本日の運勢は過負荷(マイナス) (蛇遣い座)
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「ツキがなかったね」
――このボク、月見月瑞貴は不運だった。
海へ行けば津波が起こり、山へ行けば土砂崩れ、街を歩けば洪水が巻き起こる。そんな『異常(アブノーマル)』を抱えたボクがあの病院に行くことになったのは当然の帰結であった。そこはボクと同じような『異常』な子供たちを研究・調査する病院であり、そこで担当医となった人吉先生の治療を、症状が安定するまで九年近くの長期に渡って受けることとなる。結局、ボクの『異常』が落ち着いたのは、十二歳の中学入学直前のことであった。
現在ボクは人吉先生の自宅で最後の診察を受けているところだった。人吉先生はボクの担当医のような方で、もう勤めていた病院を辞めてしまっているというのにいまだに診察を受けさせてくれている。一児の母だというのに、まるで小学生のような外見という不思議すぎる少女、いや女性であった。ボクがこれまでのお礼を告げると、しかし人吉先生は悔しそうに表情を歪めてしまう。
「人吉先生、もう病院を辞めたっていうのに今日までボクの治療に付き合ってくださってありがとうございました」
「ええ……でも分かっていると思うけど、その『異常(アブノーマル)』は治ったわけでも進行が止まった訳でもないわ。それどころか、八年間もかけて結局あなたの『異常』について解析できたとは言えない。『異常者(アブノーマル)』というよりもむしろ、かつてあたしが病院で診察したことのある――」
「それでも安定はした、でしょう?明日から中学入学ですし、それまでに治療を終わらせたいと思っていたのでボクとしては満足ですよ」
ボクがそう言うと、人吉先生は大きく溜息を吐いた。
「ふぅ……確かに、もうあたしにできることはないのよね。あたしが取れたのは結局、最善策どころか次善策でもない、最悪ではないというだけの治療法だったっていうのは悔しいけれどね……」
「十分ですよ。おかげでこれからは平和に学園生活を送れそうですからね」
納得はしていないような表情だったけど、人吉先生はおめでとうと言ってくれた。ここまで『異常』が制御できたのは人吉先生の精神外科手術のおかげだろう。とはいえこれ以上はボク自身、この『異常』を制御することはできそうにないから、やっぱりこれで治療は終わりなのだ。
「あれ?瑞貴さん、今日も来てたんですか」
玄関から出るとちょうど人吉先生の息子の善吉くんが帰ってきたところだった。彼はボクの一つ年下で、八年間も人吉先生宅に通っていたボクとは昔馴染みの少年だ。
「善吉くんか、久しぶり。今日はめだかちゃんと一緒じゃないの?」
「何度も言いますけど、別に俺はいつもめだかちゃんと一緒にいるわけじゃないんですよ。それより瑞貴さん、明日から中学生になるんですよね。小学校は別でしたけど来年俺たちが入学したら同じ学校ってことになりますね」
期待に目を輝かせている善吉くんにボクは苦笑しながら答える。ボクは来年のことよりまずは明日の心配をしないとね。初日から遅刻なんて悪目立ちしたくないから、今夜は早く寝ないと……。
「うん、そうだね。来年入学してくるのを楽しみにしてるよ。って言ってもまずボクが新しい学校に馴染めるかが一番の問題なんだけどね」
「そう言えば瑞貴さんの通ってた小学校って――」
突如ボクの耳にガツン!という鈍い音が響き、次の瞬間にはボクの身体は道路へと横たわっていた。頭部から痺れるような痛みが走っており、それでようやくボクの頭に何かが激突したということに気付く。
「瑞貴さん、大丈夫ですか?まぁ、いつものことですけど……」
「……うん、大丈夫。今日は近くのマンションから植木鉢が落ちてきたのか」
ボクは何事も無かったかのように立ち上がると、横に転がっている割れた植木鉢を見ながら呟いた。ま、いつものことだ。割れたガラスの山が降ってきたり、工事現場の近くを歩いていて鉄骨が落ちてきたりするのに比べれば今日のは比較的安全だったといえる。これがボクの『異常(アブノーマル)』な日常なのだ。
「ぐぅぅ……今日で治療が終わったからってちょっと気を抜き過ぎてたみたいだ」
「頭からすげー流血してますよ。お母さん呼んできて治療してもらいますか?」
「……いや、いいよ。慣れてるし。じゃあまたね」
――入学式当日
きちんと遅刻せずに登校したボクは、これから心機一転がんばろう!と思った矢先、正門に足を踏み入れた瞬間に横から出てきた男と肩がぶつかってしまった。見るとどうやら同じく新入生のようだ。ボクは保護者がいないため入学式に参加するのはボク一人だけだけど、目の前の男子もどうやら一人きりらしい。
せっかくだから一緒に行かないか誘ってみよう。友達を作るには自分から話しかけないとって本には書いてあったし。今まで小学生だったっていうのに金髪だし、学ランの下に何も着てないし、めちゃくちゃ目付きが悪いのは気になるけど偏見はいけないよね!
「ごめん、大丈夫?君も新入生?だったら一緒に――」
そう話しかけながら、ボクは反射的にその男を蹴り飛ばしていた。顔面にハイキックを受けた男は地面に突っ伏して昏倒してしまう。
「あ、ごめん。つい……」
そう言いながらもボクの表情に反省の色は全く浮かんでいない。だって、ねぇ……。不運すぎるボクがこの流れで巻き込まれる事態なんて目に見えて分かる……。それでつい敵意を感じた瞬間に足が出てしまったのだ。見ると彼のポケットからは特殊警棒が顔を覗かせており、自分の予想が当たっていたことを確信した。
「やっぱり肩がぶつかって因縁を付けられる流れだったみたいだね。友達になれると思ったんだけど、二日に一度は必ず不良の喧嘩に巻き込まれるボクの経験に間違いは無かったか……。ボクの不運に巻き込まれるなんてツキがなかったね……っ!?」
入学式に遅れてしまう、と何事も無かったかのように歩き出したボクだったが、しかし、感じた敵意に反射的に飛び退くと、一瞬後にボクの頭のあった位置を特殊警棒が通り過ぎる。驚いて振り向くと、そこには立ち上がって武器を携えている男の姿があった。
「……おかしいなぁ。経験上、あの蹴りをくらって立ち上がれるはずないんだけどね」
強者も弱者も含めて、のべ千人を超える不良を蹴り倒してきたボクだったからこそ分かる。直感的に理解させられる。――この男は今まで倒してきた普通(ノーマル)な連中とは違うことを。
「いきなり人の顔面を蹴り飛ばしやがって……。お返しに俺の方も、しっかりと完全にてめぇを破壊しつくしてやるよ!」
「ごめんごめん、悪かったよ。ボクも謝るから許してよ」
「無理に決まってんだろ!」
そう言って男は両手に特殊警棒を握り締めて跳び掛ってきた。すさまじい瞬発力と見事なまでの身体の使い方。恐ろしいほどの速度で振り下ろされる武器を、ボクは相手の手首を狙って蹴り飛ばすことで受ける。たまらず離してしまった警棒がカランとコンクリートの床に落ちた。
「入学初日からこれだなんて……」
人吉先生に習った格闘技サバットは元々路上での喧嘩から生まれた武術だ。もちろん武器を持った相手に対することも想定している。三桁を超える不良たち相手に実践も十分にこなしてきていた。もう片方の手で薙ぎ払われる武器に対しても冷静に足で払いのけようとして――
「があああっ!」
直前で軌道を変えた警棒がゴキリと鈍い音を立ててボクの蹴り足にめり込んでいた。男はボクに武器を蹴り払われるのを感じて、とっさに狙いをボクの足首へと無理やり変更したのだろう。そして、その効果は抜群だった。骨に異常は無さそうだけど、蹴り足を狙われるとなるとボクには迂闊に攻撃することはできない。ボクは逆の足で牽制を入れて即座にバックステップで後ろへ下がらざるを得なかった。
「惜しかったか……。次こそはその脚を破壊してやるぜ」
「ごめんこうむるよ。それにボクは、ここらの病院からはブラックリスト扱いされていてね。受け入れ拒否されちゃうんだよ」
再び距離を詰めて顔面へとハイキックを仕掛けると、相手も警棒を振るうことで対応してくる。とはいえ、対処法ならある!
「だから無駄だって言ってんだろ!」
「ハイキックと見せかけてっ!」
「なっ!?」
ハイからミドルへとフェイントを入れて軌道を変えた蹴りにより、男の打撃は標的を見失って空を切り、ボクのつま先は脇腹へと突き刺さった。そして、返す刀で男の武器を蹴り払う。さすがに外靴を武器として扱うサバットの蹴りは効いたのか、脇腹を押さえながらよろよろと数歩あとずさる。
「ボクの倒してきた不良たちの中にはナイフを持ったのも結構いてね。武器を避けて蹴るっていうのは慣れてるんだ。それじゃあ、もう二度とボクに絡んでこないようにとどめを刺させてもらうよ!」
禍根の根は絶っておくに限る。徒手空拳となった男を容赦なく蹴り飛ばそうとするが――
逆にボクの方が蹴り飛ばされる結果となったのだった。側頭部にハイキックを受けて膝をついたボクの目の前には、蹴りを放った姿勢のままの男の姿があった。あまりの衝撃に思わずボクの目が驚愕に大きく見開かれる。
「そ、そんな……馬鹿な……だってそれは、その蹴り方は!」
――ボクと同じ、サバットの蹴りじゃないか!
「見様見真似でやってみたが、結構できるもんなんだな」
さっきの蹴り方の癖やタイミングはボクのものと同じだ。感心したように呟いている男の言葉にボクは絶句する。人吉先生や善吉との組み手で蹴りに非常に慣れているボクだからこそ、わずかに反応して急所を外すことができたが、そうでなければ間違いなく昏倒していただろう一撃。サバットの特徴でもある革靴の扱いも完璧。それを見様見真似でだなんて――
「くっ……なんて『特別(スペシャル)』なんだ」
立ち上がって再び相対するが、勝てるかどうかは五分五分だろう。まだ見せていないコンビネーションや技はいくらでもあるが、あちらもすでに近くにあった鉄パイプを握って武器を補充してしまっている。ふぅ、と溜息を吐いた。何で入学初日からこんな負ければ入院確定のガチバトルやらなきゃいけないんだ。しかし、相手は敵意どころか殺意すら感じる眼差しでこちらをにらみつけている。
「仕方ない……入学式に遅れちゃうし、決着つけようか」
「そうだな。だが、そんな心配はいらねぇぜ。入学式どころか、卒業式にも出られなくなるほどに破壊し尽くしてやるからよ」
そのまま駆け出していったボクたちだったが――しかし、交錯する直前に響き渡った鋭く制止する声によってお互いにピタリと動きを止めることとなった。驚いて振り向くと、そこには見知った顔が。……そういえばこの人も同じ中学なんだったな。
「誰だよ、あんたは」
「僕かい?僕の名前は黒神真黒。ちなみに学年は二年。君たちの先輩ってわけさ」
男の低い声に飄々とした様子で返すこの長髪の美青年、黒神真黒は善吉の幼馴染である黒神めだかの兄であり、その縁でボクも何度か彼に会ったことがある。とはいえ、ボクはめだかちゃんの傍にいる者として真黒さんに完膚なきまでに不合格を突きつけられたため、何となく黒神兄妹とは疎遠な感じなんだけど。
「その先輩が何の用だよ。俺の邪魔をするっていうんなら、あんたの方を先に破壊してやってもいいんだぜ?」
「阿久根高貴くん……だね。噂では規律(コト)であろうと器物(モノ)であろうと人物(ヒト)であろうと区別なく破壊する問題児だそうだね……。だけどどうだろう。その痛めた脇腹でまだ続けるつもりなのかな?腕の動きも少し悪いね。無理な動きでもしたのかな?例えば、攻撃の最中に無理やり軌道を変えたとか……」
「……っ!?」
この人は変わっていない。真黒さんの『解析(アナリシス)』の前で弱点を隠すことなんてできやしないんだ。
「ほら、入学式が始まるよ。それとも保健室に行くかい?だいぶ目立っちゃってるけど、この場でのことは先生たちには誤魔化しておくからさ」
「ちっ……」
破壊衝動が削がれたのか、幸い男の方は渋々とだけど引き上げてくれた。周囲を見回すとコソコソと見物をしていた生徒たちも引き上げていくようだ。うわー、入学初日から悪目立ちしちゃったな……
「助けてくれてありがとうございました、真黒さん。それとお久しぶりです」
「君の方こそ相変わらずだね。いや、多少はマシになったのかな?」
「そうだといいんですけどね。っと、早く体育館に行かないと遅刻してしまうので失礼します」
「でも、君も保健室に行ったほうがいいんじゃないかな?その右足首、捻挫してるよね?」
「……やっぱり気付きましたか。いえ、ご心配なく。見ての通りただの捻挫ですから」
「そうかい。……おっと言い忘れていたね。入学おめでとう」
運良く入学式には無事に出席することができたのだが、もちろんボクにそんな幸運ばかりがあるはずもなく。教室に入ったボクをとびっきりの不運が待ち受けていた。
「てめぇ……!」
「おいおい……」
自分の席に着いたボクの後ろの席にいるのは金髪で目付きの悪い不良。つまり先ほど喧嘩したばかりの阿久根とかいう男であった。男が背後から憎々しげな表情でボクをにらみつけているのを感じて気が重くなる。どういう並び順したらボクとコイツが前後になるんだよ!なんて心中では毒づいてみるけど、もはや後の祭り。
――これが後の生徒会長、球磨川禊の両腕、『破壊臣』阿久根高貴と『壊運』月見月瑞貴の出会いだった
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『僕の仲間になりなよ』
中学に入学してからすでに数日が経過した訳だけど、いまだにボクにはたった一人の友人すらできていなかった。というか怖がって誰も近づいて来ない。それはある意味自業自得なんだけど、そのせいでボクがまともに話をできる相手といったら真黒さんくらいしかいない訳で……
「やあ、月見月くん。そろそろクラスには慣れたかい?いやいや答えなくてもいいよ。貴重な放課後だというのにわざわざ僕の教室まで来て、こそこそと教室の中を覗いているくらいだからね。これは酷な事を尋ねてしまったみたいだね」
さわやかにボクの心の傷を抉ってくる真黒さんにげんなりさせられるが、実際言われた通りなので反論のしようもない。
「そりゃそうなりますよ。あんな不良の中の不良、人間を破壊するのが趣味なんて公言してるような狂人と同類扱いされちゃってますからね……。入学初日の喧嘩が噂になって、ボクが話しかけたらみんな怯えちゃうんですよ。女子にいたっては声を掛けただけでガチ泣きされそうになりましたし」
「ははっ、確かに君と同類に分類(カテゴライズ)されちゃったら阿久根くんの方も迷惑だろうね。でも、本当に阿久根くんだけのせいなのかな?だって――君の小学校時代の同級生たちも入学しているんだろう?」
「……」
「まぁ君の同級生たち本人に話を聞くことはできなかったけどね。まるで話題にするというだけのことでさえ関わりたくないといったように。でも、それも当然かな。君の『不運』の『異常(アブノーマル)』は僕のでさえ『解析』することができないけれど、それでもそのおぞましい効果による結果は知っているからね」
しかし、真黒さんは厳しい顔をふっと崩すと、笑みを浮かべてこちらを見つめてくれた。
「でも、人吉先生は大丈夫だと言っていたしね。だから、今のところ君のことは心配していないよ。」
「そうですか」
「でも、友達を作りたいのなら部活に入ったらどうだい?僕は黒神グループの仕事があるから学校を休みがちだし、やっぱり学生といえば部活じゃないかな」
それはそうなんだろうけど、特にやりたいこともないんだよなぁ。中学にサバット部なんてないし……
「うーん、でもあんまり特定のグループに属したくはないんですよね」
「……と、言ってるうちにお友達が来たみたいだね」
やめてくださいよ、とげんなりした面持ちで答えると、同時に背後へ向けて蹴りを放つ。硬い手ごたえを感じて後ろを向くと、そこには僕の蹴りを金属バットで受け止めている阿久根の姿があった。というか武器こそ毎回違うが、毎日襲い掛かられてるため、いい加減見飽きた顔である。
「よお、今日こそてめぇを破壊しにきたぜ!」
そう言いいながら阿久根はバットを振り上げると、再びボクの脳天に向けて思いっきり振り下ろしてきた。
「うわっ!」
一歩下がって阿久根の攻撃を空振りさせると、ボクは廊下の窓を蹴破り、そのまま校庭へと飛び降りた。窓ガラスとかって弁償になるのかな。
「ちっ……逃げんじゃねえっ!」
同じく二階から飛び降りて追ってくる阿久根。このまま背後の男を撒いて帰宅しようと思い、ボクは正門を全速力で抜けていく。もしボクが逃げずに阿久根と正面からぶつかったとしたら、間違いなく双方どちらもが痛手を負うだろうと確信していた。入学早々、そんな事態はごめんなのでこの数日は阿久根との戦闘は逃げることを優先して行動しているのだった。
そのせいで、休み時間ごとに喧嘩を吹っかけられているボクのことをみんなが怖がってしまうんだけど……。
「わっ!あ、すいません」
慌てていたボクは正門を出て曲がり角を右に曲がったときにドンッと人とぶつかってしまった。逃げてる途中だっていうのにタイミング悪いなぁと思いつつ、勢いよくぶつかったため地面に倒れてしまった相手に、怪我は無いかと手を差し出そうとするボクだったが――その男の瞳を見た瞬間に全身を圧倒的な寒気が走った。
『ありがとー。ええと、確かきみは……月見月瑞貴ちゃん、だったかな』
その男は全身を硬直させてしまったボクの手を勝手に取って立ち上がると、ボクの瞳の奥を覗き込むように見つめてきた。その瞳は腐った人間の死体のようにどろどろに濁りきっており、その全身からはこの世のすべての負の要素をかき集めて凝縮したかのような凶々しいオーラを漂わせている。
こんな生物が存在するのか――!?
『ちなみに僕の名前は球磨川禊。よろしくね、瑞貴ちゃん』
「な…なんでボクのことを……?」
『もちろん知ってるさ。だってきみは有名人だもの。入学式やこの数日での出来事はみんな知ってるよ』
「……そうですか」
ボクはそれしか言葉を発することができなかった。目の前の球磨川という男の不吉で異様な雰囲気に完全に飲み込まれてしまっている。黒髪、黒眼、中肉中背。一般的な生徒に外見だけでも見えることが驚きだった。それほどまでに男の内面から醸し出されている不気味な存在感はあまりにも逸脱し過ぎていた。何も出来ずに立ちすくんでいるボクを我に帰らせてくれたのは、とうとう追いついてきた阿久根の金属バットによる殴打であった。
「ぐっ!?……痛っ。でもおかげで助かったよ」
「ああ?何言ってんだよ」
頭をぶん殴られたおかげで魅了されていたかのように呆然としてしまった意識を覚醒することができた。ダメージの方も反射的に芯を外したおかげで頭がふらつく程度で済んだようだし。しかし、今のボクには襲ってきた阿久根の方に眼を向ける余裕すらない。多少は冷静になった頭で再び男を観察してみるが、やはり存在そのものが凶兆を体現しているかのような負の塊しか感じ取れない。
『やあ、きみが阿久根高貴ちゃんかな?』
「何だよてめぇは。用があんのは隣の男だけだから、怪我したくなきゃさっさと消えろ」
『まあまあ。僕はきみとも話がしてみたかったんだ。ははっ、それに怪我って。これだけ時間を掛けて、同級生の一人も壊せない程度のきみが?笑っちゃうなあ』
なぜ挑発したんだ!?あまりにも挑発的な言葉に、青筋を立てて威圧するような声を発する阿久根だったが、全く動じずに男は無邪気な笑みを浮かべたままだ。いや、動じないというよりもむしろ、感情というものが存在しないかのような……。かつて通っていた病院で『異常者(アブノーマル)』というのは何人も見てきたけれど、そのどれとも違う。
「いいから消えろっつってんだろ!」
「あ…阿久根、やめろっ……!」
薄々この異様な雰囲気を感じ取っていたのだろうか、普段以上にイラついた様子の阿久根が目の前の男へと金属バットを振り下ろした。それはは狙い通り球磨川の顔面を強打し、そのあまりの威力に男は吹き飛ばされゴロゴロと地面を転げまわっていく。受身の一つどころかまばたきすらせずに無防備のまま阿久根に打ち倒されたはずだけど……
「……な、なんだよてめぇは!?」
『なんだとはひどい物言いだなー』
男は何事も無かったかのように、表情一つ変えずに起き上がってボクたちの方へと歩いてくる。いや、何事も無かったはずがない。破壊することにかけては『特別(スペシャル)』な阿久根の攻撃をまともに受けたんだ。男の顔面は陥没しており、鼻骨や頬骨も間違いなく折れているだろう。言葉を発することすら激痛だろうに、そんなことは微塵も感じさせずに明るく声を響かせている。
『うん?もう終わりなの?』
「な、ならもう一撃!」
阿久根はもう一度、目の前で自身の瞳の奥を覗き込むようにして笑みを浮かべ続けている男の左肩にバットをめり込ませた。メキッと鎖骨がへし折られた音が辺りに響いたが、男はやはり何の反応も見せない。
阿久根もボクもこれまでに数え切れないほどに喧嘩をしてきた。殴られた相手というのは怯えや恐怖、苦痛、あるいは反骨心。とにかく必ず何らかの表情を浮かべるものだ。しかし、目の前の男にはそれが無い。まるでそれが当然のことであるかのように殴られることを受け入れている。
『ずいぶんイライラしてるみたいだね。うん、そうだっ!じゃあボクがそのイライラをすべて受け止めてあげるよ』
阿久根の破壊というのは、目的としては自分のストレスやイラつきの発散であるとボクは感じていた。彼はいつも苛々していて、サラリーマンがサンドバッグを叩くように、阿久根は人間を叩くというだけなのだろう。だから、阿久根にとってボクと喧嘩をするのも学校の窓ガラスを割るのにも同じことなのだろうと思っていた。結局のところ破壊できれば誰であろうと何であろうと構わないのだろうと。
しかし、――この男だけは例外だった。
「あ、ああああああああああっ!」
立ち上がる姿も、話し声も、その全てが気持ち悪い。あまりにも理解の外の人間を前に、阿久根は錯乱したかのようにバットを何度も振り下ろし続けている。男の腕や肩の骨は折れ、全身打撲の血塗れな状態だが、しかし恐怖を感じているのは加害者の阿久根の方だった。バットを叩き付けるたびに自分の精神が破壊されているような。得体の知れない恐怖に、とうとう阿久根の手からバットが零れ落ちた。
『ほら、続けたらどうだい。自分の手で、自分の意思で、自分のために、破壊を続けてみなよ』
「あ……うああ…」
笑みを浮かべている球磨川とは対照的に阿久根の顔面は蒼白になっており、無意識で男から離れるように後ずさっている。阿久根には初めての体験だろう。
――もうこれ以上破壊したくない、というのは。
阿久根は間違いなく男の肉体を破壊している。しかし、それが一切男の精神に影響を及ぼしていないのだ。むしろこの負の塊のような男に攻撃を加え続けることで、負の容量を増大させているようですらある。阿久根の正常(プラス)はすでにあまりにも強大な恐怖(マイナス)に飲み込まれてしまっていた。そして男は阿久根のそばまで近づき、一転して優しげに声をかける。
『ねえ、高貴ちゃん。自分のために暴力を振るうっているのは怖いだろう?相手からの恨みも、憎しみも、敵意も、報復も、逆恨みも、全て自分に返ってくるんだから』
完全に折られてしまっている阿久根の心に男の囁きが染み込んでいく。
『僕が全て引き受けてあげるよ。恨みも、憎しみも、敵意も、報復も、逆恨みも。だから君はその苛々を発散するだけでいい』
そして一拍おいて言葉を発した。
『僕の仲間になりなよ』
――勧誘
常軌を逸した負のプレッシャーに晒され続けた今の阿久根の精神でそれを断ることなどできなかった。一度でもこの男と関係を持ってしまったら、どんな人間でもその重力のような過負荷(マイナス)性に屈してしまうに違いない。関わることすらしてはならない。それがこの球磨川禊という人間だろう。
まさかそのためにわざわざ阿久根に喧嘩を売ったのか……!?
勝敗度外視で、ただ自分と敵対関係という形で関わらせるためだけに。それだけのために挑発して、満身創痍になるまで殴られたっていうのか?考えられないほどに最悪な下策。
――しかしそれだけに、この男にはお似合いの策だった
「……悪辣だね」
『何を言っているんだい、瑞貴ちゃん。僕は一方的に暴力を振るわれただけだぜ?』
いつの間にか気持ち悪い姿勢で首だけを振り向かせて僕の方を無邪気な瞳で見つめていた。そして、見得を切るように両腕を左右に大きく広げる。
『僕は悪くない』
気持ち悪くておぞましい。なのになぜだろう……。
――彼を見ているとこんなにも心が安らぐのは
『月見月瑞貴ちゃん。小学生時代の君は七回ほど転校を繰り返して、そしてそれと同じ数だけ小学校を廃校に追い込んできたそうだね』
「……っ!?」
『最初の学校は理科室の薬品の保管ミスによる不審火で全焼、次の学校は建築上の不備で校舎が倒壊、その次がええと、全校集会中に大型トラックが居眠りのまま突っ込んできて十数人をひき殺した後、爆発炎上。あまりの凄惨な事故に生徒たちの登校拒否が相次いで、事実上廃校』
それは全て事実だった。ボクの周囲に巻き起こる不運を生徒たちは気味悪がったし、転校するたびに学校を廃校にしていくボクのことを教師たちは怖がった。イジメや虐待も起きたけど、それもその人たちが不慮の死を遂げるたびに無くなっていった。そんなボクの罪状を楽しそうに読み上げながら近づいてくる。
『理想的だよ』
やばい……。人吉先生に縫合してもらった精神がほつれていくのが分かる。これ以上この男と関わっていると自分が過去の自分に戻されるのを確信させられた。球磨川が一歩近付いてくるたびに、心の底から危険な予感の混じった焦燥感が湧き上がってくる。
「……近寄るな」
しかし男の方は気にする様子も無く歩き続け、一歩ずつ縮まっていく互いの距離は死刑台が近づいているようにも錯覚させられた。ああ、わかった。彼を見ていると感じる、恐怖の中でどこか安らぐような感覚は――
――自分よりも最悪な人間が存在するということに対する安心感なのか
「寄るなああああああああああああ!」
もう我慢できない。珍しく大声で叫んだボクの頭をよぎっていたのは、もうすぐで自分の中の何かを失ってしまうということ。それは、のちにマイナス成長と呼ばれることになる現象に対する予感だった。
そして、その瞬間にあることに気付いたボクの身体はとっさに横へと飛び退いていて、直後に先ほどまでボクの居た場所を、縁石を越えて――軽自動車が横転して激突していた。
――ボクのすぐ側に居た球磨川を巻き込んで
「あ!……だ、大丈夫っ!?」
さっとボクの顔から血の気が引いた。ようやく『異常性(アブノーマル)』がある程度落ち着いて、普通の学園生活を送れると思っていたのに、結局のところ、ボクには全く制御不能だったらしい。
急いで車の下敷きになった球磨川の元へ駆け寄ると、脚を車に潰されてしまっていた。大至急の手当てが必要なのは一目で分かる。ふと辺りを見回すと、どうやら携帯電話で阿久根が救急車を呼んでくれているようだ。
「……ごめん」
ボクは球磨川から目を背けながら小さく呟いた。ボクの不運に巻き込まれた人間がボクのことを見る目はほとんど同じだ。怯えるか憎むか。そんな顔を見たくなくてこの場を立ち去ろうとしたボクに球磨川は声を掛けてきた。
『これはきみのせいなんだね、瑞貴ちゃん』
糾弾するような言葉に恐る恐る振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべた球磨川の姿があった。全身に大怪我を負い、息も絶え絶えになりながらも、その目にはまるで子供がサンタさんに出会ったかのような輝きに満ちた光が映し出されていた。――何でそんな目ができるんだ。
『ありがとう。わざわざ僕にきみの異常を見せてくれて。これで確信したよ』
そんな心底楽しそうな、興奮した自分を抑えきれないといった様子で言葉を続ける。そしてそれは、ボクが長年待ち望んでいた言葉だった。
『僕にはきみが必要なんだ。友達になろうよ』
自然とボクの瞳から涙が零れ落ちていた。これまでの人生でボクは、他人に恨まれ、憎まれ、恐れられ続けてきた。ボクの不運についても、人吉先生や善吉くんは気にしないと言ってくれていたけど――彼はボクの不運を肯定して、必要としてくれている。ボクは周りを不幸にしてしまう最悪の人間だ。それは分かっている。それでも、ボクは誰かに自分のことを肯定して、必要として欲しかったんだ――
「こちらこそよろしくお願いします。球磨川さん」
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「何でバッティングセンター?」
『それでは、これより第十三回目の会議を始めたいと思います』
「……それはいいんですけど、何でバッティングセンター?」
『瑞貴ちゃんが言ったんじゃないか。僕の退院祝いにって』
「ボクは鈍った体を慣らすために提案したのであって、会議の場として提案した訳じゃないんですが……」
ボクらがいるのはとあるバッティングセンター。これから行われるのは恒例の世界を滅ぼすための会議である。とはいえ、ただ命令をこなすだけの阿久根は、話に興味が無いのか金網の向こうでバッティングセンターの球を打ちまくっている。まあ、150km/hの豪速球を軽々と打ち返しているのはさすがとしか言いようが無いけど。ボクにしたって興味があるのは球磨川さんと何かをするということだけであって、世界を滅ぼすなんていうのは正直どうでもいいことだ。
そのため、今回もいつもどおりに球磨川さんが議題を出すという流れである。閑散とした店内に響く阿久根の快音をBGMにボク達は話を進めていく。
『今回の議題は、生徒会長になるための方法について。みんなの意見を聞かせて欲しい』
は?という疑問の声がまず出てしまった。生徒会長?この人が?むしろ総理大臣を暗殺すると言われたほうがまだ納得できるくらいだ。
「この学校のですよね?だったら、正攻法では難しいんじゃないですか?うちの中学は生徒会の裁量権が比較的強めだから、去年も立候補者が十人くらいいましたし。悪名高い球磨川さんが当選するのは至難と言っていいでしょう」
『うん。冷静な分析だね』
「それでも生徒会長の立場が必要というのであれば、誰か別の候補者を立てて傀儡政権とするのが一番簡単じゃないですか?」
『瑞貴ちゃんらしい平和的な策だね。高貴ちゃんはどう思う?』
もう打ち飽きたのかバッターボックスから出てきた阿久根に問う球磨川さん。入れ替わるように今度はボクがバットを持ってバッターボックスに立つと、百円玉を入れて球を待ち構える。阿久根とは比べるべくもないけど、ボクもスポーツは全般的に得意なのだ。
「他の候補者を全員潰せばいいじゃないですか。候補者が一人なら選挙も何もないでしょうぜ」
阿久根らしい破壊的な策だ。と、次の瞬間慌ててかがんだボクの頭のすぐ上を150km/hの豪速球が通り過ぎていった。鋭い風切り音が耳元に響く。
「うわっ!」
運悪くピッチングマシンの照準がずれ、ボクの顔面に向かって投げられたのだろう。その後も連続でボクの命を刈り取ろうと飛んでくる球を数発避けたところで、打つのは諦めてバッターボックスから離れたのだった。もちろん、その後は偶然狂っていた照準も元に戻り、何事も無かったかのように誰もいないストライクゾーンに向かって投げ込んでいる。
「ん?おい、血が出てるぜ」
「え?」
阿久根に言われて自分の頬に触れると、どうやら切り傷ができていたようで血が流れていた。
おかしいな……ボールはちゃんとよけたはずなのに。
『へえ、面白いね。これも瑞貴ちゃんの過負荷(マイナス)の効果かな』
「どういうことです?」
そう言って球磨川さんの方に目を向けると、楽しそうな笑顔を浮かべていた。その視線の先には一人の少女の姿が。その少女はボクらには目も向けず、不機嫌そうな表情で通路をこちら側へ向かって歩いているところだった。あの少女に何かあるのか?そう思って観察してみるけど、確かに不良そうな雰囲気の少女だけど特に問題があるようには見えない。しかし、金網のフェンスに寄り掛かっているボクの目の前を通り過ぎた瞬間――
――ボクの全身がズタズタに切り裂かれた
「なあっ!?」
そのまま地面へと倒れたボクが驚いてその少女を見上げると、そこでようやく振り向いてたった今気付いたかのような驚いた表情を見せた。
「あちゃ~またやっちゃったか。反省してますごめんなさいもうしません」
そして、そんな反省の欠片も無い棒読みの謝罪を聞かせてくれた。大量の血を流しながら倒れ伏しているボクを見るその目には一切の同情も後悔も浮かんでおらず、その全身からは危険で凶々しい気配が発せられている。
いつも球磨川さんの近くにいるせいで麻痺して気付かなかったけど、間違いなくこの少女もボクらと同じく過負荷(マイナス)だ。
『すごいねー。瑞貴ちゃんと違って、ちゃんと自分の過負荷(マイナス)を制御できてるみたいだね』
ベンチに座ったままパチパチと手を叩く球磨川さん。次は自分が血塗れにされるかもしれないっていうのにそのおざなりな対応は流石と言うしかない。
『瑞貴ちゃんのおかげかな。こんなに簡単に他の過負荷(マイナス)と出会えるなんて』
「ん?珍しいじゃねーか。あんたらもあたしと同類か。そっちの金髪は違うみてーだけど」
そうは言うもののボクも不良に絡まれるのは慣れているけど、過負荷(マイナス)に絡まれたのは初めてだ。ましてやこれほどの絶対値の持ち主に絡まれたのは間違いなく球磨川さんと一緒にいたからだろう。球磨川さんと出会ってからというもの、ボク自身がわずかずつだけど確実にマイナス成長を続けているのを感じていた。その成果がこれというのはうんざりさせられるけど。
「……まあいいや。帰らせてもらうわ。ここのバッティングセンター全然打てねーし」
『ちょっと待ってよ。高貴ちゃん、瑞貴ちゃん……せっかくだから過負荷(マイナス)ってものを体感してみなよ』
笑顔のまま球磨川さんがそう言ったのと同時に、両手にバットを一本ずつ持った阿久根が少女に襲い掛かっていた。帰ろうと歩いていた少女の背後から上段に振りかぶった二本のバットを全力で振り下ろす。しかし、少女が振り向いた瞬間――ボクの場合と同じく阿久根の全身から血が噴き出していた。
「がああああああっ!」
先ほどのボクと同じように全身を切り刻まれた阿久根が血溜まりに倒れ伏した。
地面に倒れ込んだままその様子を観察していると、ボクにもこの現象についても少しは理解できてきた。まず、どうやら物理的に攻撃を仕掛けている訳ではなさそうだということ。ボクと同じタイプの、と言っても他の過負荷(マイナス)に会ったことないけど、物理以外による『過負荷(マイナス)』の能力によるものだろう。次に、切り裂かれたのはボク達の肉体だけのようだということ。ボク達の服や阿久根のバットは全くの無傷で、ただ皮膚や筋肉だけが裂けているようだ。最後に、どうやらボクのように自動(オート)ではなく自分自身の意思で発動させているらしいということ。
「で?下っぱにやらせておいてアンタはかかってこねーのかよ。アンタがダントツで低い過負荷(マイナス)を持ってるみてーだけど」
『だって僕は一番弱いからね。まあ、高貴ちゃんは相性が悪かったかな。いくら学
習(モデリング)能力が高くてもプラスが過負荷(マイナス)になることはできない』
球磨川さんが話している隙に阿久根の方を目で確認するが、どうやらもう戦闘不能のようだ。これは過負荷(マイナス)が偶然発動してしまったか、襲われて反撃するために使ったかの違いだろう。それを横目に見ながらボクはタイミングを計る。完全に不意を突けばあの過負荷(マイナス)は発動できないはずだ。球磨川さんの異様な雰囲気と話術の前では、必ずあの少女にも隙ができるに違いない。
――今だっ!
ボクは突然起き上がり、少女の一瞬の意識の隙に合わせて全力で蹴りをくらわせた。全身の力を収束した渾身の一撃。
「ごぼっ……!」
少女は開けっ放しの扉から金網の向こうにまで吹き飛ばされる。トラックに轢かれたかのような勢いで地面とバウンドし、ゴロゴロとピッチングマシンの方まで転がった。凄まじい威力の蹴りだったけど、ボクは苦々しく感じて唇を噛んでいた。
「……しくじった」
ふと自分の脚を見るとズタズタに切り刻まれており、筋肉が完全に断裂して動かなくなっていた。寸前に少女がボクの脚を切り刻んだせいで、わずかに威力が落ちてしまったのだろう。手ごたえ、いや足ごたえからしておそらくは立ってくる。まぁいいや、保険は掛けてある。ボクは動かない右脚を引きずりながら、追撃を掛けるために金網の扉の向こうへ歩いていった。
「ぐ……やりやがったな」
蹴られた腹を押さえ、ダメージで足元がおぼつかないようだけど、やっぱり少女は立ち上がってきた。
それにしても他に客がいなくて助かった。学校で年下の女の子を蹴ってる男子なんて噂になっちゃうところだったよ。いや、球磨川さんと阿久根と一緒にいるっていうだけですでに悪評は立ってるんだけどね……。
ヨロヨロと少女へと近づいていったボクはバッターボックス付近で止まり、話しかける。同じ過負荷(マイナス)として尋ねたいことがあったのだ。
「君に訊きたいことがある。……これは、君の過負荷(マイナス)だよね。一体どうやって、自分の過負荷(マイナス)を制御しているの?どうすれば止められるの?」
これはボクが生まれてからずっと考えていたことだ。自分の傷を指差してそう尋ねると、少女は一瞬呆れたような表情を見せた後、あははっと大きく笑い声を上げた。
「あはははっ!そんなことを言ってる内は一生制御できねーよ。過負荷(マイナス)を止めよう、なくそうなんてのは根本から間違ってんのさ。喪失や欠落こそがマイナスなんだからな!」
『異常(アブノーマル)』とは根本的に違うということか……。もちろんこれはこの少女の場合だからボクが同じ方法で制御できるかは不明だけど。でも確かにボクの自分の過負荷(マイナス)をなくしたいという考えが逆に制御の邪魔になっていたというのは頷ける話だ。そんなことを考えながら同時に自分の立ち位置を調整するように微妙に左右に移動していく。
「強いて言うなら受け入れること、じゃねーの」
ふぅ、と溜息を吐いた。球磨川さんじゃあるまいし、そんなことできるはずがない。あの人ならどんな不運も能力も受け入れられるだろうけど、ボクには無理だ。だからこそ球磨川さんはボクなんかを受け入れてくれたんだし、そんなところをボクは尊敬していた。
――球磨川さんの役に立つためには、この程度の敵くらいはボクの手で倒せないと!
横の仕切りに寄り掛かりながら自分の右脚を見ると、鮮血で真っ赤に染まっており全く感覚がなくなっている。少女との距離はほんの数m程度だけど、この脚では間違いなく近づく前に切り刻まれてしまうだろう。
「そう、ありがとう。ところで君の名前は?」
「志布志飛沫(しぶし しぶき)だ。あんたは?」
「月見月瑞貴だよ」
「……で?時間稼ぎはもういいのかよ」
ばれてたか……、質問したかったのは事実だけどね。
ああいいよ、とボクは言いながら百円玉を機械に入れた。ちなみに位置関係はボクがバッターボックス付近でマウンドとの間に少女が立っているという形だ。コインを投入すると少女の背後にあるピッチングマシンから作動音が響き出す。しかし、球が発射される寸前の音だっていうのに、少女はまるで気にした様子も無い。ここは先ほどボクの使っていた150km/hの台なのに、なぜか背後から放たれるだろう豪速球にはまったく気を使っていないようだ。
「後ろを振り向かせて隙を作ろうという策なんだろーが、残念だったな。あたしはこの店の常連でね。この位置にボールが飛んで来ないことくらいは知ってるんだよ」
……後ろを振り向いたらその瞬間に蹴り倒そうと思っていたけど、それは失敗したみたいだ。だけど、それはむしろ好都合。ビュッという風を切り裂くような音が聞こえた瞬間――
「さーて、じゃあ――ッ!?」
――少女の後頭部に150km/hで放たれた球が激突していた。
「ツキがなかったね」
頭から血を流して昏倒してしまった少女を見下ろしながら言い放った。一応、脈拍などを確かめてみると死んではいないようなのでボクはふぅ、と安堵の溜息を吐いて立ち上がる。そして、再びピッチングマシンから放たれた二投目はまたしてもあらぬ方向へ飛んでいく。それは先ほどと全く同じ軌道をとり、正確にボクの頭へと向かったデッドボールだった。
「知らなかっただろ?この台はボクがバッターボックス付近に立ったときに限り、普段とは全く違うコースに飛んでくるってことを」
そう、ボクがやったのはピッチングマシンとボクの顔面の間に少女の頭が来るように自分の位置を調節したことだけだ。そうなれば当然、ボクの頭を粉砕しようと迫り来る豪速球は手前の少女の後頭部に直撃することとなる。
『よくやったね、瑞貴ちゃん』
振り向くと球磨川さんが嬉しそうな表情で両手を広げるようにしてボクに声を掛けてくれた。ちなみに阿久根は動けるようになったのかベンチで自分の応急処置を施している。
『自分の過負荷(マイナス)を利用できるようになったみたいだね。まずは自分の不運を認めること、それが制御の第一歩だからね』
そして、球磨川さんは少しの間あごに手を当てて考え込む。
『せっかくだから二つ名みたいなの付けよっか、週刊少年ジャンプっぽく。うーん、そうだな……。じゃあ高貴ちゃんは「破壊臣」で瑞貴ちゃんは「壊運」ね。右腕と左腕みたいで格好良いね。それとも両腕と両脚かな?それじゃあ、二人ともこれからもよろしくっ!』
「はい!」
球磨川さんはこんなボクでも頼りにしてくれているんだ。そのためにはもっと強くならないと。ボクはさらに一層、球磨川さんの望みを叶えるために努力する決意を固めたのだった。
それから数ヵ月後、あまりにも最低な方法で球磨川さんは生徒会長に、ボクは庶務の役職に就任することに成功する。
しかし、球磨川さんの手によって中学を恐怖のどん底に叩き落したそのさらに数ヵ月後――新入生黒神めだかによって、ボクらは完膚なきまでに敗北させられるのだった。
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「ボクらは敗北したんだ」
――箱庭学園柔道場
二人の部員が試合形式の練習を行っていた。一人は「柔道界のプリンス」こと阿久根高貴。そしてもう一人は――
「一本!」
背負い投げで綺麗に投げ飛ばされた、このボクであった。残念ながら純粋な柔道勝負では阿久根の相手にはならず、いつも通りの敗北で終わってしまった。ボクが畳に叩きつけられると同時に見学者(ほとんどが女子)から黄色い歓声が上がる。阿久根はその歓声に手を上げて答えると、飲み物を手に取って壁際で休憩に入った。まるでアイドルのような人気だ。そして、敗れたボクも同じくその隣に腰を下ろして話しかける。
「相変わらず人気者だね。まったく……中学時代の破壊臣と呼ばれた君と同一人物だとは思えないよ」
ボクが箱庭学園に入学してからすでに一年が経過していた。球磨川さんは中学時代に学校から追放されてしまったため、現在のボクは二年七組に所属している、ただの柔道部員でしかない。中学時代の敗北からこれまで、ボクは敗残者として惰性のような学生生活を送っていた。
「……あまり昔のことは言って欲しくないんだけどね。いや、裏切られた君にはそれを言う権利があるのか。悪いとは全く思っていないけどね」
「別に球磨川さんを裏切ったことを怒っているわけじゃないよ。ボク達(マイナス)がプラスに裏切られるなんてことは当たり前だからね。怒っているとしたら球磨川さんを敗北させてしまった自分自身にだよ」
乱神モードの黒神めだかの前には、これまでの努力や鍛錬はまるで意味を成さなかった。不甲斐なくも鎧袖一触で潰されてしまい、その結果として球磨川さんは敗北してしまったのだ。そして今年、その黒神めだかがこの学園へと入学してきており、先日の選挙で再び生徒会長に当選していた。
「それにしても、黒神めだかが入学してくるなんてね……。でも『異常(アブノーマル)』を蒐集しているこの学園に来るのは当然といえば当然か」
「入学早々に生徒会長に当選するとはさすがめだかさん!選挙中の忙しい時期にお手を煩わせてはならないと思っていたが、そろそろ挨拶に向かうべきかな」
「はぁ……その話はもういいよ」
黒神めだかの話題を出した途端、阿久根は嬉々として彼女を賞賛し始めた。もはや信者と言っていいほどの心酔ぶりにボクは手を横に振って話を切り上げる。もう聞き飽きた話だし、ボクだって球磨川さんを敗北させた相手の賛美の言葉なんてわざわざ聞きたくはない。
「おーい!阿久根クン、月見月クン!二人にお客さんやでー」
そんな話をしていると、部長の鍋島猫美先輩がボク達を呼ぶ声が聞こえた。心なしかその表情は引きつっているように見える。鍋島先輩に連れられて来たのはボクらが見覚えのある女子だった。
「な!?アンタ……!」
すぐ隣から阿久根の驚く声が聞こえる。それはボクも同じ気持ちだ。でもボクはまた彼女とは出会うような気がしていた。
「よお!ずいぶん探したぜー」
中学時代に出会った過負荷(マイナス)の少女――志布志飛沫がそこにいた。
入学して一週間も経っていないというのにすでにダメージジーンズのようにボロボロに加工された改造制服で堂々と柔道場に佇んでいる。球磨川さんと引き離されてからは初めての過負荷(マイナス)仲間なので少し感慨深い。仲間というか、むしろ敵だったんだけどね。懐かしさからボクの方も軽く彼女に声を掛けてみた。
「久しぶりだね。志布志さん……でよかったかな」
「ああ、いいよ。噂の十三組とやらに在籍しているのかと思ったけど、普通の生徒として部活に出てるとは思っても見なかったぜ」
「それは手間を掛けさせちゃったね。ボクは七組の普通クラスだよ。どうやら過負荷(マイナス)は異常(アブノーマル)とは違う分類(カテゴリ)らしいね。十三組どころか特待生にすらなれなかったんだよ。そういうキミは?」
「あたしも普通クラスだな。当然だろ、人生勝ち組のエリート連中と違ってあたしらは負けっ放しの負け組なんだからよ。そうだな、確かに十三組なんかにいる訳ねーか」
ところで、と志布志は隣の阿久根に目を向けた。阿久根は志布志が現れた途端、顔色が悪くなってしまい苦しそうに目を伏せている。球磨川さんを裏切った中学時代のトラウマで、阿久根の心の中には過負荷(マイナス)に対する恐怖が深く刻み付けられていた。まあ負の塊である球磨川さんと再び正面から敵対してしまったのなら当然のことだろう。旧知であり絶対値の低いボクだからこそ普通に話せているが、さすがにこれだけの絶対値の高さを持つ過負荷(マイナス)と相対するのは難しいようだ。ボクにとってはむしろ親近感や懐かしさを感じる相手なんだけど。
「コイツも昔、アンタと一緒にいた奴だよな。だいぶ雰囲気違うけど……。ってことはあの負の塊みたいな男もいるんだろ?」
「……いや、いないよ。ボクらは敗北したんだ」
沈痛な表情でボクは答えた。その答えに志布志も少なからず驚いた表情を見せる。
「……あれだけの絶対値をもった男が?一体どんな奴に……」
「箱庭学園の現・生徒会長――黒神めだか」
つい先日決まった新たな生徒会長、98%の異常な支持率でもって就任したのが、球磨川さんを中学から叩き出した黒神めだかである。このありえない支持率の高さはさすが異常(アブノーマル)というしかない。中学時代、支持率0%で生徒会長に就任した球磨川さんと同じく。もちろんボクは別の人間に投票した残りの2%であり、阿久根は98%の方であった。
「せっかくだから校内を案内するよ。この学園は広いからね。まだ全部は見てないでしょ?」
「ああ、じゃあお願いしよーかな」
懐かしい知り合いにあってテンションの上がったボクの提案に志布志も乗ってくれた。先輩としては後輩の面倒を見ないとね。
「お、おい!部活中だぞ!」
「ついさっきインフルエンザに感染してしまったので早退します!」
阿久根の制止の声に白々しく返事を返すと、制服に着替えて柔道場を後にするのだった。
「で、ここの塀は少し低くなっててね。校門で風紀委員が抜き打ち検査してるときはここを越えて行くと見つからないで登校できるよ」
「何であたしが風紀委員ごときに気を使って生活しなくちゃいけねーんだよ」
ボクが説明をすると、志布志は不機嫌そうな顔をして答えた。確かに志布志には恐るべき過負荷(マイナス)をもっているけど、その考えは甘すぎる。
「風紀委員自体には問題は無いんだけど、ただ生徒会が出てくると面倒になるんだよ。はっきり言って、球磨川さんが勝てなかった相手に君が勝てるとは思えない」
戦闘力においてならば志布志の方が圧倒的に上ではあるけど、過負荷(マイナス)性においては球磨川さんの絶対値は志布志を越えていたからだ。志布志と黒神めだか。その両方と戦ったことのあるボクだけど、はっきり言って二人が戦った場合、志布志に勝ち目はないだろう。
「あたしにはあの男が敗れたせいで、あんたが敵を過大評価し過ぎてるように見えるけどな」
「それにこの学園は異常者(アブノーマル)の巣窟だ。キミ一人、ボクを含めても二人だけでどうにかできる所じゃないよ」
「まったく……勝ち負けで考えてる時点でズレてんだよ。その調子じゃまだ自分の過負荷(マイナス)を制御できてねーんだろ」
「……」
「三年間ずっと異常者(アブノーマル)の連中に怯えて過ごす気かよ」
いいや、とボクは首を横に振った。ボクだって何の考えも無くこの学園に来た訳じゃない。
「球磨川さんがまだあの野望を諦めていなければ、いずれこの箱庭学園を標的にするはずだよ。――エリートの集団である十三組を」
いずれ来るその時のためだけにボクは異常者(アブノーマル)の集まるこの学園に入学したのだ。次こそ球磨川さんの役に立つために。
「まあいーや。一応言うことは聞いといてやるよ。先輩の顔を立ててな……で、こいつらは誰だよ?」
気付くとボクらは不良たちの集団に囲まれてしまっていた。木刀や竹刀を持った男達が数人でボク達の周囲を塞いでいる。
……しまった。うっかり不良たちの溜まり場である剣道場の周辺エリアに踏み込んでしまっていたか。
そして、リーダー格であろう頬に傷を付けた男が正面に陣取り、威圧するように木刀を突きつけて睨み付けてきた。
「よお、月見月ぃ!てめぇ彼女連れかよ。結構かわいいじゃねぇか。ちょっと貸してくんねぇ?」
「門司先輩ですか。お久しぶりです。ちょっとボクら急いでますので、失礼しますね」
周囲の連中から下卑た笑い声が聞こえてくるが、ボクにとってはいつものことだ。
一応は穏便に収められないかと思って下手に出てみるけど、どうやら効果は無さそうである。
「それで済む訳ねーだろ!今までの恨み、晴らさせてもらうぜ!」
そう言って木刀を振り上げて向かってくる門司先輩を、ボクは一歩下がることで回避した。同時に手に持った木刀を蹴り飛ばすのも忘れずに。
「なーなー、月見月先輩。こいつ誰だよ、やっちゃっていい?」
「駄目だよ。きみが手を出したら剣道場が処刑場になっちゃうだろ。彼は門司先輩といってね。剣道場を溜まり場に活動をしている不良少年だよ。週に三日は誰かしらの不良に絡まれるから、何でボクが門司先輩に恨まれているのかってのは覚えてないんだけどね」
仲間を呼んだのかこの間にもわらわらと虫のように武器を持った不良たちが湧いて出てきている。その数は八人。とはいえ、あくまで素人なのでボクにとっては物の数ではない。問題は――
「そこの女も痛い目みたくなきゃさっさと消えるんだな!」
「へー、このあたしを痛い目にね……」
――志布志がこいつらを殺さないかということだけだ
ピクリと志布志の頬が怒りでヒクついたのがわかった。もはや一刻の猶予も無い。志布志の纏う雰囲気が変わり始めたところで、ようやく男達も目の前の新入生に対する得体の知れない恐怖を覚えたらしい。その身体は過負荷(マイナス)に対する怯えでガクガクと震え出していた。しかし、今更振り上げた武器は止められない。
「や、やっちまえ!」
自暴自棄になったように振り下ろした鉄パイプを足で弾きながら、志布志の様子を伺うと、やはり向こうにも不良たちは襲い掛かっていた。慌ててボクは志布志に止めるように叫ぶ。
「ちょ、ちょっと待って!きみの過負荷(マイナス)は目立ちすぎる!学校で斬殺死体や血の海なんて発生したら、本当に生徒会や風紀委員が動き出してしまう!せめて格闘戦で……!」
女子に対する多少の配慮はあったのか、不良が志布志の脳天に叩きつけようとしていたのは木刀ではなく竹刀であった。いや、実際には何の配慮でもなくただの偶然なんだろうけど。そして、その竹刀が志布志の頭に激突する寸前――
――竹刀がバラバラになるように弾け飛んだ
「何だこりゃあ!?」
不良たちの顔に驚きの表情が浮かぶ。そして次の瞬間にはその男の脳天には志布志の踵が振り下ろされており、地面に顔面を勢いよく叩きつけられていた。
「これがあたしの過負荷(マイナス)『致死武器(スカーデッド)』――」
志布志は何事も無かったかのように佇んでいる。見ると志布志を襲った竹刀はバラバラになって地面に落ちていた。この現象は間違いなく志布志の過負荷(マイナス)の効果。
「で、でもきみの過負荷(マイナス)は無機物には作用しないはずじゃあ……!?」
ボクらの全身をズタズタに切り裂いたあの過負荷(マイナス)は、確かに人体にしか影響は無かったはず。驚きの目で志布志を見つめると満足そうな笑みを浮かべて答えた。
「その派生系――あの敗北によって新たに制御を得た、いや失った憎武器。名付けて」
そして、一拍置いて宣言する。
「――バズーカーデッド」
これは有機物だけでなく無機物までもズタズタに引き裂けるようになったということ――これがマイナス成長というものなのか
「安心しろよ月見月先輩。きっちり手加減してこいつらを病院送りにしてやるからよー」
その後、ボクと志布志に完膚なきまでにやられた不良たちは、「ごめんなさいもうしません許してください」と志布志とは違って心の底から誓わされ病院へと叩き込まれたのだった。ボクの方もついついやり過ぎてしまったので、剣道場を溜まり場にしていた不良たちは全員その溜まり場を病院へと強制的に移されてしまったことになる。とはいえ、不良たちがいなくなったため、一人の新入生が入部して剣道場は元の通りに剣道部員に使用されることとなったので結果オーライと言っていいだろう。
ようやく剣道場が使えるようになりました、とわざわざお礼を言いに来てくれたのは確か……日向とかいう一年生だったかな。
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「久しいな、月見月二年生」
「我こそはという者から名乗り出よ!全員まとめて一人残らず私が相手をしてやろう!」
箱庭学園の柔道場、そこになぜか黒神めだかが居た。凛とした声で宣言した彼女は柔道着を着ており、部員達は困惑した表情で遠巻きに眺めている。まさか道場破りとか?
「おはようございます。ええと……何が起こっているんですか?」
ボクは近くにいた部長の鍋島先輩に尋ねてみると、ニヤリと笑みを浮かべてみせてくれた。鍋島先輩とは現在の柔道部の部長で、反則王の異名を取る全国でも有名な選手である。
「おう、遅刻やでジブン。今日は生徒会長に新部長の選定をお願いしてるんよ」
「わざわざ部外者に……?」
疑問に思ったけど、鍋島先輩も何か企んでいるのだろう。意味もなく人選を他人任せにするはずがない。部長が誰になろうがボクには関係ない話だし、普通に考えれば阿久根か副部長の城南だろう。
「ほれ、お呼びやでー月見月クン」
鍋島先輩に言われて柔道場に目を遣ると、黒神めだかがボクの方を鋭い瞳で見つめていた。箱庭学園生徒会長・黒神めだか――豪華絢爛、才色兼備、質実剛健。ただ立っているだけでこの柔道場全体が華やいだかのような圧倒的な存在感。そしてこの威圧感は、こうやって相対しているだけで押し潰されてしまいそうに思える。さすが球磨川さんと同等の絶対値を持っているだけのことはある。
「久しいな、月見月二年生。いま部員達のテストを行っている。私がじきじきに鑑定してやるから貴様も掛かって来い」
「久しぶり……そして相変わらずだね」
ボクに敵意はもっていないようだけど、それでも強烈な威圧感に冷や汗をかきながら再会の挨拶をした。
「だけどボクはパスするよ。部長なんて興味無いしね」
そう言ってボクは黒神めだかから離れて壁際に歩いていき、やる気無さそうに壁に寄り掛かる。部長に興味が無いというのももちろんそうだけど、一番の理由は黒神めだかから離れたかったのだ。一般人が過負荷(マイナス)に近寄りたくないのと同様に、ボクも異常(プラス)の最高峰である黒神めだかにはできるだけ近寄りたくはない。あの高すぎるプラスの絶対値の前で、阿久根がそうだったように、ボクまでもがプラス側に引き寄せられたくないのだ。みんなはそれを改心と呼ぶのだろうが、結局それは過去の自分への裏切りである。ボクには球磨川さんがいればそれでいい。
「よいのか、鍋島三年生?奴はテストを放棄するそうだが」
「はぁ~。やっぱり興味はあれへんか」
黒神めだかの言葉に鍋島先輩はやれやれといった風に首を振る。
「本来はこんなん頼むまでもなく月見月クンが後継者やってんけどな。教えたことも素直に吸収するし練習も真面目やし」
何より才能が無いし、と辛辣としかいえない言葉を付け足した。
「そのつもりで一年間鍛えてきたんやけど……。どうも最後の一歩のところでウチの教えとズレが生じるゆーか。戦う相手に対する感じ方が違うんかな」
そのズレはボクと戦闘に対する前提が違うためだろう。凡人(ノーマル)が特別(スペシャル)に勝つためにと練られたのが鍋島先輩の柔道であり、それを異常(アブノーマル)や過負荷(マイナス)にも対応できるように勝手なアレンジを加えているのがボクの柔道だからだ。しかもサバットと併用して使うことを前提にしているものだから、確かに正式な鍋島先輩の後継者とはとても言えないだろう。
辺りを見回すと、善吉くんの姿を見つけた。どうやら阿久根と話をしているようで険悪な雰囲気を醸し出している。善吉くんは阿久根とも中学時代からの知り合いなので積もる話でもあるのだろうか。
「善吉くんも久し振りだね」
「あ……み、瑞貴さん。久し振りです」
懐かしい顔に挨拶をしにいったが、しかし善吉くんは顔をわずかに引きつらせて上ずったような声で答えてきた。
「そんなに怖がらなくていいよ。球磨川さんはいないんだし、めだかちゃんと敵対する理由なんて無いんだからね。そもそも敵対したところでボクでは相手にならないことは中学時代で学んでいるよ」
「そ、そうですか……」
そう言うと善吉くんはほっとしたように安堵の溜息を吐いた。だけどむしろ怖がるべきなのは、周りがプラスだらけで全面アウェイのボクの方なんだけどね……。
「よぉし!まずは副部長であるこの俺、城南が相手だ!」
そんなことを考えていると、ようやくテストとやらが始まるようだった。やはり放っている強烈な威圧感のせいでみんな萎縮して挑むに挑めなかったけど、さすがは副部長というべきか、その城南がまずは勇気を出して挑戦するようだ。
「ヒヒッ……それにこれうっかりおっぱいとか触っちゃっても不可抗力ってことでいいんだよな」
前言撤回。心の中から湧き出たのは勇気ではなく煩悩だったようだ。っていうか思っても口に出すなよ……。そして予想通りに一瞬で黒神めだかに投げ飛ばされてしまった。
「あれ?」
思わずボクは疑問の声を上げていた。もちろん城南が敗れてしまったことにではない。城南レベルの人間で黒神めだかの相手になるわけがないのは分かっている。ボクが疑問に思ったのは別のことだ。
「しかし聞こえなかったか?私は全員まとめて掛かって来いと言ったのだぞ」
そして、残りの全員が黒神めだかに襲い掛かっていくが、鎧袖一触で軽々となぎ倒されてしまう。困惑しながらもその後の様子を眺めていると、だんだんと疑問は確信へと変わっていった。でも、相手が弱すぎるからってことも……。確かめるにはやっぱりボク自身で試してみるしかないのか。
そして、すぐに柔道場で立っている者は黒神めだかただ一人となった。
「ふむ……なるほど、だいたい分かった」
「いや、まだボクがいるだろ?」
やりたくはないけど、この方法が一番確実だ。一通り全員を試し終わったのか、何か納得したような表情をしている黒神めだかに声を掛けた。意外といった風に一瞬目を丸くしたが、すぐにボクの言葉を理解して戦闘態勢に戻る。
「ほぅ……やる気になったか。では月見月二年生。貴様も掛かってくるといい。私が試してやろう」
「いや、試されるのは結構。部長になりたい訳じゃないしね。めだかちゃん、君には本気で勝負して欲しいんだ」
「なんだって!?どういうことですか、瑞貴さん!」
善吉くんの焦ったような声が聞こえるけど、別に中学時代の意趣返しというわけではない。ただ手加減されてはボクの疑問が解消されないというだけのことなのだ。
「なるほど、了解した。私も下克上を挑まれれば受けて立つ覚悟はあるぞ」
ボクの言葉に黒神めだかは面白そうに笑みを浮かべた。自信満々の表情で肉食獣のようにボクの瞳を射抜くように見つめてくる。その全身から迸る闘気で自身の筋肉が萎縮しているのが分かる。
「じゃあ一本勝負で――行くよっ!」
不安を振り払うように大声で開始の合図をすると、ボクは挨拶代わりに遠間から思いっきり相手の足を蹴り払っていった。ローキックに見紛うかのような威力と速度の足払いを受けて一瞬、黒神めだかの身体の軸が揺らぐ。しかし、すぐに体勢を立て直すと、即座に距離を詰めて再び蹴りを放とうとしていたボクの襟を掴んだ。
「三年振りに受けたが相変わらず鋭い蹴りだな」
「……それはどうも」
ボクの方も黒神めだかの襟を取ると、ここからは組み技の勝負となる。体重別で行われる競技というのは伊達ではない。ボク自身は特に身体が大きい方ではないけど、男女の体重差を利用して力尽くで相手の重心を揺さぶっていく。そして、とうとう黒神めだかの体勢が崩れた。
「今だっ!」
その隙に内股を掛けようとするボクだったが――
「甘い!」
――逆に返され、天井を仰ぎ見る結果となったのだった。
「それまで!一本や!」
鍋島先輩の声と共にボクの全身から力が抜けた。立ち上がると互いに礼をしてその場を去っていく。ボクの目的は達した。そのまま場外へ出て座り込むと、信じられない結果に何とも言えない表情が浮かんだ。もはや疑う余地はない。鍛錬の成果や男女の成長の差なんて話ではない。黒神めだかは――
――明らかに中学時代の彼女よりも性能が劣化している
そもそもボクが本気の黒神めだかとまともに戦えている時点でおかしい。本来ならボクの足払いでフラついたり、力比べで勝てたりする相手じゃない。最後は内股をすかされて敗北したけど、あらゆる格闘技を極めた黒神めだかと柔道を始めて一年のボクでは技術で負けるのはある意味当然のことなのだ。そう、身体能力や格闘技術とは別次元のところで勝負をしていた中学時代とは比べ物にならない弱さだ。この分だと通常モードであればボクでもやりようによっては黒神めだかを倒すことができそうだ。あの乱神モードですらボクと志布志の二人なら、いや志布志だけでも倒すことができるだろう。この学園を掌握するということも、あながち夢物語でもないかもしれない。
「はぁ……何を考えてるんだボクは」
頭を振ってその考えを打ち消した。黒神めだかを倒せたから何だっていうんだ。学園を掌握したところでボクには何のメリットもない。ただ危険なだけだ。球磨川さんの命令であれば利害は度外視して従うだけだけど、そうでなければわざわざ異常(アブノーマル)連中に喧嘩を売る意味なんて無い。
「さーて、じゃあ次の試合やな。無制限十本勝負VS無制限一本勝負!阿久根クンが十本取られるまでに一本でも取れたら人吉クンの勝ちや」
いつの間にか中央に陣取っていたのは阿久根と善吉くんだった。殺気立った雰囲気で二人は互いに相対している。審判は鍋島先輩が務めるようだ。
「で、阿久根クンが勝ったら人吉クンは柔道部に、阿久根クンは生徒会にお互いをトレードやでー」
「ちょっと鍋島先輩、どういうことですか?」
「ん?そのまんまの意味や。生徒会長さんも了解してくれたで」
ボクが戦っている間に驚きの交換条件が成立していたようだ。鍋島先輩は自分の柔道の後継者に善吉くんを選びたいということなのか。黒神めだかがこの勝負を受けたというのは性格的に納得できるところだけど。
「がはぁっ!」
早くも善吉くんは綺麗な背負い投げを掛けられて畳に叩きつけられていた。善吉くんの専門は立ち技なので当然の結果だろう。柔道にはマグレはない。普通に考えればほぼ素人の善吉くんに勝ち目は無いのだ。
「どない見る?ジブンやったらどう勝つんや」
隣に来ていた鍋島先輩がボクに声を掛けた。一般人(ノーマル)が阿久根(スペシャル)に勝つなんてことはほとんど有り得ない。過負荷(マイナス)とはいえ、ボクも実際には普通(ノーマル)に等しいから分かる。しかし、それを可能にするためだけに練り上げられたのが鍋島先輩の柔道なのだ。
「そうですね、ボクだったら……。まず十本中はじめの七本くらいを――わざと負けます。それも反則負けで」
マイナス思考で考えれば――十本勝負ということは九本は負けられるということなのだ。だから重要なのはどう勝つかではなく、どう負けるか。
「その反則で相手にダメージを与えます。ボディや金的に一発でもいいのが入れば残りの試合はとても万全では戦えません。場合によっては不戦勝もできます。万一、ダメージを与えられなくとも相手はこちらの反則を警戒せざるを得なくなります。つまり、こちらが組み技だけを警戒していればいいのに対して、相手は打撃技と組み技の両方を警戒しなくてはならない。圧倒的に有利です。しかも相手はこちらと違って一本取られたら負けなので明らかな反則技は使えない」
「せやな。ま、ウチやったら反則見せるんは最初の一本だけで、あとは会話とフェイントでプレッシャー掛けるけどな。ならジブンは人吉クンが勝つ思てるん?」
分かりきった質問をする鍋島先輩に、ボクは首を振って答えた。
「生徒の模範たる生徒会役員が堂々と反則しちゃマズイでしょう。性格的にも善吉くんは反則を前提とした作戦なんて立てないでしょうし。順当に戦って順当に負けるだけです」
しかし、その目論見は脆くも崩れ去ることになった。阿久根に勝利した善吉くんは柔道部には入らず、それどころか阿久根が生徒会の書記に任命されてしまう。
これで現在の生徒会のメンバーは黒神めだか、人吉善吉、阿久根高貴の三人。早くも生徒会の戦力が揃ってきていることに、ボクは若干の不安を覚えるのだった。
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「――通称フラスコ計画」
ある日の昼休み、ボクは理事長室に呼び出されていた。目の前にはまさに好々爺然とした風貌の老人、理事長である不知火袴が座っている。理事長に促されボクも高級そうなソファーに腰掛けた。
「それで理事長、ボクに話とは一体何でしょうか?」
「もう少々お待ちください。もうそろそろでしょうから」
といっても特に素行に問題ないボクを理事長がじきじきに呼び出すなんて過負荷(マイナス)関係に決まっている。そして、理事長の言葉通り、数分もしないうちにこの部屋の扉を叩く音がした。まだ来客がいたのかと思ってそちらに目をやると、そこから現れたのは志布志であった。……さすがにボク達のことは学園に知られていたか。
「失礼しまーす」
「お待ちしておりました、志布志さん。それでは話をさせてもらいましょうか」
そう言って志布志をボクの隣に座らせ、用件を話し始めた。
「と言ってもそう難しい話ではありませんよ。簡単なお願いです。君達には私の主催するプロジェクトに参加してもらいたいのです。十三組の中から選抜した特別な十三人で行われる研究――通称フラスコ計画。異常(アブノーマル)を研究することで天才を人為的に作製することを目標としています。もちろん報酬はそれなりに弾みますよ」
理事長の目的は突拍子もないようでいて、ある意味では想像通りの計画であった。異常者(アブノーマル)を集めて研究するというフラスコ計画。人吉先生も関わっていたらしいけど詳しいことは教えてもらえなかった。異常者(アブノーマル)を大量生産するなんて使い方次第では世界を牛耳ることさえできそうだけど、ここは闇の秘密結社なんかじゃなく教育機関なんだから大丈夫か。
「くっだらねー。あたしは興味ねーな」
「し、志布志……!?」
そう吐き捨てるようにして志布志は理事長室から出て行ってしまった。あまりに失礼な態度に止めようとするボクだったけど、しかし理事長はまるで気にした様子もなく見送るだけだった。気になることもあるけど、ボク個人としては悪くない計画だと思うんだけどな……。
「やはり断られてしまいましたか。まぁ、あれほどの逸材をこの目で見ることができたというだけで満足しておきましょう。さて月見月、君は参加して頂けますかな?」
「ですが先ほど十三組の中から選抜とおっしゃられましたが、ボクは七組ですよ?確かに以前、『異常者(アブノーマル)』と診断されたこともありますし、それに大枠ではボクも異常者(アブノーマル)なのでしょうが……」
しかし『異常(アブノーマル)』と『過負荷(マイナス)』は似て非なるものである。共通点もあるけれど、混同してはならないものだろう。しかし、理事長はそのことも知っているようで、理解していると言った風にゆっくりと頷いた。
「もちろん君達が過負荷(マイナス)なことは分かっています。『十三組の十三人(サーティンパーティ)』と呼ばれる彼らの中には君達寄りの生徒達もいますが、それでも過負荷(マイナス)ではありません。私が作りたいのは『天才(アブノーマル)』ですから。そもそも人員は足りていますしね」
「でしたらボクに何を?」
「君には私個人の進めているプランに参加して欲しいのです。公然の秘密であるフラスコ計画とは別の秘中の秘――もう一つの異常選抜十三組、マイナス十三組の設立に。危険すぎる計画ですが君と志布志さん、そして不肖の孫の三人もの過負荷(マイナス)が入学してきたというのは良い機会でしょう。実際にクラスを設立するのはまだ後になりますが、まず話を通さなければと思いましてね」
「ええ、わかりました。協力させていただきます。それで、ボクは実際には何をすればいいのですか?」
人類全てを天才(アブノーマル)にする計画――それならばマイナスにプラスを加えて相殺するように、ボクのこの過負荷(マイナス)も制御できるようになるかもしれない。実験の理念もボクには賛同できるものだし。しかし、なぜか理事長は呆気に取られたような表情を見せた。
「どうしたんですか?」
「……いえ、承諾していただけるとは思っていませんでしたので。思いのほか普通(ノーマル)な感性を持っているようだったので少し驚いただけです。それでは最初の実験として、これを振ってみてください」
そう言って理事長は六個のサイコロをボクに手渡してきた。不思議に思って少し調べてみるけど、特に何の変哲もないようだ。言われた通りにそのサイコロを全て同時に振ってみるが……
「これがどうかしましたか?」
「……特に偏りはなし、ですか」
割とバラバラの目が出たのを見て渋い表情で唸る理事長。もしかして結果が悪かったのか?理事長は少し考え込んで再び口を開いた。
「これは異常度を測る検査でしてね。例えばメンバーの一人である雲仙くんの場合、何度振っても必ずすべてが六の目になるのですよ。これが大体標準的な『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の結果です。月見月くん、もう一度振ってみてください。何の数字でも構いません。全て同じ目を出してください。それができなければこの話は無かったことにさせて頂きます」
その程度の異常度の生徒に用は無いということなのだろう。六個のサイコロの目が全て同じ数字になる確率は7776分の1。このくらいの確率を突破できないようじゃ参加する価値も無いということか。まずはサイコロを一個投げると一の目が出た。
「一の目、出ろっ……!」
再びサイコロを振ると、その結果は二。早くも不合格が確定してしまった。溜息を吐いて肩を落としたボクだったが、なぜか理事長は興味深そうにこちらを見たままだ。
「月見月くん、続けてください」
「え?でも、もう失敗は確定じゃ……」
言われたとおりに投げると出た目は三。続けて四、五と立て続けに出たところでボクもようやく気付く。そして、最後の一個のサイコロを投げる。もちろん出た目は――
「――六、ですか。なるほど、意に沿わないからこその過負荷(マイナス)。理解しました。一から六までが順番に出る確率は46656分の1。もちろん実験の結果は合格です」
全部同じ数字にしろと言われれば全て違う数字を出してしまうなんて、相変わらずボクの運は悪すぎる。ボクは自分の不運に苦笑しながらその場で立ち上がった。どうやらテストはもう終わりのようだし。
「詳細は追ってお伝えしましょう。そういえば明日は生徒会主催の水中運動会でしたね。部活動対抗ということでしたから、君も柔道部代表として出るのですか?学校行事は学生の醍醐味ですからね。存分に楽しんでください」
次の日、ボクは学園に新設されたばかりのプールにいた。今回のイベントは部費の増額を賭けた部活対抗戦であるため、周囲には様々な部の生徒達でひしめき合っている。野球部、サッカー部などの体育会系の部だけでなく、書道部やオーケストラ部などの文化系の部まで総勢15の部活がこの場で開会を待っていた。そして、予定時刻になり全員が集まったところでようやく生徒会役員から競技の説明が始まった。優勝した部活だけが今回増額される部費を総取りできるという争奪戦である。
「えー、それでは競技の説明に入りたいと思います。皆さんにはこれより四つの競技に参加していただき、その合計点で順位を競ってもらいます。それぞれの競技の説明はおいおい話すとして、まずは大まかな枠組みを三点。一つ目は代表者三名による団体戦であること。二つ目は競技はすべて男女混合で行うため、男子生徒にはハンデとしてヘルパーを装着してもらうということ。そして三つ目は――」
そこで生徒会長の黒神めだかが人吉くんのマイクを取り、代わって話し始める。
「しかし、利を得るのが優勝チームだけでは不満のある者もおろう。なので、ボーナスルールだ。この水中運動会には我々生徒会執行部も参加する!生徒会よりも総合点の順位が高かった部はその順位に関わらず、私が私財を投じ、無条件で部費を三倍にしよう!」
ざわりと会場がどよめいた。大きな部によっては今回の増額枠どころではなく貰える部費が跳ね上がるため、少なくとも生徒会には勝とうと皆が殺気立っている。おいおい、いくら大金持ちだからって私財を投じるなよ……。ま、貰えるものはもらっておこう。今の黒神めだかにならこの柔道部チームでも勝てるかもしれないしね。
「黒神ちゃんと勝負ってのは面白そうやん。なぁ月見月クン」
「そうですね。生徒会チームに勝てば部費が三倍ですからね。別に一位にならなくても生徒会の順位さえ落とせればいい」
「なんや、相変わらず黒神ちゃんが相手だとめっちゃヤル気出すやん。男子にはハンデが付くとはいえジブンを出しといたんは正解やったな」
柔道部のメンバーはボク、鍋島先輩、城南の三人。鍋島先輩はもう部活を引退したんだけど、それはともかく。全員がプールに入ると、早くも最初の競技の説明が始まった。種目は「玉入れ」。この深いプールの底に沈んでいる玉を高所に立ててある籠に投げ入れるというあれである。
「それでは!位置について。よーい……どん!」
実況席による開始の合図と共に全員が一斉にプールに潜ろうとするが……。
「うわっ……浮き輪が邪魔で沈めない!?」
男子にハンデとして付けられたヘルパーの浮力が邪魔をしてなかなか潜ることができない。当然だけどヘルパーというのは水中に沈まないための道具だ。水中の玉を取るに当たってはかなりのハンデである。周りを見ると男子連中は仕方なく少しだけ沈んで足で玉を取る作戦に移行しているようだった。しかし、それでも足が着くまで沈むのは大変だし、足で取るのはさすがに時間のロスが大きすぎる。
「浮き具の付いてないウチが玉を取ってくるからジブンらで投げや」
「……はい。じゃあ城南は籠の下でボクが投げて外したのをキャッチしてくれ」
男子が水中の玉を拾ってくるのは非効率的過ぎるし、外して落とした玉はまた水底に沈んでしまうため、どの部も苦戦しているようだ。そのため、ボクらは鍋島先輩が取ってきた数個の玉をボクが投げ、城南がバスケットのように外した玉をリバウンドする作戦にしたのだが――
「これはひどいな。一個も玉が入らない……」
よく考えたら運の悪いボクがこういった偶然性の高い投擲系の種目で活躍できるはずがなかったのだ。急に波が起きたり、リングに弾かれたりでいまだに柔道部の得点はゼロのままである。
「ごめん、城南!そっちと投げる役替わって!」
「おう、ってか外しすぎだろ。優勝したら増額した部費で合宿地を混浴のある温泉地にするんだからな!」
……そんなことを堂々と宣言するなよ。ほら、見学してる女子部員がドン引きしてるし。辺りを見回してみると、ちょうど生徒会チームが、いや黒神めだかが水中の玉すべてを投げ入れたところだった。
「生徒会執行部!何と一気に20ポイント獲得だぁー!早くも勝ち抜けです!」
実況席から驚きの声が上がる。どうやら黒神めだかのように多くの玉を固めて一緒に投げるのが玉入れの必勝法らしい。城南が試したところそれは本当のようで、何とか制限時間内にボクら柔道部も20個すべての玉を入れることができたのだった。
「何とかウチらも同率一位になれて、とりあえずは一安心ってとこやろか」
「そうですね。とはいえ今のところ一位が六チームくらいありますからね……。それになにより、さっきの競技はボク達も実質的には生徒会に完全に負けていました。生徒会に勝たないことにはボク達に賞金はありません」
実際は生徒会に勝てなくとも残りの15チームの中で一位になれれば部費は増額されるんだけど、元々ボクは賞金になんて興味無い。とにかく球磨川さんを潰した黒神めだかに一矢報いたいというだけ。
生徒会に喧嘩を売るつもりはないけれど、それでもボクは――黒神めだかのことが大嫌いなのだから。
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「位置について、よぉ~い……どん!」
水中運動会の第二種目は水中二人三脚だった。ルールは簡単、代表二人がプールを二人三脚で端から端まで走破するという競技である。今回はハンデであるヘルパーの不利はないため、柔道部は馬力のあるボクと城南の男子ペアでの出場だ。
「あれ?今回は生徒会からめだかちゃんは出ないんだね」
「まあね、生徒会主催の大会で俺らがダントツの差を付けちゃったらさすがに興ざめだろうからね」
「阿久根、ずいぶん余裕だね」
「君こそめだかさんが出場していないからって、俺にそう簡単に勝てると思わないで欲しいな」
隣には生徒会代表の阿久根と善吉くんペアが準備を終えて待っていた。余裕そうな阿久根だけど、この競技は体力・瞬発力を必要とする意外とハードな種目である。黒神めだか無しならば異常なことの起きない純粋な力勝負。今のうちに目標である生徒会の順位を超えておきたいところだ。
「位置について、よぉ~い……どん!」
結果は三位、しかも生徒会チームには二位で敗北してしまい、ボクらは順位の上でも生徒会の後塵を拝すことになってしまった。やっぱり黒神めだかだけでなく、生徒会役員は実力者揃いだ。黒神めだかの出ていないこの種目で勝てなかったのは痛い。ちなみに一位は競泳部。何と二人三脚で互いに足を縛ったまま泳ぐという離れ技を披露し、ダントツのトップに躍り出たのだった。
「……すいません、鍋島先輩。次の種目でお願いします」
「おう、安心しい。次の競技はウナギ捕りやったな。掴んだり捕まえたりはウチの得意分野やからな」
第三種目は「ウナギつかみ取り」。各チーム代表一名参加のこの競技、生徒会からは黒神めだかが出場している。いくら鍋島先輩といえど、理屈を超越している存在である黒神めだかには敵わないだろう。下手をすればこのプールに泳いでいるウナギを全て捕られてしまうのではないか、と思っていたんだけど……
「生徒会チームまさかの0ポイント!一位は競泳部、十五匹を捕まえた喜界島選手です!」
そういえば「動物避け」とかいうスキル持ってたんだっけ。ちなみに鍋島先輩は九匹を捕まえて堂々の第二位。まさかの生徒会の無得点で現在の順位は競泳部がダントツの一位。二位が我ら柔道部で、生徒会は今の競技でぐっと下がって第八位である。あとは最終種目でこの順位を守りきれればいい。……とは言っても、それは言うほど簡単なことではない。なぜなら最終種目は水中騎馬戦、黒神めだかの得意分野である戦闘力の勝負なのだから。さらにこの競技は順位が上のチームのハチマキほど得点が高く、現在八位の生徒会チームは一位の競泳部のハチマキを奪えばぴったりと逆転してトップへと躍り出る計算である。
「ま、黒神ちゃんは一位の競泳部を狙うんやろけど、ウチらは堅実に他のチームを狙っとこか。今の点差から言って、三位の陸上部当たりから奪っとけば余裕で優勝できるやろ。さっきも言うた通り、こういった取り合い、組み合い、掴み合いは柔道部の得意分野やし」
鍋島先輩の実力からすれば常識の通じない黒神めだかや、水中や水上において優秀(スペシャル)な競泳部を除けば他に敵はいないだろう。その辺りの強豪からは距離をおいて他チームを狙うのが上策。いくら黒神めだかでも騎馬の足である土台の二人は異常者(アブノーマル)ではないのだから、逃げに徹すれば直接ぶつからなずに済ますことは可能だろう。だけど……
「あの、生徒会チームを倒れればその時点で勝利は確定で部費は三倍なんですから、そちらを狙うというのは……」
「あんなぁ……黒神ちゃんと戦いたいんは分かるけど、ウチらは柔道部代表やねんで?部費がかかっとるんやから確実に行かんと」
「……そうですね」
ボクがそう意見すると鍋島先輩にたしなめられてしまった。そうだよな、部員全員の代表として出場してるんだから、個人的な気持ちより確実な勝利を取るのが当然。いくら鍋島先輩でも一対一で黒神めだかに勝つのは至難なのだから……。しかし、意外にもボクに賛同してくれたのは最も勝利にこだわっていた城南だった。
「いいじゃないっすか、鍋島先輩!この前の部長選抜のときから、月見月も含めて俺ら二年は全員あの生徒会長には負けっぱなしですし!」
「……でも城南、いいの?現在二位のボク達は、生徒会にハチマキを取られればその時点で逆転されて部費の増額は無しになるんだよ?」
「おう!だけど、あの化け物生徒会長に勝てれば、それは誰も為しえなかった下克上。俺達は一気に学園のスターだぜ!ヒヒッ……そうなれば女子達にも間違いなくモテモテ」
一応聞き返したけど、城南の方はずいぶんと乗り気なようだ。それにしてもキャラのぶれない男である。相変わらずな城南は置いておいて、鍋島先輩は少しだけ悩むようにしてから再び口を開いた。
「ま、ウチは引退した身やしな。部長の城南がそう言うんならそうしよか!それにウチかて、黒神ちゃんとは一度ガチでやり合いたいと思てたしな」
鍋島先輩はそう言って口に薄く笑みを浮かべる。正直勝てる可能性は低い。だけどボクが提案したことなんだ。
ボクだっていつまでも敗北者のままではいられない!
「それでは最終戦!泣いても笑ってもこれで勝者が決まってしまいます!勝って部費の増額を手にするのは一体どの部なのか!では、位置について!よーい……どん!」
その開始の合図と同時に意外にも生徒会と競泳部の騎馬が正面からぶつかりあった。競泳部も当然生徒会からは逃げると思っていたんだけど、予想に反して直接対決を挑んでいる。先ほど黒神めだかが挑発していたせいなのか、競泳部の喜界島は今までになく熱くなっているようだ。だけど、これはボクらにとっては千載一遇のチャンス!
「これならイケるでぇ!」
ボクらはその隙に生徒会チームの背後に回ると、鍋島先輩の腕が疾風のような素早さをもって襲い掛かる。
「な!?めだかさん!後ろです!」
「ほう……柔道部か、面白い」
黒神めだかは阿久根の声に振り向くと、軽々と鍋島先輩の腕を片手で弾いてしまった。しかし、鍋島先輩もそれだけでは終わらない。そのまま続けてハチマキへと手を伸ばし、高速で組み手争いを行っていく。同時に競泳部もチャンスとばかりに攻め始めた。
「貴様ら、どちらも見事な腕前だな。さすがにこの二人を同時というのは厳しいか」
「その割にはまだ余裕ありそうやん、黒神ちゃん」
そう言いながらも黒神めだかは二人の腕を止め、払い、弾き、いなしている。特待生(スペシャル)二人による前後からの挟撃を受けて、いまだに自分のハチマキを取られていないというのは流石だとしか言えない。しかし黒神めだかの方も攻撃に転じる余裕は無いようで、事態は膠着状態に陥ってしまっていた。
「二人掛かりなら何とかなる思たけど、片手だけでこうも簡単にウチの攻めを防がれるとはなぁ……」
さすがの鍋島先輩も苦い表情を浮かべている。鍋島先輩と競泳部の喜界島との二対一での挟撃でも互角。だったら三対一にするまで!
「鍋島先輩!隙を作ります!」
ボクは騎馬を前へと移動させてさらに距離を詰め、相手の騎馬の後ろ足である阿久根のすぐ側へと近寄っていく。そして、阿久根に気付かれないように自分の足を前へと動かし――
――踵で阿久根の足の甲を踏み抜いた
「があっ……!」
水中でだいぶ威力は落ちたとはいえ無警戒のところに全体重を乗せた踵。阿久根が痛みで呻いた瞬間、騎馬のバランスが崩れ、黒神めだかに致命的な隙が生まれる。
「ようやった!」
その一瞬を逃す鍋島先輩ではない。同時に反応した喜界島も手を伸ばすが、二人の指はハチマキには掛からず空を切ってしまった。直前に黒神めだかは崩れかけた騎馬から飛び降りていたのだ。負けを覚悟して、せめてハチマキだけは奪わせないようにという意地なのだろう、そうこの場にいたほとんどが考えた。しかし……
「なんやて!」
会場中が驚きの目で見つめている。なぜなら、プールへと飛び降りた黒神めだかは、水没することなく水面に片足立ちで浮いていたのだから。いや、その言い方は正確ではない。寸前に善吉くんが投げたヘルパーの上に乗り、その浮力によって沈むのを防いでいる。理屈の上では確かに可能――な訳がない!
あんな小さなヘルパーが普段泳ぐときに人を浮かせることができるのは、身体の大部分が水中に沈んでおり、すでに浮力で重さの大部分が軽減されているからだ。あんな小さなヘルパーで全身がまるで沈むことなく浮くなんて常識では考えられない。まさに『異常(アブノーマル)』な事態。そして、それを起こせるのが黒神めだかなのだ。
そこから黒神めだかが勢いよく跳躍した。狙いは競泳部のハチマキか……!やっぱり最後の最後で華麗に逆転勝利されてしまう。これだから異常者(アブノーマル)の連中は……!
「鍋島先輩!」
「わあっとる!」
鍋島先輩もボクの肩を踏み台にして跳び出していく。狙う方向は同じく競泳部。しかし、タッチの差で喜界島の所へ先に辿り着いたのは黒神めだかの方だった。黒神めだかは飛び込んだ勢いのまま喜界島に抱きつくと――そのままキスをしていた。疑問を覚える間もなく、その一瞬後に飛び込んできた鍋島先輩がぶつかり、一緒に三人まとめてドボンと水飛沫を上げてプールに落っこちるのだった。
「おおっとぉー!三人同時に着水!失格だぁああああ!しかし最後の混戦は一体どうなったのか!」
エキサイトした解説の怒鳴り声が室内プールに響き渡る。決着はどうなったのかと祈るように見つめるボクの目にようやく浮かんできた鍋島先輩の姿が映った。その手には競泳部のハチマキが……。
「これは!柔道部の鍋島選手、あのドサクサで競泳部のハチマキをGETしていたようです!と、いうことは!柔道部が総合点ダントツ一位に躍り出ましたぁあああ!」
鍋島先輩は楽しそうにこちらへと戻ってくる。ボクの心は驚きで一杯になっていた。まさかボク達があの黒神めだかに勝つことができるなんて……。いや、ボクはほとんど何もしてないけど。
「いやー、二人のハチマキを取ろ思てたけど、さすがに黒神ちゃんの方は取れんかったわ」
「鍋島先輩すごいですよ!まさか勝てるなんて!」
「後輩が勝って言うのてんなら、先輩として期待には応えんとね。それに、黒神ちゃんもハチマキ取ることより、あの競泳部の娘の方に集中しとったみたいやったしな」
ボクは珍しく喜色満面の笑みを浮かべて鍋島先輩を褒め称えていた。これが反則王、鍋島猫美の凡人が天才を倒すための勝利への執念。
そしてここで試合終了の合図が。ボクら柔道部は堂々の第一位、ダントツ一位だった競泳部は二位へと落ち、そして何と生徒会チームはこの試合0点で順位は十位へ後退。恐ろしいことに九つもの部が今年の部費が三倍になるという異常事態となったのだった。特に柔道部は元々全国区で高額だった部費の三倍に加え、さらに部費増額となり、相当の額が舞い込むこととなる。
「ヒヒッ……こうなったら今年の遠征は海外のヌーディストビーチにしよう」
せっかく優勝したっていうのに城南は気持ち悪い笑みを浮かべてひどい独り言を呟いている。もうこいつの女子からの評判は終わったな……。そのまま勝利の余韻に浸っていると、大会の締めの挨拶が終了した黒神めだかがこちらへとやってきていた。
「よい勝負だった、鍋島三年生」
「『綺麗な相手に汚く勝つ』、ウチの卑怯と反則ちゃんと見したったで。ま、次は二対一でも背後からでもなく、正面からサシでやってみたいもんやな」
じゃあ、と軽く手を上げて鍋島先輩は帰っていった。二対一だろうが背後からだろうが、それは十分過ぎる偉業ですよ。ボクは一年間鍋島先輩に師事していたけど、やっぱり彼女に柔道を教わっていてよかったと再度心から思ったのだった。そしてボクも着替えようとロッカー室へ戻ろうとすると、なぜか黒神めだかに呼び止められた。
「さてと、次は月見月二年生。貴様に話がある」
「……ボクに?」
そして続けた言葉は、ボクにとってあまりにも予想外なものだった。
「貴様、生徒会に入らないか?」
一瞬ボクの思考が止まる。そして、次に湧き上がってきたのは静かな怒りだった。
「……まさか、ボクが改心したとか思ってるんじゃないだろうね。敗北した球磨川さんを簡単に裏切って、勝者である君の方にほいほい尻尾を振るとでも?」
だとしたらひどい侮辱だ。ボクの気持ちがその程度だと思われているだなんて。
「そういった意味ではないぞ。元より副会長には私に敵対的な者に就いてもらおうと思っていたのだ。中学時代のこともあるし、今回の水中運動会でもそうだ。やはり貴様が適任だろう」
そんなふうに偉そうに言い放つ。冗談じゃない、と口を吐いて出かけたその言葉を飲み込み、ボクは少しの間考え込んだ。確かにリスクはある、だけど……。
「……わかったよ。生徒会副会長の仕事、引き受けさせてもらうよ」
「そうか、それはよかった」
そう言って黒神めだかは持っていた腕章を手渡してきた。そこに書かれているのは『副会長』の文字。それを受け取ったボクは苦笑した。中学時代から役職がランクアップしたみたいだ。
「それでは月見月二年生。副会長の任、存分に励むがいい!」
――こうしてボクは生徒会執行部の一員となったのだった。
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「生徒会副会長となった月見月瑞貴です」
水中運動会から数日後、ボクは生徒会室に立っていた。柔道部の引継ぎで思いのほか時間が掛かってしまったので、本日から副会長業務に就くことになる。そのボクを黒神めだか以外の他のメンバーは不思議そうな目で見つめてくる。
「今日から生徒会副会長となった月見月瑞貴です。どうぞよろしく」
「「ええええええええええええ~!」」
ボクが就任の挨拶を行うと、その一瞬後に生徒会室に絶叫が轟いた。その声の主は阿久根と善吉くんである。生徒会役員は黒神めだかの独断で決められたため、特に信任投票などがある訳でもなく、このようなサプライズになってしまったのだ。
「ちょ、ちょっとめだかちゃん!一体どういうことだよ!何で瑞貴さんが!?」
「そうですよ、めだかさん!中学時代のことを忘れたんですか!?」
二人が焦った様子でまくし立てるが、黒神めだかは全く気にもせずに涼しげな表情を見せている。まあ二人の気持ちも分かる。自分の懐刀を置くべき副会長という役職に、何でわざわざ中学時代の宿敵の仲間を置かなくてはならないのか。
「何で二人が慌ててるのかわかんないけど……。これからよろしくね、月見月先輩」
二人が黒神めだかに詰め寄っている間に、黒神で眼鏡の女子がボクへと挨拶してくれた。ボクの中学時代を知らない人なら、これが普通の反応だろう。
「うん、こちらこそ。君はええと……先日、新しく会計に就任していた喜界島さんだったよね。就任したばかりで慣れない仕事だろうけどお互いに頑張ろう」
「はい。あ、そういえば月見月先輩も水中運動会に出てましたよね。優勝できるなんてすごかったです」
「ありがとう、でも君の方こそ一年生なのに大活躍だったじゃない。ウナギ取りの種目なんてうちの鍋島先輩にも勝ってたし」
先週の大会にも出場していた会計の喜界島さんと談笑する。水中運動会で黒神めだかと勝負をしていた競泳部の特待生であり、今は生徒会との兼部をしているそうだ。彼女もボクと同時期に生徒会に誘われたらしい。
「おい、月見月!ちょっと来い!」
そう言って阿久根がボクを肩を組むようにして顔を近づけると、そのままみんなと距離を取って小声でボクに話し掛けてきた。
「ん、どうしたの?」
「どうしたじゃない!これでも四年の付き合いだ。君がいまだに球磨川側の人間だということぐらい知っているんだぞ!」
「だったら分かってるだろ?ボクが意味も無く学園と敵対なんてしないってことくらい。球磨川さんがいない以上、ボクが黒神めだかと敵対する意味なんかないよ」
「……じゃあ、なぜ生徒会に入ったんだ。めだかさんに敵意は抱いていないとしても、好意だって抱いてないだろう?」
「学園の生徒として母校のために尽くしたいと思うのはそんなにおかしなことかな?」
ボクはそんな白々しい言葉を口にする。しかし、阿久根にも分かっているだろう。少しの間、迷ったように口をつぐむが、黒神めだかと敵対するつもりもその実力もないということには納得してくれたのようだ。そのため、しぶしぶだけどボクを離してくれた。ただ離れ際に、ボクに下手な真似はしないようにと釘を刺すのを忘れなかったけど。
「阿久根先輩、どうかしたの?人吉くんも何か様子がおかしいし」
「いやいや、何でもないよ喜界島さん。月見月とは柔道部の知り合いでね。積もる話があっただけさ」
そんなこともあって、とりあえずボクは生徒会の一員として認められたのだった。
それから数日後、ボクは廊下を歩いている善吉くんの姿を見つけた。声を掛けようとしたボクだったけど、その瞬間驚愕のあまり表情が固まってしまう。何と、善吉くんは女子の腕に手錠を掛けて、一緒に仲良く歩いていたのである。
「ぜ、善吉くん……」
「み、瑞貴さん!?いやこれは……」
あちらもボクに気付いたのか慌てて手錠の嵌められたお互いの両手を隠す。しかし、それはもう後の祭りだ。学校で手錠プレイするカップルなんて、現実で存在してたんだな……。
「あ、ごめん。デートの邪魔しちゃったね。ボクはもう戻るから心配しないで」
「ちがいます!ああ、もう説明しますから帰らないでください!」
「善吉くんが女子に手錠を掛けて連れ回す趣味があったなんて……。あ、それとも逆に君が連れ回されてるの?いや別に趣味を否定するわけじゃないんだけど、どちらにしても学校でするようなことじゃないよ」
「え?人吉くん……本当にそんな趣味が……?」
慌ててまくし立てるボクの言葉に、繋がれている女子の方も何か化け物でも見るような怯えた目で善吉くんに問いかけている。善吉くんは黒神めだか一筋だと思っていたけど、時の経つのは早いものだなぁ。
「あーもう違いますってば!」
どうやら説明するところによると、色々あってこの風紀委員の女子が自分の手錠を間違えて善吉くんと互いに掛けてしまったそうだ。なので、これから手錠の鍵を外すために風紀委員会の本部に行くところだったらしい。
「せっかくだから瑞貴さんも来てくださいよ。風紀委員ってのは生徒会執行部にとっちゃアウェーみたいなとこなんでしょ?」
「だからって別に取って喰われる訳じゃないんだけど……。でも、ちょうど暇だからね。心細いって言うならボクも行くよ」
「って誰のせいだと思ってるんですか!そもそも生徒の模範であるべきはずの生徒会長である黒神さんが率先して風紀を乱してるなんておかしいでしょ!何ですかあの制服は!?」
しかし、ここで風紀委員の鬼瀬さんが怒ったように話に割り込んできた。彼女は一年生でありながら過激な取締りを行うとして有名な風紀委員の女子である。確か数日前に黒神めだかの取り締まりを失敗して罰として胸元を露出した制服を着せられていたという噂だけど。
「いやまあ、勘弁してやってくれよ。めだかちゃんは軽く露出癖があってさ、あれでもマシになったんだぜ?制服をノースリーブにするのだけは止めさせたんだしさ」
「それがフォローになってると本気で思ってるんですか!?」
現在、生徒会と風紀委員の仲は悪い。黒神めだかの制服改造が校則違反だということで、そろそろ風紀委員長までが出張ってくるのではないかとまで噂されている。まぁ、これに関してはボクだけでなく善吉くんも問題だと思って諫言したんだけど、あの胸元を露出した恥ずかしい制服のどこに愛着があるのか、頑として着替させることはできなかったのだ。
「まぁ、それは今はいいです。何だか目立っちゃってますし、早く本部に行きましょう」
そう言って好奇の視線晒されて顔を赤くした鬼瀬さんは善吉くんを引っ張るように歩き出した。風紀委員室は今いる場所とは反対方向にあり、ここからは少し距離がある。しばらく歩いたところで善吉くんも周囲の視線に耐えかねたのか、自分の気を逸らすようにボクに声を掛けてきた。
「そういえば瑞貴さん、お母さんが一度診察したいからうちに来て欲しいって言ってましたよ。ほら、中学時代のことで過負荷(マイナス)が増大してないか調べたいって」
「いや、やめておくよ。当時は球磨川さんの影響で少し過負荷(マイナス)性が引き上げられてたけど、今は抑えられてるし。それに、もし球磨川さんの影響でそうなったのならボクはそれを治したいとは思わないよ」
それを聞いて善吉くんはハァ、と溜息を吐いた。
「やっぱり瑞貴さんは訳分かんないですよ……」
「そう?でも善吉くんだって、もし中学時代にめだかちゃんが球磨川さんに敗れていたとしても、きっと君はボク達に賛同したりはしなかったでしょ?それと同じだよ。プラスである君は同じくプラスの塊であるめだかちゃんに惹かれ、過負荷(マイナス)であるボクは負の塊である球磨川さんに惹かれたという違いだけ」
「……まぁいいか。とにかく俺の言いたいことは一つだけです。阿久根先輩にも言われたでしょうが……」
善吉くんはやれやれと首を振ると、一変して表情を鋭くしてボクの目を射抜くように睨みつけてきた。その両の瞳からは不退転の覚悟が伝わってくる。
「――めだかちゃんの敵になるようなら瑞貴さんであろうと俺がぶっ潰しますから」
「……肝に銘じておくよ」
善吉くんらしい台詞だね。ボクが球磨川さんの忠犬であるように、善吉くんは黒神めだかの番犬だ。黒神めだかに害を為すようなら宣言通りにボクを排除するのだろう。
「ええと……もしかして生徒会役員同士って仲が悪いんですか?」
おずおずと鬼瀬さんが声を上げた。支持率98%という圧倒的な求心力を持つ黒神めだかである。そんな生徒会の役員が仲間にぶっ潰すなんて脅してたら困惑するのも当然だろう。別に善吉くんとは仲が悪いわけではなく、所属する陣営が違うというだけの話だ。そう答えようとするけど、突然現れた二人の不良によってその言葉は口から発せられることはなかった。
「はっはっはあああああ!あの鬼瀬さまが手錠で身動き取れなくなってやがるぜー!」
「今までの恨み思い知れやああああああ!」
突然現れた二人の不良らしき男達。彼らは一人は金属バット、もう一人は木製のバットを振りかぶってこちらへと襲い掛かってきている。そのまま二人は校内だというのに何の躊躇も無くボクらへ向けてバットを振り下ろした。ええと、たしか……こいつらは木金コンビとか呼ばれてる二人組だったかな。何か言ってるけどボクは無視して構えを取る。こう毎日のように襲われるといい加減、口上を聞いているのも面倒だし。
「人吉くん、月見月先輩、下がってください!この二人は木金コンビという学園でも有名な不良です。先日、私が取り締まったのを逆恨みして……」
「「ごほぉっ……!」」
「え?ごめん、何だって……?」
鬼瀬さんの話の途中だったけど、ボクはいつも通り不良を蹴り飛ばしていた。側頭部に蹴りを受けた二人はあっけなく失神して地面に倒れている。その二人を視界に捕らえた鬼瀬さんは呆然とした表情で目を白黒させていた。よく考えてみれば風紀委員の目の前で喧嘩なんてかなりの問題行為かもしれない。もしかして暴力行為を咎められるのかと思い、一応言い訳をしてみせる。
「ええと、彼らが武器を持って襲い掛かってきたんだから正当防衛だよね?」
「え、ええまあ……そうですね。そもそも私はこの二人を取り締まりに行く途中だったわけですし。今回の件については見逃しますよ」
鬼瀬さんは顔を逸らしてツンデレっぽく言い放った。なんだ、この二人の狙いはボクじゃなかったのか……。と、そこでボクの携帯電話の着信音が鳴りだした。
「あ、ごめん善吉くん。ちょっと先に行ってて」
慌てて携帯を取り出しながら玄関から校庭へと逃げるように去っていくボク。さすがに風紀委員の目の前で電話に出るのは問題だしね。鬼瀬さんも仕方が無いといった風に首を振って見逃してくれた。
そうして外に出て携帯の着信欄を見るとそこには――『球磨川禊』の文字。ボクは知らず歓喜の笑みを浮かべると急いで通話ボタンを押した。
『やあ、瑞貴ちゃん。久し振りだね、元気だった?』
「球磨川さんですか!?お久し振りです、ボクの方はこれまで通りです」
『そう、瑞貴ちゃんって確か箱庭学園に通ってたよね。もうすぐ僕もそっちに転校することになったんだよ。不知火理事長の推薦でね』
「本当ですか!嬉しいですね、お待ちしてます」
ボクは天にも昇るような気持ちで自然と喜色満面の笑みが浮かんでしまう。まるで初恋の少女と再会したかのようにボクの心臓がバクバクと踊り出す。そうして球磨川さんとの久し振りの会話を楽しんでいると、それじゃと前置きをして本題に移るようにボクに頼み事をしてくれた。
『フラスコ計画って知ってる?箱庭学園で行われている天才(エリート)を作り出すための計画』
「はい、知ってますけど」
『あれってさ、邪魔だよね。僕が箱庭学園に転入するまでにさ。その計画、潰しちゃっておいてよ』
球磨川さんの言葉に一瞬息が止まる。そんな簡単に言ってくれるけど、学園の異常者(アブノーマル)、そのトップである『十三組の十三人(サーティンパーティ)』を潰すなんてあまりにも無茶苦茶だ。とてもボクにできる仕事じゃない。しかし、理性とは裏腹にボクの口は勝手に動いていた。
「分かりました。フラスコ計画はボクが潰しておきますよ」
中学時代あんな無様を晒しておいて、これ以上ボクに球磨川さんを期待を裏切ることなんて絶対に出来ない。球磨川さんに言われたならば、どんな手段を使っても成功させる。答えながらボクはその覚悟を決めていた。
『ありがとう、瑞貴ちゃんならそう言ってくれると信じてたよ。それじゃまたね』
そう言って電話は切れた。同時にボクの頭上から響く悲鳴。ボクが見上げるとガシャンとガラスの割れる音と共に――天から降ってくる消火器が視界に映った。頭に当たれば即死。しかしその瞬間ボクは一歩横に跳ぶことで消火器を回避しており、同時に脱いでいた制服の上着を大きく頭上に振ってガラスの雨を弾き飛ばしていた。
そして、この懐かしい感覚に一層深く歪んだ笑みが浮かぶ。
「これは幸先がいいね。いや、幸先が悪いのかな」
中学時代の敗北以来、頻度の減っていた致死レベルでの不運がひさしぶりにボクの身に巻き起こったということ。球磨川さんと別れたせいで抑えられていたボクの過負荷(マイナス)性が、数年前のレベルまで戻ってきているのを感じていた。
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「なんて最悪(マイナス)なんだよ…」
フラスコ計画の実験場である時計台地下。そこに入るための扉の前にボクと志布志は立っていた。隣にはこの『拒絶の扉』の門番であった対馬右脳・左脳の二人が全身の骨をへし折られて気絶したまま床に倒れこんでいる。
「で、どーすんだよ?この扉を開けるには六桁のパスワードが必要らしいじゃねーか」
「異常者(アブノーマル)の異常度を選別するための『拒絶の扉』ね。扉の開く確率は百万分の一。ま、問題ないよ」
そう言ってボクは扉の機械に六桁の数字を打ち込んだ。フラスコ計画の参加者はこの打ち込むたびに変わるパスワードをノーヒントで毎日通過しているのだ。つまり、異常度が高ければ必ず通れるということ。そして、ボクは機械に打ち込んだ数字から――最も遠い数字に変換して打ち直す。すると、ピーと機械音が鳴り、直後に扉が開かれた。
「ひゅー、やるね」
「理事長のサイコロ実験で、こういった異常度の選別はボクにも通用することが分かってたからね。さ、行こうか。『十三組の十三人(サーティンパーティー)』を全員リタイアさせにね」
口笛を吹くような仕草をした志布志と共にボクらは下層へと潜っていく。さて、鬼が出るか蛇が出るか。先日、黒神めだかが『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の一人、雲仙冥利を潰してくれたため、残りは十二人。さて、常識を超えた異常者(アブノーマル)集団にボクがどこまで通用するか……
「おいおい、どーしたんだよ。せっかくのピクニック、楽しんで行こーぜ?フラスコ計画を潰すってのは暇潰しにはちょうどいいしな。学園に入学してから退屈で堪らなかっけど、今日はこの時計台地下を血の池にしてやるよ」
真剣な表情をしているボクとは対照的に志布志の表情は軽い。まるで本当にレクリエーションに来ているかのようだ。ボクがこのフラスコ計画を潰すに当たって、仲間に選んだのは同じ過負荷(マイナス)である志布志だった。一緒に来てくれるかが心配だったけど、あっさりと承諾してくれたので助かったよ。志布志の戦闘力は異常者(アブノーマル)連中と比べても群を抜いているし、これほど心強い仲間はいない。……志布志の方がボクを仲間と思ってくれているかは分かんないけど。
それから十分ほど地下の通路を進んでいたのだが、どうも似たような道をぐるぐる歩き回らされているような感じを受ける。志布志も同じだったようで、おそらくこれは迷路の一種だろうという意見で一致した。もうすでに帰り道すら分からなくなっていたボク達だけど、そもそもそんな正攻法でクリアしようなんて思っていない。特に運の悪いボクが偶然クリアするにはかなりの時間が掛かってしまうだろうし。
「志布志、お願い」
ボクが目配せすると、志布志は頷いて横の壁に近寄り手を当てた。次の瞬間その壁に亀裂が入り、その手を当てた周辺がガラガラと崩れ出す。そして、そこには人が通れるくらいの大穴が壁を貫通して出来ていた。
――憎武器(バズーカーデッド)
さらに精密操作が可能になった志布志の過負荷(マイナス)で壁を抜いて進もうということである。これでぐるぐる同じところを回ってしまうことはなくなる。それでも出口が見つからなかった場合、床を抜いて下のフロアで降りればいい。できればこの階層を担当しているメンバーを見つけたいところだけど。そんなことを考えていると、いきなり僕らの横から声を掛けられた。
「トレビアン!おいおい、人の実験場をそんな壊すんじゃねえよ」
驚いて振り向くとそこには色黒で体格の良いドレッドヘアーの男がパチパチと拍手をするようにして立っていた。その全身から発せられる威圧感は確かに『十三組の十三人(サーティンパーティ)』にふさわしい異常度で、ボクの身体は自然と戦闘態勢を取っていた。志布志はというと涼しげな顔で壁に寄り掛かったままだけど。
「理事長から連絡があったぜ。門番を再起不能にした侵入者がこの実験場に入ってるってな。あ、俺は三年十三組の高千穂仕草ってんだけど」
「そうですか、ならボクも自己紹介させてもらいましょう。二年七組、月見月瑞貴。フラスコ計画を潰しにきました」
「へえ、だが残念だったな。ここにいるのが『十三組の十三人(サーティンパーティ)』最強のこの俺じゃなかったら少しは突破できる可能性があったかもしれ――!?」
口上を最後まで言わせることなくボクは高千穂という男に蹴り掛かっていた。不意打ちによるハイキックは、しかし男が一瞬のうちに姿を消したことによって空を切ってしまう。そして同時にボクは右脇腹から発生した衝撃によって壁際まで吹き飛ばされた。
「がはっ……!?」
それは感知できないほどの速さでボクの横に移動していた高千穂先輩の拳による一撃であった。反射的に出していた右腕でかろうじて防御できたが、そうでなければボクの肋骨は折られていただろうというほどである。普段から危機察知とそれに対する反射行動を鍛えていなかったら反応すらできなかっただろう。即座に立ち上がりにらみつけると、なぜか高千穂先輩は抑えきれないといったように歓喜の表情を浮かべて大声で笑い出していた。
「はははははっ!実にトレビアンだぜ!俺の攻撃を受けられるのかよお前!まさか十三組でもなく七組に、俺に触れるやつがいるなんてな!」
――速い、そして強い
なぜかテンションの上がりきっている高千穂先輩を横目に、ボクは静かにそう呟いていた。最大速度というよりは俊敏性が恐ろしく鋭い。あの一瞬の交錯ですでにボクでは勝てないということを認識させられていた。ま、それでもいいんだけどね……。
「さあ、殴り合おうぜ!俺はずっと待ってたんだ!俺とまともに闘える奴をよお!」
「……志布志」
「あいよっ」
「おいおい、早く始めよ……がっ!?」
――ボクの言葉と共に高千穂先輩の全身がズタズタに裂け、鮮血を撒き散らしながら倒れ伏した。
ボクに倒せないのならば、志布志に倒してもらえばいい。志布志の『致死武器(スカーデッド)』の前にはパワーもスピードも関係無いのだから。
血達磨となって倒れた高千穂先輩を見下ろすと、ボクは踵を返して志布志の元へと歩き出す。
「門番の人によると、一つの階層につき『十三組の十三人(サーティンパーティ)』が一人らしいから、これでこの階はクリアだね。面倒だから床をぶち抜いて下の階に降りようか」
そのまま志布志に床を壊してもらい、さらに下層へと飛び降りようとしたところ、ボクの背後から声が掛けられる。驚いて振り向くと、息も絶え絶えで血塗れの高千穂先輩がふらふらと立ち上がっていた。そして必死の形相でボクに向けて声を張り上げる。
「ま、待ってくれ……!まだ俺は終わっちゃいねえ!そこの女が何をしたのか知らないが、お前なら俺と殴りあえるんだろ!?白黒はっきりさせようぜ!」
買いかぶりだ。ボクは自身の不運によって危機回避による防御は反射のレベルで行えるが、あれだけの異常な反応速度を誇る高千穂先輩に攻撃を当てることはできそうにない。闘うことはできても勝つことはできないのだ。
「ようやく俺と闘える奴が現れたんだ。拳で語り合おうぜ!そのために俺はフラスコ計画に参加したんだ!なあ、頼む!俺はそこら辺の取るに足らない奴なのか!?」
もはや懇願するように高千穂先輩は叫んでいる。異常者(アブノーマル)は関係性に飢えている。これほどの反応速度を持っている高千穂先輩にとって、自分と格闘戦を行えるボクはようやく現れた理解者なのかもしれない。しかし、それに対するボクの答えは一つだけだ――
「――興味ないね」
再び全身から噴き出す鮮血に今度こそバタリと倒れる高千穂先輩。優先すべきはフラスコ計画を終わらせること。まだまだ長い道中、怪我をする危険性は回避しなければならないのだ。今度こそ動けなくなった高千穂先輩は、無念の表情を浮かべて悔しそうに唇を噛んでいる。
「てめえら……なんて最悪(マイナス)なんだよ…」
その苦々しげな声を聞いてボクはわずかに唇を吊り上げた。
「ありがとう、褒め言葉だよ」
地下二階に下りたボクは日本庭園のようなフロアを散策していた。青い空と緑が広がり、とても室内とは思えないほどの完成度である。ちなみに志布志は床をぶち抜いて最下層までショートカットしてもらっている。そこら中にある監視カメラによってボク達がフラスコ計画を潰しに来たことはすでにバレているだろうし
、ボクは上から、志布志は下から挟み撃ちの形でここにいる人間を逃がさずに根絶やしにしようという作戦である。なにより、一緒にいるとボクの不運に巻き込んでしまうというデメリットが大きいしね。
「にしても、誰もいないのかな……」
まるで屋外のような自然を再現したこの階層だけど、どこにも人の気配がない。回り込んで木の陰なども探してみようとした瞬間、殺気を感じたボクは背後へと蹴りを繰り出していた。人を蹴った感触に振り向くと、まともにボクの蹴りを受けて吹き飛ばされる男の姿があった。
「ごほっ……。『暗殺』――失敗か」
そう言って男は握っていたナイフを投げ捨てると、どこからか取り出した日本刀を正眼に構えた。間違いなく『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の一人だろう。
「暗殺は無理そうだし、せっかくだから名乗っておこうかな。僕は三年十三組、『枯れた樹海(ラストカーペット)』の宗像形。ご覧の通り暗器使いさ」
「それはご丁寧に。でも漫画(フィクション)じゃあるまいし、現実で日本刀を振り回すのは危ないんじゃないですかね。ほら、銃刀法違反とかで」
「門番に言われなかったかい?ここは治外法権なのさ、地下だけにね。それにそんな心配はいらないよ。なにせ君は、ここで殺されるんだからね」
宗像先輩は構えた日本刀を横薙ぎに振り回す。一切の躊躇も無くボクの首、頚動脈を狙うその斬撃を――丁寧に刀の腹を叩いて弾き飛ばした。それに返す形で放ったボクの蹴りは、新たに取り出した棍棒で止められてしまう。そのまま宗像先輩は一歩後ろへ跳んで距離をとった。
「へえ、君を殺すには日本刀(これ)じゃ駄目なのか。なら多刀(これ)だ」
そう言って全身からハリネズミのように刀を生やすと、両手に刀を持って連続で斬りかかってきた。手足を使って弾いていくボクと弾かれるたびに新たに刀を補充する宗像先輩。どうやら武器の扱い自体は素人レベルのようで、弾くのはそれほど難しいことではなかった。それに焦れた宗像先輩は、ボクが弾けないような重量のある武器を取り出して殴りかかる。
「だったら鈍器(これ)だ」
――『圧殺』
ハンマーで左右から押し潰そうとする宗像先輩だけど、全身にあれだけの武器を仕込んでいるためだろう。重量のせいで全体的に動きがノロい。先ほどの高千穂先輩と比べれば止まっているかのようだ。
「――遅いよ」
左右から挟みこむようなハンマーによる打撃を、真上に跳ぶことで回避し、空中で宗像先輩の顔面へと跳び蹴りを喰らわせた。そして、着地してからもう一発。渾身の力で胸に打ち込まれた蹴りによる衝撃で、まるで交通事故にでも遭ったかのように人間が飛ばされていく。まるで糸の切れた人形のようにゴロゴロと地面を転がっていく姿を見ながらも警戒は解かない。
「そうか、じゃあ拳銃(これ)を使うしかないか」
――『銃殺』
あっさりと立ち上がった宗像先輩が拳銃を構えた瞬間、ボクの全身に悪寒が走る。遮蔽物の無いこの場所では隠れることができないことを感じ、即座にボクの身体は前へと駆け出していた。的を絞らせないようジグザグに走りながら宗像先輩との距離を詰めていく。
「間に合わないっ……!」
遠くまで蹴り飛ばしすぎた……。いくら急いでもこの距離では相手が引き金を引くほうが早い。見たところ宗像先輩は武器の扱いに関しては素人だ。銃の扱いに関しても同様だろう。通常ならこれだけ距離が離れていて、銃弾回避のためにジグザグに走っているボクに当たる可能性は低い。しかし――
パンと乾いた銃声が響いた瞬間、ボクの左腕に衝撃が走り灼熱を感じた。
「あれ?当たるんだ」
射撃というのは過剰なまでに精密さを必要とする行動だ。狙撃では心臓の鼓動ほどの微小なズレですら結果に影響を及ぼすし、風向きなどの環境の変化にも影響される。つまりは、運に左右されやすいということ。だとすればボクに銃弾が当たるのは当然といえる。打つ瞬間、銃を持つ手がわずかに痙攣したのかもしれないし、汗でグリップが滑ったのかもしれない、突風が吹いたのかもしれない。それが全てボクに不利に働けば十分有り得る事態である。
――因果律干渉系の過負荷(マイナス)をもつボクにとって射撃・投擲系の攻撃は鬼門なのである。
「もう打たせない!」
二射目を打つ前に距離を詰めたボクは宗像先輩の拳銃を蹴り落とした。同時にその両腕を真上に思いっきり蹴り上げる。もう武器を取りだ出す暇は与えない。無防備な宗像先輩にとどめをの蹴りを放とうとしたところ――その全身から無数の武器が襲い掛かってきた。剣が、槍が、斧が、薙刀が、鎌が――まるでハリネズミのように宗像先輩から服を突き破るように生えてくる。
――『刺殺』
ボクの全身を串刺しにしようとするそれを、ボクは最小限の動きで回避しながら宗像先輩のあごを踵で跳ね飛ばしていた。銃撃戦ならともかく接近戦では負けられない。脳を揺らされた宗像先輩はようやく意識を失って地面に倒れ込んでくれた。
戦闘が終わり、思い出したかのように緊張が解けた左腕に激痛が走る。幸い銃弾は貫通しているみたいだけど、いまだに血が噴き出している左腕を見ながらボクは先の長さに溜息を吐くのだった。
残りの『十三組の十三人(サーティンパーティ)』は――あと十人。
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「 ひ れ 伏 せ 」
戦闘の終わった日本庭園。そこで傷の手当をしていたボクだったが、敵の方は待ってはくれないようだ。早くも二人の刺客が送られてきた。分厚い本を手にした眼鏡女子と貞子のように目までが髪で隠された長髪の女子がゆっくりとこちらへ歩いてきている。
「上峰書庫と申します。仲良くしてね」
「筑前優鳥……らしいんだ。仲良くしてね」
何でだろう……今までの異常者(アブノーマル)とは毛色の違う雰囲気を漂わせている。黒神めだかというよりは志布志に近い、マイナスなオーラ。立ち振る舞いからして、高千穂先輩のような生粋の戦闘者ではなさそうだけど……。
「ま、いいか。二人とも、殺しちゃったらごめんね」
そう言ってボクは宗像先輩の所有していた暗器の中でも凶悪な一品――機関銃を二人に向けて乱射した。射撃の命中率に逆補正の掛かってしまうボクでもこれだけ撃てば当てられるはず。たぶん急所には当たらないだろうけどね。念のために硝煙で辺りが見えなくなるまで撃ち続けたが、驚くべきことに煙が晴れたそこには何事も無かったかのように佇んでいる無傷の二人の少女の姿があった。
「そんな!?」
「クス!もうおしまいなんですかあ?私はまだまだ食べ足りませんけど」
眼鏡の少女が口を開けると、そこからはさっきボクが撃ったと思われる無数の銃弾が溢れ出してきた。まさか、銃弾を食べたっていうのか……?
「驚いてる場合かな。そんな隙だらけだと、あたしの『髪々の黄昏(トリックオアトリートメント)』で一毛打尽だよ」
その瞬間、もう一人の女子の髪が伸び、大量の髪がボクの体中に巻きついてきた。そのまま全身を拘束するように絡み付いてくる。ボクはとっさに落ちていた日本刀を拾い、髪の毛を切り払って拘束を解き、後ろへと跳び退いた。この訳の分からない感じ……やっぱり過負荷(マイナス)に近い能力だ。だけど――
「――ツキが無かったね。ボクだって過負荷(マイナス)の相手は初めてじゃないんだ。君達からは志布志ほどの絶対値の高さは感じないよ」
二人に向かって走り出す。ボクを拘束しようとする髪を避け、日本刀で切り払いながら最短距離で進んでいく。やっぱり二人とも戦闘者ではないようだ。ボクの動きに着いてこれていない。とりあえず、戦闘力の無さそうな眼鏡少女、上峰書庫に走り込む勢いのまま日本刀を突き刺しにいった。が、上峰は突き出された日本刀の目の前に顔を動かし――そのまま自分の口内に日本刀を飲み込んでいく。
「うおおっ!」
「結構おいしいですね」
一緒に飲み込まれそうになった自分の腕を寸でのところで引き戻すが、その際に生まれた隙に上峰は分厚い本でボクの頭をぶん殴った。ぐっ、と呻き声を上げるボクに再び周囲の髪が襲い掛かる。首を絞めようとするそれを転がるように避けると、急いで立ち上がり、筑前という長髪の女に蹴りを浴びせた。しかし――
「髪でクッションにされたっ……!?」
そのままボクの蹴り足を捕まえようとする髪から間一髪で抜け出し、迫ってくる髪から逃げるようにバックステップで距離を取った。そして新しく落ちている刀を拾い上げる。
そして、いったん落ち着こうと一つ深呼吸をした。アタックは失敗だったけど、戦い方は分かってきた。眼鏡の少女には上半身への攻撃を避け、長髪の女は刀で髪ごと斬り裂いてしまえばいい。
「ずいぶん苦戦しているようだな」
そんな低い声と共に現れたのはスーツ姿の男だった。無表情のままこちらへ向かって歩いてくる。新手か……。さすがに本拠地、ぞろぞろと集まってくるな。
「鶴御崎山海という。仲良くしてね」
「そうですか、ボクは月見月瑞貴といいます。こちらこそよろしくっ!」
一気に距離を詰めると、その大柄な身体を両断するように刀を振り下ろした。それを男は片手を盾にすることで止めようとする。腕ごと斬り落とそうとするボクだったが、落ちたのは刀の方だった。カランと音を立てて地面に折れた刀が転がる。
「折れた……?いや、溶けたのか……!?」
「肯定の否定、の否定だな」
そのまま高熱で真っ赤になっている手でこちらに掴みかかってくるのを足で蹴り上げる。しかし、熱湯をぶっ掛けられたかのような痛みに反射的に自分の足を見るとなんと靴が溶けている。慌てて足を引っ込めるが、その隙にボクの全身に髪が絡みついて拘束してしまった。
「しまった!?」
刀は溶かされてしまったからボクを拘束する髪を斬り払えない。なすすべなく空中に縛り付けられたボクに鶴御崎という男が手を伸ばす。物体を溶解させるほどの高熱の腕を躊躇無くボクの心臓に突き出してくる男に、仕方なくボクは隠し持っていた手榴弾の安全ピンを手首だけで抜いて男の足元に投げつけた。直後、轟音と共に火の海と化す地下庭園。そこから、ボクは制服を焦がしながら命からがら這い出したのだった。髪を焼き切るためとはいえ、無茶をしすぎた……。とはいえ、あの至近距離からの爆発なら相手も十分なダメージを……
「そう都合良くはいかないか……」
しばらくすると爆煙が晴れた。身体中の至るところに火傷を負って息も絶え絶えなボクと対照的に、特に損傷も無さそうに無表情のまま立ち続けている男の姿があった。他の二人も無事なようだ。ボクは溜息を吐く。仕方ない、最後の手段を使うか。被害の程度が予想できないし、下手をするとボクも危険だからやりたくなかったんだけど……。宗像先輩の側で座り込んだボクはその懐の暗器の中から目的の物を探し出す。
「ボクがこういう地下に潜るときに一番気をつけていることって何だか分かりますか?」
「……何を言っている?」
「普段から幸運な日常を送っている君達は考えもしないんだろうね」
そう言ってボクはバズーカ砲を構える。それを見た眼鏡少女は慌てて二人の前に出た。機関銃の弾を食べたように、バズーカの弾薬も食べるつもりなのだろう。
「そういった弾丸でさえも私なら食べられることをお忘れですか?」
「ボクは地下にいる時はいつも考えているよ――この建物の天井が落ちてくるかもしれないって」
そう言いながらバズーカ砲を発射する。照準は敵ではなく――この地下二階の天井。ボクの射撃に対する命中率の逆補正は、この場合はさらに逆に働くのだ。
そう、ボクが適当に撃ったただけでこの砲弾は――建物にとって致命的な箇所に寸分狂わず命中してくれる。
「何だとぉおおおおおおおっ!」
爆発音と共に地下一階部分の床が丸ごと二階を押し潰すように落ちてきた。食べることも溶かすことも毛で支えることもできないほどの圧倒的な質量。三人は悲鳴を上げて自分を潰そうとするそれを見上げている。もう間に合わない。すでに志布志の開けた穴から下の階層へと降りているボクを除いては――
とは言ってもあの三人の異常(アブノーマル)なら運がよければ助かるだろう。一応、崩落に巻き込まれないように一緒に連れてきた宗像先輩を地下三階の動物園に置いて、ボクはさらに下の階層へと進むことにした。崩落が進んで浅い階がさらに埋まってしまうかもしれないので、志布志の開けた穴を降りてできるだけ下層まで向かう。それに先ほどの手榴弾の爆発の余波を受けて負った傷が意外と深いようで、火傷や打撲で身体中に激痛が走っている。荒い息を吐きながらよろよろと筐体ゲームだらけの十二階を歩いていると、人の声が聞こえたため、慌てて物陰に隠れた。
「ったく……ようやく眠らせられたが、ひどい被害だぜ。古賀ちゃんもズタズタにされちまうしよー」
「でも王土の『言葉の重み』と古賀の怪力、名瀬の静脈注射で何とか食い止められたよ。矢面に立ったのが異常な回復力を持つ古賀じゃなかったら大変なことになってたけどね」
「もうなっていると思うがな。先ほど理事長から連絡があったが、すでに『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の中で残っているのはここにいる四人だけだそうだ。ま、究極的にはこの俺と行橋さえいればフラスコ計画は続くのだから問題はないがな」
様子を窺ってみると、驚くべきことに志布志が意識を失ったようにして床に倒れ込んでいた。その志布志を囲んでいるのは四人の男女。その誰もが強大な異常性(アブノーマル)を感じさせる。ただ、一人の女子は全身血塗れのぐったりとした様子で床に座っており、いま聞いた話を信じるとすれば実質的に残りはこの三人。他のメンバーは志布志が潰してくれたようだ。
「古賀ちゃんの回復力も限界みてーだな。とりあえず補給のために俺らは四階に戻るぜ。ついでに実験体用の拘束具も取ってきてやるよ」
「あ、待ってよー名瀬ちゃん」
そう言って顔に包帯を巻いた女子と血塗れの女子はこの場から離れていく。追うか?と一瞬迷ったが、その考えは却下する。正直、今の体調(コンディション)では『十三組の十三人(サーティンパーティ)』のメンバーの相手は、各個撃破でさえ難しい。片方が志布志にズタズタにされているとはいえ、それでも二対一。ならば同じく二人を相手にするのなら、志布志を叩き起こして戦力にすることのできるこちらの方が重要だ。何とか志布志の側にいる二人の隙をついて蹴り起こせれば――
「で、いつまでそんなところに隠れているつもりだい?」
いきなりの仮面の少年の言葉にビクリと全身が震えた。ボクが隠れているのに気付いている……。監視カメラかと思って辺りを見回すけど、そんな様子は無い。
「違うんだよ。他人の心の声を読む――それがこのボク『狭き門(ラビットラビリンス)』行橋未造の異常(アブノーマル)なんだよ」
心の声を読む!?ボクの思考が読まれたのか……。いや、それでも――
「――たとえ心が読めてもボク自身には戦闘力はなさそうだって?確かにボクは身体を鍛えているわけじゃないからね。純粋に闘ったらボクに勝ち目は無いよ。だけど関係ない。なぜならここにいるのは都城王土なんだからね」
しかし、そう話している仮面の少年の言葉のほとんどをボクは聞き流さざるを得なかった。もう一人の金髪の男、都城王土の絶対的で圧倒的な存在感にボクの意識が釘付けになってしまっていたからだ。
「ふん、もともとお前に戦闘など期待しておらん。それに――愚民の粛清は王の務めだ」
全てを排除するかのような強烈な威圧感に全身の毛が逆立つ。まるで押し潰すかのような見えない圧力。その重圧に逆らってボクは物陰から飛び出すと、睨みつけるように鋭い視線を送った。その男と視線がぶつかり合う。傲岸にして不遜。しかしそれが自然に思えるほどの絶対的な君臨者としての存在感を覚えていた。
「あなたが『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の頂点、ということでいいんですか?」
念のために尋ねたその言葉に王土という男はやれやれといった風に首を横に振った。
「その通りではあるが、それは正確ではないな。偉大なる王(おれ)はこの世界すべての頂点に位置する存在なのだからな。この学園という小さな枠で括れると思うな」
もしかすると黒神めだかすら凌駕するかもしれないほどの凄まじい存在強度。そしてそれを裏打ちする強烈な自我。これはちょっと勝ち目は薄いかな……。ボクは自然を装って二人の方へと歩み寄っていき、「志布志起きろ!」と大声で叫ぼうとした瞬間、志布志の耳に行橋の両手が当てられていた。ぐっ……完全に読まれている。
「王土、そいつはこの彼女を起こそうとしているから気を付けてね」
「まったく……ここまで来て他人頼りとは、なるほど凡人らしい。行橋、その女を連れて離れておけ。ついでに痛みを受信しないようにな」
「うん、わかったよ」
志布志を連れていくのをボクは黙って見送るしかなかった。なぜなら――
「 ひ れ 伏 せ 」
「があっ!?」
ボクの肉体は自分の意思と関係なく跪き、ガンッと勢いよく頭を地面に叩きつけていたからだ。それを見下ろしながら王土は傲岸に言い放つ。
「さて、偉大なる王に歯向かった罪――死でもって償うがいい」
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『――僕は悪くない』
この広い階層の一面に所狭しと並べられているゲームの筐体の列。それに囲まれてボクと都城王土は対面していた。いや、対面というのは正しくない。ボクの全身が意に反して土下座をさせられているのを、その男、都城王土は傲然と見下ろしていた。自分の身体だというのに自分の意志で動かないのだ。
「ほう……やはり奴隷の才能があるようだな。しかし、俺の中ではすでにお前の罪状は死罪で確定しているのでな」
周囲のゲームセンターにあるような筐体のいくつかが浮き始めた。数百kgはあるだろう筐体がまるで念動力でも掛けられたかのように浮遊し、それがボクの真上に留まった。
「そのまま偉大なる俺に跪いていろ。そうすれば一息で終わらせてやろう」
「……っ!」
王土が合図をするとボクの頭上の筐体が落ちてきた。ボクを押し潰すように落下した筐体は、そのまま床を破壊して――
しかしボクの肉体はかろうじてそれを回避していた。反射的に跳び上がって後退することができたのだ。……動ける!身体が自由に動けることを感じたボクは一気に距離を詰め、王土の顔面を蹴り飛ばそうとして……
「 跪 け 」
再びボクの身体は床に叩きつけられていた。王土の言葉に逆らえない。というよりはボクの指令に肉体が応えられないのか……。筋肉が痙攣しているときのように勝手に動いている感覚。
――これが都城王土の異常性(アブノーマル)。
「まったく、手間を掛けさせる」
再び浮き上がる機械群。降りそそぐそれらを、またしてもボクの身体は間一髪で避けていた。そのまま筐体の影に隠れ、死角を移動しながら王土の背後へと詰め寄る。その胴体にボクの爪先がめり込む寸前、やはり王土の声に行動を止められてしまう。
「 ひ れ 伏 せ 」
「ぐぅっ……!」
「よくよく俺の支配を逃れる奴だな。ずいぶんと移り気なようだ。愚民なら愚民らしくこの王(おれ)に頭を垂れていればよいものを」
呆れたように王土は首を横に振っている。そして、動けないボクを同じように筐体で押し潰そうとした。
それから数十分後。ボクは空中を飛び交う筐体群をかわしながら、王土に突撃していた。走り込むボクの背後には落下して床を押し潰している無数の筐体があった。猛スピードで飛来する無数の筐体を上下左右に避ける。床に激突する筐体の轟音と衝撃だけがこの空間を支配していた。
「ちっ……どうなっている!?」
「はあっ!」
真上から落下してきた筐体を一歩横へズレることで回避し、王土へ回し蹴りを放つボクだったが……
「 跪 け 」
これで今日何度目の床との激突だろうか。動きを止められ、筐体の落下を避け、そして蹴りかかる。この繰り返しである。
「この俺の支配からこうも逃れるとはな。強い意志力によって俺の支配を上回る電気信号を発生させているのか?いや、それならこうも簡単に『言葉の重み』に支配されないはず」
「電気信号?まさかあなたの異常(アブノーマル)は……!」
「気付いたか?まあ俺に隠さなければならない自己など無いからな。教えてやろう。俺の異常(アブノーマル)は対象の筋肉の電気信号に干渉して勝手に動すというものだ。応用として磁力によって機械を操作したりもできるがな」
王土は筐体を浮かせてボクの真上に移動させる。もう飽きるほど繰り返された事象だ。相変わらずボクの身体は土下座させられたままピクリとも動かせない。やっぱり仕組みが分かったところで対抗できる類の異常(アブノーマル)じゃないか……。なので、ボクはあえて全身の力を抜いて自身の反射に任せる。この支配を解くコツはもう掴んでいた。熟睡している間に泊まっているホテルが倒壊しても無傷で生き残るボクの危機回避能力はすでに自動操縦の域に達している。ボクの身体が最優先にするのは、自分の意思でも、王土の支配でもなく、経験による肉体自身の反応なのだ。
「これを落としたところで同じことの繰り返しだな。しかし、俺の支配を上回るのは死の間際の一瞬のみ。ならばその反応を少しでも遅らせられれば……」
一拍置いて王土は強烈な意思を込めて口を開いた。同時に落ちてくる筐体。ボクの身体はいつも通りその場から跳び退こうとしたところで――
「 ひ れ 伏 せ 」
「 跪 け 」
「 止 ま れ 」
「 動 く な 」
「 頭 を 垂 れ ろ 」
『言葉の重み』の重ねがけ。それによってボクの身体の動きが一瞬止まる。それは致命的な一瞬。一歩遅れたボクの身体は完全には筐体を回避することができずに――
「しまっ……があああああああああっ!」
ドスンと鈍い音を立てて数百kgの重量を持つ筐体は逃げ遅れたボクの左脚を押し潰した。骨の折れた感触と共に訪れる激痛。しかし痛みに呻く暇もなくボクの頭上に浮遊していた数台の筐体が落下してくる。慌てて逃げようとするもボクの左脚は筐体に挟まれて動くことができない。
「 死 ね 」
王土の駄目押しの言葉でボクの全身は金縛りにあったようにその場に固定される。ボクは自分を押し潰そうとする筐体を諦観と共に見上げることしかできなかった。数瞬後の自分の死を覚悟して自然とつぶやきが漏れた。
「――球磨川さん、すみません」
しかし次の瞬間、頭上に迫っていた筐体群がベキリと破壊され、吹き飛ばされていた。そして、ボクのすぐ側に降り立つ人影。――黒神めだかがそこにいた。
「ふむ、地下二階が崩落していたので何事かと思って急ぎ駆けつけたが……。まさか貴様がいるとはな。無事か、月見月二年生」
「……助かったよ、めだかちゃん」
この絶望的な状況を助けに来たのは生徒会長、黒神めだかだった。突然の救援にボクは自然と安堵の溜息を吐いていた。ふぅ……保険を掛けておいてよかった。今日の朝、王土が黒神めだかと接触して勧誘したと知ったボクは、彼女の性格なら即日のうちにフラスコ計画を潰すだろうと予想していたのだ。ボク達だけでフラスコ計画を潰せればそれでよし。それが無理ならばせめて生徒会の露払いに、という思惑は見事にハマってくれた。あと一歩で死ぬところだったけど。
「ちょっと待ってくれよ、めだかちゃん!って瑞貴さん!?何でここに……?」
「志布志が向こうで眠ってたからもしかしたらと思っていたけど……。やっぱり君も来てたのか」
少し遅れて善吉くんたちがこちらへ走ってきた。生徒会メンバーに加え、真黒さんも一緒に参加している。ボクの予想では黒神めだか一人か、もしくはプラス善吉くんだろうと思っていたんだけど、まさか全員で来るとはね。
「地下二階の崩壊は分からないが、門番の二人をやったのはやはり君か。めだかちゃんの視察の直前に単身で突入なんて何か訳ありかな?」
「いえいえ真黒さん。生徒会の一員として、視察の邪魔が現れないように露払いしておいただけですよ」
見たところ皆に怪我は無い。どうやら露払いの役目は果たせたようだ。あとは黒神めだかが残りのメンバーを倒すだけ。
「さて、都城三年生。生徒会長としてフラスコ計画の視察に来たぞ」
「潰しに来た、の間違いだろう?ここに来る途中、名瀬や行橋を倒したのかは知らんが安心するがいい。偉大なるこの俺を倒せばフラスコ計画は止まる。分かりやすくてよいだろう?」
「そうか、ではそうさせてもらうとしよう」
黒神めだかは豪華絢爛、その存在感は昨日見たものよりも圧倒的に強化されている。真黒さんのトレーニングの効果だろう。すでに中学時代の力を取り戻しているようだ。しかし都城王土も存在感においてはまったく引けを取らない。生徒会役員に囲まれているにもかかわらず、不敵な笑みを浮かべたまま傲然とした態度を崩さずにたたずんでいる。
「悪いけど、正々堂々一対一なんて真似はしない!このまま倒させてもらいますよ、都城先輩!」
「そーいうこった。素直に負けを認めてフラスコ計画から抜けるんだな!」
「ふはっ……偉大なるこの俺にずいぶんな口の聞き方だな」
囲んだままじりじりと距離を詰めていく善吉くん達に対し、王土は余裕の表情を見せたまま口を開く。
「 ひ れ 伏 せ 」
「がはっ!」
その言葉と共に、その場にいた四人が地面に叩きつけられた。善吉くん、阿久根、喜界島さん、真黒さんが等しく一瞬で土下座をした姿勢で地面に縫い止められてしまう。ボクはというと脚を骨折してしまったためリタイアである。黒神めだかに筐体をどけてもらい、離れた場所で観戦しているため効果範囲から逃れていたようだ。
「な、何で!?俺はもうあんたの異常(アブノーマル)を克服しているはずなのに!」
「あの時は手加減してやったのだ――とは言わんがな。土台、偉大なる俺の異常性(アブノーマル)は克服できる類のものではないのだよ。だが……」
王土の視線の先には、膝を震わせながらかろうじて立っている黒神めだかの姿があった。ギリギリで都城王土の『言葉の重み』に耐えている。
「ほう、抗うか。しかし立っているのがやっとのようだな。ならば『圧政(ことば)』ではなく『暴政(ぼうりょく)』で屈服させるまで」
周囲の筐体が宙に舞う。それはそのまま黒神めだかに向かって猛スピードで飛んで行き――直前で動力が切れたように失速して地面に落下した。
「む?これは……」
「ようやく私も身体が動くようになったか。では今度はこちらから行くぞ!」
困惑したような表情を見せる王土に黒神めだかが突撃する。十数個の筐体を飛ばして迎撃しようとするも、そのことごとくを避けられ、弾き飛ばされ、黒神めだかの進撃の前にはまるで意味を成さずに距離が詰まっていく。しかしこれは先ほどまでのボクの焼き直しだ。あと一歩のところで王土に制止の言葉を放たれてしまう。
「 跪 け 」
この言葉に黒神めだかは――
「 断 る 」
王土の言葉はまったく意味を成さず、その身体に黒神めだかの拳が突き刺さった。
「があああああああっ!」
そのまま殴り飛ばされる王土。その光景を見てボクは戦慄した。黒神めだかに掛けられた『言葉の重み』を破ったのは意志の力ではない。筐体が磁力を失ったかのように失速したのを見るにこれは――
「ごほっ……相殺…だと…?お、お前!なぜこの俺の異常性(アブノーマル)を使えるのだ!?」
やっぱりそうか……。おそらく黒神めだかの異常性(アブノーマル)は『他人の異常性(スキル)を吸収して使うこと』。だとすれば『言葉の重み』を破られた王土に勝ち目は無い。戦闘能力に差がありすぎるのだ。殴られた腹を押さえながら王土は狼狽した様子で立ち上がる。その顔には柄にも無く焦りの表情が浮かんでいた。
「俺は選ばれし異常性(アブノーマル)を持った、選ばれし王だ!偉大なる王(おれ)の異常性(アブノーマル)を使うなど許されんぞ!」
激昂する王土とは対照的に黒神めだかは静かにたたずんでいる。王土は怒りのままに掴み掛かっていく。しかし戦闘能力を持たない王土の肉弾戦など物の数ではない。王土の拳を無視して黒神めだかは腕を振りかぶっていた。王土は策もなくただ破れかぶれで突っ込むだけ。今度こそ終わりだ。しかし都城王土はそんな甘い目算で測れる男ではなかった――
「ぐぅっ……これは……!?」
「ふははははははははっ!対象の心臓に直接電磁波を送り、相互干渉することでお前の電気信号(アブノーマル)の周波数を強制的に取り立てる。これが偉大なる俺の裏技(アブノーマル)、行橋風に名付けるなら都城王土の真骨頂②『理不尽な重税』だ!」
王土が黒神めだかの胸に手で触れた瞬間、電磁波のスパークが弾け、振りかぶった拳を突き出そうとしていた動きが止まってしまった。これが都城王土の切り札。他人の異常性(アブノーマル)を奪い取るとは恐るべき支配力である。これは予想外の事態だ。もしも黒神めだかが敗れてしまったらフラスコ計画を潰すという球磨川さんの目的が……。慌てて声を上げかけたボクだったが、それは杞憂だった。
「異常性(アブノーマル)さえ奪えばお前に『言葉の重み』の相殺はできなく……なあっ!?」
突如、驚愕の表情を浮かべる王土。その顔面は恐怖に染まり、全身がガクガクと震え出す。
「な、何だっ!何なのだこの『闇』はぁああああああああ!」
まるでおぞましいものに触れたかのごとく慌てて手を離す王土だったが、そこには先ほどまでの余裕は無く、すでに戦意を失わされてしまっていた。そのまま力が抜けたように膝から崩れ落ちる。その視線は定まっておらず、まさに恐慌状態に陥っているようだ。すると、荒い息を吐いていた王土はついに観念したように目を閉じた。
もう幾度と無く見たこの流れ。終幕の見えた舞台にボクは溜息を吐き、小さくつぶやいた。
「改心……か。あまり見たくはない光景だったけど、とりあえず目的は達成できそうだね」
これで決着。これまでの殺伐とした雰囲気が徐々に弛緩していくのが分かる。都城王土が口を開こうとした瞬間――
――その都城王土の側頭部を太いネジが貫いていた
「なにぃいいいいいいいいい!」
有り得ない事態にその場の全員が驚愕の声を上げた。糸の切れた人形のように倒れこむ王土の死体に一瞬にして凍りつく場の空気。そうだ、忘れていた。タイミングの悪いあの人が――こんな場面に登場しないはずがないのだ。
『なんて酷い惨劇だ。他人の頭部をこんなにも凶悪な凶器で刺し貫くなんて、とても人間のすることじゃない』
ツカツカとこちらへ歩いてくる黒髪、黒眼、中肉中背の学生服を着た一人の男。一見、どこにでもいる普通の高校生に見えるが、その両手には王土の頭部を貫いた物に似た太いネジが握られている。
『おっと、勘違いしないでおくれ。僕はたった今ここへ来たばかりで無関係だよ。だから――』
しかし、その全身からはおぞましいほどの負のオーラを漂わせており、一見して普通の生徒に見えるのが不思議なほどであった。男が一歩ずつ近づいてくるにつれて、重力のように押し潰されそうなほどの負の重圧(プレッシャー)が掛かってくる。まるでこの世の全ての負の存在を集めて凝縮したかのようなその存在は、ある意味では完全な人間、いや負完全な人間といっていいだろう。三年前とまるで変わらない存在感、それでいて、かつてよりも果てしなく増大している過負荷(マイナス)性。
『――僕は悪くない』
――三年マイナス十三組、球磨川禊。これが学園最低の過負荷(マイナス)の初登校であった。
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『じゃ、また明日とか』
突然この場に現れた一人の男。その異様な存在感にこの場にいるほとんどの人間が戦慄していた。全身から滲み出す圧倒的な負のオーラ。そして、あまりにも不気味な重圧(プレッシャー)に。
「球磨川……禊!」
驚愕の表情を浮かべて声を上げる黒神めだか。そこには一目で分かるほどの緊張感と警戒が込められていた。しかし球磨川さんは無邪気に笑みを浮かべながら話を続ける。
『いいや違う。僕は球磨川禊じゃない。彼の双子の弟の球磨川雪だよ』
「え?」
『なーんてね。嘘嘘っ!引っかかった~?』
「……いつだって貴様はすがりつきたくなるような嘘をつくな」
ギリッ、と悔しそうに歯を噛み締める黒神めだかだが、球磨川さんはまるで気にした様子もない。この張り詰めた空間でも変わらずに普段どおりで、それが逆に異様な雰囲気を際立たせている。その寒気を覚えるほどの圧迫感に善吉くんと阿久根は全身を恐怖でガクガクと震わせてしまっていた。恐れや不安や悪意を一点に凝縮したようなその負の存在感は、一度でも知ってしまったら悪夢のように心に染み付いて離れることはない。
『あ、いたいた!ご苦労様、瑞貴ちゃん。ちゃんとフラスコ計画は潰してくれたみたいだね』
こちらに気が付いた球磨川さんはボクの方に声を掛けてくれた。三年振りの再会に心臓の鼓動が高鳴るのを感じる。以前と変わらぬ球磨川さんの姿に自然と歓喜の表情に変わる。ボクの不運は球磨川さんに出会うためだけにあったのだ。そう確信するほどの多幸感に包まれていた。脚の骨を折ってしまっているため、失礼かと思ったが床に座りながら答える。
「はい!もちろんです!お久し振りです、球磨川さん」
『その怪我痛そうだね。僕が戻(なお)してあげるよ』
そう言って球磨川さんがボクに触れると、全身の怪我が一瞬で消え去ったかのように治ってしまった。いや、それだけじゃなくボロボロだった制服まで元通りになっている。ボクが驚いて見上げるが、球磨川さんは何でもないといったように他に視線を向けていた。これが球磨川さんのこの三年間で新たに得た、失った過負荷(マイナス)――
『それと、真黒ちゃん。君も怪我してるみたいだねえ。古傷かな?これもついでに戻(なお)してあげるよ』
球磨川さんが真黒さんのTシャツを捲り上げると、そこには手術の縫い跡のような無数の傷跡が残っていた。ボクが入学して以来、学園に登校していなかった理由はこの後遺症のせいだろうか。しかし、さすがは真黒さんと言うべきか。球磨川さんの異様な重圧(プレッシャー)には屈せずに毅然とした態度を取り繕った。
「……遠慮しておくよ、球磨川くん。これは僕が己の過ちに対して支払った代償であり、僕が己の罪に対して受けた罰なのだから」
『うわあ、格好いいー。僕も中学生の頃は真黒ちゃんのそういう格好良さに憧れてたんだよなー。けどごめーん。もう戻(なお)しちゃった!』
球磨川さんが離れると、もうその傷跡は跡形も無く消えてしまっていた。真黒さんの決意など何でもないというように綺麗になくなってしまう。
『思い入れとか、心がけとか誓いとかー。ごめーん。僕そういうのよくわからないから』
「……!」
真黒さんはゾッとしたように顔を青ざめさせる。人智を超えた恐ろしいものに触れてしまったかのように冷や汗を流し、恐怖に顔を歪めている。球磨川さんにとってはボクの傷も真黒さんの傷も同じなのだ。ボクは自然と口の端を吊り上げて笑みを浮かべていた。変わっていない。この良いも悪いも一緒くたにかき混ぜて、すべてを一瞬で台無しにする感じ――
「……月見月副会長がこの施設を襲撃していたこと。これは貴様の差し金か、球磨川」
黒神めだかは鋭い目付きで詰問する。それに対して球磨川さんは楽しそうに答えた。
『そうだよ。フラスコ計画なんて、この学園の人たちは本当にひどいこと考えるよね!君もそう思うだろ、めだかちゃん?』
「……ああ、それに関しては同感だが」
『だよねー。箱庭学園の全校生徒、たった千人ちょっとの犠牲(マイナス)で世界中の人間が天才(プラス)になっちゃうなんて、悪魔のような計画だよ』
「……っ!?」
黒神めだかは悔しそうに目を閉じ、理解できないといったように首を左右に振る。同じくフラスコ計画を潰そうとした両者だけど、その動機は180°違っていた。黒神めだかは犠牲(マイナス)となる学園の生徒のことが許容できずに動き、球磨川さんは成果(プラス)である新たに生まれる世界中のエリートのことを許容できずに動いたのだ。だから、二人の関係はプラスとマイナスの両極端。話し合いが噛みあう筈もない。
『あれ?瑞貴ちゃん、彼女も来てたんだね。へえ、転校じゃなく元から入学してたんだー』
球磨川さんの視線の先を追ってみると、奥の方から歩いてくる志布志の姿があった。制服に新たに返り血が付着しているのをみると、一緒にいたメンバーを血祭りにあげてきたのだろう。ボクの近くまで歩いてくると、不思議そうな表情で声を掛けてきた。
「なーなー。こいつ中学時代あんたとつるんでた男だよな。何でここにいるんだ?」
「あ、それは……」
『覚えててくれてありがとう。えーと、確か……飛沫ちゃんだったよね。僕は球磨川禊っていうんだ。今日から転校してきたんだけど仲良くしてね』
ボクが紹介する前に球磨川さんが前に出て自己紹介をした。それを聞いた志布志は納得したようにへー、とつぶやく。そして、挨拶をするように球磨川さんに手を伸ばすと、その頭を掴み――床にその顔面を思いっきり叩きつけた。
「てめーには聞いてねーよ」
床と勢いよく激突し、グシャリと球磨川さんの顔面から潰れたような鈍い音が響く。
「なっ!志布志っ!何してるんだよ!」
「いや、途中から現れたくせに何か偉そうだったから……。許してくださいごめんなさいもうしません」
ボクの言葉に志布志は棒読みでそう謝った。敵に捕らわれてしまったためなのだろうか、かなり不機嫌そうだ。床を陥没させるほどの威力で顔面を叩きつけられた球磨川さんはピクリとも動かない。あまりの暴挙に血が上ったボクの身体は動き出していた。球磨川さんに仇名した志布志の顔面を蹴り潰してやろうとしたところで――制止の声が耳に入った。
『待ちなよ、瑞貴ちゃん。僕は平気だから心配しないで』
「く、球磨川さん!大丈夫ですか!?」
振り向くと額が割れ、頭と顔面からだらだらと血を流した球磨川さんが先ほどまでと同じように笑顔で立ち上がっていた。どうやら命に別状は無いようでほっと溜息を吐く。しかし次の瞬間、球磨川さんの全身がズタズタに裂け、鮮血が噴き出した。噴水のように血飛沫を上げながら倒れ込む球磨川さんを見て、ボクの心が逆に冷えていくのを感じる。
「志布志……やってくれたね」
血塗れの球磨川さんの前に立ちふさがり、射殺さんばかりに志布志を睨みつける。中学時代以来、数年ぶりに覚えた殺意を撒き散らし、湧き上がる衝動にしたがって構えた。しかし、なぜかそれを見た志布志はさらに不機嫌になっていく。
「チッ……やっぱりそっちに付くのかよ」
互いから滲み出る負の空気。志布志も過負荷(マイナス)を使う気のようだ。誰であろうと球磨川さんに害をなす人間は倒すだけ。生徒会の連中は突然の事態に混乱しているようで、不安そうな面持ちで見つめているだけだ。そして、ボクと志布志の間の緊張の糸が限界まで張り詰めた瞬間、再び球磨川さんの無邪気な声が周囲に響き渡った。
『ほらほら、喧嘩は駄目だって。これから同じマイナス十三組の仲間なんだから』
球磨川さんの制止の声で二人の間の緊張が雲散霧消した。そして球磨川さんの言葉に違う意味で緊張を感じる。
以前、理事長の話していたマイナス十三組構想――ようやく開始されるのか。
『ありがとう、瑞貴ちゃん。でも僕は大丈夫だよ』
立ち上がる球磨川さんだが、全身血塗れでその足元はまるで定まっていない。当然だ、明らかに即病院送りのレベルの大怪我なのだから。大量の流血でその制服はむしろ血の付いていないところを探す方が難しいほどだろう。しかし、その表情からは微塵も痛みや恐怖は感じ取れない。理由無く殴られることもズタズタに裂かれることも当然のように受け入れている。そして、いつもと変わらない笑みを浮かべたまま志布志に話しかける。
『それに飛沫ちゃんもありがとう。僕は悪くないけど、僕の態度が少し悪かったかもね。暫定的にとはいえ、僕がマイナス十三組のリーダーを務めさせてもらうことになっているし、至らないところを指摘してもらえて嬉しいよ』
志布志が息を飲んだのが分かった。自分をズタズタにした相手に何の負の感情も抱いていない。まるで何てことのない日常であるかのように気にも止めていない。負け惜しみでも皮肉でもない。球磨川さんが心底から笑みを浮かべて礼を言っているのがわかったのだろう。それは負け続け、迫害され続けてきた志布志にすら理解できない感性だった。
「おい、球磨川。なぜこの学園に転校してきたのだ?マイナス十三組とは何だ?いや、そんなことより――」
黒神めだかが再び問いかけてきた。何かを堪えるように忌々しそうに唇を噛んでいる。そして、死体となって横たわっている王土を指差して激昂したように叫ぶ。
「これは一体どういうことなのだ!?なぜ、このようなことを!?許されることではないぞ!」
側頭部を貫通するように突き刺さったネジ。都城王土は間違いなく死んでいた。しかし、球磨川さんは何を言っているか分からないという風に首をひねっている。
『なぜ?うーん、理由はちょっと思いつかないから、めだかちゃんが適当に決めちゃっていいよ』
「貴様っ……!」
理由なんて、意味なんて無い。あったとしても黒神めだかに理解できるものではないだろう。もしかしたらボクにも……。それがこの学園の過負荷(マイナス)の頂点、球磨川禊なのだ。
『それにしてもめだかちゃん、非道い冤罪だよ。一体何のことを言っているんだい?』
「この期に及んで何を……え?」
驚愕の表情を浮かべる黒神めだか。この場にいる全員が同じように驚きで声を失っている。それにつられるようにボクもそちらへ目を向けると、そこには無傷で横たわっている都城王土の姿があった。側頭部を貫いていたはずの巨大なネジは、近くの床に突き刺さっているだけだ。まるで何も起きていなかったかのように、床の血溜まりまでもが綺麗さっぱり消失してしまっていた。見間違いではない。――これこそが球磨川さんの過負荷(マイナス)。
『あ、そういえばめだかちゃんも今は生徒会長やってるんだってね。善良な生徒に無実の罪を着せようだなんて、めだかちゃんも生徒会長らしくなったねー。昔の僕を見習ってくれたのかな?』
「……くだらん冗談はよせ。失敗例として以外で貴様を参考にするところなどない」
『ふーん、そう。じゃあ、僕もそろそろ戻ろうかな。意外と転校手続きって面倒みたいだし』
そう言って踵を返して去っていく球磨川さん。
『じゃ、また明日とか』
しばらくして、球磨川さんの重圧から解き放たれた阿久根と善吉くんは安堵のあまり思わず膝を着いてしまっていた。肉食動物と獲物が対峙していたかのような恐怖だったのだろう。他のメンバーもたった数分の会話でどっと疲労を感じているようだ。まるで異界にでも取り込まれていたかのような異様な空気に飲み込まれていたのだ。台風に遭遇した後のような滅茶苦茶にかき乱された感覚。これが今後の学園に撒き散らされることを思い、黒神めだか達は表情を厳しくさせている。そして対照的にボクはこれからの学園生活に心躍らせるのだった。
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「――過負荷には過保護しかないの」
昨日の騒ぎによってフラスコ計画は中止に追い込まれることとなった。フラスコ計画の中核ともいえる都城王土のリタイア、そして他の再起不能になった多数の生徒達。『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の壊滅によって本来のフラスコ計画の続行は事実上不可能なのである。ただし、宗像形と古賀いたみ、名瀬妖歌(本名、黒神くじらといい、驚くべきことに黒神めだかの姉らしい)は無事に学校に登校してきているし、皮肉にも球磨川さんにやられた都城王土が一番の軽症らしく、退院したあとボク達の敵に回る可能性は高い。生徒会以外にも敵対勢力は多そうだ。
あれから球磨川さんにこの学園の情報を教え、簡単な打ち合わせをした結果、ボクは今後も生徒会副会長を続けるよう命じられていた。そのため、ボクは今日も生徒会室へと歩を進めている。
「あ、月見月先輩もこれから生徒会ですか?」
「こんにちは、喜界島さん。昨日あんなことがあった訳だけど、生徒会の仕事は待ってくれないからね」
途中出会った喜界島さんと一緒に廊下を歩いていく。どうやら喜界島さんの表情を見るに、球磨川さんが転校してきたということの意味を理解してはいないようだった。それも無理はない。漠然とした不安は覚えただろうが、球磨川さんの本当の恐怖は対等に向き合って初めて感じるものだからだ。
「昨日の……あの人は何なんですか?あんな敵意剥き出しの黒神さん初めて見た。それに人吉や阿久根先輩の様子も変だったし、逆に月見月先輩は仲良さそうで……。一体どうなってるの?」
「うん、そうだね……。球磨川さんは中学時代の生徒会長でボクはその役員だったんだ。めだかちゃんと善吉くんはボク達と敵対していてって感じかな。ボクと阿久根とはその頃からの付き合いだったんだけど、めだかちゃん側に寝返っちゃって今に至ると。ま、簡単に言えば中学時代の因縁だよ。めだかちゃんに聞けば詳しく教えてくれるんじゃない?」
「……何で月見月先輩は、あの球磨川って人と一緒にいたんですか?黒神さんが敵対してたってことは、球磨川さんは正しくないってことでしょ?正直あの人、気持ち悪いっていうか……いやな感じしかしなかったんだけど」
言葉を濁す喜界島さん。他人の友人をけなすことは好まないだろう彼女でも、どうしてもそう口にせずにはいられなかったのだろう。そして、その感覚は正しすぎるほどに正しい。
「喜界島さんがどう思っているかは知らないけど、――ボクはそんな正しい人間じゃないんだよ」
だからこその過負荷(マイナス)である。球磨川さんがどれだけの人間を不幸にしようと、どれだけの人間を抹殺しようと、そんなことは関係ないのだ。学園中が敵に回ろうと世界中が敵に回ろうと、球磨川さんがいればそれでいい。
ガラッと扉を開けて部屋に入ったボクを待ち受けていたのは、先に生徒会室で仕事をしていた皆からの驚いたような視線だった。
「ん?どうしたの、みんな?」
「いえ、てっきり瑞貴さんはもう生徒会には来ないものかと……」
「やだなぁ、私用(プライベート)と生徒会の業務は別だよ。球磨川さんがどうあれ、生徒会役員としての仕事は全うしないとね」
善吉くんの問いにボクはそう答えた。まさか敵地であるこの生徒会室にボクが堂々と足を踏み入れるとは思っていなかったのだろう。阿久根と善吉くんは疑わしそうに眉根を寄せている。実際、生徒会の動向を調べるためのスパイとして公私混同するつもりだしね。
そして、室内には生徒会メンバー以外に一人の来客がいるようだった。白衣を着た小学生のような小柄で幼い少女。善吉くんの母親であり、ボクの主治医でもあった人吉瞳先生である。中学入学以来だから五年振りくらいか。善吉くんに目を向けると、さすがに母親が学校に来てしまっているという現状に恥ずかしそうに頭を抱えていた。
「お久し振りです、人吉先生。今日はどうしたんですか?」
「久し振りだね、瑞貴くん。まったく……何度も善吉くんに、一度うちに診察を受けに来るようにって言ってもらったのに全然来てくれないんだから。仕方ないから直接あたしが訪問診察に来たってわけ」
「それはすみませんでした。もう必要ないかなって思いまして。でも、ボクのことは本来の目的のついででしょう?」
ボクがそう言うと人吉先生はハァと溜息を吐いた。
「球磨川禊――あの子が再び学園に現れたなんて聞いたらいてもたってもいられなくてね」
球磨川禊。その言葉が出た途端、場の雰囲気が冷たくなった。黒神めだか、阿久根、善吉くんも昨日の出来事を思い出して表情を固くしている。だからって学校まで来るなんて相変わらず過保護、いや今後のことを考えれば妥当な判断なのかもしれないな。
「一度問診しただけだけど初めてだったよ、あんな大規模な過負荷(マイナス)。それに、気になって調べてみたら球磨川くんだけじゃなく、あたしが医局在籍中に個人的に目をつけていた過負荷(マイナス)の全員がこの学園に終結しつつあることが分かったのよ。そして、少なくともその内の二人は球磨川くんに匹敵しかねない過負荷(マイナス)の持ち主――」
マイナス十三組構想、早くも露見してしまったみたいだ。球磨川さんも話してしまっていたし、遅かれ早かれだったんだろうけど。生徒会のメンバーはその恐ろしい計画に息を飲んでいる。
「それに、球磨川くんよりも有名な二人も合流するみたいだし。その一人が、すでに今年箱庭学園に入学している『致死武器(スカーデッド)』志布志飛沫」
「ぐっ……やはり彼女か。そして、あのレベルがさらにあと一人いるなんて……」
「あら、阿久根くん彼女を知ってたの?そう、だからもう恥ずかしいとか言ってる場合じゃないのよ、善吉くん。――過負荷には過保護しかないの」
それから数日の間に球磨川さんは動きを見せていた。マイナス十三組の新教室確保のために真黒さんの管理する旧校舎――軍艦塔(ゴーストバベル)を奪取を目論んだのだ。しかし、新しく転入してきた一年マイナス十三組の江迎さんによる襲撃は失敗。どうやら色々あって名瀬さんと共同研究していたらしく、『十三組の十三人(サーティンパーティ)』最強の女子である古賀さんに撃退されてしまったそうだ。ちなみに、それらの作戦にボクは一切加わっていない。黒神めだかの性格からして、敵だからといってボクを副会長を降ろしたりはしないだろうが、その口実も与えたくないのだ。少なくとも例の作戦を実行するまでは……。
「それで、診断結果はどうですか?」
放課後の生徒会室でボクは人吉先生の診察を受けていた。昨日から人吉先生は転校生としてこの箱庭学園に入学してきており、先ほどまで一緒に今後の作戦会議を行っていたのだ。ちょっとど忘れしてしまって会議の内容を覚えていないんだけど……。
「んー、多少精神に綻びはあるけど十分許容範囲内ね。安心したわ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!これでですか!?」
意外にも術後の経過は順調なようだ。人吉先生はほっとした様子でそう診断したが、その言葉を聞いて同じく部屋にいた阿久根と善吉くんが驚いたような表情を見せた。いまだにボクは過負荷(マイナス)だし、二人がそう思う気持ちは分かる。しかし、これでもかなり絶対値が下がったのだ。人吉先生は一瞬、表情を変えて悔しそうに唇を噛んだ。
「……これでもだいぶ落ち着いたのよ。精神外科医として不甲斐ないけれど、瑞貴くんには本当に申し訳ないけれど、私の精神外科手術ではこれが限界。あとは、これ以上のマイナス成長を抑えるだけよ」
「いえ、十分ですよ。ありがとうございます」
これはボクにとっては嬉しい報告だった。今のボクは過負荷(マイナス)を制御したいとは思っているが、過負荷(マイナス)を無くしたいとは思っていないんだから……。
ヴヴヴ…とポケットから振動を感じたボクは携帯を取り出した。発信者の欄を見ると『球磨川禊』の文字。もうそんな時間か。ボクはみんなに断りを入れて部屋の外へ出ると、受信スイッチを押した。しばらく無言が続き、ようやく電話の向こう側から声が聞こえてくる。
『えー。それではこれよりマイナス十三組の合同ホームルームを開始しまーす。議長は暫定的にこの僕、球磨川禊が務めますね』
これはテレビ会議の要領で一堂に会して行われる合同ホームルームである。例えるならチャットに近いかな。現在、マイナス十三組はほとんど学園に転入してきていないし、そもそも全員が集まれる広さの教室すら確保できていないのだから。
「……すみません球磨川さん。私が旧校舎の奪取に失敗して新しい教室を用意できなくて」
『だから気にしなくていいんだって、怒江ちゃん。マイナス十三組が全員揃うまではこの空いている二年十三組の教室で十分事足りそうだしね』
すでに転入してきている数少ない過負荷(マイナス)である一年の江迎怒江さんが、電話の向こうですまなそうに謝っていた。江迎さんとは一度だけ顔を合わせたんだけど、球磨川さんや志布志ほどではないが、凶々しい過負荷(マイナス)の持ち主だったということを覚えている。そして、ボクの方も現状を球磨川さんに報告をした。
「ボクの方でも現在、他の生徒会メンバーに秘密で新教室を探してます。一刻も早く生徒会の権限で新教室を借り切ってみます」
「あひゃひゃ!だったら剣道場とかどうですかぁ?剣道部は部員一人しかいませんし、廃部にして接収しちゃったらどうです?」
『なるほどねー。了解したよ、瑞貴ちゃん。それに不知火ちゃんもありがとう』
その後も会議を続けていると、突然電話の向こうから何かが壊れるような鈍い音が響いた。同時に聞こえてくる球磨川さんの呻き声。
『えーと、誰?』
「――元英雄」
その後、まるで建物の解体現場のような破砕音が連続で鼓膜を震わせた。
「ど、どうしたんですか!?」
「あー、早くも動いちゃいましたか。前生徒会長、日之影空洞。あひゃひゃ、気を付けて下さいね。何せその人、一人で軍隊と戦えちゃうんですから」
まるで何でもないことのように笑う不知火だけど、これはヤバイんじゃないか?慌てて現場に駆け出そうとするボクだったが、生徒会室から様子を見に出てきた人吉先生たちの姿にとっさに足を止める。ボクのあまりに切羽詰った大声が気になったのだろう。この状況で生徒会メンバーまで球磨川さんの元へ連れて行くわけには行かない。
「そんな大声出してどうかしたんですか、瑞貴さん?」
「いや、何でもないよ」
しかし、善吉くんも阿久根もその場を離れようとはしない。ま、ボクが過負荷(マイナス)側だってのは公然の秘密だし、何か起こったのではないかと警戒しているんだろう。……これじゃボクも救援には行けないな。
「それじゃ、電話切りますね」
諦めてボクは通話を終了した。球磨川さんの方は問題ないだろう。不知火さんから聞いた前生徒会長の異常性(アブノーマル)では、球磨川さんの過負荷(マイナス)を破れるとは思えないし。強さとか堅さとか重さとか、そういった勝負の次元に球磨川さんはいないのだ。とはいえ、ボクでは相手にならないほどの実力者であることは間違いない。今まで忘れてたけど、そういえば黒神めだか達が彼に協力を頼みに行ったんだった。ボクの想像以上に箱庭学園の掌握には手が掛かりそうだ。
「これは球磨川さんよりも自分の心配した方がいいかな。今のボクじゃ、間違いなく今後のマイナス十三組の足手まといだ。早くボク自身の強度を上げないと――」
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「生徒会戦挙だ!」
「日之影空洞?誰それ?」
黒神めだかと名瀬妖歌が生徒会室に戻ってくるなり言った言葉に、その場の全員が疑問の声を上げた。二人が言うには新しい助っ人らしいけど、ボクにもそんな人物に心当たりなど無い。この学園にボクの知らない実力者が存在していたのか……!ともかく、その名も知らぬ新戦力に警戒心を抱いた瞬間、ボク達の目の前に一人の男が現れていた。
「なああああああっ!」
あまりにも巨大。2mなんて遥かに越えた、人間とは思えないほどの巨体がそこにはあった。しかも凄まじい威圧感。球磨川さんを底の見えない暗い谷底を覗き込むような根源的な恐怖だとすれば、日之影先輩は雲に覆われた巨峰を見上げるかのような圧倒的な圧迫感だと言えるだろう。まるで高層ビルと直接対峙しているかのような桁違いの重圧を感じていた。
――思い出した!日之影空洞!そういえばさっきマイナス十三組に襲撃を仕掛けてきたばかりじゃないか!
あまりの驚愕にボクは目を見開いた。完全に記憶から消えていた。これが日之影空洞の『知られざる英雄(ミスターアンノウン)』。戦闘力と隠密性を兼ね備えたその圧倒的な異常性(アブノーマル)にボクは脅威を感じていた。
「合格」
「不合格」
「合格」
日之影先輩は生徒会室全体を見回すと、真黒さん、善吉くん、人吉先生の順にそう言い放った。
「不合格」
「不合格」
「ギリ合格」
「同じくギリ合格」
そして、阿久根、喜界島さん、古賀さん、名瀬さんと続ける。まるで採点をしているかのような。最後にボクの方を見つめて――
「失格」
そう言って採点を終えた。唖然としているボク達をよそに日之影先輩はガリガリと頭を掻いて困ったような表情を見せる。そして呆れたように黒神めだかの方に顔を向けると、溜息を吐きながら非情な現実を報告した。
「……参ったな。別にそこまで高望みしてたつもりはなかったんだが、こりゃあ予想以上に惨憺たる有様だ。断言するぜ、黒神。このメンバーでマイナス十三組に挑むのは格安自殺ツアーを組むようなもんだ」
そう言って椅子に腰を下ろす日之影先輩は気が重そうに話を続ける。
「俺はついさっきマイナス十三組と接触してきた。率直に言って『話にならない』というのが奴ら過負荷(マイナス)への感想だ。そんな連中に敵対するに当たって生徒会役員の四人が揃って不合格、ましてその内の一人が失格だなんて問題外と言っていい」
日之影先輩はボクの方に向き直るとそのまま鋭い目付きで睨みつけてきた。そして忌々しげに表情を歪める。
「つーか黒神、副会長が過負荷(マイナス)ってどういうことだよ?赤点どころじゃなく、完全にマイナスじゃねーかよ」
「私の友達の悪口言わないで!」
喜界島さんが日之影先輩に食って掛かるが、こればかりは完全に日之影先輩の言うことの方が正しい。今この状況でも、どうすれば生徒会を潰せるだろうかと考えているくらいなんだから。まさに仲間にいない方がマシ。確かにマイナス採点も頷ける。黒神めだかを見ると、生徒会室の隅で瞠目して静かに日之影先輩の言葉に耳を傾けていた。ここは自分から黒神めだかに話を振っておくか。
「だ、そうだけど……めだかちゃん。ボクを罷免するかい?球磨川さんの仲間だというだけの理由で。あるいは過負荷(マイナス)だからという理由で」
「……するはずなかろう」
黒神めだかは当然のように言い放った。この言葉を聞いて日之影先輩も渋々とだけど、ボクについての追求は諦めたようだった。代わりに口にしたのは過負荷(マイナス)に対抗するための特訓――凶化合宿についてだった。マイナス十三組に対するためのメンタルトレーニング。この特訓によって、おそらくは飛躍的に生徒会の戦力は上昇してしまうだろう。悔しさでギリッと唇を噛んだボクだったが――しかし、さすがは球磨川さんというべきか、次の日の朝に早くも最悪な策が決行されたのだった。
『箱庭学園学校則第45条第三項に基づき、生徒会長黒神めだか。君に解任請求(リコール)を宣言する』
朝の全校集会、その壇上に上がった球磨川さんがマイクの前で宣言した。――生徒会の解散。それを聞いた全校生徒が驚きでどよめいた。困惑と混乱の渦に飲まれているのは生徒だけではなく、あの黒神めだかでさえ表情を引きつらせている。
箱庭学園学校則第45条第三項とは、生徒会の罷免に関する条項だ。生徒会役員に問題が起こった場合、全校生徒の過半数の署名をもって役員は即日罷免される。
「おい球磨川!ちょっと待てよ!言い掛かりも大概に……」
『おいおい、とぼけるなよ善吉ちゃん。今朝は剣道場には行かなかったのかい?』
善吉くんの言葉に被せるように、球磨川さんは罷免理由について楽しそうに説明し始めた。
『生徒会役員の私的な理由による剣道部の廃部。加えて剣道場の接収。公私混同、職権乱用による言い訳の余地も無いほどの不祥事だ。生徒会の解散なんて当然のこと。この署名がみんなの意見だよ』
「な、何を言ってやがる……」
『反論はあるかな、瑞貴ちゃん?』
そう言って球磨川さんはボクへと顔を向けた。みんなの驚いたような視線がボクに集まる。やれやれと首を振りながら壇上のマイクを手に取った。――これがボク達マイナス十三組の策。
「一片の間違いも無く事実です。申し訳ございませんでした」
剣道部を廃部にして接収した剣道場は、現在は暫定的にマイナス十三組の教室となっている。新教室の奪取に加えて生徒会の解散。これを同時に行うというのが不知火半袖の策である。
「そもそも瑞貴さんはお前の仲間だろうが!こんな茶番に納得できるわけ……!」
『善吉ちゃん、納得できないのは僕達の方だよ。昨日、転校したばかりの僕と副会長がグル?もうちょっと客観的に見て信憑性のある言い訳を考えて欲しいものだね』
「ぐっ……」
「それに誰が命令したところで、誰に命令されなかったところで、ボクのやったことはなかったことにはならないよ」
ボクがそう言うと善吉くんは悔しそうに唇を噛んだ。そして、場内もただならぬ雰囲気を感じ取り始めたのか、だんだんと静寂に包まれていく。そんな中、混乱から立ち直った阿久根が焦ったように大声で詰問する。
「だが!めだかさんも君のことは警戒していたはずだ。副会長の権限でそんな真似ができたはずがない!」
阿久根の言うことは正しい。黒神めだかはあらゆる案件に関して、ボクには決して最終決定権を持たせなかった。自分の敵対者を懐に入れる際には当然のことだし、球磨川さんが来訪してからはそれを徹底していた。しかし、それでも副会長である。――生徒会長の不在時になら、生徒会長の権限を行使することが可能なのだ。
「だから今朝、君達が登校してくる前に文書を作成して、理事長に提出しておいたんだよ。この集会が終わったら事後承諾しようと思っていたんだけど、タイミングが悪かったね」
「今朝だって……?いや待て……だとしたら、この一時間足らずで全校生徒の過半数の署名なんて集まるはずがない!貸せっ、こんなもの捏造に決まって……!」
球磨川さんから署名の束を奪い取った阿久根だが、その中身を見てさっと顔色が変わる。その署名に書かれている名前は全てマイナス十三組のものだからだ。一年マイナス十三組、二年マイナス十三組、三年マイナス十三組の三クラス総員の署名である。ボク達は理事長に転校生の数を水増ししてもらっていた。それにより、マイナス十三組の生徒数は全校生徒の過半数を超え、リコールが可能になったのだ。
「名ばかりの署名を集めて過半数か。ずいぶんと大した『みんな』だな、球磨川」
『おいおい、名ばかりだろうと人数合わせだろうと、この箱庭学園の誇るべき生徒だぜ?』
球磨川さんは両手を広げて楽しそうに黒神めだかに言い放つ。
『差別するなよ』
黒神めだかは悔しそうに球磨川さんを睨みつけている。この先の展開も読めたのだろう。生徒会則第45条第十七項『解任責任』――行事運営に支障をきたさぬよう、解任請求者は次期選挙までの間、臨時で生徒会長を務めなければならない。
『そう、転校してきたばかりで本来、立候補資格のない僕でもこの方法でなら生徒会長になれる。さあ、めだかちゃん。その似合わない腕章を、自分で外して、僕に渡すんだ』
「球磨川……!貴様という男は……どこまでマイナスなのだ!」
おどろおどろしい雰囲気で佇む球磨川さん。黒神めだかは憎々しげな表情で歯噛みした。そして、球磨川さんは壇上の中央で周りの生徒達を見回すと、堂々と宣言した。
『僕達が新生徒会だよ』
一斉に壇上に現れた四人の男女。球磨川さんの背後に出現した彼らこそがマイナス十三組の代表である。球磨川禊、志布志飛沫、蝶ヶ崎蛾々丸、江迎怒江、不知火半袖。この五人の集合図はやはり別格だ。あまりに凶々しく、あまりに寒々しい。その空間だけが切り取られたかのような、全身が総毛立つほどの絶対零度の異質さを周囲に感じさせる。特に阿久根や善吉くんなどは、向かい合った瞬間に手足が震え出し、逃げるように一歩後ずさりしてしまっていた。そして、球磨川さんは何事も無かったかのように生徒達に向き直り、いつも通りの最低(マイナス)なマニフェストを発表した。
『えーとまずは、授業および部活動の廃止』
『直立二足歩行の禁止』
『生徒間における会話の防止』
『衣服着用の厳罰化』
『手および食器などを用いる飲食の取締り』
『不純異性交遊の努力義務化』
『奉仕活動の無理強い』
『永久留年制度の試験的導入』
球磨川さんの言葉に一同がざわめき、直後にその喧騒がおさまった。目の前の理解不能な存在に対する恐怖と困惑で誰もがうつむき、口を閉ざしてしまう。その異様な雰囲気と異常な発言に呑まれ、まるで時が止まったかのように場が嫌な静寂に包まれた。
『以上の八点の実現に向けて一生懸命がんばることをここに誓います!みなさん応援してください!』
ここに球磨川さんの『エリート抹殺計画』は実現される。学園の生徒はおろか、生徒会役員までもが暗い表情で下を向き、絶望的な空気を漂わせている。しかし、その空気の中で黒神めだかだけが何か考え込むような様子で目を瞑っていた。そして、一拍置いてその凛とした声を場内に響かせる。
「黒箱塾塾則第百五十九項『塾頭解任請求二関スル項目』」
そこで語られたのは箱庭学園の前身、ボクも知らない黒箱塾時代のリコールに対する規則であった。塾頭――今でいう生徒会長に解職を請求する場合、塾頭側と請求者側との決闘をもって次期塾頭を選出するという内容らしい。つまりは現生徒会と球磨川さん達との決闘の勝者が新たな生徒会長になるというもの。ボクはまるで知らなかったけど、この場面で嘘を言うはずも無い。百年以上前の黒箱塾時代から実在する規則なのだろう。
『なるほどね、それでこそ黒神めだかだ。校則や生徒会則くらいは当然知ってると思ってたけど、まさかカビの生えた塾則まで押さえているとは恐れ入ったよ。』
予想外のイレギュラーにも球磨川さんは余裕の表情を崩さない。しかし、これで間違いなくボク達の計画は瓦解してしまったのだ。
『してやられたよ。それともここまで計算どおりかな?不知火ちゃん』
そう言って球磨川さんは不知火の方に顔を向ける。そうだ、学園のことは自分が一番知っていると豪語していた不知火が塾則を知らなかったなんて有り得るのか?ボクも不知火の様子を窺うが、その退屈そうな表情は先ほどとまるで変わっていない。しかし、おそらくは球磨川さんの言うとおり不知火の計算だろう。悔しさで自分の拳を強く握り締める。迂闊だった……。こんなことなら不知火を信用せずにボクの方でもきちんと調べておくべきだった!
「異存はないようだな。ならば規定に基づき、たった今この瞬間より新生徒会と現生徒会の決闘を開始する。生徒会選挙――否」
黒神めだかが堂々と宣言する。
「――生徒会戦挙だ!」
そして放課後、ボクは校内の空き教室にいた。目の前には風紀委員長であり、『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の一員でもあった雲仙冥利の姿がある。雲仙はだるそうな表情を浮かべながらボクの方を見上げていた。
「で?オレをこんなところに呼び出して、いったい何の用だよ」
「――ボクと殺し合い(スパーリング)をしてもらう」
「ほぉ……面白れぇじゃねーか」
雲仙の疑問にボクは真剣な表情でそう答えた。その証として両手を軽く上げ、半身になって戦闘態勢で構える。ボクの言葉に雲仙は目付きを鋭くさせ、口元を上げて獰猛な笑みを浮かべた。その小柄な体躯からは想像もできないほどの才気が全身から迸っているのを肌で感じる。
「休み時間のたびに武道系の特待生(スペシャル)が狩られてたみたいだが、テメーの仕業だったか。おかげで今日は保健委員が大忙しだったそうだぜ?」
「特待生(スペシャル)といっても、やっぱり準備運動にしかならなかったけどね。鍋島先輩はこれを察知していたのか、どこを探しても見つからなかったし」
そう言ってボクは溜息を吐いた。鍋島先輩に挑んで阿久根と戦う場合の予行演習にしようと思っていたんだけど、当てが外れてしまった。ま、でも通常の武術家の相手にはだいぶ慣れたし、もう十分だろう。戦挙のための練習台には、やはり異常者(アブノーマル)こそが相応しい。
「なら風紀委員として、テメーを取り締まらない理由はねーよな」
「取り締まりなんて、ぬるいことは言わないで欲しいね。君のその『やり過ぎの正義』にボクは期待しているんだから。手加減無しで、殺す気でお願いするよ」
――それに、そのくらいでなければボクの特訓(トレーニング)にはならない
今回の件で不知火は信用できないことがわかったし、おそらく戦挙にはボクが出ることになるだろう。そのためにはボク自身の強化が不可欠なのだ。ボクの体術で、過負荷(マイナス)で、異常者(アブノーマル)達に対応するための経験を身に付ける。それがボクの考えた戦挙までに強度を上げる特訓だ。
「ま、ツキが無かったと思って諦めてよ」
――そうして、空き教室でボクと雲仙は人知れず激突した
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「だって私、改造人間だもん」
放課後の空き教室。もはや廃墟となったそこに、ボクは無数の細い糸でマリオネットのように吊り下げられていた。その全身は焼け爛れ、腕や足はあらぬ方向に曲げられている。その身に無事な箇所を探す方が大変な瀕死の状態でボクの身体は拘束されていた。手榴弾の爆発でもあったかのような爆撃跡が教室の至る所に作られており、窓ガラスは全て割れ、壁や机もボロボロに破壊されていた。そんな場所に一人の男が現れ、何でもないかのような口調でボクに話しかける。
『やあ瑞貴ちゃん、ずいぶん手酷くやられちゃったみたいだね』
やってきたのは球磨川さんだった。口を動かすこともできないほどに痛めつけられたボクは目線だけで助けを求めると、次の瞬間にはボクの肉体は着ていた制服までも含めて元に戻っていた。痛みが和らぎ自然と安堵の溜息が漏れる。
「ふぅ……ありがとうございます、球磨川さん」
『いやいや気にしないでいいよ。でも特訓だなんて、瑞貴ちゃんは相変わらず考え方が正攻法(プラス)だね。君は僕ら過負荷(マイナス)の中でも例外的に精神性が正常(プラス)に近いからね。それで、次はどこに行けばいいの?』
球磨川さんの言葉にボクは身体の調子を確かめながら答える。ちゃんと雲仙と戦う前の状態まで戻っているようだ。しかし、その戦闘経験をボクはしっかりと覚えている。
「そうですね……。次は日之影先輩に対戦(スパーリング)を挑んでみます。早めに戦っておかないと凶化合宿で会えなくなってしまいますから」
過負荷(マイナス)に対抗するための凶化合宿にボクは参加を許されていない。だからこそボクは独力で自身の強度を上げていた。球磨川さんに怪我や疲労を回復してもらえるため、試合まで毎日のように死の間際まで過酷な特訓ができるのだ。先ほどの雲仙との殺し合いによる怪我も、本来なら病院送りにされていたほどだったのだが一瞬で完治している。
『僕の過負荷(マイナス)を利点(プラス)として使うなんて君らしい発想だよ。だけど、残念ながらその強さ(プラス)が君の過負荷(マイナス)と相殺し合っちゃってるんだよね。強度を上げることで、過負荷(マイナス)の根源である凶度や狂度が抑えられてしまっている』
首を左右に振って溜息を吐く球磨川さん。しかし、なぜかその言葉を受け入れることがボクにはできなかった。自分でも不思議だけど、納得することができない。どうしても強度を上げることに執心してしまう。他の過負荷(マイナス)のように良識や努力や合理性をどうでもいいものとして感じることができないのだ。まるでボクの心が正常(プラス)に作り変えられてしまっているように――。
「球磨川さん、ボクは……」
『まーでも、瑞貴ちゃんの好きなようにするといいよ。その強度の高さは戦挙においては良い方向に働くかもしれないしね。とりあえず書記戦に君をエントリーしておくよ。不知火ちゃんは気まぐれだから戦ってくれるか分かんないしね』
言葉に詰まってしまったボクに、球磨川さんは全てを見通したような瞳で答えてくれた。その言葉を聞いて、心臓が沸騰するかのように一気にボクの感情が激しく昂ぶる。生徒会書記戦へのエントリー。それは球磨川さんがボクに期待してくれているということなのだ。あまりの興奮で熱い血潮が全身を駆け巡るのを感じる。ボクは武者震いをしながらも、球磨川さんのために絶対に勝利することを心に誓ったのだった。
「ありがとうございます!必ず期待に応えます!」
『うん、頑張ってね。無能力者(マイナス)は能力者(プラス)には勝てない。それが世界の現実だ。だけど、限りなくプラスに近いマイナスである君なら、あるいは例外的に勝利を得ることができるのかもしれないね』
翌日、ボクは古賀いたみを呼び出していた。元『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の一員にして、改造人間である彼女はボクの誘いに応えて夏休み中にも関わらず学校へと登校してくれたのだ。指定通り動きやすいように私服のジャージ姿で立っている。
「おはよう、古賀さん。今日から夏休みだっていうのに、わざわざ来てくれてありがとう」
「名瀬ちゃんもなんか忙しいみたいだし、暇だったから別にいいけど。それで何の用なの?私って休みの日に瑞貴くんと二人っきりで待ち合わせするほど仲良かったっけ」
「生徒会戦挙に向けて、特訓(スパーリング)に付き合ってもらおうかと思ってね。ほら、ボクって凶化合宿には参加しないし。殺す気で勝負して欲しい」
しかし、意外にも古賀さんは難色を示しているようだ。おかしいな、雲仙も日之影先輩も嬉々としてボクと戦ってくれたのに……。
「でも、戦挙で副会長戦に出るんだろ?怪我するとまずいんじゃ……。私、あんまり手加減とかできないし」
「気にしないでよ。そうなったら別の人に代理で出馬してもらうから」
ボクの心配をしていたとは、あまりに普通の感性で驚いてしまった。日之影先輩なんか渡りに舟とばかりにボコボコにしてくれたっていうのに。戦挙に出られない身体にしようと、念入りにボクの全身の骨を砕き始めたときにはさすがに死ぬかと思ったね。古賀さんは元一般人(ノーマル)だったって聞いたけど、なるほどと納得させられる。その点ではボクとも近いかもしれない。
古賀さんの得意なフィールドということで、場所は旧校舎である軍艦塔(ゴーストバベル)の一室ということになった。かつて使用されていた教室でボクと古賀さんは相対する。
「じゃあ行くよっ!」
「……っ!?」
そう言うと古賀さんは天井へ向けて大きく跳躍していた。そして、驚くべきことに壁を走ってこちらへと向かってくる。そのままボクの真上に来ると、まるで天地が逆転したかのように天井からアッパーのように拳を振り下ろしてきた。
「ぐっ……」
ボクの顔のすぐ横をものすごい勢いで拳が通り過ぎた。恐ろしいほどの風圧がボクの頬を叩く。上から降ってくる拳をかろうじて避けると、次の瞬間には地上に飛び降り、逆さになった姿勢のまま下から蹴り上げてきていた。あまりにトリッキーな動きにわずかに反応が遅れてしまう。逆立ち状態からのその蹴りを受け止めようとするボクだったが、蹴りが当たった瞬間に身体は反射的に後ろへ跳んでいた。ミシリと自分の腕の骨の軋む音を感じたのと同時にボクはトラックに轢かれたかのように勢いよく吹き飛ばされていた。そのままゴロゴロと教室の端まで転がっていく。
「瑞貴くん、危なかったね。もう少しで君の腕の骨が折れちゃうところだったよ」
「……見た目の割りに力持ちなんだね」
ようやく距離が空いて一息ついた瞬間、ボクの全身からどっと冷や汗が噴き出した。まるでドロップハンマーでも打ち込まれたかのような重さと硬さ。後ろに跳んで衝撃を逃がさなかったら完全にボクの両腕は粉砕骨折していただろう。
「言っておくけど、名瀬ちゃんと真黒さんの共同研究で瑞貴くんが襲撃してきたときより格段に強化されてるんだからね!降参するなら早めにしてよ!」
「心配は無用だよ」
天井を跳び回り、上下左右から攻撃を仕掛けてくる古賀さんをボクは何とかしのいでいた。その理由は簡単。古賀さんは戦闘者ではあっても武術家ではないからだ。攻撃はフェイントも無く大振りだし、動きのパターンもそう多くはない。
「そこっ!」
「きゃあああああああ!」
地上に着地した瞬間の無防備な脇腹にボクの爪先が突き刺さった。それによって古賀さんはあまりの衝撃に悲鳴を上げながら蹴り飛ばされていく。蹴った瞬間のメキリと肋骨をへし折った感触が脚に残っていた。これで終わりだろうと思ったボクだったが、あっさりと古賀さんは立ち上がった。しかも、痛めたはずの脇腹をかばっている様子もない。
「あはは、驚いてるみたいだね。改造人間である私はあの程度の怪我だったら数秒で治っちゃうんだよ!」
そう言って跳びかかってくる古賀さんに再び蹴りを浴びせるが、まるで効いた様子がない。骨を蹴り折っても悲鳴を上げるだけで、その直後何ともなかったかのように襲い掛かってくる。まさに不死身。――これこそが古賀いたみの異常性(アブノーマル)なのか!
「打撃が無理なら!」
砲弾のような拳をかいくぐって古賀さんの背後に移動すると、そのまま首に腕を回して締め上げてやる。これでも元柔道部なんだ。古賀さんに裸締めを極め、失神させようと力を込めていくと、顔を真っ赤にして苦しそうな呻き声を漏らした。いくら力が強くても、さすがに酸欠になれば、脳に血が回らなければ意識を失うはず。しかし、ボクは古賀いたみの怪力というものを理解してはいなかったのだ。
「あああああああああっ!」
古賀さんが大声で叫んだ瞬間、ボクの身体は宙を舞っていた。正確には背後から組み付いたボクを乗せて古賀さんが跳躍したのだった。直後に感じた衝撃で少しの間ボクの意識が飛び、いつのまにか古賀さんを締めていた腕はほどけてしまっていた。しかし、ボクにはそんなことを考える余裕もなく、ガクリと膝を床に着く。咳き込みながら辺りを見回すと、ボクはようやく状況を理解できた。ボクを天井にぶち当てて二階まで跳び上がってきたのか――
「ごほっ……人の身体で天井を貫くなんて…」
体当たりで天井を突き破るとは考えられないほどの肉体の性能である。そして、そのクッションにされたボクのダメージははかりしれない。バイクに轢かれたかのような体感だった。もはや組み付くのは自殺行為だろう。古賀さんは天井に立ってボクを見下ろしていたが、ボクが諦めていないのを理解したのか、再び襲い掛かってきた。両拳、両足による暴風のような連撃をいなしながらボクは古賀さんを観察する。怪力や身軽さもそうだけど、最も厄介なのは骨折を瞬時に治すほどの回復力である。
「うー、何で当たらないの!?」
古賀さんの攻撃は一撃一撃が致死レベルの脅威である。しかし、だからこそボクの身体は勝手に反応して回避してくれるのだ。とはいえ、避けているだけじゃ勝てない。ボクは飛んでくる拳を前へ距離を詰めることで避け、カウンターの要領であごを右の掌底で突き上げる。そのまま返す刀でこめかみに左フックを打ち込み、とどめに渾身のハイキックをぶち当てたのだった。たとえ黒神めだかであっても倒せると確信するほどにまともに入った連撃に思わず心の中で喝采を上げる。
「どうだっ!これならさすがに……!」
狙いは立て続けに脳を揺らすことにより、脳震盪を起こさせること。グラリと身体が傾いた古賀さんにボクは安堵して、次の瞬間にはボクの胸に拳が突き刺さっていた。
「がはあっ!」
ダンプにはねられたかのような衝撃を感じたボクの身体は空中に投げ出されていた。直後に全身を走る激痛。常軌を逸した威力の拳は、とっさにガードした右腕をも越えて胸骨までをも粉砕してしまっていた。なんで動けるんだ!?激痛に耐えながら震える足で立ち上がったボクは驚愕の表情で古賀さんに目を向ける。そこには、やはり無傷の少女が天井に立っていた。
「ぐぅぅ……な、何で……いくらなんでも脳までは鍛えられないはず…!」
「ん?だって私、改造人間だもん。どんな怪我だろうと治っちゃうんだよ」
なんて規格外……。自分の迂闊さに唇を噛んだ。異常性(アブノーマル)は過負荷(マイナス)と違って、ある程度は理屈で説明することができる。だからスキルとしては過負荷(マイナス)に劣るなんてボクは驕っていたのかもしれない。しかし、それは大きな間違いだ。理屈に説明できるからといって、常識で説明できる訳ではない。それをこれまでの戦闘で学んだはずだったのに……!
「ほら、もうやめなよ。早く病院に行かないと、っていうかそんな大怪我でよく立てるね」
「何を言ってるんだよ。ごほっ……ここからが本番だろ?」
心配そうな目で見つめる古賀さんに強がるように言い放ち、そのまま彼女に蹴りかかる。ボクとしてもここで終わるわけにはいかないのだ。生徒会戦挙には代理というシステムがある。書記戦ではボクの相手は阿久根のはずだけど、代理で他の生徒が出馬することも可能なのだ。本人の意思が最優先なので、副会長戦でボクの代理を出される心配はないけど、書記戦で日之影先輩や古賀さんが出馬してくることは有り得る。黒神めだかの性格からして可能性は低そうだけど、いざとなったら分からないからね。だからこそ、ここで古賀さんをリタイア、もしくは弱点を探しておかなければならないのだ。
「ごふぅ……!」
今度は相打ち。もはや避ける余裕も無く、回避の替わりに無我夢中で足を走らせるのが精一杯だった。互いに腹を蹴り合い、結果ボクだけが吹き飛ばされる。内臓をシェイクされるような感覚。ガクガクと震える膝を押さえ付けて何とか立ち上がるが、その損傷は非常に重い。動かない右腕をだらりと垂らし、陥没した胸に震える膝。内臓を痛めたのかゴプリと胃の中から逆流してきた吐血を何とか飲み込む。ボクの爪先も古賀さんの骨をへし折ったはずなんだけど、すでに完治してしまったようだ。
「いい加減にしなよ!もう死んじゃうよ!?今の攻撃だって私には傷一つ付いてないし!肉を切らせても皮すら切れてないんだよ!」
「……無駄な努力も無意味な徒労もボク達にとっては慣れっこなんだよね」
あまりの大怪我に古賀さんは叫ぶように声を叩きつける。しかし、ボクは顔を青ざめさせてフラフラとした足取りながらも、向かっていくのを止めない。口元から血を零し、足を引きずりながら歩いていく。たとえ死んでも球磨川さんが生き返らせてくれるんだ。だったら命と引き換えにしてでも何かのヒントを得ないと……。
「……あんた、やっぱり過負荷(マイナス)だよ」
まるでゾンビのように歩み寄るボクのおぞましさに、古賀さんは血の気の引いた様子で一歩後ずさった。苦痛も絶望も関係ない。全てを捨てて、ただ勝つことのみのために身体を機械的に動かしていく。殴りかかってきた古賀さんの拳を何とか避けて懐に潜り込むと、その顔に向けて口から血煙を噴き付けてやった。プロレスでの反則技、毒霧攻撃である。吐血を目に噴き付けられ、悲鳴を上げながら目を押さえた。
「きゃあっ!うぅ……目が……!?」
「あああああああっ!」
ようやく生まれた隙にボクは全力で連撃を加えていく。膝を踏み抜き、あごを跳ね上げ、肝臓に爪先をめり込ませる。漫画などでもお馴染みの方法である。数秒で回復するというのなら、――回復が間に合わないほどに損傷を与え続ければいい。
動くたびに起こる神経を焼くような激痛に耐え、ひたすら機械的に打撃を行っていく。古賀さんも苦し紛れに反撃をしてくるが、赤く染まった視界では前が見えていないようで、かわすのは容易い。数十秒ほどそれが続いただろうか。目にも止まらぬほどの連続攻撃を続けていたボクの身体が一瞬、浮遊感に包まれた。不思議に思って目線を下にずらしてみると、古賀さんによってボクの足元の床が踏み抜かれている。
「捕まえたよ」
ボクの顔からサッと血の気が引いた。空中に投げ出されたボクの胸倉を古賀さんの手がしっかりと掴んでおり、そのまま階下へと力一杯投げ捨てられたのだ。まるでメンコのように勢いよく背中から叩きつけられたボクの身体は、常識では有り得ないほどの高さまでバウンドしてしまう。全身を駆け巡る衝撃と轟音。
「がはっ!」
あまりの衝撃に一瞬意識が飛んでしまったボクは慌てて飛び起きようとするが、手足がピクリとも動かない。受身の甲斐もなく、コンクリートに叩きつけられたボクの全身はしびれたように脳の言うことを聞いてくれなかった。それどころか痛みさえ麻痺してしまっており、さすがにボクの敗北を認めざるを得なかった。大の字で横たわっているボクを見下ろしながら古賀さんが歩いてくる。どうやらあれだけボクが負わせた怪我は全て治ってしまっているようだ。悔しさや無力感を噛み締めながら目線だけでその姿を追うと、なぜかガクリと古賀さんの膝が折れ、地面に膝を着いてしまった。
「あれ?もう時間切れ……?」
古賀さんは息を荒くしており、とうとう床にへたり込んでしまっていた。しかし、ボクの攻撃で傷ついているという感じではない。もしかして古賀さんの弱点って……。
ボクの表情に安堵の色が浮かぶ。そんなことを考えながらボクの意識は暗転したのだった。
そして一週間後。生徒会戦挙――最悪の庶務戦が始まった。
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「あたしは断然、血の海派!」
生徒会戦挙当日、ボクは時計台地下五階駐車場へと向かっていた。そろそろ庶務戦を行っている頃だろうか。初戦の庶務戦に出馬するのは球磨川さんだ。本来ならスキルから考えても球磨川さんの敗北は考えられないんだけど、どうやら本人はそう考えてはいないらしく、むしろ敗北する可能性の方が高いそうだ。庶務戦の形式が何であろうと、球磨川さんは時間稼ぎを最優先してくれるらしい。つまり、ボク達の働きに期待しているということ。
「久しぶりだね」
地下五階の扉を開けると、そこには凶化合宿を行っている生徒会メンバー達がいた。
「月見月先輩……?どうしてここに……」
「どうしたんだ?そろそろ庶務戦が始まっている頃だと思うんだが、俺達に何か緊急の用事でも?」
ボクの姿を確認した阿久根と喜界島さんが不思議そうに尋ねるのを無視して、周囲を見回す。そこには凶化合宿を受けている阿久根と喜界島さん、それを教導している日之影先輩と真黒さんがいた。そしてもう一人――
「古賀さん、君も合宿を受けていたんだね……」
「ん?そうだよ、名瀬ちゃんが万が一に備えて受けておいてって」
「それは懸命な判断だけど、――残念ながらツキが無かったね」
ボクの言葉と同時に目の前の全員の身体が――ズタズタに切り裂かれた。まるで噴水のように飛び散る鮮血でボクの視界が赤く染まる。何が起こったのか理解できず、大量の血を流しながらその場にガクリと膝を着いた。一瞬にして周囲が血に染まる。
「こ、これは……志布志さんの過負荷(マイナス)か!?」
血に塗れながら阿久根は驚愕の表情で叫んだ。そういえば阿久根は中学時代にこのスキルを受けたことがあったか。
これが『他人の古傷を開く』という志布志の過負荷(マイナス)――『致死武器(スカーデッド)』
同じくこのスキルを受けたことのある古賀さんも状況が飲み込めたようで、血だらけになりながらボクに敵意のまなざしを向けてくる。そして、ボクの背後から現れた三人の姿を見た途端、この場が張り詰めたような緊張感に包まれた。ようやく全員が理解したのだろう。志布志飛沫、蝶ヶ崎蛾々丸、江迎怒江、そしてこのボク月見月瑞貴によるマイナス十三組の襲撃。
「ねーねー。ところでお前ら、夏を過ごすなら海派?山派?あたしは断然、血の海派!」
目の前の惨劇を何とも思っていないという風に志布志が軽い調子でボクらに問い掛けた。
「聞かれるまでもありませんね、志布志さん。私は昔から夏とバイクは山派と決めています」
「ボクも山派だよ。昔から海運が悪くてね。ま、だからって山が安全な訳じゃないけど」
「私も山派かなぁ、志布志ちゃん。ほら、私が泳いだら海が腐海になっちゃうもん」
それを聞いて志布志は頭に手を当てて困ったように笑う。
「えー?何だよ、三人とも山派だったのかよ。先に言えよな、そういうことは!ごめーん、あたしの好みで勝手に血の海作っちゃって。じゃあちょっと待っててね。――すぐに死体の山を築くから」
ボクら四人ともこの惨状を前にしてもどうでもいい会話を続けていた。その感性はやっぱりボクもマイナス十三組の生徒だと安心させられる。そんなことを考えている間に、日之影先輩が歯軋りをしながらボクを睨みつけていた。
「おい、月見月。てめぇ何で動けるんだよ!お前は俺がリタイアさせたはずだろうが!」
「ん?ああ、それですか。まったく……この間はよくも人をボロ雑巾みたいにボコボコにしてくれましたね。さすがに死ぬかと思いましたよ」
「いいから答えろ!」
「球磨川さんの『大嘘憑き(オールフィクション)』で戻(なお)してもらったんですよ。球磨川さんの過負荷(マイナス)の詳細については、いま戦っているであろう善吉くんから教えてもらってください。ただし、――その頃にあなた方が五体満足でいられるかどうかは保証できませんけどね」
ボクの言葉に日之影先輩の敵意が膨れ上がる。他の三人もふらつく足で何とか立ち上がっていた。しかし、その身体は血塗れの満身創痍で、堪え切れずにハァハァと呼吸が荒くなっている。いや、古賀さんだけは傷が塞がっているようだけど。
「懐かしいよなー、阿久根先輩。中学時代もこうやってあたしの過負荷(マイナス)でズタズタにしてやったっけな」
「し、志布志……!」
「あの時はあんたが球磨川さんと月見月先輩とツルんでたよな。どうだよ、立場が逆転した今の気分は?」
志布志が見下ろすようにして声を掛けると、阿久根はギリッと歯噛みして睨みつけた。昔とは違い、今の阿久根はボク達を許容することはできない。それでも一縷の望みを込めて志布志に向けて叫んだ。
「ぐっ……君だって短い間とはいえ、この学園で暮らしてきたじゃないか!?それなのに何とも思わないのか!?」
「アホか、あんた……。何も思わないわけねーだろ。あたしはそんな無感情な人間じゃねーよ。もちろん――こんなくだらねー学校ぶっ潰してやろうって思ってたぜ」
何でもないように言い放った志布志の言葉に、阿久根は目を閉じて諦めたように首を振った。日之影先輩も言っていたが、過負荷(マイナス)とは文字通り『話にならない』連中なのだ。どうあっても相容れない思想に、阿久根は内心諦めながらもボクへと視線を動かした。
「月見月、君は……」
「ボクの理由は言うまでもなく分かってるだろ?」
しかし、ボクはその言葉を最後まで言わせることなく、途中で遮って答えた。阿久根だって実際は分かっていたはずだ。理由なんてただ一つ。
――球磨川さんがそう望んだから。
それが中学時代から変わらぬボクの行動原理。阿久根は今度こそ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて黙り込んでしまった。しかし、対照的に喜界島さんは目に涙を浮かべて、信じられないという風な表情でボクを見つめている。そのまま両手を広げるようにして悲痛な叫びを投げかけてきた。
「全然わかんないよ!月見月先輩どうして!?私達、友達じゃなかったの?」
裏切りとしか取れないボクの行動に喜界島さんは今にも泣き出しそうな声を上げる。残念だけど、その質問に返せるボクの答えも一つだけだ。
「もちろん君のことは友達だと思ってるよ。頼もしい仲間だと思ってるし、素直でかわいい後輩だとも思ってる」
「だったら……」
「――でも、球磨川さんの命令に手心を加えるほどに好きなわけじゃない」
そう言い放つボクに愕然とした表情を浮かべる喜界島さん。その瞬間、ボクの言葉に激昂した古賀さんが弾かれたように飛び出してきた。
「お前らああああああああああ!」
冷静に迎撃するための構えを取るボクだったが、どうやら狙いはこの惨状を作り上げた志布志のようだ。ボクの表情に一瞬の焦りが浮かんだ。かつて、フラスコ計画を潰しに行ったときに捕まってしまったように、志布志の『他人の古傷を開く』という過負荷(マイナス)にとって、古賀さんの回復能力は天敵なのだ。恐ろしい速度で志布志の懐へと跳び込んだ。
「ちっ……!」
全身から血を噴き出しながらも、古賀さんの突進は止まらない。志布志が傷を開いたそばから、その傷が治っていく。志布志の凶悪な攻撃による損傷を、異常なまでの回復力で片っ端から治してしまうのだ。そのまま志布志の目の前まで潜り込んだ古賀さんはその拳を突き出した。しかし――
「後輩を殴るなんて感心しませんね」
――その拳は志布志の盾になるように前に出てきた蝶ヶ崎の顔面に突き刺さっていた。
トラックの正面衝突にも匹敵する古賀さんの怪力をその身に受け、しかし蝶ヶ崎の顔は何の痛痒も感じていないようだった。それどころか、逆に古賀さんの身体の方が、ひどい衝撃を受けたかのように吹き飛ばされていく。これこそが蝶ヶ崎蛾々丸の完全にして無敵の過負荷(マイナス)――『不慮の事故(エンカウンター)』
「では、そちらは任せましたよ」
「わかった」
蝶ヶ崎に短く答えると、吹き飛ばされた古賀さんを追ってボクは駆け出した。遠くまで転がっていった古賀さんをさらに蹴り飛ばし、他の四人と隔離する。蝶ヶ崎のスキルの性質上、古賀さんと日之影先輩の二人から志布志を守るというのは難しいが、一人だけならば十分に壁役として真価を発揮することができるだろう。
「ここから先は通さないよ」
「……ずいぶん余裕だね。先週、私にボコボコにされたの忘れてない?あれだけやって結局、私の身体に傷一つ残せなかったっていうのに」
正面に立ちふさがるボクに古賀さんが呆れたように言い放つ。何の脅威も感じていないかのような表情だ。確かにボクは何もできずに惨敗したけど、だからって何も収穫が無かった訳じゃない。
「避けるのは得意みたいだけど、時間稼ぎに付き合う必要は無いよね!悪いけど向こうに加勢に行かせてもらうよ!」
そう言って凄まじい速度でボクの方へと突進してきた。まるで電車が突っ込んでくるような圧力に思わず息を飲む。避けるのは容易いけど、そうなればボクを無視して加勢に行かれてしまう。でも球磨川さんがいない今、この一撃を喰らえばボクは戦闘不能になってしまうだろう。意を決してボクはその場に立ちはだかった。自身の構えを立ち技主体のそれから柔道のものへと変更する。
「もう天井に張り付いたり飛び跳ねたりはしない!地に足を付けて戦えば私は誰にも負けないんだ!」
それは今までのようなトリッキーさは無いものの、それを補って余りあるほどの速さと重さを兼ね備えた一撃だった。一瞬が一秒にも感じるような時間の中で、ボクは不意に鍋島先輩の教えを思い出していた。――見るべきは手足のような末端部分ではなく身体の重心。
ボクの身体は古賀さんの一撃を紙一重でかわして懐へと潜り込んでいた。頬を叩く風を感じながら、その襟を取って足先を走らせる。怪力も速度も関係ない。重心を見極めて軸をずらせば、どんな相手だろうと投げられる――
「きゃっ!」
そのまま高速で迫ってくる古賀さんを崩し、地面へと投げ飛ばした。鈍い音を立ててコンクリートの床に人体が叩きつけられる。常人なら骨が折れてもおかしくないほどの威力だが、相手は改造人間。
「だから効かないんだってば!」
「知ってるよ。ボクだって無策で挑んだ訳じゃない。――投げたのはただの準備」
床に倒した瞬間からボクは古賀さんの上に覆いかぶさるように動いていた。武術の素人である古賀さんに柔道の寝技に対処するノウハウは無い。一秒もかからずに手足を古賀さんに絡み付けられた。これは柔道の抑え込み技――縦四方固め
「これは君を――疲れさせる技だ」
「っ……!?」
古賀さんの顔に焦りの色が浮かんだ。慌てて逃れようとするが、この体勢からでは抜け出ることは困難。これは腕力や脚力などの力づくでほどけるような技ではないのだ。そして、古賀さんには力づく以外の手段を用いる技量は無い。じたばたともがく古賀さんの身体からは、みるみるうちに力が抜けていく。あとは時間が過ぎるのを待つだけ。
「この間の戦いで気付いたよ。君の弱点はスタミナ不足。その異常なまでの怪力や回復力に、消費する莫大なエネルギーの貯蔵が追いついていないんだ」
「うああああああああああ!」
古賀さんを抑え込みながら周囲に意識を向けてみると、日之影先輩との戦闘が激化しているようだった。辺りには轟音と怒号が衝撃波のように響き渡っている。しかし、心配はしていない。ルールの無い戦闘においては過負荷(マイナス)のスキルの方が上なのだ。それに、二人のあの凶悪な過負荷(マイナス)には日之影先輩の強さも堅さも無意味となるだろう。
予想通り、古賀さんの身体から完全に力が抜けた頃には、重機のぶつかり合うような破壊音は消えてしまっていた。それは生徒会戦挙における致命的な一手が成功したことの証でもある。ボクは命令通りに疲れきった古賀さんを肩に担いでこのフロアをあとにする。
「それではまた来週!お相手はマイナス十三組『致死武器(スカーデッド)』の志布志飛沫でしたー!」
――こうして、異常なまでの破壊跡と血塗れになった生徒会メンバーと去り際の一言だけが、この地下駐車場に残されたのだった。
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『最初に歌いたい人いるー?』
古賀さんをマイナス十三組の集まる剣道場へと預けたあと、ボク達は打ち上げのために近くのカラオケボックスを訪れていた。庶務戦を終えた球磨川さんと合流して、そのまま幹部会へとなだれ込む。ちなみに不知火さんは用事があるとのことで欠席。基本的に不知火さんは戦挙が始まってからはあまりマイナス十三組としての活動には加わっておらず、何をしているのかは不明だ。そんなわけで、注文した軽食やお菓子で埋め尽くされたテーブルを前にしてミーティングが始まった。
『じゃあ、みんな今日はお疲れ様。おかげで一気に戦挙は僕達に有利になったよ。今後の予定はおいおい話し合うとして、とりあえず打ち上げを始めようか』
球磨川さんが乾杯の音頭を取って、ボク達はソフトドリンクのグラスを合わせた。ちなみに江迎さんは手で触れた物を腐食させてしまうので、私物の特製カップを持ち込んでいる。
『最初に歌いたい人いるー?』
「それでは、僭越ながら私が歌わせて頂きましょう」
球磨川さんの言葉に蝶ヶ崎がマイクを握って答えた。意外にもノリノリで歌い出した蝶ヶ崎だけど、正直ボクには何の曲かさっぱり分からない。なので、隣にいる球磨川さんに今日の庶務戦について尋ねてみた。
『やっぱりルールのある戦いじゃ僕達(マイナス)は彼ら(プラス)には勝てないね』
「うーん、今回の敗北は時間稼ぎに徹していたからじゃないんですか?球磨川さんのスキルに善吉くんが勝てるとは思えないんですけど……」
『まーそうなんだけどね。でも、結局は同じことだと思うよ。正攻法で戦えないからこそのマイナスだしね。僕達はルールの上で競うには弱すぎるんだよ』
よく分からないけど、過負荷(マイナス)の象徴でもある球磨川さんが言うのならそうなんだろう。そんなことを話しているうちに蝶ヶ崎の歌が終わったようだ。それを見た球磨川さんが笑顔で江迎さんに声を掛ける。
『さーて、次は僕が歌おうかな?怒江ちゃんも一緒に歌おうよ』
「え……でも、私が触るとマイクが腐っちゃいますし……」
『大丈夫だよ。ほら、僕が代わりにマイク持ってあげるからさ』
そう言って球磨川さんがマイクを江迎さんの前に持っていってやると、顔を真っ赤に染めて頷いたのだった。江迎さんは蕩けたように潤んだ瞳で球磨川さんを見つめている。江迎さんの気持ちはボクにも理解できる。彼女もボクと同じ理由で球磨川さんに付き従っているのだろう。つまりは自分を認めてくれる唯一の存在として――
『じゃあこの曲でいい?』
「はい、球磨川さん!もちろん何でも大丈夫です!」
機械で曲を入力するとイントロが流れ始め、球磨川さんは楽しそうに、江迎さんは緊張した様子で歌い出した。江迎さんは自分の手を、マイクを握った球磨川さんの手の上に添えるようにして歌っている。マイクが腐食しない代わりに球磨川さんの手が腐り続けているけど、もちろんそんな瑣末なことを気にしている様子は無い。
『あれがデネブ、アルタイル、ベガ~』
江迎さんは頬を赤く染めながら、横目でチラチラと球磨川さんの顔を眺めていた。あまりにも分かりやすい反応に思わず苦笑してしまう。さすがは球磨川さんのカリスマ性というべきなのかな。
「月見月さん、今後のことなのですが……」
歌い終わった蝶ヶ崎がボクに声を掛けてきた。相変わらず同級生のボクに対しても敬語だ。それに対してボクもポッキーを食べながら視線を向けることで答える。狂ってる人間の多いマイナス十三組の中で、例外的に理性的な蝶ヶ崎とは、今後の指針について検討し合うことが多いのだ。もちろん球磨川さんの意見が最優先だけど。ちなみに志布志は早くもドリンクバーにおかわりを取りに行っているようだ。
「次の書記戦、あるいはその次の会計戦。生徒会の内情に詳しいあなたはどう見ているのですか?」
「……そうだね。阿久根と喜界島さんを病院送りにした今、書記戦と会計戦は不戦敗。副会長戦もボクがわざと負けるだろうことは向こうも分かっているだろうから、これで三敗。このままなら生徒会の敗北が確定するね」
「となれば当然代理を出してきますね」
「めだかちゃんの性格上、代理は好まないだろうけど、さすがに背に腹は変えられないからね。で、誰が出てくるかというと……」
ボクはあごに手を当てて考える。特待生(スペシャル)から選ぶなら鍋島先輩だけど、凶化合宿を行えない以上、過負荷(マイナス)に耐性のない生徒は出してこないだろう。となると過負荷(マイナス)に近い連中である『裏の六人(プラスシックス)』か、それに関わっていた『十三組の十三人(サーティンパーティ)』か――。
「でも大半はボク達が襲撃をかけた際に病院送りにしちゃったからね……。それに戦闘用の異常性(アブノーマル)を持つ古賀さんはすでに拉致してるし。わざわざ転入してきたくらいだから、少なくとも人吉先生は出馬してくるだろうけど」
書記戦で人吉先生と当たった場合、おそらくは純粋な体術勝負になるだろう。技術なら人吉先生が上、身体能力ならボクが上、――過負荷(マイナス)も含めるとわずかにボクが不利かな。
「私達マイナス十三組は限りなく貧弱な集団です。球磨川先輩に匹敵する絶対値を持つという黒神めだかまで回すことは絶対に避けねばなりません。一見すると余裕の展開に見えますが、次の書記戦、会計戦は落とせませんよ」
「わかってる。誰が相手だろうと必ず勝つよ」
蝶ヶ崎の言葉にボクは静かに闘志を燃やしながら答えた。ボク達の話が終わると同時に、球磨川さんと江迎のアニソンメドレーも歌い終わったようだ。ボク達はそれにパチパチと拍手をする。
『次は瑞貴ちゃんの番だよ。選曲しちゃっていいよ』
球磨川さんの言葉にボクはうーん、と小さく唸る。できるだけみんなが知っていて、かつ他とかぶらない曲を脳内で検索してみる。球磨川さんはアニソン、志布志はロック系、江迎さんは……見た目からしてJ-POPかな?
「蝶ヶ崎ってどんなの歌うの?」
「始めに歌ったのもそうでしたが、私はゲームの主題歌や挿入歌などを特に好んでいますね」
「その見た目でゲーソンかよ!ビートルズとか歌いそうなのに……」
あまりのギャップに思わず笑いが漏れてしまった。そんな英国紳士みたいな格好してるのにゲーマーって……。ボクの突っ込みを受けた蝶ヶ崎はいきなり自分の手を熱々のコーヒーの中に突っ込んだのだった。突然の行動に驚く暇も無く、ボクの手に焼けるような熱さを感じる。
「熱っちいいいいいいいい!」
慌てて自分の手を押さえるが、ボク自身には何も異常はない。ただ、火で炙られているような熱を感じているだけだ。いまだに火鉢を当てられているような灼熱が続いているが、蝶ヶ崎自身は冷静でまるで熱を感じていないようだ。蝶ヶ崎……こいつ、ボクに熱さを押し付けてきてるな!
「おやおや、どうかしましたか?ちなみに言っておきますと、この服は以前在籍していた高校の制服ですので、別に私が英国紳士を目指して購入したものではありません。そして、ゲームをすることに見た目は関係ありません。それともあなたは私のような人間にゲームをする資格は無いとでも言うのですか?だとしたらその根拠をおっしゃって頂きたいものですね」
蝶ヶ崎は平静を装ってはいたものの、頬を引きつらせており怒っているのが丸分かりだ。というか、そんなに格好のこと気にしてたのか……。
「熱ちちっ……わかったよ!謝る!謝るから紅茶の中に入れた手を早く抜いて!」
「分かって頂けたのなら幸いです」
そう言ってようやく蝶ヶ崎は自分の手を紅茶の中から出してくれた。急いでソフトドリンクの冷たいグラスで手を冷やす。恨みがましくジト目で睨みつけるボクだったが、蝶ヶ崎は涼しげな表情で目線を反らしている。その時、ガチャと音を立てて開いた扉から志布志が戻ってきた。
「はい注目ーっ!ほら、ゲームやろうぜ!」
志布志の手には得体の知れない飲み物のグラスが握られている。ボクは冷や汗を流しながら志布志の持つグラスに震える指を向けた。嫌な予感がした。
「志布志……それは?」
「ん?とりあえずドリンクバーで適当に混ぜてきたんだよ。月見月先輩が言ったんじゃねーか。高校生はこういう遊びをするんだって」
「……冗談だったのに」
ドリンクバーで色々な飲み物を混ぜて、それを罰ゲームとして誰かが飲むという遊びは中高生の男子なら誰もがやったことがあるだろう。以前、志布志とカラオケに来たときに柔道部でやったそのゲームを教えてやったのだ。だからってボクがそのゲームをやりたかった訳じゃないのに……。
「へー、そんな遊びがあるんですね」
「みてーだぜ?あたしも友達なんていなかったから月見月先輩に初めて聞いたんだけどな」
「じゃあ、早速やりましょうよ。私、そういうことするの憧れだったんです」
後輩の女子二人がボクに尊敬のまなざしを向けている。今更やりたくないとは言えないよな……。マイナス十三組の生徒達は基本的に、というよりほとんど全員が嫌われ者だ。当然、このように友達同士で遊びに来るのも初めてなのだろう。
『面白そうだね。じゃあこれも入れよっか!』
「ちょっ……食べ物を入れないでくださいよ!」
球磨川さんは笑顔のまま、その飲み物に血のように真っ赤なパスタのミートソースを注ぎ込んだ。それによって、その液体は蛍光色から一気に濁り切った朱色に変化してしまう。不味さのレベルが恐ろしく上がってしまった。
「私もどちらかというと甘いものが苦手ですので、少し苦味を加えさせて頂きましょうか」
「あたしはわさびでも入れてやるよ」
「ええー、辛いのは嫌ですよお。仕方ないから私はプリンを入れて甘くしますね」
蝶ヶ崎は紅茶のティーパックを入れ、続くように志布志と江迎さんもそれぞれを混ぜていく。カオスすぎる……。その液体は形容しがたい色へと変化しており、もはや味の想像すらつかない代物になっていた。ボクは何とか中和しようとウーロン茶を入れたけど、正直焼け石に水だろう。
「で、誰が飲むの?」
「じゃんけんで負けた奴にしよーぜ」
「ちょっと待て!それじゃボクが負けるに決まって……」
さらっと言い放った志布志の言葉に、ボクの全身に電流が走ったような寒気を感じた。慌てて声を上げるボクだったが、その声は届かない。
「それは名案ですね」
「そうですね。じゃあ、早速やりましょうよ」
『いくよ。最初はグー!じゃんけん……』
合図と共に出された手はボクがグー、そして他のみんなはパーだった。結果は必然と言うべきか、ボクの一人負け。
「罰ゲームは月見月先輩ですねえ」
「いやいや、運で決まる勝負ってボクに不公平すぎでしょ!?」
『ひどいことを言うなよ、瑞貴ちゃん。公平な勝負の代名詞であるじゃんけんに文句を付けるなんて』
視線を目の前の液体の入ったコップへと落とす。ボクにこんな得体の知れない液体を飲めだって……?頬を引きつらせるボクに救いの手を差し伸べてくれたのは、意外にも蝶ヶ崎だった。
「月見月さんも嫌がっているようですし、無理強いはよくありませんよ。まあしかし、食事を無駄にするのも気が引けますからね。仕方ないですから私が代わりに飲みますよ」
「た、助かるよ……。ありがとう蝶ヶ崎」
ほっと安堵の溜息を吐きながら礼を言うボクを見て蝶ヶ崎は薄笑いを浮かべていた。その様子に一瞬疑問を覚えたが、すぐに蝶ヶ崎はグラスを傾けてそれをゴクゴクと飲み始めた。直後、ボクの口内に広がる異物感と不快感。
「うえええええええっ!ち、蝶ヶ崎……まさか!」
驚いて視線を向けるとそこには心底愉しそうにボクを見下ろす蝶ヶ崎の姿が――
「さっきはよくも偉そうに私の趣味にケチを付けてくれましたね。偉そうな奴ってのは、誰に何されてもしょうがないですよねえ」
「さっきのを根に持って……!?ぐぅぅ……自分の味覚と不快感をボクに押し付けてくるなんて」
舌に広がるまるで汚物のような感覚に、思わずボクはのどを押さえて呻き声を上げる。助けを求めようとしたボクだったが、その考えは即座に打ち消さざるをえなかった。みんなも苦悶の表情を浮かべているボクの姿を嬉しそうに眺めていたのだ。さすがはマイナス十三組。吐き気で顔面を蒼白にしたボクは必死に許しを請うしかなかった。というかそもそも、いつボクが蝶ヶ崎の趣味にケチを付けたんだよ!被害妄想にも程がある!
「わ、わかった……、謝るから許してくれ」
「しかしですね、どこかしらにこの不快感を押し付けないことにはねえ」
「隣の部屋の客にでも押し付ければいいだろ!」
机に突っ伏して必死に頼み込むボクを眺めながら、蝶ヶ崎はサディスティックな笑みを顔に張り付けていた。そして、そのままグラスを傾けてまるでワインでも楽しむかのように口内で転がしていく。
「だからそうやって味わうのをやめろぉおおおおおお!」
――それから数分の間、カラオケボックスの一室ではボクの悲鳴が止まることは無かったのだった。
ボクがぜえぜえと荒い呼吸を繰り返していた時、いきなり球磨川さんの携帯の着信音が鳴り響いた。
『もしもし……うん……分かった、代わるね』
そう言って球磨川さんは携帯をボクに渡してきた。疑問に思って尋ねると球磨川さんは何でもないように答える。
『名瀬さんが君に話があるって』
「まさか……!?」
先ほど凶化合宿に乱入して古賀さんを拉致したのは、今後の生徒会戦挙に関わらせないためだけでなく、もう一つの理由があった。それはマイナス十三組側の性質をもつであろう名瀬妖歌のスカウトのためである。普通に交渉すれば仲間になってくれると球磨川さんは言っていたが、ついでということで親友の古賀さんを人質にしておこうという策であった。だけど、球磨川さんの携帯に電話を掛けてきたというのは一体どういう……。
「もしもし、月見月だけど」
「……お前、よくも古賀ちゃんを拉致ってくれたな」
「何のこと?日之影先輩たちが何者かに襲われたっていうのは聞いてるけど、何でボクがやったなんて話になってるの?言い掛かりは止めて欲しいね。たぶん、怪我した古賀さんは親切な誰かが保護してくれてるんじゃない?」
平静を装って答えながらもボクは困惑を覚えていた。なぜ球磨川さんの電話番号を知っている?それに名瀬さんはボクに電話を代わるように指名してきた。ボクが古賀さんを拉致したことを知っているのか?
「古賀ちゃんから聞いたんだよ。お前にやられたってな!許さねぇぞ、お前だけは俺が手ずからぶちのめす!」
「まさか古賀さんを奪還した!?いや、そんな簡単に襲撃に屈するはずが……!」
瞬間的にボクの顔に驚きが浮かぶ。いや、古賀さんは剣道場で保護していたはず。生徒会側が奪還しに来ることを想定して古賀さんの身柄は十数人ものマイナス十三組生で守らせている。人吉先生や黒神めだかがいるとはいえ、人数の減った現在の生徒会相手には十分守り切れる公算だったのになぜ!?
「……球磨川さんに電話を掛けられたのはマイナス十三組の生徒の携帯を使っているからだね。それでわざわざ電話を掛けてきたのはどうして?」
「お前に聞きたいことがあったからだよ。生徒会戦挙、お前はいつ出馬するんだ?」
一瞬答えるか迷ったものの、そのまま口に出した。
「……次の書記戦だよ」
「そうか、じゃあ書記戦は俺が出てやるよ。逃げんじゃねーぜ。俺も初めてなんだからよ、他人を心の底から不幸にしてやりたいと思うなんてな!」
「不幸?そんなの十分知ってるよ。だったら、代わりにボクは本当の不運ってやつを教えてあげるよ」
――そして一週間後、不運の書記戦が始まる。
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『――絶対に勝って』
――生徒会戦挙書記戦。出馬したのは宣言通り名瀬妖歌であった。その名瀬さんはキツイまなざしでボクを睨んでおり、やはり古賀さんを拉致したことを恨んでいるようだ。この場には現生徒会と新生徒会が対面して立っているのだが、今回ばかりはボクは新生徒会側に陣取っていた。それを驚いたような諦めたような表情で見つめている生徒会メンバー。何かを言いたそうな善吉くんだったが、それは選挙管理委員である長者原融通によって遮られた。
「それでは皆様、これより生徒会戦挙書記戦を始めさせて頂きたく存じます」
開始時刻になったと同時に声を上げる彼の前には十三枚のカードが置かれた机があった。これは生徒会戦挙の試合形式を決める重要なカードである。とはいえ、ボクに関しては決めるまでもない。どうせボクにとって一番危険な試合形式になるに決まっているのだから。
「ちょっと待ってくれ!瑞貴さんは現生徒会メンバーだぜ。新生徒会側にも出馬するってのは違反じゃねーのかよ!そもそもリコールの原因になったのは瑞貴さんの失態なんだし」
「いえ、人吉さま。リコールする資格に「現在の生徒会役員ではないこと」という条文はございません。今回のリコールは月見月さま個人ではなく、生徒会全体に対するものなのですから」
善吉くんが長者原に異を唱えたがすべなく断られてしまう。当然、選挙管理委員には事前に確認済みである。しかし、生徒会側にとっては看過できない事態でもあり、なおも善吉くんは食い下がる。
「だけど、瑞貴さん副会長戦は絶対わざと負けるぜ。戦挙に二戦とも出るってのはアンフェアじゃねーのか?せめて副会長戦の瑞貴さんの代理出場を認めてくれよ」
「君臨すべき生徒会の役員に離反されるというのは、生徒会長として資質の不足を問われても仕方のない事態です。もし仮に故意に敗北したとしても、それは生徒会に対する当然の罰則でしょう。そのため、代理出馬に関しては規則通り、本人の意思ややむを得ない事態を除いて認めることはできません」
悔しそうに唇を噛む善吉くんだったが、しかし対照的に黒神めだかは静かに沈黙しているだけだった。
「よい、善吉。すべては月見月副会長が決めたことだ。その行動を止めさせることなど元々するつもりはない。正々堂々、残りの四戦で決着をつけるまで」
瞳に決意を込めて黒神めだかはボクを見つめてきた。しかしボクだって負けることなど許されていない。ここで勝てなければ必然的に黒神めだかの出馬する会長戦にまでもつれ込んでしまうということなのだから……。
「では、新生徒会側である月見月さま。十三枚のカードの中からお好きな一枚をお選びください」
「……庶務戦で球磨川さんが選んだっていう『巳』のカードがあるけど、ルールは同じなの?」
「いいえ、庶務戦と書記戦では性格が違いますので『巳』のカードに限らず全てのカードの試合形式を変更させて頂いております」
……やっぱりそんな簡単にはいかないか。庶務戦で行われた『毒蛇の巣窟』の試合形式なら、腕章を奪えば勝ちという純粋な戦闘力で勝るボクにとっては有利な勝負だったのに……。いや、だとしてもボクが選ぶカードは一つしかない。
「ボクは球磨川さんと同じく『巳』のカードを選ぶよ」
――ボクは球磨川さんの選択に身をゆだねるだけだ。
「『毒蛇の巣窟』を知りながらこのカードを選ぶとは、月見月さまの度胸にはただただ感服するばかりでございます」
そして長者原は『巳』のカードを裏返し、両手を大きく広げて宣言する。
「書記戦の形式は『冬眠と脱皮』に決定いたしました。これもまたやはり!今回我々が用意した十三の決闘法の中でもっとも残虐なルールで行われる戦挙でございます!」
そして移動させられた試合会場とは、零下四十八度――極寒の巨大冷凍庫である。これからの試合の恐ろしさにボクの全身を悪寒が包んだ。それもそのはず。今回のルールはこの極寒の中で互いの服を脱がせ合うというものなのだ。真冬の北海道の雪山すら軽く凌駕するこの冷凍庫の中で服を全て奪われてしまえば、凍死も十分有り得る。死をも覚悟しなければならないほどの過酷な戦挙である。そのはずなんだけど……。
「二人とも何だよ、その汚物でも見るような目は……」
すぐ隣から二対の瞳がボクのことを蔑むように見据えている。
「……何でもねーよ。ただ、ずいぶんヤル気に満ちてると思ってな」
「ええ、もちろんです。月見月先輩のことを軽蔑したりなんかしませんよお」
まるで変質者を見るかのような冷めた視線を向ける一年生女子二人にボクはげんなりと溜息を吐いた。
「まるでボクが女子の服を脱がしたいがために気合を入れているかのような言い方はやめてくれ……」
純粋に球磨川さんの力になるための試合だっていうのに、何だか逆に力が抜けてしまう。同級生の女子を制服から下着まで全部脱がせて裸にするということに何も感じないほど枯れてはいないつもりだけど、だとしてもボクが下心で参加しているかのような女子達の視線にはさすがにテンションを下げざるを得ない。
「もうルール説明は終わりだな。だったら、俺は先に入ってるぜ」
そう言って名瀬さんは零下四十八度の極寒の冷凍室へと足を踏み入れていた。結局、ボクとは一言も言葉を交わさずに不気味な沈黙を貫いたまま試合会場に歩を進めたのだった。ボクもそれに続きたいところだけど、その前に準備をするためにみんなを見回した。
「ねえ、寒そうだから何か着るもの貸してくれない?」
その言葉にマイナス十三組のみんなは呆れたような表情を見せた。いや、何でそんな意外そうな顔してるんだよ。こんな軽装で真冬のシベリア並みの冷凍庫に入れるわけないだろ。
『はははっ、瑞貴ちゃんらしいね。はい、これ着なよ』
「では、私の手袋もどうぞ」
球磨川さんは学ランを、蝶ヶ崎は手袋をそれぞれ貸してくれた。少しでも防寒して体を温めないと、筋肉の動きが悪くなっちゃうからね。スキルが文字通りマイナスになってしまうボクは少しでも対策を取らないと勝つことはできないのだ。
『それにしてもめだかちゃん。どうしたの?黙りこくっちゃって』
「……黙りたくもなるわ!私達は貴様達に勝とうと躍起になっておるというのに、肝心の貴様達は勝ち負けを度外視して嫌がらせみたいな戦法ばかり取ってくるのだからな!」
『あー、そりゃそうだね。でも勝ち負けを度外視してるって決め付けられるのは心外だなあ。こっちはこっちで真剣なんだからさ。んー、じゃあこうしよう!』
そして、球磨川さんは一拍置いて黒神めだかの表情をうかがうと、驚くべき宣言をしてしまう。
『もしも瑞貴ちゃんが名瀬さんに負けたら、僕はその時点で箱庭学園から手を引くよ』
この場にいた全員が球磨川さんの驚愕の宣言に息を飲んだ。もちろん一番驚いたのはこのボクだ。マイナス十三組のみんなも慌てて声を上げる。
「おいおい、球磨川さん。はっきり言って月見月先輩の過負荷(マイナス)はあたし達の中でも屈指の使えないスキルだぜ?そんなこと言っちゃっていいのかよ」
「志布志さんの言う通りです。球磨川先輩……よろしいんですか?選挙管理委員の前でそんな約束をしてしまえば、もう取り消せませんよ?」
『いいんだよ。この約束ばかりはなかったことにしないとここに誓う。そんなわけだから瑞貴ちゃん――これは君にしか頼めないんだ』
そして、球磨川さんはボクに顔を向けて笑顔で口を開く。
『――絶対に勝って』
「はい!必ず期待に応えてみせます!」
マイナス十三組の勝敗を決めてしまう重圧に固まっていた全身が、球磨川さんの言葉で一気に緊張から開放された。代わりに全身の血液がマグマのように熱く燃え滾る。必勝の決意を胸に秘めてボクは試合会場へと足を踏み入れた。
――ここで勝つためにボクはこの学園に来たんだ。
極寒の冷凍庫の中、再びボクは名瀬さんと向き合った。その瞳は燃え盛るような憎悪に染まっている。まるで死体のようにどろどろに黒く濁った瞳で冷徹にボクを見据えている。正面から向き合ってみて初めて理解できた。
「なるほどね……。確かに名瀬さん、君はマイナスに近い存在みたいだ。ボクがプラスに限りなく近いマイナスだとすれば、名瀬さんはその逆」
「おいおい、お前達と一緒くたにされるのだけは勘弁して欲しいんだがな。ましてや、俺の大親友の古賀ちゃんをボコった上に拉致しやがったお前にはなぁ!」
「許してよ。古賀さんにはボクだって以前こっぴどくやられちゃったんだからさ。痛み分けってことにしてよ」
「ざけんな!言ったろ、お前だけは俺が手ずからぶちのめすってよ!」
「それは残念だね」
やれやれと首を振りながらもボクはこのステージの観察を終えていた。この巨大冷凍庫の広さは視聴覚室ほどで、辺りには食品の詰まったダンボール箱などが所々に積まれている。このステージで危険そうな場所は積まれたダンボールの近くか……。重量のある食品棚の崩落が起こりやすそうだ。無意識にボクはこれまでの経験から自分の不運が発動しそうな危険地帯を予測していた。基本戦略は広間になっているこの場所での格闘戦。
「純粋な戦闘ならボクに圧倒的に分がある!」
一瞬で間を詰めたボクの蹴りが名瀬さんの腹に突き刺さる。反応すらできずに吹き飛んでいく名瀬さんは、鈍い音を立てて向こうの壁に激突した。戦闘タイプではない名瀬さん相手だろうと一切の手加減は無い。常人なら間違いなく昏倒するはずの一撃だけど、名瀬さんは何事も無かったかのように平静に立ち上がった。先ほどの攻撃のときに感じた違和感。
「……その服は何なの?」
蹴りの衝撃が少しも肉体に通っていない。まるで厚いゴムの塊でも蹴ったかのような感触。おそらくは名瀬さんが身に纏っているアンダーウェアのせいだろう。
「気が付いたようだな。これは低温にも高温にも低湿度にも高湿度にも、北極であろうと南極であろうと高山であろうと砂漠であろうと。ありとあらゆる環境に耐えうる全方位型実験服――名付けて『黒鬼(ブラックオウガ)』!もちろんあんたを相手するために対衝撃性には絶対の自信を持っているぜ」
「……雲仙からボクの話を聞いていたのか」
「ああ、そうだ。以前行ったという戦闘でも、雲仙の着ていた対衝撃防護服『白虎(スノーホワイト)』の防御を貫くことはとうとうできなかったそうじゃねーか」
しっかりとボクの対策をしてきている……。打撃を無効化する防護服。しかも防寒着でもある以上、持久戦は不利。だけど、打撃を効かせる方法はまだある!
「はあっ!」
防護服『黒鬼(ブラックオウガ)』の範囲外、包帯の巻かれた顔面にハイキックをお見舞いしてやる。しかしその瞬間、側頭部を的確に蹴り抜いたボクの表情が引きつった。――衝撃が吸収されている!?
「この顔面に巻いている包帯も『黒鬼(ブラックオウガ)』と同じ耐圧繊維の塊なんだぜ」
「しまった……!?」
名瀬さんの身体はボクの全力の蹴りを受けても一歩もよろめいていない。逆にボクは蹴りを放った不安定な体勢のままだ。そこに投擲された十本の注射器。反射的に後ろに飛び退きながら、飛来するそれらを両手足を使って叩き落していく。何とか十本の注射器を払いのけたボクを見て、チッと舌打ちをした。
「一本でもこの麻酔注射が刺さっていれば終わりだったんだがな」
「危なかったよ……。だけど、同じ手は通じない。その防護服だって、雲仙と戦ったボクが何の対策もとっていないと思うのかい?」
「いいや、思わねーよ。古賀ちゃんと再戦したときのように、すでに弱点を見つけていたとしても驚かないぜ」
――雲仙対策に練習しておいた衝撃を貫通させる蹴り。それならば打撃衝撃を肉体へ通すことができる。柔道の締め技や関節技をかけるのが一番簡単だけど、さすがに全身に注射器を仕込んでいる名瀬さんを相手に密着するのは避けたいからね。そう思って距離を取って大きく勢いをつけて走り込もうとして――
「な……身体が動かない!?」
全身の筋肉が硬直してしまったかのように動くことができない。どうして……?麻酔注射は受けていないはず。まさか麻酔ガス……いや、この感覚は以前感じたことがある。
「麻酔ガスで動けないだろ?あとは煮るなり焼くなりってな」
薄い笑みを浮かべている名瀬さんを見て確信する。この言葉は選挙管理委員にこの介入を気付かせないためのブラフ。実際にボクの身体を縛っているのは――
「――都城王土の異常性(アブノーマル)『人心支配』だね」
名瀬さんが驚いたような表情を見せる。やはりボクの肉体は都城王土の電磁波によって遠隔操作で停止させられているのだ。古賀さんをマイナス十三組の教室から奪還できたのも退院した『十三組の十三人(サーティンパーティ)』が協力していたから。しかし、この状況はまずい。
「みんな頼む!この近くにボクの動きを縛っている男がいるはずなんだ!早くその男を止めてきて!」
慌てて部屋の外へ向けて叫ぶと、みんなは状況を理解して急いで探しに走ってくれた。よし、これでみんなが都城王土を倒してくれれば……
「遅ぇよ。あんた銃撃に弱いんだってな……だったら、これで終わりだ」
そう言って名瀬さんが懐から取り出したのは拳銃だった。おそらくは宗像先輩から譲り受けたであろう凶器の銃口をボクに突きつける。ボクは指一本動かせずに、その光景を見つめるしかない。
――そして、名瀬さんの拳銃から轟音と共に銃弾が発射された。
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「それが本来の過負荷(マイナス)よ」
冷凍庫内の静謐に包まれた空気を銃声の破裂音が切り裂いた。
「……っ!?」
その瞬間、ボクの身体は壁の端にまで大きく跳躍していた。名瀬さんの銃弾は腕をかすめる程度に抑えられ、間一髪で回避できたボクは急いで辺りを見回す。今の回避で大きく距離を開けてしまったため、残念ながら距離を詰めて名瀬さんに攻撃するほどの時間の余裕はない。焦燥感に押されるようにボクの足は動き出していた。早くしないと都城王土の電磁波によって再び動きを止められてしまう。
「ちっ……それが噂の危機回避か。拘束中にも使えたのかよ。……都城先輩、見栄を張って教えなかったな」
「あそこまで行けば……!」
この冷凍庫内で最も入り組んで、高く積まれた食品棚の裏へと飛び込むようにして隠れた。とりあえず堅そうな箱を盾替わりにしてみる。遠距離攻撃全般に言えることだけど、特に運の要素の大きい素人の銃弾を正面から避けるというのは、ボクにとって難しいのだ。そして、予想通り――
「ぐっ……また身体が動かなく…」
再び都城王土の人身支配によってボクの肉体の支配権を奪われてしまう。そのままボクは頭を床に激突させた。
「おいおい、俺は女王様じゃないんだぜ?M奴隷に調教して欲しけりゃ他の奴に頼みな」
土下座した姿勢で固定されてしまっているボクを見下ろしながら名瀬さんの嘲るような声が放たれた。視線だけを上向きにすると、そこには顔の包帯を解きながらこちらへ歩いてくる名瀬さんが見える。……やっぱり銃で撃ってくるような甘い真似はもうしてこないか。
「女子のスカートの中の覗き込むなんて、瑞貴くんも意外とむっつりだったみてーだな」
「……スカートの中を覗き込まれたくなかったら、ボクに近づかないことだね」
「クク……仕方ねーからMの瑞貴くんには俺がしっかりと拘束プレイをしてやるよ」
その言葉にボクの全身に冷や汗が滲む。名瀬さんめ……ボクのことをよく調べてきている。
――度重なる不運によって磨かれたボクの反射による危険回避能力。その発動条件は即座に行動しなければならないほどの危険であることだ。
「つまり、こうやって優しく手足を縛ってやれば、お前は反射行動を起こせないんだよな」
「ぐっ……」
名瀬さんはボクの手足を一箇所に集めて、包帯で縛り始める。その包帯は名瀬さんが先ほどまで顔に巻いていた耐圧、耐衝撃性に優れた包帯。巻かれてしまえば、さすがにこれを力で破るのは不可能。慌てて逃れようとするボクだったが、その身体はピクリとも動かすことができない。
「いくら都城先輩といえど、マイナス十三組の連中相手にはキツイだろ。さっさと終わらせねーとな」
完全に拘束されてしまえば、都城先輩が倒されたとしてもボクに打つ手は無くなってしまう。焦燥に駆られるボクだったが、しかし一つだけこの状態を打開する方法があった。ボクだって意味も無くこの場所へ隠れたわけじゃない。不安定に周囲に積まれた大量の棚を見上げると自虐的な笑みを浮かべた。
――こんな状況でボクに不幸が起きない訳が無いんだよ!
「ん?うぉおおおおおおっ!」
頭上を見上げたボクに釣られるようにして視線を上げた名瀬さんは驚愕の声を上げた。棚が崩れ、頭上から崩落してくる大量の箱の山。かなりの重量を誇るであろうその一つずつが折り重なるようにしてボクらに向かって降ってきたのだ。運動神経の皆無な名瀬さんもその範囲内に含まれており、何とか逃れようとしていたのだが――頭部に走った衝撃によって一瞬意識を失って吹き飛ばされた。
「……少し浅かったみたいだね」
ボクは軽く舌打ちして瓦礫の山から抜け出した。この危険によって反射的に動いていたボクの身体は頭上からの落下物を見事に蹴り飛ばすことに成功していたのだ。しかし、惜しむらくは名瀬さんを一撃で昏倒させられなかったこと。壁際まで蹴り飛ばされた名瀬さんだったが、ふらつきながらも何とか立ち上がっていた。
「はぁ…はぁ……甘く見てたぜ。ただの役に立たないスキルだとばかり思っていた。だが、お前の過負荷(マイナス)も文句無しに最低だ」
「お褒めに預かり光栄だね。……おっと、みんなも帰ってきたみたいだ」
窓ガラスの向こうには戻ってきたマイナス十三組のみんながガッツポーズを見せてくれた。どうやら都城先輩は倒せたようだ。これで形勢は完全に逆転した。ボクは慎重にゆっくりとした足取りで名瀬さんの元へと向かう。脳を揺らされ、名瀬さんの膝は彼女自身の意志に反してガクガクと震えてしまっている。
「頭部を守っていた耐衝撃性の包帯も瓦礫の山の中。不完全な防護服でボクを相手に勝てるとは思わないことだね」
「おいおい、俺を甘く見んじゃねえ、よっ!」
ガコンと名瀬さんがブレーカーを落とした瞬間、室内が漆黒に包まれた。運悪く名瀬さんをブレーカーの近くに蹴り飛ばしてしまったようだ。それと同時にボクは右へ一歩ずれる。ヒュンと風切音がボクの耳元を通り過ぎた。おそらくは名瀬さんの投擲した注射器。続けて幾つかの物体が闇の中を飛来するのを感じ、ステップでかわしていく。善吉くんほどではなくとも、ボクだって視覚に頼らず戦うことくらいはできるのだ。最大限に神経を張り詰めて周囲を窺うが、もう追撃の気配は感じ取れない。代わりに名瀬さんの逃げるような足音が聞こえてきた。しかしボクは深追いはせず、闇に包まれた室内で臨戦態勢を保ち続けていた。
「……ようやく電気が復旧してくれたか」
再び点いた明かりにほっと溜息を漏らす。が、周囲に名瀬さんの姿はない。やはり停電の最中に隠れたのだろう。ここからは不意打ちを受けないように、罠に掛からないように、とにかく慎重に詰め将棋のように攻めていくことが重要だ。地力ではこちらが圧倒的に勝っているのだから……。そう思って辺りを窺いながらゆっくりと足を踏み出そうとした瞬間、辺りにガシャンと窓ガラスの割れる音が響き渡った。慌てて振り向くとそこには分厚いガラスを割った黒神めだかの姿が――
「聞こえますか、お姉さま」
何やら激励の言葉を送っているようだけど、気持ちだけで逆転できたら苦労しない。策でも授けるのかと警戒していたけど、その心配はなさそうだ。そうして、ボクは静かに物陰の奥まで捜索を続けていくことにする。罠や不意打ちを警戒しながらしらみつぶしに歩き回り、少しずつ隠れられる範囲を狭めていく。そして、とうとう棚の陰でうずくまっている名瀬さんの姿を発見したのだった。ボクは背後から静かに近づき、殴りかかろうとしたところで――
「なあああああああっ!」
――自分自身の腕が凍りついた。
「いくら俺の異常性(アブノーマル)が改造だからって、さすがに自分自身を改造するのは六年振りだぜ。しかも、こんな過酷な状況下でよー。しかし、それが功を奏したみてーだな。どうやらお前達の言う過負荷(マイナス)ってのは生まれつきじゃなく、環境や状況によって性質が決まるスキルらしい」
「ま、まさか……自分自身を改造して……過負荷(マイナス)を!?」
そこには全身に冷気を纏った異常な雰囲気を醸し出している名瀬さんがいた。思わずボクの顔が驚愕に引きつる。過負荷(マイナス)を作り出すだって!?そんな馬鹿なことが……
「氷点下(マイナス)の脅威から生き残るために製作したこの過負荷(マイナス)を、過負荷(マイナス)の恐怖から生き残るために成立したこの過負荷(マイナス)を――俺は『凍る火柱(アイスファイア)』と命名する」
名瀬さんはそう言って見栄を張るように宣言した。
「くっ……」
慌ててボクは凍った手を引いて後ろへと飛び退く。そして、さらに反射的に左へと。その瞬間、先ほどまでボクのいた場所の水蒸気が凍結するのが見えた。
――この過負荷(マイナス)は遠距離攻撃にも対応しているのか!
「あいかわらず勘は鋭いな。だが、無駄だぜ。物理法則をも無視する過負荷(マイナス)に、あんたは対応することはできない」
「やってみなくちゃ分から……!?」
冷気による攻撃を避けつつ、名瀬さんの懐へと飛び込んだボクは無防備な顔面に蹴りを撃ち込もうとして――
「があああああああああっ!」
――その脚までもが凍結してしまっていた。
「だから無駄だって言ったろ。『凍る火柱(アイスファイア)』は氷を操る能力ではなく、体温を操る能力なんだよ。だから近付いただけでアウト。打撃も締め技も関節技も、すべてが無意味なんだよ」
「そんな……」
あまりにも絶望的な状況にボクの全身から血の気が引くのを感じる。絶対に負けられないこの戦いでこんな状況に陥ってしまうのは、やはりボクも過負荷(マイナス)だからか……などと八つ当たり気味な思考が浮かんでしまう。しかし、思考停止は最低な愚策。何とか打開策を打ち出そうと頭を働かせるも、思い浮かぶのは自分の負ける姿のみ。格闘戦メインのボクが近づけないように、名瀬さんは常時周囲の温度を下げて凍結させているのだろう。可能性があるとすれば、ボクの不運による崩落に巻き込むことくらいか……。二番煎じだしさすがに警戒されているだろうけど、それしかないか。ボクは何とか冷凍食品の棚が高く積みあがっている場所へと移動しようとするが、なぜか一歩たりとも脚が動かない。まるで足の裏が張り付いたような……。
「しまった……これは!?」
「くくっ、やっぱり命の危険がないと反応がにぶいみてーだな。俺がゆっくりと床の温度を下げてたのに気付かなかったのかよ?」
勝ち誇ったような表情の名瀬さんに慌てて床に目をやると、ボクの靴の裏が凍りついて床に張り付いてしまっていた。これはあまりにも最悪な事態だ。床を凍らされては貼り付いた靴を脱いだところで移動することはもうできない。まぎれもなくチェックメイト。悔しさに思わず唇を噛み締める。心の中に絶望の澱が溜まっていくのを感じた。
「いや、それでも負けるわけには……」
ボクは球磨川さんに絶対に勝てって言われたんだ!その信頼には応えたい!しかし、どれだけ考えても1%の勝率すら導き出すことができない。どうしてもどうしてもどうしてもどうしても……。ふと見ると自分の膝が無様に震えていた。その理由は寒さなのか、それとも確信せざるを得ない自身の敗北によるものなのか。頭を抱えて狂いそうなほどの焦燥感。そんな絶望に侵食されたボクの心に球磨川さんの言葉が染み込んだ。
『おーい、瑞貴ちゃん。もう負けちゃっていいよ』
「え……球磨川さん?」
部屋の外から球磨川さんが笑顔でそう声を掛けてきた。その場にいる全員が驚いた表情で声の主である球磨川さんを見つめる。
『精神性が一番正常(プラス)に近い君なら、過負荷(マイナス)の中でも例外的に勝利を計算できると思ってたんだけどね。名瀬さんが過負荷(マイナス)になるなんて僕にも予想外でさー。やっぱり過負荷(マイナス)同士の勝負じゃマイナス性の低い君に勝ち目は無さそうだね』
「ま、負けていいって……でも球磨川さん。ここで負けたら戦挙が……」
『負けを認めてマイナス十三組みんなで出て行こうよ。高校なんて他にいくらでもあるんだしさ』
球磨川さんの言葉がボクの不甲斐なさを慮ってのものであることは間違いない。球磨川さんにそんなことを言わせてしまった自分自身に情けなさを感じて涙がこぼれた。思わず地面に視線を落とし、低く呻くように自身の無力感を噛み締める。
『はぁ……瑞貴ちゃんはそこが駄目なんだって。ねえ、本当に勝ちたいなら一つだけ方法があるんだけど、どうする?』
「お願いします!勝てるなら何でもします!」
球磨川さんの言葉にボクはもちろんとばかりに大きく頷いた。
『じゃあ僕も心を鬼にして言うよ。飛沫ちゃん、合図したらお願いね』
志布志に何かを耳打ちすると、球磨川さんは少し間を空けて絶望的な言葉を言い放った。
『瑞貴ちゃんの役立たず。クズ野郎。二度と僕に近寄らないでよ。ねえ、何で生きてるの?早く死んでよ。いや、やっぱり死ななくていいや。だって君なんて僕にとって何の価値も無いんだから』
「……っ!」
頭をガツンと鈍器で殴られたような感覚。ボクの心が絶望に包まれ、重苦しく陰惨で陰鬱な心情に捕らわれた。同時にこれまでの不幸(トラウマ)がフラッシュバックしてくる。これまでのボクの痛みが悲しみが嘆きが一気に脳内に流れ込んできた。さらに、これまでにボクが不幸にしてきた人々の怨嗟の声が頭の中に響く。ボクは頭を抱えながらどろどろと濁りきった何かが心に溜まっていくのを感じていた。
「うぐぅうううう!」
うずくまるように苦悶の声を漏らすボクに、他の全員が困惑した表情を浮かべていた。しかし、今のボクにはそんなことを気にする余裕なんて存在しない。ありとあらゆる負の感情に今にも飲み込まれそう。この場で衝動的に自殺をしてしまわないかだけが気掛かりなくらいほどの負の感情の渦。そして、それをしても構わないと思えるほどにボクの意識は弱まっていた。
「ちょっと球磨川くん!一体瑞貴くんに何をしたの!?」
『瑞貴ちゃんの絶対値の低さじゃ名瀬さんには敵いませんからね。人吉先生の施した診療外科手術――その傷口を開かせてもらいました』
「なっ……球磨川くん、まさか!?」
フラッシュバックによって少しずつ過去の不幸(トラウマ)が思い起こされる。どうして今まで気に止めていなかったんだろう。両親は海水浴に出かけたときに発生した津波に流されて溺死。次に世話になった祖父は火災により全焼した家の中で焼死。祖母はトラックに轢かれて事故死。その頃から親族の中に不幸を撒き散らすボクの引き取り手はいなくなっていた。孤児院は食中毒で何人の子供が死んだかな。――そして、それをやったのがボクだという事実。ボクの心の奥の傷跡が引き裂かれるのを感じる。人吉先生の縫合した心の傷(トラウマ)が解れていく。
「何てことを……!みんな逃げて!」
「え?お母さん……!?」
『そうだね。僕達も外へ逃げようか』
人吉先生は切羽詰った様子で、球磨川さんはのんびりとした口調で周囲の仲間達に声を掛けた。しかし、その言葉はボクには届かない。頭が割れるほどの痛みに今にも発狂しそうだ。そして、絶望と苦悩が心の奥から溢れ出した瞬間、ボクの喉から叫び声が上がり、同時に建物全体に大きな亀裂が走った。
「ああああああああああああ!」
――建物の崩落。いつも通り、運悪くこの冷凍庫自体の耐久度が限界に達したのだろう。天井や壁が割れ、コンクリートの塊や蛍光灯などが雨のように降ってくるのが見える。お互い巻き込まれれば命に関わるほどの大事故だけど、それをボクは醒めた目で見つめていた。すでにこの戦挙の勝敗はボクの頭にはない。ただ、この絶望を周囲に撒き散らしたいというだけだ。自暴自棄な今のボクは危機回避で落下物を避ける気分ではないし、この全てを受け入れようと目を閉じる。しかし、その建物の倒壊は――
「勝ち負けはともかく、ちっとは後先を考えろよ。俺がこの建物ごと凍らせてなけりゃ、お前も今頃ぺっしゃんこだぜ?」
――名瀬さんが建物全体を凍らせることで止まってしまっていた。
全てを停止させる絶対零度。それをボクは感情の篭らない瞳で見つめていた。勝負の終了ともいえる事態にもかかわらず、ボクには外界の変化に感情を向けている余裕はなかった。現在進行形でボクの過去の不幸が頭に叩き込まれており、その絶望の情報の波に飲まれないように耐えるので精一杯だったのだ。一本ずつ心を継ぎ接ぎした糸が千切れていくのが分かる。そして、とうとうボクの心の傷は完全に開かれたのだった。同時にボクの瞳に映る光景が凶々しく変化していく。
「よっしゃあああああ!さすが名瀬師匠!これで勝負は決まったぜ!ほら見ろよ、お母さん。やっぱり杞憂だったじゃねーか」
「善吉くん、早く逃げなさいって言ってるでしょ!瑞貴くんの本来の過負荷(マイナス)に巻き込まれるわ!」
「お母さん、何言ってるんだよ。どう見ても終わりじゃねーか。それに本来の過負荷(マイナス)って何のことだよ」
勝ち誇ったような善吉くんの言葉とは対照的に人吉先生の顔色は悪い。そうだ、ボクも思い出した。かつてボクの所有していた本来の過負荷(マイナス)を――
『不思議に思わなかったのかい、善吉ちゃん?瑞貴ちゃんが幼少期から身に着けていた不運。そんなのに巻き込まれてどうして今まで生き残ってこれたのかさ』
「それは……瑞貴さんの言う経験による危機回避とやらで」
『それは後天的なものだし、そもそも三、四歳児が雪崩やトラックの正面衝突から逃れられるはずないだろう?』
「だったら何で……」
『それは人吉先生に聞いたほうが早いんじゃないかな?そういえば誰かが言ってましたよね。子供を救うのが使命だって』
球磨川さんの言葉に人吉先生の表情が歪んだ。そう、ボクの不運というのは心療外科手術の副作用であり、反作用でもある。人吉先生の長年に渡る心療外科手術の結果は半分は成功で半分は失敗といえるものであった。ボクの精神を正常(プラス)に近づけることには成功したが、引き換えとして自身の過負荷(マイナス)の制御を失ってしまった。ボクが常時、死の危険に晒されるようになったのもその頃からである。一人の子供を不運にしてしまったことを今でも悔いている人吉先生だけど、それでもボクのマイナス性を元に戻さないでいるほどに、かつてのボクは危険だったのだ。
「だったら、瑞貴さんの本来の過負荷(マイナス)って……」
「『他人の幸運を奪い取ること』――それが瑞貴くんの本来の過負荷(マイナス)よ。あたしが精神に手を加えるまでの瑞貴くんは、周囲のあらゆる人間の幸運を吸い取って生きてきたの」
両親の幸運を奪い取って、祖父母の幸運を奪い取って、孤児院や学校の人たちの幸運を奪い取って――そして、その全てが死んでいった。自分が幸せになるためならボクはそれを躊躇することは無かった。もちろん、その自分の行動を疑問に思うこともない。その邪悪で最低な精神性を人吉先生は封印したのだった。しかし、他人を犠牲にしないという精神性は逆に自分自身の幸運を奪い取ってしまうという反作用をもたらした。それがボクの不運の正体である。
『僕の言葉と飛沫ちゃんの過負荷(マイナス)で、瑞貴ちゃんの精神はかつての最低(マイナス)なものに戻ったはずだよ。だから僕に見せてよ、君の本来の過負荷(マイナス)――』
目に映るすべてが懐かしい。あまりにも凶々しい視界にボクは口元を醜く歪めた。こんなに清々しく爽快な気分は久し振りだよ。今なら使えるはずだ。
球磨川さんの名付けたボク本来の過負荷(マイナス)――『壊運(クラックラック)』
直後、ボクの視界が爆炎で埋め尽くされた。
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「私が最も適任でしょう」
目を開けた瞬間にボクの網膜に飛び込んできたのは、廃墟と化した巨大冷凍室であった。いや、冷凍室だった場所と言うべきか……。天井も壁も破壊されてなくなり、ボクの頭上には大きな青空が広がっている。しかし、頭上に向けていた視線を横へと移動させると、そこには大破した飛行機の残骸が鎮座していた。
信じられないことに――ジャンボジェット機がこの場に墜落してきたのだ。いや、信じられないことにというのは真実ではない。むしろ、こんなこともあるのかと納得した気分だった。そのボクの周囲だけが幸運にも被害を免れたように無傷であり、それ以外は墜落の衝撃とエンジン部の爆発による爆炎によって見るも無残な惨状を晒している。ボクがそれを冷静に見つめていると、外から大量の選挙管理委員が押し掛けてきた。長者原が指揮を執って大きな声で指示を出しているのが聞こえる。
「総員で名瀬さまと月見月さまの救助にあたれ!」
「必要ないよ」
「月見月さま!?ご無事でしたか……」
ボクの声に振り向いた長者原は驚いた表情を見せた。辺り一帯すべてが根こそぎに破壊された中、ボクの周囲だけが奇跡的に被害を免れていたのだから。墜落した機体からも瓦礫からも爆発の衝撃や爆炎さえもがボクの身体にだけは害を及ぼすことは無かったのだ。偶然にも機体や瓦礫の雨のコースから外れていたのかもしれないし、冷凍室の棚が盾になったのかもしれない。理由なんてどうでもいい。偶然での事故では、人為的な意志の篭っていない危険ではボクを傷つけることはできないのだ。
それが「他人の幸運を奪う」ボクの過負荷(マイナス)――『壊運(クラックラック)』
そして、幸運を奪われてしまった名瀬さんはというと……
「名瀬さんはツキがなかったみたいだね」
トラックの正面衝突にも耐えられる防護服も、さすがにジャンボジェット機の正面衝突には耐えられなかったようだ。不幸にも名瀬さんの身体は見るも無残な姿へと変わっていた。蘇生の余地も無い現状に長者原は首を振り、選挙管理委員会の生徒達に救助の中止を告げる。飛行機の乗客も全員が死亡していたようだ。
『抑え込まれ、負荷を与えられ続けてきた瑞貴ちゃんの過負荷(マイナス)、解き放たれたその規模は僕の想像以上だったみたいだね』
爆風で吹き飛ばされたのか、向こうから球磨川さん達がこちらへ歩いて来ているのが見えた。その声に反応して視線を向けた瞬間、ボクの目が驚愕に見開かれる。何だあの、黒神めだかの埒外なまでに高い運勢は……!過負荷(マイナス)を取り戻したから今だからこそ分かる。
――黒神めだかの幸運値は常識どころか非常識をも超えている!
ボクの目は他人の幸運の度合い、いわゆる運勢というものを見ることができる。異常者(アブノーマル)の連中は運の総量が一般人(ノーマル)に比べて大きい場合が多いが、黒神めだかはそういった次元の問題じゃない。総量もそうだけど、何より内から滲み出る幸運の質が測り知れないほどに優れているのだ。おそらくはボクでも扱いきれないほどに……。ボクの過負荷(マイナス)でも奪うことのできない一段階上位の運勢。
――運命、とでも言うべき代物
「く、くじ姉……」
「名瀬師匠!?」
ふと横を見ると黒神めだかが口元をわなわなと震わせながら名瀬さんだった物を見つめていた。その顔は酷く青ざめており、追いついてきた善吉くん達もすぐに同じ表情へと変わる。
『長者原くん、そろそろ戦挙結果の発表をしてくれないかな?』
「球磨川!貴様、そんなことを言っている場合か!」
まるで何事も無かったかのような笑顔で尋ねた球磨川さんの胸倉に黒神めだかが掴み掛かった。もちろん球磨川さんは意にも介さない。むしろ、より愉しそうに無邪気な笑みを浮かべて両手を大きく広げてみせた。
『おいおい、これは厳正なる戦挙の結果だろう。それに名瀬さんの身が心配なら書記戦なんて棄権させればよかったんだ。ルールを聞いて命賭けの勝負だとわかってたはずだしね。この結末は君の責任でもあるんだよ』
「き、貴様というやつは……!」
『まあ、戦挙の結果は厳粛に受け止めなきゃね。それが僕らに課せられた義務なんだよ。ということで長者原くん。結果を宣言してもらっていいかな?お腹も減ってきたし、早く終わらせてみんなでファミレスに行きたいんだからさ』
「え、ええ……そうですね。では、生徒会戦挙書記戦の結果を発表いたします」
球磨川さんの言葉に気を取り直したような長者原がこの場の全員に対して顔を向け、高らかに宣言する。
「生徒会戦挙書記戦は――試合続行不能により勝負なし!引き分け、とさせていただきます!」
意外な裁定に周囲がざわめきに包まれた。ただし、黒神めだかはいまだ名瀬さんの死に呆然とした表情を浮かべたままだ。そして、勝敗に納得がいかないのか志布志たちが長者原に食って掛かっていた。
「おいちょっと待てよ!どう見てもあたしらの勝ちだろ!生き残ってんのが月見月先輩だけなんだしよー。あんた、マイナス十三組に不利な判定をするってんなら……」
『めったなことを言うものじゃないよ、志布志ちゃん。それにこれは公平な判定だよ。そうだろ?』
「ええ、もちろんです。この勝負は相手の着衣をすべて脱がした方の勝ちとなりますが、さすがは耐熱性・耐衝撃性に優れた名瀬様の防護服とでも言いますか。この爆発でも、中身はともかく衣服の方は無事のようです。さらにルール上、相手の生死は勝敗に関係ありません」
長者原の言うとおり、ボクは名瀬さんの着衣を脱がせてはいない。だからボクはまだ勝利していないのだ。
「さらに、戦挙会場であるこの冷凍室がこの有様では復旧など夢のまた夢。この状況では戦挙を続行することはできません。よって、戦挙のルール通りに進行することのできたのは飛行機の墜落直後までであり、その結果として引き分けという事にさせていただきました。異存はありませんね?」
そう言って長者原はボクら全員を見回した。生徒会メンバーはすでに結果などどうでもいいといった様子だし、マイナス十三組のみんなも渋々納得したようだった。だけど、自分でやったこととはいえ飛行機が学園に墜落してきたなんて事態が起きて、生徒会戦挙は続けられるんだろうか。保険会社とかマスコミとかが殺到してきて戦挙どころじゃなくなるんじゃないか……?しかし、それは杞憂のようだった。いつの間にかボク達は先ほどの冷凍室の中へと移動していたのだ。
「え?これは……?」
『飛行機が墜落してきたことをなかったことにした』
倒壊した建物も墜落した飛行機の残骸も、その全てが元通りに戻っていた。飛行機は何事もなかったかのように上空を飛んでいることだろう。これが球磨川さんの『大嘘憑き(オールフィクション)』の効果。まばたきの間にボクの不運をなかったことにする、そのあまりの凄まじさには戦慄を覚えずにはいられない。黒神めだかと同様、やはり球磨川さんも別格。ボクでは干渉不能な黒神めだかの運命を覆せる存在がいるとすれば、球磨川さんしかいないだろう。
「くじ姉えええええええええ!」
はっと振り向くと、黒神めだかが大声で叫びながら名瀬さんに抱きついていた。名瀬さんの死もなかったことになったのか……。生き返った名瀬さんは目をパチパチと開き、困惑した表情を浮かべている。あの一瞬での出来事を覚えていないのだろう。その名瀬さんに球磨川さんが歩み寄りながら、うんざりしたように声を掛けた。
『名瀬さん、君にはがっかりしたよ。さっきの戦いを見せてもらったけど、やっぱり君は過負荷(マイナス)にはふさわしくない。僕に言わせれば君のそれは過負荷(マイナス)じゃなく、ただの幸せ(プラス)だよ。だから――』
「お前……!」
ボクと目が合った名瀬さんは、球磨川さんの言葉を無視してこちらへ向けて手をかざし、その直後にボクの顔のすぐそばを冷気が通り過ぎる。ボクの頬のすぐ近くの水蒸気が凍結してキラキラと光を反射させて輝いていた。狙いがそれてボクの髪を一房ほど凍らせただけに終わった自身の攻撃に、名瀬さんはわずかに顔を歪める。開いた扉から突風が吹き、絶対零度の冷気による攻撃の軌道がズレたのだ。常時、周囲の人間の幸運を奪い続けているボクはかつての不運だったときとは真逆の特性を得ているのだ。
「幸運に満ちている今のボクに、そんな遠くからの攻撃は通用しないよ。それに、もう戦挙は終わったんだ。ボク達に争う理由なんて無いだろう?」
「……ちっ」
名瀬さんも周囲のみんなの反応を見て試合が終わったのを理解したのか、とりあえず矛を収めてくれた。これにて書記戦は終了。
「ふぅ。じゃあ帰りますか、球磨川さ……!?」
振り向いたボクは初めて見る球磨川さんの形相にギョッと目を見開いた。普段の笑顔でも不敵な表情でもない、怒りと狼狽の混ざった別人のような姿に思わずボクの全身が固まってしまう。そのただならぬ雰囲気に場の空気が急激に緊張していくのが分かる。
『どういうことだ。君の過負荷(マイナス)は――僕がなかったことにしたはずなのに』
ぞっとするような冷たい声が響く。そして、その内容はとても聞き流せないほどに重要なものだった。
「……球磨川さん、名瀬さんに『大嘘憑き(オールフィクション)』を使ってたんですか?」
『そうだよ。本当なら名瀬さんは過負荷(マイナス)を扱えないはずなんだ。僕の『大嘘憑き(オールフィクション)』でなかったことにできない現実があるなんて……』
そう言って球磨川さんは元の笑顔に表情を戻した。しかし、その顔には消しきれないわずかな狼狽が感じられる。でも、これは少しまずい……。最悪と思われた球磨川さんの『大嘘憑き(オールフィクション)』にも限界というか、底が見えはじめてしまったのだ。
――球磨川さんの『大嘘憑き(オールフィクション)』による強制力では、黒神めだかの絶対的な運命をなかったことにできないのではないか
『ごめん。打ち上げは先に始めちゃっててよ。僕は少し遅れていくから』
困惑するボク達を尻目に球磨川さんは足早に去って行ってしまった。さっきの球磨川さんは普段に比べると明らかに様子がおかしかった。今回の書記戦で勝てなかったこともあいまって、いやそれはボクの責任なんだけど、これからの戦挙に不安を残す結果となったのだった。
「……じゃあボク達も帰ろうか。ほら、どいてくださいよ」
「です、ね。行きましょうか」
「今日は勝てなかった月見月先輩の奢りだからな!」
呆然としていた選挙管理委員の一人を押しのけるようにしてこの冷凍室の出口へと向かっていくボク達。そのまま扉に手を掛けた瞬間、背後からガシャンと何かが崩れたような大きな音が鼓膜を叩いた。
「ぐぁああああああああ!」
それと同時に響く男の悲鳴。振り向くと、そこには崩れ落ちた冷凍食品の箱や棚、そしてそれに埋もれた一人の男の腕だけが見えた。おそらくは今ボクが押しのけた選挙管理委員の男。彼は数百kgを超える大量の荷物の崩落に巻き込まれたのだ。唯一外に出ている腕はピクリとも動いていない。死んだのか気絶したのか……。それを何でもないかのように眺めながらボクは――
「ごめんごめん。ちょっと運を奪いすぎちゃったみたいだね」
まるで他人のお弁当のおかずでも奪ったかのような軽い調子で、反省も後悔もなく言い放ったのだった。
それから、マイナス十三組としては特に行動を起こすこともなく一週間が過ぎた。そして、生徒会戦挙会計戦当日――マイナス十三組からは江迎さん、現生徒会側からは人吉先生がそれぞれ出馬をしており、ボク達は植物園の前に集まっていた。
「それでは江迎さまが選ばれた『卯』のカードの試合形式――『火付兎』のルールを説明させていただきたく存じます」
長者原の説明を聞きながら、ボクは隣の球磨川さんに話しかけていた。
「でもいいんですか?江迎さんが会計戦に出馬して……。現在の戦績は1敗1分け――正直、会長戦は勝てる気しませんし、もう負けられないんですよ?まぁ、書記戦で勝てなかったボクが言える立場じゃありませんけど」
『心配いらないよ、瑞貴ちゃん。怒江ちゃんのマイナス成長の伸びしろはかなりのものだぜ。規模で言えば、おそらくは君の過負荷(マイナス)に匹敵するほど』
「そこまで……!?」
その言葉に少し驚く。ボク達の中で江迎さんは戦闘力という点において劣っていると考えていたからだ。しかし、球磨川さんの話によると、江迎さんの過負荷(マイナス)の規模はボク同様に大災害クラスだということ。それを聞いてボクは安堵の溜息を吐いた。だとすれば、江迎さんには会計戦に出馬する資格は十分にある。
「さて、今回は候補者の他に各陣営より1名ずつサブプレイヤーとして競技に参加していただくことになります。形式としてはタッグ戦ということになるのでしょうか」
「サブプレイヤー?それって誰でもいいの?」
「ええ、すでに試合を終えた候補者の方でも構いません」
人吉先生の疑問に長者原が答える。しかし、タッグ戦か……。ボクの過負荷(マイナス)は近くに仲間がいるときには使いづらいんだよな……。
「私が行きますよ。絶対に勝たなければならないこの試合、スキルを知られていない私が最も適任でしょう」
そう言って蝶ヶ崎が前へと歩み出た。それを球磨川さんは笑顔のまま了承する。
『じゃあ蛾々丸ちゃん、お願いね』
「はい、必ずや勝利を」
球磨川さんが出た方が確実かとも思ったけど、先週判明した「過負荷(マイナス)をなかったことにできない」という『大嘘憑き(オールフィクション)』の不具合は気になる。使用者本人ですら知らなかった弱点が存在することに慎重になっているのだろうか。とはいえ、この組み合わせも悪くない。完全にして無敵のスキルを持つ『不慮の事故(エンカウンター)』蝶ヶ崎蛾々丸と災害規模の破壊力を持つ『荒廃した腐花(ラフラフレシア)』江迎怒江のコンビは未知数の恐ろしさを誇るだろう。
「ボクからも頼むよ。二人とも、絶対に勝って!」
「はい、がんばります!」
「言われるまでもありませんよ。あなたは次の副会長戦の心配でもしていてください」
江迎さんは笑顔で、蝶ヶ崎はクールにそう答えた。ボクは自分の中に生まれた感情に人知れず苦笑する。こんな感覚は初めてかもしれない――ボクが球磨川さん以外の誰かを信頼するなんて。はぐれ者の集団だけど、意外にもマイナス十三組に愛着を持ち始めていたみたいだ。
「それでは、会計戦『火付兎』!スタートでございます!」
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「不慮の事故ですから」
生徒会戦挙会計戦――ボク達はそれを別室のカメラにて観戦していた。そこには『植物を成長させる過負荷(マイナス)』を操る江迎さんの攻撃を捌きながら走っている人吉親子の姿が映っている。周囲一帯を覆っている異常に成長した植物群が二人を襲う。つたをムチのように、葉を刃のように、枝を針のように襲い来る。これは過去の文献を読み漁って今回の戦場を植物園とした成果だろう。しかし、このまま広い植物園で姿を見せずに一方的に嬲り続けられるほど甘くはない。
「お母さん、こっちだ!奴らの気持ち悪さは俺が肌で感じ取れるぜ!」
「うん、じゃあ寄り道無しで行くよ!」
そう言って善吉くんが指さした方向へ人吉先生が鉈で植物群を切り払いながら進んでいく。そして、その方向には確かに江迎さんと蝶ヶ崎がいるのだ。
『蛾ヶ丸ちゃん。あと数十秒で善吉ちゃん達がそっちに着くから注意してね』
ボクの隣からは携帯電話で蝶ヶ崎に電話を掛けている球磨川さんの声。それに蝶ヶ崎も了解の返事をしているのが聞こえる。監視カメラの映像を見ながら球磨川さんは、電話で人吉先生たちの居場所をリアルタイムで伝えているのだ。あまりにも堂々とした行動に、近くにいた名瀬さんが呆れながらも長者原に抗議をする。
「おいおい……これはいくら何でも反則じゃねーのか?」
「いえ、今回のルールは制限時間内に自身の鍵を守りながら、相手の鍵を奪いパートナーの腕に装着された爆弾付きの腕輪を開放するというものです。反則となるのは戦挙の進行に支障をきたす行為の他には、鍵を隠したり破壊したりすることだけとなっております」
『それに書記戦では、めだかちゃんだって窓を叩き割って声を掛けていたじゃないか。それと同じだよ』
そんなことを言っている間にも戦局は変わり、テレビには蝶ヶ崎が人吉親子に蹴り飛ばされている光景が映っていた。人吉先生の蹴りを受けて近くの大木へと叩きつけられる蝶ヶ崎。しかし、何の痛痒も感じていないといった表情であっさりと立ち上がった。
「ったく、全然効いてねーみたいだな」
「ねえ、蝶ヶ崎くん。江迎さんはどこにいるのかしら?おばさんに教えてくれないかしら」
「聞くまでもないでしょう。この要塞の奥で試合終了まで篭城しておりますよ」
その蝶ヶ崎の背後には頑強な大木の絡み合った壁が作り出されていた。それは四方を高く堅い木の壁に囲まれ、誰も侵入できない絶対の領域である。そこに江迎さんは引き篭もっていた。球磨川さんが教えたこれが、『荒廃した腐花(ラフラフレシア)』狂い咲きバージョン――タイプ『柵』
「ちっ……お母さん、こいつは俺が引き受ける。だから、江迎の方を頼む」
「わかったわ!」
人吉先生は取り出した大型チェーンソーの電源を入れると、甲高い金属音を上げるそれを木の壁に振り下ろした。頑強な壁とはいえ、所詮は木製。少しずつ壁は削られていく。
「そうはさせませ……ぐっ!」
邪魔をしようとした蝶ヶ崎だったが、善吉くんの蹴りを受けて再び地面に叩きつけられてしまった。格闘スキルにおいては善吉くんに及ぶべくもなく、為すすべもなくやられている。もちろん蝶ヶ崎は無傷で立ち上がるんだけど……
「どうしてダメージを返さないんだよ!」
思わず小さく苛立ちの声を漏らす。これじゃ、ただ一方的にやられているだけだ。ダメージはそこらの地面かどこかに押し付けているんだろうけど、相手に攻撃を返さなければ全く脅威にはならないのだ。蝶ヶ崎の攻撃手段はそれしかないっていうのに……。
『安心しなよ、瑞貴ちゃん。今のところ、展開は僕の望んだ通りに進んでいるんだから』
「蝶ヶ崎のあの行動も球磨川さんの指示なんですか?」
『うん。蛾ヶ丸ちゃんの「不慮の事故(エンカウンター)」には致命的な弱点があるからね』
球磨川さんの言葉にボクは首を傾げる。あの完全なる過負荷(マイナス)に弱点があるのか……?少なくともボクには蝶ヶ崎を倒す方法なんて思いつかない。
「ったく、これだけ蹴ってんのにまるで効いてないのかよ。日之影先輩並みの耐久性だな」
「いえいえ、私に耐久性など皆無ですよ」
「だったら、お前の過負荷(マイナス)は攻撃を無効化する類のスキルってわけか。ったく、面倒だぜ」
数え切れないほどに蹴り倒された蝶ヶ崎に善吉くんはやれやれと首を左右に振る。その瞬間、周囲から伸びた大量のつたが善吉くんを襲った。
「ちっ……またかよ」
もう慣れたのか、善吉くんもそれをバックステップでかわしていく。蝶ヶ崎はこれを好機とばかりに全速力で走り出した。向かうは善吉くんではなく、チェーンソーで木の壁を伐採している人吉先生。しかし、蝶ヶ崎はあろうことか、振り下ろされたチェーンソーの正面に飛び出し――自分の身体を盾にするように切り刻まれたのだった。
「なっ……蝶ヶ崎くん!?」
さすがの人吉先生もチェーンソーの勢いを止めきれず、焦ったような声を上げる。チェーンソーで人体を斬るなんて、一歩間違えば死に至ってしまう危険行為なんだから当然だ。しかし、それが杞憂であることをボクは知っている。
「だ、大丈夫なの!?」
「いえいえ、お気になさらず。こんなのはただの、不慮の事故ですから」
「血が出ていない……。やっぱりあなたの過負荷(マイナス)は攻撃を無効化するタイプのものね」
「ふふっ……よくもそんな冷静に話せますね」
蝶ヶ崎は薄く笑みを浮かべ、勝ち誇ったように余裕な態度を見せている。その雰囲気に人吉先生は怪訝そうな表情を浮かべた。そうか、ようやく今まで蝶ヶ崎が反撃しなかった理由が分かった。これを待っていたんだ――即座に勝負を決められる一撃を。
「どういうこと?」
「ああああああああああああああ!」
人吉先生の背後から絶叫が上がる。慌てて振り向いたそこには――首元から勢いよく鮮血を噴き出す善吉くんの姿があった。
「善吉くん!?」
「どんな気分ですか?自分の手で愛する息子を切り殺した感想は」
蝶ヶ崎はチェーンソーの斬撃を善吉くんに押し付けたのだ。頚動脈を切断された善吉くんは噴水のように血を流しながら地面に膝を着いた。血相を変えて善吉くんの元へと駆け寄る人吉先生。善吉くんも手で押さえているが、流血は止まるどころか弱まる気配すら無い。このままでは善吉くんが出血多量で死亡するのも時間の問題だ。しかしそれは、ここにいるのが心療外科医――人吉瞳で無かったらの場合である。
「……何をしたんですか」
あれほど勢いよく噴き出していた善吉くんの血が止まっている。心療外科医の人吉先生にとって、止血や縫合なんて朝飯前ということだろう。ふぅ、と一息ついた人吉先生が厳しい表情で蝶ヶ崎を見つめる。
「見誤っていたわ。あなたの過負荷(マイナス)は自身の受けたダメージを無効化するのではなく、他の場所に押し付けることね?」
「ええ、その通りです。ですが、能力を知られたところで私を倒す方法などありません」
「倒す方法はなくても欠点は見つけたわ」
そう言って人吉先生と善吉くんはこの場から離脱した。いきなりの逃亡に蝶ヶ崎は驚きの声を上げる。二人が疾走しているのは高くそびえ立つ壁に沿ってである。その意味をすぐに理解した蝶ヶ崎だったけど、すでに手遅れ。残念ながら鍛え抜かれた人吉親子とインドア派の蝶ヶ崎では走力には大きな差が存在していた。
「くっ……私を置き去りにして他の場所から突入するつもりですか!」
それから数分後。人吉先生が大した妨害もされずに木の壁を伐採し終えたのと、駆けつけてきた蝶ヶ崎が追いついたのはほぼ同時であった。
その様子を別室で眺めながらボクは苦虫を噛み潰したような表情でつぶやいた。
「これが蝶ヶ崎の『不慮の事故(エンカウンター)』の欠点(マイナス)ですか……。相手に攻撃されない限り、こちらも反撃することができない」
『蛾々丸ちゃんの過負荷(マイナス)は自己防衛の意味では完全だけど、他人を攻撃したり守ったりすることには不向きなんだ』
「だったら球磨川さん!もう打つ手無しなのかよ。さすがに怒江ちゃんだけじゃ勝てねーぜ?」
志布志の言葉に球磨川さんは困ったような顔を見せた。しかし、ボクには球磨川さんの表情とは裏腹にどことなく余裕を感じ取れた。
『策は授けたんだけど今の蛾々丸ちゃんじゃ無理かな。だからさ、蛾々丸ちゃん、よく聞いてね――』
球磨川さんは携帯電話に向けて声を発する。画面の向こうにはイヤホンから球磨川さんの声を聞いている蝶ヶ崎の姿が見える。
『さっき善吉ちゃんたちが言ってたよ。――お前って何だかトランプとか武器にして戦いそうな顔だよな(笑)って』
「……」
その言葉を聞いて蝶ヶ崎が一瞬固まった。というか思わずボク達も呆気に取られたように球磨川さんを見つめる。……こんな大事な場面で球磨川さんは一体何を言ってるんだろう?というか、あの冷静な蝶ヶ崎がこんな挑発に掛かるはずが……
「なんっ…でそこまで!的確に人を傷つける台詞が言えるんだよ!お前はぁああああああ!」
困惑しながら映像を見ていると、突如蝶ヶ崎が髪を逆立て、豹変したように叫び出した。豹変したようにというか、もはや別人としか思えない変わりようだ。唖然としているボク達をよそに、蝶ヶ崎は怒声を上げながら二人に突撃した。先ほどまでの受け身な態度は微塵も感じられない。
「しかも言うに事欠いてまさかのトランプだと!?トランプを武器にする奴なんて現実にいるわけねーだろ!俺が二次元と三次元の区別も付かねー馬鹿だってのか!」
「ぐっ……善吉くん!ここは私に任せて、江迎ちゃんの方へ行って鍵を取ってきて!」
「わかったぜ、お母さん!」
突進してくる蝶ヶ崎をかわしながら人吉先生が叫び、善吉くんは大きく開けられた壁の穴から中へと侵入する。結果的には互いに分断され一対一の形。ここからは純粋に個人の力量にかかっている。どちらが先に相手の持つ鍵を奪うことができるのか。だけど、客観的に考えるとやはりボク達の方が不利だろう。何せ、蝶ヶ崎は相手の攻撃が無ければ本領を発揮することができないからだ。
「……おや、息子さんの加勢には行かないんですか?」
「挑発は無駄だよ、蝶ヶ崎くん。その『不慮の事故(エンカウンター)』は完全に受身の能力。私から仕掛けない限り、あなたに勝ち目は無いわ」
ニヤニヤと笑みを浮かべて挑発する蝶ヶ崎に人吉先生は冷静に返す。
「その豹変振り、一見するとマイナス成長に思われるけどそうじゃない。瑞貴くんのようにマイナス性を回復させた訳でもない。心療外科医の私に言わせれば、せいぜいが我を失って、理性を失った程度のもの。あなたの過負荷(マイナス)に成長は起こってはいないのよ」
だから仕掛けない、と人吉先生は言う。さすがは人吉先生、見た目の豹変に囚われずに冷静に最善の策を採ってきた。このまま時間稼ぎをされたら、善吉くんが江迎さんを倒してしまう。しかし、懐からナイフを取り出した蝶ヶ崎の表情にはなぜか余裕が窺える。
「その通りです。ただし、少しでも理性が残っていたならば、こんな策は採れなかったでしょうね」
「何を言って……きゃああああああ!」
突然、人吉先生の両足の太ももから血が噴き出し、ガクリと膝を着いてしまった。そして、手にあったナイフは蝶ヶ崎自身の体に深々と突き刺さっている。本来なら有り得ない戦略に思わず目を見開いた。まさか、自分自身に与えたダメージを押し付けたのか……!
――無傷が信条の蝶ヶ崎に自傷させた
『そうだよ。蛾々丸ちゃんの「不慮の事故(エンカウンター)」は防御のみに特化した能力じゃない。ワイヤレスで相手に直接ダメージを与えれられるそれは、攻撃に使えば回避不能な必中の遠隔攻撃となる。これこそが蛾々丸ちゃんの完全なる過負荷(マイナス)の真骨頂だよ』
よろよろと人吉先生が立ち上がるのを蝶ヶ崎はうんざりしたように眺めていた。
「歩けないように両足の筋肉はちゃんと断裂させたはずなんですがね……」
「ちゃんと縫合して繋ぎなおしたのよ。このくらいの傷も治せなくて外科医は名乗れないわ」
しかし、その表情には痛みと疲労がありありと窺える。出血も無視できないほどだったし、何よりこの攻撃を避けたり防いだりすることができないのだ。
「しかし、それも無駄な努力です。私の攻撃をあなたは防ぐことはできないし、私の防御を貫くこともできないでしょう?ただ傷を増やすだけです」
「ふふっ……若いわね、蝶ヶ崎くん。勝ちか負けかなんて、大人の世界はそんな単純な二択じゃないのよ?」
「ずいぶんと偉そうに囀りますね。死に掛けの分際で……。わかりました、あなたは時間ぎりぎりまで嬲り殺しにしてあげますよ」
怪我人とは思えない速度で蝶ヶ崎へ向かって走り出す人吉先生。しかし、――蝶ヶ崎が自身にナイフの刃を通す方が早い。
「ははははっ!斬撃を押し付けて両足の靭帯を断裂させました!おとなしく私の前に跪いてくださ……なっ!?」
蝶ヶ崎の眼前には両足を潰されたにもかかわらず自身へ向かって突撃してくる人吉先生の姿。両足にダメージを押し付けられる寸前、そのタイミングを読んだ人吉先生は渾身の力で蝶ヶ崎へ向かって跳躍していたのだ。すでに空中にいる人吉先生は脚を潰されようとも予定通りロケットのごとく飛んでいくのみ。そして、接敵距離内へと侵入した。
「ですが!どのような攻撃でも私を倒すことなどできません!」
「縫合格闘技『狩縫』――六の技『針漬』」
針と糸を手にした人吉先生は、蝶ヶ崎へとその両手を凄まじい速度で動かしていく。そして、飛び込んだ勢いのまま背後の大木へと揃って激突した。もちろん、そのダメージも蝶ヶ崎には届かない。余裕そうな蝶ヶ崎とは対照的にボクは忌々しそうに画面を見ながらギリッと歯噛みした。この技はマズイ……。
「だから私には通用しないと……いや、これは!?」
蝶ヶ崎の全身は背後の大木に針と糸で縫いつけられてしまっていた。ピクリとも動けないほどに完全に拘束されている。その表情からようやく余裕が消え、代わりに焦燥が浮かんだ。拘束から逃れようとじたばたと暴れるがまるで糸が緩む気配は無い。
「勝ち(プラス)でも負け(マイナス)でもない引き分け。あとは善吉くんに任せましょうか」
そう言って人吉先生は断裂した自身の靭帯の治療に入った。やられた……。相手からも自分からもアクションの無い――現状維持。それが蝶ヶ崎の弱点だったのだ。この戦況にボクは頭を抱えるが、まだ希望は残っている。これはタッグ戦。あとは江迎さんに勝負の行方は懸かっているのだ。しかし、その希望もあえなく砕かれることとなる。
「球磨川さん、勝負の行方は江迎さんに委ねられましたね」
振り向いたボクは変わり果てた球磨川さんの様子に絶句した。球磨川さんが恐慌したように頭を抱えて震えている。その形容しがたい表情にはまぎれもなく狼狽が含まれていた。球磨川さんはボクにも気付かない様子で別のカメラの映像を凝視している。いや、周りを見回すとボク以外の全員の視線がそのテレビに集中していた。志布志はやれやれと諦めたように首を左右に振っており、他の連中は歓喜の表情で画面を見つめている。一体何が……。ボクもそちらへ視線を向けると、そこには驚愕の事態が起こっていた。
「江迎さんが改心させられた……?」
木に囲まれた空間で互いに手を握り合っている善吉くんと江迎さん。涙を流ながらも江迎さんは笑みを浮かべていた。脳内に中学時代の悪夢が蘇る。この場面で改心させられるとボク達にはどうすることもできない。感情が無いように見えて意外と仲間思いの球磨川さんのことだ。内心ではかなりのショックを受けていることだろう。いや、すでに球磨川さんの普段の飄々とした態度は崩れており、その表情からは悔しさや困惑の感情が漏れ出しているのが分かる。
「ボクが間違っていた……」
画面の向こうでは二人が人吉先生と合流し、江迎さんが首から提げた鍵を善吉くんに手渡していた。これで会計戦は敗北確実。身動きの取れない蝶ヶ崎はそれをみすみす眺めているしかない。しかし、ボクは違う。
「球磨川さんを守るのを他人任せにするだなんて、本当にボクはどうかしていたよ」
――『壊運(クラックラック)』
この距離では正確に個人を狙うことはできないけど、それでも構わない。蝶ヶ崎は無傷だろうし、裏切った江迎さんは死ねばいい。植物園の内部一帯から運勢を奪い取ると同時に、大地が激しく揺れ動いた。
「地震っ……!?」
そして、連鎖的に植物園の建物の天井が崩壊し、瓦礫の山が四人に降り注ぐ。現在の戦績は一敗一分け。この会計戦を敗北した場合、次の副会長戦で現生徒会側のボクが敗北して一勝を得た上で、さらに次の会長戦でも勝利しなければならない。しかし、この会計戦で引き分けに持ち込めば、会長戦では引き分けでもマイナス十三組の勝利とすることができるのだ。ただ、今のボクにはそんな計算など頭に無かった。球磨川さんを悲しませた彼らを倒したかっただけ。
『蛾々丸ちゃん!鍵を狙って!』
ハッと何かに気付いたように球磨川さんが通話中の携帯電話に向けて叫んだ。その直後、蝶ヶ崎の身体に大量の瓦礫が降り注ぐ。
「ちっ……これは間違いなく瑞貴さんの差し金だな」
自分自身と人吉先生に向かって落ちてくる瓦礫を蹴り弾きながら善吉くんはつぶやいていた。隣には頭上に手をかざしてコンクリートの破片を腐食させている江迎さんの姿もある。残念ながら三人とも無傷のようだ。互いの無事を確認すると善吉くんは江迎さんから受け取った鍵を自身のブレスレットの鍵穴へと差し込んだ。
「だけど、これでようやく終わりだぜ」
カチッと爆弾付きのブレスレットのロックが外れ、時限爆弾のタイマーが止まった。人吉親子の顔に安堵の表情が浮かぶ。そして、この別室では現生徒会のみんなの勝利を喜ぶ歓声がこだましていた。ボクはうつむきながら絶望的な気分でその場に佇むしかない。勝利の喝采で部屋が埋め尽くされる中、長者原が無慈悲に判定を告げた。
「それではこの会計戦!現生徒会の勝利とさせて頂きま――」
『待ちなよ、長者原くん』
「どうかなさいましたか?私の判定に何か不満でもございましたか?」
その判定に口を挟んだのは球磨川さんだった。そのまま画面の人吉先生を指した球磨川さんをこの場の全員が警戒しながら見つめている。この状況からいったい何を……?
『人吉先生が首から提げている鍵。それを見せてもらっていいかな?』
「……画面越しでよろしければ構いませんが」
長者原は園内のスピーカーから人吉先生に要請する。それを聞いた人吉先生は首から提げた鍵を上空の監視カメラに向けて見せようとして、その瞬間表情が凍りついた。
「ど、どうして……!?」
真新しかったその鍵はいつの間にかボロボロになっており、半ばからへし折れてしまっていた。おそらくは蝶ヶ崎の『不慮の事故(エンカウンター)』の効果。ボクが蝶ヶ崎の身体に降らせた瓦礫の雨の落下の衝撃を人吉先生の鍵に押し付けたのだろう。あの球磨川さんの指示の意味にボクはようやく気が付いた。そして、ボクの顔に歓喜の笑みが浮かぶ。
『確か鍵の破壊は反則負けだったよね?』
「ちょっと待ってよ!これは蝶ヶ崎くんが……」
「おやおや、心外ですね。証拠でもあるんですか?まさか私が鍵を開けられないように自分の鍵を壊しておくだなんて、ひどいルール違反ですね」
書記戦で都城王土の介入を見逃した長者原だ。証拠が無い以上、今回のボクの介入も見逃されるだろう。だから問題は鍵を壊したのが誰かということだ。状況証拠で蝶ヶ崎と取るか、ルール通りに人吉先生と取るか……。長者原は口元に手を当てて考え込んだが、すぐに顔を上げて両手を大きく広げた。
「それでは改めて判定致します!生徒会戦挙会計戦の勝者は!現生徒会の反則負けにより――新生徒会とさせて頂きます!」
球磨川さんと志布志が手を軽く上げる。それをボクは会心の笑みを浮かべて思いっきりハイタッチした。
――生徒会戦挙、現在の戦績は一勝一敗一分け。
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「これは俺達の独断だ」
会計戦が終わったその足で、ボク達は近くのボーリング場に集まって祝勝会を開いていた。祝勝会と言ってもいつも通りの幹部会である。それぞれが極彩色のボーリングの球を選び、レーンの椅子に座ると球磨川さんが缶ジュースを手に取った。
『蛾々丸ちゃん、今日はよく頑張ったね。怒江ちゃんの離反は残念だったけど、これからもみんなで頑張ろう!それじゃあ、会計戦の勝利を祝って!』
その言葉に合わせてみんなで缶ジュースを持って一斉に乾杯をした。そして、ボーリングを開始する。一番手の志布志がボーリングの球を投じると、正面にぶつかったピンが勢いよく弾け飛んだ。
「よし!ストライクだぜ!」
女子の割には強烈なスピードと威力。意外にも志布志はボク達の中で二番目に重い球を投げているのだ。というか、女子よりも力が無い球磨川さんと蝶ヶ崎って……。次の番のボクは自分の球を備え付けの布で磨きながら、倒れたピンが並べられるのを待っていた。
「なー、月見月先輩ってボーリング上手いのかよ」
「うん?そうだね……アベレージは20くらいかな」
「低っ!?幼稚園生でももっと取れるレベルじゃねーか!」
ボクの言葉に志布志は軽く笑いながら突っ込みを入れる。冗談みたいだけど本当にそれがボクのアベレージなのだ。そして、並べられたピンに向かって思いっきり球を投げつけた。
「ボクはボーリングが苦手だったんだよ。ま、先週までの話だけどね……」
ピンを弾き飛ばす爽快な音が耳に響く。投じられた球は正確な軌道を描いて真っ直ぐにヘッドピン突き刺さったのだった。画面にでかでかとストライクの表示が出る。
「おいおい、どこが下手くそなんだよ……」
「過負荷(マイナス)を制御できる今のボクは投擲系の種目がすべて得意になったんだよ」
「……卑怯すぎだろ」
そう言ってボクは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。不運が反転して幸運となった現在のボクは、適当に投げるだけで勝手に球の方がピンへと向かってくれるのだ。目を瞑って投げたところでパーフェクトを叩き出せるだろう。
『じゃあ次は僕だね……ってあれ?』
ゴトリと見事にガーターに落ちる球磨川さんのボールであった。
第一ゲームが終わった結果は一位がパーフェクトのボク。二位が二百近い数字を叩き出した志布志。三位と四位はどちらも百以下で蝶ヶ崎と球磨川さんだった。現在は第二ゲームに入っている。今回はボクは運勢を普通(フラット)の状態にして素の実力で勝負していた。
「それにしても、これで戦挙は私達の勝利で決まりそうですね」
「そうだね。次の副会長戦でボクが負ければ二勝一敗一分け。勝敗が一緒の場合、ボク達クーデター側の勝利だからね」
『それはどうかな?瑞貴ちゃんも蛾々丸ちゃんも気を抜かないほうがいいと思うぜ』
「……どういうことです?」
球磨川さんの不穏な言葉に疑問を覚えたボク達が聞き返す。勝利確定と考えていた副会長戦に何か問題があるんだろうか?
『まあ、向こうもみすみす負けの決まった勝負をするはずがないってだけさ。まぁそれはともかく、二人とも今日はありがとう。まさか僕たちが勝てるなんて思ってもみなかったよ』
「ありがとうございます。ですが、これも球磨川さんの指揮あってのものです」
「そうですよ。特にボクは何の戦略もなかったですし」
笑顔でボク達に頭を下げる球磨川さんにボク達は言葉を返す。だけど、ボクの壊運(クラックラック)を利用する球磨川さんの助言が無ければ、最後の鍵を破壊する機転は生まれなかっただろう。その点でもやはり球磨川さんの指揮効果は驚異的だったと言える。しかし、その後に続けた一言はボク達を驚愕させた。
『次の副会長戦の指揮は瑞貴ちゃんに任せるよ』
「え……?」
ボクは唖然とした表情で球磨川さんを見つめ返す。
『僕たち(マイナス)でも彼女たち(プラス)に勝てるって分かったからさ。だから、この一週間で僕は『大嘘憑き(オールフィクション)』に連なる第二の過負荷(マイナス)、否――はじまりの過負荷(マイナス)を取ってくるよ』
「取ってくるって……どこにですか?」
「夢の中だよ。ただ、今の彼女は意地悪でね。そう簡単に返してくれないと思う。だから、おそらく副会長戦が終わるまでのこの一週間が最後のチャンスなんだ」
「……わかりました。球磨川さんのいない間、ボクがマイナス十三組のリーダーを務めさせてもらいます。必ず副会長戦をボクの敗北で飾って見せます!」
こうして、一抹の不安を覚えながらも副会長戦は球磨川さん不在で行われることになったのだった。
祝勝会が終わり自宅へと歩きながら、ボクは次の副会長戦について思案していた。とはいえ、できることは多くない。過去の戦挙の文献を読んだ限り、今回のようにタッグ戦にさえならなければマイナス十三組が負けることはないのだ。何せ敵味方が組んだ出来レースなのだから。
「待ってましたよ、瑞貴さん」
アパートの前には殺気立った様子の善吉くんと阿久根の姿があった。しまったな……。この分だと二人の用件は聞くまでもないけど、念のために軽く尋ねてみる。
「二人ともわざわざボクの家までどうしたの……来週の打ち合わせ?」
「月見月、俺達は副会長戦に出られないように君のことを潰しにきた」
「へえ、めだかちゃんがそんな卑劣な策をとってくるなんてね。心底見損なったよ。そんな最低な人間だったなんて思いもしなかった」
「……これは俺達の独断だ。めだかさんは関係ない」
挑発的なボクの言葉に阿久根は苦々しそうに声を返した。そんなボクだけど、余裕そうな表情とは裏腹に心の中では舌打ちをしていた。さっそく二人が独断でボクを潰しに来るなんて……。阿久根は怪我が治ったばかりだっていうのにご苦労なことだよ。それにしても、この展開はマズイ。球磨川さんははじまりの過負荷(マイナス)をとってくるために現在は死んでしまっているのだ。怪我をしても戻(なお)してもらうことはできないし、病院送りにされてしまえば副会長戦で代理を出される理由になってしまう。内心、冷や汗をかきながらも、表面上はやれやれと呆れた風を装って会話を続けていく。
「無駄なことはやめなよ。いくらボクを叩きのめしたところで、すぐにその怪我は球磨川さんになかったことにしてもらえるんだからさ」
「わかってますよ、球磨川の常識外のスキルのことは。だから瑞貴さん。あんたには来週の副会長戦が終わるまで、安全な場所で監禁させてもらうことにしました」
「ボク達マイナス十三組を見習ってくれたんだ。だけど、教えてあげるよ――過負荷(マイナス)にルール無用の勝負を挑む愚かさってやつをさ」
そう言いながら二人の幸運を奪うために集中した瞬間、ボクの目の前に高速の蹴りが飛んできていた。それを慌てて両腕で受け止める。
「そう易々と過負荷(マイナス)を使わせるかよっ!」
重い……!?ガードした自分の腕が軋む音がした。想定外の速度と威力。高校に入ってから善吉くんとは組み手を行っていない。だけど、この一撃だけで相当腕を上げたということを理解させられた。
「俺のことも忘れるなよ!」
同時に阿久根が背後へと回りこんでいた。ボクの首に腕を回して裸締めを掛けようとするのを、とっさに自分の頭を下げることで回避する。しかし、その下げた顔面を善吉くんの足の甲が思い切り跳ね上げた。
「ぐっ……!」
何とか距離を開けようと、受けた衝撃を利用してサイドステップするも逃げ切れない。左右から襲い来る二人のコンビネーションに一息つく暇すら与えてもらえなかった。走ってくる阿久根が懐から取り出したのは金属製の特殊警棒。その凶器をボクの脳天へと躊躇無く振り下ろした。その悪鬼のような表情はまさに中学時代の破壊臣そのもの。右手首を蹴り飛ばすことでその特殊警棒を弾くが、その隙に阿久根は伸ばしていた左手でボクの袖を掴んでいた。
「破壊臣モードと柔道の混成(ハイブリッド)かよ!?」
反射的に袖を掴む手を振り払い、かろうじて組み技に持ち込まれるのを防ぐ。しかし、一難去ってまた一難。すでに万全の体勢で待ち構えていた善吉くんの連続蹴りが放たれた。一秒にも満たない間に放たれた三発の蹴りの内、防御が間に合わなかった一発がボクの内臓を打ち抜いた。思わずくの字に折れ曲がるボクの身体。
「がはっ……」
「逃がしませんよ」
強引に自分の脚を動かして背後に飛び退こうとするが、二人ともノータイムでしつこく追い縋ってくる。その後も間断なく続く攻めにボクは逃げ回ることしかできなかった。必死に二人の波状攻撃を避けながら、ボクは焦燥感に歯噛みしていた。
大規模破壊を可能とするボクの過負荷(マイナス)――壊運(クラックラック)にも欠点は存在する。災害クラスの不運を起こすまでの量の幸運を他人から奪うには数秒程度の時間が必要とされるのだ。相手から一度に奪い取る運量に比例する形でタメの時間も増えていく。それに、常時周囲の人間から奪っている程度の運量の幸運では、せいぜいが投擲兵器や事故から身を守れるくらいなのだ。残念ながら運に左右されづらい格闘戦では役に立たないレベル。
「くっ……」
激しすぎる攻勢に、ボクの身体に蓄積するダメージが無視できなくなりつつある。このままじゃジリ貧だけど、身を守るのに精一杯で反撃に出る余裕がないのだ。仕方なく急所だけは守りつつ二人の攻撃を耐えていると、風で飛んできた新聞紙が阿久根の顔面に張り付いた。
「何だこれは!?」
「千載一遇のチャンス!ツキがなかった……ねっ!」
新聞紙の目隠しによって生まれた隙を逃さず、阿久根のがら空きのボディを渾身の力で蹴り抜いた。無防備の状態で受けたミドルキックにたまらず阿久根は悶絶して地面に膝を着いてしまう。その後、即座に善吉くんの方へと身体を向けて構える。これで一対一。しかし、意外にも善吉くんの表情に焦りは見られない。
「さて、これで形勢逆転だね」
「そうですか?ま、こうなったら俺も使うしかなさそ――」
話も終わらないタイミングでボクは善吉くんへハイキックを放っていた。しかし、惜しくもその蹴りは善吉くんの前髪を揺らすだけ。気を取り直して再びローキックを放つも横に半歩ズレることでかわされてしまう。その後も幾度となく蹴りを出すが、すべてがあと一歩のところで当たらなかった。ここに至ってようやく気付く。
――ボクの蹴りが完全に見切られている!?
「そんな馬鹿な……ここまでボクと善吉くんとの間に格闘家として差がついていたなんて」
「それは違うぜ、瑞貴さん。俺はこの目――球磨川が言うには『欲視力(パラサイトシーイング)』とかいう名前らしいが、それを使わせてもらってるおかげですよ」
その間にもボクの蹴りは紙一重で避けられ続けている。手技や組技、フェイントまでをも交えた連続技にもまるで当たる気配がない。おそらくサバットの師匠である人吉先生でもここまで完璧な回避はできないだろう。その実力にボクは戦慄を覚えざるを得なかった。善吉くんは涼しい顔をして言葉を続ける。
「素の実力なら俺と瑞貴さんの間にたいした差はありませんよ。だけど俺には瑞貴さんの視界が見える」
「だったらそれは、格闘戦において圧倒的な利点(プラス)だね……」
「そして、視覚が分かるということは――死角も分かるということなんですよ」
視界外の死角から打ち出された善吉くんの蹴りでボクの膝が一瞬ガクンと落ちた。その隙に放たれた蹴りがボクの顔面に迫る。その一撃を両手を上げて受け止めようとするが、直前で変化した軌道についていけず、今度は善吉くんの爪先が肺を抉った。
「がはっ……!」
苦痛に顔を歪めながら、ボクは憎々しげに善吉くんを睨みつける。視界が見えるってことはボクの意識の集中している箇所も分かるということ。つまり視覚外、意識外の攻撃を容易に行えるということなのか……。攻め込んできた善吉くんにボクは防戦一方にならざるを得ない。それでも、防御をかいくぐって打ち込まれる蹴りのダメージでボクの身体は限界に近付いてきていた。このままじゃマズイ……。
「瑞貴さん、これで終わりです!」
ことごとく視点を外される。注意をそらされる。視界外から放たれているだろう強烈な蹴りをボクは感知することができない。おそらくは渾身の力で打ち込まれるだろうその攻撃を見ることをボクは――諦めた。
「なっ……目を閉じて!?」
「はあっ……!」
視界を盗まれるならいっそ目を閉じて視界に頼らなければいい。自分の視界と他人の視界を見て戦闘を行っていた善吉くんだ。ボクが目を閉じたことによって、片目が塞がれたような動揺した声が漏れ聞こえた。その隙にボクも全力で蹴りを放つ。真っ暗な視界の中、ボクは足先に感じる手ごたえと腹に走る鈍痛とを感じていた。
「ぐっ……相打ちかよ!」
お互いに蹴り飛ばし合い、二人の間に数メートルほどの距離が開いた。この最大の好機にボクは、まるで躊躇せずに背を向けて走り出していた。全速力でこの場を離脱する。目を閉じての交錯では、善吉くんに一瞬生まれた隙を狙っても相打ちに持ち込むのが精一杯だったのだ。痛む身体にムチ打ってボクは敷地の外の車道を横切るようにして走り抜けていく。
「行かせるか……!」
追いかけようと急いで駆け出す善吉くん。しかし、それを阻むように突っ込んでくる軽自動車に善吉くんは驚愕の表情を浮かべた。ブレーキでも壊れたのか、甲高いクラクションの音を響かせながら向かっていく。とっさに横に跳んで回避するも、その車は時速五十キロ近くのまま隣の電柱に激突した。鈍い衝突音を響かせて停止した車内には意識を失った運転手の姿がある。一瞬、逡巡した善吉くんだったが、悔しそうな表情を見せながらも交通事故を起こした運転手の救助に向かうのだった。もちろんボクは怪我人のことなど気にもせず、これぞ幸運とばかりに逃げ出していた。
「ふぅ……ここまで来ればさすがに追ってこれないだろ」
途中で拾ったタクシーで数十分走らせて着いたこの場所はごく一般的なマンションであった。そのマンションの階段を上り、目当ての一室の呼び鈴を鳴らす。
「はーい、って月見月先輩じゃねーか。どうしたんだよ」
扉を開けて出てきたのは志布志だった。ボクは追っ手から逃れるセーフハウスとして志布志の家を選んだのだ。選んだというか、球磨川さんは死んでいるし、蝶ヶ崎の自宅は知らなかったので消去法なんだけど……。副会長戦が終わるまでボクの自宅は見張られているだろうし、この一週間泊まる場所を見つけなければならなかったのだ。ボクは志布志に事情を話して頼もうとしたんだけど……
「ねえ、今からしばらく志布志の家に泊まらせてくれない?」
「な……なあっ……!?」
なぜか顔を赤くして狼狽した様子の志布志。何だよ、その反応は……。たしか志布志の両親は怪我を恐れてこの部屋にはめったに帰ってこないらしいから大丈夫だと思ったんだけど……。しばらく壊れたように呻き声を発していた志布志は、その後なぜか玄関に置いてあった釘バットを握り締めた。
「何言ってやがんだ!てめーはよぉおおおおおおおお!」
「ええええええっ!?」
そのまま真っ赤な顔で殴りかかってきた志布志に事情を説明できたのは、それから数十分後のことであった。
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「他人を守るには脆弱すぎるんだよ」
――生徒会戦挙、副会長戦当日。それまで志布志の家に隠遁していたボクは、開始時刻ギリギリになってようやく会場へと姿を現した。即座に場の空気が張り詰めたように緊張する。特に善吉くんと阿久根。その二人はボクを視認した瞬間に飛び掛ってきていた。一週間前の襲撃と同様に、ここでボクをリタイアさせるつもりなのだろう。もちろんそれを予想していたボクはすでに臨戦態勢に入っている。隣の志布志も過負荷(マイナス)を発動させようとして――
「皆様、静粛にお願い致します」
それはボク達の間に割って入った選挙管理副委員長の長者原によって遮られた。ふぅ……時間ギリギリに来てよかったよ。善吉くん達も渋々といった様子で元の場所へと戻っていく。そのまま長者原の一声で副会長戦の種目選択に入った。
「現生徒会側からは月見月さま、新生徒会側からは志布志さまでよろしいですね?」
「もちろん、生徒会の一員として全力を尽くしますよ」
白々しいボクの言葉に善吉くん達の表情が苦虫を噛み潰したように歪んだ。しかし、すでにボクの出馬を止めさせる理由は無い。黒神めだかも口出しするつもりはないようで、口を閉ざして静観している。そして、志布志はカードの並んでいる机の前に向かった。
「それでは挑戦者の志布志さま。副会長戦のカードを選択してください」
「じゃあ『戌』のカードで。月見月先輩っぽいしな」
球磨川さんの忠犬にして番犬にして狂犬。確かにこのカードこそがボクの試合形式に相応しい。長者原は両手を大きく広げて宣言する。
「志布志さまの選ばれた『戌』のカード。副会長戦の試合形式は『狂犬落とし』に決定致しました!」
――負の副会長戦の幕が上がる。
今回の舞台は建設中の骨組みだけの新校舎。その吹きっ晒しの鉄骨の最上段にボクと志布志は立っていた。数十メートルの高さにまで組まれた鉄骨の上だけがボク達の行動範囲。高所の上に不安定な足場だけど、お互いその程度に恐怖する性質は持ち合わせていない。一応、落ちても大丈夫なようにセーフティネットが張られているしね。
「早く始めようぜ」
「わかってるよ。ボクだって早く球磨川さんに勝利を報告したいしね。まだ生き返ってないけど」
今回の試合のルールは単純明快。相手を地面に突き落とした方の勝ちである。ちなみに、セーフティーネットは地面の一部と見なすのでそこにも落ちれば負け。割と安全性の高い試合形式と言えるだろう。ま、敵味方がグルな以上、どんなルールでも関係ないんだけどね。さっきまで長者原に善吉くん達が抗議してたけど、結局ボクの出馬を止めることはできなかったのだ。
「じゃあ、さっそく負けさせてもらうよ」
そう言ってボクは躊躇無く建設途中の屋上から身を投げた。勝ち誇った笑みを浮かべながら、ボクは感じる無重力に身を委ねる。ちらりと横目で観客の様子を窺うと、諦めたかのように目を閉じた黒神めだかの姿が見えた。マイナス十三組の勝利を確信したボクだったが、すぐにその表情が驚愕に歪んだ。無重力状態が突如消え去り、ボクの身体がベクトルでも変えられたかのように再び屋上へと飛ばされたのだ。
「な、何が起こったんだ……!?」
空中で体勢を立て直して元の鉄骨の上へと着地したボクは呆然と呟いた。志布志の方も何が起こったのか分からないといった様子である。しかし、その疑問はすぐに解消された。
「おいおい、副会長がそんな情けない試合しちゃダメだろ」
「日之影先輩……!?」
想定外の事態に思わず自分の唇を噛み締める。さっきのは日之影前生徒会長の異常性(アブノーマル)――『知られざる英雄(ミスターアンノウン)』の効果だったのだ。自身の姿どころか気配さえも消すという恐るべき異常性(アブノーマル)。それで誰にも認識されずに、落下中のボクを上空まで投げ返せたのか……。
「……日之影先輩。いくら前生徒会長といえど、この戦挙への横槍は許されませんよ。明らかにルール違反です」
「そうだぜ、日之影先輩。負けが確定して自棄になってんだろーけど、この試合は一対一のはずだぜ?」
「ルール違反?一体誰がそれを判定するんだよ」
「何を言って……」
長者原の方を見たボクは日之影先輩の自信の根拠を悟った。長者原だけでなく、観戦している誰一人として日之影先輩に視線を向けていない。いや、向けていないというより、この場に起こっている異常に誰一人気付いていない。これはまさか……
「認識できないんだよ、全員な」
「そんな馬鹿な……!いくら日之影先輩の異常性(アブノーマル)が強力とはいえ、あくまでも本質は『強さ』!これだけ注目されている中で、ボクが騒いでいるのに誰も不自然に思っていないなんて……。日之影先輩にそこまでの隠密性はなかったはず!」
そもそも、その場の一人に見えたら他の全員も認識できるようになるはずじゃ……。まさか、『その場』の範囲が著しく縮小している?日之影先輩は堂々とした様子でボク達を見据える。その威圧感は学園最強の名にあまりにも相応しい。
「覚悟を決めたんだよ」
「覚悟、ですか……?」
「これまで俺は誰に知られることなく、認められることもなく、学園のために戦ってきた。賞賛されるためにやっていることじゃないし、人知れず学園の平和を守っていることに誇りを持っていた。だから、生まれて初めてだぜ――認識されないためだけに、自分の異常性(アブノーマル)を使用するなんてな」
その表情からはわずかな悲哀が感じ取れた。そのまま日之影先輩は志布志の方へと細い鉄骨の上を歩き出す。
「とりあえず志布志。お前さえ突き落とせば結果は生徒会の勝利になる。誰が落としたかは忘れちまうんだからな」
「させない!」
日乃影先輩の眼前へと跳び出したボクは渾身のハイキックを繰り出した。自分から飛び降りたとしても、先ほどと同様に止められてしまうからだ。しかし、その全力の一撃は、日乃影先輩に片手で軽く受け止められた。パシッという軽い音を立てて左手で掴まれるボクの脚。まるで校舎に蹴りを入れたかのような感覚。そのあまりの強度に絶望感がボクを襲う。
「勘違いするなよ、月見月。また勝手に飛び降りられちゃたまらんからな。まずはお前を先に相手するつもりだったんだぜ」
日乃影先輩はボクの脚を掴んだままブンと振り回し、洗面所にタオルでも投げ捨てるかのようにこの身体を投げ飛ばした。人体を投げたとは思えないほどの速さでボクは近くの鉄柱へと勢いよく叩きつけられる。背中を強打され、肺からすべての空気が吐き出された。そして、遅れて全身に走る痺れ。
「ぐっ……」
「しばらくそこでおとなしくしてろ」
そう言って日之影先輩は志布志に顔を向け、しっかりと見据える。志布志は不機嫌そうな表情でその様子を眺めていた。
「一対一なら勝てるつもりかよ。ずいぶんと忘れっぽいんだな。この間、あたしの過負荷(マイナス)に血達磨にされたのを忘れたのかよ?」
その通りだ。日乃影先輩の異常な強度をもってしても、志布志の過負荷(マイナス)の前には無意味。強さも堅さも重さも、志布志には通用しないのだ。近付いただけで全身の傷を開かれる。ゆっくりと歩いていく日之影先輩に向けて志布志は手をかかげた。そして、ボクも人知れず精神を集中する。
「ま、分かり合うのはおいおいってことで。今はただ敵として処理させてもらうぜ」
日乃影先輩から滲み出る幸運を奪い取るイメージ。身体の自由を奪ったくらいで無力化したつもりだなんて甘すぎるよ。その余裕ぶった表情を凍りつかせてやる。志布志から感じる負のオーラが高まるタイミングに合わせて、ボクも一気に過負荷(マイナス)を発動する。
「――致死武器(スカーデッド)」
「――壊運(クラックラック)」
しかし、ボク達の攻撃は不発に終わる。日乃影先輩は雲散霧消したかのようにボク達の前から姿を消していたのだ。同時に放たれたボクら二人の過負荷(マイナス)は一切の効果を起こすことは無かった。周囲に志布志以外の気配は感じられない。一瞬の内に消えた日乃影先輩を首を回して探すも、全く見つけられない。
「消えた……だと?」
「『知られざる英雄(ミスターアンノウン)』――当事者であるボク達にまで存在を隠蔽できるのか……!」
驚愕を浮かべる志布志と苦々しい表情を浮かべるボク。ボクと志布志の過負荷(マイナス)は精密に発動することが出来るが、代わりに対象を正確に認識していなければならないのだ。江迎さんのように周囲一帯を物理的にとはいかない。
周囲に目を配りながら、とにかく気配を探る。いくら完璧な隠蔽性といっても、さすがに攻撃を受ける瞬間には敵意を漏らさずにはいられないはず。ボクの肉体はそういった予兆を自動的に感じ取れる。ようやく手足の痺れの取れたボクは立ち上がって敏感に周囲の危険を察知しようとしていた。
「いくら姿を消そうと、あたしに近付けばその瞬間に『致死武器(スカーデッド)』の餌食だ」
志布志はモードを変更して自動(オート)にしたのだろう。一定範囲内に近付く者すべての傷を開くつもりだ。これなら日乃影先輩でも近付けない。実際には消えるのではなく、認識できなくなるだけでその場には存在しているのだから。だけど、ボクの方も志布志に近付けないわけだから、自分の身は自分で守らないと。
「さて、日乃影先輩はどこに消えたのか……」
わざと鉄骨から飛び降りてみるか……?そうなれば、日乃影先輩もボクの負けを防ぐために姿を現さざるを得ないだろう。だけど、空中で無防備な姿を晒すのも躊躇われる。捕まって動けないように拘束されたら厄介だし。そのとき、新しい気配を感じたボクは咄嗟に校庭を見下ろすように視線を動かした。
「あれは……?」
いつの間にか鉄骨で組まれた校舎から降りていた日之影先輩は校庭に移動していた。距離は数十メートルは離れている。目を凝らすと、どうやら日乃影先輩は振りかぶったような体勢をしていた。その疑問はすぐに氷解する。これから起こる事態を予感したボクは慌てて振り向き、志布志に大声で叫んだ。
「志布志、避けろ!」
「え?……があああああっ!」
志布志の身体に何かが着弾した。砲弾を打ち込まれたかのようにその身体が吹き飛ばされる。人形のように空中に投げ出された志布志だったが、かろうじて別の鉄骨に引っ掛かって落下は免れたようだ。何かの弾むような音にボクが目を向けると、そこには野球のボールが鉄骨の上で跳ねている。
――野球のボールを投げ当てたのか!
「中学時代のこと、阿久根に聞いたぜ。確かに志布志の『致死武器(スカーデッド)』は強力な過負荷(マイナス)だが、その効果は人体に限定されるんだってな」
「……情報を知られてたのか」
鉄骨の上を跳ぶようにして志布志の元へ駆け寄りながら、ボクは歯噛みした。まさか中学時代の攻略法をそのまま使ってくるなんて……!志布志に限らず、過負荷(マイナス)のみんなには弱点を補うなんて発想は無いのだ。だからこそ、ボクが志布志の欠点を埋める方法を考えておくべきだったのに……。それがマイナス十三組のリーダー代理のボクの仕事だった。なのに、この一週間ボクは自分の身を守ることばかりで……。
「まだ終わってないぜ!」
無防備で倒れている志布志に向かって次弾が放たれた。志布志の近くに辿り着いたボクは、その豪速球に靴の踵を合わせて蹴り弾く。その衝撃でボクの身体は細い鉄骨の上でわずかにぐらついた。さすがは強度を極めた日乃影先輩の投球だ。その球速は160km/hを悠に超えており、球の向きをそらすのでさえ大変な集中を要する。投じられるのが砲丸ではなく野球ボールというのは手加減のつもりだろうか。確かに、砲丸投げの球が直撃していたら、間違いなく志布志の身体は砲撃を受けたかのように破裂していただろうけど。とはいえ、野球ボールだろうと危険なのは変わりない。
「はあっ!」
その後も次々と間断無く打ち込まれる砲弾をボクは弾いていく。荒い息を吐きながら、ぐったりとした様子で膝を着いている志布志にこれらを避ける術は無い。
「くっ……そっちか!」
しかも、姿を消して投球地点を変えてくるため、反応するのに時間がかかってしまうのだ。自分に向かってくるならともかく、他人を四方から狙われるとなると守るのも難しい。直撃こそ無いものの、すでに志布志の身体には数回ほど狙撃されてしまっている。
「志布志、『致死武器(スカーデッド)』を止めてくれ!」
「ごほっ……わ、わかった」
近付く者を無差別に襲う志布志の過負荷(マイナス)を止めさせる。ある程度の距離を開けていたらとても志布志を守りきれない。ボクは血を吐いている志布志を鉄骨の横へと移動させると、その上に覆いかぶさった。志布志は内臓を痛めたのか、苦悶の表情を浮かべて口元から血を垂れ流している。弱った志布志を鉄骨から叩き落とすため、再び豪速球が迫ってきた。直撃すれば簡単に骨を砕かれるだろう。――しかし、その砲撃はあらぬ方向へと飛んでいってしまった。
「間に合ったみたいだね――『壊運(クラックラック)』。投擲・射撃攻撃は今のボクには届かないよ」
そのまま、志布志を抱き寄せるようにして密着する。続々と放たれるすべての球はボク達を避けていくように飛んでいく。その後も散発的に放たれた剛球は、ボクと志布志の身体にかすることすらない。今のボクの幸運の前には、たとえ機関銃の集中砲火に遭ったとしても無傷で生き残れるだろう。ほっと一息ついた瞬間、ボクの視界に殴りかかってくる日乃影先輩の姿が映った。
「なっ……!?」
「志布志に『致死武器(スカーデッド)』を解除させたのは失敗だったな!」
失策を悟ったボクの頭の中が一瞬真っ白になった。しまった……!これが狙いだったのか!慌てて志布志を背後に隠し、ボクは盾になるように日乃影先輩の前に立ちふさがる。しかし、その間に日乃影先輩の拳はボクの目の前にまで迫っていた。その圧倒的な破壊力を察知して思わず頬が引きつる。まるで大型トラックが眼前に迫ってくるかのような絶望感を必死に心の中から追いやった。
――背後に志布志がいる以上、後退することはできない。盾になってでも止める!
「はあっ!」
「おらぁああああっ!」
刹那のうちに迎撃する覚悟を決めたボクは裂帛の気合と共に蹴りを放った。日乃影先輩の拳とボクの脚が交錯する。
「え?」
呆然としたボクの口から無意識に声が漏れる。ボクの蹴りは日乃影先輩の顔面にしっかりと命中していた。だけど、問題はそこじゃない。日乃影先輩の拳が――志布志の身体を捉えていた。
「ごぼっ……!」
日乃影先輩の拳をまともに受けた志布志の身体は為す術もなく殴り飛ばされた。校舎を越えて建設用の巨大クレーンの鉄柱に衝突する。人体の壊れたような鈍い音が響いた。完全に意識を失った志布志の身体は、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。幸いクレーンに引っかかって落下だけは避けられたようだけど、その胸部は陥没しており、口からは大量の血が零れている。
「そ、そんな……。何でボクは……」
その血溜まりを呆然と眺めながら呟いた。先ほどの交錯。ボクの意志とは反対に、自分の身体は日乃影先輩の拳を避けてしまっていたのだ。背後の志布志のことを無視して……。幼い頃から身体に染み込ませていた危機回避の反射が、自分の身を守ることを優先した。ボクの肉体は他人の盾になることを拒否したのだ。
「これは過負荷(マイナス)の連中の弱点だな。お前達は自分のことしか考えてない。月見月、お前が他人から幸運を奪うばかりで他人を幸運にすることはできないように。志布志が他人の傷を開くばかりで、他人の傷を塞ぐことはできないように」
その言葉をボクは絶望的な気分で聞いていた。志布志はボクを信頼して周囲に展開していた『致死武器(スカーデッド)』を解除したのに……。志布志は日乃影先輩よりも近くにいたボクを傷付けないために、無差別に周囲に過負荷(マイナス)を展開しなかったんだ。それなのにボクは……。
「お前達は他人を守るには脆弱すぎるんだよ」
絶望的な宣告にボクは頭を殴られたような衝撃を受けた。球磨川さんを守ることだけがボクの存在理由。投げかけられたそれはボクのすべてを否定する言葉だった。悔しさで強く握り締めた拳から血が垂れ落ちる。自分の不甲斐なさと無力感に唇を噛み締める。ボクの心はだんだんと重く冷えていき、絶望と虚無感が心を満たしていく。
「……何て不吉な雰囲気を漂わせやがる。ミスったな……これがマイナス成長ってやつかよ」
日乃影先輩の頬がわずかに引き攣り、その足が無意識のうちに一歩後ずさったのが見えた。なるほど、確かに今のボクは不吉を具現化したような存在だろう。負の具現とも言える球磨川さんに近付けたような気がして、ボクはわずかに口元を歪めた。幽鬼のように不気味な雰囲気を纏ったボクは、日乃影先輩へと目を向ける。球磨川さんに負けてくるって約束したんだ。その信頼だけは絶対に裏切らない。
――たとえボク自身の幸運を捨てたとしても
「日乃影先輩、この試合絶対に負けさせてもらいます。――ボク達は、負けることに関しては誰にも負けない」
「物は言いようだな。だが、戦闘力で劣るお前では俺の手を抜けて地面に落ちることはできないぜ。お前を動けなくした後でゆっくりと、志布志を地面に連れて行ってやるよ」
「――『壊運(クラックラック)』」
過負荷(マイナス)を発動する直前、日乃影先輩の姿が消失するのを感じた。だけど、標的はあなたじゃない。鈍い金属音が響き、ガクリと足場である鉄骨が揺れ動いた。
「何だっ……!?」
「この試合に負けられるのなら、ボクは幸運じゃなくていい」
「お、お前……自分の幸運を奪って……!?」
驚愕の声を上げる日乃影先輩。この間にも校舎を形作る鉄骨を繋ぐネジ類は次々と外れ続けている。すぐにボク達は崩れ落ちる鉄骨の上から投げ出された。無重力状態で地面へと落下していくボクと日乃影先輩。その崩れ落ちる鉄骨群の中で、ボクは両手を広げて不吉に笑った。
「しっかりとボクを守ってくださいね。それが強い奴の醍醐味なんでしょう?」
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「のいて」
崩れ落ちる校舎。前後左右から降り注ぐ鉄骨群。絶体絶命の危機的な状況で、生徒会戦挙副会長戦は最終局面を迎えていた。ボクの勝利条件、いや敗北条件は地面に足を着くこと。日乃影先輩の勝利条件はボクを地面に着かせずに無力化し、志布志を地面に叩き落すこと。落下による無重力状態の中、日乃影先輩は鉄骨を蹴り飛ばしてボクに向かって突撃してきていた。
「うおおおおおっ!」
下から突き上げるように放たれる拳を、横から自分の掌底を叩きつけることで軌道をずらした。ボクのすぐ側を暴風のような風圧が通り過ぎる。まともに当たっていたら、と恐ろしい想像が一瞬脳裏によぎり、自然と冷や汗が滲み出た。その後も二発三発と拳を放ってくる日乃影先輩だったが、ボクは近くの鉄骨を蹴って反動でステップを踏みながら回避していく。いくら回避に定評のあるボクでも、普段なら不十分な足場でここまで鮮やかに避けることはできないだろう。しかし、今の日乃影先輩の攻撃できる方向は、ボクを地面に落とさないために、上空へ向けての突き上げに限定されていた。地面に叩きつけるような打ち下ろしや距離を大きく開けてしまう水平方向のストレートは考えなくていいのだ。
「逃がすかよっ!」
「くっ……」
それでも、一撃でも当たれば終わりであることに違いはない。日乃影先輩の膂力なら、ボクの身体を数十秒近く空中に打ち上げることが可能だろう。それだけの時間があれば、志布志を地面に突き落とすには十分すぎる。飛来する鉄骨を蹴り飛ばしながら下から跳び上がってくる日乃影先輩。その圧迫感を受け流しつつ、ボクも自身を押し潰そうと寄ってくる周囲の鉄骨群を駆け上がっていく。
「おらあっ!」
圧倒的な破壊力を誇る日乃影先輩の拳が迫る。それをボクは飛んで来た鉄骨を掴み、背後へと回ることで盾にした。ガギィイインと交通事故に遭ったような鈍い金属音を響かせて、ボクの隠れていた鉄骨がへし折れる。その鉄塊が上空に殴り飛ばされる寸前にボクは再び上方へと跳んでいた。しかし、上を見上げたボクの頬がすぐに引きつった。
「足場が……」
ボクは下から襲い掛かってくる日乃影先輩の重圧に押されるように、落下する鉄骨を駆け上がってきた。そのせいで、すでに足場となる鉄骨が残されていなかったのだ。いくら不運によってボクに鉄骨が降ってきやすくても、頭上に鉄骨が無くてはどうしようもない。仕方なく落ちてくる最後の一本に跳び乗り、両手を着いて着地する。眼下には爆発的な加速で向かってくる日乃影先輩の姿があった。
「もう逃げ場はないぜ!」
ボクがここまで日乃影先輩の猛攻をしのげたのは、攻撃方向の限定に加えて、足場の不安定さが影響していた。ボクの数倍の体重をもつ日乃影先輩にとって、足場に力を十分に加えられないこの空中戦は圧倒的に不利だったのだ。移動速度はボクの数分の一。そのアドバンテージがなくなるのはマズイ。
「はあああああっ!」
覚悟を決めてボクは全力で地面に向かって飛び出した。上に行けないなら下に行くしかない。地面へ急降下するボクの前には日乃影先輩が立ち塞がっていた。この横を抜ければボクの敗北は確定する。
――絶対に避ける
一気に距離が詰まり、ボクは日乃影先輩の制空権に侵入する。しかし、そこで日乃影先輩は両手を左右に大きく広げた。無防備なその姿にボクは反射的に渾身の蹴りを放ってしまう。堅い感触が脚に伝わった直後、ボクは自身の失策に気付いた。頭蓋骨を叩き割る勢いで放たれたそれは、日乃影先輩から鼻血を一筋垂らすだけに終わっていた。そして、ボクの蹴り足をがっしりと日乃影先輩の太い腕が掴む。
「しまった……!」
「捕まえたぜ」
慌てて捕まれた右脚を解こうとするも、日乃影先輩の規格外な握力と腕力の前にはびくともしない。焦ったボクは空いた左脚で蹴り掛かるが、体重の乗っていない攻撃ではダメージを与えることはできない。敗北の予感にボクの全身を悪寒が走った。日乃影先輩は勝ち誇ったような顔で上空を見上げると、ボクの脚を握ったまま大きく振りかぶる。
「ぐっ……何とかして逃げないと」
「無駄だ!成層圏まで投げ飛ばしてやるぜ!」
逃れることはできない。片手で脚を掴んで人間大の物体をぶん投げるなんて、そんな投げ技は柔道にはありえない。こんな力技に対する返し技なんて柔道には存在しないのだ。ましてや空中戦については言うまでも無い。ぐいっとボクの身体に掛かる重力のベクトルが強烈に変化した。カタパルトで射出されるような感覚に気が遠くなる。
「またボクは勝てないのか……」
諦念が心の表面に浮かび上がる。球磨川さんの信頼を再び裏切ってしまう。絶望感に囚われたボクの精神は、この場合良い方向に作用した。いや、悪い方向に作用したというべきか。すなわち過負荷(マイナス)の発現という形で――
「これで終わ……がはあっ!」
――日乃影先輩は地面に深く突き立てられた鉄骨に串刺しにされていた。
いや、恐るべき強度によって身体を貫通してはいない。しかし、鋭く天に向かって生えている鉄骨に日乃影先輩は背中から落下したのだ。そのダメージは測り知れない。
「ツキがなかったね、日乃影先輩」
トンッと軽い音と共にボクは地面に着地した。日乃影先輩は百舌鳥のはやにえのような格好でぐったりと気絶している。本来ボクが着地するはずの場所には、不運にも無数の鉄骨が針の山のよう形成されていたのだ。常に上に逃げていたボクを見上げていた日乃影先輩が眼下のそれに気付くはずもない。校舎の崩壊と共に作られたそれらは、ボクを投擲しようとしていた日乃影先輩の方に先に激突することとなったのだ。
「上ばっかり見てる人間は足元がおろそかになる。意外と格言も馬鹿にできないみたいだね」
無残に串刺しになった日乃影先輩を見上げながら、ボクは悠々と足を踏み出した。直後に悲鳴と歓声が校庭にこだまする。歓声といっても、蝶ヶ崎の静かな拍手だけだけどね。
「日乃影前生徒会長!」
「え、日乃影先輩!?どうしてここに?」
「それより早く治療しないと!名瀬さんも手伝って!」
日乃影先輩の意識が無くなって『知られざる英雄(ミスターアンノウン)』の効果が切れたのか……。生徒会メンバーが日乃影先輩の元へと駆け寄っていく。黒神めだかが鉄骨の先端から日乃影先輩を降ろし、人吉先生と名瀬さんが応急処置を施していく。
「お前達急げ!A班とB班は担架と救急車の手配を!C班は志布志さまをクレーンから降ろすんだ!」
長者原も選挙管理委員に指示を出してくれている。とりあえず、志布志も息はあるわけだし、この副会長戦では死人は出なくて済んだみたいだ。球磨川さんがいない今、死者を生き返らせることはできないから助かったよ。
「ねえ、そろそろ肝心の戦挙結果を宣言してくれないかな?」
「……ええ、そうですね。では皆様!副会長戦の結果を判定させて頂きます!」
救急車で怪我人が搬送されたあと、長者原はこの場にいる全員に向けて大きな声で宣言した。その声に生徒会メンバーがはっとしたような表情で振り向いた。全員の視線が集まったところで、長者原は両手を広げて残酷な現実を突きつける。
「副会長戦の勝者は新生徒会!志布志さまでございます!これにより、この生徒会戦挙!新生徒会側の二勝一敗一分けとなりました!まだ会長戦が残っておりますが、事実上の逆転はこの時点で不可能ということで――」
長者原は一拍置いて、この長かった生徒会戦挙に終止符を打った。
「――新生徒会側の勝利とさせて頂きます!」
歓喜と安堵の入り混じったような気分でボクはほっと溜息を吐く。これで球磨川さんの目的は達せられた。ボク達は勝ったのだ。周囲の喧騒の中、ボクと蝶ヶ崎は互いに見つめ合うと、パシッと笑顔でハイタッチをかわした。早くこの結果を球磨川さんに報告したい。ボクは踵を返して球磨川さんの死体安置所へと向かおうとして――
「っ……!?」
反射的に頭を下げると、その場所を何かが通り過ぎるのを感じた。風切音が耳に響く。すぐさま振り向いたボクの視界には、蹴りを放った体勢の善吉くんの姿が映っていた。
「ちっ……外しちまったか」
突然の出来事に困惑するボクは、しかし周囲を見回してすぐに納得させられた。武器を構えた阿久根に周囲に氷を出現させている名瀬さん。古賀さんや人吉先生も臨戦態勢を取っていた。ボクの心から勝利の余韻が一瞬にして消え、全身から危険信号が発せられる。
「全校生徒の未来が掛かってるんだ。卑怯とか言ってられる状況じゃねーよな、めだかちゃん!」
「……そうだな。貴様らを生徒会役員として認めるわけにはいかん」
善吉くんの言葉に、黙って様子を見守っていた黒神めだかも頷いた。そして、こちらをしっかりと見据えた黒神めだかの威圧感に、ボクの口元がわずかに引き攣った。人を惹きつける豪華絢爛なオーラ。有無を言わせぬほどの圧倒的な存在感。そして、何より恐ろしいのは『運命』とも言える程の強力な運勢。ボクの目には恒星の輝きにも似た、埒外なまでの運命が映っていた。
「月見月副会長。悪いが球磨川の野望を叶えるわけにはいかん。貴様もしばらくは休んでいて貰うぞ」
他人の運勢が見えるからこそ理解できる。ボクの力では黒神めだかに勝つことはできない。異常性(アブノーマル)とか特別(スペシャル)とか過負荷(マイナス)とかの問題じゃない。存在そのものの強度が別物なのだ。まるで世界そのものに喧嘩を売ったかのような……。思わず押されるように一歩あとずさったボクの前に、意外にも長者原が盾になるように立ちふさがった。
「お待ちください、黒神さま。私ども選挙管理委員は戦挙を円滑に進めることが職務でございます。新生徒会側のみなさまの当選を公表するまで、あらゆる妨害行為は許されませんよ」
「一応聞いておくが、球磨川は十三組の抹殺を宣言しているのだぞ。そのようなことを認めると言うのか?」
「選挙管理委員の職務は公正であらねばなりません。もちろん公約の如何によって職務の手を抜くことなど有り得てはならないと考えております」
ボクと蝶ヶ崎を守るように集まってくる選挙管理委員の面々。二つの陣営が相対して睨み合う。数十人の選挙管理委員たちに守られながら、しかしボクの心は諦観に満ちていた。無駄だ、と他人事のように彼らを眺めながら思う。本気になった黒神めだかには誰もかなわない。
――おそらくは球磨川さんでさえも
静かに認める。場には一触即発の緊張が限界まで張り詰めていた。そのとき、ボクの背筋を氷水が掛けられたかのような悪寒が走る。
「のいて」
そこに現れたのは球磨川さんだった。サッと潮が引いていくように、集まっていた選挙管理委員たちが顔を青ざめさせながら道を開ける。まるで海を割ったモーセのようだ。しかし、球磨川さんの凶々しい雰囲気からはむしろ世界の終わりを感じさせる。これまでとは別人のような風格。この場の全員にありとあらゆる負の兆候を強制的に感じ取らせた。笑顔の仮面は脱ぎ捨てられ、これまで隠していた自身の底をあらんかぎりに晒している。
ツカツカと歩くその姿を見てボクは思う。マイナス成長を遂げた程度で球磨川さんを測れるだなんて、ひどい思い上がりだった。直視するだけで吐き気を催すほどの負の塊。今のボクでさえ、深淵を覗き込むような恐怖で全身を震えが襲っていた。その異様な雰囲気に押され、ここにいる全員が息を飲んで動けずにいる。時の凍りついた空間で球磨川さんは黒神めだかの正面に立った。
「やあ、はじめまして。めだかちゃん。僕だよ」
「……ああ、そうだな。貴様の言葉に――貴様の心に、ようやく会えた気がするよ」
ボク達でさえ目を逸らしたくなるほどに強烈なマイナス性を、黒神めだかは正面から見据えている。見つめ合った二人の間には、プラスとマイナス、光と闇の対のような奇妙な完全性が成立しているように思えた。そして、球磨川さんは視線を動かさずにボクに向けて声を発する。
「瑞貴ちゃん、戦挙はどうなったの?」
「あ、はい。副会長戦はボク達マイナス十三組の勝利で、これで現生徒会のリコールが完了しました」
「そう。ありがとう。よくがんばったね。」
耳にしただけで心が凍えるような冷酷で醜悪な声。しかし、ボクの心は歓喜に震えていた。球磨川さんの背中を見つめながら、この安心感と多幸感に身を委ねる。ボクは球磨川さんの期待に応えられたんだ。
「あとは任せたよ、長者原くん。さあ、帰ろうか。瑞貴ちゃん、蛾々丸ちゃん」
そう言って踵を返して去っていく球磨川さん。それにボク達も続いていく。
「待て!球磨川!」
「めだかちゃん、次は新学期の箱庭学園で会おうぜ。始業式の開会までに僕たちの因縁の決着をつけよう」
黒神めだかの声に球磨川さんは首だけ振り向いて答えた。それはボク達マイナス十三組からの最後の挑戦状だった。
「で、何で瑞貴さんまで一緒に来てるんですか……」
「別に構わないだろ?志布志のお見舞いにも付き合ってもらったし」
あの後、ボクは生徒会メンバー達と共に病院へ搬送された二人のお見舞いにやってきていた。ちなみにこれは球磨川さんの指示である。まず志布志の容態を医師に尋ねたところ、どうやら全治数ヶ月は掛かるとのことだった。トラックの正面衝突に匹敵する日乃影先輩の拳を受けたんだ。それも当然だろう。そして、ボク達は日乃影先輩の病室へと向かっている。
「入院って言っても、日之影くんの強度なら明日には完治して問題なく動けるようになってるでしょうね」
「へえ、明日には……ね」
その人吉先生の言葉にボクは小さく呟いた。常人なら即死間違い無しのダメージをその程度に抑えたなんて、相変わらず化け物じみているね……。
「ま、実際には俺達の応急処置で十分なレベルだったんだけどな。意識を失ってたから念のため病院に運ばれたってだけだし。見舞いに来るほどの怪我じゃねーんだよ。たぶん明日になれば勝手に起きてくるだろうしな」
「それでもお姉さま。できるだけ早く日乃影前生徒会長に会っておくべきでしょうね。今後のことについて相談したいこともありますし」
「そうだな、めだかちゃん。球磨川を倒すためには日乃影先輩の力が必要だぜ。……言っとくけど、瑞貴さんは席を外してもらいますからね」
「わかってるよ。さすがにこの期に及んで仲間面しようとは思わないよ」
釘を刺すような善吉くんの言葉にボクは素直に頷いた。――すでにボクの役目は済んでいる
「日乃影前生徒会長、入りますよ」
コンコンと扉をノックして、黒神めだかはスライド式のドアに手を掛けた。そのままゆっくりと横に扉を開ける。
――病室のベッドの上に、大きなネジで胸を貫かれた日之影先輩が横たわっていた。
「なっ……!?」
ドアを開けた途端に目に映ったこの光景に、全員が驚愕して息を呑んだ。日乃影先輩の胸には杭のように太いネジが螺子込まれ、その巨体がベッドに磔にされている。理解不能な事態に思わず立ちすくんでしまった彼らを横目に、ボクは静かにこの場を去っていた。ボクの役目はただの時間稼ぎ。球磨川さんより先に黒神めだか達が日乃影先輩に接触しないように足止めすることだったのだ。
「まずは一人……。ボクたち過負荷(マイナス)が、始業式までおとなしくしているはずがないじゃないか」
始業式の朝に決着をつけるなんて、ただの方便。あの場を無事に逃れるための球磨川さんの嘘だろうとボクは考えていた。正々堂々、王道の展開ではボク達に勝ち目はない。卑怯卑劣、外道の展開こそがボク達マイナスの真骨頂なのだから。ルールのある試合は終わった。
――ここからはルール無用の戦争が始まる。
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「マイナス十三組へようこそ!」
とあるファミレスの店内で、恒例のマイナス十三組の幹部会が開かれていた。この場にいるのはボク、球磨川さん、蝶ヶ崎の三人。志布志は病院のベッドの上だ。
『それじゃあ、幹部会をはじめようか。と言っても、現在動けるのはこの三人だけになっちゃったけどね』
「……話し方、戻したんですね。球磨川さん」
先日のおぞましい雰囲気は鳴りを潜め、今の球磨川さんには無邪気な笑顔が浮かんでいる。抑えられているとはいえ、凶々しいまでの気持ち悪さは健在だけど。
『とりあえずはね。めだかちゃんとの戦いでは括弧つけてられる余裕なんてないだろうけど』
「ということは、本当にめだかちゃんとの勝負をするつもりなんですか?」
『うん。そろそろ、僕とめだかちゃんの因縁に決着をつけようと思ってる』
中学時代の敗北を思い出して、ボクはわずかに顔をしかめた。純粋な力勝負において、過負荷(マイナス)であるボク達は非常に相性が悪い。そして、それはマイナスを体現する球磨川さんには特に顕著に現れるのだ。正直に言えば、マイナス十三組が生徒会に勝利することができた要員の一つに、副会長戦における球磨川さんの不在が挙げられるだろう。黒神めだかが勝利を運命付けられているとすれば、球磨川さんは敗北を運命付けられていると言える。少なくとも、運命を見抜くボクの目にはそう映っていた。
『具体的には、マイナス十三組総員で僕とめだかちゃんの対決に邪魔が入らないようにしてもらいたいんだ』
「結局のところ、黒神さんを倒さなければ終わらないというのも確かなのでしょうが……。しかし、日時を決定して、マイナス十三組を動員しての総力戦となると不利なのでは?」
「そうですよ。おそらく特待生(スペシャル)と『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の連中が増援として参加すると思います。せめて一点突破で決闘前にめだかちゃんを全員で強襲するというのはどうですか?」
マイナス十三組の中でも、戦闘用の過負荷(マイナス)を所持している生徒というのは多くない。しかも、副会長戦で痛感したことだけど、マイナス同士は連携が非常に取りづらいのだ。基本的に嫌われ者の集団であるボク達は他人と連携するためのスキルを持っていないし、その経験もない。総力戦での戦力差はさらに縮まるだろう。しかし、ボク達の言葉に球磨川さんはゆっくりと首を左右に振った。
『この戦いはただのわがままだよ。だけど僕は、正面から正々堂々と――めだかちゃんに勝ちたいんだ!お願い!僕に力を貸して欲しい!』
一瞬見せた球磨川さんの決意にボクは息を呑んだ。ふうっと肺に溜まっていた息を吐き出す。
「ボクの仕事は球磨川さんの目的を全力で達成させることです。それこそが、中学時代から変わらないボクの意志なんですから」
「そうですね。それが球磨川先輩の言葉ならば是非もありません」
『ありがとう。みんなに会えてよかった』
演技では無い笑顔を浮かべた球磨川さんに、ボクは同じ言葉を返していた。間違いなくマイナス十三組全員が同じ気持ちだろう。
――球磨川さんに救われたのはボク達も一緒なんだから
翌日、球磨川さんの密命を受けて、ボクは箱庭学園のとある場所へと向かっていた。最終決戦において重要な部分を占める作戦の一部を遂行するために。そのボクの正面に小柄な少女が現れた。
「あれ?久し振りですね、月見月先輩」
「……不知火さんか。今までどうしてたの?」
不知火さんは大量のお菓子を抱えながら、不敵な笑みを浮かべている。
「あひゃひゃ。生徒会戦挙の勝利おめでとうございます。いや、弱っちいあたしが参加してたところで、足手まといになるだけでしょ?邪魔にならないよう、ゆっくりと静観させてもらってましたよ」
「そう。今回の最終決戦には参加するつもりある?」
率直に尋ねたところ、その質問の答えはノーだった。不知火さんに疑念を抱いているボクにとっては一安心できるものだ。その心中を読み取ったかのように、不知火さんは笑みを深くする。
「それに、あたしの目的は達成できそうですしね。日乃影先輩を扇動したり、選挙管理委員長に根回ししたりも結局は無駄になりましたが……」
「……どういうこと?」
「そんな怖い顔しないでくださいよぉ。あたしの目的なんて別にたいしたことじゃありませんよ。球磨川先輩とお嬢様――この二人を正面からぶつけるってだけなんですから」
困惑するボクに向かって不知火さんは続ける。
「球磨川先輩とお嬢様の決着がつかない限り、この戦いは終わりませんから」
「それはそうかもしれないね。けど、不知火さんはめだかちゃんの方に肩入れしてると思ってたんだけど」
「あひゃひゃ。別にお嬢様に肩入れしてるって訳じゃないんですけどね。ま、月見月先輩からすれば同じようなものですか」
面白そうに不知火さんは笑う。その無邪気な笑い声は、なぜか球磨川さんを連想させた。改めて正面から相対したけど、その小柄な体躯からは寒気がするほどの過負荷(マイナス)を感じさせる。
「正面から総力戦を行えば、マイナスはプラスには敵いません。これまでの球磨川先輩なら脅迫や襲撃なんかの番外戦術で対抗してきたでしょうね。ですけど、今の球磨川先輩は一対一での勝負にこだわっている。純粋な強度を競う戦闘において、球磨川先輩には万に一つも勝ち目はありませんよ?」
「……それをどうにかするためにボク達がいるんだ」
自分でも分かるほどに苦々しい声音でボクは答えた。不知火さんは持っているスナック菓子の袋を開け、一口で胃の中に収めると、悪そうな表情でボクの方を見つめた。
「ま、月見月先輩には期待してますよ。あまり一方的にマイナス十三組が押されちゃうと、球磨川先輩とお嬢様の対決に邪魔が入っちゃうかもしれませんから」
そんな去り際の一言を残して、飄々とした様子でこの場を離れていった。不知火さんが見えなくなった途端、ボクは全身にどっと疲労を感じた。やっぱり不知火さんの過負荷(マイナス)としての重圧は、ボク達に勝るとも劣らない。とりあえず不干渉を貫いてくれるらしいというのは吉報かな。
そして、ボクは目的地である時計台地下二階、日本庭園へと到着していた。そこで待っていたのは糸島軍規。『裏の六人(プラスシックス)』の一人である。だぶだぶの袴のような派手な服を着た男がそこに立っていた。想像以上に不気味な雰囲気を漂わせてその場に佇んでいる。
「よぉ、噂には聞いてるぜ。マイナス十三組だっけか」
「はい、今後のことについて相談がありまして。マイナス十三組を代表してボクが交渉に来ました」
「そうかい。ちょうどいい、あんたも着いて来な」
そう言って糸島先輩は階段を下っていく。かつてボクは『裏の六人(プラスシックス)』の内、三人を同時に相手取ったことがある。過負荷(マイナス)を制御できなかった昔のボクでさえ多対一で対抗できた『裏の六人(プラスシックス)』。しかし、この糸島軍規はモノが違うようだ。転入当初の江迎さん程の異常度、マイナス性を感じさせる。つまりはマイナス十三組の中でも上位クラスということ。球磨川さんの命令によってボクは、最終決戦のために『裏の六人(プラスシックス)』を勧誘に来たのだ。
階段を降りた先は地下五階の駐車場だった。そこには『裏の六人(プラスシックス)』が勢揃いしている。全員の元へわざわざ向かって勧誘する手間が省けるというのは好都合だ。そう思ってこの場を見回したボクは思わず驚きの声を漏らしてしまう。
「なっ……!?阿久根……それに喜界島さんも!?」
「月見月……!どうしてここに!?」
なぜか『裏の六人(プラスシックス)』に混じって、阿久根と喜界島さんがこの場にいたのだ。困惑するボクだったけど、向こうも同じ気持ちのようで驚愕に目を丸くしている。
「さぁて、どうやら三人とも同じ用件みたいなんでな。面倒だからまとめてやっちまおうって訳だ」
「同じ用件……?まさか、生徒会側も戦力の増強を!」
焦燥感にボクは歯噛みする。生徒会は他の十三組生にも協力を要請しているのだろう。格闘系の特待生(スペシャル)にも声を掛けているだろうし、そうなれば最終決戦での戦力差はどうなるのか。少なくとも生徒会メンバーをマイナス十三組で圧殺という展開にはならないに違いない。
「とりあえず私が代表させて話させてもらうが、私達に味方について欲しいと。そういう用件でいいんだよな?」
「はい、ぜひとも球磨川さんのためにお力を貸してください」
「お願い!黒神さんに力を貸して欲しいの!」
糸島先輩の言葉にボク達は頷き、全員を見回して答える。しかし、その六人ともがつまらなそうな顔でボク達を見つめていた。
「わー大変だー。学園の危機ですねー(棒読み)」
「面倒です。糸島さん、適当に追い払ってくれませんか」
裸にオーバーオールという刺激的な格好の女子が棒読みで口を開く。続けて厚着をした眼鏡の男も心底面倒臭そうに答えた。この二人が湯前音眼と百町破魔矢か……。初めて会ったけど、やはり異常者(アブノーマル)というよりも過負荷(マイナス)に近いものを感じる。
「待ってください!俺達は……」
「まぁ落ち着けって。義を見てせざるは勇無きなり。私達も条件次第じゃ協力してやってもいいと思ってるんだぜ」
「条件……ですか?」
意外にも糸島先輩は場合によっては仲間になってくれるらしい。その言葉に他の五人も納得したような表情を見せた。そして、糸島先輩は愉しそうに笑ってボク達に難題を言い放つ。
「その条件はお前達に決めてもらう。チャンスは各陣営ごとに三回ずつ。手番は交代制で頼むぜ。ランプの精は三つの願いを叶えてくれるそうだ。お前達には三つの願いを考えて、私達が叶えて欲しい願いを一つでも答えてくれればいい。先に俺達の願いを提案してくれた陣営に協力するぜ」
「どちらも願いを答えられなかった場合は?」
「決まってんだろうが。そんな俺達を理解できない奴らと組むことはできねぇよ!」
糸島先輩が振り向くと、残りの五人も頷いた。このゲームに勝てば『裏の六人(プラスシックス)』はマイナス十三組の仲間になってくれるだろう。
「『逆ランプの精ゲーム』とでも名付けるかな。ランプの精になった気分で、持ち主が叶えて欲しくなる願いを考えることだ」
そう言って糸島先輩は説明を終えた。喜界島さんが不安そうにボク達に目を向けるが、ボクと阿久根はすでに解答を考えることに集中している。
「阿久根、喜界島さん。先番は譲るよ」
「本当!月見月先輩、ありがとう!」
糸島先輩はゲームと銘打っているけど、簡単に言えばこれも交渉の一種。問題は早い者勝ちと回数制限のルール。とりあえずボクは三回の回数制限を重視して、正しい願いを考えることを優勢した。阿久根も同じ考えのようで、焦らずじっくりと答えを考えている。しかし――
「お金あげるっ!」
喜界島さんの声が響き渡った。単純明快な答え。それを聞いた阿久根は額に手を当て、呆れたように首を振った。集中していたせいで喜界島さんにまで気が回っていなかったのだろう。阿久根は目を閉じて溜息を吐いた。
「却下」
「ええっ!何で……」
心底、不思議といった表情で叫ぶ喜界島さん。……当たり前だよ。名瀬さんですら理解できないという『裏の六人(プラスシックス)』が、そんな通常の感性を持っているはずないじゃないか。だから阿久根も不用意に回答しなかったっていうのに……。
「さぁて、生徒会側の一つ目の願いは不発。手番を交代して、次はお前の回答する番だぜ」
「そうですね……」
球磨川さんならどうするだろう。考え込むボクの脳裏に閃光のように名案が閃いた。その解答を自信満々に糸嶋先輩へと言い放つ。
「みんなをとびっきりに不幸にしてあげるよ」
「はぁ?」
ボクの予想とは裏腹に、六人は理解できないといった風に眉を潜めた。
「おいおい、何だその交換条件はよぉ!」
「あれ?」
もしかして失敗だったのか?そんなボク達のやりとりを見て、阿久根は我慢できずに笑い出してしまった。
「あはははははっ。そんな交渉があるものかよ。ま、おかげで俺の方も願いは決まったけどね」
「へえ、何だよ。人のことを笑ったからにはちゃんとした正解を出せるんだろうね?」
「ああ、もちろん。今の条件を飲まなかったことで、『裏の六人(プラスシックス)』の精神の傾向は掴めたよ。つまり俺の出す条件は――」
阿久根は誇らしげな笑みを浮かべた。
「めだかさんが君達を幸せにしてくれることだ!」
「全然惹かれねぇぜ。不幸が嫌だからって幸せになりたい訳じゃねぇんだよ」
その自信満々な表情は一瞬にして愕然としたものへと変わってしまった。幸せでも不幸でもない。理解不能の感性。これが異常者(アブノーマル)と過負荷(マイナス)の境――『裏の六人(プラスシックス)』。
「球磨川さんの仲間になれるよ」
マイナス十三組全体の原動力にして求心力。球磨川さんの負のカリスマ性に期待したこの条件。性格破綻者がデフォルトのマイナス十三組においても、絶大なる忠誠心を集めているほどだ。ボクがマイナス十三組に与している理由もこの一言に尽きる。
「……いや、私達はその球磨川って奴のこと知らねぇし」
登校はしていても集会に参加していない『裏の六人(プラスシックス)』は、球磨川さんのクーデターを直接見ていないんだった……。これで互いに答えられる願いの数は残り一つずつ。最後の願いをどうするべきか。
「ったくよぉ。こりゃどっちの陣営にもつかないって結果に終わりそうだぜ。ほら、生徒会執行部の最後の願いは何なんだ?」
しばらく考え込んだ阿久根は諦めたように息を吐き出した。
「球磨川さんの目的は箱庭学園の十三組生を皆殺しにすることです。そして、俺達はそれを阻止するために戦っています。あなたたちの内の三人を病院送りにしたそこの月見月もメンバーの一人です。対抗しようにも、あなたたちの力では殺されるだけでしょう。力を合わせて一緒に戦いましょう」
「興味ねぇな。いや、別に勝てると思ってる訳じゃないぜ。そこの月見月って奴の凶々しく不吉な雰囲気は肌で感じてる。戦闘力で言えば、そして異常度、マイナス性においても私と同等以上だろうな。そんな奴が心酔するリーダー。言われなくとも恐ろしさは理解できる」
「だったら!」
「それを知った上で興味ないって言ってんだぜ」
彼らは自身の生死にも関心は無いのか。しかし、阿久根も予想は付いていたのだろう。かぶりを振って捨て台詞を残した。
「球磨川さんは残虐な男です。たとえ仲間になったとしても十三組生であるあなたたちは殺されるでしょう」
そんなことはない!と叫ぼうとして、ボクはとっさに口を閉じた。これは阿久根の仕掛けた罠だ。ボクの出す最後の条件に命の保証を入れさせようとしているのだろう。しかし、そんなものが彼らの願いのはずがない。無駄な条件を入れさせて引き分けに持ち込もうという魂胆が透けて見える。案の定、阿久根は残念そうな目でこちらを見つめていた。
「さて、最後の回答を聞かせてもらおうかね。外せば私達はお前達の戦いには関与しないと約束しよう」
「……少し考えさせて欲しい」
『裏の六人(プラスシックス)』の精神性を見抜かない限り、彼らの願いは理解できないに違いない。フラスコ計画が凍結したにも関わらず、こうして六人でつるんでいることを考えると、仲間が欲しいという異常者(アブノーマル)や過負荷(マイナス)の傾向は読み取れる。ただ、幸せも不幸も生も死もそれほど重視していないようだ。その精神性は過負荷(マイナス)に近いかな。だけど、名瀬さんによると、そのスキルは異常(アブノーマル)に分類されている。
「やっぱりお前達には理解できねぇかよ……」
糸島先輩がつまらなそうにつぶやくのが聞こえた。球磨川さんが交渉に来ていたなら理解できているはずなのに……。悔しさに唇を噛み締める。……いや、待てよ。なぜ球磨川さんはボクに引き抜き交渉を任せたんだ?その疑問とともに様々な思考の断片が頭を駆け巡る。
「そうか……!きみ達の願いがわかったよ!」
「ほぅ……言ってみろよ」
異常者(プラス)にして負(マイナス)の精神性を持つ『裏の六人(プラスシックス)』。――それは、正常(プラス)の精神性にして過負荷(マイナス)を保持していたボクと真逆にして同一。
「みんなの異常(アブノーマル)でボクのことを好きにしてくれていい」
「ん?それはどういう意味だ」
「そのままの意味だよ。みんなの気が済むまで、ボクに好きなだけ暴力を振るって、ぶちのめしてくれていい」
近くにあった金属製のチェーンで自分自身の手足を縛りながら答える。意味不明な条件を聞いて逡巡する様子を見せたのは一瞬だけだった。
「賛成の反対……の反対だな」
「がはあっ!」
ボクの元へ飛び込んできていたサイボーグ、鶴御崎の高熱を発する拳が腹に突き刺さった。反射によって回避できないように手足を縛っているため、その暴力をまともに受け止めることとなったのだ。異常なまでの高熱と威力に、ボクは肉の焼け焦げたような臭いを発しながら殴り飛ばされる。近くの車に背面から激突したボクの首に髪の毛が巻き付いた。これは筑前優鳥の『髪々の黄昏(トリックオアトリートメント)』。
「そういえば、私の髪を焼いたことがあったわね。その傷み、返させてもらうよ」
「うぐぅぅぅ……」
頸動脈をギリギリと絞める髪に、ボクの顔から血の気が引いて青ざめる。苦悶の表情を浮かべるボクは重力の向きが変わったのを感じた。直後、髪によって投げ飛ばされたのだろう。コンクリートの床に叩きつけられたボクは受け身もとれずに肺から空気を吐き出させられた。
「ごほっ!……はぁ…はぁ…」
「じゃあお言葉に甘えて、私もめちゃくちゃな異常(アブノーマル)を披露させてもらうとするか!驚愕する準備は万端かよ!」
そう言って全身から不気味な空気を醸し出す糸島先輩。それに加えて、ボクの視界には弓を構えた百町破魔矢、液体と化した腕を振り上げる湯前音眼、口を大きく広げた上峰書庫の姿が映っている。
――それから数分間、ボクはこの世の地獄を味わった
「大丈夫ですか!月見月先輩っ!」
「お、おい……月見月、生きてるか?」
無限とも思える数分間を過ごしたあと、ボクは全身ズタボロのボロ雑巾のように床に広げられていた。あまりにも残酷な暴力の前に、完膚無きまでに壊され尽くしたボクの身体は激痛という悲鳴を上げている。意識が朦朧としているにもかかわらず、いまだに気絶していないのはこの神経を削られているような激痛のせいだろう。心配して駆け寄ってきた阿久根と喜界島さんに言葉を返す余裕もなく、ボクは糸島先輩を見上げて目を合わせた。
「な……仲間に…なりま…せんか?」
途切れ途切れだけど、真剣に心を込めて言葉を紡ぐ。
「おい!そんなこと言ってる場合じゃ……!喜界島さん、地上に出て人吉先生を呼んできてくれ!俺は保健委員を呼んでおくから!」
焦った様子で喜界島さんに指示を出し、自分は携帯で知り合いの保健委員を呼び出そうとする阿久根。だけど、今のボクには自分の身体の心配なんて頭になかった。最終決戦に出るまでもなくリタイアしてしまうことへの恐怖も忘れていた。正常(プラス)な精神性をもつ過負荷(マイナス)と、負(マイナス)の精神性をもつ異常者(プラス)。互いにプラスとマイナスを打ち消し合ってしまう中途半端な存在のボク達。
「残酷で不気味で…意味不明で理解不能……。だけど、それでもボクは構わない……。強さも弱さも、善さも悪さも、幸運も不運も――ボク達は受け入れる」
痛みで引き攣った表情を無理矢理動かして精一杯の笑顔を作る。ボクが球磨川さんに救われたように、ボクも彼らを救いたいと思ったんだ。おぞましい過負荷(マイナス)を受け入れてくれた球磨川さんのように、ボクは彼らのおぞましい精神性(マイナス)を受け入れる。プラスとマイナスが打ち消し合うなら、マイナスを認めて伸ばしてやる。それは、とても安らぎに満ちたことなんだ。
「だから……ボクと…友達になろうよ」
糸島先輩は目を閉じ、静かに首を左右に振る。ボクの心に浮かんだのは悔しさでも恨みでもなく、悲しみだった。
「そっか……」
この大怪我では最終決戦までに治療が間に合わないかもしれない。『裏の六人(プラスシックス)』も仲間にはならない。ただ無駄骨を折っただけだ。だけど、ボクの心に後悔はない。
「勘違いするんじゃねぇよ」
そんなボクに糸島先輩は嬉しそうな表情を浮かべて声を掛ける。
「私達だけが異常(アブノーマル)を披露したんじゃ不公平だろうが。お前も私達を過負荷(マイナス)でぶちのめしてくれねぇとな」
「え?……それって…」
「仲間になってやるってことだよ。こんな理解不能の奴らを入れて後悔するんじゃねぇぞ!」
驚いて後ろの五人を見回すと、その全員が笑顔で頷いた。ボクは誇らしげに声を上げる。
「マイナス十三組へようこそ!」
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「――決着をつけようか」
八月三十一日。因縁の最終決戦を翌日に控えて、ボクは病院のベッドの上で書類の山に囲まれていた。生徒会の職務引継ぎの書類である。球磨川さん達は現在、最終決戦のために動いており、病室で暇を持て余しているボクにお鉢が回ってきたという訳なのだ。幸い『裏の六人(プラスシックス)』連中に負わされた怪我はほとんど回復しており、明日の決戦には十分間に合うだろう。
「なーなー、暇だから何かしよーぜ」
溜息を吐きながら顔を向けた先には、車椅子に乗った志布志の姿があった。日乃影先輩に与えられた損傷は大きく、残念ながら五体満足で参戦することはできなかったのだ。とは言え、日常生活には支障は無いレベルまでは回復しているみたいだけど。ほぼ完治したと言っていいボクとは対照的だ。いまだに入院しているのは、単に自宅へ襲撃されるのを防ぐというだけ。
「……暇なんだったら、君もこの書類の山を片付けるのを手伝ってよ」
「面倒だからパス」
少し疲労も溜まってきたことだし、ボクは両目に指を当てて書類から目を離した。志布志は車椅子を動かして書類の積まれた机に近寄ると、そのまま見舞いのフルーツに手を伸ばして勝手に食べ始める。
「それボクのなんだけど……」
「いーじゃねーか、別に。それより、球磨川さんはもう帰ったのかよ?」
「うん、ついさっきね……」
そう言ってボクはさっきお見舞いにもらった椿、シクラメン、菊の詰まった花束を見せた。球磨川さんらしいセンスに軽く苦笑する。
「ふーん。にしても、もうすぐ始業式が始まるけど、月見月先輩はどう思う?」
「きっと大丈夫だよ。球磨川さんが言うには、今のところ順調らしいし。ボクと志布志の抜けた穴は『裏の六人(プラスシックス)』のみんなが埋めてくれてるみたいだよ」
内心の不安を押し隠しながらボクは言葉を返す。あの黒神めだかと戦う以上、万全なんてものは存在しないからだ。
「何とかスキを突いて真黒さんをリタイアさせられたみたいだし、凶化合宿は行われていないはずだよ。あとは単独行動をしている生徒に襲撃を掛けて数を減らしているみたい」
「最終決戦前に特訓をしよう」なんてプラスの発想は球磨川さんには無い。どれだけ相手を妨害できるか、戦力を減らせるか、というのがボクたち過負荷(マイナス)の発想なのだ。そして、今日はその大詰め。今頃は球磨川さんの、マイナス十三組の命運を決める最終決戦の最後の打ち合わせを全員で行っているはずだ。
「志布志も明日のために休んでおきなよ」
「もう十分睡眠時間を取らせてもらってるよ。規則正しい生活はもう飽き飽きだぜ。そっちこそ入院生活で身体なまらせてんじゃねーの?」
「明日に合わせて、しっかりとリハビリは完了させてあるよ。せめて体調くらいは万全にしとかないとね」
そうかい、と名残惜しそうに志布志を乗せた車椅子はボクの部屋から出て行った。元野球少女だし、インドアは苦手なのかもしれない。そんなことを考えながら、ボクは床に足を着いて立ち、半身に構えた。精神を集中させ、見えない相手に向かって左ジャブを放つ。続いて右ストレート、前蹴り、回し蹴りと一つずつ技を確認していく。それは次第に熱を帯び、ボクの仮想敵の姿は善吉くんへと具体化していた。静かな病室に荒い息遣いと風切り音だけが残る。
数十分が経過し、ふぅと息を吐いたボクはベッドへと倒れこんだ。球磨川さんが黒神めだかの相手をするなら、ボクの相手は善吉くんになるだろう。ボクも善吉くんも、いざとなれば相手は二人の対決に横槍を入れてくるだろうと確信しているのだ。互いに正逆にして同質な存在として、勝負は避けられない。
「動きは問題無い……ね。今日の練習はこれで終わらせて、明日のためにもう休もうかな」
傍らのスポーツドリンクを飲み干すと、ボクは個室に備え付きのトイレへと向かった。この病院はフラスコ計画の施設でもあるため、VIP待遇で部屋を取れたのは助かっている。理事長も過負荷(マイナス)の勝利を望んではいないのだろうけど、それでも黒神めだかの対戦相手として体調は整えておきたいらしい。ボクがトイレの扉を開けて中へ入ると、背後で小さな音が聞こえた。そして、その瞬間、ボクの頭が壁に叩きつけられた。
「がはっ……!な、何が……?」
「久し振りやな、月見月クン。卑怯は別に過負荷(マイナス)の専売特許って訳やないで?」
「な、鍋島先輩……!」
振り向いたボクの目の前にいたのは柔道部部長の鍋島先輩だった。驚くボクの襟を掴むと、そのまま背後の鉄製の便器に後頭部を叩きつける。激突の衝撃で一瞬ボクの意識が飛ばされた。気を取り直す間もなく、左右にボクの身体を振り回して重心を崩してくる。脳が激しく揺らされぐにゃりと視界が歪むが、やぶれかぶれに相手の身体へと手を伸ばした。
「遅すぎやでジブン」
襟を掴もうとした手は鍋島先輩にあっさりと片手で払われてしまった。やっぱり組み手争いには天と地ほどの技術の差がある。鍋島先輩は返す手でボクの頭を掴み、足を掛けて重心を崩す。直後、側頭部に衝撃が走った。頭の中にゴッと鈍い音が鳴り響く。想像以上に硬い壁面に何度も叩きつけられ、ボクの脳が激しく揺らされる。
ぐっ……意識が朦朧としてきた。
「だったら……蹴り潰す!」
両手で鍋島先輩の腕を握り締め、無防備の顔面に向けて逆転のハイキックを放った。しかし、それは――狭い個室の壁が邪魔になって、つま先が引っ掛かってしまう。
「しまった……!?」
「こんな狭いところで暴れちゃいかんて」
さらに距離を詰めた鍋島先輩は、吐息のかかるほどに密着して、ボクの病院服の襟を掴んでいた。そして、その襟を用いてボクの首を正面から締め上げる。反則過ぎる締め技にボクの口からくぐもった呻き声が漏れた。気道を締められ、血流が止まりチカチカと視界がブラックアウトを起こす。この打撃の出せない密着状態で柔道勝負となればボクに勝ち目は無い。だけど――
「がはっ!ジ、ジブン……!?」
――鍋島先輩の脇腹にボクの左膝が突き刺さった。
サバットでは禁止技とされる膝を用いた蹴り。しかし、柔道を始めとするあらゆる格闘技をかじって我流で体系化したボクのサバットにおいては、膝や肘による打撃も通常技にすぎないのだ。実戦においては反則など存在しない。これが目の前の鍋島先輩から学んだことなんだから。
「まだまだっ!」
苦悶の表情を浮かべ、くの字に折れた鍋島先輩の首に腕を回す。畳み掛けるようにボクは肝臓を蹴り潰すつもりで再び膝を振り上げた。ゴキリという鈍い感触。
よし!肋骨をへし折った……!
「ゆ、油断しすぎやでぇ!」
「なっ……!?」
膝を上げて片足立ちになったボクの脚が払われた。バランスを崩したボクは鍋島先輩と共にもつれるように床へと倒れ込む。そのまま流れるようにして素早くボクの身体の上を鍋島先輩が動いていた。しまった……これは寝技の攻防!自身の失策を悟った瞬間にはすでにボクの右足首は見事に極められてしまっていた。足首に激痛が走る。
「何とか抜けないと……!」
「無駄や。打撃や投げ技とちごて寝技は技術の差が如実に出るんやで。ウチが教えたやろ?」
何とか足首の拘束から抜け出したかと思うと、すでに鍋島先輩はボクの膝を抱えるようにして極めていた。膝の関節が折れる寸前。そこで鍋島先輩はボクへと最後通牒を突きつけた。
「動くとこの膝を折るで!月見月クン、柔道を教えた弟子のよしみでゆーといたるわ。明日が終わるまで、学園に行かないゆーんなら怪我させんでやってもえーよ?」
「わかりました。降参します。だから、ボクの大切な脚を折るのは許してくれませんか?」
「……了解。ま、信用できんから身柄は拘束させてもらうで」
あっさりと降参したボクに怪訝な表情を浮かべるものの、鍋島先輩はボクの膝を抱えたまま、器用に所持していた鉄線を取り出した。明日の最終決戦が終わるまで、拘束して監禁するつもりなのだろう。……甘すぎるよ。いや、鍋島先輩はボクの過負荷(マイナス)を知らないんだったか……。
「だとしたら鍋島先輩――ツキがなかったですね」
――この狭い個室の天井が崩落した。
「何や!?」
驚愕に顔を歪める鍋島先輩。天井を突き破って落ちてきた上層階の機器類がボク達を押し潰す。それを間一髪で逃れ、鍋島先輩は狭い個室のドアをぶち破って外へと飛び出していた。病室の機器や天井の瓦礫の破片に埋もれたトイレの個室。そこに取り残されたボクは、頭から血を流しながらゆっくりと立ち上がった。時間が惜しかったので自分自身から運を奪ったけど、そのせいで崩落事故で傷を負ってしまったのだ。だけど、その甲斐はあった。極められていた足はどうやら無事に済んだようだ。
「さて、ようやく立ち技の勝負に持ち込めましたよ」
ある程度の広さをもった病室へと抜け出たボクは半身になって構えた。この数メートルの距離は立ち技が存分に使える距離だ。鍋島先輩は組み付こうと前傾姿勢で構える。
「純粋な格闘戦でなら勝てると思われとんの?そりゃショックやなー」
あからさまなタックル狙いの構えだけど、決め付けは禁物。鍋島先輩を柔道家として考えれば、反則の餌食となることをボクは知っていた。対戦相手の思い込みに付け入ることが鍋島先輩の強さ。反則の存在しない実戦であると強く認識すること。それが鍋島先輩と戦う前提だということをボクはその当人から学んでいた。
「反則は弱者の特権、でしたよね。なら、過負荷(マイナス)のボクにとっても同じことが言えるのを忘れてませんか?」
鍋島先輩の背後でガラッと病室の扉が開く音がした。しかし、お互いに喧嘩について素人ではない。この距離では一瞬の隙が命取り。視線は相手から一瞬たりとも外さなかった。そしてそれは、鍋島先輩の失策だった。
――鍋島先輩の全身がズタズタに切り刻まれ、大量の鮮血が噴き出る。
鍋島先輩の口から悲鳴が上がった。そして、血溜まりに沈むその身体。振り向くとキィキィと車椅子を漕いだ志布志の姿があった。
「助かったよ、志布志」
「派手な音がしたから駆けつけてみれば……。まーた襲撃されてたのかよ?よっぽど弱く見られてんだな」
「こういった襲撃に備えて、志布志の病室を隣にしてもらっておいてよかったよ」
「まったくよー。あたしのことを体の良いボディーガードと勘違いしてねーか?」
ごめんごめん、とボクは軽く笑う。
「さーて、この血達磨はどこに捨てるかね」
うつ伏せになって血の池に横たわる鍋島先輩を見下ろし、志布志が冷たく言い放つ。ピクリとも動かないその身体は、放っておけば出血多量で死んでしまうだろうと思われた。いや、ここは病院だし、その心配もないか……。志布志は部屋から捨てようとその血溜まりに近寄っていくが――
「志布志!近付かないで!」
「え?」
志布志に静止するよう大声で叫ぶ。それと同時にボクは、倒れ伏している鍋島先輩の頭に踵を踏み降ろしていた。その無慈悲な踏みつけは、突如後ろへと跳び上がった鍋島先輩に避けられてしまう。跳び退った鍋島先輩は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。全身を血に塗れさせながらも、虎視眈々と志布志が近寄ってくるのを待ち構えていたのだ。
「ちっ……死んだ振りは通じんか」
「あなたの反則を受け継いだのはこのボクですからね」
「あちゃー、そうやったね。これやから手の内の割れた相手と戦うんは嫌やったんや」
――その声と同時に鍋島先輩の全身から、再び血が噴き出した。
翌日、九月一日。始業式当日の早朝に、ボクはマイナス十三組の教室でもある箱庭学園の剣道場にいた。周囲には不気味で醜悪な生徒達が思い思いの場所に腰を降ろしている。マイナス十三組、総員がこの場に集まっていた。誰も彼もが近づきたくないような気持ち悪い雰囲気を漂わせている。車椅子に乗った志布志に、壁に身体を預けて佇んでいる蝶ヶ崎。そして、その全員の中心に立っているのが球磨川さんであった。この過負荷(マイナス)の渦の中においても、その場だけが重力異常を起こしたかのように圧倒的な負のオーラに包まれている。
『やあ、おはよう。脆弱で惰弱で醜悪で凶悪で邪悪で険悪で気持ち悪くて負け組のみんな。今日は待ちに待った最終決戦。本日をマイナスがプラスに勝利した記念すべき日にしよう!』
球磨川さんが開幕の挨拶を始める。その言葉はやはり最低(マイナス)で、だけどそれにボク達は至福の安心感を得ていた。だって、誰よりも脆弱で惰弱で醜悪で凶悪で邪悪で険悪で気持ち悪くて負け組なのは、紛れも無くこの人なんだから……。
『これから僕はめだかちゃんと最後の決着をつけてくる。だからみんなにお願いだ。僕の勝負に誰一人邪魔を入れないで欲しい』
そう言って球磨川さんは頭を下げる。ボク達は黙って頷いた。言うまでもない。わがままで自分勝手で協調性皆無なマイナス十三組。しかし、この場の全員は一人残らず球磨川さんに心からの忠誠を誓っているのだから。
『ありがとう。――絶対に勝ってくるから!』
ボク達は剣道場の玄関を通り過ぎる。そこには全身をボロ雑巾のようにされた人間がゴミのように積まれていた。真っ赤に血で染まったものや全身の骨を砕かれてぐにゃぐにゃになったもの、焼け爛れたものなどが奇怪なオブジェのようにあちこちに散乱している。そのすべてが特別体育科(スペシャル)、十一組の生徒達である。この短期間に球磨川さん達は、体育系の特別(スペシャル)を一人残らず潰していたのだ。あと残る敵は居場所の知れない十三組の異常者(アブノーマル)のみ。
『瑞貴ちゃん。見張りの生徒によると、十三組の生徒たちが続々とこの学園に集結しているそうだよ。そっちは任せるから』
「わかりました。一人たりとも近づけさせません」
決戦の舞台として球磨川さんが指定したのは一年十三組の教室。無人の廊下を進みながら、一人、また一人とマイナス十三組の仲間は姿を消していく。過負荷(マイナス)の性質上、ボク達は連携して戦うことには不得手なのだ。球磨川さんの指示した場所へとそれぞれが散開して配置されていく。そして、最後に残ったのはボクと球磨川さんだけだった。教室の扉を開ける。
そこにいたのは善吉くん、名瀬さん、古賀さん、人吉先生。そして――黒神めだか。
「久し振りだな、球磨川」
黒神めだかを視認した瞬間、球磨川さんの雰囲気が豹変する。恐ろしいまでに凶悪でおぞましい負(マイナス)の空気に思わず戦慄した。しかし、目の前の黒神めだかの圧倒的なまでの運命もボクには量り知ることができない。互いに埒外の怪物。すでにこの二人の勝負はボクに関与できるレベルではないのか……。
「うん、おはよう。めだかちゃん。じゃあ早速だけど――決着をつけようか」
「そうだな。長年の因縁の決着をつけよう」
――こうして、箱庭学園史上に残る決戦の火蓋が切って落とされた。
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「見えてますよ」
早朝の箱庭学園、一年十三組の教室で球磨川さんと黒神めだかは相対していた。周囲に陣取っている他のメンバーなどまるで目に入っていない。すでに球磨川さんに括弧付けている余裕はなさそうだ。この世の悪意と不幸を凝縮して煮染めたような、黒く濁った瞳で目の前の黒神めだかを見つめている。対照的に、黒神めだかは光り輝く恒星のような圧倒的な存在感を放っていた。あまりにも異常にして異質。どちらも別次元の存在だと言われても納得してしまいそうなほどだ。その二人は見詰め合いながら、静かに口を開く。
「ずいぶん数が少ないようだが、貴様達だけか?」
「そうだよ。他のみんなには露払いをしてもらってる」
「……何を言っているのだ。今日は貴様との一対一のはずだろう?」
怪訝そうな表情を見せる黒神めだかに、困惑でボクも眉根を寄せた。……十三組の異常者(アブノーマル)がこの学園に集結していることを知らないのか?それはいかにもありそうなことに思えた。マイナス十三組に対抗するための十三組による総力戦。確かに黒神めだかなら他人を巻き込まずに自分だけで勝負をしようとするだろう。だとするとこれは善吉くんか阿久根の独断。いや、十三組の生徒達の居場所を知っているとなると真黒さん辺りか……。
「周りのことなんてどうでもいいだろ。僕のことを見ろよ。せっかく夢の中に入ってまで取り戻してきたんだからさ……。この、禁断(はじまり)の過負荷(マイナス)――却本作り(ブックメーカー)を」
そう言って、凶悪な形相を浮かべた球磨川さんが両手にネジを構える。そのネジは、細く鋭く禍々しく伸びていった。大嘘憑き(オールフィクション)よりもさらに凶悪なそれこそが――球磨川さんの本来の過負荷(マイナス)。それに呼応するように黒神めだかの雰囲気も徐々に鋭く圧倒的になっていく。
「そうだな。では、はじめ――」
話の途中にもかかわらず、球磨川さんは一瞬の内に距離を詰め、両手のネジを黒神めだかへと突き出していた。しかし、それは黒神めだかの掌によって掴まれ、逆に球磨川さんの腹に蹴りが突き刺さる。
「球磨川さん!」
強烈な蹴りを受けて校舎の外へと吹き飛ばされる球磨川さん。窓ガラスを割って外へと弾け飛んだのを追って黒神めだかは教室の窓を飛び降りた。追いかけたい衝動をぐっと堪えて、ボクは自身の過負荷(マイナス)を発動する。それと同時に脚を振り上げ、全力で床を踏みつけた。
――壊運(クラックラック)+震脚
踏み込んだ床に大きなひびが入る。この場の全員から幸運を奪い取ったことで、ボクの震脚による衝撃は校舎の最も脆い箇所に伝播したはず。直後、一瞬にして校舎は床から天井まで全てが崩れ落ちた。降り注ぐ瓦礫の雨に裂ける床。その間、わずか三秒。瞬く間に倒壊した校舎の中、ボクの立っていた狭いエリアだけが押し潰されずに原型を保っていた。しかし、直前に窓から飛び降りたのか周囲に残りのメンバーの姿はない。
「さすがにこんなことじゃ倒せないか……」
倒壊と瓦礫の雨から逃れたボクはゆっくりと校庭に向かって足を踏み出した。青空の下、校庭へと目を向けると、そこは大量の人間の血で地面が真っ赤に染まっていた。十三組の面々が全身から鮮血を噴き出して地面に倒れている。その中心には車椅子に座った志布志の姿が。これが志布志の過負荷(マイナス)――多対一における埒外の凶悪さをまざまざと証明していた。
「順調みたいだね」
「まーな。そっちこそ大丈夫かよ?」
ボクの声に気付いた志布志は、その場からこちらへ言葉を返した。無傷で十数人もの異常者(アブノーマル)達を血の海に沈めるなんて、さすがと言うしかない。
「球磨川さんとめだかちゃんの一対一の勝負には持ち込めた。あとはボク達の仕事は残敵の掃討だけ。善吉くん達はとりあえず分散させられたと思うけど……。――志布志っ!後ろ!」
「ん?」
志布志の注意が逸れた隙に、二つの人影が彼女の元へと忍び寄っていた。背後から襲い掛かるのは名瀬さんと古賀さんのペア。……完全に油断した。これは戦挙じゃなく、ルールの無い戦闘だっていうのに!人外の速度で跳び掛かる古賀さんと凍てつく冷気を撃ち放つ名瀬さん。ボクの位置からじゃ間に合わない!
「ちっ……くらえよ!――『致死武器(スカーデッド)』」
志布志の声と共に、二人の全身の皮膚が裂け、血が噴き出した。しかし、その歩みも攻撃も止まることはない。名瀬さんは傷口を凍らせ、古賀さんは持ち前の超回復で、それぞれ傷を塞いでいた。
「やっべ……」
志布志の頬が引き攣った。
「これでお前も終わりだ」
「ごめんねー」
名瀬さんの絶対零度の冷気と古賀さんの跳び蹴りが志布志の眼前に迫る。志布志にそれを防ぐ能力は無い。しかし――
「えっ!?」
「ちょ、蝶ヶ崎……お前!」
その寸前、突然現れた蝶ヶ崎が盾となって二人の攻撃を受け止めていた。いや、現れたのではなく、立ち上がったのだ。血塗れになった人間達に隠れて地面に倒れた振りをしていたのだろう。それによって、人外の威力を誇る打撃と絶対零度の冷気をその身に受けることができた。そして、――その異常(アブノーマル)と過負荷(マイナス)はそのまま返される。
「きゃあああああああ!」
「うごっ!」
名瀬さんは肉体から鈍い音を上げて吹き飛ばされ、古賀さんは手足が完全に凍結させられてしまった。ついでに、無差別に受けた『致死武器(スカーデッド)』のダメージも押し付けたようで、二人の全身からは凄まじい勢いで血が流れ出ている。これがマイナス十三組で唯一コンビプレイが可能な二人の実力。それを安心して眺めていたボクの身体に衝撃が走った。
「ぐっ……これは!?」
振り向くとそこには善吉くん姿があった。さらに距離を詰め、連続蹴りでボクを校舎の裏へと弾き飛ばす。重い……それに鋭い!ガードした腕が痺れる。副会長戦前に戦ったときよりもさらに身体能力が上がっている。ボクの反射行動でさえ、回避できずに防御を選ばされていることがそれを雄弁に物語っていた。
「悪いんですけど、俺も幹部クラスと多対一は避けたいんで」
「場所を変えてっ……!?」
その間にも息も吐かせぬ善吉くんの連続攻撃は続き、強制的にボクの身体は人気の無い路地裏へと誘導されてしまっていた。眼前に迫る蹴りを後ろに跳ぶことで回避する。そこは校舎裏、善吉くんの狙い通りに一対一に持ち込まれてしまう。そう思ったけど、そこには先客がいた。
「雲仙先輩……?何でこんなところに……」
「……人吉か。オレのことは構わなくていいぜ。風紀委員長として、この馬鹿共を粛清してやろうと思ってたんだがな。その役目はお前らに譲ってやるぜ。オレはちょっと動けそうにねーからよ」
そう言った雲仙の正面には弓を手にした百町破魔矢の姿があった。二人の間にはピリピリと抜き身の刃物を向け合っているかのような緊張感が漂っている。互いに隙を見せられない膠着状態。それはボク達にとっては好都合だった。
「なら俺が加勢すれば……」
「ボクを忘れてない?」
十二町に仕掛けようとした善吉くんの顔面を蹴り飛ばした。よろめいた善吉くんへと今度はボクの方が攻勢を掛ける。仕方なく後退していく善吉くんに怒涛の追撃を掛ける。これで二人からは引き離せた。二対二のタッグマッチはプラスの得意分野だし。それに、ボクには他に役目がある。
「早く球磨川さんを探さないと……」
残敵の掃討は後回しで、球磨川さんの戦いに横槍を入れる連中を排除するのがボクの一番の仕事なのだ。善吉くんの考えも同様なんだろう。互いに攻守を入れ替えながら、跳び回るように敷地内を移動していく。途中に遭遇する連中は鎧袖一触で蹴散らされていた。すでに一般の異常者(アブノーマル)や過負荷(マイナス)ではボク達の相手としては役不足。それぞれ、相手をできるのはお互いのみなのだ。その間にもボクのガードの上から蹴りが叩き込まれる。ボクの身体は善吉くんに蹴り出され、ゴロゴロと広場へと転がされてしまった。そこでは十人以上の生徒達が乱戦状態に突入していた。その中に見慣れた顔を確認する。これはマズイ……!サッと血の気の引いたボクは慌てて離脱しようとするが――
「ほぅ……これはこれは。懐かしい顔だな」
「……都城先輩」
「ひ れ 伏 せ 」
傲岸な声が周囲に響く。それと同時に乱戦状態だったマイナス十三組の生徒達が一人残らず地面に頭をめり込ませた。
「ぐっ……!」
そして、それはボクも例外ではない。さらに、最悪なことにここにいるのは都城王土だけではなかった。
「――斬殺」
日本刀を振り回す宗像先輩。仲間たちは身動きの取れないところを無残に斬り伏せられる。
「トレビアン!弱すぎんぜ、お前ら!」
高千穂先輩が土下座している連中を片っ端から蹴り上げる。無防備でキックボクサーの蹴りを受け、みんなが次々と昏倒させられていく。『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の内の三人による圧巻のコンビプレイ。それはこの場にいたマイナス十三組をあっさりと壊滅させてしまっていた。残るはボク一人。
「――銃殺」
宗像先輩がボクへ向けて機関銃の引き金を引いた。以前は手傷を負わされた銃撃。
――しかし、今のボクに対しては完全に失策だった。
「……っ!?」
火薬の破裂音が響く。しかし、それは機関銃の暴発の音だった。ボクが宗像先輩から幸運を奪い取ったのだ。それにより宗像先輩の身体が大きくのけぞる。同時に殺意に反応したボクの身体は都城先輩の支配から脱していた。反射的にこの場を逃れようとしたボクだったけど――
「俺を忘れてんじゃないすか?」
――懐に侵入していた善吉くんの爪先がみぞおちに突き刺さる。
がはっと肺の中の空気がすべて吐き出される。続いて放たれた一撃。それをボクの身体は反射的に左へ跳んで回避しようとする。しかし、そこは高千穂先輩が待ち受けているエリア。ボクは反射的に動こうとする自身の身体を意識的に止め、――あえて善吉くんの蹴りをまともにくらった。
「がはあっ!」
副会長戦で痛感した反射行動の欠点。反射を別の行動へと変えることは不可能でも、反射を止めることだけはこの数週間の訓練で習得できていたのだ。そして、その甲斐あってボクは無人のエリアへと蹴り飛ばされることに成功する。そのまま両手で耳を塞いで全速力で撤退を開始した。
「ちょっ……待て!瑞貴さん!」
ボク達マイナスにとっては敗北も逃亡も慣れたもの。一切の躊躇をせずに逃走を続けたボクの終着点は体育倉庫裏の袋小路だった。三方を壁に囲まれ、すぐに追いついた善吉くんが残りの逃げ道を塞ぐ。
「とうとう追い詰めましたよ。球磨川はめだかちゃんが倒すとして、一番その邪魔になりそうなのは瑞貴さんですからね。めだかちゃんの勝利を疑ってはいませんが、その障害となりえるのは一人だけでしょうから」
「そうかな?凶悪さなら志布志が、完全さなら蝶ヶ崎が上回っていると思うけど」
「危険性ならその二人が上回っているかもしれませんが、執念とでも言いますか。球磨川に対する想いが最も強いのは瑞貴さんですから」
「想いの強さこそが運命を変える可能性か……。それは善吉くん自身のことも言ってるのかな?ま、ボクも一番厄介なのは君だと思っているよ」
だから、もう一対一にはこだわらない。この袋小路は、ボクを追い詰めた結果じゃない。追い詰められたのは善吉くんの方なのだ。ボクの視界の端、善吉くんの背後には人影が映っている。それはこの場に配置されていた機械人間、鶴御崎山海だった。
「じゃあ、ここで決着をつけようか。勝った方が球磨川さんとめだかちゃんの戦いを見届けるってことでさ!」
そう言ってボクは善吉くんへと蹴り掛かる。最速にして渾身の一撃。しかし、それは囮で、本命は物音一つ、気配一つ漏らさずに善吉くんの背後に回っている鶴御崎だった。鶴御崎は高熱の掌を突き出す。肉を溶かし、骨を焦がす灼熱。奇襲にして挟撃であるこれが、ボクの必勝の策。
「なっ……!?」
――しかし、それは善吉くんに紙一重で避けられ、代わりに踵と拳がボク達の身体に打ち込まれていた。
悶絶して昏倒する鶴御崎。思わずボクも苦悶の表情を浮かべて地面に膝を着く。なぜ……完璧なタイミングだったはず!
「見えてますよ、瑞貴さん。俺の『欲視力(パラサイトシーイング)』には二人の視界がはっきりとね」
「……忘れてたよ。ついつい昔の気分で手合わせしてたか……」
「念のため瑞貴さんの視界を覗いておいてよかったですよ」
腹を押さえてうずくまるボクを見下ろして掛けられる声。ボクの視界が見えていたのなら、背後からの奇襲は意味を成さないだろう。だけど、鶴御崎との挟撃を完璧に見切り、あっさりとカウンターを合わせるなんて……。認めるしかない。スキルを含めた格闘戦においては完全に善吉くんの方が格上だということを――。
「多対一に奇襲に挟撃ですか。瑞貴さんもずいぶんとマイナスの戦い方が身に付いたみたいですね。だったら、ここからは俺もスキルを使います。まっすぐ正攻法で瑞貴さんを叩き潰してあげますよ」
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「いい加減目を覚ませよ!」
ボクと善吉くんの戦闘は、――予想以上に一方的な展開で進んでいた。
「ごほっ……まさか、ボクが一撃も当てられないなんて……」
コンクリートの地面に背中から叩きつけられ、ボクは大の字になって天を仰ぎながら苦々しく呟いた。この数分間、ボクは為す術も無く蹴られ続けただけ。あまりにも実力に差がありすぎる……。悔しさにボクはギリッと歯噛みした。副会長戦の前に戦ったときには、ここまでの力の差は無かったはずなのに……!数え切れないほどの打撃を受けた全身がズキズキと痛む。近付いてきた善吉くんは倒れたボクを見下ろして、つまらなそうに声を投げかけてきた。
「もういいだろ、瑞貴さん。実力差は分かったはずですよ」
「ぐっ……まだ!」
起き上がりざまに放った顔面への蹴りは、上体をほんの十センチほど反らしただけであっさりと避けられてしまう。まただ……。ボクの攻撃が完全に見切られている。続けて二撃、三撃と放つも、その全てが紙一重で回避されてしまい、触れられるのは髪や服にだけ。
「だったら!組み付いて柔道勝負に持ち込――」
「無駄ですって!」
「え?」
気付かぬうちにボクは地面に膝を着いていた。疑問に思う間もなく、ボクはそのまま無様に地面に倒れてしまう。この脚が言うことを聞かない感覚は……。おそらくは距離を詰めた瞬間、カウンターであごに一撃を入れられたのだろう。距離を詰めたせいで視界が狭まった隙を見透かされたのだ。
「この数週間、俺はずっとお母さんと特訓していました。格闘戦におけるこの眼の使い方は、完璧に習熟してきているんですよ」
「……だからって、たった数週間でここまで……」
――これがプラス成長。正方向への実力の伸び率がボクとはまるで違う。
ボクだって決して遊んでいた訳じゃないのに……。
「それにしても瑞貴さん。少し会わないうちに弱くなりましたね」
「へえ……善吉くんらしくもない。君がそういう他人を見下すような発言をするなんて」
「残念です。中学・高校と敵対こそしていたものの、それでも瑞貴さんのサバットへの努力や情熱は素直に尊敬していたのに……。過負荷(マイナス)を便利な道具に使い出したせいでしょうか。それとも性根の変化のせいか……。完全に瑞貴さんの技術は錆び付いていますよ」
心底悲しそうな声音で善吉くんは呟いた。その哀れむような瞳には、すでにボクは敵として映っておらず。子供の頃に信じていたヒーローが落ちぶれた姿を見ているかのような、見るに耐えないといった表情で目を閉じて左右に首を振っていた。だけど、まだボクには過負荷(マイナス)が残っている。しかし、幸運を奪い取ろうと集中した瞬間、善吉くんの踵がボクの肋骨を踏み砕いていた。
「がはあっ!」
「幸運を奪おうと対象に視点を固定したことだって、俺の視界にははっきりと映ってますよ」
折れた肋骨から激痛が走る。ならばと自分自身から幸運を奪おうとして――
「だから意識を集中したことも見えているんですって!」
再び折れた肋骨を踵で踏み抜かれた。今度こそ激痛を我慢しきれず、あばらを抑えて悶絶する。完全に過負荷(マイナス)発動の前兆を読み取られていた。
「いざとなれば自分を不運にして自爆、というのが瑞貴さんのパターンですからね。その手は通じませんよ」
「ぐうぅぅ……」
地面でのた打ち回りながらボクは静かに確信する。打つ手無し、か……。もう勝ち目がないのだとすれば、せめて善吉くんを球磨川さんの元へ行かせないようにしないと……。何とか会話で時間を潰そうと思い、見上げたボクの視界には、悲しそうに目を伏せている善吉くんの姿が映った。
「……瑞貴さんのそんな姿は見たくなかったですよ。その視界を見るだけで、今のあなたの姑息で卑怯な考えが透けて見えます。過負荷(マイナス)や奇策に頼ろうとする精神性が、瑞貴さんの技のキレを奪っているんですね」
「いやあ、負けたよ。ボクの負けだ。だから、せめて哀れな敗者の願いだけでも聞き入れては貰えないかな?」
「っ……!?」
卑屈な笑みを浮かべてボクは交渉に入る。時間稼ぎ、あわよくば会話によって休戦に持ち込めれば……。しかし、善吉くんは怒りのままにボクの胸倉を掴み上げた。力を込めて無理矢理にボクの上体を持ち上げる。善吉くんは怒りを堪えた瞳でボクを睨みつけていた。
「いい加減目を覚ませよ!あんたはっ!そんな弱さで守れるものなんてないって、どうして気付かないんだよ!」
「ぜ、善吉くん……?」
怒鳴りつけられたボクの顔に驚きの色が浮かぶ。そして、なぜかボクは視線を下に逸らしてしまっていた。その様子を見て、善吉くんは握り締めていた胸倉から突き飛ばすように手を放す。善吉くんは舌打ちをすると、そのまま踵を返して反対方向へと歩き出した。
「くそっ……俺は球磨川の野郎のことが気に入らないし、目の前に現れたらこの手でぶちのめしてやりたいと思ってる。だけど、瑞貴さんにとっては違うんだろ?仲間なのか友達なのか知らねーけど。俺にとってのめだかちゃんと同じようにさ。だから、敵味方になってもその気持ちだけは同じだと思ってたのに……」
善吉くんの声がマイナスに染まりきったボクの心に響く。……いつからボクはこうなった?球磨川さんを守ることがボクの存在意義だったはずなのに。時間稼ぎ?交渉?……そうじゃないだろ!本当にボクがやらなくちゃいけないのは!
「中学時代の瑞貴さんは、勝ち目なんて無いのに乱神モードのめだかちゃんに立ち向かったじゃないですか。そんなマイナス思考じゃ、守れるものだって守れやしませんよ」
搾り出すような声。善吉くんは寂しそうな後ろ姿を残して去っていく。
「……待って」
ボクの喉から細い声が漏れる。激痛の中、よろよろと立ち上がったボクは、必死に善吉くんを呼び止めた。肺も損傷していたようで、思った以上に小さな声だった。それでも、善吉くんはボクの声に振り向いてくれていた。ゆっくりと、一歩ずつ足を踏み出していく。
「善吉くん。ボクと勝負して欲しい」
正面を見据えて出した言葉に、善吉くんの顔に笑みが浮かぶ。おかげで目が覚めたよ。……敗北には慣れた。後悔にも、悲嘆にも、堕落にも。だけど、球磨川さんの望みが叶わないという現実にだけは慣れたくはない。今だけは奇策も過負荷(マイナス)も捨てて、ただ全力を尽くすのみだ。週刊少年ジャンプだってそうだろう?絶体絶命の窮地において勝利することができるのは、いつだって前(プラス)を見ていた人間だけなんだから――
「来なよ。この瞬間だけは、ツキには頼らない」
「待ちくたびれましたよ、瑞貴さん。じゃあ、行きます!」
軽く身体を動かすだけで肋骨の辺りが痛み出す。善吉くんの元へと走り出すことすらできない。放てるのは掛け値なく一撃のみ。善吉くんが勢いよく走りこんでくるのが見える。向かってくる善吉くんに、先に渾身の一撃を当てることだけに意識を集中させた。互いの怪我の重さ、スキルの有無。そういった一切の雑念が、コマ送りのように流れる視界の隅へと消えていく。そして、――二人の全力の蹴りが交差した。
ボクは膝を着き、善吉くんの身体は――糸が切れたかのように地面へと崩れ落ちた。ボクの勝ちだ。だけど……
「どうして…?何でスキルを使わなかったんだ……」
全身全霊の力を込めた最速にして最良の一撃。しかし、善吉くんのスキルならば、かわすのは容易だったはず。その問いに善吉くんは首を横に振ることで答えた。
「嫌だったんですよ。確かにこの、他人の視界を乗っ取ることのできる『欲視力(パラサイトシーイング)』というスキルは強力です。だけど、たとえ勝ったとしても、スキルのおかげなんて嫌じゃないですか。こんな借り物の力で瑞貴さんとの決着をつけたくなかったんですよ」
「――過負荷(マイナス)と欲視力(スキル)抜きの勝負ってことか」
「ええ、さすがですね。完敗です。やっぱり積み重ねた時間の分だけ、わずかに瑞貴さんの蹴りが優っていましたよ」
意外にもそう言って善吉くんは笑った。
「だけど、瑞貴さんが行ったところで、めだかちゃんの勝ちは揺るぎませんよ。あとの無い状況。勝つべきときには必ず勝つのがめだかちゃんですからね」
「そう簡単にはいかせないよ。それをどうにかするために、ボクのこの三年間はあったんだから」
その後、球磨川さんを探してボクは校内を走り回っていた。焦燥感に苛まれながら、ひたすらに足を動かしていく。純粋に強度を競う勝負なら球磨川さんに勝ち目は無い。焦点となるのは、あの禁断の過負荷(マイナス)――却本作り(ブックメーカー)を発動させることができたかどうか。その効力は『相手を自分と同じにする』というもの。はじまりの過負荷(マイナス)さえ発動させられれば、あの圧倒的な強度も異常なスキルも、その全てが無効化されるのだ。
「あそこかっ……!」
旧校舎・軍艦塔(ゴーストバベル)の入り口のすぐ側に殴り合っている二人の姿が見えた。その内の一人は胸に巨大なネジの刺さっている黒神めだか。その様子を確認したボクは歓喜の笑みを浮かべながら、建物の裏へと身を隠す。
「よし……!『却本作り(ブックメーカー)』が発動してる!」
小さく喝采の声を上げたボクだったけど、その表情は一瞬にして凍りついた。『すべてを自分と同じにする過負荷(マイナス)』――しかし、ボクの目に映ったのは……
「……幸運値の桁がまるで違う!?」
――運命的といえるほどに圧倒的な幸運を持つ黒神めだかの姿であった。
がっくりと絶望感にうなだれる。これは、球磨川さんのはじまりの過負荷(マイナス)をもってしても、黒神めだかの運命には干渉できなかったという現実を意味している。肉体も精神も頭脳も技術も才能も、そのすべてが最低(マイナス)になった黒神めだか。しかし、ボクの目には、寒気がするほどの運命によって神々しく輝いて見えていた。すべてが球磨川さんと同じ。しかし、だからこそ運命によって、残酷なまでに勝敗は決定付けられているのだった。
「ボクはどうすれば……」
このまま何もしなければ、確実に球磨川さんは敗北する。だけど、ボクが頼まれたのは一対一の勝負を誰にも邪魔させないこと。介入したら球磨川さんの命令に背くことになってしまう。だけど……
――勝ちたい
脳内を球磨川さんの言葉がよぎる。それが球磨川さんの望み。そう、何を迷うことがあるんだ。かぶりを振って覚悟を決める。ボクの役目は――球磨川さんの望みを叶えることなんだから。
「はははっ!楽しいな!球磨川!」
「あああああっ!」
校舎前の広場で互いに殴りあう二人。鈍い打撃音が辺りに鳴り響く。しかし、力も技も互角な以上、どちらも有効打は出せずにいるようだ。球磨川さんが殴り、黒神めだかも殴り返す。延々と続く繰り返し。しかし、それは黒神めだかのターンで途切れることになる。殴ろうと踏み込んだ足元がひび割れ、一瞬バランスを崩してしまったのだ。本来なら物ともしないだろうアクシデントは、球磨川さんの性能である現在は大きな隙となる。
「いくよっ!めだかちゃん!」
球磨川さんの拳がその顔面に突き刺さった。さらに追撃を掛けようとするも、黒神めだかはすぐに反撃の態勢へと戻っている。そのまま黒神めだかが拳を振り下ろそうとして――。
しかし、その瞬間、風に乗って飛んで来た紙の束が黒神めだかの顔に纏わりついた。
「なっ……!?」
視界を奪われたところを球磨川さんが渾身の力で殴り飛ばす。その全力の一撃を受けて勢いよく殴り飛ばされる黒神めだか。しかし、ボクの予想に反して、あっさりと立ち上がって再び球磨川さんを殴りつけていた。
「ははははっ!いいぞ、球磨川!もっとやろう!」
「もちろんだよ!めだかちゃん!」
何事も無かったかのように殴り合いを続ける二人。それを遠目に見ながら、ボクは呆然とつぶやく。
「どうして……?」
『壊運(クラックラック)』は十分に効力を発揮している。幸運を奪われた黒神めだかは確かに一時的に劣勢になった。しかし、それでも決定打には繋がらないのだ。これは運や偶然では勝負が決まらないということ……。じゃあ、直接仕掛けるか?
善吉くんとの戦闘で満身創痍のボクだけど、それでも球磨川さんレベルまで落ちた黒神めだかに比べれば圧倒的に強度は勝っている。
「ここでボクが乱入して二対一で……」
浮かんだ考えを即座に切り捨てる。表立って球磨川さんの命令を裏切る訳にはいかないし、それに二対一だから何だって言うんだ。この最終決戦において、強さや弱さは何の意味も持たない。強度も過負荷(マイナス)も通じない相手に対抗する手段は、ボクにはないのだ。
「ぐ……完全に打つ手が無い。また球磨川さんが……負ける?」
戦っている球磨川さんには申し訳ないけど、勝つビジョンがまるで見えない。中学時代に引き続き、黒神めだかに敗北するのがボク達の運命なのか……?そんなはずはない!頭を振って暗澹とした気持ちを振り払う。球磨川さんを勝たせるために自分自身に気合を入れなおす。だけど、心の底から不安を取り除くことはできない。
それは、――運勢が見えるボクだからこそ感じてしまう確信なのだから。
「ダメ元で大災害クラスの不運をお見舞いしてみるか……」
とても通じる相手とは思えないけど、何もしないよりはマシだ。そう考えて黒神めだかに意識を集中したところで――
「無駄なことはやめなさい」
――カリッと何かを爪で引っ掻いたような音が聞こえた。
直後、ガクリと膝から崩れ落ちるボクの身体。全身から力が抜けたかのように指一本すら動かせずに地面に倒れ伏せた。突然の事態に首だけをどうにか動かして背後に目をやると、そこには――保健委員長、赤青黄が冷たい表情でボクを見下ろしていた。
「あ、赤さん……どうして…?」
ぐったりと地面に倒れこみながら、ボクは赤さんを見上げる。これは麻酔とかスタンガンとかによるものではない。今のボクの状況は間違いなく異常(アブノーマル)によるもの。だけど、このナース服を身に纏い、右手に見たこともない長い爪をしている女子は二年十一組生のはず。異常者(アブノーマル)ではない。それなのに、どうしてこんな異能を……?いや、とにかく身体の自由を取り戻さないと。
「どうして自分が倒れているのかが不思議かしら?教えてあげるわ。悪平等(ぼく)から借り受けたこの『五本の病爪(ファイブフォーカス)』の効果によるものよ」
そう言って赤さんは右手の異様に長い五本の指の爪を見せた。
「その効果は『病気を操る』というもの。とりあえず、あなたには身体が動かせなくなるような病気にしておいたわ。現代でも治療法のない難病にして重病だから動こうと思わない方が賢明ね。でも安心していいわよ。あとでちゃんと治してあげるから」
「……それが君の異常性(アブノーマル)なの?」
「異常性(アブノーマル)とか過負荷(マイナス)とか、そんな区別は愚劣だよ。とあの人なら言うでしょうね。病魔を治すことも、病魔に侵すこともできるこれは、両面スキルと言ったところかしら。どちらかといえば過負荷(マイナス)寄りかもしれないけどね」
軽く苦笑して、右手の爪で引っ掻くような仕草を見せた。ボクの身体が動かないのはそのスキルのせいか……。ボクは恨みがましい目で赤さんを見返す。身体に巣食う病魔から逃れるにはどうすればいいのか、頭を働かせてみるが、まるで思いつかない。幸運でどうにかなる代物ではなさそうだ。
「それに、感謝して欲しいくらいだわ。あなたが二人の勝負に手を出したところで、返り討ちに遭うのは目に見えているのだから。無駄はやめておきなさい」
「……やってみないと分からないだろ」
図星を指された苛立ちを滲ませてボクは言い返す。しかし、赤さんは無表情に言葉を続けるだけだった。
「わかるわよ。あなたのスキル『壊運(クラックラック)』ではめだかちゃんに対抗することはできないのだから。黒神ちゃんの存在は『幸運を奪い取る』というスキルよりも上位に属しているのよ。トランプの神経衰弱で例えるなら、あなたは一組のトランプを偶然当てられるというスキル。黒神ちゃんはその勝負自体に絶対に勝てるというもの。局所的な流れはともかく、最終的には彼女の勝利に運命が収束していく」
……ボクだって理解しているさ。ボクの『不運』と同じように、黒神めだかには原因に関係なく『勝利』という結果が自動的に起こるのだ。原因にしか干渉できないボク達では、直接導き出される結果を変える事は不可能ということ。……それにしても、どうしてここまでボクのことを知っているんだ?黒神めだかの埒外の運命についても、ボク以外には観測できないはずじゃ……
「ちなみに、ここまでの話はすべて悪平等(ぼく)の受け売りよ。いえ、伝言といった方が正確かしら」
「悪平等(ぼく)……?」
気になったので尋ねてみた。さっき赤さんは悪平等(ぼく)にスキルを借り受けたとか言っていたけど、そんなことが可能なのか?いや、そういえば善吉くんも……。赤さんは思わせぶりに一呼吸置くと、その名を口にした。
「ええ、安心院なじみ。私達は――安心院さん、と呼んでいるわ」
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「――『壊運(クラックラック)』……いや!」
気が付くとボクは学校の教室の椅子に座っていた。え?と困惑をしながらボクは慌てて周囲を見回す。さっきまで地面に倒れていたはずなのに……。この場所は箱庭学園の教室ではない。ボクの通っていた中学校の教室だった。それに、いつの間にか着ている制服も中学時代の学ランへと変化していた。
「これは一体……え?」
先ほどまで何もなかった背後の机の上に少女が出現していた。長い黒髪にボクと同じ中学の女子用の制服。そして、ボクでも一瞬見蕩れるほどに見目麗しい少女の姿があった。突然現れたその少女は机の上に足を組んで座っている。そして、ボクに向けて綺麗な笑みを浮かべ声を放つ。
「やあ、月見月くん。自己紹介は必要かな?」
「……いえ、思い出しましたよ。お久し振りです、安心院先輩」
「さすがに思い出してくれたか。だけど、僕のことは親しみを込めて安心院さんと呼びなさい」
ボクの言葉にいつもの台詞を返す安心院さん。彼女は中学時代、球磨川さんが生徒会長を務めていた頃に副会長をしていた生徒である。名前は安心院なじみ。同じく生徒会で働いていた仲だというのに、ボクはこれまで安心院さんに関するすべての記憶を失っていた。しかし、それは全く不思議なことではない。
「このスキルは『腑罪証明(アリバイブロック)』ですか。ということは、赤さんがボクを夢の中に送ってくれたんですね」
「そうだよ。きみに会うタイミングは今がベストだったからね。僕からきみのスキルについて教えておきたいことがあってさ」
「……悪いんですけど、今は安心院さんと悠長にお話していられる状況じゃないんですよ。早く戻らないと生徒会戦挙が終わってしまうので。それとも、やはり安心院さんはめだかちゃんのためにボクを足止めしようとしているんですか?」
低い確率だけど、ボクの邪魔をしようとしているのかも……。しかし、安心院さんは分かっているという風に頷くと、腰掛けていた机から床に足を下ろした。立ち上がって両手を左右に広げ、軽く肩をすくめる。
「まさか。ボクは平等なだけの人間だぜ。球磨川くんが勝とうが、めだかちゃんが勝とうが、どちらでも同じことなんだよ。それに、きみが行ったところで何の役にも立たないだろう?」
「やってみなくちゃ……!」
「分かるさ。僕の一京のスキルには世界からの補正、きみの言う運命を読むスキルもあってね。めだかちゃんは最終的に勝者になるように決定付けられていることは、僕も知っている。だから球磨川くんも、今のきみも、何をしようと無駄になるだけだぜ」
苦し紛れのボクの言葉は一蹴された。球磨川さんからも聞いたことがある。安心院さんの持つ一京のスキル。文字通り万能を越えた全能ともいえる隔絶した超越能力。その安心院さんに断言された以上、ボクの手助けは確かに無駄なのだろう。悔しさに思わず俯いて唇を噛み締めた。
「ふふっ、きみは僕を買いかぶりすぎだぜ。今の僕は、球磨川くんにスキルを封印されて文字通り無能になっているんだから。できることと言えば、せいぜいが他人の夢の中をうろちょろするくらいだよ。まったく……。球磨川くんの『却本作り(ブックメーカー)』は史上唯一、悪平等(ノットイコール)たる僕に有効なスキルだからね。天敵と言っていい。だけど、めだかちゃんに対しては天敵ではないんだよ」
「……」
「めだかちゃんの天敵なのはきみのスキルの方さ」
え?とボクは顔を上げる。思わず唖然とした表情で安心院さんを見詰めてしまった。
「きみの過負荷(マイナス)はまだスキルとして完成には至っていないんだよ。いや、過負荷(マイナス)じゃない。赤さんのスキルは聞いただろう?きみのスキルはそれと同じく、過負荷(マイナス)寄りの両面スキルに近いものがあるんだ。ま、あくまで精神的な話だけどね」
両面スキル?安心院さんの肩を掴んで詰め寄るボクに楽しそうな声で告げる。
「すでに球磨川くんの影響でマイナス性は十分なレベルに達していたんだけどね。人吉瞳ちゃんの治療のおかげで、それとさっきの善吉くんとの戦闘のおかげで、今のきみの正負は奇跡的なバランスで吊り合っているんだ。あと一歩できみのスキルは完成する。球磨川くんとは逆ベクトルで、その過負荷(マイナス)を改造すればいい」
「どうすればいいんですか!その、スキルを完成させるには!」
「認識することだよ。球磨川くんを頂点とした世界ではなく、特別な自分自身とそれ以外の有象無象へと。球磨川くんへの盲目(マイナス)の忠誠心はそのままに。人類を平等に俯瞰するように。――さながら、傲慢な神様が下界の人間を眺めるように」
すべてを聞き終わってボクは黙り込んだ。安心院さんが話した内容はまったく理解できていない。けれど、次に球磨川さんと黒神めだかに会えば理解できると確信していた。だったら、もうこの場所に用は無い。後ろへと振り向いたボクは教室の扉に手を掛ける。
「ありがとうございます。安心院さん。貴重な助言に感謝します」
「気にしなくていいぜ。めだかちゃんが球磨川くんの心を救ってくれること。それと同じくらい僕は、めだかちゃんの敗北を見てみたいんだよ。どちらに転んだとしても、フラスコ計画は次の段階に進むことができるんだからさ」
――目を開けると、まばゆいほどの青空が視界を埋め尽くしていた。
「起きたみたいね、月見月くん。ちょっと待ってなさい。いま病気を治してあげるから」
「…赤……さん?」
地面に寝かされていたボクに赤さんの抑揚の無い声が聞こえる。どうやらボクは赤さんに膝枕をされているようだった。慌てて飛び上がろうとしたボクだったけど、身体が全く言うことを聞かない。だけど、じっとしていると段々と身体の感覚が戻ってきた。寝転がりながら首を回し、周囲の様子を窺おうとしたボクの鼓膜を大音量の歓声が叩く。
「「黒神ぃいいいいいいい!そんなやつに負けてんじゃねぇぞおおおおお!」」
そこら中から聞こえてくる大声。動くようになった身体で見回すと、そこには二人の勝負を見守るように大勢の生徒たちが集まっていた。
「こ、これは……?」
「戦っていた生徒達が、二人の勝負を見届けるためにこの場に集まってきたのよ。学園の命運を決める正念場だと感じたんでしょう」
車椅子に乗った志布志やそれを押す蝶ヶ崎。五体満足な『裏の六人(プラスシックス)』の面々などマイナス十三組の生徒たちも声を張り上げているのが見えた。敵味方を超えて、熱狂の渦があの場を包んでいる。
「球磨川さん!頑張ってください!」
「お前を倒すのは俺なんだぜ!黒神ぃいいいいいい!」
おそらくは生き残った異常者(アブノーマル)と過負荷(マイナス)の全員がここで叫んでいた。近くの校舎に足を掛けて二階へと跳び上がり、人垣の中心に目をやるとそこには呆気に取られた表情で立ちすくむ黒神めだかと球磨川さんの姿があった。よかった……まだ決着はついていないみたいだ。だけど、この流れはマズイ……。
「何なのだ、これは……?おい、球磨川。今日は私と貴様だけの戦いではなかったのか?」
「ふぅ……そういえば、めだかちゃんは気付いてなかったんだね」
加速度的に増加していく周囲の人だかりに、胸を巨大なネジで貫かれた黒神めだかは困惑したような表情を浮かべている。球磨川さんは小さく溜息を吐いて首を左右に振った。
「この戦いは異常者(アブノーマル)と過負荷(マイナス)の総力戦だったんだよ。たぶん高貴ちゃん達が呼び出したのかな?今日は僕とめだかちゃんの決着をつける戦いであり、同時に僕の仲間達とめだかちゃんの仲間達との決着をつける戦いでもあったんだよ。ま、この様子じゃ結局、僕と君との勝敗がそのまま異常者(アブノーマル)と過負荷(マイナス)の勝負の結果になりそうだけどね」
取り囲む群衆の応援の声が一帯を覆いつくす中、二人は改めて向かい合った。先ほどまでの困惑した様子は鳴りを潜め、黒神めだかが決意を新たにした表情を見せる。同時に球磨川さんも、マイナス十三組のメンバーの喉が張り裂けるほどの応援を前に執念の滲むような必死の形相で立ち上がる。
「球磨川、ここで決めるぞ」
「そうだね。お互い、仲間達もみんな集まってきてるみたいだし。時間もないことだしね」
校舎に備え付けられている時計を見ると、すでに時間は午前八時。そろそろ生徒達が登校してきている頃だろう。勝者が生徒会長となり、この箱庭学園を支配するのだ。
「みんな!もしも僕が負けたら!マイナス十三組はこの学園から撤退する!」
球磨川さんがこの場の全員に聞こえるように天に向けて大声で言い放った。それは必勝の決意の発露。策でも何でもない、心からの叫びだった。ふぅと息を吐いた後、球磨川さんは正面に向き直る。
「めだかちゃんも仲間たちを代表して誓ってくれないか。この勝負で僕が勝ったら十三組は新生徒会に従うって。因縁はこの場で終わらせたい」
「それはできない」
「……負けたときの保険? らしくないね」
訝しげに顔を歪める球磨川さん。しかし、正面の彼女にはそんな様子は微塵も感じられない。
「そうじゃねーよ、球磨川」
「善吉ちゃん……」
「勘違いしてるみてーだけど、十三組の連中はめだかちゃんの仲間じゃねーんだよ。めだかちゃんの指示で動いてるわけじゃない」
割り込むようにして善吉くんの声が響き渡る。
「味方である俺達ならめだかちゃんに頼まれればその通りにするだろう。どうしてもと言われれば、俺だってこの場は引いてやってもいい。だけど、ここに集まっている連中は、ほとんどがめだかちゃんの敵だったんだよ」
「……っ!?」
「『十三組の十三人(サーティンパーティ)』の連中は元より、他の十三組生だってかつてはめだかちゃんの命を狙っていた敵同士だ。わかるか?肉体も精神も技術も頭脳も才能も全く同じになって、それでもお前とめだかちゃんは違うんだ。味方になったわけでも仲間になったわけでもない。それでも――ピンチのときに敵が駆けつけてくれるのはめだかちゃんだけなんだ」
善吉くんの口上に球磨川さんの顔が苦々しげに歪んだ。わずかに憔悴したような表情が浮かぶ。しかし、その変化を敏感に感じ取ったマイナス十三組のみんなが球磨川さんへの応援の声を飛ばしていた。その声を聞いた球磨川さんは、必死に折れかけた心を持ち直して立ち上がってくれた。
「それでも、僕は負けるわけには……!」
「来い。球磨川」
悠然と佇み、しっかりと球磨川さんを見据える黒神めだか。その堂々たる態度に球磨川さんが一瞬ひるんだのを感じた。内心の不安を吹き飛ばすように叫びながら立ち向かう。
「あああああああっ!」
「勝たせてもらうぞ、球磨川。私は、味方のみならず、敵の思いも背負っている」
迎撃する構えを見せる黒神めだか。その所作からは勝利を確信したかのような自身が窺える。事実、これは完全に球磨川さん敗北の流れだ。この一撃を受ければ球磨川さんの心は完膚なきまでに折られてしまうだろう。
二人の激突を前にボクは静かに自分自身の心に意識を集中させた。視界が禍々しく変化していく。
「これじゃない。精神をもっとフラットにしないと……」
安心院さんの助言を思い出す。嫉妬、恨み、劣等感などのマイナスの感情では駄目だ。過負荷(マイナス)を発動させながらも精神は正負をゼロに。自分を世界から切り離していく。そこからさらに、自分以外の存在を俯瞰するように見下ろす。
「さながらケージの中のラットの群れを眺めるように……」
徐々に視界から色彩が消え去り、明暗のみに変化していく。ボクの視界は運命を観測するのみ。あの恒星のような光を発しているのが黒神めだか。あの一切光を発していない暗黒が球磨川さんか……。
すでにボクの目には人物を区別することはできず、ただ運命の強さだけが映っていた。運命とは幸運の凝縮された結晶体であり、上位概念でもある。懐かしいな、この世界は……。これは人吉先生と出会う前の、周囲が自分の幸運の供給源にしか見えなかった頃の視界だ。球磨川さんが心の中の最上位にいて、この景色を見ることができなくなっていただけで、これこそが本来のボクの世界。
――二つの対照的な明暗の光点の距離が縮まっていく
ボクの意識はフラットなまま、平等にすべての存在の運勢を感じ取っていた。運命をこれまで以上に認識できている。ボクはボードゲームの盤上を眺めるように二つの光点を視界に収めた。世界にボク一人しか存在しないかのような錯覚。まるで神が下界を覗いているように、プレイヤーが盤上の駒を見下ろしているように。安心院さんの言葉を完全に理解した。自分自身を特別視することが運命を掌握するための第一段階だったのだ。そして第二段階――
「球磨川さんを勝たせたい」
スキルを発動させる起爆剤として、ボクの気持ちを爆発させる。狂信的(マイナス)なまでの球磨川さんへの忠誠心を言葉にして、心に焼き付けた。それと同時にボクの熱情が核分裂を起こすように膨れ上がる。球磨川さん以外はどうなってもいい。そのマイナスな感情が全身に充満すると同時に、ボクはスキルを発動する手ごたえを感じていた。これが新たなる過負荷(マイナス)、いや、――完成型の過負荷(マイナス)
「これが最終段階。黒神めだかの運命を――奪い取る!」
一度だけ目を閉じると、恒星のように輝く光点へと意識を集中させた。そして目を開き、同時にその運命を奪い取る。以前は干渉不能だった圧倒的な運命。だけど、今なら干渉できると確信していた。
「――『壊運(クラックラック)』……いや!」
奪い取るだけでは足りない。マイナスな球磨川さんの運命を覆すにはそれ以上が要る。直前でこのスキルの真価が脳内に叩き込まれるのを感じた。運命を奪うんじゃない!改めるんだ!黒神めだかの運命を球磨川さんへ――移し替える!
「――『改運(クラックラック)』!」
黒神めだかの光が消失し、反対に球磨川さんの光が輝きを増していく。
――運命を指し示す輝きがこの瞬間逆転した。
「ぐぅぅぅ……!」
直後、ボクの全身を虚脱感とも喪失感とも言える感覚が襲い掛かった。思わず膝を着いてしまいそうになるのを気力だけで持ちこたえる。運命を操作するという前人未到の偉業にボクという存在自体が悲鳴を上げているのが分かる。これが運命を操る代償なのか。それをギリッと唇を噛み締めることで耐え続ける。永遠にも思える時間。そのたった数秒の間に、球磨川さんと黒神めだかは互いの拳を交差させていた。
「はあああああああああっ!」
「あああああああああああ!」
ゴッと鈍い音が響き渡る。一瞬の交錯。互いの拳が相手の顔面を打ち抜き、片方が地面へと倒れ伏す。長きに渡る因縁がここに決着し、群衆の歓声と怒号が大地を震わせた。
――立っていたのは球磨川さんだった
「うおおおおおっ!球磨川先輩!」
「やった!やったぜ!」
「球磨川くんが勝ったぁ~!」
鳴り止まぬ歓声の中、しばらくの間、呆然としていた球磨川さん。そして、ようやく勝利の実感を得たのか、天を仰いで満面の笑顔を見せた。
「そっか……僕は勝てたのか」
感慨深そうに呟く球磨川さんの声に、ボクの全身にも歓喜の感情が満ちる。よかった……球磨川さん、勝てたんですね。それを見てボクもほっと息を吐いてスキルを解除した。同時にどっと全身から力が抜け、ガクリと膝を着いてしまう。マイナス十三組の仲間たちは球磨川さんの元へと走り寄り、騒々しく賞賛の声を上げている。その中で球磨川さんは嬉しそうに笑い合っていた。その光景に感極まったボクの目尻には涙が浮かんでいた。一方、十三組の連中はというと、意気消沈したかのように俯いてしまっている。そして、善吉くん達は信じられないといった風に驚愕の表情を顔に張り付けたまま呆然としている。
「ごめん。ちょっとどいて」
そんな中、ひと段落すると球磨川さんは黒神めだかの方へと歩き出した。その行動を阻害するものは誰もいない。狂喜乱舞のマイナス十三組と沈黙した十三組の面々。球磨川さんが歩くにつれて、潮が引くように群衆が一斉に後ろへと下がっていく。海を割ったと伝えられるモーゼのように、二人の間に道が開けられた。ツカツカと歩く球磨川さんの顔には、見るものが凍えるような醜悪で歪んだ笑みが浮かんでいた。
「やあ、めだかちゃん。提案があるんだ」
意識はあるものの、ダメージで身体を動かすことはおろか声すらも出ない様子だった。その耳元で球磨川さんは何かを囁いた。その悪魔の囁きに苦渋を滲ませた表情で頷く黒神めだか。それを視界の片隅に収めながら、ボクの意識は暗転していった。
――始業式の鐘が鳴る
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『僕たちの戦いはこれからだ』
――九月一日午前九時
箱庭学園の講堂は異様な雰囲気に包まれていた。不安を伴ったざわめきが室内の空気を重苦しく淀ませている。全校生徒が集まったのを見計らって、ボクはマイク越しに声を出した。
「それでは、これより二学期の始業式を始めさせて頂きます」
司会として開会の言葉を発したのはボクだった。生徒全員の視線がボクに突き刺さる。一同は不安と緊張を滲ませた固い表情を浮かべていた。それもそうだろう。この場にいるのはボク一人。ボクが元生徒会副会長として挨拶をしているのか、それとも新生徒会の一員としてなのかが分からないのだ。しかも、この講堂には前代未聞、十三組とマイナス十三組までもが出席しているのである。最終決戦でボロボロの瀕死の重傷を負った生徒たちや奇怪なオブジェとなった十一組の特待生たちが隅の方に積まれている。一般生徒たちが恐怖に怯えるのも無理からぬ話だろう。
「生徒会長の挨拶の前に、みなさんに生徒会戦挙の結果を報告させて頂きます。では、選挙管理委員会副委員長の長者原さん、お願いします」
淡々と続けるボクの言葉に従って、舞台裏から長者原が壇上へと歩いてきた。全校生徒の視線が集中する。黒神めだかが負けるはずがないという期待と、もしかしたらという不安。それらがながいまぜとなった複雑で祈るような表情を前に、長者原は堂々と宣言した。
「全校生徒の皆様に生徒会戦挙の結果を通知させて頂きます。球磨川禊さまによるリコールの結果、箱庭学園の生徒会長は――」
誰かがごくりと息を飲む音が聞こえた。長者原は大きく息を吸い、厳然と言い放つ。
「――球磨川禊さまに務めて頂くことに相成りましてございます!」
絶望の怨嗟が漏れ聞こえた。一般生徒は呆然と思考停止してしまったように恐怖で固まってしまう。その直後、絶望と得体の知れない恐怖に全身から血の気が引いたような青ざめた顔になった。十三組の生徒達は一様に目を伏せ、沈痛な面持ちで俯いている。悲劇というものが具現化したような光景であった。
「え?……あ、ああ……嘘…」
「いやぁああああああ!そんな!嘘なんでしょ!ねえ!」
「そんな……これからどうなっちゃうのよ!……うぅぅ…」
現実を認められない者や錯乱したように叫ぶ者、恐怖と不安で泣き出す者。この場に教師陣が一人もいないことが、この悲劇的な騒ぎを助長した。マイナス十三組の過負荷(マイナス)たちはその様子をニヤニヤと愉しそうに眺めている。そう、これが現実。
「正当なるリコールの結果、職権を乱用していた悪しき生徒会は敗れ去りました。これより箱庭学園は新しく生まれ変わるでしょう。それでは、生徒会長の球磨川さん、挨拶の言葉をお願いします」
『はーい』
舞台袖から一人の男がツカツカと歩いてくる。その姿を全員が認識した瞬間、時が止まったかのように講堂から音が消えた。黒髪黒眼に学ラン、中肉中背で年の割には童顔なくらいが特徴の一般的な男子生徒。しかし、そんな見た目に騙される人間はこの場にはいない。ほとんどの生徒が悪魔の化身のようなその生徒に恐れ慄いていた。例外と言えばマイナス十三組の生徒たちだけである。彼らだけは熱いまなざしで世紀の瞬間を目に焼き付けようとしていた。そして、そのあまりにも強烈な負の塊としての存在に、ボクも含めた全員が吸い込まれそうなほどの寒気を感じている。まるで、地面に深く開いた底の見えないほどの巨大な大穴を覗き込んだような。
『愛すべき箱庭学園のみんな、おはよう!僕が第九十九代生徒会長の球磨川禊です』
無邪気で明るい声。しかし、反対に人々は凍りついたように顔を青ざめさせる。声を聞いただけで卒倒してしまいそうなほどだ。以前よりも明らかにマイナス性が増大している。マイナス十三組の生徒でさえも震えが起こるほどに。黒神めだか同様、球磨川さんもいまだマイナス成長過程なのか……。
『生徒会役員の紹介の前に、みんなには謝らないといけないことがあるんだ。一学期の終業式の日に提案したマニフェスト。あれはなかったことにします。副会長からの要望でね。みんな期待していただろうにね。ごめんよ』
あの悪夢のようなマニフェストが取り消されたことに、わずかに安堵の溜息が漏れた。
『授業および部活動の廃止』『直立二足歩行の禁止』『生徒間における会話の禁止』『衣服着用への厳罰化』『手および食器などを用いる飲食の取り締まり』『不純異性交遊の努力義務化』『奉仕活動の無理強い』『永久留年制度の試験的導入』――これらがすべて白紙。しかし、それは希望が見えたわけでは決してない。それを彼らはすぐに理解させられるだろう。
『ですが、みなさんを最低な人間にするために僕たちは努力を惜しみません。全校生徒が最低な過負荷(マイナス)になれるよう頑張りたいと思っています。まずは手始めに、全国統一模試の学校別偏差値最下位、部活動全種目一回戦負けを三ヶ月以内に達成します。今後も新たな政策を実行していくことをここに誓いますので、みなさんよろしくお願いします!』
未来の絶望を確信させられた生徒達はもう一言も口にすることはできなかった。黒神めだかによって改心させられたかも、という淡い期待は粉々に打ち砕かれたのだ。そして、対照的にマイナス十三組の生徒達はわくわくした表情でこの場の雰囲気を楽しんでいる。ようやく新生徒会役員の発表が始まった。
『じゃあ、新生徒会役員を発表するね。まずは「庶務」――二年七組、月見月瑞貴』
ボクは階段を上って球磨川さんの隣へと移動する。裏切りへの嫌悪や侮蔑の視線が心地良い。この歴史的な偉業を球磨川さんと達成できたということに、誇らしげな気持ちで胸がいっぱいになった。
『次に「書記」一年マイナス十三組、志布志飛沫。「会計」二年マイナス十三組、蝶ヶ崎蛾々丸』
続けて車椅子に乗った志布志と、それを押す蝶ヶ崎が舞台袖から壇上へと現れる。ちなみに役職とメンバーは戦挙のときとは変更されている。戦挙に勝ちさえすれば役職の変更は生徒会長の任意で行えるのだ。そして、次の副会長の紹介でこの空間は阿鼻叫喚の地獄へと突き落とされる。
『そして「副会長」は、一年十三組――黒神めだか』
「「えええええええっ!」」
講堂に絶叫が響き渡る。毅然とした態度で現れたのは、胸に巨大な螺子の突き刺さった黒神めだかであった。球磨川さんに付き従うその姿は、明らかに敗残者の様相を呈している。そのまま球磨川さんの隣から一歩引いたところに陣取った。豪華絢爛、質実剛健、才色兼備の代名詞ともいえる黒神めだか。その輝かしいまでに圧倒的な存在感は見る影も無い。『却本作り(ブックメーカー)』の影響により変わり果てた彼女に、群衆は最後の希望が潰えたことを知ったのだった。
『めだかちゃんは元生徒会長として、これまでの愚行を反省したいと言って副会長に就任してくれたんだ。様々な負の遺産を残した彼女だけど、誰にでも間違いはあるものだからね』
ダメージで身体が動かなくなった黒神めだかは、極悪なマニフェストと異常者(アブノーマル)の抹殺の撤回を条件に、生徒会副会長の座に就かされたのだった。
『最後に「生徒会長」を僕、三年マイナス十三組、球磨川禊が務めさせてもらうね。これが第九十九代生徒会役員だよ』
比類なきマイナス性。壇上は空間が歪んだかのような凶兆を示していた。その吐き気を催すほどの負の塊に、マイナス十三組の生徒達は嬉しそうに喝采を上げる。空気が停止したかのように凍りついた一般生徒達の中で、その場だけが異様な熱狂を帯びていた。いや、すぐにこの最悪(マイナス)な感性こそがこの学園の標準(スタンダード)になるはずだ。学園の変貌への期待に胸を膨らませ、ボクは小さく笑みを浮かべた。
『じゃあ就任の挨拶をさせてもらおうかな。落ちこぼれのみなさん、こんにちは。僕はこの学園を過負荷(マイナス)のみんなにとって過ごしやすい、日本で最低の高校にしたいと考えてます。怠惰で、醜く、不幸で、脆弱で、嫉妬深く、嫌われ者の僕たちにふさわしくね。生徒会長としての新しいマニフェストとして、僕はマイナス十三組の増員を考えてる。世界中から嫌われ者ではぐれ者の過負荷(マイナス)を集める。僕はこの学園を弱者のための楽園にしたいんだ』
全国で迫害を受けている過負荷(マイナス)の保護。球磨川さんの理想に過負荷(マイナス)のみんなは熱に浮かれたように感じ入っている。マイナス十三組は全員が例外なく暴力や虐待などの迫害を受けているだけに、その感動は共通のものであった。何より目の前の球磨川さん自身が、最も迫害を受けたであろうマイナスの塊のような負完全なのだ。過負荷(マイナス)の代弁者として彼以上のリーダーは存在しないだろう。もちろんボクも球磨川さんの理想に共感しており、その成就に全力を尽くすつもりだ。
『もちろん一般生徒や異常者(アブノーマル)のみんなも、マイナスになれるように一生懸命がんばるから。優越感や倫理観を粉々に打ち砕いて、一日も早く劣等感の塊になれるようにするね。もちろん親や近所の人々、友達や恋人からは忌み嫌われるだろうけど、この学園でだけは迫害を受けることはないから安心して欲しい』
もはやマイナス十三組以外の生徒達は無表情で、思考を放棄することで壊れそうな自分の心を守っていた。お通夜の場のように静寂が辺りを包み込む。運悪く現実を受け止めてしまった一部の生徒達のすすり泣く声だけがわずかに講堂に響いていた。そんな様子は気にもせず、球磨川さんは笑顔で演説を続ける。
『過負荷(マイナス)のみんなは酷い目にあってきた。理不尽な言い掛かりや言われなき暴力、不当な差別。だけど、そんなことは気にしなくていいんだ。君たちは君たちのままでいい。君たちは悪くない。だって――僕たちは悪くないんだから』
そう言って球磨川さんは挨拶を終える。それと同時にマイナス十三組の全員が大声で拍手喝采を送った。喜色満面といった様子で熱狂するマイナス十三組と沈痛な面持ちで俯くその他の生徒。
――そんな混沌とした空気の中、箱庭学園史上に残る最低の生徒会発足が宣言されたのだった。
始業式が終わって、生徒会役員は揃って学園の廊下を歩いていた。早くもボク達は生徒会の執行を執り行っているところなのだ。しかし、どうにも緊張感が保てない……。なぜなら――
「球磨川ぁ~、そんなのはいいから私とデートしよう。もう我慢できないのだ」
『もう、めだかちゃんは本当に僕のことが大好きなんだね』
「当たり前だろう。私は貴様さえいれば、世界中の誰がどうなろうが構わないのだぞ」
『よしよし。でも少しだけ我慢してくれよ。もうすぐ生徒会の執行が終わるからさ』
球磨川さんに抱きつくように腕を組み、しなだれかかる黒神めだか。異様な光景がそこにあった。おそらく、これを目にすればこの学園の誰もが口をあんぐりと開けて呆然とするに違いない。球磨川さんが頭をなでてやると、黒神めだかは嬉しそうな顔で甘えたような猫なで声を上げた。
「……あたしたちはこんな吐き気のする光景を、これから見続けなきゃならねーのか?」
「……正直、志布志さんと同感です」
志布志と蝶ヶ崎がうんざりしたような表情でつぶやいた。これについてはボクも弁護のしようがない。目の前でこんな、バカップルの甘ったるいイチャつきを見せられちゃあね……
「めだかちゃんの反乱の目を潰すためには効果的なんだけどね……」
この黒神めだかの変貌の原因は戦挙決着の直後にある。率直に言えば洗脳したのだ。黒神めだかが敗北を受け入れたことにより、十三組の異常者(アブノーマル)たちは揃って戦意を喪失した。敵対していたとしても、だからこそ彼らは黒神めだかの強大すぎる異常性を誰よりも認識していたのだ。黒神めだかの敗北に加え、追い討ちを掛けるように放たれた球磨川さんの負の圧力に彼らは完全に心を折られてしまう。その中には、都城王土の姿もあった。強烈な自我を持つ都城先輩といえども、時計台地下と書記戦における過負荷(マイナス)の重圧は心に深い傷を刻み込んでいたのだろう。三度目の今回、果てしなく増大した球磨川さんのマイナスを前に震え上がったのも無理はない。
『あーあ、めだかちゃんが僕だけのことを好きになってくれないかなあ。そうしたら、目の前の負け犬たちのことなんて頭の中から吹っ飛んじゃうのに』
その言葉に都城先輩は唯々諾々と従わざるを得なかった。心中に渦巻いていたのは恐怖と嫌悪。天上天下唯我独尊を地で行く彼でさえ、球磨川さんには二度と関わりたくないと願ったのだ。洗脳を終えた直後、都城先輩は行橋未造と共に敗残者として、みっともなく学園から逃げ出したそうだ。その時の二人の様相は捕食される寸前の小動物のようで、おそらく二度とこの学園に戻ってくることは無いだろう。黒神めだかの洗脳は解けることはなさそうだ。
『ねーねー。明日から裸エプロンで登校してきてよ。僕、めだかちゃんの裸エプロンすごく見たいなー』
「もう、ダメに決まっておろう!私の心も身体もお前だけの物なのだぞ!他の奴らに見せるなんて……。私の裸エプロン姿なら二人きりのときにいくらでも見せてやるから」
『しょうがないなー。だけど、めだかちゃん。もう僕のことは名前で呼んでよ。恋人同士でしょ?』
「う……そうだな。み、禊……」
頬を染めて名前を呼ぶ黒神めだか。腕を組んで歩きながら見詰め合う二人。
『よく聞こえなかったなー。もう一回呼んでよ』
「……禊」
『うん?』
「禊、禊、禊、禊ぃいいいいい!」
球磨川さんの首に抱きついて、キスするほどの距離で叫ぶ黒神めだか。ビキリと隣で誰かの血管の切れる音が聞こえた気がした。
「てめーらイチャついてんじゃねぇええええええええ!」
志布志の怒鳴り声が廊下中に響き渡った。ハァハァと荒い息を吐きながら二人を、特に黒神めだかをにらみつける。いやまあ、確かにこれはひどい。独り身のボク達にこれは目に毒すぎる。しかし、黒神めだかはそ知らぬ顔で言い返した。
「どうしたのだ、志布志書記?独り身の嫉妬は見苦しいぞ」
「てめぇえええええ!この場で役員を解任させてやらぁああああああ!」
「ちょっ……志布志!落ち着けって!」
怒り狂う志布志と、それを何とか押しとどめるボク。ニヤニヤと挑発的に薄笑いを浮かべている黒神めだか。蝶ヶ崎は呆れたように、球磨川さんは無邪気な笑顔でそれを眺めている。騒がしい日常。だけど、これこそがボク達の望んでいたものなのだ。
「今回の戦挙の結果は少々困ったことになりまして……。私としても予想外の結果で、計画の修正をせざるをえないといったところなのですよ」
箱庭学園理事長室。そこで一人の老人、学園の理事長が電話を片手に会話をしていた。
「ええ……異常者(アブノーマル)の生徒を五百人ですか……はい……転入準備と校舎の新設をしておきますので……ええ、お願いします」
安堵したように電話を切る理事長。その対面では満漢全席のフルコースを喰い尽くした不知火半袖が不敵な笑みを浮かべていた。
「どうしました、袖ちゃん?授業をサボるのは感心しませんよ」
「あひゃひゃ。あいつは入院しちゃってて、つまんないし。それにしてもおじーちゃん、何か悪いこと考えてるみたいだね」
「ほっほっ……箱庭学園とは日本中から異常者(アブノーマル)を集めた実験場です。球磨川くんによって、その全員の心が折られてしまいました。これは私にとっては嬉しくない事態です。ですが世界中には、この学園に所属する何百倍もの数の異常者(アブノーマル)の子供達が存在しているのですよ」
のんびりとお茶を飲みながら、理事長は目を鋭く細めてそう言った。つまりはマイナス十三組の総数を遥かに超える物量での反抗。ぬるくなった水に氷を投入して温度を下げるように、追加人員によって過負荷(マイナス)による支配から脱却しようとしているのだ。
「もはや彼らは全世界のフラスコ計画の関係者の敵となってしまったのですよ。そして、過負荷を乗り越えたとき、マイナスからプラスへと転じたときにこそ、彼らの異常性(アブノーマル)は一歩完全へと近付くのです」
「ふーん。でも、おじーちゃん。残念だけど、そう美味くはいかなそーだよ?」
「それはどういうことですか?」
人を喰ったように言い放つ不知火さんに、問い返す理事長。
『こういうことですよ』
ドスリと音を立てて不知火理事長の胸から鋭いネジが生えた。背後には両手にネジを構えた球磨川さんの姿。
「がっ……はっ…こ、これは!?」
『こんにちは、不知火理事長。僕です』
突き刺さったネジは球磨川さんの凶悪なる過負荷(マイナス)――『却本作り(ブックメーカー)』。不知火理事長の瞳からは徐々に輝きが消え、墨汁のように黒く濁っていく。周囲をボクを含めた生徒会役員の総員が取り囲んだ。その様子を不知火さんは涼しげな表情で見守っている。
「ど、どういうつもりです!この過負荷(マイナス)は……!」
『えー。だって、しょうがないじゃないですか。ここはもう過負荷(マイナス)のみんなの学び舎なんですから』
「……私を排除するつもりですか。ですが、もう遅いですよ!新たなる異常者(アブノーマル)の生徒たちの転入準備はすでに済んでいるのですから!」
マイナスへと変化するまでに、不知火理事長は勝ち誇ったように宣言した。しかし、それは勘違いだ。
『排除するだなんて怖いこと考えますねー。僕はただ、先生としてお仕事をしてもらいたいだけなんですよ、不知火理事長。これで、ようやく全教員のマイナス化が完了です』
「……っ!?」
不知火理事長の顔が驚愕に引きつった。
『痛み、苦しみ、憎しみ、恨み、悲しみ、妬み。理解できましたか?これからは偉大なる先人として、僕たち生徒に人生のくだらなさを十分に教えて頂きたいんですよ』
過負荷(マイナス)となった教師陣。これからの授業内容はこの学園に相応しい最低(マイナス)なものとなるに違いない。そして、今日を境に箱庭学園は完全なる人間の製作を諦め、負完全な人間の製作に血道を上げていくことになるのだった。
「でも球磨川さん。新たなる異常者(アブノーマル)の転入生についてはどうします?」
『そんなの決まってるじゃないか。彼らにも過負荷(マイナス)の素晴らしさを教えてあげよう。きっと僕たちの仲間になってくれるはずだよ』
そう言って、楽しそうに笑う球磨川さんと、後ろから幸せそうに抱き着いている黒神めだか。志布志は凶悪な表情を浮かべ、蝶ヶ崎は小さく苦笑を漏らす。不知火さんは興味深そうにニヤニヤとボク達を眺めていた。それを見てボクは誇らしげに口元を歪める。たとえ、どんな敵が来ようと負ける気がしない。過負荷(マイナス)とは思えない思考だけど、ボクはそう信じていた。
「じゃあ、生徒会室に行きましょうか。対抗策を考えないと……」
『そうだね。めだかちゃんとの戦いは終わったけど――』
ボクの提案に球磨川さんは頷く。嫌われ者ではぐれ者のボクたち過負荷(マイナス)は迫害を受け続ける。だけど、球磨川さんと一緒なら、きっといつか理想郷を作ることができるはずだ。
『――僕たちの戦いはこれからだ』
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