潰れたように声が出ない。周囲の音は聞こえず、深い闇は自分を飲み込むように濃く広がって行った。

 

「メルエ!」

 

 そんな時、静寂と闇に満ちていた森を斬り裂くような声が聞こえたような気がした。不安と恐怖に怯えていたメルエは懸命に下へと視線を落とし、横たわる自分の身体に近寄る三人の人影を見て表情を緩める。それは、彼女の全てと言っても過言ではない三人であった。

 その三人の中に自分を嫌悪しているであろう姉のような存在も居た事に一瞬顔を歪めたメルエであったが、その人物が迷う事なく自分の身体の傍に近寄り、触れた事を見て、嬉しそうに頬を緩める。

 しかし、大好きな三人の許へ戻ろうと身体を動かそうとするが、メルエの意志とは異なり、見えている身体は微動だにしない。そればかりか、見えている三人の姿は徐々に小さくなって行き、距離が離れ始めたのだ。

 

「…………うわぁぁぁん…………」

 

 力の限りに泣き叫んでも、その声は下の三人には届かない。皆が自分を無視しているように見え、不安と恐怖心が煽られる。暴れるように木の枝へと手を伸ばしても虚しくすり抜けて行き、次から次へと涙が溢れて来た。

 泣き叫んでもその声は届かず、救いを求めるように下へと手を伸ばした時、既にリーシャとカミュはそこにはおらず、更に大きな不安がメルエに襲い掛かる。カミュ達三人の傍に居られない事、それはこの少女には耐えられない程の苦痛なのだ。先程までは一緒に居たくない、居る事が出来ないと感じていた彼女であったが、実際に三人が傍に居るにも拘らず、自分の存在を認識して貰えないという事がこれ程の恐怖を誘う物だとは思っていなかった。

 カミュやリーシャが離れてしまった事で絶望感に再び苛まれ始めたメルエであったが、一人残ったサラの姿を見て、泣き叫ぶのを停止させる。メルエの身体に縋りつくように抱き付いたサラの瞳からは大粒の涙が流れていたのだ。

 サラが泣くなど最早日常茶飯事の出来事ではあるが、それでも感情の制御も利かずに泣き叫ぶ事は珍しい。つい先程まで、その人物の愛情を欲して彷徨っていたメルエにとって、サラの慟哭は驚くべき出来事であった。

 

「……!!」

 

 メルエの身体に手を当てながら叫ぶサラの声は届かない。何を叫んでいるのか理解出来ないまでも、その言葉が己を呼ぶ物に近い事を感じたメルエは、サラへ向かって叫び声を上げた。

 お互いが存在する世界が既に違うのだろう。二人が相手を呼び合う叫びは、哀しい事にお互いの耳には届かない。それでもサラが叫びながらメルエの身体に手を当てる度に発光する輝きは、不安と恐怖に包まれていたメルエの心に勇気の炎を灯し始めた。

 『戻りたい』、『帰りたい』という必死な想いは、徐々に強くなる光と共に、メルエの魂を身体へと近付けて行く。

 サラの姿が近づいて来た事でその表情が見えたメルエは、先程まで泣き叫ぶように両手を天と身体の往復をさせていた彼女が、何かを諦めたように静かに呟きを漏らしているのを見て、再び不安に駆られた。

 その不安が湧き上がり、何かを叫ぼうとしたメルエの魂が膨大な光に包まれ、一気に引き寄せられる。そのまま少女の意識は心地良い光の中へと吸い込まれて行った。

 

 

 

 

 

 サラの身体全てを覆うような強い光は、眩いばかりにマイラの森を包み始める。その輝きを一点に集中させ、横たわるメルエの身体に一気に送り込んだ。

 マイラの森全体を包み込むのではないかと思われた光は、幼い少女の身体の中へと吸い込まれて行き、まるでアレフガルド大陸全体の光という光を全て飲み込むように消えて行く。最後に天へと続く空から一筋の光がメルエの中へと吸い込まれ、再びマイラの森に闇と静寂が戻った。

 

<ザオリク>

蘇生呪文ザオラルの上位呪文である。

死の呪文によって彷徨う魂を強制的に肉体へと戻す事を目的とした呪文であり、その成功率を上げた結果に生まれた真の魔法であった。

だが、その成功率と引き換えに膨大な魔法力を注ぎ込まなければ起動はせず、魔法力の乏しい者が行使すれば一瞬で行使者の命を奪い、蘇生も成功しない。故に、『悟りの書』の中でも厳重に封印されており、それを行使出来る程の才能を示した者でなければ読む事さえも出来なかった。

己の命を犠牲にする可能性もある蘇生呪文は、禁忌とされていたのだ。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 全ての力が抜けてしまったように荒い息を吐くサラは、幼い少女の身体へと倒れ込む。成り行きを呆然と見つめていたカミュとリーシャは、それを見て駆け出した。

 まるで全魔法力を使い果たし、己の生命力さえも注ぎ込んでしまったように倒れ込んだサラの姿にリーシャは焦りを覚える。メルエと引き換えにサラを失ったのであれば、リーシャにとって全てが無意味なのだ。

 確かにメルエは最愛の妹であり、最愛の娘であるようにも思っている。だが、サラという人間もリーシャにとっては最愛の妹の一人であった。例え、この状況を生み出した一つの原因が彼女であったとしても、それは変わらない。

 

「……よかった」

 

 少女の胸へと耳を付けるように倒れていたサラは、小さな呟きを漏らして涙を溢れさせる。そして、そのまま瞳を閉じた。まるで眠りに就くように、そして生を手放すように、彼女の表情は安らぎに満ちた安堵の色を浮かべている。そんなサラの表情を見たリーシャは、自分の中に湧き上がる最悪の状況が現実化して行く事に身動きが取れなくなってしまった。

 不思議な雰囲気に包まれたサラとメルエの周囲には、神聖な空気が満ちている。それが天から神や精霊がサラを迎えに来ているようにさえ、リーシャには見えてしまったのだ。

 しかし、そんな神聖な空気も、神や精霊をどうでも良い物としてしか考えていない青年にとっては考慮に入れる物ではなかった。

 

「起きろ!」

 

 リーシャの横を走り抜けたカミュは、メルエの身体に倒れ込んだサラを強引に引き上げ、幸せそうに瞳を閉じるサラの頬を力強く張る。強く張られた頬は鋭い音を立て、マイラの森に響き渡った。

 突然のカミュの行動に驚いたリーシャは眼を丸くさせながらも、その場を動く事は出来ない。そんな彼女を余所に、カミュは再度サラの頬を強く張った。後日、サラの頬は真っ赤に腫れ上がるだろう。そう感じる程の音が再び森に響き渡り、先程まで瞳を閉じていたサラが重い瞼を微かに開いた。

 

「この状況を作り上げたのはアンタだ! そのまま逃げるつもりか!? 祈れ! 今こそ、アンタが信じて止まないルビスに祈れ! アンタの指にはその為の指輪がある筈だ!」

 

「カ、カミュ……」

 

 サラの胸倉を掴んで引き上げたカミュが発した言葉にリーシャは言葉を失う。まさか、カミュがここまでの声量で叫ぶとは思わなかった。しかも、その相手はサラなのだ。カミュが戦闘中以外で声を張り上げる事など皆無に等しい。稀にあったとしてもそれはリーシャとのやり取りの中だけであった。サラとの間では、ノアニール近辺でエルフのアンとトルドの娘のアンを同一化した時の記憶が僅かに残るだけである。

 サラが今昏倒しているのは、己の中にある魔法力を全て使い果たしたからであり、その代わりに命の灯火を差し出したからである。だが、本来生命力を魔法力へ変換する事など出来はしない。気力を全て吐き出してしまい、残った生命力だけでは生きるという気力を支える事が出来ないからこそ、彼女は眠りに付くように死へと向かってしまっていたのだろう。

 

「……ル、ルビス…様」

 

 珍しいカミュの心の叫びは、意識も朦朧とし、瞳も虚ろなサラの脳へと届いて行く。視線も定まらない虚ろな瞳は深い闇に包まれた空へと向けられ、震える手が祈りを捧げようと動き出す。しかし、気力を全て失ってしまったサラの身体が容易に動く筈もない。それを見たリーシャは素早くサラの傍へと寄り、その両手を包み込むようにして合わせた。

 自分の手が暖かな温もりに包まれた事で若干表情を和らげたサラであったが、開かれた唇は微かに震え、瞳の光も徐々に失われて行く。その姿を見つめるリーシャは、『何故、最愛の妹の死を何度も見なければならないのか』と悔しさに唇を噛み締めた。

 

「……ルビ…ス様……お許し……を」

 

 サラが全てを手放すように最後の呟きを漏らし、瞳を閉じた時、再びマイラの森が大きな光に包まれる。カミュ達のいる場所の北西の位置から発せられた大きく神聖な輝きは、一瞬の眩さと共にサラの身体の中へと吸い込まれて行った。

 まるで、ルビスの塔に封印されているとされる精霊神ルビスが、己の魔法力を分け与えるようにサラの身体に魔法力が満ちて行く。全ての光がサラの中へと納まった後、小さな命の鼓動が闇と静寂に満ちたマイラの森に刻まれた。

 

「カ、カミュ……サラは助かったのか?」

 

「……おそらくな」

 

 サラの身体から手を離し、地面へと静かに寝かせたカミュに問いかけるリーシャの瞳からは大粒の涙が溢れている。メルエとサラの鼓動が聞こえて来るかのように、静かな寝息が響いているのだから、リーシャとて解っているだろう。それでも彼女は問い掛けずにはいられなかった。

 大きく息を吐き出したカミュが頷きを返すのを見たリーシャは、小さく柔らかな笑みを浮かべる青年にしがみ付く。そしてそのまま声を殺す事なく泣き出したのだった。ここまでの状況は、仲間を心から愛する女性戦士にとって、耐える事の出来ない程の苦痛であっただろう。その苦痛と緊張から解放された彼女は、最も信頼する青年の胸で喜びを表すように涙を流し続けた。

 

 

 

 アレフガルドを覆う闇は未だに深い。それでも、その闇を晴らす為に歩み続ける一行を覆い始めていた闇は、その闇を吐き出した『賢者』自身によって、今晴らされた。

 精霊神ルビスの祝福を受けた『賢者』は、このアレフガルドにて精霊神ルビスの信任を得る。ここまでの彼女の苦悩と後悔は、全てこの日の為にあったのかもしれない。

 今、このアレフガルド大陸に於いて、真の『賢者』は誕生した。

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。
これにて第十九章は終了です。
後日、勇者一行装備品一覧を更新して完全終了です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

上の世界と呼ばれる場所で誰も敵わない者と恐れられた魔王バラモスを打倒した勇者であっても、大魔王ゾーマの軍門に降った上位の竜種には歯が立たなかった。死の一歩手前まで追い詰められたからこそ、彼は自身の力が未だに足りず、周囲の者達を危険に晒してしまう事を理解する。勇者という称号は職業ではなく、周囲の者達がその存在を認め、讃える事で広まる名であるのだ。彼はまだ、このアレフガルドの地ではその域に至ってはいないのだろう。

 

【年齢】:21歳

奇しくも、彼が憎しみさえ持つ精霊神ルビスが封じられた塔にて苦渋を舐めた日が、彼がアリアハンという小国を出てから五年の月日が経過した日であった。五年の歳月が彼を高め、変化させたのではあるが、それでも尚、大魔王ゾーマには届かない。魔王バラモスを打ち倒し、アレフガルドの魔物達をも退ける事が出来る力を有していても、未だ大魔王ゾーマが存在する高みへ達する事は出来ていない。しかし、既に少年から青年へと身体は変化し、心も大きく変化している。彼が種族を超えた力を有する日もそう遠くはないだろう。

 

【装備】

頭):オルテガの兜

ミミックの唱えた『ザラキ』という死の呪文によって死線を彷徨ったカミュを救ったのは、アリアハンから装備していたサークレットに嵌め込まれていた『命の石』だった。砕け散った『命の石』を失ったサークレットを捨て、頭部を護る装備品を失くした彼の前に現れたのがこの兜だった。英雄オルテガいう彼の中の闇に密接に絡む存在への抵抗感を持っていたが、リーシャの珍しい理詰めに、不承不承と言った感じで装備している。

 

胴):刃の鎧

ネクロゴンドの河口付近にある洞窟内に埋もれていた神代の鎧。

神が置き忘れたのか、それとも『人』に与えられた物なのは解らないが、まるで己の主を待つように、洞窟内にその姿を隠していた。だが、それを発見した魔物が手にしようとする事をこの鎧は拒絶する。自らに触れようとする許可無き者を、その鎧を形成する鋭い金属の刃によって分断していたのだ。真空で出来た刃ではなく、金属で出来た刃が鎧から飛び出す事自体が不可思議な現象ではあり、刃を発した鎧に傷一つないのだから尚更である。

大地の鎧を纏っている事から辞退したリーシャの代わりに、彼が装備する事となった。彼が敵と認識しない物や鎧自体に危害を加えようとしない者であれば、それに触れる事も可能である事は、彼の傍を離れない幼い少女が証明して見せている。

 

盾):勇者の盾

遥か昔、アレフガルド大陸が闇に閉ざされそうになった時、天より舞い降りたと伝えられる『勇者』が装備していた盾。地上にはない金属によって造られ、青く輝くような光を放つ。表面には黄金色に輝く神鳥が描かれており、中央には真っ赤に燃えるような宝玉が嵌め込まれている。上の世界で蘇った不死鳥ラーミアに酷似したその装飾は、アレフガルドに伝わる古の勇者と精霊神ルビスが知己の存在である事を示していた。

地上にはない神代の金属によって生み出されたその盾は、竜種などが吐き出す炎や吹雪への耐性も強く、どれだけ高温に曝されようと変形する事はない。正しく、生物が暮らす現世最強の盾と云えるだろう。

 

武器):雷神の剣

アレフガルドを救った勇者と共にあった英雄を模した石像の成れの果てである『大魔人』がその手に握っていた剣。神代から伝わるその剣は、雷を司る神が愛した剣と云われている。末広がりの両刃は稲妻のように鋭い輝きを放ち、その内に秘められた効果は、雷神の怒りのように周囲を燃やし尽くす。『悟りの書』に記載された灼熱の最上位呪文であるベギラゴンに似た効力を持つ力が内包されており、本来は主として認めた者の危機を救うようにその力を解放させる。だが、アレフガルドの地へ降りてから長い期間魔の手に落ちていた事もあり、その内情にも歪みが出来てしまっていた。

 

所持魔法): メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      リレミト

      マホトーン

      イオラ

      ベホマ

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(元アリアハン宮廷騎士)

戦士としての力量は既に人類の枠を大きく超えてしまっている。武器を扱い、敵を葬る技術は未だに勇者であるカミュを寄せ付けない。その成長速度は勇者の方が速くとも、彼女もまた日々成長を続けているのだ。だが、その力量差は着実に埋まり始めており、彼女の想像通り、勇者の青年が彼女に並ぶ日も遠い未来ではないだろう。その事実に対して、悔しさよりも嬉しさが上回る程の絆を彼女は築いて来ていていた。

 

【年齢】:不明

大まかに解る年齢で言えば、サラよりも3つ4つ上の年齢である。外見上6、7歳のメルエの母親というには若過ぎる年齢ではあるが、少女への接し方を見る限りでは内に秘めた母性は女性の中でも一際高い物である事が解るだろう。強靭な男性でも持ち上げる事の出来ないような巨大な斧を振るい、人間では打倒出来ない魔物を一撃の元に斬り裂く戦士でありながらも、その胸の内は世の女性よりも強い女性らしさを持った存在であった。

メルエという大事な娘や妹のような存在の消失に泣き叫び、その存在を救ったサラの命も繋ぎ止める事が出来た時に、共に旅を続けて来た青年の胸に顔を埋めて泣く姿は、世の男性の心を掴んで離さない程の弱さを見せている。

 

【装備】

頭):ミスリルヘルム

超希少金属であるミスリルによって生み出された兜。その製造方法も加工方法も秘術と云われる程の物である。故に、このアレフガルドにのみ伝えられているミスリル金属を使用した防具は、上の世界に存在する防具よりも遥かに高額で取引されている。この兜一つで竜種の鱗さえも斬り裂くと云われるドラゴンキラーよりも高額であった。

己もこの兜をと口にするカミュを一喝し、彼女だけがこの兜を被る事になったが、それは独占欲から来る我儘でない事は周知の事実である。ミスリルという希少金属で造られた兜の防御力を差し引いても、彼の装備する兜の方が希少性も重要性も高い事を彼女は知っているのだ。

 

胴):大地の鎧

試練の洞窟と呼ばれる人工の洞窟内に安置されていた鎧。『勇者』と呼ばれるカミュが発見するが、その者を主とは認めず、外で待つ一人の戦士を主と定めた。まるで己の意志があるかのように、『人』としての色を残す女性を主と定めた鎧は、他者の手に渡るのを拒む。精霊と共に崇められる対象となる母なるものの名を冠する鎧は、植物や動物を育てるように、温かくその身を包み、護る事だろう。

 

盾):水鏡の盾

ミスリルヘルムと同じ希少価値の高い金属で造られた盾。正確な円形をした盾は、余計な装飾などもなく、見方によれば無粋な盾に見えるだろう。だが、それは鏡のように美しく、正面にいる者の姿をまるで水で出来た鏡のように映し出す。『どのような攻撃も、水の如く受け流し、鏡のように跳ね返す』と謳われてはいるが、実際はそのような特殊効果はない。だが、ミスリルという希少金属で製造されている為、その耐久性は現存する盾の中でも最上位に位置する物である。

 

武器):魔神の斧

遥か太古の魔の神が愛した斧。

その鋭い刃先は、どのような強固な物をも斬り裂き、その一撃は大地をも斬り裂くとさえ謳われた武器である。魔の神と天上の神との争いの際に失われ、地上へと落とされたという。それがネクロゴンドという地方に安置されていた事は奇跡であり、ネクロゴンドにある城に飾られた英雄の像の手に握られていた事も今では謎である。

その斧もまた、他の神代の武器と同様に自我を持っているかのように、己の主を定める。しかも、魔の神が愛した物である為、それは一筋縄ではいかない代物であった。己の主を嘲笑うかのように、試すかのようにその重量を変化させ、扱う者の重心をずらしてしまう事もある。しかし、その変化と持ち手の技量が合致した際には、逸話通りの一撃を生む事もあるのだった。

:ドラゴンキラー

動く石像との激戦の中で刃が反れてしまった事で戦闘での使用は難しくなった。その後、リーシャの腰に下げていたが、マイラの村に移住したジパングの鍛冶師の師匠が作成したものである為に、再度訪れる事を理由にその場所へと預けた。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

賢者として創造神や精霊神から祝福を受けた彼女ではあるが、その心は歴代の賢者の中でも最も弱いだろう。常に迷い、悩み、苦しみ、泣く。これ程に己の心と向き合おうという存在は、今までの歴史の中でも一人もいなかったに違いない。故にこそ、この当代の賢者の志は歴代の賢者の誰よりも高く、尊いのだ。

幼い頃に受けた恐怖という物は、その心というよりも魂に刻みつけられている。魂に刻みつけられた恐怖は消える事はなく、彼女の想いや志に雲を掛けて行く。だが、その雲は彼女の心の奥にある想いを覆い尽くす程の物ではなかった。

 

【年齢】:22歳

メルエという少女に力の恐ろしさを教えたのはサラという賢者である。だが、幼い少女の内に秘められた魔法力の質と量は彼女の想像を遥かに超えていた。ドラゴラムと云う古代呪文は、ある血筋の人間にしか行使は出来ず、その血筋とは古の賢者の家系であり、尚且つ竜の因子を持つ一族である事であった。その強大な力は、彼女の奥深くで眠っていた潜在的な恐怖を思い出させる。それは彼女の原点であり、起点。この原点があったからこそ、彼女は賢者という地位まで登り詰めたのだ。そして、だからこそ、彼女はもう一度その原点へと立ち返り、何を求めてその想いを持つ事になったのかに気づく事になった。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれており、その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):水の羽衣

アレフガルド大陸の中で、雨の日の翌日にマイラの森に現れると伝えられている『雨露の糸』という素材を織って作られた羽衣。天女が纏った羽衣のように美しく、その表面は水が流れるような輝きを放つ。雨露の糸から羽衣を生み出す事の出来る職人は既になく、マイラの村に現存する最後の一品を購入する事となった。

 

盾):水鏡の盾

カミュがリーシャと共にラダトーム王都にて購入した盾である。勇者の洞窟と呼ばれる場所で発見した古の勇者の防具をカミュが装備した為、彼から譲り受けた。古代龍種であるサラマンダーの吐き出す爆炎を受け、真っ赤に染め上がりはしたが、希少金属で造られたこの盾は、購入した時と一切形状を変化させてはいない。このアレフガルドにしかない盾が、強力な魔物が数多く生息し始めた大陸に於いて、後衛を担当する賢者と魔法使いを命を護る大きな防壁となるだろう。

 

武器):ゾンビキラー

サマンオサ城下近郊での<ガメゴン>との戦闘により、三年以上も共にあった<鉄の槍>は破損してしまった。

共に歩む者達の武器が次々と強力な物になって行く中、彼女だけがロマリアで購入した物を使用していたというのは、彼女自身の武器を扱う力量とは別に、『賢者』となった彼女に合う武器が無かった事が理由であろう。

長い年月を掛けて聖水に浸けても尚、錆などが浮かなかった長剣であり、その刀身に『精霊ルビス』の加護を受けた剣。

聖なる力を宿した長剣は、この世に生を持たない者達に多大な効果を持ち、この世に縛り付けられた魂や肉体を『精霊ルビス』の許へ還すと考えられていた。

   :聖なるナイフ

育ての親であるアリアハン教会の神父から授けられた物。

アリアハン大陸の魔物達には有力な武器ではあったが、ロマリアで<鉄の槍>を入手してからは、彼女の腰に下がる袋の中に大事に保管されている。

それは、彼女の心の奥にある太い柱となっている『愛』の証であり、彼女が進む道を照らし続ける『覚悟』の証でもある 。

 

所持道具:祈りの指輪

エルフの隠れ里にて購入した物である。メルエの指に嵌っている物と同様の物で、元々は子の幸せを願う親の想いが込められた物が起源と考えられている指輪であった。

純粋な祈りは『精霊ルビス』の許へと届き、指輪の所持者の魔法力や気力を回復するという効力がある。呪文に重きを置くサラにも必要であると考えたリーシャが購入する事をカミュへ提言し、それが受け入れられた事によって、サラの指にも嵌められる事となった。

購入する際は、2500ゴールドという大金が必要となるらしい。

ザオリクという最上位の呪文行使によって、完全に魔法力を失い、この世の生を手放しかねない状況になったサラ自身を救う事となる。その際に精霊神ルビスが封じられた塔から降り注ぐようにサラの体内へと吸い込まれた魔法力を見る限り、この指輪の祈りは確かに精霊ルビスへと届けられていると考える事も出来た。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ

       ザキ

       ザラキ

 

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       メラミ

       イオラ

 

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

       トラマナ

       インパス

       バシルーラ

       ベホマ

       ベギラゴン

       フバーハ

       ベホマラー

       シャナク

       ザオラル

       ザオリク

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

通常の魔法使いという枠から大きく逸脱している魔法力の量は、彼女の身体に流れ続ける血液が影響していた。彼女こそ、古の賢者の一人としてダーマ神殿へ赴き、精霊ルビスとの架け橋となった賢者の曾孫である。娘を失い、孫を連れてダーマへと姿を現した賢者は、その成長を待って孫をテドンの村へと隠した。だが、その村の武器屋が好奇心から入手した闇のランプを使用した事によってテドンの村の存在が魔王バラモスに発覚してしまう。その際に母の手によって逃れ、ホビットの英雄の末裔の手を経てアッサラームに辿り着いた孤児こそが、勇者一行の偉業への道の要となった少女であったのだ。

 

【年齢】:7,8歳

古の賢者の曾孫でありながら、竜の因子を受け継ぐ一族の末裔である彼女の体内に流れる血は、しっかりと受け継がれていた。彼女の祖母も母もその因子を受け継いでいるが、魔法力の素養はなく、賢者どころか魔法使いとしての才も開花していない。隔世遺伝と言っても過言ではないその力は、彼女の身体にも大きな影響を残し、通常の『人』よりも成長が鈍化している。カミュ達と出会って四年以上の年月が流れている中、彼女の姿形に変化がない事もこの竜の因子が影響していると考えられた。その事を彼女自身が把握する日がいつか来る事になる。自分の大好きな者達を看取る立場になって初めて、彼女は己の中に流れる血脈を理解する事になるのだろう。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):天使のローブ

エルフの女王へ『命の石』の欠片を手渡す為に訪れた隠れ里にて購入した物。

変化の杖の力によって、エルフへと姿を変えたメルエの将来に希望を見出したエルフの店主が購入を勧めた物である。

元々、エルフの母達が自分の娘の未来を案じて、一本一本想いを込めて編み込んで行ったローブが起源となっている。母達の強い想いが、そのローブを形成する糸に宿り、それを纏った者を理不尽な死から遠ざける効果を持つと云われていた。

だが、その効果を最も必要とした時、このローブは彼女の身を護る事は出来なかった。それを誰よりも悔やんでいるのは、もしかするとこの天使のローブ自身なのかもしれない。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

サラの装備する<魔法の法衣>同様、メルエの母親が編んだ物である可能性が高い。常に彼女の魔法力を支え、その身を守る姿は、母親そのものなのかもしれない。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

既に何度もメルエの身を守る為に立ち塞がっており、魔物等の攻撃を受ける際にも、その形状を変化させる事も解っている。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えており、主を護るその時に、そのオブジェの嘴から<ベギラマ>と同様の灼熱の炎を吐き出した。主と定めた物を護るような意志を持つその杖が、何故スーの村にあったのか、そして誰が安置したのかは、まだ解らない。

   :毒針

何度もメルエの身を護ってくれたトルドからの贈り物。

ただ、最近は、メルエが直接的に魔物から攻撃を受ける機会はなく、それを使用する事もない。

それは、カミュやリーシャ、そしてサラといった絶対的な保護者達の働きが大きいのだろう。

 

所持道具:祈りの指輪

精霊ルビスの加護を持つ指輪。

イシス国女王から下賜されたその指輪は、彼女との約束と共にメルエの指に嵌められている。『必ず元気な姿を見せて欲しい』というイシス国女王の願いは、メルエの胸の中で絶対の効力を持つ約束なのだ。その為に、この幼い少女は他の三人を護らなければならない。護りたいと願い、護ろうと決意する。そんな少女の願いと想いだからこそ、この指輪はそれに応えようとするのだろう。

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

       メダパニ

       ボミオス

 

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       トラマナ

       マホトラ

       インパス

       マホカンタ

       ベギラゴン

       ラナルータ

       マヒャド

       シャナク

       イオナズン

       ドラゴラム(書に記載されているが、彼女以外行使不可)

 

      【それ以外の呪文】

       メラゾーマ

 

 

 




これで第十九章は終了です。
第二十章は出来るだけ早く更新したいと思っています。


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第二十章
マイラの森④


 

 

 

 今までの不安と恐怖の全てが取り払われたように安らかな寝息を立て、晴れやかな表情で眠るメルエとサラを背負ったカミュとリーシャは、一度マイラの村へと戻る事となる。サラをリーシャが背負い、メルエをカミュが背負うのだが、背負う二人の表情も何処か晴れやかな優しさに満ちていた。

 彼らを襲った最大の危機は、それを迎え入れる原因となった者の手によって打ち払われ、それを取り巻く全ての要因が繋がって行く。精霊ルビスという世界の守護者を救う為に訪れた塔で、彼らと共に旅を続けて来た少女の謎が解放され、それを知った賢者が恐れを克服した先に、蘇生呪文と云う神と精霊の祝福が生まれる。そして、蘇生呪文を成功させた賢者の身を護る為に、精霊ルビスの魔法力の一部が解放された。

 全ては、精霊神ルビスへと繋がっているのだ。

 

「カミュ、まずはラダトームへ戻るのか?」

 

「そうだな。二人が目を覚ましたらルーラで一度ラダトームへ戻る」

 

 マイラの村の入り口となる門がそろそろ見えて来るであろう頃、リーシャは今後の方針についてカミュへと問い掛ける。その問いかけにカミュは真っ直ぐ頷きを返した

 このマイラの村周辺で出来る事は既にない。精霊神ルビスの解放の為の探索が中止された時点で、この周辺での情報は途絶えてしまうのだ。ならば、マイラの村の武器屋の中で聞いたオリハルコンという神代の希少金属の情報しか残されてはいない。必然的に次に向かうべき場所が限られてしまうのだった。

 武器屋での情報としてはラダトームの南西にあるドムドーラという町付近での発見情報がある。一度ラダトーム王都へ戻り、そこから徒歩で向かうしか方法はないのだ。

 

「二、三日は猶予はあるのだろう? 完全なる死から戻って来た二人を少し休ませてやりたい」

 

「猶予などがある筈のない事ぐらいアンタが一番知っているだろう? それに、それでもこの二人よりも優先して行う必要性があるかどうかもアンタが一番解っている筈だ」

 

 今、カミュの背中で眠りについている少女は、先程まで本当の死を体験していた筈である。死の呪文を受け、魂を弾き飛ばされた肉体は完全に生を手放していたのだ。その魂を強引に戻した女性賢者も魔法力を枯渇させて死への道を歩んでいる。精霊神ルビスの祝福なのか、それとも祈りの指輪の効力なのかは解らないが、彼女もまた死から生還を果たしたばかりであった。

 そんな二人を休ませる事もなく再び戦いへと向かわせるのは、流石に蛮勇を通り越して無謀に近い物である。特に、魔法と云う神秘による補助や攻撃を頼りとして前線で戦っているカミュとリーシャにとっては、この二人が生命線と言っても過言ではないのだ。万全でない二人を連れて歩いたとしても、それは死に直結する程の愚行となるだろう。

 

「ふふ、そうだな。二人の重要性は私達が一番知っているからな」

 

 闇に包まれたアレフガルドに猶予などある筈がない。大魔王ゾーマの力が日増しに上がって行く事を考えれば、カミュ達以外にそれに立ち向かう戦力がない以上、一刻を争う状況に変わりはないのだ。

 それでも、それ以上に重要なのが後方支援組である二人の状態であると言い切るカミュがリーシャには嬉しかった。それは、言い換えれば、大魔王ゾーマが全快になろうと、それこそこのアレフガルドが闇に落ちてしまおうと、サラとメルエという二人が万全の状態で戻れば何とでもなるという強い信頼に基づいている物であるからだろう。

 先程まで感極まった泣き顔を見られた事の気恥ずかしさもあったリーシャは、闇の中をマイラの村へ向かって突き進むカミュの背中を見ることが出来なかった。

 

「……止まれ」

 

「!!」

 

 しかし、そんな何処か甘酸っぱい雰囲気は即座に森の闇の中へと消えて行く。メルエを背負ったまま先頭を歩いていたカミュが声を潜めて行動を制したのだ。

 カミュの表情は見えなくとも、その緊迫感は後方を歩いていたリーシャにも伝わっている。現状、呪文使いであるサラとメルエを欠く戦闘はかなり厳しい上、彼が纏う雰囲気から察するに強敵である事が窺えた。それは絶体絶命の危機であると言っても過言ではないだろう。

 ましてや、竜種の上位種に対して遅れを取ったばかりの彼らにとって、目の前に迫っている魔物は鬼門に等しい物であった。

 

「グオォォォォ」

 

 マイラの森の木々が震える程の咆哮が響き渡る。その咆哮の位置や大きさから判断するに、それ程距離がある訳ではないだろう。徐々に大地に伝わる揺れが大きくなって来る事が、その魔物が着実にカミュ達の方へと向かって来ている事が解る。それは絶望的な状況であった。

 先程の咆哮は、竜種が上げる物に酷似している。ルビスの塔で遭遇したドラゴンが上げた物とは多少異なってはいるが、それでも他者を圧倒するそれは、広いマイラの森の隅々にまで木霊していた。

 

「……カミュ」

 

「出来る限りは戦闘を避けたい。だが、どうしようもなくなれば、先に行け」

 

 メルエを木の根元に下ろしたカミュは、その傍で屈み込んで雷神の剣を抜く。その様子を見ていたリーシャは、彼の発言に対して瞬時に表情を歪めた。

 確かにリーシャであれば、サラとメルエの二人を担いで歩く事は可能であろう。だが、それでもカミュを生贄にその場を去るという選択肢を取る訳がない。それは、どのような状況になろうと、誰がどれ程に強く言おうと変わる事はないのだ。

 全滅という最も最悪の状況になろうとも、彼女からすれば、この四人の内の誰が欠けても勇者一行が終了する事は目に見えているのだ。それがサラであろうと、メルエであろうと、リーシャであろうと、そして己を犠牲にしようとしている勇者本人であっても変わりはない。彼等全てが揃っているからこそ、巨大な敵に立ち向かえるのだ。

 それを、ここ数日でリーシャは骨身に染みる程に痛感していた。

 

「サラとメルエの援護は期待出来ない。それでも私達だけでやり過ごすしかない。あの塔で己の弱さを実感した。ここを乗り越えてこそ、私達はこの二人と並んで戦える筈だ」

 

「……わかった」

 

 森の大地を揺らす振動は先程よりも大きくなっている。その振動の大きさが、近付いて来る魔物の大きさに比例しているのだろう。カミュとリーシャの武器を握る手に力が入る。並大抵の魔物であれば瞬殺出来る技量を持つ二人が緊張を感じる程の強敵の予感が明確にしていた。

 前方の木々が薙ぎ倒されるのが見えて来る頃、カミュ達二人の肌を痺れさせる程の圧迫感が襲い掛かる。既に持っていた『たいまつ』の炎は消していた。出来る事ならばやり過ごしたいという想いから消してしまっていた明かりが仇となり、森全体を見渡すには難しい闇が邪魔となる。

 

「グオォォォォ」

 

 現れたのは一体の巨大な骨。以前、マイラの村周辺で遭遇しかけた魔物である。巨大な竜種の成れの果てである骨が、大魔王の魔力によって蘇り、現世を彷徨う魔物となった物であった。

 あの時は、この骨が竜種の成れの果てである事しか解らなかったが、今のカミュ達にはこの竜種の骨の生前の姿が理解出来る。ルビスの塔で遭遇したドラゴンのように四足で歩くのではなく、巨大な後ろ足二本で大地に立つその姿は、最上位に位置する竜種の物であるという事が。

 背骨から突き出す翼を模る骨が、この竜種が空中を飛ぶことが可能であった者である事を示しており、後ろ足よりも小さな前足の骨が、この竜種が大地を二足歩行で歩き回る者であった事を示している。

 それは、竜の女王やメルエの祖先と同等の力を持っていた竜種の証であった。

 

「カミュ、避ける事は諦めるしかない。炎を灯して視界を確保しなければ戦闘は難しいぞ」

 

「……覚悟を決めろよ。現状では厳し過ぎる相手だ」

 

 既に竜種の頭蓋骨はカミュ達へ照準を合わせている。それは戦闘が避けられない状況になった事を示しており、戦闘を覚悟するならば少なくとも視界を確保するだけの明かりが必要であったのだ。それを口にしたリーシャへ視線を移したカミュの表情は険しく歪んでいる。迫り来る相手の強さと、自分達の力量を比べると、必然的に厳しい戦いになる事が解っているのだ。

 それでも、この場面であの魔物から逃げる事は出来ないだろう。サラとメルエという二人を担いで全員が無事逃げる事が出来る時間を確保する事など出来はしない。それが成れの果てとはいえ竜種が相手であれば尚更であった。

 

「……行くぞ」

 

 消してあった『たいまつ』に再度炎を灯すと、二人を中心に森が照らし出される。それは戦闘の合図であり、ここから始まる二人の死闘の開始の鐘であった。しかし、この竜種の成れの果ては、世界最上位に上り詰めた二人の覚悟を容易く潰す程の力を秘めていたのだ。

 既に生きる屍となった竜種に明かりなど必要はなく、カミュ達へと標的を絞っていたのだろう。『たいまつ』に火を灯して立ち上がった二人に向けられた頭蓋骨の口の部分が大きく開かれ、闇に包まれた森の中に冷気が噴き出された。

 各々の武器を持つ手が悴んでしまうような冷たい息は、駆け出した二人の出鼻を挫く。持っていた盾を掲げて身を護るようにしたカミュの横から、固い骨だけになった尾が振り抜かれた。凄まじい衝撃と共にカミュは弾き飛ばされ、太い木の幹へと衝突する。

 

「させるか!」

 

 木の幹の付け根に崩れたカミュに追い討ちを掛けようとする竜種の骨に向かってリーシャは魔神の斧を振るった。しかし、その骨は人間の物ではなく、世界最高種族と云われている竜種の物である。如何に神代の斧とはいえ、一撃で両断出来る物ではなかった。

 再び大きく口を開いた頭蓋骨を見たリーシャは、一歩後方へ飛んで盾を掲げる。先程と同様の冷気が降り注ぐ中、それでも怯まずに彼女は一歩一歩前進を続けた。そんな彼女を見て、竜種の骨は巨大な脚部の骨を持ち上げる。巨大な竜種にとっては『人』という種族など、『人』から見た虫のように小さな存在でしかない。容易く踏み殺せるとでも考えたその骨は、先程まで木の根元に崩れていた青年の存在を忘れていた。

 

「させるものか!」

 

 巨大な足に向かって振り抜かれた一振りの剣は、天から降り注ぐ雷の神が愛した一品。雷鳴の如く凄まじい轟音を立て、その剣は固い竜種の骨を砕く。大腿部の最も太い骨をも砕くその一撃は、世界を救うと謳われる勇者の一撃に相応しい物であった。

 砕かれた骨では巨体を支える事は出来ず、膝を着くように地面へと身体を落とした竜種の骨に向かって、リーシャが追い討ちを掛けるように斧を振り下ろす。落ちて来た頭蓋骨へと突き刺さった斧はそのまま振りぬかれ、左目があったであろう窪みから下顎までに大きな亀裂を生んだ。

 しかし、ここは『全てを滅ぼす者』と自負する大魔王ゾーマの手中にある、闇の世界アレフガルド。そして、今は大魔王ゾーマの魔法力によって操られてはいるが、目の前の魔物は世界最高種である竜種の成れの果てである。

 

「……バラモスと同じように、自己修復するのか?」

 

「ちっ」

 

<スカルゴン>

古の最も希少な種族と云われた氷竜の一種の成れの果てである。今や世界中からその姿を消し、絶滅したとさえ考えられていた。そんな希少種の骨だけとなった部分を大魔王ゾーマが膨大な魔法力を注ぎ込む事によって復活させ、アレフガルド大陸を歩く番人としたのだ。

生前の記憶もなく、敵を葬るだけの存在となってはいるが、その驚異的な力は竜種の上位種そのままである。メルエの祖先である氷竜よりも下位の存在であるのか、吐き出す冷気は敵を完全に凍りつかせる程ではないが、それでも生物としては脅威に値する物であった。

大魔王の魔法力によって蘇った存在である為、大魔王が生存している限り、多少の傷や亀裂であれば修復が可能である。それは生前の竜種と云う種族では有り得ない能力でもあった。

 

「グオォォォ」

 

 声にならない咆哮を上げて再度スカルゴンが冷気を吐き出す。周囲の木々に霜が降り、気温がぐっと下がって行く中、カミュは後方で眠る二人へ視線を送り、それを庇うように盾を掲げた。予断を許さないそのような状況にも拘らず、彼の行動を見たリーシャは笑みを浮かべ、スカルゴンへと突進して行く。

 煩い蝿を払うように振り抜かれた骨だけとなった尾を僅かな隙で避けると、持っていた斧を修復中の大腿部へと振り抜いた。修復中とはいえ、神代の剣で砕かれた大腿部を再度神代の斧で砕いたのだ。最早その足は使い物にはならず、スカルゴンは先程よりも大きく身体を崩す。

 

「全ての骨を粉々に砕いてしまえば、修復など出来ない筈だ!」

 

 スカルゴンが歩いた時の振動が再現されたような音がマイラの森に響き渡った。仁王立ちのようにスカルゴンの正面に立ったリーシャが、手に持つ魔神の斧の柄を地面へと叩きつけたのだ。

 竜種最上位種と言っても過言ではない氷竜の成れの果てを相手に毅然と立つリーシャは、人類最上位に立つ戦士の姿に相応しい。最早、ルビスの塔でドラゴンを相手に弱気になった女性戦士はここにはおらず、力量こそ飛躍的に上がってはいなくとも、精神的にはあの頃よりも数段上の場所にいる筈である。

 収まりを見せ始めた冷気を感じたカミュは盾を下ろし、正面に真っ直ぐ立つ彼女の背中を見て小さな笑みを浮かべた。

 

「ぐっ」

 

 しかし、そんな彼等の余裕も瞬時に崩れ去る。それは、大きく口を開けたスカルゴンに気を取られたリーシャが真横に吹き飛んだ事によって顕現された。

 大きくしなった尾骨が盾を構える隙もなくリーシャを吹き飛ばし、カミュが間に入る暇もなく吐き出された冷気がリーシャの身体諸共に周囲の木々を包み込んで行ったのだ。吹き荒れる冷気がリーシャが身に纏う大地の鎧に霜を降ろし、一気に体温を下げて行く。

 剣を振り上げたカミュが迫り来る尾骨を弾き返してリーシャの傍に辿り着いた頃には、彼女は歯が嚙み合わない程に震え、唇を紫色へと変色させていた。メルエの放つ冷気の最上位呪文は、寒さを感じる暇もなく細胞全てを凍りつかせて行く。それに比べ、徐々に身体の体温を低下させるような冷たい息は、生物の活動を鈍らせて行くという物であった。

 

「ちっ……文句は言うなよ」

 

 リーシャの状況を把握したカミュは軽い舌打ちと共にリーシャの鎧目掛けて最下級の火球呪文を唱える。燃え上がる火球がリーシャの腹部に直撃し破裂し、火の粉が飛び散る中、彼女の鎧に降りた霜が溶けて行った。

 荒療治にも程があると文句を言える程の行為ではあるが、強敵を目の前にして身体を暖めている暇などありはしない。多少の火傷を覚悟の上での行為であったのだろうが、それを受けたリーシャもまた、状況を理解している為に苦情の一つも言わずに立ち上がった。

 

「立ち上がれないにも拘らず、とんでもない魔物だな」

 

「尾には気をつけろ。それに、戦闘に慣れて来たのか、先程よりも若干だが冷気が強くなっている」

 

 闇の中で不気味に光るスカルゴンの瞳の窪みを見ながらも、二人は再び戦闘態勢に入る。冷静に分析をしている二人ではあるが、その内容が恐ろしく厳しい物である事も重々承知していた。

 スカルゴンの左大腿部は粉砕されており、自然治癒だけでは回復が難しい事は明白である。片足を失い自由に動けない魔物の相手となれば、カミュ達がかなり有利な状況になる事は確かであるが、それを感じさせない程の力をスカルゴンは有していた。

 更に言えば、先程リーシャが受けた冷気は、先程まで受けていた物よりも威力が上がっている事が解る。それは、ここから先の戦いの中でかなり不利な状況に陥る可能性さえも示唆しているのだ。

 

「……一体であっただけでも救いだろうな」

 

「動けない相手だ。冷気を交わしながらでも叩くしかあるまい」

 

 カミュの言う通り、この魔物が二体以上いた場合、逃げ出す事は不可能に近い。ルーラを使用して逃げるにしても、その詠唱が完成する前に全滅する可能性すらある。それ程に危険な相手である事は、この数度の攻防で身を持って二人は感じていた。

 だが、今の状態であれば、二人が圧倒的に有利である事実もまた変わらない。如何に強力な魔物とはいえ、身動きが取れない状態で人類最高峰の戦力を相手に優勢を保ち続ける事は不可能であろう。時間は掛かるかもしれないし、代償は必要かもしれないが、カミュ達二人の勝利は揺るがない事も確かであった。

 

「グオォォォォ」

 

 しかし、そんな冷静な分析に基づく余裕は、カミュ達の後方から轟く咆哮によって霧散する事となる。それは、先程までに感じていた最低最悪の状況の訪れを示唆していた。

 振り向く為には前方のスカルゴンから目を離さなければならない。それが今の状況で最も危険な行為であると知りながらも、二人は振り向かずに入られなかった。そして、そこで再び襲い掛かる絶望を見る事となる。

 

「ちっ!」

 

「……マイラの森の精霊に呪われてでもいるのか?」

 

 盛大な舌打ちをしたのはリーシャであり、絶望的な光景に精霊という行為の存在に対する悪態を口にしたのがカミュである。

 このマイラの森付近で、彼らは何度も危機を味わっていた。それは、本来この森を守護する役割を持つ森の精霊の力が弱まっている事の証拠であり、アレフガルド大陸に大魔王ゾーマの力の支配が強まっている事を明確にしているのだ。

 それがこの、二体目となるスカルゴンの出現で現実味を帯びて来ていた。

 

「カミュ、お前はあの骨の化け物に止めを刺せ。それまでは何とか持ち堪えてみせる」

 

「……わかった」

 

 リーシャに頷きを返したカミュは、既に動く事の出来ないスカルゴンへと向かって駆け出す。彼としてもリーシャ一人に万全のスカルゴンの相手を押し付ける事を良しとはしていないだろう。それでもここで右往左往していては全滅の可能性が高くなるばかりであり、手負いのスカルゴンを早急に葬ってリーシャに加勢をした方が勝率は確実に上がるのだ。

 故にカミュは雷神の剣を背中へと戻し、稲妻の剣を腰から抜き放つ。駆けて来るカミュを視認したスカルゴンが尾を振るう前に、彼はそのまま剣に己の意志を命じた。

 主の命を受けた剣が神々しい輝きを放ち、その輝きが弾けるように大きな爆発を起こす。爆風と熱風が周囲を覆う中、そのまま剣を握り締めたカミュはスカルゴンに向かって振り下ろした。固い竜骨と神代の金属がぶつかり合う高い音がマイラの森に響き、それと同時に何かが砕ける乾いた音が響き渡る。爆風が晴れた後には、既に稲妻の剣を腰に戻して背中から雷神の剣を抜き放ったカミュと、尾骨を中途から斬り飛ばされたスカルゴンが現れた。

 

「ゴオォォォ」

 

 苦しみとも怒りとも言えるような叫びを上げるスカルゴンを尻目に、再びカミュが走り出そうとした時、後方でリーシャが相手をしていたもう一体のスカルゴンが巨大な咆哮と共に大きく口を開く。それは、先程までカミュの目の前で瀕死になっているスカルゴンが上げていた咆哮とは別種の物であり、聞く者の心の奥底にある本能へ警告を鳴らすような物であった。

 咄嗟に振り向いたカミュは、リーシャ目掛けて大きく開くスカルゴンの口の奥が輝いているのを見る。その輝きは、まるで永久凍土であるグリンラッドで見た氷の結晶による物に酷似していたのだ。

 リーシャが纏っているのは大地の鎧である。海で生活する生物以外の全ての者達の拠り所となる大地を護る母神に愛された者だけが纏える鎧であり、その至上の愛は、大地に及ぼすあらゆる事象を軽減させる程の物。それでも、今スカルゴンが吐き出す物は、魔法力の耐性のない女性戦士には厳しい物である事が推測出来た。

 

「フバーハ」

 

 しかし、どんな時も前線二人だけで戦闘を行って来た事などない。常に彼等の後ろには頼れる仲間が存在していた。その状態がどのような物であろうと、二人の後方には必ず彼女がいるのだ。

 未だに体調は万全でなくとも、彼女はこの一行の頭脳である。ふらつく足元を懸命に支えながらも立ち上がった彼女は、スカルゴンと相対するリーシャの前に霧の壁を作り出した。

 直後に吐き出された輝く氷の結晶は、先程のスカルゴンが吐き出した冷たいだけの息ではなく、人間のような弱い生物を凍り付かせるような息である。それでも生み出された霧はその氷の結晶を暖かな水蒸気で包み込み、水へと変えて行った。

 斧を握るリーシャは、頬を緩めながらも真っ直ぐにスカルゴンへ向かう。水へ変化した冷気を受けて身体を湿らせながらも、そこを突き抜けた彼女はスカルゴンの背骨に斧を突き刺した。だが、最も太く、最も頑丈な骨に突き刺さった斧は容易く抜く事は出来ず、痛覚を持たないスカルゴンはそんな彼女の身体を地面へと叩きつける。

 

「ぐぎゃっ」

 

 潰れた蛙のような声を出して地面へと叩きつけられたリーシャの手から離れた魔神の斧は、支える者を失い地面へと落ちる。倒れ伏したリーシャに追い討ちを掛けるように振り上げられたスカルゴンの尾骨が真っ直ぐに落とされた。

 ようやくリーシャの許へと辿り着いたカミュがその尾骨を勇者の盾で防ぎ、踏ん張りを利かせるように足を地面に突き刺す。凄まじい重圧を受けながらも尾骨を退けた彼は、そのまま雷神の剣を振り抜いて尾骨を斬り裂いた。

 

「バギクロス!」

 

 リーシャを起き上がらせるカミュ目掛けて、身動きの出来ないスカルゴンが身体を引き摺りながらも攻撃を加えようとしているのを見たサラは、枯渇状態から戻ったばかりにも拘らず、初行使の呪文の詠唱を完成させる。顔色さえも戻っていない状態にも拘らず、このような大呪文を行使する事自体が、この状態の厳しさを明確に示していた。

 木々に護られた森の中を風が荒れ狂うように舞い始める。サラが胸で十字を切るように詠唱を完成させると、真空の刃が十字に切られ、縦と横での風の動きが竜巻のように変わり、固い竜種の骨を切り刻んで行った。

 

<バギクロス>

『悟りの書』に記載された攻撃呪文の一つであり、僧侶としての魔法力を持った人間にとって最強の威力を誇る呪文でもあった。

大気中の風を味方に付け、真空の刃として敵を襲う。術者が切る十字に沿って動く真空の刃が、それを受ける者にとって断罪の十字に見える事から『バギクロス』という名前が付けられたと云われている。真空呪文であるバギ系の呪文の中でも最上位に位置し、その刃は鋼鉄さえも容易く切り刻むとされていた。

『悟りの書』という場所に記載されている事から、現在は失われた神秘となり、最早この呪文の存在を知る者は、魔族やエルフ族以外には存在しない。

 

「カミュ様!」

 

 手負いの一体を葬り去ったサラは、視線をカミュへと向けるが、倒れ伏すリーシャに最上位の回復呪文を唱えていた筈の彼の姿はそこにはなかった。視線を上へと向けると、どんな時でも彼女達三人を導いてくれていた青年が鋭い牙によって嚙まれて持ち上げられている姿が見える。そこには、先程まで存在しなかった三体目のスカルゴンの姿があったのだ。

 一体を葬り去り、残る一体を目覚めたサラを含めた三人で相手をしようとしていた矢先の三体目の登場である。ルビスの塔での絶望を乗り越えて決意を新たにした者達の心を再び折ってしまいかねない状況に追い込まれていた。

 

「カミュを離せ!」

 

 回復呪文を受けていたリーシャは、立ち上がり様に魔神の斧を拾い上げ、カミュを咥えているスカルゴンの大腿骨を駆け上がる。そのまま首の骨を目掛けて斧を振るうが、首の骨を砕く事は出来なかった。だが、それでも顎の力を弱めるだけの攻撃であったのか、カミュはその口元から離され、真っ逆さまに地面へと落ちて行く。地面へ叩きつけられたカミュの腕はあらぬ方向へと曲がり、意識は飛んでいた。

 そんな青年に駆け寄ろうとしたリーシャを阻むように、先程凍り付く息を吐き出したスカルゴンが後ろ足を突き出す。忌々しげにスカルゴンを見上げたリーシャの瞳に怒りの炎が宿り、途中で途切れている尾骨を水鏡の盾で弾き返して全力で斧を振るった。

 

「グオォォォォ」

 

「フバーハ」

 

 竜骨へと斧を突き刺すリーシャの横から、新たに現れた三体目のスカルゴンが生物を凍らせる息を吐き出す。それを避ける術はリーシャにはなく、水鏡の盾を掲げた瞬間、彼女の前面に再び霧の壁が出現した。

 頼もしい味方の援護に口端を上げたリーシャではあったが、それと同時に前のめりに倒れる賢者の姿を見て眉を顰める事となる。

 如何に世界で唯一の賢者といえども、先程まで魔法力の枯渇によって命さえも手放しかねない状態であった者である。その人間が大呪文を何度も行使出来る訳はなく、再び魔法力が枯渇状態になったのだ。

 祈りの指輪を使おうにも、その指輪は何度も精霊神の力に耐えられる物ではない。つい先程、離れ行く魂さえも繋ぎ止める神秘を見せたその指輪に、それだけの力が残っているとは思えなかった。つまり、今の現状でサラの魔法力を回復させる方法が無いに等しいという事である。

 

「カミュ!」

 

 一旦態勢を立て直す事を決断したリーシャが横たわるカミュの身体を担ぎ上げ、スカルゴンから距離を取るように後ろへと下がる。眼球のない窪みをリーシャに向けたままのスカルゴン二体も敢えてその後を追うような事はなく、冷気を吐き出す準備をするように身体を向けていた。

 前のめりに倒れていたサラも何とか身体を起こし、戻って来たリーシャが下ろしたカミュの身体の状態を調べようと動く。だが、既に魔法力が枯渇している彼女に唱えられる回復呪文はなく、これ以上の行使は彼女の命さえも削ってしまう物であった。

 

「サラ、祈りの指輪は使えないのか?」

 

「……はい。その力が感じられません。暫くは使用出来ないのかもしれません」

 

 荒い息を吐き出したサラは、リーシャの質問に必死に答える。しかし、既にその顔は青白い物を通り越し、土色へと変化していた。それは、正に死相と言っても過言ではないだろう。それでも必死に身体を動かそうとする妹のような存在に、最近緩んで来た涙腺が再び崩壊しそうになるのをリーシャは必死に抑えた。

 今は泣いている暇などありはしない。目の前には未だに活動を停止させないスカルゴンが二体、虎視眈々とカミュ達を狙っているのだ。力及ばずとも、この場を切り抜ける為に力を振るえるのはリーシャという女性戦士しか存在しないのが事実。

 この状況がどれ程に最悪な物であっても、ここで心を折らぬだけの成長は、マイラの村の宿屋で眠るメルエを前にして遂げているのだ。それは決意であり、誓いである。彼女は二度と心を折らない。どれだけ強敵を前にしても、どれだけの苦難にぶつかろうとも、彼女の心は折れる事はないのだ。

 

「サラ、カミュの治療は放っておけ。目が覚めれば、自分で治すだろう。もし、目を覚まさなければ、叩き起こしてやれ。お前は眠っている場合じゃないだろうとな」

 

「え?」

 

 斧を構えたリーシャの瞳は、既に前方で口を大きく開いたスカルゴンへ向けられている。その背中は今まで見て来た彼女の物よりもずっと大きく見え、何処か安心感さえも感じさせた。

 だが、それでも巨大な竜骨の魔物は強力であり、彼女一人で支える事は不可能であろう。その証拠に、あれ程に大きく見えていた背中は、死へと真っ直ぐに突き進む哀しい色を帯び始めていた。それに気づいたサラは、再び己の中で何かを決意する。そして、ゆっくりと立ち上がり、静かに瞳を閉じた。

 前方では横薙ぎに振るわれた尾骨を盾で弾き、一体の脛を斧で砕くリーシャの奮戦が見える。しかし、その劣勢は明らかであり、攻撃をした直後に吹き抜ける冷気が徐々に彼女の動きを鈍らせていた。

 

「……ルビス様、申し訳ございません。二度もお救い頂いた命を、再び投げ出す事をお許し下さい」

 

 前方での戦闘は苛烈を極めている。一体のスカルゴンの腰の骨を砕いたリーシャではあったが、一体が振るった足を受けて大木へと身体を打ち付けていた。咳き込むように血を吐き出した彼女が立ち上がろうとする頃、先程まで閉じられていたサラの瞳が開かれる。

 祈りを捧げるように胸の前で合わせられた両手に力を込める。じわりと滲み出すようにサラの身体全体から光が溢れ出した。その輝きはこれまで見た物とは大きく異なる。メルエが竜種に戻る為にドラゴラムを唱えた時や、サラが蘇生を叶える為にザオリクを唱えた時とも異なっていた。

 それは、魔法力の発現ではなく、本当に命その物を放出しているような危うい輝き。

 

「……大事な者達を傷つける者を、我が命と引き換えに退け給え」

 

 呟きが言霊となり森へと溶けて行く。サラの言葉の一言一句が溶けて行く度に彼女の身体から発せられる輝きは強くなって行った。溢れ出した輝きは大きな力となり、漆黒の闇に閉ざされた森を覆うような光となる。

 全てを告げ終えたサラの顔色は、既に土色を通り越し、生者の物ではなかった。何処か儚く、それでいて神々しささえも感じる彼女の存在は、『人』であるとか、『賢者』であるとかを超越した存在に昇華してしまったのかもしれない。

 強く合わされた両手を解き、前方のスカルゴンへと突き出したサラは、大きく息を吸い込み、最後の言霊を大気に乗せる。

 

「メガン……」

 

「……何をするつもりだ」

 

 しかし、その言葉は最後まで紡がれる事はなかった。詠唱を完成させる最後の一言を口にしようとしたサラの肩が強く引き戻されたのである。

 中断された言霊は何も生み出す事なく大気へ溶け、サラを覆っていたあれ程の輝きは時間を撒き戻したように身体の中へと吸い込まれて行った。再び闇に支配されたマイラの森に、投げ出された『たいまつ』の明かりと、スカルゴンの瞳の窪みから放たれる不気味な光だけが取り残される。それは、サラの決意にも似た何かが不発に終わった事を示していた。

 

「……アンタが死んでどうする。後ろで黙ってみていろ」

 

「……カミュ様」

 

 サラを後方に押し退けたカミュは、雷神の剣を握って前方へと駆け出す。取り残される形となった彼女は、それでも駆けて行く勇者の背中から目が離せなかった。

 これまでも何度も見て来た背中である。危機に陥った時、必ず見ていた背中でもある。誰よりも前に立ち、どんな災いからも後方にいる者を護る為に立ち続けて来た者の背中であった。それが今、一回りも二回りも大きく見えている。先程のリーシャの背中よりも大きな安心感に包まれた時、サラは再び意識を手放し地面へと倒れ込んだ。

 

 

 

 木の根元で座り込んでいたリーシャは自分が優しい光に包まれて行く事を認識する。まるで父親に抱かれたような暖かさと安心感が身を包み、今まで感じていた痛みも苦しみも消して行く事を感じた彼女はゆっくりと瞳を開けた。

 目の前には彼女が想像していた通りの者の姿が映り、今まで感じた事のない嬉しさが込み上げ、自然と頬が緩んで行く。何か押さえようのない衝動が彼女の胸の中に湧き上がるが、その感情が何なのかが解らない彼女はその衝動を抑える事しか出来なかった。

 

「アンタは今の状況が解っているのか? アンタこそ、眠っている場合ではない筈だ」

 

「ふふふ。そうだったな、すまない」

 

 自分の前で笑みを溢すリーシャに眉を顰めたカミュは、憎まれ口に近い物を口にする。そんな彼の口調と内容が面白かったのか、小さな笑い声を漏らした彼女は、素直に謝罪を口にして立ち上がった。

 手に持った魔神の斧を一振りし、前方で口を開くスカルゴンを一睨みする。その視線は、既に人類が放てるような気配を持つ物ではない。相手を怯ませ、行動を遅らせる事も出来る程の威力を持つ視線であった。

 

「サラは?」

 

「寝かせた」

 

 短い言葉のやり取り。それだけでこの二人には十分であった。

 最早後方からの援護は期待出来ない。サラとは異なり、完全に魂を切り離されていたメルエは暫く目を覚ます事はないだろう。サラに至っては、再度陥った魔法力枯渇という状態から抜け出すには、少なくとも丸一日以上の睡眠が必要となって来る筈であった。

 それでも、先程サラの援助が必要であった勇者と戦士は最早ここにはいない。あの援助と、あの覚悟を見た彼等二人にとって、前方で喚く亡者など敵ではなかったのだ。

 

「そうか。ならば、行くか?」

 

「すぐに終わらせる」

 

 後方で地面に倒れ伏すサラへと視線を送ったリーシャは、満足そうに頷いた後でカミュへと視線を送る。その視線に気づきながらも目を合わせる事なく、カミュは剣を掲げた。

 相手の力量は解った。攻撃方法も解っている。強敵である事も、その力量の差も理解している。それでも、今の二人にとっては目の前のスカルゴンなど敵ではない。己の内から漲る自信と、自分の隣に立つ者への信頼。その二つがあれば、二人がこの程度の魔物に負ける訳はないのだ。

 駆け出すリーシャの横をカミュが疾走する。大きく開かれた一体のスカルゴンの口から生物を凍り付かせる程の冷気が吐き出された。その瞬間に前へと移動したカミュが左腕に装備された勇者の盾を掲げる。

 

「……行け」

 

 勇者の盾とは、アレフガルド大陸を救った勇者が装備した盾。その盾はありとあらゆる物から装備者を護る。燃え盛る炎はまるで盾を避けるように吹き抜け、凍えるような吹雪は盾が持つ神聖な輝きによって溶かされるとさえ云われていた。

 その名に相応しく、掲げられた勇者の盾を中心にカミュやリーシャを包むように暖かな空気が広がり、生物を凍り付かせる程の冷気はカミュ達へは届かない。神代の勇者が所有していた盾が、次代の主として、次代の勇者としてカミュを認めた瞬間でもあった。

 冷気を遮る大きな盾に守られていたリーシャは、カミュの合図と共に一気にスカルゴンの前へと躍り出る。虚を突かれたスカルゴンは、全力で振り抜かれた魔神が愛した斧の一撃を無防備で受ける事となった。

 

「グオォォォ」

 

 苦悶のような声を上げたスカルゴンの腰骨が粉々に砕け散る。上半身を支える腰骨を砕かれた事によって自然の法則に従い落ちて来る巨大な頭蓋骨に下から突き上げるように振り抜かれた斧が突き刺さる。

 腰骨を粉砕した時の一撃よりも弱かった為なのか、突き刺さった斧が頭蓋骨を両断する事は無かったが、巨大な頭蓋骨が突き刺さった斧を手放さずにその上半身の重量を支えるリーシャは、人間としての枠を完全に超えてしまっているのだろう。

 そして、そんなリーシャに向けて口を大きく開いたスカルゴンに向かって駆け出したカミュが前方に手を広げながら詠唱を完成させる。突き出された手の先にあるスカルゴンの口の中で空気が一瞬で圧縮され、カミュがその掌を閉じた瞬間に一気に弾け飛んだ。

 

「うらぁぁぁ!」

 

 カミュが放ったイオラという中級爆発呪文に怯んだスカルゴンを捨て置き、リーシャの斧に突き刺さった頭蓋骨を繋ぐ首の骨に向かって雷神の剣を振り下ろす。巨大な頭蓋骨を支える為に太く作られている骨ではあったが、神代の勇者と同格の者と認められた青年の一撃に耐える事は出来なかった。

 頭部との繋がりを失った上半身は、そのまま地面へと落ちて行き、地響きを立てて崩れて行く。地面に落ちた骨はそのまま風化して行くように砂に戻って行った。

 

「カミュ、残り一体だ!」

 

 仮初の命を失った竜種の頭蓋骨を放り投げたリーシャは、残る一体のスカルゴンに向けて斧を振るう。先程までの苦戦が嘘のように一体を葬り去った二人ではあるが、スカルゴンが強力な魔物である事に変わりはない。勇者の盾の威力に行動が遅れたスカルゴンであったからこそ、一気に勝負を決める事は出来たが、残る一体が先程と同様に簡単に崩れるとは思えなかった。

 だが、それでも二人の自信は揺るがない。最早、今目の前に居る存在は、そこまで大きな魔物ではない。竜種とか、魔族とか関係はない。既にカミュとリーシャは、この竜種の成れの果てよりも上位に立ってしまっているのだ。

 

「グオォォォ!」

 

「メルエの祖先の同種かもしれないが、それでも愛着は湧かないな」

 

「アレに愛着が湧くようであれば、アンタも人間ではないだろう」

 

 威嚇するように咆哮を上げるスカルゴンを見ながら呟いたリーシャの軽口に、カミュは口端を上げる。それだけの余裕が彼等二人の心に生まれていた。

 一度笑い合った二人は、一陣の風となってスカルゴンへと突き進んで行く。待ち受けていたように大きく口を開いたスカルゴンが凍り付く息を吐き出すが、それを読んでいたようにカミュが雷神の剣を掲げた事によって生まれた大きな火炎がその冷気を防いだ。

 冷気と火炎がぶつかり合い、蒸発して行く熱した空気を潜り抜け、リーシャが斧を真っ直ぐに振り下ろす。大きく口を開いた頭蓋骨の鼻先に突き刺さった斧は口元を真っ二つに斬り裂いた。

 着地したリーシャを追い越すように走り抜けたカミュが雷神の怒りにも似た一撃を繰り出す。真横に薙ぎ払った剣は、片足の骨を真っ二つに斬り裂き、大きなスカルゴンの胴体を地面へと崩した。

 

「生まれ変わる時には、再び世界の守護者と成り得る竜種の誇りを……」

 

 崩れ落ちて来たスカルゴンの瞳の窪みの光は消え掛けている。その瞳の色を見たカミュが哀れみを持った視線を送り、雷神の剣を一気に振り下ろす。スカルゴンの眉間に入った剣は、稲妻を落としたかのよう音を響かせて竜種の頭蓋骨を砕いて行った。

 粉砕された骨はそのまま砂に還るように風に乗り、マイラの森の奥へと消えて行く。それは、この厳しい戦闘が終了した事を物語っていた。

 僅か数刻前よりも前衛二人の力量が上がっている事を示す物であり、彼等二人の大望にまた一歩近づいた事を示している。勇者一行の攻撃の要の強化が着々と進んでいたのであった。

 

「カミュ、マイラの村へ戻らず、このままルーラでラダトームへ向かった方が良いのではないか?」

 

「そうだな。ラダトームの宿屋で休もう」

 

 先程までの激戦の余韻はない。既にスカルゴンであった竜種の骨は全て風化し、風と共に大地へと還っている。魔神の斧を一振りして背中へと戻したリーシャが、同じように剣を背中へと戻したカミュへと問い掛けた。

 マイラの森からマイラの村へ戻る必要はない。オリハルコンと云う神代の金属を手にしていない以上、あの武器屋による必要もなく、あの村の宿屋に固執する理由もなかった。ならば、木々が開けた場所でルーラを使用して、そのままラダトームへ向かう事に何も支障はないのだ。

 そのままサラを担ぎ上げたリーシャが、メルエを抱き上げたカミュの腕を掴んだ事で、移動呪文の詠唱は完成する。先程の戦闘で薙ぎ倒された木々によってぽっかりと開けた空への道を上がって行った光は、南西への方角を定めて飛んで行った。

 

 生まれ故郷のある世界全体が恐れていた魔王バラモスを討ち果たす実力を有した者であっても、大魔王ゾーマが生きた世界の魔物達には届かない。世界最高種と呼ばれる竜種の上位種にさえも届かなかった。

 だが、彼等の想いは強い。世界を救うというような物ではなく、その手にある者を憂うその心は、『人』として最も強い想いなのかもしれない。その想いの先に、世界を脅威に陥れる大魔王ゾーマの討伐という大望が見えているのだろう。

 勇者一行の旅は、最終局面へと近付いていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
二十章の開始です。
頑張って描いて参ります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ラダトーム王都③

 

 

 

 ルーラによってラダトーム王都へ戻った一行は、そのまま宿屋の門を潜る。既にラダトーム国王に大魔王ゾーマの討伐を誓っている身であるのだから、ラダトーム王城の中で一室を借りる事は可能であろう。だが、それを望む者は一行の中に誰もおらず、サラとメルエの意識が戻っていないという状況もあって、そのまま宿屋で二部屋を借りる事となった。

 宿屋の一室にメルエとサラを寝かせ、カミュ達も仮眠を取る。ルビスの塔を離れ、メルエの容態に心を配り、更には死という物を目の当たりにした彼らもまた、想像以上の疲労を溜めていたのだろう。湯浴みをする事もなくベッドに入ると、そのまま意識を失うように眠りに就いた。

 そんなカミュ達二人が目を覚ましたのは、一日近くが経過した後となる。その頃でもまだサラとメルエの意識は戻らず、彼女達二人がかなり危険な状態まで陥っていた事を証明していた。

 

「私が買い物に行って来るから、お前は二人を見ていてやってくれ」

 

「わかった」

 

 二人はここ数日食べ物を口にしていない。それを考えたリーシャは、マイラの村で出来なかった温かな料理を作る事を決め、留守番を先程マイラの村から戻ったばかりのカミュに託す。マイラの村から直接ラダトームへ戻った為、目を覚ました後に再度ルーラを行使し、カミュはマイラの村の宿屋に置いて来ていた荷物を取って来ていたのだ。

 この場をそんなカミュに託すというリーシャの考えは間違いではない。メルエの心は既に救われている事は明白であり、再び一人で彷徨い歩く事はないだろう。それでもリーシャは、この二人を心から心配しており、目付け役としてカミュを残したのだった。

 メルエを蘇生させたとはいえ、彼女を明確な死へ向かわせた原因の一端はサラにある。それを誰よりも知っているのはサラであり、故にこそ責任を感じ続けていた彼女は、己の命を犠牲にして仲間を救おうと行動したのだろう。スカルゴンとの戦闘時にカミュが感じたサラの呪文行使の雰囲気を聞いたリーシャは、そう結論付けていた。

 その後、宿屋の厨房を借りて温かなスープを作ったリーシャは、市場で売っていた柔らかなパンを軽く焼いた物と一緒に部屋へと持って来る。その頃になってようやく、賢者が目を覚ますのであった。

 

「あっ……」

 

「起きたのか?」

 

 ぼんやりとする意識の先にカミュとリーシャがいる事に気づいたサラは、何処か気まずそうに表情を歪めて視線を逸らす。彼女にとって、今回のルビスの塔からの一連の出来事は自らの責任が大き過ぎると感じているのだろう。掛け布団を握る手が細かく震えている事からもそれが容易に想像出来た。

 そんな彼女の予想通りの表情に苦笑を漏らしたリーシャは、盆に載せたスープとパンを彼女へ渡し、その傍に椅子を動かして腰を下ろす。自分の傍にリーシャが座った事でびくりと身体を動かしたサラは、手渡された料理に口を付ける事もなく、ただじっとその盆を見つめていた。

 

「ゆっくり食べろよ。急に食べると、身体が驚いてしまうからな」

 

 優しい笑みを溢すリーシャをちらりと見たサラは、再び盆へ視線を落とし、そのまま黙り込んでしまう。スープを掬うスプーンを持つ事もなく、何かを恐れるように身動き一つしないサラに対し、リーシャは大きな溜息を吐き出した。

 そんな溜息にすら過剰に反応したサラを見たカミュは静かに瞳を閉じてドアにもたれ掛かるように立ち、カミュの姿を見たリーシャは意を決したようにサラへと口を開く。これは後回しにしてはいけない内容の話となるのだろう。それを理解したリーシャは視線を合わす事もないサラを真っ直ぐと見つめた。

 

「何か気になる事でもあるのか? メルエはサラの横でまだ眠ったままだ」

 

「!!」

 

 リーシャの口から飛び出した少女の名を聞いたサラは、先程以上に大きな反応を示し、大きく開かれた瞳をリーシャへと向ける。それがサラが最も心を痛め、現状で最も話題にしたくはない事であったのだ。

 怯えるように瞳を潤ませてリーシャを見るサラは、明らかに何かを恐れている。その恐怖の内容を知っていて尚、リーシャもカミュもその事には一言も触れはしない。それはサラが己の口で吐き出さなければならない事であるからだ。

 

「なぜ……何故、カミュ様もリーシャさんも私を責めないのですか!? メルエがあのような状況になったのは私が原因です! 私はメルエを殺してしまうところだったのですよ! 私は……私は!」

 

「そうだな……それは否定しない。サラがメルエを拒絶したからこそ、この状況になった。それは変えようのない事実だ」

 

 変わらず真っ直ぐに見つめて来るリーシャの視線に耐えられなくなったサラは、己の心を吐き出すように叫び始める。押し潰されそうになる程の罪悪感と、生涯消える事のない後悔。それから逃げ出したいという心が、彼女の声を大きくさせていた。

 だが、彼女の目の前に居る姉のような存在は、それを否定してくれるような甘い人間ではない。サラの言葉を全て肯定し、彼女の罪を明確にする。それはサラという賢者には己を断罪するような厳しい言葉であった。

 

「だが、サラはメルエを救ってくれた。あのままでは私もカミュも喪失感で大魔王ゾーマへの戦いどころの話ではなかっただろう。今はサラへ感謝の気持ちしかない」

 

「で、でも……」

 

 リーシャの言葉の中身は理解出来る。しかし、己を許す事の出来ないサラにとっては、それは慰め以外の何物でもなく、即座に受け入れる事の出来ない物であった。言い淀むサラを優しく見ていたリーシャではあるが、突如厳しく眉を顰め、真っ直ぐに彼女の瞳を射抜く。その視線を受けたサラは恐怖よりも安堵に近い表情を浮かべた。

 だが、やはり、この母のような、姉のような女性戦士は、そんな妹の逃げを許すような人間ではない。

 

「メルエの事は今は良い。サラがあの場面で自分の力の全てを使って救ってくれた。それだけで今は十分だ。だがな……カミュから聞いたが、あの竜の骨との戦闘で、サラは自己犠牲の呪文を行使しようとしたのか?」

 

「え?」

 

 突然矛先が変わってしまった事に驚いたサラは思考が追いつかない。呆けた表情に変わった彼女であったが、リーシャの真剣な表情と更に鬼気迫る程の怒気を感じ、言葉を失ってしまった。

 スカルゴンとの戦闘でサラが行使しようとした呪文の詳細をカミュもリーシャも理解出来ていない。ただ、既に意識を戻していたカミュが己に回復呪文を行使する中で聞いた文言を聞く限り、サラが行使しようとしていた物が、彼女の命を代償に発現する物である事が容易に想像出来た。戦闘が終了し、ラダトームに辿り着いた後、サラが一向に起きない事を心配したリーシャに向かって、カミュはその経緯を話している。それは、リーシャにとって最も許す事の出来ない行為であったのだ。

 

「自己犠牲は美しいか、サラ? 自分の胸に湧き上がる罪悪感と、この先も苦しめられるであろう後悔から逃げる手段に私達を使うな! その命の犠牲で助かった私達は、サラ以上の罪悪感と後悔で苛まれる事になるんだ! この世に残る人間の心も考えてくれ……サラを想う人間はたくさんいるんだぞ……私も、カミュも苦しむ。そして、誰よりもメルエが苦しむんだ」

 

「リ、リーシャさん……」

 

 怒りを通り越し、悲しみに押し潰されそうになった女性戦士の瞳から涙が零れ落ちる。最近涙腺が弱くなった彼女は、唇を噛み締めながら視線を落とした。

 この一行全員は、大なり小なり自己犠牲によって生かされている。特にサラやメルエは両親の愛で生かされていた。それもまた両親の自己犠牲による物であるが、サラもメルエも幼かった事もあって、その犠牲に感謝する事はあっても後悔はしていない。

 だが、リーシャだけは、自身の身を犠牲にして他者を生かした父親を誇りに想うのと同時に、それによる後悔を強く持っていたのだ。残された者は、その罪悪感と後悔を背負って生きていかなければならない。それをこの四人の中で最も感じて生きて来たのは彼女に他ならなかった。

 

「いいか、サラ。自分の命を掛けてでも護りたいと思う事の出来る相手がいるのは幸せな事だ。だが、サラがそう想う相手であれば、その相手も同じ事を想うだろう。サラを護る為に私が死んでいたら、どう想う? 私の命の上に成り立つサラの命は、簡単に捨てる事の出来ない物だ。周囲の目に苦しもうと、大きな期待の重圧に苦しもうと、投げ出す事は出来ない。死んで行く者は、良い事をしたと思うかもしれないが、残された者には苦しい道が続く。本当に私達を思ってくれるのであれば、共に生き残る道を決して諦めないでくれ」

 

 サラは言葉を発する事が出来なかった。それ程にリーシャの想いは強く、サラの心の奥底に突き刺さって行く。自分が成そうとしていた事は、決して綺麗事だけでは済まされない物であり、それによって全員を苦しめてしまう可能性さえもあった事を痛感したのだ。

 故に言葉が出て来ない。サラなりの言い分は幾らでもある。それこそ、あの戦いがそのまま続いてしまっていれば、カミュやリーシャを失う可能性もあり、そうなれば力の無いサラやメルエは即座に命を落としただろう。そうならない為にも自分の命を犠牲にしようとしたという言い分は正当性を欠く物ではない。

 だが、その前にリーシャに告げられた言葉は、サラの心の奥底にある想いを的確に捉えていたのだ。メルエに対しての罪悪感、自身に対しての強烈な後悔。それは否定出来ない程の物であり、そこから逃げ出したいと考えていた事も今考えてみれば事実であった。

 

「……メガンテという呪文です」

 

「ん?」

 

 的確に突かれてしまえば、それを認めるしかない。そして、それを認めてしまえば、自分が悩み、苦しんで来た理由が明らかになる。全てが明らかになれば、恐れていた事が嘘のように、サラの胸にしっかりと落ちて来た。

 自分があの時考えていた事は、バラモス城でリーシャに頬を張られたカミュのように気高い物ではない。自身の命を投げ出すという部分だけは同じであっても、その胸の内にある想いが異なっていた。

 アリアハンを出たばかりの頃のカミュであれば、想いは同じであったかもしれない。自分の命を軽く見て、生きる希望も気力もそれ程はなく、いつその命を手放しても良いとさえ考えていただろう。だが、今の彼の瞳には、そのような諦めや絶望の光は欠片もない。それは明確な違いであった。

 

「己の命と引き換えに、脅かす敵を全て葬り去ると伝わる、『悟りの書』に記載されていた呪文です。その効力の信憑性が何処までかは解りませんが、行使した者の身体は粉々に砕け散り、二度と……!!」

 

 メガンテと呼ばれる僧侶の流れを汲む者の最終奥義に近い呪文の詳細を話し始めたサラであったが、その言葉を最後まで口にする事は出来なかった。

 部屋全てに響き渡るような強烈な音と、目の前が一気に闇に閉ざされるような衝撃がサラを襲う。一瞬、何が起こったのかさえ解らぬ衝撃を左の頬から頭部に受け、彼女はベッドから吹き飛ばされたのだ。

 壮絶な音を立ててベッドから吹き飛ばされたサラは、木で出来た床に落ちる。意識が飛んでしまったのではないかと思う程に脳が揺れ、吐き気が襲い掛かる程に目が回っていた。ゆっくりと意識が戻って行くのを感じると、即座に顔の左半分に壮絶な痛みが襲い掛かる。

 足元が覚束ない状態でベッドの淵に手を掛けて立ち上がろうとするサラは、自分の左側の視界が徐々に失われて行くのを感じた。それは、先程受けた衝撃の影響で左の頬が左目を覆うように腫れ上がって行っているからである。真っ赤に腫れ上がる頬と瞼が視界を完全に覆ってしまった頃、ようやくサラはベッドに掴まりながらも立ち上がる事に成功した。

 

「おい、やり過ぎだ」

 

「うるさい! カミュは黙っていろ!」

 

 意識も朦朧とするサラを見ていたカミュが、その状況に落とした張本人を抑えるように近付くが、怒り心頭の女性戦士の想いは治まらない。振り解くようにカミュの腕を払った後、サラの目の前まで近付き、仁王のように上から彼女を睨み付けた。

 片目分の視界しかなく、その瞳ですらぼんやりとしか周囲を認識出来ないサラは、近付いて来る鬼のような女性戦士を焦点の合わない瞳で見上げるしか出来ない。それでも、徐々にはっきりとして行く意識の中で、自分の発した言葉に彼女が激怒している事を理解して行くと顔右半分を青くして行った。

 

「粉々に砕け散るだと!? その後はどうするつもりだった!? 答えろサラ! サラの肉片を見ながら、私達はどうすれば良いんだ!?」

 

「あ……あ……」

 

 鬼気迫るリーシャの表情と言動が、揺れる脳に痛い程に響く。先程までは自分が行った自虐行為を頭では理解していただけであった事が解った。リーシャの怒りの表情と、それにも拘らず瞳から流れ落ちる涙が、サラの心に太い杭となって突き刺さって行く。

 あの呪文が成立してしまった時、自分は既にこの世にはおらず、粉々に砕け散った肉片と化していただろう。血肉を撒き散らし、真っ赤に染め上がった大地で、生き残った者達はその光景を見つめる事しか出来ない。行使者の想いも願いも、夢も希望も伝わらず、深い後悔と大きな喪失感に苛まれながら、呆然と立ち尽くすしかないのだ。

 その光景を想像した時、サラは自分がその場にいる事の出来ないという当然の事をようやく理解する事が出来た。それは、もう二度と、目の前で涙を流す女性戦士を見る事も出来ず、その声も聞く事が出来ないという事であり、自分が夢見る世界を体感する事も出来ないという事である。

 

「…………サラ…………」

 

 そして、あれ程に生還を願った少女と二度と会えないという事を示しているのだ。

 小さく震える声で姉のように慕う女性賢者の名を呼ぶ少女の瞳は何処か怯えを含んだように潤んでいる。その瞳を残る右目で確認したサラは、無意識に大粒の涙を溢した。

 この少女に自分が大好きである事を伝えなければならない。それを伝える為に自分が生き残った事を思い出し、それを伝える前に再び死に急いだ己を激しく悔やんだ。怯えるように上目遣いで自分を見る少女に笑いかけようと口元を動かすが、腫れ上がっている頬では上手く笑顔が作れない。それでも涙は溢れ、腫れて見えない左目からも洪水のように零れて行った。

 

「メ、メルエ……ご、ごべんなさい」

 

 腫れが酷くなった頬では上手く言葉が紡げない。いや、それよりも大泣きしている状態では言葉も発する事は出来ないだろう。それでも彼女の声は幼い少女に届いて行く。先程まで俯くようにサラを窺っていた少女は、両目を涙で一杯にしながらサラの腰へとしがみ付いた。

 絶対に離れないという意思表示のように、きつく腕を回したメルエは、顔をサラの腹部に押し当てたまますすり泣くように嗚咽を漏らす。そんな少女の姿が、サラの心に強い後悔と、それ以上の感謝が押し寄せた。

 この幸せを自ら手放そうとした己への後悔と、それを防いでくれた仲間への感謝、そして一度は手放しかけた命を再び戻してくれた精霊ルビスへの感謝である。真っ赤に腫れ上がった頬の痛みも忘れる程の喜びに打ち震え、崩れるようにメルエを抱き締め、そして、自分の胸の中にあった堰を自ら切るように大きな声で泣き声を上げた。

 

「あの腫れが引くまでは外に出る事も出来ないぞ」

 

「うっ……ホイミで腫れは引かないのか?」

 

 サラとメルエの感動的な再会に涙を浮かべていたリーシャであったが、近付いて来たカミュの厳しい指摘に言葉に詰まる。確かに、先程は感情が高ぶっていた為に強く平手を振り抜いてしまったが、彼女の力は人類最高峰にある物であり、不意を突けば人類の勇者の意識さえも刈り取る事の出来る者であるのだ。

 その力を一点集中で顔面に受ければ、通常の人間であれば顔面の骨が砕けていても可笑しくはない。それでも意識を手放す事なく、大きな怪我もなかった事が、サラという人間が大魔王さえも倒し得る勇者一行の一人である事を物語っていた。

 しかし、見る見る腫れ上がった彼女の頬は、その尋常ではない被害を明確にしており、既に左半分は右半分の倍ほどの大きさになっている。今はメルエとの再会の感動と、己の中にある全てを吐き出す興奮によって痛覚も麻痺しているのであろうが、それが醒めると、凄まじい痛みと高熱にうなされるであろう事は容易に想像出来た。

 

「ようやく死地から戻って来た者を再び死地へ追い落とすな」

 

「……すまない」

 

 大声で泣き続ける二人を余所に、厳しい言葉を受けたリーシャが肩を落とす。先程までの怒気を消し去り、意気消沈してしまったリーシャに軽い溜息を吐き出したカミュは、メルエを抱き締めたまま泣き続けるサラの顔に手を翳し、最上位の回復呪文を詠唱した。

 徐々に顔面の腫れが引いて行き、再び美しい姿に戻って行く。頬骨や頭蓋骨に損傷はなかったのだろう。元通りに戻った事に安堵の息を吐き出したリーシャであったが、そんな自分の状態に気付かないかのように、サラは泣き続けていた。

 

「メルエの為に料理を作ったのだろう? 持って来たらどうだ?」

 

「あ、ああ。そうだな、そうだったな」

 

 未だにメルエが目を覚ましていなかった為、リーシャは彼女の分の食事を持って来ていない。スープは温かい方が良く、柔らかなパンも温かな方が良いに決まっている。リーシャを気遣うようなカミュの提案に一も二もなく頷き、そのまま台所の方へと消えて行った。

 慌しく階段を駆け下りる音が部屋に聞こえて来る頃になって、ようやくサラの腰からメルエが顔を上げる。その瞳は涙で濡れてはいるが、不安に満ちており、頼りなく揺れ動いていた。そんな少女をようやく戻った視界で捉えたサラは、その不安を受け止める役目を全うしようと身構える。暫し見つめ合った後、静かにメルエが口を開いた。

 

「…………サラ………メルエ……きらい…………?」

 

「大好きです! 嫌いになる事など、絶対にありません! 今ならば……今ならば自信を持って言います。私は、ずっとメルエが大好きですよ!」

 

 メルエの遺体に向かって何度も叫んでいたサラの声はメルエには聞こえていない。あれ程に切実に訴えていた言葉も、あれ程に悲壮感を漂わせていた雰囲気も、魂を手放していたメルエには届いていないのだ。

 故にこそ、目が覚めた時に傍にいたサラを見たメルエは、大きな嬉しさを感じると共に、とても大きな恐怖も感じていたのだろう。先程まで泣きながら自分を抱き締めてくれるサラの温かさを感じていても、その恐怖が消え去る事はなかった。そんな恐怖を胸に残しながらも、少女は自分の口から真実を確かめずにはいられなかったのだ。

 例え、ここで姉のように慕う女性に拒絶されたとしても、それこそ自分を見る瞳に恐怖と怯えが見えてしまったとしても、それを受け入れざるを得ない事をメルエは理解しているのだろう。

 しかし、そんな少女の恐れは杞憂となる。満面の笑みを浮かべ、それでいて大粒の涙を流しながら高らかに宣言された言葉は、少女が持つ知識の中で最上位に位置する好意を示す言葉。心の奥底から湧き上がるように溢れ出す喜びが、少女の顔に笑みを浮かべさせた。

 

「…………メルエも……ずっと……サラ……すき…………」

 

「……ありがとう。ありがとう……メルエ」

 

 再び自分の肩に顔を埋めてしまったメルエの言葉に、サラは感極まる。再び始まった大きな鳴き声に、カミュは大きな溜息を吐き出しながらも小さな微笑みを浮かべた。

 悲しみではなく、喜びの涙が溢れる部屋を優しい空気が満たして行く。そんな部屋に温かな食べ物の香りが漂い始め、その香りに誘われるように抱き合う二人から可愛らしい音が響いた。

 数日間何も食していないのだから、良い香りに生物として反応してしまうのは仕方のない事ではあるのだが、それが先程までとは異なり、安堵によって緩んでしまった結果である事にサラは顔を赤らめる。そんなサラに対し、小さな笑みを浮かべたメルエの頬には、くっきりと涙の後が残っているが、その笑みはぎこちない物ではなく、心から浮かべた笑みである事は誰の目にも明らかであった。

 

「サラの分も温め直して来たぞ。二人とも、こっちへ来てゆっくり食べろ」

 

 両手にお盆を持って登場したリーシャは、最愛の妹のような二人の顔に浮かぶ笑みが先程までの物とは明らかに異なる物になっている事に気付き、満面の笑みを浮かべる。サラの顔から視線を動かしたメルエが盆に載る料理に釘浸けになった事で苦笑に変えたリーシャは、幼い少女を呼び寄せ、ベッドの横にある椅子に座らせた。

 テーブルの上に乗ったスープからは温かな湯気が立ち昇り、横に添えられた柔らかそうなパンからも良い香りが漂って来る。待ち切れないようにスプーンを手に取ったメルエがスープを掬うよりも先にパンへと齧り付いたのを見たサラも、その横へと腰を下ろした。

 

「慌てるなよ。急に食べ物を入れたら、メルエのお腹もびっくりしてしまうからな」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの言葉に頷いてはいるが、この幼い少女は全く理解していないだろう。何故なら口一杯に詰め込んだ食べ物を飲み込みながら頷いているのだから。

 それでも嬉しそうに微笑みながら食す少女と、そんな少女の口元を拭いながらスープを口へ運ぶサラは本当の姉妹のように見えるだろう。彼女達の間に生じた亀裂は、互いを想う優しさと強さによって隙間なく埋められ、これまで以上にその絆を強めている。この先、如何なる事があろうと、この二人の絆が揺らぐ事はなく、誰であろうと、この絆を崩す事は出来ない筈である。

 勇者一行の一つが、完全に結びついたのであった。

 

「カミュ、ドムドーラという町への行き方は解っているのか?」

 

「地図上では解るが、実際歩く事が出来る場所なのかは解らない」

 

 カミュの持っている地図は細かな部分が記されている訳ではない。大体の方角と、その地形が記されている程度である。この程度の地図で旅を続けて来たという事実が奇跡に近い物ではあるのだが、それもまたカミュという青年が勇者であるが故なのかもしれない。

 ラダトームの南西にその町の名は記されてはいるが、その場所へ向かう道が詳しく記載されている訳ではない。つまり、行ってみなければ判断する事も出来ないのだ。

 

「私達の旅は常にそうであったからな。まぁ、サラもメルエもいるし、大丈夫だろう」

 

「……そうだな」

 

 リーシャの楽観的過ぎる言葉にカミュも肯定の意を示す。それに彼女は少し驚きながらも、満面の笑みを浮かべた。

 スカルゴンという強敵数体をカミュとリーシャの二人で倒したとはいえ、この先の旅を二人だけで歩める訳はない。後方支援組の二人がいなければ、大魔王ゾーマの打倒はおろか、そこへ辿り着く前に朽ち果ててしまうだろう。

 嬉しそうにスープとパンを頬張る少女と、その横で涙を流しながら微笑む女性賢者の復活が、この勇者一行の完全復活と更なる向上を示していた。

 

「よし、今日はゆっくり休んで、明日早くに出立しよう」

 

 リーシャの言葉を聞いたサラとメルエが頷きを返し、二人は食事を取った後に再び眠りに就く。切り離された魂を呼び戻し、息を吹き返したという経緯を持つ二人にとって、今はゆっくりと休む事で離れていた魂と身体をしっかりと繋げる必要があるのだろう。

 翌日まで一度も目覚める事もなく眠り続ける二人を見ていたリーシャが再度心配になり、カミュの部屋に入り込んで来るという事件もあったのだが、それはまた別の話である。

 

 翌日、旅の準備を終えた一行は、ラダトーム王城へ向かう事なく、そのまま王都を出た。

 既に買い揃えるような武器や防具はなく、細々とした物を補充するだけで十分であった彼らは、そのまま南西に向かって歩を進める。闇が支配するアレフガルド大陸の中で、人の営みを示すように灯る王都の明かりを背にして進む彼等の表情は数日前のような悲壮感漂う物ではなく、何処か晴れ晴れとした物であった。

 もし、ルビスの塔の守護をドラゴンという上位の竜種に任せ、そして竜種の因子を持つ賢者の血筋の少女の抹殺を命じたのが大魔王ゾーマだとすれば、自分に仇名す者の力を強めてしまう結果となる。勇者という青年を中心に成り立つ四人の絆は、旅を始めて五年の月日の中で最も強固になっているだろう。そして、今後はその絆が更に強まる事はあっても、それが壊れる事は決してないのかもしれない。

 それは、この闇に覆われたアレフガルドの朝が着実に近付いている事を示していた。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
短いですが、更新致します。
次話からようやく物語がまた動き始めます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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戦闘⑩【ドムドーラ地方】

 

 

 

 ラダトーム王都を出た一行は平原を西へ進み、海へと出る前に南へと進路を取る。平原を越えた辺りから大きな森が広がっているのが見え、その森の入り口で野営を行った後、そのまま南へと歩き続けた。

 ラダトームを出た辺りからメルエはサラの手を離さない。にこにこと微笑みながら、サラの手を握っては歌を口ずさみ、終始ご機嫌の様子で歩き続けていた。

 最早、マイラの村で感じた恐怖や孤独感はこの少女の中に微塵もないのだろう。大好きな者達との旅は、メルエにとって楽しい物以外の何物でもないのだ。大魔王ゾーマと云う絶対的な恐怖と戦う為の旅であろうと、その先にあるのが死という最悪の可能性が高い物であろうと、彼女には興味はないのかもしれない。

 

「カミュ、森を抜けるぞ」

 

 ラダトーム南西部の平原や森で強敵と遭遇する事はない。スライムやスライムベスといった魔物と遭遇する事はあったが、それ以上の魔物達と遭遇する事もなく、無闇に魔物を討伐する必要のなかった。

 メルエでも魔法なしで倒せる魔物達が、カミュ達を抑えられる訳もなく、森を抜けて小高い丘のような場所に出るまで、彼らは大した障害もなく進んで行く。小高い丘を北へ下るとその先には再び平原が広がっており、海に面した高い山脈が見えていた。

 

「地図を見る限り、ここから真っ直ぐ南へ下る必要があるな」

 

「もう一度丘を登る必要があるのか」

 

 平原から山脈に沿って歩いていた一行であったが、再度地図へと視線を落としたカミュは、自分達が向かっている場所が目的地であるドムドーラの方角とは異なっている事に気付く。一度降りて来た丘を再び登らなければならない事に少し溜息を吐き出したリーシャであったが、すぐ傍で屈み込んで闇に咲く花を眺めているメルエを見て表情を緩めた。

 心配事の無くなったこの少女は、何処へ行こうと変わりが無い。大好きな三人と歩けるならば、そこがどのような環境であろうと良いのだろう。大人であるリーシャやサラでさえも歩む事に辟易するような場所でも、手を握って歩き続ける彼女はもしかすると最も強靭な心と肉体を持っているのかもしれない。

 

「メルエ、行きましょう」

 

「…………ん…………」

 

 頷いて立ち上がったメルエの手を握ったサラは、闇に包まれた周囲を見渡す。今ではカミュ、リーシャ、サラの三人が『たいまつ』を持って歩いていた。ラダトームからマイラの村へ向かう道の暗さを知った彼らは、メルエ以外の全員が『たいまつ』を持って歩く事を決めたのだ。

 町や村が近くにあるのであれば、その明かりが周囲を軽く照らし出すが、それが全く無い平原を歩く事は経験豊富な彼等であってもかなり難しい行為であった。それだけ、このアレフガルド大陸を覆う闇が濃くなっている証拠でもあり、大魔王ゾーマの力が着実に大きくなっている事を明確に示していた。

 

「おい、カミュ……あれは洞窟ではないか?」

 

 メルエの手を引いたサラが再び丘を登り始めようとした頃、最後尾を警戒しながら歩いていたリーシャが、山脈の壁沿いに見える何かを発見する。深い闇の中にあって、更に濃い闇の口をぽっかりと開けた山肌が見えており、リーシャの声で一斉に向けられた『たいまつ』の炎によって、それが彼女の言う通りの洞窟である事が解った。

 山肌が長い年月を経て空洞化する物であるが、その中は様々な生物の住処となる事が多い。その中でも大きな洞窟などには強力な魔物が棲み付く事が少なくなく、勇者の洞窟のように、長い年月を経てその場で繁殖する事も多かった。

 闇が支配するアレフガルドという大陸の中でも、その習性は変わる事はない。この洞窟の入り口の大きさを見れば、かなり大きな洞窟である事が推測出来る。そうなれば、数多くの魔物達が棲み付いていても可笑しくはなかった。

 

「この洞窟に関する情報はない。無理をして入る必要はないだろう」

 

「だが、その盾のような何かがあるかもしれないぞ?」

 

 アレフガルド大陸に降り立ってから、ラダトーム王都とマイラの村という集落を経由して来たが、この辺りにある洞窟の情報などは欠片もなく、それ程重要な場所でない事は確かであろう。それでもリーシャの言葉通り、まだ見ぬ装備品などが眠っていても可笑しくはない。ここまでの旅の中でもこのような場所には大抵何らかの物が眠っていた。

 しかし、カミュは大きく頭を横へ振る。今の彼らにそのような不確かな可能性で無駄にする時間はなく、この状況で魔物の巣窟となっている洞窟へ踏み込む危険を冒す必要性はないのだ。

 

「アンタがそこまで固執するという事で、尚更に行く必要性を感じないのだが……」

 

「何故だ!?」

 

 大きく息を吐き出したカミュの言葉は、流石のリーシャも看過出来ない物であった。最近は、彼女の指し示す方角と逆に向かって歩いても抗議を口にする事はなかったのだが、流石に『行く必要がない』とまで言われれば、反論もしたくなるだろう。

 だが、そんな二人のやり取りを微笑みを浮かべながら見ているサラとメルエを視界に納めたリーシャは、『むぅ』と唸り声を上げながら顔を背ける事となる。

 勇者の洞窟という場所に生息していた魔物の強さも然る事ながら、あの場所の特異性を思い出したリーシャは、洞窟へ潜る事を諦めざるを得なかった。勇者の洞窟では、魔王の爪痕と呼ばれる空洞の影響なのか、魔法という神秘を発現させる事が出来ない。それは今リーシャを見て微笑みを浮かべている二人を無力化し、一行を大きな危険へと落としていた。

 この世界に幾つもそのような場所があるとは限らないし、次に同じような状況に陥れば対処は他にもあるのではあるが、ルビスの塔から続く状況がリーシャを不安にさせている。今、この二人を失う可能性を追う必要はなく、それが回避不可能な物であれば、カミュと共に全力で二人を護る事は当然であっても、必要性に迫られていなければ、敢えて危険を冒す行為は愚の骨頂であるのだ。

 

「わかった……。だが、私は何かあるような気がするんだがな」

 

「アンタには悪いが、その言葉を聞いて、行く必要性は皆無になった」

 

「ふふふ」

 

 渋面を作ったリーシャが了承をして頷いた事で、眼前に見えている洞窟の探索は無用となる。だが、追い討ちを掛けるようなカミュの言葉を聞いた彼女は鬼の形相で睨み付けた。そんな二人のやり取りにサラは微笑み、その微笑みを見たメルエもくすくすと笑みを溢す。

 カミュの物言いには納得は出来ないが、それでもつい先日まで苦悩に押し潰されそうになっていたサラが綺麗な笑みを浮かべる姿は、そんなリーシャの心を和やかにして行った。己の心に棲み付いた闇を認める事が出来ず、その闇を払う為に己の命を投げ出そうとしていた賢者はもういない。その手を握る少女も、この世の全ての闇を払うような輝く笑みを浮かべている。それは、このアレフガルドの未来を示しているようにも思われた。

 

「あの洞窟にとんでもない装備品があったら、お前の責任だからな!」

 

「行かない以上、その有無も確認出来ないだろう……」

 

 サラとメルエの笑みを見て心を穏やかにしたリーシャだが、苦し紛れの捨て台詞を吐いて、丘を南へと登って行く。そんな女性戦士の背中を見ながら溜息と共に吐き出した呟きを聞いたサラは、今度こそ吹き出してしまった。

 既に古の勇者の装備品と呼ばれる物の内、盾は入手し、剣は入手方法が解っている。残るは鎧と、存在が確認されてはいない兜ぐらいな物だろう。伝承として残されている物で場所が確定していないのは鎧であるが、その伝承は『精霊の許』とある。それがこの洞窟である可能性は限りなく低かった。

 既に、リーシャやサラ、メルエに至るまで、装備品としては最上位の物を纏っており、これ以上の物となれば神代の武器や防具となるのだが、ここまでの旅の中で考えても、それらが眠る可能性のある場所には何らかの謂れが残っている。武器や防具に関する物でなくとも、そこを目指す者が生まれるような話が伝わっているのだ。

 

「この先の戦いが、既に装備品でどうにか出来る物ではない事をリーシャさんも解っているのだと思います。だからこそ、それでも私達の生存率を僅かでも上げる為にリーシャさんは装備品に拘っているのでしょうね」

 

「……そうだろうな」

 

 サラの手を離し、先頭を歩き始めたリーシャの手を握ってその歩みを止めようとしているメルエを見て微笑んだサラは、歩き始めると同時にリーシャの心の内を独り言のようにカミュへと語りかける。それに対して口を開いたカミュの答えに、もうサラが驚く事はない。優しく瞳を細めた彼女は、大きく頷きを返した後でリーシャとメルエの許へと駆けて行った。一度洞窟へと『たいまつ』を向けたカミュではあったが、即座に視線を戻して再び南へと進み始める。

 彼等の旅は細い糸のような情報を一つ一つ手繰りながら進んで来た旅である。その中で何も情報の無い場所に向かった事は一度もない。偶然辿り着いたトルドバーグの前身や、メアリという棟梁がいた海賊のアジトなどは例外であるが、洞窟や塔のように探索が必要な場所は何らかの情報がなければ立ち寄る事はなかった。

 

 その後丘を越えた一行は、その先にあった森で野営を行い、メルエが目覚めるのを待って再び南進する。森を抜けた先は広大な平原が広がっており、見渡す限りが草花で覆われていた。

 近年でこの場所を訪れた者は皆無に等しいのだろう。そう思わせる程に草花は伸び、長い物ではメルエの腰元までを覆う程に伸びていた。屈んでしまえば姿が隠れてしまう事を面白がったメルエが、繋がれていた手を離して平原の中に入ってしまい、それに慌てたリーシャとサラに大目玉を食らう事になるのだが、それはまた別の話である。

 そんな平原はかなりの広さを誇り、歩いても歩いても平原が続き続けた。戦闘は数多く行われたが、長い草花に隠れていたスライムやスライムベスの体当たりで後ろへ倒れたメルエは、その命を奪おうとはせず、まるで叱り付けるように雷の杖で叩いて行く。目を回したスライムを安全な場所へと移そうとする少女を見て微笑んだリーシャとサラはその行動を手伝っていた。

 微妙な死臭を漂わせながら近付いて来た地獄の騎士数体は、先頭のカミュが振るう雷神の剣の一撃によって粉々に粉砕され、後方を護るリーシャの魔神の斧によって遥か彼方へと吹き飛ばされて行く。既に、魔王バラモスの居城を棲み処としていた魔物達を寄せ付けない程の力量を彼らは有し始めていた。

 

「カミュ、潮の香りがして来たぞ」

 

 平原を歩き続けて三日が経過した頃、彼等の鼻をくすぐる香りが漂って来る。真っ先に反応したのはメルエであり、昔はとても嫌がっていた匂いなのにも拘わらず、満面の笑みを浮かべる少女に苦笑を浮かべたリーシャが、その事を先頭を歩いている青年へと告げた。

 既に把握していたカミュは、それに頷きを返すのみで、地図へと視線を落とす。潮の香りがしてくるというのは、平原の先に海が近いという事である。高台になっている訳ではない事から、カミュ達がいる場所からは海の姿を見る事は出来ないが、それでも大好きな海の香りを嗅いだメルエがそわそわし始めた事にリーシャとサラは苦笑を浮かべたのだ。

 だが、そんな幼い少女の小さな望みは、呆気なく打ち切られる事となる。風の流れから考えれる限り、このまま南進して行けば海へ出る事は明らかであった。だが、先頭で地図を見ていた青年は、南へは向かわずに西へと進路を取ったのだ。

 

「…………むぅ…………」

 

「仕方ないだろう? 海は何時でも見れるぞ。それに、また海の先にあるあの塔へ行かなければならないんだ」

 

 カミュの行動に頬を膨らませたメルエの肩に手を置いたリーシャは、少女の我儘を窘める。そして、後方へと視線を送り、その遥か先にある塔へと想いを馳せた。

 一度は撤退せざるを得なかった場所であり、リーシャとカミュの後悔を置いて来た場所。同じように、サラという賢者の全てを置いて来た場所であり、そして全員が取り戻さなければならない場所でもあった。

 厳しい瞳で今は見えない場所を見つめるリーシャを見たメルエは、小さな頷きを返し、再びサラの手を取って歩き出す。潮の香りに心が騒ぐが、それを表情に出すまいと気張る少女にサラは不覚にも笑ってしまった。そんな姉の行動に気分を害した少女は、先程よりも大きく頬を膨らませてサラを睨みつける。そんなやり取りを行いながらも、一行は平原を西へと進んで行った。

 

「立派な橋だな」

 

「…………おおきい…………」

 

 西へ進む事二日、来る日も来る日も変わり映えのしない景色にサラが飽き始めた頃、一行の目の前に大きな川が見えて来る。南に見える大きな山脈から溢れるように流れ出た水が、海へと流れ込んでいた。その流れを堰き止める訳ではなく、分断する訳でもなく、大陸と大陸を繋げるように架かる大きな橋は、ロマリアとアッサラームとの繋げる物よりも大きく、アリアハン大陸で初めて見た物よりも美しい。それは、このアレフガルド大陸にも立派な職人が存在している事を示していた。

 海へと流れ込む幅の広い川は、マイラの村のある大陸を繋げる海峡ほどではなくともそれなりの幅を持っている。それらを結びつける為の橋である為、その強度は言うまでもないだろう。大魔王ゾーマが世界を闇で覆い、強力な魔物達が棲み付く中、未だに壊れる事なく残っている事がそれを証明していた。

 

「真っ暗で何も見えないな」

 

 橋の欄干に掴まって遠くを見るように目を凝らしていたメルエが困ったように顔をリーシャへと向ける。小さな笑みを浮かべたリーシャは、そんなメルエと視線を合わせて闇の向こうへ目を凝らすが、やはり闇に包まれた先には何も見えなかった。

 先程同様に頬を膨らませるメルエを宥めて、リーシャとサラはカミュを追って橋を渡り切る。かなり大きな橋の下の水は見えず、かなりの高所に位置する場所で橋が架けられている事が解った。

 そして、橋を渡った先に広がる平原を前にした時、再びアレフガルド大陸に生息する魔物の強力さを知る事となる。

 

「構えろ!」

 

 橋を渡り切り、平原を暫く歩いた頃、突如として先頭に立つカミュが背中の剣を抜き放って後方へと飛んだ。一瞬遅れながらも素早く戦闘態勢に入った他の三人は、先程までカミュが立っていた場所の草花を覆うように広がる火炎を見る事となる。

 周囲を覆いつくすような火炎は、彼らがルビスの塔で対峙したドラゴンと同等の威力を誇り、前方の草花を悉く焼き払った。真っ赤に燃え上がる炎の向こうに数体の影が見え、それに備えるように杖を構えていたメルエは、焼け焦げる草花を見て頬を膨らませる。懸命に花を咲かせ、太陽の光が無いにも拘らず生き延びようとする草花の強さを知っている少女は、それを無常にも焼き払った相手に怒りを覚えたのだろう。

 

「ちっ」

 

「何だ、あの魔物は……」

 

 周囲の草花を燃やした炎が自分達の方へ広がる事を防ぐ為にサラが氷結呪文を行使する。水蒸気を上げて鎮火した炎の向こうへの視界が晴れて行く中、その姿を見たカミュは舌打ちを鳴らし、リーシャはその異様さに驚愕した。

 前方に浮かぶ敵は三体。その全てが大地に足を着ける事なく、空中を飛んでいる。正確に言えば、大地に下ろす足が無いのだ。胴体は腹部から下が先細りになっており、それは蛇の胴体のようにも、そして竜種の胴体のようにも見える。固い鱗に覆われながらも柔らかな腹部をカミュ達に向けて曝していた。背には大きな翼を持ち、その翼は何処かで見た事のあるような形をしている。頭部はハゲタカの物と酷似しており、鋭い嘴と切れ長の瞳を油断無くカミュ達を睨み付けていた。

 

「複合種……」

 

「なんて惨い事を……」

 

 ここまでの旅の中で数多くの魔物と遭遇して来ている。その中には様々な姿をした魔物達がいたが、明らかに何らかの手を加えた人工的な生物と遭遇したのは初めてであった。

 大魔王ゾーマが手を加えなければ、生まれる事のない伝説上の魔物。山羊と牛の交配などという生易しい物ではなく、魔力によって強制的に組み合わされたその姿は、大魔王の非道さを物語っているようであった。

 

<キメラ>

最早、上の世界では伝説上の生物とされている魔物である。蛇の胴体を持ち、ハゲタカの頭部と鳥類特有の大きな翼を所有している合成獣。魔力によって生み出された魔物として考えられており、その大きな翼には特殊な魔力が備わっていた。討伐した際に、消え失せてしまう筈の翼が稀に残る事があり、その翼に残った魔法力は、天高く放り投げた者の意図した場所に導くと伝えられている。その影響で、欲に駆られた人間達によって過剰な攻撃を受けた種でもあった。

この種を生み出した者が悪なのか、それとも懸命に生きようとするこの種を絶滅寸前に追い詰めた人間が悪なのか、それは答えの出ない問いでもある。ただ、このキメラという種にとって、種族の敵は人類である事だけは確かであった。

 

「あの翼は何処かで見た事があるな……」

 

「どうでもいい。竜種並みの炎を吐き出すぞ、油断をするな」

 

 記憶にある何かと重なるような形をしている翼に視線を送ったリーシャであったが、カミュの言葉に表情を厳しい物に戻す。先程キメラが吐き出した炎の威力を考えると、ルビスの塔でドラゴンが吐き出した物と大差はない。三体同時にカミュ達に向けて吐き出されれば、かなり苦しい状況になる可能性があった。

 しかし、あの時とは異なり、カミュとリーシャの後方には頼れる二人が存在する。ルビスの塔からの撤退から数週間、その短い間で一段も二段も成長を果たした二人は、例え竜種が吐き出した火炎であろうとも遅れを取る事はないだろう。それを理解しているからこそ、カミュも注意をリーシャにだけ告げたのだ。

 

「来るぞ」

 

 剣を構えたカミュが静かに呟きを漏らすと同時に、一体のキメラが動く。大きな翼をはためかせ、速度を上げて突っ込んで来たのだ。その攻撃方法は鋭い嘴での刺突である。アリアハンで遭遇したおおがらすにも似た攻撃方法であるが、その速度と威力は桁違いであった。

 一気に肉薄したキメラの嘴がリーシャが掲げた水鏡の盾を避けて頬を掠める。ぱっくりと斬り裂かれた彼女の頬から鮮血が飛び、遅れて振り抜かれた魔神の斧が空を斬った。もし、盾を掲げずにいたら、リーシャの腕は捥がれていたかもしれない。それ程に鋭い攻撃であった。

 通常の人間であれば、腹部に大きな穴を開けながら即死していただろう。このキメラが所有する翼を手に入れる為に人間が一軍隊を差し向けたという逸話が残るのも頷ける強さである。それだけの危険を冒して手に入れる物であるからこそ、『キメラの翼』という道具は高価な者となっているのであった。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………マヒャド…………」

 

 だが、それは常人であればという物である。この一行は魔王バラモスを討ち果たし、今は大魔王ゾーマを討ち果たす為に旅をする者達。そして、大きな挫折を経験し、それを糧に更なる飛躍をする者達でもあった。

 大きく開かれた一体のキメラの嘴の奥から火を噴き出す。それに対抗するようにメルエが雷の杖を振り抜き、最上位の氷結呪文を放った。一気に吹き荒れる冷気の嵐が、キメラが吐き出した火を全て飲み込む。それでも勢いが衰えない冷気は、一体のキメラを飲み込んで行った。

 ドラゴンの放つ火炎に匹敵するとはいえ、世界最上位種の竜種と合成獣の力の差は歴然である。見た目は派手でも燃え盛るような火炎と単純な火ではその炎の持つ熱が異なっていた。呆気なく冷気に呑まれたキメラの身体が徐々に凍り付いて行き、羽ばたいていた翼から力強さが奪われて行く。それを見逃す事なく、カミュがそのキメラに向かって雷神の剣を振り下ろした。

 天から落ちる稲妻のように鋭い一閃がキメラの頭部から入り、その体躯を真っ二つに斬り裂く。体液を撒き散らせながら地面へと落ちたキメラは絶命し、その身体は大地へと解けるように消えて行った。

 

「死骸が残らないのか?」

 

「祝福を受けて生まれた生命ではないのでしょう」

 

 大地へ解けるように消えて行ったキメラを見たリーシャは、その異様な光景に驚きを隠せない。その後方で沈痛の面持ちを見せたサラは、哀れな生命体に祈りを捧げるように瞳を閉じた。

 キメラと云う種族は、本来この世界に存在しない種族なのだろう。魔力によって生み出された合成獣は、この世界を護る神や精霊の祝福を受けてはいない。異種族の交配の結果、奇跡に近い形で生まれた新たな種族は、神や精霊の祝福を受けて生まれて来ている。それ故にこの世界で生きる資格を有していたというのであれば、キメラにはその資格がないに等しいのだ。

 しかし、祝福を与えずとも、この世界で生きる一つの種族である事は認められている。だからこそ、この合成獣は繁殖しているのであろうし、このアレフガルドで生き続けているのだろう。それでも、死後も残り続ける事はまだ許されていないのかもしれない。

 

「カミュ様、メルエと私のマヒャドで一気に決着させます」

 

「……わかった」

 

 一刀の元に斬り捨てられた同種を見た残る二体のキメラは明らかに動揺していた。逃げるつもりはないのかもしれないが、それでもカミュ達へ襲い掛かる事は無く、警戒するように翼を動かしている。一体一体を駆逐して行く事も出来るが、それを見たサラは先程効果を見せた最上位の氷結呪文で一気に勝負を決める事を選択した。

 魔力で生み出された合成獣はその異常性の影響の為か、それ程の耐久性を持っていないようである。如何に人類最上位のカミュの一撃とはいえ、このアレフガルドで生きる魔物であれば、一振りで両断出来る物ではない。それがこの合成獣の限界を物語っていた。

 

「マヒャド」

 

「…………マヒャド…………」

 

 威力の異なる二つの冷気が合わさり、嵐のような風を起こす。氷の結晶が視認出来る程の冷気は、様子を見ていた二体のキメラを包み込み、その全てを凍りつかせて行った。翼まで凍り付いたキメラは地面に落ち、その時に岩に当たった一体は砕け散り、氷と共に地面へと消えて行く。しかし、残り一体は、柔らかな土の上に落ちた事で氷に損傷はなく、氷漬けの状態のまま絶命していた。

 三体の脅威が消え、一息を吐き出した一行は、各々の武器を納める。地面へと解けるように消えて行ったキメラへ視線を落とすと、地面に染みのよう物は残っているが跡形も無く消え失せていた。

 しかし、最後に氷漬けとなった一体のキメラが落ちた地面へと近付くと、胴体全ては消え失せているものの、そこには一枚の翼が残されていた。

 

「もしかすると、あの魔物がキメラだったのか?」

 

「そうとしか考えられないな」

 

 翼を拾い上げたリーシャは、それをカミュへ見せるようにして問い掛ける。屈み込んでいたリーシャの脇の下から顔を出したメルエは、不思議な色に輝く柔らかな翼に触れようと手を伸ばしていた。翼と名が付く道具など、この世に一つしかない。それは『キメラの翼』と呼ばれる移動手段として使われる道具である。

 既に上の世界では希少な物となっており、国庫に納められている物以外は市場には決して出回らないとさえ云われていた。不思議な色で輝き、特別な雰囲気を持つその翼を見て、手に持つ物がそれであると判断したのだ。

 そして、問われた青年も同様の考えを持っていた。既にリーシャの手からメルエの手に渡ったそれへ視線を向け、同意を示すようにカミュが頷きを返す。そんな二人のやり取りを見つめていたサラもまた、他の答えを導き出す事など出来ずに肯定を示した。

 

「ならば、カミュが持っていろ」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの言葉に反応するように、メルエが手に持っていたキメラの翼をカミュへと手渡す。不思議な力を宿した翼はカミュの手に納まり、そして彼の腰に下げた皮袋の中へと入って行った。

 不思議な力を宿しているとは云えども、それはルーラという呪文と同じ効果を持つ。この一行の中で三人が行使出来る呪文であり、ここまでの旅でその三人全てがルーラを行使出来ない状況になった事は一度もない。まだサラという僧侶が賢者としての生を受ける前に探索をしたガルナの塔以来、彼らがルーラという移動呪文を行使出来ない状況に陥った事はないのだ。一度戦略的撤退を経験した一行は強かになっている。逃げる事、命を惜しむ事を恥とは感じず、どれ程の苦境が彼らを襲おうとも、必ず最後の一手となる呪文を行使する為に魔法力を残す筈であった。

 故に、このキメラの翼が使われる事はおそらく今後もないだろう。だが、希少な道具を所持する価値はある。何らかで売却する必要が出て来るかもしれないし、交渉に役立つ可能性もある。もしかすると、本当に万が一の確率で彼らが必要とする時が訪れるかもしれない。

 

 

 

 キメラとの戦闘を終えた一行は、そのまま平原を南下し始める。大きく広がった平原は真っ黒な闇に覆い尽くされ、不気味な雰囲気を醸し出していた。

 まるでこの地方丸ごとが大魔王の魔力に飲み込まれてしまうのではないかと感じる程に禍々しく、息が詰まる程に重苦しい。あの橋を渡った辺りから感じていた事ではあったが、ラダトーム王都周辺の瘴気が如何に薄い物であったかをカミュ達は実感し始めていた。

 この濃い瘴気を吸い込み、闇に包まれた場所で生きる事など生物には不可能に近い。この場所で何年も生き続ければ、人間だけではなく多くの生命体の心は折れてしまうだろう。未だに時間は残されていると考えていたカミュ達には厳し過ぎる現実であった。

 

「砂漠か……」

 

「この砂漠の先にドムドーラがある筈だ」

 

「イシスと同じように砂漠にある町なのですね」

 

 平原の真ん中で野営を行った一行が再び歩き出すとすぐに、吹き抜ける風の中に小さな砂が混じるようになって来る。砂が目に入ってしまったメルエが愚図るように不満を漏らした頃、彼等の目の前に一面の砂漠が広がっていた。

 ここまでの平原に広がっていた草花は途絶え、植物が一切育たない場所。風によって舞い上がる砂がその領域を未だに広げようとしているようにさえ感じる。闇に広がる砂の世界は、この地方に蔓延する瘴気を更に強めているのではと感じる程に不気味な物であった。

 

「カミュ様、方角は大丈夫でしょうか?」

 

「……何とかするしかない」

 

 一面の砂に呆然と佇むリーシャとメルエを余所に、サラはカミュへと不安な瞳を向ける。一面の砂が広がる世界に道標はない。闇に包まれたアレフガルド世界には、姿を隠す場所のない砂漠を照り付ける太陽もないが、方角を図る術となる太陽もないのだ。しかも、アレフガルドを覆う闇は決して夜の闇ではない。夜に輝く星々もなければ、優しく夜道を照らす月もない。

 カミュが手にしている妖精の地図と呼ばれる地図は大まかな場所を知る事しか出来ず、この砂漠の広さが実際にどのくらいなのか、そしてどのくらいの距離を歩けばドムドーラという町に辿り着くのかという事は記されていない。

 この砂漠を東に進めば、ドムドーラという町があると云う事しか解っておらず、今のこの状況から正確な方角が解らないという事が一番の難点なのだ。平原や森の中であれば多少迷おうとも、その場で野営を行えば良い。このアレフガルドには未だに小動物や魚は生きており、木々には実がなっている。だが、一度砂漠に足を踏み入れてしまえば、水を補充する場所もなければ、休む為に座る場所もない。そして、食料を手にする場所もないとなっては、ドムドーラまで一気に歩き続けなければならないのだ。

 その為にも方角を正確に把握する術が必要なのだが、今はそれさえもない。

 

「相当寒いな」

 

「砂漠の夜が続くような物だ」

 

 覚悟を決めて砂漠へ足を踏み入れて暫く歩くと、一気に気温が落ち込んで行く。太陽の熱が一切ないまま過ぎてきた時間が、全ての熱を奪ってしまっているのだ。木々が根を張る土の大地は、昼間に浴びた熱を保温してくれるが、砂はその熱を全て放出してしまう。雪も降っていないのに吐き出す息は白くなり、身体が細かく震えて来た。

 氷竜の因子を受け継ぐメルエだけは、何食わぬ顔をして砂地を歩き続けてはいるが、その手は冷たくなっており、サラの腰袋から取り出された手袋を嫌々ながらも嵌める事となる。

 

「方角は大丈夫でしょうか……」

 

「左手に見えている山脈は、橋から見えていた山脈の筈だ。真っ直ぐと海に向かって伸びていたアレが左手に見える限り、東へ進路を取っている事になる」

 

 寒さを紛らわせる為にメルエを抱き上げたリーシャの横で、サラは先頭で地図を片手に方角を確認しているカミュに向かって口を開く。見渡す限り砂で覆い尽くされた場所で、既にサラは右も左も区別がつかないようになっていた。それにも拘らず、地図を見てから周囲を見渡し、迷いなく歩き続けるカミュに対して不安感が募ったのだろう。現に、カミュが指差す左側にあると云われる山脈はサラには見えない。『たいまつ』を掲げるとうっすらとした影は見えるのだが、アレフガルドを多い尽くす闇に飲まれてそれが山だと判別は出来なかった。

 それでも、ここまで一行を導いて来た彼が言うのであればそれが事実なのだろう。確かにここへ来る際に橋を渡っており、その橋を渡る際に巨大な壁のような岩山が聳えていたような気もする。山から溢れ出した水が川を作り、その川を渡る為に橋が架けられていたのだから間違いはないだろう。

 

「カミュ、あれも動くと思うか?」

 

「ああ、おそらくな。だが、アレがいる事で、ここまで歩いて来た道が正しい事が証明された」

 

 闇が支配する砂漠の中、カミュが掲げる『たいまつ』の炎に照らされた物が姿を現す。後方からそれを見つけたリーシャは、サラとメルエを追い越して先頭へと近付いた。その姿を見て歩みを止めたカミュへの問いかけは、彼等にしか理解出来ない物であろう。何度もあの手の魔物と戦闘を繰り返して来た彼等だからこそ分かり合える物であった。

 目の前に見えて来たのは、大きな石像。アレフガルド大陸を救った古の勇者と共にいた英雄達を模した物と云われている石像が、まるでこの砂漠を進む者を排除するように高々と拳を振り上げて砂漠に立っていた。

 魔王バラモスの居城でも遭遇した物と酷似しており、おそらくこのアレフガルドの大陸に設置された石像の中でも下位にある物なのかもしれない。マイラの森周辺でマドハンドの救援に応じた石像よりも生み出されてからの年数が若いと思われた。

 しかし、何かを護るように、外敵を排除するように直立する石像が、カミュ達一行が歩んで来た道が正しい事をある意味で証明している。おそらく、この石造は砂漠のオアシスに造られた町を守護する為に作り上げられたのだろう。それは、この先にドムドーラの町がある事を示していた。

 

「あの石像程度に後れを取る訳にはいかないぞ。あの合成獣はサラとメルエの力で退けてくれたからな。今度は私達の番だろ?」

 

「一体だけだ、時間を掛けるつもりもない」

 

 砂漠に入る前に遭遇したキメラという魔物は、サラとメルエの放った氷結系最上位呪文によってほぼ全滅させている。カミュやリーシャが行った事はそれに止めを刺すくらいの事であった。

 ルビスの塔での出来事を契機に後方支援組の絆は深まり、今まで以上の連携が可能となっている。前衛組としては頼もしい事この上ないのだが、やはりそれには負けていられないという部分であろう。ドラゴンに遅れを取った事を悔やみ続ける二人は、スカルゴンという強敵を退けて尚、未だに自分達の力量が足りないと考えていた。バラモス城では苦戦した相手である『動く石像』を相手にして、何処まで通用するかというのも一つの指針となると考えたのだ。

 

「サラ、メルエ、呪文の援護は極力控えてくれ。私とカミュでやってみる」

 

「わかりました。ですが、くれぐれも気を付けて下さい」

 

 目の前の石像へと一歩踏み出したカミュを追うようにリーシャが歩き出す。その際に告げられた言葉にサラは頷きを返すが、それでも忠告は怠らなかった。その横では不満そうに頬を膨らませる少女がいるが、そんな少女の頭に手をやったリーシャは一つ笑みを溢すと、瞬時に表情を引き締めてカミュの背中を追った。

 そんな二人を追ってサラとメルエも走り出す。リーシャに対してあのように答えはしたが、二人が危機に陥れば問答無用で間に入るつもりであるサラは、油断なく目の前の石像へと視線を送っていた。

 

「メルエ、あの石像の後方にベギラゴンを落とせますか?」

 

「…………??…………」

 

 カミュとリーシャとの間が少し離れてしまった頃、隣で前方を見つめるメルエへサラが問いかける。先程のリーシャとの会話と矛盾する問いかけに対して不思議そうに首を傾げたメルエであったが、その後に続いたサラの考えを理解し、大きく頷きを返した。

 前方では石像の前面に辿り着いた二人が各々の武器を構えている。右手には武器を左手には『たいまつ』を握る彼等を認識した石像の瞳に光が宿り、砂漠の砂を振り払いながら石像が動き始めた。

 巨大な拳を振り下ろし、砂漠の砂を巻き上げる。『たいまつ』を持つ左腕に嵌められた盾を掲げて砂を防いだカミュ達は、それぞれの武器を交互に振るい、動く石像の身体を削って行った。

 二回ほど石像との攻防が繰り返された時、凄まじい轟音と共に動く石像の後方から燃え盛る火炎が広がる。新たな敵の襲来かと思ったカミュ達であったが、その火炎が自分達へ向けられた物でない事から、後方支援組からの援護だと知った。

 

「有難い。これで『たいまつ』は必要ないな」

 

「砂漠は燃える物がない。メルエの魔法力だけで燃えている火炎だ。戦闘が長引けば、それだけ負担を大きくする」

 

 燃え盛る最上位の灼熱呪文による火炎は、闇に閉ざされた砂漠の気温を一気に上げ、更に周囲を明るく照らし出す。片手に『たいまつ』を持っての戦闘よりも遥かに動き易くなった事にリーシャは顔を綻ばせるが、カミュの言葉を聞いて真剣な表情に豹変させた後、しっかりと頷きを返した。

 この二人にとって、幼いメルエへ負担を掛ける事は好ましい事ではないのだ。明るさを得る事は有難い事ではあっても、それが少女に負担を掛ける事であれば、それは容認出来る事ではない。だが、後方にいる賢者という敬称を受け継ぐ女性は、そんな二人の心情を理解して尚、この場面でのメルエの呪文の行使を支持していた。

 メルエは最早護られるだけの者ではない。ルビスの塔でのドラゴラムを経て、彼女の力は一行全員を護る事の出来るだけの力を得ている。そして、この少女の想いもまた、恐怖と葛藤を乗り越えて深まった絆を持って、もう一段上へと昇格していた。

 

「メルエ、あの火炎が消えてしまう頃に私がベギラゴンを唱えます。もし、腐乱死体の魔物などが出て来ても、あの火炎には近づけないでしょう。私の放った火炎が消えそうになったら、もう一度だけお願いしますね」

 

「…………ん…………」

 

 しっかりと頷く少女を見て微笑んだサラではあったが、小さく『もしかすると、私が唱えるまでもないかもしれませんが』という呟きを漏らす。それだけ、彼女達の目の前で繰り広げられる攻防が圧倒的な物であったのだ。

 メルエの魔法力を糧に未だに燃え続ける火炎は砂漠を明るく照らし出し、全てを浮き彫りにしている。それは動く石像の身体に入っている小さくはない亀裂をも目立たせていた。既に石像の足に入った亀裂は腰まで伸び、腕に入った亀裂は肩口から顔面にまで及んでいる。それは、この戦闘が終幕に近づいている事を示していた。

 

「カミュ、止めだ!」

 

「ふん!」

 

 リーシャの叫びに応えるようにカミュが真一文字に剣を振るう。動く石像の太腿部分に突き刺さった雷神の剣を起点に、稲妻のように亀裂が広がって行き、そして石像全体を侵食して行った。声とも叫びとも取れる奇声を発した動く石像の身体が、下半身から崩れて行く。そして、落ちて来た頭頂部に魔神の斧が突き刺さった事で、全てが終わった。

 破裂するように砕け散った石像は、その身体に宿していた悪しき魔法力を霧散させ、物言わぬ石へと姿を変えて行く。いずれは周辺を覆う大量の砂と同じように風化して行くであろう大きな石が転がる中で武器を納める二人を見たサラは、『やはり自分が呪文を行使する場面は訪れなかった』と小さな笑みを浮かべた。

 ルビスの塔での撤退以来、カミュやリーシャの力量は加速度的に上がっている。それはその心の持ちようなのか解らないが、特に目覚しい成長を遂げているカミュに至っては、『勇者』としての能力が覚醒したようにさえ思われた。

 

「あれがドムドーラの町か?」

 

「おそらくな」

 

 戦闘を終えた二人にサラ達が近付くと、『たいまつ』を拾い上げたリーシャが前方へと明かりを向ける。メルエが放ったベギラゴンの残骸が残る中で照らし出された向こうに、明らかに人工的な灯火が映っていた。

 ぼやっとした灯火が幾つも灯されており、その明かりが朧気ながらも町の大きさを示している。ラダトーム王都には及ばないまでも、マイラの村よりも大きな町である事が見て取れた。それはこの集落にマイラの村以上の人間が生活している証明であり、この砂漠の中心にそれだけの人間が生活出来るだけの何かがある事を示している。

 同じように砂漠の中央に建国されたイシスのように、広大なオアシスを持っているのかもしれない。または町の傍には海が広がり、海からの恵みが多いのかもしれない。その答えはカミュ達には解らないが、今はこの町で新たな情報を得る必要がある事だけは確かであった。

 

 古の勇者が所有していた神代の剣に繋がるオリハルコンという希少金属の情報がある町。

 緑豊かな大陸に広がる不可解な砂漠の奥に存在する謎の多い町。

 彼等の旅はまた一歩大魔王ゾーマへと近付こうとしていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
ここまで来ると、残る集落の数も限られて来ました。

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ドムドーラの町①

 

 

 

 砂漠の奥で見つけた集落は、結果的に言えばカミュ達が考えているような場所ではなかった。

 確かに、この砂漠の中で生きて行く為の水場はあるが、大国イシスのようにオアシスを中心に栄えているという物ではない。むしろ、残っている水場に寄り添っているだけという印象さえ受ける物であった。

 深まる闇の為なのか、町の雰囲気自体が陰湿な物であり、活気というのは感じられない。町で生活する人間はマイラの村よりも多いのだろうが、何処か何かを諦めているような表情さえも浮かべていた。

 

「宿屋を探すか……」

 

「そうだな。だが、その前に武器と防具の店にでも寄るか?」

 

 町の北側に当たる部分にあった門から入った一行は、周囲を見渡しながら先頭を歩くカミュの後ろを歩いて行く。ここまでの長い道程を考えれば、即座に宿屋に入りたい所ではあるが、新しい場所に辿り着いた時に必ず行う『買い物』という行動を人一倍楽しみにしている幼い少女の瞳を見たリーシャは、ある提案をカミュへと掲げた。

 振り返った彼は、期待と不安を宿した瞳で見上げて来るメルエを見て軽い溜息を吐き出し、了承の頷きを返す。花咲くように笑みを溢した少女は、サラの手を握って歩き出した。

 北側には武器と防具の看板を掲げる店舗が二店存在する。その中でも一番目の前にある武器屋へと向かった。それ程大きな店舗ではないが、一階部分が店舗、二階部分を住居と明確に分けている事を見る限り、それなりに繁盛している店なのであろう。

 しかし、その扉を開けて店舗に入った一行は、中の状況に驚く事となる。

 

「なんだ? ここは武器と防具の店だが、今は生まれて来る子供の名前を考えるのに忙しいんだ。買い物はまた今度にしてくれ」

 

 店の中は思っていたよりも広くはないが、奥には鍛治を行うような場所も設置されており、一から武器を製造する事は出来なくとも、修繕する事などは可能であるだろう。そんな武器屋の主人はカウンターに置いてある一枚の紙を睨みつけ、何やら唸り声を上げていた。

 店のカウンターの奥にいる男性が近付いて来たカミュに気付いて顔を上げるが、武器や防具を求める客である事を理解すると、即座に断り文句を口にして再びカウンターに乗せられ紙に向かって唸り出す。言葉通り、子供の名前を考えているのだろう。書き殴るような幾つもの文字が塗りつぶされていた。それでも幾つかの候補には絞られているのか、二つ三つは文字が残されている。

 店を開けておいて客を断るという武器屋の態度に思う所はあったが、自分の血を分けた子供の名前を考えるというイベントは、親にとっての一大事である事は理解出来るため、リーシャは苦笑を浮かべてサラへと視線を送った。

 店を後にしようとする一行の前にそれ程若くはない女性が現れ、丁寧に頭を下げる。見たところ、カウンターに居る男の妻なのであろう。男の言葉通り、下腹部が僅かに膨らんでおり、その中に新たな命が宿っている事を示していた。

 

「申し訳ございません。私がようやく身篭ったものですから、主人が張り切ってしまって……」

 

「いえ、おめでとうございます。天からの授かり物ですから、その喜びは一入でしょう。お生まれになるお子様にルビス様のご加護があらん事を……」

 

 自分の夫の行動を嬉しく思いつつも、他人に対しては恥ずかしく思っているのだろう。妻は恥ずかしそうに顔を赤らめながらカミュ達へ謝罪の言葉を紡ぐ。それを受けたサラは、笑顔を浮かべながら祈りを捧げるように胸の前で手を合わせた。

 このアレフガルドでは精霊神ルビスという存在が、上の世界よりも身近にあるように感じていたサラは、自身が僧侶であった時とは若干異なる想いを乗せて言葉にする。興味深そうに膨らんだ下腹部を眺めていたメルエも、サラの真似をするように胸の前で手を合わせた。

 そんな幼い少女の祈りを嬉しそうに受け取った女性は、愛おしそうに下腹部を撫で、カミュ達に礼を述べる。何も購入する事なく店を出た一行であったが、あれ程の両親の愛を注がれる子が無事に成長して行く事を心から願った。

 

「新たに生まれて来る子供達の為にも、早く平和な世界を取り戻さなければならないな」

 

「そうですね。でも、それも……もうすぐそこまで来ている筈です」

 

 扉が閉まった武器と防具の店を振り返ったリーシャの呟きに、サラは静かに頷きを返す。そして、何処か確信を込めた言葉を口にした。

 このアレフガルドの闇を払える可能性を持っているのは、現在はカミュ達四人だけであろう。彼等以外の人間が大魔王ゾーマに挑める訳はなく、それどころか、その部下に当たる魔物や魔族、そして竜族と戦う事さえも出来ない。故に、リーシャが口にした平和な世界という物を実現出来る可能性を持つ者は、彼等だけなのだ。

 そんな二人の新たな決意を余所に、先頭のカミュはもう一軒ある武器屋へと足を向けていた。

 

「いらっしゃい。何かお探しですか?」

 

「この町にある目新しい武器や防具を見せてくれ」

 

 もう一軒の武器と防具の店は、平屋ではあるがそれなりの広さを有した場所であった。鍛治をするような場所がない事から、この店では取寄せた物を販売するだけなのだろう。だが、それでも店に陳列されている商品の種類は多く、それなりの物が揃っていた。

 カミュがカウンターに魔物の部位の入った袋を置く。その中身を確認した店主はその意図を理解したように買い取り価格を計算して行った。ある程度計算が終わった後、その金額で了承したカミュに店主は先程の会話を続けた。

 

「ラダトームの方から来られたのですか? それでしたら、この『吹雪の剣』は如何でしょう?」

 

 ラダトーム王都から訪れた事を確認した店主は、重い金属で出来た細長い箱を開ける。その箱の蓋が開かれた途端、店内の温度が一気に下がってしまったのではないかと思う程の冷気が周囲を満たした。

 その刀身は細長く、綺麗な曲線を描くような反りを持っている。それでいて、周囲の水分をも凍らせてしまう程の冷気を放っているのか、刃の部分は真っ白な霜が覆っており、その霜が凍り付く事によって、鋭い刃を更に際立たせていた。剣自体が放つ冷気から護るように、剣の柄の部分はしっかりと布が巻かれており、柄の部分は雪の結晶を模したような形をしている。青く透き通るような刀身の色は見る者を魅了する程の輝きを放ち、霜が降りる程の冷気は他者を寄せ付けない空気を生み出していた。

 

「これは、私の店にある最上位の剣です。お値段も23000ゴールドとお高いですが、この一本しかございませんので、希少価値もございます。神代から続く剣であるとか、雪の女王が生み出し、愛し続けた剣であるとか、様々な逸話が残されていますが、間違いのない一品だと思います」

 

「……これも、付加効果のありそうな剣ですね」

 

 カウンターから流れて来る尋常ではない冷気を感じたサラは、その剣がカミュの持ってる稲妻の剣や雷神の剣と同じように、何らかの効果を持っている剣だと推測する。おそらくは氷結系呪文の中級程度の効果を持つ物であろう事は推測に容易い。だが、その効果を持つ剣を握り続ける事が出来るのかとなると、疑問に思う部分が多かった。

 暫く沈黙が流れる中、冷気に耐えられなくなった店主が金属の蓋を被せる。不思議と冷気を感じなくなった店内で一息ついた店主は、購入するかどうかを問うように視線を向けた。

 

「俺には必要ないな。アンタはどうだ?」

 

「私もこの斧があるからな……」

 

 現状では、カミュとリーシャには固有の武器が存在している。カミュに至っては、背中に背負っている雷神の剣の他に腰に稲妻の剣というもう一本を差していた。これ以上の武器は過剰となってしまうだろう。そして、リーシャという女性戦士は、既に自分の武器を剣ではなく斧と決めている節がある。長い旅路の中で彼女が手にする武器が斧であった期間が長かった事もあり、彼女の中でも自身の得物という認識になっているのであろう。そこに、彼女が溺愛する少女の思いという物も多少なりとも含まれている可能性はあった。

 そんな二人が必要ないとなれば、ゾンビキラーという細身の剣が自在に振るえる限界であるサラに必要な訳がない。ましてや剣など握った事もないメルエに必要性など皆無である。その剣にどれ程の特殊効果が備わっているとしても、現状の一行には不必要な物であった。

 

「そうですか……残念です。では、この『力の盾』は如何でしょうか? これも不思議な盾でして、装備した者の祈りに応え、傷ついた身体を癒すと云われています」

 

「……盾にそんな力があるのですか?」

 

 他者を癒すとなればホイミ系の回復呪文と同じ効力を持っていると考えられる。マイラの村の武器屋にあった『賢者の杖』と同じ効果を盾が持っているという事にサラは驚きを隠せなかった。

 そんなサラの表情を見た店主は満足そうな笑みを浮かべて、一つの盾をカウンターに置く。リーシャやサラが持つ水鏡の盾のように真円を描き、中央には青い宝玉が埋め込まれている。水鏡の盾と対照的に黄金色に輝き、中央の宝玉の周囲だけ銀色の装飾が施されていた。

 不思議な輝きを放つ盾がそれ相応の力を宿している事は、厳しい戦いを乗り越えて来たカミュ達には肌で感じる事が出来ていた。それだけの空気と力を宿していたし、何よりも盾の方から語り掛けて来るような優しい空気を醸し出している。

 

「カミュ、この盾を私にくれないか?」

 

「……店主、幾らだ?」

 

「15000ゴールドです」

 

 暫く盾を見つめていたリーシャは、それを購入して貰えないかをカミュへと尋ねる。その瞳を見つめた彼は、その中に単純な魔法への憧れが皆無である事を知った。おそらく、今の彼女にとって、己が魔法を行使出来るというのは二の次以下なのだろう。それよりも、危機に陥りそうな時に自分にサラやメルエを癒せる手段があるという事だけが重要なのだ。

 一度瞳を閉じて小さく笑みを溢したカミュは、店主へ値段を尋ね、返って来た金額を聞いて腰の皮袋からゴールドを置いて行く。新たな盾を手に入れたリーシャは、今まで装備していた水鏡の盾を外して店主に買取を依頼し、購入金額の半額で買取をして貰えた事で、力の盾の購入金額が大幅に軽減した。

 

「…………メルエも…………」

 

「もう……またメルエの我儘が始まりましたね。メルエの装備は揃っていますよ?」

 

 新たな防具を手に入れたリーシャを羨ましげに眺めていたメルエがいつもと同じ言葉を口にする。それを横で聞いていたサラは、深い溜息を吐き出して少女を窘めた。いつもならば、少女の可愛い我儘を笑って許す一行ではあったが、マイラの村での出来事を経たサラは、メルエに対して良い意味で遠慮が無くなっている。そんなサラからの窘めに頬を膨らませたメルエは、『ぷいっ』と顔を背けて反抗的な態度を取っていた。

 二人の微笑ましいやり取りを眺めていたカミュであったが、他に何かないかどうかを店主へと尋ねる。その問いかけに、今度は店主が困った表情を浮かべるのだった。

 カミュとしては、軽い気持ちで尋ねただけではあったが、商売人としての誇りを持っていた店主は、ここで何かを出さなければ恥だとでも云わんばかりに悩み続ける。そして、何かを思いついたのか、奥から小さな箱を取り出して来た。

 

「……その女の子には着る事は出来ないでしょうが、この地方で作られたこんな物があります」

 

「こ、これは!?」

 

 言い難そうに顔を歪めた店主が木箱を開いた時、カミュとリーシャとサラの三人は言葉を失う。カウンターに置かれた小さな木箱の中には、カミュ達の想像を絶する物が鎮座していたのだ。

 中に入っていたのは、一枚の布。いや、正確に言えば布とも言えない程の布切れである。真っ赤な布切れは大げさに言えば糸のように細く、それでいながら細い部分が繋がっている一枚の布となっていた。

 その布切れを店主が取り出し、リーシャやサラに見えるように広げた事で、サラは声にならない悲鳴を上げる。その横のリーシャでさえも珍しく顔を赤く染めて視線を外してしまった。

 その赤い布切れは、明らかに女性用の物。女性用の下着とも取れる物で、胸の一部と下半身の部分を隠す分しか面積のない物であったのだ。夜の町と謳われていたアッサラームの劇場にいる踊り子でさえも着る事を躊躇うようなそれは、リーシャやサラのような免疫のない人間にとってはかなり衝撃の強い物であっただろう。

 

「これは、この地方で女性が海に入る時に着る水着なのですが……着る事の出来る人も限られていまして。その……メリハリがある女性というか……スタイルの良い方にしか……」

 

「なっ!?」

 

 赤い布切れを広げながら呟く店主は、少し視線をサラへと向けた後、本当に申し訳なさそうに視線を外す。その意味を理解したサラは、声を詰まらせた後で顔を真っ赤に染め上げた。それは、何も恥ずかしさだけが原因ではないだろう。小刻みに震える程の怒りが今の彼女の心を闇に染めていっていた。

 代わりに視線を向けられたリーシャは堪った物ではない。粗忽で荒々しい印象のある彼女ではあるが、深窓の令嬢のような純情を持っており、貞操観念も年齢にそぐわない程に固いのだ。真っ赤になってしまった彼女は、両手を何度も目の前で振り、拒絶の意志を示す。そんなリーシャの行動と、隣で小刻みに震えて俯くサラを不思議そうに見上げたメルエが首を傾げていた。

 

「そ、そんな物、誰が着るか! そ、それに……そんな物を着たら、戦闘をしている途中に脱げてしまうだろ! ぼ、防御力など、皆無ではないか!」

 

「……まぁ、そうでしょうね」

 

 真っ赤になって叫ぶリーシャの言葉を聞いた店主は、大人しく木箱へそれを戻す。この店主にしても、その水着を購入するとは考えていなかったのだろう。『何かないか?』と問われたから、『ない』と答える事を良しとせずに出しただけであって、それを売りつけようとは思ってもいなかったのだ。

 小さな木箱に納められ、店の奥へと消えて行った事で安堵の溜息を吐き出したリーシャとは対照的に、奥から戻って来る店主を憎しみを持って睨みつけるサラの瞳は危ない色を宿している。傍にいたメルエでさえもサラから離れてリーシャの手を握る程に歪んでしまった空気を感じた店主は、慌てたように弁解を始めた。

 

「も、申し訳ありませんでした。このドムドーラも昔は緑に覆われた場所であったのです。その頃に海へ出る若い女性の為に作られた水着で、その頃の若者達の間では『危ない水着』として人気があった物ですから」

 

 その店主の弁解を聞いていたカミュは、店主の言葉の中にある文言に首を傾げる。この場所が昔は緑に覆われた場所であったという部分にである。それは、このドムドーラの砂漠が後天的に生まれた場所であり、砂漠に町を立てたのではなく、町があった場所が砂漠となったという事を示していた。

 何が原因なのかは解らない。だが、大魔王ゾーマの影響が少なからずある事は想像出来た。一地帯を砂漠に変える程の瘴気が垂れ流されているという事が、このアレフガルドに時間が余り残されていないという事を示している。一度砂漠と化した大地に緑は戻らない。どれ程に空気が浄化されても、砂丘となった大地は土には戻らず、草花が育つ土壌になる事はないのだ。つまり、このドムドーラは大魔王ゾーマを討伐しようとも、砂漠のままであるという事になる。

 

「何故、この場所が……」

 

 カミュと同じ疑問に達したサラが何かを思い悩むように呟きを漏らす。その言葉通り、ドムドーラが砂漠化した意味が解らないのだろう。大魔王ゾーマの居城に最も近い都市となれば、陸続きという事を考えない前提ではラダトーム王都であろう。未だに見ていない都市があるとしても、このアレフガルドを統べる王がいるラダトームが標的となっても可笑しくないのだ。

 だが、ゾーマ城の南西に位置する場所にあるドムドーラがその標的となる意図が解らない。上の世界でテドンが滅びる理由もカミュ達は正確には理解していなかったが、メルエの素性を知った今となっては、その理由を想像する事は難しくはなかった。それに比べ、このドムドーラが標的になる理由は薄すぎたのだ。

 

「……本当に、伝説の剣の素材がある場所なのかもしれないな」

 

 自分の物をまたしても買って貰えなかった事で膨れるメルエを諭しながら店を出た時、町にまで入り込んでいる砂地を見たリーシャが何気なく呟いた言葉は、衝撃を持ってサラの頭に打ち下ろされる。

 古の勇者が持っていたとされる剣は、それこそこの世にある全ての武器の頂点に立つ剣であろう。その剣は大魔王ゾーマに砕かれたという逸話は残っているが、それでもその素材自体が神代の希少金属であり、この世にはない物であった。

 その素材が持つ力は定かではないが、地形を変えてしまう程の力を有していても不思議ではない。神や精霊と並び称される古の勇者の武器となれば、可能性は捨て切れなかった。もう一つは、その素材の発覚を恐れた大魔王がドムドーラ地方を不毛の地として人間を寄せ付けないようにしたかったという事も考えられるが、これは現状を見る限り可能性としては薄いように思われる。

 いずれにしても、このドムドーラという地方が死滅へと向かっている事だけは確かであろう。

 

「……まずは宿屋に向かいましょう」

 

 大魔王ゾーマを討ち果たしたとしても、死滅へと向かう速度が緩やかになるだけであり、このドムドーラという町はいずれ廃墟となるだろう。住む事の出来なくなった者達は他所に逃れ、この砂漠から離れた場所に新たな集落を作るかもしれない。だが、住居などを放棄して新たな場所で集落を生み出す事は容易い事ではないのだ。トルドという商人が生んだ奇跡を知っているサラは、この町の行く末を案じながらも、今必要な行動を提案した。

 宿屋は町を東西に分ける大通りの向こう側にあった。ドムドーラの南町と言えば良いのか、北側の商店がある地域とは異なり、一般の家屋が立ち並ぶ住宅地のような場所に、その看板が下がった場所が見える。舞う砂が目に入り、愚図り出したメルエを抱き上げたリーシャが、最後にその扉を潜るとようやくカウンターに居る男性が来客に気付いた。

 

「いらっしゃい。このドムドーラにお客さんなんて珍しいね」

 

 カミュ達四人の姿を見た店主は来客に喜ぶというよりは驚いている方が強いようであった。確かに、大魔王ゾーマの台頭によって魔物達の凶暴性が強まり、見た事も無い魔者達が横行する中、このような砂漠の中心にまで足を運ぼうとする旅人は皆無に等しいだろう。つまり、このドムドーラの宿屋はほぼ開店休業なのかもしれない。

 店主の言葉通りのゴールドを支払い、それぞれの部屋の鍵を受け取ったカミュ達は、部屋に続く階段へと視線を向けた。そんな時、偶然に上の階から降りて来た女性と目が合ってしまう。その女性は見目麗しい妙齢の女性であり、一行の最年長者であるリーシャよりも明らかに年上であろう事は推測出来る。もしかすると、三十路は越えているのかも知れないが、そんな年齢という枷などを引き千切る程の美貌と、溢れるような愛嬌を持った女性であった。

 

「あら、珍しい。こんな場所に旅人なんて……。もしかして、上の世界の人達かしら?」

 

 この時代のアレフガルド大陸を旅する酔狂者はそうはいない。皆が自分の住処を守る事に必死になっており、その地を離れる事を嫌う。そんな中で旅をする人間となれば、新たな新天地を探す者か、それとも元々住処を持たない者のいずれかとなる。そして、それに当て嵌まる者となれば、このアレフガルドとは異なる世界である上の世界からの来訪者以外になかった。

 女性としては極当たり前の推測ではあったが、カミュ達からすれば突然現れた女性が口にした言葉であった為、警戒をするように口を閉ざしてしまう。そんな中でもサラの手を握っていた少女だけは、小さく微笑んだ後で頷きを返した。

 メルエという少女は自身への害意に関しては敏感である。敵意や憎悪のような感情だけではなく、恐れや怒りなどにも過敏な反応を示す事があった。そんな彼女が警戒もせずに笑みを浮かべて、更には相手に向けて肯定を示したとなれば、この女性に対して警戒を向ける必要が皆無である事が解る。その女性が柔らかな笑みを浮かべてメルエの前に屈み込んだ事でそれは明らかとなった。

 

「あら、こんな小さいのに大変だったね。私はアッサラームという町の出身で、名前をレナというわ。貴女のお名前は?」

 

 しかし、自分に好意を示してくれる女性を笑顔で見上げていた少女の顔が、一つの町の名を聞いた瞬間に強張りを見せる。それは奇しくもドムドーラと似た砂地に立つという形態を持った町の名であり、夜の町とも言える程に栄えた歓楽街でもあった。

 そして、先程まで嬉しそうに微笑んでいた少女にとって忌むべき記憶が残る町でもある。心優しいホビットによってその町の劇場近くに置かれた彼女は、その劇場でNO.1を争っていた程の踊り子によって拾われた。それは彼女にとっての幸せの始まりであると共に、苦痛の始まりでもあったのだ。

 その町の名は、その後にカミュ達と出会った事で彼女の頭の中に残る事になり、それは思い出したくない記憶となり、その名を聞くだけでも凍り付く程の傷を幼い少女の心に刻みつけている。そんな少女の姿を見たサラは、困ったように笑みを浮かべる女性へ視線を送った。

 

「申し訳ございません。よろしかったら、二階の部屋で少しお話を致しませんか?」

 

「え? え、ええ。こちらこそ、突然こんな事を言ってしまって、ごめんなさいね」

 

 メルエの変貌振りに驚いていた女性ではあったが、自分が発した言葉が原因である事を察し、サラの提案に了承を示す。サラに促されて二階へと上って行く女性の背中を見ながら、リーシャはカミュから彼の部屋の鍵を奪い取って、固まっているメルエを抱き上げた。

 当然のように唯一人の男性である自分の部屋で話し合いが行われる事実に溜息を漏らした彼は、湯浴みの準備だけを店主に依頼して階段を上り始める。暫し呆然と二階へ続く階段を眺めていた店主は、久方ぶりに訪れた客の為に慌しく動き始めた。

 

「私の名前はレナ。アッサラームの劇場で踊り子をやっていたわ。ただ、少し嫌な事が続いてね……劇場を飛び出して旅の一座として世界を回っている途中に……」

 

 カミュの部屋へと入ると、女性を椅子にかけさせ、リーシャとサラはそのテーブルの近くの椅子に腰を掛ける。その際にメルエはベッドに座らされ、その横にカミュが座る事となった。先程過ぎった嫌な記憶が少女の心を弱めており、メルエは続いて座ったカミュの膝の上へ移動する。そんな少女の我儘な行動に苦笑を漏らしながらも、その心を察したカミュは背中の剣を外してメルエを抱き抱えるように座り直した。

 女性が発した言葉は別段驚く内容ではない。年齢は隠せなくても、その美貌と愛嬌は健在であり、踊り子として成功を収めていた事は明白であったからだ。故に、アッサラーム出身となれば、踊り子であるという結論に達するのはそれ程おかしな事ではない。むしろあの町で武器屋を営んでいたといわれた方が驚いていただろう。

 それよりも、女性が口にした自身の名前の方にカミュとサラは驚いていたのだ。その名は、二人だけが聞いた名前である。あのアッサラームでアンジェから過去の話を聞いた際に登場した名前であり、アンジェと共にNo.1を争っていたトップクラスの踊り子の名前であったからだ。

 

「では、貴女はアンジェさんを……」

 

「アンジェを知っているのかい? あの人は元気でやっていた? 結婚するって息巻いていたから、今頃はあの旦那と女の子と幸せに暮らしているんでしょうね」

 

 サラが口にした名前を聞いたレナという名の女性は、身を乗り出すようにサラへ問いかける。このような自分が生まれた世界とは異なる場所に一人で投げ出されたのだ。彼女がどれ程の苦労をして来たのかなど想像さえも出来ない。もし、彼女が一人でこの世界へ落ちて来たのであれば、その美貌ゆえに男性に襲われるという経験もしているかもしれない。それこそ死んでしまいたいと願う程の苦痛を味わって来た可能性もある。それでも尚、五体満足で生きているのだから、抑え続けて来た望郷の念が溢れ出しても責める事は出来ないだろう。

 自分の好敵手であり、親友であった者の名を聞いたレナは、瞳に涙を浮かべながら過去を思い出している。陰湿で粘着質な客に悩まされながらも、煌びやかに踊り続けていた過去が輝いて見えているのだろう。だが、そんな彼女の心の旅は、申し訳なさそうに俯いたサラの言葉で終わりを告げた。

 

「……アンジェさんは亡くなりました。あのメルエを護って」

 

「メ、メルエって、貴女がアンジェの娘なの!? ああ……あの時はあんなに小さかったのに、こんなに大きくなって。辛かっただろうね……アンジェは本当に貴女を大切にしてたから」

 

 親友が死んでしまったという衝撃的な話を消してしまう衝撃がレナを襲う。思わず立ち上がったレナは、カミュの膝の上で冷めた瞳をしている少女の方へ視線を移し、ベッドの方へと歩き出した。そして、カミュが膝の上からベッドへ降ろしたのを見て、その小さな身体を抱き締めて涙を溢す。

 今や、彼女だけが赤子の頃のメルエを知る人物であるだろう。生みの親は父母共にこの世にはおらず、育ての母親もこの世を去った。一時期共に暮らしていた男は行方知れずである事を考えると、彼女だけが親友であるアンジェの死に涙し、その忘れ形見の成長を喜ぶ資格を有しているのかもしれない。

 

「いつもいつも、アンジェは貴女を劇場に連れて来ては、女将さんに怒られていたわ。貴女が泣けば踊りを中止して、貴女が笑えば誰よりも美しい踊りを踊った。アンジェにとって、貴女は宝物だったのよ」

 

 メルエの髪を優しく撫でながら昔を語るレナの言葉は真実なのだろう。彼女がアッサラームを飛び出す以前までのアンジェという女性は、メルエを溺愛していた事に間違いはないのだ。

 だが、彼女はその後のアンジェを知らない。愛していた男と、可愛がっていた後輩に裏切られ、身も心もボロボロになったアンジェが、その宝物に手を上げ、虐げて来た事を知らないのだ。故に、彼女とカミュ達の間には埋まる事のない温度差が存在する。最後に見せたアンジェのメルエへの愛情を見ているサラでさえも、何か居た堪れない想いに駆られていた。

 

「アンジェが私に語った夢でね、いつか、貴女と共に踊りたいって物もあって……。でも、貴女がもし踊り子に向いてなければ、貴女に楽器を弾いて貰いながら踊るんだって、笑いながら話していたわ。それを聞いていた私も呆れたし、いつも怒ってた女将さんも苦笑してた」

 

 そんなカミュ達の醸し出す空気に気付く事なく、レナは思い出話を語り続ける。踊り子にとって、他者との間合いを空気で読む事は必要であっても、お客が放つ空気には鈍感であった方が良いのかもしれない。

 それでも、先程まで無表情を通り越して氷のような瞳でレナを見つめていたメルエの顔から険が取れていた。記憶はなくとも、メルエなりにその愛情は感じていたのかもしれない。親の愛情というのは、注いだ者と注がれた者にしか解らない物も多いのだ。無償で注ぎ続けて来た愛情は、必ずその胸に残る。どれ程に上書きされても、辛い記憶が塗り潰して行っても、根本にある愛情の記憶は生涯消える事はないのかもしれない。

 だからこそ、虐待を受ける子供が自分の胸の奥にある暖かな愛情の記憶に縋り続けるという悲しい出来事も起こるのだろう。

 

「私もアンジェも楽器なんか弾けないのに……可笑しいでしょう? そうしたら、いつも恐い女将さんがね……大きくなって、貴女が楽器に興味を持つようになったら、笛でも教えてやろうかねって言ったのよ。貴女は教えて貰えたのかしら?」

 

 醒めていた気持ちに一気に熱が篭る。サラだけではなく、リーシャの瞳にまで涙が溢れた。

 メルエはオカリナという物限定ではあるが、笛を奏でる事が出来る。それは劇場の下働きとして出入りしていたメルエに最低限の芸事を教えた為であろうと考えていたが、その内情は想像以上に深い物であった。

 アンジェの変心振りに心を痛めていた劇場の主夫婦が下働きとしてメルエを引取り、食事を与えていたのも、過剰に優しさを与えずとも、何も知らないメルエが一曲を奏でる事が出来るまで笛を教えてくれたのも、そんな遥か昔の出来事が基因していると知る。誰からも愛されず、誰からも必要とされていないと思っていた少女の過去は、幾つもの小さな優しさに護られていたのだ。

 あの苦しく辛い日々が消える事はない。アンジェという義母がメルエに与え続けた虐待という事実が消える事も無い。それによって小さな心に刻みつけられた大きな傷は生涯癒える事もない。それでも、彼女がこれからも歩み続ける道の幅が、広がった事だけは確かであった。

 

「ご、ごめんなさい。懐かしくて、一気に話してしまったわね。このドムドーラも砂漠の町だから、アッサラームのように熱い夜を生み出すのかもと思ってここまで来たけれど、このアレフガルドという大陸の方が上の世界よりも恐怖に慄いているわ」

 

 頬を流れる涙の雫を恥ずかしそうに拭ったレナは、誤魔化すように自分の身の上を話し出す。アッサラームもイシスという砂漠の大国の傍にある町である為か、砂地の多い場所に建てられた町であった。夜の町と呼ばれる程に賑やかな場所だからこそ、人も集まり、物も集まっていたのだが、一踊り子にはその辺りは理解出来なかったのかもしれない。

 魔王バラモスが台頭していた上の世界ではあるが、魔物の数は増えても、世界が闇に包まれる事はなかった。その点から考えれば、上の世界よりもこのアレフガルドの方が人々の危機感や恐怖は強いだろう。それこそ、夢や希望全てが失われてしまう程に、人々の心にも厚い闇の帳が下ろされていた。

 

「大魔王ゾーマを討ち果たせば、アレフガルドを覆う闇も晴れます。その時には、ラダトーム王都や他の都市で踊る場所を探してはどうですか?」

 

「そんな日が来るのかしら……。でも、そうね、元気にやっていかなくちゃ。もし、アッサラームの劇場で旦那さんや女将さんに会った時、『元気でやっていた』と伝えられるようにしなくちゃいけないしね」

 

 この先の生活に不安を感じてはいても、良く言えば楽観的に将来を見る事が出来るのは、この踊り子の才能なのかもしれない。踊りの上手さではなく、その容姿と愛嬌でNO.1を争った踊り子に相応しい笑みを浮かべたレナは、何かを思い出したように部屋を出て行った。

 突然部屋を出て行ってしまったレナを呆然と見つめていたサラではあったが、何故か緊張してしまった身体をほぐすように、大きな息を吐き出す。そんなサラの様子を見たリーシャもまた、流れ落ちる涙を拭って照れ笑いのような笑みを浮かべた。

 すぐに襲い掛かる地獄のような時間を知る由も無く笑い合う二人の女性を余所に、メルエは眠そうに目を擦り、舟を漕ぎ始める。そんな時、先程出て行ったレナが勢い良くカミュの部屋の扉を押し開いた。

 

「良かったら、これを持って行って! メルエが大きくなった時に着ても良いし、貴女達のどちらかが……いえ、ごめんなさい、ちょっと無理かもしれないわね」

 

「なっ!?」

 

 扉を開いたレナが差し出したものは、先程武器屋で出された物とは異なる形状をした水着であった。魅惑を感じるような紫色の上下に分かれた水着は、水着というよりは踊り子の着る服のような形状をしている。下半身を隠す布の上から腰に巻くようなパレオもあり、それを着て踊れば、世の男性の目が釘付けになるであろう事が容易に想像出来た。

 だが、まさかレナにまで、その水着を着るのは難しいと駄目出しをされると思っていなかったサラは、顔を真っ赤に染め上げて言葉を失ったように口を開閉させ続ける。

 レナなりの好意なのだろう。もしかすると、この踊り子の服のような水着は、アンジェとの思い出の品なのかもしれない。それでも、そんな事を考える事が出来る余裕は、この一行の誰にも残されてはいなかった。

 

「そ、そのような物はいらないぞ!」

 

 怒声のようなリーシャの声がカミュの部屋に響き渡り、びっくりしたメルエが不満気な唸り声を上げる中、水着を持ったレナがおろおろと視線を彷徨わせるという奇妙な光景が広がる。我関せずを貫き通していたカミュの大きな溜息が吐き出され、そんな喧騒は宿屋の店主が湯浴みの準備が出来た事を告げに来るまで続けられた。

 その後、不機嫌そうに言葉を発しないサラを尻目にレナと共に食事を済ませ、カミュ以外の人間がリーシャ達の部屋に集まって遅くまで話し続ける。上の世界の事、昔のアッサラームの事、バラモスが討伐された事、上の世界に平和が近づいている事、様々な話を続けながらメルエが完全に眠ってしまうまでそれは続けられた。

 

 五年以上に及ぶ旅は、様々な出会いがあり、多くの別れがある。その中には二度とは会えない者も含まれてはいるが、そこから繋がる細い出会いがあった。

 人の出会いは稀有なものであり、不思議なものでもある。何処かで誰かと繋がり、その繋がりは決して悪い物ばかりではない。『人』という種族を嫌い、その交流を意図的に絶ち続けて来た青年の旅は、細々と繋がって来た『人』との繋がりによって切り開かれて来た。

 その繋がりが、青年を勇者へと変え、世界を変えて行く事になる。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
ようやくドムドーラの町です。
この町は次話にも続きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。



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ドムドーラの町②

 

 

 

 暗闇が支配する朝、目が覚めたリーシャは自分の胸の近くで静かに眠るメルエの髪を優しく梳く。窓の外を見ると、徐々に明かりが灯って来ており、ドムドーラの町の生活が始まった事を示していた。

 リーシャの隣のベッドでは未だにサラは眠りの中におり、この一行の身体に見えない疲労が蓄積していた事が解る。このままいつまでも眠らせてやりたいと思いながらも、リーシャは静かにベッドを降りて着替え始めた。

 階下に下りると、既にカウンターには主人が控えており、その主人に洗濯用の桶と石鹸を借り受け、宿屋の裏にある井戸まで出て行く。宿屋専用の井戸である事から人は皆無に等しく、桶を置いたリーシャは井戸に取り付けられている滑車を中へと落とした。しかし、幾ら落としても水面に桶が届いた感触はなく、滑車に取り付いている縄が限界を迎えるのではないかと不安になる頃になってようやく滑車が止まる。水を含んだ桶の重みを感じながらリーシャが滑車を上げていると、宿屋の扉から少女が出て来た。

 

「ん? メルエ、起きたのか?」

 

「…………リーシャ………いなかった…………」

 

 水桶が上部まで上ってきた事で、それを洗濯用の桶へ移し変えたリーシャは、近付いて来る少女の頬が膨れている事に気付いて苦笑を浮かべる。そして、自分の予想通りの返事をする少女に、柔らかな笑みへと変えて行った。

 リーシャが起床し、温もりが変わった事で目を覚ましたメルエは、傍に母のような存在がいない事で不安になったのだろう。マイラの村を経て、絶対の信頼で結ばれた一行ではあったが、幼い少女の依存心を大きくしてしまうという弊害も持っていたのかもしれない。

 

「洗濯をしようと思ってな。メルエ、カミュの服を持って来てくれるか? 鍵は持っているだろう?」

 

「…………かぎ………いらない…………」

 

 傍に寄って来た少女の顔の汚れを井戸の水で拭いながら、リーシャはメルエに仕事を割り振る。それはこの少女に与えられたいつもの仕事ではあるのだが、大きく頷いたメルエの言葉に、持って来ていた三人分の衣服を桶に入れていたリーシャは驚きの表情を浮かべた。

 最後のカギという、全ての鍵を開錠出来る道具はメルエがいつも肩から下げているポシェットの中に入っている。その道具があれば、世界中にあるどんな場所にも入る事が可能であり、その開錠に許可を必要とはしない。その為、洗濯時には必ずその鍵を使ってカミュの部屋に乱入するのが宿屋での朝の恒例となっていた。

 毎回の襲撃を理解しているにも拘らず、必ず鍵を掛けるカミュも大概なのだが、毎回鍵を強引に開錠するリーシャやメルエも相当な物であろう。だが、そんな恒例行事の為に最後のカギは必要ないとメルエは口にしたのだ。リーシャは遂にカミュも諦めて施錠する事がなくなったのかと考えた。

 だが、その考えはメルエと共にカミュの部屋の前に到着した時に間違っていた事に気づく事となる。

 

「メルエ、鍵が掛かっているぞ? 最後のカギを出してくれ」

 

「…………いらない…………」

 

 ドアノブに手を掛けて施錠を確認したリーシャはメルエへ催促するが、それに大きく首を振ったメルエは、リーシャとドアの間に入り込む。突然の行動に驚いたリーシャではあったが、メルエが何をするのか解らずに一歩後ろへ下がった。

 雰囲気で何となくメルエが何かをするつもりなのだという事は理解出来てはいたが、魔法力を感じる才の無いリーシャは、それが呪文行使という方法である事に気付かない。だが、メルエが何やら口元を動かしているのを見付け、彼女は焦り出した。

 

「ちょ、ちょっと待て、メルエ! まさか爆発呪文でドアを吹き飛ばすつもりなのか!?」

 

 リーシャの中でメルエの放つ呪文は強力だという印象が強い。リーシャ達でさえ苦労する魔物を一瞬で薙ぎ払う程に強力な呪文を多く持つこの幼い少女が、ドアに向かってそれを解き放てば、それは開錠する必要などないだろうが、ドアどころかこの建物自体が吹き飛んでしまうだろう。それを想像したリーシャは慌てて少女を抑えるが、振り向いたメルエの顔を見て、それが勘違いであった事が解った。

 振り向いたメルエの頬は目一杯に膨れており、先程のリーシャの発言が大いに不服である事を示している。賢者サラによって魔法力の制御を理解した自分が、このようなドアに向かって爆発呪文を唱えると思われていた事が不満なのだろう。『むぅ』と唸り声を上げた後、『ぷいっ』と顔を背けて、再びドアへと視線を戻した。

 

「…………アバカム…………」

 

 指をドアノブへ突き出したメルエが呟くような詠唱を完成させる。ドアノブ周辺が輝く光に包まれた後、乾いた金属音を響かせて開錠が成された。

 呆けたような表情をしていたリーシャではあったが、満足そうな笑みを浮かべて振り返ったメルエを見て、諦めの溜息を吐き出す。最後のカギという道具があるにも拘わらず、このような呪文は必要ではないだろう。それでも、新たな呪文を覚え、そしてそれを使いこなす姿を見せたいという欲求に動かされた少女に呆れていたのだ。

 このメルエの行動は、カミュから言わせれば魔法力の無駄遣い以外の何物でもないだろう。それでも、この魔法という神秘に誇りを持っている少女からすれば、何よりも大事にしている行動の一つなのであった。

 

<アバカム>

世界中のどんな鍵をも開錠出来る呪文である。だが、呪文とは名ばかりの物で、本来は所有者の魔法力の制御により開錠をするという物であった。その為、体内の魔法力を放出するのではなく、体内にある魔法力を制御して鍵を外すという物に近い。

多くの魔法力を持つ魔法使いのみが契約可能な呪文であるが、『悟りの書』に記されている通り、術者の魔法力制御が秀逸でなければ成り立たない。あらゆる呪文の中でも特殊な物の一つであり、修得が困難な呪文の一つでもあった。

 

「今後は、最後のカギを使おうな。何も無理してメルエが魔法を唱える必要もないだろう?」

 

「…………むぅ…………」

 

 手放しで褒めてくれるだろうと考えていたメルエは、自分の予想とは真逆の反応を示すリーシャに対して不満そうに頬を膨らませる。確かに鍵があれば用が足りる呪文ではあるが、攻撃呪文などとは異なり、体内から魔法力を放出する訳ではない以上、消費量は皆無に等しいのだ。魔法力を感知出来ないリーシャにそれを理解しろというのは無理な話ではあるが、それでも褒めて欲しかったメルエにとっては不満な反応であったのだろう。

 ドアノブに手を掛けてカミュの部屋に入るリーシャの後ろを歩くメルエの不満の捌け口は、未だにベッドで眠る青年へ向かう事となる。気配に敏感な彼が、部屋への侵入を許して尚も眠り続けるという事は、リーシャやメルエの気配は警戒する必要のない物と認識されているのかもしれない。

 

「…………カミュ………おきる…………」

 

 ベッドの脇にある小さな椅子によじ登ったメルエは、カミュの身体を大きく揺さぶると共に、その上に乗るようにベッドへと乗り込む。圧迫感と振動で目を覚ましたカミュは、目の前にあるメルエの顔を見て何処か諦めたような瞳を向けた。

 メルエをベッドから落とさないように起き上がったカミュは、同じように呆れた表情を浮かべているリーシャを見て溜息を吐き出し、着替えていた衣服を指差す。頷きを返したリーシャは、ベッドからメルエを降ろし、カミュの衣服をその小さな両手の上に乗せた。

 誰からも褒めて貰えない状況に対して不服そうに頬を膨らませたメルエであったが、大事な仕事として任されたカミュの衣服の洗濯を遂行する為に、そのまま部屋の出口へと向かって行く。カミュの衣服を持っている事で前が見えていないメルエを気遣って一緒に部屋を出ようとするリーシャは、思い出したようにカミュへと振り返って口を開いた。

 

「メルエが開錠の呪文まで覚えたぞ」

 

「……最早、メルエは何でも出来るな」

 

 自分の言葉を聞いて大きな溜息を吐き出したカミュの表情を見て、ようやくリーシャにも笑みが戻る。

 アリアハンという島国を出発して既に五年半の月日が流れている。このアレフガルドへ降り立ってからも半年が経過しようとしていた。魔王バラモスを討ち果たした後も、成長を続けるサラやメルエを見ていると安心感や頼もしさに加え、不安も少しずつ大きくなって行く。それは強力になって行くその力が、その後の生活に支障が出て来るという可能性を考えてしまうからだろう。

 だが、何処か呆れるような表情を浮かべるカミュを見て、そんな心配は自分の杞憂である事を改めて認識したのだ。どれ程に強力な呪文を使用するようになろうとも、カミュがメルエを娘のように考えている限り、彼女に居場所がなくなる事はない。そしてリーシャ自身もその居場所を護る為に動くのであれば、問題など皆無であった。

 

 

 

 その後、起きて来たサラも洗濯に加わり、洗い終わったものを外に干す事になる。だが、日光が出ないアレフガルドでは風などで自然に乾くのを待つ為に、かなりの時間を要する事となった。

 一日の大半を洗濯物の乾燥に費やした一行は、ゆっくりと身体を休め、疲れを残す事なく宿屋を出立する事が出来た。宿屋を出た一行は伝説の剣の素材の情報を集め始める。一日も終わりに近付いた町には人が溢れており、情報は多く集まって行った。

 

「また、新たな井戸を掘らなければならないな……」

 

 町の東側にある井戸へ桶を下ろしていた男性は、引き上げた桶の中に入っている水の量を見ながら溜息を漏らしていた。元々オアシスがある場所に作った町ではない。それ故に、昔掘った井戸から湧き出る水を細々と使っているのだろう。もしかすると、先程までリーシャ達が行っていた洗濯も気を遣わなければならなかったのかもしれない。

 このドムドーラのある場所は全てが砂で覆われたわけではなく、しっかりした大地の土台の上に作られていた。まだ砂丘化が進んでいないだけではあるが、地下には未だに地下水が溜まっている地点も残されている。その為、一つ枯れては場所を変えて掘ってはいるが、その枯れるまでの時間は徐々に短くなっているのだろう。それはこの大きな町の寿命のようにさえ感じられてた。

 

「この町から東へ向かうと、メルキドという町がある。高い壁に囲まれた防衛度の高い町だからすぐに解ると思う。つい先日、吟遊詩人のガライもメルキドへ向かったばかりだ」

 

 この周辺の事を尋ねようと町へ入る門の門兵に声を掛けると、新たな町の名が出て来る。聞き覚えの無い町の名前ではあるが、このアレフガルド大陸では有名な町なのだろう。

 魔物が横行するようになってから、数多くの都市は防衛の為に柵や壁を作って襲撃に備えるようになった。だが、それでも急拵えの物が多く、強力な魔物の襲来を防ぐ事の出来る物など皆無に等しい。そのような中、高い壁に囲まれた町となれば、各国の王城がある城下町のような、他国からの防衛をも考慮した城壁に近い物という事であろう。

 吟遊詩人ガライという名前も初耳ではあるが、ここまで門番が自信を持って口にしているのだから、この人物もアレフガルド大陸で有名であると考えられる。重要な案件は一つもないが、頭の片隅に入れておく必要はあるのかもしれない。

 門兵に丁寧にお礼を述べた後、再びドムドーラの町を歩き始めた。

 

「私は伝説の剣の素材となるオリハルコンを求めてこの場所を訪れた。この町にあるという話を聞いたのでな」

 

 町を当てもなく歩いていると、強固な鎧を身に纏った一人の戦士がカミュ達へ声を掛けて来る。彼等が探している物を彼も探しているようであり、その金属が何の為に存在しているのかも知っているようであった。

 古の勇者が手にしていた剣は、このアレフガルドでは御伽噺ではなく、生きた伝説として語り継がれているのであろう。故にこそ、その剣を手にしたいという者は後を絶たず、オリハルコンという神代の金属の噂が流れると、それを求めた者達が訪れるという歴史を辿っていた。

 カミュ達の前で鋭い視線を向けて来る戦士も立派な鎧を纏い、腰に大きな剣を下げているのを見る限り、それなりの力量はあるのだろう。だが、それでもその力量はカミュ達の足元にも及ばない。彼はルビスの塔で遭遇したドラゴンはおろか、マイラの森で遭遇したスカルゴンにさえ歯が立たない事は明白であった。

 大魔王ゾーマ討伐を目指すカミュ達と比べる事自体、この男性の戦士には気の毒な事ではあるのだが、古の勇者が手にしていた世界最強の剣を欲するのであれば、明らかな力量不足である事は事実である。彼の纏う雰囲気を見る限り、カミュ達がカザーブの村で購入した鋼鉄の剣が関の山であろう。それ以上の剣を求める事は、分不相応と言っても過言ではなかった。

 

「やはり、この場所にあるのだろうか……」

 

「さぁな。可能性としては高いが、元来このような話は真実である可能性の方が低いからな」

 

 肩を怒らせながら去って行く男性戦士の背中を見つめながら呟いたリーシャの言葉にカミュは首を振る。そんな様子を不思議そうに見つめていたメルエが、手を繋ぐサラを見上げて首を傾げた。

 ここまで周囲に知れ渡っている噂にも拘わらず、それが未だに発見されていないという事は、ここにそれが無いという証拠にもなってしまう。あの戦士の感情を見る限り、この町を訪れている人間は彼だけではないのだろう。彼はカミュ達の姿を見て牽制の意味も含めて声を掛けてきたのかもしれない。カミュ達がその話に食いついてくれば、同じ物を目指す敵となり、逆であれば良い情報源になるとでも考えたのだ。

 

「そうですね……。ですが、魔法のカギのときの事もありますし、もしかすると何か特別な仕掛けがある場所に安置されているのかもしれません」

 

「破壊された伝説の剣の素材を安置する特別な場所などあるのか? それこそ、噂が立ちそうなものだが……」

 

 確かにサラの言葉通り、イシス国にあると伝えられていた魔法のカギは、何百年という歴史の中でもその場所に安置され続けていた。カミュ達がその安置場所であるピラミッドを探索する前にも、数多くの人間がピラミッドの中に入っていて尚、その神代の鍵はそこに在り続けていたのだ。

 カミュの父であり、全世界の英雄とされていたオルテガでさえも、その鍵を手にする事はなく、旅を続けている。彼の場合は、そもそもピラミッドに立ち入る事が不可能であった為という事もあるだろうが、それもまた必然を起こす勇者と、起きた必然の中で名を残す英雄との違いなのかもしれない。

 魔法のカギ自体はピラミッドの中に在り続けたが、それは巧妙な仕掛けによって護られており、その仕掛けを解く鍵は、イシス王宮で生きる一部の人間にしか伝わってはいなかった。そのような物があれば、このドムドーラという一つの町の中でもオリハルコンを見つけられない理由としては成り立つだろう。

 

「そうですね。例えば、枯れた井戸の中とか……」

 

「井戸の中!? こんな闇のアレフガルドで、真っ暗な井戸の中から人が出て来たら大変な騒ぎになるぞ? それこそ、サラの苦手な類だろう?」

 

 枯れた井戸は通常使用する目的も無くなり放置となる。中に水が入っていても放置された井戸などであれば雑草などが多く生え、湿気を好む生物の住処となるのだが、完全に枯れてしまった井戸であれば話は別である。入り込む砂が埋め尽くす井戸の底は、闇で覆われたアレフガルド大陸の中でも最上位の暗さを誇るだろう。そのような場所にオリハルコンという希少金属を運び込み、隠す為の仕掛けなどを施した人間がいるとすれば、かなりの奇人である。

 遥か昔にそれを行った人間がいるのであれば、陽の光が届く頃に行っているのだろうから、目撃者は多数いるだろう。もし、人目を避けるように行ったとすれば、それもまた、霊魂の類として噂が出る筈である。

 第一にオリハルコンという素材で造られた神代の剣が祀られているのであれば、そのような仕掛けがあっても可笑しくはないが、砕かれて素材だけとなった金属がそのように仰々しく隠されているかとなれば、答えは否であろう。

 

「…………あわあわ…………」

 

「メ、メルエ!?」

 

 リーシャの言葉を聞いたサラが嫌そうに顔を顰めると、それを見ていた少女は笑みを浮かべながらあの言葉を口にする。最早、サラにとってはしつこさに嫌気が差す言葉であり、カミュやリーシャからすれば呆れる程に繰り返されて来た言葉だ。実に四年から五年もの間、この少女はサラに向かってこの言葉を口にしているのだから当然であろう。既にリーシャもメルエを諭す気にも叱る気にもなれない。そんな言葉であった。

 サラにしても、相手をしなければ良いのだが、元来の律儀さなのか、しっかりとこの少女の相手をしてしまう。それがメルエにとっては何よりも楽しいのだろう。彼女にとって、このような交わりもまた、大好きな者達との大切な交流なのだから。

 

「井戸の中に下りる必要もないだろう。もう少し町の様子を見てみる」

 

「本当に井戸の中にあったら驚きだがな」

 

「井戸が枯れる現象も、オリハルコンの影響という可能性が……いえ、それはないですね」

 

 サラとメルエのやり取りを横目に周囲を確認していたカミュが方針を決定し、リーシャが同意する。そんな二人のやり取りに、僅かに残る可能性を口にしたサラは、吹き抜ける風の中に混じった砂を感じて首を横へ振った。

 この町の状況を見れば、砂漠化が進んでいる元凶がオリハルコンという神代の金属である可能性は低いだろう。想像以上の力を有している金属なのかもしれないが、それでも大地を枯らすという影響を及ぼすとは思えない。大地の女神が愛する場所を枯らす物を神が生み出す訳がないからである。

 一行は井戸の近くを抜けて町を歩いて行くと、町の外れに残る草原のような場所が見えて来た。砂漠が進むドムドーラ地方でその部分だけが青々とした草花が生え揃っている。陽の光が無い為にその草達の色が生き生きとしているとは感じないが、それでも風に靡く草花が砂漠に残るオアシスのように見えていた。

 

「あら……また光ったわ」

 

 闇が支配する草原のような場所には、数匹の牛や馬が放たれている事から、そこが牧場である事が解る。そんな牧場と思われる場所に視線を向けて立つ一人の女性が顎に指を当てながら小首を傾げていた。

 女性はカミュ達が近付いている事にも気付いていないのか、頻りに首を傾げながら牧場の方へ視線を向けている。自分の隣に若い女性が立った事で、ようやくカミュ達の存在に気付いた女性は、驚いたような表情を浮かべた後で軽く会釈を返した。

 

「どうしたのですか?」

 

「あ、はい。時々、牧場の方で何かが光るのです。茂みの奥の方だとは思うですが、何か気になってしまって」

 

 隣に立ったサラの質問に戸惑いながらも口を開いた女性の話す内容に、今度はリーシャとメルエが首を傾げる。牛や馬が生活する牧場の中で輝くような物が存在するとは思えない。ましてや陽の光も届かないアレフガルドの地で輝くという事は、その物体自らが発光する必要があるのだ。

 だが、それに対してカミュとサラは一瞬眉を顰めた後、視線を牧場の方へと向けた。もし、この女性の言葉通りであれば、光を反射する物ではなく、光を発する物がそこにある可能性が高い。神代の金属とされ、世界最強の武器の素材となる金属であれば、その物自身が輝きを放っていても可笑しくはないのだ。

 だが、この女性程度しか気付かない程に弱い光しか発する事が出来ないという事に一抹の疑問は残るが、それでも調べてみないという選択肢はない。丁寧に女性にお礼を述べた後、女性が去って行くのを確認した一行は、牧場の中へと足を踏み入れた。

 

「この茂みの中を探すのか?」

 

「可能性があるとすればこの場所だろう」

 

「まずは探してみましょう」

 

 馬や牛を退けて中に入った一行は、牧場の茂み近くまで移動して地面を探し始める。片手に『たいまつ』を持ち、地面に腰を下ろして探すのだが、牧場だけあって牛や馬の糞が大量に落ちていた。それらを踏まぬように、そして拾い上げぬようにしながら各自が探す始めるのだが、そう簡単に何かが見つかる事はない。

 カミュ、リーシャ、サラの三人がそれぞれ異なる方角を探す中、メルエはサラの傍で屈み込んでいた。そんな少女が何かを見つけたように草の中に手を入れ、顔を綻ばせる。そして、それを持って立ち上がったメルエは、足早にサラが屈み込む場所へと駆けて行った。

 

「…………あった…………」

 

「え!? もう見つけたのですか……きゃぁぁぁ!?」

 

 自分に突き出された小さな手に気付いたサラは、簡単に見つけ出したメルエに驚き、その手にある物へと視線を送るが、そこに居た奇妙に動く物体を見て叫び声を上げる。メルエの小さな指に抓まれたそれは、うねうねと奇妙に身体をくねらせながら、懸命に逃げ出そうともがいていたのだ。

 その名は『ミミズ』。土の中で暮らし、その土を富ます事の出来る貴重な生物ではあるのだが、その奇妙な体躯から忌み嫌われる事も多い生物であった。数年も前の話になるが、この生物をサラが苦手としている事は周知の事実となっている。メルエにとって、この一連の出来事の後でかなり辛い経験もしているのだが、そのような事は幼い彼女にとっては過ぎ去った過去の出来事なのかもしれない。

 叩き落とされるように手を叩かれ、そのことで手を離れたミミズは地面の中へと逃げ込んで行く。手を叩かれた事に『むぅ』と頬を膨らませたメルエは、恨めしげにサラを睨み付けていた。そんな少女の瞳を見て、サラは大事な事をこの少女に伝えていなかった事に気付く。

 

「メルエ、探しているのは虫さんではありません。オリハルコンと呼ばれる石です。暗い所で時々光るらしいのですから、それを探して下さい」

 

「…………ん…………」

 

 メルエは皆が牧場に屈み込んで何かを探しているからそれを真似ただけであり、何を探しているのかを知らずに、地面にある物を眺めていたのだろう。それでも、サラが探していた物がミミズでない事ぐらいは彼女の理解しているのだろうが、それは自分に何も教えてくれないサラへの報復も兼ねていたのかもしれない。

 先程のサラの叫び声を聞いたカミュとリーシャが視線を向けて来るが、その後の二人のやり取りを聞いて再び地面を探し始める。皆が大地へと視線を落とす頃、再び屈み込んだメルエは伸びている草を掻き分けてサラの言葉にあった物を探し始めた。

 その後、誰もが無言のまま探し続けていた中、多少の飽きが訪れていたメルエは、地面に落ちている何かを慎重に拾い上げてサラの許へと戻って行く。自信満々の表情で突き出された手を見たサラは、再びがっくりと肩を落とす事となる。

 

「メルエ……それは、ただの石ではありませんか。時々輝くような石ですよ、それは本当に何の変哲も無い石です」

 

「…………むぅ…………」

 

 メルエが手にしていたのは、何処にでもあるような普通の石であった。暗い闇の中でも一目で解るような只の石を然も得意気に突き出す少女に呆れたサラは、溜息と共にその申し出を却下する。だが、そのサラの態度に不満を顕にしたメルエは、もう一方の指を突き出し石の一部分を指した。

 もう一度溜息を吐き出したサラは、それでもメルエの指先へ視線を向けたのだが、その先にあった物に驚愕する事になる。驚きの表情を浮かべたサラを見たメルエは、満足そうに笑みを浮かべた。

 その石の先には、小さな昆虫が留まっており、その昆虫が定期的な感覚で身体を光らせていたのだ。それはまるで石が輝くようにも見え、なんとも幻想的な物となっている。もしかすると、先程の女性はこれを見たのかもしれないと思ってしまう程に儚げな光を見たサラは何か身体の力が全て抜けてしまうような感覚に陥った。

 この石に止まっている虫は、本来清い水辺に住む物であり、このような砂漠の地で見かけるような物ではない。現に、この周囲に同じような光を放つ虫は見つける事は出来ず、この一匹だけが何故かこの場所で生を受けたという事になるのだろう。もしかすると、このドムドーラの北側にある山脈から流れ落ちる川があり、そこで生を受けた虫がこの近くまで下りて来たという可能性もあるが、何にせよ牧場の輝きの秘密は解けてしまったように思われた。

 

「……メルエはその辺に座っていて下さい。カミュ様達とお話をして来ます」

 

 笑顔を浮かべていたメルエだが、疲れたように息を吐き出すサラを見て、何か悪い事をしてしまったのではないかと不安に駆られる。最早自分の事を見ようともせずに立ち上がるサラの姿が、その不安を大きくさせて行くが、これ以上我儘を言って困らせる事を良しとはせず、近くの少し大きな石に腰掛ける為に『とぼとぼ』と歩き始めた。

 そんなメルエを余所に、脱力感一杯のサラは未だに懸命に地面を探しているリーシャの許へと辿り着く。仕事を放棄して近付いて来たサラを不審に思ったリーシャが、曲げていた腰を一気に伸ばし、身体全体で伸びをするように立ち上がったのを見て、サラは今メルエが持って来た物について語り始めた。

 その話を聞くに連れてリーシャの表情に落胆の色が見え始め、寄って来たカミュの表情にも若干の疲れが見えて来る。サラの推測は的外れな物ではない。遠くからその光が見えるかどうかは定かではないが、微かにでも見えていれば、それは瞬く輝きとして映るだろう。

 

「この牧場には無いという事か?」

 

「無いと考える方が良いかもしれないな」

 

 最後の望みを繋ぐようなリーシャの問いかけは、カミュによって斬り捨てられた。元々あるかどうかも定かではない金属であり、このドムドーラという町にある可能性どころか、アレフガルドという大陸にある可能性さえも低い金属である。それを見つけ出す事が雲を掴むような話であり、アレフガルド大陸に生えている草の中から一本だけ特別な草を探すような物であったのだ。

 故にこそ、情報が命となるのだが、ここに来てオリハルコンという金属に関する情報がとても曖昧になっている。ここまでの旅でそのような曖昧な情報はあったが、それでもそこまで導いてくれる確かな物が必ず存在していたし、重要な物程、それの方から呼びかけて来るようにカミュ達を誘っていた。

 しかし、今回のオリハルコンにはそれがない。誰もその奇妙な金属の正確な情報は掴んでおらず、また、それの方から呼びかけて来る事もない。最早、手詰まりと言っても過言ではなかった。

 

「メルエは向こうで休んでいますから、呼んで来ますね」

 

 完全に手詰まりとなってしまった事で、一行の行動指針が途絶えてしまった。残るは、このまま再び精霊神ルビスが封じられた塔へ赴き、その身を解放させるだけである。それは、あの場所でドラゴンという強敵に歯が立たなかったという記憶の新しい今はまだ、かなり危険が高い行為であろう。カミュとしても、時期尚早と考えていたのだ。

 リーシャという女性戦士は、この旅が始まった頃からその行動が一貫している。旅の指針はカミュという勇者に委ねており、余程の事がない限りはそれに異を唱える事はない。悪く言えば、カミュに全てを丸投げしているという見方もあるが、彼女は己の分を弁えているとも言えた。

 

「カ、カミュ様! リーシャさん!」

 

 辿って来た糸が切れてしまった事で途方に暮れそうになっていた二人の耳に、切羽詰ったような叫び声が響く。このような場所で魔物の襲来は有り得ないだろうが、それでも皆無ではない。背中の武器を抜き放った二人は、サラの声がした方へ『たいまつ』を向け、そちらへと駆け出した。

 

 

 

 

 

 サラがカミュ達の許へ行ってしまった頃、一人残されたメルエは近くにある石の上に腰掛けようと近付いていた。周囲は吸い込まれるような深い闇に覆われ、物音さえもしない静寂に包まれている。この一行で『たいまつ』を持っているのはカミュ達三人であり、その三人が一ヶ所に集まってしまうのだから、必然的に残されたメルエの周りに何一つ明かりが無い状態になってしまうのだ。

 普段ならば、そのような事が無いように必ずメルエの傍に誰かが居るのだが、先程メルエが示した事柄に深い絶望を感じてしまったサラは、それを考える余裕さえも失ってしまっていたのだろう。賢者にあるまじき失態と言わざるを得ないが、今は誰もそれを責める事は出来ない。当のメルエも、サラがカミュ達への報告を済ませれば、すぐに皆で戻って来る事は理解している為、寂しいと感じる事もなかった。

 

「…………??…………」

 

 そんなメルエであったが、近付いた石に腰掛けようと手を伸ばした時に感じた違和感で首を傾げる。何を感じたのかさえも自分では理解出来ないのだが、確かに何かを感じていた。

 もう一度確かめようと手を伸ばしては見たが、周囲の闇にも静寂にも変化はない。メルエの着ている天使のローブの布が擦れるような音しか聞こえず、伸ばした手の先も見え辛い闇が広がっているだけであった。

 

「…………うわぁ…………」

 

 しかし、その指先が石に触れた時、メルエは今まで口にした事の無いような奇妙な声を上げる事となる。メルエが腰を掛けるには丁度良い大きさの石は、彼女の手が触れた瞬間、弾かれるような輝きを発したのだ。

 まるで火花が散るかのような激しい輝きは、本当に一瞬ではあるが、確かに確認された。手元どころか牧場の茂みの奥までも見通せる程の輝きが放たれたのだ。だが、それは一瞬の出来事であり、メルエから少し離れたカミュ達は気付かなかったかもしれない。

 それでも、珍しい物が好きで、綺麗な物が好きなこの幼い少女は、再び手を差し伸べる。だが、またあの輝くような輝きを見たいと願うメルエではあったが、その願いは石には届かなかった。

 

「…………??…………」

 

 冷たい石の感触が指にあるにも拘らず、光らない事に首を傾げたメルエは、すぐに不満そうに頬を膨らませて、もう一度石に触れる。しかし、今度もあの輝きは発せられず、牧場を覆う闇と静寂に変化はなかった。

 『むぅ』という唸り声を上げたメルエは、その後も何度か石に触れるが、輝きを放つ事は無く、時間だけが過ぎて行く。その内、メルエの後方から石が放った物ではない明かりが近付いて来た。

 

「メルエ、何をしているのですか?」

 

「…………いし………ひかった…………」

 

 『たいまつ』を持って現れたサラは、幼い少女の不可思議な行動に首を傾げる。振り向いたメルエは、小動物のように頬を膨らませて、不満そうに今見た出来事を口にするのだが、その内容に見当がつかないサラは、再び首を傾げるのであった。

 サラの気のない態度を見たメルエは、先程の光景をもう一度起こそうと、何度も何度も石に触れる。最後の方では石を叩くように『ぺしぺし』と音を立てるが、先程見た幻想的な現象が起きる事はなかった。

 メルエの可愛らしい姿に先程までの絶望が払われたように感じたサラは、微笑みを浮かべながら彼女を軽く抱き上げ、そのまま石に腰を下ろさせる。その時、サラの腕が石に触れた瞬間、眩いばかりの輝きが岩から発せられた。

 

「へ?」

 

「…………ひかった…………」

 

 一瞬の出来事で、即座に闇に戻った牧場に、サラは間の抜けた声にならない息を吐き出す。そんなサラを座りながら見上げていたメルエの顔は、『言った通りだろう?』とでも言いた気な表情を浮かべていた。

 確かにメルエが話した通りの現象が起こってはいたが、それでもその理由に説明が付かない。一度目は光ったのに、その後何度もメルエが触れても光らなかった石が、サラが触れた途端に光を放った。その事が大いに不満なメルエが頬を膨らませてはいるが、サラは仕組みが解らない為にそれを宥める余裕が無い。最後の手段として、後方で今後の方針について話し合っているであろう二人を呼ぶ事しか出来なかった。

 

 

 

 

 

 サラの声を聞いて武器を片手に駆けて来た二人は、奇妙な光景を目にする。むくれたように頬を膨らませて石に腰掛ける少女と、その横で少女が座る石を『ぺしぺし』と叩く女性の姿であった。

 その光景だけでは、彼女達が何を求めて何をしようとしているのかが解らない。何にせよ、魔物の危険性はないと思われた為、二人は武器を納める。一息付いた頃を見計らって、未だに無心で石を叩くサラへリーシャは声を掛けた。

 

「何をしているんだ?」

 

「え!? こ、この石が……」

 

「…………いし………ひかった…………」

 

 しかし、何をしているのかを問うリーシャに対する答えは、後から来た二人にとって全く理解出来ない物であった。

 戸惑うように口を開くサラは明らかに動揺しており、その石に腰掛けるメルエは不満そうな表情をしながらも瞳には自信が満ちている。『石が光る』という事自体が理解の範疇を超えているのだが、その経緯も状況も把握出来ない為に、全く理解出来ないというのが正直なところであった。

 石から降り立ったメルエがリーシャへ近付き、その手を取って石へ近づいて行く。何をしているのかが解らないリーシャではあったが、為すがままにメルエに付いて行った。石に近づくと、メルエはリーシャの手を石へと導き、闇の中で冷たく冷やされた石に指先を触れさせる。メルエが何をしようとしているのか、何を求めているのかが解らない以上、石に触れたリーシャは答えを求めるようにサラとメルエへ視線を動かした。

 

「…………ひからない…………」

 

「あれ? 初めて触れたのに、光りませんね?」

 

 しかし、そんなリーシャの視線の先には、明らかに落胆したメルエの表情と、先程以上に困惑したサラの表情があった。

 先程の不満そうな表情から一変し、眉を下げたメルエはリーシャの腕から手を離して、もう一度自ら石へと触れる。しかし、サラやメルエの話すような現象は起きず、再び不満そうに頬を膨らませるのだった。

 サラは、この石に初めて触れた時だけ輝きを放つのかと結論付けそうになっていたところだっただけに、リーシャが初めて触れた時に輝かなかった事で再び思考の海へと潜って行く。何が影響して輝きを放つのか、そしてこの石は何故輝くのかという疑問が、賢者の頭脳を一気に稼動させて行った。

 

「…………カミュも…………」

 

 一人が思考の渦に落ち、一人が何故だかわからない落胆と憤りに苛まれる中、メルエが再び動き出す。一番後ろにいた青年の手を取り、石の前まで移動した彼女は、その手を石へと近づけて行った。

 そして、その手が触れるか触れないかの時点で、彼女達は再び幻想的な光景を目の当たりにする。

 一瞬カミュの指先から何かが石に吸収されたように見えた後、大きな輝きが一気に溢れ出た。その輝きもまた僅かな時間ではあったが、先程メルエが触れた時やサラが触れた時に比べると大きさも眩しさも桁違いの物であったのだ。

 四人全員を包み込むような大きな輝きが闇の中の牧場を包み込み、即座に石の中へ収束して行く。驚きの表情を浮かべるサラとリーシャは言葉も出ない程に固まり、その横では満面の笑みを浮かべたメルエは再び光らせようと、石へ手を伸ばしていた。

 しかし、再度メルエが触れても石に輝きは戻らない。それが不満な少女は、頬を膨らませながら『ぺしぺし』と何度も石の表面を叩いた。それに飽きた頃、一際大きな輝きを発現させたカミュの腕を取り、もう一度石に触れさせようとする。

 そして、その試みは功を奏した。

 

「……何故だ?」

 

「私達は一度光り、リーシャさんは光らなかった。私達に有って、リーシャさんに無い物は……」

 

 先程よりは小さくとも、瞬くような輝きはとても美しい色。全てを包み込むような温かさを備えながらも、心の奥底に眠る何かを揺さぶるような勇気を持つその輝きを見て、ようやくリーシャが疑問を溢す。不思議な現象を何度も見て来た彼女達であっても、この石に纏わる出来事はもう一段上の神秘であったのだ。

 困惑するリーシャの横で思考の海に落ちていたサラは、カミュが起こした出来事を考慮に入れ、更なる考察を進めて行く。何らかの答えが出たのか、サラがもう一度顔を上げた時、面白がったメルエが再びカミュの腕を石に近づけようとするところであった。

 『もういい』というカミュの拒絶に頬を膨らませたメルエをリーシャが軽く叱り、その幼い身体を抱き上げた頃、サラの答え合わせが始まる。

 

「この石がオリハルコンだと思います」

 

「これがか?」

 

 断言するように口を開いたサラに皆の視線が集中する。先程までの輝きなど嘘のように静かに佇む石を指差したリーシャは、まるでサラが血迷ってしまったのではないと声を上げた。

 何の変哲も無い石にしか見えないそれは、土などに汚れながらも欠けている様子もない。言い伝え通りであれば、大魔王によって粉々に砕かれた伝説の剣は素材であるオリハルコンとなったとされていた。つまり、この石のような塊のままであれば、粉々に粉砕されてはいない事になる。むしろ、高温によって溶かされた物が冷えて固まったと考えた方が正しいような姿であったのだ。

 

「詳細は解りませんが、この石は魔法力に反応していると思うのです。メルエや私も初めて触れた時には、カミュ様の時ほどではないにしろ輝きを放ちました。リーシャさんが触れても輝かなかったのは、魔法力を外へ出す事が出来ないからだと思います」

 

「ぐっ……」

 

 自分の問いかけを無視され、更には一番突いて欲しくない部分を突かれた事で言葉に詰まってしまったリーシャが表情を歪める。

 確かにリーシャは魔法力を放出する才能は皆無であった。魔法力の元となる物は確かに彼女の身体にも宿ってはいるのだろう。だが、それを放出する能力が皆無な為、呪文の契約も行使も出来ない。それは彼女にとって幼い頃からのコンプレックスであり、負い目でもあった。常に、魔法が使えていればという想いを持って過ごして来た少女時代の思い出は、彼女の心に残り続ける傷でもあったのだ。

 そんな痛い部分を突くサラの指摘は鋭く、リーシャの心を抉って行くのだが、謎を究明している最中のサラは、そんな姉のような存在の心の痛みに気づく事はなかった。

 

「カミュ様の魔法力に反応したこの石は、おそらく主を定めたのだと思います。古の勇者様がお持ちになっていた剣ですので、カミュ様を主として定めたとしても可笑しくはない筈です。今までも誰かの魔法力を感じて輝きを放っていたのでしょうが、風や雨などにも魔法力は混ざりますので、それに反応していた可能性もあります。己の主となる者の魔法力を探していたのでしょう」

 

「…………カミュ………ずるい…………」

 

 自分の時は一度しか光らなかったという事実を今更になって思い出したメルエは、先程まで懸命に触れさせようとしていた彼の腕を握ったまま、恨めしそうに見上げる。苦笑を浮かべたカミュは、そんなメルエの帽子を取り、頭に手を乗せて柔らかく撫で付けた。

 『むぅ』と頬を膨らませながらもカミュの手を跳ね付けられないメルエは、傍で未だに傷心しているリーシャの腰に抱き着く。メルエが抱き着いて来た事でようやく我に返ったリーシャは、もう一度石へと手を伸ばした。

 しかし、先程と同じように全く反応を示す事のない石に対し、メルエのように『むぅ』と唸り声を上げたリーシャは、一度石を殴りつけるのだった。

 

「リ、リーシャさん!?」

 

「大魔王が数年も掛けて砕いたと伝えられる剣だ。アレの一撃で砕けてしまえば、それは偽物という事だろう。最も、既に大魔王以上の力をアレが有していれば別だが」

 

「…………リーシャ……まおう…………?」

 

 リーシャの一撃に慌てたのはサラである。神代の武器の素材である可能性が高いと口にしたばかりであるにも拘らず、それに対して強烈な一撃を叩き込むのだから、サラにしてみれば冷や汗物であった。

 しかし、事の成り行きを見ているカミュは冷静な分析を口にする。確かに、伝承では大魔王自らが何年もの時間を掛けて砕いたという説もあるらしく、それだけの時間と労力を必要とする金属が、人間の一撃で砕ける訳はないのだ。カミュの言葉通り、既にリーシャの力が全てを滅ぼすと云われる大魔王を越えていれば別の話ではある。

 苛立ちの一撃を石に加えるのを見て避難していたメルエは、カミュの言葉を聞いて昔耳にした一つの説を思い出す。リーシャという母のように慕う女性が実は魔王という存在であるという物だ。眉を下げてカミュへ問い掛ける少女の顔には、明らかな不安の色が浮かんでいる。自分の大好きな人間が討伐の対象になっては困るという事だろう。それを阻止するようにカミュとリーシャの間に入り込んだメルエを見て、不覚にもサラは笑いを漏らしてしまうのだった。

 

「そうか、まだサラはそんな事を言っているのだな?」

 

「ふぇ? え、何故ですか? 今の会話の何処にそんな要素があったのですか?」

 

 しかし、そんな賢者の余裕の笑みは、即座に凍り付く事になる。

 そもそも、その事をメルエに話した人間は僧侶時代のサラであった。軽い冗談のつもりが、冗談で済まなくなってしまったのはメルエの不用意な発言が原因ではあるが、元々は、何も知らないメルエにそれを伝えてしまったサラの落ち度である。

 この状況でサラの落ち度は何もない。サラが悪いところは、先程リーシャのコンプレックスを無意識に突いてしまった事ぐらいであろう。だが、あの言葉で、今のサラの印象はリーシャの中ではとても悪くなっている。そして、遥か昔にメルエに教えた言葉を聞いて、全ての悪はサラであると断定されたのであった。

 徐々に近付く人類最高の戦士の一撃は、つい先日身を持って味わったばかりである。あの時は興奮の為に記憶が曖昧ではあったが、それでもあの衝撃と強烈な痛み、そして狭まって行く視界への恐怖はサラの心の奥に刻み付けられていた。

 及び腰になって逃げようとするサラを護る為にメルエが立ち塞がる事はなかった。どんな魔物からも、どんな苦難からも護ると心に誓う少女ですら、今のリーシャは恐ろしい物に映っているのかもしれない。

 

「あの石を持って、マイラへ戻るぞ。その後は、メルキドという町へ行ってみる」

 

「あっ、はい! メルエ、ルーラの詠唱の準備を」

 

 予期せぬ救いの手が差し伸べられた事で、サラは即時の脱出を図る。近付く恐怖を感じていたメルエもまた、即座に頷きを返して詠唱準備に入った。

 行き場を失った苛立ちを抱えたリーシャは、カミュに鋭い視線を向けるのだが、その視線を真っ直ぐ受け止めた青年は、それこそ彼女にとって予期せぬ言葉を紡ぐ。それはリーシャにとって受け入れる事の難しい物でありながらも、受け入れざるを得ない強制力を持つ言葉であり、苦々しく表情を歪めても、彼女は頷きを返すのであった。

 

「俺が持てば光るとなれば、オリハルコンを持てるのはアンタだけだ。オリハルコンを持ったアンタとメルエは俺が繋ごう」

 

 確かに、カミュが触る度に輝きを放たれては堪らない。そして、両手でそれをリーシャが抱えたとなれば、そんな彼女と詠唱者である少女を繋ぐ者が必要となるだろう。それをカミュが名乗り出たのだ。

 『お前が持っても光るだけだろう!』という言葉が喉から出掛けるが、メルエを抱き上げるかオリハルコンを抱えるかの違いであり、それならば余り人目を集めない方が良い事くらいリーシャでも理解出来る。悔しそうに顔を歪めたリーシャは、苛立ちをぶつける為にもう一度オリハルコンと思われる石を殴りつけてから、一気にそれを抱え上げた。

 

「…………ルーラ…………」

 

 抱き抱える事の出来る程度の大きさにも拘らず、それなりの重量はあるのだろう。自分の背丈よりも大きな岩を動かす事の出来るリーシャでさえもそれを持ち上げた事で表情を歪めた。

 それを見て、詠唱者であるメルエに皆が集まるのではなく、リーシャの許へと全員が集合する事で、少女の詠唱は完成する。一気に放出された魔法力に包まれた一行は、そのまま上空に浮かび上がり、北東の方角へと飛んで行った。

 

 古の勇者が持っていた剣が、新たな勇者の手に渡る日は近い。

 『天の雷を操る者が持ちし剣は、嵐をも呼ぶ』とも伝えられる剣は、勇者が持つ事によってその真価を発揮するとさえ謳われていた。

 その武器が当代の勇者の手に還る時、闇に包まれた世界が大いなる光に照らされるのかもしれない。それは、もうすぐそこまで来ていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
これにてドムドーラ編は終了です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ガライの家

 

 

 

 マイラの村へ降り立った一行は、そのまま元ジパングの鍛冶職人である道具屋の主人の許へと向かう。漂って来る硫黄の香りにそわそわし始めたメルエに苦笑しながらも、その手を取ったサラは、このマイラの村が後方にある大きな森の恩恵を如何に受けているのかを改めて感じていた。

 ドムドーラという荒廃して行く町を目の当たりにしたからだろうが、森から流れて来る澄んだ風に、その森が地面に溜め込んでいる豊かな水。森に住まう多くの動物達や、木々が実らす多くの果実など、その恩恵は数え切れない。豊かな水は井戸を満たし、湯泉から湧き出す湯は住民達の心さえも豊かにしていた。

 大魔王ゾーマという恐怖が迫りながらも、それでも笑みを浮かべられるのは、この森を護るように広がるマイラの森と、それを護る森の精霊の恩恵の為であろう。この村を初めて見た時は、それを感じてはいても切実に感じる事はなかったが、ドムドーラを見てからは、人の営みは自然無くては成り立たない事を強く感じたのだった。

 

「いらっしゃい」

 

 道具屋の一階部分で他者との会話に興じる者達を優しい気持ちで見送って二階へ上がると、今日も四角いカウンターの中でジパングの民族衣装を着用した男性が立っていた。

 カミュ達が来た事に驚きの顔を浮かべてから、それでも少し喜びを滲ませる笑みを浮かべる。だが、最後に階段を上がって来たリーシャが両手で抱えている物を見つけると、先程以上の驚愕の色を滲ませた表情に変化し、口を開閉させながら言葉を詰まらせていた。

 

「こ、これは……」

 

「正確には解らないが、おそらくはオリハルコンと呼ばれる金属だと思う」

 

 大きな音を立ててカウンターに置かれた石を見た道具屋の店主は、声にならない声を上げ、震える瞳でカミュへ視線を向ける。商品鑑定という技能を持っていないカミュ達には その視線に対して正確な答えを出す事は出来ない。それでも現状で推測出来る可能性を彼は口にした。

 カミュの言葉を聞いた店主は、震える指をオリハルコンと思われる石へと伸ばす。彼が心から欲した物がそこにあるのだ。それは物欲ではなく、製作欲。その素材を使って、最高の物を生み出したいと思うのは、ジパング出身の鍛冶職人ならではなのかもしれない。

 しかし、その指が石に触れた瞬間、弱い光が瞬いた事で、店主は手を引き戻してしまう。カミュ達には見慣れた光景であっても、鍛冶職人として生きて来た彼にとっては、恐怖を感じる程の不可思議な現象であったのだ。

 

「大丈夫です。おそらく、魔法力に反応しただけです。次からは輝かなくなりますから」

 

「……鍛治屋にさえ魔法力の才はあるのか?」

 

 恐ろしくなった店主は救いを求めるようにカミュへ視線を送るが、それに答えたのは隣に立っていたサラであった。彼女自身が経験した光よりも弱い物である事から、この店主が内包する魔法力の少なさが窺える。それでも様々な武器や防具を生み出す鍛冶職人は、その作成に少なからず魔法力を利用しているのであろう。意識的か無意識かは別としても、彼が多少なりとも魔法力を放出する才を持っている事の証明であった。

 そんな事実を受け入れる事の出来ない人物が一人。自分の時は何の反応を示さなかった石が、有能な鍛冶屋とはいえ、戦闘も経験していない人間の指に反応した事が極めて遺憾であったのだろう。悔しそうに表情を歪め、憎々しげに石を睨み付けていた。

 弱い光でありながらも、輝きを放った事で頬を緩ませたメルエは、再び自分も光るのではないかと、カウンターの下から手を伸ばすが、カウンターの背丈が高過ぎて石まで届かない。不満そうに頬を膨らませ、リーシャに抱き上げて貰おうと試みるが、怒りで余裕のなくなっている彼女には、そんな少女の願いは届かなかった。

 

「ありがとうございます。このオリハルコンは、私の今持っている全ての財産で買い取らせて頂きます」

 

「全財産ですか?」

 

 神秘的な光景を目の当たりにした店主は、この金属がオリハルコンであると信頼する。まず、目の前のカミュ達が嘘偽りを言う人間達ではない事は解っていた。だが、オリハルコンという神代の金属を求めている道具屋の店主としての噂が広がると、何の変哲も無い石や金属をオリハルコンだと言い張って売りつけようとする者達が数多く現れるようになる。そんな中で頼れるのは自分の目と培って来た経験だけであった。

 そんな店主がジパングを共に飛び出した自分の師匠以外で信じるに値すると思われる人間は突如として訪れる。それが今、彼の目の前で困惑の表情を浮かべている四人の若者であった。

 鋭い雰囲気を持つ青年は、その鋭さを無闇に撒き散らすのではなく、純粋に自分の後方に控える三人の女性達を護る為に周囲を警戒しており、その横に立つ女性は、店主が見た事も無い装備を身に纏い、今まで出会ったどんな人間よりも遥か上の力量を持っている事が一目で解る。そんな二人に護られながらも、強い信頼を受けているように見える女性は、言葉一つ一つを聞き漏らさないように耳を傾け、細かな部分でさえも自らの頭で考えていた。そして、何よりそんな屈強な者達と共に旅する少女が、店主が生まれ故郷で最後に見た皇女と重なる。

 ヤマタノオロチという強大な厄災に国民全員が怯える中、それでも国を愛し、民を愛し、真っ直ぐに生きる道を見つめる幼い少女。店主が御伽噺で聞いていた『ジパングの太陽』とさえ云われた国主と同じ雰囲気を持つ皇女の面影が見えたのだ。

 

「今の私の全財産は、22500ゴールドしかありません。どうか、これでオリハルコンをお譲り頂きたい」

 

 懐かしい面影に瞼を熱くさせながらも、店主はカウンターの下から大きな革袋を取り出す。ずっしりとした革袋には、大小様々な硬貨が入っていた。

 ゴールドというのは硬貨の単位ではあるが、同じゴールドでもやはり時間が経って磨り減った物もあり、その価値は下がる物もある。商売をしていれば、様々な硬貨が流通し、それを選り好みしていれば商売が出来ないのだ。

 それ相応の重さがある革袋は、確かにこの小さな道具屋の全財産なのだろう。もしかすれば、生活費のような物は、彼の妻が管理しているのかもしれないが、商売をする軍資金としてはこれが全てである事は彼の目を見れば嘘でない事が解った。

 

「しかし、それが無くなれば、明日からの商売に困るだろう?」

 

「はい。仕入れなどは全く出来なくなると思います。ですが、おそらく数ヶ月はこのオリハルコンの加工に時間を費やす事になりましょう。勝手な言い分ではありますが、もし、このオリハルコンで納得の行く物が出来上がったら、是非貴方に購入して貰いたいのです」

 

「……カミュ様にですか?」

 

 店主の瞳は真っ直ぐにカミュを射抜いている。彼の目から見ても、隣に立つ女性が身に着けている装備品は一級品であり、その力量は口にするまでも無い事は解っているだろう。それでも、この店主は、伝説の希少金属から生まれた剣は、この不思議な雰囲気を纏う青年に持って貰いたいと考えていたのだ。

 他の誰でもなく、心から信じる事が出来ると思ったこの青年こそ、剣の所有者であるとこの店主は考えている。むしろ、今では、この青年が現れたからこそ、オリハルコンが今ここにあり、この青年が現れるからこそ、自分がこのアレフガルドという異世界に落ちて来たのではないかとさえ考えていた。

 それが、アレフガルドという未知の世界に落ちて来た自分の定めであり、この青年に会う事は導きであると。そう自然に考える事が出来る程、彼は目の前に立つ青年に魅了されていた。

 

「納得が行く物であった時の購入金額は、この革袋の中身をそのまま頂きたい」

 

「そ、それでは店主の加工料や他の材料費分がないではないか!?」

 

 オリハルコンの買取金額と同金額で、古の勇者が使用していた剣を買い取って欲しいという店主の願いに、リーシャが異を唱える。確かに、材料費や加工料、そして加工の為の燃料費などを考えれば、完全なる赤字になる事は明白であるのだ。それは、世界の理から見ても異常であろう。

 材料を安値で買い、加工して高値で売るというのが商売の基本である。それは商人としての修行をしていないカミュ達でさえも解る簡単な仕組みであった。現に、カミュ達が倒した魔物の部位は、それを加工して造る武器や防具に比べて遥かに安い金額で引取られる。纏まった大量の部位があればそれなりの金額にはなるが、それでも完成した加工品に比べれば随分安いだろう。そんな商売の常識をも捨てる店主の覚悟に、流石のカミュも驚きを顔に浮かべていた。

 

「その代わりという訳ではないが……このドラゴンキラーという武器は預からせて欲しい。これの一部を使用したいというのもあるのだが、私の師匠が作った素晴らしい一品なのです」

 

「ドラゴンキラーの一部を使うのですか?」

 

 ドラゴンキラーの金額は、その時に購入した魔法の鎧と合わせて15000ゴールド。その後にトルドバーグにてこの店主の師匠と思われる人間に加工してもらった際に支払った分が7500ゴールドである。魔法の鎧の分を差し引けば、15000ゴールド程度になるだろう。そして、今現在は刃が反れてしまい、武器としての役割を果たせない事を考えると、10000~12500程度の価値しかないと考えても良い筈だ。それを一部使用するとはいえ、譲渡するのであれば、その後の材料という名目であれば、色々な経費分としては妥当なのかもしれない。

 店主の瞳を見たカミュは、その想いと決意が揺るがない事を察し、息を吐き出した後でゆっくりと頷きを返した。

 

「……そうか、ありがとう」

 

 『ほっ』と胸を撫で下ろした店主は、先程の商売人としての顔とは異なる鍛冶師の顔となって、目の前のオリハルコンを触り始める。撫でて、叩き、持ち上げてみては降ろす。そんな事を繰り返していた店主は、少し困ったような表情をしたまま苦笑を浮かべた。

 店主から受け取った革袋はサラへと渡され、入っている金額以上に重く感じる革袋をサラは大事そうに持ち物に加える。そんな時、何故かサラは自分の持ち物の中にある、然る高貴なお方から託された道具に目を向けた。それが何故なのかは解らない。だが、何故か、その道具からサラへ呼びかけたかのように、それが目に入ったのだ。

 本来、渡された時のまま木箱に入ったそれは、サラの持ち物の中で木箱から出ている。しっかりと蓋を閉じて袋に入れ、このアレフガルドを治めるラダトーム王家の国宝と呼ぶに相応しい物である事を考えて丁重に扱って来た筈にも拘らず、何故かその輝きはサラの瞳に直接入り込んで来たのだ。

 

「流石は、太陽の熱でなければ溶けないと謳われた金属だね。通常の鍛治で使う熱では形状を変える事さえも難しいそうだよ」

 

「あっ!」

 

 表情を心配して見ていたカミュとリーシャに向かって、何処か情けない声を出して苦笑を浮かべる店主の言葉を聞いて、サラは弾かれたように顔を上げる。何故今、彼女の目の中にこの国宝に等しい道具が飛び込んで来たのか、そして、何故それがサラに呼びかけるように姿を現していたのかが理解出来たのだ。

 勢い良く腰の革袋からサラが取り出した物は『太陽の石』。ラダトーム王家に伝わる物であり、世界を照らし、全てに恵みを与える巨大な太陽の熱を封じ込めたと云われる宝玉である。袋から取り出された真っ赤に燃えるような宝玉は、持つ手を焼いてしまうのではないかと思う程の熱を発していた。

 

「これは?」

 

「太陽の石と呼ばれる、神代の物です。太陽の熱を封じ込めたとも伝えられている、このラダトーム王国の宝です。私達の旅に必要な時が来ると王太子様がお貸し下さいました」

 

 カウンターに置かれた宝玉は、赤々とした炎が内部で燃え盛っているような輝きを放っている。その輝きは相当な熱を持っているかのように、傍に置かれたオリハルコンを照らしており、うっすらと金属の香りが道具屋の二階部分に漂い始めていた。

 太陽の熱を封じ込めたと云われるその石は、まるで自分の役目を果たす時が来た事を喜ぶように宝玉の中で炎を渦巻いている。王太子が口にした伝承の使用方法とは異なる物ではあるが、この神代の宝玉が己の役割と受け入れたならば、その担い手ではないサラが制止する事は出来ないのだ。

 

「ラ、ラダトーム王国の国宝!? そ、そのような物をお借りする訳にはいきませんよ! あ、あつっ!?」

 

「いえ、おそらく、その太陽の石もそれを望んでいるのだと思います。その宝玉から発せられる熱が何よりの証拠でしょう。ご店主ならば、丁重に扱って下さると信じています」

 

 この広大なアレフガルド大陸を統治する只一つの国家の国宝と聞いた店主は、慌てて太陽の石を返そうとするが、宝玉に触れた手に尋常ではない熱さを感じて声を上げてしまう。そんな姿を見たサラは、尚更に太陽の石自らが望んだ結果であると結論付け、カミュやリーシャもそう考えるに至った。

 本来であれば、金属の加工に使用する為に使うなど畏れ多い事であり、第一にこの太陽の石がそれを認めないだろう。それでも、この太陽の石がオリハルコンに呼応するように輝きを増し、オリハルコンを在るべき姿に戻す為の熱を発している事が、全てを物語っているとしか考えられなかったのだ。

 

「……本当に畏れ多い事ですが、拝借致します。必ずや、このオリハルコンを在りし日の姿に戻して見せましょう」

 

 暫し、サラと太陽の石の間で視線を往復させていた店主ではあったが、その胸に湧き上がる熱い想いを抑える事は出来ず、丁重に頭を下げて国宝を借り受ける事に決める。

 ジパングという国にとって、国主とは共に生きる者でありながらも、民を導く者であった。神の子の末裔としても語り継がれ、その証拠に神から神剣を授かっている。それ故に、ジパングの国民にとって国宝とは特別な物なのだ。国宝は国主の物でもあり、神の物でもある。つまり、国宝とは神宝と同意なのであった。

 ジパングの鍛冶師として生きて来たこの店主にとって、ジパングの国宝でもあった神剣『天叢雲剣』は特別な武器である。初代国主が神から賜った宝剣であり、神剣。それはジパングという国を長く守護して来た。ヤマタノオロチという厄災に襲われた事を苦にして故郷を捨てた彼にとって、憧れの感情が膨れ上がる程の存在でもある。

 それと同様の逸話が残り、そして神が生み出した金属によって出来ている剣を自らが打てるとなれば、彼の生涯を賭けての大仕事になるだろう。

 

「どちらへ向かわれるのですか? 次に戻られる頃には仕上げたいと思いますが……」

 

「メルキドという町へ向かおうと思っている」

 

 顔を上げた店主は、仕上がりまでの期間を自分に課す為に、依頼主に等しいカミュ達の予定を問いかける。口外しても差し支えない情報である為、カミュは自分達の行動予定をそのまま口にした。

 現在、彼等が赴いていない場所でその名が明らかになっているのは、メルキドしか残されていない。カミュもリーシャも未だにルビスの塔へ挑むのは時期尚早と考えている以上、メルキドへ向かう事は決定事項であった。

 

「何やら、吟遊詩人も向かったらしいからな。思っているよりも厳しい道のりではないのかもしれない」

 

「そんな事はないと思いますが……」

 

 店主とカミュのやり取りを聞いていたリーシャが、ドムドーラで聞いた情報を口にする。闇に覆われ、強力な魔物が横行するアレフガルド大陸で、吟遊詩人の一人旅が可能である事自体が不思議な事ではあるのだが、吟遊詩人という職業を考えれば、旅自体は何も不思議な事ではない。故に、ドムドーラとメルキド間の道は比較的安全なのではないかというのがリーシャの意見ではあったが、それをサラは即座に否定した。

 特別な小隊についていったのか、それともその吟遊詩人がルーラという呪文を取得しているかのいずれかでなければ、アレフガルド大陸を移動する事は不可能であろう。それこそ、この吟遊詩人がカミュ達並の力量を有していれば別であるが、そのような可能性は皆無である事からも、何らかの特別な理由があると考えられた。

 

「……吟遊詩人? ああ、何でもラダトームの北西に住む青年だそうです。確か、ガライという名前であったと思いますが、竪琴を使うらしいですよ。私は見た事はありませんが、その竪琴が奏でる音色は、魔物でさえも魅了したと云われているようです」

 

「この村にまで名前が知れているとなれば、余程の者なのだろうな」

 

 カミュ達の会話を聞いていた店主は、己が耳にした事のある噂を口にする。この店主も元はジパング出身の男であり、このアレフガルドに落ちて来てからも長くて数年の単位であろう。その男であろうとも耳にした事のある名というのであれば、それなりに有名な人物である事が解った。

 竪琴を奏でて詩を紡ぐ旅人は珍しい物ではない。だが、珍しい物ではないからこそ、ガライという名の吟遊詩人の力量がそれだけ特出している事の証明と考えられる。その者が奏でる音が良いのか、それともその者の声が良いのかは解らないが、それでもこの大きな大陸全土に轟く程の人物であることだけは確かであった。

 

「何でも、ラダトームの北西に建てた小さな家で両親と共に暮らしている変わり者らしいですよ」

 

「こんな時代にか? アレフガルドでは、集落から離れた所で独自に家屋を建てる事が流行していたのか?」

 

 マイラの村に来る途中の海域で漁を営んでいた漁師も、小さな家屋を海辺に建てて暮らしていた。魔物が凶暴化する前なのかは解らないが、それでも集落から離れた場所で家屋を建てるという行為自体が理解が追いつかない物であるだろう。故に、リーシャは首を傾げるのだった。

 しかし、よくよく考えれば、そのガライと名乗る吟遊詩人が自分達の旅に関係して来る可能性は少なく、その生家となる場所に脚を運ぶ必要もないだろう。そう考えたリーシャは即座に興味をなくし、元々話に興味を持たずに、太陽の石が見えなくなってからは一人で周囲の陳列物を眺めていたメルエの許へと移動して行った。

 

「カミュ様、一度行ってみますか?」

 

「……行く必要はないと思うが?」

 

 しかし、何故か気になったサラは、メルキドへ向かう前にガライの生家へ行くという選択肢を新たに掲げる。カミュもリーシャと同様の考えであり、吟遊詩人の家などに寄る余裕も無いと思っていたのだが、サラの瞳を見て、方針を変える必要性を感じた。

 サラの瞳は何かを訴えかけており、先程聞いた店主からの話の中の何かが彼女には引っ掛かったのだろう。それが何なのか、そしてどのような意味があるのかはカミュには解らないが、それでもこの一行の賢者が行く必要性を感じたのならば、そこへ行く事は無駄ではないと考えたのだ。

 小さく頷いたカミュを見たサラは、『わかりました』という小さな返答を発して、また少し思考の海へと潜って行く。最早見慣れたその姿に溜息を吐き出したカミュは、サラの腰元から先程のゴールドが入った袋を取り、カウンターへ置いた。

 

「剣が出来るまでの間、この袋は預けて置く。この重い袋は戦闘の邪魔になる可能性も高く、俺達が死んだ時には何の意味も成さない物になってしまうだろう」

 

「しかし、それでは……」

 

 自分の腰元に伸びて来たカミュの手に我に返ったサラが発した素っ頓狂な声は無視され、カミュと店主の間で話が進んで行く。

 カミュとしては、サラの腰に一度は繋がれたのだから、そのゴールド袋はカミュ達の所持金になったという認識なのだろう。その上で、旅を続けて行く中で過剰なゴールドを預けるに値する商人として、この店主を認めたのだった。

 しかし、それでは自分の覚悟が無になってしまうと考えた店主は抗議の声を発しようとするが、それは直後に繋がったカミュの行動によって遮られる事となる。

 

「この剣も預けて置く。これは売る訳でも、質に入れる訳でもない。一時的ではあるが、アンタに預ける。そのゴールドは俺達の物だが、剣の出来栄えによっては丸々アンタの物だ。要は、そのオリハルコンが神代の剣に生まれ変われば良いという事だ。ただ、この剣を受け取りに必ず戻って来る。その時に神代の剣を他者に売却などしていたら、ゴールド分は返してもらうぞ」

 

「……わかりました。確かに、お預かり致します」

 

 オリハルコンという特殊な金属を剣として生まれ変わらせる事は簡単な事ではない。太陽の石という神代の道具があったとしても難しい事に変わりはないだろう。様々な設備を整えなければならないだろうし、道具なども新たに購入しなければならないだろう。その為には多くのゴールドが必要になる筈なのだ。カミュの申し出はそのような店主の内情を慮る物であった。

 しかし、その言葉は甘い物だけではない。既に太陽の石という国宝を貸し与えているのであるから不必要に感じるが、それでもカミュの手から渡された剣には重い意味が持たされていた。納得行く剣が出来上がりさえすれば、22500ゴールドという大金は、購入金額として使われるのであるから、結局店主の物となる。カミュ達の手元に神代の剣が渡る事が前提であれば、そのゴールドを何に使おうとも良いのだが、それが履行されない場合は、店主はカミュ達の資金を着服した罪人となってしまうだろう。そんな相手の覚悟を試すような申し出でもあったのだ。

 

「大丈夫ですよ。カミュ様は、店主様と同じジパングの血を受け継いだ方ですから」

 

「え? 貴方もジパング出身なのですか?」

 

「……祖母がジパングの人間なのだと思う」

 

 しかし、そんな緊迫した空気は、先程素っ頓狂な声を上げたサラによって壊される。『同郷の者だから大丈夫』という理屈は全く理解出来ないが、右も左も解らない他世界に落ちて来た者にとっては、その存在はとても心強い物であるだろう。僅かではあるが、店主の顔に安堵の色が浮かび、それに対して微笑みを浮かべるサラと、苦々しく顔を顰めるカミュという対照的な表情が映った。

 カミュ自体がジパングで生まれた訳ではないが、その身体に流れる一部は間違いなくジパングの者の血液である。それまでは、何とも感じなかった彼の黒髪も、今の店主には懐かしい色に感じるだろう。この世界も上の世界と同様に漆黒の髪色を持つ人間は皆無である。自分と自分の妻にしかない黒髪に向けられる好奇の視線に心の奥底で耐えて来た彼にとって、カミュ達を信用する一番の理由が、この黒髪だったのかもしれない。そんな黒髪を持つ青年が、同じ故郷を持った同士であるとなれば、先程までの決意が必ず成し遂げるべき物へと変わっても不思議ではなかった。

 

「ジパングの者と交わした約束となれば、違えれば死を意味する。厚かましい願いですが、私を信用して下さい。必ず……必ず、後世に残る程の剣を打って見せます」

 

 強い決意と絶対の信念を宿した瞳をカミュに向けた店主は、その拳を強く握り締めている。ここで彼は重い約束を結んだのだ。世界を救うと云われる『勇者』と人類を救うと謳われる『賢者』の前で、彼は人生を変える約束を紡いだのだった。

 そんな世界を変える出来事は、静かに陳列商品を見ていたメルエが珍しく棚にある商品を引っくり返した音によって打ち切られる事となる。綺麗に輝く何かを見つけた少女は、それを取ろうと手を伸ばし、その横にあった商品を崩してしまったのだ。

 派手に大きな音を立てて崩れて少女に襲い掛かる商品は、それを庇うように入り込んだリーシャの背中に落ちて行く。魔物の一撃を受けても戦い続ける戦士にとって何でも無い衝撃であっても、庇われている少女と店主から見れば、慌てざるを得ない出来事であった。

 

「メルエ、一つ一つ片付けた後、ちゃんと謝るんだ」

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 床に転がった商品を拾い上げたリーシャの顔に苦痛の色が見えない事に安堵したメルエは、傍に落ちている商品を手にとって小さな謝罪の言葉を口にする。意気消沈した少女が商品を拾って棚に戻す姿に空気は和み、全てを片付けた後に頭を下げる姿に店主は笑みを溢した。

 再会を誓って階下へと下りて行く一行を見送った店主は、一度頬を両手で叩き、オリハルコンという神代の金属と太陽の石という国宝を持って鍛冶場へと向かう。二階へと繋がる階段の前にある扉を閉め、そのノブに閉店の札を下げた彼は、ここから数ヶ月間店を開ける事は無かった。常に鉄を打つ甲高い音が響く一階部分では、店主の妻が入れた茶を飲んで食事をする店が開かれ、その後はマイラの村の名所の一つとなるのだが、それはまた別の話である。

 

 

 

 

 メルエの放ったルーラによってラダトーム王都へ戻った一行は、そのまま北西へと進路を取る。マイラの村とラダトームとを隔てる海峡へ向かう別れ道を北へ進み、勇者の洞窟のある砂丘の南にある草原を西へ抜ける。やはり魔物との遭遇はあったが、ほとんどがスライム系の魔物であった為、苦労する事なく歩き続ける事が出来た。

 三度の野営を経て、大陸の西の海岸へ出た一行は、そこから北へ続く平原の先に小さな家屋を見つける。闇が支配する海岸であっても、幼い少女が興味を示す小動物は生きており、それを見つけては屈み込むメルエを引っ張りながら扉の前へと辿り着いた。

 

「……はい?」

 

 二、三度のノックの後で小さな返答が扉の向こうから聞こえて来る。大魔王ゾーマの復活による魔物の凶暴化に伴い、このような場所を訪れる者はとても少ないのだろう。それでも、扉の向こうから聞こえて来る声には、警戒の色に加えて、何故か小さな喜びの色を感じた。

 しっかりと閉じられた扉ではあるが、何時でも開く事が出来るように扉のすぐ向こうに人の気配を感じる。そんな扉の向こうの相手に向かって、カミュは口を開いた。

 

「突然、申し訳ございません。旅の者なのですが、こちらがガライ様のご自宅だと聞いてお訪ねしました」

 

「……はい。そうですが、何か?」

 

 カミュの言葉を聞いた扉の向こうの人間は、一拍置いた後に扉をゆっくりと開ける。その時の返答には若干の失望が含まれており、出て来た人物の表情を見て、サラは先程感じた喜びの色と今の失望の色の理由を察した。

 顔を出したのは、初老の女性である。おそらくガライという吟遊詩人の母親なのであろう。このような時代で旅を続ける吟遊詩人という職業に就いた息子を心配する一人の母親であったのだ。

 先程の期待と喜びは、『もしかしたら、息子が帰って来たのではないか?』という物。そして今の失望は、それが叶わなかった事への落胆であろう。それは何処にでもある親の愛情でありながら、子供に与える物としては最上位にある感情であった。

 

「息子がどうかしましたか……?」

 

 扉の前に立っていたカミュ達の物々しい姿に怯えるように声を発する女性は、その後に続く言葉を恐れるように瞳を揺らせている。息子の死という情報を運んで来たのではないかという恐れから来る物なのだろうが、そんな初老の女性を見ていたリーシャは何処か寂しそうに表情を歪めた。

 リーシャの頭の中には、アリアハンへ凱旋した時の光景が浮かんでいるのだろう。魔王バラモスを討ち果たした事で喜びに湧く城下町を歩いていた時に彼女へ問いかけて来た女性の顔を。

 魔王を倒した勇者となった青年の母親は、目の前に居る初老の女性のような表情を浮かべる事はなかった。アリアハンに戻らない事を伝えた時の表情は怯えを含んでいたが、この初老の女性のように死刑宣告を受ける前のように切羽詰った物ではなかったように思われる。

 愛情の度合いではない。だが、その愛情の方向性の違いなのかもしれない。それが何故かリーシャには哀しく感じてしまった。

 

「いえ、見事な竪琴を奏でるとアレフガルド中にその名を轟かせていらっしゃるので、叶うならば、一曲お聞かせ願えればと思いまして……。先日まではメルキドという町にいらっしゃると伺っていましたが、もうお戻りになられている頃かと」

 

「……そうですか。あの子は今、メルキドにいるのですね」

 

 カミュの言葉を聞いた女性は明らかな安堵の表情を浮かべる。メルキドという遠い地であっても、元気でいるという事を聞いて喜びを表した。大陸中にその名が轟いているという事を誇りに思う気持ちもあるのだろうが、親というのは何よりも子供の無事と健康を願う者なのかもしれない。

 先程まで険しい表情をしていたリーシャも、そんな女性の姿に表情を緩める。カミュの母親もまた、遠く離れていても、息子が生きているという事実に喜びを表していた。あの表情も感情も、嘘偽りのない物である事は間違いないだろう。例え歪んでいたとしても、彼女がカミュを想う愛もまた、真実であったのだとリーシャは考えていた。

 

「あの子は竪琴を置いて旅に出てしまったのですよ」

 

 入り口で話し込む妻を不審に思ったこの家の主がカミュ達の前に姿を現す。初老の男性は、警戒心を残しながらも、丁寧な口調でカミュ達へと答えた。この男性が女性の夫であり、ガライの父親なのであろう。線の細い身体から伸びる二つの腕の先に銀色に輝く竪琴を持っていた。

 暗闇に染まるアレフガルドの中で、家屋の中で灯る炎の明かりでさえも輝く銀色の竪琴は、大陸一の吟遊詩人が持つに相応しい美しさを誇っている。眩いばかりの輝きを放つその竪琴に、カミュ達一行全員が意識を呑まれてしまった。

 

「……もし、よろしければ、あの子にこの竪琴を届けて頂けませんか? そうすれば、曲を奏でる事も可能だと思いますから」

 

 夫の手から銀色に輝く竪琴を受け取った女性は、それを押し付けるようにカミュへと渡す。『大陸一の吟遊詩人が奏でる竪琴を聴きたい』という申し出をしている以上、カミュ達にその願いを断るという事は出来なかった。

 一抹の疑問を抱きながらも、銀の竪琴を受け取ったカミュ達は老夫婦に礼を述べて、その場を後にする。銀の竪琴は、専用の袋に入れてサラが持つ事になったのだが、それを羨ましそうに見つめるメルエに彼女は苦笑する事となった。

 

「しかし、どうして商売道具の竪琴を置いて旅に出ているのだ?」

 

「……久しぶりに聞いたが、何故俺が解ると思うんだ?」

 

 ラダトーム方面へ戻るように歩いていた一行であったが、一度休憩を取ろうと森の傍で腰を降ろした時、リーシャがカミュへ問い掛ける。そんな女性戦士の問いかけに、呆れたような溜息を吐き出した彼は、座ると同時に銀の竪琴の傍に近寄るメルエへと視線を送った。

 袋から少し顔を出した竪琴は、火を点けたばかりに焚き火の炎に照らされて美しく輝いている。その姿に頬を緩めた少女は、袋からその姿を全て取り出した。竪琴の弦も透き通るような輝きを放っており、魅了されるように見つめていたメルエは笑みを浮かべてサラへと視線を送る。

 

「ですが、確かに変ですよね。竪琴を奏でる事で有名な吟遊詩人が、その竪琴を持たずに旅を続けるというのは、何か理由があるのでしょうか? 竪琴を弾く事の出来ない理由でもない限りは持っていく筈ですから」

 

「……見たところ、壊れているようには見えないぞ?」

 

 メルエの視線を受けたサラは、目の前にある竪琴と、その持ち主の評価に矛盾がある事に疑問を感じる。サラの言葉通り、竪琴で有名な吟遊詩人がその商売道具を持たずに旅をするという事自体が奇妙な事であった。竪琴の他にも楽器を奏でられるとしても、アレフガルドに来て間もないジパング出身の鍛冶師が耳にする程の名声を得た楽器を持たずに旅をするというのは、何か特別な理由があると考えざるを得ない。

 しかし、そんなサラの言葉を聞いたリーシャが確認した通り、メルエが頬を緩めて眺める竪琴には損傷が見受けられない。楽器を奏でる事が出来ない彼らに微妙な損傷が解る訳ではないが、傷一つなく、弦が切れている訳でもないそれを見る限り、竪琴自体に問題があるようには思えなかった。

 

「専門の方にしか解らないような、微妙な音の違いでもあるのでしょうか?」

 

「…………メルエ………ひく…………」

 

 メルエの傍から竪琴を持ち上げ、近くでその姿を確認したサラは、外部ではなく内部に問題があるのではないかと考える。弦を張って、それを弾く事で音を奏でる竪琴という楽器は、その張り具合などで微妙な音の違いが現れる事がある。専門の人間にしか聞き分けられないような違いでも、曲を奏でるとなれば致命的な物になる事もあるのだ。

 そんな事を考えながら竪琴を眺めていると、物欲しそうに手を伸ばす少女がそれを奏でたいという欲求を口にする。この少女が奏でる事の出来る楽器はオカリナのみである事を知っているサラは、そんな幼く可愛い我儘に優しい笑みを溢した。

 地面に座ったメルエの膝の上に慎重に竪琴を置いたサラは、森の入り口から平原の方へメルエの身体を向け、その小さな指を弦の上に乗せる。嬉しそうに微笑んだメルエは、何処か躊躇うように弦を弾いた。

 透き通るような音色が森から平原に向けて響き渡る。一本の弦を弾いただけでも、その音色は周囲を包み込むように優しく流れて行った。幻想的なその音色は聞く者を魅了する。弾いたメルエはうっとりと目を細め、傍にいたカミュでさえも感心したように息を吐き出した。

 そして、その音色に魅せられる者は、人間だけではない。

 

「ま、まもの!?」

 

「カ、カミュ!」

 

 うっとりと聞き入っていたサラは、すぐ傍で聞こえて来た人ではない唸り声に我に返る。ふと見渡せば、森の入り口にいたカミュ達を囲むように多くの魔物達が集っていたのだ。

 この周辺に生息する魔物達である為、それ程強力な魔物達ではない。スライムやスライムベスが多くを占めてはいるが、空から舞い降りるように長い胴体を動かすサラマンダーが混じっていた事で、リーシャは即座に戦闘態勢に入った。

 魔物達でさえも先程の竪琴の音色に魅入られていたように動きを止めていたが、我に返るように凶暴性を剥き出しにしてカミュ達へと襲い掛かって来る。スライムやスライムベスなどはカミュ達の敵ではない。だが、龍種最上位に位置するサラマンダーだけは、別格であった。

 

「メルエ、あの龍が吐き出す炎はマヒャドで防いで下さい」

 

「…………ん…………」

 

 しかし、魔法の行使が不可能であった勇者の洞窟でならいざ知らず、後方支援組が稼動している今であれば、カミュ達にとってそれ程苦労する敵でもない。吐き出された高温の炎は、氷竜の因子を受け継ぐ少女の放った最上位氷結呪文によって相殺された。

 蒸気が立ち上り、視界を遮る中、前衛二人組みが一気に間合いを詰める。神代の斧と剣の一閃が闇のアレフガルドに煌き、その剣筋を辿るように体液が噴き出した。

 苦悶の叫びを上げたサラマンダーの身体が高度を落とす。その隙を見落とす事なく、リーシャが魔神の斧を振り下ろした。噴き出した体液と共にサラマンダーの身体が地面へと落ちて行く。既に大きな瞳に光は無く、生命の灯火が消えかかっている事は明白であった。

 大きな音を立てて地面へ落ちた龍種を苦しみから解放するように、カミュはその頭部に雷神の剣を突き入れる。弱々しい叫びを上げたサラマンダーは、そのまま静かに息絶えた。

 

「……魔物を呼ぶ竪琴なのか?」

 

「いえ、どちらかというと、魔物さえも魅了する音色を放つ竪琴なのだと思います。もしかするとですが、大魔王の魔力によって魔物達が凶暴化してさえいなければ、この竪琴の奏でる曲を人間と共に魔物が聴く事も出来るのかもしれません」

 

 全ての魔物を駆逐した事を確認したリーシャは、竪琴が置いてある場所へ振り返り、感じた疑問を口にする。だが、その予想は、思考に耽っていた賢者によって否定された。

 魔物を呼ぶという代物であれば、魔物達も呆ける時間などなくカミュ達へ襲い掛かって来ただろう。それこそ、竪琴の音色に魅了されていたカミュ達は大きな被害を受けたに違いない。

 だが、サラは何か奇妙な唸り声を聞いて我に返っている。その唸り声は、まるで猫が甘えるような物に似ており、威嚇するような唸り声とは異なっていた。つまり、魔物達もカミュ達と同様に、その音色に魅了され、その音色を聴きたいという欲求によって集ったと考えられるのだ。

 推測の段階ではあるが、その考えはサラの目指す明るい未来に向かって進む道に、細く小さな光明を齎すものであった。

 

「何にせよ、今後はこの竪琴を奏でる事は禁止だ。無用な戦闘を行い続ける程、時間的にも体力的にも余裕がある訳ではない」

 

「そうですね。これはガライさんにお渡しするまで袋に入れておきましょう」

 

「…………むぅ…………」

 

 首を傾げるリーシャの横で、再び思考の海へ飛び込んでしまったサラを余所に、カミュは銀の竪琴を袋へと納めて行く。この竪琴が、リーシャのいうような物であったとしても、例えサラの考え通りの物だとしても、その音色によって魔物が集ってしまう事に間違いはないだろう。そうなれば、必ず戦闘を行わなければならず、やむを得ない戦闘でない限り、極力戦闘を避けるべきである以上、この竪琴を敢えて弾く必要性はないのだ。

 そんな決定事項に唯一不満そうに頬を膨らませるメルエは、恨めしそうに袋に納まってしまった竪琴に視線を送り、哀しそうに眉を下げる。僅か一本の弦の音色だけでも少女の心を虜にしてしまうのだ。これがその持ち主が曲を奏でた時を考えると、恐ろしくさえ感じてしまう。

 

「メルエ、ルーラの準備を。このままドムドーラの町へ戻りますよ」

 

「そうだな。メルキドへ向かうのであれば、ドムドーラから出発した方が早いだろう?」

 

 未だに頬を膨らませるメルエの目の前で竪琴を抱え上げたサラは、竪琴を追うように視線を動かす少女に呪文の行使を指示する。即座に頷きを返さない少女に苦笑したリーシャは、そんな彼女を抱え上げ、再度呪文の行使を促した。

 自分を抱えるリーシャを中心にカミュやサラが集まった事で観念したメルエは、呟くように詠唱を完成させる。魔法力に包まれた一行は、一気に闇に包まれた空へと上がり、そのまま南へ向かって飛んで行った。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
ルビスの塔攻略の前に、メルキドへ向かいます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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精霊の祠

 

 

 

 ドムドーラの町に着いた一行は、地図を見ながら歩くカミュを先頭に真っ直ぐ南へ下って行く。ドムドーラ砂漠は南にも大きく伸びており、この周辺の大地が時間を掛けて砂漠化している事を示していた。

 周囲の気温も低く、肌寒さを感じながらも南へ歩き続ける。『たいまつ』の炎だけが頼りであり、砂地を歩き難そうに進むメルエの手を引きながら、彼らのゆっくりとした足取りで砂漠を進んだ。

 砂漠の途中で休憩を取る訳にも行かず、砂漠を抜け切るまで歩き続けた結果、周辺に緑が見えてくる頃には、懸命に歩き続けていたメルエはカミュの背の上で眠ってしまっていた。

 

「カミュ、この森で野営をしよう」

 

 不安定な砂漠を歩き続けるというのは、想像以上に体力を使う事になる。旅慣れた勇者一行であっても、その体力の消耗は多く、サラなどは疲れ切ったように木の根元に腰を下ろした。そのサラの傍にメルエを降ろしたリーシャが、枯れ木を集めて火を熾して行く。周囲の木々から果実を集めて来たカミュが戻り、軽い食事を取った後で、見張り番を残して順々に身体を休めて行った。

 考えているよりも疲労は溜まっているのだろう。リーシャやカミュも互いに見張り番を交代すると即座に眠りに落ちて行く。大魔王ゾーマという強大な敵に挑む者達といえども、彼等もまた人間なのであった。

 

 

 

 メルエの起床を待って再び歩き出した一行の前に小高い山が見えて来る。海へ繋がる道を遮るように聳える山は、アレフガルド大陸の南西部分を包むように占めており、この山道を登っていかなければ、この大陸の南東部分には向かえない事を示していた。

 十分な睡眠をとったサラとメルエは元気にカミュの後を続いて山道を歩き始める。急な傾斜ではなく、比較的緩やかな傾斜が続いており、また以前はメルキドへの道として使っていた部分の草が少ない事からも、歩む道順は解った。

 

「カミュ、一度海に出るのか?」

 

「いや、この山道はそのまま山越えになって東の森へでる筈だ」

 

 闇に包まれた山の為、カミュ達三人が持つ『たいまつ』の炎の明かりだけが頼りである。炎が揺れる度に木々の影の大きさが変わる事を最初は面白がっていたメルエも、何か若干の恐さを感じたのか、サラの後方に隠れるように歩き始めていた。

 地図上ではこの山の向こうには海がある事になっている。一度海まで出て、海沿いに歩くのかと問いかけるリーシャに対し、カミュは山道がそのまま大陸の南東の森へ繋がっている事を口にした。

 おそらく、この山で数度の野営を行わなければならないだろう。それはカミュの持つ地図を見れば一目瞭然である。それは、旅慣れた勇者一行であってもかなりの危険を伴う道であった。

 本来、山や深い森は魔物達の棲み処である。その山で野宿を敢行するとなると火を熾すだろう。そして火を熾せば、獣や魔物に自らの位置を伝える行為となる。それは、人間という種族にとってはこれ以上ない程の危険を伴うのだ。

 

「このような山道を歩いて、只の吟遊詩人が無事でいられるのか?」

 

「ガライさんは、普通の吟遊詩人ではないのかもしれませんね。もしかするとルーラを修得しているかもしれませんし、魔物を退けるだけの力量を有しているのかもしれません」

 

 ふとリーシャが溢した言葉は、彼女なりの正直な感想なのだろう。確かに、カミュ達でも警戒しなければならない野営を数度行いながら行う山越えは、通常の人間であれば不可能に近い。ましてや比較的線の細い印象のある吟遊詩人などでは明らかに不可能であろう。もしかすると、筋肉隆々の吟遊詩人なのかもしれないが、それだけ身体的な特徴や所有している武器に特徴があれば、必ず噂に上っている筈であった。

 急な坂道ではないが、それでも長い山道は体力を奪って行く。少しずつ会話は少なくなり、山の中腹に差し掛かる頃には、サラの息は多少ではあるが乱れ始めていた。

 

「サラ、後は下るだけだ。もう少し頑張れ」

 

「は、はい。私は大丈夫です」

 

 少し前からメルエはリーシャによって抱き上げられている。この山道をメルエの歩調に合わせて歩くという時間を掛ける事は出来ない。闇に包まれた山道が持つ危険性を誰よりも知っているカミュ達だからこその選択ではあったが、それ故にカミュやリーシャの歩く速度が優先となる為、サラには厳しい速度となるのだ。

 気丈に振舞ってはいるが、疲労感が激しいサラを横目に、山道の中でも比較的開けた場所へ出るまで彼等は歩き続ける。大木がそれぞれに茂った葉を広げて護る大地で野営を行う事になった一行は、それぞれの役割を全うした。

 メルエは枯れ木を拾い、その薪をサラが組んで行く。数年間太陽が出ていないアレフガルドには、命を落として枯れた木々も多く、薪に困る事はない。近場で十分な枯れ木を拾えたメルエは、サラが組んだ薪に小さな炎を点した。

 夜の闇の寒さを和らげる炎が点り、周囲を明るく照らし出す。食料を取りに行ったカミュとリーシャが戻るまで、サラはメルエと寄り添いながら炎の中に薪を焼べ、少女に字や言葉を教えていた。

 山の小川で汲んだ水と、その小川に生息していた魚を持ったリーシャが戻って来る頃、果実を収穫して来たカミュも戻って来る。四人全員が食す事が出来るだけの食料であり、果物を見たメルエは目を輝かせてカミュの足元へと近づいて行った。

 何でも食し、食べ物に関しては好き嫌いをしないメルエではあるが、中でも木の実や果実を好んで食べている。もしかすると、それも彼女の祖先である竜種の血筋の影響なのかもしれない。

 

「メルエ、まだお勉強中ですよ? 食事は皆が揃ってからです」

 

「…………むぅ…………」

 

 カミュの抱える果実を貰おうと手を伸ばしていたメルエは、焚き火の近くから窘めるサラの言葉に不満そうな表情を作った。

 メルエは決して勉強嫌いではない。自分の頭の中に未知である知識が入る事に喜びを感じ、それを楽しいと思っている。なかなか自分の思い通りに行かない魔法の修練とは異なり、解らなかった物が解るという喜びを感じる程に彼女の知識は真っ白であったのだ。

 だが、そんな喜びさえも、目の前にある大好きな果実には遠く及ばない。頬を膨らませて不満を露にするが、そんな自分を擁護してくれる人物がいない事を理解したメルエは、渋々といった感じでサラの許へと戻って行った。

 

「カミュ……」

 

「音は出すな」

 

 食事の支度が済み、焚き火の周りに刺さった魚の串刺しから良い香りが漂い始めた頃、周囲の木々が風とは別に擦れる音が響いて来る。草を掻き分けるような音に気付いたリーシャが傍にある斧に手を掛け、同じようにそれを理解したカミュは身動きをしないように指示を出した。

 しかし、そんなカミュ達の目論見を破るように物音は真っ直ぐカミュ達へと向かっており、徐々にその物音は大きくなって来る。果物を手にしていたメルエが不満そうに頬を膨らませ、サラが焚き火の周囲から魚の刺さった串を抜いた。

 魚の焼ける匂いに誘われて来たのだとすれば、間違いなく肉食の獣か魔物だろう。竜種のような強大な敵ではないかもしれないが、それでも僅かな時間で戦闘を終わらせる事など出来はしない。

 

「グオォォォ」

 

 そして、何者かの姿が見えるよりも前に、それが発したであろう叫びが闇の山に轟く。竜種の雄叫び程ではないが、それでも通常の人間であれば竦み上がる程の威圧感を有した雄叫びは、それだけの力を有した魔物である事を物語っていた。

 食事の雰囲気から一変して戦闘態勢に入った一行は、焚き火を背にしながら、雄叫びを上げた主を待つ事になる。ゆっくりと近付いて来る足音は徐々に大きくなって来て、目の前に伸びた草が横に分かれて行くのが見えた。

 剣を構えたカミュが前に立ち、サラとメルエを護るようにリーシャが立つ。一行の戦闘準備が完了した頃、ようやくその魔物が姿を現した。

 

「グモォォォ」

 

「熊か!?」

 

 後方にある焚き火の炎によって照らされた前方の木々を掻き分けて現れたのは、巨大な熊。鋭い牙の生えた口を大きく開き、その口端からは狂ったように涎を垂らしている。炎に照らし出された体毛は灰色にくすんでおり、振り回される太い腕の先には鋭い爪が光っていた。

 鬼気迫るように暴れ回る巨大熊の影響で、山に生えた木々は薙ぎ倒され、カミュ達の視界も広がって行く。大魔王ゾーマの魔法力の影響力が強いのか、それとも強大な魔法力がこの熊の許容量を超えてしまっているのかは解らないが、瞳に生気は無く、血走った白目部分が真っ赤に充血していた。

 一気に間合いを詰めて来た熊の一撃を盾を掲げる事で受け止めたカミュの身体が宙に浮く。魔王バラモスの攻撃でさえも根が生えたように動かなかった勇者の身体を浮かせる程の怪力は、脆弱な人間など一撃で葬り去る事も可能である事を物語っていた。

 

「サラ、メルエと共に後方へ下がれ! 焚き火の近くで援護を頼む!」

 

「はい!」

 

 一体の熊がカミュを薙ぎ払った向こうから、もう二体の熊が姿を見せる。それを確認したリーシャは、直接戦闘向きの装備をしていない二人を後方へと下がらせた。

 もし、サラがこの熊の一撃を受けてしまえば、水の羽衣は裂け、その奥にある肉をも引き裂かれてしまうだろう。それはメルエも同様である。二人とも盾は持っていても、それであの怪力を防ぐ事が出来る訳ではない。故にこそ、リーシャは後方へ下げた後、一歩前へと踏み出した。

 その瞬間を待っていたように振り抜かれた太い熊の腕を、ドムドーラで購入した力の盾で受け止め、一気に斧を振り抜く。固い体毛を突き抜けて熊の身体に突き刺さるが、見た目以上に強い筋肉によって、その刃は止められた。

 

【ダースリカント】

熊系の魔物の最上位に位置する存在である。元々は野生の熊であったが、その中でも特出する力を持つ者が大魔王の魔法力の影響を受けて凶暴性を強めた結果、強力な魔物が犇くアレフガルド大陸の中でも中位以上に位置する場所に君臨した。

上の世界に生息する豪傑熊やグリズリーが魔王バラモスの魔法力の影響を受けていたのに対し、復活した大魔王ゾーマの魔法力を受けているダースリカントは、その凶暴性も強さも段違いである。その凶暴性は、自我を失って狂ってしまったようにさえ感じる物であった。

 

「…………スクルト…………」

 

 武器による一撃を止められたリーシャに向かって振り下ろされたダースリカントの腕が大地の鎧に達するよりも前に、メルエの放った呪文が魔法力の鎧を生み出す。リーシャの身体を覆った膨大な魔法力が、その強力な一撃を緩和させ、その勢いを利用して武器を抜いたリーシャは後方へと飛んだ。

 三体になったダースリカントは、リーシャの後ろにいる二人へ標的を移す。明らかな刃物を持った前衛二人よりも、子供に見える少女を相手にした方が楽である事は狂った魔物であっても理解出来るのだろう。

 しかし、そのような甘い考察が通じる程、勇者一行の後方を任された者達は弱くはない。

 

「マヒャド」

 

 リーシャが横に離れた隙を見つけて突き進んで来た一体のダースリカントが、最上位の氷結呪文による冷気に包まれる。一気に下がった気温と共に身体の細胞が死滅して行き、ダースリカントは真っ白な氷像へと変わって行った。

 リーシャが付けた傷から溢れ出ていた体液が、ダースリカントの体内の細胞を死滅させる致命的な物となったのだろう。サラの方向へ腕を伸ばしたまま、ダースリカントはその身体を崩し、地面へと倒れ込む。そのまま己の重量によって、粉々に砕けて行った。

 一息付いたサラであったが、すぐ横で自分の出番を奪われた事で恨めしそうな瞳を向ける少女の視線を受け、苦笑を浮かべる。

 

「メルエのマヒャドは強力過ぎます。メルエの事ですから、カミュ様やリーシャさんは大丈夫だと思いますが、それでも周りの木々や虫さん達は大変でしょう?」

 

「…………むぅ…………」

 

 カミュやリーシャに被害は向かわないと断言された事で、それ以上の文句を言えなくなってしまったメルエは、不満そうに頬を膨らませて、残る二体のダースリカントへと視線を向ける。二対二となり、数の上では互角となった前衛の戦いも、終盤を迎えていた。

 一撃の強力さは、ルビスの塔で遭遇したドラゴンに引けを取らないだろう。それでも、その一撃を容易く受ける二人ではない。力の盾という強力な防具を手にしたリーシャは、本来の騎士としての動きに忠実な戦い方を見せていた。

 盾で防いでは、態勢を変えて斧を振るう。斧を振るっては立ち位置を変えて相手の動きを見るという繰り返しをする事で、徐々にダースリカントを追い詰めて行く。本来であればもう一体の動きを気にしなければならないのだろうが、リーシャの頭の中では他のダースリカントなど片隅にも残っていなかった。

 彼女の横には、最も信頼する青年がいる。彼女の後ろには愛する二人の妹のような存在がいる。それだけで、彼女は自分の目の前にいる敵に集中出来るのだ。

 

「大魔王さえいなければ、お前達も寿命を全う出来たのかもしれないな。だが、すまない。私達にはやるべき事があるのだ」

 

 息も切れ始めたダースリカントの力ない一撃を盾で弾いたリーシャは、血走ったその瞳を真っ直ぐに見つめながら、がら空きになったダースリカントの胴に向かって魔神の斧を振り下ろした。

 魔の神が愛し、大地さえも斬り裂くと伝えられる斧の一閃がダースリカントの胸へと吸い込まれて行く。振り下ろされた斧が綺麗な軌道を経て振り抜かれ、それを片手で回したリーシャが、石突きで地面を打つと同時に、ダースリカントの胸から一直線に切れ目が入った。

 自分が斬られた事さえも理解出来ないダースリカントは、己の身体から溢れ出す体液と臓物に困惑の表情を見せる。力の入らなくなった身体が膝から崩れて大地に着く時、哀れみを含んだ瞳を向けたリーシャが真横に斧を薙いだ。

 

「カミュはどうだ?」

 

「私達が手を出す必要はないでしょうね」

 

「…………むぅ…………」

 

 ダースリカントの首が地面に落ちるのと、前方で獣の断末魔が聞こえたのはほぼ同時であった。

 上位の竜種との戦闘で己の未熟さを痛感したカミュとリーシャは、今まで以上に実践的な鍛錬を重ねて来ている。それこそ、サラやメルエが起床する前から、彼等は本当の武器を手にして模擬戦を重ねて来ていた。

 腕や足が欠損しなければ、首が落ちなければ、カミュが契約しているベホマで傷の治療は可能である。だからこそ、二人はギリギリの戦いを繰り返していた。切磋琢磨という言葉が合うように、最近ではリーシャがカミュに教わる事も多くなった。辛うじて、未だにリーシャの方が上の地位を維持してはいるが、この旅が終わる頃にはその立場は逆転してしまうだろうと、リーシャは思い始めている。そして、その日はそう遠くはないのかもしれない

 

「メルエ、熊さんのお墓を作りましょう?」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの突き入れた雷神の剣がダースリカントの胸を貫き、背中から突き抜ける。大きな口から吐き出された体液の量が、この魔物に残された命の時間を物語っていた。

 引き抜いた剣に引っ張られるように前のめりに倒れたダースリカントは、数度の痙攣の後で息絶える。その最後を見届けたカミュが剣を振って体液を飛ばし、鞘へと納め終えるのを見て、サラは隣で哀しそうにダースリカントの死体を見つめるメルエへある提案を口にした。

 戦闘となれば容赦はしない。自分や自分の大事な者達を傷つけようとするのならば、躊躇無くその命を奪う。だが、それでも他の生き物の死という現象を哀しく感じる事の出来るメルエが、サラは心から愛おしく感じた。

 竜種の因子を受け継ぐとはいえ、遥か昔の祖先である事は間違いは無く、メルエの中に流れる血は人間と変わりはない。人間と同じような心を持ち、人間と同じような死を迎える。それを人類と呼ばずに、何が人類なのだろう。

 そんな人間としての感情と心を持った少女が、他の種族の死を哀しむという事が、サラの目指す輝ける未来への道を明るく照らし出しているようにさえ感じていた。

 

「カミュ、私達が穴を掘るぞ」

 

「穴を掘るならば、俺ではなくアンタだろう?」

 

 確かにカミュの言う通り、穴を掘るのならば剣よりも斧の方が楽であろう。だが、神代から繋がる強力な武器を穴掘りの道具として考える勇者に、リーシャもサラも呆れた溜息を吐き出した。

 近くに落ちていた石などを使い、簡単な穴を掘った後、カミュとリーシャがダースリカントの遺骸を一つ一つ丁寧に埋めて行く。その穴にサラとメルエが土を掛け、最後にメルエが積んだ花を添えた。

 実は、闇に包まれたアレフガルドで咲く花は、懸命に生きている証であり、それを摘む事に抵抗感を感じながらも、小さく謝罪の言葉を口にしてメルエは積もうとしていたのだが、それをリーシャが一度止めている。不思議そうに見上げた少女に笑みを溢した彼女は、土ごと花を掘り起こし、ダースリカントを埋めた近くに植え替えたのだった。

 

「世界広しといえども、魔物の墓を作って祈りを捧げる者は、あの二人しかいないだろうな」

 

「……そうだな」

 

 植え替えた花に頬を緩ませたメルエは、隣に跪いたサラに倣う様に胸で手を合わせる。瞳を閉じて冥福を祈るその姿を後方から見ていたリーシャは、誇らしそうに微笑み、カミュへ同意を求めた。そんなリーシャの言葉に小さな笑みを浮かべた勇者が頷きを返し、それを見た彼女は満面の笑みを浮かべる。

 魔物を恨み、魔物を憎み、その存在自体を消滅する為に旅立った僧侶が、今は魔物の死を悼んで祈りを捧げている。どんな事にも興味を示さず、己の命さえも軽んじていた勇者が、今はそんな仲間の行動を好意的に受け入れていた。

 五年以上に渡る長い旅は、決して無駄ではない。己の変化を恐れず、その変化を受け入れて来た結果は決して悪い方向へ向かっている訳ではなかった。

 それがリーシャには何よりも嬉しかった。

 

「さぁ、先程の魚をもう一度火で炙って食事にしよう」

 

「そうですね、メルエもお腹が空いたでしょう?」

 

「…………おなか……すいた…………」

 

 魔物の死骸を弔った直後に、食事を口に出来るという時点で、あの心の弱かった僧侶は何処にもいないのだろう。意気揚々と焚き火の方へ戻って行く女性三人の背中を見ながら、カミュは苦笑を浮かべるのであった。

 

 

 

 その後、食事を取り、仮眠を取った一行は、再び歩き始める。山下りとなった為、登りよりも速度は上がり、幼いメルエは転ばないようにしながらも自分の足で歩いていた。

 一度の休憩を挟み、再び歩き始めた頃、ようやく一行は平地へと出る。周囲の木々の茂みが深くなり、山から森へと入った事が解る。森の中で微かに潮の香りが漂って来た事からも、海が近いのだろう。つまり、一行はようやくアレフガルド大陸の南端へと辿り着いた事になるのだ。

 森の木々は深く、只でさえ闇に包まれたアレフガルドの中でも更なる暗闇に包まれている。『たいまつ』の炎が揺らめく度に周囲の状況が確認出来るが、正直サラには自分達がどの方角へ向かっているのかさえも解らなくなっていた。

 サラは基本的に方向音痴ではない。それでもこの森の中では方向感覚が狂ってしまったように解らなくなるのだ。太陽も月も出ておらず、星さえも見えない中で、地図を片手に先頭を歩くカミュの凄さを改めてサラは感じていた。

 そんな彼女の不安を余所に、全く我関せずでメルエと話しながら歩いているリーシャを見て、サラは思わず笑ってしまう。元々、旅を続ける中で目的地までの道に関しては、全面的にカミュへと託しているリーシャにとって、己の感じる方向感覚などは気にする必要性のない物なのだろう。同じくメルエもまた、カミュ達の進む場所へ共に行くだけであるから、その道がどのような物であろうと気にする事はないのだ。

 

『……カ…ュ…カミ……』

 

 楽しそうに歩くメルエの姿に微笑んでいたサラは、突如頭の中に飛び込んで来た微かな音に顔を前方へと向ける。そして、同じように何かに反応したようなカミュの姿を見て、先程聞こえて来た物が幻聴ではない事を悟った。

 そして、もう一度振り返ったサラは、先程と同じように楽しそうに会話を続けるリーシャとメルエを見て、ある結論に辿り着く。それは、先程聞こえて来た物が、バラモス城で聞いた精霊ルビスの声と似ているという物であった。

 厳密には声ではないのであるから、それが似ているとは断定出来ない。だが、サラとカミュにしか聞こえず、それが脳に直接飛び込んで来るような類の物である点で、何らかの繋がりがあるのではないかと考えたのだ。

 

「カミュ様!」

 

 先頭でその声に気付きながらも何事もなかったように地図に視線を落とすカミュを見たサラは声を荒げる。この声が精霊神ルビスの声であろうが、他の者の声であろうが、カミュに向かって語り掛けていることには間違いがない。それにも拘らず、まるで風の音とでもいうように素知らぬ顔をして無視しようとするカミュの行動がサラには信じられなかった。

 当の本人は不愉快そうに眉を顰め、そんなカミュの反応にリーシャとメルエが何かが起きた事を悟る。集まった一行の中でもその微かな声が聞こえる者と聞こえない者が半数に分かれていた。サラから事の次第を聞いたリーシャは呆れたように溜息を吐き出し、自分が聞こえなかった事が不満なメルエは頬をぷっくりと膨らませた。

 

「…………サラ………ずるい…………」

 

「メルエ、仕方ないだろう? サラはルビス様の祝福を受けた賢者だ」

 

 膨れるメルエを窘めるリーシャの言葉が、幼い少女の心に残っていた対抗心と嫉妬心に火を点ける。ダーマ神殿で賢者としての祝福を受けたのはサラであるが、順番的にはメルエの方が先にその場に立っていた。未だに単語を全て理解出来ないメルエではあるが、あの頃は自分の名前ぐらいしか読む事が出来なかった。

 『悟りの書』という書物の中身が見えていても、その文字や文を理解する事が出来ない者を『賢者』とは呼べないという事で、メルエは祝福を受ける事が出来なかったのだ。それでも、竜の因子を受け継ぐ古の賢者の末裔となれば、この幼い少女に賢者としての才能が溢れている事は確かである。それこそ、当代の賢者であるサラよりも、才能という点では遥か上位に位置する事だろう。

 だが、それを知るのは、カミュ達三人だけである。当の本人は、自分の身体に竜の因子が残っている事も、自分の祖先が名高い賢者である事も知らない。今は、自分の好敵手であるサラという身近な姉が、自分が出来ない事が出来るという事への嫉妬でむくれているだけなのだ。

 

「カミュ様、このまま海岸沿いに進みましょう。この森の向こうから声が聞こえています」

 

「そうだな。ルビス様が本当にあの塔に封じられているのだとすれば、その声はサラの言う通りにルビス様の物ではないのだろう。何物かは知らないが、カミュの名を呼んでいる以上、お前に関係する筈だ」

 

 カミュは森に出てから北へと進路を取ろうとしていた。だが、サラはその方角に異を唱え、南端から望む海沿いを進む事を口にする。ここまで真っ向から進路に対して対立した事は、この長い旅路の中でも初めての事かも知れない。先頭に立つカミュの進む道を共に歩んでいた彼らが、行く方向に対して議論するという不思議な光景に、先程まで頬を膨らませていたメルエが首を傾げていた。

 不愉快そうに眉を顰め、舌打ちを鳴らしたカミュを見る限り、出来れば係わりたくないという想いが露になっている。不安そうにそれを見つめるサラと対照的に、『困った奴だ』とでもいうように笑みを浮かべて溜息を吐き出すリーシャは、首を傾げているメルエを抱き上げた。

 

「カミュ……私達は、こうやって細い糸を手繰って来たのではなかったか?」

 

「ちっ」

 

 行く事を拒否するように顔を背けていたカミュに最終勧告が為される。その言葉を否定する事は彼にも出来ず、反論出来ない代わりに大きな舌打ちが響いた。

 メルキドという町へ向かってはいるが、その場所に何かがあると云う情報を入手した訳ではない。唯一あるとすれば、ガライという吟遊詩人がいるというぐらいな物だ。それでも、ガライという人物がカミュ達の旅に何らかの影響を与える事はないだろう。つまり、メルキドへ行くのは、新たな情報を仕入れる為とも言えるのだ。

 故に、カミュにはサラの提案を退ける明確な理由がない。二人が聞いた声という細い糸を手繰るという道を蹴る事は出来ないのだ。何故なら、リーシャの言葉通り、そういう方法で彼等は旅を続けて来たからである。細く頼りない糸のような情報を辿って、彼等は誰も辿り着けなかった魔王バラモスの居城へ入り、誰も成しえなかった魔王討伐という偉業を成した。

 それが『勇者一行』の旅である。

 

「さぁ、行こう」

 

 常に最後尾を歩いて来た女性戦士の掛け声で、先頭のカミュが森を東へと歩き始める。それはサラが示した方角であり、二人が微かに聞いた音の発信源の方向であった。

 不思議そうに首を傾げていたメルエも、次第に濃くなって行く潮の香りに頬を緩める。木々の隙間から見える真っ暗な闇が、海である事を明確に物語る程に潮の香りが濃くなって来た頃、一行はようやく木々が生い茂る森から出た。

 そこは芝が生い茂る平原ではなく、砂地で覆われた砂浜であった。押し寄せる波が打ち上げられ、それが再び海原へ戻るという繰り返しが心地良く感じる程に優しい音を生み出す。生命の源とさえ言われる海という大きな神が、カミュ達の帰りを喜ぶように、静かな歓迎の舞いを舞っていた。

 

『……こっち……へ……』

 

 潮風を胸一杯に吸い込もうとするメルエに苦笑を浮かべていたサラは、再び聞こえて来た声に反応する。即座にカミュへ視線を送ると、諦めたように彼は歩き出した。

 砂浜を真っ直ぐ東に進み、いつまでも続く潮の満ち引きの音を聞きながら、魔物の襲来もなく彼らはその場所へ辿り着く。それは、幻想的な光景であった。

 遥か昔は美しい場所であったのだろう。綺麗な装飾が成された外壁には今では苔が生え、周囲を護る堀に入れられた水は腐り、異様な香りを放っている。何かを祀るような外装から見ても、この場所が特別な祠である事は解るが、この場所を訪れる者がいなくなって久しい事を外観が物語っていた。

 そんな祠の入り口の扉の前に、見慣れた石像が置かれている。それは、このアレフガルドを護る英雄や勇者を模造した物ではなく、このアレフガルドそのものを造ったと伝えられる、アレフガルドの母の像。

 精霊神ルビスであった。

 

「ルビス様に纏わる祠なのでしょうか?」

 

「カミュとサラにしか聞こえない声というのであれば、そうなのだろうな」

 

 入り口の前で立ち止まった四人は、祈りを捧げるように手を合わせる石像を見上げる。感傷的な口ぶりのサラに対し、現実的な言葉を返すリーシャ。そんな二人に対し、無言で扉へ進んで行くカミュを追って、メルエが小走りに駆けて行った。

 重苦しい扉を押し開くと一気に押し寄せるかび臭さが、この場所が長年放置されていた事を物語っている。顔を顰めたメルエがカミュの腰に顔を押し付け、それに苦笑したサラがメルエの手を引いて後ろへ下がった。

 先に中に入ったカミュが『たいまつ』を翳して奥を確認する。闇に包まれたアレフガルドで長年放置されていた場所であれば、魔物の棲み処になっていても可笑しくはなく、中が崩れていても不思議ではないのだ。

 

「え?」

 

 しかし、そんな一行の不安は杞憂となる。カミュに続いてサラやメルエが入り、最後にリーシャが扉を潜ると同時に、後方の扉が自然に閉まった。

 扉が閉まると同時に周囲にある燭台に一斉に炎が点り、祠内部を一気に照らし出す。外観からは想像さえも出来ない程の美しい光景がそこにはあった。

 円を描くように設置された全ての燭台に炎が点り、その燭台の内側を綺麗に澄んだ水が円を描いて流れている。堀の内側には草花が生え、綺麗な花を咲かせた植物からは甘い香りが漂っていた。

 真っ直ぐに伸びた石畳には、職人によって美しい絵画が彫り込まれており、その一つ一つの凝った出来栄えが、この場所の神聖さを物語っている。美しく装飾された石畳の向こうには一際大きな絵画が掛けられており、その絵画の出来栄えは、知識の無いカミュ達でも言葉を失う程の物であった。

 中央には精霊ルビスと思われる、紅く豊かな髪を持つ女性が立ち、その周囲には満面の笑みを浮かべた妖精達が飛び回っている。そんな妖精と精霊神の戯れを微笑ましく見守る精霊達が脇を固め、この絵画に描かれた全ての者が、中央にいる女性を愛し、慕っているようにさえ見えた。

 

『よくぞここまで来ました。私は、その昔にルビス様にお仕えしていた妖精です』

 

 幻想的な光景に言葉を失っていた一行は、突然目の前に現れた存在に息を詰まらせる。先程まで精霊ルビスの周囲を飛んでいた絵画の妖精が、そのまま絵から抜け出てしまったのではないかと思う程に予兆もなく声が飛び込んで来たのだ。

 既にその声はカミュやサラだけではなく、リーシャやメルエでさえも聞こえ、その姿もはっきりと視認出来る。妖精の姿をこれ程にはっきりと生み出す事が出来る程に、この祠は強い力を秘めているのだろう。

 

「貴方がカミュですね。あの時、ルビス様のお声を届けたのは私です。貴方達のお陰で、ルビス様を封じる力は弱まりました。ですが、未だにその封印は解かれません。貴方達ならば、必ずやルビス様を解放する事が出来る筈です」

 

「やはりルビス様はあの塔に……」

 

 真っ直ぐ妖精へ視線を向けながらも、返事一つしないカミュに代わって、サラが妖精に問いかける。そんな行動を特に咎める事なく、その妖精は小さく頷きを返した。それは、ここまでの旅で、『人々の間に飛ぶ噂』でしかなかった事柄が、明確な事実となった瞬間でもあったのだ。

 ルビスの従者を名乗る事は人間でも出来る。それは勝手な思い込みや煽て上げられた者ばかりであるが、自称をするのは自由であり、余程の悪行に走らない限りは咎められる事はない。だが、目の前に居る妖精という存在は別であろう。

 カミュどころか、メルエよりも小さく、人間と比べる事自体が愚かであると感じる程の背丈しかない。背中には蝶や羽虫のように透き通った四枚の羽が生え、その羽根を動かす事でカミュ達の目の前で小さな身体を宙に浮かしていた。

 そのような神秘の存在が精霊神ルビスの従者として働いていたとなれば、それは人間が口にするよりも遥かに信憑性がある。それに加え、あのバラモス城でルビスがカミュに語り掛ける媒体となっていたとなれば尚更であった。

 

「どうか、どうか、ルビス様をお救いください。このアレフガルドにはルビス様のお力がまだまだ必要なのです。ルビス様を解放出来るは、今代の勇者である貴方だけです」

 

 先程のサラの質問に頷きを返してはいたが、この妖精の瞳に映る人間はカミュ唯一人なのかもしれない。カミュの眼前を飛び、真っ直ぐにその瞳を見つめて語られる言葉に切実な願いが込められていた。本来、妖精という括りであれば、上の世界に居たエルフやドワーフ、ホビットなども妖精という事になる。そういう人間よりも遥かに上位の力を持つ存在がカミュのような一人間に対して、懇願するという事自体が異常であった。

 魔王バラモスを倒そうと、どれ程に強力な武器や防具を身に纏おうと、カミュは人間である。ジパングの国主の血筋という一般の者とは異なる部分はあるが、それでも人間という理から出てはいない。サラのように神や精霊の祝福を受けてその身に宿る力を変化させた訳でもなく、メルエのように太古の異種の因子を持っている訳でもない。彼はアリアハンを出た頃から何一つ変わらず、己を磨いて来た一人間なのだ。

 

「私の想いと願いを、この杖に託します。ルビス様に愛される貴方ならば、ルビス様をお救いになられたその時には、その愛の証を賜る事でしょう。この『雨雲の杖』と何処かにある『太陽の石』、そしてルビス様の愛の証を持って、東南に浮かぶ聖なる祠へお向かい下さい」

 

「……雨と太陽が合わさる時、虹の橋が掛けられる」

 

 頭に直接響く妖精の声を聞いていたサラは、突如目の前に現れた一本の杖を見て、ラダトーム王城で聞いた伝承を思い出す。それは、次期ラダトーム国王である王太子が語った、アレフガルド大陸に古くから伝わる言い伝えであった。

 カミュの目の前で浮いている杖は短い物である。メルエの持つ雷の杖の半分の長さもないだろう。『たいまつ』とほぼ同程度の長さしかなく、余計な装飾なども一切為されていない。しかし、その杖先からは絶え間なく白い煙のような物が吐き出されており、それがまるで雲のように映っていた。

 その名の通り、雨雲を生み出す杖のなのかもしれない。元来、生物というものは、太陽の恵みと、雨の恵みがなければ生きては行けない。しかし、逆に言えば、太陽の恵みだけでも生きては行けず、雨の恵みだけでも死滅してしまうだろう。二つの偉大な恵みが合わさるからこそ、この広大な大地で生物が繁栄出来るのだ。

 

「どうか、ルビス様の為にも、そして貴方達の為にも、この世界をお救いください」

 

 サラが思考の海へと落ちて行く中、目の前を飛ぶ妖精が再度カミュへ願いを口にする。先程から妖精に手を伸ばそうとするメルエを窘めていたリーシャは、何も言わずに妖精を見つめるカミュへと視線を移した。

 彼の生い立ちを一番理解しているリーシャは、彼の胸の内にある消化しきれない想いを知っている。彼が勇者となったのは、自らの意思ではなく、他者からの強制であった。それは彼の望みではなく、彼の願いでもない。如何に精霊神ルビスに愛されていようと、彼がそれを望んでいた訳ではなく、むしろその愛の為に進むべき道が決まってしまった事を恨んだとしても仕方のない幼年期を彼は送っていた。

 常に彼の願いは誰にも届かず、彼の望みは叶う事はない。自らその望みの為に動く事も出来ず、全てを諦めるしかなかった。そんな彼が、他者の願いを、それも憎むべき元凶の救出という願いに対して返答をする訳がない。

 彼の生い立ちを知った者であれば、この長い旅を共に歩んで来たリーシャ以外はそう感じた事だろう。

 

「……!! ありがとうございます!」

 

 しかし、彼は目の前を飛ぶ妖精に向かってしっかりとした頷きを返す。

 それを見た妖精の表情は一気に明るくなり、その妖精の心を喜ぶように、周囲の蕾が一斉に花を咲かせた。燭台に灯る炎は輝き、妖精の周囲にキラキラと輝く粉が舞う。妖精の持つ羽から零れ落ちるように輝く粉は、喜びの舞を舞うように飛び回る妖精の後を追って、綺麗な光の川を生み出した。

 リーシャに抱かれたメルエは、その光景に頬を緩ませる。キラキラと舞う鱗粉のような物を掴もうと伸ばされた小さな手は、この深い闇に閉ざされたアレフガルドに差し込んだ細く小さな光の筋を掴もうとする生物達の象徴なのかもしれない。そんな感傷的な想いをリーシャは感じていた。

 

「これはメルエが持っていてくれ」

 

「…………ん…………」

 

 妖精の鱗粉を取ろうと伸ばされた手に与えられたのは、先程まで宙に浮いていた小さな杖。このアレフガルドの成り立ちにさえも係わると云われている杖は、人類最高位の魔法使いの手に渡った。

 手にした者の魔法力に反応するように輝きを放った杖は、静かに雲の生み出しを停止する。そのままメルエの大事な物袋であるポシェットの中に納まり、次なる出番を待つ事となった。

 嬉しそうに飛び回る妖精がメルエの周囲を旋回し、そして飾られた絵画の中へと吸い込まれて行く。それと同時に、祠の中を照らしていた燭台の炎が、一つまた一つと消えて行った。この祠は、精霊神ルビスと、それに従う妖精達を祀った場所なのだろう。いずれ、大魔王を討ち果たした時には、再びその栄華を取り戻すに違いない。

 

「カミュ、偉かったな。メルエと同じぐらい偉かった」

 

「ちっ」

 

 まるで子供を褒めるような言葉を口にするリーシャに、カミュは大きな舌打ちを鳴らす。彼女の顔が満面の笑みを浮かべている事も、彼を不機嫌にさせる理由の一つなのだろう。理由も状況も解らないメルエもまた、母親のようなリーシャに褒められた事が嬉しく、花咲くような笑みを浮かべた。

 『たいまつ』の炎の明かりだけとなった頃、ようやくサラが再起動を果たす。己の中でバラバラになっていた事象が繋がったのだろう。この場所へ来る以前よりも、先に対する展望が開けたような明るい表情になっていた。

 

「まずはメルキドだな。その後で、もう一度あの塔へ行こう」

 

「ああ……竜種などに後れを取る訳にはいかない」

 

 一行の道は定まった。

 苦い記憶が新しいあの場所へ、もう一度挑む時が近付いている。手も足も出ず、幼い少女の決死の想いによって命を拾った場所。あれから既に数ヶ月の時間が過ぎ、勇者一行はもう一段上の高みにある。世界最高種である龍種の最上位種であるサラマンダーでさえも苦戦せずに戦える程に上がった力量は、このアレフガルドの生みの親である精霊神ルビスを救うに値する程の物となっていた。

 先頭に立って祠の扉を引いた青年は、苦しく悲しい幼年時代を過ごしている。それでも、今の彼の胸には、そのような過去さえも捨てる程の決意が宿っていた。簡単に捨て去る事が出来る想いではなかっただろう。容易く変える事の出来る価値観ではなかっただろう。だが、それでも、彼は前へと進み始めている。

 

「行くぞ」

 

 扉を開いた先には、未だに星一つ見えない闇が広がっていた。その闇もいずれ晴れる時が来るだろう。何故なら、この世界の希望は今、小さな三つの輝きと共に、大きく輝き始めているのだから。

 大地さえも創造する偉大な精霊神に愛された青年は、彼を慕い、信じる者達と共に、世界さえも覆う程の闇を晴らす光となる。

 アレフガルドの朝も、もうそこまで来ているのかもしれない。

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございます。
次話はメルキドになると思います。
完結も近づいて来ました。
頑張って描いて参ります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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戦闘⑪【メルキド地方】

 

 

 

 精霊の祠を出た一行は、軽い雨が降り出した砂浜を西へと戻り、雨を避ける為に森の中へと入って行く。この五年の旅の中でも、何度となく雨は経験しているが、通常時に闇に包まれているアレフガルドでは、雨による気温の低下は激しい。衣服が濡れている事も相まって、体温が低下する事で体力さえも奪われて行くのだ。

 氷竜という最上位の竜種の因子を受け継いでいるメルエは寒さには強いのだが、流石に衣服が濡れ出すと寒さを感じるらしく、雨を避けるようにカミュのマントの中へと逃げ込んでいる。森の木々が伸ばす葉が雨を多少なりとも遮ってはくれているが、それも数年の時間に及ぶ闇の支配によって力強さは奪われており、雨を全て防ぐ事は出来ていなかった。

 

「何処かで火を熾して休むか?」

 

「いや、この分では枯れ木も見つからないだろう。地図によれば一日、二日でメルキドへ辿り着ける筈だ。行ける所までは進む」

 

 森に入った事で、雨が止む事を待つ提案をリーシャがするが、カミュはそれを斬り捨てる。確かに、この状況で雨が止む保証は何一つなく、雨で濡れ始めている木々では焚き火を熾す事も難しい。それならば、一歩でもメルキドに近付いた方が良いだろう。その考えの根本には、最悪の場合であれば、ルーラでドムドーラへ戻るという選択肢もあるという部分もあった。

 頷きを返したリーシャは、雨によって消されている魔物の気配などを注意深く探るように周囲へ目を向けながら最後尾へと戻って行く。森を抜け、橋を渡り、再度ドムドーラのある大陸へと戻った一行は、そのまま北へと歩を進めて行った。

 闇の世界でも大きく育った深い森が続き、右手には海から入り込んだ水が大きな湖を形成している。対岸が見えない湖は真っ黒な闇の穴のように見え、微かに聞こえる波の音がその場所に湖がある事を物語っていた。

 

「カミュ、森を抜ける前に一休みしよう」

 

 傾斜がある森を歩き続けて来た経過もあり、サラもメルエも少し疲労が見えている。冷たい雨を受けていた事も原因の一つであろう。海辺の森よりも木々が生い茂っているこの場所ならば、雨風を凌ぐ事が出来、枯れ木を集める事も可能だとリーシャは考えたのだ。

 それに頷いたカミュを見て、リーシャは歩きながらも乾いた木々を拾い集め始める。了承したのであれば、休憩場所に相応しい場所を見つけるのはカミュの役目であり、その時に迅速な行動を取る事が出来る準備をするのがリーシャの役目であった。

 左手には険しい岩山が聳え、右手には大きな湖がある。太陽が出た昼間であれば、これ程美しい場所もないだろう。だが、今は深い闇に覆われており、カミュ達が持っている『たいまつ』の炎だけが唯一の明かりとなっている。対岸から見れば、火の玉がふらふらと雨の中で移動しているように見えるに違いない。それは見る者によっては恐怖を感じる程の光景だろう。

 

「メルエ、メラで火を点けてくれ」

 

「…………ん…………」

 

 森の先に平原が見えて来た頃、ようやくカミュの足が停止する。それを確認したリーシャが比較的乾いた地面に拾って来た枯れ木を組んで行く。最近では、焚き火に点火する役目はメルエの物となっていた。以前とは異なり、自分の力を理解し、制御が可能となった彼女は、絶妙な力加減で焚き火に火を点す事が可能となっている。それ故に、今では他の者が点火しようとすると、それを遮って前へ出るようにさえなっていた。

 燃える炎の熱で濡れた服を乾かして行く。徐々に小雨になって来た雨は、暫くすれば完全に止むだろう。そう考えれば、既に精霊の祠を出てから一日近く歩いている事に気付く。闇で覆われた世界であるから昼と夜の感覚がないが、身体に残る疲労感がそれを明確に示していた。

 こくりこくりと舟を漕ぎ始めたメルエを見て、リーシャはその小さな身体を自分の膝の上へと乗せる。一瞬目を開けたメルエであったが、そのまま吸い込まれるように眠りへと落ちて行った。

 暖かな焚き火の炎を受け、周囲の温度も幾分か上がった頃、木々の葉を打つ雨音も止み始める。しとしとと地面に落ちる水滴も疎らになり、燃える枯れ木の半分が炭化したのを確認したカミュは、湿った土を掛けて炎を消した。リーシャに揺り動かされてメルエが目を覚まし、サラも準備を完了させて立ち上がる。

 

「服も乾いたな?」

 

「ああ、十分だろう。メルキドの場所は解るのか?」

 

 立ち上がったカミュの確認に頷いたリーシャは、彼が広げた地図を覗き込む。『妖精の地図』と呼ばれるそれは、精霊神ルビスの下で働く妖精が描いたと伝えられる地図であり、このアレフガルド大陸の隅々までを詳細に記載した物である。その地図にもメルキドという町の名前は記載されているが、その場所までの経路は覗き込んだリーシャには理解出来ない物であった。

 首を傾げるリーシャを見上げていたメルエも同じように首を傾げ、それを見たサラは柔らかな笑みを浮かべる。何が楽しいのか理解出来ないが、首を傾げた後でメルエは楽しそうに水溜りに足を踏み入れ始めた。ぱしゃぱしゃという音と共に飛沫がサラの足に掛かり、それを嫌がる姿を見たメルエは、尚の事サラに向けて飛沫を飛ばす。それは、リーシャの拳骨が落ちるまで続くのであった。

 

「これまた大きな橋だな」

 

「そうですね。やはり大きな湖なのですね」

 

 森を出て平原を歩き続けると、右手にあった湖を渡る為の橋が見えて来る。この場所まで来ると、左手の大きな山脈から流れ込む水によって淡水化しているのだろう。時折跳ねる魚達に目を輝かせたメルエが、橋の欄干から既に川のような幅になった湖を覗き込んでいた。

 この橋を見るだけでも、如何にアレフガルドという大陸の技術が優れているのかが解る。基本的に力も魔法力も上の世界の住人達よりも弱いアレフガルド大陸の者達がこれだけの橋を作り出すには技術力が必要となる筈であった。精霊神ルビスにより近い為なのか、神代からの技術が残っている為なのかは解らないが、武器や防具の種類から見ても、アレフガルド大陸の技術力は高い位置にあると考えても良いだろう。

 

「メルエ、見ていても真っ暗でしょう? 行きましょう」

 

「…………むぅ…………」

 

 ただでさえ闇に包まれていて湖の中など見えはしない。それに加え、雨上がりで濁った水では、如何に『たいまつ』で照らそうとも、その中で生きる生物達の姿は見える訳がないのだ。それでも、少女にとっては不満なのであろう。頬を膨らませて不満を露にしてサラの手を握る姿に、リーシャは苦笑を漏らした。

 橋を渡り切った一行は、先程の強い雨の影響でぬかるんだ地面を注意深く歩く。人の往来が少なくなっているこの道は、僅かな雨でも歩行が困難になる程に荒廃していた。ぬかるみに足を取られ、歩く事が困難になったメルエを抱き上げたリーシャは、本来であれば雨上がりの太陽に輝く草原へと視線を移す。

 

「このまま南へ下る」

 

「そこにメルキドがあるのか?」

 

 地図から目を離したカミュは、後方で平原を見つめているリーシャ達に目指す先を指し示す。リーシャの問いかけに頷きを返し、そのまま歩き始めた彼の後を追って、二人は歩き出した。

 人の手が入らず、伸び切った芝を掻き分けて歩いていた一行は、雨上がりの濡れた草の先に奇妙な動きをする影を見つける。先頭のカミュの動きが止まり、背中の剣に手を掛けながら歩き始めた事で、他の三人もまた戦闘準備態勢に入った。

 静かに歩みを始めた一行であったが、その先で奇妙な光景を見る。闇のアレフガルドの中でぽっかりと灯る明かりは、明らかに火を熾した事による物である事が解る。それが町の灯りではない事は、立ち上る煙の量からしても確かであろう。

 マイラの森の中で雷神の剣を手にした大魔人と遭遇した時を思い出したカミュは、その時に手にした剣を握り締める。近付く程に漂い始める焦げた臭いが、この明かりの元が炎である事を示しており、雨上がりである事を考えれば、それが自然に生まれた炎でない事を物語っていた。

 

「何かがいるぞ?」

 

「いつでも戦闘に入れるようにしておけ」

 

 この先の炎が人工的なものであるとすれば、カミュ達の持つ『たいまつ』の炎は既に相手にも見えているだろう。警戒という段階は過ぎ、臨戦という段階に入る。地面に降り立ったメルエも雷の杖を手にし、いつでも呪文の行使が可能な状態に入った。

 一歩一歩近付くカミュ達の視界に、立ち上る大量の煙と、周辺を明るく照らす大きな炎が見えて来る。そして、その周囲を踊るように回る二体の生物が見えた。

 炎に照らされて映るその姿は、人間と全く相違ない形をしており、異なる部分と言えば、その体躯の色だけであろう。真っ赤に燃え上がる炎に照らされているにも拘わらず、踊りを踊るその身体は闇に解けるような暗い青色をしている。それは、通常の人類では考えられない色であり、カミュ達が見て来たエルフ族などでもあり得ない色素であった。

 腰に巻いた布のような物は、体躯とは正反対に真っ赤な血のような色をしており、右手に持った不気味な杖の先には、小さな頭蓋骨が嵌め込まれている。踊る中で動かされる顔には、楕円形の奇妙な仮面が付けられており、時折発する叫びは、この世に生命を持たぬ者への呼びかけにさえ聞こえる程に不気味な音であった。

 

「あれは、腐乱死体を呼ぶ奴か?」

 

「おそらくですが、それの上位種に当たる魔族でしょうね」

 

 踊りに意識を向けているからなのか、近付くカミュ達に気付いていない魔族を見て、リーシャはその存在をサラへと問いかける。その問いかけに対し、サラの考察は適切であった。

 シャーマンやゾンビマスターといった、この世で生きる者ではない魔物を呼び出す魔族との戦闘は何度か行っている。何体も腐乱死体を呼び寄せるその戦闘方法は、生者にとっては地獄のような時間であった。

 漂う死臭に腐敗臭。その全てが生きている人間にとっては耐え難い異臭であり、苦痛である。更には身体への気遣いもなく全力で振るわれる腐乱死体の腕は、無意識に身体の損傷を考えて力を抑えて行動する生者にとっては脅威であった。

 

「気付かれなければ、そのまま素通りしたいが……」

 

「しかし、あれが何の儀式かは解りませんが、メルキドの町に悪い影響がある物であれば、放ってはおけませんよ」

 

 歴戦の勇士であるリーシャであっても、腐乱死体との戦闘は避けられるのであれば、避けたいというのが本音であろう。だが、焚き火の周囲を踊り回る魔族の行動がこの近くにあるメルキドという町に対して悪影響を及ぼす物であるならば、サラという賢者にとっては捨て置く事は出来なかった。必然的に、彼女達二人は、この一行の決定者である青年へと視線を送る事になる。

 当の青年は先頭で屈み込みながら、注意深く魔族の動きを見ていた。見えているのは二体だけではあるが、既に腐乱死体を呼んでしまっている可能性は否定出来ない。その上、この魔族自体が他にいる可能性も考えると、迂闊に飛び出す事は危険であった。

 静かに剣を抜いたカミュが、ゆっくりと焚き火へと近づいて行く事で、リーシャ達も戦闘態勢へ入る。しかし、サラの頭の中には、一つの不安が残されていた。それは、万が一の可能性ではあるが、この魔族が行っている儀式が悪しき物ではない場合である。先程の雨を請う為の儀式であれば、この大地で生きる者達にとっての恵みでもあり、それをサラ達が断罪して良い訳がない。だが、哀しい事にカミュ達にそれを確認する術はなかった。

 

「うっ……カミュ、アレが来るぞ」

 

 そんなサラの憂いは杞憂に終わる。一歩前へと踏み出した一行の鼻に、最早嗅ぎ慣れた臭いが飛び込んで来たのだ。生物が死滅し、その形状を保つ事が出来なくなった際に放つ強烈な臭いであり、腐り、朽ち果てるのみとなった物が放つ臭いが周囲に充満して行く。

 丁度、風下に位置する場所にいたカミュ達は、その腐敗臭を受ける形となり、抑え切れない吐き気と、目に染みるような痛みに襲われた。焚き火の周囲を回る魔族に導かれるように集い始めた腐乱死体の数は多い。徐々に増えて行くそれは、既に五体を超えていた。

 圧倒的な腐敗臭が燃え盛る焚き火の周囲に充満して行く。最早、鼻も捻じ曲がり、臭いを感じる事さえも出来なくなった四人は、眩暈がする程の状況の中、前方の魔族を敵として明確に認識した。

 

「メ、メルエ、一気に決めましょう。あの焚き火の周囲に腐乱死体が集まったら、二人でベギラゴンを放ちます」

 

「…………むぅ………ん…………」

 

 余りの臭いに涙目になりながらサラの腰に顔を埋めていたメルエは、その提案に小さな頷きを返す。腐乱死体は動きも遅く、炎に弱い。一気に焼き払えば、それ程苦労せずに一掃出来ると考えたのだ。

 そうなれば、残る二体の魔族の相手はカミュとリーシャとなる。未知の魔族の戦闘能力は把握出来ていないが、それでも単体でドラゴンと同等の力を有しているとは思えない。そうであれば、再度ドラゴンとの戦闘を望む彼らの敵ではないだろう。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

「ベギラゴン」

 

 カミュとリーシャが様子を窺っている間に、集まり始めた腐乱死体は、魔族の周囲に全て集った。炎に照らし出される腐乱死体の姿は醜い。皮膚は腐り落ち、腐り切った肉は不快な体液と共に地面へと落ちている。生前に着ていたであろう衣服もまた、布の切れ端を身に纏っているようにしか見えない有様であった。

 人とは思えない程の呻き声を漏らしながら歩き回る腐乱死体は、生者にとって恐怖以外の何物でもないだろう。そんな十体近い腐乱死体は、一気に吹き荒れた熱風に飲み込まれて行く。人類最高位に位置する魔法使いと、人類唯一の賢者が放った最上位の灼熱呪文は、焚き火の手前に着弾し、恐ろしいまでの炎の海を生み出した。

 

「ウ……アア……」

 

 腐った肉の焼ける臭いが立ち上り、創造神の御許へ還るように天へと上って行く。ベギラゴンの着弾と共に駆け出したカミュとリーシャは、炎の海を避けた二体の魔族を追って各々の武器を握った。

 しかし、全ての腐乱死体が炎の海に飲まれて天へ還る訳ではない。最早、痛みも苦しみも感じる事のない生きる屍は、炎によって自分の身体が燃える熱さも感じる事は出来ないのだ。故に、炎に撒かれてもそのまま歩き続ける者達は出て来る。腐乱が進む事によって燃え易くなった身体に炎を纏いながらも前進して来るその姿は、心の弱い者からすれば、心を壊してしまっても可笑しくはない姿であった。

 炎の腕を伸ばしてカミュやリーシャに掴みかかろうとするグールの群れを、前衛二人は容赦なく切り捨てて行く。この土地で放置された年数が長く、腐乱死体として目覚めてからも多くの時間を過ごして来た者はグールとなる。そんな逸話が残る魔物ではあるが、基本的性能は腐った死体などと相違はない。既に竜種とさえも戦う事の出来る者達に触れる事など出来はしなかった。

 

「キイィィィ」

 

 グール達を切り捨てていたカミュの真横から勢い良く振り抜かれた棒は、即座に掲げた勇者の盾によって防がれる。仮面を付けていても解る程の怒気を放ち、持っている儀式用の杖を振り回す姿は、魔族らしい禍々しさを持っていた。

 当初の予想通り、二体の魔族はベギラゴンという最上位の灼熱呪文の炎から身を避けている。流石に無傷という訳には行かなかったのか、身体のあちこちに火傷の痕が残ってはいるが、命に係わる程の怪我ではない。焼け焦げながら地面へと倒れ、煙と共に天へと還って行く腐乱死体達が周囲を覆う中、二体の魔族がカミュ達の前に立ち塞がった。

 

【マクロベータ】

シャーマン族の最上位にいる魔族である。生きる屍の支配が未熟な内はシャーマンと呼ばれ、操れる屍の種類や量が増えてくれば、ゾンビマスターとして扱われる。多くのシャーマンを支配下に置くのがゾンビマスターであれば、そのゾンビマスターを従わせるのが、マクロベータであると云われていた。

脳も腐り、自我さえも失った腐乱死体を完全に支配するだけではなく、大魔王の魔法力を利用してその腐乱死体を生み出し続ける事が出来るという事も、マクロベータである証なのだ。

本来は魔族などではなく、異常な研究に没頭した人間の成れの果てなのかもしれない。長い時間を経て、人間界から追放された彼等は、魔にしか拠り所を持てず、より強い力を求めて魔族との交配を重ねていった結果がシャーマン族の起源だという説もあった。

 

「カミュ、こいつらは回復呪文も使うようだぞ」

 

「完全に傷が塞がっているな……。ベホマかもしれない」

 

 マクロベータの攻撃を防いだ盾を降ろしたカミュの横にリーシャが戻って来る。もう一体のマクロベータとの戦闘の中で斬りつけた胸の傷が塞がって行く事を伝えに来たのだ。

 視線をマクロベータへ向けると、胸に向かって手を翳し、淡い緑色の光と共に傷を癒す姿が見える。浅い傷ではない事は、地面に溜まっている体液の量を見れば解る。それでもその傷が完全に塞がった事を確認したカミュは、それが最上位回復呪文の効果だと断定した。

 最上位回復呪文であるベホマは、『悟りの書』に記載されている呪文である。それが示す事は、人類でも賢者に相当する者以外は契約が不可能であるという事であった。現に、このアレフガルドのみならず、上の世界を含めても、人類で行使出来るのはサラとカミュの二人だけであろう。もしかすると、エルフ族の中でもこの呪文を行使出来る者は皆無に等しいのかもしれない。もし可能であるとすれば、傷ついたエルフ達を救い、導いて来た女王だけであろう。

 マクロベータという腐乱死体を操る魔族と、最上位の回復呪文がリーシャには結びつかない。死者を操るという行為と、生者を癒すという行為が真逆の事だという認識があるのだろう。

 だが、よくよく考えれば、腐乱死体を生み出すという行為は、言い方を変えれば不完全な蘇生に等しい。死の呪文を受けた者だけに効果を示すザオリクやザオラルとは異なり、完全な死者をこの世に呼び戻すのだから、それは魔術というよりは神術に近いのだろう。元々、シャーマンとは神と人との架け橋となる者の呼称であった。雨を請う祈りを捧げ、実り多きを願う言霊を捧げ、神の言葉を聞く事の出来る者達だった故の力なのかもしれない。

 

「腐乱死体を呼び寄せて町を襲わせる訳にはいかない。回復出来るのならば、せめて苦しまぬように一撃で意識を刈り取るしかないな」

 

「魔族や魔物に慈悲を向け、その未来を憂うのは俺達の仕事ではない。その苦しみと悩みを抱え続け、それを実現する人間は他にいるだろう?」

 

 回復呪文によって癒えるのは傷だけである。体内を巡る血液や体液は戻らず、体力も戻るまでに時間を要する。傷を付け、それを癒し、という事を繰り返せば、想像以上の痛みと苦しみを味わう事になるのだ。そんな事を口にし、少し悩むように眉を顰めたリーシャに向かって発した言葉は、辛辣ながらも彼女に喜びを運ぶ物であった。

 彼は口にしたのだ。この先の未来では魔族や魔物の命さえも考慮に入れられる世界があるという事を。そして、それを実現するのが、彼らの後方で戦局を見つめている一人の女性であるという事を。今はただ、その優しい未来を邪魔する大魔王ゾーマという元凶を倒す事だけに、自分達は邁進するだけで良い。その中で必ず未来のへの道標を見つけると彼は信じているのだ。簡素で投げやりな口調ではあるが、前を見る彼の瞳がその信頼を物語っている。それがリーシャには何よりも嬉しかった。

 

「ああ、サラの目指す未来は明るいぞ。その為の泥はお前が被ると言っていたな」

 

「俺が被るとは言っていない。別にアンタが全て被っても良い筈だ」

 

 奇声を上げる魔族を前にして軽口を叩き合う二人の表情には笑みが零れている。ルビスの塔への再挑戦という状況を前にして、彼等二人には焦るような危険な感情はないのだろう。特にカミュにとっては、精霊神ルビスの解放など通過点の一つに過ぎないのかもしれない。憎しみさえも消え掛けている青年の心には、生まれてから初めての余裕が生まれていた。

 一気に駆け出した二人が、マクロベータの目の前で二手に分かれる。左右に分かれるように動いたカミュ達にマクロベータの視線が泳ぐ。一瞬生まれたその隙を逃さずに振り抜かれた雷神の剣が、一体のマクロベータの首を斬り飛ばした。

 噴き出す体液に驚いた残る一体は、自分に迫る巨大な斧の刃先に気付き、無理やり身体を捻るが、その鋭い振りを完全に避ける事は出来ず、肩口から腹部までを大きく斬り裂かれる。持っていた儀式用の杖は真っ二つに折れ、奇妙な仮面には噴き出した体液が盛大に降り注いだ。

 しかし、その傷の痛みをマクロベータが感じる暇もなく、もう一度横薙ぎに振り抜かれた魔神の斧がマクロベータの上半身と下半身を切り離す。その頃にこの魔族の意識はなく、既にその魂を手放し、冥府へと落ちて行っていた。

 

「一撃では仕留め切れなかったか……」

 

「腕が鈍ったのか?」

 

 一撃で首を斬り落としたカミュと、それが出来なかったリーシャ。得物の違いはあれども、その力量は着実に近付いて来ている。それを表すように、カミュの軽口に対して、出会った頃を彷彿とさせるように怒りを露にするリーシャの心の中にも、その日が近づいているという思いがあるのだろう。

 そんなリーシャに対し、逆にカミュは面を食らってしまう。彼女がここまで怒りを露にするとは思えなかったのだろう。彼の中では、目の前の女性戦士と自分の力量の差はまだまだ大きいのだ。それだけ、カミュという勇者から見ても、リーシャという戦士は高く大きな壁なのである。

 アリアハンを出た頃は、血が上り易く、敵を侮る姿を見せるような典型的な宮廷騎士だと考えていた。だが、旅を続けて行く中で、その技量の高さに驚き、何度となく敗れた模擬線で唇を噛み、いつしかその戦い方を目で追うようになって行く。対人の戦闘方法を学び、盾と剣の使い方を見て憶える。その繰り返しで強くなって行く自分を感じながらも、それでもまだ遠く高い位置にいる彼女を認めずにはいられなかった。

 アリアハンを出た頃には、頭一つ抜けていた身長も、今ではほぼ同程度にまで変化している。見上げるように話をしていた物が、今では同じ目線で会話が出来るようになっていた。身体の成長、力の増加、そしてそれに伴う技量の上昇は、年齢が上であるリーシャを上回っていたのだ。

 一頻り、怒りを口にしたリーシャは、大きく息を吐き出した後で優しい笑みを浮かべる。その成長を喜ぶような笑みは、とても柔らかく、綺麗な物であった。

 

「ちっ」

 

 理由の解らない笑みを向けられたカミュは、小さな舌打ちを鳴らして地図を開く。近付いて来たメルエがリーシャの笑みを見て笑顔を浮かべると、サラはマクロベータの遺骸に向かってベギラマを放った。

 グールのような腐乱死体は、炎に包まれた場合には骨も残らない。特にベギラゴンのような灼熱呪文を受けてしまえば、朽ち果てた肉体は全て燃え尽きるのだ。故に、周辺にある遺骸はマクロベータの物だけであった。ベギラマという中級灼熱呪文を受けて僅かに残った骨を焚き火の傍に埋めたサラは、目的地を確認して歩き出したカミュを追って動き出す。真っ直ぐに南へ向かって歩き出した先には微かな明かりが見え始めていた。

 

 

 




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城塞都市メルキド

 

 

 

「これは、想像以上だな……」

 

「そうですね……一国の王城を護る城壁のようです」

 

 マクロベータとの戦闘場所にあった焚き火からそれ程歩かずに一行はメルキドと思われる町へと辿り着く。だが、その姿は一行全員が考えていた物よりも異様な光景であり、リーシャとサラは圧倒されたように言葉を無くし、その手を握っていたメルエは口を開けたままそれを見上げていた。

 町全体を覆うように廻らされた壁は高く、煉瓦で作られたそれは二重三重となって町を護っている。壁に対して小さく感じる門ではあるが、それでもカミュ達の背丈の倍近い高さを誇っていた。正直に言えば、その高さと堅固さは、このアレフガルド大陸の首都と呼べるラダトーム王都の城壁よりも上であろう。この国の最重要人物を護るかのように張り巡らされた壁は、とても一地方の町の物とは思えない物であった。

 

「ここは城塞都市メルキド……。こんな時代にここまで来るとは物好きな者達だな」

 

 門の前で身分を証明し、門を開けてもらったカミュ達は、門兵の疲れ切った表情を訝しげに見つめる。その表情は疲れているというような物ではなく、言い換えれば無気力と言っても過言ではない物であったのだ。

 人は希望を持つからこそ生きて行ける。『今日より明日、今年より来年』という未来への希望と夢があるからこそ、それに繋げる為の今日を精一杯生きる事が出来るのだ。

 だが、その希望という物は脆い。それを失い、望みが絶たれれば絶望感に苛まれ、それが深くなれば全ての気力を失う事になる。気力を失った人間は、今日を生きる力も失い、座して死を待つのみとなるだろう。そんな末期の表情をこの門兵は浮かべていたのだ。

 

「しかし、このような城塞など、大魔王の手に掛かれば一溜まりもないのだろうが……」

 

 それは、礼を言って町の中へ入ろうとしたカミュ達の耳に入って来た言葉ではっきりとする。このメルキドにも大魔王ゾーマの存在は大きく伝わっているのだろう。そして、このメルキドという町は、王都であるラダトームから最も離れた場所にあるのだ。

 土地の距離は、心の距離に比例する。ドムドーラはまだラダトームが近い分、王都の状況などの情報が入って来るのだろう。王都が無事であり、このアレフガルド大陸を治める王が健在であれば、そこで生きる者達の希望となる。

 『いつかこの闇も晴れる時が来る』

 そんな不確かな物だけでも、人が前へ進む為の活力となるのだ。それがこのメルキドにはない。ラダトームからは遠く、既に旅人さえも寄り付かなくなっている。それでは外の世界から隔離されてしまい、情報も入って来ない為、不安は募り恐慌になり、最後には諦めとなる。全てを諦めた者達は生きる活力を失い、無気力な屍となった。

 それが今のメルキドという町の実情である。

 

「国という組織がどれだけ大事なのかが解るな。国王様がいるだけで、その国で生きる者達の希望になる。どれ程の圧制を受けようと、どれ程の地獄を味わおうと、その先にある未来を夢見る事が出来るのだろう」

 

「上の世界にも、このような町はありませんでした。これ程に、全てを諦めてしまうという事は恐ろしい事なのですね」

 

 町へ入り、その中を歩き始めてみれば、自分達が感じていた事が正しい事が解る。この町全体を覆い尽くすような空気は、決して心地良い物ではない。全てを諦め、誰もが関心をなくしている。隣で誰が倒れようとも、その者が死んでいようとも、興味を失ったかのように虚ろな視線で見つめている人間の姿は、恐怖さえも感じる物であった。

 幾つかの店舗が並んで入るが、その全てが開店休業状態。いや、正確に言えば、閉店作業さえもしていないのだろう。店の棚には商品など何もなく、カウンターに居る筈の商人は誰一人いない。荒れ果てた店内は、暖簾が破れ、扉は壊れている。一見すれば廃屋にさえ思えるそ家屋では、一人の男性が寝そべっていた。

 

「……店はやっていないのか?」

 

「はあ? どうせ、俺達は皆死ぬんだ! 働いても仕方ないだろう!」

 

 その店の軒先には武器と防具の店を示す看板が付けられており、何かあるのではないかと考えたカミュが一応声を掛けたのだが、それは完全な徒労に終わる。全てを諦めた男の言葉は、カミュ達四人には全く理解出来ない物であった。

 彼等に『諦め』という言葉は似合わない。ここまでの長い旅の中で、何度かその心を手放しかけた事はあるが、それでも必死に前を向いて歩いて来た四人である。どれ程の強敵を前にしても、死に至る程の傷を受けようとも、彼等は真っ直ぐ前を向いて来た。そんな四人に、死を恐れて動かなくなる者達の気持ちなど解る筈がないのだ。

 

「大魔王を恐れ、絶望に押し潰されたこのメルキドの住人は、自ら働き生きる事を投げ出してしまいました」

 

 武器と防具の店であった場所から出たカミュ達を見た一人の老人が、中で全ての気力を失ったように倒れている店主を見て、弁解の言葉を口にする。この老人にとっては、自分よりも若い人間が絶望によって全てを投げ出している若者達に思う所があったのだろう。通常であればカミュ達のような旅人に話しかける事はないのだろうが、それだけ忸怩たる思いがあったに違いない。

 老人に一礼したカミュ達は、再び町の中を見て回るが、町全体が重い空気に包まれており、無気力に覆われている。誰もが生きる希望を失い、明日への望みを捨てているのだろう。最早、ここは死の町であった。

 

「カミュ、この町に来る必要はあったのか?」

 

「……結果的に言えば、全く必要はなかったのかもしれないな」

 

 このような状態の住人達ばかりでは、有力な情報が手に入る訳も無い。このメルキドに来たのも、僅かでも新しい情報が入ればと考えての事である。それが叶わないとなれば、このような武器や防具の店さえも開いていない場所に長居する必要はないのだ。

 今は無駄な時間を過ごす余裕はない。心の余裕はあっても、時間的な余裕はない筈である。ルビスの塔と呼ばれる場所への再戦を願う彼等は、不必要な町に長期滞在するつもりは毛頭なかった。故に、早々と町から出ようとするが、何かに気付いたメルエが『とてとて』とある建物の方へと向かって歩き出した事で、静止される事になる。

 基本的にメルエはカミュ達から大きく離れる事はない。外にいる時に、海の傍で小さな生き物を見つけた時などは好奇心に負ける事はあるだろうが、真剣に怒られた時の事を憶えているのか、ある程度の距離が離れると、何かに気付いたように顔を上げてカミュ達を確かめるように振り返るようになっていた。だが、このような町の中であればそれが適応されない。

 滅多に無い事だが、彼女の好奇心を躍らせる物があった場合、誰にも声を掛ける事なく、その場所へ行ってしまうのだ。幼子によくある迷子の特徴の一つであるが、安全な場所であれば、自分の好奇心を抑制する箍が外れてしまうのだろう。今回もいつの間にか離れていたメルエが一つの建物に向かって歩き出したのをリーシャが見つけなければ、彼女を見失っていたかもしれない。

 

「メルエ! また勝手に歩いて! 駄目だと言ったではないですか!」

 

 大きな声を上げてメルエの許に走り出したサラであったが、建物の空いている扉の中を覗き込んでいた少女が何かに驚いたような表情をして戻って来た事に首を傾げる。今のメルエの驚きようは、サラの声に反応した物ではなかった。サラの言葉を無視しているのではなく、サラの声と彼女の驚きとの時間差があったからだ。

 首だけ建物の中に入れたメルエが何を見たのか解らないが、その中にあった何かに驚いた事だけは確かであろう。自分の許へ戻って来た少女が腰にしがみ付き、何かを訴えるように見上げて来た事が全てを物語っていた。

 

「どうした、メルエ? 何かあったのか?」

 

「…………なにか………いた…………」

 

 見上げて来るメルエを見たリーシャが屈み込み、視線を合わせて問いかけるが、それに対する少女の答えは理解不能な物であった。

 『何を見たのか?』という問いかけに、『何かが居た』では答えにならない。確かに闇に包まれたアレフガルドではあるが、各建物には明かりが灯っている。無気力であっても、己の生活区域が闇である事は生物として恐怖を増徴させるのであろう。メルエが覗き込んだ大きな建物もまた、窓のような部分から明かりが漏れており、建物の中が真っ暗闇で何も見えないという訳ではない事が解っていた。

 

「魔物でしょうか?」

 

「城塞都市を謳っている町の中に魔物が入り込むのか?」

 

 この少女が何かに気付いた時は、魔物の襲来などが多かった為に、サラは魔物が入り込んでいるという可能性に辿り着いてしまう。しかし、魔物の襲来を感じる事はあっても、メルエがそれらに怯える事はない。今のメルエは、見た物に驚き、それが未知なる物であった為か、絶対の保護者であるカミュ達に助けを求めて来ていた。

 リーシャが言うように、城塞都市と呼ばれる町に魔物が入り込む可能性は限りなく低いが、アッサラームの時のように猫に化けた魔物が入り込んでいないとは言い切れない。今のアレフガルドはそれ以上に危険な大陸である事は確かであった。

 

「行ってみましょう」

 

「…………おおきい………かお………あった…………」

 

 メルエの手を引き、建て物に向かって歩き出したサラを追うようにカミュ達も歩き始める。しかし、そんなサラを見上げて口を開いたメルエの言葉に、三人は首を傾げてしまった。

 この少女が何を伝えたいのか全く解らない。しかし、その瞳を見る限り、彼女が真剣に口を開いている事だけは確かであろう。巨大な顔があったという事が確かであるとなれば、それが何に結びつくのかがカミュ達には見当も付かなかったのだ。

 一行がその建物の前へ付くと、扉は開け放たれており、中から光が漏れていた。もう一度サラの手を握りながら首だけで中を覗き込んだメルエは、先程と同じように身体を跳ねさせて首を引っ込める。少女の珍しい行動に頬を緩ませたリーシャは、その小さな身体を抱き上げ、カミュと共に建物の中へ入って行った。

 

「こ、これは……」

 

「何だ、これは?」

 

 しかし、メルエの行動を笑っていた一行もまた、扉の中へ入った瞬間に、立ち尽くしてしまう事になる。扉を入ってすぐに、メルエの言葉通りの物があったからであった。

 そこにはこのメルキドの城壁の材料である煉瓦を組み合わせて作った大きな顔が鎮座していたのである。四角い物だけでなく、曲線を持つ煉瓦なども組み合わせ、円筒のような形で組み合わされた巨大なそれには鼻や口が無くとも、それが何かの顔であると云うのは、見る者全てが認識出来る物であった。

 まるで今にもその空洞部分に光が灯り、動き出してしまうのではないかと思う程に精巧に作られたそれは、この建物に入る者を威嚇するようにそこに佇む。カミュやリーシャまでも声を失ってしまった事で、リーシャに抱き上げられていたメルエはそれから顔を背けてしまった。

 

「おや、お客様ですかな?」

 

「あっ……失礼しました。扉の外から見えてしまった物で、何かと気になってしまいお伺いしてしまいました」

 

 巨大な煉瓦の顔の後ろから現れた老人に気付いたサラは、固まってしまっているカミュ達に代わって挨拶を述べる。このメルキドに蔓延る無気力に犯されている様子のない老人は、サラの挨拶に対して笑みを浮かべながら手を振った。

 その頃になってようやく再起動したカミュ達は、老人に向かって頭を下げる。しかし、メルエだけは先程顔を背けた筈の大きな顔に視線を釘付けにし、老人へ意識を向ける事も無かった。

 

「この怪物は、ゴーレムという名前にしようと思っております。このゴーレムに町を護らせようと、怪物の研究をしておるのですよ」

 

「ゴーレムですか……」

 

 皆の視線がそこに集まっている事を感じた老人は、巨大な煉瓦の顔を一撫でし、笑みを浮かべてその名を口にする。初めて聞くその名前は、何故か心に自然と入って来る物であり、四人はその名を反芻しながらもう一度大きな顔を見上げた。

 大魔王という大きな力を感じて絶望し、全てを諦めてしまう者達が多い中、この老人はそれさえも跳ね返す力を生み出そうとしている。人間の強さを改めて感じたサラは、この怪物が完成し、メルキドの守り神となってくれるように静かに願うのだった。

 だが、カミュは少し眉を顰めながら、老人の方へと視線を送る。その雰囲気に気付いたリーシャは、彼が何を口にするのか解らず、少し不安な表情を浮かべた。

 

「このアレフガルドには大魔王の魔法力の影響が強まっています。もし、腕や足などを完成させてしまえば、その魔法力の影響で人間を襲うかもしれません。今は、このゴーレムをどのようにして動かすのかを研究されるだけの方が良いと思います」

 

「……なるほど、それは道理ですね。大魔王から町を護りたいが為に造った物が、町に住む人間を襲うなど考えただけでも恐ろしい。解りました、今はこのゴーレムに魂を入れ込む事の研究に力を入れましょう」

 

 カミュの瞳が真剣である事を理解した老人は、その忠告が決して悪意ある物でない事を知る。カミュとは違い、この老人は動く石像や大魔人の存在を知らないのかもしれない。無機物にも命が宿るという事自体が神の域に入った神秘なのだが、現実にこのアレフガルドに起こっている出来事でもある。長い時間を掛けて命という物を宿したのであろうが、それでもこのゴーレムにも同じような事が起こる可能性はあるだろう。その時、被害の対象となるのはこの町であり、町で生きる人間であるのだ。

 首だけであれば、何が出来る訳でもないだろう。だが、腕や足が出来てしまえば、それを振るう事で破壊活動は可能であり、この場所から歩き回る事も可能である。動く石像や大魔人のように、各地でその姿を現れた時、このアレフガルドは崩壊してしまう可能性も否定出来なかった。

 

「大魔王の魔法力に邪魔をされず、町を護るという使命を果たす魂を注ぎ込む事が出来たら、この町も昔のような活気が戻って来る筈。昔のように安全である事が解れば、昔のような賑やかさも戻るでしょうな」

 

 カミュの言葉から未来を見た老人は、ゴーレムの顔を撫でながら一人頬を緩める。魂を注ぎ込むという行為自体が不可思議な事であり、その方法がどのような物であるのかなどカミュ達には見当も付かない。だが、この老人の口ぶりでは、その方法の欠片程度は研究成果として出ているのだろう。無機物が己の意志を持って動くという現状は、魔法という神秘が当然として受け入れられている世界であっても実現困難な物であるにも拘わらずだ。

 魔物の中には多くの無機物が存在している。例を挙げた動く石像や大魔人もそうであるが、彷徨う鎧系統や、溶岩魔人や氷河魔人のような魔物も同系列と言っても良いだろう。それらは大魔王の魔力によって誕生した魔物ではあるが、彷徨う鎧系統のように、生前の持ち主の未練が大魔王の魔法力の影響を受けて鎧を動かすという事情もあるのだ。

 長い年月が経てば、物に魂が宿るという考えはルビス教の物ではない。どちらかと言えば、カミュの起源であるジパングに伝わる教えに近しい物であろう。だが、そんなジパングでも、故意的に魂を注ぎ込む事が出来る訳ではない。

 

「大魔王でもないのに、あのような煉瓦を組み合わせた物を動かす事など出来るのか?」

 

 老人に礼を述べて表へと出た一行であったが、メルエを抱き上げたままのリーシャが発した疑問に、サラとメルエも首を傾げる事となる。

 勇者一行の呪文使いである二人は、この広い世界の中でも最上位に位置する者達である。その二人が無機物に命を与える方法を知らないとなれば、人間には不可能な技術であると言っても過言ではないだろう。ならば、あの老人がどのようにしてゴーレムという巨大な化け物を動かそうとしているのかが尚更解らなくなったリーシャは、視線をカミュへと動かした。

 『解らない事はカミュに』という行動を、この五年という長い期間で一貫して行うこの女性戦士を見て、カミュは小さく溜息を吐き出した。

 

「このアレフガルドは、上の世界よりも神や精霊に近しい。既に失われた技術があっても可笑しくはないだろう。もしかすると、あの老人の魂自体を注ぎ込むつもりなのかもしれない」

 

「あの方の命を入れ込むつもりなのですか?」

 

 最初はカミュの言葉に頷きを返していたサラであったが、最後に告げられた言葉に驚きの声を上げてしまう。精霊神ルビスという大いなる存在が下向してくる世界なのだから、神代の技術や物がこのアレフガルドにあっても可笑しくはないだろう。現に、他者の魔法力を回復する事が出来る者がラダトーム城に存在していた事を考えれば、上の世界で既に失われてしまった神秘が受け継がれている可能性は大いにあるのだ。

 だが、それが人の命を賭けての物となれば、賢者であるサラにとっては避けたい物でもある。ここまでの旅の中で、彼女は多くの人間と接して来た。その中には、己の命さえも厭わずに未来を託して来た者が何人も存在している。サラはその者達と別れる時に、やり切れない悔しさを何度も味わっていたのだ。

 ナジミの塔の老人、レーベの村の老人、エルフのアンやメルエの義母であるアンジェ。出会った事は無くとも、オルテガやサイモンのような英雄もまた、己の命を未来へと賭けた存在であろう。そのような者達が出て来ない世界を造りたいというのがサラの悲願である以上、やはりカミュの言葉は聞き捨てならない物であったのだ。

 

「あの老人の願いは、この町の守護。それならば、その願いごとゴーレムに閉じ込めようと考えても可笑しくはない筈だ。まぁ、方法が解らない以上、只の推測だ」

 

「あり得ない話ではないな。哀しい事ではあるが、もしそれが事実であっても、私達に止める事は出来ないだろう。サラ、もしそれを止めたいのであれば、ゴーレムに守護させる必要がない世界にする必要がある。大魔王を倒し、サラの目指す世界の実現が、多くの幸せに繋がる道筋の筈だ」

 

「……はい」

 

 カミュの言葉通り、それは推測の話でしかない。ゴーレムに命を吹き込む方法が解らない彼らが勝手に考えた結果であり、それが事実ではない。だが、リーシャもそんなカミュの考えが的を外した物ではないと考えていた。

 老い先短くなった者の願いは、己が紡いで来た命の連鎖の幸せ。自分の子や孫の未来が輝ける物である事を願い、その為に己の短い命を捧げようと考えても可笑しくはないのだ。リーシャもまた、幼い頃からそのような者達を多く見て来ている。そして、彼女もまた、それが悪い事ではない事を知っていながらも、許せない事であると考えていた。

 自己犠牲という物をリーシャは一番嫌う。その理由が良くも悪くもリーシャにとっては、残された者の心を考慮に入れていない行為であるのだ。だが、同時にそれを抑止する事は他者には出来ない事も彼女は知っている。誰が何を言おうとその者の命はその者の物であり、それをどのように使おうと他者が何かをいう資格は有しないのだ。

 ならば、その者がそれを行わない状況を作り上げれば良い。この場合であれば、この町がゴーレムの手を借りなくても安全であるという状況であろう。そしてそれが可能なのは、サラという賢者であるというのがリーシャの結論であった。

 

「この町を見る限り、その望みは薄いのかもしれないがな」

 

 リーシャもサラも、そんなカミュの言葉に対して反論する事が出来なかった。今のメルキドの状況はそれ程に悪い。誰もが気力を失い、この町を変えて行こうなどという想いさえも捨て去っている。そのような町が大魔王という脅威がなくなったからといって、劇的に変わるだろうか。

 現実的に見れば否である。人間の心は弱い。一度捨て去ってしまった希望を取り戻したからといって、一度堕落してしまった心を奮わせる事は難しいのだ。大魔王ゾーマという脅威がなくなり、このアレフガルドに陽の光が戻った時、この大陸は波がうねるように移り変わって行くだろう。その流れに、メルキドは飲み込まれてしまうかもしれない。そう感じる程に、今のメルキドは酷い有様であった。

 

「あれ? その袋は……」

 

 気持ちが沈み、会話が少なくなった一行の横から不意に掛けられる。その声は若い男性の物でありながらも女性のように透き通った色を持っていた。

 声を掛けられたサラが顔を上げて横を向くと、そこには長く伸びた金髪の髪を後ろで結んだ青年が立っており、線の細い女性のような身体と顔をサラの腰元へ向けていたのだ。メルキドの住人達のように覇気や生気を失っている訳ではなく、その瞳にはしっかりとした意志が宿っている。それが、この青年がメルキドの住人ではない事を物語っていた。

 

「突然で失礼ですが、それは銀の竪琴ではありませんか?」

 

「えっ、あ、はい、そうですが……」

 

 顔を上げた青年は、サラが腰に括っていた袋を指差して、その名を告げる。ラダトームの北西にある家で受け取った銀の竪琴は、自分が持つと主張するメルエを抑えてサラが持つ事になっていたのだ。

 竪琴と共に貰った専用の袋に入れ、戦闘などの邪魔にならないように腰に括りつけていたのだが、その羽のような軽さから、存在自体を忘れていたサラは、突然の指摘に戸惑いを見せる。これが銀の竪琴であると解る人間など限られており、袋に入った状態でそれを指摘出来る者など、この竪琴の持ち主だけであろう。

 

「貴方がガライさんですか?」

 

「ええ、私がガライですが、何故その竪琴を貴女達が?」

 

 訝しげに自分を見つめる金髪の青年に、サラはここまでの経緯を話し始める。母親や父親がその身を案じている事、青年の無事を確認する為にも竪琴を託された事などを話し、腰に括っていた竪琴を袋ごと手渡した。

 母親の状況を聞いたガライという青年は、困ったような笑みを浮かべ、袋から取り出した竪琴を撫でる。その竪琴を鳴らした時の現象を知るリーシャは、突如それを弾き始めるのではないかと慌てて止めようとするが、青年は笑みを浮かべて頷きを返した。

 

「貴女達は、この竪琴を鳴らしたのですね」

 

「も、申し訳ありません」

 

 リーシャの慌てぶりで、この竪琴の効果を知っているとガライは理解する。サラは慌てて頭を下げるが、ガライは再度笑みを浮かべて、その謝罪を遮った。

 詩人などのように楽器を使う者達にとって、それは相棒であり友である。他者が使うなどという事を快く想う訳は無く、むしろ叱責されても文句は言えないだろう。だが、この青年は愛おしそうに竪琴を撫でながらも弦に触れようとはせず、その弦に触れたカミュ達に怒りを向ける事もなかった。

 竪琴に向かって手を伸ばそうとするメルエを窘めたリーシャは、再度ガライに対して頭を下げる。手を振ってそれを遮った彼は、袋の中へ竪琴を納めた。

 

「少し前までは、この竪琴を奏でると皆が集まってくれたのです。それこそ、魔物達であっても、静かに曲を聴いてくれましたし、私の家は人里から離れていた為、集まって来た魔物達に曲を聴いて貰っていました」

 

「魔物も曲を聴くのですか?」

 

 袋に納めた竪琴を撫でながら、ガライは遠い昔の事のように経験を語る。それはサラのような人間にとっては夢物語のような話でありながらも、希望を持てる美しい話でもあった。

 人間が奏でる曲を魔物が聴くという姿を想像する事は難しい。だが、エルフであっても吟遊詩人のような職は存在するだろうし、もしかすると魔族の中でも楽器を奏でる者は存在するかもしれない。それでも、凶暴な魔物達が人間に襲い掛かる事なく、大人しく曲を聴くという姿は今までの常識から考えられないのだ。

 それでも目の前の青年の語りに嘘は見られない。この青年にその力があるのか、それともあの銀の竪琴に特殊な力があるのかは解らない。おそらく後者である事は、彼のような人物がこのメルキドと呼ばれる町まで来れた事で想像は付く筈である。

 

「それが、大魔王の話が出始めて、このアレフガルドが闇に包まれるようになってから、この竪琴は魔物達を呼ぶだけの物になってしまいました。竪琴の奏でた音で集まって来た魔物達は、何かに耐えるように曲を聞いてくれるのですが、その内に突如として凶暴になってしまうのです」

 

「ゾーマの影響だな」

 

「ああ」

 

 この不思議な青年であるガライという人間は、類稀なる才能を秘めているのだろう。だが、そんな彼の才能も、大魔王ゾーマの前では無力であったのだ。彼が奏でた竪琴の音は魔物達の胸にも響き、その曲を聴こうと集まって来た魔物達は皆が大魔王の魔法力の影響を受けている。魔物にさえも安らぎを与える曲を奏でるガライによって、凶暴化する心と安らごうとする心が戦い、最後には大魔王の魔法力が勝ってしまうのだ。

 銀の竪琴の音色が魔物にも響く物であるという特殊な点もあるだろうが、やはりそれを奏でるガライの力量と才能も特殊なのだろう。だからこそ、彼は一人でも旅を続ける事が可能であり、ここまで命を失う事はなかったのだ。それがサラが感じたガライという人物であった。

 

「ですので、私は銀の竪琴を封じました。これを奏でた人間が魔物に襲われてしまう可能性があり、そのような危険が続けば、きっと人間は魔物を許せなくなるでしょう。もし、アレフガルドに朝が来て、魔物達も昔のように穏やかな姿に戻った時、また私の曲を聴きに集まってくれる日を夢見て、私は笛を吹くのです」

 

 銀の竪琴の入った袋を持ちながら、ガライは懐から細い笛を取り出す。綺麗な装飾が施された笛は、カミュが森の精霊から託された妖精の笛には及ばないまでも、とても美しい物であった。神代のものとまでは行かなくとも、それなりの物なのだろう。大事そうに懐に納めたガライは、銀の竪琴をサラに返そうとする。

 だが、サラはそれを受け取る事はせず、このメルキドに入った時とは比べ物にならない程に輝いた瞳をガライへと向けた。

 

「私達はこれから一度ラダトームへ戻ります。一緒に戻りませんか? アレフガルドに朝は必ず訪れます。それまでの間、ご両親の許でお過ごしになり、安心させてあげて下さい」

 

「そうだな。両親共に健在であるというのは、とても幸せな事だ。親に心配を掛ける事も子供の特権であり、役目なのかもしれないが、余り心配を掛け過ぎるのは論外だからな」

 

 見上げたサラの言葉にリーシャが同意を示す。このアレフガルドに於いて、朝が来るなどと断言する事は誰にも出来はしない。それをするとすれば、状況や現状を理解していない阿呆か、大魔王の恐ろしさを理解出来ない幼子ぐらいな物である。それでも、目の前で自分を諭す女性の言葉は、力強い説得力がある事にガライは驚いた。

 カミュ達がどのような存在なのかはガライには解らない。だが、魔物を呼び寄せる竪琴を鳴らして尚、この場所にいると云う事は、それを退けるだけの力量を有しているという事を物語っていた。青年が一人で、他は全て女性。その内の一人は幼子である。そんな歪な一行でありながらも、何故かガライはそれを全て受け入れる事に抵抗感はなかった。

 

「そうですね。母さんや父さんにも暫く会っていません。竪琴をまた奏でる事の出来る日までは、親孝行でもする事にします」

 

「はい!」

 

 自分の提案を受け入れてくれた事を喜ぶ女性を見て、ガライは胸が熱くなる想いを持つ。その感情が何なのかは解らないまでも、魔物さえも曲を聴くという現実味のない話を真剣に聞いてくれたこの女性を、ガライは好意的な笑みで見つめていた。

 最早、この町でやる事のない一行は、そのまま町を出て、メルエを抱き上げたリーシャを中心に集まって行く。何をするつもりなのかが解らないガライは、どうして良いのか判断出来ず、それを見たサラに手を引かれるように移動した。

 全員が集った事を確認したメルエが己の魔法力を放出し始める。五人を包み込むように展開された魔法力が、全員を護る壁となって輝いていた。

 

「…………ルーラ…………」

 

 少女の呟きと共に魔法力で包まれた五人の身体は浮かび上がる。予想もしていなかった出来事に慌てふためくガライを抑えながら、サラは笑みを浮かべる。

 ガライがそんな笑顔に見とれている内に、一行を包み込んだ光は、北西の方角へ向かって一気に飛んで行った。

 

 

 

 魔物と人間は、相容れる事は出来ない。それは、喰う者と喰われる者という違いがあるからである。多くの生物が居れば、そこに弱者と強者が生まれ、連鎖が成り立つ。それは自然界の掟であり、世界の理でもあった。

 だが、相容れない物達は寄り添えないのかとなれば、答えは否である。互いの存在意義を認め、互いの領分を認める事が出来れば、寄り添い生きる事は可能であろう。

 その道は単純な物ではなく、平坦な物でもない。それでも、その道へ続く光は差し込んだ。小さく細い輝きであっても、見る者が見れば、眩いばかりの輝きとなる。その輝きが今、闇に包まれたアレフガルドに差し込もうとしていた。

 

 

 




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~幕間~【ラダトーム周辺】

 

 

 ルーラによってラダトーム王都周辺に降り立った一行は、共に連れて来たガライと別れる事になる。しかし、夢現のようにサラの手を握ったまま周囲の景色を眺めていたガライは、自分が降り立った場所が本当にラダトーム王都の周辺である事に気付き、弾かれるように顔をサラへと向けた。

 何時まで経っても手を離してくれないガライに困り顔を向けたサラは、その瞳に宿る光を見て驚きの表情を浮かべる。そんな横でメルエを抱き上げていたリーシャは『くすくす』と苦笑を浮かべ、サラを困らせている青年にメルエは鋭い視線を向けていた。

 

「こ、これは何という魔法なのですか!? 私にも使えますか!? この魔法さえあれば、私が旅をしている最中に救える命も数多くある筈です!」

 

「ふぇ!? あ、はい……」

 

 繋いでいた手を両手で握り締められたサラは素っ頓狂な声を上げる。メルキド周辺でガライを呼ぶ為に繋いだ時には全く意識していなかったが、異性に手を握られた事など、生まれて二十年以上の中で初めての経験であったのだ。

 勇者であるカミュには何度も触れられた事はあるが、サラ自身がカミュを異性として認識していない。いや、異性として知ってはいても、カミュという存在が男性という側面よりも、勇者としての側面が大きいのだろう。

 ガライに手を握られて真っ赤に染まるサラの顔を見たメルエは、彼女が怒っているのではないかと感じ、ガライに向ける視線を更に厳しい物へと変える。だが、そんなサラがメルエに向かって魔道書を要求した事によって、渋々ながらポシェットに入っている書を手渡した。

 

「アレは、ルーラと呼ばれる呪文です。自分の頭の中に目的地を想い描き、その場所へ魔法力を使って移動する物ですが、魔法力の素養がなければ行使は出来ません」

 

「魔法力の素養ですか……」

 

 握られていた手を柔らかく解いたサラは、手渡された魔道書のページを捲り、今では魔道書の前方のページに記された魔法陣を地面に描き始める。先日の雨はラダトーム地方でも降ったのであろう。多少緩くなった地面の土に綺麗な魔法陣が描かれた。

 ルーラという呪文は、並大抵の人間では修得が出来ない。このアレフガルド地方の人間よりも総合的に魔法力を多く有する上の世界の人間であっても、一握りの魔法使いしか修得は出来ず、修得した魔法使いは、国家に召抱えられるという栄誉を受ける資格を有する程であった。

 しかし、ラダトーム王都でシャナクを修得する資格を得た少年のように、生涯その呪文のみと定めた場合は、その限りではないのかもしれない。

 呪文とは契約である。その契約が単願の物であれば、その力もまた、契約者の意を汲んでくれる可能性もあるのだろう。描かれて行く魔法陣を見たメルエは、リーシャに目配せをして地面へ降ろして貰い、その魔法陣の完成を間近で見つめていた。

 

「出来ました……メ、メルエ! この呪文の契約は既に済んでいるでしょう!?」

 

 魔法陣が完成した事で腰を上げたサラは、それと同時に魔法陣の中へ入ろうとするメルエを見て驚きを声を上げる。だが、小首を傾げて見上げるメルエを不思議に思ったサラが再度魔法陣を見直すと、何箇所か魔法陣を模る文字が異なっている事が解った。

 メルエという少女は、魔法使いとして超一流であるばかりか、賢者としての才能も有している逸材である。数多くの呪文の契約を済ませているばかりか、魔王しか行使出来ない呪文で浮かび上がった魔法陣をその場で記憶して形成する程の才能と力量さえも有していた。

 そんな彼女だからこそ、少し異なる文字が入った魔法陣を見て、『新しい呪文かもしれない』と考え、我先にと踏み込もうとしたのだ。ルーラの魔法陣だと口にしたにも拘らず、そこへ入ろうとするメルエを叱ったサラではあったが、不思議そうに見つめる瞳と己の間違いに恥ずかしくなってしまい、顔を赤くして謝罪の言葉を口にした。

 

「こほん……。それでは、この魔法陣の中へ入ってください。必ずしも契約が完了する訳ではないですが、ガライさんはそれなりの魔法力を有しているようですので、ルーラ単体だけであれば契約は可能だと思います」

 

「私でもあの魔法が使えるようになるのですね」

 

 気を取り直して咳払いをするサラを見つめる目は、ガライ以外は少し冷ややかな物である。特に先程叱られたメルエに至っては、彼女が放つ氷結呪文のように凍てついた視線を送っていた。そんな少女の頭に手を乗せたリーシャは、苦笑を浮かべながらもサラとガライのやり取りを眺める。ラダトーム王都で解呪の呪文であるシャナクの契約を行った少年と同じように、このようにして次代を担う者達へと力が受け継がれて行くのだろうという感慨を持って、魔法陣の中へ入って行く青年を見つめていた。

 ガライが中へ入ると、ラダトームの少年の時とは異なり、魔法陣を形成する全ての文字が輝きを放ち出し、魔法陣を形成する文字の一つ一つから放たれた光が交じり合い、ガライを包み込むような風となる。それはガライ本人の魔法力と、魔法陣から生まれた魔法力が結びついた証拠でも合った。

 

「ほう……」

 

 感心するようにガライを見つめるカミュが、声を発した事で、魔法力を感じる事の出来ないリーシャもガライの契約が無事に終了した事を理解する。放心したように自身の身体を確認するガライの姿と、先程まで冷めた視線を送っていたメルエの瞳も緩んでいる事にサラは微笑みを浮かべ、契約が終了した魔法陣を消去して行った。消して行く最中に、サラはカミュへと視線を送り、彼が一つ頷いた事を見て、笑みを濃くする。そのままメルエの前で屈み込んだサラは、少女に何事かを告げ、少女も頷きを返した事で再び微笑みを浮かべて立ち上がった。

 魔法陣の中から出され、自分の身体の中を渦巻く不思議な感覚に戸惑っていたガライではあったが、そのまま自分に手渡された一つの書物に驚いて顔を上げる。そこには美しい笑みを浮かべた女神のような女性の顔があった。

 

「その魔道書は、ガライさんにお預けします。ガライさんにはもう少し呪文を契約出来る可能性もありますので、その書物に記されている魔法陣を試してみて下さい」

 

「え? これを私に?」

 

 予想外の出来事に、立ち直りかけたガライの思考は再び迷走し始める。最早、彼の中ではこの世の物とは思えない美しさを持つ女性と対峙している事になっているのだろう。手渡された書物は神々しく輝き、まるで女神から下賜されたかのように畏れ多く感じて、彼は無意識のまま跪いてしまった。

 思わず跪いてしまったガライの姿に慌てたのはサラである。『くすくす』と笑うリーシャとメルエに鋭い視線を送りながらも、慌ててガライの手を取って立ち上がらせようとするが、腰が抜けたように立ち上がらない彼に深い溜息を吐き出した。

 

「ですが、忘れないで下さい。魔法は力です。時には人を助けますが、それは他者を害する事でもあります。そんな恐ろしい力である事を心に留めておいて下さい。魔物と共に音楽を楽しむ事の出来るガライさんならば大丈夫だとは思いますが、この力を悪用しない事を誓ってください」

 

「は、はい。神と精霊と、そして貴女に誓って、そのような事は致しません」

 

 跪いたまま深々と頭を下げるガライの姿は、王に対する臣下のようでもあり、神に平伏す人のようでもある。既に二人のやり取りに興味を失ったカミュは、そのままマイラに向かう為の準備を始めており、新たな呪文でない事で魔法陣に興味を失くしているメルエもまた、そんなカミュの許へと移動していた。

 賢者としての役割を全うしようとするサラの横には、微笑みを浮かべるリーシャだけが残っており、暫く二人のやり取りを眺めていたが、その微笑みを消したかと思えば、厳しい瞳をガライへと向けて口を開く。彼女が纏っている空気は、歴戦の勇士が持つ強烈な物であり、如何にルーラの契約が可能な程の才能を持つガライといえども、身動き一つ、呼吸一つ出来ない程の物であった。

 

「その力を悪用しようとすれば、サラに代わって私がお前の首を貰いに赴く」

 

「リ、リーシャさん」

 

 厳しい瞳を向けるリーシャの前で、サラでさえも身動きが出来ないのだ。一般人であるガライが言葉を発する事など出来はしない。それに気付いたサラは、自分の中に残る物を振り絞ってリーシャを諌める為に口を開いた。

 蚊の鳴くようなか細い声ではあったが、その必死の訴えによってリーシャは己が放つ空気を自覚する。今まで他者を圧迫する程の空気を醸し出していた女性戦士が、苦笑を浮かべた事によって空気は和らぎ、ようやくガライは胸の中の空気を外へと吐き出した。

 ほっと息を吐き出したサラは、荒い呼吸を繰り返すガライの身体を気遣うように屈み込む。しかし、ガライとしても、リーシャという女性の力量と本気度を身に刻みつけた筈であり、どのような事があろうと、サラが手渡した魔道書を悪用する事はないだろうと確信したサラは、心の中でリーシャに感謝した。

 サラの行動は、良くも悪くも他人を信じ過ぎている傾向にある。それがサラの美点でもあるのだが、彼女は幸か不幸かその心を裏切るような者に出会った事がない。トルドなどもそうであるし、女海賊のメアリなどは特徴的な例であろう。それは、彼女の心を裏切るであろう者に対して甘さを見せる時、必ずカミュやリーシャがその間に入っていたという証拠であった。

 

「……この力は、必ず誰かを護る為に使う事を誓います。もし、その誓いを破る時には、この首を差し上げます」

 

「その言葉、確かに受け取った」

 

 未だに震える手を地面に付け、ガライはリーシャに向かって宣言する。今も自分を気遣うように傍にいる賢者サラの意を汲んで、この先の時代を生きるという事を。そして、その言葉を聞いたリーシャは、先程とは全く異なる笑みを浮かべて大きく頷きを返した。

 ゆっくりと立ち上がったガライは、もう一度リーシャとサラに一礼をして、少し離れた所にいるカミュ達にも頭を下げる。それを見たカミュは、真っ直ぐ北へと進路を取って歩き出した。

 ガライの実家に行くには、ラダトーム平原を北へ進み、マイラへ向かう分かれ道を西へ進む必要がある。故に、その分かれ道までは共に歩むつもりであったのだ。

 

「ありがとうございました。今頂いた呪文を試して見ます。これがあれば、旅の途中などで魔物に襲われている者達なども救う事が出来るでしょう。いつかまた、貴女にお会い出来る日まで、私に出来る事を精一杯試してみます」

 

「はい。では、お気をつけて」

 

 しかし、そんな一行の考えをガライは丁重に断る。カミュ達にとっては頭に描くには印象が弱いガライの実家ではあるが、当のガライにとっては、生まれてから長い時間生きて来た家であり、その場所を明確に描く事など容易い事なのだろう。

 契約したばかりのルーラが起動するかどうかは解らない。通常の順序を幾つも飛ばして手に入れた力である。本来、メラやホイミのような下級の呪文の契約を済ませ、己の中にある魔法力に色を馴染ませてからというのが上の世界での常識であり、それ以外の方法で力を手に入れる事は不可能なのだ。

 だが、このアレフガルドで生きる人間達は、何処か上の世界の人間達と異なる部分があった。創造神が生んだ上の世界の人間と、精霊神ルビスが生んだアレフガルドの人間の違いなのかもしれないが、その違いがこの先のアレフガルドに大きな影響を及ぼす可能性は高かった。

 

「ルーラ」

 

 サラに教えて貰ったように、自分の体内にある魔法力を感じながら詠唱の言葉を口にしたガライを、彼自身の魔法力が包み込む。未だに不安定な状態で上空に上がった魔法力の塊は、そのまま北西の方角へと飛んで行った。

 最後にサラを見つめたガライの瞳は、眩しい高嶺の花を望むような物であり、恋焦がれるような物であった事にはサラもリーシャも気付いていなかった。

 

「さぁ、行こう」

 

「はい」

 

 その後、実家に戻ったガライは、後に高位の呪文使いとして名を馳せる。吟遊詩人として旅をする傍らで、危機に窮した者達を己の呪文で救い、実家付近である安全な場所へと連れて行った。そんなガライの人柄に惹かれた者達がガライの実家があった付近に集落を作る事になるのだが、それは遥か先の別の話である。

 

 

 

 

 ルーラによって一度マイラの村へと戻った一行は、その足で再びルビスの塔を目指して歩き出す。マイラの森を抜け、平原に出ると空を覆う闇がこれまでよりも深くなっているようにも見える。また雨が降る前触れなのかと顔を上げるが、そこには雨雲のような者は一切無く、むしろ微かな星の輝きが見えるのではないかと思う程の綺麗な夜空が広がっていたのだった。

 シャンパーニの塔を昇る頃から始まった雨という恒例は、このルビスの塔の二回目の来訪によって終わりを告げようとしている。このアレフガルド大陸に塔と呼ばれる場所が他にない以上、これが最後の塔探索となるだろう。太陽さえ見えれば、雲ひとつ無い快晴であった事が予想される程の空が何を示しているのか、何を勇者一行に語っているのかをサラは空を見上げながら考えていた。

 

「カミュ、マイラの村には寄らないのか? 既に二ヶ月近く経過しているのだから、あのオリハルコンの剣も出来上がっているのではないか?」

 

「そうかもしれないな……」

 

 メルエの手を引きながら空を見上げるサラを余所に、リーシャは先頭で地図を見ながら歩くカミュへと問い掛ける。確かに、ドムドーラで発見したオリハルコンをマイラの村に居る鍛冶師に届けてから二ヶ月の時間が経過しようとしていた。それだけの時間があれば、通常の剣などは疾うの昔に出来上がっているだろう。如何に神代の剣を打っているとはいえども、何らかの形が出来上がっていても可笑しくはない。だが、地図から顔を上げたカミュの返答は、そんな剣を受け取りに行く気がない事を物語っていた。

 今、カミュの手にある雷神の剣も神代から伝わる名剣である。雷の神が愛した剣として伝えられ、大きな力を有している剣なのだ。だが、それでも古の勇者が手にしていた『勇者の剣』となれば、それ以上の存在であるだろう。この地上に現存しない金属オリハルコンに選ばれたカミュという青年が持てば、その能力は計り知れない。その剣があれば、この先の旅も大きく変わって行く事は、リーシャだけでなく、カミュも既に理解している筈であった。

 

「……もし、その剣が出来上がっていたとしても、俺にはまだそれを手にする資格が無い」

 

「資格? ああ……そうだな、少なくともあの竜種を退けられる力を示さなければ、古の勇者の剣に振り回されかねないな」

 

 振り向いたカミュの瞳を見たリーシャは、彼の胸の中にある想いを正確に理解する。

 彼の中で、あの塔での出来事は終わっていないのだ。メルエという彼が大事に想う少女の力によって辛うじて生き長らえたという事実は、とても重い物なのだろう。武器という装備品を強くし、その強敵を倒したところで、彼にとっては乗り越えたと言えないのだ。

 あの時と同じ装備で、あの時以上の想いを持って、あの時感じた恐怖と絶望感を振り払ってこそ、彼は最上階で封印されているであろう精霊神と会う覚悟が出来ると考えているのだろう。

 この五年という長い旅路で大きく変わった彼の心の中で、唯一変わらぬ想いは、父オルテガと精霊ルビスへの憎しみに近い想いだけである。その想いを持ち続けたままここまで旅を続け、遂にその憎悪の相手と対面する可能性を見た時、彼の中には多少なりとも迷いがあったのかもしれない。迷いがあったからこそ、前回の敗走があり、それに繋がるサラとメルエの葛藤があった。この若い勇者は、そう考えているに違いがないとリーシャは考えたのだ。

 

「馬鹿者、全てを一人で抱え込むな。確かにお前は弱かったが、私も弱かった。だが、今回は違う。父と、この斧に誓おう」

 

「……父の次に来るのが、その斧なのか?」

 

 胸を張ってそう答えるリーシャを見たカミュは、小さな笑みを浮かべる。リーシャであれば、自身の誇りに賭けてや騎士としての誇りに賭けてなどという言葉を口にすると思っていたのだが、それが手にする一振りの斧に誓うと言われた事で、張り詰めていた彼の気が良い意味で緩んでしまったのだ。

 『もう、この斧が私の誇りでもあるからな』と照れ臭そうに笑うリーシャの笑顔が、とても眩しく映り、カミュはもう一度小さな笑みを浮かべる。そんな二人の笑顔に嬉しくなったメルエがリーシャの腰にしがみ付いて花咲くような笑みを溢した。

 

「メルエが危険な呪文を唱える必要がないように、カミュと二人で踏ん張るからな」

 

「…………ん…………」

 

 しがみ付いて来たメルエの帽子を取って頭に手を乗せたリーシャの言葉に、少女が大きな頷きを返す。これだけの決意を受けたとしても、この少女は他の三人が危機に陥れば躊躇い無く大呪文を行使するだろう。だが、それでもドラゴラムだけは二度と詠唱しないかもしれない。この笑みを一度失わせた呪文は、彼女の中で封印されてしまう可能性は極めて高かった。

 後の世で、メルエが子を成すかどうかは解らない。だが、彼女は自分の子供にドラゴラムという呪文を教える事はないだろう。自分自身が味わった絶望と苦しみを、彼女が大事に想う者に残すとは考えられなかった。それだけの心の傷を残した呪文であり、それだけ強大な力でもあるのだ。

 

「それともう一つあるが、どうやってあの塔へ行くつもりだ? あの時、ルーラでマイラまで戻って来ているから、舟はこちら側にはないぞ?」

 

 メルエの頭を優しく撫でていたリーシャが、思い出したようにカミュへと視線を送る。確かに彼女の言葉通り舟はルビスの塔のある小島に繋がれており、マイラの村がある大陸にはない。つまり、海を渡る手段がないのだ。

 それでも何も言わずに真っ直ぐ北へカミュが向かっている以上、何らかの方法があるのだろうと感じてはいたが、リーシャにはそれが全く理解出来ない。故に、会話する機会に恵まれた事で、尋ねてみたのだ。

 サラやメルエが居る為、あの距離を泳いで渡ろうとなど言い出す事はないと思ってはいるが、それでもやはり不安に思ってしまったのだろう。カミュやリーシャが身に纏っている防具は決して軽い物ではない。それを装備したままで海を泳ぐ事はまず不可能であり、それを脱いで渡ったとしても、あの塔での戦闘に耐えられる訳が無いのだ。

 

「それは心配ありませんよ。おそらくですが、カミュ様がルーラを唱えればルビス様の方からお呼び頂ける筈です。私やメルエでは駄目かもしれませんが、ルビス様の涙が晴れた今ならば、必ずあの塔へ辿り着けると思います」

 

「…………むぅ…………」

 

 しかし、そんなリーシャの不安に明確な答えをくれたのは、彼女を不機嫌そうに見つめるカミュではなく、後方で空を見上げていたサラであった。

 サラの返した答えの中に、自分が駄目だという文言があった事に頬を膨らませているメルエであったが、リーシャが視線を戻した先にいるカミュの表情は更に酷い。彼自身、サラに言われるまでもなくその事を理解していたのであろう。敢えて触れようとしなかった事を明確に告げられた事に明らかな不満を示していた。

 精霊神ルビスに仕えていたと云う妖精からの直々の願いを受けた勇者である。その勇者を拒む理由が最早ルビスには存在しないだろう。バラモス城で聞いたあの声が精霊ルビスの物であれば、カミュ達がアレフガルドへ来る事を拒んでいた筈である。サラの言葉通り、最初の塔の探索時に降っていた雨がルビスの涙だとすれば、アレフガルドへカミュ達が来てしまった事への贖罪の涙なのか、それともこの先でカミュ達の身に降りかかる苦難を想ってなのかは解らないまでも、その涙が晴れる程の実力をカミュ達が有し始めている事だけは確かであった。

 

「そうか、確かに晴れているな。ルーラで塔へ向かう事が出来るのであれば、探索時も晴れ続けている事だろう」

 

「はい。ルビス様にお認め頂けたのだと思います」

 

 満面の笑みを浮かべたサラの言葉に鼻を鳴らしたカミュは、そのまま北へと歩みを進め始める。世界を救うと云われる青年の不貞腐れた姿に苦笑を浮かべたリーシャは、同じように困った笑みを浮かべているサラの背中を叩き、未だに頬を膨らませる少女の頭に帽子を被せた。

 封印されている精霊神が、自身を解放する力を有する者達としてカミュ達一行を認めたのならば、その者達を自らの場所へ誘う事は簡単であろう。魔王バラモスの死によって綻びを見せた封印は、大魔王ゾーマの復活によって強固な物に変わりつつある。大魔王ゾーマの力が完全に戻った時、精霊神ルビスの姿は永遠に失われてしまう筈であった。

 だが、未だその時ではない。精霊神ルビスと竜の女王との戦いは、如何に大魔王といえども無傷では済まなかったのだろう。その傷を癒し、力を取り戻す為の時間を得る為に、バラモスがルビスを封じていたのだとすれば、今はまだ大魔王が完全に復活していない可能性は高かった。

 大魔王ゾーマの力が完全に戻るのがいつなのかは解らない。今日なのか、明日なのか、それとも数年後なのかさえも解らない中、精霊神ルビスの解放が可能な時間は残り少ないのだ。

 

「ルビス様に呼ばれるなど、何処か感慨深いな」

 

「……今までその力の片鱗さえも見た事はないがな」

 

「カミュ様!」

 

 真っ暗な闇のような海を前にして、その先にあるルビスの塔の方角へ顔を向けたリーシャは、ここまでの長い旅を思い出して口を開く。彼女が生きて来た世界では精霊ルビスという存在は唯一無二の存在でもあった。全ての人間が崇め、その姿を見るどころか、その存在を有無を口にする事さえも畏れ多い程の存在。誰一人としてその声を聞いた事の無い神のような存在から招かれるという事自体、僧侶ではないリーシャにとってすれば想像を絶する物であった。

 だが、先程まで不機嫌そうな表情を浮かべていた青年は、そんな感慨を嘲笑うかのような発言を口にする。そして、それに対して過敏に反応した賢者の叱責が飛ぶ中、この状況まで来て虚勢を張ろうとするカミュの姿にリーシャは再び笑みを溢していた。

 

「それは嘘だな。お前は何度もルビス様のお力を見ている筈だ。ニーナ様の想いと願いを宿した命の石、イシス女王様の願いとメルエの想いに応えてくれた祈りの指輪、そしてサラをあの時救ってくれた大きな魔法力、何よりもお前自身がバラモス城でそのお力を身を持って体感した筈だ」

 

「ちっ」

 

 リーシャの悟ったような顔と口ぶりに、若い勇者は舌打ちしか出来ない。リーシャが全て正しい訳ではない。それでも、全て誤りでもないのだ。カミュの心情を抜いてしまえば、彼女の言っている事は事実であり、それを五年という月日の中で何度と無く味わって来ている。それでも認めようとしない自分を、仕方のない子供を見るように見つめるリーシャに、彼は苛立ちを覚える事しか出来なかった。

 しかも、カミュ自身が何を想い、何を考え、何を犠牲にしてこの場所に立っているのかを誰よりも理解している事が解るからこそ、苛立ちも大きいのだろう。顔を背けるカミュに向かって未だに笑みを浮かべている姿からも、彼女が誰よりもこの青年の心を慮っている事が解った。

 

「カミュ様、行きましょう」

 

「そうだな、悠長に話をしている場合ではなかったな。行こうか、私達が置いて来てしまった借りを返してもらいにな」

 

 自然とカミュを中心に集まり始め、目の前に来たサラが真剣な瞳で彼を射抜く。最初にルビスの塔へ挑んだ時の不安定な賢者は既にいない。誰もが認める勇者の前に立ったのは、誰しもが認める賢者。悩み苦しみ、泣き続けた彼女は、信じて止まない精霊ルビスという唯一無二の存在の前に立つ資格を有した存在へと上り詰めた。

 全ての生物の幸せを願いながらも、根底に在る魔物への恐怖を認め、それでも尚前へと踏み出した彼女は、世界の全てを愛す精霊神の御前に参上する資格を得る。いや、正確に言えば資格など存在しないのだが、その大いなる存在を前にしても自身の目指す未来を口に出来るだけの強さを得たのだ。

 何度となく揺れ動いて来た心は定まり、目指す未来へと続く道は彼女自身が切り開くだろう。その強さと柔軟さを身に着けた賢者の瞳を見たカミュは小さく頷きを返し、その横で名誉を挽回しようと口にする女性戦士に大きな頷きを返した。

 

「ルーラ」

 

 太陽さえ出ていれば、晴れ渡るような青空であるだろう空中に浮かび上がった光は、何かに吸い込まれるように、そして何かに導かれるように北の空へと飛んで行く。

 塔の探索時に常に降り続けていた雨が、精霊ルビスの流す涙に呼応していたのかどうかは解らない。だが、アレフガルドに僅かに差し始めている光の道は、今は確かに精霊神ルビスが封じられた塔へと向けられている。それが解放される時を待つルビスの喜びなのか、アレフガルドという世界を照らす勇者の誕生を祝う世界の喜びなのか、今はまだ誰にも解らない。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
短いですが、この辺りの話をどうしても入れ込みたかった為、1話としました。
次話からは再びルビスの塔です。
おそらく3話程かかると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ルビスの塔④

 

 

 カミュの唱えたルーラは、一行を正確にルビスが封じられた塔の入り口へと運んで行った。明確にカミュがルビスの塔を想い描いたかと云われれば、それは否であろう。この暗闇に包まれたアレフガルドでは、如何に装飾が特殊な塔であっても、その塔の細部までを想い描く事など出来はしない。そこに、精霊ルビスの関与があったと云われれば、誰一人として否定する事は出来ない程の奇跡に近かった。

 闇に包まれているとはいえ、上空に雨雲は無く、降り注ぐ雨粒もない。吹き抜ける風は、瘴気を帯びた物ではなく、まるで主であるルビスの解放を確信した精霊や妖精達が通り抜けているように清々しい物であった。

 

「二階層より上は何があるか解らないぞ。気を抜くなよ」

 

「解っているさ。もう遅れを取る事はない」

 

 塔の入り口となる扉に手を掛けたカミュに向かって、後方から声が掛かる。一度その声の主に振り返ったカミュは、表情を引き締めたまま大きく頷きを返した。

 妖精達の囁きのように優しい風が吹く中、一行は次々と塔の内部へと入って行く。最後に入ったリーシャが扉を閉めようと取っ手に手を掛けると、優しかった風が勢い良く塔内部へと入り込んで来た。前を歩くメルエの小さな身体が浮かび上がる程に強力な風は、塔を巡るように上階へと向かって抜けて行き、すぐに闇と静寂が戻る。

 もう一本の『たいまつ』に火を点し、カミュ、リーシャ、サラの三人で持つ事で死角を無くした一行は、そのまま塔の奥へと歩み始めた。

 

「サラ、メルエと共に魔法力は温存してくれ。階層も多いだろうし、何があるか解らない」

 

「はい」

 

 前回の探索時と同じように、入り口から真っ直ぐ伸びた廊下を歩く一行は、廊下に残された燭台に火を点して行く。枯れ草などが残されている燭台のみにしか点火は出来ないが、それでも『たいまつ』だけの明かりよりは周囲の視界は大きく開けて行った。

 供物の祭壇がある部屋へ入る事なく、十字路を左へと進んだ一行は、すぐにもう一度左へと折れる。前回の探索時に歩いた場所である為、あの竜種が居た空間までの道程は迷う事なく進む事が出来た。

 奥に見えて来た上の階層へ続く階段を上り、前回竜の咆哮を聞いた回廊へ差し掛かった頃、一行の歩みが止まる。先頭を歩くカミュが歩みを止め、背中から雷神の剣を抜き放った為であった。それが意味する事を理解出来ない者は誰もいない。全員が自分の武器を手にし、戦闘準備に入る。

 

「また竜種か?」

 

「……咆哮が聞こえない」

 

 小さな声で問いかけるリーシャに対し、カミュは静かに首を横へと振る。竜種が必ずしも咆哮を上げるという訳ではないだろうが、あの他者を威圧し、竦み上がらせる存在感を今は感じない。ドラゴンと呼ばれる上位の竜種との再戦ではない事だけは確かであろう。

 しかし、この塔は、大魔王ゾーマと渡り合う事も出来る精霊神を封じている塔であり、そこを護るように生息する魔物達が脆弱な訳はない。ドラゴンだけではなく、それ以外の魔物も、アレフガルド大陸に生息する魔物の中でも最上位に位置する者達ばかりである事が推測される。どの魔物との戦いであっても油断など微塵も出来ない戦いとなる事は確かであった。

 

「あの魔物達は見た事があるな」

 

「気取られる前に数を減らす」

 

 曲がり角から除き見た光景に若干顔を顰めたカミュの後方から顔を出したリーシャは、そこに陣取る二種類の魔物の姿に見覚えがあった。一つは、メルキド周辺で遭遇した熊の最上位種であるダースリカント。もう一つは、前回の塔探索時に遭遇した獅子の魔物であるラゴンヌである。何故か周囲にチロチロと炎の欠片が揺らぐ中、巨大な骨の傍で身体を休める二種の獣が道を塞いでいた。

 この場所が、前回ドラゴンと遭遇した空間である事を考えると、ダースリカントやラゴンヌの傍にある巨大な骨は、ドラゴラムを唱えたメルエによって葬り去られたドラゴン達の物であろう。氷竜となったメルエが吐き出した凄まじい冷気によって氷像と化したドラゴンは、氷が解けた時には命を落としており、この塔に生息する魔物達の食料となってしまったに違いない。

 あれ程の巨体の肉を食う魔物となれば、それだけの存在であろうし、ドラゴンと思われる骨以外の小さな欠片も転がっている事を考えると、ドラゴンの肉を巡って魔物達の争いもあった事が解る。空間に残る炎の名残が、それが事実である事を物語っていた。

 

「うりゃぁぁ」

 

 カミュの言葉に頷きを返したリーシャは一気に駆け抜け、最も手前で腰を降ろしていたダースリカントの首へ魔神の斧を振るう。ドラゴンの肉を得る為に魔物と戦い、更にはドラゴンの肉を食して身体を休めていたダースリカントはリーシャ達の気配に気付きはしていなかった。

 首筋に入った魔神の斧が、ダースリカントの首と胴を分かつ。跳ね上げられるように空中に飛んだ首から遅れるように、体液が塔の天井に向けて噴き上げた。力を失った巨大な体躯が後ろへと倒れる事を見たラゴンヌは、折っていた前足を伸ばして敵と認識した者へ向かおうとしたところで意識を暗転させる。ラゴンヌの脳天から突き入れられた大剣が、アレフガルドでも上位に入る魔物の命を刈り取った。

 

「メルエ!」

 

「…………ん………ベギラゴン…………」

 

 カミュとリーシャの登場を認識した魔物達が大挙を持って押し寄せる。ドラゴンの肉を目当てに集まって来た魔物が、この空間には溢れんばかりに存在していたのだ。前回の探索から二ヶ月近くの時間が経っている。裏を返せば、氷竜となったメルエが放った冷気によって氷漬けにされたドラゴンの氷が溶けるのに、それだけの時間が掛かったという事であろう。それも、火炎魔法などを行使出来る魔物達がいても尚である。それが、実際にどれだけ恐ろしい力なのかという事を理解している者は少ない。

 ドラゴンの肉を満足行く程に食せなかった魔物達が、新たな肉を求めてカミュ達へ襲い掛かるが、後方から放たれた最大級の灼熱呪文によってその道は遮られる。真っ赤に燃え上がった炎の壁がカミュ達と大量の魔物達を隔てたのだ。

 

「カミュ、来るぞ」

 

 しかし、このアレフガルドでも上位に入る魔物達は、全てを飲み込む程の火炎の中で悶え苦しむ同胞を乗り越えて突き破って来た。体毛が燃え上がりながらも迫って来るラゴンヌやダースリカントの瞳は血走っており、通常の人間であれば、それだけでも恐怖で動けなくなる程の光景であるが、そこに待ち構えているのは、この塔に封じられた精霊神を解き放とうとしている者達である。飛び掛って来るラゴンヌを斬り伏せ、腕を振るうダースリカントを掻い潜って胴を斬り払うカミュとリーシャは、最早人間という域を軽く飛び越えてしまっていた。

 炎の壁から飛び出して来た数体の魔物を葬り去った頃、メルエの放った最上位灼熱呪文の火炎が下火になって行く。炎の海の向こうには夥しい数の魔物の死体があるが、その後方にはまだ数体の魔物達の姿が見えていた。

 

「数が多いな」

 

「竜種の肉というのは、魔物を呼び寄せる力でもあったのか?」

 

 斧を構え直したリーシャは、残った魔物の多さに顔を歪めるが、その横で剣を振ったカミュは、転がる竜種の骨へ視線を移して小さな疑問を口にする。竜種という存在は、魔物や魔族とは一線を画した物であり、その遺骸を目にする事はかなり少ない。スカイドラゴンやスノードラゴンのような龍種は、生息地域の頂点に立つ存在であり、寿命以外でこの世を去る事は少なく、アレフガルドで遭遇したサラマンダーの力もこのアレフガルド大陸の中でも上位に入る物であった。そのような竜種の肉というのは、魔物達の中でもかなり希少な物なのだろう。故に、これだけの魔物が集まって来ているのだと理解出来た。

 突進して来る魔物達の群れの中に踏み込んだカミュとリーシャは縦横無尽にその手にある武器を振るう。流石に無傷とはいかないが、迫る牙を盾で防ぎ、振るわれる爪を躱して、魔物達の命を駆り取って行く姿は、後方から見ているサラとメルエの目にも異常な物であった。

 

「ふぅ……」

 

 自分達に襲い掛かって来る魔物達を斬り伏せ終えたリーシャは、一つ息を吐き出した後、斧の石突で床を打つ。予想以上に大きく響き渡ったその音は、この場所に集まっていた魔物を怯えさせるのに十分な威力を持っていた。

 屍が積み重なったその場所を呆然と見ていた魔物達は、我先にとその空間から逃げ出して行く。残っていた魔物の数は少なく、この後で遭遇しても脅威とは成り得ない程度の物達であった為、一行はその後を追う事は無く、各々の武器を納めた。

 

「カミュ、今の動きは無駄が多かった」

 

「ちっ」

 

 魔物の群れからの脅威が去り、斧に付着した体液を払い飛ばしたリーシャは、傍で回復呪文を自分に唱えているカミュに苦言を呈す。討ち果たした魔物の数はカミュもリーシャも大差はない。それでも、カミュは何度か魔物の爪や牙で細かな傷を受けているのに対し、リーシャは完全に無傷であった。それが、未だにカミュが超える事の出来ない差なのかもしれない。

 確かに技量や力はリーシャに追い付き、追い越す目前となっているカミュではあるが、その完成度は未だに及ばない。それを指摘するリーシャの顔が得意気になっている物ではなく、冷静に分析をした結果の指摘である事が解るだけに、カミュは尚更悔しさを滲ませるのであった。

 今の戦闘で後方支援組であるサラとメルエの出番はほとんどなかった。それだけ前衛の二人の力量が上がっている事の証明である。襲って来たラゴンヌが氷結系の最上位呪文を使用する暇も無く討ち取られた事を考えても、それは明白であった。

 

「あれ、メルエ?」

 

 魔物が逃げ去った空間は、未だにメルエの放ったベギラゴンの炎の余韻によって明るく照らされている。脅威が去った事で、自由に動き回り始めたメルエが、何かを見つけたのか近場の床に屈み込んでいた。

 この空間は、前回のドラゴンとの戦闘での火炎や、ドラゴラムを唱えたメルエの放った冷気などでかなり荒れている。供物として運ばれていた宝箱などは、その戦闘の際に全て燃やし尽くされたように見えていた。

 そんな中でも何かを見つけたメルエの傍に近寄ったサラは、少女が見ている物を見て、一緒に首を傾げてしまう。それは、メルエどころかサラでさえも見た事の無い形状をした物であったのだ。

 

「これは何でしょうかね?」

 

「…………なに…………?」

 

 触れようと手を伸ばすのも躊躇うような奇妙な形をしたそれを見たサラは不思議そうに首を傾げ、そんなサラへ視線を移したメルエも、可愛らしく小首を傾げて問いかける。

 後方支援組二人が屈み込んで首を傾げている事を不思議に思ったカミュ達が覗き込むと、メルエの足元に奇妙な形に曲がった剣のような物が落ちていた。くの字に近い曲がり方をしているそれは、カミュも見た事がなく、期待と共に見上げて来るメルエに答える事が出来ない。それを不満に思ったメルエが頬を膨らませる中、最後に近づいて来たリーシャがそれを懐かしそうに見つめた。

 

「もしかすると、ブーメランか?」

 

「ブーメラン?」

 

「…………ぶー…………?」

 

 メルエの横に屈み込んだリーシャが拾い上げたそれは、くの字に近い形の曲線を描き、絶妙な具合で炎の揺らめきのような装飾が施されている。装飾と同様に炎を模したように赤く染められたそれは、それ自体が炎を放つように熱を持っていた。

 ブーメランという道具を知らないカミュ達三人が一斉に自分へ視線を向けて来る事に苦笑を漏らしたリーシャは、それを右手に持って左手でメルエを立ち上がらせる。不思議そうに見上げるメルエの頭を撫でた彼女は、ブーメランの具合を見るように持ち手の部分から先までに視線を這わせた。

 

「ブーメランは、子供の遊び道具だ。上手く投げれば、回転して自分の許へと戻って来るのだが……私も幼い頃に嗜んだ程度だからな、上手く行くかは解らないが……よっ」

 

「…………あっ…………」

 

 最後の言葉を言い終わるか終わらないかというタイミングで身を屈めたリーシャは、そのまま横投げでブーメランを放り投げる。せっかく見つけた物を投げ捨てたと思ったメルエは、失望の声を上げるが、それはすぐに驚きの声へと変わった行った。

 リーシャが放り投げたブーメランは、回転を繰り返しながら飛んで行き、カーブを描くように軌道を変えて行く。そしてブーメランの軌道が旋回を見せる時になって、投げた本人であるリーシャも驚愕の表情を見せた。

 

「……燃えているのか?」

 

「燃えてますね」

 

 旋回を始めたブーメランは、その装飾の揺らめきのような炎を実際に吹き出し始めたのだ。燃え上がるような炎は回転と共に周囲へ炎を撒き散らし、周囲の空気を一閃すると炎を納めながら旋回を終える。そのまま回転速度を落とす事なくリーシャの許へと戻って来たブーメランは、驚愕の表情を浮かべたままの彼女の手に納まった。

 起った出来事について行けないリーシャは、手許に戻ったブーメランを呆然と眺めるが、そんな間を許してくれない少女が、輝くような瞳で彼女を見上げて来る。せがむように背伸びして手を伸ばすメルエに苦笑を浮かべたリーシャは、自分の手許にあるブーメランの熱を確かめるように触ってから何度か振った。

 

「熱くはないのですか?」

 

「ああ、あの炎は何だったのだろうな?」

 

「…………メルエも…………」

 

 興味深げに見つめるサラの問いかけに、リーシャは一つ頷きを返す。先程、このブーメランから発せられた炎は間違いなく本物であった筈。その証拠に、陽炎のような大気の揺らめきと、それに付随する熱気が離れていたリーシャ達にも感じる事が出来ていた。

 それにも拘らず、手許に戻ったブーメランには、あの激しい炎を放出した熱の余韻がない。それに驚いたリーシャは、問いかけに対して逆に問いかけてしまった。

 だが、そんな二人の疑問などお構い無しに、先程から背伸びして手を伸ばしている少女の機嫌が急降下して行く。一向に構ってくれない事に頬を膨らませ、手の届かない事に苛立ちを露にする少女が、遂に不満を漏らしたのだ。

 

「どんな物かも解らないのだから危険だな。それに、メルエには出来ないかもしれない」

 

「…………むぅ………メルエも…………」

 

 諭すように口を開いたリーシャであったが、この少女がそのような言葉を聞き入れる筈が無い。興味を持ってしまったら最後、それが悪い事でない限りは、叱られるまで行うというのが、この少女の中にある決まりなのかもしれない。頬を膨らまして更に手を伸ばす姿に溜息を吐き出したリーシャは、自分の握っていた部分をメルエの小さな手に握らせた。

 自分の手許にブーメランが来た事で花咲くような笑みを浮かべた少女は、先程リーシャが行ったように、横投げに腕を振るう。力加減が解らないと云う事もあり、少女は腕を思い切り横に薙いだ。

 

「ぷっ」

 

「…………むぅ…………」

 

 そんなメルエの動作が懸命であった事もあり、それに対する結果にサラは噴き出してしまう。当の本人は恨めしそうにサラへ視線を送り、頬を目一杯に膨らませた。

 彼女が投げたブーメランは、回転する事も無く、床にそのまま落ちたのだ。『ぽてっ』という効果音でも聞こえてきそうな程の力ない軌道を描いて床に落ちたブーメランは、当然の如くメルエの手許には戻って来ない。先程メルエが見つけた時と同じ格好で床に転がり、沈黙してしまった。

 しかし、一度や二度の失敗で心を折らないのが、この少女の凄い所である。暫し頬を膨らませていたが、『とてとて』とブーメランの傍に走り寄ると、もう一度それを拾い上げて再度横投げに腕を振るった。

 

「ふふふ」

 

「…………むぅ…………」

 

 しかし結果は変わらない。再びそのまま地面へと落ちたブーメランは、回転して滑る事も無く、そのまま沈黙してしまう。ブーメランを投げるメルエが懸命であればある程、その結果が滑稽に見えて来て、再びサラは笑みを溢してしまった。

 対するメルエは先程以上に恨めしそうにサラを睨み、そのまま地面に落ちたブーメランをも睨みつける。少女の睨みを受けてもブーメランが応える訳は無く、悔しそうに再びそれを取りに行くメルエの姿が、更なる微笑ましさを誘った。

 メルエが数度投げても炎を吹き出す事がなく、危険性がないと思われる事でカミュの興味は完全に失せ、奥に見える通路へと視線を送っている。再度拾い上げたブーメランを横投げに投げたメルエであったが、相も変わらず『ぽてっ』と床へと落ちて行くそれに癇癪を爆発させた。

 床に落ちたブーメランに駆け寄り、沈黙を護るそれを上から何度か叩くように腕を振るう。幼い子供の、思い通りに行かない事への憤りの表現にリーシャとサラは苦笑を浮かべるのであった。

 

「それは、メルエの腰に吊るしておこうな。ブーメランという遊び道具は、練習をしなければ上手くはならないぞ」

 

「ふふふ。頑張って下さいね、メルエ」

 

「…………むぅ………サラ……きらい…………」

 

 メルエの肩に手を置いたリーシャは、床からブーメランを拾い上げて、メルエの腰紐に結びつけるようにして吊るす。それ程大きくはないブーメランであり、重さもない為、それによって少女の戦闘の邪魔になる事はないだろう。ただ、特殊な物である事から、自分の手許に戻って来るように投げるには練習が必要である事を告げるリーシャに、メルエは眉を下げていた。

 微笑みながらサラが応援の言葉を告げると、メルエは『ぷいっ』と顔を背けてしまい、懐かしい言葉を口にする。先日、『ずっと好きだ』と宣言したにも拘らず、それを覆すような発言をした少女にリーシャは微笑み、それを受けたサラは『何故ですか!?』と声を荒げた。

 

「行くぞ」

 

 精霊神ルビスの解放と、ドラゴンという強敵との再戦に緊迫していた空気は、いつの間にか霧散している。だが、それでも、勇者の一声が掛かると、再び三人の表情が厳しさを取り戻した。

 前回の探索時よりも、彼等の心に余裕がある事の表れであろう。気を抜く時は抜き、引き締める場面になれば、全神経を集中させる。先程まで幼さを爆発させていたメルエに至っても、表情を改めて雷の杖を握っている事からも、彼等が目的を忘れていない事を物語っていた。

 歩き始めたカミュを追うように三人が直線になって歩き出す。魔物の死体を踏まぬように避け、竜骨に足を取られないように進む。メルエの放ったベギラゴンの炎の余韻が少なくなって来た事もあり、『たいまつ』の炎のみでの行動となった。

 

 

 

 ドラゴンの棲み処となっていた空間から出た一行は、小さな空間に出る。右手には真っ直ぐ伸びる通路が見え、左手奥には上の階層へ続く階段が見えていた。一瞬、後方にいる女性戦士を窺うように視線を動かしたカミュであったが、何も言わずに階段の方へと向かって歩き出す。いつものように進むべき方向をリーシャへ尋ねると思っていたサラは、不思議そうにカミュの背中を見つめていた。

 階段を上り終えると、再び闇に閉ざされた空間へと出る。前回の探索時には足を踏み入れていない場所であり、壁に掛けられた燭台に残っている枯れ草へと炎を移した。ぼんやりとした明かりが周囲を照らす中、注意深く周囲の気配を探りながらもカミュが一歩ずつ前へと進んで行く。余計な会話も無く、真っ直ぐに伸びた通路を一行は進んで行った。

 

「……また階段ですね」

 

「カミュ、どうする? 右手に伸びる通路もあるようだ?」

 

「……上に行く」

 

 魔物と遭遇する事なく真っ直ぐ伸びた通路を渡り切った一行の前に階段が現れる。しかし、その階段の向こうに右へ向かう通路の入り口が見えており、闇に包まれた塔の探索としては難しい局面に置かれていた。

 いつもならば、問いかけるリーシャに対して、逆に問い返すというスタイルを貫くカミュではあったが、今回は間髪入れずに階段を登るという選択肢を取る。再度訪れた違和感にサラは少し首を傾げるが、カミュを追って階段を登り始めるメルエを追うように歩き出した。

 階段を登ると、前に進む通路と左へ向かう通路の入り口となる空間に出る。『たいまつ』を掲げながら周囲の壁の装飾を見ていたカミュは、そのまま前へ進む通路の入り口へと足を動かした。

 既に四階部分となるこの場所は、通常であれば高位の神官などでも踏み入る事の出来ない場所なのだろう。壁に施された装飾は、この塔を造った技師達の全てが結集されたかのように凝っており、石を削って描かれた精霊達が、今にも飛び出して来そうな程に生き生きとしていた。

 

「カミュ様はどうされたのですか?」

 

 先頭を歩くカミュの様子がいつもと違う事を不安に思ったサラは、最後尾を歩くリーシャに対して問いかけを行う。何かに導かれるように迷い無く歩くカミュの姿は、通常の平原や森などではよく見るが、塔や洞窟といった場所では見た事がなかったのだ。

 『行き止まり探知機』と名高いリーシャの手助けが無ければ、ここまでの旅は歩めておらず、洞窟内などで彷徨い続けていた可能性も高い。それを誰よりも知るのは先頭を歩く青年であり、誰よりもそれを信頼しているのも彼である筈であった。それにも拘わらず、一切迷い無く歩き続けるカミュの姿にサラは恐怖を覚えたのだ。

 

「サラが言ったのだろう? ルビス様がお呼び下さると」

 

「……それは、そうですが」

 

 しかし、そんなサラの恐怖や不安は、見事に一蹴されてしまう。確かに、この塔を目指す為の方法としてカミュの唱えるルーラを提唱したのはサラである。その理由も明確に語り、それに対してリーシャも納得した。だが、それでも塔内部の話となれば別である。塔内部に封印されている精霊神にそこまでの力が残されている可能性は低く、尚且つ強力な魔物達が犇く中、その魔物に惑わされている可能性も否定出来なかった。

 道を迷わすような能力を持つ魔物がいるかどうかは解らないが、このアレフガルドに生息する魔物達の能力が未知数である事もサラの不安を煽る要因である。それでも最後尾を歩いている姉のような女性は、『たいまつ』の炎に照らされた顔に笑みを浮かべ、優しくサラの肩に手を置いた。

 

「心配するな。カミュが迷い無く歩くのはいつもの事だ。もしかすると、カミュを呼ぶ別の物がこの近くにあるのかもしれない」

 

「……『その身は精霊の御許に』ですか?」

 

 笑みと共に視線をカミュの背中へ向けたリーシャが口にした言葉は、サラの脳裏に残されていたある伝承を思い出させる。それは、このアレフガルドへ着たばかりの頃に訪れたラダトーム王城での事。このアレフガルドを治めるラダトーム王家の次期国王から聞かされた、古の勇者が装備していた武器や防具に纏わる伝承の一部であった。

 伝承とは抽象的な文言が使われる。いや、正確に言えば、伝わって行く過程の中で抽象的な物へと変わって行くのだろう。この『その身』という言葉は、他の伝承から考えても身に纏う鎧を差している可能性が高い。そして、それが『精霊の御許に』となれば、このアレフガルドで精霊の神とも崇められている精霊ルビスの許にあると考える事が出来た。

 実際に天上にいると云われる創造神の御許にあるのであれば、二度と地上に姿を現す事はないだろう。だが、精霊ルビスの御許であれば、アレフガルドに下向する際に迎える為として造られた塔内部に納められていたとしても可笑しくは無かった。

 

「サラ、やはり伝承は間違っていないようだ。気を抜くな」

 

「え? あ、はい!」

 

 会話は突然打ち切られる。背中から魔神の斧を取り出して前へ出て行くリーシャの背中越しに、カミュの持つ『たいまつ』の炎に照らし出された異形が見えて来ていた。カミュに促されて後方へ下がって来るメルエが雷の杖を構える。それを見て、サラも完全に戦闘態勢へと入って行った。

 前衛二人が武器を構える先には、異形を持つ五体の魔物。ドムドーラ地方で遭遇した複合種であり、この世の中で人工的に生み出された存在である。青色に輝く鱗を持ち、大きな翼で宙を舞いながらカミュ達を警戒しているキメラが三体おり、その後方に同じような体躯をしながらも、真っ赤に燃え上がるような鱗を持つ物が二体待ち構えていたのだ。

 

「数が多い」

 

「吐き出す炎に注意しろ」

 

 前衛二人は、周囲の燭台に注意深く炎を移しながらもキメラから目を外さずに武器を構える。燭台に点った炎によって、真っ直ぐに伸びた通路が明るく照らし出された。通路を塞ぐように宙を飛ぶ五体のキメラの左手には、左に向かう通路が見えている。奥に続く通路も見える事からこの場所が分かれ道を繋ぐ空間である事が解った。

 前回の戦闘時にキメラの攻撃手段の一つとして吐き出される炎は見ている。それをリーシャに忠告したカミュは、右足で地面を強く蹴り、一気にキメラとの間合いを詰める。嘴を開いたキメラが炎を吐き出すよりも前に振り下ろされた雷神の剣が、キメラの胴体部分を斜めに斬り裂いた。

 吹き出す体液によって奪われた生命力は戻らない。そのまま床へと落ちて行くキメラへ視線を向ける事なく、カミュはもう一体のキメラから吐き出された炎を勇者の盾で防ぎ、横薙ぎに剣を振るう。

 

「カミュ!」

 

 横薙ぎに振るわれた剣によって胴を傷つけられたキメラとは別に、カミュの横合いから襲い掛かって来たもう一体のキメラをリーシャが斧によって斬り飛ばす。吹き飛ばされるように壁に衝突したキメラが床へと落ち、生命の余韻を思わせるような痙攣を繰り返した。

 瞬く間に三体のキメラを打ち倒したカミュ達を見ていたサラとメルエは、戦闘の終了を感じる。残るキメラは二体であり、数で云えばカミュ達と同数。同数が相手であれば、如何に合成獣が相手とはいえどもカミュ達が遅れを取る事はないと彼女達は確信していたのだ。

 そんな経験による信頼は、いつの間にか過信となっていた。彼等は今、一度は全く歯の立たなかった竜種が護る塔に居るのだ。精霊神ルビスという、大魔王ゾーマの唯一の脅威と成り得る力を封じている塔で、その封印を護る為に配置された魔物達と遭遇しているという自覚が薄れていた。

 

「グギャァァァ」

 

 目の前に残る二体のキメラに向かって駆け出そうとした瞬間、カミュ達の後方で大きな緑色の光が輝く。それは神や精霊の祝福と言っても過言ではない神聖さを持ち、カミュやサラ以外の人類が行使出来ない呪文が持つ輝きであった。

 その輝きが収まりを見せる頃、一気にカミュ達の周囲の温度が上がり、真っ赤な炎が彼等の後方から襲い掛かる。振り向いて即座に盾を掲げる二人であったが、敵に背を向けた状態になっている事に変わりはない。未だに消えない炎を防ぐ為に盾を掲げている為に赤い鱗を持つキメラへ向かえない状況の中、二人は焦り出していた。

 

「54‘’#0」

 

 そして、斬り倒した筈の三体のキメラ全てが復活を果たす中、後方から不吉な文言が飛んで来る。それは遥か昔に聞いた事のある物であり、カミュにとってもリーシャにとっても嫌な思い出しか残っていない物であった。

 戦線に復帰したもう一体のキメラが吐き出す炎を盾で受け止めながらも、嫌な予感を感じずにはいられないカミュは、静かに横に立つリーシャへと視線を向ける。そして、その姿を見て目を見開いた。

 力の盾を前面に向けている女性戦士は、右手に持つ魔神の斧を立て、その石突で自らの足の甲を打っていたのだ。何かに耐えるように唇を嚙み、細かく震える肩は何かに抗っているようにも見える。そして、その姿がカミュ達の背にいるキメラのような魔物が唱えた呪文を明らかにしていた。

 

「ぐっ……」

 

「頼む、跳ね返してくれ。今のアンタがその呪文に惑わされれば、全滅する」

 

 炎は絶え間なくカミュ達を襲う。三体のキメラが交互に吐き出す炎を防ぐだけで精一杯であり、現状では彼等の背にいる二体の魔物にさえ対応出来ないのだ。それにも拘らず、ここで人類最強の戦士が混乱に陥れば、カミュの言葉通りの結果になる可能性は高い。

 メダパニという呪文は、魔法力に対する抵抗力がない者にとっては天敵の呪文となる。力量が明らかに上であっても、リーシャのように魔法力に対する才が乏しい人物にとっては、抗う事が難しいのだ。ルカニのような呪文とは異なり、怒りなどで感情が高ぶっている時などは惑わされる事が少ないが、その呪文を意識し過ぎれば危険が高まるのだ。

 今のリーシャの力は人類も枠を大きく超えている。特にカミュから見れば、混乱という状態に入って力の制限を外してしまったリーシャを抑える事など出来る訳がないという認識なのだろう。キメラが吐き出す炎の影響ではなく流れる、彼の頬を伝う汗がそれが事実である事を物語っていた。

 

「メルエ、あの炎がカミュ様達への壁になってくれます。メルエの力を見せてあげましょう」

 

「…………ん………マヒャド…………」

 

 しかし、カミュ達二人を挟み撃ちにした事で驕ったキメラ達は、この一行の誰が欠けてもこの高みまで来る事が出来なかったという事実に気付かない。無視するように後方に置き去りにした二人の女性が、人類最高位に立つ呪文使いである事を知らないのだ。

 故にこそ、呪文を詠唱する余裕と時間を与えてしまう。そこから生み出される冷気が、魔物や魔族でさえも生み出す事の出来ない程の強力な物であるという事実に気付く事も無く、凍結して行く。吹き抜ける冷気は燃え盛る炎を消し飛ばし、それを吐き出していたキメラの内部までをも凍りつかせて行った。

 追い討ちを掛けるように唱えられたサラの氷結系最上位呪文が、その凍結速度を上げ、三体のキメラは瞬時に氷像と化す。元々宙を飛んでいたキメラ達は、そのまま石で出来た床へと落ち、粉々に砕け散った。創造神や精霊の祝福を受けて生を受けた訳ではないキメラ達の身体は、霧散して行くように消え、風と共に流されて行く。

 

「よく耐えた!」

 

「ぐっ……カミュ?」

 

 目の前の炎が消え失せた事によって、カミュはリーシャの頬を平手で張る。乾いた音が塔内部に響き渡り、リーシャの抗うような震えが止まった。ようやく焦点の合った瞳でカミュを見るリーシャの足の甲へベホマを唱えたカミュは、そのまま剣を握って前方の二体のキメラへ備える。二、三度頭を振ったリーシャもまた魔神の斧を構えて怒りの表情を浮かべた。

 自分がどのような状態だったかの認識が無いのだろう。斧の石突で足の甲を打ち、呪文に抗っていたのは、無意識の行動なのだ。彼女なりに、その呪文の危険性と自身の抗魔力の弱さは自覚があったに違いない。故にこそ、仲間達が無事である事に安堵しながらも、その呪文を行使した魔物に並々ならぬ怒りを覚えたのだろう。

 一度斬り倒したキメラが復活したのは、この色の異なる鱗を持つキメラがベホマのような回復呪文を行使した為であり、尚且つリーシャが惑わされそうになっていたメダパニも行使出来るという事になる。それは、かなりの強敵である事を物語っていた。

 

【メイジキメラ】

合成獣であるキメラの上位種。大魔王の魔法力によって生み出されたキメラという合成獣の変異だとも、キメラの合成の際に魔法力を多く注入した為だとも云われる、謎の多い魔物である。

基本的な性能はキメラと変わらないが、その魔法力の多さから行使出来る呪文を複数持つ。行使出来る呪文を特定出来る者はおらず、誰もそれを見た者はいない。

 

「…………マヒャド…………」

 

 カミュ達が左右に分かれ、メイジキメラへの道が開いた事を確認したメルエが、自分の背丈よりも高い杖を振るう。杖の先のオブジェの嘴から凄まじい冷気が吹き荒れた。

 一気に通路を抜け、周囲を凍りつかせながら襲いかかる冷気がメイジキメラに迫るが、一体のメイジキメラがそれを見て嘴を広げる。先程のキメラのように火炎を吐き出すつもりだと考えたサラは、キメラの吐き出す炎程度ではメルエのマヒャドを抑える事が出来ないと感じながらも、追い討ちのマヒャドを唱える準備を始めた。

 しかし、その唱える呪文は、急遽として変更される事となる。

 

「M@H0K@」

 

 メイジキメラが奇声のような文言を発した直後、その周囲に光の壁が展開される。眩く輝く光の壁が、メルエが放った最上位の氷結呪文を弾き返した。

 反射される凄まじい冷気は、前衛に立つカミュ達二人の装備を凍り付かせて行く。氷竜という最上位の竜種の因子を受け継ぐ少女の放った氷結系最上位呪文である故に、その威力は勇者や戦士であっても抗う事が出来なかった。

 全身を刺すような痛みが襲い、盾を持つ指の感覚さえも失われて行く中、二人の後方から新たな援護が届く。状況を見たサラが最上位灼熱呪文を放ち、カミュ達の凍結を防いだのだ。この咄嗟の判断が、一行を救う英断となる。

 跳ね返って来た氷結呪文はその勢いを失っており、サラの放ったベギラゴンでも十分に相殺出来る物となっていた。凍りつきそうになっていたカミュ達の身体を暖め、動きが可能となった瞬間、後方から迫る大きな火炎を避けるように二人は前方へと駆け込んで行く。

 

「おりゃぁぁ!」

 

 カミュに遅れるようにメイジキメラの前に辿り着いたリーシャは、魔神の斧を横薙ぎに振るう。影から現れた斧の速度に付いて行く事の出来なかったメイジキメラは、赤い鱗を突き抜けて入って来る神代の武器によって命を落とした。

 真っ二つに斬り裂かれたメイジキメラは、体液を撒き散らせながら床へと落ち、そのまま砂塵のように風と共に消えて行く。その翼さえも残らずに消えて行く姿は、いつ見ても慣れる物ではないが、残るもう一体に剣を振るうカミュへと視線を向けたリーシャは、この戦闘の終了を悟った。

 

「ふん!」

 

 キメラの上位種であるメイジキメラではあるが、所有する呪文の種類が多いというだけで、それ程の力量の差はない。むしろ、魔法力に特化した分、その耐久力や防御力、そして生命力はキメラよりも下なのかもしれなかった。

 それ故に、メイジキメラの悪足掻きのような行動を勇者の盾で弾いたカミュの一撃は、何の抵抗もなくその鱗を突き破り、翼諸共斬り裂いて行く。体液の染みを残して消えて行くメイジキメラを見下ろしたカミュは、雷神の剣を一振りして体液を飛ばし、そのまま背中へと納めた。

 あれ程の激戦を繰り広げたのにも拘らず、死体一つ、体液一滴残っていない状況は異様である。合成獣として祝福を得て生まれて来た種族ではないとはいえ、何とも言えない寂しさと哀れさを感じて、サラは一度胸の前で手を合わせた。

 

「カミュ、あの光は……」

 

「解らないが、行ってみる価値はあるだろう」

 

 サラとメルエが胸の前で手を合わせている間に、カミュとリーシャは左手に向かう通路へと視線を向ける。その先は大きく開けた空間が広がっており、塔の中央に造られた吹き抜けの部分である事が解った。

 吹き抜けは上の階層と下の階層に繋がるようにぽっかりと空いた空間があり、それにも拘らず、その中央を通る通路が設けられている。そして、その通路の先に、何かで覆い隠したような光が見え、真っ暗な塔の闇の中で眩いばかりの光を放っていた。

 何かによって遮られているような曇った光なのにも拘わらず、その光は眩しい程に瞳の中へと入り込んで来る。耐えられぬ程の眩しさではないが、何処か安心出来るような優しい光。まるで月の輝きのように闇を照らすそれは、主を待つように優しい光を放っていた。

 

「……古の勇者様の鎧でしょうか?」

 

 後方から光を見たサラは、先程まで話に出ていた古の勇者の装備品の一つである可能性を示唆する。それに対して誰も答えは返さなかったが、その胸にある想いは全員が一致していただろう。このルビスの塔にある輝きであれば、それは精霊神ルビスの物か、古の勇者が纏っていた装備品以外は有り得ないのだ。

 一歩進むカミュの横からリーシャが前へと出る。塔の中心に伸びる通路は狭くはないが、危険性は低くない。故にカミュとリーシャで前を歩く事にしたのだ。サラとメルエは、魔物の襲来を警戒しながらも二人の後ろから後を続いた。

 

「うわっ!」

 

 しかし、そんな警戒も全てが無になるような大声が響く。塔の階層に響き渡る程の大声量に驚いたメルエが身体を跳ねさせ、後ろを警戒していたサラが弾かれたように首を前方へと動かした。そこで見た物は、先程までの緊迫感を打ち壊すような程の光景。それにサラ慌てて駆け出し、遅れてメルエも前方へと走り出した。

 サラ達が見た物は、先程まで通路の中央を歩いていた筈のリーシャが通路の端まで移動し、今にも通路から下層へと落ちてしまいそうな状況。それを必死に留めるように手を伸ばしたカミュが、全体重を後ろへ向けて支えていたのだ。

 

「一度こっち側へ戻って来い!」

 

 引き寄せるようにリーシャの身体を釣り上げたカミュは、尻餅を付くように通路に倒れ込む。じっとりとした冷や汗を掻いたリーシャは荒い息を吐き、何度か深呼吸をするように心を落ち着かせていた。

 リーシャが踏み込んだ床は、既に通路の端から裏側に移動している。つまりこの床が動いたのだ。向かって左手へ移動した床は、床に敷かれた石一枚分が左手に移って停止した。それは、僅かな移動でありながらも、予測出来ない動きであり、初見の者にとっては驚愕の出来事である。それに素早く対処したカミュを褒めるべきであり、危うく下層に落ちそうになったリーシャを責めるべき内容ではないのかもしれない。

 

「カミュ、これでは進めない」

 

「ああ」

 

 通路の向こうにある淡い輝きへ辿り着く為には、この床を踏み締めて歩くしか方法はない。龍や鳥のように宙を飛べるのであれば問題はないだろうが、人間であるカミュ達にその方法は取れない以上、この通路を歩む以外にないのだ。

 床が動くという事は、その場所に足を踏み入れただけで意図しない方向へ行ってしまうという事になる。この床の仕組みが理解出来ない事には、この先には進めないという事と同じであった。

 それは実際に体感したリーシャや、それを傍で見ていたカミュには確固たる事実に映る。だが、少し離れた後方から見ていた者からすれば、それ程に大げさな物ではなかったのかもしれない。それを証明するように、少し首を傾げたサラが何かを考えるように床を見ながら呟きを漏らした。

 

「床一枚分が動いたように見えました。必ずしも左方向へ動く物ではないのかもしれません」

 

「なに?」

 

 カミュやリーシャの反応に対して答える事もせずに、サラはそのまま考え込む。しかし、リーシャ達からすれば、彼女のそんな呟きは、更なる絶望へと落とす物であった。左へ勝手に動く床だけでも難解なのにも拘らず、それが四方に向かって不規則に動くのであれば、何があってもこの通路を渡る事は出来ないからだ。

 故に、何やら暗い顔をするリーシャや、厳しい瞳で床を睨むカミュは、このような状況でも自分らしさを失わない人物を失念してしまう。考え込むサラの横を抜け出した小さな影は、そのままカミュの横を抜けて動く床へと足を踏み出した。

 

「メ、メルエ!」

 

 リーシャが驚きの声を上げた事、その瞬間に床ごと身体が動いた事、その全てが『楽しそうである』と感じたこの少女は、その小さな身体で力一杯床を踏み締める。その瞬間、重みを感じた床は、一枚分左へと動く。リーシャとは違い、ほぼ真ん中から踏み込んだメルエは下層に落ちる事なく、床一枚分左へと移動した。

 何かを訴えるように満面の笑みを浮かべてこちらへ視線を送る少女に、カミュとリーシャは揃って大きな溜息を吐き出す。この状況でも我を貫き通す少女に呆れると同時に、危険の高い行動を平然として行う事に対する怒りが徐々に湧きあがって行った。

 

「……注意してこっちへ戻って来い、メルエ」

 

 誰がどう聞いても、戻った瞬間に怒りの鉄拳が振り下ろされる事は理解出来るが、それを回避する術をこの幼い少女は知らない。『びくっ』と身体を跳ねさせた後、機嫌を伺うように上目遣いで母のような女性へと視線を送るが、その先にあった表情を見て全てを諦めた。

 楽しい事を味わった瞬間に訪れた絶望の時間は、可能な限り後の方が良い。それでも戻らない訳には行かない以上、メルエはリーシャ達の待つ元居た場所へと足を踏み出した。

 

「…………!!…………」

 

「なに!?」

 

 しかし、踏み出した少女の短い足は、動かない床を踏む事はなかった。そのまま身体ごと右へ床一枚分スライドしたメルエは、予想もしていない動きに尻餅を突く。床一枚分右に動いた事により、先程メルエが踏み込んだ場所へと戻っていた。

 驚きを隠せないメルエは目を大きく見開き、現状を把握出来ずに呆然としていたが、我に返ったリーシャによって、首根っこを掴まれ、釣り上げられる。猫のように持ち上げられた少女は、目の前に見える母のような女性戦士の表情を見て逃げようともがき始めるが、それが許される程、この世の中は甘くはない。ゆっくりと降ろされた彼女は、逃げる間もなく帽子を取られ、その脳天に鉄拳の制裁を受ける事となった。

 目を覆いたくなるような音が塔内に響き、余りの痛みに少女が屈み込む。脳天を両手で押さえた彼女の瞳には溢れんばかりの涙が溜まり始めていた。

 

「何故、拳骨をもらう事になったかは解るな? その痛みを忘れては駄目だ。もし、あのままメルエが下層に落ちてしまえば、それ以上の痛みを味わい、最悪の場合は死んでいたのだぞ。そうすれば、メルエだけではなく、私達も心に想像を絶する痛みを味わう事になる」

 

「…………ぐずっ…………」

 

 涙が溢れる瞳で見上げて来る少女に向かって、リーシャは厳しい瞳を緩める事もなく言葉を告げる。それは少女の身を心から案じている内容であり、想いでもあった。胸が痛くなる程にそれが伝わったメルエは、大粒の涙を床へと溢しながらもしっかりと頷きを返す。それを見てようやく表情を和らげたリーシャを見たメルエは、その腰にしがみ付くように嗚咽を溢し始めた。

 相手が真剣に怒っていれば、子供は『何故怒られているのか』を考える。その理由が解らない時は恐怖しか感じないが、その理由が納得出来れば怒った相手に畏怖を覚える。何が駄目であったのか、どうして叩かれたのかという理由が解れば、その痛みと共に理性を学び、常識を覚えるのだ。

 メルエという少女は、ロマリア大陸で出会った頃から一段上に成長し、今もう一段上への階段を上がっている最中なのだろう。『楽しい』と感じる事を無闇矢鱈に制される事はないが、全てが許される事ではないという事を理解し始めていた。

 

「……なるほど。この模様はそういう意味なのかもしれませんね」

 

 しかし、そんな母娘のようなやり取りの横で、暫く考え込んでいたサラが急に口を開く。メルエのように屈みこみ、床に向けて『たいまつ』を翳して、そこに記された模様を手でなぞりながら頻りに頷きを繰り返していた。

 『賢者』の顔になったサラが何かを読み解くように床の模様を眺め、一つ一つの床の模様を確認して行く。それは奇妙な光景でありながらも、この一行にとっては恒例となり始めた物でもあった。

 

「何か解ったのか?」

 

「え? あ、はい。おそらくですが、この模様の向きが影響しているのだと思います。先程、メルエが前へ進もうとした際には左へ床が動き、後ろへ戻ろうとすれば右へ動きました。床を踏む者の体重の移動を察知して反応するのかもしれませんし、他の要因があるのかもしれませんが、この模様のある床は全て同じ構造だという事を前提に考えると、右に向かおうとすれば前へ進めると思います」

 

「ん? ん? 何か、複雑過ぎて解らないな……」

 

 考えが纏まったように見えたのか、カミュがサラへと問いかける。それに対してのサラの答えは、傍でメルエを抱きながら聞いていたリーシャには全く理解出来ない物であり、大きく首を傾げた。サラからすれば、メルエという少女の軽率な行動によって答えが導き出された物ではあるが、それを言葉にする事は余り良くない事であるという認識の下で説明をしているのであるが、その為に随分と回りくどい言い方になってしまっている事実は否めない。

 カミュだけが興味深そうに床の模様に視線を向けているが、リーシャには全く理解出来ない。その腰にしがみ付く少女は、まだ先程のお叱りから立ち直る事が出来ずに嗚咽を繰り返しており、全く興味を示していなかった。

 

「つまり、この床を踏み締めた瞬間から、次に足を踏み入れる場所の前後左右がずれてしまうという事か?」

 

「はい、おそらくは。ただ、これと同じ模様がある床に限っての話になりますが」

 

 サラの考えを理解したカミュが立ち上がる。この一行の暗黙のルールとして、考えて答えを見つけるのはサラであっても、それを実行するか否かを決めるのはカミュという青年であるという物がある。故に、極論を言えば、リーシャやメルエが理解していようとしていなかろうと、そこに問題はないのだ。

 通路の真ん中付近にある床にカミュが足を下ろす。その瞬間に左方向に向けて移動した床が止まったのを確認し、カミュは右方向へ向かうように足を上げた。どのような仕組みになっているか解らないが、前へと動き始めた床を確認したカミュは足をその場に下ろす。止まった事を確認したカミュは、もう一度同じような行動を起こし、リーシャ達よりも奥へと向かって行った。

 

「リーシャさん、今のカミュ様と同じようにして進んで下さい。メルエはそのまま抱き上げて一緒に向かった方が良いでしょう」

 

「……良く解らないが、わかった」

 

 未だに理解していないリーシャではあったが、カミュが行った方法で結果が出た以上、それが正しい行動なのだと理解する。彼女自身も自分が理解出来ないだけで、カミュとサラは何らかの確信がある行動なのだという事を解っているのだ。故に、カミュと同じ経路を辿って、一歩先へと歩き出した。

 最後に同じ方法でサラが床三枚分程の距離を進んだ頃、動かない床の上でカミュとリーシャが彼女を待っていた。カミュの一歩先には、先程とは異なった模様が刻まれており、ここまで進んだ方法では進めない事が解る。ただ、その模様は似通った物であり、注意深く見なければ違いに気付かない程度の物であった。

 

「先程とは逆の形になっていますね。普通に考えれば、逆ですから……前へ進もうとすれば右に行き、戻ろうとすれば左に行くのかもしれません」

 

「……ならば、やはり真ん中の床から入ったほうが良いな」

 

 屈み込んで床の模様に『たいまつ』を掲げたサラは、その模様が先程の物と左右対称になっている物である事に気付く。それが向かう方角を示しているのだとすれば、先程とは逆の方向へ床が動くと結論付けたのだ。

 真ん中へ足を下ろしたカミュが踏み込んだ床は、サラの予想通り右へと動き始める。ならば、この次は左へ向けて足を踏み出せば良い。その考え通り前へと動き出した床に乗って、カミュは通路の最奥へと辿り着いた。

 その頃には泣き止んでいたメルエは、リーシャを伺いを立てるように見つめ、頷くのを確認すると嬉しそうに床へと足を踏み入れる。動く床に笑みを溢し、カミュが行ったようにそっと足を踏み出す。その足が床に着くか着かないかの時点で再び動き出した床に乗って、カミュの待っている場所に辿り着いたメルエは、名残惜しそうに床を見つめていた。

 

「……これは」

 

「す、すごい」

 

 最後のサラが到着した事で、吹き抜け部分に真っ直ぐ伸びた通路の果てを見上げた一行は、この塔を根底から支える大黒柱に驚愕する。おそらく一階部分から伸びたその柱は、四人の身長を合わせたよりも長い円周を持った物であった。

 そして、その柱の中央に縛り付けられるように固定された物が、四人の瞳を奪って離さない。先程まで淡く放たれていた輝きは、自分の居場所を訴えるように激しい光を放っていた。

 青く輝く金属は、カミュの左腕に嵌められた勇者の盾と同じ物であると推測出来る。青い輝きはまるで大空を思わせる程に澄んでおり、神々しいまでの光を放っていた。

 

「……古の勇者の鎧か?」

 

「まるで、全ての光が集まって出来ているようです」

 

 輝きは暗い塔の階層全てを照らすように明るいながらも、目を開けられないような眩しさはない。この闇に包まれた大地に残る全ての光が集約して造り上げられた鎧は、身体部分だけではなく、兜も一体となった物であった。

 希望という光を一身に受けた者だけがその身に纏う事を許され、明日という輝きを与える事の出来る存在のみを見出す鎧。それは正に『光の鎧』という名に相応しい神々しさを持っていた。

 息をする事も忘れる程に呆然と鎧を見上げていたリーシャやサラとは異なり、何かに導かれるようにそれへと手を伸ばしたカミュは、柱に埋め込まれているように固定されていた鎧を何の抵抗もなく手に納める。

 まるでその時を待っていたかのように全てを覆い尽くす程の輝きを放った光の鎧は、放った輝きを全て取り込むように落ち着きを見せた。青く煌びやかな輝きは鎧の中に全て納まり、内から滲み出るような光が塔内を照らす。

 

「…………ラーミア…………」

 

「ん? 本当だな……その盾と同じ装飾が施されているな。古の勇者は、ラーミアと何らかの関係があるのか?」

 

「わかりません。ですが、この鎧が神代から続く鎧だとすれば、ラーミア様と繋がりがあっても不思議ではありませんね」

 

 鎧を手にしたカミュの横から覗き込んだメルエは、その鎧の胸の部分と兜の前方に大きく描かれた装飾を見て頬を緩める。それは、勇者の洞窟で入手した盾にも描かれていた物と酷似しており、まるで鳥が羽ばたくような姿に見える抽象的な模様であった。

 メルエという少女が最も好意を持つ鳥となれば、上の世界で出会った神鳥である。不死鳥とも、霊鳥とも云われる巨鳥。精霊ルビスの従者として伝えられながらも、竜の女王や精霊神ルビスと同格を思わせる程の威厳と品格を備えた鳥であった。

 アレフガルドという大陸に伝わる古の勇者が装備していた物全てに、上の世界に伝わる神鳥の姿が描かれている。それは、上の世界とアレフガルドの繋がりを示すと同時に、古の勇者と不死鳥ラーミアとの繋がりをも示唆していた。

 

「……言葉が出ないな」

 

 カミュが身に纏っていた刃の鎧を脱ぎ、光の鎧を身に着ける。オルテガの兜を置き、光の鎧と共にあった兜を被った時、その姿を見ていたリーシャは言葉を失っていた。その横で見ているサラは呆けたようにカミュを見つめ、盾、鎧、兜に描かれたラーミアの姿に頬を緩めていたメルエは嬉しそうにカミュを見上げている。三者三様の想いを受けたカミュは、何事もなかったように刃の鎧を柱の傍へと置いた。

 精霊神ルビスの解放という目的がある以上、不要になった鎧を持って行動する事は出来ない。ならば、一般の人間であれば訪れる事のないこの場所に安置した方が良いのだろう。自ら攻撃するという特殊な能力を持ったこの鎧であれば、魔族などに利用される事もなく、この神聖な塔を護り続けてくれる筈であった。

 そんなカミュの姿を感慨深げに、そして何処か寂しそうに見つめていたリーシャは、その後に起こした彼の行動に即座に動き出す。瞬時にカミュの隣へと動いた彼女は、彼の腕を握り、行動を制した。

 

「カミュ、悪いがそれをこの場に置いて行く事は許可出来ない。お前が持っているのが嫌ならば、私が持とう」

 

「ちっ」

 

 カミュの腕を掴んだリーシャは、彼の手に残っていた物を静かに受け取る。この世に一つしかなく、鋼鉄などとは異なる特殊な金属で出来ているそれは、三年以上も前からカミュが装備し続けて来た兜であった。

 彼の父が被り続け、自分の命を救ってくれた謝礼としてある村で暮らす少年へと譲り渡した兜。名称などない、彼だけの為にある兜。故にその名は『オルテガの兜』。

 そう名付けられた兜は、その元の主の願いを引き継いだかのように、その血を受け継いだ息子を護り続けて来た。古の勇者が装備していた神代の兜にその役目を譲ったとはいえ、この兜がカミュにとって父の形見である事に変わりはない。例え彼がその事を認めず、それを必要としなくとも、リーシャは親の形見という物の存在の大きさを誰よりも知っていたのだ。

 大きな舌打ちをしたカミュではあったが、『自分が持つ』という彼女の提案を拒絶する事は出来ない。渋々ながらもマントを靡かせて元来た道を戻ろうと歩き始めた。

 

「あっ、メルエ、今度は逆ですよ!」

 

「メルエ!」

 

 カミュが纏う鎧を嬉しそうに見上げていたメルエは、必然的に歩き出すカミュの前から見ている形となる。そして、当然、彼よりも先に動く床へと足を踏み入れてしまった。

 こちらに来る際は、前へ進もうと思えば右に向かって動く床であった場所は、帰る時には前へ進もうとすれば左へ向かう事になる。それを失念していたメルエは、通路の左側にある床から踏み入れてしまったのだ。

 当然動き出した床の向こうは下層へ続く吹き抜けとなる。ぽっかりと空いた闇の底へと踏み出してしまったメルエの身体が宙に浮き、それに気付いたリーシャが真っ先に手を伸ばすが、その勢いを殺す事は出来ずに共に闇へと落ち始めた。

 

「くそっ! 落ちた方が早い。アストロンを唱える!」

 

「はい!」

 

 必死にリーシャの腕を掴んだカミュではあったが、強い勢いを止める為に掴む物がない。前のめりになると同時に、彼は素早く決断を下した。

 このままメルエとリーシャを引き上げるよりも、下へ落ちた方が危険は少ないと判断したのだ。目的の一つである鎧は入手している。これ以上、この場所にいる理由もなく、律儀に動く床を渡る必要もない。アストロンという絶対的な防御呪文を有する彼ならではの判断であろう。

 カミュの意図を読み取ったサラはカミュの腕を掴み、それを確認した彼が詠唱を終えると同時に、鉄の塊となった彼等四人の身体は、速度を上げて下層へと落下して行った。

 

 古の勇者がその身に纏い、その身を護ると同時に癒すと謳われた鎧は、当代の勇者の手に渡った。幾千もの敵と戦いながらも傷一つ付かず、傷を負った勇者の身体を癒して行く能力さえも有した神代の鎧。その青白く、神々しい輝きを放つ鎧は、己の主の心に宿る輝きをも強くして行く。

 優しく照らし、その輝きを受けた者達の心さえも癒すと謳われた鎧の名は、『光の鎧』。見る者を魅了する程の美しい輝きを放ち、それを纏う者を更なる高みへと飛翔させる。その胸に描かれた神鳥は、古の勇者と共にある霊鳥としても語り継がれていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
今回は少し長くなってしまいました。
読み辛くなってしまっていたとしたら、申し訳ありません。
何処かで区切る事も検討した方が良いのかもしれません。

ご意見、ご感想を心からお待ちしております。


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ルビスの塔⑤

 

 

 暗闇に染まる塔内部に、凄まじい音が鳴り響く。それなりに広い空間に集まっていた虫達が、その大きな音と衝撃で一斉に拡散して行った。

 長年放置されて来た塔には、魔物以外にも生物は数多く生息している。小さな虫達のような生物は基本的に暗闇を好む者も多く、そんな小さな命がこの塔の各所で息衝いていた。

 光の鎧が封じられていた太い柱に繋がる通路から落ちて来た四体の鉄像は、下の三階層の中央にある広い空間の床に大きな亀裂を走らせる。鉄色から人間の肌の色へとゆっくりと戻って行き、最初に立ち上がった青年に遅れるように、鎧を纏った女性とサークレットを頭に装備した女性が立ち上がった。

 最も遅れて鉄化が解けた少女の手を引いて立ち上がらせた女性が持っていた『たいまつ』に再度火を点して周囲へと翳す。幾つもの燭台らしき物が見えるが、その中に枯れ草のような物は一切ない事からも、この場所が通常の人間が入って来る事の出来ない場所である事が解った。

 外から入り込んで来たのであろう枯れ草や枯れ木を拾い上げて燭台に入れ、それに火を点す事で明かりを確保する。周囲を照らす炎は小さくはあるが、それでも既に一年近くの日数をアレフガルドで過ごして来た彼等は暗闇に目が慣れ始めている。少しでも明かりがあればある程度は見通す事が出来ていた。

 

「上に戻るのか?」

 

「いや。ここが中央であれば、奥の突き当りを右に曲がればまだ行っていない場所に出る筈だ」

 

 メルエの様子を確認したカミュは、『たいまつ』を持って先頭へ出る。その後ろから行き先を尋ねるリーシャに対し、彼は迷う事なく答えを返した。

 二人の様子を見ていたサラは、何処か違和感を覚えて首を捻るが、傍でそれを面白そうに見上げながら真似をするメルエを見て、自分が感じた物の答えを知る。それは、この塔に入ってから、カミュはほとんどリーシャへ行く道を尋ねる事がないという事であった。

 正確に言うのであれば、前回の探索時はリーシャに道を尋ねていたが、今回の探索ではそれが皆無となっている。天が流す涙も晴れ、精霊ルビスとその愛を一身に受ける勇者との距離が近くなったからなのか、当代の勇者の歩みに迷いはなくなっていた。

 

「よし。メルエ、行くぞ」

 

「…………ん…………」

 

 首を傾げているメルエを呼んだリーシャは、その小さな手を握ってカミュの後ろを歩き出す。真っ直ぐに伸びた通路は暗闇に閉ざされており、魔物の襲撃の可能性を残していた。だが、それでもカミュという勇者の後方を歩く少女の顔には笑みがある。大好きな母のような存在に手を引かれながら、壁に張り付く虫へと視線を移し、その小さな命の営みに微笑みを浮かべていた。

 最後尾を歩く事になったサラは、徐々に近付く大きな力に緊張しながらも、何処までも変わらない少女の姿に心を和ませる。程よい緊張感を残しながらも、心の余裕を持ち続ける一行は、再び精霊神ルビスが封じられた塔の探索を開始した。

 

「しかし、カミュ様、その鎧が封じられていた場所は四階層だったと思います。ルビス様が封じられているとすれば更に上の階でしょうから、一度四階層に戻った方が良いのではないですか?」

 

「そうだな……確かに、上の階で鎧のある中央に行く道と、左手に進む道があった筈だ。あの左手に階段でもあるのかもしれないな」

 

 真っ直ぐ伸びる通路を歩き、行き止まりまで辿り着いた時にサラが口を開く。左手にはうっすらと明かりが見えており、その明かりが先程カミュ達が通った際に燭台に点した炎だとすれば、その近くのある階段で上の階へ戻る事は可能であろう。そして、精霊神ルビスという存在が天界より下向するとすれば、この塔の最上階である可能性は高い。封じられた場所が最上階とは限らないが、地下でない以上は最上階と考えるのが通常であった。

 そしてそれに対してリーシャもサラの言葉に同意を示す。四階層にはまだ歩いていない箇所があり、その方向に五階層へ向かう階段がある可能性はあるだろう。だが、そんな二人の言葉を聞いたカミュは、『たいまつ』を持ったまま首を横へと振った。

 

「アンタがそういう以上、あの方角に階段がない事は確定した。行くだけ無駄だ」

 

「なっ!?」

 

「……そう言われると反論出来ませんね」

 

 久しぶりに自分の意見を全否定されたリーシャは絶句し、その後で追い討ちを掛けるような言葉を発したサラを厳しい瞳で睨み付ける。どこか懐かしさを感じる程のサラの失言に、それを見上げていたメルエが小さく微笑んだ。

 その無邪気な微笑みを見て、一つ息を吐き出したリーシャは、既に歩き始めていたカミュを追って歩き出す。自然な形でその手を取ったメルエも歩き出し、残されたサラは久しぶりに硬直してしまった身体を必死に動かして慌てて三人を追い駆けた。

 右手に進む通路は再び狭い空間へと出る。そして、また右手に向かう通路が見え、この先もその一本道しかない事が解った。建物の構造上、西に向かっていた一行が北への通路に入ったと考えるべきであろう。太陽も出ておらず、光さえ届かない塔の中でそれを明確にする事は出来ないが、塔の入り口の向きから考えられる方角はそうであった。

 

「カミュ」

 

「……ああ」

 

 真っ直ぐに前進していたカミュの足が止まる。それを見たリーシャは背中から斧を取り、繋いでいたメルエの手を離した。手を離されたメルエは最後尾を歩いていたサラの横へと移動し、闇に支配された塔の奥へと視線を向ける。それは明確な戦闘開始の合図であった。

 雷神の剣を抜き放ったカミュは、『たいまつ』を壁に付けられた燭台に掛け、明かりを確保する。しかし、ぼんやりとした明かりの向こうに見えて来た姿を確認すると、顔を顰めた。それはリーシャも同様であり、不快そうに顔を顰めた後、それの到着を待たずして一気に駆け出す。

 カミュ達の前に現れた存在は、暗闇に紛れるような肌の色をしている魔族が三体。内二体は同種族である事が解るが、残る一体がカミュとリーシャの顔を顰めさせる原因となっていた。

 

「メルエ、マホカンタの準備をしておいた方が良いみたいです」

 

「…………ん…………」

 

 後方支援組となったサラとメルエは、カミュ達が顔を顰める原因となった魔物とは別の二体へ視線を向け、詠唱の準備に入る。サラが視線を送った魔物は、勇者の洞窟と呼ばれる場所で遭遇した事のある魔物であり、マイラの森でもその姿を確認していた魔物であった。

 人間では有り得ない体躯の色をしており、耳は大きく尖り、口からは牙が生える。背中には蝙蝠を思わせるような大きな翼があり、右手には鋭利な刃物を持っていた。サタンパピーと呼ばれるその魔物は、何度か遭遇して入る中で、強力な呪文を詠唱した事がある。それを見越してサラは対策を口にし、メルエはそれを察して頷きを返したのだ。

 

「うおりゃぁぁ」

 

 後方の二人が詠唱準備に入る中、一気に肉薄したリーシャは、その他の二体とは異なる容貌をした魔族に向かって斧を振り下ろす。虚を突かれたその魔族は仰け反るように斧の刃を避けようとするが、人類最強の戦士が振るう斧の速度は、魔族が考えるよりも速く、顔面を隠すように装着されていた仮面を砕き、頭部に裂傷を付けた。

 噴出す体液がマクロベータと呼ばれる魔族の顔面を濡らして行く。リーシャやカミュが顔を顰めたのは、この魔族が再び腐乱死体を呼ぶ可能性を考えたからであった。故にこそ、他の二体を無視してでも、この魔族を葬り去ろうとしていたのだ。

 体液が吹き出て尚、マクロベータは倒れる事はなく、仮面の外れた顔面を隠すように手を翳し、怒りの咆哮を上げる。それは、このシャーマン族の魔族が腐乱死体を呼ぶ時の声とは異なり、純粋な怒りの咆哮であった。

 しかし、右手に持つ杖を大きく振るい、何かをしようと動き出したマクロベータの首が静かに床へと落ちる。脳という命令器官を失った魔族の身体は、そのまま床へと崩れ落ちた。振り抜いた雷神の剣に付着する体液を飛ばしたカミュは、残るサタンパピー二体も倒そうと動き始めるが、その一歩目で行動を止めてしまう。それは、目の前の魔族が掲げる刃物の先に輝く魔法陣を見てしまったからであった。

 

「MER@40M」

 

 硬直してしまったカミュに向かって奇声のような詠唱が発せられる。それと同時に刃物の先に模られた魔法陣が輝き、その中心から巨大な火球がカミュ目掛けて飛び出した。それは、自らを魔王と呼び、カミュ達が生まれた世界を恐怖に陥れた者が使用していた呪文。

 魔王を自称する者が、『あの方』と敬称をつけて呼ぶ者が生み出した呪文は全てを飲み込み、全てを融解させる力を持った最上位の火球呪文である。闇に包まれた塔内部を一気に照らし出す明るさと熱量を持った火球が、硬直した勇者へと襲い掛かって行った。

 だが、その行動を予期していた者達が、それぞれの方法で、同じ呪文を詠唱する。

 

「…………マホカンタ…………」

 

「マホカンタ」

 

 少女が振るった杖先から飛び出した魔法力は勇者の身体を包み込み、賢者が突き出した手から発した魔法力は戦士の身体を覆って行った。

 魔法力の壁は、全ての呪文を跳ね返す光の壁となり、前衛二人を護る力となる。しかし、カミュという勇者に迫り来る巨大な火球は、マホカンタが生み出す光の壁さえも破壊する力を秘めていた筈。それを知るカミュとリーシャは、いつでも動けるように態勢を立て直し、迫る火球の熱を感じていた。だが、それは彼等前衛二人が、後方支援組の力量の上昇を甘く見ていた証拠となる。

 火球が放つ光を反射するように輝く光の壁は、火球が触れると同時にその輝きを強くした。そして、小さな亀裂も生む事なく、人一人分の大きさもあるだろう火球を弾き返す。床に当たった鞠が返って来るように、術者へと戻った火球は、その術者の身体全てを飲み込み融解させて行った。

 断末魔を上げる暇もなく消え去ったサタンパピーは、ルビスの塔という神聖な場所にその生きた証である影を残して行く。一瞬で消滅した事によって強く残った影は、おそらく消える事はないだろう。それ程に凄まじい光景であった。

 

「あの二人は益々強くなって行くな」

 

「この魔物が放つ呪文が、魔王やメルエよりも強いという可能性はないがな」

 

 消え去ったサタンパピーを見つめていたリーシャは、頼もしそうにサラやメルエを見つめて微笑む。その横で残るサタンパピー一体を睨みつけながらも、カミュは自分の考察を口にした。

 確かに、このアレフガルド大陸に生息し始めた魔物が如何に強力な者達であるとはいえども、魔王と名乗った程の者よりも上ではないだろう。そして、その魔王さえも凌駕し得る力を持つ魔法使いよりも上位の者である訳もない。それ故に、もし魔王バラモスと戦闘をした当時のメルエが放ったマホカンタであっても、先程のメラゾーマと思われる火球は跳ね返す事が出来た筈だ。

 大魔王ゾーマが生み出したと考えられる呪文を下賜された魔族とはいえ、その力量には確かな差がある。魔王バラモスは決して弱者ではない。もし、このアレフガルドという大陸でもう一度遭遇したとしたら、今の彼等であっても全滅の危機に陥る可能性は否定出来なかった。

 

「逃げるか? それも一つの選択だ」

 

 残ったサタンパピーは、カミュ達へ身体を向けながらも、逃げ腰の姿勢になっている。登場と同時に葬り去られたマクロベータの死体が転がり、同属は自分の放った最上位の呪文によって影にされてしまっていた。その状況下において、単身で向かっていく程、この魔族の知能は低くはない。そしてそれを容認するような言葉を発して剣を下ろした青年を見たサタンパピーは、恐る恐る後退を始め、それでも動かない事を確認した後で一気に戦線から離脱をして行った。

 ドラゴンという竜種の上位種との再戦に挑もうとする二人にとって、最早サタンパピーなど物の数ではない。メラゾーマという最上位火球呪文を防ぐ方法はなくとも、後方支援組の二人が磐石である限り、前衛二人が揺らぐ事はもうないだろう。それを確信出来る程度には、彼等の力量は上がっていたのだ。

 

「メルエのあの呪文は本当に凄いな。全ての呪文を跳ね返すのであれば、最早恐い物無しだ」

 

「あれは、メルエの判断力があってこそです。通常であれば、呪文に呪文を合わせる事など不可能でしょう。少しでも遅れれば呪文の効果を外へ出さない最悪の壁になってしまいますし、早ければ回復呪文さえも弾く余計な壁になってしまいます」

 

 近寄って来たメルエの帽子を取ってその頭を撫でるリーシャが口にした言葉に、サラは反論する。確かに、マホカンタの行使が一拍でも遅ければ、呪文の影響を受けた者を閉じ込める最悪の壁となってしまい、逆に敵が行使する呪文全てを恐れてマホカンタを唱えてしまえば、その後に受ける物理的な攻撃によって傷ついた身体を癒す術を失ってしまう。スクルトやスカラ、バイキルトなどとは異なり、その行使機会が難しい呪文である事は間違いなかった。

 メルエという魔法使いが世界の頂点に立つのは、その魔法力の多さや修得呪文の多さだけが原因ではない。まるで自分の手足を動かすように呪文の行使を行い、それを最適な場所と時に展開させる事が出来るという特殊な才があるからであった。

 サラという賢者は、そのメルエよりも魔法力の制御や応用には優れているが、先程のマホカンタの行使でも解る通り、メルエが行使する瞬間に合わせて詠唱を行っている。それは、メルエがサラよりも他者の魔法力の流れに敏感である事を示していた。

 

「そうか、今後の戦いでも二人を頼りにしているぞ」

 

「…………ん…………」

 

 サラの言葉の中身の半分程しか理解出来ないリーシャではあったが、メルエが凄いという事だけは十分伝わり、頼りになる小さな魔法使いに笑みを浮かべる。その笑みを受けた少女もまた、花咲くような可愛らしい笑みを浮かべて大きく頷きを返した。

 そんな二人を余所にカミュは周囲を見渡すように『たいまつ』を翳し、真っ直ぐ続く通路を歩き始める。何かに取り付かれたように突き進むカミュの姿に心配そうな瞳を向けたリーシャであったが、それでも不思議そうに首を傾げているメルエの頭に帽子を乗せ、その手を取って歩き出した。

 真っ直ぐに続く通路は、塔の北の部分へと伸びている。壁に付けられた燭台に残った火種に炎を移して明かりを確保しながら進んで行くと、再び少し開けた空間に出た。そして、そこでもまた右手に向かう通路が見え、一行はその通路へと足を踏み入れる。

 

「行き止まりか?」

 

「でも、リーシャさんはこちらの通路を示していませんでしたよね」

 

 通路に出た一行は、塔内部に入り込んで来る風の音を耳にしながらも、その先が壁に覆われた行き止まりである事に気付いた。

 先頭で足を止めたカミュに向かって口を開いたリーシャであったが、後方で首を捻った姿で真面目に疑問を呈するサラに溜息を漏らす。確かに、リーシャが指し示す方向は行き止まりが多くはあったが、それでもカミュが進む道が全て正しいという訳ではない。リーシャの示した道とは逆方面に歩く方が正しい事が多かったが、それも絶対という事はあり得ない筈なのだ。

 それにも拘わらず、リーシャの探知能力に絶対の信頼を向けているサラは大真面目に首を捻っている。それが喜ぶべき物であるのか、それとも小馬鹿にされていると怒るべき物なのかが判断出来ず、リーシャは溜息を吐き出していた。

 

「……壁が壊れている」

 

「…………おそと…………」

 

 突き当りまで動いたカミュは、左手にある筈の塔の壁がない事に気付く。先程感じていた風はこの壁に出来た大きな穴から入り込んだ物であったのだ。カミュの横からその穴を覗き込んだメルエは、それが外へと向かう穴である事を口にする。サラが口にする敬称をつけた単語であるが、何時もそれを聞いているメルエが口にすると、何処か間抜けな響きに聞こえる事でリーシャは小さな笑みを浮かべた。

 しかし、そんな微笑みは近寄って来るメルエが何故か遠退き始める事で凍り付く。先頭に居たカミュの足元の床が動き出し、まるで壁に空いた穴へ吸い込んで行くように誘っていたのだ。

 そのカミュのマントを掴んだメルエさえも運び始めた床は、そのまま一行四人全員を壁の穴へと落として行く。一瞬振り向いたカミュの瞳を見たリーシャは一つ頷きを返し、右手でメルエの腕を、左手でサラの腕を取り、床の動きに身を任せた。

 壁の穴から宙を飛んだカミュは、全員がしっかりと繋がっている事を確認してアストロンを詠唱する。何物を受け付けない鉄の塊となった四人は、そのまま重力に従って下層へと落ちて行った。

 

 

 

 塔の一階部分に大きな音と振動が響く。三階層から落ちたカミュ達は、そのままルビスの塔一階の北側に突き出した出丸のような場所に落下した。

 北側の西と東を結ぶ通路から突き出したバルコニーのような場所は、巨大な塔を安定させる為に作られた場所なのだろうが、その場所は外から入る事は出来ず、内側からも繋がる通路がない。まるで人ではない何かの出入り口のように空は開け放たれているものの、高い壁が空を飛べない人間を遮っているような場所であった。

 徐々に鉄化が解けた一行は、落下の際に消えてしまった『たいまつ』に再び炎を点し、周辺を確認してから前方に見える通路へと足を踏み入れて行く。

 

「精霊様達の出入り口なのでしょうか?」

 

「解らないな。この塔を作り上げた職人でなければ、この構造は説明出来ないだろう」

 

 通路を進んで行くと左右に分かれた道があり、後方を振り返ったサラは、この塔の不思議な構造に疑問を呈す。確かに、三階層から落とすような仕掛けが床にあった事も驚きではあるが、カミュ達だからこそ無事であっても、通常の人間であれば間違いなく死んでいる筈であった。故にこそ、どのような意図で作られたのかがサラには理解出来ないのだろう。

 侵入者を排除する為だけであれば、その先の道を作る必要はない。それにも拘らず、先程の場所から上層へ向かう事の出来る道が残されている。それは、この通路を通るという選択肢があったという事を意味していた。

 何の為にこのような経路を生み出したのか解らない。もう一点疑問を差し挟むのならば、カミュ達が落ちる事となった床は、光の鎧があった柱に通じる通路の時のように乗った瞬間に動き始めた訳ではない。まるでカミュやサラという人物を確認した後に、この場所へ誘導するように動き始めていた。それが何の意志によるものなのか、それはこの場で答えが出る物ではない。それは、この上で封印されている者のみが答える事の出来る物であった。

 

「カミュ、右で良いのか?」

 

「……アンタは左だと思うのだろ?」

 

 迷う事なく右の通路へ進路を取ったカミュの背中にリーシャは問いかける。しかし、逆に問いかけられた言葉に、彼女は言葉に窮する事となった。確かに、リーシャは何となく左だと思ってはいたが、その問いかけをする事もなく右へ進路を取る彼に対して、光の鎧を入手する前よりも胸騒ぎを感じていたのだ。

 導かれるように歩くカミュが、誰かに意志を乗っ取られているのではないかという妄想に近い不安が彼女の胸に襲う中、小さく笑みを浮かべた彼の表情がその不安を霧散させて行く。この儚げな笑みは、カミュでなければ浮かべる事ないのだ。そして、その小さな笑みに、リーシャの手を握っていた少女が満面の笑みで応えた事でそれは確信となった。

 

「行くぞ」

 

 メルエの笑みに頷きを返したカミュは、そのまま右へ折れた通路を真っ直ぐに進む。そして突き当たりの空間に見えた階段を上り、二階層へと戻って行った。

 二階層でも、北側の西と東を結ぶ通路が真っ直ぐに伸びており、そこに待ち受ける魔物もおらず、一行は難無く三階層へと足を伸ばす。三階層はカミュ達が外へと放り出された階であり、この階層の北側の通路は結ばれていない。西から伸びた通路は途中で行き止まりとなっており、反対側の東側へ出た一行は、すぐ傍にある四階層へ向かう階段を使って上層へと足を踏み入れた。

 

「その鎧があったのは四階だったな?」

 

「そうですね。確かに四階だったと思います」

 

 四階層の北東部分に出た一行は、一階層、二階層と同様に東から西へと伸びた通路を渡り始める。真っ直ぐに伸びた通路は左右をしっかりと壁が作られており、太陽が昇っている昼間でも日光が差し込む事はないだろう。通気の為の穴は空いていても、それは雨風を遮る為に下方向へ向けて空けられた物である為に光を呼び込む事はない。『たいまつ』の炎を燭台に残る僅かな枯れ木へ移す事で慎重に歩き続けた。

 通路の中央部分でこのルビスの塔に棲み付く魔物と遭遇するが、それはラゴンヌという名の魔物が二体。その魔物達は既にカミュ達の敵ではなく、脅威となる筈のマヒャドでさえも、氷竜の因子を持つメルエが唱える呪文程でもない。賢者、魔法使いの二人が放つ最上位灼熱呪文によって相殺され、その隙を突いた前衛二人の刃を受けた二体のラゴンヌは、嚙み付く相手を間違えた事を理解する事なく、命を散らして行った。

 

「この階段を上れば、最上階だろう」

 

「……そこにルビス様が」

 

 北東から北西へ繋がる通路を渡り終えると、そこには上の階層へ向かう階段が見えて来る。天から下向して来る精霊神を迎えるとはいえども、人間が生み出す建造物の層は限られているだろう。このルビスの塔は、今まで探索して来た多くの塔の中でも最も高い物ではあるが、それでも階数を増やす事には限界があるのだ。

 外観から見た状況であれば五階層までは限界であり、光の鎧が封じられていた場所が四階層であるならば、最上層は五階と考えるのが妥当であろう。そして、そこが最上層であれば、その場所に居る者は唯一人。

 『精霊神ルビス』のみである。

 

「ここから先は何があるか解らない」

 

「気を引き締め直さなければな」

 

 階段へと足を掛けたカミュは、後方へ振り返り続く三人へ警告を発する。それを受けたリーシャが厳しく表情を引き締め、それを見たサラとメルエもしっかりと頷きを返した。

 ここまででドラゴンのような竜種を確認していない。前回に遭遇した四体のドラゴンは氷竜となったメルエが全て葬っている。だが、大魔王ゾーマから見ても重要な場所となるこのルビスの塔に竜種が四体しか居ないという事はないだろう。仮に、ドラゴンがあの四体だけだったとしても、それ以上の力を持つ者がこの上層で待ち受けている可能性は大きかった。

 メルエを死に誘い、リーシャとカミュによって消滅させられた魔王の影が大魔王ゾーマにカミュ達の情報を伝えていなかったとすれば、この塔に増援が呼ばれる事はないのかもしれないが、それでもこの上の階が安全な場所であるとは考えられない。気を引き締めて動かなければ、再び全滅の危機に瀕する可能性も高いのだ。

 

「しかし、その鎧は凄いな。正直、『たいまつ』がいらないのではないかと思う程、前を行くカミュの姿がはっきりと解る」

 

「…………カミュ………すごい…………」

 

 階段を上り始めたカミュの背中を見ながら呟いたリーシャの言葉に、手を握るメルエが大きく同意を示す。その言葉通り、青白く輝く鎧は、漆黒の闇に包まれたルビスの塔の中に於いて、リーシャ達の道標のように輝きを放っていた。

 不死鳥ラーミアが羽ばたく時に発するような神々しい輝きを宿す鎧は、その勇者を誰よりも信じる少女にとっても誇らしい物となっている。自分の大好きな人間が、大好きな神鳥の紋章が刻まれた鎧や盾を身に着け、そして自分を照らす輝きとなっている事は、常に暗闇を歩いて来た少女にとって何よりも嬉しい事柄なのだ。

 満面の笑みを向けるメルエの瞳を見たカミュは、引き締めた表情の中で小さな笑みを作り、再び上層へと視線を移す。今までの不安が嘘のように霧散して行く事を感じたリーシャは、後方で頷くサラへ頷きを返した後、階段を上り始めた。

 

「右へ行っても、左へ行っても同じだ」

 

「……わかった」

 

 階段を上り終えたカミュは、視線をリーシャへと向ける。この塔に入って初めての問いかけに暫し考え込んだ彼女は、どちらの方へ向かっても変わりがない事を口にした。相変わらずの精度を持つ探知機能に驚きを見せながらも、カミュは頷きを返して階段から右手に見える通路を歩き出す。メルエと共に、そんな二人の様子を『くすくす』と笑うサラもまた、頭に乗るサークレットを直し、もう一度意識を引き締めて奥へと向かった。

 方角でいえば真っ直ぐ南へ伸びる通路には、魔物や魔族の残骸が転がっている。周囲に体液の染みのような物があるにも拘らず、全てが骨だけの形になっている事からも、何物かによって喰われた可能性は高かった。

 

「……カミュ、奥に竜種が居る事は間違いない」

 

「ああ」

 

 既にメルエの手を離し、斧を握っているリーシャが、周囲に残る白骨へ視線を向けて口を開く。周囲に散ばる骨の中に人間の物と思われる骨は一つもない。四足歩行の動物のような骨や、明らかに魔族と思われる奇妙な形の骨ばかりが転がっていた。

 ドラゴンは竜種の上位種である。史上最強種と云われる竜種は、本来であれば魔物や魔族などよりも上位に位置する存在であるのだ。それは知能や技術ではなく、単純な弱肉強食という部分で言えば、このルビスの塔内部で頂点に居るのだろう。食料がない塔内部では魔物が魔物を喰らう事もあり、それが魔物や魔族とは一線を画す竜種となれば、元々それらを食料として喰らっていた可能性も否定は出来ないのだ。

 

「メルエ、杖の準備を。今回はドラゴラムの詠唱は必要ありません。例えドラゴンになってもメルエを嫌いになる事など有り得ませんが、今回は皆の力で打ち倒しましょう」

 

「…………ん………メルエ……やる…………」

 

 燭台に炎を点しながら前へ進むカミュ達を追うように歩いていたサラは、哀しそうに床に残る骨を見つめる少女にある呪文の禁止を伝える。それは前回の探索で少女が全てを掛けて唱えた呪文であった。

 己の中に受け継がれる因子を呼び起こし、太古から流れる血脈へと還る呪文。竜種最上位種の一つである氷竜へと姿を変え、己の大事な者を脅かす敵を全て葬り去る為の呪文であり、その敵を葬らなければ姿を戻す事さえも自力では不可能な物でもあった。

 今のサラは、例え強大な力を持つ竜種に姿を変えようとも、メルエに対して恐怖を抱き、それを避けるような真似はしない。だが、この少女を妹として心から愛しているからこそ、彼女にその呪文を行使させる事を良しとはしなかった。

 

「居るな……」

 

「不意を突くか?」

 

 南へと伸びた直線の通路の先には再び東へと向かう通路が見える。そこまで来て初めて、カミュ達の耳にあの独特な唸り声が届いた。

 地の底から響くような唸り声は、竜種の呼吸とも云われている。体内から灼熱の炎を吐き出す竜種の喉は焼け爛れ、呼吸をする度に唸るような音を発すると伝えられていた。

 一息呼吸を整えたカミュは、東へ向かう通路に足を踏み出す。通路に入った途端、塔内部の大気が震え始め、カミュ達三人の頬に痛い程の威圧感が襲い掛かった。それでも、竜の因子を持つメルエの瞳に怯えの色は見えない。それを見たカミュとリーシャは、不敵な笑みを浮かべて一歩一歩中央へと進んで行った。

 

「……三体か」

 

「ならば、前回よりは楽だな」

 

 南東へ向かう通路は、半分まで進むと北へと伸びる中央を通る道と、そのまま東へ向かう道へと分かれる。壁沿いに身体を付けたカミュは、『たいまつ』の明かりを少し掲げながら中央への道を覗き込み、そしてその場所で目標となる敵を発見した。

 三体のドラゴンが床へ寝そべり、唸り声を上げながら何かを護るように塞がっている。これらを倒さずして先に進む事は叶わず、避けて通る事は不可能だろう。カミュの言葉にリーシャは軽口を叩くが、竜種の上位種が三体というだけで、通常の人間は絶望を感じる程の戦力であった。

 前回探索時は四体。確かに一体少なくはあるが、メルエが放ったイオナズンによって一体を葬り去ってからも、一行は全滅の危機まで追い詰められた事を考えると、決して楽観視出来る物ではない。それが解っているからこそ、軽口を叩きながらもリーシャは表情を崩さずに、じっとりと滲んで来る汗を感じながらも、魔神の斧を握り締めた。

 

「メルエ、俺とコイツにスクルトとバイキルトを」

 

「…………ん…………」

 

「あっ、スクルトではなく、スカラを唱えましょう。リーシャさんの分は私が唱えます」

 

 集団に効果のあるスクルトよりも、単体を対象としたスカラの方が効力は高い。膨大な量を持つメルエの魔法力でカミュは包まれ、緻密なサラの魔法力でリーシャが包まれる。それぞれの武器にも魔法力の膜で覆われ、戦闘準備は完成した。

 ついでと言わんばかりに、身体の俊敏さを上げるピオリムを二人に掛けたサラは、前方に見える緑色の鱗を持つ三体のドラゴンに視線を向ける。その威圧感は、前回遭遇した時と全く遜色はない。それでも、前回ほどの絶望感はなかった。

 時折上げられる咆哮は大気を震わせ、塔の壁が軋む。それでも足は竦まず、身体も震えない。前回の敗退から僅か数ヶ月。その僅かな時間の中で、一行は確実にその力量を上げていた。

 己の脆弱さを実感し、力量不足も痛感した。大魔王討伐どころか、その場所に辿り着く事さえも不可能である事を知り、この再戦の為に力を付けて来たのだ。

 だが、そのような事は彼等四人にとっては苦ではない。何故なら、この六年近くの旅は、最初から今までその繰り返しであるのだから。アリアハンを出た当初は魔王バラモス討伐という使命に意気込んでいたリーシャやサラは、遭遇する魔物の強さが上がるにつれ、その目標に届く為には力量を上げて行くしかない事を痛感し続けて来た。

 魔王バラモスを倒す為に上げて来た力量は、いつの間にか魔物や魔族をも圧倒する物になっていたが、それがアレフガルド大陸に来て変化する。再び挑む者としての立場に戻された彼等は、再度己を磨く事に力を入れ、そして今この場所に立っている。

 

「行くぞ」

 

 リーシャの言葉にあった『奇襲』という言葉を無視し、カミュは雷神の剣を抜き放って堂々と寝そべるドラゴン三体の前へと進み出る。その行動に驚きもせず、リーシャが斧を軽く振りながら彼の隣に並び、その後方に呪文使い二人が続いた。

 悠然としたその姿は、前回命からがら逃げ出した者達の物とは思えない。各々の瞳は怯えの色など見せず、仲間への信頼と自信に満ち溢れていた。ゆっくりと確実に中央へ続く通路を四人は歩く。一体のドラゴンが近付いて来る脆弱な人間達に気付き、長い首を上げた。

 

「グオォォォォ」

 

 脆弱な人間という獲物の出現に、一体のドラゴンが咆哮を上げ、それに呼応するように残る二体も畳んでいた足を伸ばして立ち上がる。人間の数倍の大きさを持つ竜種の身体が、凄まじい威圧感を撒き散らす中、先頭を歩く青年が纏う鎧が青白い輝きを発した。

 胸に刻まれた神鳥の紋章が飛び立つように発せられた輝きは、後方から続く三人の心に忍び寄る恐怖を打ち払って行く。『勇気』の象徴と云える青年が今、史上最強種の上位に君臨する物と再び対峙した。

 一振りした剣先から稲妻のような光が迸り、神鳥の紋章が輝く盾は全てを防ぐように空気を変えて行く。三体全てのドラゴンが小さな侵入者に襲い掛かる準備を完了させ、大きく口を開いた。

 勇者一行の戦いの幕が上がる。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
本当はドラゴン戦終了までと思ったのですが、相当な文字数になりそうでしたので区切りました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ルビスの塔⑥

 

 

 怯えもなく、焦りもなく向かって来る一人の青年に、竜種の上位に君臨するドラゴンは気圧されていた。目の前に見える生物は、この世界の中でも最も底辺の力しか持たない人間。それにも拘らず、一振りの大剣を持って歩いて来る姿は、ドラゴンが恐れを抱いた事のある竜の女王や大魔王に匹敵する存在感を持っていたのだ。

 それでも竜種の上位に君臨するドラゴンの力は、アレフガルド大陸でも上位に位置する。そんな存在が小さな人間に臆するなど認める事は出来なかったのであろう。大きく開かれた口の奥に燃え盛るような火炎を溜め込み、それを矮小な人間に向かって一気に吐き出した。

 

「フバーハ」

 

 炎が噴出した瞬間に、ドラゴンと人間の青年の間に霧のカーテンが生まれる。霧が炎を包み込み、水蒸気へと変えて行った。一気に吹き上がる高熱の蒸気の壁で視界を遮られたドラゴンは、その壁を一気に抜けて飛び込んで来る青白い光を目にした瞬間、左側の視界を奪われる。

 巨大な咆哮を上げたドラゴンは、左目を斬り裂かれ、大量の体液を飛ばしながら首を上げた。水蒸気の壁の熱など物ともしない青年の身体は青白い光を発する鎧によって護られている。首辺りに出来た多少の火傷は、剣に付着した体液を飛ばした瞬間に癒えて行った。

 戦闘開始と共に強靭な鱗を斬り裂いた青年に、ドラゴン三体が怯みを見せる。矮小な人間と侮り、食料としてしか見ていなかった相手に付けられた傷が痛み、視界が赤く染まったドラゴンは、その怒りを真っ赤な炎を吐き出す事で表現した。

 

「おりゃぁぁ!」

 

 しかし、その炎は途中で中断させられる。横合いから振り抜かれた斧が、ドラゴンの口先を大きく抉ったのだ。吹き出す体液と、斬り裂かれた舌。ドラゴンの下顎と長い舌が斬り裂かれ、思うように炎を吐き出す事が出来なくなった一体のドラゴンは、そのまま斧を振るった女性を喰らおうと首をもたげるが、そこでその一体の視界は暗転した。

 巨大な音と共に床へと落ちたドラゴンの首には、綺麗に斬り裂かれた痕が残る。深々と抉られた傷から溢れる体液が、神聖な塔の床をどす黒く染めていた。世界最強種族である竜種の鱗を容易く斬り裂き、一体の竜種を討ち果たした青年が剣を振るって体液を飛ばす。その後方から斧を担いだ女性戦士が現れた事で、ようやく行動が止まっていた残る二体のドラゴンの瞳に力が戻った。

 

「ここからは簡単にはいかないようだ」

 

「……わかっている」

 

 既に命を散らした一体は、カミュ達を侮り、自分の強さを驕っていた。竜種として、この塔の中でも頂点に居たドラゴンが敗れる事はなかったのだろう。故にこそ、近づいて来た矮小な人間を侮り、簡単に討ち果たす事が出来ると考えていた。その隙を突く事が出来たからこそ、サラやメルエの補助呪文があったとはいえ、前衛二人だけでドラゴンを討ち果たす事が出来たのだ。

 しかし、残る二体はそんな彼等の力を見て、明確に敵と判断している。既にその瞳に驕りや蔑みはなく、純粋な敵対意志と怒りが見えていた。この後の戦闘では不意打ちのような策は使えず、純粋な力のぶつけ合いとなるだろう。如何に炎や吹雪から護ると云われている勇者の盾や光の鎧を纏っているとはいえ、本気になった竜種と単独で渡り合う事など出来はしないだろう。

 リーシャへ頷きを返したカミュは、視線を後方にいる二人へと移した。

 

「メルエ、行きますよ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの視線を受けたサラは小さく頷いて隣の少女へ声を掛ける。自身の背丈よりも大きな杖を掲げたメルエもまた、一歩前へと踏み出した。

 溢れる魔法力は空間に漂う大気さえも歪める。己の内にある太古からの因子が、格の違いを訴えかけるように、目の前で咆哮を上げる二体の竜種へ警告を鳴らした。

 何かを感じた一体のドラゴンが大きな咆哮を上げた跡でその口を目一杯に開き、また一歩と歩を進めて来る少女とそれを護るように共に進んで来る女性に向かって荒れ狂うような炎を吐き出す。一気に吐き出された炎に合わせるように霧のカーテンを生み出す事は出来ず、それに変わって振り抜かれた少女の杖先にあるオブジェの嘴から圧倒的冷気が吹き荒れた。

 氷結系最上位呪文であるマヒャドがドラゴンの吐き出した火炎と衝突し、大きな音を立てながら蒸気を上げる。だが、真の力に目覚めた小さな魔法使いが操る冷気は、竜種の上位に君臨するドラゴンの炎を圧倒した。

 渦巻くように吹き荒れた冷気は、炎を消し去って尚勢力を維持し、ドラゴン一体の前足を地面へと縫い付けて行く。床に凍り付いた前足に気付いたドラゴンは悲鳴のような咆哮を上げ、長い首を左右に揺らした。

 

「カミュ、今だ!」

 

 一体のドラゴンの状態を確認したリーシャが、その言葉と共にドラゴンへと駆け出す。魔神が愛した斧を振り被り、そのままドラゴンの首へ真っ直ぐ落とそうとした時、その身体は消え去った。

 残るドラゴンの存在を忘れていた訳ではない。だが、自身の力量が上がった事を認識している彼女は、もう一体が動き始める前に斧を振り下ろせると考えていた。だが、それは竜種という存在の評価を甘く見すぎていた証拠となる。

 仲間の窮地に駆け寄ったもう一体の竜種の首がリーシャの身体を薙ぎ払い、絶対的な重量の違いから、彼女の身体は塔の壁に激しく衝突した。吹き抜けの場所であれば、階下へ真っ逆さまに落ちていただろうが、壁に衝突したリーシャは、そのまま前のめりに床へと崩れ落ちた。

 

「メルエ、支援を! 私はリーシャさんを診て来ます!」

 

「…………ん…………」

 

 倒れ付したリーシャは、気を失っていないまでも起き上がる事が出来ない。不意を突かれた形での衝撃だった為、それに対しての備えが何もなかったのだ。故に、その衝撃は緩和される事なく身体全身に巡り、何処かの骨が折れている可能性さえもあった。

 前回の苦戦が蘇ってくるような構図。再びカミュ一人でドラゴン二体を相手取る事となり、一体の足が固定されているとはいえ、吐き出す炎は強力である。自身が吐き出す火炎の熱によって溶け出した足元の氷を破ったドラゴンがカミュへ肉薄する。真の主としてカミュを認めた勇者の盾が火炎を悉く退けてはいるが、二体のドラゴンの攻撃を凌ぐ事も難しくなって来ていた。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 しかし、一体のドラゴンがその首をカミュへ向けて振り下ろそうと動いた時、後方の魔法使いが最上位の火球呪文の詠唱を完成させる。その呟きに近い詠唱を聞いたカミュは、ドラゴンの攻撃の力を利用して一気に後方へと飛び、炎を吐き出そうとするもう一体のドラゴンに向けて左手を掲げた。

 巨大な火球がドラゴンの顔面目掛けて襲い掛かる。カミュを弾き飛ばしたと満足気に口を歪めたドラゴンは、自身の吐き出した炎以外に熱気に気付き、即座に首を下げた。しかし、火球の速度はドラゴンが考えているより速く、その頭部にある二本の角を削ぎ落とすように融解させて反対側の壁へと突き刺さった。

 

「ギオォォォォ」

 

「イオラ」

 

 身体の一部が圧倒的な熱量で融解された痛みを感じたドラゴンは、咆哮とも言えない凄まじい叫び声を上げる。だが、その叫び声に掻き消される事のない詠唱が塔内に木霊し、カミュへ向かって炎を吐き出そうとしていたドラゴンの口内で空気の圧縮解放に伴う爆発が起きた。

 のた打ち回るように痛みを表現するドラゴンと、吐き出そうしていた炎を巻き込んでの爆発を体内で受けたドラゴンの悶絶によって、イオナズンの威力でも崩壊しない堅固な塔が揺れ動く。大きな杖を振るっていた少女が尻餅を突くほどの揺れが響く中、剣を構え直したカミュの横をすり抜けて、一人の女性が煌く一閃を走らせた。

 

「グオォォォォ」

 

 爆発によって口内に傷を負ったドラゴンの前足が深々と抉られる。巨大な身体を支えていた四本の足の一つが力を失い、支える事の出来ない身体が床へと落ちて来た。それを見たカミュは態勢を立て直してそのドラゴンへと向かうが、横合いから吐き出された燃え盛る火炎に行く手を遮られる。

 大きな舌打ちをしたカミュは、即座に後方へと戻って来たリーシャと肩を並べて炎の熱気が去るのを待つ。そんなカミュ達の空白の時間を突くように、炎を吐き出したドラゴンが炎の中を突き進んで来た。

 

「マヌーサ」

 

 虚を突かれたカミュの反応が一拍遅れる中、大きく口を開いたドラゴンの牙が炎の明かりを受けて輝く。しかし、その牙はカミュを捕らえる事なく、大きな音を立ててドラゴンは口を閉じる事となった。

 後方から唱えられた補助呪文は、敵と認識した二人を敵視する余りに視野の狭くなったドラゴンの脳を蝕んで行く。脳神経を麻痺させ、幻影を見せるその呪文は、竜種の上位に君臨するドラゴンの脳機能を低下させ、虚空に見えたカミュの幻影へと嚙み付いたのだ。

 元々『火竜』という種族の端に名を連ねるドラゴンは、火炎系統の耐性は強い。己の吐き出した炎が如何に強力でも、それを突き抜けて進んで行く事は可能なのだ。その点に意識が向かなかったのは、どれ程に力量を上げたとしても、カミュ達の種族が『人』であるが故なのだろう。

 竜種が強靭な肉体と鋼のような鱗を持っている事を知っている。それでも、火炎の中を突き進んで無傷でいられるとは考えても見なかった筈だ。

 

「竜種でも、仲間の危機には身を挺するのだな」

 

「……人間であろうと、魔族であろうと、竜種であろうと、根本は変わらない筈だ」

 

 あらぬ場所に向かって牙を剥いているドラゴンの姿を見上げながら、しみじみと呟きを漏らすリーシャに、カミュはこの旅が始まった頃から一貫した考えを口にする。それを聞いたリーシャは恥ずかしげに苦笑を浮かべ、『そうだったな』と一言口にした後、表情を引き締めて斧を構え直した。

 人間であろうと、同種の人間を落とし入れ、騙し、嘲笑う悪魔のような者も存在する。仲間を見捨て、自身だけが生き残る為に他者を斬り捨てる人間も数多くいるだろう。それは魔族だから、魔物だから、などという事はないのだ。

 逆に、魔族の中にも同種を大事にし、懸命に回復呪文を唱える者もいた。竜種であろうと、共に生きる種族を護る為に己の身を犠牲にする者がいても何も可笑しくはない。

 

「だが……それでも、私達は前へ進む為に彼らを葬らなければならない」

 

「それこそ、変わる筈がない。俺は何もせずに死ぬつもりはない」

 

 引き締めていた表情を緩め、リーシャは笑みを溢す。彼女の言葉に対して返って来た言葉は、遥か昔、まだ彼女達が生国であるアリアハン大陸から抜け出していない頃に聞いた物であった。

 魔王バラモスに辿り着けるとは考えもせず、途中で命を散らす事を受け入れていた彼が、それでも何もせずに死を受け入れるつもりはないと口にしたのは、その頃は僧侶であったサラが初めて魔族を見た時である。

 だが、リーシャが微笑んだのは、今のカミュの言葉に若干の嘘が隠されていたからだ。今の彼はあの頃に比べ、大きく変わっている。あの頃とは異なり、受け入れざるを得ない死でさえも跳ね除けようと抗う筈だ。それは何の為なのか、その原動力が何なのか、もしかするとカミュ自身気付いていないのかもしれない。だが、リーシャはその心を知っていた。

 

「バギクロス」

 

 今まであらぬ方向へ向けられていたドラゴンの牙が、正確にカミュに向かって襲い掛かる。既にリーシャとの会話を終えていたカミュは、その牙を軽やかに避け、雷神の剣を振るった。その剣筋と共に後方から飛んで来た十字に切った真空の刃が、ドラゴンの巨大な牙を根元から斬り飛ばす。斬り飛ばされた牙を掻い潜って一閃された剣筋は、正確にドラゴンの喉笛を斬り裂いた。

 吹き上がる体液と轟く雄叫び。床を夥しい量の体液が満たして行く。しかし、それでもそのドラゴンの闘志は衰えない。喉から体液を溢していてもその痛みに燃える瞳をカミュへ向け、大きく口を開いた。

 後方支援組の詠唱が間に合わない程の速度で吐き出された炎が、至近距離からカミュを包み込む。真っ赤に燃え上がった炎から肉の焼ける臭いが漂い、炎に包まれた人間の身体に被害が及んでいる事が推測出来た。

 

「カ、カミュ!」

 

 未だに炎を吐き出し続けるドラゴンに向かって斧を振り上げ、その行動を中断しようと駆け寄った女性は、真横から繰り出された一撃によって吹き飛ばされる。壁に衝突し、再び崩れ落ちた女性戦士によって足を斬り裂かれたドラゴンが尾を振るったのだ。

 僅か一撃で形成を逆転してしまうという強みは、何も勇者一行に限った事ではない。竜種の上位に君臨する者であれば、それを可能とする力を有しているという事であった。

 真っ赤に燃え上がる炎を呆然と見つめていたサラは、その事実を改めて突きつけられる。ここまでの戦闘で、自分達が優位に立っていると確信していたからこそ、この状況が訪れる可能性を理解していながらも、それを何処か遠い可能性と考えていたのだ。

 

「…………マヒャド…………」

 

 呆然とそれを見つめるサラの横で少女が杖を振るう。同時に巻き起こった冷気の嵐が、塔の天井まで吹き上がる炎の柱を消し去って行った。圧倒的冷気が炎とぶつかり、蒸気の壁を生み出す。蒸気の壁によって視界を遮られたサラは、我に返って壁に衝突したリーシャへと視線を向けた。

 そこで彼女は、自分が考えている以上の強さを前衛二人が有している事も、改めて知る事となる。どんな局面であっても、サラやメルエの前に立ち、そのような脅威からも護り続けて来た二人は、ルビスの塔の初探索時に受けた雪辱を晴らす為、サラやメルエの見ていない所でも努力を重ねて来ていたのだ。

 己に何が出来るのか、己に何が出来ないのか、何を有し、何が不足しているのかを常に考え、不足している部分を補いながらも、有している物を伸ばす為の努力を彼等は惜しまない。故にこそ、彼等は今、この塔の最上階まで辿り着く事が出来たのだ。

 

「…………カミュ…………」

 

「リーシャさん!」

 

 後方支援組二人の喜びの声が轟く中、二体のドラゴンの大きな瞳に僅かな怯えが映り込む。それは、多少の火傷を負いながらも、青白い輝きを放つ鎧を纏った青年を見たからなのか、それとも自分の身を護る物である筈の盾を掲げ、淡い緑色の光に包まれながら立ち上がった女性戦士を見たからなのかは解らない。ただ、この世界最高種族である竜種を圧倒するだけの力がそこにあったのだ。

 僅かに残る鉄化の名残が消えて行き、青白い光に包まれた勇者が真っ直ぐにドラゴンへ向かって駆けて行く。力の盾というアレフガルドでも希少な盾を構え直した女性戦士が、勇者の背を護るように、恐慌に陥って振るわれた尾を弾き飛ばして行った。

 

「ルカニ」

 

「…………ボミオス…………」

 

 そんな前衛の動きに合わせるように、賢者と魔法使いが補助魔法の詠唱を完成させる。賢者は、敵の防御力を落とす効力を持つ呪文を、魔法使いは敵の素早さを奪う呪文を。それは二体のドラゴンの身体に正確に到達し、その効力が発揮された事を示すように魔法力の輝きを残した。

 リーシャが振るう斧が動けないドラゴンの尾を斬り飛ばし、カミュが振り下ろした剣は、避けようと動くドラゴンの首へと突き刺さる。突き刺さった剣は、その全体重を持って振り抜かれ、ドラゴンの長い首を床へと落として行った。

 塔の最上階が揺れる程の振動を生み出して落ちたドラゴンの首は、夥しい量の体液を垂れ流しながら痙攣を続ける。巨大な瞳から光は失われ、黒目が消えて行った。一体を葬り去ったカミュは、もう一体のドラゴンが炎を吐き出す素振りを見て、傍にいたリーシャの身体を片手で抱き抱える。そのまま勇者のみが行使出来る最上位の防御呪文の詠唱を完成させ、何物も受け付けない鉄の塊へと姿を変えた。

 

「メルエ、行けますか?」

 

「…………ん………イオナズン…………」

 

 既に二人分のマホカンタを唱え終えていたサラは、カミュ達の姿が鉄色に変わるのを確認して、隣に立つ少女に問いかける。自分を取り巻く光の壁を形成する魔法力の温かみを感じたメルエは、大きな頷きを返して杖を振るった。

 直後、この塔の最上階に残る全ての光と音が消し飛ばされる。空気全てが圧縮されたのではないかと思う程に視界は歪み、その歪みの中心にいる緑色の鱗を持つ竜種の姿さえも歪んで行った。そして、耳鳴りがする程の静寂が一気に解放され、凄まじい爆発音と共に爆風と振動が全てを飲み込んで行く。

 塔の壁のあちこちから岩が崩れ落ち、天井を形成する一部も崩壊した。その中心にいた竜種の血肉は爆発によって弾け飛び、その熱によって跡形もなく消し去られる。

 本来であれば、このような塔内部で使用するような呪文ではない。塔の崩落という危機を考えるのであれば、この呪文を使用する事なく、前衛二人に任せるべきであった。だが、サラは既に前衛二人の限界を見ていたのだ。

 二体の竜種を葬り去った二人の腕は僅かに震えている。それは、バイキルトという呪文によって武器を強化しているとはいえ、その強固な鱗を斬り裂いて敵を葬る行為が彼等の身体に負荷を掛けていた証拠でもあったのだ。

 

「大丈夫です。カミュ様達はアストロンによって護られていますから」

 

「…………ん…………」

 

 そして、現在所有するサラとメルエの呪文の内、この竜種に対抗出来る物は、魔法使いの少女が所有する最上位の爆発呪文だけである。前回も一体のドラゴンを吹き飛ばし、その命を軽々と奪った爆発呪文だけが、弱っているとはいえ、竜種の命を奪う事が出来る物であった。

 故にこそ、サラはそれを行使する事を選んだのだ。前回同様、メルエが魔法力の出力を調整するとすれば、ルビスの加護と人々の信仰、そして今では大魔王ゾーマの魔力に護られた塔が崩壊する事はないと考えていた。

 だが、爆風による砂埃が晴れ、鉄の塊となったカミュ達二人が見えて来た頃、サラは自分の判断が危うい物であった事を知り、改めて今後は呪文の行使場所を熟考する必要性を感じる事となる。

 荒れ果てたフロアに、崩れ落ちた天井、天井を支えていた柱の数本は折れ、崩壊した壁には大きな穴が空いている。中心部に近いカミュ達の足元は抉れ、所々では床が抜けている部分さえも見えていた。

 本来の使い手とサラが認める魔法使いの少女が生み出した惨状は、やはり魔王を名乗る者が生み出した爆発よりも規模が上であったのだ。

 

「ふぅ……カミュ、何とか生き残れたみたいだ」

 

「竜種にではなく、味方に殺されるところだったのかもな」

 

 今では背丈もリーシャを越えたカミュが、そんな彼女の肩を抱きながら見た光景は、アストロン行使前と同じ場所だとは思えない物であった。カミュの手が自分の肩にあるという事に気付く事も出来ず、リーシャもまた、その光景を呆然と見つめる。まるで夫婦が絶景を見ているような後姿に小さな少女が抱きつくまで、そんな時間は続いて行った。

 駆け寄って来た少女が腰に抱きついた事で我に帰ったリーシャは、気恥ずかしげにカミュの腕を解き、メルエを抱き上げる。褒めて欲しそうに見つめてくる少女に苦笑を漏らした彼女は、その帽子を取って優しく頭を撫でた。

 

「ご無事で良かったです」

 

「この分だと、封印されているルビス自体が無事かどうかは解らない」

 

 安堵したように近づいて来たサラは、カミュの返答を聞いて顔色を青くする。確かに、封印されて身動きの取れない状態のルビスが、今の爆発に巻き込まれていないと断言する事は出来ない。カミュの行使するアストロンのように何物も受け付けない鉄に変わっているのであれば無事であろうが、石化のような形で石像となっていたとすれば、今の爆発の余波で砕けていないとも限らないのだ。

 顔面蒼白という言葉が当て嵌まる程の表情をしているサラに苦笑を浮かべたリーシャは、メルエを抱き抱えたまま、彼女の肩を叩き、拾った『たいまつ』を塔の中央奥部へと向ける。『たいまつ』の乏しい明かりは、再び闇に閉ざされ始めた塔内部を照らし、その明かりに反射するように、中央の奥から小さな輝きが漏れていた。

 

「……あれは」

 

「ここにルビス様が封印されているのであれば、あの輝きこそがルビス様なのだろう」

 

 淡く漏れるように輝く光は、何処か安心感を齎すような優しい物。一切の明かりが入って来ないアレフガルドの塔内部で、何かが光を反射しているという事は有り得ないだろう。とすれば、必然的にこの場所に封印されている者が発する輝きだと想像出来た。

 このアレフガルドだけではなく、上の世界でも多くの者達が信仰するルビスという存在は、『精霊神』である。数多いる精霊達の頂点にいる存在であれば、例え魔王や大魔王であっても完全に封印する事など不可能に近い筈であった。

 有する力の大部分を削られ、その力を封じられているとはいえども、その存在自体を完全に封じる事は出来ない。闇に包まれたアレフガルドで生きる者達の心に絶望という感情が支配し始めていても、その信仰心は薄れず、そんな生きとし生ける者達の想いが、この輝きを保たせているともいえるのかもしれない。

 

「行くぞ」

 

 いつも通りの声をカミュが上げるが、サラの足が動かない。最も敬愛し、最も信じる存在が今、目の前に居るかもしれない。それは、如何に自分の道を定め、それに邁進すると誓った賢者であっても恐怖を感じる物であったのだ。

 どれ程にその存在に感謝しただろう。どれ程にその存在に祈りを捧げただろう。どれ程に頼りとし、どれ程に心の拠り所としただろう。誰が何を言おうとも、誰がその存在を否定しようとも、蔑もうとも、嘲笑おうとも、サラにとって精霊ルビスという存在が絶対である事は今も変わりはない。

 僧侶として信じていた教えに背き、自分が許されない存在だと感じても尚、精霊ルビスという存在を信じ続けて来た。そんな彼女が、神と信じ続けた者が数十歩先に居る。

 

「サラ、行こう。ルビス様がお待ちだ」

 

「…………いく…………」

 

 いつの間にか床に降ろされたメルエがその手を握る。じんわりと伝わって来る温かみが、サラの心へと溶け込んで行き、凍り付いたように足を固めていた何かが解けて行った。

 最後に肩を軽く叩かれたリーシャの一撃によってサラの足が一歩前へと踏み出し、その勢いを利用するようにもう片方の足が前へと進み始める。既に『たいまつ』を持って先を歩き始めていたカミュの背中が見え、それを追うように三人が続いて行った。

 ルビスの塔という五層の塔の最上階、そして最も奥深くに、それは存在していた。カミュ達四人が見て来た物の中でも何よりも神々しく、何よりも美しい。そんな石像が、その奥で祈りを捧げるように立っていたのだ。

 今にも動き出しそうに淡い光を放ちながら、悲しみを帯びた表情は、新たな時代の到来を願うように瞳を閉じている。創造神への物なのか、それともこの大地で生きる全ての者達への物なのか、しっかりと合わせられた両手は胸の前に置かれ、奇しくも先程のイオナズンによって空けられた壁の穴に向かって顔を向けていた。

 この石像を見た物であれば、世界各地に作られたルビス像が似て非なる物であると口を揃えていうだろう。世界で造られたルビス像は、人間が想い描いた最上位の美しさを表現した女性像である。誰もが畏怖する程の美しさを持ち、誰もが跪く程の神々しさを持つ女性像として生み出されたルビス像も、今目の前にある石像のような物からすれば紛い物以外の何物でもなく、人間の想像の限界を知る事となった。

 

「……ル、ルビス様」

 

「こ、このお方が、精霊の神であるルビス様なのか」

 

 『たいまつ』の明かりを受けずとも優しい光を放つ像を見た瞬間、サラは腰が抜けたように跪く。そのまま胸で両手を合わせ、瞳からは止め処なく涙が溢れ出した。その涙を止める術などない。嗚咽を漏らす事なく、ただただ静かに流れ落ちる涙は、この六年の旅全てを物語っているのかもしれない。

 静かに佇むその像は、それだけで圧倒する程の神々しさを持ちながらも、全てを包み込む優しさと温かさに満ちている。この場に居るだけで、魔王バラモスや大魔王ゾーマが何を恐れていたのかを理解出来ると感じてしまう程の存在感がそこにはあったのだ。

 

「…………ふえ…………」

 

「ああ」

 

 それぞれ感覚で言葉を失っているリーシャとサラを余所に、サラの手を離した少女がカミュを見上げて口を開く。その頬が若干膨れているのは、口に出した道具を使用する事の出来る者が自分ではない事への不満なのだろう。

 二人の女性ほどではないにしろ、その像の存在感に圧倒されていたカミュは、ようやく我に返り、懐から一本の横笛を取り出す。それはマイラの森を護る『森の精霊』から託された神代の笛。『妖精の笛』という名で伝わるそれは、ルビスの封印を解く唯一の方法だと云われていた。

 未だに放心状態で涙を流し続けるサラと、立ったままでありながらも胸で手を合わせ始めたリーシャへ一度視線を送ったカミュは、溜息を吐き出した後で、ゆっくりと横笛の歌口へと唇を宛がう。彼としても自身が楽器などを奏でた事がない事は百も承知であり、笛へ息を吹き込む事しか出来ない事は解っていた。それでも、森の精霊が言うように、この笛は自分にしか奏でる事が出来ないのであれば、何も考えずに吹くしかないと考えていたのだ。

 

「……カ、カミュ?」

 

「…………すごい…………」

 

 しかし、そんな彼の考えは自分の理解出来ない場所から否定される事となる。カミュ自身も何が起きているのか解らない。自分が吹き込んだ息が、不思議な木で出来た横笛からこのような音を奏でるなど想像も出来なかった。

 横笛に等間隔で開けられた穴に当てた指は、自分の脳から与えられた物ではない指示で動き始める。聞いているリーシャやメルエが目を見開き、その美しい音色に心を奪われて行った。人類が作成した笛では奏でる事が出来ない音は、まるで心地良い眠りに誘われるように心へと染み込み、安らぎと温かみを与えて行く。

 カミュが奏でる音は流れるようにルビスの塔へと響き渡る。その音が周辺の壁に染み込み、その都度ルビスを模った石像が放つ輝きが強まって行った。流れるような指の動きが、この世の物とは思えない音色を奏で、強まって行く輝きが塔の最上階を覆って行く。

 音色に心を奪われたように頬を緩めるメルエとは異なり、リーシャは自分を取り巻く周囲の変化に目を見開いていた。先程メルエの放ったイオナズンによって、見るも無残な姿に変わった最上階が、元に復元して行くように姿を変えて行く。ルビスの石像が放つ輝きが強まり、その輝きに包まれた箇所が時を撒き戻したように美しい姿に変化して行った。

 壁に刻まれた装飾はその造形だけでなく、造られた頃の色合いさえも戻って行くように輝きを放ち始める。これ程の技術が、遥か昔にあったのかと疑いたくなる程の素晴らしい彫刻が浮き上がり、色鮮やかに彩られた柱が蘇った。

 

「これが、本来の塔なのか」

 

 自分の周りに見えた塔の装飾は、美術関連の嗜みのないリーシャでさえも感嘆の声を上げる程に素晴らしい物であり、その手を握ったメルエは笑みを浮かべながらその変化を楽しむ。

 どれ程の時間が経過したのかも忘れる程、漂う音色に聞き惚れていたリーシャ達は、その曲の終わりが近付いている事を知る。徐々に緩やかになって行く曲調は、静かに、そして大気に溶け込むように消えて行った。

 妖精の笛の音色が消えて行くと同時に、その音色全てを受け入れたかのように石像が輝きを放ち始める。そして、集約された光が弾けるように塔内全てを眩く照らした後、その存在は彼等の前に舞い降りた。

 

「よくぞ、ここまで辿り着きました。私は貴方達を心から誇りに思います」

 

 頭の中に直接響くような声が轟く。笛の歌口から口を離したカミュは表情を失い、それを見たメルエもまた先程までの笑みを消してカミュの腰にしがみ付く。まるで仇でも見るような二人の耳には、目の前の存在が口にする言葉さえも届いていないかのようであった。

 しかし、先程の笛の音色に涙腺が完全に崩壊していたサラは、頭に直接響くその声に、弾かれたように顔を上げる。眩く輝く人型の何かが目の前で浮いており、その輝きをまともに受ける事が出来ずに目を閉じたサラは、再び深々と頭を下げた。

 

「カミュ……勇者ロトの魂を受け継ぎし者よ。辛く厳しい運命(さだめ)にも屈する事なく、このアレフガルドまで辿り、私を解放してくれた事を感謝します」

 

 輝きが集約され、全ての光がその人型に納まった時、そこにはこの世の物とは思えない程の美しい女性が立っていた。赤く輝く髪をなびかせ、瞳も同じように深い赤い光を湛えている。豊かな胸は母性を表し、すらりと伸びた足が女性らしさを象徴していた。

 精霊の神と呼ばれるその存在が、勇者一行とはいえども人間でしかない者達に感謝を告げるという事自体が異例であり、畏れ多い事である。それを聞いたサラは先程以上に頭を下げ、感激の涙を床へと溢した。

 

「大魔王ゾーマ打倒の為には、精霊ルビスの解放が必要であっただけだ」

 

「カ、カミュ様!」

 

 しかし、放心するリーシャや、感激の涙を流すサラとは異なり、冷たい目でその女性を見つめていた青年は、精霊の神に向かって口にする言葉ではない物を発する。それに驚き、恐れたのはサラであった。畏れ多くも、全世界が崇める精霊神に対して、呼び捨てにするという事は勿論、その解放自体をついでのように話す神経がサラには理解出来ない。無礼を通り越して、罪深すぎるのだ。

 どれ程の感情をカミュが宿していたとしても、人間などよりも遥かに高位の、創造神に最も近いと云われる存在に向かっての発言ではなく、この世界から抹殺されてしまっても可笑しくはない。己の立場も、己の存在も、己の価値さえも弁えない言葉であった。

 

「サラ、良いのです。貴女には要らぬ苦労を掛けました。貴女が望む未来、貴女が夢見る世界は、貴女自身と人の子達が作り出す物。それを咎める者などおりません。貴女は貴女の思うように生きなさい。もし、貴女が誤った道を歩む時、それを遮ろうとする第二の貴女が現れるでしょう。それこそが、世界の意志なのです」

 

「ル、ルビス様……」

 

 カミュの言葉を窘めるサラを制した精霊ルビスは、ここまでの旅で悩み、苦しみ、泣き続けて来た賢者へと声を掛ける。自身の名を敬愛する神のような存在に呼ばれる事が、これ程の喜びを感じる物であった事を、サラは初めて知る事となる。

 この世に生を受け、様々な苦しみと悲しみを乗り越えて来たサラではあるが、自分が誰よりも不幸であると思った事は一度もない。今、この命があるだけでも、精霊ルビスによって救われたという事実があるだけでも、自分は誰よりも幸せなのだと信じて疑わなかった彼女の心が、今初めて報われたのかもしれない。

 魔物を救い、教えに背いた時、最早僧侶としての資格もなく、精霊ルビス像の前に立つ資格さえも失ったと考えていた彼女は、それでも周囲の暖かな手を握り、前へ向かって歩み続けて来た。その道を信じ続けては来たが、迷わなかったと言えば嘘になる。何度も迷い、悩み、苦しみ、泣いて来た。それでも進んで来た道の先にある未来が、決して間違った物ではないと、彼女が最も言って欲しかった存在から賜ったのだ。これ以上の喜びなどあるだろうか。

 

「カミュ、貴方はやはり、あの者と似ていますね。ですが、それは似ているだけ。貴方は貴方であり、他の誰でもありません。貴方は既に知っている筈です。貴方が何故、この場所にいるのか。そして、貴方が何故、勇者と呼ばれるのかを」

 

「……カミュ」

 

 未だに冷え切った瞳を向けるカミュに困ったような笑みを浮かべた精霊ルビスは、この場所でカミュという一人の存在を認める。先程言葉にした古の魂の名を持つ者と似て非なる者であるという事を。

 そんな精霊ルビスと当代の勇者との会話を横から見ていたリーシャは、心配そうに眉を下げ、その名を小さく呟いた。

 

「リーシャですね? 貴女がいなければ、カミュがこの場所に辿り着く事はなかったでしょう。貴女にも心からの感謝を。貴女の優しさと強さが、この勇者と賢者を導いて来ました。ここまでの旅にも、これからの旅にも、貴女の心こそが最後の砦です」

 

「……勿体無きお言葉。光栄でございます」

 

 突如自分に向かって告げられた言葉に、リーシャは慌てて跪く。彼女とて、僧侶であったサラ程ではないが、熱心なルビス教徒である。幼い頃から精霊ルビスという存在への感謝を持ち、日々の糧や命は、精霊ルビスの加護があればこそであると信じて来たのだ。

 そんな彼女が、神のような存在に自分を認められ、感謝までも告げられるとなれば、アリアハン国王に言葉を貰った時と同様の感動を受けたのだろう。跪いたリーシャの瞳に温かな涙が溢れ出していた。

 それでも、一人冷たい瞳を向ける青年の腰にしがみ付いた少女は、何故彼が冷たい瞳を向けるのか、何故サラ達が跪いたのかが解らない。基本的にカミュが敵視した者は皆敵であった。それはリーシャもサラも敵と認識していたし、カミュ達に敵意を向ける者達ばかりであったからだ。

 だが、今目の前に居る存在はそうではない。温かな微笑を浮かべながら、真っ直ぐにカミュへ視線を送り、それを受けたサラ達は涙を流して跪いている。その涙が悲しみや苦痛での涙でない事はメルエにも解った。だからこそ、彼女は目の前に存在にどう接して良いのかが解らない。

 

「メルエ、良く頑張りましたね。最も数奇な運命(さだめ)を持った貴女が、カミュ達と共に歩んで来れたのは、貴女の先祖が忌避して来た、人々との繋がりがあったればこそ。それは、神や精霊ではなく、人々の愛が紡いで来た絆です。貴女こそが、この世界の輝く未来への道標なのかもしれません」

 

 柔らかく乗せられた手は、メルエの心に染み込んで来る程の温かさに満ちている。ゆっくりと浸透して来る温かさは、警戒に強張っていた少女の身体から力を抜いて行った。

 気持ち良さそうに目を細め、その手を受け入れていたメルエは、手が離れると同時に未だに冷たい瞳を持つ青年を見上げる。その表情を見て困ったように眉を下げたメルエではあったが、この心優しい青年に、『自分が傍にいるよ』と伝える為に、その手を握り締めた。

 メルエの体温を感じながらも、目の前に居る存在に湧き上がる感情を抑え切れないカミュは、冷たく鋭い瞳を向け続ける。

 

「私が貴方の魂を見つけた時、何時消え去ってもおかしくはない程に弱々しい輝きでした。その魂を護らなければと思って来ましたが、それは私の傲慢な考えだったのですね」

 

 真っ直ぐにカミュを見つめた精霊ルビスは、懺悔を始めるように小さな呟きを漏らす。カミュがこの世に生を受けた時、既に精霊ルビスはこのアレフガルドで封じられていた可能性は高い。大魔王ゾーマも封じられていた為に、アレフガルド大陸が闇に包まれていた訳ではないだろうが、精霊ルビスの力が弱まっていた事だけは確かであった。

 その中でも、カミュが精霊ルビスの加護と愛を受けていた事も事実であろう。彼の人生が決して平坦な物ではなかった故にこそ、加護と愛がなければ生きていられなかったと考えても不思議ではない。それをカミュが感謝するかは別にしても、小さな愛や加護は届いていたのだ。

 

「貴方は一人で歩くのではなく、彼女達と共に歩き、そしてその魂を輝かせて来ました。優しさを失わず、志を捨てず、貴方は歩いて来たのです。今では、勇者ロトの物よりも眩い輝きを放つ魂となり、そしてこの場所に辿り着きました」

 

 跪いていたリーシャやサラも顔を上げて精霊ルビスの言葉に耳を傾ける。畏れ多いとは知っていても、今はその顔を見て聞かなければならないのだと、本能が語っていた。

 何処か寂しそうに語る精霊神の言葉は、まるでカミュが自分の手を離れてしまった事を嘆く母親のような物にさえ聞こえる。精霊達の王であり神である者に対して感じる事さえも不敬に当たる物ではあっても、何故かそう感じずには居られない雰囲気が漂っていた。

 

「このアレフガルドは私が造った世界です。創造神が生み出した、貴方達の生まれたあの世界に憧れて造りました。ですが、やはり私の力は弱く、人々の力も魔法力も上の世界の人間には及びません。ましてや、創造神の写し身と云われるエルフは生み出す事が出来ませんでした。ですが、人々の心は優しく、この世界に迷い込んだ魔物や魔族を排除しようとする事なく、共に生きる道を探してくれています。そんな世界を壊そうとするゾーマを許す事が出来ず、私が力を解放しましたが、それは間違いだったのかもしれません」

 

 哀しそうに瞳を落とす姿は、先程までの圧倒的な存在感を持つ者とは思えない。そんな雰囲気にカミュの瞳から剣呑さが若干消えて行く。憎しみを持って見ていた相手が持てる影響力など、自分の歩んで来た人生の中の僅かしかない事を改めて認識したのだ。

 精霊ルビスの加護という言葉は、彼が最も嫌う言葉でもあった。そのような物は必要なく、自分で道を決め、自分でその道を歩みたかった。それが出来ず、決められた道を人形のように歩かされて来た日々は、意識なくとも、彼が選んだ道でもあったのだ。

 アリアハンという国を出て、一人で生きて行くという選択肢がなかった訳ではない。それでも自分が居なくなった後の事を考え、行動が出来なかったという過去がある。それこそ、怒りに任せて人々を殺害する選択肢もあっただろう。それもまた、生来の彼の気質が許さなかった。

 知らず知らずの内に選択して来た道は、今の彼を形成する過去となっている。それが苦しい過去であった事は変わらない。だが、その過去があるからこそ、今の自分があると思えば、それもまた一つの道であったのかもしれないと、手を握るメルエの瞳を見て、カミュは思っていた。

 

「最早、この世界は動き始めています。私が差し伸べる手を必要とはしないでしょう。貴方達がここへ辿り着いた事がその答えであり、その証明なのかもしれません。この世界は、この世界で生きる者達だけの物。そしてこの世界の未来もまた、この世界で生きる者達だけの物なのですね」

 

 そんなルビスの言葉に、現職の僧侶であり賢者であるサラが口を開こうとする。精霊の神に向かって言葉を発するなど、一国の王に対して発言する以上の物である。畏れ多く、不敬でありながらも、サラは敬愛する精霊神に対して言葉を飲み込む事は出来なかった。

 立ち上がる事はせずとも、立膝を着き、胸に両手を合わせて精霊ルビスへ視線を送る。言葉を選ぶ余裕などない。それでもこれを口にしなければ、この世界は精霊ルビスという大いなる存在に見放されてしまうのではないかという恐怖に駆られたのだ。

 

「……ルビス様、私が今あるのは、ルビス様の加護と私の両親の愛があったればこそだと信じております。私達『人』だけでなく、この世界に生きる多くの者達には、まだまだルビス様の愛が必要であると愚考します」

 

「サラ、ありがとう。この世界で生きる者達全てが、私の子であり、宝です。私は永遠にこの世界で生きる者達を愛し続けるでしょう。ですが、私の子供達は皆強い。過ちを犯しながらも前へと進み、世界を広げて行く筈です。それに比べれば私の力など微々たる力。特に解放されたとは云えども、今の力ではゾーマに立ち向かう事も出来ません」

 

 精霊ルビスという存在は、精霊の神である。自分が卑下するような小さな力ではない。だが、解放されたばかりのその力が、全盛期の物ではない事だけは確かであろう。復活を果たした大魔王ゾーマに及ぶ筈もなく、その手で人々を護る事も出来ない。

 その事実を突きつけられたサラは、愕然とした表情で眉を下げる。だが、彼女を見下ろす精霊ルビスの瞳が優しく強い光を宿している事で瞳に力を取り戻した。それは子を送り出す母親が持つような温かな瞳。子を信じ、子を誇る親の瞳である。

 

「光の鎧も、勇者の盾も、貴方を主と認めたようですね。その鎧はやはり貴方に良く似合う。その袋の中にある石を私に……」

 

 優しい瞳をカミュへと動かしたルビスは、精悍な顔立ちとなり、その身に神鳥の紋章を宿す青年の姿を誇らしげに見つめる。そして、温かな手をカミュへと差し伸べ、彼の所有物を要求した。

 一瞬何の事か理解が及ばないカミュであったが、腰にしがみ付いていたメルエが、彼の腰に下がった革袋の中にある一つの石を取り出す。それは淡い青色に輝く綺麗な石であり、精霊ルビスの加護を宿し、死の呪文からの身代わりとなると伝えられた石であった。

 サマンオサにあるラーの洞窟で発見し、皆の意見が一致してカミュが持つ事になった物。そして、つい数ヶ月前に、この石を取り出した少女に持たせていなかった事を大いに悔やむ事となった物でもある。

 

「…………これ…………?」

 

「ありがとう、メルエ」

 

 差し出された『命の石』を受け取った精霊ルビスは、それを手のひらに乗せ、静かに口付けを施す。精霊神の唇が触れた淡い青色の石は、闇に包まれた塔全体を照らす程の輝きを放ち、一気にその輝きを飲み込んで行った。

 そして、全ての輝きを飲み込んだ命の石は、少し大きな円形の形へと姿を変えて行く。いつの間にか現れた鎖のような物でペンダントのような形へと変化したそれをルビスはカミュの首へと掛けた。

 眩く輝くその石は、まるでルビスの愛を体現するかのように温かな光を放っている。精霊の聖なる愛を封じ込めたそれは、カミュだけではなく、この一行を護る守りとなるのだろう。

 

「…………ラーミア…………」

 

「そうです。メルエの言う通り、その鎧や盾に刻まれているのは、不死鳥ラーミアの紋章。ラーミアに守護者と認められた者だけが、その鎧を纏う事が出来ます。その守りもまた、私とラーミアの愛の証。必ずや貴方の身と道を護ってくれるでしょう」

 

 カミュの首に掛けられた命の石であった物にもまた、ラーミアの紋章が大きく刻み込まれている。不死鳥ラーミアの加護と、精霊ルビスの愛。それを一身に受けた者を、『勇者』と呼ぶ事が出来るのかもしれない。

 嬉しそうにその守りを見つめ、手を伸ばすメルエの頭に手を乗せた精霊ルビスは、そのまま全員の顔を見渡し、柔らかな笑みを溢す。それは正しく精霊の神が浮かべる天女のような笑みであり、人々の心に勇気と希望を与える力強い笑みでもあった。

 

「カミュ、この先で貴方は大きな試練にぶつかるでしょう。今、この場所で私と対面した事よりも大きな物です。そこで貴方は決断をする事になります。ですが、何も恐れる事はありません。何も迷う事はありません。貴方の心のまま、そしてその心の奥にある強い意志のまま進みなさい」

 

 メルエの頭から手を離したルビスは、そのまま身体を浮き上がらせる。徐々に離れて行くルビスの姿は、まるで天上へと還って行くようにも見える。本来の居場所へと戻るという事は、この地を恐怖と闇で支配する大魔王ゾーマを放置するという事に他ならない。

 精霊ルビスと竜の女王が手を組んでも滅ぼす事が出来なかった存在を、最も矮小な種族である人間の手に委ねるのだ。それは、アレフガルドのみならず、世界を見捨てると同意の物と見ても可笑しくはない。だが、この場に居る誰もが、その考えには至らなかった。

 何よりも、精霊ルビスが浮かべる微笑みと、カミュ達を見つめる瞳が、絶対の信頼と自信に満ちている事が誰の目にも明らかであったからだ。

 

「その試練を超える事が出来る貴方であれば、この世界から闇を払う事など容易き事。大魔王ゾーマを討ち果たし、この世界に平和が訪れる日を楽しみにしています」

 

 ゆっくりと溶けて行くように消えるルビスの言葉が、先程以上に強く脳へと響いて来た。見上げるように首を上げたメルエが、消えて行くルビスに向かって手を振る。それに応えるように柔らかな笑みを浮かべたまま、精霊ルビスの姿は虚空へと溶けて行った。

 放心したように見上げていたサラは、ここまでの旅で感じてきた苦労が無駄でなかった事を知り、再び大粒の涙を溢す。自分達の旅の全てを、力を失いながらも見つめ続けてくれていた精霊神に感謝し、胸で手を合わせた。

 相手が精霊神であろうと、無邪気な姿を崩さないメルエに微笑んだリーシャは、再び闇が落ちた塔内部に『たいまつ』の炎を掲げ、その少女の頭に手を乗せる。温かな手に目を細めたメルエが微笑み、それを見たカミュが苦笑を浮かべた。

 カミュの胸にはラーミアを模った紋章が記された円形の石が輝いている。それは、彼等が歩んで来た六年の旅の成果であり、結果であった。

 

 人々が崇め、敬う大いなる存在。数多居る精霊達の神と伝えられたその存在を見る事の出来る者など、有史以来初めての事なのかもしれない。しかも、その言葉を賜るとなれば、歴史上でも唯一となるのだろう。

 この世界で生きる全ての者達を等しく愛する精霊神であっても、その愛の証を与えられた者は唯一人。精霊ルビスという存在を憎み続けて来た青年は、その首に愛の証を下げ、不死鳥ラーミアの加護によって身を護られる。

 彼の歩む先に続く未来は、大いなる愛と加護によって護られているのかもしれない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
これにて、二十章も終了になります。
いよいよ、二十一章。最終章の前章になると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

古の勇者であり、遥か昔にアレフガルド大陸を救った者として語り継がれるロトという存在の魂を受け継いでいると精霊神から伝えられた青年。過酷な少年時代を経て、性格に歪みを持っているものの、その性質は善。その心に優しさと強さの芯を持ち、自らが選んだ道を歩み続けて来た。その結果、古の勇者よりも輝く魂を持つまでに至る。精霊の神と謳われるルビスとの対面では、少年時代からの嫌悪の感情を捨て切れないまでも、それを受け入れる広い心を示した。それは、彼と共に歩んで来た三人の女性の存在があったればこそなのかもしれない。

 

【年齢】:22歳

一世界を創造する程の力を有し、全世界の信仰の対象となる存在と対面し、その言葉を賜った貴重な存在である。アリアハンという小国を出てから既に六年の時間が経過していた。誰にも理解出来ない悲しみと苦しみ、そしてその果てにあった憎しみをぶつけていた対象との対面は、彼でさえ予想も出来ない感情を持たせる事となる。能面のような冷たい表情を浮かべながらも、何故か穏やかな心中が、六年の旅の濃さを物語っていた。

 

【装備】

頭):光の兜(光の鎧と一対となった兜)

頭部部分に鎧の胸部に描かれている物と同様に不死鳥ラーミアの紋章が刻まれている。光の鎧と同金属で製造されたそれは、神代から伝わる希少金属であり、青白い輝きを放っている。頭部の両側に金色の角が付けられているが、それは攻撃や防御という面ではなく、装飾の一種であるのだろう。飛び立つラーミアの道筋のように伸びる金の角が、それを装備する者の飛翔を約束しているかのような神秘さも持っていた。

 

胴):光の鎧

古の勇者が装備していたと伝えられる鎧。特殊な希少金属によって製造され、人間では生み出せない程の一品。青白く輝くその金属は、それを装備する者の魂に呼応するように鮮やかな光を放つ。装備する者を主と認めれば、その者の傷さえも癒す輝きとなり、多少の傷であれば瞬く間に癒される。長い時間、主を待つように精霊ルビスが護る塔に安置され続けて来たが、大魔王ゾーマの復活によってアレフガルドを閉ざしていた闇を晴らす者の来訪により、その力を再び世に解放した。その鎧の名が光の鎧と付けられたのは、その輝きを放たせる者が纏ってこそ。神代の鎧さえも認める輝きを放つ魂を持つ者こそ、後に語り継がれる事となる勇者なのかもしれない。

 

盾):勇者の盾

遥か昔、アレフガルド大陸が闇に閉ざされそうになった時、天より舞い降りたと伝えられる『勇者』が装備していた盾。地上にはない金属によって造られ、青く輝くような光を放つ。表面には黄金色に輝く神鳥が描かれており、中央には真っ赤に燃えるような宝玉が嵌め込まれている。上の世界で蘇った不死鳥ラーミアに酷似したその装飾は、アレフガルドに伝わる古の勇者と精霊神ルビスが知己の存在である事を示していた。

地上にはない神代の金属によって生み出されたその盾は、竜種などが吐き出す炎や吹雪への耐性も強く、どれだけ高温に曝されようと変形する事はない。正しく、生物が暮らす現世最強の盾と云えるだろう。

 

武器):雷神の剣

アレフガルドを救った勇者と共にあった英雄を模した石像の成れの果てである『大魔人』がその手に握っていた剣。神代から伝わるその剣は、雷を司る神が愛した剣と云われている。末広がりの両刃は稲妻のように鋭い輝きを放ち、その内に秘められた効果は、雷神の怒りのように周囲を燃やし尽くす。『悟りの書』に記載された灼熱の最上位呪文であるベギラゴンに似た効力を持つ力が内包されており、本来は主として認めた者の危機を救うようにその力を解放させる。だが、アレフガルドの地へ降りてから長い期間魔の手に落ちていた事もあり、その内情にも歪みが出来てしまっていた。

 

所持魔法): メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      リレミト

      マホトーン

      イオラ

      ベホマ

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(元アリアハン宮廷騎士)

既に戦士としては完成に近づきつつあった彼女であったが、ルビスの塔にて受けた屈辱が更なる高みへと昇華させる。魔の神が愛したと伝わる斧でさえも己の物とし、まるで戦神が振るったかのような結果を残して行く。最早、彼女自身が『戦神』と名乗るに相応しい存在なのかもしれない。

勇者の隣に立ち、露払いをする者として語り継がれる素養を、彼女は既に有していた。

 

【年齢】:不明

精霊神ルビスでさえも認める人間の一人。彼女が居たからこそ、勇者は勇者として成長を遂げ、賢者は賢者としての成長を遂げた。この一行が勇者一行と呼ばれるのも、彼女が居たからこそなのだ。勇者が旅を続ける内にその心を変えていった起点は違っていても、その過程にあるのは彼女の存在である。賢者が己の理想に向かって突き進む事が出来るのも、挫けそうな時、倒れそうな時に手を差し伸べていた彼女が居たからであった。

それを誰よりも知っているのは、彼女自身ではなく、彼女に導かれて来た勇者と賢者なのかもしれない。

 

【装備】

頭):ミスリルヘルム

超希少金属であるミスリルによって生み出された兜。その製造方法も加工方法も秘術と云われる程の物である。故に、このアレフガルドにのみ伝えられているミスリル金属を使用した防具は、上の世界に存在する防具よりも遥かに高額で取引されている。この兜一つで竜種の鱗さえも斬り裂くと云われるドラゴンキラーよりも高額であった。

己もこの兜をと口にするカミュを一喝し、彼女だけがこの兜を被る事になったが、それは独占欲から来る我儘でない事は周知の事実である。ミスリルという希少金属で造られた兜の防御力を差し引いても、彼の装備する兜の方が希少性も重要性も高い事を彼女は知っているのだ。

 

胴):大地の鎧

試練の洞窟と呼ばれる人工の洞窟内に安置されていた鎧。『勇者』と呼ばれるカミュが発見するが、その者を主とは認めず、外で待つ一人の戦士を主と定めた。まるで己の意志があるかのように、『人』としての色を残す女性を主と定めた鎧は、他者の手に渡るのを拒む。精霊と共に崇められる対象となる母なるものの名を冠する鎧は、植物や動物を育てるように、温かくその身を包み、護る事だろう。

 

盾):力の盾

アレフガルド大陸に残る希少価値の高い防具の一つ。古から残されているが、その価格と担い手となる者が現れないという理由から、誰の手にも渡る事なく武器屋に眠り続けて来た防具でもあった。

その担い手の心を反映させるかのように、願いに応じて癒しの光を放つ。所有者にしか及ばない癒しの光ではあるが、その効力は中級回復呪文であるベホイミに匹敵する物であった。

 

武器):魔神の斧

遥か太古の魔の神が愛した斧。

その鋭い刃先は、どのような強固な物をも斬り裂き、その一撃は大地をも斬り裂くとさえ謳われた武器である。魔の神と天上の神との争いの際に失われ、地上へと落とされたという。それがネクロゴンドという地方に安置されていた事は奇跡であり、ネクロゴンドにある城に飾られた英雄の像の手に握られていた事も今では謎である。

その斧もまた、他の神代の武器と同様に自我を持っているかのように、己の主を定める。しかも、魔の神が愛した物である為、それは一筋縄ではいかない代物であった。己の主を嘲笑うかのように、試すかのようにその重量を変化させ、扱う者の重心をずらしてしまう事もある。しかし、その変化と持ち手の技量が合致した際には、逸話通りの一撃を生む事もあるのだった。

:ドラゴンキラー

動く石像との激戦の中で刃が反れてしまった事で戦闘での使用は難しくなった。その後、リーシャの腰に下げていたが、マイラの村に移住したジパングの鍛冶師の師匠が作成したものである為に、再度訪れる事を理由にその場所へと預けた。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

彼女が歩んで来た道は、決して平坦な道ではなかった。己だけが苦しんだ訳ではない。己だけが悩んだ訳ではない。だが、彼女の苦しみの深さや、悩みの深さ、涙の量は、他者とは比べ物にならないだろう。しかし、そんな彼女の歩みは、彼女が信仰し続けて来た対象との対面によって報われる事となる。

僧侶としての資格を失ったと嘆き、それでも前へ進もうともがいた彼女は、信仰対象である精霊ルビスと人間との架け橋である賢者という存在になった。架け橋として伝えられる存在になりながらも、いつでも精霊ルビスの姿を探し続け、己の歩む道を模索して来た彼女は、その歩みの正当性を精霊ルビス自身によって認められたのだ。

 

【年齢】:23歳

旅を始めて六年。様々な試練を乗り越えながら、彼女は『賢者』としての己を完成させる。最早、誰もが彼女を賢者として認めるだろう。そして、その思想に理解を示す者も多くなる筈である。アレフガルドという精霊ルビスに最も近い世界だからこそ、彼女の理想は大きく前進したのだ。

しかし、もし、彼女がその力に酔い、誤った道を歩もうとするならば、ここまでとは異なる結果となるだろう。今までであれば、彼女の前に立ち塞がるのは、共に旅を続けて来た姉のような存在だったかもしれない。だが、ここから先で誤った道を選択した場合、彼女の前に現れるのは、第二の彼女。サラ自身が古く縛られた思想を打ち壊して来たのと同じように、サラの思想さえも打ち壊す者が彼女の前に現れる事となるのだ。それが現実となるかどうかは、彼女の歩みに懸かっていると云えるのかもしれない。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれており、その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):水の羽衣

アレフガルド大陸の中で、雨の日の翌日にマイラの森に現れると伝えられている『雨露の糸』という素材を織って作られた羽衣。天女が纏った羽衣のように美しく、その表面は水が流れるような輝きを放つ。雨露の糸から羽衣を生み出す事の出来る職人は既になく、マイラの村に現存する最後の一品を購入する事となった。

 

盾):水鏡の盾

カミュがリーシャと共にラダトーム王都にて購入した盾である。勇者の洞窟と呼ばれる場所で発見した古の勇者の防具をカミュが装備した為、彼から譲り受けた。古代龍種であるサラマンダーの吐き出す爆炎を受け、真っ赤に染め上がりはしたが、希少金属で造られたこの盾は、購入した時と一切形状を変化させてはいない。このアレフガルドにしかない盾が、強力な魔物が数多く生息し始めた大陸に於いて、後衛を担当する賢者と魔法使いを命を護る大きな防壁となるだろう。

 

武器):ゾンビキラー

サマンオサ城下近郊での<ガメゴン>との戦闘により、三年以上も共にあった<鉄の槍>は破損してしまった。

共に歩む者達の武器が次々と強力な物になって行く中、彼女だけがロマリアで購入した物を使用していたというのは、彼女自身の武器を扱う力量とは別に、『賢者』となった彼女に合う武器が無かった事が理由であろう。

長い年月を掛けて聖水に浸けても尚、錆などが浮かなかった長剣であり、その刀身に『精霊ルビス』の加護を受けた剣。

聖なる力を宿した長剣は、この世に生を持たない者達に多大な効果を持ち、この世に縛り付けられた魂や肉体を『精霊ルビス』の許へ還すと考えられていた。

   :聖なるナイフ

育ての親であるアリアハン教会の神父から授けられた物。

アリアハン大陸の魔物達には有力な武器ではあったが、ロマリアで<鉄の槍>を入手してからは、彼女の腰に下がる袋の中に大事に保管されている。

それは、彼女の心の奥にある太い柱となっている『愛』の証であり、彼女が進む道を照らし続ける『覚悟』の証でもある 。

 

所持道具:祈りの指輪

エルフの隠れ里にて購入した物である。メルエの指に嵌っている物と同様の物で、元々は子の幸せを願う親の想いが込められた物が起源と考えられている指輪であった。

純粋な祈りは『精霊ルビス』の許へと届き、指輪の所持者の魔法力や気力を回復するという効力がある。呪文に重きを置くサラにも必要であると考えたリーシャが購入する事をカミュへ提言し、それが受け入れられた事によって、サラの指にも嵌められる事となった。

購入する際は、2500ゴールドという大金が必要となるらしい。

ザオリクという最上位の呪文行使によって、完全に魔法力を失い、この世の生を手放しかねない状況になったサラ自身を救う事となる。その際に精霊神ルビスが封じられた塔から降り注ぐようにサラの体内へと吸い込まれた魔法力を見る限り、この指輪の祈りは確かに精霊ルビスへと届けられていると考える事も出来た。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ

       ザキ

       ザラキ

 

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       メラミ

       イオラ

 

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

       トラマナ

       インパス

       バシルーラ

       ベホマ

       ベギラゴン

       マホカンタ

       フバーハ

       ベホマラー

       シャナク

       ザオラル

       ザオリク

 

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

この少女の生い立ちを省みれば、今が彼女にとって最も幸せな時間なのかもしれない。この先の未来が今よりも輝く時間である可能性はあるが、彼女が生まれてからの短い期間を考えれば、絶頂期と言っても過言ではない。大好きな者達の傍で、大好きな者達と共に旅をする。その目的も道中の苦難も、今の彼女にとっては些細な事なのだろう。自分が好意を寄せる者達が、同じように自分を好意的に想ってくれているという事実が、彼女を世界最高の魔法使いとして成り立たせているのだ。彼女が呪文を使いこなせるかどうかは、彼女の血筋でも能力でもなく、彼女に笑顔を向ける者達の存在が重要なのかもしれない。

 

【年齢】:7,8歳

竜の因子を受け継いでいる彼女の外見は変わらない。だが、その心は着実な成長を始めていた。サラとの和解を経て、その心は大空を舞うように飛び立ち、誰もが幼少の頃に通った道を歩み始める。興味を持った物に関しては抑えは利かず、我儘を口にする頻度も高くなっていた。だが、彼女の寿命という点を考えれば、彼女の我儘を聞いてくれる者達がいる時間もそれ程長い訳ではないのかもしれない。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):天使のローブ

エルフの女王へ『命の石』の欠片を手渡す為に訪れた隠れ里にて購入した物。

変化の杖の力によって、エルフへと姿を変えたメルエの将来に希望を見出したエルフの店主が購入を勧めた物である。

元々、エルフの母達が自分の娘の未来を案じて、一本一本想いを込めて編み込んで行ったローブが起源となっている。母達の強い想いが、そのローブを形成する糸に宿り、それを纏った者を理不尽な死から遠ざける効果を持つと云われていた。

だが、その効果を最も必要とした時、このローブは彼女の身を護る事は出来なかった。それを誰よりも悔やんでいるのは、もしかするとこの天使のローブ自身なのかもしれない。

  :マジカルスカート

滅びし村<テドン>で購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

サラの装備する<魔法の法衣>同様、メルエの母親が編んだ物である可能性が高い。常に彼女の魔法力を支え、その身を守る姿は、母親そのものなのかもしれない。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

既に何度もメルエの身を守る為に立ち塞がっており、魔物等の攻撃を受ける際にも、その形状を変化させる事も解っている。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えており、主を護るその時に、そのオブジェの嘴から<ベギラマ>と同様の灼熱の炎を吐き出した。主と定めた物を護るような意志を持つその杖が、何故スーの村にあったのか、そして誰が安置したのかは、まだ解らない。

   :毒針

何度もメルエの身を護ってくれたトルドからの贈り物。

ただ、最近は、メルエが直接的に魔物から攻撃を受ける機会はなく、それを使用する事もない。

それは、カミュやリーシャ、そしてサラといった絶対的な保護者達の働きが大きいのだろう。

 

所持道具:祈りの指輪

精霊ルビスの加護を持つ指輪。

イシス国女王から下賜されたその指輪は、彼女との約束と共にメルエの指に嵌められている。『必ず元気な姿を見せて欲しい』というイシス国女王の願いは、メルエの胸の中で絶対の効力を持つ約束なのだ。その為に、この幼い少女は他の三人を護らなければならない。護りたいと願い、護ろうと決意する。そんな少女の願いと想いだからこそ、この指輪はそれに応えようとするのだろう。

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

       メダパニ

       ボミオス

 

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       トラマナ

       マホトラ

       インパス

       マホカンタ

       ベギラゴン

       ラナルータ

       マヒャド

       シャナク

       イオナズン

       ドラゴラム(書に記載されているが、彼女以外行使不可)

       アバカム

 

      【それ以外の呪文】

       メラゾーマ

 

 

 

 




大変遅くなってしまいましたが、これで二十章は終了となります。
二十一章の一話目はもう少しお時間を頂く形になります。


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第二十一章
マイラの村③


 

 

 

 精霊神ルビスとの対面を終えた一行はリレミトで塔を脱出した後、ルーラでマイラへ戻るのではなく、近場に繋いでいた小舟に乗ってマイラ周辺の海岸まで戻っていた。

 以前ルビスの塔を探索した時は、ドラゴラムを唱えたメルエを運ぶ為、舟を置いてルーラで戻ってしまっていた為、それを返す為にも闇の海を渡る危険を冒してでも舟での帰還を試みたのだ。闇の続く海は想像以上に危険であり、海が荒れていれば即時に沈没しそうな小舟という難点とは別に、海では魔物の気配を察知する事が遅れてしまうという危険も伴っている。故にこそ、『たいまつ』を三本焚き、それに加えて定期的にカミュ、サラ、メルエの三人で周囲にメラを放つという形で周囲の状況を確認する必要があった。

 幸いにしてテンタクルスなどの巨大イカとの遭遇はなく、舟が転覆するような海の荒れは起っていない。だが、アレフガルドでも北部にあるルビスの塔周辺の気温は低く、ちらちらと振り出した雪が、舟を漕ぐカミュやリーシャの手を悴ませた。

 

「雪ですね……闇の中でもこんなに綺麗に」

 

「…………ゆき…………」

 

 真っ黒な空から舞い落ちる雪は、闇の中にも拘らず、神秘的な輝きを放つ。白く透き通ったそれは、まるで精霊ルビスの解放への喜びと、それを成し得た勇者一行達を讃えるようにゆっくりと海へと降り注いでいた。

 空を見上げてその美しさに感嘆の声を上げるサラの横で、自分の頬に落ちる冷たい粒に嬉しそうな微笑みをメルエが浮かべる。氷竜の因子を持っているという事も関係はしているのだろうが、彼女の根本は子供らしい感情なのだろう。舞い落ちる雪の美しさと、それが積もった時の真っ白な大地を思い起こした彼女は、満面の笑みを浮かべてリーシャへと視線を動かした。

 だが、彼女が見た物は、不快そうに眉を下げて上を見上げる母のような存在であった。

 

「…………リーシャ……ゆき……きらい…………?」

 

「ん? 綺麗だとは思うが、寒いだろう? 特にこんな海の上では暖を取る訳にも行かないからな」

 

 不思議そうに首を傾げたメルエの問いかけに苦笑を浮かべたリーシャは、自分の身体に舞い落ちる雪を払いながら、岸に向かって力強く舟を漕ぐ。確かに、上の世界でカミュ達が乗っていた舟は、暖炉もあれば、食事で火を使う事も出来た。だが、このような小舟では火を熾す事は出来ず、防寒着を用意していない今では、突き刺すような寒さが身体を蝕んで行くのだ。

 そんな母のような存在の言葉に、先程よりも首を大きく傾げた少女は、『自分は寒くない』という言葉を口にし、再び舞い落ちて来る雪へと手を翳し始める。一度目の探索の帰りにはぐったりと目を閉じていた彼女が、今では無邪気に手を天へと翳す姿に、小さく震える身体を押さえながらリーシャは微笑むのであった。

 

「陸へつけるぞ」

 

「お前は降りるのか?」

 

 岸が近づいて来た事で小舟を上げる作業が必要となる。雪が舞い散る程の寒さの中、海の中へ飛び込む覚悟が流石のリーシャにも出来なかった。しかし、そんなリーシャの問いかけにカミュは苦笑を浮かべ、光の鎧を装備したまま海へと飛び込んだ。

 腰まで浸かる程の場所でありながらも、力強く引っ張り上げるカミュの背中を見ながら、三人はどこか懐かしく感じるマイラの村がある大陸へと視線を動かす。

 精霊ルビスという存在が封印されているか、解放されたかの僅かな違いでしかないが、今のアレフガルドは夜明けを待つかのような静けさを湛えている。ルビスが解放された事をアレフガルドの住人が知っている筈もなく、これから先もカミュ達が口にしなければ知る事もないだろう。それでも確かにアレフガルドは輝きを取り戻そうと静かに動き始めていた。

 

「…………ゆき……ない…………」

 

「あの海域だけだったのかもしれませんね。アレフガルドには雪が降る場所はそんなにないのかもしれませんよ」

 

 上陸した舟から降ろされたメルエは、先程降っていた雪が止んでおり、大地にも降り積もっていない事に対して不満そうに口を尖らせる。彼女の中では真っ白に埋め尽くされた大地が見えていたのだろう。それが実際に上陸してみれば、雪の欠片さえも見えないとなれば不満に思う事も仕方がないのかもしれない。

 サラの言葉通り、このアレフガルドに雪が積もるような場所はないのかもしれない。季節ごとに移り変わる景色の中に、雪化粧が広がる可能性があるのは、ルビスの塔のある小島かガライの実家がある北西の半島だけであろう。もしかすると、スカルゴンのような魔物がいる以上、遥か昔は雪が降り積もる地方があったのかもしれない。そのスカルゴンが下位の氷竜の成れの果てだとすれば、気候の変化によって住処を奪われた事もまた、滅亡の理由の一つとも考えられた。

 

「アレフガルドの最北端と最南端は、上の世界のそれよりも離れていないようだからな」

 

「はい。ですが、ルビス様がおっしゃっていたように、この世界自体が未だ発展途上のようですので、これから先、このアレフガルド大陸の人々の目が外へと向いた時に、この世界もまた広がって行くのかもしれません」

 

 カミュが岸に上げた舟を木に結びつけるのを手伝いながら呟いたリーシャの言葉はこの四人の共通的な印象であった。上の世界では、それこそ数ヶ月掛かる航海が必要であった最北端と最南端の距離が、このアレフガルドでは同じ数ヶ月でも徒歩で制覇出来る距離なのだ。

 だが、リーシャの言葉を聞いたサラは、雪がなくとも海岸で動き回るメルエを追いながらその回答を口にする。それは、本当に壮大な物語であり、夢物語と言っても過言ではない物であった。

 精霊ルビスが創造したこのアレフガルドは、世界もそこで生きる人々も成長途中である。上の世界に比べれば歴史は浅く、その命の繋がりは短い。今はまだ、このアレフガルド大陸で生きる事に必死な者達がアレフガルド大陸の外へと目を向けた時、大海原は広がり、その先に新たな大陸が現れるのだろう。それこそが、生命の歴史となり、世界の歴史となるのだ。

 

「メルエ、カミュがルーラを唱えてしまうぞ!?」

 

「…………だめ…………」

 

 舟を固定し終えたカミュは、海水で濡れた衣服や鎧を拭き、そして詠唱の準備に入る。このままマイラの村へ徒歩で戻る必要はない。

 今回の塔探索で魔法力が枯渇する事はなかった。それこそが一行の成長の証なのだが、既にドラゴンとの再戦を終えた彼等の次なる目標は『大魔王ゾーマ』である以上、今よりも更なる向上が必要となる事が明白であった。

 詠唱の準備が始まっても、暗闇が広がる海岸で生き物を追うメルエを見ていたリーシャは、『置いて行くぞ』という勧告を告げる。それに反応した少女は頬を軽く膨らませながらも、慌ててサラと共にカミュの許へと駆け出した。

 いつもの居場所であるカミュの足元へ到着したメルエは、そのマントの裾を握り、花咲くような笑みを浮かべてカミュを見上げる。一つの試練を乗り越えた勇者の心は、今までに無い程に晴れ渡り、少女の笑みに向かって小さく柔らかな笑顔を生んだ。

 

「さぁ、古の勇者の剣を取りに行こう」

 

 自分に向けられた優しい笑みに嬉しくなった少女は、青年の腰にしがみ付く。それを見ていたサラも笑みを浮かべ、リーシャの放った掛け声と共に上空へと浮かび上がった。

 一つの光となった彼等が東の空へと飛んだ後、海岸に押し寄せる波の音だけが響く。

 

 

 

 マイラの村へ辿り着いた一行は、門番に素性を告げて村の中へと入って行く。しかし、既に一日の活動を終えていた村は、人も疎らになっており、武器屋の扉も閉まっていた。

 一行は宿屋で宿を取る事にし、軽い食事を取った後、このマイラの村の名産でもある温泉へと向かう事となる。最初の頃は、その独特の臭いに顔を顰めて嫌がっていたメルエであったが、何度か入る内に、その雰囲気と温かさが気に入ってしまい、サラの手を引くように嬉々として温泉へと向かって行った。

 入り口で男性と女性に分かれ、カミュと離れる事を残念がるメルエを宥めたリーシャは、更衣室のような場所でメルエの衣服を脱がせて行く。未だに裸体を晒す事に抵抗があるサラは、周囲を確認しながら衣服を脱ぎ、既に素っ裸になったリーシャとメルエの後を追うように、湯気でむせ返る風呂場へと入って行った。

 

「…………リーシャ…………」

 

「最初に少し身体を洗おうな。汚れたままでは皆に迷惑になってしまう」

 

 早く入りたそうに見上げて来たメルエの頭を撫でたリーシャは、持っていた布でメルエの身体を洗って行く。少し石鹸をつけた形で洗い、それを湯船とは遠い場所で洗い流す。熱いお湯を掛けられているのに拘わらず、当のメルエは嬉しそうに微笑み、可愛らしい声を上げていた。

 そんな二人の様子に和みながら、サラも身体の汗と埃を流して行く。髪も洗い、すっきりとしたところで三人揃って湯船へと入った。

 今日は、山や森からの珍客の来訪はないようで、時間も遅い為か人も少ない。寂しい雰囲気の温泉に残念そうなメルエを抱きながら瞳を閉じてゆっくりと浸かるリーシャに向けてサラが口を開いたのは、三人の顔がほんのりと紅く染まって来た頃であった。

 

「この旅を始めた頃には、ルビス様にお会い出来るとは思ってもいませんでした」

 

「ん? そうだな……私もルビス様を崇めていても、ルビス様本人のお姿を拝見出来るとは考えていなかったな」

 

 アリアハンという小国を出た頃の二人であれば、信仰の対象となる精霊ルビスと対面する事が出来るなど、夢にも思わなかっただろう。そもそも、サラは別としても、リーシャ自身、信仰の対象となる精霊ルビスが人間が視認出来る者であるとは考えていなかったかもしれない。

 それでも彼等はここまで辿り着いた。絶対の存在として君臨する精霊神でさえも認める存在として、立つ事を許されたのだ。最早、精霊神ルビスがこの世界に干渉する事はないのかもしれない。この世界で生きる者達に託された未来は、そこで生きる者達が切り開いていかなければならない。

 精霊ルビスの庇護がなくなるという事は、生きる者達にとっては過酷な事かもしれない。だが、その愛と加護は未来永劫に続く物であるだろう。

 

「……やはり、カミュ様は『勇者様』でした。色々な事がありましたが、あれ程にルビス様に愛されるカミュ様が少し羨ましいです」

 

「ルビス様は等しく愛されているとおっしゃっていた。カミュもサラも同じ愛を受けている筈だぞ。それに、カミュはカミュだ。勇者がカミュなのではなく、カミュが勇者だったという事だな」

 

 気持ち良さそうに目を閉じるメルエは、サラとリーシャの話の中にカミュの名前が出て来た事で不思議そうにリーシャを見上げている。そんなメルエの濡れた髪を優しく梳きながら『カミュはカミュだ』と再度リーシャが口にすると、メルエは嬉しそうに微笑みを浮かべ、大きく頷きを返した。

 彼女が最も早くその事実に気付いていた。勇者という存在としてではなく、カミュという一人の青年をこの少女はずっと見て来たのだ。彼女にとって、誰よりも強く、誰よりも優しいその青年こそが、彼女にとっての勇者であり、英雄なのだろう。今、彼女を抱いている女性戦士も、元騎士ではあるが、今ではこの少女の騎士なのかもしれない。

 

「ですが、ルビス様がおっしゃっていた『最後の試練』というお言葉が気になります。ルビス様がお言葉を下さるという事は、かなり困難な物なのでしょう。しかも、大魔王ゾーマを討ち果たすという事が容易いと感じる程の……」

 

「ん? ああ、その事か……」

 

 メルエの微笑みに釣られるように笑みを浮かべたリーシャとは異なり、サラは深刻そうに眉を顰めながら口を開く。その内容は、精霊神ルビスがカミュ達の前から姿を消す時に口にした物であり、賢者としては聞き逃せない物でもあった。

 カミュが遭遇する試練であれば、必然的にリーシャ達三人も同道する事になるだろう。精霊の神と謳われるルビスが敢えて言葉にするのであるから、それは相当厳しい試練に違いはない。しかも、このアレフガルドを絶望の闇で包んでいる元凶である大魔王ゾーマの打倒でさえも、その試練を乗り越えるよりは容易であると言い切られるのであれば、その試練を四人が乗り越えられる確証は何もないのだ。

 そんな緊張感で満ちたサラの横で、リーシャは優しくメルエの髪を梳きながら視線を空へと向ける。その顔に不安など微塵もなく、何かを確信しているような微笑みさえも浮かんでいた。それがサラには不思議で仕方なかった。

 

「サラが心配する事など何もない。だが、ルビス様のおっしゃる通り、ここまでの旅で最も厳しい試練だろうな。乗り越えられない可能性もあるだろう。そこでこの旅が終わりを告げる可能性も、この世界の終わりとなる可能性もある」

 

「そ、そんな……。リ、リーシャさんは、その試練が何かを知っているのですか?」

 

 リーシャの浮かべている表情に反した言葉に、サラは絶句する。『心配する必要はない』と言いながらも、不安しか湧いて来ない言葉を漏らすリーシャの真意がサラには解らなかった。

 自分達一行の旅が終わりを告げるという事が、この世界の終わりと同意である事をサラは理解している。それが自分達全員の死であろうと、例え誰かが生き残ろうとも、アレフガルドの夜は明ける事がないだろう。そんな危険のある試練にも拘わらず、心配する必要がないと言われて、一体誰が納得するというのだ。

 サラは、自分が見通す事の出来ない未来が、リーシャには見えているのではないかと錯覚する。それ程に、リーシャの表情は穏やかであり、優しかった。幼いメルエを抱くその姿は、聖母にすら見える。この世界に語り継がれる母神とは、リーシャのような姿をしているのではないかと、サラは見当違いな想いを抱いていた。

 

「サラではないが、これは私の推測に過ぎない。だが、心配はするな。私の考えている通りの物であれば、カミュは大丈夫だ。きっとな……」

 

「…………だいじょうぶ…………」

 

「え? まさか、メルエも解っているのですか?」

 

 真っ黒な空を見上げながら発したリーシャの言葉は、サラやメルエの耳に溶け込むように湯気と共に消えて行く。その言葉に目を開けたメルエが魔法の言葉を呟いた事で、サラは先ほど以上の衝撃を受けた。

 しかし、この中で、最大の試練となる物が何であるかに気付いていないのは自分だけなのではないかという驚きは、小首を傾げた少女がゆっくりと首を横に振った事で脱力してしまう。しかし、理解をしていなくとも、それが何かを知らなくとも、絶対の信頼を示すように微笑む少女を見て、サラもまた微笑みを漏らした。

 その後、ゆっくりと湯に浸かり、身体の疲れを流した一行は、深い眠りに就く事で身体の奥底に残る疲労を取って行く。

 

 

 

 翌朝、いつものように洗濯を済ませた一行は、食事も取らずに眠ってしまったメルエの要望によって食事を済ませ、マイラの村の南西にある武器屋の二階へ向かった。

 ここ数ヶ月、店を締め切って、朝から晩まで金属を打つ音を響かせていた武器屋ではあったが、今では通常に営業を開始している。以前と異なる事は、一階部分のスペースがサロンのようになっていて、そこでお茶や軽食を楽しむ人達が多くなったという事だろう。どれだけ世界が恐怖に陥っても、温泉という癒しがあるこの村だけは、少し世間との感覚がずれているのかもしれない。

 

「待っておりました」

 

「……出来たのか?」

 

 一階のサロンで食事やお茶を運んでいたジパング出身の女性に会釈をして階段を上ると、上がって来たカミュに気付いた店主が満面の笑みを持って歓迎の意を示す。何人かの客がいたのだが、店主はそのお客全てに謝罪してお引取り願い、カミュ達だけとなった店内でようやく言葉を口にした。

 先程の笑顔と、今の言葉で、この店主が満足行く出来の剣を造り上げた事は明白である。それでも、カミュは真っ直ぐ店主の瞳を見て問いかけた。

 そんなカミュの意を汲んだように店主は大きく頷きを返し、カウンターの置くから細長い木箱を取り出す。木箱の幅は雷神の剣の幅ほどもない。しかし、その長さは雷神の剣よりも長かった。

 

「その鎧も、古の勇者と伝えられる方の装備していた物ですか?」

 

「そうだと思う」

 

 木箱を空ける前に、カミュが纏う鎧へ視線を向けた店主は、その鎧に刻まれている紋章を見て笑みを浮かべ、それが古の勇者に纏わる物なのかを尋ねる。

 彼に出会った時には既にカミュは『勇者の盾』を装備していた。だが、それが古の勇者が装備していたと伝えられる盾だと口にした事はない。それでも、古の勇者が装備していた剣を打つ者であれば、気付かないという事はなかったのだろう。

 青白いその輝きは、他の装備品とは一線を画している。特に盾に大きく記され、鎧の胸や兜の前面に描かれた神鳥の紋章は、人の目を惹き付けて止まない。その鎧の上から羽織られている紅いマントが、目の前に居る青年を更に神々しく映していた。

 

「良かった。やはり、古の勇者と呼ばれる者と、その紋章は深い関係があるのですね」

 

 安堵の笑みを浮かべた店主は、ゆっくりと木箱の蓋を開ける。その瞬間、カミュ達三人は、自分の目が眩む程の眩い光に包まれた。一人背の届かないメルエだけは、上を見上げながら不思議そうに小首を傾げ、途端に頬を膨らませる。自分だけが仲間外れになっている事に不満を持ったのだ。

 武器屋の二階部分全てを覆うかのような光が収まり、蝋燭の薄暗い明かりだけに戻る頃、カミュ達は木箱の中に納まる美しい剣を目にする。不満の訴えるメルエの声さえも聞こえないかのように固まった三人は、その剣の神秘的な輝きに言葉を失っていた。

 真っ直ぐに伸びた両刃は、まるで鏡のようにカミュ達の姿を映し出す。鋭く研がれた刃先は、全てを斬り裂くように青白い輝きを放ち、見る者を魅了していた。

 樋の部分は、溝が掘られるのではなく、逆に刃を支えるように金色の金属が嵌め込まれている。本来血溝として剣の軽量化をする為の物でもあるが、世界最高峰の勇者の武器には不必要と判断したのかもしれない。その金色の金属が、持つ者が歩く道を示すように真っ直ぐに剣先へと伸びていた。

 そして、何よりも眼を惹くのが、その鍔である。ようやく抱き上げてもらったメルエがその剣を覗き込み、嬉しそうに微笑みを浮かべた事で、それが何かは想像が付くだろう。

 

「…………ラーミア…………」

 

「この鳥の名は、ラーミアというのですね。まるで勇者を象徴するようなこの紋章は、必ずこの剣にも刻み込まなければと考え、この鍔の部分を作りました。私が伝え聞いて来た『天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)』に影響を受けてはいますが、この鍔の部分は遥か昔の姿を想像して作りました。実は、この部分にはドラゴンキラーの大部分を使わせて頂いたのです」

 

 まるで神鳥が羽ばたくように翼を広げた姿が、そのまま鍔として造り上げられている。黄金に輝くラーミアが、剣先へと続く黄金の道を今にも飛んで行きそうな姿に、カミュ達は声を失う程の感動に襲われていた。

 しかも、この鍔の部分は、リーシャが置いて行ったドラゴンキラーという武器を使用していると云う。上の世界でのカミュ達と一人の商人の絆の証であり、この店主にとっての師との絆の証である。竜種の牙や爪を持って造り上げられた刃は、どんな竜種の鱗さえも斬り裂くと伝えられていた。強力な竜種が少なくなった上の世界では最早造る事の出来ない剣と言っても過言ではないだろう。

 神代の希少金属であるオリハルコンという金属と、そして彼等が紡いで来た絆の結晶の融合。それこそ、今代の勇者に相応しい武器なのかもしれない。眩く輝く神鳥の姿が、それを示すように優雅に羽ばたいていた。

 

「これをお返し致します。凄まじい熱量を持つ石でした。幾らそれを吐き出そうとも、その輝きは消えず、熱も失われません。このアレフガルドの国宝である事も頷ける一品です」

 

「はい。これを私達に貸し与えて下さった王太子様に心から感謝しております」

 

 剣に目を奪われているカミュ達を嬉しそうに見つめながら、店主はカウンターの下から太陽の石を取り出す。オリハルコンという神代の希少金属を溶かし、その形状を変える程の熱量を発したにも拘らず、真っ赤に燃え上がるような輝きは失われてはいなかった。

 ラダトーム王国が精霊神ルビスより賜ったと云われるその石は、このアレフガルドから失われた太陽のような輝きを放ち、それを取り戻そうと進む勇者達を導く光となる。

 『雨と太陽が合わさる時、虹の橋が架かる』。その言葉は、ラダトーム城にて次期ラダトーム国王から賜った物である。『太陽の石』、『雨雲の杖』、そして『ルビスの愛の証』を持って、南東にある神殿を目指せとルビスの従者であった妖精にも告げられていた。今、その全てが勇者一行の手許に揃ったのだ。

 

「代金は、あの金額だけで良いのか? 結局ドラゴンキラーの全てをこの剣に費やしてしまえば、費用分は損をする事になる筈だ」

 

「いえ、これ以上は望めません。この世の中で最高の金属を打ち、この世界に光を取り戻す者の武器を生み出しました。これ以上の名誉も、栄誉もありません。その剣は、私の生涯最高傑作です。もう一度作れと言われても、二度とは作れないでしょう。それだけで満足です」

 

 吸い付くように己の手に収まった剣を見ながら発したカミュの言葉に、店主は満面の笑みを浮かべて首を振る。彼にとっても、この剣の作成に全てを込めたのだろう。それこそ、全身全霊を掛けた一品なのだ。

 そして、一職人、一鍛治師として、自分の全てを賭けて生み出した剣が生涯最高傑作だと胸を張って言える出来であった。他に何を望むというのだろう。そして、それを振るってくれるのが、この絶望の闇に染まった世界に光を取り戻す勇者であれば、他に何も要らないのだ。

 

「ただ、一つだけお願いがあるとすれば、この剣へ名を送らせて下さい。私は貴方だけの為にこの剣を生みました。おそらく、その剣は貴方以外の者を主として認める事はないでしょう。今、その剣が発している輝きが証拠です。この世に光を取り戻す貴方だけの剣……」

 

 願いがあると言い出した店主の言葉を拒む理由はない。基本的に銘を打つのは製作者の権利であり、その剣が素晴らしければ素晴らしいほど、その製作者が打った銘は伝承にさえなるのだ。

 この店主が、目の前に立つカミュだけの為に打ったというのであれば、この剣の名を付けられるのは、店主とカミュだけである。そのカミュが静かに頷いた事を見た店主は、ゆっくりと瞳を閉じ、静かにその名を吐き出した。

 

「王者の剣」

 

 まるで時が止まったかのように静寂が広がる店内に、店主の言葉だけが溶けて行く。

 何を以て王と成すのかと思う程に傲慢な名。このアレフガルドを統べる者としてラルス国王家が存在するにも拘わらず、その剣の所有者を『王者』とする。創造神、精霊神、大魔王という強大な存在を押し退けて『王』を名乗る事が許される事なのかは解らない。それでも、この店主の心は、このアレフガルドで生きる全ての者達の願いなのだろう。魔の王を討ち果たす、真の王者。それをこの世界の者達は待ち望んでいるのだ。

 そんな店主の心がリーシャやサラの胸にも素直に落ちて行く。カミュという青年が歩んで来たこの六年の旅を彼女達は知っている。その苦しみも、その優しさも、その強さも知っている。誰が何と言おうと、彼こそが勇者であり、彼こそが強者である。 

 魔王バラモスを討ち果たす事が出来たのは、ここに居る四人の力ではあるが、その力が集まったのは彼が居たからこそである。彼がいなければ、サラがリーシャに出会う事はなく、彼女の導きがなければ賢者になる事もなかっただろう。そしてその根底にある物が揺らいだのはカミュが居たからこそであった。そのサラとの対立がなければメルエが救われる事はなく、そのメルエがいなければリーシャはカミュの心の奥にある大きな優しさに気付く事はなかっただろう。

 全ての起点はこの青年であり、勇者一行の原点はカミュなのだ。リーシャやサラやメルエにとって、確かに彼は王者である。僅か三人の小さな小さな王者であった彼は、六年間の旅での出会いによって、この世界の生きとし生ける者達の王者となった。

 その彼を主として定めた剣であれば、『王者の剣』という名も相応しいのかもしれない。

 

「この剣を残りの代金代わりに置いて行く。以前預けた『稲妻の剣』はいずれ取りに来るが、この『雷神の剣』はアンタの物だ」

 

「いや、それでは……」

 

「店主、受け取ってやってくれ、カミュの想いを」

 

 鞘ごと外した剣を、カミュはカウンターへと置く。それもまた、神代から受け継がれて来た武器の一つ。雷の神が愛し、その力の一部を顕現すると云われる程の剣である。その剣に主と認められた者であれば、一国を滅ぼす事さえも可能であるとさえ云われていた。

 そんな剣を与えると言われた店主は慌てて返そうと手を伸ばすが、その手はメルエを抱いた女性戦士の片手に制される。

 いつでもこの勇者は言葉が足りない。この店主の想いを受け止め、それに応えようとしているのに、それが伝わらないのだ。それはカミュの責任ではあるのだが、そんな彼の優しさを理解する事が出来る者が今はすぐ傍にいる。柔らかな笑みを浮かべて雷神の剣を店主へと渡したリーシャは、王者の剣を鞘へ納め、背中ではなく腰に吊るすカミュに向かって苦笑を漏らした。

 

「わかりました。この剣は有り難く頂戴致します。この後はどちらに向かわれるのですか?」

 

「……リムルダールという町へ向かおうと思っている」

 

 これ以上の拒絶は、カミュ達の心を蔑ろにする行為であると悟った店主は、大剣を持ち上げ、カウンター下へと納める。おそらくではあるが、彼はこの剣を販売する気はないのだろう。その理由は、これ程の剣が主として定め、そしてそれを振るう事が出来る者が現れるとは考えていないという点と、店主自身の気持ちの問題であった。

 剣を納めながら聞いたカミュ達の目的地の名に、店主は顔を上げる。彼とて、アレフガルドに降り立って数年の間、この土地で商売をして来ているのだ。この大陸にある町の名は全て網羅しているのだろう。

 

「リムルダールですか……何でもメルキドの北部にある山脈を、ドムドーラ方面から抜けなければならないそうです。今、このマイラの南から掘られている海底洞窟が繋がれば、移動日数も大幅に変わるのですがね」

 

「……海底洞窟ですか?」

 

 リムルダールへの道を話してくれた店主の言葉の中にあった聞き慣れぬ単語に、サラは小さく首を傾げる。今まで海底にある洞窟と言えば、最後の鍵を入手したあの浅瀬にあった洞窟だけであった。しかし、正確に言えばあの洞窟も大陸と大陸を海底から繋ぐトンネルではない。唯一上の世界でそれに当たる物といえば、ロマリア大陸とポルトガ大陸を結ぶ地下通路か、アリアハンのナジミの塔がある孤島へ繋がる洞窟だけかもしれない。

 ただ、それらの物は、サラ達が生まれる前から既に存在していた物であり、海底を繋げる通路を掘る作業が如何に大変な事なのかという事が想像も出来ないのだ。

 

「ええ。何でも既に掘り終わっている箇所に作業員達の宿所を作って、昼夜交代で掘り続けているようです。アレフガルドが闇で包まれている限り、マイラの村からリムルダールへ向かうには一年近くの時間と、それ相応の危険がありますからね」

 

「……そうですか。このアレフガルド大陸も、いつかは一つに繋がるのですね」

 

 マイラの村のある大陸は、ラダトーム王都のある大陸とは海域で離れている。ラダトーム王都との隔たりは、それ程距離もなく、海から流れ込む水流も激しくはない為、平和さえ取り戻せば橋が架けられるだろう。だが、リムルダールがある大陸との間の海域は流れが激しく、大魔王のいる城から流れる瘴気の濃さも影響して橋が架けられない。

 この海底洞窟は、アレフガルドで暮らす者達にとって、希望の証となるだろう。どんな状況でも何とかしようと懸命に生きる人間の強さを、サラは改めて感じていた。

 

「行くぞ」

 

「いつか、アレフガルドの太陽と共に、貴方が剣を取りに戻られる日を楽しみにしています」

 

 このマイラの村での用事は全て済んだ。踵を返して武器屋を後にするカミュの背中に、店主が言葉を投げる。それに小さく頷いたカミュのマントを掴んだメルエが、店主に向かって小さく手を振り、それに続くようにリーシャとサラが階段を下りて行く。

 静けさが戻った店内で、店主は暫くの間、一行が降りて行った階段へと視線を向けたまま微笑みを浮かべていた。その笑みは、我に変える頃には満面の笑みとなり、抑え切れない喜びと希望が店主の胸に湧き上がる。

 もしかすると、彼の頭の中には、明るい太陽が差し込む世界が既に見えていたのかもしれない。

 

 

 

「カミュ、ドムドーラまでルーラで行くのか?」

 

「他に予定がない以上、それが一番早い筈だ」

 

「南東にあると云われる『聖なる祠』へも行かなければなりません」

 

 マイラの村を出て、傍に咲く花を見る為に屈み込んだメルエを中心に、カミュ達が進路を決定する。このアレフガルド大陸で未踏の地はリムルダール地方と大魔王ゾーマがの城がある場所だけであった。

 最後に残るリムルダールの町を拠点として、ゾーマの城へ挑むとしても、その前にサラが口にした祠へ向かわなければならない。『虹の橋』という物が何を示すのか解らないが、それでもこのアレフガルドに伝承として残され、精霊ルビスの従者である妖精さえも口にする物であれば、この旅にとって重要な物である事だけは確かである。

 

「ルーラ」

 

 カミュの下へと集まった者達が、一つの光となって浮かび上がり、南西の方角へと飛んで行く。

 今代の勇者の許に、神代から伝わる全ての装備が揃った。

 空を斬り裂き、大地を斬り裂くと謳われる『王者の剣』。

 青白い輝きを放ち、身に着ける者を護り、癒すと伝わる『光の鎧』。

 炎を避け、吹雪を溶かすと云われる『勇者の盾』。

 その全てを揃えた者は、世界を手中にするとさえ云われる物が、最弱の種族である一人の人間の下に集ったのだ。それは、この世界の新たな幕開けとなり、夜明けとなるだろう。

 

 

 




読んで頂いてありがとうございます。
ようやく第二十一章に入りました。
残り二章です。

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戦闘⑫【リムルダール地方】

 

 

 

 ルーラにてドムドーラへと移動した一行は、町の中に入る事なく東に向かって歩き始める。精霊神ルビスが解放されたとはいえ、このアレフガルドに太陽が戻って来た訳ではない。その兆しが見えて来たというだけであって、未だに闇の元凶である大魔王ゾーマは健在であるのだ。いや、正確に言えば、完全復活し、更に力を増していると言えよう。その為、他に明かりのない道を、カミュ達は三本の『たいまつ』の明かりだけを頼りに歩かなければならなかった。

 メルキドへ向かう際に上った南にある山へ続く道へ向かわず、その東側にある森へと入って行く。真っ暗な森の中に鳥の鳴き声が不気味に響き、吹き抜ける風が木々を揺らした。一昔前のサラであれば、この状況に怯え、メルエの手を握っていたかもしれないが、既にこのアレフガルド大陸に舞い降りて一年の時間が経過している。闇の行軍にも慣れ始めていた一行は、そのまま森を抜けて行った。

 

「カミュ、どのくらい掛かるんだ?」

 

「メルキドの町を囲う山脈を抜けて行く。かなりの高度がある場所を歩く事になるだろう。少なくとも、一日二日で辿り着ける距離ではない」

 

 一旦森と抜けると、小さな橋が向こう岸に架かった場所に出る。その先には再び大きな森が見え、その先には雄大な山脈が広がっていた。

 マイラの村の武器屋が口にしていたように、メルキドの北西にある山脈を抜けなければリムルダールという町がある地方には行けないのだろう。しかも、見上げる山脈は闇も相まって、山頂が見えない。この山脈を登り、向こう側へ渡るとなれば、山の中でも数度の野営を行う必要性がある事は明らかであった。

 森を歩いている間に、一行は一度の休憩を挟む。火を熾して狩った獣の肉を焼き、果物を口にした。ゆっくりする時間はないが、それでも体力を戻す為に交代で仮眠を取り、メルエが目を覚ますのを待って再度歩き始めた。

 

「北側の海の向こう側の闇が濃い……」

 

 森を抜け、険しい山道に入り始めると、周囲には大きな木々は見えなくなって来る。所々に木々が生えてはいるが、森のように密集している訳ではなく、高度が上がって行くにつれ、周囲を見渡せる程になって行った。

 見渡せるとは言っても、結局見えるのは闇だけである。しかし、山を登り始めて左側へと視線を向けたサラは、その方角が北である事に気付き、その闇の濃さに驚きを表した。このメルキド地方の山脈から北側に何があるかという事を今更言葉にする必要もない。そこは、彼等が目指す者が居を構える城がある場所であった。

 このアレフガルドを絶望の闇に包み込む大魔王ゾーマが拠点とする城がそこにはある筈であり、このような離れた場所からでも視認出来る程に歪んだ闇が、その力の大きさを明確に表している。『闇が濃い』などという言葉は比喩である。実際にそのような事がはっきりと視認出来る訳がないのだ。だが、サラの言葉に顔を動かしたリーシャは、その先の空間が歪む程の深い闇に驚愕の表情を浮かべた。

 

「解っていた筈だ。アレを倒す事は並大抵の事ではない……」

 

「その先は言うなよ、カミュ。私達全員がお前と共に行くと決めたのだ」

 

 立ち止まった一行の先頭で、カミュが口を開く。だが、その言葉は最後まで語る事を許されず、リーシャによって途中で遮られた。不思議そうに見上げるメルエの頭を撫でながら微笑むリーシャは、サラに先を促して山を登り始める。

 険しい山道では、如何に常人よりも旅慣れている一行とは言えども速度は落ちる。特に膨大な魔法力によって体力を補っているメルエは、その身体の違いからも一行の足手纏いとなりかねなかった。故に、途中からはリーシャがメルエを抱き上げ、険しい山道を登り始める。草木もなく、傾斜も厳しい道を片手の筋力と足腰だけで登るリーシャを見ながら、サラは懸命に付いて行く事しか出来なかった。

 

「カミュ、一度傾斜の緩やかな場所で休憩を取ろう」

 

 サラの体力が明らかに落ちている事を確認したリーシャは、先頭を歩くカミュへと提案する。それに頷きを返したカミュであったが、現状では四人が休む事の出来る場所が見つからない。闇に包まれた険しい山道であるからこそ、中途半端な場所に留まる事の危険性が高いのだ。

 今この場所で魔物と遭遇すれば、彼等にとって相当な危機となる。狭い場所での戦闘が如何に危険な物であるかを知っているからこそ、彼等も慎重になっているのだ。

 ダーマ神殿に向かう為の山道では大した戦闘はなかったが、それでも一歩足を踏み外せば真っ逆さまに落ちてしまうという状況では十分な力量を発揮する事は不可能であろう。しかも、このアレフガルド大陸の魔物は強力な者が多いとなれば尚更である。

 しかし、そんな彼等の警戒は悪い方に的中する事となる。少し平坦な獣道へ出た時、彼等の左手に真っ赤な光が突如として現れたのだ。

 

「ちっ」

 

「サラ、カミュの後ろへ!」

 

 左手に見えた輝きは、凄まじい熱と共に先頭を歩くカミュへと襲い掛かる。真っ赤に燃え上がる火炎を左腕に装備した勇者の盾で防ぎ、その熱量と勢いに圧されぬように踏ん張りを利かせた。

 古の勇者の装備である盾の効力を活かし、盾を掲げるカミュの後方へとサラとメルエを動かしたリーシャは、足元に転がる岩などを気にしながらも、一気に炎の出所へと駆け出す。しかし、再度迫り来る熱によって、周囲の景色が露になり、自分が向かっている場所を正確に把握したリーシャがその足を止めた。

 炎によって照らし出された場所は、断崖絶壁。一歩踏み外してしまえば、この場所に戻るどころか命さえもなくなるような崖になっていた。そして、そのような崖から炎を吐き出せる魔物となれば数は限られている。

 

「また、あの複合種か……」

 

 目の前に見えるのはこのアレフガルドで何度か遭遇している忌み種である複合体。キメラと名付けられたその魔物が、大きく嘴を開けて宙を飛んでいた。

 背中に生える翼は、決して大きくはない身体を自在に飛び回らせる。その嘴は鋭く、吐き出す炎は激しい。アレフガルドの魔物の中でも上位に入る力を持ったキメラ二体を相手する場所とすれば、この山道は厳しいと言わざるを得なかった。

 吐き出される炎を受ける事しか出来ず、直接攻撃しか出来ないリーシャには打つ手がない。それはカミュも同様であり、今の現状では彼がキメラに対して有効な呪文を有していないのだ。多少のダメージを与える事は出来るかもしれないが、その命を奪うまでには至らない。故にこそ、彼等はキメラの吐き出す炎を受ける盾をなった。

 彼等の後方に控える者達の為に。

 

「…………マヒャド…………」

 

「マヒャド」

 

 カミュとリーシャの盾の隙間から噴き出した圧倒的な冷気が、炎を吐き出し続けるキメラへと襲い掛かる。相当な熱量を受け止めていた盾にさえも霜が降りる程に強力な冷気は、険しい山道にある全ての物を凍り付かせて行った。

 冷気の申し子であるメルエの放つ氷結最上位呪文に、この世で唯一の賢者となったサラの緻密な冷気が上乗せされる。氷の結晶さえも視認出来るほどに周囲の気温は下がり、先ほどまで辺りを照らしていた炎の光を受けて輝くように一面を氷の世界へと変えて行った。

 そのような世界で生きる事が出来る者は、既に伝承と化した氷竜だけかもしれない。『たいまつ』の炎さえも凍りつきそうな世界の中、目の前を飛んでいたキメラの身体が氷像と化す。生命ごと凍り付いたキメラが、そのまま絶壁を落ちて行った。

 もしかすると、このメルキドを囲うように延びる山脈がキメラ達の住処なのかもしれない。複合体として生み出された者達は、森などでは生きられないだろう。断崖絶壁に巣を作り、そこで命を育んでいるのだとすれば、既にそれも生命の系譜に序列される物となる筈だ。真っ暗な闇の底へと落ちて行くキメラの氷像を見ながら、サラはこの先の未来で彼等にも神や精霊の祝福が届く事を願った。

 

「カミュ、やはりこの場所での戦闘は出来るだけ避けるべきだな」

 

「呪文が効かない魔物にでも遭遇しなければ、何とかなるだろう」

 

 再び闇と静寂の戻った山道で、リーシャはこの場所での戦闘の難しさを改めて感じていたが、対するカミュは異なった感想を抱く。それは、彼の後方にいる二人がいれば、ある程度の魔物であれば退ける事が出来るという物であった。

 メルエとサラが攻撃呪文を行使し、それまでの防御をカミュとリーシャで行えば、足場の悪い場所であっても、魔物を倒す事は可能である。それこそ呪文が効かないメタルスライムやはぐれメタルのような魔物でなければ、攻撃の主を彼女達二人にすれば良いだけと考えたのだ。

 そんなカミュの返答に暫し考えるように口を閉ざしたリーシャであったが、大きく頷きを返して笑みを浮かべる。彼女にとってメルエやサラは護る対象であるという想いが強かったのだろう。故に、戦闘の主力として考えるという思考に辿り着かなかったのだ。

 だが、確かに船での移動時などは、主にメルエやサラの呪文が主戦力であった。それから考えれば、彼女達二人に全てを任せるという事が如何に心強い物であるかという事に思い至る。そんな笑顔であった。

 

「カミュ様、あの洞穴のような場所であれば、少し休憩が出来るのではないでしょうか?」

 

「…………メルエ………ねむい…………」

 

 戦闘を終えてから更に進むと、『たいまつ』を掲げていたサラが洞穴のような場所を見つける。休憩という言葉に反応したメルエが、目を擦りながら不満を漏らしていた。

 既にマイラの村を出てから半日以上の時間が経過している。一日中歩き続ける事が不可能である以上、何処かで休みを挟まなければならないのだが、幼い彼女が口にしたその言葉が決め手となった。

 このような山脈にある洞穴であれば、既に他の生物の棲み処となっていても可笑しくはない。『たいまつ』を持ったカミュが先に入り、奥が深くない事、そして何かが生活していたような空気が無い事を確認して全員を中へ誘う。周囲から枯れ草や枯れ木を集めて火を起こし、所持していた保存食の干し肉などを炙って食した。

 食事をしながら舟を漕ぎ始めたメルエを寝かせ、リーシャとカミュが交代しながら見張りを行う。闇の中でも青白い光を放ち続けるカミュの鎧の輝きを見ながら、リーシャもまた身体を休めた。

 

 

 

 メルエの目覚めを待って再び歩き出した一行であったが、山脈の頂上に辿り着くまでに更に一泊の必要があった。山頂に近付けば近付く程に気温は急降下して行き、寒さに強いメルエ以外は身体を震わす程の物となる。次第に気持ちの問題なのかもしれないが、空気も薄く感じられるようになっていた。

 ネクロゴンド火山を登った事もあるカミュ達ではあったが、昼夜共に闇に包まれた山を登るという危険を改めて感じる事となる。魔物だけではなく、その気候さえも彼らの敵となる可能性を秘めており、その大いなる自然の力が魔物や人間などよりも恐ろしい力を持っている事を実感した。

 

「登るのに二日掛かった。降りるにも二日以上の日数が必要だぞ」

 

「休み休み行くしかないだろう」

 

 『たいまつ』という頼りない明かりの中、一行は下り坂となった山を下りて行く。下りの方が楽だという見方もあるが、足腰への負担は、下りの方が強いという考えもあるだろう。登りで二日掛かったのであれば、下りはそれと同日数かそれ以上の日数を必要とするとカミュは考えていた。

 案の定、細い山道を下って行くのは、如何に旅慣れたカミュ達とは言えども膝に掛かる負担は避けられず、休憩を挟みながらの行軍となる。途中でダースリカントのような魔物との戦闘を繰り返しながら、三日目の半分を過ぎた頃に、ようやく山の麓が見えて来た。

 山の麓は巨大な森が広がっており、樹海と言っても過言ではない程に闇が支配している。メルエなどは木々の香りが漂うその中を嬉しそうに歩いてはいるが、四方八方が木々によって同じ光景に見え、地図を見ながら先導しているカミュは若干顔を顰めていた。

 

「カミュ、妖精様が言っていた聖なる祠へ向かうのか?」

 

「いや、まずはリムルダールへ向かう。拠点を確保しなければ危うい」

 

 『たいまつ』の薄暗い明かりしかない中で、リーシャはカミュの持っている地図を覗き込み、聖なる祠があると考えられる小島を指差す。アレフガルド大陸の南東に浮かぶように記された小島には、橋などが架けられているようには見えない。つまり、海を渡る何かがなければ向かう事は不可能である事が推測出来た。

 カミュの言葉通り、何も対策がないままで対岸に向かっても仕方がないだろう。まずは拠点を確保し、そこで情報を得るというのが、彼等の旅の基本であった。それはこの六年という年月の間で一度も変わる事はなく、そんな細い糸を手繰るように続けて来た結果が今である。それを理解しているリーシャは、柔らかな笑みを浮かべて大きく頷いた。

 

「しかし、ここまで深い森ですと、迷ってしまう可能性もありますね。何か目印でもあれば良いのですが」

 

「地図上では、南東へ進んで行けば、広い平原に出る筈だ。そこで野営を行い、その後は森を真っ直ぐ北に向かう」

 

 真っ暗な森というのは、不気味な物である。夜の闇とは異なり、月明かりさえもないとなれば尚更であろう。闇は人の方向感覚さえも狂わせ、己がどの場所にいるのかさえも解らなくさせる。ここまでの旅で、正確な方向探知を持つカミュと、正確な行き止まり探知を持つリーシャが居たからこそ、彼等は迷う事なく歩き続けて来れたのだ。決して方向音痴という訳ではないが、その点に掛けては常人であるサラだけであれば、森の中を彷徨う可能性もあっただろう。

 このような場合に限り、サラはメルエと同様に役に立たない。前を歩く者の後を追う事しか出来ないのだ。枯れ木の棒を拾ったメルエが、誇らしげに高々と掲げるのを見たサラは、そんな自分の立場を理解して苦笑を浮かべた。

 細い木の棒を振りながら歩くメルエの手を握り、地図を見ながら歩くカミュを追って行くと、その言葉通り広い平原に出る。森の木々に囲まれた円に近い形の平原であったが、山脈から流れる小川などがあり、太陽が出ていれば、森に生きる者達の憩いの場である事が推測されるような綺麗な場所であった。

 

「水は確保出来るな。流石に手持ちの水筒も空になっていたからな」

 

 小川を見つけたリーシャは、各々の持つ水筒を受け取り、メルエと共に水を補給して行く。旅なれた彼らであれば食料は何とか調達出来るが、水だけは川や井戸からでしか調達が出来ない。多めに水筒を用意していても、歩き続けであればその消費も早く、残る水では一日も持たない程であったのだ。

 小川の傍に屈み込んで水を水筒へと入れるメルエの身体を支えるリーシャを見ながら、サラとカミュは野営の準備を始める。幸い樹海の中で枯れ木は多く入手出来たし、火を熾す事に不自由はなかった。

 既にマイラの村を出てから二週間近くの時間が経過してはいるが、それでも未だにリムルダールの町の姿は見えない。旅慣れたカミュ達でさえもこれだけの時間を掛けているのだ。更に言えば、彼等はマイラの村とドムドーラの町の間をルーラで短縮している。商品を運ぶ商隊などであれば、カミュ達の倍も三倍も必要とする筈であった。

 

 

 

 睡眠をとって回復した一行は、そのまま平原を越えて再び森へと入って行く。森へ入って暫く東へ進む中、獣道が徐々に北方向へ向かい始めた。

 十数年前には、この辺りを商隊などが歩く為にもう少し歩き易い道であったのだろう。しかし、荒れ放題となった森の中は、草が生い茂り、陽の届かない為に湿気を含んだ泥濘まで出来ていた。本来であれば、雨が降ろうと、太陽の恵みによって大地が乾き、その恵みを土中に溜め込む事で地下水などが出来るのであろうが、太陽の恵みの無い今のアレフガルドでは、いつ森が牙を剥くか解らない状態になっている。

 深く長い樹海を歩く中、リーシャはメルエと共に枯れ木を探して拾って行く。ここからでもリムルダールの町へ一日二日で辿り着ける距離ではない事は解る為、野営の準備をしていた。

 

「……カミュ」

 

 しかし、そんな慎重な行軍は、闇の中に浮かび上がった一つの影によって遮られる事となる。前を進むカミュの後方で、右手に続く森の中へ『たいまつ』を向けたリーシャが静かに彼の名前を呼んだのだ。

 その声には若干の緊張が含まれており、それが魔物の襲来を予感させるが、立ち止まってリーシャの翳す『たいまつ』の炎の先へ視線を向けた三人は、何処か釈然としない表情を彼女へと向ける。ここまで遭遇したような魔物の姿はなく、巨大な咆哮が聞こえる訳でもない。ただただ静かな闇が広がっているだけの光景にサラは少し息を吐き出した。

 

「……以前、上の世界で見た奴だ」

 

「え?」

 

 明らかに緊張を解いてしまったサラとは異なり、リーシャは依然として警戒態勢を取っており、既に背中から魔神の斧を取り出している。歴戦の勇士である人類最強の戦士がここまで警戒を露にしている以上、それが只事ではないと確信したカミュは、メルエとサラを後方へ下げ、自身も光り輝く剣を腰から抜き放った。

 鎧と同様に青白い輝きを放つ王者の剣が、森の闇を一瞬打ち払う。その際に見た光景が先程と全く変わらない事に、サラは首を傾げた。見える物は、森を模る大量の木々と地面に生い茂る草。苔が蒸した大きな岩達と、それより幾分小さな球体の岩である。

 

「…………うごいた…………」

 

「え? ま、まさか、あのホビット族が居た祠付近の森で遭遇した岩の魔物ですか?」

 

 しかし、そんなサラも、隣で漏らされたメルエの呟きを聞いて警戒の内容に思い至る事となる。メルエの言葉が嘘ではないように、『たいまつ』の炎を掲げた先にあった筈の球体に近い岩が、いつの間にか自分達の間合いに入って来ていたのだ。

 それを以前見たのは、上の世界で彼等がまだ『最後のカギ』という神秘の道具を入手する前、巨大な四つの岩が結び合う場所で『世界樹』と呼ばれる神代の樹木を発見した頃まで遡る。あの頃は正体不明のそれとの戦闘の危険性を考えて、敢えて戦闘を行わなかった。だが、この場所での遭遇は、戦う以外に方法はない。四方が森に囲まれ、地面の泥濘が足を取ってしまう為、逃げ果せるとは考え辛かった。

 

「転がってくる岩が三体だ。どうする、カミュ?」

 

「呪文は使うな。何が起きるか解らない。まずは、俺とアンタで直接叩く」

 

 自分達の存在を発見された事で、その岩達は行動を開始する。まるでカミュ達を取り囲むように転がり始め、カミュ達を中心に配置に付いた。

 闇に包まれていながらも、その岩に浮かぶ人面のおぞましさは解る。三白眼の瞳は対象であるカミュ達を射抜き、大きく裂けた口からは疎らな牙のような物が除いていた。無機物である筈の岩に浮かぶ人面が、カミュ達四人に生理的な不快感を感じさせる。まるで非力な人間達を嘲笑うかのように、そしてそれを弄ぶように、その岩はカミュ達の周囲を回転し始めた。

 

【爆弾岩】

火山のマグマが固まった岩石に命が吹き込まれた物という説や、長い年月を経て命を宿した岩という説など、様々な説がある。高い山脈や岩山の麓の樹海などに多く生息しており、只の岩だと思って近付いた人間などを食すと云われていた。

基本的に、不用意に近付いたり、攻撃を加えたりしなければ、無害であるという説もあるが、確かな情報ではない。生理的な恐怖を植えつけるような人面を浮かべ、人間を嘲笑うかのような行動をする事で、パニックとなった者達が生還する事はなく、その真相は闇に包まれていた。

 

「カミュ、行くぞ」

 

 ゆっくりと、回転を続ける爆弾岩に向かってリーシャが駆け出す。一体の爆弾岩に肉薄した彼女は、持っていた斧を力一杯に振り下ろした。

 金属と硬い岩がぶつかり合う音が響き、欠けた岩の欠片が周囲に飛び散る。まさかこれ程に硬い岩だと考えていなかったリーシャであったが、神代の斧に刃毀れなどは一切なかった。しかし、この爆弾岩を形成する岩は、人工で作り上げられた動く石像や大魔人よりも硬い物であったのだ。

 削り取られた岩が散乱する中で、攻撃を受けた爆弾岩は尚もその不気味な表情を崩す事なく、転がり始める。自分の攻撃がそれ程効力を発揮しなかった事で一歩下がったリーシャに代わり、一気に肉薄したカミュが青白く輝く剣を振り下ろした。

 

「グギャ」

 

 リーシャの攻撃によって欠けた部分に突き刺さった剣は、その僅かな亀裂に滑り込むように硬い岩を斬り裂いて行く。渾身の力を込めて振り抜いたカミュは、まるでチーズでも切るかのように真っ二つに分かれた爆弾岩に驚きを表した。

 確かに会心の一撃と言っても過言ではない一振りではあったが、それでも硬い岩が柔らかいチーズのように切れるとは思っていなかったのだろう。それはこの王者の剣に秘められた力なのか、それとも単純なカミュの力量の上昇なのかは解らないが、一体の爆弾岩が消滅した事だけは確かであった。

 一体が瞬く間に消滅させられた事で、二体の爆弾岩が停止する。『じっ』とカミュ達を見つめるように様子を見ている姿は、油断が出来ない物であった。

 

「カミュ、その剣でもう一度あの岩を斬り裂けるか?」

 

「いや、おそらく無理だろう。たまたまアンタが作った亀裂に上手く嵌っただけだと思う」

 

 先程のように一撃で戦闘を終結させられるとすれば、それ程に楽な事はない。だが、そのような甘い考えが通用する程、このアレフガルドの魔物達は弱くはなかった。確かにカミュの持つ剣は特別な物である。以前に所有していた稲妻の剣や雷神の剣も特別な物であるが、この王者の剣はそれを遥かに越える物でもあった。

 それでも、全ての敵を一刀の元に斬り裂く事が出来る程の物ではない。脆弱な人間であれば別であるが、硬い鱗や体毛で覆われた魔物や、硬い岩や石で出来た魔物を両断するには、その力と斬り口、そして速度などが合わさった会心の物でなくてはならないのだ。

 条件さえ同じであれば、リーシャの持つ魔神の斧であっても、目の前の爆弾岩を両断出来る可能性は高いだろう。その一撃を出せるか出せないかという問題であり、常時出せるのだとすれば、それは既に会心の物ではないという事にすらなるのだ。

 

「削りながら倒すしかないだろう」

 

「わかった」

 

 再度各々の武器を構え直した二人は、身動きせずにこちらの様子を窺っている爆弾岩へと突進して行く。元々動きの遅い岩は、カミュやリーシャの速度に付いて行く事は出来ず、無防備の状態でその一撃を受ける事となった。

 甲高い衝突を響かせ、王者の剣が爆弾岩を形成する岩を砕いて行く。追い討ちを掛けるように振り下ろされたリーシャの斧が爆弾岩に大きな亀裂を生んだ。徐々に広がって行く亀裂は、岩で出来た爆弾岩の仮初の命を蝕んで行く。

 しかし、一旦距離を取った二人は、亀裂が入った爆弾岩が赤く染まって行くのを見て驚愕する事となった。

 

「はっ!?」

 

「M3G@N7」

 

 何かに気付いたようにサラが声を発するが、その声がカミュとリーシャに届く事はなく、大きな光に包まれる。本当に一瞬だけ訪れた静寂の反動のように、凄まじい爆発音が響き、粉々に粉砕された爆弾岩の欠片が前衛二人に襲い掛かった。

 細かく砕かれた岩の欠片は、凄まじい速度でカミュ達に襲い掛かり、咄嗟に掲げた盾に衝突して行く。避け切れない欠片が、鎧で護られていない足や腕に突き刺さり、酷い物ではそのまま身体を貫通して後方へと飛んで行った。

 それでも、カミュ達の後方にいるサラやメルエまでは届かず、二人に怪我はない。だが、前衛二人は立っている事が出来ずに崩れ落ちた。幸いな事に、凄まじい爆発に巻き込まれたもう一体の爆弾岩も誘発するように砕け散り、目の前の脅威も消滅している。慌てて駆け寄ったサラは、その惨状の酷さに眉を顰めた。

 

「メルエ、水筒を!」

 

 カミュもリーシャも、その両足から夥しい血液を流し、身体を支える事が出来なくなっていた。突き刺さった大きな岩を抜けば、堰を切ったように血液が流れ、その中に細かな岩が無いかを確認しながらベホマを行使して行く。メルエから手渡された水筒によって傷痕を洗い、溢れ出す血液を流しながら岩の欠片を取り出して行った。

 岩が体内に残ったまま回復呪文を掛ければ、その身体に後遺症が残ってしまう可能性もある。その為に大きな岩以外の細かな物を排除する必要があった。

 泣きそうに眉を下げるメルエを構う事が出来ない程に切羽詰った状況でありながら、痛みを堪えて微笑むリーシャの足をサラは懸命に手当てして行く。カミュもまた、自身で破片を取り除き、血液で真っ赤に染まった手を掲げて傷を癒して行った。

 

「この光景を見て、サラへの怒りが蘇りそうだ」

 

「え?」

 

 水で傷口を洗い流し、一つ一つ丁寧に治療を施して行くサラを見ながら、リーシャは溜息と共に言葉を吐き出す。突然の予想外の言葉に、サラは思わず顔を上げてしまう。そこには、本当に哀しそうにサラを見つめる姉のような存在の表情があった。

 カミュ達の血液が飛び散り、大地をどす黒く染めている。だが、その先には、先程まで活動していた爆弾岩と呼ばれる魔物の残骸が飛び散っていた。砕け散った岩は周囲の木々に突き刺さっている物もあるが、それが少し前までは球体に近い大きな岩であったという名残すらない。原型を留めない程に砕け散ったのが、岩ではなく血の通った生物であったらと思うと、想像すらしたくない光景が目に浮かんだ。

 

「あれが、メガンテという呪文なのだろう?」

 

「……は、はい。おそらくは」

 

 違っていて欲しいという願いも虚しく、問いかけに頷くサラを見たリーシャは、強く瞳を閉じる。何かを願うように、そして何かに感謝するように上げられた顔に後悔の念が浮かんだ。

 自己犠牲呪文。それは、『悟りの書』に記載されていながらも、契約出来る人間は限られている。正確に言えば、誰しもが契約出来、誰しもが行使出来る呪文であるにも拘わらず、実際に行使出来る者がいないのだ。

 魔法力を必要とせず、その内にある全ての生命力と引き換えに敵を葬り去ると云われている呪文。魔法力を発現する才を持たぬ者であっても、本来は契約も行使も可能な呪文なのだ。だが、常に生と死を見つめ続けて来たような僧侶だけが、己の生命力を燃やし、死という物と引き換えに行使出来る呪文だと信じられていた。

 

「サラ、二度と使うな。その呪文の名を口にする事さえ許さない。もし、この呪文を行使して己の命を粗末に扱うならば、サラが自分を殺す前に、私がこの手でサラを殺してやる」

 

「リーシャさん……」

 

 傷痕が全て癒えても立ち上がろうとはせず、真っ直ぐ目を見て語りかけるリーシャの言葉に、サラもまた身動き一つ出来ない。その言葉の重み、その言葉の強さ、それがサラの心に太い杭となって突き刺さった。

 爆弾岩と呼ばれる魔物が放った物が、メガンテという自己犠牲呪文であった場合、あのスカルゴンとの戦闘でサラもまた無残な姿に成り果てた可能性がある。原型を留めない程に粉々に砕け散り、周囲に真っ赤な鮮血と肉片が飛び散っていただろう。それを見るぐらいならば、己の手で殺すという大罪を犯し、その罪の意識に苛まれた方がマシだと考えたリーシャを誰が責められよう。

 険悪な雰囲気に先程まで泣き叫んでいたメルエも涙を止め、不安そうに眉を下げる。緊迫した空気が流れる中、リーシャもサラも互いの瞳から視線を外す事が出来なかった。

 

「要は、アレを使用するような機会を作らなければ良い。俺もアンタも、あの塔でのような醜態を二度と曝さないと誓った筈だ」

 

「…………カミュ…………」

 

 そんな空気を打ち破ったのは、先程の壮絶な自己犠牲にも傷一つ付かない鎧と盾を纏った勇者であった。

 傷を癒し、立ち上がった彼は、不安そうに眉を下げる少女の肩に手を置き、厳しい瞳を賢者へ向ける女性戦士に語りかける。救いの手が差し伸べられた事で、ようやく笑みを浮かべたメルエに小さく微笑んだカミュは、虚を突かれたように呆けた表情を向けるリーシャから視線を外した。

 一つ大きな息を吐き出したリーシャはゆっくりと立ち上がり、己の纏う大地の鎧にも傷がない事を確認して、武器を背中へと納める。そして、未だに立ち上がれないサラへ向かって手を伸ばした。

 

「確かにその通りだったな。私達は負けない……何があろうと、どんな傷を負おうと、再び立ち上がる。サラも、メルエも最後の最後まで私達を信じていてくれ」

 

「……はい」

 

「…………ん…………」

 

 差し伸べられた手を握ったサラの瞳から一筋の涙が零れ落ちる。それは悲しみの涙ではなく、喜びと悔いの涙。『この人と共に歩めて良かった』という心からの感謝と、『あの時の自分は何故自己犠牲に走ろうとしてしまったのか』という後悔であった。

 彼等が歩んで来た道は、一歩踏み外せば奈落の底へと落ちてしまう細く険しい道。それでも歩み続けて来れた理由は、その道で築き上げて来た『信頼』という絆である。互いを信じ、支え合いながら歩んで来た。

 だが、彼女が行使しようとしたあの自己犠牲の呪文は、その信頼の絆を自らの手で切ってしまうような行為である。『皆を救う為に』という建前を使いながらも、『皆を信じていない』という結果を残すその呪文を、この一行の鎖であるリーシャが許す筈がないという事を、サラは改めて気付かされたのだった。

 

「しかし、あの岩は危険だな。攻撃を加えなければ素通り出来るのであれば、逃げた方が良いのではないか?」

 

「ああ。遭遇した時は、放置する方向で行く」

 

 はらはらと涙を溢すサラを心配そうに見上げ、その手を握り締めるメルエの姿を微笑ましく見たリーシャは、思い出したようにカミュへと提案を口にする。確かに、リーシャの言葉通り、傷を負わせると自爆するような魔物であれば、下手に手を出す訳には行かない。危害を加えなければ、こちらにも危険がないのであれば、放置するのが一番だろう。

 尤も、アリアハンを出たばかりの頃のリーシャやサラからはそのような提案自体が出て来る事はなかった筈である。魔物を悪と信じ込んでいた彼女達が魔物を放置するという考えに行き着く訳がないのだ。ましてや、猪突猛進が代名詞とも言えた女性戦士が、撤退を良しとする言動は、宮廷騎士だった頃の彼女を知っている人間であれば、皆が驚くであろう。

 そんな事を思ったのか、小さく笑みを浮かべたカミュは、静かに一つ頷きを返した。

 

「良し。では進もう」

 

 カミュの返答に満足したリーシャはサラとメルエを促して、再び『たいまつ』を翳して歩き出す。先頭のカミュが真っ直ぐ北へと向かって歩き始めた。

 闇に包まれた森の中は、奇妙な静寂に包まれている。まるで生物が死滅してしまっているのかと思えるほどに静まり返った森の中を、一行は慎重に進んで行った。

 途中で休憩を兼ねた野営を行い、植物の小さな実を齧って空腹を満たす。短い睡眠時間を取った後で再び北へと歩き続けた。既にこのアレフガルド大陸全体を闇が覆ってから長い時間が経過している。カミュ達がアレフガルドに降り立ってからでも一年以上の時間が経過しているのだ。

 植物の中にも徐々に闇に覆われた世界での順応を見せる種は現れてはいるが、それでも種族を存続させる為に付ける果実などは小さくなって来ている。太陽の恵みがない状態では実も大きく並ばず、その実を食しながらも種を遠くに運んでくれる筈の動物達も減っていた。このアレフガルドの終末もそう遠くないのかもしれない。

 

「……想像以上の場所だな」

 

 そんな厳しい現実と未来を見せ付けられながら歩いて来た一行は、森を抜けて見えて来た光景に息を飲んだ。

 そこは、海と見間違える程に大きな湖が広がり、その中央にぽっかりと浮かぶように町の明かりが見えていた。大きな都市なのだろう、その町から漏れる明かりが、町の規模を明確に表している。

 カミュ達が抜けて来た西側からでは町へ向かう道はなく、湖に沿うように東側へと歩いていかなければ町へ繋がる道はないのかもしれない。しかし、闇の中に浮かび上がるように見える明かりが、本当に神秘的な光景であり、四人は湖畔から暫くその明かりを見つめていた。

 

 アレフガルド大陸にある最後の都市。

 その名を『リムルダール』。

 王都ラダトームの南東に位置する場所にある町である。王都から最も離れた場所にあるにも拘らず、アレフガルド一栄えた町であった。

 大魔王ゾーマの城がある島は、リムルダールからでなければ行く事が出来ない。ラダトーム王都南の海域は、東西からの海流がぶつかり、複雑な渦を描いている為に船を出す事は出来ないのだ。故に、今では『魔の島』と呼ばれるその場所の豊富な資源を最初に通過するのがリムルダールという町であった。

 だが、リムルダールから魔の島へ渡る海峡の海流も、ラダトーム王都との海峡と同じように激しく複雑な海流であり、船を出す事は出来ない。ならば、何故、リムルダールに資源が集まったのかとなるのだが、それは遥か昔に架けられた橋にあった。

 ルビスの加護の象徴として語り継がれるその橋は、アレフガルド大陸と魔の島を結ぶ唯一の手段であったのだ。だが、その橋もアレフガルド大陸が闇に包まれると同時に、まるで加護の光さえも失ったように消え失せてしまった。

 魔物の凶暴化、そして見た事もない魔物達の襲来によって、町と町の往来が減少して行くにつれ、リムルダールの繁栄にも陰りが差し始める。今では新たに訪れる者達は皆無であり、あれ程潤っていた町は自給自足の生活を余儀なくされていた。

 その町に一筋の光が差し込む。

 青白く輝く鎧を纏い、不死鳥の加護と精霊神の愛を持った青年が、ルビスの加護によって繁栄を続けて来た町へと足を踏み入れる。

 

 

 




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リムルダール①

 

 

 

 大陸の東側へ湖に沿って歩くカミュ達は、左手に見え続ける町の明かりを頼りに歩を進めて行く。湖の畔は緩やかな波が立ち、様々な生き物が生活をしていた。それは、彼等の同道者である一人の少女にとって輝きを放つ光景である。少し歩けば屈み込む少女に困り果てたサラを見ていたリーシャは、頬を膨らませるメルエを強引に抱き上げて、先へと進んだ。

 『むぅ』と不満を露にするメルエに対して、早く宿に行って温かな食事を取ろうと提案するリーシャの顔には優しい笑みが浮かんでいる。『ぷいっ』と顔を背けるメルエに苦笑しながらも、先頭を歩くカミュの後を続いた。

 森に囲まれた中にぽっかりと空いた平原。そしてその中央にある湖に浮かんだ都市。その光景は、太陽が昇った時には本当に美しく映るであろう事は明らかである。だが、今のアレフガルドの全ては闇に閉ざされている。明かりがなければ、あの町へ向かおうと湖に落ちてしまっても可笑しくはなかった。

 

「リムルダールの町へようこそ」

 

 大陸の東側に着くと、湖と考えていた物が、堀のような物であった事が解る。湖の中央へと延びる道があり、その道はしっかりとした地面の上に出来ていた。

 しかし、左右には湖の水が満たされており、真っ直ぐに延びた道の先には大きな門が作られている。金属を使用した門は頑丈であり、大型の魔物の突進にも耐えられるような物であった。このリムルダールは、アレフガルド大陸の中でも王都の次に栄えた都市なのだろう。故にこそ、かなり高い防衛を誇っているのだ。

 ただ、平地にあるメルキドのように城壁で囲むのではなく、天然の湖に囲まれた土地に集落を作り、そこへ延びる唯一の道に頑丈な門を作る事によって、難攻不落の都市として機能しているのだった。

 

「随分と歓迎されていたな」

 

「闇に閉ざされてから、この町へ来る人も少ないのでしょうね」

 

 門兵の対応がとても良い事に、リーシャは少し首を傾げる。この六年の旅の中でもかなり上位に入る待遇であったのだ。

 だが、このリムルダールと云う都市は自給自足の町ではない。来訪者がいなければ特産は売れず、経済が停滞してしまうのだろう。故にこそ、闇に閉ざされて尚、この場所へ来る旅の者は、町にとっても重要な存在に他ならないのだ。

 今の時代、この場所に来る程の人間であれば、ある程度の強さを持つ者に限られている。それならば、希少金属などを使った武器や防具は売れるだろうし、旅に必要な道具類も売れるだろう。そして、この時代にこの場所を訪れた者は、暫くの間、この場所を離れる事が出来ない。何を目的としてこの町を訪れたのかは解らなくとも、この町を拠点とする可能性は高く、また、この地方の魔物の強力さ故に居付く人間も多かった。

 

「まずは宿屋だな」

 

「…………メルエ……おなか……すいた…………」

 

 既に一日の終わりが近いのか、町にいる人間は疎らになっている。今から情報収集や店巡りをする時間はないだろう。それを確認したリーシャは、物珍しそうに町を見ているメルエを再度抱き上げ、宿屋の看板を探す為に周囲に視線を向けた。

 情けなく眉を下げて空腹を訴えるメルエの頭を撫でながら、町の南側に宿屋の看板を発見したリーシャは、カミュを促して歩き出す。ドムドーラの町から野営を何度も繰り返してこのリムルダールに辿り着いたのだ。一行の身体に蓄積された疲労は、並大抵の物ではない。旅慣れた彼等だからこそ平然と歩いてはいるが、一般の人間であれば、過酷な旅であっただろう。それ程の苦労をしてでもこの場所へ訪れる者はいる。それがこのリムルダールの魅力を表しているのだった。

 

「いらっしゃいませ。四人様ですか?」

 

「ああ。一人部屋と二人から三人部屋の二部屋を頼む」

 

 宿屋の扉を開けると、広めのカウンターが見える。やはり太陽がある頃は多くの旅人で賑わっていたのだろう。だが、今はその広さに違和感を感じる程に閑散としていた。

 カウンターの店主は、久方ぶりの客人を満面の笑みを持って迎え入れる。この場所に留まる客はいるのかもしれないが、新規の客はいないのだろう。長く滞在している者がその宿泊費を払い続けられているかも定かではなく、それを考えればカミュ達のような新規客は経営者として歓迎すべき者なのだろう。

 ロビーとも言えるカウンター周辺では、この宿屋の客であろう親子が寛いでいる。小さな少年が走り回り、それを父親らしい男性が苦笑を浮かべて窘めていた。自分の腕の中から何とも言えない視線でそれを眺めるメルエに気付いたリーシャは、そっと床へその身体を降ろす。まさか降ろされるとは思っていなかったメルエは驚きの表情を浮かべてリーシャを見上げるが、そこにあった優しい笑みを受けて小さな微笑みを浮かべる。

 

「何処から来たの?」

 

 小さな笑みを浮かべていたメルエは、再び驚きの表情を浮かべる事となる。宿屋の店主から二部屋の鍵を受け取ったカミュがメルエ達の許へ戻って来る頃、ロビーを駆け回っていた少年が近づいて来たのだ。

 年の頃はメルエとそう変わらないだろう。だが、メルエの外見は氷竜の因子の影響もあって十歳にも満たないような姿である。メルエが生きて来た年数よりも、この少年が生きて来た年数の方が少ない事は確かであるが、当の少年からすれば、メルエは同い年程の少女にしか見えなかったに違いない。

 近づいて来た少年は、メルエに向かって笑みを浮かべながら話しかける。このリムルダールへ来る人間の中にはこの年頃の子供はいないのだろう。久方ぶりの同年代の子供に対し、嬉しそうに話しかけるのは当然の事なのかもしれない。

 それでも、相手は同年代の子供と接した事がほとんどない少女である。驚きの表情を浮かべると、カミュのマントの中へと逃げ込んでしまった。ラダトーム王都でシャナクを教えた少年には、まずサラが話しかけている。基本的に会話が苦手なメルエは、自分から誰かに話しかける事などなく、ムオルの村に居たポポタのように嫉妬の対象にもなっていない子供の問いかけに答える事も難しいのだ。

 

「?」

 

「メルエ、せっかく話しかけてくれたのに、逃げては駄目だろう?」

 

 自分が話しかけた事で逃げてしまったメルエの姿に、少年は眉を下げて首を傾げる。少年はメルエに対して敵意を持っている訳でもなく、害意を向けている訳でもない。少年としては本当に会話がしたかっただけなのだろう。故にこそ、逃げられてしまった事が不思議なのだ。

 そんな子供二人の姿に苦笑を浮かべたリーシャは、カミュのマントを広げて中にいるメルエに声を掛ける。だが、マントの中では困ったように眉を下げ、怯えたような瞳を向ける少女がカミュの腰にしがみ付いていた。

 どのような魔物に対しても臆さず、強力な呪文を使いこなす世界最高の魔法使いが、僅か一人の少年に怯える姿は、母親のような役割を持つリーシャにとっては何処か喜ばしく、そして微笑ましい物であった。

 

「凄い鎧だね……。お兄ちゃん達も大魔王を倒しに行くの?」

 

「申し訳ございません」

 

 マントの中へと逃げ込んだ少女に視線を向けていた少年であったが、すぐにそのマントを纏う青年の身体を覆う神秘的な鎧に目を奪われる。青白く輝く光を放ち、胸に記された黄金の神鳥が少年の胸に言いようのない高ぶりを覚えさせた。

 その勢いのまま口を開いた少年の発言に、ゆっくりと近付いて来ていた父親が慌てたように少年の言葉を遮る。大魔王という恐ろしい存在を息子が口にした事への恐怖なのか、それとも目の前に居る者達が持つ見た事もない武具への恐れなのかは解らないが、若干青褪めた顔色が、この父親が感じている感情を明確に表していた。

 

「そうだな。私達は大魔王ゾーマを倒す為に旅をしている」

 

「はい」

 

 そんな父親の心配が杞憂である事を告げるように、リーシャは柔らかな笑みを浮かべて少年へと頷きを返す。そしてそれを追認するようにサラもまた声を出して頷いた。

 そんな二人の様子をマントの中から見ていたメルエは、何処か悔しそうに頬を膨らませ、リーシャの腰へ移動してしがみ付く。まるで『自分以外の子供に微笑むな』とでも抗議を上げるような行動に、リーシャは苦笑を浮かべざるを得なかった。

 だが、そんなメルエを一瞥もせずにカミュを眩しそうに見上げる少年の目は、憧れのような輝きを湛えている。彼のような少年にとって、強力な魔物を剣や魔法で打ち倒して行く者は仰ぎ見る程の眩い輝きを放っているのだろう。

 しかし、そんな尊敬や憧れの視線を送る少年の言葉は、カミュ達が予想もしない物であった。

 

「でも、もう遅いよ。きっと、オルテガのおじちゃんが大魔王を倒してしまうから」

 

「オルテガ様だと……?」

 

 我が事のように胸を張る少年の微笑ましい姿は、今のリーシャには見えない。その口から発せられた名に硬直してしまったからだ。

 アレフガルド大陸でその名を聞くのは初めてではない。ラダトーム城の謁見の間にて聞き、彼女自身もオルテガの生存を確信している。だが、このリムルダールへ辿り着くまでその消息が解らなかった事もあり、不意を突かれてしまう形になったのだ。

 当の少年は満面の笑みでカミュ達を見上げ、同意を求めるように横にいる父親へと視線を移す。憧れの感情を隠しきれない息子に苦笑を浮かべた父親は、柔らかくその頭を撫でて大きく頷きを返した。

 

「オルテガ様はこの町に来ていたのか……それで、大魔王の城へ向かったのか?」

 

 能面のような表情になってしまったカミュを押し退けるように前へ出たリーシャは、少年にではなく、父親の方へ迫って行く。その圧力に怯んだ父親を心配そうに見上げる少年の表情に気付いたサラは、焦るリーシャを柔らかく抑えて口を開いた。

 

「私達は、オルテガ様と同様、上の世界からこのアレフガルドに参りました。あちらに居るのは、オルテガ様のご嫡子です」

 

「ちっ……」

 

 賢者として完成を向かえたサラは、カミュの冷たく刺すような視線に怯みはしても、一気に言葉を繋げる。この場所でカミュがオルテガの息子である事を語る意味があるかどうかは解らない。だが、オルテガの消息を尋ねるのであれば、その事実を公表する方が自然であった。

 『父の行方を捜す息子』という構図が出来上がれば、情報収集にも役立つだろうと考えたのだ。現に、オルテガという人物に対面した事のあるこの親子は、何かを感じたようにカミュへと視線を送っている。サラの言葉が真実かどうかを疑っているようではなく、何故かそれが真実である事を理解しているようであった。

 幼い頃に出会った記憶しかないリーシャから見ても、英雄オルテガと勇者カミュの外見は似ていない。雰囲気を見ても、太陽を思わせるオルテガに対し、カミュのその輝きは月を思わせる物である。だが、ジパング特有の黒いその瞳は、アリアハンの英雄と謳われた男のそれと同じ熱も持っていた。

 ここまでの六年の旅の中で、彼が迷いなく前を向く時、リーシャはその瞳にオルテガの面影を見ている。どれだけ憎み、どれだけ嫌っていても、彼がオルテガの一人息子であると思わせるその瞳は、何度も仲間達を鼓舞して来た。

 今思えば、ロマリア大陸を旅していた頃は、その瞳の輝きに曇りがあったように思う。だが、今では幼き頃に出会ったアリアハンの英雄よりも強い安心感を与える輝きを有しているとリーシャは感じていた。

 

「そうですか。オルテガ様の……。オルテガ様は記憶をなくされていると言っておられました。大魔王を討ち果たす為にこのリムルダールに寄った際に、宿を共にさせて頂き、色々とお話を聞かせて頂いたのです」

 

「そうか。オルテガ様はこのリムルダールから、大魔王の城がある島へ渡ったのか」

 

 上の世界であれば、英雄オルテガの息子だと名乗っても、信じる者は少ないだろう。だが、このアレフガルドではオルテガの名は英雄として轟いてはいない。このアレフガルド大陸での知名度という点だけであれば、カミュの方が高いのかもしれない。

 ラダトーム王都で勇者カミュの名を知らぬ者はもういないだろう。マイラの村では上の世界から来た武器屋の主人がカミュ達の名を高めている筈だ。ドムドーラでもレナという踊り子がいる。メルキドには城塞都市を守護するゴーレムを作る老人がカミュから助言を貰っていた。

 敢えて名乗りはしていない。それでも勇者カミュの存在は、このアレフガルド大陸に着実に根付いて来ている。最早、誰も知らぬ旅ではない。多くの者達の期待を彼等は背負い始めているのだ。

 

「このリムルダールで装備品などを調達されていましたので、資金を援助させて頂きました。この子がオルテガ様に憧れてしまいましたので。どうせ、大魔王を倒さなければ不要になるゴールドです。ならばと思い、オルテガ様へお貸し致しました」

 

 息子の頭を優しく撫でながら思い出を語るように話す父親の表情には優しい笑みが浮かんでいる。その表情を見る限り、息子と名乗ったカミュから資金を回収しようと考えている訳ではないのだろう。それでも苦々しく顔を歪めたカミュは、自分の腰に付いていた革袋をその父親へと突き出した。

 その行動には父親だけでなく、リーシャやサラさえも驚きを浮かべる。まさか、彼がオルテガの負債を肩代わりするとは思えなかったのだ。彼であれば、父親とも思っていない人間の負債など自分には関係ないと考えていた筈。この行動は、彼の変化という事だけが原因ではないのだろう。

 袋を開き、中にぎっしりと詰ったゴールドを確認した父親は、慌てたようにその革袋をカミュへと突き出した。

 

「そういう意味でお話した訳ではありません。これは受け取れませんよ」

 

「受け取っておけば良い。大魔王が倒されれば、必要な資金なのだろう?」

 

 突き返そうと差し出した男性の手を遮るようにリーシャが言葉を口にする。マイラの村の武器屋との会話を再現したような形であったが、こうなったカミュが己の行動を覆すとは思えない。それならば気持ち良く受け取って貰えるようにするのが自分の役割だとリーシャは感じていた。

 そんなリーシャの笑みを受け、男性は頭を下げて革袋を受け取った。この男性がどれ程に裕福な者なのかは解らないが、この闇の世界が続けばいずれ資金は底を突くだろうし、もしカミュが闇を払えば、そこからまた新たな生活の為に資金が必要になるだろう。ゴールドは有って困る物ではない。貰える物は貰うという考えの方が強かに生きて行けるのかもしれない。

 

「では、こちらをお返ししなければなりません。これは、資金を援助させて頂いた私達にと、オルテガ様よりお預かりした物です」

 

「指輪……ですか?」

 

 カミュから受け取った革袋を納めた男性は、懐から小さな布袋を取り出す。そして、その袋から掌に乗せたそれをカミュへと突き出した。

 それはサラの言葉通り、小さな指輪であった。華美な装飾などはなく、銀色に輝く輪の中央に、小さなすみれ色の宝石が埋め込まれている。女性が指にするような華やかさはないが、男性が着けるような無骨さもない。何とも言えないその輝きに、リーシャの腰にしがみ付いていたメルエが顔を輝かせた。

 受け取ったカミュの掌の中を見たいとせがむメルエを抱き上げたリーシャは、その小さな指輪がそのまま自分の許へと突き出された事に驚きを表す。男性から渡された布袋に納めたそれを、カミュはそのままリーシャへと手渡したのだ。

 

「俺が持っていても仕方がない。アンタが持っていろ」

 

「私がか!?」

 

「…………リーシャ……ずるい…………」

 

 確かに男性であるカミュがこのような綺麗な宝石が埋め込まれた指輪を身に着けるというのも可笑しな話である。だが、女性とはいえ、戦士であるリーシャが指輪を嵌めたまま斧を握るというのもどうかとサラは思っていた。

 しかし、そんなリーシャとサラの驚きを余所に、綺麗な物が自分の手元に来ない事に不満を感じたメルエは、頬を膨らませて抗議の言葉を口にする。最早聞き慣れたその言葉は、周囲の空気を和ます物になっていた。

 膨れたメルエの頬を突いたリーシャは、受け取った布袋を大事そうに腰の革袋へと納める。オルテガからカミュへと渡った物が自分の手元に来るというのが、リーシャには何かとても不思議な出来事のように感じる事となる。アリアハンを出る時、彼女はカミュを勇者という存在である事も認めず、更にはオルテガの実の息子であるという事さえも疑った。それでも旅を続ける中で、彼こそが勇者であると認め、今では英雄オルテガさえも超えた存在だと思っている。

 英雄から勇者へ、その品物が二つ彼女の手元にある。一つは兜、そしてもう一つがこの指輪であった。

 

「では、私達はこの辺りで」

 

 役目を果たしたかのように、男性は息子を促して部屋へと戻って行く。一度振り返った少年がカミュ達に向かって小さく手を振ったのを見たメルエは、リーシャに抱かれながらも遠慮がちに手を振っていた。

 

 

 

 湯浴みや食事を済ませ、ゆっくりと身体を休めた四人は、リムルダールの町での情報収集を始める。太陽は昇らずとも、朝と云う概念の許で活動を始めた町の人々の中を縫って、一行は町の中を散策して行った。

 武器屋の看板を見つけたリーシャがカミュを促し、買い物という言葉に目を輝かせたメルエが先頭を切って歩き出す。町の中という事で比較的自由にメルエを行動させている為、リーシャもサラもそんな少女の行動に頬を緩めるだけであった。

 しかし、そんな一行の耳に、聞き慣れた名が入って来た事でその足は止まる事となる。

 

「でも、私はオルテガ様が話していた事は信じられませんわ。この世界の上には、光り溢れる世界があるなんて。それに、あの方は記憶を無くしているのに……」

 

「そうか、お前はこの世界が闇に包まれてから生まれた子。光ある世界を知らぬか……」

 

 井戸で水を汲んでいる若い女性と、それの傍に立つ老人の会話がカミュ達の耳に入って来たのだ。その会話の中に出て来た名は、昨日宿屋で聞いたばかりの物でもあった。

 この世界の闇を払う為に旅を続ける『勇者』と呼ばれる青年に残った唯一の闇。彼をこの世に誕生させた親の一人であり、上の世界で名を轟かせた英雄である。このアレフガルドという大陸にどういう経緯でかは知らないが辿り着き、自身の名以外の記憶を失いながらも闇を払う旅に出ていた。

 全ての記憶を失いながらも、諸悪の根源である大魔王ゾーマを打ち倒す為に旅を続けているという事は、彼が英雄である事を物語っているのだろう。

 

「オルテガ殿もはっきりとは憶えていないのだろう。それでも、光溢れる世界と、そこに残して来た者達が記憶の奥深くにこびり付いているのだ。……記憶は必ず戻る。だが、果たしてその時まであの者が生きておるかどうか……」

 

 不満を持つように真っ黒な空を見上げる女性を見ていた老人は、独り言のように不穏な事を口にする。それを聞いたリーシャは溜まりかねたように老人へと近づいて行った。

 楽しみにしている買い物から遠ざかろうとするリーシャに不満を露にしたメルエがその後に続き、能面のように表情を失ったカミュはその場を動かない。こうなったカミュを動かす事の出来る人間は唯一人しかおらず、救いを求めるようにサラはメルエの腕を掴んだ。

 腕を掴まれた事で振り返ったメルエは、サラの意図を察してカミュの腕を掴む為に数歩戻る。腕ではなくマントの裾を握った彼女は、誘うように彼をリーシャの居る方向へと連れ立った。

 

「突然申し訳ない。私達も上の世界からアレフガルドへ来たのだが、貴方達はオルテガ様にお会いしているのか?」

 

「え? 上の世界から来られたのですか?」

 

 突然会話に割り入って来たリーシャに驚きを示した女性は、空へ向けていた視線を戻す。同様に視線をリーシャへと向けた老人は、何処か悲しみを帯びた表情をしていた。

 その表情からは、オルテガという人物を知っている人間が現れた事に対する何らかの苦悩が見て取れる。基本的に上の世界の人間に対して嫌悪感を示さないアレフガルドの人間にしては珍しい対応であった。

 

「先程のお話だが、オルテガ様は何処へ向かわれたのだ?」

 

 だが、そんな老人の反応に対して気にも留めない強い心を持ったリーシャは、真っ直ぐに再び疑問を口にする。丁寧な口調でありながらも拒否を許さない強さが言葉に宿っていた。

 ここまで来て、英雄オルテガの生存を疑う事など出来ない。それは、どれだけカミュが否定しようとも揺るがない事実である。上の世界では既に死んだ事になっている父親が生きているという事実は、通常の親子であれば涙を流して喜ぶ程の出来事なのだが、当の本人の表情は、喜びどころか全ての感情を捨て去ってしまったかのような冷たい物であった。

 この一行の中で、彼の父親について声を大にして問い掛ける事が出来るのは、彼と共にアリアハン城の謁見の間から旅立った女性戦士だけだろう。賢者となり、先程は情報収集の為にカミュがオルテガの一人息子であるという事実を公言したサラであっても、それに対してこれ程踏み込む事は出来ない。メルエなど、英雄オルテガという存在自体を知らず、それに対して何かを口にする事など有り得ないのだ。

 それは、この四人の中で唯一人、リーシャだけが英雄オルテガと対面し、言葉を交わした事があるという点も理由の一つなのかもしれないが、カミュという『勇者』の心の闇に踏み込める勇者は、共に旅をし、その心へと何度も踏み込んで行った彼女だけが持つ資格なのかもしれない。

 

「オルテガ様は、リムルダールの西にある魔の島へ向かわれました」

 

「魔の島に渡る術を知らずに行けば、海の藻屑となろう。そう伝えはしたが、頑として聞き入れようとはしなかったのだ」

 

 リーシャの剣幕に怯えながらも答えた年若い女性の言葉に対し、老人は目を伏せながらその続きを呟く。それは余りにも簡潔で、余りにも残酷な言葉。ここまで生存を信じ、疑う余地すらも無かった事柄が、根底から崩れ去る程の物であった。

 魔の島に向かうには、船は使えない。特殊な海流が来訪者を遮り、海を渡る事さえも出来ないのだ。その為の方法の一つが、リムルダール側から架かる橋を渡るという物であるのだが、その橋も既に消滅している。新たな橋を掛けない限り、リムルダール地方と魔の島の間にある海峡の海流に飲まれ、海の藻屑と消えて行く定めであった。

 

「それでも、オルテガ様は魔の島に向かわれたのか? どうやって向かうつもりなのか聞いていないのか? まさか、泳いで渡る訳でもあるまいに」

 

 老人の言葉を聞いたリーシャだけは、その生存を疑う事もない。ただ、渡る術を知らずに魔の島へと向かったオルテガがどのような方法で渡るつもりだったのかを問いかけた。もし、何らかの方法があるのであれば、カミュ達四人もそれと同じ方法で渡れば良い事であり、時間的猶予がない事を考えると、一刻も早く魔の島へ渡る必要があった。

 このアレフガルド大陸に生息し始めた魔物の強さは、上の世界に生息する魔物とは比べ物にならない。そんな魔物達と戦うのであれば、カミュ達のように万全の装備が必要となろう。前衛のカミュやリーシャが纏うしっかりした鎧に盾。そして敵を葬り去る為の武器。それら全てを身に着けたまま海へ飛び込むなど自殺行為である。特殊な海流の中を泳ぎ切る事自体が無謀であるのに、重い鎧などを身に着けたままであれば、泳ぐ前に沈んでしまう筈なのだ。故にこそ、リーシャはその方法を取るという可能性を真っ先に排除していた。

 

「わからん。どういう方法で魔の島へ渡るつもりなのかを口にはしなかった。ただ、あの鬼気迫る程の表情では、海へ飛び込んでいても可笑しくはなかろう」

 

「……そんな」

 

 リーシャの剣幕に怯みもせず、老人は静かに首を横へと振る。それは英雄オルテガの消息がこのリムルダールで完全に途絶えてしまった事を意味していた。

 精霊ルビスを解放したのはカミュである。カミュ達よりも前にこのリムルダールに辿り着いたオルテガが、ルビスの塔へ向かったという可能性は皆無であろう。古の言い伝えにある、『太陽の石』、『雨雲の杖』もカミュ達の手にある。オルテガが魔の島へ渡る方法など何一つないと言っても過言ではなかった。

 上の世界のバラモス城への道は、古の賢者の亡霊の話を信じるのであれば、オルテガが向かった頃には橋が架かっていた。故にこそ、ラーミアという不死鳥を復活させずともバラモス城へ向かう事が出来たと考えられる。

 だが、この老人の話を聞く限りでは、オルテガの来訪とカミュ達の来訪の日がそれ程離れていない可能性は高かった。それであれば、どれ程の英雄であろうとも、橋もなく、海流も激しい中、海峡を渡る事など不可能であろう。

 

「その建物に居る老婆の予言でも、オルテガ殿の先は暗かった」

 

「預言者だと?」

 

 衝撃を受けて固まったリーシャやサラから視線を外し、老人は町の南側にある小さな建物を指差す。それは、家屋としては小さく、看板も何も掛かっていない為、小さな民家にしか見えない建物であった。

 しかし、その民家の西側には、梯子が掛けられており、二階部分へ入る為の踊り場へと繋がっている。梯子さえ外してしまえば、二階部分に上がる方法もそこから降りる方法もなくなり、まるでそこへ誰かを閉じ込める為に作った階層のようであった。

 もし、一階部分の家屋内に二階へ続く階段がなければ、一階と二階が隔離された建物という事になるだろう。何処か歪な建物の雰囲気に、リーシャとサラは吞み込まれそうになっていた。

 

「では、儂らはこれで」

 

 最早カミュ達と話す事はないと老人は年若い女性を促し、その場を離れて行く。上の世界の事を聞きたそうにしていた女性を危険視したのかもしれない。上の世界という理解不能な場所から訪れた者達への反応としては、この老人の物こそが本来の物なのだろう。未知の物を恐れるという感情は人間であれば普通なのだ。

 好奇心は命を失う切っ掛けにもなる。経験豊かな人間ほど、その事実を身を持って知っている筈だ。だからこそ、未知の物、理解不能な物を恐れ、近寄らない。それこそが己の命を護る手段の一つであると、老人は知っているのだろう。

 

「どうしますか? 預言者という人の所へ行ってみますか?」

 

「魔の島へ渡る術というのを明確に知る事が出来るかもしれない」

 

 止まってしまった時を動かしたのは、サラの一言であった。

 彼等はここまでの六年以上の旅で、何度も死線を掻い潜って来ている。定められた道を捻じ曲げて彼等は歩んで来たのだ。細く頼りない糸を手繰るような旅ではあったが、誰かにその道を決められた事はない。例え、彼等の未来が魔王バラモスとの戦いで全滅という物であると予言されたとしても、彼等は歩み続けただろう。

 預言者と名乗る人物には、ルザミという忘れ去られた都で出会っている。その者が口にした未来は、『ガイアの剣』という武器がネクロゴンドの火口に投げ込まれ、道を切り開くという物であった。だが、それも結果的には、カミュ達が投げ入れたのではなく、剣が自ら火口へ落ちて行ったのだ。

 ルザミの預言者が語った内容が彼等の歩む道への助言となっても、それが決められた未来ではないという証明となるだろう。

 故に、預言者と名乗る者がどんな未来を語ろうと、彼等の歩みが止まる事はない。だが、ルザミの時のように、助言として聞くのであれば、それは有意義な物となる可能性は高いだろう。古からの伝承という曖昧な形でしかなかった魔の島への行き方が明確になるのであれば、とカミュは考えていた。

 

「そうだな。メルエが明日病気になるなどというような性質の悪い物でなければ、私達が気にするような物ではないだろう」

 

「それは、嫌な予言ですね……。メルエの身に何かあったら、この一行は機能しませんよ」

 

「…………メルエ……だいじょうぶ…………」

 

 少し表情が硬くなったカミュを見ていたリーシャが、雰囲気を変えるように声を上げる。そしてそれに反応するサラとメルエが、オルテガという名前によって険悪になっていた空気を変えて行った。

 サラの言葉通り、もし預言者が『その少女の身に……』などという言葉を口にした場合、カミュとリーシャは機能を停止してしまうかもしれない。そして、今ではそこにサラも仲間入りするだろう。

 魔物からの危機であれば、カミュとリーシャの二人は何があろうと護り切るという宣言の許に一蹴する筈だ。だが、それが内なる病などという物であれば、このリムルダールで時間を過ごし、その間にアレフガルド全域へカミュとサラがルーラを使い、薬師や医者を求めて飛び回る事になる。そんな未来が目に見えるだけに、サラは心底不快そうに顔を顰めた。

 三人がそれぞれの言葉を口にする中、表情を緩めたカミュが預言者がいるという建物へと向かって歩き出す。そして、扉に付いた金具を叩いて、ゆっくりと扉を押し開けた。

 

「こりゃ珍しい……。未来の見えない者達が来おった」

 

 扉の中には、老婆が一人。暖炉の炎の傍にある椅子に腰掛け、開いた扉へ視線を向けて目を見開いている。その瞳には驚愕の色が映り込み、カミュ達の内なる物を見ようと輝きを放っていた。

 奥へと入って良いものかどうかを悩むサラを置いて、カミュが老婆の傍まで近付いて行く。そのマントの裾を握ったメルエが椅子に座る老婆を物珍しそうに見上げていた。そんな少女の姿に、驚愕と警戒を示していた老婆の表情が緩む。優しい笑みを浮かべた老婆にメルエが返す物といえば、それは笑顔以外に有り得ない。自分に笑みを向けてくれる物に対しては、最大限の笑みで答えるのがメルエの礼儀であった。

 先程出会った同年代の少年も言葉を掛ける前に笑みを向ければ、メルエは笑顔で返したのかもしれない。今から考えれば、あの少年は少し性急過ぎたのかもしれないと、そんなメルエの笑みを見ながらサラは考えていた。

 

「ふむ。何を占って欲しいのじゃ?」

 

「……特にはありません」

 

 自分に前に現れたからには、予言という言葉を欲しているのだろうと考えた老婆が、先頭にいる青年に問いかける。だが、返って来た言葉が立ち直りかけた老婆に再度驚きを運ぶ事となった。

 『では、何の為にこの場所へ来たのか?』と問いかけたくなるその答えを発して尚、自分の前に立つ青年に老婆は困惑する。椅子の肘掛に手を掛けた少女が老婆を見上げて来る中、一歩前に進み出て来た立派な鎧を纏った女性が、困惑する老婆へと口を開くまで、老婆は放心に近い呆けた表情をカミュへと向け続けた。

 

「オルテガ様の未来を予言されたとお聞きした。その予言の内容と、魔の島へ渡る為の術を教えて頂きたい」

 

「なんじゃ……お前達はオルテガという男と知己の者であったか。どれ、そこの椅子に掛けなされ」

 

 リーシャの物言いに、ようやく合点が行った老婆は、納得したように頷きを返す。椅子から立ち上がった老婆は、暖炉の傍にある机へ手を向け、その机の周囲にある椅子へ腰掛けるように指示を出す。

 老婆が立ち上がった事で、彼女が座っていた椅子が揺れるように動く。肘掛に手を掛けていたメルエは、不安定になった椅子に驚いて手を離してしまった。老婆が座っていた椅子は、揺り椅子となっており、手を離しても暫く前後に揺れる姿が少女の好奇心を大いにくすぐる事となる。

 座りたそうに見上げて来るメルエを意図的に無視したサラは、老婆に勧められた椅子へと腰掛け、台所へと向かった老婆の帰りを待った。

 

「ん? その椅子が気に入ったのか? どれ、座らしてやろうかね」

 

「…………あり……がとう…………」 

 

 湯気の出たカップをお盆に載せて戻って来た老婆は、悲しそうに揺り椅子を動かすメルエを見て、苦笑を浮かべる。そして、持って来たお盆をサラへと手渡し、メルエを軽く抱き上げて揺り椅子へと乗せた。

 メルエの大きさには合わない物であり、深々と座ってしまえば揺れる事もないのだが、静かに揺れ動くそれに笑みを浮かべたメルエは、老婆に対して謝礼を述べる。謝礼に対して笑みで返した老婆は、畏まるように頭を下げたリーシャに軽く手を振り、カミュ達の対面に腰を掛けた。

 

「オルテガという男の事だったね」

 

「はい」

 

 カップに入った温かな飲み物に一度口をつけた老婆は、確認するように三人を見回す。リーシャが頷いた事を了解した老婆は、胸に両手をつけ、何かに祈るように目を閉じた。

 神や精霊に祈りを捧げるような物ではない。手を胸に置いてはいるが、手を合わせている訳ではない事がそれを物語っている。まるで自分の奥深くにある物と接触を図っているようにさえ感じる程、老婆は何か不可思議な物を醸し出していた。

 カップから立ち昇る湯気と、揺り椅子に座ったメルエだけが動く部屋の中、カミュ達三人は老婆の瞳が開く時を待つ。かなりの時間が経過し、飲み物の湯気の量が少なくなって来た頃、ようやく老婆は目を開けた。

 

「やはり、未来は変わらないね。オルテガに待つのは明確な死の臭いだけだ。魔の島に渡った後なのか、それ以前なのかは解らないが、死の避けられない道であろうな」

 

「……そんな」

 

「……そうか」

 

 目を開けた老婆の言葉は、その不可思議な雰囲気も相まって、何処か神秘的な空気を持つ強い物であった。

 人の言葉の信憑性など重要ではない。それが未来の話となれば尚更である。それでも、この老婆の言葉には、他人を納得させる程の強さが込められており、何処か逆らう事の出来ない色に染められていた。

 サラはその雰囲気に呑まれ、絶望に近い表情を浮かべる。それは悲痛な叫びを押さえ込んだような物。この四人の中でも、英雄オルテガという人物との接点がメルエに次いで低いのがサラである。もし、メルエの曽祖父である古の賢者がオルテガとの接点を持っていたとしたら、最も関係が薄いのかもしれない。

 そんな彼女が絶望を感じる程に、英雄オルテガという人物は、アリアハン国出身者にとって大きな存在なのだ。上の世界では、死ぬ筈のない者が死んだと世界中の人間が絶望した。中でもアリアハン国民の嘆きは相当な物であっただろう。その者が生きていたという希望が、瞬く間に絶望へと変わったのだ。

 

「だが、今は生きているのだな。ならば、何も心配要らない。運命など些細な事で変わる事を私達は知っている。そうやって、歩んで来たのだからな」

 

 だが、唯一彼の英雄と言葉を交わした事のある女性だけは、そんな絶望の風を吹き飛ばす。その言葉は、老婆が口にした物よりも強く、萎んでいたサラの勇気を奮い立たせた。

 六年という長い時間、彼等は四六時中共にいた。その中で何度絶望を味わった事だろう。何度心が折れかけた事だろう。それでも震える足を懸命に前へと出し、その運命に抗って来たのだ。魔王バラモスという絶対的恐怖の存在に立ち向かい、それを討ち果たしたのは誰でもなく彼らの力である。精霊神ルビスの加護が全くなかったとは言わない。それでも、定められた道を歩いて来たのではなく、暗中模索の中、懸命に道を切り開いて来たのは彼等四人である。それは、誰にも否定する事の出来ない事実であった。

 

「そうだろう、カミュ?」

 

「……ああ、そうだな」

 

 そしてこの女性戦士は、敢えて傍に座る勇者へと問いかける。それは、オルテガが生きているという事実に対してなのか、それともオルテガを救う事への同意を求めているのか、それとも単純に自分達の歩いて来た道が定められた物ではない事への確認なのかははっきりと口にしないが、彼女の表情を見たカミュは、小さな笑みを浮かべて頷きを返した。

 オルテガという名を聞いてから能面のような冷たい表情を続けて来た彼が、久しぶりに感情を出す。それを見ていたメルエが嬉しそうに微笑み、彼女の座った揺り椅子がゆっくりと動いた。

 そんな一連のやり取りを見た老婆もまた、小さな微笑みを溢す。彼女も自身の口から発せられた言葉が、他者にどんな影響を与える物なのかという事を理解していたのだろう。そして、これまで彼女の元に訪れた者達は皆、そんな絶望に近い未来を告げられた後は、憤りを見せるか、絶望に落ちて口も開く事が出来なくなっていた事を思い出し、彼女は微笑んだのだ。

 

「魔の島へ渡る術だったね……。大抵の者達の未来の中には、そんな術が見える未来はなかったけれど、お前達なら見えるかもしれない」

 

 先程は、四人の進む先が全く見えなかった老婆ではあったが、その近しい未来の中で、彼等ならば魔の島へ渡る未来があるのかもしれないと思い直す。そして、再び胸に両手を乗せ、静かに瞑想へと入って行った。

 再び静けさが広がる中、メルエの座った揺り椅子が軋む音だけが響く。暖炉にくべられた薪がパチパチと弾け、火の粉が飛んでいた。ゆっくりと流れる時間だけがこの部屋を支配し、カミュ達三人も口を閉ざして、老婆の覚醒を待つ事となる。

 

「……雫が闇を照らす時、このリムルダールの西の外れに虹の橋が架かるだろう」

 

 目を開けた老婆は、今見て来たばかりのようにその光景を口にする。それは、カミュ達の歩む道の先にある未来の一部なのだろう。確定した未来ではない。それでも彼等の歩む道の途中にある可能性の一部であった。

 少し疲れたように息を大きく吐き出した老婆を心配するように、揺り椅子から飛び降りたメルエが近付いて行く。そっと添えられた小さな手に驚きながらも、柔らかな笑みを漏らした老婆は、もう片方の手でメルエの頭を優しく撫でた。

 老婆の言葉を聞いたサラは少し考え、そしてカミュを見る。彼が頷いた事で完全に繋がった物を確認するように、その伝承を呟いた。

 

「……雨と太陽が合わさる時、虹の橋が架けられるであろう」

 

「アレフガルド大陸の伝承の一部だったな……虹の橋が架かるのは、リムルダールの西の外れである事に間違いはなさそうだ」

 

 その伝承を聞いたリーシャは、単純な答えを導き出す。深くは考えていないのだろうが、その答えは的を射ていた。伝承と予言が一致する部分は虹の橋という単語だけ。その部分だけを強調すれば、魔の島へ渡る為に橋が架かる場所は特定出来る。だが、事はそう単純な事ではなく、サラとカミュは少し思考へと入っていた。

 伝承では『雨と太陽が合わさる時』という一文。これに関しては、既に『雨雲の杖』と『太陽の石』という物を彼等は有している。故に、それを何らかの方法で繋ぎ合わせれば良いという考えに至るのだ。だが、予言で登場した『雫』という存在が何かという事が解らない。

 『雫が闇を照らす』という状況が思い浮かばないし、それが何を指しているのか、何を比喩しているのかが皆目検討も付かなかった。

 

「……南東にある小島に行ってみるしかないだろう」

 

「妖精様のお言葉ですね?」

 

 今の現状で予言の答えを出す事は難しい。だが、答えに辿り着く為の道筋は示されていた。

 それは精霊神ルビスの解放を願う妖精から告げられた事。雨雲の杖を受け取った際に、『雨雲の杖』、『太陽の石』、そして精霊ルビスの愛の証を持って、東南に浮かぶ聖なる祠へ向かうように告げていた。

 雫が何を示す物であるか解らなくとも、彼等が向かう場所は既に決まっている。そこに辿り着けば、自ずと『雫』が何かは解る事だろう。

 

「聖なる祠へ向かわれるか……あの場所へ向かう者が少なくなって久しい。南東の海岸にあった渡し舟が今もまだあるかどうか……」

 

 しかし、彼等の行く道は常に険しい。どれ程に彼等へ試練を与えるのだろうかと思う程に、障害となる壁が必ず立ち塞がって来た。

 南東に浮かぶ小島までの距離がどれ程なのかはわからない。マイラからルビスの塔のある小島までの距離ほどではないだろうが、それでも舟なしで渡れる程の距離ではないだろう。最後の一歩までが果てしなく遠い。それこそが、彼等の進んで来た道が最終局面に近付いている証なのかもしれない。

 

「行ってみるしかないな。行ってみて舟がなければ、その時に改めて考えよう」

 

「……筏でも作るつもりか?」

 

 リーシャの言葉で変わった雰囲気は、そのまま部屋全体の空気を変えて行く。絶望的な状況にも拘らず軽口を叩き合う二人に、サラとメルエも顔を合わせて笑みを溢した。

 何を言っても挫けず、どんな可能性を示しても心を折らない若者達の強さに、老婆は眩しそうに目を細める。闇に包まれた今のアレフガルドには、この眩しさが何処にもない。いずれこの世界から闇が払われる時、アレフガルド大陸の若者達にもこの光が戻るのだろうか、という僅かな希望が老婆の胸に湧き上がった。

 既に朽ち果てて行くだけとなった身を悔しく思った事は初めてである。闇に包まれたアレフガルドの未来は常に闇に包まれたように見えず、それは滅亡の兆しだと何処かで諦めていた。訪れる者達の目にも光はなく、希望を持つ者達も少なくなって行く中、残り短い余生を静かに過ごそうと考えていただけに、この四人の若者の突然の来訪は、老婆の胸に喜びと哀しみを同時に運んで来るものであったのだ。

 

「貴重なお話をありがとうございました」

 

「…………ありが……とう…………」

 

 立ち上がった一行にとって、この小さな預言者の館など通過点に過ぎない。用が済めば二度と訪れる事はないだろう。それでも丁寧に頭を下げる女性と少女を見ると、理由もなく涙が溢れそうになって来る。あと二十年、いや十年でも若ければ、この者達の行く末が見えたかもしれない。それは予言としてではなく、現実としての世界をだ。それを心から悔しがる自分がいる事に、老婆は小さな苦笑を漏らした。

 頭を下げた後、可愛らしい花冠が付いた帽子を被った少女は、会釈をした青年のマントの裾を握る。この素晴らしくも悔しい出会いも、もう終わりが近付いていた。

 

「よし。では、先程は途中で行けなかった買い物へ向かおう」

 

「…………メルエも…………」

 

「メルエの装備品は無いかもしれませんよ?」

 

 出口へと向かって行く四人の背中が、揺らめくように動く。知らずに溢れて来た涙が、老婆の視界を歪めてしまっているのだ。

 自分でも気付かない程、未来への希望を捨て切れていなかった事を改めて認識した老婆は、大声で笑い出したい気持ちを抑え、四人が扉を開いて出て行くのを待つ。静かに閉まって行く扉の先は、漆黒の闇に包まれた世界である筈なのに、四人の若者達の発する希望の光が眩い世界を老婆に見せていた。

 入って来た時には見えなかった彼等の未来。それが見えたのかと思った老婆であったが、今自分が見ている景色が、彼等の未来ではなく、この世界の未来なのではないかと思い直す。それがどれ程に美しい世界なのか、どれ程に喜びに満ちた世界なのか、想像するだけでも嬉しくなる。止め処なく溢れて来る涙と反して緩んでいく頬が、老婆の顔に満面の笑みを作り出した。

 

「……苦難に向かう若者達に大きな幸在らん事を。このアレフガルドに輝く未来が在らん事を」

 

 涙声で呟かれた言葉は、暖炉に点る炎の中へと溶けて行く。

 時代を作って来た者達が次代の若者達の幸せを願う言葉は、炎が生み出す煙と共に天へと還って行くだろう。そして、その想いも願いも、必ず天界の神や精霊に届くに違いない。

 切り開かれた道は、神や精霊の愛を呼び込む。恵みとなる太陽からの光を受け、食物は育ち、動物も育つ。恵みの雨は食物の成長を助け、動物達の喉を潤すだろう。そんな未来が、アレフガルド大陸で生きて来た一人の預言者の瞳に映り込んでいた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
11月、ぎりぎり三話の投稿が出来ました。
年内にあと三話は更新するつもりです。

ご意見、ご感想をありがとうございました。


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リムルダール②

 

 

 

 預言者の居た建物から出た一行は、大きな道を挟んだ向かいにある武器と防具の看板を掲げる建物へ歩いて行く。買い物という単語に胸を躍らせるメルエは満面の笑みを浮かべているが、その笑顔がすぐに曇る事を予感しているリーシャとサラは、苦笑を浮かべた。

 メルエの着用している装備品に関しては、最後に購入したのがエルフの隠れ里にあった『天使のローブ』である。それ以降、数多くの町や村を訪れてはいるが、メルエの物を購入した事はないのだ。肩から掛けているポシェットを繕う為に糸や布や、肌着などを購入した事はあっても、武器や防具を揃えた事はなかった。

 それは、メルエの持つ『雷の杖』という武器と、『天使のローブ』という身を護る防具が彼女にとって最強装備である事を物語っている。元々、魔法使いという職種は、魔法力に特化する反面、体力が低い。力が弱く、重量のある武器や防具を装備する事が出来なかった。その中でも、メルエという魔法使いは例外である。まだまだ身体が出来上がっていない幼子である為、成人した魔法使いよりも装備出来る物は更に絞られて来るのだ。

 『雷の杖』というのは、メルエの為に造られた武器であるように、今では彼女の手となっている。それ以降も店先で幾つもの杖を見てはいるが、メルエという少女の心を掴んだのは、悪戯という行動に直結する『変化の杖』だけであった。

 『天使のローブ』には、死の呪文に対する抵抗力があると云われている。そのローブを模る糸一本一本に、温かな願いと想いが編み込まれており、他者の死を願う理不尽な呪文に抵抗し、跳ね返すとエルフの隠れ里では伝えられていた。そんな逸話を知る彼等は、絶対にメルエからこのローブを取り上げる事はないだろう。それは、死の呪文によって一度死を迎えている少女の姿を見ているからである。あの姿を見た彼等ならば、メルエが他の装備を纏う事を許さないに違いない。

 

「メルエの物は売っていないかもしれませんよ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 それでも、落胆するメルエの姿を見たくはないサラは、手を繋ぐ少女に事前に釘を刺す。だが、その言葉を聞いた少女は、明らかな不満を顔に出し、頬を膨らませて『ぷいっ』と顔を逸らしてしまった。

 新しい物を買って貰えるというのは、子供でなくとも心が躍る物である。それに加え、今までの短い人生の中で、何一つ買い与えられて来なかった者であれば尚更であろう。

 カミュ達と出会い、家族のような愛を貰い。そして、自分の身の回りに必要な物を買い与えられて来た少女は、そんな小さな我儘を覚えてしまう。不満を顔に出し、駄々を捏ねれば何らかの譲歩を引き出す事が出来るかもしれないという小さな小さな我儘。

 その我儘をぶつけられる者にとっては小さいと流せる物ではないが、権力も資金も持ち合わせていない幼子にとっては、そんな小さな我儘が唯一の抵抗であり、手段なのだろう。メルエの姿に困惑するサラとは異なり、リーシャは優しい笑みを浮かべながらメルエの帽子を取って頭を撫で付けた。

 

「いらっしゃい」

 

「品物を見せてくれ。この店の逸品などがあれば、それも見せて欲しい。それと、ここで魔物の部位は買い取って貰えるか?」

 

 リーシャとサラがメルエと格闘している間に、先頭のカミュが武器屋の扉を開く。カウンターに入っていた店主が営業的な笑みを浮かべ、それに対して簡潔にカミュが答える。

 先程の宿屋で、彼らの所持金の多くを失っている。その為、剥ぎ取った魔物の部位を店主に渡し、買取を頼む。このアレフガルド大陸で暮らす者達では倒す事の出来ない魔物達の部位は、かなり貴重な物であり、一瞬驚きの表情を浮かべた店主ではあったが、即座に査定を行い、カミュに金額を提示した。

 提示された金額を交渉する術は勇者や戦士にはない。世界を代表する賢者となったサラであっても、その術を持ち合わせてはいないのだ。故に、彼等は提示された金額で了承する他ない。それが不当に安い金額なのか、それとも適正なのか、はたまた希少性を重視した高い金額なのかも解らないまま受け取る他なかった。

 

「うちでしか取り扱っていない物となれば、この四品だろうね。それぞれ説明しようか?」

 

 ゴールドを受け取ったカミュはそれを革袋へ入れ、想像以上に重くなった革袋を腰へと下げる。一つの袋では入り切らないゴールドを三つに分けた事を考えると、この店主は持ち込んだ部位に対してそれ相応の価値を付けたと考えて良いだろう。

 カウンターからゴールドがなくなった事を確認した店主は、カウンター奥から一つの品物を運んで来る。カウンターに置かれた物は一振りの剣。とても細身の剣であり、カミュの持つ王者の剣の半分以下の厚みしかなかった。

 鍔の部分は、鳥が羽ばたくような姿で作られており、それは抽象的な王者の剣の鍔とは異なり、はっきりとした姿で模られていた。

 

「これは、(はやぶさ)の剣と云う。とても軽くしなやかな剣で、熟練の者であれば、敵が行動する前に二度三度と剣を振るう事が出来ると云われているよ」

 

「……なんとも頼りない剣だな」

 

 自慢気に剣を持って語る店主の言葉に、リーシャは素直な感想を口にする。確かに軽くしなやかであり、尚且つ鋭さを持つ剣であれば、素早い攻撃を繰り出す事が出来るだろう。だが、その有用性を発揮出来るのは、対人の戦いだけではないかとリーシャは考えていた。

 この細身の剣では、動く石像や大魔人のような魔物とまともにぶつかる事は出来ず、反対に剣が砕けてしまっても可笑しくはない。故にこその感想であったのだろう。

 武器という枠であれば、カミュの武器はこの先で変化する事はないだろう。神代の金属と現代の人の想いが込められた武器は、カミュという勇者にとって最高の物であり、至上の物であるのだ。そして、リーシャの持つ魔神の斧もまた、それと同様に彼女の中では至上の物であるのかもしれない。

 

「サラが持ってみるか?」

 

「いえ、私にはこのゾンビキラーがありますし、私が肉弾戦をする所まで来れば、その剣では心許ないです」

 

 リーシャがカウンターに置かれた剣を再度見てから後ろにいるサラへ声を掛ける。しかし、そんなサラの答えは、それを完全否定する物であった。

 サラもまた、リーシャの手解きを受けた者であり、今ではその力量も騎士に遅れを取るような物ではない。むしろ、カミュやリーシャを除けば、世界最高の剣士という称号を手にしても可笑しくはないのだろう。それでも、上位の魔物には敵わない。彼女が剣を振るって前衛で戦う時は、勇者と戦士が既に亡き者になっている時だけであり、そのような絶望的な状況で振るう剣としては、この『隼の剣』では心許ない事は事実であった。

 元々剣を装備出来ないメルエに持たせる訳にも行かず、メルエ自身も剣に興味を示す事なく、周囲に掛かっている武器や防具を見上げている。

 

「そうですか……残念ですが、仕方がありませんね。それでは、この剣はどうですか?」

 

 購入の気配がない事で、店主は隼の剣を奥へと仕舞って行く。そして、再度戻って来た彼は、もう一振りの剣をカウンターへと置いた。

 先程の隼の剣とは異なり、その外見はシンプルな物であり、何の装飾もない一振りの剣である。しかし、その剣の厚みはカミュの持つ王者の剣と大差はなく、重厚な厚みと大気さえも斬り裂く程の鋭さを持っていた。

 鍔にも装飾はなく、真っ直ぐに延びた物であり、全体的に鋼鉄色をした物である。何の変哲もないその剣にサラは首を傾げるが、それとは異なり、カミュとリーシャは、その剣に真剣な眼差しを向けた。

 

「これも一品物で、『バスタードソード』と云います。通常の剣よりも頑丈に出来ておりますから、斬る事にも突く事にも優れている剣です。特殊な力などは何も保持していないので、斬る事と突く事しか出来ませんが、それでも並みの剣とは比べ物にならない逸品です」

 

「確かになかなかの剣だな」

 

 店主の説明に大きく頷きを返したリーシャは、その剣の力を認める。重厚感ある剣である為、カミュやリーシャのような者でしか扱う事は出来ない。先程の隼の剣とは異なり、サラでは振る事も出来ないだろう。

 そうなれば、このバスタードソードと呼ばれる剣の結末も見えて来る。前述したように、彼等二人には己と最後まで共にする相棒が既に存在しており、如何に優れた武器であろうと、今の武器を大きく超える程の物でなければ必要性は皆無に等しかった。

 

「これも……駄目そうですね。ふむ……では、この盾など……如何でしょうか?」

 

「おい、大丈夫か?」

 

 カミュとリーシャの表情を見た店主は、商人としての経験を発揮させ、商売が成立しない事を察知し、カウンター奥へと引っ込んで行く。そして、代わりに持って来た物を見たカミュは、その品物の異様さに手を貸そうと歩み寄った。

 ふらふらと覚束ない足取りでそれをカウンターに置いた店主は、額に滲んだ汗を拭い、乱れた息を整える。既にカウンターに乗っている事も信じられない程の大きさを誇るそれは、奇妙な楕円の形をした盾。緑色に染められた表面に金で枠取られていた。

 

「ふぅ……これは『オーガシールド』と呼ばれる盾です。何でも、古の怪物であるオーガという巨人族が持っていた盾と云われています」

 

「巨人族の盾か……どうりで大きい筈だ」

 

 その大きさは、リーシャ一人をすっぽりと覆う事の出来る程であり、盾と言うよりは壁に近い物である。試しにカウンターから持ち上げたリーシャは、そのずっしりとした重量に少し驚きながらも自分を覆うような盾を掲げてみた。

 確かに、守りとしてはこれ以上の物はないだろう。カミュの持つ勇者の盾のような特別な謂れがなければ、この盾以上の防御を持つ物は存在しない事が解る。だが、彼等の目的は己の身を護る事だけではない。勿論、己の身と仲間の身を護らなければならない事も事実だが、それだけでは駄目なのだ。

 

「これは、動き回る戦いには適さないな。籠城戦や攻城戦には威力を発揮するだろうが、この先の戦いでむしろ邪魔になる可能性が高い」

 

「まぁ、そうだろうな」

 

 カウンターへ戻した盾を見やり、リーシャは己の感じた事を口にする。そして、カミュもまた、それに同意を示した。

 彼等の目的は大魔王ゾーマの討伐であり、ゾーマが籠る城の制圧ではない。前衛二人の片方が盾役となって攻撃を凌ぎ、一人が攻撃を一手に担う事で打ち倒せる程、破壊と絶望の王は優しい相手ではないだろう。二人の内、一人でも欠ければ、たちまち全滅への道筋が開けてしまう可能性が高かった。

 そんな一行にとって、この盾は有用性に欠けている。それを聞いた店主は大きく肩を落とした。彼としても、己の店にある良い品物を選んで並べて来たのだが、三つの内、全てが却下されるとなれば、商人としての誇りを大きく傷つけられる結果となってしまっているのだろう。

 そして、最後の望みを掛けて店主は奥から一つの商品を運んで来る。

 

「これも駄目ですか……他にあるとすれば、この兜だけですね」

 

「これは……何というか……」

 

 しかし、そんな店主のささやかな願いは、その品物を見たサラの引き攣った表情が打ち壊してしまった。

 その兜は、本当に立派な物である事が解る。それこそ、一国の宮廷騎士隊長が装備するに相応しい代物であろう。その金属は重厚な物であり、鈍い輝きを持つ。ミスリルヘルムよりも頑丈である事が一目で解った。

 ただ、サラが絶句する理由はその頭頂部にある。

 

「この鶏の鶏冠のような飾りは、どうにかならない物か?」

 

「いえ、このグレートヘルムはこのような造りですので……」

 

 宮廷騎士隊長などのように上層部に入った者達は、自分の権威を示すように他者とは異なった飾りを付ける事がある。宮廷の厨房などでも、その権威や地位によって帽子の高さが異なっていたり、教会でもその法衣を彩る色素によって身分を示したりなど様々ではあるが、『人』という種族は得てして他者との差別化を図りたくなるのだ。

 このグレートヘルムという名の兜もまた、もしかするとこのアレフガルド大陸に於ける地位の高い存在の為だけに造られた兜なのかもしれない。その名を示すように、他者との違いを見せ付ける為の兜という印象しか受けなかった。

 その構造、その金属を見れば、この兜の有用性が確かである事も解る。おそらくカミュの被っている『光の兜』よりは数段落ちるだろうが、それでもリーシャの装備する『ミスリルヘルム』よりは上であろう。だが、それでも唯一装備出来るリーシャは、このグレートヘルムを手に取る気はなかった。

 

「これが駄目となると、当店でお勧め出来る物は何一つありません……」

 

 アリアハンという小さな島国の宮廷にも、グレートヘルムという名の兜は存在していた筈である。だが、リーシャの知るそれは、以前上の大陸の武器屋で販売していた鉄化面のような兜であった。

 頭部から顔までをすっぽりと覆い、目の部分に細い切れ込みが入っていて視界を取る物である。また、口元の部分には細かな穴が空けられ、通気性を確保した物が、本来のグレートヘルムであるとリーシャは記憶していたのだ。ただ、使っている金属は良い物で鋼鉄、悪い物であれば青銅のような物であり、今目の前にある物よりも遥かに心許ない兜であった。

 しかし、自らの権威を象徴する為に、この兜が作られたとすれば、顔面を全て覆ってしまえば本末転倒である。幾ら有用な物であろうとも、誰が被っているのかが解らなければ意味を成さないのだ。故にこそ、名前には『グレート』と付けながらも、形状は全く異なる物としたのだろう。

 だが、自身の権威や地位に興味のない者からすれば、ただただ恥ずかしいだけの装飾でしかない。リーシャが固辞する気持ちも解るというものだ。

 断られた店主からすれば、自信を持って取り出した商品全てを否定された事で商人としての力量さえも否定された気分になってしまったのだろう。だが、これが生半可な冒険者風情の者達から言われたのであれば、この店主も反論したに違いない。それだけの自信を持つ商品でありながら、カミュ達にそれを口にしないのは、彼等四人の力量を無意識に把握したのだろう。それこそ、彼の商人としての力量を物語っていると云えるのだが、それを気付けという方が無理なのかもしれない。

 

「……すまないな。良い品だとは思うのだが、今の俺達には必要のない物のようだ」

 

「いえ、お気になさらず。最近では珍しいお客様でしたので、私も張り切り過ぎてしまっただけです」

 

 意気消沈してしまった店主の姿を見たカミュは、何処か罪悪感を感じ、軽く頭を下げる。そんな優しい姿にリーシャは頬を緩めた。

 カミュに向かって慌てて手を振る店主の言うように、このリムルダールの武器屋に人が訪れる事は少なくなっているのだろう。特に、上の世界の人間よりも力の弱い者達が多いアレフガルドでは、この店主が先程取り出して来た物の中で使用可能な物といえば、隼の剣しかない筈である。売れない商品を在庫しているという状況が続いていただけに、彼もまた意欲を燃やしていたに違いない。

 

「良い物をご紹介出来なかっただけでは商人の恥です。何かお話出来る事でもあれば良いのですが……」

 

 だが、流石はアレフガルド大陸一の都市であるリムルダールで商売をする人間である。上客を繋ぎ止め、その後もまた縁を繋いで行く為に、笑みを浮かべて口を開いた。

 今まで周囲を見渡していたメルエも、これまでと異なり何も購入しなかった事に首を傾げて近付いて来る。彼女は自分が買って貰えないのに、誰かが買って貰えるからこそ膨れるのであり、誰もが平等であれば不平を口にはしなかったのだ。

 そんなメルエを抱き上げたリーシャは、カミュと店主の会話へ意識を移す。今度ばかりは譲るつもりがないのか、店主は笑みを浮かべながら熱い視線をカミュへと向けていた。

 

「何か、この町で変わった物などあったら教えて欲しい」

 

「変わった物ですか……難しいですね。変わった物ではなく、変わった人ならば、町の外れに何でも『鍵』の研究をしている老人がいるとか……。それと、向かいにある建物の二階には各地を歩き回った囚人が捕まっていますね」

 

 カミュが口にした曖昧な問いかけに困ったような表情を浮かべた店主であったが、それでもその問いかけに答えを出す。

 このリムルダールという町は、アレフガルド首都であるラダトーム王都から実質的な移動距離では最も離れている。マイラの村南に造られている海底洞窟が繋がればかなり移動距離は短くなるだろうが、現状では最も離れた都市と言っても過言ではないだろう。

 ある意味では大魔王ゾーマの居城から最も近しい取り残された都市と言っても良い筈である。そんな場所でこれ以上の情報を仕入れるのは困難であると考えたカミュが出した抽象的な問いかけであったのだが、返って来た答えは少し興味を抱く事柄であった。

 

「それと、この話は私がお客様から聞きましたので、信憑性は薄いのですが……何でも、このリムルダールの西の外れにある岬に年老いた男が立っていたそうです」

 

「なに!? それは本当か!?」

 

 だが、カミュとサラが次の目的地を決めた頃に呟かれたもう一つの情報が、それまでメルエと共に笑みを浮かべていたリーシャを豹変させる。

 リムルダールの西の外れといえば、先程の預言者が『虹の橋が架かる』と口にした場所である。その場所に立つ年老いた男となれば、宿屋の親子から聞いた英雄オルテガ以外には存在しないだろう。

 カミュが生まれた頃には二十台半ばから後半であったオルテガである。そのカミュも既に旅を始めて六年の月日が経ち、二十二という歳になっている。であれば、オルテガの年齢は五十に近いと考えられた。

 この時代、五十といえば既に体力の峠を越えて久しい。その姿を見た人間が『年老いた男』と感じていても可笑しくはないのだ。

 

「まさか……オルテガ様は本当に泳いで渡った訳ではあるまいな」

 

「さぁな。会った事もない人間の考える事など解る訳がない」

 

 勢い良くカミュへと視線を向けたリーシャの問いかけは、即座に斬り捨てられる。

 未だに西の外れに虹の橋は架かっていない以上、その年老いた男が橋を渡って大魔王の城へ向かった訳ではないだろう。そうなれば、岬から海へと飛び込み、そのまま泳いで対岸へ渡ろうとしたと考えるのが普通であった。そして、その方法で迎える結末は、特殊な海流に吞み込まれての『死』である可能性が高い。その不安をリーシャは口にしたのだ。

 だが、あくまでも他人であると云う立ち位置を崩さないカミュは、その不安を一蹴する。確かに、カミュはオルテガの記憶など欠片もないだろう。顔も憶えていなければ、声も知らない。思い出も残っておらず、あるのは、その人物の名が生み出す弊害の記憶だけだった。そんな人間の考える事など、解ろう筈がない事は事実である。

 そして、そんな事を口にするカミュへ、リーシャはただ哀しそうな瞳を向ける事しか出来なかった。

 

「貴重なお話をありがとうございました」

 

 そんな微妙な空気に終止符を打ったのは、それまで口を閉ざしていたサラであった。

 最早、この店主から聞く話はない。本来であれば、この店主から得た情報の人物と会う必要性も薄いのであるが、この状況で町を出るよりはと、サラは全員を促して武器屋を出て行く。釈然としない表情でありながら、それを気遣うメルエに苦し紛れの笑みを浮かべたリーシャも武器屋の扉を開いて外へと出て行った。

 その後、武器屋の店主の話にあった、預言者の居る建物の二階へと続く梯子を掛け、小さな扉を開いて中へと入って行く。先程、預言者を訪ねた時には掛かっていた梯子は外されており、今では二階部分に誰もいない事が解っていた。

 

「何だ、お前達は? 飯の時間じゃないだろう?」

 

 そして、その扉を開いた先には、小さな牢屋が存在していた。その牢屋は、簡単な物でありながらもしっかりとした鍵が取り付けられており、その中に一人の男が寝そべっている。扉が開かれた音で起き上がった男は、入って来た歪な一行を訝しげに眺め、口を開いた。

 その瞳は明らかに濁っており、この男の出生も人生も良い物でない事が解る。そんな男の姿にリーシャはメルエを自分の後ろに隠すように立ち、サラもまたその横へと立った。突然の行動に驚いたのはメルエであり、視界が遮られてしまった事で、リーシャとサラの隙間から牢屋の中を覗くしか出来ない事に頬を膨らませる。しかし、そんな少女の不満など取り合う事なく、カミュが牢屋の前に立った。

 

「このアレフガルド各地を回っていたと聞いた。何か面白い情報はないか?」

 

「ああ? 何でそんな事をお前達に教えてやらなければならない? 俺をここから出してくれるのか?」

 

 カミュの問いかけに対して物怖じせずに答える囚人ではあったが、別段、彼の力量がカミュ達と同等という訳ではない。むしろ、目の前に立つ歪な四人の姿を見て侮り、本来の力の差を見る事が出来ない程度の実力しかないのだろう。

 カミュは、相手を威圧するような空気を出してはいない。そしてサラも不快そうに顔を歪めてはいても、その感情に魔力を乗せたりはしない。メルエなどは、カミュ達に害意を向けられない限りは、意味不明な男に対して興味を示す事はなく、牢屋に入っていたのが薄汚い男だけであった事で、既に興味さえも失っていた。

 だが、根本が『騎士』という職にあるリーシャは、その男の態度と言動に憤りを感じ始める。牢にはいると云う事はそれ相応の罪を犯した者であり、もし冤罪での投獄であるならば、このような態度を取る事はないと考えていたからだ。

 

「カミュ、時間の無駄だ。このような木っ端に構っている暇はないぞ」

 

「……そうだな」

 

 僅か一度の会話で見切りをつけたカミュとリーシャは、そのまま背を向ける。サラにしても、ここで有用な情報が手に入るとは最初から考えておらず、周囲を見渡しているメルエの手を引いて扉のノブに手を掛けた。

 最早、行く先は決定している。まずは、南東の小島にある聖なる祠へ向かい、そこで『虹の橋』という謎を解いて、西の外れにある岬へ向かう。そこで橋が架かれば、そのまま大魔王ゾーマの居城へ最後の決戦に向かうのだ。

 ここまで明確な道筋が出来上がっている中で、他にどのような情報が必要だというのか。実際は、カミュもそれを理解しているのだろう。それでも、小さな情報が彼等の命運を変えて来たという経験があるだけに、どんな細い糸でも手繰り寄せようと考えているのだ。

 

「待て。そうだな……大魔王の神殿の玉座の後ろには、秘密の入り口があるらしいぜ」

 

 そんなカミュ達の努力は、予想の斜め上から降りて来る事となる。

 既にカミュ達全員が己に背を向けた状態にも拘らず、男は呟くように言葉を繋げた。それを聞いたカミュ達は勢い良く振り返り、口を開いた男の顔を凝視する。僅かな蝋燭の炎で細かな表情までは見えないまでも、その男が浮かべている厭らしい笑みだけは、カミュ達にもはっきりと確認出来た。

 その情報が真実か否かは解らない。むしろ、カミュ達を弄ぶ為だけに口を開いた可能性も高い。何を口にしても牢屋から出る事が出来ないという状況で、この男が有用な情報をカミュ達に与える利がないからだ。

 

「お前は、ゾーマのいる城へ行った事があるのか!?」

 

「ああ、あるぜ」

 

 リーシャはその情報の真偽を確かめるように問いかけたが、それに対しての男の回答を聞いて、全員が男に対しての興味を完全に失った。

 間違いなく、この男の答えは『嘘』である。相手の力量も解らない人間が『魔の島』と呼ばれる場所へ赴き、生きて帰れる訳がない。万が一逃げ果せたとしても、その心には深い爪痕が残っている筈であった。

 魔の島には、カミュ達が一度は絶望した竜種以上の魔物が犇いている筈である。その中を掻い潜る事が出来る程の力量を持っていれば、このような牢屋に掴まるような事はないだろう。大魔王ゾーマの居城は、圧倒的な魔法力を持つ訳でもなく、力を隠している訳でもない只の男が気軽に向かえる場所ではない。

 もし、この男が自身の膨大な力を隠し通しているとしても、そのような男ならば誇らしげに魔の島へ行った事がある事を吹聴する事はないだろう。故にこそ、カミュ達全員が、一瞬の内に興味を失ったのだ。

 

「行こう、カミュ。本当に時間の無駄だった」

 

 もし、男が発した情報が真実だとしても、この男が自らの身で入手して来た物ではないだろう。先程の男の口調からも、伝聞である事が解り、これ以上問いかけても更なる情報が手に入る訳ではない事は明らかであった。

 もしかすると、この後の旅の中で有用な情報と成り得るかもしれないが、それでもこの男との会話に時間を割く必要性は何処にもない。リーシャに言われるまでもなく、既にカミュは扉から半身を出しており、そのマントの裾を掴み直したメルエもまた、外へと出て行った。

 闇が支配する牢屋に一人残された男の表情が徐々に変化して行く。先程までの厭らしい笑みから、怯えたような表情へと。それは、この男が発していた言葉が只の虚栄であった事を明確に示していた。

 何も知らないという状況でも、己の誇りを護ろうとする凡人の虚栄心。何処かで聞いた事があったように思えた情報をただ口にしたに過ぎないその自己満足は、彼の自尊心を満足させはしたが、後に残ったのは虚無感だけであった。

 静かに閉まった扉が、再び彼を闇だけが覆う小さな牢獄へと縛り付ける。このアレフガルド大陸の闇が払われようとも、この男の周囲の闇だけは未来永劫晴れる事はないだろう。

 

 

 

 二階の梯子を全員が降りた事を確認したカミュは、その梯子を外す。外した梯子を離れた場所に立てかけた後、カミュは町外れの一軒の建物に向かって歩き出した。

 その建物は、町の中央から見えているにも拘らず、中央から徒歩で向かう事は出来ない。一度町の入り口付近まで戻り、町の外周のような石畳の通路を歩いて北側から大きく回っていかなければならなかった。

 ほとんどの者が町の中央で生活している為か、この通路を歩く人間は皆無に近く、人通りの少ない道を四人は歩いて行く。そんな街道を歩いて行くと、北側に植えられた大きな木が見えて来た。その木にもたれ掛かるように一人の男性が立っている。

 然して気に留める必要性を感じる物ではないが、人通りが皆無な外周の石畳で、何故立っているのかが気になったサラが近付いて行った。

 

「ここで何をされているのですか?」

 

「え? ああ、彼女を待っているんだ。プレゼントを渡そうと思って、町外れで待ち合わせをしているのさ」

 

 カミュもそのマントの裾を握っているメルエも男性を気にも留めないが、近付いたサラが口を開くと、大事そうに掌にある物を眺めていた男性が驚いたように顔を上げる。そして、待ち人でなかった事に多少の落胆の色を滲ませながらも、笑顔を浮かべてサラの問いかけに答えた。

 この様子であれば、婚姻の申し込みでもするつもりなのだろうと察したサラは、優しい笑みを浮かべて、男の答えに頷きを返す。男の様子を見る限り、脈がない賭けではないのだろう。既に互いが互いを支え、この先の約束も交わしているに違いない。今日は、その確認と、男の覚悟を示す為の待ち合わせだと思われた。

 柔らかな笑みを浮かべ、『末永くお幸せに』と、一足飛びの祝福を投げかけるサラに対して、男は面を食らったように大きく目を見開く。

 

「え? あ、ありがとう。このプレゼントも、僕の精一杯の気持ちなんだ。喜んでくれるといいのだけれど……」

 

「大丈夫ですよ。気持ちが籠っていれば、女性は喜ぶと思いますよ」

 

 何処か心が温かくなるのを感じながら、このような未来ある若者が幸せに暮らせる世界を取り戻す為にも、大魔王ゾーマの討伐が必須である事をサラは改めて感じる。そんなサラの笑みを見た男性は、多少顔を赤く染めながらも嬉しそうに頷くのだった。

 サラが立ち止まってしまった事によって動きが停止した一行であったが、会話が終了した様子を見て、再びカミュが歩き出そうとする。しかし、その歩みは、次に男性が発した言葉によって停止してしまった。

 

「伝承に残る『賢者の石』という物が手に入れば、自信を持って渡せるのですが……」

 

「……賢者の石ですか?」

 

 『賢者』という単語に反応したサラが一歩男性へと近付く。上の世界では当たり前のように伝承として残っていた古の賢者という存在は、このアレフガルドでは余り聞かなくなっていた。それは、このアレフガルド大陸に賢者はおらず、伝承として残る逸話が無い為だとサラは考えていたのだ。

 だが、その名称が冠の石があると云う。それは当代の賢者であるサラには聞き逃せない物であった。賢者という名称は、伊達や酔狂で名乗れる物ではない。少なくとも、上の世界では『自称勇者』は存在していても、『自称賢者』は誰一人存在しなかった。

 『勇者』という存在はその立証が難しいが、『賢者』の立証は容易い。神魔両方の呪文を行使出来なければ、虚言である事が即座に証明出来るだろう。そして、虚言だった時にリスクは、勇者とは比べ物にならない。数多居た自称勇者の中には、旅の途中で行方不明になった者も多い。それは勿論、途中で魔物に敗れて死んで逝った者も多いだろうが、その中には途中で勇者を名乗る事を止め、何処かの集落に住み着いた者も少なくない筈だ。だが、『賢者』はそうは行かないだろう。賢者ではない事が露見する時は、周囲の期待が最高潮になる時だけだからである。

 誰かを救う為に回復魔法を要求される時かもしれない。そして、同時に魔物を退ける為に攻撃呪文を打たなければならないかもしれない。そのような時に全ての期待を裏切った場合、その者の命さえも危うくなる可能性は高いのだ。

 

「はい。何でも、数多くの呪文を使いこなす『賢者』という人が持っていた物だそうです。多くの者達の傷を癒し、何度でも使えると伝えられています」

 

「何度でも使える回復の石ですか……」

 

 男性の話を聞く限りでは、おそらく、話の中に出て来る賢者は紛い物ではないのだろう。何度でも使用可能な回復呪文と同等の効果を持つ石など、常識では考えられない道具である。そのような道具を所持していたとなれば、それは古の賢者である可能性が高かった。

 古の賢者の一人である、メルエの曽祖父がその人であるかどうかは定かではないが、このアレフガルド地方にも賢者という存在が居た可能性が出現する。上の世界で『賢者』の石という道具についての逸話が残っていない事から考えるに、このアレフガルドで生まれた逸話である可能性もあった。

 ただ、人は信じたい物を信じるという傾向を持つ。上の世界でも、賢者の持ち物の一つとして限られた地方で語り継がれていたかもしれず、単純に上の世界では所持品よりもその賢者の能力や、その能力を記した書物の方の伝承だけが残っていたという可能性もあった。

 その場合、その所持品の伝承を知る者達が、このアレフガルドへ辿り着いているという事が前提となる。

 

「何の代償もなく、回復が出来る物となれば、既にこの世にはないのかもしれないな。それを巡って人類の戦いが起きかねないぞ」

 

「もし、本当に存在するのだとすれば、悟りの書と同様に何処かに封印している可能性は高いだろうな」

 

 驚くサラを余所に、男性から少し離れた場所でリーシャとカミュが口を開いた。

 無限の回復方法となれば、それは魔法を越えた神秘である。平時であれば、その神秘を入手しようと国家間の抗争に発展していても可笑しくはない。それが人類の浅ましさだと言えばそれまでだが、国家に属して来たリーシャから見れば、それは国家の威信を賭けた抗争だと結論付けられた。

 その噂が流れれば、それを所有した国家が随一の国家となる。それを見逃す事が出来る程、国家の上層部は甘くはないのだ。

 故にこそ、カミュの言う通り、『悟りの書』と同様に何処かに封印されている可能性は高い。『悟りの書を手に入れれば、賢者にもなれる』という伝承は、ルビス教会が隠し持つ秘め事である。故にこそ、国家間には出回らず、一部の僧侶達だけがガルナの塔を目指していた。それと同様に、賢者の石という物が、一部の地域の人間しか知らなかった情報であれば、争いの種と成り得る物を封印したと考える方が妥当であろう。

 

「……貴重なお話をありがとうございました」

 

 これ以上の話は必要ないと感じたサラは、男性に頭を下げてカミュ達の許へと戻って行く。その背で聞いた『それにしても、彼女は遅いな』という男性の呟きに対し、サラは男性の想いが成就するように静かに祈りを捧げた。

 男性と別れた後もリムルダールの外周にある石畳を歩き続けた一行は、北西の端に立つ一軒の家へと辿り着く。リムルダールの町の中でもそこそこの大きさを持つ家屋であり、周囲の闇の中でも明るく光る灯火が、この家屋の中に人が居る事を物語っていた。

 

「どなたかな?」

 

 扉に付いた金具を叩くと、中から一人の老人が顔を出す。顔に刻まれた無数の皺が、老人の年齢を示しており、かなりの年数を重ねて来た物である事が解った。

 顔を出した老人は、歪な四人の若者に首を傾げるが、足元に居る幼い少女が頭を下げる姿を見て表情を緩める。怪しい人物がこの時代に町へ入る事が出来ないという絶対の自信の下に、老人はカミュ達を家屋へと誘った。

 中に入るとまず、様々な道具が散ばった乱雑な部屋が目に付く。奥にある机には飲み物が置かれており、道具が散ばった場所が作業場である事が窺えた。どちらかというと、マイラの村にある武器屋の鍛冶場に近いが、その規模は小さい。手先で何かをしていると想像出来る範囲で道具は置かれており、金属の削り屑などがその作業机の近くに零れていた。

 

「鍵の研究をされているとお聞きし、一度拝見出来ればと伺いました」

 

「それはそれは。年老いた男の道楽ですわ。どんな錠でも開けてしまうような鍵を作りたくての」

 

 椅子に腰掛けたカミュは、早々に本題を切り出す。何か飲み物を用意しようとしていた老人は、その言葉に嬉しそうに顔を緩め、作業机にあった小さな鍵を手に取った。

 その鍵は、小さく粗末な物であり、とてもではないが全ての錠を開ける事が出来るとは思えない。どんな錠をも開けてしまう鍵を持つカミュ達から見れば、彼らが初めに手に入れた『盗賊のカギ』にも遠く及ばない物である事がはっきりと解った。

 盗賊バコタと呼ばれる、アリアハン大陸屈指の盗賊がその全てを注ぎ込んで作成した鍵は、簡単な錠前であれば容易に開錠してしまう程の物であったのだ。その鍵を生み出した為に彼はその生涯を無残な形で終わらす事となるが、その結末を知っているからこそ、カミュ達はこの場所を訪れたのかもしれない。

 

「どんな錠でも開ける鍵とは……。ご老体は盗賊でも始めるつもりなのか?」

 

「盗賊? ほっほっほ。そのような事を言われたのは初めてじゃ。皆、そのような鍵は出来ないと鼻で笑う者達ばかりじゃが、お主達はまるでそのような鍵があるという事を知っているようじゃ」

 

 そんな警戒を意味して口を開いたリーシャであったが、逆にその言質は、模索中であった老人の琴線に触れてしまう。どのような錠も開ける鍵など、現実を知る者達ならば不可能だと思うだろう。鍵穴の仕組みを知っている者であれば尚更であり、一つ二つの鍵を開ける事の出来る鍵であれば可能であっても、全ての物というのは不可能である事を知っているのだ。

 だが、リーシャの言葉は、それを不可能であるという前提に発した物ではない。むしろそれが存在するという事を前提に発した言葉であった。どんな錠も開けられる鍵であれば、他者の家や宝箱など全てを盗む事が可能である。故にこそ、それを忠告するつもりで発した物であったのだが、先走りし過ぎた事は否めなかった。

 

「いやいや、すまん、すまん。少し、熱くなってしもうた。盗賊など始めるつもりはない。ただ、このぐらいの家におると、あちこちに鍵が掛かっておっての……その鍵を何処にしまったか忘れてしまう為、一つの鍵で全部開ける事が出来ればと思ったのが切っ掛けじゃな」

 

「そうですか……。それでも、それを生み出す事は大きな危険を孕みますよ。特に貴方の身にとっては、良い事ではないと思います」

 

 完全にカミュ達が警戒色を出した事に気付いた老人は、おどけるように言葉を発する。しかし、警戒を解くような事をしないサラは、老人に忠告という形で苦言を呈した。

 老人の言葉を信じていないという訳ではない。彼の言う通り、当初はそういう想い付きで始めた物であろう。だが、それが行き着く先は決して幸福な末路ではない。彼一代では完成しないかもしれないが、その鍵が完成すれば、彼の一族は大罪人としての末路を歩むか、利を奪おうと目論む者達によって命を奪われるという末路になるかの厳しい未来が待っているに違いなかった。

 この老人は、そんな未来にまで考えが及んでいないのだろう。故にこそ、サラは厳しい表情で苦言を口にしたのだ。

 

「家の中だけで使う物じゃからな、そこまで大げさな物ではなかろう。一度だけでも、上の世界という場所から来た人間が言っていた『魔法のカギ』という物を見てみたいものじゃ」

 

 だが、そんな賢者の声は届かない。この老人からすれば、カミュ達など若輩者に過ぎない。どれだけ立派な鎧を纏ってはいても、どれだけ威圧感のある武器を持っていたとしても、人生という旅に於いては、この老人の三分の一も経験していないのだ。そのような若者達の苦言など、一つの事に集中する年老いた耳に届く訳がなかった。

 夢見るように天井を見上げ、老人がその単語を口にした時、カミュ達三人はそれを悟る。自分達が何を言っても彼が今の研究を止める事はなく、そして万が一にも成功しないであろう研究に残りの人生を注ぐであろうという事を。

 呆れたように溜息を吐き出した三人は、その単語がつい数年前までは自分達の間で頻繁に交わされていた物であるという事を失念していた。そして、その道具が今、何処にあるのかという事も彼等は気にもしていなかったのだ。

 

「…………ある…………」

 

 故にこそ、今まで興味を持たずに部屋を見渡していた少女が、肩から下げたポシェットに手を入れ、それを取り出してしまった事に対しての反応が遅れてしまう。

 『魔法のカギ』という神秘は、『最後のカギ』を手に入れた時点で、ポシェットの中の肥やしになっていた。それ以降は陽の目を見る事もなく、ずっとメルエのポシェットの中で過ごしていたのだ。

 そんな鍵が遂に表へと出てしまう。作業の為に点された沢山の明かりが、まるでメルエの手だけを照らしているかのように、『魔法のカギ』が光を反射していた。

 

「おお! それが魔法のカギか!?」

 

「メルエ!」

 

 それに逸早く反応を示したのは老人であり、即座にメルエに近付いてその手にある鍵を覗き込む。しかし、もっと近くで見ようと、鍵へ手を伸ばした時、それは瞬時に消え去った。

 老人の動きで我に返ったサラが、誇らしげに掲げるメルエの手から『魔法のカギ』を奪ったのだ。部屋を照らしていた光が消え、残るは絶望に近い表情を浮かべる一人の老人だけとなる。縋るようなその視線から逃げるようにサラはメルエの手を引き、そのポシェットへ『魔法のカギ』を押し込んだ。

 今はまだ、この老人の想いも純粋な物なのかもしれない。本当に単純な理由だけで、この鍵を追い求めている可能性は高い。だが、その心が何時闇に覆われるかは誰にも解らないのだ。出来上がった瞬間に、彼の純粋な想いに邪な考えが入り込まないとは断言出来ない。『人』というのは、それだけ弱い者であるという事を誰よりも知っているのは、彼等三人なのかもしれない。

 

「今一度、少しで良いから見せては貰えないだろうか?」

 

「……あれが『魔法のカギ』だと思うのは勝手だが、そのような不可思議な物を私達が持っている筈がない」

 

 カミュの背へとサラとメルエが隠れてしまった事で、老人はカミュへ向かって懇願するように手を合わせる。しかし、そんな老人に放たれたカミュの言葉は冷たく突き放す物であった。

 彼の中でも、この老人が目指す先がとても危険な物であるという結論に達したのだろう。ガライに『魔道書』を渡す事や、マイラの村の武器屋に『雷神の剣』を渡す事も認めた彼にしては珍しいが、それは根本的な違いがあるのかもしれない。

 『雷神の剣』を使うという事は、あの武器屋には不可能な事柄である。そして、あの武器屋であれば、他者に譲る事はないだろう。それこそ、数代先になれば解らないが、それでもあの武器屋であれば、子へ伝える事をせずに何処かへ隠してしまう可能性が高いという考えに至ったのかもしれない。

 ガライに関しては、彼の目的が他者を救うという物であった。その思いも何時変化するかは解らないが、魔物さえも聞き惚れる程の音色を奏でる者であれば、その想いが捻じ曲がる可能性は低いだろう。そして、彼は必ず、あの『魔道書』をサラへ返還しに来るという根拠のない自信がカミュにもリーシャにもあったのだ。

 そして、何よりも異なるのが、ガライや武器屋の場合、それを悪用しようとすれば、カミュ達がその首を貰い受け、対処が出来るというものかもしれない。それが、この老人に関しては不可能なのである。

 武器屋が雷神の剣の力に魅入られたとしても、それを使用する事は出来ず、それを悪用しようとすれば、カミュ達が奪いに行く事は可能であろう。同様にガライが魔道書を悪用し、その力に溺れたとしても、サラやメルエには遠く及ばない以上、彼を誅す事は容易い。

 

「諦めて下さい。どんな鍵も開けてしまう鍵が際限なく使えれば、人は必ず悪しき思いに囚われます。それが貴方でなくとも、そんな鍵があると知れれば、その悪しき心に呑まれた者達が貴方からそれを奪おうとする筈です」

 

 『その時に、貴方は対処が出来ますか?』という言葉を敢えて口にせず、サラは視線を落とした。

 ガライや武器屋が悪しき心に染まる時、それを誅するのはカミュ達である。あの武器屋が雷神の剣を他者へ公言しない以上、その存在は伝承のままであるし、呪文の行使出来ない者達がガライから魔道書を奪う事は不可能だろう。だが、この老人の心が初めの頃のままだったとしても、それが完成された時に襲い掛かって来る略奪者から護る術がないのだ。

 伝承のままであれば良い。何処にあるかも解らず、誰が持っているのかも解らない。そして万が一カミュ達が持っていると知れても、メルエがカミュやリーシャから離れない限りはそれが奪われる事は絶対にないだろう。だが、この何の力も持たない老人やその子孫が生み出した場合、この場所を襲う者達が出て来る可能性は高かった。

 

「……突然の訪問、大変申し訳ありませんでした」

 

「あ……あ……」

 

 最早、これ以上この場所にいるべきでないと感じたカミュは、静かに頭を下げて扉を開ける。それに追い縋るように手を伸ばす老人を避け、リーシャ達三人もまた表へと出て行った。

 静かに閉じて行く扉は、老人の夢を遮る重い壁のように、カミュ達の距離を遮って行く。外へ出た三人の表情も優れない物であり、それを見上げていたメルエも、自分が起こした行動が彼等にそのような顔をさせてしまっているという事を察して眉を下げた。

 

「来るべきではなかったな……」

 

「もし、本当に盗賊のカギのような物を作ろうとしているのでしたら、何とかお止めしようと思ったのですが……」

 

 暗い表情をしたリーシャは、この場所へ来た事を後悔していた。あの部屋の中にあった作りかけの鍵を見る限り、この老人が生きている間に真に迫る物が生まれる事はなかっただろう。全く進まない鍵の研究を引き継ぐほど、彼の子孫達も物好きではない筈だ。となれば、いずれ、リムルダールの鍵の研究は廃れ、消滅して行ったに違いない。だが、魔法のカギを一度でも見てしまえば、ここまで研究を続けて来た老人は、何かを掴むかもしれなかった。

 メルエの行動を責める事は出来ない。考え過ぎた結果、この場所を訪れてしまった彼等に非があるのだ。メルエは呼びかけに応じただけであり、それを無闇に見せてはいけないという事を伝え忘れていた彼等の落ち度である。

 

 老人に僅かな希望と、大きな絶望を与えてしまった事を悔やみながら、彼等はリムルダールを後にする。

 次代へと繋がる物語の中に、何時しか、このリムルダールの鍵屋が登場する事があるかもしれない。その時、この老人が天寿を全うしている事を、祈る事しか彼等には出来なかった。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
年末までにあと二話……
頑張って描いて行きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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~幕間~【リムルダール地方】

 

 

 

 リムルダールを出たカミュ達は、西の外れにある岬へではなく、南へと進路を取る。リムルダールを囲う湖の縁を歩きながら『たいまつ』の炎を眺めていたメルエは、湖の傍に生い茂る草の隙間から『たいまつ』の炎に煌く何かを見つけた。

 握っていたサラの手を引き、自分が見た何かを指差したメルエは、何かを感じたように一歩後方へと下がる。それに合わせて下がったサラは、カミュとリーシャを呼び寄せ、戦闘態勢へと入った。

 戦闘となれば、サラ達は一旦後方へ下がらなければならない。今のサラであれば、並みの魔物相手に前衛で戦う事も可能であろう。だが、幼く直接戦闘能力が皆無であるメルエを護るという役目を持つ彼女は、魔物の影を感じた少女と共に後方へと下がらなければならなかった。

 

「カミュ、あのスライムだ」

 

「ちっ、数が多いな」

 

 湖の方を向いて各々の武器を構えた二人は、草の陰から姿を現した生物に『たいまつ』の炎を向けて、確認する。そしてその姿を認識した二人は、あからさまに顔を歪めた。

 出て来た生物は、銀色に輝く体躯を持ちながらも、その形状を維持出来ないかのように崩れたスライム。スライムの希少種であるメタルスライムという種の更に亜種。その体躯ゆえにメタルスライムの群れからも逸れてしまった『はぐれメタル』という種であった。

 その崩れたように見える体躯は、見た目以上の強度を誇り、人間の放つ攻撃では傷一つ与える事が出来ない。更に、その銀色に輝く身体は全ての呪文の効果を受け入れる事なく、弾き返すと云われていた。

 

「メルエ、呪文は効果がありません。無闇に放っては駄目ですよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 後方へと下がったサラは、その魔物の正体を把握し、メルエへと注意を告げる。しかし、唯一の誇りを封じられた少女は、不満そうに頬を膨らませ、恨めしげに魔物へと視線を向けた。

 スライムベスに対しては、無邪気に近寄った彼女であったが、形状が全く異なるはぐれメタルに対しては、そのような動きは一切ない。彼女の中でスライム種という括りには入っていないのかもしれなかった。

 

「ふん!」

 

 不用意に近づいて来た一体のはぐれメタルに対してリーシャが斧を振り下ろす。しかし、如何に魔神が愛した斧といえども、このはぐれメタルの身体を斬り裂く事は出来なかった。

 乾いた金属音を響かせて弾かれた斧は、真上に上がり、その隙を付いて他のはぐれメタルがリーシャの胴目掛けて飛び込んで来る。咄嗟に振り下ろしたカミュの剣が、空中に浮いていたはぐれメタルの体躯を打ちつけ、小さな傷を付けた。

 一瞬の間の攻防ではあるが、前衛二人の攻撃の効果が見られない事など、この魔物に対してだけであろう。一体のはぐれメタルの金属のような身体に入った筋がカミュの付けた傷痕だとしても、これだけの強者が剣を振るってもその程度である事が異常であったのだ。

 

「……囲まれたか。適当に剣を振るっていれば、逃げ出す可能性も高いが、呪文を使う奴もいる。アンタは抗魔力が低いのだから、気を付けろ」

 

「そうだな。確か、ギラのような呪文を使っていたな」

 

 カミュ達二人を取り囲むように配置したはぐれメタルの数は四体。揺らめく『たいまつ』の炎を受けて銀色に輝く体躯を揺らし、生理的に受け付ける事の出来ない不気味な笑みを浮かべた口を歪に歪めていた。

 逃げ足は恐ろしく速いが、仲間が多い状態であれば逃げ出す理由がない。四体のはぐれメタルが一斉にギラという灼熱呪文を唱えれば、その効果はベギラマのそれを超えるだろう。呪文の行使によってそれを相殺出来るカミュとは異なり、リーシャはその防具によって身を護るしか術がない。

 

「ふん! まぁ、後ろにはメルエ達がいる。余程の事がない限り、アンタに呪文の火炎が届く事はないだろうがな」

 

「当たり前だ! 私の妹達を侮るなよ!」

 

 飛び掛って来たはぐれメタルを一閃したカミュが不敵な笑みを浮かべる。その笑みを見たリーシャは、近付こうとするはぐれメタル達に向かって斧を振り回しながら一歩前へと踏み出した。

 今のサラとメルエは、魔族さえも凌ぐ程の呪文使いである。その行使も絶妙な機会で行えるし、その威力の調整も問題はない。はぐれメタルがギラを発したとしても、リーシャの身体に危害を加えずにそれを相殺する事など容易い事であろう。

 それを絶対の信頼の下に告げるカミュに対し、喜びを隠し切れないリーシャは満面の笑みを浮かべた。とても魔物を前にして浮かべる表情ではないが、このアレフガルドで大きな山を越え続けて来た四人にとって、はぐれメタルなど恐れる物ではないのだ。

 

「@#(9&)」

 

「!!…………ヒャダルコ…………」

 

 そして、彼等の考えていた通り、はぐれメタルの一体が何処かで聞いた事のある奇声を発すると同時に、後方の少女が大きな杖を振るう。リーシャに向かって襲い掛かる灼熱の火炎を、後方から吹き荒れる冷気が壁となって防いだ。

 一気に吹き上がる蒸気が、火炎を冷気が飲み込んだ事を証明している。そのまま行使者であるはぐれメタルへ襲い掛かった冷気ではあったが、それはまるで掻き消されるように霧散して行った。

 しかし、そのような結果を想定済みである戦士は、己の斧を力一杯振り下ろしている。金属と金属がぶつかる甲高い音が響き、それと同時に一体のはぐれメタルの体躯が形状を保つ事が出来ずに地面の染みに変わって行った。

 

「逃げようとする奴を追う必要はない!」

 

「わかっている!」

 

 一体のはぐれメタルが死に絶えた事を見て、残る三体に動揺が走る。カミュ達へ向かって来る事なく、じりじりと後方へと下がり始めたその内の一体を見たカミュは、追撃の不要を告げた。それに対して大きく頷きを返したリーシャは、未だに動かない二体に向かって斧を振り上げる。しかし、振り下ろされた斧がはぐれメタルの体躯に命中する事はなく、乾いた地面へと突き刺さった。

 元々、人間の目では追う事の出来ない程の素早さを有している魔物である。襲い掛かって来る力を利用したカウンターか、呪文行使後の硬直状態時での攻撃しか倒す方法が無いのが事実であり、通常に相対した場合は、その速度に剣を合わせる事は至難の業であった。

 

「プキュ……」

 

 しかし、そんな前衛の苦労も余所に、逃げ出した一体の力無い奇声が闇の中に響く。後方へと振り返ったカミュとリーシャは、先程大きな杖を振るった少女が、自分の方へと逃げ出して来たはぐれメタルに向かって『毒針』を突き刺している姿を見る事となった。

 逃げ出す為に一直線に進んで来たはぐれメタルに攻撃を合わせる事は、呪文の応戦という瞬時の判断が必要となる戦闘を繰り返したメルエにとっては容易い事であったのかもしれないが、歴戦の勇士でも攻撃を合わせる事が難しい攻撃を、絶妙の形で突き入れた彼女を見る限りは、運が良かったと考えるべきだろう。

 しかし、これで四体中の半分が消滅した事によって、戦闘は概ね終了した。メルエの姿に目を奪われていたカミュとリーシャが我に返ってはぐれメタルへ視線を戻した時には、既に残っていた二体の姿は無かったのだ。生い茂る草の中へと消えたのだろう。

 

「……相変わらず、逃げ足だけは速いな」

 

「だが、あれ程の強度の相手を、刃毀れせずに斬り裂く事が出来れば、竜種の鱗も斬れるようになるだろうな」

 

 戦闘が終了した事で溜息を吐き出したリーシャは、既に影も形も見えない相手に対して呆れたような言葉を漏らす。それを聞いたカミュは、小さな笑みを浮かべながら遠回しにリーシャの腕を褒めていた。

 他者から見れば褒め言葉だとは気付かないだろう。だが、三度目の遭遇と言っても良い、はぐれメタルとの戦闘は、リーシャの戦士としての腕の上昇を明確に示している。一度目は完全に翻弄されていた。二度目は、一対一という戦闘形態に持ち込んだ事によって優位に進め、三度目は数に勝る相手に対して一刀の下に斬り伏せている。それは、彼女の戦闘の流れを見る眼や、相手の隙を見逃さない眼が進化している証明であった。

 別段、リーシャだけの物ではないだろう。カミュであっても、その剣筋は昔に比べて遥かに鋭くなっている。それを誰よりも理解しているのは、先程解り辛い賞賛を受けたリーシャ本人に違いない。

 

「メルエ? また何か見つけたのですか?」

 

「…………ん………これ…………」

 

 そんな二人のささやかなやり取りは、後方支援組の二人の発する間の抜けたような声で終わりを告げる。一体のはぐれメタルを葬り去った少女がその場で屈みこんだ事を心配したサラが近付き、怪我を負った訳ではない事に安堵した後に尋ねた問いかけであった。

 小さく頷きを返したメルエが指差した先にあった物に、サラは驚きの表情を浮かべる。既に銀色の液体が地面に染み込むように消え、残っていた物も大気に溶けるように揮発してしまった後に残されたそれには、はぐれメタルであった液体の名残は残っておらず、金色の輝きを放っていた。

 

「何だ? 何を見つけたんだ?」

 

「……靴なのでしょうか?」

 

 二人の奇妙な様子が気になって近づいて来たリーシャが、メルエの横から顔を覗かせる。首を傾げて振り向くメルエの頭に手を乗せた彼女は、反対側から覗き込んでいるサラの言葉に小さく頷きを返した。

 はぐれメタルがあったその場所には、サラの言葉通りに一足の靴らしき物が残されている。形状は間違いなく靴なのだが、その姿は通常の物とは異なっていた。

 金色に輝き、足を入れる穴の前には、青色に輝く宝玉が埋め込まれている。爪先の部分は、奇妙に曲がり、青い宝玉に向かって曲線を描いていた。そして何よりも、そのサイズがとても大人が履けるような物ではないのだ。

 

「靴にしては小さいな……。辛うじてメルエが履けるぐらいではないか?」

 

「…………メルエの…………?」

 

 最後に近づいて来たカミュが発した言葉に、首を傾げていた少女の顔が輝きを取り戻す。自分の物と言われた訳ではないのだが、それでもその可能性が高まった事に喜びを表現しているのだ。そして、そんな少女の願いは、現実になる。

 小さな靴を拾い上げたサラは、それをメルエの足元に合わせ、大きさが丁度良い事を確認すると、優しい笑みを浮かべた。それは、その靴がこの一行の中で最も幼い少女の持ち物である事が確定した証明である。

 

「メルエが倒したスライムが持っていた物ですから、メルエの物ですね」

 

「そうだな。そろそろメルエの靴も買い換えなければならなかっただろうし、丁度良いだろう」

 

 姉が認め、母が認めた。その現実に満面の笑みを浮かべたメルエは、喜び勇んで今履いている小さな革の靴を脱ぎ出す。長い旅の中で何度か買い換えて来た靴ではあるが、どれも何の変哲も無い革の靴であった。新しい物というだけでも嬉しいメルエである。それがこのような珍しい物となれば、その喜びは尚更であろう。

 すっぽりと小さな足が入ったその靴の具合を確かめるように、何度か足を交互に踏み締めたメルエは、満面の笑みを浮かべてカミュ達を見回す。嬉しそうな笑みを浮かべるメルエに優しい笑みを浮かべたサラは、脱いだ革靴を革袋の中へと入れ、荷物と一緒に仕舞った。

 

「メルエがそんなに幸せそうに微笑むんだ。それは『幸せの靴』だな」

 

「幸せの靴ですか……。見た事も無い靴ですからね。本当にそうかもしれません」

 

 嬉しそうに微笑むメルエの頭に帽子を乗せたリーシャは、何度も何度も地面を踏み締めるその姿に頬を緩める。そんなリーシャの言葉に、サラもまた笑みを浮かべて頷きを返した。

 魔物を打ち倒した後に残された物を『幸せの~』と呼ぶのも可笑しな話であり、本当の名が何であるのかも解らず、そして根本的に只の靴なのかも解っていない。だが、それでも今のメルエを見る限りは、呪われた物ではないだろうし、不吉な物でない事だけは確かであった。

 このはぐれメタルという魔物がたまたま持っていた物なのか、それともはぐれメタルの体内で生み出された物なのかは解らない。だが、もしはぐれメタルという魔物だけが有する物であったとすれば、世界広しと言えども、この靴を所有する者はメルエだけとなるだろう。

 まず、他の魔物達との遭遇回数から考えても、このはぐれメタルとの遭遇回数は圧倒的に少ない。そして、アレフガルドはおろか、上の世界にも、この魔物を倒し得る者達は誰もいない筈である。つまり世界で一品しかない物であると言っても過言ではなかった。

 それを手に入れた幸運という事で考えるのであれば、正に『幸せの靴』と呼ぶに相応しい逸品なのかもしれない。

 

「さぁ、メルエも新しい靴でどんどん歩いて行こうな?」

 

「…………ん…………」

 

 後世でも語り継がれる程の希少な靴を履いた少女は、母親のような女性戦士の呼び掛けに力強く頷きを返し、満面の笑みで手を取る。再び歩き始めた一行は、そのまま南へ真っ直ぐ進み始めた。

 深い森へと入り、それでも歩みを止めずに南へと下る。途中で何度も魔物との遭遇があったが、最早竜種さえも退けるカミュ達を脅かす魔物は存在しなかった。

 数日の行動は、森の中での野営を経て続き、魔物を退けては進み、休んでは続く。その間も、歩く自分の足元へ目を落としては微笑むメルエの様子に皆が笑みを浮かべ、和やかな旅が続いた。

 

 

 

 

「……カミュ、これはどうしようもないぞ」

 

「人がいない可能性は考慮に入れていましたが、ここまでとは思いませんでした」

 

 だが、二週間程続いた和やかな旅は、緩やかな山道を降りた先にある海岸で終わりを告げる。砂浜近くにあった小屋らしき物は既に朽ち果て、建物としての機能は残しておらず、そこにあるのは雨風に晒され、薪としてさえも使用出来ない程の廃材ばかりであった。

 既に人が退去して久しいのだろう。生活感など何処にも残っておらず、そこにあった舟さえも影も形も残されていない。朽ち果てた木の板があちこちに散ばっているが、預言者が居た建物内でカミュが発した冗談のように筏を作る事さえも出来ない屑板ばかりであった。

 

「この先にあると云われる『聖なる祠』がある小島は見えないぞ? かなりの距離があると考えれば、生半可な舟では向かう事は出来ないだろうな」

 

「そうでしょうね。見えない以上はルーラも行使出来ませんし、ルビス様の塔とは違い、向こうからお呼び頂ける事はないでしょう」

 

 闇が支配するアレフガルド大陸では、幅の狭い海峡でもなければ、対岸など『たいまつ』の炎だけで見える事はない。それでも、この場所を吹き抜ける潮風と、打ち寄せる波の音からも、小島までの距離が近しい訳ではない事が解った。

 ルビスの塔の時のように、特別な条件が揃っている訳でもなく、ましてや一度も向かった事のない場所を思い浮かべる事は不可能である為、ルーラの行使という手段は使えない。預言者の館では楽観的な物言いをしていたリーシャでさえも、難しく顔を歪める事しか出来なかった。

 現実的に考えて、今の彼等には海を渡る術がない。魔の島周辺の海域のような特別な渦がある訳ではない海であっても、泳いで向かうという手段は取れない。彼等が纏う防具は、既に人類が手にするには大き過ぎる力の物が多い。それを置いて海を渡ったとしても、アレフガルド大陸の強力な魔物達を相手にする事は難しい。更に言えば、強行的な手段にサラとメルエが付いて行く事は不可能である事は明白であった。

 

「マイラ近辺に戻って、あの小舟でこちら側まで回るか?」

 

「……その方法が何ヶ月も掛かる物だと理解しているのか? しかも、あの小舟でアレフガルドの北から南へ大きく迂回する。魔物と遭遇すれば、転覆する可能性を大きく秘めたあの小舟で渡れると思うのか?」

 

 カミュへと視線を向けたリーシャの言葉は、誰が聞いても思いついたまま口にしたような戯言である。しっかりと考えれば、カミュが答えたような内容が思い付く筈であった。

 ここまでの道をカミュ達が歩いて来るには、ルーラと徒歩を組み合わせて来ている。それでもかなりの日数を必要としており、航海術を持っていない彼等が小舟を動かして大きく大陸を迂回する方法を取れば、その日数は相当な物となるだろう。

 しかも、あの小舟では、テンタクルスのような巨大な魔物が出現した瞬間に転覆する可能性を秘めており、それ程の危険を冒す事は現在のカミュ達にとって得策ではなかった。

 

「レイアムランドからポルトガへ戻った時のようには出来ないのか?」

 

「あれは港町であるポルトガだからこそ出来た芸当です。マイラ近辺から向かうには、どの町も海から遠過ぎます」

 

 そんなカミュの言葉を予想していたかのようなリーシャの提案は、彼には予想外の物だったのだろう。驚いたように目を見開いた後、確認を取るようにカミュはサラへと視線を送る。しかし、そんな彼等二人の小さな希望は、一行の賢者が首を振った事によって打ち砕かれた。

 確かに、レイアムランドで不死鳥ラーミアを甦らせた彼等は、巨大な客船ごと貿易都市ポルトガへ帰還している。だが、それはポルトガ港近くの海へ着地出来るという確信があればこそであったのだ。

 ルーラという呪文は、基本的に頭に思い浮かべる情景が無ければ移動が出来ない。その情景が鮮明でなければ、移動は着地が危うくなり、不透明であればそもそも行使すらも難しい。目の前に見えている場所への移動であれば、魔法力の応用で対処も可能であるが、それもサラやメルエと超一流の呪文使いであればこそであった。

 

「では、方法がないではないか!? どうする、カミュ!?」

 

「ここまでの話の流れの中で、解決方法を俺に聞く理由が解らない」

 

 全ての出口を塞がれてしまったリーシャは、久しぶりにカミュへと疑問を丸投げる。そんな彼女に対して、彼は大きな溜息を吐き出した。

 先程まで、彼もまた期待を込めた視線をサラへと投げかけていたのだ。そんな彼が即座に解決方法を口に出来る訳がない。それでも尚、全面の信頼の瞳を向けるリーシャに対して、溜息を吐き出しながらも真っ黒な空を見上げたカミュは、何かを考えるように黙り込んだ。

 そんなカミュを見上げていたメルエもまた、真似をするように首を直角に曲げて真っ黒な空を見上げる。だが、何も見えない真っ黒な空には星一つなく、幼い少女の心を躍らせるような物は何一つ無かった。困ったように首を傾げようとする少女であったが、直角に上を向いている為、そのまま『こてっ』と引っ繰り返ってしまう。そんな可愛らしい少女の姿に『くすくす』と笑い声を上げたサラが近付いた時、空を見上げたままの少女の目が大きく見開かれた。

 

「…………くる…………」

 

「え?」

 

 突如呟かれた少女の言葉。それは、ここまでの旅で何度と無く聞いた物であった。

 それが指し示す事は、敵の襲来。竜の因子の成せる技なのか、この少女は魔物に対しての感覚は抜きん出ている。その言葉に何度もカミュ達は助けられており、魔物からの不意の襲撃を回避してきたのだ。

 だが、それを警戒して周囲を見渡したサラは、空を見上げたままのメルエが一向に起き上がる素振りを見せず、尚且つその顔には満面の笑みが浮かんでいる事に気付く。状況が理解出来ないサラは救いを求めるようにカミュとリーシャへと視線を動かすが、その先にある二人もまた、真っ黒な空を見上げて目を細めていた。

 

「……あの光は、なんだ?」

 

「わからない。だが、武器は構えておけ」

 

 空を見上げたままのリーシャが呟いた言葉に対して、カミュは王者の剣を抜き放つ。メルエがその言葉を呟いた以上、この場所に向かって何かが近付いている事だけは確かである。だが、それが何なのかまでは二人には解らなかった。

 見上げた空には、相変わらず星一つ輝いてはいない。上の世界でカミュがいつも見上げていたような月も浮かんではおらず、ささやかな光さえもない空である。だが、そんな空に小さな光の筋が見え始めていた。

 その光の筋は、空の更に向こうから続いており、まるで空の切れ目の外側から何かがアレフガルド大陸へ入り込んだようにも見える。そんな光の筋を見上げながらも未だに起き上がろうとしないメルエだけが笑みを浮かべて空へと手を伸ばしていた。

 

「…………ラーミア…………」

 

「え?」

 

 空に輝く一筋の光を見て警戒心を強めていた三人は、空へと手を伸ばしたまま不意に呟いた少女の言葉に心底驚きを見せる。転んだ拍子に頭でも打ったのかという心配が胸に湧き上がった時、徐々に大きくなる光の筋が、加速度的に彼等の元へと近づいて来た。

 太陽の光も、月の輝きも無い真っ黒な空でも、その姿が見えて来る程に、それは大きな輝きを放っている。真っ白な体躯を大きく広げ、闇に包まれた空に光の輪を描くように舞うその姿は、カミュ達でなくとも見惚れてしまう程に美しい。それはまるで、神話の世界で描かれる神の輝きのようであった。

 

「キュエェェェ!」

 

 カミュ達三人にも、メルエが呟いた者の姿がはっきりと見えて来た頃、その雄叫びがアレフガルド大陸中に響き渡るように轟く。この広い大陸に居る風の精霊達が喜びを示すように舞い上がり、カミュ達の周囲を嵐のように吹き抜けて行った。

 起った出来事に思考が追い付かないカミュ達三人を余所に、勢い良く立ち上がったメルエは、傍に着陸した神鳥に向かって駆け出して行く。満面の笑みで近付いて来る少女に目を細めた神鳥は、ゆっくりと翼を広げ、迎え入れるように彼女を包み込んだ。

 柔らかな羽毛に包まれ、先程以上の笑みを浮かべたメルエは、嬉しそうにその神鳥の名を再度口にする。その名は上の世界で知る者も少なく、このアレフガルドでも古の勇者に関連する者としてその武具に掘り込まれてはいても知られてはいない物であった。

 

「その鎧、その盾……。やはり、貴方が継ぐに相応しい」

 

「……ラーミア様、何故ここに?」

 

 ようやく起動を果たした三人がラーミアへと近付いて行く。先頭を歩くカミュの姿を見たラーミアは、まるで懐かしむように彼の姿に目を細めた。

 やはり、この神鳥とアレフガルドに伝わる古の勇者は関連を持っているのだろう。敢えてそれを口にしなくとも、このラーミアの姿を見れば、理解は出来た。

 だが、それよりもこのアレフガルドに何故ラーミアがいるのかという疑問が先立ってしまう。この神鳥は、守護者不在の上の世界を見守る為に、あの世界へと戻った筈であった。今、この場所にいるべき者ではなく、カミュ達の前に再び現れる筈のない者でもある。そして、その理由がサラには理解出来なかった。

 

「貴方達が精霊神ルビスを解放してくれた為です。ルビスの解放により、上の世界の守護者は戻りました。今後、竜の女王の卵が孵るまではルビスの光が照らす事でしょう」

 

「……ルビス様は、上の世界へ戻られたのですね」

 

 静かに語り始めるラーミアの言葉に、サラは嬉しそうに微笑みを浮かべる。ルビスの解放という物だけでは、このアレフガルド大陸に朝は訪れていない。だが、それでもその解放によって、上の世界の安全は護られたのだと理解し、喜びを表したのだ。

 精霊神ルビスという存在は、大きな物である。大魔王ゾーマというそれよりも大きな存在に立ち向かわなくてはならないという彼等四人の道は険しいが、竜族の王の誕生までの間、彼等の故郷をその威光が照らし続けるのであれば、これ以上に心強い事はない。人もエルフも、そして魔物達も生きて行く事の出来る世界になるだろうと、サラは心から喜んだ。

 

「いえ、ルビス自体が上の世界へ向かった訳ではありません。ですが、解放された彼女の力があれば、魔物達の凶暴化や人間の暴走も防ぐ事が出来るでしょう。そして、私のこの世界での役目も終わりました」

 

「……役目が終わった?」

 

 サラは自分の考えが少し異なっていた事に驚きを見せるが、それよりもラーミアの語った最後の言葉に意識を持っていかれてしまう。それはカミュやリーシャも同様であり、訝しげに目を細めたカミュがそれを問いかける。今まで羽毛に抱かれながら嬉しそうに微笑んでいたメルエでさえも、その言葉が帯びる不穏な空気に眉を下げた。

 ラーミアが告げる『この世界』というのが、上の世界の事なのか、それともアレフガルドの事なのかは解らない。もしかすると、その両方かもしれないが、それでもこの神鳥の言葉が意味する事がカミュ達には理解出来なかったのだ。

 

「元々、私は一つの世界に留まる者ではありません。ルビスや竜の女王のように、世界の守護を担う者ではないのです。繋がる魂の糸を手繰り、世界を渡る者……。それが、私です」

 

 神鳥ラーミアの伝承は、上の世界で語り継がれていた。だが、それは書として残されていたのではなく、伝聞として残されていた節が強い。親から子へ、子から孫へと伝えられて来た物。ある者は神の使いと謳い、ある者は精霊ルビスの従者と伝える。そして、このアレフガルドでもまた、この神鳥の存在は、古の勇者に関係する不死鳥として伝えられていた。

 今は繋がっているが、元々は上の世界とアレフガルドは全く異なる世界である。神が造った世界と、精霊神が生み出した世界。そこに繋がりは無く、行き来する事など出来はしない異世界であった。その二つの世界に同じ存在が伝承として残る事こそが、この神鳥という存在を証明している事になるのかもしれない。

 

「また、私は別の世界へと旅立つ事になるでしょう。その前に貴方達の姿を見ておこうと思い、僅かに残る世界の切れ目を通ってこの場所へ来ました」

 

「…………ラーミア……いない………だめ…………」

 

 今まで黙った話を聞いていたメルエは、泣きそうに眉を下げながら、首を横へと振り続ける。だが、そんな幼い我儘は、神鳥の優しい瞳によって沈黙する事になった。

 幼い少女であっても、その瞳が物語る事を理解出来る。避ける事の出来ない別れであり、自分が阻止する事の出来る物でもないという事を。そして、その哀しい別れが、もうすぐそこに来ているという事を。

 最早、瞳に溜まった涙が溢れ出していた。そんな少女の身体を再び優しく包んだ神鳥は、すすり泣くような少女の嗚咽に、目を細める。

 

「メルエ……。その身に宿る物全てを受け入れたのですね。貴女は大きな力を持っている子です。その力を貴女の愛する者達の為に振るいなさい。決して悪しき心に呑まれる事なく、無邪気に振るう事なく、今の心を忘れる事のないように」

 

「…………ぐずっ…………」

 

 今思えば、ラーミアは復活当初にメルエを一度拒絶している。あれは、もしかするとメルエの身体に残った竜の因子に反応していたのかもしれない。既に絶滅種となった氷竜の因子を受け継いだ人間が、世界の敵とならないという保証はない。それが幼子というのであれば、未来の危険分子と考えても不思議はないだろう。

 だが、それでもその心を真っ直ぐに見つめれば、彼女の心が純粋無垢であり、彼女がカミュ達と共にいる限り、その力が悪しき方向へ向かわない事が解る筈である。そして、その力全てを受け入れた今のメルエであれば、世界を託すに値する者として見る事さえも可能であった。

 鼻を啜りながらも小さく頷いた少女に、ラーミアは満足そうに目を細める。

 

「貴方達がルビスを解放した事によって世界が安定し始め、上の世界とこのアレフガルドを繋いでいた裂け目も小さくなりつつあります。もし、貴方達が大魔王ゾーマを討ち果たした時には、その小さな裂け目も消え、その道は閉ざされる事になるでしょう。それでも、貴女達は進むのですか?」

 

 少女の姿に目を細めた後、ラーミアはカミュ達へ視線を向けて衝撃的な言葉を告げる。今までの疑問など、遠い彼方へ行ってしまう程の衝撃的な内容に、三人は暫く呆然とラーミアを見つめる事しか出来なかった。

 最早、二度と上の世界に戻る事は出来ないだろうという確信に似た想いはあった。それでも、僅かな期待がリーシャやサラの胸の中に残されていた事は否定出来ない。だが、そんな小さな希望は、世界を渡る神鳥によって完全に否定されてしまったのだ。

 そんな心の揺らぎがリーシャやサラを襲う中、真っ直ぐにラーミアを見つめていたカミュは、小さく頷きを返す。そして、それを見たリーシャとサラは、自分達が何故このアレフガルドに降り立ったのかという事を明確に思い出した。

 カミュの頷きと、それを機に変化した二人の女性の表情を見たラーミアは、何処か嬉しそうに目を細める。彼等の答えなど、既に解り切っていたのだ。それでも、ラーミアは問いかけずにはいられなかった。そして、それに対しての答えは、何度も世界を渡り歩いて来た神鳥を満足させる物であった。

 

「バラモス程度の瘴気であれば容易いですが、今の私では大魔王ゾーマに近付く事は出来ません。ですが、貴方達を海の向こうにある場所へ連れて行く事は出来ます。さぁ、お乗りなさい。このアレフガルドの夜明けを見て、私は旅立つ事に致しましょう」

 

 大きく広げられた真っ白な翼が、未来を託された一行を最後の旅へと誘う。長く険しい六年以上の旅が終わりを告げる時も近い。世界の守護者である竜の女王から未来を託され、世界の創造さえも可能な精霊神からその愛を受け、そして再び降り立った神鳥から加護を受けて、彼等は大空へと舞い上がった。

 闇に包まれた真っ黒な空に、対照的な白い光が輝く。その光の筋は、未来へと続く光の道のように、真っ直ぐに続いていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
今年も残すところ、あと2週間です。
もう一話を頑張って更新出来るよう、頑張ります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております


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聖なる祠

 

 

 

 ラーミアの背から見るアレフガルドは、漆黒の闇であった。そこに光の欠片もなく、あるのは深く飲み込まれるような闇。カミュ達が歩いて回った数多くの都市や村があり、そこには人の営みを示す灯火があった筈であるが、その小さく儚い光さえも全て飲み込むような闇は、アレフガルド大陸全土を覆っていた。

 満面の笑みでラーミアの背中に寝転ぶメルエとは異なり、下を見下ろしているサラの表情は暗い。改めて全土を見渡しても、何処が陸地で何処が海かさえも解らない闇は、心に不安と焦りだけではなく、絶望さえも広げて行く。歴戦の勇士であるサラでさえもその絶望に抗う術はなく、これが力の無い者達であれば、心を塞いでしまっても可笑しくはない程の物であった。

 

「大丈夫だ、サラ。この闇はいずれ晴れる。いや、私達が晴らすのだろう?」

 

「……はい」

 

 いつもならば、力強く感じるリーシャの言葉でさえ、今のサラには届かない。それ程の絶望を感じさせる大魔王ゾーマの力が彼女の心にある勇気を萎ませてしまっていた。言葉とは裏腹に曇っているリーシャの表情も、サラと同様の感情を抱いている事を物語っている。

 そして、リーシャは救いを求めるように隣に座る青年へと視線を送った。今では昔よりも口数が多くなった彼ではあるが、それでも必要最低限の会話しか極力しない事に変わりはない。いつも冷静沈着に、そして的確に物事を見ている彼は、その想いを胸に納め、表に出す事はしないのだ。

 だが、常に彼はその背中で、その瞳で、その勇気で、彼女達三人を導いて来た。暗中模索で旅を続ける中、どんなに苦しい時も、絶望を感じた時も、涙を流した時も、彼は彼女達を奮い立たせ、数々の壁を共に乗り越えて来たのだ。そんな彼をサラやメルエ以上に頼りにしているのは、隣に立ち続けて来たリーシャなのかもしれない。

 

「やる事は変わらない。どれ程に闇が深くとも、どれ程に相手が強大であろうとも、俺達が向かう先にいるのは、大魔王ゾーマだけだ」

 

「そうだな」

 

 単純な言葉。誰しもが理解している筈の事。それでも、常に先頭に立ち、ここまでの全てを打ち払って来た勇者が口にすれば、それは実現可能な事となる。

 目的は只一つ。このアレフガルドを闇に覆う諸悪の根源、大魔王ゾーマ唯一人。それを討ち果たし、世界の平和と、アレフガルドの朝を取り戻す為に彼等は旅を続けて来た。魔王バラモスという悪の根源と考えていた者を倒し、更なる絶望を知った彼等が尚も歩き続けるのは、ゾーマを討ち果たすという目的の為である。

 ゾーマを討ち果たすという目的に進む理由は各々異なるだろう。リーシャは、宮廷騎士としての最後の矜持と、アリアハン国王と密かに交わした誓いの為。サラはこの広い世界の真の平和を取り戻す為であり、人も魔物もエルフも、そしてその他の動物や植物も天寿を全う出来る世界を造るという理想の為である。メルエは、カミュ達三人と共にある為であり、それは最も単純でありながら、最も崇高な想いなのかもしれない。

 そして、カミュという勇者の理由。それを知るのは、世界中でも彼女しかいない。アリアハン王城という起点から彼の傍に立ち続けて来たリーシャという女性以外に、彼がアレフガルド大陸に渡り、そして強大な大魔王ゾーマという敵に向かう理由を知る者はいないのだろう。

 

「サラ、必ず朝は来る。それを誰よりも知っているのは、六年もの長い旅を続けて来た私達ではなかったか?」

 

「……はい、そうですね。誰よりも、私達が知っていました。晴れぬ事のない闇など無いという事を」

 

 再度言葉を告げたリーシャの顔には、先程とは異なる優しい笑みが浮かんでいた。そして、そんな姉のような存在の笑みを見て、当代の賢者は心の余裕を取り戻す。賢者として完成した彼女ではあるが、まだまだ若輩者である事に変わりはない。『人』としての成熟は、もう少し時間が掛かる事だろう。それでも彼女は前を向く。暖かく優しい笑みを浮かべる人間達に囲まれて、彼女は一歩一歩進んで行くだろう。

 ようやく余裕を取り戻したサラは、自分達のやり取りも気にせずにうつ伏せになって羽毛に横たわるメルエを見て苦笑を浮かべる。再び会えた大好きな相手に対する好意を隠しもせず、再会の喜びを全身で表現する少女の純粋さが羨ましくさえ思えた。

 

「メルエ、寝てしまっては駄目ですよ。気持ち良くても駄目です」

 

「…………むぅ…………」

 

 笑みを浮かべながらまどろみに落ちていたメルエは、サラからの警告に不満を漏らすように唸り声を上げる。頬を膨らませて目を細める彼女は、離れる事を拒否するようにラーミアの身体に頬を擦り付けた。

 どんなに強力な呪文を使おうと、竜の因子を受け継いでいる事を受け入れようと、彼女もまた『人』として未熟な存在であり、成長過程を歩んでいる真っ只中なのである。幼子から女性へと変わるにはまだまだ時間を有するであろうが、それでも彼女の傍にこの三人がいる限り、悪い方向へと彼女が進む事はないだろう。

 

「あれが、聖なる祠と呼ばれる場所なのでしょう」

 

 ほのぼのとするやり取りの中、ラーミアの声が直接頭の中へと響いて来る。高度を下げたラーミアが海に浮かぶ小島へと近づくと、その小島らしい影の中央に灯火による道筋が浮かんで来た。

 まるでカミュ達一行を誘導するような光は、ポルトガ港近くにある数多くの灯台の光に良く似ている。そこに誰かがいるのか、それとも神による導きなのかは解らないが、その光がラーミアに乗るカミュ達へと向けられている事だけは確かであった。

 誘導灯に誘われるように降下して行ったラーミアは、一際大きな炎が灯る大きな燭台の傍に着陸する。安らぎの時間が終わった事を悟ったメルエが眉を下げるが、心を鬼にしたサラがその身体をラーミアから引き剥がす。体毛である羽毛を握ったりする事の無いメルエだからこそ、その身体は抵抗なくラーミアから離され、嫌がるように首を振る彼女をリーシャが抱き上げた。

 

「私はここで帰りを待ちます」

 

「……すまない」

 

 全員が陸地へと降りた事を確認したラーミアは、羽を休めるように身体を丸めて足を折る。

 この小島に辿り着けさえすれば、カミュ達には帰る手段があった。ルーラという移動呪文を使用すれば、そのままリムルダールへと戻る事が出来るし、時間の短縮にもなるだろう。本来は、この小島へと辿り着けば、ラーミアの役目は終わったと言っても過言ではないのだ。

 だが、そんなラーミアを見上げて、今にも涙を溢しそうに眉を下げる少女を見て、伝承にさえなっている不死鳥でさえ、その別れを僅かに先伸ばす事にしたのだろう。確実に訪れる別れを先に伸ばす意味はそれ程ある訳ではない。それでも、これ程の好意を無碍に出来るような絆を築いて来た訳ではなかった。

 ラーミアと過ごした時間は短い。だが、その中身は本当に濃い物である。その復活の為に各地に点在するオーブを集め、その途中で様々な経験を重ねて来た。そして、復活の後、厳しい戦いを制した彼等を待っていたのも、この美しい神鳥であったのだ。

 

「メルエ、ラーミア様は待っていてくれるようです。ですが、それが最後になりますよ。最後は笑ってお別れをしないと」

 

「…………ん…………」

 

 哀しそうに眉を下げながらも、しっかりと頷きを返したメルエもまた、その別れが絶対に避ける事の出来ない物である事を知っている。故にこそ、サラの言葉通り、懸命に笑みを浮かべようと努力をするだろう。だが、それが永遠の別れである事を心の何処かで察している彼女は、再び涙を溜めるに違いない。それが明確に想像出来るリーシャとサラだからこそ、柔らかな笑みを浮かべてそんな少女の手を取った。

 一際大きな燭台を起点として、真っ直ぐに伸びる道のように両脇に小さな燭台が建てられている。カミュ達が一歩歩くごとに揺らめく燭台の炎が、その先にある小さな祠を映し出していた。

 岩で出来た小さな建物。それは人間などが住むような造りではなく、何かを祀っているようなそんな神聖な空気に包まれた物であった。入り口を封鎖する扉は無く、開け放たれた入り口から入った様々な物が散乱している。

 このアレフガルドが闇に包まれる以前は、ここに参拝者が訪れて清めて来たのだろう。それが無くなって久しく、祠内は荒れ果てていた。それでも、中には美しい祭壇のような物が置かれており、装飾豊かな祭壇の両脇には、これもまた見事な彫刻がなされた燭台が置かれている。

 

「よくぞ辿り着いた」

 

 祠内に入ったカミュ達は、その中身の荒れように顔を顰め、同時に中の調度品の美しさに感嘆するが、その途中に突然祭壇両脇の職台に炎が灯り、後方から声が発せられる。

 驚きで振り返った一行の前に立っていたのは、一人の男性。その男性は、青年と言っても過言ではない若さでありながらも、歴戦の勇士であるカミュ達にも劣らない程の体躯の持ち主であった。

 だが、何よりもリーシャ達を驚かせたのは、その青年の在り様である。その存在感、醸し出す雰囲気、それが彼女達の良く知る人物に似通っていたのだ。顔の形、輪郭、目や口元、背丈や筋肉の付き方など、全く似ても似つかない。それでも、目の前に居る不思議な青年には、彼女達が勇者と信じて止まない一人の青年を思わせる何かがあった。

 

「人の希望達よ、お主達が『太陽の石』と『雨雲の杖』を持っているのならば、その祭壇へ捧げよ」

 

「……メルエ」

 

 何かを言いたそうにカミュと不可思議な男性へ視線を交互に送っていたリーシャを遮るように、目の前の青年が口を開く。そして、その言葉を聞いたカミュは、不思議そうに首を傾げているメルエへと手を伸ばした。

 伸ばされた手に気付いたメルエは、そのままポシェットの中に小さな手を入れ、一つの杖を取り出す。それはステッキのような大きさの杖であり、その先端からは雨雲のような物を生み出す神代の道具であった。

 それを受け取ろうとしたカミュを避けるように身を捩ったメルエは、そのまま小走りに祭壇の前に辿り着き、その上に静かに『雨雲の杖』を置く。ラーミアとの再会の喜びを継続させているような少女の行動に苦笑を浮かべたサラは、目の前に立っている青年へ問いかけたい物を飲み込み、メルエと同様に祭壇へと近付き、その上に『太陽の石』を置いた。

 

「うむ。間違いなく、太陽の石と雨雲の杖。もし、お主達が虹の大橋を望むの者ならば、その胸にルビスの愛を宿している筈。お主達を守護する者達の愛と加護を今こそ掲げよ」

 

 輝くような太陽の光、そして徐々に漏れ出す雨雲のような湿った大気。その二つが燭台の炎に揺らめき、それを見たメルエがサラへと微笑みかける。メルエの微笑みの意味が解らないサラではあったが、何かが起りそうなそんな状況に、サラの胸も興奮に打ち震えた。

 リーシャがカミュに向かって頷き、それを見たカミュが首から下げられている黄金色に輝く首飾りを高々と掲げる。外で待つラーミアを象徴するような大きな鳥が翼を広げた象徴画が刻まれたそれは、闇に揺らめく燭台の炎を受けて眩い輝きを放った。黄金色の光は、太陽の光と雨雲の水を合わせるように包み込む。

 そして、小さな祠は神聖な光によって覆われた。

 

「…………きれい…………」

 

「す、すごいです」

 

 呆然とその光景を見ていたリーシャやカミュとは異なり、その輝きの中で生まれたそれを見たメルエは『ほぅ』と感嘆の息を吐き出す。そして、呟かれた感想によって我に返ったサラがその光景に改めて驚愕した。

 雨雲の杖から噴き出した雨雲に太陽の石の放つ熱と光が重なり、それを包むように光を放った黄金の首飾りが静けさを取り戻した時、その場所には小さな水晶のような欠片が浮かんでいたのだ。それは七色の輝きを宿した水晶であり、眩いばかりの輝きではなく、静かでありながら儚い光を有していた。

 赤、橙、黄、緑、薄い青、青、紫の七色。上の世界にあった六つのオーブとは異なる配色ではあるが、その水晶の中に閉じ込められた七つの色は、互いに交じり合う事なく、独自の色を輝かせていた。

 水晶の形は、中から今にも零れそうな色の雫を示すような形状。見る方角によって色の輝きは異なり、幻想的な輝きを放つ。それは、メルエが見惚れるに十分な美しさを備えていた。

 

「それこそ、『虹の雫』。それを持ち、魔の島の入り口に立つが良い。その雫が闇を照らす時、虹の橋が架けられる筈だ」

 

 宙に浮いた七色の雫は、まるでその持ち主を待つように揺らめく輝きを放つ。『虹の雫』と名付けられたそれは、数多くの想いと願いが合わさった希望である。そして、それを持つ者といえば、一人しかいない。リーシャもサラも、そしてメルエも、その持ち主となる青年へと視線を送った。

 だが、当の青年はその場を動こうとはしない。そして、静かに首を横に振った。それが何を意味するのかが理解出来ないリーシャとサラは眉を顰め、メルエは不思議そうに首を傾げる。ここまで来て、唯一と言っても過言ではない手掛かりを拒否するという行為が全く理解出来ないのだ。

 

「……アンタが持つべきなのかもしれない」

 

「私がか?」

 

 しかし、カミュが口にした言葉を聞き、その手掛かりそのものを拒絶している訳ではない事を悟る。彼は、自分が持つべきではなく、隣に立つ女性戦士が持つべきだと考えているのだ。

 その理由をはっきりとは口にしない。いや、正確には出来ないのかもしれない。だが、それでも何故かその雫を持つ人間はリーシャであるという考えがあり、それを譲る気は全く無い事だけは理解出来た。

 ここまでの旅でリーシャが重要な道具類を持った事はない。それは、彼女の性質が原因なのではなく、彼女の戦闘方法が原因なのだろう。誰よりも前へ出て、その武器を振る彼女の戦闘方法は、逆に言えば誰よりも魔物の攻撃を受け易い。その為、重要な物を持っていた場合、それが破損する可能性が誰よりも高い事になる。

 以前、リーシャが持っていたエリックのロケットペンダントは小さな物でありながらもしっかりとした金属で出来ていた。だが、この雫は神代の物と同様の力を有しているであろう事は想像出来るが、それでもその輝きからも水晶のような脆い物である事は想像に容易い。それを戦闘の最前線に立つリーシャが持つという事はそれなりの危険を伴う事になるだろう。

 

「……そうですね。私がお借りした『太陽の石』、メルエが妖精様からお預かりした『雨雲の杖』、そしてカミュ様がルビス様から授かったご寵愛。その全てが合わさって出来た物ならば、それを持つに相応しいのはリーシャさんしかいないのかもしれません」

 

「…………ん…………」

 

 しかし、戸惑うリーシャとは異なり、他の二人は納得したように笑みを浮かべ、カミュの提案に同意を示す。サラの言葉通り、三人全員に授けられた物全てを合わせた結晶であるのならば、それを所有するのは、リーシャが相応しいのかもしれない。

 綺麗な物を好む少女であれば、『ずるい』と頬を膨らませるのではと考えていたサラも、自分の言葉に間髪入れずに同意を示した事で、驚きと共に嬉しさが込み上げて来る。おそらく、この場に居る者の中で、当の本人であるリーシャを除く三人全てが、彼女の事を一行の要だと認識しているのだろう。

 前に進む時の旗頭は誰が何を言おうとカミュである。勇者として、魔に立ち向かう象徴として彼は立ち続ける。己の心に蓋をしてでも、その役目を全うして来た彼が、この一行の象徴であり全てである事に変わりはない。だが、生い立ちも価値観も思考も異なる四人を結び付けているのは、リーシャという女性である事は、この三人の誰もが知り得る事であった。

 何度も崩壊しそうになる一行を叱咤激励し、崩れ落ちる賢者を何度も立ち上がらせ、心を失いそうになる勇者を何度も引き戻し、絶望に落ちようとする魔法使いを何度も抱き上げて来たのは、彼女である。彼女自身が思うよりも、彼女の存在は大きな物となっていたのだ。

 

「……わかった。皆の想いの結晶は、私が預かろう」

 

 真剣な表情の勇者、笑みを絶やさない賢者、そして眩しそうに見上げて来る魔法使いの視線を受けた彼女は、何故か瞳に溜まって来る水分を振り払うように頷きを返す。

 祭壇に近付いたリーシャが七色に輝く結晶へと手を伸ばすと、先程以上の輝きが祠内を照らし出した。大きく輝く光は、一瞬の内に結晶の中へと収まり、それと同時に結晶の上部から細い鎖が現れる。そのまま抵抗なくリーシャの手に収まった結晶は、七色の輝き全てを内に閉じ込めたように静かな光を放った。

 大事そうに両手でそれを包み込んだリーシャは、一度瞳を閉じた後、鎖を首から掛ける。丁度リーシャの胸の上に結晶が来る程の長さであり、そのまま結晶を胸の内へと納めた彼女は、優しい笑みを浮かべながら、自分の胸に手を翳した。

 そんなリーシャの笑みを見ながら、サラは『太陽の石』と『雨雲の杖』を回収する。これ程の力を有した物を放置しておく事は出来ないからだ。

 

「良き仲間達と巡り会ったのだな。最早、ここには用はない筈だ。行くが良い、お主達の望む夜明けまでは近い」

 

 その存在を今まで忘れていた事が不思議な程に、静けさを取り戻した祠内に圧倒的な存在感が広がる。カミュ達一行のやり取りを見つめ、虹の雫という結晶の出現を見届けた青年は、厳しく引き締めた表情でありながらも優しい瞳をカミュ達へと向けていた。

 当代の勇者であるカミュと何処か似通った物を持つ者。姿形は全く異なるにも拘らず、何処かカミュを思わせる者。それに思い当たる者がいるとすれば、それは唯一人しかいないだろう。おそらく、首を傾げているメルエ以外の人間がそれに気付いている。だが、それでもそれをここで尋ねる者はいなかった。

 何故なら、圧倒的な存在感を示し、勇者カミュと似通った物を持っている者であっても、それは似て非なる者。彼女達と旅を続け、様々な困難を越えて来たのは、カミュという真の『勇者』である。

 その存在感、その安心感、そして何よりもその信頼は、例え似た雰囲気を持った者であっても遠く及ばない。もし、この目の前の青年がカミュ以上の力と加護を有していたとしても、彼女達はカミュという勇者と共に歩み、大魔王ゾーマと相対する道を選ぶだろう。

 人間では敵わない神代の勇者であろうと、それだけは譲れない。それが彼女達の総意であった。

 

「この世界を……そこで生きる者達を頼む。行け、我が称号を受け継ぎし者よ」

 

 その青年の言葉に驚く者は誰もいない。リーシャもサラも、この青年が誰であるのかを理解していた。そして、この青年の存在が今は既にこの世界にあってはならない物であると云う事も。故にこそ、振り返りはしない。古の勇者と呼ばれ、このアレフガルドの危機を救った者だからこそ、今のカミュという勇者に全てを託す事が出来るのだ。

 その道の困難さを知っている。その道の先にある未来も知っている。その道でぶつかる困難も苦難も、絶望も希望も知っているのだろう。そして、もしかすると、その道の先に見える結末さえも知っているのかもしれない。勇者としての結末を。

 リーシャやサラが口に出す事の出来ないその結末を、彼だけは知っている。それでも尚、彼は全てを当代の勇者へと託した。

 精霊神ルビスから愛を授かり、不死鳥ラーミアから加護を与えられ、古の勇者から想いが託される。それ程の存在が、自分達の前を歩いているのだと思うと、リーシャやサラの胸に何か言いようの無い熱い想いが湧き上がった。

 

「…………ラーミア…………」

 

 振り返る事なく祠を出た一行の前に、ゆっくりと翼を広げる神鳥が待っている。中で起こった事をある程度は知っているのだろう。その瞳は優しさに満ちており、その姿を見た少女は再び満面の笑みを浮かべて駆け寄って行った。

 近付いて来る少女に目を細めた神鳥は、静かに広げた翼で彼女を包み込み。嘴を使ってその身体を背中へと乗せる。背中へ乗ったメルエは再び嬉しそうに寝転び、まどろむように瞳を閉じた。

 

「ゾーマの許へと向かう準備は出来たようですね」

 

「ああ」

 

 背中で寝転ぶメルエに苦笑を浮かべながらも頷いたカミュを見て、ラーミアは足を折る。背中へと全員を乗せる為に身体を低くしたのだが、カミュ達が動くよりも前にラーミアが首を上げた。

 警戒するように首を一方向へと向けたラーミアは、そのまま背中で寝るメルエの身体を再度嘴で摘み上げ、サラの傍へと降ろす。最初は不満そうに頬を膨らませていたメルエであったが、周囲を取り巻くその雰囲気に雷の杖を取り出した。

 神鳥と竜の因子を持つ少女が起こした行動が、これから始まる魔物との戦闘を示している。それを察したカミュ達は各々の武器を持ち、一斉に身構えた。

 

「カミュ!」

 

 ラーミアとメルエの視線の先へ注意を向けていたカミュ達であったが、突然叫ばれたリーシャの声に、カミュは反射的に後方へと飛ぶ。そして、その判断が正しかった事の証明に、カミュがいた場所の地面から黄金色に輝く腕が飛び出した。

 その場所にいたカミュの足ごと握り潰しそうな程の勢いで握り込まれたその腕は、宙を掴んだ事を理解すると、再び地中へと潜って行く。『たいまつ』の炎という頼りない明かりしかない中でも、輝くような光を放っていたその腕は、警戒をするカミュ達四人を取り囲むように一気に飛び出して来た。

 

「溶岩や氷のような生命のない魔物の類か?」

 

「いや……どちらかと言えば、メルキドで造られていたゴーレムに近い物かもしれない」

 

 カミュ達の周囲を三本の腕、そして、顔の部分だけが地面から生えたような魔物が取り囲み始めている。暗闇の中でその姿を見たリーシャは、ジパングの近くにある溶岩の洞窟内で遭遇した魔物や、グリンラッドの永久凍土で遭遇した魔物を思い出していた。

 しかし、剣を構えながらも警戒を崩さないカミュは、少し認識が異なっている。溶岩や氷塊という物よりも、金属のような物に見えるそれは、人工的に生み出された物に近しいと考えたのだ。

 だが、人工物であれば、このような場所にいる事も不可思議であり、地中にある事もまた考えられない。それはリーシャの言葉通り、地中にある何かが大魔王の魔法力により実体化したと考える方が自然であろう。

 そのような可能性を考えても、『聖なる祠』という神聖な祠も、今では信仰する者達でさえも遠ざかって久しい。廃墟に近い状態の祠周囲に魔物が棲み付いていても可笑しくはないが、それでも大魔王の魔法力の影響が他所よりは少ないと言える。つまりは、この魔物が遥か昔からこの場所で生息していた可能性も高かった。

 

「来るぞ」

 

 今は、その魔物の出自を考える時ではない。三本の腕に三体の頭部。それが示す事はその魔物三体がカミュ達に敵対行動を示しているという事実である。

 頭部だけを見る限り、その体躯はかなりの大きさを誇るだろう。地面から全身を出せば、カミュが口にしたゴーレムの完成形に近い大きさとさえ考えられる。動く石像や大魔人以上の大きさの物が三体となれば、如何にカミュ達といえども苦戦は必至であった。

 リーシャの言葉通り、地面から生えた黄金色の腕が振るわれる。その勢いに周囲の風が暴風のように吹き荒れた。風切音を鳴らせて振るわれた腕を見たカミュは、それを盾で防ぐのではなく、王者の剣を下から合わせる。

 

「!?」

 

 そして、そのカミュの行動は、前衛二人にとって予想外の結果を生み出した。

 金色の腕に入った剣は、そのまま巨大な腕を斬り飛ばす。宙に吹き飛んだ腕は、数度の回転を経て、地面へと突き刺さったのだ。

 それは、後方支援組であるサラやメルエの前方へと落ちる。『たいまつ』の頼りない炎の明かりに煌くそれは、人間の心の奥深くにあるある種の欲望をくすぐる何かを秘めていた。

 

「……金?」

 

 近付いたサラが間近で見て、その腕を形成する原料を口にする。それは、上の世界でもこのアレフガルドでも売買に使用する共通の通貨である、ゴールドという通貨の原料となっている物と同一のものであった。

 腕全てが金色に輝いており、その腕一本だけでもどれ程の価値があるのか解らない。魔力が含まれており、尚且つ地中から出た物である事を考えれば、純正の金ではないかもしれないが、それでもその腕に金が大量に含まれている事だけは確かであろう。

 金という金属は通貨に形を変える事が出来る程に柔らかい。熱によって形を変え、それに必要な温度も鉄などの加工に比べれば低かった。カミュが持っている王者の剣を模る『オリハルコン』と比べれば、金属としての強度は雲泥の差がある。故にこそ、カミュが合わせた剣によって腕は容易く斬り飛ばされたのだった。

 

「カミュ様、リーシャさん、後方へ下がってください! メルエ、ベギラゴンで一気に焼き払います」

 

 その原料を見て、当代の賢者が動き出す。通常の人間という種族であれば、光り輝くその金属に欲望が表に出てしまっただろう。だが、今の彼等にとって、ゴールドという物は必ずしも必要な物ではない。この後で使用するとすれば、一度や二度宿屋に泊まる為だけである。既に最後の町での買い物も済ませ、この先、新たな人里が現れる可能性がない以上、必要最低限の資金があれば良いのだ。

 この身体の一部を買い取って貰えるだけで良い。それ以上の物を入手する必要がないのだから、全てを焼き払う事が最も手っ取り早い。鉄よりも容易く解けるのであれば、石像よりも一掃する事は難しくはないのだ。

 

【ゴールドマン】

その身体は『金』で出来ている。地中や鉱山に含まれた金という金属が集まり形を成した魔物。それは、大魔王ゾーマの復活よりも昔、遥か太古から命を宿した生物であった。

黄金色に輝くその体躯は、人類以外の知的生命体の欲望を煽り、一時はその姿を追い求める者達が後を立たない事もあったが、奇しくも大魔王ゾーマの台頭、その他の魔物の凶暴化という影響からその悪い傾向が下火になり、この聖なる祠近辺にのみ生息するようになっている。

基本的にそれ程凶暴な生命体ではないが、大魔王ゾーマの魔法力の影響と、自身以外の知的生命体への警戒から、その他の知的生命体へ襲い掛かるようになっていた。

 

「アンタの斧でも容易く斬り飛ばせる! 一度下がるぞ!」

 

「わかった!」

 

 一体の腕が斬り飛ばされても尚、自分達へ襲い掛かろうとするゴールドマンの腕を剣で払いながらカミュは指示を出し、そしてリーシャもそれに対して頷きを返す。闇夜に煌く黄金色の腕が空を斬った時、後方にいる人類最高位に立つ呪文使い達の腕が閃光を放った。

 異なる詠唱の声が重なり、それと同時に災害にも等しい程の火炎が周囲を焼き払う。燃え上がる灼熱の炎は、漆黒の闇に包まれるアレフガルドの空へと火柱を上げた。

 金属の焼ける臭いと、それが地面へ溶ける臭いが周囲に充満する。魔法力によって生まれた灼熱の火炎がその媒体を失って燃え尽きた後には、金色の液体だけがその場に居たゴールドマンという魔物の名残を残していた。

 

「あの巨大な大きさの割には、液体の金の量が少ないな」

 

「それだけ不純物が混じっていたのだろうな」

 

 凄まじい勢いの炎の名残を見つめながら、何時まで経ってもその影響力の大きさに慣れない前衛二人は、焼け野原になった一帯に残るゴールドマンの残骸について口を開く。確かに、三体ものゴールドマンが溶けてなくなったという割には、地面に広がる金色の液体の量は少ない。三体の内の数体が逃げ果せたとは考え辛い為、カミュの言葉が正しいのであろう。

 黄金色に輝いてはいても、その全てが金で構成されている訳ではない。色々な金属が含有され、あの形状を保っていたのだろう。闇夜にその金の部分が明るく輝いていたと考えられた。

 

「少し持って行きますか?」

 

「…………重い…………」

 

 敵が一掃された事でカミュ達へ近づいて来たサラであったが、その残骸を持ち運ぶ事には否定的であった。近づいて来たメルエが既に固まり始めた金の小さな塊を手にとって苦痛の表情を浮かべている。それ程大きな物ではないが、それでも幼子が抱えるには相当な重みがあるのだろう。

 ラーミアに乗り、そして近場からはルーラを使用するだけに、持ち運ぶという苦労はない。だが、この場所にある全ての金塊を持ち帰る必要性もなかった。

 故に、一つ頷いたカミュは、メルエが持ち上げようとしている物を持ち、リーシャが比較的小さめの塊を持つ。そして、そのまま傍で成り行きを見つめていたラーミアの許へと歩いて行った。

 

「では、行きましょう。これが貴方達を背に乗せる最後になるでしょう」

 

「…………むぅ…………」

 

 不死鳥ラーミアは、自ら戦闘を行う事はない。世界を渡る者であり、世界を見守る者であるこの神鳥は、余程の事がない限りは自らの手で他者を殺める事はないのかもしれない。そして、そんな神鳥の言葉に、先程までの笑みを消した少女は不満そうに眉を下げた。

 暖かく包み込むように広げられた翼から背中へと真っ先に乗った少女は、悲しみと悔しさを隠すように、神鳥の羽毛に顔を埋めてしまう。少女の気持ちが痛い程に解るリーシャやサラは、苦笑を浮かべながらもその姿を愛おしく見つめていた。

 出会いと別れを繰り返しながら進んで来た旅も、終幕がもうすぐ目の前まで迫っている。大切な出会いは、辛い別れとなり、そして大事な思い出へと変わる。今は悲しみの涙を流す少女の心には、多くの思い出が残って行く事だろう。

 その為にも、彼等は最後に強大な敵と相対する。人類どころか、精霊の神や竜の王でさえも敵わなかったその存在に、アリアハンという小さな小さな島国を発した者達が挑む日も近かった。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
これで年内最後の更新となります。

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虹の橋

 

 

 

 カミュ達を乗せたラーミアは、アレフガルド大陸をゆっくりと飛ぶ。別れを惜しむ少女の心に配慮するかのように、アレフガルドという大陸を見通すように速度を緩めてリムルダール近辺へと向かって飛んでいた。

 ラーミアとの最後の旅を満喫するようにその羽毛に身体を埋めていたメルエも、温かさに瞳を閉じ、緩やかな眠りへと誘われて行く。そんな少女を咎める者は誰もいなかった。行きはその眠りを妨げたサラでさえ、苦笑を浮かべながらも軽くその身体を揺すり、少女が完全に眠りに就いた事を確認すると、優しくその茶色の髪を撫でる。そして、その後にカミュへと向き直ったサラは、懐から一枚の紙を取り出し、彼へと差し出した。

 

「カミュ様、これを」

 

 突然差し出された一枚の紙に驚いたカミュであったが、そこに記されていた物を見て、表情を厳しく変化させる。横から覗き込んで来たリーシャは、それが何か理解出来ずにサラへと顔を向けた。

 そんな二人の表情を見て笑みを浮かべたサラは、その紙に記された一つの文様について語り出す。指先で辿るように描かれたそれは、カミュならば一目で解る物であり、この長い旅路で何度も目にして来た契約の為の魔法陣であった。

 

「聖なる祠の壁面に描かれていた魔法陣です。あの場所に居た方が誰であったかを想像すれば、その魔法陣は……」

 

「……勇者しか行使出来ない呪文か?」

 

 サラの言葉を遮るように発したリーシャの言葉に、当代の賢者が頷きを返す。聖なる祠という場所が何を祀っていた場所なのかという事は、あの虚ろな青年を見ればある程度は想像出来るだろう。

 精霊神ルビスを祀る祠だと考えていたサラであったが、あの場所の祭壇と、そこに描かれた一つの魔法陣がその考えが間違っている事を示していた。

 誰の目にも触れないようにひっそりと描かれていた魔法陣を誰が描いたのかは解らない。だが、あの場所に描かれた物であれば、古の勇者に纏わる物である可能性は高いとサラは感じていたし、それが確信に近い物であると考えてもいたのだ。

 

「メルエが起きている時に渡してしまうと、自分も試してみると騒ぎ出すでしょうから」

 

「……そうだな。メルエにとって、魔法だけは誰にも譲れない物だからな」

 

 視線を眠っているメルエに向けたサラは、小さく微笑む。サラの言葉通りの出来事が想像出来たリーシャもまた、苦笑に近い表情を浮かべた。

 今までも、勇者のみが行使出来る呪文を見ては、『ずるい』と頬を膨らませていたし、回復呪文などの契約が完了するサラを見ては、『何故自分には契約が出来ないのだ』と怒りを露にしていたのだ。魔法こそが自分の存在価値という根本的な想いがある少女にとって、その契約に必要な魔法陣を見れば、例え可能性が零であっても、試さないという選択肢は存在しない。それを誰よりも知っているサラは、メルエが眠っている事を確認してからカミュへとそれを差し出したのだった。

 

「ラダトーム国王からも、一つの契約魔法陣を預かっている」

 

「え? そうなのですか?」

 

 少女の眠りを温かな目で見つめる二人に、カミュは衝撃的な言葉を紡ぐ。

 カミュ達がラダトーム国王と謁見したのは、僅かに一度。その時にそれを託されたという事にサラは驚きを隠せなかった。

 サラが王太子とバルコニーで会話をしていた際に、カミュと言葉を交わす国王の姿を見ていたリーシャも、国王が彼に何かを渡していたという現場を見ていない。故にこそ、二人は大きな驚きを表したのだ。

 

「あの宴の翌朝に、国王の使いという人間から託された」

 

「それで、その呪文の契約は済んでいるのですか?」

 

 そんな二人の疑問は、カミュが紡いだ次の言葉で解決する。確かに、カミュだけは男性である為に別の部屋であった。それ故に、翌朝に使いの者が部屋に訪ねて来ていたとすれば、リーシャ達が知らないのも道理である。

 そして、そんな小さな疑問が解決した後で浮かび上がる大きな疑問は、サラが口にしたようなその契約の有無であった。カミュだけが使用出来る呪文というのは、ここまでの旅で幾つかあったが、彼女達がそれを知るのは、大抵彼がそれを行使した時であった為、サラはその契約が未だに済んでいないのではないかと考えたのだ。

 しかし、その問いに対して小さな頷きを返したカミュを見て、サラは驚きを示す事になる。ラダトーム城へ登城してからの日数を考えると、既に一年以上が経過していた。その間で危機的な状況は何度もあり、その時に彼がそれを行使しなかったというのが、理解出来なかったのだ。

 

「契約は、一度目の塔探索時の後で完了した」

 

「……あの後か」

 

 そして、そんな疑問もまた、彼の口から答えが告げられる。その言葉を聞いたリーシャは、何処か複雑そうな表情を浮かべながらも納得した。

 ルビスの塔と呼ばれる、精霊神ルビスが封じられた塔の一度目の探索は、彼等にとって苦い思い出となっている。それはリーシャやサラにとっても同様であった。

 自分達の力が及ばず、メルエという幼い少女の決死の力によって救われた日。それはカミュやリーシャにとって、己の非力と無力を実感した日でもあり、サラは己の奥底に眠る暗い闇と直面した日でもある。

 カミュがあの日に感じた己の非力に嘆き、苦しんだ後、前を向いて立ち上がるまでにどれだけの時間を有したかは解らない。だが、それでも、自分よりも先にその嘆きから立ち上がった事を知っているリーシャだけは、その決意の証として契約を完了させたカミュを理解したのだ。

 

「未だに行使には至っていないがな」

 

「それ程の呪文なのですね……」

 

 契約が完了しても即座に行使出来る訳ではない。契約とは、その者がその呪文を行使する資格を有していると証明する物であり、それを行使するには、それに見合った力量が必要となる。その力量に達していなければ、本来は契約すらも出来ないのだが、力量が達していたとしても、その心や精神の状況によっては行使が不可能な場合もあった。

 以前、カミュがベホイミやベホマを行使した際がそれに当たる。彼自身、契約は疾うの昔に済んでいたが、彼の心の変化を待っているかのように行使は不可能であった。だが、その心の成長、そしてその在り方の変化を経て、他者を癒すその呪文の行使が可能になっている。自分自身を癒す為だけに覚えたホイミとは、その在り方が異なっていた証であろう。

 

「この魔法陣が古の勇者様に纏わる物だとすれば、ラダトーム王家に伝わっていた物よりも契約や行使が困難な物なのかもしれませんね」

 

「……この魔法陣に至っては、どのような物かさえも解らないのだな」

 

 ラダトーム国王から授かった魔法陣には、おそらくその名やその用途も記されていただろう。だが、サラが差し出した魔法陣は、祠内に密かに記されていた魔法陣を描いた物であり、その魔法陣から成される呪文の名や効力は書かれていなかった。

 呪文の名が解らなければ、例え契約が完了したとしても唱える事が出来ない。その効力を知らなければ、どのような時に行使する物なのか、何の役に立つ呪文なのかさえも解らないだろう。それは、この魔法陣の呪文が意味を成さない事を示していた。

 だが、そんなリーシャの落胆とは正反対に、サラの顔には笑みが浮かんでいる。

 

「カミュ様が契約を済ませた時、その名も効力も自ずと解ると思いますよ。カミュ様は、全てを託されたのですから」

 

「ちっ」

 

 笑みを浮かべるサラの言葉を聞いて、リーシャは『なるほど』と納得の笑みを浮かべるが、当の本人であるカミュは不快そうに眉を顰めて舌打ちを鳴らした。

 彼自身、あの青年が誰であろうと興味はないのだろう。何を言われようとも、彼は彼の意志で歩み続け、彼の意志でこの場に立っている。そこに誰かの意思が介入したという認識などある筈もなく、あってはならない。それが『勇者カミュ』という人間の想いであろう。

 それでも尚、彼を見て来た二人の女性にしてみれば、誇らしい事に他ならない。彼女達が信じ続けて来た青年が、世界からも、神や精霊からも、そして何よりも古から謳い告がれる勇者からも認められた存在となっているのだ。それを誇らずして何を誇れと言うのか。それが彼女達の偽らざる本心なのかもしれない。

 

「一度リムルダールへ戻るのだろう?」

 

「町での最後の休息になるかもしれませんね」

 

 再度確認するように口を開いたリーシャに対して、カミュは素っ気無く頷きを返す。ラーミアという巨鳥の背中から見える景色が変化した事を物語っていた。

 巨大な森を抜け、聳え立つ山脈を越えると、平原の向こうに湖が見えて来る。その湖の中央に浮かぶようにリムルダールという都市があった。周囲を真っ黒に染め上げる闇の中でぽっかりと浮かぶように輝く光は、サラ達に一時の安らぎを与えるかのように優しい瞬きを放っている。それは、既に『人』としての枠をはみ出してしまった彼女達が帰る事の出来ない場所なのかもしれなかった。

 

「森の出口近辺に降りてもらいたい」

 

 カミュの言葉に了承するように首を動かしたラーミアは、高度をゆっくりと下げて行く。上の世界と呼ばれる場所で復活を果たした神鳥との別れは間近に迫り、それを最も残念がっていた少女は今では夢の中へと落ちていた。

 羽毛に包まるように寝ているメルエの身体を抱き上げたリーシャは、その身体をゆっくりと揺らす。だが、やはり幼い身体でカミュ達の旅に同道しているメルエには、野営での眠りでは取れない疲労が溜まっていたのか、目を覚ます事はなかった。

 それでも、眠っている間にラーミアとの別れが済んでしまっていたという事になれば、彼女が泣き叫ぶ事が解り切っているだけに、リーシャは何度かその身体を揺り動かす。それでも、野営の時に地面で眠っている際には、少し揺らしただけで瞼を上げるメルエが、何故か首を動かすだけで目を覚まさない。暖かく優しさに満ちた羽毛から、これもまた大きな慈愛に満ちた腕の中へと移動したメルエにとって、そこは身も心も安心出来る場所だからなのかもしれない。

 

「この先、貴方達に会う事は二度とないでしょう。それでも、貴方達がこの世界に再び陽の光を戻すその時を、楽しみにしていますよ」

 

「す、少し待ってくれ。このままの別れでは、メルエが哀しむ」

 

 メルエを起こそうと必死なリーシャであったが、無常にもラーミアの足が地面へと着いてしまう。足を折り、翼を広げた事で背中から全員が降りざるを得なくなった。カミュに続き、サラが地面へと降り、メルエを抱き上げたままのリーシャもそれに続く。

 別れの言葉を告げるラーミアを見上げたリーシャの眉は情けなく下がっていた。眠っていたメルエを起こさずにラーミアとの別れを終えてしまったとすれば、メルエからの非難を受けるのはリーシャとサラになるだろう。そんな目に浮かぶ光景に彼女は情けない声を出して神鳥を引き止めた。

 上の世界では精霊ルビスの従者と伝えられ、アレフガルドでは神の使いとも謳われる不死鳥に対しての口ぶりではないが、それだけ彼女が必死なのは理解出来る。そんな女性戦士の必死な嘆願に応えるように、神鳥はその大きな嘴を眠る少女の頬へと近づけた。

 

「…………むぅ…………」

 

「メルエ、お別れです。貴女の成長を楽しみにしていますよ」

 

 心地良い眠りから強引に引き上げられた事に不満を露にするメルエに向かって、澄んだ青色の瞳が語りかける。眠たそうに半開きだった瞳は、その大きな青い瞳を見て覚醒した。

 次第に何が起こっているのかを理解したメルエの瞳に溢れんばかりの涙が溜まって行く。別れの時は泣かないという約束など忘れてしまったかのように、眉を下げた少女の瞳から次々と涙が零れて行った。

 ジパングでイヨと別れる時も、イシスでアンリ女王と別れる時も、何よりカザーブでトルドと別れる時も涙を見せなかった少女が、その別れに涙する。それは、この別れが永遠の別れになる事を彼女も解っている事を示していた。

 トルド達との別れは、彼女にとっては一時の別れとして受け取っていたのだろう。カミュ達が二度と会えないと口にしても、今まで何度も再会出来た者達との別れは、再び会う為の挨拶に過ぎない。だが、トルドの娘の霊体との別れや、この神鳥との別れは、真の離別となる事を幼くともメルエは理解しているのだ。

 

「……メルエ、泣いていないで、笑顔で『さようなら』をしましょう?」

 

「もう二度と会う事は出来ない。それでも、ラーミアの心にはメルエが居て、メルエの心にもずっとラーミアは居る筈だ」

 

 大粒の涙を溢すメルエの頬を布で拭いてやりながら、サラは優しい微笑を向ける。だが、メルエの年頃では、悲しい別れを笑顔で過ごす事は難しかった。大声を張り上げる事はないまでも、すすり泣くように嗚咽を漏らし、止まらない涙を流し続ける姿は、とても痛々しい。それでもその小さな身体を抱き上げているリーシャは、メルエの瞳を覗き込み、言葉を紡ぐ。

 決して優しい言葉ではない。現実を現実として受け入れ、それでも前へと進むように呼びかける言葉。それは、この一行で最年長の女性が何度も何度も他の三人を引き上げて来た言葉であった。

 悲しい別れは避けられない。だが、その別れが糧となり、この少女の心を更に成長させる事を信じて止まない。少女の茶色い髪を優しく撫でる手は、とても大きく、とても温かい。涙を流すメルエはリーシャを見上げ、鼻を啜りながらもラーミアへと視線を移した。

 

「…………ありが……とう…………」

 

「貴方達が私をこの世界へと導いてくれた事を誇りに思います。肉体は滅びても、何処かの世界で貴方達の魂と再び巡り会う事がありましょう」

 

 涙声の礼を述べると、それ以上は無理と言わんばかりにメルエはリーシャの肩へと顔を埋めてしまう。それを微笑ましく見つめたラーミアは、ゆっくりと翼を広げた。

 飛び立つ準備に入った神鳥が巻き起こす風が吹き、カミュ達は数歩後ろへと下がって行く。徐々に地面から離れて行くラーミアの足を追って視線を上げたカミュ達の頭に、直接神鳥の言葉が響いて来た。

 魂に導かれて世界を渡る神鳥という伝承を持つラーミアらしい言葉に、カミュは静かに頷きを返す。リーシャの肩から顔を上げたメルエは、未だに流れ落ちる涙をそのままに、頭上で羽ばたくラーミアに向かって大きく手を振った。

 最後の別れを示すように、数度旋回したラーミアは、そのまま一筋の光となって闇に包まれたアレフガルドの空へと消えて行く。その光の筋を見失わないように、全員が真っ黒に染まった空を見上げ続けた。

 

「……行ってしまわれましたね」

 

「…………ぐずっ…………」

 

「ほら、メルエも涙を拭け」

 

 光の筋が闇に溶け込むように消えた後も見上げ続けていた一行であったが、サラが呟いた言葉でその静かな時間にも終止符が打たれる。再び溢れて来た涙と鼻水で汚れたメルエの顔をリーシャが布で拭き取ってやり、そのまま少女の身体を地面へと降ろした。

 今生では二度とは会えない相手との別れ。それは、この小さな少女の心にどんな影響を及ぼし、どれだけの成長を促すのか。そんな成長の途中に居る少女の行く末を楽しみに感じながらも、リーシャはその小さな手を取った。

 彼等の前には、『人』の営みを表す灯火が輝いている。神鳥が発するような神々しい光ではないが、それでも温かさと優しさを持つ輝き。一行は、その輝きを守る為に再び歩き出した。

 

 

 

 リムルダールで一泊した一行は、ゆっくりと身体を休め、リムルダールの西の外れにあると云われる岬に向かって行動を開始する。リムルダールが浮かぶ湖の北側を通り、真っ直ぐに西へと向かって歩き続ける中、何度か魔物と遭遇はするが、どれもがここまでの旅で何度か遭遇した魔物ばかりであった。

 熊系の最上位に立つダースリカントや、リムルダール地方の守護神として建造された石像が命を宿した大魔人などであったが、それでもカミュ達の進軍を止める事は出来ない。だが、並の人間であれば、この大陸を縦断する事など出来る筈もなく、これらの魔物達によって命を奪われているだろう。

 魔物達との遭遇率の高さに、サラは改めて『人』の世界の衰退を理解する。これだけの魔物が横行すれば、『人』の往来は反比例するように減少して行くだろう。人間という種族が生み出す経済は、動きが停滞してしまえば廃れて行く。経済が廃れれば、そこに生きる者達の生活水準も低下して行き、全てを止めてしまうのだ。

 

「……また山か」

 

「地図上ではこの山を超えれば海岸に出る。海岸の外れに岬がある筈だ」

 

 上の世界での旅との比較にはなるが、このアレフガルドでは山を越えるという旅路が多い。既にリムルダールを出てから二日以上の時間が流れており、二度の野営を経てこの場所まで来た彼らとすれば、ここから再び山を越えて辿り着くとなれば、更に数日の時間を有する事に辟易とした想いを抱いてしまっても仕方がない事であろう。

 地図上では、この山を越えた向こうに広い海岸のような場所が広がっており、その先に魔の島とを結ぶような岬が描かれている。実際は、マイラの村のある方へ向かって行き、更に北側から回り込んでも向かえる場所なのだが、距離や時間を考えると、この山を越える方が遥かに良いという結論に達したのだった。

 

「歩きながら、枯れ木を少しずつ拾って行きましょうね」

 

「…………ん…………」

 

 うんざりしたような表情をするリーシャの横で、サラは手を握るメルエに向かって微笑みを向ける。そんな姉のような女性の言葉に、少女は大きく頷きを返した。

 リムルダールでの休息の際には、ラーミアとの別れを引き摺って塞ぎ込んでしまったメルエであったが、リムルダールを出る頃には、以前よりも逞しい光を宿す瞳を持つようになっている。再びあの神鳥と出会える時に、この少女がメルエという名の人間である可能性は限りなく低いだろう。魂が他の肉体に宿り、ラーミアとの記憶が欠片も残っていない筈である。それでも、この少女はその時を心から楽しみに待つのだ。いつか再びあの神鳥と巡り会えるその日を。

 

「メルエ、大丈夫か? カミュ、そろそろ野営の準備を始めよう」

 

「わかった」

 

 山道に入り、山の中腹辺りまで歩いた頃にサラの手を握るメルエの足が重くなり始める。元々幼い身体を酷使してカミュ達の旅に同道しているメルエである為、リーシャやカミュだけではなく、サラよりもその疲労が限界に達するまでは早い。いつもはメルエをリーシャが抱き上げて進むのだが、平坦な道ではなく、元々闇に包まれた山道であれば、魔物との戦闘という危険を考えた場合は無理をする必要性がないのだ。

 それを承知しているカミュは、周囲の木々の中で休めるような箇所を探し始め、適当な場所でサラやメルエが拾い集めた枯れ木を集めて火を熾し始める。燃える炎の暖かさに疲れが溢れ出したメルエは、こくりこくりと舟を漕ぎ始めた。

 

「この先は、休める都市などはない筈だ。上の世界のように、ラーミアで直接バラモスの居城に入れた時とは違う。休息を細かく取りながら向かう」

 

「そうだな。岬に橋を架ける事が出来ても、向かうのは『魔の島』と呼ばれる場所だ。ゾーマの居城に辿り着くまでに更に強力な魔物達との戦闘があるだろうからな」

 

 眠りに就いたメルエを横たえたリーシャは、カミュの言葉に相槌を打つ。確かにカミュの言葉通り、バラモス城へ向かうのは、ランシールの町からラーミアに乗り、そのまま城内に乗り込む事が出来た。だが、ラーミアの口から直接語られたように、直接魔の島へと向かう事が出来ない以上、魔の島からゾーマの居城までの距離も徒歩で進まなければならない。魔の島とまで呼ばれる場所であり、全てを滅ぼす大魔王の居城のある場所である為、強力なアレフガルドの魔物達の中でも更に強力な魔物が生息している筈である。それは、これまで以上に厳しい戦いが待っているという証であった。

 カミュ達の戦闘は、前衛二人だけで乗り切れる程の甘い戦いではない。後方支援組のサラとメルエという二本柱があってこそ成り立つ戦いであり、四人の内誰かが欠けただけでも、即座に全滅という絶望の未来が手を伸ばして来る。幼いメルエに無理をさせ、それらの戦闘時に失う事は絶対に避けなければならない事柄であった。

 それは、メルエという年端も行かない少女の力を、彼等三人が心から信頼している証でもある。

 

「カミュ……私達は、遂にここまで来たのだな」

 

 深い眠りに入ったメルエの隣で、サラもまた眠りに就いた頃、火に薪をくべたリーシャが炎を見つめながら小さな呟きを漏らす。それは、何処か誇らしげでありながら、何処か寂しげに感じる小さな声。しかし、闇と静寂が支配する山の中では、驚く程に良く響いた。

 アリアハンという小さな島国を出て、既に六年以上の時間が経過している。あの時、十六という歳になったばかりであった少年のような勇者は、今では二十二という立派な青年に変化していた。今では背丈もリーシャより高くなり、身体つきもしっかりとした筋肉を宿した肉体になっている。あの頃、『絶対に勇者と認めない』と思っていた相手は、今や神も精霊も、神鳥も古の勇者でさえも認める真の勇者となっていた。

 

「まだ終わった訳でもなければ、始まってさえいない」

 

「ふふふ。そうだったな。だが、私達はその入り口まで辿り着いた。もう、細い糸を手繰る旅は終わりだろう? 残るはゾーマの許へ辿り着き、それを討ち果たすだけだ」

 

 死を迎える前の儀式のような言葉にカミュは眉を顰める。まだ、彼等の旅は終わった訳ではない。そして、その目的との戦いが始まった訳でもない。そこへ辿り着くという最大の試練が残っているのだ。

 だが、リーシャの言う事も一理ある。最早、暗中模索の時期は過ぎ去ったのだ。残るは無心にゾーマへと向かうだけである。並み居る強敵を退けて、全ての元凶である大魔王ゾーマへ向かうという目的だけが残っているのみなのだ。

 カミュやサラのように、必死に前だけを見て歩いて来た者達には、リーシャの本当の気持ちは解らないかもしれない。全ての仲間達に等しい慈愛を向け、全ての者達の成長を目の前で見届けて来た彼女だからこそ、この時、この場所で、自分達の歩んで来た道を振り返ったのだろう。

 

「カミュ、これだけは言わせてくれ。もう、サラもメルエも、そして私も、何があろうと心を折る事はない。何があろうと道を踏み外す事もない。だが、もし、万が一、私達の心が折れる時があるとしたら、それはお前が倒れた時だけだろう。お前の『死』だけは、絶対に認めないし、許さない」

 

「……それは、イシスのピラミッドで聞いた」

 

 サラは、ルビスの塔での挫折の後、『賢者』としての完成を迎えている。己の心の奥にある闇と向き合い、それを全て認め、受け入れた事で再び前へ踏み出していた。この先、彼女は何度でも悩み、苦しむだろう。それでも彼女の心が揺らぐ事は二度とない筈だ。

 同じく、メルエという少女もまた、自分がリーシャやサラと何かが違うという事を知っている。その違いを恐れ、大好きな者達へも打ち明けられなかった物を、彼女はその小さな胸に事実として受け入れた。竜の因子を持ち、自分だけが竜の姿に変化出来るという事実を受け入れ、その力もまた、大好きな者達を護る力として認めたのだ。彼女もまた、この先で死の呪文を受け入れるような状態に陥る事はないだろう。

 リーシャという人間だけは、世界中の生物全てが恐れる『死の呪文』という絶対死の呪いを一度たりとも受け入れた事はない。この一行の中で最も強靭な心を持っていたのは、彼女なのだろう。感情という物を表に出す事の多い彼女ではあるが、その芯となる部分は誰よりも強い。そんな彼女であっても、唯一心が折れる可能性がある事、それが『勇者カミュの死』という物であった。

 だが、リーシャのそんな真剣な投げ掛けをカミュは鼻で笑うように斬り捨てる。小さな笑みを浮かべて薪を火に放り投げた彼は、四年以上も前の出来事に対して口にしたのだ。

 

「そうか……そうだったな。あの時に、お前に唯一残っていた『死の自由』も私達が奪ってしまったのだな」

 

「レーベに置いて来るべきだったと何度も後悔した」

 

 イシス国が管理していたピラミッドと呼ばれる王家の墓を探索していた時、メルエとリーシャを庇って彼は腹部に致命傷を受けた。それをまだ僧侶であったサラが覚えたてのベホイミで救済し、彼は一命を取り留めたのだ。

 その時も、泣きつかれて眠るメルエと、疲労と安堵で眠るサラの横で、二人は会話をしている。その時に彼は小さな笑みを浮かべて、『死の自由もないのか』と呟いたのだ。それを思い出したリーシャは優しい笑みを浮かべ、それに対しての皮肉を聞いて、小さな笑い声を上げる。

 互いが互いを認めず、常に争いを続けていたアリアハン大陸で、彼はリーシャやサラを置いて一人で旅立とうとしていた。あの時は直情的に怒りしか湧いて来なかったリーシャであるが、今ではあの時のカミュの優しさを理解出来る絆を持っている。絶対の死の代名詞であるバラモス討伐の旅に巻き込まないようにという配慮があったのだろうと彼女は考えていたのだ。

 

「置いて行かれなくて良かった。レーベで別れてしまっては、私はメルエに会う事が出来なかったからな」

 

「ああ、共に旅を続けてくれた事を感謝している」

 

 しかし、そんな優しい気持ちは、小さく呟かれたカミュの言葉に吹き飛んでしまう。彼が何を言ったのか、そしてそれがどんな意味を持つ言葉だったのかが、瞬時に理解出来ない。呆けたようにカミュへ顔を向けるリーシャの目に、炎へ薪を入れる彼の横顔が映っていた。

 そこに何の照れも、気負いもない。本当に当然の事を当然に口にしたように、いつも口にする食事の前の言葉や、誰かに会った時の挨拶のように、彼はそれを口にしたのだろう。それが、どれ程の変化なのか、どれ程の出来事なのかを彼は理解してはいない。だが、彼と共に歩んで来たリーシャという女性だからこそ、その言葉は胸に染み入るように入り込んで行った。

 

「馬鹿者……。こんな時に、そんな事を言うな」

 

 何故か解らないが、無性に照れ臭くなり、そして涙が溢れて来る。自分がその言葉を口にした訳でもないのに、何故自分がこれ程に恥ずかしく、そして嬉しくなるのか。そんな理不尽な状況に対する怒りなど、彼女の胸に湧き上がる喜びが瞬時に消し去ってしまう。溜まらず、彼女はそのまま地面へと横になって瞳を閉じた。

 何故か溢れて来る涙が地面を濡らして行く。だが、その顔には笑みが浮かび、彼女はゆっくりと眠りへと落ちて行った。

 

 

 

 

 その後、二度ほどの野営を経て、一行は二つの山を越える。その先は本当に広い砂浜が広がっており、遠く向こうから潮の香りと共に波の音が聞こえていた。

 海が近いという事もあるのだろうが、この広い砂浜は何処かドムドーラ周辺にある砂漠に近い。おそらく、魔の島と呼ばれる場所と接しているこの地域は、瘴気の影響で草花が育たなくなっているのだろう。草花が枯れ、その場所に生命がなくなれば、大地も枯れ果てる。魔の島と呼ばれる場所にゾーマがいる限り、この砂漠化は進み、いずれアレフガルド全土を覆う事になる筈だ。

 砂浜に下りて砂を掬い上げるメルエを見ながら、サラはそんな危機感を感じていた。

 

「カミュ、どっちだ?」

 

「このまま西へ向かう」

 

 『たいまつ』の炎を地図へ掲げたカミュは、後方に見える山々と目の前に広がる砂漠と見比べ、方向を確定する。太陽の昇らないアレフガルドで東西南北を把握する事は難しいが、地図上の位置関係から理解し、再び歩き出した。

 海に近い砂浜とは異なり、砂漠化している場所に生命体は少ない。砂に隠れて潜む蟹や貝等の生命を期待していたメルエは、幾ら掬い上げても何も出て来ない事に頬を膨らませていた。湿り気を帯びない砂は、メルエが掬い上げる度に風に乗って漂う。昔は生命の拠り所となっていた土であっただろうそれを見たサラは、世界の脆さを痛感していた。

 

「……何もないところだな」

 

「魔の島から来る瘴気の影響でしょう。ゾーマを倒しても、この場所に生命が戻る事はないかもしれません」

 

 砂地に足を取られながらも前へ進んでいた一行であったが、『たいまつ』で照らされている周辺に木も石もなく、見渡す限り砂漠が広がる光景にリーシャが呟きを漏らす。それに応えるサラの表情は悲痛に近い物であった。

 魔の島と呼ばれる大魔王ゾーマの拠点から漂う瘴気は、その量も質もバラモス城から漂う物よりも上である。ある程度離れたこの場所でさえも、息が詰まるような感覚に襲われる程の物であり、それを数年間受け続けて来た大地は枯れ果て、砂漠と化している。一度枯れ果てた大地が戻る事はない。神や精霊の力を以ってしても、可能であるかどうかが定かではなかった。

 大魔王ゾーマという、この瘴気の元凶を討ち果たしたとしても、この大地が元の状態に戻るという保証は何処にもないのだ。

 

「……メルエの口に何か布を当ててやれ」

 

「そうだな、私達も布で口元を覆うべきかもしれない」

 

 砂地の道幅が徐々に狭くなるにつれ、その瘴気の濃さが増して行く。それは本来であれば『人』が多く吸い込んで良い物ではないのだろう。先頭を歩くカミュがその足を止め、後方にいるリーシャへと指示を出した。

 最も年少であるメルエの成長を妨げる恐れもあり、何よりもその命を脅かす可能性さえもある。それを理解したリーシャは、全員が布を口に当てるようにと革袋から綺麗な布を取り出した。

 リムルダールで衣服と共に洗濯をした布は、石鹸の香りが漂う物で、それを口に当てられたメルエは最初は嫌そうにしていたが、すぐに大人しく自分で口元を押さえるようになる。だが、そんな三人の行動は、『賢者』と呼ばれる女性の言葉で無駄に終わった。

 

「トラマナ」

 

 静かに発せられた詠唱と共に、サラの魔法力が一行を覆うように展開さえ、彼等の周囲が神聖な空気に満ちて行く。視界が歪む程の瘴気の中でも前方に『たいまつ』の明かりが届き、一歩歩く毎に身体を蝕むように浸透する不快感を払って行った。

 サマンオサ大陸に存在した『ラーの洞窟』周辺を支配する毒沼で行使したその呪文は、瘴気などから行使者達を保護する壁となる。緻密に展開された魔法力の壁は、外の空気を濾過し、神聖なものへと変える効果を持っているのだ。

 その呪文は、メルエも行使出来る物ではあるが、まだそこまで考えが及ばない。そんな自分が許せないのか、先程まで良い匂いの布を当ててご機嫌だった筈の彼女の頬は膨れ、不満そうにサラを見上げていた。そんな、まるで『指示してくれれば、自分が行使したのに』というような視線に苦笑を浮かべたサラは、その小さな手を握る。

 

「この場所からゾーマの城まで距離があります。交代でトラマナを行使しましょうね」

 

「…………ん…………」

 

 自分と交代で行使を続けながら進む事を提案するサラに対し、メルエは不承不承に頷きを返す。この幼い少女も、トラマナのような魔法力の緻密な操作が必要な呪文に関しては、サラの方が上である事を痛い程に理解しているのだろう。それでも、誇りであり自信の表れでもある『魔法』という神秘に関してだけは、『魔法使い』として譲れないのだ。

 そんな頼りになる呪文使いの二人のやり取りに微笑みを浮かべたリーシャは、同じように優しい瞳を向けるカミュへ合図を送る。それを見た彼も頷きを返し、再び西へと歩み始めた。

 幸いな事に、この砂漠で魔物と遭遇する事はなかった。既に死地と化したこの砂漠では、魔物でさえも生息出来ないのか、偶然が重なっただけなのかは解らないが、カミュ達の鼻に海からの潮の香りが届くまで、魔物の影を見る事はなかったのだ。

 

「カミュ、行き止まりだぞ」

 

「……微かに向こう岸が見えますね」

 

 細くなって行く砂地の果て、それは本当に断崖絶壁の場所であった。

 魔の島を護るように渦巻く海流が、荒れ狂ったかのように岬に打ち付け、大きな波飛沫を上げている。海面までの高さはそれ程ではないが、それでもそこへ飛び込んでしまえば、二度と浮き上がる事が出来ないと想像出来る程に波が高く、吸い込まれるような闇の奥に凄まじい程の海流の音が響いていた。

 その場所に立って初めて、対岸に微かに見える陸地がある事に気付く。『たいまつ』の頼りない明かりでも映る程の距離である。もし、何の手段もないとすれば、泳いで渡る事が出来る距離だと認識してしまえる程度の距離でもあった。

 

「オルテガ様は、本当に泳いで渡られたのかもしれないな」

 

「この場所に橋が架かっていない以上、それ以外に方法はないのかもしれません」

 

 リムルダールの武器屋で聞いた話では、この場所に男性が立っていたという。それがオルテガであるという確証はないが、リーシャやサラは、その男性がアリアハンが誇る英雄であるという確信があった。

 そして、カミュ達が手に入れた『虹の雫』という道具をオルテガが入手しているのであれば、この場所に橋が架かっている筈であり、虹色に輝く橋がない以上、彼が魔の島に渡る手段は一つしかないという事になるのだ。

 対岸の岬までは確かにそれ程の距離はない。だが、それでも飛び越えて行ける距離でもない。通常の海であっても、数刻の間泳ぎ続けなければ渡れない距離である。この荒れ狂う龍のような海流の中、人間が泳ぎきる事が出来るかと問われれば、否定的な答えしか口に出来ない距離であった。

 

「もし、本当に飛び込む程の馬鹿だとすれば、既に海の藻屑だ」

 

「……カミュ」

 

 リーシャやサラの心配を余所に、吐き捨てるように言葉を漏らしたカミュは、足元に『たいまつ』を向け、岬の先端へと足を進める。物悲しい表情を浮かべたリーシャを見たサラは、いつも自分がして貰っていたように、そっと彼女の背中に手を置いた。

 サラの中では『勇者』という存在はカミュ唯一人であり、オルテガとはアリアハンの『英雄』である。そこに因果関係は存在せず、オルテガという父親とカミュという息子の関係にまで口を出すつもりはないのだ。親子が相容れない事は悲しい事であるという事は理解していても、その関係に自分が割って入るつもりはなく、その関係が自分達の目的である大魔王ゾーマの討伐には影響しないとさえ考えていた。良くも悪くも、カミュとサラの境界線はそこまでの物であり、それは仲間としての絆とは別の物であるのだ。

 だからこそ、そんなカミュ親子の関係性にまで心を砕くリーシャに尊敬に近い想いを抱く。何処までも人の心の奥深くにまで手を伸ばそうとするこの女性戦士に、サラもメルエも何度も救われて来た。魔王討伐という目的には直接関係せずとも、その人間の根本的な闇に手を伸ばして引き上げて行く。その結果、目的を果たす為に必要な成長を彼女達は何度も何度も遂げて来たのだ。

 

「…………いく…………」

 

「この先は、リーシャさんが持つ『虹の雫』が必要になります。私達三人をいつも掬い上げて下さったリーシャさんの想いが……」

 

 何時の間にか握られていた小さな手は、彼女を母親のように慕う少女の物。じんわりと浸透して来る温かさが、少女が浮かべる笑みのように心へと届いて行く。自分達を護る為に、導く為に、常に尽力して来た、母のような姉のような女性戦士の背を、二人の仲間が押して行った。

 何度も壊れかけた絆を、離れないように繋いで来たのは彼女である。

 レーベの村で最初に迎えた離散の危機は、彼女が文字通り体当たりでカミュへぶつかった事で乗り越えた。

 奴隷商に売られた少女を救う為に行動しようとするサラの未来を予見し、それでも尚、自身の価値観や考えが変わって行く事を恐れないという道を指し示している。その後、再びカミュと衝突し、それでもサラという人間が前へ進もうと立ち上がったのは、目の前に差し出されたリーシャの手があったからだろう。

 メルエが魔道士の杖を媒体として上手く使えずに行き詰った時も、サラが僧侶の資格の有無に悩んだ時も、メルエが自身の親の愛という物を初めて知り、それを失った事に心を閉ざし掛けた時も、何時もその傍に立ち、彼女達の心を抉じ開け、殻に閉じ篭もり始めた彼女達を強引に引き上げたのは、この女性戦士なのだ。

 

「ああ……。皆の想い、皆の願いを橋へと変えなければな」

 

 幼いと思っていた魔法使いに手を引かれ、頼りなかった筈の賢者に背中を押されたリーシャは、少し涙交じりの呟きを吐き出し、胸元から小さな欠片を取り出す。闇に包まれた大地の濃い瘴気に覆われた場所でも、その虹色の輝きは色褪せてはいなかった。

 ゆっくりと首から取り外した彼女は、大事そうにそれを両手で包み込み、満面の笑みを浮かべるメルエに向かって微笑みを浮かべる。岬の先端に立っていたカミュは、後方から近付いて来た彼女に場所を譲り、後方へと下がって行った。

 先端に立ったリーシャは、晴れやかな表情の中で涙を浮かべ、虹色に輝く雫を真っ黒な空へと掲げる。そして、アレフガルドに一筋の光が差し込んだ。

 

「うわぁ」

 

「…………ほぅ…………」

 

 サラとメルエが感嘆の声を上げる。それ程までに幻想的で、神秘的な光景が、彼等の前に広がったのだ。闇に包まれた漆黒の空にぽっかりと空いた穴から、一筋の光が降り注ぎ、虹の雫を持つリーシャごと包み込んで行く。空から降り注ぐ光は、虹の雫を通って、断崖絶壁の岬の先へと虹色に輝く光で照らし出した。

 その幻想的であり、神秘的な光景に目を奪われたカミュ達三人は、その現象を生み出している宝玉を持つ女性から視線を離してしまう。いや、正確に言えば、眩いばかりの光に包まれた彼女を見る事が出来なくなっていたのだ。

 

「……私を三人の勇者と巡り合わせて頂いた事に、多大なる感謝を」

 

 小さな小さな呟き。それは彼女の心の奥底にある喜びと感謝。

 アリアハンという小国の身分の低い貴族の家に生まれ、実力も名声もあった父親の背中を懸命に追い、それでも届かないと嘆いていた頃、彼女の運命は大きな変革を迎える。

 世界に轟く英雄の息子と共に受けた勅命は、彼女の考えていた物とは大きく異なる道筋を辿った。多くの衝突、多くの悩み、大きな悲しみに大きな喜び。様々な試練を乗り越え、彼女は今この場所に立っている。小さな辺境国の下級貴族として終える筈だった彼女の人生は、青天の霹靂のような勅命と数奇な巡り合わせによって、世界中の誰も歩む事の出来ない道を辿る事となった。

 数多いる貴族、数多いる騎士が生涯経験する事のない苦悩や苦痛も味わった。それでもその道を歩んだ事に後悔などない。そこにあるのは、心からの感謝。数多いるアリアハン宮廷騎士の中で自身が選ばれた事への感謝。自分達の旅に同道しようと申し出た頼りない僧侶への感謝。自分達と巡り合うまで懸命に生きて来た少女と、それを護って来た多くの愛への感謝。武器を振るう事しか出来ない自分を隣に立つ者として認め、共に歩んでくれた青年への感謝。

 そして、何よりこの者達と巡り合わせてくれた世界と、それを生み出した創造神、そしてそれを守護する者達への感謝。

 その想いは、彼女の双眸から雫となって零れ落ちた。

 

「橋が……」

 

 リーシャの双眸から落ちた雫は、虹の雫を通した七色の光を反射し、対岸へと向かう虹色の架け橋を架けて行く。

 異なる価値観、異なる想いを繋ぎ止めて来た者の想いが、再びアレフガルドと魔の島を結んだ。空から降り注いでいた光の筋は消え、既に周囲は闇を取り戻している。それでもその橋は虹色に輝き、まるで彼女達の輝ける未来へと続く架け橋のようであった。

 全ての輝きを放ち終え、七色の輝きを失った虹の雫は、涙のような形状をそのままに静かにリーシャの掌に納まる。そんな雫を再び大事そうに両手で包み込んだ彼女は、鎖を首から提げて雫を胸の中へと仕舞い込んだ。

 

「これは、生涯に渡って私の宝物だ」

 

 胸に手を置いて振り返った彼女の笑みは、目の前に架かった虹色の橋よりも美しく輝いていた。誰もが見惚れる程の笑みに、メルエが満面の笑みを浮かべて駆け寄って行く。飛び込んで来るように駆けて来る少女を抱き上げたリーシャは、もう一度虹の橋の向こうに見える瘴気の島へ視線を送った。

 

 これが最後の旅となるだろう。最終決戦の場所へと渡る橋は、多くの想いを背負って来た者達を常に見続け、常に支えて来た者の想いによって架けられた。

 虹色に輝く橋は、彼等の旅が終わる頃にどのような名に変わって行くのだろう。旅の終わりが彼等の死であれば、この橋もまた消え去るに違いない。だが、彼等がアレフガルドに朝を取り戻す事が出来るのであれば、この橋もまた伝承の一部として語り継がれるのかもしれない。

 

 

 




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※勇者一行装備品一覧

 

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

アリアハンという辺境の島国の英雄の子として生を受けた彼は、今や創造神、精霊神、守護者、古の勇者と云った伝承の存在からさえも認められる『勇者』となった。憎しみの対象であり、自身が苦難の道を歩む元凶となった父親さえも超える存在となった彼の胸に、その憎しみの対象はどのように変化しているのだろう。その剣の一振りであらゆる生命を絶つ事さえも可能な彼は、既に力量でも父親を越えている可能性は高い。

 

【年齢】:22歳

旅を始めて六年以上の月日が流れた。その間に様々な経験を経て、彼は数多くの専用呪文を修得している。古の勇者達から受け継がれたその呪文は、ラダトーム王家に伝わる物も残されていた。また、古の勇者を祀るように存在していた聖なる祠内に描かれていた物を含めると、勇者専用の呪文という物は、残り二つとなる。契約は出来ても行使が出来ないという状況は、彼の力量不足が原因ではないのかもしれない。彼の心の奥に残る僅かな憎悪という感情が、偉大な者達が残した大いなる力の行使に歯止めを掛けてしまっている可能性があった。彼が真の『勇者』となるには、まだ越えなければならない山が存在するのだろう。

 

【装備】

頭):光の兜(光の鎧と一対となった兜)

頭部部分に鎧の胸部に描かれている物と同様に不死鳥ラーミアの紋章が刻まれている。光の鎧と同金属で製造されたそれは、神代から伝わる希少金属であり、青白い輝きを放っている。頭部の両側に金色の角が付けられているが、それは攻撃や防御という面ではなく、装飾の一種であるのだろう。飛び立つラーミアの道筋のように伸びる金の角が、それを装備する者の飛翔を約束しているかのような神秘さも持っていた。

 

胴):光の鎧

古の勇者が装備していたと伝えられる鎧。特殊な希少金属によって製造され、人間では生み出せない程の一品。青白く輝くその金属は、それを装備する者の魂に呼応するように鮮やかな光を放つ。装備する者を主と認めれば、その者の傷さえも癒す輝きとなり、多少の傷であれば瞬く間に癒される。長い時間、主を待つように精霊ルビスが護る塔に安置され続けて来たが、大魔王ゾーマの復活によってアレフガルドを閉ざしていた闇を晴らす者の来訪により、その力を再び世に解放した。その鎧の名が光の鎧と付けられたのは、その輝きを放たせる者が纏ってこそ。神代の鎧さえも認める輝きを放つ魂を持つ者こそ、後に語り継がれる事となる勇者なのかもしれない。

 

盾):勇者の盾

遥か昔、アレフガルド大陸が闇に閉ざされそうになった時、天より舞い降りたと伝えられる『勇者』が装備していた盾。地上にはない金属によって造られ、青く輝くような光を放つ。表面には黄金色に輝く神鳥が描かれており、中央には真っ赤に燃えるような宝玉が嵌め込まれている。上の世界で蘇った不死鳥ラーミアに酷似したその装飾は、アレフガルドに伝わる古の勇者と精霊神ルビスが知己の存在である事を示していた。

地上にはない神代の金属によって生み出されたその盾は、竜種などが吐き出す炎や吹雪への耐性も強く、どれだけ高温に曝されようと変形する事はない。正しく、生物が暮らす現世最強の盾と云えるだろう。

 

武器):王者の剣

神代からの希少金属である『オリハルコン』から成る剣。古の勇者が所有していた剣として伝承に残っており、その力を恐れた大魔王によって破壊されたと伝えられている。その一振りは嵐を呼び、大地の全てを薙ぎ払うとまで云われ、天の怒りを具現化する者だけが持ち得る剣でもあった。大魔王によって砕かれた剣は、原初である金属に戻り、ドムドーラの町の片隅に放置されていた。神代の金属を、この時代に生きる『人』の手によって加工し、再び剣としての形を取り戻す。それは、古の勇者が所有していた物とは姿形は大きく異なる物であろう。その力も神代の頃には及ばないかもしれない。それでも、『人』の想いを結集して造られたこの剣こそ、その想いを受け取った『王者』のみが振るう事の出来る剣なのであろう。他の誰も手にする事の出来ないその剣は、『人』の生み出した史上最強の剣となった。

 

所持魔法): メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      リレミト

      マホトーン

      イオラ

      ベホマ

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(元アリアハン宮廷騎士)

呪文を行使する事の出来ない彼女は、その身一つで戦いに飛び込まなければならない。カミュのように敵への牽制に魔法を生み出す事の出来ない彼女を支えているのは、仲間達への心から信頼であった。目の前の敵に集中するだけで良い。死角から飛び込んで来る魔物達は、後方で広い視野を持つ呪文使い達が払ってくれる。そう信じて来たからこそ、彼女はここまで歩んで来れたのだろう。一対一の戦いでは、彼女に敵う者など存在しない。唯一対抗出来るのは、彼女と共に歩み続けて来た勇者だけであろう。

 

【年齢】:不明

この歪な一行が旅を続けて来れたのは、間違いなく彼女の功績である。メルエという幼い少女が投じた一石は、この一行に大きな波紋を生み出した。その波紋はとても大きく、場合によってはそれによって全てが崩れてしまった可能性も大きい。それでも彼等が何度も立ち上がる事が出来たのは、全員の心を見守り続けて来た彼女がいたからなのだろう。それは、この一行の誰もが認める事実であり、それを理解出来ないのは、当の本人だけであった。

創造神や精霊神さえもそれを認めている証拠に、全ての者達の希望の橋を架ける為に必要な『虹の雫』は彼女の手に齎されている。全員の想いを結集させたその宝玉は、全ての力を解放し、只の結晶となっても尚、彼女の宝として胸に納まり続ける事だろう。

 

【装備】

頭):ミスリルヘルム

超希少金属であるミスリルによって生み出された兜。その製造方法も加工方法も秘術と云われる程の物である。故に、このアレフガルドにのみ伝えられているミスリル金属を使用した防具は、上の世界に存在する防具よりも遥かに高額で取引されている。この兜一つで竜種の鱗さえも斬り裂くと云われるドラゴンキラーよりも高額であった。

己もこの兜をと口にするカミュを一喝し、彼女だけがこの兜を被る事になったが、それは独占欲から来る我儘でない事は周知の事実である。ミスリルという希少金属で造られた兜の防御力を差し引いても、彼の装備する兜の方が希少性も重要性も高い事を彼女は知っているのだ。

 

胴):大地の鎧

試練の洞窟と呼ばれる人工の洞窟内に安置されていた鎧。『勇者』と呼ばれるカミュが発見するが、その者を主とは認めず、外で待つ一人の戦士を主と定めた。まるで己の意志があるかのように、『人』としての色を残す女性を主と定めた鎧は、他者の手に渡るのを拒む。精霊と共に崇められる対象となる母なるものの名を冠する鎧は、植物や動物を育てるように、温かくその身を包み、護る事だろう。

 

盾):力の盾

アレフガルド大陸に残る希少価値の高い防具の一つ。古から残されているが、その価格と担い手となる者が現れないという理由から、誰の手にも渡る事なく武器屋に眠り続けて来た防具でもあった。

その担い手の心を反映させるかのように、願いに応じて癒しの光を放つ。所有者にしか及ばない癒しの光ではあるが、その効力は中級回復呪文であるベホイミに匹敵する物であった。

 

武器):魔神の斧

遥か太古の魔の神が愛した斧。

その鋭い刃先は、どのような強固な物をも斬り裂き、その一撃は大地をも斬り裂くとさえ謳われた武器である。魔の神と天上の神との争いの際に失われ、地上へと落とされたという。それがネクロゴンドという地方に安置されていた事は奇跡であり、ネクロゴンドにある城に飾られた英雄の像の手に握られていた事も今では謎である。

その斧もまた、他の神代の武器と同様に自我を持っているかのように、己の主を定める。しかも、魔の神が愛した物である為、それは一筋縄ではいかない代物であった。己の主を嘲笑うかのように、試すかのようにその重量を変化させ、扱う者の重心をずらしてしまう事もある。しかし、その変化と持ち手の技量が合致した際には、逸話通りの一撃を生む事もあるのだった。

:オルテガの兜

ルビスの塔にて入手した光の鎧を装備したカミュは、今まで装備し続けて来た父親の兜をその場に捨てて行こうとしていた。だが、それを彼女は許さず、自身が運ぶ事で持ち出している。その兜が必要な時など、今後訪れる事はないだろう。それでも、彼女はカミュという勇者をこの世に誕生させた父親との絆を捨て置く事は出来なかったのだ。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

賢者として完成を迎えた彼女に死角はない。この先でこれまで以上の困難や苦難が彼女を襲うだろう。それでも、迷い、悩む事はあっても、彼女の足は決して止まる事はない筈だ。それだけの経験を培い、覚悟を胸に宿したのだから。彼女こそ、至上最高の賢者と言っても過言でないだろう。魔法力の量、力の強さ、どれをとっても歴代の賢者に遠く及ばないかもしれない。それでも、彼女が秘めた偉業の可能性を持った賢者は、誰一人として存在しなかった事もまた事実である。

 

【年齢】:23歳

賢者として完成した彼女ではあるが、女性としても完成に近付いている。アリアハンを出立した時には、若干十七歳だった彼女も、既に二十台半ばに差し掛かっていた。六年以上、毎日接して来たカミュ達から見れば、その姿形はそこまで変化していないように感じるかもしれないが、アリアハンへ帰還した時に育ての親である神父が感じた感動は一入であったに違いない。大魔王討伐という大きな目標に向かって突き進む彼女の心に今は誰かが入り込む余地はないのだろうが、その偉業を成した後、彼女は女性としての何かに目覚める事だろう。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれており、その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):水の羽衣

アレフガルド大陸の中で、雨の日の翌日にマイラの森に現れると伝えられている『雨露の糸』という素材を織って作られた羽衣。天女が纏った羽衣のように美しく、その表面は水が流れるような輝きを放つ。雨露の糸から羽衣を生み出す事の出来る職人は既になく、マイラの村に現存する最後の一品を購入する事となった。

 

盾):水鏡の盾

カミュがリーシャと共にラダトーム王都にて購入した盾である。勇者の洞窟と呼ばれる場所で発見した古の勇者の防具をカミュが装備した為、彼から譲り受けた。古代龍種であるサラマンダーの吐き出す爆炎を受け、真っ赤に染め上がりはしたが、希少金属で造られたこの盾は、購入した時と一切形状を変化させてはいない。このアレフガルドにしかない盾が、強力な魔物が数多く生息し始めた大陸に於いて、後衛を担当する賢者と魔法使いを命を護る大きな防壁となるだろう。

 

武器):ゾンビキラー

サマンオサ城下近郊での<ガメゴン>との戦闘により、三年以上も共にあった<鉄の槍>は破損してしまった。

共に歩む者達の武器が次々と強力な物になって行く中、彼女だけがロマリアで購入した物を使用していたというのは、彼女自身の武器を扱う力量とは別に、『賢者』となった彼女に合う武器が無かった事が理由であろう。

長い年月を掛けて聖水に浸けても尚、錆などが浮かなかった長剣であり、その刀身に『精霊ルビス』の加護を受けた剣。

聖なる力を宿した長剣は、この世に生を持たない者達に多大な効果を持ち、この世に縛り付けられた魂や肉体を『精霊ルビス』の許へ還すと考えられていた。

   :聖なるナイフ

育ての親であるアリアハン教会の神父から授けられた物。

アリアハン大陸の魔物達には有力な武器ではあったが、ロマリアで鉄の槍を入手してからは、彼女の腰に下がる袋の中に大事に保管されている。

それは、彼女の心の奥にある太い柱となっている『愛』の証であり、彼女が進む道を照らし続ける『覚悟』の証でもある 。

 

所持道具:祈りの指輪

エルフの隠れ里にて購入した物である。メルエの指に嵌っている物と同様の物で、元々は子の幸せを願う親の想いが込められた物が起源と考えられている指輪であった。

純粋な祈りは『精霊ルビス』の許へと届き、指輪の所持者の魔法力や気力を回復するという効力がある。呪文に重きを置くサラにも必要であると考えたリーシャが購入する事をカミュへ提言し、それが受け入れられた事によって、サラの指にも嵌められる事となった。

購入する際は、2500ゴールドという大金が必要となるらしい。

ザオリクという最上位の呪文行使によって、完全に魔法力を失い、この世の生を手放しかねない状況になったサラ自身を救う事となる。その際に精霊神ルビスが封じられた塔から降り注ぐようにサラの体内へと吸い込まれた魔法力を見る限り、この指輪の祈りは確かに精霊ルビスへと届けられていると考える事も出来た。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ

       ザキ

       ザラキ

 

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       メラミ

       イオラ

 

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

       トラマナ

       インパス

       バシルーラ

       ベホマ

       ベギラゴン

       マホカンタ

       マヒャド

       ザメハ

       フバーハ

       ベホマラー

       シャナク

       ザオラル

       ザオリク

       メガンテ(行使及び、その名を口にする事も禁じられる)

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

最早、彼女は魔法使いとして、全ての呪文を修得したと言っても過言ではない。その小さな身体に秘められた魔法力は、魔族にも匹敵する程の物。竜の因子を持つ彼女は、人としての限界を遥かに超えた力を有していた。賢者としての洗礼を受けていない為、回復呪文などの契約は不可能ではあるが、魔法使いとして、呪文使いとしての力量は、歴代の賢者に匹敵若しくは凌駕する物である。

 

【年齢】:7,8歳

どれ程の量の魔法力を有していようと、どれだけの才覚を持っていようと、彼女は未だに幼い少女である。竜の因子の影響によって成長の速度が通常の人間よりも緩やかである事を差し引いても、彼女の心の成長は比較的遅いのだろう。出会いと別れを繰り返し、『人』は大きくなって行く。その中で掛け替えのない出会いがあり、辛く悲しい別れもあるだろう。彼女は今、そういう経験を積んでいる最中なのかもしれない。新たな出会いに戸惑いながらも喜び、辛い別れに涙を流しながら、少女は一歩一歩大人へと向かって歩き続けるのだ。

 

【装備】

頭):とんがり帽子

メルエのお気に入り、友であるアンの作ってくれた花冠が掛けてある。

 

胴):天使のローブ

エルフの女王へ『命の石』の欠片を手渡す為に訪れた隠れ里にて購入した物。

変化の杖の力によって、エルフへと姿を変えたメルエの将来に希望を見出したエルフの店主が購入を勧めた物である。

元々、エルフの母達が自分の娘の未来を案じて、一本一本想いを込めて編み込んで行ったローブが起源となっている。母達の強い想いが、そのローブを形成する糸に宿り、それを纏った者を理不尽な死から遠ざける効果を持つと云われていた。

だが、その効果を最も必要とした時、このローブは彼女の身を護る事は出来なかった。それを誰よりも悔やんでいるのは、もしかするとこの天使のローブ自身なのかもしれない。

  :マジカルスカート

滅びし村テドンで購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

サラの装備する『魔法の法衣』同様、メルエの母親が編んだ物である可能性が高い。常に彼女の魔法力を支え、その身を守る姿は、母親そのものなのかもしれない。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

既に何度もメルエの身を守る為に立ち塞がっており、魔物等の攻撃を受ける際にも、その形状を変化させる事も解っている。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えており、主を護るその時に、そのオブジェの嘴からベギラマと同様の灼熱の炎を吐き出した。主と定めた者を護るような意志を持つその杖が、何故スーの村にあったのか、それは、可能性の話ではあるが、メルエの曽祖父に当たる賢者が残した遺産なのかもしれない。

   :毒針

何度もメルエの身を護ってくれたトルドからの贈り物。

ただ、最近は、メルエが直接的に魔物から攻撃を受ける機会はなく、それを使用する事もない。

それは、カミュやリーシャ、そしてサラといった絶対的な保護者達の働きが大きいのだろう。

 

所持道具:祈りの指輪

精霊ルビスの加護を持つ指輪。

イシス国女王から下賜されたその指輪は、彼女との約束と共にメルエの指に嵌められている。『必ず元気な姿を見せて欲しい』というイシス国女王の願いは、メルエの胸の中で絶対の効力を持つ約束なのだ。その為に、この幼い少女は他の三人を護らなければならない。護りたいと願い、護ろうと決意する。そんな少女の願いと想いだからこそ、この指輪はそれに応えようとするのだろう。

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

       メダパニ

       ボミオス

 

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       トラマナ

       マホトラ

       インパス

       マホカンタ

       ベギラゴン

       ラナルータ

       マヒャド

       シャナク

       イオナズン

       ドラゴラム(書に記載されているが、彼女以外行使不可)

       アバカム

 

      【それ以外の呪文】

       メラゾーマ

 

 

 



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第二十二章
魔の島


 

 

 

 虹色に輝く橋にカミュが足を掛ける。今にも消え失せてしまいそうな程に幻想的な橋ではあったが、しっかりと足を踏み締める事が可能であり、それに続くサラやメルエが乗っても揺れ動く事さえもなかった。

 神秘に彩られた橋を物珍しそうに触るメルエに微笑みながら、この橋を生み出す最後の欠片となった女性をサラは見上げる。その女性戦士は、先程まで浮かべていた涙を既に拭っており、凛とした表情で前に見え始めた魔の島を見つめていた。

 

「ここからは、今まで以上に厳しい戦いになる筈だ」

 

「わかっているさ」

 

 先に橋を渡り切った青年に続いて魔の島へ足を踏み入れた彼女は、表情を引き締めて言葉を紡ぐ。それに大きく頷きを返した青年は、『たいまつ』を掲げながら地図へと視線を落とした。

 そこは、島を外敵から護るかのように険しい山脈によって覆われた場所。この場所に希少金属を産出する鉱山があると言われても納得が出来る程、見渡す限りが山であった。

 その中で橋を渡った左手に見える山は、人が入った事のある場所なのか、それとも魔物が通る場所なのか、獣道のような山道が見えている。道はそれしかない。故に、その道を歩むしか他にないのだ。

 

「メルエとサラの呪文があるとはいえ、瘴気に覆われた島だ。魔物の強さも然る事ながら、戦闘の仕方も考えなければならないだろうな」

 

「そうですね。足元も悪く、視界も悪いです。ただ、私とメルエの魔法力の一部をトラマナに取られている状態ですが、それに関しては然程影響はないでしょう。一度放出した魔法力を操作するだけの事ですから」

 

 漆黒の山道を歩き出した一行の隊列は常に変わらない。先頭をカミュが歩き、中盤をメルエの手を引いたサラが歩く。最後尾に後方にも警戒を向けるリーシャが続く隊列である。どれ程に警戒をしても足りないと思える場所ではあるが、それでも周囲へ目を向けるリーシャの前方を歩くサラとメルエは、絶対的な安心感を有していた。

 昼か夜かもわからない闇の山道を一行は休憩を挟みながら進んで行く。しかし、その山道の中腹に、まるで彼等の行く手を遮るように二体の石像が立ち塞がっていた。

 今はまだ動かない。この魔の島と呼ばれる場所を清める為に建立された、古の英雄を模った石像ではあるが、大魔王ゾーマの本拠地である魔の島の濃い瘴気を受け続けている為、魔物として命を持っている可能性は高かった。

 その前に立った一行は、手に持つ『たいまつ』をその二体の石像へと掲げる。そして、それを見て一斉に戦闘態勢へと入った。

 

「ギャォォォォォ」

 

 まるで石像の身体に巻きついた蛇のような身体が、一気に宙に浮く。カミュ達に向けられた大きな瞳と、口元から見える鋭い牙が、その魔物の生態を明確にしていた。

 勇者の洞窟などで遭遇した龍種。火竜の上位に君臨する火の化身とも伝えられるその龍は、長い身体を宙に浮かせ、今にも全てを焼き尽くす火炎を吐き出そうと口を開いていた。

 盾を掲げようとするカミュの後方へと滑り込んだサラとメルエは、呪文の詠唱へと入って行く。今、カミュ達に敵意を向けているサラマンダーは一体ではあるが、その横に二体の石像がある以上、それらも何時動き出すか解らない。万全の態勢に入った一行の戦闘が始まった。

 

「グオォォォォ」

 

 大きく開かれたサラマンダーの口から燃え盛る火炎が吐き出される。この山の全ての植物を燃やし尽くしたのではないかと思える程の強い火炎を、カミュを勇者と認めた盾が防いだ。

 神聖な壁のように炎を防ぐその盾は、通常の金属とは異なり、火炎の熱によって変色する事はなく、青白い光を発しながら火炎を退けて行く。己の最大の攻撃をいとも容易く防いだ人間に戸惑いながらも、サラマンダーは一端距離を取ろうと身体を動かした。その隙を突いて攻撃を加えようと動き出したリーシャは、横合いから突如唸りを上げた風に力の盾を掲げる。凄まじい圧力を受けた彼女は身体を持ち上げられ、そのまま少し離れた場所へと弾き飛ばされる事となった。

 カミュ達の懸念通り、石像の一体が動き始めたのだ。魔の島にて瘴気に曝され続けた石像は、その身体さえも変色させ、魔人のように顔を歪めながら拳を振るう。並の人間であれば、受けた瞬間に身体が弾け飛ぶ程の威力を誇る拳である。吹き飛ばされたリーシャが勢いを殺しながらも着地した事だけでも異常であった。

 

「グモォォォォ」

 

「メルエ!」

 

 カミュに対して火炎は有効ではないと判断したサラマンダーは、体勢を立て直そうとしているリーシャに向けて大きく口を開く。しかし、そのような行為を許す程、この一行の後方支援組が呆けている訳ではなかった。

 賢者である女性の指示が轟き、それに応えるように小さな少女が大きな杖を振るう。既に詠唱は完成しているのだろう。杖を前方へと突き出したと同時に、杖先にあるオブジェの嘴が開かれた。

 

「…………マヒャド…………」

 

「え?」

 

 しかし、その少女が生み出した現象は、指示を出した賢者の想像を遥かに超えた物であった。闇に包まれた山道に、呆けたような女性の声が響く。その顔には驚きと困惑が浮かび、予想もしていなかった光景に我を忘れていた。

 メルエと呼ばれる少女が振るった杖先からは、ここまでの旅で何度も目撃して来た圧倒的な冷気が迸っている。そこまでは、尋常ではないまでも、サラ達がいつも見ていた光景であった。

 しかし、彼女が呆けた理由はその後にある。生み出された冷気はサラマンダーの周辺で固形化し、氷の刃となって空中に展開された。静止した無数の氷の刃は、再度振るわれた少女の杖の合図によって、一斉にサラマンダーへと降り注いだのだ。

 避ける事も出来ず、無数の氷剣がサラマンダーの身体に突き刺さる。凄まじい苦悶の雄叫びを上げたサラマンダーであったが、氷剣が突き刺さった部分から一気に凍り付き、身体全体が凍り付いた所で、地面へと落ちて砕け散った。

 それは、呪文使いとして最高位に立つ賢者であっても不可解な光景であったのだ。まるで冷気を自在に操っているかのようなそんな神秘の体現に、サラは言葉を失ってしまう。呪文に対して常に考えを巡らせている彼女であってもそうであるのだ。カミュやリーシャからすれば、本当に茫然自失となっても可笑しくはない物であった。

 

「…………イオナズン…………」

 

「へ?」

 

 そして、そんな不思議な空気を醸し出した戦場は、魔法使いの少女の独壇場となる。サラマンダーが一瞬の内に戦場から消え去り、二体の石像とカミュ達との距離が離れた事を確認した彼女は、再度大きく杖を振るった。

 間抜けな声を上げるサラの声など、一瞬の内に消え去る。全ての音が消え去り、耳鳴りがする程に大気が歪んで行く。そして、全ての闇を払うかのような光を発した瞬間、その場にある全てが文字通り消し飛んだ。

 行使者であるメルエの傍に居たサラへ爆風が届く事はないが、それでも目の前の光景が一瞬で変わった事に気付いたのは、眩い光で眩んだ視界が戻った後となる。山肌に残っていた枯れ木も、近くにあった大きな岩も、そこには何一つ残されてはいなかった。勿論、その場で動き回っていた石像も、足先の名残を残すだけで、只の石屑となっている。先程まで、確かに敵が居た戦場とは思えない光景に、サラは只絶句する事しか出来なかった。

 

「……自分を認め、受け入れ、それでも前へ向かおうとする者は、ここまで成長するものなのか?」

 

「……いや、劇的な変化ではないだろうな。元々、メルエにはこれだけの力が備わっていたという事だろう。古の賢者と謳われる者達の中でも、異常な力なのかもしれないが」

 

 圧倒的な勝利を奪い取った少女が生み出した光景に、リーシャは小さな呟きを漏らす。しかし、そんな驚きを含んだ呟きは、彼女の隣に立っていたカミュの言葉で現実を突きつけられる切っ掛けとなった。

 メルエという少女に関しては、昔から常人を越える魔法の才能を発揮しているが、今のマヒャドの効果に関しては更に異常だとリーシャは見ている。だが、それはその才能が開花した結果ではなく、元々これだけの力を備えていた者が、経験と思考によって大きな力を発揮したという事だとカミュは考えていた。

 メルエの祖先が古の賢者であるという事はカミュ達も知っているが、これだけの才能と能力を持つ者が、古の賢者達の中にも存在しなかったのではないだろうか。もし、マヒャドの進化系統が先程メルエが行使した物であるならば、それは『悟りの書』に記載されている筈であり、それを持つサラがあれ程に驚愕する筈がないからだ。

 

「メ、メルエ、今のマヒャドは何ですか!? どのように行使すれば、あのような形で顕現するのですか!? 私にも教えてください!」

 

「…………いや…………」

 

 呆然とイオナズンの跡地を眺めるカミュ達とは異なり、我に返ったサラは、満足そうに杖を仕舞ったメルエの肩に手を乗せて、今の現象について問い質す。その表情も口調も真剣な物ではあったが、それを見たメルエは『ぷいっ』と顔を背けて拒絶の意志を示していた。

 このマヒャドは、自身の力という物とメルエが真剣に向き合って生み出した物なのだろう。幼いながらも、自分に何が出来るのか、どうすれば仲間達を守れるのかという事を、彼女なりに日々考えているのだ。

 氷竜の因子を受け継いだ彼女にとって、氷結呪文というのは他の攻撃呪文よりもその身に馴染み易いのかもしれない。ベギラゴンやメラゾーマを更に進化させる事は一朝一夕には出来ないだろうが、マヒャドという最上位氷結呪文を試行錯誤しながら彼女なりに昇華させた結果であった。

 

「氷の刃を生み出すなんて、どう考えても無理ですよ!? そんな事、悟りの書にも記載されていません。メルエ、意地悪しないで、私にも教えてください」

 

「…………いや…………」

 

 攻撃呪文は、メルエの専売特許であった。だが、サラが賢者となってからは、メルエが行使出来る魔道書の呪文は全てサラも行使出来るようになっている。悟りの書に記載された中で幾つかはメルエにしか契約も行使も出来ない物もあったが、それでもこの姉のようで好敵手であるサラよりも優れている部分が減ってしまった事は事実であった。

 自己に目覚めたばかりの少女にとって、自分だけが可能であったという特別感が失われる事に不満を持っていたのかもしれない。ドラゴラムのように、自分が人間ではないのかもしれないという恐怖を感じる物でない限り、彼女は『自分だけが出来る』という特別感を持っていたかったのだろう。

 故に、必死の懇願に対しても一向に首を縦に振らない。顔を背けた方向に移動するサラから逃れるように、反対側へ顔を背ける少女の姿は、傍から見れば苦笑を誘うような滑稽な姿であった。

 

「メルエ、そんな意地悪をするな。いつもサラから色々教えて貰っているのだろう? それに、そんな意地悪ばかり言っていると、もうサラはメルエの為に魔法陣を描いてくれなくなるかもしれないぞ」

 

「…………むぅ…………」

 

 そんな二人の呪文使いが織り成す滑稽な寸劇を見て、ようやく起動を果たしたリーシャが近付き言葉を掛ける。

 メルエは未だに全ての文字が読める訳ではない。いや、正確には文字は読めるが単語が解らないのだ。それが何を示す物なのか、その文字の集合体が何の事を表しているのかが解らない。文字も書けるが、自分が口にする言葉を書く事が出来るだけで、文章を書くまでには至っていなかった。

 故に、彼女は悟りの書に描かれている言葉の意味を全て理解出来る訳ではない。その効果や行使方法、詠唱の意味などをサラから教えを受けなければ、行使する事も出来ないのだ。

 メラゾーマの魔法陣を解読した頭脳を持っている故に、魔法陣を描き、契約する事は出来るだろう。それでもそれが記された書物はサラが所有しており、上記の理由もあって、サラが描く魔法陣の中に入るというのが、メルエの契約方法として既に確立していたのだった。

 

「アレはメルエだから出来た芸当だろう。マヒャドを行使する魔物でも、あのような形で行使する事は出来ない筈だ」

 

「……そんな」

 

 サラを擁護するリーシャに対し、カミュはメルエ側に付く。メルエが特別であるという事を物語るようなその言葉に、サラは項垂れ、メルエは嬉しそうにカミュのマントの中へと入り込んだ。

 賢者となり、魔法という神秘について常に考えを巡らせているサラにとって、今目にした光景は別世界を見せられたような物だったのだろう。その落胆振りは流石のカミュでも気の毒に感じる程の物であり、そのマントから顔を出した少女の眉も下がってしまう。

 魔法の師でありながら好敵手でもあり、対等の立場でありながら大好きな姉であるサラの姿を見たメルエは、ゆっくりとマントの中から出て来た。

 

「…………むぅ…………」

 

 だが、サラの前まで来たメルエは、何処か困ったように眉を下げ、唸り声を上げてしまう。何かを話そうとしているのだが、どう伝えれば良いのかを迷っているかのようなその姿に、顔を上げたサラは何かに思い至った。

 メルエの姿に理解が及ばないリーシャは首を傾げ、何となくではあるが察しが付いたカミュは溜息を吐き出す。

 

「もしかして、メルエも説明出来ないのですか?」

 

「…………むぅ…………」

 

 頬を膨らませた少女の姿が、サラの問いかけが正しい事を物語っていた。

 メルエの才能は頭抜けた物である。その才能だけで行使していた魔法も、彼女が魔法力の流れやそれの調節を知る事で、考えて行使する事が出来るようになっていた。だが、この少女は教えを請う事はあっても、誰かに教えた事はない。自分がどのように考え、どのように魔法力を流し、どのように魔法を顕現しているのかを他者へ伝える術を持っていないのだ。

 おそらく、感覚だけで行使した物ではない事は確かであろう。彼女なりに考え、試行錯誤を繰り返し、あのマヒャドを生み出した事に間違いはない。だが、それを他者へどのように伝えるべきなのかという事が解らないのである。それが他者と接する機会が余りにも少なかった少女の限界なのだろう。

 

「まぁ、追々練習して行くしかないな」

 

「そんな時間は私達には無いのですが、仕方ありません」

 

 困り顔をしながらも、申し訳なさそうにサラの衣服を握るメルエを見て、リーシャが結論を口にする。そして、その言葉にサラ自身も不本意ながらも首を縦に振るしかなかった。

 このままサラが我を押し通そうとすれば、自分の不甲斐なさにメルエは涙を溢してしまうだろう。そして、それが尾を引けば、メルエの心は傷つき、先程のマヒャドを行使しなくなるかもしれない。それは戦力として大幅に減少してしまうのと同意であった。

 故に、サラはメルエの手を衣服から剥がし、それを優しく握り締める。自分が大人気なかった事を認め、それを少女に伝える為に。

 

「メルエ、ごめんなさい。メルエが余りにも凄い呪文を唱えるから、驚いてしまいました。今度私がマヒャドを行使するところを見て、気付いた事があったら教えてくださいね」

 

 

「…………ん…………」

 

 メルエと目を合わせるように屈み込んだサラは、優しい微笑みを浮かべて彼女に願う。その願いを聞き入れた少女は、大きく頷きを返した。

 そんな二人を見つめながら、リーシャはこの最終局面まで来て尚、この二人が成長を続ける事に驚きながらも喜びを感じていた。

 最上位の呪文を覚えただけではなく、それを更に昇華しようとする考えに驚き、そして、その理由が大事な者達を護る為であろう事に嬉しさを感じる。おそらく、今は驚きや羨望に近い感情を持っているサラも、この先でまだまだ成長を続けるだろう。実際に大魔王ゾーマを目の前にした時、この二人は今とは全く別人のようになっているかもしれないとまで考えが至った所で、リーシャは自分の荒唐無稽な想像に思わず笑みを溢してしまった。

 

「行くぞ」

 

「ああ」

 

 そんなリーシャの笑みを見たカミュは、ゆっくりと歩き出す。未だに山の中腹を越えたばかりであった。魔の島の南方に向かって歩いている一行ではあったが、山道はそのまま西へと向かうように続いている。魔の島の外周を巡るように伸びた山道は、二回の野営を終えた後に終わりを迎えた。

 だが、そこで待っていた物は、想像を絶する光景であり、それを見たカミュやリーシャは眉を顰め、サラは言葉を失う。メルエですら、そこから発せられる不快な雰囲気に眉を下げ、カミュのマントの中へと逃げ込んでしまった。

 

「……大魔王の瘴気というのは、ここまで大地を侵してしまう物なのか?」

 

「この大地が元の生命力を戻すのに、どれ程の時間が必要なのでしょう……。この場所に生命が戻るのに、どれだけの時間を要するのでしょう……」

 

 そこは正に地獄であった。

 周囲の大地は枯れ果て、砂漠化を通り越して毒沼のようになっている。大地から沸き立つように吹き上がる瘴気は、大地に溜まった毒沼を泡立てていた。

 『ぼこぼこ』と不快な音を立てながら湧き出す瘴気が、その場所から全ての生命を奪っている。既に生き物など皆無であり、そこに生命があった名残のように枯れ木が毒沼に浮いていた。砂漠化した場所にも草木は残されていないが、それでもそこで生きる者達は僅かに残っている。だが、この場所は既に命を育む力も残されていなかった。

 その原因がこの場所に居城を持つ大魔王の力である事は明白である。精霊神や竜の女王よりも強いその力に耐える事の出来る生命は少ない。力の弱い者から倒れ、どれ程に生命力を持つ者であっても、長期間その瘴気に晒された事で死を迎えていた。

 

「一刻も早く大魔王を倒さなければ、アレフガルド全土がこのような姿になってしまうだろうな」

 

「はい」

 

 その光景は、常人であれば絶望に落とされ、心を折ってしまう程の物である。だが、最早何があろうと立ち止まらないと誓ったリーシャや、賢者として完成を迎えたサラにとっては、新たに強い決意を生み出す要因となった。

 このアレフガルド大陸を始めとした全ての世界は、『人』だけの物ではない。動植物もエルフや妖精、そして魔物達でさえも生きて行く為に必要な場所なのだ。大魔王という存在の為に、数多くの生命体が暮らす場所を失くして良い筈がない。

 大魔王ゾーマにどのような思惑があるのかは解らない。だが、アリアハンでその声を聞いたリーシャは、全てを滅ぼすと口にした大魔王が、生命が活動出来る場所を残すとは思えなかった。ならば、彼女達はそれを阻むしかないのだ。

 

「カミュ、あれがゾーマの城なのか?」

 

「そうだろうな」

 

 その毒沼だらけの大地の向こうに、赤く燃え滾るような建物が見える。周囲に真っ赤な炎を張り巡らせたその城は、ここまで見て来たどんな城よりもおぞましく、どんな城よりも巨大であった。

 その城を遠目に見ているだけで、恐怖に足が竦みそうになる。そこから生み出される圧倒的な存在感が、自分達が力の弱い人間であるという事を明確に思い出させるのだ。

 それでも一歩、また一歩と毒沼だらけの大地を踏み締めて歩き出すカミュの背中を見て、リーシャとサラも互いに頷き合って足を前へと踏み出す。踏み締める大地が瘴気で脆くなっており、踏み締めるには頼りなかろうとも、その足取りは確かな物であった。

 

「ゾーマ城への最後の関門か」

 

 しかし、そんな一行の足取りは、ゾーマ城へ続く一本道の途中で強制的に止められる。呟くような宣戦布告を発したカミュは王者の剣を抜き放ち、それに続いてリーシャ達三人も戦闘態勢へと入って行った。

 一行が戦闘の意志を見せた事によって、そのゾーマ城を護るように立ちはだかる門番が大気が震える程の雄叫びを発する。五つの首から伸びる五つの頭部。それぞれの口を大きく開けて放つ咆哮は、魔の島全土の大気を振るわせた。

 勇者の洞窟の最下層で遭遇したその異形の化け物の名は『ヒドラ』。龍種とも竜種とも異なるその魔物は、主であるゾーマの居城を護る門番のように、カミュ達へと襲い掛かって来た。

 

「あの洞窟とは違う。今は全ての呪文を放てる状況だ。苦戦はしないだろう」

 

「そうだな。私達もこのような所で足踏みしている場合ではない」

 

 このアレフガルド大陸でも上位に入る魔物であろう。それでも、カミュ達は勇者の洞窟内でこの魔物を討ち果たしている。それも、メルエやサラの呪文行使が不可能という極めて厳しい状況下でだ。

 今、改めてその異形を見ても、『ヤマタノオロチ』と相対した時のような恐怖はない。ルビスの塔で遭遇したドラゴンという竜種の上位種へ抱いた絶望感もない。あるのは、確信に似た力の差であった。

 『この魔物には負ける事はない』という想いが、一行全員の胸に湧き上がる。それは慢心でも傲慢でもなく、彼等の経験と修練の結果なのだろう。大気さえ奮わせる咆哮に揺れる心はない。その恐ろしい姿に惑わされる想いもない。以前に遭遇した頃よりも遥かに成長した一行の戦闘が始まった。

 

「呪文は極力使わず、魔法力を温存してくれ」

 

「わかりました」

 

 剣を構え直したカミュの申し出に、サラは神妙に頷き、メルエは若干不満そうに眉を動かす。

 既に大魔王ゾーマの居城が目の前にあるのだ。見えている城の大きさから考えれば、あの城の内部を相当歩き回る事になり、そこでの戦闘やその後に控える最後の決戦を考慮すると、生命線であるサラやメルエの魔法力は極力温存しておきたいという考えは当然であろう。

 そして、呪文が一切使えない状況下で一行は一度この魔物を討ち果たしている。そしてあの頃よりも力量が大きく上がったカミュやリーシャにとっては、それ程困難な事ではない。

 

「グオォォォォ」

 

 大きく開かれた口の中で渦巻く火炎を見たカミュは、勇者の盾を掲げて足で大地を踏み締める。毒沼化している緩い大地に食い込んだ足に痛みが走る中、吐き出された火炎は盾を避けるように大地を乾かして行った。

 それを待っていたかのように飛び出したリーシャが巨大な斧を振るう。その斧の切っ先がヒドラが持つ一つの首筋に入ったと同時に、激しく体液が吹き上がった。

 既に竜種の鱗さえも斬り裂く事の出来る武器を持ち、その力を有した者の会心の一撃。賢者が放つ補助呪文がなくとも、一つの首程度であれば両断出来る威力を誇っていた。

 首を支えている骨さえも斬り裂き、首を支える事の出来なくなった一つが毒沼の大地に落ちる。傷口から瘴気の毒が入り込み、その首は瞬く間に朽ち果て、骨だけの存在へと成り変わって行った。

 

「メルエ、もう一度トラマナを」

 

「…………ん…………」

 

 そんなヒドラの一つの首の末路を見たサラは、慌ててメルエに呪文行使を指示する。自分が行使をしても良いのだが、今度は自分の番と言って聞かない少女はそれを不満に思うだろう。故に、サラは少女にその杖を振るわせた。

 傷口から入った瘴気の毒は、魔物の中でも上位に入るヒドラさえも骨へと変えている。もし、トラマナという呪文によってカミュ達が護られていなければ、彼等は戦闘どころか行動さえも出来ずに朽ち果てていただろう。

 サラは、自分達が世界を滅ぼす事さえも可能な大魔王の懐に入り込んでいる事を改めて実感する。この先は、自分達の勝利か死の二択しかないという事実を否が応でも感じずにはいられなかった。

 

「ふん!」

 

 そんな呪文使い二人の格闘の間も、前方では巨大な化け物と二人の人間の戦いは続いている。既に白骨化した部分の毒が本体に及ばないように首の骨を踏み砕いたヒドラは、残る四つの首でリーシャへと襲い掛かった。

 巨大な頭部から覗く牙を力の盾で弾いた彼女は、その首目掛けて斧を振り下ろす。その隙に横合いから出て来たもう一つの頭部は、カミュが突き出した王者の剣を受け、眉間に風穴を空けた。

 更に二つの首が戦う力を失って地面へと落ち、傷口から入り込んだ瘴気の毒によって白骨化して行く。勇者の洞窟では絶体絶命の危機に落とされる事はないまでも、ある程度の苦戦をしたヒドラという強敵も、今ではカミュ達に傷一つ付ける事すら叶わない。先程の炎で若干の火傷はあるものの、身体の傷は皆無であり、体力が奪われている様子さえなかった。

 

「グオォォォォ」

 

「下がれ!」

 

 三体の頭部を失ったヒドラは、怒りの咆哮を上げる。このアレフガルドに生息する魔物達の中でも、この咆哮を聞いて身を竦ませない物がどれ程いるだろう。それだけの力を有した魔物であろうとも、今の勇者一行の歩みを止める事は出来ないのだ。

 長い首を何度も振りながら怒りを露にするヒドラに向かおうとしていたリーシャは、カミュの言葉に振り返り、その瞳を見て後方へと飛ぶ。カミュが何をするのかは解らないまでも、何かをしようと動いている彼に全面的な信頼を置く事の出来る絆を彼女は持っていた。

 リーシャが下がり、カミュとヒドラの距離が空く。その隙を見逃さないとでも言うように、ヒドラの残る二つの頭部が同時に大きく口を開いた。中に見えるのは燃え盛るような火炎。激しく燃える火炎は、飛び出す瞬間を待つように渦巻いている。

 それを見て尚、カミュは動こうとはせずに、右手に持つ王者の剣を高々と天へと掲げた。

 

「今こそ、その力を示せ」

 

 呟くような言葉は闇に溶け、それと同時に天に掲げた王者の剣が眩いばかりの光を放つ。神代から残る希少金属を打ったのは『人』。想いと神秘によって生み出されたその剣は、全てに認められた勇者を新たな主とした時に、その力を取り戻していた。

 剣の放つ光に誘われたように、漆黒の闇に包まれた空に稲光が現れる。天の怒りとも伝えられる稲妻は、空に光の線を描きながら、恐ろしいまでの轟音を鳴り響かせていた。

 勇者専用の呪文の中に、稲妻を操る物がある。ライデインという名で伝えられたその呪文は、対象に向かって天の怒りを振り下ろす物であった。それと同等の事を神代の剣が行うのかと考えたサラは、真の勇者のみが持ち得る剣にそれが備わっていても不思議ではないと考える。

 だが、そんな彼女の想像を遥かに超える現象が目の前に展開された。

 

「グオォォォォォ」

 

 ヒドラが二つの口から炎を吐き出すの同時に、一際大きな雷鳴が鳴り響く。ヒドラの叫び声が雷鳴によって掻き消え、吐き出された炎の明るさは、王者の剣が発した神々しい輝きによって包み込まれた。

 轟く雷鳴が、その場全ての空気を斬り裂いて行く。

 ヒドラの周囲全ての大気が真空の刃となって襲いかかり、その強靭な鱗を斬り裂いて行った。噴き出す体液は毒沼に溶け、吐き出された炎は真空の刃によって掻き消される。最後に縦と横に合わさり、十字に切られた真空の刃が、ヒドラの胴体に風穴を空けた。

 

「バギクロスと同じ力を……」

 

 王者の剣が生み出した力は、サラが持つ魔法の一つである『バギクロス』と同等の物に見える。真空の刃を生み出し、その刃は竜種の鱗さえも斬り裂いた。それだけの効果を、人の想いが生み出した剣が生み出す。それは、神秘を顕現する神代の武器と同等の力を持っているという事になるだろう。古の勇者が所有していた時にも同等の力を有していたか解らないが、それでも『人』が生み出した物が神が生み出した物に並ぶという、不敬にさえ成り得る物であった。

 ジパング出身の鍛冶屋は、この剣を生み出した後、『同じオリハルコンを手に入れたとしても、二度と造り上げる事は出来ない』と話している。それは、オリハルコンを融解させる程の熱を持つ『太陽の石』を持っていないという理由だけではないだろう。彼は、この世界で唯一の勇者であるカミュの為だけに剣を打ったのだ。

 創造神も精霊神も、元の所有者である古の勇者も認め、この世界さえも認めた勇者が所有する剣だからこそ、この王者の剣は神秘を内包した形で完成したのかもしれない。『人』の手によって新たに生まれ変わった剣は、人々の想いだけではなく、神々や世界の想いさえも込められているのだろう。

 

「雷は去ったな」

 

「……あの雷は、剣の解放によって呼び寄せられたというよりは、カミュ様が剣を開放する為に発した力によって呼び寄せられたように見えましたね」

 

 ヒドラと呼ばれる魔物の亡骸が瘴気に包まれ白骨化して行くのを見届けたリーシャは、そのまま視線を空へと向ける。先程まで荒れ狂うように轟音を轟かせていた稲光は、闇の中へ吸い込まれるように消えていた。

 大いなる神秘を顕現した剣の衝撃から立ち直ったサラは、先程までの出来事を思い出しながらリーシャの言葉に補足をする。王者の剣は、バギクロスという最上位の真空呪文と同等の神秘を生み出していた。だが、サラがその呪文を唱える時には雷鳴が轟く事はなく、空に稲光が走る事はない。故にこそ、それは剣の力ではなく、剣を解放しようとした者の力だと考えたのだ。

 元々、ライデインという雷呪文をカミュは行使出来る。だが、遥か昔に、それの上位呪文の可能性を彼は語っていたし、今の状況を考えると、勇者自らが雷を呼んでいるかのようであった。雷雲が上空にある時しか行使出来ないライデインとは異なり、自身の都合に合わせ雷雲を呼び寄せ雷を落とす。雷を『使役』するのではなく、『支配』する魔法。カミュという勇者は、その呪文を己の物とし始めているのかもしれない。

 

「これで、ゾーマの城へ続く道は開けた。カミュ、最後の戦いだ」

 

「ああ」

 

 サラの言葉に不穏な空気はない。故にこそ、リーシャはその事実を気に止めなかった。カミュの力が上がっている事は、常に共にある彼女が誰よりも理解している。そして、古の勇者が残した魔法陣や、ラダトーム国王から下賜された書の存在を知っているだけに、それがこの先の戦闘を良い方へ導く物だと信じてもいた。

 リーシャは魔法という神秘に強い憧れを持っている。だが、サラのようにその神秘を深く追求して解明したいとは微塵も思っていなかった。それは、魔法という物を知る者と知らぬ者の違いなのかもしれない。

 

「メルエ、ここから先は常にトラマナを唱え続けなければなりません。魔法力の残量には気をつけてくださいね」

 

「…………ん…………」

 

 そんなリーシャの瞳を見たサラも、その魔法に関しての思考を中断する。もし、その魔法が雷魔法の上位呪文だとしても、サラやメルエには絶対に契約も行使も出来ないだろう。後に名を残す英雄や勇者しか行使出来ない呪文として括られるそれらは、如何に呪文使いとしての才能を持つサラやメルエであっても、行使出来ない以上は解明する事など不可能なのだ。

 故に、サラは隣で不思議そうに首を傾げているメルエに微笑みを向ける。最早、今の二人にとって、トラマナを行使する事など苦にもならないだろう。彼女達の魔法力の総量から考えれば、何度トラマナを行使しようとも枯渇する事などあり得ない。行使に費やした魔法力の消費量よりも、休憩で回復する魔法力の量の方が多い程であった。

 それでも、この先で更に険しくなる戦闘を考えて、彼女は妹のような少女へと忠告を発する。既に魔法力の調整を我が物にした彼女にとっては無意味な忠告のようではあるが、表情を引き締めた少女は、大きく頷きを返した。

 

 六年以上もの旅の果てに、遂に辿り着いた最後の拠点。それは、このアレフガルドという世界どころか、遠い異世界までをも絶望の色に染め上げる力を有した大魔王の居城。

 勇者達が死闘の末に討ち果たした魔王バラモスなど小者の一人。世界を守護する精霊神や竜種の女王さえも退ける程の者が拠点とする城は、そこから発せられる瘴気によって歪んでいた。周囲には燃え尽きる事のない炎が揺らめき、城を浮き上がらせるように照らし付けている。生命体であれば、その城の景観だけでも本能が恐怖の鐘を打ち鳴らすだろう。それでも、彼等は震える足を一歩、また一歩と進めて行く。

 決して晴らされる事はないと考えられていた闇に、小さく細い光の筋が入り込んで行った。

 

 

 




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ゾーマ城①

 

 

 

 ゾーマ城。

 それは、絶望と闇の象徴である。漆黒の闇の中に聳え立つ城は、周囲の炎に照らされたその姿に畏怖を覚える程の物であった。

 巨大な扉は開け放たれており、来た者を選別する為に設けられる城門とは異なっている。開け放たれた門の奥には、アレフガルドを覆う物よりも濃い闇が広がっており、門の前に立つ物全てを吸い込む口のようにも見えた。

 ここまで旅を続け、門番のように立ち塞がっていたヒドラという強敵をも退けた者達の心でさえも飲み込む強大な闇は、この城の奥に居るであろう大魔王の力を明確に示している。その前に立つだけで、ここまで来た事を後悔してしまいそうになるのは、生物の本能の奥底に在る危機管理が警告を鳴らしているからであろう。それ程に、この巨大な城を包む瘴気と闇は強大であった。

 

「行くか?」

 

「それ以外にどんな選択肢がある?」

 

 その異様さと強大さに飲み込まれそうになるサラとメルエを見たリーシャは、門の奥へと瞳を向ける青年に問いかける。だが、彼が返して来た言葉は、彼女が想像していた通りの物であった。

 一言一句違わないそれを聞いたリーシャは微笑み、後方で表情を強張らせたサラの背中を軽く叩き、若干の怯えを見せるメルエの肩に手を置く。どんな生物でも、『命』を有している物であれば、この城を前に足が竦むだろう。破滅と絶望を顕現したようなその城の姿は、覚悟を決めた者達の心でさえも揺るがす物なのだ。

 それでも、肩に置かれた温かな手に少女は微笑み、背中を力強く張られた賢者は苦笑する。自分達が本当に恐れる物は、決して大魔王ゾーマではない。心の奥にあるその恐怖に比べれば、この城もそこに居るであろう大魔王も些細な物でしかないのだ。

 

「さぁ、行くぞ二人とも」

 

「はい」

 

「…………ん…………」

 

 母親のような姉のような女性の笑みを見て、彼女達の心に再び炎が点る。勇者一行としての顔に戻った二人にリーシャは表情を引き締め、前方に立つカミュへ頷きを返した。

 一歩前へと踏み出したカミュが門の奥の闇へと消えて行く。それを追って三人も巨大な闇の中へと入って行った。

 

「グオォォォォ……」

 

 門を潜ってすぐに、遠くから咆哮のような物が聞こえて来る。それは竜種の咆哮のようにも、吹き抜ける風の音にも聞こえる物であった。

 警戒を表すように剣を抜いたカミュであったが、その咆哮が間近に聞こえる物でない事を悟り、そのまま剣を降ろす。しかし、それを待っていたかのように、城内の篝火が一斉に灯った事で全員が戦闘状態へと移行した。

 城内に続く通路の壁に掛けられた燭台にも火が点り、まるでカミュ達を誘うかのように通路を明るく照らして行く。闇に包まれていた筈の城は、瞬く間に周囲を見渡せる程の明るさとなった。

 

「……私達がこの場所に来た事を、ゾーマは知っているのか?」

 

「ルビス様や竜の女王様をも凌駕する程の存在です。私達の事など見透かしていても不思議ではありません」

 

 この演出が城の主の意向であったとすれば、闇に生きる魔族が犇く城に明かりを点す理由など一つしかない。カミュ達の襲来を知り、それでも尚、奥へと誘おうとしているという事。それは、大きく口を開けた絶望の闇へ誘う罠なのか、強者としての絶対的な自信が成せる物なのかは解らないが、自分を討ち果たそうとしている者達を嘲笑うかのような行動である事だけは確かであった。

 明かりに照らされた城の壁には、どす黒い血痕のような染みが付着している。それは魔物同士の争いで出来た体液の染みなのかもしれないし、この場所まで辿り着いた人間の残した物かもしれない。それを見たリーシャの脳裏にある一人の英雄の姿が浮かび、彼女は顔を顰めた。

 

「どっちだ?」

 

「ん? どちらへ行っても変わらないように思うが……」

 

 そんなリーシャの考えを遮るように発せられたカミュの問いかけは、ここまでの旅で何度も繰り返されて来た物。洞窟や塔、バラモス城でさえも、彼は必ず進むべき方角を彼女に尋ねている。必ず彼女が発した方角とは逆を進むのだが、それでもそれは絶対的な信頼を向けている証拠でもあった。

 案の定、彼女が口にした言葉に頷きを返した彼は、そのまま右の通路へと向かって歩き出す。もし、リーシャが右と答えていれば、彼は必ず左へと進んだだろう。逆に左と答えていれば、右に向かって歩いた筈だ。どちらも同じだと口にされた為に、彼は己が武器を振るい易い右の通路へ歩を進めたのだろう。

 このゾーマ城の外観を見る限り、右の方角へ進めば、いずれ北へ向かう為に左へ折れなければならない。右手に武器を握り、左腕に盾を持つ彼にとって、左からの攻撃への対処は右からの攻撃よりも容易なのだ。

 

「腐敗臭とは異なる死臭が酷いな」

 

「腐乱死体が出て来る時の臭いに比べれば良いが、不快である事に変わりはないな」

 

 先頭を歩くカミュが持っていた『たいまつ』の炎を消し、袋に納める。状況を見る限り、この城の内部の燭台全てに炎が点ったと考えても良いだろう。だが、見晴らしが良くなりはしたが、城の奥から吹き抜けて来る死臭は、一歩進むごとに強まって行った。

 カミュ達が最も苦手としている魔物の一つである腐乱死体が迫って来る時のように、目の奥にまで痛みが走る臭いではないが、それでも顔を顰めたくなる不快な臭いである事は確かである。放置され続けた死体が、腐敗し、肉が溶けてなくなり、骨となる。その骨さえも風化する程の時間の経過の中で床や壁に染みこんだ臭いは、彼等の未来を示すかのように城全体に漂っていた。

 

「ギシャァァァァ」

 

 真っ直ぐ伸びた通路が突き当たりを迎え、左に折れる場所まで進んだ時に、カミュは咄嗟に勇者の盾を掲げる。横合いから突如聞こえて来た奇声と共に、錆と刃毀れの酷い剣が振り抜かれたのだ。

 乾いた金属音と共に弾かれたように後方へ飛んだカミュの目の前に、六本の腕を持った白骨が一体立っている。もう一度振られた腕からの剣撃。まるでカミュの行く手を遮るように四本の腕が同時に剣を振るった。

 上からも両脇からも、そして下からも振るわれる剣。同時に振るわれた四本の腕から逃れる術はない。僅かの時間で絶体絶命の危機に陥ったその姿が、ゆっくりとリーシャには見えていた。

 

「ふざけるな!」

 

 しかし、そんな絶望的な景色は、危機に陥った本人が発した心の叫びによって掻き消される。全ての剣戟を無視するかのように前方へ盾を掲げたカミュは、そのまま一気に骨の剣士に向かって突進したのだ。

 錆びた剣が彼の纏う鎧に跳ね返され、刃毀れした剣が兜によって折られる。神代の盾の突進を受けた骨は、そのまま壁に叩きつけられ、乾いた音を立てて床へと崩れて行った。

 だが、大魔王ゾーマが居城とする場所に居る魔物が、その程度で行動を停止する訳がない。盾を降ろしたカミュの周囲に散乱する数多くの骨が再び動き出し、生前の身体を形成し始めた。人ではない事を示すように、腕を六本持つその骨の集団は、傍に落ちている朽ちた剣を握り、勇者一行の進路を塞ぐように揃ったのだ。

 

【ソードイド】

骸骨系の剣士最強の魔物である。朽ち果て、白骨化した者達を膨大な魔力によって現世に甦らせ、そこに意志さえも植えつけられた。異世界さえも滅ぼす事が出来る力を持つ大魔王の傍にあり、その強大な魔力を与えられ続けた為、その力は増大し、数多く居る魔物や魔族の中でも上位に入るだけの力を持っていた。手に持つ剣は錆び、刃毀れが酷い為、斬り裂く事は容易ではない。それでもその剣で強引に生物を切り刻む力を持ち、それで斬られた傷痕は修復が難しく、斬られた者は苦しみ悶えながら命を落として行くのだ。

 

「四体か……多いな」

 

「それでも、呪文は極力控えるのだろう?」

 

 完全に戦闘態勢に入ったカミュの横にリーシャが並ぶ。前衛組と後衛組に別れ、磐石の布陣を敷いた一行は、油断なく骸骨達へ視線を送った。

 目の前に居るソードイドの数は四体。その腕の合計数は二十四本となる。カミュ達四人の腕の合計数が八本であるのだから、その三倍の数量になるだろう。それらの攻撃を掻い潜りながら本体を破壊して行く行為は、かなりの困難な物となる筈だ。

 それでもカミュとリーシャは、後方に控える二人の呪文行使を最低限に抑えようと考えていた。自分達前衛だけでこの局面を乗り越え、後方支援組の魔法力を温存しなければ、この先で相対する大魔王との戦闘で勝利を掴む事など出来ないと考えていたのだ。

 魔法力は無限ではない。如何に魔法力の量を桁違いに持っているメルエといえども、その大呪文に使用する魔法力の量は多く、休憩を挟んだとしても全てを回復する事はないのだ。この魔の島に入ってからだけでも、マヒャドの進化系やイオナズンという大呪文を行使している。この先も同様に呪文を行使し続ければ、大魔王ゾーマの場所に辿り着く頃には魔法力の底が見えて来てしまうだろう。『祈りの指輪』という道具で回復する量も全快には程遠い事を考えると、無理をするべきではない事は明白であった。

 

「では、私達だけであの骸骨達を冥府へ送り返さないとな」

 

「そのつもりだ」

 

 魔神の斧を肩に担いだリーシャが前方でカタカタと奇妙な音を立てるソードイドへ視線を送る。それに頷きを返したカミュが、一足飛びに一体のソードイドの前に接近した。

 カミュの接近に気付いたソードイドがその六本の腕を振るう。先程とは異なり、同時に振るわれた訳ではない腕を盾と剣で弾き返したカミュは、ソードイドの胸部を模る肋骨を蹴って距離を取り、態勢を崩したその頭部に向かって王者の剣を振り下ろした。

 だが、そんな一対一の状況を許す程、ソードイドも甘くはない。カミュの横合いから現れた他のソードイドが左右から刃毀れだらけの剣を振るった。既に振り下ろした王者の剣を引き戻す事は出来ないカミュではあったが、彼の瞳の端に映った影を確認し、横から迫る剣を無視してそのまま剣を振り下ろす。

 ソードイドの被っていた錆びた鉄兜ごと頭部に入った王者の剣は、その身に宿した真空の刃のような切れ味を持って、頭蓋骨を真っ二つに斬り裂いた。それと同時にカミュの身体へと食い込む筈であった刃毀れの多い剣は、後方から現れたリーシャの持つ力の盾によって遮られ、そのまま振り抜かれた斧によってソードイドの身体を支える背骨ごと斬り裂かれる。

 

「あと二体だ!」

 

 背骨を斬り裂かれ、上半身と下半身が分かれてしまったソードイドは、転がる他の骨を持って修復しようと動くが、這いずるそれの頭蓋骨を踏み砕いて、リーシャが前方に残る二体のソードイドに視線を送った。

 瞬く間に上級の骸骨剣士を葬り去った彼らの力量は、既に人間と称して良い物なのかは甚だ疑問である。もし、今の彼等が上の世界の魔物達と遭遇したとすれば、魔物の方が裸足で逃げ出す程の力量なのだろう。

 現に、残る二体のソードイドでさえ、カミュとリーシャを前にして戸惑っているように見える。彼等の攻撃方法と言えば、その数の多い腕による四方八方からの剣撃という物しかない。それを抑えられてしまえば、彼らには術は残されていないのだ。

 

「ちっ」

 

 しかし、それでも大魔王ゾーマの城に棲み付く程の魔物である。慢心して相手が出来る程度の魔物ではないのだ。

 舌打ちと共に掲げた勇者の盾を持つ手に伝わる衝撃は、通常の人間であれば吹き飛ばされる程の強さであった。それを生身で受けてしまえば、刃毀れだらけの剣によって傷ついた内臓は修復出来ず、徐々に迫る死の恐怖と戦いながらソードイドの追撃を受けなければならないだろう。

 盾で剣を弾き返したカミュは、そのまま王者の剣を振るい、ソードイドの腕一本を斬り飛ばす。空中に飛んだ腕は、そのまま後方のソードイドの腕に落ち、カミュに向かって来ていた一体が後方へと下がった。

 

「なに!?」

 

 しかし、腕を斬り飛ばしたカミュが追い討ちをかけようとしたところで、目の前に広がった信じられない光景に絶句する事になる。

 後方にいたもう一体のソードイドが、斬り飛ばされた腕を持って近付き、それがあった部分に当てた後、なにやらカタカタと音を立て、淡い緑色の光を発したのだ。その光に包まれた腕は、光が収まると同時に元通りに接続され、それを確認したソードイドがその腕を再び振るい始めた。

 その光景は、その奇跡の理由を知るカミュ達にとって驚愕する物であったのだ。その淡い緑色の光がベホマだろうがベホイミであろうが、欠損部分を繋ぐという行為は不可能に近い。生身の身体であれば、その傷痕を塞ぐ程度しか出来ない中で、骨だけという特殊な状況であって尚、異常な物であった。

 

「あれがベホイミやベホマであっても、欠損部分を繋ぐ事は生身の身体では困難です。ですが、大魔王の魔力によって生み出された骨という特異性を考えると、可能なのかもしれません」

 

「そうか……カミュ、生半可な攻撃であれば、長引くぞ。全ての攻撃に会心の物が求められる。気合を入れろ!」

 

「……気合で何もかもが上手く行けば良いがな」

 

 呆然とその光景を見ていたリーシャであったが、後方からのサラの声に我に返り、再び魔神の斧を握り直す。それと同時に発せられた言葉に、カミュは苦笑に近い表情を浮かべた。

 会心の一撃とは、何度も何度も繰り返して来た中の至高の一振りである。それは狙って出せる物ではない事など、武器による攻撃に最も長けた彼女が一番解っている筈なのだ。それでも、その一振りを常に追い求めるからこそ、彼女は戦士であり、騎士である事もまた事実である。そして、今こそその至高の一振りを出す事をカミュにも求めるという事は、その頂まで彼もまた登っている事を認めている証拠でもあった。

 その心理を理解しているからこそ、苦笑を浮かべ、嫌味を口にしながらも、彼は剣を握るのだ。

 

「おりゃぁぁ」

 

 ソードイドの六本の腕から繰り出される剣戟を斧で弾き、弾き切れない物を盾で防ぐ。それでも避け切れない物は、横から加わったカミュが弾いて行った。

 二体のソードイドと二人の人間。剣戟の数であれば、圧倒的にソードイド側が優勢であっても、戦闘自体の情勢は徐々にカミュ達二人へと傾いて行く。人間離れした速度での剣捌きは、戦士としての頂点に立つ者の技であった。如何に大魔王ゾーマの魔力で底上げされた剣士であるソードイドであっても、その骨に刻まれた剣士としての力量は、カミュやリーシャに及ぶ物ではない。後方で眺める事しか出来ないサラやメルエでさえも目で追う事しか出来ない剣速は、最早神域にまで達しているのかもしれない。

 

「!!」

 

 一筋の光のように走った剣筋は、右斜め下からソードイドの身体を斬り裂いて行った。カミュの持つ王者の剣が走った道筋は、大気さえも斬り裂いたかのようにソードイドを真っ二つに両断する。己が斬られた事さえも気付かないソードイドが尚も剣を振るおうと動くと同時に、その身体を形成していた骨が床へと落ちて行った。

 崩れ落ちたソードイドの頭蓋骨を再び踏み砕いたリーシャは、そのまま跳躍し、後方から迫るもう一体のソードイドの脳天目掛けて魔神の斧を振り下ろす。錆びた鉄兜諸共、斬るというよりは圧し砕くという形で粉砕して行き、ソードイド達との戦闘は終了を向かえた。

 

「ふぅ……終わりか?」

 

「ちっ、無茶をし過ぎだ。後ろで回復魔法を掛けてもらえ」

 

 斧を一振りしたリーシャは、周囲へ警戒の視線を巡らせた後、一つ大きく息を吐き出す。その手足からは真っ赤な鮮血が流れており、顔にも傷痕が見受けられた。如何に人類を超越した剣戟を繰り広げていたとはいえ、ソードイド程の強敵との戦闘を無傷で終える事は出来ない。致命傷を避けてはいても、その身体には激戦の証が刻み込まれていた。

 溜息を吐き出すカミュは、全身を光の鎧で保護されている為に目立った外傷はないが、彼よりも前線に立っていたリーシャの身体全てを大地の鎧では護り切れないのだろう。だが、現状でこれ以上の防具となれば、戦闘での機敏さと引き換えにする他なく、当のリーシャ本人もこの大地の鎧が最も身体に馴染む物であると考えていた。

 

「ベホマ」

 

 再び探索の隊列へと戻ったリーシャに、サラが最上位の回復呪文を唱える。出来る事ならば、回復呪文を行使する回数さえも節約したいところではあるが、それを優先させる事で命を落としてしまっては本末転倒である為、カミュもリーシャもその治療に対して何かを口にする事はなかった。

 動き出した一行を誘うように、ゾーマ城内の通路に灯った明かりが強まって行く。左に折れた通路は狭く、四人が横に並ぶ事は出来ない。人が擦れ違う事が可能な程度しかない通路を一列で進んで行く間、カミュもリーシャもそれぞれの武器を納める事なく、歩いて行った。

 

「メルエ、足元に気をつけろ」

 

「…………ん…………」

 

 ゾーマ城内は、魔物なのか人間なのか解らない骨が散乱している。魔族同士の争いに敗れた者、魔物同士の闘争に敗れた者などの成れの果てなのだろうが、それでも歩き難い通路である事に変わりはない。特に幼いメルエにとっては、足場が不安定な場所を長時間歩く事は見えない疲労の蓄積に繋がって行く筈である。それを察したリーシャが、彼女に忠告を漏らし、それを受けた少女も大きく頷きを返した。

 トラマナは常に唱え続けている。今のサラやメルエにとって然程影響がある物ではないが、それでも長時間に渡る行使の継続は、彼女達呪文使いの身体に見えない疲労を積み重ねている事は事実であった。

 しかし、この城は、諸悪の根源と謳われる、大魔王ゾーマの居城。そこへ踏み込んだ勇者一行にとって楽な道など有りはしない。真っ直ぐに続いた通路を左に折れ、その先へ視線を向けると、再び分かれ道が見えて来ていた。

 

「どっちだ?」

 

「良く見れば、左に向かえば部屋のような扉が見えるぞ?」

 

 反射的にリーシャへ問いかけたカミュであったが、壁の向こう側をメルエと共に覗き込んだリーシャの答えを聞いて、視線を向ける。その言葉通り、左手に続く通路はすぐに行き止まりとなっており、左右に扉が見えていた。

 燭台の炎に照らされ、この城の中は見通しが良い。闇に包まれたアレフガルド大陸の中で、最も探索し易い場所でもあるが、それが逆に彼らを迷わせていた。

 頼りない『たいまつ』の炎のみで進むのであれば、カミュは迷いなくリーシャの言葉の逆へ進んでいるだろう。だが、その先の通路が見えているだけに、リーシャもまた決定的な言葉を口にしない。それがまた、彼等全員を出口のない迷路へと陥れる事となっていたのだ。

 

「行ってみるか?」

 

「アンタは行ってみた方が良いと思うのか?」

 

 それでも、この一行を常に導いて来た青年は、再度『行き止まり探知機』へと問いかける。それだけ、彼がこの女性戦士を信頼している表れであるのだが、当の本人はその信頼に気付かず、真剣に悩み込んでしまった。

 斧を持ちながら腕を組んだ彼女は、暫くの間考え込む。それを真似するように足元で少女が腕を組む姿は、この場所で無ければ微笑ましい物であろう。だが、いつこの場所に強力な魔物が顔を出すか解らない状況では、少しの油断も許されず、メルエの行動に微笑む人間もいなかった。

 

「私は、あの右の扉の先へ行ってみたいとは思うが……」

 

「……わかった。ここは、あの二つの扉を無視して進む」

 

 暫く考えて、ようやく出たリーシャの答えは、素気無く無視される事となる。左へ折れる道へ進む事なく、再び真っ直ぐに歩き始めた一行は、即座に見えて来た突き当りを右へと曲がった。

 その時、地面が大きく揺れる。まるで地震のように床が波打ったのだ。幼いメルエは床へ尻餅を突き、体勢を低くしなければカミュ達でさえも転倒しかねない程の揺れ。それは、一際大きな明かりが漏れる右手の空間から発生しているように感じた。

 既に臨戦態勢となったカミュ達は、そのままゆっくりと歩を進める。大きな燭台が見える場所には、まるで王城の謁見の間へ続くような大きな扉が見えていた。

 ここが通常の国家の王城だとすれば、あの扉の先に玉座がある間があるのだろう。ここが大魔王ゾーマの居城である事を考えると、そこに玉座があるのであれば、必然的に頂点に立つ者が居るという事になる。

 そして、それは大魔王ゾーマとなるのだ。

 

「……準備は良いか?」

 

「愚問だ。私達はこの時の為に歩んで来たのだからな」

 

 扉の前に立ったカミュが、一度振り向く。その先にある三つの顔へ順々に視線を送り、そしてゆっくりと問いかけた。

 それに対して、返って来る答えを彼は知っている筈である。そして彼の予想を全く違える事なく、斧を肩に担いだ女性戦士は言葉に乗せた。

 アリアハンという国を出てから六年以上の月日は、この時を迎える為の物。ここまでの苦労も悲しみも、喜びさえも、この先に居るであろう大魔王を討ち果たす為の物であった。リーシャの後ろで神妙に頷くサラとメルエの表情にも決意の色が表れている。それを確認したカミュは、ゆっくりと扉を押し開いた。

 

「ゾーマ様の城に何の用だ?」

 

「!!」

 

 しかし、その扉の先に居た者は、カミュ達が想像していた者ではなく、醜悪な姿を持つ巨大な肉塊であった。

 醜い紫色の体皮を持つそれは、このアレフガルドで最初に入った洞窟の中で彼らを苦しめた者と酷似している。異なるのは、それが発した人語だけであろう。勇者の洞窟という場所に生息していた同様の魔物は、唸り声を上げるばかりで言葉を発する事はなかった。だが、今目の前に存在する魔物は、はっきりとカミュ達にも理解出来る言葉を口にしたのだ。

 周囲に目を向ければ、そこは間違いなく謁見の間と呼ばれるような場所。通常の国家であれば王が政務を行う場所とされる間である。それを示すように、醜い巨人の後方には、装飾が施された玉座が見えていた。

 

「お前達がゾーマ様の下へ辿り着く事はない。この場で俺達に喰われるのだからな!」

 

 玉座とは王が座す椅子である。そして、カミュ達の前に存在する二体の巨人もまた、その種族の王であった。

 トロルキングと呼ばれる、トロル族の王。そして、このゾーマ城に居る者達はその中でも更に上に君臨する者達であろう。トロル族を纏めるのがボストロールであり、そのボストロール達を指揮出来るのがトロルキングだと区別するならば、今目の前に居る二体は、そのトロルキング達さえも統べる、トロル族の大王なのかもしれない。

 大きな雄叫びを上げて振るわれた棍棒が大気を動かし、カミュ達の身体ごと震わす振動を生み出す。

 

「カミュ様、魔法力の節約が出来る場面ではありません」

 

「頼む」

 

 口からはみ出した長い舌から唾液を滴らせ、今にも手に持つ棍棒を振り下ろそうとしている二体のトロルキングを見上げたサラは、視線を動かす事のないカミュへと言葉を告げる。それに対して返って来た物は、単純な僅か一言のみ。だが、その短い言葉が後方支援組の二人の心に火を点した。

 勇者とは、『勇気有る者』という事に加え、『勇気を奮い立たせる者』という面もある。その点で言えば、このカミュという青年は間違いなく『勇者』なのであろう。

 具体的な指示はない。どのような呪文を行使し、どのような効果を求めているのかも口にはしない。それは、彼がサラとメルエという二人を心から信じている証でもあるのだ。必要な場面で必要な効果を持つ呪文を行使してくれるという絶対的な信頼を向けられた者が奮い立たない訳がない。振り向きもせず、視線さえも動かさない青年の背中を見ながら、二人の呪文使いは万全の態勢を築き始めていた。

 

「ブモォォォォ」

 

 豚のような、牛のような奇声を上げたトロルキングが、カミュ目掛けて棍棒を振るう。後方へと飛んで避けたカミュがいた場所の床が抉られ、石畳の破片が飛び散った。追い討ちを掛けるように、もう一体のトロルキングが横薙ぎに棍棒を振るう。それを勇者の盾で受け止めたカミュの身体が宙に浮き、吹き飛ばされると同時にリーシャが前へと出た。

 振り抜かれたトロルキングの腕目掛けて振り下ろされた斧は、紫色の皮膚を斬り裂き、大量の体液を飛び散らせる。だが、それでも巨人の腕を斬り落とす事は出来なかった。

 怒りの咆哮を上げたトロルキングは、傷を受けていない腕をリーシャ目掛けて振り下ろす。横殴りの拳とは異なり、全体重を乗せた一撃は、如何に強靭な戦士の身体であっても相応の損傷を与える程の物。盾を掲げてそれを受け止める事を諦めたリーシャは、転がるように避けた。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 リーシャが転がった先に、先程までカミュと対していたトロルキングが棍棒を振り下ろす。体勢を戻した瞬間に迫る影に気付いたリーシャが盾を掲げようとするが、それは後方から飛んで来た巨大な火球によって無用となった。

 多少離れてはいても、リーシャの金髪を焦がす程の熱量を持った火球は、そのままトロルキングの胴体目掛けて飛んで行き、肉を焼き焦がす轟音と、肉が焼け爛れる異臭を放ちながら壁に直撃する。そして、その場に残ったのは、円形に胴体を抉られたトロルキングだけであった。

 

「グオォォォォ」

 

 腹部の大半を融解させ、命さえも奪われたトロルキングであったが、それでも最後の力で棍棒を振り下ろす。最上位の力を持つ巨人の命を掛けた一撃は、カミュ達にとっては痛恨の一撃であろう。メルエの放ったメラゾーマを見たリーシャは、僅かな時間ではあるが力を抜いてしまっていた。その一瞬を狙われたのだ。

 凄まじい轟音と共に、巨大な棍棒が床へとめり込んで行く。それと同時にゆっくりとトロルキングの巨体もまた、床へと沈んで行った。巨体が倒れた振動が床へと響く中、後方で成り行きを見ている事しか出来なかったサラが動き出す。

 サラの動きに気付いた残る一体のトロルキングが棍棒を振るい、それを遮るようにカミュが盾を掲げた。先程宙に舞ったカミュであったが、今度は床に根でも下ろしたかのように動かず、それに驚いたトロルキングの隙を突いて、王者の剣を真っ直ぐに突き出す。肉を突く不快な音と共にトロルキングの腹部に突き入った剣は、そのまま真下へと振り下ろされた。

 

「リーシャさん、しっかり!」

 

「ぐっ……」

 

 トロルキングの死体を乗り越えてサラがその場に着いた時、そこには虫の息の女性戦士が横たわっていた。

 強力な一撃を受ける際、咄嗟に盾だけは掲げたのだろう。それでも盾を持っていた左腕の骨は砕け、身体の内部にある臓物は傷つき、外からの圧力に耐え切れなかった身体の各所が裂けていた。瞳の光も虚ろになっている事から、生命の炎さえも消え掛けている。それでも、この女性戦士ならばと、サラは必死に呼びかけながら最上位の回復呪文を唱えた。

 身体全てを包み込むような大きく柔らかな光が放たれる。淡い緑色の光がサラの身体からリーシャの身体へ移って行った。

 徐々に癒えて行く外傷と同時に、リーシャの吐き出す息も整って行く。それを見届けたサラは安堵の溜息を吐き出し、既に終幕を迎えたカミュとトロルキングの戦闘へと視線を戻した。

 

「その力を示せ!」

 

 下腹部に渡る致命傷を負ったトロルキングではあったが、流石はトロル族の王の中の王と感心する程の粘りを見せている。大量に噴き出す体液を気にもせず、怒りに染まった瞳をカミュへと向け、手に持つ棍棒を振り回していた。

 その人間の希望の王者とトロル族の王者との戦闘には、メルエであっても入り込む隙はなく、呪文を行使する機会を見付ける事が出来ない。だが、その戦闘も徐々にカミュの方へと形勢は傾いて行った。

 動きが緩慢になって来たトロルキングの小さな隙を見つけては剣を振るい、その身体の機能を徐々に奪って行く。そして、最後に距離を取ったカミュは、外でヒドラへ向けたように、王者の剣を高々と掲げて見せた。

 

「グボッ」

 

 王者の剣が稲光のように輝き、真空の刃となってトロルキングへと襲い掛かる。十字に切られた真空の刃は、その大きな胸に風穴を空けた。

 逆流した体液を盛大に吐き出したトロルキングが遂に膝を着く。その隙を見逃さずにカミュは王者の剣を横薙ぎに振るった。

 首筋を深々と斬り裂かれたトロルキングの体液が天井に向かって噴き上がる。噴き上がる体液の量が減って行く毎に、その大きな瞳に宿る光もまた、萎むように失われて行った。

 最後は呻き声も漏らす事が出来ずに、巨体がゆっくりと床へと落ちて行き、大きな振動と共に倒れ伏す。その命の灯火が消えた二体の巨人の死体が横たわる中、主の居ない玉座だけが眩い光を放っていた。

 

「……コイツは大丈夫なのか?」

 

「はい。内部の傷も癒えていると思います」

 

 剣に付着した体液を振り払ったカミュは、横たわるリーシャの許へと移動する。既にメルエもその場所に移動しており、心配そうに母のような女性に視線を送っていた。

 問いかけに笑みを浮かべて頷いたサラを見て、カミュは小さな溜息を吐き出す。この戦いに慢心も油断もなかった筈。それでも尚、一瞬の気の緩みが生死を分かつ事を改めて実感していた。それはサラやメルエも同様であり、先程カミュへ向けた笑みを消したサラは、真剣な表情で眠るリーシャへと視線を戻す。

 ここが全ての魔物や魔族を統べる大魔王の居城である事を忘れた事はない。それでも心の何処かに、『大魔王を倒す為に来た。それまでの道で相対する魔物や魔族は前座に過ぎない』という想いがあったのだろう。その証拠に、彼等は極限まで魔法力を節約するという事を念頭に戦闘を行っていたのだ。それを慢心と言わずして何を慢心と呼ぶというのだろう。

 この城に居る魔物達は、それこそ大魔王ゾーマの側近中の側近。居城に居付く事を許された者達であれば、それ相応の実力を持っていて当然なのだ。全力で相対すれば、カミュ達に負けはないかもしれない。それでも制限を掛けたままで打倒出来る程に甘い相手ではなかった。

 それを彼等は身を以て痛感していた。

 

「カミュ様、リムルダールに捕らえられていた囚人の話を覚えていらっしゃいますか?」

 

「……ああ」

 

 目が覚めないリーシャの頬に優しく手を当てるメルエを見て微笑みを戻したサラが、再び厳しく表情を引き締め、カミュへと問い掛ける。その言葉を聞いた彼は、暫し考えた後で頷きを返した。

 ここは大魔王ゾーマの城という認識が彼等にはある。だが、精霊神や竜の女王と同等以上の力を持つ大魔王を魔神と称しても可笑しくはない。そう考えれば、この場所を神殿と考えても不思議ではなかった。

 そして、この謁見の間のような場所には一つの玉座がある。トロルキングの体液が発する生臭さと、その死体が放つ異臭に包まれる間の中で一際輝く装飾が施された玉座が、場違いのように目立っていた。

 

「あの囚人は、『玉座の後ろに秘密の入り口がある』と語っていました。調べてみる価値はあるかと思います」

 

「わかった。アンタは、コイツとメルエを頼む」

 

 この城の中で行動していない場所は多い。まだ行っていない場所の何処かにも玉座がある可能性はあった。だが、この場所にある玉座の後ろを調べてみる価値はあるだろう。

 あの囚人の話が全くの出鱈目である可能性は高い。何故なら、このゾーマ城がある魔の島に渡る術は何年も前に失われているのだ。となれば、この場所に渡った者も皆無に等しく、情報自体の信憑性が薄くなる。

 それでも彼等の中に残る最後の情報はそれしかなかった。他の道を歩めば、大魔王ゾーマへと続く道も見つかるかもしれない。だが、先程の戦闘から考え得るに、彼等には悠長に城探索をする時間も余裕もないのだ。

 強力な呪文を唱えれば、魔法力の残量に不安が残る。かといって、前線の二人の直接攻撃だけに頼れば、結局は回復呪文を行使する為に魔法力を使う事になる。結局、補助も回復も呪文に頼る事になるのだ。

 もし、この状況さえも見越した形で、この城の明かりを灯したのが大魔王ゾーマだとすれば、カミュ達が苦しみ悶えながらも自身の下へ辿り着く様を楽しんでいるとしか思えない。そして、満身創痍の状態で辿り着いた彼等の絶望に歪む顔を見る事を待っているのかもしれなかった。

 

「ぐっ」

 

「リーシャさん!」

 

 カミュが玉座の裏へと姿を隠した頃になって、ようやくリーシャの意識が戻る。回復したとはいえ、身体に走った一瞬の激痛に顔を歪ませたリーシャであったが、心配そうに覗き込んで来る二人の妹達の表情を見て、無理やり笑みを作った。

 ゆっくりと身体を起こし、立ち上がって身体の状態を確かめて行く内に、先程まで軋むように体を襲っていた激痛も霧散して行く。あれ程の激痛に苦しむ程の怪我を負った自分を、懸命に癒してくれたのだと理解したリーシャは、心配そうに見上げて来る二人に今度こそ心からの笑みを浮かべた。

 

「カミュはどうした?」

 

「あっ、カミュ様は玉座の後ろを調べています。私達も向かいましょう」

 

 頷いたリーシャの手を引いたメルエがトロルキングの死体を越えて行く。死の一歩手前までリーシャを追い込んだトロルキングは、メルエの中で温情を与えるに値しない死体なのかもしれない。死体に一瞥も送らず、それを乗り越えた彼女は、大きな玉座の裏に姿を隠したカミュを覗き込むように顔を出した。

 まるで何かから隠れているように覗き込むメルエの姿に苦笑したリーシャは、そのまま玉座の後ろに回り込み、そこで屈み込んでいるカミュの背中越しに床へと視線を送る。屈み込んでいた彼は、床へ手を当て、何度か叩きながら確認作業を行っていた。

 

「何かありそうか?」

 

「この部分だけ、音が違う」

 

 後方から声を掛けて来たリーシャに振り向く事もせず、カミュは床を軽く叩き続ける。確かに、カミュが足を付けている場所と、少し前方とでは、叩いた時の音が微妙に異なっていた。前方の部分は叩くと甲高い音が響いている。まるでその下が空洞であるかのような音に、カミュは確信を持って立ち上がった。

 そのまま何も言わずに手を翳し、リーシャ達三人を後方へと下がらせる。彼の行動を不思議そうに見ていたメルエは、下がった場所に屈み込み、先程のカミュと同じように床を叩き出す。しかし、何処を叩いても同じ音しかせず、眉を下げて首を傾げるのだった。

 そんな少女の行動に気付く事なく、カミュは右足を上げ、一気に床へと落とす。大きな破壊音が玉座のある間に響き、その音に驚いたメルエが立ち上がる頃、カミュの右足が踏み抜いた床がその全貌を現した。

 

「地下へ繋がる階段ですね」

 

「まぁ、魔族は地中深くと相場は決まっているだろうな」

 

 長年開けられる事のなかった床からは、地下へと続く階段が見えている。大魔王ゾーマが地下に居ると決まった訳ではないが、カミュ達はある程度の確信を持っていた。

 基本的に魔族は闇を好む。獣が凶暴化した魔物であれば、陽の光の下でも活発に活動し、そこで食料などを確保するだろうが、純粋な魔族などは、闇の中で生きて来ていた。魔王バラモスもまた、ネクロゴンドの城の玉座がある場所ではなく、地下に自身の場所を作っている。あれが、大魔王ゾーマの居城であるこの場所を模倣した物であるとすれば、間違いなくこの先でゾーマは待ち受けているだろう。

 この階段がトロルキングなどの巨大な魔物達が通れる大きさではない事を考えると、他にも地下へと繋がる道があるのかもしれないが、今それを探している余裕はない。無言で頷き合った四人は、一歩一歩階段を降りて行く。

 

 ゾーマ城とも、ゾーマの神殿とも云われるこの場所は、通常の王城とは異なり、天に向かって高さを伸ばした城ではない。存在していたとしても二階層程度の物であろう。だが、逆に地中深く掘り進められていた。それが何階層あるのかは定かではない。それでも、彼等は進まなければならないのだ。この先の道中で遭遇する多くの強敵達を討ち払いながら、全ての元凶である大魔王を討ち果たす為に。

 再び点された『たいまつ』の炎が地下へと消えて行く。静まり返った玉座の間を照らしていた明かりもまた、その役目を終えたかのように次々と消え去って行った。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
1月に3話更新が間に合いませんでした。
2月は3話更新を目標に頑張って行きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ゾーマ城②

 

 

 

 地下へ続く階段を下りると、そこは小さな空間であった。

 周辺には何もなく、光の届かない地下である為に、『たいまつ』の頼りない炎しか明かりはない。だが、三人が持つ『たいまつ』で全てが照らす事が出来る程に、その場所は狭い物であったのだ。

 何もないその空間に一つだけある物は、更に地下へと下りるような下り坂のみ。漆黒の闇に包まれたその奥を見る事は叶わず、『たいまつ』を奥へと掲げたカミュは、用心深く下り坂を下りて行った。

 

「燭台はあるな」

 

 地下へ足を進めると、そこは先程の空間とは異なり、かなり広い空間である事が解る。何故なら、カミュ達の頬を吹き抜けて行く風が奥の方から大量に押し寄せていたのだ。

 その風が奥から押し寄せてくる物なのか、それとも更に下層から吹き抜けて来る物なのかは解らないまでも、『たいまつ』の明かりだけで進んで行けるような場所ではない事だけは確かであった。

 周囲に『たいまつ』を向け、壁に掛かった燭台を見つけたカミュは、そこに残る燃料に火を点し、徐々に明かりを確保して行く。何の為に、この燭台が設けられたのかは解らない。もしかすると、バラモス城のように、この場所もまた、魔族以外の生命体が作った場所なのかもしれない。

 

「カミュ、更に下へ向かう階段のような物があるぞ?」

 

「……どう思う?」

 

 燭台に点した炎によって視界が開けた事で、カミュ達が下って来た道の正面に階段のような段差が見えて来る。だが、それは階段というよりは、何かが滑り落ちたような物であり、少し足元を狂わせれば、そのまま下層へ落下してしまいそうな物であった。

 それに対して、暫し考えていた彼女が、『行った方が良いかもしれない』と口にした事で、その階段を下りるという選択肢は完全に除外される。そして、下りて来た坂と穴のような階段の間には、北側に向かう通路が延びている事を確認した一行は、そのままその通路を進んで行った。

 

「カミュ、これは一筋縄では行かないぞ」

 

「ああ」

 

 真っ直ぐに延びた通路を歩く中で、左右に掛けられた燭台に火を点して行く。徐々に見えて来た先ではあったが、一際大きな燭台に火を点した時、前方に広がるその光景にカミュ達は言葉を失った。

 見えて来たのは、所々が崩壊した空間。床が抜け、人が通れるかどうかさえも定かではない程の幅の通路が続き、その通路を形成する床も多くの亀裂が走っており、いつ崩れるか解らない物であったのだ。

 こちら側の燭台の炎では、向こう岸の様子は解らない。明かりが届かない部分は真っ黒な闇に覆われており、考えなしで進むには危険が大き過ぎるような物でもあった。

 

「……これは、ルビス様の塔に施されていた模様と似ていますね」

 

 更に言えば、その床のあちこちに、奇妙な模様が刻まれている。それは、ルビスの塔の探索時に見た物と酷似していた。

 カミュが纏う光の鎧が封印されていた柱に向かう為の通路に施されていた模様。その模様が刻まれた床は、その上に何かが乗った事を察知すると、自動的に動き出すという機能を持っていた。もし、この床もあの時と同様に動き出すのだとすれば、かなり困難な道である事に変わりはなく、ましてや魔物と遭遇してしまえば、自由の利かない足場の中での戦闘となるだろう。それは、今のカミュ達にとってかなり厳しい戦いになる事を物語っていた。

 

「確か、前へ進もうとすると、この模様であれば左に行ってしまうものですから……」

 

「…………メルエ………のる…………?」

 

「駄目だ」

 

 地面に屈み込み、その模様と現象を思い出しているサラを覗き込んだメルエの瞳は、楽しい事を見つけた時のように輝きを宿している。だが、そんな少女の企みは、母のような女性に首下を掴まれた事で潰えてしまった。

 不満そうに頬を膨らませる少女の姿は、とても大魔王に向かおうとする一行の物とは思えない。それでも、この少女が居るからこそ、この重要な場所であっても自分達が冷静さを失わず、平常心を保っていられるのだろうとリーシャは思っていた。

 だが、それとこれは別の話である。不満そうに頬を膨らませるメルエに軽い拳骨を落としたリーシャは、真剣な表情でメルエへ視線を送った。それを見た少女は、この場所が気を抜いてはいけない場所である事を改めて認識し、真面目な表情で首を縦に振る事となる。

 

「足元に気を付けてください。この奇妙な模様とは別に、崩れ落ちる危険性もありますから」

 

「メルエは私が抱き上げよう」

 

 自分の足で歩けない事を告知されたメルエは、残念そうに眉を下げるが、不満を口にする事はなかった。この場所で不満を口にしても聞き入れられない事は、幼い彼女であっても解る事であり、三人の真剣な眼差しでそのような状況ではない事を彼女なりに察したのだ。

 一歩一歩、足元に『たいまつ』を向け、他の人間が上に掲げる明かりで全体像を見ながら進む。奇妙な模様が隙間なく描かれている部分に出るまで、カミュを先頭に綱渡りのような状態で進んで行った。

 

「この床の模様であれば、右へ進もうとすれば前に動く筈です」

 

 サラの指示通り、まずはカミュが床に乗り、右方向へ進もうと足を踏み出す。それを感知したように床自体が前方の床と入れ替わるように動き出し、カミュの身体は前方へと押し出された。

 その光景を見たメルエの瞳が再び輝きを取り戻す。我儘を言って良い場面ではない事を知りながらも、その気体に満ちた瞳を自分を抱くリーシャへと向けた。

 しかし、その願いは聞き入れられず、首を横に振ったリーシャは、同じように移動を完了したサラの後を続いて床へと足を乗せる。落胆の表情を隠そうともしないメルエではあったが、ゆっくりと動き出す床の動きに、小さな笑みを漏らした。

 

「時間は掛かりますが、一つ一つ進んで行くしかないようですね」

 

 何度か動く床を越え、彼等はこのフロアの中央付近まで移動している。入り口付近の燭台に点した炎も小さくなり、今ではその周囲以外は全て闇の中に飲み込まれたようにしか見えない。逆に進行方向に至っては、『たいまつ』の明かりだけではほとんど照らす事は出来ず、真っ暗な闇だけが広がっていた。

 それでも、どれだけ時間を要しようとも、この場所を抜けなければならない。正しい道であるのかどうかと問われれば、未だに疑問は残るが、これ程の仕掛けが施された場所であるならば、大魔王ゾーマの居場所へ繋がっている可能性は高いと考えられた。

 しかし、そんな一行の努力は、足元の床に模様が途切れた事で『たいまつ』を上げた瞬間に無と帰す。カミュが上げた『たいまつ』の炎に照らされていたのは、巨大な石像。大魔王の魔力を濃密に受け続けたその石像の色は、不気味なほどに光り輝いていた。

 

「カミュ!」

 

 リーシャの叫び声と同時に、目の前の石像の腕が先頭に居るカミュの頭上へと振り下ろされる。盾で受けるという選択肢を取らなかったカミュが、狭い床を転がってそれを避けるが、その拳が脆い床に大きな亀裂を生み出した。

 この崩れかけたフロアで魔物との戦闘は無謀である。特に目の前の大魔人のような魔物との戦闘は絶対に避けなければならない。その巨大な石像の重量を支えるだけでもこのフロアの床は精一杯なのだ。それにも拘わらず、この場所で暴れまわれば、生み出す結果など明らかであった。

 

「うおりゃぁぁぁ」

 

 それでも、何もせずに石像に潰されるという結果を受け入れる事は出来ない。カミュと入れ替わるように前へ出たリーシャが横薙ぎに魔神の斧を振るった。

 大魔人の拳と、リーシャの魔神の斧が衝突する。それぞれが渾身の力を込めて振るった力は、衝撃を生み出し、全ての力を支える足元の石畳に亀裂を生じさせた。爆発するように弾かれた拳と斧、しかし、その強度は一目瞭然となる。刃毀れ一つない魔神の斧とは対照的に、大魔人の拳には細かな亀裂が入っていたのだ。

 人類最高の攻撃力を持つ戦士が、魔の神が愛した武器を渾身の力で振るっている。如何に魔人とはいえ、魔神には敵わない。一度入った亀裂は止まらず、横から再び剣を持って飛び出して来たカミュの一撃を受けた大魔人の片腕が粉々に砕けて行った。

 しかし、亀裂が入っていたのは何も大魔人の腕だけではない。カミュの放った一撃と、その着地の衝撃に耐えられなくなった石畳の亀裂は瞬時に広がり、瓦解した。

 

「メルエ!」

 

「…………スクルト…………」

 

 足場を失ったカミュとリーシャ、そして大魔人が下の階層へと落ちて行く。離れてしまった為に、カミュがアストロンを唱えたとしても、サラやメルエにその効果が届く事はないだろう。故に、サラはメルエに指示し、それに重ねるように自分もスクルトという防御呪文を唱えた。

 魔法力によって自分達を覆う膜を作った二人は、カミュ達が落ちて行った穴へと飛び込んで行く。下の階層までの距離がどれ程の距離かは解らないが、このフロアの天井の高さから考えるに、それ程の高さではないだろう。だが、それでも闇に包まれている先が奈落の底へ繋がっている可能性も有り得る。一抹の不満を持ちながらも、サラはしっかりとメルエの手を握ったまま下へと降りて行った。

 

 

 

 

 サラの考え通り、下の階層までの高さはそれ程の物ではなかった。だが、それでも着地したサラ達の足に伝わる衝撃は強く、二人のスクルトという呪文がなければ、彼女達の体重を支えている足の骨は砕けていただろう。そしてそれを感じたサラは、先に落ちたカミュ達の状況を確認する為に『たいまつ』を周辺に掲げた。

 カミュの持つアストロンという絶対的な防御呪文を唱えたのだろう。リーシャの肩を抱くような形で鉄化していた二人の身体が、徐々に生身の色を取り戻している。しかし、それよりも早くに体勢を立て直した大魔人は、欠けた足の石を無理に動かして立ち上がり、巨大な拳を振り上げていた。

 

「…………イオラ…………」

 

 それを見たサラが対策を講じる前に、地面へと足を下ろした少女が大きく杖を振るう。城の外で唱えた最上位の爆発呪文を唱えなかったのは、彼女なりに様々な事を考慮に入れた事が理由であろう。

 最上位の爆発呪文では、洞窟のような屋内であっては、全てを破壊しかねないという点。その凄まじい破壊力によって、カミュ達二人が傷ついてしまう可能性を考慮に入れた点。そして、自身の魔法力を極力温存するというカミュ達の方針を組み入れた点である。

 威力を絞った形の爆発呪文は、拳を振り上げた大魔人を破壊する程の威力はないが、それでもその巨体を後退させるだけの力は有していた。爆発の威力で仰け反った大魔人は、数歩後ろへと下がって行く。その隙に鉄化が完全に解けたカミュとリーシャが武器を構え、戦闘態勢を立て直した。

 

「この広さなら、邪魔になるような物もない」

 

 ぐるりと周辺を見渡したカミュは、落ちた先のフロアがそれ相応の広さを有し、戦いの邪魔になるような物がない事を確認する。その言葉通り、周辺には何もない広い空間が広がるだけであった。

 しかも、床は上のフロアとは異なり、今にも崩れそうな物ではなく、しっかりとした作りになっている。その証拠に、かなりの重量がある大魔人や、鉄と化したカミュ達が落ちた場所も、少し石床が削れている程度で亀裂などが入っている様子もなかった。

 フロアを囲むように燭台が立てられており、まるでこの広い空間に何かがあった様子さえある。カミュ達が動けない事を確認したサラは、大魔人への警戒をメルエへ任せ、燭台へと炎を移して行った。『たいまつ』から移された炎は、そこに残されていた枯れ木に燃え移り、広いフロアを照らして行く。視界が闇から晴れた事を確認したカミュとリーシャが、同時に『たいまつ』を投げ捨てて大魔人へと駆け込んで行った。

 

「うおぉぉぉぉ」

 

 真っ直ぐに飛び込んで行ったリーシャを払うように腕を振るおうと身体を動かした大魔人であったが、その腕は先程砕かれており、突進して来る女性戦士を弾き飛ばす事が出来ない。それは勇者一行を相手する者としては致命的な隙になった。

 腕がない事に気付いた大魔人が反対の腕を振ろうと動いた時には、大腿部の辺りにリーシャの斧が突き刺さる。そのまま振り抜かれた斧が、大魔人の片足を強引に奪った。片足を失って体勢が崩れる中、それでも残る腕で身体を支えようとする大魔人の首筋に王者の剣が突き刺さる。叫び声など上げる事の出来ない筈の大魔人の断末魔のような音が響き渡った。

 

「ふぅ」

 

 片腕を失い、片足を失い、頭部までも失った大魔人の中に残る灯火はない。大魔王の魔法力によって支えられていた大魔人は、その支えを全て失って床へと崩れ落ちて行った。

 地響きを鳴らして崩れ落ちた石像を見届けたリーシャは、溜まっていた息を吐き出し、背中に斧を納める。同じように剣を納めたカミュは、落ちている『たいまつ』を拾い上げ、周囲に残った燭台へと炎を移して行った。

 徐々に鮮明になるそのフロアは、上の崩れ落ちそうな部分全てと同等の広さを誇る。ただ、その場所には燭台以外は何もなく、見渡す限り岩で出来た壁しか見えなかった。

 

「カミュ様、こちらに上へ向かう梯子のような物があります」

 

 カミュとは反対の方角にある燭台へ炎を移していたサラは、自分とメルエの立っていた場所の後方に階段らしき物がある事を発見する。それは、階段と呼べる程しっかりした造りの物ではない。まるで這い上がるようにして何度も往復を繰り返した結果で出来た溝が、段差を生み出した物に見えた。

 周囲の燭台全てに炎を移し、このフロアを隈なく見渡しても、行く先はその階段らしき物しかなく、頷き合った一行は、カミュを先頭にそれを上って行く。そして、先頭のカミュが慎重にそれを上り切った時、自身の予想通りの光景に一つ溜息を吐き出した。

 

「やはりこの場所か」

 

「そうですね。元の場所に戻りましたね」

 

 カミュに続いて顔を出したサラもまた、自分が想像していた通りの光景に納得する。そこは、あの動く床がある場所に向かう前に立っていた場所であった。リーシャが見つけた階段らしき下り坂の先が、先程大魔人と共に落下した場所へと繋がっていたのだ。

 おそらく何かしらの影響で落下した魔族なのか魔物なのかが、必死に這い上がろうと苦心した事で出来た上り坂なのだろう。このゾーマ城の中に足を踏み入れた人間などが皆無に等しい事を考えると、魔物や魔族にとっても険しい城なのかもしれない。

 

「とりあえず、あの崩れ掛けの床から落ちても戻って来れる事は解ったな」

 

「……そう何度も落ちたくはないのですが」

 

 上り難い階段に苦心していたメルエを抱き上げたリーシャが最後に顔を出し、その場所が何処かを理解した後で、納得したように漏らした言葉は、サラには決して受け入れたくはない物であった。

 確かに、カミュの持つアストロンという呪文があれば、何度落ちても傷一つ残る事はないだろう。だが、それこそ行使の瞬間を誤れば命に係わる事であり、進んでその轍を踏む必要はないのだ。

 それでも、この崩れ掛けフロアに魔物や魔族がいないとは限らない。先程のように石像が設置されている可能性もあるし、その先に魔物が住み着いている可能性もある。それを考えれば戦闘は避ける事は出来ず、戦闘が激化すれば再び落下してしまう可能性もあった。

 

「やはり、随分と広い場所だったのだな」

 

「ああ、だが、これで行く方向は解った」

 

 しかし、その心配も杞憂に終わる。狭い通路を抜け、奇妙な模様が多く刻まれた場所まで歩いた一行は、視界が開けている事を理解した。

 下の階層にあった全ての燭台に火を点した事によって、所々で抜けてしまっている床からその明かりが届いていたのだ。下から明るく照らされたフロアは、薄暗くはあっても闇ではない。『たいまつ』の炎の明かりを必要とせずに進む事も可能であり、床に炎を近づけて模様を読み取る必要もなかった。

 奥の方まではっきりと見える訳ではないが、それでも全く見えないという訳ではない以上、歩けない事はない。下の階層で面倒に思う事なく、全てに炎を点した事が功を奏していた。

 

「メルエは、私が抱き上げていよう。サラは、模様を確認しながら指示を出してくれ」

 

「…………むぅ…………」

 

 再び動く床の上を進んで行かなければならない。それはカミュ達三人にとっては、出来る事ならば避けたい物なのであるが、メルエだけはそれは喜びになっていた。床へ近付いた事で目を輝かせていた少女は、突如抱き上げられて頬を膨らませる。だが、現状は我儘を言える物ではない事を理解している為かむくれるだけで不満を口にする事はなかった。

 そんなメルエの様子に苦笑を浮かべたサラは、そのまま床へと視線を落とし一つ一つの模様を読み取って行く。この模様がルビスの塔にあった物と同じ物であれば、『人』の手によって造られた物と考えられなくはなかった。だが、このゾーマ城が人の手によって造られたとは考え難い。そうなられば、逆転の発想から、あのルビスの塔の仕掛けもゾーマか、その側近などの手によって施されたと考えるのが妥当となる。

 魔法力などで仕掛けを作った場合、その模様の形や方角が先程とは異なる可能性も出て来るだろう。そこまで考えた結果、サラは再びその模様を注意深く読み取って行った。

 

「カミュ様、そのまま右へと足を踏み出してください」

 

 カミュのすぐ後ろを歩くように付いて行くサラが、カミュの足元にある模様を読み取って行く。先程大魔人と遭遇した場所を越え、再び模様が密集した床に入る頃、床の穴から漏れて来る下の階層の明かりがフロアの奥を照らし出して来た。

 薄暗くはあるが、何とか見える範囲で、先の方に三又に分かれるように延びる通路のような物が見える。動く床で身体を運びながらも、カミュはその光景を見た事で足を止めた。サラもまた、模様を読み取ろうと屈んでいた身体を起こし、ある方角へと視線を移す。サラの行動に同調するように、カミュとメルエも同じ方角に視線を移した。

 そこにあるのは、彼等が洞窟や塔などを探索する際に最も頼りにする人物の顔である。

 

「どっちだ?」

 

「ん? そうだな……真ん中は駄目だな」

 

 自分に集まった視線に驚く事なく、リーシャはカミュの問いかけに暫し思考する。彼女の天性の感覚ではあるのだろうが、それでも何とか皆の為になろうと真剣に考えているのが実に彼女らしい。そして、懸命に考えた結果が絶対に採用されない事を既に理解していても、自分が感じた事を曲げる事なく伝える彼女だからこそ、カミュ達三人は絶対的な信頼を向けるのだった。

 暫し考えた彼女は、三方向に分かれた通路を見やり、一つの選択肢を斬り捨てる。彼女としてはその後に右か左かという選択が残っている為、再度考えようと思っていたのだろう。だが、その一言を聞いたカミュはサラへ視線を送り、それにサラが頷いた事で向かう方角は完全に確定してしまった。

 

「ん? 右か左かを決めなくても良いのか?」

 

「いや、もう十分だ。真ん中の通路へ向かう」

 

 自分の答えを最後まで聞かない事を単純に疑問に思ったリーシャが問いかけるが、然も当然の事のようにカミュは会話を打ち切る。一番最初に捨てられた選択肢こそが、彼らをこの城の最奥へ導く物であるという事を疑いもしない彼は、そのままサラの指示を待って行動に移して行った。

 カミュの態度に腹を立てる訳でもなく、それを不快に思う訳でもなく、純粋に理解出来ないリーシャは首を傾げ、それを見ていたメルエも、彼女の腕の中で笑みを浮かべながら首を傾げる。何処まで行っても、どれ程に過酷な場所に居ても、この少女だけは変わらない。皆と共にある事に喜びを感じ、皆と共に笑い合える事に幸せを感じている。それを見たリーシャは、この笑みを護る為にも戦わなければと、優しい笑みをメルエへと向けた。

 

「まぁ、こうなるだろうな」

 

「簡単には通してはくれないだろう」

 

 真ん中の通路を進むと決めた一行は、動く床を計算しながら慎重に進み、遂にその通路へと足を下ろす。その通路には模様は描かれておらず、床が急に動き出す事はないだろう。だが、通路に掛けられた燭台に炎を移したカミュは前方にある影を見て剣を抜いた。

 予想もしていたし、それが当然と認識していても、自分達の障害となる者の登場に溜息を吐きたくもなるだろう。メルエを降ろして武器を構えたリーシャが、前方へ『たいまつ』を放り投げた。

 赤々と燃える『たいまつ』の炎に照らし出された影は二体。背中に蝙蝠のような大きな翼を持ち、それぞれの手には鋭い大きなナイフや長い鞭のような物を持っている。勇者の洞窟で遭遇したサタンパピーに酷似した魔族が、カミュ達の行く手を遮るように立っていた。

 

「コノ先ニ何ノ用ダ。人間ノ分際デ、大魔王様ノ城ヘ入リ込ムナド、許サレル事デハナイ!」

 

 鞭を持った一体が、その鞭を大きくしならせて床を打つ。それと同時に発せられた言葉は、流暢ではないが人語であった。この言葉が、人間が生み出した物なのか、それともエルフや魔族が生み出した物なのかは今ではもう解らない。正確に言えば、『人語』と称する事自体が誤りである可能性もあるのだが、それを論じるのは不毛であった。

 目の前に居る二体の魔物の力が、この城で下位にあるのか、それとも上位に位置するのかは解らないが、彼等が発する死の臭いは非常に強く、数多くの死の上に立っている事は明白である。

 

【バルログ】

サタン族として括られる魔族の頂点に立つ者の呼称。ベビーサタンの成長の結果がサタンパピーであれば、ミニデーモンの成長の結果がバルログではないかという説もあるが、信憑性は薄い。力の象徴としての名前を掲げている事からもその力量が相当な物である事が推測出来るが、遭遇した者が生き残った例はなく、伝承として残されている魔族でもあった。

ただ、遠目にその姿を見た者が遥か昔に存在し、対峙していた数多くの人間が指一つ動かさないバルログによって、一瞬で皆殺しにあったという伝承も残っている。謎の多い魔族ではあるが、その力量の高さは推測出来るだろう。

 

「死ネ」

 

 戦闘開始の時は近付き、相手の動きを見る為に構えを取ったカミュ達を嘲笑うかのように、バルログは一言人語を発した後で、奇声のような詠唱を完成させる。その瞬間、カミュ達四人の瞳に映っていた光景は闇の霧に包まれて行った。

 薄暗くとも見えていた通路は、霧が掛かったかのように闇に落ち、その闇の中を、人型の頭蓋骨を持つ光の筋が縦横無尽に飛び回る。飛び回る頭蓋骨が近くを通り抜ける度に囁かれる甘言は、生者の気力を吸い取り、死という闇へと引き摺り込む。それは、彼等四人を何度も絶望の淵へと落とした事のある忌むべき呪文であった。

 

「……お前が死ね」

 

 だが、今の一行の中に、そのような誘いに応える者はいない。誰もが絶望の淵から這い上がり、自身の目的を見つけている。悲しむ事もあるだろう、苦しむ事もあるだろう。それでも必ず立ち上がり前へと進むという覚悟の上で、今の彼等は成り立っているのだ。

 死への甘言を振り払い、瞬時に間を詰めたカミュが王者の剣をバルログへと振り下ろす。余りにも予想外の出来事に動揺したバルログであったが、間一髪のタイミングで持っていた短剣を掲げ、王者の剣を防いだ。だが、魔族が持っている剣といえど、たかだか短剣で受け止められる程、王者の剣は生易しい武器ではない。軌道を外す事しか出来なかったバルログの身体に裂傷が入った。

 

「グッ……」

 

 傷は浅いが、広範囲に及び裂傷から人間とは異なる色の体液が流れ出る。全体的に茶色に近い緑色をしているバルログの皮膚は裂け、苦しみに歪んだ瞳に怒りの炎が灯った。

 追撃をしようと剣を振り上げたカミュであったが、もう一体のバルログが振るった鞭を避けなければならず、その場に屈み込む。その機会を狙って傷を受けたバルログがカミュを蹴り飛ばした。

 流石は上位に入る魔族と言わざるを得ない力で蹴り飛ばされたカミュは、転がるように後方へと飛ばされる。それに乗じて前へ出たリーシャの斧も、前方から飛んで来た鞭によって弾かれた。

 正に息も吐かせぬ攻防に、サラとメルエは援護の呪文を唱える隙を見出せない。死の呪文こそ、既に脅威ではなくなったが、この魔族の恐ろしさがそれだけではない事は、今の攻防で明らかである。この狭い通路の中で、メルエの放つ強力な攻撃呪文は使えない。彼女が最も恐れる『仲間を傷つける』という可能性がある限り、彼女が杖を振るう事はないだろう。カミュとリーシャが呪文の通り道を空けてくれれば可能ではあるが、今の攻防を見る限りではそれも不可能に近かった。

 

「メルエ、危ない!」

 

 それでも手助けの隙を見つけようと必死に前衛二人の動きを見ていた少女は、大きな声と同時に真横へと押し倒される。その拍子に被っていた帽子が脱げて宙を舞い、ゆっくりと流れて行くように、メルエの瞳にその光景が映し出された。

 自分に覆い被さるサラ、そして宙を舞う帽子。帽子に付けられた花冠の花弁が一片落ちて行く。そして、彼女がカミュ達と出会ってからずっと被り続けて来た帽子を、一筋の光が真横に分断して行った。

 

「!!」

 

 生まれて初めて他人から買って貰った物。

 最も古く、最も大事な彼女の宝物。

 初めて出来た友との約束の証である花冠が取り付けられ、いつも一緒だった物。

 それが、彼女の目の前で破壊された。

 

「メルエ! 怒っては駄目です!」

 

 何が起きたのか理解が出来ない。理解したくはない。それでも目の前で落ちて行く大事な物は上下に分かれ、帽子としての機能全てを失っていた。

 花冠は無事である。帽子の根元に付けられた花は、未だに瑞々しく咲き誇り、己の無事を主に伝えているかのようであった。だが、花冠が付けられた部分とは別の上部が少女の胸に落ちて来た時、彼女の中の何かが燃え上がる。

 決して高価な物ではない。上の世界であれば、どこの町でも望めば手に入るような帽子である。魔法使いと呼ばれる職業の者が好んで被る何の変哲もない三角錐の帽子。だが、この少女にとっては、何にも替え難い宝物であった。

 胸の中から湧き上がるように何かが燃え上がり、それと同時に彼女の内にある膨大な魔法力が外へと漏れ出して行く。それに気付いたサラは、少女の瞳を真っ直ぐに見つめ、叫ぶように叱りつけた。

 

「メルエの宝物である事は解っています! それでも、今は怒りで呪文を唱えては駄目! 我慢して下さい!」

 

「…………むぅ…………」

 

 漏れ出した膨大な魔法力と反比例するように冷めて行くメルエの瞳を真っ直ぐに見つめ、繰り返しサラは叫び続ける。メルエがここまでの怒りを見せた事はない。カミュ達が攻撃を受けた時も怒りを表すが、これ程に冷たい瞳をする事はなかった。それだけ、この帽子が彼女にとって大事な物である事が痛い程に理解出来るサラだからこそ、何度も何度も少女の心へと訴えかけるのだ。

 彼女達の近くにバルログが来た形跡はない。二体の魔族が後方へ向かわぬように、前衛二人は必死に戦い続けている。先程の攻撃は、その距離をも越える物だとすれば、一体のバルログが持つ鞭での攻撃と考えるのが妥当であろう。

 金属ではない鞭で布を斬り裂くのだ。その威力は相当な物となる。もし、あれがメルエの顔面や胴体に直撃していたとすれば、この少女は真っ二つに斬り裂かれていた可能性さえもあった。

 

「カミュ、鞭の奴から先に倒せ! 手負いの奴は私が抑える!」

 

「わかった」

 

 度重なる呼びかけによって、ようやくメルエの瞳に光が戻った頃、鞭を持ったバルログを斧の一撃で吹き飛ばしたリーシャがカミュへと叫び声を上げる。サラやメルエの状況を確認出来る程、今の彼等に余裕はない。それでも、自分達が避けた鞭による攻撃が後方組の方へ向かったという失態だけは理解出来た。

 サラとメルエの声が聞こえる以上、彼女達に大きな怪我はないのだろう。それを把握したリーシャは、後方を脅かす可能性もある一体を先に葬る事を優先させたのだ。

 自身が抑えに回る事にしたのは、予想以上にバルログの動きが俊敏だった事が理由であろう。守備に徹する分には脅威ではないが、それを仕留めるとなれば、カミュの方が良いという判断であった。

 

「メラ」

 

 鞭を振るおうとするバルログを牽制するように、カミュが最下級の火球呪文を唱える。勿論、上位魔族であるバルログには、メラでは火傷一つ負わせる事は出来ないだろう。それでも、呪文も行使出来るという可能性を見せる事で、バルログの行動を制限しようとしたのだ。

 カミュの考えが功を奏し、バルログが鞭を振るう腕を戻す。その僅かな時間で間合いを詰めたカミュは、剣を振るうのではなく、勇者の盾を押し出す事で、バルログの体勢を崩した。よろめくバルログが苦し紛れに振るった鞭は、カミュの兜を弾き、その頬を斬り裂く。噴き出す血潮で視界を遮られながらも、瞬き一つせずにカミュは王者の剣を振り抜いた。

 

「グッ……人間ノ分際デ!」

 

 バルログの肩口に入った剣は、まるで真空の刃のように綺麗にバルログの身体を斬り裂いて行く。噴き出す体液の量が致命傷である事を物語っているが、それでも矮小な人類に負ける事を良しとしないバルログは、僅かに動く唇で再び呪いの言葉を紡いだ。

 瞬時に押し寄せる死への言霊。死こそが幸福と感じる程の甘言がカミュの耳に押し寄せ、奈落の底へと吸い込まれるような感覚に襲われる。

 

「人間も魔族も関係ない。俺が歩む道に立ち塞がるな」

 

 だが、何度行使しようとも、カミュがその呪いに身を任せる事はない。囁きかける甘い言葉を振り払い、勝利を確信していたバルログの眼前に移動する。そして、その剣を一気に振り落とした。

 彼の言葉通り、彼にとって、種族の違いなど些細な事柄なのだろう。それが人間であろうと、エルフであろうと、それこそ魔物であっても、彼は差別はしない。だが、一度敵となれば、それが例え同族である人間であろうと、非情に剣を振り下ろす筈だ。

 彼が歩む道、それが彼の望む道なのだとすれば、その道に立ち塞がる物は全て敵である。今はそれが大魔王ゾーマという全世界の生物にとっての悪であるが、その敵が人類の王族であっても、彼はその剣を振るい続けるのかもしれない。その時は、人類の希望ではなく、他種族の希望として彼は立っているだろう。それこそが、この世界さえも認める『勇者』の在り方であった。

 

「ギギギッ」

 

 袈裟斬りに斬られたバルログは、言葉を発する事さえも出来ず、大量の体液を噴き出して倒れ込む。数度の痙攣を繰り返した後、サタン族最上位に君臨する者はその生命を終えた。

 痙攣が終わり、完全に死体と化したバルログを看取った後、カミュはそれを乗り越えてリーシャの助太刀に入る。彼女が死の呪文の囁きに応じる訳がない事を誰よりも知るカミュではあったが、勇者の洞窟で遭遇したサタンパピーのように最上位の火球呪文を行使する可能性を考えた場合、抗魔力の低いリーシャにとっては、荷の重い相手でもあったのだ。

 

「うおぉぉぉ」

 

 しかし、そんなカミュの心配は杞憂に終わる。リーシャの相手であるバルログは、攻撃呪文を行使する様子はなく、カミュと対峙していた者と同様にザラキのような呪文を行使するだけで、後はナイフを振り回して攻撃を行う事しかしていなかった。

 そんな素人に毛の生えた程度のナイフ捌きでは、人類最上位の戦士に敵う訳がない。冷静にナイフを避けながら、時折発せられる死の言霊を物ともせずに迫って来るリーシャは、バルログにとって死の呪文よりも恐ろしい死神に見えた事だろう。そして、バルログの渾身の一振りを力の盾で弾き返したリーシャは、がら空きになった胴体を横薙ぎに払った。

 その一撃は魔人の名に相応しい程の物であり、筋肉に覆われたバルログの胴体を真っ二つに斬り裂く。自身が斬られた事さえも理解出来ない驚きの表情を浮かべたまま、バルログは命を散らした。

 上半身が床へと落ち、遅れるように下半身が膝を着く。それを見届けたリーシャは、斧を一振り振り払った後で、近付いて来たカミュへと視線を向けた。

 

「ん? この魔族は何か持っていたのか?」

 

「革袋か……」

 

 カミュへと視線を向けたリーシャではあったが、後方に居たサラとメルエが『たいまつ』を持って近づいて来た事によって、バルログの下半身の傍に何かが落ちている事に気付く。溢れ出る体液を避けるように落ちていたそれは、カミュの言葉通り大きな革袋であった。

 それを拾い上げたカミュではあったが、革袋の口を開けるよりも早くにリーシャへとしがみ付いた小さな影に視線を戻す。そこには、涙目で見上げる小さな少女の悲しみの表情があった。

 その腕には無残にも斬り裂かれた帽子があり、それが彼女が五年以上も被り続けて来た物であると気付いたリーシャは、深い溜息を吐き出す。カミュはそれ程大事のように感じてはいないが、長年使い続けた魔道士の杖を失ったメルエの姿を知っているリーシャは、この帽子との別れが大きな騒動を巻き起こす可能性を考えてしまったのだ。

 

「メルエ、その帽子はもう使えませんよ。悲しい事ではありますが、花冠だけは取っておきましょう?」

 

「…………ぐずっ…………」

 

 近付いて来たサラの提案を拒絶するように首を振るメルエを見て、リーシャは自分の予感が正しかった事を知る。彼女がこうなってしまった以上、一度リムルダールの町へ戻る必要があるかもしれない。只の我儘だと叱り付ける事が出来れば良いが、自分の武器や防具を大事に想う気持ちが痛い程に解るリーシャは、この少女の想いを無碍に出来ないのだ。

 何かを訴えるように帽子の残骸を突き出して来るメルエを見たカミュはそれを受け取り、サラの言葉通りに花冠だけを取り外す。その行動に驚きの表情を浮かべたメルエの頭に花冠を乗せ、帽子の斬り口を合わせようとしてみるが、鞭によって切断された時に切断面の何処かを失っているのか、上手く繋がりはしなかった。

 

「それを繕うのは無理だと思います。二つに分かれただけではないようですので」

 

「…………ぐずっ…………」

 

 カミュの行動を黙って見ていたサラではあったが、それが不可能な行動であり、無駄な事である事を誰よりも理解していたのも彼女である。何故なら、ここに来る前にその行動をサラ自体が行っており、何とかメルエの為にと考え続けた結果が、『諦める』という選択肢だったのだ。それでも諦めきれないメルエがリーシャに縋り付いただけであり、その結果は決して変わる事はない。

 一つ溜息を吐き出したカミュは、帽子の残骸をリーシャに手渡し、途中まで空けていた革袋の口を開く。実は、先程この袋を開けようとした時に、中に入っている物の形が若干見えていたのだ。そして、それがカミュの想像通りの物であれば、この状況を改善出来る一手となると見ていたのだった。

 

「……それは、帽子なのでしょうか?」

 

「何やら薄気味悪いな」

 

 革袋から取り出された物を見たサラは奇妙な物を見るように眉を顰め、その異様な姿にリーシャは不穏な言葉を口にする。何も考えずに自分の感想を口にしたリーシャへ厳しい視線を送ったカミュは、拾い上げた『たいまつ』でその手にある物を照らして行く。

 その形は、メルエが被り続けて来た『とんがり帽子』に酷似している。三角錐の形に整った物に丸い鍔が付いている。見た目は魔法使いが好んで被る帽子と同じ物であるのだが、サラとリーシャが眉を顰めた理由は、その鍔から先へ続く長い山頭部分にあった。

 広い鍔の根元には赤い宝玉があり、そこから山頭部分に掛けて、幾つもの目がある。その目は魔族に物のように鋭く、また描かれている訳ではなく、また縫い付けられている訳でもない。まるで目を埋め込んだように立体的であったのだ。

 だが、それでもその目が機能している訳でもなく、動く事もない。真っ赤な瞳という異様な雰囲気を放ちながらも、只の装飾として帽子に備えられている。だが、それでも一般の者にとっては十分に奇妙な姿である事だけは確かであった。

 

「ですが、何か不思議な感じのする帽子ですね……」

 

「そうか? 私には解らないが、サラがそう感じるのならば、そうなのだろうな。不思議な帽子だな……」

 

 サラとリーシャの良く解らないやり取りを無視したカミュは、不思議そうに見上げるメルエの頭から花冠を取り、それをこの不思議な帽子に掛け、暫く花冠へ視線を送った後、そのまま少女の頭へと乗せる。赤い宝玉を囲むように添えられた花々は、再び命を宿したように咲き誇り、瑞々しさを取り戻して行った。

 その光景を見て驚いたサラであったが、何やらメルエは不満そうに頬を膨らます。やはり、彼女にとってカザーブの村にて購入して貰った帽子は何よりの宝物なのだろう。それを簡単に諦め、新たな物を代わりとして与えられた事は、彼女として嬉しい物ではないのかもしれない。ましてや、リーシャやサラが眉を顰める程の物である。幼く、綺麗な物が好きな少女にとって、それは余り歓迎したくはない物であった。

 本来ならば、呪われた防具の可能性さえある見た目をした帽子をカミュがメルエに与える事はない。故に、メルエの頭に乗せる前に花冠を掛けたのだ。この花冠は既に五年以上の月日を経ても枯れてはいない。メルエの未来を心から案じた親友が生み出した花冠が、メルエを害するような道具に反応して瑞々しさを取り戻す訳がないのだ。それを見届けたカミュは、メルエの所有物として認めたのだった。

 

「……よ、良く似合いますよ、メルエ」

 

「そ、そうだな。益々、魔法使いらしくなって来たな」

 

 頬を膨らませるメルエを宥めるように口を開いたリーシャとサラの言葉が、そんな少女の不満に拍車を掛ける。それでも、大好きな青年から与えられた物を投げ捨てる訳には行かず、『ぷいっ』と顔を背ける事しか彼女には出来なかった。

 だが、それでも斬り裂かれた『とんがり帽子』をこのまま捨てて行く事だけは了承せず、折りたたまれたそれは、リーシャの腰の革袋へと納められる。未だに不満そうに頬を膨らませるメルエの手を引いたサラは、既に前方へ厳しい視線を送っているカミュの背中を見た。

 『たいまつ』の頼りない明かりに照らされた通路の先には、下層へと続く階段が見えている。階段というよりは、この場所もまた自然に生まれたような下り坂に近かった。

 

「カミュ、この先は地下の三階層だ。どこまであるのか解らないが、最終決戦が近い事には間違いない」

 

「ああ」

 

 既に、地上にある一階部分から二度下りの階段を下りている。ここまでの洞窟の中で最も深かった洞窟でも、サマンオサにあったラーの洞窟の地下四階部分までであった。その四階部分でさえ、ラーの鏡があった場所だけであり、実質は地下三階までの洞窟と言える。故に、次の階層が最終階層とリーシャが身構えるのも当然であった。

 それはカミュも同様である。だが、一度大魔王ゾーマの脅威を肌で感じたリーシャとは異なり、名と情報しか聞いていないカミュの緊張度は、彼女程ではなかった。

 如何に、精霊神ルビスと竜の女王を退ける程の力を有しているという話を聞いていたとしても、魔王バラモスを小者であると言い切れる程の力を有しているという話を聞いていても、それをカミュやサラは体感していない。この中で唯一それを感じた事のある者がリーシャであった。

 全てを滅ぼす事が出来るという言葉が嘘でない事の証明に、魔王バラモスさえも討ち果たしたリーシャでさえ、その力の片鱗を相手に足が竦んでしまっている。一歩も踏み出す事が出来ない程の圧倒的な力は、魔の王というよりは、全ての頂点に立つ者と言っても過言ではないだろう。カミュ達の実力もまた、上の世界からアレフガルドへ降り立った一年以上前に比べれば、別次元にまで上がっている。だが、それでも胸に広がる不安は、リーシャにしか解らない物なのかもしれない。

 

「行きましょう」

 

「…………むぅ…………」

 

 未だに膨れているメルエの手を引いたサラの声に、カミュとリーシャは頷きを返す。どれだけ強大な相手であれ、彼等には前に進むという選択肢しかない。ここで立ち止まるのならば、最初からこの場所に入ってはおらず、アレフガルドに降り立つ事もなかった。

 三つの『たいまつ』の明かりが徐々に階下へと消えて行く。

 最終決戦は着実に近付いていた。その準備も全て整っている。装備も整えたし、力も備えた。それでも尚、見えない敵は勇者達の心に不安を齎す。

 神や守護者でさえも退けるその強大な力に、地上で最も矮小な知的生命体である人間が立ち向かう。それが如何に無謀な行いであるのか、不可能な行いであるのかを誰よりも知っているのは、実は彼等勇者一行なのかもしれない。

 それでも彼女達は信じている。彼女達の前を歩く青年こそが『勇者』であり、この世界に光を取り戻す事の出来る唯一の希望である事を。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
今月はとんでもなく忙しく、2話の更新が限度かもしれません。
頑張って描いて行きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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ゾーマ城③

 

 

 

 地下三階へと入ったカミュ達は、周囲の光景に若干の驚きを浮かべる。そこは、地下二階部分とは変わり、再び燭台などが設置される通路となっていたのだ。

 人間が造る城内とは異なるが、それでも人為的な手が入った場所である事は確かであり、異様な死臭と壁の染みだけが通常の城壁ではない事を示している。カミュ達は地下二階よりも、このフロアの死臭は濃くなっているように感じていた。それが大魔王ゾーマに近付いている証なのか、それともこのフロアに打ち捨てられた死体の数が多いだけなのかは解らない。だが、カミュ達にとって厳しい場所に立ち入ってしまった事だけは間違いなかった。

 

「今度はメルエの番ですね」

 

「…………トラマナ…………」

 

 トラマナという呪文の効果は永続的ではない。特に先程のように激しい戦闘を行った時などは、術者の集中力が拡散され、トラマナを展開させ続ける事は難しい。故に、サラはメルエへその呪文の行使を指示した。

 先程までのトラマナはサラが行使した物であり、その緻密に編み上げられた魔法力によって一行を瘴気から護って来ている。その行為は自分にも出来るのだと胸を張った少女が杖を掲げると、彼女が大事に想う者達を護るように魔法力が展開されて行った。

 薄い膜のように一行を包んだ魔法力は、徐々にその透明性を増し、一見すれば解らない程に周囲に溶け込んで行く。だが、やはりこのような呪文の行使に関しては、まだまだメルエはサラの足下にも及ばない。いざ、完全に戦闘に入ってしまえば、カミュ達を護る為の呪文行使の機会を探る為に、トラマナの維持へ割いていた集中力を乱してしまうだろう。その時は自分が再び行使しようとサラは考えていたのだった。

 

「どっちだ?」

 

「まぁ、どちらへ行っても変わらないような気もするが……敢えて言うならば右だな」

 

 いつも通りのやり取り、そしていつも通りに頷いたカミュは左へ進路を取る。だが、絶対に自分が口にした方角へ向かわないカミュを見ても、リーシャはそれに憤りを感じる事はなかった。

 最早この問題は既に終了しており、カミュとリーシャの間に蟠りはない。サラやメルエもこのやり取りを気にする事もなく、彼が進む道を後ろから歩いて行った。

 廊下の壁に設置された燭台に火を点していけば、薄暗くはあるが通路の奥が見えて来る。奥から吹き抜けて来る風には、不快な死臭と腐敗臭が混じっていた。足下は何の体液か解らないような液体で濡れており、地下という影響から湿気も多い。滑り易くなっている床を踏み締めながら、一行は奥へ奥へと歩いて行った。

 

「グモォォォォ」

 

 左に折れた通路を真っ直ぐに進みながら燭台に火を点して行く。しかし、右へ折れる通路が見えてきた頃、真っ直ぐに延びた通路の先に幾つもの小さな光が見えて来た。

 それが、魔物の瞳が放つ光である事を確信したのは、フロア全体に響き渡る程の唸り声が発せられた後であった。腹の底へ響いて来るような唸り声は、複数の物。光の数を単純に数えるだけでも、その場所に三体の魔物がいると考えても良いだろう。一つ目の魔物が混じっていればその倍近くとなるのだが、光の位置を考えれば、三体と考えて間違いなかった。

 燭台に火を点す行為を止めていたカミュは、背中の剣を抜き放ち、その上で近場の燭台へと火を点して行く。しかし、そんなカミュの行動は無に帰した。

 

「…………マホカンタ…………」

 

「!!」

 

 一瞬でカミュと複数の魔物を繋ぐ通路が明るく照らし出される。それは、火を伴う何かが発せられた証拠であり、先頭を歩いていたカミュを覆うような熱量が即座に迫って来た。誰もが動きを止めてしまうような急襲の中、唯一人、魔法使いの少女だけが即座に反応を返す。振り抜かれた杖は、分厚い光の壁を生み出し、先頭に立つ青年を覆って行った。

 サラの予想通りに、トラマナの効力は霧散し、その全てが光の壁として生まれ変わって行く。同時に異なる呪文を行使出来る筈のメルエではあったが、今の彼女にとって最優先事項はカミュの守護なのであろう。その想いを詰め込んだ光の壁は、巨大な火球を受け止めた。

 

「あれは……メラゾーマ?」

 

「…………だいじょうぶ…………」

 

 カミュ達に迫る巨大な火球の密度が高い事は一目瞭然。その高い密度の為に炎の色は明るい黄色に近く、光の壁を通しても髪の毛が焼ける程の熱量を持っていた。

 魔王バラモスが行使していた最上位の呪文であり、大魔王ゾーマが生み出したと云われる極大呪文。その決戦中では、サラの行使したマホカンタどころか、メルエが行使した物さえも砕いた呪文である。その最悪な経験が蘇ったサラの呟きは、隣で杖を突き出した少女の自信に満ちた言葉によって遮られた。

 サラから教わった魔法の言葉。それを口にするには、それを成す自信を持ち、結果を生み出さなければならない重い言葉でもある。しかし、この少女は長い旅路の中で、一度たりともこの言葉を裏切った事はなかった。

 

「カミュ、この呪文を弾き返したら、右の通路へ向かうぞ! この隊列であの呪文は危険だ!」

 

「わかった」

 

自信に満ちたメルエの宣言を聞いたリーシャは、それが成された後の事を考える。敵が三体以上で、尚且つその全員がメラゾーマを行使出来る場合、この隊列は非常に危険な物となるのだ。

 通路はそれ程狭い訳ではないが、カミュを先頭に縦列に並んだ一行は、火球の進行方向に並んでいる事になる。それは全員が一つの火球に飲み込まれる結果を意味しており、一発の呪文によって全滅する可能性さえも物語っていた。

 轟音と共に巨大な火球が弾き返される。自信を持って答えたメルエの力によって、最上位の火球呪文は術者であろう魔物の方へと戻って行った。しかし、来た物がそのままの角度で跳ぶ訳がない。若干上方へ弾き返されたメラゾーマは、天井に直撃し、天井の岩を融解させながら消滅して行く。その蒸気に紛れ、カミュ達は右に折れる道へと身体を滑り込ませた。

 

「カミュ、見えるか?」

 

「ちっ、またあの獅子のような魔物だな」

 

 サラとメルエも引き寄せて右の通路へ入ったカミュは、壁伝いに魔物達の姿を確認する。メラゾーマによって周囲に燃え移った炎が、通路を明るく照らし出していた。

 そこに見えたのは、ネクロゴンドの洞窟やルビスの塔で遭遇した魔物と酷似した姿。獅子と呼ばれる獣のような頭部を持ち、六足歩行、そして背中には蝙蝠のような翼が生えている。体躯はルビスの塔で遭遇したドラゴンを思わせる緑色の皮膚を持ち、首周りに生えている鬣は森の木々を思わせるような深い緑色をしていた。

 それが三体。周囲に他の魔物が見えない事からも、先程のメラゾーマは、この魔物が行使したとしか思えない。魔王バラモス、サタンパピーのような上位の魔族しか行使出来なかった呪文を持つ獣となれば、かなりの強敵と考えられた。

 

「追って来る様子がないな」

 

「あの通路を護っているのでしょうか?」

 

 暫しの間、そこにいる三体の魔物の動きを注視していたが、その魔物達はカミュ達が逃げ込んだ右の通路へ注意を向けて来る事がない。何度かその周囲を警戒するような動きを見せた後は、足を畳んで座り込んでしまった。

 まるでその通路を護るように塞がる三体の魔物を見たサラは、その道こそがゾーマへと繋がる道である事を確信する。しかし、先程のようにメラゾーマという最上位の火球呪文を行使して来るのであれば、そこを突破するのは至難の業であった。

 カミュ達を追って来るのであれば、各個撃破という手法で魔物を駆逐し、通路を通る事も出来るが、三体ともあの場所を動かないのであれば、正面切っての対決という方法しか取る事が出来ない。他の方法があるとすれば、メルエの呪文を立ち塞がっている魔物達に先制攻撃とばかりにぶつける事であろう。

 そう考えたカミュは後方に居る少女へと視線を移した。

 

「……どうした、メルエ?」

 

 しかし、カミュはそこに居た幼い魔法使いの姿に疑問を持つ。サラやリーシャのように通路の向こうに居る魔物達へ意識を向けるのではなく、メルエは何故か自分の手を見ながら首を傾げていたのだ。

 メルエがこのような行動をする事は珍しい。不思議な事や疑問に思う事に首を傾げる事はあっても、それを必ず誰かに問いかける。このような行動を起こすという事は、何をどのように尋ねれば良いのかという事さえも解らないという状況に陥っていると考えられた。

 

「…………まほう……でない…………」

 

「ん? 何を言っているんだ? メルエの魔法はしっかり顕現していただろう? 先程の魔物が使ったであろうメラゾーマを弾き返したではないか」

 

 首を傾げていたメルエは、カミュの問いかけに顔を上げ、眉を下げた状態で小さく呟きを漏らす。しかし、その呟きはリーシャやカミュには全く理解出来ない事であった。いや、正確にはサラさえも理解出来ていない。それ程に意味不明な言葉であったのだ。

 メルエのマホカンタは先程しっかりと顕現している。それどころか、メラゾーマという極大呪文に相応しい魔法さえも弾き返していた。それにも拘らず、『魔法が出ない』と口にする少女に、他の三人の方が首を傾げたくなった。

 しかし、自分の言っている事が全く伝わっていない事に気付いた少女は、不満そうに頬を膨らませる。恨めしげにリーシャを見つめ、もう一度口を開くのだが、その言葉が尚更リーシャを困惑させる事となった。

 

「…………むぅ………ちがう…………」

 

 メルエの言語能力が低い事もあるが、彼女自身が自分の伝えたい事を明確に把握していないのだろう。何をどう言ったらそれが伝わるのかが解らず、そしてどういう単語でそれを伝えれば良いのかが判断出来ない。

 竜の因子を受け継ぐ彼女の身体的な成長は緩やかではあるが、脳の成長まで緩やかという事はないだろう。だが、人間の脳の造りとは少し異なる部分があるとすれば、彼女が虐待を受けていた頃には、それを苦痛と感じさせない為に成長を遅らせていたり、止めていたりした可能性もある。

 生まれて二年も経過した辺りから、彼女は義母の手によって酷い虐待を受けて来た。通常の精神では心が壊れ、人間として生きて行く事も出来ない状況になっていても不思議ではない。それでも今の彼女が笑えるのは、その頃の感情や記憶、そういった物を留めないように脳が自然と機能していた可能性があった。

 

「何が違うのですか? ゆっくりで良いですから教えてください」

 

「…………ぐっ……ならない…………」

 

 そんな幼い少女に常識を教え、文字を教え、心を教えたのは、姉のように彼女を見ていた賢者である。今回もメルエの前に屈み込み、不満そうに膨れた頬を萎ませた彼女は、その目を見て再度問いかけた。

 しかし、そんな柔らかな問いかけに対しても、メルエの答えは具体的な物ではない。何やら目を瞑り、小さな手を握って力を込めるような仕草をするのだった。これにはサラも完全にお手上げ状態になってしまう。完全に首を傾げてしまったリーシャの腕を叩き、カミュはそんな一行を先程の魔物がいた場所から遠ざけた。

 右に折れた通路はすぐに行き止まり、左右に分かれる道へと出る。そこでもう一度メルエへ視線を落としたカミュは、暫く考えてからサラへと視線を戻した。

 

「いつもよりも魔法力が放出されないという事ではないか?」

 

「え? それはどういう……。もしかして、マホカンタを行使する時に使用する魔法力の量が、いつもより少なかったという事ですか?」

 

 カミュの言葉を聞いても思い至る事が出来ず、サラは暫し思考に入ったが、すぐにその意味に到達する。

 基本的な魔法力の調整に関してはサラが教えていた。だが、その感覚やその手法はメルエにしか解らない物なのだ。

 魔法使いや僧侶という職業には師弟という物があるが、一から十まで師が教える事など不可能である。魔法力の量も質も異なる相手の呪文行使は、それぞれの才能によって大きく変わって来るのだ。一般的にどの程度の魔法力が必要なのか、どの程度の魔法力を有していれば行使可能なのかという物はあるが、魔法力の量を数値化出来る訳ではない以上、それも感覚の範囲でしかない。

 どのような形で魔法力を神秘に変えるのか、それがどのような感覚なのかは人それぞれという事になる。サラであっても、メルエがいつもどの程度の魔法力を消費しているのか、それがどのように神秘に変わっているのかという事を正確に把握している訳ではなかった。

 

「先程からですか?」

 

「…………ん…………」

 

 サラの推測が正しかった証拠に、メルエは大きく頷きを返す。ここまでの道中でメルエがそのような事を言い出した事はなかった。もし、このような不思議を感じたのならば、この少女は即座に今のような仕草をしていただろう。つまり、彼女のこの状況は、先程のマホカンタからという事になるのだ。

 大きく頷きを返した少女は、自分の伝えたかった事が正確に伝わった為に今度は不安そうにサラを見上げている。例え神秘が問題なく顕現されているとはいえども、彼女の意図とは別の形で魔法力が抑制されているという事実が、何らかの問題が自分の身に降りかかっているのではないかと不安になったのだろう。

 しかし、そんな少女の瞳を受けたサラは暫しの間考え、メルエの頭から帽子を取る。

 

「考えられるのは、この帽子だけですが……。メルエ、向こう側にメラを放ってみてください。カミュ様、万が一を考えて、戦闘の準備を」

 

 マホカンタを放つ前にメルエの身に変化があったとすれば、カミュが彼女に与えた帽子だけである。元々、バルログと呼ばれる魔族が所有していた物である為、不可思議な事が起っても可笑しくはない。だが、メルエの身体に害がないのであれば、その不可思議な現象もそれ程深く考えるものではないのかもしれなかった。

 納得しないメルエに向かってサラが指示を出す。左右に分かれた通路の左側に向かって指を向け、その方角に最下級の火球呪文を唱えるように出された指示に、メルエは小さく頷きを返した。

 少女にとって魔法とは誇りであり自信である。だが、その反面、彼女は何度となくそれが自分から失われるという危機に瀕した事があった。その時の恐怖を思い出した彼女を、言葉だけで納得させるのは難しい。故に、サラは変化の原因と想われる帽子を取り、呪文の行使を指示したのだ。

 

「…………メラ…………」

 

 最下級とはいえども、人類最高位の魔法使いが唱えるメラである。瞬時に通路を明るく染め上げ、通路の奥へと火球が飛んで行った。

 左に向かった通路は短いようで、火球はすぐに行き止まりの壁に衝突して弾け飛ぶ。火の粉がばら撒かれるように飛び散り、周囲が先程よりも明るく照らし出された。その先で見えた物にカミュとリーシャは少し反応するが、それよりも早く行動を起こした少女に意識を持って行かれる。

 輝くような顔で振り向いた少女は、サラの許に駆け寄り、嬉しそうに微笑んだ。それが自分が意図した通りの魔法力で呪文が行使出来た事の証明であり、サラの予想通りの原因であった事を示していた。

 

「やはり、この帽子が魔法力の使用量を抑えていたのですね。本来であれば十必要なところを七か八ぐらいまで抑えるのかもしれません。どのくらい削減されるのかは、メルエしか解りませんが」

 

「それは良い事ではないのか? メルエの消費魔法力が減れば、その分呪文を使える回数も増えるのだろう?」

 

 不気味な見た目をした帽子を不思議そうに見つめながら、サラは自分の考察を口にする。それを聞いたリーシャからすれば、良い事尽くめの装備品のように感じるのだが、サラは少し難しい表情を浮かべていた。

 良い部分があれば、それ相応の悪い部分があるというのが世の常である。出来るならば良い事だけを信じて行きたくはあるが、この場所が大魔王の本拠地であるという事もサラを慎重にさせていた。

 

「今のところはメルエに害はないようですが……。何かあったら、すぐに言ってくださいね」

 

「…………ん…………」

 

 対するメルエは、先程までの不安など消え去ったかのような微笑みを浮かべている。魔法力の放出が自分の意図とは異なる状況ではあるが、それによって発生するリーシャが口にした『呪文を行使出来る回数が増える』という言葉の方が彼女にとって大きな意味を持っていたのだ。

 彼女の行使する呪文の大半が相手を攻撃する物ではあるが、それは彼女にとって大事な者達を護る力でもある。護る回数が増えるという事は、とても重要な事なのだろう。サラに戻された帽子の鍔を掴み、嬉しそうに被り直す姿は、これを与えられた時とは真逆の物であった。

 

「使用する魔法力を軽減させる効果を持つなんて、本当に不思議な帽子ですね」

 

 帽子を被り直したメルエが嬉しそうに自分の手を握って来るのを見て、サラは苦笑を浮かべる。不可思議な効果を持つ帽子であり、得体も知れない物ではあるが、今はカミュ達の助けになる物である事も事実であった。

 その効果の代償がどのような物であるのかを考えると手放しに喜ぶ事は出来ないが、大魔王ゾーマとの決戦に向けてという事であれば、これ程に頼もしい防具はない。この帽子が代償を必要としない物であれば、サラの口にした名がこの帽子の通り名になるかもしれなかった。

 

【不思議な帽子】

装備者の呪文行使の際に、その呪文の必要魔法力を軽減させるという珍しい付加効果を持つ防具である。誰が何の為に作り、誰の為に存在していたのかは解らない。だが、いつしかそれが魔族の手に渡り、伝承にさえ残らない希少な物となっていた。

世界に一つしかない物であり、神代から伝わる物なのかもしれないが、その異様な見た目からは神々が生み出した物ではなく、魔族が生み出した物ではないかという説もあったと云われる。勇者一行の手に渡ったそれは、勇者一行の一人が口にした名で語り継がれる事となる。

 

「カミュ、先程メルエが呪文を唱えた先に、剣のような物が見えなかったか?」

 

「ああ、見えたな」

 

 サラとメルエの微笑ましい姿を横目にリーシャが口を開く。先程メルエが試し打ちのようにメラを放った先は行き止まりであったが、その行き止まりに剣のような物が見えていたのだ。

 それは、何か台座のような物に突き刺さった抜き身の剣であり、何処か禍々しい物を感じる姿をしていた。だが、大魔王ゾーマの居城に飾られた剣であるならば、それ相応の力を秘めた物であると考えられる。

 リーシャの言葉に頷きを返したカミュは、燭台に炎を点しながら左へと歩き始めた。

 

「これは……」

 

 それは、歩き始めてすぐにその全貌を明らかにする。元々短い通路である事は解っていたが、行き止まりに辿り着く前に、燭台の炎に照らされたその剣が力強い何かを発していたのだ。

 近付いて行ったカミュは、その異様な姿に言葉を失う。そして、その後方から覗き込んだリーシャもまた、その剣の姿に眉を顰めた。

 台座に切っ先を刺された剣の刃の幅が太く、メルエの胴回りに近い程。上部、中部、下部と刃が三段階に分かれており、刃を形成する金属は厚く鋭い。炎に照らし出された金属部分は怪しい光を宿し、相手を威圧する程の力を備えていた。

 

「カミュ、引き抜いてみるか?」

 

「近寄りたくはないが……」

 

 見た目の異様さに加え、その禍々しい雰囲気は人間にとって良い物ではないように感じる。それは、先頭に立つカミュが最も感じているのだが、有用な剣である可能性も秘めている為、リーシャの言葉に頷き、剣へと近寄って行った。

 台座に突き刺さった剣は、大魔王の居城内にあってもその刀身に曇りさえない。強力な魔物達が蔓延る城内で、この一角だけが何処か異様な雰囲気を持っている。ネクロゴンドの洞窟内にあった稲妻の剣や刃の鎧もこのような異様な空気を醸し出していた事を考えると、この剣もまた、神代から伝えられる物なのかもしれない。

 手が届く場所まで近付いたカミュは、周囲を確認して剣へと手を伸ばす。しかし、何故か少し凹凸のある柄の部分に手が届くかという時に、とてつもなく大きな闇を感じたカミュは、その手を引き戻した。

 

「!!」

 

「……やはり、大魔王の城に放置された武器が、私達に益のある物である筈が無いか」

 

 カミュがあと少し手を引き戻すのが遅ければ、その手に無数の刃が突き刺さっていただろう。この剣の柄の部分にあった凹凸は、その奥に鋭い刃が仕込まれていたのだ。この剣を掴もうと考えた者の手に突き刺さり、この剣を手放す事が出来なくなる。生涯外す事の出来ない剣は、振るう度に己の手も斬り刻まれるのだ。

 最早、この剣は呪いの武器の域にあると考えても良いだろう。それ程に醜悪な部類に入る武器であった。

 

「呪いの武器の類でしょうね。武器を手放す事が出来なくなり、振るえば振るう程に自身の身体も痛めつける武器。回復呪文で手を直そうとも、再び武器を振るえば傷つき、呪いを解除しない限りは未来永劫続くのでしょう。もしかすると、いつかこの武器に身体を飲み込まれてしまうかもしれません」

 

「……そうだな。見た目からして相当な攻撃力を持つ物だろうが、振るう度に自分の身体を傷つける諸刃の剣なのだろう」

 

 心配そうに見上げて来るメルエに微笑みを返すカミュを見たサラは、再び台座の剣へと視線を向け、その見解を述べる。その剣は、既に柄から伸びていた刃は中へと収まり、先程と変わらぬ異様な雰囲気を出しながらも沈黙を守っていた。

 この城が大魔王ゾーマの居城であるという事を忘れた訳ではない。だが、今リーシャが愛用している魔神の斧も魔王バラモスの居城に残されていた武器である。英雄を模した石像が持っていた武器ではあるが、魔王のお膝元にあった物であるのは事実。故にこそ、若干の甘えが出てしまったのかもしれなかった。

 この城の中で魔物の手に掛からない武器が、人間の手に負える代物である筈がない。大魔王ゾーマの許へ辿り着くまでの間にある物に関しては、注意深く見ていかなければならないと認識を改めざるを得なかった。

 

【諸刃の剣】

その名の通り、それを所有する者の身にも危険を及ぼす呪いの武器。握ろうとする者の手を柄から飛び出す刃で貫き固定し、振るう度に所有者の身体を傷つけ、その刃を身体の奥深くへと潜り込ませる。最終的には、所有者の身体を破壊してしまう。解呪の魔法などで呪いを解かない限りは、所有者の身体を蝕み続ける武器であった。

しかし、その反面、その刃の鋭さは神代の剣さえも凌ぎ、あらゆる物を斬り裂く。己の身と引き換えに絶大な攻撃力を手に入れる事が可能となる。もし、未来を夢見る事なく、己の命を犠牲にしてでも他者を討つ事だけを考える愚か者であれば、この剣を握っていたのかもしれない。

この場所に鎮座する剣を見た者は、勇者一行だけではないだろうから。

 

「……戻るぞ」

 

「あの獅子の魔物の場所に直行するか?」

 

「分かれ道でのリーシャさんの言葉を聞く限り、この通路を真っ直ぐ進んでも、元の場所に戻るだけでしょうね。それならば、あの魔物を強襲するほうが良いかもしれません」

 

 獅子の魔物に遭遇する前の分かれ道で、進行方向を尋ねたカミュに対して、リーシャは『どっちに行っても変わりはない』と答えている。ならば、先程歩いていた道へ繋がるのが、この通路なのだろう。故に、結局はあの魔物を倒して進まなければならず、わざわざ遠回りする必要もないのだ。

 だが、サラの答えに暫し考えたカミュは、右に折れる事なく真っ直ぐに進路を取った。不思議に思いながらも、結局は同じ事である為にリーシャやサラも反論はせず、彼の後を続く。

 案の定、突き当りまで進むと、通路は右に折れており、燭台に火を点していけば、再び右と直進の分かれ道に出た。前方は行き止まりが既に見えており、右に折れるしか選択肢がない中、進んだ場所は上へと続く階段があった。

 

「やはり、リーシャさんは凄いですね」

 

「…………リーシャ……すごい…………」

 

 予想していた通りの道ではあったが、それを当初から予測していたリーシャの探知能力の高さに、サラは改めて驚きを表す。そんなサラの言葉にメルエは微笑み、後方にいるリーシャに向かって笑みを浮かべて賞賛の言葉を発した。

 予期せぬ賞賛に苦笑いを浮かべたリーシャは、ここまで歩いて来たカミュの意図を測りかねていた。まさか、改めてリーシャの示した方角が間違っていた事を証明する為にこのような事をした訳ではないだろう。それぐらいの事は口にしなくても承知しているが、それ故に、このような無駄な徒労をする必要性がない事に疑問を感じていたのだ。

 

「この先の通路は、あの魔物まで一直線の通路だ。先程とは逆に、メルエがメラゾーマを先に放てば、魔物が逃げる場所はない。もし、あの魔物が右へ続く通路へ逃げ込んだならば、そのまま駆け抜ける」

 

「……なるほど」

 

 そんなリーシャの視線に気付いたカミュは、わざわざ遠回りして来た理由を口にする。それは道理に適った方法であり、効率的な物でもあった。

 不思議な帽子という装備品を手に入れたメルエは、消費魔法力の量を軽減する事が出来る。極大魔法の一つであるメラゾーマであっても、それは適用されるだろう。魔法力を節約したいと考えている彼等ではあるが、魔法の恩恵を捨て去る事は不可能である。そんな彼等にとって、この不思議な帽子は天の恵みのような防具であった。

 通路は直線に伸びている。先程魔物がメラゾーマを行使した際に、カミュ達は逃げ場がなかった。メルエのマホカンタがなければ、一行全員が高熱によって融解していた事だろう。それを逆の立場で利用するという方法を取ったのだ。

 

「確かに有効な方法だと思います。ギリギリまで近付いて、魔物よりも先に行使しましょう。メルエも良いですね?」

 

「…………ん…………」

 

 賢者であるサラがその戦法に同意を示した事で、一行の行動は決定する。行使者となるメルエも真剣な表情で頷きを返し、雷の杖を握り締めた。

 警戒しながら左に折れる通路を曲がり、ゆっくりと前へ進んで行く。先程点した燭台の炎が揺らめき、通路を照らしている。頼りない炎ではまだ魔物の姿を確認する事は出来ないが、人間よりも聴力や嗅覚が鋭い魔物であれば、カミュ達よりも先に気付く事があるだろう。それを認識しているカミュは、少し進んだ場所で立ち止まり、後方に合図を送った。

 一歩前に出たメルエの横にはサラが控えている。後衛の二人が前に出てはいるが、既にカミュとリーシャは各々の武器をしっかりと握り締めていた。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 人類最高位の魔法使いがその杖を振り抜く。大魔王が生み出し、高位の魔族しか行使出来ないと云われる呪文の魔法陣が杖先に浮かび上がった。

 一気に放出される魔法力が巨大な火球を生み出し、その熱量を上げて行く。赤色を通り越し、黄色く変色した火球の周囲は、青白い炎によって覆われていた。その火球の温度の高さは、後方にいるカミュ達の肌の産毛を焼き焦がす程の物。全てを溶かし尽くす事の出来るその火球の恐ろしさを、カミュとリーシャは改めて感じていた。

 杖先を離れた火球は、真っ直ぐ通路を進んで行き、そのままカミュ達も駆けて行く。だが、火球の脇から見えた獅子の魔物の姿を見たカミュは、その姿に違和感を感じ、一行全員の足を止めた。

 

「M@H0K@」

 

 そして、そのカミュが感じた感覚は、現実の物となる。先頭に居る獅子の魔物が奇声を発し、その身を守るような光の壁が広がって行った。

 しかし、竜の因子を持つ少女が放った最上位の火球呪文である。同じく最上位の火球呪文を行使出来る魔物が生み出した光の壁であろうと、その火球を弾き返す事が出来る訳が無い。何かがひび割れるような音が通路に響き、魔物を守っていた光の壁に亀裂が入った。

 しかし、それに気付いた残りの二体が重ね掛けのようにマホカンタを唱える。ひび割れた光の壁を修復するように広がる魔法力が、人類最高位の魔法使いが生み出した火球の勢いを奪って行った。そして、それは弾き返される事となる。

 

「ちっ」

 

「マヒャド」

 

 先頭に居るカミュが舌打ちを鳴らし、サラが最上位の氷結呪文を行使する。弾き返された事で角度が変わった火球は、マヒャドの冷気の壁に圧され天井部分を融解させて消え去った。

 だが、驚くべき結果に呆然としている暇はない。一気に間を詰めたカミュは、王者の剣を振り下ろす。それに気付いた獅子の魔物は、巨大な前足の爪で剣を受け止めた。

 獅子は、百獣の王と呼ばれる獣である。獣の中で最上位に立つ王者であり、この魔物も魔族ではない者達の中では最強の部類に入る物なのだろう。勇者の中の王者と、獣の王者の武器がぶつかり合い、弾けた。

 

「ちっ」

 

 盛大な舌打ちを鳴らしたカミュではあったが、せめぎ合いは彼に軍配が上がっている。獅子の爪を斬り飛ばし、前足を深々と抉った。前足から夥しい体液を流した魔物は、怒りの咆哮を上げて、カミュとの距離を一気に詰めて来る。

 振り払うように剣を振るい、一旦距離を取ろうとカミュは動くが、それを許さない魔物は執拗に彼を追い詰めて行く。リーシャは既に他の二体を相手取り斧を振るっていた。メラゾーマという極大呪文を行使する魔物を相手にすれば、彼女の抗魔力の低さが問題になるだろう。あの呪文に対しては、盾など役には立たない。それこそ、メルエやサラのマホカンタがなければ防ぐ事は出来ないのだ。

 

「グォォォォォ」

 

「!!」

 

 リーシャの方へ意識を向けた瞬間、カミュの目の前の獅子が咆哮を上げる。それと同時に、彼の目の前に突風が巻き上がり、真空の刃となって襲い掛かって来た。

 十字の形に切られた真空の刃は、最上位の真空呪文と同じ物。『悟りの書』に記載された物ではあるが、世の僧侶が唯一行使出来る攻撃呪文であるバギ系最上位の呪文である。メラゾーマ、マホカンタに続き、人間でも行使出来る者はサラとメルエしかいないと言える呪文の行使に、カミュだけではなくサラやメルエも驚きを隠せなかった。

 咄嗟に王者の剣を掲げたカミュはその力を解放し、真空の刃に真空の刃をぶつけて相殺する。その余波は凄まじい物で、カミュだけではなく、傍で斧を振るっていたリーシャまでもが吹き飛ばされた。

 

【マントゴーア】

獣族の魔物としては最上位に君臨する魔物である。獅子の頭を持ち、六本の足を持つ。サソリの尾には殺傷力の高い毒を持ち、背中に広がる蝙蝠の翼で空さえも飛ぶという伝承が残る魔物であった。純粋な力という点でも獣系の魔物としては最強の部類に入るのだが、この魔物はそれだけではなく様々な魔法を使いこなす。風を起こし、炎を巻き上げ、全てを焼き尽くし、その身体は光の壁によって護られ、何者も傷付ける事が出来ないと云われていた。

 

「マホトーン」

 

 劣勢を感じた後方の賢者が一つの呪文を行使する。それは、相手の魔法力の流れを狂わせ、一時的にでも呪文行使を停止させる物であった。

 カミュを追おうと動き出していた一体をサラの魔法力が包み込む。先程マントゴーアを守っていた光の壁は、メルエの放ったメラゾーマを弾いた事で消滅していた。故に、マホトーンの効果があるかどうかは別としても、その呪文がマントゴーアに届いている事だけは確かであろう。

 サラの魔力に覆われたマントゴーアをそのままに、吹き飛ばされたリーシャへと襲い掛かるもう一体にカミュの剣が振り下ろされる。意識をリーシャへと向けていたマントゴーアにとって、横からの一撃は想定外の物だった。それ故に、蝙蝠の翼は斬り裂かれ、背中から胴回りに掛けて深々と抉られる。溢れ出る体液に生命力が低下したところに、後方からサラが再び呪文の詠唱に入った。

 

「ラリホー」

 

 怒り狂うよりも、失われて行く体液に朦朧となっていたマントゴーアは、その呪文効果を受けて深い眠りへと落ちて行く。そして、そのまま目覚める事のない永遠の眠りへ引き込まれて行った。

 崩れ落ちるマントゴーア一体の首に剣を突き刺していたカミュは、影から飛び出した一体が奇声を発したのを受けて後方へと飛ぶ。しかし、飛び下がる速度よりも早くに、そのマントゴーアが奇声を発した。

 突如として目の前に現れた火球。全てを飲み込む程の巨大な火球は、メルエの放った物程ではなくとも、カミュの髪を焦がし得る熱量を誇っている。既に目の前に迫っている火球を避ける事は出来ない。サラやメルエの持つマホカンタも間に合わないだろう。今、出来る対処と言えば、只一つしかなかった。

 

「アストロン」

 

 絶対防御の呪文。何物も受け付けない鉄と化し、ここまでの旅でカミュ達を守り続けて来た呪文である。しかし、迫る火球も全てを融解出来る程の熱量を持つ、最上位の呪文であった。

 ぶつかり合う熱と鉄。オリハルコンのような神代の金属でさえ、太陽の熱量があれば溶けるのである。アストロンによる鉄が溶けないという保証は何処にもなかった。

 既にリーシャはサラ達の許へ戻っている。マホトーンを掛けられたマントゴーアが何度奇声を発しても神秘を顕現出来ないところを見ると、その効果はしっかりと魔物を蝕んでいるのだろう。その一体に斧を振るおうとしていたリーシャは、カミュに迫る巨大な火球に息を呑んだ。

 

「…………バシルーラ…………」

 

 カミュの姿をした鉄像に直撃した火球は、じりじりと不快な音を立てながら停滞する。だが、獣の王者の神秘と、勇者の王者の神秘では、またしても勇者に軍配は上がった。

 耐え切れなくなったように弾け飛んだ火球は、火の粉を飛ばしながら消滅して行く。勇者と語り継がれる者しか行使出来ない絶対防御の呪文は、言葉通りに何も受け付けはしなかったのだ。

 自身の放った最上位の呪文が消滅して行くのを呆然と見ていたマントゴーアは、前方から一気に迫る抗えない圧力に吹き飛ばされる。魔法使いの少女が振るった杖は、見えない抵抗力をマントゴーアにぶつけ、その身体を通路の壁へと叩き付けた。

 

「うおりゃぁぁ」

 

 カミュの危機に気を取られていたリーシャであったが、その隙を突いたマントゴーアの一撃を間一髪の間合いで盾で受け止め、そのまま魔神の斧を真っ直ぐ振り下ろす。

 確かにマントゴーアは強敵である。その力も攻撃力も、ここまで遭遇した魔物の中でも最上位に位置する物だろう。だが、カミュ達一行にとって、マントゴーアという魔物の強さは、彼等が行使する様々な魔法があってこそなのだ。最上位の火球呪文に、最上位の真空呪文、そして全ての神秘を跳ね返す光の壁。それら全てを失ったマントゴーアなど、理性を持たない獣と何ら変わりはなかった。

 直線的なマントゴーアの攻撃が、死線を何度も越えて来た歴戦の戦士に届く筈はない。振り下ろされた魔神の斧はマントゴーアの深緑の鬣を斬り裂き、脳天に吸い込まれて行った。

 頭蓋骨が割れる音が通路に響き渡り、体液と共に脳漿が噴き出す。そのまま瞳の光を失ったマントゴーアは、崩れるように床へ倒れ込んだ。

 

「グォォォォォ」

 

「…………マホカンタ…………」

 

 壁に叩きつけられた最後の一体に向かって駆け出したカミュは、何とか身体を起こしたマントゴーアが雄叫びを上げても、その足を止める事はない。そして、そんな彼の信頼に応えるかのように、後方から援護の魔法力が彼を包み込んだ。

 強い魔法力が彼を護る光の壁となり、前方から迫って来る十字に切られた真空の刃を弾き返す。カミュとマントゴーアの距離が短い為、弾き返された真空の刃は、そのまま術者であるマントゴーアの身体を斬り裂いて行った。

 凄まじい痛みで歪む視界の中で、マントゴーアが最後に見た光景は、青白く輝く光に包まれた青年が、同じく青白く輝く剣を振り下ろす姿であった。

 

「……強敵だったな」

 

「ああ、呪文の節約などと言っている余裕がない事を改めて叩き付けられた」

 

 完全に沈黙した三体のマントゴーアの骸を見下ろしながら、カミュは剣に付着した体液を振り払う。近付いて来たリーシャの言葉に、大魔王ゾーマの本拠地という場所の恐ろしさを改めて感じた彼は頷きを返した。

 確かに大魔王ゾーマと戦う為には、サラやメルエの魔法力は必須である。だが、それでもそれを出し惜しんで進める程、この城は甘い場所ではなかった。

 この戦闘で、サラやメルエは何度も呪文を行使している。サラは比較的魔法力の消費量が少ない呪文を選択しているようにも思えるが、適材適所での使い分けと考える事も出来た。メルエも、メラゾーマ以外は、マホカンタを一度、バシルーラを一度と行使回数を考えて無駄打ちを避けている。それでも、彼女達の援護がなければ、カミュやリーシャは既にこの世にいないだろう。

 どこまで地下が続くのかは解らないが、この先の道で遭遇する魔物に対して、自分達の力を出し惜しんでいる余裕はない事は明白であった。

 

「今は進もう。どうしても駄目だと感じたら、一度リムルダールへ戻るという選択肢もある」

 

「そうですね。おそらくこの城の中でもリレミトは行使可能でしょうから、態勢を立て直す為の撤退も考慮に入れておくべきかもしれません」

 

 斧を納めたリーシャが『たいまつ』を取り出し、通路の奥へと明かりを向ける。その時発した言葉に、一行の頭脳であるサラも同意を示した。

 不退転の決意を持ってこの城に挑んだ一行ではあったが、彼等の想像以上に厳しい場所と認めざるを得ない。彼等がここまでの旅で撤退を余儀なくされたのは、魔王バラモスの居城とルビスが封印されていた塔だけである。逆に言えば、それ以上に厳しい筈の大魔王の根城を、一度で進み切れると考えていたのは甘えだったのかもしれない。

 だが、まるで嘲笑っているかのようにカミュ達を自分の許へと誘う大魔王ゾーマもまた、勇者一行を侮っているのであろう。その為、撤退する為にこの城を出る呪文を行使したとしても、それを遮るという可能性は低いとサラは見ていた。

 一行は、お互いを信じ、再び城の奥へと進み始める。死臭が漂い、魔物の体液と彼等の血の臭いが交じり合う通路を、慎重に歩いて行った。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
何とか2月中に3話目が間に合いました。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。


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ゾーマ城④

 

 

 

 マントゴーアを退けたカミュ達は、そのまま通路を奥へ奥へと進んで行く。左に折れた先にあった狭い通路を抜け、再び広い通路へと出た。

 真っ直ぐに伸びた直線の通路は、燭台に灯された明かりによって薄暗くはあるが全貌が見えている。敵影はなく、ただ濃密な死の臭いだけが漂っていた。

 ここまで来ると、一行の間でも会話が激減している。幼いメルエであっても、雰囲気を察したのか、口を開く事なく、真剣な表情で黙々と歩き続けていた。死の臭いが濃くなって行くという事は、それが大魔王ゾーマの場所へと近付いている証拠でもある。そして、それは最終決戦が間近に迫っているという証拠でもあった。

 

「ふぅ……そう易々と先へは進ませて貰えないか」

 

 真っ直ぐに伸びた通路の行き止まりが見え、それを再び左に折れた瞬間、カミュが持つ『たいまつ』の炎に照らされた異形が見えて来る。その通路は横幅も広く、天井も高い。カミュ達四人が横並びになって、その倍以上の幅がある通路であった。

 そのような広い通路の先が見えなくなる程の魔物の影。それは、上層部で遭遇した大魔人のような巨大な敵である事の証であった。

 カミュ達だけではなく、魔物側も勇者一行の襲来に気付いているようである。警戒を怠らずに周囲の燭台へ炎を移し、最後に持っていた『たいまつ』を前方へ放り投げた。

 床に落ちた『たいまつ』の炎によって照らし出された魔物は一体。だが、その姿はカミュ達にとっても思い返したくはない物の姿であった。

 

「ギモォォォォ」

 

 最早、それは雄叫びとは思えない。何処から発し、何処を通って音を形成しているかさえも解らない不快な音。動く度に乾いた音が響き、何故それが動けるのかすらも理解出来ない物であった。

 竜骨が生前の形を模り、その無念を利用されて大魔王に使役された姿。マイラの森でカミュ達が遭遇し、サラが自己犠牲の呪文を行使しようと考える程に追い込まれた相手である。それと同じ姿をした物が一体。カミュ達の行く道を遮るように立ち塞がっていた。

 マイラの森で遭遇したスカルゴンよりも上位の竜種なのか、それとも怨念が強いのか、その竜骨の色は化石のように暗い。薄暗くはあっても明かりによって照らされた骨は、白骨とは言えない色をしていた。

 

「あれも氷竜の成れの果てなのか?」

 

「いや、氷竜とは限らないだろう。だが、上位の竜種の成れの果てである事だけは確かだ」

 

 各々の武器を構え、状況を把握する為にカミュとリーシャが口を開く。スカルゴンは氷竜の片鱗を見せている。吐き出す吹雪は、ドラゴラムを行使したメルエには敵わなくとも、強力な物であった。それと同等かそれ以上の敵だとすれば、大魔王に挑むカミュ達にとって厄介な物である事は確かである。そして、それが火竜であろうと、氷竜であろうと、後方支援組二人の援護がなければ打倒出来ないというのも事実であった。

 魔法力は温存したい。それでも惜しめば命を落とすだろう。先へ進まなければならず、しかし、先に進めば大量の魔法力が必要な場面になる事は確実。その進退極まる状態が今のカミュ達なのかもしれない。

 

「……徐々にではありますが、私の祈りの指輪に力が戻って来ています。あと何度、祈りに応えて下さるかは解りませんが、魔法力に対する備えとしては頼るしかありません」

 

「……わかった。援護を頼む」

 

 カミュ達の意図を悟ったサラは、自身の指に嵌められた指輪を見ながら答える。それは希望的な観測である事が否めないながらも、カミュ達にとって縋るに値する答えでもあった。

 魔法力も枯渇し、その代わりに生命力さえも注ぎ込んだサラの全てを戻した物は、最早カミュでさえも否定する事は出来ない。精霊神ルビスという象徴的な存在をその目で見て、賜った言葉をその耳で聞いたリーシャやサラは勿論、何度もその指輪に救われて来たメルエもそれを頼りにしているのだ。

 方針が定まったカミュがリーシャに視線を送り、それに頷きが返って来たのを見て、一気に駆け出す。

 

「メルエ、イオ系は駄目ですよ」

 

「…………ん…………」

 

 臨戦態勢に入ったカミュ達を見送った二人は、詠唱の準備へと入って行く。この城の部分がどれ程の強度を持つのか解らないが、それでもメルエの放つイオナズンに耐え切る事は出来ないかもしれない。最悪この場所で生き埋めになる可能性さえもある危険を敢えて冒す必要はないのだ。

 竜骨に肉薄したカミュが放つ輝く剣筋が煌く。自分達の倍はあろうかと思われる大きな竜骨への一撃は、その大腿骨へと吸い込まれて行った。

 しかし、如何に王者の剣といえども、生物最強種である竜種の骨を一刀で両断出来る訳がない。多少なりとも傷を付けてはいるが、それでも抉る事さえ出来なかった。

 

「カミュ、下がれ!」

 

「ブハァァァァ」

 

 大腿骨から剣を抜いたカミュは、リーシャの声で後方へと飛び、勇者の盾を構える。それと同時に盾を持つ手さえも凍りつくような吹雪がカミュを襲った。

 リーシャの予測通りに氷竜の片鱗を見せた竜骨は、吹雪を寄せ付けないようなカミュの盾を見て、大きく腕の骨を振るう。吹雪に対処していたカミュは、その腕を避ける事が出来ず、壁へと吹き飛ばされた。

 追い討ちを掛けようとする竜骨とカミュの間に入り込んだリーシャがその尾骨を斧で弾き返し、倒れ込んだカミュの身体を担ぎ上げる。そのまま後退するリーシャを援護するように、メルエが中級の火球呪文を竜骨に向けて放った。

 極大呪文であるメラゾーマであれば、リーシャやカミュも巻き込んでしまう可能性を考えた結果なのだろう。それは、魔法力の消費量の節約にもなり、竜骨を牽制するには十分な威力を誇っていた。

 

【ドラゴンゾンビ】

古代の竜種の骨が、それに宿った怨念に従って仮初の命を宿した物と云われている。吹雪のような物を吐き出す為、それは絶滅種となった氷竜の成れの果てだと考えられていた。同様のスカルゴンよりもその怨念の強さも、年月の長さもあり、大魔王ゾーマの居城に存在する為に魔法力の影響も大きい。その為、スカルゴンよりも全体的な能力が一段上にあり、上位種と考えられているが、竜骨の魔物に上位も下位もなく、あるとすれば生前の氷竜としての格だけだろう。

 

「相当な相手だな……」

 

「だが、マイラの森でアレに似た奴を三体相手するよりは楽だろう」

 

 メルエの放ったメラミによって、若干融解した竜骨を見たリーシャはその凄まじい程の力に感嘆の意を示す。しかし、自身に回復呪文を掛けながら立ち上がったカミュは、マイラの森で遭遇したスカルゴン三体を二人で相手した時よりは楽であると口にした。

 あの時、メルエは死から戻って来たばかりであり、深い眠りに就いていた。サラは魔法力の枯渇から生還したばかりであり、その後で自己犠牲の呪文を行使しようとしたが、それをカミュに差し止められた後、これまた深い眠りに落ちて行った。

 カミュとリーシャという二人だけで、氷竜の成れの果てを三体相手取っていたのだ。確かに目の前で咆哮のような奇音を発するドラゴンゾンビが吐き出した吹雪の方が強いとは云えども、今は勇者一行が全員揃っている。負ける要素は何一つなかった。

 

「ベギラゴン」

 

 拮抗した状況の中、再び吹雪を吐き出そうとしたドラゴンゾンビに向かってサラが詠唱を完成させる。同時に巻き起こった熱風がカミュ達とドラゴンゾンビの間に着弾し、激しい炎が立ち上った。

 冷気と炎がぶつかり合う音が響き、蒸気によって視界が悪くなる中、カミュが盾を掲げて突進して行く。最上位の灼熱呪文が生み出す熱風を抜け、その手に持った剣を振り下ろし、ドラゴンゾンビの大腿骨へ再び衝撃を与えた。

 一度目で傷をつけた部分に再度与えられた衝撃は、竜種の骨に亀裂を生じさせる。だが、粉砕するには至らず、カミュの身体は大きく振るわれた尾骨によって弾き飛ばされた。

 再度壁に激突したカミュを視界に納めながらも、大腿骨の同じ箇所にリーシャが斧を振るう。魔神が愛した戦斧の一撃に耐えられず、ドラゴンゾンビの大腿骨が砕け散った。

 

「カミュ!」

 

 既に立ち上がっていた勇者に向けて叫ばれた言葉は、大腿骨を失い、前のめりに倒れ込もうとするドラゴンゾンビへの追い討ちの要求である。それに応答する訳でもなく、勇者は無言で駆け出した。

 このドラゴンゾンビの竜骨は、同系のスカルゴンの物よりも硬い。だが、同じ箇所を攻撃すれば、決して砕く事の出来ない物ではなかった。通常の人類ではおそらく無理であろう。竜骨の加工だけでも数日掛かる程の物である。それを戦闘中に砕くという事自体、偉業なのだ。

 落ちて来た巨大な竜の頭蓋骨目掛けてカミュが剣を振り下ろす。その一瞬に狙いを付けていたかのように、後方からメルエがバイキルトという武器強化呪文を唱えた。

 

「うおぉぉぉ」

 

 人類最高位の魔法使いの魔法力によって強化された武器を頭蓋骨の眉間へと突き刺し、渾身の力を込めて振り抜く。神代から伝わる勇者の剣は、竜種最上位に君臨した氷竜の亡骸を粉砕して行った。

 最後の足掻きを見せるドラゴンゾンビは、尾骨を振り回し、カミュを引き剝がす。しかし、その頭蓋骨の大半を砕かれた竜種の成れの果てにそれ以上の力は残っていなかった。周囲を凍り付かせる吹雪を巻き起こしながら、骨に残っていた怨念が霧散して行く。轟音を響かせて、巨大な竜骨が床へと崩れ落ちて行った。

 

「ベホマ」

 

 怨念によってこの世に繋ぎ止められていた竜骨が形を崩して行く。風化するように砂に変わったドラゴンゾンビを見届けたカミュは、傍で同じようにドラゴンゾンビの消滅を見ているリーシャの身体に最上位の回復呪文を唱えた。

 カミュとは異なり、魔法力への耐性がない彼女は、ドラゴンゾンビが吐き出す吹雪によって身体の一部が凍傷のような状態になり掛けている。それでも重量のある斧を振り抜いた事によって肌は裂け、そこから鮮血が溢れていた。

 裂傷や凍結部分なども癒え、再び十分に動ける事を確認したリーシャはカミュへと礼を述べ、近付いて来たメルエに笑みを返す。先程の戦闘でも、メルエの行使した呪文の数々がカミュ達二人を助けていた。今までもそうして強敵との戦闘を超えて来ている。魔法力の温存に意識が向かい過ぎていた事を改めて認識し、カミュとリーシャは互いに苦笑を浮かべた。

 

「カミュ様、進みましょう」

 

 メルエとは異なり、サラは呪文行使をかなり抑えている。カミュは意識的に自分で回復呪文を唱え、彼女に唱えさせていなかった。

 基本的にカミュとサラではその魔法力の量に差があるとはいえ、対メルエ程の差はない。だが、行使出来る呪文の数に限って言えば、カミュとサラとの差はメルエとの差の倍近くになるだろう。大魔王ゾーマとの決戦の中で、サラが数多くの呪文を行使しなければならない状況に直面するのは必定である。それ故に、カミュはそこまでの場面での傷の治療などは、自身の手によって行っていたのだった。

 

「この通路の先に階段のような物があれば、そこは地下四階だ。あの竜種の骨が最後の関門である可能性もある」

 

「そうだな……。再度気を引き締めて行こう」

 

 ドラゴンゾンビという魔物は、強敵である。もし、あれが一体ではなく、二体三体と出現していれば、カミュ達は再び全滅の危機に瀕していたかもしれない。それ程の強敵が行く手を遮るように立ち塞がっていた事を考えると、カミュの言葉にも頷けた。

 慎重に奥へと進む毎に、その死臭は濃くなって行く。濃密な死臭はこの先で待ち受けているであろう大魔王が放つ物なのか、それともこの先で多くの死骸がある為なのかは解らない。もしかすると、その死臭はカミュ達へ訪れる死の先触れである可能性さえもあった。

 勿論、彼等に死ぬつもりなど微塵もないだろう。大魔王ゾーマの打倒という偉業を勝ち取る為にここまで進んで来たのだ。だが、それでも彼等の頭の中に『全滅』という二文字がないとは言い切れない。その可能性もある事は承知しており、その可能性の方が高い事も知っている。それでも勝利を信じて、彼等はその階段を下りて行った。

 

 

 

「グオォォォォォ」

 

 その咆哮が聞こえたのは、彼等全員が階段を下り切る前であった。大気を震わせ、地さえも震わせる程の咆哮。勇者一行を全滅の危機にまで追い込んだドラゴンという竜種が上げる物よりも、更に凄まじい咆哮が響き渡る。それは新たなる竜種との遭遇を予感させる物であった。

 即座に各々の武器を抜き放った一行は、慎重に燭台へと炎を移しながら通路を歩いて行く。真っ直ぐに進むと巨大な鉄扉があり、その扉が無理やり抉じ開けられたように破壊されていた。

 それは、魔物が強引に破壊したような物でもなく、竜種が爪などで斬り裂いたような物でもない。まるで武器によって破壊したような人為的な物のように見えた。魔物や魔族がこの扉の奥へ向かう時にどうしていたのかは解らないが、カミュ達以外の人間がこの奥へと進んだ可能性が見える。そして、その人物がこの咆哮の主と相対しているとさえ考えられた。

 

「カミュ、急ごう」

 

 その可能性が何かという事に気付き始めた一行であったが、何故か動こうとしないカミュを見て、リーシャが声を掛ける。それはリーシャにしか口にする事が出来ない言葉であった。サラにもメルエにもこの青年の背を押す事は出来ない。メルエはこの可能性の話に気付いてはいないだろうが、それでもカミュの纏う雰囲気が変わってしまっている事には気付いていたのだ。

 リーシャが先頭を切って巨大な鉄門を潜り抜け、その後ろをサラが抜ける。心配そうな瞳をカミュへ向けたメルエがその手を握ってゆっくりと歩き出した。

 

「急げ!」

 

 門を抜けると、道は右に折れ、漂う死臭はより濃さを増して来る。水流の音が遠くから聞こえ、それを遮るように竜種の咆哮が聞こえて来ていた。

 何かを察したリーシャは、メルエの手を引いて緩慢に歩くカミュへ声を掛ける。そのままメルエを抱き上げた彼女は、もどかしそうにカミュの手を握り、通路を駆け出した。

 右に折れた道はすぐに左に折れ、そして即座に右へ折れる。そして、その曲がり角を曲がり切った瞬間、彼等の視界が一気に開けた。

 

「!!」

 

 通路の先には巨大な橋が架かっており、その下を瘴気に汚染された地下水が凄まじい音を立てて流れている。そして、その橋の向こうに、巨大な竜種の姿が見えていた。

 それは、このゾーマ城の城門前でカミュ達を待ち受けていたヒドラに酷似した竜種。五つの首を持つ巨竜であり、その体躯は毒々しく紫色の鱗が光っている。巨大な口を開けて叫ぶ咆哮は、目の前の橋さえも震わせ、濁流を増長させていた。

 足が竦む程の咆哮を目の前で受けたサラは、何かに気付いたようにメルエへと視線を向ける。竜の因子を持った少女は、ヤマタノオロチや竜の女王に対して、必要以上の怯えを見せていた。それは動物的な本能から来る恐怖だったのだろう。その心配をしてしまう程に、目の前の竜種は圧倒的な力を有しているとサラは感じていたのだ。

 

「メルエ?」

 

 だが、彼女の心配は杞憂に終わる。リーシャの腕に抱かれた少女の瞳に怯えなど微塵も見えない。その小さな身体の何処にも震えはなく、むしろ言いようのない怒りさえも感じる程の何かを発しているようであった。

 問いかけるサラへ振り向いた少女の顔を見て、この世で唯一の賢者の心にも覚悟が宿る。目の前の圧倒的な竜種は、打倒出来ない相手ではないと。

 ヤマタノオロチという強敵と戦った時とは、サラやメルエの力量も魔法力も、比較にならない程に上がっている。もしかすると、今のメルエがヤマタノオロチと相対しても怯えを見せないかもしれないが、あれが本能的な恐怖だとすれば、メルエという竜の因子を受け継いだ少女の中で、五つの首を持つ巨竜は、竜の女王やヤマタノオロチよりも下位の存在なのだろう。

 メルエの中に宿る竜としての本能を信じるのであれば、あの巨竜程度はカミュ達の相手ではないという事になる。サラはそれを事実として受け取ったのだ。

 

「あれは……あの竜種と戦っているのは、オルテガ様か!?」

 

 巨大な竜種に目が向かっていたサラは、その巨竜の足下で武器を振るっている人間らしき影に気付きもしなかった。だが、先頭でカミュの腕を握っていたリーシャは、その存在に気付き、呆然と立ち止まってしまう。

 巨竜の足下では、リムルダールで販売していたバスタードソードのような大剣を持った男が、五つある首の攻撃を辛うじて避けながら、攻撃を繰り出していたのだ。

 その姿は、大魔王ゾーマという最強の存在に立ち向かう事の出来るような物ではない。その身体には強固な鎧を纏っている訳ではなく、リーシャの持つ力の盾のような円形の盾を持っているだけ。衣服はアリアハンでも売っているような旅人の為に用意された、布の服よりも若干丈夫な程度の物。大魔王どころか、竜種と戦うのさえも無謀と思える装備であった。

 

「カミュ、早く!」

 

 巨竜に向かって大剣を振るった男が、一つの首が吐き出した火炎に巻かれる姿を見て我に返ったリーシャは、青年の腕を取り、懇願するように走り始める。しかし、巨竜と男がいる対岸へと渡る橋は大きく、長い。駆けても駆けてもその差は縮まらず、彼女の心は焦燥感に蝕まれて行った。

 あの男がオルテガであるかどうかは解らない。カミュ達の場所からではその姿は小さくしか見えず、それが人間であるかどうかも断定出来ない。それでもリーシャはそれがこの青年の父親であり、アリアハンで生まれた者であれば誰もが知る英雄であると確信していた。

 その英雄が今にも倒れそうな状況にまで陥っている。その事が信じられない事ではなく、何処か当然の事のように感じている自分を不思議に思いながらも、リーシャはカミュの腕を握ったまま橋を渡り始めた。

 

「グォォォォ」

 

 男が何かを叫び、駆け出したリーシャの横の空気が薄くなる。真空の刃となった風が、そのまま巨竜へと襲い掛かった。

 それは、賢者となったサラが行使する最強の真空呪文であり、カミュの持っている王者の剣が内包した力。バギクロスと呼ばれる最上位の呪文を男が巨竜に向けて放ったのだ。

 しかし、その真空の刃は、巨竜の表面上の鱗を傷つけはするが、肉まで達してはいない。多少体液が流れ出てはいるが、致命傷となるような物ではなく、無闇に怒りを煽る結果にしかならなかった。怒りに燃えた十の瞳に射抜かれた男は、その内の二つの口から発せられた炎に飲み込まれて行く。それを見たリーシャは絶句した。

 

「リーシャさん!」

 

 これ程に橋が長いと感じた事はない。実際に巨大な川に架かる橋のように大きく長い物ではあるが、自分の足がこれ程にもどかしく思った事は、今までに一度もなかった。

 炎に包まれた憧れの英雄の姿を見て、放心してしまったリーシャではあったが、サラの声に我に返った時、その放心理由が『絶望』ではない事に気付く。

 アリアハンに生まれた子供達は、例外なくあの英雄に憧れた。英雄に憧れ、少年少女達は剣を振るい、魔法力を持つ者は呪文修得に努力していた。その頃、メルエよりも更に幼い少女であったリーシャは、声までも掛けて貰っている。あの頃は全く解らなかったが、誰もが憧れる英雄から直に声を掛けて貰ったという事実が、彼女よりも年長の少年少女達の嫉妬心を煽り、リーシャという少女への対応が決まったのかもしれない。

 魔物が横行し、魔王バラモスの力が増して行く中、それらを打倒出来るのは、この英雄しかいないと幼い頃は思っていた。絶対的な強者であり、太陽のような眩い輝きを放つ英雄だけが、あの世界を平和に導けると信じていたし、それ以外の者達など彼の足下にも及ばないと確信していた。

 だが、今、炎に飲み込まれて行った男性を見ても、彼が目の前の巨竜に敵わない事は明白であり、それをリーシャも理解している。それが客観的な事実であり、揺るがない真実であった。

 それでも、あの英雄が死んだという表明を聞いた時のような絶望感はない。もう二度と平和は訪れず、人間は全て滅びるのだという、目の前が真っ暗になるような深い絶望を感じる事はなかった。

 

「……カミュ」

 

「行くぞ」

 

 情けなく眉を下げ、救いを求めるように振り向いた先は、彼女が心から信じる一人の青年。六年以上も長い間共に駆け、共に戦い、共に泣き、共に笑って来た者。乏しい感情表現の中にも、喜怒哀楽がある事を知り、それの一つ一つに自分が一喜一憂している事を感じながら、何度も何度もぶつかり合い、深く信頼する事になった『勇者』である。

 深い溜息を吐き出した彼は、今まで自分を引っ張っていた腕を逆に取り、長い橋を駆け出す。女性戦士に抱かれた少女は、真っ直ぐに巨竜を睨みつけ、既に臨戦態勢に入っていた。その後ろを駆ける賢者もまた、回復呪文の詠唱の準備に入って行く。

 

「グギャァァァ」

 

 炎の海と化した橋の向こうで、その炎から飛び出した男性を待ち受けていたは、巨大な竜の口であった。

 一体の首が男に襲い掛かり、その左足に喰い付く。真っ赤な血液を撒き散らし、大腿部へ食い込んだ巨竜の牙は、脆い人類の足を食い千切って行った。

 左足を根元から食い千切られ、床へと投げ出された男性は、全身を強打し、大量の血液を吐き出す。苦痛に歪んだ表情を浮かべながらも自身の患部に手を当て、詠唱を紡ぐと、大いなる淡い緑色の光に包まれ、傷口が塞がって行った。

 しかし、傷口は塞がっても、失われた片足が戻る事はない。剣を支えに立ち上がろうとする男に、巨竜の首が振るわれる。盾でその牙の脅威を防ぎはしても、踏ん張りの利かない男は反対側の壁に吹き飛ばされた。

 

「カミュ……カミュ」

 

 その光景を見ていたリーシャが、自分の腕を握って走る青年の名を何度も呼ぶ。先頭を走る青年の表情は見えない。それでも目の前で父親が死ぬという状況を見る事しか出来ない辛さを想像するだけでも、彼女は目を閉じてしまう程に心を痛めていた。

 未だに橋の中腹まで届かない。目の前に見える場所へルーラで飛ぶ事は出来ないだろう。ただ走る事しか出来ない自分達をもどかしく思いながらも、懸命に走る事しか出来なかった。

 壁に身体を強打し、先程以上の血液を吐き出した男は、それでも懸命に立ち上がり、右腕を天井に向けて掲げる。人差し指で天を指し、身体に残った魔法力を放出し始める。その姿を一行は、見た事があった。

 船を手に入れ、初めての航海に出た直後に遭遇した嵐の中、カミュという青年が『勇者』である証明のように唱えた呪文。荒れ狂う雷雲が空を覆う中、天の怒りと呼ばれる稲妻を落とした英雄だけが許される呪文であるライデインの詠唱型式であった。

 

「……やはり、あの呪文は」

 

 しかし、天に伸ばした指先を真っ直ぐ巨竜へと振り下ろした男ではあったが、膨大な魔法力は霧散し、何の効果も示さない。朦朧とする意識の中で、己の持つ最強の呪文を唱えたのであろうが、カミュが語った内容が真実だとすれば、この場所に空がなく、雷雲さえもない状態ではその効果は発揮されないのだ。

 絶望的な光景にサラはカミュが語った内容が真実であった事を改めて知る。何度もその雷呪文を唱える事の出来る場面はあったし、その呪文の強力な一撃が必要な場面もあった。それでも、カミュは数回程度しか、その呪文を行使して来てはいない。それは、その状況が整っていなかったのだと改めて理解したのだ。

 最後の一撃さえも空振りに終わった男に残された力は既にない。力なく腕を落とし、そのまま前のめりに倒れた男の右腕を、巨竜の足が踏み抜いた。

 

「うぎゃぁぁぁ!」

 

 近付いた事によって、フロア全体に響き渡る程の男の苦痛の叫びが聞こえて来る。朦朧とする意識が、とてつもない重量によって武器を持つ右腕が踏み抜かれて潰れて行く痛覚で覚醒されたのだ。

 巨竜の足が上がると、そこには無残に踏み潰され、原型さえも留めていない肉の塊が現れる。肩口から血溜まりに沈み、最早男には身動き一つする力も残されていなかった。

 勝ち鬨のような咆哮を上げ、血溜まりに沈む男に何事かを告げた巨竜は、通路の奥へとゆっくりと移動を始め、何処から現れたのか解らない闇の中へと消えて行く。最後まで駆け寄って来るカミュ達の存在に気付かなかったのは、それだけ、この男との戦闘に意識を向けていたという事であろう。つまり、あの巨竜でさえも警戒する力をこの男が持っていたのか、あの巨竜の力がその程度の物であったのかのどちらかという事になる。

 

「カミュ、急げ。急いでくれ」

 

 最早、カミュに腕を引かれる形になっていたリーシャは、自分の足が思うように動かず、宙を浮いているような不確かな感覚に襲われながらも、カミュに対して懇願する。その腕の中にある少女は、巨竜が消えて行った方向へ厳しい視線を向け、何処か怒りに似た感覚を示していた。竜の因子を持つ者として、何処か相容れない物を先程の巨竜が持っていたのかもしれない。

 回復役であるサラは懸命に駆け、橋を渡る。ようやく橋の三分の二程度を渡った頃、その男の容貌がはっきりと視認出来た。

 この一行の中で、英雄オルテガの姿を見た事のある者はリーシャ一人である。息子といえども、カミュは一度もその姿を見た事はなく、顔さえも知らない。その偉業と伝承だけを聞いているサラもまた、その容貌などは解らなかった。メルエなどは、その存在自体を知っているかどうかも怪しく、時折名前が出て来ていた者が、今にも息絶えそうな男と同一である事を理解しているかも怪しい。

 

「サラ、早く診てくれ!」

 

「!!」

 

 橋を渡り切り、ようやく横たわる男の身体を仰向けに動かしたリーシャは、叫ぶように賢者を呼ぶ。それに応えて屈み込んだサラは、男の身体を診た瞬間、眉を顰めた。

 助かるような傷ではない。既に生命の大半を手放してしまった人間を救う術など、『人』という種族に許されてはいないのだ。自分の身体が動いた事で、うっすらと開かれた瞳は焦点が合っていない。最早、光を感じる事さえも出来ないのだろう。右腕は潰れ、左足は付け根から食い千切られている。それ程の傷を受けて尚、今も息をしている事自体が、この男の異常性を示しているだけであった。

 

「誰か……誰かそこにいるのか?」

 

「オルテガ様!」

 

 自分が抱き抱えられた事を感じたのか、残っていた左腕を微かに動かし、瀕死の男が口を開く。焦点の合わない黒目を動かしてはいるが、その色も徐々に失われており、何かを映し出す事はないだろう。それでも、男は懸命に口を開いた。

 ようやく見つけた祖国の英雄の名を叫ぶリーシャ。その傍に屈み込み、身体に残った生命力の無さに絶望するサラ。その光景を不思議そうに見つめるメルエ。そして、消え行く命を冷たく見下ろすカミュ。

 四人全員が様々な想いで見守る中、その男が震える声を少しずつ発して行った。

 

「何も見えぬ……。何も聞こえぬ……。も、もし、そこに誰かいるのなら、どうか伝えて欲しい……。今、全てを思い出した……私は、アリアハンのオルテガ……」

 

「!!」

 

 独白を開始する男に、カミュの瞳が鋭く細められる。どんなに、この男がオルテガであるとリーシャが口にしても受け入れなかった彼も、死を間際にした状況で発した名乗りを信じない訳には行かなかった。

 そして、それが真実であれば、彼がこの世で最も憎んで来た相手がそこに居るという事になる。それは、彼の胸の奥に燻り続けて来た憎悪を燃え上がらせるには十分な燃料であった。

 知らず知らずに背中の剣を抜き、それを握る手に力を込める。魔物相手の死など認めたくはないという想いが、彼にそのような動きをさせているのだが、そんな自分を見上げる幼い少女の瞳を見て、彼は手に込められた力を少し緩める事になった。

 

「もし、そなたがアリアハンへ行く事があったのなら……その国に住むニーナという女性を訪ね、その息子のカミュに伝えて欲しい……」

 

「オルテガ様、やはり貴方は……」

 

 懸命に口を動かす男の生命力が徐々に消え失せて行く。傍でサラが唱えるベホマを受け入れる様子もなく、その魂は徐々に肉体という器から離れ始めていた。

 オルテガと名乗る男の口から、その妻と息子の名前が出て来た事で、リーシャの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。溢れ出る涙は、オルテガの左腕に落ちるが、最早、その雫の暖かささえもオルテガが感じる事はないだろう。

 そして、最後の力を振り絞って男が告げた言葉に、リーシャの涙腺は完全に崩壊する事となった。

 

「へ、平和な世に……出来なかった……こ、この父を許して欲しい……と」

 

 言い切った男は盛大な血を吐き出し、動いていた左手が床へと落ちる。瞳から完全に光は失われ、それは動かぬ肉塊へと変わって行った。

 アリアハンが誇る最強の英雄の死。既に死んでいる事になっていた者が生きており、そして彼等の目の前で死んで行く。これ程に残酷な事があるだろうか。再び灯った希望の炎は、出会った瞬間に吹き消えてしまったのだ。

 その希望の種類は、上の世界にいた頃とは異なるかもしれない。だが、それでも、リーシャにとっては唯一残っていた希望でもあったのだ。

 

「ちっ」

 

「サ、サラ、何とかしてくれ! あの蘇生呪文を唱えてくれ!」

 

「あの呪文は、ザキやザラキなどで強制的に剥ぎ取られた魂を呼び戻す呪文です。死者を甦らせる呪文など、この世にありません!」

 

 憎しみの対象が、自身の目の前で他者の手によって息絶えた事に苛立ちを露にしたカミュが盛大な舌打ちを鳴らし、その音さえも聞こえないかのように、リーシャはサラへと声高に叫ぶ。だが、世界で唯一の賢者であり、古から伝わる多くの呪文が掲載された書物に選ばれた女性でも、死者をこの世に呼び戻す方法など持ち得ない。それは、人類だけではなく、この世界で生きる全ての生命には余りある力であるのだ。

 涙を溢しながら、それでも縋りつくリーシャに、サラは眉を顰める。彼女としても、人命を救いたいという想いは人一倍あるのだ。この死体が英雄オルテガであるからではなく、何処の誰であろうと、サラの想いは変わらない。それでも出来る事がない事を誰よりも悔しく想っているのも、彼女自身であった。

 

「何か、何か方法はないのか!? ようやく、ようやくオルテガ様の想いを聞いたのだ。やっと、カミュが前を向けるんだ! サラ、何とかしてくれ!」

 

 自分の肩を掴み、何度も揺するリーシャの姿に、サラは唇を噛み締める。何とかしたい想いは変わらない。その事をリーシャは誰よりも知っているだろう。それでも尚、自分の知識も思慮もサラに及ばない事を理解して、叫び続けていた。

 不安そうにこちらを見つめるメルエの姿を見たサラは、何かを考えるように俯き、ずっと胸の奥に封印していた扉を開ける決意を固める。それは、開ける事がない事を願い続けて来た扉であり、決して開きたくはない扉でもあった。

 

「一つだけ……一つだけ方法はあります」

 

「何!? 何だ? 何が必要なんだ!? 出来る事ならば、なんでもする。教えてくれ!」

 

 意を決したように顔を上げた賢者の瞳は、リーシャを射抜く程に鋭い。だが、その瞳に気圧される事なく、リーシャは口を開いた。

 サラが口にする以上、そこには何らかの後ろ盾がある。それがリーシャがこの長い旅の中で経験して来た事であった。

 彼女は余程の事がなければ、確信のない事は口にしないようになった。旅を始めた頃は失言の多い僧侶であったが、視野が広がり、賢者としての責任の重さを感じて行く中で、本当に思慮深い女性へと成長している。

 そんなサラが、今まで頑なに口を閉ざしていたのだから、この場になってもまだ、確信を得られていない事であるとは想像出来るが、それでも一抹の希望を持って口を開いたのだろう。彼女を良く知るリーシャだからこそ、それは縋るべき価値のある物だと理解したのだ。

 

「カミュ様、まだ『世界樹の葉』は持っていますか?」

 

 リーシャの問いかけに、サラは一人だけ立ったまま死体を見下ろしている青年へと声を掛ける。それに釣られるように、リーシャやメルエもまたカミュへと視線を動かした。

 『世界樹の葉』とは、上の世界のジパングの北辺りに広がる広大な森の中央に聳える巨大な樹木が落とした一枚の葉である。導かれるようにその場所へ足を運んだ一行がその樹木の偉大さに驚いている時、遥か上空に広がる枝から一枚の葉がカミュの手へと落ちて来たのだ。

 それが何を意味する物なのか、その時カミュ達には解らなかった。だが、良く思い出せば、あの場面でサラだけが何かを口篭り、そしてそれを飲み込んでいる。まるで禁忌を口にする事を恐れるように飲み込んだ彼女は、リーシャの問いかけに対しても頑なに口を閉じ、その内容を今まで語る事はなかった。

 

「世界樹の葉には言い伝えがあります。教会にあった書物に記載されていたものですから、その真偽は定かではありませんが、どれだけ時間が経過しようとも瑞々しさを失わないその葉を磨り潰し、それを口に含む事が出来たなら、どのような状態の死体であっても甦ると」

 

「……生き返るのか?」

 

 サラが何を言おうとしているのかが解らないまでも、自分が望む事ではない事を悟った険しいカミュの表情を見ていたリーシャは、サラが語り出した内容を耳にすると、弾かれるように顔を戻す。

 既にオルテガが息を引取ってから時間は経過している。世の常識であれば、その魂は精霊神ルビスの御許へと戻っている筈だった。だが、サラの知識が本物だとすれば、そのような状態の者でもこの世に蘇るという事になる。

 葉を磨り潰し、それを口に含ませなければならないとすれば、死後の硬直が始まる前でなければならず、ましてや白骨化したような遺体では不可能である事を示していた。ならば、甦る可能性を考えると、時間はない。それを悟ったリーシャは、再びカミュへと顔を向けた。

 

「カミュ、早く世界樹の葉を!」

 

「断る」

 

 しかし、リーシャが振り向き様に発した言葉は、即座に斬り捨てられる。一切の考慮もなく、間を空けず返した言葉は、彼の明確な拒絶を示していた。

 サラはその答えを予想していた故に、カミュに対してそれを要求していなかったが、リーシャにとっては予想外の答えだったのかもしれない。彼と共に歩み、彼の心に踏み込んで来た彼女だからこそ、この状況であれば、世界樹の葉を出してくれると考えていたのだ。

 決して、彼が持つ父親への憎悪を軽く見ていた訳ではない。彼の苦しみを、彼の悩みを軽んじていた訳でもない。だが、今の彼ならば、その憎悪を越え、苦悩を越え、更に前へと進んでくれるものだと信じていた。

 

「カミュ、何を言っているんだ? 早く、世界樹の葉を……」

 

「断る!」

 

 余りにも予想外の出来事だったのか、リーシャは震える手をカミュへと伸ばし、そこに世界樹の葉を乗せてくれるように改めて要求する。だが、それに対して、先程以上に声を張り上げて断るカミュを見て、眉を下げた。

 彼の境遇が自分と同じ物だとは思わない。生まれてすぐに母親を亡くした彼女ではあるが、母親の愛情を疑った事はなく、厳しい父親の愛情を疑った事もなかった。『母が生きていてくれたら』と何度望んだか解らない。『父が生きていてくれたら』と何度涙を溢したか憶えてもいない。それ程に、彼女にとって親とは大きな存在であった。

 死して尚、それらを甦らせる方法があったのならば、彼女はどれ程の苦労も苦労と思わずに、その方法を求めて歩き続けただろう。どれだけ望もうとも、叶えられないからこそ、彼女は親の死を飲み込み、それでも前へと歩もうと決意したのだ。

 

「……ここで、オルテガ様を見捨ててしまえば、お前のその憎しみも、これまでの悲しみも苦しみも、誰に訴えるのだ? お前がずっと抱えて来た想いを誰に伝えるのだ? 今しかないんだぞ? これを逃したら、お前は今まで抱えて来た苦しみや悲しみ、憎しみよりも大きな後悔だけを抱えて行く事になる。だから、早く世界樹の葉を」

 

 アリアハン城下町で彼の母親であるニーナと会話した時、彼の想いは永遠に誰にも伝わらないのだと感じていた。だが、アリアハンへ帰るつもりのないカミュに、その想いをぶつける相手がもう一人いる。それが父親であるオルテガであった。

 ニーナへの想いよりも、オルテガへの想いの方がカミュ自身も強いだろう。肉親だからこそ許せない子供の想いを、肉親だからこそ親へぶつける事が出来るのだ。その唯一の機会を逃しては、彼の中でずっと燻り続けて来た火種は、永遠に燃え上がる事もなく、生涯に渡って彼を苦しめる事になる。リーシャは、それだけは許せなかった。

 

「断る! 何故、それ程に貴重な物をこんな奴に使わなければならない! 俺がこの手で殺してやりたい程の奴を、何故貴重な物を使ってまで生き返らせる必要がある!?」

 

「……カミュ」

 

 正確に言えば、リーシャはカミュの中に棲み付いていた闇を甘く見ていたのかもしれない。彼は、メルエの境遇を知った時、『親を他人として見るようになった』と口にしていたが、それは母親であるニーナや、祖父の事であった事をリーシャは悟った。

 顔も知らず、声も知らない父親は、他人として見る事さえも出来ずに、憎しみの対象としての想いだけが膨れて行ったのだろう。そのような闇を抱えていながらも、真っ直ぐに、そして優しさを失わずに生きて来た彼に改めてリーシャは敬意を持った。

 カミュの怒声に驚いたメルエはサラの陰に隠れ、彼とリーシャの間に割って入れないサラは、ただその成り行きを見守る事しか出来ない。それでも、自分が出来る事をと、オルテガの遺体に回復呪文を唱え続け、死体の傷みを遅らせていた。

 

「……カミュ、その葉を使用する事がなかったのは、この時、この場所で使用する為だったんだ。その為に、その葉はお前の手に落ち、今はお前の腰に下がっている。メルエを失いそうになった時も、サラが死力を尽くしてくれた。今がその奇跡の葉を使う時だ」

 

「ふざけるな! この先は、今までとは比べ物にならない程の魔物や魔族が蔓延る場所だ。その先には全てを滅ぼす大魔王との戦いが待っている。これまでと同じように誰も死なないという保証が何処にある!? こんな奴に使った為に、アンタ達の誰かの死を救えなければ、それこそ生涯悔いる事になる!」

 

 今まで、どれ程にその心へ踏み込もうとしても、彼がこれ程に心を開いて己の想いを語った事などない。初めて聞く、カミュの想い。その内容に、サラは驚き目を見開く。

 仲間として認められている事は感じていた。戦いを越える毎に深まる絆を信じてもいた。だが、自分達が彼の中でそこまで大きな存在になっている事をサラは初めて理解する事にある。六年以上もの旅の中で、何度も何度も衝突し、傷つけ合った。互いの距離感を測りかね、心の境界線を越えてしまった事もある。何度も後悔し、何度も過ちを繰り返し、何度も何度も悩み苦しんで来た。

 その全ての過程は、決して無駄な道ではなかったのだ。知らず知らずに流れ落ちる涙は、決して悲しみの涙ではないだろう。むしろそれは喜びに近い哀しみ。カミュの心を知り、その想いに喜び、その切なさに哀しむ。

 そんな彼の全てを引き出し、今も尚、彼と共にあるリーシャという女性を、サラは心から尊い者のように思えた。

 

「……そうか。やはり、お前は私達を想ってくれるのだな」

 

 聞いた事もないカミュの怒声を聞いて尚、リーシャは嬉しそうに微笑みを浮かべる。本当に心からの喜びを表すようなその微笑みに、カミュは先程までの勢いを失ってしまった。

 そんな二人のやり取りを眺めながら、サラは小さな泣き笑いを浮かべる。人間の遺体の前に屈みながら浮かべる物ではないかもしれないが、不安そうに成り行きを見ていたメルエも、サラの表情を見て、ようやく落ち着きを取り戻していた。

 

「大丈夫だ。あの時、私はお前に言ったぞ? 私達は誰一人として、もう心を折るような事はない。心が折れなければ、サラやお前が回復してくれる。絶対に死を受け入れる事はない。お前は私達が護るし、私達はお前が護ってくれるのだろう?」

 

 立ち上がったリーシャは、今では自分よりも背丈が大きくなった青年の前に立つ。アリアハンを出た六年前は、自分の方が頭一つ分近く大きかった筈。それが今では、見上げる程ではないにせよ、カミュの瞳の場所の方が自分よりも高い位置にある。感慨深い想いが胸に湧き上がりながらも、リーシャは諭すように語り掛けた。

 生命力は自分で制御する事など出来ない。だが、実際に、リーシャは死に瀕する程の怪我や火傷を負っても、生を諦める事はなく、サラの唱える最上位の回復呪文を受け入れた。死を受け入れず、生にしがみ付く者だからこそ、回復役の想いを受け入れ、その呪文の効果を発揮する。

 腕を失おうと、足を失おうと、それでも生きようともがく者だからこそ、世界はその者を受け入れてくれるのかもしれない。

 

「私はここで約束しよう。メルエが信じる魔法の言葉を口にした以上、私は戦いの中では絶対に死なない。その寿命を全うするまで、私はこの世界に在り続けよう」

 

「…………メルエも……だいじょうぶ…………」

 

 そのような約束に何の意味もない事など、この険しく長い旅路を歩んで来た彼等ならば知っている。それでもリーシャはその言葉を口にし、この場で誓いを立てた。それに倣うようにメルエが立ち上がり、彼女が心から信じる魔法の言葉を口にする。

 この幼い少女にとって、『大丈夫』という言葉がどれ程に重い意味を持っているのかを知っているのは、リーシャだけなのかもしれない。その言葉をメルエへと教えたサラでさえ、これ程に重い言葉になっている事を知らないだろう。

 アッサラーム近くの森でメルエを背にして戦った時、ピラミッドで倒れたカミュを治療した時、この旅の中で彼女は何度もその言葉を口にし、そして本当に『大丈夫』にして来た。それを見続けて来た少女にとって、この短い単語は、絶対の自信の裏付けであり、それを成さなければならない誓いの言葉でもあるのだ。

 

「さぁ、カミュ。世界樹の葉を」

 

「くそっ!」

 

 慈愛の微笑みと、その瞳から流れる一筋の涙。それが悲しみや憐れみの涙ではない事をカミュは誰よりも理解している。彼女はようやく辿り着いたカミュの心の奥底を見て、そしてそこに希望を抱いた。

 彼が持つ闇は、大魔王ゾーマが生み出すような漆黒の闇ではない。幾筋もの光が差し込む闇であり、既にそこには闇を晴らすだけの光が集まっているのだという事を知り、歓喜の笑みを浮かべる。そして、彼女がそこへ辿り着く為の最後の一歩を踏み出す為に、彼自らその手を差し伸べて来たという事にリーシャは涙したのだ。

 言いようのない苛立ちと、悔しさに苛まれ、カミュは世界樹の入った革袋を床へと投げ捨てる。受け取ろうと手を伸ばしていたリーシャは、その行動に怒りを表す事なく、手の掛かる子供に対するように苦笑を浮かべて、床から革袋を拾い上げた。

 

「サラ」

 

「……はい。メルエ、擂り鉢を」

 

「…………ん…………」

 

 拾い上げた革袋をそのまま渡し、受け取ったサラは、メルエが持つ薬草用の擂り鉢を要求する。袋から取り出した一枚の大きな葉は、既に数年という月日が経過して尚、カミュの掌へ落ちて来た時と同じ瑞々しさを保っていた。

 広大な上の世界の匂いさえも漂わせる葉をメルエが磨り潰す間、サラは遺体へ回復呪文を掛け続ける。回復呪文で遺体の状態が維持出来るかどうかは定かではないが、何もしないよりは良いと考えたのだ。

 

「リーシャさん……。大変言い難いですが、世界樹の葉を使ってもオルテガ様が生き返るという保証はありません。最悪の場合を考慮に入れてください。そして、この状況になれば、蘇生の成否に拘わらず、一度リムルダールへ戻らなければなりません。魔法力的にも、精神的にも、私達は戦える状況ではありませんから……」

 

「わかった。サラ、頼む」

 

 懸命にメルエが潰す葉が、緑色の液体へと変化して行く。繊維など初めから無かったかのように葉の面影さえも消えて行く様は、神秘的な光景であった。

 それを横目にサラは、オルテガの蘇生の成否に拘わらず、戦略的撤退を提案する。確かに、オルテガへの回復呪文も数はかなりの回数に及んでいた。それに加え、彼女達が最も頼りとし、大魔王を倒す為に不可欠な『勇者』の心が、壊れ掛けている。とてもではないが、最深部を目指して歩き続け、そして大魔王ゾーマという最凶最悪の存在に立ち向かえる状態ではなかった。

 そして、それを理解しているリーシャは、大きく頷きを返し、全てをサラへと託す。カミュという『勇者』が機能しない今、この一行の頭脳は賢者であるサラなのだ。彼女が物事を考え、指針を決め、行う。カミュの時と異なるのは、それをリーシャが了承するという過程がある事ぐらいだろう。

 

「…………できた…………」

 

「ありがとうございます。では……リーシャさん、オルテガ様を起こして貰えますか? 何が起きるか解りません。そのまま口の中へと入れて行きますが、気を緩めないで下さい」

 

「わかった」

 

 完全に液体と化した世界樹の葉を受け取ったサラが、リーシャの支えで起き上がったオルテガの遺体の口を開き、そこへ注いで行く。エメラルドグリーンに輝く液体が、周囲の瘴気さえも弾き返し、神々しい光を放ちながらオルテガの体内へと入って行った。

 その全てがオルテガへと注ぎ込まれた瞬間、既に魂さえも失った筈の遺体全体が眩いばかりの光を放つ。支えていたリーシャは余りの光に視界を奪われ、サラは空になっていた擂り鉢を床へと落としてしまった。

 

「……これは」

 

 眩い光がオルテガの身体全体を包み込み、そして失った身体の部位までも作り出して行く。巨竜によって食い千切られた左足を付け根から光の粒子が生み出し、踏み潰された右腕は光の粒子が入り込む事によって復元されて行った。

 最上位の回復呪文であるベホマでも欠損部分の再生は出来ない。何度もサラがオルテガへ回復呪文を唱えていた為、付け根の傷痕は綺麗に塞がっており、右腕は踏み潰された場所を切り離すように内部で塞がっていた筈。それにも拘わらず、全ての光がオルテガの中へと吸い込まれた後には、彼の生前と変わらない綺麗な五体へと戻っていたのだった。

 

「……息も戻っています」

 

「本当か!? オルテガ様は生きているのか!?」

 

 信じられない神秘を目の当たりにして、サラは茫然自失となりながらも、光を納め終えたオルテガの鼻先に耳を近づける。そして、小さくはあるが、正確な呼吸の音を聞いて顔を上げた。

 この長い旅の中で、彼等が解明出来ないような不可思議な事を何度も経験して来ている。だが、世界樹の葉が生み出した神秘は、その中でも一際大きな物であった。故にこそ、リーシャは未だに信じられない表情を浮かべ、サラへと問いかける。それに対して、もう一度大きく頷いたサラを見て、ようやくリーシャは腰を抜かしたように脱力した。

 メルエが生きていた時や、サラが生きていた時のように泣き出す事はない。幾ら、この英雄が幼い頃の憧れだとはいえども、彼女との間に絆がある訳ではないのだ。だが、彼女を襲う安堵感と疲労感は確かであり、これは、オルテガへ向けられた物ではないという事を彼女自身が気づいてはいないのかもしれない。

 

「カミュ、ありがとう。前を向く勇気を出してくれて……。そして、私達を想ってくれて、本当にありがとう」

 

「ちっ」

 

 振り向いたリーシャの笑みを見たカミュは、大きく舌打ちを鳴らす。彼の中では未だに消化不良な部分が残されているだろう。だが、それでもその胸の内にある全てを曝け出してしまった事実は消えず、そういう行動を取る以外に何も残ってはいなかったのだ。

 そんな彼を見て、再びリーシャは小さな雫を瞳から溢す。晴れやかな笑みを浮かべながら、喜びの涙を流す姿は、同じ女性であるサラから見ても美しく、それが嬉しい事であると気付いたメルエが彼女に抱きついて花咲くように笑っていた。

 

「一度戻ろう。メルエ、頼めるか?」

 

「…………ん…………」

 

 抱き付いて来たメルエの頬に自分の頬をつけて微笑んでいたリーシャは、その小さな身体を剥がし、未だに意識の戻らないオルテガを担ぎ上げる。要請を受けたメルエは大きく頷いて呪文の詠唱準備に入り、それを見たサラはメルエの手を握った。

 反対側の手を握ったリーシャは、未だに眉を顰めているカミュに向かって、微笑みながら手を伸ばす。大魔王の居城で浮かべるような表情ではないが、彼女の気持ちを考えれば、それ程の出来事だったのだろう。

 

 精霊神ルビスが口にした、カミュに訪れる最後の試練。その内容に関しては、リーシャだけが朧気ながらも理解していた。そしてだからこそ、今の彼ならば乗り越えて行けると考えていたのだろう。だが、その試練は、彼女が考えていたよりもずっと高く険しい物であった。

 大丈夫だと信じてはいても不安は残る。その中で、勇者が胸に封じていた闇が想像以上の物であると知った。だが、その闇へ差し込む多くの光の筋を見て、再び希望の炎が点る。そして、見事に彼はその試練を乗り越えて見せた。

 彼の胸の闇が完全に晴れるまでには、まだ時間を要するだろう。それでも、リーシャは彼を信じ続ける事が出来る。彼の心の中に、他者を想う光があるのだから。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
考えていたよりも長い一話になってしまいました。
おそらく、賛否両論ある回だと思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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~幕間~【リムルダールの町】

 

 

 

 リムルダールという町は、いつも通りの賑わいを見せていた。

 遥か南方に見えた光の筋に気付く事は無く、西の外れに架かった虹の橋に気付く事も無い。それは、この絶望に彩られた世界の中で、今の自分の小さな世界を護る事だけに必死であるという理由からであろう。外へ視野を広げる事が出来ない人々を誰も責める事など出来はしない。本来の『人』という種族は、弱く脆いのだ。

 宿屋に辿り着いた一行は部屋を取り、その内の個室のベッドへオルテガを寝かせる。薬師などの手配が必要ではない事から、一度サラが回復呪文を掛けた後、湯浴みや食事を済ませて行った。

 呼吸もしっかりとしており、心臓の鼓動も正確に打たれている為、時間と共に意識は戻ると考えたリーシャは、サラやメルエを先に眠らせ、暫くオルテガの部屋で様子を見ることにする。

 カミュに至っては、宿屋に着いてから一度もこの部屋に足を踏み入れる事はなく、自室に入ったまま出てくる様子もない。仕方のない事とはいえ、この哀しい親子の距離感がリーシャにはもどかしかった。

 

「ん?」

 

 意識を戻す様子のないオルテガを、少し離れた場所に置いてある椅子に腰を掛けながら見ていたリーシャは、近くの部屋の扉が開いた音で首を動かす。この部屋の左隣はサラとメルエを含めた女性三人部屋であり、右隣の部屋は未だに意識を戻さないベッドの主の息子が入っていた。

 宿屋の二階部分にある三部屋を借りており、最も階段に近い部屋がカミュの部屋である。そのまま部屋の扉が閉まる音がして、階段を下りて行く音が静かな宿屋に響いて行った。

 一つ息を吐き出したリーシャは腰を上げ、一度ベッドで眠るオルテガへ視線を向けた後で部屋を出る。闇が支配するリムルダールは、何時が昼で夜なのか解らないが、この時間帯に人の気配がほとんどない事を考えると、この町の住民にとって今が夜なのだろう。静寂が支配する宿屋の階段を、リーシャはゆっくりと下りて行った。

 

「アレフガルドの空を見上げても、お前の好きな月は出ていないぞ?」

 

「……またアンタか」

 

 宿屋を出て少し歩いた所に、小さな池のような物がある。湖の真ん中に浮かぶリムルダールという町は、天然の要塞と言っても過言ではないが、この町には更に町の周囲を囲むように水堀が巡らされていた。その水堀は湖から水を引いており、そこから農業の為の水路を引いている。そして、それを貯水する為の池が各所に造られていた。

 その池の畔に彼は立っていた。上の世界で良くしていたように、真っ黒な空を見上げている。その姿を何度見て来た事だろう。彼のこの行動にリーシャが初めて気付いたのは、確かアッサラームでの夜だったかもしれない。メルエの母親の事でリーシャと衝突した後、彼は外で月を見上げていた。

 彼が初めて人を殺めた夜、バハラタの町で月を見上げる姿を見たリーシャは、彼の太陽になろうと決意する。それ程に儚げで虚ろな存在であった青年も、今では生まれ育った世界だけではなく、異世界であるアレフガルドさえも救う希望となった。

 しかし、今、彼女の目の前に居る彼は、あの時を髣髴とさせるような虚ろさを持っている。近くまで寄ってから声を掛けなければ、彼女の存在にさえ気付かなかった事が、今の彼の心を表していた。

 

「相変わらず酷い奴だな」

 

 あの時と変わらぬ彼の物言いに、リーシャは苦笑を浮かべる。あの時と変わったのは自分の気持ちだったのだと改めて気付いた彼女は、真っ黒な空を見上げる彼の傍に立ち、その横顔を眺めた。

 今にも消え入りそうなその横顔は、ここまで続けて来た六年以上の旅路の中でも初めて見た物かもしれない。どれだけの苦難にぶつかろうとも、どれだけの絶望を味わおうとも、彼がこのような表情をした事はなかった。

 

「少し話をしないか?」

 

「……俺にはない」

 

 自分の申し出を一蹴するカミュに苦笑を浮かべたリーシャであったが、その答えを無視するような形で、池の畔にある岩へと腰掛ける。無表情でそれを見ていたカミュではあったが、諦めたように溜息を吐き出し、彼女の隣にある岩へと腰を降ろした。

 闇の中にも町の明かりは灯り、お互いの顔が全く見えないという事はない。だが、リーシャもカミュも互いの顔を見る事なく、目の前の池へ視線を向けていた。暫しの静寂が流れ、沈黙を続けるリーシャの方へカミュが顔を向けた時、ようやく彼女は口を開く。

 

「何から話せば良いか解らないが、今日のカミュは偉かったぞ」

 

「……メルエと一緒にするな」

 

 何を語り出すかと思えば、メルエのような幼子を相手にするような物言いに、不愉快そうにカミュは眉を顰めた。

 人によっては上からの物言いに聞こえるかもしれないが、彼女にとってそのようなつもりは全くないのだろう。母のように、姉のように、そして彼を想う一人の女性のように、彼女はその言葉を口にしている。

 彼が歩んで来た道が誰も経験した事のない過酷な道である事も知っているし、彼の苦悩がリーシャやサラには想像も出来ないものである事も知っていた。世に轟く英雄オルテガでさえも、勇者カミュが歩んで来た茨の道を歩んだ事はないだろう。

 その上で、彼女は彼を心から褒め称え、敬意を口にしたのだ。

 

「ふふふ。今日に限って言えば、メルエよりも偉かった。心から、お前こそがアリアハンの勇者であり、世界の勇者であると思う」

 

「ちっ」

 

 カミュは大きな舌打ちを鳴らす。そして、思うのだ。この単細胞だった女性戦士が、カミュの皮肉や悪態に怒りを見せなくなったのは、一体いつからだろうと。

 アリアハン大陸では、彼が発する一言一句に反応し、激昂していた。その度に衝突し、それを適当に流すのはカミュの役割であった筈。それが何時の間にか、彼女の発する言葉に苛立ち、反応する彼の言葉に、彼女は笑みを溢すようになっていた。

 この女性戦士が一行の要であると気付いたのは、ピラミッドを越えた辺りからだろうか。バハラタの町を抜け、カンダタ一味との二回目の対峙の頃には強く思うようになり、サラが賢者となった時には確信へと変わった。

 常に一行全員へ目を配り、その心を慮り、そして時には慰め、時には叱咤し、一行をここまで歩ませたのは彼女であろうとカミュは考えている。それを彼女に言えば否定するだろうが、カミュのその想いを覆す事は誰にも出来ないに違いない。

 

「私は、お前をオルテガ様の息子と認めたくはなかった。だが、いつしか私はそれを認め、今では英雄オルテガの息子ではなく、勇者カミュとして信じている。お前は、お前であり、誰の代わりでもなかった」

 

 池を眺めたまま呟かれた一言は、彼女がずっと胸に納めて来た物。彼女の憧れであった英雄の息子と旅するという事に胸を躍らせていたあの時、目の前に現れたカミュを見て絶望し、失望に変わる。失望は怒りとなり、その対象を憧れの血縁とは認める事が出来なかった。

 いつかその本性を暴いてやると意気込んで旅に出る。その六年以上の旅の中で、太陽のような英雄とは異なりながらも、誰の目も届かない場所を照らす月のような優しさを持つ青年を認め、信じるようになっていった。

 彼は、アリアハンの英雄であるオルテガの代わりに魔王討伐に旅立った訳ではない。彼こそが、世界の勇者として魔王バラモスと対峙し、打ち果たす人間なのだと理解した。英雄オルテガの息子として彼を見るのではなく、いつしか勇者カミュの父親が、あのオルテガだっただけというような見方へと変わって行く。

 それは、彼女の見方が変わったという物ではなく、六年以上もの間で彼が起こして来た行動がそう見させたのだ。今では、リーシャはその彼の行動全てを誇りに思っている。浮かんで来る笑みが近くの灯篭の炎に揺らめいた。

 

 

 

 

 何かに導かれるように目を覚ました男は、自分の瞳が光を映している事に驚いた。最初は何が何やら理解出来なかったが、徐々に眩い光が薄れ、瞳に映る物が建物の天井らしき物である事に気付く。

 定まらない思考の中で、何故自分がここに居るのか、ここは何処なのかという疑問が湧いて来るよりも先に、一気に押し寄せて来る過去の記憶に彼は眉を顰めた。

 アリアハンという生国を出て、何度も魔物達と戦い、魔王を目指す。その後、様々な出来事を経て辿り着いたアレフガルドという別世界を恐怖に陥れる大魔王ゾーマを討つ為に向かった城の中で、絶望を見た。

 巨大な五つの首を持つ竜種と戦った記憶が甦った時、男は弾かれたように身体を起こす。自分に架かっている毛布を剥ぎ、左足を見ると、記憶の中で食い千切られた筈のそれが、そこにはしっかりと存在していた。そして、勢い良く毛布を剥ぎ取った右腕もまた、踏み潰された物である事に気付き、呆然とする。

 

「私は、生きているのか?」

 

 一瞬、ここが死後の世界なのかと思いはしたが、周囲を見渡すと、そこが宿屋の一室のような平凡な部屋である事が解る。部屋に漂う特有の匂いも、長い旅の中で嗅ぎ慣れた物であり、自分に掛かった安物の毛布も、長い旅路の中で何度も目にして来た物であった。

 自分の物ではないように動かし難い身体を起こした男は、呆然と部屋を見つめる。だが、時間は残酷にも男に猶予を与える事なく、彼の脳内へ一気に記憶を送り込んだ。

 年若い妻と生まれたばかりの息子を置いて、アリアハンという生国を出た彼は、長い長い旅路を歩む。何度も死を身近に感じ、何度も絶望を味わった。バラモス城へ到達し、ようやく魔王を倒せるところまで来て、彼は記憶を失う程の衝撃を受ける。そして、アレフガルドへ降り立ち、自分の名しか思い出せない中で、諸悪の根源である大魔王ゾーマの討伐へ向かった。

 様々な困難を越えながらも、一人旅という難しさを実感する。全ての魔物を退ける事など出来はしない。時には身を隠し、時には魔物に背を向けて歩んで来た。彼には何の加護もなく、情報を得る術もない。アレフガルドの王都の南西にある『魔の島』と呼ばれる孤島に大魔王ゾーマの居城があるという情報だけを頼りに、そこへ真っ直ぐに進むしかなかったのだ。

 しかし、その場所で待っていたのは、明るい未来への希望ではなく、大きな絶望だけであった。死ぬ思いをして渡った渦巻く海峡を経て辿り着いたゾーマ城の内部は、彼が想像していたよりも遥かに強力な魔物達が蔓延る地獄。進む度に傷つく身体を癒しながらも奥へと進み、大きく長い橋を渡った先で、本当の絶望に遭遇する。

 

「私は、あの竜に全てを奪われた筈」

 

 彼を待ち構えていたのは五つの首を持つ巨竜。これまでの長い旅の中で遭遇した事もない絶望の象徴であった。

 上の世界でもあれ程の魔物に遭遇した事はない。強力な竜種の鱗は、彼の持っていた大剣の刃さえも通さず、傷一つ付ける事は出来なかった。吐き出す炎は全てを燃やし尽くす程に強力で、鋭い牙はどれ程に鍛えた筋肉だろうが貫くだろう。狂ったような海峡を渡る為に重量のある鎧などの装備品を捨て、剣と盾だけを持って挑んだ自分を呪いたくなる程の絶望だったのだ。

 自分の力量には自信があった。一対一という状況であれば、大抵の魔物に遅れなど取らないと思ってさえいた。だが、彼の数十年の人生で培って来た自信は、脆くも崩れ去る。圧倒的な暴力の前に成す術もなく、そこまでの道で消費して来た魔法力は底を突き、左足と右腕を失った彼は、命さえも奪われる筈だったのだ。

 

「……ここは何処なんだ?」

 

 失われた筈の左足も右腕もあり、今も彼の脳が発する指令に忠実な動きを見せている。自分の記憶が可笑しいのか、それともこれが現実なのかが判断出来ず、どこか自分の身体ではないような感覚を覚えながらも彼は立ち上がった。

 彼の名はオルテガ。アレフガルドではない、『上の世界』と呼ばれる場所では知らぬ者がいない程の英雄である。生国アリアハンが誇る世界の英雄であり、全世界の平和を一身に背負う事になった男であった。

 二十台前半でアリアハンを出てから二十年以上旅を続け、記憶を失いながらも当初の目的を見失う事なく歩み続けて来た男でもある。

 

「もう起きても大丈夫なのですか?」

 

 覚束ない足取りで階段を下りて行くと、見た事のあるカウンターが見えて来た。そのカウンターには一人の男性が入っており、それがこの宿屋の主人である事は見て解る。そこで改めてオルテガは、ここが自分が通った町の宿屋である事を理解した。

 大魔王ゾーマの居城へ向かう為に最後に立ち寄った町。数日を過ごした事のあるその宿屋の一室に自分が居たのだという事を理解したオルテガは、宿屋の主人が向ける視線の意味さえも理解した。

 彼にとってはオルテガは知己の存在なのだろう。故にこそ、意識不明だったオルテガを心配していたに違いない。

 

「ここはリムルダールか……」

 

「え? あ、はい。お連れ様なら、少し外へ出られていますよ」

 

 呟きに対して律儀に答えを返した宿屋の主人の言葉に、オルテガは驚きを表す。リムルダールの町から大魔王の居城へ向かう時、彼に同道者など居なかった。アレフガルドという世界に降り立ってからの旅は常に一人であり、彼に金銭的な協力を申し出る者はいても、共に戦ってくれる者は誰一人いなかったのだ。

 故に、宿屋の主人が口にした『連れの者』という存在に見当が付かない。思い当たる者も存在せず、自分がどのようにしてリムルダールに戻って来たのかさえも解らない。混乱に近い状態に陥ったオルテガは、誘われるように宿屋の外へと足を踏み出して行った。

 

「今は夜なのか?……それとも、未だに闇が晴れていないのか?」

 

 宿屋を踏み出した先は、漆黒の闇。篝火のような炎があちこちにあり、ぼんやりとした明かりはあるが、それでも見通しが利かない闇の中である事は明白だった。

 それが夜の闇なのか、それとも大魔王ゾーマが生み出した闇のままなのかの判別が出来ない。自分の記憶が正しければ、この闇が夜の物ではないのだろうが、死んだ筈の自分が生きているという状況と、再びリムルダールへ戻って来ているという状況から、これが夢なのか現実なのかが解らなくなっていた。

 当てもなく町を歩いていたオルテガは、誰一人いない町の中で小さな声を耳にする。そちらの方角へ目を凝らすと、池の畔にある篝火の炎に照らされた二つの人影が見えた。宿屋の主人が言う『連れの者』となれば、オルテガの見える範囲には彼らしか存在しない。そして、話を聞いてみようと近付いて行った彼の耳に、衝撃的な言葉が入って来た。

 

「私は、お前をオルテガ様の息子と認めたくはなかった。だが、いつしか私はそれを認め、今では英雄オルテガの息子ではなく、勇者カミュとして信じている。お前は、お前であり、誰の代わりでもなかった」

 

 

 

 

 カミュとリーシャは近くに座りながらも、お互いの表情を確認する事は無かった。それぞれが池を見つめ、相手の表情を確認する事なく時間を過ごしている。それは長い時間を掛けて彼等が築いて来た絆の成せる時間なのかもしれない。

 今は身を護る鎧も身に着けてはおらず、攻撃を防ぐ盾もない。相手を攻撃する武器もなく、そこにあるのは、素のままの人間であった。

 

「お前が歩んで来た十六年という時間が、どれ程に苦痛な物であったのかという事を私は解らない。想像は出来るが、それでも理解したとは言えないだろう。英雄オルテガという名の重責を背負わされ、道を決められ、それ以外の行動が認められない。昔の私ならば、それを光栄に思えとでも言ったかもしれないな。いや、実際に言った事もあったか……」

 

 独白を続けるリーシャを遮る者はいない。隣に座るカミュも、最早何かに諦めたように、その言葉を聞き続けていた。彼女が何を意図しているのかを彼は理解していないだろう。それでも、こうなってしまった彼女の言葉を遮る事は出来ないという事を、彼は誰よりも知っていた。

 カミュという一人の少年が、どれ程の苦痛に苛まれて来たかを本当の意味で理解出来る者はいないだろう。生まれた時から道を決められ、それ以外の行動は許されない。誰もが幼い頃から彼の存在を知っており、力が弱い時分の彼を何らかの形で痛め付けていた。

 自らよりも弱い者、不幸な者を生み出す事によって、自身の心の安定を図る。それは『人』という種族が持つ弱さの一つであり、寄り集まらなければ成り立たない『人』という社会では避けて通れない問題であった。

 

「魔物の力が強まれば強まる程にお前への期待は膨れ上がり、お前の成長を待つ事が出来ない者達はその鬱憤をお前に向けた事もあっただろう。出会った頃のお前が、『人』という存在に絶望していた事も当然だと思う。それでも、カミュで在り続けてくれた事を私は誇りに思っている」

 

 リーシャとカミュが語り合った事はここまでの旅で何度もある。カミュだけでなく、サラも何度もあった。その会話の中で、彼女にとって最上位の賛美の言葉が『誇りに思う』という物である事はカミュも理解している。騎士として生きて来た彼女にとって、己の『誇り』という物は最も重要な物であったのだろう。

 アリアハンという国への誇りから、己の行動への誇りへ。そしていつしか、彼女の誇りは共に歩む三人の仲間達の存在となっていた。メルエという少女も、サラという苦難の女性も、そして彼女達をこの場所まで連れて来たカミュという青年も、彼女にとっては揺るがない誇りなのだ。

 

「今でもオルテガ様は憎いか?」

 

 何を考えるでもなくリーシャの言葉を聞いていたカミュは、突然振られた質問に顔をリーシャへと向けてしまう。だが、その先には視線を池へと向けたままの横顔があるだけであった。

 篝火の炎で照らされた彼女の横顔は本当に穏やかな物。そこに責めるような雰囲気はなく、ましてや悲しみの色なども見えない。まるで答えなど理解しているかのような空気を醸し出すその姿に、カミュは何故か無性に苛立ちを覚えた。

 

「当たり前だ」

 

 当然答えは一つ。『人』に対して興味さえも失った彼であるが、それでも彼に残された感情の一つが憎悪であった。

 最も身近にいる筈の者への憎悪。それは、自分の力では境遇を変える事が出来なかった彼が唯一縋る事の出来た感情なのかもしれない。『自分がこのような状況なのは……』という標的が、魔王討伐という無謀にも近い旅に出て、死んで行った者になってしまった事も、今では当然の結果であるとリーシャも思っていた。

 故に、カミュの答えに驚く事なく、むしろ納得するように頷きを返す。そんな彼女の姿を不審に思ったカミュは、訝しげにその横顔を見つめるのだった。

 

「……そうだろうな。だが、お前はあの時、剣を握り締めても、振るいはしなかった。それは何故だ?」

 

 カミュの方へ視線を移す事なく、問いかけは続く。そしてその問いかけはカミュにとって本当に予想外の物であった。

 死へと向かうだけとなったオルテガがリーシャへ何かを語り始めた時、カミュは確かに王者の剣を握り締めている。巨竜と戦っていた者がオルテガという存在である事が確定した瞬間、彼の胸に湧き上がって来た衝動を抑える事が出来なかった。

 それでも、それを振るう事をしていない。だが、それを見ていたのはメルエだけだった筈。メルエがそれを語る可能性は限りなく無に等しい以上、リーシャがそれを知る方法はないと思っていたのだ。

 しかし、この女性戦士はカミュの行動を認識していた。認識していて尚、あの時それを止めようとは動いていない。それは、カミュが剣を振るわないという事を確信していたのか、それとも振るったとしても止められる自信があったのかは解らないが、カミュが起こした行動を詳細に認識していた事だけは事実であろう。

 

「お前は、旅を続けて行く中で本当に変わって行った。サラのように職業が変化した訳ではない。メルエのように劇的な呪文を次々に覚えて行った訳でもない。だが、四人の中で一番変わったのはお前だぞ?」

 

「……それはアンタだ」

 

 先程の質問に答える事が出来ないカミュを置き去りにして、リーシャは言葉を繋げる。だが、続けられた発言は、流石のカミュも反論せずにはいられなかった。

 リーシャからすれば、最も変化したのはカミュなのだろうが、彼自身にはその認識はない。むしろ、彼から見れば変化が著しいのはリーシャなのだ。

 アリアハンを出た時は、頑なな騎士であった。宮廷で働いていた事に過剰な誇りを持ち、貴族である事を鼻に掛ける事はないが、カミュにとっては厄介な相手として認識されている。だが、旅を続けて行く中で、誰よりも頑なであると考えていた頭は、誰よりも柔軟性を持っており、印象などに縛られる事なく、その者の本質を知ろうと努力し、認める部分があれば、例え好意を持っていない相手であっても認めるという性格を知った。

 その本質こそが本来の彼女だったのかもしれないが、周囲から見れば、彼女の変化は劇的に映る事だろう。

 

「ふふふ。私は昔から何も変わらないぞ。昔からお前はそう言うが、私は今も昔も武器を振るう事しか出来ないからな」

 

「……そういう意味ではない」

 

 何を言っても穏やかな表情のままで口を開くリーシャに、カミュは溜息を吐き出す。

 この女性戦士に心を掻き乱され始めたのは何時からだっただろう。遠慮もなく他人の心に土足で入り込み、そこを掻き乱して行く。初めは心の底からそれが不快であったが、何時の間にか、それを当然の物として受け入れるようになっていた。

 アリアハン大陸を出た頃までは、衝突しようとも、口論になろうとも、いつでも優位に立っていたのはカミュである。それが何時の頃からか、立場が逆転する事が何度かあり、カミュが言葉に詰まってしまう場面さえも出て来るようになっていた。

 

「色々とお前が変わって行く過程はあったが、私が本当にそう実感し始めたのは、ジパングでヤマタノオロチを倒した後だったな」

 

 最早、リーシャにはカミュの反論を取り合うつもりはないらしい。自分勝手に話を進めて行く彼女に苛立ちながらも、カミュは軽い舌打ちを鳴らすだけで、再び黙り込んだ。

 思い出を語るように、少し空へと視線を移したリーシャの横顔を見ながら、カミュも少し昔の記憶を引き出して行く。

 アリアハンを出てから二年近くが経過する頃、サラの試練を越えて船を手に入れた彼等は、テドンという滅びの村を越えて、異教の国へと降り立った。そこは小さな島国でありながら、独特の文化を育んだ土地。精霊神ルビスを信仰する世界とは異なり、様々な物に神が宿るという八百万の神を信仰する国であった。

 産土神として崇められる竜種によって滅び掛けていたその国の新たな国主を救い、元凶となっていた竜種を討ち果たしたのが、カミュ達四人である。

 

「お前はあの時、先代国主であるヒミコ殿の心を語ったな。お前は気付いていないだろうが、あの頃からその胸に何かが生まれたのだろう」

 

「……何が言いたい」

 

 最早、慣れたとはいえ、それでも自分では解らない心の内を他人に見透かされるのは心地良いとは言えない。憮然とした表情を浮かべたカミュは、訳知り顔のリーシャを睨み付けた。

 肝心のリーシャは、未だにカミュへ顔を向ける事もなく、池を見つめ続ける。一つ息を吐き出した彼女は、意を決したようにカミュの方へと顔を向けた。

 その表情を見た瞬間、カミュは何故だか身動きが取れなくなる。蛇に睨まれた蛙のように、この後に続く言葉を聞きたくはない、聞いてはいけないという想いがあるにも拘らず、逃げる事さえ出来なくなっていた。

 

「もう、気付いているのだろう? お前やニーナ様を残してアリアハンを旅立った時のオルテガ様の想いに。その想いを知っているからこそ、お前はあの時、剣を振り上げる事も振るう事も出来なかったのだろう?」

 

「なにを……」

 

 息が詰まる。言葉さえも吐き出す事が出来ない。

 ここまで追い詰められた事は、カミュとしては初めてだったかもしれない。どれ程に強力な魔物と対峙しても、死に瀕するような戦いの最中であっても、幼い頃の逃げ出したくなるような辛い経験の中でさえも、これ程に圧迫を感じた事はなかった。

 顔を動かしたリーシャは、先程までと同様の穏やかな表情の中にも、逃げる事を許さない厳しさを持っている。これに対して、嘘も虚勢も通用しないだろう。それだけの力を彼女は持っていた。

 

「最後まで言った方が良いか?」

 

 喉を詰まらせたように言葉が出て来ないカミュを見て、リーシャはもう一度目を瞑った後、呟くように宣言する。それは最後勧告にも似た物であり、カミュの逃げ場を完全に奪う言葉。

 それを制止ようにも、カミュの口から言葉が出て来ない。聞きたくはない言葉が吐き出される事を予感しながらも、それに気付かない振りを続けて来た彼には、反論する事が不可能であった。

 そして、無常にも、リーシャの口は開かれる。二つの世界を救う可能性を持つ『勇者』に生涯唯一の敗北を刻み込むその言葉を吐き出す為に。

 

「上の世界にメルエを残し、一人きりで大魔王ゾーマを討ち果たす為にアレフガルドへ向かおうとしたお前なら……。いや、メルエというお前が初めて得た理解者の平穏の為に、自分を犠牲にしてでも平和を取り戻そうとしたお前ならば解っている筈だ。カミュという愛息子の明るい未来を得る為に、たった一人で旅立ったオルテガ様の愛をな」

 

 全てが吐き出されたリーシャの口が閉じられる。それと同時に、カミュは唇を噛み締めた。

 本当は、この長い旅で見て来た数少ない『人』の強さが、彼を少しずつ変えて行っている。

 カザーブの村で出会った一人の道具屋は、愛する妻や娘を護れなかった事を悔やみ続け、自分を責め続けていた。自分の心が壊れるかもしれない可能性を知って尚、彼は真実を求め、それを飲み込んだ。それはカミュの想像など及ばない程の苦痛だっただろう。彼が娘に向ける想いの強さは、カミュが知るどんな感情よりも強い物だった。

 ノアニールの村を包み込んだ呪いを施したエルフの女王もまた、自分の行いが愛する娘を死に至らしめた事を悔いていた。『人』と『エルフ』との愛情という禁忌を犯した娘を切り捨てながらも、それを悔い、その罪に心を殺していたのだ。それでも尚、娘の誇りを尊重し、自分の感情を更に殺してでも、村を開放する強い想いを彼は見ている。

 メルエの義母の行った虐待は、許される事ではない。どんな善行を積んだとしても、その罪が消える事もなく、その傷が消える事はないだろう。だが、彼女の残した様々な想いが、今のメルエを少なからず護っている事も事実であった。

 

「メルエは多くの愛に護られていた。だが、お前もまた、この世にある何よりも強い『親の愛』によって護られていたんだ。認めたくはないだろう、それに気付いたからといって、これまでに味わって来た苦痛が消える事もない。だが、お前が深く強い愛を与え続けられて来た事は否定出来ない事実だ」

 

 イシスの国で見た祖母と若き女王の確執は、カミュが知る『人』の醜い物であった。だが、それを乗り越えた若き女王を見ると、彼女を見守る様々な想いがある事を知る。

 リーシャが指摘したジパングでは、幼い跡取りに全てを託し、その先に繋がる明るい未来を夢見て自身を犠牲にした先代女王の気高さを見た。その想いが若きジパングの国を結果的に護る事になり、今も尚、より良い国への発展の礎になっている。

 メルエの実父の魂に遭遇した時、その深い愛情に気圧されそうになった。深く強い愛情は、一種の呪いに近い現象を生み出し、結果再び二人を出会わせている。その時に交わした約束は、今でも彼の中に根付いていた。

 

「バラモスがメルエに向けた執念を見たお前は、ゾーマという存在がある限り、メルエに平穏は訪れないと考えたのだろう? だからこそ、お前はカザーブに置いていこうとした。あの後、お前が死んでしまったとしても、メルエが迫害される事はないかもしれないが、お前との思い出がある分、メルエの哀しみや苦しみは強かった筈だ」

 

 メルエという少女が一行に加入した時、余計な荷物を背負い込んだと考えた。死へ向かうだけの旅に彼女を連れて行くという事に心から反対したし、最寄の集落へ置いて行くという考えを変えるつもりもなかった。

 だが、予期せず彼女に呪文を契約させてしまった彼には、罪の意識と共に義務感が生じる。そして旅を続けて行く内に、彼女が自分へと向ける感情が、今まで誰にも向けられた事のない物である事に戸惑いを覚えた。

 カミュを『英雄の息子』とも、『勇者』とも見ず、ただただカミュという個人として見る彼女は、叱れば怯え、小さく笑えば微笑み、仲間を傷つければ怒った。何時からか、そんな幼い少女が大切な者に変わり、護らなければならない者に変わって行く。

 それは父性に近しい想いであったのだろう。故にこそ、彼女には穏やかな時間を過ごして欲しいと願った。誰にも傷つけられる可能性はなく、涙を流す事もない世で、幸せに暮らして欲しいと思った。

 だからこそ、見守る事の出来るリーシャやサラもいるあの世界にメルエを置いて旅立とうとしたのだ。

 

「お前は意図していた訳ではないだろうが、お前と同等の、いや、それ以上の哀しみをメルエに背負わせるところだったのだぞ?」

 

 あの時、カザーブの道具屋にこの女性戦士が現れなければ、彼は一人でアレフガルドへ降り立っていただろう。そして、精霊神ルビスを解放する事も出来ず、オルテガという憎しみの対象に再会する事もなく、彼は生涯を閉じたに違いない。彼が望んだ未来を勝ち取る事も出来ず、娘のように、妹のように想う少女の身を案じながら、彼は永遠の眠りについていた筈だ。

 カミュの時のように、メルエが何かを背負わされる事はないだろう。だが、カミュとは異なり、彼女自身がカミュの想いを受け継ごうとする可能性はある。報復という形で彼女が大魔王ゾーマへ挑む時、目の前に居る女性戦士は必ず共に立ち上がり、そして共に散って行くだろう。

 それは、彼が最も望まぬ未来の一つでもあった。

 

「もう良いだろう? オルテガ様を許せとか、憎むなと言うつもりはない。だが、そろそろ、お前が気付いた事を認めても良いのではないか? メルエもサラも、色々な事を認めて飲み込んで歩み始めた。お前も全てを飲み込み、認めた上で、前へと進む事は出来ないか?」

 

 目の前で真っ直ぐに自分を見つめる瞳は、優しさに満ちている。形式的には問いかけているのではあるが、彼女の中でカミュの答えは決まっているのだろう。ただ、今はそれを待っているだけ。

 腹立たしい程の穏やかな表情に、カミュは唇を噛み締めた。それ以外に彼には出来る事はない。彼女の言葉が正しい事を認めてしまえば、彼がずっと抱え続けて来た想いを捨ててしまう事になる。それが否定を意味する物ではないとしても、彼が死んだように生きて来た十六年間を捨て去る事になるのだ。

 

「私は本当に嬉しかった。アリアハンの城下町でサラからルビス様の言葉を聞いた時、お前への怒りと、それ以上の喜びを感じたよ。『人に救う価値があるのか解らない』と言っていたお前が、たった一人の少女の為に戦おうとしていたのだからな」

 

 優しさを湛えながらも真剣な物であったリーシャの表情がふわりと微笑む。それは優しさと美しさを合わせ持つ、本当に綺麗な笑みであった。

 その笑みを見たカミュは、自身の敗北を悟る。どうあってもこの女性には敵う気がしない。言い負かす事は出来るだろう。罵倒する事も出来るだろう。それでも、この女性戦士は、穏やかな笑みを浮かべるに違いない。

 悔しさに唇が切れる。唇から零れた血液が地面へと落ちるのと同時に、彼の瞳から少ない雫が零れ落ちた。

 

「お前がメルエを想うのと同じぐらい、私やサラを想ってくれていたらと思うがな」

 

 はにかんだような笑みを浮かべたリーシャは、照れ臭そうに髪を触る。篝火に照らされた透き通るような金髪が吹き抜けた風に乗って靡いた。

 一年近く前にルビスの塔で遭遇したドラゴンによって焼かれた金髪も、今では元通りの長さまで伸びている。所々でサラによって切り整えられて来た髪は、緩やかな癖を持ちながらも美しく輝いていた。

 十六年間という長く暗い時間を一人で歩いて来たカミュにとって、十七年目に出会ったその輝きは、正しく太陽そのものであった。自分が歩む道さえも見失いそうになる闇の中で、小さな輝きを持つメルエを見つけ、そこへ繋がる道を常に照らし続ける輝きこそ、目の前で微笑む女性であったのだ。

 

「……今更だ」

 

 そんな眩い輝きの前で彼が発する事が出来たのは、たった一言の呟きだけであった。だが、ずっと彼を見続けて来たリーシャにとっては、その小さな一言で十分である。嬉しそうに微笑んだ彼女は、一つ頷いた後で立ち上がった。

 彼女の言いたい事は全て言い終えたのだろう。これ以上はカミュ自身の問題であり、彼だけで乗り越えていかなければならない問題である。故に、彼を一人残して宿屋に戻ろうと考えたのだ。

 立ち上がって振り向いた彼女は、その先にある木の後ろに一つの人影を見掛ける。しかし、その影が足早に宿屋の方向へと消えて行くのを見て、小さな苦笑を浮かべた。

 

「蛙の子は蛙か……」

 

 その小さな呟きは、彼女の傍に未だに座っている青年には届かない。

 強く拳を握り締めたまま池を見つめるカミュだけを残して、今しがた消えて行った人影と鉢合わせにならぬよう、リーシャはゆっくりと宿屋への道を歩いて行った。

 

 

 

 

 懸命に宿屋への道を駆け戻りながら、オルテガは溢れる涙を抑える事が出来なかった。

 未だに思うように動かない身体がもつれ、地面へと倒れ込んでも、その視界が晴れる事はない。涙で滲んだ視界は、彼が歩んで来た半生を後悔する涙であり、懺悔の涙でもあった。

 魔王バラモスが台頭し、世の中に魔物が蔓延る中、その力は日増しに強くなって行く。そんな時代に自分の血を受け継ぐ息子を授かった時、喜びよりも大きな不安が押し寄せた。

 『この子が大きくなった時、この世に人間が住める場所はあるのだろうか?』

 『この子もまた、魔物達に襲われてしまうのではないか?』

 そんな疑問は一度浮かんでしまえば、消える事はなく、次々と増えて行く。喜ぶ妻の顔も、父の顔も見えず、そんな不安だけが大きくなって行った。

 

「すまん……すまん、カミュ」

 

 妻のニーナが名付けた名を聞き、彼は決意を固める。

 その名前が生涯を全う出来る世にしようと。

 魔物に怯え、それを打ち倒す力を持たなければならない世の中ではなく、苦しみや悲しみがありながらも、笑顔を浮かべて過ごせる時間を持てる人生を歩める世の中をと。

 そう考え始めると、最早一刻の猶予も残されてはいなかった。日増しに強くなる魔王バラモスの力が、世界の多くの国の力を奪っていたのだ。アリアハンも例外ではなく、海産物を取る為の船も出せず、頼っていた貿易船も訪れる頻度は皆無に等しくなっている。故に、彼は妻の反対を押し切って、一人でアリアハンを旅立った。

 

「ぐっ……」

 

 足がもつれて再び倒れ込む。顔に付く泥も、転んだ事で出来た擦り傷も気になりはしない。ただただ、悔しく、哀しく、自分自身に対する怒りだけが湧き上がった。

 幸せに暮らしていると思っていた。自分がいなくとも、母を護り、アリアハンで静かに暮らしていると考えていたのだ。

 魔王バラモスの上に、更に強力な大魔王がいると知り、それを追って行った時には記憶が曖昧になっている。だが、英雄として讃えられたオルテガという一人の父親が旅立った理由だけは、心の奥深くに張り付いていた。故にこそ、彼はアレフガルドへ向かい、そしてゾーマを目指す。自分自身に最愛の息子がいる事を忘れているにも拘わらずに。

 

「どうすれば……どうすれば良いのだ?」

 

 宿屋の扉にしがみ付きながら起き上がったオルテガは、自分の犯した罪と、大事な息子に残った傷の深さを悔やみ続ける。

 何をすれば良いのか解らない。どうしたら、それを償えるのかも解らない。良かれと考え、邁進して来た道は、彼が本当に想う相手にとって最悪な道であった事を今更ながら理解した。

 涙は止まらず、嗚咽も止まらない。咳き込む程に溢れ出る感情を抑えられず、オルテガは宿屋の入り口に崩れ落ちた。

 

「ふぅ……オルテガ様、一度湯浴みを済ませて、今夜はゆっくり眠ってください。話は明日にでも致しましょう」

 

 そんな彼の歪む視界の中に、金色の髪を持った女性が映り込む。それが先程まで自分の息子と話をしていた人間であると気付いた時、オルテガは堰を切ったように泣き崩れた。

 そんなオルテガの様子に一つ息を吐き出した彼女は、彼に肩を貸して宿屋の二階へと連れて行く。宿屋の主人に湯を張った桶と手拭いを頼み、嗚咽を抑えられない屈強なオルテガを抱えるように階段を上って行った。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
長くなりましたので、二話に分ける事にします。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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リムルダール③

 

 

 

 翌朝、起きたリーシャは、夜中にサラのベッドから自分のベッドへ移動して来た筈のメルエがいない事を不思議に思い、部屋着から着替えて階段を下りて行く。宿屋の出口へ差し掛かった頃になって、ようやく重い物を振る風切り音が聞こえて来た。

 宿屋の裏手に位置する場所へ向かうと、そこには剣を振るカミュと、それを傍にある石に腰掛けながら見つめるメルエの姿を見つける。カミュが外へ出た音で目を覚ましたメルエは、懸命にドアを開けて彼の後を追ったのだろう。

 リーシャの姿に気付いたメルエは、嬉しそうに微笑みを浮かべ、部屋着のままで彼女の許へと駆けて来る。

 

「メルエ、部屋着のままで出て来ては駄目だろう? それを汚しては駄目だ」

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 嬉しくなって近付いたにも拘わらず、同時に叱られてしまった事で少女の眉が下がる。謝る事を覚えたばかりの子供のように、その言葉にどれだけの真剣さが込められているのか解らないながらも頭を下げるメルエを見て、リーシャはその茶色の髪を撫でた。

 『大丈夫』という言葉とは異なり、『ごめんなさい』という謝罪の言葉は、彼女にとってそれ程の重みを有してはいない。『ごめんなさい』という言葉で全てが許される訳ではない事を、彼女は身を持って知っており、ただ口にするだけでは意味のない事を知っていた。故にこそ、その言葉を口にする時は、自分が悪い事をしてしまったのだと理解しているという事ではあるのだが、色々な事を覚え始めた少女にとって、拳骨を伴わないお叱りの言葉がどれ程の効果を発揮するものなのかは定かではなかった。

 

「カミュ、朝食が終わったら、オルテガ様の部屋に行こう。オルテガ様の旅の話を聞かなければ」

 

 部屋着を汚さぬようにとメルエを抱き上げたリーシャは、一心不乱に剣を降り続けるカミュに向かって口を開く。

 昨日は、結局咽び泣くオルテガを強引に部屋へと押し込め、湯桶を渡して彼女は部屋から出て行った。カミュと自分の会話を聞いていた事を知っている彼女は、今のオルテガがどれ程に苦しんでいるのかが想像出来る。意図せぬ中で最愛の者を傷つけ、それによって自身が恨まれる事になったという事実は、心が壊れてしまう程の衝撃だっただろう。

 許す、許されるの問題ではなく、この親子は一度真剣に己の胸の中にある想いをぶつけ合うべきだとリーシャは思っていた。

 

「……俺には必要ない」

 

「カミュ……」

 

 しかし、返って来た答えは、リーシャの望む物ではなく、完全なる拒絶。彼にとってその場は必要な物ではなく、むしろ忌避したい場であったのだ。

 昨日話した内容の全てが無意味であったのかと考えたリーシャは、哀しみを帯びた声を吐き出す。この親子の蟠りが簡単に解けるとは思ってはいない。それでもその糸口は見えたのではないかと考えていた。だが、それはリーシャの独り善がりだったのかもしれない。

 落胆を示すリーシャを不安そうにメルエが見つめる中、王者の剣を振る事を停止したカミュが振り返る。そこにある表情を見て、リーシャは息を飲んだ。

 宿屋の篝火に照らされたその表情は、この六年以上の旅の中で一度も見た事のない物だった。哀しみに暮れている訳でもなく、怒りを宿している訳でもない。不快を感じている訳でもなく、無表情な訳でもない。

 

「……俺は、大丈夫だ」

 

 どこか晴れやかで、とても優しい笑みを浮かべる顔がそこにはあった。

 彼が優しさを表情に出す事は珍しくはあっても皆無ではない。だが、これ程に晴れやかな笑みを浮かべたのは、リーシャの記憶が正しければ一度もなかった筈だ。

 その笑みを見て、驚き固まってしまったリーシャであったが、彼の胸の内はその僅かな一言で十分に理解出来た。それは、リーシャの腕の中にいる少女の微笑みが証明している。

 

「…………カミュ……だいじょうぶ…………」

 

「そうか……そうだな。だが、最後ぐらいは言葉を交わせよ」

 

 メルエのという少女の中で『大丈夫』という言葉が特別な意味を持っている事は理解していた。だが、そんな彼女の中で最も信用出来ないのが、目の前の『勇者』と呼ばれる青年が発する『大丈夫』なのだ。

 彼が幾ら『大丈夫』と口にしても、メルエはそれを信用しない。最終確認をするようにサラへ視線を向ける姿を、リーシャは何度も目撃していた。絶対的な保護者であり、他の誰よりも強い信頼を彼に向けるメルエではあったが、この言葉だけは、最も信頼の薄い相手であったのだ。

 そんな感覚を持つメルエが、彼の言葉を追認するように頷いて見せ、リーシャに向かって微笑みを浮かべている。それは、リーシャにとっては他の何よりも信頼度の高い行動であった。

 だからこそ、彼女はこの場を引き下がる。親子の会話が実現しない寂しさはあっても、彼が全てを飲み込み、全てを認めて尚、しっかりと前を向いて歩き出した証明であったからだ。

 残るは、その胸に罪悪感を抱える事になった彼の父親である。本来は、息子と直接対峙しなければ解決しない問題ではあるが、こうなっては自分がその場に立つしかないのだとリーシャは覚悟を決めるのだった。

 

 

 

 朝食を済ませたリーシャは、食堂から去って行くカミュの背中を見届けて、サラとメルエを率いてオルテガの部屋へと向かう。オルテガ分の朝食を別に用意して貰い、意を決してオルテガの部屋の扉をノックした。

 返って来た小さな声は、この中にいる者の精神状態を明確に表している。出来る事ならば、今は誰にも会いたくはないのだろう。その気持ちは十二分に解るリーシャであったが、心を鬼にしてドアを開いた。

 

「オルテガ様、お話は出来ますか?」

 

「あ、ああ」

 

 既に目を覚ましていたオルテガは、部屋着のまま部屋に設置されている椅子に腰掛けて虚空を見つめていた。この姿を見てしまうと、彼を蘇生せた事が自分達の独善的な行いだったのかもしれないとさえ考えてしまいそうになる。あのまま事実を知らないまま生涯を終えてしまった方が、彼にとっては幸せだったのではないかと思ってしまうのだ。

 そんな事を一番考えてしまうのは、やはりリーシャの後ろでオルテガ分の朝食を運んでいるサラである。命を司る程の神秘を行使出来る彼女だからこそ、一行の中の誰よりも『死』と『生』という物の重さを知っていた。

 

「改めて名乗らせて頂きます。私は、元アリアハン宮廷騎士隊長クロノスの娘リーシャと申します。そして、こちらが賢者サラ、そしてこの少女が魔法使いのメルエです」

 

「……クロノス殿の? もしや、城下でいつも剣を振っていたあの女の子か?」

 

 オルテガの対面に立ったリーシャが、己の名を名乗り、そして後方に控える二人の女性を紹介する。だが、その名乗りに反応して顔を上げたオルテガの言葉に、逆に彼女の方が驚いてしまった。

 オルテガの記憶が戻った事は理解している。だが、たった一度会話をした程度の幼子を憶えてくれているとは思わなかったのだ。それに加え、彼女の父親は宮廷騎士隊長ではあったが、貴族としての位は低く、既に英雄と名高いオルテガの記憶に残る程の名声を得ていた訳ではない。幼い頃に彼女がオルテガに話し掛けられた時には確かに彼が父の名を口にしたのを憶えてはいるが、それでも長く記憶を失っていたオルテガが覚えていてくれているとは思ってもいなかった。

 

「そうか……君達がカミュと共に歩んでくれたのだな。ありがとう……」

 

 自分の前に立つ二人の女性と一人の少女に、オルテガは深々と頭を下げる。この世界に男尊女卑のような考えは薄い。だが、やはり通常の女性は腕力では男性には勝てず、主要な地位などは男性が占める割合が高かった。

 オルテガは平民であっても、世界を代表する『英雄』である。全世界の誰よりも強靭な身体を持ち、強力な呪文を行使すると謳われた男であった。故にこそ、自分の半分も生きていない、しかも女性に対して頭を下げるという姿は、サラにとっては驚きに値する物であったのだ。

 

「オルテガ様がネクロゴンドの火口で命を落とされたと伝えられた後、アリアハン国王の勅命を受けたカミュと共に魔王バラモス討伐の旅に同道しました。カミュは、魔王バラモスを討ち果たし、その後ろに居るゾーマを倒す為に、このアレフガルドへ来ています」

 

「……そうか」

 

 リーシャの言葉を聞いたオルテガが再び肩を落とす。自身が死んだ事になっていた十数年間、息子が歩んで来た道の険しさを思い出したのだろう。辛そうに歪められた顔を見たサラは、テーブルの上にお盆を置き、椅子を三つオルテガの対面に用意した。

 メルエを座らせたリーシャが近くの椅子に座り、未だに顔を上げないオルテガへと視線を送る。それは幼い頃から憧れた相手に贈る輝きに満ちた物ではなく、どこか問い詰めるような厳しさを備えていた。

 

「私達の旅の途中で、何度かオルテガ様の軌跡を見ました。オルテガ様は上の世界で既に記憶を失っていたとも聞いています。この二十年の間で何があったのか教えて頂けませんか?」

 

 静かな問いかけではあるが、それに対する答えの中に『拒否』という物は許されてはいない。ゆっくりと顔を上げたオルテガは、若い頃から比べて皺の多くなった手を握り締めてゆっくりと頷きを返した。

 カミュ達四人も長く辛い旅を続けて来ている。だが、それでも五年という時間で魔王バラモスを打倒し、僅か二年で大魔王の許へ辿り着こうとしていた。

 それに比べ、オルテガがアリアハンを出てから既に二十年以上の時間が経過している。一人旅であったり、カミュ達の時のような巡り会わせがなかった事を差し引いても、その時間の長さは異常であった。

 

「アリアハンを出た私は、情報を集めながら旅を続けた。死ぬつもりはなかったが、死に最も近しい旅だという自覚はあったつもりだ。だからこそ、同道の申し出は極力断り、援助だけを受けて来た」

 

 ゆっくりと語り始めたオルテガの話を聞いて、リーシャは昨夜に思った文言が頭に浮かぶ。カミュとオルテガというのは似た者親子なのだ。

 太陽と月という正反対の印象を持つ二人ではあるが、それは陰と陽という隣り合わせの側面。元は同じ物なのかもしれない。

 自身が敢えて死ぬつもりはなくとも、『死』という物が最も近い場所にいるという自覚は持っている。故にこそ、その場所を歩く自分の傍に他人を置こうという考えに至らない部分などは、カミュもオルテガも同様だったのだろう。

 もし、オルテガにも、リーシャやサラのように強引について行こうとする者が存在していたら、歴史は変わっていたかもしれない。そう感じてしまったリーシャを責める事が出来る者は誰もいなかった。

 

「思うように情報も集まらず、魔物達の凶暴化が激しくなると、船旅も侭ならなくなった。それでもネクロゴンドの奥にバラモスの居城があるという僅かな情報の中、ようやく私はその場所へと辿り着いた」

 

 カミュ達の旅は、細い糸を手繰るような道であった。そこに確信がある訳でも、確証がある訳でもない。ただ、耳に入る情報全てを一つ一つ確かめる事で一歩ずつ前進して来たのだ。

 確かに、オルテガが旅立った二十年以上前は、カミュ達が旅立った時よりも魔物の凶暴化は小さかっただろう。獣が魔物化する事も少なく、強力な魔族なども存在しなかった。だが、それでも全てを一人で成そうとするには、魔王バラモスの討伐という目標は余りにも大き過ぎる。

 船もカミュ達は自分達の思う場所に向かう事の出来る物をポルトガで授かったが、オルテガは定期船などに乗りながら移動していたのだろう。定期船から外れるような場所に至っては、彼自身が手配した小舟などで向かっていたに違いない。故にこそ、彼の足跡は点々としていたのだ。

 

「ですが、オルテガ様は、ネクロゴンド火山で亡くなったというのが、アリアハンに齎された物でした」

 

「ああ、それは、乗船していた船から小舟を借りてネクロゴンド火山へ向かった為に、その船員達が口にしたのだろう。火山を越えた先には川が流れていて、その浅瀬を探す為に上流へ向かって歩き続けた。もしかすると、あの船は私が戻って来るのを待っていてくれたのかもしれないな」

 

 ネクロゴンド火山を登ったカミュ達は、確かに山の反対側に川が流れているのを見ている。それも、リーシャの腰に吊るされていたガイアの剣が大地に還った事で噴火した火山の溶岩によって埋め尽くされ、そして平野に変化していた。

 オルテガがあの場所に辿り着いた二十年程前には、その川も大きくはなく、上流に向かえば浅瀬もあったのかもしれない。時は人だけではなく地形さえも変化させる。カミュ達が辿った道と、オルテガが辿った道では、場所は同じでも景色は全く異なるのかもしれない。

 

「バラモスの居城へ入る際に、私は賢者と呼ばれる男性に会った。私よりも少し年齢が上かという外見をした男だったが、会得している呪文の数もその威力も私の想像を超えていた」

 

「……メルエの曾お爺様」

 

 しかし、バラモス城に話が及ぶと、それまで静かに聞いていたリーシャもサラも驚きで顔を上げる事となる。古の賢者と語られる者の一人であり、ダーマ神殿にも足を踏み入れ、教皇さえも跪く者が登場したからだ。

 しかも、それはサラの予想が正しければ、今不思議そうに彼女を見上げている少女の曽祖父に当たる人物である。竜の因子を受け継ぐ一族の中で、呪文の才能に恵まれた者であり、悟りの書という書物に、メルエの名を書き残し、そして彼女に向けてドラゴラムという神秘を残した者であった。

 時間軸から考えると、メルエの両親をテドンへ置いた後で向かったのだろう。この賢者もまた、オルテガやカミュと同じような考えを持ち、魔王バラモスへと立ち向かったに違いない。

 

「私達の周りには、残される者達の想いを理解しようとしない馬鹿が多過ぎる」

 

「……リーシャさん」

 

 一つ大きく息を吐き出したリーシャが、話を続けようとするオルテガの言葉を遮って、信じられない暴言を吐き出す。それに驚いたのは、何か考えるように思考に沈んでいたサラであった。

 六年間共に歩んだカミュに向かって言う事も、見た事のない賢者に対して言う事も理解出来る。だが、今、彼女の目の前で口を開いているのは、アリアハンの英雄であった。リーシャのような騎士を目指した者達からすれば、憧れ以上の憧れであり、場合によっては国王や精霊ルビスよりも強い信仰さえ持つ者がいる程の存在なのだ。

 そんな相手に向かって、『馬鹿』という言葉を使うなど、信じられないと考えても何も可笑しくはなかった。

 

「……貴女の言う通りだ。英雄だ何だと囃し立てられても、私は、息子一人幸せに出来ない大馬鹿者だ」

 

「そういう意味ではありません。オルテガ様も、その賢者も、そしてカミュも、その大望を成した後で生きる意思があれば何も言いません。ですが、貴方達にはそれがない。『自身を犠牲にしてでも』という想いだけは、私は許せません」

 

 リーシャの言葉を全て肯定するように肩を落とすオルテガに向かって、彼女は更に嚙み付く。

 彼女もまた、アリアハン時代にはオルテガを崇拝していた一人だ。いや、この旅の中でずっと彼女だけはオルテガという英雄を崇めていたのかもしれない。

 その想いは今でも変わらないだろう。オルテガという男は、彼女の憧れであり、目指すべき目標の一つなのだ。だが、その崇拝の対象であっても、彼女が絶対に譲らない一線を越えてしまえば、彼女は火を吹く。それこそ、彼女が彼女である所以なのだろう。

 この旅の中で、彼女が一貫して譲らない一線とは、『自己犠牲』という物への嫌悪であった。カミュがその想いを全面に出した時も、サラがそれを行おうとした時も、彼女はそれまでの旅で見た事がない程に怒りを露にした。

 そして、何よりも彼女は絶対に自分の生を諦める事はない。どれ程の怪我を負っても、死に至る程の火傷を全身に負っても、彼女は生にしがみ付き、回復呪文の全てを受け入れて復活して来た。誰かを護る為に傷つく事はあっても、死に直結するような怪我を負わないのは、彼女自身が生を手放そうとしていなかったからだろう。

 

「そうか、私は自分の幸せを諦めていたのか……」

 

 自分に対して厳しい言葉を発した女性戦士を驚いたように見上げたオルテガは、長い時間で凝り固まった物が溶け出したような、そんな何とも言えない表情を浮かべる。彼自身はそのつもりがなかったのかもしれない。だが、彼が想い描いていたのは、彼の妻と息子の幸せという一点であり、そこに自分の存在が入り込む事はなかったのだ。

 今更ながらにそれに気付いた彼は愕然とする。息子が辿る幸せの道を見届ける気持ちもなく、その姿を妻と共に見るつもりもない。病や寿命であれば致し方ないだろう。だが、彼には共に歩く未来を選択する事も出来たのだ。それでも、旅立つ当初から、『己の身と引き換えでも』という想いがあった事は否定出来なかった。

 メルエの両親は最後の最後まで生を諦めなかった。身も竦むような魔物達が襲い掛かって来る中、何とかして生きようともがき、それでもそれが成されないと解った時、父親は妻と娘を救う為に己の身を差し出している。サラの両親も同じであろう。彼女を救う為に己の身を犠牲にはしているが、最後の最後まで足掻き、そして散っていた。

 同じように見えても、それは全く異なる物。共に生きようともがいた結果と、最初からそれを諦めて死地へ飛び込む行為では雲泥の差があるのだ。

 

「申し訳ありません。話の腰を折ってしまいました」

 

 深々と頭を下げるリーシャではあったが、その表情を見る限り、怒り収まらずという状態なのだろう。不満を隠しきれずに『むすっ』とした表情を露にし、胸の前で腕を組む彼女を見たサラは、先程の驚きを越え、何処かリーシャらしいと微笑んでしまった。

 この場で自己犠牲の善悪を論じる事は不毛である。それを理解しているからこそ、リーシャも口を閉じたのだ。だが、元来の気性の根本は変わらない。どれだけ成長しようとも、変わらない。彼女自身の尖った角が取れ、人間的に丸くなったとしても、やはりそういった部分は変わらないのだろう。サラは何故かそれが面白く、そして嬉しかった。

 

「いや、君がいてくれたからこそ、カミュも生きていられたのだと、心から思う。お礼を言わせて欲しい。本当にありがとう」

 

「いえ、私は何もしていません……」

 

 先程まで不満顔だったリーシャの表情が一気に変化する。頬を赤く染め、大きく手を振る彼女の姿に、微笑んでいたサラは噴き出してしまい、それを見ていたメルエもまた花咲くような笑みを浮かべた。

 だが、リーシャの反論に対して、肯定する者はこの場に誰一人としていない。彼女こそがカミュをここまで成長させた立役者であり、彼に『生きる』という事の大切さを教えた者だからだ。

 サラもメルエも、リーシャという人間がいなければ、この旅を続ける事は出来なかっただろう。何度も何度も思っているが、改めて他人からそれを言われてみると、やはり『リーシャこそが要なのだ』という想いが強まって行くのだった。

 

「私は、その賢者と共にバラモスの許へと向かい、そこで絶望を味わった。私が考えていた以上に、その力は強大であり、恐怖だったよ。私一人では敵う訳もなく、賢者の力を以ってしても、それを倒す事など不可能だった」

 

 魔王バラモス。その存在を彼女達は知っている。その圧倒的な魔法力と、威圧感を彼女達は目の当たりにしていた。

 そこまでの四年の旅を経て、心身共に成長していると実感していた矢先、その姿を視界に入れた途端、彼女達の自信は消え失せている。それ程の圧倒的な力を前にしても彼女達が前を向いて立ち上がれたのは、常に彼女達に前に立ち続けて来た一人の青年がいたからだった。

 どんな圧力にも屈せず、どれ程の絶望にも挫けない。そんな『勇者』がいたからこそ、彼女達は魔王バラモスという圧倒的な強者に立ち向かい、討ち果たす事が出来たのだ。

 だが、如何に竜の因子を受け継ぐ賢者がいたとしても、『勇者』の背中を知らない英雄には、圧倒的な暴力を前にして勇気を奮い立たせる術はなかったのだろう。サラは、改めてカミュとオルテガの違いを見た気がした。

 

「震える足を必死に動かし、強大な呪文を避けてはいたが、全滅は時間の問題だっただろう。私と同じ考えだった賢者は、バラモスの攻撃を受けて意識が朦朧としている私をバシルーラで外へと弾き飛ばした」

 

「バシルーラですか? あの場所は地下だった筈ですが……」

 

 懸命に戦って尚、自身の力が届かないという事を知った時の絶望と恐怖も、彼女達は知っている。ルビスの塔でドラゴンと戦った時、その感情が溢れんばかりに彼女達の胸を占拠していた。

 だが、その先でメルエの曽祖父である賢者が取った行動に、サラは首を傾げる。バシルーラという呪文を知らない訳がない。それどころか、その呪文は魔王バラモスとの戦闘の際に、何度となく登場していた。だが、一度たりとも、その呪文を受けた誰かがバラモス城から弾き出されたという事はない。何故なら、あの場所は池の中央に出来た地下室のような場所だったからだ。

 

「地下? いや、私達は魔王城の玉座の間のような場所で戦っていた筈だ」

 

「では、あの地下は、バラモスが後に作ったという事でしょうか……。もしかして、魔王の爪痕である、異世界への入り口を護る為に……」

 

 サラは、魔王バラモスは上の世界の征服を進めるよりも、大魔王ゾーマの復活を優先していたのではないかと考えている。そうでなくては、台頭から二十年近く経過して尚、人間が滅びていないという現実を説明出来ないのだ。

 魔王バラモスという存在の強大さは、その目で見た者ならば嫌でも理解する。カミュ達のように成長を続け、特殊な力に目覚めていかなければ、あのネクロゴンドに生息する魔物達と戦う事も出来ないだろう。そして、そんな魔物達が人里へ襲いかかれば、全ての町や村はテドンのように滅びる事は明白であった。

 村や町が滅びれば国家が保てる事はない。全ての国家が藻屑と消えるのにそれ程時間は必要ではないだろう。魔物の数が人間より少ない訳ではない。一斉に号令が掛かれば、人里など一飲みにされても可笑しくはないのだった。

 

「バシルーラで外へと飛ばされた私は、ネクロゴンドの山奥で傷を癒していた。傷を癒しては魔物と戦い、戦っては再び傷を癒すという行動を繰り返しながら、もう一度バラモス城へ辿り着いた時には、何年も経過していただろう。だが、それでも私の力はバラモスには届かず、瀕死の状態の私を嘲笑うかのように、再びバラモスのバシルーラによって城から弾き出され、ムオルという村の近くまで飛ばされた」

 

 そこでようやくカミュ達の旅の中で聞いた疑問が一つ解ける事となる。熱を出したメルエを抱えて急遽訪れる事となった小さな村で聞いた予期せぬ名。カミュ達が訪れる八年前に倒れていたとされる英雄の名前を聞いた時、リーシャはその生存を確信したが、他の者達は半信半疑であった。

 アリアハンを出て一年が経過しており、オルテガが死亡した事が公に告知されてから十六年以上の月日が流れていたのだ。そんな中、生存を思わせるような話を聞いても、自称オルテガという偽物である可能性の方が高く、それを信じる事など到底不可能であろう。特に、以前は自称勇者という者が蔓延していた時代である。希望的観測を抜けば、それを信じる者など誰もいないと言っても過言ではなかった。

 

「……バラモスは、私など歯牙にも掛けていなかった。共に戦ってくれた賢者を名乗る男を葬った以上、既にゾーマの脅威はなくなったとも語っていた。その時、初めてバラモスの上に更なる脅威がある事を知ったのだ。バラモスを倒そうとも、ゾーマを滅ぼさなくては世界の平和など訪れる事はないのだと」

 

「やはり、バラモスはメルエが竜の因子を持っている事に気付いたのですね。竜の因子を持つ人間を脅威と看做していたからこそ、メルエのお婆様を殺し、メルエのお母様も殺した……。魔法力も持たない人なのにも拘わらず襲ったのは、その力が目覚める可能性を恐れた為だった……」

 

 バラモスにとって、全世界の英雄であるオルテガであっても恐れるような存在ではなかったのだろう。それよりも、竜の因子を受け継ぐ人間が持つ秘められた力の方が脅威だったのかもしれない。

 世界最高種族と言われる竜種と、全生物の中でも高い繁殖力を誇る人間の遺伝子を持つ生命体であれば、その力が解放された時の恐ろしさは強かったのだ。メルエの祖先は、多くの子を残して来た訳ではないのだろう。だが、何処かで分家が生まれ、そこから枝分かれのようにその因子が広がり始めれば、瞬く間に数は増え、魔族さえも超越する存在が生まれる可能性もある。

 バラモスは、メルエがメラゾーマを行使した瞬間から、その異常な才能に執着を見せた。その身に代えてもメルエを葬ろうとする意志さえも見せている。それがメルエの身体に眠る太古からの因子が原因だとすれば、カミュの懸念は的を射ていたという事になるだろう。

 

「ムオルで傷を癒した私は、再びバラモスの城を目指したが、その頃には船の往来もなく、バラモス城へ向かう方法も無かった。あの場所へ辿り着くのに更に数年の時間を費やし、城へ渡る橋が落ちている事に絶望した。泳いで渡ろうと考えたが、瘴気の強い水に呑まれ、流れ着いたのがあの大穴のある場所だったのだ」

 

 黙って話を聞いていたリーシャは、目の前で肩を落とす男性の凄まじさを改めて感じる。通常の人間であれば、身も心も折れていても可笑しくはない。何度も絶望を味わい、自分では絶対に敵わないと知りながらも、その相手に向かって行ける者はそうはいないだろう。

 リーシャ達には、彼女達の心を奮い立たせる背中が見えていた。いつでも彼女達の前に立ち、護り続ける勇気の象徴が。だが、オルテガの前には何もない。彼自身が勇者であると考えても良いのかもしれないが、リーシャから見たオルテガは英雄としての眩さは有っても、勇者としての輝きはなかった。年齢の影響とも考えられず、それはやはり生来の魂の輝きなのだと、今では理解出来る。

 故にこそ、リーシャはオルテガの凄まじさを知ると共に、彼の無謀とも言える戦いが、自己犠牲の精神の上にある物だと再認識するのだった。

 

「その大穴の前で、恥ずかしい事だが、私の足は一歩も踏み出す事が出来なかった。その先にゾーマという存在がいるのだと理解していても、そこへ踏み込む勇気が湧いて来なかったのだ」

 

「……当然だと思います」

 

 ギアガの大穴と呼ばれる異世界への扉を前にして、サラ達もまた、その異様な程の瘴気に心が飲み込まれている。メルエやサラはあの飲み込まれそうな闇に足が竦み、カミュでさえも一筋の光もない闇を前にして足を止めた。

 それ程の闇の前に唯一人で立ったオルテガの心が折れてしまったとしても何も不思議ではない。それだけ大きく、深い闇だったのだ。

 サラの頭には、あの場所に立った時の恐怖が蘇っているのだろう。魔王バラモスを打ち倒したという確かな実績を持った彼女達でさえも、それ程の恐怖を味わった場所であった。

 

「だが、あの時、突如として地面から湧いて来た魔物に足を取られ、そのまま私はこのアレフガルドへ落ちた。本当に恥ずかしい事だが、あの時感じた恐怖と衝撃で、私は記憶を失ってしまったのだろう。アレフガルドで目覚めた時、私は自分の名前さえも曖昧な状態だった」

 

「それ程の経験を経て尚、オルテガ様はゾーマを目指したのですね」

 

 自身の名さえも朧気にしか思い出せない状態で、オルテガはゾーマという悪の根源を目指した。時系列を追って行くと、オルテガがアレフガルドへ辿り着いたのは、カミュ達から数年前と考えて間違いないだろう。その頃には既に闇に閉ざされたアレフガルドで、彼はゾーマという存在を再度知り、世界の平和の為に歩み出したのだ。

 それは、『異常』である。胸や頭の奥隅に、旅立ち当初の想いが残っていたと言えば聞こえは良いが、まるで何かに突き動かされているように旅を続ける彼は、人ではなく人形のようにも見えた。

 

「そして、あの場所で今度こそ死を迎えるのだと思った時、記憶が渦を巻いて脳に蘇ったのだ」

 

 アレフガルドに着いてからのオルテガは、真っ直ぐにゾーマ城へと向かったのだろう。マイラの村やルビスの塔へ向かう事なく、ラダトームから西へ進み、そのまま南下して行ったに違いない。ドムドーラ、メルキドを通ってリムルダールへと辿り着き、そして西の岬へと足を掛けたのだ。

 あの巨竜と戦っている時のオルテガの姿を見る限り、彼があの激流の渦を泳いで渡ったと考えて良いだろう。もしかすると、オルテガはルーラなどの移動呪文の契約が出来ていないのかもしれない。その呪文さえあれば、上の世界では定期的にアリアハンに戻る事も可能であったろうし、アレフガルドでも拠点を構える事が出来た筈だからだ。

 

「私の旅はそういうものだった」

 

 言葉にすれば短い。だが、その二十年以上の長い旅の中で、彼は相当な苦しみを味わって来たのだろう。最後にオルテガが発した一言が、その辛く苦しい旅路を明確に物語っていた。

 何度も挫け、何度も倒れ、それでも前へと踏み出して歩み続けて来た二十年。その在り方は、何処かサラを思わせる。彼女もまた、既に『英雄』と称されても可笑しくはない実績を残しているのだろう。

 椅子に座りながら前屈みになったオルテガは、その両手を合わせ、顔付近へと近付ける。苦悩するように瞳を閉じ、眉を顰めた彼の姿は、悲痛そのものであった。

 

「……私は二十年という時間を使い、何を成したというのだ。我が子に苦難の道しか残せず、その存在さえも記憶から無くし、挙句に大魔王を倒すどころか、そこへ辿り着く事さえも出来なかった」

 

 硬く握っていた両手を広げ、顔を覆うようにした彼は、そのまま再び嗚咽を漏らす。確かに、オルテガは英雄として、全世界の期待を背負って旅立ったにも拘わらず、結果的に何も残してはいなかった。

 上の世界で諸悪の根源と謳われた魔王バラモスを倒したのは、彼の愛息子であるカミュであり、そこに至るまでの道程に存在した様々な厄災を払って来たのもまたカミュである。オルテガという名は世界に轟く英雄の物であるが、結果を見れば、彼は上の世界でも何一つ残してはいなかった。

 アレフガルドという大陸に来てもそれは変わらず、精霊神ルビスという存在を解放し、未来に続く光を取り戻したのも真の勇者である。辛辣ではあるが、オルテガという英雄が歩んだ二十年以上の旅路は、無駄な時間と切り捨てられても可笑しくはないのだ。

 

「私達の歩んで来た道は、オルテガ様が切り開いてくれた道でもありました。要所要所で聞くオルテガ様の軌跡が、私達の歩みが間違っていない事を示してくれたのです」

 

 しかし、六年以上もの長い旅を続けて来たリーシャにとって、オルテガはやはり先駆者である。その軌跡は、暗中模索を続けながら歩んで来た彼等の道標となっていた。

 ノアニールという村で初めて聞いた彼の名は、その後に向かうべきアッサラームやイシス国へとカミュ達を誘う。その名を追って行けば、イシス国にある『魔法のカギ』へと辿り着き、彼等に新たな世界への入り口を指し示した。

 細く頼りない糸のような情報を元に歩み続けて来たリーシャ達にとって、その糸が正しい事を証明するように聞かされるオルテガの名は、本当に心強い響きを持っていた事だろう。唯一人、カミュだけはその名を聞く度に顔を顰め、何かに耐えるような姿を見せていたが、決してオルテガの歩んで来た二十年以上の旅路は無駄ではなかったという証明でもあった。

 

「カミュは本当に大きくなっていた。宙を掴むように動いていた小さな手も、まだ見ぬ未来を見るように輝いていた瞳も……。私は、あの子の成長の軌跡を何一つ知らない。父親として、これ程に恥ずべき事があるだろうか……」

 

 オルテガの歩みを肯定するリーシャの言葉も、今の彼には届かない。彼の胸を覆い尽くすように広がった罪悪感は、ゾーマの生み出す闇のように、彼の心を蝕んでいた。

 我が子の成長の軌跡は、親の成長の軌跡でもある。生まれたばかりの子供を見て、自身が親である事を自覚し、その子が寝返りを打つのを喜び、一つの生命である事を再認識する。這って動き回る姿に微笑みながらも、その行動力の高さに心を乱されるだろう。

 立ち上がり、言葉を発する姿を見て、親は自身の子供の頃を思い出す。そして、その頃の自身の親と現在の自分と比べ、気を引き締め直すのだ。

 親から受ける愛情を子が忘れないのは、試行錯誤を繰り返し、何度も自己嫌悪に陥りながらも、それでも子と向き合おうと努力を続ける親の背中を見ているからである。

 その軌跡が、オルテガとカミュの間にはなかった。

 

「カミュは、知らず知らず、オルテガ様の背中を追って来ましたよ。彼は認めないでしょうが、英雄オルテガではなく、父親であるオルテガの背を彼は追って来たのです。だからこそ、カミュの心は歪まなかった。どれ程に苦しい時間を過ごしても、人間そのものを憎む程の行いを受けても、オルテガ様の背を追う事で、彼の心の奥底にある芯は歪む事がなかったのでしょう。例えそれが憎しみという感情であっても……」

 

 サラやメルエが口を挟めるような空気ではない。オルテガの正面に座るリーシャだけが、今の彼に言葉を投げかける事が出来る存在であった。

 リーシャの言葉は、オルテガを慰めるような物ではない。むしろ追い討ちを掛けるような物である。だが、それもまた紛れもない事実であった。

 アリアハンを出た頃のサラは、とてもではないがカミュの性根が歪んでいないとは思えなかった。だが、旅を続けて行く内に、その心の奥にある優しさを理解出来るようになる。それは、リーシャという女性の存在があったからこそ気付く事が出来た物かもしれないが、それでもその心が醜く歪んでいると思う事はなくなった。

 

「……憎まれても当然だろう。私がアリアハンに残り、傍に居てやれたならば、そのような経験をする事はなかったのだから」

 

「ですが、そうであれば私達は出会う事は出来ず、このメルエも命を失っていました。それに、今でも魔王バラモスは健在であり、ゾーマの復活によって上の世界もまた、このアレフガルドのように闇に包まれていたでしょう」

 

 サラはここまで来て、ようやく気付く。リーシャの言葉はとても残酷で厳しい物なのだという事を。彼女は、何を言おうとも、オルテガの懺悔を受け入れないのだ。

 罪を犯したと罪悪感に苛まれる者は、そこから逃げ出す為にその罪を吐き出す。そしてそれを肯定して貰い、糾弾される事を望む。その気持ちをサラは誰よりも理解出来た。

 彼女もまた、この長い旅路の中で何度となく罪悪感に苛まれて来ている。だが、今思い出せば、その時には必ずと言って良い程にリーシャが傍に居たが、彼女はサラの懺悔を受け入れ、サラを糾弾する事は一度もなかった。

 罪を吐き出し、己の心を軽くする事を許さず、その重さを背負いながらも立ち上がる事を要求する。それがどれ程に残酷な事であり、どれ程に厳しい事であるのかを理解出来る人間は、この場でサラとオルテガだけであろう。

 

「オルテガ様、過去は過去です。それは最早変える事など出来ません。どれ程に悔やんでも、泣き叫んでも、あの頃に戻る事など出来はしないのです」

 

 当たり前の真実。だが、避ける事も逃げる事も出来ない事実。それをリーシャは敢えてオルテガへと突き付ける。

 そういう過去を彼女もまた持っており、何度も何度もその事実を突き付けられて前に進んで来た。そんな彼女だからこそ、それを他者へと告げる事が出来るのかもしれない。彼女自身、幼い頃に何度も過去のやり直しを願って来たのだろう。父親が死に、己の境遇が悪くなればなる程、その願いは強くなったに違いない。だが、時間は止まってもくれなければ、巻き戻ってもくれない。無常に過ぎ去って行くのみで、自身は歳を重ねて行くのみである。故にこそ、彼女は立ち上がり、前へ進んで来た。

 本来であれば、親と娘ほどに年齢が離れているリーシャが、オルテガに向かって口を開く内容ではない。だが、それでも彼女は言わなければならなかった。その理由は、続いて開かれた口から発せられた言葉に全て集約されていたのだ。

 

「今のカミュを見てあげて下さい。カミュの成して来た偉業を褒めてやって下さい。貴方の代わりではなく、貴方の加護ではなく、彼が自分で切り開いて来た道を見てやってください」

 

 リーシャの瞳は真剣な光を宿している。だからこそ、オルテガはその瞳から視線を外す事が出来ない。そして、彼女が今語っている言葉が、彼女がこの場を設ける理由であった事を理解した。

 彼女はこの言葉をオルテガに伝えたかったからこそ、この場を設けたのだろう。過去を悔やみ、泣き叫んでいたオルテガの姿を見ていた彼女は、オルテガの瞳が過去へと向かってしまうという事を知っていたのだ。

 今朝のカミュを見る限り、彼の瞳は既に未来へと向かっている事は確かであろう。過去を捨てた訳ではない。過去を許した訳でもない。それを全て受け入れ、飲み込み、そして未来へと向かって歩き始めたのだ。

 過去を見る者同士の対話は罵り合い、憎しみ合いになる。過去を見る者と未来を見る者の対話は全く嚙み合わず、物別れとなるだろう。過去を受け入れ、現在を知り、未来を見る者達の対話だけが結果を生み出すのだと長い旅路の中でリーシャは理解していた。

 

「私は、オルテガ様は『英雄』だと今でも思っています。ですが、カミュは『英雄』ではありません。誰もがその功績を知る訳ではありませんし、彼自身がその武勇を誇る訳でもありません。眩い程に輝く太陽のような華々しさはないですが、光の届かない場所で苦しむ者達にも手を伸ばす事の出来る月のような輝きを持つ男です」

 

「……リーシャさん」

 

 真っ直ぐにオルテガを見つめて語るリーシャの想いに、サラの胸が熱くなる。彼女達の頭には、アリアハンを出てからの六年以上に渡る長い旅路が思い返されていた。

 何度も何度も衝突を繰り返しては突き進んで来た旅路の中で、カミュが放つ優しい輝きに救われて来た者達は数多く居る。しかし、その誰もが、彼に対して、英雄に持つような近寄り難い気持ちを持っている者は居ないだろう。

 その口数の少なさ、表情の乏しさから、人を寄せ付けない空気を持ってはいても、自然と町や村へと溶け込んで行く。やがて皆が彼を受け入れ、彼の持つ『必然』という波に共に乗り込んで行くのだ。

 『月』のような輝きを持つ青年。自らが眩い光を放つのではなく、周囲を輝かせ、暗い夜道を歩く者達へもその光を届かせる者。それが彼女達の信じるカミュという人間であった。

 

「カミュは『勇者』です。数多く居る自称の者達ではなく、彼だけが『勇者』であると私は信じています。誰も成し遂げる事の出来なかった偉業を成す者は彼だと信じていますし、彼しかいないと思ってもいます。そして、その『勇者』は、間違いなくオルテガ様の息子でありました」

 

 『オルテガの息子』という言葉で締め括ったリーシャの想いは、サラにも解らない。アリアハンを出る時に、リーシャがカミュを『英雄の息子』として認めていなかった事を知るのは、カミュ本人だけであるからだ。

 長い旅路の果てで辿り着いた答え。英雄オルテガの息子であるカミュではなく、勇者カミュの父親がオルテガだったという単純な言葉遊び。だが、その違いは、リーシャやカミュにとっては雲泥の差であったのだ。

 英雄オルテガの息子という事をカミュが誇るのではなく、勇者カミュの父親である事をオルテガが誇るべきであるという、そんな想いをリーシャは持っているのかもしれない。彼女がメルエやサラを誇りに想うように、年長者が年少者を誇りに思える喜びを伝えたかったのだろう。

 

「……カミュは幾つになったのだろう?」

 

「アリアハンを出てから六年以上が経過しています。二十二になっている筈です」

 

 十六の誕生日に、彼は『魔王バラモスの討伐』という無謀な勅命を受けて旅立った。それから六年以上の時間が経過しており、彼は二十三という歳に足を掛ける程に成長している。

 赤子の頃のカミュしか知らないオルテガにとって、成人を迎え、自分が旅立った頃とそう変わらない年齢の男を突然息子として認識するというのも難しいだろう。

 だが、リーシャの言葉を聞いたオルテガは、柔らかな優しい笑みを浮かべて、嬉しそうに頷きを返した。その瞳を見て、彼の視線の先が変わって来ている事をリーシャは理解する。過去ではなく未来へ、という想いが、少しずつオルテガの胸に湧き上がっている証拠でもあった。

 

「君は幾つになった?」

 

「わ、私ですか!? いえ、ここまでの話に、私の年齢は関係がないと思いますが」

 

 しかし、過去の後悔を飲み込んだオルテガの言葉は、リーシャの予想の遥か上を指し示す。突然振られた話題に驚きの表情を浮かべた彼女にオルテガは微笑み、その微笑みを見たリーシャは、からかわれたのかと憮然とした表情へと変化させた。

 この辺りも、オルテガとカミュは似た者親子なのかもしれない。英雄と名高い男ではあるが、冗談などを口にしない堅物という訳ではないのだろう。憮然とするリーシャを見て少し微笑んだオルテガは昔に想いを馳せるように天井へと視線を向けた。

 

「カミュが生まれた頃に、一度城下で剣を振るう君と話した事があったな……。あの時、君は大体四つか五つくらいだっただろうから……」

 

「……今年で二十七になります」

 

 思い出すように呟くオルテガの姿に観念したリーシャは、溜息を吐き出すようにその年齢を呟く。柔らかな笑みを浮かべながらオルテガは頷くが、その横でサラは驚きの表情を浮かべていた。

 彼女自身、年齢を口にしたのは初めてであったのだ。年上である事は解ってはいたが、正確な年齢は解っていなかった。そして、それが自分と三つか四つほどしか変わらない事に、サラは驚愕したのだろう。

 アリアハンを出た頃を考えると、今のサラよりも三つ程若いという事になる。果たして、今の自分があの頃のリーシャよりも年長としての考えを持っているのかと問われれば、首を傾げざるを得なかった。

 

「サラ殿と、メルエ殿だったかな? 我が息子と共に歩んでくれてありがとう。息子の心を取り戻してくれて、本当にありがとう」

 

「…………ん…………」

 

 先程までの悲痛の表情が消え、柔らかな笑みを浮かべるオルテガを見ていたメルエが、花咲くような微笑みを浮かべる。そして、笑みを浮かべたメルエが次に行う行動と言えば、一つだけであろう。

 既に着替えを済まし、旅立つ用意をしているメルエの肩からは、長い間愛用しているポシェットが掛かっている。その中へ手を入れた彼女は、あの石の欠片を取り出すのだった。

 淡い青色の光を湛えるその欠片はとても小さい。だが、その小さな欠片に込められた想いは、とても重く、大きな物でもあった。様々な者達の手に渡って来たその欠片は、その場所その場所で形を変えている。メルエの想いを受け取った者達の中には、それを大事に持ち続ける為に加工する者もいるし、そのままの形で大事に保管する者もいた。

 そんな欠片を手に乗せたメルエは、眩しい笑みを浮かべながらオルテガに近付き、自分の手の倍の大きさもあろうかというオルテガの手にそれを乗せる。驚いたオルテガが手に乗せられた小さな欠片と、微笑みを浮かべる少女とを見比べた。

 

「それは、ニーナ様がカミュの無事を願って作成した、サークレットに嵌め込まれていた『命の石』の欠片です。ガルナの塔という場所で、死の呪文を受けたカミュの身代わりとなって砕けました。メルエはそれを拾い集め、カミュという大事な者を護ってくれたその石の欠片が、自分が大事に想う多くの者達を護ってくれるようにと新たに願いを吹き込んだ物です」

 

「そうか……彼女はカミュを護ってくれたのだな」

 

 何かに耐えるように、手の中の石の欠片を握り締めたオルテガの悲痛な表情を見ていたリーシャは、何かを決意したようにもう一度表情を引き締める。それを察したメルエは再びサラの横へと戻り、サラもまた、黙ってリーシャの横顔を見つめた。

 ここからリーシャが語る内容は、先程彼女がオルテガに向けて語った事に矛盾する事になるかもしれない。『過去を見るな』というような内容を話したばかりで、再びこの話題を入れる事に抵抗はあった物の、これを話さなければオルテガは生涯思い違いを続ける事になると考えたのだ。

 

「オルテガ様、ここから語る内容は、カミュから聞いた彼の幼少時代の話です。『過去を見ず、今を見て欲しい』と言いましたが、カミュの過去を正確に知らなければ、前を見る事も出来ないと思いました。私やサラの記憶も少し混じってはいますし、推測の部分もあります。そして、全てがカミュの視線からの物になりますので、それを前提に聞いてください」

 

「……聞かせてくれ」

 

 リーシャの真剣な表情にオルテガは表情を引き締め、身構える。それを見た彼女は、小さく頷きを返した後で、ゆっくりと語り始めた。

 何故、カミュがオルテガの後を継いでアリアハンを旅立つ事になったのかという、彼が赤子の頃からの話から始まり、彼が少年の時代から討伐隊に放り込まれた事、そしてそこで受けた虐待に近い行為。何より、そこまでに彼が受けていた、祖父による過剰な程の扱きは、他者から見ても愛のある物ではなかったという事。

 旅立ったカミュが成した偉業の数々を語り、魔王バラモスを討ち果たしたにも拘わらず、彼がアリアハンという国に戻らなかった事を語る。

 リーシャの言葉を黙って聞いていたオルテガの瞳から流れ落ちる涙は、彼女が話し終わるまで止まる事はなく、それでも彼は気丈に顔を上げ、真っ直ぐにリーシャを見つめてその話を聞き続けた。

 全てを話し終えた時、既に一日が終わりを告げる頃になっていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
予想以上に長くなってしまったので、もう一話描きます。
この章も、次話がラストになります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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リムルダール④

 

 

 

 漆黒の闇ではあるが、リムルダールの住民が活動を始め、朝を迎えた頃、カミュ達一行は再び出立の準備を始める。このリムルダールに戻ってから既に二日が経過していた。

 大魔王ゾーマは、カミュ達が城へ入った事に気付いているだろう。このアレフガルドが完全に闇に沈み、生命が絶えるまで時間はない。カミュとオルテガという親子の関係が完全に修復された訳ではないが、それでも彼等は立ち止まる事が許されていなかった。

 宿屋の表に出た一行の後ろに、オルテガが居る。だが、敢えてその存在を無視するように歩くカミュの後姿は、以前とは異なり刺々しい物ではない。それを理解しているメルエが、カミュの傍でマントの裾を握りながら歩いていた。

 

「私も共に行こう」

 

 だが、流石にこのまま町を出る訳には行かない。立ち止まったカミュの背中に、ようやく父親が声を掛けた。

 その手には大魔王城で回収して来たバスタードソードが握られており、盾もしっかりと装備している。一時は完全に失われた右腕に握られたバスダードソードが、篝火の炎に照らされて怪しく輝いていた。

 その一言に振り向いたカミュの瞳は厳しく、射殺す程の威圧感を宿している。如何に前を向いて歩く事を決意してはいても、その恨みも憎しみも捨て去った訳ではない。どれ程の綺麗事を並べようとも、彼の中でオルテガは未だに自身の父親ではないのだ。

 サラでさえも立ち竦む程の威圧感を発するカミュに対し、リーシャは軽く溜息を吐き出し、その空気が嫌な物だと理解したメルエが頬を膨らませる。恨めしそうなメルエの視線に気付いたカミュは、肩の力を抜き、深呼吸をするようにゆっくりと息を吐き出した。

 だが、その後に吐き出された言葉は、サラとオルテガの身体を硬直させる事となる。

 

「必要ない」

 

 一切の取り付く島もない程の拒絶。そこに反論は許されず、誰であろうとそれを覆す事は出来ないと思える程の遮断であった。

 凍り付くサラとは別に、言葉と異なる空気を出しているカミュに気付いたメルエは頬を萎ませてマントの中へと潜り込む。じゃれ付く小動物のような姿は周囲の空気を柔らかくするのだが、それでもカミュが発した言葉の内容が変わる訳ではなかった。

 唯一人、もう一度息を吐き出したリーシャだけは、苦笑のような笑みを浮かべて、オルテガへと視線を送る。救いを求めるように視線を動かしたオルテガの瞳を見たリーシャは、満を持して口を開いた。

 

「私からお話しましょう。私もカミュと同感です。オルテガ様の同道は必要ありません」

 

「し、しかし……」

 

 求めた救いの手は伸ばされる事なく、最も話が通ると思っていた女性戦士にまで拒絶された事で、世に轟く英雄は言葉に窮する事になる。どれ程の威圧感を発したとしても、オルテガがカミュに怯む事はない。だが、それはカミュの強さを知らないという物ではなく、ましてや彼よりも強者であると云う理由ではない。それこそ、彼らの中に流れる同じ血が関係する物なのだろう。

 互いが互いを認識出来なかったとしても、彼等は紛れもない親子であり、一度親側が認識してしまえば、どれ程の力を持っていようとも、カミュはオルテガの息子なのだ。世には息子を恐れる親もいるかもしれないが、愛する息子であれば、何を行おうと、どのような存在であろうと、子は子なのである。

 しかし、リーシャは違う。彼女もまた、勇者カミュと共に前線に立ち続けて来た勇士であり、魔王バラモスを討ち果たした者の一人であった。アレフガルドに生息する強力な魔物達をその斧だけで退けて来た歴戦の戦士である。それは最早人外の者と称しても可笑しくはないだろう。

 

「理由を述べるのならば、私達四人は六年以上もの旅の間で、戦闘の連携を育んで来ました。オルテガ様が加わる事によって、その連携は乱れ、不測の事態を招く恐れがあります。既に大魔王ゾーマの姿が見えて来ようという所まで来ている以上、新たな連携を育む余裕はありません」

 

「だが、戦力は多い方が……」

 

 リーシャの言葉に反論の隙はない。至極当然の物言いであり、それを覆す材料をオルテガは持ち合わせていなかった。

 六年という旅路は、バラバラだった四人の若者を『絆』という不確かな物で結び付けている。不確かな『絆』という物は、何時しか掛け替えのない物となり、彼等の心と心を結びつける物となって行った。

 それは一朝一夕で生まれる物でもなく、平凡に過ごして来た時間で生まれる物でもない。何度も衝突を繰り返し、何度も互いを傷つけ合い、欠けた心に相手の心が合わさる事で生まれる物。それは、カミュ達四人にしか解らない経験が生んだ奇跡でもある。

 それでも、命を賭けた戦場へ向かう息子を見送るだけという状況を、オルテガは認めたくなかった。今まで失っていた時間を取り戻そうとする懸命な働き掛けは、厳しい瞳を向ける息子が視線を外し、先程まで会話をしていた女性戦士が哀しげな表情を浮かべた事で終幕を迎える。

 

「……オルテガ様、無礼を承知で私がお話しましょう。この言葉をカミュには言わせたくない」

 

 哀しげな瞳を厳しく細めたリーシャは、言葉を失ったオルテガに向かって最後通告を口にした。それは、避けられない言葉でありながらも、出来る事ならば避けて通りたい物だったのだ。

 それでも、リーシャはカミュの代わりに前に立つ。本来であれば、息子である彼が言わなければならない言葉なのかもしれないが、彼の口からそれを言われる事は、オルテガにとって良い物ではないと共に、リーシャ自身が聞きたくないという思いもあったのかもしれない。

 

「この先の戦いでは、オルテガ様の存在は、私達の足手纏いになります」

 

「なに?」

 

 その言葉がどれ程に驚くべき言葉なのかを知るのは、オルテガだけだっただろう。その証拠に、リーシャが発する言葉を予想していたかのように、サラもカミュも眉一つ動かす事はなかった。

 オルテガの胸に悔しさと怒りが湧いて来る。如何に竜種に敗れたとはいえ、彼には英雄としての矜持や誇りがある。それを口にした女性が生まれる前から魔物と渡り合い、それを打ち倒して来た。

 何度も死線を掻い潜り、強敵を薙ぎ払って生き残って来ている。その経験と力量は、世界で『英雄』と称されるに値する物であり、それを否定されるという事は、彼の人生全てを否定される事に等しかった。

 魔王バラモスを打ち倒したとはいえ、四人の若者に遅れを取るとは思えない。ましてや、彼の息子以外は全て女性なのだ。男尊女卑の考えを特段持っていなくとも、サラは勿論、年端も行かぬメルエと比べられて『足手纏い』扱いされる事は、オルテガには承服出来ない物であった。

 しかし、瞳に怒りを浮かべたオルテガを見ても、リーシャは揺るがない。上の世界では誰もが憧れ、誰もが畏れた英雄の怒りを向けられて尚、リーシャは眉一つ動かす事はなかった。

 

「納得が行かれませんか? ならば、一度カミュと手合わせをされると良いでしょう」

 

「は?」

 

 流石にこれにはサラが驚いた。まさか、そのような形で親子の対話を持って行くとは予想していなかったのだろう。驚きの表情を浮かべるオルテガよりも先に、サラの間の抜けた声が響き渡った。

 カミュにとっても予想外だったのか、不愉快そうに眉を顰め、リーシャを睨みつけている。その鋭い視線を受けても、彼女は全く動じずに、オルテガの返答を待っていた。

 先程の怒りが消え、何かを悟ったような表情になったオルテガは、一度バスタードソードを大きく振り、その言葉を受け入れる。頷きを返したリーシャが一度リムルダールの門を潜り、外に向かって歩き出した。

 自分の意思を悉く無視されている事に苛立ちを覚えるカミュであったが、この手合わせを受けなければ、オルテガが同行する事を諦めない事は明白である為に、溜息を吐き出しながらも剣を抜くしかなかった。

 

「オルテガ様、もし、後方に居る二人を侮られているのならば、思い違いです。この二人が相手となれば、私とカミュが組んだとしても、一瞬の内に骨一つ残らず消滅させられるでしょう」

 

 外への道を歩く途中で、先程のオルテガの怒りの瞳の中に、サラやメルエを侮る色を見たリーシャは、そう宣言する。オルテガという英雄は人間としても一流の者であり、他者を侮るような事は通常であればしない筈なのだが、リーシャからの言葉で怒りという感情が表に出てしまい、そんな人間の悪しき部分もまた共に出て来てしまったのだ。

 サラとメルエという女性は、確かに剣士ではなく、戦士でもない。純粋な武器での戦いとなれば、オルテガの足下にも及ばないだろう。だが、真の戦闘となり、彼女達二人の本気が表に出た場合、リーシャの言葉通り、誰が相手でも骨一つ残らずに消し去る事は可能なのだ。

 サラの行使する補助呪文で抑えられ、メルエの圧倒的な攻撃呪文で消し去られる。それは瞬きをする暇さえも与えられない状況となるだろう。特に、魔法力の放出が出来ないリーシャにとっては、絶対に敵対したくない二人であった。

 

「カミュ、呪文は禁止だ。純粋な剣技での模擬戦とする」

 

「わかってる」

 

 勇者と英雄の戦いである。もし、そこに英雄しか行使する事の出来ない呪文まで登場してしまえば、このリムルダールという町自体が消滅しかねない。故にこそ、町の中ではなく、一度外へ出たのだ。

 そしてリーシャの意図を正しく理解したサラとメルエは、いつでも呪文の行使が可能なように、それぞれの詠唱準備に入って行く。町の外へ出てしまった以上、魔物といつ遭遇しても可笑しくはない。故にこそ、その露払いを彼女達呪文使いが担うのだった。

 

「オルテガ様も良いですね? 純粋な剣技による模擬戦ですが、命のやり取りも禁止です」

 

「わかった」

 

 オルテガは既に戦闘態勢に入っている。彼の中でも目の前で剣を持って立つ息子は強者と認められているのだろう。そして強者と戦う事を楽しむというのも、英雄である証であった。

 その点が、カミュとオルテガの相違点と言っても過言ではないだろう。カミュは決して戦いを楽しむ事はない。負けず嫌いという性質はあるものの、剣を振るう事を楽しんでいる様子はなかった。もしかすると、大魔王ゾーマを討ち果たした後は、二度と剣を握ろうとはしないかもしれない。そう思わせる節がカミュにはあった。

 オルテガの心の何処かには、『息子の成長を見てやろう』という想いがあるのかもしれない。だが、その成り行きを見ているリーシャ達三人は、まるでその結末を知っているかのように、オルテガへ哀れみに近い瞳を向けていた。

 

「始め!」

 

 リーシャの掛け声と同時に、一気に間合いを詰めたのはオルテガだった。対するカミュは、剣を握ってはいるものの、構えは取っていない。リーシャとの模擬戦の時のような、いつでも動けるような態勢を取ってはいなかった。

 通常の人間、いや、かなりの使い手であっても、このオルテガの突進に反応する事は難しいだろう。それ程の速度で肉薄したオルテガを見ても、カミュは眉一つ動かさず、振り抜かれる剣を持っている勇者の盾で受け止めた。

 

「くっ」

 

 英雄の一振りとは、巨大な魔物さえも両断し得る一撃である。例え盾で受け止めても、人間など弾き飛ばす程の剣撃。だが、それを片手で受け止めたカミュは、先程の場所から一歩たりとも動いておらず、逆に苦悶の声を漏らしたのは、一撃を放ったオルテガの方であった。

 英雄が放った最強の一撃は、受け止めた者ではなく、それを持つ英雄自身の右腕に痺れを残す。だが、そんな身体の不調を気にする余裕が、彼に与えられる事はなかった。

 左手に装備した勇者の盾で受け止めたカミュは、そのまま王者の剣の刺突を繰り出す。風を切る音がオルテガの耳に入った時には、彼の右頬はその風によって斬られ、生温かな血液が流れ落ちていた。

 カミュが意図的に外した事を理解出来ない程、オルテガの力量は落ちぶれてはいない。しかも、剣先が触れていないにも拘らずに切れている頬で、カミュ自身の力量を侮り過ぎていた事を悟った。

 

「ふぅ……。すまない、本気で行く」

 

 一息吐き出したオルテガは、目の前に居る者が最愛の息子であるという認識を捨てる。一瞬で鋭い瞳に変化した目の色は、強者と戦うというよりも、魔物のような人外の物に対抗する為の物に見えた。

 バスタードソードが突き出され、それをカミュが再び盾で受け流す。それは一撃必殺の威力を誇る物であるが、リーシャ自身が模擬戦を止めようとしない事からも、カミュであれば対処出来る程度の攻撃である事が解った。

 受け流され、身体が泳いだオルテガの腹部にカミュの足が突き刺さる。食した物全てを吐き出してしまいそうになる衝撃を受けたオルテガは、そのまま後方へ転がる事で衝撃を緩和した。

 起き上がったオルテガは、再び剣を突き出すが、その剣はカミュの持つ王者の剣の刃で逸らされる。込めた力を流されたオルテガの顔面にカミュの持つ盾が振り抜かれた。

 吹き飛ばされたオルテガは、追い討ちに備える為に即座に体勢を立て直すが、その視線の先には、先程と変わらない姿で立つカミュの姿が見えていた。

 

「……ここまでの差か」

 

 オルテガは、真の英雄である。その生い立ちを見ても、カミュとそれ程変わらないに違いない。幼き頃から父に剣を習い、宮廷に入り込んでは呪文の契約を行った。

 魔物の討伐隊に入ったのも、カミュとそれ程変わらない歳だったかもしれない。その中で剣を振るい、呪文を行使し、人間の脅威となる魔物と渡り合って来た。

 確かに、オルテガの少年時代であれば、討伐隊の規模も大きくはなく、対する魔物の凶暴性も今とは比べ物にならない程穏やかな物だっただろう。だが、そこで育んだ経験を重ね、彼は強力な魔物達とも渡り合う力を手にしている。そして、宮廷騎士として名を上げている父の手解きを受けて、対人の戦闘にも長けた存在となっていた。

 だからこそ、今の自分とカミュの力量の差を、僅かなやり取りで痛感してしまう。『この相手には敵わない』という本能が働き、それを裏付ける力の差を身を持って味わった。

 

「しかし、息子に越されるという事が、これ程に悔しく、これ程に嬉しい事だとはな……」

 

「ちっ」

 

 嘔吐感が収まったオルテガは立ち上がり、再度バスタードソードを握る。その顔に、宿屋を出た頃の悲壮感はない。むしろ何処か清々しく、何処か晴れやかな物であった。

 悔しそうに顔を歪めながらも、嬉しさを隠し切れないように口端が緩む。そんな何とも言えない微妙な表情を浮かべるオルテガを見て、リーシャは微笑み、カミュは盛大な舌打ちを鳴らした。

 僅か一合の打ち合いでは模擬戦は終わらない。戦闘態勢に入ったオルテガを見て、カミュはようやく構えを取った。

 これ程の力量の差があれば、先程の打ち合いの際に、オルテガを刺し殺し、斬り殺していても可笑しくはない。だが、それでも彼はそうしなかった。自分の胸の中にある憎悪が消えた訳ではない事を知っている彼にとっては、その無意識の行動が最も苛立つのだろう。嬉しそうに微笑むオルテガにもう一度大きな舌打ちを鳴らしたカミュは、苛立たしげに剣を振るった。

 

「すまない。そして、この愚かな父の我儘に付き合ってくれた事に礼を言う。これが、最後だ」

 

 目の前に居る息子に頭を下げたオルテガだったが、再度上げられた顔には満面の笑みを浮かべている。そして、再び引き締まった表情を見て、カミュは態勢を低くして構えを取った。

 何度も言うが、オルテガは確かに英雄なのだ。その力は人類の限界を大きく超え、世界中に名を轟かせる程の男である。

 同じく英雄として謳われるサイモンという男には、魔物を打ち倒せる程の武器があった。『大地の剣』とも伝えられる名剣であり、神剣。勿論、サイモン本人も英雄としての素質と力を備えていたのだろうが、それでもガイアの剣と呼ばれる武器がなければ、オルテガと並び称される程の存在となってはいなかっただろう。

 逆に言えば、その手に神剣の類の武器を持たず、その身に神代の鎧などを纏わずに名を馳せたオルテガという男が異常なのだ。

 

「ふん!」

 

 一気に肉薄して来たオルテガが振り下ろす剣は、その速度、力共に、人間など両断出来る威力を誇る。それを盾ではなく剣で受け止めたカミュであったが、予想以上の力であった為にはじき返すことが出来なかった。

 肉薄する親子の顔には正反対の表情が浮かぶ。肩を使ってカミュを押し出そうとしたオルテガは、逆に押し返され、振るわれた剣を辛うじて盾で受け止めた。

 一瞬でも気を抜けば、命諸共斬り捨てられるという緊迫感に、オルテガの額から大粒の汗が流れ落ちる。それでも彼の顔には笑みが浮かんでいた。それは強者と戦えるという楽しみではなく、息子と剣を合わせるという喜びから来るのかもしれない。

 リーシャやサラの持っていた『たいまつ』を地面に突き刺す事で得ている僅かな明かりの中、人類史最強の勇者と英雄の戦いは続いた。

 

「うおぉぉぉ」

 

 何合か剣を合わせる中で、オルテガの胸を喜びと共に大きな寂しさが占めて行く。息子に越される悔しさ。息子が自分を追い越して行く喜び。そして、追い越して行った息子の背中を見る事しか出来ない寂しさ。

 全力を出している自分に対し、目の前の息子には余裕がある事に気付けない男ではない。この差を埋める手段がない以上、オルテガがカミュ達の旅に同道する資格はないのだ。

 それがここまで悔しい事だとは知らなかった。それがここまで嬉しい事だとも知らなかった。そして、何よりもこれ程までの寂しさを感じる事だとは思いもしなかった。

 悔しさで、嬉しさで、寂しさで溢れ出る涙が目の前の息子の姿を歪ませる。それでも、息子の勇姿をしっかりと焼き付けようと、目を見開いた。自分の振るう剣は、既に明確な軌道を失っている。闇雲に剣を振るう赤子のようでありながらも、オルテガは剣を振るう事を止める事が出来なかった。

 出来る事ならば、この時間が永遠に続いて欲しいとさえ願う。何時までも何時までも、息子と剣を合わせ、その姿を見ていたいと願う。だが、そんな父親としてのささやかな我儘も、最早許されてはいなかった。

 

「ふん!」

 

 これ以上の打ち合いは、意味を成さない。オルテガという男の我儘に何時までも付き合っていられる程、彼等には時間はなかった。

 振り下ろされたオルテガのバスタードソードを、カミュが真上に斬り上げる。自身の力さえも利用された反撃に、オルテガの手は剣を握る力を失った。

 空高く跳ね上げられたバスタードソードは、大きな弧を描きながら回転し、オルテガの後方の地面へと突き刺さる。そして、彼にとって長く短い、初めての息子との対話の終了の鐘がなった。

 

「そこまで!」

 

 リーシャの掛け声を聞いたオルテガは、涙が溢れ出る笑みを浮かべてその場に座り込んだ。

 荒い息を整えているのか、それとも嗚咽を漏らしているのか解らない息を吐き、一度大きく振り上げた拳を地面を叩き付ける。

 だが、その行動に反するような表情を浮かべているオルテガを見て、リーシャの頬を一筋の涙が流れ落ちて行った。彼女もまた、自身の父との打ち合いを願い続けて来た人物である。幼い頃は楽しみでありながらも、恐ろしい時間であったが、父を失ってからは、『もう一度、もう一度』と願い続けて来た時間でもあった。

 カミュを羨ましいと思うと同時に、自分もまた、今の成長した姿を父に見せたかったと心から願うのだ。その想いが、涙となって流れ落ちたのだった。

 

「……本当に強くなったのだな」

 

 冷たく見下ろすカミュに対し、本当に嬉しそうに微笑むオルテガ。その対照的な姿は、とても不思議であり、そして神秘的な物に見えた。

 この親子の生い立ちはそれ程変わらない。その違いは、自身が望んだか否かだけである。オルテガはその力を望み、カミュは望まなかった。

 サラはそんな二人が、正しく英雄と勇者の違いを体現しているように思えた。自ら望んでその場所へ向かい、名を上げる英雄。望まぬにも拘わらず、まるで必然のようにその場に立ち、周囲を変えて行く勇者。

 そこに正誤や優劣はないのかもしれない。だが、世界という途方もなく広く大きな視点で動かす事が出来るのは、英雄でなく、勇者なのかもしれなかった。

 

「アンタはアリアハンへ戻れ」

 

 唐突に告げられたカミュの言葉に、リーシャとメルエを除く二人の反応が遅れる。先程までの笑みを消したオルテガの顔は、『アリアハンに戻れる』という事自体に対する疑念があり、カミュへと弾かれたように視線を向けたサラの顔には、カミュ自身の変化に戸惑う色が見られた。

 だが、それを予想していたリーシャだけは、自分に向けられたカミュの視線に頷きを返し、座り込んだまま呆然とカミュを見上げるオルテガに近付いて行く。そして、昨日の内にカミュから預かっていた一つの革袋を手渡した。

 

「これは……キメラの翼か!?」

 

「はい。このアレフガルドに生息するキメラとの戦闘の後で、一つだけ残されていた翼です」

 

 その革袋からオルテガが取り出したのは、一つの翼。鳥のような羽毛で包まれながらも、竜種のような鱗を持つ不思議な翼だった。

 それは、既に上の世界では入手が不可能となっている希少な道具。天高く放り投げて行きたい場所を思い浮かべるだけで、その翼に残る魔法力がその者を運ぶとされる物であった。

 上の世界では一度も見る事のなかった道具ではあるが、このアレフガルドで遭遇したキメラ本体から入手した物を今まで大事に持ち続けていたのだ。この一行には、ルーラの術者が三人いる以上、余程の事がない限りはキメラの翼の出番はない。どれ程に希少な道具であろうとも、世界樹の葉ほど替えの効かない物ではなかった。

 

「こんな貴重な物を……。だが、これを使っても、アリアハンに戻れる訳ではないだろう?」

 

「その件は、私から説明させて頂きます」

 

 キメラの翼を手にしたオルテガであったが、その希少性に驚きながらも、冷静に物事を分析する。このアレフガルドと、アリアハンのある上の世界は、完全なる別世界である。同じ世界であれば、どれ程に離れていたとしても、ルーラやキメラの翼で移動は可能だろうが、異世界となればその限りではなかった。

 そんなオルテガの姿を見て我に返ったサラが一歩前に出る。一行の頭脳であり、今では世界で唯一の賢者となった彼女は、今のアレフガルドと上の世界の状況を概ね把握していた。

 これもまた仮定の話になるが、もし、オルテガの旅路に、サラのような存在が同道していれば、彼の旅も大きく変化した事だろう。疑問に思った事を流す事が出来ず、それについて納得行くまで考えるような存在がいれば、その旅路も幾らか楽になっていたに違いない。

 

「今、上の世界とアレフガルドは繋がっている状態です。ルビス様の復活によってその歪みや繋がりが小さくなってはいますが、それでもアレフガルドと上の世界は繋がっている筈。このアレフガルドに、ルーラを行使出来ない人達しかいないのは、行使出来る人達は既に上の世界に帰っているという可能性が高いからだと思われます」

 

 上の世界でルーラという呪文を契約した者は、大抵が要職に就いている者達ばかりである。国家の宮廷に所属する魔法使いがその大半で、独立した魔法使いなど皆無に等しい上の世界で、ルーラを行使出来る者がアレフガルドに落ちて来るという可能性は低かった。

 だが、それでも皆無という訳ではないだろう。何かの拍子に地割れに合い、このアレフガルドへ落ちて来たカンダタやマイラの村のジパング夫婦のように、魔法使いが落ちて来ていても可笑しくはない。だが、アレフガルドを異世界だと思っていない状態であれば、ルーラという帰る為の手段を持つ魔法使い達が、いつまでもアレフガルドに残っているという可能性は限りなく低かった。

 

「おそらく、ルーラやキメラの翼で、魔王の爪痕を抜ける事は出来るのだと思います。それでなくては、私達もこの世界に来る事が出来なかった筈ですから」

 

 そして、その仮説が正しい事の証明に、このアレフガルドへ来た上の世界の者達は、ほぼ全てが上の世界に出来た穴から落ちて来ている。それは、異空間に取り込まれたとか、歪む時間軸に巻き込まれたとか、そのような非現実的な物ではなく、例外なくこのアレフガルドの空から到来しているという事であった。

 空から落ちて来る際に、落下によって死んだ者もいたかもしれないが、アレフガルドの空の一部と、上の世界に出来た穴が繋がっていると考えても良いだろう。

 ラーミアという神鳥もまた、上の世界とアレフガルドを繋ぐ裂け目から降りて来た事もまた、その説の信憑性を高めていた。

 

「試す価値はあるという事だな」

 

「ええ、ルーラは術者の魔法力ですが、キメラの翼は魔物の魔力です。その翼に宿る魔法力の量は解りませんが、少なくとも並みの人間などよりも遥かに多いでしょう。もし、通常の魔法使いの魔法力では届かない距離であったとしても、キメラの翼ならば可能な筈です」

 

 このアレフガルドに到達し、上の世界に戻った事のある魔法使いという存在が皆無だったとしても、戻る事の出来なかった理由がルーラを継続する為の魔法力不足だったとしても、アレフガルドに生息していたキメラの翼ならば、それを可能にするだけの力を宿している可能性は高かった。

 キメラという複合種は、他の単一の魔物よりも魔法力が高い。その魔法力の残骸であったとしても、本来ならば世界に残る事も許されない種族にも拘わらず、この世界に顕現し続けている自体で、残る魔法力の高さは窺えた。

 サラの考察が終わる頃、再びカミュがリーシャへと視線を送る。それに対して、何故か笑みを浮かべたリーシャは、しっかりと頷きを返した。

 

「オルテガ様、これを」

 

 再び近付いたリーシャは、ルビスの塔からずっと持ち続けて来たある物をオルテガへと手渡す。それは、特殊な形状をした一品物の兜であり、長い間カミュの頭部を護り続けて来た兜でもあった。

 それを手にしたオルテガは、何故自分にこれが手渡されたのかを理解出来ないような表情を浮かべるが、すぐにそれが何かに気付く。

 

「これは、私の……」

 

「違う」

 

 自分が被り続けて来た物である事に気付いたオルテガは、手渡して来たリーシャを見上げ、呟きを漏らす。だが、その言葉は最後まで紡ぐ事は出来ず、途中で遮られた。

 言葉を遮られた声が、力強い物であった事に驚いたオルテガは、その声の発信元へと視線を移す。だが、そんな緊迫したやり取りを見ていたリーシャだけは、心から面白い者を見るように微笑みを浮かべていた。

 サラは、そんなリーシャの笑みの真意に気付く事が出来ず、不思議そうに首を傾げ、それを見ていたメルエもまた、笑顔で首を傾げる。独特の雰囲気が流れる中、一つ息を吐き出したカミュが言葉を繋げた。

 

「それはポポタの物だ。アンタがアリアハンに帰ったならば、ムオルの村へ行き、ポポタに返してやってくれ」

 

「ムオルのあの少年か?」

 

 カミュの声は、先程まで剣を振っていた頃よりも穏やかな物であった。アリアハンを出た当初から比べれば、まるで憑き物が落ちたかのような表情で、オルテガを見下ろしている。冷たいといえば、冷たい表情であろう。だが、その冷たさの中にも、仲間達だけが感じ取れる温かさが存在していた。

 その証拠に、剣を背中に納めたカミュに向かって近づいて行った少女は、その足下にしがみ付き、笑みを浮かべている。それを見たオルテガの瞳にも優しさが戻って行った。

 もし、自分がアリアハンで過ごしていたならば、カミュもまた今の少女のように自分の足にしがみ付き、笑みを向けてくれていただろうか。そんな決して見る事の出来ない世界へ想いを馳せて行く。

 

「ゾーマが倒されれば、上の世界は完全に平和が訪れます。その時には、アリアハンからムオルへの航路も出来ているでしょう。海の魔物は消えて無くなりはしないでしょうが、上の世界には大きな護衛団が開設している筈ですから」

 

「……わかった」

 

 ここでカミュ達の申し出を断る事など出来る訳がない。オルテガがどれ程に望もうとも、どれ程に抵抗しようとも、彼がカミュ達と共に大魔王ゾーマへ向かう事は許されないのだ。ならば、息子から託された約束を果たす事こそが、彼が出来る唯一の行動であった。

 最早悔しさもない。立ち上がったオルテガは、目の前に立つ愛しい息子の姿を眩しげに見つめる。親らしい事など何一つ出来てはいなくとも、息子自身が自分を親だと思っていなくとも、この青年はオルテガにとって掛け替えのない唯一人の息子である。そして、二十年以上もの長い旅路の果てに見つけた、彼の誇りでもあった。

 

「先にアリアハンに帰っている。お前なら、必ずゾーマを討ち果たす事が出来ると、私も信じている。ゾーマを倒し、必ず戻って来てくれ。そして、お前を息子と呼ばせて欲しい」

 

「……」

 

 リーシャから渡された兜を被り、キメラの翼を握り締めたオルテガは、真剣な瞳をカミュへと向ける。息子の胸に残る憎悪を軽く見ている訳ではない。その憎しみも悲しみも、全て責任は自分にあると考えているし、そこから目を背けるつもりもない。故にこそ、改めて共に暮らし、本当の親子としての時間を過ごしたいと考えていた。

 オルテガの呼び掛けにカミュは応えず、ただ真っ直ぐにオルテガを見つめる。苛立ちと怒り、そして僅かな情。そんな色を浮かべながら見つめる息子の姿を見て、オルテガ勘違いをしてしまった。

 『出来もしない約束をするつもりはないのだろう』と。

 

「……名残惜しいが、これ以上は歩みを邪魔する訳にも行かないな。アリアハンで待っているぞ、カミュ」

 

 そう告げて微笑んだオルテガは、一筋の涙を溢した後で、天高くキメラの翼を放り投げた。

 漆黒の闇の空に上がった一枚の翼は、眩いばかりの光を放ち始め、投じたオルテガの身体を包み込む。ゆっくりと浮かび上がり始めるオルテガの身体を、四人は異なる想いと表情で見送って行った。

 愛しい息子の姿を焼き付けるように見つめ続けるオルテガの身体が尚一層に輝き、一時の停滞の後、光の筋となって漆黒の夜空へと消えて行く。

 

「良かったのですか? ゾーマを倒せば、上の世界との繋がりも消滅する事をお伝えしなくて」

 

「まぁ、オルテガ様も薄々気付いていただろうな」

 

 戻って来る事を待つと宣言して帰って行ったオルテガの光が消え、再び静寂と闇の支配が戻った頃、サラはカミュとリーシャへ問いかける。カミュが戻って来る事を期待させて良かったのかと。

 不死鳥ラーミアの話を信じるのであれば、大魔王ゾーマを討ち果たし、このアレフガルドに光を取り戻した時、上の世界とアレフガルドを結ぶ裂け目は完全に閉ざされる事になるだろう。そうすれば、如何に人外の魔法力を持っていようとも、上の世界はルーラで戻れる場所ではなくなるのだ。

 だが、リーシャはそのような事は、オルテガ自身も察しているだろうと言う。それでも彼は諦めてはいないのだ。再び息子と会える時を、そして愛しい息子と共に暮らせる日を。

 

「行くぞ」

 

「ああ、これでやり残した事はない。後は、大魔王ゾーマを倒して、このアレフガルドに光を取り戻すだけだ」

 

 いつもの表情に戻ったカミュは、全ての荷物を拾い上げ、再び西にある虹の橋へ向かって歩き出す。そして、その背中を見たリーシャは、晴れやかな笑みを浮かべて気合を入れ直した。

 歩き出すカミュの足下には、大魔王にさえ匹敵する程の魔法力と才能を持つ少女がおり、その後ろには大魔王さえも恐れた名を受け継ぐ賢者が歩く。そして、最後尾には、当代の勇者も、世界に轟く英雄でさえも敵わない女性戦士が続いた。

 

 全ての試練を乗り越え、成長を遂げた勇者は、歴史に残る程の猛者達を率いて、至上最凶の大魔王へ挑んで行く。旅は終盤に差し掛かり、長かった苦しみも終わりを向かえる。

 目指すは、諸悪の根源『大魔王ゾーマ』。

 全てを滅ぼし、絶望へと落とす者。他者の絶望を愉悦とし、その苦しみを糧とする者。

 それに向かうは、人類の希望であり、世界の希望。

 決戦の時は近い。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
これで二十二章もラストです。
次話から最終章となります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております


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※勇者一行装備品一覧

 

 

装備一覧

 

 

 

【名前】:カミュ

 

【職業】:勇者

精霊神ルビスに告げられた『最後の試練』を乗り越え、更に大きな輝きを放つ事になった彼は、勇者としての高みに登っている。自身の輝きではなく、周囲の者達を輝かせる事で必然を生み出して来た彼に元々あった、人を惹き付ける輝きが増していた。望まぬ旅路の中で、一度も望んだ事のない戦いを続けて来た彼は、アレフガルド大陸では明確な目的の為に歩んでいる。意図的にその理由を自覚しないようにして来た彼であったが、共に歩んで来た女性戦士の言葉によって、それを自覚し、飲み込み、そして前へと歩み始めていた。

 

【年齢】:22歳

アリアハンを出立し、六年半が経過している。彼の人生の半分以上の年月を支えて来た『憎悪』という感情は、生涯消える事はないのかもしれない。今から考えれば、カミュとサラが対立していた根底には、『人への憎悪』と『魔物への憎悪』という対象の異なる同じ想いがあったのかもしれない。ただ、不特定多数の魔物全てに憎悪を向けていたサラと、特定の個人に憎悪を向けていたカミュとでは、その想いの方向性が異なっていたのだろう。

英雄オルテガとの対峙、少女メルエへの想い、彼を支えて来た女性戦士の言葉、それら全てが合わさった時、彼は真の『勇者』として目覚めた。

 

【装備】

頭):光の兜(光の鎧と一対となった兜)

頭部部分に鎧の胸部に描かれている物と同様に不死鳥ラーミアの紋章が刻まれている。光の鎧と同金属で製造されたそれは、神代から伝わる希少金属であり、青白い輝きを放っている。頭部の両側に金色の角が付けられているが、それは攻撃や防御という面ではなく、装飾の一種であるのだろう。飛び立つラーミアの道筋のように伸びる金の角が、それを装備する者の飛翔を約束しているかのような神秘さも持っていた。

 

胴):光の鎧

古の勇者が装備していたと伝えられる鎧。特殊な希少金属によって製造され、人間では生み出せない程の一品。青白く輝くその金属は、それを装備する者の魂に呼応するように鮮やかな光を放つ。装備する者を主と認めれば、その者の傷さえも癒す輝きとなり、多少の傷であれば瞬く間に癒される。長い時間、主を待つように精霊ルビスが護る塔に安置され続けて来たが、大魔王ゾーマの復活によってアレフガルドを閉ざしていた闇を晴らす者の来訪により、その力を再び世に解放した。その鎧の名が光の鎧と付けられたのは、その輝きを放たせる者が纏ってこそ。神代の鎧さえも認める輝きを放つ魂を持つ者こそ、後に語り継がれる事となる勇者なのかもしれない。

 

盾):勇者の盾

遥か昔、アレフガルド大陸が闇に閉ざされそうになった時、天より舞い降りたと伝えられる『勇者』が装備していた盾。地上にはない金属によって造られ、青く輝くような光を放つ。表面には黄金色に輝く神鳥が描かれており、中央には真っ赤に燃えるような宝玉が嵌め込まれている。上の世界で蘇った不死鳥ラーミアに酷似したその装飾は、アレフガルドに伝わる古の勇者と精霊神ルビスが知己の存在である事を示していた。

地上にはない神代の金属によって生み出されたその盾は、竜種などが吐き出す炎や吹雪への耐性も強く、どれだけ高温に曝されようと変形する事はない。正しく、生物が暮らす現世最強の盾と云えるだろう。

 

武器):王者の剣

神代からの希少金属である『オリハルコン』から成る剣。古の勇者が所有していた剣として伝承に残っており、その力を恐れた大魔王によって破壊されたと伝えられている。その一振りは嵐を呼び、大地の全てを薙ぎ払うとまで云われ、天の怒りを具現化する者だけが持ち得る剣でもあった。大魔王によって砕かれた剣は、原初である金属に戻り、ドムドーラの町の片隅に放置されていた。神代の金属を、この時代に生きる『人』の手によって加工し、再び剣としての形を取り戻す。それは、古の勇者が所有していた物とは姿形は大きく異なる物であろう。その力も神代の頃には及ばないかもしれない。それでも、『人』の想いを結集して造られたこの剣こそ、その想いを受け取った『王者』のみが振るう事の出来る剣なのであろう。他の誰も手にする事の出来ないその剣は、『人』の生み出した史上最強の剣となった。

 

所持魔法): メラ

      ホイミ

      ギラ

      ルーラ

      アストロン

      トヘロス

      ベギラマ

      ラリホー

      ライデイン

      ベホイミ

      リレミト

      マホトーン

      イオラ

      ベホマ

 

【名前】:リーシャ・デ・ランドルフ

 

【職業】:戦士(元アリアハン宮廷騎士)

英雄も勇者も敵わない女性戦士。その認識は、世界で一人の賢者も、世界最高峰の魔法使いも持っている。純粋な戦闘の力量という部分もそうかもしれないが、総合的な人間力という点では、圧倒的な勝利を捥ぎ取る事だろう。

数多くの魔物の命を奪って来た彼女ではあるが、彼女自身が戦闘を楽しむ事はない。宮廷騎士という職業に対する拘りが無くなった彼女にとって、武器を振るうのは、彼女が大切に想う仲間達を守る為であり、その必要がなくなった時、彼女もまた、武器を手放す事であろう。その時は、その胸に宿る大きな母性を持った女性へと変わって行くのかもしれない。

 

【年齢】:27歳

アリアハンの城下で剣を振るっていた頃、彼女はまだ四歳という幼い少女であった。身の丈に合わない剣を振るう姿は、同じ貴族の子弟達にとっては奇特な物に映っていた筈だ。だが、そんな少女の姿を見たオルテガは彼女に声を掛けている。それは、幼い彼女の剣筋に光る物を見たという事もあるのかもしれないが、それもまた数奇な運命の歯車の一つだったのかもしれない。

勇者よりも四つ上の女性騎士を同道させようと考えたアリアハン国王の英断と褒めるべきなのか、それとも、年長者という自覚が彼女を成長させたのかは解らないが、彼女がこの旅に同道していなければ、カミュ達一行は、それまでの自称勇者達と同じ末路を歩んでいた事だろう。

 

【装備】

頭):ミスリルヘルム

超希少金属であるミスリルによって生み出された兜。その製造方法も加工方法も秘術と云われる程の物である。故に、このアレフガルドにのみ伝えられているミスリル金属を使用した防具は、上の世界に存在する防具よりも遥かに高額で取引されている。この兜一つで竜種の鱗さえも斬り裂くと云われるドラゴンキラーよりも高額であった。

己もこの兜をと口にするカミュを一喝し、彼女だけがこの兜を被る事になったが、それは独占欲から来る我儘でない事は周知の事実である。ミスリルという希少金属で造られた兜の防御力を差し引いても、彼の装備する兜の方が希少性も重要性も高い事を彼女は知っているのだ。

 

胴):大地の鎧

試練の洞窟と呼ばれる人工の洞窟内に安置されていた鎧。『勇者』と呼ばれるカミュが発見するが、その者を主とは認めず、外で待つ一人の戦士を主と定めた。まるで己の意志があるかのように、『人』としての色を残す女性を主と定めた鎧は、他者の手に渡るのを拒む。精霊と共に崇められる対象となる母なるものの名を冠する鎧は、植物や動物を育てるように、温かくその身を包み、護る事だろう。

 

盾):力の盾

アレフガルド大陸に残る希少価値の高い防具の一つ。古から残されているが、その価格と担い手となる者が現れないという理由から、誰の手にも渡る事なく武器屋に眠り続けて来た防具でもあった。

その担い手の心を反映させるかのように、願いに応じて癒しの光を放つ。所有者にしか及ばない癒しの光ではあるが、その効力は中級回復呪文であるベホイミに匹敵する物であった。

 

武器):魔神の斧

遥か太古の魔の神が愛した斧。

その鋭い刃先は、どのような強固な物をも斬り裂き、その一撃は大地をも斬り裂くとさえ謳われた武器である。魔の神と天上の神との争いの際に失われ、地上へと落とされたという。それがネクロゴンドという地方に安置されていた事は奇跡であり、ネクロゴンドにある城に飾られた英雄の像の手に握られていた事も今では謎である。

その斧もまた、他の神代の武器と同様に自我を持っているかのように、己の主を定める。しかも、魔の神が愛した物である為、それは一筋縄ではいかない代物であった。己の主を嘲笑うかのように、試すかのようにその重量を変化させ、扱う者の重心をずらしてしまう事もある。しかし、その変化と持ち手の技量が合致した際には、逸話通りの一撃を生む事もあるのだった。

:オルテガの兜

英雄オルテガが上の世界で装備していた兜であるが、バラモスの行使したバシルーラによって弾き飛ばされた彼が、辿り着いたムオルの村で介抱の礼に置いて来た物である。オルテガを蘇らせた一行は、ムオルの村に居る少年ポポタへ返すように、彼に手渡した。

 

所持魔法):なし

魔法力が皆無なため、契約及び行使は不可能。

 

 

 

 

 

【名前】:サラ

 

【職業】:賢者

大魔王ゾーマの城へ踏み入った一行の頭脳として、本領を発揮している。魔法という神秘を追求したいという欲求は変わりなく、マヒャドを変化させたメルエに対し、彼女が怯えてしまう程の剣幕で詰め寄っていた。

古の賢者の一人のような特殊な因子を受け継いでいる訳ではないが、それでも彼女が賢者であり続けるのは、その飽くなき追求心故なのかもしれない。

 

【年齢】:23歳

リーシャという姉のように想っている相手が、アリアハンを出た当初は今の自分よりも年齢が下であったという事に改めて気付いた彼女は、愕然としてしまう。それは何も、身体的な成長があの頃のリーシャに及ばないという理由ではないだろう。あの頃のサラは、全てをリーシャに頼っていた。一行の頭脳として開花していない頃の彼女は、一行の足手纏いと言っても過言ではなく、その失態の盾代わりになってくれていたのは、今の自分よりも若い女性戦士だったという事に驚いたのだ。今の自分が、あの頃のリーシャのように、周りの者達に意識を向けられているか、と問われれば、答えは『否』である。未だに自分の事だけに必死な所は否定出来ず、メルエに対しても十分に目を向けられているかという事を自問自答してしまうのだった。

 

【装備】

頭):サークレット

『賢者』になった事により、謁見の最後に教皇から渡された物。先代の『賢者』が作り、教皇に手渡された物らしい。その中央には、以前カミュが装備していたサークレットと同じ様な青い宝石が埋め込まれており、その色は、『命の石』よりも深く、濃い青色をしている。

 

胴):水の羽衣

アレフガルド大陸の中で、雨の日の翌日にマイラの森に現れると伝えられている『雨露の糸』という素材を織って作られた羽衣。天女が纏った羽衣のように美しく、その表面は水が流れるような輝きを放つ。雨露の糸から羽衣を生み出す事の出来る職人は既になく、マイラの村に現存する最後の一品を購入する事となった。

 

盾):水鏡の盾

カミュがリーシャと共にラダトーム王都にて購入した盾である。勇者の洞窟と呼ばれる場所で発見した古の勇者の防具をカミュが装備した為、彼から譲り受けた。古代龍種であるサラマンダーの吐き出す爆炎を受け、真っ赤に染め上がりはしたが、希少金属で造られたこの盾は、購入した時と一切形状を変化させてはいない。このアレフガルドにしかない盾が、強力な魔物が数多く生息し始めた大陸に於いて、後衛を担当する賢者と魔法使いを命を護る大きな防壁となるだろう。

 

武器):ゾンビキラー

サマンオサ城下近郊での<ガメゴン>との戦闘により、三年以上も共にあった<鉄の槍>は破損してしまった。

共に歩む者達の武器が次々と強力な物になって行く中、彼女だけがロマリアで購入した物を使用していたというのは、彼女自身の武器を扱う力量とは別に、『賢者』となった彼女に合う武器が無かった事が理由であろう。

長い年月を掛けて聖水に浸けても尚、錆などが浮かなかった長剣であり、その刀身に『精霊ルビス』の加護を受けた剣。

聖なる力を宿した長剣は、この世に生を持たない者達に多大な効果を持ち、この世に縛り付けられた魂や肉体を『精霊ルビス』の許へ還すと考えられていた。

   :聖なるナイフ

育ての親であるアリアハン教会の神父から授けられた物。

アリアハン大陸の魔物達には有力な武器ではあったが、ロマリアで鉄の槍を入手してからは、彼女の腰に下がる袋の中に大事に保管されている。

それは、彼女の心の奥にある太い柱となっている『愛』の証であり、彼女が進む道を照らし続ける『覚悟』の証でもある 。

 

所持道具:祈りの指輪

エルフの隠れ里にて購入した物である。メルエの指に嵌っている物と同様の物で、元々は子の幸せを願う親の想いが込められた物が起源と考えられている指輪であった。

純粋な祈りは『精霊ルビス』の許へと届き、指輪の所持者の魔法力や気力を回復するという効力がある。呪文に重きを置くサラにも必要であると考えたリーシャが購入する事をカミュへ提言し、それが受け入れられた事によって、サラの指にも嵌められる事となった。

購入する際は、2500ゴールドという大金が必要となるらしい。

ザオリクという最上位の呪文行使によって、完全に魔法力を失い、この世の生を手放しかねない状況になったサラ自身を救う事となる。その際に精霊神ルビスが封じられた塔から降り注ぐようにサラの体内へと吸い込まれた魔法力を見る限り、この指輪の祈りは確かに精霊ルビスへと届けられていると考える事も出来た。

 

所持魔法):【経典魔法】

       ホイミ

       ニフラム

       ルカニ

       ルカナン

       マヌーサ

       キアリー

       ピオリム  

       バギ   

       ラリホー

       ベホイミ

       マホトーン

       バギマ

       ザキ

       ザラキ

 

      【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ  

       べギラマ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       メラミ

       イオラ

 

      【悟りの書魔法】

       キアリク

       ヒャダイン

       トラマナ

       インパス

       バシルーラ

       ベホマ

       ベギラゴン

       マホカンタ

       マヒャド

       ザメハ

       フバーハ

       ベホマラー

       シャナク

       ザオラル

       ザオリク

       メガンテ(行使及び、その名を口にする事も禁じられる)

 

【名前】:メルエ

 

【職業】:魔法使い

氷竜という古代竜種の因子を受け継いでいるからなのか、彼女の魔法使いとしての力量は人類を大きく越えている。その中でも氷結系の呪文に関しては、魔族に対しても引けを取る事は無く、上位に立っていた。マヒャドという最上位の氷結呪文を、自分なりに進化させ、氷の刃を生み出す事によって攻撃するという力を生み出している。それは、最早魔王や大魔王に匹敵する程の力であり、賢者となったサラでさえも届かぬ高みであった。

 

【年齢】:7,8歳

一行の誰もが成長を遂げて行く中、彼女の身体だけは変化がない。出会った頃の少女のままである。だが、一行の中で最も成長を遂げているのは、実は彼女なのかもしれない。彼女の心は大きく成長し、乏しかった感情は豊かになっている。よく笑い、よく泣き、不満があれば膨れ、仲間が傷つけば怒る。それは本来の人としての成長なのだろう。誰に対しても関心を持っていなかった彼女は、身近なカミュ達三人に興味を抱き、共に歩く世界に好奇心を膨らませて来た。彼女の前に広がる景色は果てしなく、これから彼女が歩む道は果てしなく長い。その一歩を彼女は踏み出したばかりであった。

 

【装備】

頭):不思議な帽子

ゾーマ城で遭遇したバルログという魔族が落とした革袋に納められていた帽子。

帽子の頭頂部へ向かって幾つもの瞳のような装飾が施されている不気味な様相をしてはいるが、それを装備した者の呪文行使時の魔法力を軽減させるという付加効力を持つ。

不気味な姿をしているその帽子を見たカミュは、破壊された『とんがり帽子』に装着していた、アンの花冠を付け、害のない事を確認していた。

『とんがり帽子』から移った花冠は、メルエの幸せを願うように、瑞々しく咲き誇っている。

 

胴):天使のローブ

エルフの女王へ『命の石』の欠片を手渡す為に訪れた隠れ里にて購入した物。

変化の杖の力によって、エルフへと姿を変えたメルエの将来に希望を見出したエルフの店主が購入を勧めた物である。

元々、エルフの母達が自分の娘の未来を案じて、一本一本想いを込めて編み込んで行ったローブが起源となっている。母達の強い想いが、そのローブを形成する糸に宿り、それを纏った者を理不尽な死から遠ざける効果を持つと云われていた。

だが、その効果を最も必要とした時、このローブは彼女の身を護る事は出来なかった。それを誰よりも悔やんでいるのは、もしかするとこの天使のローブ自身なのかもしれない。

  :マジカルスカート

滅びし村テドンで購入した物。

魔法の法衣の製作者と同じ職人によって織られたスカート。

特別な術式によって、装備者の魔力を多少上昇させる効果を持つ。

サラの装備する『魔法の法衣』同様、メルエの母親が編んだ物である可能性が高い。常に彼女の魔法力を支え、その身を守る姿は、母親そのものなのかもしれない。

 

盾):魔法の盾

何かを買って欲しいとねだるメルエにカミュが買って与えたもの。持ち主によって、その形状を変える盾。また、抗魔力にも優れ、魔法による攻撃からの防御力も高い。

既に何度もメルエの身を守る為に立ち塞がっており、魔物等の攻撃を受ける際にも、その形状を変化させる事も解っている。

 

武器):雷の杖

彼女の成長を見守って来た魔道士の杖の破損により、新たに彼女の手に落ちた杖。禍々しい程の外見とは異なり、その杖の先にあるオブジェは、持ち主であるメルエの心の門を護る門番の様に気高く、輝きに満ちている。魔道士の杖と同様、その内に何らかの付加価値を備えており、主を護るその時に、そのオブジェの嘴からベギラマと同様の灼熱の炎を吐き出した。主と定めた者を護るような意志を持つその杖が、何故スーの村にあったのか、それは、可能性の話ではあるが、メルエの曽祖父に当たる賢者が残した遺産なのかもしれない。

   :毒針

何度もメルエの身を護ってくれたトルドからの贈り物。

ただ、最近は、メルエが直接的に魔物から攻撃を受ける機会はなく、それを使用する事もない。

それは、カミュやリーシャ、そしてサラといった絶対的な保護者達の働きが大きいのだろう。

 

所持道具:祈りの指輪

精霊ルビスの加護を持つ指輪。

イシス国女王から下賜されたその指輪は、彼女との約束と共にメルエの指に嵌められている。『必ず元気な姿を見せて欲しい』というイシス国女王の願いは、メルエの胸の中で絶対の効力を持つ約束なのだ。その為に、この幼い少女は他の三人を護らなければならない。護りたいと願い、護ろうと決意する。そんな少女の願いと想いだからこそ、この指輪はそれに応えようとするのだろう。

    :幸せの靴

はぐれメタルというスライム系の亜種中の亜種が所持していた靴。宝玉が嵌め込められた少し変わった形状をした靴であり、その大きさも子供しか履く事の出来ない程しかない。その特殊効果があるのかどうかは未だに定かではないが、その靴を履いたメルエが幸せそうな笑みを浮かべてるのを見たリーシャが名付けた。末永くメルエの笑みを護って欲しいという望みもあったのだろう。

 

所持魔法): 【魔道書魔法】

       メラ

       ヒャド

       スカラ

       スクルト

       ルーラ

       リレミト

       ギラ

       イオ  

       ベギラマ

       メラミ

       ヒャダルコ

       バイキルト

       イオラ

       メダパニ

       ボミオス

 

      【悟りの書魔法】

       ヒャダイン

       トラマナ

       マホトラ

       インパス

       マホカンタ

       ベギラゴン

       ラナルータ

       マヒャド

       シャナク

       イオナズン

       ドラゴラム(書に記載されているが、彼女以外行使不可)

       アバカム

 

      【それ以外の呪文】

       メラゾーマ

 

 

 




これでこの章も終了です。
次話から最終章となります。


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第二十三章
ゾーマ城⑤


 

 

 

 リムルダールの西の端には、未だに輝く虹の橋が架かっていた。不確かな物ではあったが、消えてなくなっている可能性もあった為に、カミュ達はその橋を再び視界に納めた瞬間、安堵の溜息を吐き出す事になる。橋を渡る前に野営を行い、体力などを回復させた後、一行は再び魔の島へと足を踏み入れた。

 気のせいなのか、本当に時間がないのか、魔の島全体に漂う瘴気が濃くなっているように感じる。復活を果たした大魔王ゾーマが、本来の力を取り戻したのかもしれない。目の前の視界さえも歪む瘴気をトラマナという魔法で防ぎながら、一行は大魔王城の前まで辿り着いた。

 

「ここからは後戻りはしない」

 

「そうだな。流石に、再びリムルダールに戻るような時間は残されていないだろう」

 

 城門の前に立ったカミュは、一度振り返り、宣言を行う。それは不退転の決意の表れであり、この門を一度潜れば、大魔王を倒さない限りは外に出て来れないという覚悟の表れであった。

 『倒さなければ出て来ない』のではなく、『倒さなくては出て来れない』のだ。それは、大魔王の討伐が成功しなかった場合、この場に居る四人全員が死んでいるという認識であり、誰かが欠ける可能性などなく、誰か一人でも欠ければ、即座に全滅となるという認識でもあった。

 真剣な表情のリーシャの横ではサラがしっかりと頷きを返し、メルエもまた、既に杖を握った状態で大きく頷きを返す。そんな三人の顔を見たカミュは、一度表情を僅かに緩めた。

 だが、そんな一行の覚悟を待っていたかのように突然開き始めた城門を見て、一気に緊張感が増して行く。重苦しい音を響かせ、ゆっくりと開かれる扉は、まるで意志を持っているかのような気味の悪さを持っていた。

 

「……最早、私達を帰すつもりもないのだな」

 

 全員が城の中に入ると、巨大な城門は開く時の同じ速度で閉まり、寂しい金属音を響かせて鍵が掛けられる。扉が閉じられると同時に一気に燃え上がった燭台の炎が、通路の隅々までを照らし、カミュ達を歓迎しているかのように、魔物達が姿を現した。

 一斉に武器を構えた一行は、前方に見える魔物達の数を数える事を止め、勝負を一気に決める為に戦闘態勢に入る。目の前には獅子の頭を持つマントゴーアを先頭に、後方には巨大な大魔人まで控えていた。

 とてもではないが、魔法力の温存などと考えていられる余裕はない。むしろ全力で挑まなければ、立ち向かう事さえも難しいだろう。

 

「力を示せ」

 

 先頭を切って襲い掛かって来たマントゴーアに向けて、カミュが王者の剣を掲げる。それと同時に、刃となった真空がマントゴーアに向かって十字を切り、その身体を切り刻んで行った。

 しかし、一体の犠牲で怯むような魔物達ではない。横合いから迫るマントゴーアの牙を盾で防いだリーシャは、前方から振り下ろされる大魔人の拳に合わせて魔神の斧を振り抜いた。金属と石がぶつかり合う甲高い音を響かせ、後方へと弾き飛ばされたリーシャは、背中から城門に激突し、一瞬ではあるが意識を飛ばす。

 そんなリーシャを庇って前に出たサラが、追い討ちを掛けるように飛び掛って来るマントゴーアに向かって手を翳した。

 

「バギクロス」

 

 カミュの持つ王者の剣が持つ付加効果は、バギクロスに等しい物である。だが、本来の使い手である者が己の魔法力を使用して生み出す物と比べれば、その差は歴然であった。更に言えば、賢者サラは、現状では世界で唯一のバギクロスを行使出来る人間なのだ。

 メルエが氷結系に特化した魔法使いであるとすれば、サラは僧侶系の呪文に特化した賢者である。常に悩み、苦しんで来た彼女は、やはり僧侶系の力を強めて行ったのだ。

 十字に切られた真空の刃は、飛び掛って来たマントゴーアを切り刻み、サラに向かって伸ばしていた前足を切り飛ばす。前足を失ったマントゴーアは立ち上がる事が出来ず、サラが抜いたゾンビキラーを頭頂部から差し込まれた。

 

「…………イオラ…………」

 

 カミュが一体の大魔人と戦闘を繰り広げる中、もう一体の大魔人が彼に向かって拳を振り上げる。しかし、それを許す程、メルエは甘い少女ではない。振り抜かれた杖は、一瞬で周囲の大気を圧縮し、溜めた力を一気に解放する。

 そしてこの少女こそ、呪文使いの常識全てを破壊して来た者であった。解放された大気は、周囲を巻き込むように爆発を生むのではなく、大魔人の腹部にのみ爆発の力を解放し、その巨体を奥へと弾き飛ばしたのだ。

 まるで、魔法力で配管を造り上げたかのように、爆発を一方向にだけ向けて送り込んだ事で、弾き飛ばされた大魔人は、奥の壁を突き破って吹き飛んで行った。

 

「これで、遠回りする必要もなくなったな」

 

 意識を取り戻したリーシャの援護を受けて、一体の大魔人の首を落としたカミュは、土埃が舞う方向に視線を向ける。大魔人の巨体によって崩された壁は、初回の探索時に下への階段を見つけた玉座の間のような場所へと続く道を生み出していた。

 残るは、奥へ消えて行った大魔人一体である。今のカミュ達四人であれば、全力を出す必要もない相手であった。

 土煙の中から立ち上がった大魔人目掛けてカミュが駆け出す。何故かリーシャはその場から動かず、大魔人に向かって剣を振るうカミュの背中を見つめていた。

 

「カミュの力量は、既に私を追い抜いているのかもしれないな……」

 

 大魔人が振るう拳を避けながら振るう剣は、正確無比に急所を斬り裂いて行く。石像に急所があるのかという問題もあるが、見る見る大魔人の動きが鈍くなって来ているのを見る限り、彼が振るう剣は、確実に大魔人を弱らせているのだろう。

 後方からその一連の攻撃を見つめていたリーシャは、誰に語り掛ける訳でもない独り言を呟く。その呟きを聞いたサラが、傍へと近付いて行った。

 

「それ程までですか?」

 

「ん? ああ、王者の剣という素晴らしい武器の威力もあるだろうが、同じ武器を手に取って対峙しても、私はもうカミュには勝てないだろうな」

 

 毎日のように繰り広げられるカミュとリーシャの模擬戦は、後方支援組のサラとメルエにとって恒例行事に近い物である。

 アリアハンを出た当初は、カミュがリーシャから一本を取れる事は皆無に等しかった。魔法という神秘を行使しない限り、カミュはリーシャに及ばなかったのだ。

 だが、その旅路の中で徐々にその勝敗の差は縮まり、最近では五分に近い物となっている。そして、この最終局面に来て、遂にカミュはリーシャを追い抜いたのだ。

 父であるオルテガを越え、ある意味では師と成り得るリーシャを越えた。彼もまた、この場所まで来て『勇者』として完成したのだろう。

 

「その割には、とても嬉しそうですよ?」

 

 最後の一撃を振り下ろし、大魔人を切り伏せたカミュの背中を見ていたサラは、それを見つめるリーシャの頬に笑みが浮かんでいる事を見て、自然と笑みを浮かべる。

 リーシャもまた、カミュと同じくらい負けず嫌いであった。模擬戦でカミュに圧された時など、殺意を込めた一撃を振るってしまう程である。

 そんなリーシャが、悔しそうに顔を歪めるのではなく、嬉しそうに微笑む事が、サラは無性に可笑しかった。

 

「そうだな……。確かに悔しい気持ちも寂しい気持ちもありはするが、男は女性を護らなければならないからな。な、メルエ?」

 

「…………ん…………」

 

 ゾーマ城の床に伝わる振動が、大魔人が戦闘不能に陥った事を示している。崩れ落ちた石像を越えて戻って来るカミュの姿を見たメルエは、リーシャの問いかけに満面の笑みを浮かべて頷きを返した。

 リーシャを母親のように慕っていたとしても、サラを姉のように慕っていたとしても、最後の最後でこの少女が頼りにするのは、間違いなくカミュという青年である。彼が世界を救う『勇者』であろうと、そうでなかろうと、メルエにとって彼こそが絶対的な保護者であり、どんな英雄も古の勇者も敵わない、彼女だけの『勇者』なのだ。

 

「ふふふ。リーシャさんの事を護れる男性は、カミュ様しかいないのかもしれませんね」

 

「な、何だそれは!?」

 

 リーシャとて女性である。男に負けぬようにと腕を磨いて来た過去はあれども、男性に護られたいという欲望はあるのかもしれない。だが、既に人類の枠を超え、魔物や魔族さえも超越してしまったリーシャという女性を護れる程の力量を有している者は、人類という種族の中にカミュ以外はいないだろう。

 いつも自分達の前に絶対的な防壁となって立っていた二人が、互いに護り合いながら戦って来た事をサラは知っている。勿論、それは恋愛感情などという陳腐な物でない事も知っていた。だが、この二人が互いに互いを大事に想っている事だけは確かであり、それをサラもメルエも知っているのだ。

 

「行くぞ」

 

 女性三人の会話の内容を知らないカミュは、剣を鞘へと納めた後で、そのまま玉座の間に続く道を歩き出す。『くすくす』と笑うサラとメルエの頭に少し強めの拳骨を落としたリーシャは、憮然とした表情でその後を続いて歩き出した。

 痛む頭を押さえながらも、サラとメルエはお互いの顔を見合わせて微笑み合う。大魔王ゾーマという最大の敵を間近に控えた状況の中、このようなやり取りが出来るというのは、彼女達の中に緊張感のある余裕がある証拠なのかもしれない。

 互いに互いを信じ合い、『この者達と共にならば』という確かな信頼がある。それが何よりも強い絆となり、何よりも強い自信となっているのだろう。

 

「トラマナ」

 

 玉座の間に入る直前に、サラが呪文を唱える。一度目の探索時よりも明らかに濃くなっている瘴気が、玉座の間に充満していたのだ。

 緻密な魔法力によって護られた空間内で、玉座の後方にある隠し階段から再びゾーマ城中枢へと降りて行く。先程遭遇したマントゴーアや大魔人のように、大量の魔物達が一行を待ち構えている可能性は高く、全員が武器を構えながらゆっくりと階段を降りて行った。

 

「このまま降りるぞ」

 

「わかった」

 

 玉座の間から降りてすぐに、再び下へ続く坂道が見える。その狭い空間内に魔物がいなかった事に息を一度吐き出したカミュは、剣を握り直して坂道を下り始めた。

 この先は、不思議な模様が刻まれた床のあるフロアになるだろう。脆くなった床はいつ抜けても可笑しくはない状態であり、その模様一つ一つを解読しながら進むしかない以上、時間が掛かる。だが、時間に余裕がない彼らにとっては、そのフロアでの魔物との遭遇は出来るだけ避けて通りたい物だった。

 

「サラ、頼むぞ」

 

 坂道を下った先にある燭台に火を灯し、周囲の明かりをある程度得た段階でリーシャがサラを前に出す。頷きを返したサラは、持っている『たいまつ』を床へ翳し、そこに書かれている模様を読み取って行った。

 既に、先にある三つの通路の内、真ん中の通路に先へ続く階段がある事を知っている彼等は、その方向へ進むべき床の模様を読み取って前へ前へと進んで行く。未だに自分の足で動く床に下りる事が出来ないのを不満に思っているメルエの頬が膨れているが、その事に気を回せない程、状況は緊迫化を辿っていた。

 

「カミュ、ここからは再び未知の場所だ」

 

「ああ、だが、最深部は近い筈だ」

 

 動く床のフロアを越え、下の階層に入った彼等は、数多くの魔物達を葬りながら更に下の階層へと降りて行く。そして、オルテガと竜種が戦っていた場所へと続く大きな橋の前に辿り着いた時、リーシャの纏う雰囲気が一変した。

 ここまでの道は既に通って来た道であり、遭遇する魔物も既知の物達ばかりである。だが、この先は未知の場所であり、オルテガが戦っていた巨竜のような魔物が多数生息しているのだとすれば、かなり難解な道となる事は明らかであった。

 だが、ここまで下って来た坂道や階段を考えると、最早、地下四階部分にまで達している。永遠に続く階層などないと考えれば、最深部は近いと考えても不思議ではなかった。

 

「メルエ、いつでも詠唱が出来るようにしておいて下さいね」

 

「…………ん…………」

 

 長い橋を渡りながら、サラは自分の手を取る少女へと指示を出す。その指示に大きく頷いたメルエは、自分の背丈よりも大きな杖を握り締め、厳しい瞳で周囲を警戒し始めた。

 初回の探索時に比べると、道が解っていた分、彼等の心に余裕がある。心の余裕は戦闘の視野を広げ、魔法力の温存をしながらも進んで来る事が出来た。

 だが、ここからはその余裕も徐々に消えて行く。大魔王ゾーマとの最終決戦が近付くにつれ、全員の身体を縛り付けるような緊張感が周囲を覆っていた。身体は硬くなり、必要以上に流れ落ちる汗は冷たい。その影が近付くごとに、その存在の大きさを知り、恐怖が心を襲って来る。それは如何に勇者一行とはいえ、一個の生物である以上、仕方のない事なのだろう。

 

「カミュ……」

 

「構えろ」

 

 橋の中腹を越えた頃、カミュ達が持つ『たいまつ』の明かりに何かの影が映り込む。リーシャの問いかけを待たずに剣を抜いた彼を見て、サラやメルエも臨戦態勢に入って行った。

 心許ない明かりによって映し出された影は、竜種のような大きさはない。むしろ壁に映る影という事を差し引けば、かなり小型の魔物である事が解った。更に言えば、その影は人影と言っても過言ではない物であり、それが魔族の物である事が推測出来る。

 バルログのような魔族よりも小型の影を見たカミュとリーシャは、互いに頷き合ってから一気に駆け出した。

 

「危ない!」

 

 しかし、カミュ達が駆け出した瞬間、敵影から魔法力を感じたサラが大きな叫び声を上げる。それと同時にサラが腕を振るい、メルエが杖を振るった。

 カミュとリーシャを取り巻くように、後方支援組二人の魔法力が展開される。光り輝く壁となった魔法力が前衛二人を包み込んだ時、前方に見える人影の一つが動き出した。

 一瞬で圧縮される空気、そして、それと共に光り輝く橋。その光によって前方の魔族の姿が露になった瞬間、音と光が消え失せる。

 僅かな間の後で響く凄まじいまでの爆発音が弾けた。それは、カミュ達が駆けていた大きく長い橋を巻き込んだ爆発であり、もし、彼等の身を魔法力による光の壁が護っていなければ、彼等の身体は木っ端微塵に弾け飛んだだろう。

 

「メルエ、走りますよ」

 

「…………ん…………」

 

 光の壁によって弾かれた最上位の爆発呪文であるが、正確に術者へと返せる訳ではない。メラミのような火球呪文であれば、その火球を弾き返し、術者へと向かって飛ばす事も可能であろう。だが、全体を巻き込むような爆発呪文となれば、カミュ達の身を護る事は出来ても、特定の物を攻撃する事は不可能であるのだ。

 そして、弾き返された爆発呪文は何処で爆発するのかとなれば、それは彼等が渡っていた橋である。強固に造られた橋であっても、最上位の爆発呪文である『イオナズン』の威力に耐えられる物ではない。爆発の余波によって亀裂の入り始めた橋を見たサラは、メルエの手を取って走り出した。

 

「間に合わない……」

 

 しかし、どれ程に強力な呪文を使おうと、魔法力を体力に換える事で大人と共に旅が出来るといえども、メルエの身体自体は幼子のそれである。短い足では大人のような回転は出来ず、必死に駆けても橋の崩壊を超える速度を出す事が出来なかった。

 メルエの手を引くサラの目の前で、橋を模る石が崩れ始め、濁流の中へと消え始める。今は幾つもの支えによって保たれている橋ではあるが、一部の決壊が全ての崩壊へと繋がる事は明白であった。

 崩壊が始まり、濁流へと落ちて行く巨大な石の塊によって生み出された飛沫によって視界は覆われている。土埃と水飛沫によって奪われた視界では、辿り着く為の目的地が見えない。目的地が見えない以上、一か八かのルーラ行使という方法も危険度が高かった。

 

「…………カミュ…………」

 

 それでも諦める事のないサラが必死に駆ける中、助けを求めるように呟かれたメルエの願いは、この世に光を齎す勇者へと届いて行く。

 崩壊する橋を越える水飛沫の中から、青白く光り輝く何かがサラとメルエの許へと飛び込んで来たのだ。まるで、そこに描かれる大きな神鳥が空を舞うように、その輝きは水飛沫を突き抜け、サラとメルエの前に着地した。

 

「そっちは任せた」

 

「わかった」

 

 着地した勇者は、メルエを小脇に抱え上げるように抱くと、再び水飛沫に向かって飛び込んで行く。飛び込む直前に発せられた言葉には、カミュの姿が水飛沫の中へ消えたと同時に飛び出て来た女性戦士が応えた。

 攫われるようにメルエを奪われ、呆然と水飛沫を見ていたサラは、既に目の前に来ていたリーシャの顔を見て頬を緩める。しかし、そんなサラの感情を無視するようにリーシャは彼女を肩へと担ぎ上げ、そのまま水飛沫の中へと消えて行った。

 

「ギャァァァ」

 

 飛ぶように水飛沫の中を越え、サラが対岸に辿り着いた時には、既にカミュとメルエは戦闘に入っていた。

 一体の魔族は、カミュによって斬り伏せられ、残る二体の同系統の魔族に対しては、メルエが呪文を行使する事によって牽制している。しかし、如何にメルエが卓越した魔法使いであっても、魔族二体との魔法合戦に圧勝出来る程の力はない。しかも、出来る限り魔法力を温存しようという想いが彼女にある為、中級の呪文での対抗になっている事もあって、サラの目には徐々にメルエが圧されているようにさえ感じる物であった。

 メルエが相手をしている二体の魔族の姿は、バラモス城で遭遇したエビルマージに酷似した姿をしており、全身を深い紺のローブで包まれている。両手を広げるようにして呪文を唱え、それをメルエがマホカンタで弾き返してはいるが、メルエが攻撃呪文を行使する隙を与えていなかった。

 

【アークマージ】

古代からの人間が確認した魔族の中で最上位に入る呪文使いである。『主席魔法使い』とも『最上位魔術師』とも伝えられる魔族であった。

その名に相応しく、最上位の魔族しか行使出来ない破壊呪文を得意とし、それを使いこなす。その魔法に対する腕は確かであり、大魔王の信頼も厚いのだろう。大魔王城の最奥の部分を任される程の力量を持ち、同僚の力量を持つ数少ない者達に与えられた名だと云われていた。

 

「マホトーン」

 

 メルエの援護をする為に立ち上がったサラは、右手を掲げてアークマージに向かった右手を掲げる。そして、初級に近い呪文とはいえ、呪文使いに対しては最も有効な呪文を行使した。

 自分の魔法力を強制的に捻じ込む事で他者の魔法力の流れを狂わせる呪文。だが、力量が拮抗している者に対してや、力量が上の者に対しては、その効果が著しく低下する呪文でもある。不意を付いたのならばその限りではないが、戦闘状態という流れの中での行使では、アークマージという魔族最高位の呪文使いに対して効果を発揮する可能性は薄かった。

 案の定、サラのマホトーンの効果は顕現されず、アークマージは再び最上位の爆発呪文を唱え始める。全てを破壊するとまで云われる爆発呪文の余波を受けて、カミュやリーシャも二体のアークマージへは近づけなかった。

 

「ブファァァァ」

 

 爆風が収まり、周囲の崩れた壁や天井が落ちて来る中、一体のアークマージがローブに隠れた口を大きく開け、何かを吐き出す。大気の爆発によって高温に曝された城内を冷やすような冷たい空気が流れ、その冷気に触れた手が悴んで行った。

 呪文使いであり、魔法という神秘に重きを置いているとはいえ、アークマージは魔族である。己の体内から冷たい息を吐き出す事によって、敵の行動を縛り、動けなくなったそれらを最上位の爆発呪文で消し飛ばすというのが、彼等の必勝パターンなのかもしれない。

 

「このままでは、魔法力を減らすだけですね」

 

 爆発を防ぐマホカンタも、中級の呪文とはいえども何度も行使していれば魔法力は目減りする一方である。しかも、爆発呪文を連発するアークマージの魔法力がどれ程の量なのかを測る術がない為、カミュやリーシャが迂闊に近づく事も出来ない。それでは、一向に戦闘が終了する事はないのだ。

 少し考える素振りを見せたサラであるが、何かを振り切るように顔を上げ、手を前方に掲げてアークマージを睨みつける。そして、傍にいるメルエにさえも聞こえない呟きを口にした。

 

「ザラキ」

 

 それは死の呪文。

 どれ程に強固な身体を持つ者であろうと、どれ程に強固な防具で身を固める者であろうとも、魂ごと死へと誘う禁忌の呪文である。死こそが幸福であり、死こそが最善と感じる程に深い闇の奥へと誘い、その魂を肉体から引き剥がす物であった。

 サラはこの呪文を行使する事を昔から躊躇っていた。そして、マイラの森でメルエの死体を見た時からは、一度も行使する事はなかったのだ。

 自分が行使した事によって、例え魔物であろうとも、魂を永遠に彷徨わせる事を良しとする事が出来ない。それこそが賢者サラの出した答えだった。

 それでも、この状況を打破する為には、魔族を一気に滅するしか方法がない。故にこそ、サラは自分の中へと封印した禁忌を紐解いたのであった。

 

「……一体だけですか」

 

「…………マホカンタ…………」

 

 サラが唱えた呪文による死への誘いに応じたのは、一体のアークマージのみとなる。崩れるように前のめりに倒れたアークマージを見たサラは、若干の落胆を滲ませた。

 だが、その余裕は残されておらず、残る一体のアークマージが奇妙な形をした杖を取り出した事で、メルエが即座に呪文を唱える。メルエとサラの身体を魔法力が覆い、光の壁となって顕現された。

 本来であれば、メルエの判断は正しい。強大な威力を誇る攻撃呪文を行使する呪文使いの動きを察して、それを弾き返す壁を生み出したその行動は迅速であり、仲間を護るという事に掛けては、最善の策であった。

 攻撃呪文に対してという点に限ってはであるが。

 

「……ザオリク?」

 

 杖を握ったアークマージがその杖に魔法力を流し、振るった時、その魔法力はサラやメルエの場所にではなく、死の呪文を受け入れたアークマージの身体に注がれる。暗い城内を照らし出すような神聖な輝きを放ち、その光に包まれたアークマージの身体に切り離された魂が戻って行った。

 その神秘的な光景を、この場に居るメルエ以外の者は目にした事がある。それはマイラの村でサラという賢者が命を賭して起こした奇跡。ザオリクよりも低級でありながらも、切り離された魂を呼び戻すという奇跡を生み出すザオラルを何度も行使し、魔法力が枯渇に近い状態になりながらも必死に紡いだ術式が、彼等の目の前で顕現していた。

 あの杖が特殊な物なのか、それともアークマージ自身が奇跡を生み出す呪文を修得しているのかは解らない。だが、立ち上がったアークマージを見る限り、中途半端に復活を果たした腐乱死体のような状態でない事だけは確かであった。

 

「残念だったな」

 

 だが、そんな驚愕の神秘を目の当たりにして行動を停止してしまったのは、サラ一人である。今の今まで、立て続けに唱えられていた爆発呪文によって動く事が出来なかった前衛二人は、そんな小さな隙を見逃す程、甘くはなかった。

 復活を果たし、再びサラ達へ呪文を行使しようと手を広げたアークマージの首がローブごと床へと落ちて行く。そして、同胞の最後を見届ける事も出来ず、杖を持ったアークマージもまた、肩口から入った斧によって身体を両断された。

 人間とは異なる色の血液が床を満たし、数度の痙攣の後で動かなくなったアークマージの死体を確認したカミュとリーシャは、付着した液を振り払い、武器を納める。

 

「まさか、ザオリクまで行使出来る魔族がいるなんて……」

 

「魔法というのは、元来『魔』が生み出す神秘と考えられて来た筈だ。全ての呪文を生み出した者が魔族であるという事はないだろうが、人の間に伝わる物が魔に伝わっていない事はないだろうな」

 

 驚愕から未だに戻る事の出来ないサラは、覚束ない足取りでカミュ達へと近付き、そんな彼女を心配そうに見上げるメルエの姿に、カミュが溜息を吐き出しながら答える。

 確かに、魔法という物の始まりは、人の間で恐怖の象徴であった。人間という種族の中には魔法力が宿っている者がいても、それを神秘として顕現出来る者は存在していなかっただろう。『人』の守護という役目を受けたエルフによって、作物の作り方や狩りの仕方、そして魔法という物を与えられているのだ。

 故に、魔法という神秘に関して云えば、エルフや魔族の方が先駆者であり、人が行使出来ない物をエルフや魔族が行使出来るという可能性は高く、それが当然の考えである。それを知っていてもサラは全てを受け入れる事が出来なかった。

 それは、切り離された魂を呼び戻すという、ある意味神聖な物にも映る神秘を『魔』という冠の付く種族が持っている事への驚きがあったのだろう。

 

「魔族といえども、やはり仲間を死から救いたいと願う者達もいるのだろうな。それはサラが一番解っている事だろう?」

 

「そうですね……そうでした」

 

 悩む仕草をするサラを見たリーシャは微笑みを浮かべる。いつでも悩むくせに、既に答えなど得ている彼女を立ち直らせる仕事も、終わりが近い事をリーシャは悟っていた。

 魔物や魔族、そしてエルフなどという人外の種族に対して、既にサラは偏見を捨てている。ただ、『悟りの書』という書物に記載された呪文という物が、古の賢者達によって編纂された物と伝えられている為に、その呪文を唱える魔族がいる事に驚いただけであった。

 

「遥か昔、まだ魔族もエルフも人間も共にあった時代に、この『悟りの書』は生まれたのかもしれませんね。多くの種族の大いなる知識を詰め込んだ書物が、時の賢者達によって受け継がれ、今にまで繋がっているのかもしれません」

 

「そうだな」

 

 サラとリーシャの会話が続く中、カミュがその場を離れ、それを追って行ったメルエがある場所に屈み込む。

 この少女が屈み込む場所には必ず何かがある。それは花であったり、虫であったりするのだが、時には見た事のない物である事があった。そして、それは今回も例外ではなく、屈み込んだ彼女は、それに手を伸ばす訳でもなく、不思議そうに床にあるそれを不思議そうに見つめている。傍に近付いて来たカミュへ顔を上げた彼女は、少し首を傾げて、疑問を口にした。

 

「…………つえ…………?」

 

「杖だな」

 

 拾い上げたカミュと共に立ち上がったメルエは、その奇妙な形の杖を見上げる。アークマージが手にしていた姿を見る限り、魔法使いや僧侶が使用する杖と同じ機能を持っている事は明らかであった。

 真っ直ぐに伸びた杖の先には、青く輝く宝玉が嵌め込められており、その宝玉を取り巻く穏やかな波のような彫刻が施されている。穏やかな波が宝玉を護っているようにも見え、その神秘的な姿は、この武器もまた、神代から続く希少な物である事を物語っていた。

 

「この杖がザオリクの力を持っているのでしょうか?」

 

「私は、そんなにあの呪文が容易な物だとは思えないのだがな。あの神秘を見た立場から言わせてもらえるのであれば、あの呪文を封じ込める事など不可能だと思うぞ」

 

 カミュが握った一本の杖に気付いたサラとリーシャが近付き、その杖を隈なく見つめる。先程のアークマージがザオリクを行使した可能性の方が高い事はサラも知っているが、もし、ザオリクという呪文の効果を有する杖が存在するのであれば、この世界に彷徨う魂が少なくなると考えると、そうであって欲しいという願いが口に出てしまったのだ。

 しかし、サラと同様にその可能性を否定的に見ているリーシャの言葉を聞いて、彼女もまた頷きを返す。

 アークマージという魔族でも頂点に立つ呪文使いが、ザオリクという呪文を行使する為に媒体として使用した杖である以上、その秘められた能力だけでなく、杖自体にも力を持っている事は確かであろう。そう感じたサラは、その杖をどうするのかという問いかけの為にカミュへと視線を動かした。

 

「これは、アンタが持っていた方が良いだろうな」

 

「…………サラ……ずるい…………」

 

 サラの方へと杖を差し出したカミュを見上げていたメルエは、いつものように頬を膨らませてサラを睨みつける。ここ最近は、『幸せの靴』や『不思議な帽子』と立て続けに自分の物となっているだけに、この少女の我儘に拍車が掛かってしまったのだろう。

 サラとしては、ここ最近では魔物相手にゾンビキラーを振るう事が少なくなっているだけに、呪文を行使する為の強力な媒体があればと考えていた。魔道士の杖を買い与えられたメルエの時のように、サラが魔法力を暴走させる事はないが、あの頃よりも強力な呪文を行使している事は確かであり、その影響が身体にないとは言い切れなかった。

 

「ふふふ。では、この杖と雷の杖を交換しましょう? 杖が二つあっても仕方ないでしょう?」

 

「…………むぅ……だめ…………」

 

 不満そうに頬を膨らませていたメルエであったが、サラの提案を聞いて雷の杖を握り締めて顔を逸らす。最早、メルエにとって雷の杖という武器は同士なのだ。

 スーの村という辺鄙な場所に封印されていたこの杖を手にしてから既に三年以上の月日が流れている。初代の同士である魔道士の杖との付き合いよりも長くなってしまった同士と別れる事を、彼女は良しとしなかった。

 その答えを知っていたサラは、柔らかな笑みを浮かべる。カミュから受け取った杖を右手に握り、その全貌を見るように『たいまつ』の明かりへと近づけた。

 揺れる波のような輝きを放つその杖は、サラの手に渡った事を喜ぶようにキラキラと瞬く。波の輝きは光の壁となってサラを包み込んで行った。

 

「…………マホカンタ…………?」

 

「そのようですね。この杖には、持ち主にマホカンタの効力を発揮する力が宿っているようです」

 

 不満そうな表情を浮かべていたメルエの顔が一変する。それが、先程まで自分が何度も行使して来た呪文と同じ効果を発揮していたからだ。

 今の状況を見る限り、サラが手にした杖は持ち主にしか効果を発揮しないのかもしれない。その杖を振るっても、サラが持っている以上、カミュやリーシャにマホカンタと同様の光の壁を生み出す事は出来ないのだろう。

 だが、一人分の壁を作る魔法力は削減される。それは、この先の戦いでかなり有利な物になる事は明白であった。

 

「……しかし、何か物静かな杖だな」

 

「そうですね。この彫刻にある小波のように静かな杖です」

 

 マホカンタという防御呪文の効果を持っている為か、カミュの持っている王者の剣や、以前の雷神の剣、稲妻の剣のような華々しさがある訳ではない。マイラの村にあった『賢者の杖』のような神秘的な輝きを放つ訳でもない。何処か物静かな、そして落ち着きのある輝きを放つ杖を見て、これ以上にサラに合う杖はないだろうとリーシャは思っていた。

 それはサラも同様であったのか、とても優しい笑みを浮かべて、その杖を撫でる。寄せては返す波のように静かで落ち着く彫刻が施されたその杖は、彼女が最後に取得する武器となった。

 

【さざなみの杖】

自然に吹く、優しい風に反応する波のように静かな杖。その杖を象徴するような青く輝く宝玉を護る彫刻は、細かな波を模して施されていた。

所有者である呪文使いを、敵対する呪文使いから護るような光の壁を生み出す効果を持っている。その光の壁も、生命の起源である海のように優しく、力強い物であった。

神代から繋がる物であろうそれは、賢者によって発掘され、その賢者が名付けた名によって、後世に伝えられて行く事になる。

 

「……誘われているのか?」

 

「大魔王ゾーマにとっては、私達など遊びの種にしかならないというのでしょうか?」

 

 アークマージとの戦いを終え、オルテガと竜種との戦った場所を越えた時、真っ直ぐに伸びた通路に掛けられた左右の燭台に一斉に炎が灯った。

 視界が一気に広がる眩しさを感じるよりも、自分達の行動が全て筒抜けになっている事に誰もが驚く。それと同時に、この城の主に対しての恐怖が高まって行った。

 まるでカミュ達を誘うように灯された炎は、大魔王の自信の表れであり、ここまでのカミュ達の戦いを知っていて尚、彼等など敵にもならないと考えている証拠でもある。それは、数多くの試練を越えて来たカミュ達の自信を砕き、胸の奥深くへ封印していた『恐怖』という感情を呼び覚ませる物であった。

 

「だが、後戻りなど出来ない」

 

「そうだな。私達は前へ進むしかない。だが、私は玉砕するつもりもないぞ。行くからには、必ず勝利を捥ぎ取って見せるさ」

 

 呼び覚まされた恐怖を押さえ込み、再び勇気という物を心に植えつけるのは、いつでも彼女達の前に立つ青年である。彼の言葉は決して優しい物ではない。それでも彼の瞳が、そして彼が纏う雰囲気そのものが彼女達の心に勇気を植え付けて行くのだった。

 そして、その勇気を大きくするのは、いつでもこの年長の女性戦士である。彼女の浮かべる笑みは虚勢ではない。嘘偽りのない想いの表れであり、揺るぐ事のない信頼の証。そして、その信頼は、彼女の周りにいる全員に向けられていた。

 呼び覚まされた恐怖が消えて行く事を感じながら、サラは前方にいる二人を見つめる。その力強い瞳で常に先頭を歩き続けて来た青年と、とても広く深い懐で、この場にいる全員を包み続けて来た女性。それは、サラやメルエにとって、姉や兄のようでありながら、母や父のような存在であった。

 自分よりも年下の青年を父のように見ている自分を不思議に思いながらも、それが当然のような可笑しさが湧き、サラもまた笑みを作る。そして、そんな和やかな空気の中で最年少の少女が浮かべる物といえば、それは笑顔以外に有り得なかった。

 

「カミュ様、明かりはありますが、罠の可能性もあります」

 

「罠であろうが、それを踏み越えて行くだけだ」

 

 真っ直ぐに伸びた通路の左右の壁に一直線に掛けられた燭台の炎によって、その通路の全貌は見えている。右に折れる通路のある突き当りまで魔物の影はないが、何かの罠が仕掛けれている可能性は高かった。

 だが、カミュの言う通り、この通路を歩く以外に道がない以上、どんな罠であろうとも踏み越えて行かなければならない。例え、それが彼等に全滅の危機を齎す程の物であってもだ。

 

「何もないのか……」

 

 しかし、カミュ達の警戒は杞憂に終る。真っ直ぐに伸びた通路には何の仕掛けもなく、魔物の襲撃もなかった。

 突き当りまで達し、右に折れる通路の奥を確認したリーシャは、気が抜けたような声を出す。実際に気を抜いた訳ではないのだろうが、それでもここまでの緊張と警戒が無意味であった事を感じ、僅かに息を吐き出したのだ。

 そんなリーシャの肩を一度叩いたカミュは、再び警戒をしながら通路を進んで行く。右に折れた先の通路に掛けられた燭台にも炎は灯されており、通路の隅々まで明るく照らされていた。

 奥の突き当りでは、再び通路が右へと折れている。そして、通路の丁度真ん中辺りの右手に大きな扉があり、何らかの部屋が見えていた。

 

「カミュ、入ってみるか?」

 

「更に奥へと通路が繋がっている以上、この部屋にゾーマがいるとは思えませんが……」

 

 巨大な門の前に立った一行は、扉に手を掛ける事を躊躇するように立ち止まる。この奥に大魔王ゾーマがいる可能性もあり、やはり最終決戦となれば、相応の覚悟が必要であるからだ。

 だが、サラの考える通り、最奥へと繋がる通路が見えている状態で、途中にある部屋にゾーマが居るとは考え難い。この部屋もまた、一階の玉座の間に居たトロルキングや、オルテガと戦った竜種のような手下がいるのであれば、敢えて扉を開ける必要などないのだ。

 それの確認の為にリーシャやサラはカミュへと視線を送るが、その視線を受けたカミュは、扉をゆっくりと押し開いた。

 

「宝物庫……でしょうか?」

 

 その部屋は、通路とは異なり、燭台に炎は灯っておらず、漆黒の闇に包まれていた。慎重に中へと入ったカミュが『たいまつ』の炎を立てられている燭台へ灯すと、ようやくその全貌が見えて来る。

 サラの発した言葉通り、その部屋には数多くの金塊や宝石などが納められており、中には武具なども転がっていた。所々に薄汚れた宝箱のような物も置かれており、ここが大魔王の宝物庫である可能性を匂わせている。

 宝物に目がない少女は、嬉々として宝箱へインパスを唱えるが、転がる宝箱全てが赤く輝くのを見て、肩を落としていた。

 

「宝箱は全て魔物が擬態した物ですね。近寄らない方が良いでしょう」

 

 インパスという呪文は、術者にとって危険な物がある場合、その宝箱を赤色に染める。剥き出しになっている宝物は別だが、宝箱は全てミミックや人喰い箱と考えても良いだろう。宝箱を開けようとした人間や、警戒をせずに近寄った人間などを襲う魔物であり、裏を返せば、無視すれば何の被害も無い魔物であった。

 そんなサラの言葉にがっかりと肩を落とした少女は、すぐに興味を失い、カミュのマントの中へと入って行く。転がる宝石などに特別な力を感じる事もなかったのか、燭台の炎に輝く数多くの宝石達にも彼女は興味を示していなかった。

 

「あの像の手にあるのは、祈りの指輪ではないか?」

 

「え? 本当ですね……」

 

 しかし、部屋の四方へと視線を送っていたリーシャは、部屋の奥にある大きな邪神のような像の片手の上に小さな指輪が乗っているのを見つける。まるで精霊ルビスの力の一部を封じるように乗せられた指輪は、力の全てを失っているかのように鈍い輝きを放っていた。

 その像は、見るからに禍々しく、エルフや人間のような姿をしてはいない。巨大な角を生やし、口からは角と同程度の大きさの牙を生やしている。爪は大きく伸び、腕は左右合わせて四本存在し、その一つを前方へと突き出していた。背中には巨大な蝙蝠のような翼が生えており、その体躯は竜の鱗のような物で覆われている。

 近寄る事も躊躇うその像の姿に、カミュ達は暫し呆然と見つめるが、宝箱のない道を探して少しずつ像へと近付いて行った。

 

「もしかして、これが大魔王ゾーマの姿なのでしょうか?」

 

「その可能性はあるだろうな。だが、この姿程度の者ならば、容易く倒せそうな気もするが……」

 

 像を見上げたサラは、その禍々しく恐ろしい姿に身震いをしながら、この先で対峙する最後の敵の姿を思い浮かべる。だが、そんなサラの想いとは正反対に、リーシャはその像に恐ろしさを感じる事はなかった。

 確かに姿は禍々しい。強大な力を持つ竜種を思わせる姿をしており、邪神や悪神として祀られていても可笑しくはない。だが、それでもリーシャはその像に何も感じる事はなかった。

 本体を目にした事はなく、ただの石像であるという事を差し引いても、この像が大魔王ゾーマを模した物であれば、絶対に勝てるという自信が、身体の奥から湧き上がって来るのだ。その感情の出所も理由も、彼女には説明出来ないのだが、事実としてそう感じていた。

 

「何にせよ、その指輪は貰っておけ。アンタが持っていれば、その指輪も力を取り戻すだろう」

 

「…………サラ……ずるい…………」

 

 この宝物庫に用もなく、この石像が動き出す事がない以上、この場所にいる意味はない。先を促す為に、邪神の像の手の上にある祈りの指輪を取るように促した。

 だが、それをマントの中から見ていた少女は、再びいつもと同じ言葉を呟く。マントの裾から僅かに出した瞳でサラを睨み、頬を膨らませていた。

 彼女のこの行動に深い意味はないのだろう。自分ではなく、他の人間にという部分が気に入らないというのもあるのだろうが、その相手が姉のように慕うサラだからこそ、彼女は声に出し、態度に出すのだ。

 これがもし、赤の他人であったのならば、彼女は悲しそうな表情を浮かべるだろうが、何も言わずに俯くだけであろう。これが彼女なりの甘えの表現の仕方なのかもしれない。

 

「もう……またメルエの『ずるい』が始まった」

 

「…………むぅ…………」

 

 先程、指輪を持っていた像に感じていた恐怖など、何処かに霧散してしまう。この最終決戦間近の場所まで来ても、交わされる会話はいつも通りであった。

 それがどれ程に勇気付けられる事か、どれ程に力強く感じる事か。その事を理解出来るのは、もしかすると、一行の中でもサラだけなのかもしれない。柔らかく微笑みながら祈りの指輪を取り、それを元から嵌められていた祈りの指輪とは異なる指へと嵌める。いつまでも恨めしそうに睨むメルエの頭に、優しい拳骨が落とされた時、カミュは扉を再び開けて外へと出て行った。

 外へ出た一行は、そのまま突き当りまで進み、再び右へと折れる。その先に続く真っ直ぐな通路の左右にある燭台ににも炎が灯っており、突き当たりにある階段の姿が見えていた。その階段までの一直線の道に魔物の影はなく、慎重に歩を進めて行った彼等は、遂にその階段まで辿り着く。

 そして、自分達が最終の場所にまで辿り着いた事を知るのだった。

 

「……この下だな」

 

「ああ、この先は、勝利か死しかないだろう」

 

 その階段の下から流れて来る瘴気は、継続的に行使して来たトラマナの壁さえも突き破る程に強い。今までとは比べ物にならない程の強敵がいる事を示しており、この下の階層が最終決戦の場所である事を物語っていた。

 この階段を降りれば、最早後戻りは出来ない。大魔王程の存在が、カミュ達を逃がす訳はなく、彼等にもそのつもりはないだろう。大魔王側はそう思っていないだろうが、カミュ達一行は互いの命を賭けた最終決戦としてこの場に立っている。残るは、勝利か死かのどちらかしかないのだ。

 アリアハンという小国を出立して七年目。遂に彼等は、この場所へと辿り着いた。

 闇と光が交差し、光の中に闇があり、闇の中に光がある場所。全ての光が闇に飲み込まれるのか、闇を晴らす程の光が輝くのは、全て彼等一行に懸かっていると言っても過言ではないだろう。

 奮い立たせた勇気を以ってしても震えて来る足を懸命に抑えながらも、彼等はゆっくりと最後の階段を降りて行った。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
遂に最終章です。
ここから、残り十話ほどで完結を迎えると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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キングヒドラ

 

 

 

 暗く湿った階段は永遠を感じる程長く続いた。最終の下層へと繋がっている事は、一段一段踏み締めるカミュ達が最も理解している。トラマナという防壁に護られていて尚、肌に刺さるような傷みを与える瘴気の濃さ、そして強まって行く闇の気配が彼等に全てを伝えていた。

 下層に近付くにつれ、カミュ達が持っていた『たいまつ』の炎が弱まって行く。風など吹いておらず、『たいまつ』の布に染み込ませた油も切れてはいない。それでも闇に呑まれるように、その炎は収縮して行った。

 そして、先頭のカミュが階段を降り切り、その場所に足を着けると同時に、『たいまつ』の炎は完全に消え、周辺全てが深い闇に閉ざされる。

 

「!!」

 

 しかし、カミュ達全員が床に足を着けた瞬間、そのフロアにある全ての燭台に炎が灯った。

 眩しさに目が眩む程の炎の数。カミュ達だけではなく、この場所の全てを燃やし尽くす程の炎が吹き上がり、燭台から天井まで吹き上がる。身構えるカミュ達を嘲笑うかのように踊り狂った炎は、燭台という燭台全てに炎を灯し終えた後、沈黙した。

 階段付近から正面に見えるのは、大きな祭壇。そして、その祭壇の上に置かれたおぞましい玉座に座る巨大な影。それが何かなど、今のカミュ達に解らない訳がない。漆黒の闇のようなその影が放つ威圧感、そして絶対的な存在感が、今まで見て来たどんな魔物や魔族よりも強い事が、最後の決戦を物語っていた。

 

「貴様がカミュか。我が生贄の祭壇へよくぞ来た」

 

 その影から発せられた言葉が直接カミュ達の脳へ響き渡る。その声を聞いた瞬間、全員の身体が小刻みな震えを発し始めた。

 それは武者震いのような勇ましい物ではない。単純な強者に対する恐怖であり、生物にとって最も重要な生存本能の表れであった。

 カミュでさえも、その場所から一歩たりとも踏み出す事が出来ない。強大な敵と何度も対峙し、それを打ち破って来た彼等四人も、その心全てを飲み込む程の闇を前にして、身体を硬直させてしまったのだ。

 アレフガルド大陸にあるラダトーム国王をして、『小者』として語られたバラモスの存在を思い出す。あの時は、カミュもリーシャも、何も知らない国王だからこそ、そのような発言が出来るのだという想いが心の何処かにあった。だが、今、その存在を目の前にして、あの国王の言葉が真実である事を理解する。

 この巨大な存在から見れば、確かにバラモスなど小者であろう。カミュ達の力量が上がっている事を差し引いても、あの時のバラモスなど比べ物にならない程の圧倒的な力を有しているように見えたのだ。

 

「ふはははは。余を前にして恐怖する事は恥ではない。矮小な人間風情であれば尚の事である」

 

 恐怖に強張り、動く事さえ出来なくなった四人を嘲笑うかのように、影が放つ不快な笑い声が響く。その余裕は、この圧倒的な力があってこそのものなのだろう。カミュ達四人をわざわざ誘い、この場所へと導いたのも、世界の希望となっている光の心に深い絶望を植え付ける為の物だったのかもしれない。

 姿形ははっきりとは見えない。その強大な力がカミュ達の視界を遮っているのか、祭壇に座る大きな影は何かに歪んでいるように揺らめいていた。

 リーシャの額から大粒の汗が流れ落ちる。サラの足は小刻みに震え、唇は色を失い、歯さえも嚙み合わない。ここまでの旅で、強大な竜種以外にこれ程の恐怖を見せた事のないメルエでさえも、その存在から隠れるようにサラの腰へ手を回していた。

 それでも、彼だけは、一歩前へと足を踏み出す。彼こそが勇気の象徴であり、世界の光。そして、怯える三人をこの場所まで歩ませた『勇者』である。

 

「ほぉ……。余を前にして、それでも前へと踏み出すか。余への生贄として相応しい」

 

 一歩、また一歩と踏み出すカミュの背中が、三人の女性の心に勇気を植え付ける。何度も恐怖し、何度も立ち止まって来た彼女達を、勇気付け、奮い立たせて来た背中。青白く輝く鎧を身に纏い、全世界の生物の想いを込めた剣を握るその者の姿が、リーシャ達にも前方の強大な影にも異様に映っていた。

 だが、絶対の強者である大魔王ゾーマにとって、その勇気は蛮勇にも等しい物にしか見えない。近付いて来るカミュの姿を、生きの良い生贄としか見ていなかった。

 

「余は全てを滅ぼす者である。全ての命を我が生贄として奉げよ。その見返りに、絶望で世界を覆い尽くしてやろう」

 

 踏み出すカミュの足が止まる。だが、それは彼の意図ではなく、強制的な物。大魔王ゾーマの発した言葉と同時に生み出された膨大な瘴気がフロアを包み込み、勇者の歩みを止めたのだ。

 不快な笑いを発しながら大きく手を広げた影は、フロア全体の空気を変えて行く。先程まで赤々と燃えていた炎は、真っ黒な闇の炎となり、周囲を照らし出した。視界が遮られる事はないものの、その異様な光景は、再びカミュ達の胸に恐怖を呼び覚まして行く。

 

「生贄とは奉げられる物である。カミュよ、余の生贄となれ」

 

 玉座から僅かに腰を上げた影は、階段と祭壇の間まで進んでいたカミュを弾き飛ばす。バシルーラを受けたかのような抵抗出来ない力によって吹き飛ばされたカミュは、リーシャに受け止められた。

 階段付近まで戻った一行の目の前の大気が歪む。奥の祭壇が霞んで行く程の空間の歪みに、カミュが身構えた。剣を抜き、構えを取る彼の姿に、その横へ並んだ戦士もまた斧を取る。恐怖に犯されていた足の震えを強制的に止めた賢者が杖を構え、それを見上げた少女の瞳に勇気の炎が灯った。

 

「出でよ、我が僕。この者達を滅ぼし、その苦しみ、その哀しみを余に奉げよ!」

 

 何かを召還するように手を広げた影から発せられる瘴気が一際大きくなる。闇の炎が大きく吹き上がり、カミュ達の目の前の歪みが強くなって行った。

 歪みが強くなるに従って、大気に亀裂が入って行く。亀裂は徐々に大きくなり、ゾーマの発した最後の一言を受けて大気が割れた。ひび割れた大気が割れ、何かが弾け飛ぶと同時に、カミュ達の前に巨大な生物が現れる。その姿を見た全員の目が細まる程にそれは既知の物であった。

 強固な鱗で守られた巨大な体躯を持ち、その胴体から伸びる長い首は合計で五つ。それぞれの首の先にある頭部は鋭い牙を持ち、猛々しい雄叫びを上げていた。

 

「我が名はキングヒドラ。大魔王様に仕えし竜種の王である」

 

 四つの首が奇声のような雄叫びを放つ中、中央の首がカミュ達を見下ろして尊大な言葉を発する。人語を話す魔族や魔物を多く見て来たカミュ達であるからこそ驚きもしないが、その流暢な人語は、この竜種もまた、竜の女王やその周囲にいた側近達と同様に、人型になる事さえも可能な上位種である事を物語っていた。

 しかし、その尊大な宣言に一人の少女が眉を顰める。その言葉を正確に理解している訳ではないのだろう。それでも、その言葉の何かが、この幼い少女の心に引っ掛かり、怒りにも似た感情を呼び起こした。

 吼える四つの首がうねるように動き、周囲に炎を撒き散らす。凄まじい熱量を誇る炎が周囲を赤く染める中、幼い少女が大きな杖を持って、一歩前へと踏み出した。

 

「……メルエ?」

 

「…………メルエ……やる…………」

 

 自分よりも前に出て来た少女に戸惑いを見せたカミュの言葉に、彼女は小さく決意の言葉を溢す。その瞳に宿る炎は、何を言われても、何をされても揺るがない程に強く、カミュでさえも呑まれそうになる程の輝きを有していた。

 竜の因子を受け継いでいる事を受け入れた少女にとって、竜種の王とは、ヤマタノオロチであり、竜の女王である。あの強く誇り高い者達こそが竜種の頂点であり、彼女の心の奥底にある恐怖を引き上げる程の存在が『王』と名乗るに相応しい者なのだ。

 キングヒドラと名乗る竜種を見た時、彼女が恐怖を表す事はなかった。それは、竜種としての格がメルエの祖先である氷竜よりも下である事を示している。自身よりも下に位置する格を持つ者が、竜種の王を名乗る事など許せる筈がない。そして、誇り高い竜種が、例え強大な力を有しているとはいえ、大魔王の下僕として名乗りを上げるなど、言語道断の行いであった。

 故に、彼女は憤る。恐れすら抱いた自分の中に流れる因子であっても、彼女の祖先が脈々と受け継いで来た想いでもある。それを理解出来るだけの旅を彼女は続けて来た。それは、カミュとの剣の勝負に負けた時に浮かべたオルテガの笑顔が、最終的な着地点だったのかもしれない。

 父が託した想い。それを受け入れるか否かは別としても、人間とはそういう流れと繋がりを持っているからこそ、繁栄して来たのだろう。受け継がれる想いは力となり、受け継がれる力は想いとなる。それを彼女もまた理解し始めていたのかもしれない。

 

「メルエ、大丈夫ですか?」

 

「…………だいじょうぶ…………」

 

 メルエがこれから成そうとしている事を察したサラが、心配そうに声を掛ける。しかし、その問いかけにしっかりと頷き、その言葉を口にしたメルエを見て、サラは後方へと下がった。

 彼女がこの言葉を口にした以上、何を言っても引く事はないだろう。一行で一番の頑固者がこの言葉を口にしたのだ。ならば、サラが出来る事といえば、姉としてその姿を見守り、不測の事態に備える事だけであった。

 それはカミュやリーシャも同様であり、カミュに至っては、王者の剣を鞘へと納めている。リーシャだけは心配そうにメルエを見つめながら、斧を片手に戦闘態勢を崩さなかった。

 

「どうした、矮小な人間達よ。我が姿に恐れを為したか?」

 

 首をもたげてカミュ達を見下ろすキングヒドラの顔が歪む。竜種の表情の機微など、カミュ達には解らないが、それが嘲りの笑みである事は想像出来た。

 だが、この場面でそんな挑発に反応する者は誰一人としていない。杖を持った少女が更に一歩前へ出ると同時に、他の三人は一歩後ろへと下がった。

 驚いたのはキングヒドラであろう。この竜種には、自分が王であると名乗るだけの自信がある。その竜種の王に対して、ここまで進んで来た一人であると言っても幼子だけが前へと出たのだ。自身が侮られていると感じても可笑しくはなかった。

 案の定、怒りを吐き出すように四つの首が更に大きな雄叫びを発し、狂ったように炎を吐き出す。だが、その炎は全て、前に出た少女の杖の一振りで蒸発して行った。

 

「矮小な人間の分際で、この竜王に逆らうか!?」

 

「……竜王? お前はその器ではないな。未来の竜王は既に存在し、その力も器も、お前では遠く及ばない」

 

 年端も行かぬ少女によって己の吐き出す炎を遮られたキングヒドラは激昂するが、その言葉に当代の勇者が反応する。竜の王となる者は、その力だけではなく、それ相応の品格と器を有さなければならない。それをカミュ達は竜の女王に見たのだ。

 あの気高く、全てを包み込むような包容力を持った竜の王は、己を蝕む病に抗いながらも、世界を案じ、そこで生きる者達を自らの子と称していた。彼女はどれ程の怪我を負おうと、苦しみを味わおうと、大魔王ゾーマの下に付くような事はなかっただろう。そして、彼女が死を賭して産み落とした新たな王もまた、どれ程に強大な相手であっても、その身を屈する事はない筈だ。

 そして、また一歩とメルエが前に踏み出した事で、キングヒドラの怒りが頂点に達する。脆弱な生物だと馬鹿にしている相手に、最大限の侮辱を受けたのだ。竜の王を自負する己を、そのような器ではないと、人間如きに侮られた。『それに怒らずして、何が誇り高き竜か』と言ったところなのだろうが、それすらも、カミュ達にしてみれば蔑みに値する物であったのだ。

 

「骨すら残らぬように殺してやる! 竜王を敵に回した愚かさを悔やみながら死んで行け!」

 

「…………竜王……じゃない…………」

 

 五つの首が高らかに雄叫びを上げる。しかし、その言葉さえも幼い少女に切り捨てられ、キングヒドラは怒り狂った。

 カミュ達に向かって三つの首が一斉に炎を吐き出す。全てを焼き尽くす程の竜種の炎。それは、通常であれば脅威であり、勇者特有の絶対防御の呪文を行使する必要性さえもある攻撃である。

 だが、その炎を見てもカミュ達は微動だにせず、まるで哀れむかのような視線をキングヒドラへ向けていた。この竜種は『竜王』を名乗りはしたが、カミュ達から見ればその力は竜の女王には遠く及ばず、ルビスの塔で遭遇したドラゴンと比べても、大きな差のない物であったのだ。

 そして、この五つの首を持つ巨竜は、一人の少女の怒りを買った。竜の誇りを語るキングヒドラは、誰よりも竜種の誇りを知る少女の逆鱗に触れたのだ。それは、カミュ達三人から見ても、同情を向けざるを得ない蛮行。意気揚々とゾーマの下僕として登場したこの竜種の命は、風前の灯に等しい物であった。

 

「…………ドラゴラム…………」

 

 三つの首から放たれた炎が、先頭に立つ幼い少女を飲み込もうとした時に、件の少女が高々と杖を掲げ、その系譜を持つ者しか唱える事の出来ない呪文を紡ぐ。

 膨大な魔法力が幼い身体を包み込み、周囲を冷気が満たして行った。吹き荒れる暴風となった冷気は、襲い掛かって来る炎を飲み込み、蒸発させて行く。立ち上って行く水蒸気さえもその場で凍り付かせる程の冷気がフロアを支配して行く中で、キングヒドラの目の前に一体の銀竜が姿を現した。

 それは、幼い少女が何よりも恐れた力であり、彼女を愛する賢者の心の奥深くにあった潜在的な恐怖を呼び起こした力である。竜種と人との間に生まれた子の末裔である証であり、人間だけではなく、魔族やエルフでさえも唱える事の出来ない呪文であった。

 

「竜だと……。なんだ、それは」

 

 目の前に現れた銀竜の姿に、キングヒドラの動きが止まる。竜が人型になるという行動は、上位の竜種であれば可能なのかもしれないが、只の人間だと考えていた者が実は竜種であったなど、考えが及ぶ筈がなかった。

 正確に言えば、メルエは竜種ではなく、竜種の因子を受け継ぐ者の末裔なのだが、キングヒドラが知る由もない。目の前で竜に姿を変えた人間が、自分と同じような竜種であると考えてしまったのだ。

 しかし、その後ろに居る影は、そうではなかった。

 

「ほぉ……まだ生き残りが居たとはな。バラモスめ、余を謀っておったのか」

 

 フロア全体に響き渡るような声が、キングヒドラの巨体を震わせる。それが恐怖に近い感情の表れである事は理解出来た。

 竜王の器ではないとはいえ、人間界での最大の英雄であるオルテガを死に追いやった程の強者がこれ程に怯えるという事に、改めて大魔王ゾーマの力の強大さを知る。それ程の相手との戦闘が後に控えているのだ。キングヒドラ程度の相手に梃子摺っているようでは、彼等の勝利も、世界に光を戻す事も不可能であろう。

 そう考えたカミュの思考に同意を示すように、銀竜が雄叫びを上げる。巨大な牙を剥き出しにしてキングヒドラへ向けて上げた咆哮によって、周囲の大気が震え、闇の炎が大きく揺らいだ。

 五つの首を持つ巨竜と、最古の竜の生き残りとの戦いが始まる。

 

「竜種の面汚しが!」

 

「ギャオォォォ」

 

 人語を叫ぶキングヒドラと、咆哮を上げる銀竜。最早、どちらが人間で、どちらが竜種なのか判別が出来ない。五つの首の内の一つが炎を吐き出せば、それを相殺するように銀竜が冷気を吐き出す。キングヒドラの火炎と、氷竜となったメルエの吐き出す冷気では、冷気の方が威力は上であった。

 炎を吐き出した頭部の口元まで覆う冷気が、その口元を凍り付かせ、行動を停止させる。行動が止まった首に鋭い牙を突き刺した氷竜は、首を喰い千切るように振り回した。

 首から噴き出す体液の量が、牙が深く突き刺さっている事を物語っており、キングヒドラは苦痛と怒りの咆哮を上げる。氷竜の牙を抜こうと別の首が氷竜へと襲い掛かり、それを尾で撃退した氷竜であったが、縦横無尽に動き回る他の首によって左肩口を抉られた。

 

「……これが竜種同士の戦いなのか」

 

「……メルエ、無理をしては駄目ですよ」

 

 二つの巨竜同士の戦いの凄まじさにリーシャは声を失い、氷竜の肩口から噴き出す体液を見たサラは、氷竜となった少女の身を案じる。そして、先程氷竜が牙を突き刺したキングヒドラの首の一つの傷を見て、三人は驚愕する事になる。

 

「ちっ……治癒能力さえも持っているのか」

 

 大きな舌打ちを鳴らしたのはリーシャ。

 キングヒドラの首は、流れ出る体液の量から見ても致命傷に近い傷であった筈。だが、ぐったりと垂れ落ちた首の傷は、体液が泡立つように塞がって行ったのだ。それは、バラモスなどが有していた治癒能力に近い物であり、戦闘をする者にとっては厄介極まりない物である。

 対する氷竜の傷は塞がらない。先程抉られた肩口からは、未だに体液が流れ落ちており、致命傷とはならないまでも、足枷になる事は明らかであった。

 

「ベホマ」

 

「……そうですよね。メルエに任せるとは言いましたが、援護をしないという訳ではありません」

 

 たが、別段、それが脅威になる訳ではない。治癒能力が無いのであれば、それを補えば良い。補う力を持っている者は、後方に控えているのだ。

 手を翳して氷竜に向けて最上位の回復呪文を唱えたのは、当代の勇者。その行動に納得したような笑みを浮かべ、回復呪文の詠唱の準備に入ったのは、一行の回復役であり、頭脳である賢者であった。

 竜種の身体になったメルエに回復呪文が効果を示すのかは未知であったが、淡い緑色の光に包まれた氷竜の傷が塞がって行くのを見たリーシャは安堵の溜息を吐き出す。

 

「ぐぬぬぬ。全て焼き尽くしてくれるわ!」

 

 全てが自分の思い通りに行かぬ事に憤ったキングヒドラは、回復した首を合わせた五つの頭部全ての口から炎を吐き出す。炎の渦となって吐き出される火炎は、本来であれば、生物全てを焼き尽くす程の威力を誇る物だろう。

 だが、如何にキングヒドラが強力な竜種といえども、炎だけに特化した竜種ではない。対する氷竜は、雪原や氷土に生息する竜である。その吐き出す冷気は、例え本来の竜王が吐き出す炎であっても相殺する事が出来る程の力を有していた。

 吐き出された渦巻く火炎に向かって一気に吐き出された冷気は、その衝突によって全てを水蒸気に変えながら相殺して行く。高温の水蒸気がカミュ達の視界を塞ぎ、氷竜とキングヒドラの姿さえも見えなくなって行った。

 

「グオォォォ」

 

「危ない!」

 

 そんな高温の水蒸気の中、突如としてカミュ達の前に巨大な頭部が飛び込んで来る。長い首の一つがカミュ達に牙を向き、突っ込んで来たのだ。

 後方に居たサラの声に、最前に立っているカミュが盾を掲げるが、その牙を防ぐには間に合わない。大きな口にカミュが飲み込まれると思ったその時、勢いをつけて伸びて来た首が、それ以上の速度で床へと落ちた。

 何かを捻じ切るような不快な音がフロアに響き、勢いをつけた竜種の頭部が弾け飛ぶ。天井まで飛んだ頭部は、凄まじい音を立てて潰れ、大量の体液と共に再び床へと落ちて行った。

 

「……メルエ」

 

 高温の水蒸気によって生み出された霧が晴れたその場所には、一つの首を踏み潰した氷竜が大きな雄叫びを上げていた。

 カミュ達に向かって来た首を、上から力を込めて踏み潰し、その勢いで捻じ切っている。未だに動く首を踏みしめたままに大きく口を開け、大量の冷気を吐き出し、キングヒドラの一つの首を完全に封じ込めてしまった。

 怒り狂うキングヒドラの首が氷竜へと次々と襲い掛かる中、その一つを短い前足で掴んだ氷竜は、大きく口を開けて牙を突き刺す。暴れる首を前足で押さえつけ、尚を深く牙を突き刺す氷竜に向かって吐き出されたキングヒドラの炎は、氷竜が持つ大きな翼によって防がれ、その美しい銀の鱗には届かなかった。

 

「グギャァァァ」

 

 それが氷竜の雄叫びなのか、それともキングヒドラの悲鳴なのかは既にカミュ達には解らない。だが、喰い千切られたように落ちて来たキングヒドラの頭部が持つ瞳から光が失われて行った事が、キングヒドラの劣勢を物語っていた。

 だが、跳ねるように床で暴れ狂う首の一つの体液が泡立ち、その泡が徐々に頭部を形成して行くのを見て、カミュ達は声を失う。傷が癒えるという所までは想定内であったが、欠損部分の修復まで出来るとなれば話は別である。それは魔王バラモスが腕を再び生やした力と同等の物を持っている証拠であり、カミュ達がキングヒドラを侮っていた証拠でもあった。

 

「グオォォォォ」

 

 だが、そんなカミュ達の焦りを吹き飛ばすように、形成しかけた頭部に再び巨大な足を振り下ろした氷竜が雄叫びを上げる。それは、まるで勝利を確信したかのような咆哮であり、踏み潰され、弾け飛んだ頭部の体液が、キングヒドラの敗北を予知していた。

 回復するのであれば、回復する速度よりも速くに命を刈り取れば良い。それは弱肉強食という自然界の掟であり、竜種のような太古から生きる者達の絶対的な物差しの一つでもある。

 踏み潰された首は再び凍結され、キングヒドラの首も残り三つとなる。その状況になっても、後方に居る筈の大魔王ゾーマから横槍が入る事がない。絶対的な信頼をキングヒドラに置いているのか、単純にその戦いを見守るつもりなのかは解らないが、不気味である事だけは確かであった。

 

「許さぬ! 許さぬぞぉ!」

 

 キングヒドラの中央の首が氷竜へ怨嗟の咆哮を上げる。その瞳は怒りに燃え、既に焦点さえも定かではない。中央の首を護るように左右の首が炎を放ち、フロア全体を赤く染める中、その動きを冷静に見つめていた氷竜の尾が唸りを上げた。

 一体の頭部の側面に直撃した尾は、大きく撓りながら振り抜かれ、首を床へと落とす。落ちた傍からその頭部は氷竜によって踏み潰され、その足を退けようと動き出した首は、氷竜によって嚙み付かれた。

 キングヒドラの中央の頭部と、氷竜の頭部が睨み合う。既に踏み潰された頭部は再生する事も出来ずに沈黙している。未だに牙が突き刺さっている首も徐々に力を失い、だらりと垂れ下がった。

 

「終焉だな」

 

 それは、カミュ達の言葉ではなかった。

 遠く離れた生贄の祭壇にある玉座から発せられたその言葉は、竜の王を名乗るキングヒドラと、絶滅した太古の氷竜との戦いの幕引きを伝えていた。

 最早、理性さえも失ったキングヒドラは、一体の首を吐き出すように放り投げた氷竜に向かって牙を向ける。だが、一体の首しか残されておらず、その首と吐き出す炎という攻撃方法しかないキングヒドラが、竜種の最上位に君臨する氷竜に勝てる道理など存在していなかった。

 

「……ジパングで私達が起こした物は、本当に奇跡に近い物だったのですね」

 

 サラは、その戦いの終わりを眺めながら、五年近く前に戦ったヤマタノオロチという存在を思い出してた。

 ジパングという異教の国を脅かした産土神。それは、あの小さな島に太古から生息する一体の竜種であった。目の前で命の灯火を消そうとしているキングヒドラを越える八体の首と、八本の尾を持ち、吐き出す炎は一国を焼き尽くす程の威力を誇る正真正銘の化け物。それが、ジパングの国を絶望に追いやったヤマタノオロチという竜種である。

 メルエが怯えた竜種の内の一つ。今から考えれば、もし、先代国主であるヒミコがその力を弱めていなかったら、あの時のカミュ達では、どれ程の幸運があろうと、どれ程の加護があろうとも、勝利する事はなかっただろう。

 もしもの話になるが、ヤマタノオロチがジパングの外の世界を望んでいたとすれば、あれもまた、竜王の一角に位置するだけの存在だったのかもしれない。少なくとも、キングヒドラという竜種よりも上である事だけは確かであろう。

 

「オルテガ様は生きてはいたが、あれはお前の親の仇でもあるが、良かったのか?」

 

「……アンタは俺に何を求めている? 俺が殺そうと思っていた相手を先に殺したという恨みはあっても、仇と思った事はない。アンタがいる以上、俺がオルテガを殺せなかった事を考えれば、一度は殺してくれたあの竜種に感謝こそしているぐらいだ」

 

 氷竜の尾が唸りを上げ、キングヒドラの即頭部を殴打する。その勢いのまま巨大な体躯が壁に激突し、追い討ちを掛けるように氷竜の前蹴りがキングヒドラの腹部へと突き刺さった。

 その最後の攻防を見ていたリーシャは、一度息を吐き出した後で、隣に立つカミュへと問い掛ける。既に勝敗は決しており、大魔王ゾーマの横槍さえ入らなければ、メルエの勝利は揺るがないだろう。そして、あれだけの自信を持って少女がドラゴラムを唱えたのならば、それはその呪文を完全に修得している証拠であり、勝利後に戻る術も把握している証拠であった。故にこそ、リーシャは軽口を叩いたのかもしれない。

 それに対してのカミュの返しもまた、余裕を持っている証であった。

 

「グギャ……ォォ」

 

 腹部に突き刺さった氷竜の足は、キングヒドラの臓物を破壊したのだろう。残る頭部から大量の体液を吐き出したキングヒドラは、憎しみと恨みを宿した瞳を氷竜へと向けるが、最早、抗う術は残されていなかった。

 再び振るわれた氷竜の尾が、首の中央へと突き刺さり、キングヒドラは巨体ごと横倒しに倒される。それでも何とか抵抗を試みたキングヒドラの口が開くと同時に、氷竜は両足をその頭部目掛けて踏み抜いた。

 爆発するようにキングヒドラの頭部が弾け飛び、周囲に大量の体液と脳漿が飛び散る。先ほどまでキングヒドラが吐き出していた炎の海の中へと消えて行き、燃え盛る炎と共に消滅して行った。

 残る胴体に向かって大きく口を開けた氷竜は、その全てを凍結させる冷気を放ち、完全に氷漬けになったキングヒドラの身体を踏み抜く。砕け散る体躯は、その中身までも凍らされており、それはどれ程の炎によっても融解する事が無いようにさえ思われる程であった。

 

「ふむ。流石は、古の竜王の側近と云われた種族の末裔と言ったところか……」

 

 勝利の雄叫びを上げた氷竜の身体全体が光に包まれ、徐々にその姿を変化させて行く。光が収束すると共に幼い少女の姿へと戻ったメルエは、大きく息を吐き出した後、近寄って来たカミュ達に笑みを浮かべた。

 その時、闇の炎と、竜種の吐き出した炎によって照らし出されたフロアの最奥にある祭壇から、小さな拍手の音が響く。緩慢なその音は、相手を嘲笑っているようにも聞こえた。

 その音は、先程までの戦闘によって生まれた小さな余裕さえも掻き消す。この大魔王にとって、キングヒドラと勇者達の戦闘など、単なる余興に過ぎないのだ。

 氷竜となったメルエの圧倒的な勝利だったといえども、キングヒドラ自体は決して弱い訳ではない。このアレフガルド大陸の魔物や魔族の中では、単体では最強と言っても過言ではないだろう。それでも、大魔王にとっては単なる駒の一つでしかなく、そこに何の感情も湧く物ではないのだ。

 それがどれ程に恐ろしい事実なのかを知るのは、今、目の前で対峙しているカミュ達以外いないだろう。自分の額から頬へ流れ落ちる冷たい汗を感じながら、カミュはメルエを護るように祭壇と少女の間に入った。

 

「良い余興であった。その娘もまた、ここで朽ちるのだ。竜の因子を持つ人間であろうと、全ては余の生贄となる存在。その娘が生贄として奉げられた時の絶望もまた、余の愉悦となろう」

 

 警戒心を剥き出しにしたカミュを嘲笑するように揺れる影は、古の賢者の末裔であるメルエの存在を把握しても、それを歯牙にも掛けていない。むしろ、その少女の命が消え失せ、カミュ達の顔が絶望に歪む事への期待さえも口にした。

 下僕の一人であるキングヒドラを圧倒する力を見せて尚、大魔王にとってカミュ達四人は、相手をする価値さえもない存在なのだろうか。底知れぬその力に、再び恐怖が胸を突く。何度押し込めても、何度抑え込んでも、呼び覚まされる恐怖。それは、大魔王ゾーマという存在が、カミュ達の想像を遥かに超える強大さを持つ事を証明していた。

 

「だが、その因子が未だに残っているという事実は消えぬ。責任は取らせねばなるまい」

 

 そして、玉座にある強大な影が再び手を翳す。濃くなる瘴気が、再びあの厄介な状況を生む前触れである事を示していた。

 案の定、一歩踏み出したカミュの目の前の空間に歪みが生じ始める。先程、キングヒドラが登場した時よりも大きな歪みは、フロア全体にまで及び、空気そのものの時間が停止したように固まって行った。

 固まった大気に亀裂が入り、その亀裂は一気に広がって行く。ガラスが割れて行くような軋む音を響かせ、亀裂の隙間から濃い瘴気が噴き出して来た。

 それは新たな恐怖の前触れであり、カミュ達一行の肌を、経験のある威圧感が襲う。

 そして、それは現れた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
遂にゾーマの登場です。
その真価はまだ先ですが、遂にここまで来たかという感じです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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バラモスブロス

 

 

 

 カミュ達の目の前でひび割れた空間が弾ける。広がった亀裂が破裂するように割れ、それは現れた。

 カミュ達四人が忘れる事のないその姿。上の世界を恐怖で覆いつくしていた魔王。長年、多くの者が討伐に向かいながらも、その誰もが辿り着く事さえ出来なかった、魔の頂点と考えられていた存在である。

 醜い姿を隠すような余裕のある衣服を纏い、弛んだ贅肉を覆い隠している。頭部に突き出た瘤のような物も、その不気味な色をした舌も、人間とは異なる本数の指も、なにもかもがあの場所で遭遇した時と同じ姿をしていた。

 ただ、その肌の色はどす黒く、生者の雰囲気も持ち合わせてはいない。あの時奪った両腕も再生されてはいても、その瞳の光は暗く、まるで意識さえも失っているかのようであった。

 

「……バラモス」

 

「我は魔王バラモス。いや、ゾーマ様のお力によって再度機会を与えられた故、同一の存在ではないだろう」

 

 瞳の光は暗くとも、その意識は保っているのだろう。暗い瞳をカミュに向けたバラモスは、自身の名を名乗った。

 この魔王の姿は、生前の物と遜色はなく、その圧倒的な魔力はその頃よりも上であろう。雄叫びのような高笑いがフロアに響き渡り、その巨体を揺らしていた。バラモスの体躯は、カミュやリーシャの倍近い。その巨体が揺れる為、フロア全体が地響きを立てている。

 カミュやリーシャは、その誇らしげに吼える物から漂う微かな死臭を感じていた。皮膚も肉も腐っているようには見えないが、それでも隠し切れない死臭と腐臭。それがこのバラモスだった物の実態を明確に物語っていた。

 

「我の名は、バラモスブロスである!」

 

 既に、上の世界でカミュ達に敗れた魔王は存在せず、自分こそはその兄弟であると高らかに宣言する存在を見ながら、その脳までも腐敗しているのではないかとカミュ達は感じていた。

 如何に強大な魔法力を持っているとはいえ、大魔王ゾーマが死者を完全に生き返らせる事が出来るとは思えない。生前のバラモスでは耐えられない程の魔法力をその身体に注ぎ込んでいる可能性は高く、その為に魔力こそ生前よりも高くなっているが、知能などの余分な機能が低下しているのだろう。

 あの広大な上の世界全てに恐怖を撒き散らし、数多くの強者を退け、英雄オルテガでさえ触れる事も叶わなかった魔王が、このような浅慮な宣言をする筈がない。このバラモスブロスの言葉通り、最早、魔王バラモスはこの世に存在していないのだ。

 

「バラモス……いや、バラモスブロスであったか? 余の記憶が正しければ、『竜の因子を受け継いだ賢者の血は絶えた』と報告を受けた筈だが?」

 

「ゾ、ゾーマ様……それは」

 

 先程まで自身の内から漲る力を誇示するように高笑いをしていたバラモスブロスの身体が硬直する。後方から響く声は、とても静かでゆったりとした物にも拘らず、それは聞く者の身体の奥底にある根源を揺さ振る程に激しい何かに満ちていた。

 言い淀むバラモスブロスがカミュ達から視線を外すが、その隙を突く事さえも出来ない。このフロアの支配者が誰であるのか、そしてこの世界の命運を誰が握っているのかを、その声が明確に語っていた。

 

「良い。余は過程は問わぬ。今ここにその血を受け継ぐ者がいる……それだけの事だ。ならば、何をするべきなのかは解っておろうな?」

 

 新たに強大な力を得たバラモスブロスは、先程までの高揚感など霧散したように表情を歪める。

 魔王バラモスであった頃、古の賢者であるメルエの曽祖父を自ら倒し、その血を受け継ぐ孫をテドンで殺したとミニデーモンから報告を受けた。故にこそ、彼は未だに力を取り戻してはいないゾーマに、竜の因子を受け継ぐ血は途絶えたと報告を入れたのだろう。

 だが、魔王城にて、カミュ達と対峙した際に、その因子の影を感じた。その頃はドラゴラムを修得していても行使する事がなかったメルエではあるが、バラモスが大魔王より授かった最上位の火球呪文を見ただけで解読し、あろうことか行使した姿を見て、バラモスは確信したのである。

 古の賢者の中でも特出した魔法力を持ち、その呪文の威力は魔族よりも優れ、魔王と並ぶ程と云われた血。大魔王ゾーマからすれば、その因子も恐れるような物ではないのかもしれない。だが、その配下であるバラモスを始めとする多くの魔族から見れば、それは脅威以外の何物でもなかった。

 今、ゾーマがバラモスに対して語った通り、メルエの中に流れる血などどうでも良い事なのだろう。問題は、排除したという報告を受けたにも拘らず、それが自分の目の前に現れたという事実だけであった。

 

「そ、即座に、その首をゾーマ様に奉げます!」

 

 その言葉を発したバラモスブロスが振り返る。動く巨体に床は揺れ、幼いメルエは尻餅を突いた。そして、顔を上げた彼女に大きな影が差す。

 見上げる程に大きな巨体は、真っ直ぐにメルエを見下ろしていた。標的と化した少女を一握りに殺そうと睨みつけ、それに向かってバラモスブロスが手を伸ばした時、バラモスブロスとメルエの間に一つの影が割り込む。

 伸ばされた腕に大きな斬り傷が生まれ、そこから腐敗した体液が噴き出した。

 

「き、貴様!」

 

「生き恥を晒すな」

 

 元魔王と少女の間に割り込んだのは、その魔王を討ち果たした勇者。その当時よりも飛躍的に力量を伸ばし、その手には全世界の生命の願いを具現化させた剣を握っている。その希望の光が、魔王であった者に対して、その在り方を否定するような事を口にした。

 斬り付けた腕の傷口から噴き出した腐敗した体液が泡立ち、それを修復して行く。生前のバラモスが持っていた能力の一つではあるが、その能力も低下しているのか、傷の修復速度は遅くなっていた。

 見下ろすように睨み付けるバラモスブロスに対しても引かない勇者は、斧を手にして近寄って来た女性戦士を片手で制す。まるで先程のメルエのように一人で戦うという意思表示のように見え、それにリーシャとサラが驚きを示した。

 

「カミュ、それは無理だ」

 

「……いや、俺がやる」

 

 カミュの隣に出て来たリーシャは、彼の行動を諌める為に口を開くが、視線をバラモスブロスへ固定したままの彼は、その諫言を跳ね除ける。その瞳を見たリーシャは、小さな溜息を吐き出した。

 大魔王ゾーマという存在を前にして張る意地ではない。バラモスブロスという相手を倒さなければ、ゾーマと戦う権利さえも得る事が出来ないというのは事実であるが、それでもカミュという存在を失う可能性があってはならないのだ。

 バラモスブロスがキングヒドラよりも強敵である事は確かであろう。仮にも魔王として君臨した過去を持つ存在であり、今のその姿はその当時よりも更に負の力が増しているようにも感じる。如何にカミュが人外の力を有する『勇者』であっても、たった一人で戦いを挑んで無事である保証は何処にもないのだ。

 

「リーシャさん、メルエの時と同じです。カミュ様に任せるとしても、私達が援護をしないという訳ではありません」

 

「だが……」

 

 尚もカミュを止めようとするリーシャを制したのは、サラであった。頑固者の集まりであるこの一行の中で、最も頑固なのがメルエだとすれば、それに続くのはカミュであろう。それを誰よりも理解しているのはリーシャであるのだが、冷静にそのやり取りを見つめていたサラが口を開く。

 メルエの時も、竜となった彼女に任せるという選択を取った一行であったが、それでも彼女が傷つけば回復呪文を唱えていたし、もしも危機に陥ったとすればその間に入った筈であった。それは、カミュであっても同じであろう。例え、後にカミュから恨まれる事があったとしても、危機に直面すれば、リーシャ達が突入すれば良いだけである。

 騎士としての矜持がリーシャには残っているのかもしれないし、カミュという青年には男としての意地があるのかもしれない。だが、賢者であるサラや、魔法使いであるメルエには一対一に拘る理由はなく、それを遵守しなければならないという想いもなかった。

 

「忌々しい人間め! 貴様など、骨も肉も残らぬ程に我が滅してやろう!」

 

「……誰に敵意を向けたのかを思い知れ」

 

 魔王バラモスとの初対決の時から、バラモスのカミュへの評価は変わらない。この元魔王にとってはメルエという竜の因子を受け継ぐ存在だけが重要であり、カミュという勇者を重要視してはいなかった。

 そこがバラモスという魔族の限界だったのかもしれない。彼は、どれ程の地位を得ようとも、大魔王ゾーマの下僕であった。この魔族にとっての脅威は、その地位を危うくさせる存在であり、世界の希望となる者ではない。故にこそ、バラモスはメルエに執着したのだ。

 そのバラモスに対するカミュの言葉を聞いたリーシャは、場違いな溜息を吐き出す。その言葉を聞いてようやく、彼女はカミュが何故一人で前へ出たのかを察したのだった。

 彼がアレフガルドに来た理由は、メルエという少女の平穏の為である。極論から言えば、彼にとってアレフガルド大陸などどうなろうと興味はないのかもしれない。だが、その結果がメルエという少女の平穏を乱す物であれば、それを許しはしないのだ。まるで娘を想うように、妹を護るように、彼はその一点だけを望んでいる。その禁区へバラモスが踏み入ったのだった。

 

「全員仲良く吹き飛べ!」

 

「…………マホカンタ…………」

 

「マホカンタ」

 

 バラモスブロスが片腕を振り被る。その動作を見たサラとメルエが、早速動き出した。

 二人の杖が光を放ち、バラモスブロスと対峙するカミュと、自分達の隣に立つリーシャを魔法力で包み込む。それと同時にメルエは片手で自身へ同様の呪文を唱え、サラは杖を掲げてその内に秘められた効果を発現させた。

 魔王バラモスとの戦闘開始直後に使われた物と同様に、カミュ達の目の前の大気が一気に圧縮し、サラ達の詠唱が完成すると同時に弾け飛ぶ。ゾーマ城の最下層が揺れ、光と音が失われた。

 爆発による高温の熱を有した風が、カミュ達の前に立つバラモスブロスへ襲い掛かる。朽ち果てたような色の肌を焼かれたバラモスブロスは、爆風を鬱陶しそうに腕で払い、次の行動へ移ろうとしたところで、自分に向かって飛んで来る青白い光に気付いた。

 

「くっ……」

 

「うおぉぉぉ」

 

 爆風が跳ね返される勢いを利用して文字通りバラモスブロスへ向かって飛んだカミュは、光り輝く王者の剣を水平にしてその喉元へ向かって突き出す。

 青白く光り輝く鎧に刻まれた神鳥の姿、左手に装備した盾に刻まれた不死鳥の姿、そして願いを具現化した剣の鍔に描かれた霊鳥の姿が、光の翼を広げカミュを運んで行った。

 その速度はバラモスブロスの想定を大きく超えており、咄嗟に広げた掌を突き抜けた剣先は、その胸元へ深々と突き刺さる。光の槍となったカミュによって打ち抜かれたバラモスブロスの掌には大きな穴が開き、腐敗した体液が流れ出ていた。

 深々と突き刺さった剣を真っ直ぐに落ろそうと全体重を掛けたカミュは、振り払うように振り抜かれたバラモスブロスの手によって叩き落される。カウンター気味に入った一撃は、カミュの身体を床へ叩き付け、彼は真っ赤な血液を吐き出した。

 

「ぐっ……許さぬぞぉ! 骨さえ残らぬ程に燃え尽きろ!」

 

 掌の傷よりも胸元の傷の修復を優先したバラモスブロスは、塞がって行く傷口を庇いながらも大きく口を開く。その口の奥で渦巻く炎を見たカミュは、回復呪文を唱える事も後回しにして、青白い輝きを放つ盾を掲げた。

 ラーミアを模した象徴画が輝きを放ち、一気に吐き出された激しい炎を防ぐ。バラモスであった頃よりも強力な炎全てを防ぐ事は出来ないまでも、その勢いを大きく削ぎ、それを掲げる勇者の身体と、その後ろに控える三人の仲間達を護っていた。

 それでも防ぎ切れない炎の熱がカミュの肌を焼き、剣を握る右腕が焼け爛れる。だが、精霊神ルビスと共に封印されていた神代の鎧が、その火傷を徐々に癒して行った。

 

「小癪な人間め!」

 

 激しい炎を突き破り、再び剣を持って駆けて来るカミュを見たバラモスブロスの頭部に血管のような筋が浮かび上がる。怒りを隠そうともしないバラモスブロスは、突進して来るカミュに合わせるように拳を振り抜いた。

 だが、突き出された拳は、カミュの身体に当たる事なく、ゾーマ城最深部の床へと突き刺さる。凄まじい音と振動を響かせ、床に大きな亀裂が入っている事からも、バラモスブロスの一撃が強烈な物である事を物語っていた。

 

「ふん!」

 

 バラモスブロスの拳を回避したカミュは、そのままその巨体を支える足を横薙ぎに薙ぎ払う。王者の剣が光の筋を生み出し、その筋は強固な筈のバラモスブロスの皮膚を斬り裂いた。

 噴き出す体液と共に巨体が揺らぐ。そのまま追い討ちを掛けようとしたカミュであったが、突如横から現れたバラモスブロスの腕によって弾き飛ばされた。フロアを照らす闇の炎が灯る燭台へ直撃したカミュは、血液を吐き出しながら倒れ込む。しかし、間を置かずに自身へ回復呪文を唱え、追撃の炎を防ぐ為に盾を掲げた。

 

「リーシャさん、私達も参戦しますか?」

 

「いや……サラとメルエの魔法力を極力温存したい。もう暫くはカミュに任せる」

 

 一進一退というよりは、若干ではあるがカミュが圧され始めている事を感じたサラは、自分の前に立つリーシャへ問いかける。だが、カミュが一人で戦う事を最も反対していた筈のリーシャは、首を横へ振った。

 この先の戦いは、バラモスブロスの後方で静かに戦いを見つめる大魔王との激戦となろう。その時には、サラが持つ様々な補助呪文と、メルエの持つ圧倒的な火力が不可欠となる。それをカミュも理解しているのかもしれない。圧倒的な魔法力を持つ大魔王が相手となれば、最終的に物を言うのは、カミュやリーシャが持つ直接的な攻撃である事は間違いではないが、それでも彼等が持つ刃を大魔王へ届かせるのは、後方支援組二人の呪文である事は確かであった。

 しかし、バラモスブロスという敵が、いつまでもそのような状態を続けられる程に甘い相手ではない事も事実であり、自分達も参戦しなければならない状況になるとは考えてはいる。それでもまだその時ではないというのがリーシャの決断だった。

 

「そんなに心配そうな顔をするな、メルエ。カミュは大丈夫なのだろう?」

 

「…………ん……カミュ………だいじょうぶ…………」

 

 心配そうにリーシャを見上げるメルエの頭に手を置いたリーシャは、再びカミュとバラモスブロスとの戦闘へと視線を向ける。そして、その問いかけを受けた少女は、自信満々に大きく頷き、同じように絶対的保護者である青年へと視線を動かした。

 リムルダールでの最後の朝、カミュが発した『大丈夫』という言葉を初めてメルエが受け入れている。それまでは、一行の中の誰よりも信憑性のない言葉であった彼の『大丈夫』が、確固たる物へと変わった瞬間でもあった。

 その彼が満を持して前面へと立っている。無謀でも蛮勇でもなく、自信を持って一人で戦い始めた彼の力を彼女は信じていた。不安もあるし、恐怖もある。それでも、この少女の中にある特別な言葉を口にした時の彼の表情を思い出し、杖を握る手に力を込めた。

 

「鬱陶しい!」

 

「バイキルト」

 

 バラモスブロスが吐き出した炎を防ぎ切ったカミュは、その拳を掻い潜ってバラモスブロスへと肉薄する。近付くカミュを振り払うように振るわれた腕を避け、唸りを上げる蹴りをも回避した。

 そして、避け際に振るう王者の剣を、後方から援護の魔法力が覆う。光り輝く神代の刃に、人類唯一の賢者が放った魔法力が加わり、その攻撃力を大幅に上げた。

 一本の光の筋となった剣撃は、バラモスの左足の付け根を大きく斬り裂き、大量の体液を噴き出させる。裂傷の入った足では、巨体を支える事が出来ず、大きく崩れるようにバラモスブロスの身体が傾いた。

 

「甘いわ!」

 

 身体が落ちて来た事で一気に勝負を掛けようと駆け出したカミュの目の前の空気が一気に圧縮する。その呪文の効力に気付いたメルエとサラが詠唱に入る時には、歪んだ大気が一気に弾け飛んだ。

 凄まじい爆発音と凄まじい熱がフロア全体を覆い尽くす。爆発の煙が周囲を包み込む中、青白い輝きが上空に跳ね上げられていた。爆風によって弾き飛ばされたカミュはそのまま床へと落ち、光の鎧の能力によって徐々に身体が癒えて行くが、それでも爛れた皮膚がすぐに回復する事はなく、王者の剣を支えにゆっくりと立ち上がる。そして、それを待っていたかのように振り抜かれたバラモスブロスの拳を受け、壁に直撃した。

 

「ぐっ」

 

「…………リーシャ…………」

 

 バラモスブロスが放ったイオナズンは、後方で見守っていた三人にも被害を及ぼす。メルエを庇うように前に立ったリーシャの身体は、爆風の熱によって爛れ、吹き飛んだサラは大きな柱に背中を強打していた。

 マホカンタという呪文も、さざなみの杖の効力も間に合わず、勇者一行は瞬く間に崖っぷちに追い詰められる。カミュに攻撃を任せていたという理由はあるが、魔王バラモスの唱えるイオナズンという呪文に対する警戒が弱かったというのが最大の理由であろう。

 背中を強打したサラが大量の血液を吐き出す。内臓を傷つけてしまったという事が明確に解るその行為を見て、メルエがあの時の恐怖を思い出してしまった。

 全員が倒れ伏し、彼女の絶対的な保護者であるカミュさえもバラモスの暴力によって打ち伏せられる。その光景は、その三人によって光を与えられ、愛を与えられた少女にとって、絶望以外の何物でもなかった。

 自分の目の前に立つ女性戦士は、あの時とは異なり立ってはいるが、盾を翳す腕も、斧を持つ腕も、痛々しい程に焼け爛れている。焦げ臭い匂いを放ちながらハラハラと床へ落ちる髪は、輝くような金色ではなく、炭化したような色をしていた。

 後方に弾き飛ばされた賢者は、あの時のように脊髄を傷つけた訳ではないのだろうが、床へ倒れ伏し動く事が出来ない。拳によって殴りつけられた勇者もまた、立ち上がろうとしてはいても、剣を支えにしなくてはならない程の状態であった。

 

「…………サラ…………?」

 

 しかし、大魔王ゾーマの魔法力によって安易な増強をしたバラモスとは異なり、勇者一行は、バラモスを討ち果たしてから更に二年以上の時間を掛けて成長を続け、様々な神秘と向き合って来たのだ。

 泣きそうに眉を下げていたメルエの瞳に映る保護者達が淡い緑色の光に包まれる。目の前の戦士の火傷が消え、立ち上がろうとしていた勇者が駆け出した。そのような神秘を施せる人間など、メルエが知る限りは一人しかいない。

 そして、振り返ったメルエの瞳に映った姉のように慕う人物は、これまで彼女が知るそれではなかった。まるで、ルビスの塔という場所で見た精霊神ルビスのように神々しく輝き、聖なる祠で見た儚い青年のような存在感を持っている。

 頭に付けたサークレットに嵌め込まれた濃い青色をした宝玉は、その人物を包み込むような輝きを放ち、その輝きをカミュ達全員にまで届かせている。それは、彼女の力を誰よりも知るメルエにとっても、とても神秘的な物に映った。

 

「……ルビス様、ありがとうございます」

 

「…………サラ…………!」

 

 リーシャとメルエの許へ戻ったサラは、胸の前に手を合わせ、最早この世界にはいない精霊神への祈りを奉げる。その姿に感極まったメルエは、大好きな姉のような存在の腰へと抱き付いた。

 未だに完全に傷が癒えた訳ではない状態のリーシャが振り返り、サラの表情を見て何かを感じたように頷く。それに対して笑顔を見せたサラの視線の先には、再びバラモスブロスへと剣を振るう勇者の姿があった。

 

「そのサークレットに嵌め込まれた宝玉が、リムルダールで話に出た『賢者の石』なのだな」

 

「おそらくは……。ダーマ神殿にて、教皇様からこのサークレットを頂いた時、これはメルエの曽お爺様である古の賢者が残した物だと教えられました。『賢者様の知識と、ルビス様のお力が助けとなろう』という言葉の意味が、ようやく理解出来ました」

 

 リムルダールの町で町外れに居た青年が語った『賢者の石』という存在。何度も使用可能な回復の石。そのような奇跡のような物が実在するとは信じていなかった。

 古の賢者という存在が、このアレフガルドでも語り継がれているのであれば、その力の強さを誇張する為に作られた逸話なのだろうと考えていたのだ。

 だが、その石は実在する。背中を強打し、倒れ伏したサラの瞳に、同じように床に伏すカミュの姿と、全身に火傷を負っても立ち続けるリーシャの姿が映った。そしてその視界の端で、絶望の色を宿した瞳を向けるメルエの姿が見えた時、サラもまたあの絶望的な戦闘を思い出したのだ。

 あのような絶望を再びメルエに味合わせてならない。その一念で、立ち上がるよりも回復呪文を先に唱えようとしたサラの頭部から神々しい光が放たれたのは、その時であった。

 サラの修得しているベホマラーという呪文のように、彼女から離れた相手に対しても回復の光を注ぎ、その傷を癒す。その力は、最上位の回復呪文であるベホマには届かないまでも、ベホイミよりも上位に値するだろう。祈りに反応する『祈りの指輪』のように、『賢者の石』もまた、装備者の願いに反応する物なのかもしれない。

 

「何度も何度も忌々しい!」

 

「何度も相手をしてやる程、俺達も暇ではない!」

 

 バラモスブロスにとって、カミュ達こそ脅威であろう。バラモスブロスもまた、修復能力を有してはいるが、カミュ達のように、瞬時に完全回復が出来る訳ではない。何度倒そうと、何度吹き飛ばそうと、絶望に苛まれる事なく向かって来る人間の姿は、恐怖を感じる程に異様な姿であろう。

 忌々しそうに眉を顰め、向かって来るカミュに向かってバラモスブロスは拳を振るうが、先程派手に斬られた足の傷は癒え切っておらず、踏ん張りが効かない。腰の入らない拳が脅威になる事はなく、簡単に避けたカミュが、上段から王者の剣を振り下ろした。

 伸び切ったバラモスブロスの腕に入った剣先は、そのまま全体重を掛けた一振りによって真下へと抜けて行く。腐敗した体液を噴き出しながら、太い腕が床へと落ちて行った。

 

「グオォォォォ」

 

 斬り飛ばされた腕の痛みと、それによる怒りでバラモスブロスが雄叫びを上げる。そして、その怒りを吐き出すように口を開き、カミュに向かって激しい炎を吐き出した。

 だが、最早、カミュにとって炎など恐れる程の物ではない。真っ直ぐに掲げられた勇者の盾は、激しく燃え盛る炎を横へと受け流すようにカミュを護り、その身体に炎を届かせる事はなかった。

 炎の切れ目を見たカミュは、王者の剣を握り直し、真っ直ぐに剣を突き出す。足の修復が間に合わないバラモスブロスの胴体部分を覆う緩やかな布を突き破り、剣は肉を貫いた。

 腹部を突き刺され、そこから溢れる夥しい量の腐敗した体液が床を満たして行く。即座に修復に入るが、それを遮るようにカミュは剣を突き下ろした。

 

「き、貴様!」

 

 バラモスブロスにとっては、二度目となる死への恐怖。増強された力を以ってすれば、魔族さえも圧倒する魔法力を有する賢者の末裔だろうが、自分を討ち果たした勇者を名乗る人間だろうが、瞬時に消し去る事が出来ると考えていた。それにも拘らず、蓋を開けてみれば、続く劣勢。所々で呪文使い達の援護があったといえども、基本的に矮小な人間との一対一の状況の中で圧し負けている事に、怒りと焦りが浮かぶ。

 振り抜かれた腕を勇者の盾で防御したカミュであったが、その勢いを殺す事が出来ず、再び壁付近まで飛ばされた。追い討ちを掛けるようにその場所に向かって再度バラモスブロスが手を振り抜く。瞬時に圧縮する大気が、大爆発を起こし、床や天井の石を弾けさせ、土埃を巻き上げた。

 イオナズンという最上位の爆発呪文の影響をまともに受けてしまえば、如何にカミュであろうと五体満足にはいられない。だが、巻き上がる土埃を見つめている三人の女性に動揺はなかった。むしろ、杖を突き出した状態の少女を庇うように、二人の女性が一歩前に踏み出している。それは、青年自身が無事である事を物語っていた。

 

「何処へ行った!」

 

 爆発が引き起こした土埃が消えた後、そこにカミュの姿はなく、ひび割れた床石が散乱しているだけ。それに気付いたバラモスブロスは、鈍い動きで周囲を見渡す。先程貫かれた腹部へ自己修復機能を回した為、足の傷は未だに癒えていないのだ。

 周囲を見渡してもその姿は確認出来ず、バラモスブロスが怒りの叫びを上げた時、サラとリーシャの後ろに控えていた少女が杖を高々と掲げる。バラモスの方からその姿は見えず、前方を見ている二人もまたその姿を確認出来なかった。

 小さく呟くように紡がれた呪文は、サラでさえも聞き取る事が出来ず、誰も見る者の、聞く者のいない中、その呪文の詠唱は完成する。

 

「え?」

 

「カ、カミュ……」

 

 突如サラとリーシャの肩を掴んで前へ出て来た人物の姿を見た二人は、驚愕の言葉を発した。

 何故なら、先程爆風に巻き込まれた筈のカミュが、彼女達の後方から現れたからだ。カミュが生きているという自信はある。それは、バラモスブロスがイオナズンを唱える直前に、メルエがマホカンタを唱えているのをサラもリーシャも聞いているからであり、その爆風の余波がバラモスブロスの身体を多少なりとも傷つけているからであった。

 だが、瞬間移動のように、自分達とメルエの間に割り込んで来ているなどとは予想も出来ない。特にリーシャとしては、カミュが態々メルエを危険に晒すような行動を取る筈がないという思いもあった。

 それでも、サラとリーシャの間を割って出て来たのは、紛れもなくカミュそのものである。その姿形はカミュそのものであり、口を開いていない為に声は聞く事が出来ないが、見間違いなどという程度の物ではない。何から何まで同じ姿をした青年が荒れ狂うバラモスブロスの前に一歩踏み出した。

 

「そこか!?」

 

 だが、怒りに駆られたバラモスブロスは、その違和感に気付かない。初見は驚愕の声を上げたリーシャとサラであったが、一歩前へ踏み出した青年の姿を見て、その明確な違いを理解した。

 一歩前へ踏み出した勇者の姿をしたそれは、彼が身に着けていた神代の鎧も盾も持ってはいない。そして、手には剣ではなく、彼の身長よりも低い杖を握っていたのだ。その杖は、一行の内で唯一人が持つ事を許された物。その杖は所有者としてその少女を認め、その少女しか扱う事の出来ない物となっていた。

 そこから導かれる結論は、一歩前に出た者はカミュではなく、その姿を模した魔法使いの少女であるという事実。それが『悟りの書』に記された最後の呪文の効力である事を理解したサラは、改めてこの少女の異常性に驚きを表した。

 

「消え失せよ!」

 

 振り下ろされた拳がカミュに変じたメルエを打ち抜こうとする時、彼女の前に盾を掲げた女性戦士が割り込む。カミュ本人であれば、彼女が割り込む事もなかっただろう。だが、杖を持った勇者という奇妙な姿から全てを察した彼女は、その拳に耐えるだけの力はないと判断し、自らが攻撃を受ける為に前へ出たのだ。

 周囲の風の唸りが聞こえる程の拳が一直線に振り下ろされる。リーシャの瞳には、全ての速度が緩慢に見える程に緩やかに時間が流れ、来る衝撃に備える為に、床を力一杯踏み締めた。

 振り下ろしの攻撃は、本来は受けてはいけない攻撃でもある。上から全体重を掛けた攻撃というのは、受けてしまえばそれを弾き返す以外に方法はなく、攻撃者よりも腕力が上でなくては、徐々にその刃が受けた者へ迫るからであった。

 だが、そんな覚悟を決めたリーシャの意識は、一瞬の内に刈り取られる事となる。

 

「…………アストロン…………」

 

「え?」

 

 杖を持った勇者がその杖を振り抜く。そして、紡がれた言葉を聞いたサラは、先程以上の驚きを以って固まってしまった。

 紡がれた詠唱は、世界広しといえども勇者と呼ばれる人間にしか行使する事の出来ない絶対防御の呪文。どれ程に魔法力の才能を有していても、どれ程の魔法力の量を有していても、絶対に行使する事など不可能な筈の呪文であったのだ。

 しかし、サラの考えを否定するように、杖から発した魔法力は盾を掲げたリーシャを包み込み、その身体を何物も受け付けない鉄の塊へと変えて行く。完全に鉄と化した女性戦士像に向かって振り下ろされたバラモスブロスの拳が派手な音を立てて衝突した。

 何かが砕けるような音が響き、拳を形成していた骨が砕け、腐った体液が飛び散る。唖然とするサラを余所に、戦闘を終了させる最後の瞬きが煌いた。

 

「うおぉぉぉ」

 

「二度と会う事はないだろう」

 

 バラモスブロスの視界に入った確かな煌き。それは、全ての生命体の願いの結晶となる剣が放つ輝きであった。

 爆風を利用して高く跳躍したカミュが、重力に従って加速しながら落ちて来る。飛翔する神鳥のように鋭い輝きは、一気にバラモスブロスとの距離を詰め、その首へ剣を突き入れた。

 一閃。その言葉が当て嵌まる程に鮮やかな剣筋は、バラモスブロスの首を斬り裂き、その剣を持った人間が着地を果たす。カミュに向かって放ったバラモスブロスの苦悶の声の余韻が木霊する中、ゆっくりとした動作で剣に付着した体液を振り払ったカミュが言葉を漏らした。

 その言葉から遅れる事数秒、上の世界を恐怖に陥れ、ゾーマの力で甦った強者の首がゆっくりと床へと落ちて行く。まるで朽ち果てた果実のように落ちた首は、バラモスブロスという強者を支えていた魔法力が放出される契機となった。

 

「…………カミュ…………!」 

 

 既に呪文による変身が解け、元の姿に戻っていたメルエが、剣を鞘へ納めた青年へと抱き着く。『大丈夫』という魔法の言葉を心から信じていたのだろうが、それでも信頼と心配は別の物であるのだろう。嬉しそうに微笑みながらも涙を浮かべる少女の姿を見て、ようやく勇者にも小さな笑みが戻った。

 そんな二人の様子に頬を緩めたリーシャであったが、倒したバラモスブロスの末路を見て、再び顔を顰める。その視線の先を見たサラもまた、口元に手を当てて、その惨状から目を背けた。

 

「……なんて惨い」

 

 バラモスブロスであった物は、やはり正確に甦った訳ではなかったのだ。

 膨大な瘴気と魔法力によって、無理やり身体を形成されただけであり、その肉も皮膚も、既に腐敗が進み、彷徨う亡者となっていたのだろう。

 首を落とされた事で、バラモスブロスを形成していた魔法力と瘴気は霧散し、身体を維持する事が不可能となった。腐敗していた肉は、溶けるように崩れ、その奥にある骨だけが見えている。崩れ去る肉が放つ腐敗臭は強いが、全て瘴気となって闇の炎に吸い込まれて行った。

 魔王バラモスという強者の誇りと、自我を知っているカミュ達だからこそ、憐れみさえも感じるその末路に顔を顰めたのだ。

 

「よもや、モシャスまで使いこなすとは……。尚更に、その血筋を残したバラモスの罪は重いの」

 

 腐肉が全て消え失せ、残った骨が床へと崩れて行く。散乱したバラモスであった骨の向こうから、再び巨大な闇が声を発した。

 キングヒドラの時のように、カミュ達を嘲笑うような賞賛はない。だが、その余裕は些かも崩れる事なく、大きな威圧感を感じるものの、そこに殺気が含まれる事はなかった。

 他人事のようにメルエが行使した呪文を讃え、その血筋の持つ力を評価する。それでも、そこに何ら脅威を感じている様子はなく、ただ、その血筋を残してしまった部下の失態に困惑しているように装っていた。

 

「メルエが行使した呪文は、モシャスというのか?」

 

「…………ん…………」

 

「悟りの書の最後のページに記されていた呪文です。本来は、変化の杖のように姿形だけを変える呪文であり、古の賢者の一人が遊び心で残したのだと考えていましたが、まさか、変化した相手の持つ呪文などさえも行使出来るようになるとは……。おそらくですが、メラゾーマの魔法陣を読み解いたメルエだからこそ出来る芸当なのだと思います」

 

【モシャス】

サマンオサ国が所有していた国宝『変化の杖』のように、行使者の姿を変える事の出来る呪文である。だが、エルフや魔物、動物などという物にさえ変化出来る変化の杖とは異なり、呪文行使者がよく知る相手の姿にしかなれないという制限がある。ただ、変化する相手を深く知っているのならば、その効果の限界はない。その力やその能力さえも模写する事が可能であり、熟練者となれば、自身が行使出来ない呪文でさえも模写出来ると云われている。

 

「改めて、賛辞を送ろう。余興としては、十分であった」

 

 カミュ達一行の間の会話を遮るように発せられた大魔王の言葉は、最終決戦の開幕を示している。ようやく辿り着いた大魔王ゾーマという存在との対決に、武器を持つ全員の手に力が籠り、何も持たない手にはじっとりとした汗が噴き出した。

 だが、全員の死力を尽くした訳ではないとはいえ、魔族の最頂点に君臨すると言っても過言ではない相手との二連戦を経て尚、大魔王ゾーマの座る祭壇までは届かない。そして、それを断言するかのように掲げられたゾーマの手が、再び強い圧力を生み出した。

 

「だが、罪重き者には、その罪を濯ぐ機会を与えてやらなければなるまい。その苦しみも悲しみも、全て余の愉悦となろう」

 

 燭台に灯った全ての闇の炎が暴れ出す。噴き上がる瘴気の濃さは、キングヒドラ、バラモスブロスという強敵を葬ったカミュ達であっても、身動きさえ出来ない程に強かった。

 最悪の夢は終らず、覚める事もない。どれ程に踏み込んでも、どれ程に斬り込んでも、大魔王ゾーマの場所まで届かない。それでも彼等は一歩ずつ前へと進むしかなかった。

 それがどれ程の恐怖を感じる物であろうと、どれだけ険しい道であろうと、この場所まで辿り着いた彼等に、最早、後退という選択肢は残されていないのだ。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
GWも終わり、何とか今月中にもう一話と考えています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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バラモスゾンビ

 

 

 

 カミュ達の目の前に散乱するバラモスブロスであった残骸に、闇の炎が荒れ狂うように入り込む。巻き上がるような炎が全ての骨へと入り込み、濁った色へと変化して行った。

 瘴気と化した炎は、散乱する骨を集め始め、一つの形へと形成して行く。その瘴気の濃さにカミュ達は一歩も動く事が出来ず、只々成り行きを見つめる事しか出来ない。そして、再び仮初の命が吹き込まれて行った。

 

「グオォォォォォ!」

 

「……ここまで来ると、流石に哀れだな」

 

 吹き込まれた瘴気による命は、バラモスの骨を生前と同等に組み合わせる。最早、言葉を話す事は出来ず、雄叫びとも悲痛の叫びとも取れる奇声を発するだけになったそれを見たリーシャ達は、余りの光景に言葉を失った。

 だが、言葉を失い、動く事さえも出来ない三人の前に立った青年が、静かに口を開く。どれ程の圧力を受けても、目標を見失う事なく、真っ直ぐに前を見る事の出来る『勇者』が再び剣を握った。

 大魔王ゾーマの配下となった瞬間から、このバラモスという魔族には死さえも許されていなかったのかもしれない。精霊神ルビスの封印という功績を持ち、他の魔族よりも圧倒的な力を有するからこそ、バラモスはゾーマの傍にいる事が出来たのだろうが、その代償として、彼は常にゾーマの要望に応え続けなくてはならなくなった。

 応えられない場合は、その権力に応じた報いを受ける事になる。逆に言えば、それだけの権限をバラモスはゾーマによって与えられていたのだろう。

 

「行け、バラモスゾンビよ。その生贄達を余に奉げよ」

 

 既に生きる屍と成り果てたバラモスは、骨だけの姿でカミュ達に襲い掛かる。ドラゴンゾンビやスカルゴンと同様に、物言わぬ屍となってまで、大魔王の魔法力に縛られ続けるその姿は、数々の魔物や魔族を葬って来たカミュ達としても悲痛な思いを感じる物だった。

 この骨の魔物がバラモスである名残は、その骨に付着するゆとりのある衣服の切れ端と、首から下がる趣味の悪い首飾りだけである。上げる咆哮も、最早生前の頃とは明らかに異なる物であり、生物としての嫌悪感しか感じない奇声に近い物であった。

 巨大な身体を動かしながら、近付いて来るバラモスゾンビを見上げる一行全員が戦闘態勢に入る。それは、彼等四人が、キングヒドラやバラモスブロス以上の強敵である事を認識しているという事であった。

 

「ぐっ」

 

 振り抜かれたバラモスゾンビの腕が勇者の盾を掲げるカミュに直撃する。想像以上の力によって吹き飛ばされたカミュは、横の壁に直撃し、床へ倒れ伏した。

 カミュの状態を見るだけでも、バラモスゾンビの力がバラモスブロスよりも上である事を物語っている。既に筋肉も何もない骨に腕力があるという事自体が可笑しな話ではあるが、その分、自身の肉体を気遣う必要もなく、通常以上の破壊力を発揮出来るのかもしれない。

 倒れ伏したカミュが口から血液を吐き出す。体内までも傷つけられた証明であり、それを見たサラは祈りを奉げるように瞳を閉じた。その瞬間にサラのサークレットに嵌め込まれた深い青色をした宝玉が輝きを放つ。『賢者の石』と伝わる宝玉がその力を解放し、仲間達の傷を癒して行った。

 

「本当に何度も使用する事が出来るのだな」

 

「但し、ベホイミ程度の力しかありませんから、深い傷までは完全回復させる事は出来ないと思います」

 

 立ち上がったカミュを見たリーシャは、祈りを終えたサラへと語り掛ける。『賢者の石』という物の逸話しか聞いた事のない彼女は、『何度も使用可能』という部分を正直疑っていた。故にこそ、再び顕現された奇跡を目の当たりにし、その異常性と有用性を改めて感じたのだ。

 しかし、それはカミュやサラが行使する最上位の回復呪文であるベホマ程の力はなく、サラが修得しているベホマラーと同等の力しかない。それを告げるサラへ、笑顔で『十分だ』と答えたリーシャは、そのままバラモスゾンビに向かって駆け出した。

 最早、一対一という構図や、魔法力などの温存を考えていられる状態ではない。目の前に居るバラモスゾンビという敵は、ここまで遭遇した魔物や魔族の中でも最上位に立つ強敵であろう。全員の総力を持って当たらなければ、大魔王ゾーマの討伐という悲願を成し遂げるどころか、その前に全滅してしまう可能性さえもあった。

 

「カミュ、合わせろ!」

 

 駆け出したリーシャは、迫り来るバラモスゾンビの腕を掻い潜り、カミュへと指示を出す。前衛二人が各々の武器を持って左右に別れ、その太い大腿骨を粉砕しようと同時に武器を振るった。

 しかし、大魔王ゾーマの魔法力によって生み出されたバラモスゾンビは、斬りつけられた部分を瘴気で包み込み、即座に回復作業を始めて行く。舌打ちを鳴らしたリーシャは、死角から迫ったバラモスゾンビの腕を受け、床を転がって行った。

 単純な攻撃力を測るのならば、バラモスゾンビはトロル族や大魔人のような魔物よりも上であろう。それらの攻撃を受けても吹き飛ばされるような事はなかったリーシャが、床を数度跳ねる程に弾き飛ばされていた。

 

「メルエ、カミュ様の援護を!」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの姿を見たサラは、その状態が深刻であり、賢者の石での回復では間に合わない可能性を感じ、メルエを残して倒れ伏すリーシャの傍に駆け出す。後を託されたメルエはしっかりと頷きを返し、カミュに向けて杖を振るった。

 それはスカラという、防御呪文。術者の魔法力を身体に纏わせ、その身体の防御力を上げて行く効果を持つ物である。メルエの魔法力によって護られたカミュは、再びバラモスゾンビと対峙した。

 知らず知らずに額から流れ落ちる汗は冷たい。不用意に動けない一触即発の緊迫感は、心地良さなど微塵もない命のやり取りであった。オルテガやサイモンのような英雄と謳われる者達の中には、このような緊迫した場面を楽しむ人間もいるのかもしれないが、元々、戦う事に何の感情も差し込まないカミュには不快な物でしかない。だが、それでもカミュは身動き一つせず、剣を構えたままでバラモスゾンビの動きを待った。

 

「…………バイキルト…………」

 

 不思議な帽子を装備しているメルエは、同じ呪文を行使してもサラよりも消費魔法力が少ない。元々、貯蔵魔法力の量も多いメルエが、その消費魔法力も軽減されるのだから、その行使回数は膨れ上がるだろう。それを自覚しているメルエは、己の大事な者を護る為ならば躊躇いはなかった。

 少女が杖を振った瞬間、カミュとバラモスゾンビの両者間に張り詰められた緊迫の糸の一本が切れる。その僅かな空気の変動は、強者にとっては大きな変化であり、過敏に反応したバラモスゾンビはその腕を一気に振り下ろした。

 このような緊迫した場面は、後手にさえ回らなければ後攻の方に分がある。一瞬の隙を突いたカミュは、バラモスゾンビが振り下ろした拳に合わせるように剣を振り抜いた。剣を覆っているのは人類最高位に立つ魔法使いの膨大な魔法力であり、その鋭さを増した刃が、輝きとなってバラモスゾンビの拳を斬り裂く。

 

「グオォォォォ!」

 

 生きる屍となり、理性も全て吹き飛んだバラモスゾンビに、最早言語を話す能力はない。不快な奇声を発しながら斬り裂かれた拳を再度振り下ろす姿を見上げたカミュは、哀しみさえ含んだ瞳をバラモスゾンビへと向けた。

 魔王バラモスは、上の世界では恐怖対象であり、絶対悪の象徴でもあった。誰もがその存在を恐れ、誰もがその名に恐怖していただろう。カミュのように、その討伐を命じられた者は、何処かで絶対的な死を予見していた筈である。それ程の存在であったのだ。

 あのネクロゴンドの奥に聳え立つ城でその姿を見た時、培って来た経験と自信を打ち砕く程の存在感を放ち、その強大な力に絶望さえカミュ達は感じている。だが、あの時の魔王バラモスには、自身が魔王である誇りと、それを誇示しようとする想いがあった。

 骨だけとなった今よりも、単純な力は弱いかもしれない。だが、あの誇りとそれを示そうとする意志は、倒そうと挑んだカミュ達の想いと同じく強い物であった筈だ。その姿を知っているカミュにとって、理性も意志も、頭脳も言語も、全てを失ったバラモスは見るに耐えない存在となっていた。

 

「ふん!」

 

 振り下ろされた拳を避け、陥没する床に足を取られる事なく踏み込んだカミュは、煌く剣を振るう。一閃された王者の剣は、バラモスゾンビの腕の骨を斬り付け、硬い骨に亀裂を入れた。

 即座に修復作業に入るバラモスゾンビの身体が、濃い瘴気を放つ。黒い闇の炎に包まれた腕の骨が亀裂を修復し、再び元通りの姿へと変わって行った。

 生半可な傷であれば、即座に修復してしまう程の瘴気の量。一気に致命傷を与えなければ、打倒する事は難しいだろう。それを理解したカミュは大きな舌打ちを鳴らした。剥き出しの骨であるバラモスゾンビの身体は、硬い骨であるというだけで防御力が高い訳ではない。だが、その攻撃の破壊力は凄まじく、バラモスゾンビの攻撃を警戒しながら剣を振るうとなれば、渾身の力を込めるという場面を作り出す事が難しいのだ。

 

「カミュ、決着をつけよう」

 

 だが、それも一対一という状態であればの話である。

 サラの回復呪文によって戦線へと戻って来たリーシャが、魔神の斧を握り締め、バラモスゾンビを見上げる。カミュという勇者の横で常に武器を握って来た彼女は、勇者との間合いも、剣を振るう呼吸も、そして後方からの援護のタイミングも熟知していた。

 頼もしい味方が戻って来た事で、大きく息を吐き出したカミュは、再び迫るバラモスゾンビの巨体へ鋭い視線を送る。同時に顔を上げたリーシャは、その一瞬で振り抜かれたバラモスゾンビの蹴りを間一髪で避けた。

 

「……一瞬の隙が命取りになる」

 

「ああ。だが、私達の旅自体がそのような物だったぞ」

 

 唸りを上げた風がリーシャの頬を切り、小さな傷から血液が流れているのを見たカミュは、軽く左手を掲げて、最下位の回復呪文を唱える。頬の傷が綺麗に消えたのを確認し、再び剣を握り込んだ彼は、自分の隣に立つ事を唯一認めている女性戦士へと警告を口にした。

 一瞬でも気を抜いてしまえば、命諸共に刈り取られる程の攻撃力をバラモスゾンビは有している。サラやカミュが最上位の回復呪文を修得していても、完全に命を奪われた物を蘇らせる事は出来ない。それを可能とする道具は、既にカミュの腰に下がる革袋の中にはないのだ。

 だが、リーシャの言う通り、彼等の旅路は常に死と隣り合わせであった。気を抜けば死へと直結する道を歩み、死を賭して戦いを続けて来ている。カミュが語った忠告などは、今更な物であろう。忠告を蹴ったリーシャの顔にも、それに頷きを返したカミュの顔にも不敵な笑みが浮かんでいた。

 

「…………スクルト…………」

 

 そして、そんな二人を補助する声が後方から響く。一行全員の身体を魔法に特化した少女の魔法力が包み込む。カミュに至っては、先程のスカラの魔法力が残っている上に重ね掛けをされた状態となり、尚更に強い護りに護られる形となった。

 それに加えて、リーシャの武器にも己の魔法力を分け与える為に少女は杖を振り、前衛の二人の戦闘準備が完了する。剣と斧を振るう前衛二人に、それを補助する後衛二人。それは、この一行が七年近くに及ぶ旅路を乗り越えて来た最強の布陣であった。

 

「グォォォォ」

 

 叫ぶ事しか出来ないバラモスゾンビの腕が振り下ろされる。しかし、万全の態勢となった一行にとって、その攻撃は脅威とはならないだろう。バラモスブロスのように、多彩な攻撃がある訳ではない。魔王バラモスのように他者を圧倒する程の存在感がある訳でもない。ただ、力任せの攻撃を何度も受ける程、彼等の経験は優しい物ではなかったのだ。

 振り下ろされた拳が突き刺さる床には、前衛二人の姿はない。巻き上がった土煙が視界を遮る中、カミュとリーシャは左右に分かれて己の武具を振るった。

 

「ちっ」

 

 しかし、大魔王ゾーマの魔法力によって甦った魔王であった者の残骸は、既に失った視覚でカミュ達を捉えている訳ではない。右から斬りかかったリーシャの斧を左腕で払い、左側から剣を振るったカミュの身体ごと、引き戻した右拳で薙ぎ払った。

 吹き飛ばされたカミュは再び壁に突き刺さり、それを見たリーシャが舌打ちを鳴らす。そんなリーシャを無視するように上げられたバラモスゾンビの片足が、壁から崩れ落ちたカミュを潰そうと捻り落とされた。

 

「…………イオラ…………」

 

 それでも、バラモスゾンビの行動全てを容認する事など出来ない。振り下ろされる片足に向かって振り抜かれた杖が、大気を急速に圧縮して行く。立ち上がるカミュの耳に響く甲高い音が、瞬間的に圧縮された大気が弾けた事を物語った。

 爆発はバラモスゾンビの片足を直撃し、その巨体ごとカミュから遠ざけて行く。横合いから受けた圧力によって、バランスを失った巨体がよろめくのを見たリーシャは、そのままバラモスゾンビの腰目掛けて魔神の斧を振るった。

 賢者の石の癒しの光を受け、立ち上がったカミュは、リーシャの一閃によって砕けた骨の破片が降り注ぐ中、再びバラモスゾンビの大腿骨目掛けて剣を振り下ろす。甲高い音を響かせて剣と骨がぶつかり合い、その鬩ぎ合いに負けた骨に大きな亀裂が入った。

 

「ちっ、厄介な」

 

「カミュ! 継続的に攻撃を加えなければ、倒せないぞ!」

 

 リーシャが振るった斧が直撃したバラモスゾンビの腰骨は砕け、大きな亀裂が入っている。同じようにカミュが斬り付けた大腿骨にも亀裂が入っているのだが、身体を支える事を優先したバラモスゾンビは、腰を優先して修復を始めていた。

 それを見たカミュは盛大な舌打ちを鳴らし、戻って来たリーシャは、治癒能力を上回る攻撃を継続的に加えていかなければ打倒出来ない事を語る。

 バラモスやバラモスブロスにも自然治癒を上回る、大きな修復能力があったが、それでも生身の血肉があった彼らと、骨だけであるバラモスゾンビには修復に要する時間に圧倒的な違いがあった。肉を塞ぎ、体液が通う管を戻し、肉を繋ぐ筋を戻す。それが完了しなければ修復が終了しなかった前者とは異なり、砕けた骨を瘴気によって戻すだけの作業である後者では、後者の方が動き出す為の時間が早いのだ。

 

「カミュ様、リーシャさん、下がってください」

 

 一度止まってしまえば、再び攻撃を加える隙を探す作業となる。膠着状態に陥ってしまったカミュとリーシャは、後方から届いたサラの声に即座に反応した。

 飛び退くように後方へと下がり、バラモスゾンビとの距離が開いたと同時に、賢者の隣に立つ少女が大きく杖を振るう。振るわれた杖の先から発現した魔法力が、空中に大きな魔法陣を描き上げた。

 それと同時に急速に圧縮されて行く大気。耳鳴りがし、視界が歪む程に圧縮が進み、まるでカミュ達とバラモスゾンビを隔てるように大気の壁が生み出された。

 

「…………イオナズン…………」

 

 最後の仕上げのように杖を再度振るった少女が、詠唱の完成を告げる呟きを口にする。同時に全てを包み込む膨大な光が弾け、凄まじい爆発音と爆風がゾーマ城最下層を覆った。

 本来、洞窟内などでの行使を制限していた呪文であったが、この場所の耐久性はバラモスブロスの唱えたイオナズンに耐えた事で証明されている。故にこそ、サラはその行使の制限を解除し、膠着した流れを動かす起因としてメルエに指示を出したのだ。

 今から思えば、この少女が唱えるイオナズンの威力は、魔王バラモスや、強力化したバラモスブロスが行使した同呪文よりも上であろう。地震のように床は揺れ、その衝撃に耐えられない部分は地割れのように亀裂が入る。壁を形成する岩は崩れ、天井を支える支柱にも大きな亀裂が入っていた。

 何度も行使する事は許されない。それだけの力を、既にこの魔法使いは有しているのだ。魔王バラモスが恐れ、大魔王ゾーマでさえもその存在を認識する、古の賢者の血脈。竜族と人族の間に生まれた奇跡の系譜は、今、この時を以って、最大の華を咲かせたのかもしれない。

 

「流石は、魔王であった者と言ったところか……」

 

「だが、全ての傷を癒す事は出来ないようだな」

 

 凄まじい爆風により、カミュ達にまで届くほどの熱量が炎を生み出し、バラモスゾンビの周囲を激しい炎が燃え盛っている。だが、土埃が晴れた炎の奥から現れた姿を見て、カミュは感嘆に近い呟きを漏らした。

 身体を形成する骨の各所には亀裂が入り、爆発による熱でその骨の一部は融解している。それでも生前には眼球があったであろう窪みには怪しい光を宿し、一歩、また一歩と前へ踏み出してくるその姿は、大魔王ゾーマに次ぐ、魔族最強の名に相応しい物であったのだ。

 だが、それでもバラモスゾンビが持つ自己修復機能は、全てを傷を修復するには至らない。活動に重要な部分の修復を先に行っている事から、頭部の亀裂はそのままであり、頭頂部にあった瘤のような物は折れたままであった。

 

「行くぞ」

 

 焦土と化した最下層のフロアは、相応の熱気に包まれている。一歩踏み出せば汗が噴き出し、二歩前に出れば肌が焼けた。それでも、カミュは剣を握り、一気に駆け出す。そして、その掛け声を聞いたリーシャもまた、斧を掲げて走り出した。

 ちりちりと髪や肌が焼ける音が耳に入り、手にした斧が真っ赤に染まる程の熱量。その中を駆け抜ける苦しみは、本来の人間であれば不可能な物であろう。それでも、この機会を逃す事など出来ない二人は、炎の中を進んで来るバラモスゾンビの身体に向かってそれぞれの武器を振り下ろした。

 熱によって、その頑強さが薄れている部分に振り下ろされた剣と斧が突き刺さり、それを振り払うようにバラモスゾンビが動く。元々、力という点に掛けてはバラモスやバラモスブロスよりも上である故に、突き刺した武器を振り切る事も出来ずに、カミュとリーシャは左右の壁へと吹き飛ばされた。

 

「…………マヒャド…………」

 

 最早、この段階まで来て、魔法使いメルエの中に『魔法力温存』という意識は欠片も残っていない。明確な敵としての認識を向けたバラモスゾンビは、愛するカミュとリーシャを傷つける悪者であり、倒すべき敵なのだ。

 後方に控える大魔王ゾーマ戦が、想像を絶する程の苦しい物になろうとも、今、この場でバラモスゾンビを倒さなければ、カミュ達の命も危ういとなれば、この少女にとって呪文を行使する事を抑制する理由にはならないのだ。

 振り抜かれた雷の杖の先にあるオブジェの口が開き、そこに大きな魔法陣が現れる。魔法陣を突き抜けて吹き荒れる暴風のような冷気が、爆炎によって熱し切ったバラモスゾンビの骨に襲い掛かった。

 生物の生命諸共に凍り付かせる程の冷気が、熱によって真っ赤に染まっていたバラモスゾンビの骨を一気に冷却して行く。如何に史上最凶の大魔王ゾーマの魔法力と、彼が生み出す瘴気によって型式を保っているバラモスゾンビだとしても、それが融解する程の熱を瞬時に冷却されれば脆くなる。そこをカミュ達は突いた。

 

「うおぉぉぉ」

 

 吹き飛ばされ、壁に直撃したカミュ達は、サラの所持する賢者の石の力を受けて身体を回復させ、休む暇もなく、その手に持った武器を振り下ろす。先にバラモスゾンビに辿り着いたカミュは、未だに周囲を覆う圧倒的な冷気に悴む手を無理やり動かすが、その刃が骨に到達する前に、振り抜かれた拳を受けて吹き飛んだ。

 だが、引き戻された拳には、大きな亀裂が入る。熱を瞬時に冷却した事によって脆くなった拳でカミュを殴り飛ばしているのだ。そのカミュの身体は、全身を神代の鎧が護っている。光の鎧と呼ばれるその鎧は、希少な金属で造られており、この世にある鎧の中でも頂点に位置する物であった。

 バラモスゾンビの身体を構成する骨が如何に濃い瘴気によって覆われているといえども、脆くなった状態でそのような鎧を殴ってしまえば、自壊するのは理である。そして、その綻びに止めを刺すように、一筋の光が駆け抜けた。

 

「うおりゃぁぁぁ!」

 

 引き戻された拳に合わせるように振り抜かれた魔神の斧は、一筋の光となってバラモスゾンビの腕を突き抜ける。斧が突き抜けると同時に、乾いた音がフロアに響き、リーシャが再び斧を構える頃には、バラモスゾンビの肩口近くまで亀裂が広がっていた。

 それに構わず振り上げられたその腕を見たリーシャは、先程までとは異なり、構えを取ったまま動こうともしない。避ける暇がない訳ではない。避ける術がない訳ではない。それにも拘らず、動こうとしないリーシャに向かって振り下ろされたバラモスゾンビの腕は、リーシャに到達するよりも前に瓦解した。

 

「よし!」

 

「気を抜くな!」

 

 肩口から先の腕が音を立てて崩れ、欠片となって降り注ぐのを見たリーシャは、大きく気を吐く。しかし、そんな一瞬の隙を見逃してくれる程、理性を失ったバラモスは易しい相手ではなかった。

 カミュの忠告の激がサラやメルエの耳に入った時には、既にリーシャの姿は掻き消される。先程までそこに確かにあった女性戦士はおらず、変わりに極太の腕の骨だけが見えていたのだ。

 その直後に響く巨大な衝突音。それと共に崩れる岩壁。そして、土煙が収まる頃には、石の瓦礫に埋もれた女性戦士の姿が見えて来る。

 一瞬の隙を突いたバラモスゾンビの攻撃は、正に『痛恨の一撃』と言えるだろう。意識をしていなかったとはいえ、身体を覆っていた緊張という力を僅かに抜いてしまった瞬間に訪れた過剰な程の力は、歴戦の勇士であるリーシャの身体をも易々と吹き飛ばし、その意識を刈り取る程の物であった。

 

「行け!」

 

「は、はい! メルエ、カミュ様を頼みますよ」

 

「…………ん…………」

 

 追い討ちを掛けようと動き出したバラモスゾンビの前に立ち塞がったカミュは、剣を握り締めて後方へ叫ぶ。それを受けたサラは、隣に立つ少女に後を託し、瓦礫に埋もれた女性戦士を救う為に駆け出した。

 賢者の石が何度も使用出来る奇跡の石だといっても、その効力はベホイミと同等。現状のリーシャの姿を見る限り、身体の内部を損傷している可能性は高く、最悪ベホイミでは間に合わない状況も考えられた。

 ベホイミよりも上位の回復呪文をカミュも行使する事が出来るが、現状でカミュがバラモスゾンビの前から離れるという選択肢は有り得ない。カミュやリーシャだからこそ、その強大な暴力に立ち向かう事が可能であり、その攻撃を受けるだけの体力も経験も有しているからだ。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 自分の前に立つカミュに苛立ちを見せるバラモスゾンビが動き出したと同時に、後を託された少女が杖を振るう。マヒャドの時よりも巨大な魔法陣が空間に表れ、その魔法陣の中央から全てを焼き尽くす程の火球が飛び出した。

 その火球の速度は凄まじく、轟音と共に瞬時にバラモスゾンビへと迫って行く。自身の髪が焼き切れ、肌が焼き付く感覚に気付いたカミュは、バラモスゾンビの残った腕を剣で弾き、その体勢を崩した後で後方へと全力で飛んだ。

 

「ほぉ……」

 

 バラモスゾンビの後方から静かに響いた感嘆の声。それが大魔王ゾーマの発した物だと気付ける余裕が、今のカミュ達にはなかった。それ程にバラモスゾンビとの戦闘は苦しい戦いであったのだ。

 体勢を崩されたバラモスゾンビは、急速に迫る巨大な火球を避ける事が出来ない。片腕は肩口から失い、未だに治癒能力が機能しておらず、残る腕もカミュによって弾かれた為に大きく逸れている。迫る火球は、そのままバラモスゾンビの頭部に直撃し、その頭蓋骨を形成する骨を融解させて行った。

 骨が焼かれる異臭が漂い、全てを飲み込む灼熱の火球がバラモスゾンビの頭部を抜けて、後方の壁に直撃する。天から降り注ぐように瓦礫が床へ落ち、それを見届けるように火球は消滅した。

 そこに残ったのは、頭部を形成していた頭蓋骨を失ったバラモスゾンビの身体。すっぽりと頭部だけを失い、立ち竦むバラモスゾンビを見上げたカミュは、余りにも呆気ない幕切れに、呆然としてしまう。それは、先程のリーシャが犯した過ちである事に気付いた時には、彼の意識は途切れていた。

 

「ぐぼっ」

 

 吹き飛ばされ、背中に凄まじい衝撃を受けたカミュは、盛大に血液を吐き出した後で床に倒れ伏す。後方で杖を握っていたメルエからすれば、先程リーシャが掻き消されたと同様の光景であっただろう。瞬時に消え失せた彼女の絶対的な保護者は、リーシャが崩れた近くの壁に直撃したのだ。

 首から上を失い、視界さえない筈のバラモスゾンビが動いている。それは既に生命という枠組みからは大きく逸脱した存在である事を示していた。

 同じように、骨の魔物である、ドラゴンゾンビやスカルゴン達でさえ、首を断ち切り、頭部を失えば、その空洞の窪みから光を失い、動かなくなっている。それにも拘わらず、このバラモスゾンビは頭部という重要器官を失って尚、カミュという敵の位置を見失う事なく、そして、未だに戦闘意識を失ってもいなかったのだ。

 

「リーシャさん……正直、私もメルエも、これ以上の呪文行使は控えたい状況です。祈りの指輪があるとはいえ、未知数の相手との戦闘に対する備えは持ち得る限り持っていたいですから」

 

「ああ、解っている。だが、カミュだけは頼む。その後は、メルエと共に後ろで待っていてくれ」

 

 吹き飛ばされたカミュの方へ向かう前に、回復を終えたサラは立ち上がったリーシャに向かって口を開く。その内容は切実であり、辛辣。ここまでの苦戦を考えていなかったという訳ではないが、それでもこれ以上の苦戦は許されないという忠告であった。

 剣を握り、それを武器として相手を倒すのは、サラやメルエの仕事ではない。そして、この状況で呪文の援護を無尽蔵に出来る程、サラ達後方支援組に余裕がある訳でもないのだ。

 リーシャやカミュを責めている訳ではない。むしろ、それを全て託さなければならない事に罪悪感さえ抱いているだろう。それでも、この場面でサラは口にしなければならなかった。

 『あれは、貴方達二人の仕事だ』と。

 

「油断はしない、慢心もない。ここからは、この私が相手をしよう」

 

 油断なく魔神の斧を構えたリーシャは、頭部さえ無い化け物に名乗りを上げる。

 基本的にバラモスゾンビの攻撃は、その腕力に頼った直接攻撃しかない。吐き出される火炎もなければ、全てを無にする極大爆発呪文を行使する事もない。そのような敵の相手であれば、本来はサラの言葉通り、前衛二人がそれを打ち倒さなければならないのだ。

 この頂まで登ったリーシャという女性戦士は、共に歩む勇者のように呪文を行使出来る才能は皆無。それは奇しくも、目の前に立ちはだかる骨の化け物と共通であった。ならばこそ、この場でリーシャがこの化け物に負ける事は許されない。『人』と『魔族』の違いなど些事に過ぎない。相手が誰であろうと、何であろうと、神秘を体現しない者が相手となれば、彼女が負ける事は出来ないのだ。

 

「ぬるい!」

 

 頭部をなくしたバラモスゾンビは、既に奇声を上げる事もない。本来であれば頭部にある瞳の窪みが向いている方向や、発する咆哮などで、攻撃の場所や時を察するのだが、今のバラモスゾンビにはその対応が出来ない。だが、無言で振り抜かれる腕をリーシャは斧で弾き返した。

 それは、ここまで彼女が歩んで来た道で培って来た経験値が成せる事であろう。何度も自身の力の無さに歯痒い想いをし、誰の目も触れない場所で何度も何度も武器を振るい続けた。今でこそ、彼女自身、カミュという男性に超えられてしまった事を自覚してはいるが、それを単純に『好し』とした事などない。

 己が未熟であれば、自分の護りたい者達も護れず、前へ進む事も出来ないと考えていた彼女は、常に一人で武を磨いて来たのだ。カミュと切磋琢磨した時間を否定はしない。だが、それ以上に彼女は一人で努力を重ねて来ている。魔法力を放出する才に恵まれず、頭脳明晰などとお世辞にも言えない事は十分に自覚していた。故にこそ、一つしかない自分の強みを伸ばす為に、彼女は血が滲み、血反吐を吐く努力を重ねて来たのだ。

 

「ぐっ」

 

 バラモスゾンビが蹴り上げた足を力の盾で防ぎ、それと同時に力の盾に願う。左腕に装備した盾が発した淡い緑色の光が自身を柔らかく包み込んだと同時に、リーシャは魔神の斧を横薙ぎに振るった。

 片足を上げた状態のバラモスゾンビは、地面を支えるもう片方の足に食い込んだ魔神の斧によってバランスを崩す。そしてそれに追い討ちを掛けるようにリーシャは、上段から斧を振り下ろした。

 乾いた音がフロアに響き渡り、バラモスゾンビを支えていた大腿骨に巨大な亀裂が入る。即座にそれを修復しようと治癒能力を回すのを確認したリーシャは、その足を放置したまま、もう片方の足へと斧を振り抜いた。

 

「喰らえ!」

 

 リーシャの動きに気付いたバラモスゾンビがその腕を振るうも、踏ん張りの利かない状態での攻撃など、今のリーシャにとって恐れる程の物ではない。ひらりと拳を避けたリーシャは、一度の攻撃で小さな亀裂の入った箇所に、渾身の力を込めて斧を振り下ろした。

 治癒能力を片足に回している上体のバラモスゾンビに、もう片方の足へ治癒を回す余裕はない。深々と突き刺さった斧が床へと振り下ろされた時、膨大な瘴気で支えられていたバラモスゾンビの大腿骨が真っ二つに斬り裂かれた。

 身体を支える足を失った巨体が、大きな音を立てて床へと沈み込む。最早、こうなっては、如何に暴力と呼べる力を持ち、首を失っても消えない生命力を誇るバラモスゾンビといえども、成す術は残されていなかった。

 

「任せる」

 

「ああ、任せろ!」

 

 厳密に言えば、メルエのメラゾーマによって、頭部を失った時点で、バラモスゾンビの敗北は決定していたのだ。それでも、魔王と名乗った頃の誇りと意地が、理性さえも失くした身体を支え続けて来たのだろう。

 回復を終えたカミュがリーシャの傍に近付き、静かに声を掛ける。それに応じるように猛々しい宣言をしたリーシャが、再び斧を振り抜いた。

 残る片足に直撃した魔神が愛した斧は、治癒能力での回復ごと破壊するように、バラモスゾンビの残る足を粉砕する。骨の欠片が飛び散り、そして、巨体が完全に床へと沈んだ。

 それでも尚、残る腕を動かそうと動く骨の残骸を見たリーシャは、倒れ込んで来た骨の中枢を支える背骨を真っ二つに叩き割る。甲高い音と共に砕け散った背骨が床へと落ちたと同時に、今までバラモスゾンビを覆っていた膨大な瘴気が闇へと還り始めた。

 

「最後だな」

 

「ああ、もう二度と迷うな」

 

 溢れ出した瘴気が徐々に燭台で燃える黒い炎の中へと消えて行くのを見たリーシャは、隣に立つカミュへ問いかけ、それに頷きを返した彼は、まるで哀れむようにバラモスゾンビへ声を掛け、その首から下がった趣味の悪い首飾りへ剣を振り下ろす。金属と金属がぶつかる音を響かせ、魔王バラモスをこの世に縛り付けていた最後の楔が砕け散った。

 一気に溢れ出した瘴気はカミュ達の視界を真っ黒に染め、燭台で燃え上がる闇の炎全てを包み込みながら、奥にある祭壇へと吹き抜けて行く。物言わぬ骨となったバラモスゾンビは、最早この世に残る資格さえも失ったかのように、風化していった。

 

「ふははははは! 予想以上に余を楽しませてくれるものだ。この礼はせねばなるまいの」

 

 膨大な瘴気の向かう先。この世の負の感情全てが還る先。

 それは、この戦いに一切の手を加えず、ただ見届け続けて来た絶対唯一の存在。

 高らかに謳うように発する声は、対峙する者達の心に拭い切れない恐怖と絶望を刻み込む。

 その手は、闇を掴み、闇を放つ。どれ程に輝く光を持つ存在であっても包み込み、希望の光を絶望の闇で塗り潰すだろう。

 その名は大魔王ゾーマ。

 最初にして、最後の決戦の火蓋は、切って落とされようとしていた。

 

 

 




大変遅くなりました。
読んで頂いて、ありがとうございます。

今月中には必ずもう一話仕上げます。
大魔王ゾーマとの最終決戦、始まります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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大魔王ゾーマ①

 

 

 

 バラモスゾンビであった残骸を超え、カミュが一歩、また一歩と前へと足を踏み出す。その姿に、祭壇にある玉座に座る何かは感嘆の声を上げ、圧倒的な瘴気と圧力に足が竦んでいたリーシャ達三人の呼吸が正常の物へと戻って行った。

 だが、目の前に見える闇そのものが、大魔王ゾーマだとすれば、それに勝利しようと考えていた己の浅慮を後悔したくなる程の圧力が消える訳ではない。一歩踏み出す毎に噴き出して来る汗が、彼女達が感じている恐怖を明確に物語っていた。

 

「良い、余の前に立つ事を許そう。それだけの力を見せたのだからな」

 

 心の奥深くにまで浸透して来る圧倒的な存在感。それを示すような声が、尊大に響く。

 しかし、その言葉を驕りとは感じない。目の前に座る何かは、それを発するだけの力と資格を有しているように思えた。

 ここまでに遭遇した、魔王バラモスを含めた魔族や魔物とは異なり、カミュ達へ向ける意識に敵意が見られない。カミュ達がどれ程の敵意を向けようとも、そのような物がないかのように受け流し、童が戯れているのを楽しむような余裕を見せていた。

 近付けば近付く程、その存在の遠さが身に染みる。ようやく辿り着いた場所で出会った存在は、遭遇してはいけない禁忌の存在であり、戦ってはいけない絶対唯一の存在である事を理解せざるを得なかった。

 

「よもや、メラゾーマさえも使いこなすとは思わなかった。魔法陣を残した記憶はない故に、あれを行使出来る者は、余の知る者達以外はない筈だが、末恐ろしい血筋よの」

 

 脂汗を滲ませながら近付いて来るカミュ達に対して身構える事も無く、ゆったりとした口調で言葉を紡ぐ。その言葉は、最後尾をサラと共に歩く一人の少女に向けられていた。

 魔王バラモスが行使していたメラゾーマという呪文を、彼女は行使時に浮かび上がる魔法陣を読み取る事によって己の物にしている。契約の魔法陣なども無く、そもそも契約という手段をとる必要がある呪文なのかどうかも解らない。故にこそ、メラゾーマをサラは行使する事が出来ず、メルエだけの呪文の一つとなっていた。

 その魔法の才能は、メルエ個人の物なのか、それとも彼女が受け継ぐ血筋による物なのかは定かではない。だが、絶対唯一の存在であるゾーマさえも知り得る血筋である以上、その影響が関係している事は否めないだろう。

 

「まずは、ここまで来た事に最大の賛辞を送ろう。絶望と恐怖に染まる中、それでも光を求めてもがく姿は、滑稽でありながらも美しい。何故にそれ程、苦しみ、もがき生きるのかは理解出来ぬが、苦しみ、もがき、そして最後には滅んで行く。そのように絶望に染まりながら死に行く姿こそ、真なる美であろうな」

 

 先頭のカミュが、祭壇にある玉座の前に辿り着く。光の鎧の下は、冷たい汗でじっとりと濡れていた。世界を救うと謳われる、全生物の希望である『勇者』であっても、この絶対唯一の存在を前にすれば、懸命に勇気を奮わせなければ立っている事も叶わないのだ。

 ならば、勇者ではないリーシャ達三人は、尚更だろう。前面に立つカミュという勇者の背中が見えているからこそ、未だに意識を保っていられる。彼が放つ『勇気』という希望の光があるからこそ、彼女達は顔を上げる事が出来ていた。

 

「余の下僕達を退けて来たのだ。余直々に相手をしてやろう。だが、そのままでは些か面白くも無い。自身を回復する術があるのであれば使うが良い。信じて止まない精霊に祈るも良し、人間達が使う道具や薬を使うも良し。暫しの時間を与えよう」

 

「……なに?」

 

 その余裕は計り知れない。リーシャとサラの言葉を何処かで聞いていたのだろう。これから挑んで来るであろう、四人の力を過小評価しているとは考え辛いが、カミュ達がどれ程の力を有していても、自身を討ち果たすには及ばないと確信しているのだ。

 傷を癒し、魔法力さえも回復する時間を与えようと口にするゾーマの言葉に嘘偽りがない証拠に、その大きな闇は、身動き一つしない。その指一本動かすだけでも全てを無にする事さえ可能ではないかと思う絶対的な存在には、それだけの自信と余裕があった。

 悔しそうに歯噛みするリーシャと、敢えて言葉を発したカミュを余所に、サラは二人に即座に回復呪文を唱える。そして、メルエに祈りの指輪を使用する事を伝え、自身もこのゾーマ城で入手したばかりの祈りの指輪を指へ嵌めた。

 賢者サラは、大魔王ゾーマに侮られた悔しさなど微塵も無い。むしろそれを当然の事と受け入れる自分がいる事に驚きながらも、相手が侮っている内に万全の態勢に戻そうという意識が先に立ったのだ。

 

「ふむ。時間があるというのに、ただ黙していても余興にはならぬな」

 

 サラの動きと、その後方のメルエの動きを察した大魔王ゾーマは、その闇を纏ったまま、再び言葉を発する。今までの戦いも、ここから先の戦いも、この絶対唯一の存在にとっては、些細な余興の一つにしかならないのかもしれない。最早、それは侮りというような生易しい物ではない。興味さえも惹かれない、路傍の石と同じような扱いであった。

 余裕を崩さない大きな闇に対し、未だにじっとりとした汗を流すリーシャの横で、カミュは一度大きく息を吐き出す。本来であれば、この強敵を前にして行う行為ではないだろう。だが、それでも彼は自分の身体の中全てを吐き出すように、空気を吐き出したのだった。

 

「人間とは罪深き存在よ。余の前に送り込んだ者が、僅か四人。地を這う虫のように無尽蔵に湧いて来る人間共は無数にいよう。それでも、貴様らのような者達だけを死へと送り込む。貴様らが味わい、そしてこの先で味わう恐怖や絶望を知らず、それを知ろうともしない。そのような存在がこの世界に必要なのか?」

 

「……」

 

 不意に語り始めたゾーマの言葉は、余計な力を抜いたばかりのカミュの心へ直接染み込んで行く。それは、甘美な言葉であり、同時に彼が常に思い続けて来た疑問であった。

 『人』という存在に対し、価値があるのかという疑問は、カミュという少年が青年へと成長を続ける過程で抱き続けて来た物である。今、ゾーマが発した言葉通り、カミュという一人の少年を『勇者』という立場に祀り上げ、まるで人身御供のように魔王バラモスの討伐へと向かわせた。

 周囲を見れば、自分と同じ年頃の子供達が遊び回る中、彼は剣を振るい、呪文を修得する事を強要されている。『自分は、あの子供達と何が違うのか?』、『あの子供達も、その親達も、何故魔王を倒す為に旅立たないのか』という疑問を幼い頃は抱いていた。それが、歳を重ねる毎に薄れて行き、諦めとなり、絶望となる。自分だけが受け続ける苦しみや哀しみを知ろうともせず、それが当然の事と口にする者達を、カミュは『人』という種族で括れなくなって行った。

 

「余の前まで辿り着いた貴様等は、既に『人』という種族からは逸脱しておる。自分達の考えが及ばない物を恐怖する虫けら共は、最早貴様等を同族と看做す事はない」

 

 アリアハンという生国を旅立ち、様々な戦いを乗り越えて行く中、カミュは数多くの出会いを持つ。『人』という種族の認識が変わって行く一方で、『人』という種族で括れなくなっているのは、実は自分なのではないかという疑問を持った。

 故にこそ、彼はメルエが強大な呪文を行使する度に顔を歪め、ダーマ神殿にてサラが賢者として祝福を受ける時、その未来を誰よりも案じたのだ。『自分だけではなく、自分と共にいるだけで、皆が『人』ではなくなってしまう』という恐怖は、彼だけが感じていた物なのかもしれない。

 人間の醜い部分を数多く見て来た彼は、その排他的な精神を誰よりも知っている。自分達と姿が異なる者を忌み嫌い、自分達よりも力が強い者を極端に恐れる。世が乱れている時、自分達と同じ姿をしている者が有している力は希望となるが、世が平穏な時には脅威になるだろう。その時、あの地獄が再び顔を出す事を、カミュだけは知っていた。

 

「人間とは、実に愚かであり、醜い。全てが自分達の物とでも言うように驕る。そのような者達の為に、何故、貴様等はもがき生きるのか? カミュ、全ての人間に貴様と同じ苦しみと絶望を味合わせたいと思わぬか?」

 

 全ての苦しみと哀しみ、そして絶望を押し付けられて来たと言っても過言ではない幼少期を過ごして来たカミュにとって、ゾーマの言葉は耳障りの良い物であっただろう。それを皆が感じ取っているかのように、彼の後方にいる三人の女性の瞳が一斉に『勇者』へと集まった。

 カミュの境遇をゾーマが知っているとは思えない。だが、アレフガルド大陸で生きる全人口を考えれば、カミュという青年とそれに同道する三人の女性が、『生贄』のような物である事は一目瞭然であった。

 如何に綺麗事を述べようと、その事実は変わらず、魔物との戦闘を知らない者達は、怯え、絶望しながらも、安穏な日々を送っている。魔物達は町を襲う事は少なく、町や村の中にいれば、命の危機に瀕する事は少ない。そのような人間達の為に、本来であれば、カミュ達だけが苦しむ必要など何処にもないのだ。

 

「エルフも認めぬ。魔物や魔族も認めぬ。そして、同族の者さえも認めようとしない者達など、この世界に必要であると、思っているのか?」

 

「そ、それでも……人間を滅する為に、世界全てを滅する事を認める事は出来ません!」

 

 ゾーマの静かな問いかけに、黙したまま何も語らないカミュに対し、業を煮やしたのは『賢者』であるサラであった。

 世界を救う『勇者』とは異なり、人を救うと謳われる『賢者』。その称号を受け継ぐ彼女にとって、『人』という種族そのものの存在価値を否定される事を認める訳にはいかない。

 彼女とて、未だに『人至上主義』を謳うつもりはない。それでも、愚かで醜い部分を多分に持つ反面、強く優しい一面も持つ『人』の姿を何度も見て来たのだ。『人』の全てを否定する事など、絶対に出来はしない。それは誰であろうと、何があろうと、認めてはいけない物であった。

 

「元より、余は全てを滅ぼす者。人間など、少しでも残せば、再び増えて行く。人間などという種族が生まれた世界は、全てを滅ぼす他ない。所詮は、死に行く際の苦しみと絶望に歪む姿で、余を愉しませるしか価値の無い者達である」

 

「……そんな」

 

 しかし、震える足と、震える唇で必死に紡ぎ出した言葉は、大魔王ゾーマによって、即座に斬り捨てられる。漆黒の闇を纏ったゾーマの表情は窺えないが、愉悦を表す表情をしているように感じられた。

 そのような雰囲気を醸し出しながら語られた内容に、サラは絶句する。人間をまるで何時の間にか増える塵や埃のように語り、それを滅する事が正しいという考え方に言葉を繋げる事が出来なかったのだ。

 この状況まで来ても、カミュは黙して何も語らない。剣を握ってはいるものの構えを取らず、真っ直ぐに大魔王ゾーマであろう闇に向かって視線を送っていた。その様子に不安を覚えたサラであったが、その視界の端に映る一人の女性の表情を見て、我を取り戻す。

 そこにあったのは、先程まで浮かべていたような、悔しさを噛み締めた苦々しい表情ではなく、何処か余裕さえ窺える程の凛とした、賢者サラが姉のように慕う大好きな物であったのだ。

 

「有り得ぬ事ではあるが、貴様が生き残ったとして、戻る場所があるのか? いずれ、貴様を排除するであろう者達の為に、苦しむ意味があるのか?」

 

 大魔王ゾーマとすれば、この場所でカミュ達との戦闘を避ける意味はない。圧倒的な力を自負し、カミュ達の戦いを見てもその余裕を崩さない絶対唯一の存在が、勇者一行を恐れる理由がないのだ。

 確かに、カミュは『勇者』として世界に認められている。その勇者と肩を並べて戦う事を可能にする力をリーシャは『戦士』として有しているだろう。サラという女性は、この世で唯一の『賢者』であり、その心の強さと頭脳は、歴代の賢者の中でも群を抜いている。そして、年端も行かぬ少女である筈のメルエの身体には、竜の因子という特別な力が宿っており、世界中の『魔法使い』の中でも例外的な才能を有していた。

 それでも、大魔王ゾーマの存在を知った彼等の中に、必勝の自信は生まれない。必勝の覚悟はあっても、それを成し遂げられるという確信は持てないのだ。それ程に、目の前の闇は深く濃い。その言葉は重く、ここまで数々の苦難を乗り越えて来た者達の経験に訴えるように甘かった。

 

「語り掛ける相手を間違っているな」

 

 しかし、そんな重苦しい雰囲気を小さな呟きが遮る。それは、サラの視界の端に映っていた一人の女性から。握り締めた斧を構えながらも、何処か小さな笑みを讃えた彼女は、静かに口を開いた。

 それに驚いたのは、先程まで意気消沈していたサラである。黙して語らないカミュに不安を怯えながらも、それを見守るリーシャに疑問を抱いていた彼女ではあったが、まさか、その口火をリーシャが切るとは思ってもいなかったのだ。

 今でも足が震え、指先が震える程の圧倒的な圧力がサラの身体を襲っている。そんな絶対唯一の相手に向かって、リーシャは嘲笑するように表情を変え、言葉を溢していた。

 幾ら勇気を奮わせても、立っている事が精一杯の状況が続く中で、ゾーマの言葉に反論する事だけでも、全ての力を使ってしまったのではと感じていたサラは、唖然として姉のような存在を見上げる。

 

「ほぉ。余の言葉を遮るとは……」

 

「ここまでの言葉は、私やサラへ語り掛けるべき物だ。そうであれば、私達の心は揺れ、戦う事も出来ずに自壊していただろうな」

 

 自身の言葉を遮ったのが、名も知らぬ一介の戦士である事に多少の不快感を滲ませたゾーマを余所に、リーシャは言葉を続ける。自分の名前が出た事で我に返ったサラは、その内容が胸に突き刺さった。

 戦いへの準備の為に回復を優先させたサラの心は、ゾーマとの対話が始まったその瞬間から揺れ動き続けている。ゾーマの言葉は、カミュ唯一人に向けられていたように感じていたにも拘わらず、その言葉一つ一つに心は揺らされ、賢者の顔から、一介の僧侶のような表情へ戻ってしまっていた。

 このまま戦闘に入れば、その心の揺れは迷いに繋がり、迷いは判断の遅れへと向かっていただろう。そうなれば、ゾーマとの戦闘で勝利を掴む事など、夢のまた夢となる。自身の迷いの為に仲間が傷つき、それを悔い、自身を責め、そしてまた判断を誤らせる事になる筈だ。その結果は、全滅という結末に他ならない。

 

「なる程……。生贄として育てられ、刷り込まれた人間は、何も迷う事なく、何も苦しむ事はないという事か。その監視の為に付き従って来た者達こそ、愚かで醜い人間の象徴であると……」

 

「人間が愚かで醜い事は認めよう。勇者という存在が、生贄のような役割である事も、今では認めざるを得ない」

 

 まるで対等の相手と会話をするように言葉を紡ぐリーシャを、サラは別世界の事のように見つめてしまう。もし、彼女の手を楔となる少女が握っていなければ、彼女の心は揺れ動いた挙句に迷い始めていたかもしれない。

 少女の手は小さく震えている。竜の因子を受け継ぎ、竜王を偽称する巨竜を単独で討ち果たす程の力を持つ『魔法使い』が、目の前の巨大な闇に怯えているのだ。それを感じたサラは、言葉を発しているリーシャの姿を曇りなき眼で見つめた。

 斧を持つ手は小刻みに震え、笑みを浮かべる頬には大粒の汗が流れている。気を吐くように発している声も、よく聞けばいつもとは異なる音を発しながら震えていた。

 そこに見えるのは、明確な『恐怖』。彼女もまた、目の前にある大きな闇に恐怖し、震えているのだ。しかし、リーシャという女性は、恐怖はしていても、絶望はしていない。前を向く理由もあり、その背中を支えてくれる力もあった。

 

「ならば問おう。カミュよ、何故に、薄汚い人間の為に余の前に立つ? 人間の愚かさも醜さも、貴様が最も知っているであろう」

 

 リーシャに対しての興味を失ったゾーマは、再びカミュへと視線を向ける。ゾーマから見れば、どれ程に力を有していても、リーシャやサラやメルエは、有象無象の人間という種族に違いないのだろう。だが、カミュにだけは何処か異なる視線を送っていた。

 竜の因子を受け継いだメルエの存在は知っていても、その名を呼ぶ事さえなかったゾーマは、このフロアに入った時からカミュの名を呼んでおり、ここまでの会話も、カミュだけに語り掛けているようにさえ感じる。魔王バラモスは、勇者であるカミュよりも、古の賢者の血筋であるメルエを優先したのに対し、ゾーマはこの一行をここまで辿り着かせた勇者カミュのみを見ていた。

 

「その愚かで醜い人間を代表して、余の前に立つのか?」

 

 追い討ちを掛けるように静かに問いかけた闇の声は、とても世界の破滅を目論む諸悪の根源とは思えない程に静かで穏やかな物であった。

 それが、大魔王ゾーマという全てを超越する存在が持つ威厳なのかもしれない。絶対唯一の存在であり、地上に伝わる創造神にも匹敵する存在。精霊の王であり、神であるルビスでさえも及ばず、世界の守護者としての力を持つ、竜種の王でさえも及ばない。大魔王と呼称するに相応しい力と、威厳を持つ者である事が、その言葉の節々に表れていた。

 

「……お前が滅ぼす世界にも、人間にも興味はない」

 

 しかし、そんな超越した存在さえも驚愕する答えを、新たな世界の守護者の一角とさえ認められた青年は口にする。その言葉にリーシャは苦笑を漏らし、サラは驚きで呆然と口を開く。唯一、何を論じているのか理解が及ばないメルエだけは、不思議そうに皆を見つめながら、首を傾げていた。

 巨大で深い闇が、誰も気付かない程に小さく揺らぐ。それは絶対唯一の大魔王ゾーマが見せた、初めての動揺なのかもしれない。それ程の意味を持つ言葉を、『勇者』という称号を受け継いだ青年が吐き出したのだ。

 守護するべき世界も、救うべき人間にも興味はないと。この言葉を、彼の凱旋を心待ちにしているアレフガルドの人間が聞いたのならば、憤慨するだろう。アリアハンへと戻ったオルテガが聞けば、自身の罪に再び苛まれるかもしれない。もし、この言葉の意味を正確に理解出来る人間がいるとすれば、彼の横に立つ女性戦士だけだろう。

 

「この世界が滅びようとも、人間という種族が絶滅しようとも、どうでもいい」

 

 唖然とカミュを見つめるサラは、ここまでの旅の中で彼を理解した気になっていた節がある事を再認識する。その思考を読む事が出来ず、何度も迷って来た。その度に衝突し、その度に再び迷う。その繰り返しの中で何度か彼が見せて来た優しさが、サラの中にあった迷いを晴らして来たと考えていた。それは、オルテガという彼の父を救う際に見せた彼の本音が決定打となっている。

 だが、実際はサラの考えとは異なる物を彼は胸に宿していたのだ。魔王バラモスに挑む時、彼女は『人間には護る価値があったか?』と問いかけている。だが、それに対して彼は無言で何も返す事はなかった。

 それでも、サラは彼の心の中に確かな答えが生まれているのだろうと信じていたのだ。だが、ここで明かされた答えは、そんなサラの希望を根底から打ち壊すような物であった。

 

「ほぉ……。ならば、貴様は何故、この場に立っている? 余の愉悦を邪魔する理由は何だ!」

 

 先程まで悠然と構えていた深い闇に、若干の苛立ちが見える。全てを破壊し、全てを滅すると自負する大魔王でさえも、理解出来ない事をカミュは口にしているのだ。それは、人間を救うと謳われる賢者であるサラも同様であった。

 だが、一人だけは苦笑を浮かべて斧を構える。

 大魔王ゾーマが口にする通り、多くの人間を見て来た彼女は、人間の醜さも愚かさも理解している。愚かで醜い人間であれば、自らの出世欲や金銭欲などに従って魔王討伐を目指すだろう。そして、そういう人間は、自分の力が及ばない事を知れば、逃げ出す事は間違いない。そう考えれば、洗脳に近い物を受けた人間を勇者と呼ぶという結論に達しても可笑しくはないのだ。

 それでも、カミュは自身の意志でこの場所に立っている。だが、人間を護るという正義感に燃えている訳でもなく、人間至上主義に傾倒して強い使命感を抱いている訳でもない。何かを妄信的に信じ、魔物を悪として断じる事もなく、人間を害する物全てを滅しようとしている訳でもなかった。

 

「太陽の光を受けて咲く花を見て、微笑む者がいる。花へ集う虫達に目を輝かす者がいる。動物達と共に笑う者がいる。だが、お前がいる限り、闇は晴れず、太陽の光は差さない」

 

 彼の物語はとても単純である。

 大きな世界や、そこで暮らす者達など、彼の中を占める割合は微々たる物であり、その程度の物の為に彼が動く事はないのだ。

 始まりは異なっていた。それ以外に生きる道はなく、生きる事を望むよりも死を望む為に歩み始めた道。長く辛い旅路と覚悟を決めて踏み出したその道には、彼が知らなかった幾筋もの光が差し込んでいた。

 そして、いつしか護りたいと思えるようになったその光を遮ろうとする者が現れる。

 

「単純に、お前が邪魔だ」

 

 世界の為でもない、人類の為でもない、他の多くの生命体の為でもなく、そして彼個人の為でもない。唯一人の少女が生きて行く上で、目の前の大きな闇だけが邪魔をしている。彼がこの場所に立っているのは、ただそれだけの理由であった。

 切っ掛けは何であったろう。あの少女が自分の名を呼んだ時だろうか。それとも、ピラミッドで自分個人の消滅を恐れて泣く少女の姿を見たからだろうか。どれもそうであって、どれもそうではないような気もする。

 いつしか大きくなって行くその存在を見て行くにつれ、自分と共に歩む二人の女性にも意識を向けるようになった。甘い考えを捨て切れない二人を苦々しく思いながらも、強くなって行くその心を美しいとさえ感じるようになる。世界を本気で救おう、変えようと歩む者達を馬鹿馬鹿しく思いながらも、いつしかそれを否定する事が出来なくなっていた。

 世界などどうでも良い。人類など滅びてしまえば良い。そんな想いさえあった彼の中で育った大きな存在達と共に歩む中で、その美しい心を壊したくはないと感じるようになる。世界が滅びても良いとは思いながらも、世界が滅びてしまえば、彼女達の笑みが消えてしまう事を知り、人類全てが滅びてもまた、彼女達の道も消え失せてしまう事を理解した。

 故にこそ、彼は剣を握るのだ。

 

「……そうか、余が邪魔か」

 

「ああ。世界を滅ぼし、人類を滅するのであれば、あと百年は後にしろ」

 

 何処か楽しげに呟く大魔王に頷きを返す勇者の言葉は、とても世界で『勇者』と讃えられる存在の物ではない。驚き固まるサラとは別に、何故かリーシャは本当に可笑しそうに笑みを溢した。

 目の前の強大な存在に対する恐怖は消えはしない。未だにリーシャの足も手も小刻みに震えており、じっとりとした汗が噴き出している。それでも彼女の前に立つ一人の青年の背中が、とても頼もしく、そしてとても眩しく見えていた。

 百年後であれば世界も人類も滅ぼして良いと言っているように取ったサラとは異なり、自分が生きている限りは許さないと言っているとリーシャは理解したのだ。

 それは似ているようで、全く異なる物。これ程の強大な相手を前にしても、全く譲るつもりもないその言葉こそが、彼が勇者である事を示している。必然を生み出す者としてこの場に立ち、周囲の状況さえも変えて行く者。

 その者が、それ程の者が、この長い旅路の中で、初めて己の意志で明確な敵意を相手に向けたのだ。誰の命令でもなく、誰の願いでもなく、己の意志と想いだけで立ち向かう時に、本当の意味での『勇者』が生まれるのかもしれない。

 

「くはははは! カミュよ、貴様にとって余が邪魔というのならば、もがき生きるが良い! だが、滅びこそが余の喜び。死に行く者こそ、真の美なり」

 

 しかし、真の勇者は、決して穏やかな日々の中では誕生しない。その誕生を祝うように漆黒の闇がフロアを覆い尽くす。生ある者ならば、全てに恐怖と絶望を与え、この世の全てを滅する力を有する大魔王がその力を解放し始めた。

 先程まで小刻みな震えで抑えられていたリーシャやサラの足が、立っていられない程の恐怖によって大きく震え出す。

 

「さぁ、余の腕の中で息絶えるが良い!」

 

 開戦の幕開けとなる言葉と同時に、カミュ達全員を吹き飛ばす程の波動が襲い掛かる。身体全てを凍てつかせる程の冷たい波動は、カミュ達が纏った魔法力全てを根こそぎ吹き飛ばし、その心に芽生え始めた勇気さえも消し飛ばして行った。

 先程までも対話など、僅か一時の休息でしかない。全てを滅する事の出来る力の片鱗が、この場所に立った事を後悔させる程に心を蝕んで行く。震える足は一歩たりとも前へ出せず、武器を持つ事さえも難しくなる程に手には力が入らない。

 勇者一行にとって最悪の幕開けとなる状況の中、世界の存亡を賭けた戦いが始まろうとしていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
ようやく、次話から最終決戦です。
ここから最低でも五話はあると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております


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大魔王ゾーマ②

 

 

 

 奇妙な静けさがフロアを支配している。だが、そのフロアに立つ者達は、二極に分かれていた。

 カミュ達の周囲を取り巻く静けさは、彼等自身が一歩たりとも動く事が出来ないからであり、大魔王ゾーマは、その必要がないからである。この場所まで辿り着いた全生命体の希望でさえも、動き出した瞬間に命を刈り取られるという未来しか見えなかったのだ。

 悠然と構える大魔王ゾーマであろう闇は、フロア全てを飲み込むかのように大きく、そしてカミュ達の心を呑み込むかのように深い。絶望と滅亡の闇であり、生命体が踏み込む事の出来ない領域でもあった。

 

「どうした? 余が邪魔なのではなかったか? 動かねば、余を倒す事など出来なかろうに」

 

 大魔王ゾーマの闇は、既にカミュ達四人の目の前にまで迫っている。まるで、カミュ達とゾーマの間にある空間が一瞬で削り取られたようにさえ感じた。それ程に目の前の闇は強大であり、既に心さえも絶望の闇に染まり掛けている。

 幼い少女の手は震え、それを握っていた賢者の手も震えていた。迫る闇が恐怖を煽り、自分達の存在さえも疑いそうな程に心が揺れる。じっとりした汗さえも既に乾き、今では体温さえも奪われたのではないかと思う程、その身体は冷たくなっていた。

 

「ふぅ……いくぞ」

 

 だが、闇を前にしても構えを取っていなかった青年だけは、身体の力を抜き、一つ息を吐き出した後で王者に相応しい風格を放って剣を構える。その僅かな一言が、後方で震え、絶望の闇に染まりかけた三人の女性の心に小さな勇気の炎を灯した。

 その炎はとても小さい。通常の人間であれば、そのような小さな炎が灯っても、圧倒的な恐怖を前にして身は竦み、足は震え、身動き一つ出来ないだろう。だが、彼の後ろを護るのは、ここまでの数々の苦難を共に乗り越えて来た勇士である。そして彼女達は、まるで肩に乗った重荷が下りたかのように、一斉に動き出した。

 

「ふははは」

 

 動き出した勇者一行を見た大魔王は、それを賞賛するような笑い声を上げて闇を振るう。それと同時に周囲を覆う程の冷気が満ち、氷の刃となってカミュ達へと降り注いだ。

 それは、奇しくも、メルエという稀代の魔法使いが編み出したマヒャドの進化系に酷似した姿。空中に次々と生み出される氷の刃が、標的を定めたように一気にカミュ達へと落ちて行く。しかし、魔法対決となれば、この一行でそれに対抗意識を燃やす者がいたのだ。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 一気に巻き上がる極大の炎の海。上空から降り注ぐ氷の刃を次々と溶かし、水蒸気の霧を生み出して行く。しかし、如何に竜種の因子を受け継ぐ稀代の魔法使いとはいえ、メルエという少女は人間であった。対する冷気の刃は、絶対唯一の存在である大魔王なのだ。

 徐々に炎は氷の刃に圧し込まれ、その刃の欠片が、先頭のカミュ達へと襲い掛かって行く。どれ程に膨大な魔法力を有していても、どれ程にその才能を有していても、大魔王と称される者には適わない事の証明であった。

 

「ベギラゴン!」

 

 だが、それも一対一であればの話である。『人』という種族は、本来は強靭な力も膨大な魔法力も有しておらず、他種族に比べて脆弱であった。それを補って来たのが、その数である。一人で敵わないのであれば二人、二人で駄目であれば三人という数で自分達よりも強い者達に対抗して来た歴史があるのだ。

 メルエのベギラゴンでは抑え切れなかった氷の刃を、人類唯一の賢者が放った最上位の灼熱呪文で熔かし尽くす。吹き上がるような水蒸気の量が、大魔王が放った氷結呪文の強大さを明確に物語っていた。

 

「ほぉ……数しか取り得のない人間とはいえ、余のマヒャドを二人で相殺するか」

 

 吹き上がっていた水蒸気の霧が晴れた時、大魔王から感嘆の声が上がる。やはり、ゾーマが放ったのは、最上位の氷結呪文であるマヒャドであった。しかし、その強力さは、氷竜という特別な因子を受け継ぐメルエが放つ物よりも数段上。しかも、この余裕を見る限り、全力での呪文行使ではないのだろう。

 そして、それは、水蒸気の霧を抜けて大魔王に迫った二人の前衛が武器を振るった時に明らかになる。

 

「うおぉぉぉ!」

 

 大魔王ゾーマと思える闇へと振り抜いたカミュの剣は、その闇を斬り裂きはするが、剣を持つ手に何の手応えもなかったのだ。まるで霧を斬ったように、むしろ、只の素振りをしたかのように感触も残らない剣先は空を斬り、闇は元の形状へと戻って行く。

 このアレフガルドでも遭遇したの事のある実態のない影との戦闘でさえも、カミュとリーシャの武器はその身体を傷付ける事が出来ていた。あの時は、メルエを失った事による怒りがあったとはいえ、今の力量であれば、あの影も容易く葬る事が出来るだろう。だが、大魔王ゾーマと思われるその闇は、カミュ達の剣を受け入れる事なく、受け流してしまったのだ。

 

「ふはははは! 力無き事は、悲しい事よの」

 

 カミュに続いて斧を振り抜いたリーシャの手にも、何の手応えも伝わって来ない。唖然と闇を見上げるカミュ達に、不快な笑い声が響いた。

 それと同時に、周囲を冷気が包み込む。だが、再びマヒャドの呪文を行使されたのかと身構えたカミュ達を襲ったのは、凄まじい程の吹雪。雪などではなく、氷の結晶が視認出来る程の強大な冷気は、カミュ達の武具さえも凍り付かせる程の力を有していた。

 収まる気配のない吹雪は、カミュ達の身体を凍て付かせ、行動力を奪って行く。そしてそこに振るわれた闇の腕が、先頭に立っていたカミュの身体を後方に弾き飛ばし、返す腕で、リーシャの身体さえも吹き飛ばした。

 

「フバーハ」

 

 闇を斬り裂いたにも拘わらず、再びその形状を取り戻したゾーマを見たサラの判断は一瞬遅れてしまう。だが、追撃のように迫って来る凍える吹雪を防ぐように、前面に霧の壁を顕現させた。霧の壁は、凍えるように冷たい吹雪を閉じ込め、水へと変えて行く。大魔王から吐き出された吹雪である為に、フバーハ単体では相殺する事は難しいが、それでも身体に感じる冷気の幾分かは和らいでいた。

 身体が凍結する事なく後方へと下がったカミュは、再度王者の剣を構え直し、目の前に見える大きな闇を睨みつける。僅かな攻防の中で、彼は明らかな劣勢を見たのだ。

 剣や斧の攻撃が効果を示さない敵は数多く居たが、先程の感触はそれとは何処か異なっている感覚がある。更に言えば、通常そのような魔物には呪文が効果を示すのだが、大魔王相手に呪文の効果が絶大という可能性は薄いだろう。要は、攻め方が考え付かないのだ。

 

「流石は、当代の賢者といったところか。余の戯言に心を乱し、迷っていた愚かな人間というだけではないのだろうな」

 

「ぐっ……」

 

 メルエのベギラゴンだけでは大魔王のマヒャドを相殺する事は出来ず、それを即座に察知してベギラゴンを重ね、遅れたとは言えども、カミュ達を凍り付かせる程の吹雪をフバーハによって防いだ機転は、この一行の頭脳と呼ぶに相応しい物であったろう。

 カミュだけを見ていた筈の大魔王ゾーマが、サラの心が乱れていた事に気付いている事にも驚きであったが、ここまでは勇者一行の一角とさえ認められていなかった事を示している。その事実に気付いたサラは若干悔しげな表情を見せるが、この息も吐かせぬ攻防の中でさえここまでの余裕を持っている大魔王ゾーマという存在に改めて畏怖を覚えた。

 

「……カミュ様がどのような考えを持っていようと、結果は同じです」

 

「ほぉ……」

 

 杖を持つ手の震えが止まる。彼女もまた、ここに来て、全ての覚悟を決めたのだろう。恐怖し、動けなくなる程の絶望を前にして、死の覚悟ではなく、それを乗り越える覚悟を決めたのだ。

 サラは、カミュのように世界の存亡にも、人類の存亡にも興味がないなどと口にする事は出来ない。人類至上主義という考え自体は薄れており、それに固執する事は無いにしても、人間を含む全ての生命体の幸せを願う想いは揺るがない。それはある意味でカミュとは相反する願いであった。

 それをゾーマに突かれたサラであったが、それでも彼女はしっかりと言葉を紡いだ。カミュが何を考えていようと、それこそサラという賢者には関係がない。勇者という存在の儚さを、サラは同じ象徴としての立場に立って初めて理解したのだ。

 乱れた世だからこそ生まれるのが英雄であり、破滅の近い世に生まれるのが勇者である。英雄は乱れた世だからこそ輝き、勇者は破滅を防いで消えて行く。それを、聖なる祠にて彼女は知ったのだ。

 なればこそ、彼が救う世界がどうなるのか、そこで生きる者達がどうなるのかは、それこそ生き残った者達が負う責任であり、義務である。今は、その未来を遮ろうとする者を全力で倒すだけなのだ。

 

「…………スクルト…………」

 

「バイキルト」

 

 一瞬の間を無駄にする時間は、カミュ達にはない。即座に二人の呪文使いが杖を振るい、前衛二人に補助魔法を唱えた。一行の身体は、稀代の魔法使いが持つ強い魔法力に覆われ、前衛二人が持つ武器には、唯一の賢者が放つ木目細かな魔法力が付与される。

 それを確認したカミュ達は、再び巨大な闇に向かって駆け出した。魔法力の補助を受けた剣が煌き、フロアを覆うように巨大な闇を斬り裂いて行く。そして、その傷口が癒えぬ内に、リーシャの斧が振るわれた。

 しかし、魔法力の援護があろうとも、前衛二人の武器がゾーマの身体を傷つけるような事はなく、闇を斬るだけで、それも周囲の闇に溶け込み、再び元へと戻って行く。それは、ここまでの全ての行動が無意味であった事の証明であった。

 

「ぬるいわ!」

 

 自分達の攻撃が何の意味も持たなかった事に一瞬動きが止まってしまったカミュ達に向かって、大魔王ゾーマが腕を突き出す。それと同時に、先程受けたような凍て付く波動が吹き荒れ、カミュ達が纏っていたスクルトの魔法力も、武器に施されていたバイキルトの魔法力も吹き飛ばされた。

 自身の身を護るスクルトの魔法力が消え失せた瞬間、そこに大魔王ゾーマの暴力が襲い掛かる。振るわれた闇の腕を受けたリーシャは、側面の壁に直撃し、盾を掲げる時間も与えられなかったカミュは、床へと倒れ伏した。

 

「……ルビス様」

 

 先程までの会話時に感じていた絶望など、氷山の一角でしかなかったのだろう。対峙し、剣を交えて初めて、この大魔王ゾーマという存在の真の恐ろしさを知る事となった。

 勇気という小さな炎など掻き消してしまう程の深く大きな絶望が心に襲い掛かる中、サラは信じて止まない精霊神への祈りを奉げる。祈りの言霊を受け入れたサークレットに嵌め込まれた深く蒼い石が輝き、前方で倒れ伏す二人の身体を淡い緑色の光が包み込んだ。

 ベホマラーと同等の効果を齎す賢者の石の力が二人の傷を癒すが、大魔王の強力な攻撃で受けた傷全てを癒す事は出来ない。足に力を込めて立ち上がったリーシャに向かって、ゾーマは再び最上位の氷結呪文を唱えた。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 それを見たメルエは、背丈よりも大きな杖を前へと突き出す。見る者によっては地獄の門番のように見えるオブジェが口を開き、膨大な火炎を吐き出した。

 だが、メルエも自身の呪文だけでは相殺し切れない事を理解しているのだろう。呪文を放った後で、立ち上がり終えたリーシャへと視線を送る。その視線に気付いたリーシャは、横っ飛びでその場を離れ、幾分か凍り付いた装備品に構う事なく戦線を離脱した。

 マヒャドの効果を止めようと剣を振るうカミュではあったが、結果は先程と全く変わる事なく、ゾーマの身体に傷一つ付ける事は叶わない。そして、大魔王へ剣を振るった代償のように、カミュの身体が大きく後方へ吹き飛ばされた。

 

「ぐふっ」

 

 空中へと飛ばされたカミュの身体が、床へと叩きつけられる。肺に入っていた空気を全て吐き出したような苦悶の声を上げた彼は、それに遅れて大量の血液を吐き出した。

 身体の内部までをも傷ついた事を物語るような血液の量に、杖を振るっていた少女は息を飲み、その横に立っていた賢者は即座に動き出す。しかし、それを遮るように周囲を覆う冷気は濃くなり、それに気付いたサラは、倒れ伏すカミュへ向かいながらも、さざなみの杖を前方へと突き出した。

 

「フバーハ」

 

 サラが呪文の詠唱を完成させたのと、大魔王から凍える吹雪が吐き出されたのはほぼ同時であった。

 マヒャドという最上位の氷結呪文にも劣らない程の冷気が周囲を覆い、氷の結晶が視認出来る程の吹雪がカミュ達へと襲い掛かる。しかし、間一髪のタイミングで展開された霧の壁が、その冷気を防ぎ、迫る冷気を緩和させた。

 霧に防がれ、氷の結晶が水分を多く含んだ雪のように変化してはいるが、その冷気は相当な物である。ここまでの攻防で大魔王が発したマヒャドや凍える吹雪などの影響によって、ゾーマ城最下層のフロアのほとんどが凍り付いていた。

 メルエが放出したベギラゴンの炎は、全て冷気によって消し飛ばされ、このフロアには欠片も暖かさは残っていない。サラの歯が嚙み合わなくなっているのは、決して大魔王ゾーマへの恐怖だけが理由ではないだろう。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

「ほぉ」

 

 人間は、炎の中では生きて行けないが、氷の中でも生きては行けない。この一行がどれ程の力を有していても、彼等が人間である以上、それは変える事の出来ない事実であった。

 唯一、寒さへの耐性が強いメルエが、杖を振るう。氷竜という雪原に生きる竜種の因子を受け継いでいる彼女は、身体が濡れてさえいなければ、寒さを苦にする事はない。カミュ達でさえ悴んだ手が武器を持つ事さえも許さない状況に陥っている中、自身の持つ最強の呪文の詠唱を完成させていた。

 しかし、迫る大火球へ視線を向けたゾーマは、感嘆の声を上げた後で、その闇の腕を大きく振るう。そして、まるで身体から闇が溶け出すように広がり、巨大な火球を飲み込んで行った。本来であれば有り得ない。メルエという少女が人間だとしても、行使した呪文は最上位の火球呪文であり、大魔王ゾーマが生み出したとされる程の強力な呪文である。それを腕の僅か一振りで飲み込み、この世から消したかのように消滅させるなど、誰が信じるだろう。それ程に衝撃的な光景であった。

 

「そ、そんな……」

 

 メルエのメラゾーマに勝利を確信していた訳ではない。それでも、大魔王ゾーマでさえ、その呪文で幾らかでも傷を付ける事が可能なのではないかという希望を抱いていたサラは、目の前の光景に愕然としてしまう。それは絶望的な光景とさえ言える物であった。

 闇に包まれた極大の火球は、そのまま勢いを失い、何一つ傷つける事なく消滅する。先程まで広がっていた圧倒的な冷気を弱めるという効力を発揮するも、本来の効果である相手への攻撃という点に於いては何も残す事はなかった。

 

「驚く事ではなかろう。余が生み出した呪文が、余を傷つけるなど出来はせぬ」

 

「ちっ」

 

 メラゾーマという呪文は、その名称にあるように、「ゾーマのメラ」という意味も込められているのだろう。だが、目の前に居る筈の大魔王が呪文に自身の名を自ら付けるとは考え辛い。もしかすると、その呪文を与えられたバラモスがゾーマへの畏怖も込めて名付けたのかもしれない。

 その呪文を生み出した者が、その呪文の対抗策を知らぬ筈が無い。だが、対抗策を知っていたとしても、あれ程に強力な呪文を一振りで消滅させてしまうというのは、異常であった。盛大な舌打ちを鳴らすカミュは、それだけ強大な敵と相対している事を改めて実感する。

 自分の持つ最も強力な呪文を掻き消された事で、頼りになる筈の攻撃呪文の使い手は、呆然としていた。その横にいる勇者一行の頭脳ともいうべき女性賢者も再び襲い掛かって来る圧倒的な絶望に飲み込まれ掛けている。既に、この一行自体が崩壊し掛けていた。

 

「ふむ。絶望に歪むその表情は美しい。だが、まだ足りぬな。この場に辿り着いた事を心の奥底から悔い、余を恨み、貴様等を送り込んだ人間共を恨み、全てに絶望した時、余がその苦しみから解放してやろう」

 

 メルエやサラの表情を見たゾーマは、愉悦を感じているように声を弾ませ、残酷な宣言をする。その宣言を鼻で笑って否定出来るような状況ではなかった。

 カミュ達の誰もが大なり小なりその絶望を感じている。『絶対に勝てない』と明言出来る程の力を示された時、人間の心が容易く折れてしまう事を誰よりも知っている彼等だからこそ、この場で膝を着く事なく耐えているのだ。

 だが、大魔王ゾーマという圧倒的な存在を打ち倒す僅かな希望も見えない現状が変わるわけでもない以上、彼等にとってこの先の戦いは、只々死に逝く為の絶望的な戦いなのである。

 特攻という形で己の身を犠牲にして突き進んだとしても届かない。それが理解出来る程に、カミュ達と大魔王ゾーマとの力量の格差があった。

 

「逃げる事は出来ないだろうな……」

 

「……アンタにしては珍しいな。大魔王から逃げる事など不可能だろう」

 

 余りの状況に折れ掛けていたサラとメルエの心に、彼女達が最も頼りにする二人の会話が滑り込んで来る。

 サラでさえも驚くような呟きはリーシャという女性戦士から飛び出た物。誰よりも強い心を持ち、誰よりも誇り高く、何があっても前を向いていた一行の要と言っても過言ではない女性が漏らした初めてに近い弱音に、サラは思わず顔を上げてしまった。

 だが、その呟きに返答する青年の表情と、先程の弱音を吐いた女性の表情は、発している言葉とは真逆の物であったのだ。リーシャは、逃げるという選択肢を取ろうとしているとは思えず、それを聞いたカミュもまた、リーシャの言葉をそのまま鵜呑みにしているとは思えない。まるで軽口を叩き合うようなその雰囲気が、絶望に染まり掛けていた後方支援組二人の心を解放して行った。

 

「逃げる事が出来るなら、逃げたいがな」

 

「ふふふ。それこそ、お前にしては珍しいな」

 

 汗を伝わせながらも笑みを溢すリーシャの顔を信じられない物でも見たように凝視していたサラの手を、小さな手が握り締める。慌てて顔を向けたサラの瞳に、恐怖に震えながらも離れないように必死に自分の手を握る少女の顔が映り込んだ。

 彼女がこれ程の恐怖を表したのは何時以来だろう。竜の女王の雄叫びを聞いた時以来だとすれば、最早二年近くも前になる。それ程の恐怖を感じていて尚、彼女はこの場に立ち、震えながらも戦う事を選択していた。

 それを見たサラの心が、このゾーマの間に入って初めて固まる。ゾーマの言葉に揺れ動き、その威圧感に恐怖し、その闇の深さに萎縮して来た僧侶サラの心が、メルエに救われ、リーシャに救われ、カミュに導かれて来た賢者サラの心へと変化して行った。

 

「メルエ、スクルトを!」

 

 少女の手をしっかり握り、さざなみの杖を振るって霧のカーテンを生み出したサラは、少女へ呪文の行使を指示する。頷きを返したメルエが杖を振るい、再び全員の身体に己の魔法力を纏わせた。

 ゾーマが生み出す冷たく凍て付くような波動は、魔法力によって生み出す全ての補助効果を打ち消してしまう。何度唱えようとも、何をしようと、それが全て無駄に終わる事をサラが気付いていない訳がない。それでも出された指示に、メルエは懸命に応えようとしていた。

 

「何度消し飛ばされようと、何度も掛け直します。カミュ様とリーシャさんは、私とメルエで護ります」

 

「…………ん………まもる…………」

 

 サラの決意を受けたメルエの眉が上がる。『護る』という決意は、メルエが初めて魔道士の杖という媒体を使って呪文を行使したアッサラーム近くの森から始まっていた。

 自分を護ってくれたサラという姉のような女性を護ると決意し、そしてカミュやリーシャのように自分を愛してくれる者達も護ると誓っている。その誓いは、彼女が死ぬまで有効であり、それを思い出した彼女の瞳に再び炎が灯った。

 大魔王という圧倒的な存在が放つ恐怖による絶望の闇さえも討ち払う炎。それは幼い少女が持つ最大の勇気であり、最上の決意であった。

 

「サラやメルエがあのように言ってくれるのであれば、気張るしかないな」

 

「どうせ死ぬのならば、最後まで足掻くさ」

 

 後方からの決意を受けたリーシャが、ここまでで浮かべていたような笑みとは異なる優しい笑みを浮かべる。自分の心を奮い立たせる為の虚勢の笑みではなく、心からの笑みであった。

 そして、その笑みを向けられたカミュが、苦笑を浮かべ、心にもない言葉を吐く。彼の人生のほとんどが、『死』という結末を望む時間であった事は既に周知の事実である。だが、今の彼が死という結末を受け入れる筈がない。たった一人の少女の為にこの場に立つ覚悟を決め、この絶望的な状況に飛び込んだのだ。

 そんな人間が、この僅かな攻防で、そして自分の身が動く状況で、全てを諦める筈がない。隣に立つ女性戦士は、その事を誰よりも知っているし、誰よりも信じていた。故にこそ、彼女は微笑むのだ。

 

「興が醒める。何度立ち上がろうと、何度希望に燃えようと、届かぬ願いがあるという事を教えてやろう!」

 

 だが、そんなカミュ達のやり取りを静観していた大魔王ゾーマが、興味を失ったように腕を振るう。その腕から発せられた凍て付く波動が、先程掛けられたばかりの補助呪文全てを吹き飛ばして行った。

 それでも再度呪文の詠唱に入るサラの姿を確認したゾーマは、それを遮るように凍える程の吹雪を生み出す。吹き荒れる冷気が、上昇していた気温を再び急激に下げて行った。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 吹雪が自分達に到達する前に、少女が杖を振るい、炎の壁を生み出す。氷の結晶が視認出来る程の圧倒的な冷気と、灼熱系最上位の炎がぶつかり、周囲を高温の水蒸気が包み込んだ。その水蒸気の壁を突き抜けて飛び出したカミュが大魔王ゾーマである闇に斬り掛かる。だが、その行動を読んでいたかのように振るわれたゾーマの腕が、カウンター気味にカミュの身体に突き刺さり、彼は床へと叩きつけられた。

 床に叩きつけられたカミュの身体を踏み抜くように上げられた闇に向かってリーシャが斧を振るう。どんな巨木でさえ彼女の一振りで切り倒されるが、その手応えも無く、闇を斬り裂くだけで身体だけが泳いでしまった。そして、それを見抜いていたように振るわれた闇の腕がリーシャの身体を真横の壁へと吹き飛ばす。

 

「ぐぼっ」

 

「……ルビス様、お力を」

 

 壁に直撃したリーシャの身体が、壁に弾かれるように床へと落ちて行く。しかし、それと同時に、詠唱を中断したサラがルビスに祈りを奉げた。彼女の頭部に嵌められたサークレットの宝玉が輝き、カミュとリーシャの身体を癒しの光が包み込む。全ての傷が癒えた訳ではないが、立ち上がる事が可能になったカミュが、追い討ちを掛けるように振り下ろされた闇の腕を避け、リーシャの許へと駆け寄る。

 カミュよりも強力な攻撃を受けていたリーシャは、立ち上がる事は出来ても走る事が出来ていなかった。駆け寄ったカミュは、重要な足の骨などに異常がない事を確認し、身体内部の傷を癒す為に最上位の回復呪文を唱える。

 

「マヒャド」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 カミュがリーシャの傷を癒し、戦闘態勢に入ると同時に、ゾーマが最上位の氷結呪文を唱えた。それを確認すると同時にメルエが杖を振るい、先程と同等の炎を生み出した。だが、魔法力と魔法力のぶつかり合いでは、大魔王の称号を持つ者に分がある。徐々に消滅して行く炎の勢いがそれを明確に物語っていた。

 

「ベギラゴン」

 

 しかし、この一行の攻撃呪文の使い手は、メルエという魔法使いだけではない。賢者であるサラがメルエのベギラゴンでは相殺し切れない冷気を炎で包み込んで行った。

 冷気の残骸の全てが炎に飲み込まれて行く。そして、凍える程の寒さも消滅し、未だに床で波打つ炎が、カミュ達の体温を戻して行った。

 だが、大魔王ゾーマの一つの攻撃を見事に消滅させたにも拘わらず、サラとメルエの表情は厳しく歪んでいる。それは彼女達にしか理解の出来ない事柄なのかもしれない。

 

「メルエ、いつでも祈れるように指輪を準備して下さい」

 

「…………ん…………」

 

 この本当に僅かな攻防の中で、サラとメルエは上位の呪文を連発して来た。サラは消されても消されても、補助呪文を唱え、メルエは常に後手に回りながらも、ゾーマの呪文の相殺に努めて来ている。それは、ゾーマの身体に一切傷を付ける事の出来ない呪文行使の連続であり、特にサラの行使は体力や魔法力よりも、心を奮わせる気力を折るような作業であった。

 竜の因子を受け継いでいようと、世界で唯一の賢者であろうと、メルエとサラは間違いなく人間であり、大魔王ゾーマのように無尽蔵に魔法力がある訳ではない。ここまでの魔物や魔族達が相手であれば、物量や質量で押し切る事も可能ではあったが、魔法力の量も、呪文の威力も、大魔王ゾーマ側に大きく分がある以上、このまま呪文合戦を続けて行く事は不可能なのだ。

 それでも、今、ゾーマの攻撃によってカミュ達前衛二人を失う訳には行かない。何時の間にか狭められた選択肢の数を悔しく思いながらも、サラは魔法力を補う手段をメルエに提示する他なかった。

 

「フバーハ」

 

 最早、何度目の行使なのか自分でも解らなくなる程にサラは必死で杖を前へと突き出す。それと同時に、凍えるような吹雪が再び襲い掛かり、前衛二人の身体を凍て付かせて行った。

 フバーハという呪文は、マホカンタのように弾き返す事を主とする物ではない。霧の壁を生み出し、冷気や火炎という物を弱める効力を持つ魔法である。その火炎や冷気が強力であれば、強力である程、中和出来る量が限られている為、被害は自ずと大きくなって行くのだ。

 大魔王ゾーマの攻撃は一貫して冷気を操る物ばかりである。自身が生み出したと云われるメラゾーマを行使する事もなく、バラモスが行使していた爆発系の呪文を行使する訳でもない。だが、今のカミュ達にとって、最も苦しむ攻撃であると言っても過言ではなかった。

 

「ぐふっ」

 

 火傷であればベホマで回復出来る。メラ系の呪文であれば、その対象となった者にマホカンタを唱えて防御する事も出来る。だが、冷気だけは対策が取れないのだ。

 悴んだ手で武器は震えず、寒さに震える足では満足に動く事も出来ない。徐々に行動を制限され、気付いた時には、腕や足が腐り落ちているかもしれない。フバーハという霧の壁で威力を弱め、マヒャドと対抗する為にベギラゴンという炎の海を生み出しても、このフロアの冷気が絶え間なく生み出されて行くのだ。

 鈍った動きは、ゾーマにとって格好の餌食となる。その腕を避け切る事が出来ずに、カミュが再びフロアの壁へと吹き飛ばされ、リーシャが闇の爪によってその身体を斬り裂かれた。

 

「リーシャさん!」

 

 霧の壁に交じり合うように噴き出す鮮血が、その傷の大きさと深さを物語っている。即座に賢者の石を発動させようとしたサラの息が、何時の間にか真っ白に凍結していた。

 霜が降りたさざなみの杖を前方に突き出すよりも前に、サラの視界を氷の刃が覆い尽くす。前方で倒れたカミュやリーシャの姿さえも覆い隠すように広がった氷の刃が、一斉にサラ目掛けて降り注いで行った。

 最早、相殺する為の呪文行使は間に合わない。慌てて掲げた水鏡の盾に身体を隠した瞬間、自分の身体を圧倒的な魔法力が包み込むのを見た。その魔法力は光の壁となり、降り注ぐ氷の刃を弾き返して行く。そのような芸当が可能な者など一人しかいなかった。

 

「賢者の石よ!」

 

 自分の隣に立つ少女が杖を天高く掲げ、二人を覆うような光の壁を生み出しているのを見たサラは、再び賢者の石へと呼び掛ける。それと同時に全員の身体を淡い光が包み込み、その身体の傷を癒して行った。

 立ち上がったカミュが動き出したのを見て、メルエが杖を振るう。カミュが掲げる王者の剣を少女の魔法力が包み込み、その輝きが増して行った。

 勇者一行に同道する世界最高位の魔法使いの補助を受けたその剣は、どんな魔物も、魔族も、竜種の鱗でさえも切り裂いて来た筈。だが、光り輝く剣がゾーマの身体に達した時、そんな後衛二人の希望は再び打ち砕かれる事となった。

 

「ちっ」

 

 僅かな舌打ちの音を残し、再びカミュの姿が前方から掻き消える。そして、風切り音を残し、バラモスブロスとの戦闘で僅かに残っていた柱にその身体は衝突した。メルエのすぐ傍にあるその柱に打ち付けられたカミュは、盛大に血液を吐き出し、床へと倒れ込む。それを追うようにリーシャもまた、サラの側面にある壁に激突し、倒れ伏した。

 回復の為に動き出そうとしたサラは、ゾーマから再度発せられた凍て付く波動によって、足を止められる。幼いメルエは、足を踏ん張る事も出来ず、尻餅を突くように倒れ込んだ。

 

「苦しめ! 絶望せよ! それでも、もがき生きてみよ! 全て余の愉悦となる!」

 

 先程メルエがカミュへ唱えた補助呪文の全ても、今の波動によって吹き飛ばされている。何度唱えようと打ち消され、何度回復しようとも打ち倒され、勝利への糸口など見えはしない。それでも尚立ち上がろうとする足が震え続けていた。

 何度希望の炎を灯し、勇気を奮わせようとも、それ以上の絶望の闇によって容易く心が塗り潰されて行く。この最終決戦まで辿り着いた勇士達であっても、その絶望の淵にしがみ付いていられる時間は限られているのかもしれない。

 足は震え、手が震える。瞳は頼りなく揺れ動き、歯は嚙み合わない。このような恐怖を、絶望を味わった事は今まで一度も無かった。

 何度も挫けそうになり、膝を着いた事もある。恐怖を感じ、絶望を感じた事もある。それでも希望の光は必ず差すと信じ、歩んで来たのだ。

 だが、目の前の巨大な闇を前にして、サラの瞳には、一筋の光も見えない。希望の象徴とも言うべき青年は未だに起き上がれず、斧を杖にして立ち上がった女性戦士は、再び吹き飛ばされた。尻餅を突いた少女は、上手く立ち上がれない程に足を震わせ、サラ自身は恐怖の余りに歯を鳴らしている。

 

「恐怖と絶望の幕開けとなろう!」

 

 今、この場で感じている恐怖も、絶望も、全てが序章であるかのような高らかな宣言が、凍り付くように冷え切ったフロアに響き渡る。

 勇者一行の最後の戦いは、開始僅かで幕を下ろそうとしていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
大変遅くなってしまいました。
本来であれば、今月に完結する予定だったのですが、無理のようです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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大魔王ゾーマ③

 

 

 

 吹き飛ばされ、地面に倒れ伏すリーシャへと駆け寄ろうとしたカミュが再び反対側の壁へと吹き飛ばされる。強烈に壁に衝突した彼は、盛大に血液を吐き出し、床を真っ赤に染め上げた。

 闇が支配するフロアに設置されている燭台には真っ黒な闇の炎が燃え盛り、先程以上に絶望的な闇がカミュ達全員を包み込んで行く。

 圧倒的な力の差。ここまで辿り着いたという実績によって培われた彼等の小さな自信が、急速的に萎んで行き、僅かに灯り始めた希望の炎も比例するように消え失せて行った。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 魔王バラモスとの戦闘時に感じた恐怖が幼い少女の胸に甦って来る。自分以外の全てが倒れ伏し、護る事が出来なかったという自責の念と、最早自分を護ってくれる者がいないという絶望的な状況を思い出したメルエの足が震え、立ち上がる事さえ出来なかった。

 そんな少女の姿を見たサラもまた、掛ける言葉も、打開する為の行動も思い浮かばずに立ち尽くす。最早、何度目になるか解らない祈りを奉げて賢者の石を起動するが、その回復の光が前衛二人に届く頃には、再び彼等の身体が弾き飛ばされていた。

 大魔王ゾーマの放つマヒャドの威力も抑え切る事が出来ておらず、周囲の気温は加速度的に下がって行く。吐く息も白くなり始めた頃に吐き出された凍えるような吹雪が一行の身体を縛りつけ、それを打開する為の灼熱呪文の詠唱さえも侭ならない。

 カミュ達勇者一行の進退はここに窮まっていた。

 

「ふははははは。良い表情だ。僅かばかりの希望に彩られていた瞳は濁り、絶望の闇へと染まって行く。これ程に美しい色があろうか」

 

 巻き起こる冷気の嵐の中、立ち上がりかけたリーシャを再度後方へと吹き飛ばしたゾーマが、愉悦に染まった声を発する。常に希望を捨てる事なく、一行の前に立ち続けて来た青年もまた、立ち上がった所を闇の腕にて殴りつけられた。

 勇者の盾と呼ばれる神代の防具を掲げ、その闇に抗おうとする彼ではあったが、周囲を支配する冷気によって身体は悴み、上手く動く事が出来ない。掲げる盾こそ凍りついてはいないが、生身の身体は、脳からの命令に忠実に動く事は出来なかった。

 

「メルエ、ベギラゴンで炎の壁を作ってください」

 

 リーシャとカミュが自分達の方へ吹き飛ばされた事を幸いに、サラは自分達と大魔王ゾーマとの間に炎の壁を生み出す事をメルエへ指示する。その壁がある間に、カミュとリーシャを回復させようとしていたのだ。

 だが、甦った絶望と恐怖は、サラよりもずっと幼く小さな身体を縛り付ける。頷きを返したものの、足の震えが止まらずに立ち上がれない。自分の背丈よりも大きな杖を前へ突き出すが、詠唱の言葉が出て来ないのだ。

 炎の壁を生み出す事が出来ないメルエを見たサラは、自分自身でベギラゴンを唱えようとさざなみの杖を前へと突き出す。だが、それよりも前に吐き出されていた猛烈な吹雪が、カミュ達全員を凍えさせた。

 

「きゃぁぁぁ」

 

 吹雪による冷気の風は、サラとメルエの身体ごと後方へと吹き飛ばす。雪の結晶が身体に付着し、その体温を急速に奪って行く。後方で倒れ伏したサラは、傍に倒れるリーシャへとベホマを唱え、自分達の周囲を囲うようにベギラゴンを詠唱した。

 巻き起こる灼熱の炎がカミュ達四人を囲うように燃え上がり、ゾーマから襲い掛かる冷気を遮断する。全てを燃やし尽くす程の火力を誇る灼熱系最上位の炎であっても、大魔王ゾーマを前にすれば、暖を取る為の手段に過ぎないのだ。それを理解してしまうと、恐怖から足が動かなくなる為に、サラは敢えて考えないようにリーシャの回復へと向かった。

 サラの後を這うように近付いて来るメルエの心は弱り切っているのだろう。最大の保護者であるリーシャやカミュは、彼女にとって母と父に近しい。その二人が何度も叩きのめされ、立ち上がって攻撃する事さえ出来ないという状況は、彼女の心の奥にある勇気の炎を掻き消してしまうだけの光景であったのだ。

 

「メルエ、この炎も長くは持ちません! 気をしっかり持って! 貴女は、誰が何と言おうと、人類最高位の魔法使いです。この私が保証します。メルエならば、単独で魔王の呪文さえも掻き消す事の出来るだけの才能を持っている筈です。恐い気持ちも解ります。逃げ出したい気持ちも解ります。でも、今、メルエしかカミュ様達を護る事の出来る人間はいないのですよ!」

 

 回復呪文を唱えるサラへ近付いて来たメルエの眉は完全に下がっている。不安と恐怖に押し潰されそうな少女の瞳に、今サラの姿は映っていないのかもしれない。

 カミュもリーシャも未だに意識を取り戻していない。縋り付くようにリーシャの身体へ近付く少女の肩に手を乗せたサラは、振り向いた彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて語り出した。

 その声は、彼女にしては珍しい程に強い物であり、まるで叱責しているかのような語気である。サラはそのように語気を荒げている事に自己嫌悪に陥りながらも、この人類史上最高位にいるであろう魔法使いを叱咤した。

 サラ達を囲う炎の壁の暖気は薄れ始めている。サラという人類唯一の賢者が放った最上位の灼熱呪文であっても、ゾーマが発する冷気を留める事は僅かな時間しか出来ないのだ。彼女は、それを理解し、認めざるを得ない。それと同時に、自分の無力さに唇を噛み締めていた。

 

「私では……私では抑える事も出来ません。メルエ、お願いします。カミュ様達が立ち上がるまで、私達を護って……」

 

 人類を救う『賢者』だと祀り上げられても、神魔両方の呪文を行使出来る、呪文に特化した存在だと謳われても、彼女一人では大魔王の呪文に対抗する事さえ出来ない。彼女が得意とする補助呪文の全ては、大魔王が発する凍て付くような波動によって、無に還される。攻撃呪文の威力は大魔王の足下にも及ばず、メルエという稀代の魔法使いが打ち消し損ねた余波を防ぐ事しか出来ないのだ。

 ここまでの旅路で、何度、自分の無力を嘆いた事だろう。何度、他者の能力を羨んだ事だろう。それでも、自分を奮い立たせ、自分が出来る精一杯の事をやり続けようと決意を固めて、前へ前へと歩んで来た彼女の心が折れた。

 絶望の闇に閉ざされ、頼りにする勇者と戦士が倒れ、回復の呪文の効果も、神代の道具の効果も追いつかず、立ち向かう為に打つ手さえ見つからない。頬を伝って行く涙は、哀しみや恐怖の為ではない。自分の無力さを嘆き、憤る、そんな悔しさの涙であった。

 

「…………サラ………すぐ……なく…………」

 

 そんなサラが妹のように愛する少女は、当代の賢者でさえも人類史上最高と評価する『魔法使い』である。どれだけ恐怖に苛まれようと、どれ程に絶望を刻まれようと、大好きな者達の危機には、必ずその心を奮い立たせ、立ち上がって来た勇士の一人であった。

 年端も行かぬこの少女を、勇者一行の一角と認めない者は多くいるだろう。どれ程に魔法力を有し、どれ程に強力な呪文を使いこなそうとも、彼女の名は、勇者一行として残っていかないかもしれない。

 それでも、ここまでの旅路の中で、彼女もまた、強大な敵に立ち向かって来た勇者の一人なのだ。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 先程まで下がり切っていた眉を上げ、小刻みに震えて命令を利かなかった足を強引に動かした彼女は、長く共に戦って来た相棒を振るう。真の主の心を受けた杖先のオブジェの瞳が光り、先程サラが行使した物と同呪文だとは思えない程の灼熱の炎を生み出した。

 サラのベギラゴンの炎が消滅に向かい、それを突き抜けて来る凍えるような吹雪を、メルエの放った灼熱の炎が飲み込んで行く。その火炎は凄まじく、吹雪を飲み込んで尚、消滅する事もなく、闇に閉ざされかけたフロアを明るく照らし出した。

 

「…………メルエ……まもる…………」

 

 その決意の言葉に呼応するように、彼女の指に嵌められた小さな指輪が輝きを放ち、内なる魔法力を回復させる。しっかりと地面に立った少女の足の震えは既に止まっており、決意に燃えた瞳からは絶望の色さえも消え失せていた。

 あのルビスの塔から戻ったマイラの村で感じた絶望に比べれば、今の状況など、メルエという少女にとっては些細な物である。自分が大好きな者達から拒絶されるという、死よりも辛い出来事から比べれば、大好きな者達と共に死ぬ程度の恐怖など、あってないような物であった。

 あの朝、意を決して聞いた問いかけに、号泣しながらも永劫の確約をくれた姉のような存在の心が折れ掛けている。嬉し涙でもなく、哀しい涙でもなく、痛みに耐える涙でもない涙を流してまで、自分に向かって願いを口にした。

 『サラを泣かせたのは誰だ!』

 『大好きな、大好きな姉を虐めたのは誰だ!』

 そんな少女の怒りは、魔法という神秘となって、世界に姿を現していた。

 

「ほぉ、余と呪文を競おうとでもいうのか?」

 

 全ての冷気を飲み込んだ炎が役目を終えたように消滅し、その残り火で照らされたフロアの視界が晴れる。そして、先頭に立つ少女の前に、先程まで恐怖と絶望を撒き散らしていた圧倒的な存在が見えて来た。

 杖をしっかりと握った少女は、その燃えるような瞳を真っ直ぐゾーマへと向ける。大魔王という魔族だけではなく全ての頂点に立つ程の存在と、歴代最高位の賢者と謳われた者の末裔であり、人類史上の頂点に立つ魔法使いとの対峙。それは、新たな戦いの幕開けでもあった。

 

「マヒャド」

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 全体を覆う程の冷気を発する、氷結系最上位の呪文をゾーマが唱え終わる前に、それを打ち消すようにメルエが大魔王が生み出した最上位の火球呪文の詠唱を完成させる。

 空中に浮かび上がった巨大な魔法陣の中央から飛び出した火球の熱気が、襲い掛かろうとする氷の刃諸共に大魔王を飲み込もうと突き進んで行った。

 その火球の凄まじさは、メルエと共にここまで魔法という神秘を追い駆けて来たサラでさえも見た事のない物。周囲の大気さえも燃やし尽くすのではないかと思う程の熱量は、マヒャドによって生み出される氷の刃を次々と飲み込み、冷気のど真ん中に道を作るように飛んで行く。

 

「流石は、世界に名を轟かせる者の末裔よ!」

 

 だが、それでも大魔王ゾーマには届かない。

 マヒャドで生み出される氷の刃を溶かし尽くしても、大魔王が振るう闇の腕を突き破る事は出来ず、闇に覆われ、その勢いを失う。全てを融解する程の熱量を持ち、全ての呪文の中でも最上位の威力を持つその呪文であっても、大魔王ゾーマに傷を与える事は出来なかった。

 闇が支配していたフロアを明るく染め上げた火球は消え失せ、再び闇がフロア全体を覆い始める。悔しそうに唇を噛み締めたメルエが再び杖を強く握り、眼前の大魔王の動きを注視した。

 

「ふむ……。ここまでメラゾーマを操るとは、予想外であった。まさか、余の腕にその痕を残すとはな」

 

「え?」

 

 しかし、メルエの予想は外れ、ゾーマは追い討ちの攻撃を繰り出す事はなかった。回復呪文をカミュ達へ掛け続けていたサラは、そんなゾーマの呟きに驚きの声を上げる。その呟きが真実だとすれば、深い闇の更に奥に、大魔王ゾーマの本体があり、先程のメラゾーマでその身体を傷つける事が出来たという事になるのだ。

 それは、ここまでの絶望的な戦いに、僅かな光明が差した事を意味している。大魔王ゾーマという絶対唯一の存在に対しても、自分達の攻撃は効果があるという証明になるからだ。

 だが、それでも賢者サラは軽挙には出ない。その言葉こそが、ここまでと同様に自分達を惑わせる為の言葉である可能性を否定する事が出来なかったからである。

 『大魔王ゾーマも傷つけられる』という考えは、サラ達の希望となる。その一筋の希望に目が眩み、全体の闇の深さを忘れた時、何時の間にか周囲は闇に染まり、再び深い絶望へと落とされるのだ。希望を見つけた者が陥る絶望の淵は、果てしなく深くなる。それこそが大魔王ゾーマが望む愉悦である事をここまでの戦闘で深く刻まれているサラだからこそ、この場面で逆に心が冷めて行ったのだ。

 

「マヒャド」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 そして、サラの考えが的確である事を証明するように、大魔王ゾーマが最上位の氷結呪文を唱える。間髪入れず、メルエが杖を振るい、最上位の灼熱呪文で相殺しようと動き出した。

 覚醒を果たしたメルエの灼熱呪文は凄まじく、大魔王が放った冷気と拮抗しているように見える。元々、火炎系の呪文よりも氷結系の呪文を得意とするメルエではあるが、人類史上最高の『魔法使い』と称される才能を持っているのだ。人類で、彼女以上の火力を魔法で顕現させる事が出来る者は誰もいないだろう。

 だが、それでも大魔王までは届かない。炎の壁を作っても、それで氷の刃を防いでも、術者である大魔王を傷つける事は出来ず、むしろ冷気の余波がメルエの持つ雷の杖に霜を降ろして行く。氷竜の因子を受け継いだ彼女だからこそ、その冷気の中でも凍り付く事なく動いてはいるが、通常の人間であれば、身動きが出来なくなる程の冷気であった。

 

「…………むぅ…………」

 

「フバーハ」

 

 寒さに強いとはいえ、メルエもまた人間である事に変わりはない。凍りつくような冷気を受ければ寒さを感じるだろうし、真っ赤に染まった手は、思うように動かなくなっているだろう。どれ程の決意があっても、どれ程に強い怒りがあっても、彼女が願う未来を勝ち取る事が出来ない事に幼い少女は不満の声を漏らした。

 しかし、そのような余裕は戦闘中に長く続く訳はなく、即座に生み出された凍えるような吹雪が前面に立つメルエに向かって襲い掛かる。それを察したサラが再び霧の壁を生み出すべく、フバーハという呪文を詠唱するが、その冷気全てを防ぐ事は出来ず、メルエの身体は凍えて行ったのだ。

 

「ふはははは。呪文合戦も、余の勝ちであるな」

 

 その言葉は、圧倒的な威厳を持ち、そしてそれ以上の余裕を感じる。大魔王ゾーマにとって、勇者一行との戦闘など、勝敗を決する程もない余興なのだろう。それを敢えて、『自分の勝ちだ』と口にするのは、愚かにも自分に呪文合戦を挑んで来たメルエを嘲笑う事を目的としているのだ。

 努力を重ね、希望を見出し、それに向かって突き進む者を蹴落とす存在。希望を持った者が落ちる場所は、全てが闇に閉ざされた絶望の谷底である。その谷底に突き落とす為の呪文が、大魔王によって発現された。

 悴んだ身体で杖を振るう事が出来ないメルエの眼前に、無数の氷の刃が生み出される。その全てが、メルエに向かって鋭い切っ先を向け、空中に停止していた。

 

「さらばだ、竜の王族の末裔よ」

 

 大魔王の言葉と同時に、天井を埋め尽くさんばかりの氷の刃が、一斉に幼い少女に向かって降り注ぐ。その刃の数量は、先程までのマヒャドとは比べ物にならない。咄嗟に最上位の灼熱呪文を唱えたサラであったが、生み出された炎の海を突き抜けて、無数の刃はメルエの身体を目指して飛んで来た。

 手は残されていない。人類史上最高の魔法使いは凍えて動けず、人類唯一の賢者の放った灼熱呪文は氷の刃全てを融解させる事は出来なかった。

 サラの目には、メルエに襲い掛かる氷の刃の動きがとても緩慢に見える。ベギラゴンの炎を突き抜けて来た氷の刃の輝きを見たサラ自身が発した声も、自分の耳に入って来るのが異常に遅く感じ、その声自体も自分の物とは思えない奇声であった。

 伸ばす手は届かず、足が床に打ち付けられたように動かない。メルエを護る絶対的な防御呪文をサラは行使する事が出来ず、モシャスを唱えていないメルエがその呪文を行使する事など不可能である。そもそも、そんな呪文の行使をしている猶予は残されていないだろう。

 自分が感じる時間の流れと、メルエの目の前に迫っている氷の刃の速度は異なっているのではないかと錯覚する程に、それは一瞬の出来事だった。

 

「…………カミュ…………」

 

 サラの周囲の時間が再び正常な流れへと戻ったと同時に、メルエの呟きがフロアに響いた。

 幼い少女の前には、盾と剣で氷の刃を砕き切った勇者の背中があり、その横には、同じように盾と斧で氷の刃を吹き飛ばした戦士の背中がある。それが、全てを物語っていた。

 回復呪文を唱え終える前にメルエの戦いに意識を向け、それを援護しようとサラが動いた時には、既にこの二人は動き出していたのだろう。未だに癒え切れぬ傷を抱えたまま、彼等二人は戦いに再び身を投じたのだ。

 

「すまないな、メルエ。随分、待たせてしまった」

 

「…………ん…………」

 

 振り向きもせずにメルエへ謝罪の言葉を漏らすリーシャの斧には、未だに霜が付着しており、力の盾に付着した氷も溶け切れていない。それでも自分の目の前に立つ二人の背中以上に頼もしい物など、彼女にとってこの世にはなく、嬉しそうに頬を緩めて頷きを返した。

 ベホマという最上位の回復呪文で癒されているとはいえ、氷竜の因子を持つメルエでさえも凍えそうな冷気の中で動く事など本来は出来る訳がない。光の鎧という神代の鎧を身に纏っているカミュならば、幾らかは軽減されるだろうが、リーシャは別であろう。

 それでも毅然と立つその姿こそ、真の英雄足り得る資質を秘めた者ならではなのかもしれない。

 

「何度立ち上がろうとも、同じ事よ。しかし、そこまでしてもがき生きる姿、滑稽でありながらも余を愉しませる。その先にある絶望の強さを思えば、哀れではあるがな」

 

 何度傷つこうとも、何度死に瀕しようとも、常にこの一行は立ち上がり、道を切り開いて来た。

 魔王バラモスは、その諦めの悪さに恐怖し、苛立っていただろう。だが、目の前の大魔王ゾーマは、そのもがきさえも愉悦としている。この大魔王はそれ程に余裕を持っているという証拠であった。

 これ程にカミュ達が痛め付けられ、活路を見出せぬ状況に追い込まれているにも拘らず、ゾーマは余力さえも残した状態での戦闘であるのだろう。それがどれ程に絶望的な状況かを理解出来ないカミュ達ではない。それでも、この場から逃げ出す事が出来ない以上、戦い、勝利するしかないのだ。

 

「カミュ、ここに来る前にお前に話したように、私は絶対に生を諦める事はない。だが、それだけでは生き残れないのかもしれないな」

 

「……『死ぬな』としか言えない」

 

 オルテガを救う時、リーシャはカミュへ宣言している。絶対に生きる事を諦める事なく、絶対に死を受け入れる事はないと。だが、この大魔王を目の前にして、自分が発した言葉が如何に無責任な物であったかを思い知った。

 圧倒的な力を前にして、気を抜けば即座に絶望に飲み込まれてしまうだろう。何度勇気の炎を灯しても消し飛ばされ、立っている事も難しい状況が続く戦闘の中で、『死』という最悪の状況を回避する為には、生を諦めないという覚悟だけでは足りない事を痛感したのだ。

 それをカミュも理解しているのだろう。悲痛の面持ちをした彼は、言葉少なに返す事しか出来なかった。

 

「そろそろ幕引きとしよう。僅かな希望に縋り、もがき生きる様を十分に愉しませて貰った。その褒美を与えねばなるまい。味わった事のない絶望を、余から貴様等に送ろう」

 

 勇者一行が全員揃っても、この状況を変える事など出来はしない。絶望的な不利な状況であり、全滅という未来しか見えない危機的な状況を変える事は出来なかった。

 どんな強敵との戦いでも、その状況ごと引っ繰り返すような強力な呪文を行使して来た少女が、自身の得意分野である呪文で大魔王に敗北し、その少女を護るように常に前線で武器を振るい続けて来た戦士の身体は、フロアを埋め尽くす冷気によって凍り付いている。どのような危機に瀕しても、僅かな光明の道を見つけ、その頭脳で仲間を導いて来た賢者も、この絶望的な状況から抜け出す道筋が見えず、どんなに苦しい時でも、諦める事なく仲間の勇気を奮い立たせて来た勇者でさえ、『死』という最悪の結末を覚悟せずにはいられなかった。

 

「まずは、鬱陶しいまでに、諦めの悪いその心を折ってやろう」

 

 高らかに宣言をした大魔王ゾーマの闇の腕が一瞬の内に先頭に立っていたリーシャの身体を叩き潰す。床に叩き伏せられたリーシャが苦悶の声を上げる隙もなく、その身体は更に真横へと吹き飛ばされた。

 カミュ達一行の身体は、冷気によって動きが鈍くなっており、その攻撃に反応が遅れる。そして、吹き飛ばされ、血液を大量に吐き出したリーシャは、薄れ行く意識の中で、瞬時に迫って来た大魔王の影を見た。

 巨大で絶望的な闇に包まれたように視界は暗く染まり、彼女の意識はそこで途切れた。

 

「リーシャさん!」

 

 大地の鎧という神代の鎧を纏っているとはいえ、その鎧は全身を覆っている訳ではない。三度目の床への衝突を経て戻って来たリーシャの身体を見たサラは、悲痛の叫びを上げ、余りの状態にメルエは絶句した。

 最早、彼女の四肢が、正常に動く事はないだろう。右腕はあらぬ方向に折れ曲がり、左腕は二の腕の骨が見える程に斬り裂かれて血溜まりを作っている。右足は骨さえも斬られて、僅かな肉と骨で何とか繋がっているような物であり、左足もまた、肉から折れた骨が突き出しているような状態であった。

 一瞬の内に一人の仲間がこの世から去る程の重傷に陥る。心の隅に僅かに生まれた絶望という感情を突かれ、絶望的な状況が、真の絶望へと変わって行ったのだ。

 

「良い表情だ。やはり、貴様等の諦めの悪さは、その女によって支えられておったか」

 

 サラやメルエの表情は、全てを無くした程に歪んでいる。どんな状況でも表情の変化が乏しいカミュでさえも、何かを悔やむように眉を顰めていた。

 カミュとサラは、この一行の要となっている人物はリーシャだと考えている。四人を繋げる為の楔を打ち込んだのがメルエという少女であっても、その楔を鎖で繋いだのはリーシャという女性戦士なのだ。

 勇気の象徴はカミュであるし、その背中で一行を支え、導いて来たのもカミュである。それでも、その一行の心を一つに纏めて来たのは、間違いなく彼女の功績であった。

 既に、彼女がいなくとも、三人が仲間を蔑ろにする事はないだろう。突然指揮系統を失ったようにバラバラに勝手な行動を始める事もない筈だ。だが、何があろうと、どんな場面であろうと、絶対に生を諦めず、死を受け入れなかったのは、彼女唯一人なのである。

 カミュは、一度死の呪文で死を受け入れた。サラもまた、死の呪文を受け入れた事もあるし、それを救う為に自己犠牲に走った事もある。最もそれを受け入れないと思われたメルエでさえも、完全に死という結末を迎えていたのだ。

 そんな『生への執着』の象徴のような支柱が折れた。

 

「はっ! すぐに回復を!」

 

「させぬわ! 次は貴様だ!」

 

 凄まじい姿になってしまったリーシャの身体に呆然としていたサラが我に返り、慌てて回復呪文を唱えようと駆け寄るが、その行動は大魔王によって遮られる。突如として吹き荒れた冷気に動きが鈍り、付着する氷の結晶に動きを止められると同時に、彼女の目の前に大きな闇が姿を現した。

 全てを失ったように佇むカミュの脇を擦り抜け、賢者の目の前に現れた大魔王は、再びその闇の腕を突き出す。薙ぎ払われたのではなく、突き出された闇の腕は、サラの腹部へと突き刺さり、臓物を傷つけ、背中から姿を現した。

 盛大に血液を吐き出したサラの瞳から急速的に光が失われて行く。死に直結する程の傷を受け、倒れ伏したサラの身体から溢れ出るように血液が海を作り出した。水の羽衣という美しい衣服が裂け、青色のそれを血液が真っ赤に染め上げる。何度か痙攣を繰り返すその姿は、幼い少女に先程以上の怒りと、絶望を刻み込んだ。

 

「…………サラ…………」

 

 その呟きは、カミュの耳に最後まで届きはしない。リーシャとサラの惨状に呆然としながら歩み始めた少女の姿が、一瞬の内にカミュの前から消え失せる。それと同時に轟く轟音が、彼女の小さな身体が残っていた柱に衝突した事を物語っていた。

 元々『魔法使い』という職を持つ者は、体力が少ない者が多い。その中でも異質の魔法使いであるメルエは、魔法力を体力へ変換する事で、カミュやリーシャのような強靭な者達と共に旅を続けて来たのだ。故にこそ、彼女の物理耐性は、最弱と言っても過言ではないだろう。

 血液を大量に吐き出し、強かに打ちつけた頭部からも真っ赤な血液が溢れ出す。それを嘲笑うかのように、柱から床へと落ちて来る彼女の身体が、再び闇の腕に攫われた。

 

「メルエ!」

 

 ようやく、事の成り行きを理解したカミュが我に返った時には、彼の目の前に体中から血液を流し続ける少女の身体が叩き付けられる。

 既に意識はなく、その魂までも遠くへ連れ去ろうとしている事は明らかであった。彼の周囲には、彼と長く旅を続けて来た者達の瀕死の身体が転がる。それは、彼が歩んで来た長い旅路の終わりを意味していた。

 彼は間違いなく、この世の『勇者』である。その行動、その結果、全てが彼が『勇者』である事を物語っていた。

 だが、彼がアリアハンを旅立ったその時も『勇者』であったかと問われれば、それは『否』である。彼はこの長い旅路を経て、『勇者』と成った者であり、彼を『勇者』としたのは、彼の傍で共に歩み続けて来た三人の女性であった。

 彼女達がいなければ、彼がここまでの旅路で残した功績は、今の半分も満たないだろう。彼女達が共にあったからこそ、彼は動き、結果を残して来たのだ。

 彼を『勇者』として留めていた最後の楔が抜けた時、そこに立つのは、二十歳を越えた程度の青年でしかない。

 全てが今、終わりを迎えようとしていた。

 

「どうした、カミュよ! 余が邪魔なのではなかったか? 最早、貴様も戦う理由などなくなったか? ならば、その運命を呪い、この世に絶望し、この我が腕で息絶えるが良い!」

 

 瞬間的に、カミュの視界全てが真っ白に埋め尽くされる。続いて、口を開く事も出来ない程の冷気が襲い掛かり、光の鎧を纏っていない身体の部分の感覚が失われて行った。

 指の感覚は既になく、絶望の闇と死の冷たさで五感が消え去って行く。同時に襲って来た浮遊感と、身体に響く衝撃で、自身が大魔王ゾーマの攻撃をそのまま受けている事を知った。

 だが、既に痛覚さえも麻痺している彼に、それに抗う力など残されてはいない。最早、何度目かも解らない程の衝撃を受け、前後左右の感覚さえも失った時、ようやくその衝撃が止んだ。

 

「ごぼっ」

 

 身体の内部から盛大に何かを吐き出した時、ようやく彼は自身の身体を襲う耐え切れない程の激痛で意識を取り戻す。剣を握っていた筈の右腕には命令が届かず、命令の届いた左腕も、僅かに指先が動くのみ。立ち上がる気力も、抗う気力も既に失われ、微かに戻った視力が、傍で倒れる三人の女性の身体を映し出した。

 命の灯火が微かに揺れる程度にしか残らない三つの肉体が、フロアを埋め尽くす闇へと呑まれて行く。

 

「ふははははは」

 

 最大の愉悦を味わった大魔王の高らかな笑いがフロアに響き、それを脳の奥深くに刻み込まれながら、カミュの意識もまた、闇へと飲まれて行った。

 全世界の希望の灯火が、消えようとしている。

 多くの者が種火を継ぎ入れ、絶やさぬようにして来た、最後の希望の炎。頼もしく赤々と燃え盛っていたその炎が、巨大な闇へと呑み込まれ、消滅しようとしていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
全滅エンドです……

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大魔王ゾーマ④

 

 

 

 遠い記憶が甦る。

 初めて握った剣は、何だっただろう。

 祖父が厳しい表情で手渡したのは、アリアハンという国にある武器屋が扱う商品で最も高価な銅の剣だったかもしれない。溶かした銅を型に流し込み、凝固させただけの安易な武器が、アリアハンでは最も高い値で売られる武器であった。

 アリアハンが貧しい理由の一つに、宮廷に高位の呪文を会得している魔法使いがいないという物がある。高位の魔法が使えないから、その魔法の恩恵を受ける術がなく、武器の加工も生活水準も上がらないとも考えられた。

 それでも、豊かな自然と、資源に囲まれたこの辺境の島国は、一国として成り立っていたのだ。だが、魔物が凶暴化して行くにつれ、武器の需要は増えて行く。幸いな事に、国境である旅の扉を封鎖したアリアハンに強力な魔物が流れ込んで来る事もなく、銅の剣のような頼りない武器でも討伐が可能であった。

 それでも、他国から来ていた者や、宮廷に仕える者達の腰には、鉄製の武器や鋼鉄製の武器などが差さっており、その者達は憧れの的となっていた。

 

「甘い! そのような事で魔物が倒せるか!」

 

 物心ついた頃には銅の剣を与えられ、それを振るう事を義務付けられる。毎日毎日、朝起きてから夜寝るまで剣を振るわされ、身体中に痣が出来る程に打ち付けられた。

 そんな祖父の腰には、常に一本の鉄の剣が差さっていたように思う。あれは、祖父にとって宝物とも言える剣だったのだろう。国王から下賜された名誉ある剣。アリアハンでは珍しい高価な剣であった。

 今思えば、最初の頃はそんな自分の姿を、家の影から母親が見ていたような気もする。救いを求めるようにそちらに視線を送れば目を逸らされ、次第にその姿も見なくなった為に忘れる事にした。

 『何故、このような事をしなければいけないのか』という疑問を持つようになったのは、容赦なく打ち据えられて倒れ込んだ視線の先に、親に手を繋がれて町を歩く同世代の少年が見えた頃からだった。

 『自分の何が他の子供と違うのか』。そんな疑問が浮かび上がると同時に、毎日のように自分を木刀で痛め付ける祖父へ憎しみを持つようになる。

 『何故、助けてくれないのだ』、『何故他の子供達のように優しくしてくれないのだ』という怒りにも似た疑問は、祖父だけではなく母親にも向けられるようになった。

 

「カミュ、傷の手当を」

 

 残った痣が消える前に、新たな痣が付き、切れた傷が癒える前に、その傷が裂ける。そんなカミュの傷は、家に帰ると母親が手当てをしていた。

 幼い頃は、これを優しさからだと信じていた。いつか、自分を痛め付ける祖父へ抗議をしてくれ、この地獄のような毎日から救い出してくれると信じていたのだ。

 だが、そのような日は決して訪れる事はなかった。

 もっと頑張れば、この地獄から抜け出せるのかとも考えた。いつか手を伸ばしてくれるのではと期待した。だが、そんな望みは終ぞ訪れる事はなく、心が徐々に冷え切って行く。与えられるべき愛情の形が見えず、剣を持って喚く祖父が別の生物のように感じて行った。

 

「お前など、孫ではない!」

 

 憎しみを通り越し、全てを諦めたのは、そんな言葉を受けた瞬間だったのかもしれない。討伐隊という死と隣り合わせの部隊に放り込まれ、魔物と一人で戦い、必死の思いでルーラを唱え、家に辿り着いたカミュに待っていたのは、そんな祖父からの罵倒であった。

 魔物の爪や角での切り傷や刺し傷で血に濡れたカミュを一瞥した祖父は、そんな言葉を吐き出して、扉を閉めたのだ。あの時の絶望は、言葉には出来ない程の物だっただろう。最後の最後までしがみ付いていた『肉親』という繋がりを失った瞬間であった。

 その場で気を失ったカミュは、翌日に手当てをされた状態で目を覚ましたが、その手当てを誰がしてくれたかなど、既にどうでも良い事であった。いつものように怒鳴る祖父を見ても何の感情も持てず、心配そうに見つめる女性を見ても、それを母親だと認識する事さえも出来なくなっていたのだ。

 

「勇者カミュよ、これより、このアリアハンを旅立ち、『魔王バラモス』を討伐せよ!」

 

 それから数年経過し、十六という節目の歳を迎えた彼は、登城した謁見の間で、国王から勅命を受ける事となる。

 英雄と謳われたオルテガという人間の息子であるというだけで、誰も成し得ていない苦行へ放り込まれる理不尽さに憤る感情も捨て去った彼は、その勅命を粛々と受け入れた。

 共に旅をするとして付けられた女性戦士も、まるで生贄を奉げる為の儀式のように叫ぶ国民達も、何処か遠い別世界の生き物のように感じていた。

 生きる事も、死ぬ事も許されなかった十六年という月日を経て、ようやく手に入れた本当に自由な時間。もし、この旅の中で彼が死んでも、それは致し方のない事と処理されるだろう。彼の素性さえ他人の知るところでなければ、魔王討伐という目的の為に歩む必要さえないのかもしれない。

 

「どうぞ、このサラも勇者様の旅への同道をお許し下さい」

 

 だが、そんな彼の旅の始まりは、彼の望みとは掛け離れた物であった。

 国王から付けられた宮廷騎士。アリアハン教会から単独で飛び出して来た女性僧侶。この二人の登場によって、彼の旅は、当初に考えていた物とは大きく異なる物となる。

 出立時は、アリアハン国が自分に付けた監視役なのかとも疑った。『勇者』として旅立ち、魔王討伐までの道を真っ直ぐに歩む為の存在なのだと疑っていたのだ。

 だが、宮廷騎士を名乗る女性戦士の短絡さにその疑いを捨て、妄信的に教会の教えを信じる僧侶に、国との関連性を認める事は出来なくなる。

 

「名前は何という?」

 

「…………メルエ…………」

 

 本当の意味での彼の旅が始まったのは、この瞬間なのかもしれない。

 奴隷として売られた少女を、その頃僧侶であった者の甘い考えで救う事になり、その少女は、何故か自分達の旅に同道する事になる。それは、カミュという一人の青年の色の無い人生に、鮮やかな色を塗り付ける出会いとなった。

 天真爛漫というよりは、純粋無垢であった少女は、自分を救ってくれた相手であるカミュ達三人に対して徐々に心を開くようになって行く。大人とは異なり、雛鳥のような心を持っていた少女は、自分を護ろうとしている者達へ信頼を寄せるのに時間を要する事はなかった。

 乏しかった感情は、日を追う毎に豊かになり、よく笑い、よく泣き、その成長が目に見えて解かる程に顕著に現われるようになる。目に映る物全てが珍しく、全てが輝いているのだろう。そう思える程に、いつでも笑顔を浮かべて旅を続ける彼女の姿に、少しずつ、彼の心も変化して行った。

 

「お前は、変わり過ぎだ」

 

 メルエという少女が加わってからでも、四年以上の旅を続けた後、魔王バラモスという存在を間近に控えた船の上で、彼は女性戦士からその言葉を受ける事となる。

 彼の目には、周囲の三人の変化が顕著に映っていた。頑なで、短絡的だった女性戦士は、自身の短絡さを認め、カミュやサラといった頭脳派の人間達に考える事を委ねる。相変わらず、他人の心の中へ無遠慮に入っては来るが、角が取れたように雰囲気は丸くなった。

 僧侶から賢者へと転職を果たした女性は、妄信していた教えにさえ悩み、苦しむ。信じていた教えと現実の違いを切り捨てるのではなく、全てを受け入れて尚、それに悩み、苦しみながらも前へ進もうと決意を固めていた。

 誰一人信じず、孤独の中で生きて来たカミュにとって、四年以上の旅の中で変わって行く者達の姿が本当に眩しく思っていた。だが、それは彼女達三人の事であって、自分自身ではない。死を願う想いこそ薄れているものの、自分の考えや態度、そして戦う姿勢などは変わっていないと彼自身は考えていたのだ。

 それを、アリアハン城という最初の場所から共に旅をして来た女性戦士は容易く否定する。

 

「貴様だけは生かしてはおけん」

 

 激闘の末、世界を恐怖に陥れた魔王バラモスを討ち果たすその間際に、魔王は幼い少女へ手を伸ばし、執念の炎を瞳に宿す。その炎は自分の命さえも代償に差し出す程に暗く、根深かった。

 それを見た時、彼は何かに追われるような焦燥感を感じる。胸が騒ぎ、肌が総毛立ち、何かをしなければならないという焦りと、何をするべきなのかが解らないという恐怖に苛まれたのだ。

 バラモスの首を落とした時、自分の身体を支えていた全てが霧散して行くのを感じ、死を感じた。焦燥感に苛まれながらも、抗う事の出来ない安堵感があったのも事実。『ようやく開放される』という安堵感が焦燥感を上回り、生への執着を捨て、死を受け入れてしまった。

 

「私は、お前に生きていて欲しい……」

 

 精霊ルビスの力によって現世に繋ぎ止められた彼を待っていたのは、苦楽を共にして来た女性戦士の張り手だった。

 涙ながらに叫んだ言葉が彼女の本音なのだろう。そこまでの旅の中で何度も何度も衝突し、何度も不躾に心へと入り込んで来たのは、カミュという青年を現世に縛りつけようとしていた表れなのかもしれない。

 その心を知ろうとし、時にはそれを侮蔑し、時には慰め、時には諭し、常に彼の心の変化を彼女は追って来ていた。カミュにとっては怒りさえ覚える程の言動もあっただろう。彼女の価値観を押し付けていると感じた事もあっただろう。

 だが、それも彼女のこの一言に全てが集約されていた。彼女の願い、彼女の想いは、たった一つの単純な物であったのだ。

 

「大丈夫だ」

 

 だからこそ、カミュはその言葉を返す。この一行の中では今では特別な意味を持つその言葉を口にした者は、必ず、その通りの結果を出さなければならない。それは、最早、暗黙の決まり事であった。

 精霊ルビスの言葉を聞き、魔王バラモスを討ち果たした時の焦燥感が間違っていなかった事を悟っている。魔王バラモスの上にいる存在を倒さない限り、世界の平穏は訪れず、そしてその世界で生きようとする者達も死に絶えるだろう。その中でも、彼が最も重要視する『メルエ』という少女が真っ先に危険に晒される事が明白であった。

 ならば、彼の決意は一つ。このような場所で死んでいる場合ではなく、大魔王ゾーマを討ち果たすまでは死を受け入れるつもりもない。故にこそ、あの時、その決意を表す為に、彼はあの言葉を発したのだ。

 

「メルエ! 目を覚ましてくれ……頼む、目を開けてくれ……」

 

 そんな彼の願いや決意を嘲笑うように、大魔王ゾーマの強大な力は彼ら一行を絶望の淵へと落として行く。精霊ルビスが封じられた塔へ挑んだ彼らは、自分達の力の足りなさを実感する事となった。

 その窮地を救ったのは、彼が護ると誓った幼い少女であり、彼女に受け継がれていた血には、古の竜族の因子が流れていた。それは、良い結果だけではなく、一行の中に不穏な闇を運んで来る。

 蓋をし、必死に抑えて来た賢者の潜在的な恐怖心が噴き出し、二人の間に絶望的な隔たりを生み出した。その隔たりの結果、少女は絶望の淵を彷徨い、死の誘惑に負ける。

 その時、彼は全てを失った。生の目的も、旅の意義も、この世への希望さえも失くしてしまう。今思えば、この幼い少女の死という出来事は、未来へと続く道の大きな分岐点だったのかもしれない。

 

「その試練を超える事が出来る貴方であれば、この世界から闇を払う事など容易き事……」

 

 メルエという大事な少女を取り戻し、サラという未熟な存在は真の賢者と成った。結束を深めた一行は、再度あの塔へと挑む。精霊神ルビスという存在が封じられた塔へ挑んだ彼らは、困難を乗り越え、そして神代から伝わる古の勇者の装備品を手に入れ、その場に辿り着いた。

 復活を果たした精霊神は、自らがゾーマへ向かうのではなく、自身を解放した勇者達へと未来を託す。上の世界も、このアレフガルドも、既に神の手から離れた世界であり、そこで生きる者達が道を切り開くべきだとしたのだ。

 その時に告げられた『試練』を彼は理解出来なかった。様々な困難を乗り越えて来た自信があり、今更『試練』だと言われても、彼の心には全く響く事はなかったのだ。

 

「……カミュ、その葉を使用する事がなかったのは、この時、この場所で使用する為だったんだ」

 

 しかし、古の勇者が装備していた太古の剣を手に入れ、全てを揃えて挑んだ大魔王の居城で遭遇したその試練は、彼が考えていたよりも深く、辛く、苦しい物であった。

 憎む事しか出来なかった父親との対面。それは、想像以上の苦痛を彼に齎す。成長と共に増して行った憎しみは、彼が生きる為の理由付けでもあった。

 『何故、自分がこれ程に苦しまなければならないのか』という答えを、全て父親であるオルテガへぶつける事で、彼は何とか心を保護して来たのだ。しかし、既にこの頃には、彼の心は別の物にしっかりと護られていた。

 それを明確に理解したのが、この瞬間であったのかもしれない。自分を不安そうに見つめる少女の瞳。何処か諦めを含んだ賢者の瞳。そして、何よりも自分を信じて疑わない強い瞳を向ける女性戦士の瞳を見た時、彼は己の中の憎しみが、何か別の物に敗北した事を悟った。

 

「私は本当に嬉しかった……」

 

 他人に対しての興味を失ってから幾年が経過しただろう。自分へ向けられる複雑な感情が入り混じった物を意識する事を止め、『人間』という種族に対しての感情を切り離してからどれ程の月日を越えた事だろう。夜の闇に浮かぶ月から注ぐ淡い光だけが、自分を受け入れてくれる光のように見上げた夜を何度過ごして来ただろう。

 あの時、リムルダールという異世界の町で告げられた女性戦士の言葉は、偽りの感情を護り続けて来た壁を打ち砕いた。弱く、脆い、人間らしい想いを封じ込め、偽りの仮面を形成する為に聳え立っていた、大きく厚い壁は、何度も何度もそれを破壊しようと叩き続けて来た女性戦士が発した、僅か一行にも満たない言葉に粉々に粉砕されたのだ。

 その後に見せたはにかむような優しい笑みは、彼がずっと封じ込めて来た感情を溢れさせる。長く辛い旅の中で、カミュという青年が初めて涙を溢した。

 ロマリアで出会った少女が打ち込んだ楔は、頑なに閉ざされていた青年の心に風穴を開け、その穴から滲み出てしまった何かを感じ取った女性戦士によって、少しずつ、本当に少しずつ穴が抉じ開けられて行く。抉じ開けられる度に入って行く亀裂が、リムルダールという場所で限界に達し、そして砕け散った。

 

「……俺は、大丈夫だ」

 

 その言葉は、今までのように、不安を何かで覆い隠して語った言葉ではない。全てを曝け出し、久方ぶりに本来の瞳で世界を見つめた彼が、心から発した言葉であった。

 その言葉を聞いた少女は嬉しそうに微笑み、それを目にした女性戦士は困ったような微笑を溢していた。それは、本当の意味での、彼の人生の始まりだったのかもしれない。

 アリアハンで過ごした十六年は、カミュという青年の人生ではなく、偽りで覆われたカミュを模した人形の歩んだ時間である。そして、アリアハンを旅立ってから六年という旅路は、そんな人形が『人』になる為の旅だったのだろう。そして、自分が歩む目的や理由を自覚し、それでも尚、希望の光が差す未来へと踏み出した一歩が、本当の意味での彼の始まりなのだ。

 

「…………カミュ…………」

 

 自分を自分だと認めてくれる少女の笑みを護りたいと願い、彼の心は動き始めた。始まりはそんな小さな願いだったのかもしれない。少女の微笑みは、荒んでいた彼の心に大きな波紋を生み出し、変化を生み出す。

 そんな彼を真っ先に信じてくれたのは、彼と共に歩み始めた女性戦士であった。憎まれ口を叩き、時には鬱陶しい程に無遠慮な発言をし、他人の心に土足で踏み込んで来るような彼女がいたからこそ、彼は偽りの壁に覆われた自身の本心に辿り着く事が出来たのかもしれない。

 

「お前がメルエを想うのと同じぐらい、私やサラを想ってくれていたらと思うがな」

 

 皆の心を常に見つめ、心の傷でさえも無遠慮に触れ、殻に閉じ篭ろうとする者を無理やりにでも引き上げて来た彼女は、そんな皆の心が集結した証である『虹の雫』を握り締めて涙していた。生涯の宝だと胸にそれを仕舞って浮かべた微笑は、彼の心に残っている。

 そして、彼が敗北を味わったリムルダールでの一幕の後で浮かべたはにかむような笑みは、敗北による悔しさや悲しみを霧散させ、もう一度自分と向き合う勇気をくれた。

 長い旅路の中で、少しずつ変化をしていった彼の心は、彼を取り巻く三人の女性への考えも大きく変えて行く。

 教会の教えを妄信していた僧侶は、誰よりも現実と教えの相違に悩み、苦しんでいたし、それを乗り越えて『賢者』となった時には、自分と同じ道を歩むのではと案じた。だが、そのような彼の考えを否定するように、彼女は成長を続け、ここまでの旅を支え続けて来てくれている。

 幼く、無垢だった少女は、その純粋な心をそのままに、大きく成長していた。自身の中に流れる古代からの因子の存在を飲み込み、自分が他者と異なる事を受け入れて尚、カミュ達と共に歩み、その助けになろうと全力を尽くしている。

 

「その寿命を全うするまで、私はこの世界に在り続けよう」

 

 六年以上もの長い旅路の中で、何度も『人』の醜い部分を見て来ている。美しい心や行動も見て来たが、その比率は醜い部分の方が大きかった。もし、彼が一人で旅立ち、それを続けていたら、彼は旅の途中で『人』に対して絶望し、命を投げ出すように散らしただろう。

 そうならなかった最大の要因は、生という物を絶対に諦める事なく、自分が変わって行く事を否定する事もなく、常に真っ直ぐに前を見続けて来た彼女がいたからだ。

 いつの間にか大きくなっていたその存在は、今では、メルエという少女の未来を護るという目的と同等の大きさを持っている。彼自身が立ち上がる理由はメルエという少女であったとしても、その身体を支えてくれるのは、間違いなく彼女であろう。

 

 

 

「お前はまた、メルエを置いて行くのか!?」

 

 そんな怒声にも似た叫びを聞いた気がし、カミュは瞳を開く。周囲は、漆黒の闇が広がり、微かに燃える赤い炎が、周囲を薄暗く照らしていた。

 耳に入って来るのは、不快な高笑いと、微かに聞こえる不規則な息遣い。身体を動かそうと意識したと同時に襲い掛かって来る全身への激痛が、カミュの顔を歪めさせた。

 首を動かすどころか、指先を動かすだけでも、頭の芯へと激痛が響く。その度に目の前に火花が散るような光が見え、光の中に誰かの笑みが映り込んだ。

 身体は動かす事が出来ないが、目は開いた。視界は霞んではいるが、それでも見えない訳ではない。僅かな明かりの中で見える仲間達の惨状に顔を歪めながらも、最も傍で倒れる少女の息遣いが小さくなっている事に気付いた。

 

「くぅ……」

 

 悔しさと悲しみ、怒りと自責。様々な感情によって歪んだ瞳の先に、少女のポシェットから零れ落ちた小さな珠を見る。

 サラがラダトーム王太子から借り受けた『太陽の石』にも似た輝きを放っていたその石は、今では漆黒の闇に飲み込まれるように輝きを失いつつあった。

 竜の女王から手渡された時、眩いばかりの輝きを放った珠。世界全体にその光を轟かせる程の輝きを秘め、竜の女王の居城を覆い始めていた絶望と諦めの闇さえも飲み込んだ光を放ったその珠が、何かを訴えるようにメルエのポシェットからカミュの方へと零れていたのだ。

 

『そなたがその道を歩むのならば、この光の珠を授けましょう』

 

 竜の女王と対面し、大魔王ゾーマという存在の強大さと恐ろしさを聞かされ、それでもそこへ向かう為に歩むのかと覚悟を問われた。

 竜の女王と精霊神ルビスという二つの守護者が力を解放して尚、封じる事しか出来なかった程の強者。その存在の強大さを知らされた時、リーシャもサラも、諦めに近い絶望を感じていた。あの時感じた恐怖は、魔王バラモスを前にした時以上の物であっただろう。

 それでも、カミュは恐怖と絶望を振り払い、竜の女王へ頷きを返したのだ。

 

『この光の珠の輝きが世界を照らし、一時も早く平和が訪れる事を願っています』

 

 闇は必ず晴れる。

 明けぬ夜はなく、晴れぬ空もない。

 闇に覆われていようと、光は消えず、輝き出すその時を待っているだろう。

 光ある所に闇はあり、闇ある所にもまた、必ず光はあるのだ。

 

「ふはははは……む?」

 

 自分の傍に転がる『光の珠』へと、激痛に襲われながらもカミュは手を伸ばす。その微かな動きに、高笑いを続けて来た大魔王が気付いた。

 全ての希望を奪い、生への執着さえも手放す程の絶望を与えた事を確信している。その証拠に、他の者達は最早死を待つのみという状態になっており、残る生の時間を苦痛と後悔、そして絶望によって塗りつぶされていた。

 それでも、もがき生きようとする者。大魔王ゾーマは、それを忌々しく思いつつも興味を持ってしまう。動かす度に激痛に苛まれている事は見るだけで解る程に微々たる動きをしながらも、それでも何かしらの希望に縋ろうとする愚かな種族を見つめた。

 何を必死に掴もうと伸ばす手の先はゾーマからは見えない。倒れ付す竜の因子を持つ末裔の姿が見える為、死の前にその少女の手を取ろうとしているように見えた。『その手を引き千切り、更なる絶望を植えつけるのも一興ではあるが、ここまで辿り着いた褒美も与えねばなるまい』などと考え、ゾーマはその動きを静観する事にする。

 

「む!?」

 

 しかし、その小さな誤りは、全てを覆す大きな転機となる。

 必死に手を伸ばす『勇者』を名乗る青年の手が、突然光を放ち始めたのだ。それは、このフロア全てを覆う程の闇に抗うような輝きであり、灼熱の炎の明かりでさえも届かなかった闇を侵食して行く程の光であった。

 眩い輝きに顔を顰めたゾーマであったが、それを手にした青年の身体が癒えている訳ではないことに気付く。既に全身のあちこちの骨が砕け、伸ばしている左手ではない方は、動かす事も出来ない状態であろう。内臓も傷ついているのか、動く度に真っ赤な血液を吐き出していた。

 それでも傍にある剣を支えに立ち上がる青年に、ゾーマは不思議な感覚を覚える。それは、恐怖でも、敬意でもない。何か解らない物を感じたのだ。

 

「それ程にもがき、何を成そうとする? 最早、ここで息絶えた方が楽である事が解らぬ訳ではなかろう」

 

 それは、『疑問』だったのかもしれない。

 人間のような弱く脆い存在が、何かに縋り、もがき生きる様は滑稽であり、その果てに辿り着く絶望に歪んだ表情は、沸き上がる笑いを抑えられない程の愉悦であった。

 だが、そこに、『何故、それ程までに苦しみながらも生きるのか?』という疑問は生まれなかった。理解が出来ないと考える事はあれど、そのような低俗な存在の考えに対して関心を持つ事もなかったのだ。

 だが、今まさに両足で床を踏み、だらりと下がった右腕の脇に剣を挟んで立ち上がった青年の瞳に宿る何かは、今までゾーマが見て来た多くの生物の中でも異色に映った。生物は痛みを感じれば怯み、恐怖を感じれば竦み、絶望を感じれば折れる物である。

 剣の支えがなければ立っている事も出来ない状態であれば、今現在も身体を襲っている痛みは想像を絶する程の物だろう。何を期待し、何に縋り、何を以って彼が立ち上がるのかが、ゾーマには理解出来ず、それ程の苦しみと絶望を抱えてまでも折れぬ心に疑問を持った。

 

「……なん…ども……言わせる……な。お前が……邪魔…だ」

 

 呼吸さえも儘ならない程に身体を痛みつけられ、息を吐き出すだけでも激痛で顔を歪めながらも、その青年は、ゾーマを睨み付ける。頭から流れ落ちる血液が目に入り、まるで血の涙を流しているかのように見えるその瞳には、怒りや哀しみなど欠片も見えない。ただただ、目の前の障害である大魔王ゾーマだけを見つめ、そして、その答えを口にした。

 希望の光がその瞳に見えているとは思えない。絶望の闇が晴れているとも思えない。それでも目の前に立ち、真っ直ぐに見つめて来る青年の姿に、ゾーマの心が何かを感じ取った。

 

「今こそ……闇を晴らせ!」

 

 肺が正常に機能していない事を示すように息を漏らしながらも、カミュは激痛に耐えて、その命を告げる。唯一動く左腕を高々と突き上げ、その手に握る輝く珠へと全ての生物達の願いを注ぎ込んだ。

 瞬間的に輝きを増した『光の珠』は、溜め込んでいた全ての輝きを吐き出すように、フロアを覆い尽くす光を放つ。最早、眩いという次元の話ではない程の光が放流され、渦巻くようにフロアの闇を飲み込んで行った。

 

「ま、まさか……光の珠か!?」

 

 ゾーマの驚愕の声さえも光に飲み込まれ、全ての物が真っ白な輝きの中に埋もれて行く。闇の黒という色さえも塗り潰し、全ての色を消滅させた光は、再び『光の珠』へと戻るように吸い込まれて行った。

 埋め尽くす程の光の波が引き、カミュの視界が戻り始めると同時に、先程まで燃え盛っていた闇の炎は、真っ赤に燃え上がる炎へと変わり、燭台に次々と灯り始める。真っ赤に燃え上がる炎がフロアを照らし出した。

 

「なるほど……バラモスめ、優先順位を見誤りおって。竜の因子を受け継ぐ娘などよりも、受け継いだ魂さえも越える可能性を持つ者を、その前に滅するべきであったのだ」

 

 カミュは目の前に見えるその存在に驚愕した。

 このフロアで立っている者など、カミュ以外には大魔王ゾーマしか存在しない。となれば、彼の目の前に立つ存在こそが、本来の大魔王ゾーマの姿である事を示していた。

 左右に角を付けた兜のような冠を被り、その冠の中央には巨大な目のような物が生きているように動いている。死を連想するような青白い肌を持ち、目は吊り上るような三白眼。その目で見られるだけでも恐怖で身体が縛り付けられる程の眼光を放っていた。

 牙のように鋭い歯が飛び出し、突き出された手から伸びる四本の指の先には鋭い爪が伸びている。首からは、何の種族の物か解らない小さな頭蓋骨を吊るし、ゆったりとした衣服で身体を覆っていた。

 

「それで、カミュよ。余の纏っていた闇の衣を剥いだとはいえ、貴様一人で何が出来る? その満身創痍の状態で、まだ余を邪魔だと口にする豪気は認めよう。だが、頼る者達も既に息絶える寸前であり、その状態で貴様は何を成そうと言うのだ?」

 

 忌々しそうにバラモスを侮辱したゾーマは、再びその身体でカミュへと向き直る。ゾーマにとって、竜の因子を受け継いだ呪文使いといえども、脅威となる物ではない。メルエという存在が脅威となるのは、バラモスを始めとしたゾーマの下に就く魔族達であろう。それに対し、当初からカミュの名だけを呼んでいたゾーマは、この『勇者』という存在こそが、自分にとって最も障害と成り得る存在である事を認めていたのかもしれない。

 あれ程に巨大に感じていた闇の中身は、カミュやリーシャよりも大きくはあっても、巨大と言える程ではない。ゾーマが発した『闇の衣』という物がどういう物なのかは理解出来ないまでも、今の大きさが、本来のゾーマの姿なのだという事は理解出来た。

 だが、見た目が小さくなり、その姿と存在を正確に認識出来るようになったとはいえ、その存在から押し寄せる圧倒的な圧力は変わらない。いや、正確には圧力も脅威も増していると言っても過言ではないだろう。

 ゾーマの言葉通りに満身創痍であるカミュは、立ち続ける事さえも苦痛な程の激痛に顔を顰めながらも、沸き上がる恐怖を勇気で抑え付け、真っ直ぐにゾーマへ視線を投げる。そして、その疑問に真っ直ぐに答えた。

 

「……この六年……俺が一人であった事など、一度もない」

 

 それは、実質的な物ではないだろう。彼が仲間達と逸れた事はあるし、仲間達と離れて洞窟を一人で探索した事ある。それでも彼は、自身を一人だと認識した事はなかったという事であろう。

 ようやく訪れた死の自由を得る旅に突如入り込んで来た余計な存在は、いつしか彼の心にまで入り込み、その居場所を広げて行った。最初に割り込んで来た幼い少女を切っ掛けに、次々とその割れ目から入って来た者達が、彼という個人を侵し、変えて行く。

 いつしか、彼は常に一人ではなく、支えを受けて立つ者となった。一人逸れた時も、三人の女性の思考を分析し、その心を探るように旅を続けたし、一人洞窟に入った時も、常に何か見えない物に護られていた感覚があったのだ。

 

「き、貴様! その呪文は……」

 

 大魔王ゾーマの問いかけにはっきりと答えを返したカミュは、今は光を納めた『光の珠』を胸に仕舞い、そのまま左手を胸に翳す。まるで、大魔王ゾーマに敬意を表してるような、一騎士がする敬礼に近い格好をした彼は、蹲るように身体を折った。

 痛みに耐えるかのように、また身体の内にある力を凝縮するように屈んだカミュの身体から、抑える事の出来ない力が滲み出して行く。それは、彼の内にある魔法力。人類最高位に立つ呪文使い達に比べれば決して多くないまでも、通常の人間から比べれば何倍にもなる彼の魔法力が、凝縮するように一点へと集中して行った。

 その魔法力の動き、カミュの動きを見たゾーマは、何かを察したように手を翳す。彼がこれから起こす現象を阻止しようと、大魔王と呼ばれる物が、氷結系最上位の呪文を詠唱した。

 カミュの周囲を圧倒的冷気が支配し、吐き出す息さえも凍りつかせて行く。カミュの頭上に幾つもの氷の刃が生まれ、矮小な人間の身体を貫こうと矛先を定めた。それでも、胸に手を置いたまま、カミュは揺るがず、静かに顔を上げる。

 

「礼を言う。ようやく覚悟も定まった。俺は一人ではなく、一人でなければならない理由もない」

 

 古代の勇者を超える真の『勇者』と、絶対唯一の存在であり、恐怖の象徴とも言うべき『大魔王』の視線が交差する。覚悟を定めた希望と、覚悟を見届けた絶望の交差。それは、この世の奇跡を生み出し、顕現させた。

 カミュの瞳の奥にある炎を見届けたゾーマは、大きく右手を前へと振り下ろす。それと同時に、空中で静止していた氷の刃が一気にカミュへと降り注いだ。

 だが、その時、凝縮して行った『勇者』の魔法力が、一気に弾ける。それは、先程の『光の珠』の輝きと同等の光を放ち、爆発した。

 

「ベホマズン!」

 

 勇者が放った詠唱は、回復系の名。回復系最上位のベホマという呪文に酷似したその名を叫んだカミュの身体を中心に光が爆発する。その輝きの色が、彼が詠唱した物が回復系の物である事を証明していた。

 淡い緑色に輝いた光は、倒れ伏す三人の女性を全て飲み込み、その姿を隠して行く。そして、ゾーマが放ったマヒャドで生み出された氷の刃さえも、その光に飲み込まれ消滅して行った。

 マヒャドやベギラゴンという最上位の呪文であろうとも、その氷や炎を生み出すのは術者の魔法力である。カミュが発したような、まるで生命力さえも燃やしたような強大な魔法力の前では、全てが消し飛んでしまうのだろう。そう考えると、サラが放とうとしていたメガンテもまた、原理としては近いのかもしれない。

 

「ん……」

 

 巨大な淡い緑色の光の波に飲み込まれた仲間達が意識を取り戻す。既に虫の息と言っても過言ではない状態であった者達の傷を癒し、意識を現世へと連れ戻したのだ。

 ただ、この奇跡が回復呪文だとすれば、それは仲間達全てが絶対に生を諦める事なく、細く脆い糸を手繰り寄せて戻って来たと言えるのだろう。最も傷が深かった女性戦士の傷も癒え、骨さえも断ち切られていた足もまた、元の状態に戻っている。術者であるカミュの傷も全て癒え、腹部を貫かれた賢者の穴さえも塞いでいた。

 

【ベホマズン】

他者を認め、他者を想い、その全てを以って護ろうと決めた古の勇者のみが行使可能であった、回復系の特別呪文。行使を可能とする魔法力の量は膨大であり、魔法力の少ない者であれば、瞬時に昏倒し、死に至るとまで云われる、禁忌に近い大呪文である。

回復系を主とする僧侶や賢者でも、その呪文の契約をする資格はなく、アストロンやトヘロスのような呪文の契約を済ませた英雄であっても契約は出来ない。真の勇者でなければ契約は出来ず、その中でも更に選ばれた者しか行使は出来ない。

その効果は絶大であり、例え死に瀕する程の傷であろうと癒し、消滅さえしていなければ、失われた部位でさえも繋ぎ合わせるとさえ伝えられていた。

 

「まさか、その呪文を行使する者が、今の世に存在するとは……。認めよう、余は貴様を侮っておった」

 

 血に染まった床で死を待つだけだった者達がゆっくりと立ち上がり、勇者を中心に集って行く。その光景を見たゾーマは、驚く程に素直に自身の誤りを認めた。

 先程、もがくカミュを更なる絶望に落とす必要性をゾーマは感じなかった。それは、哀れみでも、優しさでもなく、単純な侮りからである。あの状態のカミュが何をしようと、あの状況が変化する事もなく、ただ死に向かうものと考えていたのだ。

 だが、ゾーマが初めて疑問を持った相手は、やはり只者ではなかった。『人』という愚かで脆弱な種族でありながらも、自身の最強の鎧である『闇の衣』を剥ぎ取り、そして死へ向かうだけの骸を再び戦場へと呼び戻したのだ。

 これを己の過ちと認めずに、何を認めると言うのだろう。慢心出来ない状況を作り出すのは、王ではない。だが、慢心して尚、その過ちを認めない者もまた王ではないのだ。

 

「認めよう、貴様は余が滅ぼすに値する強者よ。これまでの侮りと、遊びを詫びよう。そして、この先では、余の最大限の賛辞である絶望を贈ると誓おう」

 

 本来の姿を現した大魔王ゾーマの姿は、闇の衣を纏っていた頃に比べて遥かに小さい。だが、滲み出る圧力は、あの頃よりも増大していた。

 先程まで、カミュ達は間違いなく絶望の底に落ちていた。それを遊びと豪語し、これまでの攻撃を侮りと宣言する。そして、尚、これ以上の絶望を見せると誓うその存在は、間違いなく全てを滅ぼす大魔王と云われる者であった。

 絶望の淵から這い上がって来た勇者達の試練は終わらない。更なる恐怖と絶望との戦いが、再び始まろうとしていた。

 

 

 



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大魔王ゾーマ⑤

 

 

 

 先程までの闇の炎ではなく、真紅の炎が赤々と燃えるフロアは明るく照らされている。先程までの巨大な影は消え、しっかりと大魔王ゾーマの姿がカミュ達の瞳に映り込んでいた。

 おぞましくも美しいその姿は、全ての魔物や魔族の頂点に君臨するに相応しく、神々しくさえも見える。先程までとは異なる純粋な畏怖という感情が湧き上がる程のその姿に、カミュ達は一つ唾を飲み込んだ。

 傷が癒えた者達が、一人また一人とカミュの許へ集って行く。最後に辿り着いた幼い少女が不安そうに見上げて来る中、カミュは小さな笑みを浮かべた。

 

「あれが、大魔王ゾーマの本当の姿なのですか?」

 

「随分と小さくなったが、先程までの影の方が可愛く見える恐ろしさだな」

 

 穴が空いていた筈の腹部を擦りながらサラは前方に君臨する圧倒的な存在に冷や汗を流す。同じように、リーシャもまた、遂に真の姿を現した大魔王の強大さに息を飲んでいた。

 思い返せば、ゾーマ城の一室に安置されていたおぞましい石像を見たリーシャは、それに怯えるサラとは対照的に、その像が大魔王であれば楽に勝てるとまで言い切っている。そんな彼女が、目の前にいる、自分の背丈よりも少し大きいだけの存在に恐怖を感じていた。

 それは、生物として当然の感情でありながらも、歴戦の勇士達をここまで追い詰めた者への畏怖なのだろう。恐怖を感じながらも、その力を敬う気持ちさえも持ち得る不思議な感覚。それは強者でなければ感じ得ない何かなのかもしれない。

 

「メルエ、大魔王の強大な呪文に対抗出来るのはメルエしかいない。苦しい状況に陥るかもしれないが、信じている」

 

 リーシャとサラのやり取りを聞き流しながら、カミュはメルエの前に屈み、その瞳を真っ直ぐに見て言葉を紡いだ。

 それは、明確な信頼の証。何が起ころうとも、どんな状況に陥ろうとも、彼女であれば、大魔王にさえも遅れを取らないと彼が心から信じている証であった。

 そのような言葉を受けた彼女が返す言葉は一つしかない。

 この長い旅で信じて来た魔法の言葉。どんな状況でも、それを口にすれば、そうなる為に最善を尽くす誓いの言葉。

 一つ頷いた彼女は、しっかりとした声量でそれを口にした。

 

「…………メルエ……だいじょうぶ…………」

 

 その言葉に、優しい笑みを浮かべたカミュは、彼女の肩を一つ叩いて立ち上がる。そのまま一度ゾーマへ視線を送り、余裕を持って戦闘再開を待っている大魔王の姿を確認した後、目を瞑って大きく息を吐き出した。

 心を落ち着けるように、そして、これから始まる死と隣り合わせの激戦を覚悟するように、ゆっくりと息を吸い込む。深呼吸を二、三度繰り返した彼は、不意に振り返った。

 

「俺が行使した回復呪文は、もう使えない。サラ、補助呪文、回復呪文のタイミングは、全て任せる。この戦場全てを見渡し、把握出来るのはお前しかいない。その指輪が機能する限り、何度でも呪文を行使してくれ」

 

「え?……は、はい!」

 

 不意に向けられたカミュの視線に戸惑ったサラは、その後に続いた彼の言葉に、一瞬思考を飛ばしてしまう。彼女の名前は確かに『サラ』であるが、彼の口から出て来たその名前が自分の物だと認識するのに、時間が掛かってしまったのだ。

 アリアハンを旅立って六年。その間で、彼から名前を呼ばれた事は一度たりともなかった。この一行の中でも、名前を呼ばれるのは、彼女の足元で気合を入れている少女だけである。そんな彼が、この場面で自分の名前を呼んだ。それが何を意味するのか、そのような事を気にする余裕など、彼女にはなかった。

 純粋に、その信頼の証が嬉しい。嬉しさと共に湧き上がる勇気の炎が、彼女の胸で燃え上がる。そのまま真っ直ぐにゾーマを見つめた瞳の中に、最早怯えも不安もない。あるのは、覚悟と自信だけであった。

 

「…………ふふふ…………」

 

 勇気の湧いたサラの姿を見たメルエが微笑む。この最悪の状況の中で浮かべる物ではないが、彼女にとって、この三人が居れば、何も恐い物などないのかもしれない。

 驚く気持ちが覚悟に変わったサラを見ていたもう一人の仲間が、驚愕の表情から何かを期待するような物へと変化させて行く。その期待の瞳を横目に眺め、先程とは異なる明確な溜息を吐き出したカミュは、王者の剣を握り込み、ゆっくりと前方へと視線を送った。

 戦闘態勢へ入ってしまったその姿に、肩を落とし、落胆したような姿を見せるリーシャに、サラとメルエは小さな微笑を浮かべる。その心に点った勇気の炎は、彼女達の心に余裕を齎し、二度と消える事はないだろう。そして、そんな勇気を、彼がリーシャに与えない訳がない事を、誰よりもこの二人は知っているのだ。

 

「リーシャ……頼む!」

 

「任せろ!」

 

 その名を口にした彼は、悠然と構える大魔王に向かって駆け出した。

 カミュという青年と、リーシャという女性の間に、多くの言葉など要らない。彼が発した『頼む』という僅かな言葉の中に、その信頼全てが注ぎ込まれているのだ。

 彼と共に前線で武器を振るえるのは彼女しかいない。彼の動きを把握し、攻撃のタイミング、回避のタイミングなどを声を出さずに察知出来るのも彼女だけであり、連携が取れるのも彼女以外は有り得ないのだ。

 攻撃を繰り出す彼の背中を護り、彼の影から武器を振るい、どんな時でも彼と共に戦い続けて来た彼女だからこそ、『信じている』でも、『任せる』でもなく、『頼む』という一言だけなのだろう。カミュにとって、リーシャという女性戦士は、それだけ大きな存在なのだ。

 

「バイキルト」

 

「…………バイキルト…………」

 

 駆け出した二人の武器に、人類最高位の呪文使い達が己の魔法力を纏わせる。煌く刃が振り抜かれ、闇の衣を失ったゾーマの身体へと吸い込まれて行った。

 しかし、その刃が、ゾーマの身体を傷つける事は出来ず、真横から振り抜かれたゾーマの片腕によって弾かれる。泳いだカミュの身体に追い討ちを掛けようとゾーマの片腕が振り上げられた。

 

「小賢しい!」

 

 しかし、まるでカミュの背中に隠れていたかのように現れたリーシャの振る斧が、カミュの剣を弾いたゾーマの片腕に切り込んで行く。斧の切っ先がゾーマの片腕に切り込みを入れるが、その斧を振るった彼女の身体は、カミュへと振り上げていた腕によって弾き飛ばされた。

 吹き飛ばされたリーシャの身体は床へと叩き付けられるが、その直後に彼女の身体を淡い緑色の光が包み込み、外傷内傷共に癒して行く。そして、立ち上がった彼女は、その目でしっかりと自分が残した結果を見つめた。

 

「傷は付く……」

 

 呟かれた言葉通り、リーシャの振るった斧は、僅かではあるがゾーマの身体を傷つけている。切られた部分から体液を溢し、既に泡立ち始めて修復を開始しているが、それでも傷を残した事は確かであった。

 傷を付けられるのであれば、その命を奪う事さえも可能である。それは、先程までの戦闘のように、どれだけ攻撃しても傷一つ付けられなかった絶望的な状況から比べれば、雲泥の差であった。

 希望というには余りにも小さな光ではあるが、それでもカミュ達にとってはようやく手に入れた大事な糸口である。ここからどれ程に高い苦難の壁を越えなければならないとしても、その糸口を掴めれば、乗り越える事は決して不可能な事ではなかった。

 

「ふはははは。実に見事!」

 

 しかし、そんな小さな希望を吹き飛ばすように、再びゾーマはその手を前へと突き出す。それと同時に巻き起こる凍りつくように凍て付いた波動がカミュ達に襲い掛かった。

 サラとメルエという最上位の呪文使い達の魔法力が、カミュとリーシャの武器から吹き飛ばされる。覚悟はしていたとはいえ、何度補助呪文を行使したとしても、それが無に帰すという情景は心に負担を掛けるだろう。それでも、再び彼女達は、その手に握る杖を振るった。

 

「スクルト」

 

「…………バイキルト…………」

 

 賢者の放った魔法力が一行の身体を包み込み、魔法使いが放った魔法力が前衛二人の武器を覆って行く。

 バイキルトという補助呪文がなくとも、カミュの持つ王者の剣の輝きは闇を照らす程であり、その鋭さがあればゾーマの身体を傷つける事も可能であろう。同様に、リーシャの持つ魔神の斧もまた、魔の神が愛した程の武器であり、その切れ味があればゾーマの首を落とす事さえ可能な筈である。だが、それでも後方支援組は、その可能性を少しでも上げる為に補助呪文を行使した。

 たとえ掻き消されようと、たとえその呪文が何の効果を齎さなくとも、彼女達は何度でもそれを行使し続けるだろう。大魔王ゾーマという史上最悪の存在に立ち向かう為に残された手段は、それしかない事を、彼女達は誰よりも知っているのだ。

 

「フバーハ」

 

 間髪入れずに吐き出された、身も凍るような猛吹雪に対抗するように、サラは立て続けに呪文を詠唱する。カミュやリーシャの前面に霧のカーテンが生まれ、氷の結晶さえも認識出来る程の吹雪を軽減して行った。

 奮闘する勇者一行を見る大魔王の余裕は崩れない。どこか恍惚とした表情を浮かべながらも、霧のカーテンから飛び込んで来たカミュの剣に合わせるように右手を振り抜いた。

 神代の力を持つ剣と、絶対唯一の存在であるゾーマの爪が交差し、圧し負けたカミュの身体が後方へと弾き飛ばされる。カミュが態勢を立て直す前に動き出したゾーマの動きを、横合いからリーシャの斧が止めた。

 振り抜かれた斧の軌道上に、大魔王の物と思われる異色の体液が筋を作る。だが、サラがゾーマの苦悶の呻き声を聞いたと理解した時には、既に彼女の視界は姉のように慕う女性戦士の真っ赤な血液で染まっていた。

 

「!! ルビス様!」

 

 大魔王ゾーマの爪によって大きく傷つけられたリーシャの腕を見たサラは、祈りを捧げるように手を合わせる。それを受けたサークレットに嵌められた宝玉が輝き、リーシャとカミュを淡い緑色の光が包み込んだ。

 死に至る程の深手ではなかった為、賢者の石の効力によって、リーシャの腕の傷は癒え、吹き飛ばされたカミュの傷も癒える。そんなカミュ達一行の行動を見たゾーマは愉快そうに笑みを溢し、再び右手を高く掲げた。

 その右手に反応するように冷気が吹き荒れ、天井一杯を氷の刃が埋め尽くす。振り下ろされた右腕と同じ起動で降り注ぐ氷の刃が、前衛二人の身体に突き刺さろうとする時、後方から全てを焼き尽くす程の熱風が巻き起こった。

 

「ベギラゴン」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 人類最上位の呪文使い達が行使した最上位の灼熱呪文が、カミュ達を覆うように炎の壁を作り出す。視界が全て、真っ赤に染まる程の熱量を持つ炎が、その辺り一体の大気までをも焼き尽くして行った。

 それでもカミュやリーシャの身体が燃え尽きないのは、大魔王ゾーマが生み出した冷気の凄まじさが原因であろう。炎を突き抜けて来る冷気が、大気を冷やし、カミュ達の周囲の温度を下げて行く。喉を焼かないように息を止めていた二人は、自分の身体を冷やす冷気を感じて、一気に息を吸い込んだ。

 

「うおりゃぁぁぁ!」

 

 カミュらしからぬ程の叫びを発し、ぽっかりと空いた炎の壁の穴を突き進んだ彼は、ゾーマの姿が視界に収まると同時に剣を振り下ろす。その軌道、その剣速共に、常人では見切る事など出来はしない程の物。

 だが、それでもゾーマの身体に深手を負わせる事は出来ない。

 絶妙なタイミング、目で追えぬ速度、抗う事の出来ない威力。それらが合わさった一撃をゾーマは余裕を持ってその爪で受け止めていた。

 

「ふはははは。人間と云えども侮れぬ。余の身体に傷をつけ、この身を滅ぼし得る一撃を放つか!」

 

 剣を爪で受け止めたゾーマは、愉悦を抑え切れぬように笑い、反対の腕を突き出す。再びカミュ達に襲い掛かる波動が、先程のベギラゴンの炎で火照った身体を凍て付かせる程に冷やして行った。それと同時に、再びカミュ達に掛けられた補助呪文の全てが消えうせて行く。武器を覆う魔法力も、その身を覆う魔法力も、そして、吹雪を遮る霧のカーテンさえも、一瞬の内に無に返った。

 だが、そのような事など、サラやメルエの想定内であり、覚悟の上の物。消費の一途を辿る自身の魔法力を省みず、彼女達は再びカミュとリーシャへと杖を振るうのだ。

 

「バイキルト」

 

「…………スクルト…………」

 

 サラの魔法力が、カミュの後方から現れたリーシャの斧を覆い、鋭さを増したそれがゾーマの肩口へと斬りかかる。だが、それでも大魔王ゾーマという壁には届かない。

 突如として現れたように見えた筈のリーシャの動きに反応したゾーマは、片腕を自身の身体と斧の間に滑り込ませ、その攻撃を完全に防いだのだ。バイキルトという補助呪文を受けた斧は、ゾーマの右腕に食い込んではいるが、その腕を斬り飛ばすには至っていない。『人』ではない事を示す色の血液は腕から溢れてはいるが、それでも致命傷となり得る程の物ではなく、自分の身体に傷を付けた相手を睨み付けるゾーマの視線を受けたリーシャは、身体を硬直させてしまった。

 

「無駄だと言っておろう!」

 

 硬直してしまったリーシャの顔面を殴りつけたゾーマは、再びその掌を広げて前へと突き出す。吹き飛ばされたリーシャの身体を追うように凍て付く波動が一行に襲い掛かり、再び補助呪文の全てが無効化された。

 顔面を殴られたリーシャは床に転がり、血だらけになった顔を上げる。鼻の骨は折れ、頬の骨さえも折れているのかもしれない。幸い、彼女の整った顔の形が歪んでいない事を確認したサラは傍によって最上位の回復呪文を唱えた。

 

「遠い……本当に遠いな、サラ」

 

「簡単に届く事はないとは覚悟していましたが、これ程とは……」

 

 怪我を癒したリーシャが悔しそうに表情を歪めながら、再び立ち上がったサラに向かって愚痴をこぼす。その視線の先には、先程斬りつけたゾーマの腕の体液が泡立ちながら修復している様子が見えた。

 光の珠という神秘によって、闇の衣という絶対防御の鎧が剥がされて尚、大魔王ゾーマは健在であった。見た目こそ小さくはなったが、その威圧感はむしろ増しており、傷を付ける事が出来るという希望がある分だけ、尚更、その存在の遠さが浮き彫りになる。

 倒す事も、殺す事も出来る。そんな可能性を追おうにも、そこへ辿り着く為の力が足りない。傷を付けても、畳み込む手数は足りず、身を護る為の補助呪文でさえも、瞬時に消し去られてしまうのだ。

 希望が見える分だけ、感じる絶望も先程よりも濃いのかもしれない。

 

「だが、カミュは諦めないだろうな……」

 

「はい。カミュ様がいる限り、諦める理由もありません」

 

 それでも、彼女達の前には大魔王ゾーマに匹敵する程の大きな存在が居る。その巨大な絶望の闇を、大いなる勇気によって晴らそうとする勇者が、彼女達の前には常に存在していた。

 今も尚、リーシャが戦線に復帰して来るのを信じ切っているように、大魔王ゾーマと一人対峙している青年が生きている限り、リーシャは心を折らないと誓っている。絶対に生を諦めないし、希望を捨てないと彼に宣言しているのだ。

 それは、この女性戦士にとって、国王の前で行った騎士の誓いよりも重い誓いである。そして、自分と同様に彼を信じ、彼が生きている限りは、諦める理由さえもないと高らかに口にするサラに嬉しそうに笑みを浮かべた。

 

「遠いが、決して届かない距離でもない。私達は……いや、カミュが、いつでもその距離を飛び越えて来た」

 

「はい。これが最後の壁です」

 

 魔神が愛した斧を握り込み、リーシャは目の前に君臨する大魔王へ視線を送る。同じように視線を動かしたサラは、大きく頷きを返した。

 彼等の旅は、常に魔物よりも上位に立って戦っていた物ではない。アリアハン大陸という、世界でも最弱の魔物しか生息していない地域では、戦闘に苦労する事などなかったが、旅の扉を経て、ロマリア大陸へと足を踏み入れてからは、常に死と隣り合わせの戦闘を繰り広げて来た。

 その中には、明らかに自分達よりも力量が上位の魔物達も存在していたし、今に思えば、ジパングという国で戦ったヤマタノオロチという魔物などは、奇跡に近い勝利でもある。ゾーマと相対している彼等であれば、それ程苦労する事はないのかもしれないが、初めて魔王バラモスと対峙した時などは、彼等全員が死を覚悟したものだった。

 それでも、彼等は生きている。常に自分より上位の物と戦い、勝利し、それを乗り越えて来たのだ。この大魔王ゾーマという絶対唯一の存在であろうと、それは例外ではない。

 

「…………マホカンタ…………」

 

 リーシャがカミュの許へと駆け出したと同時に、彼女の身体を光の壁が覆う。同じようにゾーマと死闘を繰り広げているカミュの身体も光の壁によって覆われた。

 予測するように行使された呪文に一歩遅れて、前衛二人の周囲を夥しい数の氷の刃が埋め尽くす。ゾーマの目にも光の壁が見えた事は確かであるが、それでも構わずにその右手を振り下ろした。

 凄まじい速度で降り注ぐ氷の刃は、カミュ達の身体を覆う光の壁によって弾き返され、当然の如く、術者であるゾーマへと向かって飛んで行く。しかし、己に向かって飛んで来る無数の刃を見てもゾーマは動じる事なく、不敵な笑みさえも浮かべてその場に立っていた。

 

「氷結系の呪文は無意味か……」

 

 戻って来たリーシャを確認したカミュが一言呟きを漏らす。

 先程、大魔王ゾーマへと向かって行った無数の氷の刃は、ゾーマの身体に辿り着く前に全て消滅していた。何かによって相殺されたのではなく、まるで何事もなかったかのように消え去ったのだ。

 それは、大魔王ゾーマに対して、氷結系の呪文が全く効果を示さないという事を意味していた。ゾーマが練り上げた魔法力によって顕現した神秘だという事を考えても、魔法という形で具現化した段階で術者であろうと傷つける物となる。メルエが己の発したベギラマで火傷を負った事がその証明になるだろう。また、メルエが放ったメラゾーマがゾーマの身体を傷つけたという事実が、魔法全てが無効という訳ではない事を示しており、無効の対象が氷結系に限られている可能性を示唆していた。

 

「氷結系が効果がないにしても、私もお前も行使出来ない以上、関係のない事だ。今の光景を見た後ろの二人が、何かを割り出してくれるさ」

 

「……そうだな」

 

 悠然と構えるゾーマの前で、一分もない隙を探しながら口にしたリーシャの言葉は、何故かカミュの胸に素直に落ちて行く。

 魔法力を放出する才のないリーシャは別にしても、神魔両方の呪文を行使出来るカミュでさえ、氷結系の呪文は一つも契約出来なかった。火球系、灼熱系といった、熱量がプラスに転じる呪文は行使出来ても、熱量をマイナスへ落とす呪文は一切、行使が出来ないのだ。

 ここまでの戦いで氷結系のみを使い続ける大魔王ゾーマと、氷結系が一切行使出来ない勇者。それは正に対極に位置する者達である事を物語っているかのように思える。

 

「再び、貴様らの心を折ってやろうかと思ったが、なかなかにしぶとい」

 

 笑みを浮かべながら立ち塞がるゾーマの声は、カミュ達の心の奥底にある恐怖を揺り起こす。それでも、大きな勇気によって燃え盛る炎が消える事はなく、それぞれの武器を構え直した。

 生きるという執着の象徴であるリーシャの消失は、彼等全員の心を折ってしまう。それは、カミュによるベホマズン行使前の状況で明らかであった。故にこそ、ゾーマは再びリーシャを標的とし、その攻撃を加えたのだろう。

 そんな自分の思惑が外れたにも拘らず、ゾーマに苛立ちなど微塵も見えない。倒されても倒されても起き上がり、立ち向かって来るカミュ達に大抵の魔物は苛立ちと恐怖を感じていた。だが、この大魔王は、やはり規格外の存在なのかもしれない。

 

「フバーハ」

 

「…………スクルト…………」

 

「甘いわ!」

 

 口を開けたゾーマの姿を確認したサラが霧のカーテンを生み出し、メルエが仲間達の身体に己の魔法力を纏わせる。しかし、凍えるような吹雪を吐き出すと思われたゾーマは、再び手を前へ突き出し、凍て付くような波動を生み出した。

 霧のカーテンは無残に消え去り、カミュ達を覆った魔法力の鎧もまた、一瞬の内に吹き飛ばされる。そして、それの対処をする暇もなく、ゾーマは氷の結晶さえも視認出来る程の吹雪を一気に吐き出した。

 冷気、熱気をある程度軽減出来る勇者の盾を掲げたカミュは、傍に居るリーシャを自分の後ろへと引き寄せる。光の鎧と勇者の盾の力によって猛威を振るう吹雪を掻い潜りながら、カミュは攻撃の隙を窺っていた。

 後方では、咄嗟に放ったメルエのベギラゴンが吹雪を防ぐ炎の壁となっている。だが、それは前衛二人と後衛二人を分断してしまう悪手でもあったのだ。

 

「ぐっ」

 

 目も開けられない程の吹雪の中、カミュの身体が真横へと吹き飛ばされる。今まで盾となって吹雪を防いでいた彼が消え去った事で、その後ろに居たリーシャは吹雪の全てを受け止める形となった。

 自分の身体を凍りつかせる程の冷気が継続的に襲い掛かり、彼女の身体の自由を奪って行く。僅かに開いた目にゾーマが腕を振るう姿を見たリーシャは、ぎしぎしと嫌な音が鳴る腕を動かし、何とか力の盾を掲げた。

 襲い掛かる衝撃が冷気によって固定された彼女の全身を襲う。彼女ほどの勇士となれば、柔軟な身体の動きで衝撃を軽減させる事は不可能ではない。現に、ここまでの戦いで無意識であっても対処して来たのだ。だが、身体が固まった状態では衝撃を緩和させる事が出来ず、全てを受け止めた彼女の身体が悲鳴を上げた。

 

「まずは、貴様から逝け」

 

 全身を襲う激痛と、身体が硬直する程の寒さに苦悶の声を上げるリーシャを冷ややかな目で見据えたゾーマは、右腕を掲げる。それと同時にリーシャを囲うように現れた夥しい数の氷の刃が生み出された。

 未だに後方の炎の壁は消え去らず、吹き飛ばされたカミュは起き上がっていない。魔法力の才のないリーシャは、それに対する対抗力もない。抗魔力と呼べるその力を有していない彼女は、大魔王ゾーマ程の存在が放つ最上位の呪文を真正面から受ければ、どれ程の執着があろうとも、この世に存在し続ける事は不可能に近かった。

 氷の結晶が張り付くリーシャの顔が、絶望と悔しさに歪む。それこそが大魔王ゾーマの愉悦の元だと知りつつも、彼女はその表情を浮かべる事しか出来なかった。

 武器を振るう事しか出来ない自分に何度も苛立ちを覚え、成長し続け、その成長が目に見えて解る仲間達の姿に嬉しさと同等の悔しさを持ち続けた。『自分は役に立てているのだろうか』という自問自答を最も繰り返して来たのは、実は悩み続ける賢者ではなく、彼女だったのかもしれない。

 ゾーマの右腕が振り下ろされ、動く事の出来ない彼女に向かって、無数の刃が降り注ぐ。燭台に点る炎に照らされ、輝くように見えた氷の刃を、リーシャは不覚にも美しいとさえ思ってしまった。

 

「……アストロン」

 

 だが、彼女の退場など、彼が決して許しはしない。氷の刃が彼女を貫く寸前で行使されたその呪文が、彼女の身体を何物も受け付けない鉄の塊へと変えて行った。

 大魔王ゾーマという絶対唯一の存在が行使した、世界で最も強力な氷の刃が、リーシャの身体に当たって砕け散って行く。その光景を見て、今まで微塵も余裕を崩さなかったゾーマの表情に僅かではあるが、不愉快そうな色が浮かんだ。

 あの状況で、ゾーマのマヒャドを防ぐ方法など有りはしなかった筈。如何に後方の呪文使いが人類の中でも優れた者達であったとしても、既に氷の刃が到達する寸前で、それを相殺する灼熱呪文を行使する訳には行かない。氷の刃を相殺する為の炎で、救う筈の人物さえも燃やし尽くす可能性があり、例えそうでなくとも、手心を加えた形の灼熱呪文では氷の刃全てを相殺する事は出来ず、命を奪う事が出来る数の刃は、その身体を貫く筈だったのだ。

 

「勇者と呼ばれる者だけが行使出来る呪文か……。無粋にも程がある」

 

 苛立ちを浮かべた表情のまま、ようやく立ち上がったカミュへと視線を向けたゾーマは、彼が回復呪文を行使する前にその腕を振り上げる。しかし、回復呪文を唱える暇はなくとも、盾を掲げる時間はあった。間一髪のタイミングで掲げられた盾がゾーマの爪を弾き、その衝撃を緩和する為に、カミュは横へと飛んだ。

 着地と同時にカミュが回復呪文を行使しようと試みるが、再び動き出したゾーマがその隙を与えずに腕を振り下ろす。回復呪文を諦めたカミュが盾を構えようとしたと同時に、彼の身体が淡い緑色の光に包まれた。

 癒えて行く身体を確認した彼は、そのまま横へ転がり、間一髪でゾーマの腕を掻い潜る。動きが戻ったカミュは、追い討ちを掛けるように吹雪を吐き出し始めたゾーマに向かって王者の剣を振り上げた。

 

「…………バイキルト…………」

 

「フバーハ」

 

 そして、その剣筋に絶妙なタイミングで補助呪文が行使される。先程、カミュの回復の為に賢者の石の力を解放したサラは、そのまま霧のカーテンを再度生み出し、メルエはカミュの武器へと魔法力を纏わせた。

 針の穴に糸を通すような本当に細かな調節をこの絶妙なタイミングで行使出来るという事が、彼等がここまでの旅で築いて来た絆の成せる物なのだろう。ゾーマの吐き出した凍える程の吹雪は、霧のカーテンにぶつかりその威力を軽減させた。

 だが、至近距離からの猛吹雪である為、軽減させたとはいえ、カミュの身体に付着する氷の結晶は多く、その手は悴み、力が抜けて行く。それでも、この機会を逃してなるものかと、彼は渾身の力を込めて吹雪を突き抜け、王者の剣を振るった。

 

「ぐばっ!」

 

 苦悶の声と共に、異色の体液が盛大に噴出す。凍傷に掛かりそうな程の冷気の中、後方へと踏鞴を踏むように下がったゾーマの姿をはっきりとカミュは確認した。

 カミュが振り抜いた王者の剣は、ゾーマの肩口を切り裂き、胸にかけて斜めに深く斬り裂いている。その傷口は決して軽い物ではない事の証明に、溢れ出す体液の泡立ちは、その傷を即座に癒す事が出来ていなかった。

 初めて生み出した好機。人間という最弱の生命体が、絶対唯一の存在の身体に、即座に癒す事の出来ない程の傷を付けたのだ。そして、その機会を逃すような甘い旅を彼等は続けて来た訳ではない。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 カミュから幾分か距離が開いた事を確認したメルエは、即座にその杖を大きく振るう。杖先のオブジェの嘴の前に巨大な魔方陣が浮かび上がり、人類では辿り着けない程の巨大な火球が飛び出した。

 徐々に鉄化が解け始めたリーシャの真横を通り過ぎ、凍え切った彼女の身体に熱風を当てたその火球は、未だに肩口から体液を噴き上げているゾーマに向かって真っ直ぐに飛んで行く。

 メルエという稀代の魔法使いが唱えた最上位の火球呪文である。その熱量は太陽の如く、全ての物を融解させ、消滅させる程の威力を持つ。例え、この呪文を生み出したと云われる大魔王でさえ、直撃すれば只では済まない筈であった。

 

「かあぁぁぁぁっ!」

 

 しかし、彼等が対峙しているのは、精霊神や竜の女王でさえも届かぬ程の強者。絶対唯一の存在であり、全てを滅ぼし得る者である。

 気合を吐き出すように奇声を上げたゾーマは、凍える程の吹雪を盛大に吐き出し、火球の威力を弱めて行く。弱まったとはいえ、その熱量は生物の身体など簡単に融解させる程の物であったが、速度を落とした巨大火球に向けて手を翳したゾーマは、生み出した氷の刃全てを火球へ向けて放った。

 メラゾーマという最上位の火球呪文を見たカミュは、一歩後方へと下がってしまっている。ゾーマでさえ、無傷ではいられないと考え、その火球に自分が巻き込まれないようにと下がってしまった事を彼はこの場で悔やんだ。

 

「うおぉぉぉ!」

 

 だが、そんな後悔の元、遅れながらも走り出そうとしたカミュの耳に、聞き慣れた咆哮が轟く。メラゾーマという火球は、既に消滅に向かって温度を下げている中、火球へ降り注ぐ無数の氷の刃の余波を盾で庇いながら、一人の女性戦士が斧を振り抜いた。

 再び吹き上がる異色の体液。それと同時に、先程まででは聞いた事のない、怒りを含んだ絶叫が耳を突き抜ける。そして、復活したばかりの女性戦士は、凄まじい力で首を掴まれ、そのまま壁に叩き付けられた。

 

「人間如きが調子に乗りおって!」

 

 未だに傷口が塞がらないまま、ゾーマは何度も何度もリーシャを壁へと叩きつける。締め上げられている筈の喉から苦悶の声が漏れ、それと同時に大量の血液を吐き出した。

 そんなリーシャを救おうと杖を振るおうとしたメルエに向かって、ゾーマはマヒャドを瞬時に編み上げ、氷の刃を振り注ぐ。先手を打たれてしまったメルエは、サラを護る為に炎の壁を作り、氷の刃を溶かして行くしかなかった。

 駆け出したカミュは、リーシャの喉を絞めている物とは反対の腕を盾で防ぐ事が精一杯で、彼女をゾーマから救い出す事が出来ない。そのまま凍て付く波動の直撃を受けたカミュの周囲から霧が全て消え失せ、剣を覆っていた魔法力も消え去った。

 

「絶望に落ちながらも、何時まで生にしがみ付く! 貴様らの生きて来た道は、それ程に良い物であったか!? 絶望と苦しみを味わい続けながらも執着する程の美しき世界であったか!?」

 

 何度も何度も壁に叩き付けられ、リーシャの被っていたミスリルヘルムが床へと落ちる。乾いた音を立てて転がるミスリルヘルムの形状を見れば、如何に凄まじい力で壁に叩き付けられていたのかが理解出来た。

 頭部を守る兜を失ったまま、それでもリーシャは壁へと叩き付けられ続ける。金色に輝く彼女の髪の毛にどす黒い色が滲み出始めた。頭部が切れ、そこから溢れる血液が彼女の髪を染め始めているのだ。

 既に意識はないのかもしれない。力なく垂れ下がった足は宙に浮き、掌は開き切っている。それでも右腕の斧だけは握ったままである事が、彼女は死ぬまで戦士である事を物語っていた。

 近付こうとするカミュに向かって吐き出された吹雪が、未だにメルエの放った炎の壁が健在であるにも拘らず、このフロアの温度を急速に下げて行く。凍える足に力を込めて立つカミュではあったが、リーシャを救うまでは届かない。徐々に消え失せようとする彼女の命の灯火が、そこからでもはっきりと見て取れた。

 

「くそっ!」

 

 猛吹雪の中で目を凝らし、見つめたリーシャの瞳から光が失われて行く。しっかりと前を見つめ続けて来た黒目は徐々に光を失い、虚空を見るように色を消して行った。

 前へ踏み出す度に身体を縛り付ける氷の結晶が、彼の行動を停止させる。振るう腕さえも凍り付き始め、灼熱呪文を行使する為の口も縫い付けられたように動かなくなって行く。それは、死という状況を連想する程に暗く冷たい物であった。

 継続的に生み出されるマヒャドによる氷の刃が、後方支援組二人をもその場に縛り付け、救いの手さえも伸ばす事を許さない。

 大魔王ゾーマを倒す可能性は見出せた筈であった。それでも、それは、勇者一行四人全員で生み出した可能性である。もし、この中の一人でも欠けてしまえば、その可能性は永遠に消え失せ、手が届く事はないだろう。

 希望と隣り合わせにある絶望。コインの裏表のように僅かな動きでそれは入れ替わり、動きを止めた後では、どのような事があっても返る事はない。再び猛威を振るう大きな絶望が、世界の希望である青年の胸を締め付けていた。

 

「リーシャ……頼む」

 

 そんな彼が無意識の元で吐き出した呟き。

 吹き荒れる吹雪に掻き消される程に小さな呟き。

 誰にも届く筈はなく、叶う事のない呟き。

 そんな小さな呟きが、荒れ狂う氷の結晶の中に溶けた時、力なく垂れ下がった指先が微かに動いた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
大変遅くなってしまいましたが、ようやく更新出来ました。

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大魔王ゾーマ⑥

 

 

 絶対に認めないと誓った。

 こんなにも冷たい目をする人間が、憧れの英雄であるオルテガの息子であるなど、彼女の中の何かが拒否していた。

 自分の父親に不満などない。それでも、世界にその名を轟かせる程の英雄の息子として生まれた彼を羨ましく思っていたし、妬ましくも思っていた。

 だが、そんな英雄の息子が成人し、魔王討伐の勅命を受ける事が決定した時、予期せぬその旅への同道の命を国王から賜る。その時は、嬉しくもあり、誇らしくもあった。それにも拘らず、出会った彼の瞳は、氷のように冷たく、視界に入る人間さえも、そこに居ない物として見ているようにさえ見えたのだ。

 

「……それはアンタが女だからだ」

 

 アリアハンの城下町を出て、初日の野営の時、彼は自分の目を見つめて、そう断言した。

 騎士として、立派な功績を残していても、出世する事が出来ないのは、自分の性別が女性であるからだと。女性であるが為に、周囲の男性からの妬みを買い、それが足枷になり上に行く事が出来ないばかりか、その為に魔王討伐という旅へ出されたと彼は断言したのだ。

 生きて討伐出来れば良し。旅の途中で死んでも、厄介払いという点で良し。そんな夢も希望も無い事を淡々と告げる彼の瞳が、正直に言えば怖かった。

 自分が持っていたオルテガへの憧れを引き継いでいる筈の英雄の息子に落胆し、自分が信じて来たアリアハンという国家に絶望するような事を彼は当たり前の事のように口にしたのだ。泣きたくなる程に悔しく、悲しい夜であった事を、今でも憶えている。

 

「ふざけるな! 例え、『勇者』であろうと『人』である事には違いはない! 傷つけば倒れ、死に至る事もある。それ程の苦労をして来た同じ『人』を労う事すらも出来ないのか!?」

 

 アリアハン大陸を出て、ロマリア大陸に入った頃に遭遇したメルエという幼い少女との出会いは、そんな英雄の息子の心と同様に、一人の女性戦士の心も変化させて行く。

 カザーブという小さな村での悲劇に終止符を打ち、予期せぬトラブルに見舞われて辿り着いたノアニールという村にしては大きな集落での出来事。エルフの女王の怒りに触れた村人達全てが眠りに付く中、一人の老人に向かって彼女が発した言葉は、自分へ返って来るような痛い物であった。

 英雄の息子として彼に期待を掛け、この辛い旅も、魔王討伐という実現困難な苦しい道も、全ては勇者として当然の物であるという考えを彼女も持っていたのだろう。だが、少しずつ漏れ出した彼の本音が、彼女の中へ浸透して行くにつれ、徐々に考えが変わって行ったのだ。

 勇者といえども『人』であり、自分達と変わらず『心』がある。傷も受ければ、死も賜る。そんな極当たり前の事を真剣に考えるようになったのはあの頃からであろう。

 

「……アンタはどこまで変わって行くつもりだ?」

 

 そんな彼女の考えがしっかりと形を成し、確定したのはピラミッドでの出来事の後であろう。カミュという勇者の死ではなく、カミュという一人の人間の死を感じて泣き続けるメルエを見て、彼女の中にある想いも一つに固まったのだ。

 疲労の為に眠り続けるサラとメルエの横で、その気持ちを纏める事が出来ないままに吐き出した時、彼は静かにそう告げた。

 彼女自身、自分が変わったという自覚はなかったし、今でも自分が変わったとは思っていない。自分の考え、想いが変わって行く事に戸惑わず、それを否定しないと誓ってはいるが、それでも自分という人間が変わったとは微塵も思っていなかった。

 その後も、何度か彼の口から告げられるその言葉は、彼女にとって全く理解出来ない単語であった。

 

「お前が悩み、苦しむ時は、私も共に悩もう。そして、お前が辿り着くその先を私は見届ける。それが私の『使命』だ」

 

 カンダタという盗賊との二度目の戦いの時、彼は人類の禁忌である『人殺し』という罪を背負う事になる。その日の夜、バハラタという町で一人月を見上げる彼の言葉を聞いた時、彼女の胸の奥にあった感情が溢れ出した。

 勇者といえども人であり、心を持っているという事実。そんな一人の青年に、世界の問題全てを背負わせるという異常性。知らずに溢れ出した涙は、そんな全人類の罪を認めた物であった。

 彼を『月』のような男だと思ったのもこの頃からであった。太陽のように激しい輝きで全てを照らし出すのではなく、静かで優しい光を放つような存在。その横に立つのであれば、彼の帰る道を照らす、太陽となろうと心に誓った。

 

「……お前は……変わり過ぎだ……」

 

 それは意趣返しのつもりであった。だが、この言葉を口にした時に胸に湧き上がった溢れ出て来る想いは、何にも変えがたい喜びとなる。

 『この青年を信じて歩んで来た』という漠然とした想いが、正当化された瞬間であり、自分の胸の中で生まれた想いをはっきりと理解した瞬間でもあった。

 魔王バラモスを目前にしたネクロゴンド付近での一幕。夜空に浮かぶ月しか知らない、そんな二人の会話は、彼女の胸に生涯残り続ける大切な思い出となる。

 

「何度言ったら、お前は解ってくれる? 何度問い掛けたら、お前は私達と共に歩んでくれるんだ?」

 

 それは悲痛な叫び。魔王バラモスを倒し、ようやく平和が訪れると感じた瞬間に彼女を襲った絶望は、生まれてから感じた事のない底の見えない闇であった。役目を終えたかのように倒れ伏し、そのまま命さえも手放そうとする彼を見た時、言いようの無い恐怖を感じたのだ。

 自分自身、考えるよりも行動が先に出る性質である事は承知している。彼のその心に向かって何度も叫んでいた内容が、彼の心の傷を抉る物であるという事にまで理解が及ばずに、何度も衝突を繰り返して来た。それでも、自分自身の本心を彼に告げていたつもりであるし、その想いを伝えてきたつもりでもあったのだ。

 だが、それでも彼は死を選んだ。それがどうしても許せず、苦笑を浮かべた彼の頬を無意識に叩いてしまった。今から思えば、あの頃には、既に彼は自分の身体の一部となっていたのかもしれない。

 

「……サラは助かったのか?」

 

 アレフガルド大陸へ降り、今まで以上の激戦を乗り越えてぶつかった壁は、想像以上に高い物であった。

 上の世界でメルエと共に彼女の母の仇討ちを成功させた時に、その胸に宿った憎しみという闇を晴らしたと考えていた賢者には、憎しみとは異なる大きな闇がずっと巣食っていた。竜種の末裔の因子を受け継いでいたメルエの姿を見たサラは、その胸に宿っていた恐怖という闇を広げ、愛する妹分を拒絶してしまう。その末路は、両者の消失というリーシャが最も恐れる物であった。

 賢者サラの完成と、精霊神ルビスの愛情によってその試練を乗り越えた時、彼女はここまでの旅では一度も見せた事の無い程に泣いた。声を上げ、喉を枯らし、それでも尚、止まらない涙を流し続ける。その場所は、彼女が最も信頼する青年の胸の中であった。

 六年以上にも渡る旅の中で、彼女が涙を流した事は数度ある。だが、あの時のように心の全てを吐き出すように号泣した事は初めてであった。心に迫る不安から開放され、それを告げた青年の柔らかな笑みを見た時、彼女の心を支えていた虚勢の壁の全てが剥がれ落ちたのだろう。

 

「私は本当に嬉しかった……」

 

 精霊神ルビスとの謁見を経て、辿り着いたゾーマ城での最後の試練を乗り越えた時、リーシャの心に偽りなど、欠片も残っていなかった。

 己を誇示する理由もなく、自身の至らなさを隠す必要も無い。今、この場にある己の姿が、あるべき姿であり、それを否定する必要性など皆無であった。

 ゾーマ城へと渡る為の虹の橋は、ここまでの六年間という長い旅路の結晶である。彼等四人の想いの結晶であり、彼等が出会った全ての生物の願いの結晶でもあった。

 それが何よりも誇らしい。出会った頃のサラの姿やその想いを思い出し、そこから何度も襲う大きな苦しみの波を避けずに、全てを受け止めた彼女の成長の軌跡が誇らしい。出会った頃には塞ぎこむように心を閉ざしていた小さな少女が、己の感情を思い出し、それを徐々にではあっても見せ始めた事に喜び、幼い少女なりに自分に出来得る事を探し、努力し、その大きな力を受け入れた彼女の強さが誇らしい。

 そして、何よりも、目も覆いたくなる程の幼少期を過ごし、人間全てを憎んでも可笑しくは無い日々を乗り越えて尚、その心を失う事のなかった一人の青年が誇らしかった。

 世界で唯一の賢者となった妹のような女性。古の賢者の血を受け継ぎ、それと同時に竜の因子さえも受け継いだ妹のような少女。英雄オルテガという世界に名を轟かす者の息子として生まれ、古の勇者の魂さえも受け継いでいた、誰よりも愛しい青年。

 そんな特別な何かを持つ者達の中で、自分だけが何も有していないという事実に悩んだ事もある。だが、そのような悩み自体が些細な事に思える程に、彼女は共に歩む三人を誇りに思っていた。

 

「さぁ、余の腕の中で息絶えるが良い!」

 

 万全の状態で挑んだ大魔王ゾーマとの戦闘。そこに至るまでに交わした三つの戦闘が、彼女の心に宿った誇りが誤りではなかった事を示していた。

 上の世界を旅していた頃であれば、四人が万全だったとしても勝利を掴む事が難しいとさえ感じる三体の強敵。竜の王を自称し、カミュばかりか、メルエにまで虚仮にされたキングヒドラという魔物の力は、世界に轟く大英雄であるオルテガでさえ手も足も出ない程に強力であったし、魔王バラモスの死体を圧倒的な魔力によってこの世に戻した成れの果てであるバラモスブロスは、上の世界で辛うじて勝利したバラモス本体よりも強力な存在であった。

 だが、それらの強敵を容易く退けて尚、大魔王ゾーマという存在は圧倒的であったのだ。

 攻撃は一太刀も届かず、その攻撃は防ぐ事さえ難しい。更に、攻撃面でも防御面でも重要な補助呪文は、その腕の一振りによって無に帰してしまうという絶望感。

 気付く間もなく意識を失い、完全な死を理解した時には、何故か自分の身体はこの場に立った頃と変わらぬ万全な状態へと戻っていた。『今までの事は夢であったのか?』という疑問が思い浮かぶ程に不可思議な現象であったが、彼女の視界に真っ先に入った青年の姿が、それを明確に否定する。

 

「リーシャ……頼む!」

 

 そして、この言葉を聞いた時、彼女の内に秘められた全ての力が湧き出て来るような錯覚に陥った。

 彼がメルエに語りかけた時、それは通常通りの流れであると受け止めた。彼が彼として成り立っている原因である少女にだけは、当初からその名を呼んでいたし、それを彼女も極当然の事として理解している。だが、その彼が、共に歩んで来た賢者の名を呼んだ時、不覚にも嫉妬に近い醜い感情を持ってしまう。何度も衝突しながらも、彼がサラを強く信頼している事は知っていた。だが、その心の距離がここまで近付くとは思っても見なかったのだ。

 順番的に次は自分なのではと期待し、裏切られて落胆する。自分が考えているよりも、自分が想っているよりも、彼の中で自分の存在は大きくないのではと、場所も弁えずに気分が落ち込んだ。

 故にこそ、その短くとも強い言葉に歓喜した。沸き上がる喜びは、何よりも強い力となる。先程まで、真っ暗な闇しか見えなかったフロアが、輝きを放っているように広がって行った。

 今であれば、何が来ようと、どれ程の絶望であろうと、恐怖に陥る事はない。湧き上がった勇気は天突く程に迸り、身体にも心にも力が漲って行った。

 

 

 

「絶望と苦しみを味わい続けながらも執着する程の美しき世界であったか!?」

 

 薄れ逝く意識の中、もう一度愛しい青年が自分の名を呼んだ声が聞こえた気がし、リーシャは耳を澄ます。だが、耳に入って来たのは、身の毛もよだつような高笑い。そして、意識を失う直前に聞いた言葉が思い出された。

 自分達の歩んで来た全てを否定されるその言葉は、それでも彼等の歩んで来た道の全てを物語っている。ここまでの旅路の中で、何度も絶望を味わって来たし、立ち上がる事の出来ない程の苦しみも感じて来た。そのような事は、誰よりも生に執着して来たリーシャが一番理解している。

 この言葉を、サラが聞けば迷うかもしれない。メルエが聞いていれば、疑問を持つかもしれない。カミュであれば、否定は出来ないかもしれない。

 だが、大魔王ゾーマがそれを問いかけていたのは、一番心を折りたい相手でありながらも、決して折れない心を持った、『人間』の代表であった。

 

「……当り……前だ」

 

 小さな呟きのような叫びは、未だに彼女の身体を壁に打ち付けているゾーマにしか届かない。だが、彼女自身、その相手に対してだけに返答しているつもりであった。

 その呟きと共に煌く閃光。それは、意識を手放そうとしていて尚、彼女の手にしっかりと握られていた一振りの斧。魔の神が愛し、今は一人の人間の女性を愛した戦斧である。

 魔の神の手から離れた時から、その真価を一度も示した事のないその斧は、魔王バラモスの居城となった、古代ネクロゴンドの石像の手に納められていた。神の威光も魔の脅威も薄れ始めた時代に、その斧は真の主の手へと渡るのだ。

 それは、世界で最も脆弱な種族であり、その中でも更に脆弱な、人間という種族の女性であった。もしかすると、青年の勇者としての覚醒も、竜の因子という希少性を受け継いだ少女の存在も、世から抹殺された賢者という立場と力を継承した女性の完成も、この数奇な巡り会わせには敵わないのかもしれない。

 

「ぐおぉぉぉぉ!」

 

 鋭い閃光は、明確な軌道を走り、主の首を絞めていた一本の腕を斬り落とす。異色の体液が吹き上がり、支えを失くしたリーシャの身体が床へと落ちた。

 手首から先を失ったゾーマが苦悶の声を漏らし、怒りに満ちた視線をリーシャへと向ける。しかし、その視線を遮るように、ゾーマと彼女の間に一人の青年が割って入った。

 何処か安堵した空気を醸し出しながらも、明確な敵意を隠そうともせずにゾーマを睨むカミュの背中を見て、リーシャは静かに呼吸を整える。そして、未だに痛む頭部や身体の節々に顔を顰めながらも一歩前へと歩み出した。

 

「……これ程に、生きる価値のある世界など無い。苦しみ、哀しみ、悩みながらも、皆が懸命に生きている。人間だけでなく、動物も、花も虫も、魔物でさえも懸命に生きている。生きる為に多種族を殺める時もあるかもしれないが、命を懸けて生きる者達の道を遮る事が出来るのも、懸命に生きている者達だけだ」

 

 前へ歩み出したリーシャは、手首の体液を泡立たせながら治癒を始めたゾーマに向かって枯れた声でその想いを吐き出す。

 この言葉を発する権利を持つのもまた、命を懸けて生を全うしようと貫いて来た彼女だけなのかもしれない。どんな時も、どれ程の怪我を負おうと、彼女だけは死を受け入れる事はなかった。

 自身が生きる為、大事な者達が生きる為に、魔物や魔族を数多く殺めて来た。だが、魔物や魔族さえも殺める事の出来る強力な力を有して尚、彼女はその力に溺れる事なく、自身の戦う理由を貫き通して来たのだ。

 多くの命を奪う事は決して許される事ではない。それが魔物や魔族であっても、罪は罪であろう。アリアハンを出た当初は、魔物を葬る理由に『憎しみ』に近い感情があったかもしれない。だが、長い旅路の中で出会った人間やエルフ、そして魔物達の命を見てきた彼女は、その憎しみに陥る事なく、真っ直ぐに事実だけを受け入れて来た。

 その罪を背負って尚、この美しく輝く世界で生き抜く為に。

 

「娯楽や愉悦で葬って良い命など無い! 命を懸けず、懸命に生きる者達の道を塞ぐ事は許されない! 今日より明日を夢見て、明日より更に先の未来に希望を抱いて生きる者達が作る世界の輝きは、お前には理解出来ないだろう。苦しみの先には、輝く未来があると信じて生きる者達の強さを、お前は見ようともしないだろう。それでも世界は輝き続ける。そこで生きる全ての者達が発する輝きによってな!」

 

 上の世界には、闘技場と呼ばれる魔物と魔物を戦わせて賭け事をする場所が各所に作られている。人間に良い感情を持っていないカミュが更にその感情を大きくした場所であり、リーシャやサラでさえも吐き気のするような場所であった。

 あれは、命という掛け替えのない物を弄ぶ場所であり、それは人間という種族が悪意を増大させた結果に生まれた傲慢の象徴でもある。だが、このアレフガルドには、そのような場所は微塵もなかった。

 このアレフガルドという大陸に広がる精霊神ルビスの教えであれば、この先の未来でも、この地にあのような場所が出来る事はないだろう。それこそ、サラという女性がいる限り、この世界にそれが誕生する事はないとさえ、リーシャは考えていた。

 

「……無理をするな」

 

 喉を枯らして叫ぶリーシャがふらついた事で、それを支えたカミュが最上位の回復呪文を唱える。頭部の裂傷、内部の裂傷が癒えて行く事を感じ、リーシャは再び戦斧を構えた。

 泡立つ手首の体液が形を作り、再び元通りの形を取り戻したゾーマは、先程までの余裕を失いかけている。明らかな苛立ちを顔に滲ませ、怒気を隠そうともしていない。睨みつける様にリーシャを見つめ、その周囲には圧倒的な冷気が渦巻いていた。

 絶対唯一の存在であり、絶望の体現者であるゾーマが、矮小な人間一人に怒りを向けている。それは、異常であり、異様であった。

 

「真の闇の中に光は生まれません。闇に差し込む光はあれど、闇の中で生まれる光はないのです。闇は影であり、影は光無くしては生まれません。この世界で生きる全ての者達の輝きが生み出した影に負ける訳には行かないのです」

 

 圧倒的な冷気が支配するフロアの中で、ようやく炎の壁を鎮めた後方支援組が集う。炎を杖で払うように歩くメルエの後方から登場したサラの姿は、それこそ、賢者に相応しい神々しさを放っていた。

 劣勢に追い詰められようとも、出来うる限りの事を考え、行い続ける者。リーシャという女性戦士が、ゾーマによる執拗な攻撃を受けて尚生きているのは、炎の壁に遮られながらも、ルビスに祈りを捧げ続け、賢者の石の力を行使し続けていたからに他ならない。

 

「……最早、絶望によって光を見失う事はない」

 

「黙れ!」

 

 全員が無事であった事を確認したカミュは、リーシャよりも一歩前へと踏み出す。その瞳に絶望の色など欠片もない。彼の心の支柱となる者達は、皆がその瞳に勇気の炎を宿している。決して折れる事なく、決して消える事のない炎は、その元となっている勇気の種火を更に燃え上がらせていた。

 苛立ちを露にしたゾーマの左腕が振り抜かれる。常人であれば、その一振りで原型を留める事なく潰されるのだが、勇者の盾を構えた彼は、その強烈な一撃を受けて尚、微動だにせずゾーマを睨み付けた。

 

「希望を捨てる事もせず、絶望に歪まぬ者達など不愉快以外の何物でもない。光など、容易く闇に飲まれる物であるという事を理解させてやろう!」

 

 絶対唯一の存在にして、圧倒的な絶望の闇として君臨する己を、光が生み出した影と称された事に憤りを感じたゾーマは、復活した右腕の手首を振り抜き、再び氷の刃を出現させる。闇の衣を失った大魔王ゾーマの身体は、人間が持つ武器であっても傷つける事が出来るが、それでもその圧倒的なまでの強大さは依然変わらない。

 上空に滞空した氷の刃が一斉にカミュ達へと降り注ごうとするその時、幼い少女が大きく杖を振った。

 

「…………マヒャド…………」

 

 それは、氷竜の因子を受け継いだ少女が最も得意とする氷結系最上位呪文。降り注ぐ氷の刃の対面に同じように氷の刃を作り出し、それを相殺するかのように衝突させる。灼熱呪文などで融解させる訳ではないため、周囲を蒸気が包み込む事はなく、氷の破片だけが周囲に拡散して行った。

 稀代の魔法使いとはいえ、大魔王の魔法力と拮抗する訳ではない為、砕き切れない氷の刃が降り注ぐが、その程度であれば、各自の盾で防げる数である。ただ、最上位の氷結呪文に最上位の氷結呪文をぶつけた影響で、周囲の気温は急激に下がった。

 その場に身体を縛り付けるような寒さの中、カミュが動き出す。予想外の対応に虚を突かれたゾーマの懐に飛び込んだカミュは、そのまま王者の剣を振り下ろして行く。

 

「ぐぬぅ」

 

 だが、それでも大魔王ゾーマの命を刈り取るには程遠い。剣筋を防ぐように前に出した掌が、魔法力を纏いながら、その剣を押し留めていた。

 無傷ではない。それでも腕を斬り裂く程でもない。剣を伝って滴り落ちる体液の量が、その傷の深さを物語っているものの、剣を掴まれた形となったカミュの身の方が危険に晒される形となっていた。

 僅かな時間でも無防備になった隙を見逃す存在ではない。一瞬によって振り抜かれたゾーマの腕が正確にカミュの身体を打ち抜き、床へと叩き付けられる。その勢いで剣は抜け、それと同時に、ゾーマの方からカミュ達と距離を取った。

 その表情は、怒りと憎悪によって歪み、纏う魔力も先程よりも禍々しく揺らいでいる。人間という最弱の種族を相手に、自らが後退する事になったという事実に気付いたゾーマは、言葉に出来ない程の怒りを感じていた。

 

「鬱陶しいわ!」

 

 倒れ付したカミュに対して回復呪文を唱えながらも、身を守る為の補助呪文の行使をメルエに指示するサラを見たゾーマは、その呪文の詠唱が完成し、カミュ達の周囲に魔法力の壁が生まれたと同時にその手を突き出す。巻き起こる凍て付く波動が全ての補助呪文を無効化し、間髪入れずに吐き出された猛吹雪が、波動によって固まりつつあった一行の身体を更に凍り付かせる。

 周囲を覆う氷の結晶が身体に付着していく中、再び最年少の少女が大きく杖を振るう。一行を取り囲むように生み出された灼熱の火炎が、吹雪からもゾーマからも一行を護る炎の壁となり、凍り付きそうになる一行の身体を和らげた。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 炎の壁によって遮られた視界をものともせず、メルエが再度杖を振るう。杖先のオブジェの嘴の前に大きな魔法陣が浮かび上がり、その中心から特大の火球が姿を現した。

 火球に指示を出すようにメルエが杖を振り下ろす。術者の命を受けた火球は、真っ直ぐにゾーマが居た場所に向かって行き、灼熱の炎の壁に穴を空けた。

 突如現れた特大の火球を見ても、ゾーマは揺るがない。その行動を予測していたのか、避けるように身体を動かし、火球に向かって再び吹雪を吐き出した。だが、火球と吹雪のぶつかり合いで巻き上がった高温の蒸気の壁の中を一つの影が突き抜ける。煌く閃光は先程ゾーマの片腕を斬り落とした戦斧。上段から振り下ろされたその刃は、真っ直ぐにゾーマの脳天へと向かっていた。

 苛立ちの表情を浮かべたゾーマは、振り下ろされた斧に合わせるように腕を振り抜く。斧の刃の腹に裏拳を当て、その軌道を大きく逸らした。

 

「うおぉぉぉぉ!」

 

 だが、勇者一行の前衛は一人ではない。そして、大魔王ゾーマを倒し得る武器は、魔の神が愛した武器だけではないのだ。

 斧の軌道を逸らされ、身体が泳いだリーシャへ追い討ちを掛けようとしたゾーマに向かって、歴代の勇者の魂と、この世界の全生命体の願いを具現化した剣が振り下ろされる。その軌道は正確無比。数多の魔物の命を刈り取り、自身の命を賭けて磨き上げて来た至高の一振りであった。

 肉を切り、骨を絶つ感触がカミュの手に重量を持って圧し掛かる。煌く剣の輝きを曇らす程の体液が噴出し、それがこの戦いの中で構築されていた一定の壁を打ち砕いた。

 手も届かず、遠く離れた大魔王ゾーマという存在と、人類のみならず、全世界の生命体の希望とも云える勇者との距離を一気に縮め、その頂に手を掛けるまでのものとなる。それは、先程まで彼等の胸に残っていた小さく儚い希望の光が、大いなる輝きを取り戻す切っ掛けとなった。

 

「ぐっ」

 

 肩口から入った王者の剣は、ゾーマの胸までを斬り裂き、大量の体液を床へと溢れさせる。傷口を押さえるように後方へと後退りしたゾーマは、苦悶に歪む表情のまま、再び吹雪を吐き出した。

 だが、胸までを斬り裂かれた影響なのか、その吹雪の強さは、先程までの物よりも幾分か弱く、カミュが掲げた勇者の盾の効力によって、前衛二人には届かない。傷口は泡立ち、既に修復を始めているものの、その傷の深さから瞬時に終える事が出来ないのだろう。左腕手首を復元したばかりのゾーマにとって、それは、見た目以上の深手であった。

 隙を見て、吹雪を遮る霧のカーテンと、カミュ達の身体を守る魔法力の鎧を生み出したサラへ視線を送ったゾーマは、不愉快そうに右腕を突き出し、凍て付く波動を発動する。何度も何度も無意味な行動を繰り返す行動は、とてもではないが『賢者』という称号に相応しい者のしている物とは思えなかった。

 

「ふん!」

 

 しかし、無駄だと断じる事さえ出来るその行動は、大魔王に小さな隙を生み出し、カミュ達に攻撃の機会を与える。連携というものは、己の考えだけでは繋がらない。相手の考えを読み、仲間の行動を予測し、仲間が自分の行動を読んでくれると信じて行わなければならないのだ。

 その行動の原理が、このゾーマ戦でようやく発現し始める。強大な力と、震える程の威圧感に、自身の考える未来に対して身体が付いて行かないという状況が続いていたが、勇者カミュの完成、そして戦士リーシャの覚醒という事象を経て、勇者一行が完成したのだ。

 

「忌々しい!」

 

 だが、大魔王ゾーマとて、並みの魔族ではない。幾ら隙を突かれたとはいえ、何度も何度も無防備で攻撃を受け入れる訳ではなかった。

 カミュが再度振り下ろした剣を避け、その影から現れたリーシャの身体を蹴り飛ばす。間が離れた瞬間を狙って、再び最上位の氷結呪文を展開させた。

 カミュとリーシャは、降り注ぐ氷の刃を凍える手で握り締めた武器で防ぎ、後方からの支援を待つ。その期待通り、後方から熱風が巻き起こり、渦巻くような灼熱の火炎が氷の刃を溶かして行った。その威力は、先程までのベギラゴンよりも幾分か弱い事からも、行使者がサラである事を物語っている。

 

「…………イオナズン…………」

 

 ベギラゴンの行使者が誰であったかという事にゾーマが気付いた時は、カミュ達から距離を取った愚にも気付く時となる。ベギラゴンの炎とマヒャドの冷気がぶつかり、蒸気の壁が出来た事で後方へとカミュ達が下がった事を確認した稀代の魔法使いが、その杖を大きく振るっていた。

 当代の賢者をして、『本来の使い手』とさえ称される少女が放った爆発系最上位の呪文。その余波だけでも周囲を更地にしかねないその呪文は、一瞬の輝きの後、フロア全ての光と音を消し飛ばした。

 賢者サラがベギラゴンから間を置かずに行使したマホカンタの光は、前衛二人の身体を包み込み、爆発そのものとその余波から身を守る壁となる。爆心にいた大魔王ゾーマの姿も爆発するような輝きに消え、その凄まじい爆風によって確認する事も出来なかった。

 

「……やったのか?」

 

 このイオナズンは、最高の場面で、最高のタイミングで放った至高の一打である。並みの魔物など名残さえも残らずに消え失せるだろうし、魔王バラモスであっても、その命を刈り取るに十分な一撃であった。

 その自覚と自信が、カミュ達四人にはあった。故にこそ、爆風が巻き上げた砂塵と、崩れる壁の破片によって見え辛くなった前方へと目を凝らしながらも、リーシャはその言葉を呟いたのだ。

 長く苦しかった戦闘も終結の時を迎えたのだという安堵と、悲願を成し遂げたのではないかという達成感を感じているのは、リーシャだけではない。後方支援組の二人もまた、身体の力が入らない程に魔法力を消費しており、疲労と達成感で床に膝を突いていた。

 

「ちっ」

 

 イオナズンによる強大な爆発によって、天井の一部が崩れ落ちる。キングヒドラ、バラモスブロス、バラモスゾンビという強敵との連戦。そして大魔王ゾーマとの激戦によって劣化していた天井が、稀代の魔法使いが起こした神秘に耐えられなかったのであろう。

 だが、安堵するリーシャの横で勇者の青年が鳴らした舌打ちは、天井が崩れ落ちて来る事への苛立ちではなかった。

 崩れ落ちて来る天井と共に、その周囲に氷の刃が煌いている。それが何を意味しているのかを瞬時に理解したカミュは、横にいるリーシャの身体にしがみつくように体当たりし、後方へと転がった。

 

「……そんな」

 

 あのイオナズンは、至高の一撃と言っても過言ではないものであった筈。カミュやリーシャが時折見せる武器による会心の一撃のように、最高のタイミングで、最高の魔法出力を見せた、究極の物であった。

 カミュとリーシャが居た地点に降り注ぎ、次々と砕け散る氷の刃を見たサラは、愕然と言葉を漏らす。あれ以上の一撃など、今の彼等に生み出す事など出来はしない。それは、再び訪れた絶望の時であった。

 

「……余をこれ程に苦しめるとはな。許す事の出来ぬ程に怒りを覚えるが、それでも尚、貴様らに賛辞を送ろう」

 

 氷の刃が齎す冷気によって、徐々に晴れて行く爆風の向こうに見えて来た影は、絶望の象徴であり、絶対唯一の存在。纏っていた衣服は破れ、その身体も無傷ではない。カミュに斬られた肩口の傷は癒え切れておらず、片腕は爆発によって千切れかけていた。

 それでも、この大魔王は生きている。纏う魔法力の量は戦闘開始時に比べて格段に落ちてはいるが、未だに瞳の光は消えておらず、その威圧感も健在であった。

 千切れかけた腕から流れる体液が大きく泡立ち、修復を急いでいる。全ての傷よりもそちらを優先しているようにも見え、時間を置かずに修復される事は明白であった。

 全身全霊の連携を見せ、最高の一撃を放った後に訪れた絶望の瞬間。通常の人間であれば、張り詰めていた糸が切れ、全てを手放し、諦めてしまうだろう。既に、後方支援組二人の魔法力も底を突いている。身体を支える魔法力を失ったメルエは、立っている事も難しく、両膝を床へ着けていた。

 安堵と達成感に辿り着いた気持ちを再び奮い立たせるのは難しい。ここまでの立て続けの戦闘による疲労も合わさり、彼女達の気力が根こそぎ奪われてしまったのだ。

 だが、大魔王と対成す者。その青年だけは異なっていた。

 

「決着を付けよう」

 

 この世の全ての絶望を担う絶対唯一の存在である大魔王。

 この世の全ての希望を背負う唯一無二の存在である勇者。

 互いに満身創痍の身体でありながら、真っ向から向かい合う。

 

「片腹痛いわ」

 

 どれ程の傷を負おうと、大魔王ゾーマの力は、勇者カミュの力を遥かに凌駕している。それは、カミュ自身が最も理解しているだろう。

 それを痛い程に理解して尚、彼は一本の剣を構えて先頭に立つ。その背中から立ち上る物は、勇気の炎。上気した身体から周囲の景色が歪む程の熱気が立ち上っていた。

 その背中を見た女性戦士が真っ先に立ち上がる。常に彼と共に前線を駆け抜け、彼が背中を唯一預ける存在が、再び彼の横へと立ち並んだ。

 決着の時は近い。

 それは、新たなる夜明けなのか、それとも光を覆い尽くす闇なのか……。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
大変遅くなりました。
ここまで来ての停滞を心からお詫び致します。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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大魔王ゾーマ⑦

 

 

 

 脆くなった天井の欠片が崩れ落ちて来る。天井が抜ける事はなくとも、その破片の大きさは、人間を容易く潰しかねない物であった。

 闇が支配していた最下層のフロアには、燭台に点る赤々とした炎が光を与え、人間の目にも隅々が見えるようになっている。そんな中で睨み合う大魔王と勇者。崩れ落ちる天井の一部分が床に衝突する音が響く中、両者共に身動き一つせず、相手の動きを見つめていた。

 ゾーマの片腕の修復は進んでいる。だが、身体全体に付けられた傷全てを癒す事は出来ず、溢れ出た体液が床へと落ちていた。対する勇者の身体は、傷一つない。だが、それは外傷という点に於いての話であり、その疲労度で言えば、その場に立っている事さえも辛く感じていても可笑しくはない程の物であろう。

 そんな勇者の背中を見ていたサラが震える足を叩きながら、懸命に立ち上がる。

 

「メルエ、お祈りを」

 

 魔法力とは別に、この旅の中で培って来た体力がサラにはある。疲労で動けなくなろうとも、気力で立ち上がる事が可能であると同様に、気力がなくなろうとも、全身に僅かに残る体力で無理やり身体を動かしたのだ。

 だが、元々子供の体力しかなく、その全てを膨大な魔法力で支えて来たメルエは、魔法力を失ってしまえば、このような場面で立ち上がる事など不可能である。故にこそ、その指に嵌められている指輪へ祈りを捧げる事を指示したのだ。

 これから先の戦いは、サラもまた、気力で身体を支えるしかないだろう。このゾーマ城で手に入れた『祈りの指輪』を嵌めたサラは、静かに精霊ルビスへと祈りを捧げた。全快する事はなくとも、ある程度の魔法力は補われる。疲労による足の震えは治まり、その瞳に再び光が灯った。

 

「…………メルエ………まもる……!!…………」

 

 サラの身体が祝福の光に包み込まれたのを見たメルエは、同じように手を合わせて誓いの言葉を口にする。彼女は精霊神ルビスを見知っていても、それに祈りを捧げるという行為自体を理解している訳ではない。故に、自分自身に誓った言葉を捧げ、その為の力をルビスから借り受けるというような認識なのかもしれない。

 だが、その誓いの言葉がルビスへと届けられ、彼女の身体が祝福の光に包まれると同時に、その指に嵌められていた指輪が音を立てて砕けてしまう。砂漠の王国イシスの女王から約束と共に与えられた絆の証が、役目を終えたように床へと落ちて行ったのだ。

 

「ルビス様のお力に耐えられるだけの力が残っていなかったのでしょう。その指輪は、メルエが大事にしていた魔道士の杖と同じように、役目を終えたのです。だから、泣いてはいけません」

 

「…………ん…………」

 

 指輪に祈りを捧げた回数は、一度という訳ではない。この長い旅の中で、メルエは何度もその指輪に誓いを立てて来た。その度に指輪はメルエの誓いに応え、その力を貸し与えて来たのだ。そして今、その最後の力を使って、メルエの誓いに応えたのだろう。

 涙を堪えるように唇を噛み締めたメルエは、回復した魔法力を原動に立ち上がり、真っ直ぐにゾーマへと視線を送る。その姿を見たサラもまた、小さく微笑みを一瞬浮かべ、再び厳しい表情でゾーマへと視線を送った。

 万全ではなくとも、再戦の準備は整った。自分達が回復を優先すれば、相手もまた回復してしまう。身体の傷や魔法力は回復したとしても、身体に蓄積された疲労は回復しない以上、長期戦となればゾーマに軍配が上がる事は間違いない。それ程に、基本的な性能が異なっているのだ。

 

「ピオリム!」

 

 サラのその詠唱が、再戦の鐘となる。仲間達全員に及ぶ魔法力が、彼等の筋肉に作用し、俊敏さを上げて行き、カミュとリーシャが未だに傷を修復しているゾーマへと駆け出した。

 接近したカミュが振り下ろす王者の剣の一撃を、破れたマントを投げ捨てる事で避けたゾーマは、その後方から迫るリーシャの斧を魔法力の纏った片腕で受け止め、腹部に蹴りを放つ。激しい動きで裂けた傷口から異色の体液が噴出すのに躊躇いもせず、ソーマは再び腕を突き出した。

 凍て付く程の波動が迸り、カミュ達が纏った魔法力が吹き飛ばされる。突如戻った俊敏さに身体が追いつかない状態のカミュを狙ったゾーマの拳は、正確に彼の胸部を打ち抜き、後方へと弾き飛ばした。

 

「ごふっ」

 

 光の鎧という歴代の勇者が纏っていた鎧を身に着けていたカミュでさえも息が詰まる程の一撃。腹部を蹴られたリーシャに至っては、盛大に血液を吐き出していた。それは、身体の内部を傷つけられた証拠であり、それを見たサラは瞬時に賢者の石を発動させる。

 カミュとリーシャを包み込む淡い緑色の光が彼等の傷を癒し始めたと同時に、再び周囲を圧倒的な冷気が支配し始めた。

 大魔王ゾーマといえども、魔法力は無尽蔵ではない。だが、それでも人間であるサラやメルエに比べれば、その貯蔵量は圧倒的な差があった。魔法力を身体の修復に回して尚、神代の剣を受け止める事の出来る魔法力を展開し、そして最上位の氷結呪文を行使出来る余裕はある。それこそが、絶対唯一の存在と謳われる魔の王の在り方であった。

 

「…………マヒャド…………」

 

 無数に浮かぶ氷の刃に対抗するように、メルエが再び最上位の氷結呪文を詠唱する。魔法力が完全に回復した訳ではない為、その効力も戦闘初期の頃の勢いはない。相殺出来る氷の刃の数も少なく、カミュとリーシャのそれぞれが掲げた盾に数多の氷刃が降り注いだ。

 自分が成した結果が歯痒いのだろう。噛み締めた唇が切れ、メルエの口端に血液の筋が流れる。それでも戦局は待ってはくれず、次々と変化していった。

 口から吹雪を吐き出したゾーマから一歩遅れてフバーハを唱えたサラは、吹き飛ばされたリーシャの身体にベホマを唱える。唱えた直後に再び指輪に祈りを捧げ、己の魔法力を回復させた。

 

「遅いわ!」

 

 軽減された吹雪の中を突っ切って姿を現したカミュの剣を防いだゾーマは、治り切っていない腕でカミュを横殴りに吹き飛ばす。修復途中の腕さえも酷使しなければならない程にゾーマも追い詰められてはいるのだが、それでもその余裕は崩れず、勇者一行を翻弄していた。

 後手後手に回ってしまえば、カミュ達はゾーマの攻撃を防御する事しか出来ない。攻撃に転じるには、その切っ掛けが必ず必要であった。

 ゾーマはここまでの戦いの中で、マヒャド、吹雪、凍て付く波動以外の特殊攻撃を使用していない。メラゾーマという呪文を編み出した存在であれば、その他の呪文などを使用しても可笑しくはないにも拘らず、それを貫き通している。それが、大魔王としての拘りなのか、意地なのかはわからない。もしかすると、魔方陣を生み出してはいても、それの契約、行使が出来ないのかも知れないが、今は、それが細いカミュ達の命の糸を辛うじて繋いでいる理由となっていた。

 

「ぐっ……隙が無さ過ぎる。サラ、この状況を打破出来る策はないか?」

 

「難しいです。ゾーマの意識を何らかの形で、一瞬でも逸らせれば……」

 

 サラの回復呪文を受けたリーシャは蓄積された疲労に抗うように立ち上がり、戦局を変える事が出来る可能性を問いかける。だが、それに対する賢者の答えは無情な物であった。

 今のゾーマに隙が見えない。戦闘開始時は、明らかな慢心があった。カミュ達を周囲を飛ぶ羽虫のように見て、余裕を崩す事はなかった。それ故に、想像以上の力をカミュ達が示した時は、多少なりとも隙を見せていたのだ。

 『隙を見せようとも容易く消し去れる』という自信がゾーマにはあったのであろうし、それを成し得る力も有していたのだろう。だが、カミュ達の力を認め、褒め、それを受け入れたゾーマに慢心は欠片もない。あるのは、目の前の敵を葬り去るという目的だけである。それが、只でさえ強大な敵である大魔王という存在を、更なる高みへと押し上げていた。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 リーシャとサラの話の間にも戦闘は進んで行く。吹き飛ばされたカミュに追い討ちを掛けようと腕を振り上げたゾーマに向かってメルエが杖を振るった。

 ゾーマとカミュとの間に割り込むように極大の火球呪文が飛び、床の岩を融解させながら進んで行く。意識をメラゾーマへと向けたゾーマはその対策の為に動き出し、カミュは転がるように後方へと退いて行った。

 先程のイオナズンの影響で、ゾーマの身体もまた満身創痍。足は思うように動かず、極大火球を避ける事も出来ない。メラゾーマという最上位の呪文の威力は、それを編み出した本人であるゾーマが最も理解しているだろう。故にこそ、ゾーマは修復途中の腕に魔法力を纏わせ、その腕を火球に向けて横薙ぎに振るった。

 

「ぐおぉぉぉぉ」

 

 通常であれば、瞬時に融解する程の高熱を持つ火球に向かって振るわれた腕は、魔法力の壁を挟んで火球の進路を強引に変えて行く。しかし、その高温の被害を無にする事は出来ない。火球は軌道を変え、真横へと流れて行くものの、ゾーマの片腕は完全に融解し、肘上から先が消滅してしまっていた。

 肉が焦げ、溶ける不快な匂いを漂わせながらも、怒りの瞳をメルエへ向けたゾーマは、一気に猛吹雪を吐き出す。吐き出された吹雪はメルエの周囲を包み込むように吹き荒れ、少女の姿が雪の中に隠れてしまった。

 如何に氷竜の因子を受け継ぎ、寒さへの耐性が強いとはいえ、彼女は間違いなく人間であり、このような吹雪の柱の中心で生命活動を維持出来る強さはない。一瞬の出来事に打つ手を繰り出す事が出来なかったカミュが駆け出そうとするが、それは再び出現した氷の刃に阻まれた。

 

「メルエ!」

 

 リーシャの悲痛な叫びが轟く中、降り注ぐ氷の刃を相殺する為の炎を顕現させたサラは、未だに天井へ舞い上がるように渦巻く吹雪の柱から視線を外す。一瞬、その行動に大事な妹のような存在を切り捨てる覚悟を持ったのかと考えるが、この一行の頭脳とも云える賢者が、メルエという稀代の魔法使いの生存を諦める訳がない。

 相殺し切れない氷の刃は、カミュが盾で防ぐ事を信じていたし、それ以上に、メルエならばあの吹雪の柱を吹き飛ばす事も可能であると信じていた。故にこそ、彼女は今自分が成すべき事の為に行動に移したのだ。

 

「ベホマラー」

 

 最早、賢者の石の効力では間に合わない。それぞれの傷の具合を診る事も出来ない戦闘状態の中で、それでも自身の魔法力で持って処置に当たらなければならない場面にまで陥っているという事を、彼女は察知していた。

 小さな少女を包み込む吹雪の柱の前で呆然とする前衛二人の傍に寄ったサラは、その傷具合を見つめて再度回復呪文を唱える。そして、状況を打破する為の布石の為に口を開いた。

 

「カミュ様の言葉通り、決着を付ける時です。これ以上長引けば、勝利への糸口さえも見えなくなります。私が道を開きます。カミュ様とリーシャさんはゾーマへ……」

 

「何をするつもりだ?」

 

 口を開いたサラから漂う不穏な空気に、カミュが静かに口を開く。この瞳は、サラが何度か見せた覚悟の瞳。それは、ここまでの旅の中で何度も見て来てはいても、その中に決して許容の出来ない覚悟も含まれていた事を彼は知っているのだ。

 問いかけた瞬間に歪んだ彼女の顔が、その予想が正しい事を示している。そして、ここまで口を濁すと言う事は、彼女の命さえも勘定に入った賭けなのだろう。その中身を問いかけようとしたカミュの横からリーシャが悲壮の叫びを上げた。

 

「それよりもメルエは大丈夫なのか!?」

 

「メルエならば心配要りません。最悪、ドラゴラムを唱えればあの程度の吹雪はどうとでもなるでしょう。その呪文行使に必要な魔法力も残っている筈です。身体そのものを消滅させるような呪文や、死の呪文でない限り、メルエを魔法で倒す事など出来ません。それは吐き出された吹雪とて同じです」

 

 メルエという少女の身体に流れている血は、太古から繋がる氷竜の因子を受け継いでいる。冷気や吹雪に耐性があるという事以外にも、魔法力を開放する事によって、太古の姿に成れるという力も有していた。

 そして、竜種に変化したならば、例え大魔王が吐き出した物であろうとも、氷竜を凍らせる事など不可能である。そして、それを誰よりも理解しているのはメルエ自身であり、自分の力を信じているのも彼女自身なのだ。故にこそ、サラは少しも心配してはいなかった。彼女であれば、自らで吹雪の檻を突き破って来ると信じているのだ。

 そして、事、魔法という神秘に関しての才能でいえば、唯一の賢者であるサラであっても、肩を並べる事は出来ない。メラゾーマのように、直撃すればゾーマの腕さえも消滅させる程の熱量を持つ物でない限り、メルエという少女を倒す事は魔法という神秘では不可能に近いのだ。

 サラの言い分に一先ず納得を示したカミュは、先程中断してしまった会話を再開する。

 

「メルエとイオナズンの契約をしていた際に、私が魔法陣に誤った文字を幾つか記した事がありました。普通は文様を誤れば、その契約陣は作動しないのですが、私だけ契約が完了してしまったのです。その呪文の効果は私にも解りません。便宜上、パルプンテと名付けました」

 

「パルプンテ……不明という事か?」

 

 それは、世界共通の言葉ではない。上の世界でもある地方の方言のような物である。世界の南部に浮かぶ小さな島国の大陸のみに伝わる言葉であり、その意味を知る者も、その島国で暮らす一部分の人間だけであろう。今ではそれなりの年齢を重ねた者しか使わず、使う場面も数少ない為、そんな老齢の人間の傍にいなければ知り得ない言葉でもあった。

 アリアハンという小さな島国に伝わる、奇行に及ぶ者を指す蔑視的な差別用語。それがパルプンテという言葉である。そして、それを自身のみが契約をしてしまった呪文に付けるという事が、サラがこの呪文に対して信用していない事を明確に示していた。

 

「どのような効果があるのか解りませんが、契約者である私が解らない以上、ゾーマに対して意表を突く事が出来るでしょう。その間に……」

 

「却下だ」

 

「却下だな」

 

 しかし、その作戦を実行する為の詰めへと入ろうとするサラの言葉を前衛二人は同時に遮る。口を揃えて否定されてしまったサラは、口を何度か開閉するが言葉が出て来なかった。

 このような大詰めとなった戦闘の中で、サラが口にした前振りは何一つ間違いはない。これ以上に戦闘が長引けば、カミュ達の勝利の可能性は、一分どころか一厘もないだろう。大魔王という存在と、人間とはそれだけ基本性能が異なるのだ。

 今の大魔王に隙はない。それ故に、前衛二人が近づく事が出来ず、活路を見出せないという状況に陥っていた。だからこそ、その活路を切り開く為にも、その効果が誰にも解らない呪文を唱えて隙を突こうとしているのだ。

 例え、その呪文の効果というリスクを背負おうとも、今の状況はそのような事を言っていられる状況でもなく、今までも大きなリスクを背負い、それを乗り越えて来たという自信があるからこその提案であった。

 

「何が起こるか解らないという事は、その負の効果が私達に向かう可能性もあるという事だろう? 命を賭けて戦いをしてはいるが、生きる事を諦めている訳ではない。全員が生き残る可能性を模索した結果であっても、誰かを犠牲にしなければならないというのであれば、私はそれを受け入れる事は出来ない」

 

「ですが!」

 

 ここに来て尚、リーシャは己の道を譲らない。徹頭徹尾、彼女は生きる事を諦めないし、誰の命であっても手放そうとはしないのだ。

 しかし、残された手段が皆無に近い以上、そこに拘る事は出来ない。そして、その時に天秤に乗せる事の出来る物は、自分の命以外に有り得ないというサラの考えもまた、旅を始めた時から変わる事のない物でもあった。

 この四人は、根底こそ似てはいても、決して相容れる事の出来ない者達の集合体でもある。それを繋ぎ止める為の楔と成ってるのがメルエであり、その楔を繋いで来たのがリーシャである。そして、繋がった一行をここまで先導して来た者が口を開いた。

 

「そろそろメルエが戻るぞ。最後まで足掻くと決めた筈だ。この場に誰も立っていられなくなった時まで、それは封印しておけ」

 

 天井を突き抜けるように立ち上った吹雪の柱が、急速に収束して行く。まるで、操る主を変えたかのようにその勢いを失くし、静かに床へと落ちて行く雪と氷の結晶が、その中心に立つ少女の姿を輝かせていた。

 炎を操り、吹雪を相殺した訳でもない。冷気を操る氷竜と変身した訳でもない。ただ静かに杖を掲げて立つ少女が、真っ直ぐにゾーマを見つめながら杖を振るった。

 吹き荒れる吹雪を制し、振るった杖先から再び巨大な火球が飛び出す。それを見たカミュは火球を追うように駆け出し、リーシャもまたその背を追って駆け出した。

 悔しそうに顔を顰めたサラではあったが、一つ大きく息を吐き出した後は小さな笑みを浮かべる。そして、幼い妹のような少女を護る為に、その傍へと駆け出して行った。

 

「クワァァァァ!」

 

 最早片腕を失ったゾーマがメラゾーマを弾き返す事は出来ない。だが、衰えたとはいえ、ゾーマの力は健在である。凍て付く波動のような冷気を生み出し、吹き荒れる吹雪で巨大な火球を包み込んだ。

 火球全てを凍らせる事は出来なくとも、表面の温度を急速に下げて行けば、その火球は脆くなる。脆くなった火球は、速度を失い、対処する事を可能にする。避ける事が出来れば、後は後方から迫る二人の攻撃を潰すだけであった。

 火球の横から飛び出したカミュを振るわれた剣よりも早くに殴り潰し、その後方から現れたリーシャを再び蹴り飛ばす。カウンター気味に入った蹴りは、リーシャの腹部を正確に打ち抜き、殴り潰されたカミュは床へと倒れ付す。

 即座にサラが唱えた回復呪文が二人の身体を包み込み、傷を修復させる。だが、それでも自身の力を利用された攻撃は、二人の疲労を一気に表面に噴き出させてしまった。

 

「塵となれ!」

 

 懸命に立ち上がろうとするカミュへ振り下ろされるゾーマの拳。後方へ蹴り飛ばされたリーシャの援護は間に合わず、彼が掲げようとしている盾だけではその威力を抑える事は出来ない。しかし、噴き出した疲労は彼の足から行動力を奪い、横へ転がる事も出来ず、それを真っ直ぐに受け止める事しか出来なかった。

 だが、その衝撃は、彼が考えていたよりも軽く、盾に当たった直後に消え失せる。懸命に震える足を動かして後方へ下がった彼が見た物は、手首から先を失い、怒りの表情を後方へと向けるゾーマと、その後方へと抜けて行く火球であった。

 

「何度も、何度も忌々しい!」

 

 メラゾーマがゾーマによって打ち消される事を確認したメルエが、再び火球を生み出していたのだ。カミュとリーシャへの対応を優先したゾーマにはそれは見えず、追い討ちを掛けようとしたゾーマの腕を消滅させている。だが、ここまでの呪文連続行使の代償により、メルエの魔法力は枯渇状態に陥り、その火球はメラミと呼ばれる中級程度の威力しかなかった。

 本来のメラゾーマであれば、ゾーマの身体ごと消滅させるだけの威力を持っていたが、込められる魔法力の量が少なく、その火力も熱量も、ゾーマの手首を消し去る事しか出来なかったのだ。そして、行使者であるメルエ自身は、完全に魔法力を枯渇させてしまった為に、膝から崩れるように床へと倒れ伏していた。

 

「メルエ、これを!」

 

 即座にサラが己の指に嵌められていた指輪をメルエの指に嵌め、その両手を合わせさせる。小さな声で呟くように決意の言葉を紡いだ少女の身体を祝福の光が包み込んだ。

 メルエの身体に魔法力という活力が戻る事を見届ける事なく、気力を振り絞ってリーシャが駆け出す。そして、それを追うようにカミュが走り出した。

 体力、気力、魔法力、胆力、全てに於いて、これが最後となる。この場にいる誰しもがそれを痛い程に理解していた。相対するゾーマでさえも、これが互いに全力を賭けた最後の場面であると理解し、リーシャとカミュの動きを身動きせずに注視する。

 最早、大魔王ゾーマといえども、不用意に動ける程の力は残っていない。時間を置けば、その身体の傷は復元し、未だに残る大量の魔法力によって縦横無尽に動く事が出来るだろう。カミュ達四人の疲労が回復する時間など与える事なく、その身をこの世から消し去る事も出来る筈だ。

 だが、今のゾーマには身体の欠損部分全てを修復する時間がない。立て続けに襲い掛かる勇者達の攻撃を回避しながら復元出来る場所など、先程失ったばかりの手首だけであった。

 

「良いだろう。勇者カミュの最後、余が見届けてやる」

 

 悠然と構えを取ったゾーマは、片腕を前へと突き出す。肩口から失った腕は復元出来ておらず、それでも残った腕には、膨大な魔法力が込められた。その一振りで大地を裂き、大気さえも切り裂く大魔王の力。それは、勇者といえども耐え切れる物ではないだろう。

 互いの全てを込めた一撃がすぐ目の前に迫っている。大魔王ゾーマは光の矢となった者を待ちうけ、勇者カミュは一筋の光となった。

 だが、ゾーマはここに来て尚、カミュ以外の者達を軽視していたのだ。

 

「バイキルト」

 

 後方から賢者の叫び声に似た詠唱が届く。勇者の前を走る女性戦士が持つ斧を緻密な魔法力が覆って行った。そのままでも大魔王ゾーマの腕を斬り落とす程の切れ味を持つ斧を、世界で唯一となる賢者の魔法力が覆う。それは、大魔王でさえも軽視する事の出来ない行動であり、その現象を見たゾーマは、苛立たしげに舌打ちを鳴らした。

 舌打ちが鳴ったと同時に、賢者は次なる呪文を行使する。その瞬間、ゾーマと女性戦士との間を遮るように霧のカーテンが生まれ、視界が歪んだ。ゾーマが吐き出すであろう吹雪への対抗策として生み出した霧が、僅か一瞬ではあるが、ゾーマの視界を遮った。

 

「邪魔をするでないわ!」

 

 ゾーマが残った片腕を一気に突き出す。それと同時に巻き起こった凍て付くような波動が、リーシャの斧が纏った魔法力を消し飛ばし、霧のカーテンを霧散させた。

 全てが露になったその瞬間に振り下ろされた斧は、再度魔法力を纏ったゾーマの片腕に止められ、その腕ごと引き寄せられたリーシャは、横から腹部に蹴りを入れられる。己の武器を手放そうとしないリーシャの気質が仇となり、その蹴りの衝撃の全てを受けてしまった。

 盛大に血液を吐き出したリーシャがごみのように投げ捨てられ、サラの近くに落ちて来る。即座に回復呪文を行使しようとするサラを遮るようにゾーマが片腕を上げた時、ゾーマの視界が再び歪んだ。

 

「…………イオナズン…………」

 

 その歪みは霧のカーテンが出現した訳でも、ゾーマが弱った訳でもなく、ましてや突き進んで来ていた筈のカミュが剣をゾーマの身体に突き入れた為でもない。

 先程まで床に倒れ付していた少女が振るった杖から迸る、彼女に残った全ての魔法力を注ぎ込んだ、攻撃系最上位の呪文の詠唱が完成された為であった。

 大気が圧縮し、それに呼応してフロア全ての空気が歪む。音も光も大気さえも消え失せ、一点に集中して行った。それは、大魔王ゾーマであっても考えの及ばぬ行為である。何故なら、ゾーマの歪む視界に今も、向かって来る勇者カミュの姿が映っているからだ。

 この世にいる多くの愚かな人間であればそれも理解出来る。カミュという勇者諸共、ゾーマを葬り去る為にイオナズンという爆発系最上位の呪文を唱えたのだと。だが、ここまでの戦いの中、大魔王ゾーマは、彼等に対する認識を確定させていた。

 『世に蔓延る愚かで醜い人間という種族とは異なった存在』というカミュ達四人への認識は、この愚考へ結び付く物では有り得ない。ましてや、一度、最高のタイミングで放ったイオナズンでも倒す事が出来ないという事実を見たばかりである中、勇者を捨て駒にしてまで再度イオナズンを唱えるタイミングを探っていたなどとは考えられなかったのだ。

 

「最後だ!」

 

 そのゾーマの認識は決して間違いではない。彼等の頭脳とも言うべき『賢者』という存在は、例え最強の攻撃呪文であるイオナズンであろうと、大魔王ゾーマを討ち果たすまでに至らないという事実をしっかりと受け入れている。その上で、ここまでの一連の攻撃を自身の頭の中で組み立てていたのだ。

 光と音が一気に弾け、視界が真っ白に包まれて行く中、ゾーマは全てを理解する事になる。それは、爆発の中心部へと突き進んで来る一人の青年の姿が見えたからだ。その青年は、光り輝く鎧を纏い、その鎧の輝きさえも霞む程に輝く光の壁によって護られていた。

 リーシャへ放ったバイキルトも、前衛二人を護る為に展開された霧のカーテンも、全てはこの呪文の行使を隠す為の布石にしか過ぎなかったのだ。

 ここまでの戦いの中で、補助呪文に対しては即座に波動を放って打ち消して来たゾーマの姿を見ていたサラは、先にバイキルトを唱え、その後に霧のカーテンをゾーマの眼前に展開する事で視界を歪ませた。それを打ち消した後に即座に補助呪文を行使するという可能性を、ゾーマの認識から除外する為である。

 しかも、その行使は、吹き飛ばされたリーシャを回復しようと動いた時に行われた。故にこそ、カミュの身体を覆うマホカンタという補助呪文を、ゾーマは見逃したのだ。

 

「ぐおぉぉぉぉ!」

 

 一連の行動は、仲間達と言葉を交わして組み立てた物ではない。決め手となるイオナズンもまた、リーシャへと駆け寄った筈のサラが指示を出せる物ではないのだ。

 全ては、彼等四人の間に築かれた絆という信頼あっての物。真っ先に駆け出したリーシャであれば、カミュの攻撃を成功させる為の布石となる攻撃を繰り出すだろう。自分が行使したマホカンタを見たメルエならば、その好機を逃さずに、魔法力を使い切ってでもイオナズンを行使するだろう。そして、マホカンタの魔法力を感じたカミュであれば、その全てを理解して、勝利へと突き進んでくれるだろうという、憶測を超えた信頼を『絆』というのかもしれない。

 マホカンタの光の壁は、イオナズンの爆風及び熱を反射する。つまり、カミュにとって爆発自体がそこにはないのだ。風に逆らう訳でもなく、熱で身を焼かれる訳でもなく、ただただ目の前にいるゾーマへと突き進んだ彼の手にある『生者の王の剣』が、その眉間へと吸い込まれて行った。

 怒りと、後悔の叫びを発しながら、目の前に迫る剣先を見つめ続けたゾーマは、その全てを受け入れる以外になかった。

 

「……見事」

 

 爆風が晴れ、爆心に立っていたゾーマの姿が見えて来る。それに対峙するカミュの腕に武器はなく、既に彼の象徴とも言うべきその剣は、絶対唯一の存在であるゾーマの眉間に深々と突き刺さっていた。

 イオナズンの爆発は、ゾーマの命を奪う事は出来なくとも、その身体を大きく傷つけている。ゾーマが被っていた兜のような物は砕け散り、残っていた一本の腕も見るに耐えない程に焼け爛れていた。

 だが、それでも尚、ゾーマは生きている。カミュが己の武器を手放してまで放った最高の一撃をしても尚、その偉大な存在は消滅する事なく、真っ直ぐにカミュ達を見つめていた。

 

「そ、そんな……」

 

「サラ、大丈夫だ。これで本当に最後だろう……」

 

 本当に全てを投げ打って放った一撃。至高の一撃を放つ為、ここにいる四人全てが己の出し得る全てを出し切った。それにも拘らず、尚も立ち塞がる大魔王という存在に、サラの心は今度こそ折れてしまいそうになる。だが、それは回復を終えたリーシャによって否定された。

 彼女の視線の先にあるのは、その最後の一撃を放った青年の背中。この大いなる旅の始まりとなった者であり、その終止符を打つべき者。眉間に突き刺さる王者の剣をそのままに、一歩も動かないゾーマの前に真っ直ぐに立った勇者が、真の終止符を打つ為に右手を天へと掲げた。

 迸る魔法力の渦。ベホマズンという最大の禁忌を行使してから、温存して来た彼の魔法力全てが今、最大の一手を打つ為に開放される。魔法力がカミュを取り巻くように渦巻き、その回転の速さと魔法力の濃さによって、カミュの周囲に稲光が舞っていた。

 

「……見事であった、勇者カミュよ。だが、余は闇であり、影である。この世界に光ある限り、余は再び生まれるであろう……悪が闇なのではなく、醜く、愚かな人間共が、この世の全てを自分達の物であると驕った時、再び闇は現れる」

 

「……その時は、また新たな生贄が生まれるだけだ」

 

 その光景は不思議と落ち着いた雰囲気を持っていた。倒れ伏したメルエを抱き上げたリーシャも、サラも、そこで口を挟む事など出来ない。大魔王と勇者という対極に存在する者達だけが紡げる言葉であり、終止符であった。

 互いの言葉の中には穏やかな感情があり、小さな笑みさえもある。『もし、自分達が倒される側であれば、あのような顔が出来たであろうか』という不思議な疑問をリーシャが持つ中、サラはカミュが纏っている魔法力の結末へと思考を飛ばしていた。

 

「……さらばだ、勇者よ」

 

「ああ……さらばだ、大魔王」

 

 『雷を支配する呪文』。

 昔、ヤマタノオロチとの対戦後にカミュが発した言葉である。ライデインという勇者が行使出来る、この世で唯一の雷系呪文は、その魔法力で雷を使役する物であった。そして、その上位にある呪文こそが、天の怒りとも例えられる雷を支配する物だという。

 だが、その呪文を見た者はおらず、伝承にさえも残っていない。故にこそ、その正確な力もまた、誰も知らなかった。

 この場所は、地上から遠く離れた地下深くにあるフロアである。空は見えず、雷雲など生み出せる物でもない。支配するとはいえ、雷を地下深くまで届かせる事など、奇跡が起きても出来ない筈。故にこそ、キングヒドラとの戦いでオルテガが放ったライデインという起死回生の一撃は機能しなかったのである。それでも、今、この場にいる誰もが、それは届くと理解し、受け入れていた。

 

「ギガデイン!」

 

 そして、賢者サラは、『雷を支配する』という本当の意味を理解する。

 真っ直ぐに振り下ろされたカミュの腕は、遥か遠い天空の雷に指示ではなく、命を下す。その命は瞬時に届き、全員の耳に凄まじいまでの轟音が響いた。

 まるで、硬い岩を粉砕するような音と、生物の内に潜む潜在的恐怖心を煽るような轟音。そして、それをサラが認識した瞬間、彼女の視界は真っ白に染め上げられた。

 イオナズンの爆発とは異なり、身体的には何の影響も受けない。それでも目を開く事さえも出来ない眩い光が、戦闘によって崩れ落ちた天井の穴を通じて現れ、その輝きは太い一筋の光となって、大魔王ゾーマの眉間に突き刺さった王者の剣へと落ちて行った。

 稲妻は、光の筋となって次々と王者の剣へと降り注ぎ、轟音と共にゾーマを内部から焼き焦がして行く。肉の焼ける不快な臭いと対照的に、その姿は神々しい光を放っていた。闇の体現者が、光の象徴に焼かれて行く。それは、一瞬の出来事でありながらも、息が詰まる程に長い時間でもあった。

 

「……ようやく、終わったのだな」

 

「……はい」

 

 ギガデインという天の怒りをその身に受けたゾーマは、命を失っていた。先程まで見えた色は瞳の中にはなく、焼け爛れた四肢は未だに燻った煙を出しながら垂れ下がっている。それでも尚、その場に立ち続けている姿が、大魔王ゾーマという存在の大きさを示していた。

 ようやく訪れた戦いの終着点を感じたリーシャは、メルエを抱きながらもゆっくりと地面に膝を着ける。最早、彼女達の疲労は極限にまで達しているのだ。身体を横たえれば、即座に眠りに就くであろうし、こうして立っている事が出来るだけでも奇跡なのだった。

 

「なっ!?」

 

 だが、世界は何処までも彼等に厳しい。ここまでの戦いで行使して来たイオナズンによって緩んでいた地盤は、決着の手段として用いたギガデインの威力によって崩壊を始め、その中心となっていたゾーマの足元から崩れ出す。抜けて行く地面がゾーマの身体を奈落の底へと落とし、その姿をカミュ達の視界から奪い去った。

 徐々に広がる床の亀裂は、時間を追う毎にその数を増し、カミュ達に向かって走り出す。亀裂の数が増せば、その部分が闇へと落ちて行った。慌てて立ち上がろうと試みるが、リーシャのみならず、サラさえも立ち上がる事は出来ない。既に魔法力の全てを失ったメルエに至っては、意識を失い、眠りに就いていた。

 駆け寄って来るカミュでさえも、その足取りはおぼつかず、半ば這うようにリーシャ達の傍へと戻って来る。焦りが浮かんでいた顔には、自然と小さな笑みが浮かび、そんなリーシャの顔を見たサラもまた、困ったような苦笑を浮かべた。

 

「残念ですね」

 

「そうだな、残念だ」

 

 大魔王ゾーマは討ち果たした。だが、そこから続く未来を生きる権利は、どうやら自分達には与えられなかったらしい。そう思ったサラは、何処か達観したように言葉を漏らし、それを聞き届けたリーシャは、彼女の頭に手を乗せて柔らかく微笑んだ。

 落ちた時に身を護るアストロンやスクルトを唱えるだけの魔法力の残量もない。既に打つ事の出来る手は残されておらず、目の前に迫る物を受け入れる以外に道はなかった。だが、それでも『残念』であって、『無念』ではない。

 自分達の成し遂げた事は後世に残り、その想いを受け継ぐ者達も後世を歩むだろう。彼等が成した事に無意味なものなど何一つなく、その願いも、その想いも、必ず受け継がれて行く筈である。

 出来る事ならば、そのような世界で生きてみたかった。だが、それが叶わないのならば、せめてこの願いと想いだけでも残して行きたい。そんな二人の笑みを見たカミュは、一つ息を吐き出し、空を見上げた。

 ギガデインによって突き抜けた天までの道は、未だに真っ黒な闇に包まれ、月は見えない。それでも、カミュの目には、明るく浮かぶ小さな月が見えたような気がした。

 

 そして、ゾーマ城の最下層にあるフロアの床が抜けた。

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。
終結です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。


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最終章
この道わが旅


 

 

 

 初めて出会った時、それは眩い程の光であった。暗く閉ざされた暗闇の中で、僅かな希望もなく、ただ訪れる痛みと苦しみを待つだけだった筈の未来を照らす眩い輝きは、目も開けられぬ程のあふれ出る光であったのだ。

 だが、その輝きに目が慣れて来ると、その光がとても優しい物である事に気付く。直視出来る程の優しく淡い輝きでありながら、常に自分の足元を照らし続けてくれると信じられる光。そして、その光に誘われるように寄り添う光もまた、とても心地良い物であった。

 

「メルエ」

 

 自分の名を呼ぶ声は常に優しく、自分の事を親身に考えてくれている事が滲み出ていると感じる程に暖かい。その声を聞く度に、冷たく凍りついていた胸に暖かな何かが湧き出て来るようにさえ感じていた。

 繋いだ手は常に暖かく、その手から相手の想いまでもが伝わってくるようで、自然と心が喜びによって満たされ、笑みが浮かんで来る。手から伝わって来る好意が、自分自身の瞳に掛かった曇りまで晴らし、今まで見る事さえしなかった周囲の景色が突然飛び込んで来た。

 歩く地面の土は茶色く、その土から生える草は鮮やかな緑。大空は何処までも果てしなく青く、そこに浮かんでいる雲は透き通るように白い。意味もなく大空を見上げながら回りたくなる程、その光景は神秘的で心を弾ませた。

 

「メルエ」

 

 何処に行っても、何処に居ても、その声は自分の耳には届いて来る。鮮やかな色とりどりの花々が珍しく、その花に集う虫達も珍しく、いつの間にか暖かな手から離れてしまい、心が不安に襲われそうになった時には、必ずその声が届き、また暖かな手にしがみ付いた。

 自分が生まれ、生きて来た世界がこれ程に様々な色を持っている事を初めて知った。嗅いだ事もない潮の香りを当初は不快に感じてはいたが、その大海原を見た時、そんな不快感は吹き飛ぶ。何処までも果てしなく続く青は、まるで見上げた空と同じようでありながら、その色は空よりも深かった。誰が動かした訳でもないのに立つ波は船を大きく揺らし、自分の身体も宙に浮く。それがとても不思議で、堪らなく面白かった。

 

「メルエ」

 

 歩く度に、波を越える度に見えて来る新たな世界は、常に心を弾ませる。まだ見た事のない場所や歩いた事のない場所、何日も、何週間も、何年も掛けて辿るその旅路は、世界そのものであった。果てしなき世界は、何処までも続き、常に自分の傍には暖かな手があると信じている。悪い事をすれば叱られるが、それでも常に優しく暖かな者達がいれば、自分は何処まででも行けるのだと思っていた。

 目も開けられぬ程の眩さから始まった旅は、常に自分を見つめる優しい光に変わり、自分が見た事もない物を映し出す光へと進化する。向けられた事のない好意や愛情、それが世界には溢れる程に満ちているのだと知ったのも、その光があってこそであろう。

 

「メルエ」

 

 いつの間にか呼ばれていた、自分に与えられていた名前。それがこれ程に暖かな物であるというのを知ったのも、旅が始まってからである。それまでは単純に自分を指す記号のような物であった。だが、自分に好意を向けてくれる者からその名を呼ばれる度に、心が暖かくなり、自然と笑顔が零れるようになって行く。

 父親という存在の意味も、母親という存在の意味も理解は出来ない。だが、無条件に向けられるその愛情、その好意、それは何物にも変え難い宝物となった。

 いつまでもこの者達と共に居たい。そう願い、その為に自身の出来得る限りの事をしようと誓った。自分自身に唯一ある、『魔法』という神秘の力を極め、その力を持って、その者達を護る存在となろうと歩み続けて来た。

 苦しく辛い時もあった。悔しく悲しい事もあった。痛みに涙する事もあった。それでも、周囲に白と黒しかない、色の見えないあの世界で生きて来た時よりも、ずっと嬉しく、楽しい経験となる。

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 何度目かになるその呼びかけに、少女は無意識に反応する。しかし、瞳を開けてもそこは漆黒の闇しか見えず、目に飛び込んで来る筈の優しい光はなかった。

 無性に悲しくなり、不安になり、涙が目に溢れ始める。首を回し、先程までの呼びかけの元を探ろうとするが、そこには何一つなかった。鼻の奥が痛くなり、溢れた涙が零れ出す。暖かさを知った彼女にとって、この冷たい闇は恐怖以外の何物でもなかった。

 

「泣かないで、メルエ。貴女はここにいては駄目でしょう? 貴女にはまだまだ楽しい事も、嬉しい事も、悲しい事も、辛い事も経験して貰わなくてはね」

 

 溢れ出る涙を抑えるように目に手を置いた彼女の前に、朧気な光が現れる。眩しい程の輝きはなく、目を開けられない程の光ではない。それでもその光の先にある影をはっきりと見る事は出来なかった。

 それでも、その声には何か優しい力がある。まるで昔からその名を呼び掛けられていたような、それでいて一度も聞いた事のないような懐かしい声色。驚きと疑問によって止まってしまった涙が数滴足元へと落ちた時、ぼんやりとした光の影が増え始めた。

 

「メルエ、暫くのお別れだ」

 

「メルエ、幸せにおなりよ」

 

 次に耳に入って来たのは、先程とは異なる聞き覚えのある声。一つは、テドンという滅びの村で見つけた僅かひと時の幸せ。無条件に与えられる愛情と優しさを持った、とても暖かく、とても安心する声であった。父親という存在を知らなかった彼女に与えられた一夜の奇跡。それは、彼女の心に今も暖かな風を運んで来ていた。

 その後ろから現れた光の影が発した声は、彼女の中に残る恐怖の象徴とも言える物。思わず硬くなった身体であったが、その声の持ち主が最後の最後に語った言葉は、テドンで聞いた物と変わらぬ優しさに満ちていた。

 何かを答えようと彼女が口を開く時、目の前にあった光の影は徐々に彼女から離れ始める。優しく自分の名を呼ぶ声が遠ざかり、伸ばした手はもう届かない。止まっていた涙は再び溢れ、次々と足元へと零れて行った。

 

 

 

「…………おかあ……さん…………」

 

 それは誰を指した言葉であったろう。伸ばした手は決して光には届かず、声も届かない。そんな届かぬ声は自分の耳にだけは届き、少女は目を開けた。

 開かれた瞳の中に入って来たのは、またしても闇。先程まで見ていた自分の身体も見えない程の漆黒の闇ではないが、それでも暗闇の支配が及んだ場所であった。

 先程感じた哀しみが再び彼女を襲い、堪えていた涙が溢れ出すのを感じた彼女は、それでも自分の身体に触れる何かに気付く。力の入らない身体に懸命に指令を出して首を動かせば、自分の身体を包み込むように誰かの腕が巻かれていた。

 暗闇に目が慣れ、その輪郭だけが朧気に見えて来る。そして、自分の鼻先にあるその顔を見た時、我慢していた涙は止め処なく溢れ始めた。

 

「…………リーシャ……リーシャ…………」

 

 自分を抱き抱えるように腕を回していたのは、彼女が姉のように、母親のように慕う女性戦士。ゆっくりと伸ばした手がその頬に触れ、頬に残る温もりを感じた時、その胸に向かって頭を擦り付けるように飛び込んだ。

 女性戦士が身に纏っている鎧越しにも感じる一定の鼓動。それは彼女が生きている事を示す証拠であり、再びあの優しい笑みと愛情を与えてくれる証でもあった。それが何よりも嬉しく、少女は嗚咽を繰り返した。

 

「……ん」

 

 自分の胸元から聞こえる大事な少女の泣き声に、ようやく女性戦士も意識を取り戻した。闇の中でも解る頭に手を置き、少女が不安にならないように優しく撫でて行く。その姿は本当に母娘の様であった。

 疲労と痛みで軋む身体に鞭を打ち、彼女はゆっくりと立ち上がる。腕に抱えた少女は未だに小さな嗚咽を繰り返してはいるが、その背を優しく叩きながら彼女は周囲へと視線を向けた。

 闇でありながらも何処となく光がある。それは目が慣れた訳ではなく、何処かに明かりの元があるからなのだろう。彼女は自分の腰に下がっている革袋へ手を伸ばし、その中に残っていた『たいまつ』の欠片を取り出した。

 

「メルエ、火を点けられたりするか?」

 

「…………ん…………」

 

 ここが夢の世界でなく、死後の世界でもないとすれば、彼女達は間違いなく大魔王ゾーマを討ち果たした筈である。そして、その後であれば、メルエと呼ばれた少女の魔法力は枯渇しており、到底呪文を詠唱出来る状態ではないのだが、それでも最下級の呪文は唱えられるかもしれないとリーシャは考えた。それは、魔法という神秘から一番遠い場所にいる彼女だからこその考えなのかもしれない。だが、その問いかけに小さく頷いたメルエは、指先に小さな炎を点し、『たいまつ』へと火を移した。

 点った炎によって照らされたその場所は、彼女達二人の記憶の片隅に残る、そんな場所。その証拠に、『たいまつ』を向けた先には、巨大な骨が転がっていた。

 

「ここは……勇者の洞窟なのか?」

 

「そのようですね」

 

 メルエを抱き抱えたまま、自分が感じた疑問をリーシャが口に出した時、後方からそれを肯定する言葉が聞こえて来る。『たいまつ』を向けると、深く蒼い色をした石が嵌め込まれたサークレットを被った賢者の姿があった。そして、その後ろから近付いて来る異なる『たいまつ』の炎は、この世界に平和を取り戻した勇者その人が持つ物である。

 二人は一足早くに意識を取り戻し、周囲を確認していたのだろう。そして、リーシャの結論通り、この場所が勇者の洞窟の最下層である事を理解した彼等は、再びこの場へと戻って来たのだ。

 

「どういう事なんだ?」

 

「それは、私にも解りません。ですが、おそらくは、そこにある『魔王の爪痕』と呼ばれる闇から私達は吐き出されたのでしょう」

 

 理解が追いつかないリーシャは、今の状況を賢者に相応しい頭脳を持つサラへと問いかけるが、その答えは明確な物ではなかった。

 サラでさえも理解の及ばない事が起きている。それだけはリーシャにも理解出来た。だが、そんな二人の会話に無関心な腕の中にいる少女は、近付いて来た青年に向かって手を伸ばし、その名を数度呼び掛ける。その瞳には涙を溜め、何処か思い詰めた表情を浮かべる事に首を傾げながらも、カミュは彼女の頭に手を乗せ、柔らかな微笑を浮かべた。

 それを見たメルエは、嬉しそうに笑い、涙の痕を残しながらも、サラへも手を伸ばす。先程までの緊迫した雰囲気は消え失せ、柔らかく微笑んだサラはその小さな手を握り締めた。

 

「……『悪が闇なのではない』か」

 

「闇もまた、この世界の一部であるのですね」

 

 メルエの頭から手を離したカミュは、『たいまつ』の炎の先に見える漆黒の闇へと視線を移す。その場所にある底の見えない闇は、『魔王の爪痕』と呼ばれ、大魔王ゾーマが支配していた絶望と闇の世界に繋がっていると考えられていた。

 だが、ゾーマとの最後の会話にあったように、光が正義ではないのと同時に、闇もまた悪ではないのだろう。光も闇も世界の一部であり、そこに善悪はない。人間が暗闇を恐れるように、魔物の中には光を恐れる者もいる筈。しかし、光だけでは世界は続かず、闇ばかりでも世界は終わる。表裏一体の物でありながら、絶対不可欠な物同士なのだ。

 ゾーマ城の床が抜け、その下にある漆黒の闇に包まれた彼等は、そのまま絶望と闇の世界へ落ちる事なく、再びこのアレフガルドの世界へと戻って来た。それは、大魔王ゾーマの最後の意地なのか、それともこの世界の意思なのかは解らないまでも、闇が生んだ奇跡である事は間違いないだろう。

 

「少し休んでから、外へ出よう。流石に、今、この洞窟で魔物に襲われては堪らない」

 

「ここで休んだ所で、呪文が使えない以上、私とメルエは役に立ちませんが、カミュ様とリーシャさんの疲労も酷いでしょうから」

 

 ゾーマとの対戦で受けた傷は、あの戦いの最中に治癒を終えている。だが、身体の内に溜まっている疲労だけはどうにもならない。メルエを抱えたまま、ゆっくりと床へ座り込んだリーシャが深く息を吐き出した。そして、息を吐き出すと同時に溢れ出た涙が、頬を伝い、メルエの頬へと落ちて行く。

 それを見ながら傍に座ったサラの頬にも大粒の涙が次々と伝い、呆れたように溜息を吐き出したカミュの顔に小さな笑みが浮かんだ。

 

「…………リーシャ……いたい…………?」

 

「ん? 大丈夫だ。ただ……皆が生きている事が嬉しくてな」

 

 涙が伝うリーシャの頬へと手を伸ばしたメルエが、心配そうに声を掛ける。少女の優しい心に喜びを感じながら、リーシャは泣き笑いを浮かべてその小さな身体を抱き締めた。

 今更ながらに、リーシャの身体が恐怖によって小刻みに震え出す。それ程の激戦であり、それはあの場に居た者でなければ絶対に理解出来ない程の恐怖であろう。死を覚悟した時間がどれだけあった事だろう。幾ら手を伸ばしても届かない絶望を何度味わっただろう。それは想像を超えた次元の恐怖であり、絶望であった。

 ゆっくりと顔を上げたリーシャは、自分を囲むように座った仲間達の顔を眺める。『たいまつ』の炎に照らされた顔には、疲労はあれども死相は見えない。皆で勝ち取った未来を、皆が生きている事を示していた。

 それが彼女には何よりも嬉しい。

 

「少し休め」

 

「……ああ、お前も休めよ」

 

 そんなリーシャの頭には、既に兜はなく、癖のある金髪が炎に照らされて輝いている。その頭に手を乗せたカミュは、労わるように、宥めるように声を掛け、焚き火を作る為の枯れ木を集め始めた。

 余程の疲労であるのだろう。頭に乗せられていた暖かな手に不快感を覚える事もなく、ゆっくりと倒れるように彼女は眠りに就いた。

 メルエもまた泣き疲れたように眠り、微笑が絶えないサラもまた、静かに瞳を閉じて行く。静かな三つの寝息が聞こえる中、焚き火に火を点したカミュは、壁を背にして座り、浅い眠りへと落ちて行った。

 

 

 

 三人が起きた時には、かなりの時間が経過していただろう。最初に目を覚ましたのはカミュであり、それに続いてリーシャが起き、最後にサラが目を覚ました。メルエだけはどれだけ揺らそうとも嫌がるように目を開けず、リーシャの腕の中で再び眠りに落ちてしまう。諦めたように溜息を吐き出したリーシャは、仕方なしにその小さな身体を抱き上げた。

 焚き火の炎を『たいまつ』へと移し、そして一行が勇者の洞窟から出る為に歩き出す頃になっても目を覚まさないメルエに不安になったリーシャがサラへ問いかける一場面があったが、それも柔らかく制止される。

 

「その小さな身体で、自分の持てる力の全てを出し尽くしたのです。私達とは異なり、その回復には時間が掛かると思います」

 

「そうか……そうだな。メルエは、この小さな身体で、あの大魔王と相対したのだな。私でさえ、恐怖で動けなくなる威圧感に、こんな身体で立ち向かっていたのか」

 

 大事な宝物のように小さな身体を抱き締めたリーシャは、再び涙を溢す。メルエが自分達と離れたがらないという事を理由にして、随分と酷な場所へ連れ出してしまっていたのだろう。それでも泣き言一つ言わず、自分の成すべき事を常に考え、自分が出来得る限りの事を成し、仲間達を守り続けて来たこの少女を、誇りに思うと共に、愛おしくて仕方なかった。

 その想いは、サラもカミュも変わりないだろう。優しく微笑んだ二人は、そのまま洞窟の最下層から出る為に歩き始める。最後尾を歩くリーシャの武器である魔神の斧は、今ではカミュの手にあり、魔物との遭遇に備えての慎重な行軍を進めて行く。

 

「魔物の気配は感じますが……」

 

「私達を避けているようだな……」

 

 だが、そのような一行の心配は杞憂に終わる。『たいまつ』の炎を掲げながらゆっくりと歩を進める一行の前に魔物が現れる事は無く、気配は感じても、その姿が見える事はなかった。

 武器を失ったからこそ、カミュはリーシャの斧を持ってはいるが、リーシャを真の主と認めた魔神の斧が、カミュの手の中でその真価を発揮する事は有り得ない。今、強力な魔物と遭遇してしまえば、カミュ達が命を散らす可能性も高い事を考えると、この奇妙な出来事はむしろ一行に取っては有難い誤算であった。

 魔物の影も見えないが、それでも気配や視線は感じる。まるで自分達を恐れているように近付かない魔物達に少し不気味な印象を受けるが、本来、魔物という物はそういう存在なのかもしれない。

 自身よりも強いと感じた者に対しては、無闇に敵対せず、自らの命や棲み処に危機を覚えればその限りではないだろうが、そうでなければ姿を隠し、敢えて危険を冒さない。それが貴重な命を永らえる生物としての知恵なのだ。

 

「何にせよ、今は助かる」

 

 『たいまつ』を掲げ、記憶にある道順を歩んでいたカミュは、多少の安堵を見せ、武器を下ろす。必死になって戦えば、如何に疲弊していようが、この洞窟にいる魔物などカミュ達の相手ではないだろう。だが、それでもリスクは大きく、最悪の場合、何らかの犠牲を伴う可能性も否定は出来なかった。故にこそ、この場で戦闘に発展しない事は喜ばしい事であった。

 その後も魔物との遭遇は一度たりともなく、無事に一行は洞窟の外へと顔を出す事となる。しかし、その外界の景色は、カミュ達が考えていた物とは全く異なる物であった。

 

「……まだ、闇に包まれたままなのか?」

 

「……そんな」

 

 砂丘の真ん中にある勇者の洞窟の入り口から見えた景色は、彼等がアレフガルド大陸へ辿り着いた頃と全く変わらない闇のまま。大魔王ゾーマという元凶を討ち果たしたにも拘らず、この大陸が未だに闇に包まれている事に愕然とした。

 今が夜である可能性も勿論あるだろう。だが、縋るように見上げた空には、月どころか星一つ無く、雲も見えない。それは、この空が未だに闇によって深く覆われている事を示していた。

 ここまでの彼等の苦しい戦いが、何の成果も齎さなかったという事実。それは、大魔王ゾーマを前にした時以上の絶望を与える。この事実こそが、大魔王ゾーマが与えた最後にして最高の絶望なのだと言われれば、間違いなく彼等の心は、今度こそ跡形もなく砕け散った事だろう。

 

「…………うぅぅん…………」

 

 しかし、彼等に試練を与え続けて来た世界も、彼等の努力に報いる時は訪れていた。

 リーシャの腕の中で深い眠りについていた少女が、周囲の騒がしさに身を動かし、むずかるようにその小さな瞼を開ける時、空を覆っていた深い闇にも動きが出る。まるで彼女の目覚めを待っていたかのように、その瞼と同じように、ゆっくりと空が白み始めたのだ。

 空を覆った闇の扉が開くように、今まで抑えられていた太陽の輝きが広がって行く。黒く染まった木々に色が戻り、砂丘から見える山々が美しい緑に輝き始めた。それは、数年前まで当たり前であった光景でありながらも、涙で視界が歪む程の感動を呼び起こす美しさを誇る。空に燦燦と輝く太陽の存在を感じ、その光が運ぶ暖かさを肌で感じる頃、その美しい空を見上げたリーシャとサラは一筋の涙を流していた。

 

「最近は、涙脆くなって駄目だな……」

 

「年だな」

 

 片腕でメルエを抱きながら涙を拭いたリーシャは、即座に返って来たカミュの言葉に激昂する。遥か昔に聞いたようなやり取りに、サラは涙を流しながら噴き出し、笑いが止まらなくなってしまった。目を真ん丸にして空を見上げていたメルエもまた、サラの笑い声と、本気ではないリーシャの憤りを見て声を出して笑い出す。憮然とした表情のまま、顔を背けたリーシャも、その顔を維持する事は出来ず、メルエと共に笑い出してしまった。

 美しく輝く世界。太陽の光という恵みを受けた大地は、生命の息吹を目一杯表現している。草花は、一斉に太陽のある方向へと身体を向け、その恵みを少しでも多く受け取ろうと葉を広げていた。勇者の洞窟の入り口を囲う砂丘の向こうにある森からは、鬱憤を晴らすかのように鳥達が大空へと飛び立ち、小動物達が少しずつ顔を出している。

 

「ふふふ。仕方ありませんよ。こんなに世界は美しく、素晴らしいのですから」

 

「カミュ、ルーラではなく、このまま歩いてラダトームへ向かわないか?」

 

 リーシャの腕の中にいる少女は、明らかにそわそわし始めている。それは誰の目から見ても明らかであり、今、地面に下ろしてしまえば、駆け出してしまう事は間違いないだろう。久しく見ていなかった光の眩さにようやく目が慣れて来た頃、リーシャはカミュへ一つの提案を切り出した。

 カミュもサラもメルエも、暫くの休憩を経て、ルーラを行使する程度の魔法力は回復している。今であれば、この空に輝く太陽が沈むよりも前にラダトーム王都に辿り着く事は出来るだろう。だが、彼等にとって、ラダトームへ向かう事はそれ程に急ぐべき物ではない。いや、正確に言えば、大魔王討伐という目的を果たした彼等に、急ぐ理由など何一つ無いのだ。

 

「ああ」

 

 そして、そんな彼女達の気持ちは、しっかりとカミュへと届く。苦笑のような遠慮気味な笑みを浮かべ、彼はその提案に頷きを返した。

 地面にメルエを下ろし、その手を握ったリーシャは、ゆっくりと砂丘を歩き出す。もう片方の手を握ったサラは、小さく鼻歌を口ずさみ、それに合わせてメルエも歌を歌い出した。

 何の憂いも無い。何一つ不安も無い。恐れる物は無く、あるのは未来への希望だけ。そんな道は、この長い旅路の中でも初めての経験であった。花咲くように微笑むメルエの顔も、それを見て共に歌うサラの顔も、二人を優しく見つめるリーシャの顔にも、幸せという感情が滲み出している。それは、本来は人が普通に持ち得る感情であったのだ。

 

「メルエ、余り遠くに行っては行けませんよ」

 

「…………ん…………」

 

 砂丘を越え、草原へと出てしまえば、幼い少女の好奇心を抑える物は何もない。待ち切れないようにリーシャとサラの手を離した少女は、草花の間に咲く花へと駆け出して行ってしまう。見晴らしの良い草原でその行動を止める理由は無く、サラはその後を追うようにゆっくりと走った。

 屈み込んだメルエは、綺麗に咲く花に頬を緩め、太陽と共に現れた色とりどりの虫達に目を見張る。花から花へ移るように飛び回る虫達の後を追うように歩き続けるメルエの姿は、先程まで極限の疲労によって眠りに落ちていた者とはとても思えず、まるで身体の内から溢れ出る元気が有り余っているようにさえ見えた。

 

「おいで、メルエ。少し休もう」

 

「…………ん…………」

 

 しかし、どれだけ嬉しくとも、本来の魔法力が戻っていない状態では限界がある。しかも、久しぶりに顔を出した事で奮起しているように輝く太陽の日差しは強く、気温は闇に包まれていた時とは比べ物にならない程に高くなっていた。

 草原の脇にある森から小川のせせらぎが聞こえ、リーシャはその近くで小休止する事を提案する。嬉しそうに微笑んだメルエは、リーシャの傍へと駆け寄り、森の木々の木陰にゆっくりと座り込んだ。

 太陽の力強い光から逃れた木陰は、ひんやりとした空気を持ち、感動と興奮で火照った身体を鎮めてくれる。カミュが小川から汲んで来た水を飲み、そこから見える景色を見ているだけでも、何故か涙が溢れて来る程に、長閑で優しい光景であった。

 

「…………ぷるぷる…………?」

 

「え? スライムですか?」

 

 暫しの休憩時間を満喫していると、落ち葉の下で生きる生物に興味を示していた筈のメルエが顔を上げる。太陽の光を遮った薄暗い森の奥へ視線を送った彼女は、小首を傾げながら、その生物らしき物の名を口にした。

 例え、今の一行に傷一つ付ける事の出来ないスライムであっても、魔物である事に変わりは無い。メルエの声に反応したサラは、少し緊張感を持って、メルエの視線の先を注視した。

 確かに、メルエの見ている方向には、薄暗い闇の中に光る輝きが幾つか見える。その光の高さが低い事から、小動物のような物の目の光であると予想出来た。しかし、その数は一体ではなく、数体ほど。警戒しなければならない数でなくとも、無視出来ない物でもあった。

 

「メルエ、飛び出しては駄目だぞ」

 

「…………むぅ…………」

 

 思わず近寄ろうとしたメルエではあったが、それは先んじてリーシャに釘を刺される。不満そうに頬を膨らませる少女に苦笑しながらも、その身を抱き上げ、自分の膝の上へと乗せた。

 リーシャとしては、スライムが何匹いようとも警戒するに値せず、その後ろに強力な魔物でもいない限りは、無視しても良いとさえ感じていたのだ。カミュもそれは同様のようで、一切そちらへ視線を送る事なく、汲んで来た水で喉を潤していた。

 そんな二人の姿を見て、サラも警戒心を解き、手に握っていたさざなみの杖を地面に置く。そして、森の脇から飛び出して来た、小さな『リス』のような動物を見て、微笑を浮かべた。

 飛び出して来た『リス』は、明るくなった空を不思議そうに見上げ、そして自分を見つめるメルエの姿に小首を傾げるような仕草を見せる。この『リス』は闇に包まれてから生まれ、太陽の恵みを知らずに育ったのかもしれない。

 

「後ろのスライム達も動かないな。メルエ、そのオカリナを吹いてみたらどうだ?」

 

「…………ふえ………ふく…………」

 

 頭の上から掛かった言葉に笑顔で大きく頷いたメルエは、首から下がったオカリナに手を掛け、その歌口へと口を付ける。ゆっくりとオカリナへ空気を送り込み、小さな指で穴を塞ぎながら、教えられた僅か一つの曲を奏でて行った。

 透き通るような音色は森の木々に反響し、静かに木々を揺らしながら森の奥へと進んで行く。この場所にオーブがある訳でもなく、短い曲の音色が山彦のように返ってくる事は無い。それでも森を抜けた音色は、輝き溢れるアレフガルドの大地へと流れて行った。

 メルエが奏でる事の出来る曲は一曲のみ。だが、その短い曲が終わる頃には、彼等の周りに様々な生物が顔を出していた。

 

「…………ぷるぷる…………」

 

「駄目だ、メルエ。急に手を出しては怯えさせてしまう。まだまだ友達になるには時間が掛かるぞ」

 

 メルエとリーシャの傍には、二体ほどのスライムベスの姿がある。ゆらゆらと揺れるゼリー状の身体は、陽の光を浴びて透き通るような緋色をしていた。闇の中で見たスライムベスは、どす黒い血液のような赤に見えていたが、明るい陽の光を通して見れば、神秘的な美しさを持っている。それは、サラにとってはとても不思議な光景でもあった。

 先程のリスとスライムベスが同じ場所で、互いに争う事なくメルエの方へ視線を送っている。邪気を無くしたスライムベスは、魔物の中でも最弱の部類に入り、その俊敏さを考えれば、リスでも警戒心を持たないのかもしれない。

 

「もう一曲聴きたそうにしているぞ?」

 

 からかうように微笑んだカミュの一言に、大きく頷いたメルエが再度オカリナの歌口へと口を付ける。再び奏でられた音色は、今のメルエの心境を表すかのように、軽やかに弾んでいた。

 逃げ出そうとはしなくとも、手を伸ばせば逃げてしまうかもしれないという恐れから、メルエは傍に寄って来る小動物達を見るだけに留め、それでも笑顔を絶やさずに、夜までの間、その場で楽しい時間を過ごして行く。

 

 

 

 そんな楽しい旅路は四日続き、旅していた頃の倍の時間を掛けて、一行はラダトーム王都周辺へと辿り着く。

 太陽が顔を出した事により、遠くからも見えて来たラダトーム城は、陽光を反射するように白く輝いていた。このアレフガルド大陸にある唯一の王城であり、この広い大陸を統べる王族が管理する城は、上の世界で見たどんな城よりも美しく、見る者を魅了する程の威厳に満ちている。徐々に大きくなって来るその姿は、溜息が出て来る程に雄大な物であった。

 アレフガルド大陸を統べるラダトーム王国の国旗が町を囲う城壁のあちこちに掲げられ、風によって靡いている。ゆらゆらと揺れるその国旗が陽光によって輝き、城下町を護る為に存在する筈の城門は、何故か開け放たれていた。

 城門の両脇に設置された見張り台には、数人の兵士の姿が見え、見ようによっては、こちらに向かって手を振っているようにさえ見える。競うように見張り台から降りて行く兵士に、開け放たれた城門から我先にと飛び出して来る人々。その数は、カミュ達が近付けば近付く程に増えて行くようにさえ見えた。

 

 『勇者の凱旋』である。

 

 

 



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そして伝説へ・・・

 

 

 

 カミュ達が城門へ辿り着く前に、彼等は多くの人間に囲まれる事となる。

 城門から飛び出して来た人間は多く、老若男女を問わず、職業なども問わない。ふと見れば、その中には兵士のような姿も見えた。

 皆が皆、その顔には笑みを浮かべており、それが表面上の物でない事は、その口から言葉にならない歓声を発している事からも解る。まるで、カミュ達を飲み込むように押し寄せて来る人々は、ある意味では魔物よりも恐ろしい勢いがあった。

 先程まで笑顔であったメルエの表情は固まり、傍にいるリーシャへ救いを求めるように手を伸ばす。それを見たリーシャは少女を抱き上げ、半狂乱になった民衆に備えた。

 

「勇者様!」

 

「勇者様!」

 

 近付いて来る人々は、口々にカミュを讃える言葉を口にしており、瞬く間に彼等四人の周りには人々の壁が出来上がる。その壁で美しいラダトーム城さえも見えなくなり、四人の足も必然的に止まった。

 カミュの手を握ろうとする者、堪えられない感情によって盛大に泣き出す者、その全てが、対応に困る程に暴走しており、メルエは恐怖し、サラは困惑する。カミュに至っては迷惑そうに眉を顰め、その姿を見たリーシャが困ったように笑い出した。

 リーシャから見れば、このラダトーム王都の民衆の感情は理解出来る物なのだ。今まで数年もの間、漆黒の闇に閉ざされた世界で生きて来たのが、国王が壮行会まで開いて送り出した『勇者』が旅立って二年も経過しない内に、このアレフガルドに太陽が戻った。それは、彼等にしてみれば、奇跡にも近い出来事であり、それを成した者達は救世主にも等しい。それを崇めずして何を崇めるというのだろう。

 精霊神ルビスの教えが正確に浸透しているアレフガルドだからこそ、勇者カミュという存在も、精霊神ルビスに等しい程の尊い存在と成り得るのだ。

 

「国王様がお待ちです!」

 

「勇者様、こちらへ!」

 

 湧き上がる民衆の声を遮るように、数人の兵士が声を上げる。その声に、歓声を上げたまま、民衆の波が縦に割れた。まるで、波打つ海原が裂けたかのように割れた群衆が城下町へ続く真っ直ぐな道を作り、先程隠れてしまった美しい城が目に飛び込んで来る。一つ息を吐き出したカミュは、後ろに続く三人の女性に目を向け、ゆっくりと人々の道を歩み始めた。

 

「……すごい」

 

 城下町と外界を隔てる筈の城門は既に開け放たれており、その門を潜った先に見える景色に、サラは思わず声を上げる。そこには、ラダトーム王都で暮らす全ての人間が集まったのではないかと思う程の人波で溢れ返っており、その全ての顔には、はち切れんばかりの笑顔に満ちていた。

 城門からカミュの身体が城下町へと入った瞬間に上がった歓声の大きさは、アレフガルドの大地さえも揺らす程で、驚いたメルエは、リーシャの肩口へ顔を沈めてしまう。そんな少女の姿を見た民衆は、笑い声と共に一際大きな歓声を上げた。

 

「道を開けよ!」

 

 大きな歓声を遮るように響いた兵士の声に、再び民衆の波が裂け、王城へと続く道が出来る。既に敷き詰められた石畳の脇に移動した民衆は、カミュ達が一歩歩く毎に変わらぬ歓声を上げ、口々に礼を述べた。

 この場にいる者達全ての想いが一致し、アレフガルドに戻った太陽の恵みに感謝し、美しい世界に感謝し、そしてそれを取り戻した勇者一行に感謝する。

 彼等にカミュ達を生贄として送り出したという想いは欠片もないのだろう。ただただ、自分達が恐怖し、隠れる事しか出来なかった相手に挑んだ者達の勇気を讃え、このアレフガルドの再生を成し遂げた者達を崇めていた。

 

「え?」

 

 そんな民衆の笑みを見て、ようやく困惑から立ち直ったサラは、笑顔を浮かべながら歩く先に、煌びやかな服と陽光に輝く楽器を持つ一団を見つける。王城と城下町を繋ぐ真っ直ぐな道の上に作られた広い壇上に並んだ一団は、それぞれに異なる楽器を持ち、ゆっくりと曲を奏で出す。

 いつの間にか歓声は鳴りを潜め、誰しもが息を飲むようにその始まりを待つ中、一つのホルンの音が大空に響き渡った。

 

「幾年ぶりであろう……」

 

「ロト様の曲を再び聞けるなんて」

 

 ホルンが独奏を始めた瞬間、民衆の多くが涙する。それぞれの胸に、それぞれの想いを抱え、この数年の苦しみを思い出し、この数年の哀しみを思い出し、そして再び訪れた喜びの時を想って、皆が同じ涙を流していた。

 口々に発する言葉は、再び聞く事の出来たこの曲が、このアレフガルド大陸にとって、そしてラダトーム国にとって、特別な物である事を示している。力強く、そして心の奥底に眠る勇気の炎を燃え上がらせるような曲は、初めて聴いたカミュ達でさえも魅了する程の何かを持っており、四人は足を止めて、その曲を奏でる楽団を見つめていた。

 

「『ロトのテーマ』と呼ばれる曲です。このアレフガルドを救った勇者ロト様を讃えた曲であり、広いアレフガルド大陸の中でも、あのアレフガルド交響楽団にしか演奏を許されてはいない曲なのです。国を挙げての祝いなどでは演奏されていたのですが、ここ数年は……」

 

 魅了されたように楽団を見つめるカミュ達に気付いた兵士の一人が、曲についての説明を口にする。だが、最後には感極まったのか口元を押さえ、嗚咽を漏らしながら言葉を詰まらせてしまった。

 このアレフガルド大陸で生きる者達にとって、勇者ロトという存在が如何に大きく強く、そして尊い者なのかを示す一幕であり、それが今、この時に演奏されたという事が、カミュ達の凱旋が特別な物である事を示していた。

 

「勇者様、こちらです!」

 

 嗚咽を続ける兵士の肩を叩き、他の兵士がカミュ達を先導するように手を翳す。その兵士の瞳からも止め処なく涙が流れていたが、その表情は見ている者さえも嬉しくなる程の喜びに満ちていた。

 楽団の演奏は続き、多くの楽器が重なり合って曲を奏でる。先程までの歓声は嗚咽に変わり、周囲から聞こえる咽び泣きと笑顔に見送られながら、カミュ達は王城への道を歩み始めた。

 不思議と不快ではない。むしろ、その泣き声が誇らしくさえ思える。演奏している楽団の顔さえも見えるほどに近付けば、楽団員の全てが涙を流し、それでいながら笑顔を浮かべて楽器を奏でていた。

 

「まるで、カミュの声を聞いているようだな」

 

「ふふふ、そうですね。勇気が湧いて来ます」

 

 前から聞こえて来ていた曲が、背中から聞こえるようになり、徐々に遠ざかって行く中で溢したリーシャの言葉に、サラは笑みを浮かべながら同意する。

 この長い旅路で、何度も挫けそうになり、そして何度も折れそうになった。そのような時でも、胸の奥に燻っていた勇気の炎を燃え上がらせて来たのは、一人の青年の姿であり、声である。今も彼女達の前を歩く青年の背中が、何時でも彼女達を立ち上がらせ、鼓舞した。

 この曲も、そんな古の勇者の背中を見た誰かが作曲したのかもしれない。

 

「お入り下さい。謁見の間で国王様がお待ちです」

 

 辿り着いた城門もまた、城下町を守る為の門と同様に開け放たれており、門番の確認を受ける必要もなく、カミュ達は城内へと案内される。

 城下町程ではないが、城内もまた人々が溢れ、勇者の凱旋に歓声を上げていた。本来、神聖なる王城内で大声を上げるなど、不敬に値する程の愚行ではあるが、今、この時だけは例外なのだろう。誰もそれを咎める者はおらず、男性も女性も、老いも若きも、皆がカミュ達の帰りを祝っていた。

 謁見の間へと続く道以外は、人々によって遮られ、他の場所へは行く事も出来ない。行く必要も、行く気持ちもありはしないが、ここまでの扱いを受けた事は上の世界を通じても一度たりともなく、やはりサラやリーシャは困惑してしまった。

 

「よくぞ戻った!」

 

 謁見の間の前まで辿り着き、流石に閉じられていた重々しい扉を兵士が開けると、カミュ達が玉座の前まで進み出るよりも前に、ラルス国王が玉座から立ち上がり声を掛ける。それは、国王の行動としては異例であり、異様。だが、それだけ、このアレフガルドに起きた出来事が奇跡に近かったという事なのだろう。

 ゆっくりと進み出たカミュが玉座近くで膝を着き、それに倣うように一歩後方でリーシャ達も跪く。既にリーシャの腕から下ろされているメルエもまた、幼いながらも礼に適った作法で跪いた。

 

「よくぞ……よくぞ、大魔王ゾーマを討ち果たした! よくぞこのアレフガルドに光を取り戻してくれた。このアレフガルドで生きる、全ての生命体に代わり、深く礼を申す」

 

「こ、国王様」

 

 玉座から立ち上がったラルス国王は、一段上がっていた玉座からカミュ達の跪く場所まで降り、言葉を詰まらせながらも言葉を発し、最後には深く腰を折って頭を下げる。それは、国家を覆す程の異例であり、周囲を固めていた重臣達を大いに慌てさせた。

 このアレフガルドでは、上の世界とは異なり、王はラルス王唯一人なのである。唯一の王が旅の者に頭を下げるなどあってはならない事。しかも、上の世界から来た余所者となれば、尚更であった。

 だが、次に国王が発した言葉に、ざわめいていた謁見の間の声がぴたりと止まる。

 

「そなたこそ、このアレフガルドを救いし『勇者』である。その偉業、その勇気、その全てを讃え、そなたに『勇者ロト』の称号を贈ろう。これが、このアレフガルドを統べるラダトーム国王として出来得る最大の感謝である」

 

 逆に耳が痛くなる程の静寂が謁見の間を支配する。誰もが口を開いたまま声を発する事は出来ず、国王の発した宣言を飲み込む事が出来ずにいた。

 それ程に、このアレフガルド大陸に於いて『勇者ロト』という称号は重いのだ。遥か昔にアレフガルド大陸を救ったと伝えられる勇者の名であり、その全てを示す称号。それはアレフガルドにおいては伝説であり、神話に近い程に神聖な物。精霊神ルビスと対を成す程に特別なその称号が、上の世界から降りて来た旅人に与えられるという異例に、誰もが言葉を失ったのだ。

 国王さえもそれに続く言葉を発せず、カミュ達もまた、顔を上げる事は出来ない。そのような痛い程の静寂を破ったのは、やはり、このアレフガルドで生きる者達であった。

 

「おぉぉぉぉぉぉ!」

 

 謁見の間が先程以上の歓声に包まれる。誰もが何かに取り憑かれたように拳を突き上げ、腹の底から歓喜の雄叫びを上げていた。

 国王からの宣言を受けていたカミュ達も、まさかその言葉がここまでの賛同を呼ぶとは思っておらず、驚きで顔を上げてしまう。その目に映るのは、涙を流しながら喜びの叫び声を上げる多くの重臣達。そして、後方に控える兵士達もまた、手に持った武器を突き上げて歓喜していた。

 カミュ達四人は気付いていないが、それ程に、このアレフガルドの民達は、闇に苦しめられていたのだ。何年も何年も朝が訪れる事はなく、陽の光という恵みもない中で作物も育たない。飢えという絶望の足音を日々聞きながら苦しみ歩いて来た彼等にとって、数年ぶりに訪れた朝日がどれ程の希望を齎した事だろう。その輝きにどれだけ涙した事だろう。

 そんな光を取り戻した者を『勇者』と呼ぶ事に何の抵抗があるというのか。遥か昔に救われた者達にとって、その救い主が『勇者ロト』であれば、今、この太陽を取り戻してくれた者達が、自分達にとっての『勇者ロト』である。それが、このアレフガルドで生きる者達の総意であった。

 

「ありがとう……ありがとう。何度礼を述べても足りぬ。何度涙しても足りぬ。これ程の喜びを与えてくれた『勇者ロト』とその一行に心からの敬意を!」

 

 両手を突き上げた国王の叫びに呼応するように、王太子もまた歓喜の叫びを上げ、いつの間にか謁見の間に入って来た城勤めの者達が次々とテーブルなどを運び入れ始める。その者達の頬にも涙の痕が真新しく残り、その表情は喜びに満ちていた。

 誰かが始めた拍手は、波を打つよう広がり、笑い声と共に謁見の間を満たして行く。謁見の間全体を見渡したラルス国王の頬にも幾筋もの涙が伝い、喜びに満ち満ちた民衆の姿に笑みを浮かべていた。

 

「夜通しでの宴を催す! 今宵は、『勇者ロト』の勇気と偉業を讃え、この美しきアレフガルドを皆で祝おうぞ!」

 

 次々と謁見の間に運び込まれるテーブルなどの配置が進む中、ラルス国王は、高らかに宣言をする。その宣言が終わると同時に、外から戻ったアレフガルド交響楽団が『ロトのテーマ』とは別の曲を奏で出した。

 報告などする暇もない。カミュ達が発した言葉など一つもなく、跪いたと思えば、与えられた部屋へ先導され、宴の準備が整うまでに着替えるように指示を出された。

 湯浴みの準備も出来ており、順々に湯浴みを済ませ、纏っていた鎧を脱いだカミュやリーシャは、儀礼用の衣服に着替えさせられる。サラもまた水の羽衣を脱がされ、コルセットを嵌められた上に、煌びやかなドレスに着替えさせられていた。

 久方ぶりの太陽が沈んで行く度に、『再び闇に包まれるのではないか』という不安を持つ民衆達に配慮したのか、宴は太陽がまだ見えている内から始まった。

 

「勇者ロト様ご一行のお出ましにございます」

 

 カミュ達が再び謁見の間に辿り着くと、そこへ繋がる扉は開け放たれ、バルコニーから外を見れば、ラダトーム王都中の人間が、様々な物を持ち寄りながらも宴の準備を整えているのが見える。国王の言葉通り、国を上げての祝いの席なのだろう。

 カミュ達一行が謁見の間に再び姿を現すと、大きな歓声が上がり、それを制するように国王が玉座から立ち上がる。立ち上がった国王が重臣から杯を受け取り、侍女達がカミュ達にもそれぞれの杯を配り出した。カミュやリーシャにはアルコールの入った飲み物が渡され、メルエには果実を絞った飲み物が渡される。その際、サラへと渡されたアルコール入りの杯はリーシャによって没収され、代わりにメルエと同じ果実汁が手渡される事となった。

 

「今宵はこのアレフガルドで生きる者達全ての宴である! 食べたき者は食べ、飲みたき者は飲み、歌いたき者は歌い、踊りたき者は踊れ! 心ゆくまで、この幸せを祝おうぞ!」

 

 杯を手にしたラルス国王がそれを天高く掲げ、宴の始まりを宣言する。それは、長く疲弊したアレフガルドの再生の雄叫びであり、新たなアレフガルド誕生の産声でもあった。

 割れんばかりの拍手と、地響きがする程の歓声が、場内に留まらず、城の外の特設会場からも響いて来る。アレフガルド交響楽団が楽器を奏でると同時に、侍女達が次々と食事を運んで来た。沸き立つ会場は人で溢れ返り、杯の飲み物を口にする暇もなく、カミュの許へと人々が集まり始める。人々は口々にカミュの偉業を讃え、感謝の言葉を口にした。代わる代わるに登場する人間の対応に追われながらも、カミュは一つ一つ丁寧に答える。その姿を見ていたリーシャは柔らかな笑みを浮かべ、一筋の涙を溢した。

 

「…………むぅ…………」

 

 そんな中、やはり勇者一行といえども、勇者ロトとは扱いが異なり、リーシャやメルエの周りには人も疎らである。それを悔しいとも思わないし、羨む事もない。むしろ、それだけの評価を、今カミュが受けている事の喜びはあるものの、何処か不思議な光景に見えるという事だけであろう。

 そして、リーシャの足元にいる少女もまた、そのような事には全く関心を持たず、先程から侍女達がテーブルの上に置いて行く、湯気の立ち上る料理の方に目を奪われていた。続々とテーブルに置かれて行く物を見ようにも届かず、テーブルに手を掛けようとしても届かない。その苛立ちに唸り声を上げる事しか出来ていなかった。

 

「どれが食べたいんだ?」

 

 そんなメルエの姿に微笑みながら、リーシャは彼女の身体を抱き上げる。メルエは大食いな訳ではないが、食事をする事が嫌いではない。見た事もない料理に目を輝かせ、迷う姿は尚更に笑いを誘った。

 テーブルに付いていた侍女に皿へ取り分けて貰い、壮行会の時のように用意して貰った少し離れた場所にある椅子にメルエと共に腰を掛ける。嬉しそうに食事を始めるメルエの口元を拭ったりしている内に、数人の重臣がリーシャへと挨拶に回って来た。

 国王と謁見した際には、その身に重厚な鎧や盾を装備し、巨大な斧を持っていたリーシャの姿を多くの重臣達は見ているし、大魔王ゾーマの討伐が勇者だけの偉業ではない事を理解している。だが、やはりそれだけ、このアレフガルドで『勇者ロト』の称号の重みは強いのだろう。

 当たり障りのない会話を進め、再びメルエの口元を拭い、侍女に果実汁の追加を頼む姿が、とても勇者と肩を並べる戦士の物ではなかったというのも一因なのかもしれないが、時間を追う毎に、リーシャとメルエの周りには人が少なくなって行った。

 

「皆の者、ここで国王として発表がある!」

 

 宴も進み、いつの間にか陽が完全に落ちた頃になって、玉座から降りたラルス国王が片腕を上げる。テーブルの上の料理も少なくなり、人々も良い加減に酔っている中での国王の言葉。騒がしかった謁見の間の喧騒は瞬時に収まり、静かな静寂が続く言葉を待っていた。

 外の特設会場には、幾つもの篝火が焚かれ、赤々と燃える炎が昼のような明るさを齎している。外の喧騒が遠く聞こえる中、謁見の間の隅々を見渡したラルス王が静かに口を開いた。

 

「『勇者ロト』の偉業によって、再びこのアレフガルドに光は戻った。今日、この時より、古いアレフガルドは終わり、新たなアレフガルドが始まる。それは、世界だけではなく、人もまた同じであろう。この時を以って、ラダトーム国の王位を我が息子に譲る事とする。これよりは、ラルス二世としてこのアレフガルドを治めよ!」

 

「はっ!」

 

 静寂は一瞬でどよめきとなり、その後に歓声へと変わる。ラルス国王と、その息子との間では、カミュ達の凱旋を確認した時から話は着いていたのだろう。国王の言葉に即座に反応し、跪いた青年の頭に、ラルス国王の頭の上にあった王冠が移された。

 国王のみが許された王冠を頭に乗せ、その肩に真紅のマントを掛けられたラルス二世は、ゆっくりと立ち上がり、拍手と歓声が響く中で周囲を見渡す。そんな周りの喧騒にも興味を示さず、果実汁を飲むメルエを見たリーシャは、『この少女に出会ったのも、何処かの国の王冠を取り戻す為の旅路の途中であったな』と場違いな過去を思い出していた。

 

「父より譲位を受け、これよりラルス二世として国王となる。この数年、力及ばず、皆の者には苦労を掛けて来た。だが、再び皆の笑みを曇らす世界にせぬよう、力の限りこのアレフガルドに尽くそう。未だ若輩な王ではあるが、皆の力を貸して欲しい」

 

 片手を挙げ、謁見の間の喧騒を制したラルス二世は、新たな国王としての宣誓を行う。不遜ではなく、むしろ慎ましくはあれども、そこに込められた王族としての威厳は隠さない。そんな国民の心を掴む見事な宣誓であった。

 一つ叩かれた拍手が即座に伝染し、喝采となり謁見の間を包み込む。急な譲位、しかもラルス元国王は健在であり、未だ老人とは言えぬ程の若さを持っている中での譲位であった。本来であれば、国内に大きな動揺が走る程の出来事ではあるのだが、重なる祝事に民衆は酔い、この異例の即位もまた好意的に受け止められたのだ。

 だが、国民にとっての驚きは、これで終わりではなかった。

 

「このアレフガルド大陸、そしてラダトーム王国の末永い平和を確かな物にする為、私と共に歩んでくれる后を希望したい」

 

 先程までの割れんばかりの拍手は一瞬で収まり、驚愕と困惑による静寂が謁見の間を支配する。誰しもが動けず、先代国王であるラルスでさえも口を開けぬ中、ラルス二世となった青年が、謁見の間に集まる民衆を掻き分け、一人の女性に向かって歩み始める。

 謁見の間に集まる多くの女性が困惑する中、真っ直ぐにその相手を見つめたラルス二世は、その女性の前に立ち、ゆっくりと跪いた。

 本来、例え女性への求婚であっても、一国の王が跪く事などない。それが王太子の地位であればそれも美談として語られるが、国王となれば話は別。そこに考えが及ばぬ程の愚王なのか、それとも国王であっても礼を尽くさねばならぬ相手なのか、皆が息を飲んで見たその女性もまた、驚きと困惑で言葉を失っている。先程まで、民衆に混じって拍手を送っていたその女性は、宴が始まった時と同じ、謁見の間の中央で固まっていた。

 

「賢者サラ殿、初めてお会いしたその時より、貴女をお慕いしておりました。貴女方が取り戻してくださったこのアレフガルドの光を護り、そして貴女が夢見た未来を実現する為に、この国の王妃として私と共に歩んではくださいませんか?」

 

 『あざとい』

 その様子を皆と同じように驚愕と困惑で見ていたリーシャは、咄嗟にそう感じてしまう。それは、勇者一行の中で唯一宮廷で生きて来た経験を持つ彼女だからこその感想なのだろう。

 このような多くの人間が見守る中で、この大陸全てを統べる国王自らの求婚を断る事など出来はしない。どれだけの功績を残そうとも、この国の頂点にいるのは王であり、言葉こそ願いではあるが、それは勅命にも等しい効力を持つ物だからだ。

 今でこそ、民衆は慶事に酔い、新王の誕生に沸いているが、冷静になれば、若年の王へ不安を持つ者も出て来るだろう。だが、その横に寄り添う者が、賢者サラであれば話が変わって来る。勇者ロトの称号を賜った青年と共に長い旅路を駆け、ルビスを封じ込めたバラモスを討ち果たし、大魔王ゾーマをも討ち果たした一員が王妃となるのだ。

 身に宿した魔法という神秘は、この世界の誰よりも多く、多くの災いから国民を救う術を持っている。それは、新たな旅立ちとなったラダトーム国にとっても、ラダトーム王家にとっても、喉から手が出る程の人材であろう。

 

「わ、私ですか!?」

 

「はい。あの夜、サラ殿とお話した未来が忘れられません。人も、魔物も、動物達も、この世界で生きる全ての者達が等しくルビス様の子であり、皆が幸せに生き、天寿を全うする世界。そのような世界を共に護って行きたい。私はそう願っています」

 

 少し離れた場所で進むそのやり取りを見ながら、リーシャはいつしかカミュが口にした言葉を不意に思い出す。あれは、確か、サラが最初の壁にぶつかった、ダーマ神殿へ向かう途中の事だった。

 カンダタとの再戦を経て、信じていた教えが揺らぎ、自分自身を迷い始めた彼女は、棲み処を荒らされて怒り狂ったキラーエイプという魔物にカミュが付けた傷を癒してしまう。魔物憎しで突き進んでいた彼女は、『魔物=悪』という構図こそがルビス教の教えと信じ込んでおり、その魔物を癒した自分は、精霊ルビスを裏切ってしまったと塞ぎ込んだ。

 魔物もまた、世界で生きる種族の一つであり、その命の重さも同じ。全てを救う事など出来はせず、人を救うのならば魔物が邪魔になり、魔物を救うならば人が邪魔になる。そんな相反する現実に迷い、悩む彼女に向けて語ったカミュの言葉。

 『それこそ、アンタが魔王を倒した後に『王族』にでもなり、魔物と人の住み分けでもすれば、話は別だろうがな』

 このような時に、このような場所で、あの言葉が現実になろうとは。リーシャは、感慨深い想いを持たずにはいられなかった。

 

「わ、私のような者にこのような大きな大陸を統べる国の王妃が務まるとは思えません」

 

 暫し、呆然としていたサラの口から出た言葉に、周囲の人間が騒然とする。一国の王が懇願に近い言葉を発して、后へと願ったにも拘らず、断りに近い言葉を口にしたのだ。

 如何に大魔王ゾーマを討ち果たし、アレフガルドに光を取り戻した一員とはいえ、国民感情としては許せない行為に等しい。だが、一度目を瞑ったサラが、再び瞼を上げ、口を開いた時に、再び謁見の間が静寂に支配された。

 

「ですが……、それでも、国王様がお望みであれば、私に出来得る限りの力を尽くし、国王様をお支えする努力を続けます。この力、この命、全てをこのアレフガルドの為に」

 

「おお……」

 

 差し出されたラルス二世の手を取り、自身の胸へと導いたサラは、決意に満ちた瞳を向ける。そして、堰を切ったように場が沸き立った。

 おそらく、ここまでの慶事の中で最も国民が湧いた瞬間かもしれない。サラの手を取り、国王となったラルス二世が玉座へと彼女を導いて行く。憧れと羨望の視線が雨のように降り注ぐ中、顔を真っ赤に染めたサラが赤絨毯の上を歩く姿に、リーシャは一つ溜息を吐き出した。

 サラの中でどのような決着がついたのかは解らない。打算や計算が皆無という訳ではないだろう。だが、あの愚直で真面目な元僧侶は、メルエと同様に周囲からの好意を知らずに育った。異性からの好意など受けた事はないだろうし、自身が誰かに好意を持った事もないだろう。

 七年近くも共に旅をした唯一の男性であるカミュに対しても、信頼という絆は持っていても、そこに恋愛感情という物は皆無であった。それは、同じ女性であるリーシャだからこそ解る事なのかもしれない。

 

「これで、サラとはお別れだな」

 

「…………むぅ…………」

 

 先程まで果実汁を飲んでいたメルエも、場の雰囲気を察し、いつの間にか一連のやり取りを見つめていた。それに気付いたリーシャはそんな彼女の頭に手を乗せ、悲しい事実を口にする。姉のように慕い、一番心を許し、最も我儘をぶつけて来た相手との別れは、容易に受け入れる事の出来ない物であり、不満そうに頬を膨らませ、少女は唸り声を上げた。

 寂しい笑みを浮かべたリーシャは再びサラへと視線を戻す。一段上にある玉座へと辿り着いたラルス二世は、先程まで父親が座っていた国王の座る玉座へとゆっくりと腰掛け、少し前まで自分が座っていた場所に座るようにサラを促していた。

 顔を真っ赤に赤らめながらも、真っ直ぐに視線を向け、サラが座った瞬間、再びアレフガルド交響楽団が一斉に楽器を奏で出す。物語のフィナーレに相応しいその曲に合わせ、謁見の間に居た者達が一人、また一人と踊り始めた。

 新たな王の誕生と、王妃の誕生を祝う歓喜が周囲を満たし、それは外にある特設会場にも届いて行く。王と王妃の誕生は外にいる国民にも伝わり、先程以上の歓声が城内へと届く中、宴は加速して行った。

 

「ん? どうした、メルエ?」

 

「…………カミュ………いない…………」

 

 大きな喜びと若干の寂しさを宿した瞳でサラを見つめていたリーシャは、先程まで不満そうにサラを見つめていた筈のメルエが、きょろきょろと周囲を見渡している事に気付き、声を掛ける。そんなリーシャの問いかけに、少女は不安そうに眉を下げ、最大の保護者の不在を告げた。

 その言葉を聞いて初めて、リーシャも主役である筈のカミュがこの会場の何処にもいない事に気付く。宴が始まった時は、確かに謁見の間の中央に居た筈の彼の姿は何処にもなく、考えれば、ラルス元国王が譲位を宣言した辺りから、その姿を見失っていた事を理解した。

 不安そうに見上げるメルエの頭にもう一度手を乗せたリーシャは椅子から立ち上がり、メルエを椅子から降ろして、その小さな手を握る。

 

「カミュの所へ行こうか」

 

「…………ん…………」

 

 沸き立つ会場の主役は既に入れ替わっており、大魔王を打倒した一行の行動に意識を向ける者はいない。人も疎らになった謁見の間の壁沿いを歩き、扉の前まで来たリーシャは、ゆっくりと振り向いた。

 多くの者達から喝采を浴びて照れくさそうに微笑むサラの姿は、アリアハンという小さな島国を出た頃の少女と変わらない。あれから七年、様々な苦難と葛藤を越え、怒り、笑い、泣き、苦しみ、迷い、彼女はあの場所へ座ったのだ。

 

「……サラ、後は頼むぞ」

 

 その呟きを最後に、人類最高位の戦士と、人類史上最上の魔法使いの姿は、ラダトーム王都の謁見の間から消えて行った。

 

 

 

 

 

 ラダトーム王城の奥にある客室の廊下をゆっくりと二人は歩く。最早、遠くに聞こえる交響楽団の奏でる曲が、夢と現実を隔てる境目のように感じた。

 誰も居ない廊下に響く二つの足音は、客室の最奥にある他よりも大きな部屋の前で止まる。扉には木目細かな彫刻が彫られており、ドアノブの金属は輝かんばかりに磨かれていた。

 未だに眉を下げたままリーシャを見上げるメルエの手をしっかりと握り、彼女はそのドアを力強くノックした。

 

「……開いている」

 

 リーシャでさえも、中から返事が返って来るとは思っていなかった。まだ、この場所に彼が居るという事は確信していても、中へ入る許可までも得る事が出来るとは考えていなかったのだ。

 中から聞こえた声にメルエの顔は輝き、早く開けてくれと言わんばかりにリーシャの裾を引っ張る。女性らしくドレスで着飾っていた筈のリーシャは、既に旅をしていた頃の服装に着替えており、傍らには荷物らしき物も持っていた。メルエもまた衣服は着替え終えており、その背には大事な杖が括られている。リーシャの背にもまた、あの斧が括られていた。

 

「やはり、旅立つのか?」

 

「ああ、大魔王が倒れた今、俺は邪魔になるだけだ」

 

 扉を開けるとすぐにメルエが中へと飛び込んで行き、中にいた青年の腰へとしがみ付く。そんな少女の行動に笑みを浮かべたリーシャであったが、予想通りの光景に溜息を吐き出した。

 リーシャの方へ顔を動かした勇者ロトの称号を持つ青年は、既に旅支度の大半を終えている。鎧などは一切身に着けず、軽装に近い衣服ではあるが、今の彼の力があれば、その程度の装備でも大陸を渡り歩く事は可能であろう。そんな青年の口から出た言葉もまた、自分の予想通りの物であった事にリーシャは軽く眉を顰めた。

 大魔王ゾーマが倒れた今、この世界を脅かす力を有する者はいない。この目の前で自分の腰にしがみ付く少女へ笑みを向ける青年以外は。

 世界を脅かした大魔王ゾーマさえも打倒する力を持つ人間。勇者ロトとして讃えられている内は良いが、その力を恐れる者も必ず出て来るだろう。国が安定すれば安定する程に、その力への恐怖は増して行く筈だ。それは、あの聖なる祠で出会った肉体無き魂が物語っていた。

 

「……サラが王妃になったぞ」

 

「そうか」

 

 リーシャのその言葉は、唯一の希望。サラが王妃である内は、決してカミュを害そうなどとはしないだろう。彼女であれば、カミュが歩んで来た道を知っているし、何よりもカミュという青年の恐ろしさを誰よりも知っているからだ。

 だが、そんな最後の頼みの綱は、素っ気無い返答によって斬って捨てられる。何やら不穏な空気が広がっている事に気付いたメルエは、不思議そうにカミュとリーシャを見上げ、眉を下げた。

 

「あの時、アレフガルドの空が開けた時、何処からか何かが閉じた音が聞こえた。あれは、上の世界との繋がりが絶たれたという事なのだろう? お前は何処へ行こうというんだ?」

 

「さあな」

 

 勇者の洞窟を出て、闇に染まったアレフガルドに再び光が戻った瞬間、ここに居る誰もがその音を聞いていた。それでも、あの感動的な光景と、美しい世界の在り方を見て、その音に気付かない振りをして来たのだ。

 それでも、あの時に確かに聞こえた何かが閉じられたような音。それは、大魔王ゾーマが残した爪痕によって生じた世界と世界の不安定な繋がりが途絶えた事を示している事は、心の何処かで理解していた。

 勇者の洞窟の最下層とゾーマ城の最下層が繋がっていた事がその証明となるのかもしれない。

 

「言いたくはないが……お前は、『勇者ロト』だぞ」

 

「そうみたいだな」

 

 本当に口に出したくはなかったのだろう。苦しそうに歪むリーシャの表情に、カミュは苦笑を浮かべて頷きを返した。

 勇者ロトという称号は、このアレフガルドでは重い。だが、目の前の青年にとって、その称号に何の拘束力もない事は、それを苦しそうに口にする女性にも十分に解っている。それでも、彼女は言わねばならなかった。

 この場で自分が嫌われようとも、周囲の人間達と同じだと思われようとも、彼女はそれを口にするしかない。何かを感じたメルエが、その手を暖かく握った事を契機に、リーシャは重い口を開いた。

 

「ゾーマの最後の言葉を聞いただろう? 闇はいつか再び生まれて来る。お前は『勇者ロト』として、その血を後世に残していかなければならない。オルテガ様の息子として、多くの苦しみを味わったのにも拘わらず、お前はその称号を護り続けなければならないんだ。勝手に何処かへ行く事も許されないんだぞ」

 

 悔しさに顔を歪ませ、それを語ったリーシャの瞳に涙が輝く。自由を誰よりも望み、それを勝ち取る為に歩み、そして成し遂げた若者に待っていたのは、以前よりも強い拘束の未来であった。

 それが何よりも悲しい。だが、この先の未来で、再び世界が闇に閉ざされるような事があれば、『勇者ロト』という名は、強い力となるだろう。故にこそ、彼はその名と共に己の遺伝子を残し、後世に伝えて行く義務があるのだ。

 本人が望む望まないではなく、それは人の意思であり、世界の意思となる。彼に残る自由など、始めからなかったに等しかった。

 だが、悔しそうに俯くリーシャの前にいる青年から返って来た言葉は、予想の遥か斜め上の物となる。

 

「ならば、アンタが俺の子を産んでくれるのか?」

 

「は?」

 

 何を言われたのか、理解出来ない。今し方に聞いた一言一句を正確に思い出し、反芻するように頭の中で唱えた。それでも理解が追いつかず、その回数は数回に及び、徐々に理解して来ると共に、彼女の顔は真っ赤に染まって行く。

 口を開くが言葉は出て来ず、真っ赤に染まった頬は熱い程に熱を持つ。そんなリーシャの顔が面白かったのか、足元でメルエの笑い声が聞こえた時、ようやく彼女は理性を取り戻し、目の前の青年の顔を見た。

 そして、そこで初めて、この一連のやり取りが『からかい』である事に気付く。顔を真っ赤に染めたまま俯いた彼女の肩は小刻みに震え、怒りに堪えているように見えた。しかし、続く罵倒の言葉を予想していた者は、虚を突かれる事となるのだ。

 

「幾らでも産んでやる! 二人でも三人でも、私がお前の子を産んでやる! その代わり、お前が行く所には何処へでも私を連れて行け! 私を置いて何処かへ行けると思うな!」

 

 今度は、カミュが言葉を失う番となる。顔を真っ赤にして、それでも彼の目を真っ直ぐに見つめたリーシャが言い放った言葉は、七年という長い旅路を共にしたカミュであっても、容易に理解出来る物ではなかった。

 それが、『売り言葉に買い言葉』のような軽い宣言でない事ぐらいは、カミュにも理解出来る。彼女の瞳も、言い切った後の表情も、彼女が真剣に考え、その上で尚、カミュという一人の青年と共に生きる事を誓ったのだ。

 そこまで理解が及んだ時、カミュは一つ息を吐き出す。もう一度息を吸い込んだ彼の表情は真剣でありながらも優しい笑みを浮かべていた。

 

「よろしく頼む」

 

 頭を真っ直ぐ下げたカミュを見て、リーシャが固まった。

 カミュにとっては『からかい』の一部であるかもしれないという恐れもある中で、彼女は自分の気持ちを吐露している。だが、実際にその言葉を真っ直ぐに受け止められ、そしてそれを了承されてしまうと、一気に沸き上がってくる羞恥心で全身が更に燃え上がるように熱くなって行った。

 足元では、常に『好き』と『嫌い』という二つの感情を口にして来た少女が、にこやかな笑みを浮かべている。不穏な空気が一掃され、何処か暖かく、優しく、それでいて楽しげな空気に彼女の心は晴れ渡っていたのだ。

 

「…………メルエも…………」

 

 故にこそ、彼女も高らかに宣言するのだ。

 『絶対に自分も付いて行くのだ』と。

 言葉の少ない彼女を理解出来る人間は数少ない。この発言でさえも、『自分もカミュの子を産む』と言っているという解釈をする人間もいるであろう。だが、この場にいるのは、彼女を大事に思い、彼女を理解する二人である。顔を赤く染めたまま、リーシャは足元から笑顔で見上げるメルエを見て、小さく溜息を吐き出した。

 

「メルエ……ここは少し遠慮をするところだぞ?」

 

「…………むぅ……メルエも………いく…………」

 

 七年の旅の中で初めて訪れた甘い時間も、少女の一言によって即座に霧散した事に少し残念そうなリーシャは、苦笑を浮かべながらメルエに言葉を漏らすが、笑顔から一変、膨れ顔になった少女は、頑固に自分の主張を宣言する。それにはもう、カミュもリーシャも笑うしかなかった。

 リーシャが駄目ならと、カミュの足元に移動し、『自分も行く』という主張を繰り返す少女の姿は必死であり、冗談でも置いて行こうなどと考えてもいなかった彼等にしてみれば、可愛らしい物である。

 

「メルエはアンタの娘ではなかったのか?」

 

「妹だ!」

 

 故にこそ、このような言葉の応酬の中でも、彼等の顔には笑顔が浮かんでいた。

 常日頃から、リーシャがメルエを娘のように愛している事を知っているカミュだからこその問いであり、それでもメルエの年頃の娘がいる年齢ではないと主張する反論であった。

 二人の笑みを見ても、不安な少女は頬を膨らませ、縋るようにリーシャの腰元へしがみ付く。『絶対に離れない』という意思表示のように顔を埋めたメルエに苦笑を浮かべたリーシャは、その小さな身体を抱き上げ、額を付けた。

 

「そうだな、メルエは私達の妹だからな。だが、私達と一緒に行けば、おそらく二度とサラには会えないぞ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 おそらく、カミュは二度とラダトーム王都へ戻るつもりはないだろう。もしかすると、このアレフガルド大陸からも離れるかもしれない。そうなれば、必然的にラダトーム国の王妃となったサラとは二度と会う事がなくなる。

 サラを誰よりも慕うメルエだからこそ、それはとても哀しい事であり、寂しい事であろう。姉であり、師であり、好敵手であるサラが居たからこそ、メルエのような少女がこの長く苦しい旅を最後まで歩む事が出来たのだ。

 最早、自分の半身となったと言っても過言ではない相手であるからこそ、その別れは身を切るように痛く哀しい。自然と涙が溢れて来るその瞳をリーシャが拭ってやる。それでも、この決断は彼女にさせなければならない。

 サラであれば、メルエの正体を周囲に話す事はないだろうが、竜の因子を受け継いだ彼女は、おそらくサラが死に、サラの子が死ぬ頃になっても生きているだろう。それは、このラダトームにとって、決して良い結果を生まない筈である。それをカミュもリーシャも理解しており、それでもメルエに問いかけていた。

 そして、この少女は、賢者でさえも習得出来ない数多くの呪文を使いこなす聡明な魔法使いである。リーシャの問いかけの中に含まれた何かに気付かない訳はないのだ。

 

「…………ん………メルエも……いく…………」

 

「わかった。カミュ、そこの鎧や盾は良いのか?」

 

「この鎧と盾は元々このアレフガルドの物だ。あの剣であれば別だが、それも今はゾーマと共にあの城の奥深くだ」

 

 メルエの言葉に笑顔で頷いたリーシャは、ベッドの横に綺麗に掛けられた『光の鎧』と『勇者の盾』に視線を送る。鎧は湯浴みの後に脱いでおり、盾もまた同じようにカミュの部屋に置かれていた。

 共に、このアレフガルド大陸に伝わる古の勇者が装備していた物であり、精霊神ルビスや創造神に連なる神代の装備品。この世界に存在しない金属で鍛えられたそれらには、特殊な効果も備えられており、本来であれば手放すべき物ではないのかもしれない。

 だが、それでも彼は置いて行くと言う。元々、自分たちの物ではないと。それにリーシャは苦笑する。欲が無いというよりは、興味がないのだろうと推測出来るその言葉は、最後に漏らした続きに現れていた。

 『光の鎧』や『勇者の盾』と同様、彼が最後に手にしていた『王者の剣』もまた、古の勇者が装備していた武器だと伝えられているが、今生では、マイラの村に辿り着いたジパング出身の鍛冶屋が全霊を込めて打った傑作である。それは、彼等が歩んで来た道の全てを込めたに等しい物であった。もし、あの剣が今もこの場にあったのならば、それだけは手放さなかったかもしれない。それだけ、彼にとっても特別な剣であったのだろう。

 

「すぐに出るのか?」

 

「ああ」

 

 既に旅支度を整えていた為、直ぐにでも出発は出来る。既に陽は落ち、暗闇が支配する夜になってはいるが、アレフガルドに朝が戻ったのも最近の話であり、彼等にとっては夜の行軍など日常茶飯事であるのだ。

 最早振り向く事なく部屋を出て行くカミュに続き、リーシャも荷物を持って部屋を出て行く。最後に残ったメルエだけは、部屋に備えられた小さなテーブルの前に残り、自分のポシェットから何かを取り出した。

 取り出した物を、まるで願いを込めるように、暫く瞳を閉じたまま両手で包み込む。ゆっくりとした時間が過ぎ、その手の中にある物が淡い輝きを放ち始めた頃、メルエは瞼を開いた。

 

「メルエ、置いて行くぞ!」

 

「…………だめ…………」

 

 テーブルの上にそれを置いたメルエが花咲くような笑みを浮かべた時、開け放たれていた扉の向こうから、その笑みを消してしまう声が掛かる。慌てたように、ポシェットから取り出した物をもう一つ置いたメルエは、そのまま部屋の外へと飛び出して行った。

 そして、主の消えた部屋の扉がゆっくりと閉じて行く。扉が閉じた音が廊下に響き渡り、再び静寂が戻った客間へ繋がる廊下に、遠くから楽団の奏でる曲が届いていた。

 

 

 

 

 

 

「王太子様……失礼しました、国王様、王妃様、お伝えしたき事が……」

 

 未だに宴が続いていた謁見の間に、一人の兵士が飛び込んで来たのは、サラが王妃の玉座に座ってからかなりの時間が経過した頃であった。

 呼称を誤った兵士が頭を下げ、ラルス二世とサラの前に跪いて息を整えた後に発した言葉は、謁見の間にいる全ての人間の音を奪う程の物となる。

 

「勇者ロト様、戦士リーシャ殿、魔法使いメルエ殿、お三方の姿がありませぬ。部屋には、着替えた衣服のみが残り……」

 

 アレフガルド交響楽団でさえも演奏を中止してしまう程の報告に、周囲の人間がざわめき始める。そして、その報告を聞き終えぬ内に、サラは玉座から立ち上がり、慣れぬドレスの裾を持ち上げて、客室のある方へ駆け出して行った。

 鬼気迫る表情を浮かべたサラの行動に、呆気に取られていた兵士達が、我に返ってすぐに後を追って駆け出す。国王となったばかりのラルス二世も、現状を把握し、慌ててその後を追った。

 騒然となった謁見の間の宴は中断され、皆が皆、不安そうに国王と王妃の背中が消えて行った方へ視線を送っている。如何に大魔王が討ち果たされ、アレフガルドに光が戻ったとはいえ、民衆の心の安寧は定着していないのだ。

 再び、この夜が明けず、闇に閉ざされたままとなってしまっていたらという不安。そして、アレフガルドの救世主であり、ロトの称号を授かった勇者がラダトームを去り、アレフガルドを去ってしまっていたらという不安が、更にその危機感を煽っていた。

 

「リーシャさん!」

 

 初めに、自分達に与えられていた女性部屋に突入したサラは、自分が慕う姉のような女性戦士の名を叫ぶ。しかし、その場所に残されていたのは、自分の衣服のみ。リーシャが纏っていた鎧も武器も、メルエの身に付けていた衣服も杖も消え去っていた。

 暫し呆然とその光景を眺めていたサラの頭に、アリアハン大陸にあるレーベの村での記憶が甦る。あの時感じた恐怖は、今も尚、彼女の胸に残っていた。『置いて行かれた』という諦めと恐怖。それは、この苦しく長い旅路の序盤で常に彼女が戦っていた物であったのだ。

 顔色を失ったサラは、周囲の兵士の声や、夫となるラルス二世の声にも反応を示さず、まるで幽鬼のように廊下へ出て、そのままゆっくりとカミュに与えられていた客室の前に移動する。

 そして、震える手で握ったノブが抵抗無く回った事に身を震わせ、そのままドアノブから手を離してしまった。ゆっくりと開いて行く扉の先にある部屋の景色。それが徐々にサラの瞳の中へ入って行く。そして、彼女は息を飲んだ。

 

「鎧と盾が残っているという事は、ロト様はこの城の何処かにいるという事ですか?」

 

「……いえ、もうこの城の何処にもいないという事です」

 

 明かりが消され、闇に包まれた部屋の中で、窓から差し込む月明かりに、『光の鎧』と『勇者の盾』に描かれたラーミアを模した象徴画が輝きを放っている。その姿を見たラルス二世がサラへと問いかけるが、震える手を胸に抱いたサラは、身体と共に震える声で返答を返した。

 鎧と盾以外に、何も残されておらず、カミュが宴で着用していた礼装は綺麗に畳まれ、ベッドの上に置かれている。それ以外は何もない。窓から差し込む月明かりが、主の居ない部屋を冷え冷えと見せていた。

 

「……これは」

 

 そんな中、サラはベッドの脇に置かれた小さなテーブルの上に、月明かりに輝く何かを見つける。誘われるように進み出た彼女は、それを見て、文字通り言葉を失った。

 不安に駆られながらもサラの後方へ移動したラルス二世は、後ろから覗き込み、月明かりに輝くそれを見て首を傾げる。それは、七年にも及ぶ長い月日を共に旅した人間にしか理解出来ない物であり、共に旅した者であれば、その希少性もその価値も、そしてそれに込められた願いも想いも理解出来る物であった。

 淡い青色に輝く石の欠片。今や勇者ロトとなった青年に訪れた死の危機の身代わりとなって砕け散った『命の石』の欠片である。ここまでの旅路で、その欠片を拾い集めていたメルエが、己が大事に想う者達へと手渡して来た想いの結晶でもあった。

 テーブルの上に残され、月明かりに輝くそれは、サラが見て来た欠片の中でも一際大きな物。両手を合わせて包み込まなければならない程の大きさがあり、その輝きも美しく強い。震える手でそれを拾い上げたサラは、ゆっくりと胸の前で両手をあわせて包み込み、大粒の涙を溢し始めた。

 

『託された』

 

 サラの胸にはその言葉しか思い浮かばない。このアレフガルド大陸のみならず、この世界で生きる全ての生命の未来を、彼等三人から自分は託されたのだと。

 メルエがその欠片を手渡す最大の理由は、『自分が護る事の出来ない、自分の大切な者達を護って貰う為』という物。彼女の中に自覚があるか解らないが、それでも彼女の中で二度と会えない者達へという何処か確信めいた物があるのかもしれない。

 それが意味する事は、サラの今生では、あの三人に会う事はないという物。『人』と『魔物』だけではなく、あらゆる種族の住み分け、そしてどんな種族であっても天寿を全う出来る世界の樹立という夢の実現を、救世主である勇者ロトとその仲間達に、今ここで彼女は託されたのだ。

 

「まだ、それ程遠くまでは行かれていないでしょう。人を出して探させましょう」

 

「……いえ。カミュ様とメルエがいる以上、もう、私でもあの三人を探し出す事は出来ません。おそらくは、もう二度とこのラダトームへ戻る事はないでしょう」

 

 後方に控えていた兵士の一人が、勇者ロト捜索隊の出立を願い出るが、それはゆっくりと首を振るサラに制される。その瞳から溢れる涙は止まらず、月明かりに輝きながら床へと落ちてはいるが、その表情は晴れやかな笑み。そしてその瞳に宿る光は、決意という強さを持っていた。

 勇者ロトの失踪。それはラダトーム王家最大の失点でありながらも、唯一残った勇者一行の一人である賢者は、王妃としての顔となり、にこやかに微笑んでいる。それが、ラルス二世と後方に控える兵士の心の余裕となった。

 

「ふふふ。メルエもようやく、金の髪飾りを着ける気持ちになったのですね」

 

 伝う涙を拭う事なく、サラはテーブルの上に残ったもう一つの物を手に取る。それは、銀色に輝く髪飾りであり、ガルナの塔にあった古の賢者の部屋に残されていた物であった。

 それは、メルエの祖母の物であったのか、それともメルエの母の物であったのかは解らない。それでも、彼女のルーツに纏わる物である事は確かであり、賢者を目指す物にとっては憧れの物でもあろう。

 それがこの場に残されているという事は、今のメルエの髪には、金色に輝く髪飾りが着けられている筈だ。それは、彼女の義母となり、彼女を虐待し、最後は奴隷として売り払ったアンジェという女性の形見。決して許す事の出来ないその義母が最後に彼女に託した髪飾りを、あの少女は身に着けているのだろう。

 自身の半身とも言えるサラへ、己の大事な物である『銀の髪飾り』を託し、義母の願いである『幸せになる』為に、彼女は歩き始めたのだ。その少女の花咲く笑みを思い出し、サラは口元を押さえた。

 

「泣いてばかりはいられませんね。国王様の妻として、そしてこのラダトームの王妃として、私も頑張って行かなければ」

 

「共に最後まで歩もう、サラよ」

 

 振り返ったサラの笑みは、この場に居た全ての人間の心に暖かな炎を点す。涙を流しながらも月夜に輝く笑みの美しさは、皆を魅了し、心酔させた。

 妻となる美しき女性の肩を抱いたラルス二世は、そんな彼女を『賢者』とも『サラ殿』とも呼ばず、愛すべき伴侶として呼び掛ける。その言葉に静かに頷いた彼女は、兵士達と共に、客間を後にした。

 再び動き出した扉が、七年にも及ぶ彼等の旅路の終わりを告げるように、音を立てて閉じられる。闇と静寂が戻った部屋には、窓から差し込む月明かりに輝く鎧と盾が静かに佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 斯くして、ロトの称号を授かったカミュは、アレフガルドの勇者となる。

 だが、ラダトーム帰還後の勇者カミュとその仲間達の姿を見た者は誰も居ない。

 彼が去った後の部屋に残されていた『光の鎧』は彼を讃えて『ロトの鎧』となり、『勇者の盾』は『ロトの盾』となる。大魔王ゾーマと共に地中深くに落ちて行った『王者の剣』は、『ロトの剣』として語り継がれ、鎧と共に残されていたルビスの愛の証である『聖なる護り』は、精霊神ルビスに愛されたロトを示す物として『ロトの印』とされ、後世へと語り継がれる事となった。

 ラダトーム国王であるラルス二世の妻となった賢者に託された淡い青色に輝く石の欠片は、ラダトーム王家に想いと共に受け継がれる。それを託した少女の想い、それを受け取った王妃の想い、そしてそれに続く数多くの者達の想いは重なり、その欠片の持つ輝きは増して行った。『大事な者へ』、『愛する者へ』という想いは、いずれ、愛の証となったその欠片を持つ者へと届くようになったと云う。

 

 

 そして、伝説が始まった

 

 

 

 




この長い物語を、最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。


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